苦笑するイグニスの手を引いて、僕は彼女をベンチに寝かせた。 介抱しようとして、ふと、悩む。  「これは……いったいどう脱がすんだ?」   あらためて見れば豪奢なドレスだ。 ぴったりと肌に貼りついた黒いシルクは、汗を吸っているはずだが、微塵も崩れていない。  「服が邪魔か?」   挑発するような笑みを浮かべるイグニスに、僕は、わずかに苛立った。 「時間がない。切るぞ」   人差し指に東風を呼べば、メス代わりになるはずだ。  「やめろ」   イグニスが顔をしかめた。  「おまえの腕じゃ、肉まで切りかねん」  相変わらずの、人を小馬鹿にした声だが、かすかにかすれていた。 額に汗が滲んでいる。  「こうすればいい」   僕は、イグニスの脇の下に両手を回した。 豊かな胸を支える留め金の下に、指をねじいれる。  一瞬。 すべらかな絹のはだざわりと、それより、さらに柔らかく熱い感触が指先を覆う。   胸に、どくりと鼓動を感じた。 僕は、唇を噛んで動悸を鎮め、両の指先を持ち上げた。  十分に肌から離し、風を呼ぶ。  「あっ」   風が肌をくすぐったか、少女のような悲鳴が唇から洩れた。  留め金は、鈴のような音を立てて両断された。  ドレスの下には、黒い薄物があった。 豊かな胸からへその上までを覆っている。   女性の服というのは、どうしてこう面倒なんだ?  「このドレスは……オートクチュールだぞ!」   悲鳴の原因は、経済的損失のようだった。 「いいから、黙っていろ」   今度は壊さないでもすみそうだ。 僕は、薄物のすそをつかみ、引っ張り上げる。 下腹部に指が触れる。 傷のせいか、しっとりと汗で湿った肌の上を指先がすべる。  「痛……」   薄物が傷に触れたか、イグニスがもがく。 「傷を見るだけだ。大人しくしろ」   助言を聞き入れずに、半身を起こすイグニス。  「動くなと言っている」   無理な動きをしたせいか、イグニスが、顔をしかめた。 ふいに力が抜けて、また倒れ込む。   頭を押さえようと腕を振ったが、アンダーウェアにさしこんだ指が抜けない。  結果。   薄物は胸の半ばまで持ち上がった。 イグニスは倒れたまま目をそらし、荒い息をついている。   僕は、自分の置かれた状況を検分した。 僕の目的は、イグニスの腹部を露出し、傷を検分し、必要とあらば手当すること。 腹部以外も露出しているが……少なくとも目的は果たした。  ふと脳裏に、第三者的視点で見た現況がよぎる。   汗をかき、怯えた目をして横たわる半裸の女性。 その上にのしかかるように佇む男。 なかなかに犯罪的な状況だが、まずは手当だ。   たくしあげたアンダーウェアは、豊かな乳房の半ばに食い込んでいた。 胸にはブラジャーがあったが、これは、このままでいい。   介抱のために切り裂く必要はない。 ──必要はない。  唾を飲み込むと、喉が、ごくりと鳴った。 左胸の奥で、何かが暴れていた。 これは、僕じゃない。   僕には心臓はない。  「野蛮人か……君は」   呆れた声が響く。 僕は無視して、イグニスの肌を検分した。  つややかな白い肌は汗に濡れていた。   それが良いことなのか悪いことなのか僕にはわからない。運動の結果ならともかく、苦痛をこらえた末の汗なら、問題だ。  下腹部に、大きな痣があった。拳で殴ったような痣の中心が擦過傷になって、じくじくと血が染み出ている。 「コートに……絆創膏がある」   苦しい息の下からイグニスが囁くように言った。 僕は、言われるままに、コートを探った。 「右の内ポケットだ」   持ち上げようとして、その重さに驚く。  指から離すと、がしゃんと音を立てて地面に落ちた。 ……防弾に加え、暗器の数々か。重くて当然だ。  転がったのは、スタンガン、デリンジャーがふたつ、刃が黒く闇に溶けるような月牙、筒型の手榴弾らしき物体、等々。  その中で特に僕の目を引いたのはジッポライターだ。  絵とも文字とも取れない銀のロゴが目を引いたわけではない。 ただ、同じデザインのライターを三つ持つ必要が、本当にあるのだろうか? 「なぜ、こんなに?」 「欲しかったら、ひとつやるぞ」   確かに、手元に灯りが欲しかったところだ。ちょうどいい。 火をつけようと蓋を開けると、突然イグニスが鋭い声で言う。 「ただし、ホイールは手前に回せよ」 「……なぜだ?」 「奥に回すと、信管が外れる」  信管。爆弾を炸裂させるための装置だ。 それが意味するところは、すなわち。 「手榴弾か?」 「小型の、な。なかなかしゃれているだろう?」  イグニスの言葉に、僕は思わず呆れてしまう。 道理で、同じライターをたくさん持っているわけだ。  僕は、ジッポライターの明かりを頼りに、なんとか絆創膏とテープを見つける。 広いが、深くはない傷だ。絆創膏を押しつけて、テープで固定すれば血は止まった。 「さぁ、これでいい」   応急手当だが、とりあえず救急車を呼ぶ必要はないだろう。 メゾンに戻ったら管理人さんに手当してもらおう。  汗をぬぐって、僕は、ドレスを手に取った。金具は完全に割れていた。 どうやって戻せばいいだろう。   結べばなんとかなるかな?  生地を確かめるうちに、僕は、ふと、布地のほつれに気づいた。   イグニスの左胸のあたり、布地が大きく解れていた。 見ればビスチェにも、同じところに傷がある。 「取るぞ」   僕は、ブラジャーに手をかける。 「やめろ」   囁くような声を無視して、僕は、それをひっぺがした。  つんと上を向いた胸の先に、形のよい乳首。 そのすぐ脇に、無惨な痣が、縦に四つ。 「これは……」   僕がつけた傷、か。 指は血袋で止まっていたが、その衝撃は、彼女の肌を傷つけていたのだ。 「たいしたことはない」   のんびりとイグニスが言った。 「見切りを損ねただけだ」  「そうだな」  僕はうなずく。 元はといえばイグニスが無断で仕掛けたことだ。 が、この答えはお気に召さなかったらしい。 「おまえは……乙女の柔肌を傷つけておいて……なんとも思わないのか?」   苦痛をかみ殺した口調で、イグニスがおどける。 「僕も悪かった」   とりあえず、僕は絆創膏を取りだして、痣の上に貼った。 乳首に絆創膏が触れると、イグニスは、小さくあえいだ。 「僕も、とはなんだ。おまえは責任を感じていないのか」  「僕にも責任はある。ということは、責任を感じているということだ」 「ふん」   そう言ってから、イグニスは急に顔をそむけた。胸には、汗が浮かんでいる。 「痛いのか?」  「……ぁ」   イグニスの唇が動いて、吐息を吐いた。 「なんだ?」   僕は、耳を寄せる。 「……ん……」   イグニスの右手が動いた。震える指が額を指さす。 「動くな。大丈夫か?」   僕は、イグニスの額を正面からのぞきこむ。  視界が暗くなる。   一瞬、何が起きたかわからなかった。 視界が暗くなり、暖かな息が顔にかかった。唇が、なにか柔らかなものでふさがれる。  暖かなものが、僕の歯をなぞっていった。それは、やさしく歯を割り、僕の舌に触れる。 そこまで来て、僕は、ようやく気づいた。 ついばむようにして僕の唇を奪ったイグニスは、右手で僕の頭を抱き寄せた。  バランスを崩して、僕はイグニスの上に倒れ込む。 右の掌が、柔らかなものに沈み込む。五本の指先は、熱い肌にくるまれた。 混乱して叫んだ僕の口に、イグニスの舌はますます深く入る。唾液が二人の口腔を行き来する。  舌に舌を嬲られ。 指先は暖かな肉の感触を確かめ。 僕は、とっさにどちらに対応するか迷った。  舌を拒むか。胸を拒むか。 悩む間に僕の舌はイグニスの舌に絡み、その頬を撫で上げる。 悩む間に僕の指は、マシュマロのような感触を確かめ、ピアノを弾くように五指を蠢かす。  終わりは唐突に訪れた。 顎をぐいと押されて、僕は我に返った。 ぽかんと開いた口から犬のように垂れた舌。その先が糸を引く。  あわてて僕は、胸をもみしだいていた右手を引っ込めた。 「退け」   声には、勝ち誇った響きがあった。 まったく非論理的ながら、僕も、イグニスに負けた気がしていた。  イグニスは、ゆっくりと身体を起こす。 血は、止まっているようだった。 顔には、さっきまでなかった余裕があった。  「芝居か?」  「責任を感じているといったな。これは罰だ」   にやりと笑う顔に、僕は、文句を言いそびれた。 「とにかく……メゾンに戻ろう。管理人さんに手当してもらう」  「あの女にか?」   イグニスは顔をしかめる。 僕は、ささやかな勝利を噛みしめた。  「さ、行こう」 「イグニス、僕は……」   匂いが、僕をうちのめした。 いつのまに抱き寄せられていたのか。 僕の頭はイグニスの胸に埋まっていた。   甘やかな雌の匂い。 指が、唇が、うずいた。 血が沸き立つ。 こめかみを叩くように、鼓動が響いた。  身体の奥で、破裂寸前の何かが、求めていた。   目の前の女を。 たわわに実った胸を。 見せつけるように尖らせた唇を。 くびれた腰を。 豊かな尻を。   両腕が、力強く女を抱きしめる。   かすかな嬌声が唇から洩れた時、僕は迷うことを止めた。   水は暖かく、心地よかった。 撒き散らされた花の匂いが、甘く喉をくすぐる。   それよりも甘いのは、目の前から漂う女王の威厳だ。 大いなる乙女にして母となる女王の全身が、かすかに水を桃色に染める。  「女王よ」   僕は、呼びかける。   ──違う。 これはイグニスだ。 僕は魚人じゃない。   桃色の水はあまりにも柔らかく、僕の肌を撫でてゆく。 女王が/イグニスが、かすかに口を開く。  「克綺」   ──僕は克綺。 九門克綺。 僕は魚人じゃない。 だけど……。   その想いを、断ち切ることはできない。 僕の中の、僕でないものが、求めている。 狂おしいほどに、命を懸けても惜しくないほどに。   イグニスは/大いなる乙女は、水底を行く。 艶めかしい笑みを浮かべながら、誘い、試す。   水になびく豊かな髪が、その裸身を隠す。 海草の森ごしに、長い足が見え隠れする。   やわらかな線を描くふくらはぎが、力強く水を蹴る。 両の腕は白い乳房をかばい、その顔には、からかうような笑みがあった。   僕は/克綺は/水の民の男の子は、イグニスを/大いなる乙女を、追う。 矢も楯もたまらず、彼女を追う。  両の腕で水を掻き、両の足で水を蹴り、全身の力で乙女に迫る。   桃色の航跡が水中に描かれる。 螺旋を描いて続く桃色の道を黄金に変えながら、僕は泳ぐ。 自分の中の獣に任せるよう、彼女の身体に触れるべく、渾身の力を込めて。   乙女は逃げる。 最初はゆっくりと、そして力強く。   くねる足に、もう少しで腕が届くその時。 閉じた腕の間から、乙女は蛇のようにすばやく抜け出した。 両腕の間に残ったのは、無数の泡だけだ。 鈴を鳴らすような笑い声がこだまする。   僕は笑わない。 熱いものが胸を満たしていた。   ──試されている。   僕は今、秤にかけられているのだ。 見定められているのだ。 果たして自分が、あの乙女にふさわしい力を持つか否かを。   全身が、震えた。 巡る血が、沸騰するほど熱く、熱く。 周囲の流れが、熱に淀むほどに。   乙女が逃げれば逃げるほど、僕が追えば追うほど、たがいの身体は火照りを増す。 求め合う互いの距離が、徐々に縮まっていく。 狭い岩場をすりぬけ、強烈な水流を遡り、僕は乙女を追う。   最初に触れたのは髪だった。 春の小川よりも柔らかな感触が、指の間を撫でる。 その感触に酔う内に、乙女は先に進む。   ──まだ、足りない。   次に触れたのは、爪先だ。 形のよい爪先を愛でるよりも早く、大きな力で僕を後ろに蹴飛ばした。   ──もっと、近く。   そして、僕の手が、乙女のくびれた腰に触れる。 乙女が、組んでいた腕を解き、僕の手に触れる。   まろやかな白い乳房、深いその谷間が僕を惹きつけた。 そのまま対の膨らみを掴み、吸い付こうとした僕の唇を、黒い手袋が唐突に導いて。   導かれた先は、彼女の唇。   自分の身が、蒼い水を婚姻色に染める。 ゆっくりと広がる蒼い水が、桃色の水と交わった時、黄金の光が弾ける。   僕の中の、僕でないものが喜びにうちふるえる。 婚姻は認められた。 女王の臥所は開かれた!   乙女の柔らかな唇が、熱く燃える舌が、優しく撫でる。 その感触に、僕は/水の民は、忘我する。 優しい腕が僕の手をほどく間、僕は、痺れたように立ち尽くしていた。   乙女が再び泳ぎ出す。 両の腕も使って、全力で。 身をくねらして、ぐんと進むたびに、無数の泡が彼女を包む。 泡ごしに、かすかに見えるのは、豊かに実った胸が揺れるさま。 ひきしまった腰が震えるさま。   僕は追う。 両の腕と両の足に燃える思いをこめて、重い水を蹴って乙女に迫る。   水底の、岩と海草の迷宮から、乙女が急上昇する。 月の光がかすかに差し込み、乙女の姿を照らし出す。 そこへ向かって僕は急ぐ。   逃げる乙女が螺旋を描く。 僕は、その足を掴もうとする。 二人の航跡が円を描き、僕は、乙女を追っているのか、乙女に追われているのか、一瞬、わからなくなる。   ゆっくりと、ゆっくりと、円は小さくなる。 僕の目の前を、乙女の爪先が、胸が、形のよい耳が通り過ぎてゆく。 水の中に満ちるくすくす笑い。 閉じてゆく輪の中で、僕は泳ぎ続ける。 あと3回……あと2回……今だ。   両の腕が、今度こそ乙女をかき抱く。 二人の速度が一体となり、僕たちは勢いで、海中から飛び出す。   水飛沫を上げてふたりは、岩場の台座へと倒れ込んでいた。   乙女が、こちらを見上げる。 くすくす笑いは影をひそめている。   衣服のように纏っていた水を脱ぎ捨てて、かすかに不安な影が覗いた。 水の舞姫は、岩場に上がりその素顔をさらけ出す。   濡れた瞳、頬に張り付いた髪。 僕は、その髪を優しく梳く。 そうしながら、考える。   ……イグニスなのか? はじめての婚姻を前に、不安げな表情を浮かべ、僕にすがりついているのは。 それとも、本当のイグニスは、違う表情を浮かべているのだろうか?   迷いが、彼女まで伝わったのだろう。 乙女が/イグニスが立ち上がり、ゆっくりと僕の顎を持ち上げる。   岩壁を背にして、僕と向かい合う彼女。 その瞳に浮かぶのは、先ほどまでの挑発の色ではない。 僕を受け入れ、求めている。   今は、婚姻の時。 疑問を挟むのも思い悩むのもお門違い。  「……克綺」   かすかに聞こえた声は、誰のものだっただろう。 唇に当たった手が、頬をなでて、首を引き寄せた時、迷いはなくなった。   桜貝の色をした唇が、かすかに開いて誘う。 蘇るあの感触に、僕は抗えない。 抗おうとも思わない。   唇が、重なる。   しばしの間、僕たちは、同じ息を重ねあった。 抱擁が二人を近づけ、僕の胸に、乙女の乳房が、おずおずと触れる。   舌が探りあうと、二人の腕に力がこもった。 豊かな乳房が潰れるほどに。 ゆっくりと寄りかかる、彼女の身体。   感じ取りたかった。 この愛おしい生き物を。   濡れた唇、絡みつく舌、しがみつく腕、こぼれ落ちる胸、情熱の瞳。 そのすべてを自分のものにしたかった。   唾液が絡み、吐息がかかる。 彼女の指先が、まるで焦らすように、ボタンを外していく。 上着を脱がせ、張りついたシャツに指を這わせると、濡れた布越しに爪が肌をさする。   その間も、僕は彼女の感触を執拗に求めた。 ひとつ、ひとつ降りていく指の感触に、いてもたってもいられない。   やがて彼女の唇は、頬に、首に、耳を刺激する。 肺から押し出される熱い吐息が、僕の火照った肌よりさらに熱い。   僕は本能の求めるまま、彼女の胸に手を這わせる。 円を描くように、熱く火照った乳房を撫でる。 布越しに感じるかすかな突起を、指先で弾く。  「──ぁ」   彼女は吐息を漏らして、身体をもたれる。 僕の肩に顔を乗せて、乱れ髪が背に張りつく。   ちらりと瞳を覗けば、彼女に先ほどまでの余裕は、どこにも見あたらない。 立っていることさえ困難であるかのように、僕の身体に身を預けて、その視線は遥か遠く。   肌から漂う彼女の香が、鼻腔の奥をくすぐった。 それは媚薬のように、僕の理性のタガを外す。 抗う術はなかった。   僕の指が彼女の胸を乱暴に掴みあげる。 胸を覆う薄布から、弾けるように露わになる、双の乳房。 薄桃色の先端は、宙に固く突き出している。 海水か、汗か。 突起を舌で転がすと、彼女の味が広がった。   同時に、僕の片手は彼女の胸から這い降りる。 布越しにヘソの窪みへ、胸をねぶりながら、爪先で彼女をくすぐる。  「ん──」   僕の耳が唇で挟まれる。 濡れた髪が小さく揺れて、荒い息が水滴を掠めて、僕の首を刺激する。 背筋がぞくりと痺れる。   彼女はたたみかけるよう、僕の身体を撫で回す。 震える指先が脇腹をなぞり、ゆっくりと落ちてゆく。 僕の背を、脇を、腿を、彼女の指が滑ってゆく。   僕の手も、動きをやめない。 すべらかな曲線をなぞり、さらに下へ。 スリットに手を滑り込ませ、まくり上げる。 下着に指をねじ込ませ、羽毛のような繁みを抜ける。   指の腹がそこに達した時、小さな声が聞こえた。 「克綺……」  僕は、乙女の/イグニスの目を見据える。 熱く潤っていた。  指の腹が割れ目をなぞってゆく。 僕の指が、突起を探し当てる。 指の腹が、まるく、周囲を押し揺らす。 「ん、あ──」  彼女が/イグニスが/乙女が応える。 声には、震えがあった。 初夜を迎える乙女のものか、あるいは皮肉好きの女の仮面の奥の声か。  僕に身体を抱きしめられて、彼女は逃げ場もなく悶える。 指の動きに合わせるよう、大きく揺れる彼女の長髪。 すがるような、彼女の声色。 「んはっ、ん──ん!」  指に蜜を絡ませて、泡立つほどの音を立てて、彼女の秘裂を掻き回す。 彼女の表情が、苦悶に近い形に歪む。  動きが激しくなるに連れ、力が抜けていく白い脚。 彼女の膝が小刻みに揺れる。  助けを求めるよう、僕に寄りかかる彼女。 目が細められ、黒い拳が握られた。  僕は、動きをやめない。 もう逃がさない。 胸に唇を這わせながら、指先で肉芽を直に触れた。 「ふぁっ、んぁ……!」  電気を流されたよう、彼女が身体を震わせる。 荒い吐息が濡れた髪を揺らす。 必死に身体をよじるが、僕に抱えられたままどこにも逃げられない。  水を奪われた大いなる乙女は、水を蹴って舞い上がることもできない。 その代わり、裏返りそうなか細い声を揺らし、背に爪を立てる。 肋が折れるほどに抱きしめ、首筋に歯形を残す。  わずかな抵抗も、すぐに途切れた。 蜜に滑る指先が、彼女の突起を間断なく刺激する。 刺激は直に、彼女の身体を揺らす。 強弱に合わせて声色が漏れる。  いくら逃れようと藻掻いても、逃がさない。 びしょ濡れになった下着の中、僕の動きは止まらない。  ゆらゆらと揺れる彼女の前髪。 その律動に合わせるよう、口から漏れるかすかな吐息が、徐々にリズムを取り始める。 「んはぁ、んぁっ、んっ、ん──」  肩を抱き、口づけし、指の動きをさらに早く。 僕の腕を掴んだ指先が、爪を立てて丸まった。 その痛みすら、心地いい。 僕は懸命に、彼女の敏感な部分を攻めたてる。  彼女の身体が、さらによじれる。 声は、か細く、切なく、今にも途切れそうに。 追い立てられるように背を僕に押しつけ、涙目で宙を見上げる。 「んは、んぁあ、んんん──!!」   急激に上り詰め、そのまま軽く痙攣。 惚けたように表情を緩めて、乙女は僕に力無く寄りかかる。   緊張から解き放たれ、弛緩した彼女の身体。 背に突き立てた指をもう一度広げ、背を撫で回す。 まだ余韻の残る潤んだ声が、不意に僕の名を呼ぶ。  「克綺──」   耳の奥に舌でも差し入れるかのような、優しい囁き。 耳たぶを甘く噛む。   肌を滑る指は、背から脇腹をくすぐり、やがて焦らすように僕の股間へ。 彼女の余韻が分け与えられるかのよう、唇が重ねられる。   そのまま彼女の指先が、布越しに僕の屹立を包んだ。 思わず口から漏れた溜息を、彼女はその唇で受け止める。   軽くさすられるだけで、快感に意識が遠のきそうだ。 十本の指は、今にもはち切れそうなそれを、焦らすように、嬲るように。  ゆっくりと、バックルが外される。   僕の中の、水の民が、求めている。 彼女の唇を味わいながら、舌と舌を絡ませながら、静かに顔を引き離す。   乙女はまだ息も荒く、胸を激しく上下させている。 上気した肌が、濡れた瞳が、さらに求めている。   僕たちは見つめ合う。 重なる前に、一つになる前に。 僕は、目の前の彼女を確かめたかった。   鼓動が聞こえた。 彼女の鼓動が。  僕の鼓動と彼女の鼓動。 二つの律動は共鳴し、周囲の空間を満たしていた。   それでも、まだ、足りない。 もっと、もっと近づきたい。 側にいたい。   僕が/克綺が/水の民が、言った。  「重なりたい」   彼女は/イグニスは/乙女は、言葉を放たずにただ、微笑んだ。   誘うような、表情のまま。 僕に背を向けた。   その光景に、呆然と、見入るしかなかった。   す──と微かな音。 彼女は腰に手を当て、その指を徐々に這わせた。 前屈みになり、腿の下まで下着を降ろしてから、一呼吸。   再び上体を起こす。 長い髪をまとめるように、大きく頭を振るわせてから、まるで焦らすようさらに一呼吸。   岩壁に片手を当てて、ゆっくりと身体を折り曲げる。 黒い手袋が岩壁を掴み、反動のように形の良い尻がこちらを向いた。   突き出された。   腰に当てていたもう片方の腕が、自身の臀部を撫でる。 挑発するように。  「来て……」   彼女は先ほどと変わらない、微笑み混じりの顔で振り返った。 ひらり、とわずかに風をなびかせて、片手が自らドレスをめくりあげる。   濡れた秘裂が覗いた。 ひくひくと小刻みに揺れながら、今か今かと待ち受けていた。   僕の中で、何かが弾ける。   「いくよ」   僕は、白い臀部に身体を密着させた。 片腕で、彼女の肌をしっかり掴んだ。   柔らかく、汗ばんで、ほんのりと赤みが差した彼女の肌。 片腕で自分のペニスを導いて、濡れそぼった彼女の亀裂に、差し込む。 「あぁっ、うんッ」  悲鳴に近い愉悦の声。 その声に、僕は一瞬頭が白くなる。  堅く屹立したものが、たまらなく柔らかなものに受け止められている。 包み込み、絡みつく襞。 潤った彼女を存分に味わいながら、静かに押し入れる。  僕は身体を折るようにして、後ろから彼女と密着させた。 振り返る彼女は、既に息切れするようにこちらを見上げ、唇を求める。 奥まで繋がったまま、貪るように、彼女の身体をしっかりと感じて。  僕は、動く。 求めるままに、身体を揺さぶる。 白い肌をわしづかみにし、腰を打ち付ける。 「ふぁっ、ん……ん!」  髪を前後に揺らして、彼女は声を漏らす。 名残惜しく背後に向けられていた彼女の顔が、耐えきれないようにうつむく。  腿が固く強張っている。 苦悶の色を濃くしていく彼女の声色。  だが僕は、止まらない。 ひたすら身体を前後させる。 僕は、もっと強く、もっと深く。 求めるまま、彼女に身体を打ち付ける。 「あぁっ、ん、んぁ、んん──!」  こぼれ出した乳房が、宙に激しく輪を描く。 後ろに回した指先が、僕の太腿に爪を立てる。  最初は、どこかバラバラに感じられていたふたりの身体が、同調していく。 乾いたリズムに合わせて、追う動きと離れる動きが重なり合う。 僕たちは一体となって、腰を振り、また引き寄せあう。  壁に掛けた手が滑り落ち、藻掻くように岩を掻く。 滑り落ちていく彼女を、後ろから突き立てるように、僕はさらに強く押し込む。 「んはっ! んぁっ、ん!」  一際大きな喘ぎ声。 背が仰け反り、跳ねるように髪が踊る。 潤む瞳が、耐えきれないように背後を向く。  だが──もう、彼女の動きも、止まらない。 「はぁっ、んぁっ、んは、あっ──!」  貫く僕の動きに合わせて、自ら前後に身体を揺らす。 根本まで僕を飲み込み、舐め回し、離さない。  乙女は/イグニスは、貪欲に求める。 この快楽を一滴も逃すまじと、ひたすら押しつける。 「もっと、んはぁ、もっと──」  立っているのもやっとというように、岩壁に寄りかかりながら。 それでも、彼女は艶やかに見返る。 僕を誘う。  鷲掴みにした僕の指が、白い肌に赤い跡をつける。 腿に立てていた彼女の指を、空いた片手でつかみ取る。 絡み合う、指と指。 彼女は顔を上げて、僕は上体を折って、軽い口づけ。  それが、合図。  互いの指を絡ませたまま、リズムをとるよう身体を動かす。 僕が貫き、彼女が受け入れる。 痺れ、溶ける結合部から、感情があふれ出るように蜜が漏れる。 「はぁっ、ん、ん……」  彼女の/乙女の/イグニスの感情が、絡められた指と指の狭間を縫って。 自分の/水の民の/克綺の中に、流れる水のように伝わってくる。  他人の心を感じることのできない僕も、水の民の想いを通じて、理解できる。  ふたりは、互いに、知っている。 この感情は、ただふたりだけのものではなく、延々と受け継がれてきた愛の形なのだと。 自分たちは、この瞬間のために、生まれてきたのだと。  彼女が手を握りしめ、一層強く締め付ける。 それに応えるよう、僕もさらに早く律動する。 彼女と溶け合うほど、身体が痺れるほど、強く。 「はぁっ、んっ、あっ、あはっ──」  彼女の膝は震えている。 動いていなければ、求めていなければ、そのまま倒れてしまうほどに。 反り返る彼女の背で、髪が踊る。  僕は泡立つほどに彼女を掻き回す。 彼女の中を貫き、壊してしまうほどに。 自分の身体が、バラバラになっても構わない。 ただこの瞬間だけに、命のすべてを注ぎ込むように。 「ああっ、んあっ、んあっ、んあっあっ──」  全身に痛みに似た何かが満ちる。 引き絞られる弓弦のように、圧倒的な力が腹の底にたまってゆく。  首筋から背筋を通り、胸から腹を螺旋に降りて、絡めた足先から腰へ登ってゆく。 脊髄が焼かれ、視界が白く染まる。  耳のそばで、がんがんと鳴り響く鼓動が、終わりの近いことを知らせていた。 二人の鼓動は、高まり、やがてひとつになる。  僕たちは、同時に、互いの名を強く念じた。 「克綺……ッッッ!」  稲妻が僕を打つ。 細胞の一つ一つが刺激に震え、つんざく音響が鼓膜を破る。  深く、奥の奥まで貫いた先端から、腹の底に貯まった熱いもの、その全てが、どくどくと音を立てて放出される。  彼女は全て受け止め、いまだ痙攣が収まらない。 大きく背を反り、声にならない声で、昇りつめている。 その姿は、まるで生の歓喜にうちふるえるようだ。  長い髪をひとつ振るわせながら、僕の唇を求めた。 互いの感触を感じながら、完全に重なったことを喜びながら、今までのどれよりも長く、そして切ない口づけ。  誰よりも近く、感じていたはずなのに。 唐突に、望まないまま、身体が離れてしまう。 抗うことはできない。  すさまじい喪失感が、僕を襲う。 指一本さえ、動かない。  僕の鼓動が、ゆっくりと弱まり、そして消える。  それでも、意識を失う僕は、純粋な喜びに包まれていた。   水の民に栄えあれ。 「ふん、なるほどな」   イグニスの右手がベッドを離れる。 身体が傾く。 黒い指先が触れたのは、予感に固くなりかけた股間。 つい先日の甘美な記憶が、脳裏を一気に満たす。 「昨日の未練が、まだ後をひいているな? 私に、欲情しているわけか」  「客観的に、そう判断して間違いないだろう」  「それで、これからどうしたい?」  「おまえと性交したい」  「はは。その率直な物言いだけは、変わらんな」  イグニスは苦笑。 片手を僕の股間に這わせながら、片腕で上着を脱がしていく。  「いいだろう。 おまえにその感情を植え付けさせたのは、私だからな。その程度の責任は持ってやる」   指先が合わせ目をさすり、ボタンのまわりをゆるりと撫でる。 まどろっこしくなるほどに時間をかけて、ひとつひとつ、外していく。   回りくどいことなどせず、両手で一気にボタンを外せばいい。 以前の僕なら、間違いなくそう判断し。行動していただろう。   だがもちろん、今は違う。   時間が経つに連れ、わずかずつ深さを増していくイグニスの呼吸を、愛おしく感じている。 まどろっこしいその時間を、愛しく感じてさえいる。 空気を伝わって、ふたりの心臓の鼓動が同調するような錯覚。  「おまえも、興奮しているな?」   それまで滑らかに形をなぞっていた左手が、止まる。 シャツのボタンを全てはだけさせたところで、イグニスの瞳が僕を睨みつけた。 「バカを言うな。私はただ、おまえの望みに付き合ってやるだけ――」  「『悪くなかった』。昨日は、そう言ったよな?」  「な――」   みるみるうちに、イグニスの口が歪んでいく。 吊り上がる唇の角度に連動するように、その顔も徐々に火照っていく。 「どうした? 顔色が変わったが」  「別にどうもしてない」  「一般的に顔色が赤くなるといわれるのは、アルコール分を摂取した場合、あるいは憤怒や羞恥といった感情を抱いた――」  「黙れ」  イグニスの唇が、僕の言葉を塞いだ。 抗議する間も、抵抗する間もなく、イグニスの舌が口内を蹂躙する。   理不尽だ、と思った。 だがこんな理不尽になら、身を任せてもいい。  唇を吸い、吸われ、溶け合う。 唾液が注ぎ込まれ、息をする間も惜しい。 唇の角度を変え、より深く、より近く。   イグニスの舌は、まるでそれ自身が意志を持つ生き物であるかのように、僕の心を奪った。 喉に出かかっていた疑問を全て吸い尽くし、飲み干してしまった。 「下らんことを聞くな」   反論が、いくつも頭を掠めた。 だが僕は、それを言葉にすることができない。   ただ静かに、頷いた。 身体の芯を震わせる、もやもやとした激情。 この感情の行き場所を教えて欲しい。 高みまで、導いて欲しい。  首筋を撫でる指に身を任せ、彼女の瞳に吸い込まれる。 イグニスは僕の瞳から目を離さない。 はだけたシャツの隙間から胸をなぞる。   僕の肌は汗ばんでいる。 芯を震わせる情動だけが、行き場を失って膨らむ。 指はゆっくりと胸を降り、ヘソをくすぐり、さらに下へ。   手袋に包まれた両手はベルトで重ね合わせられ、バックルを静かに外す。 「相変わらず、立派なものを持っているな」   チャックを開け、下着を半分下ろし、充血したペニスが飛び出した。 血に滾ったそれは、外気に触れてなお熱い。   だが、宙にさらけ出させておきながら、イグニスは一度も触れようとはしない。 硬直した様子を観察するように、一度軽く息を吹きかけただけ。 行き場を失った僕の衝動が、身体を突き破らんばかりに暴れる。  僕のそれは、一刻も早く鎮まることを願っている。 彼女と重なり、溶け合ってしまいたい。 熱く蠢くその身体を、ひと思いに貫きたい。   僕の身体を、魚人になった時の、あの記憶が急かす。 「なぁ、イグニス――」  「そう、焦ることもなかろう?」   起きあがり、一気に組み伏せようとした僕の身体を、イグニスは唇で押しとどめる。 身体が反動で、ベッドに沈んだ。  イグニスは浅く口づけて、唇は頬をなぞり、昨日の記憶をなぞるように耳を食む。   吹き出そうとしていた感情が、無理やりせき止められる。 なま暖かい息が宥め、くすぐるような感触が騙す。   窮屈に押し止められた衝動は、身体の奥底に熱をためながら、やがてさらにその勢いを増し――。 「痕が、残ったのか?」   舌を首筋に這わせたところで、唐突に、イグニスの動きが止まった。 彼女の視線は、首に向けられている。  僕の首筋には、痣に残るほどはっきりと、歯形が残っているはずだった。 「それにしても小さい気がするが――」  「妹に、やられたんだ」  「妹?」   イグニスが声を裏返す。 「ああ」  「しかしなぜ――?」  「わからない。昨日家に帰って首を見られた途端、妹に突然噛まれた」   返す返すも、あの行動は不可解だった。 なぜ恵は、わざわざ首筋に噛みついたりしたのだろうか? 妹に身体を噛まれた記憶など、それまで一度もなかった。  もちろん、人魚の乗り移ったイグニスがやったよう、性行為の一環として歯跡を残すことはあるかもしれない。 しかし、悲鳴を漏らしてしまいそうになるほど強く、愛する人の首を噛んだりするだろうか?   まして、恵の噛んだ首筋は、既にイグニスに噛みつかれた場所だ。 推測するに、あの恵の行為には、何かもっと象徴的な意味が込められているような気もする。 「……くっくっく」  「なんだ? なにがおかしい?」  「はは、あっはっはっは!」   イグニスは腹に手を当てて、笑う。 僕の困惑を嘲るようだ。 長い間、意志の通じないテレパスの間で暮らしてきた僕は、こういうすれ違いは何度も経験した。 だが、理由もわからないまま笑われるのは、やはり気持ちのいいものではない。 「ははは、そうかそうか。なるほど、な」  「なにがなるほどだ。なぁ、なぜ恵が僕の首に噛み付いた?」  「嫉妬さ」  「嫉妬……?」  「遅い時間に帰宅して、その首の傷を見られれば、私とおまえの間になにがあったかは自明だろう?」  恵は先ほど交わした会話の中、「僕がイグニスとしたのかどうか」を執拗に尋ねた。 昨日、首の傷を見た時点で、ふたりの関係は推測されていたのだろう。   年頃の男女が互いに引かれ合う。 客観的に見て、当たり前のことだ。 性交渉で歯形が残るのも、不自然なこととは思えない。 「だが、それに気づかんようでは、おまえも噛まれ損だな。はっはっは」   イグニスはぶり返したように笑い出す。 僕はただ、彼女の発作が収まるのを待ちながら、妙な気分に襲われた。   嫉妬。 イグニスは、恵が僕に嫉妬を抱いていると断言した。 それはつまり、恵も年頃の男女として、僕と性交渉を望んでいるということだろうか?  しかし、恵はもちろん、僕の妹だ。 生物学的にも民族学的にも、近親相姦は禁忌とされている。 恵だって、その程度の分別がない年頃ではないはずだ。   わからない。 他人の心は、全く、理解の範疇を超えている。 「ん? 元気がないな」   イグニスの手が思い出したよう、ペニスに触れた。 宙に剥き出しになったそれは、いつの間にか熱を失いかけている。  「妹のことを思い出して、萎えたか?」  「直接の因果関係は断定できないが、興奮が醒めたことは確かなようだ」  「自分勝手なやつめ」  ベッドが波打つ。 イグニスの身体が持ち上がり、音もなく背後へと下がる。 「ならば、妹のことなど思い出せんようにしてやろう」  しぼんだペニスを両手で包み込み、イグニスは艶やかに笑う。  微かに触れる、黒い指先。 カリを撫でただけで、背筋を電気が走る。 押し込まれていた情動が、再び行き場を求めて暴れ出す。  しぼみかけていたペニスが、みるみる堅さを取り戻していった。 「ふん。現金だな」  イグニスは手袋をはめたまま、膨張するそれを弄ぶ。 強く刺激するわけではない。 熱を計測し、大きさを確かめるかのように、幾度も持ち替える。  敏感な先にほんのわずか触れたかと思うと、すぐさま周囲の長さを測るように指で輪を作り幹を撫でる。 裏筋を指先でなぞり徐々に下へ、袋を両手で優しく包み込む。  焦らすようなその動きに、僕の欲望は行き場を求めて暴れ出す。 一度押さえ込まれたからこそ、その勢いは一層激しい。 だが、いくら心が求めても、イグニスは嬲るように指先で弄ぶだけ。  昨日の記憶が、急きたてる。 一気に押し倒してしまえ。 無理やりねじ込み、欲望のありったけを注ぎ込め。 身体を痺れさせた快楽が、僕の身体を動かした。 「イグニス、僕は――」 「焦るなといっただろう?」 「――ッ!」  瞬く間に、身動きがとれなくなる。 持ち上がりかけた僕の身体は、再び、ベッドに沈む。 「油断したな?」  イグニスの指先が、袋をきつく締め上げていた。 鷲掴みになった指の中、双玉が踊る。  苦痛と快楽の狭間。ほんのわずかに勝った快楽。 だが、あと少しでもあの指に力を込められれば――。  激痛の予感に、背筋が竦む。 そんな僕の様子を見て、イグニスは唇を歪めてさえ見せる。 「逆らわんことだ。 言うことをきけば、昨日の交わりにも劣らぬ快楽を約束してやる」  圧力が去って、全身の力が抜けた。 思わず溜息が漏れる。  満足げに、イグニスの瞳が細められた。 手がそっと先に触れ、敏感な部分をくすぐりながら数度行き来する。  指を立て、熱を冷ますように息を吹きかける。 挑発する瞳。  再び僕の中で、抑えきれない衝動が暴れ出す。 先ほど、背筋が凍るほどの恐怖に襲われたことなど、忘れてしまったかのように。  指先でなぞられた程度では足りない。 行き場を求め、さらに堅く屹立する欲望。  黒い指先は、輪郭を写し取るように。 触れているかどうかさえ、確かに思えないほどで。  懸命に、欲望を押し止める。 だが、手綱を手にしているだけで精一杯だ。  欲望は犯す。 イグニスに抑圧されたまま、何度も何度も、妄想の中で彼女を犯す。     ――無理やり彼女を組み伏せ、上からのしかかる。唇を奪い、好きなだけ舐る。   ――風のメスでドレスを切り裂く。オートクチュール? 構うものか。   ――こぼれだした乳房を揉みしだく。放漫な胸を鷲掴みにし、ありったけの力を込めて蹂躙する。   ――跡が残るほど胸を吸い、歯形が突くほど乳首を噛み、逃げるよう悶える彼女を無視する。逃げ場はない。  弾けんばかりに堅さを増したペニスに、イグニスの刺激はいよいよ強く。 左手で袋を包み、そこから伸ばされた人差し指は肛門を撫でる。  右手は軽く握られ、隙間に亀頭がすっぽりと包み込まれる。 滑らかな布越しに感じる、彼女の感触。  その感触が、欲望をさらに加速させる。     ――下に手を突っ込むと、あのときと同じく、彼女の茂みは濡れている。身体は正直で、前戯の必要すらない。   ――僕は覆い被さり、重ねる。潤み、蠢く彼女の中へ、己のものを押し込む。貫く。   ――欲望のまま、前後させる。突き入れる。強く、深く、さらに深く。   ――粘膜がこすれ、音を立てる。苦悶、悲鳴。彼女が漏らす呻きにも、構わない。ただひたすら、犯せ、犯せ。 「どうした? 触っただけで、果ててしまいそうだぞ」  嬲るように言って、イグニスは指先に力を込める。 指の隙から見えるカリが押しつぶされ、そのまま、軽くしごかれる。  僕の口から、思わず息が漏れる。 全身を舐める快感。  だが、こんなものじゃ足りない。 全く足りない。 欲望は、彼女の顔を睨め付ける。  屹立したペニスを見下ろす、イグニスの顔。 手綱のように指を上下させる。絡みつかせた五指は縛め。 操る悦びに、彼女の唇の端が吊り上がった。     ――この顔を、快楽に歪ませる。生意気なこの女を、滅茶苦茶にしてやる。   ――逃げようと藻掻く彼女の髪を掴んで、引き寄せる。漏れる涙を、舌で掬い取る。   ――喘げ、叫べ、声が枯れるまで。やがてその咆哮は、愉悦の色に染まるだろう。   ――何度も何度も、突き刺す。限界を超えても、終わらない。     ――僕は射精する。欲望のありったけを注ぐ。彼女の奥の奥のさらに奥へと。   ――もちろん、一度ではすまない。何度でも、貫いてやる。   ――彼女の子宮が壊れても。彼女の声が裏返り、意識が遠のいても。   ――欲望のままに、犯し、犯し、犯す。 「それほどまで、いきたいのか?」  妄想を割って、一際鋭い刺激。 ぴくぴくと震えるペニスの先に、イグニスが舌を突き出していた。 赤い唇の先端が鈴口に触れ、唾液と絡まり糸を引く。  僕の息は荒い。 「できれば、一刻も早く、おまえに挿入したい」 「サイズの割には、堪え性がないな、まったく」  言うが早いか、唇がペニスに近づいた。 片手で竿を扱きながら、舌が軽くカリに押しつけられる。  ざらついた感触。 新たな感触に、僕の興奮は一気に高まる。 触れあった場所が熱く、火種は燃えるように全身へと伝播する。  唾液を含ませ、先端を濡らし尽くすよう動く舌。 舌はぴちゃぴちゃと音を立てて下り、反り上がった幹へ。 指での刺激をやめないまま、丹念にその全てを舐め終えると、呆れたように顔を上げた。 「無駄に大きいというか、なんというか。これではくわえるのも一苦労だ」  てらてらと光る竿を右手で強く扱きあげて、イグニスは吐き捨てる。 「まあ、おまえにはこの程度で十分だろうが」  それまでにない、激しい指の上下。 合わせるように、イグニスの舌がチロチロと先端を刺激する。  休みなく上下する腕、絞り上げるように強く扱く指、それを待ち受ける口内。 イグニスはあくまで挑発するように、僕の顔を見下ろしている。  唾液を絡ませ出入りする舌の音に、心臓の鼓動が同調する。 扱く指の動きに合わせ、深く息を吸い込む。  出入りする舌は、首を撫で、裏筋をくすぐり、休むことがない。 こぼれ、垂れ落ちる唾液に、手袋が濡れる。 屹立したペニスは、弾けんばかりに充血している。  だがこのままでは、イグニスの顔にそのまま射精して――。  衝動を抑える手綱が、切れた。 構うものか、と欲望が叫んだ。 ありったけを、顔にぶちまけてやれ。  高まる感情に合わせて、イグニスの動きが急激に速くなる。 熱い。熱い。目の前が白く霞み、意識が薄れていく。 全身に波のようたゆたう快感が、重ね合わさり、深く、高く。  限界を超えて高まるその波は、やがて身体の自由を支配する。 絞り出すように全身が揺らぎ、ただイグニスだけが、僕の意識を支配している。  僕は全身を硬直させ、全身を走る快感の予兆に身を打ち振るわせ、そして――。 「がはっ!」  唐突に、頭を殴られたような衝撃。 予想もしないその感覚に、僕はなにが起こったのか、把握できない。 苦痛なのか、快楽なのか、判断がつかない。 「イグニス、おまえ――!」 「おまえは学習能力がないのか?」  イグニスが、ペニスの根本と双玉を、鷲掴みにしている。  遅れて認識する、激痛。 今までに感じたことがないほどの。  身を硬直させたまま、僕は言葉を継げないでいる。 言葉を放つことすら、思いつかない。 先ほどまでの衝動は、即座に霧散していた。  いたぶる、イグニスの声。 「勝手にいこうなんて、考えるな」 「……この」 「ん? なんだ?」 「だったら、おまえを――」  僕は身体を起こし、イグニスの肩を掴む。 目を見開いた彼女はなすがまま、仰向けに押し倒された。 「ちょっと、待て! なにをする!」  イグニスは我に返り、咄嗟に反抗しようとする。 だが、大きく波打つベッドは、それを許してくれなかった。  勢い、イグニスは無防備に、僕に覆い被されることになる。 「僕がおまえを達させてやればいいんだろう?」 「なにをバカなこと――」  イグニスにのしかかったまま、反論を無理やり唇で塞ぐ。 強張った唇にねじ込み、驚きに萎縮した彼女の舌を解きほぐす。  彼女の唇は思いの外、頑なだ。 それまでと異なる消極的な素振りを意外に思いながら、僕は脇の下へと両手を回す。 「――んぁ、ダメだ!」  唐突に、イグニスが唇を突き放し、大声を上げる。 「また、切る気だろ!」 「仕方がない。僕には脱がせ方がわからない」 「私が脱げばそれで済む!」 「いいや、しかしこれは――」  僕はあの日と同じく、柔らかな胸の感触を感じながら、両の指先を持ち上げる。  もちろんそれは、正しい脱がせ方ではないのだろう。  十分に肌から離すと、風を呼ぶまでもなく、ブチリと音がしてドレスが弾けた。 「意外と簡単に、外れたな」 「――ッ!」  イグニスの表情が、なぜか、みるみるうちに赤くなる。  彼女が突然アルコールを摂取したという可能性はない。 怒りをおぼえたと推測するのが妥当か。 確かそのドレスは、オートクチュールだと言っていた。 やはり壊してしまうのはまずかっただろうか?  しかしそれにしても、ほんのわずか伸ばしただけで弾けるとは予想外だった。 そもそも強度に構造上の問題があったと言わざるを得ない。 これでは日常の使用にさえ、耐えるかどうか。 「ケガを、していたからだ」  俯き加減のまま、唐突にイグニスが口を開く。 脈絡がつかめないまま、初めて見る彼女の表情に、僕は言葉を忘れた。  あれは本当に、怒りの時に浮かべる表情か? 顔色は最早、赤を通り越してしまっているようにも思える。  アルコールでも怒りでもないとすれば、消去法から導かれる帰結は――羞恥?  イグニスは、視線を合わせない。 包帯をした手を見つめて、つっけんどんに言う。 「ケガしていたから、上手く縫えなかったんだ」  そこでようやく、納得がいく。 僕が服を切った翌日から、当たり前のようにイグニスはドレスを着ていた。 あれはきっと、自分で裁縫したのだろう。 「なるほど。あの裁縫は、おまえが縫い合わせたんだな」 「な――!」  イグニスは、なぜか舌打ち。 顔を赤く染めたまま、吐き捨てる。 「そうか。おまえは、そういうやつだったな」 「そういうやつ? なにが言いたいんだ?」 「なんでもない。ただ、余計なことを言わなければ良かったと後悔している」  イグニスが「ケガをした」と告白しなければ、僕は単に「壊れやすい服だ」と思うだけだったかもしれない。 なぜ「余計なこと」だったのか、イグニスの心を知らない僕には、推測するしかないが。 「道理で、簡単に壊れると思った。あれでは商品として失格だろう」 「うるさい」 「しかしそれでも普通、裁縫というのはもっと頑丈に縫い合わされるものでは――」 「だから、ケガをしていたと言っているだろう!」 「ケガをしていたなら、管理人さんに頼めばよかった」 「あれ以上、迷惑をかけられるか!」  イグニスの顔色は、赤く染まったまま。 その様子は、明らかに普段からかけ離れている。 小さく握り込まれた、両拳。  普段、悪辣な罠や必殺の武器を手に、人外のものを手玉にとるイグニス。 時には、人の命を秤にかけることすらなんの躊躇もなくやってみせる。  その彼女が自分の部屋で、裁縫針を手に、ドレスと悪戦苦闘する姿を思い浮かべてみる。 「ふふん」  唐突に。 僕の口から、思わず笑いが漏れた。 「な――おまえ今、私をバカにしたな!」 「バカになど、していない。ただ単に、滑稽だと思っただけだ」 「き、貴様――!」 「だが、それだけではないな」  顔をそらしたままのイグニスから、覆い被さっていた服を退ける。  彼女は抵抗しようと、身をよじらせる。 だがほんの少し押しただけで、波打つスプリングにバランスを崩した。 「不得手を恥じることはない。人は誰も、弱みを持つ。ごく当たり前のことだ」  服を脱がされながら、イグニスは僕を睨みつける。 「……私が裁縫下手で、そんなに嬉しいのか?」 「裁縫だけのことを言っているのではない。イグニス、おまえは弱い」 「弱い、だと?」 「ああ。だが、それを懸命に押し隠しているだけだ」 「バカなことを言うな。弱いならば、私はなぜ魔族と戦える?」 「人間は弱いから道具を使う。違うか?」  イグニスは、答えない。 ただ、静かに唇を結ぶだけ。  僕は、今まで目にした彼女の戦いを、延々と思い返している。   イグニスは策士だ。 地形、罠、武器。 あらゆるものを利用して、いつも魔族たちと互角以上の戦いを繰り広げる。   だが逆にいえば、策を持たないイグニスなど、魔族にとってなんの障害にもならないだろう。 彼女は魔族に対抗するため、罠を張り、武器を使う。   そうしてイグニスの中身は、意外なほど脆い。 ここ数日、彼女はケガをしてばかりだ。 いくら罠を駆使したところで、人間の能力自体が底上げされるわけではない。   彼女は間違いなく、人間なのだ。 「おまえは弱みを見せない。 身の回りを繕って、全てを自分の手ひとつでまかなえるような顔をしている」 「その身体は、傷だらけだというのに――」 「だから、気にくわないというのか? 私を裸にして、弱みを覗き込もうとでも?」 「気にくわないわけではない。 ただ、おまえのことが、知りたいだけだ」  それは、偽らざる僕の本心だ。 イグニスを、もっと知りたい。 「わざわざ、自分の弱みを他人に預ける? ばかばかしい。 全く、論理的ではないな」 「僕が、おまえに刃を向けるとでも?」 「信頼しろと言うのか? それで私になんの得が?」 「他人への愛情は、利害関係で計りきれない。昨日、思い知ったばかりだ」  わだつみの民。 幻想の中で交わった、魚人と女王の記憶。 命をかけた情交は、鮮明に身体の芯まで焼き付いている。  あの情熱を、今更無碍に扱うことはできない。 「今日のおまえには、調子を狂わされっぱなしだな」 「普段と様子が違うことは、自覚している。 だがそれでおまえに近づけるなら、問題はない」 「私が拒めば?」 「ねじ込むまでだ」 「ひゃっ!」  僕は、イグニスの両足をめくり上げる。 勢いよく腿を持ち上げられ、彼女の身体がベッドに沈んだ。  イグニスの悲鳴はいつもの冷静さを失っている。 顔を真っ赤にして、イグニスは抗議する。 「貴様、なにをする?! 今すぐ放せ!」  僕の目の前に広がるのは、イグニスの恥丘。 両足をがっしりと捕まれて、濡れた秘裂が蠢いている。 「本気で離して欲しいなら、力ずくで退ければいい。  強いおまえになら、できるだろう」  もちろん、イグニスがいくら藻掻いてみたところで、体勢は動かない。 武器を奪ってしまえば、彼女はただのひ弱な人間だ。  目に涙すらためて、イグニスは抗議する。 「こんなことをして、ただで済むと――ふぁっ」  最後まで続かない。  僕は、濡れそぼった彼女の茂みに、舌を這わせる。 見ているだけで垂れ落ちる、芳醇な蜜を味わう。 割れ目を押し広げるように、下からゆっくり舐め上げる。  イグニスの身体は強張っていた。 懸命に脚を伸ばし、僕の顔を退けようとするが、僕の腕と柔らかなベッドがそれを許さない。  そうして舌が、彼女の秘裂を掬うたび彼女の力が抜けていく。 「既に、かなり濡れているな」  震える声を繕って、イグニスは反論する。 「ふ、さっきのおまえのザマよりは、まだましだ」 「だが、昨日よりもよほど、湿っているぞ」 「わ、私が知るか――ッ!」  既に、抵抗を諦めたのだろうか。 逃げようとはせず、ただせめてもの反抗とばかりに、押さえつける腕を拳で叩く。  腰も入らず、ぽん、と拍子抜けするほど軽い音。 「あのときも、ここを攻めたのだったな」  細められた僕の舌が、彼女の亀裂を舐め上げ、端に達する。 強く押しつけ、先端を踊らせる。 包皮の下、突起の感触を確かに感じた。 「ぁは、ちょ、やめ……やめろ!」  裏返りかけた彼女の声に、構うことはない。 僕は舌で、彼女の肉芽を攻め立てる。  先を窄め、細かく震わせながら、包皮ごと押しつける。舐め上げる。 彼女の苦悶に踊る身体を、波打つベッドを、完璧に制御する。  泡立つほどに音を立てているのは、僕の唾液か、それとも彼女の蜜か。 舌先が疲れるほど激しく攻めると、充血した芽が姿を現した。 ツン、と尖った彼女の肉芽を、舌全体を使うように舐め上げる。 「ひゃぁ! んぁ、こ、こら、やめろと言っているのが聞こえないか!」 「やめる? なぜだ?」 「なぜって、それは……」 「おまえは僕に、ひとりで達するな、と言った。 つまり、おまえが達させられたい、ということだろう?」 「都合のいいときだけ、論理的になるな! ともかく、その手を放せ」 「理由もなくやめたくはないな。 おまえも苦痛を感じているわけではないだろう?」 「――ぃや、やめろっ!! 頼む!」  再び陰部に顔を近づけた僕に、イグニスは真っ赤な顔で怒鳴りつける。  顔をうつむけたまま、何か言葉を紡ぎ出そうとする。 痛々しいほど必死に動こうとする口元。 だが、声は届かない。 ただ、微かに唇が震えるだけ。 「なにが言いたい?」  剥き出しになった肉芽を舐めるようにして、その奥のイグニスの顔を見下ろす。  イグニスは、蚊の鳴くような小さな声で、答える。 「……しいんだ」 「ん? 聞こえない。なんと言ったんだ?」 「恥ずかしい」 「もう一度、もっと大きな声で言ってくれ」 「恥ずかしいんだ!」  自棄になったように、イグニスは怒鳴りつける。 その瞳には、大粒の涙さえ溜めて。 「おまえがいきたいんだったらいかせてやる、だから、頼むからこの格好――ひゃあっ!」  交渉など、受け入れるはずがない。 濡れてひくひくと震える秘裂を舐め上げる。 舌でこすり上げるように、刺激する。 興奮に震える肉芽を、何度も先でいたぶり、押しつぶす。 「いやっ、こんなことをして……ふぁっ、ん、んん……」  イグニスは、ベッドの上で身体をよじりながら涙目。 赤く火照ったその顔が、苦悶に歪む。  片手で僕の手の甲を摘む。 片手が堅く握り拳をつくって、胸の前に震える。 いつもの彼女からは想像もできない、弱々しい素振り。 「やだ……んはぁ、ん――やめろって……ふひゃっ!」  逃げようとしても、逃げられない。 僕の思うがまま、願うまま、イグニスは踊り続ける。  やがて踊り疲れた彼女は、必死に探していた逃げ場が、どこにもないことを知る。苦悶が、悦びの色を帯びていく。 「ぃやだ、んぁっ、こんな、格好、恥ず、はずかしぃ、のに――」  抵抗することすら忘れて、うわごとのように呟く。 刺激に合わせて、粘膜がぬちゃぬちゃと音を立てる。 小刻みに下半身が揺れる。  良い場所を探すように、自ら脚が開かれる。 胸の前で握られていた腕、求めるように胸に押しつけられている。 人差し指が行き場を求め、頬の隣を引っ掻いた。 「ふぁ、私……ダメ、もう、はず――ふぁぁっ!」  イグニスは震える。 宙を焦点の合わない瞳で見つめたまま、全身が硬直する。 びくり、と一度背が丸まって、大きくベッドが揺れる。  それでも、僕は動きをやめない。 震える腿を押しつけて、身体ごとベッドに沈めてしまうほどに、攻める。 攻めつづける。  苦悶と快楽が混じり、乱れに乱れた彼女の吐息が、一息もつけない。 荒い息に、掠れ混じりの言葉がのる。 「ふひゃ……ぃや、いや、もうだめだって――ぅぁっ」  言葉とは裏腹に、恥丘はさらに押し迫る。 指先が震え、引っかかりを求めるように、濡れた唇に添えられる。 もう片手は宙をさまよい、行き場を求め、シーツに指が絡んだ。  波が去ったばかりだというのに、瞬く間に次の波がやってくる。 肩が狭められ、胸が弓なりになる。 柔らかなベッドに、深く身体がめり込んだ。 「また……ぁ、んぁっ、あっ、ん、んんんんん!」  再び、彼女の動きが固まった。 びくん、と二度三度揺れて、動きが止まる。 真っ赤な顔を背けられたまま、呼吸に胸が上下する。  瞳は拗ねたよう、あらぬ方を向いている。 か細い彼女の吐息だけが、時が動いているのを知らせた。  シーツを指に絡ませたまま、唇が尖る。 「……この、馬鹿が。人の言うことを、聞きもしないで」 「お互い様だ」 「うるさい! その手を放せ!」 「まだ、恥ずかしいのか?」 「なっ――!」 「あんな格好で、達しておいて。しかもまだここは、震えて――」 「黙れッ!!」  イグニスは渾身の力を込めて、僕の身体を蹴り倒した。 抵抗はしない。 両腕で受け止めて、そのままベッドに横になる。  ごろん、と転がった僕は、いつまでも仰向けに転がったまま。 ただずっと、イグニスが起きあがるのを待っている。 「……なんだ、その目つきは?」   普段のペースを取り戻そうとするように。 懸命に、言葉を繕い、イグニスは問いかける。   だが、鈍い僕にも、ようやくわかる。 彼女の本当の姿を知っている。 強がり――そう、それはきっと、強がりなのだろう。 自分の弱さを認めるのが怖くて、彼女はずっと、取り繕ってきたのだ。   だから僕は、剥ぐ。 「早くしてくれ」  「早くって――なにをだ?」  「僕はおまえを達させた。 ならば次は、おまえの番だ」   イグニスに焦らされたまま、吐き出し所を失った衝動は、まだ燻ったまま。 僕の股間には、堅くなったそれがしっかりとそびえ立っている。   イグニスは、断固とした口調で言う。 「……入れたければ、入れればいい。拒みはしない」  「よく言うな。本当は、挿入して欲しいのだろう?」  「そんなわけがあるか! 私はただ、その、責任をとるだけ――」  「ならば、おまえが、入れろ」   僕の一言に、イグニスの顔が歪む。 「さっきは僕が動いた。次はおまえが、奉仕する番だ。何か問題でも?」  「問題だらけだ! 問題だとか、問題じゃないとか、そういう問題じゃなくて、だから……」   イグニスは独り言ように呟きながら、僕のペニスから目を離さない。 顔を真っ赤にして、もごもごと語尾が濁る。 「おまえのは、その……普通より、大きいんだ」  「それがどうした? 入りきらないわけではない」  「それに、『悪くなかった』のだろう?」  「黙れ! それとこれとは、話が違う!」   昨日も彼女は、こんな表情をしていたのだろうか? 人魚と一体になったイグニスと交わったとき、僕は彼女の素顔を見ていなかった。  想像してみる。  イグニスは、誘うような表情を取り繕いながら、緊張に身体を強張らせていた。 本当は、目の前のそれが自分に入ることを、信じられないでいた。 彼女は貫かれる場面を見ていられず、岩壁に手を当てて目をつむり、そして――。 「怖じ気づいたのか?」  「なっ!!」   僕の問いかけは彼女にとって、おそらく、挑発になる。   他人の心なんて想像もできなかった。 自分のことを、ひとり、テレパスの惑星に紛れ込んだ異星人だと思いこんでいた。 つい、先ほどまでは。  だが今、僕は、イグニスがわかる。 彼女の心に、共感できるような気がする。 幻影に覆われて、覗くことのできなかった彼女の素顔。 それを、確かめたい。   心臓が、どくん、と鼓動を刻んだ。 「なにを、言っている!」  「わからないならば、正確に説明してやろう。僕に跨れ。勃起した男性生殖器を、充血した女性生殖器の中に挿入しろ。性器を上下に動かし、摩擦させ、僕の性的興奮を最高潮にまで引き出し、射精せしめろ。以上だ」   呆気にとられた表情の彼女に、駄目を押す。 「それともやはり、怖いのか? 僕に後ろからねじ込まれるのが望みか? 先ほどのよう、自分の制御ができない快感に身を任せながら、興奮に喘ぎたいのか?」  「この、馬鹿が……」   イグニスは、挑発に乗った。 あるいは、欲望に負けたのだろうか。 唇をかみしめて立ち上がると、息も荒く僕の腿にまたがる。  ベッドが沈み、僕の腰が遠ざかった。 彼女の躊躇を表すように。  先ほどとはまるで調子が違う。 充血したペニスに、イグニスの指はこわごわと触れる。 弾力に逆らえぬよう、両手で掴んでそのまま躊躇。 改めてその大きさを計り、彼女は一度大きく息を整えた。 「ならば、入れてやる。本当に、いいのだな?」  整えきれない。 口の端が、声と共に震えている。 予感に潤む瞳。  そろり、と。 割れ物を運ぶように。 はち切れんばかりのペニスを秘裂の入り口まで導く。  熱く充血した、イグニスの感触。 垂れ落ちる愛液が、僕の先を濡らす。 「気絶するほど、いい目を見せてやる」 「楽しみだ」 「楽しみにしてられるのも、今のうちだぞ」  気丈に言葉を放ちながらも、いつまでも、イグニスの腰は落ちない。 先端に、裂け目を当てたまま、指先が震えている。 呼吸を整え、震える語尾を押し隠しながら、何とか優位を保とうとしている。 「早く漏らしてしまわないよう、気をつけるんだな。 おまえにはどうも、焦りすぎるきらいがある」 「見せてやりたかったぞ。さっき袋を鷲掴みにしたときの、おまえの顔――」 「御託はいい」 「きゃあっ!」  僕の片手が、イグニスの状態を支える膝を、押した。 左に大きくバランスを崩し、彼女の腰が下りた。 躊躇なく押し下げられ、半ばまで埋まる。  急激な圧力。 彼女の膣が、ペニスを包み込む。 燃えるような熱さが襲う。 「くはっ、なっ、あっ!」  口が開かれ、まぶたが細められる。 急激に押し広げられ、イグニスの全身が跳ねる。 大きく横隔膜が揺れ動く。 そのたび、髪が踊った。 「かはっ、くぅ、んんん!」  呼吸は、呼吸にならない。 言葉を紡ぐことなど、できない。 衝撃をこらえようと、痛みに堪えようと、懸命に、息を継ぐ。 瞳は焦点を結ばない。 目尻に涙が堪る。  その素振りが、暴れる僕の衝動をさらに掻き立てる。 「どうした? まだ、半分しか埋まっていないぞ」 「こ、このぉ、あほうがぁ!」  イグニスは怒鳴りつけ、身体が揺れる。 そのたび、細かく彼女の膣がうねり、発声がままならない。 自分で自分を追いつめるように、うわずった声で続ける。 「わた、私に、こんなことぉして、ただで――」  彼女のうわごとを遮る。 先ほど投げかけられた言葉を、そのまま、返す。 「おまえは学習能力がないのか?」 「――へ?」  まだ、衝撃から回復しないイグニスは、惚けた顔で僕を見下ろし、気づいた。  僕の両腕は掴んでいる。 状態を支え、震える彼女の膝を。 混乱する彼女が、その意味を悟る前に。 「――――ッッ!!」  僕は、彼女の膝を押し開く。 百八十度、開かれる。  腰が落ちる。 前屈みになって、僕のペニスが貫く。 拒否するように狭まった膣道を、押し広げた。 「――ぁッッ! ――ぁッ、かはっ!」  両腕を僕の胸につき、前髪をだらりと垂れ下げて、ひたすら、イグニスは堪える。 息を整え、咳き込むたびに、肩が揺れ、肘が震える。 肌を、彼女の苦悶の吐息が撫でた。  呼吸に合わせて、イグニスは僕を締め付ける。 奥の奥、限界まで貫きながら、僕は堪えることで精一杯の彼女の髪を撫でる。 垂れる前髪の奥から現れたのは、意識の飛びかけた彼女の顔。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  犬のように喘ぐその唇から、真っ赤な舌が覗いている。 口元から垂れる唾液に、かまけている余裕すらない。 唇の端から僕の胸に、糸を引いて垂れた。 「だらしがないな」  その一言が耳に届いて、イグニスは瞳を見開く。 涙目で僕の顔を睨みつけ、反論しようと大きく息を吸い込む。  少しだけ、腰を揺らしてやればいい。 「――ぁはッ!」  まだ慣れない大きさのそれが、イグニスの中で揺れ動く。 ただそれだけで、言葉を紡ぐ余裕もなく、彼女の息は全て吐き出される。言葉にならない言葉になって。  一度生み出された揺れは、収まらない。 深呼吸が震えを呼び、震えは合わさり波となる。 波を収めるべく深呼吸しても、またその息が震えを呼ぶだけ。 「なにか、言おうとしたんだろう? なんだ?」 「くぅぅぅ……!」  僕の言葉に、イグニスはただ、拳を握った。  ぽん、ぽん、と胸を叩く。 だが、揺れ動くのを恐れて、その抗議はあまりにも無力だ。 「口頭で説明してもらわないと、理解できないな。一体、なにが望みだ?」  大きな呼吸を繰り返して、イグニスは動けない。 いつまでもやってこない返答に、僕は口を開いた。 「僕に、動いて欲しいのか?」  イグニスが、顔を上げる。 唇が、瞳が、歪んでいる。  彼女はなぜ、あんな顔をしているのだろう? 苦しんでいるのか、悦んでいるのか。 それとも――その両方か。  身体が硬直し、時が止まり、喉の奥から吐き出される息が、かろうじて言葉を絞り出す。 「――――ぃや」 「なにがだ?」 「――んんんッッ!!」  僕は、突き上げた。 衝動の赴くまま、本能の貪るまま。 うねる彼女の中に、その奥の奥まで、突き刺した。  彼女は、固まる。 前屈みになったまま、爪を胸に突き立てて、言葉も上げられず。 なすがままに、貫かれている。 人形のよう、無抵抗に跳ねる。 「――ッ! ――ッッ!!」  限界以上に開かれた彼女の口から、音は出ない。 ただ、人間の可聴域を超えたような、か細い、甲高い悲鳴。  僕は、加速する。波打つベッドに押されるように、突き上げる。 リズムを刻む。早く、さらに早く。 彼女は踊る。糸の切れた人形のように。  ステップが重なる。胸に当てた手が、僕の心臓を掴む。 鼓動が合わさる。 彼女の意識が、波の動きをとらえはじめる。 「ん――ッ! んんッッ!!」  イグニスの上体が、ゆっくりと反っていく。 貫く衝撃を、身体の芯で受け止める。 背で、おもしろいように長髪が踊る。 ピンと張った胸が、黒い薄物から飛び出したまま、大きく跳ねる。 「んっ――ああ、んあっ」  僕は突き上げる。 彼女の鼓動を感じながら、今にも吹き出してしまいそうな熱を堪えながら。 頭をギリギリと締め付けるような快感に堪え、イグニスを揺り動かす。 「ぁはっ、ん……あんっ、あっ、んあっ」  突き上げるたび、彼女は動きをコントロールしていく。 ひとつひとつ、ステップを覚えていくように、彼女は僕の上で舞う。  最初は、動きを和らげようと動いていた腰が、イグニスの意志とは無関係に、動く。 受け止めるだけだった襞が、僕のペニスに吸い付き、蜜を絡ませる。 「んぁっ、いやっ、あっ、だめっ、あっ、やめっ」  言葉とは裏腹に、彼女の動きは止まらない。 なすがままに任せていた腰を自ら揺り動かし、奥まで密着させ、肉芽を押しつける。 サイズに慣れた襞が、根本から搾り取る。  いつの間にか、イグニスは動きをリードしている。 強く、弱く。 緩急をつけ、僕の全てを奪い取る。 思考も、理性も。 「あはっ、だめな、のに、んぁっ、んっ、ぅあっ!!」  彼女の声音に合わせ、僕も徐々に自分を抑えきれなくなる。 波打つように、早く、強く。 乱れるイグニスを、滅茶苦茶に突き上げる。  イグニスは我を忘れたよう、身体を震わせる。 心臓の鼓動が、ふたりのリズムが重なり、上り詰めていく。  行き場を失っていた衝動が、僕を突き破る。 秘されていた裸の彼女が、僕に重なる。 ふたりは、絶頂の中で、溶け合う。 「だめ、あっ、い、いく、いっちゃ――ぁぁああッッ!!」  激しく舞って、イグニスは硬直。 衝動は、子宮の奥に突き刺さり、爆発する。  僕は、全てを、彼女に注ぎ込んだ。 どくん、どくんと波打つたびに、垂れ下がった長髪が揺れた。 「ぁつい……よぉ」  串刺しにされ、背筋を伸ばしながら、惚けた瞳で僕を見下ろす。 普段の澄まし顔からはかけ離れた、イグニス。 彼女の素顔が、僕には、愛おしい。  僕は身体を起こし、繋がったまま、イグニスを抱き寄せた。 濡れた唇に、唇を重ねた。 深く、深く、そのまま溶けてしまうほどに。  心臓の鼓動が、重なった。 ふたりの時間を、重ね合わせるように。 「カツキは、ボクのこと、嫌い?」  少女の手が、僕の手を包み込む。 柔らかな包帯の奥に、脈打つ暖かさがある。 「嫌いというほど積極的な悪意はもっておらず、むしろ好意の占める部分が大きいと自覚しているわけだが、ただし、それとこれとは……」 「ねぇ、カツキ。 どこがおいしそう?」 「腿だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、弁解しようとした。 「腿。肉の部位でいえばハム。筋はあるが、その分、味が深い」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間、目は、いやおうなしに少女の太腿に吸い寄せられる。 細身だが、力強い太腿。 「ももね。わかった」  少女の手が、僕を内股に導く。  「腿はね、汁気があって、おいしいよ」  指の先が、僕の意志とは無関係に、少女の肌を撫でる。 いつのまにか、僕はひざまずいていた。 ふっくらとした肌触りに、僕は目を閉じた。  熱をもち、かすかに汗ばんだ太腿は、つややかに指の下ですべった。 押せば、柔らかさの奥に、弾力があった。  僕は、その腿に頬を寄せる。 〈和毛〉《にこげ》は、頬をくすぐり、甘やかな匂いが僕を包んだ。 「おいしそう?」 「あぁ」   言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「カツキは足、速い?」 「100メートル走は13秒。速くはないな」 「そう。じゃぁ、ボクを食べると、きっと速くなるよ」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「うん、これで、安心だよ。ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。  「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの太腿は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「二の腕だな」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「牛や豚なら、四肢はよく筋肉が発達した部位だが、人においては、腕は、足ほどには使われない。二の腕の柔らかさは、その弾力と相まって、無類の味となる」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? 日頃、そんなことを考えていた自分に、僕は感心した。  なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。 脳が空転を続ける間も、白く、細い、その腕は、僕の目を捉えて離さない。 「二の腕? さわってみる?」  少女の差しだした右手に、僕は両手を差しだした。 改めて触れれば、片手の掌で、ほぼ包めるほどに細い。 しかし、華奢にみえるその腕から、必殺の一撃が放たれるところを、僕は何度も見ている。 「二の腕は、柔らかいよね」  肘から肩の線が、僕を魅了する。指の先が、ついと肌をなぞった。 軽く触れただけで肌はへこみ、離せば、ふるふると震えた。 「もう、くすぐったいよ」 「おいしそう?」  その言葉は、僕の背筋をぞくぞくと震わせた。 口が、ゆっくりと開いてゆく。 白く、柔らかな、その二の腕に、僕は、紅く歯形を刻みたいと思った。  二の腕に、口づける。 上気した肌は、唇に熱く、かすかな汗の味が舌先を刺した。  歯を立てようとして、僕は、ふと、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「カツキの腕は、太いよね」  少女の掌が、僕の二の腕に添えられる。 白魚の指先に撫でられ、僕は唇を離して答える。 「君よりは」 「でも、力は、あんまり強くなさそうだね」 「君に比べれば」 「ボクの腕を食べれば、きっと、もっと強くなるよ」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「うん、これで、安心だよ。ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの腕は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 ●5−22−3 「腰だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「肉の部位でいえばランプ。 肉質は柔らかく肉汁も豊富。ステーキとしても一流の素材だ」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間に、目は、いやおうなしに少女の腰に吸い寄せられる。 かすかにくびれた腰と、そこから続く膨らみ。 少女は、その視線を避けるように、一歩、僕に近づく。 「すまない」   僕は、そう言って目を逸らす。 そんな僕に、少女は、もう一歩進んで抱きついた。  干し草の香りが広がった。 胸に広がる暖かさが、一瞬、僕を硬直させる。 「腰だね」  少女の左手が、僕の右手を取った。 その手が、シャツの内側に導かれる。 指先は、背骨を辿って、さらに奥へと進む。 「少し、恥ずかしいや」  そこは、じっとりと汗ばんでいた。   五本の指先が、ふっくらとした丸みを感じる。 その丸みはマシュマロのように、僕の指を埋めた。  指が、勝手に動いた。 マシュマロのような柔らかさの奥には、プラムのような弾力があった。 五本の指が動くたび、少女の口から吐息がもれる。  なだらかな丸みを辿るうちに、親指と人差し指が、双丘の溝をさぐりあてる。 「ひゃん!」   少女は犬のように鳴いた。 「くすぐったいよ、カツキ」 「すまない」   僕は、するりと手を抜く。 指先には、まだ、熱さと柔らかさが残っていた。 僕たちは、抱き合ったまま、しばらくかたまっていた。  先に沈黙を破ったのは少女だった。 「ねぇ、カツキ。ボクは、おいしそう?」 「あぁ」   言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」 「食べるということは、魂を受け継ぐことだから」 「魂を?」 「そうだよ。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなるんだよ」 「腰を食べるとどうなるんだ?」 「女だったら、いい子をたくさん産めるよ」 「男なら?」   少女の身体が固まった。 顔は見えなかったが、真剣に考えていることだけは分かる。 「栄養たっぷりだよ」 「……そうか」 「たっぷり食べて、元気になってね」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「先に死んだら、の、話だろ?」 「うん。備えあれば憂いなし。これで、安心だよ。 ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの腰は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「胸だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、 「肉の部位でいえばバラ、そしてカルビ。 骨ぎしの身は、肉本来のうまみがたっぷりつまっていて、なおかつ脂肪もある」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間、両の目は、少女の控えめな胸から離れなかった。 マフラーの下に息づく小さな二つの膨らみ。  少女は、僕の視線を避けるように、一歩前へ踏み出した。 「すまない」  僕は、そう言って目を逸らす。 そんな僕に、少女は、もう一歩進んで抱きついた。  干し草の香りが広がった。両腕の間に広がる暖かさが、一瞬、僕を硬直させる。 胸板に、やわらかいものが触れる。服の奥に、僕は、確かに、やわらかい何かを感じた。 「胸、わかる?」 「わからないか」  くすりと笑い声。 腕の中で、少女は、くるりと半回転して、僕に背を預ける。 左手でするりとマフラーを解きながら、少女の右手が、僕の右手を取った。  僕の手が、少女の手に導かれる。 細い喉に触れた瞬間、指先に電撃が走った。  次の瞬間、手は胸元をくぐっていた。 少女は下着を身につけていなかった。そこは、しっとりと汗に濡れていた。 「すこし、恥ずかしいや」  その声は、どこか遠くから響いたように思えた。 親指は、鎖骨のくぼみを探り当て、人差し指と中指が肌の熱さを確かめる。  白くすべらかな肌。 鍛えた身体に似合わず、その肌はあくまで柔らかで、僕は指先に〈肋〉《あばら》を確かめる。  少女の手に導かれ、脇から胸骨へ、指は、肋のくぼみをレールのようになぞった。 「ふぁ……」  腕の中で、少女が身震いした。 胸骨を下になぞり、僕は手首を返した。  掌に、すっぽりと収まる小さな膨らみ。 その中央の、やわらかな突起。 二本の指の間に、それはあった。  ゆっくりと指を閉じ、その頂点をなぞる。 「ひゃん!」  とたんに、少女は、犬のように鳴いた。 「くすぐったいよ、カツキ」  ようやく僕は気づく。 少女の手は、既に、僕から離れていた。 「すまない」  上目遣いで見上げる少女に、僕は、思わずあやまっていた。 急いで抜こうとする腕を、少女が両手で抱きしめる。 「どう? おいしそう?」 「あぁ」  言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」 「食べるということは、魂を受け継ぐことだから」 「魂を?」 「そうだよ。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなるんだよ」 「胸を食べると、どうなるんだ?」 「豊かな胸を食べると、いいお母さんになれるよ。子供をいっぱい育てられる」 「僕は男だが……」 「そっか……そうだね」 「現時点では、あまり豊かでもないし」 「ひどいよ! カツキが選んだんじゃないか!」  涙目で抗議する少女に、僕は、非論理的な罪悪感を覚えた。 「僕は別に力が欲しいわけじゃないからな」 「魂は?」 「ずっと一緒にいられるなら……悪くないな」 「よかった。これで、いつ死んでも安心だよ」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの胸は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「指がいい」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「その細い指を味わいたい。 指先から根本まで、しゃぶりたい。 薄い肉を噛みちぎり、骨を囓りたい。 指の腹を舐めて、爪の裏の柔肉に歯を立てたい」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。 脳は空転を続け、口から勝手に言葉が洩れた。  少女の右足が、一歩引かれ、腰の落ちた構えを取る。 かざした右手から、風が吹いた。白い包帯が渦を巻いてなびく。   僕は、目の前に置かれた掌を、息を詰めて見つめた。 この手が、爪が、必殺の一撃を振るうところを何度も見ていた。  包帯が破れ、爪が顔を出す。 間近で見るそれは、太く、鈍く、むしろ鈍器を思わせた。 本来、狼の爪は、地を噛むためのものであって獲物を貫くためのものではない。   そうであっても──風の力を借りずとも、先の尖った爪は、僕の顔くらいは容易に引き裂くであろう。  吹きつける風に、僕は一歩さがった。 渦を巻いていた包帯が次々に解け、細く、しなやかな指が露わとなった。   少女の手の甲は、銀色に輝いていた。かすかな和毛が、風になびく。 そう見えたのは一瞬で。  まばたきするうちに、長い爪は消えていた。白い肌がのぞく。 「どうかな?」  はにかむような少女の声に、僕は、無意味にうなずいていた。 細く、しなやかな指は、見るからに華奢で、握っただけで折れそうだった。  両手をそうっと重ねて、僕は、ひざまずいた。 姫の手を取る騎士のように、その甲に口づける。  白い甲と、伸ばした指には、くっきりと赤黒い傷が走っていた。 指と直角に走る四筋の傷は、癒えてはいたものの、無惨と思わせた。  ふと、手が引かれる。反射的に掴むと、手は止まった。 「ごめん。恥ずかしくて」 「傷が?」 「勲の傷は、恥ずかしくない。けど、それは違う」  かつて侍は、背の傷を恥じたという。逃げる時についた傷と、みなされたからだ。 しかし、少女の手の傷は、逃げてついたようには思えなかった。 「うしろ傷の類には見えないけれど?」 「誇りのある戦いでついた傷なら、どんな傷だって恥ずかしくない。けどね……その傷のついた戦いは、してはいけないものだったんだ」  しょうがなかったんだけどね、と、少女は息を吐く。 うつむいて微笑む顔は、その時だけは、ひどく頼りなげにみえた。 「ゴメンね、カツキ。こんな指で。あんまりおいしくなさそうでしょ?」  答えの代わりに、僕は、少女の指先を含んでいた。 「あ……」  かすかに少女がもだえた。引かれる腕を、僕はすがりつくように押さえた。 中指が口の中で踊る。それを唇が吸い込み、舌が巻きつく。 唇が、肉の柔らかさを味わい、舌先が、その形を愛でる。 甘噛みして、華奢な骨の在処をさぐっても、細い指は拒まなかった。  少女の左手が、僕の首筋に置かれた。 ふるふると震える、その指先に、中指をはさむように、唇は指先から、指の中程へと移る。 第二関節の傷跡を撫でた時、少女の腕が硬直した。首筋に置かれた指が、激しく震える。  一瞬にして、少女の指が引き抜かれる。口の端から銀の糸が宙に跡を引いた。 「ダメだよ、カツキ」  そういう少女の顔は蒼白で、言葉は震えていた。 僕は、ゆっくりと立ち上がる。 「僕は、その指が好きだ。礼を逸したのなら、すまない」  「違う、カツキのせいじゃないんだ」   少女は、犬のように身震いして、気を鎮めた。 「ボクの一族ではね、食べるということは、魂を受け継ぐことなんだ」  「魂を?」  「そう。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなる」  「だからね、カツキ。 ボクの指は食べない方がいい。 食べると、卑怯さがうつる」 「関係ないな」  「第一点。僕は、その迷信を信じない」   そんな、と、抗議する少女に、僕は、指をつきつけた。 「第二点。 風のうしろを歩むものが卑怯なはずがない。 きわめて限定された経験に基づくものではあるが、僕は君が卑怯な行動をしていたところは見たことがない。 卑怯な人間にできないことなら、見てきた。 よって、その指に、君の心が入っているなら、僕は、その心が好きだ。 その心と一つになりたい」  「カツキ……」 「第三点。 なんと言われようと、僕は、その指が好きだ。 食べたい」   少女の顔が、みるみる真っ赤になる。 僕は、それに対し、裏腹な微笑み、というのを浮かべた。 少女に好意をもちながらも、人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 現代世界においては、殺人よりも食人の禁忌のほうが重いはずだ。 「ほんとにいいの? ボクの指、食べてくれるの?」  「約束する。万一のことがあったら、風のうしろを歩むものの指は、僕が食べる」  「よかった。これで、いつ死んでも安心だよ」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「僕を食べるんじゃなかったのか?」  「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」  「だから、安心して死ねと?」  「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」   僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの指は、十本全部カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「唇だ。舌だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「舌は、肉の部位でいえばタン。 独特の弾力と、味がある。 先端ほど固く、付け根ほど柔らかい。 通常は、薄くスライスするが、上タンといわれる付け根は、刺身にすることもある。唇なら……」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間に、目は、いやおうなしに少女の唇に吸い寄せられる。 きりりと結ばれた唇は、僕の目の前でおもむろに開き、白い歯がのぞいた。 「唇はおいしいよね」  少女は考え深げに言った。 「里だと、唇は、歯の弱い、赤ちゃんが食べるところだったからね」 「大人になると、なかなか食べられなくてね」  耳は言葉を聞いていない。 ただ、桜色の唇を、真珠のような歯の奥から、かすかに見える桃色の舌を見ていた。 上の空で、返事をする。 「君もまだ、子供じゃないか」 「ひどいな! ボクは、もう大人だよ」  怒ったように少女が、一歩踏み出す。膨れた頬は、赤ん坊のもののようだった。 その柔らかな頬を、気が付くと、僕は両手ではさんでいた。 「おいしそう?」  無言でうなずくのが精一杯だ。 「味見、してみる?」  言われて、僕は、前にかがむ。 きらりと光る瞳をみながら、ゆっくりと、唇を近づけてゆく。 「待って!」   少女は、そう言って顔をそらした。 僕は、待った。 非論理的な感情が……なんとも名づけようのない熱いものが身体の中を駆けめぐる。 「どうした?」   やっと、それだけいう。  「ボクの一族ではね、食べるということは、魂を受け継ぐことなんだ」  「魂を?」  「そう。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなる」 「それが?」   僕は、顔を近づけた。  「唇と舌には、言葉が宿る。 語り部の舌なら、弟子が受け継ぐけど、ボクは、戦士だから、しゃべるのは苦手なんだ」 「それで?」  さらに近づく。少女の鼻息がくすぐったい。 「ボ、ボクの舌を食べると、カツキも口べたになるかもしれないよ」 「もとより、口はうまくない。知っているだろう?」 「うん。でも……」  それ以上、言わせずに、僕は目をつぶり、少女の唇に覆いかぶさった。 柔らかな唇が、僕の中で踊った。  こぶりの上唇を、端から甘く噛んでゆく。 ふわりと柔らかな舌に歯を立てるたび、両手の中で、少女が、ぴくりと跳ねた。  しっかりと閉じた歯の間を、舌でなぞってゆく。 弱々しい抗議が、吐息の形で発せられた。 開いた口の隙間から顔を出した舌を、僕は思いきり吸った。   少女が、震え、その膝が崩れる。僕は、両手を背に回した。 甘い唾液が二人の間を行き来した。  舌が、舌を味わう。 にげまどっているのか。自ら絡んでいるのか。 柔らかな舌は伸び上がり、また縮み。 尖ったその先端も、広がった舌の平も、僕は、存分に味わい尽くす。  唇を離せば、舌の先から銀の糸が引いた。  目を開ければ、紅く上気した少女の顔があった。 いつも元気そうな目は、とろんとしている。 どれくらい、そうして見つめ合っていただろうか。 「カツキ……腕、もういいから」   恥ずかしそうに少女がそう言った。  腕をほどくと、少女は……ぺたんと尻餅をついた。 「あれれ……おかしいな」  僕の差しだした手を、少女は掴み、立ち上がり……ふたたび、後ろに傾く。 「危ないな」  尻餅をつく前に、僕は背に手をまわした。 「ちょっと、ふらふらするや」 「そうか」  そういう僕も、かなり膝が震えていた。 「ねぇ、カツキ。ボクは、おいしかった?」 「あぁ」  言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「先に死んだら、の、話だろ?」 「うん。備えあれば憂いなし。 これで、安心だよ。 ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。ボクの唇は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「選べない」  僕は、人肉食を……たとえ、目の前の少女が、厳密な意味でのヒトでないにせよ……選ぶことはできなかった。 「ボク、まずそう?」  「そういうわけじゃない。 僕という人間は所属する文化に多くを規定する。 この場合、僕は、文化の外にあるものを受け入れられなかった、というだけだ。 個人的な好意は関係ない」  「好きなら食べてよ」  「無理だ」  「……どうしても?」   はじめてみる、心細げな顔。 目の端にじわりとにじんだのは、涙だろうか? 「どうした?」  「だって……ここじゃ、死んだら焼いて、骨にするんでしょ?」  「普通は、そうだな」   「そんなのいやだよ! 血にも肉にもならないで、ただ埋まるなんて」   涙がこぼれた。     その姿に、ふと恵が重なった。 小さい頃の、恵。   夜の闇。あるいは、その暗示する死、そのものを怖れ。 眠れぬ夜は、あの子は、お気に入りのぬいぐるみを引きずって僕のドアを叩いた。 なにを言っても泣きやまず、最後には泣き疲れて、僕の腕の中で眠る恵。 少女の顔にあったのは、そんな深いさびしさだった。     僕は……小さい頃の恵にしたのと、同じことをした。 両手で、優しく抱きしめたのだ。 そうして口を開いて、はたと悩んだ。 言葉が、浮かばなかった。浮かぶ言葉は、論理的な、意味のない事実の羅列ばかり。 あの頃、僕は、なんといって、恵を、なぐさめていたのだろう。   目を閉じても言葉は思い出せず、僕は、右手で、少女の髪を梳き、左手で、ゆっくりと、その背を叩いた。 「ありがと……」   しばしして、少女は顔をあげた。涙はもうない。  「ねぇ、カツキ。約束してくれる?」  「ボクがもし、ここで死んだら……体は焼かないでほしいんだ」  「わかった」  「烏にでもやって、余った分は、河に流してほしい」  「あぁ」 「約束してくれる?」  「約束する」   死体遺棄が犯罪だ、という知識は僕にもあった。 しかし──法の遵守が全てではあるまい。 どこか山奥にでも運べばいいだろう。 車があればいいんだが。 方策を考える必要がある。 考え込む僕を見て、少女は、はじめて微笑んだ。 「よかった」  「先に死んだら、の、話だろう?」  「うん。これで、安心だよ」   嬉しそうにうなずく少女と、人肉食が、僕の頭の中では、どうしても結びつかなかった。 文化的間隙を埋める努力が必要だ。 「風のうしろを歩むもののところでは、誰かが死んだら、どうするんだ?」  「ううんとね。みんなで踊るよ」  「踊るのか」  「それから、お話するよ」  「お話か」   少し想像して僕は言った。 「楽しそうだな」  「楽しいよ。家族も友達も、みんな集まって、夜通し、遊ぶんだ」  「家族に、友達か」   死んだあとに世界がある、とは、僕は思わない。 だから、僕の死体が、どうなろうと実質的な意味はないが……そのように葬られると確信することは、日々の生活を、少しだけ楽しくするかもしれない。 「お酒は呑むのか?」  「お酒? お酒は呑むよ! 酔っぱらたっていいんだ。 お弔いだからね」  「料理は?」   言ってから僕は、後悔した。 「みんなで、お腹いっぱい食べるよ。なんてったってご馳走があるからね!」  祭壇にささげられた、血塗れの肉にむしゃぶりつく少女が脳裏に浮かぶ。 その口は真っ赤だった。 「最初の一口は、一番近い家族がもらうんだよ。父なら娘。母なら息子」  気分が、悪い。 ひどく、悪い。  血が。血を染めた口が。  気を紛らわすために、口を開いた。 「両親がいなければ、どうするんだ?」 「父も母もいないなら、姉は弟が、兄は妹が……」      血塗れの口が、かっと開く。 血があふれる。 あふれる。   あふれあふれた血が、顎を被い、胸を汚し、大地をぬらす。   ──痛い。  僕は胸を押さえた。無いはずの心臓がずきずきと痛む。 頭痛と同時に吐き気がこみ上げ、僕は、げぇげぇとえずいた。 「カツキ、だいじょぶ?」  少女の声が遠ざかる。 世界が歪む。遠ざかる。頭痛。 紅い闇が、脳の奥から広がって、目の前を覆いつくした。  涼やかな風が頬をなでていた。 遠いところから、笛の声が届く。  か細く、どこか物悲しい音色に、僕は、しばし浸った。 どこだろう。ここは。 耳を澄ませば、さやさやという葉鳴りの音が聞こえる。  草原。 果てしなく続く夜の草原だ。 月明かりに浮かぶ緑の海が、ありありと思い浮かぶ。 「……カツキ」  僕は目を開ける。  途端に、まぶしい街灯の光に顔をそむけた。 「だいじょうぶ? もう気持ち悪くない?」  風が吹いていた。 少女の髪をさやさやと響かせながら、僕の身体をやさしくさます。 「もう、平気だ」 「よかったよ」   少女のほうから吹いていたそよ風は、ぴたりと収まった。  「笛」  「え?」  「さっき……笛の音が聞こえていたと思ったんだけど……」  「あぁ」  少女がうなずいて、口笛を吹く。 あの音色が再び聞こえる。 「それは……」  何の曲か、と聞こうとして、僕はやめた。 答えるには、口を開かなくてはいけない。 そんなことより、もう少し、その旋律を聴いていたかった。 「いい曲だね」  少女は、口笛を吹きながら、ゆっくりとうなずいた。 僕は、少女の手を取って、家路を歩んだ。  胸の痛みは、とうに去っていた。  背を向けて、衣を脱ぐ。脱ごうとした。 うまくいかない。  ボタンを外す指が焦り、シャツを引きちぎりそうになる。 意識すればするほど、指はもつれていった。 「きゃ」  背中に、思い切り、何かがぶつかる。  振り返ると……顔のない、お化けがいた。 上着をぬごうとして、頭が引っかかったらしい。  「カツキー」   服の奥から、もごもごと声がする。 両袖は、盛大にもつれていた。  確か、腕組みしたままシャツをぬぐと、シャツの袖に結び目ができるという手品があったはずだ。 それに挑戦して、おもいきり失敗したような有様だ。   思わず、笑みをもらし、僕は、からまった両袖を解きほぐした。   うーんと伸びをする少女にあわせ、上着をはぎとった。 「助かったよ」   風のうしろを歩むものが、ほほえむ。 不器用、という言葉とは縁がないと思ったが。 あわてていたのか。僕と同じに。 少女が、ふと顔そむける。 「ずるいよ、カツキだけ」   裸の胸を隠すようにして、少女がささやいた。 僕は、かろうじて上着をぬいだだけで、他は着衣だ。  「指が、動かなくて……」   無意味な言い訳。 「カツキも?」   柔らかな笑い声。  「外して、あげるよ」  「ありがとう」   小さな小さな声に、僕はうなずいた。  上から下までと、袖口のボタン。   少女の指にかかると、シャツのボタンは魔法のように外れた。  シャツを脱ぎ捨て……僕たちは、再び背を向けた。 「し、下は、手伝わなくていいよね」 「……あぁ」  じっと見たくて。けれど、見るのが怖くて、恥ずかしくて。 これから起きることを考えるだけで頭が白くなり。  呆然としながら、制服の下をぬぐ。 ボタンは簡単に外れ、重力の法則にしたがって服が落ちる。  心の準備ができていない。できるはずがない。 一刻も早く先に進みたい気持ちと、この期に及んで怯える気持ちが、ぎりぎりと僕の中で引っ張りあう。  脳と心臓の綱引きだ。 引っ張りあうが……それは身体の内側だけ。 指も腕も、迷わず動いた。  下着を捨てて、身軽になる。 「いいか」 「いいよ」  か細い声に振り返る。 そこに、少女がいた。  ベッドに横たわる白い裸身。 肌はうっすらと上気し、僕の目の前に晒されていた。   息を呑む。 甘やかな匂いは、鼻から吸い込まれ、脳を直接ぶんなぐった。   花のようにかぐわしく、そのくせ淫らで。 僕を誘う匂い。   唾を飲む。飲めない。 口の中がからからだ。  視線が絡み合う。 言葉が出ない。 潤んだ目から視線をそらし、ゆっくりと、その曲線をなぞる。   首筋のうぶげが、かすかに銀色に光る。 胎児のように横たわる少女の全身は、余すところなく愛しかった。   引き締まった手足は、どこか柔らかさを残し。 ぴんと張りつめた肌に、浮きでた肩胛骨。 それが、息づかいとともに、上下するさまが、なにより愛おしかった。  細い腕が目の前で組まれ、胸を隠している。 小さな胸の膨らみは、僕ならおおいつくせるが、少女の手には、わずかに余っていた。   その細く、繊細な指の間からのぞくのは……桜色の突起。   ごくり、と、唾をのむ。 その音は、大きく響いた。 響いたはずだ。 少女は、身を縮めて、指を閉じたからだ。  それでもなお、少女の掌と、それが包む膨らみは、僕の目を捕らえて離さなかった。   もう一度、唾を飲む。 両の目をもぎはなすのにしばらく時間がかかった。   ふっくらとしたお腹と、くびれた脇腹。 その先にあるのは……一枚の布。 「ずるいな」   僕は囁くと、少女は顔を手でおおった。  「ゴメン。恥ずかしくて。 ほら、人間ってさ、毛皮ないし」  「毛皮?」  「ほら、狼だから」   草原の民は、人狼。 狼の力を得た人だと思っていたが……。 「狼の姿になれるのか?」  「うん」   話すことで、少しだけ、緊張がほぐれた。  僕は、少女の横に、横たわる。 間近に見た顔に、再び僕は動けなくなる。  鼓動は、もはや、乱拍子。 血は煮えたぎり、胸の中で熱いものが燃えていた。 今、手綱を離せば、この目の前の小さな身体を滅茶苦茶にしてしまいそうで──。  僕は、背を向ける。 「カツキ……?」  心細い声が、ひびく。 「ボク、どこかヘン? ニンゲンと違う?」  背に、指が触れる。 それだけで、全身に電流が走った。 ついと指が、背を撫でる。 それだけで達してしまいそうになる。 「……やめろ」  思いがけず喉から出た声は、荒かった。 指が、去る。 たったそれだけのことで、凄まじい喪失感が身体を包んだ。  非論理的だ。 やめろといって、離せと望んで、今は、その指が、狂おしいほどに欲しい。  たまらずに、僕は振り向く。   悲しげな少女の瞳が、僕を見ていた。 宙に差しのばされた手が、震えている。   僕は、ようやく気づく。 その指は、僕を嬲ったわけではない。 幼子のように、ただ温もりを求めて伸びていただけなのだ。  刺すように胸が痛んだ。 何てことをしてしまったのか。   胸の想いは言葉にならず。 せめて……震える指を、両の手で、包み込んだ。 「ボク、ヘンかな?」  「変じゃない」   ようやく、それだけ言えた。 両手の間に、少女の温かみを、僕は感じる。 指は未だ、震え、怯えていた。   ──僕のせいだ。 背を向け、拒絶の言葉を吐いた僕のせいだ。 どうすれば、この怯えを消せるのか。 「──」   頭の中で、言葉がぐるぐると回る。 単語の羅列の無意味の順列。 今は、今だけは言葉だけじゃ足りない。   答えは、心臓が知っていた。 掌をそっと引き寄せて、その甲に口づける。 「好きだ」   意味不明。 文脈無視。 論理飛躍。 矛盾の極致。   それでも、その言葉が正しいことが分かった。 びくりと、指が……少女の全身が震えたからだ。 「ボクも……カツキが好きだよ」   囁くような声に、僕の身体が震えてゆく。 互いの震えを指先で触れあい、分かち合う。 ゆっくりと、ゆっくりと緊張が解けていった。 「ちょっと……待ってね」  少女が、下着に手をかける。 ゆっくりと腕を下げ、両の足を引き抜きにかかる。  かすかに胸を、下腹部をかばいながら、身をよじるその様が、僕の脳の全ての理性を溶かした。 獣のように僕は襲いかかる。 「ま、待った。絡まっちゃう」  細い……僕に比べれば華奢とさえ言える腕が僕を阻む。 無理だ。止まらない。  胸に押しつけられた小さな手。 そのわずかな力が、かえって僕を煽り立てる。 僕は、その腕を掴み、引き寄せ、熱い半身をぶつけようと──。  急な風が僕を持ち上げ、吹き飛ばした。 風は、僕を、くるくると振り回し、ベッドの外に落とす。  急速に近づく床。  最後の最後で、風は、ふわりと僕を包み込んだ。  さて。 人間の……男性の前面部は、完全に平らとはいえない。 膨らみもあれば凹みもある。  優しい風は、体表のほとんどを守ってくれた。 つまり、顔と手足と胴は、無傷だった。  僕にとって不幸なのは、残った凸部に、重要な……この場合、一番重要ともいえる器官があったことだろう。  ペニスの先端に、凄まじい痛みが走る。 「────────!!!」 「ゴ、ゴメン」  嫌な汗が額から染みた。 身を刺すような痛みが、肺腑から空気を押し出す。 「カツキ、だいじょうぶ? どっかぶつけた?」  無言で転げ回る僕を見て、少女が心配げな声をかける。 僕は、歯を食いしばって笑みを見せた。 「たいした……ことはない」   ベッドの縁に手をかけて、ゆっくりと起きあがる。 「あのね……もういいよ」  少女が囁くように言う。 僕は、その横へ這い登った。  確かに。 下着は、もうなかった。   目が動く。 僕の視線が少女を辿る。   胸の膨らみをなぞり、なだらかなお腹を撫でて、脇腹のくびれを愛でてから、腰を過ぎ、ひきしまった太腿を味わい、ついにその内側……両足の間の淡い繁みに至る。  僕の視線を感じたのか、少女が、その足をもじもじと閉ざす。 けれども、僕は目が離せず。 神秘の秘奥を見極めたくて。   思わず、乱暴に腕が伸びた時、ずきりとしたペニスの痛みが僕を正気に返した。   これじゃ、さっきと同じだ。 乾いた唇を舌で示して口を開く。  だが。 問いかけの言葉が浮かばない。 心臓が脳に反逆していた。   鼓動は、全身に響くほど。 指先まで血が脈打っているというのに、脳だけに血が回っていない気がした。 「欲しい」   ようやく、そう言えた。  「えっと……」   そういう少女の瞳は、僕のほうに……より正確に言えば、僕の下腹部へ向けられていた。 顔が紅潮するのがわかる。 「ソレ、カツキのだよね」   論理的には矛盾した言葉だ。 ただし、今度ばかりはさすがの僕も、ソレが何を指すか聞きかえさなかった。  「然り」   なんだかよくわからない返事を返す。 「……」   少女の躊躇の一瞬一瞬で、理性が焼け爛れていくのが分かる。  「男のヒトって、みんな、そんななの?」  「あぁ。見たことがないのか?」  「ひどいよ。カツキはボクをなんだと思ってるの?」  「いや……なんとなく、その」  僕は早口で、つぶやいた。 何を言っているか、自分でもよくわからないが、とにかくしゃべっていないと、身体が抑えきれない。  「早熟のイメージが。 あぁ、えーと、こいびと……とか、いなかったのか?」  「うーん、あんまり、友達とかいなかったから」   少女が困ったように笑う。  ──あぁそうか。 異性の恋人など、いるはずがない。   衰えゆく一族の……人の世界に忌まれた草原の民の、彼女は、最後の若者だった。   胸を、身体を満たす劣情が、急速に消え、代わりに、何か別のものが満ちた。 暖かな想い。 目の前のものを見守りたいという願い。  今、この瞬間は、柔らかな胸よりも細い首筋が愛しかった。 僕が、手を伸ばし、ゆっくりと少女の髪に触れようとした瞬間。   僕の物思いは、あっけなく破られた。 「あ、すごい」   少女の視線は、依然、下方にあった。 目は、好奇心に輝いている。  「なにが?」  「その……小さくなった」   語尾は、ほとんど聞き取れないほど。  互いの顔が紅くなってゆく。 「さっきはさ、ほら、大きすぎて、ちょっと怖かったから」   早口で少女が言い……言うだけいって目をそらす。  「いや、すぐ大きくなるが……」   何を口走っているのか僕は。 言葉通りの事が起きて、僕は深刻な自己嫌悪に陥った。 少女が息を呑むのが、わかった。 「あぁ、えーと、だから。怖いなら、その。触って、みる、とか?」  「いいの?」   口を衝いて出た妄言。  だが思いがけず、潤んだ瞳で見つめられて、僕は、ぶんぶんと首を縦に振った。   他に、何ができただろう?  くるりと、少女が身体を返してゆく。 膝を立てて、僕に腰を向けてゆく。  こうして見ると思いがけず豊かな腰が。 その奥にある淡い繁みが、ふりふりと揺れながら僕の眼前に立ちはだかる。 「あぁ……」  思わず声が出た。声は出たが、手は出さなかった。 綺麗なふくらはぎと、形のいい足の裏にも、僕は指一本触れなかった。 「なに、カツキ?」  少女が振り向く。足が止まる。 「いや……なんでもない」  そう言うだけにとどめた僕を、僕は大いに誉めたたえるべきだと思うのだが、どうか? 「そう?」  それだけ言って、少女は、僕の腰に近づいた。 「へぇ」  感心したような声が響く。 この時ほど、視線というものを感じたことはない。 少女の視線は、微弱な電流のようなぴりぴりする刺激だった。  風のうしろを歩むものが、僕のペニスを眺めている。 遠慮無く、隅から隅まで、舐めるように見渡す、その視線の全てを僕は感じた。  自分の無防備さに、身体が震える。 それすらも、快感となって、ペニスをそそり立たせる。 「ねね、これって大きいの?」 「知らないな」 「どうして?」 「どうしてとは、ひどいな。僕をなんだと思ってるんだ?」 「ゴメン……っていうか、カツキ、それ考えすぎ」 「そうか?」  無邪気な会話に、僕は理性を集中した。 今さら考えるまでもなく、僕は爆発寸前だった。  がしかし。 緊張をほぐそうとする少女に、いきなりかけるのは問題だろう。 だから、僕は、耐えなくてはいけない。  僕は、少女の挙動の一つ一つを見守った。 急な刺激は禁物だが、予期していれば、なんとか耐えられるだろう。 次の動作は何だ?  少女が、ゆっくりと顔を近づけた。 まさか──。  