〜ラベル『(無題)』の内容は記述されていません〜 〜ラベル『«あの雲の向こうまで»』の内容は記述されていません〜  だるい。  ──その時の俺は、そんな気持ちでしか夜空を見上げる事ができなかった。  この街から見上げる空は、お世辞にも綺麗だなんて言えたもんじゃない。  田舎の澄み渡った空気みたいに、そもそも「胸いっぱいに吸い込みたい」なんて気持ちが湧いてこないんだから。  一枚だか二枚だか──空に薄い膜がかかったように見える空では、星の輝きもどこか霞んでいて。  住んでる人数ばかり多いくせに、観客になり得る者が少ないこの都会では、これでいいのかもしれないけれど。  でも俺は、この空を忘れるべきじゃなかったんだ。  目に焼き付けて、焼き付けて、焼き付けながら前に進むべきだった。  ──だってもう、朝日が昇る。  星はいつだって瞬いているのに、陽の明かりで見えなくなってしまう。  駅へと向かう道すがら、俺は気紛れに首を上へと傾けただけ。  気だるくて、何もかもどうでもよくて、陽が落ちてからの再会を当たり前のように信じていて。  始発までの間、どうやって時間を潰そうかとか、ぼんやり考えていただけだった───  ──意外だった。  なんて、そんな事は言わない。  祖父に呼ばれた時、俺は確かに話の内容に予想がついていた。  でも、きっと……覚悟ってやつが固まっていなかったんだろうと思う。  心の準備ってやつが。  だから、あの厳格な──子供の頃から、散々と叱られた──祖父が、優しい顔をしてこう告げた時。  俺は取り乱してしまった。 (……白爺さんのあんな表情、初めて見たな)  逆らったのは初めてだった。  俺はずっと、あの人に怯えていたから。  そして何より、俺はずっと、この言葉に怯えていた。  よく──物語なんかじゃ、そういう家に生まれついた者は、家に縛られる事を嫌って、解放とか自由とかを望む事になっているけれど。  けど、実際はそういうものじゃないんだ。 「自分がその気にさえなれば、他の生き方だってある」なんて思いもしない。  代々、そういう家だっていう事。  自分の祖父も、父も、毎日触れ合う、当たり前の日常となっている──手に届く先祖がそうであったという事。  常にその影響下にあるという事。  兄弟なんかいれば、特にそう。  別に兄でも弟でも、どっちでもいい。  どうしたって比べられる。  だって俺は、ついていくだけで精一杯だったから。  見捨てられないように、淡い期待にすがって「いつか」なんて日を夢見ていた。  だから。  俺はずっと、白爺さんのこの言葉に怯えていたんだ。 「お前は好きに生きなさい」  ……わかっていた事なのに。  ずっとずっと昔から、わかっていた事なのに。  それでも受け入れてしまう事はできなくて、諦めきれなくて、無様に努力だけを続けてきた。  父のように。  兄のように。  自分にだって、あの家に生まれついた者が持っていて当たり前のものがあるのだと、認めて欲しかった。  俺が望んだのは、ただそれだけ。  だから結局、俺は理解するしかなかったんだ。  俺は。  ──『巽の者』として、失格したんだって。 「っ……!」  ──静電気?  空気が乾燥するには最も縁遠い時期に、しかも屋外で指先から駆け抜けた衝撃──あまりに咄嗟の事で、呆けていた頭にも活が入ったようだ。  渡された地図を片手に、なんとかここまでやってきた。  駅に降り立つまでは何度かの乗り換えだけで済んだけれど、ここからはバスやら徒歩やら組み合わせての移動となった。  そもそも、降りた駅自体が目的の場所の隣町……だった事を今更になって気付いたんだけど、駅と駅の丁度中間地点に位置するとか、街としてはこっちに含まれるけれど、端っこにあるので実際に行くとしたら隣町の駅からの方が近いとか、そんなのはよくある話だ。  俺は子供の頃に一度、この街へ遊びにきた事があるらしい。 (そういえば、昔遊んだあの娘は、今どうしてるんだろう?)  確か、遠い親戚の女の子だったように思う。  古びた写真のように顔はセピア色にぼやけてしまっていたけれど、この街の懐かしい匂いにでも中てられたのか、いつの間にか遠く朧気な記憶を手繰り寄せていた。  見上げた空は、どこまでも。  ──どこまでもどこまでも──  梅雨の到来とは思えないくらい、透き通るほど青く澄み渡っていた。  この街の空気は、どこか優しく頬をなでていくような気がして。  そしてこの街の空は、訪れた者をとても穏やかに包み込んでくれるような気がした───  街の名前は空明市。  まるであの空を切り取り、名刺代わりに差し出されたような名の。  東京都の片隅にある中規模の街だ。 「巽の者を代表して、誰かがあの街に行かなければならない」  白爺さんがそう告げた時、俺は誰よりも先に話に乗った。  ろくに内容も確認しなかった。  ──どうでもよかったんだ。  ただ、それがあの家から出る理由になるのなら。  もはや居場所のないあの家から。  だから今、自分はここにいる。  曾爺さんだったか、曾曾爺さんだったか───  終わりのないあみだくじを逆しまに辿るように、家系図をずっとずっと遡った大昔のご先祖様が住んでいたというこの街の……この屋敷。 (なんか、想像してたのと随分違うな)  ご先祖様が街を出て行って以来、ずっとほったらかしだったって聞いてたんだけど。  目の前にあったのは、建て直したかのように真新しい侍屋敷だった。 (前にこの街にきた時も、使ったとは思うんだけど……)  それでも滞在期間は一ヶ月くらいのものだったから、旅館代わりにする為には簡単な清掃だけで事足りた。  しかしこれはどう見ても、今住んでいる人の為、もしくはこれから住まう人の為って感じだ。 (住所……間違ってないよな)  地図に記された住所を思わず確認してしまう。  間違ってはいない。  間違ってはいないが、何かが間違っているような気がするという説明不能の矛盾。 (鍵も貰ってる事だし、とりあえず中に入ってみるか)  間違ってたら鍵穴と合わないわけだから、回れ右すればいい。  普段ならこんな考え方はしないんだが、やはり俺はかなり色々な事がどうでもよくなってるのかもしれない。  ──門を開く時。  一瞬だけ、手が止まった。  それはきっと、今日までの日々との決別。  積み重ねてきたものから目を背ける、という、覚悟にも似た諦め。 (……ここまで来て、何を考えてるんだ俺は)  振り返ったところで、昨日までの日々が都合よく転がっているはずがない。  向こう岸に渡る為の、「ある」と信じていた橋はとうに崩れ──そして、背後の道にはどの面下げても戻れやしない。 「へ……え」  外観を見た時にも感じた事だったけど、内装はさらに小奇麗な印象だった。  というか、どう見ても最近になってリフォームされたものだ。  見た目にこだわるタイプの建築家が、洗練されたセンスで侍屋敷を改築したような……あの鍵で扉を開く事ができたって事は、ここで間違いないんだろうけど。  ──まあ、いいや。  とにかく、今日からここが俺の家。  一人暮らしの始まりってわけだ。  憧れの一人暮らしが、まさかこんな形で実現する事になるとは夢にも思わなかったけれど─── 「──え」  と、襖を開いた時。  居間と思わしき部屋には、叩きを片手に掃除をしている少女がいた。 「む。オマエがタツミか」 「えっ……と、君は?」 「オマエのヨメになる、ふたみだ。  今日から世話になってやる。  だから、どうぞ宜しくお願いいたします」  と、ふたみと名乗った少女は床に礼儀正しく正座をすると、深々と頭を下げた。 「あ、はい。こちらこそ宜しくお願いします……」  ご丁寧な対応に、俺も思わず正座して頭を下げる。  ──って! 「ヨメ!?」 「む。その驚きようから察するに、聞いてないのか? それとも低脳では覚えきれずに忘れたのか?」 「聞いてないって! 何だよヨメって!」 「ヨメというのは、特定のオトコと婚姻関係で結ばれたムスメの事だ。この場合、私という事になる」 「そんな事を訊いてるんじゃないって! 何で俺が君の嫁……じゃなくて君が俺の嫁、っていうか何この唐突な人生模様!?」 「なかなか忙しいオトコだな。うん、これは合わせるのが大変そうだ。ヨメというのも、なかなか難しいものだ」 「というか、君はそもそも誰なんだ? どうして俺の家にいる? だいいちどうして──」 「質問は一つずつ」 「はい」  えーっと、優先順位が高いのはどれかな? 「いや違うだろ! 俺は君が誰かと訊いてるんだ! それと、どうして俺の家にいるのか! それから──」 「一つずつと言ったはずだが」 「はい。ごめんなさい」  そうだよね。いっぺんに訊かれても答えられないよね。  まったく俺ったらそそっかしいなぁ。 「いやいやいや。何この完成された力関係」 「では質問に答えるが」 「あ、はい。よろしくお願いします」  イニシアチブは向こうにある。  ……何故だろう。 「私の名は、唯井ふたみ。オマエのヨメだ」 「それがまずわからないんだけど」 「ヨメというのは、特定のオトコと婚姻関係で結ばれたムスメの事だ」 「それはさっき聞いた。俺が知りたいのは、どうして君が俺の嫁なのかって事」  そう尋ねると、ふたみなる少女は───  しばらく考えるように天井を見上げ、それから、 「で、どうして私がこの家にいるかというと」 「ちょっ、そこ端折っていいトコロじゃないでしょ!」 「どうしてと訊かれても、遠い昔からそう決まってるんだ。今更そんな事を訊かれても、私には答えようがない」 「ナニソレ」 「言った通りだ」  えーっと。  まあ待て。落ち着くんだ俺。まず状況を整理しよう。  目の前の少女の名は、唯井ふたみ。  俺の嫁らしい。  それは遠い昔から決まっていて、本人にもどうしてそうなっているのか答えようがないらしい。  うん、わかったわかった。OKOK。  とりあえず、この娘の事が何一つわかってないって事がよくわかった。 「で、オマエの名前は何だ」 「俺?」 「そうだ。自分のムコの名前も知らずに、結婚生活を維持できるはずがないだろう」 「サク」 「なんだそのウエハースを齧った時のような効果音は」 「いやいやいや。サクって名前なんだよ」 「タツミサクか」 「そう」 「字は? どう書くんだ?」 「ああ、さくしの……」  ──いつもここで説明に困る。  だって、どう言ったってあんまり良いイメージにはならない。 「……三国志演義で有名な諸葛孔明のような、人並み外れた知略を用いて主君の役に立ち、その義に報いる人物の事を総じて軍師って言うじゃないか。  そういう意味合いの、策士の策」 「つまり人前では好々爺で人畜無害を装っておきながら、実は虎視眈々と大恩ある主人の殺害計画を策謀している人でなし──の策か。  策と読ませたりする、あの策か」 「ちょっとは空気読もうよ!つか、普通は策を“むち”って読ませるなんて知らないって!」 「他にも、永字八法の第五筆とかあるな」  なによこの物知りさん。  意味がわからないから、思わず言い返せないじゃない。 「うん、策。わかった。それが私のムコの名前だな」 「ま、まあ……ムコかどうかは別として」 「いや、オマエは私のムコだぞ。私がオマエのヨメなんだから」 「……わかったようなわからないような理屈だな」 「理屈じゃない。事実だ」 「…………」 「住まいは私の家の方でリフォームしておいた。万事準備は整ってる」 「えっ……て、じゃあこれをやったのは君か?」 「私じゃない。再設計を行ったのは建築家だし、実際の作業に当たったのは大工さんその他だ」 「そういう事を言ってるんじゃないって事くらいわかっていただきたい」 「随分とガタがきてたからな。