次の瞬間、僕を襲ったのは、舌よりも柔らかで、指よりも鋭い刺激だった。  少女の息。 ペニスに顔を近づけた少女は、目を閉じて、一心に匂いをかいでいた。 一息吸い込み、吐き出すたびに、甘やかな刺激が僕の身体を揺らす。  僕は、歯を食いしばって耐えた。 じりじりと焼き焦がされる理性の一部が考える。 嗅覚に重きを置くとは……さすが、草原の民、獣の力を持つもの。  やがて、満足するまで嗅いだのか、少女は一つうなずき、そして……僕のモノに頬を寄せた。  再びの予想外。 柔らかな刺激が、先端から半ばまでを覆う。 「あ……」  洩れた声を、拳を握りしめて耐えた。 頬で包み込んだそれに、少女の両手が添えられた。  頬がゆっくりと上下し、十本の指が僕を撫ぜる。 呻きたくなるような刺激を伴って、僕は、僕の形を感じる。 少女が、僕の形を感じていることが、わかる。  拳をいよいよ強く握った。 とうに爪は肌に食い込み、汗に血がまじるのがわかる。 「やっぱり……大きい」  なにごとか、考え込むような声。 少女の頬が離れた。 その間にも、指は僕をなぞるのを止めない。 「なにか、でてるよ?」 「い、言わなくていい」  透明な雫が先端を濡らしていることぐらい、わかっている。 物珍しいのか、少女が、再び、ふんふんと匂いを嗅ぐ。 そして、ゆっくりと口をあけ、桃色の舌をつきだし──。 「待っ!」  僕は、手を伸ばす。 マシュマロのような尻を、指で擦った。 意外に汗ばんでいることに僕は気づく。 「ひゃん!」  仔犬のような悲鳴は、それ自体快楽だった。 「ひどいよ、カツキ?」  いじめられた仔犬の目が、上目遣いに僕を見る。 とにもかくにも、舌は、止まった。 「ちょっと待った。それは、無理だ」 「え?」  小首を傾げる。 「だから。舐めたら、無理だ」 「何が無理なの?」  この時ばかりは、よく峰雪が怒る理由が、少しだけ理解できた。 答えられない問いかけをされると、人は、理不尽な怒りを覚える。 「とにかく無理だったら無理だ」 「何が、無理なの、かな?」  歌うように、少女が僕をつつく。 限界はとうに越え、食いしばった歯は今にも折れそうだ。 「カツキ……緊張してる」  その通りだ。だがしかしそれは、因果関係を誤解している。 「あのね、無理しなくて、いいんだよ」  そう言って、少女は、小さな舌を僕に這わせた。 諺に言う、重荷の上の藁一本。  否。 それは藁ではなく、鉄でできた、特大の重りだった。 しかも、ビルの屋上から落ちてきた。  ぴちゃり、と、湿ったものが、ペニスを這う。 先端の先走りを舐め取った。  快感よりも、むしろ痺れに似た刺激が、骨という骨をぶっ叩いた。 木琴のように、頸椎から脊椎が、かき鳴らされる。 それが、腰骨に辿り着いた時……僕は、達していた。  真上を向いていたそれは、盛大に噴き上げ、少女の髪を、顔を、汚す。  僕は、唇を噛んだ。 無理だ。不可能だ。 あの衝撃に耐えることは、どんな雄であってもできなかった。  だが、それでも。 親しみを与えるべき時に……僕は、怯えさせてしまった。  おそるおそる、少女を見る。 未だ屹立するペニスのそばで、少女は、二、三度、目をぱちくりすると、嬉しそうに笑った。 「怖く……なかったか?」  恐る恐る声をかける。 「ううん。カツキのニオイだもん」  少女は、頬についたそれを、指ですくって匂いをかぐ。 そうしてから指先を口に含む。 「美味しいか?」  呆然と、馬鹿なことをたずねる。 「うーん」  首を傾げたところを見ると、微妙なようだ。 「でも、カツキの味がする」  ぱっと顔を輝かせる。 怯えてないのは幸いだが、嬉しそうなその顔に、僕は罪悪感を感じた。 「拭いたほうがいい」 「そぉ?」 「固まると厄介だ」 「うん、わかった」 「シャワーにしよう」  言って気がついたが、僕も、かなりの汗をかいている。  唇が重なる。吐息が混ざる。 風のうしろを歩むものの唇は、果物のニオイがした。 甘酸っぱいリンゴ。 十分に色づいて、そのくせ、どこかにまだ硬さを残した、若い実。  僕は、そのニオイを貪る。 目をつぶれば、ぴったりと重なった唇は蕩けるようで、どこまでが僕で、どこまでが少女かわかりはしない。  舌が、交叉する。 おずおずと互いを確かめ合い、わずかな勇気をだして進み、そして互いに絡み合う。 優しく、強く、嬲り、嬲られ、時に撫であげ、また絞りあう。  すぐに、わからなくなる。 絡まる舌のどこまでが僕が。 どこまでが彼女か。  どちらがどちらを導いているか。 どちらがどちらを責めているか。 責めたつもりが、誘われて、屈したつもりが抱きしめられて。  根本から先端まで溶け合って一つになった舌を伝わって、唾液が滴る。 少女の唾液を、少女のニオイを僕は受け入れる。  それは、優しい春風のような「好き」のニオイ。 小さな身体につまった勇気のニオイ。 それはとてもいいニオイで、僕は、幸せな気持ちで飲み干した。 口の中に、喉の奥に。 身体の中に広がるように。  僕の唾液を、少女に渡す。 隠せはしない。 この胸の中の、愛しい気持ち、奪いたい気持ち、壊したい気持ち、そのすべてを、奥まで届くように。  深い、深い、吐息とともに、僕たちは、離れた。 身を斬るような痛みと、サビシサ。 指先を失ったような、不安な気持ち。   それは、少女も同じだろう。 けれど。 「わかる?」  「あぁ、わかる」   僕はうなずく。 少女を包む蜂蜜のニオイの中に、鋼のような青い輝きがあった。 それが、僕のニオイ。  鼻をうごめかせて、確かめる。 鋼色の輝きには、大きな不安と怯えがこもっていた。 渦巻く欲望。 今、生まれたばかりの、愛情。   それは、みすぼらしく、ひよわで、あまりにも頑なだったが。 こうしてみると、悪くはない。 悪いニオイじゃない。 「ね、いいニオイでしょ」  「風のうしろを歩むものは、このニオイが好きなのか?」  「大好き!」   言葉とともに、ニオイが輝く。 広い広い草原。 その見晴らす限りの緑を育む夏の風のように、それは僕を吹き抜け、芯まで熱くした。 「カツキは、ボクのニオイ、好き?」  「好きだ。大好きだ。だから──」   二つの唇が、同じ言葉をつぶやく。 「混ざりたい、もっと」  僕は、少女を押し倒す。   血が滲むほどに、爪を立てたい。 強く抱きしめて、壊したい。 熱い血潮を、飲み干したい。 身体を貫いて、砕きたい。 何もかも、一つになりたい。   心臓が、脈打つ。 指先にまで染み通ったマグマが、僕を突き動かす。 組み敷いた腕の下で、優しく待つ彼女の身体を暖めること。 どろどろに溶かすこと。 そのために、どうしたらいいか。  雄としての本能が、僕を導いた。 僕の指が、僕の舌が知っていた。 伸びた腕が、脇腹に指を這わす。 引き締まった肉と、その下の肋骨を数えながら、すばやく撫で上げる。  「ひあっ……あふぅ……」   のけぞる背。 差し出された白い喉に、僕は遠慮無く歯を立てた。 「や、カツキ……だめだよ」  「なにが、だめなんだ?」   紅くなった歯形に、舌を這わせる。  「だって、そんな、急に……」  弱々しく声が抗議する。 両手で脇腹を撫ぜる。 掌の間に、細い身体を確かめながら、絹のような肌触りをゆっくりと味わい尽くす。   蜂蜜のニオイが変わってゆく。 より熱く、より甘やかに。 雌の香りへ変わってゆく。 「予告すればいいのか? なら、言う」  「ちょっ……待っ……そうじゃなくてさ……」   返事を待たずに、僕は、右手で少女の首筋を押さえた。  「耳たぶを、犯す」  左耳に口を近づける。 少女が逃げる。 けれど、その首筋は、僕が押さえている。 難なく追いついて、根本まで紅く染まった耳たぶを、ゆっくりとしゃぶる。   耳たぶの柔らかさを楽しみ、耳全体を舌で撫ぜる。 先の尖った耳の凹凸を楽しみながら、唾を広げてゆく。 僕のニオイに染めてゆく。 掌の中の少女の首筋が、硬く緊張し、やがて弛み、また、緊張する。 「あうぅぅ……」   少女の両腕が、宙を掴む。 僕は、左手で、その腕を僕の背に導く。 すがるものを見つけて、少女の腕は、僕の背で組み合わさる。 再び耳たぶを口に含み、舌で優しく、もみしだく。 安心したように、少女の力が抜ける。 抜けきった時を待って。僕は。   少女に告げた。 「噛む」  「!」   噛んだ。 強く。  「あ……カツキ……っくぅっ……カツキ!」   びくびくと震える身体から暴風が吹いた。  惑乱から放たれた、手加減なしの風。 本来だったら、最初のように、僕をベッドから吹き飛ばし、ついでに壁に叩きつけていたはずの風は、しかし、前髪を嬲っただけだった。 風が吹きすぎる。  「ゴ、ゴメン……カツキ」   あやまる少女の耳に、僕は、まんべんなく歯を立てる。 「あれ……なんで……カツキ……」  「何でとは何がだ?」  「なにって……今の……か……くぅんっ……かぜっっ!」   耳の穴に舌を差し込み、仔犬の鳴き声を味わう。  「平気だったぞ」  「どうして……あ……そこ……じゃなくて!」  弱々しい抗議に耳を貸さず、僕は耳たぶを囓り続ける。  「待って……あぅぅぅ……これじゃ……話、できないよ……」  「わかった。待つ」  僕は、舌を離した。少女の耳から、ついと銀色の糸が伸びる。 「はぁ……はぁ……」  犬のように……いや狼のように、少女は舌をだして、荒い息をつく。 「どうした? 止めたが」 「非道いよ、カツキ」   ようやく息をついた少女が口をとがらす。  「何が非道い?」  「カツキって、いじめっ子だったんだ」  「その話、だったのか?」  「うぅ……違うけどさ」 「風の話だな」  「そうだよ。どうして、カツキ、さっきの風で飛ばなかったのさ。絶対ヘンだよ」  「ふむ……」   僕は、しばらく考える。 そして、唯一にして絶対の結論に達する。 「今、考えてもしょうがない。 あとにしよう」  「そうだね」   少女が、あっさりと同意する。 「で、話はそれで終わりか?」  「えっと……」  「あ、そうだ。 カツキがボクをいじめるって話だよ」  「いじめては、いけないのか?」  「え?」 「いじめられて、嫌だったのか?」   僕は、まだ歯形の残る耳たぶを、軽く舐めた。  「その言い方が、いじめっ子だよぉ……」  「じゃぁ、どうしてほしい?」   舌は、耳の先まで舐めあげる。 「こっち」  「何が?」  「今度、こっち」   真っ赤な顔で、少女が右の耳たぶをさしだした。 「わかった」   微笑むと、少女が、怒った顔で目をそらす。 けれど、耳までは、逃げていない。   羞恥と怒り。 ないまぜになったニオイを飲み干し、僕はピンク色の耳に、口をつけた。   左耳と同じように、丹念に味わい尽くし、僕は耳から舌を離した。 息づかいにあわせて揺れる耳に、言葉を囁く。 「乳房を、犯す」  力の抜けきった身体が、その一言に飛び起きた。  「待って! カツキ、ストップ!」  「待つ」   僕は待った。 「あのさ……犯す……とか、そういうの、ナシ。 もっと優しく言ってよ」  「心得た」  「それと……言うだけじゃなくて……えと、ボクに聞いてよ」  「許可を取れ、というのか?」  「う、うん。だめ?」 「いや、当然のことだろう」  「そ、そうだよね。当然だよね」  「では──」   僕は、頭の中で文章を組み立てる。 心臓と脳が、協力して事に当たる。 「乳房に触れる。 十本の指で裾野から撫で上げる。 少しずつ力を込めてもみほぐす。 螺旋を描いて、ゆっくりと中央に近づく。 二本の指で先端をこする。 舌で舐める。歯を立てる」  「以上の行為の反復および、状況に応じた即興の対応について、許可を求める。 応か否か?」 「え……あの……待って。 早口で、よくわかんないよ。 もう一回」  「乳房に触れる。 十本の指で、裾野から撫で上げる。 少しずつ、力を込めて……」   僕は、ゆっくりと口の中で転がすように繰り返した。  「あの……もういいから」   消え入るような声で、少女が言った。 「では。応か否か?」  「うん……いいよ……して」  両手を、そこに差し伸べる。 まずは下から包み込み、しばし、その柔らかな感触を味わう。 手を離し、指先だけで触れる。   すばやく上から下へ撫で降ろす。 中指が、かすかに乳首に触れた。 「きゃうっ!」  「そこ……あとでって……いった……きゃんっ!」  「そことは、ここか?」   ささやかな胸の突起。 乳頭を残し、その裾野を中指の腹で、触れるか触れないかくらいで撫ぜてゆく。 「即興の対応についても許可を取ったはずだが」  「うぅ……カツキがいじめるよ……」   両の乳房をもみしだく。 少しだけ強めに。  「痛っ……強いよ……もっと……やさしく……ふぁあぁぁっっっ!」   力は緩めない。 けれど、語尾が喘ぎに溶ける。 「認める。どうやら僕はいじめるのが好きらしい」   両手を離す。乳房に、かすかに指の跡が残っていた。  「風のうしろを歩むものは、いじめられるのが好きか?」   目に涙をためながら、少女はうなずいた。 「うん。ボク……カツキにいじめられるの、好きみたい」   乳房に触れる。 今度は、優しく、ゆっくりと、焦らすように、ほぐしてゆく。  「でもカツキだけだからね!」  「僕は……どうだろう」  これまで、他人をいじめることに快感を覚えたことはない。 と思う。がしかし……。  と、悠長に考えていると、背に痛みが走った。 「つ、爪!」  人の爪ではない。鋭く尖り、肉を切り裂く人狼の爪だ。 「ボクだけだよね!」 「なにがだ?」 「カツキがいじめるのは、ボクだけだよね!」 「状況次第ではあるが……」  無意味に人を虐めることは本意ではないが、結果的にいじめてしまうこと、あるいは、いじめざるをえない状況に追い込まれることが無いとは言えない。  故に、確約はできない。 すべては状況次第だ。 「ボク、だけ、だよね!」  爪が食い込む。血が噴き出る。 「いたい、いたい、いたい」  僕は、脳の論理ではなく、心臓のお告げに従うことにした。 「君だけだ」  細いあごを捉え、軽くついばむようなキスをする。 「え?」  狐につままれたような表情。 無防備なその顔が、また可愛い。いじめたくなる。 「だから、いじめる」  二本の指で、乳頭を挟む。 力は、こめない。 少女が身を竦ませる。 恐怖のニオイが伝わる。 僕が、この指で、はさみ潰すと思っている。 その痛みに怯え……半ば期待している。   目をつぶって痛みを待つ、その表情が、愛しい。 僕は、潰すのをやめて、優しく擦りあげる。 「ふぁ……」   両の手を右の乳房に集める。 八本の指を這わせながら、親指の腹で、乳首を弄ぶ。 多少、乱暴に。 リズムをつけて、弾く。 「あ……やだ……」   眉をひそめながら、少女が身をよじらせる。 僕は、残った左の乳房に口をつけた。  「ひゃん!」   少女の背筋が反り返る。 指が乳房に食い込み、軽く、歯が当たる。 「やめて……カツキ……やめて……」   言葉とは裏腹に、少女の腕が、僕を引き寄せる。  「ふわ……だめだよ……ボク……溶けちゃう……」  ゆっくりと、じわじわと、狂わすように、僕は、少女の肌に僕のニオイを刻んでゆく。 乳房から腹へ。 脇腹から肩へ。 細い二の腕から指先までも。   指を這わせ、舌で嬲り、爪を立て、甘噛みし、白く柔らかな肌の全てに、僕のニオイが染み渡るまで容赦しない。 背中に回した少女の腕が、僕の背に爪跡を刻む。 流れる血のニオイに、互いの興奮が震える。 「そこ……だめだ、よ……カツキ、お願い……」   拒絶と哀願が交互に繰り返される。 僕の責めに、その身体は、跳ね、反り返り、もだえ、そして、どろどろに溶けてゆく。 汗と汗が、まざりあう。 ニオイとニオイが溶け合う。  「カツキ……カツキ……」   繰り返される睦言が、不意に途切れた。 「えーと……カツキ……」  「なんだ?」   僕は、腋の下をくすぐるように、指を這わせた。  「きゃぅっ……あの……やめて」  「なにをだ?」   首筋をくすぐり、頬に口づける。 「だから……その……それ」  「それじゃ、わからん」  「あ……そんなとこ……だから……もう、我慢……」  「何だか知らないが我慢は良くないぞ」   僕は、尖らせた舌で、乳首をつついた。 「うぅ……やめてよ……」   哀願が、本気のものだと僕は気づく。 「何をやめるんだ?」  手を休めて、一応、聞く。 「だから……指とか、舌とかで……触るの」 「どうかしたのか?」  もじもじと、少女が両足をこすりあわせる。 「聞かないでよ」  僕は鼻をうごめかせる。 緊張のニオイ。羞恥のニオイ。 両足の間から洩れるニオイに、雌のニオイ以外のものが混じっている。  少女がこらえているものの正体が、わかった。 「よくわかった」 「わかんないで!」  少女の手が、僕の胸を押しのける。 困る。 何が困るといって、その顔が、愛しすぎる。 眉根をひそめ、何かを我慢しながら怒る顔。  約束は破りたくないが、しかし。 「いじめたい」  口に出して言うと、少女の顔色が変わった。 「ダメだよ、カツキ! 絶対ダメ! 指一本でも触れたら絶交だよ!」  ますます愛しい。 けど、そうまで言われては、触れるわけにはいくまい。 ああ、だけど……。  少女が、身体を起こそうとする。 汗に濡れた体が、露わになる。 限界が近そうだ。  ほんの一カ所。 たとえば、あの、喉とあごの境目。 尖った耳のすぐ下。 乳房の谷間の一点。  ほんのわずか、柔らかく羽根のように触れるだけで、少女の身体は決壊するだろう。 押しとどめていたものは、とめどなく溢れるに違いない。 ふるふると震える身体が、あまりにも愛しくて。  心臓が、そうしろと囁いていた。 黒い炎が身体に満ちてゆく。  だが。 今度ばかりは、僕は、灰色の、わからやずやの脳に従った。 それは、してはならないことだ。  世には信義というものがあり、いじめるのと傷つけるのは別のことだ。 そう、自分に納得させながら、僕は、深くためいきをつく。  風が吹いた。 「あ……」  僕の口から洩れた吐息は、渦を巻いて台風となり、一枚の巨大の舌となって、少女の全身を舐め上げた!  その喉を。 鎖骨のくぼみを。 乳房を、脇腹を、僕の知ってる限りの少女の性感帯を、ざらり、と、舐め上げ、吹きすぎる。  予想外の出来事に驚いたのは、僕だったか少女だったか。 「ばかばかばかカツキのばか!」  まぁ、順当に考えて少女だろう。 少女は、僕の首にしがみつきながら、達する。 「もれちゃ……もれちゃう……ふぁぁぁぁぁぁ! ……あふぅ」  安堵の吐息と一緒に、僕の下腹を、暖かいものが濡らす。 思わず、目を下に向けると……。  少女のささやかな繁みから、黄金色の放物線が伸びているのが見えた。 「……」 「……」  放物線は、上向きの初速を徐々に失っていった。 結果、飛距離が徐々に失われ、やがて、線は、水平に近づき、途切れ途切れとなり、そして消えた。 「不幸な事故……」 「バカ!」  思い切り……本当に、思い切り頬を張られ、僕の首が、ぐるりとねじ曲がった。  しかも爪を立てている。五筋の線が頬に引かれた。 「バカ! バカ! バカ! カツキのバカ!」  往復ビンタに、僕の首が左右に弾け飛ぶ。 「いや……それは、さすがに、死ぬ」  というか、常人なら死んでいる。 「死んじゃえ」  それは、見事な一撃だった。  少女の両の足指はシーツを掴み、そこを起点に全身をひねりあげる。 太腿が、腰が、首が、摩擦を利用して、力を貯める。 あらゆる筋肉のベクトルが完全に合成され、一片のロスもなく、全く同時に、一点に集中する。  透徹した、勁。 渾身の力を込めた肘鉄を胸板に受け、僕は、思い切りベッドから放り出された。  今度こそ壁に激突し……僕は、くたりと倒れ落ちる。 立ち上がろうとして……いかん、世界が回っている。  目をつぶり、十数えて、ようやく立ち上がった時。  ベッドの上に、カタツムリがいた。 寝転がったまま勁を放った少女は、頭から毛布を被って、殺意を放射していた。 「どうした?」  毛布の裾をめくった瞬間、頭が後方に吹っ飛んだ。 痛い。  額を撫でながら、毛布から飛びだした蹴り足が、僕を蹴ったのだ、と、認識する。  仕方ないので、僕は、用心しいしい、ベッドに登り、カタツムリの脇に腰を下ろす。 「さきほどの件に関しては、僕の過失だ。あやまろう」   カタツムリが、かすかに揺れる。  「かしつ?」  「あんなことになるとは……いや、あんなことができるとは思わなかった」  「どうして、カツキが風を使えるのさ」  「僕にも、わからない。が、仮説としては、幾つか考えられる」 「仮説の一は、僕の中に、そうした力が内在していたというもの」  「仮説の二は、何らかの理由で、僕に、そうした力が宿ったということだ」  「僕自身は、ただの人間だから、仮説の二が妥当だろう。 この力は……多分、風のうしろを歩むものに、もらったんだ」  少女の言葉を思い出す。   ──ここにね、小さな小さな穴が開いていて、普段は、入り口が閉まってるんだ。 だから、門。 ボクが風に頼み事をする時は、その門を、ぐいっと開けるんだ。  僕は、胸に掌を当て、その鼓動を感じる。 わかる。 この胸の中に、風が渦巻いている。   掌から、その力を引き出す。 鼓動と共に、僕の掌に何かが湧き出てゆく。 熱くて冷たくて硬くて柔らかな感触。  未だ定まらぬモノ。 因果の因のさらに前。 未発の機。   不安定なそれに、僕は、〈容器〉《かたち》を与える。 涼やかな〈微風〉《そよかぜ》よ……。  成った。 かすかな風が、部屋に渦巻き、汗に濡れた肌を吹きすぎる。   毛布の裾が、少しだけ開いて、瞳だけが僕を見る。 「ホントだ。ボクの、風だ。 でも、どうして?」  「僕が聞きたいくらいだな。 僕が力を吸収する性質があるのか、君が僕に力を与える性質があるのか」  「普通のヒトに、いきなり力を与えるなんてムリだよ。 壊れちゃうし……壊れなくても、ヒトじゃなくなっちゃう」  「そうか」 「でも、カツキは、ただのヒトじゃないから……そういうのもアリなのかな」   得体の知れない力が、身体に満ちている。 論理的には、僕は、これを怖れるべきかもしれない。 が、そんな気持ちは感じなかった。   この事態を、僕は二つのレベルで、理解していた。 心臓と脳の、二つだ。  ロマンチストの心臓が告げる。 僕の胸は空っぽだった。 想いが胸に満ちた時、この鼓動が、この力が生まれたんだ。   リアリストの脳が告げる。 僕が力を得たのは、倒れた少女に血を分け与えた時だ。 あの時、僕の中に、少女の記憶が入ってきた。 この力も、同じ時に入ったのだろう。 体液を媒介として、僕と少女の間を、力が行き来する。 そんなところだろう。 「いずれにせよ、意識して使ったのは、今が最初だ」  「じゃぁさ、さっきの、アレ……わざとじゃ、ないの?」  「誓って。多分」  「どっち!」 「いや……意識した行動ではなかったのだが、無意識の欲望……いや違うな。 この上なく意識された欲望が、つい、出てしまったと。 そう考えられる。 無論、僕に、こんな力があると分かっていれば、決してしなかったわけだが」   毛布の隙間が閉ざされる。 このうえなく、きっちりと。 「すまない」   かすかな隙間から、瞳が覗く。  「もう、いじめたりしないから」  「ほんと?」  「あぁ」   僕はうなずく。 「やめてって言ったら、やめてくれる?」  「やめる」   僕は請け合った。  「風のうしろを歩むものの、言う通りにする。 それ以外のことはしない」  「ほんと?」   首が出る。 カタツムリから亀に進化する。 「ほんとうだ」  「絶対?」  「この世に絶対はない」  「……」  「……が、僕の全力の及ぶ限りにおいて、僕は、この約束を守る」  「誓って」  悩む。 僕には誓うべき信仰対象もないし、誓いの言葉も知らない。 いや、一つくらいは知ってるか。  「手を、出してくれ」   亀から、右手が生える。 僕は、その小指に、自分の小指を巻き付ける。 「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」  「げんまんって何?」  「なんだっけな」   少女の顔が、むすっと不機嫌になる。  僕らにとって、「誓い」というのは、ただの約束で、意味のない儀式に過ぎない。   けれど、草原の民にとって「誓い」というのは、きっと神聖なものなのだろう。 故に、意味もわからない「誓い」など、有り得ない。   僕は、必死で記憶を探る。 昔、峰雪が何か言っていた気がするな。 あれはなんだっけ。 「……げんは拳で、まんは、数の万だ。 誓いの証に指を切り、破れば拳で撃ち殺される。 そういう意味だ」  「へぇ。ニンゲンは、そんな誓いをするんだ」   少女は、絡み合った指を、しげしげと見つめた。 「指切った」  「え?」  「これで誓いは満たされた」   少女は、僕と彼女の小指を見比べる。 それから、晴れやかに笑った。 「あのね、ボク、カツキ、好き!」  毛布から這いでた少女が、両腕を首に絡めてくる。 「僕も、だ」  僕は、微動だにせず、答えた。 胴の上にまたがり、少女が、僕の胸板に顔をこすりつける。 ニオイが、ゆっくりと混ざり合う。 「さっきの続き、しよっか?」 「無論だ」  僕たちは互いの目を見つめ合う。 少女が、僕の横に横たわる。 「カツキ……来て……」  言われるままに、僕は少女の上に身を乗り出す。 僕の影が、少女に落ちる。 やわらかな手が、僕の背を抱きしめる。   僕は少女を見下ろす。 白く、小さな裸体が、期待に打ち震える様を、じっくりと堪能する。 ニオイが満ちる。期待が高まる。 僕は動かない。 「あのさ……」  「なんだ?」  「カツキ……なんで。 そんなに固まってるの?」  「……? 約束したからだが」  「約束って?」 「もう忘れたのか? 君は」  「え、えっと……」  「九門克綺は、風のうしろを歩むものの、言う通りにする。 それ以外のことはしない」  「だから?」  「命令されない限りは何もしない」 「……それで、止まってるの?」  「無論だ」   少女は、くすりと笑った。  「動いてもいいよ」  「そうか。では……」   僕が、両手を伸ばすと、少女が固まる。 「やっぱり待った!」   僕は、ぴたりと止まる。  「何だ?」  「今、ニヤって笑った。ニヤって!」  「笑ってはいけないか。表情筋を制御するのは難しいな。 努力はするが」  「いや、そうじゃなくて。カツキが悪巧みしてるみたいで……」   僕は肩をすくめる。 「動いていいと言われたから動いたまでだ。 動かないことが望みなら、それで構わない」  「ボクがいいたいのは、カツキに優しくしてってことなんだけど……」  「優しい、というのは、主観的な評価だな。 もう少し具体的に、指定してもらえないと、行動のしようがない」   石のように固まる僕に、少女は悩んだ。 「じゃぁ……ボクを、触って」 「どこを?」 「どこって……あの……」  少女が顔を赤らめる。 「し、下のほうだよ」 「範囲が明確じゃないな。もう少し特定してほしい」 「やっぱり、カツキはいじめっ子だよぅ……」 「誓いを守ろうと努力しているだけだ」 「じゃぁ……右手を、お腹において。おへそのところ」  言われるままに、僕は右手で少女のへそに触れる。 「人差し指で……そのまま、真下に……ゆっくりね」  言われた通りに、指を下げる。 ゆっくりと、少しずつ、緩慢に。  指先に全神経を集中し、柔らかな肌を味わいながら、1ミリずつ、1ミリずつ。 その指の下で、少女は身悶えする。 「あうう……もうちょっと早くてもいいよ……」  僕は、少しだけ指を早くする。 やがてそれが、柔らかな繁みに到達する。 ほとんど産毛のようなそれは、泉から湧いたもので、暖かく湿っていた。  指先をくすぐる感触の中を、ゆっくりとかきわければ、やがて、秘裂に達する。 幼いそれは、十分に潤いながら、未だ、閉じていた。 「はぅ……う……ん」  指を止めず、通り過ぎる。 熱く潤った細い割れ目を、優しく撫でてゆく。 「カツキ……ボク……」  啜り泣くような声。 だが、それは指示ではない。 故に、指は止まらない。  やがて、それは割れ目の終わりに達した。 その下の肌に、僕の指は潤いを塗り広げてゆく。 「きゃうっ! ちょ、ちょっとカツキ! そこ、行きすぎ! 行きすぎだってば!」  指示に従い、僕は指を止める。 きゅっとすぼまった窪みに、指の膨らみが、ぴったりと合う。  指先に、少女の息づかいが感じられる。 吸って吐くごとに、それは蠢動し、潤いを持った指を吸い込もうとする。 「だから……ソコ、違うってば」  指示はない。僕は待つ。 置いているだけの指先が、つぷつぷと埋まり始める。 「ゆ、指! 戻して!」 「わかった」  僕は、ゆっくりと指先を引き抜き、中指を少女の秘裂に這わせた。 「そこを……」 「どうしてほしい?」 「指で……きもちよくして、ほしい」 「どうすれば、気持ちよくなる?」 「どうしてって……撫で……たり、こすったり……」 「そうしよう」  僕は、細い亀裂の両側をなでてゆく。 何度も指を往復させ、それから、時間をかけて、こすり合わせた。  蜜が、あふれだす。 ゆっくりと、それが口を開けてゆく。 たちまち香りが広がってゆく。ニオイが、僕を挑発する。  桃のニオイ。口の中に、甘みが広がる。 欲望のボルテージが上がってゆく。 白い肌の中の、桃色の秘部。  雨に映える南国の花のように。 しとどに濡れたそれは、その美しさをいや増していた。  そのピンク色には指を触れず、僕は、二本の指で、秘裂を開き、閉じ、こすりあわせてゆく。 「あ……はぁ……ふ……」  少女の喘ぎ声に、徐々に、水音が混じりはじめた。 指をこすりあわせるたびに、くちゅくちゅと湿った音がする。 「なか……触ってよ……」 「何で?」  こすりあわせる指に、緩急をつける。 「何でも、いいからっ……」 「そうか。何でもいいんだな」  僕は、顔を下げる。 麗しいニオイを胸一杯に吸い込み、秘裂に舌をつける。 ぴちゃぴちゃと、音を立てて、泉の蜜を舐めとる。 「ず、ずるい……」  少女の腕が、僕の頭を掴む。 両腕は、拒むようでいて、その実、僕を押しつける。  細い、亀裂の奥を割けて、僕の舌は上下する。 やがてそれは、小さな小さな突起を探し当てた。  指で皮を剥き、思い切り吸い上げる。 「はぅぅっっっっっくぅぅぅぅん!」  これ以上ないほどに背を反らし、少女は、がっくりとベッドに倒れ込む。 僕の背で強く爪が立てられ、やがて、腕も解けて、ベッドに落ちた。  しばらく待つが、ぴくりとも動かない。 「達したか?」   僕は、唇を離して問いかけた。  「……」   唇が、かすかに動くが、声さえも出ない。   さて。指示は未だ有効だ。 僕は、両の指を、秘裂にかける。 二本の指で、それを広げ、かすかに顔を出す核を、嬲ってゆく。 「ぅぅ……」   少女の身体が揺れる。 唇が、囁く。 耳を近づけると、それが、僕の名だと分かった。 「中を、触る。いいな?」   耳元で囁くと、こくんとうなずく。 力の抜けきった肉体に、僕は、中指を差し込んだ。   細い、細い道を、徐々に開拓してゆく。 肉は、潤みながらも、ねばりつくように、僕の指を包み、絞り、立ちふさがった。 「痛いか?」  「う、ううん……」   声には出なくとも、ニオイで分かる。 かすかな痛みを、少女は噛みしめている。   だが、止めるわけにはいかない。 この道は、これから指よりも、もっと太いものを受け入れるのだ。   僕は、幼い芽を指で弾いた。 と同時に、奥まで一気に中指を差し込んだ。 「あぅぅっっ!」   少女の身体は、痛みを感じながらも、逃げはしなかった。 僕の指を受け入れるように前に出る。 ちゅぽんと音を立てて、指を、引き抜く。 「さて……」   そろそろ、限界だろう。 風のうしろを歩むもの。 そして何より僕が。 「中を触れ、と、言ったな」  「う、うん」  「何で触ってもいい、と、言ったな」  「う、うん」   少女の視線が僕の瞳を見る。 その視線が、ゆっくりと下がり、胸から腹へ。   そして腹の上にそそり立ったものを見つめる。 ごくり、と、唾を飲む。 「……おおきいよね」  「絶対的にどうかは分からないが、相対的には大きいな」   何と何を比べてかは言うまでもない。  「バカ。おおきいけど……ボク、こわくないよ」  「そうか」 「お願いがあるんだけど……」  「なんだ?」  「あのね……手、握って」  「あぁ」   両手が、少女の手を固く握る。 こうして握りしめると、驚くほど小さな手を、指を、僕は愛しいと思った。 「じゃぁ、行くぞ」  「カツキ、来て……」   少女の指が僕の指に絡まる。 二人の体温と、二人の鼓動が、やがて近づき、一致する。 僕は、少女の中に侵入する。  両手を組み、もどかしげに位置を合わせる。 切っ先は定まらず、少女の腹をなぞりながら、収まる鞘を探す。   ようやくそれは、熱い泉に触れる。 僕が動き、少女が動く。 亀裂をなぞりながら、入り口を見つけ出す。 「……ここだな」  「……そこだよ、カツキ」   熱い声が、僕の最後の理性を奪った。   ゆっくりと腰を沈める。 熱く、猛り狂った切っ先を、少女に押しつけてゆく。 次元の違う快感が、僕の脳みそを真っ白に焼き尽くす。 「ひぁ……ふ……くぅ……ッッ!」   そこは。   これほどに熱いのに。 これほどに柔らかなのに。 これほどに潤っているのに。 これほどに悦んでいるのに。  それでもなお、それは、強く、強く、僕を拒んだ。 まだ切っ先さえ、入りきっていないのに、無理矢理に広げられた入り口は、これ以上は無理だと訴えるよう。   焼けるように熱い肉が、ぴったりと僕を包み、押し返す。 鋭すぎる圧迫が、僕を、さいなんだ。  快感と痛み。 その区別が無くなってゆく。 区別はなくとも、身体は動く。   雄の本能が、僕を駆動する。 力を入れかけた、その一瞬。   唇を噛みしめて、痛みをこらえる少女の顔が、見えた。 見えてしまった。  心と、身体に、ためらいが走る。 それは、伝わった。 ニオイで、少女に伝わる。   指が、痛くなるほどに僕を掴んでいた少女の指が、ゆっくりと解け、優しく僕の手の甲を包む。 「だいじょぶ……だから……もっと……カツキが、欲しいよ……」   途切れ途切れの声に、僕は後悔した。 今、退いて、また、この痛みを繰り返させるのか。 そんなことはできない。できるわけがない。   進む。進むしかない。 「息を吐け」   そう言って僕は、少女を刺し貫いた。  「くぅん!」   肉を裂き、えぐり、ありえないほど小さな隙間に、なんとか切っ先を潜り込ませ、ようやく安定する。 「お腹……いっぱいだよぅ……」   涙さえ浮かべながら、少女が言う。  「まだまだ」  「え?」  少女の情けない顔が、あまりにも綺麗で、僕は、その頬に舌を這わせた。 汗の味。 痛みのニオイ。 恐怖のニオイ。 でも、その中には、僕に身を任せる信頼のニオイがあり……。   なんだか自分が、無罪の人間を手に掛ける、死刑執行人のような気がしてくる。 死刑執行人。 それで、一つ思いだした。 「痛いか?」  「だ、だいじょぶだよ」   汗を浮かべながら、少女が答える。  「三つ数えろ。 一つ数えるごとに息を吐け」  「う、うん」   こっくりと、少女が、うなずく。 「ひとぉつ……」   少女が数える。 痛いほどの緊張を感じる。 恐るべき苦痛に耐えようとして、身体に力が入ってゆく。  「ふぁぁぁぁ」   ゆっくりと息を吐かせる。 身体の力が、抜ける。 心なしか、ペニスへの圧迫が弱くなる。 「ふたぁつ……」   再び恐怖に、身体が竦む。 指が、僕の手を、ぎゅっと掴む。  「吐け」  「ふぁぁぁぁ」   従順に少女が息を吐く。 頑なな表情がわずかに緩む。 肩から、背から、強ばりが取れる。 「もっとだ」  「ふぁぁぁぁぁぁぁ」   指が、僕の手のなかで柔らかく脱力する。 肘が、だらりと垂れる。 まだ大丈夫。 あと一つ数えるまで。 そう思って、僕に身を任せきっている。  そうして息を吐ききった瞬間、僕は、思いきり、少女をえぐった。   速度が、肝要だ。 脱力しきった少女の身体を、痛みに強ばるよりも早く、最奥まで刺し貫く! 「きゃんっっっ!」   少女が叫び、手の甲に爪を立てたのは、すべてが終わったあとだった。  「これで……ぜんぶ……?」   息も絶え絶えに、少女が囁く。 「あぁ。僕の、全部だ」  「そう……よかった」  少女の腕が、僕の背に回される。 僕も、少女を抱きしめる。 固く。固く。 溶け合うまで。 裸の胸に少女の胸がつぶれ、肋骨さえぶつけあうように、僕らは抱擁した。   ゆっくりと、僕は身を離す。 そそり立ったものを、少女から引き抜く。 血塗れのそれは禍々しく、僕は、征服感と同時に、大きな罪悪感を感じた。 「ひどいよ、カツキ。 二つで、入れるんだもん」  「三つ数えろ、と言っただけだ。 何もしないとは言ってない」  「そんなのばっかりだよ。 カツキのいじめっこ!」 「まぁ意図的に誤解させたのだから、僕が悪いな。 だけど……予告通りにやったら、もっと痛かっただろう」  「そっか……そうだね」  僕のやったのは、斬首人の手管だ。   あらかじめ、死刑の手順を、囚人に詳細に伝える。 囚人が、自分の斬られる瞬間を知れば、暴れるかもしれない。 それでなくとも、人間の首は、本気で緊張した時には、恐ろしいほどに固くなる。  それによって斬りそこなえば、囚人は苦しむし、また、斬首人の不名誉でもある。 だから、偽の手順を教えると聞いた。 そして、油断している首を、一太刀で落とすのである。   道徳的かどうかはさておき、一つの方法ではある。 「あのさ……」   少女の視線が、いまだ、そそり立つ僕のモノにそそがれる。  「なんだ?」  「元気だね」   微妙なニュアンス。 「気にするな。 こんなものは処理すればいい」  「そうはいかないよ。 カツキには……その……いっぱい、きもちよくしてもらったし……」   僕も、少女を見る。 足の間。 白いシーツが、小さく紅い染みを作っていた。 「無理する必要はない。 今度というものもある」  「ないよ」   少女は柔らかに答えた。 「何だと?」  「カツキ、明日が来るとは限らないよ。 それに来た明日は今日なんだから、ほんとは今日しかないんだよ」  「うむ」   独特の論理についていけずに一瞬悩んだが、言っていることは、きわめて正しい。 そんな気がする。 「つまり……今日できることは、今日するべきだ、ということだな」  「うん」   少女が嬉しそうにうなずく。  「だから、ね、カツキ……」   潤んだ目で見つめられなくても、僕に否があるわけもない。  「じゃぁ……行くぞ」  〈狭隘〉《きょうあい》な道に、再び分け入る。 だが、道がついているだけ、さっきに比べれば、よほど、楽だった。 風のうしろを歩むものが、うまく、力を抜いているせいでもあるだろう。 「さっきので……あん……だいたい、わかったっっ……からぁ……」  それでも、時折は痛みに顔をしかめながら、彼女は僕のモノを受け入れてゆく。  愛しい。愛しい。愛しい。 小さな身体が、その健気さが、愛しくてたまらない。 僕は、その頬をなで、汗にはりついた前髪を、梳かしてやる。 「きゅうぅ……」  最奥に達すると、少女が、小さく鳴いた。 僕は、そこで止まる。 「えと……あの……どうすれば、いいのかな?」 「無理はするな。何もしなくても、いい。 つらかったら言ってくれ。好きだ」  思ったことを片端から口に出す。 少女の驚いた顔を見つめながら、僕は、ゆっくりと動き始めた。 「あのね……ボクも……カツキのこと……好き」  とっておきの秘密を打ち明けるように、少女が耳元で小さく囁いた。 きつく締めつけるだけの抵抗が、ゆるやかに、変化する。  一本道は、柔らかに形を変えながら、僕を受け止め、また、送り出す。 熱い潤いが、隅々まで染み通ってゆく。  狭いとだけ感じていた時には気づかなかった、道の微妙な起伏に、僕は初めて気づく。  それは、とてもとても気持ちのよいことで。 小径の襞の、その全てを征服したくて、思いきり僕はかき混ぜる。 「くぅ……カツキ……おねがい……もっと……あぅぅぅ」  睦言も耳に優しく。 柔らかな身体が僕の下で蠢いた。  満ちてゆく。 この上なく熱いものが、僕の中に満ちてゆく。 脈打つマグマのようなそれは、腹の中全体をかき回し、出口を求めて、荒れ狂う。 「溶けるよ、カツキ、ボク……ボクたち、溶けちゃう」  少女の言葉が分かる。 いままで、混ざり合うだけだった二つのニオイが、溶け合いはじめている。  〈黄金色〉《かのじょ》と、〈鋼色〉《ぼく》。 鋼が黄金を溶かすのか、黄金が鋼を吸い込むのか、溶け合う二つが、別のモノに昇華してゆく。 「こんなの……うぅ……ボク……はじめて……だよっっ」  変わってゆく。 ニオイは僕で、その僕が変わってゆく。  身体を満たす、熱くどろどろした炎が、僕の内臓を根こそぎ融かしてゆく。 心臓も胃も腸も、すべて融け、それでも炎は満足せずに、僕の中身を、錬り、鍛えあげてゆく。 「カツキ……ボク、ボク……もうっっ」  少女のニオイが変わってゆく。 僕とともに変わってゆく。 内なる炎で、とろとろに融かされ、僕の腕の中で、バターのように柔らかくなる。 「あついよぉ……カツキが……あついよぉ……」  かすかに残っていた脳味噌が嗤う。 熱力学の第二法則。 熱は、一方にしか流れない。 彼女が熱いなら僕は冷たく、僕が熱いなら彼女は冷たいはず。  どうして分からない? 心臓が答える。  現実が、理論を凌駕する。 彼女が、僕が、同時に熱いと感じること。 二人の間に生まれた炎。  それは、小さな奇跡で、その奇跡が僕らを近づけてゆく。 僕の中の炎が、その圧力が一点に……刺し貫く先端に収束してゆく。 「──」  潤んだ瞳を僕は見つめる。 限りなく愛しいそれの、名を、呼ぼうと思う。 開いた口から飛びだしたのは、言葉ではなく──。  うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん。  高く、尾を引く獣の咆吼だった。 風のうしろを歩むもの。 その咆吼の、人の耳には捉えきれぬ、旋律こそが、少女の真名であると僕は理解する。 「くぅぅっ、カツキ、カツキ、カツキィィィィィィィ」  言の葉が溶け、咆吼に変わる。  きゅおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!  互いの叫びの中に互いの名を認めた時、僕と少女は、同時に達していた。  爆発が、起きる。 骨を揺さぶり、身を削り、魂さえ吹き飛ぶ放出。 嵐のようなその余波を、僕たちは、抱きあって耐えた。  ねばるように腕に絡み、左手一本で、両手首を押さえ込む。 管理人さんの腕が、僕の両手を頭上にさしあげる。  錐をねじこむような鋭い痛み。 その痛みは、手首から肘、肩にまで及んだ。  なすすべもない僕に、管理人さんの右手が伸びる。 人差し指が僕の頬に優しく触れた。 「ちゃんと、お行儀よくしたら……」  ゆっくりと頬を伝い、裸の胸をなぞる。 そして、さらに下へ。 「いくらでも、気持ちよくしてあげる」  〈臍〉《へそ》をなぜて、その下に。  屹立した先端を、五本の指が掴んだ。 びりびりと電流が走り、僕の身体がこわばる。 「わかった?」  柔らかな指先で、敏感な部分を嬲るように触れられる。 触れるたびに、全身が、びくびくと震える。  もがく。獣がもがく。 けれど、もがくほどに腕は軋み、管理人さんの指が速度を増す。 痛みと快感に翻弄され、狂おしいまでの悲鳴を上げる。  それは単なる痛みではなく、深い深い、狂気にも似た恐怖だった。 僕の中の獣の望みは子孫を遺すこと。 女の〈胎〉《はら》以外に、子種を吐くことは、大きな禁忌だった。  悲鳴。 獣が悲鳴を上げる。 それは、降参の悲鳴だった。  もがき苦しむ内に、管理人さんの両手が、ふい、と、離れた。 両手が自由になる。 僕は、痛む肩と肘をさすりながら、管理人さんを上目遣いに見つめた。 「さ、克綺クンは、どうしてほしいの?」  柔らかな声。 「Rrrr……」  獣がうなる。  その視線が、管理人さんの胸から腹へ落ちる。 黒い翳りに包まれた下腹部を、まじまじと見つめて、僕は唾を飲み込む。 「どうしたいのか、言ってみなさい」  獣が、喉で蠢く。 声を出そうとする。 「Krr……クァ……クァンリ……」  舌がもつれる。 僕の中の獣は、いまや人語をしゃべろうとしていた。 「クァンリニ……サン……」  もつれながらも、名を呼んだ僕の唇に、管理人さんは、そっと指で触れた。 「はい、よくできました」 「さ、きて」  両手を開いた管理人さんに、僕は、おずおずと近づいた。 両手の爪がひっこむ。 差し出された獣の手を、管理人さんの両手が優しく包んだ。 「こわく、ないからね」  獣が、手を伸ばす。 管理人さんの胸へ。 その白い肌に指先が触れる時、かすかにためらいがあった。  僕のためらい。獣のためらい。 区別なんかできない。  そのためらいを見越したように、管理人さんが、そっと手を導いた。 指と指の間に、僕は、管理人さんの肌を掴んだ。  熱い。 五本の指は、やすやすと乳房に食い込む。 僕の手は、熱いほどの温もりに包まれた。  味わったことのない柔らかさと量感。 下からもちあげるように乳房をもみしだき、指の中の熱さを堪能する。 「それだけで、いいの?」  いたずらっぽく耳元に囁かれ、僕は、指を上へ進める。 うす桃色の突起に、触れる。  親指の腹で撫ぜるように。 人差し指と中指で摘むように。 柔らかな乳房の中の、かすかな硬さを味わう内に。 桃色の先端は、ゆっくりと硬くなってゆく。 「そうよ……いいわ……」  その乳房を。 柔らかな手応えを。 甘やかな匂いを。 もっと、もっと味わいたくて。 僕らは、その胸に顔を寄せる。 「克綺クンは、甘えん坊さんね」  からかうような声に、獣が目を覚ます。 裸の胸に、僕は。獣は。 舌を這わした。  温もりに満ちたその肌は、苦い汗の味はしなかった。 もっと甘い蜜のような味。 そして、花のような香りが僕を包む。 「……ん」  あまりの甘さに、僕らは軽く歯を立てる。 管理人さんが、わずかに身をそらす。 幼子のように僕らは乳房にむしゃぶりつき、舌の先で乳頭を転がした。 「あん……は……くん…」  僕は管理人さんを抱きしめる。 脇をなぞり、ゆたかな腰をつかむ。  僕のそそり立ったものが、管理人さんの太腿に触れる。 それは揺れながら、その奥を探そうとする。  艶やかな腿の感触は、それだけで達しそうだった。 先端から透明な先走りが洩れる。  息を止めてそれをとどめ。 僕のペニスは、管理人さんの腰にぶちあたる。 一枚の下着がそれを阻んだ。  じれったさに気が狂いそうになりながら、獣が腰を振る。 それは、下着の隙間に潜り込み、柔らかな繁みが僕の先端に触れる。  その奥にいくより、一瞬はやく。  僕の根本を管理人さんが掴んだ。 二本の指は羽根のように軽く、それでいて巌のように動かなかった。 「おあずけ」  耳元で囁かれた声に、僕らは、身もだえする。 「いきなり入れたら、お行儀悪いでしょ」  獣が暴れた。 闇雲に腰を突き出そうとして、玉をぎゅっと握られる。 名状しがたい痛みに、僕も、獣も、苦痛に吼えた。 「か、管理人さん……」  僕の声が漏れた。 「あら、克綺クン、しゃべれるようになったじゃない」  そういえば。 「確かに……しゃべれはします」  そういいながらも、喉の奥から不満げな声が漏れる。 「じゃぁ、手足が自由になるまで頑張ってみて」 「わかり……ました」  そうは言ったものの、手足は動かないままで。 どうやったら自分で動かせるか見当もつかない。 「克綺クンの言う通り動いたら、御褒美をあげる」  その言葉は、僕の中の獣に囁かれた。 少しだけ。 ほんの少しだけ、身体に自由が戻る。 「僕は……どうすればいいですか?」 「そうね、まずは」  管理人さんが、いたずらっぽく笑った。 「さっきの、おいたの、お仕置きよ」  再び、僕は、根っこを掴まれ、ぐいと引っ張られた。 「……痛いです」 「我慢して。 それから、もうちょっと、こっち来て」 「……はい」  僕は、膝を立てるようにして管理人さんに近づく。   僕と管理人さんは、屹立する僕のものを挟んで向かい合う。  「元気いいわね」  「緊張で死にそうです」  「そうじゃなくて……」 「克綺クンの――」   それは確かに、その通りで。 さっきから刺激を受けた僕のものは、まっすぐ天を向いてそそり立つ勢いだ。 正直、苦しいほどだ。  「苦しくない?」  「はい」  「じゃ、楽にしてあげる」  ふわりと、管理人さんが僕によりかかる。 その柔らかな胸が。 柔らかな胸が。  僕のペニスをはさみこむ。  はじめて味わう感触に、僕は、打ち震えた。 だが。 「GYAAAHH!」  内なる獣が吠える。  僕の腕を振り回して、管理人さんを遠ざけようとする。 「あら、克綺クン、どうしたの?」  僕のペニスをはさんだまま、管理人さんは、そう言う。 「嫌がってます。いや僕が嫌がっているわけではなく、管理人さんの行為にはむしろ肯定的なのですが、僕の中に存在する魔力の塊が意志を持って……」 「ええ、わかってるわよ」  黒い血が、かつてないほどに暴れていた。 それにとって、子種を浪費することは絶対のタブーなのだ。 「だから、言ったでしょ。お仕置きだって」 「はぁ……」  そう言いながらも、僕の手は管理人さんを押しのけようと勝手に動く。 「克綺クンも、頑張って、その手を止めてみて」 「わ……わかりました」  言われて、僕は、両腕に集中する。 そう思った瞬間。 ゆっくりと。 管理人さんが動き出した。  暖かな乳房に、やわやわとはさまれたペニス。 その袋から根本から亀頭までを、すいつくような肌が、こすり上げてゆく。 腹の底からわきあがる快感が、ちりちりと首筋を灼いた。 「現在僕が置かれた状況は、集中をするのに適していないと思います」 「がんばって!」 「それは非常に困難なことと言わざるを得ません!」  獣は、狂ったように暴れ狂い、両手で管理人さんを押しのけようとしていた。 けれど、集中が難しいのは獣も同じだ。  管理人さんを突き放そうとするたび。 弾力を持った乳房はたわみ、やわやわと形を変えながら、僕のペニスのあらゆるところを吸い付くように、撫でてゆく。  そのたびに、獣の腕からは力が抜けてしまうのだった。 ペニスの先端に、こみあげるものを、僕/獣は、歯を食いしばって抑える。 「克綺クンは、別に我慢しなくてもいいのよ」  管理人さんの声に、ますます獣が猛り狂う。 「いやしかし。汚れますから」 「汚れたら洗濯してあげるわ」 「別に寝具の汚れを心配しているわけではなく、また、寝具が汚れた場合、自分で洗濯します。 ここで問題視しているのは、その、僕ら二人の位置関係的に、放出されたものが管理人さんの顔を汚す可能性であって……」 「あら、私は構わないわよ」 「僕は構います。 むしろ僕が構います。僕は管理人さんを汚したくありません」 「そう……だったら」  ちゃぷ、と、湿ったものが僕を包んだ。 濡れた唇が、僕のものを含んでいた。  あまりにも鮮やかな赤い色が脳裡に焼き付く。 くびれたところから裏筋まで、味わうように愛撫され、その先端を、つんと舐められた。 「……ちょっと待ってください。いったい何をしてるんですか?」  限界寸前。 その一瞬前に、管理人さんは、唇を離した。 銀色の糸がついと引く。 「これなら、顔は汚れないでしょ?」 「それは確かに論理的ではありますが……」 「でしょ?」  何かが違う気がする。 混乱する思考をまとめようとするが、うまくまとまらなかった。 「さ、力を抜いて」  そう言って、管理人さんは、僕の先端に口づけた。 「ふあっ……」  柔らかな、柔らかすぎる唇が、僕のペニスの先端を呑み込んだ。 「んん……ふぁぁ……ん」  ぬめ光る赤い唇が、先端を〈湿〉《しめ》してゆく。 亀頭の微妙な凹凸に吸い付き、たっぷりと唾をまぶしてゆく。  全身から力が抜けていった。 身体の芯を抑えられ、僕も。獣も。 もはや、指一本動かすことができなかった。 全身の神経がペニスに集中する。  ちゃぷ……ちゅぷ……くちゅる……  舌がなぞり、唇がこねあげる。 淫猥な音が鳴り響いた。  柔らかな乳房に僕のペニスはこねあげられ、その先端を舌がもてあそぶ。 嬲るように、鈴口を舌がつつく。 蠢く舌が、くまなく亀頭を舐める。 吸いついた唇が、くびれのところをしごきあげる。 「……あ……うぅ……」  食いしばった歯の間から声が出た。 「どう……いい?」 「いいで…す」 「そう……よかった。痛かったら、痛いっていいなさいね」  その言葉と共に、唇の動きが倍加する。 稲妻のように舌は閃き、唇はひねりをつけて吸い上げる。 過敏になったペニスは、すでにそれが痛みか快感か区別がつかず。 「ん……ちゅ……ふぁ……」  眼前の風景が溶けてゆく。 熱く濃いものが、身体の奥からこみ上げる。 それをとどめる力は僕にはなかった。 「Grrrr」  獣が悲しげな叫びを上げる。 その一言とともに、僕は……  痺れるような刺激が、脊髄を貫く。 目の前が真っ白になる。 ほんのわずかな瞬間は、長く長く引き延ばされ、恍惚感が全てを支配した。  どくどくと、僕は液を吐き出した。   ──止まらない。 痙攣と共に快感が断続的に襲いかかり、僕は、何度も、何度も、白いものを吐き出した。 すべてを吐き出し終わり、ぐったりと、力が抜ける。 「んく……ん……」   一瞬の虚脱の後、僕は、その声に気づいた。 口の中一杯に、あふれそうにぶちまけたもの。 こくんと喉を鳴らして、管理人さんが呑み込む。   一心に呑み込むその姿に、僕はざわざわとした罪悪感に襲われた。 「すいません」   そう言って腰を放そうとするが、管理人さんは放さなかった。  「ちょっと待ってね。 今、綺麗にしてあげる」   唇を白く染めたものを舐め取って、管理人さんは、そう言った。 「う……」   まだ奥に残ったものを、胸がしごきあげ、ちゅうちゅうと音を立てて、唇が吸い取る。 いまだ敏感な亀頭を、すみずみまで管理人さんの舌が這い、舐め清めてゆく。 「はい、これでいいわ」  さっぱりとした声で言われた時には、僕は、後ろへ倒れていた。 はぁ……はぁ。 息は荒く、静まらなかった。 ふわりと、管理人さんが僕の横に寝転がる。 「まだ、元気みたいね」  僕のものを指さし、淫蕩とさえ言える声で、管理人さんが囁く。 それは確かに、一仕事終えたあとも、まったく萎えずに屹立していた。 「身体は、動く?」 「……はい」  指を動かす。それから腕も。 ぎこちなくはあるが、なんとか動いた。  獣が弱ったのか。 というよりは、僕と獣が近づいた。 そんな気がした。  痺れるような刺激が、脊髄を貫く。 目の前が真っ白になってゆく。  このままでは、僕は。 管理人さんを。管理人さんの口を。 ──〈汚〉《けが》してしまう。  その思いが、僕を動かす。 白濁したものがほとばしるよりも一瞬早く。 僕は、管理人さんの唇からペニスを引き抜いた。  結果は言うまでもないだろう。 全てを支配する恍惚感と共に。 白く濃いものが、管理人さんの顔を襲った。 どくどくと、僕は液を吐き出した。  眼鏡のレンズが、べったりと白く濁る。 白い液は、頬といい額といい管理人さんの顔一面を汚していった。  ──止まらない。 罪悪感は快感に勝てなかった。  痙攣と共に快感が断続的に襲いかかり、僕は、何度も、何度も、白いものを吐き出した。 すべてを吐き出し終わり、ぐったりと、力が抜ける。 「……も、もうしわけありません」  僕は、荒い息の下で、管理人さんに声をかけた。 「あら、どうかしたの?」  拍子抜けしたような声がかかる。 「いえ、その。 精液で顔を汚してしまって、すいません」 「克綺クン、こういうのが好きなのかなって、思ったんだけど……」  話す内にも、白い液が顔を伝った。 唇の脇に垂れたそれを、赤い赤い舌が舐め取る。 「違います!」 「いいのよ? 隠さなくても」 「本当に違います!」 「そうなの……」 「これを、どうぞ」  ベッド脇のウェットティッシュを渡した。 「あら、ありがと」  管理人さんが、濡れティッシュで顔を拭く。 その魔法の手が閃くと、ほんの一拭きで、魔法のように白濁液がぬぐわれてゆく。  最後に眼鏡を拭くと、もう、そこにいつもの管理人さんがいた。 「取れた?」 「ええ。綺麗です」  僕はうなずく。 「じゃぁ……今度は、克綺クンを綺麗にしてあげる」 「なんですか?」 「ここよ」  管理人さんが、僕のペニスを掴む。 「う……」  まだ奥に残ったものを、胸がしごきあげ、ちゅうちゅうと音を立てて、唇が吸い取る。 いまだ敏感な亀頭を、すみずみまで管理人さんの舌が這い、舐め清めてゆく。 「はい、これでいいわ」  さっぱりとした声で言われた時には、僕は、後ろへ倒れていた。 はぁ……はぁ。 息は荒く、静まらなかった。 ふわりと、管理人さんが僕の横に寝転がる。 「まだ、元気みたいね」  僕のものを指さし、淫蕩とさえ言える声で、管理人さんが囁く。 それは確かに、一仕事終えたあとも、まったく萎えずに屹立していた。 「身体は、動く?」 「……はい」  指を動かす。それから腕も。 ぎこちなくはあるが、なんとか動いた。  獣が弱ったのか。 というよりは、僕と獣が近づいた。 そんな気がした。 「まだ、いける? いけるわよね」  〈僕は〉《獣は》、こくりとうなずく。 「よしよし」  頭を撫でられて、僕は無上の喜びを感じる。 いや、喜びを感じたのは獣だ。  どちらだろう。 どちらでもいい。 喉をくすぐる管理人さんの指は、ただ、ひたすらに気持ちよかった。 「rrR……」  僕らは豊かな胸に頭をすりよせる。 すっかり飼い慣らされた獣が、甘えた声を出した。 「んふっ。かわいいわよ、克綺クン」  管理人さんの手が、うなじをなで下ろし、僕らは身を震わせた。 「管理人さん」  我慢ができなくなって、僕は、管理人さんの上にのしかかる。 両手を肩にかけて組み敷いた。 「あわてない、あわてない」  そう言われても。息は荒く。 「女には、女の準備があるのよ」 「では、準備をしてください」 「克綺クンも、一緒にするのよ」  管理人さんの手が、僕の手に添えられる。 僕らの手は、もはや暴れることはない。ゆっくりと、なすがままに、管理人さんの腰へ降りてゆく。  僕の指が、レースの下着に触れた。 絹の感触は、張りつめた生地の下の熱い肌とあいまって官能的な肌触りだ。 「まずはじめに、どうしたらいいか、わかる?」 「これを……外す必要があります」 「じゃぁ、ぬがして」 「はい」  僕と、僕の中の獣は、協力して、ゆっくりと管理人さんの下着に手をかける。 指がうまく動かない。 細かな動作には、未だに二人三脚のような違和感があった。  焦る獣と、それを押しとどめる僕。 なんとか指をかけ、ゆっくりと、引きずりおろす。 小さく丸まった布きれを、僕は、形のよい爪先から引き抜いた。 「あの……」 「なぁに、克綺クン?」 「見て、いいですか?」  くすりという笑い声。 「手探りでするつもりだったの?」 「選択肢としてはありえます。管理人さんが望むのであれば……」 「いいわよ。克綺クンなら」  ごくり、と、唾を飲み込む。 柔らかな繁みを、まじまじと見つめる。  繁みの奥の割れ目は、ほんのわずかに開いていた。 その奥のピンク色の襞と、まだ鞘に包まれた肉芽に、僕の目が吸い付く。 「触ります」  声に出す。出すことで、獣に分からせる。そして自分に踏ん切りをつける。 「ええ」  優しい声に後押しされて、僕は、ゆっくりと指を滑らせた。 指先が触れたものは、もう、十分すぎるほどに潤っていた。  亀裂を上から下になぞりさげてゆく。 それだけで、人差し指が糸を引き、濡れた音を立てた。 「これで、いいんですか?」  「だいじょうぶ。うまいわよ」   撫でるうちに、亀裂は優しく開き、秘奥を光の元に晒す。 艶やかな桃色は、光の中で息づき、呼吸するように蠢いていた。 感嘆の吐息が、亀裂を吹く。 「あ……ん」   優しい声に、獣が猛った。 濡れた指を伸ばし、肉芽に触れる。  「ん……ん……いいわよ、克綺クン」   僕と獣が呼吸を合わせる。 柔らかで敏感なそれを、僕らは、ゆっくりと撫でさする。 くちゅくちゅと音を立てて、僕らは愛液をなすりつける。 「は……ん……ん……」   肉芽は、次第に大きさを増し、その莢から顔を出す。 真っ赤に充血した肉芽に軽く触れる。  「あんっ……」   嬌声は悲鳴にも似て。 管理人さんがびくりと動く。 僕の指が、怯えて止まった。 その手に、管理人さんの手が重ねられた。 「いいのよ、大丈夫」  「はい……」   再び指が肉芽に触れる。 愛液に濡れたそれを二本の指で僕はなぞった。  「よく……できました」   声に、甘い喘ぎが混ざる。 「もっと、奥に……おねがい……」  「はい」   僕の指は、ゆっくりと亀裂の奥をさぐる。 待ちかねていたように、秘奥は指先を呑み込んだ。 暖かな肉がまとわりつく。 それは僕を奥へ奥へと誘った。 「そうよ。そのまま……かきまぜて」   二本の指を奥へ突き入れる。 ひらひらと指を振る。 くるくると指を回す。 ぴちゃぴちゃと指が音を立てる。   二本の指が動くほどに、亀裂はすぼまり、また、広がり、そのたびに洩れる声は、僕の血を熱くした。 「もっと……もっと、乱暴でいいのよ、克綺クン」   その声にうながされ、僕は指を早め、左手で、肉芽に触れる。  「あ……ううんっ……」   悲鳴のような声。 けれど、僕はもう、それが悲鳴でないとわかっていた。 二本の指を曲げ、また、伸ばす。 肉芽を撫ぜあげては、軽く弾く。 その挙げ句。 「くぅんっんんっ……!」   童女のような声をあげて、管理人さんの全身が震えた。 二本の指に震えが伝わる。 指は、亀裂の中で、大きく締め付けられた。   震えが静まるのを待って、僕は、二本の指を引き抜いた。 ぴちゃり、と、音を立てて、シーツに雫がこぼれた。 つい、と、指先を舐める。 管理人さんの愛液は蜜のように甘く、指を口に含むと、かすかに花の香りがした。 「克綺クン?」   潤んだ目が僕を見る。  「はい」  「準備はいいわよ」  「僕も、準備はできています」  「そう? まだ、身体が堅いわよ」  「緊張していますから」  管理人さんが僕の首を抱いた。 ゆっくりとひきよせられる。 甘い吐息を顔全体に感じながら、僕は管理人さんと唇を重ねた。  息もできないほど濃厚なキス。 このうえなく柔らかな舌に、僕は翻弄された。 管理人さんの舌は、僕の歯を割って入り、縮こまった僕の舌を弄ぶ。  甘い唾液が流し込まれ、僕の頭が、ぼうっとする。 舌が舌をねぶる。絞る。こねあげる。  僕の舌は僕の中でとろけて、甘い蜜に変わったようだった。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  ようやく唇が離れた時、銀色の糸が二人の間をつないでいた。 僕は荒い息をつく。 鼻息が管理人さんにかかる。 「力は、抜けた?」  管理人さんは、息一つ乱さずに、そう言った。 「は……い……」 「それじゃぁ……来て」 「行きます」  律儀に僕は答える。 声が、震えていた。  胸の鼓動は、獣だけのものではなかった。 この期に及んで、というべきか。 僕は、この状況が信じられなかった。 「まだ、恐い?」 「……はい」  なんだろう、この違和感は。  毎朝会って。 一緒にご飯を食べて。 これからもずっと一緒にいる。 僕の母親みたいな人。  この人と。僕は。今から。 ──交わる。 「じゃ、手を握っていてあげる」  暖かな手は、本当に母親のようで。 目を瞑ると。  感触の想い出が母親のものに重なった。 僕は、自分の意志で、管理人さんを突き放した。 「だめです。できません」 「……どうしたの? 克綺クン」  優しい声は、罪悪感を増した。 「だめなんです。 その……母さんと、しているみたいで」 「お母さんと?」 「僕は……母さんのことは、覚えていないんですが」  あの事故。 父と母を奪ったあの事故より以前の記憶は。 僕の中で、薄闇のように朧になっている。 「管理人さんには……毎朝、ご飯を作ってもらって。恵も一緒に世話してもらって。 考えれば考えるほど、母さんみたいで……。 もしも、母さんが生きていたら……きっと管理人さんみたいな感じで」  なぜだか、涙が出た。 なんの涙だろう。 「非論理的ですね。もうしわけありません」 「だいじょうぶ。克綺クンの言うことは分かるわよ。 とっても光栄だわ」  管理人さんの声が、優しく響く。 「光栄、なんですか?」 「私なんて、たいした世話はしてないんだもの。 克綺クンのお母さんに悪いわ」 「そうですか」 「本当に嫌ならいいけど……」  管理人さんは、僕の腰に視線を落とす。 僕の心は、目の前の人を母親だと思っているのに。 僕のものは、恥ずかしげもなく、そそり立っていた。 「慰めになるかどうかわからないけど……身体って意外と正直よ」 「そうなんでしょうか。 でも、僕は管理人さんが……母さんとしか思えないんです」 「そうねぇ」  管理人さんが考え込む。 「ね。克綺クンが、私のことをお母さんとしか思えないなら……お母さんに、甘えるつもりでしてみたらどうかしら?」 「え?」  声が裏返った。 と同時に、僕のものが、そそり立つのが分かった。 「気にすることないわよ。 昔から、英雄は、お母さんを〈娶〉《めと》るものだし」 「いや、確かに、そういう神話もありますが……」 「だいたい、この国だって、ちょっと前まで、そんな細かいこと気にしてなかったじゃない」 「ちょっと前って、管理人さん、いつの生まれですか!」 「女の人に、歳とか聞かない」 「はぁ」 「そもそも克綺クンにとって、近親相姦が、いけない理由ってなに?」  近親相姦。 管理人さんの口から出た言葉に、僕はぞくぞくした。 その声の響きを反芻する。 「生物学的には、遺伝子のバリエーションを広げるためです」 「そうなの?」 「はい。近親者同士は近い遺伝子を持っているので、その交配が続くと、遺伝子が均一化する。 そうすると、例えば、みんなが同じ病気にかかりやすくなったりしますから、絶滅しやすくなる」 「なるほどねぇ。 絶滅したら困るけど、たまにはいいんじゃない?」 「そうもいきません。 どんな健康な人間の遺伝子にも、致死遺伝子や、様々な深刻な病気や障害をもたらす遺伝子が、劣性遺伝の形で含まれています。 劣勢遺伝ですから、同じ遺伝子と出会わない限り発現しませんが、近親婚の場合は、発現しやすい。 そういうこともあって、近親婚を避ける文化が発達したのでしょう」 「ふぅん。克綺クンは、物知りねぇ」 「生物の授業を、真面目に聞いているだけです」 「じゃぁ、真面目な克綺クンに質問なんだけど」 「はい」 「それって、私と克綺クンに、関係あるの?」 「……」  僕は、しばらく考えた。 「ないですね」  そもそも僕と管理人さんに血縁関係はないわけだから、近親相姦ではない。 「しいていうなら、心理的な抵抗感というか……」 「心理的な抵抗感ねぇ……」  管理人さんの視線が、僕のものに熱く注がれる。 男性の生理は、心理に依存するというが……だとすれば、僕は、これ以上ないくらい「母親」に欲情している。 「母親に欲情するのは変態性欲の一種ですが……」 「それって、悪いことなの?」 「いえ。文化があれば逸脱するのも人間の習性です。 変態性欲にも、それはそれで、長い歴史と伝統もあります。 他人に迷惑をかけない限り、通常の異性愛以外の性欲を否定することは、狭量に過ぎるでしょう」 「つまり……問題はないわけね」 「……そうですね」  自分で自分を論破してしまった僕は、頭をかいた。 「それに……だいぶ身体も動くようになったみたいだけど」 「はい」 「克綺クンの中の魔力を鎮めてあげないとね」 「……そうでした」  僕は、改めて認識する。 管理人さんが、僕を受け入れているのは、僕の窮状を救うためだ。  それというのも、僕が、あの時、人魚の血を浴びたから。 つまり、管理人さんに付いていくと主張したからの自業自得に過ぎない。 「そんな顔しないで」 「はい」  僕は、荒い息を鎮める。 猛り立つペニスのことを一時忘れる。 確かめなければいけない。 「僕は……管理人さんを抱きたいと思っています」 「なぁに、それ?」 「ここにこうしている元々の理由は、身体にたまった魔力を抑えるためですが……それだけじゃないということです」  僕は、自分で言って顔をしかめた。 これは偽善だ。こんなことでもなければ、僕は管理人さんを抱こうとは思わなかっただろうし、今、言うのは、後付けの屁理屈だ。  だけど。 だからって。 言わずに済ませることは。 管理人さんの好意に一方的に甘えることは、それはそれで不誠実だと思う。 「わかったわ」 「教えてください。 管理人さんは、僕のことをどう思っていますか?」 「克綺クンのこと? 可愛い息子みたいに思ってるわよ。迷惑かな?」 「いえ。嬉しいです。 それで……管理人さんは、僕を抱くことをどう思っていますか? 無論、僕は、管理人さんに抱いてもらわなくては困るのですが、もし、それが理由で仕方なくしているのであれば、そのことについて知っておきたいと……」 「あぁ、もう……克綺クンったら!」  管理人さんは、僕のことを抱きしめた。胸に顔が埋まり、僕は目を白黒させる。 「嫌いなわけないじゃない」  優しく穏やかな声に、僕は、安らぐ。 それと同時に、熱いものが股間にみなぎる。 母親に欲情することが変態なら、僕は変態なのだろう。 心の底からそう思う。 「はい」  よかった。僕は、素直にそう思う。 「だいたい、克綺クンは、理屈がすぎるのよ。 子供なんだから、もっとこう……素直になりなさい」 「素直、ですか?」 「そう、素直よ。 克綺クンは、私としたいの、したくないの、どっち?」 「はい。したいです」 「元気でよろしい! 私も克綺クンとしたいわ。何か問題は?」 「ありません!」 「何かリクエストは?」 「え……あの」  予想外の質問に、僕は、一瞬うろたえた。 「手を……握っていてください」  母さんみたいに、という言葉を僕はのみこんだ。 けれど、いたずらっぽく笑う管理人さんを見れば、そんなことはお見通しのようだ。 「いいわよ……握っててあげる」  管理人さんの手が、僕の右手をそっと包む。 僕の身体から、強ばりが、ゆっくりと抜けていくのがわかる。 「他には?」 「ありません!」 「ないわね! よし!」  ぽん、と、背中を叩かれる。 僕の中の何かが、それで、吹っ切れた。 「行きます!」  その一言で、僕は、管理人さんに挑みかかった。  ペニスの先が、亀裂を探す。 あせったそれが肉芽を弾き、僕の腕の下で管理人さんが、かすかに身をそらす。 「落ち着いて、ゆっくりね」 「はい」  重ねた右手が、力づけるように僕を握る。 それは僕の支えとなった。 ゆっくりと、ゆっくりと腰を動かす。  最後に管理人さんが、わずかに動くと、僕の先端は、ようやく割れ目に巡り会った。 つぷつぷと亀頭が沈む。 「う……ん……そう、そこよ……」  かぎりなく柔らかで、それでいて、くいくいと締め付ける柔肉。 僕は、触れただけで達しそうになった。 「くっ……」 「はい、深呼吸して」  柔肉の動きが止まる。 僕は亀頭の先に暖かな感触を味わいながら、大きく息を吸って、吐く。 「入ります」 「どうぞ」  どこか間抜けなやりとりとともに、僕は腰を進めた。  管理人さんの中は、熱く潤っていた。 ゆっくりと、ゆっくりと、僕は身体を沈めてゆく。 じわじわと這い上がる快感をこらえながら、爆発物を扱うように。  ゆっくりと、ゆっくりと。 僕はペニスを埋める。 その先が、こつんと奥にぶつかった。 「あ……ん……」  僕の下で管理人さんの身体がさざ波のように揺れる。 組んだ右手に、かすかに力を感じた。 二人がつながったということ。 その事実を前に、僕はしばし呆ける。 「どう、気分は?」  管理人さんの言葉に、僕は、自分を取り戻す。 つながっている。 その事実が、ゆっくりと身体に染み通る。 「克綺クンは、お母さんと、したかったんでしょ?」  からかうような声に、僕のものが、さらに硬くなる。 「……そうです」  僕の背を抱きしめる腕。 握った手と手。  目をつぶれば、母さんに抱かれている様がたやすく想像できて。 そして僕と母さんはつながっていて。 ぞくぞくするような背徳感が背筋を走る。 「お母さんは、こんなことしてくれた?」  ゆっくりと、管理人さんの腰が動き始める。  ぴちゅ。くちゅり。 淫猥な音が響き渡る。 限りなく柔らかなものが、繰り返し、繰り返し、僕を締め付ける。  快感は全身に満ちて。 気が付けば、僕は。 獣のように腰を振っていた。 「うん……はん……んんっ……あぁんっ」  ぎこちない動きは、やがて、なめらかになり。 リズムはゆっくりと一致する。  がんがんと胸を打つ鼓動。 管理人さんの喘ぐ声。 ぴちゃぴちゃと音を立ててこすれ合う粘膜の響き。 すべては溶け合ってゆく。  快感が、容赦なくつきあげる。 何度となく僕を打つ快感は、時計の秒針のように精確で。 僕は、その快感の虜となる。 「管理人……さん」  うわごとのように、その名を呼ぶ。 「なぁに……あん……克綺……クン」 「そろそろ……射精しそうです」 「いいわよ……ん……来て……」 「今、思いついたんですが……」 「なぁに?」 「その、避妊の問題は……」  ちなみに避妊を考えるなら、入れている時点で問題である。 膣内射精を行わなくても、微量の精子は洩れており、それによって受胎する可能性も存在する。  とはいえまぁ、思いつかなかったのだから、仕方ない。 管理人さんが、僕を、ぎゅっと抱き寄せる。 急に角度の変わったペニスが、膣の中で暴れた。 それだけで漏れそうになり、僕は息が詰まる。 「心配しなくていいわよ」  耳元で管理人さんが囁く。 「それは、どのように心配の必要がないのですか?」  僕も囁き返す。 「克綺クンは、ほんとに考えすぎなんだから」 「そこがいいところなのだけど……考えないほうがうまくいくこともあるのよ」 「考えないこと、というのが……うっうまくできないんです」 「そうねぇ。じゃぁ、考えられなくしてあげる」 「え?」  身体が密着したまま、再び腰が動き始める。 胸と胸が触れあう。 柔らかな乳房がつぶれ、硬く立った乳首が僕の胸をなであげる。  腰と胸。 加えるに、背。 管理人さんの指が、僕の背中をなでていた。  新たな刺激に脳が沸騰する。 三つの刺激が、それぞれ違ったリズムで僕を責め立てる。 指は、背を降りて、腰に達し、やわやわと指に尻を撫でられる。 「管理人……さん!?」  腰は僕のものを、根本からくびれから先端まで、絞り上げるように蠢き、管理人さんの乳首が僕の裸の胸に、くるくると円を描く。 その傍らでは、淫蕩な指が僕の尻を責め立てる。  三つの違ったリズムに、身体が沸騰する。 雨のように降り注ぐ鋭く、強い刺激。  刺激の合間の、産毛だけをさわさわと撫でられるような。 〈隔靴掻痒〉《かっかそうよう》の快感。  その両方が、溶け合い、高めあい。 思いの全てを快感が占め。 思考という思考が奪われてゆく。  管理人さんの、指が乳房が性器が。 それが触れているところが僕であり、その僕は真っ白に塗りつぶされてゆく。  指が。 彼女の指が、僕の尻をかきわけ、その奥の、すぼまりに、するりと潜り込む。  それが、とどめだった。 「くぅっ……!」  全身が痙攣する。 僕という僕の、そのすべてが絞り尽くされる。 熱く、激しく、雄々しく。 僕は、僕の全てを放っていた。  どくどくと、それは音を立てて流れ込んだ。 それは管理人さんの〈膣内〉《なか》を満たし、そして、あふれだす。  長い長い一瞬の後、全てを吐き出し終え、どっと、全身から力が抜けた。 汗みずくの身体が管理人さんによりかかると、結合部から、どろりと濃いものがあふれた。  唇を奪う。 初めは、強張った唇が阻んだ。 本当にいいのか、問いかけてくるようだった。  僕は、迷わなかった。 僕はずっと、ずっと、彼女が好きだった。 愛していた。  ただ、それに気づくのが、遅れただけ。 認めるのに、躊躇しただけ。  やがてこわごわと唇が開く。 僕は舌を入れる。 深く、深く。  堅かった管理人さんが、徐々に、解れていく。 星空の下に、ふたりのシルエットが、溶けた。  管理人さんは、それまでの抑圧から解き放たれるように、僕を求めた。 触れ合う肌からは、もう歯車のきしみなんて聞こえない。 ただ、全身を包む情熱の波に、身を任せた。  長い、長い。 そのまま、夜が明けてしまうのではないかと思うほど長い、口づけが終わる。  少し、調子を取り戻したかのように、管理人さんははにかんで笑った。 その片手は、抱き合った僕の胸の下――堅くなった膨らみに、添えられた。 「これも、克綺クンの意志かしら?」 「人間は、非常に不自由にできていると結論せざるを得ません!」 「だからこそ、人間でしょう?」 「しかし、それを行使するのは意志です。 ――管理人さんも、同様の意志を持ってくれることを期待しています」  宣言して、僕は、管理人さんを押し倒す。 覆い被されて、彼女は抵抗しない。 横顔が、静かに星空を見上げる。  唇が、微かに動いた。 「ありがと、ね」 「なにが、ですか?」 「ううん、なんでもないの」 「……ねぇ、克綺クン」 「はい、なんでしょうか?」 「おねがい、ね?」  そう言って、管理人さんは自ら、僕の手を導いた。  僕は覆い被さり、再び唇を重ねる。 僕と管理人さんが、近づく。 もっと近く、本当の彼女が知りたい、そう願う。  薄暗がりの中、管理人さんの身体に触れる。 手探りでそっと、彼女の敏感な部分を撫でた。 「ん……ん、ん」  唇を重ねたまま、管理人さんが声を漏らす。 彼女の吐息が、直に伝わってくる。  僕は、そっと指を動かす。 全体をなぞり、焦らすように、軽く、円を描く。 それから、わずかな突起に指を添えた。  唇を離して、管理人さんは僕に微笑みを向けた。 「あは、ん……克綺クン、いいわよ。この間より、上手くなってる」 「ありがとうございます」  徐々に、指の動きを強く。 緩急をつけ、強弱をつけ、管理人さんの身体が揺れる。 動きに同調し、豊満な胸がゆさゆさと波打った。  僕は乳飲み子のよう、胸に頬をなすりつける。 獣のように、口だけでむしゃぶりつく。  吸い付き、口いっぱいに頬張り、突起した乳首を舐め回す。 指で激しくこすり上げながら、僕は胸の突起を歯で挟む。 「ん、あ、それ――あ、んんんっ!」  管理人さんの身体が、大きく震える。 蜜が溢れ出し、止まらない。 僕の指は、管理人さんの視線に導かれるよう、襞が蠢く奥へ。  前回のような、躊躇はない。 突っ込んだ二本の指を、遠慮なく掻き回す。 「これは、どうですか?」 「いいわよ、ん――もっと、もっと、ね?」  微笑み。 僕の瞳を見つめたまま、首がわずかに傾いだ。  全身を、震えが襲う。 堪らず、胸に口づけた。  大きく波打っていた乳房は、揺れが徐々に細かくなる。  欲望をたたきつけるように、腕の疲れも忘れるほどに。 温かな管理人さんのなかを、僕は刺激する。 指をねじ込み、ぐちゃぐちゃに前後させる。 「すごい、んん、克綺クン、私、いつもと――ふぁっ、んん!」  止まらない。 さらに激しく掻き回す。 刻みは早く、さらに強く。  管理人さんが、目を細めていく。 身体が、緊張に強張っていく。 一気に駆け上がっていくのがわかる。  僕を求めて、襞が指に絡みつき、締め上げ、限界まですぼまった。  掻き回され。 星空を見上げながら。 彼女はひとつ、ふたつ、大きく息をついて。 「ふあっ、んぁっ、ん、くぅんんんん!!」  乳房の揺れが急激に収まり、管理人さんの身体が弓なりに反った。 二度三度、びくんと身体が痙攣して、天を突く乳房が揺れる。 髪が跳ね、小さく揺れた。  拳は強く額に押し当てられ、その目は星の光さえまぶしいかのごとく、細められている。  僕は、そっと指を抜き出し、仰け反った彼女を正面から見据える。 「はぁ……はぁ……んくっ、はぁ……はぁ……」  胸が激しく上下して、聞いている方が切なくなるほど、か細い呼吸が繰り返される。 息をのむその仕草が、あまりに愛おしくて、僕は堪らず唇を重ねた。 「はぁ、はぁん、んんん……」  収まらない管理人さんの息が僕の耳元をくすぐる。 僕らは深く、長く、お互いを確かめ合う。  ゆっくりと唇を離して、管理人さんは優しく僕の頬を撫でてくれる。 真正面から見つめられて、僕はなんだか急に気恥ずかしくなってしまう。  「ね、克綺クン。急にどうしちゃったの?」  「……質問の意味が、わかりかねます」  「恋人さんでもできちゃった? まさか恵ちゃんなんてことは――?」  「だから、なんの話ですか?」 「いや、だって克綺クン、急にうまくなったから……誰かで経験を積んだでしょ?」  「まさか! 僕が恵と性交渉を持つと思いますか?」  「近親相姦は否定しないんでしょ?」  「僕は理知ある人間です。 少なくとも、妹への自制心を保つ程度には!」  「お母さんが相手だったら?」  管理人さんはそう言って、四つんばいになる。  クッションに肘をつくと、髪をかき上げ振り返った。   片腕で、ゆっくりとビキニを押し下げる。 濡れた秘裂が、待ち受けていた。 突きつけられた彼女の尻が、突き出されている。   僕の身体を、衝動が突き動かした。 巻き上がる芳香をいっぱいに吸い込んで、入り口に押し当てた。 「お母さんだからじゃ、ありません」   ひくり、と伝わる彼女の感触。 僕は大きく息を吸い込む。  「管理人さん、だからです」  一気に、貫いた。 「――ぁっ!」 「僕は、管理人さんだから、自制できないんです!」  打ち付ける。 両腕で腰を掴み、勢いよく貫く。 潤った襞が絡みつく。 きつく激しく締め付ける。  燃えるように熱い。 一度突き立てるだけで、気が遠くなりそうになる。 「あっ、んん、あぁっ!」  管理人さんは、上体を支え続けることができない。  押しつぶされるように、クッションの上に突っ伏した。  僕が前後するたびに、人形のように全身が揺れる。 押しつぶされた乳房が震える。 「んあっ、んん――ありがとう、ね。私も、克綺クンだから――んはぁっ!」  管理人さんの言葉が、僕の動きを加速させる。 芯から沸き上がる衝動を、叩きつける。 ねじ込むように、何度も、何度も、僕は出し入れする。  身体と身体がぶつかり合い、乾いた音を立てる。 管理人さんはなすがまま、上体を持ち上げることすらできない。  僕は、彼女を貫く。 彼女と溶け合うために。 もっと近く、もっと確かに。 「んっ、すご――すごい、ああっ、なんだか、変、だわ」 「変? なにが、ですか?」  管理人さんの刺激は、あまりに強すぎた。 そのまま動き続ければ、すぐに果てていたかもしれない。 身体の動きを緩めながら、僕は管理人さんの言葉に耳を傾ける。  だが、穏やかな動きだというのに、彼女の興奮はどんどんと高まっていく。 肉壁が、僕の動きを強要する。 管理人さんは顔をクッションに押しつけたまま、混乱したように言葉を紡いだ。 「うん、あのね、普段は、こうじゃ、ないの」 「料理の話、したでしょ?」 「味が、わからないという?」 「そう。私、それと同じで、感じないの。 肉体的な快感が、なかったの」  管理人さんの告白に、突然目の前が眩む。  今まで身体を重ねながら、管理人さんは僕と気持ちまでも繋がっているような気がしていた。 彼女の感情も、全て、手に取るようにわかる。 そう、錯覚していた。  けれどもそれは、単なる僕の思いこみだったのか? 「ごめんなさい。でも、本当、なの」  管理人さんは、身体の動きを止めながら、申し訳なさそうに口を開く。 「相手の気持ちよさそうな顔を見て、それに合わせて、自分もうれしくなってた、そんな感じ」 「そんな……。じゃあ今までの素振りもみんな、長年の経験から導き出した演技なんですか?」 「でも、今は違う」  管理人さんが振り返る。 悲愴な横顔に、僕は息を飲んだ。 「私の身体、以前と変わってきてるのかもしれない。 さっきも突然、自制が効かなくなっちゃって――」  確かに、管理人さんの反応は度を越えていた。 彼女の中で、何かが変わりつつあるのかもしれない。 「今更、こんなことを言っても許してなんかくれないかもしれない。 でも……ちゃんと、謝っておきたくて」 「克綺クン、騙してしまって、本当にごめんなさい」 「管理人さんは酷いひとです」  ――今までの彼女の行動が、単なる演技だった。  僕が管理人さんと同じ感覚を共有していなかったのはショックだ。 騙されていた。 そんな感想を持たないと言えば、嘘になる。  だが、だからといって、誰が管理人さんを責められるだろう。  彼女は僕の想いに応えるため、自分のできることをやった。 僕を喜ばせるために、自らを偽った。  一度騙すことができたなら、彼女は過去の罪を隠しておくこともできたはずだ。 過去のことなど素知らぬふりをして、新たな感情に身を任せることもできたはずだ。  けれども、管理人さんは、真実を告げた。 隠し事などできなかった。 同じ感覚を共有したいと願った。 僕のことを信じ、真実を告げてくれたのだ。 「だから、僕は管理人さんのことを許しません」  静かに告げると、管理人さんの表情が曇る。  僕の熱は、一息ついている。 今なら、思う存分、彼女を突き動かせる。 「今まで僕が受け取った分も、気持ちよくなってもらいます」 「え――あッ!」  きょとん、とした表情の管理人さんを、僕は再び貫く。 声を裏返して、彼女の身体が硬直する。 「はぁ、ん! そんな、克綺クン――」 「反論は許しません」  深く、押し込んで。 管理人さんは、顔を崩す。  身体がよじれる。  二度、三度。 突き立てるに、管理人さんの髪が大きく跳ねる。 ぶつかり合う肌に、じっとりと汗が滲む。  戸惑いがちだった管理人さんの身体が、僕を受け入れはじめる。 強く抱きとめるように、僕をしっかり包み込む。  僕は、彼女と、共有したいのだ。 演技ではなく、本物の感情を。 今、ここで、一緒に生きている、その実感を。 「ふぁ、ん――あっ! すごい、また――」  自ら大きく腰を押しつける。 動きに合わせるように、さらに深く。 絞り上げるような快感に、僕は動きが止まらない。 リズムは速まり、狂い、歯を食いしばって堪える。 「あぁっ! んん――ねぇ、克綺クン」 「は、はい。なんでしょう、管理人さん」 「最後は、ちゃんと、あたしの顔を見て、ね?」  管理人さんは、そう言って手を差し出した。 僕は、その細い指に指を絡めると、彼女の身体をゆっくり抱き上げる。  正面から向き合って、管理人さんは僕にしなだれかかった。 背中の後ろで、腕がぎゅっと結ばれたのがわかる。 僕もお返しのよう、彼女の背中に手を回す。  管理人さんの乳房が、僕の胸元に押しつけられた。 ピンと尖ったその先端が、肌をくすぐる。  わずかに漏れる吐息を感じながら、彼女の身体をしっかりと離さない。 お互いに顔を見据え、無言でひとつ、頷きあってから。 管理人さんの身体を突き上げた。 「ぁぅんっ」  管理人さんの途切れそうな声。 切なげに細められるその瞳がさらに促す。  僕はリズムを刻む。 初めから激しく、思い切り彼女を貫く。 「ふぁっ、んっ、んぁっ、んっ!」  管理人さんは、大きく身体を上下させる。 身体を引き寄せ、細かく腰を揺り動かす。 腕の中で、乳房が踊った。 長髪が星空に舞い、腕が背中を必死に掴む。  管理人さんは、前傾気味に身体を丸める。 決して僕から離れないように。  間近に感じる心臓の鼓動。 誰よりも近い息づかい。 僕は突き上げながら、彼女の唇を求める。 「ふぁっ、んっ、ん――!」  細められた瞳で、正面から唇を重ね。  管理人さんの動きが、変わった。 動きが止まらない。 蠕動する彼女の中に、僕は一気に理性を失う。  全身を、電流が走り抜けたような衝撃が襲った。 心臓が跳ね上がる。 目の前が白くなる。  こんな感情は、想像したこともなかった。 あまりの快感の洪水に、僕は一瞬、自分の正気を失う。 だが次の瞬間には、その疑問も押し寄せるそれに、押し流されてしまう。  感じるのは、管理人さんの感触だけ。 誰よりも近く、誰よりも確かに。 「んぁっ、んん――もっと、ね、もっと!」 「だめ、です。そんなにされたら、すぐに――」 「ぁんっ、んぁっ、克綺クン、私も、あはっ、んっ、ん――!!」  耳元で、管理人さんの声が聞こえる。 それしか聞こえない。  突き上げる。 強く、強く。 彼女が導くままに。  ただひたすら、彼女の身体を抱きしめる。  どこからどこまでが、自分の身体かすらもわからないまま。 背中に回した腕を、思い切り引きつけて。 管理人さんの中に、僕の全てを注ぎ込む。 「ふあっ、んぁっ、んん、ん――!」  微かに震える、管理人さんの声。 緩やかに反る、彼女の身体。 肉壁が締め付け、僕の精が搾り取られる。  身体を満たす絶頂感に、息もつけない。 視界が狭まり、それでも懸命に意識をとどめようと、愛しい人の顔に意識を集中させる。  真正面から見つめる管理人さんの瞳は、それでも、まだ強く求めていて。 「あっ、すごいよ、ね、克綺クン、もっと、もっと、ね?」  管理人さんは、動きをやめていなかった。 軽く身体を硬直させてから、さらに強く身体を押しつけた。  どくん、どくんと、まだ震えの収まらないそれを、離さない。 貪欲に、吸い付く。  瞬く間、僕の中に新たな火がともる。 ありったけを注ぎ込んだはずの僕は、再び堅く彼女を貫いていた。 「ん、管理人、さん……」  僕は、上の空で呟いた。 あまりの快感に、視界が遠く、魂が浮いているように思う。  そんな僕を押し止めるよう、管理人さんの唇が僕を優しく撫でて。 休む間もなく、衝動に身体が突き動いた。 僕は堅く、二度と離さないように管理人さんを抱きしめた。  先ほど射精したばかりだというのに、僕のペニスは屹立している。 欲望を吐き出す機会を、今か今かと待ちわびている。 誘われるがまま、管理人さんの動きに合わせて、動く。 「あはっ、ん――あっ、あっ、あっ!」  彼女の動きは止まらない。  真っ白な世界で踊る。 遠くに星空が見える。 柔らかな胸が揺れる。 汗ばんだ肌が星々に光る。 潤んだ瞳が、一滴残らず僕を吸い尽くしたいと求めている。  僕は抵抗できない。 身体を走る快感に、抵抗など考えられない。 もっと近づいて、もっと混じり合って、溶けてしまいたい。  限界を超えた快感に促され、痛いほどに。 心臓が喉から飛び出してしまうような錯覚。  僕は管理人さんの顔を、正面から見据える。 彼女も、僕も、限界は目の前だった。 「克綺クン。私、また、おかしくなっちゃう!」 「管理人さん。僕も、また――」 「いいわよ、んぁっ、それじゃあ、一緒に――んぁっ!」  全身が総毛立ち、管理人さんの身体が触れるだけで吐息が漏れる。 身体を合わせ、これほど近くに息をしている。 ただそれだけで、歓喜に身体が震える。  全てが、遠く消えていく世界のなかで。 強く抱きしめる彼女の感触だけが確かだった。 僕らは同時に、絶頂を駆け上がる。 「ふあっ、またきたっ、んっ――んあはっ!」  時間が引き延ばされ、逆回しになり、ついには途切れる。 お互いに身体を引きつけ、腕が痛いほどに抱きしめ合う。 繭のように、白く、まるく、そして――。 「あは、ん、ふわ、あっ、んっ、んんん――っ!」  管理人さんを、誰よりも近く感じながら、僕は再び果てる。 僕の中が空になるまで、ありったけの力を彼女に注ぎ込む。 身体が仰け反り、芯が痺れた。  痙攣する管理人さんの膣で、僕のペニスが震えている。 全てを注ぎ込むよう、何度も。 「克綺クン、いっぱい……」  潤んだ瞳でそう囁いて、管理人さんは僕に倒れかかる。 荒い吐息を重ねるように、唇が触れる。 ピンと突き出した乳首が、胸にこすれてくすぐったい。  だが僕は、管理人さんのなすがまま、抱きしめられている。 優しく、暖かい、彼女の心音を聞いている。 いつまでもずっと、ずっとこうしていたい。 「ねえ、克綺クン?」 「は、はい、なんでしょう?」  呼びかけられて、僕の身体が現実に引き戻される。 けれどもまだ頭のどこかが、向こうの世界に置き去りにされたままだ。 「ふふっ。やっぱり、克綺クンって、かわいい」  脈絡もなく発せられた言葉に、僕はしばし呆然とする。 「そう、なんですか?」 「そうなのよ」  管理人さんは立ち上がり、頭を抱えるようにして、僕の身体を抱きしめる。 柔らかな胸が、僕の身体に押しつけられた。  ドクン、ドクンと刻む心臓の鼓動。  柔らかな――懐かしい感触に包まれて、僕はしばらく言葉もない。 ただ感触を確かめながら、緩やかな夜風に身を任す。  星空の下、僕はいつまでも、管理人さんの鼓動を感じていた。 「恵」   恵の濡れた瞳。 そこに見えたのは、まぎれもない女としての姿だった。  「恵、恵、めぐみ!」   僕の中の僕が、僕と一つになる。 抱きしめる腕に感覚が戻る。 恵の素肌を僕はやさしく指で、包む。 「おにいちゃん……」   溜息のような声。 恵の腕が僕の首を抱く。  「すまない。 僕は……恵が、欲しい」  「いいよ、お兄ちゃん」   くすり、と、恵が笑う。 見たことのない、大人びた笑み。 それが背筋をくすぐった。 その場で押し倒しそうになる自分を自制する。 「二階へ……」  「ここで、いいよ」   恵の手が僕を押しとどめた。  「なに?」  「ここで……床でしてよ」   意味が分からない。 何を言っている。 恵が変だ。  混乱する僕に、恵は自ら口づけた。 息がつまり、気が遠くなるほどのキス。   糸を引いて唇が離れた時、僕は、前にも増して呆然としていた。 「どうしたんだ?」   そんな間抜けな言葉しか、出てこなかった。  「あのね」   恵が囁く。  「私も、ずっと、お兄ちゃんが、欲しかったんだよ」  「ずっと?」  ずっと。ずっと。 そういえば、そうだ。 僕も、ずっと、恵が欲しかった。   あれは、いつのことだっただろう。 多分、あの時。 僕が心臓を無くした時。 その時から、ずっと、恵が欲しかった。 いや違う。 欲しいのは僕じゃない。 僕は欲しいなんて思っていない。  恵が僕の手を取って、胸に導く。 まだ未熟な胸は、掌で包み込めるほど。 ふっくらとした膨らみの奥に、僕は、鼓動を感じた。   とく、とく、とく。   鼓動は優しく暖かく、そして速かった。 「これはね、私が、お兄ちゃんを大好きな音だよ」  「僕には……心臓が、ない」   ないはずの心臓は、今や胸の中で大きく脈打っている。  「なら、私のをかえしてあげる」  恵は僕を抱きしめる。 胸が重なり、小さな心臓の響きが僕の中に響き合う。 それは、本当に安らかな音色で。 僕は、その鼓動が愛しかった。   僕は身を放して恵の瞳をのぞきこむ。 そして、その胸にゆっくりと手を伸ばす。   手が、止められた。 恵の両手が僕を遮る。 「好きって言って」  「好きだ、恵」  「……お兄ちゃん」  右手を一振りすると、ワンピースの前が一直線に裂けた。 恵が身をよじって下着を脱ぎ捨てる。   かすかに上気した白い肌。 現れた小ぶりな胸は、小さく柔らかく、むしゃぶりつきたいほどに愛おしかった。 「ほんとうに……いいのか?」  「いいよ、お兄ちゃん」   それが、最後の一押しだった。 僕と恵を隔てる全てのものが、それで、消えた。   だから、僕は。 恵を。     ああ、月が綺麗だ。 夜風は冷たく、火照った身体に心地よかった。 ただ、少し乾きすぎていた。 身体は十分に湿っていたが、早く水を見つけないといけない。   月明かりを浴びながら、僕は道を歩いた。 水の匂いを頼りに、跳ぶように歩いた。   満ち足りていた。 飢えも渇きもない。 ただ心地よい疲労感だけがある。    「ふふ」   わけもなく、おかしくなって、僕は笑う。 とてもおかしくて、腹のそこから笑いがこみあげた。 わらって。 わらって。 わらってわらってわらって。 なみだがでるまでわらう。  気が付けば、河原だった。 コンクリの岸辺に、僕は膝を付く。 「どうした?」  聞き慣れない声が、うしろからかかった。 僕は振り向きもせずに答える。 「おかしいんだ。とっても、おかしいんだ」 「おかしいと、泣くのか?」 「ああ」 「なにが、おかしいんだ?」 「だって。僕は」  ぼくはあんなにめぐみがすきだったのに。 すきだったのに。 すきだったから。 「妹がいたんだ」 「ほう」 「妹が好きだったから、抱きしめたんだ」 「抱いたのか」 「抱きしめたんだ」   そう、僕は、恵を、抱きしめ。  冷たい床に組み敷いた。   むきだしの胸に、ぎこちない愛撫。 内からの激情と、いとおしさが交錯して。 僕は恵の胸を、撫でるように責めさいなみ、にぎりつぶすように愛おしんだ。  「くっ……」   悲鳴を噛み殺しながら、恵は僕をこばまなかった。 その両手は僕の下腹部に伸びる。   制服のジッパーを開け、すでに大きくなっていたものを、やさしく取りだした。 外気を浴びて、それは、存分に屹立する。  「これが……お兄ちゃんの……」   十本の指が、僕の大きさを確かめる。 僕は恵の喉に歯を立てる。  「あっ……」   のけぞる恵の背を捕らえて離さず、いくつも歯形を残す。 歯形がふえるたびに、恵の息が荒くなった。   「おにいちゃん……もう、来て……」   息も絶え絶えに恵が言う。 僕は、右手で恵の足に触れる。 腿をなぞり、その奥へ触れる。 細い裂け目は、かすかに湿っていた。  「は………ん……!」   裂け目をかきわけ、指をもぐらせると、恵の身体が動いた。 それはあまりに狭く、指先は熱いもので絞られるようだった。   つぷつぷと肉をかきわけ、指が沈む。   「もっと……お願い、もっと、ちょうだい……」   言われるままに僕は進め、とうとう指は根本まで沈む。 熱く細いそこを僕の指がかき回すに連れ、恵の身体は、胡弓のようにしなった。  「はう……ふ……ふ……あ……あぅ……」   回す内に、ぐったりと力が抜ける。 僕は指を引き抜いた。   糸を引く指先に、かすかに血の色がまじっていた。   「つらいか、恵?」  「ううん」  「つらかったら、言え」  「平気だよ」   恵が、決然とうなずく。  「じゃぁ、行く」   僕の左手が、恵の右手を握る。 恵の左手が、僕をそこへ導いた。 先端が、熱く濡れた門に触れる。 小さく狭く幼いそれを、僕は一気に刺し貫いた。  「うっあっ……あぁんっ……ふぅっ……」   何度も、何度も、刺し貫いた。 恵は、泣きじゃくる赤ん坊のような声をあげる。 少しでも止めようとすると、恵は僕の手を、ぎゅっと握りしめる。 瞳が言っていた。 止めるなと。 だから、僕は、動いた。 動き続けた。        何度目だったかは覚えていない。  心臓が、一つ大きく脈打って、僕は、果てた。 それでも恵は僕の手を放さずに。 僕も動き続けた。 音が、変わる。 肉を貫く衝撃に、ゆっくりと、湿った音が混じりはじめる。 それが、僕の精があふれたせいなのか、それとも、恵の身体のせいかは、わからない。        僕は、何度も何度も果てた。  胸の中で、心臓が生き物のように蠢いていた。 それが冷たい血を放つたびに、僕には力がみなぎり、精が充填されていくのが分かった。  「うぅんっ……あうぅ……ふぅ……」   恵の声は、やがて、すすり泣きに変わった。         何度も、何度も果てて。 最後に、恵の声も、途切れた。 ぐったりと動かない恵を前に、僕は、途方にくれた。   ぼくは、なにをしてしまったんだろう。 こんなはずじゃなかったのに。  僕らはもつれあってベッドに倒れ込んだ。 震える舌先は、唇をむさぼり、そして離れる。 僕の腕の下に彼女がいた。 小さく儚く美しく。 「どうしたんですか?」  甘えるような声。 「どうしていいか、わからないんだ」  僕はつばを飲み込む。 目の前の体は、あまりにも華奢で。 手を触れるだけで。 「壊れそうだから。壊しそうだから」 「壊したいんでしょう?」  その言葉に、僕は従順にうなずく。 「いいんですよ、好きにして」  体全体が、ぶるりと震えた。 「その代わり、私も……好きにしますから」  細い指が胸を撫で、僕の体に電気を送る。 うなずいて、僕は、彼女の肉をついばんだ。 震える舌先で、首筋を、喉を貪り、やわやわと彼女の乳房に触れる。 「んっ……」  形を変える乳房に僕は顔を埋め、唇で味わう。 雪のような肌がみるみる桃色に染まってゆく。 舌の先で先端を転がす。 「ああっ……」  小鳥のような啼き声に、僕の体は熱くなる。 しなやかな腕が僕を包む。 「克綺さんっっ!」  舌を転がすほどに、腕は、強く、弱く、僕を包み、爪が背中に不思議な文字を刻む。 血の匂いさえ僕を奮い立たせる。 僕は、彼女の腕をふりほどき、その右手首を取る。 細く長い指先に、僕は歯を立てた。 「あんっっっっ」  悲鳴は尾を引いた。 「痛かった?」 「ちがいます。ただ、その……んんっ……克綺さん、上手ですね」 「そうなのか?」  僕は彼女の中指に舌を這わす。 その柔らかな曲線は、僕の舌が動くたびに、ぴんと張りつめ、また、緩む。 「そんなの……どこで、覚えたんですか?」  吐息混じりの声に、僕は考えこむ。  一瞬、目の前を無数の裸身がよぎった。 見たことのないはずの裸身。 「どこでもいいだろう」  僕は、舌を指から掌、そして腕に這わす。 「どこ、なにするんですかっ……」  小さな抗議。 「好きにしていいんだよね」  片手で彼女の右腕を高く持ち上げる。 身を引こうとする胴体を、両足で押さえつける。 そうしておいて、僕は彼女の脇の下に顔をうずめる。 「でも……そんなとこっ……」 「だめかな?」 「……いいですよ」  羞恥に染まった声。 酸味のあるくぼみに舌先を這わせるたび、僕の指先と胴体の間で、押さえつけられた彼女の体が踊った。  馬を乗りこなすように、僕は彼女の抵抗を太股に感じる。 それは背骨を伝い、猛り立ったものの先に振動を与えた。 小さく息を吸い、快感をこらえる。  彼女の自由な左腕が僕の頬に触れる。 掌が僕の髪を押す。 僕の頭を押しのけるように、あるいは、また、押しつけるように。 迷いと抵抗を楽しみながら、僕は、彼女の脇の下から脇腹をねぶった。 「ひゃっ……あんっっ……」  びくりと彼女の体が跳ねる。 左腕が、僕を止めようと動く。  僕は、その左腕を掴んで、右腕と一緒に持ち上げた。  顔を上げれば、彼女の裸身がそこにあった。  上向いた乳房が、柔らかなお腹が、息づかいとともに揺れる。 瞳には、かすかな不安の色。 「あの……この姿勢はずるいと思います」 「そうなのか?」  僕は左手一本で、彼女の両手首をまとめて握る。 脇腹に口づけながら、ゆっくりと手を下に這わせる。  掌に感じる息づかいを楽しみながら、ゆっくりと下へ。下へ。 柔らかな茂みの入り口を指でまさぐる。 「あの……待って」  懇願の声。 僕は、指を止めた。 「何がずるいのか、わからないんだが……」 「どうして手を押さえるんですか?」 「こうすると君が綺麗だからだ」  ぴんと伸びた彼女の体は、張りつめた弦の趣がある。 僕はそう思う。 「そ、そんな言い方しても駄目です」 「どんな言い方をしてほしいのかな?」  僕は指を動かす。 「んっ。そ、そうじゃなくて……」 「こうかな?」  指の動きを早めると、彼女の体は、ますます揺れた。 「そ、そうです……ちがいます!」 「どっちなんだ?」 「手を、放してください」  僕は、言われた通りに手を放した。 彼女は小さく溜息をつく。 「克綺さんばっかりずるいです。 私だって……克綺さんのこと、触りたい……」  しばらく考えて、僕はうなずいた。 「それは悪いことをした。 経験がないので至らない点があったことをお詫びしたい」  経験がない? そのはずだ。  だけど、僕は。 今日の僕は、何かいろいろなことを覚えている気がした。 ふと何かが閃く。 「つまり、互いの位置関係が公平であればいいわけだ」 「……まぁ、そうですね」  だったら…… 僕は、彼女を持ち上げる。 その体は思った通り、羽根のように軽かった。 くるりと転がって、体を入れ替える。  見上げた僕の前に、彼女自身があった。 「ちょっと……克綺さんっ!」  あわてた声。 彼女の手が僕の視界を覆う。 「何をするんですかっ!」 「相互に対称な位置関係の確立、かな」 「え……ええ」  放心したような声。 「どうかしたか?」 「あの……克綺さんの……大きいですね」 「よく言われる」  何の気なしに答える。 「誰に、ですか?」  声には、怒りがこもっていた。 しまった。 「記憶の混乱だ。気にしないでくれ」 「気にします」  ぴんっと人差し指で、僕の先端が弾かれた。 痛みが全身を駆け抜ける。 「くっ……」  なぜだろう。 なにか理不尽な気がする。 「克綺さん。他の〈女〉《ひと》のことは、忘れてください」 「努力する」 「じゃぁ……許してあげます」  ゆっくりと。 ゆっくりと舌が僕のものに触れた。 「んっ……ふぅん……」  ぴちゃぴちゃと舐める音。 舌先が、ゆっくりと根本を回ってゆく。 暖かな感触が蠢き、僕の下腹に熱いものがこみ上げる。  僕は、指を伸ばした。 柔らかな茂みをかきわける。 その奥は、すでに湿っていた。 亀裂を指でこすりあげる。 「ふぁ……あ……んん……」  彼女の洩らした吐息が、僕のものを嬲った。 快感の波が全身を駆け抜けるのに、僕はじっと耐えた。 「我慢しなくて……いいんですよ」  彼女はそう言って舌使いを変える。 尖った舌先が、僕の先端に口づける。 「ん……ちゅっ……ふみゅ……」  同時に指先が、僕の根本で踊った。 やわやわと袋をなであげる。 その快感は、ほとんど耐え難く。  僕は逆襲に転じる。 そろそろと亀裂をなぞり、堅いものを見つけて、軽くつまみ上げた。 「んっ……」  身をのけぞらせ、湿った音を立てて彼女の唇が離れる。 今の内だ。  ……何が今の内かはともかく、僕は首を曲げて、舌を伸ばす。 小さな茂みの中に、尖った舌を滑らせた。 「あん……ん……ん……」 「克綺さん……やりますね……」  彼女は、身を震わせながら、再び僕のものに口をつける。 「はむ」  先端を口の中に含み、舌先を転がす。 その指は、根本に落ち着き、袋を撫でる。 柔らかなものが亀頭に巻き付き、また鈴口を嬲る。 「くぅっ……」  体が揺れる。全身に電流が走る。 歯を食いしばって僕は快感を受け流す。  だが、快感はとまらない。 形勢は不利だ。  僕は、人差し指を舐めると、ゆっくりと、亀裂をなであげた。 下から上へ。 その先の小さな窄まりへ。 「あんっ……!」  効いた。 再び彼女は身をのけぞらす。 「そこは……あふっ……反則、です」 「規則があったのか?」  やわやわと僕は、その窄まりを撫で、もみほぐす。 「だって……そんな、ん……汚いですっっ」 「君の体を確かめたいだけだ」  ゆっくりと指で円を描く。 同時に、舌で亀裂への責めを再開する。 「ちょっ……あん……負けませんよ。はむっ」  いつのまに勝負になったのだろう。 先端から全身に電流を感じながら、僕は人差し指を動かし続ける。 最初は締め付けていた窄まりから、力が抜け始める。  そこを。 突いた。 「きゃぁぁっ!」  一気に第二関節まで潜らせる。 熱い肉が、僕の指をきつく締め上げた。 「あ……ん……きゃん……」  指を動かすたび、面白いように彼女が動いた。 舌先に、とめどなく甘い蜜が滴り始める。 「か、克綺さんが、その気なら。私だって!」  やわやわと袋を撫でていた指が、ゆっくりとその先を探り始める。 む、いかん。 「……お、お返しです」  あえぐ息の下で、彼女が囁いた。 僕の体内に、小さく細い指が侵入する。  体内を犯される感覚に、僕は、全身を震わせる。 震えは僕の指に伝わり、彼女の体内に再び震えを送り返す。 典型的なフィードバック。  どんどん増してゆく快感の中で、やがて、僕らは拮抗した。 体を埋め尽くす快感に耐え、それでも、最後の一線を守り続ける。  埒が開かない。 彼女もそう思ったに違いない。  僕は、湿った音を立てて人差し指を引き抜いた。 ふるふると震えながら、まだ、閉じずにいる小さな窄まりに、僕は狙いを定めた。  彼女は、ちゅぽんと音を立てて、唇を放した。 ふぅっと吐息を吹きかけ、裏筋を舐めあげながら、再び口に含む。  わずかの間を置いて、二人同時に動いた。  僕は、人差し指と中指。 二本の指を揃えて、彼女の窄まりを突いた! 一方、彼女は、亀頭の先端に、歯を立てる!  目の前が白くなる。 体が痺れる。  彼女と僕。 同時に達する瞬間、僕は。  熱いものが、迸る。 全身が、ポンプになったように。 熱いものをどくどくと送り出す。  僕は僕の先端になり。 ひたすら濃く白いものを吐き出し続けた。 「んんっ……」  彼女が苦しげな息をもらす。 彼女の腰が揺れる。 目の前で亀裂が開き、そして震えるのがわかった。  快感を越えた快感。 その余韻に、僕らは、しばらく身を震わせる。  やがて、こくり、と、音がした。 彼女は、僕のものを飲み干したのがわかった。 「すまない」  苦しげな息をつく彼女に、僕は声をかけた。 「え?」  まだ夢から覚めないような声。 「苦しくなかったか?」 「そんなことはありませんよ」  声には安らかさがあり、僕は、それを信じた。 「それより、克綺さん……痛くなかったですか?」 「痛いようなことをしたのか?」 「あの……つい。だって、克綺さんが、ひどいんですもの」  すねる声に、僕はあわてて答える。 「いや、痛くはなかった」 「じゃぁ、よかったです」 「あぁ、とてもよかった」 「あの……どこ見て言ってます?」 「君が見ているのと相対的に同じ部位だ」  僕は、ふっと息を吹きかけ、彼女の体が揺れるのを楽しむ。 「もう、なにするんですか!」  ふっと、彼女が息を吹きかけかす。 「あ、すごい……」  何がすごいかは聞かなくともわかった。 「克綺さん、元気ですね」 「君のおかげだ」 「だから、どこ見て言ってるんですか!」  どうやら、その言葉は質問ではないようだったので、僕は、沈黙を守ることにした。  僕の目の前で、彼女の腰が揺れていた。 亀裂が開き、紅い中身を惜しげもなく晒し、大きく震えた。  彼女が、達したのだ。 そして、次の瞬間、僕も。  熱いものが、迸るその瞬間。 僕は、筒先を逸らした。  腹の中が沸騰する。 手が、足が、力をこめて痙攣し、僕の中の熱いマグマを吐き出す。 驚くほど大量のものが、宙に舞った。 「きゃっ……」  小さな悲鳴。 僕は荒い息をつきながら、自分が何をしたのか、ようやく理解した。  声は、まだ、出なかった。 快感を越えた快感。 その余韻が、僕の体を震わせていた。  息がつけるようになって、僕は、ようやく口を開いた。 「すまない……その……汚してしまって」 「いいんですよ。克綺さんのでしたら」  安らかな声に、僕は、安堵した。 「ちょっと、顔を洗って来ますね」  彼女は、ゆっくりと立ち上がり、浴室へ向かう。  全身に、まだ、震えが残っていた。 ゆっくりと息をして、吐く。  部屋には、彼女の甘い匂いがたちこめている。  目を瞑れば、残像のように、彼女の踊る裸身が見えた。 水音に耳を傾け、僕は彼女の声を思い出す。  待っている間の数分は数時間にもおよび、その間中、僕は彼女のことしか考えられなかった。  思うに、男性であることの、利点の一つは、思考、感情が肉体に及ぼす効果(あるいは、その逆)をこれ以上ないほど、明確に把握できる、ということだろう。  この場合の僕の思考も、肉体に確実な変化をもたらした。  故に、彼女が帰ってきた時の第一声が 「克綺さん……元気ですね」  であったとしても、驚くには及ばない。 「君は元気じゃないのかな?」  そう言うと、彼女は、顔をあからめて。 「そんなわけないじゃないですか」  と言った。 「あの……」  「ええと……」   ベッドの上。 僕たちは、見つめ合いながら、同時に音声を発した。 気詰まりな沈黙があたりを満たした。 「すまない。どうぞ」  「いえ、克綺さんからどうぞ」   客観的に見て間抜けなやりとり。 ともあれ、どちらかが譲らなければ始まらない。 「それじゃぁ……あーその、これから行うことについて提案がある」  「提案、ですか?」   少女が、首を傾げて僕をにらむ。 ……僕は、あまり信用されていないらしい。 「つまり、その形式についての提案だ」  「克綺さん、その……ご希望があるんですか?」  「いや、僕の希望というよりは……先ほどと同じく、公平性を優先したらどうか、という提案だ」  「公平性?」  「位置の対照性と言い換えてもいい」   僕は、自分の考えを説明すると、彼女はうなずいた。 「いいですよ。それと、私からもお願いがあるんですけれど……」  「なんなりと」  「あの、さっきの克綺さんの、で、ですね」  「僕の行為、ということか?」  「そうです。行為です」   なぜか恨めしそうな声。 「その、それで、ですね。 あの……そこが、刺激で……」  「どの行為か明確にしてほしい。 僕は色々なことをした」  「ですから、おしり……です」   語尾は消えゆくようだった。 「あぁ、その行為か」   僕はうなずく。  「で、お尻への刺激が、どうかしたのか?」   彼女の顔から、すっと表情が消えた。 矛盾しているようだが、これは彼女の怒りの表現である、ということを僕は学んだ。 「すまない」   僕は急いで言う。  「何がすまないか、まだ理解していないが、とりあえず、それも含めてすまない」   彼女は、しばらく僕を睨んでいたが、やがて小さく溜息をつく。 「いいんです。わかってるんです。克綺さんのことは」  「そうか。それはありがたい」  「ですから、あの……」  彼女は、僕に耳打ちする。 他に聞いている人がいない以上、明白に非論理的な行動であるが、僕は、それを指摘しなかった。   ──たまには僕も、雰囲気というものを理解する時があるのだ。 「それじゃぁ……お願いします」  僕らは向かい合って座り、彼女が、ぺこりと頭を下げる。 「こちらこそ」  そう言って、僕は彼女の脇の下に腕を通した。 軽い体を持ち上げて、抱き寄せる。 彼女の腕が僕を抱きしめ、僕も彼女を抱きしめる。 僕のそそりたつものが、ゆっくりと彼女に触れる。 「本当にいいのか?」 「はい。うしろで、お願いします」  僕の、そそり立った先端が、彼女に触れる。 柔らかな茂みが、やわやわと撫でる。 「あの、そこじゃなくて……」 「わかってる」  僕らは、協力して、位置をずらす。  先端が、かすかな窄まりを掴む。 「そこで……お願いします……」 「あ、あぁ」  先ほど広げたとはいえ、その窄まりは、あまりにも可憐で、僕を受け止めるには、小さすぎるように思えた。 僕は、彼女を降ろすのを躊躇する。 「だいじょうぶですよ、克綺さん」  そう言って彼女は僕の耳たぶをかんだ。 「だいじょうぶです」  ゆっくりと僕は力を抜く。 彼女の体が、ゆっくりと自らの体重で沈み込む。 「は……んっっ」  眉をひそめる彼女を、僕は愛おしいと思った。 その胸にくちづける。 「んっ……ふぅっ……くぅん……」  僕の先端が、熱く狭いものに包まれてゆく。 先端のくびれが通ると、あとはすぐだった。  つぷつぷと音を立てて、僕は彼女の中に埋まってゆく。 彼女が僕を包んでゆく。 暖かなものに引き絞られ、僕は全身を堅くする。  いまや彼女は、僕の目の高さにいた。 唇が、僕の唇を求めて舌をだす。僕は身をのりだして、そこに口づけた。  溶ける。融ける。蕩けてしまう。 抱きしめた僕の腕が彼女の中に溶けてゆく。 抱きしめる彼女の腕は僕の中に溶けてゆく。  僕の胸に、彼女の乳房は触れ、潰れ、やがて、一つになる。 唇と唇は溶け合わさり、僕の猛り立つものは彼女の熱い孔と一つになった。  たとえようのない一瞬。 僕は僕の境を無くし、彼女と一体となる。  ゆっくりと、しかし、容赦なく、時は流れる。 僕たちは、ゆっくりとお互いの汗ばんだ体を意識し、互いの息づかいに耳を澄ます。 「克綺さん……」  小さな囁きに、僕はうなずく。  僕は彼女ではない。 彼女は僕ではない。 それは、悪いことでもなんでもない。 違うからできることがあるのだから。 「動いて、いいかな?」  彼女は、こくりとうなずいた。  だが動こうとしても、彼女のものは僕を痛いほどに締め付けていた。 「力を抜いて」 「はい……」  堅かったそこに柔らかさが宿り始める。 彼女と僕は、息をあわせて互いの体を動かしはじめる。  ひとーつ、ふたーつ。 僕は口に出さずに、数える。  僕と彼女の小さなリズム。 二つのリズムは、溶け合いながらも、一つにはならない。 わずかな違いが、複雑な快感を生み出してゆく。 「あ……ん……克綺さん」  彼女の体がふわりと浮き、そして、すとんと落ちる。 と同時に、僕自身も引っ張られ、そしてまた、押し返される。 今度のは、競争ではなかった。 協力だ。  単純な上下動に、僕はシンコペーションを加える。 「いいです……そこ……」  彼女は、お返しに、小さなひねりをプレゼント。 心地よいよじれが、僕のものを愛撫する。 「ん……」 「克綺さん……克綺さん!」  ゆるやかに始まったリズムは、だんだんと振幅を増し、少しずつ早まってゆく。 複雑な旋律を絡めて、大きく育つ。  彼女は僕を締め上げ、ねじり、撫ぜあげ、絞り尽くす。 僕は彼女を、貫き、突き上げ、ねじこみ、喰らい尽くす。  彼女の腕に力がこもる。 あの華奢な腕が、これほど、という強さで僕に巻き付き、爪は、背に血をにじませた。 「ふああ……ん……深いです……克綺さん……私……私……溶けちゃう……壊れちゃう」  言葉以上に、彼女のリズムが、限界が近いことを告げていた。 それは僕も同じだ。 二人のメロディが、フィナーレへ向けて駈けのぼる。  あと4つ。 「あっっんんっ……あんっっ……」  あと3つ。 「う……くぅん……克綺さん……」  あと2つ。 「もうだめ……です……私……私……」  ラスト。 「私……わた……もう……あぁぁぁあんんんっっんんっ!」  深い、深い、最後の一突きで、彼女は痺れるようにのけぞった。 僕は、僕でのけぞりながら、熱いものを彼女の中に吐き出す。 「あつい、あついですっっ……!」  熱く熱く彼女は締め付けた。 それは、僕の精液の最後の一滴を絞り出し、なお、求めて止まなかった。  凄まじい快感とともに、僕は僕の中の全てを吐き出してゆく。 血が。命が。心が。その全てが彼女の中に流れ込む。 快感は、恐ろしいほどの喪失感と背中合わせだった。  やがて。 僕は、僕の全てを注ぎ込み。 彼女は、僕の全てを受け入れて。  そうして、汗まみれの僕らは、互いの腕の中に倒れ込んだ。 互いに互いを支え合いながら。  僕は笑っていた、と、思う。 「──」  僕は、最後に彼女の名を呼んだ。 あの時、聞いた、彼女の本当の名を。  翼のはためく音が、その答えだった。  やがて僕は目を覚ました。  快感の中に我を忘れ、気絶する。 そういうことがあるとは聞いていたが、体験するのは無論はじめてのことだった。 「克綺さん、起きました?」  気がつけば、彼女は服を着て立っていた。  「あぁ」   僕も僕で、いつのまにか制服を着込んでいる。 「着せてくれたんだ」  「いいえ」   そう言って首を振る。 室内だというのに、彼女は、あの大きな傘を広げていた。 くるくると回る傘は、僕に何かを思い起こさせる。 「何か、忘れてることがあった気がするんだが……」   僕は首をひねる。 少女は、ゆっくりとベッドのほうを指さす。  そこに……僕がいた。  裸で。 少女を抱きしめている。  あぁ、なるほど。 あれが、僕か。 いや、僕だった、というべきか。 「そうか。そうだったな。思い出したよ」   運命の庭園。 行き止まりの森。 そうだ。 そこで、僕は彼女に触れて死にたいと願った。   ──それはいいが。だとすると。   僕は、ふと、気になって、彼女に聞く。 「僕が僕なのはいいとして、僕のそばにいるあの娘は誰だ?」   ええい、指示代名詞が混乱している。  「私の身体ですよ」  「君、身体があったのか? 現実に?」  「現実に出向く時は、身体がいりますから用意します」  「現実から出る時は?」  僕の問いに、彼女はにっこりと微笑んだ。   あぁ、なるほど。そういうことか。   裸の少女は……僕と同じく、息をしていないようだった。 僕は僕の顔をのぞきこむ。 恍惚に歪んだ、しかし、満足げな顔。 「変な顔をしているな」  「誰がですか?」  「いや、僕が」  「悪くない死に顔だと思いますよ」   彼女が言うのなら、そうなのだろう。 「さて、と。 これから、僕は、どうするんだ?」  「歩くんです。自分の足で」  瞬きする間に、僕は、庭園にいた。 否。最初からそこにいたのかもしれない。  目の前には一本の道があった。 道は、ほんのわずか先で、無数に分かれていた。 「じゃぁ、ここでお別れ、ということになるのかな?」  「そうなります」   彼女はうなずいた。 いつもの彼女だ。 仕事モード。 「さっきは、かわいかったのに」   小さな声でつぶやいた。  「もう……何を言うんですか」   彼女の顔が紅く染まる。 「いや、このことも忘れてしまうのかな、と、思うと、寂しくてね」  「また会う時に、思い出しますよ」  「あぁ、それならいいや」  僕は、道に向きなおる。 道は遠く広く広がり、その果ては見えなかったが、僕には怖れはなかった。  なぜなら僕は知っているからだ。 どんな道を選んでも。途中に何があっても。 道の最後には、彼女が待っていてくれる。  彼女は、この世のなによりも公平で、おまけに優しいのだ。 「それじゃぁ……」 「いってらっしゃいませ」  彼女は、小さくお辞儀をした。 別れの挨拶は、さよならではない。 「また、会おう」 「また、お会いします」  僕は手を振って道を歩きだした。  この道は、どこに通じているのだろう。 僕は、今度は、誰と出会うのだろう。  いつのまにかあたりは暗く、僕の前方には光があった。  光に向けて。 一歩、また一歩と歩くたびに。 僕の中から僕が抜け落ちてゆく。  無数の記憶が。 身体の形が。 そして名前さえもが無くなってゆく。  薄れゆく意識の中で僕は思う。 僕の声は、まだ、彼女に聞こえるだろうか。 きっと聞こえるだろう。 彼女がいない場所は、ないのだから。  暗いトンネルは終わり、目の前には光の入り口があった。 最初の一歩を踏み出す瞬間。 僕は、小さくつぶやいた。 道の遠くで待っている優しい人へ届けとつぶやいた。 「僕は、今、ここにいる」 「君に会えて、よかった」  やがてめのまえがおおきなひかりにつつまれてひかりのなかにとけるしゅんかん。  ぼくは。  ぼくは、たしかに、あのなつかしい、つばさのはためきをきいたきがした。     ……そしてぼくは、目をあける。   ながいながい道を歩いていた。 足もとの砂は柔らかく、それでいて、崩れはしなかった。     一つ、また一つと、あしあとがふえていく。   一歩、また一歩と足を運ぶ。 この道がどこへ続いているのか、それは知っているようで…… どうしてか、言葉にはできなかった。   降るような星の光が、額のてっぺんから水のように 染みとおって、体を潤していく。 そのせいか、どれだけ歩いても、手も、足も、疲れを知らず、 ただ、頬をなでる風が心地よかった。   見上げると、空には、吸い込まれるような青い月。 その時、ふと、足がもつれた。膝の力が抜けて、砂の中に埋まる。 熱くも冷たくもない、柔らかでビロードのような砂。 立ち上がろうとした時、手が引かれた。   ……暖かい。   白くて、柔らかい手のひらが、ぼくの手を引いていた。 青い月が照らす中、その人は、にっこりと笑った。 「お疲れさまです」   誰だろう? ぼくはこの人を知っている。 言葉にはできないけれど、とても懐かしい人。  「立てますか? もう少しですよ」   手を握ったまま、ぼくは膝をのばして立ち上がった。 なにか、大切なことを思い出せそうだった。 今、来た道を、ふりかえる。  曲がりくねった砂漠の道には、ひと筋のあしあとが残っていた。 地平線の彼方に消えるあしあとをみると、なぜだか、胸が騒いだ。  「ん? どうかしましたか?」   きさくな声に、返事をしようとしたけど、言葉がでてこなかった。  「わすれもの……」   やっと、それだけ言う。 その人は、少しだけ困った顔をした。 「これから戻るつもりですか? ずいぶん遠いですけど」   ぼくは、うなずく。 自分で歩いてきた道だ。 戻れないことはないはずだ。 戻らなくちゃいけない。 あの道の先には……があるのだから。  「どうしても、ですか?」   その人は、少しだけ困った顔をした。 うなずいて、ぎゅっと握った手を放すと、ひどく心細くなった。風が急に冷たくなる。 「そうですね。わかりました」   その人は、真面目な顔でうなずいた。  「じゃぁ、目をつぶってください」   言われるままに瞳を閉じれば、何かがふわりと顔に触れた。 かすかに暖かく、羽のように柔らかな何かが、頬をかすめる。 背中を押され、ぼくは、そのまま懐に抱き寄せられた。  「送ってあげますよ」  暖かな闇の中に響いたのは、かすかな声と、それから、翼のはためく音。  「またお会いしましょう」   その一言とともに、ぼくは、虚空へ放り出された。   痛みは、いっぺんにやってきた。  両の目の奥から、指先まで、凍えるような冷気が刺し貫いた。 身体の一粒一粒が、水晶のように、硬く、透きとおって、死んでゆく。 悲鳴をあげようとして、凍りついた喉が血を噴いた。   必死で身をよじって目を開けたところに、それが飛び込んできた。   瞬間、痛みを忘れた。 目の前に広がっていたのは、あの青い月。 それはあまりにも大きくて。そして、とてもきれいで。ぼくの心は吹き飛ばされた。  どれくらい、そうしていただろう。 気がつけば、身体は、どこも凍りついていた。 音も風も伝えない虚空の中、ただ、静寂に満ちた世界で、ぼくを目覚めさせたのは、一つの響きだった。   肩を抱いた両腕の奥から、鼓動を感じた。それは、ほんの小さな鼓動だったけれども凍りついた身体には、稲妻のように響いた。   ……そうだった。  ぼくは、眼下の青い月を見つめた。もう、心は乱れない。帰るんだ。あそこに。 腕を伸ばして、手をさしのべれば、全身から血がしぶいた。 紅い血潮が身を包み、やがて、身体が熱くなる。 凍りついた血が再び燃えて、真っ赤な霞が、ぼくを包んだ。   どこまでも大きな青い月に、小さなぼくは落ちてゆく。   焦げた腕が、まず焼け落ちた。真っ赤な火がはらわたを喰らい尽くす。肉という肉が燃え尽きて、骨さえも火を噴いて、ぼくに残ったのは、胸の中の小さな鼓動だけだった。 けれど、とうに失った両の目には、はっきりと月が見えていた。                   ……帰るんだ。あそこへ。 2周目 音声ありバージョン  夢は、ありえない夢は、いつものように唐突に終わった。   目をつぶり、息をひそめ、少しでも夢の余韻を味わおうとしたが、 すでに遅かった。  目を開けて着替えると……まるでそれを待っていたかのように、  ノックの音が響いた。 「克綺クン、起きてる?」  管理人さんの声がした。 「おはようございます」  これは管理人さん。 本名は確か、〈花輪〉《はなわ》さんと言ったと思うが、いつも管理人さんで通している。 この「メゾン・フォレドー」の大家にして管理人であり、僕、〈九門克綺〉《くもんかつき》は、その店子の学生だ。   性格は、一言で言って、家庭的。 誰に対しても優しく裏表がない。 だがしかし、彼女には二つの大きな謎がある。  一つは、このメゾンの経営だ。   貧乏学生の僕に払える格安料金で、しかも部屋は、ほとんど埋まっていない。 維持費だけ考えても採算がとれるとは思えない。 彼女にとってメゾンの経営は、ある種の道楽なのかもしれない。   そしてもう一つは……。 「ね、克綺君、ご飯食べた?」 「まだです」 「よかったぁ。 朝ご飯、多めに作っちゃったんだけど、食べてかない?」   理由は不明だが、彼女は、朝食の量を適正に見積もることができないようなのだ。 毎朝、必ず二人前を作ってしまい、結果、僕が朝食の席に呼ばれることになる。  僕が、ここへ越してきた翌日から、一日も欠かさず同じ間違いを繰り返していることになる。   医者にゆくことを勧めようかとも思うが、そうすると彼女は悲しむかもしれない。 朝食以外に、特に支障はでていないようなので、今のところ様子をみている。  「では。ご馳走になります」 「よろしい」  朝食を冷ますのは、本意ではない。  部屋を出る前に、急いでメールのチェック。 妹から一通メールが届いていた。 Re:旅行   元気ですか? 今、羽田に着きました。明日の14時にこっちを出て、 駅には16時17分の列車で着きます。         ------------                              九門 恵  そう言えば今日だったか。 あいつと会うのも、6年ぶりだ。  僕は、ノートを畳んで部屋を出た。 「はい、どうぞ」  並んでいるのは、ご飯に味噌汁、そして塩ジャケという、基本的なメニューである。 往々にして、こういうメニューこそ調理者の実力が反映される。  「いただきます」  お椀に盛られたご飯は、その香りからして違う。  銀シャリというべき輝きを宿し、口に運べば、かすかな甘みをともなった味わいが、なんともいえない至福を爆発させる。   そこへ少し辛目の塩ジャケを噛みしめて、さらにご飯をかっこめば、もう、ため息の一つも出ようというものだ。   味噌汁は、シンプルに大根。 すっきりとした出汁の味と、しゃきしゃきとした歯ごたえが、抜群の組み合わせだ。 「克綺くん、おいしい?」 「おいしいです」   こと食事に関する限り、僕は管理人さんの料理を全肯定する。 「よかったぁ」   遠慮なくいただいていると、管理人さんが、ふと、こちらの顔をのぞきこんでいた。 「どうかしました?」  「ううん。いつもの克綺クンの顔になったなって」 「顔には注意を払っていませんでした。 どんな顔をしていました?」  「さっき、起きた時ね、少し怖い顔をしてたから」 「そうですか……。 関連があるとしたら、直前に夢を見ていたことが挙げられます」  夢。 あの夢を見るのも、ずいぶん久しぶりだ。 「悪い夢?」 「いい夢なんだと思います。醒めると、つらくなる夢です」  事故で光を失った人、音を失った人たちも、夜にみる夢の中では、まざまざと色を目にし、響きを捉えるという。 それが残酷なのか、慰めなのかは、他人に言えることではないだろう。 僕の夢も、多分それに近い。 「管理人さんは、夢を見ますか?」 「わ、わたし?」   なぜ、あわてるのだろう。 「夢ってあんまり見ないなぁ。年のせいかも」   苦笑して、人生の夢ならあるけど、と付け加えた。 「そうなんですか」   ふと時計に目を遣れば、いい時間になっていた。 そろそろ出ないと遅刻だ。 シャケを骨と皮にし、ご飯の最後の一口を呑み込んで、僕は、箸を置く。 「ごちそうさまでした」 「おそまつさまでした」  繰り返されるいつもの会話。 僕は、カバンを取って立ち上がった。  メゾンの門を出て、僕は、息を吐いた。   管理人さんは、いい人だけど、時折、一緒にいて、息がつまる瞬間がある。 原因は、僕の側にある。   僕は、時計をしまうと、襟の前を閉めた。   秋の空は綺麗に晴れていて、その分、寒かった。吐く息が白く、背筋を伸ばすだけでも、強固な意志がいる、そんな朝だ。   風に顔を向けて歩きだす。と、その時。 「おはようございます。よい朝ですね」   小さな声が背中からかけられた。  ……誰だ? 見たことのない顔。それなのに、 頭のどこかに引っかかるものがある。 「おはよう。今は朝だ。 しかし、よいかどうかは即答できない。 それは主観的な言葉であって、一概に答えられるものではないからだ」 「私とあなたに限定した場合です」   少女は真面目な顔で応えた。 「まだ朝は終わっていないから断言はできないが、 今のところ僕にとっては悪くない朝だ。 あなたにとっても、そうであれば」  「そうです」 「了解した。であれば、同意する。今日はいい朝だ」 「いい朝です」   少女がうなずく。 きちんと意味の通る会話をするのは、楽しいものだ。 「今日は、挨拶にきました」   依然、少女が誰かは思い出せない。 わざわざ挨拶をするからには、僕を特別視する理由があるのだろう。 無論、少女が、無差別に挨拶をしていることも考えられるが、それは普通、効率が悪すぎる。 問題は、なぜ僕を特別視するかがわからないことだ。 「それは、何の挨拶?」  「職務上の挨拶です。 近日中に、お仕事でお会いすると思いますから」   職務上ときた。 仕事に就いてる年にも見えないけれど、何の仕事なんだろう? そう聞くよりはやく、少女はぺこりと頭をさげた。 「それでは失礼します。 克綺さん、またお会いします」  少女は顔に似合わぬ早足で、さっさと角を曲がっていった。  ふぅむ。 結局、誰だったんだろう? 「よう、朴念仁! いまの子、誰だ?」  記憶を辿ろうとすると、肩が乱暴に叩かれた。 溜息をついてゆっくりと振り向くと……  この口の悪い男は、〈峰雪〉《みねゆき》 〈綾〉《りょう》。 小学校に入る前からだから、ずいぶん古い付き合いになる。 寺の息子で、自称ミュージシャン。  「知らない子だよ。急に話しかけられた」   とりあえず僕は事実だけを伝えた。 「で、何の話、したよ?」   しばらく考える。  「主に、“よい”という価値観の共有についてだったな。あとは職務連絡」  「……なんだかわからねぇが色気のねぇ話してるな。この〈石部金吉金兜〉《いしべきんきちかなかぶと》が」   石部金吉金兜……きわめて物堅く、融通のきかない人。あるいはその様。   この男とつきあうようになって故事成語には、ずいぶん詳しくなった。  この峰雪という人間は、一個の悲劇である。   幼い頃から彼は、実家の寺の跡継ぎとして、父親によって厳格な教育を受けた。 彼自身は、それに反発しており、常々ミュージシャンになると公言している。ミュージシャンとなり、「ナンパ」な生き方をして、数多くの女性をはべらすのだと。   けれど、幼少時からの仏典〈誦読〉《しょうどく》猛特訓のせいか、彼のボキャブラリーには、難解な漢語が非常に多く、どうも女性を口説くのには向いていないという重大な問題があった。  現在の彼は、周囲の人間に「硬派」と認知されているようだ。 僕の理解するところでは、「硬派」というのは、「ナンパ」の対義語である。   彼が、この先、いかに悲劇を克服するのか、はたまた、己の運命を受け入れるのかは、興味深い問題である。    「それで。住所とかは聞いたのか?」 「いや」  「名前は?」 「知らない」   そう言って気づいた。 ──そういえばさっき、あの子は僕を名前で呼んでいなかったか? 「まったくの聖人君子様ってわけか」 「ありがとう」  「そこは、つっこむところだろうが!」 「なぜだ? 聖人君子というのは、誉め言葉ではないのか?」  「皮肉を言ったんだよ! ったく、相変わらずだな」   峰雪は大仰に肩をすくめた。  彼……そして、これまで会った人間の多くに言わせる限り、僕は、何か大事な感覚が欠落しているらしい。 雰囲気を読め、とか、人の話を聞け、とか、怒られるのは、しょっちゅうだ。 違和感の正体に気付いたのは、中学に入ってからだ。   どうやら僕以外の人間には、一種の超感覚があるようなのだ。   彼らは、声や文字、あるいは表情に、表面的な意味とは別に、深い感情的、論理的表現を載せて、しかもそれを共有することができるようなのだ。   それが、「雰囲気」というものらしい。  雰囲気の伝播速度ときたら驚異的である。 さきほどまで、ばらばらなことをしていた人々が、一糸乱れず全く同じタイミングで、大笑いしたり、あるいは、しんと静まりかえって悲しい顔をしたりする。   僕には、雰囲気が形成されるきっかけがわからない。 故に、反応が遅れる。   それは、この人の社会においては、許されない礼儀破りらしく、それ故に悪意を受けたことは数知れない。  ある日、「雰囲気」に取り残された時に、一冊の本に出会った。       “ブリキの〈樵〉《きこり》は心臓がなかったので、楽しいこと、     悲しいこと、正しいこと、間違ったことが     わかりませんでした。    「君たちと違って、僕には、導いてくれる〈心臓〉《ハート》が     ないから、よく考えて、良いことをしなきゃいけ     ないんだ」”   わかってしまえば簡単なことだった。 雰囲気というものを、他の人間は、感じられるらしい。 僕には、雰囲気は感じられないけど、考えることは、できる。   心臓がなくても、暖かく脈打つ血潮がなくても、生きてはいける。  その日から僕は、心臓の代わりに時計をさげて生きていくことにした。   カチカチと鳴る秒針が、僕の鼓動だ。   悟ってみれば、多少生きやすくはなったが、意志疎通の困難は変わらない。   テレパスの惑星に放り出された一般人。 そんなSFは無かっただろうか?  峰雪は、口は悪いが、それでも愛想を尽かさずにいてくれた数少ない友人であり……彼が言うところの、ダンキンバツボクの友、だそうだ。 意味は知らない。 「……にしても可愛い子だったな。〈沈魚落雁〉《ちんぎょらくがん》の風情ってやつだ」  〈沈魚落雁〉《ちんぎょらくがん》。漢語で、魚や鳥も恥じらってかくれるほどの美人を意味する。  ちなみに元々の意味では、いかに人間にとって美人でも、魚や雁は怖がって逃げる、という意味だそうな。合理的である。 「今度会ったら、名前くらい聞いとけよ。 袖振り合うも多生の縁ってやつだ」 「わかった」  そんなことを言う間に学校に到着。  私立〈海東〉《かいとう》学園。 これが僕の母校の名である。   名前からは分かりにくいが、海東学園はミッション・スクールである。   「海東」は、海を越えた東洋国、日本に布教に来た、という歴史を踏まえているらしい。 考えようによっては、自分勝手な名前だ。   学園創立者にとっては、西洋こそが世界の中心である、ということに等しいからだ。 まぁ、自分で入学しておいて、文句を言う筋合いもないが。  校門には、人の姿はまだ少なかった。   清冽な朝の空気を感じながら、ゆっくりと校門をくぐる。これならば、本当に気持ちのいい朝だ、と言っても差し支えない。 「FUCK!」   前言撤回。 校門をくぐりざま、峰雪が中指を立てた。   指の先にあるのは聖堂だ。 我が校は一応ミッション・スクールであり、その教育方針は、「キリスト教的精神の基本理念」である。   我が友、峰雪が、その教育方針の結果であるとしたら、あまり成功していないと言わざるをえない。 「……みっともないぞ、峰雪」  「なんとでも言え。 〈耶蘇〉《やそ》のやつらにゃ負けてらんねーのよ」  峰雪は、キリスト教に〈敵愾心〉《てきがいしん》を燃やしている。 自分で入学しておいて理不尽なことだ。   そもそも西洋音楽のミュージシャンを目指すなら、寺より教会に親和性を感じるべきではないか、と思うのだが、峰雪に言わせるとそうではないらしい。   その時は、ロックとパンクとメタルの成立過程および、社会と宗教とのスタンスについて、漢語混じりの説明を受けたのだが、よく覚えていない。 「峰雪くん」  「げ! メル!」   何の前触れもなく現れた男が、峰雪の指を掴んだ。 「この指は、な・ん・で・す・か?」 「痛ぇっ!」   回りから女生徒の嬌声が聞こえた。峰雪を応援するものは一つもない。 ナンパへの道は遠そうだ。 「メルクリアーリ先生、おはようございます」 「おはよう、九門君」   先生が笑うと、女生徒の叫びがひときわ大きくなった。  イタリア出身のファーザー・メルクリアーリ・ジョヴァンニ。 通称、メル。あるいは、「最強の」メル。   メル神父は、我が校で英会話を担当している。 そのおかげで、うちの卒業生は、みな、イタリア訛の英語を話す。  その甘いマスクは女生徒たちの憧れの的であるらしい。 純潔の誓いを立てた神父であるところからして恋愛対象には不向きと思われるのだが、そこにはどうやら論理で割り切れないものがあるようだ。 「放せよ、このイタ公が!」   峰雪の暴言に、慌てず騒がず、メル神父は、軽く言い放った。  「いつも言っているでしょう? 紳士たれ、と」   そう言いつつ峰雪の額を、人差し指でこづく。 「ぎゃっ」   解放された峰雪は、頭を押さえて転げ回った。 軽くこづいたように見えたが、その一撃の重さは計り知れない。   先ほどの登場といい、今の両足に軽く重心を乗せた構えといい、ただ者ではない。 最強の名は、伊達ではなかったか。 「そろそろ予鈴だ。早く行きなさい」  「はい」  「……待て!」  ようやく立ち上がった峰雪。 だが、神父は、現れた時と同様、忽然と姿を消していた。  「野郎、どこへ行きやがった」   あたりを見回すが、影すらない。  「峰雪、そろそろ行くぞ」 「ちっ。わぁったよ」  教室の戸を開けて、僕たち二人が入ると、急にクラスの会話が止んだ。 「んだぁ? 俺の顔に何かついてるか?」 「ついてるぞ、額のとこ」   僕は峰雪に声をかけた。 額に手をやった峰雪が、血に染まった指を見て、一言。 「なんじゃぁ、こりゃぁ!」   クラスの皆が、いっせいに視線をそらす。 心臓のない僕でも、はっきりと「雰囲気」をつかめる時はある。 今が、その時だ。 「九門くん、おはよう」   そんな空気をものともせず、 声が響く。 「おはよう、牧本さん」  「峰雪くん、どうしたの?」 「ああ、メルに捕まってね」 「また?」 「あんな〈淫祠邪教〉《いんしじゃきょう》の輩に、負けてたまるかってんだよ」  いきりたつ峰雪に、牧本さんは近づいた。カバンを開けて、絆創膏を取り出す。  「邪教って……好き嫌いはあるかもしれないけど、悪口言うのは良くないと思うよ」   額に絆創膏をはると、峰雪が、かすかに身じろぎした。  「わかった?」 「……おぅ」  牧本さんは、僕の数少ない友達の一人だ。 少なくとも、僕は牧本さんを友人と認識している。 彼女がどう思っているかは確認していない。  ともあれ牧本さんは、僕と峰雪に物怖じせずに普通に話しかけてくる、唯一の女生徒である。 そのことは、礼を言ってもいい足りないくらいだ。そこで僕は礼をすることにした。 「ありがとう、牧本さん」   その声を、予鈴が遮った。  「え、なぁに?」   振り向く牧本さんに、僕は、曖昧に頭をさげた。 「あー、終わった、終わった」  1限目のチャイムが鳴り終わると同時に、峰雪がのびをする。 「で、克の字。今日は暇か?」 「何をするかは、だいたい決めている。 ただ、必要に応じて時間を空けることはできる」 「それを暇ってんだよ。 んじゃ、蓮蓮食堂、行こうぜ」  最近、開店したラーメン屋か。前に峰雪が言っていた気がする。 「いや、断ろう」 「おまえ、さっき暇って言ったろうが?」 「? 暇と判断したのは君だが。 僕は、必要に応じて時間を空けることができる、と言っただけだ」 「……つまり、俺とラーメン喰うより必要なことがあると」  話が通じた。喜ばしいことだ。 「あぁ。妹が来るからな。家で待っていようと思う」 「恵ちゃんがっ!」   峰雪は、血相を変えて、僕の肩を掴む。  「ど・う・し・て! それを早く言わん?」 「聞かれなかったからだ」  「……で、いつ来るんだ?」 「だから、今日だ。 4時過ぎに駅に着くっていうから、放課後は直で、家に帰ることにする」  「出迎えはしねぇのか?」 「それは非論理的だ。 移動距離と時間を考え合わせると、僕が家で待って、恵がそこまで来るのが一番効率的だろう」  「そのこと、恵ちゃんは知ってるのか?」 「合理性を重視すれば、同じ結論に至るはずだ」 「……ちょっと待て。恵ちゃんは、何て言ってきたんだ?」 「駅に、16時17分の列車で着く、と言っていたな。 それに間に合うように家に戻れば……」 「この〈斉東野人〉《せいとうやじん》が!」   峰雪は、今度こそ噴火した。  「……そりゃ、駅で待ってるってことだよ!」 「そうなのか?」   そんなことはメールの文面に書いていなかった。 また、テレパシーだ。 「そうなんだよ! ああもういいから来い!」  「峰雪も、来るのか?」 「バカ、おまえ、当たり前だろ。 〈生者必滅〉《しょうじゃひつめつ》、〈会者定離〉《えしゃじょうり》の心ありだよ。 一期一会だよ、遠くて近きは男女の仲だよ」   何がなんだかわからないが、来たいようだ。  「じゃぁ、来ればいい」   そう言うと、峰雪は、いつもの変な顔をした。  駅についたのは、4時ちょうどだった。 峰雪は授業を抜けて、空港で待ち合わせよう、と言ったが、さすがにそれは無視した。 「空港ってことは、やっぱイギリスから?」 「ああ。向こうの学校が休みだそうだ」  「恵ちゃんが、留学生とはねぇ。 まさに〈竜駒鳳雛〉《りゅうくほうすう》ってやつだな」   峰雪がうなずいている。 竜駒鳳雛……〈竜馬〉《りゅうま》の子に、〈鳳〉《ほう》の〈雛〉《ひな》。俊敏な子供を言う。  「単に金銭的負担を最小にしただけだろう」  小学校一年生の頃、両親を亡くして初めてわかったのだが、九門家というのは徹底的に係累がいない家のようだ。   元々は奈良だかどこかの家だったようだが、祖父の代に東京に来てから、本家とは、とんと付き合いがない。  身寄りがなくなった僕と恵の面倒を見てくれたのは、峰雪の父だった。 押しつけがましいところは何もなく、最低限の干渉で、生活に困らないようにしてくれた。   恵が奨学金で留学し、僕も、特待生で、海東学園に入ったのは、せめてもの、お返しだ。 「〈蛍雪〉《けいせつ》の功か」  そんなところだろう。別に本当に貧乏したわけではないが。 ちなみに成績不良の峰雪は、推薦入学で入ったらしい。 そのへんは私学だから色々と融通が効く。 「そろそろ、かな」  僕は時計を取りだした。  「この列車だな」   轟音と共に階段に人があふれ、改札を抜けてやってくる。  先に見つけたのは、峰雪のほうだった。 「おーい、恵ちゃん、こっち!」  久しぶりに見る恵は、一回り背が高くなっていた。 「え、お兄ちゃん?」   恵は、驚いた顔をこっちに向けた。 「来てくれたんだ」 「峰雪が来いと言ったからな」  「あぁ、こいつったら家で待ってるって抜かしてたんだぜ」  「家で待つほうが合理的だと思ったんだが」  「でも、来てくれたんだ」   恵は静かにうなずいた。そして、くすりと笑った。 「相変わらずだね」 「恵もな」  「峰雪さんも、ありがとう」   恵は、峰雪に笑いかける。 峰雪が、みっともないほどに笑み崩れた。 こいつが僕とつきあってるのは、恵に会うためではなかろうかと、時々思う。 「恵ちゃん、飛行機は疲れなかった? イギリスからだと……十時間くらい?」  「疲れてはいないよ。 羽田で一泊してから来たし」  「そりゃよかった。 〈日月〉《じつげつ》〈箭〉《や》の〈疾〉《はや》きに過ぐ、だ。 さ、いこ、いこ!」  ずんずん歩いていく二人に、 僕は、取り残された恰好になった。   さてと、僕はこれから…… ・二人につきあう。→1−5−1・峰雪に任せて先に帰る→1−5−2 ●1−5−1・二人につきあう。 ●1−5−11−5−1 「さって、と。どこいく? カラオケかゲーセンか……ショッピングモールとか……」   峰雪が一人で、はしゃいでいる。  「そうねぇ、いい?」  「ああ、恵ちゃんはどこ行きたい?」  「スーパー山岡って、まだ、ある?」  峰雪は意表を突かれたようだが、立ち直る。  「あるよ」  「じゃ、そこがいい」  「よっしゃ!」  スーパー山岡は四階建て。だが恵が直行したのは、地下の生鮮食品売り場だった。 「お兄ちゃん……冷蔵庫に何入ってる?」 「消臭剤と氷」  恵は、小さくうなずいた。 「なんだ、その食生活は? 薬より養生だぞ?」  峰雪が説教を垂れる。   実は、この男、料理はうまい。 寺の修行とかで、よく賄いをさせられているらしい。 三角頭巾に割烹着らしいから、見物だと思うのだが。 「今日の晩は、ビーフシチュー」   厳かに恵が宣言した。 「俺もご馳走に……」 「だめ」   言下に恵が宣言した。  すたすたと野菜売り場へ歩み去る。   峰雪が、顔面蒼白にして、二、三歩あとずさった。  ああ、これなら、僕にもわかる雰囲気だ。 それでも、きちんと買い物かごを持って後をついていくあたりはさすがだ。 と思っていたら……。 「おまえも待て」   首根っこをひっつかまれた。 ……まぁ、たまに野菜を取るのも悪くないだろう。  思えば、三人でいる時は、昔からこんな感じだった。   恵は、今と違って泣き虫だったが、好奇心旺盛で、どこまでも歩いていった。   峰雪は、その恵を気遣って前を歩き、僕は二人のあとから、遅れがちについていった。  そして……あの頃は、シロがいた。 シロは、僕と恵の間を、いつも走って往復していた。   恵達とはぐれた時も、シロのあとをついていけば出会えたものだ。 そんな時は、たいてい泣きじゃくる恵と、その側で、怒っている峰雪が待っていた。 「おい! おまえは何してる?」   峰雪に耳を掴まれた。 「食玩を物色しているわけだが……」   『ラヴ・ヴィネ』は、“ピックマンズ・モデル”が、まだ揃ってないんだよなぁ。  「いいからこっちへこい」  見ると、峰雪の買い物かごは、すでに一杯になっていた。 ニンジン、タマネギ、ジャガイモ……ビーフシチューのレシピは知らないが、これは一体、何人前なのだろう? 「了解だ」  棚の食玩を、一通り取って、あとに続く。  恵は、肉売り場の前にいた。 もちろん、あの頃みたいに泣きじゃくってはいなかった。   シロがいなくなって、もうずいぶん経つ。  ……峰雪は、漢だ。   僕は、あらためて彼を見直した。 両手には巨大なビニール袋。 背にはエベレスト登山もかくや、というような量の箱を背負っている。  僕のほうも似たり寄ったりだが、峰雪は笑顔を浮かべている。 そこが違う。  アパートに近づくにしたがい、峰雪の顔には赤みがさし、汗までもが吹きだした。それでも笑顔の消えないところがやつらしい。 「ふぅん、ここがお兄ちゃんの住んでるとこ?」   銀杏並木を歩きながら、恵が言う。  「あぁ。作りは旧いが良いところだ。 おまえの住んでるとこには負けるかもしれないがな」 「冗談。私は寄宿舎で相部屋だよ。 うらやましいくらい」   ふむ。そう言われればそうか。 どうも、外国というだけで気後れしてしまう。 「あら、お帰りなさい」  「あ、管理人さん、おじゃまします」   峰雪が、律儀にお辞儀をし……危うく倒れそうになった。 しょうがないから支えてやる。 「あら、峰雪クン、いらっしゃい。  それと、こちらは……?」  「妹の恵です」   恵が頭をさげる。  「お兄ちゃんが、いつもお世話になってます」  「へぇ。克綺クンの妹さん? こんにちは」  管理人さんが、ふと手を叩く。  「そうだ、よかったら夕食に来ない? 私、少し作りすぎちゃって」  「管理人さんは、食事を作りすぎる癖があるんだ」   僕が説明すると、なぜか恵の顔が曇った。  「け、結構です。準備してきましたから」   管理人さんは、僕と峰雪を等分に見つめる。 「すごい量ね。 あ、私も手伝っていいかしら?」  「大丈夫です」   いやにきっぱり言い切ると、恵は頭を下げて早足で歩き出す。   僕と峰雪も、あとに続いた。 『どっこらしょ』   家の前で荷物を下ろすと、峰雪とハモった。バツが悪いことこのうえない。 「ありがとう……助かったわ」 「おぅ。恵ちゃんのためなら、これくらい」  「せっかく運んできたんだ。 あがってくか?」  「今日は、やめとくわ」  峰雪は、恵の顔色を窺ってから応えた。   彼の一連の行動は、どうやら恵に対する好意を示しているようだ。 だとすると、恵には、それに応えた様子がない(もっとも、例のテレパシーが二人の間で交わされているのかもしれないが)。   こういう時、確か……不憫なやつ、と言うんだったか? 「誰が、不憫だ、コラ!」   しまった口に出していたか。  「君のことだ。報われない努力を憐れむことを、不憫と形容すると理解しているんだけど、勘違いだったら撤回する」   質問に答えたのに、なぜか峰雪は機嫌を悪くした。 「先に帰る俺の親心をわからんのか?」  「親じゃないだろ?」   峰雪は気にせず続けた。  「〈修身斉家治国平天下〉《しゅうしんさいかちこくへいてんか》ってな。陵雲の志も結構だが、身を修めた後は、家を整えよと言うだろ」  「言うのか」   よく知らないが、言うらしい。 「……妹さんと、仲良くしろってことだ」  「言われるまでもない」 「……いや、おまえは言わなきゃわからんからな」  峰雪は、念を押して帰っていった。 →1−7−2へ ●1−5−2・峰雪に任せて先に帰る 「恵、これ、家の鍵だから。場所は知ってるな? なんだったら峰雪に送ってもらえばいい」  「うん、わかった」  「それじゃぁな」 「っておい!」  「ん?」   峰雪は、何でいつも怒るんだろう?  「まさか先に帰るつもりか?」 「そうだけど、何か?」 「おまえなぁ……せっかく恵ちゃんが帰ってきたってのに」 「そのことと、僕が別行動することの関係性が見出せない」  「くっ……これで、悪気がねぇんだからな。あのなぁ……」 「いいよ」  恵が峰雪を止めた。いいらしい。 よかった。  「止めないでくれ、恵ちゃん。善を責むるは〈朋友〉《ほうゆう》の道なり、だ」  「お兄ちゃんは、こういう人だから」   よくわからないが、うなずく。僕は、こういう人間だ。 「これ、家の鍵」  「わかった。晩ご飯までには、帰るから」   スペアキーを受け取って、恵は歩き出す。 「このファッキン〈磔野郎〉《はっつけやろう》が……」  「峰雪さん、いこう」   峰雪は、何故か怒っているようだが、恵に呼ばれて笑顔をそっちに向けた。     溜息をついて、それから柱に手をついて深呼吸した。 特に行くあてがあるわけじゃない。一人になりたかったのだ。   峰雪も、恵も好きだし、そばにいるのは居心地がいい。 ただそれでも……相手に関わらず、人と一緒にいるだけで、急に息苦しくなる時がある。 さっきも、そうだった。   心臓がないブリキの樵は、相手の気持ちを、頭だけで全部考えようとする。 時折、それが辛くなる。 脳に負担がかかるのか、何もかもする気力が失われる。  僕は、ゆっくりと歩き出した。 恵達には、ああは言ったが、今となっては、別に家に帰りたい気分でもなかった。 回り道でもしながら、適当にぶらつこう。  いい匂い。何の匂いだろう?  香ばしい煙に誘われるようにぶらつく内に、ラーメン屋の前に出た。「蓮蓮食堂」とある。   ……峰雪の言ってたとこか。確かに悪くなさそうな店だ。  店の前には、昼間だというのに車が一台、そして使い込んだ自転車が停められていた。  扉を開けて、ノレンをくぐる。 「いらっしゃい」  席は結構空いていた。 中に入れば香ばしい匂いは、ますます強くなった。 胸一杯に吸うだけで、よだれがでそうだ。  潮の香り…… 味わい豊かな魚介系スープの匂いだ。 その繊細な香りを裏から支えるのは、力強いチャーシューの匂いだ。  メニューを見れば、案の定、お勧めは塩ラーメンだった。  なになに、塩ラーメンは『厳選されたクリスマス島の海塩に、マグロ節、国産小麦の平麺をマッチしました』 ちなみに醤油ラーメンは、『本大豆醤油に一番出汁を合わせ、香り高い細麺の歯ごたえをお楽しみいただけます』  どちらもよさそうではないか。 「おじさん、おかわり!」 「はいよ! 塩もう一丁」  隣の子と、ふと目が合った。 「塩、おいしいよ」  小柄な子だった。小さな顔いっぱいに、笑顔を浮かべている。 無邪気、というか、本当においしそうな笑顔。   腰まで伸びた二房の銀髪を、勾玉の髪飾りで留めている。 ・じゃ、僕も塩ラーメンで…… →1−5−2−1へ。・じゃ、僕は醤油ラーメンで…… →1−5−2−2へ。 ●1−5−2−1  ・じゃ、僕も塩ラーメンで…… 「じゃ、僕も塩ラーメンで……」 「あいよ、塩、もう一丁」  少女が嬉しそうに、うなずいた。 見ると、彼女の前には、すでにどんぶりが山と積まれている。 「常連さんなんですか?」   なんとなく話しかける。  「いや、今日見つけたんだけど、大当たり。ボクは鼻がいいんだ」   そう言って鼻をうごめかす。  「そうですね。 僕も香りに釣られて来ましたから」  「おサカナさんの、いい匂いだよね」 「あい、塩ラーメンおまちどう」   そうこういう間に、ラーメンが届く。 潮の香りを胸一杯に吸い込んだのち、スープを一口すすると、繊細な味が口の中に広がった。こりゃぁ、おいしい!   続いて啜った麺は、これまた、極上だった。スープをまとった平麺でありながら、かみしめれば、確かな小麦の味がする。   無我夢中で麺を啜り、スープを呑み込む。 「ごちそうさま!」  ……早っ! それにしても幸せそうな顔だ。なんか、もう一杯食べたくなってきたな。 「おじさん、こっちも、もう一つ!」 「あいよ」  塩ラーメンを、都合、二杯平らげて、お茶を飲んでいた時だ。  隣の女の子が席を立った。 「ごちそうさまでしたー。おじさん、お勘定、お願い」  「あいよ」   おじさんも嬉しそうだ。 ラーメン7杯食べる客というのは少ないのではないか。 あの小さな身体のどこに入ったのだか。  悲劇は次の瞬間に訪れた。  女の子は、古びたポシェットをひっくり返し、小銭を出す。  「あ、あれ!?」   足りない。どう見ても足りない。 「ど、どうしよ……」 →1−5−2−3へ。 ●1−5−2−2 (醤油ラーメン) ・じゃ、僕は醤油ラーメンで…… 「じゃ、僕は醤油ラーメンで……」 「うん、醤油もおいしいんだ、ここは。 おじさん、ボクも醤油追加!」 「あいよ、醤油二丁」  積み上げられたどんぶりは……ひいふうみい、4つ。 しかも少女の顔を見る限り、いささかも無理している様子はない。 何か、末恐ろしいものを感じた。 「お待ちどう!」  少女の目の前には、二つのどんぶりが置かれていた。 片方は、澄んだスープの塩ラーメン。 もう一つは、香ばしい色に染まった醤油ラーメン。  目の前におかれた二つのどんぶりを、じっくりと見比べ、鼻をうごめかして香りを味わった。しかるのちに一気に……食す!  拳が軽くカウンターを叩くと、二つのどんぶりが同時に垂直に飛び上がった。  空中で箸が交差し、レンゲが踊った。 スープが、チャーシューが、麺が、竜巻に巻き上げられるかのように宙を舞い、少女の口の一点に吸い込まれる。 何もかも一瞬だった。  少女が両手でどんぶりを受け止めた時、すでに二つとも空っぽであった。 一瞬の神業に、どれだけ見とれていたのだろう。 「のびちゃうよ?」   言われてようやく、僕は自分が頼んだ醤油ラーメンに気付いた。  「え……うん」  顔を赤くしながらラーメンを啜る。確かに、醤油ラーメンもおいしかった。 スープに絶妙のコクと、香ばしさがあり、わずかに硬めの麺がそれに負けていない。 チャーシューもいい味が出ている。  おもわず、もう一杯お代わりしていた。 「おじさん、お勘定お願いします」 「あいよ」   おじさんも嬉しそうだ。ラーメン7杯食べる客というのは少ないのではないか。  悲劇は次の瞬間に訪れた。  女の子は、古びたポシェットを取りだして、手に小銭を出す。  「あ、あれ!?」   足りない。どう見ても足りない。  おじさんも困っているようだ。 悪気がないのは察せられるが、これだけ食べられてお金がないというのは、困りものだ。   僕は…… ・「おやじさん、お勘定」そしらぬ顔で店を出た。・「お金、足りないの?」少女のほうに話しかけた。 ●1−5−2−3−1 「おやじさん、お勘定」 「あ、はい。ただいま」  見たところ、中学生風だった。 学生証でも置いてお金を取ってくれば解決だろう。 気にするほどのことじゃない。  お腹がいっぱいになった僕は、ゆっくりと我が家に足を向けた。 ●1−5−2−3−2 「お金、足りないの?」 「え?」   少女が、びっくりした顔を、こちらに向けた。  「お金を出そうか?」   少女は、しばらく迷っていたみたいだが、いきなり九十度に身を折り曲げた。  「お、お願いっ!」 「うん」  ……少女は、ラーメン7杯のほかに、チャーシュー盛りと炒飯、豚マヨ丼に水餃子3皿も食べていることが判明した。   危うく、少女の二の舞になるところで冷や汗をかいたが、かろうじて財布の中身は事足りた。  店を出て、ほっと一息つく。 「ゴメン……お金を返したいんだけど、今、時間あるかな?」  僕は、少し考えて首を振った。 もともと一人になりたくて来たところだ。これ以上いると、息が詰まる。  それに、そろそろ恵も帰ってくる頃だ。 「悪いけど、そろそろ帰らないと。このへんの人?」 「違うけど、しばらくいるよ」 「じゃぁ、また今度でいいよ」  携帯の番号を渡す。  「……わかった。じゃぁ、北の果ての山のオオフクロウに懸けて、この借りは必ず返すからね」  厳かに少女は言って、少女は走り去った。   僕も、家路を辿る。  しばらく歩いてやっと、僕は、あの子の名前を聞いていないことに気付いた。 ガラにもないことをしたら、これだ。   ……まったく、今日は、どうかしている。  気が付けば、あたりはすっかり暗い。 メゾン前の銀杏並木は、街灯もなく、夜は、真っ暗になる。   闇の中から声がした。優しい声が。 「あら、克綺クン。妹さん、帰ってるわよ」  管理人さんだ。並木道の掃除を終わるところか。 「あ、どうも」 「あんな可愛い妹さん、どこに隠してたの?」 「イギリスに留学してました」 「へぇ。ひょっとして、イギリスから帰ってきたところ?」 「ええ。6年ぶりです」 「まぁ! そうなの。ねぇ、だったら……」  少しだけ会話が、うっとうしくなる。僕は、管理人さんの言葉を遮った。 「じゃぁ、僕はこのへんで失礼します」 「あら、ごめんなさいね。引き留めちゃった」 「では」 「また明日ね」  頭を下げて、メゾンに入る。  自室の扉の隙間から、灯りがもれているのが新鮮だった。  扉を開けると、トマトを煮込む匂いが鼻をついた。 いい匂い……と言いたいところだが、ラーメン少女の食いっぷりに当てられて、食べ過ぎたみたいだ。 あまり食欲がない。 「お兄ちゃん、お帰り」   エプロン姿の恵が立っていた。 こちらを見る表情が、こころなしか強ばっている。  「ただいま」  「晩ご飯……」   どことなく緊張感のある声。  「ビーフシチュー作ったけど、食べる?」   僕は…… ・うなずいて、テーブルに着いた。 1−7−1−1へ・ラーメン食べたからいい、と断った。 1−7−1−2へ ●1−7−1−1  僕はうなずいて、テーブルに着いた。 「ちょっと待ってね」  恵の声が、さっきから固いのは気のせいだろうか? 「せやっ!」  キッチンのほうから気合いが響いた。気合い?  ……ガスコンロにかかっていたのは、見たこともない巨大なズンドウだった。 バケツと見まごう大きさのそれを、恵が顔を真っ赤にして持ち上げようとしている。 両腕が、ぶるぶると震えていた。 「危ない!」   さすがに手を出す。  「お兄ちゃん?」 「いいから……ぐっ!」   恵をどかせて、ズンドウを掴む。お、重い……覗き込むと、案の定口まで一杯シチューが入っている。 「ぬぁっ!」  ……なんとか床に下ろして、荒い息をつく。腰に来る重さだな、こりゃ。   恵が、空いたコンロでヤカンを火に掛けた。 「お兄ちゃん、大丈夫?」  ああ……と応える以外に何ができただろうか? 「いただきます」  「いただきます」   そう言って、恵は笑った。 「どうした?」  「いただきますって言ったの、久しぶり」 「そうなのか?」 「向こうは、こんな感じ」   恵は、両手を合わせて目を閉じた。 「God is great, God is good. Let us thank Him for our food. By His hand we all are fed. Give us, Lord, our daily bread. Amen. 」  食前の祈りってやつか。 恵の通ってる学校も、ミッション系の全寮制だ。   夕飯ごとに、一斉に集まって、みんなでアレを唱えるわけか。 ちょっと不気味かもしれない。 そんな僕の心を読んで恵が言う。 「……もう慣れたけど、でも、やっぱり、いただきます、のほうがいいよ」  「そうかもな」  ビーフシチューの匂いをかぐと、気分が悪くなった。   蓮蓮食堂のラーメンは薄味なので、つるつる入った。 がしかし、ラーメンはラーメンだ。 夕食前に、お代わりするのは無謀な行為だったようだ。  スプーンでニンジンを突っつくと、抵抗なく裂けた。 この柔らかさ、1時間は煮込んである。 いや、あのズンドウからすると、もっとか?   スーパーに寄ったあと、家に直行して、ずっと煮込んでいたわけか……。 つきあった峰雪の悲しそうな顔が目に浮かぶようだった。 「おいしい?」   気が付くと、恵がこっちを覗き込んでいた。 ・うん、おいしいよ。俺は無理に笑顔を作った。 1−7−1−1−1へ・おいしくない。 1−7−1−1−2へ ●1−7−1−1−1  俺は無理に笑顔を作った。 恵が、僕の顔をまじまじと覗き込んだ。冷や汗が流れる。 「よかった」   そう言って浮かべた笑顔は、どこか固かった。  僕も、おいしいと言った手前、ビーフシチューに取りかかる。   じっくり煮込んだ、すね肉。 味が染みて非常においしい。はずだ。 けど今は、見るだけで、あのラーメン屋のチャーシューを思い出して胸が悪くなる。  スープで流し込むように胃に入れる。   しばらくの間、かちゃかちゃと、食器の動く音だけが響いた。  僕がスプーンを置くと、  「嘘つき」   恵がぽつりとつぶやいた。 「……すまない。途中でラーメンを食べてきた」  「言ってくれればよかったのに。 ビーフシチューだから、ずっと保つよ」   返す言葉がなかった。今日はどうも、調子が変だ。 「でも、ありがと」  そう言って、恵は、流しに皿を持っていった。   何が、ありがとうなんだろう? 僕には、よく、わからなかった。 →1−8−1へ ●1−7−1−1−2 「おいしくない」   僕は、正直に話した。恵の顔が固くなる。 「……何か食べてきたの?」 「うん。ラーメンを2杯。おいしかった」   仏頂面の恵は、突然、吹き出した。何が起きたんだ? もしかして、また「雰囲気」を読み違えたのだろうか? 「なに?」  「お兄ちゃん……本当に、ちっとも変わってないのね」  「あぁ」   自分でも変わったつもりは、ない。 「うん、わかった」  恵は、僕の分にラップをかけて冷蔵庫にしまった。 何やら中身が色々増えている。 ビーフシチュー以外に、どれだけ買い物したんだろう?  僕は食卓を立って自室へ向かった。 振り向くと、恵はビーフシチューを食べながら、まだ、笑っていた。 →1−8−1へ  ラーメン食べたからいい、と断った。  「ラーメン?」   恵が、恨めしそうな声を出す。  「あぁ。おいしかったので2杯食べてきた」  「わたし、晩ご飯までに帰るって言ったよね」  「言った」   確かに恵は、そう言った。 「あのね、あれはね。一緒に晩ご飯を食べましょう、ってことだったの」  「なるほど、そうだったのか」   二重の意味。宣言に混じった懇願。 同じ兄妹でも、恵は問題なくテレパシーが使えるのだ。  「では、そう言ってくれればよかったのだが」   僕はテレパシーが受信できないのだから。 「そうよね……お兄ちゃんに会うの久しぶりだから」   恵は難しい顔で、腕を組んで、そして吹き出した。  「でもお兄ちゃん、ほんっとそういうとこ、変わってないね。安心したよ」  「あぁ」  「ビーフシチュー、明日も食べられるし、冷凍もできるから。気にしないで」  別に気にしてはいない。   僕は食卓を立って自室へ向かった。 振り向くと、恵はビーフシチューを食べながら、まだ、笑っていた。 →1−8−1へ ●1−7−2(恵と一緒に帰宅)  部屋に帰ると、恵が、怖い顔をして、こっちをにらんでいた。 「お兄ちゃん、さっきの、どういうこと?」 「さっきのってなんだ?」 「管理人さんが……その、ご飯を作りすぎる癖があるとか」 「あぁ、言った通りだ。あの人は、よく、朝ご飯を作りすぎるんだ」 「それ、お兄ちゃんが、食べてあげてるの?」  論理的には飛躍した文章だ。管理人さんがご飯を作りすぎたからといって、僕が食べるとは限るまい。とはいえ、この場合は的中している。 「よくわかったな」 「……どれくらい、お呼ばれしてるの?」 「毎朝だな」  僕は、少し考えて、言葉を継いだ。 「管理人さんは、物覚えが悪いところはあるが、非常にいい人だ。 恵が気にする必要はない」 「気にするわよ!」  「恵、記憶力で人を差別するのは……」  「お兄ちゃん、本気で管理人さんが、ご飯を作りすぎてると思ってるの?  ……思ってるんだよね」   恵が、肩を落とす。 「どういうことだ?」   例によってテレパシーだ。管理人さんと3年以上のつきあいがある僕に分からないことが、恵には一瞬でわかったらしい。  「それはね、お兄ちゃんが一人暮らしだから大変だろうと思って、管理人さんが朝ご飯を作ってくれてるの」 「……ほう」   僕は、恵の主張を検討した。 確かに、管理人さんのしそうなことだ。いろいろと辻褄も合う。 「それは理解できる。そうであるなら、しかし、どうして最初から、そう言わないんだ?」  「そう言わないと、普通の人は遠慮するからよ」   身に覚えのない施しを受けるわけにはいかない、というわけか。そうかもしれない。 僕は、頭に引っかかったことを聞いてみた。 「わかった?」 「あぁ、わかった。だが一つ疑問がある」  「なに?」 「もし、本当に朝食を作りすぎた時、人はなんて言うんだ?」   恵は、一つ溜息をついてから、微笑んだ。 「……お兄ちゃん、本当に、変わってないね」   言ってることの意味はわからない。 けれど、恵の、その顔を見て、僕は、少しだけ、ほっとした。 恵も変わっていない。そう思う。 「私、晩ご飯、作っちゃうから」 「わかった。僕は少し休む」  椅子につくと、どっと疲れが出た。  峰雪も恵も好きだし、そばにいるのは居心地がいい。 ただそれでも……相手に関わらず、人と一緒にいるだけで、身体の芯が疲れてゆく自分がいる。   心臓がないブリキの〈樵〉《きこり》は、相手の気持ちを、全部頭で考えようとする。それが、時々、辛くなるのだ。   カーテンを閉めて、曲をかける。 ゆっくりとしたリズムに乗って深呼吸をする。   次第に気が落ち着いた、と思ったその時。  耳障りな音が台所から響いた。恵が、料理をしているのだろうか。 僕は…… ・不安になり、台所に様子を見に行った。→1−7−2−1へ・ヘッドホンをかぶり、音量を上げた。→1−7−2−2へ ●1−7−2−1・不安になり、台所に様子を見に行った。→1−7−2−1へ  台所をのぞき、改めて峰雪がいないのを残念に思った。 あいつなら、この状況を形容するにふさわしい故事成語を知っているに違いない。   僕のボキャブラリーで形容するなら……「それは、包丁というには大ざっぱすぎた」もとい「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん」と言ったところか。  恵は、見たこともない巨大な包丁を握っていた。 どうやら食材だけでなく、料理道具も買い込んでいたようだ。   まな板の上で、野菜も肉も、すべてが音を立てて寸断されてゆく。   恵がまな板を傾けると、切断された食材は、なにやらバケツほどもあるズンドウの中に、がらんがらんと転がり落ちていく。 さっきの騒音は、これだったか。   問題は、その手つきが、どうにも危なっかしいことだ。 「あ、お兄ちゃん」   振り向いた顔が上気していた。  「晩ご飯、作っているから、もう少し、待って」 「わかった」  料理は、得意ではない。口を出しても混乱が増すだけだろう。 僕は、恵を信じることにして、部屋に戻った。  地獄の鍛冶屋を思わす衝突音は、やがて、途絶えた。 煮込む段階に入ったのだろう。  メールをチェックし終え、本を読んでいると、遠慮がちなノックの音が響いた。 「どうぞ」 「お兄ちゃん、晩ご飯」   ドアが開くと、いい匂いが漂ってきた。ビーフシチューだろうか。 ……唯一、恵が、肩で息をしているのが、気になるが、指は十本揃っているようだし問題はないだろう。  「あぁ、今行く」 →1−7−3へ ●1−7−2−2・ヘッドホンをかぶり、音量を上げた。→1−7−2−2へ  曲目を変えて重低音を響かせる。   ゆっくりと、外の世界のことを心から追い出す。 二、三度深呼吸して、ようやく身体の震えが止まった。   ゆっくりと目を開いて、僕は、ぼんやりとパソコンを立ち上げた。  メールとネットをチェックしてゆく。 音もなく、感情もなく、ただとりとめなく表示される情報に没入する。  ………。 ……。 …。   画面が光って、メールの到着が告げられる。 sub:お兄ちゃんへ。      晩ご飯できました。  ……ああ、もう、そんな時間か。 ヘッドホンを取って振り向くと…… 「ッ!」  喉に息が詰まった。 こめかみが、ガンガンとする。  「お兄ちゃん、やっと気付いた?」   片手に携帯を持っている。 そこからメールを送ったのか。  「ノックをしてほしいんだが」 「したよ」   冷たい声。  「何度もしたし、声もかけた」 「……そうか。悪かった」  ふと、鼻をひくつかせる。  「……いい匂いだ」 「晩ご飯は、ビーフシチューだよ」   恵が、笑った。 顔が上気しており、息が荒いのが気になる。   ……何があったのだろうか? →1−7−3へ 「せやっ!」  食卓に着くと、キッチンのほうから気合いが響いた。 気合い?  ……ガスコンロには、巨大なズンドウがかかっていた。   バケツと見まごう大きさのそれを、恵が顔を真っ赤にして持ち上げようとしている。 両腕が、ぶるぶると震えていた。 「せやっ!」  食卓に着くと、キッチンのほうから気合いが響いた。 気合い?  先ほどの、バケツと見まごう巨大なズンドウを、恵が顔を真っ赤にして持ち上げようとしている。 両腕が、ぶるぶると震えていた。 「危ない!」   さすがに手を出す。  「お兄ちゃん?」 「いいから……ぐっ!」   恵をどかせて、ズンドウを掴む。 重い……覗き込むと、案の定口まで一杯シチューが入っている。  「ぬぁっ!」  ……なんとか床に下ろして、荒い息をつく。腰に来る重さだな、こりゃ。   恵が、空いたコンロでヤカンを火に掛けた。 「お兄ちゃん、大丈夫?」   ああ……と応える以外に何ができただろうか? 「いただきます」 「いただきます」   そう言って、恵は笑った。 「どうしたんだ?」  「いただきます、なんていったのは久しぶりだと思って」  「そうなのか?」   恵は、両手を合わせて目を閉じた。 「God is great, God is good. Let us thank Him for our food. By His hand we all are fed. Give us, Lord, our daily bread.Amen.」  食前の祈りってやつか。 恵の通ってる学校は、カトリック系の全寮制だ。   夕飯ごとに、一斉に集まって、みんなでアレを唱えるわけか。 ちょっと不気味かもしれない。   そんな僕の心を読んで恵が言う。 「……もう慣れたけど、でも、やっぱり、いただきます、のほうがいいよ」  「そうかもな」  スプーンでニンジンを突っつくと、抵抗なく裂けた。 スネ肉のいい味が出ている。 「おいしい?」  気が付くと、恵がこっちを覗き込んでいた。  「うん」   特に味に異論はなかったので、 うなずいた。  「まだ、おかわりはあるよ」   それは、あるだろう。  「しかし、何でこんなに一杯作ったんだ?」   僕は疑問を口に出した。 「寮の食事当番だと、いつも、これくらいの量だから……でもほら、ビーフシチューは、冷凍しておけるから」 「から?」 「冷蔵庫見たら空っぽだったよ。 外食ばっかりしてると、身体に悪いでしょ」   冷たい宣告の言葉。 「栄養バランスは考えているから、心配しなくてもいい」 「そういう問題じゃないの」 「どういう問題なんだ?」   素朴な疑問に対して、恵は、眉をひそめて押し黙った。 「私は、お兄ちゃんに、いつも、おいしいご飯を、食べていて、ほしいの」   子供にするように、ゆっくりと区切るように、説明する。 ・「わかった」そう言って僕は、うなずいた。→1−7−3−1へ・僕の食事に干渉しないでくれ。→1−7−3−2へ ●1−7−3−1  食事に干渉されるいわれはないが、これもまた、好意の形なのだろう。 それに、きちんと調理された食事が嫌いというわけでもない。   だとすると……ああ、そうだ。 「ありがとう、恵」   シチューを食べていた恵が顔を上げた。 まるでシチュー皿の中にイリオモテヤマネコを見つけたかのような、呆然とした表情。   僕が、礼を言うことは、そんなに変なことなのだろうか? 「今、お兄ちゃん、なんて言った?」   僕の感覚だと、それは失礼な物言いというやつではなかろうか? まるで僕が感謝を忘れやすいみたいだ。  「ありがとう、恵」 「そのありがとうは、何に対して?」 「僕の食生活に、干渉してくれたことに対してだ」 「どういたしまして」   恵は安心したように、うなずいた。 ちょっと、嬉しそうだった。   わからない。 恵の考えることは、さっぱり、わからない。 →1−8−2へ ●1−7−3−2 「そう言うと思った」   恵は、軽くうなずいた。  「とにかく、準備はしたから、食べたくなったら言って。 峰雪さんにあげてもいいし」   ……あのズンドウを持ち帰らせるのか? いや、峰雪なら持ち帰るか。 「いや、そういうわけではない。 シチューは、おいしかった。 その干渉を受け入れよう」  「ほんと、変わってないよね。 お兄ちゃんとしゃべるのって、宇宙人と話すみたい」   恵は、面白そうに言った。 「それは、こちらも同じだ。僕なんか、同じ星の仲間がいないので苦労している」   そう言うと、恵は、はっとした顔をした。  「……そうだよね。ごめん」 「恵が謝ることじゃない」  そう言っても、なぜか恵の顔は暗いままだった。 →1−8−2へ 「明日、お兄ちゃん、何時に起きる?」  「聞いてどうするんだ?」 「朝ご飯よ。ビーフシチューが残ってるから、一緒に食べましょ」 「朝ご飯よ。一緒に食べましょ」 「朝ご飯なら、管理人さんが、また余らせるかもしれないな」 「……え、何? どういうこと、それ?」   急に恵があわてる。  「言った通りだ。きっと忘れっぽいのだろうな。朝ご飯を、毎朝、余分に作る癖がある」  「もしかして、それ、お兄ちゃんが、食べてあげてるの?」   論理的には飛躍した文章だ。管理人さんがご飯を作りすぎたからといって、僕が食べるとは限るまい。とはいえ、この場合は的中している。 「よくわかったな」  「……どれくらい、お呼ばれしてるの?」  「毎朝だな」  僕は、少し考えて、言葉を継いだ。 「管理人さんは、物覚えが悪いところはあるが、非常にいい人だ。恵が気にする必要はない」  「気にするわよ!」  「恵、記憶力で人を差別するのは……」  「お兄ちゃん、本気で管理人さんが、ご飯を作りすぎてると思ってるの? ……思ってるんだよね」  恵が、肩を落とす。 「どういうことだ?」   例によってテレパシーだ。管理人さんと3年以上のつきあいがある僕に分からないことが、恵には一瞬でわかったらしい。  「それはね、お兄ちゃんが一人暮らしだから大変だろうと思って、管理人さんが朝ご飯を作ってくれてるの」  「……ほう」   僕は、恵の主張を検討した。 確かに、管理人さんのしそうなことだ。いろいろと辻褄も合う。 「それは理解できる。そうであるなら、しかし、どうして最初から、そう言わないんだ?」  「そう言わないと、普通の人は遠慮するからよ」   身に覚えのない施しを受けるわけにはいかない、というわけか。そうかもしれない。 僕は、頭に引っかかったことを聞いてみた。 「わかった?」  「あぁ、わかった。だが一つ疑問がある」  「なに?」  「もし、本当に朝食を作りすぎた時、人はなんて言うんだ?」   恵は、一つ溜息をついた。  「とにかく、明日、朝ご飯の時、管理人さんには挨拶しなきゃ」 →1−8−2へ。 ●1−8−2 「そういや恵、こっちでは、どこに泊まるつもりなんだ?」 「お兄ちゃんの家に泊まるつもりだったんだけど」 「初めて聞くが」  日本に来るとは聞いていたが、泊まるとは聞いていなかった。 あるいは言ったのかもしれない。テレパシーで。 「無理?」 「邪魔だ」  「私、邪魔?」 「あぁ、部屋が狭いからな。 二人で寝起きするのは大変だろう」  「泊まって泊まれないことはないが、用意がない」   寝具の余分は、この家にはない。 「あ、それなら大丈夫」   恵がにやりと笑う。 「こんなこともあろうかと、いっぱい買ってきたから」   恵は、買い物袋の中から、寝袋をとりだした。 そして、一人用の簡易テントまで。 道理で重いはずだ。  誰だろう? 管理人さんかな? 「はい、九門ですが」 「今晩は」  「ああ、管理人さん。 今、晩ご飯を食べたところです」  「そうなの。ちょうどよかったわ。 お茶でもいかが? 恵ちゃんも一緒に?」  誰だろう? 管理人さんかな? 「はい、九門ですが」 「今晩は」  「ああ、管理人さん」  「お茶でもいかが? 恵ちゃんも一緒に?」  断る理由もない。  僕は、恵に向きなおった。  「どうする?」  「うん、いこ、お兄ちゃん」  階段を歩いて一階に下りる。 「狭いところだけど、ゆっくりしていってね」  管理人さんの部屋には、毎朝のように来ている。 入るとすぐに大きな台所があり、奥に大きな物置部屋があるようだ。  ここは居間。 隅に、大きな暖炉がある。 これは飾りではなく、火がはいっている。  暖炉の他には、小さなテーブルがあり、3人入ると手狭ではある。  「確かに狭いですね」   テーブル下で、恵が僕の足を蹴飛ばす。見ると、顔が赤い。 「どうかしたのか?」   当人の意見を追認することが、なぜ、いけないのか。 恵は、なぜか目を伏せた。 「はい、どうぞ」   綺麗なティーセット。薄い磁器は、かすかに橙色に染まっている。 いずれも年代物なのだろう。 「克綺君に、妹がいるなんて、全然知らなかったわ」  「言ってませんから」   痛っ。今度は、もろに向こうずねを蹴られる。  「あ、あの。いつもお兄ちゃんが、お世話になってます。 こんな人ですけど……悪気はないんです」   どんな人なのだろう。 「お世話なんて、とんでもない。 克綺クン、裏表がなくって気持ちいいわ」   管理人さんが微笑むと、恵は、驚いた顔でうなずいた。  「裏も表も……何にもない兄ですけど」   どんな兄だ。 「恵ちゃんは、どちらからいらっしゃったの?」  「留学してました。 今は、向こうの学校が休みなんです」 「そうなの。しばらくこちらにいるの?」  「ええ。今晩は、兄の部屋に泊まらせていただこうかと」 「そう。それで、さっき部屋が狭いって話を……」   痛い痛い痛い。 「よろしいでしょうか?」 「もちろんよ。よかったら、お部屋を用意するけど?」  「え? そんな、悪いです」 「いいのよ。どうせ空いてるし、ほら、部屋って使わないと、痛むでしょ。 風でも通してくれると嬉しいのだけど……」  「あの……私」 「遠慮は無用よ。克綺クンの妹さんなら、大歓迎だから」 「わかりました。そうしましょう」 「……ちょっと、お兄ちゃん!」 「ん、何だ?」   僕の顔を見て、恵は、何かをあきらめたように溜息をつく。 「ありがとうございます。 じゃぁ……部屋をお借りします」  「何日くらいいるの?」 「え?」   恵が驚く。 今日だけ泊まっていくつもりだったらしい。  「あ、あの10日くらいです」 「10日と言わずに、もっといてくれてもいいのよ」  管理人さんは笑う。エプロンの中から鍵束を取りだし、鍵を抜いた。  「はい、これね。お部屋は、お兄さんの隣だから」 「ありがとうございます」   恵が頭を下げる。  部屋を出ると、恵が大きく溜息をついた。 「管理人さんがいい人で、よかったね」 「うん」   それには異論がない。  「普通の人なら、怒ってるよ」 「そうなのか」  「そうだよ」   恵は熱弁する。 「部屋のことだって……あんなんじゃ、 厚かましいと思われても仕方ないよ」  「向こうが言ってきたことだろう。 了承すると厚かましいのか?」 「社交辞令ってこともあるでしょ!」   「あ、管理人さん。こんばんは」   困った顔をした管理人さんが、そこにいた。 「ごめんなさい、聞こえちゃった」  「す、すいません!」  「あ、でも、社交辞令じゃないわよ、安心して」  「だそうだ、恵。よかったじゃないか」   僕と管理人さんは、顔を見合わせて笑った。  恵の狙い澄ました一撃が、膝を襲う。  「くっ……」 「えと……今日から、お世話になります。よろしく、お願いします」  「メゾン・フォレドーにようこそ」   管理人さんは、そう言って恵の手を取った。 →1−9へ ●1−9 「お兄ちゃん、お先に」  そう言って恵が脱衣場に入った。   恵の入る空き部屋には、家具もベッドもあり、くわえて管理人さんが毎日掃除している。 電気も入ったが、ただガスだけは、ガス局への手続きが必要らしい。   管理人さんは、明日にでも手続きしてくる、と言ったが、僕らは断った。 ガスを通すと、基本料金は一ヶ月分になる。 また、恵が帰る時にも手続きが必要だ。 であれば、浴室は僕の部屋を使う、というのが合理的だ。   旅行鞄、その他を恵の部屋に運び込んだ頃には、風呂が入っていた。  僕は、ベッドに寝転がる。  浴室からは、シャワーの音が聞こえてくる。   自分の部屋に、他人がいるというのは妙な気分だ。 峰雪とはよく遊ぶが、この部屋に長く入れたことはない。   部屋に戻り、ドアの鍵を閉め、ベッドに横たわった瞬間、僕は一人になる。 「雰囲気」を計算することもなく、「顔色」を分析することもなく。 空転していた脳を休ませ、ただ、ぼんやりとする、その一瞬。 僕だけになれる、その瞬間。   それが心地よいと思っていた。  浴室から、恵の声が聞こえる。歌を歌っているのだろう。 これはこれで、悪くない。 誰かが、そばにいる、ということも、時には気が休まる。   思えば、そんな簡単なことを忘れていた気がする。 天井を見ながら、そんなことを覚えた。 「お兄ちゃん?」   肩を揺り動かす手に、僕は、うっすらと目を開ける。 「あぁ、恵か」   どうやら、制服のまま眠ってしまっていたらしい。 目をこすって、上体を起こす。  「お風呂、まだ、入ってるけど、どうする?」  風呂上がりの恵の髪は濡れていて、頬は赤く上気していた。 そういえば、ドライヤーまでは持ってきていなかった。  「あぁ、あとで入る」  「じゃ、私、戻るから。おやすみなさい。戸締まりに気をつけてね」  「あぁ、おやすみ、恵」  僕は、恵を送り出すと、風呂に入った。  足を入れて、僕は顔をしかめる。 熱い。爪先が赤くなる。 思えば恵は、子供の頃から、熱い風呂が好きだった。 一緒に入っていた頃は、よく、喧嘩になったものだ。   二人で、お湯と水を入れあって、しまいに風呂桶から水がじゃんじゃんあふれ、もったいないと親に怒られた。   そんなことを思い出す。  お湯を、手に取る。熱いが、耐えられないほどではない。  僕は、眉根に力を入れて、ゆっくりと湯船に体を沈めた。 肩まで浸かると、湯が大きくあふれる。    つまりは、アルキメデスの原理。 いま、あふれた分が、僕と恵の体積の差ということになる。    あふれた水は、過ぎた年月。 そんな、とりとめのないことを思った。  風呂から出て、ベッドに入る。 長風呂しすぎたか、それとも、気疲れのせいか。   僕は、すぐに眠りに落ちた。  窓から漏れる光を、紅いコートの女は、じっと見つめていた。  カーテン越し、わずかに見えるシルエット。 水音が止み、しばらくして、その灯りも消える。 もう、光は漏れない。  時間は10時。 今日はなかなか普段にはない出来事が多いようだった。 疲れて、いつもより早めに就寝したのだろう。  彼女は、そう結論づけると。  コートを翻し、背後の気配に微笑む。 「久しいな。何年ぶりだ?」 「――――」  言葉が向けられたのは、女性。 肩からかけた布が、緑の髪が、夜の風になびいている。  顔立ちは、美しい。だが、ほんのわずかな感情も、〈窺〉《うかが》えない。 人形を思い起こさせる、顔立ち。  だが、目を奪うのは、彼女の左腕だ。 なびく布の切れ端から覗くその腕は、人間のものではあり得ない。  奇妙に長い、骨を模したからくり細工。 腿まで届くその指先が、ゆっくりと紅いコートの女を向く。 「挨拶もなしか、ヒトガタめ」   吐き捨てて、紅いコートの女は背後に下がる。  飛び去りざまに、どこからか取り出した黒い短剣――月牙が、闇を切り裂いた。 黒塗りの刃は音もなく、楕円を描いてヒトガタを目掛ける。  だが、ヒトガタは、動じない。 全く表情を変えないまま、無造作に腕を振るう。  閃光、ふたつ。   けたたましい金属音とともに、小さな火花を散らして、月牙がたたき落とされる。  無表情のまま、ヒトガタの身体が滑るように動いた。 指先が、捕らえに来る。機械的に、迫る。  紅いコートの女は、しかし、動じない。  背負った刀を地面に突き刺し、体重を預けると、背後の壁を駆け上がるように反転、跳躍する。 勢いよく飛びかかったヒトガタをいなすよう、宙を回転。  音もなく振り返り、渾身の回し蹴りを放つ。  雷が奔ったかのような、鋭い音。 彼女の蹴りは、届かない。 ヒトガタの長い腕が折れ曲がり、しっかりと一撃を防いでいた。  ニヤリ、と微笑む紅いコートの女。 微塵も表情を変えない、ヒトガタ。 「私は、あいつを傷つけに来たわけではない」  紅いコートの女は、そう宣言すると、身を翻した。  後ろを振り返ることすらしない。脱兎のごとく逃げ出した。  半瞬遅れて、ヒトガタがその後を追う。 「――今はまだ、な」   と、追いかけるヒトガタの手前に、金属音をたてて、何かが放り投げられる。 月明かりが照らすのは、銀のジッポライター。     疑問も持たず、飛び越えようとしたヒトガタ。 その真下で、そのライターが破裂する。   爆発が、ヒトガタを直撃した。 衝撃を浴びて、人影が浮き上がる。 無表情のまま、その肌に金属片が突き刺さる。   だが、紅いコートの女は振り返らない。 こんなダメージでは、到底相手を倒せない。   それを知っているかのように、その場から飛び去った。      やがて、土煙が消える頃。 いびつな腕のヒトガタも、音もなくその場を去る。   苦悶の表情もなく、逃がしたことへの舌打ちもなく、その表情はあくまで静かだ。 身体の真下で爆発が起こったのが信じられないほど、軽やかに闇へ飛ぶ。   何事もなかったかのように吹く、秋の風。 夜の闇に平穏が戻る。ほんのつかの間の、平穏が。      「うぃーす。じゃ、ここで解散ね」  「駅はどっちだ?」  「喜田、酔いすぎ。置いてくぞ、もう。比呂乃は?」  「あ、あたし、先に帰るわ。家、近くなの」   飲み友達と別れて繁華街を出ると、住宅街の暗さが心にのしかかった。 比呂乃は時計を見た。  22時17分。 そんなに遅いわけじゃない。   確かめたくなるほどに、町はしんと静まりかえっていた。 呼び込みの声も酔客もなく、ネオンも看板もない。ただ、それだけのことだ。 空に月を探したが、見あたらなかった。 登っていないのか、雲に隠れたか。      誰もいない道に、足音だけが響く。   今、この町で生きて動いているのが自分だけな気さえしてくる。   その足音に耐えられなくて、比呂乃は携帯電話を取り出した。 「あ、もしもし? カナちゃん? あたし。今、帰るとこ。そっちはどう?」   確かに、その道は暗すぎた。人も少なすぎた。 街灯の明かりは、いつもより暗かった。  「なにそれ、サイアクー。喜田って、ホント、バカだよね」   闇が、あたりを覆い始めていた。 音も、光も、ゆっくりと吸いこまれてゆく。   比呂乃は気づかなかった。 否。気づきたくなかった。 「あ、クサい。いや喜田じゃなくてさ。 今、生ゴミの臭いがぷーんとしてきて」   比呂乃は鼻をつまんだ。  「夜にゴミ捨てるやつってサイアクだよね。 カラスがいるっつーの」   臭いは、ますます耐え難くなっていた。 このへん、ゴミ捨て場ってあったっけ? あたりを見回したが……指の先から遠くは見えなかった。 携帯の液晶だけが心許ない光を放っている。 「今、停電? あ、停電じゃ携帯使えないか」   それとも使えるのかな、と、比呂乃は思った。アンテナとかって、どんな仕組みになってるんだろ? 首筋に、濡れたものが触れた時も、比呂乃は携帯について考えていた。手の中の小さな光。       「え? なに? 今、なにか――」   ――なにか、言わなかった?   彼女の言葉は、最後まで、続かない。 「……ぇ?」   生臭い息は、耳元から。   喉に、食い込んでくる。 鋭利な先が気道に突き刺さり、内側に触れる。  「あ、ん、あぁぁぁ……!」   悲鳴は出ない。逃げられない。 身体を捕まれて、崩れ落ちることすら、できない。     生臭い臭いは、やがて血の臭いとまざりあった。     「あ、もしもし? もしもし比呂乃? ごめん、電波遠い……」   「今の誰?」  「比呂乃。帰り道だって。なんか停電とか言ってたよ」  「歩きだろ? 関係ないじゃん」  「まぁね」   パチンと音を立てて、携帯が閉じた。 それで終わりだった。    夢は見なかった。ただ目が覚めると頭が重かった。 昨日は、人と話しすぎた。人と会うのが嫌いなわけじゃないが、どうしても芯が疲れる。 「克綺クン、起きてる?」   いつもの管理人さんの声。 「おはようございます」  「朝ご飯、作りすぎちゃったんだけど、食べる? 恵ちゃんも、一緒にどう?」   僕は思案した。 恵によれば、管理人さんが朝ご飯を作りすぎるのは、僕にご馳走するためらしい。知ってしまった今となっては、素直に受けるのも気が引ける。 「結構です」   そう言った瞬間、管理人さんの顔が固まった。  「そ、そう? 迷惑だったかしら?」  「迷惑もなにも。管理人さんが作りすぎるのは管理人さんの勝手ですから」   フォローしたつもりだが、管理人さんは、さらに落ち込む。なぜだ? 「お兄ちゃん、おはよう」   でてきた恵が、管理人さんを見て固まった。  「おはようございます。 あの……兄が、何か?」  「……あ、別にいいのよ。 ただ朝ご飯をご一緒しようかなって思って」  恵の顔が青くなる。  「すいません、ちょっと失礼します。 ほら、お兄ちゃんも来て」  恵は、僕の手を引っ張って部屋に連れ込んだ。 「お兄ちゃん、管理人さんに何て言ったの?」  「ほら、昨日おまえが言ってただろ。管理人さんは僕にご馳走してくれてるって。だったら世話になるのも悪いかなと思って」 「それで?」  「今日は朝ご飯は結構です、と」 「それだけ?」  「管理人さんが恐縮したようだったからフォローした」 「なんて?」 「迷惑もなにも。管理人さんが作りすぎるのは管理人さんの勝手ですからって」  あ、倒れた。 「……お兄ちゃん、ちょっと」  恵に言われて僕はしゃがむ。 と、恵は、僕の頬を引っ張った。 「言・い・か・たってものがあるでしょう」  「気を使ったつもりなんだが……」  「わかってる。わかってるけれど……」  恵は、決然とした表情で、立ち上がった。 「……というわけで、お兄ちゃんは遠慮しただけなんです」  「そうだったの」   管理人さんの顔に、笑顔が戻った、と思う。 「ぜひ朝食をご一緒させてください」  「あら、いいの?」 「もちろんです」   恵が足を踏みつけているのは、しゃべるな、というサインらしい。 僕は無言で頭を下げた。  意味の曖昧なやりとり……社交辞令の果てに、どうやら僕達は管理人さんとご飯を食べることになったらしい。 それはそれで嬉しいことだ。   気を使うというのは、本当に難しい。  「恵」 「なあに、お兄ちゃん?」  「慣れないことはするものじゃないな」   きっと恵がにらむ。なぜだろう。  管理人さんの朝食は、ちゃんと三人前あった。 二人前作りすぎた……じゃなくて、恵の分まで用意してくれたのだろう。  今日のメニューは、アジの干物、そして鶏とゴボウの煮物だ。 「久しぶりの日本食でしょ? お口にあうかしら」  「そんな、すごくおいしいです」   恵は、感激しっぱなしだった。 「よかった。その干物、自家製なの」   どうりで味が深いと思った。天然塩を使い、天日で熟成しないとこの味はでない。 なんといっても干物で一番おいしいのは、この背骨にへばりついた身だ。 お日様の味がする身を、僕は骨を〈囓〉《かじ》るようにいただいた。 「お兄ちゃん、行儀悪い」  「いいのよ。そこが一番おいしいところですもの」  「あぁ」  そのことは恵も、よく知っているはずだ。恵は、迷うように僕と管理人さんを見渡すと、やがて決心した。  「じゃ、失礼して」  かぶりついた恵の目が、恍惚に見開かれる。 ひとしきり溜息をついてから、恵は、しみじみと言った。  「ねぇお兄ちゃん、毎朝、こんなの食べてるの?」 「まぁな」  「そう……」  箸を置くのが惜しまれる朝食を終えて、僕は手を合わせた。 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした」 「おそまつさまでした。 今、お茶いれるわね」  香りのいいほうじ茶をすすりながら、まったりする朝の一時。 「恵ちゃんは、今日、どうされるの?」  「お兄ちゃん、学校だっけ?」 「あぁ」 「ねぇ、よかったら一緒に来ない? 町を案内するわよ」 「それは嬉しいですけど、何から何までお世話になって……」 「じゃ、ついでにお買い物、手伝って」 「あ、はい」  非効率な会話だ。 テレパシーを使えるというのに、なぜ、会話のほうはまわりくどくなるのか。 それは永遠の謎だ。 「克綺クン、そろそろ学校じゃない?」  「そうですね。じゃぁ行ってきます」        風の冷たさは身を切るようだが、それも心地よい。そんな朝だった。 東風の吹く日に、傘と一緒に降りてくるメイドさん。  そんな童話がなかったか。    その人は、今日も傘を持っていた。 「おはようございます、またお会いしましたね」  「おはよう」   しばしの沈黙。 ナンパ志望の峰雪ならともかく、僕には初対面の女の子と話す話題の持ち合わせなどない。 悩んだ末に、口を開いた。 「いい朝だね」 「いいえ」   違ったようだ。  「いやなことでもあったのか?」 「私にはないのですけど」   じゃぁ、僕にあるのか。 僕は、話題を変えた。 「友達に峰雪ってのがいてね。 君のことを話したら会いたがっていた」 「そうですか。いずれお会いしますから、急がないでいいです、とお伝えください」   運命論的なことを言う。  「そうとは限らないんじゃないかな」 「そうでしょうか」 「例えば君か峰雪のどちらかが急に死ぬかもしれない」   少女は首を傾げた。 「そうですね。私が死んだ時のことは、考えてませんでした」  「人間というのは、そうしたものさ」   少し嬉しくなった。 この子とは、話が噛み合う。 僕が論理的に話そうとすると、なぜか怒りだす人が多い。 「多分、ずっと先だと思いますけど」 「そればっかりはわからない」  「そうかもしれませんね」  「じゃ、僕は学校があるから」  「はい、克綺さん、またお会いしましょう」  ……別れてから、気がついた。また名前を聞き忘れた。  しばらく行くと、警官に行く手を遮られた。 パトカーが何台も止まっている。  「ここ、通行止めだから、回ってくれる?」   見れば、他の生徒も回り道している。  「理由を聞かせてください」   警官は疲れた顔で応えた。  「ごめんね。今、現場検証してるところなんだ」  通行止めの看板の奥に、毛布が見えた。  ブロック塀に点々と染みているのは、血か。  「そうですか。お仕事ご苦労様です」   回れ右して、歩き出す。 「どうした朴念仁。自主休校か?」  「九門君、おはよう」   峰雪と出会う。牧本さんも一緒だ。  「牧本さん、おはよう。 いや、自主休校じゃない」  そう言って歩き出すと後ろから声がした。 「おい、どこいくんだよ?」 「学校へ行くところだ」 「方向、反対だよ?」 「こっちの道が通行止めになっている」 「最初に言え!」   峰雪が僕の頭をはたく。  「通行止めって、事故かなにか?」  「可能性はあるが、多分、違うな」  僕は、現場を思い出した。 血の飛び散った跡はあったが、何かがぶつかった跡はなかった。  「どういうこった?」 「多分、殺人事件だ」   峰雪が、口の中で経文をつぶやく。 牧本さんが、手を口にあてた。  「物騒な話だな。警察が、そう言ってたのか?」 「いや。現場の様子だ。事故の跡はなかったが、血痕が前後6メートルくらいに散っていた」  「重傷を負ったまま動き回ったか、あるいは、連れ回されたかだな。毛布をかけられた死体があったが、形がおかしかった。あれは多分……」 「いい加減にしろ。この〈安本丹〉《アンポンタン》」   峰雪にはたかれた。  「痛いな、何をする」  「牧本が顔青くしてるだろうが」   言われて僕は牧本さんの顔を見る。 「牧本さん、僕の話に生理的嫌悪を感じたのか? だとしたら、すまなかった」  「ううん、そうじゃなくて。こんなすぐそばで犯罪が起きると、怖いよね」 「まぁな」  「いや、怖くはならないが」   峰雪が肩をすくめる。 「まぁ克綺だからしゃぁないな」  「失礼なことを言うな。峰雪。 僕が恐怖を感じないみたいじゃないか」 「え、違ったの?」   牧本さんまで。 「僕は、この事件に特別、恐怖を感じない、というだけだ」  「そうかなぁ。私なんか心配になるけど」 「犯罪に巻き込まれるのは確率の問題だ。 統計によれば、ここは比較的治安のいい町だ。 今度の事件を計算にいれても、確率は、ほとんど変わらない」  「そりゃぁ理屈だがな」   峰雪が肩をすくめる。 「でも、そういう考え方もあるかもね。 ちょっと元気でたわ。ありがと」  「礼には及ばない。君の論理の不備を指摘しただけだ」  「……そ、そう」  学校に着いてみれば、クラスも事件の問題でもちきりだった。 学校中の人間が知っているのだから、話題にもなるというものだ。 「2組の勝本が、警察に捕まって、事情聴取されたってよ」  耳の早い峰雪が、どこかから聞きつけてきた。 「そうか」 「興味なさそうな顔してんな」 「その通り。興味はない」  僕に何ができるわけでもない。また、するつもりもない。 「縁無き〈衆生〉《しゅじょう》ってやつか」 「それは、多分、引用が間違っている」 「あぁ?」  響き渡る予鈴が、会話を断ち切った。   僕にはどうしてもわからないことがある。   宮崎教諭のことだ。ミッション系の学校に、どうして、あそこまで体育系……いや、旧日本軍の鬼軍曹みたいな男がいるのだろう。   火曜の4限目、宮崎教諭の柔道が終わると、皆、息も絶え絶えとなる。なかでも今日はひどかった。 「畜生、宮崎の野郎」   峰雪が文句を言う。  「今日の説教は長かったな」   僕は、痛む足をひきずりながら廊下を歩いた。   宮崎教諭の授業中、柔道場は、冬でも窓を開けっ放しである。 動いていれば寒くない、というのが理屈だ。   動いていれば、確かに寒くはない。しかし宮崎教諭は説教が大好きときている。  きっかけは、例の殺人事件の話題だった。私語を聞きとがめた宮崎教諭が、一大説教大会を開始したのだ。 四角四面の宮崎教諭が、延々二十分に渡って説教するのを、こちらは正座で聞くはめになった。  「にしても、おまえが一番元気そうだな」   背筋を伸ばして歩いてるのは峰雪だけだ。 僕を含む、他の全員は、抜き足差し足で歩いている。痺れきっているのだ。  「ん、そうか?」 「さすが、寺の子だな」   そう言うと、峰雪が、暗い顔をして溜息をついた。 当人が否定しても事実は変わらない。峰雪の正座はクラスの中で一番さまになっている。  「最近、オヤジがうるさいんだ」 「いいお父さんじゃないか」 「ありゃぁ鬼だ」 「FUCK! 俺は絶対坊主になんかならんぞ!」 「無駄だと思うけど」  「あぁん?」  足を引きずって教室まで戻ると、意外な人間が待っていた。 「恵じゃないか」   教室の前で、小さくなっている。人見知りのところは治ってないらしい。  「お、お兄ちゃん!」   その声に男子がどよめく。 口笛を吹くやつまでいる。 峰雪がじろりとにらむと静かになった。 「どうしたんだ、こんなとこで」   恵の足が震えている。  「お弁当、持ってきたから」 「どうした、急に?」   昼飯は学食の予定だったんだが。  「天気はいいし、屋上でも行かないか?」   さりげなく峰雪が割り込む。  「まぁいいが」  屋上は、建前上進入禁止になっているが、ドアは開いている。 春先は人も多いが、こう寒くなっては、わざわざ来る物好きも少ない。 「恵ちゃん、このウインナーあげるわ」  「あ、じゃぁ卵焼き、食べます?」  「うん、いただくわ」 「おぅ、克綺、その煮っ転がし寄越せ」  「断る」  弁当は、本気でおいしかった。 煮物にしても、野菜一つ一つの甘さがひきだされている。 「それはそうと、なんで、牧本さんもいるんだ?」   僕は疑問を口にする。 「いちゃいけなかった?」 「いや、単純な疑問だ」 「廊下で会って、案内してもらったの」 「そうか」 「ていうか、お兄ちゃん、なんで携帯かからないの?」 「授業中だったからな。電源は切ってある」 「〈一言居士〉《いちげんこじ》め。そんな校則守ってるのはおまえぐらいだ」 「それにしても、なんで弁当なんか持ってきたんだ?」   僕は疑問を口にする。  牧本さんと峰雪が、僕を犯罪者のような目で見る。 「お兄ちゃんが喜ぶかなと思って」 「どうして?」 「ちょっと、その言い方はひどくない?」   牧本さんが口を挟む。 「なにが?」 「それじゃ迷惑みたいじゃない」 「どうして?」  「えっと、あの……こう見えても、お兄ちゃん、悪気はないんです」   恵がなぜか恐縮している。 うん、僕に悪気はない。  「ああ、僕に悪気はない」  三人が一斉に僕を見つめる。  「こいつは、こういうやつなんだ」  「なぁ克綺。世間一般では、手料理を作るってのは思いやりを意味するんだ。ありがたく受け取るのが普通だ」  「じゃぁ、峰雪。僕がおまえに弁当を作ってきたとしたら……」 「食わん」   速攻で言い切るか。 自己矛盾したことを言う男だ。 一方的な思いやりが、迷惑になることもあるだろうに。 「……結局、九門君は、お弁当をもらって迷惑だったの?」   牧本さんが口を挟む。  「いや、ありがたくいただいている」 「じゃぁいいじゃない」 「もちろんだ」  三人が揃って溜息をついた。 僕も肩をすくめる。   地球人との交流は難しい。  昼休みが終わって恵は帰った。  午後の眠い授業を終えて、僕は立ち上がった。 「克綺。今日はどうするよ?」  「一人で帰る」 「どうした、調子悪いのか? 恵ちゃんにうつすなよ」   余計なお世話だ。 おざなりに手を振って学校を出た。  峰雪や牧本さんが嫌いなわけじゃないが、あまり長く話していると疲れる。 恵が来たせいで今日は長く話しすぎた。   帰り道くらいは、一人でゆっくりしようと思うわけだ。  道の端っこによって、ぼーっと人波を見るのが好きだ。   目の前には、たくさんの人がいて、一人一人違う顔をしていた。違う顔の影には、違う心があって、違うところを見て違うところを目指している。   数十、数百の人間が、別々のところを目指しながら、目の前の道を歩いてゆく。