これから私たちが住む事になる場所だ、あのままでは新婚生活に支障が出ると家の方が判断したんだろう」 「いや、ていうか……」 「つまり」  俺の話など聞く耳持たず、ふたみは表情も変えずにこう言い放った。 「愛の巣というわけだ」 「照れるんなら初めから言わなきゃいいじゃないか」 「しかし物事には主張しなければいけない瞬間というものがある」 「わかったわかった。とりあえず落ち着かせてくれ。俺はこれから自分会議を始める」 「では、お茶を用意しよう」 「ありがとう。  いや待て。俺の事は構わないでくれ」 「…………」 「ど、どうしたんだよ」  ふたみはじっと、俺の顔を覗き込んでいた。 「……嫌……か?」 「え?」 「私がヨメでは……嫌……か?」  え。ちょっと。  何その表情。  そんな顔されたら、え、ちょっ……。  ……ズルくね? 「い、いや。別に嫌じゃない。嫌とかそういう意味では決してない。ただ、俺が言いたいのは──」 「そうか。嫌でないのならいいんだ。  これから一生懸命、ヨメを頑張らせてもらう。何か不満に感じる事があったら、すぐに言ってくれ。  殴るから」  ちょっと何コノ人。  ツッコミとか色々と追いつかないんですけどっ!!  って俺ら、なに向かい合わせに正座したままコンナコトしてるんですか。  彼女が正座してるものだから、俺もいつの間にか座り込んで姿勢を正していた。 「……と、とりあえず立とうか。足が痺れてきたし」 「オマエがそう言うのなら」  そう言うと、ふたみはすっと立ち上がった。  俺は足が痺れていたんだけど、彼女は手慣れたものだといわんばかりで、立ち上がってからも実に綺麗に姿勢を正す。  礼儀作法を心得たような動きだった。 「……結論としては、わからない事だらけなんだけど」 「若い内はそれでいいんだ。だからこそ知る事の喜びを識る事ができる」 「……えっと」 「さて。私は掃除の途中なので、話が終わったのならそろそろ作業に戻りたいと思うんだが、構わないか?」 「許可を求められても困るんだが」 「オマエの許可なく、勝手に話を中断する事はできない」 「何故だ」 「何故?」  彼女は終始、無表情だった。  ちょっとした変化はあるんだけど、あまり大袈裟に感情を表に出したりはしない。 「──だから」  その時も、彼女は俺を真っ直ぐに見つめたまま。 「オマエのヨメだから」  やはり、まったく表情を変えずにそう告げたんだ。  ──その瞬間だった。 「あっ」 #«5月16日»  ……『ふたみ』。  そうだ……思い出した。  苗字までは、ちゃんと思い出せないんだけど……。  確か、『ふたみ』───  その少女がそんな名前だった事は、覚えている。  幾つくらいだったかな。  俺自身、何歳だったか覚えてもいないんだけど。  随分と幼い頃だったのは間違いない。  確かあの時は、白爺さんに連れられて───  親戚の家へ兄貴と一緒に……。  あれ?兄貴は留守番だったっけ?  どうにも曖昧だな。  でも、ふたみの事は覚えてるんだよな。  ふたみの……というか。  一緒に遊んだ女の子の事、というか。  さすがに昔の事だから、ぱっと名前が出てくるわけじゃないけど。  ただ、“子供の頃に遊びに行った街で出逢った女の子”の事は印象深い。  そう。  確か───  親戚のお婆さんに連れられた───  ──無表情な孫── 「思い出したっ!」 「ん?」 「……な、なな……」 「おいオマエ。振りからいきなりリアクションというのは、流れとしておかしいじゃないか。 “思い出したぞ”というオマエの振りを受けて、私が何らかのボケをして、そこで初めて噴き出すべきじゃないのか?」  なにこの娘。芸に厳しいの? 「い、いや。というか、どうしたんだよ。その格好は」 「ああ、これか。ヨメだからな」 「いや、話繋がってないし」 「知らないのか? 本当に無知なオトコだな。  ヨメというのは、無休無給で一生こき使われる家政婦の総称だぞ?」 「何その断言!?とりあえず、まずは全国のお嫁さんに謝れっ!」 「馬鹿にするな。こう見えても家事は得意なんだ。  オマエの世話くらい一生懸命やらせてもらいますから、どうか末永く宜しくお願いします」 「あ、はい……宜しくお願いします……」  じゃなくて!  つーかー、もう少しテンポある会話っていうか、せめてキャッチボールになってる会話をしようよー。  しかし見事に出鼻を挫かれたな。 「何だその顔は。まあ、どんな顔だろうがオマエの事を好きになってやるがな。  それに家事は私の趣味のようなものだからな、気にしてるならお門違いだぞ。ご主人様」  えーと。とりあえず、今度はどこから突っ込……。 「ご主人様!?」 「紙切れ一枚で消えてなくなる終身雇用だが、家政婦は家政婦だ。  可愛く言うとメイドさん。というのも大いなる偏見だな。メイドは可愛い女の子が誠心誠意尽くしてくれるもので、家政婦はオバチャンが仕事と割り切ってやってるみたいな。  ともあれ、そう呼ぶのが自然だと思うが」 「いや、だからそのヨメ像はおかしいって」 「…………」  おいおい。  なんかいきなり考え込み始めたぞ? 「……ん」  あ。考えがまとまったっぽい。  嫌な予感がするから、先手を打とう。 「あ、そうそう。思い出したってのは、そこなんだよ」 「そこ?」 「あ、呼び方ってところ」 「むー。すまんな。まだヨメに慣れてなくて。  ほんとうなら、ムコが“あれ”と言おうが“それ”と言おうが、即座に何を指しているのか気付かなくてはならないんだが」  なんかカタチから入る娘だな。 「ま、それでさ。その……」 「ん?」 「えっと……」  名前を教えてもらったとはいえ、いきなり『ふたみ』とか呼べないよな。  なんて呼ぼう? 「……君さ」 「そう遠慮されると哀しいな」 「え?」 「“君”というのは、自分の主君、あるいは貴人、また目上の者を敬って用いられていたものだ。現代では同等、あるいは目下の者に対して用いられる言葉となったが、それでも隔たりを感じさせるという意味合いにおいては、昔と大差ない」 「そうなんですか」 「うん。コノがそう教えてくれた」  誰だよ。 「えっと。じゃあ……」 「うん」 「お嬢さん……」 「…………」 「Hey You」 「いったい何を言ってるんだ? 知的に後退してるのか?」 「ああもうっ! お前だよっ! お前に用があるんだっ!」 「……お前……」 「あ、いやだから……」  ちょっと言い方がキツくなっちゃ……。 「…………」  なにその反応。 「……うん……ふ、フーフらしいじゃないか。で、な、なんだ? 私に用があるんだろう?」 「あ、そ、そう。思い出したんだ。  俺、小さい頃にこの街に遊びに来た事があってさ。その時に、お前と逢ってるんだよ」 「……!」  この反応。  この反応は───  ──ああ、そうか──  これはきっと、幼なじみとの再会。  多感な幼少期のほんの一時、共に手を繋いで歩いた記憶。  それは胸の中でとても眩しい輝きを放つけれども、しばらくすると日々の暮らしの中に埋没してしまう。  輝きが失われたわけじゃない。  けれど日常から遠い出来事は、思い出す為の、きっかけという名の取っ手がなかなか見つからない。  そうして機会が失われていく度に、少しずつ少しずつ記憶の砂丘に埋もれてしまう。  空から降りしきる新たな出来事の砂粒が、時間をかけて“それ”を埋めていってしまうんだ───  だから。  初めは、その頃の事を忘れているかもしれない。  けれど、大切に大切に。  砂の中に埋もれてしまわないように。  時折でいいから、その手で砂を払い続けた記憶は──いつしか素敵な“思い出”となって。  そして。  幾年月を経て、成長した二人は再び出会う。  互いの“思い出”に、違った輝きを湛えて。  ──そうなんだ。  これはきっと、そういう事なんだ。  だから。  この少女との出会いは、きっと偶然なんかじゃなくて。  ──定められた運命と言う名の、再会だったんだ── 「そうだろうっ!?」 「オマエ、バカだろ」 「いやいやいや。ほら、俺が昔この街に来た時に、遊んだ事があったじゃないか。覚えてないか?」 「覚えがないな。まるで」 「……まるで?」 「まるで」 「ほんとうに?」 「まったく記憶にない」 「じゃあ運命の再会はどうなるんだよっ!!」 「オマエの頭の悪さはよーくわかった」 「いや、確かに昔の話だけどさ。俺の事を“お兄ちゃん”って呼んでさ、結構、仲良く遊んでたじゃないか」  ──そう。  確かに、そう呼んでいた。  あれ以来そう呼ばれた事はないから、なんとなく覚えてる。 「…………」 「……呼んでた……よな?」  なんか自信なくなってきたな。 「まかせろ」 「ほら! 思い出しただろ?……ってなにをまかせろ?」 「要は、オマエは私に“お兄ちゃん”と呼ばれたいわけだな。いきなり倒錯した嗜好に巻き込まれてかなり辟易するが、これもヨメの務めだ。ムコに合わせるぞ」 「いや、違っ」 「お兄ちゃん」 「だから」 「おにいちゃん」 「…………」 「おにーちゃーん」 「全国の妹萌えの皆さんに泣いて土下座しろっ!!」 「むー」  あ。またなんか考え込み始めた。 「……ん」  はい。考えがまとまったみたいです。 「よし、選べ。“お兄ちゃん”でも“ご主人様”でも好きな方で呼んでやる。“お兄様”とか“旦那様”とか、なんならもっと変則的なものでもいいぞ。リクエストがあるなら聞く」 「いや、基本的にそういう話の流れでは。それに選べって言われてもな」 「決断力のない男だな。仕方ない……ご主人兄様。お兄主人ちゃん……」  おい。なんかくっつけ始めたぞ。  この雲行きの怪しさはなんなんだ。 「……ん」  だから、その考えがまとまったような顔はなんなんだよ。 「お主人ちゃん」 「…………」 「嫌か」 「もう何が正しくて何が間違ってるのか、わからなくなってきた」 「成否の基準が曖昧なのか。自己が確立していない証拠だ。お主人ちゃんは困ったものだな」  今当たり前のように使ったでしょ!?  何これ。決まり? 決定なの? 「じゃあ、お主人ちゃん。  今日から私が、オマエの炊事・洗濯・掃除もろもろ含めて世話してやるから、ありがたく宜しくお願いします」 「は、はい……よろしくお願いします……」 「ん」  随分と満足そうな顔だな。  ……何て素敵な新生活……。 「……ちなみに、俺は貴女様を何とお呼びすれば」 「合わせると言ったろう。好きなように呼べばいい」 「じゃあ………………………………『ふたみ』で」 「わかった。お主人ちゃん」 「……できる事ならば、その呼び名は止めていただけると恐悦至極に存じ候」 「では私は掃除の続きがあるので、失礼するな。お主人ちゃん」 「…………」 「何か用があったらいつでも呼んでくれよ。お主人ちゃん」 「…………」 「お主人ちゃん?」 「いいんだ。すこし独りになりたいだけなんだ」 「そうか。では納得いくまで孤独を噛み締めてくれ」  縁側に腰掛けながら、茜色に染まった空を見上げていた。  ──人は、新たな街に足を踏み入れた時、何を思うのだろう。  後ろ髪引かれるかのような、住み慣れた街への哀愁だろうか。  それとも、これから起こる日々への期待に、胸を躍らせるのだろうか。  気付けば夕刻。  黄昏が今日一日を締め括る。  俺はといえば。  使い古したスポーツバッグに詰め込めるだけの荷物を詰め込んで、家を飛び出した早朝───  電車を乗り継ぎ、バスに乗り込み、地図を片手に歩きに歩いて、ようやくこの街に辿り着いた。  後ろ髪を引かれる事もなく。  むしろ、すべてを白紙に戻したい一心で、新たな生活だけを歓迎した。  ──新たな生活。 「オマエのヨメだ」  親戚の娘。  遠い昔の記憶。 (何だかなぁ……)  …………。 (カラスって……確か、四回鳴くのを聞くと縁起が悪いんだっけか……)  ぼんやりと、そんな事を考えていた。  …………。  わかった。わかったよ。  