狭い道の中を、ぶつかりもせず、するりとすりぬけてゆくその様は、まるで機械みたいだと思う。  テレパシーで結ばれた一つの機械。 その群からはみ出した僕は、とぼとぼと歩き出す。 一人でいるのは嫌いじゃない。  物思いにふけっていると、ふと、腹の虫が鳴いた。 どうしよう。   ラーメンでも食べに行こうか。   そう思った時。  人混みの中に、気になる影が見えた。   今、歩いてったのは、朝会ったあの子じゃないか。   ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はまっすぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。   ──『神曲』ダンテ   ──僕は、死んだ。   この言葉は、形式的には矛盾していないが、現実に照らせば矛盾している、と言えるだろう。 なぜなら、死んだ人間は、語らないからであり、この場合の話者は死者だからだ。   しかし。   今、ここにこうして、僕は死んでいる。 生きている時に生きていることが分かるように、死んでいる僕は、全身に死が満ちているのが感じられた。   実証性を欠いた主観的な物言いで恐縮だが、今の僕は、それを疑うことはない。   故に。   ──僕は、死んでいる。   それにしても……ここは、どこだろう。   今、僕がいるのは暗い森の中だ。 木々は鬱蒼と生え、枝は行く手を遮り、鋭い下草の葉は刃のよう。 空の光は、この地の底には届かず、わずかな明かりを元に、僕は道なき道を歩み続けている。   ずっと、この森にいたわけではない。 さっきまでは、もっと丁寧に手入れされた庭園の中を歩いていた気がする。 麗しい花壇の中を、無数の小道は迷路のように枝分かれし、どこまでも続くように思えた。 そこここの木陰で足を休めながら、僕は青空の下を歩いていたのだ。 その道の一筋が、この暗い森につながっていた、というわけだ。   後を振り返っても、もはや道は見えず、あの庭園へ戻ることはかなわなかった。 どこを向いても、森は同じように繁って見えた。 何度も方向を変えたが、そのたびに、森の密度は増していった。   一歩動くたびに枝は僕を縛り、蔦は足を捕らえる。 枝は、蔦は、僕を包み、押し流す。 僕は操り人形のように、ただ引っ張られるままに歩き続ける。   昏い森の中に吸い込まれながらも、心は不思議に落ち着いていた。   ──これが、死ぬということか。   身動きもならず、永劫に流されてゆくこと。 生が己の道を選ぶことであるなら、死はそういうものなのかもしれない。 そう思った瞬間。   ──違う。   胸の中で小さな灯りが灯った。 これは、違う。 これは、まだ、死じゃない。 足りないものがある。   それは……。  それは……。   そうだ。僕は、それを探していたのではなかったか。 蔦はいよいよ締め付けを増す。 痛みはないが、体が軋むのがわかった。   まだだ。 まだ、ここで朽ちるわけにはいかない。 胸の中に灯ったぬくもりにかけて。 僕は、腕を伸ばした。 冷たい枝をかきわけて、全身の力を指先に込める。 あと少し。もう少し。   蔦がめりめりと肉に食い込む。 枝が目を貫く。 骨も神経も一緒くたに絞られる。   痛みはない。 血もでない。 ただ意識だけが遠ざかる。   ぽっかりと抜け落ちる感覚の中で、ぼくは、ゆびをのばす。 ゆびをのばす。 のばす。           このくらいもりからあのひとにとどけとのばしたゆびさきにたしかにふれたちいさなぬくもりが──。     くるくると回る、紫の傘。 くるくると広がる、紫の傘。 目の前一杯に広がった傘には、宝石が散りばめられて。 くるくると回る傘は夜のようで。 散りばめられた宝石は星のようで。   かすかな羽音に、僕は、瞬きする。   今は、夜。空は日が落ちる寸前の、綺麗な紫色だった。 夢で見た通りの淡い紫。 綺麗な星々。 「九門克綺さん」  聞き覚えのある声に、僕は、立ち上がった。 立ち上がったということは、寝ていたわけだ。  僕が仰向けに寝ていたのは、見覚えのある芝地。 ここは、芝地。闇の森に迷う前にいた、庭園の小径らしい。 「いったい、こんなところで、何をしてるんですか?」  いつもの傘を傾けて、少女が僕のほうを見ている。  「なに、と、言われても」   僕の記憶は、ぽっかりと抜けている。 ずっと昔から、この庭園の中を歩いていた気がする。 少女は、辛抱強く待っていた。 「聞いていいかな。 ここは……どこなんだ?」  「ここですか? 運命の小径ですよ」  「運命の小径?」  「ええ。人が一生の間に歩く道が、この小径です。 皆さんは、曲がり角にさしかかるたび、意識してかせずか、小径の一つを選んで歩いているんです」 「克綺さんの道も、ほら」   そう言われて、僕は、うしろを振り返る。 小径には、真っ赤な血の足跡が記されていた。 それはねじれた小径をずっとずっと遡ってゆく。  「運命の分かれ道、というわけか。 そういうのは、概念的な存在で、実在しないと思っていたが」  「実在も不在も概念です。相が違えば概念も実在します」 「たとえば……君みたいに?」  「ここは、兄の庭ですけどね」   少女は、そう言って笑った。  「じゃぁ、僕は、どんな道を選んで来たんだ?」   僕は振り返って、血の足跡に触れる。 「あっ」   少女の止める声がした。 遅かった。 指を大地についた瞬間、無数の記憶が僕に流れ込んでいた。         ──胸を撃たれる九門克綺。 ──サムライに首を落とされる九門克綺。 ──魚人に身を裂かれる九門克綺。 ──己の力により身を滅ぼす九門克綺。 ──老齢で息を引き取る九門克綺。         何度も何度も僕は死んだ。 無数の女と出会い、また、出会わなかった。 ある時は女を愛し、ある時は、女に殺された。 人外の戦いに巻き込まれ、あるいは巻き込まれずに死んだ。         その全ての終点に……記憶があった。 くるくると回る傘。 僕を優しく包む藍色の闇。 声が、僕を呼んだ。 「克綺さん」  呼ばれて僕は、目を開いた。 僕のいるのは、藍色の空の下。 運命の小径だ。 「今のは……いったいなんだったんだ?」  「克綺さんの知らなくてもいいことです」  「気になる」   少女は小さくため息をついた。 「これ、秘密ですからね」   僕はうなずく。  「……人間は、自分が思ってるよりも、寄り道してるんです」  「寄り道?」  「そう。皆さん、過去から未来へまっすぐ歩いてると思ってるでしょうけれど……本当は、道を戻ったり、同じところをくるくる回ったり……それから、時々、克綺さんみたいに、道を外れて迷い込んでみたり」 「……じゃぁ、僕は、あの全部を体験したというのか?」  「ある意味では、そうです」  「その説には、大きく分けて7つの矛盾がある。まず、僕だけの話なら理解はできるが、複数の人間が、それぞれ過去を変えて歩く場合、相互の現実認識に食い違いが起きるはずだ。逆に、一個の人間の過去への影響が全ての人間の現実に影響を及ぼすなら、そもそも未来というものが……」  考えていると、さきほどの記憶がぶりかえした。        ──魔力が復活した地球に暮らす九門克綺。  ──わだつみの民を護るために闘う九門克綺。  ──草原の民とともに、異界を駆ける九門克綺。  ──ストラスの脱走者をかくまう九門克綺。  ──三つの護りの跡を継いで、人類を護る九門克綺。  ──恵とともに、無くした心臓を取り戻す九門克綺。 「だいじょうぶですか?」  少女の声が、再び僕を現実らしきものへ引き戻す。 「あぁ、なんとか」  「あんまり深く考えないほうがいいですよ。 あの……人間がわかるようにはできてないんです。 すいません」  「あやまる必要はない」  僕は深呼吸する。   世の中が僕の理解より複雑なことはわかっていた。 あるいは、過去の選択は、量子力学的な重ね合わせの……いやいや、考えるのはやめよう。 「それより、思い出したことがある」  「そうなんですか?」  「あぁ。どうして、あの森に迷い込んだのか、だ」  「それは私も気になります」 「確かに、僕は、遠回りしていたらしい。 運命の小径をまっすぐに進むだけじゃなくて、何度も、戻って確かめている。 その回り道の記憶が、少しだけ残っていたみたいなんだ」  「あ」   少女は、口を開けた。 「ごめんなさい」  「なぜ、あやまる?」  「記憶の管理は、私の管轄なのです。 その心臓のせいだと思うんですけど、とにかく、私の取り扱い不注意です。すいません」   僕は苦笑した。 頭をさげられても、特に怒ることもない。 「で、何を覚えていたのですか?」  「傘」  「え?」  「君の、傘」   少女の背で、くるくると回る紫の傘。 どの道を選び、何が起きても、その傘は、いつも僕のことを待っていてくれた。 少女の顔が、なお暗くなった。 「それは……深刻な管理ミスです」  「上司とか、いるのか?」  「いえ、そういうわけじゃありません。矜持の問題です」  「そうなんだ」  「でも、それでわかりました」  「ん?」 「私がいない道を、探し続けて、道から外れちゃったんですね」  「いや」  「お気を悪くされないでいただきたいんですけれど、それは、原理的に無理です。 仮に私が迎えにいかなくても、あまり楽しいことにはなりませんし……」  「いや、そうじゃないんだ」  「え?」  きっと何度も説明したことがあるのだろう。   慣れた口調で、丁寧に語る彼女を、僕は遮った。  「君を、探していた」   少女は目をまるくした。  「私を、ですか?」  「あぁ。えーと……」  なんて言ったらいいだろう。   生きることというのは、おおむね、楽じゃない。   幸せに生きるのには労苦がいるし、選択を間違えれば不幸になったり、他人に犠牲を強いたりすることになる。  その、つらく、苦しい道のりの最後に、いつも、彼女がいた。   僕が、納得のできる生き方をした時も。 志半ばで倒れた時も。   自暴自棄となって、自ら命を絶つような真似をした時も。   彼女は、いつも、そこにいて、手をさしのべてくれた。  だから僕は。 彼女を捜した。 かすかに見える傘の影を追い求めた。 その意味さえ、わからないままに、何度も、何度も。   そういう衝動を客観的に言うなら。 「君が好きだ」  「え?」   一瞬の間。 客観的には短く、主観的には長い間が流れた。  「君が好きだ」   僕は、繰り返した。 「そ、そうなんですか?」   少女は傘で顔を隠す。 僕の告白は、どうやらあまり肯定的に受け止められなかったようだ。 僕は説明を切り替える。  「もうしわけない。 論理の飛躍があったようだ。論旨を整理すると……」  しばらく考えて、僕は、間違いに気づいた。 感情というものは、おおむね、非論理的である。 好きなものは好きであるがゆえに好きなのだ。  「つまり、その……お礼が言いたかったんだ。 いつも迎えに来てもらってたし、そのことのお礼を言ってなかった気がする」   いや、もしかしたら言ったのかもしれないが、少なくとも記憶にない。 「好きだというのも本当の気持ちだけれど、それは強制はできない。 ただ、お礼をさせてもらえれば、僕は嬉しい」  「あ、その、ありがとう、ございます」   しどろもどろになる少女。 「どうかしたのか?」  「いえ、ちょっと、嬉しかったんです」   はにかんだ笑顔。 それはとても綺麗だった。 「いつも、待っててくれて、ありがとう」   僕は、深々と頭を下げる。  「どういたしまして」   少女も、ゆっくりと頭をさげた。 「それで……どうしても聞きたいことがあるんだけど」  「守秘義務に抵触することでなければ……」  「名前を聞かせてほしい」 「いろいろありますけど。 克綺さんのところでは、英語とラテン語がメジャーですね。 もちろん、日本語でも構いませんし。 でも、私が言わなくても、ご存じではないですか?」  「よくわからないけど、それは、僕らが勝手につけた名前のような気がする。 もし、なんというか、本当の名前……あなたが呼ばれたい名前があるなら、それを教えてほしい」  少女は、ちょっと考えこんでから笑った。  「克綺さん? 耳を貸してください」  言われるままに、僕は、少女に顔を近づける。 「内緒ですからね」  小さな声が念を押す。 「私の名前は……」  その日、そこで囁かれた小さな名前。 終わりに来るものの本当の名前は。 僕と彼女だけの秘密だ。  耳元で囁かれた秘密の名前。 僕は、その音を口に出し、舌の上で何度か転がして見る。  それは、悲しげに響いて明るく、軽そうな音だが揺るぎが無く、優しい響きの中に強さを持つ、まさしく彼女そのもののような音の連なりだった。 「いい名前だね」  「そういってもらえるのは、はじめてです」   生真面目に彼女が頭を下げる。  「さて、そろそろ仕事の話なんですけれど……」  「あ、あぁ」   僕は、うなずいた。 「僕は死んだんだったね」  「違います」  「違うのかい?」  「えぇ。克綺さんは、まだ、亡くなってません。 言った通り、ここは兄の領域ですから。私の国じゃありません」  「そうなんだ……じゃぁ、なんで、ここに?」 「克綺さんが見えなくなったから、探していたんです!」  「そうか。それは失礼」  「じゃぁ、僕は、その……現世に戻って、普通に生きればいいのかな?」  「それが……そういうわけにもいかないんです。 道のない森の中をずっと歩いてたせいで、克綺さんの体からは、生きる力もすっかり抜けてますから」 「生きる力が、ない? じゃぁ、あのまま森の中にいたら、どうなってたんだ?」  「どうにもなりません」   少女は、少し厳しい顔で言った。  「あぁ、なるほど」   彼女が職務遂行に熱心でなければ、僕は、あそこで生きることも死ぬこともなく、ずっと「どうにもならずに」いた、ということなのだろう。 「で、現状を打開するには、どうすればいいのかな?」  「克綺さんに、亡くなっていただく必要があります」  「それは、お任せしていいのかな?」   彼女は、少しだけ傷ついた顔をした。 「いえ、誤解されてることが多いみたいですけど……私の仕事は出迎えと案内です。 殺すことは職務に入っていません」   なるほど。 死ぬのは僕らの側の出来事であって、彼女は、ただ、迎えに来てくれる、ということか。  「すまない。知らなかったんだ」  「となると……」   僕は、庭園を見回した。 枝振りのいい木は何本かある。 「何をご覧になってるんですか?」  「いや、あのへんの木を。 ロープの一本でもあれば……」  「別に、今すぐでなくてもいいんですよ」   あぁ、それはそうか。 これだけ探して、せっかく会えてすぐ首を吊るというのも間抜けな話だ。 「会話をしよう」   そう提案すると、少女は真面目な顔でうなずいた。  「ええ、少し、歩きましょうか」  僕が手を取ろうとすると、彼女は、それをついと避けて歩き始めた。 ……最初の告白が、まずかったのだろうか。 僕は、空いた拳を握って、ゆっくりと後を追う。  いつのまにかあたりの小径は姿を変え、僕は、あの馴染み深い通い道。 メゾンの銀杏並木を歩いていた。  日が落ちる寸前の薄紫の輝きの中で、彼女の横顔は、不思議な色に輝いていた。 いくら見ても見飽きない。  そうして見つめている内に、ふと目があった。 つい、と、彼女が目をそらす。 ふむ。 やはり彼女は僕について、ネガティブな印象を抱いているようだ。 「なんですか?」   目をそらしたまま、彼女が聞く。  「いや、話題を探しているところだ」   それも、嘘ではない。 「世間話をしよう。 仕事は、大変なのか?」  「どうでしょうね」  「比較の対照がないから、大変かどうかの判断は意味がないか。 しかし、主観的に考えれば大変そうな気がする」  「そうかもしれませんね」 「休みとかはないのか?」  「私が休暇を取るとすごいことになりますよ」   そう言って少女は、くすくすと笑った。 「年中無休か。それは疲れそうだ」  「働きながらでも休めますから。 こうして克綺さんとお話ししてるみたいに」  「気晴らしになれば嬉しいが」  「なってますよ」  「それは、よかった」   しばらくの沈黙。 「すまない。 僕は世間話というものが苦手なようだ」   少女は、くすりと笑った。  「そんなに難しいことじゃありませんよ」  「……そうなのか?」 「どうして難しいと思うんです?」  「会話というのは情報の交換だ。 あなたが興味を示しそうな情報が思いつかない」  「克綺さんは勘違いしてますね」   傘がやさしく回った。 「情報交換のためだけだったら、人は、こんなにおしゃべりじゃありませんよ」  「確かに。常々僕は、そのことを疑問に思っていたんだ。多くの人間は、とりとめもなくしゃべり続ける。 無意味な情報、論理的に連関しない内容を、しゃべり続けてやめようとしない。 いったい、どうして、そんなことをするんだ?」  「それは、時間を共有するためなんですよ」 「時間を共有? そもそも時間は専有できないと思うが。 誰もが誰もと同じ時間を共有している。 無論、相対性理論を考慮する場合は話が別だが。ウラシマ効果による座標系の変換を考えた場合、それは違う時間とは言えなくもないが、同じ地球に暮らす場合は、その差は、おおむね無視できるほど小さいはずだ……」  「確かにそうですね。 でも、ちょっと話がずれています」  「ふむ」 「時間の共有というのは、一緒に過ごす、ということです」  「一緒に過ごすなら、過ごせばいい。 話すことに何の意味があるんだ?」  「確認するためですよ」  「何を?」 「人間は、色々なことをしゃべりますけれど、本当は、二つのことしか言ってないんです。一つは……」   少女は自分の胸に手を当てた。  「私は、ここにいます」  「そして、もう一つは……」   少女は僕の胸、すれすれに手を差しだした。  「あなたが、そこにいてよかった」   ふわりと風が吹いたような気がした。 暖かく柔らかな風。 「それだけなのか? それだけのことなのか?」  「それだけですよ。 でも、何度言っても、それを言い尽くせないから、みんな、しゃべるのをやめないんです」  「そうか……」  「だから、話すことがなくなったら、そう言えばいいんですよ」 「僕は、ここにいる」   呼びかける。 それは目の前の少女への呼びかけであり、もっと、遠くへの呼びかけでもあった。   過去に出会った人々。 これから出会う人々。 耳を傾けるものなら、誰にでも届かせたい想い。 「あなたが、そこにいてよかった」   口にだすと心が浮き立った。  「あなたが、そこにいてよかった」   僕は、もう一度、繰り返す。 「たとえ、あなたが、そう思わなくても、僕は、あなたがそこにいて嬉しい」   心は浮き立ち、同時に、渇いた。 言えば言うほど言い足りない。 なるほど、それで人はしゃべり続けるのか。 この心臓の空虚を埋めるために。 言葉では埋まらない空白を、しかし、言葉しか埋めるものを持たずに。 「……私も、克綺さんがいて嬉しいですよ」  「そうなのか?」  「そうですよ?」  「いや、僕は、あなたが僕に悪印象を抱いていると思っていた」  「どうしてですか?」 「先ほどから、身体的接触を避けているからだ」  「ああ」   少女はうなずいた。  「ごめんなさい。それは私の都合です」  「都合?」 「ちょっと、ごめんなさい」   形のよい指が、ほんのわずかに僕の手の甲を撫でる。  ふい、と、僕の全身から力が失われた。  深い眠気に襲われたように、一瞬、全てが遠ざかり、膝が折れる。  僕は、立ち上がって息を整えた。 「人の身で、私に触れると、命を失います」  「ですから、克綺さんのことは好きですよ」  「それは……よかった」   僕は、嬉しくなった。 そこで、ふと、気づく。 「そういうことなら……最初の問題を解決できるのではないか?」  「最初の問題ですか?」  「ここから、僕が、どうやってでるか、という問題だ。 僕は首を吊るより、あなたの手を取って去りたい。 無論、あなたが嫌でなければ、だが」   言われて少女は考え込む。 しばらくしてその口が開いた。 「そういうことでしたら、場所を変えましょうか」 「どこへ行くんだい?」  僕は、再び、あの運命の庭園にいた。 「ここだと、私の力が強すぎますから。 もう少し、現世に近いところに行きましょう」   僕がうなずくと、少女は、傘をつぼめて差しだした。  「これを、持っていてください。 風の吹く方向にいけば、戻れます」  「あなたは来ないのか?」  「私は、違う道から行きますから」  「そうか。じゃぁ待っている」 「無くさないでくださいね。 大切なものですから」  「無くすと、世界のバランスが崩れるとか?」  「いえ、お気に入りなんです」  「ああ、そうなんだ」  「それでは、ごきげんよう」  そう言って彼女は、小径を歩いていった。 その姿は、すぐに薄れて消えた。 僕には見えない道を辿ったのだろう。  僕は、傘を広げる。  傘は、ふわりと跳んで僕の肩に収まる。 小さな風が感じられた。 その風を受けながら、僕は、ゆるゆると歩き出す。  足下を見ると、血の足跡が続いていた。 爪先が僕を向いているということは……僕は、過去に向けて歩いているのだろう。  やがて、傘の導く道は、足跡から逸れて、僕は、まっさらな道を歩き始めた。  それとともに、記憶が入れ替わる。 知っていたことが抜け落ちる。 それはちっとも不快ではなかった。  いうなれば、心地よいシャワーを浴びるようなもの。 僕という芯は変わらず、心の上面を擦り落とすことで、かえって、僕自身がはっきりする。  やがてシャワーは終わり、すっかりなくなった僕の記憶を、未知の体験が埋めていった。 それはそれで、新品の服に袖を通すような爽快さがあった。  道を辿り終えた時、真新しい僕が、そこにあった。  僕の名は九門克綺。 僕には心臓がない。 人の心、雰囲気というものが、僕には、よく分からない。 僕以外の人間が持っているテレパシーが、僕にはそなわっていないのだ。   故に。 僕にとって、人間社会というのは、暮らしにくいものであった。 無論、この暮らしにくさは、比較対照を持たない主観的なものだ。 仮に人間以外の社会があったとして、僕が、そこで暮らしやすいかどうかは疑問だ。  そんな僕を救ってくれた人がいる。 彼女は、たった二つの言葉で、僕がずっと感じていた人間社会の謎を解き明かしてくれた。 そのおかげで、僕は、劇的に生きやすくなった。 僕は彼女のことを大切に思い、幸いなことに彼女も僕のことを大切に思ってくれているようだ。 要約すると、相思相愛。世間では、恋人同士、ということになるらしい。   以上の理由によって、僕は、現在、幸福だ。  僕は、今、彼女を待っている。ここで会う約束をしたからだ。 会ったことは何度もあるが、今日は、特別だ。 これまで、僕と彼女は、主に言葉によって、互いの存在を確かめ合っていた。 今日は、はじめて、別の方法を試そう、ということになった。   肉体的接触を基本とするその方法は、聞くところによると、非常に快適で心休まることらしい。  僕は、時計に目を落とす。 彼女は時間に精確だ。 僕とのつきあいの中で、一度たりとも時間を違えたことはない。  秒針が、動く。 時を刻む小さな音に合わせて、足音が聞こえた。 二つの音は、綺麗にシンクロし、秒針が頂点に来た時、僕は、振り向いた。 「こんにちは、克綺さん。いい天気ですね」   彼女の言葉の意味を翻訳する必要があるだろう。 論理的には、それは、天候に関する情報を伝えているが、実際には、それ以上の意味がある。 彼女が本当に言っていることは── 「克綺さん、私は、ここにいます」   そういうことなんだと、僕は、彼女に教わった。   よって僕は答える。  「ごきげんよう。いい天気だ」   この言葉の意味は。 「あなたが、そこにいて、嬉しい」   そういうこと。  「これを、返さないとな」   僕は、彼女に傘を渡す。 この前、彼女の家で雨に降られた時、帰りに借りたものだ。 「ありがとうございます、克綺さん」 「行こうか」  僕は、彼女の手を取る。 一瞬、身を震わせたけれど、すぐに彼女は僕に手を預けた。  メゾンまでの短い道を、僕らは手をつないで歩いた。 鼓動と足音と秒針の響き。  美しい調和は、しかし、しばらくして破れた。 僕と、彼女の手の中で、鼓動は少しずつ早まっていったのだ。 「どうぞ」  僕は彼女を部屋に迎え入れる。 「こんにちは。お邪魔します」  「邪魔している、とは考えないでほしい。むしろ歓迎している」  「社交辞令ですよ、克綺さん」  「なるほど」 「綺麗な部屋ですね」   彼女はあたりを見回す。  「社交辞令か?」  「違います!」   日本語というのは難しい。 確かに僕の部屋は整頓されている。 単に物が少ない結果だが。 「お台所、広いんですね」 「ああ。使ってないがな」 「冷蔵庫は……」 「見ない方がいい。あとのお楽しみだ」  数少ないサンプルからすると、部屋に入った時、女性は家事に関わる場所に興味を示す。 どうやら彼女も例外ではないようだ。  ちなみに男性(サンプル数1)は、僕が、どこに猥褻な本、画像媒体等を隠しているかに興味を示していた。   何度無いと説明しても、彼は、探すのを止めようとしない。 あたかも聖杯を求める騎士のように、夏への扉を求める猫のように、彼は僕の部屋を家捜しするのをやめようとしない。   何か深刻なトラウマでもあるのだろうか? 「これが洋服入れですか?」  「興味があるのか?」  「ええ。あ、ほんとに制服しか入ってないんですね」  「他の服を必要としたことがない」 「パジャマとかは……」  「着ない」  「もったいない」  「ん? 何がもったいないのだ?」 「克綺さん、パジャマ、似合いますよ。 ボンボンのついたナイトキャップとか」  「僕は気にしないし、他に見る人もいないのだから、たとえ似合っても関係ないのではないか?」   彼女は、黙った。 少し首を傾げる。 これは、彼女の不快を示すボディーランゲージなのだ。 もっとも本気で不快であるというよりは、僕が彼女にとって不快なことをしたということを指摘するのが主な目的らしい。 「その表情は、感情の結果というよりは、伝達手段としての意図的な演技であり、僕に間違いを悟らせようという意図があると解釈していいのかな?」  「克綺さんは、フクザツなことをおっしゃいますね」  「僕から見ると、あなたが、複雑なことをしているんだ」  「日本語では、これは、すねるっていうんです」 「なるほど。 つまり、僕の言動および行動に見落としがあったというわけだな。 ヒントをくれないか?」  「言動のほうです」  「ふむ」  僕は記憶を遡る。 彼女が、あの表情を示した直前の言葉は、そう。  (僕は気にしないし、他に見る人もいないのだから……)   ああ、そうか。 「僕の寝ているところを見る人物は確かに存在する。 故にパジャマを着る意味はある」  「そうですよ。 そのために来たんですから」  「ふむ。 パジャマはどこで買えるのかな」  「いいですよ、今日は。 別にパジャマだけが見たいわけでもありませんから」  「なるほど。では、何が見たいんだ?」  彼女は答える代わりに、僕の頬をつまんで引っ張った。 「いたひ。ひょれも、すねるのひょうへんなのひゃ?」(痛い。これも、すねる、の表現なのか?)」 「いいえ、慎みの表現です」  ぱちんと音を立てて、頬が戻る。  慎み、か。 僕にはまだ、わからない日本語が多い。  世間一般では、こういう時の食事は、高級レストランが、雰囲気が良いとされるらしいが、僕には違う意見があった。  ディナーは、冷蔵庫の中身……すなわち、管理人さんの用意してくれたフレンチコースだった。  何も言ってないのに二人分のディナーを持ってきたところを含め、あの人の腕は、本当に底知れない。 軽く暖め直すだけで、本場フランスの香りが立ち上った。  オードブルは、薄く切った茄子のソテーにバジルペースト。   茄子は、ジューシーさと香ばしさの両方を残した絶妙の焼きかげん。 じわりとしみだす甘みに、バジルペーストの刺激が加わって、後を引くおいしさだ。  メインは、牛タンのココア煮。   信じがたいほど柔らかく煮込まれたタンは、唇でかみきれるほど。 すみずみまで味が染みたタンは、肉のうまみというものを、これ以上ないくらいに表現していた。  自家製フランスパンは、薫り高く、皿に残ったソースを、すくっていただくと、これまた、天上の美味。 あわせる赤ワインは……ラベルが読めなかったが、しっかりしたボディで、牛タンのココア煮の味を受け止める。   ココア煮を一口。 ワインを一口。 そうするうちに止まらなくなり、二人前にしては多いかな、と、思った量も、結局、僕たちは、鍋を空にしていた。 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまです」  万感の思いを込めてセリフを言う。 「克綺さん、毎日、こんなご飯食べてるんですか?」  「よく言われる。 その言葉は、あなたも料理に満足してくれたと取っていいのかな?」  「もちろんです。おいしかったですよ」  「それはよかった」   僕らは、しばらく言葉を切って、自らの幸運に感謝した。 「さて……料理が終わったわけだが」  「はい」   腹はほどよく満たされ、赤ワインは、体を芯から温めている。 目を閉じれば、そのまま夢を見そうだ。 「このまま、睡眠をとったら気持ちいいだろうなぁ」  素朴な感想を口に出すと、彼女は、とびきりの笑顔で、僕の頬を引っ張った。 「いひゃいいひゃいいひゃい」  ぱちんと音を立てて指が離れる。 「いや、あくまで仮定の話だ」  「私と料理と、どっちが大切ですか?」  「基準が違うので比べようがない」  「私より料理のほうが魅力的ですか?」  「魅力という言葉の定義……  いや君だ。間違いない」  「そうですか。 では、やり直してください」   僕は、うなずいた。 「さて、料理が終わったわけだが」  「はい」  「今後の手順について、何か、提案はあるかね?」  「克綺さんは?」  「ふむ。この前の約束を履行しようと思うのだが」  「もう少し、こう、違った誘い方はないですか?」   僕はしばし考えた。 「人間には、三大欲求とされるものがある。 そのうち食欲は満足のゆく形で満たした。 睡眠欲については、さきほど議論が終わったところだ。 故に僕は三番目の……」  「ストップ」   僕は黙った。  「もう少し雰囲気のあるおっしゃりようはありませんか? 克綺さんのことは知っていますが……こういう時くらいはロマンティックな扱いを要求します」  雰囲気か。 苦手なものだ。 特にロマンティックというのは鬼門だ。  だが、こんなこともあろうかと、「雰囲気のある誘い方」については峰雪に教えを乞うてある。 ヤツのアドバイスに頼るのは危険すぎるかもしれないが、こうなった以上、試してみる価値はあるだろう。  僕は、二本の指で、彼女の頤(おとがい)を押さえて、こちらを向かせた。 深い、紫の瞳を正面から覗き込む。  「……今夜は、寝かさない」   一瞬の沈黙。  彼女の綺麗な唇が微笑の形を取る。 見る間にそれは大きな笑顔になり……端的に言えば、吹き出した。  笑い転げる彼女を見るうちに、気がつけば、僕も大声で笑っていた。 「か、克綺さん……いまの……誰に、習ったんですか?」  「峰雪という男だ。 やつの言葉を信じた僕が愚かだった。 責任を回避するつもりはないが、この借りは、きっちりと返す予定だ」  「怒らなくてもいいですよ。ただ、ちょっと、びっくりしただけです」 「びっくりしたというよりは、笑い転げていた」  「ひょっとして……克綺さん、すねてます?」  「あー、どうやら、そのようだ。 人間は、自分の失敗を笑われると、屈折した態度をとる。 僕もその例に漏れないようだ」 「失敗じゃ、ありませんよ」  「雰囲気の選択に間違いがあった」  「ありませんよ」   優しい声。 「だから、もう一度、言ってください」   細い、柔らかな手が、そっと僕に巻き付く。 おずおずと、僕も抱擁を返す。 「今夜は、寝かさない」   今度の返答は、柔らかな接吻だった。  抱き合う手に力がこもる。   触れあう体。唇と唇。 力と力は拮抗し、僕らは、内に炎を駆けめぐらせながら、氷の彫像のように、ぴくりとも動かなかった。   永遠とも思われる時間がすぎ、僕らは、ゆっくりと身を離す。 「シャワー、借りますね」   彼女の囁き声が、耳元に響いた。 「灯りを消して待っていてくださいね」   彼女はそう言った。  僕は、言われるとおりに灯りを消す。   この部屋は、そうすると、ほとんど真っ暗になる。  暗闇の中で、僕は、シャワーの水音に耳を澄ましていた。   彼女の白い肌の上に、水滴がすべるさまが、目に浮かぶ。 体が熱いのは、ワインのせいだけではないだろう。  やがて水音は、薄れ、そして消えた。  ドアの開く音。 彼女の足音。  タオルを探し、身を拭き清め、ふたたび衣をまとう音。  そして足音。   扉がノックされた時、僕は息を呑んだ。 「克綺さん?」  「あぁ」  「入れてください」  僕は、ドアを開いて彼女を招き入れる。  扉を閉めると、再び部屋は闇に閉ざされた。 「見えないな」 「それがどうかしました?」  からかうような口調。 「君のことを確かめたい」 「確かめてください」 「どうやって?」  返事の代わりに彼女は僕に身を投げる。 その腕が僕の背を辿る。  僕も、そうする。 腕の中に、指の中に、彼女を確かめる。 肌は陶器の人形のように、すべらかで、そして繊細だった。  細い首を撫でる。 形のよい肩胛骨は服の上から確かめられた。 輪郭の一つ一つを撫でるたび、彼女の体が柔らかに震える。  彼女の掌も、僕の背を探る。 僕の手は、彼女の腕に移る。 指が回るほどの華奢な腕。  彼女の腕も僕の腕を探る。 蜘蛛のように、やわらかな指は僕の腕をなぞってゆく。  二人の手は、互いの腕をさぐり、そうして指を絡め合わせた。 まるでダンスを踊るように、僕らは手を取ったまま静止した。 「このあとの段取りについてだが……」 「段取りという言葉は、ロマンティックではありません」 「それは失礼。 ただ、これからどうしたらいいのかわからなかったんだ」 「じっとしていてください」  組まれた指がほどかれる。 ふわりと喉をなでられて、僕は、思わずうめきを洩らす。  猫にするように喉から顎をなでたあと、彼女の指は、僕のネクタイに移った。 手品のように、一瞬で、するりとほどく。 「克綺さん?」  僕も、指を伸ばす。 暗闇の中で服をさぐる。  彼女のようにはいかなかった。 布地と、その下のやわらかな肌は感じられたが、服の仕組みがわからない。  焦れば焦るほど、指は滑らかな生地の上を滑るばかり。 手がかりの一つさえ見つからない。 「だめだ。どうしたらいい?」 「……引き裂いてください」  囁かれた声に、僕は、うなずいていた。他のことは考えられなかった。 生地の上に爪を立てる。  力を込めて腕を引けば、綺麗な音を立てて服は破れていった。  彼女が身を震わせる。  千切れた生地は落ち、しとやかな肌が現れる。  僕は夢中になって服を剥いだ。  彼女も、腕を絡ませたまま、器用にボタンを外してゆく。 上着が抜き取られ、シャツの袖が外れる。 彼女の手がベルトに掛かり、僕は彼女のスカートを掴む。 「灯りを……」  柔らかい肌を慈しむ前に。 僕は、この目で確かめたかった。 闇の中で、少女が小さく首を振る。 「こうしましょう」  ふわりとカーテンが開かれた。街灯の光が室内を照らす。  そこに彼女がいた。 月光に照らされた肌は透き通るよう。 形のよい胸をかるく腕でおさえたそのシルエットは……目に快かった。 「綺麗だ」  僕は、素直な感想を口にした。 「そのセリフは、峰雪さんの入れ知恵ですか?」 「いや、単なる事実の指摘だ。 峰雪のアドバイスだと確か……いや、やめておこう」 「どうして?」 「雰囲気が壊れそうだ」 「気になります。言ってください」  いたずらっぽい瞳。 柔らかな唇が近づく。 「後悔するなよ」  僕は大きく息を吸った。 「君の瞳に、乾杯!」  彼女は笑っただろうか。 あきれただろうか。  それはわからない。  声を出す前に、その唇を僕が塞いだからだ。  僕らはもつれあってベッドに倒れ込んだ。 震える舌先は、唇をむさぼり、そして離れる。 僕の腕の下に彼女がいた。 小さく儚く美しく。 「どうしたんですか?」  甘えるような声。 「どうしていいか、わからないんだ」  僕はつばを飲み込む。 目の前の体は、あまりにも華奢で。 手を触れるだけで。 「壊れそうだから。壊しそうだから」 「壊したいんでしょう?」  その言葉に、僕は従順にうなずく。 「いいんですよ、好きにして」  体全体が、ぶるりと震えた。 「その代わり、私も……好きにしますから」  細い指が胸を撫で、僕の体に電気を送る。 うなずいて、僕は、彼女の肉をついばんだ。 震える舌先で、首筋を、喉を貪り、やわやわと彼女の乳房に触れる。 「んっ……」  形を変える乳房に僕は顔を埋め、唇で味わう。 雪のような肌がみるみる桃色に染まってゆく。 舌の先で先端を転がす。 「ああっ……」  小鳥のような啼き声に、僕の体は熱くなる。 しなやかな腕が僕を包む。 「克綺さんっっ!」  舌を転がすほどに、腕は、強く、弱く、僕を包み、爪が背中に不思議な文字を刻む。 血の匂いさえ僕を奮い立たせる。 僕は、彼女の腕をふりほどき、その右手首を取る。 細く長い指先に、僕は歯を立てた。 「あんっっっっ」  悲鳴は尾を引いた。 「痛かった?」 「ちがいます。ただ、その……んんっ……克綺さん、上手ですね」 「そうなのか?」  僕は彼女の中指に舌を這わす。 その柔らかな曲線は、僕の舌が動くたびに、ぴんと張りつめ、また、緩む。 「そんなの……どこで、覚えたんですか?」  吐息混じりの声に、僕は考えこむ。  一瞬、目の前を無数の裸身がよぎった。 見たことのないはずの裸身。 「どこでもいいだろう」  僕は、舌を指から掌、そして腕に這わす。 「どこ、なにするんですかっ……」  小さな抗議。 「好きにしていいんだよね」  片手で彼女の右腕を高く持ち上げる。 身を引こうとする胴体を、両足で押さえつける。 そうしておいて、僕は彼女の脇の下に顔をうずめる。 「でも……そんなとこっ……」 「だめかな?」 「……いいですよ」  羞恥に染まった声。 酸味のあるくぼみに舌先を這わせるたび、僕の指先と胴体の間で、押さえつけられた彼女の体が踊った。  馬を乗りこなすように、僕は彼女の抵抗を太股に感じる。 それは背骨を伝い、猛り立ったものの先に振動を与えた。 小さく息を吸い、快感をこらえる。  彼女の自由な左腕が僕の頬に触れる。 掌が僕の髪を押す。 僕の頭を押しのけるように、あるいは、また、押しつけるように。 迷いと抵抗を楽しみながら、僕は、彼女の脇の下から脇腹をねぶった。 「ひゃっ……あんっっ……」  びくりと彼女の体が跳ねる。 左腕が、僕を止めようと動く。  僕は、その左腕を掴んで、右腕と一緒に持ち上げた。  顔を上げれば、彼女の裸身がそこにあった。  上向いた乳房が、柔らかなお腹が、息づかいとともに揺れる。 瞳には、かすかな不安の色。 「あの……この姿勢はずるいと思います」 「そうなのか?」  僕は左手一本で、彼女の両手首をまとめて握る。 脇腹に口づけながら、ゆっくりと手を下に這わせる。  掌に感じる息づかいを楽しみながら、ゆっくりと下へ。下へ。 柔らかな茂みの入り口を指でまさぐる。 「あの……待って」  懇願の声。 僕は、指を止めた。 「何がずるいのか、わからないんだが……」 「どうして手を押さえるんですか?」 「こうすると君が綺麗だからだ」  ぴんと伸びた彼女の体は、張りつめた弦の趣がある。 僕はそう思う。 「そ、そんな言い方しても駄目です」 「どんな言い方をしてほしいのかな?」  僕は指を動かす。 「んっ。そ、そうじゃなくて……」 「こうかな?」  指の動きを早めると、彼女の体は、ますます揺れた。 「そ、そうです……ちがいます!」 「どっちなんだ?」 「手を、放してください」  僕は、言われた通りに手を放した。 彼女は小さく溜息をつく。 「克綺さんばっかりずるいです。 私だって……克綺さんのこと、触りたい……」  しばらく考えて、僕はうなずいた。 「それは悪いことをした。 経験がないので至らない点があったことをお詫びしたい」  経験がない? そのはずだ。  だけど、僕は。 今日の僕は、何かいろいろなことを覚えている気がした。 ふと何かが閃く。 「つまり、互いの位置関係が公平であればいいわけだ」 「……まぁ、そうですね」  だったら…… 僕は、彼女を持ち上げる。 その体は思った通り、羽根のように軽かった。 くるりと転がって、体を入れ替える。  見上げた僕の前に、彼女自身があった。 「ちょっと……克綺さんっ!」  あわてた声。 彼女の手が僕の視界を覆う。 「何をするんですかっ!」 「相互に対称な位置関係の確立、かな」 「え……ええ」  放心したような声。 「どうかしたか?」 「あの……克綺さんの……大きいですね」 「よく言われる」  何の気なしに答える。 「誰に、ですか?」  声には、怒りがこもっていた。 しまった。 「記憶の混乱だ。気にしないでくれ」 「気にします」  ぴんっと人差し指で、僕の先端が弾かれた。 痛みが全身を駆け抜ける。 「くっ……」  なぜだろう。 なにか理不尽な気がする。 「克綺さん。他の〈女〉《ひと》のことは、忘れてください」 「努力する」 「じゃぁ……許してあげます」  ゆっくりと。 ゆっくりと舌が僕のものに触れた。 「んっ……ふぅん……」  ぴちゃぴちゃと舐める音。 舌先が、ゆっくりと根本を回ってゆく。 暖かな感触が蠢き、僕の下腹に熱いものがこみ上げる。  僕は、指を伸ばした。 柔らかな茂みをかきわける。 その奥は、すでに湿っていた。 亀裂を指でこすりあげる。 「ふぁ……あ……んん……」  彼女の洩らした吐息が、僕のものを嬲った。 快感の波が全身を駆け抜けるのに、僕はじっと耐えた。 「我慢しなくて……いいんですよ」  彼女はそう言って舌使いを変える。 尖った舌先が、僕の先端に口づける。 「ん……ちゅっ……ふみゅ……」  同時に指先が、僕の根本で踊った。 やわやわと袋をなであげる。 その快感は、ほとんど耐え難く。  僕は逆襲に転じる。 そろそろと亀裂をなぞり、堅いものを見つけて、軽くつまみ上げた。 「んっ……」  身をのけぞらせ、湿った音を立てて彼女の唇が離れる。 今の内だ。  ……何が今の内かはともかく、僕は首を曲げて、舌を伸ばす。 小さな茂みの中に、尖った舌を滑らせた。 「あん……ん……ん……」 「克綺さん……やりますね……」  彼女は、身を震わせながら、再び僕のものに口をつける。 「はむ」  先端を口の中に含み、舌先を転がす。 その指は、根本に落ち着き、袋を撫でる。 柔らかなものが亀頭に巻き付き、また鈴口を嬲る。 「くぅっ……」  体が揺れる。全身に電流が走る。 歯を食いしばって僕は快感を受け流す。  だが、快感はとまらない。 形勢は不利だ。  僕は、人差し指を舐めると、ゆっくりと、亀裂をなであげた。 下から上へ。 その先の小さな窄まりへ。 「あんっ……!」  効いた。 再び彼女は身をのけぞらす。 「そこは……あふっ……反則、です」 「規則があったのか?」  やわやわと僕は、その窄まりを撫で、もみほぐす。 「だって……そんな、ん……汚いですっっ」 「君の体を確かめたいだけだ」  ゆっくりと指で円を描く。 同時に、舌で亀裂への責めを再開する。 「ちょっ……あん……負けませんよ。はむっ」  いつのまに勝負になったのだろう。 先端から全身に電流を感じながら、僕は人差し指を動かし続ける。 最初は締め付けていた窄まりから、力が抜け始める。  そこを。 突いた。 「きゃぁぁっ!」  一気に第二関節まで潜らせる。 熱い肉が、僕の指をきつく締め上げた。 「あ……ん……きゃん……」  指を動かすたび、面白いように彼女が動いた。 舌先に、とめどなく甘い蜜が滴り始める。 「か、克綺さんが、その気なら。私だって!」  やわやわと袋を撫でていた指が、ゆっくりとその先を探り始める。 む、いかん。 「……お、お返しです」  あえぐ息の下で、彼女が囁いた。 僕の体内に、小さく細い指が侵入する。  体内を犯される感覚に、僕は、全身を震わせる。 震えは僕の指に伝わり、彼女の体内に再び震えを送り返す。 典型的なフィードバック。  どんどん増してゆく快感の中で、やがて、僕らは拮抗した。 体を埋め尽くす快感に耐え、それでも、最後の一線を守り続ける。  埒が開かない。 彼女もそう思ったに違いない。  僕は、湿った音を立てて人差し指を引き抜いた。 ふるふると震えながら、まだ、閉じずにいる小さな窄まりに、僕は狙いを定めた。  彼女は、ちゅぽんと音を立てて、唇を放した。 ふぅっと吐息を吹きかけ、裏筋を舐めあげながら、再び口に含む。  わずかの間を置いて、二人同時に動いた。  僕は、人差し指と中指。 二本の指を揃えて、彼女の窄まりを突いた! 一方、彼女は、亀頭の先端に、歯を立てる!  目の前が白くなる。 体が痺れる。  彼女と僕。 同時に達する瞬間、僕は。  熱いものが、迸る。 全身が、ポンプになったように。 熱いものをどくどくと送り出す。  僕は僕の先端になり。 ひたすら濃く白いものを吐き出し続けた。 「んんっ……」  彼女が苦しげな息をもらす。 彼女の腰が揺れる。 目の前で亀裂が開き、そして震えるのがわかった。  快感を越えた快感。 その余韻に、僕らは、しばらく身を震わせる。  やがて、こくり、と、音がした。 彼女は、僕のものを飲み干したのがわかった。 「すまない」  苦しげな息をつく彼女に、僕は声をかけた。 「え?」  まだ夢から覚めないような声。 「苦しくなかったか?」 「そんなことはありませんよ」  声には安らかさがあり、僕は、それを信じた。 「それより、克綺さん……痛くなかったですか?」 「痛いようなことをしたのか?」 「あの……つい。だって、克綺さんが、ひどいんですもの」  すねる声に、僕はあわてて答える。 「いや、痛くはなかった」 「じゃぁ、よかったです」 「あぁ、とてもよかった」 「あの……どこ見て言ってます?」 「君が見ているのと相対的に同じ部位だ」  僕は、ふっと息を吹きかけ、彼女の体が揺れるのを楽しむ。 「もう、なにするんですか!」  ふっと、彼女が息を吹きかけかす。 「あ、すごい……」  何がすごいかは聞かなくともわかった。 「克綺さん、元気ですね」 「君のおかげだ」 「だから、どこ見て言ってるんですか!」  どうやら、その言葉は質問ではないようだったので、僕は、沈黙を守ることにした。  僕の目の前で、彼女の腰が揺れていた。 亀裂が開き、紅い中身を惜しげもなく晒し、大きく震えた。  彼女が、達したのだ。 そして、次の瞬間、僕も。  熱いものが、迸るその瞬間。 僕は、筒先を逸らした。  腹の中が沸騰する。 手が、足が、力をこめて痙攣し、僕の中の熱いマグマを吐き出す。 驚くほど大量のものが、宙に舞った。 「きゃっ……」  小さな悲鳴。 僕は荒い息をつきながら、自分が何をしたのか、ようやく理解した。  声は、まだ、出なかった。 快感を越えた快感。 その余韻が、僕の体を震わせていた。  息がつけるようになって、僕は、ようやく口を開いた。 「すまない……その……汚してしまって」 「いいんですよ。克綺さんのでしたら」  安らかな声に、僕は、安堵した。 「ちょっと、顔を洗って来ますね」  彼女は、ゆっくりと立ち上がり、浴室へ向かう。  全身に、まだ、震えが残っていた。 ゆっくりと息をして、吐く。  部屋には、彼女の甘い匂いがたちこめている。  目を瞑れば、残像のように、彼女の踊る裸身が見えた。 水音に耳を傾け、僕は彼女の声を思い出す。  待っている間の数分は数時間にもおよび、その間中、僕は彼女のことしか考えられなかった。  思うに、男性であることの、利点の一つは、思考、感情が肉体に及ぼす効果(あるいは、その逆)をこれ以上ないほど、明確に把握できる、ということだろう。  この場合の僕の思考も、肉体に確実な変化をもたらした。  故に、彼女が帰ってきた時の第一声が 「克綺さん……元気ですね」  であったとしても、驚くには及ばない。 「君は元気じゃないのかな?」  そう言うと、彼女は、顔をあからめて。 「そんなわけないじゃないですか」  と言った。 「あの……」  「ええと……」   ベッドの上。 僕たちは、見つめ合いながら、同時に音声を発した。 気詰まりな沈黙があたりを満たした。 「すまない。どうぞ」  「いえ、克綺さんからどうぞ」   客観的に見て間抜けなやりとり。 ともあれ、どちらかが譲らなければ始まらない。 「それじゃぁ……あーその、これから行うことについて提案がある」  「提案、ですか?」   少女が、首を傾げて僕をにらむ。 ……僕は、あまり信用されていないらしい。 「つまり、その形式についての提案だ」  「克綺さん、その……ご希望があるんですか?」  「いや、僕の希望というよりは……先ほどと同じく、公平性を優先したらどうか、という提案だ」  「公平性?」  「位置の対照性と言い換えてもいい」   僕は、自分の考えを説明すると、彼女はうなずいた。 「いいですよ。それと、私からもお願いがあるんですけれど……」  「なんなりと」  「あの、さっきの克綺さんの、で、ですね」  「僕の行為、ということか?」  「そうです。行為です」   なぜか恨めしそうな声。 「その、それで、ですね。 あの……そこが、刺激で……」  「どの行為か明確にしてほしい。 僕は色々なことをした」  「ですから、おしり……です」   語尾は消えゆくようだった。 「あぁ、その行為か」   僕はうなずく。  「で、お尻への刺激が、どうかしたのか?」   彼女の顔から、すっと表情が消えた。 矛盾しているようだが、これは彼女の怒りの表現である、ということを僕は学んだ。 「すまない」   僕は急いで言う。  「何がすまないか、まだ理解していないが、とりあえず、それも含めてすまない」   彼女は、しばらく僕を睨んでいたが、やがて小さく溜息をつく。 「いいんです。わかってるんです。克綺さんのことは」  「そうか。それはありがたい」  「ですから、あの……」  彼女は、僕に耳打ちする。 他に聞いている人がいない以上、明白に非論理的な行動であるが、僕は、それを指摘しなかった。   ──たまには僕も、雰囲気というものを理解する時があるのだ。 「それじゃぁ……お願いします」  僕らは向かい合って座り、彼女が、ぺこりと頭を下げる。 「こちらこそ」  そう言って、僕は彼女の脇の下に腕を通した。 軽い体を持ち上げて、抱き寄せる。 彼女の腕が僕を抱きしめ、僕も彼女を抱きしめる。 僕のそそりたつものが、ゆっくりと彼女に触れる。 「本当にいいのか?」 「はい。うしろで、お願いします」  僕の、そそり立った先端が、彼女に触れる。 柔らかな茂みが、やわやわと撫でる。 「あの、そこじゃなくて……」 「わかってる」  僕らは、協力して、位置をずらす。  先端が、かすかな窄まりを掴む。 「そこで……お願いします……」 「あ、あぁ」  先ほど広げたとはいえ、その窄まりは、あまりにも可憐で、僕を受け止めるには、小さすぎるように思えた。 僕は、彼女を降ろすのを躊躇する。 「だいじょうぶですよ、克綺さん」  そう言って彼女は僕の耳たぶをかんだ。 「だいじょうぶです」  ゆっくりと僕は力を抜く。 彼女の体が、ゆっくりと自らの体重で沈み込む。 「は……んっっ」  眉をひそめる彼女を、僕は愛おしいと思った。 その頬にくちづける。 「んっ……ふぅっ……くぅん……」  僕の先端が、熱く狭いものに包まれてゆく。 先端のくびれが通ると、あとはすぐだった。  つぷつぷと音を立てて、僕は彼女の中に埋まってゆく。 彼女が僕を包んでゆく。 暖かなものに引き絞られ、僕は全身を堅くする。  いまや彼女は、僕の目の高さにいた。 唇が、僕の唇を求めて舌をだす。僕は身をのりだして、そこに口づけた。  溶ける。融ける。蕩けてしまう。 抱きしめた僕の腕が彼女の中に溶けてゆく。 抱きしめる彼女の腕は僕の中に溶けてゆく。  僕の胸に、彼女の背が触れ、互いの感触を確かめ合う。 唇と唇は溶け合わさり、僕の猛り立つものは彼女の熱い孔と一つになった。  たとえようのない一瞬。 僕は僕の境を無くし、彼女と一体となる。  ゆっくりと、しかし、容赦なく、時は流れる。 僕たちは、ゆっくりとお互いの汗ばんだ体を意識し、互いの息づかいに耳を澄ます。 「克綺さん……」  小さな囁きに、僕はうなずく。  僕は彼女ではない。 彼女は僕ではない。 それは、悪いことでもなんでもない。 違うからできることがあるのだから。 「動いて、いいかな?」  彼女は、こくりとうなずいた。  だが動こうとしても、彼女のものは僕を痛いほどに締め付けていた。 「力を抜いて」 「はい……」  堅かったそこに柔らかさが宿り始める。 彼女と僕は、息をあわせて互いの体を動かしはじめる。  ひとーつ、ふたーつ。 僕は口に出さずに、数える。  僕と彼女の小さなリズム。 二つのリズムは、溶け合いながらも、一つにはならない。 わずかな違いが、複雑な快感を生み出してゆく。 「あ……ん……克綺さん」  彼女の体がふわりと浮き、そして、すとんと落ちる。 と同時に、僕自身も引っ張られ、そしてまた、押し返される。 今度のは、競争ではなかった。 協力だ。  単純な上下動に、僕はシンコペーションを加える。 「いいです……そこ……」  彼女は、お返しに、小さなひねりをプレゼント。 心地よいよじれが、僕のものを愛撫する。 「ん……」 「克綺さん……克綺さん!」  ゆるやかに始まったリズムは、だんだんと振幅を増し、少しずつ早まってゆく。 複雑な旋律を絡めて、大きく育つ。  彼女は僕を締め上げ、ねじり、撫ぜあげ、絞り尽くす。 僕は彼女を、貫き、突き上げ、ねじこみ、喰らい尽くす。  彼女の腕に力がこもる。 あの華奢な腕が、これほど、という強さで僕に巻き付き、爪は、背に血をにじませた。 「ふああ……ん……深いです……克綺さん……私……私……溶けちゃう……壊れちゃう」  言葉以上に、彼女のリズムが、限界が近いことを告げていた。 それは僕も同じだ。 二人のメロディが、フィナーレへ向けて駈けのぼる。  あと4つ。 「あっっんんっ……あんっっ……」  あと3つ。 「う……くぅん……克綺さん……」  あと2つ。 「もうだめ……です……私……私……」  ラスト。 「私……わた……もう……あぁぁぁあんんんっっんんっ!」  深い、深い、最後の一突きで、彼女は痺れるようにのけぞった。 僕は、僕でのけぞりながら、熱いものを彼女の中に吐き出す。 「あつい、あついですっっ……!」  熱く熱く彼女は締め付けた。 それは、僕の精液の最後の一滴を絞り出し、なお、求めて止まなかった。  凄まじい快感とともに、僕は僕の中の全てを吐き出してゆく。 血が。命が。心が。その全てが彼女の中に流れ込む。 快感は、恐ろしいほどの喪失感と背中合わせだった。  やがて。 僕は、僕の全てを注ぎ込み。 彼女は、僕の全てを受け入れて。  そうして、汗まみれの僕らは、互いの腕の中に倒れ込んだ。 互いに互いを支え合いながら。  僕は笑っていた、と、思う。 「──」  僕は、最後に彼女の名を呼んだ。 あの時、聞いた、彼女の本当の名を。  翼のはためく音が、その答えだった。  やがて僕は目を覚ました。  快感の中に我を忘れ、気絶する。 そういうことがあるとは聞いていたが、体験するのは無論はじめてのことだった。 「克綺さん、起きました?」  気がつけば、彼女は服を着て立っていた。  「あぁ」   僕も僕で、いつのまにか制服を着込んでいる。 「着せてくれたんだ」  「いいえ」   そう言って首を振る。 室内だというのに、彼女は、あの大きな傘を広げていた。 くるくると回る傘は、僕に何かを思い起こさせる。 「何か、忘れてることがあった気がするんだが……」   僕は首をひねる。 少女は、ゆっくりとベッドのほうを指さす。  そこに……僕がいた。  裸で。 少女を抱きしめている。  あぁ、なるほど。 あれが、僕か。 いや、僕だった、というべきか。 「そうか。そうだったな。思い出したよ」   運命の庭園。 行き止まりの森。 そうだ。 そこで、僕は彼女に触れて死にたいと願った。   ──それはいいが。だとすると。   僕は、ふと、気になって、彼女に聞く。 「僕が僕なのはいいとして、僕のそばにいるあの娘は誰だ?」   ええい、指示代名詞が混乱している。  「私の身体ですよ」  「君、身体があったのか? 現実に?」  「現実に出向く時は、身体がいりますから用意します」  「現実から出る時は?」  僕の問いに、彼女はにっこりと微笑んだ。   あぁ、なるほど。そういうことか。   裸の少女は……僕と同じく、息をしていないようだった。 僕は僕の顔をのぞきこむ。 恍惚に歪んだ、しかし、満足げな顔。 「変な顔をしているな」  「誰がですか?」  「いや、僕が」  「悪くない死に顔だと思いますよ」   彼女が言うのなら、そうなのだろう。 「さて、と。 これから、僕は、どうするんだ?」  「歩くんです。自分の足で」  瞬きする間に、僕は、庭園にいた。 否。最初からそこにいたのかもしれない。  目の前には一本の道があった。 道は、ほんのわずか先で、無数に分かれていた。 「じゃぁ、ここでお別れ、ということになるのかな?」  「そうなります」   彼女はうなずいた。 いつもの彼女だ。 仕事モード。 「さっきは、かわいかったのに」   小さな声でつぶやいた。  「もう……何を言うんですか」   彼女の顔が紅く染まる。 「いや、このことも忘れてしまうのかな、と、思うと、寂しくてね」  「また会う時に、思い出しますよ」  「あぁ、それならいいや」  僕は、道に向きなおる。 道は遠く広く広がり、その果ては見えなかったが、僕には怖れはなかった。  なぜなら僕は知っているからだ。 どんな道を選んでも。途中に何があっても。 道の最後には、彼女が待っていてくれる。  彼女は、この世のなによりも公平で、おまけに優しいのだ。 「それじゃぁ……」 「いってらっしゃいませ」  彼女は、小さくお辞儀をした。 別れの挨拶は、さよならではない。 「また、会おう」 「また、お会いします」  僕は手を振って道を歩きだした。  この道は、どこに通じているのだろう。 僕は、今度は、誰と出会うのだろう。  いつのまにかあたりは暗く、僕の前方には光があった。  光に向けて。 一歩、また一歩と歩くたびに。 僕の中から僕が抜け落ちてゆく。  無数の記憶が。 身体の形が。 そして名前さえもが無くなってゆく。  薄れゆく意識の中で僕は思う。 僕の声は、まだ、彼女に聞こえるだろうか。 きっと聞こえるだろう。 彼女がいない場所は、ないのだから。  暗いトンネルは終わり、目の前には光の入り口があった。 最初の一歩を踏み出す瞬間。 僕は、小さくつぶやいた。 道の遠くで待っている優しい人へ届けとつぶやいた。 「僕は、今、ここにいる」 「君に会えて、よかった」  やがてめのまえがおおきなひかりにつつまれてひかりのなかにとけるしゅんかん。  ぼくは。  ぼくは、たしかに、あのなつかしい、つばさのはためきをきいたきがした。  あてどなく歩く脚は、振り子のようだ。 交互に振りだして前へ進めば、コツコツと鳴る足音が、時を刻む。  小学生たちが跳ね回りながら、僕の横を通り過ぎる。 文庫本に目を落としたまま、早足で通り過ぎる学生服。 まっすぐ前を見て、競歩するように家路につくサラリーマン。  ……みんな心臓があるんだろうなぁ。 そんな脈絡もない考えが頭をよぎる。 一人に一つずつ。 胸の真ん中で、時に激しく打ち鳴らされる生のリズム。  僕は金時計を掴む。ゆっくりとした、あまりにもゆっくりとした、変わることのない〈拍子〉《リズム》が僕を動かす。  携帯に囁きながらすれ違う女子高生。 すれちがいざまに吹く風に、くるくると僕は揺れる。  ……違う時間が流れてるんだ。  濃密な時間を持って通り過ぎる人の群れ。 薄い時間の僕は交わることがない。  目をつぶれば道は大河のようで、流速の深い川底を激流が流れ、僕は岸の近くをゆるゆると流れる。  それはまるで早回しのフィルム。 灰色の群衆がしゅるしゅると入れ替わってゆく。 少しずつ。少しずつ。灰色の群衆が、赤みづく。 夕暮れ。  走る、走る、人が走る。 回る、回る、フィルムが回る。  灰色の人の群れは、ぐるぐると回り続ける回転ドアのようで。 道ばたに押しつけられた僕は、そこに混じるタイミングが掴めなかった。  大通りから、押し出されるように、僕は路地に迷い込んだ。  人のいないほう、人のいないほうに歩く内に、気がつけば僕は暗い裏路地に迷い込んでいた。 新開発区の入り口あたりだ。  妙なところに来てしまったものだ。 僕は、深呼吸をして、落ち着きを取り戻そうとする。  さすがに、ここから先に行くのはまずい。  かなり昔。 新副都心構想がどうとかで、この狭祭市に白羽の矢が立ったことがある。 多くの企業が青田刈りとばかりに進出し、新開発区が作られた。  だが計画は白紙になり、ほとんどの企業が撤退し、あとに残ったのは、廃ビルの山。 なぜか取り壊しにもならず、今まで残っている。  当然、治安は最悪という噂だ。 確かめる気もないし、その必要もない。  実際、今も、ひとっこひとりいない。  ……なんだ?  気づくより早く、僕は、走り始めていた。 なぜ走っているのか。それもわからず。 脳の中で、ぼんやりと何かが弾ける。 一瞬、見えた人影。見知った顔。  廃ビルの間の妙に広い通り。その間を。 真剣そのものの表情で全力疾走しているのは、恵だった。 「恵っっ!」   走りながら、僕は全力で叫んだ。 届いてない。いや、聞こえていない?  「めぐっっ!」   もう一度叫ぼうとして、息が切れた。  目眩がする。ふがいない身体に苛立つ。   声は届かない。 ぐずぐずしている間に恵の姿が急に小さくなる。 恵の走りは、それほどに速かった。    何かに追い立てられているような、本当に必死の走り。 少しでも遅れれば、見失う。   僕は、呼吸を整える。 声をかけるのは、もっと近づいてからだ。   走る。走る。膝をあげて、腕を振って。   一歩でも近く。 一瞬でも速く。   喉に血がせりあがる。 呼吸するたびに、肺が痛む。   恵は運動神経は悪い方じゃないが、僕のほうが体力とコンパスで勝る。 それでも追いつけないというのは、いったい、どれほどの速さなのか。   何が、恵を駆り立てるのか。   一瞬だけ見えた恵の横顔。 真剣すぎて無表情な顔の裏にあるもの。   思い返せばそれは。   ──恐怖。  過熱した胸の奥で、冷たいものが走る。 論理思考があとから追いつく。   恵が恐れているもの。それは、なんだ?   走りながら、あたりを見る。 赤黒い光が照らす夕暮れのビル街。 紅いコートも黒い髪も、夕焼けに溶け込み、いまはもう、かすかな輪郭でしか見えない。   頼りにするのは、その足音。 路地を越えてこつこつと地面を蹴るその足音。   足音は。一つだけか?   息が苦しい。 血の流れがごうごうと耳元を流れる。 聞き分けようとしても、無理だ。   だけど。 確かにノイズが混じっている。   かすかなノイズ。 何かをひきずるような音。   ずるり、ずるり。 それは足を引きずる音にも似て……。  思考は唐突に断ち切られた。  目の前が急に明るくなる。 街灯。そして車のライト。 新開発区の、出口だ。  どこをどう走ったか、気がつけば、開発区をぐるりと回っていた。 光っているのは駅前大通りの信号だ。  ノイズはもう聞こえない。 車の音が全てをかきけす。  恵は、まだ走っている。うしろを見ないで。前も見ないで。  汗の全部が冷たくなる。 僕は、最後の力を両足に込める。 肺一杯に空気を吸って、耳がちぎれるほどに叫んだ。 「恵っっっ!」  車の喧騒を越えて。距離を超えて。声は届いた。  恵が、振りかえった。  その顔が、僕のほうを向き。  そして、瞳が恐怖に見開かれる。口元が凍りついたように固まる。  恵は、あとずさり、あっさりとガードレールを越える。  そのまま、何かに背を押されるように走り出す。 数歩歩き、そして、車道の真ん中で、ばったりと倒れ込んだ。  声は、でなかった。 ただ足を動かした。  ──間に合わない。 冷徹な声がした。  僕は、走る。 時間の流れが鈍くなる。空気が重くなった。  アスファルトを蹴って、ガードレールを乗り越える。 宙に浮いた足が地に着くまでのもどかしさ! 「わぁぁぁぁぁぁぁ!」  自分の声が、遅れて聞こえた。  大地に倒れた恵に、僕は上から覆いかぶさる。  エンジン音。 ブレーキ音。  タイヤがきしり、空気が震える。 悪夢のようにゆっくりと、バンパーが近づく。 恵を抱き起こすより速く。  僕は、宙を舞った。  衝撃が意識を奪うまでの一瞬の間。僕の視界は、出てきた路地を捉えた。 闇の中に凝る、闇よりもなお暗い影が。  人に似て。それでいて、人と違うシルエットを。 僕は、確かに見た。  背骨をつきぬける痛みが、僕を目覚めさせた。 頬が当たっているのは、ざらざらとしたアスファルト。  どうやら意識が飛んだのは、ほんのわずかな間だったらしい。  起きあがろうとして、地についた掌が痺れていた。 無意識の内に受け身を取ったらしい。  脇腹、そして背中が燃えるような刺激があった。 痛みじゃない。痛みは、今、押さえ込まれていた。  僕は、ふらりと立ち上がる。  こっちを見ていた中学生くらいの少女が、足早に歩み去った。   吐き気はない。 めまいもない。 僕は、平気だ。   それより恵だ。 病院。救急車。  僕は、必死に携帯を探る。 ポケットに入れたはずのそれは、どうしても見つからなかった。  大通りの片側に、巨大なトラックが止まっていた。あれが僕を? それより恵は?   道ばたに集まった人の壁。 恵は、きっと、あの向こうだ。  もつれる足が、何かを蹴飛ばした。 それは、液晶の割れた、僕の携帯だった。  救急車が来るのは思ったよりも早かった。   車に入ると、手当をされた。 血をぬぐわれ、絆創膏がはられる。   何か、いろいろ聞かれたのを覚えてるが、ろくに答えられなかった。   恵が、糸が切れたかのように動かない恵が、そばにいるだけで、ものが考えられなかった。   壊れた携帯を見せると、隊員の人がPHSを貸してくれた。   管理人さんにかけようと思って、番号が思い出せなかった。     思い出せるのは、峰雪。   電話は、つながった。   何を言ったかは覚えてない。 途中から、隊員の人が代わってくれた。   病院の名前を言っていた、と、思う。     恵がキャスターで運び込まれる。  ついていこうとしたら、腕を掴まれた。 僕は僕で検査があるらしい。   あらがおうとして、膝が、崩れた。 力強い手に支えられて、僕は、廊下を運ばれた。   簡単な問診と、検査。 この間、僕は、軽い、無気力状態だったらしい。 恵のことは、常に頭にあったが、焦燥感や心配は、なくなっていた。 ただ、医者の言うままに答え、動いた。   結果、僕の怪我は、軽い打撲程度だった。 あのトラックに跳ね飛ばされたとすれば、まぁ、奇跡的に軽いと言ってよかろう。   診断と治療が終わっても、僕は、呆然としていた。  恵の病室を告げられて、ようやく、我に返る。 「よぉ、この、死に損ない」  ドアを開けて、峰雪が、でかい声で言った。 管理人さんも来ていた。  「静かにしろ。他の人に迷惑だ」   自分でも信じられないくらい冷静に僕は言った。  「ぬかせ、この石頭」 「お医者さまが言ってたけど、恵ちゃん、心配ないですって」   恵は、ベッドに眠っていた。 その寝顔を見て、ようやく僕は、ためた息を吐き出した。 急に全身に疲れを感じた。  「精密検査もしたけど、普通に寝てるだけだから」 「よかった」   そう言ってから、僕は気がつく。  「どうして管理人さんがいるんですか?」 「どうしてっておめぇ、俺が呼んだからに決まってんだろ」  「ふむ。峰雪。君にしてはいい判断だ」  「ンだと、こら」 「ありがとうございます」   僕は、改めて管理人さんに頭を下げた。  「何、言ってるの。 困った時は、お互い様でしょ」   にっこり笑った管理人さんの顔をみると、なぜだか、身体の強ばりがほぐれるような気がした。  「でね。克綺クン。警察の方が、連絡くださいって」 「どうして……警察が?」 「うーん、交通事故だからじゃないかな」  「あぁそうですか」  我ながら間抜けな会話だ。 トラックが人をはねれば、事件性がある。 そんな当たり前のことを忘れていた。 というより、トラックには運転手がいる、という事実に、今、思い当たった。   今回の場合、責任は完全に僕と恵だ。 運転手に罪はない。   恵のそばにはいたかったが、仕方がない。  警官に来てもらうこともできたが、僕の怪我は軽いし、これ以上、第三者の手間を増やすのも嫌だったので、僕は、直接、警察署に向かうことにした。  「わかりました。警察に行ってきます」 「もっとシャキっとしやがれ。 テメェが犯人みたいな顔してるぜ?」  「法律的にはともかく、道義的には、その通りだ」  「あ?」 「では行ってきます」 「あ、ちょっと待って」   管理人さんに呼び止められる。  「何でしょう?」  「克綺クン、今、お金、いくらある?」 「現金は少ないですが……」  「いいから、これ、持っていきなさい」   管理人さんが、小さな袋をくれた。 「金銭をもらう謂われはありませんが……」  「もらっとけっつの」   なぜか峰雪が凄む。 管理人さんと僕の問題に、峰雪が口を挟む非論理性を指摘したかったが、いかんせん、疲れすぎていた。  「いただきます」   僕が、頭をさげると、管理人さんが、ほっとしたように笑う。 峰雪と管理人さんに別れを告げ、僕は病室を出た。   運転手の人は、30歳くらいの男性で、痛々しいほどに恐縮していた。 警察署に出頭して、僕は、開口一番。  「今回は、我々の責任です。この人に問題はありません」   と言った。 僕の主張は、それで全部だったが、警察は満足してくれなかった。  長々とした事実確認。こまごまとした質問。 取り調べというものは、主観を客観に変えてゆくプロセスだと知った。   警察官から聞いたところでは、トラックの運転手は、僕を見て、ブレーキをかけたそうである。 つまり、倒れた恵には気づいていなかったわけで、僕がいなかったら、完全に轢かれていたわけだ。   ずきずきとする頬の痛みに、多少の意味があったと知って、僕は、少しだけ、ほっとする。   責任の配分。保険、賠償の問題。 面倒な話は幾つかあった。   取り調べが終わった時。僕は、心底、疲れていた。   病院に電話をかけようとして、携帯が壊れていることに気づく。 携帯を落として壊したことは、さっき何度も証言させられたのだが。   公衆電話を見つけるのに、しばらく時間がかかった。   電話をかけようとして、病院の番号を知らないことに気づく。 ついでに管理人さんの番号も思い出せない。   僕の手際の悪さを救ったのは管理人さんだった。   もらった袋の中には、一万円札二枚と、それから、病院の地図および管理人さんのPHSの番号までが書いてあった。   しばらく迷った末に、管理人さんの番号にかける。 「……もしもし、九門ですが」  「克綺クンね」   管理人さんの柔らかい声が耳に響く。 疲れを感じさせないその声は、心地よかった。  「恵ちゃん、一度、起きたけど、また寝たところ。元気よ」 「わかりました」   僕はうなずく。 「僕にできることはありますか?」  「うちに帰って、ゆっくり寝て」  「はい」  「病人の相手は体力勝負よ。暇な時は、休む。それが鉄則」 「なるほど」  「ま、恵ちゃんは大したことないと思うけど、一応ね」 「今日は、私が泊まってくから、克綺クンは、そのまま帰りなさい」   恵の顔を……寝顔でもいいから、もう一度見たい、と、思った。 だが、正直、僕の身体も限界に近かった。  「では、そうします。ありがとうございます」  「じゃ、明日の学校、寝坊しちゃだめよ」 「はい」  帰るのにはタクシーを使った。 分不相応という言葉が頭をよぎったが、まぁ、こんな日くらいは許してもらおう。  深夜、道ばたに立つ顔に大きなガーゼを貼り付けた学生服の少年を、運転手さんは何も言わずに家に送り届けた。 使ったのは管理人さんのお金だ。降りる時に、一応、領収証というのをもらった。  おそるおそる 「領収書ください」   と言ったが、運転手の人は、はい、と言って紙をくれた。  レシートと変わらないような紙だったが、一応、領収書と書かれていた。  メゾンの門をくぐり、ドアを開けて中に入る。  部屋につき、カバンを放り出してベッドに倒れ込む。 まぶたがくっつき、全身から力が抜ける。  眠り込む前に、なんとか起きあがって、制服をぬいだ。  記憶があるのは、そこまでだ。  月は雲に隠れ、街灯の蒼い光が差していた。 狭祭市新開発区に面した、街路。 深夜ともなれば、車もなく、ひっそりとした道の中に、沈黙だけが漂う。  現場検証の終わった事故現場はすでに跡形もなく、何の痕跡も残されていなかった。 人間の目には。  開発区の奥から、影が現れる。  革の靴は音も立てずに。 尖った耳をぴんと立て。 足音一つ立てずに、影が歩きだす。   その足取りは、軽やかで、急がず、迷わず。 目指す一点を目が見すえる。   蒼いアスファルトの黒い染み。 人には見えぬ血の滲み。   細い指が、大地に触れる。  膝を曲げ、身をかがめた瞬間。待っていたかのように、それは飛来した。   少女は避けようともしない。 風を切って、音を立てて、煙まで上げて飛ぶ礫など、避けるにも値しない。   冷たく迫る鉄の拳。 振り返りもせずに、風で弾こうとした瞬間。 それは、爆裂した。  灼熱の風とともに、砕けた無数の礫が襲いかかる。  爆風を味方に、少女は宙に舞った。  浮いた少女に向けて、掃射される弾丸の雨、雨、雨。  少女の知覚が加速する。 狙いもつけずに放たれた弾幕は、躱すには濃すぎた。  ひゅ、と、口から呼気がもれる。 先頭の一発を風で掴む。 とたんに少女が顔をしかめた。  止まらない。弾は、脂を塗ったかのように、風の指をすりぬけた。  長老に聞いたことがある。 風殺しの弾。 秘文字を刻んだ弾を、溶かし、鋳つぶし、烏の風切り羽根を燃して墨を作り、その火で再び鍛え上げる。 古の禁法を知るものがいたとは。  逡巡は一瞬で、その一瞬で弾幕は目前に迫っていた。  無数の弾を眼前に、少女は、吼えた。 まじりけのない狼の咆吼。 空中で、少女の身体が跳ねる。  最初は爪だった。 鋼よりも鋭い爪で、弾という弾を斬り飛ばす。  その爪が鈍り、血を噴けば、掌だ。 重ねた掌で顔を護り、能う限りの弾を受け止める。  掌が死ねば腕。そして膝。 両の腕を盾にして、血も肉も骨までも削りながら、少女は弾幕を突破する。  全身を真っ赤に染めながら、少女は、足先から大地に降り立った。 煮えたアスファルトの上で、少女はかすかに息をつく。   膝はつかない。だが、腕は上がらない。 ちりんちりんと音を立てて、無数の弾が地に墜ちた。   その胸に、どん、と、衝撃が走る。  少女が目を落とす。 胸の中から、真っ赤な刃がのぞいていた。 「ふむ。この手数で、殺せんか」   背後で声がする。  最後の瞬間。少女は剣風を察知し。 刃は、わずか数ミリで、心臓を外していた。  草原の民は不死身ではない。だが、脆くもない。 急所を外した刃は、致命ではない。  えぐられぬように、両の掌で、少女は刃を挟んだ。  ぐいと力を込めて、押し戻す。 「誰だ!」   吐いた声には生気があった。  「イグニス」   闇の奥から声がかえる。 するり、と、刃が抜かれた。   びちゃり、と、血が吹き出て、少女の足が揺れる。 「あきれた不死身ぶりだ。さすがは草原の民。血が古い」   傷口に左の拳をねじり入れ、少女は血を止める。 少女が振り向く。  「ボクは風のうしろを歩むもの。門を求めて街に来た。おまえも門を捜す者か!」   牙をむき、目を光らせて少女が叫んだ。  紅いコートの女は、艶然と笑った。  「いかにも、門を求めるものだ」 「イグニスっていったね。風のうしろを歩むものは、これより戦いを挑むよ。恨みもないが、容赦もしない。死にたくなければ……」  銃声。 イグニスの手には拳銃があった。 額を狙った弾を、少女は首を傾けただけで躱した。 「うるさい。黙れ、犬ころ。その命、次会う時まで、預けてやるから、尻尾を巻いて消え失せろ」  風のうしろを歩むものは、目の前の女をにらみつけた。 目の前の女は、まだ、いくらでも奥の手を持っていそうだ。 そして今の自分は深手を負っている。  草原の民は、名誉を尊ぶ。よりよく死ぬための名誉。 汚い罠にかかって、勤めを果たさず死ぬのは、名誉ではない。 「また会うよ」  言葉は風を呼び、一陣の風とともに、その姿は消えていた。 「やれやれ……罠が無駄になった」  静かにイグニスが呟く。  真っ赤な色の刃をぬぐい、鞘に収めた。  煮えたアスファルトの中に、もはや血痕は影も形もなかった。 人にして強い魔力を帯びたその血こそは、人外の民の求めて止まぬもの。「門」を開くコードマスターの生き血。   故に。 先回りして罠をかけたわけだ。   魚はどうにでもなる。 できれば、この段階で、犬は排除しておきたかったが……イグニスは肩をすくめる。  仕留め損なったものは仕方がない。 仕掛けておいた対戦車榴弾と、小銃を回収し、新たな布石を練り……朝までにやるべきことはたくさんある。  爆破音が通報され、パトカーが駆けつけるのに、約7分。 溶けたアスファルトと無数の小銃弾をみて、警官達が絶句する頃には、人外たちの姿は影も形もなかった。  その建物に、地階があることを知る者は少ない。  この町の深部を知る、一握りの者。ごくわずかな例外だけが、この町の真の姿を知っている。 「入りたまえ」   黒い、大きな執務机。実用本位のデスクで、男は書類に目を通していた。 軽やかなノックの音に、顔も上げずに返答する。  「は、失礼します。報告にまいりました」  「例の九門克綺に関してですが――」 「九門、克綺……?」   それまで、休む暇もなく書類をめくり、視線を行き来させていた男の動きが、止まる。 「あくまで未確認ではありますが、九門克綺が“最も気高き刃”と接触した、という情報がありました」  「なに? “最も気高き刃”? やつがとうとう、この町へ?」  「いまだ、確認は取れておりませんが」  「早急に事実関係を確認しろ。最優先事項だ」 「は、承りました。それともう一つ、ご報告が――」 「構わん。続けろ」  「蝕を目の前にして、人外の動きが活発化している様子です。今日も一体、新たな草原の民が確認されました」  「ふん、門を探しに、こんな辺境までやって来たか」  「協定内には含まれていない要素です。いかがいたしましょう?」 「捨て置け。今は、些末にかかずらわっている場合ではない」 「何よりもまず、“最も気高き刃”だ」   ――無論、簡単に尻尾を掴ませるわけもないだろうが。   男はそう呟いて、小さく唇を歪めた。 「計画の完成は目前だ。下手に手出しはするな」  「時間はないが、我々も慎重に動く必要がある」  「は、承りました」  「わだつみの民は、どうだ。夜闇の民との決議は、届いているだろう?」  「そちらの方も、順調に準備が進んでおります」  「これ以上余計な注目を浴びたくはない。速やかに準備するように」  男は秘書を下げると、男は背もたれに身体を預け、机の上に足を投げ出す。  積み重なった書類が、音を立てて床に崩れた。  「これで、三つの護りが揃ったか。さすがにコードマスターを、見捨ててはおかないな」   ひとりごちて、自分でも気づかないうちに、顔が歪む。 全てが順調に進むなどと、考えたこともなかった。 だが、それはそれとして、目の前に障害が立ちはだかると、やはり気落ちするものだ。  来るべき障害を目の前にして、男はひとり、忌々しく呟いた。  「……それにしても、厄介なものがやってきたものだ」 →3日目へ  電話の音で、目が覚めた。  重い頭をおこして、受話器を取る。 「はい……」  「よかった克綺クン。いたのね」 「はぁ」   金時計を見て、僕は眉をひそめる。 遅刻どころじゃない。 一時間目が始まってる時間じゃないか。   寝坊は、しないたちだ。 一応、携帯にアラームをつけてはいるんだが……ああそうか。 携帯は昨日、壊れたんだった。 「恵ちゃんが起きたの。克綺クンも、ちょっと病院まで来てくれない?」 「わかりました」   そう言ってから、僕は、ふと首をひねる。  「昨日は、遅刻してはだめ、と、おっしゃってませんでしたか?」  「うん。ちょっと……恵ちゃん、身体はなんともないんだけど……」 「心に問題があるということですか?」 「……うん。少し、ショックを受けてるみたいなのね。克綺クンにも来てほしいかな」  「了解しました。すぐ行きます」  僕は、すぐさま服を着て病院へ向かった。   ショックを受けている……。 病院に行く間中、その言葉の意味を考えていた。   交通事故に遭ったのだ。トラックにはねられたのだ。 精神的後遺症はいくらでも考えられる。   いや、それよりも。 僕は思い出す。   恵が浮かべた恐怖の表情。 そして、あの時、見た影。   あれは、いったい、なんだったのか。  影の形。あのいびつな形が、目の錯覚、気の迷いだとすれば話は簡単だ。   恵は、誰かに追われていたことになる。 犯罪者。ストーカー。   金時計を握りしめる。 怒りを感じるべきなのかもしれない。 だけど、僕には、正体のわからない存在に対する怒りは湧かなかった。   正体。 恵に直接聞けばすぐわかるだろうが……それが恵の症状の原因だとすると、問いただすこと自体が恵を傷つける可能性もあるわけだ。  小さく息を吐く。   それでなくとも僕は、他人を傷つけると言われる。 今日は、言葉に注意しよう。   恵にかけるべき言葉と様々な応対を、一つずつ頭の中で予行演習する。   最初にかける言葉を十種類。 それに対する恵の反応を、それぞれ十通り。 さらに僕の反応が十通り。   組み合わせは全部で千。 重複をのぞいても、約300というところか。 僕は、端から埋めにかかった。  全部埋まるより速く、病院に着いた。  巨大な受付には、いろいろな人が行き交っていた。 昨日は感じる暇もなかったが、やはり独特の空気がある。  きびきびと動く白衣の男女。 ゆっくりと動くガウンの入院患者。 その中を所在なげに歩き回る外来。  面会手続きを済ませ、恵の病室へ向かう。  ドアを開けた時の、恵の顔を、僕は生涯忘れないだろう。  暗い影が、その顔にあった。 両の腕で頭を覆い、ベッドの中に埋まるような、その姿。  つらそうな、その瞳。 それを見て、僕は、理解した。  僕は、怒ることができる。 恵に、こんな顔をさせるに至った何かを。 それが、誰であっても、何であっても、たとえ何かの間違いでも。  だが、今は、怒る時じゃない。 「……おにい、ちゃん?」  心細い声がベッドからした。 「そうよ、お兄ちゃんよ」   横に座っていた管理人さんが、恵の腕に、そっと触れる。   恵に言う言葉。 十通りの言葉が、喉で凍る。 「めぐみ」   それだけで、言葉は足りた。  ゆっくりと、ゆっくりと恵の緊張がほどける。 「恵、だいじょうぶだ」  僕は、ゆっくりと繰り返す。 力無く落ちた手を、僕は、両の手で取った。 冷たく、強ばった指を、手の中で温める。 「おにいちゃん」   恵が、息を吐いた。 「あのね……わたしね……」   固く結んだ唇の内から、恵が、ちいさなちいさな声で囁く。 「無理しなくていいぞ」  ノックの音がした。ちいさく、控えめなノック。 だが、この病室の中では、無神経なまでに大きく響いた。  小さな悲鳴を上げて、恵が再び固まった。  おずおずと顔を出した看護婦を、僕は振り返った。 たぶん、にらんでいたんだと思う。 まだ若い看護婦は、顔を蒼白にしてあとずさった。 「あ、すいません」  のんびりとした声が緊張を破る。 「検温、ですよね? やっときますから。あとで、三上さんに届ければいいんですよね? ええ、だいじょうぶです」  管理人さんが、やさしく、しかし有無を言わさない手際で、看護婦の手から、体温計をとりあげる。 看護婦は、もごもごとつぶやいて、病室から出た。 「ごめんなさいね、恵ちゃん」   管理人さんは、そう言って、おびえる恵に触れた。  「汗、ふきましょうね。万歳して」   ぎこちなく、しかし、言われるままに、恵が、両腕をあげる。  僕は、息を呑んで、目を逸らした。 「外で……待ってます」 「ええ」  ふりかえろうとして、僕は足を止めた。 恵が、制服の端をつかんでいた。 小さな指には、精一杯の力がこめられている。 「恵……」 「恵ちゃん。だいじょうぶよ。おにいちゃん、すぐ帰ってくるから」 「ほんと?」   幼い頃に帰ったような、その小さな声に、僕は、精一杯うなずいた。 「あぁ」  恵は、僕の目を見て、それから、ようやく、手を放した。  僕が、部屋から出るまでの間。その目は、ずっと僕を追っていた。   ドアの外。看護婦は、すでにいなかった。   僕は、ドアの前に立つ。 誰も入れぬように。 音を立てぬように。   足早に通り過ぎてゆく看護婦と医者。 僕は目をあわさずに、じっと待っていた。 ノックは、できない。   身体を拭いて、体温を測って。どれくらいかかるだろう? 5分、いや10分というところか。  僕は、金時計を開いて時刻を確かめた。   時計の秒針を数えてゆく。   10。20。胸が重い。 30。40。息が苦しい。   ドアの向こうで怯える恵。 なにもできずに、じっと待っている身の苦しさが、僕を苛んだ。  意志の力で目を閉じる。   きちきちと時を刻む秒針は、容赦なく響いた。 数えるのが止められない。   59、60。まだ1分か。   あと9分。540秒。   僕は、叫び声をあげたくなる。  大きく息を吸って、叫び声を無理矢理ねじふせたその時。 秒針の音に混じって、聞こえる声があった。   部屋の中から響くそれは、やさしく、ゆったりとした歌声だった。  ドア越しの声は、ほとんど聞きとれないほど穏やかな声だったが、それでも、僕の前を歩く人たちのほとんどが、一瞬、足を止めてゆく。  僕は、目を閉じて、その声に聞き惚れた。  〈嫋々〉《じょうじょう》と尾を引いて、ゆっくりと、歌が、終わる。  僕は、できるだけ、音を立てないように、静かに、静かにドアを開けた。 「あら、克綺クン」   管理人さんが、ベッドに腰掛けたまま、にっこりと笑う。  「だいじょうぶよ。もう、寝付いたから」   その腕の中で、恵は、眠っていた。 ベッドに半身を起こした姿勢で、管理人さんの豊かな胸に頭を預けている。  その寝顔には、さっきまでの影は、微塵もない。 ほんとうに安らかな笑顔。   管理人さんは、両手で、ゆっくりと恵をあやす。 「えい」  可愛い気合いを入れて、管理人さんは両腕でゆっくりと恵をもちあげ、ベッドに寝かせる。 「力、強いんですね」  僕は、間抜けなことを言った。けど、それは事実だ。 見ないうちに恵も大きくなった。 両腕で抱えあげるのは、僕でも、つらいと思う。 「え? あ!」   管理人さんは、ふと気づいたように、苦しそうな顔を見せた。  「恵ちゃん、軽いから」 「軽くないですよ」  「だめよ、克綺クン」  「恵ちゃんくらいの歳の女の子は、絶対に体重が軽いものなの」  「はぁ」  非論理的な主張に、僕は、言葉を失った。  管理人さんは、寝かせた恵に布団をかけた。柔らかな布団を、肩までかけ、最後に軽く、ぽん、と叩いた。   その様子を見て。 なにか、安心した。 肩の荷が下りたような気がした。   人間の肉体とは正直なもので、そう思った瞬間、お腹がくうと鳴った。 「あら、克綺クン。ごめんなさい。 朝ご飯、作ってなかったわね」  「いえ……」   僕は首を振ってから気づく。  「管理人さんこそ……昨日の晩から、何か、食べました?」  「私? 私は平気」  「代わります。帰ってお休みになってください」 「昨日は、ちゃんと寝たから大丈夫よ」  「椅子でですか?」  「そうよ。いけない?」  「いえ……ですが、椅子では体力回復がしにくいかと」  「平気。こうみえても、私、若いんだから」 「おいくつなんですか?」  「……」  「……」   管理人さんの顔が強ばる。 冷たい沈黙が流れた。  「今の質問には問題がありましたか?」 「うん。ちょっと、ね……」 「わかりました。これから管理人さんの年齢に関わる話題は避けるようにします」  「ありがと、克綺クン」  「いえ、礼を言われるほどのことでは」   僕らは、笑いあった。 屈託なく笑ったのは、昨日の晩から、はじめてかもしれない。   管理人さんが、壁の時計を見上げる。 「まだ……授業には間に合うわよね。 午後からでもいいから、いってらっしゃい」  「いえ、ここは僕が代わります」  「克綺クン。いいから、学校行ってらっしゃい」  「なぜですか?」  「子供は勉強。そして大人は子供の面倒を見る! これが、世の中の基本!」  そう言われると確かにそれはそうで、僕は、渋々と腰をあげる。  管理人さんをじっと見る。 疲れた様子はない。 本当に、元気そうな、いつもの管理人さんだ。 僕は、頭を下げた。  「恵を、お願いします」  「任せて!」   管理人さんの声は、本当に、頼もしく、そして、嬉しそうだった。  学校へ行く。 受付で遅刻手続きを済ませ、僕は、教室へ向かった。  無人の廊下を歩き、教室の戸の前に、僕は立った。  時刻はまさに授業中。3限目だから、メル神父の英語の授業か。 どうやら小テストをやっているようで、中は、しんと静まりかえっていた。  さすがに少し緊張する。 が、待っていてもしょうがない。 僕は、ゆっくりと戸を開けた。  クラス中の目が、僕に注がれる。  黒板には、「あと10分」とあった。  メル神父は、無言で、テスト用紙を差し出す。  僕は、皆の好奇の視線をあびながら、静かに席についた。 →3−5  予鈴がなり、テスト用紙は回収された。 「起立! 礼! 着席!」  牧本さんの号令で、授業が終わる。  メル神父が出ると同時に、ひゃーとかふーとか、もうだめだーとかいう叫びが充ち満ちる。 「よぉ」 「なんだ?」   峰雪が詰め寄ってくる。  「ちょいと顔貸せや」 「あぁ。どこだ?」  「屋上」  「長いと授業に差し支える」  「直ぐに済む」 「ならいい」  僕は、席を立つ。  屋上の風は、少し肌寒かった。 「で、何のようだ?」  「恵ちゃん、まだ病院か?」 「あぁ。しばらく入院するかもしれない」  「そうか。お見舞い行っていいか?」 「まだ、いかないほうがいい」   僕は、恵の状態について、ざっと説明する。 「そっか……。つれぇなぁ」 「話は、それだけか?」  「ん? あぁ、そうだ。 一応言っとくが、治療費は、うちの親父が出すってよ」  「ありがとう」   両親を亡くした時、峰雪の父が僕らの後見人になった。そのへんの事情は、学校の友人には伝えていない。 「なぁに、たいしたことじゃねぇ」 「君に言ったわけじゃない。 お父さんによろしくということだ」  「かわいげのねぇ野郎だ」   そう言って峰雪は、笑った。 「人手は足りてるか?」  「恵の面倒は、管理人さんが見てくれている」  「管理人さんが? へぇ〜」   峰雪が、感心する。  「管理人さんに迷惑をかけっぱなしというわけにもいかないからな。人手も、借りるかもしれない。その時は、よろしく頼む」 「任せとけ! なんか、俺にできることはあるか?」  「ふむ」   僕は、しばらく考える。  「病院から直で来たので、昼飯がない。パン買って来てくれ」  「よっしゃ……って、金ないのか?」 「あるぞ」 「購買行く気力もねぇと?」 「あるが」  「俺をパシリにする気か?」  「質問したのは、そっちだろう。峰雪が僕にできることの一例として、答えたまでだ」  「あぁ、そうですかい。 なんなら、肩でも揉みやしょうか?」  「それはいいな。だが、どちらかといえば、肩よりも足が疲れている。足を揉んでくれ」 「克綺」 「なんだ?」  「今のは、嫌みだ」  「嫌み? どこが嫌みなのだ? 僕には有りがたい申し出に思えたが」  「……すまねぇ、俺が悪かった」 「よくわからないが……それはつまり、足を揉んでくれない、ということか?」  「たりめぇだっ!」   いきなり怒った。よくわからない男だ。  「残念だ」  その時、屋上の扉が開いた。 「あ、いた」   牧本さんが、顔を出す。  「四時間目、始まっちゃうよ!」  「わざわざ呼びに来てくれたのか」  「ううん、別に……」   牧本さんが笑顔になる。 「なぜだ?」  「え?」 「何言ってんだ、おまえ?」   二人が呆れた顔をするので、僕は説明した。  「牧本さんの行動の理由がわからないだけだ。僕らは時計を持っている。故に、時間は把握している。であるなら、時間の管理はできるはずだし、また時間内に戻るとなると相応の理由があるはずだ。そのことは牧本さんも推測できるはずだ」  「え、えと……」 「つまり、牧本さんは、我々が、時間の管理ができないと踏んだか、あるいは、我々の意志に反しても時間内に我々を連れ戻す必要があったか、さもなくば……」 「いいかげんにしろ」   頭をはたかれた。  「なぜだ? 峰雪は理由が気にならんのか?」  「私、ほら、学級委員だから」   牧本さんが、心細げな声で言った。 「なるほど。クラスを統括するものとして、我々の規律に反する行動を律しようと言うわけだ。立派な心がけだ」  「えと、そうじゃなくて……」  「では、なんだ?」   牧本さんは、どうしてか泣きそうな顔をしていた。 「落ち着け。克綺」  「僕は常に落ち着いている。理由を聞いているだけだ」  「おめぇのは尋問っていうんだ」  「ふむ。ニュアンスの違いだな」  牧本さんが、ようやく口を開いた。  「あのね。なんか……二人とも深刻な顔してたから、ちょっと心配だったの。それだけ」  「あぁなるほど」   僕は、大きくうなずいた。  「たいしたことはない。 ちょっと妹が事故に遭っただけだ」  「え?」  峰雪が手で顔を覆う。 それが、自分の手に負えない、というボディーランゲージであることくらいは、僕も理解している。  「恵ちゃんが?」   牧本さんが、心底、驚いた顔を見せる。  「昨日、僕と一緒に、トラックにはねられてな」  「え? え?」   峰雪が、ためいきをつき、割ってはいる。 「恵ちゃんが、道路ですっころんでな。このバカが、うまいことかばったんで、たいした傷じゃねぇ」  「わたし、お見舞いに行こうか?」  「少し、立て込んでいてな。気持ちだけ受け取っておく」   僕は、牧本さんに頭を下げた。 恵と牧本さんは、昨日、会っただけだ。 それなのに、これほど気にかけてくれるのは、正直、ありがたかった。 「わかった。何か、私に、できることがあったら言ってね」  「ふむ。昼食のパンと、あと足を……」  言い終わる前に、顔面が暗くなった。 衝撃と痛み。峰雪の裏拳が、顔面にヒットしていた。 「峰雪くん! 怪我人に、なんてことするの!」   牧本さんが怒る。 「そうだ。怪我人に何をする!」 「黙れ、この、この!」   暴れる峰雪を、僕と牧本さんが取り押さえる間に、チャイムが鳴った。 「やべ! 次、なんだ?」  「獅子堂の現国」  言いながら、僕らは走り出していた。  現国の獅子堂教諭。人呼んで「スマイル」獅子堂。 彼の授業だけは遅刻してはならない。   普段の獅子堂教諭は、仏像のように穏やかで、糸のように細い目を半眼にしておこなう授業は、中身も濃く、人気がある。 だが、万一、授業中に居眠りやら遅刻やらしようものなら。  細い目をかっと見開き、 「君、減点5ね」 と、言い放つ。  その際、一瞬だけ見せる笑顔は、獲物を前に舌なめずりする快楽殺人者を彷彿とさせ、罪を犯したものの心に生涯消えぬ傷を刻むという。 伝説では、彼が、両目を大きく見開く時は、海東学園最期の時だという。 「遅くなりました」   扉を開け放ったときには、すでに授業は始まっていた。  「どうかしましたか?」   獅子堂が笑った。 目尻をさげ、片頬だけが、ぴくりと震える。唇の端の舌なめずりを、僕は確かに見た。 その嗜虐的な笑みは、顔は、確かに、「スマイラー」の名にふさわしい。 「いえ。理由はありません」  「では、それぞれ減点5」  僕らは悄然と席につく。 峰雪ですら逆らわなかった。  減点5より恐ろしいものは一つしかない。 それは。 減点10だ。  伝説では、減点40を喰らって、試験前に補習が確定した男がいるという。 あな、おそろしや。  最初を別にすれば、4限目は、無事に終わった。  やることがあるのはありがたい。 授業を聞いて、ノートを取っているだけで時間が過ぎる。 その単純作業が、今日ばかりは、ありがたかった。  家に一人でいたら、神経がまいってしまっただろう。 同時に、罪悪感を感じる。 恵が苦しんでいる時に、僕は、こんなところで、のうのうとしている。  6限目が終わると、メル神父が顔を出した。 「あ、九門君いましたね」 「なにか、御用ですか?」  「ええ。時間はありますか?」 「それは哲学的な問題ですね」  「え?」  「時間という概念が実在のものかどうかということですね。 最終的には、哲学の範疇だと思います。 無論、物理学における時間の取り扱いは前提知識として必要でしょうが。 ところで、その質問が、用ですか?」 「……九門君。今、時間は空いてますか?」  「時間は常に空いているとも空いていないとも言えます。 すべては優先順位の問題です。 目下のところ、僕は家に帰る予定です」  「……こみいった話があるんですが、差し支えなかったら来ていただけますか?」  「はい」  僕は、峰雪と牧本さんに手を振る。  「そういうわけだ。先、帰っててくれ」  「おう、死ぬなよ」  「じゃ、また明日」  峰雪の挨拶は、相変わらず意味不明だ。  職員室に行くまで、メル神父は、ずっと、くっくと笑っていた。 「九門君は、面白いですね」 「そうですか」  何が面白いのかが、わからない。 やがて職員室に着く。 「話とはなんですか?」 「さて、いくつかあるんですがね。まず、面倒なところから行きましょうか」   面倒?  「九門君。警察から照会がありました」  「警察から?」   僕は、眉をひそめる。  「事故ですか?」 「ええ。恵さんの事故ですが……警察は、事件性があると判断したようです」 「僕に関する照会ですか? そうか。僕が加害者の可能性もあるわけですからね」  「九門君は、率直に物を言うんですね」 「まわりくどく物を言うのが苦手なんです」  「なるほど」   メル神父が笑う。 「警察は、最近の事件で、いろいろと過敏になっているようです」  「事件?」  「連続殺人事件、ですよ」  「なるほど」   まだ捕まっていなかったのか。 「恵さんの事件も、交通事故にしては不自然ですから。そのへんで調べているそうです」  「……なるほど」   殺人犯に追われ、そしてガードレールを乗り越えたということなら理解もできる。  「捜査に協力したいとは思いますが、恵の状態は、あまりよくありません」 「ええ。一応、念のために聞きますが、君は、今回の事件に関わっていますか?」  「いいえ」  「わかりました。本校としては、生徒である君も、そのご家族も守りたいと考えています。警察に何か言われたら、私まで連絡をください」  「はい。ありがとうございます」  僕は、礼を言う一方で、考える。 私学は体面を重んずる。 事件と結びつけられて報道されたら迷惑だろう。 生徒と事件の関係は隠蔽したいに違いない。 無論、それが必ずしも悪いことではない。  「お次は?」 「はい?」  「いくつか、と言われました。 いくつか、という言葉は通常2以上を指します」 「ああ、次の話ですね。 恵さんは入院されるんですか?」  「はい」  「その間、九門君は、どうしますか? 休学という選択肢もありますが。 峰雪君と違って単位は足りてますからね」  「僕は……」   休学も一つの選択肢ではある。 「一つ言っておきますが、無理はしないことです」  「は?」  「迷ったら、恵さんのことより、自分のことを考えなさい」 「嫌です」   僕は即答した。  「僕は、できる限り、恵のことを優先したいと思います」   メル神父は、真面目な顔でうなずいた。 「あなたのその気持ちはよくわかります。ですが、あなたが倒れたら、誰が恵さんを介護するんですか?」  「……」   僕には返す言葉がなかった。  「恵さんが大切なのはわかります。大切にしてあげてください。しかし、最終的に恵さんのためになるのは、君が元気でいることです。  恵さんのため、と、思うと、無理をしがちになります。それは誰のためにもなりません」  僕は無言で、うなずいた。 未だ、納得はできないが、理解はできた。  「そういう意味で、できれば学校は来たほうがいいと思いますよ」 「なぜですか?」  「気晴らしになります。一つのことだけしていると、人の視野は狭くなりますからね」 「わかりました」  「今日は、学校にいて、どうでした?」 「いる間は、気が楽でした。  しかし……今は、あまり気分がよくはありません」  「なぜですか?」  「恵のことを忘れて、楽しんでいたからです」   胃のあたりに重い物が沈む。 「それは別に悪いことじゃありませんよ」   神父が微笑む。  「ゆっくりと。気を楽にして。介護のことを忘れて。それで、いいんです」  「論理的にはそれが正しいことは理解します。しかし……納得はゆきません」 「そうでしょう。ですから、せめて、頭の隅にとどめておいてください。それと、少しでもつらくなったら、誰かに助けを呼ぶことです」  「わかりました」  「私の話は、これで全部です。恵さんに、よろしく」  「はい」     帰り道。 僕は神父の言葉を反芻した。   迷ったら、自分のことを考えろ、か。   ゆっくり考える内に、少しずつ納得がいった。   それは冷酷なようでいて、有効な助言だ。 人間に、常に、公平かつ冷静な判断ができるのであれば、できる限りの力で人を助けるのもいいだろう。  けれど。 人間の判断は、その願望で、歪むものだ。   愛しい人を助けようという気持ちは、自分に、より大きな能力があるという錯覚を生む。 その結果、できないことまでやろうとして、かえって能率を下げてしまうことがある。   判断に誤差があるとわかっているなら。 最初から誤差を組み込んでおこう、ということだろう。   自分は、思うほど万能ではない。 だから、休みも必要だし、忘れることも必要だ。   そう考えると、少しだけ、心の整理がついた。   そうして落ち着くと、神父の前半の言葉が気になった。   連続殺人。犯人。   もしも恵が、犯人の目撃者なら。 恵の元に危険が及ぶ可能性がある。   無論、よほどの事情がなければ、警察も気づいている目撃者の口をわざわざ封じにいくよりも、逃げたほうが確実だろうが、合理的な人間は、そもそも連続殺人など行うまい。   少しだけ、背筋が冷たくなった。         気がつくと、足は、現場のほうに向かっていた。 万一のことを考えて新開発区の中に入るのは避け、ぐるりと回って、事故現場へ。   ……なんだ?    緑の制服の男が、紅いライトを振っていた。 交通整理だ。   四車線のうち、一車線と歩道……恵と僕がはねられたところが、通行止めになっていた。 歩道は完全にふさがれていて、横断歩道を渡って迂回するしかない。   信号を待って、逆側から見渡す。   工事中の柵に囲まれてよく見えなかったが、どうやら道路工事をしているらしい。 大きな車がアスファルトを舗装し、叩いている。  僕は、しばらく、動けなかった。   なんだ? なにが起きている? もし恵が殺人犯から逃げていたとして。 手がかりのある現場を封鎖するならわかる。   がしかし、道路工事? 何かの偽装だろうか? 考えがまとまらない。   単なる偶然……その可能性が一番高い。   だが、今頃、急に、あの区画だけ、道路工事するという理由もわからない。 そもそも工事内容の札がでていない。 わからないことだらけだ。  僕が立ったまま現場を見つめていると。  ぽん、と、肩が叩かれた。 「見つけた」  あどけない少女の声。 だがそこには、強い確信と、決意があった。 僕は、ゆっくりと振り返る。 →3−7  いたのは、僕の胸の高さほどの、女の子。 だがその子を僕は、幼いとは思わなかった。   黒い帽子と、黄色いジャンパー。 それにジーンズ。   奇妙な出で立ちの少女は、僕をじっとみつめていた。   大切なものを見つけたような、決意に満ちた瞳。 ふんふんと、鼻をうごめかし、やがて確信したように言った。 「やっぱり君だ。 君が『門』の持ち主だね」 「門? 何を言っている? 君は誰だ?」  「ボクは、風のうしろを歩むもの」   奇妙な少女は、奇妙な名を名乗った。  「君はなんて呼ばれてる?」 「僕は九門克綺」   得体の知れない相手に本名を名乗るべきではなかったかもしれない。 だが堂々とした名乗りに、つい僕は、そう答えていた。 「じゃぁ、カツキ。恨みはないけれど、ボクは、これからカツキを狩る」  「かる?」  「その血と肉、草原の民に貰い受ける」  「血と、肉?」   殺人事件。犯人。 そんな言葉が脳裏をよぎる。   少女が本気であることを、僕は、これっぽっちも疑わなかった。 「思い残すことはある?」   少女の瞳が突き刺すように僕を見る。  「ある」  「そう。ごめんね」   少女は、そう言って頭を下げた。 声には、一点の曇りもなく。 本当に、少女は僕のことを想っていることが、わかった。   それはつまり。 少女に、本気の殺意の裏返し。  顔を上げた少女は、ふわりと、無造作に手を振るう。 沈みかけた陽を浴びて、その指の先の爪が、きらりと光った。  細いナイフのように伸びたその爪を見ながら。 僕は……そう。 蛇に魅入られた蛙のように。 ゆっくりと、爪の輝線に見とれていた。  それは、ゆるやかに、僕の喉へ吸い込まれようとしていた。  びゅんと、目の前を何かが突き立った。  びぃんと音を立てて突きたつ。 目の前で揺れるそれが、古風な矢だと気づくのに、しばし時間がかかる。  少女が、たまらずうめき声をもらす。 その小さな手は、太い白木の矢に、縫いつけられ、紅い血を噴いていた。  揺れる矢羽根。非常識にも、ブロック塀に突き立った矢に、僕はしばしみとれる。 「がぅっ!」  少女の咆吼に、僕は我に返る。 帽子の下から尖った耳が飛び出す。まくれあがった唇の端から牙がのぞく。 僕を見る黄色い瞳は、獣そのものの怒りをたたえていた。  がん、と、左手がブロック塀を叩く。 もうもうと埃が立ちこめ、ブロック塀に丸い穴が開く。  くるりと身を翻し、駆け出す瞬間に、それだけ見えた。  走った。必死で走った。  後ろから、ひゅんひゅんと矢が飛ぶ音がした。  それが、僕を狙っているのか。それとも、あの少女なのか。 それはわからなかった。 どうでもよかった。  日の当たる大通りに沿って、僕は、できる限り早く走った。 喉に血が上ると、頬の傷がずきずきと痛んだ。  恐怖。 僕は、恵の気持ちを、少しだけ思い知る。 あの人外の存在。小さな少女。 あれが……恵を追ったのか?  だけど……あれは……風のうしろを歩むものと名乗った少女は、僕を探していたと言わなかったか?  なぜ恵を狙う? そもそも矢を射ったのは誰だ? わからないことだらけだ。  わからないままに、気がつけば、僕は、メゾンの前に来ていた。  日は落ちて、真っ暗な銀杏並木を駆け抜ける。  門が見えた時には、心底、ほっとした。  きぃ、と、音を立てて、門が開く。  念のために振り返るが、僕を追う影は、なかった。  階段を駆け上がり、部屋に入り、気休めに鍵をかけると、僕はベッドに倒れた。  呼吸を鎮めるうちに、いろいろなことが、ごちゃごちゃに思い出された。  そういえば。 帰りには、病院に寄るはずだった。 恵が、僕を待っている。  面会時間は過ぎているが、今から行くこともできる。 そう思って、僕は、窓の外を見る。  塗りつぶしたような黒い闇をみるだけで、さっきの恐怖が蘇った。  ──無理だ。  この闇の中。もう一度、外に出る勇気が僕にはなかった。 そう思い知った時。暗い波が、僕の胸を満たした。  恐怖と自己嫌悪に苛まれ、僕は、息さえ止めて、ベッドに横たわった。  電話のベルに、飛び起きる。  受話器を持ち上げるのに勇気がいった。  誰だ? 管理人さんだろう。  何の話だ? もしも恵が……僕が来なかったせいで……体調を崩したら……。  そして、管理人さんじゃなかったら?  あの、きっぱりとした少女の声が響いたなら?                 ――見つけたよ、カツキ。  想像するだけで、ありありと声が聞こえた。 一つ息を飲み下し、僕は受話器を取る。    「……もしもし」  「克綺クン。私」   のんびりとした声に、僕は全身の緊張が抜けるのがわかった。 へたへたと足から崩れ落ちそうになる。 「今日は……そちらに行けないで、すいません」  「いいのよ。恵ちゃん、ずいぶん調子がよくなったわよ」 「そうですか」   よかった。 管理人さんは、嘘や気休めを言うような人じゃない。   受話器を持つ手が汗ばんでいたことに、僕は、ようやく気づいた。  「あ、ちょっと待って。今、代わるわね」 「え?」 「もしもし……おにいちゃん?」  恵の声。 舌足らずで、幼いが、昨日に比べれば、声には、張りがあった。 「ごめん。今日、いけなくて……」 「へいき、だから。おにいちゃん、あしたは、来てくれる?」 「行くよ。朝一番で行ってやる」 「あさ? あさになったら、あえるの?」 「あぁ」 「やったぁ」   その声に、僕は涙がにじんだ。 「恵が、今日、ゆっくり寝て、朝、目を覚ましたら、きっとそばにいるから。 だから、今日は、ゆっくり眠るといい」 「うん」 「今日は、どうだった?」 「おうた」 「え?」 「かんりにんさんが、いっぱい、おうたをうたってくれたの」 「よかったな」 「うん。たのしかったけど、すこし、さびしかった」 「もう、寂しくないぞ。明日は、行ってやるからな」 「わかった。まってる」  精一杯、気丈な声。 しばらく間があって、管理人さんの声がした。 「ね、恵ちゃん、元気になったでしょ」  「ありがとう……ございます」   そう言うだけで、精一杯だった。  「じゃ、私、今日も泊まってくから、メゾンの戸締まりだけお願いね」 「いいんですか? 無理は、しないでください」  「言ったでしょ。私は平気」 「お世話になります」  「それじゃ、明日は、来てね。朝、8時くらいがいいかな」 「わかりました。それでは、失礼します」 「じゃね」  管理人さんの元気な声が、耳に残った。  戸締まりをしながら、僕は、幸せだな、と思った。 つらい時に、手を差し伸べてくれる人が僕にはいる。  だが、僕は、まだ、本当の幸せというものを知らなかった。  それは一風呂浴びて、メゾンの玄関の戸の鍵を閉めた時だった。  どんどん。 ドアを、叩く音がした。  僕は、身がすくんだ。   鍵はかけてはあるが……ブロック塀を貫く力の持ち主には気休めだ。   旧式なメゾンの扉には、マジックアイなどついていない。   僕は、息を殺して耳をすました。  「おい、克綺! いるか!」   拍子抜けする。 「峰雪か?」 「俺だ、俺。牧本もいるぞ」   牧本さん? なぜ?  「今、開ける」  一瞬、狼と子ヤギの話を思いだしたが、扉を開けてでてきたのは変装した狼ではなく、本当に峰雪と牧本さんだった。 「なにしに、来たんだ?」  歩きながら、僕は聞く。 「テメェが電話に出ねぇからだろうが」   峰雪が絡む。  「電話? あぁ、〈PHS〉《ピッチ》か。 あれ、事故の時に壊れた」  「それなら、そう言え! 心配するだろうが!」  「メゾンの番号……教えてなかったか?」  「いやまぁ、その」   峰雪が頭を掻く。忘れてたな。 「で、何しに来たんだ?」 「あぁ、聞いて驚け」 「私たち、九門克綺を応援する会を作ったの」  「応援する……会?」 「おう。年中不景気な顔してるテメェだが、今朝は、輪をかけて仏滅、暗剣殺、三隣亡な顔、してやがったからな」  「そうなのか?」 「そうよ」   牧本さんが、うなずく。 「自分の顔のことは分からないが……それで、応援しに来たのか?」 「おう。恵ちゃんが入院して、管理人さんもいなけりゃ、寂しいだろ」  「待て。管理人さんがいないとなぜ知ってる?」 「そりゃおめぇ」  「応援する会の会長、管理人さんなの」   牧本さんが秘密を明かす。 僕は、ぽかんと口を開けた。 「僕より、管理人さんのほうが、よっぽど苦労してるだろ」  「ううん。こういうのは、身内のほうがつらいからって言ってた。他人のほうが気楽に手伝えるからって」   牧本さんが言う。  「てなわけだ。 俺たちが来たからにゃぁ、テメェも、肝すえて応援されやがれ」  「あ、あぁ……」  僕は、二人を部屋に招き入れる。 普段、一人で暮らしてる部屋だ。二人が入ると、狭いわけじゃないが、何か、違う部屋のようだった。 「いい部屋使ってやがんな」   峰雪が言う。  「さっきから聞いてると、峰雪は悪態しかついてないが、それがつまり、応援ということか?」  「こきゃぁがれ。これからが俺たちの応援の真骨頂よ。な、牧本」 「う、うん」   牧本さんが取りだしたのは、スーパー山岡の袋だった。 野菜とパック。食材のようだ。  「晩ご飯、食べた?」  「いや……」 「腕によりをかけて、スゲェ飯を用意してやるからな」  「なるほど」  「あと、鍵だせ、鍵」 「鍵?」  「管理人さんと相談したんだけど……3人で夕食だと、この部屋じゃ入らないでしょうって」   言われてみれば、その通りだ。 食事用の小さな丸テーブルがあるにはあるが、3人分の食事はとても載らない。 「そういうことなら」   僕は管理人さんから預かっていた部屋の鍵を渡す。  「よっしゃ。行くぜ」  「九門君は、ゆっくりしてて」  言われるままに僕は、ゆっくりした。 ベッドに寝転がる。  どたどたと(峰雪が)足音を立てて階段をくだったあとは、急に静かになった。 僕は、一人で部屋に取り残される。  天井を見上げると、何もかも夢のような気がしてくる。  道路で女の子に襲われたのも。 矢が飛んできたのも。 二人が来たのも。 現実感がなさすぎる。  控えめなノックに物思いは破られた。  「ご飯、できたよ」  牧本さんの声に呼ばれて、正気に返る。 「いい匂いだ」  僕は、階段をおりながら、鼻をうごめかせた。 「でしょ」   牧本さんが控えめに胸を張る。 「来やがったな、この。 こいつを見て驚きやがれ」   峰雪に引っ張られるように、僕は椅子に座る。 テーブルに、ずらりと並んだ食事を見て、ようやく僕にも実感が湧いてきた。  「どうでい。絢爛豪華な酒池肉林にもなおまさる、こいつこそが日本古来の伝統料理ってやつよ」  テーブルの真ん中には、コンロ。昆布をしいた土鍋。 まわりにあるのは、ざくに切った野菜。 白菜、春菊、長葱、えのきに、しらたき。  取り皿には、酢醤油と、山盛りのおろし大根。 メインは、鱈。 切り身とたっぷりの白子! 「管理人さんのアイディアなんだけど……どうかな」   牧本さんが、控えめにいう。  「好きだ」 「え?」  「鱈ちりは大好物だ。さすが管理人さん」 「そう。よかった」 「たりめぇだ。鍋が嫌いな日本人がいたら、この俺がぶっとばしてくれる」  「物騒な応援もあったものだ」  「いいから、とっとと姿勢を正せ! 箸を握れ! 昆布が煮えすぎるだろうが」 「いただきます」   僕らは、声を揃えて手を合わせる。 「さぁいくぞ。野郎共、準備はいいか?」   菜箸を構えて仁王立ちとなったその姿は、まさに鍋奉行。  「野郎ばかりではないが、準備はいい」   峰雪の箸さばきは、実際見事だった。 手際よく、身を沈め、あくをとりながら野菜を入れてゆく。 煮上がったものを、すばやく取り皿に放り込む。   山盛りの大根おろしに、ゆずを搾って醤油をかけた、自家製ポン酢。 それを鍋の出汁で割り、鱈の切り身をいただく。  おいしい! かすかに生を残した火の通りが、歯ごたえと風味の両方を生む。 大根おろしと一緒に食べると、口の中が幸せになる。  「相当、奮発したな」   魚偏に雪と書いて鱈と読む。 鱈の旬は冬。 だが、この鱈は、おいしかった。 「魚西の親父さんが、管理人さんのためならって、いいのを競ってきたみたい」   どこまで気が利くんだ、あの人は。  「おう、白子いれるぞ、白子」 「おぉ!」  「待ってました!」   無意味にもりあがる我々三人。 わずかに桃色の白子は、峰雪が、湯にくぐらせると、雪のように白くなってゆく。 「ありがたくいただきやがれ!」  「いただきます」   白子を、口にふくむ。   心地よい弾力を噛みしめると、口の中に、とろりとつゆが広がる。 舌の上で旨みが踊った。   この心の隙間をぴったり満たすような味を何に喩えれば良いだろう。 魚介の旨みの到達点の一つ。 日本人の心の原点。 「おいしい!」   牧本さんが驚いた顔をする。 「そうだろうそうだろう」   そう言って峰雪が、うまそうに白子を口に放り込む。 「しかし……」 「んだ? 文句あっか?」 「あるとも。酒がいる」   酒は、それほど飲むほうじゃない。 だが、これだけのいい鱈ちりを前に、酒を飲まないのは罪悪というものだ。  「そういうと思ったぜ。ほらよ!」   峰雪が勝ち誇った表情とともに、一升瓶を取り出す。 「越後本醸造、〈霊見〉《たままみ》えだ」  「たままみえ? 幽体離脱でもするのか?」  「まぁいけ」  峰雪は、手品のように杯を取りだした。器用な男だ。 杯は管理人さんのものらしく、小さいけど綺麗な焼き物だった。  一升瓶の紙を剥いで、蓋を開け、とくとくと注ぐ。 わずかに金色の酒は、においたつようで。  くっと飲むと、喉に熱いものがしたたりおち、白子とあいまって、強い風味を口に残す。 いい酒だ。鍋には、こういう酒がいい。 「いい酒だな」  「だろ? 牧本も飲むか?」  「うん」  良い酒と、良い魚。 箸と杯が進み、しばし、皆、無言になる。 幸せすぎて、話す言葉もない。  やがて、箸のつつくのが湯ばかりになる。  ふぅ、と、僕は溜息をつく。   鱈も白子もおいしかったが、まだ少しだけ物足りなかった。   しかし腹八分目という言葉もある。 これくらいがちょうどいいのかもしれない。 「足りねぇか?」 「まぁな」   峰雪の言葉に、僕は答える。  「安心しろ。この峰雪。ぬかりはねぇ」   峰雪が、腕時計で時間を確かめる。 「ちょうどいい頃合いだ」  「もってくるね」  牧本さんと峰雪が、台所に立つ。  ふっと台所から湯気が出た。 おなじみの香りが、ふわりと漂う。ご飯だ。 「ご飯、炊いてたのか?」  「あたぼうよ。鍋の〆めときたら、雑炊に決まってる!」   管理人さんのご飯は、おいしい。 米がいいだけでなく、ガス釜を使っているからだ。 炊いてむらして、桶にあけて湯気を取って冷ます。   その味たるや。 本当に、おいしいご飯は、なんのおかずもなしに、ご飯だけで食べられる。  ましてやそれを雑炊にするというのは、僕に考えられる贅沢の極みだ。   取り皿に、輝くばかりの銀シャリをとりわけ、上から、たっぷりと鍋の出汁をかける。 大根おろしも、ここぞとばかりに足して、酢、醤油、ゆずで味を調える。   一口食べる。 「〈雑炊一口値千金〉《ぞうすいひとくちあたいせんきん》」   妙な言葉が口をついてでた。 それくらい、うまかった。  「美味なるかな、美味なるかな、旬の鱈が、〈値千金〉《あたいせんきん》たぁ ちいせえ、ちいせえ。この峰雪には〈値万両〉《あたいまんりょう》。もはや切り身も身を尽くし、まことにふくよかな出汁に、飯の盛りも又ひとしお、ハテ、艶やかな、雑炊じゃなあ」 「よっ! 峰雪屋」   牧本さんが合いの手をいれる。 意外とノリがいい人だった。  一口一口がおいしい雑炊を啜れば、今度こそ、食事は終わりだ。 「うまかったな」 「九門君、元気、でた?」   牧本さんに聞かれて、僕はうなずいた。  「鍋を食べるなんて、ほんとに久しぶりだ」  「私も」   牧本さんが笑う。 「これが最後の鍋と思うなよ」   そう言って峰雪が、〈呵々大笑〉《かかたいしょう》した。  酒をちびり、と……飲んでいるときりがないので、そこは切り上げて、後始末。  鍋と食器を三人で洗う。  一段落した頃には、ずいぶんな時間になっていた。 「それじゃ、私、そろそろ帰るね」   牧本さんが言う。  「そうか。気をつけて」   僕はうなずく。  「克綺、送ってったらどうだ?」   僕は、眉をひそめる。 「そんな、悪いよ」   牧本さんが遠慮する。  「家は空けたくない。 管理人さんから連絡があるかもしれないしな」  「峰雪が送ればいいんじゃないのか?」   峰雪は、俺のほうを見て、露骨に、わかってねぇな、という顔をした。 「ま、なんにせよ、夜道は危ない。 タクシー呼ぼうぜ」 「そうだな、それがいい」  「でも、タクシーなんて」   遠慮する牧本さんに僕はたたみかけた。  「金銭的な事情であれば問題ない。管理人さんから、お金を預かっている」 「俺も乗るからワリカンでいいんじゃないか?」  「だから、お金は出すと」 「う、うん、わかった」  「うし。それで決まりだ」  タクシーが来るまでの間、僕らは、管理人さんの部屋で、しばしくつろいだ。 「で、恵ちゃんの様子はどうだったんだ?」  「朝、会った時は、つらそうだった。 帰りには、用事があって見舞いにいかなかった。 管理人さんによれば、ずいぶん元気になったらしい」  「用事ってな、なんだ?」  「見知らぬ女の子に殺されかけて、逃げ出した。連続殺人事件の犯人かもしれない」 「あはは……」   牧本さんが、おざなりに笑う。 小さな笑い声が、部屋の中に虚ろに響く。  「何か、おかしいところはあったか?」   僕が首を傾げる。  「……冗談、だよね?」 「こいつの冗談は、〈蚯蚓〉《みみず》の阿波踊りよか珍しいぜ」   峰雪が、僕をじっと見る。  「一応、聞くが、そりゃほんとか?」  「本当だ」   僕は、うなずく。 「客観的に見れば、確率的に低い事象と思えるだろうが、これは作り話ではない」   僕は、二人に、事故現場に出かけたこと。 夕暮れの少女と、刺し貫いた矢のことを告げる。 「わけわからん……」   峰雪が首をひねる。  「うーん」   牧本さんも悩む。  その時、電話が入った。 「タクシーだ。門の前にいるって」 「おう」 「あ、じゃ、私、行くね」   二人が荷物をまとめるが、どことなく釈然としない顔をしている。 「そういうこともあるから、夜道は十分に気をつけてくれ」   僕が言うと、牧本さんの顔が青ざめる。 「やだ、脅かさないでよ」  「単なる事実だ」   あいたっ。 峰雪にどつかれた。 「それじゃ、九門君。また、明日ね」  「明日は、朝から病院に行ってる。 学校出るのは遅くなるかもしれない。ともあれ、また明日、だ」  「うん」  僕はメゾンを出て、タクシーまで、牧本さんと峰雪を送った。  門の鍵を閉じ、玄関を閉じ、管理人さんの部屋の鍵を閉じる。  廊下にただよっていた、かすかな料理の匂いも、階段をあがって部屋に入ると消えた。 一人きりだ、ということを、否応なしに意識する。  妙な一日だった。 優しくされ、殺されかけ、また、優しくされ。  しかし、とりあえず生きていることを考えると、総体としては、楽しい一日だったといえるだろう。  電気を消して、布団にもぐりこむ時。  一人でいることに、妙に不安を感じる自分がいた。 数年間、このメゾンで独り暮らしをしていて、こんな気分になったのは初めてだった。  管理人さんがいないからだろうか。 それとも峰雪たちと会ったからだろうか。  しばらく考えて。 この気持ちが、寂しさというものだ、と、気づいた。  寂しさのせいで、なかなか寝付けなかった。 起きていればいるほど、頭が、ぐるぐると痛んだが、それでも、眠りが訪れない。 そんな調子だったせいか、夢を見た。  ずいぶん昔の夢。 僕と、母さんと、恵。 母さんを中心に、三人で手をつないで帰った夢。  何の帰りだったのだろう。思い出せない。 シロの紐は恵が握っていた。 恵の遅い足に合わせて、シロが、ゆっくり、ちょこちょこと、歩いていた。  街は夕暮れの色に染まって、記憶の彼方の光景を、薄赤く塗りつぶす。  僕は、母さんの顔を覚えていない。 写真が嫌いな家族だったらしく、着飾った七五三に一緒に写っていたりするが……日常の、僕が知ってるはずの母さんの顔はそこにもなく。 だから、いつも見る夢では、母さんの顔は、いつも空白だ。  今日こそは、と、思って、僕は、母さんの顔を見上げる。 紅い逆光の中で、母さんが優しくたずねる。 「どうしたの?」  その声を聞くと、僕は、とても安らぐ。 あぁ、これが母さんだったっけ。 「決まってんだろ、ンなことも忘れたのか」  シロが峰雪の声で応える。 いつのまにか、シロの紐を僕が握っている。 「お母さん……」  恵が、両腕で母さんの胸に飛び込む。 それは、とても、幸せな光景に見えた。 「どうした? 遠慮してんじゃねぇぞ」  シロがせっつく。 僕は、少しだけ胸がどきどきする。 久しぶりに。 ほんとうに久しぶりに母さんに甘えられるのだ。 「母さん!」 →4日目へ 「母さん!」  そう叫んだ、自分の声で目が覚めた。  全身が、何か、暖かいもので包まれているような、そんな気がした。 重い肩の荷が下りたような、安堵の気持ち。  布団から身を起こす。 ぽかぽかとした空気が抜け、秋の朝の清冽な冷気が身を浸す。  徐々に、現実感が戻ってくる。  妙な夢を見たものだ、と、苦笑する。 わかりやすいといえば、わかりやすい、単純きわまりない夢。  今の恵にとって管理人さんは、母親代わりだし、僕にとっても頼れる存在だ。 夢の中とはいえ管理人さんに甘えかかる自分は、少し間抜けだ。  しかし、そこまでわかっても、幸せな気持ちは一向に薄れなかった。  時計を見ると、ちょうどいい時刻だ。 これから病院に行けば、面会時間に間に合うだろう。  僕は、服を着て、病院に出かける。  三度目ともなれば、慣れたものだ。 恵の部屋をたずねる。  ドアを軽く叩いて、そっと開ける。  恵は、まだ寝ていた。  その寝顔を管理人さんが見ている。椅子に座ったまま。 カーテン越しに、朝日が管理人さんの横顔を照らしていた。  ふと思う。 この人は、こうして一晩中ずっと、恵を見ていたのではなかろうか。 昨日の晩も。一昨日も。  頭を振る。 それでは、ただの妄想だ。  管理人さんは、僕のほうを見て、静かに手を振った。 「克綺クン、おはよう」 「おはようございます」  「恵ちゃん、よく寝てるわよ。そろそろ起きる頃」   その言葉が聞こえたかのように、眠っていた恵が、ゆっくりとみじろぎした。 両手をあげて、目をこすり、ゆっくりと目を開ける。   幼い顔に、ぱぁっと笑顔が広がる。 「おにいちゃん」 「おはよう、恵」   ゆっくりと身体を起こし、僕の胸に飛び込む恵。  僕は両腕でしっかりと抱き留めた。 「気分は、どうだ?」  「うーん」   恵が、あくびをする。  「わたし、事故に、あったんだよね」  「ああ」  「あんまり、よく思いだせないんだ」  「気にしなくていい」 「おにいちゃん……これから、学校?」  「あぁ」  「学校、終わったら、また来てくれる?」  「もちろんだ」   僕は、真面目な顔でうなずいた。 「じゃぁ、待ってる」   恵が大きな笑顔でうなずく。  「あぁ」   恵が差しだした手を、僕は、しっかり握る。  ずっと、そうしていたかったが、手は、離れた。 「それじゃ、行ってらっしゃい」   手を振る管理人さんは、快活で、疲れた様子がまったくなかった。  着いたのは、ちょうど1限目の終わりだった。 休み時間になるのを待って滑り込む。 「よぉ!」   峰雪が〈目敏〉《めざと》く声をかける。 「九門君、おはよう」 「おはよう」  「恵ちゃん、どうだった?」 「だいぶ元気になっていた」   僕は、病室の恵の様子を語る。   初日のような、おびえた様子はなく、状況も、ずいぶん把握しているようだった。 「ま、めでてぇ限りだな」   峰雪がえらそうに、うなずく。  「お見舞いとか行ってもだいじょうぶかな」   牧本さんが言う。  「峰雪や牧本さんなら、もう大丈夫だと思う。あとで管理人さんに聞いてみよう」 「聞くって、おまえ、携帯ねぇだろ」  「だいじょうぶだ。 来る途中に機種変更してきた。番号は同じだ」  「そういえば病院って、携帯かけていいの?」   牧本さんが素朴な疑問を出す。 「電波が、機械に悪いとかって」 「PHSはいいらしいぜ」  「あぁ。病院にもよるだろうが、あの病院ではOKだった」  「そっか。ごめん。変なこと聞いちゃって」  「いや、当然の配慮だ」  昼休み。  PHSの電源をつけると、留守電が入っていた。管理人さんからだ。  僕は管理人さんにかけ直す。 「もしもし、九門ですが」  「あら克綺クン」  「ご連絡いただいたので、折り返し電話しています。 授業中なので、電源を切ってました」  「うん。あのね、恵ちゃんが、退院できそうなの」  「それはよかった」   元々、外傷の問題で入院していたわけではない。 単に、外に連れ出せる状態じゃなかったので、様子をうかがっていたというところもある。 今日の朝の調子からいって、退院は問題ないだろう。 「メゾンのほうが、私も楽だし」  「何から何までお世話になります」  「じゃ、放課後、病院、来てくれる?」  「ええ、わかりました。 峰雪と牧本さんが、見舞いに来たいと言ってました」  「ええ、じゃぁメゾンに来てもらいましょ」  「そうですね、そうします」  僕は、電話を切る。 「退院か。そりゃよかった」   教室に帰って伝えると、峰雪が、わがことのようにうなずいた。 くっくと悪役のような含み笑いをする。  「どうやら、九門恵応援団の底力を見せる時が来たようだな」  「九門克綺応援団じゃなかったのか?」  「同時結成したの」 「なるほど。それはそれとして、九門恵応援団には、僕も入っていいのか?」  「うーん」   二人が顔を見合わせる。  「いんじゃねーの?」  「いいと思うよ」 「というわけで、新入り」   僕のことらしい。  「恵ちゃんの歓迎パーティをするから、あとで相談に乗れ」  「ああ、わかった」  放課後。 僕は、峰雪たちに鍵を渡し、病院へ向かった。  先に電話はしてあった。  一応、軽くノックする。 「おにいちゃん!」   元気な声が扉の向こうから跳ね返ってきた。 「恵ちゃん、ちょっと」   管理人さんが、あわてて押しとどめる声。 「おにいちゃん、おかえり」  ドアを開けると、仔犬のように恵が飛びついてきた。 その髪は、まだ湿っていて、僕の胸を濡らした。 「おかえりなさい、克綺クン」   櫛とドライヤーを持った管理人さんが立っていた。  「ただいま」   恵に合わせ、論理的にはおかしい返答を僕は返す。 「もう、大丈夫か?」   そう聞くと、恵は首を縦に大きく振った。  「わたし、だいじょうぶだよ!」   ぴったりと身をよせる恵。 ほのかな体温が僕を暖めた。  「ちょうどお風呂を借りてたところだったの」 「そうですか」 「はい、恵ちゃん、こっち来て」 「うん」   恵が、僕のほうを見ながら、管理人さんに寄ってゆく。 屈託ないその様子は、本当の母娘のように見えた。  「これから、お出かけしますからね。 はい、恵ちゃん、ばんざいして」   管理人さんが、恵のパジャマを脱がしにかかる。 「外で待ってます」  僕は、ドアを開けて病室の外に出る。  しばらく待つ内に、管理人さんと手をつないだ恵が現れた。  日本に来た時と同じコートの恵。 身体も目鼻立ちも大人びて、それでいて、表情だけが幼い。   そのアンバランスさが、壊れやすい陶器を見ているようで、僕は、少しだけ息を詰めた。  「さ、行ってらっしゃい」   管理人さんが、小さく背に触れて、送り出す。  僕との間の、わずかな距離を、恵は、泳ぐように、不安定な足取りで詰めた。 その手に触れる。  恵が、ぎゅっと手を握った。痛いほどに。 「管理人さんは、どうするんですか?」  「うーん、途中で買い物していくわ」   そう言って、少しだけ眠そうに、ゆっくりと伸びをした。  「では、行ってきます」  「いってきます」  僕は、正確には帰るわけだが。   目の前の管理人さんから離れること。 それは、帰るというよりは、旅に出る気持ちがした。   小さく頭を振って、妙な感覚を振り飛ばす。  「恵ちゃん、克綺クンの言うことをよく聞くのよ」   その言葉に、恵が、こくんと、うなずく。 「じゃ、私、受付行ってくるから、あとはメゾンでね」  「はい」  僕は、恵の手を引く。 「それじゃ、いこうか」 「うん」  そう言いながら、恵の目は、ずっと管理人さんの背を追っていた。  外は、もう、ずいぶん暗かった。  病院の玄関から出た瞬間。 恵の足が、ぴたりと止まった。 僕は、無理に手を引かず、じっと待った。 「おにいちゃん……こわい」 「どうした? 何がこわい?」   恵は、小さく首を振った。 その目は、じっと目の前の夕闇を見つめていた。  無人の闇というわけではない。 暗黒というわけでもない。  家路に着く人々が行き交う広い道路。 恵には、そこに、他の何かが見えているようだった。 「だいじょうぶだ」   僕は、そう言って恵の肩を抱く。 「なにもいない。いても僕がいる」  ぎゅっと恵が身を寄せる。 寒風に身を寄せる二匹の猫のように。 僕らは、風に向かって歩き出した。   家までの帰り道。 恵は、ほとんど口も利かなかった。   大通りも、人通りの少ない道も。 電車に乗っている間さえ。 僕に身を寄せて、あたりに目を配っていた。   小さな身体の体温が僕に泌み渡る。 それは、あまりに熱くて。 怪我で発熱しているかと僕は疑った。   握った手は冷たく。 顔は蒼白で。   小さな身体は、一歩ごとに、何かと戦っているように思えた。   ゆったりと、急かさぬように、歩調を合わせて歩く。   気を逸らすように、何か話でもしようと思ったが。 話すべきことを、僕は、どうしても思いつけなかった。   それが、少し悲しかった。  どうやら恐怖というのは伝染するらしい。 それに気づいたのは、駅を出て、メゾンへの帰り道に着く頃だった。  ……なんだ、この感触は?  気配。 いや、そんな生やさしいものではない。  何かが、そこにあるという、感覚は。 あたかも、目をつぶって歩く時のような。 実体さえある危機感として感じられた。  夜の空気の匂いが違っていた。 かすかな血の匂い。  遠くにパトカーのサイレンを聞いた時。 恵と一緒に歩く、その歩幅が、ゆっくりと縮まり、やがて、足が動かなくなる。 「おにいちゃん」   めりこむほどに身を寄せる恵を、僕は抱きしめた。  錯覚だ。そうに違いない。 自分にそう言い聞かせる。  今、恵を怯えさせてはいけない。 せっかく元気になったのに。 そう思っても、足は根が生えたように動かなかった。  大声を出して。 地面を踏みならせば。 ふがいない足を拳で叩けば。 そうすれば動けるかもしれない。  けれど、恵の前で、そんなことをする勇気はなく、僕は、その場で息を整えた。 「おにいちゃん、こわいの?」   小さな声で恵が囁く。 「だいじょうぶだ。僕は、大きいから」  声が出た。 声が出れば、大丈夫だ。 「恵は、どうだ?」 「へいき。おにいちゃんがいるから」   かすかに震える声が僕に力をくれた。  メゾンまで、ほんの少し。 僕は、恵の手を引いて、ゆっくりと歩き出した。   いつのまにか、ずっと昔に戻った気がした。   恵が旅立つ前。事故の前。 父さんと母さんがいた頃。   二人で遊んでいて迷子になって。 見知らぬ街を、手をつないで歩いていた時があった。   見知らぬ街で、夕暮れから夜を迎え。 ゆっくりと暗くなる街。 それだけのことが、本当に怖くてしょうがなくて。     あの時も、強がる僕がいて。 恵は、目に涙をためながら、それでも泣かずに僕についてきた。   ずいぶん昔のこと。  あの頃の僕には、まだ、心臓があった。   怒って。意地を張って。怯えて。   あれから、ずいぶん変わったと思ったが。 僕は恵の手を握る。 そんなに変わっていないんだな、と、ふと思う。     あの時は、僕が恵の手を引っ張って大またに歩いていた(道もわからないのに)。 恵は、引きずられるように後からついてきた。   僕と恵は、今、ぎゅっと身を寄せあい。 数年という時間を隔てて再び巡り会った僕と恵の間の距離は、あの時よりもなお縮まっている。   考えてみれば、それは奇妙なことで──。 僕は、少しだけ気が楽になった。 「恵は、峰雪を覚えてるか?」  「みねゆき? うん」  「牧本さんは、覚えてるか? この前、一緒にお弁当を食べた」   今度は、少し時間がかかった。  「まきもとさん……」   こっくりと首が振られる。 「あと少しで家だからな。そうしたら、管理人さんもいるし、峰雪も、牧本さんもいる」  「おうち……シロはいる?」   恵が僕を見上げ、僕は言葉に詰まる。  「ごめんなさい」  そう言った恵を、僕は、ただ抱きしめた。 「シロはいないけど……きっと、いい家だ」 「うん」  腕の中のこわばりが解けるまで、僕は、ずっと恵を抱きしめていた。    影が、動いていた。   屋根から屋根へ。 塀から塀へ。   風よりも速く。 そのくせ、塵一つ乱さず。 肌にも触れず、目にも止まらず。   気配を殺した風が跳ぶ。   それは、風に乗って跳んでいた。 風の行く末を探していた。 街全体の風が集まる一点を。 「やれやれ」  それが降り立ったのは、廃ビルの屋上。 その縁だった。 「ひどいニオイだ。血のニオイだ。 街中、どこもかしこも汚れた血のニオイがする」   少女は、ぶるりと身を震わせた。   穢れた血。 喰うためでも競うためでもなく、ただ、殺すためだけに殺されたものの血。 少女の鼻は、町中で繰り広げられた死闘を正確に、かぎとっていた。  目を閉じた少女。 その脳裏に、ニオイでできた地図が描かれる。 「まんなかにいるのはカツキ」  中心で光る硬い蒼。 それがカツキのニオイだ。  隣にも連れがいる。 「カツキを狙うのがいっぱい。カツキを守るのが一つ」  街中に、点々と、真っ黒な炎が灯っていた。 それらは、ゆっくりと蒼い点へ群がろうとする。  一個だけ、違う色の点があった。 純白のニオイを放つ大きな点。 「強いな。ずいぶん強い」  純白の炎が、黒い炎を蹴散らしてゆく。 一つ、また、一つと、圧倒的な速度で黒の点は消えてゆく。 「わだつみの民が……消えてゆく」 「強いのも道理。あれは、三つの護りの一つです」  背後から、陰々滅々とした声がかかった。 「三つの護り……へぇ、あれが」  振り向く視線の先に、男がいた。   くたびれた背広に、几帳面にセットしたすだれ頭。 角張った眼鏡にネクタイ。   人生の苦渋を残らず舐めたような中年の顔。   本来なら場違いであるはずの、この廃墟に、うらぶれたサラリーマンは、妙に合っていた。 「人類を護る三大の一つ、"最も古い祈り"。お相手なさらないのが、賢明かと」  「ものしりだね。おじさん、誰?」 「私、田中義春と申します」  「ボクは、風のうしろを歩むものだよ。 何か用?」  「それが、ですね。えー、まことに僭越ながら、ご忠告など申し上げさせていただきます。あなた様が獲物と見込まれました九門克綺氏をですね、我々のほうで頂戴しますと、まぁ、そういうことです」  「そう」   少女は、真摯な顔でうなずいた。 「カツキはボクが目をつけた獲物だから、あげるわけにはいかないな」  「ご忠告と申しました」  「うん」 「お聞き入れいただけない場合には……その、多少、不作法になりますが、後悔なさっていただく、ということになります。  私としてもですね。手荒なことは気がすすまないのですがね。 これが、夜闇の民のほうでの結論ということで、ご了解いただければと思います」   田中は、いかにも気のなさそうな声で言った。 「おじさん、やるの?」  「先ほども申しました通り、その、お手を引いていただけるのであれば、双方に取りまして幸いと、これ、思うわけですが……」  「メンドウな話は苦手なんだ。 つまり、邪魔するのなら相手になるってこと?」 「いかにも」   どっしりと、田中が構える。 腰を落とし、拳を構えた。 「わかったよ」   少女は、嬉しそうに応えた。  両腕を無造作に胸の前に構える。 開いた五指の爪が光った。 「じゃ、おじさん、いくよ」  「まいります」   サラリーマンの足が火を吹いた。  どのような足さばきか、一切構えを変えずに間合いを詰め、震脚と同時に、拳を突き出す。  一撃が、少女の胸を捉える。  否。 一瞬速く、少女の身体は地を蹴っていた。  木の葉のように、衝撃を受け流し、少女は風に舞う。  ふわりと宙に舞った身体が地につくより速く。  ぴしり、と、音を立てて、コンクリの床にひびが入った。 「これは、私としたことが」  作用ないところに反作用はない。 踏みしめる地がなければ、剄は成らない。 「ボクの番だね」  くるりと回って、少女は宙を蹴った。 頭から先につっこむと、尖った爪を、縦横無尽に振り回す。 「わっとっとっと!」   宙に浮いたまま、田中が巧みに掌底で手首を弾く。 爪が肌をかすめ、田中の顔に、血の筋を刻む。 「あれれ?」   風のうしろを歩むものが手を引こうとしたその時。 「捕まえましたぞ」   田中の左手が、その手首を捉えていた。  とん、と、田中の爪先が、一階下の床を踏んだ。  右手が、ぐんと引かれる。  どん、と、足が地を踏む。  足から膝へ。 膝から腰へ。 腰が回り背がよじれ、肘がたわみ。  浮いた少女の身体に、渾身の剄が叩き込まれる。 瞬間。 田中の前髪が、すだれのようになびいた。  大鐘を突いたような音が、鈍く、深く響く。 宙に浮いたまま、少女が全身から血を噴いた。  と同時に、田中が膝をつく。 「おじさん、強いね」   顔を朱に染めながら、少女が淡々と言った。 「なんの。まだ修行が足りません」  「風が呼んだら、また会おうね」   そう言い残して、少女は宙に跳んだ。   背を向けた少女になすすべもなく、田中は腰を下ろした。 「この私としたことが……まいりましたな」   最後の瞬間。 剄を避けられぬと見た少女は、臆せずに蹴りを繰り出した。 相打ち狙いの必殺の蹴り。   迷わずに打ちきっていれば、田中の肘が先に届いたかもしれない。   だが。 一瞬迷った。  迷ったが故に、剄の打点はずれ、かつ、少女の蹴りは田中をかすめた。 田中は胸に触れた。 背広の下のシャツには、小さく、だが深い穴が背中に抜けていた。  「修行のしなおしですな」   この身は死んだ身。 そう悟ったつもりだったが……。  やがて、田中は立ち上がった。 乱れた髪を、手櫛で直す。 ふらりと歩き、闇に消える。  やがて廃ビルには静けさが戻った。 「恵、あれが家だぞ」  銀杏並木につくと、急に、息が楽になった。 それは恵も同じらしく、歩幅にゆとりがでている。 「おうち?」 「あぁ。管理人さんのいる、メゾンだ」  位置の関係か。 街からそう離れてるわけではないのに、この並木道には、車の音も響いて来ない。 その静寂が、肌を柔らかに包み、護ってくれる気がした。  いかなる悪鬼が街に住もうと、ここまでは、やってこない。 そんな錯覚さえする。 「おう、お帰り!」   メゾンの扉を開けるなり、峰雪が、でかい顔をつきだす。 「恵ちゃん、こんにちは」  「まきもと、さん?」  「覚えててくれたんだ。 嬉しいな」 「おう、克綺」  峰雪に呼ばれて僕は脇へ行く。 「恵ちゃん、調子はどうだ?」  「見ての通りだ。 かなりよくなった」  「ちょいとしたパーチーを準備したんだがな。だいじょうぶそうか?」  「あまり疲れさせてはいけないと思うが……様子を見てれば大丈夫だと思う」  「そいつぁ、よかった」 「管理人さんは?」  「まだ帰ってきてねぇけど……」  「そうか」   恵と一緒にゆっくり来たせいで、ずいぶん時間がかかった。 管理人さんのほうが先に着いていると思ったんだが。  奇妙な胸騒ぎがした。 管理人さんは、平気な顔をしているが、体力的に無理をしている。 街中で倒れたのではなかろうか。   あるいは……考えたくないことだが、事件に巻き込まれたとか。  「なんだったら電話してみりゃどうだ?」  「……そういえば、そうだな」  峰雪に言われて、僕は携帯を取り出し、管理人さんの番号にかける。 「もしもし……九門です。」 「あら、克綺クン」  柔らかな声に、僕は、そっと安堵の溜息をつく。 「今、メゾンに着きました。 峰雪と牧本さんも来ています」 「あ、そう。ごめんなさいね、遅れちゃって」 「いえ……無事でしたら構いません」 「無事って……何かあったの?」 「いえ。無根拠な不安です」 「そ、そう。心配してくれたんだ。 もう、駅過ぎたから、あと5分くらいで着くわ」 「わかりました。お待ちしています」 「……なんだって?」  「駅を出たところで、もうすぐ着くそうだ」  「そいつぁよかった」  「お兄ちゃん」  とてとてと恵が近寄ってくる。 手に、大きな箱をもっている。 リボンのかかった箱だ。 「どうした?」 「まきもとさんが、お祝いだって」   どこか、ためらいがちに僕のほうを見る。 しかし両手は、しっかりと箱を抱きしめていた。 「あの……退院祝いだけど……迷惑じゃなかったら」   僕は首を振る。  「迷惑ということはない」 「よかったな、恵」 「うん。開けていい?」 「そうだな……すぐ管理人さんが帰ってくるから、そうしたら開けよう」 「わかった」 「ま、とりあえず入れや」 「あぁ」  管理人さんの部屋に入って、思わず、僕は声を漏らした。 「おぉ」  折り紙で作った鎖が天井からぶらさがっていた。 暖炉の上には、模造紙が張ってあり、色ティッシュの造花が囲んでいた。  模造紙には、切り紙細工で  “めぐみちゃん、たいいん、おめでと”   とあった。  めぐみが、目を丸くする。  「おめでと?」  「まだ、ちぃと完成してねぇんだけどな」   峰雪が頭を掻く。 テーブルには、鋏と糊、そして無数の折り紙などの図工道具が散乱していた。 「全部、峰雪君がやったのよ」   牧本さんが言い添える。  「私は、料理してたから、飾り付けは俺に任せろって……」  「そうか」 「管理人さんが来る前に、片づけよう」 「おう」  「それと、峰雪」 「なんだ?」  「ありがとう」  「いまさら、改まんな。気色悪ぃ」   唇をゆがめた顔は、まんざらでもなさそうだった。 「荷物置いて着替えてくる」 「万年一張羅の癖しやがって」   峰雪が毒づいた。 「恵ちゃん、独りで着替えられる?」   牧本さんに言われて、恵は、ふと首を傾げる。  「じゃ、一緒にいこ」  「うん」  「牧本さん、お願いします」  「はい」  恵を牧本さんに預け、僕は自室に戻った。 カバンを置いてベッドに横たわる。  全身の力が抜けた。 疲れ。しかし、心地よい疲れだった。  最悪は終わった。 これからは、よくなるばかり。 そんな気がした。  こもった空気を追い出すために窓を開ける。  ここからはメゾンの裏庭が見える。 管理人さんが手入れしているハーブガーデンがあるところだ。 暗闇は部屋の灯りを呑み込み、緑の園は半分闇に沈んでいた。  その闇の中で、影が動いた。  紅い影。   管理人さん……? 声をかけそうになって、僕は口をつぐむ。 管理人さんなら、こんな裏庭から来るはずもない。   じゃぁ、牧本……峰雪……恵。 誰にせよ、こんな時間に何をしに来るというんだ?  それに。 一瞬のことだし、見間違いだと思うのだが。 あの紅い影は……大量の血をかぶったかのようにみえた。  ベッドにばったりと沈み込む。 吹き払われた嫌な気分が、再び頭をもたげていた。  深紅の影。鮮血。死。喪失。 連想はネガティブな方向につながってゆく。  ぐったりと、ベッドに横たわっていると。  響いたノックの音に、僕はのけぞった。 「克綺! 遅ぇぞ。 管理人さん、帰ったぞ」 「そうか、今、いく」  呼吸を整え、僕は立ち上がった。 「ただいま」   いつもの笑顔。 いつもの優しい声。   管理人さんは管理人さんだった。   その顔を見て、僕は、少し、ほっとする。 「ごめんなさい。遅くなっちゃって」  「ご飯、作っておきましたから」   牧本さんが、恥ずかしそうに言う。  「あら、おいしそう」   色とりどりのサンドイッチ。 フライドチキン。   急に空腹を意識する。  暖炉の火が入った管理人さんの部屋は、ぽかぽかと暖かく、さっきの不安は、消し飛んだ。ほとんど。 「お兄ちゃん」   恵が、服の袖を引っ張った。 片手には、あのプレゼントの箱を抱きしめている。 「開けていい?」 「あぁ、いいとも。牧本さんにお礼は言ったか?」 「開けてから」  頑なな声は、食卓に笑いを誘った。 「いいよ、開けて」   牧本さんが笑う。 これ以上ないほど真面目な顔で、恵が、リボンをほどく。  包装紙は、時季外れのクリスマス仕様。 赤い色に、緑のもみの木と、白い雪だるまがあった。 「はいよ」  タイミングよく峰雪がカッターを渡す。 恵は、包み紙のセロテープを、丁寧に切り取ってゆく。 切り取り終わった包み紙を丁寧にたたみ、それから待ちかねたように箱を開けた。  箱の中からでてきたのは。 一抱えもあろうという犬のぬいぐるみだった。 恵が、目を見開いて、なんども瞬きする。  偶然だろうか。あるいは峰雪が言ったのだろうか。 白い毛並みのピレネー。 ぬいぐるみは、昔飼っていたシロにそっくりだった。  思い出が胸に蘇り、棘のように残る。 けれど、それは痛みというほどではなくて。  恵は、ぬいぐるみに頭を埋めた。 ぬいぐるみの影から、顔をひょっこりだす。 「まきもとさん、ありがとう」 「どういたしまして」 「じゃぁ、ご飯にしましょうか」  管理人さんの提案。  恵は、大切そうに、ぬいぐるみを床に置いた。 食事の時のシロの定位置も、恵の椅子の横だった。  「いただきまーす」  サンドイッチをつまむ。   おいしい。 「味はどうかしら?」 「絶対評価か相対評価か?」  「絶対評価だとどうなるの?」 「技術的には悪くないが、完全とは言い難い。 トーストの冷ましが足りないから、湿気ってしまっている。 バターは湯煎すると、味がまろやかになる。 隠し味にマスタードを入れたほうがいい。 それからキュウリの切り方が……」 「お兄ちゃん!」 「いいかげんにしとけ」   峰雪のチョップが脳天に決まる。  「あの……相対評価だと」  「十分に、おいしい」  「そうなんだ。よかった」   牧本さんが、笑った。 「気にしないでね。 克綺クン、悪気はないの」  「あ、それは知ってます」 「ほんっとにお兄ちゃんは、無神経なんだから」   恵が言うと、皆が笑った。 僕も笑った。   恵の回復ぶりが嬉しかった。  サンドイッチは、あっという間になくなった。 フライドチキンも、だ。 「お茶入れてくるわね」 「私、手伝います」  二人が席を立つ。  戻った時。 牧本さんはティーセットを。 管理人さんは、小さな箱を抱えていた。 「これで遅くなっちゃったのよね」   蓋を取って現れたのは、チョコレートのログケーキだった。 砂糖菓子のプレートで、恵ちゃん、おめでとう、とある。 「わぁ」   恵が目を丸くする。  「ケーキ」  「今、切るわね」   すいと包丁を入れ、ネームプレートのついた一切れを、恵の皿に置く。  「ありがとう」   恵の目が輝いていた。 「子供の頃さぁ……あのケーキのプレートとか、サンタさんとか、えらく欲しかったよな」   峰雪が、しみじみと言った。  「そんな気もするな」  「おまえら、クリスマスの時、それで、いっつも喧嘩してたよな」  「そうだったか?」   正直、記憶にない。 「あぁ。どっちがサンタさん取るかで揉めてた」  「まったく子供というのは仕方ないな」  「他人事みたいにいいやがって。 牧本ん家はどう?」 「うん。私もあったよ。お姉ちゃんと喧嘩して。 っていうか、私が泣き出して、それでお姉ちゃんが、譲ってくれたのかな」  「牧本、姉貴いたんだ」  「もういないけどね」  「そっか……」   峰雪が頭を掻く。 「悪いこと聞いちまったな」  「ううん」   牧本さんが、首を振る。  「こんな楽しいパーティ、すごく久しぶりだから」 「確かに、おいしいケーキだな」   ビターチョコのクリーム。生地にはブランデーが入っている。 かすかにほろ苦いケーキに、アッサムティーが、また合った。  「そういうことじゃねぇと思うが……」 「おいしい? よかった」   管理人さんが笑う。  「ほんとだったら、うちで焼こうと思ってたんだけど……」  「無理しないでくださいよ」   峰雪が真顔で言って、僕もうなずく。  「あら、こう見えても、まだ若いんだから」  ケーキを食べ終わる頃には、僕らの身体は、ぽかぽかと温かくなっていた。 恵の瞳が、半分閉じられ、こっくりこっくりしている。 「んじゃ、そろそろお開きにすっか」   何事もしきらずにはいられない男が宣言した。 「ほら、恵ちゃん」   管理人さんが、やさしく恵を揺り起こす。 「ん……」  恵が、目をこすって頭をおこす。 「それじゃ……」 「ごちそうさまでした」  どやどやと立ち上がる。  「後かたづけだな」  「早めに帰ったほうがいいわよ。もう、夜、遅いし、最近、なにかと物騒でしょ。牧本さんもね」  「了解」 「おう、克綺、恵ちゃんは、いつまでいるんだ?」 「様子見だな」  「学校とか、大丈夫なのか?」  「向こうの学校は、今、秋休みだからな。 ミカエルマスが始まるまで、しばらく余裕はある」 「み・みかえるます?」 「秋学期のことだ」   ちなみに、年度は10月のミカエルマスにはじまり、冬学期のヒラリー、春学期のトリニティと続く。  「そういうもんなのか。 なら安心だな」 「んじゃま、また会おうぜ。恵ちゃんもな」  「うん」   ぬいぐるみを抱き上げた恵がうなずいた。  「それじゃ、さようなら」  辞去する峰雪と牧本さんに、僕と恵は手を振った。 「いい人たちね」   二人を戸口に送り出し、管理人さんはつぶやいた。  「はい」   僕もうなずく。  「部屋の片づけ、手伝いましょうか?」 「すぐ終わるから、いいわよ」  「わかりました。 おやすみなさい」  恵の手を引いて階段を上る。  僕らは、並んで、恵の部屋の前に来た。  扉を開け、電気を点ける。 「じゃ、おやすみ」  そう言ってうしろを向いた僕の服を、恵が掴んだ。 左手にぬいぐるみをかかえ、右手でしっかりと生地を握っている。 「どうしたんだ?」  「お兄ちゃん……こわい」   恵の目を見て理解した。 怖いのは夜の闇。怖いのは孤独。 怖いことには理由がない。   僕は…… 「こわくないぞ。 僕がいる」   ずっと昔にも、よく、こんなことがあった。 父と母がいない夜。 怯える恵を寝かしつけるのは僕の役目だった。  「ずっといてくれる? ずっと?」   ずっとはいられない。 だけど。 「目をつぶって眠る時まで、一緒にいる。 目を覚まして起きた時にも一緒にいる」  「それで、いいか?」  「いいよ」  「着替えは独りでできるか?」  「……できる」   そう言いながら、恵は、ぎゅっと、ぬいぐるみを抱きしめた。  外で待つことしばし。  内側からノックの音がして、僕は部屋に入った。  パジャマ姿の恵の手を引いて、ベッドに寝かしつける。  恵は、ぬいぐるみを抱いたまま布団に入った。 僕は、ベッドのそばに椅子を引き寄せた。 「そのぬいぐるみ……名前は、何にする?」 「シロ」   恵の声には迷いがなかった。 「シロか」   僕は昔を思い出す。 「今度は、だいじょうぶだな」 「うん」   それだけで、恵には通じた。     あの頃。 僕らが犬のシロと一緒に寝たがった頃があった。 アニメで、そんなシーンを見たからかもしれない。   けど、汚いからということで、シロをベッドに入れるのは禁止されていた。   ある日、両親が留守にした晩。 僕らは、こっそりシロをベッドに入れた。   ストレスのせいか、シロはベッドで下痢をして、翌朝、僕たちは、こっぴどく怒られた。     それでも、どうしても、と、ごねた挙げ句、一回だけ、許してもらった。 庭にテントを張らせてもらって、その中で、二人と一匹で寝たのだ。   今にして思えば、両親は、シロを労っていたのかもしれない。 子供二人の遊びにつきあうのは、どんな犬でも大変なものだ。 夜寝る時まで一緒にすれば、どんな元気な犬も保たなかっただろう。  ぬいぐるみを抱きしめた恵は、長年の夢が叶ったようだった。 「お兄ちゃん」 「なんだ?」 「おはなしして」 「お話か……」 「こわいおはなしはだめだよ」  期待に満ちた目に見つめられ、僕は困った。  ずいぶん昔。恵を寝かしつけていた頃。 僕は、お話が得意だった。そんな記憶がある。  子供ならではの、でたらめな話を、とにかく続けて、恵が眠るのを待った。  だけど、あれは、僕にまだ心臓があった時のことだ。 心臓のない僕に、お話の元はわきあがって来なかった。 絵本でもあれば読み上げてやれるのだが。 「おにいちゃん?」  期待に満ちた目で見つめられ、僕は、観念して語り始めた。 「むかし、むかし、あるところに。 おおむね仲の良い兄妹がいました。 兄妹は、それなりの期間、一緒に暮らし、主観的には、おおむね幸せな毎日を暮らしました。以上」 「それ……お話?」 「お話だ」   僕は有無を言わさず断言した。 「もっと、お話して」   む、しぶとい。 「じゃ、本を取ってくるから、ちょっと待ってくれ。すぐ戻るからな」 「うん」  力無い声で恵が言う。 僕は、急いで自室に取って返した。  部屋の本棚を見回す。  「世界殺人ツアー」「世界魔法大全4 心霊的自己防衛」「スカトロジー大全」   ノンフィクションが多いな。   フィクション系は……。  「ドグラ・マグラ」「O嬢の物語」   ……あまり子供向きとは思えない。  恵が心配してるだろうから、急いで戻りたいのだが……。   僕は、ふと、思いつく。 要は眠くなればいいわけだ。   そう考えて、僕は、馴染み深い一冊の文庫を取った。  部屋に戻ると、恵は、大きな目で僕のことを見ていた。 「遅くなったな」 「ごほん、みつかった?」 「あぁ、見つかったとも」  僕は文庫を取り出す。 恵の目が、細まった。 「それ、こわいおはなしじゃない?」 「気にするな」 「ごほん、真っ黒だよ?」 「心配いらない。恐怖小説という人もいるが、僕はむしろ幻想小説の線で評価している」   あからさまに警戒する恵。 「まず、目をつぶって。ゆっくり息を吸って」 「はーい」  電気を消し、スタンドだけ点ける。  目をつぶる恵の髪を、僕は、指先でかきあげる。 本を開き、ゆっくりと読み始めた。    「わたしが思うに、この世で最も慈悲深いことは、人間が脳裡にあるものすべてを関連づけられずにいることだろう……」  思った通り、数ページを読むまでもなく、恵は眠りに落ちた。 安らかな寝顔……とは少し違うかもしれないが、とにかく意識は失っている。  僕は、スタンドの灯りを消し、ゆっくりと音をたてずに、部屋から出た。  眠る恵の吐息に、ときおり、溜息のようなものが混じっていた。 「ちょっと待ってな」  僕は、恵を置いて階段を降りよう……としたが、恵は服を握ったまま着いてきた。  しかたなしに、管理人さんの部屋をノックする。 「夜分遅く失礼します」 「あら」   管理人さんは、恵を見て、すべて察したようだ。 にっこりと笑う。  「恵ちゃん、眠れないの?」   こくり、と、うなずく。  「じゃぁ、ごほん、読んであげましょうか?」  「うん」 「何から何まですいません」   僕は管理人さんに頭を下げた。  「いいのよ。 私も楽しくてやってるから」  管理人さんは、部屋の奥から、絵本を取りだしてきた。  「さ、行きましょ」  恵を中心に、僕たちは三人で手をつないで階段を上がった。 「よろしくお願いします」  僕は、頭をさげて、部屋に入る二人を見送った。    自室に戻り、僕は服をぬいでベッドに入った。 身体はくたくたで、すぐに眠れる、と思いきや、闇の中で目が冴えて、寝付けなかった。 閉めきった窓が、無闇に気になった。 あのカーテンの先に、紅い影が潜んでいそうで。   子供の頃みたいだ。 あの頃は、こんな風に闇が怖かった。 カーテンの隙間が、たとえようもなく恐ろしかった。 このメゾンは、こんなにも安らぐのに。 ここにいれば安全だと、わかっているのに。 なにかが、外からやってくる。 そんな不安がぬぐえない。 紅い影。   ──それは、夜の盗人のように現れた。   馴染み深いフレーズが、僕の脳裏をよぎる。 ポーの「赤死病の仮面」。 全身から血を噴いて死ぬ病。 赤死病の蔓延する国にて。 王子プロスペローは一計を案じる。 生き残ったわずかな臣民を集め、城門を閉ざし、扉を閉ざし、いつ果てることのない宴を続ける。 闇を退けるために煌々と火を焚き、たえまない楽の音で静寂を殺し。 笑いさざめく紳士と淑女。楽師に踊り子、獣使い。 そこには死の影はなく、外の世界は切り離されている。 ただ、時計の音が、厳かに時を刻むのみ。   王子によって催された仮面舞踏会は、退廃の極み。 あらゆる狂気が演じられ、あらゆる奇人がまかり通る。 美しくもおぞましい舞踏会の中で、許されぬものは何もない。   ただ一つ。王子の怒りを買った姿があった。   それは、死人の扮装だった。 屍衣をまとい、死者そのものの仮面をつけ。あまつさえ、その仮面には、紅い斑点……赤死病の印が刻まれていた。   怒り狂った王子は、兵とともに、仮面の男を追った。 一足ごとに怒りは去り、一足ごとに、えもいわれぬ恐怖が王子を満たした。 いつしか兵達は足を留め、それでも王子は走り続けた。   七つの部屋を駆け抜けて、王子は、ついに、その屍衣に触れ、仮面に手をかけた。 はぎとった仮面の下には何もなく、屍衣は、ただ、地に墜ちた。   王子の腕にも顔にも、紅い斑点が現れた。 血を噴いて倒れる王子。 そして独り。また独り。人々が悲鳴を上げる。 その悲鳴が絶えるのに、さして時間はかからなかった。   ──そんな話だったと思う。   幼い頃。 ポーの原典を読んだはずはないが、どこかで、この話を聞き……しばらくうなされたことがあった。 堅牢に備えれば備えるほど、軽やかに滑り込む死の使者。 それは僕の心に、深く刻まれた。   あの紅い影は、多分、なんでもないものだろう。 ただ、僕の昔の記憶を刺激したに過ぎない。 僕は無理矢理そう思いこもうとし、半ば成功した。   嫌な気分に包まれたまま目を閉じると、今度は眠ることができた。     乾いた咳の音が、夜の静寂を切り取る。  音は数を増やし〈谺〉《こだま》を呼び、狭い街路に響き渡る。   銃声を縫うように影が走る。   新開発区。 路地の出口を、装甲車が横付けに封鎖していた。 銃眼からつきでた銃口が、一斉射撃を加える。   銃声の中で影が躍る。 秒間百発を越える密度の鉛玉が、路地裏に叩き込まれた。  その一つたりとも肉を噛まず、虚しくアスファルトをえぐる。     影が、跳ねた。 空高く。 一瞬。  蒼くさえざえと輝く月を背に、影が浮かぶ。   その姿は、いまだ幼い少女のものだ。二筋の髪をなびかせて、少女は身を翻した。   歯の根を振るわす異音が響いた。  鉄と鉄をこすりあわせたような、鈍く太い音。 厚い鋼板の護りの中で、銃手たちが悲鳴を上げた。     星の光が差し込んでいた。 装甲車の天板には、太く、長い三筋の裂け目が刻まれていた。   誰が信じただろう。 その裂け目が、飛び越しざまに少女が振るった片手に拠るものだと。   裏路地を跳びだした少女に、眩しい光があびせられた。 小さな広場は、くまなくサーチライトで照らされ、厚いバリケードの裏には機銃が配置されていた。    「追いつめられた……のかな?」   無邪気な声で少女が囁く。  警告はなかった。 無数の火線が空間を満たすその間を、少女は堂々と歩いた。   たちまち火線が集中し、華奢な少女を薙ぎ倒す。  あおむけに倒れこんだ少女を、さらに銃弾が踊らせた。   十秒。二十秒。  銃声が、ゆっくりと静まる。  最後の一発が、場違いな拍手のように響き、静寂が訪れた。   銃弾に代わって浴びせられる無数の視線の中。 少女の死体が、わずかに動いた。   動揺する空気。   否。 それは死体ではなかった。 銃弾は、その身に食い込み、服を破ってはいるものの、血の一滴たりとも流れてはいなかった。     風に流れるものがある。 緊張。 そして恐怖。   足指が地面を掴み、そこを支点に少女の身体が、ぐるりと跳ね起きる。 十指の爪は長く伸びて月光に輝き、帽子の下から尖った耳が顔を出す。   そして、その眼。     大きく丸い瞳は、人のものではなかった。   弾かれたかのように銃手たちが動き始める。  銃口が少女に狙いを定めてゆく。  「じゃっ!」   鋭い咆吼が、銃手達を打ちすえた。 女のような悲鳴が洩れる。     恐怖が引き金を引かせた。 そして恐怖が銃口をそらした。   鉛玉は、ことごとく少女を逸れた。   少女が笑う。 狡猾なる獣の笑い。     軽く右腕を振る。   三筋の爪痕が、音をたてて大地をえぐった。   それは音の速さでバリケードを紙のように引き裂き、その後ろの人の群れを血と肉に変えてゆく。     悲鳴が上がった。 男達が逃げ出す。   引き金を引いたまま、少女に背を向ける者たち。 乾いた咳の音とともに、バリケードの向こうで血のしぶきがあがった。   紅く芳醇な血のニオイに、少女は鼻をうごめかせた。 悲鳴が上がる。   悲鳴が上がるということは、まだ生きているということだ。           少女は闇の中、凶鳥のように宙を跳んだ。 慈悲は、すぐに与えられた。 →4−14      鋼色の門は、星の光を浴びて、冷たく光っていた。 少女は、ゆっくりと左手をその門に近づける。   指が触れるより速く、その手が血を噴いた。  「うーん、やっぱり無理か」  腕を戻す。 掌から指先まで、切り刻まれたように、無数の傷跡が残っていた。 息を止め、力をこめると血が止まる。 「獲物は巣穴にこもってる、と」   少女は、ゆっくり振り向く。 「風が吹いてる。 白く輝く、清らかな風だ」   少女は歌うように言った。  「溶けない雪みたいな、鋭い風」   少女の前に、闇がわだかまっていた。 緋色の外套を着た闇が。 「不思議だな。 そんなに血塗れなのに、ケガレのニオイがしない」   べっとりと血の染みついた外套からのぞく腕は、白い骨だった。   人骨ではない。 象牙を削ったかのような、人形の骨組み。   無表情な仮面は、死、そのものを感じさせる。 「会うのは、はじめてだよね。 ボクは、風のうしろを歩むもの」  「あなたは、三つの護りの一つ、最も古い祈り、で、いいのかな?」   風は動かず、仮面は止まったままだった。 にも関わらず、言葉は届いた。 それは、聞こえたというより、心に刻まれたかのようだった。                     “これは王の刃                王の眠りを護る刃” 「王様? 王様に用はないけど、カツキはもらうよ!」  風のうしろを歩むものが地を蹴った。 それが戦いの始まりだった。  それは静けさに満ちた戦いだった。   電光の如く駆ける少女は、そよとも空気を揺らさず。 人形は、微動だにせず、それを待ち受ける。   初撃。  少女の右腕が、外套に沈んだ。  「くっ」   だが苦鳴をもらしたのは少女のほうだった。 外套の下に手応えはなく、次の瞬間、手首に痛みが走った。   少女の腕から風が吹く。外套が翻り、人形の中身を現す。 そこにあるのは象牙の肋骨。 肋骨は、その口を大きく開け、罠となって、少女の右腕を、がっちりと挟み込んでいた。                 “刃は断つ。刃は殺ぐ。刃は刻む”  骨が震え、軋む。 刃と化した肋骨が少女の右腕を肉塊に変えてゆく。   血がしぶき、骨さえ見えたが、肋骨はくわえこんだ腕を放さない。  きしり、と、音を立てて、人形の左腕が引かれた。 指先からは、鋭い針が伸びている。  少女の唇が大きく開かれた。   牙がのぞく。  ぞぶり。  突き出された人形の腕は、空を切っていた。  一跳びで距離を取った少女の足下が、わずかにふらつく。  さもあらん。 その唇は血にまみれ、右腕は肩から、ちぎれ血を噴いていた。  否。 自ら食いちぎったのだ。  壮絶な少女の有様にも、仮面は表情を動かさなかった。 ただ、細く、不自然なほどに華奢な足を、ゆっくりと進める。  「今日は死ぬにはいい日だ」   唇に真っ赤な血をたたえ、少女は笑った。 「ボクも片腕。これで、五分」   一瞬の攻防で少女は見抜いていた。 自動人形には右腕がない。 マントの下にあるのは、あの左腕だけ。 ならば、勝機はある。                 “右の〈腕〉《かいな》は、王のため。                     王の眠りを揺らす腕”  人形の胸の中で歯車が軋んだ。 それは千切れた腕を呑み込み、〈解体〉《ばら》し、空虚な胸の内に消し去った。   こぼれた血の一滴までも、紅い外套に吸い込まれる。 「北風の向こう側をみせてあげる」  少女が、片手を天にかざした。 音もなく、風がその掌に集まる。 その全身は、深緑の光を放った。 「東から風が吹くよ。 満ちる潮の匂いを乗せて、風が吹いたよ」  少女の姿が掻き消える。  一瞬で背後を取った少女が、大地に沈み、地を這うような回し蹴りを叩きつける。  狙ったのは、人形の足首。 その骨組みの継ぎ目だ。  ぐらり、と、人形が揺れる。 緑の光が、その身体に染み通った。 「南から風が吹くよ。 燃える太陽の匂いを乗せて、風が吹いたよ」  揺れた背を、少女の右足が蹴り上げる。  全身を支える背骨は、砕けはしないまでも、震えた。 背から肋骨までもが緑色に光り始める。 「西から風が吹くよ。 萌える草原の匂いを乗せて、風が吹いたよ」  ゆっくりと人形が振り返る。 だが、遅い。  その腰に、少女の掌底が叩き込まれた。  人形の全身が震える。 いまやその全身は、眩しいほどに光り輝いていた。 「北から風が呼ぶよ。 終わらない冬の向こうから、北風の向こうから、暖かな春風が呼ぶよ」  最後の一撃が、その仮面を襲った。 人形を包む緑の光が一瞬にして凍てつく霜に変わる。  紅い外套が白く染まった。 腕も、足も、凍りついたように動かない。 「さよなら」  優しい一言とともに、暖かな風が吹き、人形の全身が砕け散った。  紅い外套が粉々に吹き飛び、骨の一本一本ががしゃりと音を立てて大地に落ちる。 その中から、ころころと歯車が転がりだした。 「ふぅ……」  風のうしろを歩むものは、がっくりと膝をついた。 さすがに血を流しすぎた。  右肩の傷口に左の拳をつっこみ、力を込めて出血を抑える。 ゆっくりと深呼吸する内に血は止まったが、足はまだ、ふらつき、目は霞んでいた。  霞んでいなければ気が付いただろう。   足元の歯車が、風に吹かれたかのように転がり続けていた。  後に続く歯車が、二つ、三つ。  二つの歯車が噛み合い、三つ、四つと形を成し、人形の心臓を作り上げる。歯車は心棒を拾い、やがてそれは骨につながる。 がしゃり、と、骨が立ち上がった時。  風のうしろを歩むものは、歯を食いしばった。 左腕で塀にすがり、むりやり身体を持ち上げる。 右肩からは、再び血が噴き出した。   骨を骨が拾い、みるみるうちに人型ができあがる。  血なまぐさい風が吹き、外套となって人形を覆った。 「まいったなぁ……」  少女は拳を握った。  弱点を秘匿する人外は数多い。 秘文字を生命の根幹とする〈土人形〉《ゴーレム》。 自らの心臓を取りだして隠す北の魔女。  それらは、弱点さえ潰さなければ、何度でも蘇る。  問題なのは。 目の前の敵の弱点の見当がつかないということではない。 目の前の敵に弱点などなかった、ということだ。  化かされたわけでもない。 相性が悪かったわけではない。 さきほどの一撃は、確かに人形の芯に達し、粉々に砕いていた。  だが人形は立ち上がる。  不死ではない。 不死身でもない。  それは──そう。   不屈なのだ。  全身を粉々に砕かれても止まることができぬほどに充ち満ちた決意。 「重いなぁ」  少女は、苦笑した。 両肩に背負うは、一族の命運。 ひけを取るつもりはないが、自分にあれができるかどうか。  時計仕掛けで歩を刻む人形に向けて、少女は、片腕で構えを取った。 一歩。   額に汗が滲む。握った拳は、わずかに震えていた。 一歩。   策などない。 全力の一撃を叩き込むしかない。 残った力の全てをかけて。  一歩。   人形が、間合いに入る。 きりきりと音を立てて、その左腕が引かれた。 少女の拳の震えが止まった。   一歩。  神速で突き出された少女の拳を、人形は左腕で受け止めた。  ぐちゃり。  熟れた果物の落ちた音とともに、少女の拳は砕け散った。 それでも人形の腕は、少女の腕を放さない。   四本の指は、機械のように。 手首を、肘を。 ローラーのように巻き込んでは肉塊に変える。 「くっ!」   放たれた少女の蹴りは、いかにも弱々しく、その足先を、肋骨に噛まれる。  歯車が回る。 きちきちと音を立てて、肋骨が足を喰う。   膝まで喰われても、少女の眼は前を見ていた。 目と鼻の先にある、白い仮面を正面からにらみつける。  その視界が隠れる。  左腕が、少女の顔を掴んだ。  乾いた音とともに、頭蓋が砕ける。  音は、すでに少女には届いていなかった。  朝日に目が覚めた。 嫌な夢を見た気がする。 寝汗を全身にかいていた。  シャワーを浴びて着替えた頃に、ノックの音がした。 「朝ご飯、食べる?」  「いただきます」  「じゃ、恵ちゃん、起こしてきて」  「はい」  隣の部屋。ドアをノックしようとして、昨日の約束を思いだした。   目をつぶって眠る時まで、一緒にいる。 目を覚まして起きた時にも一緒にいる。  隣の部屋。  僕は、ドアをノックする。 返事はない。   僕は病院のことを思い出す。 看護婦のノック一つで怯えていた恵。  遠慮気味にもう一度叩いてから、僕はノブをひねった。  鍵はかかっていなかった。  そっとドアを開ける。  静かに恵は眠っていた。 シロと仲良く並んでいる。 あどけない寝顔は見飽きなかったが、学校もある。  僕はカーテンを開けた。  朝の光を顔に浴びて、恵がかすかにみじろぎする。 わずかにまばたきしたあと、その瞳が開いた。 「おはよう、恵」 「……お兄ちゃん」  恵の目の焦点があう。 やがて、にっこりと笑った。 「おはよう」   恵は、ベッドにゆっくりと身を起こす。 「朝ご飯、できてるぞ」 「うん。いまいく」   声にも、ずいぶん張りが戻ってきた。  「お兄ちゃん?」  「ん、なんだ?」 「あの……着替えるから……出てって」   そう言って恵は、抱きしめたシロに顔を埋めた。  「あぁ」  僕は、牧本さんに感謝した。 もう少しで。 あとほんの少しで。 いつもの勝ち気な恵に戻るだろう。  階段を降りる足は軽かった。 「それじゃ、いってらっしゃい」  管理人さんの横に、シロを抱いた恵が、ぴったりくっついていた。 「いっちゃうの?」 「午後には戻る。待てるか?」  メルクリアーリ先生も言っていたが、授業日数は足りている。 必要なら休むことは訳はない。 「待ってる」  恵は、決意したようにうなずいた。 「そうか。なるべく早く帰ってくるからな」  僕は、恵の頭を撫でた。 「いってらっしゃい」  管理人さんの言葉に、恵も、うなずく。 「おにいちゃん、いってらっしゃい!」 「いってきます」 「よぉ。無事息災か?」   通学路。 見知った顔が、現れる。  「何かあったか。坊主の息子」  「なんでわかる?」  「おまえがこの時間に登校していること自体、奇妙だ」  「ぬかしやがれ」   峰雪は真顔になる。 「ま、その調子だと聞いてねぇみてぇだな」  「何がだ?」  「新開発区、立ち入り禁止だってよ。 一晩中、銃声やら悲鳴やら聞こえてたらしいぜ」  「寺の息子は情報が早いな」  これは軽口ではない。   近所づきあいというものが減る一方の都市部で、もっとも優秀な地元民のネットワークを持っているのは、市役所でも警察でもなく寺かもしれない。 「へへ、まぁな。 で、おめぇんとこはなんともなかったか?」  「無論、何もない。 そもそも新開発区とはずいぶん離れている」  「ま、そうだな。 恵ちゃんは、どうだ?」  「どうだとはどういうことだ?」  「いや、調子とかよ」 「精神状態は改善されたようだ。 だいぶリラックスしてきた」  「そうか。 ならよかった」  それきり、峰雪は口をつぐんだ。  学校に着いて僕はたずねる。 「峰雪。君の沈黙は不自然だ」  「俺が黙ったらいけねぇのか?」  「黙るのは個人の自由だし、君の場合はむしろ望ましいが、それはそれとして、不自然だ。 統計的に判断するならば、何か言いたいことがあるのではないか?」  「克綺のくせによく言うぜ」   峰雪は、ちょっと迷うそぶりをしながら、話し出した。 「恵ちゃんな。 よくなってきたから、まぁいいんだが……本当に、交通事故だけで、ああなるものなのか?」  「ふむ?」  「なんだ、その、と、と……」  「トラウマか?」  「その、とらうまよ。何か怖い目にあって子供に返る。そりゃぁわかる。 けど、その怖かったことってのは、ほんとに事故なのか?」 「事故でない、と、考える証拠は?」  「んなもんねぇけどよ……そういや聞いてなかったが、恵ちゃん、どうやって事故に遭ったんだ?」  「……ガードレールを乗り越えて、車道に走ったんだ」  「どうして?」  「理由は知らない」 「テメェ、何か、隠してねぇか」  「聞かれたことには答えている。聞き方が悪いんじゃないか?」  「ったく、この冷血野郎が。 じゃぁ聞くぞ。 恵ちゃんの事故に、なんか心当たりがあるんじゃねぇか?」  「心当たりならある」  「おめ、さっき、知らねぇって……」 「確実なところはわからない。 恵が車道に飛び込んだ理由も知らない。だが、関連すると思われる事象はある。故に、心当たりがあると応えた」  「……で、その心当たりってのは?」   僕は、二日前のことをかいつまんで話した。 恵が、何かに追われたように走っていたこと。 事故現場が通行止めになっていたこと。 奇妙な少女に殺されかけ、矢で射られたこと。 「恵ちゃんは、新開発区の中を通ったんだな?」  「そうだ」  「んで、今日は、新開発区が封鎖か」  「そういうことになる」  「いろいろキナ臭ぇなぁ。 どう思うよ?」  「データがない。 結論は出せない。 君の当てずっぽうに期待する」 「なんかよう連続殺人事件とか言ってるが、独りでこんなにどでかいことやれるわきゃねぇ。 テロリストみてぇのが、あのへんを根城にしてんじゃねぇのか?」  「警察だって無能ではない。 場所がわかっていれば鎮圧するだろう」  「そうもいかねぇ理由があんじゃねぇのか?」 「どうしたの?」   牧本さんが顔を出す。  「恵の事故と近年の連続殺人事件と新開発区の封鎖問題について議論していたところだ」   牧本さんが驚いた顔をする。 「恵ちゃん、事件と関係あるの?」  「現在のところは、確証はない。 主に峰雪の妄想のレベルだ」  「妄想言うな」  「あぁ、そうだ。 ぬいぐるみをありがとう。 恵も喜んでいた」  「ほんとう? よかった」  ドアが開き、メルクリアーリ先生が現れて、僕らは席に着く。  授業中も、僕は、峰雪の言葉を考えていた。  テロリスト、か。 確かに単独犯であるよりは、そちらのほうが考えやすい。   だが、それが、僕を襲った少女と、どうつながるのだろう? あるいは、なぜ、恵はテロリストに襲われた? 少女は、僕のことを探していた、と、言ったが。  もしも。 もしも恵が僕のせいで襲われたとしたら。   気分が悪くなった。身体が震える。 深呼吸して息を落ち着かせた。  「九門君」   今のところ根拠はない。 また仮にそうであっても、テロリストに襲われる事情も思い浮かばない以上、できることもない。 「九門君!」 「はい」 「携帯が鳴っていますよ」  僕は、ようやく気づく。 普段は授業中は切っているのだが、恵の件があって以来、つけている。  着信元は管理人さんだった。 「失礼します」  僕は、廊下に出る。 「……では授業を続けますよ」  背後で、そんな声が聞こえた。 「もしもし、克綺クン?」   管理人さんの抑えた声には、いつもの陽気さがなかった。  「はい。なんでしょう?」   嫌な予感はとめどなかった。管理人さんが、無意味に授業中に電話をかけてくるはずがない。  「授業中悪いけど、戻って来られるかしら?」 「物理的には可能ですが、何でしょうか?」  「恵ちゃんが……気分悪くしちゃって、克綺クンのこと呼んでるの」 「すぐ行きます」  僕はそう言って電話を切った。 「先生、家庭の事情で早退します」  メルクリアーリ先生がうなずくのも待たずに、僕は、廊下をかけだした。  家に帰る間中、いやな予感が脳裏に渦巻いていた。  ──気分を悪くした。 ──僕を呼んでいる。  その二つの言葉が、とめどなく膨れあがる。 本当に危険な状態だったら、管理人さんも、あんな言い方はしないだろう。 そうわかってはいても、悪い想像はとめどなくふくらんだ。 「ただいま」  だから。 ある程度、覚悟はしていた。 無論、覚悟は現実の前に、何の意味もなさなかったのだが。 「おかえりなさい」   階段から降りてきたのは、管理人さんだった。  「恵は?」  「さっき、寝ついたところ」   管理人さんの顔に、少しだけ疲れの陰が見えた。 「ごめんなさいね。 呼び出しちゃって」  「いえ、妹のことですから」   僕は、軽く頭を下げると、階段を上った。  部屋に鞄を投げ捨て、恵の部屋の前に立つ。  ゆっくりと扉を開けて、僕は過ちに気づいた。   真っ暗な部屋。 ベッドの上で目が光っていた。   恵の目。ぎゅっと、つぶれるほどにシロを抱きしめ、ぶるぶると震えている。 悲鳴さえもでない恐怖に押しつぶされそうな恵。 「恵」   僕は、できるだけ陽気な声を出した。  「おにいちゃん……?」   あまりにも弱々しい声。 三日前の事故の時を思い起こした。   何があったんだ。 いや、そんなことよりも。  僕は近づいてベッドに腰掛ける。  「遅くなって悪かったな」   恵は、確かめるように僕の腕にふれて、それから、両手で袖をぎゅっとつかんだ。  「……」   聞き取れないほどの小さな声。僕は耳を近づけた。 「おかえりなさい」  「ただいま」   なんとか僕は、それだけ言った。 恵は、ひっそりと、声を殺して泣いていた。 泣いている様までもが、何かを恐れているようで、痛ましかった。  なにがあったのか。 その一言も、僕は聞けなかった。  ただ、恵を抱きしめた。  押し殺したすすり泣きは、やがて、大きな泣き声に変わり、僕は、泣きじゃくる恵の涙を、何度もぬぐった。 「もうだいじょうぶだ」   何度もそう言って背を撫でた。  泣くことは、大きく体力を消耗する。 だから、いつまでも泣いていることはできない。 人は泣くことでストレスを吐き出し、泣きやむことで、心身のスイッチを切り替える。  心臓のない僕は、泣いた記憶がない。 だから、これは、ただの伝聞にすぎない。 ただ、今日ばかりは、それが真実であることを願った。  腕の中の恵から、泣くほどに強ばりがとれてゆく。 僕は、そう信じた。  ひとしきり泣きじゃくると、恵も、少し落ち着いた。 マフラーの端で涙をぬぐうと、かすかな笑顔さえ浮かべた。 「なにかあったのか?」 「うん。あのね……」  答えようとした恵の目の端から涙がこぼれる。 僕は、それ以上聞くのをやめて、恵をベッドに寝かした。  ふとんをかけて、上からぽんぽんとたたくと、その顔の恐怖も、だいぶ薄らいだように思えた。 枕元の椅子に僕は腰掛ける。 「おにいちゃん……学校は?」   思い出したように恵が聞いてくる。 「早退してきた」 「そうなんだ」   恵は、目を伏せる。 「ごめんね。私が……」 「あやまる必要はない」 「え?」 「病人と怪我人は、他人に甘える権利と義務がある」 「ぎむ?」 「そうだ。 病人が、無理してるほうが落ち着かない」 「でも、お兄ちゃん、こまってない?」 「恵の世話でか? 望んですることは困るとはいわない」 「ほんとに? ほんとに、そう思う?」 「僕は嘘はつかない。嘘をつくのは面倒だ」 「そっか……」 「だから、恵は安心してわがままを言えばいい。 万一、無理だったら、無理だという」 「じゃぁね、おにいちゃん」  恵は、小さく僕の耳にささやいた。 「お水、もってきてくれる?」 「よしきた」  テーブルの上には、お盆とポットがあった。 管理人さんのものだ。 湯冷ましを湯飲みにつぐ。 「ほら、お水だぞ」  背に手を当てて、ゆっくりと恵の体を起こす。 恵は、両手で包むように湯飲みを受け取り、ゆっくりと飲み干した。 「おいしい」 「そうか」 「私、眠い……」 「眠るといい。ご飯になったら、起こすから」  目を閉じかけた恵が、急に真顔になる。 「あんまり眠って、夜、眠れなくなったらどうしよう」 「その時は、朝まで一緒に起きていてやる」 「よかった……」  今度こそ、恵は、シロを抱きしめて、ゆっくりと目を閉じる。 ゆっくりと、規則正しい吐息。 僕は、その寝息に耳を澄ました。  ……いつのまにか寝ていたらしい。 肩をたたかれて、目が覚めた。 「おつかれさま」   管理人さんが後ろに立っていた。  「ご飯、できてるわよ」   恵はといえば、安らかな顔で、ぐっすりと寝ている。 今、起こすことはないだろう。  「いただきます」  僕と管理人さんは、足音を忍ばせて、恵の部屋をでた。 「あまり、お腹は減っていないんですが……」   緊張のせいか、空腹は全然感じなかった。 むしろ、喉の奥に何か詰まったような重い感触があった。  「だめよ、食べないと。 看護は体力勝負なんだから」   確かに、その通りだ。  扉を開けたとたん、お腹にしみるいい匂いが漂ってきた。  まろやかに煮込まれた肉と野菜。 そして刺激的な香辛料。 カレーの匂いだ。 「管理人さん。 前言撤回します」  「なぁに?」  「お腹がすいてきました」  「そうこなくっちゃ」   管理人さんが笑う。 「はい、めしあがれ」  管理人さんがよそったのは、とろりとしたカレーが、白米の上にのっかった、いかにもという感じの日本風ビーフカレーだ。  前に一度、本格派のインドカレーをごちそうになったことがあるが……相変わらずレパートリーの広い人だ。 「おいしい」   一口食べて、素直に感想がでた。  辛すぎず、甘すぎず、元気を煮詰めたようなカレーは、ごはんによくあった。  すね肉には、カレーの味わいと野菜の甘さが芯までしみ込み、ぷつんとかみ切れた。  にんじんはとろける寸前。 ほくほくとしたジャガイモは、カレーとあいまって、口福を感じさせる。  すべての材料が絶妙に溶けあったこの味は、三日は煮込まないとでないはずの味だが……まぁ深く考えるのはよそう。 「恵ちゃん、どうだった?」 「少し、落ち着いたみたいです」  おかわりをもらいながら、僕は答えた。 「何が……あったんですか?」 「たぶん、テレビだと思うわ」 「テレビ?」 「ええ。恵ちゃんの調子がよかったみたいだから、買い物に行って帰ってきたら……テレビが点いてたの」 「番組はわかりますか?」 「例の事件のニュースだと思うわ。 死体が見つかって、ずっと現場から実況中継だったから」 「なるほど……」  もしも……恵を追っているのが、事件の殺人犯なら。 あるいは峰雪の推測通り、組織なら。 その話を聞いて、事故の時の記憶がぶりかえしたのかもしれない。 「本当に、ごめんなさい」   気がつくと、管理人さんは、食卓に手をついて、頭を下げていた。  「管理人さんに責任はありません」   僕は答える。 当たり前のことだ。  「そもそも管理人さんに恵の面倒を見る義務は存在していません。 これだけ助けていただいて感謝します」  管理人さんが、顔をあげて僕を見上げる。 「恵ちゃん、せっかく良くなるところだったのに」 「テレビが原因であるなら不可抗力でしょう」  僕は、想像して嫌な気分になる。 今の、この世の中で、マスメディアにふれないでいるのは不可能に近い。 もし、殺人事件の情報に接しただけで、恵の調子が悪くなるなら。 事件が終わるまで、恵が回復することは不可能ではないか?   僕は、首を振る。 いや、それは違う。 恵の調子がもっとよくなれば、事件の記憶にも向き合えるようになるだろう。 テレビを見ただけで取り乱すようなことはなくなるはずだ。   そのはずだ。 そうに決まっている。 「こんな嫌な事件、早く終わってくれないかしら」 「終わってほしいです」  僕は同意する。 だが。 願望と推測は別だ。  今回の事件。 これだけ大規模になり、警察が出動しているにもかかわらず、これまで逮捕されなかったとしたら。  警察には、犯人を捕まえられない何らかの理由があるということだ。 長期化する可能性もきわめて高い。 「とはいえ、仕方がない」 「え?」  言葉が口に出ていたようだ。 「あまり気にしても仕方がないということです。 恵の調子がよくなるまで、目を離さないようにしようと思います」 「あら、大変ね。 はやく警察が捕まえてくれればいいのにね」 「これまでのところ、警察は、あまり頼りになっていませんね。 誰かに捕まえてほしい、という点では同意しますが」 「そうね、そうだわ」  管理人さんは、妙に熱を入れて、うなずいた。 「克綺クン、学校はどうするの?」 「休みます。 単位は足りてますから問題ありません」 「そう……でも無理しちゃダメよ」 「管理人さんこそ、大丈夫ですか?」 「まだ心配してるんだ」 「あのね、何度も言ってるけど、私のことは心配しなくていいから」 「了解しました。心配しないようにします。 しかし、疑問はあります」 「なぁに?」 「管理人さんの働きは、通常の人間の限界を超えているように思います」 「ちょっと、なによ、それ?」   笑い声まじりに管理人さんが言う。 「単純な感想です。 見ず知らずの人間のために、これだけの労力を払い、かつ、肉体的心理的に疲れた様子がない。 僕の経験では説明がつきません」 「うーん。なんて言ったらいいかなぁ」  管理人さんは、指で眉間を押さえる。 「あのね。 こういうと不謹慎かもしれないけど、私は、少し嬉しいの」 「僕は、不謹慎という概念が、よく理解できません。 管理人さんが嬉しいのであれば、それは良いことだと思います」 「私、子供の世話とかするの得意なの。 その勉強も、ずっとしたわ」 「ほう」  管理人さんの過去について聞いたのは、これが初めてな気がする。 保母さんか何かをしていたのだろうか。 それは確かに似合う。 「ずっと自分でがんばって身につけたことだから、それが発揮できると、ちょっと嬉しいわけ。 だから、はりきってるの」 「なるほど。理解できました」 「もちろん、恵ちゃんが怪我したのを喜んでるわけじゃないんだけど……」   管理人さんは、遠慮がちに言う。 「能力を発揮できる機会を与えられたことを喜ぶことと、その原因を憎むことは矛盾なく両立します」 「そうやって、割り切れるのは克綺クンだからよ」 「そうなのですか」  管理人さんの言うことには、うなずける点があった。  僕以外の人間……つまり、心臓のある人間は、単純な論理構造を混同することが多く、そのことを指摘すると、逆に怒られることが多い。 たぶん、今回も、そうした事例なのだろう。 「では、僕が僕でよかった。僕は割り切れますから」  管理人さんは、変な顔をしてから、笑った。 「そうね。克綺クンでよかったわ」 「だから、恵ちゃんの世話するのは、私にとって嬉しいくらいだから、克綺クンは気にしなくていいわよ」 「管理人さんの心情は理解しました。 ただし、肉体的、物理的な限界はあるでしょうから、無理がでた場合は言ってください」 「そうね。そうするわ」 「ご協力、感謝します」 「こちらこそ」  僕が頭をさげると管理人さんも、頭を下げた。 「ごちそうさまでした」 「おそまつさまでした」  腹の皮がつっぱれば目の皮がたるむ、とは、よく言ったもので、管理人さんのおいしいカレーを二杯平らげた僕は、あっという間に眠くなった。  部屋に戻って一休みする。 そういえば、まだ着替えてもいなかった。  昼寝して目が覚めたのは夕方だった。 「恵ちゃんのご飯できたけど……どうする?」  「僕が持っていきます」  言うまでもなく、すっかり管理人さんは用意してくれた。  僕はお盆を受け取って、恵の部屋に向かう。 「恵、起きてるか?」 「お兄ちゃん?」   思ったより元気な声に、僕はほっとした。 「ドア、開けてくれるか?」  ぱたぱたという足音とともに、恵が扉を開ける。 「晩ご飯、もってきたぞ」  「わぁ」   恵が目を丸くした。 二枚の盆にのっているのは、コーンスープとゆで卵。 それに、イチゴジャムつきのトーストに、ミルクティーだ。 イチゴジャムは管理人さんの自家製だから、まだイチゴの形が残っていて、甘酸っぱい。 「これ、食べていいの?」  「晩ご飯は食べるものだ」  「ううん、ここで食べていいの?」  「あぁ。ベッドで食べればいい」  恵はとても嬉しそうな顔をして、ベッドにもぐった。 「お兄ちゃんも、きてよ」   テーブルで食べるつもりだったが、僕は恵の誘いにつきあった。  シロには、ちょっとどいてもらって、恵の横に入る。 シングルベッドは、二人で入ると窮屈だったが、入れないことはない。 「いただきます」  僕らは盆を膝に載せて、手を合わせた。 「なんか、楽しいね」   恵が、くすくすと笑う。 「確かにな」  ベッドで食べる食事というのは、背徳的な楽しさがある。 管理人さんお手製の食事であれば、なおさらだ。 「王様のごはんみたい」 「王様?」   聞き返すと、恵が、ほおをふくらませた。 「お兄ちゃんが、言ったんだよ!」 「僕が?」 「ほら、昔、王様ゴッコで……」 「王様ゴッコ?」  そういうと、恵が、ぷいと横を向いた。 僕は、急いで記憶をたどる。  そういえば。昔。 まだ、僕に心臓があった頃。 よく、恵と、ゴッコ遊びをした覚えがある。  僕が本で読んだシチュエーションを、きわめて子供らしく適当な解釈で押しつけた、そんな記憶がある。 「お兄ちゃん、言ってたよ。 王様は、朝、ベッドから出ないで食事するんだって」 「今にして思えば、むしろ、王様は、そんな不作法なことはしないだろうな」  たぶん、海外ドラマかなにかを見て、勘違いしたのではなかろうか。 「いいの。お兄ちゃんが、王さま」 「ふむ。僕が王様か。では、恵は?」 「私は、王女さま」 「つまり、僕の娘か」  恵は難しい顔でしばらく考えて。 「私、お姫さま」 「娘、あるいは、姪」 「……女王さま」  それが言いたかったらしい。 「なるほど」 「王様は、おはよう、マイハニーって言うんだよ」 「……今は、朝じゃないし、王様は、あまり、そういうことを言わないのではなかろうか」  いやしかし。 格言にもある通り、若さ故の過ちというのは、認めがたいものだ。 「言うの!」  病人の言うことには逆らわないに限る。 「おはよう。まいはにー」  そういうと、恵は、嬉しそうに、わらった。 本当に、嬉しそうにわらった。 「おう、俺だ。峰雪だ。そっちは……その、どうだ?」  「僕はいたって健康だ」  「おめぇじゃねぇよ! 恵ちゃんだよ!」  「おおむね大丈夫だ」   僕は、テレビの件を説明した。 「なるほどな……無理もねぇや。 俺だって、テレビ見てると、気が沈む。なぁ?」  「いや、僕はテレビを見てないから」  「……そうかよ」  「そういうわけだから、恵に会っても事件の話題をさけてくれ」  「しねぇよ、最初から! むしろテメェのほうが心配だ」  「僕は、そんな無思慮なことは言わない」   そういうと、電話口の向こうで、妙に長い沈黙があった。 「……ま、それなら安心だ」  「あぁ。安心だ。用はそれだけか?」  「まぁな。明日、学校は……」  「休んで、恵と一緒にいるつもりだ」  「そうか。なんだったら、見舞いがてら顔だすぜ」  「あぁ。歓迎する」  それじゃぁ、と、僕が携帯を切った瞬間、待ちかまえていたかのように携帯が鳴った。 「もしもし、九門君?」  「牧本さん。こんばんは。何か用かな?」  「あの、九門君。そっちはどう? 急に帰ったから、私、ちょっと心配で……」  「僕はいたって健康だ」  「あの……九門君じゃなくて、恵ちゃんは?」   ふむ。さっきも似たような会話があったな。 どうして人は要点から語らないのだろう? 僕は、恵が無事であること。テレビ番組が原因だったこと、事件の話題をさけてほしいことを告げた。 「うん、わかった。九門君も気をつけてね」  「……峰雪と同じことを言うな」  「うーん、九門君、そういうこと、うっかり言っちゃいそうだから……」  「……君らの僕に対する評価には異議がある」  「ご、ごめんなさい」  「あやまることはない。 人それぞれ見解がことなるのは通常で、むしろ望ましいことだ」 「そ、そう……とにかく気をつけてね」  「あぁ、気をつける」  電話を置いてしばらく考えた。 二人とも僕を誤解している。  僕は、他人の心を読めないだけで、いたって論理的に話す人間だというのに。  僕は、部屋の本棚を検分した。 昨日の晩は焦ったが、今日は、余裕をもって事にあたろう。 隅から隅までさがせば、子供向けの童話の一冊や二冊……。   あった。 文庫版、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」。  ざっとページ数をチェックする。 長さ的にちょうどいいのは、「貝の火」「ツェねずみ」あたりか。  文庫を小脇に挟んで、意気揚々と恵の部屋に向かう。 「恵?」 「なぁに、お兄ちゃん?」 「お話してあげようか?」  「うーん」   恵は、妙な顔をした。  「管理人さんがいい」  「え?」   正直に言おう。 僕は呆然とした。 兄としての自信が失われたといってもいい。 ・昨晩、お話したなら→5−7−1へ・管理人さんに任せたなら→5−7−2へ ●5−7−1 「お兄ちゃんのお話、怖いんだもん」  「眠くならなかったか?」  「眠くなったけど……怖いゆめ、見たんだよ!」  「……そうか。 今日の話は怖くないぞ」  「お兄ちゃん、昨日も、そう言ったよね」  恵にじっと見つめられ、僕はすごすごと退散した。 ●5−7−2 「管理人さん、お話うまいんだもん」  「僕だって、うまいぞ」  「管理人さんは、とってもうまいの」   恵にじっと見つめられ、僕はすごすごと退散した。  「また、今度ね」  ……病気の妹に、お話を聞かせることが、そう何度もあっては困るんだが。 「管理人さん」  僕はドアをノックする。 「あら、どうしたの? しょんぼりした顔して」  「しょんぼりしてますか? それはともかく、恵がご指名です」   そういうと、管理人さんの顔が、いつにもまして明るくなる。  「お話してほしいそうです」  「ええ、すぐいくわ。あら、それなに?」   管理人さんは、僕の小脇の文庫本をめざとく見つけた。 「恵に読もうと思っていた、お話です」  「……残念だったわね」  「まったくです。 では、よろしくお願いします」  「はいはい」  管理人さんは、絵本の束を一抱えも抱えると、浮き立つような足取りで恵の部屋に向かった。  その足取りを横目に見ながら、僕は部屋に戻った。  真夜中。 ぱっちりと目が覚めた。  時計を見る。 もう一時を回っている。 どうにも目が冴えてしかたがない。  考えてみれば、今日は、たっぷり昼寝したし、恵に合わせてずいぶん早く寝付いた。 こういう時は、無理に寝ようとしても無駄だ。  僕は、明かりを点けて、読書を始めた。  現国の獅子堂がだした課題図書を引っ張り出す。  本は好きな方だが、課題と言われると、どうしても読む気になれないのはなぜだろう。  こういう時でもないと目を通さないその本は、まぁ、読んでみると、それなりに面白く、僕は熱中して時が過ぎるのを忘れた。  そうして夢中でページをめくるうち、ちょうど章の区切りあたり。 とんとんと、ドアをたたく音に、僕は驚いた。 「管理人さんですか?」  声は、か細いものだった。 「お兄ちゃん、あたし」  僕は、急いでドアを開ける。  そこにいたのは、シロを抱きしめた恵だった。  「どうした?」  「管理人さんが……いないの」   僕と同じく、夜中に目が覚めて、独りが不安になったのだろう。 「下で寝てるんだろ」  「……いないの」   恵は、かたくなに繰り返す。 管理人さんを起こすのも忍びない。 「僕じゃだめか?」  「おはなし、してくれる?」  「いいとも」  「じゃぁ、きて」  恵の部屋。 テーブルには、あの絵本が積み重ねられていた。 その一冊を恵が抜き取って、僕に差し出す。 「これ、よんで」 「宮沢賢治じゃダメか?」 「これ」  そう言われては仕方がない。  僕は、その本を受け取る。 テーブルのスタンドに明かりをつけ、僕は、ゆっくりと本を読み始めた。 「むかし、むかし、あるところに。 まずしいおかあさんと、むすめがいました」  本は、驚いたことに、手製だった。 手触りからすると和紙。 糸で綴じたページには、絵の具で、綺麗に絵が描いてあった。  もしかしたら、管理人さんのお手製だったかもしれない。 恵は、目をらんらんと輝かせて僕のほうを見る。 「それで?」 「待て。ちゃんと布団に肩まで入って。深呼吸して目をつぶって」 「はぁい」  恵が言われる通りにするのを見て、僕は、ふたたび絵本を読み始める。   それは、貧しい家族の物語。 父が倒れ、母が倒れ。 娘に唯一残されたのは、母の手製の人形だった。 体は藁で、衣は端切れ。 目はビー玉で、金色の髪は母の髪だった。 人形は母ではなかったけれど、両親を失って泣く娘を、人形は毎晩、母の声でなぐさめた。   両親のいない家に、狼が来る。 人形は娘を寝かしつけ、娘に化けて、狼をあしらった。 腕一本と引き替えに、人形は狼を追い返す。    朝になって、娘は、不思議に思った。 どうして、この子は腕がないんだろう。 人形に聞いても教えてくれない。   両親のいない家に、夜盗が来る。悪魔が来る。 そのたびに人形は娘を寝かしつけ、手足と引き替えに、追い返した。   朝が来るたび、娘は、不思議に思った。 どうしてお人形さんの手足がないの? ひとりで勝手に遊びにいったから? 手足を切られるのは、悪いことをした人じゃないのかな?   ある夜大きな嵐が家を襲う。  「嵐さん、嵐さん、どうか、この家だけは、よけて通ってください」   そう言って、嵐の前に、すっくとたった人形は、娘を救う代わりに、ついに、その体をばらばらにされる。 嵐の中、ついに眠りから覚めた少女は、その一部始終を見てしまう。 「あらしがやんで、むすめのてのなかにのこったのは、いっぽんの、かみのけでした。にんぎょうのかみのけ、おかあさんのかみのけでした。 にんぎょうのきもちが、やっとわかったむすめは、あさひとともに、一粒のなみだをながしました。そのなみだが……」  僕は、ゆっくりと本を閉じた。 安らかな吐息とともに恵は眠っていた。 →5−10  恵に布団をかけなおし、僕は階段を降りた。 ──管理人さんがいないの。 恵のその言葉が気になっていた。  管理人さんが恵を放っておく訳がない。 恵が夜中に目を覚ましておびえるようなことがあれば、たとえ下の階にいても駆けつけてくる。  なぜか、そんな確信があった。  非論理的な確信だ。そのことには自覚があった。 管理人さんだって人間だ。 気配に気づかないことくらいあるだろう。  というか、気づかないほうが普通だろう。 どうしてこんなことを思うのか、自分でも、わからない。  けれど。 ぬぐいきれない違和感が、僕を階段の下に向かわせた。  特に何をするつもりもない。 寝てる管理人さんを起こすつもりもない。 下まで行って……扉が閉まっていたら、そのまま引き返すつもりだった。  真夜中。 絨毯を敷いた石の階段は、こそとも音を立てなかった。 息を殺して、下の階へ降りる。  廊下を照らす薄明かり。 管理人さんの部屋のドアは、かすかに開いていた。  不意に、嫌な予感が背を抜けた。  開いたままのドアを軽くノックする。 「克綺です。いらっしゃいますか?」  返事は、ない。  焦燥にかられて、僕は、ドアを開けた。  電気を、つける。  灯りに照らし出された管理人さんの部屋。 何度も朝食を食べた、あの馴染みの部屋。 そのはずなのに。  何かが違った。 主のいないその部屋は、とても寒々しかった。  床には塵一つなく、ゆったりとした食卓はぴかぴかなのに、なんだろう。 この感触は。  しばらくみつめて、その理由に思い至った。 この部屋には、生活感と呼べるものが、全くなかった。  ホテルの一室。あるいはモデルルーム。 そんな感じだ。  電話機の横には充電器があり、管理人さんの携帯が収まっていた。 この部屋に人が住んでいる証は、それくらい、だった。 「管理人さん。いますか?」  管理人さんを探して、部屋を探す。  食卓も。 キッチンも。 物置も。 完璧に整頓され、無菌と呼べるほどに清潔で。  最後に残ったのは、寝室だった。 開いていた寝室のドアを、僕は、思い切って開けた。  部屋を間違えた、と、思った。 次に、やはり管理人さんは、引っ越したのだろうかと思った。  初めて入る管理人さんの寝室は……空っぽだった。  壁も床も、石がむき出しで、ベッドどころか、布一枚なかった。 電気さえ来ていない部屋に、僕はゆっくりと入る。  足下から寒さが染みいった。 古い石の冷気が、僕の体温を奪う。  今の季節。 この部屋で人が寝ることがあれば、確実に凍死するだろう。  ドアからの灯りを頼りに、広くもない部屋を見渡す。 やはり、なにもない。空っぽの石の床。 いや、あった。  部屋の真ん中に、細長い風呂敷包みがあった。  紫の絹布に、丁寧にくるまれたそれを、僕は、ゆっくりと開く。 「……腕?」  でてきたのは、五本の指と肘の関節を備えた腕だった。  大きさも、ちょうど、人の大人ほどだったが、その表面は白く滑らかだった。 指も、肘も、細かい細工が為されており、色さえなければ、人間の腕と見間違えてもおかしくない。  義手だろうか? しかし、なぜ、義手が、こんなところに?  僕は、その腕をじっと見つめる。 細く、しなやかな指は、男のものではないだろう。 こんな腕を、どこかで見たことがある。  ──管理人さん。  目立つ傷やほくろがあるわけじゃない。 管理人さんの腕に似ているかどうか、本当のところは、わからない。 そんな気がするだけだ。  よしんば似ていたとして。 この腕が、もし管理人さんの持ち物なら。 管理人さんが、自分の腕を模して作ったのかもしれない。 デスマスクのように、自分の腕を、そっくり型どりして、この義手を。  そう考えるのが論理的だ。 だが、脳裡に浮かぶイメージは違った。  管理人さんの腕が、そのまま切って転がされている。 氷のように冷たく硬い管理人さんの腕。 そんな印象が、どうしても消えなかった。  僕は、恐る恐る腕に触れた。 石畳の上に置かれていたそれは、手がかじかむほどに冷たかった。 