お前の言いたい事はよーくわかった。 「はぁ」  縁側にごろんと横たわる。  ……なんか。  ……つか……れた……。  下りてくる瞼に抵抗する気力も湧かなかった。  ………………。  …………。  ……。 「ん……」  気付けば夜になっていた。  少しうたた寝してたみたいだ。  ──見上げた空は霞み。  そこには、この街を訪れた時のような澄み渡った空気はなく。  ただ、ゆるやかな静寂に包まれて。 「──はは」  慌ただしい一日の終わりを感じてか。 「空明市なんて名前してるくせに、こう曇っちゃ形無しだな」  思わず、可笑しさが込み上げてきた。  今日はもう寝よう。  布団でちゃんと、ぐっすり眠って。  そして明日になれば。  そう、きっと。  なんかもう色々と夢でしたーの一言で片付いてくれると大変ありがたく  とりあえず、ここが俺の寝床になるらしい。  ふたみに案内されたんだが──しかし見渡してみると、例の内装はともかく、随分と広いベッドを用意してくれたもんだな。  ふたみは“寝室”として案内してくれたが、俺はここを“自分の部屋”にしようと思っていた。  確かに侍屋敷を改築しただけあって家は広く、部屋はかなり余ってる。  けど俺は、書斎、食堂、寝所、といったような分け方はしたくないと思っていた。  実は、そういうのが憧れだった。  全部ひっくるめた、“俺の部屋”が一つあるっていうのが。  実家ではできなかった事だから───  贅沢な悩みなんだろうけれど、気持ちの切り替えという意味では丁度いい。 「…………」  部屋に入室した時点で、すでに整えてあった寝具。  それは、何気ない光景だったけれど。  ……なんでだろう。  とても優しく感じられたんだ。  真っ先に──他の何よりも──そう感じた。  隅々まで気を配っておきながら、押し付けがましさは一切なく。  気配りはどこまでもさり気なく、しかし一つとしてミスはない。  ただ寝具を整えるだけとはいえ、なかなかこうはできるものじゃない。  自分ができる精一杯で。  相手にとって居心地のいい環境を提供しようと、ただそれだけを想っていなければ。 「自分がやりました」とか、「いい仕事してるでしょ」とか。  そんなものとは無縁の。 (…………ヨメ、ねえ……)  ……ああ。  今頃になって気付いたけれど、いつの間にか消えていた。  この街の青空を見上げた時の気持ちは、何処かへいってしまっていた─── (……ん……?)  薄ぼんやりと開いた瞳。  身体を起こすと、視線の先には襖があって。  瞬きの先に、小柄で可愛らしい少女の姿が浮かんだ──ような気がした。 「……ふたみ?」 「…………」 「……何してんの?」 「な、何って……」 「……?」 「…………」 「……ふたみ?」 「よっ、ヨメとムコは一緒に寝るものだろうっ!」  真っ赤になってそう叫ぶと───  言うが早いか、ふたみは布団の中に飛び込んできた。 「ふっ、ふたみ!?」 「…………」  ちょ待っ。  ちょ待っ。  ちょ待っ。  なになになになになにそれ???  ベッドが妙に広かった理由ってコレ??  なに神様とか俺のこと本日絶賛翻弄中なんだよ!! 「ふふ、ふたっ」 「ひゃうっ……!」  なんか柔らかいものに当たった!? 「ごごごごごめんなさいごめんなさい」  柔らかいものってあれだよばかほら炊き立てのご飯とかに決まってんじゃんばかほら  ワンタンとかはんぺんとか耳栓とかだって言ってんじゃほらばかだから違うって  そうだ素数だ素数を数えるんだそうすれば落ちつ  4、6、8、9、10、12、14、15……。  ──見ろ。素数は勇気を与え  あああああああああこれ素数じゃねぇぇぇぇっっっ!! 「……ふ、布団、あったかいな」 「い、今の今まで横になってたからな」 「……は、端っこは冷たいな」 「お、俺の身体があった部分しか熱がこもってないからな」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「……あの」  思わず同時だった。 「なっ、なんだ?」 「……嫌、か? こういうの」 「えっ」 「お主人ちゃんが嫌なら、出ていく」  ──擦れた息遣い。  それは、ふたみがどれほど緊張しているのか、伝わってくるかのようで。 「別に、嫌ってわけじゃなくて……」  こんなに緊張して、身を硬くしながら。 「……なんだ?」  一言一句、おっかなびっくり。  この娘は今、懸命に勇気を振り絞ってここにいるのだと。 「嫌なんじゃなくて、マズイような」 「何がマズイんだ? ……フーフって、こういうものだろう?」  そう言われると、返す言葉がなくなる。  どうして俺たちが夫婦なのかはわからないけれど。  この娘は今、必死に“ヨメ”であろうとしている。  それがわかってしまって。  この娘は少し表情が乏しいようだけれど。 「自分の部屋に帰れ」なんて言ったら、どれだけ傷付くか─── 「…………」 「……やっぱり、帰った方がいいか?」 「いや……いいよ。ふたみがしたいようにすればいい」 「…………」  ──ほんの少しの沈黙。 「お主人ちゃんは、優しいんだな」  それは違う。  きっと、この娘が一生懸命だから。 「…………」 「…………」  それきり、言葉は続かなかった。  ──ほんの少しでも身を動かすと。 「……!」  ふたみが、びくりと反応するのがわかって。  明日は上手く言おうと思いながら。  その夜、俺はまんじりともできずに、ただ時間だけが過ぎていった。  ───それは、とてもとてもへいわな世界のお話。  かなしいことなんてなにひとつないその世界には、とてもきれいな湖がありました。  そこには、いつもだれかが見物にきていましたが、きょうは小人たちがとおくの国からはるばる遊びにきていました。  かれらは水の上に葉っぱの家をうかべ、みんなで水の中をのぞきこんでは「すごい」「すごい」と言い合っていました。  そこへ魔王がやってきました。  とてもよくばりな魔王がやってきました──── #«5月17日»  ──日々繰り返される目覚めの瞬間の光景など、そうそう変わるものではない。  それは、常に一定の方向を向いて目覚めるからではない。  部屋という空間そのものの認識、その引き出しとなるのが“見知ったものである”という事だ。  寝る前に見た天井の板の模様でも、兄弟喧嘩の思い出があるベッドの柵の小さな傷でも、普段何気なく見ている照明のカサに被った埃の量でも、何でもいい。  それを最も心落ち着かせる事のできる我が家で見た、という認識が無意識にでもあるのなら。  違和感があればすぐに気がつくものだ。  例え、どんなに寝ぼけていようとも。 (……あれ?)  だから、目覚めた瞬間にそう感じたのなら。  覚えのない天井に戸惑い───  身を起こして視線を変えても、待ち受けているのはやはり見知らぬ部屋なのだ。 (……何処だ? ここ……)  寝起きはあまり良い方じゃない。  目に力を入れるように、眉間に皺を寄せて──上から降るようにやってくる眠気と格闘する事によって、無理やりに脳を覚醒させる。  するとほんの少しだけ覚醒後の世界に身を置けるけれども、油断するとすぐに眠りの王国に連れ戻される。  王国の軍隊は強力で、俺がどんなに抵抗しようとも容易く  ぐー。  ──そんな時だった。 「おはようございます。お主人ちゃん」  寝ぼけ眼の世界の向こう側に。  床にちょこんと正座をした小柄で可愛らしい少女が、こちらを向いて深々と頭を下げていた。 「あ、これはご丁寧にどうも……」  思わずかしこまって、俺も正座して深々と頭を下げ───  ……お主人ちゃん? 「おい」 「はい」 「これはヨメの仕事だ。ムコは頭なんか下げるな」 「ごめんなさい」 「うん」  ……思い出した。  ああ、そうか。  俺、巽の家を出たんだ。  それで、この屋敷でこの娘と出逢って……。  ちょっ!なんか気付いたら俺ぐっすり熟睡じゃん!  おやおやおや。  女の子と一夜を共にしてしまいましたよ。  ははん。  そうか、俺もついに一つ上のオトコになったのか。  ありがとう新世界!! 「…………」  俺がそんな一人上手をしている間、ふたみは何やら考え込んでいる様子だった。 「今度は何を悩んでるんだ?」 「ん、ヨメの仕事に関してなんだが」  この娘は早い話、物凄く真面目なんだよな。  形から入ろうとする辺り、いかにもっていうか。 「ヨメは……朝はまず何をするんだ。伝え聞くところによると、“ご奉仕”か?」 「ちょっ!?」 「で、“ご奉仕”というのは具体的に何をするものなんだ」 「えーと、それ……俺に訊いてるのか?」 「勉強不足でスマン」  ふたみは申し訳なさそうに頭を下げる。  といっても、無表情なままなんだけど。 「何を……」 「うん。教えてくれたら、言う通りにするぞ」 「言う通りに……」 「まかせろ」 「…………」 「どうした?」  ──ボクの心の中に、天使と悪魔がいます。  さあ、今、この天使と悪魔が戦っていますよ。  天使はこう言います。 「この娘は真面目に言ってるんだ。それを利用するような真似だけはしちゃいけない」  しかし、悪魔はこう言います。 「自分からこう言ってるんだぜ? いいからやっちゃえやっちゃえ。ゲッヘッヘ」  それに対して、天使はこう言い返し  つかめんどくせ。  ぶっちゃけ悪魔の方が圧倒的に強えっつの!!  ──さて、では質問です。  目の前にヨメがいます。  自分の言う通りに何でもしてくれると言っています。  さあ! 貴方ならどうしますか?  倒されたはずの天使は不屈の闘志で立ち上がる。  ──正義を。  そうだ、正義を。  一人の勇者の出現に、傷つき倒れたはずの仲間たちもまた呼応する。  瞬く間に地を埋め尽くした天使の軍団は─── 「なんでもするぞ。遠慮なく言ってくれ」  ただちに悪魔の軍勢に敗北する。  おお、神よ……!  我が双眸より零れ落ちる血の涙をご照覧あれ。  地上には欲望が溢れているのです。  我が身と心を容易く誘惑するのです。  ぶっちゃけアンタんとこよりもこっちの方が居心地いーんで、堕天しますわ。  じゃっ!! 「ではこの俺が教育してやろう。“ご奉仕”とは如何なるものであるのか──その真なる意味を」 「うん。お願いします」  なんという無垢にして愚かなる女よ。  ククク。  フハハハハハハハ。  ハーハッハッハ!!  ……愚かなる娘よ。  貴様は自ずからその身を穢れに差し出そうとしている事に気付かぬのか。  貴様は供物だ。  呼吸と殺戮を同義と唱える我が前に捧げられた供物よ。 「さあ、どんとこい」  ……信じるという行為は素晴らしいものだな。  だが、それも相手を選ばねばたちどころに愚行へと変ずるのだ。  私はこの暗澹で塗り尽くされた城の城主ぞ。  その瞳には私が善人に映るのか?  ハーハッハッハ!!  ……この私にもかつてそのような頃があった。  あの澄み渡った青空を穢れなき瞳で見上げられる、そんな時代が確かにあったのだ。 「おい。何をぶつぶつ言ってるんだ。早く“ご奉仕”の意味を教えてくれ」  ──そう急くな、娘よ。  これから喰われるだけの貴様ならば、今少し昔話に付き合うだけの猶予はあろうて。 「おいってば」  あれはそう───  もう、遠い昔の出来事となる──── 「そう……そこだ」 「こうか?」 「おっ……ふふ、やればできるではないか」 「うん」 「いたたっ」 「あ、すまん。どうも慣れなくてな」 「そこは心持ち力を抜くのだ。そして優しく……丁寧に、ゆっくりと」 「はい」  ──というわけで、ふたみさんのマッサージを受けています。  朝から女の子に身体をほぐしてもらうとは、いいご身分ですね。  すごいベタベタですね。 「なるほど。これが“ご奉仕”か」  勉強になった、と言わんばかりに、ふたみはうんうん頷いている。 