布をかけて抱き寄せると、胸の中で、ずっしりと重かった。  僕は、ふらふらと部屋を出た。  管理人さんを。 管理人さんを探さないと。 きっと全てに論理的な説明があるに違いない。  深夜に管理人さんが留守なのも。 寝室が空っぽなのも。 この奇妙な腕も。  管理人さんを、探さないと……。  玄関は、開いていて、夜風が吹いていた。 それがまた、僕を呼んでいるようで。  玄関を閉め、門を抜け。  僕は、象牙の腕を抱いたまま、メゾンから逃げるように走り出した。      外の空気は、秋とは思えぬほど、じっとりと湿っており、並木道から一歩出ると、深夜とは思えない喧騒が迫ってきた。   サイレンの音だ。 救急車、それにパトカー。 無数のサイレンが、夜の街のあちこちで響き渡り、共鳴して、奇妙な音楽を作り上げていた。 その数だけ事故現場があると思うと、一つ一つのサイレンが悲劇に群がる腐肉くらいのように思えてくる。      理性と切り離されたところで、妄想がふくらみ続ける。   血を浴びて魔性を得るなら、凶事に出会って化けるなら。 夜を切り裂き、惨事に集うあれらは、いつ化けてもおかしくない〈物神〉《ものがみ》ではないか。 こんな夜には、そのサイレンで互いに囁き交わし、血を吸うために惨劇の現場に集まるのではないか。 夜歩く愚かな人間を踏みにじり、その血と肉を糧に……。 「すいません」  声をかけられて、首筋に電流が走ったかと思った。 「なんでしょうか?」 「どちらに向かわれるところですか?」   そこにいたのは、青の制服を着た中年の男だった。 どこかの警備会社だろう。 前の道は、大きな通行止めになっている。 「あてはありません」  「でしたら、お帰りになったほうがよいですよ。 この時間は物騒ですから。 お名前を伺ってよろしいですか?」   なるほど職務質問、という、ところか。 「九門克綺です。 向かうあてはありませんが、目的はあります」  「はぁ、どうされました?」  「知り合いが家を抜け出したようなので、そのへんにいないかと」   男はレシーバーに小声で何か囁く。 「お知り合いの名前はわかりますか? こちらで見かけましたら、ご連絡して、お家にお送りしますが」   頭をひねって管理人さんの本名を思い出す。  「花輪といいます」  「花輪さんね。 字は、どういう字かな……」  話している内に、少しずつ、迷いが覚めた。   何があったかはわからないが、夜の街を彷徨って、どうなるわけでもないだろう。 家に戻ったほうがよかろう。 「帰ります」  「そうしたほうがいいですね。 今日は、ちょっと……いろいろあるみたいですから」   僕が頭をさげて去ろうとすると、男が声をかけてきた。  「それと、失礼ですが……」  「はい」 「手にお持ちのものは何ですか?」  「これ、ですか?」   腕の中に、ぎゅっと握りしめたもの。  「何でしょうね。 僕にもわかりません」   正直にそう言うと、男の表情が急に冷たくなった。 「中身を見ても、よろしいですか?」  有無を言わせない口調で、男は、僕の荷物に触れる。 自然、腕に力が入った。  警備員は別に、力ずくで奪おうとしたわけじゃない。 僕も、全力で抱きしめたわけじゃない。  小さな力が、妙なバランスの崩れを生んで、僕の腕の中から、荷物が、すっぽ抜けた。  ごろり、と、荷物が転がり、くるくると布が解ける。 そこからのぞいた五本の指と手首。  瞬間、警備員は銃を抜いた。 銃?  その意味を、頭が理解するより早く、身体が動き出していた。 「動くな!」  その声を背後に聞き、僕は走り出していた。 「不審人物発見。応援願います」  男がインカムに早口で囁く。  何もかもが悪夢のようだった。  気の抜けた爆発音が僕の周りで弾けた。 初めて聞く拳銃の銃声は、思ったよりも軽かった。 「止まれ!」  叫ぶ男の声が、間延びして聞こえた。  よく考えれば、逃げるほどのことじゃない。 僕が落としたのは義手であって、人間の腕ではない。  男は多分、誤解している。 あるいは怯えている。  しかし、なぜ、警察でもない男が銃を持っているのか。  そして、こうも躊躇わずに撃つのか。  じっとりとした空気を両手でかき分ける内に、男の叫ぶ声が、だんだんと甲高くなる。  やがてそれは、信じられないほど甲高い悲鳴になる。  ようやく、僕は気づいた。 男の撃っているのは僕じゃない。 何か、違うものだ。  足を留めると、どっと疲労が襲いかかった。 急に走ったので、呼吸が苦しい。喉が痛い。 僕は電柱に手をついて、振り返った。  男は、片膝をついて、銃を握っていた。  とうに弾の切れた銃の引き金を、なんども引き絞っている。  銃口の先にあるのは、マンホールの蓋だった。  少しだけずれたマンホールの穴に向かって、男は虚しく銃を突きつけていた。 街灯に浮かぶ男の顔色は土気色で、僕は、どうして男が逃げないか不思議に思った。  ようやく気づく。 男は、片膝をついて狙っているのではない。 ──片膝が、ないのだ。  血塗れの棒が、男の側の暗がりに転がっていた。 棒の先に靴があるのは、どこか滑稽だった。  がたがたとマンホールの蓋が揺れた。  蒸気が噴き出す音とともに、マンホールの隙間から、白い光が走った。  光は、男の身体をゆっくりと這い回る。  それが動くと、青の制服に黒い軌跡が残った。 それは子供の落書きのように、じぐざぐと一筆書きで、男の身体の上を這い回った。  喉が潰れたのか、甲高い悲鳴はもう聞こえなかった。 とぎれとぎれの、かすれたうめき声。 無事な足から入った光は、男の腹の上で、ぐるぐると螺旋を描き、やがて、右脇に抜けた。  身体の落書きから、男はぴゅうぴゅうと血を噴いていた。 血の滴る音が、鼓膜を叩くように響き渡る。  ずるり、と、男の身体がずれた。 安物のパズルのように。 線に沿って男の身体がずれ、ぐちゃりと地面に堆積する。  マンホールの蓋は、今や完全に、ひっくりかえり、〈暗渠〉《あんきょ》へ続く口を開けていた。  ごぼり、と、水があふれた。  その水とともに、現れた影。  街灯に照らし出されたそれは、紫色の鱗と、まぶたのない、大きな丸い、瞳。  現れた異形。 それは一体ではなかった。  無数の魚人たちが、一匹、また一匹とマンホールからはい上がる。 狭くもない公道は、たちまちむせかえるような魚臭さで満ちた。  凍りついたように動く僕を、何かが引っ張った。 出かけた悲鳴を噛み殺す。  僕の足下にあったのは、あの象牙色の腕、だった。   騒ぎに紛れて転がって来たのか、それは僕の足下にあった。   考える暇はない。  僕は、腕を拾って走り出した。      サイレンが響いていた。 あの禍々しいサイレンが。 僕を中心に。 僕を囲むように。 僕を追いつめるように。   行く先などなかった。 街はすでに戦場で、全ての逃げ道は閉ざされていた。       口の閉じた袋でもがく鼠のように、僕は、ただ、走り続けた。   あの時。 僕が走ると同時に。 魚人たちが動き出した。 幸いというべきか、地上を歩く彼らの足は鈍く、なんとか振り切れそうだった。   じきに、あの、ぺたぺたという足音が消えた。     終わってみると、それは夢のようで。 僕が怪異と出会った証拠は何もなかった。   怪異があったこと自体、僕は疑い始めていた。 銃撃も、死も、異形も、何かの勘違いではないかと、そう思った。 余計なことは考えず、家に戻ろうと、その時の僕は思った。   すぐに思い知らされた。 怪異は終わってなどいないこと。 僕が想像するより遙かに大きな口を開けて待っていることを。   きっかけは、道ばたの酔っぱらいだった。 電信柱の影で、だらしなくうずくまる酔っぱらい。 今日は秋にしては蒸し暑いが、だからといって、外で寝て死なない保証はない。 放っておいても夢見が悪いので、せめて声ぐらいかけようと思って僕は近づいた。   男がいる電柱の陰は、街灯の明かりのちょうど死角だった。 おかげで、すぐそばに近づくまで気づかなかった。   男の姿勢が、不自然なこと。 胸を濡らしているのは、〈吐瀉〉《としゃ》物ではないこと。 アスファルトをえぐった穴の数々。   頭のどこかでは気づいていたのかも知れない。 だが、本当に理解したのは、男の頬に触れてから、だ。  その、あまりにも異様な感触、冷たいわけではないが、人肌に人肌のぬくもりがない違和感に、ようやく、頭が、切り替わった。   切り替わった瞬間、あたりの不自然な光景がパズルのようにはまった。 胸を濡らしているのは血だ。 アスファルトの穴は弾痕だ。 目の前の男は、男ではなく。   死体だ。      悲鳴より先に、吐き気がこみ上げた。  僕は、電柱に手を付いて、男の横に胃の中身をぶちまける。 鼻に感じるつんとした痛み。 僕の思考が回り始める。   男の着ているコートには、ブーツの痕があった。 つまり、男を殺した何者かは。 その死体を無造作にブーツで道の隅に蹴込んだのだ。      僕は、走りだした。  夜道はサイレンと悲鳴で満ちており、死体は、それ一つではなかった。   サイレン。 銃声。 悲鳴。 人のものと、人でない、カエルを踏みつぶしたような声。   蒸し暑い夜は、おぞましい音で満ちていた。      銃声や悲鳴を避けて走る内に、僕は、いくつも死体を見た。 点々と道を彩るのは、さっきの男のような、ただの通行人。 なかには中学生くらいの子供も交じっていた。   そして、あの青の制服。 たいていは一つではなく。 押しつぶされ、切り裂かれた肉塊の中に、青の布が混じっていた。      数は少ないが、魚人たちの死体もあった。 身体の半分を失い、もう半分に、無数の銃弾を呑み込んだ凄絶な死体の数々。   そしてもちろん。 注意に注意を重ねていても、「現場」に出会うことはある。      たとえば、ふと角を曲がった先で。 装甲車と魚人たちがおぞましい戦いを繰り広げていること。 無数の銃弾を叩き込まれながらも、じりじりと前進する魚人たち。 あるいは、ひっくり返った装甲車。   炎上するその中から、黒く焦げ、時に紅い断面を見せる肉塊を引っ張り出す魚人たち。 肉にかぶりつき、ねぶるような音を立てて食い尽くす魚人たち。      僕は、ただ、走るだけの機械と化していた。   どこへ? 行く先はない。 メゾンに戻りたかったけれども、戦場の数が多すぎて、僕は好きな道を選ぶこともかなわなかった。   何度も何度も走った。 同じところをぐるぐると回っているような気さえした。  いつしか僕は新開発区を走っていた。 すでに方向感覚がない。 街灯の無い荒れ果てた区画。 乱立するビルは、どれも同じに見えた。  闇夜の中で、ただ足音が、びちゃびちゃと響く。 マンホールからあふれた下水なのか、流された血か。 足下は血でいっぱいだった。  小さな広場で、僕は、足をとめた。 膝に手をついて、必死に酸素を吸い込む。  音。足音。 僕の足は止まっているのに、ぴちゃぴちゃという音は、響いていた。  認めたくない事実を認めるために、僕は、息を一つ呑み込んだ。  ビルの向こうから、魚人たちが顔を出す。  前も。 後ろも。 右も左も。  おびただしい数の魚人たちが、僕を囲んでいた。  輪が閉じるその前に。 僕は、震える膝に叱咤をくれて、細い路地に向けて走りだした。  ──考えろ。 街中の魚人がここに集まっているなら。 この囲みさえ突破すれば、彼らの全部から逃げられる、ということだ。  僕は走る。 水音が大きくなり、足が重くなる。 いつのまにか足下の水は、足首に迫っていた。  ──水位が上がっている? 水が足を取り、濡れた靴が、一足ごとに、がぼがぼと鳴った。  まずい。 これでは、速度が遅くなる。 僕は危険を冒して、一度だけ振り返った。  ──やはり。   魚人たちの速度があがっていた。  足のない下半身を、すばやく動かして、水の上を滑るように走ってくる。  時間がない。 あとほんの少し。 水が膝まで来るようなことがあれば、僕は決して逃げられないだろう。  僕は……  恵。 それが、僕の心に浮かんだ全てだった。 ここで死ぬわけにはいかない。 恵をメゾンに置いたまま、死ぬわけにはいかない。   あの魚人たちは、理由はわからないが、明らかに僕を狙っている。 建物に入れば、時間は稼げるかもしれないが、袋の鼠だ。 それでは時間稼ぎにしかならない。 それじゃ駄目だ。  僕は、ただひたすらに、水を蹴立てて走り続けた。  水位の上昇は、思った以上に早く、足をあげさげするたびに、膝が悲鳴を上げた。 僕は道の端により、ブロック塀を手で掴みながら、なんとか走った。  ──間に合わない。 逃げられない。 頭の中で冷静な計算結果が弾き出される。  足はすでにくるぶしをこえ、〈臑〉《すね》を浸している。 もう無理だ。 振り返るのが恐ろしかった。  恐ろしくて、あまりに恐ろしくて。 僕は、前のめりに倒れた。  びしょぬれになった身体を持ち上げる。  水に、顔が映っていた。  噛みしめた唇と、ひきつった頬。 見開かれた瞳と皺のよった眉。  目の前の顔の造作が、恵のそれに重なった。  直感した。 これが。これが、恵の感じた恐怖。  恵を襲ったのは、こいつらか。 ──だったら、ここじゃ死ねない。  感情が裏返ることがある、と、僕は、初めて知った。 全身の恐怖が、そのまままるごと、別の感情になってゆく。 焦燥だけはそのままに。  僕は、怒っていた。  怒りをバネに、僕は立ち上がった。 頭の冷たい部分が冷静に告げた。 戦って勝てる相手じゃない。 だが。 逃げられないのなら、立ち向かうしかない。   象牙の腕が、浮いていた。 せめてもの抵抗に、僕は、それを握りしめる。 硬そうなそれは棒きれ代わりにはなるだろう。 「来い!」  僕は振り向いた。  魚人たちの群れは、ほんのわずかな先だった。 僕が、足を止めたと見るや、一斉に殺到する。  水面が波立ったかと思うと、次の瞬間、魚人たちは僕の前にいた。  夢中で突きだした腕が、その勢いを借りて、魚人を突き刺す。  だが、それだけだった。 刺された魚人さえ、痛みの様子はなく。  無数の手が、鰭が、僕に襲いかかって水の中に引きずり倒した。  ──間に合わない。  そう悟って、僕は、手近の建物に駆け込んだ。  6階建ての雑居ビルだ。  最後の力で廊下を走り、階段を探し当て、乾いた地面を蹴って上へ上へとひた走る。  水面の上昇率が一定なら、これでずいぶん時間が稼げる。  3階まで来て、僕は、いったん、息を整えた。 肺が焼けつくようで、喉がぜいぜいと鳴った。 とりあえず、びしょぬれの服と靴を絞り、体勢を整える。  二三度、深呼吸すると、ようやく思考が回り始めた。  新開発区を走り回るのは二度目だ。 あの日、あの時、恵を追い回していたのは、今、下にいるやつらに違いない。 可能性としては、僕を襲ったあの少女や、弓を射た者も考えられるが、彼らなら、あっさり恵を捕らえていただろう。 恵の足で、必死に走って、しばらくは逃げられたということから考えて、魚人たちと考えるのが妥当だ。   理由はわからない。 今は、どうでもいい。  あいつらが恵の笑顔を奪ったというのなら。 僕は、あいつらを許さない。   それだけのことだ。  僕は、階段の下に耳を澄ました。  ぺたり、ぺたりという足音がかすかに響いてきた。 魚人たちは、乾いた階段を上がっている。  僕は、深呼吸をする。 これで、状況は、少しはマシになった。  この増水を呼んでいるのが魚人達だとして。 彼らの力はビルの6階までは埋められない。 あるいは、埋まるまで待つ気がない。 そのどちらかだ。  僕は、再び階段を上り始めた。 今度は時間稼ぎではない。 勝つためだ。  ビルは、内装工事の途中で放棄されたようだった。 あちこちに瓦礫や、朽ちたブロック。 さらには、板材や鉄パイプまでがある。  僕は、コンクリブロックを落として割り、手頃な大きさにして、ポケットに詰め込んだ。  そして即席の罠を仕掛け、4階の踊り場に陣取る。  ゆっくりと近づく足音。 僕は、自分から跳びだした。  魚人たちに、奇襲が通じたのかどうか。 それはわからなかった。 僕を見ても、彼らのゆっくりとした足取りにはなんら変化はなかった。  だが、それならそれで構わない。 僕は、真ん中の魚人に、上から思いきり鉄パイプを叩きつけた。  腕に伝わってきたのは、石を殴ったような手応えだった。 最初から強くは握っていない。 鉄パイプは、くるくる回ってすっ飛んだ。  僕は、逃げながら、ポケットのブロックを投げつける。  鈍い音がして、肉が潰れた。  だが、それでも、魚人たちの足取りは変わらない。 ゆっくりと、階段を上り始める。 その速度は歩くくらいで、僕は、十分に距離を取り、ブロックを投げながら階段を上った。  通じていない。 何一つ通じていない。  当たり前だ。 銃弾を喰らって平気なやつらが、石の一つ二つで、どうにかなるわけがない。 だが。  5階へ通じる階段を、僕は、できるだけゆっくり登った。 捕まらない距離で。 ぎりぎりまで引きつけて。 魚人たちの群れが、踊り場に満ちた時。  僕は、ダッシュした。  魚人たちは理解しただろうか。 僕が身体で隠していたのは、階段の上に敷いた板だ。 そして、板の天辺にあるのは……。  それは、巨大なブロンズ像。 皮肉の効いたことに、人魚の像だった。  こんな狭いビルに、ブロンズ像があっても、意味がないと思うが。 何のテナントに入る予定だったのだろう。  だが、そんなことは、どうでもいい。  僕は、巨大なブロンズ像の背後に回ると、思いきり像を蹴飛ばした。   ゆっくりと、像は、板の上を滑る。だがそれもつかの間のことで、重心の高い像は、ごろごろと階段を砕きながら転がった。 鈍重な魚人たちに逃げる術はない。  肉と骨が砕けるのを、僕は待ってはいなかった。 身を翻して、廊下を走る。  牛のような低く野太い声は、あれは多分、悲鳴なのだろう。  バリンと音を立ててガラスが割れる。  僕は、下を覗き込んだ。 遥か下にあるのは地面ではなく水面だった。 くらくらするほどの高さ。 だが水面の高さは、ビルの二階に届いていた。   ──これなら、行ける。  数秒の間を置いて、水面に大きな波紋が広がった。  割れたガラスを見た魚人たちは、次々と窓から身を躍らせる。 水に落ちた波紋めがけて。  6階の窓から、僕は、その様を、こっそり見つめた。   そう。落ちたのは僕じゃない。手頃な大きさの瓦礫を、下に落としてすぐ、僕は6階に上がったのだ。  魚人たちを片方に誘導し、僕は、なるべく音を立てないように逆側の窓を開けた。 これで、だいぶ時間は稼げる。 無論、僕が着水で死んだり気絶したりしなければのことだが。   6階から見る高さは圧倒的で、かすれた横断歩道が、掌に収まるほどだった。  僕は窓枠に足をかけ、そして、迷っている暇はない、と、決める。  人形の腕を抱いたまま。 一躍。宙に身を躍らせる。  風が。 ひらめく風が、僕の全身を、ひっぱたく。  痛い、と、思った時には着水していた。  骨を揺らす衝撃と共に、僕は泡を吐いた。 全身に、コンクリのやすりで削られたような痛み。 そこに水が染みこむ。  勢いのまま沈み、アスファルトに背中からぶつかって、また、浮かんだ。  無我夢中でもがいた時には、頭が出ていた。  生きている。 まだ生きている。 あとは生き続けるだけだ。  懸命に水をかいて泳ぐ。 最初は平泳ぎだったが、すぐにクロールに切り替えた。  水面には、思ったより早く、あの魚人たちの姿が見え始めていた。 思ったより早く戻ってきたのか、全員がビルに入ったわけじゃないのか。  そんなことはどちらでもいい。 僕は、残った体力の全部を費やして、新開発区の中を泳いだ。  魚人たちの速力は恐ろしいほどで、水面を滑るように突進する。 僕の泳ぎは、焦れば焦るほど遅くなり、しまいに水の流れそのものが僕を阻む気さえしてきた。  いや、錯覚じゃない。 力を抜いたその一瞬。 僕は、明らかに背後に流されていた。  ──冗談じゃない!  全身に力を込めるが、水の流れは速く、魚人たちの泳ぎは、さらに早かった。  僕の足に、なにかぬめるものが巻き付き、一瞬で水の底へ引き込まれた。  ──畜生! 畜生!  叫びは泡に変わり、生ぬるい水を僕は思いきり呑み込む。 暗い水が視界を奪い聴覚を奪い嗅覚を奪い触覚を打ちのめす。  泥のような闇に塗りつぶされる僕の五感を。 言葉が上書きした。  声ではない。 光でもない。 言葉そのものが、心の上に重ねられる感触。  見ようとしても何も見えない。 動こうとしても動けない。 是非もなく、僕は、その言葉に従った。  ざぶんと、何か重いものが傍らに落ちた。  水が泡立ち、波が立った。  渦を巻いて、水が引く。  一瞬で、僕は、乾いた大地の中に横たわっていた。 全身からしたたり落ちる水を、振り落とし、げぇげぇと水を吐いた。  再び、声のない言葉。 だが、今度ばかりは僕は目を開けた。  僕がいるのは乾いた大地。 だが、ほんの十歩先には、水が満ちていた。  吹き飛ばされた魚人たちが起きあがりはじめる。  水面は、あらゆる物理の法則に反して、四方になだらかな坂を描いて深くなっていた。  あるいは。 新開発区に満ちた水が一カ所だけ、ドーム状に切り取られている、というべきかもしれない。  ドームの中心にあるもの。 それは。  星粒一つの灯りを捉え、紅い外套は闇の中に咲き誇っていた。 君臨する隻腕のヒトガタ。  外套から突き出た左腕は、人間のものではなかった。 いびつな骨を持った絡繰り細工。  その顔は、白い仮面。  その片足は、魚人の死体を踏み貫いていた。 急所を突いたのか、あの生命力の強い魚人が動きもしない。  ざわり、と、水面が動いた。 魚人たちが気圧されたように一歩動く。  ヒトガタの腕が、がしゃりと音を立てる。 肘が内側に折りたたまれ、内部からバネ仕掛けで銃身が跳びだした。  ヒトガタの言葉の意味は明白だった。 僕は、両手で耳をふさぐ。 その瞬間。 無造作にもちあがった銃身が、火を吹いた。  重い衝撃が僕の前半身を打った。 一瞬、身体が浮く。 嵐のような上昇気流が、それに続いた。   金属薬莢がずしんと響きを立てて足下に落ちた。   ヒトガタの一撃は、散弾だった。 正面に位置していた魚人は、もはや、影も形もなかった。 その周囲の魚人が、身体に文字通り無数の穴を開けて立ち尽くしている。  魚人が動いた。 逃げるほうではない。   向かう方へ。  どん!どん!どん!  発射音が連続する。 ヒトガタ前方の魚人たちが、文字通り消し飛ぶ。  一瞬遅れて、生臭い血と肉の飛沫があたりに降り注いだ。   後方の魚人たちが襲いかかる。  カシャンと音を立てて、銃身が収納された。 四指を備えた隻腕を構え、ヒトガタは、魚人たちに向かい合った。  無数の魚人が宙を舞った。  ヒトガタの隻腕が迎え撃つ。  四指の先から尖った針が伸び、螺旋を描きながら、四体の魚人を刺し貫く。  そこが急所なのか、鰓の内側を刺された魚人たちは、痙攣しながら、ばたばたと大地に落ちた。  だが、魚人たちは止まらない。 あとから、あとから、飛びついてくる。  針を刺して四匹。  縮め、また伸ばして四匹。  ならば、四匹以上で飛びかかれば。 広い街路のこと、その作戦は功を奏した。  最初の一匹がヒトガタに取りつく。  肘がその頭をたたき割るが、その瞬間には、次の六匹がヒトガタに取りついていた。  六匹の次にまた六匹。 一体のヒトガタに、無数の魚人が飛びつく。  魚人の上に魚人が乗り、それを押しつぶすように、また魚人がのしかかり。 触手と触手がたがいにしっかり結び合わされ。  一瞬にして現れた魚人の山の中に、ヒトガタは埋もれ、消えたかのように見えた。 「……あ」   僕は、呆けた叫びを上げた。 思考が止まる。 目の前に起きていること。起きてしまったこと。 それに、身体がついていかなかった。  ぎゅるぎゅると蠢く肉の塊。 その中心に囚われたヒトガタ。 言葉に変えてようやく、理解が及ぶ。   論理が告げる。 やるべきことは二つ。 ヒトガタを助けるか。 あるいは逃げるか。 僕は……  今、逃げるわけにはいかない。 今日、逃げたとしても、いずれまた魚人たちは僕を、そして恵を襲うだろう。   ならば。 僕は、このヒトガタを助けなければいけない。   どうやって? 悩む暇はなかった。  僕は、勇気を奮って、魚人の山に近づく。  最初に気づいたのは異音だった。 低い重低音。  ギアとピストンが動き、歯車が回る。 油を喰らい鉄を引き裂き、煙を吐く巨大な機械。 そんな響きがあたりを満たす。  音は、山の中からしていた。 僕の前で、魚人の山が、縮んでゆく。 次々と内側へ陥没してゆく。  鉄と鉄をこすりあわせ、引き裂くような機械音の中に、くぐもった太い悲鳴が混じっているのを、僕は、ようやく理解する。  魚人の山が、みるみる半分ほどの大きさになった時。  ずぼり、と、音を立てて、魚人の胸を貫いて、あの隻腕が現れた。  何かを探るように差し出されたその手を、僕は、両手で受け止めた。  力を込めると、ヒトガタが、がぶりと音を立てて引き出される。 同時に、生臭くぬるい血潮があふれた。 羊水にも似たそれは、蒼い色をしていた。  血にまみれたヒトガタ。 外套は翻り、人形そのもののような肋骨を見せている。 足先から脳天、指先まで、どれ一つとして、蒼い血肉にまみれていない箇所はなかった。  あまりにも凄絶。 あまりにも最強。  それは、したたる血潮をそのままに、片腕を銃に替える。   ヒトガタが消えたことで、魚人の山が完全に崩れる。 生き残っていた外側の魚人たちが、組み合っていた触手を解いて、もぞもぞと動き始める。  ヒトガタは、その中心に銃を向けた。 僕は耳をふさぐ。 腹の底をゆらす大砲のような衝撃。  魚人の山を、肉塊の山に変えるまで、弾は、わずか三発で足りた。  逃げる、しかない。 あのヒトガタが、魚人に敵わないのなら。 僕は今、少しでも遠くに逃げるしかない。   それが論理だ。  僕は、塊に背を向けて走り出す。  ヒトガタから離れるほどに水かさがあがり、すぐに僕は、胸まで使った水をかきわけて歩み始めた。  次の瞬間。  魚人の山から一匹の魚人が離脱する。  それは大きく宙を跳んで着水し、優雅に素早く水面を渡り、あっという間に、その触手で僕を捕らえた。  水の中に引きずり込まれるのと、その鋭い歯が喉に食い込むのは同時だった。  暗転してゆく視界の中に、くるくると回る綺麗な傘が見えた。 気がした。        静かに水は流れ去っていった。  遠くから、かすかに届くサイレンの他は、新開発区は、静寂に閉ざされていた。  空気を覆っていた湿り気が消え去り、乾いた秋の夜気が戻り始めていた。  肉塊、としか表現できない物を前に、ヒトガタは立っていた。  脳裡に刻まれる文字。 それは、ほとんど、強制力さえもって響いた。 「拒否する」   僕は、言い返す。  ヒトガタが、こちらを見た。   無表情な仮面の目が僕をみすえる。   視線の力が僕を押し、目に、鋭く熱いものが射し込まれる思いさえした。  単純にして鋭い一言。  「僕が生きているからだ。見たことを忘れるような生き方はしていない」   僕は、返り血を浴びた紅い影に、見覚えがあった。 昨日の夜、ハーフガーデンに見たその人影。 そしてその直後、彼女は、メゾンに帰ってきた。 「管理人さん……なんですね」   ヒトガタは動かない。 ただ、仮面の向こうの視線が、わずかに揺らいだ。 そんな気がした。   もちろん、あの紅い影と管理人さんの間に、関連性がある証拠はない。 確信もない。 論理は通らない。 無意味な直感しか存在していない。 だが、今日くらいはいいだろう。 「教えてください。 あなたは、管理人さん、なんでしょう?」   脳が熱い。 思考が空転する。 仮定1:ヒトガタは、僕の味方をした。  仮定2:管理人さんなら僕の味方をしてくれる。  結論:仮定1、2より、管理人さんはヒトガタである。   この三段論法は間違っている。 僕を助ける存在が、この世に管理人さんだけということはない。   では消去法。 仮定1:管理人さんの力は……恵の面倒を見た時の精力は、人間の範疇を越えている。  仮定2:その他に、僕がこれまで出会った、人間の力を越える存在は、風のうしろを歩むものと名乗ったあの少女、魚人、そしておそらく弓の射手である。  結論:以上の中で、僕の味方をする者は、管理人さん以外に存在しない。   これもまた穴だらけだ。  消去法が正しいためには、あらかじめ全ての可能性を網羅していることが前提だが、そんなことは現実には有り得ない。 推理に消去法は意味がないのだ。   だが、それでも。 僕は、目の前の隻腕の人形が、管理人さんに思えて仕方なかった。  僕は、傍らに落ちていた、あの象牙の腕を拾い上げる。 これは右腕。 ヒトガタの腕は左腕だ。   もっとも、右腕は、人間そっくりに造形されているのに対し、ヒトガタの左腕は、骨組みの見えた人形然としたものだ。  左手で右腕を受け取ったヒトガタが、己の右肩に、象牙の腕をセットする。 かちり、と、音がして、腕がはまった。  外套の内側。 肋骨の中で、どくん、と、赤い血が脈打った。  ヒトガタの右腕が、うっすらと桃色に色づいてゆく。 指先に桃色の爪が現れ、硬い象牙の肌は、柔らかな人肌に変わった。  そこから先は一瞬だった。  仮面は縮んで眼鏡になり、赤い外套がばさりと振られると、それはエプロンに変じ、目の前には……  見慣れた管理人さんが立っていた。  「克綺……クン?」   それは管理人さんから初めて聞く、色濃い疲労の声だった。 「どうしました? だいじょうぶですか?」  「私は、だいじょうぶ」   そう言う内に、管理人さんの顔に、いつもの笑顔がのぞいた。 その笑顔が……あまりにも完璧すぎて、作り物に見えたのは、僕の主観だろうか? 「それより、克綺クン。 ひどい怪我じゃない。大丈夫?」   いつもの笑顔で、いつもの口調で、そう言われて、僕の身体から緊張が抜ける。 どっと疲労が戻ってきた。 鈍い痛みが全身を覆う。 「ほら、びしょぬれ」  管理人さんの手がやさしく髪と服をなで、水気を絞る。 暖かな手が触れたところからは、それだけで水気が退くようだった。 人心地がつく。 「管理人さん」 「なぁに?」  いつもの顔で言われて、僕は、言葉に詰まった。    いったい何から聞けばいい? どう聞けばいい?  あなたは本当に、さっきのヒトガタなんですか? あなたはどうして、そんなに強いんですか? あなたはどうして、魚人たちを殺したんですか? あなたは……。  僕の困った顔を見たのか、管理人さんは、やさしく微笑んだ。 「ごめんなさいね。 今まで内緒にしてきて」 「それは別に構いません。 ただ……僕は、今晩起きたことの意味が、知りたいだけです」 「そうね……歩きながら話しましょうか」 「……はい」  ゆっくりと、僕らは新開発区を歩き出す。 血塗れの死体の山が、やがて、角の向こうに隠れて消える。 「克綺クン、あのお魚さんたちは見たわよね」 「はい」 「世の中にはね。 普通の人には見えないところで、ああいう人外のものが沢山暮らしているの。 沢山といっても、もうずいぶん数は減っちゃったけど」 「人外……ですか。 それはどういうものなのですか?」 「どういったらいいのかしらね。 いろいろなものがいるから。 そうね。日本だと、神様、というのが一番近いかな」 「神様……ですか?」 「そう。克綺クンの通ってる学校のじゃなくて、〈八百万〉《やおよろず》のほうね。 日本だと、確か、犬でも猫でも人でも、えらくなると、みんな神様なのでしょう?」 「……そうだった気もします」 「そんな感じよ」 「そんな感じですか」 「とにかく人間の理解の外にある力を身につけたもの。 それが人外」 「管理人さんは……人外なのですか」 「ええ。さっき見たでしょう」  僕は、管理人さんの両腕を見つめる。  象牙のように硬かった右腕も。 恐るべき武器に変化していた左腕も。 どちらも、面影はなかった。  いつもの、管理人さんの暖かな腕だ。 「人外というのは、想いのかたまりなの。 人が人でいられなくなるほどの。 獣が獣でいられなくなるほど。そして……」 「あの魚人たちも、ですか?」 「そう。昔のことは分からないけれど、人になりたかったお魚さんがいたのか。それとも、お魚みたいに泳ぎたい人がいたのか。 あまりに強い想いのせいで、魚でも人でもない力を身につけた」 「じゃぁ、管理人さんは? 管理人さんは、どんな想いなのですか?」 「私? 私はね。お母さん、かな」 「お母さん?」  僕は首をひねる。 「普段の管理人さんならわかりますが……さっきの姿が、お母さん、なんですか?」 「お母さんはね。子供を護るものよ」  僕は絶句する。 「今は、そうでもないけれど……昔は、よく、あったのよ。 今度みたいに、人外の民が人間を襲うこと」 「その頃は、まだ、人間には力もなかった。 人の身では、とうてい立ち向かえない力が子供を〈攫〉《さら》うなら……人でないものになるしかないでしょう?」  そう言って笑った顔は、何一つ変わらないいつも通りの笑顔で。 それは、僕の空っぽの胸に、こだました。 「いつのことですか?」 「ずっと昔よ。本当に昔のこと」 「昔から、ずっと、なんですか?」 「ええ。いつの時代も子供は可愛いですもの。ね?」 「そうですか」  子を護るために戦う母。 怯える子供を寝かしつけ、寝静まる深夜に異形となって殺戮を繰り広げる、母。 どれほど昔から、この人は戦っていたのだろう。 「恵のため……なんですね」  僕は、振り返る。 積み上げられた死体は、もう見えなかった。 「あら、そんな辛気くさい顔しないで。だって克綺クンも言ってたでしょ?」 「え?」 「犯人を、誰かに捕まえてほしいって」 「……そうですね」  僕は、確かにそう言った。 その何気ない一言のために。 恵の笑顔を得るために。 この人は腕を抜き、血にまみれて戦ったというのか。 「一つ言っておくことがあるんだけど……」 「はい」 「克綺クンはね。 生まれつき、人外に襲われやすい体質をしてるの」 「体質……ですか?」 「ええ。人外は、人間を食べて力をつけようというものが多いのだけど……克綺クンの身体には、すごい魔力が含まれてるの」 「僕を食べたがってるんですか?」 「そういうこと」 「ひょっとして、恵が事故に遭ったのも……」 「たぶん」  管理人さんは、言いにくそうに言った。 「克綺クンと間違われたんでしょうね」 「そうですか……」  胸が重くなった。 論理的には不可抗力だ。 だが、気分が悪いことには変わりない。  うつむいた僕を、管理人さんが抱き寄せた。 「安心して。 克綺クンも、恵ちゃんも、私が絶対護ってあげるから」  柔らかな胸が、暖かな腕が、僕を埋めた。 すうと息を吐くと、胸のつかえが、少しだけ取れた。 「じゃぁ、先に帰っててくれる?」  「え?」  「私、ちょっと寄るところがあるから」  「どこですか?」  「……魚人の巣」  「僕も行きます」   僕は、そう言っていた。 「危ないわよ!」   管理人さんがいう。  「帰り道には、軍隊がうろついています。 不審人物と見られたら銃で撃たれるでしょう」  「でも……」 「管理人さんのそばにいるほうが安全です」  「じゃぁ家まで送ってあげるから……」  「恵のことです。 足手まといになるかもしれませんが……僕は、最後まで、見届けたい」   管理人さんは、しばらく考えて、そして、うなずいた。 「じゃぁ、絶対に私のそばを離れちゃだめよ。 約束してくれる?」  「はい!」  「それじゃ、行きましょうか」   いつもの笑顔。 まるで買い物にでも行くように、管理人さんは、そう言った。  しばらく歩く内に、蓋のあいたマンホールが見つかった。 「ここから行くわ」  錆びた梯子を、管理人さんは、危なげなく降りていく。 僕も、その後に続いた。       時刻は夜だ。 数メートルも降りると、外の灯りは届かず、目の前は真の闇に閉ざされた。 冷たい鉄棒を掴む指の感触が薄れ、登っているのか降っているのかも、段々とわからなくなる。   朦朧とした意識の中で、手と足を機械的に動かす内に。  指が滑ったのか、足が先か。  気が付くと、僕の上半身は宙に浮いていた。  アドレナリンが覚醒を促す。 眼を見開いて腕を伸ばすが、闇の中のこと。 指が触れたのは梯子段ではなく、つるつるとした壁だった。 「あっ」  悲鳴が口から響いた頃には、全身は闇の中に落下していた。 底の知れない闇の中で、ただ、ふわりと下からの風に吹かれ、首筋がざわざわと揺れた。 「よいしょっと」  右腕が引かれ、身体全体が、がくり、と、静止する。  はしご段に肩からぶつかり、目の奥に火花が散った。 「だいじょうぶ、克綺クン?」  上のほうから声がした。管理人さんの声。 「すべるものね、この梯子。 灯り持ってくればよかったわね」  ぼくはといえば、喉にせりあがった大きな塊を、なんとか飲み下す。 「はい……そうですね」 「もう少し、降りるのよね、あ、そうだ」  その一言とともに、僕は、かろやかに引っ張り上げられる。  胸が、何か暖かいものに触れる。  抱きすくめられた、と、気づく。 「腕、動く?」  僕は夢中でうなずく。 両腕で、僕は管理人さんの首にしがみつく。  闇の中で僕は、暖かな二つの膨らみに顔を埋めていた。 管理人さんが、片手でそっと僕の腰を持ち上げる。 「じゃ、降りるわよ」  そのまま管理人さんは、僕を抱きしめたまま片足で降りはじめた。  柔らかなリズムに揺られる。 暖かな空気に包まれる。 頭の中がふわふわとする。 「あの……重くないですか?」 「克綺クンは心配性ね」  声は、耳元から響いた。 「我がものと、思えば軽し、傘の雪ってね。 抱いた子供が重いわけないじゃない」 「僕は管理人さんの子供ではありません」 「言ったでしょ。 大家といえば親も同然。店子といえば、子も同然。 遠慮しないで、子供らしくしなさい」 「議論の余地はあると思いますが、お言葉に甘えます」  管理人さんの小さな笑い声。 それきり、声は絶えた。     そうして僕らは闇の中を降りていった。 僕の重さを片手で支えながら、管理人さんは足音さえも立てずに静かに梯子を降った。 暗い闇に溶け込んで、胸に顔を埋めていると、何もかもが闇に溶け込みそうで、肌がとろけていくような気がした。 生まれる前は、こんな気持ちだったのだろうか。 静寂の中で響く、小さなリズム。 とくん、という響き。 心臓の、鼓動。 耳元に響く柔らかな声は、ゆるやかに時間を包み込んでいた。     その音に応える響きがあった。 かちり、かちり、と、響く音。 胸の中の金時計。 正確なほどに時を切り刻む秒針。   ──僕には心臓がない。   時計の音はあまりにも冷たくて。管理人さんの鼓動の中で、僕は、自分の胸が空っぽであることを意識した。 空っぽの胸の中に、響き続ける時計の音。 なぜだか、涙が出た。 「どうしたの?」  おだやかな声に僕は、うろたえた。 涙を、こんな理由もない涙を管理人さんに見せたくなかった。 「何か、悲しいことでもあった?」 「なんでもありません……ただ」  僕は、足を段にかけ、胸から時計を取りだした。 「心臓がないのが、悲しくなったんです。 僕には、この時計しかない」   意味不明の感想を、それでも管理人さんは笑ったりしなかった。 「あら、綺麗な心臓じゃない」 「冷たくて、硬い心臓です……」  遙か上からの星の光。 それを受けて、時計は一瞬だけきらりと光った。 「そんなことないわよ」  管理人さんの声は、春の風のよう。 「金色で、すべすべしてて、ピカピカで。 働き者でまじめさんな心臓ね。 克綺クン、そっくりよ」 「そう、でしょうか」 「ええ。 とてもいい心臓だと思うわ」  僕は、金時計を胸にしまう。 管理人さんも、ゆっくりと降りだした。  金時計の音は、相変わらず規則的で冷徹だったが、少しだけ誇らかに響いた。 「着くわよ」  その言葉とともに、僕の足は、冷たく濡れた大地を踏みしめた。 ゆっくりと足に体重をかけ、管理人さんから身を離す。 「ここは……」  相変わらず真っ暗で、僕は何も見えない。 ただ、ごうごうと水の流れる音が聞こえた。 「下水の岸。落ちると危ないわよ」  さっさと、管理人さんが、僕の手を握る。 暖かで柔らかな右手。 僕の手は、少しだけ汗ばんだ。  どれだけ優しく手を引かれていても、闇の中で歩くというのは、不安なものだ。 その気持ちをまぎらすために、僕は、かすれた声を出す。 「魚人……でてきませんね」 「さっきので、最後だったのかもね」 「じゃぁ……もう、いいんじゃないですか?」 「いいえ。巣には、親玉がいるわ」 「親玉……ですか?」 「ええ。一番強いのよ」  あの魚人より強大なもの。 僕は、想像して嫌な気分になる。 「さ、もう少しよ。少し、目をつぶっていて」  言われるままに僕は目をつぶる。 真っ暗闇の中を歩いてきたあとだ。 そんなことは何でもない。  管理人さんに手を引かれて歩いていると、急に、風が変わった。 下水流の水音が遠ざかり、空気がもっと湿った、暑いものに変わる。  ぺきり、と、足下で、何かが折れる。まるで枯れ枝のように。 「もう少しよ」  管理人さんの言葉にはげまされて、僕は、歩き続ける。  足下の床は、ねばつくようで。 そのくせ、枯れ枝はポキポキと音を立てた。  だから、それが終わった時は、ほっとした。 「さ、目を開けて」  声をかけられる前から、僕には着いたことが分かった。 空気が、急に涼しく冷たく、清浄なものになったからだ。 ぷんとただよう水の匂いは、かぐわしく、高原の湖に来たような気がした。  僕は、ゆっくりと目を見開く。  光が、あった。 目の前には、蒼い水をたたえた湖があり、その前には白い砂浜が広がっている。 「ここですか?」 「ええ」  管理人さんが、僕のそばにしゃがむ。 右腕で砂浜に、僕を囲む小さな円を描いた。 「いい、ここから絶対、出ちゃだめよ」  「……はい」   僕は上の空で返事をする。  水が、湖の水面が、一瞬に深紅に染まる。  真っ赤な水面が、大きく盛り上がった。 それは、ありえないほどの膨らみをみせ、なお上昇する。 まるでゴムの膜のように、信じられない高さまで盛り上がっていた。 「克綺クン?」  「はい」  「これ、預かっててくれる?」   管理人さんが差しだしたのは、その右腕だった。  「は……い」  生返事で、僕は管理人さんの手を取った。  かたり、と、音を立てて、腕が外れ、僕の手に残る。 暖かい管理人さんの右腕が、みるみる血の気を失い象牙色の棒となる。   それと同時に管理人さんが……。  僕は、目をそらした。  管理人さんが、あの、無慈悲な機械に変わる様を、僕は見たくなかった。 両手で右腕を抱いていたから、耳まではふさげなかった。  ごきり、と、何かがねじ曲がる音がする。  かちり、と、歯車がはまる。  鉄板を引きずるような音とともに、すべての機関が動き始める。  最後に、深い、深い排気音。  顔を上げれば、目の前に立っていたのは、あのヒトガタ。 深紅の外套と、象牙色の手足。  その仮面は心を映さず、故に、無慈悲。 研ぎ澄まされたナイフのように、鋭い機能美。  ヒトガタの後ろで、深紅の水面が砕けた。  巨大な卵のような水が、ぬめ光る魚人を生み出す。 ぬめぬめとした鱗を持った巨大な胴体。  その先端には、あたかも船首像のように、女ににた何かがそびえていた。 見上げるほど高みから見下ろすその瞳は、真っ赤な涙を流しながら、ただ凍てついた視線を浴びせていた。  それは。 女に似た何かは、大きく口を開けて哭いた。 澄んだ、信じられないほど高い音色の叫びが洞窟の中に響き渡る。  それほどまでに力強い、それほどまでに大きな声。 けれど僕は、それが、雨に濡れた仔猫の鳴き声に聞こえた。  悲しみ。孤独。不安。 思わず、膝が崩れる。 僕は、守護円の中にうずくまった。  ヒトガタが動く。 叫びの重さを意に介さぬ、いつもどおりの、ゆっくりとした足取り。   意味が、脳に響く。   それが、戦闘開始の合図だった。  人魚の腕が閃くと、水面が尖った。 一つ、二つ……六つ。  一本一本が人の身体ほどもある巨大な錐は、宙に飛び出すと、方向を変え、ヒトガタを狙い撃つ。  ヒトガタが跳んだ。  左腕を振って銃に変え、片端から錐を撃ち飛ばす。 轟音が洞窟を震わせ、錐の四、五本が砕けて水に戻る。  残りの一本が、ヒトガタを捕らえる。 空中でヒトガタを打ちすえ、水の錐は、爆発した。  水滴が飛び散り、僕の顔を打った。 オイルまじりの水。 それがヒトガタの血と理解する。  ヒトガタが立ち上がった。 胴体だけが、立ち上がった。 右足は取れ、左腕と頭部も、胴体のそばに散らばっていた。  腕が動く。 まるで、フィルムを逆に再生するように、独りでにヒトガタにくっつく。  カチリ、と、音を立てて、頭がはまった。  人魚が歌う。 数を増した水の錐。   数十に及ぶそれが、四方八方からヒトガタを襲った。  ゆっくりと。 ゆっくりとヒトガタは歩いた。  機械仕掛けの、堅実な歩み。 だがその歩みは、水の錐の包囲をやすやすと突破する。  左腕が天を向く。 目標を失い、空中で交叉した水の錐を、銃弾はやすやすと撃ち抜いた。  しぶきが洞窟全体を満たした。 僕は頭から水をかぶって、目をしばたく。  まぶたを開いた時には。 ヒトガタは、もう砂浜にはいなかった。  いかなる方法で水面を渡ったのか。  それは、人魚の胴体に立っていた。  否。 尖った両足は、その鱗をえぐり、肉にまでめりこんでいた。  再び銃声。 青黒い血が宙に花を咲かせ、人魚の胴体に、子供ほどの穴が開く。   人魚が再び悲鳴を上げる。 胴体を大きく水面に打ち付けるが、人形は微動だにしない。  いや、動いている。  一歩進むごとに、尖った足先が鱗をえぐる。 血を噴かす。  それは、機械のように着実に、時間のように容赦なく、人魚の上半身に近づいていた。  ――HAAAAAAA!   悲鳴とともに、人魚が振り返る。 長い腕をヒトガタに向けると、その腕に水が螺旋に巻き付く。 肩から指先まで巻き付いた水は、ばねのように、大きくたわむと、次の瞬間、鋭い槍となってヒトガタを襲った。  澄んだ音が響いた。 長く伸びた水の槍。 その先端を、ヒトガタは四本の指で掴んでいた。   ぐい、と、無造作に引っ張る。  ごきゅり。 胸の悪くなるような音とともに、人魚の右腕が、引っこ抜かれた。   それは水面に落ちて、ぱしゃりと音を立てる。  ――KYEEEEEE!  一瞬遅れて、つんざくような悲鳴が轟いた。  洞窟の天井がぐらぐらと揺れ、岩が落ち始める。 僕は、象牙の腕を地面に置き、両腕で耳をふさいだ。  ヒトガタは、その瞬間、胴体を蹴っていた。  かしゃり、と、音を立てて、腕が銃に変わる。 空中で、人魚の上半身に銃を向ける。  爆発音と共に、唐突に悲鳴が途切れた。 ヒトガタの一撃は、人魚の胴体に大きな穴を開けていた。  ヒトガタは、胴体に着地する。 再び、歩き始める。  ヒトガタは。 ヒトガタは──。  微塵も急がず、ただ、ひたすらに破壊に向けて歩く姿に、背が寒くなった。  ヒトガタ。 管理人さん。 その二つを並べて考えるだけで、頭がくらくらした。  管理人さんにとって、母にとって。 子供を守る力が必要なことはわかる。 子供を護るために修羅となる。 それが、あの姿なのだろう。  だから、強さはいい。 それはわかる。 戦いに慈悲は不要だろう。 ためらいも要らない。  だけど、それにしても。 子を護る母親には、暖かな祈りや愛があるのではないか。 あるいは、底なしにどす黒い、怒りや憎しみがあるのではないか。  目の前の殺戮は、あまりにも機械じみていて。 愛も祈りも怒りも憎しみさえも、まったく感じられなかった。 「──管理人さん」  僕は、小声で囁いていた。 「管理人さん?」  戦闘のさなかに声をかける愚かさ。 それは分かっている。分かった上で。 僕は確認せざるを得なかった。  目の前のそれが、本当に管理人さんなのか。 それが確かめたかった。  ヒトガタは、振り向かない。 ヒトガタは、揺れもしない。  それは、人魚の、もう一本の腕をちぎり取ると、胴体に、一歩一歩血の足印をしるしながら、穴のあいた上半身へゆっくりと距離を詰めた。  目の前の人魚が。 恵から笑顔を奪ったその原因だとわかっていても。 僕は、その足取りを見るのが耐えられなかった。 「管理人さん!」   そう叫んだ時は、一歩踏み出していた。 足先が、管理人さんの描いた守護円を、わずかにはみだす。   ──途端。  人魚が動いた! それは一瞬で宙に舞った。  巨大な下半身を、脱ぎ捨て、スレンダーな身体を見せて宙に舞う。 それは、宙を滑るように跳ぶ。  僕の方へ!  後を追うように、ヒトガタが跳ぶ。 宙からの射撃。  二発。三発。 その一発一発は、人魚の身体を、大きくまるくえぐりとった。 尾びれがちぎれ、左胸をすかして向こうが見えた。 遅れて砂浜が散弾で爆ぜる。  人魚は、宙でよじるように僕を狙う。 かっと開かれたその口には鋭い牙が生えていた。  僕と人魚とヒトガタが一直線に並ぶ。  瞬間。 僕は、人魚と共に撃たれることを覚悟した。  だが銃声はいつまでたっても響かず。 僕と人魚は、もつれあって倒れ込む。  冷たい右胸が、僕の上で潰れる。 大きく開いた唇の中に、鋭い歯が見えた。  牙が、喉につきたてられる。  そう、悟って目を閉じた。  だが、痛みは、いつまでたっても訪れなかった。 代わりに、僕の唇に、冷たく柔らかなものが触れた。  ごぶり、と、口の中に血があふれる。 人魚の蒼い体液。 それは、海のように塩辛く、喉を灼いて僕の胸まで降った。  とっさのことに狼狽して身体を動かす。 と、人魚の唇が、退いた。  まぶたを、開く。  目の前にあったのは、針の切っ先だった。 ヒトガタの指から伸びた針が、人魚を貫き、空中に縫い止めていた。  四本の針が、人魚の胴体から顔までを貫き、その針の先から僕に向かって血が滴っていた。  ──熱い。  身体に触れた血は、まるで電気のように身体を疼かせた。  血を滴らせた人魚が、断末魔の苦悶に身をよじる。 その血はあまりにも甘美で、僕は、両手を広げ、一滴余さず、血を受け止めた。  血が止まる。 否。  人魚は、宙に舞っていた。 ヒトガタが腕を振ったのだ。  全身を貫く針が動く。 ヒトガタの手首に従い、四本の針は精妙に動いた。  人魚の身体が、ミリ単位で解体される。  最後にそれは、肉塊となって、湖に落ちた。  僕の脳裡に字が刻まれる。 なぜだか僕は、吐き気がした。 足下の腕を、掴む。  近づいてきたヒトガタに腕を渡し、僕は目を背けた。 「克綺クン、だいじょうぶ?」  その言葉とともに、僕は抱きすくめられる。 「平気です……少し、血をかぶっただけで」  血をかぶった? 肌も制服も乾いていた。 あれだけ浴びたはずの蒼い血糊は、一滴も残っていなかった。 「よかった……」  「ご心配、おかけしました」   守護円から出たのは、僕の責任だ。  「いいのよ、克綺クンが無事なら。 さ、帰りましょうか」  「はい」  管理人さんに手を引かれながら、僕らは、ゆっくりと浜辺を歩いた。  背後で、ゆっくりと天井が崩れ始める。  目をつぶって、あの生臭い廊下を抜ける間、背後で、何かが崩れるような音が響いた。  それだけだった。  家に、着いた。 星の光を浴びて建つメゾンを見て、僕は、深い溜息をついた。 「どうかした?」  「いえ。帰ってきたな、って思ったんです」  「そうね……いろいろ、あったものね」  「ええ……」 「ただいま」 「ただいま」  誰にともなく、僕らは言う。 「疲れたでしょ。お夜食、食べる?」 「いえ、結構です」  正直、腹が空いていないわけでもなかったが、手足がだるかった。 ベッドにつけば、すぐに眠れるだろう。  暗い廊下に灯りをつけ、僕は二階に走った。  軽くシャワーを浴びて着替えてから、恵の部屋の扉を、軽く開ける。  足音を忍ばせて近づき、恵の寝顔を確認する。  その顔は、やすらかで、曇りがなかった。  ──もう大丈夫だ。 おまえを悩ます悪夢は、もういない。 すべては夜の底に葬られた。 ゆっくり、眠れ。  僕は、ずれていた布団をかけてやる。  幼く見えるその顔の髪をかきあげて。 一瞬の衝動。  胸が、とくんと、脈打った。 僕は、その小さな桃色の唇に口づけた。  ついばむような一瞬のくちづけ。 恵の眉がひそめられる頃には、僕は顔を上げていた。  ──何をした? 自分のしたことの意味が、わからなかった。 「うっ……ううん」  一瞬、乱れた恵の吐息に、鼓動が騒いだ。  だが、恵は目覚めなかった。 ゆっくりと落ち着く寝息。 それを確認してから、僕は足音をひそめ、部屋に戻った。  部屋に戻ってベッドに倒れ込んでも、動悸は止まらなかった。 僕は、夜食を頼まなかったことを後悔した。  夜は長く、すぐには眠れそうになかったからだ。   海東学園。 創立は古く、外見は古風だが、私学ということもあり、環境は整備されている。 教室は冷暖房を完備しており、コンピュータルーム、視聴覚室には、おしげもない予算が注ぎ込まれている。 そんな学園の中で、ただ一カ所、創立当時の姿を残している場所がある。 それが、図書室だ。 膨大な書籍を移転する手間から、図書室だけは、古びた書架と木の床を残していた。   今、その図書室の前に、静かに男が立っていた。  メルクリアーリは、音もなく図書室の扉を開ける。   窓のない図書室。 真の闇の中を、メルクリアーリは、しっかりとした足取りで歩む。 迷路のような書架を抜け、小さなアーチをくぐり、鍵のかかった扉を幾つも開き、やがて、鋼鉄の扉の前に立つ。   プレートには、特別閲覧室、と、あった。 重く、錆び付いた扉は、しかし、よく油が差してあり、音も立てず開いた。  メルクリアーリが指を振る。 その爪の先に炎が宿り、〈壁龕〉《へきがん》の蝋燭を点火した。  黄色い光が、ゆっくりと室内を照らし出す。  質素な石造りの部屋。  部屋の中心にいるのは少年だった。  愛くるしい黄金色の巻き毛。 その赤い瞳は、しかし、何も映していなかった。 蝋燭の炎もメルクリアーリにも向かず、ただ、手にした薄い本を見つめている。  少年の服は、黒一色のローブ。 聖歌隊にも似た質素なものだ。  そして、その全身は……細い、黄金色の鎖で、幾重にも巻かれ、天井と床につながれていた。  鎖はあまりにも細く、少年の力でさえ軽く引きちぎれそうだったが、少年は微動だにせず、ただ、手元の本に目を落としていた。 「〈闇の聖母よ〉《Hail,our lady in Darkness》」  メルクリアーリが唱える。 「〈王は御身とともにありて〉《The Lords are with thee》」  「〈王ならざる汝は祝せられ〉《Blessed art thou among Nephilim》」  「〈その孕みし果実は呪われん〉《and cursed is the Fruit of Forbidden》」 「〈闇の聖母よ、我ら人ならざるもののために祈り給え〉《Our lady of Darkness,pray for us,Nephilim》」  「〈今も、そして、終末の時も〉《Now and at the end of time》」  「〈かくあれかし〉《Amen》」  メルクリアーリの一言ずつに、黄金色の鎖は輝き、やがて、少年の体内に吸い込まれる。  いまや、少年は縛られてはいなかった。 ただ、少年の身体から放射状に伸びた無数の鎖が、天井、壁、床に、吸い込まれる。   その鎖の一本が伸びて、メルクリアーリの身体を這い回る。  わずかののち、鎖は、少年の胸に吸い込まれた。 「〈暗証〉《パスコード》認識。 メルクリアーリ・ジョヴァンニ、認証完了」   薔薇色の唇が言葉を紡ぐ。 声は鈴をふるようだった。  「質問をどうぞ」   メルクリアーリは、ついと息をついた。 「狭祭市の勢力状況についてアップデートを。経済および武力面での分析をお願いします。まずは、そう、ストラスの戦闘部隊と、あの魚人たちですね」  薔薇色の唇が再び言葉を紡ぐ。 メルクリアーリは、それに耳を傾けた。  詳細かつ正確な報告に耳を澄ます内に。 その顔に、ゆっくりと笑みが、浮かんだ。  それは、邪悪な笑みだった。  朝、目が覚めた。最悪の目覚めだった。 昨日の無茶で全身が痛む。 おまけに寝不足で頭痛がする。 それでも、目覚ましより五分早く目覚めるのだから、因果なものだ。  制服を着る時、妙なことに気づく。 怪我が、ない。  転んで溺れてすりむいて。 あちこち、血が出ていたはずだが、身体には、かさぶたの一つもなかった。  念のため、鏡でチェックするが、どこにも、傷跡はない。  こうしてみると、全部が夢だったような気がする。 あわてて、衣類入れを確かめる。  昨日着た制服。 こっちのほうは、やはり、傷だらけだった。 下水の臭いや潮の臭いが染みついて、着られたものじゃない。 「克綺ク〜ン、恵ちゃん。朝ご飯よ〜」 「今、行きます」  下からかかる管理人さんの声に、僕は、うなずいた。 「あ……」   廊下で恵と出会う。  「もう、いいのか?」  「なにが?」  「朝ご飯。 ベッドで食べるかと思ったんだが」 「だいじょうぶ。 今日は調子がいいんだ」   そう言った恵の顔には、年相応の落ち着きが戻っている。 欲目かもしれないが、そんな風に見えた。  「それは、よかった。 じゃぁ、行くか」  「うん」 「階段、気をつけろよ」  「もう、子供じゃないんだから」  それでも差し出された手を僕は握って、ゆっくりと階段を降りた。 「いただきまーす」 「めしあがれ」  今日の朝食は、オムライス。   ふわりと丸いオムライスは、スプーンで触れると、さくりと分かれた。 ライスはスパイスが入ったカレー仕立てで、とろりとした半熟の卵と良くあった。  つけあわせは、ラムチョップ。   じっくりと煮込み、そして蒸されたラムチョップは、箸で触れるだけで肉が剥がれた。   たっぷりとした肉汁はそのままに、脂だけ落とした淡泊な味は、朝食にぴったりで、オムライスとの相性も最高だった。   ……これだけの料理を作るには、昨日の深夜から下ごしらえがいっただろうに。  目の前の管理人さんは、全く疲れた様子がなかった。 その理由を、僕は、昨日知ったわけだ。 管理人さんは。   ──人じゃない。   どれだけ徹夜で恵を看病しても、管理人さんにとっては、文字通り楽なことなのだろう。 ――克綺クンは心配しないで。   その言葉が耳の奥で響く。  あれは、本当に、文字通りの意味だったのだろう。  「……お兄ちゃん」   だけど、今、目の前の管理人さんを見ても。 昨日の夜の悪夢。 魚人を虐殺するヒトガタの姿は、浮かんでこなかった。 「お兄ちゃん?」   優しい顔で、ミネストローネをよそう管理人さんの横顔。 どれだけ見つめても、あの無表情な仮面には結びつかない。 「お兄ちゃん!」  「……何だ、恵?」  「もう、さっきから、どこ見てるのよ?」   じっと見つめる瞳。 それに、尖らせた唇。  とくん。 胸の奥で、心臓が脈打つ。 「管理人さんを観察していた」   恵が、テーブルの下で、僕の足を蹴る。  「ちゃんと、ごはん、食べなさい!」  「そうする」  僕らを見て、管理人さんが、くすりと笑う。  「恵ちゃん、元気になったわね」  「ご心配おかけしました」  そう言った恵の顔は、本当に、いつもの恵で、僕は、衝動的に抱きしめていた。 「……」  柔らかな、とても柔らかで小さな肩。 僕の腕の中にすっぽりと収まる小さな恵。  胸に、恵の心臓の音がこだまする。 それは、僕の心臓の音と共鳴した。 「……お、お兄ちゃん?」 「なんだ?」 「なにしてる、の?」 「恵が回復したことを喜んでいる」 「わ、わかったけど、もう、放して」 「そうしよう」  僕は、しぶしぶと腕を解く。 恵の顔は、真っ赤だった。  「きゅ、急に、何するのよ。 びっくりしたじゃない」  「ふむ。これからは、あらかじめ予告するようにしよう」 「お兄ちゃん……どうしたの? 変だよ?」  「そうか?」  「まぁまぁ。 克綺クンも、嬉しかったんでしょ?」  「はい」 「そっか……お兄ちゃんにも心配かけたよね」  「あぁ。非常に心配していた」  「……そういうとこは、元のお兄ちゃんだね」 「ふむ。僕の受け答えは、通常の人間の行動基準に照らすとおかしかったわけだな。 ああいう時は、何と言えば良かったんだ?」  「いいよ、気にしなくて。 お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだし」  「わかった。 気にしないことにする」  僕は、スープの最後を飲み干す。 「ごちそうさまでした。 それじゃ、行ってきます」 「いってらっしゃい」  「いってらっしゃい」 「恵、一人で大丈夫か?」  「うん、もう、大丈夫」  「そうか」  「どうしてか知らないけど……もう、大丈夫って気がするの」  「あぁ、そうだろう。 きっともう、大丈夫だ」   僕がうなずくと、恵は意外そうな顔をした。 「どうした?」  「ううん。お兄ちゃんにしては、あっさり肯定したね」  「してはいけないのか?」  「それは非論理的だ、とか、昨日も今日も危険の確率は変わらない、とか、そういうこと言うかと思った」 「たまには、そういうこともある」  「たまにはね」   恵は考え込むような顔でうなずいた。 「じゃぁ、行くぞ」  「うん、行ってらっしゃい」   その笑顔が、妙に脳裏に焼き付いた。 「よぉ!」  聞き慣れた声とともに、どん、と、背中が叩かれた。 「何をする!」   僕は振り返って、こづき返す。 「……痛ぅっっ!」  「どうした? 平気か?」  「こら克綺! てめぇ自分で殴っておいて、平気かとはなんでい!」  「ふむ」  「ふむじゃねぇ!」 「反射的な行動だ。 そして、先に触れたのは君だ」  「ありゃ、おめぇ、なんだ。 スキンシップってゆうやつだよ」  「暴力かどうかは、この場合、被害者が判断すべきことだ。 そして僕は、あれを程度は低いもののある種の暴力と認識した」  「……腹立ったんなら、悪かったけどよ」 「殴り返したのは僕も同じだ。 あやまろう。 すまない、峰雪」  「そりゃいいが、どうした? 虫の居所でも悪ぃのか?」  「どうしたんだろうな」   僕は考えこむ。 「峰雪が身体的接触に訴えかけることの多い粗暴な性格であることは、よく知っている。 普段は腹も立たないのだが」  「誰が、粗暴だ、おい」  「なぜか、今日は、腹が立った。 といって、別に、気分が悪いわけではない」  「悪くないのか?」 「あぁ。恵の調子が、だいぶ良くなったんでな」  「そか。そりゃぁ、よかった」   峰雪が、うんうんとうなずく。 「昨日は、学校休むとか言ってたからな。心配したぜ」  「心配の必要はない」  「……しかし、事件がまだ終わったわけじゃねぇしなぁ。大変だよな」  「終わったぞ」  「なに?」   こと僕と恵に関する限り、事件は終わったわけだが……峰雪にそれを説明する術がないことに、僕は気づく。 「……気にするな」  「気になるっつーの! 昨日の晩も、ひどかったらしいぞ」  「あぁ、ひどかったな。 だが、もう終わったことだ」 「克綺! おまえ、何か知ってるだろ」  「知ってるな」  「教えろ」  「拒否する」  「なんで」 「個人のプライバシーが関わっているからな。 知る必要のない人間には教えられない」  「まぁ、いいけどな」 「あれ、九門君」   教室で声をかけてきたのは牧本さんだった。  「おはよう、牧本さん」  「学校休むんじゃなかったの?」  「思いのほか、恵の調子が良くてな」 「そうなんだ。よかったね」  「あぁ、非常によかった」   牧本さんの微笑み。  胸が、どくんと、高鳴った。 その微笑みは快く、僕は、それをずっと見ていたいと思う。 見る以上のことを、したいと思う。  牧本さんが席に戻る、その、肩が。 うなじが。僕の目をとらえて放さない。   ──妙だ。   どうも今日は、調子がおかしい。 今まで感じたことのない矛盾した気持ちが胸の中にある。 「なぁ、峰雪?」  「なんでぇ?」  「特に理由もなく、他人が意識されて、浮き立つような気持ちと焦燥感を同時に味わうことを、なんて言うんだ?」  峰雪が妙な顔をして、僕のほうを、まじまじと覗き込む。  「克綺。おめぇ、どっか……頭でも打ったか?」  「頭を打つとこうなるのか?」   そういえば、昨日の晩、何度か頭を打った。  「誰かに惚れたか?」   峰雪が声を潜める。 自然、僕の答えも小さくなる。 「恋に落ちるということは、特定の異性が気になる状態を含むな。 とすれば違う。 特定の異性に恋に落ちたわけじゃない」  「不特定か?」  「そうだ。不特定多数だ」  「そうか」   峰雪は、失礼にも僕の肩に手を置いて、しみじみと呟いた。 「克綺も、とうとう大人になったか」  「大人の定義によるな。 君は何が言いたいんだ?」  「わけもなく、もやもやすんだろ? 女見てどきどきすんだろ? 男見てぶんなぐりたくなんだろ?」 「……ふむ。 いささか単純化がすぎるが、客観的に自分の行動を観察する限り、その通りだ」  「おめぇにも春が来たって話だよ」   春が来た……今の季節は秋だから、文字通りの意味ではないだろう。 となると、つまり。 「僕は発情しているのか?」  「バ、バカ! てめぇ、そういう事を口に出すな」  「自分の状況は把握しておきたい。 そうか。僕は発情しているのだな」  「まぁ、そうなんじゃねぇか?」   なぜか、えらく投げ遣りに峰雪が言う。 「しかし……なぜだ?」  「なぜってなにがだ?」  「昨日までは、こんな気持ちはなかったんだが」  「おめぇが遅すぎんだよ。 誰でも大人になっと、そういう思いをするようになんだよ」  「そういうものか」 「そういうもんだ」   峰雪は大仰にうなずき、僕も納得した。 「なにか、注意事項はあるか?」  「ちゅ、注意事項ってな、なんだ?」  「峰雪は、この状態を通過したのだろう?」  「通過してねぇ! 俺の青春は、まだ終わっちゃいねぇ!」  「ともあれ、僕より経験が深いわけだ」  「お、おうよ」 「僕にとっては初めて経験する状況であるが故に、経験深い先人として、何か助言があればありがたい」  「助言なぁ……まぁ一度しかねぇ時だ。 後悔のないように、せいぜいやりな」  「了解した。 己の快楽に忠実に生きようと思う」  「……ま、犯罪にだけは走るな」 「奇妙なことを言うな。 どうして僕が犯罪を犯す?」  「……まぁ、恥と汗は掻くほどいいってな」   投げ遣りな声に、僕は肩をすくめた。  ちょうどその時、チャイムが鳴る。  妙な気分は、時間を追って強くなっていくようだった。 授業が終わっても、胸の中の妙な焦燥感は強まるばかりだった。 喧騒に満ちたクラスから、声が響いた。 「克綺。メシ喰おうぜ」  「弁当だが?」  「あ、私もお弁当」  「屋上でも行くか?」  「ふむ。構わん」 「いただきます」  今日は天気もよく、屋上もほどよく温まっていた。  僕は、弁当箱の蓋を開ける。 卵焼き、唐揚げ、塩鮭、ひじきと胡麻の煮付け。 非の打ち所のない和風弁当といえよう。 「その弁当、管理人さんが作ったのか?」  「そうだが?」  「一個寄越せ」  「交換だ」   僕は、峰雪の弁当をのぞきこむ。 峰雪の弁当は、ゆで卵に、おにぎり3つを包んだものだ。 「おら」   峰雪は、おにぎりを半分に割って寄越した。  「梅おかか握りだ。 ありがたく喰らいやがれ」  「よかろう」   僕は、唐揚げを一つ渡す。 「私も欲しいな」  「どれかな?」  「卵焼き」   僕は、牧本さんのお弁当箱をのぞきこむ。 クリーム色の小さなお弁当箱には、色とりどりのおかずが入っていた。 「アスパラ1本」  「いいわよ」   交渉成立。 「克綺、あれから調子はどうだ?」  峰雪が聞く。 「調子か。奇妙だ」 「そうか。まぁ養生しろや」 「どうしたの?」  「いや、ま……」  「峰雪によると、僕は、発情しているらしい」  「そっそっそ……」  牧本さんがご飯を喉につまらせる。 「だいじょぶか、ほら、お茶」  峰雪が、水筒の茶を渡す。 「……あ、ありがと」   真っ赤な顔をしている。 よほど息が苦しかったらしい。  「どうかしたのか?」  「う、うん。九門君、なにかあったの?」  「今朝から調子がおかしい」  僕は、峰雪に言ったようなことを説明した。 最初は、妙に目を伏せていた牧本さんだが、きちんと聞いてくれて、最後にはまじめにうなずいた。  「うん……急に意識しちゃうことってあるよね」 「こいつみてぇのは、そうそうねぇと思うがな」   峰雪が茶々をいれる。  「持て余すものだな。 性欲というのは」  「調子狂うから、真顔で言うな」   峰雪は、溜息をつく。 「妄想が邪魔して思考に支障を来す。 今この瞬間も」  「いいかげんにしろっ!」   峰雪がかるく頭をはたく。  「痛いぞっ!」   拳を握り、殴り返す。  その瞬間、まずい、と、思った。 腕には感じたこともない力がみなぎっている。 先端が火のように熱く、ぴしりと空気の裂ける音が響く。  ──これが当たると…… 腕を振りながら思う。  ──人は死ぬのではないか。 「っつぁっ!」  峰雪がのけぞりながら、僕の腕をいなす。  ベクトルは修整され、腕は大地にめり込んだ。  痛みはない。 ただ、拳の先で、何かが砕ける感触がした。 鈍い響きが、床を伝わってゆく。 じんじんという揺れが、僕の足にも届く。 「っぶねぇ……」   峰雪は、顔面蒼白で、座る位置をずらした。 腕を引っ張り出す。 指の骨は砕けていない。 「なに……どうしたの? 九門君、大丈夫?」   牧本さんが僕のほうを向く。  「驚くべきことに平気だ」  「平気なわけないじゃない。 今、思いきり床殴らなかった?」  「この通りだ」  僕が見せると、牧本さんが、両手で僕の拳に触れる。  細い指が僕の指に絡むその感覚は甘美で。 僕の鼓動が大きくなった。  「平気……みたいね」 「殴られた俺も心配してくれ」   峰雪がぼやく。  「あ、峰雪君も、平気?」  「まぁ平気だけどな。 克綺、テメェ、いつから、そんないいパンチ打つようになった?」 「知らん。発情すると、こうなるのか?」  「こっちが聞きてぇよ」   そう言って、峰雪は、吹きだした。   牧本さんも、不安げな顔で少し笑う。 「その指、一応診てもらったほうがいいんじゃないかな? 保健室、行く?」   牧本さんと一緒に保健室に行くという考えは非常に魅力的だったが、僕は、首を振った。  「大丈夫だ。問題ない」 「じゃ、行くか」 「あぁ」  僕と牧本さんが立ち上がる。 「峰雪、早くしろ」  「うっせぇ、先、行ってろ」   もたもたと弁当を片づける峰雪。 「じゃぁ、先に行く」 「う、うん」  僕は、歩きながら、ちらりとうしろに目をやった。  ようやく立ち上がる峰雪。 その足下には、彼が身体で庇っていたもの。   即ち、コンクリートに印された拳型のくぼみが、あった。 「克綺、ちっとつきあえ」   帰り道。 峰雪は、声をかけてきた。  「ふむ。僕も質問があったところだ」   僕はカバンを持って峰雪につきあう。  校門を出て、歩きながら話し出す。 「さっきの事だがな……おまえ、本当に手、平気か?」   僕は、右手を広げて見せる。  「平気だ。 僕も質問があるんだが……どうして、穴を隠した?」  「牧本を怖がらせても仕方ねぇだろ。 ちょっと見せてみろ」   峰雪は僕の手を、さぐって、ひっくり返す。 「拳ダコもねぇか。 別段、秘密の特訓してたってわけでもなさそうだな」  「当たり前だ」  「じゃ、さっきのは一体なんだ?」  「人間は普段は筋力のほとんどを使っていない。 何かのはずみでリミッターが外れると、怪力を出すと聞いたことがある」  「火事場の糞力ってやつだな」 「だが……別段、肉体の強度が上がるわけではないから、コンクリを殴って穴を開けたら、手も壊れるはずだ」  「まったくだ」  「しかるに僕の手は壊れていない。 謎だ」  「まぁ殴り方が良かったのかもしれねぇな」   峰雪は一人で納得してうなずいた。 「おまえ、しばらく人殴るのは止めといたほうがいいぞ。 ありゃ、俺じゃなけりゃ死んでたぞ」   さらりという峰雪。 この男は、この男で、どんな人生を生きてきたのか、時々、不思議になる。 「確かに。 ただ、意識して殴ったわけじゃないのが問題だ。 なぁ、峰雪」  「なんだ?」  「また殴るかもしれんから、その時は、うまく避けてくれ」  「……なんだそりゃ」   そう言って峰雪は豪快に笑った。 「今日は、恵ちゃんの見舞いに行こうと思ってたんだが……」  「いや、見舞いはいらない。 一人で頭を冷やしたほうが良さそうだ」  「そうだな。 牧本にも言っとくわ」   峰雪がうなずく。 「ま、若い頃は色々あらぁな。 落ち着いたら知らせてくれ」  「あぁ。じゃぁ、また明日」  「おぅ。またな」 「ただいま」  メゾンのドアを開けると、階段から、どたどたと足音がした。 「お帰りなさい、お兄ちゃん!」  恵が飛びついてくる。  髪が胸の上で広がる。  穏やかなシャンプーの匂い。 巻き付いた腕の、細く、柔らかな感触に、僕の胸が高鳴る。 「ただいま」  僕は、もぎはなすように恵の抱擁から逃れた。 「管理人さんは?」  「今日は、お出かけ。 晩ご飯、用意してあるって」  「そうか」   一抹の危機感。 恵のあどけない笑顔は、なんというか、僕にとって危険だった。 「調子はどうだ?」   そう言いながら、僕の指は、恵の柔らかな髪に触れたくて震えていた。 髪を梳き、ふっくらとした頬をなで、その首筋を味わい……。   拳を握る。 止まらない妄想を、手に爪を立てて押しとどめる。 「大丈夫だけど……お兄ちゃん、どうしたの?」  「なにが?」   食いしばった歯の間から声を出す。  「すごく、怖い顔してるよ」  「体調がおかしくてな」 「お兄ちゃん、病気?」  「そうとも言える」  「うーんと」  恵が、背伸びして、額と額を重ね合わせる。 「熱は、ないみたいだけど……でも早く寝ないとだめだよ。 暖かくしてね」   どこか舌足らずな口調に、僕は笑った。  「ああ、そうするよ」  部屋に入って、カバンを置く。  制服をぬいで、ベッドに横たわった。       目を閉じると、恵の姿が浮かんだ。 無防備に抱きつく恵の姿。 背伸びした時の、伸びた爪先。 部屋着の下に揺れる身体の線。 服の下の白い裸身が、目の前にちらちらと泳ぐ。 集中すれば薄れ、気を抜けば現れる。   心音が、津波のように響く。 隣の部屋の恵にまで聞こえそうな、そんな轟音。  目を開けて、身体を起こせば、毛布が三角形に屹立していた。  単なる生理現象。 とはいえ、とても恵には見せられない状況だ。  冷たいシャワーを浴びて、身体を冷やす。  電気を消して、もう一度ベッドに横たわり、無理矢理目を閉じた。  白い裸身が僕を悩ます。   眠りは浅く、悪夢に満ちていた。  白い裸身が目の前を通り過ぎ、手を伸ばしても届かない。 豊かな胸と管理人さんの声。 牧本さんが遠くを走る。 それに恵。 僕のほうを熱っぽい目で見上げる恵。 その裸身に、手を触れたかったが、僕には手が届かない。 僕の手はなくなっていた。足も。身体も。 僕は、ただ一対の目として、目の前の光景を、食い入るように見つめている。 恵は僕を捜す。 だけれども、ただの瞳となった僕には気づかずに、悲しそうな顔をする。 声をかけたくても口はなかった。                          ──恵。  瞳が瞬く。 突然、あたりに満ちた、眩しい白い光が瞳を焼き尽くしてゆく。 「……お兄ちゃん」 「……お兄ちゃん、ご飯だよ」 「……ん、あぁ」  目を開けて、恵の声が背後から響く。 夢。夢なのか?  いや、現実だ。 現実だから、僕には手がある。 熱く火照る身体がある。 そして。  心臓が、ある。 どくどくと脈打つ心臓。 深呼吸して、僕は自分を落ち着かせる。 「ごはん、食べる?」 「あぁ」  生返事をする。 そうか。もう、晩ご飯の時間か。 僕は、身体を起こそうとする。 「お兄ちゃんは寝てて」   ベッドの脇に腰掛けた恵が、僕を制する。  「ご飯、持ってきたから、食べさせてあげる」  「自分で食べられる」  僕は、身を起こし……自分が服を着ていないことに気づいた。 「お兄ちゃん、パジャマは?」   恵が目を丸くしていう。  僕の顔は、多分、赤かったと思う。 ずりおちかけた毛布をつまんで、下半身にできるだけ強く巻き付ける。 「寝る時は、服は着ないんだ」  「そ、そう」   恵が、赤い顔でうなずく。  気まずい時間が流れた。 「いい匂いだな」   僕は、とりあえずつぶやく。   実際、それは、いい匂いだった。   ジューシーなカキフライと、酸味のきいたニンジンの千切りサラダ。 ご飯はおにぎりだ。 「私が、暖めたんだよ」  「ふむ、おいしそうだ」   恵は、ベッド用のテーブルを僕の前に置き、お盆を置いた。 箸でフライをつまむ。 ちょうど昨日と立場が逆だ。 「はい、あーーん」   一口で食べる。 うまい。 さくさくとした歯ごたえ。 一口噛むとジューシーな汁が口の中にあふれる。 電子レンジで暖めなおしたのだろうが、それにしては衣もぱりっとしている。 「キッチンペーパーを敷いてあっためたの」  「なるほどな」  「はい、もう一つ」  「いや、自分で食べられる」   僕は、箸を取る。  「じゃ、私も。 お兄ちゃん、ちょっと脇、どいて」  僕もベッドの端によると、恵が、そこへ入ってくる。  毛布ごしに、僕と恵の足が触れあう。  「いただきまーす」  「いただきます」     僕は、のろのろと、おにぎりを食べ、フライをつまんだ。 正直、味がわからなかった。   二の腕が触れあうたびに、頭の奥に火花が散った。 口の中にあふれる唾は、料理に対するものではなかった。 中の熱いカキフライを苦労して食べる恵の頭の天辺を見ながら、僕はその肩を抱きしめたいと思っていた。     抱きしめる。 押し倒す。 まさぐる。 犯す。 胸の中で、どろどろとした思いだけが渦巻く。   僕の思いを知らぬげに、恵は、落ち着いた様子で食事をしていた。 「このサラダ、おいしいね」  「あぁ」  「何使ってるのかな」  「さぁな」   生返事をしていると、恵が僕のことをじっと見上げる。 深呼吸して、衝動を抑え込む。 「お兄ちゃん、疲れてるんだよね」  「あぁ」   ある意味、恵がそばにいるせいで、とは、言わなかった。  「早く、元気になってね」  「あぁ」  味気ない食事が、やがて終わる。 「ごちそうさまー」 「ごちそうさま」  恵は、てきぱきと食器を片づける。 昨日まで寝ていた分、元気がありあまっているかのようだ。 「じゃ、お兄ちゃん、お休みなさい」  「あぁ」  部屋に取り残された僕は、しばし自己嫌悪に浸った。 昼寝した分、眠気はない。  服を着て、机に着いた。   ここのところの事件のせいで、宿題が結構、溜まっている。 一気に片づけようと思ったが、うまくいかなかった。 本でも読もうかと思ったが、ページをめくっても、一向に内容が頭に入らなかった。   そばにいてもいなくても。 頭の中に浮かぶのは恵のことばかり。 指は手触りを求め、鼻は香りを欲し、舌は……柔らかな肉の味に焦がれていた。  恵を。 柔らかな身体を。 ねじきるほどに、かき抱きたい。 その唇を奪い、喉に歯形を印したい。 その足を開いて、自分の全てを注ぎ込みたい。   ──なんだ、これは。   学校にいた間は、ここまでひどくなかった。 僕の中の欲望は、時間を追って、大きくなっている。 それが感じ取れた。   それは、ほとんど、独立した意志を持って、僕を動かそうとしていた。 胸の中は熱く燃えるようで、首筋の毛がちりちりとしていた。    ──危険だ。   このままでは僕はおかしくなる。 おかしくなるだけならいい。 確実に、僕は。   ──恵を傷つける。   血が沸騰し、頭が割れそうだった。 全身を甘美な快感が走り抜ける。 理性という理性が消え失せそうだった。         目の前が、真っ青になる。 視界に電撃が走った。 心臓が叫ぶ。   ねじふせたいくみしきたいきずつけたいこわしたい。 おかしたいくらいたいすすりたい──ころしたい。   違う。 これは僕じゃない。 僕の気持ちじゃない。 恵は愛しいし、恵を求めてはいても。 僕は、こんなことは考えていない。   どくり、と、心臓が脈打つ。 何かとてつもなく冷たい血が、身体を流れる。   どくり。 鼓動の一拍ごとに、身体の自由が奪われる。 僕は居ながらにして全身を冒される。 血のめぐりが、細胞の一つ一つが、僕でないものに従ってゆく。  僕は、指を伸ばす。 固まった指を、無理矢理開き、机の上の携帯を取る。  勝手に動く右手の指を左手で押しつけ、苦心して恵にかける。  「もしもし……お兄ちゃん? どうかしたの?」   安らかな恵の声に、僕は憩い、僕の中の何かは舌なめずりした。  「もしもし、恵」   舌がもつれる。 何かが僕の邪魔をする。 「な、なに、お兄ちゃん?」  「鍵だ。部屋に鍵をかけろ。いや、逃げろ。早く」  「もしもし? お兄ちゃん、なに言ってるの?」  「いいから!」  「ちょっと待ってよ。どうしたの? お兄ちゃん、こわい夢でもみたの?」   悪夢は見ている。 今、この瞬間に。   「夢じゃない……逃げろ……早く」   切れ切れに囁く。 僕は祈る。 恵が逃げてくれることを。   さもないと僕は。 僕の中の何かは。   「待ってて。今すぐ、いくね」  「やめろ!」   受話器に叫んだが遅かった。 通話は切られていた。  ばたばたと、隣の部屋から足音が聞こえる。 だめだ!          僕は走る。 ドアに向かって。 鍵を。鍵をかけないと。 急いで。         手も足も、まるで自分のものじゃないようだった。 気ばかり焦って、のろのろとしか動かない。 ドアまでの四歩が、埋まらない。          三歩。 身体が、どんどん奪われてゆく。 脈打つ心臓は、氷のよう。 冷たさは胸から膝に広がっている。          二歩。 僕には、わかっていた。 この冷たさが全身に広がれば……僕に為す術はないことを。        一歩。  僕は、転がるようにノブを掴む。 ──鍵を。 あとは鍵を閉めれば。 安堵の溜息。 その瞬間、僕の身体は、ぐいっと引っ張られた。 「おにいちゃん、平気?」   ドアを開けた恵が、そこにいた。  「……Uwuwwwwww」   喉からは奇妙な唸り声が出た。 牛のような低く野太いうなり。  「めっぐっみっ!」  「なぁに、おに」  最後まで言わさずに、僕は恵の身体を思いきり抱きしめた。 その唇にむしゃぶりつく。 がちがちと歯が当たる。  その歯をこじあけて、思いきり舌を吸った。 口の中に甘いものがあふれる。 「くっ……はっ……」  恵が、両の手で僕の顔を押しやった。 瞳には、驚きと……それから恐怖がある。  ──だめだ。 僕の中の僕は、その恐怖に力を増した。  僕の腕は、小さく細い胴を折れそうに抱きしめる。 ぴったりと胸をあわせ、恵の息を絞り出す。 「おにい……ちゃん……くるしい……よ」  止まらない。 抱きしめた感触を腕が知っていた。 肉の熱さを指が望んでいた。  僕は、恵の背に爪を立て、薄いワンピースを一気に引きちぎる。  爪の先に血が滲み、その匂いが僕をさらに駆り立てた。 「めぐみっっ!」  叫んだのは僕だったか、僕の中の何かだったか。  両の掌で恵の顔をはさみこみ、正面からその瞳を覗き込む。 これから蹂躙する獲物の、その恐怖を、糧とするために。 「おにいちゃん」   思いがけずかけられた優しい言葉に、僕は、動揺する。 恵の腕……僕を押しのけようとしていた両の手は、今は、僕の手をやさしく暖めている。 その身体からはこわばりはぬけ、ただ、やさしく立ち尽くす。  それは、恐怖でもなく絶望でもなく。 たぶん、やさしさ。 あるいは。   ──何かを待つように。 期待するように。 その目は、かすかに潤んでいた。   僕は…… 「恵」   恵の濡れた瞳。 そこに見えたのは、まぎれもない女としての姿だった。  「恵、恵、めぐみ!」   僕の中の僕が、僕と一つになる。 抱きしめる腕に感覚が戻る。 恵の素肌を僕はやさしく指で、包む。 「おにいちゃん……」   溜息のような声。 恵の腕が僕の首を抱く。  「すまない。 僕は……恵が、欲しい」  「いいよ、お兄ちゃん」   くすり、と、恵が笑う。 見たことのない、大人びた笑み。 それが背筋をくすぐった。 その場で押し倒しそうになる自分を自制する。 「二階へ……」  「ここで、いいよ」   恵の手が僕を押しとどめた。  「なに?」  「ここで……床でしてよ」   意味が分からない。 何を言っている。 恵が変だ。  混乱する僕に、恵は自ら口づけた。 息がつまり、気が遠くなるほどのキス。   糸を引いて唇が離れた時、僕は、前にも増して呆然としていた。 「どうしたんだ?」   そんな間抜けな言葉しか、出てこなかった。  「あのね」   恵が囁く。  「私も、ずっと、お兄ちゃんが、欲しかったんだよ」  「ずっと?」  ずっと。ずっと。 そういえば、そうだ。 僕も、ずっと、恵が欲しかった。   あれは、いつのことだっただろう。 多分、あの時。 僕が心臓を無くした時。 その時から、ずっと、恵が欲しかった。 いや違う。 欲しいのは僕じゃない。 僕は欲しいなんて思っていない。  恵が僕の手を取って、胸に導く。 まだ未熟な胸は、掌で包み込めるほど。 ふっくらとした膨らみの奥に、僕は、鼓動を感じた。   とく、とく、とく。   鼓動は優しく暖かく、そして速かった。 「これはね、私が、お兄ちゃんを大好きな音だよ」  「僕には……心臓が、ない」   ないはずの心臓は、今や胸の中で大きく脈打っている。  「なら、私のをかえしてあげる」  恵は僕を抱きしめる。 胸が重なり、小さな心臓の響きが僕の中に響き合う。 それは、本当に安らかな音色で。 僕は、その鼓動が愛しかった。   僕は身を放して恵の瞳をのぞきこむ。 そして、その胸にゆっくりと手を伸ばす。   手が、止められた。 恵の両手が僕を遮る。 「好きって言って」  「好きだ、恵」  「……お兄ちゃん」  右手を一振りすると、ワンピースの前が一直線に裂けた。 恵が身をよじって下着を脱ぎ捨てる。   かすかに上気した白い肌。 現れた小ぶりな胸は、小さく柔らかく、むしゃぶりつきたいほどに愛おしかった。 「ほんとうに……いいのか?」  「いいよ、お兄ちゃん」   それが、最後の一押しだった。 僕と恵を隔てる全てのものが、それで、消えた。   だから、僕は。 恵を。     ああ、月が綺麗だ。 夜風は冷たく、火照った身体に心地よかった。 ただ、少し乾きすぎていた。 身体は十分に湿っていたが、早く水を見つけないといけない。   月明かりを浴びながら、僕は道を歩いた。 水の匂いを頼りに、跳ぶように歩いた。   満ち足りていた。 飢えも渇きもない。 ただ心地よい疲労感だけがある。    「ふふ」   わけもなく、おかしくなって、僕は笑う。 とてもおかしくて、腹のそこから笑いがこみあげた。 わらって。 わらって。 わらってわらってわらって。 なみだがでるまでわらう。  気が付けば、河原だった。 コンクリの岸辺に、僕は膝を付く。 「どうした?」  聞き慣れない声が、うしろからかかった。 僕は振り向きもせずに答える。 「おかしいんだ。とっても、おかしいんだ」 「おかしいと、泣くのか?」 「ああ」 「なにが、おかしいんだ?」 「だって。僕は」  ぼくはあんなにめぐみがすきだったのに。 すきだったのに。 すきだったから。 「妹がいたんだ」 「ほう」 「妹が好きだったから、抱きしめたんだ」 「抱いたのか」 「抱きしめたんだ」   そう、僕は、恵を、抱きしめ。  冷たい床に組み敷いた。   むきだしの胸に、ぎこちない愛撫。 内からの激情と、いとおしさが交錯して。 僕は恵の胸を、撫でるように責めさいなみ、にぎりつぶすように愛おしんだ。  「くっ……」   悲鳴を噛み殺しながら、恵は僕をこばまなかった。 その両手は僕の下腹部に伸びる。   制服のジッパーを開け、すでに大きくなっていたものを、やさしく取りだした。 外気を浴びて、それは、存分に屹立する。  「これが……お兄ちゃんの……」   十本の指が、僕の大きさを確かめる。 僕は恵の喉に歯を立てる。  「あっ……」   のけぞる恵の背を捕らえて離さず、いくつも歯形を残す。 歯形がふえるたびに、恵の息が荒くなった。   「おにいちゃん……もう、来て……」   息も絶え絶えに恵が言う。 僕は、右手で恵の足に触れる。 腿をなぞり、その奥へ触れる。 細い裂け目は、かすかに湿っていた。  「は………ん……!」   裂け目をかきわけ、指をもぐらせると、恵の身体が動いた。 それはあまりに狭く、指先は熱いもので絞られるようだった。   つぷつぷと肉をかきわけ、指が沈む。   「もっと……お願い、もっと、ちょうだい……」   言われるままに僕は進め、とうとう指は根本まで沈む。 熱く細いそこを僕の指がかき回すに連れ、恵の身体は、胡弓のようにしなった。  「はう……ふ……ふ……あ……あぅ……」   回す内に、ぐったりと力が抜ける。 僕は指を引き抜いた。   糸を引く指先に、かすかに血の色がまじっていた。   「つらいか、恵?」  「ううん」  「つらかったら、言え」  「平気だよ」   恵が、決然とうなずく。  「じゃぁ、行く」   僕の左手が、恵の右手を握る。 恵の左手が、僕をそこへ導いた。 先端が、熱く濡れた門に触れる。 小さく狭く幼いそれを、僕は一気に刺し貫いた。  「うっあっ……あぁんっ……ふぅっ……」   何度も、何度も、刺し貫いた。 恵は、泣きじゃくる赤ん坊のような声をあげる。 少しでも止めようとすると、恵は僕の手を、ぎゅっと握りしめる。 瞳が言っていた。 止めるなと。 だから、僕は、動いた。 動き続けた。        何度目だったかは覚えていない。  心臓が、一つ大きく脈打って、僕は、果てた。 それでも恵は僕の手を放さずに。 僕も動き続けた。 音が、変わる。 肉を貫く衝撃に、ゆっくりと、湿った音が混じりはじめる。 それが、僕の精があふれたせいなのか、それとも、恵の身体のせいかは、わからない。        僕は、何度も何度も果てた。  胸の中で、心臓が生き物のように蠢いていた。 それが冷たい血を放つたびに、僕には力がみなぎり、精が充填されていくのが分かった。  「うぅんっ……あうぅ……ふぅ……」   恵の声は、やがて、すすり泣きに変わった。         何度も、何度も果てて。 最後に、恵の声も、途切れた。 ぐったりと動かない恵を前に、僕は、途方にくれた。   ぼくは、なにをしてしまったんだろう。 こんなはずじゃなかったのに。 「それで、終わりか?」 「それで、おわり」 「馬鹿げた話だ。 妹が、いきなり押し倒されて悦ぶなんて。 そんな馬鹿なことがあるものか」 「え?」 「酔っていたんだろう。 聞きたいことしか聞こえないほどに」 「あ……」 「本当は、悲鳴を上げてたんじゃないか? 嫌がって、拒んで、それでも、ねじふせられて、嫌々身体を開いたんじゃないか?」 「やめろ」  僕は、弱々しくつぶやいた。 「冷静に考えろ。 おまえの妹は、はじめての時に、兄と床でやりたがるような淫乱なのか?」 「やめろ! どうして、そんなことを聞くんだ?」   僕は、腹が立った。  「ぼくは、めぐみが、すきだったんだ。 とっても、とっても、すきだったんだ」  「あぁ、好きだったんだろうさ」   赤髪の女は、嫌な笑い方をした。 「続けろ」  「え?」  「好きだったんだろ? 好きだったから、どうしたんだ?」  「ぼくは……」  そう。僕は。 好きだったから。恵を。 恵を。 どうした?      精を放ち尽くした僕は。 ゆっくりと身を起こした。 ぐったりとして動かない、恵の身体は、それでも魅力的で。 僕は、その肌を舐めた。 首筋。 白い肌に赤く滲んだ歯形をなぞる。 喉の肉を口に含み、唇と舌先で転がす。 歯を立てると、かすかに口中に血の味がした。      「あっ……」   恵は、弱々しい悲鳴をあげたが、それだけだった。 手も足も、ぐったりと動かなかった。 鎖骨。硬い骨の上に、ぴんと張った肌。 胸に降り、柔らかみの増す肉を、ゆっくりと唇であじわう。 乳首を口に含んだ。 微妙に硬くなったその先端を、舌で転がす。 歯を立てる。      「ふぁっ……」   恵の声が、少し大きくなる。 だが、声だけだ。 手も足も、動かそうとしても動かないようだ。 恵の目を見る。 そこに、懇願の色があった気がする。 僕は乳首から口を離し、恵の胸に頬をすりつけた。       とく、とく、とく。 鼓動の音。 暖かな血の流れる心臓。 指先から爪先、唇から乳首まで、その温もりを伝える心臓。 僕はその心臓が。 ほしくてほしくてほしくてほしくて。 両手を胸に当てた。 いつのまにか爪が伸びていて、恵の肌に触れると血が吹き出た。 十本の指。十本の血の玉。      「ひっ……」   悲鳴。 僕が腕を引くと、十本の筋が、恵の白い肌に引かれる。 僕は、それがとても綺麗だと思う。   右手の親指で、乳首を刺し、人差し指を伸ばす。 くるりと腕を回すと、コンパスのように、赤い円が描かれた。      いまや、恵はもがいていた。 動かない手足を必死に震わせて。 けれどもそれは実を結ばず。 弱々しい足掻きは、僕を興奮させる。   恵が好きだから。   僕は、五本の指を揃えて、赤い円の中にねじりこむ。      「やっ! きゃっ!! いやぁああああ!」   悲鳴。 耳をつんざく悲鳴。 左手で唇を押さえる。 恵が暴れた拍子に、長い爪が、頬にざっくりと食い込んだ。      皮膚を裂き、肉をちぎり、邪魔な骨を僕は掴んで折り取る。  めきめきと音がして、たくさん血がしぶく。 血は僕の肌を熱く焦がす。 血を。 あふれる血を。 僕は、身体に塗りたくる。   二本目の肋骨を折り取る頃には、恵の悲鳴は、ほとんど絶え、身体の震えも止まる。      でも、僕は、知っている。   恵は、生きている。   だって、僕の右手の中には。   鼓動するものが。   熱くて柔らかな心臓があるんだから。           とくん。とくん。   とくん。とくん。とくん。とくん。       ぎゅうっとそれを握ると、恵の身体が、びくんと跳ねた。  かまわずに、僕は、それをちぎり取る。   滴る真っ赤な血を唇に受け。   僕は、その真っ赤な果実を。   食べた。 「すきだったんだ。めぐみが……すきだったんだ」 「知ってるさ」  コートの女が、僕の肩を叩く。 「性欲と食欲の結びつきは、そう珍しいものじゃない。 有名なのは、カマキリだな」  「かま……きり?」  「あぁ。戦略においては、雌は、より多くの卵、子供を作ることが重要となる。 そのために、受精を終えた雄を栄養にすることは理に適っている」   女の言っていることは難しくて、僕には、さっぱりわからなかった。 「魚人たちも同じようだ。 彼らは、そのための文化を発達させていた。 母が夫を喰うことを認め合う文化だ。 だが、不幸なことに、おまえには、それはない」   魚人? 雌? 僕は男だ。 一体、何の話だ?  「まだ気づいてないか。見ろ」  女の指の先。川面を、僕は見下ろす。  晴れた夜のこと。  水面は静かで、大きな月と、赤髪の女を鏡のように映しだしていた。 そして、その横には。 その横には。 「あれが……僕?」  顔は、かろうじて人の形に似ていた。 けれど、その目は丸く大きく。 髪はなく。肌は、鱗だった。 一面に生えた鱗は、月の光を浴びて、青黒い光沢を放っている。 「人魚を喰ったか? 血を浴びたか? その報いだ」 「ああ」  そうか。 僕は、ようやく理解する。 ずっと感じていた血のざわめき。 僕の中の冷たい血を送る心臓。  あれは。 あの、人魚のものだったのか。 ただひたすらに、子孫を残すことを望んだ人魚の思い。 それは血と共に、僕に受け継がれて……。 「おかしいな」 「何がだ?」 「すきなひとがいて、とてもすきなひとがいて」 「すきなひとといっしょになったのに」 「どうして、なみだがとまらないんだろう」  僕は腕をあげる。 五本の指はくっついて鰭になっていて、涙さえも拭けなかった。 「なぁ、九門克綺」   女が、ゆっくりと言った。  「おまえは、人か、魚か?」  「僕は……僕は、九門克綺だ。 人間だ」  「そうか」   女は、僕の手を取った。 両方の手で、鰭を包み込む。 その手は、暖かかった。  たとえ肌は鱗に変わっても。 僕は、僕だ。 そのことの重さが。 今、ようやく、感じられた。  たとえようもないほどの、ずっしりとした重さ。  「そうだったな。思いだしたよ」  「人間は……好きな人を食べないんだったな」  僕は、胃を押さえる。 ここに、恵がいる。 心臓だけじゃない。 肉も。血も。爪も髪も骨も。 みんな、みんな、僕の中にいて、新たな命になっているのを待っている。   ああ、でも。 僕は人魚じゃなかったんだ。 僕は命を育めない。 僕が食べた命は、僕だけの命で。 それは命が一個減ったことで。 恵。 「それが分かるなら、おまえは、人だ」  「そうだ。でも、もう、僕は……」   人としては、生きられない。 女は、わかっている、というようにうなずいた。  「終わらせてほしいか?」   僕は、泣きながら、こくりと、うなずいた。 「少し、歩こうか」   女が、言う。      川べりを、僕らは、ゆっくりと歩く。 空には青い月。水面からは湿った風。 とても、心地よかった。   胸は、痛かった。恵のことを、思い出すほどに涙があふれた。   でも、女と歩いていると、少しだけ、心がくつろいだ。   なぜだろう。初めて会う人なのに。 僕のことを分かってくれている。そんな気がした。 幻想かもしれない。勝手な思いこみかもしれない。      でも。 少なくとも、この人は、僕の事情を分かってくれた。 妹が好きで交わって食べた人間のことを分かってくれる人は、たぶん、そんなにいないだろう。   だから、たぶん、これでいいんだろう。 何がいいかはわからないが、そんな気がした。   歩くほどに、道は行き止まりになった。 河原の先は大きな橋桁で、いったん道に戻らないと前には進めない。      このへんでいいだろう。 僕は女に目配せする。 女はうなずいた。   ああ、そういえば。 「名前を聞いていなかった」 「イグニス、だ」  女は、背の刀を、ゆっくりと抜き、そして、振り下ろした。        僕の中で、何かが弾けた。 それは怒り。 僕の中の何かへの怒り。   もうひとつは、たぶん、恐怖。 そして、生まれて初めて見た、妹の中の、女への。  一声叫び、僕は恵を押し返した。 転げ落ちるように階段を降りる。 「お、お兄ちゃん?」  背中から、心配げな声が降ってきたが、振り返る間も惜しかった。 「すまん、恵」  そう叫んで、僕は走り出した。  少しでも遠くへ。 恵から遠くへ。 それが、僕に残された最後の理性だった。     夜風は冷たく、僕の中の血は、なお冷たかった。 胸の中心で心臓が脈打ち、蒼白な血を送り出す。  凍える氷の高揚。 僕はすでに僕でなく、夜気に酔う一個の獣だった。   乾いている。 肌が喉が胃の腑が。 乾き渇き餓えている。   それは血を求めていた。 肌を濡らし、喉を潤し、胃の腑を満たす赤い血を。 血の浮いた桃色の肉を。     乾いた夜気を鼻が吸い込む。 かすかにただよう血潮を、かぎあてる。   僕は走る。両の足を揃え、宙を跳ぶ。  信じられないくらい高く跳んだ。 塀を越え、通りを越えて、僕は、血の臭いに辿り着く。   視界が徐々に暗くなる。 失われた視覚に聴覚が取って代わる。 微細な振動を感知し、三次元像を描き出す。 色の失われた世界で、ついに僕は、血の源に辿り着いた。  道の真ん中にしかれた青いビニールシート。  まるで遠足でもするように、セーラー服の少女が、その片隅に座っていた。 その脇で寝そべるのは、革ジャンに紅い髪の少年。 少女よりも若い。まだ、14、5だろうか。  革ジャンの前ははだけられ、裸の胸は、一直線に切り開かれていた。 長い臓物が、腹腔からあふれている。 顔の真ん中には、大きな肉切り包丁が、奇妙な花のように突き立っていた。  男は、まだ生きていた。 その証拠に。 その手足は、未だ、ぴくぴくと動いている。 喉は裂かれていて、声にでない荒い呼吸がひゅうひゅうと聞こえた。 「誰?」   セーラー服の女が僕を見る。 何か棒のようなものを、くちゃくちゃと囓っている。 その顔には、ハートの入れ墨が入っていた。   僕は答えない。 〈馥郁〉《ふくいく》たる血の香り。 そして肉。 「なに、食べたいの?」   女は、片手を差しだした。 スティックのように囓っていたそれは、男の指だった。 赤いのは血だけじゃない。 指には、べっとりとケチャップが塗られていた。 「お腹空いたの? 一緒に食べる?」   腹は減っていた。  僕は、女から指をひったくる。 口に詰めようとして。   がり、と、歯を立てた瞬間。 喉の奥から吐き気が襲った。   僕は、指を放り捨てる。 「ちょっとあんた、何、その態度? キョウコの獲物が食べられないってゆーの?」  「うるさい」   喉の奥から僕はうなった。  「なに、やる気?」   心臓が、冷たい血を吐き出す。 吐いた溜息が、霜になって凍った。 目の前の女が、うっとうしい虫けらに見えてくる。 「あんた、サカナでしょ? 陸にあがって、勝てると思ってるの?」   女が軽く手を振った。  瞬間、銀光が僕をかすめる。  遅れて爆音が轟いた。 〈超音速衝撃波〉《ソニックブーム》か。   今、僕のそばを通り抜けていったもの。 それは、細身のメスだ。 「なんだそれは?」  「なによ? キョウコに逆らうと、どうなるか分かった」  「うるさいと言っただろう。 うるさいと言ったのに、なんで、そんなにうるさい音を出すんだ。 人の話を聞いてなかったのか注意力がないのか理解力がないのか頭が悪いのか頭が悪いならそんな頭はいらない消えろうっとうしい」  「あーもう、あんたのほうがうるさい! 刺身になっちゃえ」  女が、両手を振るう。 今度は、見えた。  女の爪から下がぱっくりと割れ、血を噴き出しながら十本のメスが顔を出す。 血はメスに絡みつき、縦横無尽に宙を舞う。  十本の血の糸に操られ、十本のメスが十方から飛ぶ。 それは無音にして高速。 死角という死角から、盲点という盲点を縫い、急所という急所を目指してメスが踊る。  馬鹿馬鹿しい。   僕が目で見てるとでも思ってるのか。 風の流れは水の流れより読みやすい。  幻惑のつもりだろうが、遅すぎる。  僕は、指の股で、メスを挟み止める。 片手で四本。両手で八本。  残りの二本は掌で受けて握りつぶした。 握った指の間から、青い血が滴る。 「あら、頑丈なのね」  「馬鹿馬鹿しい」  「え?」  「馬鹿馬鹿しいと言った。 曲芸につきあう暇はない」 「あんた……ただのサカナじゃないね。もしかして、クモンカツキってやつ?」  「黙れ。うるさい」  「むぅっ!」  女は、頬をふくらます。 そのまま大きく上を向いた。  腹を押さえると、ごぼり、と、音がして、黒い棒を吐き出す。  曲芸師が剣を呑む。 それと逆の要領で、女が吐き出したのは、黒光りする銃身だった。  口が、がばりと耳まで裂け、機関部から銃把を吐き出す。  女が吐き出したのは、巨大な両手持ちの機関銃だった。 弾帯は身体に食い込んでいる。  馬鹿みたいだ。 動作が鈍い。 銃を取り出す間に七度は殺せた。  だけど、せっかくだから。  僕は、とん、と、足下を踏む。  10歩先でアスファルトがひび割れて、噴水のように水が噴き出した。   僕は両の腕に水を呼ぶ。 左手に盾。右手に槍。 「あんた、クモンカツキなんだろ?」 「クモンを捕まえたらメルさまが誉めてくれるってね」  メルさま? まぁいい。 「死なない程度にミンチになっちゃえ!」  女は銃を撃った。 機関銃は、女の叫びのような声を立てた。 下品なやつだ。  赤い弾が吐き出される。 弾は、女の血、そのもの。 弾帯の先は、女の口から出ていた。  深紅の弾丸は、生き物のように呻いた。 秒間10発の弾丸。 その一つ一つが、宙を切り裂き、身悶えしながら、有り得ない曲線を描く。  今度は無線誘導というわけか。   くだらない。 本当にくだらない。 左手を振る。  ぴちゃぴちゃと音を立てて。 深紅の弾丸は、そのことごとくが吸着された。 透明な水の盾が、みるみる桃色に染まってゆく。  ゆっくりと歩みを進める。  「ちょっとぉ、なんで……」  「うるさい」  僕は右腕を振る。 巻き付いた水が、伸びて、女の心臓を〈剔〉《えぐ》った。 「げぶっ……い、痛い。痛いじゃないよ!」 「黙れ、と言っている」  どくり、と、水の先に、女の鼓動を感じる。  水の槍は、その腐った赤黒い血を、飲み干してゆく。 「ちょっと……これ、ひどい!」 「いいから死ね」  血が、右腕から僕の中に入り込む。 指先から掌から、それは僕の血管に吸い込まれ、静脈を生き物のように動いて心臓に入り込む。  どくりどくりどくりどくり。  赤黒い血が僕の中に入り込む。 僕を貫き僕を満たし僕を蹂躙する。  青い血と赤い血。 どちらも冷たい穢れた血。  その二つが混ざり合い、真っ黒な混沌になる。  ずぼり、と、音を立てて、赤黒く染まった槍が僕の中に吸い込まれる。 「ひぃいいいやぁぁぁぁあぁ!」  血を抜かれ、皺がよった女が、しわがれた悲鳴を上げる。 最期まで下品な女だ。  僕が、蹴りをくれると、それは、かさかさの塵になって崩れ落ちる。 「……あがっ!」  僕は、胸を押さえて崩れ落ちた。 心臓の中で血が暴れていた。 全身が風船のように膨れあがる。  頭が、がんがんする。 はちきれそうだ。  欲しい。 ──が欲しい。  血か? 肉か? 足下に転がる男。 すでに息はないようだったが、はみ出たはらわたは、まだ湯気を上げている。  違う。 血が求めているのは、そんな肉じゃなかった。  もっと柔らかで。 もっと麗しく。 もっと〈艶〉《つや》やかで。 もっと生きのいい、そんな、肉。  目の前が真っ黒に染まる。 黒く黒く黒く染まった世界の中で。 僕の目の前に浮かんだものは。 白く細い裸身。 見慣れた笑顔。  僕は。 僕は、恵が、欲しい。     メゾンへの帰り道。 風となって走る僕の中で、黒い血が燃えていた。   目の前に浮かぶ恵の裸身。 その上に爪を這わし、白い肌に傷を刻み、血の臭いをぞんぶんに味わう。 喉を絞め、指を折り、哀願の言葉に耳を傾け、また指を折る。 痛みに震える唇に分け入り、その舌をねぶり、そして、食いちぎる。 細い足をこじ開け、その奥の花園を踏みにじり、奥の奥まで貫き通す。     目を見開いて驚く恵が。 小さな唇を開いて、絶叫する恵が。 細い眉をしかめ、痛みに耐える恵が。 涙を流して、哀願する恵が。 すべてに絶望し、虚ろな目で横たわる恵が。   僕の目の前を、繰り返し、繰り返し、通り過ぎる。   それが、僕が望んだことなのか、血の見せる幻なのか。 僕にはとうに区別がつかず。 ただ、僕はひたすらに。 恵に。妹に。飢え渇いていた。  鉄の門を飛び越え、扉を開いて、僕は、メゾンに入る。   近い。 恵の匂いが、近い。 押さえきれぬ欲望に、僕は、ぶるりと身体を震わせた。 腕が。足が。歓喜に震えていた。 殺してはいけない。すぐに喰ってはいけない。 たっぷりと時間をかけて味わい、泣き叫ぶ恵を目に焼き付ける。 そのために、深呼吸をして、自分を落ち着かせる。 そして、ゆっくりと。  一歩、一歩。階段を上った。 どす黒い血が、身体の中でうねっていた。 ドラムのような鼓動が耳元で響く。  ……私はあなたを覚えています  鼓動のむこうにかすかな音がした。 小さな声。 それは歌っていた。     ――夕暮れの中、一人だけ。 みんなみんな、消えてゆきます。茜の中に……   ――呼び返す声に、返事がなくても   ――私はあなたを覚えています  階段を上りきる。 薄暗い廊下の向こう。恵の部屋から、その声は漏れていた。        ――風の吹く夜、一人だけ。小さな蝋燭一つだけ。 ゆらゆら揺れます、怖い影――   ――毛布の中で、息を殺して隠れている時   ――私はあなたのそばにいます  ドアを、開ける。 ベッドに眠る恵のそばに。  管理人さんが歌っていた。 いつものエプロン。眼鏡の奥で、優しい瞳を恵に注いで。 恵の手を、握っていた。        ――日の沈まない北の果てにも   ――夜の夢の中にでも   ――私はいます  恵が、そこにいる。僕の中の黒い血が叫ぶ。 それを喰えと。犯せと。涙と血をかき混ぜろと。  けれど。 その綺麗な歌声に、どうしてか、僕の手も足も、動かなかった。     ――小さな涙を拭かせてください。 ――悲しいことを聞かせてください。 ――恐い夢は、一緒に見ましょう   ――だから、呼んでください。私のことを   ――私は祈り。この世で最も古い人の祈り」   ――私は、母  歌が、終わる。 再び、身体が、動く。 管理人さんが顔を上げた。  恵から僕へ。 その瞳は、強く、強く、僕を射抜いた。  途端に、黒い血が悲鳴を上げた。  心臓の中で、ごぼごぼと泡だった。  それは、理解していた。 目の前にいるものが、自分の。 ──天敵だ、と。  ――私は、未来の王を護る夢。 幼子の涙を〈惡〉《にく》む夢。 あらゆる悪夢の悪夢。 その最悪のもの。  血が暴れる。 目から。耳から。毛穴から。 それは、逃げだそうとしていた。 その声がなければ、僕は、全身から血を噴いて死んでいただろう。  けれど、恵を起こさぬように、そっと囁かれたその声は。 僕の中の黒い血をぎりぎりと縛り上げた。  死の恐怖に苛まれ、退くこともならず。 ついにそれは、玉砕を求めて、僕を突き動かした。  両の足が大地を蹴る。 黒い血が右腕を包み刃と化す。 それは管理人さんを一直線に突き刺した。  冷たい琥珀色の瞳が僕を見る。 瞬間。僕と、僕の中の血が。 死を、悟った。  幾多の料理を魔法のように取りだし、恵の悪夢を取り去る、その柔らかな手は。 僕の一撃を軽くいなす。  渾身の一撃をそらされた僕。 喉も。胸も。腹も。 隙という隙を晒し、逃げることもできず宙を泳ぐ僕を。  管理人さんは、その両方の腕で、そっと受け止めた。 暖かな手が、僕を包む。 「お帰りなさい、克綺クン」  耳元で囁いた、小さな声。 それは、僕の身体を暖かなもので満たし、僕は、ゆっくりと気が遠くなった。  茶色い薄明かり。 蛍光灯の常夜灯。 天井。  気がつけば、僕は、部屋の中に戻っていた。 制服の上がぬがされている。 「あら、克綺クン」   濡れ手拭いをもった管理人さんが、座っていた。 すい、と、僕の額から顔をぬぐってくれる。 それでやっと、完全に目が覚めた。 「起きた?」  「はい」   口に出して僕は顔をしかめた。 胸が、痛む。  僕の空っぽの胸で、黒い血が騒いでいた。 それは、胸から先へは出られないようで、無為に壁を叩く囚人のように、どんどんと僕の胸を叩いていた。 「ごめんなさいね」   管理人さんが、僕の胸に触れる。 暖かな指先が触れて、胸が、すっと楽になる。   冷静になって、僕は、家を出る前に、自分のしでかしたことを思い出す。 「あの、恵は……」  「恵ちゃん?」  「はい。恵は、大丈夫ですか?」  「聞いたわ。急に克綺クンが恐い顔をして、それで、家を出ていったって」  「それだけじゃ……ないんです」 「ええ。わかるけど……恵ちゃんは、平気だったみたいよ。 それより、克綺クンのこと、すごく心配してたわ」  「そうですか……よかった」   よかった、というのは、あまりに身勝手な言葉かもしれないが、それしか出てこなかった。 病み上がりの妹を、実の兄が襲ったのだ。 どんな心の傷になってもおかしくないというのに。 「何かしたの?  恵ちゃんには、明日、あやまってあげて」  「……はい」  「教えて。何があったの?」  「今日は……最初から調子が変だったのです」  管理人さんに言われて、僕は、今日のことを話した。  学校で、コンクリートに穴を開けたこと。 胸の中の血に憑き動かされ、新開発区に向かったこと。 人食いの女と渡り合い、水の力を発揮して倒したこと。 女の血を啜り、混ざり合った血が、さらに僕を支配したこと。 「そう……だいたいわかったわ」   管理人さんが切り出した。  「まず、あやまらなきゃいけないのは私ね。ごめんなさい。 気づいてあげられなくて」  「よくわかりませんが、僕の行動は僕の責任ですから、管理人さんのせいじゃないと思います」  「そう……ありがとう」   管理人さんは、かすかに笑った。 「昨日、人魚の血を浴びました。 考えてみれば、変になったのは、それからです」  「そうね。見落としてたけど、それが理由だと思うわ」   そう言うと、管理人さんは、うなずいた。  落ち着いてみれば、簡単なことだった。 コンクリを割るだけならまだしも、水を操る超常の力。超常の現象には、超常の理由がなくてはならない。   僕が遭った超常の現象は、管理人さんと、あの人魚達だけだ。 あの人食い女の血を吸い込んで、さらに、力が増したことからすれば。 原因は、管理人さんではなく、人魚の血であることは必然だ。 「こんなことができる人は滅多にいないのだけど……克綺クンは、どうやら、人外の力を、身体の中に貯められるみたいね」  「それは……前に言っていた、僕が人外から狙われてる理由なんですか?」  「いいえ、違うわ。 克綺クンの中には、魔力が詰まってるけれど……人外の魔力を吸い込めるのは、また別の話」  「そうですか」 「昨日言った通り。 人外の力は、想いのかたまりなの。 それを、身体の中に受け入れたから……」  「思いに振り回される?」  「ええ。 妄執、怨念と言ったほうがいいかしら」  「人魚の怨念……ですか」 「ええ。あれは、子供を残そうとしていたわ。そのために、人の血肉を喰らおうと」  「だから、僕は……人を襲いたくなった」  「そうね」  「なるほど……」  僕は溜息をつく。 今朝からの、どうにもやりきれない気持ちは、あの人魚のせいだったというわけか。   気がつくと、管理人さんが、僕の腰をじっと見つめていた。   毛布が、そそりたっている。 ズボンの中が苦しかった。   僕は気まずい顔で、管理人さんを見る。 「……あ、ごめんなさい」  「いえいえ」  「で、この怨念は、いつまで続くんですか?」   管理人さんがそばにいる限り、黒い血は落ち着くようだったが、このままでは、学校に行くのも……恵のそばにいくのさえ、危険だ。 「時間が経てば……薄まることもあるけど、あの魚人のは消えにくいと思うわ」  「消えにくいって、どれくらいでしょう?」  「千年は、かかるかな」   管理人さんは苦笑する。 「千年?」  「ええ。あの人魚の想いは、わだつみの民全体の、宿願だから」  「そうなの……ですか」   あの人魚は、蜂でいえば、女王蜂のようなものなのだろう。   一つの巣、全体を支える想い。 子孫を作ろうという、生き物として、もっとも根本的な情。 それは確かに……消えにくいかもしれない。 「それでね、克綺クン」  「はい」   千年待つわけにはいかない。  「質問があるの。 本当に大切な質問だから、よおく聞いて答えて」  「はい」 「それじゃ、第一問。 克綺クン、好きな子とか、いる?」  「好意をもっている人間ならいますが」  「異性として、好きな子は?」  「異性として……は、いません」   恵、と、心臓が、騒ぐ。 うるさい、と、僕は胸の中へ呟く。 「では、第二問。 女の子としたことある?」  「は?」   予想外の質問に、僕は、思わず、口を半開きにした。  「克綺クン、結構、綺麗な顔だから、女の子にもてるんじゃないの?」  「僕自身はもてるとは思わないのですが」  心臓のない僕には空気が読めない。   そして、どうやら恋愛というのは、その「空気」というのを最大限読み合うものらしいのだ。 故に。 僕は、恋愛などというものには縁がなかった。 「あら、そうなの?」  「ただ、峰雪は、僕がもてると主張します」  「変ね。心当たりとかないの?」 「無いわけではないです。 急に、馴れ馴れしいそぶりをした挙げ句、怒って疎遠になる女子は、結構、いました。 理由はわかりませんが、幻滅した、と、言われることも、よくあります」   峰雪に言わせると、僕が振った女の子は、小学三年生の時に始まり、物凄い数に及ぶらしい。 「あ、なんとなくわかるわ」   管理人さんは、大きくうなずいた。  「僕にはわからないんですが……」  「それじゃ、初めてなのね」  「何が、初めてなんですか?」  「今から、すること」   そう言って、管理人さんは、人差し指で僕の唇に触れた。 じん、と、痺れるような心地がした。 「つまりね」   管理人さんは、話し出す。  「怪談とかでもあるでしょ。 怨念を晴らすには、願いを叶えてあげないといけないわけ」  「ふむ。この場合、怨念は、子孫を残したいというわけですから……ああ……その……なるほど」   僕は、バツの悪い顔をして黙った。  沈黙を埋めるように、胸の鼓動が騒ぐ。 それは、期待に沸いていた。 「で、今の克綺クンは……私以外の女の子だと、ちょっと酷いこととかしちゃうでしょう?」  「ええ。強姦後、殺人および屍食に及ぶと思います。 ちょっと酷いではすまないでしょう」  「だから、好きな子がいると、ちょっと、悪いなと思ったんだけど……」  「特にいません」  「よかった」   管理人さんは、にっこりと笑う。 「じゃぁ……」  「こんな私が初めてで、よかったら」  「いえ、管理人さんでしたら、よい以上です。 ふさわしい、いえ、もとい、望むべくもありません」   言っていて顔が赤くなる。 「じゃ、克綺クン、よろしくね」  「よろしく……お願いします」   つばを一つ呑み込む。  「その前に……」  「はい?」 「シャワー、浴びて来たら? 汗かいたでしょ」  「……そうします。 管理人さんは?」  「私は、さっき浴びたからいいわ」  「では」  そそくさと浴室に入り、シャワーのコックをひねる。  ほとばしる湯を浴びながら、念入りに身体を洗う。 首も顔も背中も指のまたまで、いつもの倍の時間をかけて洗った。  丁寧に洗うのは、これから起きる事態に備えて清潔感を増そう、という気持ちもある。  だがそれ以上に、僕は、時間稼ぎをしたかった。  洗い場に出て身体を拭く。 バスタオルを腰に巻く。 ドアの一枚向こうに管理人さんが待っている。  どうして、こんなことになったのか。 いや、経緯は理解しているが、自分が置かれた状況に納得しがたいものがある。  かといって、状況自体を拒んでいるわけではない。 なのに、扉を開けるのに勇気がいる。  ああ、つまり、これは。 覚悟ができてないという状態か。 「克綺クン?」  ドアのすぐそばから、管理人さんの声がした。 待っているのだろう。 「はい、今行きます」  僕は、意を決して、扉を開けた。  管理人さんは下着姿だった。 これから行うことを考えると当然ではあるのだが。 柔らかくたわわな胸に、食い込むようにレースの下着が載っている。  僕は、目のやり場に困った。 むしろ、この場合、目をそらすほうが、失礼にあたるかもしれないと思うが。 かといって、正面から見るのは気が引けた。 「どうしたの?」  僕は慎重に言葉を選び、答える。 「未知の状況において緊張し、また既知の経験を生かすことができず、どのように行動したものか困惑しています」 「堅くなることはないわよ」 「そう思いますが、なかなかそう振る舞えません」 「あら」  管理人さんは、そう言って急に僕を抱きしめた。 拒もうと力を入れるより早く。 豊かな胸に顔が埋まる。  頬が胸に触れ、花のような匂いに僕は包まれた。 一瞬の夢見心地。  ゆっくりと、ゆっくりと管理人さんが、抱擁を解く。 「少し、力抜けた?」  「……はい」  「それじゃ、来て」  管理人さんに手招きされて、僕はベッドの上に向かい合って正座した。 「それじゃ、克綺クン、よろしくお願いします」  そう言って管理人さんが、深々と頭をさげる。 きれいなうなじに一瞬見とれてから、僕も頭を下げた。 「こちらこそ、よろしくお願いします」  お辞儀した瞬間。 バスタオルの下で、僕の屹立したものが窮屈に蠢いた。 「ちょっと手荒になるけど、いい?」 「手荒?」  管理人さんは、僕の裸の胸に触れた。 「だいたいわかってると思うけど……克綺クンのココ。 ここに、怨念が貯まってるのね」  胸の真ん中を指に触れられて、大きな鼓動を僕は感じた。 「はい」 「今、私の力で抑えているけれど、これをこれから、解き放つわ」 「解き放つんですか?」 「そう」 「……僕はどうすればいいですか?」 「うーん、しばらくは、なにもしなくていいわよ。 自然の成り行きに任せるのね」 「しばらくのあとは?」 「できる限り、自分をコントロールしてみて。 自分の身体を自分で動かすべく、努力するのよ」 「はぁ」  つまり、僕の身体は、しばらく僕がコントロールできなくなる、というわけだ。 さっきみたいに。 正直、不安が多い。 「そんな顔しないで。 克綺クンに怪我なんかさせないから」  そう言って管理人さんは、顔を近づけて、僕にキスした。 柔らかな唇が僕を撫ぜる。 「い、今のは……」 「おまじない。じゃぁ克綺クン、準備はいい?」 「は、はい」  管理人さんは、ぼくの胸を掌で優しく押す。 暖かな力が、胸に広がり、胸骨を揺らして、僕の心臓を、こくりと揺らす。  その瞬間だった。 →6−13  どくり、と、黒い血が巡った。  一拍。 それは胸から身体を駆けめぐり、はらわたをぎゅっと掴んだ。 黒い血が僕を抑えつける。 僕はベッドの上にへたり込んだ。  二拍。 それは四肢に至った。 指の先まで熱くなり、僕は、喉が渇き始める。目から涙がとめどなく噴き出す。  三拍。 それは僕の脳髄を焼き尽くし、理性を吹っ飛ばす。  四拍。 唇の間から牙が伸びた。 指先は、すでに鋭く尖っている。  血。肉。女。 目の前にある白く豊かな肉体に、僕は、飛びかかった。  腰にかけたタオルが宙に舞った。  長い五本の爪。 胸をちぎりとるその一撃を、管理人さんは、寸前に見切った。  爪の先が、下着を引っかけ、たわわな乳房がまろびでる。 薄桃色の乳首に、目が吸い寄せられた。 「GAH!」  僕は咆吼をあげる。 牙をむいて、その柔らかな肉に歯を立てようとする。 「えい!」  瞬間。何が起こったのかわからなかった。  僕は、ベッド上をごろごろと転がる。  起きあがった僕は額を押さえた。 痛い。額の真ん中が、燃えるように熱かった。 頭がぐらぐらした。  管理人さんは、にこにこと微笑んでいた。 伸ばされた人差し指。 あの指が、僕の額を弾いたのだ。  デコピンというやつか。 「お行儀悪いのは、めっ!」  戸惑い。屈辱。そして怒り。  管理人さんの声に、内なる獣が猛り狂う。  あの綺麗な顔をえぐる。 訳知り顔の美貌に、斜めに線を引いてやる。  ベッドを蹴ると、スプリングが軋んだ。  体重を乗せた右腕のスイング。 軽く手首を掴まれ、いなされた瞬間、僕は左腕を振る。 「GAHHH……」  喉から洩れたのは、苦悶の声だった。  管理人さんの手は、僕の手の甲を外側から掴む。 右手が高々と差し上げられ、左手は地面につくように。 まるで、ダンスでもするような形で僕は手首を決められていた。  揺れる胸を。綺麗な喉を、文字通り、目と鼻の先にぶらさげられて、僕の中の獣が暴れる。  けれども、もぎはなそうとすればするほど、みしみしと手首が軋み、僕は一歩も動けなかった。  もがき、ひねること十数秒。 とうとう、僕の中の獣があきらめ、全身から力が抜ける。  その時。 ふと、両手が引き寄せられる。 管理人さんの胸が、僕の裸の胸でつぶれる。 くすぐったいような気持ちいい感触が、僕の背筋を登った。 「はい、いい子ね。ごほうび」  吐息が顔にかかり、ゆっくりと唇が近づく。 唇がねぶられ、ピンク色の舌が僕の唇を割った。 「ふぁ……ん……ん……」  花のような匂い。 柔らかな舌が僕の舌をこすり、なぞり、そしてねじりあげる。 その感触に、僕は陶然とする。  甘い唾液の味に、獣が、再び目覚める。 柔らかな舌は、たまらなく食欲を刺激した。  僕は、かっと顎を開く。 両の牙で、舌をくいちぎろうとした瞬間。  がっと、顎が閉ざされるより早く。 僕は、ベッド上を投げ飛ばされていた。 「言ったでしょ。お行儀悪くしちゃだめ」  甘い笑いを含んだ声。 獣は耳を貸さない。  がっと牙を剥いて、喉首を狙う。  届くと思った瞬間。  管理人さんが、ふっと、躱す。  僕は、左右の抜き手を剔りこむように、管理人さんの両の乳房へ向けて叩き込む。  管理人さんの手が、閃いた。  ねばるように腕に絡み、左手一本で、両手首を押さえ込む。 管理人さんの腕が、僕の両手を頭上にさしあげる。  錐をねじこむような鋭い痛み。 その痛みは、手首から肘、肩にまで及んだ。  なすすべもない僕に、管理人さんの右手が伸びる。 人差し指が僕の頬に優しく触れた。 「ちゃんと、お行儀よくしたら……」  ゆっくりと頬を伝い、裸の胸をなぞる。 そして、さらに下へ。 「いくらでも、気持ちよくしてあげる」  〈臍〉《へそ》をなぜて、その下に。  屹立した先端を、五本の指が掴んだ。 びりびりと電流が走り、僕の身体がこわばる。 「わかった?」  柔らかな指先で、敏感な部分を嬲るように触れられる。 触れるたびに、全身が、びくびくと震える。  もがく。獣がもがく。 けれど、もがくほどに腕は軋み、管理人さんの指が速度を増す。 痛みと快感に翻弄され、狂おしいまでの悲鳴を上げる。  それは単なる痛みではなく、深い深い、狂気にも似た恐怖だった。 僕の中の獣の望みは子孫を遺すこと。 女の〈胎〉《はら》以外に、子種を吐くことは、大きな禁忌だった。  悲鳴。 獣が悲鳴を上げる。 それは、降参の悲鳴だった。  もがき苦しむ内に、管理人さんの両手が、ふい、と、離れた。 両手が自由になる。 僕は、痛む肩と肘をさすりながら、管理人さんを上目遣いに見つめた。 「さ、克綺クンは、どうしてほしいの?」  柔らかな声。 「Rrrr……」  獣がうなる。  その視線が、管理人さんの胸から腹へ落ちる。 黒い翳りに包まれた下腹部を、まじまじと見つめて、僕は唾を飲み込む。 「どうしたいのか、言ってみなさい」  獣が、喉で蠢く。 声を出そうとする。 「Krr……クァ……クァンリ……」  舌がもつれる。 僕の中の獣は、いまや人語をしゃべろうとしていた。 「クァンリニ……サン……」  もつれながらも、名を呼んだ僕の唇に、管理人さんは、そっと指で触れた。 「はい、よくできました」 「さ、きて」  両手を開いた管理人さんに、僕は、おずおずと近づいた。 両手の爪がひっこむ。 差し出された獣の手を、管理人さんの両手が優しく包んだ。 「こわく、ないからね」  獣が、手を伸ばす。 管理人さんの胸へ。 その白い肌に指先が触れる時、かすかにためらいがあった。  僕のためらい。獣のためらい。 区別なんかできない。  そのためらいを見越したように、管理人さんが、そっと手を導いた。 指と指の間に、僕は、管理人さんの肌を掴んだ。  熱い。 五本の指は、やすやすと乳房に食い込む。 僕の手は、熱いほどの温もりに包まれた。  味わったことのない柔らかさと量感。 下からもちあげるように乳房をもみしだき、指の中の熱さを堪能する。 「それだけで、いいの?」  いたずらっぽく耳元に囁かれ、僕は、指を上へ進める。 うす桃色の突起に、触れる。  親指の腹で撫ぜるように。 人差し指と中指で摘むように。 柔らかな乳房の中の、かすかな硬さを味わう内に。 桃色の先端は、ゆっくりと硬くなってゆく。 「そうよ……いいわ……」  その乳房を。 柔らかな手応えを。 甘やかな匂いを。 もっと、もっと味わいたくて。 僕らは、その胸に顔を寄せる。 「克綺クンは、甘えん坊さんね」  からかうような声に、獣が目を覚ます。 裸の胸に、僕は。獣は。 舌を這わした。  温もりに満ちたその肌は、苦い汗の味はしなかった。 もっと甘い蜜のような味。 そして、花のような香りが僕を包む。 「……ん」  あまりの甘さに、僕らは軽く歯を立てる。 管理人さんが、わずかに身をそらす。 幼子のように僕らは乳房にむしゃぶりつき、舌の先で乳頭を転がした。 「あん……は……くん…」  僕は管理人さんを抱きしめる。 脇をなぞり、ゆたかな腰をつかむ。  僕のそそり立ったものが、管理人さんの太腿に触れる。 それは揺れながら、その奥を探そうとする。  艶やかな腿の感触は、それだけで達しそうだった。 先端から透明な先走りが洩れる。  息を止めてそれをとどめ。 僕のペニスは、管理人さんの腰にぶちあたる。 一枚の下着がそれを阻んだ。  じれったさに気が狂いそうになりながら、獣が腰を振る。 それは、下着の隙間に潜り込み、柔らかな繁みが僕の先端に触れる。  その奥にいくより、一瞬はやく。  僕の根本を管理人さんが掴んだ。 二本の指は羽根のように軽く、それでいて巌のように動かなかった。 「おあずけ」  耳元で囁かれた声に、僕らは、身もだえする。 「いきなり入れたら、お行儀悪いでしょ」  獣が暴れた。 闇雲に腰を突き出そうとして、玉をぎゅっと握られる。 名状しがたい痛みに、僕も、獣も、苦痛に吼えた。 「か、管理人さん……」  僕の声が漏れた。 「あら、克綺クン、しゃべれるようになったじゃない」  そういえば。 「確かに……しゃべれはします」  そういいながらも、喉の奥から不満げな声が漏れる。 「じゃぁ、手足が自由になるまで頑張ってみて」 「わかり……ました」  そうは言ったものの、手足は動かないままで。 どうやったら自分で動かせるか見当もつかない。 「克綺クンの言う通り動いたら、御褒美をあげる」  その言葉は、僕の中の獣に囁かれた。 少しだけ。 ほんの少しだけ、身体に自由が戻る。 「僕は……どうすればいいですか?」 「そうね、まずは」  管理人さんが、いたずらっぽく笑った。 「さっきの、おいたの、お仕置きよ」  再び、僕は、根っこを掴まれ、ぐいと引っ張られた。 「……痛いです」 「我慢して。 それから、もうちょっと、こっち来て」 「……はい」  僕は、膝を立てるようにして管理人さんに近づく。   僕と管理人さんは、屹立する僕のものを挟んで向かい合う。  「元気いいわね」  「緊張で死にそうです」  「そうじゃなくて……」 「克綺クンの――」   それは確かに、その通りで。 さっきから刺激を受けた僕のものは、まっすぐ天を向いてそそり立つ勢いだ。 正直、苦しいほどだ。  「苦しくない?」  「はい」  「じゃ、楽にしてあげる」  ふわりと、管理人さんが僕によりかかる。 その柔らかな胸が。 柔らかな胸が。  僕のペニスをはさみこむ。  はじめて味わう感触に、僕は、打ち震えた。 だが。 「GYAAAHH!」  内なる獣が吠える。  僕の腕を振り回して、管理人さんを遠ざけようとする。 「あら、克綺クン、どうしたの?」  僕のペニスをはさんだまま、管理人さんは、そう言う。 「嫌がってます。いや僕が嫌がっているわけではなく、管理人さんの行為にはむしろ肯定的なのですが、僕の中に存在する魔力の塊が意志を持って……」 「ええ、わかってるわよ」  黒い血が、かつてないほどに暴れていた。 それにとって、子種を浪費することは絶対のタブーなのだ。 「だから、言ったでしょ。お仕置きだって」 「はぁ……」  そう言いながらも、僕の手は管理人さんを押しのけようと勝手に動く。 「克綺クンも、頑張って、その手を止めてみて」 「わ……わかりました」  言われて、僕は、両腕に集中する。 そう思った瞬間。 ゆっくりと。 管理人さんが動き出した。  暖かな乳房に、やわやわとはさまれたペニス。 その袋から根本から亀頭までを、すいつくような肌が、こすり上げてゆく。 腹の底からわきあがる快感が、ちりちりと首筋を灼いた。 「現在僕が置かれた状況は、集中をするのに適していないと思います」 「がんばって!」 「それは非常に困難なことと言わざるを得ません!」  獣は、狂ったように暴れ狂い、両手で管理人さんを押しのけようとしていた。 けれど、集中が難しいのは獣も同じだ。  管理人さんを突き放そうとするたび。 弾力を持った乳房はたわみ、やわやわと形を変えながら、僕のペニスのあらゆるところを吸い付くように、撫でてゆく。  そのたびに、獣の腕からは力が抜けてしまうのだった。 ペニスの先端に、こみあげるものを、僕/獣は、歯を食いしばって抑える。 「克綺クンは、別に我慢しなくてもいいのよ」  管理人さんの声に、ますます獣が猛り狂う。 「いやしかし。汚れますから」 「汚れたら洗濯してあげるわ」 「別に寝具の汚れを心配しているわけではなく、また、寝具が汚れた場合、自分で洗濯します。 ここで問題視しているのは、その、僕ら二人の位置関係的に、放出されたものが管理人さんの顔を汚す可能性であって……」 「あら、私は構わないわよ」 「僕は構います。 むしろ僕が構います。僕は管理人さんを汚したくありません」 「そう……だったら」  ちゃぷ、と、湿ったものが僕を包んだ。 濡れた唇が、僕のものを含んでいた。  あまりにも鮮やかな赤い色が脳裡に焼き付く。 くびれたところから裏筋まで、味わうように愛撫され、その先端を、つんと舐められた。 「……ちょっと待ってください。いったい何をしてるんですか?」  限界寸前。 その一瞬前に、管理人さんは、唇を離した。 銀色の糸がついと引く。 「これなら、顔は汚れないでしょ?」 「それは確かに論理的ではありますが……」 「でしょ?」  何かが違う気がする。 混乱する思考をまとめようとするが、うまくまとまらなかった。 「さ、力を抜いて」  そう言って、管理人さんは、僕の先端に口づけた。 「ふあっ……」  柔らかな、柔らかすぎる唇が、僕のペニスの先端を呑み込んだ。 「んん……ふぁぁ……ん」  ぬめ光る赤い唇が、先端を〈湿〉《しめ》してゆく。 亀頭の微妙な凹凸に吸い付き、たっぷりと唾をまぶしてゆく。  全身から力が抜けていった。 身体の芯を抑えられ、僕も。獣も。 もはや、指一本動かすことができなかった。 全身の神経がペニスに集中する。  ちゃぷ……ちゅぷ……くちゅる……  舌がなぞり、唇がこねあげる。 淫猥な音が鳴り響いた。  柔らかな乳房に僕のペニスはこねあげられ、その先端を舌がもてあそぶ。 嬲るように、鈴口を舌がつつく。 蠢く舌が、くまなく亀頭を舐める。 吸いついた唇が、くびれのところをしごきあげる。 「……あ……うぅ……」  食いしばった歯の間から声が出た。 「どう……いい?」 「いいで…す」 「そう……よかった。痛かったら、痛いっていいなさいね」  その言葉と共に、唇の動きが倍加する。 稲妻のように舌は閃き、唇はひねりをつけて吸い上げる。 過敏になったペニスは、すでにそれが痛みか快感か区別がつかず。 「ん……ちゅ……ふぁ……」  眼前の風景が溶けてゆく。 熱く濃いものが、身体の奥からこみ上げる。 それをとどめる力は僕にはなかった。 「Grrrr」  獣が悲しげな叫びを上げる。 その一言とともに、僕は……  痺れるような刺激が、脊髄を貫く。 目の前が真っ白になる。 ほんのわずかな瞬間は、長く長く引き延ばされ、恍惚感が全てを支配した。  どくどくと、僕は液を吐き出した。   ──止まらない。 痙攣と共に快感が断続的に襲いかかり、僕は、何度も、何度も、白いものを吐き出した。 すべてを吐き出し終わり、ぐったりと、力が抜ける。 「んく……ん……」   一瞬の虚脱の後、僕は、その声に気づいた。 口の中一杯に、あふれそうにぶちまけたもの。 こくんと喉を鳴らして、管理人さんが呑み込む。   一心に呑み込むその姿に、僕はざわざわとした罪悪感に襲われた。 「すいません」   そう言って腰を放そうとするが、管理人さんは放さなかった。  「ちょっと待ってね。 今、綺麗にしてあげる」   唇を白く染めたものを舐め取って、管理人さんは、そう言った。 「う……」   まだ奥に残ったものを、胸がしごきあげ、ちゅうちゅうと音を立てて、唇が吸い取る。 いまだ敏感な亀頭を、すみずみまで管理人さんの舌が這い、舐め清めてゆく。 「はい、これでいいわ」  さっぱりとした声で言われた時には、僕は、後ろへ倒れていた。 はぁ……はぁ。 息は荒く、静まらなかった。 ふわりと、管理人さんが僕の横に寝転がる。 「まだ、元気みたいね」  僕のものを指さし、淫蕩とさえ言える声で、管理人さんが囁く。 それは確かに、一仕事終えたあとも、まったく萎えずに屹立していた。 「身体は、動く?」 「……はい」  指を動かす。それから腕も。 ぎこちなくはあるが、なんとか動いた。  獣が弱ったのか。 というよりは、僕と獣が近づいた。 そんな気がした。  痺れるような刺激が、脊髄を貫く。 目の前が真っ白になってゆく。  このままでは、僕は。 管理人さんを。管理人さんの口を。 ──〈汚〉《けが》してしまう。  その思いが、僕を動かす。 白濁したものがほとばしるよりも一瞬早く。 僕は、管理人さんの唇からペニスを引き抜いた。  結果は言うまでもないだろう。 全てを支配する恍惚感と共に。 白く濃いものが、管理人さんの顔を襲った。 どくどくと、僕は液を吐き出した。  眼鏡のレンズが、べったりと白く濁る。 白い液は、頬といい額といい管理人さんの顔一面を汚していった。  ──止まらない。 罪悪感は快感に勝てなかった。  痙攣と共に快感が断続的に襲いかかり、僕は、何度も、何度も、白いものを吐き出した。 すべてを吐き出し終わり、ぐったりと、力が抜ける。 「……も、もうしわけありません」  僕は、荒い息の下で、管理人さんに声をかけた。 「あら、どうかしたの?」  拍子抜けしたような声がかかる。 「いえ、その。 精液で顔を汚してしまって、すいません」 「克綺クン、こういうのが好きなのかなって、思ったんだけど……」  話す内にも、白い液が顔を伝った。 唇の脇に垂れたそれを、赤い赤い舌が舐め取る。 「違います!」 「いいのよ? 隠さなくても」 「本当に違います!」 「そうなの……」 「これを、どうぞ」  ベッド脇のウェットティッシュを渡した。 「あら、ありがと」  管理人さんが、濡れティッシュで顔を拭く。 その魔法の手が閃くと、ほんの一拭きで、魔法のように白濁液がぬぐわれてゆく。  最後に眼鏡を拭くと、もう、そこにいつもの管理人さんがいた。 「取れた?」 「ええ。綺麗です」  僕はうなずく。 「じゃぁ……今度は、克綺クンを綺麗にしてあげる」 「なんですか?」 「ここよ」  管理人さんが、僕のペニスを掴む。 「う……」  まだ奥に残ったものを、胸がしごきあげ、ちゅうちゅうと音を立てて、唇が吸い取る。 いまだ敏感な亀頭を、すみずみまで管理人さんの舌が這い、舐め清めてゆく。 「はい、これでいいわ」  さっぱりとした声で言われた時には、僕は、後ろへ倒れていた。 はぁ……はぁ。 息は荒く、静まらなかった。 ふわりと、管理人さんが僕の横に寝転がる。 「まだ、元気みたいね」  僕のものを指さし、淫蕩とさえ言える声で、管理人さんが囁く。 それは確かに、一仕事終えたあとも、まったく萎えずに屹立していた。 「身体は、動く?」 「……はい」  指を動かす。それから腕も。 ぎこちなくはあるが、なんとか動いた。  獣が弱ったのか。 というよりは、僕と獣が近づいた。 そんな気がした。 「まだ、いける? いけるわよね」  〈僕は〉《獣は》、こくりとうなずく。 「よしよし」  頭を撫でられて、僕は無上の喜びを感じる。 いや、喜びを感じたのは獣だ。  どちらだろう。 どちらでもいい。 喉をくすぐる管理人さんの指は、ただ、ひたすらに気持ちよかった。 「rrR……」  僕らは豊かな胸に頭をすりよせる。 すっかり飼い慣らされた獣が、甘えた声を出した。 「んふっ。かわいいわよ、克綺クン」  管理人さんの手が、うなじをなで下ろし、僕らは身を震わせた。 「管理人さん」  我慢ができなくなって、僕は、管理人さんの上にのしかかる。 両手を肩にかけて組み敷いた。 「あわてない、あわてない」  そう言われても。息は荒く。 「女には、女の準備があるのよ」 「では、準備をしてください」 「克綺クンも、一緒にするのよ」  管理人さんの手が、僕の手に添えられる。 僕らの手は、もはや暴れることはない。ゆっくりと、なすがままに、管理人さんの腰へ降りてゆく。  僕の指が、レースの下着に触れた。 絹の感触は、張りつめた生地の下の熱い肌とあいまって官能的な肌触りだ。 「まずはじめに、どうしたらいいか、わかる?」 「これを……外す必要があります」 「じゃぁ、ぬがして」 「はい」  僕と、僕の中の獣は、協力して、ゆっくりと管理人さんの下着に手をかける。 指がうまく動かない。 細かな動作には、未だに二人三脚のような違和感があった。  焦る獣と、それを押しとどめる僕。 なんとか指をかけ、ゆっくりと、引きずりおろす。 小さく丸まった布きれを、僕は、形のよい爪先から引き抜いた。 「あの……」 「なぁに、克綺クン?」 「見て、いいですか?」  くすりという笑い声。 「手探りでするつもりだったの?」 「選択肢としてはありえます。管理人さんが望むのであれば……」 「いいわよ。克綺クンなら」  ごくり、と、唾を飲み込む。 柔らかな繁みを、まじまじと見つめる。  繁みの奥の割れ目は、ほんのわずかに開いていた。 その奥のピンク色の襞と、まだ鞘に包まれた肉芽に、僕の目が吸い付く。 「触ります」  声に出す。出すことで、獣に分からせる。そして自分に踏ん切りをつける。 「ええ」  優しい声に後押しされて、僕は、ゆっくりと指を滑らせた。 指先が触れたものは、もう、十分すぎるほどに潤っていた。  亀裂を上から下になぞりさげてゆく。 それだけで、人差し指が糸を引き、濡れた音を立てた。 「これで、いいんですか?」  「だいじょうぶ。うまいわよ」   撫でるうちに、亀裂は優しく開き、秘奥を光の元に晒す。 艶やかな桃色は、光の中で息づき、呼吸するように蠢いていた。 感嘆の吐息が、亀裂を吹く。 「あ……ん」   優しい声に、獣が猛った。 濡れた指を伸ばし、肉芽に触れる。  「ん……ん……いいわよ、克綺クン」   僕と獣が呼吸を合わせる。 柔らかで敏感なそれを、僕らは、ゆっくりと撫でさする。 くちゅくちゅと音を立てて、僕らは愛液をなすりつける。 「は……ん……ん……」   肉芽は、次第に大きさを増し、その莢から顔を出す。 真っ赤に充血した肉芽に軽く触れる。  「あんっ……」   嬌声は悲鳴にも似て。 管理人さんがびくりと動く。 僕の指が、怯えて止まった。 その手に、管理人さんの手が重ねられた。 「いいのよ、大丈夫」  「はい……」   再び指が肉芽に触れる。 愛液に濡れたそれを二本の指で僕はなぞった。  「よく……できました」   声に、甘い喘ぎが混ざる。 「もっと、奥に……おねがい……」  「はい」   僕の指は、ゆっくりと亀裂の奥をさぐる。 待ちかねていたように、秘奥は指先を呑み込んだ。 暖かな肉がまとわりつく。 それは僕を奥へ奥へと誘った。 「そうよ。そのまま……かきまぜて」   二本の指を奥へ突き入れる。 ひらひらと指を振る。 くるくると指を回す。 ぴちゃぴちゃと指が音を立てる。   二本の指が動くほどに、亀裂はすぼまり、また、広がり、そのたびに洩れる声は、僕の血を熱くした。 「もっと……もっと、乱暴でいいのよ、克綺クン」   その声にうながされ、僕は指を早め、左手で、肉芽に触れる。  「あ……ううんっ……」   悲鳴のような声。 けれど、僕はもう、それが悲鳴でないとわかっていた。 二本の指を曲げ、また、伸ばす。 肉芽を撫ぜあげては、軽く弾く。 その挙げ句。 「くぅんっんんっ……!」   童女のような声をあげて、管理人さんの全身が震えた。 二本の指に震えが伝わる。 指は、亀裂の中で、大きく締め付けられた。   震えが静まるのを待って、僕は、二本の指を引き抜いた。 ぴちゃり、と、音を立てて、シーツに雫がこぼれた。 つい、と、指先を舐める。 管理人さんの愛液は蜜のように甘く、指を口に含むと、かすかに花の香りがした。 「克綺クン?」   潤んだ目が僕を見る。  「はい」  「準備はいいわよ」  「僕も、準備はできています」  「そう? まだ、身体が堅いわよ」  「緊張していますから」  管理人さんが僕の首を抱いた。 ゆっくりとひきよせられる。 甘い吐息を顔全体に感じながら、僕は管理人さんと唇を重ねた。  息もできないほど濃厚なキス。 このうえなく柔らかな舌に、僕は翻弄された。 管理人さんの舌は、僕の歯を割って入り、縮こまった僕の舌を弄ぶ。  甘い唾液が流し込まれ、僕の頭が、ぼうっとする。 舌が舌をねぶる。絞る。こねあげる。  僕の舌は僕の中でとろけて、甘い蜜に変わったようだった。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  ようやく唇が離れた時、銀色の糸が二人の間をつないでいた。 僕は荒い息をつく。 鼻息が管理人さんにかかる。 「力は、抜けた?」  管理人さんは、息一つ乱さずに、そう言った。 「は……い……」 「それじゃぁ……来て」 「行きます」  律儀に僕は答える。 声が、震えていた。  胸の鼓動は、獣だけのものではなかった。 この期に及んで、というべきか。 僕は、この状況が信じられなかった。 「まだ、恐い?」 「……はい」  なんだろう、この違和感は。  毎朝会って。 一緒にご飯を食べて。 これからもずっと一緒にいる。 僕の母親みたいな人。  この人と。僕は。今から。 ──交わる。 「じゃ、手を握っていてあげる」  暖かな手は、本当に母親のようで。 目を瞑ると。  感触の想い出が母親のものに重なった。 僕は、自分の意志で、管理人さんを突き放した。 「だめです。できません」 「……どうしたの? 克綺クン」  優しい声は、罪悪感を増した。 「だめなんです。 その……母さんと、しているみたいで」 「お母さんと?」 「僕は……母さんのことは、覚えていないんですが」  あの事故。 父と母を奪ったあの事故より以前の記憶は。 僕の中で、薄闇のように朧になっている。 「管理人さんには……毎朝、ご飯を作ってもらって。恵も一緒に世話してもらって。 考えれば考えるほど、母さんみたいで……。 もしも、母さんが生きていたら……きっと管理人さんみたいな感じで」  なぜだか、涙が出た。 なんの涙だろう。 「非論理的ですね。もうしわけありません」 「だいじょうぶ。克綺クンの言うことは分かるわよ。 とっても光栄だわ」  管理人さんの声が、優しく響く。 「光栄、なんですか?」 「私なんて、たいした世話はしてないんだもの。 克綺クンのお母さんに悪いわ」 「そうですか」 「本当に嫌ならいいけど……」  管理人さんは、僕の腰に視線を落とす。 僕の心は、目の前の人を母親だと思っているのに。 僕のものは、恥ずかしげもなく、そそり立っていた。 「慰めになるかどうかわからないけど……身体って意外と正直よ」 「そうなんでしょうか。 でも、僕は管理人さんが……母さんとしか思えないんです」 「そうねぇ」  管理人さんが考え込む。 「ね。克綺クンが、私のことをお母さんとしか思えないなら……お母さんに、甘えるつもりでしてみたらどうかしら?」 「え?」  声が裏返った。 と同時に、僕のものが、そそり立つのが分かった。 「気にすることないわよ。 昔から、英雄は、お母さんを〈娶〉《めと》るものだし」 「いや、確かに、そういう神話もありますが……」 「だいたい、この国だって、ちょっと前まで、そんな細かいこと気にしてなかったじゃない」 「ちょっと前って、管理人さん、いつの生まれですか!」 「女の人に、歳とか聞かない」 「はぁ」 「そもそも克綺クンにとって、近親相姦が、いけない理由ってなに?」  近親相姦。 管理人さんの口から出た言葉に、僕はぞくぞくした。 その声の響きを反芻する。 「生物学的には、遺伝子のバリエーションを広げるためです」 「そうなの?」 「はい。近親者同士は近い遺伝子を持っているので、その交配が続くと、遺伝子が均一化する。 そうすると、例えば、みんなが同じ病気にかかりやすくなったりしますから、絶滅しやすくなる」 「なるほどねぇ。 絶滅したら困るけど、たまにはいいんじゃない?」 「そうもいきません。 どんな健康な人間の遺伝子にも、致死遺伝子や、様々な深刻な病気や障害をもたらす遺伝子が、劣性遺伝の形で含まれています。 劣勢遺伝ですから、同じ遺伝子と出会わない限り発現しませんが、近親婚の場合は、発現しやすい。 そういうこともあって、近親婚を避ける文化が発達したのでしょう」 「ふぅん。克綺クンは、物知りねぇ」 「生物の授業を、真面目に聞いているだけです」 「じゃぁ、真面目な克綺クンに質問なんだけど」 「はい」 「それって、私と克綺クンに、関係あるの?」 「……」  僕は、しばらく考えた。 「ないですね」  そもそも僕と管理人さんに血縁関係はないわけだから、近親相姦ではない。 「しいていうなら、心理的な抵抗感というか……」 「心理的な抵抗感ねぇ……」  管理人さんの視線が、僕のものに熱く注がれる。 男性の生理は、心理に依存するというが……だとすれば、僕は、これ以上ないくらい「母親」に欲情している。 「母親に欲情するのは変態性欲の一種ですが……」 「それって、悪いことなの?」 「いえ。文化があれば逸脱するのも人間の習性です。 変態性欲にも、それはそれで、長い歴史と伝統もあります。 他人に迷惑をかけない限り、通常の異性愛以外の性欲を否定することは、狭量に過ぎるでしょう」 「つまり……問題はないわけね」 「……そうですね」  自分で自分を論破してしまった僕は、頭をかいた。 「それに……だいぶ身体も動くようになったみたいだけど」 「はい」 「克綺クンの中の魔力を鎮めてあげないとね」 「……そうでした」  僕は、改めて認識する。 管理人さんが、僕を受け入れているのは、僕の窮状を救うためだ。  それというのも、僕が、あの時、人魚の血を浴びたから。 つまり、管理人さんに付いていくと主張したからの自業自得に過ぎない。 「そんな顔しないで」 「はい」  僕は、荒い息を鎮める。 猛り立つペニスのことを一時忘れる。 確かめなければいけない。 「僕は……管理人さんを抱きたいと思っています」 「なぁに、それ?」 「ここにこうしている元々の理由は、身体にたまった魔力を抑えるためですが……それだけじゃないということです」  僕は、自分で言って顔をしかめた。 これは偽善だ。こんなことでもなければ、僕は管理人さんを抱こうとは思わなかっただろうし、今、言うのは、後付けの屁理屈だ。  だけど。 だからって。 言わずに済ませることは。 管理人さんの好意に一方的に甘えることは、それはそれで不誠実だと思う。 「わかったわ」 「教えてください。 管理人さんは、僕のことをどう思っていますか?」 「克綺クンのこと? 可愛い息子みたいに思ってるわよ。迷惑かな?」 「いえ。嬉しいです。 それで……管理人さんは、僕を抱くことをどう思っていますか? 無論、僕は、管理人さんに抱いてもらわなくては困るのですが、もし、それが理由で仕方なくしているのであれば、そのことについて知っておきたいと……」 「あぁ、もう……克綺クンったら!」  管理人さんは、僕のことを抱きしめた。胸に顔が埋まり、僕は目を白黒させる。 「嫌いなわけないじゃない」  優しく穏やかな声に、僕は、安らぐ。 それと同時に、熱いものが股間にみなぎる。 母親に欲情することが変態なら、僕は変態なのだろう。 心の底からそう思う。 「はい」  よかった。僕は、素直にそう思う。 「だいたい、克綺クンは、理屈がすぎるのよ。 子供なんだから、もっとこう……素直になりなさい」 「素直、ですか?」 「そう、素直よ。 克綺クンは、私としたいの、したくないの、どっち?」 「はい。したいです」 「元気でよろしい! 私も克綺クンとしたいわ。何か問題は?」 「ありません!」 「何かリクエストは?」 「え……あの」  予想外の質問に、僕は、一瞬うろたえた。 「手を……握っていてください」  母さんみたいに、という言葉を僕はのみこんだ。 けれど、いたずらっぽく笑う管理人さんを見れば、そんなことはお見通しのようだ。 「いいわよ……握っててあげる」  管理人さんの手が、僕の右手をそっと包む。 僕の身体から、強ばりが、ゆっくりと抜けていくのがわかる。 「他には?」 「ありません!」 「ないわね! よし!」  ぽん、と、背中を叩かれる。 僕の中の何かが、それで、吹っ切れた。 「行きます!」  その一言で、僕は、管理人さんに挑みかかった。  ペニスの先が、亀裂を探す。 あせったそれが肉芽を弾き、僕の腕の下で管理人さんが、かすかに身をそらす。 「落ち着いて、ゆっくりね」 「はい」  重ねた右手が、力づけるように僕を握る。 それは僕の支えとなった。 ゆっくりと、ゆっくりと腰を動かす。  最後に管理人さんが、わずかに動くと、僕の先端は、ようやく割れ目に巡り会った。 つぷつぷと亀頭が沈む。 「う……ん……そう、そこよ……」  かぎりなく柔らかで、それでいて、くいくいと締め付ける柔肉。 僕は、触れただけで達しそうになった。 「くっ……」 「はい、深呼吸して」  柔肉の動きが止まる。 僕は亀頭の先に暖かな感触を味わいながら、大きく息を吸って、吐く。 「入ります」 「どうぞ」  どこか間抜けなやりとりとともに、僕は腰を進めた。  管理人さんの中は、熱く潤っていた。 ゆっくりと、ゆっくりと、僕は身体を沈めてゆく。 じわじわと這い上がる快感をこらえながら、爆発物を扱うように。  ゆっくりと、ゆっくりと。 僕はペニスを埋める。 その先が、こつんと奥にぶつかった。 「あ……ん……」  僕の下で管理人さんの身体がさざ波のように揺れる。 組んだ右手に、かすかに力を感じた。 二人がつながったということ。 その事実を前に、僕はしばし呆ける。 「どう、気分は?」  管理人さんの言葉に、僕は、自分を取り戻す。 つながっている。 その事実が、ゆっくりと身体に染み通る。 「克綺クンは、お母さんと、したかったんでしょ?」  からかうような声に、僕のものが、さらに硬くなる。 「……そうです」  僕の背を抱きしめる腕。 握った手と手。  目をつぶれば、母さんに抱かれている様がたやすく想像できて。 そして僕と母さんはつながっていて。 ぞくぞくするような背徳感が背筋を走る。 「お母さんは、こんなことしてくれた?」  ゆっくりと、管理人さんの腰が動き始める。  ぴちゅ。くちゅり。 淫猥な音が響き渡る。 限りなく柔らかなものが、繰り返し、繰り返し、僕を締め付ける。  快感は全身に満ちて。 気が付けば、僕は。 獣のように腰を振っていた。 「うん……はん……んんっ……あぁんっ」  ぎこちない動きは、やがて、なめらかになり。 リズムはゆっくりと一致する。  がんがんと胸を打つ鼓動。 管理人さんの喘ぐ声。 ぴちゃぴちゃと音を立ててこすれ合う粘膜の響き。 すべては溶け合ってゆく。  快感が、容赦なくつきあげる。 何度となく僕を打つ快感は、時計の秒針のように精確で。 僕は、その快感の虜となる。 「管理人……さん」  うわごとのように、その名を呼ぶ。 「なぁに……あん……克綺……クン」 「そろそろ……射精しそうです」 「いいわよ……ん……来て……」 「今、思いついたんですが……」 「なぁに?」 「その、避妊の問題は……」  ちなみに避妊を考えるなら、入れている時点で問題である。 膣内射精を行わなくても、微量の精子は洩れており、それによって受胎する可能性も存在する。  とはいえまぁ、思いつかなかったのだから、仕方ない。 管理人さんが、僕を、ぎゅっと抱き寄せる。 急に角度の変わったペニスが、膣の中で暴れた。 それだけで漏れそうになり、僕は息が詰まる。 「心配しなくていいわよ」  耳元で管理人さんが囁く。 「それは、どのように心配の必要がないのですか?」  僕も囁き返す。 「克綺クンは、ほんとに考えすぎなんだから」 「そこがいいところなのだけど……考えないほうがうまくいくこともあるのよ」 「考えないこと、というのが……うっうまくできないんです」 「そうねぇ。じゃぁ、考えられなくしてあげる」 「え?」  身体が密着したまま、再び腰が動き始める。 胸と胸が触れあう。 柔らかな乳房がつぶれ、硬く立った乳首が僕の胸をなであげる。  腰と胸。 加えるに、背。 管理人さんの指が、僕の背中をなでていた。  新たな刺激に脳が沸騰する。 三つの刺激が、それぞれ違ったリズムで僕を責め立てる。 指は、背を降りて、腰に達し、やわやわと指に尻を撫でられる。 「管理人……さん!?」  腰は僕のものを、根本からくびれから先端まで、絞り上げるように蠢き、管理人さんの乳首が僕の裸の胸に、くるくると円を描く。 その傍らでは、淫蕩な指が僕の尻を責め立てる。  三つの違ったリズムに、身体が沸騰する。 雨のように降り注ぐ鋭く、強い刺激。  刺激の合間の、産毛だけをさわさわと撫でられるような。 〈隔靴掻痒〉《かっかそうよう》の快感。  その両方が、溶け合い、高めあい。 思いの全てを快感が占め。 思考という思考が奪われてゆく。  管理人さんの、指が乳房が性器が。 それが触れているところが僕であり、その僕は真っ白に塗りつぶされてゆく。  指が。 彼女の指が、僕の尻をかきわけ、その奥の、すぼまりに、するりと潜り込む。  それが、とどめだった。 「くぅっ……!」  全身が痙攣する。 僕という僕の、そのすべてが絞り尽くされる。 熱く、激しく、雄々しく。 僕は、僕の全てを放っていた。  どくどくと、それは音を立てて流れ込んだ。 それは管理人さんの〈膣内〉《なか》を満たし、そして、あふれだす。  長い長い一瞬の後、全てを吐き出し終え、どっと、全身から力が抜けた。 汗みずくの身体が管理人さんによりかかると、結合部から、どろりと濃いものがあふれた。 「どうだった、はじめては?」  甘い囁きに答えることもできず。 僕は、ただ荒い息をついて、うなずいた。  管理人さんの腕が、僕の髪に触れる。 髪を、ゆっくりと撫ぜるその指先は、とてもとても心地よかった。  僕は、一息つき、握りしめていた手を放した。 ずっと握りしめていた掌は、汗ばんでいた。 ゆっくりと身を起こすと、ぺちゃりと音がした。  引き抜いたペニスに、下腹に。 管理人さんに。 乾きかけの精液が粘っていた。  さっきまで、あれほど熱かったものが、いまはもう冷たい。 僕は、溜息をついた。 「待ってて。今、綺麗にしてあげるわ」  管理人さんが、枕元からウェットティッシュを引き抜く。 魔法の指先が一拭きすると、下腹の汚れは、一瞬でぬぐわれた。  ティッシュを変えて、今度は。 「ひゃっ!」  冷たいティッシュが局部に触れて、僕は、声を出した。 「ほら、逃げちゃだめよ」 「……はい」 「はい。いま、きれいにしてあげますからね」  自分で拭けます、と、なぜ言えなかったのか。  まるで、ほっぺたの食べ汚しをぬぐわれる幼児のように。 管理人さんの手が、僕のペニスをぬぐってゆく。  幼児のもののようにうなだれた僕のペニス。 濡れたティッシュごしに、細い指先が僕のものをしごく。  そうしてあふれた精液をぬぐい去り、再び下から上へ丹念に拭いてゆく。 やがてそれは亀頭に達し、表から裏まで、隅々を触れてゆく。 「……あらあら」  理の当然として、僕のものは、幼児とはかけはなれた姿に変わってゆく。 「やっぱり元気ねぇ」  管理人さんの感心した声に、僕は顔を赤くした。 「もう一度……する?」 「いえ、結構です」  「あら……」   残念そうな声に、僕はあわてて補足した。  「管理人さんとの性交が魅力的でないわけではなく、あくまで全身の疲れによるものです」  「元気そうだけど?」 「他の部分が疲れているんです!」  「冗談よ」   ぬぐい終わって、管理人さんは、笑った。 あれほど激しい運動だったというのに。 その顔に、疲れの影はなかった。 「それで、身体の調子はどう?」   僕は、息を吸って、そして、吐く。  胸の鼓動は強く、安定しており、もはや暴れてはいなかった。  「大丈夫、みたいです」  「そう……よかった」 「あの……管理人さんは?」  「私が、どうしたの?」  「大丈夫ですか?」  「私は、大丈夫よ。 どうしたの?」  「いや、その」   僕は、口ごもる。 「管理人さんは……無理とかしてませんか?」  「無理?」  一瞬。ほんの一瞬。 管理人さんの顔が、凍りついた。  いつもの笑顔をそのままに。 しかし、生気はなく。  それはまるで笑顔を描いた仮面のようで。 けれど、それは、ほんの一瞬のこと。 まばたきする内に、溶け去った。 「別に、平気だけど、どうして?」  「それは……全面的に、僕の都合につきあっていただいたわけですから」   僕は取り繕う。 どうして「無理」なんて言ったのだろう。 疲れていることと、無理していることは、別のはずだ。 「克綺クンのためなら、これくらい、いつでもしてあげるわよ」   そう言って、管理人さんは、僕の唇をつつく。  「ありがとうございます」   そう言った途端。  胸が、疼いた。 今までにない鋭い痛み。 「どうしたの、克綺クン?」 「が……く……」  痛みに息がつまり、返事は、ろくに言葉にならなかった。 鋭く、澄んだ痛みが、心臓に巣くっていた。 管理人さんが、僕に手を伸ばす。 右手が胸に触れる。  甘い感触とともに、痛みは、疼きに変わった。 「まだ……残ってたみたいね」 「はい……」  痛みの元は消えたが、鋭い痛みは、まだ身体の節々にこだましていた。 「どうすれば、いいでしょう?」 「そうね……」  管理人さんが、僕の胸に触れる。 その目は、僕の中を見通すようだ。 「だいぶ、力が弱ってるみたいだから。 直接、引き出してみるわ」 「何を、引き出すんですか?」 「魔力の元。怨念よ。 克綺クンの表に出しても、今なら大丈夫だわ」 「そうですか」  よくわからないが、特に代案があるわけじゃない。 「お任せします。僕は、どうすればいいですか?」 「リラックスして、心を落ち着かせてみて」 「はい。それだけですか?」 「ええ」  さて、具体的にリラックスする方法というと、何があるだろうか。 僕は、大きく深呼吸する。  管理人さんの目が、遠慮無く僕を見つめる。 鼓動が早くなった。 「もう少し……リラックスできない?」 「やってはみますが、方法は思いつかない」 「そうね……じゃぁ、こういうのはどうかしら?」  管理人さんが、僕を抱き寄せた。 熱い乳房が僕の顔を覆った。 甘く、ミルクのような匂いが、ゆっくりと僕を包み込む。  気が付くと、赤子のように、僕は、その乳首にむしゃぶりついていた。 口の中に広がる甘い味。 限りない安らぎが僕らを満たした。  僕の中でうずまく黒い血が。 ゆっくりと、その怒りをほぐされてゆく。 「あ……」  泣いている。 僕の中の獣が泣いている。 頬を伝い、大粒の涙が、いくつも流れた。 「あぁーん。あん……あぁあん」  しゃくりあげるように、それは泣いた。  胸の内を、僕の身体を、悲しみの波が洗ってゆく。  ゆっくりと。 深い深海から浮かび上がる泡のように。 水底に暮らす人魚の想いが、ゆっくりと広がりながら僕を満たしてゆく。  そこにあるのは帰らぬ過去の想い出と、 苦痛に満ちた地獄。     それは、春、水ぬるむ頃。 無数の卵を割って産声を上げる赤子達の合唱。 それは、地下深い水の中で、孵ることなく腐れ落ちる無数の卵。   それは、星の明るい夜。 水面で跳びはねる稚魚たちのじゃれ合い。 あるいは互いに戯れ、あるいは、母の周りにくっついて泳ぐ稚魚たち。 それは、幼くして病に倒れた稚児達。     それは、月の晩の若人たちの求愛の宴。 一人の母を巡り、若者たちは、その優美な姿態を誇示し、また、その力を競い合う。 それは、〈爛〉《ただ》れた身を引きずるように生きる若者たち。 緩やかな狂気が、やがて、その身体を満たし、地上で無惨な死を遂げるまで。     それは、清水の中で、人に敬われ、崇められ、晴れやかに暮らす、わだつみの民。 それは、日のあたる場所を追われ、流れ流れた地の底に。 毒の水を注ぎ込まれ、ゆっくりと、ゆっくりと、滅びてゆく、わだつみの民。   それは、そのすべてを見届けた母の心。 変わりゆく世界に何事も為せずに、ただ、子らの滅びるさまを見つめ続けた母の心。     僕は。僕らは。赤子のように泣いた。 涙は涸れず、管理人さんの胸を滝のように流れ落ちた。   悲しみは涸れることがなく。 ただ、悲しみを顕すことに、かすかな安らぎがあった。 管理人さんの指が、僕の頭を撫でる。 一撫でごとに、人魚の心が解きほぐされる。   悲しみは涸れることがなく。 ただ、涙は流れるのを止めた。 僕は、顔をあげる。 管理人さんが、涙にぬれた頬をぬぐった。    「聞こえる? あなたを殺したのは、私よ」   管理人さんの声が、重く、響いた。  「妾は、それを恨んでいない。 我らは既に生きていなかった。 迅速な死の恵みを感謝する」   僕の中の人魚が応える。  「では、何を恨むの? あなたがたを滅びに追いやった人を?」    「滅びの定めは遙か昔に定められた。 そして、我らは、それを受け入れた」  「晴れがましき日々があり、苦しみの日々があった。 滅びの道は火のように苦く、岩を穿つ水のように長かった。 しかれども──」  「決して言うまい。 苦しみが喜びに勝ったとは。 〈一度〉《ひとたび》、子らを抱きしめる喜びは、永劫の責め苦を贖って余りある」  「なら、あなたは何を悩んでいるの?」   「妾は恨まず。憎まず。ただ、嘆くのみ。 失われた命を。生まれる前に死した子らを。 育たずに死んだ子らを。もはや永劫に生まれることのない命を」  「悲しいのね」 「然り」  「ずっとずっと悲しくて、寂しかったのね」 「然り」  「悲しくて寂しいときは……どうしていたの?」   「妾は耐えた」   たった一言。重い一言。  「悲しみは子らを怯えさせる。 栄えた過去を知る寂しさは、妾一人のもの」  「そう」   管理人さんは、小さくうなずいた。  「でも、もっと昔は? 思いだして。まだ大人になる前の頃」   管理人さんの声は、歌うようだった。   「まだ、あなたが小さくて。嵐の夜に、星がみえなくて泣いた時」  「晴れた夜。水底から見あげる月が、あんまりきれいで、さびしくなった時」  「思いだして。あなたは、どうしてた?」   僕の中に記憶が蘇る。 それは、暖かな抱擁の記憶。 優しく、しっかりと身体を包む腕。 それは、悲しみを吐き出す場所。寂しさを癒す場所。 刺すような悲しみも、 深い深い孤独さえも。 その暖かな手で触れられるだけで、どこかへ行った日々。   「置いていきなさい」   声は、限りなく優しかった。  「悲しみも、寂しさも。ここへ置いていきなさい」  「あなたは精一杯生きて、そうして死んだ。 あなたのことは、私が覚えている。 あなたを殺した私が覚えている。だから」  「もう、いいのよ」        僕の右目に、涙が、湧いた。 真珠のような、大粒の涙。 それは、ゆっくりとあふれ、そして弾けて消えた。   それで、終わりだった。 「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」  柔らかな声と、ノックの音。 「ご飯だよ!」  ゆっくりと僕は、目を覚ます。 窓から入る日が赤い。  朝焼け、ということはないか。 夕焼けだ。  僕は、大きく伸びをする。 ずいぶん寝てしまったようだ。 というより。 「遅刻だ!」  あわてて制服を着込み、ドアを開ける。  カバンを持って階段を駈け降りようとすると、恵が声をかけてきた。 「お兄ちゃん、どこ行くの? ご飯は?」  「学校に行く。食べてる暇はない」  「学校?」  「そうだ。遅刻だ」   そこまで言って、ようやく気が付く。 夕方から学校に行ってもしょうがあるまい。 「まだ、寝ぼけてるの?」   あきれたような恵の声。  「そうだな。 もう、学校は終わってるか」  「ていうか、今日、日曜だけど」   ああ、僕は、本当に寝坊していたようだ。 「そうか。そうだったな」   気が緩むと、急に眠くなった。  「なら学校に行く必要はないわけだ。 お休み」   僕は部屋に戻ろうとする。 「ちょっと、お兄ちゃん! 晩ご飯は?」 「ん、晩ご飯?」  「大丈夫?」  「たぶん、大丈夫だと、思う」  僕は、部屋に戻って顔を洗う。 それでようやく目が覚めた。  昨日の夜のことを思い出す。 「大丈夫? 克綺クン」  管理人さんが、白い裸身を起こす。 「ええ……」  僕も、もたれかかっていた身体を離した。 少しだけ名残惜しかった。  全身を大きな疲れがおおっていた。 胸に手を当てる。  ゆっくりとした鼓動が、そこに時を刻んでいた。 「僕の魔力は、もう、なくなったんですか?」  そう言うと、管理人さんが首を振った。 「消えたのは、魚人の執念だけよ。 力自体はまだ、そこにあるわ」  僕は、コンクリに穴を開けたことを思い出す。 あの力は、まだ僕の中にあるわけか。 「封印とかは、できないんですか?」 「できなくはないけれど、長持ちはしないわね。 克綺クンの身体にも悪い影響が出るかもしれないし」 「そうですか」 「もう勝手に暴走することはないと思うけど、多少の訓練はいると思うわ」 「気が重いです」 「そうね。 でも……そのほうがいいかもしれないわね」 「どういうことですか?」 「前に言ったでしょ。 克綺クンは、人外のものに狙われてるって」 「えぇ」 「自分を護る力があったほうがいいわ」 「この力……人外に対抗できるんですか?」  言ってから自分の間抜けさに気が付く。 僕は、あの時。 人食いの女を殺している。  そんな重大なことも。 すっかり忘れていた。 「ポテンシャルは、あの魚人と同じ。 鍛えれば、すごく強くなるわ。でも……」  管理人さんは、僕の頬をはさむ。 「はい」 「無理はしちゃだめよ。なるべく逃げて、私を呼んで。 そうしたら、いつでも助けてあげるから」 「はい」  うなずく僕を、管理人さんは、じっと見て、そして笑った。 「じゃ、お疲れさま。あ、シャワー借りていい?」 「はい」  管理人さんは、服をまとめて浴室へ入っていった。 ほどなくして水音が響き始める。  その音に耳を傾けながら。 急に眠気が襲ってきたことを覚えている。 「僕の力、か」  魚人には、水を操る力があったはずだ。 僕は、顔を洗いながら、そのことを思い出す。 掌を蛇口に近づける。  まるで、静電気に引き寄せられるように、水流は僕の手に吸い寄せられ、腕に巻き付いた。  心臓が大きく鼓動しはじめる。 そこから力が生じて、全身にみなぎるのがわかった。  蛇口を止めても、水流は僕の腕から落ちなかった。  その光景に不自然さを感じた瞬間。  水は、ぱしゃんと音を立てて下へ落ちた。 洗面台に流れてゆく。  もう一度試す。 再び水を流し、腕に巻き付ける。  今度は目をつぶって、腕の感覚に意識を集中した。 触れている水が、僕の身体の一部になる。 それは指のように繊細で、耳のように響きを感じ、腕のように長く伸びていた。  目を開ける。  水は僕の腕を覆い、指先にそってうねうねと蠢いていた。 意識して、水を動かす。  右へ。左へ。 数度動かしたところで集中が切れた。  再び、ぱしゃんと水が落ちる。  ──案外、難しいものだな。 「お兄ちゃん、まだ? ごはん、冷めちゃうよ?」  ドアの奥からの声に僕は訓練を切り上げた。 「今、行く」 「起きた? 克綺クン」  「ええ、もう、お兄ちゃん、寝ぼけてばっかりいるんですよ」   いつもと変わらない管理人さんの顔。 その顔が、なぜか、まぶしかった。  顔を見るたび、昨日のことを否応なしに思い出す。  あの時の顔が。そして裸身が。 目の前にちらつく。  心臓が、どきどきと脈打った。 「どうしたの、お兄ちゃん。 変な顔して?」  「どうやら、僕は、当惑しているらしい」  「変なお兄ちゃん」  恵は、そう結論づけて座った。 「さ、どうぞ」   うつむいている僕に、管理人さんの声が、空から降ってきた。  「「いただきます」」   声を揃えて、僕はいう。 「わぁ、これ、おいしい」  「恵、おまえ、ニンジン嫌いじゃなかったか?」  「いつの話よ、それ」  「もう、子供じゃないんだから、ニンジンくらい食べられるって」  「そうか」  それにしても、おいしいニンジンだ。 ことことと煮てからバターを絡めたグラッセ。 ブイヨンとバターが、ニンジン本来の甘みを引き出している。 「おいしい? よかった」   管理人さんが微笑む。  「ニンジンは、やっぱり好き嫌いもあるものね」  「管理人さんのニンジンなら大丈夫です」   うんうん、と、恵がうなずく。  個人的な信条だが、この世にまずい料理はないと思う。 好き嫌いがあるとしたら、それは、たまたま、悪い素材か下手な調理にあたった記憶のせいだ。   上品な甘みと、最高級のケーキのような絶妙な歯ごたえ。 この世の、どんな子供であっても、このニンジングラッセを最初に食べれば、ニンジン嫌いになることはあるまい。 「よかった。いっぱい食べてね」  「はい」   僕は、管理人さんを、まっすぐ見て、そう答えていた。 もう、僕は当惑していなかった。  結局。 あれだけのことがあっても。 管理人さんは管理人さんで。 僕は僕だ。  管理人さんは、あの優しい笑顔で、ご飯を作ってくれる。 これからも、それは変わらない。 そんな当たり前のことが、ようやくにして感じられた。 「お兄ちゃん、もう食べないの? よかったら……」  「食べる!」  「ちょうだい?」  「あげない」  「ケチ!」 「ニンジン、お代わり、あるわよ」  「わっ。いただきます!」  「僕も」  「あらあら」  嬉しそうに、管理人さんがニンジンをよそってくれる。 ちなみに、ニンジングラッセはつけあわせで、メインは地鶏のグリル。   これがまた、素晴らしい。 香ばしく、ぱりぱりとした皮。   噛めば口の中にあふれる肉汁。 味付けは塩とハーブだけ。 チキン本来の味を、これでもかというほどに味わえる素晴らしい料理だ。 「おいしい!」   恵が、かぶりつきながら、言う。 全くだ。 「ずいぶん元気そうだな。身体のほうは、もう大丈夫なのか?」  「うん」   恵は、大きくうなずく。 おいしいものに、食欲を感じる。 これは健康の何よりの証だ。  「よかった」   昨日、僕が恵にしたこと、しかけたことを考えれば、再び心を閉ざしていても仕方ないというのに。 「ごちそうさま」   僕は、満たされた気持ちで、食器を置いた。 「おそまつさまでした」   恵は、まだ、食べている。 「ああ、そういえば」 「なぁに、お兄ちゃん?」 「昨日は、すまなかった」 「なにが?」   恵が警戒の表情を見せる。  「いや、情欲のままに押し倒し、唇を奪ってすまなかった、と」  「っっ!!」   爪先に鋭い痛み。 テーブル下で、恵が思いきり踵を落としたのだ。 「どうした、恵!」  「どうしたじゃないわよ!」   顔を真っ赤にした恵が叫ぶ。  「過ちを犯したら謝罪をするものだ」  「いいから、後にして!」  恵は、すごい勢いで、晩ご飯を食べ終わると。 「ごちそうさま」  そう言い捨てて、僕の腕を引いた。  ずんずんと僕を引っ張って階段を上る。 「恵?」 「なによ?」 「早食いは消化によくない。 昨日までは病人だったんだから、もう少し身体を労ったほうがいい」  ぎぎ、と、音を立てて、恵がこっちを向く。 その顔には、鋭い殺意が、はっきりと見て取れた。 引っ張られた腕に恵が力を込める。   僕をここから突き落とそうかと逡巡するのが分かった。 「恵?」  「なぁに、お兄ちゃん」  「怒っているようだな」  「わかってもらえて嬉しいわ」  「何を怒っている?」  「いいから、こっち来て!」  僕は、腕を引っ張られて、恵の部屋に放り込まれた。 「はい!」  放り投げられたクッションが顔に当たる。 その上に僕は座り直した。 「それで、何をそんなに怒ってるんだ? 昨日のことについては、あやまる」  「そうじゃなくて! 管理人さんの前で! 大声で言わなくてもいいじゃない」  「何が問題なんだ?」  「恥ずかしいでしょ!」 「あぁ、なるほど」   管理人さんは、だいたいの事情は知っているわけだが。 さすがに、それは言わないほうがいい気がした。  「なるほどじゃなくて」   恵は、一つ溜息をつく。 「お兄ちゃん、昨日は、どうしたの?」  「情欲のままに押し倒した件か?」  「そう、それ」   恵は、何かをあきらめたようにうなずいた。 「説明が難しいが、憑かれていた、というのが正確なところか」  「疲れてたのね」  「そうだ」   僕らはうなずきあう。 「そりゃ、疲れるわよね。 交通事故からこっち、お兄ちゃんも大変だったでしょ?」  「あぁ。端的に言って、色々あって大変ではあった」  「ごめんね。私のせいで」  「恵のせいじゃない」   僕は首を振る。 「憑かれたのも恵を襲ったのも僕の責任だ。 恵には関係ない」  「責任はなくても、関係はあるよ。 家族なんだから」  「……そうだな。 だからといって僕のしたことが免責されるわけではない。 昨日はすまなかった」  「いいよ。 急だったから、びっくりしたけど……なんていうか、そんなに嫌ってわけじゃ……なかったから」 「ん? よく聞こえないぞ」  「もう。知らない!」   恵が横を向く。 「どうやら大丈夫だな」  「なにが?」  「恵も僕も、さ」   昨日のことがあったあとで。  こうして二人きりで恵といると、心臓が脈打った。 愛しさとともに、それだけで終わらない劣情が、自分の中に感じられた。  可愛らしい唇を。息づく小さな胸を。 見たい。触れたい。奪いたい。   けれど。 だからといって、僕は、それに流されるようなことはなかった。 自分のことは自分で決められる。   僕は、大丈夫だ。 恵のことを守ってやれる。  僕は、笑った。 「どうした?」  「お兄ちゃんが変な顔してる」  「笑ってるつもりなんだが」  「わかってるよ。 でもさ、お兄ちゃん、いつも、もっと仏頂面で笑うじゃない」  「そうなのか?」 「うん。今、普通に笑ってる。 何かあったの?」  「色々あったわけだが、要約が難しい。 普通に笑うのは、嫌か?」  「そんなことないよ」   恵が笑い返す。  「そうか」   かすかな響きに僕らは沈黙した。 壁の向こうから響くのは、電話の音だ。 「電話、鳴ってるよ? お兄ちゃんの部屋じゃない?」  「だな」  僕は、急いで部屋に戻る。  駆け足で受話器を取る。   「はい、もしもし」  「おう、俺だ」  「どうした?」  「せっかくの日曜だ。 恵ちゃんも誘って遊びにいかねぇかと」  「今からか?」  「そう思って、朝から電話をかけてたんだが、どこいやがった?」   「あぁ、寝てた」  「寝てたぁ?」  「昨日の夜、色々あってな。 疲れがたまっていたらしい。夕方まで寝てた」  「……ま、いいけどな。恵ちゃん、せっかく日本に来たんだろ。 どっか遊びに連れてってやったらどうだ?」  「ふむ……確かにそうだ。調子もよくなったみたいだしな」   「なんなら明日でもいいぜ」  「学校を休むのは感心しない。 早く帰って、午後から遊ぶというのはどうだ?」  「構わねぇが……アレだろ、最近、夜は物騒だろ?」  「連続殺人事件か。あれなら気にする必要はない」  「あぁ、どういうこった?」  「言葉通りの意味だ。事件はもう起きないはずだ」 「克綺、てめ……なに……」   峰雪の声に雑音が混ざった。  「すまないが、電話が遠い。もう一度言ってくれ」  「かつ……きこ…の…い!」  「もしもし? 聞こえるか?」   次の瞬間。  耳に痛いノイズが響き、電話が沈黙した。  切れたのではない。 受話器は、全くの無音だった。 「もしもし?」  フックを何度も押すが、受話器は沈黙したままだった。 心臓の鼓動が不吉に高鳴る。  おかしい。 停電……のわけはないか。 電灯は点いている。  電話線のモジュラージャックを触るが、回復はしなかった。  ふむ。 僕は、部屋を出た。  まず、原因を確定させる必要がある。 問題が、僕の電話にあるのか、それとも電話回線にあるのか。 それを特定しよう。  階段を降りて管理人さんの部屋をノックする。 「管理人さん、電話機を貸してください」 「あら、克綺クン、どうしたの?」  「部屋の電話が通じないんです」  「そう。どうぞ」  僕は、受話器を取る。 が、聞こえてくるのは沈黙のみ。  電話機自体の故障が重なるとは考えにくい。 このあたりの電話回線が、ダウンしているのだろうか。 「これもだめですね」 「え?」  管理人さんに受話器を渡す。  その間、僕はテレビをつけた。  一面の砂嵐だった。 きれぎれに画面らしきものが映るが、ほとんど判別不能だった。 チャンネルを変えても同じだった。  携帯を出してみたが、案の定、アンテナは立っていない。 「妙ですね」        この家は、現在、通信が遮断されている。 可能性は二つ考えられる。 偶然か、作為か、だ。   偶然なら……たとえば、太陽黒点の影響等で、電子機器に影響が出ている場合などが考えられる。 そして。 作為ならば。  僕は、恵がいないことを確認して管理人さんに聞いた。 「電波を途絶させる人外というのはいますか?」  「克綺クン?」  「攻撃を受けている可能性があります」  「このメゾンに?」   管理人さんは眉をひそめる。  「恵を見ていてください。 外を見てきます」  管理人さんは、小さくうなずいて部屋を出た。  僕は、玄関から外へ。  日は既に暮れていた。 メゾンの周りは、街灯もなく、家から数歩出れば、真っ暗闇だった。  僕は、息を吸って思い出す。 昨日。 あの夜。 僕は、暗闇の中、見えていた。  目を閉じて胸に手を当てて、あの時のことを思い出す。  風に当たる風。 そしてその中の水気。  鼓動が一つ打つたびに、僕は、風を泳ぐ魚となる。  閉じた瞼の裏で、ゆっくりと周囲の風景が像を結んだ。   魚類には側線と呼ばれる感覚器があり、水流を感知する。  今、僕の細胞の一つ一つは、風の動きを捉えていた。   立ち並ぶ並木道から吹くまっすぐな風は、背後にそびえるメゾンで左右に分かれて吹きすぎる。  その滑らかな線のひっかかり。 点々と立ち並ぶ障害物。 ぼんやりとした影は、人の形をしていた。 数は数十。   メゾンは、完全に包囲されていた。 「管理人さん」  僕は、階段を駆け上がりながら、声をかけた。 「克綺クン」  恵を連れて降りてくる管理人さん。 その表情は、硬い。 「お兄ちゃん? どうしたの?」  「屋敷が包囲されている」   僕は端的に事実を述べた。  「逃げなきゃいけない」  「包囲って」   管理人さんが息を呑む。 「人影が数十ほど」  「数十?」  「わかりますか?」  「この街で、それだけの人外といったら、吸血鬼たちくらいね。 でも……それなら、私が気づかないはずは……」  「あとにしましょう。 管理人さんは、恵を連れて逃げてください」 「お兄ちゃん?」   状況を理解できない(当然だ)恵が、不安そうな顔をする。  「なぁに、管理人さんについていけば大丈夫だ」  「お兄ちゃんは?」  「彼らの狙いは僕だ。 だから囮になる」 「だめよ、克綺クン」  「いいえ、これが一番合理的な方法です」  「でも……」  「僕には力があります。 そのことを、彼らは知らない」 「お兄ちゃん、どういうこと? 説明して!」  「僕を殺そうとする連中がメゾンに集まった。 危険だから逃げなきゃならない。 二手に分かれよう」  「わかったけど、わからないよ! それに、お兄ちゃんは?」  「言った通りだ。 僕は一人で逃げる。 恵は管理人さんと行け」 「本気……だよね」   恵が、じっと僕の顔を見る。  「大丈夫だ。 僕なら、それなりの勝算がある」   僕は、笑顔を作った。 勝算は単純だ。 僕が先行して彼らを引きつければ、少なくとも恵は助かる。 そうすれば僕の勝ちだ。 「絶対、戻ってきてよ」  「世界に絶対は、ない」   恵の瞳に、みるみる涙がたまった。  「約束して」   約束、か。 生きのびるために僕が全力を尽くすのは当然のことだ。 そんなことは恵も知っている。 互いにわかりきったことを、口に出すことに、どんな意味があるのだろう。 それは多分、祈りのようなものなのだろう。  不運。不幸。事故。苦難。 常に隙をうかがう、確率という名の不条理に。 真綿で首を絞めるように、ゆっくりと迫り、決して逃げられない統計という名の運命に。 それらを避けるには、人の力はあまりにも無力で。 無力であるが故に、その願いを口にする。 明日に平和を。 あなたに平穏を。 口にして、どうなるわけでもない。 何も変わりはしない。  それでも。人は祈る。   自らの力が及ばぬ事象を前にして、なおも生きようとするその決意。 それが祈りなのだろう。 「約束する。僕は帰ってくる」  「帰ってこなかったら怒るからね」   目にいっぱい涙をためて、恵が言う。 僕は、その涙に、ふっと息を吹きかける。 きらきらと輝く涙は、僕の指先に移る。  恵が目を丸くした。  指先のものを、僕は口に運んだ。 恵の涙は暖かく、塩辛かった。   僕は笑った。 笑うことは祈ることだ。 生きることを、生き抜くことを信じることだ。 「恵を頼みます」   僕は管理人さんに向きなおる。  「任せて」   管理人さんは胸を張って笑った。  「さ、恵ちゃん、コート着て。 外は寒いわよ」  「はい」 「あ、克綺クン、これ、持ってって」  管理人さんがくれたのは、小さな香水の瓶だった。 「ありがとうございます。じゃ、行ってきます」  恵たちは廊下を走って裏口に向かった。 僕は玄関前に立つ。  唐突に、メゾンの灯りが落ちた。  暗闇の中で、ざり、と、耳障りな音が響いた。  ドアからだ。 鋸のような音は、二度、三度と響き、がらん、がらんと、間抜けな音がする。  ドアは切り裂かれ、星灯りが差し込んでいた。  大きく長い影を伸ばして現れたのは、仮面の巨人。  その右手がふりかぶられ──。  ゴムのように伸び、ハンマーのように振り下ろされた一撃を、僕はすんでのところで躱した。  爆音とともに、床が爆ぜる。  宙を薙ぐ左腕の一撃。  とっさにスウェーしたが前髪がもっていかれる。 壁に食い込む腕を蹴って、僕は、巨人に向けて走った。  ──狭いところでは不利だ。  長く伸びた腕の死角。 脇の下をくぐり、転がるようにして玄関を抜ける。  起きあがるより早く、白く強い光が僕の目を灼いた。 視覚に頼っていたら、数瞬、ひるんでいただろう。 だが、僕が見ているのは目じゃない。  風の流れと振動を感知する三次元知覚だ。  視野に、無数の点が映る。 無数の小物体が、空気に穴を穿って高速で飛来していた。 それが銃撃と悟るより早く、僕は宙に飛んでいた。  心臓が強く脈打つ。 魔力は全身にみなぎっていた。 空中で身を翻し、探照灯の範囲外に出る。  地面についた時には、準備はできていた。 メゾンの前庭は、舗装されていない土の地面だ。 それは、夜露にたっぷりと濡れていた。  たんと、踏むと、土の中の水が答えた。  氷結。 鋭く尖った棘が、一斉に大地から生える。 あちこちから悲鳴が上がった。  喉から歌が洩れていた。 それは水に呼びかけ、僕の手に引き寄せる。 氷の柱が瞬く間に溶け、かすかに血に染まった水が僕の手に飛び込む。  それはバネ仕掛けのリボンのように僕の全身に巻き付いた。  僕は走る。 急ぐ必要はない。  できるだけ彼らを引きつけ、恵たちから引き離す。 それが目的だ。  空気を引き裂く銃声。  その一つ一つが僕には〈視〉《み》えた。  腕から伸びる水の鞭が、その一つ一つを叩き落とす。  それた弾丸が大地をえぐり、僕の後ろに跡を残す。  銃を撃ちながら撤退する男たち。 多くは足をひきずり、また、互いに肩を貸しあっている。   その姿は──見覚えのある制服。 おととい、魚人と戦っていた、あの兵隊達だ。 しかし、なぜ、ここに? さっき、ドアを破ったやつは、間違いなく人間ではなかったが。 「待て!」  僕は水の鞭を伸ばし、うち一人を引きずり倒す。 浴びせられる銃弾は止まず、僕は、男も弾から守る。  「おまえたちは何だ?」   こうして見下ろすと、わかった。 これは、ただの人間だ。 人外の持つ、あの威圧的な気配……あたりの〈理〉《ことわり》をねじまげる魔力がない。 「九門、克綺か」   男が苦しい息の下から言った。 氷の棘にやられたのだろう。 靴を濡らし、地面にしたたる血は、致命傷とは言えないが、相当深い。  「投降しろ」  「明確な理由を聞きたい。 そもそも君たちは何者だ?」  男が何を言おうとしたのかは、わからない。  花火のような間の抜けた音とともに、飛来したものがあった。 気がついた時には、それは避けようのない距離にあった。  爆発。 紅蓮の炎に混じった金属片。  僕はとっさに、両手の水を盾にする。  爆炎が水を沸騰させ、粘る水の層に破片がめり込んでゆく。   ──足りない。 これだけじゃ、水が足りない。 爆発が広がりきるまでの数ミリ秒で、僕はそう判断する。  目をつぶって僕は、水分を探す。 水がいる。 大量の水が──あった。  考えるより早く決断し、新たに水を注ぎ込み、盾は、かろうじて持ちこたえた。 沸騰はしたが蒸発はせず、無数の破片は、水の渦に阻まれ、はじかれた。 「大丈夫か?」  僕は、制服の男に呼びかけ、そして、絶句した。  男の体は、完全に、ひからびていた。  乾燥は、つま先から始まり、胸に至っていた。 顔だけは、生前のまま、瑞々しかった。 それは、恐怖というよりは、驚きの形に目を見開いて固まっていた。  どうしてこうなったかといえば。 僕が、吸い取ったのだ。 つま先の傷口から流れる血。 そこから心臓までの水分を一気に吸い上げたのだ。  ──殺人。  走りながら、僕は想う。 その言葉が、ぐるぐると頭の中を回り、胸がずっしりと重かった。  無論。 あそこで僕が躊躇していたら、僕も男も死んでいた。  他に方法があったかといわれれば、あの時には、ああするしかなかったとしか言いようがない。  けれど。 死ぬ運命の人間なら殺していいということにはなるまい。 あの男を殺したのは、明白に僕だ。  とりとめのない心を、再びグレネードの発射音が切り裂く。  見えていれば、怖くはない。  水の壁でくるみ、爆発するより早く、水圧で圧潰させる。  ぱしゅん、と、コーラの栓を抜いたような、気の抜けた音がした。  鉄塊が転がる。 じゅうじゅうと音を立てて白熱したそれは、地面を溶かし、めりこんだ。  男たちの顔に、あからさまな恐怖の色が宿る。 銃を捨てて、くるりと背を向けるものまでがいた。  逃げてくれるなら、それが一番いい。 できれば、二度と現れないでくれれば。  思い出したように、ぱらぱらと飛ぶ弾幕を払いながら、僕は、しばし立ちつくす。 その時だった。 「きゃあああっ!」  全身が震えた。 響き渡る銃声を圧して、僕の耳に聞こえたのは、恵の悲鳴だった。  考えるよりまず先に僕は走った。 大地を蹴って、恵たちの逃げた方向。 屋敷の裏口へ走り出す。      いやな予感が胸の中で膨れあがっていた。 断続的な銃声が響く。 僕だけでは引きつけきれなかったらしい。   風の振動に心を集中する。   荒い息をついているのは、恵だ。 怪我をしているか、あるいは、恐怖のせいか。 恵を抱いて走っているのは管理人さんだろう。 足音は響いたが、呼吸の音、一つしていなかった。     そして、物陰に潜み、じっと狙いをつける四つの影。   ――恵っ! 僕は、声に出さずに叫んだ。 兵士達を刺激したくない。 兵士達のいるのは、アスファルトで、さっきの手は使えない。 こっちの姿を見せれば、恵たちが人質に取られる危険がある。  屋敷の角を抜けると、恵を抱いて走る管理人さんの姿が小さく見えた。 管理人さんは……満身創痍だった。  恵をかばって掃射を受けたのだろう。 背中のセーターには、無数の弾痕がうがたれていた。 それでも、しっかりと両手で恵を抱きしめていた。  おそらくは。 致命傷ではないのだろう。 僕は、そう自分を納得させる。  生身の管理人さんはいざしらず。 あの時見た、ヒトガタであれば、銃の一発や二発で傷つくとは思えない。 だが、恵に、それがわかる道理もない。 「おろして! 死んじゃうよ!」   恵が、泣きながら叫ぶ。 「だめよ、危ないわ」   その小さな声が、僕には、はっきりと聞き取れた。 「いいから、放しなさい!」  恵の声に、管理人さんは、一瞬、ためらった。 動作が鈍くなる。 その隙をついて、恵が腕から逃げた。 「だめだ、恵!」  そっちは兵士のいるほうだ。 だが、声をあげたのは最悪の結果を生んだ。 「お兄ちゃん! お兄ちゃんなの?」  悪夢のように、ゆっくりと、恵が、駆け出す。 僕のほうに。 兵士達のほうに。 「止まれ!」  たちまち、物陰から兵士達が姿を現した。 銃口は、恵と管理人さんを向いている。  僕は、ひたすらに走った。 遠い。遠すぎる。  それは、悪夢のような光景だった。  恵が、走る。 僕のほうへ。 「止まれ、恵!」  恵は泣きながら走っていた。 極限状況で、言葉は耳に入っても、理解はできないのだろう。  彼女は、ただ。 兄を。僕を頼って走り続ける。  降伏せず、走り続ける恵を、兵士達は、当然のように狙う。 その指が引き金にかかるのが、僕にはミリ単位で知覚できた。  間に合わない!  ──管理人さん!  管理人さんが動く。 立ちつくしたままの状態から、目を見張るほどの急加速で走る。 いままさに放たれようとする銃弾の前に立ち、その身で、恵をかばおうとする。  間に合う。 あの速度ならば、間に合う。 僕は、息が苦しくなるほど走りながら、かすかに安堵した。 「動くな!」  叱咤の声。 兵士の声。 その声に、管理人さんは、立ち止まった。 管理人さんが、立ち止まった。   恵は、その手をすりぬけ、走り続ける。 引き金が引かれ、銃弾がばらまかれる。  一発。  二発。  三発の弾丸が、恵に向けて放たれる。 管理人さんは動かない。  銃弾が走る。 銃声に、身をこわばらせている恵に向けて、弾丸が、走る。 僕は、間に合わない。  管理人さんが、動く。 再び、夢遊病のように。  だが、遅い。 遅すぎる。 指先が、かすかに恵の髪に触れたが、それだけだった。  飛来する弾丸は、恵に触れる。      一発目は、腹だった。 コートを焼き焦がし、血と肉を吹き上げ、大きな穴をうがちながら、それは内臓に潜り込む。   二発目は、足だった。 右のすねを割り、骨を貫通して、後ろへ抜ける。   三発目は、胸。 胸骨で曲がり、心臓をぶち抜いて、脇へ抜けた。       たぶん、苦しまなかったと思う。 コンマ数秒。 痛みが伝わるよりも早く。 三発の弾丸は、迅速に恵の命を奪っていた。   血の気を失って恵は、管理人さんの腕に倒れ込んだ。 その衝撃で。 できの悪い人形みたいに、恵のまぶたが、ぱちぱちと開閉する。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!」  誰かが叫んでいた。 頭の中が、がんがんする。 僕は、水の槍を放った。  それは蛇のように伸びて、恵を撃った男達四人を串刺しにする。 「あぁぁぁぁぁあぁあああああ!」  叫び声は止まらない。 水蛇は、たちまち朱に染まった。 男達が、人形のように断末魔をもがく。  水蛇は、どくどくと血を吸い取り、四人の男達が、かさかさのミイラに変わる。 もはや人ではない、服を着た棒きれを、僕は、地面に振り捨てた。 「あぁぁぁぁぁあ……」  喉に激しい痛み。  叫んでいたのが自分だと、僕は、ようやく気づいた。 激しく咳き込む。 咳には血が混じっていた。  心臓の鼓動。 血はこれ以上ないほど熱く、そのくせ、頭はひどく冷たかった。 胸の底から、なにか、暗く冷たいもの、熱くて痛いものが、わき上がろうとしていた。  だが。 今、それに身を任せては。 僕は、一歩も動けなくなる。 そのことが分かっていた。  だから。 僕は、それを一旦、押し込めた。 機械みたいだな。 僕は自嘲する。  ──が死んだっていうのに。 やめろ。考えるな。それはあとだ。 「管理人……さん」  ──を抱きしめたまま動かない管理人さんに、僕は声をかけた。  近くで見たその背は、とてもとても小さく思えた。 刻まれた弾痕は、服を焼き焦がし、穴からは肌がのぞいていた。  けれど、桃色の肌には傷一つなく。 血の一滴も流れてはいない。  人間じゃない。 この人は人間じゃない。 だから、銃弾くらいじゃ傷つかない。  ──じゃぁ、なんで?  胸の底に押し込めたものが、狂おしく叫ぶ。  なんで、この人は。  ──を救わなかったのか?  あの時、足を止めていなければ。 ──を庇っていれば。 死なないですんだのに。  穴だらけの背は、振り向かずに応えた。 「かつき……くん」  生気のこもらない声。 あのいつもの、何があっても変わらない管理人さんの声の張りが、そこにはなかった。 「逃げましょう」  僕は、ささやいた。  今、できることをしろ。 冷たい声が僕にささやいた。 余計なことを考えるな。  僕は、そうした。 胃のあたりが、ぎりぎりとねじれるようで、吐き気がした。  こくり、と、頭がうなずく。  管理人さんは、ゆっくりと歩き出した。 「管理人さん……」 「なぁに、かつきくん」   間延びした声。 恵を抱いたまま、管理人さんが振り向く。 どろどろの血が、指からしたたり落ち、エプロンを真っ赤に染める。   管理人さんの顔には、どんな表情も浮かんでいなかった。 悲しみも、怒りもない、ただの、空白。   たぶん、僕は、おびえたのだろう。 自分の顔がひきつるのが、分かった。  それを見て、管理人さんが笑った。 背筋に冷たいものが走った。   その笑いは、いつもの管理人さんの暖かな笑みと変わらない。 変わらないが故に、僕は。   ──壊れている。   そう直感した。 どうして、この人は、こんな時に笑みを浮かべることができるのか。 まるで、笑みを浮かべることが義務のように。 機能のように。 「なぁに、かつきくん」   再び、問いかける声に、僕は、言おうとしていたことを思い出す。   管理人さんが腕に抱く──。   ──置いていけ   冷たい声が告げる。 逃げるには邪魔だ。 それを。 それを置けとは、僕には言えなかった。 「行きましょう」  「ええ」   いつもの暖かい声。 その言葉は、いとも空々しく響いた。  壊れている。 壊れている。 壊れている。 管理人さんは、壊れている。   僕は、自分に言い聞かせる。 ──を救えなかったショックで。 おかしくなっているんだ。  今、浮かべている笑顔も。 優しい声も。 壊れた結果にすぎない。 そう考えないと。 もっと恐ろしい結論になってしまいそうで。   僕は考えたくなかった。  屋敷の裏手は、小さな森。 森には夜霧が立ちこめていた。  清澄なはずの夜気は、無数の男たちの汗と息で、汗ばむほどにぬくもっていた。 べったりとする霧の中を、僕は管理人さんを連れて歩いた。  囲まれていることは分かっていた。 慎重に距離を取りながら近づいてくる男たち。  だが、撃ってはこない。 今は、まだ。 散開して、陣形を整えている。  つまり。 密集していては使えないような武器を準備しているわけだ。  こちらから攻めるべきか? けれど、この状態の管理人さんを、放って走り出すのは気が引けた。  森を抜け、公道を目指していたその時。 ごうっと風が鳴った。  爆風。否。炎風。  視界が……風の流れに頼っていた視界が、熱風でぐにゃりとゆがむ。  僕は、めまいを感じて、うずくまる。 「かつき……くん?」  管理人さんの声。 心配して声をかけた、と、言いたいところだったが。 今では、確信がもてなかった。  僕は、立ち上がる。  僕らめがけて、真っ赤な火線が、数条放たれていた。 線はあっという間に広がってゆく。  煙臭さ。そして、目が痛くなるような、ガソリンの強いにおい。 火炎放射器だ。  歩き出す内に、僕らは炎に囲まれていた。 「ちぃっ」  僕は、水の鞭をふるって、炎を遠ざける。 火はともかく、早くしないと煙に巻かれそうだった。 「急ぎましょう」 「ええ」  身を低くして僕は、森を駆け抜ける。  視界が利かない。 赤く燃える炎と、熱風のせいで、人の目も、魚人の目も同様に封じられていた。  だから。 目の前で、めりめりと大木が倒れた時。 僕は、かわすのが精一杯だった。  黒く細いものが、ひゅんひゅんと音を立てる。 煙を切り裂いて、あたり一体の木を切り倒す。  炎の中に浮かび上がった影。  それは、あの時見た、黒い巨人だった。  ごうごうと炎が燃える。 ばちばちと火がはぜる。  火の粉が飛び、燃える下生えの中、巨人は、立ちつくしていた。 まるで急ぐ必要はないというように。  その通り。 巨人が炎と煙に耐えられるなら、先に死ぬのは僕だ。  急がなくてはいけない。  ふわりと、巨人が動く。 右腕を大きく振りかぶる。 腕がゴムのようにぎりぎりと伸びた。  ひゅんと、風を切り裂き、腕が伸びる。 僕は、とっさに水の鞭で腕を受け流す。  ぱしゃん、と、音がした。  ぶおんと鳴る触手を、僕は、地面にはいつくばってかわす。 焼けこげた草の中に顔をつっこみ、僕は、悲鳴をかみ殺した。  かろうじて立ち上がる。 幸い、目はやられなかったようだが、髪が焦げていた。  ──何が起きた?  僕の手には、もはや水はなかった。  あの時。 鋼の強度を持って巨人の一撃を受け流すはずだった水の鞭は、腕に触れた瞬間。 ただの水に返っていた。  巨人が、ふたたび腕を振りかぶる。 このままでは、まずい。 それは明らかだった。  鈴が鳴るような音を立てて、二本の腕は宙に伸びた。  挟み込むように襲い来るそれを、僕は、かろうじて避けた。  荒い息をつく。 遠くから一直線に飛んでくるそれをかわすことは、そう難しくない。 集中していれば。  だが、背を向けて逃げ出して。 後ろから斬られたら? 僕には後ろからの攻撃をかわす自信はなかった。  とはいえ、とどまることもできない。 こうしている間にも、煙は、どんどん濃くなってきているのだ。  覚悟を決めるしかない。 そう思った時だった。  巨人の腕が、地面に伸びる。  巨人の周囲に散らばる無数の木。 その一本を無造作につかみあげた。  ごうんと音をたてて、大木が宙を舞う。  よけた。 いや、当たらなかったというべきだろう。  轟音を立てて、丸太は、僕のすぐ前に落ちた。 火の粉が飛び散り、視界をふさぐ。  まずい、と、思った。  放られた丸太は最初の一本でしかない。  ひゅんひゅんと音を立てて、無数の燃える丸太が僕のほうへ飛ぶのが、わかった。  だが、僕は、どこに逃げていいかもわからなかった。 「克綺クン!」  堅いものが、僕を突き飛ばす。 それは、管理人さんの腕だった。  ごろごろと僕は転がる。 地面に触れた頬に。腕に。鋭い痛みが走った。  火の粉を払い落としながら僕は、見た。  それは、あたかも巨大なキャンプファイアのように。 無数の木が積み重なり、火を噴いていた。   顔を向けるのも痛いほどに燃えさかる炎が、動く。  そこには、紅蓮の炎の中に、立ちつくす、管理人さんがいた。  管理人さんの肌の上で、真っ赤な炎が音を立てて燃えていた。 髪もエプロンも服も火を噴き、それでいて、何一つ焦げてはいなかった。  ──いや。 管理人さんの右腕を、炎がなめていた。 指から、腕から、焦げた皮膚が、ぼろぼろと落ちてゆく。 その下から姿を現したのは。  あれは──人形? それは、象牙色の人形の腕だった。  炎の中に青白く光それを、僕は美しいとさえ思った。 「管理人さん!」  僕は、炎の中のヒトガタに向けて叫んだ。 「かつき……くん?」  か細い声は、しかし、燃え上がる炎の中から届いた。 「早く、逃げないと!」 「めぐみちゃんを……さがさないと」  管理人さんの腕には、すでに死体はなかった。 木の山に埋もれた時に落としたのだろう。  のろのろと。のろのろと。 象牙の腕が、足下の地面をさぐる。 「やめろ!」  僕は、ほとんど悲鳴のように叫んだ。 燃える炎に埋もれた──の死体。 そんなものを、見たいとは思わなかった。 「でも、めぐみちゃんが……」  その言葉を聞きたくなかった。  僕は、走って、管理人さんの腕を、象牙の右腕をつかんだ。  手のひらに、嫌な痛みが走る。 じゅうと、焼けこげる音がした。 「くっ」  それが、引き金だったかのように。  管理人さんが、倒れた。 それは糸の切れた人形のような。 人にはあり得ない倒れ方だった。  管理人さんの体を受け止めた瞬間。  それは、かたり、と、音を立てた。  意識を失った管理人さんの身体は、石の塊のようだった。 膝が揺れ、景色が揺れた。 衝撃は、頭から背筋に走った。   未だ炎が弾ける地面に、僕はつっぷしていた。 背には石のような塊──管理人さんだ。   とっさに息を吸い、激痛が走った。 火の粉が鼻と喉を焼いたのだ。 僕は、もがいた。 痙攣するように四肢が動く。 だが、動けなかった。   管理人さんは、すっかり意識を失っていたようだ。 痛みが意識を縛り付けていた。   ──早く。早く立ち上がらないと。 逃げないと。   この炎の向こうに巨人がいる。 一歩ずつ、こっちに迫っている。   今にも。 今にも、炎の壁を貫いて、黒い腕が現れるのではないか。 粘るような恐怖が、胸の奥で、うごめいた。  ごうっと音を立てて、目の前で炎が割れた時。 だから、僕は、死を覚悟していた。   だが、そこにいたのは、あの黒い巨人ではなかった。 背の低い、くたびれた背広の男。 「九門克綺君ですね」   燃える炎の中で、どこか愛嬌のある声が、そう囁いた。  「お迎えにあがりました」   差し出された手。 朦朧とする視界の中で、その手を、僕は取った。 妙に冷たい手。  それが、最後の思考だった。  目が、覚める。 不思議なもので、目覚めた瞬間に、学校だ、と分かった。  静かで広い気配。そして匂い。 おそらく教室だろう、と、見当をつけて目をこする。  違った。 学校だったが……ここは、礼拝堂だ。 僕が寝てるのは、座席の上だった。毛布がかけられている。  息を吸い込もうとして、ひどい咳が出た。肺を吐き出すような咳で、血の混じった痰を吐く。 背中をさする手。大きな、だが冷たい手に振り返る。 「大変ですね」   仏頂面の男が、僕を見ていた。  「こ……」   しゃべろうとして、咳がぶりかえしかける。 僕は、小さく息を吸って、ささやくように聞いた。 「ここは……?」  「メルクリアーリ様の御領地です」  「メル……」  「〈私〉《わたくし》、田中と申します」   男は、そう言って、律儀に頭を下げた。 すっかり寂しくなった頭頂が見える。 静かに、静かに、深呼吸をする。 「これをどうぞ」   差し出した湯飲み。 中身は……湯冷ましか。 こくり、と、喉を鳴らして呑み込むと、不思議に落ち着いた。  「今、メルクリアーリ様を呼んで参ります。 今しばらくお待ちを」  そう言って、田中は去っていった。  立ち上がると、夜気の冷たさが身にしみた。 手と、顔が、ひりひりする。 火傷。火事。  あぁ、と、ため息が出る。  まぶたの裏に、あの光景がよみがえった。 恵と……  管理人さん。  心が痛かった。 苦いものがうずまく胸に、僕は、制服の上から爪を立てる。 「九門君」  快活そのものの声が、僕を闇から引っ張り出す。 「メルクリアーリ……先生」   ステンドグラスに紅く染まった月光が、神父の白い肌を彩っていた。 見慣れたいつもの笑顔が冷たく見えたのは、そのせいか。   僕は身を起こした。 何のため? 逃げる、ためだ。  ──足音さえも、聞こえなかった。   僕の耳は……魚の耳は、かすかな、衣擦れも聞き分ける。 それなのに、目の前の神父が近づく瞬間を、僕は全く感知していなかった。 