「経験不足で申し訳ない。明日はもっと上手くやるから、これに懲りずにまたやらせてくれ」 「明日も!?」  ぶっちゃけこのキャラ疲れるんですよ。 「毎日やるのが、ヨメの義務。ちゃんと調査済みだ」  何をどう調査したんだ、いったい。 「がんばってすぐに慣れるから、そう嫌がらずにやらせて欲しい」 「いや、というかな……」  今更、嘘だとは言えないし。 「ダメか?」  またそういう顔をする。  反則だよ、それ。 「わかりました。お手数でなければ、宜しくお願いします」 「うん」  笑った──わけじゃないんだけど。  その表情は、どこか晴れやかな印象だった。 「できれば、一週間に一度とか」 「…………」 「三日に一度」 「…………」 「……毎日」 「うん」  やはり晴れやかな印象。  まったく、敵わない。 「じゃ、お主人ちゃん。すぐに朝食だから、居間に来てくれ」 「え? い、いや、いいよ」 「ん? お主人ちゃんは、朝食を抜くヒトだったのか?」 「そうじゃないけど。そんな事までしてもらったら、悪いからさ」 「何が悪い。ムコの食事の支度は、ヨメの立派な仕事だぞ」 「いや、でも……」 「遠慮しているのなら、いらぬ気遣いだ。もう準備してしまったからな。後の祭りだ」 「準備って……」  いったい、いつ? 「仕込みは先日、床に着く前に。手のかかるものは先程終わらせたので、後は火にかけるだけだ。ちょっとだけ待っててくれれば、すぐに終わる」 「…………」 「じゃ、居間で待っててくれ」  そう言い残し、部屋を出て行くふたみ。  寝る前に明日の為の仕込みをして。  昨日は、ふたみだってなかなか寝付けなかっただろうに。  それでも、俺が起きた時には、まるでずっとそこでそうしていたかのように、布団の傍で正座していた。  その時点で、すでに朝食の準備は終わっていたって?  ──いったい、ふたみはいつ起きたんだよ? 「……まいったな」  俺は自然と頭を掻いていた。  こうなってくると、俺も何かしなくちゃいけない気分に駆られるんだけど。  朝食の準備は、もう終わってるって言ってたし。  だいいち、俺は料理なんかできないしな。  下手に手伝うと、逆に足を引っ張──あ。  皿を並べるくらいはできるじゃないか。  それくらいしよう。  いや、是非ともさせてくれ。 「ふたみ、俺にも何か手伝わせてくれ」 「手伝いなどいらん」  ──会話終了── 「い、いや、そう言わず。何か」 「あのな、お主人ちゃん。これは私の仕事だ」 「そこを曲げてなんとか」 「ムコに家事の手伝いなんかさせて、私に恥をかかせる気か」 「いや、最近はそういうご家庭も多いと思います」 「他家は知らない。我家は我家だ」 「じゃあ、我が家もそういうルールという事で、一つ」 「…………」 「な?」 「……お主人ちゃん。一言だけ言わせてくれ」 「はい?」  ふたみは静かに息を吸い込む。 「ムコはどっしりと構えてろっ。傍でちょこまか動いてるヨメになんぞ目もくれるなっ」 「…………」 「以上だ」 「……はい」  とぼとぼ肩を落として退室する俺。 「今日から学校だろう。時間があるのなら、早く着替えたらどうだ?」 「あっ」  言われてみれば、今日から初登校だった。  うん。まったく準備してないね。何一つ。  はっはっは。  やっべどうしよどうしよ。  とりあえず何から取り掛かればよさげ?  制服って必要なんだっけ?でも買ってもいないし。  鞄、鞄……って詰め込む教材を一つとして揃えてないじゃん。  俺は昨日、いったい何をしてたんだっ!!  いや、そりゃ昨日の今日で登校ってのも、急だとは思うけどさ。  家を出る時、住む場所の準備は整っているだの転入手続きは終わっているだの、言われた事に何でもかんでもはいはい答えてたら、こうなっちゃったわけでさ。  要するに、自分のせい以外の何物でもないんだけど。  まさに後の祭り。  今から買いに行っても……間に合わないだろうなぁ。  どこに売ってるのかさえも調べていないわけだが。 (……あれ?)  そこには、ハンガーにかけられた真新しい制服と。  教科書などの教材一式が、几帳面に並べて置かれていた。 (……ふたみ……)  ──真っ先にその名前が出てきたのは。  きっと、並べ方一つとっても、丁寧さが伝わってきたから。 「ふたみ……」  ちゃんとお礼を言わなきゃ、とか、そんな気持ちでいっぱいだったから。  ──だから、思わず立ち尽くしてしまったんだ。  当たり前の空間に、意外な出来事が舞い込むという事。  それはきっと、油断しきった心理からは、驚きの感情しか引き出されないだろう。  自室でくつろいでいる時、急に苦手な昆虫を見かけたような。  ──では、驚きの理由が逆だった場合は?  まだ、この家を「暮らしの空間」と認識しきっていなかったせいか。  俺は思わず、夢見心地な別世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えたんだ。  用のある部屋へ訪れる為に、襖を開く、という自然な行為は。  部屋を満たしていた大気に風を送り込み、その香りを解き放つ事に他ならなかった─── 「…………」  鼻腔をくすぐる芳香に、俺は立ち尽くしたまま。 「丁度いい。今、呼びに行こうと思っていたところだ」  別世界の案内人の言葉に、ただ誘われるように頷いていた。 「どうした? ぼーっとして」 「あ、いや……あんまり好い匂いだったからさ」 「そうか。お腹が空いてたのか。すまない、遅くなって」  そんなんじゃない。  空腹は最高の調味料とか、そういう話じゃなくて───  ……これ、ふたみが作ったんだよな。  思わず喉が鳴った。 「ああ、そうだ。ふたみ、ありがとう」  はっと我に返る。  忘れるところだった。 「何の話だ」 「制服とか、教材とかさ。準備しといてくれただろ? 助かったよ」 「ヨメとして当然の事だ。いちいち礼なんか言わなくていい」  そう言うと思ったけど。  ……いや、待て待て。  毒されてるぞ、俺。  いつの間にか、この状況を受け入れてしまいつつある自分がいる。  ふたみは良い娘だと思う。  けれど、ヨメだとか結婚だとか、わけもわからないままのそんな事態は決して俺が望んだものじゃなくて───  ──自制心。  場の雰囲気に呑まれては駄目だ。  ここは男として、きちんと自分の意思を持って─── 「冷めないうちに食べてくれ。オマエの為に作ったんだから」 「お、おう」  そんな事をさらっと言わないでくれ。  ……多分、何かの勘違いとか、そういう事だと思う。  俺がしっかりしてれば大丈夫だ。  ──そう。  ふたみの言葉は、義務感とか責任感とか、そういうものから出てるんだから。  俺が取り間違えたりしなければ、大丈───  手近な料理を一口、口に含んだ途端。 「うっ……」 「オマエの好みがわからなかったんでな。とりあえず、無難な献立にしてみたんだが……どうだ?」 「美味い!!美味いよ。なにこれ、めっちゃ美味しいじゃん」 「そうか」  表情はさほど変わらなかったけれど、ふたみはどことなく嬉しそうに見えた。  ──びっくりだ。  これは本気で美味しい。  ふたみは無難な献立と言ったけれど、無難な献立こそ調理は難しい。  誰もが作り方を知っているから、出来上がるものに腕の差がはっきりと出る。  白米、豆腐の味噌汁、卵焼き、里芋の煮っ転がし、焼き魚。  日本人の朝食として定番のメニュー。  凝ったものや変わったものであれば、親しみがない分だけ味にインパクトが生まれる。  極端な話、料理の品目そのものだけで、「美味い」と感じてしまう事だってある。  しかし逆に無難な献立は、食べ慣れているだけに舌が肥えている。  ちょっとやそっとの違いでは、唸るような事はないはずなんだが─── 「いやいや、これはたいしたもんだ。  ふたみをお嫁さんにする人は、幸せものだな」 「おまっ……」  ──思わず素直にそう言ってしまった途端。 「……え、じゃないか……」  ……なにこの空気。 「あまり……、その、なんだ……。そういう……殺し文句って……言うのか。そういうのは、その、慣れてないから、ヤメロ」 「ご、ごめん」 「ああ、いや、謝らなくてもいいんだ……ええと……あー……上手く言えない。と、とりあえず、食べろ」  言われて、もそもそと料理を口に運ぶ俺。  駄目だ。  どう考えても、これは美味い。  ケチのつけようがない。  この際だから言うと、俺、それなりに舌は肥えてるはずなんだけど……どうしたものか。 「お、おかわりとか必要だったら、遠慮なく言えよ?」 「あ、じゃあご飯を」 「うん」  ふたみはてきぱきと働く。  その動きは、的確ではあるけれど礼を重んじるようであって。  ふたみの性格がよく出ていて。 “いい奥さん”って、きっとこういうものなんだろうな──なんて考え始め  待った待った待った。  また流れがおかしくなってる。  しっかりしろ、俺! 「え、ええとな。今度は、お主人ちゃんの好きなものを教えてくれると助かる。きっと、美味しく作るから」 「え、マジで!? じゃあさ」  これほどの料理人に、自分の好物を作ってもらえるだなんて。  俺はなんて───  ……なんてダメな子なんだ。  ──よし。  制服に身を包んで心機一転。  まずは、今日から通う事になる学園の事を考えないとな。  学園の名前は、確か───  考え事をしながら玄関に向かっていたら、廊下の奥からふたみがやってきた。 「ふたみも今からか? 一緒に行かないか?」 「モチロンだ」  どうやら、俺の登校に合わせて待っててくれたみたいだな。  これも、ふたみが言うところの“ヨメの仕事”なんだろうか。 「あ、そうだ。戸締りしないと」  考えてみれば、俺、まともに戸締りした事すらないんだよな。  巽の家には、いつも誰かしらお手伝いさんがいてくれたから。  でも、これからはそういうところもしっかりしないと。  ──“特別”でない者には。 “特別”になれなかった者には。  当たり前が待っている。 “普通”という名の、当たり前の生活。  だから俺には、もう、誰かに世話を焼いてもらう資格なんかない。  ──いや。  俺は初めから資格なんか持っていなかったくせに、“特別”の中に紛れ込んでいただけで。  当たり前として、“普通”の日々を享受する。  ごくごく“普通”の人間として、これからは自分の事は自分で……。 「どうした。行かないのか?」 「あ、いや。戸締りをな」 「問題ない。完璧だ」 「完璧か」 「完璧だ」 「…………」 「どうした?」  いかん。これでは、俺は本当に駄目な人間になってしまう。 「なあ、ふたみ。戸締りくらい、自分でやらせてくれないか」 「それはできない」 「いや、そう言わずに」 「オマエは私の仕事を取る気か」 「ごめんなさい」 「わかればいいんだ」  ……俺はいったい……どうしたら……。 「あれ? ふたみ、それは?」  ──ふたみが鞄とは別に手にしていたもの。 「これか? ホウキだが」 「いや、それは見ればわかるけど……持ってくのか?」 「当たり前だろう。私の責任だからな」 「だからそのズレたヨメ認識はどこから」 「む。いかん、遅刻する。ムコを遅刻させるはヨメの恥。訊かぬは一生の恥だ」 「とりあえずツッコミどころは一つに絞ってくれ」  ──いい天気だ。  これぞ快晴!とばかりに、空は今日も青々と晴れ渡っている。  季節は梅雨だというのに──肌にまとわりつく、不快なじめじめ感もどこへやら。優しい日差しの中、春に似たぽかぽかとした陽気が辺りを包み込んでいる。  ──始まりを告げる気候としては上の出来。  天気は及第点。  憎い演出するじゃないか、梅雨の奴───  春うららかな日差しの中、初めての登校を迎える新入生のような気持ちで。  これから始まる学園生活に胸を躍らせる。  見慣れない景色はどれも新鮮で、きらびやかに光り輝いて俺の視界に飛び込んでくる。  こんにちは、なんて、見知らぬ人に思わず声をかけたくなるくらいに。  ──それは、この街が放つ魔法?  目の前に広がる、急勾配の石段。  30段ほど下ると、踊り場が広がって──そこから先にも、また石段が続いている。 「随分、下るんだな」 「ああ。私たちの学園は、この街で最も低い場所に建てられているからな」 「ん?」  ──何かが横切った。 「ああ、猫だろう。この辺りは猫が多いんだ」 「へえ」  学園へと続く、長い長い──猫の階段、か。  まるで。  本当に、知らない世界へと連れて行ってくれそうだな。  ──そして。  思わず、足が止まった。 「……城?」  呆気に取られた俺が最初に口にしたのは、その言葉。  取り囲む堅牢な石垣の城壁。  民草を見下ろすかのようにそびえ立つ、天守閣の威風。 「学園……じゃ?」  思わずそう問いかけてしまう。 「学園だ」 「これが?」  ──見上げるほどに見事な情景の結晶が、俺がこれから通う事になる学び舎だった。  こうして正門を前にすると、また別の感慨が湧き上がってくる。  新しい学園。  そう。確か名前は─── 「『弐壱学園』だ」  ふたみが俺の心を読み取ったかのように、そう口にした。 「当たりか?」 「え?」 「お主人ちゃんが今考えていた事」 「え、ああ……うん、そうだよ」 「そうか。うん、そうか」  やっぱり表情は変わらないけど、ふたみはどこか嬉しそうだった。 「この調子でいけばいいんだな。うん」  何を納得してるんだか。 「……ん」  俺は一つ、大きく深呼吸した。  胸いっぱいに新鮮な空気を取り込み、そして吐き出す。  ──さあ、動き出そうか。 「──待って」  門を通ろうとしたら、ふたみが俺の制服の袖をつかんだ。  彼女は何故か、門前で立ち止まっていた。 「ん?」 「こういう時は、あれだ」 「あれって……」 「“せーの”で、な?」 「…………」 「な?」  俺を見上げるふたみの瞳は、どこか優しくて。  だから俺は、ふたみと手を繋いで。  ──照れくさかったけれど。  一緒に門を、潜ったんだ─── 「弐壱学園へようこそ──お主人ちゃん」  ──桜が咲いている。  うららかな日差しが、まるで新入生を出迎える桜の花びらのように空に踊っている。  舞い散る花びらの中に、出逢ったばかりの華が負けじと咲いている。  ──俺は。  不覚にも、俺は。  それを見て、とても綺麗だな……なんて、思ってしまったんだ。  登校時という事もあって、辺りには多くの生徒の姿が見える。  仲良く登校してくる、お喋りに華を咲かせる生徒たち。  部活動の朝練に励んでいた生徒は、授業の開始に合わせて引き上げの準備を。 「私服の人がちらほらいるな」  そして、ふと気になった疑問を口にした。 「ああ。ウチの学園は、一応は制服が定められているが、着るかどうかは個人の自由なんだ」 「つまり私服もOK?」 「そうだ」  なるほど。  その上で制服を選ぶのは、ふたみらしいというかなんというか。  それにしても──『弐壱学園』、か。  俺が真っ先に抱いた感想は。 「ニーツとか横文字っぽく読むと、ニートの養成校みたいだな」  という、ろくでもない内容だった。 「…………」  あれっ! また何か考え込んでる! 「こ、今度はいったいどのような……」 「スマン。やっぱり私は勉強不足だ。お主人ちゃんの言っている意味がよくわからない」 「そんな遠回しに毒を吐かんでも。つまんなかったらつまんないって、バッサリ斬ってくれた方が」 「いや、そうではなく」 「……?」 「……もっと勉強しなければ、立派なヨメになれんな……」  何がわからなかったんだろう……? 「……ニートって何だ……」  まるで城主の待つ城へと奉公しに行く気分にさせる、格式高く設えられた階段をふたみと歩む。  ──すると。 「唯井先輩、おはようございますっ!」 「ん」  後輩だろうか。  やや幼げな面持ちに笑顔を浮かべた女子生徒が、元気な声でふたみに挨拶していった。 「唯井さん、おはよっス」 「ん」  続けて男子生徒も。  随分と慕われてるみたいだ。  この娘の容姿なら、人気あるのもうなずけるけど。 「お、唯井……」  今度は同学年っぽいな。  クラスメイトだろうか。 「いや、これまたいい陽気でね。太陽のやつも唯井が登校するってんで頑張っちゃってますな」  何だこのおべんちゃら野郎は。 「なあ、みんな」  と思った矢先、その生徒は傍にいた他の男子生徒に声をかける。 「いや、まったくだ」 「ふっ──唯井さんの輝きの前には太陽とて道を譲るさ。おっと、これは失敬。太陽は頭上ではなく僕の目の前におられましたな」  それに対し、ふたみは。 「ん」  とだけ、これまでと同じように答えた。  え。ちょっとなにこのお大臣。 「おう?」  なにこのモンスター!? 「ん? なんだお前。見ねェ顔だな……ああん?」  死んだ──生存確率0%の戦いが、今、始まる。 「まっ、魔剣だ! 伝説の魔剣を持て!!」 「ああん?」 「ごめんなさい」  どんなに気をつけても事故は唐突に遭うって、本当だったんだ。  つかなんだよこのエンカウント。  とんだ糞仕様だ。 「おはようございます」 「あ、唯井くん。おはよう〜。お、その荷物重たそうだね。よかったら教室まで持っていかせてもらうよ?」  ちょっと! なにその力関係!? 「問題ありません」 「そっかー。でも何かあったらすぐに先生に言うんだよ? もし唯井くんをイジメるような奴がいたら、この学園の生徒とか関係なしに、先生……。  すぐに潰して……あげるから……」 「仮に私に対し、そのように受け取れる行為をしてくる者がいたとしても、きちんと自分の力で解決してみせます。ですから問題ありません」 「そっかー。まあ、唯井くんはそう言うと思ったけどね。まったく立派なんだから。それじゃ、またね」 「なあなあなあ! 今のってこの学園の教員だよな!?」 「そうだ。教職暦25年、体育教師と思わせて実は家庭科担当。  裁縫がとても上手い彼のニックネームは『魔族』。凶暴な野性の熊をでこぴん一発で仕留め、なんだかお腹が空いたのでその場で食べてしまったという。  この学園で生徒たちから最も恐れられている教師だ」 「何でそんな人まで従えてるの!?」 「何の話だ?」  なんなんですかあなたは。  いったいどこの王様ですか。  と訊きたい。  が、なんか訊き辛い。  どうしよう。  なんか全員の弱みを握ってるとかいうタイプのお人だったら。  とりあえず、この人には逆らわない方がいいのかもしれない。 「唯井先輩〜! おはようございます!」 「唯井さんっ! ちわっス! おはよっス!」  その後も───  会う人会う人、ありありと敬意が感じられる挨拶をふたみと交わしていく。  いったい、なんなんだか。  ……はは。  ……はは。 「ふたみおねーさまっ」  ──可愛らしい声が飛び込んできた。  声ばかりか、その娘は身を預けるようにしてふたみへと抱きついた。  またですか。  今度は“お姉様”ときましたよ。 「妾」  ふたみはその娘を抱きとめると、優しく頭をなでた。  まるで、いつもそうしているかのように。 「ぬくぬく」  ふたみに頭をなでられる度、その娘の表情はへにゃ、と崩れていく。  まるで至福の時を過ごすかのように。  その様は、心地良い日差しの中で日向ぼっこをしている猫のようにも感じられた。 「おねぇさま……」  本当に幸せそうだ。 「あ。お主人ちゃん、紹介しよう」  その口振りからすると、親しい友人なのだろう。  ──とはいっても、随分と幼い子だ。  俺たちの同年代というわけではないだろう。  その子は今以て、ふたみに顔を埋めたまま。 「ぬくぬく」  まだ言ってる。 「私の遠縁の娘でな、昔からの付き合いだ。  未寅愛々々という」  なるほど。親戚の子か。  あれ? でも、ふたみの親戚って事は……。  そんな事を考えていたら、愛々々と呼ばれた少女がこちらを向いた。  随分と幼い印象だけど、幾つなんだろう? 「あなたがエド?」 「えっ……えど?」 「だから、タツミでしょう?」 「え、ああ……巽だけど……」  ……そうだよな。  ふたみの遠縁って事は、俺にとってもそうなるわけで───  だから、巽の家の事を知っていてもおかしくない。 「……あのさ。ふたみも聞いて欲しいんだけど。  勝手なお願いで申し訳ないんだけどさ。俺、巽の家の人間だって事は、できれば皆に知られたく──」 「待ってたよ」 「え?」 「ずっと、『タツミ』が来るのを待っていたの」  ……わかってる。  どこへ行ってもそうだった。  クラスメイトとか、近所の人とか、旅行先でだって、いつだって反応は一緒だった。  ましてや親戚ともなれば─── 「ああ……だからその、悪いんだけど、その事はできれば──」  言いかけた時、少女はちょこちょこと歩いて俺の傍までやってきていた。  にっこりと、嬉しそうな無邪気な微笑み。  そんな顔を見せられたら、思わず言葉に詰まる。 「あ……あの、さ……」  少し腰を屈めて、言い聞かせるように少女と目線を合わせる。  すると彼女は一層の笑顔を見せて、まるで内緒話をしたがるように、俺の耳元に手をやった。  ……ごめんよ。  でも俺は、失格した人間だから。  君のその笑顔に応える資格なんてないんだ。  本当にごめんよ─── 「ツブす」 「は!?」 「ずっとずっと前から決めていたの。『タツミ』が来たらツブそうって」  耳元で囁かれた言葉。  つか呪詛。  なんですかこの殺戮系のお子様は。  えーと。小さい子の間で、最近「ツブす」っていう言葉が流行っているのでしょうか。  いやちょっと待とうよ!  なんで初対面の子供から耳元で殺害宣告を受けなきゃいけないんだよ!? 「じゃあね、エド。覚悟してね?」 「ちょっと待ってちょっと待ってねえちょっと待って」 「じゃあ、ふたみおねーさま。ごきげんよう」 「うん」  そうして、その少女は笑顔のまま、軽い足取りで去っていった───  ……一人の男に、呪いという名の悪しき重圧を科して。 「良い子だろ」 「うん……そうだな……明後日の方向に……」 「二人ともすぐに打ち解けてくれたようで、安心した」 「そうね……どっちかというとマイナスを極める勢いで……」 「私が親しくしてる相手は、できればムコにも気に入ってもらいたいからな」 「きっと色んな意味で平行線なんだろうな……」 「昔からどうも、妾は私が仲良くしてる相手ほど相性が良くないらしくてな」 「……へえ……」 「あんなに良い子なのに、皆、何故か彼女の事を怖がるんだ」 「…………」 「まったく不思議だ」  俺はふたみがどうして不思議がってるのかが不思議だよ。 「……で、なんで“妾”?」  まさか本当に、誰かの……その、そういう……なんて事は。 「愛々々だから、メが三つ。つまり、メ掛ける事の……」 「あ、もういい。わかった」  ふたみらしくて安心したよ。逆に。 「ああ、そうだ。誤解されやすいんで一つ言っておくとだな」 「ん?」 「あの娘は幼く見られがちだが、私たちと同い年だぞ」 「はぁ!?」 「では、教室に案内しよう」  この人類の造形の限界に果敢に挑戦したかの如きご尊顔とお身体をお持ちの教師は、俺の担任だった。  これ以上の情報には触れないでおこう。  多分、出生の秘密とかに触れると、世界の命運を懸けて謎の組織とかと戦うハメになるような気がする。  職員室で一通りの話が終わった後、俺は魔族先生に連れられて教室に向かった。  それにしても─── 「転入生……ねえ」  何故か先生は、さっきから首を傾げてばかりだ。  職員室でもずっとそうだった。 「あの、僕が転入するという話は、学園の方に通されていなかったのでしょうか」 「いや、話は聞いてる。