僕の聴界の中で、それは無から湧き出たも同然だった。   静かに起きあがりながら、僕は、手足の力を計っていた。   心のざわめきを知らぬげに、神父は歩を進めた。 「落ち着いてください。 なんて顔をしてるんです」   そう言って苦笑する。   緊張は消えない。 手は、動く。 足は、体はまだだ。  「聞きたいことはいろいろあると思いますが──」   声が、耳をすりぬける。 僕は、神父の全身の動きだけに意識を絞っていた。 「花輪さんも、恵さんも、ひとまず無事です。ゆっくり、お休みなさい」   言葉が、僕を、打ちのめす。 顔が、怒りに歪むのがわかった。 見え透いた嘘。慰め。  「恵はっ!」   叫んで、咳き込む。 「ええ、無事です。 病院に運びたいところですが……それも剣呑ですからね。 今は、ここが一番安全です」   咳をこらえ、僕は、立ち上がった。 動かない足を投げだすように進み、神父にむしゃぶりつく。  「嘘をっっ! 言うなっっ!」   神父の手が、僕の手をつかむ。 柔らかに添えられたその手は、しかし、氷のように冷たかった。 「九門君、気持ちはわかりますが無理は禁物ですよ」  神父が、僕の腕を肩に〈背負〉《しょ》い、そのまま、ゆっくりと歩き出す。 僕は、なすすべもなく、引きずられた。 「心配なのはわかりますがね」  つま先が、床に線を引く。 僕に肩を貸す形で、いとも軽々と神父は、礼拝堂を進んだ。 袖のほうにあるドアを開ける。  司祭室には、ベッドがしつらえてあった。 そこに──。  恵が、いた。 すやすやと寝息を立て、管理人さんの腕に抱かれて、まるで母娘のように、毛布にくるまれていた。 「めぐ……み?」  神父が、口に指を当てていた。 「安心しましたか?」  僕は、うなずくことしかできなかった。 「では、あなたも眠ったほうがいい」  神父は、かすかにほほえんだ。 神父の発する気配。 人外の気配は衰えなかったが。 その言葉で、僕の力が抜けた。 「お眠りなさい。ここは安全です」  耳元に、声は、甘く、遠く響いた。  目覚めた時は、すでに暗かった。 寝袋の中から、僕は、ゆっくりと体を起こす。  ──どこだ?  風の流れを感じれば、それは、広い広い空洞だった。 冷たい岩の天井と地面。 見渡す限り横たわる、無数の……柩? 「おはようございます」  渋い声がかかる。  背広の男。 田中が、執事のように腕を折って立っていた。  「お加減は、いかがですか?」   言われて、痛みがぶりかえした。 頭痛と疲労がのしかかる。  「……主観的には、最悪。 しかし客観的に状況を考慮すれば、好調と言うべきだろうな」  肩に膝。 腰に首。 あらゆる関節が痛んでいたが、肺も、喉も、痛みは、ほとんどなかった。 皮膚の火傷も、ほとんど感じない。   ──僕の力、というわけだろう。 「それは、ようございました。 お食事は、いかがいたしますか?」   腹は、減っていた。猛烈に。 よほど物欲しそうな顔をしたのだろう。 答えるより早く、田中はうなずいた。  「では、こちらへどうぞ」  言われるままに、僕は寝袋を出て、田中についた。 制服は、相当ひどいことになっていた。 煤は綺麗にぬぐわれていたが、焼けこげは仕方がない。 汗もふくめてひどい臭いだろう。  「湯浴みされますか?」   見透かしたような一言に、僕は首を振った。 神父も、この男も、まだ完全には信用できない。   まずは、説明だ。  階段を上ると、神父の私室に出た。 「待っていましたよ、九門君」   窓から、まぶしいくらいに陽が入っていた。 どうやら、まだ朝早いようだ。   陽の光で見る神父は、昨日の冷たさは感じられなかった。 感じられはしなかったが──それが、そこにあったことは忘れまい。  ぷん、と、香ばしい匂いが鼻をつく。   神父の机には、カリカリに焼いたベーコンと、目玉焼き。 そして熱々のトーストが並んでいた。 皿は、二人分あった。 「花輪さんの手料理には、及ばないかもしれませんがね。 よかったらご一緒にいかがですか?」   否応もない。 皿の上でジュウジュウと音を立てるベーコンに、僕は手を伸ばす。  「いただきます」  「めしあがれ」  カリカリのベーコンは、かみしめるほどに味が出て、目玉焼きの焼き具合も、最高の半熟だった。 食べれば食べるほどに空腹が意識される。  幸い、おかわりは山のようにあった。  牛乳を飲み干して、ようやく人心地がつく。 「ごちそうさまでした」   たとえ相手が誰であれ、ごちそうになったことは確かだ。  「おそまつさま」   笑う神父。 「ところで、メルクリアーリ先生」  「あなたは、何者ですか? 目的は何ですか? 恵と管理人さんの調子はどうですか?」  「そうそういっぺんには答えられませんよ」   苦笑する神父から、僕は目をそらさない。 次の言葉に神経を集中させる。 「では、順番にお願いします。 先生の正体と目的を」  「朝食にふさわしい話題ではありませんね。 それに、だいたいのところは分かっているのではありませんか?」  「人間ではない、ということですか?」  「そう。人外の民です。 俗な名前で言うならば、吸血鬼ということですね」 「先生は……人を殺すんですか?」  「ええ、生きるためにはね」   静かに言い切ったその言葉に、僕の背筋に冷たいものが走った。  僕は武器を求めて辺りを見回す。魔力を集中させる。 皿に残る水蒸気、コップについた水滴、それから――。  「おっと……物騒なことはなしですよ」   神父は両手をあげた。 「僕の血も狙っているわけですか?」   管理人さんが言っていた。 僕の血肉は、人外にとって大いなる力となる、と。  「答えは、ノンです」  「なぜですか?」  「私を信用してください。 あなたを襲うなら、昨日の晩にでもできましたよ」 「助けていただいたことには感謝します」  「それはどうも」  「助けた意図を聞いてよいですか?」  「良きキリスト者として、困っている生徒に手をさしのべたまでですよ」  「質問を変えます。 僕を殺さずにいることで、先生は、いかなる利益を得るのですか?」   神父は、小さく息をついた。 「政治ですよ、政治。 確かに、九門君の血をいただければ、大いなる力が手に入りますがね。 過ぎた力は身を滅ぼします」  「説明してください」  「さて、どう説明したものやら……」   神父は一瞬目を閉じて、それから口を開いた。 「九門君は、人外を、どういう存在と考えていますか?」  「人間以上の能力を持った存在」  「間違いではありませんがね。 しかし、人間より力があるのなら、とうの昔に、人類を支配してしかるべきだと思いませんか? 少なくとも、あの魚たちのように、こそこそ隠れたりせずに」   確かに、そうかもしれない。 僕は、首を振った。 「我々はね。 人間以上の存在などではないのですよ。 むしろ、天敵に怯える小動物のようなものです」  「管理人さんのことですか?」  「ええ。 九門君もご存じの通り、彼女は強大な守護者です」  「しかし、管理人さんは、昨晩は倒れていたのでしょう?」 「ええ。 天敵は彼女だけではありません」  「何ですか?」  「あなたを襲った存在ですよ」   軍服の男達。  「ストラス製薬といいます」   神父は、はき出すように、その名を言った。 「ストラス……」  「あなたを襲った兵士達ですよ。 どうやら、最初から話をしたほうが良いようですね」  「お願いします」   すっと、盆が差し出された。 湯気の立つカップが載っている。 田中が一礼して去る。 僕は、思わず中をのぞきこんだ。 「ただの紅茶ですよ。 血じゃありません」   神父は、そう言ってにやりと笑った。  「どうですか? 田中の入れる紅茶はうまいですよ」  「いただきます」   カップからは、リンゴの薫りがした。 口の中で、心地よい酸味がはじける。 「この狭祭市には、いくつか裏の顔があります。 一つは、我々人外の民。 そして、ストラス製薬です。 あなたが見た、あの兵士達ですよ」  「製薬会社が、なぜ?」  「さっき九門君が言った通り、我々は、様々な力を持っています。 たとえば、人間なら死ぬような怪我や病からも回復できる」 「生薬の材料にするというんですか? 量産が効かなそうですが」  「生薬であればね。 薬効成分は抽出し、合成することもできます。 ストラスは、その方法で、新薬を開発してきたんですよ」  それなら、うなずける。 既存の薬品の薬効成分は、そのほとんどが、元を辿れば生薬から分離されたものである。   自然の多様性は、人類の化学実験を遙かに凌駕するのだ。 未知の植物や生物から、新たな薬効成分が見つかることも数多い。 そう考えれば、自然の理さえ越えた人外の民から薬物を抽出するというのも理解できる。 「ストラスにも人外がいるようですが……それも政治ですか?」  「何のことです?」  「黒い巨人がいました」  「あれは……人間ですよ」  「人間とは思えないことをしていましたが」 「それでも、人です。 人が、人の力で作りだした実験体です」   神父は肩をすくめる。  「人であるが故に、人外の技が通じない厄介な連中です」 「ストラスが人外を狙っているのは、わかりました」  「はい。あなたの血を吸ってもいいですが、それでストラスに目をつけられ、潰されてしまっては割りにあいませんからね」   僕は紅茶をすする。 「そのストラスが、どうして僕らを襲ったんです?」  「さぁ。 それは彼らに聞いてみないことには」   吸血鬼の神父は、優雅にカップを傾ける。  「人外の民が、あなたの力を手に入れるのを恐れたのかもしれない。 あるいは、あなたの力自体が狙いなのかもしれない」 「いずれにせよ、しばらくは、ここにいたほうがいい。 この学校の中なら、あなたも安全です」   僕は、うなずいた。  「恵と、管理人さんに会いたいです」   神父が、かすかに眉をひそめたのを、僕は見逃さなかった。  「容態が、悪いのですか?」   神父は、かるくうなずいた。  胸にくろぐろとしたものが渦巻く。 「病院は……」  「ストラス総合病院に、ですか? 今、外は危険すぎます」   神父の言葉に、僕は、うなずかざるをえなかった。 「会わせてください」  「もちろんです。 けど、その前に……」  「なんですか?」  「着替えを用意しましょう。 シャワーも浴びたほうがいいですよ」   僕は、うなずいた。  シャワーを浴び、糊のきいた制服を身につけて、僕は神父と一緒に教会の外に出た。  一時間目が始まった校舎内。 廊下は静まりかえっていた。 「ここですよ」   神父が立ち止まったのは、四階の外れ。 今は使っていない、空き教室の前だった。 戸は、金色のレースで飾られていた。   いや、違う。 目を近づければ、それは、信じられないほど細い、金の鎖だった。 それらがつづれ織りのように、戸口の上にかけてある。 「触らないでくださいね」  「何ですか、これは?」  「人目を引かないおまじないです」   神父はそう言って、戸を開けた。  机のない、すっかり片づいた教室には、簡易ベッドが持ち込まれていた。  がらんとした風景は、ひどく、痛々しく思えた。 「……お兄ちゃん?」  ベッドから、恵が体を起こす。 「恵、平気か?」  近づく。 恵の白い肌は、赤く上気していた。 小さな胸が上下していた。 「……ん」  そう言ってうなずくのも苦しそうだ。 「ここ、どこなの?」 「学校だ」 「そう……」  苦しげにそう言って、恵はベッドに倒れ込んだ。 「だいじょうぶか?」 「ん……」  枕の上で、かすかにこくん、と恵が頭を動かした。 「きっと、よくなるからな」  僕は、毛布の下の恵の手を取った。 その手は、汗ばんでいたのに、ぞっとするほど冷たかった。 かすかに恵がほほえむ。 「九門君、そろそろ……」  耳元で、神父がささやき、僕もうなずいた。 僕がいると恵が興奮する。 部屋を出たほうがいいだろう。 「じゃぁ、また来るからな。ちゃんと寝たほうがいい」  目でうなずく恵。 顔にかかる髪を、僕はそっと揃えて、背を向けた。  思いは残るが、仕方がない。  神父とともに廊下に出る。 「管理人さんは?」  「こっちです」   神父は、隣の教室を指す。  「先に言っておきますが、ショックは受けないでください」  「どういうことですか?」  「彼女は……特殊な状態にいます」   それ以上の言葉を聞かず、僕は戸を開けた。  恵と同じ、教室の真ん中のベッド。 急ごしらえの看護室。 そのベッドの縁に管理人さんは窓のほうを向いて腰掛けていた。 「……管理人さん?」  声をかける。 それが、ゆっくりと振り返る。  首が回り、  それに、つられて肩が、腰が回る。 ひどくばらばらな動きだった。  人という入れ物の中で、その滑らかさを保証する大事な糸が切れてしまったような。 壊れてしまった部品を無理矢理に針金で結んだような。  管理人さんの顔には微笑が浮かんでいた。 背筋を冷たいものが走る。  僕は、思わず、神父のほうを振り返った。  ──あれは、なんだ? 管理人さんを、どこへやった? そう、思い切り問いただしたかった。  かすかに細めた目。 つりあがった唇。 茶色の瞳は、こちらを見つめる。 けれど、そのすべては、どうしようもなく壊れていた。  それが、立ち上がる。  全身から歯車の軋む音が響いた。  手足を不揃いに振って、僕へ近づく。  我知らず、僕は、あとずさっていた。 「もういいでしょう。彼が、怯えています」  神父の声は、僕にではなく、目の前の……それに向けられていた。 それは、神父の言葉を理解したのだろう。  ぎくしゃくと背を向けて、ベッドに戻る。 「さぁ」  神父に促されるまでもなく、僕は、駆けるように部屋から出た。 「あれは……あれは、なんなんですか!」  神父の私室に戻り、僕は、そう叫んだ。 「花輪さん……あなたのご存じの管理人さんです」   論理的には、その通りだ。 その結論は認識している。 にも関わらず。 僕は、やはり、あれを管理人さんと認めたくなかった。  「落ち着いて。お茶をどうぞ」  言われた通りにする。 琥珀色の香りに、僕の動悸は少しだけ静まった。 「あなたは……彼女から、どこまで聞いています?」  「管理人さんは……母親、お母さんだ、と」  「人外は、想いの結晶です。 そして彼女は、母親の想いを集めたものだ」  「集めた?」   僕は神父をにらんだ。 「ええ。母の想いを託す形代。 人形なんですよ、あれは」  人形。ヒトガタ。 あの、魚たちを屠った姿のほうが、本来の管理人さんであるということなのか。  おかしいな。 昨日までは。 管理人さんがヒトガタであると知っても、平気でいられたのに。 なぜか──涙が。 「あれは、母が子を守る想いが、人形に宿ったもの。 子を失った父の武器を載せたもの。 人に仇なす人外を殲滅する意志なき機械として始まったのです」  「それが……」  「私にはわかりませんが……計り知れない年月の中で。 あれは知ったのでしょう。 子供を守るには、力だけでは足りないと。 敵を屠るだけでは足りない、と」  「……それで?」 「人形の本質は、人をまねることです。 あれは、慈しむことを真似、覚えたのでしょう」   その言葉は、僕を揺さぶった。 管理人さんが。  あの笑顔が。 人真似だったというのか。 倦まず、たゆまず、ただひたすらに恵を看護できたのは、機械だったからだというのか。 「真似というな」   精一杯の怒りを載せた言葉は、しかし弱々しかった。  「お好きなように」   神父は肩をすくめる。 「なぜ、管理人さんは……あんな風に」  「私は、現場にいなかったものですから正確なところは、わかりかねます。 ただし、想像はできます」  「あれは、己をなげうって、人を護り、人に尽くすために作られた機械です。 機械が壊れるのは、作動目的を違えた時です」  「あの人は……恵を見殺しにした。 いや、しかけた」   恵は生きている。 生きているのだから。 「では、それでしょう」   神父は、小さくうなずいた。  「人を殺すなかれ。 それは、あれにとって一番重要な作動原理でしょうから」  「それだけで……」  「我々人外は、少なからず、己の想いに縛られているのですよ。 力の強いものほど、その縛りも大きい」 「どうすれば、治りますか?」  「見当も付きません。 また、時が流れれば、あるいは」  「そうですか」  僕は、ふらふらと、司祭室を出た。 「それから、九門君」  ゆっくりと振り返る。 「もうすぐ授業が始まりますよ」  「授業?」   それは、どこか遠い国の言葉に聞こえた。  「この学校にいる限り、安全です。 ならば、出席数を減らすことはない」   言っていることは、分かった。 けれど、言っている意味はわからなかった。  常識外の力を手にし、家を焼かれ、恵は撃たれ。 それでも、日々は同じように進むということか。  「さぁ、早く。授業が始まりますよ。 2時限目は、美乃先生の数学でしょう」   こくり、と、僕は、うなずいた。  そうか、今日は、月曜だったんだ。 そんな、らちもないことを思った。 「九門です。遅刻しました」 「九門君、カバンはどうしたの?」 「なくしました。それで遅れました」  より正確には、カバンを無くすに至る出来事によって、遅刻することになったわけだが。  僕は、自分の席に着席する。  美乃先生の授業は、評判がいい。  思うに、評判のいい先生には、二つの系統がある。  一つは、授業、あるいは受験というものを一個のゲームと割り切り、そのテクニックを効率よく伝えるのに特化したタイプ。 点数を取るのに必要な技術を最短距離で伝えるタイプだ。  もう一つは、やたらと脱線し、話芸で受けを取るタイプだ。 美乃先生は、どちらかといえば後者だろう。  方程式の話、一つするにせよ、世界中を縦横に駆けめぐる。 ギリシャの数学者たちが、互いに問題を出し合い、金と名声をかけて勝負していた時、式の解法は、門外不出の秘伝だった。  僕にとっても、集中できる授業はありがたかった。 「そこでだ。もし、君たちが、これらの解の公式を覚えて。 古代ギリシャ……3世紀に赴けば、金は稼ぎ放題だ。 ついでに歴史に名前を残してくるといい」  らちもない話を聞く一方、板書をノートに写し写し写し問題を解いて解いて解いて解く。 めったにないほど集中力が発揮される。  これは一種の現実逃避なのだろう、と、僕の中の何かが思う。 そんな思考さえも脇に押しやるために。 僕は数字と記号操作に没頭した。 「いや、どーやって古代ギリシャに行くんすか?」  峰雪のツッコミに美乃先生が肩をすくめる。 「……それは、物理の岩沢先生に聞いてくれ」  教室中の笑い声に、僕は、身をゆだねた。 教室の匂い。 ざわついた空気が心地よかった。  僕は、深々と溜息をついた。 神父の言う通りだ。 授業に出ることは、確かに、頭を冷やす効果がある。  古代ギリシャから、エジプト、アラビアをぐるりと回った頃に、チャイムが鳴った。 牧本さんが号令をかける。 「起立! 礼! 着席!」  そうして授業は終わった。 「よぉ、どうした?」   峰雪が寄ってきた。  「何のことだ?」  「ん? カバン落としたんだろ? テメェにしちゃ珍しい」  「ふむ」  「ふむじゃねぇ!」 「カバンは落ちたんじゃない。 焼けたんだ」  「カバンが焼けたぁ? 何すりゃ燃えるんだ?」  「簡単なことだ。家が焼けたんだ」  「火事かよ! おい、だいじょぶか? 恵ちゃんは?」  「僕は大丈夫だし、恵も無事だ」  「ならいいけどよ」   峰雪は、一つ大きく息を吸った。 「ンな大事なこと、なんで今まで言わなかった!」  「僕にとっては大事だが、君にとって大事とは限るまい?」  「限るか限らねぇか、聞いてみろってんだ、この唐変木が!」  「……そうだな。 そこまでは頭が回らなかった」 「で?」  「で、とは、なんだ?」  「なんだ、その。片づけとか引っ越しとかあんだろ? 手伝うぞ?」  「それには及ばない。 片づけるようなものはないし、引っ越しの必要もない」   片づけるべきものは燃え尽くしたし、引っ越しはすでに終わっている。  「そうか。ならいいけどよ」 「九門君、火事って、ほんと?」  「家が燃えたのは確かだ」   火事と形容すべきかどうかは微妙だ。 焼き討ち、というほうが正確な気がする。  「ノートとか、だいじょうぶ? 焼けちゃったんでしょ?」   ──そういえば。 教科書はともかく、取ったノートは、どうにもしようがない。 「コピーいる?」  「あると、ありがたい」  「じゃ、明日、持ってきてあげるね」  「お願いする」   牧本さんは嬉しそうだった。  僕が不幸だから嬉しい。 というわけではなく、僕を助けることができるから嬉しいのだろう。 管理人さんも、よく、あんな風に笑っていた。 「なぁ峰雪、心ってなんだろうな」 「なんでぇ、藪から棒に」  「人工知能というのがあるな。 あれに心はあるのかな」  「学問の進歩ってなぁスゴイらしいなぁ。 俺ぁよく知らねぇが」   焦点の外れた答え。 いや質問が悪かったか。 「もしも、コンピュータプログラムが進化して、人間みたいに笑ったり泣いたりしたら……心というのは、あるのかな」  「同じだろ」  「何がだ?」  「人間みたいに話して、笑ったりすんなら、そりゃ人間と同じだろ」  「計算された機械の反応であってもか? 痛いという機械は痛がってるのか?」 「あぁ。 〈色即是空〉《しきそくぜくう》、〈空即是色〉《くうそくぜしき》、〈受想行識〉《じゅそうぎょうしき》、また、かくのごとし、だ。 人間サマだって機械と変わらんだろ」   そんなものか、と、思う。 「何の話?」   牧本さんも顔を出す。 説明すると、少し考え込む。  「えーと、なんだっけ、それ。 チューリングテストって言うのよね」  「チューインガムがなんだって?」  「チューリングテストだ」   頭の片隅に残っていた単語を引っ張り出す。 「人工知能のテスト法でな。 要するに、チャットして、相手が人間か人工知能かわからなかったら、それは知性がある証拠だ、という考え方だ」  「へぇ」   峰雪が、面白そうな顔をする。 「克綺なんか、それやったら落ちるんじゃねぇか? おまえのしゃべり、機械っぽいからな」  「可能性はある」  「その場合、克綺は人間じゃないってことになるのか?」  「そ、そんなことないよ」   牧本さんが、なぜか、フォローに回る。 「チューリングテストには、そういう問題もある」   確か、他にも問題点があった気がする。 確か、“中国人の部屋”という反論があったはずだが……。 「何だかしんねぇが、一人で悩んでんじゃねぇぞ」  「うん」  峰雪と牧本さんが、早口でそう言って席に戻った。 僕は、かすかにうなずいた。  放課後。 6限のチャイムが終わると、ほぼ同時に、放送が入った。 神父からの呼び出しだ。 「なんかしたのか?」  「今後の相談だろう。 火事の件もあったしな」  「そっか。んじゃま、またな」  「また明日ね」  「あぁ」  二人と別れるのは、妙に物寂しい気がした。 明日も会えるというのに。 会えるのだろうか。  ともあれ、僕は、職員室に向かった。 「行きましょうか」   職員室に入ると、神父が僕に声をかけた。  4階の奥へ入る。 「九門君の部屋は、恵さんと一緒で構いませんか?」  「はい」   僕は、答えてから、少し考えた。 「いつまで、続くんですか?」  「はい?」  「匿っていただけるのはありがたいですが、ずっと、ここにいるのは、ぞっとしません。 せめて恵だけでも」 「心配はいりません。 今夜あたりにでも、話をつけてきますよ」  「ストラスと?」  「ええ」  「うまく行かなかった場合は?」   神父は、肩をすくめた。 「悪いほうに考えても仕方ないですよ。 その時は、その時、考えましょう」   もっともではある。  僕が戸を開けた時。  恵は、まだ、眠っていた。  この教室。 ここが、しばらく暮らす部屋になるわけか。 前の自室より広いといえば広い。 だが、なにもない。 「カーテンと、九門君のベッドは用意します。 他になにか、必要なものはありますか?」  「机があれば。 あとは、できれば、ネットにつながるマシンを」  「用意させましょう」   神父は、うなずいた。  神父が去り、一人部屋に残った僕は、大きく息を吸った。 管理人さんを見舞いに行こう、と、思う。 だが。 それを考えると足が竦む。 汗が、じっとりと、にじんだ。   「あれ」について、考えたくない。 理不尽な恐怖が体を満たし、自己分析さえできなかった。   握った拳。爪が食い込む。 「失礼します」  「田中さん」  「はい」   仏頂面のサラリーマンが礼をする。 「こちらをお持ちいたしました」   銀の盆に、ノートパソコンを載せて掲げている。 こんな時でなければ笑える光景だったかもしれない。 「セッティングはいかがいたしますか?」  「いえ、自分でできると思います」  「何かございましたら、こちらでお呼びください」   携帯もついてきた。  「わかりました」  僕は、田中を送り出して、一息ついた。 当面やることができたことに、安心していた。  教室の片隅のコンセントを見つけ、ノートパソコンをセッティングする。 通信カードもついていたので、ネットにもつなげる。  接続設定。メールチェック。 機械的な作業は気が紛れた。  一通りのカスタマイズが終わった頃には、少しだけ落ち着いていた。 さっきの峰雪たちとの会話を思い出す。 チューリングテスト。 中国人の部屋。  開通したネットで、関連語彙を調べてみる。 かなり多くのページが引っかかった。時間をかけて整理する。  チューリングテストを提唱したのは、アラン・チューリングという数学者。 人工知能どころかまだコンピュータ自体がほとんど存在しない頃に、コンピュータの基礎概念を作り出した人らしい。  彼の提唱したチューリングテストは、すなわち、人と同じ受け答えができるのなら、それは人と同じ知性を持つのではないか、という、アイディアだ。  細かな問題はともかく、納得はできる。  チューリングテストの反論としてあったのが、「中国人の部屋」だ。 これは、言ってみれば、カンニングペーパーの話だ。  もしも。 チューリングテストで行われる、あらゆる質問に対して、あらかじめ答えが書いてある紙が用意してあったら。 そして、コンピュータは、単に、入力に対して、その紙を読み上げているだけだったら。 「おはよう」と言われたら「おはよう」  「調子はどう?」と言われたら「まぁまぁだ」  そんな風に。 あらゆる会話のあらゆる流れに対して、あらかじめ用意された答えを読み上げる場合。 果たして、コンピュータは、考えている、と、言えるのだろうか? そういう疑問だ。  神父の言葉が耳によみがえる。  「人形の本質は、人をまねることです。 あれは、慈しむことを真似、覚えたのでしょう」  それが、もしも、人真似の積み重ねならば。 管理人さんの心は……僕が心と思ったものは。 果たして、本当に心の名に値するのだろうか。  僕は、小さく溜息をついた。 ようやく腑に落ちた。  僕が恐ろしいのは、今の管理人さんの有様ではない。 僕の知っている管理人さんが。 元々いなかったかもしれない。 すべてはただの幻想だったということ──。  しかし。 それを言うなら、そもそも人間の心だって、幻想ではないのか?  一個の脳細胞。 ニューロンが、物を考えていないことは確かだ。 それは単に、与えられた刺激に反応しているだけだ。  無数のニューロンがネットワークで結びつく時、「思考」と呼ばれるものが、立ち現れる。 では、その思考は、どこにあるのか?  頭を振る。 考えてもしかたがない。 すべては、自分で確かめるしかない。 管理人さんの……その心の場所を。  僕は、ノートパソコンを閉じ、部屋を出た。 足取りは重かったが動けないほどではない。  管理人さんの教室の前に立つ。  軽くノック。返事はない。  がらりと戸を開けて、原因が分かった。 ──部屋には、誰もいなかった。  僕は、携帯を取りだした。    「もしもし、九門君ですか?」   電話に出たのはメルクリアーリ神父だった。  「管理人さんが部屋にいません」  「……なんですって? わかりました。 今すぐ行きますから、その場を動かないでください」  僕は、携帯を切った。 急がなくてはいけない。  僕は廊下に飛びだした。  携帯がうるさく鳴り出す。  応えずに電源を切った。  急いで階段を駈け降りる。  下校途中の生徒達に混ざった。 ここまで来れば、彼らも僕を止められないだろう。 足をゆるめ、ゆっくりと外に出る。  非論理的な行動である、とは思う。 僕が、ストラス製薬……あの黒い巨人に命を狙われているのなら。 単独で管理人さんの捜索をすることは危険きわまりない。  だが、それはわかっていても、教室で一人で待っている気にはなれなかった。  学校を出る。 管理人さんのいる場所。 思い当たるところは一つしかなかった。  馴染みの坂道を登る。 燃えがらになった街路樹に、胸が痛んだ。  坂を登り終えると。 メゾンが。  その残骸が、見えた。  一面の瓦礫の山。 瀟洒な石造りの壁は、見事になくなっていた。 その瓦礫の上で、動く影が一つ。 「あら、克綺クン」  声だけは。 いつもの管理人さんの声だった。 優しくて快活で、聞くだけで元気がでるような、あの声。  それだけに。 「それ」を見るのが辛かった。 貼り付いたような笑みを浮かべた首は肩の上で、出来損ないのおもちゃのように揺れていた。  壊れた右手は、人形の本性を晒した象牙色。 手にも足にも、あの優美な動きはなく、ぎくしゃくとした動きで、「それ」は、僕のほうを振り返る。 「管理人……さん」  そう応えるのが、精一杯だった。 「待っててね。いま、お茶を入れてあげるから」  それは、腰をかがめて、瓦礫の中を探る。 その場所が。 管理人さんのキッチンがあったところだと、僕は、ようやく気づく。 「待っててね。いま、お茶を入れてあげるから」  録音された音声のように。 まったく同じトーンで、それはしゃべる。 瓦礫の下に、あるはずのない茶器を探す。 「待っててね。いま、お茶を入れてあげるから」  優美な声の響きが。耳に。残って。 「待っててね……」 「やめろ!」  僕は、叫んでいた。  びくり、と、それが、身を強ばらせる。  カタカタと音を立てながら、立ち上がって、虚ろな顔で僕を見る。 「やめて……ください」 「克綺クン」 「どうしたの!」 「つらそうだけど……何か、悲しいことがあったの?」 「うるさい!」  管理人さんの声。 いつも通りの優しい声。 そして、決められた通りの応え。 機械的な反応。  音が消えた。 目の前のそれは、身じろぎ一つしていない。 まったくの、無音。  それが、僕の命令の結果だと気づくのに、しばらくかかった。 「どうして、黙るんですか」  身勝手な、矛盾した物言い。 自覚はあった。  けれど。けれど。 そんな風に、命令通りに動かれたら。 ──本当に、機械みたいじゃないか。 「管理人さん?」  僕は、呼びかける。 ああ、でも、誰に。何に呼びかけているんだろう。 「はい」  こくりと人形がうなずく。 命令通りにうなずく。  カタカタと音を立てて、歯車が軋む。 「あなたは……誰ですか?」 「どうしたの、克綺クン」  馴れ馴れしい声が耳に障る。 「忘れちゃったの? 私は克綺クンの大家さん。メゾン・フォレドーの管理人よ」 「そんなことは聞いてません」  声が。命令が、人形を縛る。  応答を否定され、そのメカニズムが軋むのが分かった。 「あなたは……何なのですか?」 「私は……人を守る……」 「それは、意志ですか。それとも機能なのですか」  言葉は剣のように人形をえぐった。 手足が強ばり、からからと音を立てて歯車が落ちる。 「これは……みんなの母。人を護るもの」  耳を澄ませば音が聞こえた。  さらさらと粉になる。きりきりとねじれる。ぷちぷちと弾ける。  人形の中の、大切なものの一つ一つが、今、崩壊している。 それでも言葉は止まらない。 どろどろとした冷たい思いが口をついてでる。 「でも。あなたは恵を守らなかった」  びん、と、ひときわ大きな音が鳴った。 張りつめた弦を、ナイフで断ち切った音。 くたくたと人形が崩れ落ちる。  僕は、その肩を両手で支える。 まだ足りない。逃しはしない。 「あの時……あなたは、恵を見殺しにした」  僕は思い出す。そして気づく。 あの時。 恵を助けるべく走り寄った人形に。 銃を構えた兵士は叫んだのだ。  動くな、と。 そして、彼女は足を止めた。 命令に従って。 「あなたは人の言葉に逆らえない。 恵を守ることもできない。 あなたは管理人さんじゃない。ただの、機械だ」  息が乱れる。胸が痛む。けれど、吐き出さずにはいられない。 「克綺クン……」  冷たい手が頬に触れる。硬い腕が僕を抱きしめる。 一瞬、僕は身をすくめる。 殺されるかと思う。  けれど、目の前の人形は怒りさえしない。 そんな機能は最初からないのだろう。不必要だから。  かすかな、囁き声が僕の耳にひびく。 「……克綺クン、悲しいのね」 「うるさい!」 「悲しい時は、泣いていいんだからね」 「やめろ!」  そして、人形は、やめた。 命令に従い、全機能を停止する。 目からは光が消え、腕は、僕の肩からすべりおちた。  瓦礫の中に、がしゃんと音を立てて横たわり。 そのままそれっきり。 動かなかった。 「……」  しばらくは、息もできなかった。 「あ」  喉が叫ぶ。 「ああ……」  頬に濡れる感触。 「ああああああああああああああああああああああああああ!」  叫びが、止まらなかった。 赤子のように僕は号泣した。 跪き、瓦礫に頭を埋めて、僕は、泣き続けた。  夕闇が夜闇になる頃、風は、ひどく冷たかった。 泣きはらした目は痛み、手足は氷のようだ。  動きたくない。疲れた。体も。心も。 凍死、という言葉が頭をよぎる。  このまま動かないだけで。 動きたくない気持ちに身を任せるだけで、そうなることは間違いない。 案外、簡単なものだ、と、頭の片隅で思う。  じっとする。息を吐く。 ただそれだけのものになる。 考えることが面倒くさかった。  だから、瓦礫を踏む足音。 それが聞こえた時も。 深くは考えなかった。  神父の迎えでも来たのだろう、と、そう独り合点した。 そうして気づいた時には、遅かった。  いつのまにか星は雲に隠れ、街灯の明かり一つない全き闇。  そこに、無数の眼が浮いていた。  赤い瞳。青い瞳。 ちらちらと揺れるものも、大きく燃え立つものもある。  死にかけた心にも、その恐怖は届いた。 冷たい手足を、のしかかるように恐怖が押し潰す。 目の浮かんでいるのは、わずかに先。  かつてのメゾンの門近く。  メゾンが呪力で守られていたことは、想像がつく。 だが、今は?  浮かぶ目が、徐々に大きくなる。 見開いたのか。それとも近づいたのか。  その時。 吐息が、耳に届いた。  絶望したと思っていた。 死ねると思っていた。嘘だった。 気がつけば、僕は走っていた。   瓦礫を蹴り、暗い山道に飛び込む。 焼けこげた木々の跡を踏みしめ、ただひたすらに。 胸の中は、かつてないほど熱かったけれど。 魔力を編むことさえままならなかった。   怖い。   僕の中を、その感情だけが満たしていた。 恐怖は寒さだ。 どれだけ走っても。どれだけ汗を噴いても。 粟だった肌、手足の先の冷たさは消えなかった。     ──首。首筋を噛み裂かれる。 ──胸。穴が空いて血を噴く。 ──足。へし折られ、膝を割られる。 ──目。曲がった爪に、えぐられる。   ありとあらゆる死の光景が、確信となって肌を刺す。   ぎゅおん、と、闇が哭く。 恐怖が心臓を掴み、足がもつれる。 僕は、山道の中、転がった。      ──逃げられない。 その確信とともに、僕は顔を上げる。   吼え声があがる。音高く。 それは、長々と尾を引き、そして、唐突にとぎれた。 ようやく、僕は気づく。 これは雄叫びではない。 悲鳴だ──。      闇に浮かぶ瞳。その数は、明らかに減っていた。 今も、ひとつ。揺れて消える。 何かが戦っている。 いや、互いに喰らいあっているのか。 ひとつ、また、ひとつ、消える瞳。 やがて残ったのは、たった一組。 紅く、煌々と輝く瞳。   闇から、それが現れた。 「九門克綺、だな?」  男の威風があたりを払い、暗雲さえも吹き飛ばす。 星明かりに輝いた髪は、金髪だった。  「あなたは……」   白い羽織。 片手に握った血刀からすれば、サムライと呼ぶべきか。 金髪のサムライは、美しい唇をゆがめた。 「答えろ」  「僕が、九門克綺だ」  「彼方左衛門尉雪典、メルクリアーリ聖上の命によりまかり越した」  刃をふるって血糊を落とす。 鞘に収める澄んだ音がしたと思うと、太刀はどこかに消えていた。 「迎えに来てくれたのか?」 「聖上の命であれば、な」   言葉の端から、嫌悪の情がしたたりおちる。  「あの女はどうした?」  「あの女?」  「三つの一つだ。 花輪とかいう名乗りの」   花輪さん。管理人さんか。 僕は、黙って首を振る。 「消えたか」   その顔に、はじめて笑みが宿る。  「嬉しいのか?」  腹が、鋭い力で打ち抜かれた。  僕が倒れ込むと、ゆっくりと雪典が拳を引く。  雪典は、あたりを見回し、そして笑った。  「はは、いないか。 あの目障りな護りは消えたか」  「何が言いたい」   吐き気をこらえて僕は立ち上がる。  「逝け」  一閃。  見えた。 袖口から滑り落ちる短刀。 右腕が掴み、一振りで鞘が落ちる。 金色の刃が弧を描いて、こっちへ伸びる。   見えた。 しかし、動けなかった。  うしろにつんのめる。 それが限界だった。   サムライが指の中で短刀を滑らす。 金色の軌跡が喉をかする。  真っ赤な血が噴きあげた。  風が吹いていた。 紅い風が。 僕の喉から噴く血は、霞んだ風となって、雪典の短刀に吸い込まれてゆく。 「うまいな」   サムライが傲然と僕を見下ろす。 かろうじて、僕は生きていた。   両手で喉の傷を押さえる。 暖かな血が指を濡らす。 肘まで流れる頃には、冷め、粘つく感触が気色悪い。  本来なら致命傷だろう。 魔力を使った血流制御。   それが僕にできる精一杯だった。  僕は走る。 否。走ろうとして。  目眩に倒れた。 足が、もつれる。 つま先が冷たくなるのが、分かる。  雪典の腕から短剣が消える。  代わって袖から現れるのは、手槍だ。  朱塗りの柄を無造作に構え、突き降ろす、瞬間。   こつり、と、小石の飛ぶ音がした。  僕と、雪典は、目を見開く。   雪典の手の甲に、錆びた歯車が一つ。 何かの間違いのように、生えていた。  闇の中に音があった。  かたかたと揺れる音。 ぎしぎしと軋む音。   〈発条〉《ばね》の悲鳴に、弦糸の嘆き。 ああ、それは今にも崩れ落ちようとしていた。 「……ふん。 小僧の言葉などあてにならぬか」   雪典が振り向く。 そこに、それがいた。  人形というには人の形をとどめていない。 絡繰りというには、つながっていない。 機械と言うには壊れ果てている。 無論、人ではありはしない。  それは一本の腕だった。 象牙色をした人形の腕。  鋼の腱は切れ果てて、精巧に作られた五指は死んだように動かない。 それは、殻の下に詰まった歯車を回しながら、ゆっくりと、ごくゆっくりと、大地を這いずっていた。 「三つの守護者。その最上位が、この有様、か。ざまはない」  雪典が言い捨てる。 その通りだ。 「絡繰りの分際で、人などに操を立てるから、そうなる」  ああ、その通りだ。 「挙げ句に、生き恥をさらすか。醜い」  そうなのだろう。  これは、あらかじめプログラムされた最後の行動。 壊れかけた機械の断末魔。  雪典は、ゆっくりと歩き出す。 蠢く腕に槍を向け、無造作に腕を引く。  そして僕は……。 「やめろ」  叫ぶと、喉がぜいぜいと鳴って、血があふれた。  視界が一瞬かすむ。 雪典が、振り返る。 僕は、膝に片手をついて、まろび歩く。 「がらくたに、用か?」   雪典が、僕を見下ろす。  僕は、片手に腕を……管理人さんの右腕をつかむ。 右腕は、僕の手の中で、かすかに動いた。 多分、僕を護ろうとして。 「管理人さんに触るな」  「管理人だと? 笑わせる。 ぬしには、これが人に見えるか?」   人。そして人外。 人の外にあるものと機械。 ああ、どうして、そんなものにこだわったのか。 「人も機械も関係ない。 これは、命だ」  「命だと?」  「僕とおまえと同じ、命だ」  「儂の命が、このがらくたと同じだと言うか?」  「そうだ」  「戯れ言よ。聞き飽きたわ」  手槍が飛ぶ。 僕は、無様に手を伸ばす。  なんとか、掴めた。 「阿呆が」  ぐい、と、雪典が槍をねじる。  指の二本が落ち、掌の肉がえぐれる。 吹き出した血が、槍の柄を伝い、雪典に流れ込む。  気が遠くなるほどの痛み。 けれど、僕は、その痛みにしがみついた。 「あなたは、なぜ、僕を殺す?」 「貴様の血に力があるからよ。目障りな守護者もその有様だしな」 「それは、たぶん、正しい」  血を吸って生きながらえる吸血鬼。生きるために僕を喰らう。 人に尽くすために生まれた機械。 人の命に従い、その命を救うために身を投げ出す。  それが、不自由だと。 愚かだと言う前に。  僕は、何をした。 僕は、何の役に立つ? 何のために生きる? 「僕は、正しいことをする。僕は生き残る」  心臓が、熱い血を送り出していた。 全身の細胞が熱くなる。 流れ出るよりも速く、新たな血が生み出される。  槍を握った手に力を込める。  僕の腕の中で、それは砕け散った。 穂先と木っ端は、黒い霞となって消え去る。 「ふん、ようやく、やる気になったか」   無手の構え。 だが、あの袖口には、無数の武器が詰まっていること間違いない。  「ああ。僕は、生きる」  背を向けて走り出す。  二歩。三歩。 背後で、ひゅんと風を切る音が響き、かしゃりと何かが崩れた。  四歩。五歩。 胸が痛む。 「どこへいく」  声は耳元で聞こえた。  振り向くよりも速く。  ぼっ。と音を立てて。 胸に丸い穴が空いた。  ショックが神経を揺らし、脳細胞が枯死を開始する。 地面に落ちるよりも速く。  僕は、死んでいた。        血だらけの右掌を、胸に当てる。  これなるは人魚の力。歳ふりた〈汀〉《みぎわ》の民の、そのすべて。 夜闇の族の若造一匹。なにするものぞ。 「来い!」  僕は叫ぶ。 右手の穴。流れる血を鞭に変える。 「下郎が。いきがりおって」  サムライの指から光が閃く。 投剣。  そう思うよりも速く、鞭がたたき落とす。 長く伸ばした鞭が戻るよりも速く。  サムライは一歩で間合いを詰めていた。 額と額がふれあうほどの、至近の間。  重く鋭い膝と肘。かわした、と、思った瞬間。  左腕に痺れが走る。 短刀が突き立っていた。  続くサムライの手刀をかろうじてかわし、僕は背後へ飛ぶ。 「片腕で、よくもしのいだ」   雪典が笑う。 左の腕は、管理人さんの欠片を抱きしめていた。  「だが、次はないぞ。 捨てるなら今のうちだ」   僕は……  僕は首を振る。  「よかろう」  サムライは、距離を取る。  今度は、大きな和弓を取り出す。  つがえた矢は四本。  放つ音は一つに聞こえた。 一本一本が、曲がりくねった弧を描いて僕を狙う。  雪典の姿が風に溶けた。 矢よりも速く。 矢を供として。 サムライは一迅の風となって襲い来る。  速い。 さっきよりも速くなっている。  抜き打ちの一刀を、かろうじて受けた。 右腕に鞭を巻き、刃の威力を殺す。 衝撃だけで骨まで痺れる。   だが、そこまでだ。  あっさりと刃を捨てた雪典の五指が開き、腕をえぐる。  足が浮いたと思った時にはひきずり倒されていた。  間髪いれず、四本の矢が襲いかかる。  両の肩、そして膝を、地面に刺し貫く。 「さすがだな、この血は」   声には力が満ちていた。  「これほどとは思わなかったぞ」   白木の矢が紅く染まる。 それはまるで生き物のように脈動しながら貪婪に傷口を啜り、流れる血潮を吸い尽くす。  雪典は、膝を腹に落とす。 身をよじることもできないまま、呻く。 「まだ抱えているか」   雪典は、僕の左腕を面白そうにみつめたあと、その指で、僕の首筋に触れた。  にやりと笑うと、鋭く尖った牙が現れる。 ゆっくりと、その顔が近づいた時。  僕の腕の中で何かが蠢いた。 雪典が飛び退くより早く。  肉を食い破る音がした。 「な……」  雪典の羽織。 その真ん中に、黒い腕が突き立っていた。  半ばまでめり込んだ五指が、何かを掴み、そして握りつぶす。 「ごぁっっ!」  重いものが僕にのしかかる。 どす黒い、冷たい血がふりかかる。 いまや息のない死体に押しつぶされながら、僕の意識は、ゆっくりと遠ざかった。  僕は、管理人さんの腕を静かに大地に横たえた。これで、両腕が空く。  「それでいい」   サムライは唇をゆがめてうなずいた。  「彼方左衛門尉雪典、まいる」  大地を蹴ってサムライが飛び込む。 その胸板に僕は、血の鞭を放る。  かすかな銀光。  たったそれだけで、深海の水圧を持ち、あらゆるものを圧搾するはずの鞭は、頭を絶たれた。            夕焼けの中を走っていた。 足下にはシロ。そして脇には恵。 少しだけ肌寒い風の中を、僕は走る。 ただよう暖かな匂い。夕餉の香り。  「ただいま」   そう言って、僕は玄関の扉を開ける──。  目を開いた時も。 そのおいしそうな匂いは漂っていて。 僕は、しばらく夢と区別がつかなかった。 「克綺クン、起きた?」 「母さん……?」  そう言ってから、ようやく気づく。 母さんはいない。そして、管理人さんも……?  頭の下にあるのは、暖かな膝枕。  身を起こそうとして、僕は管理人さんの胸に顔をぶつけた。 「すいません」 「からだ、大丈夫?」  「はい」  生返事をして、あたりを見回す。 一面の瓦礫。メゾンの跡地だ。  だが僕のいる一角は、瓦礫がどけられ、綺麗に掃き清められた絨毯だ。 ここは、管理人さんの部屋なのだろう。 「待っててね。いま、ご飯作るから」  部屋の外では、管理人さんが、たき火をしていた。 〈飯盒〉《はんごう》とヤカンを火にかけている。 「炊き出しなんか久しぶりだわ。倉庫にあってよかった」  そう言って笑った管理人さんは。 まるで、今日までのことがなかったような。 優しい笑顔。 「あの……どうされたんですか?」  僕は、その問いを口に出す。 「克綺クンが助けてくれたのよ」  答えに胸が痛んだ。 「聞いたでしょう?  克綺クンの血は、人外に力を与えるって。 それは私にも、よ」  ずっと離さずに抱いた腕。 そこには僕の血が滴って……。 「まぁ、しばらく無理はできないけど、ゴハンくらいなら作ってあげられるわよ」  僕は、押し黙った。 言いたいことが多すぎて。 まとまらなかった。 「ほら、そんな顔しないで」  管理人さんの笑顔。 それは、どこかはかなくて。 僕は、うなずきながら涙を流した。 「はい、できたわよ」  瓦礫を重ねたテーブルと椅子。 焼け残った布とクッションを敷く。 それだけのことでも、管理人さんがすると魔法のように整った。  子供の頃。森で秘密基地を作った時。 そんな思い出がよみがえるほどに。 「お茶をどうぞ」  さすがにティーカップは割れていたようで、もらったのは管理人さんがほじくり出した大きなマグカップだ。 「はい。熱いから気を付けてね」  熱いのも道理。 食器は金属のボールだった。 中身は、味噌煮込みうどん。 箸は、枝を削った管理人さんの手作りだ。 「いただきます」  僕は、うどんを啜りこむ。 寒空に、この熱さはごちそうだ。 「おいしい?」 「はい。あの……管理人さんは、食べないんですか?」 「私は食べなくても平気だから。味、わからないし」 「え?」  僕は思わず聞き返していた。 「それは……どういうことですか?」 「私が生きるのに食べ物は要らないの」 「いえ、それではなく。味がわからないと……」 「あぁ、そのこと。 そうよ。克綺クンには、もう隠すこともないけど。 私、人形だから、味覚はないのよね」 「そんな……じゃぁ、どうして、料理が」 「そこはそれ、長年の経験です」  誇らしげに笑う管理人さん。 「だからね、今日の料理はちょっと心配。 いつものキッチンじゃないと、自信ないのよね。おいしい?」 「はい、おいしいです」  うなずきながら僕は畏怖に打たれていた。 味覚なしで料理を極めるには、どれだけの経験が必要なのだろう。 どれだけの時間が。どれだけの決意が。  一箸一箸に、その思いを感じながら、僕はうどんを食べ終わった。  うどんを食べ終わり、食器を積むと、やることがなくなった。 燃え続けるたき火を、僕は、ぼんやりと見つめる。  ──平和。 久々に訪れた、あまりにも平和な時間。 この時間を乱したくはなかった。  けれど。 いつまでもこうしているわけにはいかない。 あのサムライはメルクリアーリの部下だと言った。 それが、僕を襲ったということは恵も危ない。  僕は、立ち上がった。 「あら、克綺クン、どこへいくの?」  のんびりとした声がかかる。 「恵を、助けないと」 「待ちなさい」  管理人さんの声は、厳かだった。 「今は夜よ。今行ってもいいことはないわ」 「でも……恵が」 「あの人なら、恵ちゃんを切り札に使うはずよ。 今すぐ行かなくても命に別状はないわ」  どこに行くのか一言も口にしてはいないというのに、管理人さんは僕を押し止めた。 ――あの人なら、恵ちゃんを切り札に使う。 管理人さんの口調はおそらく、メルクリアーリを指している。 「しかし……」 「今、無理したら克綺クンのほうが死んじゃうわよ」  優しく、そして威厳に満ちた声。 自分が幼子に返った気さえする。 それでも、僕は彼女をねじ伏せることができる。  一言命令すれば。 いますぐ僕を助けて恵を取り戻せといえば。 彼女は否応なく従うだろう。 そんなことを思いついた自分が嫌で、僕は、仕方なく膝を折った。  沈黙。 ぱちぱちと、薪が爆ぜる音ばかりが響く。  夜が怖いわけじゃない。恵のためなら命など惜しくはない。 けれども僕は、管理人さんを道具のように扱いたくはなかった。 彼女の忠告を無視したくはなかった。  あるいは、あのメルクリアーリ神父が、恵を傷つけることなどあり得ない。 そう、信じていたかったのかもしれない。  暗闇の中、揺れる光に照らされて、管理人さんの横顔が浮かび上がる。  はかない。 今にも壊れてしまいそうな、笑顔。  よく見れば、その手は、震えていた。 何かを押しこらえるように、細かく、細かく。  唇が、機械的に、開く。 「ごめんなさい」 「なにが、ですか?」 「私、恵ちゃんを、助けてあげられなくて」  僕はまた気づかないうち、自分の感情を顔に出していたのだろうか? 無意識のうちに、無言のうちに、管理人さんを責め立てていたのだろうか?      あの一瞬が、鮮明に脳裏に蘇った。 恵が小さな身体を、弾丸に踊らせる。 腹、足、胸。立て続けに、銃弾が身体をえぐる。 僕は、届かない。恵を、守ることができない。 届くのは、管理人さんだけ。   でも、管理人さんは、動かなかった。 「動くな!」という敵の声に従って、恵を見殺しにした。 決められた入力に、決められた反応を返すだけ。 彼女は、機械だったのだ。 「あそこで恵ちゃんを守れるのは、私、だけだったのに」 「僕も、そう思います。 もしも神父が助けてくれなければ、今頃恵は命を失っていたかもしれません」 「そう、ね。 あたしはもう少しで、克綺クンの大切な人を……」  声が震え、視線がうつむけられた。 管理人さんはそう言ったきり、肩を落とす。  動きは、ぎこちない。 どこからか、みしりと音がする。 熱せられた薪の曲がる音だろうか。 それとも、歯車の軋む音だろうか。  頬が細かく揺らぐのは、炎のつくる陰影か、それとも……。 「私ってば、母親失格ね」  そんなことはありません。  その一言が、出なかった。 出せなかった。  その代わり、管理人さんの、身体を抱きしめた。 抱きしめずにはいられなかった。  以前、僕を優しく包んでくれた身体が、細かく震えていた。 歯車が軋み、今にも砕けてしまいそうなほど。 「ありがとう、克綺クン。でも、無理しないで」  無理なんかしていません。 そう、嘘がつけなかった。 僕は、無理をしている。 その証拠に、身体が震えている。 「僕は、どうして、嘘をつけないんでしょう?」 「無理なんて、する必要ないってば」 「僕は、もう、壊れてなんて欲しくないんです。 いつもの、管理人さんでいてほしいんです」  管理人さんを、慰めてあげたかった。 だから、僕は、抱きしめた。 ジレンマに挟まれ、自分の形さえ壊してしまいそうな彼女を。 「でも、これ以上してあげられません」  管理人さんは、恵を見殺しにした。 彼女は、ただの人形。 人間のいいなり。  僕が一言「消えろ」と言えば、この場を去るだろう。 昨日、恵を見殺しにしたように。 「僕は、管理人さんを、憎んでもいるんです」 「うん。そう、よね……」 「僕は、どうすればいいんですか? 管理人さんを、助けてあげたいのに、なにもできない」 「それじゃあ、私を嫌ってみたら?」  管理人さんは、それがごく当然のように、笑顔。 違和感を覚えるほど、繕われた機械の笑顔だった。 「嫌いになれば、私を助ける理由なんてなくなる」 「ふざけないで下さいッ!」   僕は、管理人さんに迫る。 見開いた目は、焦点が合わないほど、近く。  「管理人さんの提案は合理的ですね。 全く、合理的です!」   感情が、爆発した。 一度噴き出た感情の奔流は、とどまることを知らない。 「あなたは確かに、僕の妹を見殺しにした! 僕の命の恩人だが、それ以前にただの機械であるあなたに、これ以上の思い入れを抱かなければならない理由はない!」  「じゃあ、ね。 やっぱり、ここでお別れしましょう」  「別れられるなら、僕はあなたを助けてなどいない!」   決定的だった。 僕の中で、論理が弾ける。  ただの理屈で、管理人さんを見捨てられるわけがない。 嫌えるのならば、雪典が襲ったとき、彼女をかばうことなどしなかった。   僕はあの時、管理人さんを、助けようとした。 逃げ出さなかった。 今のこの僕なら、言える。 たとえ何度、同じ立場に立とうとも、僕は管理人さんを助けようとするだろう。 彼女を見捨てるなんて選択肢は、最初から存在しなかったのだ。   僕らは本当に、何かを選ぶことができるのか? 自由意志なんてものが、本当に、存在するのか? 「論理が正しいことを知っていても、選べない。 感情だけが吹き出しても、割り切れない。 僕はとても不自由だ」  「そして、それは、あなたも同じなんだ」  「え……?」   燃え上がる炎の中、管理人さんは壊れていった。 恵を助けられなかった自分を罰するように、炎の中で、恵を求めた。  さっきまでの僕が、どうしても、管理人さんに嘘をつけなかったように。 管理人さんも、恵を助けることが、できなかったのだ。  「すみません。 僕はずっと、勘違いをしていたようです」  「そんな、謝らないで。 悪いのはみんな、私なんだから」  「違います」  僕は、強く、管理人さんを抱きしめた。 さっきとは違う。 彼女の震えを抱き留めるように、強く、しっかりと。 「あなたに罪があるなら、僕も同等に罪を持つはずだ」 「でも、私は――」 「僕はもう、この感情を押し止めることができません。 自分の意志で、言います」  管理人さんの、今にも崩れそうな顔を、正面から見据えて。 「僕は、あなたを愛しています」  唇を奪う。 初めは、強張った唇が阻んだ。 本当にいいのか、問いかけてくるようだった。  僕は、迷わなかった。 僕はずっと、ずっと、彼女が好きだった。 愛していた。  ただ、それに気づくのが、遅れただけ。 認めるのに、躊躇しただけ。  やがてこわごわと唇が開く。 僕は舌を入れる。 深く、深く。  堅かった管理人さんが、徐々に、解れていく。 星空の下に、ふたりのシルエットが、溶けた。  管理人さんは、それまでの抑圧から解き放たれるように、僕を求めた。 触れ合う肌からは、もう歯車のきしみなんて聞こえない。 ただ、全身を包む情熱の波に、身を任せた。  長い、長い。 そのまま、夜が明けてしまうのではないかと思うほど長い、口づけが終わる。  少し、調子を取り戻したかのように、管理人さんははにかんで笑った。 その片手は、抱き合った僕の胸の下――堅くなった膨らみに、添えられた。 「これも、克綺クンの意志かしら?」 「人間は、非常に不自由にできていると結論せざるを得ません!」 「だからこそ、人間でしょう?」 「しかし、それを行使するのは意志です。 ――管理人さんも、同様の意志を持ってくれることを期待しています」  宣言して、僕は、管理人さんを押し倒す。 覆い被されて、彼女は抵抗しない。 横顔が、静かに星空を見上げる。  唇が、微かに動いた。 「ありがと、ね」 「なにが、ですか?」 「ううん、なんでもないの」 「……ねぇ、克綺クン」 「はい、なんでしょうか?」 「おねがい、ね?」  そう言って、管理人さんは自ら、僕の手を導いた。  僕は覆い被さり、再び唇を重ねる。 僕と管理人さんが、近づく。 もっと近く、本当の彼女が知りたい、そう願う。  薄暗がりの中、管理人さんの身体に触れる。 手探りでそっと、彼女の敏感な部分を撫でた。 「ん……ん、ん」  唇を重ねたまま、管理人さんが声を漏らす。 彼女の吐息が、直に伝わってくる。  僕は、そっと指を動かす。 全体をなぞり、焦らすように、軽く、円を描く。 それから、わずかな突起に指を添えた。  唇を離して、管理人さんは僕に微笑みを向けた。 「あは、ん……克綺クン、いいわよ。この間より、上手くなってる」 「ありがとうございます」  徐々に、指の動きを強く。 緩急をつけ、強弱をつけ、管理人さんの身体が揺れる。 動きに同調し、豊満な胸がゆさゆさと波打った。  僕は乳飲み子のよう、胸に頬をなすりつける。 獣のように、口だけでむしゃぶりつく。  吸い付き、口いっぱいに頬張り、突起した乳首を舐め回す。 指で激しくこすり上げながら、僕は胸の突起を歯で挟む。 「ん、あ、それ――あ、んんんっ!」  管理人さんの身体が、大きく震える。 蜜が溢れ出し、止まらない。 僕の指は、管理人さんの視線に導かれるよう、襞が蠢く奥へ。  前回のような、躊躇はない。 突っ込んだ二本の指を、遠慮なく掻き回す。 「これは、どうですか?」 「いいわよ、ん――もっと、もっと、ね?」  微笑み。 僕の瞳を見つめたまま、首がわずかに傾いだ。  全身を、震えが襲う。 堪らず、胸に口づけた。  大きく波打っていた乳房は、揺れが徐々に細かくなる。  欲望をたたきつけるように、腕の疲れも忘れるほどに。 温かな管理人さんのなかを、僕は刺激する。 指をねじ込み、ぐちゃぐちゃに前後させる。 「すごい、んん、克綺クン、私、いつもと――ふぁっ、んん!」  止まらない。 さらに激しく掻き回す。 刻みは早く、さらに強く。  管理人さんが、目を細めていく。 身体が、緊張に強張っていく。 一気に駆け上がっていくのがわかる。  僕を求めて、襞が指に絡みつき、締め上げ、限界まですぼまった。  掻き回され。 星空を見上げながら。 彼女はひとつ、ふたつ、大きく息をついて。 「ふあっ、んぁっ、ん、くぅんんんん!!」  乳房の揺れが急激に収まり、管理人さんの身体が弓なりに反った。 二度三度、びくんと身体が痙攣して、天を突く乳房が揺れる。 髪が跳ね、小さく揺れた。  拳は強く額に押し当てられ、その目は星の光さえまぶしいかのごとく、細められている。  僕は、そっと指を抜き出し、仰け反った彼女を正面から見据える。 「はぁ……はぁ……んくっ、はぁ……はぁ……」  胸が激しく上下して、聞いている方が切なくなるほど、か細い呼吸が繰り返される。 息をのむその仕草が、あまりに愛おしくて、僕は堪らず唇を重ねた。 「はぁ、はぁん、んんん……」  収まらない管理人さんの息が僕の耳元をくすぐる。 僕らは深く、長く、お互いを確かめ合う。  ゆっくりと唇を離して、管理人さんは優しく僕の頬を撫でてくれる。 真正面から見つめられて、僕はなんだか急に気恥ずかしくなってしまう。  「ね、克綺クン。急にどうしちゃったの?」  「……質問の意味が、わかりかねます」  「恋人さんでもできちゃった? まさか恵ちゃんなんてことは――?」  「だから、なんの話ですか?」 「いや、だって克綺クン、急にうまくなったから……誰かで経験を積んだでしょ?」  「まさか! 僕が恵と性交渉を持つと思いますか?」  「近親相姦は否定しないんでしょ?」  「僕は理知ある人間です。 少なくとも、妹への自制心を保つ程度には!」  「お母さんが相手だったら?」  管理人さんはそう言って、四つんばいになる。  クッションに肘をつくと、髪をかき上げ振り返った。   片腕で、ゆっくりとビキニを押し下げる。 濡れた秘裂が、待ち受けていた。 突きつけられた彼女の尻が、突き出されている。   僕の身体を、衝動が突き動かした。 巻き上がる芳香をいっぱいに吸い込んで、入り口に押し当てた。 「お母さんだからじゃ、ありません」   ひくり、と伝わる彼女の感触。 僕は大きく息を吸い込む。  「管理人さん、だからです」  一気に、貫いた。 「――ぁっ!」 「僕は、管理人さんだから、自制できないんです!」  打ち付ける。 両腕で腰を掴み、勢いよく貫く。 潤った襞が絡みつく。 きつく激しく締め付ける。  燃えるように熱い。 一度突き立てるだけで、気が遠くなりそうになる。 「あっ、んん、あぁっ!」  管理人さんは、上体を支え続けることができない。  押しつぶされるように、クッションの上に突っ伏した。  僕が前後するたびに、人形のように全身が揺れる。 押しつぶされた乳房が震える。 「んあっ、んん――ありがとう、ね。私も、克綺クンだから――んはぁっ!」  管理人さんの言葉が、僕の動きを加速させる。 芯から沸き上がる衝動を、叩きつける。 ねじ込むように、何度も、何度も、僕は出し入れする。  身体と身体がぶつかり合い、乾いた音を立てる。 管理人さんはなすがまま、上体を持ち上げることすらできない。  僕は、彼女を貫く。 彼女と溶け合うために。 もっと近く、もっと確かに。 「んっ、すご――すごい、ああっ、なんだか、変、だわ」 「変? なにが、ですか?」  管理人さんの刺激は、あまりに強すぎた。 そのまま動き続ければ、すぐに果てていたかもしれない。 身体の動きを緩めながら、僕は管理人さんの言葉に耳を傾ける。  だが、穏やかな動きだというのに、彼女の興奮はどんどんと高まっていく。 肉壁が、僕の動きを強要する。 管理人さんは顔をクッションに押しつけたまま、混乱したように言葉を紡いだ。 「うん、あのね、普段は、こうじゃ、ないの」 「料理の話、したでしょ?」 「味が、わからないという?」 「そう。私、それと同じで、感じないの。 肉体的な快感が、なかったの」  管理人さんの告白に、突然目の前が眩む。  今まで身体を重ねながら、管理人さんは僕と気持ちまでも繋がっているような気がしていた。 彼女の感情も、全て、手に取るようにわかる。 そう、錯覚していた。  けれどもそれは、単なる僕の思いこみだったのか? 「ごめんなさい。でも、本当、なの」  管理人さんは、身体の動きを止めながら、申し訳なさそうに口を開く。 「相手の気持ちよさそうな顔を見て、それに合わせて、自分もうれしくなってた、そんな感じ」 「そんな……。じゃあ今までの素振りもみんな、長年の経験から導き出した演技なんですか?」 「でも、今は違う」  管理人さんが振り返る。 悲愴な横顔に、僕は息を飲んだ。 「私の身体、以前と変わってきてるのかもしれない。 さっきも突然、自制が効かなくなっちゃって――」  確かに、管理人さんの反応は度を越えていた。 彼女の中で、何かが変わりつつあるのかもしれない。 「今更、こんなことを言っても許してなんかくれないかもしれない。 でも……ちゃんと、謝っておきたくて」 「克綺クン、騙してしまって、本当にごめんなさい」 「管理人さんは酷いひとです」  ――今までの彼女の行動が、単なる演技だった。  僕が管理人さんと同じ感覚を共有していなかったのはショックだ。 騙されていた。 そんな感想を持たないと言えば、嘘になる。  だが、だからといって、誰が管理人さんを責められるだろう。  彼女は僕の想いに応えるため、自分のできることをやった。 僕を喜ばせるために、自らを偽った。  一度騙すことができたなら、彼女は過去の罪を隠しておくこともできたはずだ。 過去のことなど素知らぬふりをして、新たな感情に身を任せることもできたはずだ。  けれども、管理人さんは、真実を告げた。 隠し事などできなかった。 同じ感覚を共有したいと願った。 僕のことを信じ、真実を告げてくれたのだ。 「だから、僕は管理人さんのことを許しません」  静かに告げると、管理人さんの表情が曇る。  僕の熱は、一息ついている。 今なら、思う存分、彼女を突き動かせる。 「今まで僕が受け取った分も、気持ちよくなってもらいます」 「え――あッ!」  きょとん、とした表情の管理人さんを、僕は再び貫く。 声を裏返して、彼女の身体が硬直する。 「はぁ、ん! そんな、克綺クン――」 「反論は許しません」  深く、押し込んで。 管理人さんは、顔を崩す。  身体がよじれる。  二度、三度。 突き立てるに、管理人さんの髪が大きく跳ねる。 ぶつかり合う肌に、じっとりと汗が滲む。  戸惑いがちだった管理人さんの身体が、僕を受け入れはじめる。 強く抱きとめるように、僕をしっかり包み込む。  僕は、彼女と、共有したいのだ。 演技ではなく、本物の感情を。 今、ここで、一緒に生きている、その実感を。 「ふぁ、ん――あっ! すごい、また――」  自ら大きく腰を押しつける。 動きに合わせるように、さらに深く。 絞り上げるような快感に、僕は動きが止まらない。 リズムは速まり、狂い、歯を食いしばって堪える。 「あぁっ! んん――ねぇ、克綺クン」 「は、はい。なんでしょう、管理人さん」 「最後は、ちゃんと、あたしの顔を見て、ね?」  管理人さんは、そう言って手を差し出した。 僕は、その細い指に指を絡めると、彼女の身体をゆっくり抱き上げる。  正面から向き合って、管理人さんは僕にしなだれかかった。 背中の後ろで、腕がぎゅっと結ばれたのがわかる。 僕もお返しのよう、彼女の背中に手を回す。  管理人さんの乳房が、僕の胸元に押しつけられた。 ピンと尖ったその先端が、肌をくすぐる。  わずかに漏れる吐息を感じながら、彼女の身体をしっかりと離さない。 お互いに顔を見据え、無言でひとつ、頷きあってから。 管理人さんの身体を突き上げた。 「ぁぅんっ」  管理人さんの途切れそうな声。 切なげに細められるその瞳がさらに促す。  僕はリズムを刻む。 初めから激しく、思い切り彼女を貫く。 「ふぁっ、んっ、んぁっ、んっ!」  管理人さんは、大きく身体を上下させる。 身体を引き寄せ、細かく腰を揺り動かす。 腕の中で、乳房が踊った。 長髪が星空に舞い、腕が背中を必死に掴む。  管理人さんは、前傾気味に身体を丸める。 決して僕から離れないように。  間近に感じる心臓の鼓動。 誰よりも近い息づかい。 僕は突き上げながら、彼女の唇を求める。 「ふぁっ、んっ、ん――!」  細められた瞳で、正面から唇を重ね。  管理人さんの動きが、変わった。 動きが止まらない。 蠕動する彼女の中に、僕は一気に理性を失う。  全身を、電流が走り抜けたような衝撃が襲った。 心臓が跳ね上がる。 目の前が白くなる。  こんな感情は、想像したこともなかった。 あまりの快感の洪水に、僕は一瞬、自分の正気を失う。 だが次の瞬間には、その疑問も押し寄せるそれに、押し流されてしまう。  感じるのは、管理人さんの感触だけ。 誰よりも近く、誰よりも確かに。 「んぁっ、んん――もっと、ね、もっと!」 「だめ、です。そんなにされたら、すぐに――」 「ぁんっ、んぁっ、克綺クン、私も、あはっ、んっ、ん――!!」  耳元で、管理人さんの声が聞こえる。 それしか聞こえない。  突き上げる。 強く、強く。 彼女が導くままに。  ただひたすら、彼女の身体を抱きしめる。  どこからどこまでが、自分の身体かすらもわからないまま。 背中に回した腕を、思い切り引きつけて。 管理人さんの中に、僕の全てを注ぎ込む。 「ふあっ、んぁっ、んん、ん――!」  微かに震える、管理人さんの声。 緩やかに反る、彼女の身体。 肉壁が締め付け、僕の精が搾り取られる。  身体を満たす絶頂感に、息もつけない。 視界が狭まり、それでも懸命に意識をとどめようと、愛しい人の顔に意識を集中させる。  真正面から見つめる管理人さんの瞳は、それでも、まだ強く求めていて。 「あっ、すごいよ、ね、克綺クン、もっと、もっと、ね?」  管理人さんは、動きをやめていなかった。 軽く身体を硬直させてから、さらに強く身体を押しつけた。  どくん、どくんと、まだ震えの収まらないそれを、離さない。 貪欲に、吸い付く。  瞬く間、僕の中に新たな火がともる。 ありったけを注ぎ込んだはずの僕は、再び堅く彼女を貫いていた。 「ん、管理人、さん……」  僕は、上の空で呟いた。 あまりの快感に、視界が遠く、魂が浮いているように思う。  そんな僕を押し止めるよう、管理人さんの唇が僕を優しく撫でて。 休む間もなく、衝動に身体が突き動いた。 僕は堅く、二度と離さないように管理人さんを抱きしめた。  先ほど射精したばかりだというのに、僕のペニスは屹立している。 欲望を吐き出す機会を、今か今かと待ちわびている。 誘われるがまま、管理人さんの動きに合わせて、動く。 「あはっ、ん――あっ、あっ、あっ!」  彼女の動きは止まらない。  真っ白な世界で踊る。 遠くに星空が見える。 柔らかな胸が揺れる。 汗ばんだ肌が星々に光る。 潤んだ瞳が、一滴残らず僕を吸い尽くしたいと求めている。  僕は抵抗できない。 身体を走る快感に、抵抗など考えられない。 もっと近づいて、もっと混じり合って、溶けてしまいたい。  限界を超えた快感に促され、痛いほどに。 心臓が喉から飛び出してしまうような錯覚。  僕は管理人さんの顔を、正面から見据える。 彼女も、僕も、限界は目の前だった。 「克綺クン。私、また、おかしくなっちゃう!」 「管理人さん。僕も、また――」 「いいわよ、んぁっ、それじゃあ、一緒に――んぁっ!」  全身が総毛立ち、管理人さんの身体が触れるだけで吐息が漏れる。 身体を合わせ、これほど近くに息をしている。 ただそれだけで、歓喜に身体が震える。  全てが、遠く消えていく世界のなかで。 強く抱きしめる彼女の感触だけが確かだった。 僕らは同時に、絶頂を駆け上がる。 「ふあっ、またきたっ、んっ――んあはっ!」  時間が引き延ばされ、逆回しになり、ついには途切れる。 お互いに身体を引きつけ、腕が痛いほどに抱きしめ合う。 繭のように、白く、まるく、そして――。 「あは、ん、ふわ、あっ、んっ、んんん――っ!」  管理人さんを、誰よりも近く感じながら、僕は再び果てる。 僕の中が空になるまで、ありったけの力を彼女に注ぎ込む。 身体が仰け反り、芯が痺れた。  痙攣する管理人さんの膣で、僕のペニスが震えている。 全てを注ぎ込むよう、何度も。 「克綺クン、いっぱい……」  潤んだ瞳でそう囁いて、管理人さんは僕に倒れかかる。 荒い吐息を重ねるように、唇が触れる。 ピンと突き出した乳首が、胸にこすれてくすぐったい。  だが僕は、管理人さんのなすがまま、抱きしめられている。 優しく、暖かい、彼女の心音を聞いている。 いつまでもずっと、ずっとこうしていたい。 「ねえ、克綺クン?」 「は、はい、なんでしょう?」  呼びかけられて、僕の身体が現実に引き戻される。 けれどもまだ頭のどこかが、向こうの世界に置き去りにされたままだ。 「ふふっ。やっぱり、克綺クンって、かわいい」  脈絡もなく発せられた言葉に、僕はしばし呆然とする。 「そう、なんですか?」 「そうなのよ」  管理人さんは立ち上がり、頭を抱えるようにして、僕の身体を抱きしめる。 柔らかな胸が、僕の身体に押しつけられた。  ドクン、ドクンと刻む心臓の鼓動。  柔らかな――懐かしい感触に包まれて、僕はしばらく言葉もない。 ただ感触を確かめながら、緩やかな夜風に身を任す。  星空の下、僕はいつまでも、管理人さんの鼓動を感じていた。  陰鬱な鐘があたりに響いた。 校庭の端にある小さな教会、その鐘楼の鐘。 夜響くその音は、たいそう精妙で、人の耳には届きもしない。  その音に目覚めるのは、夜闇を住処とする者たちである。 「メルクリアーリ様」   田中は銀盆をささげもつ。 黒髪の神父が、コーヒーカップを取る。 「約束の時間でございますが。 雪典が未だ戻りません」  「ええ。返り討ちにあったようですね」  「今夜の会見は、中止にいたしますか?」  「いえ」 「しかし……三つの護りの復活も考えられますが……」  「それだから、ですよ。 早めに動いて押さえないことには安心できない。 五分後に出発します」  「は」   背広の男は、深々と頭をさげる。 すだれ髪が額から滑って下を向いた。 「下がってよろしい」   その言葉に、田中が顔を上げた時には、髪は額に張り付いていた。  狭祭市郊外のストラス製薬研究所。  エレベータを降りた、地下の会議室に、メルクリアーリ神父は通された。 長いテーブルの向こう側に座るのは、背広の男だ。 「ようこそ、メルクリアーリ神父」   言葉はやさしく、声は冷たかった。 背広の男は、両腕を胸の前で組んでいる。  「お招きにあずかり参上しました、神鷹社長」  神父は深々と辞儀をした。  いやにごつい男がドアを開け、神父に緑茶を差し出す。 秘書というよりはボディーガードに見える。 「これはどうも」   メルクリアーリは、優雅に湯飲みに口をつけた。 「コーヒーのほうがよかったかね?」  「いえ、お構いなく。 本日は、直接、お招きいただけて光栄です。 協定の見直しに関するご用件ということでしたが……」  「あぁ」   神鷹士郎がうなずく。 ボディーガードが渡した書類束に神父は目を通した。 「……配給の70%減と、土着種の名簿作成および管理、ですか。 いったい、どういった心境の変化で?」   顔色一つ変えずに神父は言った。  「君たちは、この街では、もう必要とされていない、ということだ。 いずれは、この世界となるだろう」  「ほう」   メルクリアーリは笑顔のまま答える。 その背後の闇が、わずかに濃さを増した。 「宣戦布告、というわけですか?」  「降伏勧告だ」   メルクリアーリは、ごくゆっくりとした動作で、懐から拳銃を取り出す。  優美な動作で銃口を向け、引き金を引いた。  ぱん、と、音がした。 たなびく紫煙を吹き消し、メルクリアーリはつぶやく。 「まぁ、そんなところだとは思いましたが」   拳銃弾は、部屋の中ほどで止まっていた。 神父と社長、その間に張られた透明なスクリーンが拳銃弾を受け止めていた。  「なんとも時代遅れな武器だな」   悠々と社長が言う。 「こういうのが性にあってるんですよ。 武器は不便なくらいがちょうどいい」   神父は肩をすくめた。  その瞳が紅い光を発する。 瞬間。  ボディーガードの男が、神父の肩をつかんだのだ。  神父の目から赤光がかき消えた。 否。かきけされたのだ。 わずかに触れられただけで、神父の体からは、あらゆる魔力が消えていた。  ──やれやれ、報告以上ですね、この力は。 「なるほど、これが、あなたの新しい玩具ですか」  「玩具ではない。 人類の尊厳を護る盾と、剣だ」  「この筋肉ダルマがですか? もう少し見栄えに気を遣ったらいかがです?」  「まだ実験段階だからな。 大量生産においては、外見の調整も考慮しよう」   メルクリアーリは、肩をすくめた。 「まったく、あなたがた人間というのは面白い。 せっかく爪も牙も持たずに生まれたというのに、殺戮の兵器を生んで止まない」  「爪や牙は、生まれつきのものだ。 だが武器は誰にでも扱える。 武器故に、弱いものは強いものと対等になれる」  「行き着く先は、核の平和に無差別テロですよ。 神父としてはお勧めできない道ですね」 「人類のことは人類で治めよう。 貴様ら、人外の民をかき消してからな」  「夢があることは結構なことです」   メルクリアーリは陽気に肩をすくめた。  「長年の友誼に基づいて言うが、君には二つの道がある。 生きたまま帰って勧告をするか、死体となって帰って警告となるか、だ。 無論、生きたままとは言っても、多少の処理はさせてもらうが」 「魅力的な選択肢ですね」  「無駄なことはしないほうがいい。 実験体が触れている限り、貴様にはいかなる力も使えない」  「わかってますよ、それくらいは」   メルクリアーリは微笑む。 「さて、どちらがいい?」  「どちらがいい、と言われましてもね。 すぐには帰れませんよ。 神父としてする仕事が残っています」  「人の血で喉を潤すおまえが、いまさら説教か?」  「はい。お手間は取らせません」   人なつっこい笑顔を向けられ、神鷹は苦笑した。 「やってみろ。 ただし私の心を変えられるとは思わぬことだ」  「人の心を変えるのは、他人の言葉ではありません。 それは、その人自身の想いと行いです」  「では、神父は何のためにいる?」  「人が道を選ぶ時、その助けになるためですよ。 そして、そのきっかけを与えるためです。 あくまでも道を選ぶのは、その人自身ですから」 「さて、神鷹社長。 あなたは、さっき武器について語られた。 聖書で武器は、なんと語られているかご存じですか?」  「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶるなり。 マタイ伝26章52節。 そんな箴言で、私の気を変えるつもりか?」 「いいえ。 しかし、聖書の言葉には常に意味があります。 いみじくも、さきほど社長がおっしゃったように。 武器とは、誰にでも扱えるものです。 武器を握った弱者は……たとえ幻想でしかないにせよ……強者と対等になれる」  「その通りだ」 「神鷹社長。 あなたの完成させた強化実験体は完璧だ。 一方で人間に人外の能力を与えながら、人外の能力を無効化させる。 これを使われたら、いかなる人外の民も、ひとたまりもありません」  「何が言いたい?」  「あなたがた人類の優れたところは、これほどの力を、誰にでも簡単に使える形で完成させたことにあります」   誰にでも、と、神父は言う。 「つまらんな。時間切れだ」   神鷹は、サインを送る。  指示を受けた実験体は、ゆっくりとメルクリアーリの首に手をかけ、  そして、離した。 「な……!」  神鷹の顔が、わずかに歪む。  メルクリアーリは立ち上がって男の肩を撫でた。  「確かに、これは、いい兵器です。 徹底した洗脳と条件付けで、命令には絶対服従する。 そうですね?」  「……貴様、どうやって」  「私が一人で来たとでも思われたのですか? とんでもない」  神父の言葉を裏付けるように、非常用ベルが鳴る。  「彼には私の力は通じない。 けれど、オペレーターには通じますとも」  神鷹が立ち上がる。  椅子を蹴って出口へ向かって走った。  その鼻先でシャッターが降りる。 「もう、遅いですよ。 これは、完璧な兵器だ。 それゆえに使い手を選ばない」  ──Trr。 メルクリアーリは携帯を取り出した。 「あぁ、田中ですか。ええ、会議室です。予定通り。 そちらは? なるほど。では、後ほど合流します」 「では行きますか」   メルクリアーリが立ち上がる。 その背後に実験体が付き従った。 数歩歩いて、部屋の真ん中のスクリーンに触れる。  「これ、お願いします」  実験体の男が無言でうなずいた。  その拳を握る。 たちまち腕が膨れあがり、頭ほどもある拳ができあがる。  ぶん、と、風を巻いて拳がスクリーンにたたきつけられる。  一撃で、蜘蛛の巣状の罅が入り、もう一撃で、スクリーンは砕け散った。 破片を髪から払いながら、メルクリアーリは歩を進めた。  部屋の端でうずくまる神鷹。 その目には、追いつめられた獣の凶暴な光があった。 神鷹は懐から拳銃を取り出す。 黒光りするそれを、己のこめかみに押しつける。  「……おっと」   引き金を引くよりも速く、メルクリアーリは、その手を押さえていた。  神父の細い指の下で、神鷹の指が砕け折れる。  悲鳴を上げる神鷹を、メルクリアーリは、見つめた。 紅い妖光の宿る瞳で。 それだけで神鷹の動きが止まる。  「これほどの武器を完成させてくださったことに、感謝しますよ、神鷹社長」  神父は、そう言って神鷹の頬をはさんだ。 深紅の唇が開き、象牙色の牙がのぞく。  神鷹は、二度うめき、そして、静かになった。  夜が明ける。夜が明ける。 瓦礫の上にも、茜色の夜明けが訪れた。 刺すように冷たい夜気と、まぶしいほどの紅い朝日が、僕の眼を覚ます。  ……いや、それは夢だ。  細めた目をゆっくりと開ければ、まだあたりは夜闇の中。 大きく伸びをして空を見上げれば、満天に星が満ちていた。  ずいぶん眠った気がするが、まだ早いのだろう。 もう一度大きく伸びをして、僕は、ふと笑った。  管理人さんは、まだ眠っていた。 寝ているところを見るのは、はじめてかもしれない。 僕は、小さく管理人さんを揺する。  「起きてください」  「……はい……」   眠そうに眼をこする姿は、少女のように綺麗で。 「なに、見てるの」   軽く額を小突かれる。  「もう、大丈夫ですね」  月光を浴びて立つ管理人さんは、すっかり人の姿が馴染んでいた。 右腕は、手袋で覆われていたけれども。  「管理人さんの寝顔、はじめてみました」  「わたし、眠らないから」   ほつれた髪を整えながら管理人さんが言う。 「そうだったんですか? 今、眠ってましたよ」  「そうね。はじめて」   夜の守り手は、童女のように笑った。 「人に、近づいているのかも」   彼女の力が僕に由来するものならば。 僕の願いが彼女を変えることがあるかもしれない。  「ねぇ克綺クン。 私は一度だって、人になりたい、なんて思ったことはないわ」   ゆっくりと、彼女は言った。 「さ、ゴハン作るから、克綺クンは、着替えてらっしゃい」   そう言った管理人さんは、もう、いつもの顔に戻っていた。  心臓から魔力を腕に伝える。 気合いを入れて瓦礫をどける。  自分の体ほどの山をどけた頃、衣装箪笥が見つかった。 表面が焦げて、あちこち罅が入っているが、中身は、ほとんど無事だった。 すべてが失われたと思っていたけれど、探せば残っているものは沢山ある。  生きている蛇口から水を流し、魔力で操りシャワーに変える。  埃を洗い落とし、新品の学生服を着れば、気分は爽快だった。 「ゴハン、できたわよ」  管理人さんの声に、僕は瓦礫の山を乗り越える。 「はい、昨日と同じで悪いけど……」 「いただきます」  管理人さんが、僕を、じっと見つめる。 「一緒に食べませんか?」  僕は、声をかける。 「あら、どうして?」 「そのほうが……楽しいですから」  そう言うと、管理人さんは、にっこりと笑った。 「そうね。そうしましょうか」  味噌仕立ての雑炊には、具がたくさん入っていた。 ニンジン。ゴボウ。それに鶏。 一日おいたせいか、味がなじんでいる。  「玉子があったら、よかったんだけど……」  「いえ、おいしいですよ」   僕は、心の底から言った。  「よかった」  管理人さんの煎れた緑茶を飲みながら、僕は雑炊をいただく。 「あの……」 「なにかしら?」 「さっきの話です。人になりたいと思わないって言いましたね」 「えぇ」 「それは、どうしてですか?」  管理人さんは、一瞬とまどった。 そんな当たり前のこと、という顔をする。 そして、僕を真正面から見つめる。 「それはね。私が、私だからよ」 「どういうことですか?」 「人が、人の身でできないことをするために、私がいるの」  声には、力があった。 人が戦えない夜の闇と、彼女は戦ってきたのだろう。 幾千、幾万の夜を越えて、子供の夢を守ってきたのだろう。 「でも……あなたは、それでよかったんですか?」 「克綺クン、私は楽しいのよ」 「戦うことが、ですか?」 「いいえ。子供たちを守ることが、よ。 一人一人が大きくなって、そうして、また新しい子供が産まれて。 その一人一人が無事に、大きくなるように。こんなに楽しいことはないわ」 「でも……もしかして、他の生き方があったら、と、思いません?」  言ってから僕は唇を噛んだ。 残酷な質問かもしれない。 幼子の守護者として生を受けた彼女には、選ぶ権利など最初からなかったのだから。 「そうね」  管理人さんは、とまどうように笑った。 「考えたこともなかったわ。だから、考えておくわ」  僕は、うなずく。 「ごちそうさまでした」 「はい、おそまつさま」  食事を平らげて、僕は携帯を取りだした。  時刻を確かめて驚く。  もう、昼じゃないか。 空は相変わらず昏く、太陽の昇る様子はない。 「管理人さん、太陽が変です」 「ええ」  管理人さんはうなずく。 ずっと前から気づいていたのだろう。 「動いたみたいね、メルクリアーリ」 「何が起きてるんです?」 「座って。お茶を、もう一杯いれるわ」  長くなるということか。 僕はうなずいた。  紅茶の薫りを吸い込みながら、僕は管理人さんに話しかけた。  「メルクリアーリ先生がどうしたというんですか? どうやって、太陽を止めたのですか?」  「克綺クン、誰の、どんな力でも、お日様を止めることなんてできない」  「はい」 「メルクリアーリのしたことは、街全体に結界を巡らせたこと。 お日様が昇らないようにしたわけ」  「そんなことが、できるんですか?」   いや、できるなら、なぜ、今までしなかったのか。 「そんなに難しいことじゃないわ。 夜闇の民は、本来、昼には動けない」  「でも、メルクリアーリ先生は、授業をしてましたが……」  「そう。 それは、あの学校が結界だったから。 日は差しても、夜闇の民だけは避けるようになっていたの」   確かに、僕は、神父を昼、学校の外で見たことはない。 「その結界を、街全体に広げた?」  「ええ」  「でも、どうして今頃?」   管理人さんは、小さく首を振った。 「克綺クン?」  「はい」  「少しだけ、待っててくれる? 恵ちゃんは、私が取り返すから」  「待ってください。僕も行きます」  「今度の相手は、人外よ。 だから、私の仕事」  いかなる敵であっても。 それが人外である限り。 彼女は負けはしまい。 その意味はわかった。   だけれども……。 「克綺クン、お願い」   真摯な瞳で見つめられた。  「私は、あなたの身の安全を守らなければ、いけない」   もし今ここで。 僕が彼女に命令すれば。 僕は一緒に行けるだろう。 だがそれは彼女を傷つける。 再び打ち砕くかもしれない。   だから僕は。 不承不承に、うなずいた。 「行ってきてください。 ここで、待ってます」  「ええ。心配しないで」  そう言って管理人さんは、僕にくちづけた。 「え?」  顔が紅くなるのが分かる。 あわてた僕が顔を上げた時。  彼女は、もう、いなかった。 「なんてこった」   峰雪綾は、その朝、何度目かにそう叫んだ。 朝、というのは語弊がある。 なんというかつまり、その朝が来なかったのだ。 寺の中でくすぶっててもしょうがないから、こうして街に出てきたわけだ。 服はいつもの学生服。 手には、大きな街の地図。 ついでにコンパスまで持っている。 持っているのだが。 「なんてこった」   再び、峰雪は、叫んだ。 戻ってきている。 確かに街から出る道を選んで歩いたはずなのに、気がつけば駅前に戻っている。 何度試しても駅から出られない。 どこかで逆戻りしてるはずなのだが、どこで戻っているかが分からない。 それはまどろみの瞬間にも似て、捉えがたい。 外へ呼びかけようにも、携帯は完全に圏外だった。 電話、ネットも通じない。 「ったく。こういう非常識なことは親父の管轄だろうに。 ま、そうも言ってらんねぇか。 この様子じゃ」  両手を打ち合わせて気合いを入れる。 調べること、試すことはいくらでもある。  ……なにより、この分じゃ、学校は休みだろう。 ちょいと暗いが、休日が増えたと思えば、ありがたい。  峰雪は、星明かりの中を走り出した。 「なんてことだ」   僕は、瓦礫の上を歩きながら呟いた。   管理人さんを見送りはしたが、無論のこと放っておくつもりはなかった。 しばらく待ってから、出かける。 そのつもりだった。 管理人さんの姿が消えるのを待ってから、歩き出す。 そこで奇妙なことに気づいた。 抜け出せないのだ。  メゾンの跡地の瓦礫を、まっすぐに歩いているはずなのに。 すぐそばに門が見えているのに。 気がつけば、また瓦礫のなかをぐるぐると歩いている。   ……どうやら、僕の考えは、お見通しだったようだ。  目をつぶって歩く。 後ろ向きに歩く。 足跡をつけながら、まっすぐに歩く。 夜空を見て、星のほうに歩く。  思いつく限りの方法を試した後、僕は、足を止めて瓦礫に腰掛けた。 外に出ようとさえ思わなければ、メゾンの跡地を歩き回るのは問題がない。  さっき片づけた管理人さんの部屋に腰を落ち着ける。  ──落ち着け。   この夜が、メルクリアーリの仕業ならば。 管理人さんが負けるはずはない。 だが。 あのメルクリアーリが勝ち目のない勝負を仕掛けるとも思えない。  どうにかして、ここから脱出しなければならない。 管理人さんが勝てない敵に、僕が手助けできるかはわからない。 ただ、だからといって、座して待つことはできなかった。 管理人さんが闘って、傷つくのを、知って見過ごすことはもうできない。   つまるところの自己満足。 エゴイズム。 最大多数の最大利益を考えるなら、僕は、ここでじっとしているべきかもしれない。  ──落ち着け。   そもそも選択の余地がない以上、行動の是非を考えても仕方がない。 胸にのしかかる重い塊をかみつぶしながら、僕は、いらいらと考える。 今は、ここから抜け出す方法を考えることだ。   胸の中の力に触れる。 魔力を使えば、あるいは?   その時だった。  瓦礫を踏む足音に気づいたのは。  こつり、こつりと足音が響く。 小さく、風にまぎれそうな幽かな音。 それでも音はそこにあり、何かが、そこに立っている。  ようやく気づいた僕が振り返る。 「誰だ」  闇の中に紅い髪が燃えていた。 黒のドレスを着た音は、皮肉な笑みを浮かべた唇で、こう言った。 「なに、気にするな」   太刀を背負い、この明けない夜にメゾンを訪れる者。 気にするなが、聞いて呆れる。  「何もの……」  「通りすがりの野次馬だ」   こちらの言葉を遮るように女は言った。 「名前は?」  「人に名を聞く時は、自分から名乗るものだろう」  「そ……」  「違うか、九門克綺?」  「知って……」  「知っていたならどうだというのだ? 不作法の言い訳になるのか?」   深呼吸。落ち着こう。 「不作法は詫びる。 僕は九門克綺。あなたは誰だ? こんなところに何をしに来た?」  「答えよう。我が名は、イグニス。 そして二番目の質問について言うならば……おまえこそ、こんなところで何をしている、九門克綺?」  「……っ」   僕は言葉に詰まる。 「なんだ、その顔は? “最も古き祈り”に置いていかれたか?」   “最も古き祈り“。 口に出して分かった。 管理人さんのことだろう。  「あぁ図星か。邪魔したようだな」   女はくるりと背を向ける。 「待て!」  「……なんだ?」  「僕を……ここから、出してくれ」   イグニスは、一瞬、とまどったが、しばらくして、鼻で笑った。  「そうか。足止めされたか」   僕はうなずくしかない。 「待っていろ。そこを動くな」  イグニスは、まっすぐに瓦礫を踏んで近づいてきた。 白い肌から、酒のような香りが匂った。 「さぁて……と」   あとずさりしたくなるほど顔を近づけると、イグニスは、ふわりと指を滑らせた。 僕の肩から何かをつまみ上げる。  「これだな」   イグニスが拾い上げたのは、もつれた糸くずだった。 「それが……」  「糸玉の魔法だ。 古臭くて黴の生えた魔術だ。 見ていろ」   もつれた糸の端を探しだし、器用に両手の指で摘む。 摘んだ糸くずを、イグニスが、ぴんと引っ張った瞬間。  ぐるりと天地がひっくり返った。 頭が地面に落っこち、足が空を向く。 伸ばした手は宙を掴み、僕は、無重力の宇宙にのたうつ。  ぐい、と、指が肩を痛いほどに掴む。 その腕に支えられ、僕は、平衡を取り戻した。  両の足を踏みしめて、大地に立つ。  「今のは……」  「同じことを言わせるな」  「イグニス」   僕は疲れた声で言った。 「僕は、あなたが嫌いなようだ」  「そうか」  「……好悪の情を乗り越えて頼みたいのだが、あなたが知っていることを僕にとって分かり易く最初から全部話してくれはしまいか?」  「最初からそう言えばいい」  イグニスは、瓦礫の一角に腰を下ろした。 「私はイグニス。人外を狩る者だ」  「……ストラスの手のものか?」  「ストラスは壊滅したぞ」   女は、こともなげに言い放った。  「え?」   僕は耳を疑ったが、今は、脱線すべきではない。 「それで、人外の狩人が何の用だ?」  「人外を狩りに来たに決まってる。 おまえには、この夜が見えないのか」   僕は仕方なくうなずく。  「メルクリアーリ先生か」  「そう。あの吸血鬼だ。 だが、ここまで派手に動かれると、私の手にも余る。 そう思って“最も古き祈り”を訪ねたわけだが……」 「それは、管理人さんのことか?」  「管理人?」  「このメゾンの……管理をしていた人だ」  「あぁ、それだろう。 とにかく黒の人形だ」   人形という言葉に、少しだけ胸が痛んだ。 「その“最も古き祈り“というのは?」  「三つの護りの一つだ」  「三つの護り?」  「ヒト族の三つの護りだ」   イグニスは、皮肉げにつけくわえた。  「何も知らないのだな、おまえは」   僕はうなずくしかなかった。 「一度しか言わないからよく聞け。 世にはヒトの〈族〉《うから》と、人外の民がいる。 人外の民は、それぞれに魔力を持つ。 一方、ヒトは、個々の魔力は微弱だが、人類全体で、その魔力が相乗することがある」  「人外の民の魔力は……相乗しないのか?」 「人外の民にとって、魔力は自己そのものだからな。 魔力が溶けあえば、身体も溶け合う。 逆を言えば、己がある限り、溶け合わない。 強大な人外とは、すなわち、強大な魔であり、強大な自我だ」   言っていることは半分程度しか理解できないが、それはいい。 「相乗した人類の魔力は、己の護り手を生み出した。それが三つの護りだ」  「管理人さんと、他の二人、か」  「あれはヒトが生んだ、魔を討つための魔。人外を越えた人外だ。 故に負けない」  「心配は、ないということか?」  「そうはいかん」   イグニスは首を振る。 「あれには大きな弱点がある。 ヒトを護るものであるが故に、ヒトを傷つけられない」  「知っている」   声が、震えた。  「メルクリアーリが人間の楯を用意していたらどうだ?」  「……確かにな」 「それに、この夜だ。メルクリアーリ程度の〈魔力〉《ちから》では、これほどの結界を張ることはできない。おそらく……」  「おそらく?」  「“闇の聖母“が、動いている」  暗闇と静寂が包み込んだ街。 スピーカーが唸り、役所からの緊急放送が鳴り響く。 「ただいま日照が欠如しております」  拡声器の放送を聞いて、峰雪は渋い顔をした。 なにが、「日照の欠如」だ。 お役所言葉にも程があらぁな。  最初聞いた時は、吹きだしたものだが、こう何度も聞かされると、つらいものがある。 「この異常気象の原因は不明です。 繰り返します。原因は不明です。 町民の皆様は、戸締まりをしっかりして、外に出歩かないよう、お願いします」 「なお、午前10時より海東学園にて対策会議を行います。 ご参加を希望の方は、十分注意して、ご近所でお誘いあわせの上、お越しください」  間の抜けたアナウンスだが、何にせよ、対応が早いのはありがたかった。 電話一本通じない中で、よく、これだけ早く、対応をまとめられたものだ。  そのせいかどうかはわからないが、今のところ、パニックらしいパニックはない。 街は静まりかえっていた。 コンビニさえもがシャッターを閉じている。  賢明だ。 この夜が、いつまで続くかわからないのだ。 街から出られないことが広まったら。 最初に問題になるのは食糧だ。  暴動。打ち壊し。 そんな言葉が脳裡をよぎる。 「ツイてねぇぜ、ったく」  峰雪は、軽口を叩いて気を紛らわした。 足は学校に向いていた。 他に、行くところもない。  校門のところには、制服の男たちが立っていた。 携帯で何やら連絡を取っている。  峰雪が近づくと、無言で顔を上げ、陰気に頭を下げた。 わけもなく、背筋に悪寒が走った。 ……あいつら、誰だ?   これでも役所のやつなら、大体は顔見知りだ。 さっきの二人は、明らかに違った。 あの制服は……どこかの警備会社のものか。  その警備員は、どこから調達した? 街にいたのか? 電話もないのに、どうやって呼び出した?  「あ、峰雪君」 「うぉっとぉりゃぁ、どっこいしょぉ!」   不意に声をかけられて、峰雪は、思いきり声をあげた。  「な、なに……」  「とと……ワリィ、牧本」   牧本は目を丸くしていた。 「どうかしたの?」  「ちっとばかり考え事してたんでな」  「ふぅん。でもへんな天気だよね」  「まぁな」   へんな天気。 そう言えないこともないか。 「峰雪くんのお家、確か、お寺だよね。 何か聞いてない?」  「んにゃ、さっぱり」   峰雪は、首を振る。 街から出られないことは、まだ告げないほうがいいだろう。 タイミングってものがある。 「そっかぁ……」  「牧本は、なんで?」  「え、説明会するんでしょ?」  「いや、そうだけどな。 女の子の夜歩きは感心しないぜ?」  「もう朝だよ」   面白そうに言う牧本を峰雪は見直した。 こいつ、こんなに肝がすわったやつだったんだ。 「どうなるのかな……これから」  「〈色不異空〉《しきふいくう》。〈空不異色〉《くうふいしき》。〈色即是空〉《しきそくぜくう》。〈空即是色〉《くうそくぜしき》。 〈受想行識〉《じゅそうぎょうしき》 。〈亦復如是〉《やくぶにょぜ》。〈舎利子〉《しゃーりーし》。〈是諸法空相〉《ぜしょほうくうそう》 」  「それ、お経?」  「お経もお経、ありがてぇ般若心経だ。 いいか、この世の一切の物ってのは所詮空で、空こそが物。 まして人間が触って知れるものなんざ、たかが知れてる」  「ふぅん」 「だから、たまにゃぁ昼が夜になったりすることもあらぁな。 ま、気にすんなってことよ」  「峰雪君はすごいね」   牧本は、そう言ってくすりと笑った。  「俺が?」  「うん。さすがお坊さんって感じ」  「まぁな。こちとら江戸っ子でい」   峰雪は、口が軽い自分を自覚する。  ──なんだろな、こりゃ。  さっきから風邪っ引きの時みたいに首筋がひりひりしてしょうがない。 悪い予感。 まぁ、予感もなにも、悪いことが起きてるわけだが……。 「こちらへどうぞ」  陰々滅々とした声で制服の男がつぶやく。  校舎の入り口の前にはテントが立てられ、人々が列を作っていた。 先頭にプラカードがある。  男子10代、20代、30代、40代以上。 女子も同じく。 が、こちらは、人数のせいで、ほとんど列が出来ていない。 「あのー、これなんすか?」   峰雪が声をかけると、制服の男より早く、前の学生が向きなおった。  「なんか、説明のあと、仕事すっから年齢別にばらけるんだってよ。 どうせ俺ら力仕事だぜ」  「ふーん」  ひとまずうなずく。 確かに、すべき仕事は沢山ある。 連絡するにも一軒一軒走ってかなきゃいかんし、爺ちゃん婆ちゃんの面倒もある。   だけど、それなら、地域別に分けたほうがよくはないか? 何かが、引っかかる。  ふと横から響いた電子音は、牧本のものだった。 皆の注目が一度に集まる。 「おい、そのケータイ使えんのか?」   峰雪も詰め寄った。  「ご、ごめんなさい。これ、アラーム」   牧本は、携帯を手で覆うようにして音を止めた。 「なんでい、アラームか!」   わざと大声をだすと、辺りの騒ぎも静まってゆく。  「ほんとに、ごめんなさい」  「いいって。 別にワリーことしたわけじゃねーんだし」  そう言いながらも峰雪は。  ふと、首筋に電気が走った。 ──携帯は、使えない。 そのはずだ。   校門のところにいたあの警備員。 確かに携帯を使っていた!  ──どういうこった?   峰雪は、頭をかきむしった。  ふと前を見る。 きれいに列を作って並ぶ男女。 それが何か、とても禍々しいものに見えて。  峰雪綾は、我知らず後ずさっていた。 「どうしたの?」  「ワリィ、ちょっと用事ができた」   峰雪は迷った。 このまま帰れば、牧本を見捨てることにならないか。 だが、説明できるほどの根拠はない。  「そ、そう?」  「あぁ。またな」  手を振りながら、峰雪は牧本をじっと見つめた。 声に出さず、唇で、形を作る。   ニ・ゲ・ロ。   牧本がうなずくのを見て、峰雪は、ゆっくりと歩き出した。  校門に着くまでの間。 制服の男から呼び止められないかとひやひやしたが、なんとかなった。 警備員は、ただ、無言のまま見送った。  外に出て、そっと息をつく。 「さて、と……」  このまま帰るわけにはいかない。 幸い、学校のことなら知り尽くしている。 たとえば、この校舎裏へ行く道。 そして音を立てずくぐれる、金網に空いた穴。  何気ないふりをして角を曲がり、穴をくぐる。  ――夜中来ると雰囲気違うな。  峰雪は、大きく深呼吸する。  かすかな足音が大きく響く。 そんな感じがする。 校舎の隅の非常口を開けて、ゆっくりと中の様子をうかがう。  校舎内は灯りが煌々とついていた。 狭い廊下の向こうには、受付があり、列ごとに入ってきた人たちを、一人ずつゆっくりと上へ誘導しているようだ。  音をたてずにドアをくぐり、警備員の目を避けて2階へと急ぐ。  2階は、1階とは、がらりと様子が違っていた。  まず警備員の数。 階段で待ち受ける警備員たちが、下から来た人を、有無を言わせず押し包み、そのまま引きずって教室の中へ放り込む。  峰雪の目の前で、抵抗した中年の男に、警棒が振り下ろされた。  鈍い音が響く。何度も。何度も。  警棒だけではない。 腰にぶらさがっているものは、峰雪の位置からはよく見えた。  ──銃だ。 悪い勘は当たったらしい。 最悪の形で。  校舎内にいるやつ。 何だかは知らないが、そいつらは、あらかじめ、武装警備隊を用意していたことになる。 つまり、この夜が来るのを知っていたわけだ。  そんなやつらが、町民を監禁して何をするつもりか。 いずれよからぬことを企んでるのは確かだろう。 問題は、それが何か、だ。  いまさら逃げようとは思わなかった。  ──だいたい、だ。  峰雪は、不敵に微笑む。  ──ここは、俺の庭だぜ。  ……だるまさんが、  ころんだ。  峰雪は、口の中で唱える。 廊下の柱。トイレ。 見通しのいい廊下の中の、数少ない陰から陰へ、峰雪は走る。  ぎりぎりまで近づいて、峰雪は、教室のほうの様子をうかがった。  警備員たちの顔が間近に見える。 いやに蒼白い、無表情な顔だ。 一階から昇ってくるのは……女。学生服。 牧本、じゃぁない。  いきなり警備員に囲まれ、悲鳴をあげようとした口をふさがれる。 腹を何発か殴られ、静かになった。  口をふさがれ、両腕を掴まれたまま、教室のほうに連れていかれる。  ゆっくりと教室の扉が開き……女の目が、大きく見開かれた。  恐怖の表情。 それも、怯えや、恐れといった穏やかなものではない。 絶対的な嫌悪。  人の顔が、あんなに醜く歪むものであることを峰雪は初めて知った。 女は手足をばたばたと振り回し、必死でそこにある「なにか」から逃れようとする。  ……何だ?  何があるってんだ?  峰雪は、少しずつ。 少しずつ身を乗り出した