聞いてはいたんだが……」 「?」  何か問題でもあるんだろうか。 「んー……」  やはり先生は首を傾げたままだ。  それでも激怒、いや、憤怒の形相にしか見えないなどと思ってしまった事は絶対に言えない。 「ここだ」  先生は一つの教室の前で足を止めた。  廊下にいても、教室内のざわめきは耳に届いていたけれど───  先生が入室するなり、室内は水を打ったような静けさに包まれた。 「起立」という声が聞こえ、次の瞬間には、全員が訓練された軍人なみに揃った会釈をする。  角度といいタイミングといい、まるで日々の練習に明け暮れた果てに到達した極致のような──着席まで含めて、すべてが芸術の領域に達していた。  恐るべし魔族。人類の敗北だ。 「おい」 「あ、はい」  入り口のところで呆気に取られていた俺に、お呼びがかかった。 「んと……こういう時は、まず自己紹介だよな」 「はぁ」  転入生を扱った事がないのだろうか。  魔族先生は、いかにも聞きかじった知識を思い出しているという感じだった。  ……それはともかく。  おかしな事が続いたせいか緊張感が薄れていたんだけど、こうして改めて大勢の前に出ると、ふつふつとその手の感情が湧き上がってくる。  転入生ってのは、一種のさらし者だ。  好奇の視線を感じれば感じるほどに、嫌な汗が込み上げてくる───  ……脳裏をかすめる光景。 「あー、今日からお前らの仲間になる、巽策くんだ。……策くんって“く”が二回続いて言い辛いな」  ほっとけ。 「もう言うまでもない事だが、俺のクラスでイジメは許さん。やった奴は教唆側、実行側を問わず、すべての指の関節をおもしろい方向に捻じ曲げるから。そのつもりで」  この先生は生徒の味方なんだか敵なんだかよくわからん。  恐怖の象徴だって事は痛いほどに伝わってきたが。  恐れていた反応は……特になかった。  まあ、巽って聞いただけじゃ、珍しい名前だとは思ってもすぐに結びつけはしないだろう……というよりも、皆の反応は別の意味で奇妙だった。 「転入?」「転入生?」と、ほぼ全員が首を捻っている。  魔族先生と同じ反応だった。  この学園は転入生を迎え入れた事がないのだろうか? 「で、空いてる席は……と」 「先生。私の隣が空いてます」  ふたみだ。  なんとなく予感はあったんだけど、案の定、彼女とは同じクラスだった。 「お、唯井くんの隣か。おいおいおい、巽くんよ。お前の人生に割り当てられた幸運はここで全部使い切っちまったようだぞ。  今日からは道の隅っこを歩くように心がけないと、お前、明日辺りにはぽっくり逝っちまうぞ」  先生、えこひいきはイジメに入らないんですか。 「やはりフーフは学校でも一緒なんだな」  まあ案の定というか、もはやここまでくると何らかの策略の一環とすら感じる、ふたみの隣の座席。  ……しかし、すげえ。 「空いている席がある」なんて状況は、漫画の中だけの出来事だと思ってた。  そもそも一人一組ずつ机と椅子が用意されている状況で、「誰も座らない机と椅子」を置いておく意味なんてあるんだろうか。  一昔前の学校みたいに、「横長の机を複数人で使う」とかなら、まだわからなくもないんだが。  しかし、なんというか───  隣がふたみなのは別にいいんだけど、問題なのは俺の後ろの座席だ。 「また会ったね」  はい、遭いましたね。  先程、俺に熱烈な負のラブコールを送ってきた女の子だ。  未寅愛々々……とか言ったっけ。 「これはもう運命だね」  そうだね、運命って言葉は都合よく使わなければ不幸も含まれてるわけだしね。 「じゃ、朝のHR始めるぞー」  議題として席替えを提案します、先生。  俺がこの街にきて、最初の授業が始まった。  教材はふたみが用意していてくれたので、隣に教科書を見せてもらうという、いわゆる“転校生のお約束”はしないで済んだんだけど……。 「…………」  背後から非常に鋭利な視線を感じるんですけど。 「前が見えない」 「そんな事を言われてもな」 「退くか縮むかして」 「どっちも難しいなあ……」 「常に伏せてればいいんだよ、敗北者らしく」 「妾、うるさい。授業中だぞ」 「ごめんなさい、おねーさま」  ふたみの言葉に、メメはしおらしく謝ってみせる。 「……あなたのせいで怒られたじゃない」  責任転嫁って冤罪の温床なんだぜ、知ってたかお嬢ちゃん。 「あれ? ふたみ、それ……」 「ん?」 「お前、目が悪かったのか?」 「ああ、眼鏡の事か。悪いというほどじゃないんだが、良くもない。  普段の生活に支障はないんだが、授業中だけはかけるようにしてる。先生が黒板に書かれる文字を一つでも見落としたら大事だからな」  大事なのか。  すまん、その認識は初体験だ。 「ん? お主人ちゃん。筆記用具はどうした」 「ああ、鞄に入れるのを忘れたみたいだ。せっかく用意してくれたのに悪いな」 「そうか。では、私のを使ってくれ」 「悪いな」  ふたみがシャーペンを手渡してくれる時、思わず手が触れ─── 「どうした?」 「い、いや……」  背後からの悪意が殺意に変わったような気がした。  生きてる心地がしない。 「ところで、授業の内容は大丈夫か」 「え? ああ、そうか」  当然、学校と先生と教科書が変われば授業の進みも内容も変わってくる。 「ん……と。とりあえず、大丈夫そうだな」 「そうか。わからないところがあったら言ってくれ。私で教えられる事があるなら、いくらでも役立ててくれよ?」 「どうした?」 「……なんでもない」  気のせいか、包丁を磨ぐ音まで聞こえる。  はっはっは、馬鹿だなあ。ここは教室だよ?  包丁なんて研いでるはずがな  光った。光りました。光り物です。  先生、教室に武装してる人がいます。 「顔が真っ青なんだが、どうかしたのか」 「今のところはどうもしない」  この先どうなるのかはわからんが。 「……ふたみは成績よさそうだな」  授業に真面目に取り組む彼女を見て、そう思う。 「そんな事はない。私など、コノに比べたらまだまだだ」  だから誰なんですか、その人。 「残念ながら今日は欠席のようだが、今度、わからないところがあれば教わるといい。とてもわかりやすく教えてくれる」  クラスメイトなのか。 「ん、じゃあ、今度機会があったら」  なんでだよ。  やれやれ、やっと昼休みか。  あのまま痩せ衰えていくかと思った……試しに後で体重計に乗ってみよう。  さて、まずは食料の確保だな。  食堂でも購買部でもいいんだけど、とりあえずは場所を─── 「お主人ちゃん」 「どうした? ふたみ」 「昼休みだ」 「そうだな」 「うん、さすがは私のムコだ。慌てて購買部に走らない辺り、よくわかってる」 「いや、今から行こうと……」  場所を訊こうと思ったんだが。 「屋上だ」 「屋上!?」  屋上に購買部が!?  ──待てよ。  これはある意味、非常によく練られたシステムなのかもしれない。  昼食時になると学生たちは大急ぎで階段を下りる。  食堂はだいたい下の階や別の建物という事が多いのだから──そうなると、当然人の波による事故も起き易いわけで。  購買部を階上に設けて、上りと下りで別の階段を使うようにあらかじめ定めておけば、人数が分散する事によって事故は減る。  なんて画期的なシステムなんだ!! 「では、行こう」  ……誰もいやしないんだが。 「何を呆けてる」 「購買部はどこだ?」 「一階だが」 「システムはどうなった」 「よく意味がわからないんだが、とりあえずそこへ座ってくれ」  ふたみに言われるがまま腰を下ろすと、彼女は持っていた包みを開き始めた。 「あれ? それって……」 「うん。お弁当だ」  包みの中からは二つの弁当箱が出てきた。  まったく同じ大きさで、量が沢山入りそうな大き目の角張った弁当箱だ。 「もしかして、俺の……」 「もしかしてとは失礼だな。ムコの食事の支度は、ヨメの立派な仕事だぞ」  そう言って、ふたみは片方の弁当箱を俺に手渡した。  丁寧に蓋まで取ってくれる。 「はい」  と、箸を渡される。 「あ……ありがとう」 「昨日の今日では、やはりお主人ちゃんの嗜好がわからないんでな。嫌いなものが入ってたら、はっきり言ってくれ。今後、気をつけるようにするから」 「いや、そんな……」  例えどれほど嫌いなものが入っていたとしても、ここまでしてもらったら笑顔で食べるぞ。 「遠慮は無用だ。無理して食べてもらうようでは、ヨメ失格だからな」  ふたみの弁当箱の中身は、俺の弁当箱の献立とはまったく違っていた。  同じものは一つとしてない。 「全部嫌いだったか?」  俺がなかなか食べ始めないのを見てか、ふたみはそんなふうに尋ねた。 「え、あ、違う違う。食べるよ。いただきます」  初めは自分が好きなものを作って自分の弁当箱に入れておいたのかと思ったが───  どうしてか、ふたみは自分の弁当に箸をつけない。 「ふたみ……お腹空いてないのか?」 「そんな事はないが」  そう言って、俺が食べているのをじっと見つめている。 「美味しいよ。やっぱりふたみは料理の天才だな」 「ん、あ、そ、そうか。ありがとう」  言われて嬉しそうには見えたが、ふたみは味に対する俺の反応が気になっているわけでもないようだった。 「……?」  結局、俺が食べ終わるまで、ふたみはずっとそうしていた。  しかし……マジでこの娘は料理の天才だ。  冷めても美味しく食べられる料理がどんなものか、よくわかってる。 「お茶だ」  今まで気付かなかったが水筒まで用意してあったようで、ふたみは俺が食べ終わる頃合を見計らって熱々のお茶を差し出してくれた。 「ありがとう」  困ったな。  この娘は家事において完璧なのかもしれない。 「無理して食べたりしなかったろうな?」  そう訊いた時のふたみの瞳が、初めて、やや不安そうに揺らいで見えた。 「そんなわけないだろ」 「本当だな」 「本当だ」  つか、めっちゃ美味かった。  ふたみが作ってくれるのなら、例え嫌いなものでも普通に食べれそう。 「……そうか」  ふたみの表情は相変わらずだったんだけど、どことなくほっとしたように見えて、彼女は初めて自分の弁当箱に箸をつけた。 (……お腹空いてたんじゃんか)  昼休みの残り時間が少ないせいかもしれないけど、ふたみはかなり急いで食べ始めていた。  それでも背筋をぴんと伸ばしてる辺り、彼女の礼儀正しさがよくわかるってもんだけど─── (……ちょっと待て)  ふたみは何に安心して、自分の分を食べ始めたんだ?  そもそも、どうして俺と彼女の献立が違う?  二つの弁当の中身をまったく別にするというのが、どれほど手間のかかる事かくらいは俺でもわかる。  ふたみは何て言った?  俺の嗜好がまだわからない、と、そう言ってなかったか?  今朝もその事を気にしていた。  彼女は───  もしも俺の弁当箱に俺が嫌いな料理が含まれていたのなら、中身を入れ替えるつもりで、まったく同じ大きさの弁当箱にまったく違う献立の料理を用意しておいたんじゃないのか? 「…………」  その証拠に、彼女は3分の2も食べ終えた頃には、もうお腹いっぱいそうにしていた。  ……本当に困った。  この娘は────  昼間はあんなに晴れていたのに、また今日も曇ってきたな。  縁側から見上げる光景は、昨日と同じ───  ──けれども、降雨を伴う変化があった。  この街に来て梅雨らしい天候に当たったのは初めてだ。  ……明日までに止むといいけど。  夕食を終え──自室へ戻ったのは、それからしばらく経ってからの事だった。  実は少し気になる事があって、学園の図書室から借りた文献で調べ物をしていたのだ。  ……いつ頃からだったかは覚えていない。  でも、その気持ちはいつも胸の中にあった。  多分、その気持ちを──人は“憧れ”と呼ぶのだろう。  だから俺は、あの日の童話を今でも探し続けている。  考えてみれば、すべてを“自分の部屋一つで”という事は、こういう調べ物も私室でやるべきだったのだと今頃になって気付いた。  書籍は自室まで取りに行ったくせに、書斎の用途に該当する部屋を探しながらうろうろして、結局見つからないので適当な部屋でこんな時間になるまで読み耽っていた。  見つからないのは当たり前だ。 “書斎に適した部屋”と“書斎として用意した部屋”では、まるで意味が違う。  ──まだ癖が抜けてない。  何でも“自分の部屋一つで”とは、“用途に適した”ではなく、“補う”なんだよな。 (まったく)  染み付いた慣習に苦笑しながら、自室の引き戸を───  開こうとして、ぴたりと腕が止まった。  ふと考える。  昨日はついうたた寝をしてしまって、部屋に戻ったのはやはりこれくらいの時間だった。  で、床についた矢先─── 「…………」  ま、まさかな。  昨日の今日でって、そんなマンガみたいな……。  はっはっは。  ありえねーありえねー。  うん、今日はすでに布団の中に入ってた。  こりゃ油断したNE! 「つかちょっと何してるんですかお嬢さん」 「布団が冷たいからだ」 「は?」 「昨日、後から入ってみてわかったんだけどな。5月とはいえ、まだ寝る時は少し肌寒いんだ」 「そりゃまあ……」  だからどうしたと。 「そういう事だ。ほ、ほら。入れ」 「いや、あのさ。昨日は言いそびれたけど、やっぱりこういうのは……」 「な、なんだ。昨日はいいって言ったのに、ほんとうは嫌だったのか?」 「だから、嫌とかじゃなくてさ」 「…………」 「…………」  俺はゆっくりと布団に入る。  こんなに優柔不断だったっけかなぁ、俺……。  入ってみると、確かに布団の中は少し冷たい。  とはいえ、冬の冷たさとは比べものにならない程度で、たいした……。  ──と、何故かふたみは急に布団から出て、俺が居る側から入り込もうとする。 「な、なんだよ?」 「…………」  ふたみは無言で俺を押す。 「何がしたいんだ?」 「いいから向こうへ行け」  俺は仕方なく、押されるがまま反対側へ移動する。  ……あたたかい。  先程まで居たふたみのぬくもりで、布団は温まっている。  …………。  え? 「ふたみ……」 「そっち側で寝るのが好きなんじゃないのか」 「そっち側って……」 「昨日、お主人ちゃんは右側だった。そうやって寝るのが好きなのかと思ったんだ」 「…………」  昨日、布団に入った時、少し冷たかったから。  俺が右側で寝るのが好きだと思ったから。  だから、俺が来る前に右側を温めておいたって……。 「ほんとうなら、ムコより先にヨメが横になるなんていけない事なんだが。二時間ほど考えて、こっちにした。すまない」 「……それじゃ結局、ふたみはまた冷たい思いをするんじゃ……」 「何言ってるんだ。私はヨメだぞ?」  ……唯井ふたみという娘は。  口が悪い。  とにかく悪い。  でも、まったく悪気なんかなくて。  ──そして何より、ものすごい良い娘なんだ。  ただ、言葉を選ぶのがすごぶる下手くそなだけで。 「ははっ……」  なんだよそれ。  気付けば、笑みが零れていた。 「なっ、なんだ? 私はおかしな事をしたのか?」 「いや、違う違う。ごめんな。ははっ……」 「むう……」  ──また、言いそびれた。  ほんの少し困った表情をして、俺を見つめるふたみに。  出てきた言葉といえば。 「おやすみ。ふたみ」  まあいいか、なんて、そんな気持ちになったのは。 「おやすみなさい。お主人ちゃん」  きっと、この娘の事が少しわかったからなんじゃないかって、そう思う。 #«5月18日»  ──早朝。  蛇口から飛び出す冷水を両の手で受け止め、叩きつけるように腑抜けた顔に浴びせる。  これにより引き締まった肌は、雫が顎を伝って零れ落ちるよりも早く脳の覚醒を促す。  熱を帯びた両眼が、鏡の中の己を凝視する─── 「──よし」  一つの“約束”があった。  俺の掌に収められた、一つの便箋。  それは先日、帰宅した俺を待ち受けていたもの。  郵便受けの中に投函されていた、一つの、“想い”。  拝啓  タツミ様───  何と言えばいいのか。  そこには、丁寧に丁寧に。  本当に丁寧に───  ただ悪意だけが練り込められていたとでも言えばいいのか。  陽の光を反射して煌びやかな装飾をまとうはずの水面は、夜半に勢いを増した豪雨に打たれ。  耳を楽しませるはずの木々のさざめきは、疾風に殴られ。  人通りはまるでない。  通学路からは外れた、この土手で。  俺はアイツと向かい合っている。 「よく来たね。タツミ」 「手紙の主は、やはり君だったか」 「うん」  彼女は陽気に微笑み、そして。 「さあ、決着をつけようね?」  極上の笑みを湛えたまま、物騒な空気を辺りに振り撒いていた。  ……さて。  つい、場のノリでこんなところまで来てしまったわけだが。 「ふっ……お嬢さん。俺もこう見えて、幼少の頃より様々な習い事をしてきた身。  どうしてそんなに腹を立てているのか、俺にはわからない。俺が悪いのなら謝ろう。  だけどな」 「そう。つまり手加減はいらないってコトね?」 「そうそう。だからもっと平和的な解決法を──って。何だって?」  次の瞬間。  俺は宙を舞っていた。 「あれ?」  何故か顎の感覚がないんですが。  あ。俺、この体勢、格闘ゲームで見た事ある。  確かムーンサル  おやおや?  何故か斜め眼下にいらっしゃるお嬢さんが回転を始めましたよ。  いっかーい。にかーい。  あ、そっかー。  回転蹴りの威力を増す為だね?  そっかそっか遠心力ってや 「ぶほぉぉぉっっ!!」  遠い───  見上げた空は、あまりにも遠かった。  あの向こうに、俺は何を置き忘れたのだろう。  俺には記憶がない。  きっと、いくら手を伸ばしても届かないあの空が、俺の記憶を隠してしまったから。  太陽を覆い隠す、あの雲のように───  黒い太陽。  あの空には、小さな小さな太陽が浮かんでいる。  小さな小さな……って。  あの、何か、段々大きくなってきてるんで 「おごおぉぉぉぉっっっ!!」  自分は何者なのか。  ここは何処なのか。  何も。  ……何一つ、俺は思い出せないまま。  いやいやいや!  俺めっちゃタツミサクだっての!!  不思議な事に瞼は重くて開きません。  身体も何故か動きません。  それでも、うっすら上瞼と下瞼の隙間から覗いた向こうの世界には。  ここにきて最強伝説が浮上し始めた少女がいた。  あれあれ?  いつの間にか、マウントポジションを取られてるんですが。  では──はいっ!  右、左、 右、左、 右、左、 右、左、  はい、ワンツー、ワンツー。  右、左、 右、左、 右、左、 右、左、  はい、スリーフォー、スリーフォー。  右、左、 右、左、 右、左、 右、左、  はい、ファイ……。  つか待って待って待って。  死ねる死ねる。  これ余裕で死ねる。  ほら俺もう全身の感覚なくなってきたし本気で自分が誰だかわからなく  あ、こどものころなくなったおばーちゃんだおひさしぶりですさくです  これからはずっといっしょだね☆ 「──はっ!」 「愛の勝ちだね、タツミ」  その武神は黄金色の微笑みを湛えて。  地に横たわる敗残兵を、優しく見下ろしていた。 「もう、おねーさまに手は出さないでね?」 「フッ……」  ──いつの間にか、雨は止んでいた。  まるで、俺たちの激闘を讃えるかのように─── 「やるじゃないか、お嬢ちゃん。お前みたいな強い奴には初めて出逢ったぜ」 「愛は、あなたみたいな弱い人には初めて出逢ったよ」  握られた俺たちの腕。  ──これが俺たちの出逢い。  俺たちの友情の───  始まりだったんだ───  ……アタマ強く打ったな、俺。  行けども行けども、歩み行く路面は水浸しだった。  ようやく上がったとはいえ、あれだけの豪雨だったのだから無理もない。 「よっ」  小さな身体で、大きな水溜りを器用にかわしていく少女を見ながら─── 「はくしょっ!」  ──びしょ濡れの己を実感する。  あれだけ動き回ったのに、どうして彼女は濡れていないのだろう。  木陰に置いておいたとはいえ、俺の鞄はびちょびちょだ。  多少なら枝葉が防いでくれるかもと期待を込めたのだが、強風に運ばれた横殴りの雨の前には意味をなさなかった。  こりゃ、中に入れておいた教科書とか酷い事に─── 「あ」  思い出すと、俺は慌てて鞄の中をまさぐった。 「どうしたの?」 「いや、図書室で借りた本……良かった。濡れてない」  丁度、教科書などの間に挟まれる形になっていたのが幸いしたのか、文献だけは雨天の被害にさらされずに済んでいた。  借り物を濡らすわけにはいかないからな。 「『日本童話百二十選』?」  覗き込むようにして、可愛らしい声が本のタイトルを読み上げる。 「……童話好きなの?」  少し意外そうに俺を見つめる大きな瞳。 「んー……そうだな、探し物をしてるうちに詳しくなったっていうか」  ───それは、とてもとてもへいわな世界のお話。  この街へきて、ふと思い出した話。  多分──あれは、童話か何かだと思う。  ……俺には捜しものがあったから。  こんなふうに、何かが引っかかるとすぐに気になる。  もしかしたら、それが俺の探している童話なんじゃないかって。  童話って、特に子供の頃に見たり聞いたりして印象に残ったものは、その話を見聞きしてた間に想像したイメージが心に焼きついて離れなくなる。  つまり、印象としていつまでも残っているのは、そのイメージだ。  ふとした弾みにまたその話に触れる機会なんかがあると、真っ先に思い出すのは、その時に頭の中に広がったイメージ──むしろ話自体は細かく覚えていない事の方が多いし、過程なんかはまったく間違って覚えている事だってある。  それは、覚えようと思って話を覚えているわけではないというのも理由の一つだろうけど……要は、焼きついたのが何であるのか、なんだよな。  貧乏だが正直者な若者が世に認められるシーンが印象深ければそれが基準になるし、誤解され続けてきた娘の恋がようやく実るシーンが印象深ければそれが基準になり、犬だの狸だのの動物が恩返しの為に取ったコミカルな行動が印象深ければ、やはりそれが基準になる。  そして、そこから遡っていく。  あれ? どうしてこんな展開になるんだっけ──なんて。  何処で聞いたのか、また見たのか。  ちゃんと話を読み返せば思い出すかと思ったんだけど、残念ながらあの話は見つからなかった。 「この本には記されていなかった」と言ってしまえば、それまでなんだけど──調べている内に、何だかそういう事じゃないような気がしてきた。  じゃあどういう事なのか、って訊かれても答えようがないんだけど。 「──あのさ。おねーさまと一緒に住んでるよね?」 「え? あ、ああ、まあ」  正確には「ふたみが押しかけてきた」んだけど、事実に反するわけじゃない。  それに、そんな言い方をしたらこの娘が怒り出しそうだ。 「変な事してないでしょうね」 「ぶっ!」 「したの?」 「してない」 「愛の目を見て、そう言える?」 「天地神明に誓って」 「別に天つ神と国つ神を信仰しているわけじゃないでしょ。もっともらしい事を言っても駄目。  じゃ、おねーさまに誓って、そう言える?」 「ふたみに誓って、ふたみに手を出していない」  なんか矛盾してる気がするんだけど。 「…………」  再び、円らで大きな瞳が俺を見つめる。 「本当だって」 「これから出さないっていう保障は?」 「それはない」 「…………」  目尻が釣り上がる。 「先の事はわからないから、そんな無責任な事は言えない。  ただ、ふたみが俺の嫁だと言ったり、一緒に暮らしている事に関しては、どこかに誤解があった上で築かれた関係だと思う。  それに付け込むような真似だけはしない。それなら誓える」 「…………」  釣り上がった目尻が、意外そうに緩んだ。 「……はいはい言ってれば、愛は信じたかもしれないよ?」 「本気でふたみの事を心配して訊いている相手に、適当な返事なんかできない」 「──ぷっ」  愛らしい口許に浮かんだ笑みは、決して小馬鹿にしたものではなかった。 「策」  小さな唇が、俺の名前を形作る。 「策、だよね? 名前」 「ああ」 「じゃ、策。覚えておいて。愛はいつだって、おねーさまの味方だって事。例えおねーさまが間違っていても、愛はおねーさまの味方をするの。忘れないで」 「わかった。覚えておくよ」  名の通りに愛らしい少女は。  ──ふたみを守る、小さな騎士。 「メメ」 「メメ?」 「お友達は、愛の事そう呼ぶよ」 「──了解だ、メメ」  小さく愛らしい騎士。  この街に来て、また一つ、新たな出逢いがあった。  メメと一緒に学園へと向かう途中。  やはり、猫の──猫階段も雨水に浸されてその色合いを変えていた。  踊り場には大きな水溜りができている。  傾斜としては割りと急な方だから、思わず手摺につかまりたい気持ちになってくるんだけど、逆に表面に水滴がついていて滑り易くなっている。 「気をつけろよ?」 「大丈夫だよ、慣れてるから。策こそ落ちないでよ?」  途中途中に踊り場があるとはいえ、急勾配だけに転んだら洒落にならない。  それでも、何とか下まで降り───  ──る事は、できなかった。 「…………」  言葉もなくて。  猫階段、中ほど過ぎて。  眼下に広がる光景は。  唖然として見つめる以外、術がないほど広大な───  ───水の都─── 「これは……」  目の前に広がる湖の中央に、海上から見通した岬の灯台のように学園がそびえ立つ。  まるで時の到来を察知した海底に眠る遺跡が、太古の意志を現代に伝えんが為に見つけてくれと主張しているかのように──その姿はあまりに神秘。  陽光を反射し、煌びやかに輝く水面の装飾。  静かな湖面にさざめく波の音色。  それはまさに、水上に表現された創作に他ならなかった─── 「あー、やっぱり湖っちゃったね」  当たり前のようなメメの言葉に、俺は驚くしかなく。 「こ……?」 「弐壱学園はね、街の中でも低いところに建ってるから、雨が続くとこうなるんだよ。でも、昨日の夜から降ってた雨は随分激しかったから、一日でこうなっちゃったんだね」  その説明も、何処か別の世界の言葉のようで。 「大昔の事だけどね。もともと、ここには大きな湖があったんだよ。でも、日照りが続いたある凶作の年、田畑の為に無理やり水を引いたらしくて、しばらくしたら涸れちゃったんだ。  人工的に作り出したものじゃなく、自然と生まれた地形だから、それからは雨水を蓄える貯水池として利用されてたみたいだけど……田畑の為に森林を切り開いたせいで山の形が変わっちゃって、やっぱりしばらくしたら水が抜けちゃうの。  見えるかな? 向こうの山なんだけど……だからあの先は浄水場になってて。  つまり、ここはダムみたいなものなんだよ」 「何で、そんなところに学園を……」 「あー、策もついに空明市七不思議の一つにぶち当たっちゃったね」 「不思議で片付けていいのか、それ」 「実際あるんだからしょうがないじゃない」 「そりゃまあ……正論だが」 「一応、元はどこかのお金持ちが建てたって説があるんだよ」 「あの城か?」 「お金持ちの考える事はわかんないよね」 「金持ちの道楽だったんだろうか」 「さあ……王様にでもなりたかったんじゃない?」 「適当だな、おい」  確かに、天守もある立派な城だしな。  歴史上、織田信長の安土城が大規模な天守としては初めてのものになるらしいが──信長が命名した天主とも、天守とも殿守とも殿主とも書かれるが、どれも読み方は「てんしゅ」だ。  要は後に天守閣と呼ばれるようになった、城の本丸に築かれた最も高い物見矢蔵の事だ。  よく誤解されるけど、日本の“城”っていうのは二の丸、三の丸もろもろ含んだ、多くは堀で覆われた領土すべてを表すものであって、民衆を見下ろすかのようにそびえ立つあの威風堂々とした建物はあくまで天守、ないし天守閣と呼ぶのが正しい。  天守に入って、ではなく門を潜った時点で「城内」なのだから。  天守そのものに住んだのは、歴史上で信長だけらしい。  学園敷地内には本丸御殿だったと思わしき建物もあったから、その金持ちとやらはそっちに住んでたんだろうけど……。  ……王様ねぇ。 「その説が仮に事実でも、こんな場所を勉学の場にした理由には繋がらないと思うんだが」 「街の人口が増えてきた時、もともと街にあった教育施設を建て直すまで、建てた本人が一代きりで亡くなって持ち主不在だったあの城を、手頃な大きさだと仮の場とした──って話が続くんだけどね」 「最後まで話すと?」 「何かそのまま定着しちゃったんで、本格的に学園として増改築した、ってオチ」 「そんな適当でいいのか」 「ホントのところはわかんないよ。でも、慣れたら慣れたで、こういう学園も結構悪くないよ?」  そう言って、メメは猫階段の付近に浮かんでいた小船に手馴れた様子で乗り込んだ。 「あ、ラッキー。ゴンドラが余ってた」  メメの言った通り、それは普通の小船とは違った。  船首と船尾が持ち上がった形のこれは、確かにゴンドラだ。 「色んな船があるのか?」 「うん。ゴンドラは特に人気があるんだよ。こうなってくると、もう美観が大切だからね」 「明らかに間違った方向に進んでるな、この学園は」 「文句言わないの。はい」  と言って、メメはオールを俺に差し出す。 「オトコのコの出番」  昨日は何事かと思ったけど、階段や校舎付近に沢山の小船が置かれていたのは、つまりこういう事か。  湖の中央に位置する学び舎へと渡る、唯一の手段─── (て、何を納得してるんだ。俺は)  明らかにおかしいだろ。  橋を作れ、橋を。  静かな水面にささやかな波を生み出しながら、ゴンドラは進む。 「お、策、上手い上手い」  とはいっても、左右にオールがあるカヌーに比べ、片方にしかないゴンドラはバランスを取るのが難しい。  しかも立って漕がないといけない。 「もっと速くー」 「無茶言うな」  転覆しないだけマシだ。  まさか、こんなところでヴェネツィアごっこをする事になろうとは。  ──それでも、湖面にたたずむ学園の優美な姿には思わず息を呑む。  昨日見たはずの姿なのに、また違った顔を覗かせるだけでこれほど心を惹きつける。 「まだ驚いてるの?」 「ん、ああ」  あまりに綺麗だから驚いてる──なんて言葉は、胸の奥に仕舞っておこう。  何故ならあの学園は、まるで。  永久の海に静かに眠る財宝の欠片のようだったから。 「と?」 「え?」 「今、何か言ったでしょ? と?」 「と……」 「と」 「図書室は普通に開かれてるよな? あの状態でも」 「策って案外マイペースなんだね」  ──とりあえず、借りた本は返さないとな。  そんな事を考えながら、水面に視線を落とす。  だから、俺は今でも探している。  俺の心に焼きついているあのイメージを。  それがいったい何の童話だったのか思い出せなくて、だからちょっとした時間が空けばすぐにその手の本を探しに行ったりして、でも未だに見つからなくて。  ネットでも散々探したけど、俺の検索の仕方が悪いのか、未だに「これだ」ってものに出逢えていない。  俺は、俺の心に焼きついたままのあの光景の正体を知りたくて。  ずっとずっと気になっていて、何故だか探さなきゃいけないような気がしていて。  ──俺の心に焼きついているのは。  ───『お姫様』───  ……でも、俺は後悔したんだ。  だってそれは、俺が童話の本なんか持っていたから───  ──その時、誰かが。  静かに。  とても静かに。  時計の針を、止めてしまった。 「何処からいらしたのですか?」と尋ねたら。  きっと、答えは決まっている。 「うっかり物語の世界から迷い出てしまったのです」と───  物憂げに見つめる虚空に、遠き故郷を想い重ねて。  その姫君は物語への帰り道を探し、たゆたっていた。  夢と現の狭間に船を浮かべて、緩やかに漂いながら。  水滴に変じた鞠で戯れる姫君が、物憂げに微笑むその世界が。  麗しき御手に筆を宿し、幻想という名の染料で染め上げた俺の視界。  その瞬間、俺はただの観客だった。  その視界の中で演じられる物語に。  見知った俳優が登場したのは、あまりに唐突だった。  ……ふたみ?  学園を背にした桟橋に立つふたみが、船上の姫君に向けてなにやら声をかけている。  俺の位置からは、遠くて何て言っているのかよく聞こえなかったけれど──どうも何か尋ねている様子だ。  物語は一気に現実味を帯びた。  自分でも思いがけないほどに夢中で視聴している映画を観ている最中、急に声をかけられた気分。  さすがはふたみだ。  いかなる状況下にあっても、空気を乱す事にかけては第一人者。 「とう」  そうそう、こんなふうに……いや、「とう」って!!  ちょっ……えええええっ!?  助走をつけて身を躍らせたふたみは、そのまま姫君の乗る船に飛び乗った。  小船は今まさに転覆する寸前にまで揺れたが、何とかバランスを保っていた。  なんて無茶を……。 「失礼するぞ」  飛び乗ってから言うな。  そしてなぜ体育座りをしている。  しかし───  ふたみが飛び降りた時も、船が転覆しそうになった時も、姫君はやや驚いてはいたものの、それでも取り乱した様子はまったくない。  悠然としたその態度からは、貴人の嗜みが感じられた。 「ん」  その時、ふたみが俺たちに気付いたようだった。 「どこに行ってたんだ」 「ふたみこそ、どうしたんだよ」 「私はお主人ちゃんを捜してたんだ。気付いたら自宅にいないから、先に登校してるのかと思って学園に来てみてもいない」 「あ、ごめん。実は……」  なんて言えばいいのか。 「実はちょっと、友情を確かめにな」 「よくわからんが、無事ならいいんだ。しかし登校二日目から重役出勤とは、さすがは私のムコだ。大物だな」 「はっはっは。──で、どなた?」  俺は、ふたみの横にたたずむ───  ……かの姫君に、視線を向ける。 「コノだ」 「できればフルネームでお願いします。ていうか、以降はすべての人にそうあってください」 「ムコの命令なら仕方ないな。  桜守姫 此芽だ。昔からの馴染みだ」 「…………」  姫君は口を開く事もなく、ただ静かにこちらを見つめていた。 「ああ、コノ。丁度いい。オマエにも紹介しよう。このオトコは私の……どうした? 何を呆けている」 「…………」  呆けている?  確かに、着物姿のその人──桜守姫さん──は、ただぼんやりとこちらを見ているというよりも、やや驚いているようにも見て取れた。  どうしたんだろう?  桜守姫さんが見ているのは、俺だった。  そりゃ、紹介された当の相手なんだから、こちらを見ているのは当然だろうけど……。  なんというか……。  なんだろう。  ちょっとドキドキしてきた。 「…………」 「…………」  俺の方からも何と声をかけていいかわからず、いつの間にか桜守姫さんと見つめ合う格好になっていた。  互い視線で言葉を紡ぎ合う。  しかし、そうか。  制服が強制ではない学園なら──なら、こんな姫君が迷い込む事もあるのか。 「…………」 「…………」 「……あ、あの」 「……其方。お名前を伺っても宜しいかえ?」 「え?ああ、たつ……さ、策っていうんだけど」  思わず苗字は言いよどんでしまう。  いや、苗字だけですぐにわかるはずなんかないんだから、自意識過剰だってのは承知してるんだけどさ。 「『さく』……」  だけど桜守姫さんは、俺の名前に妙に驚いた顔を見せていた。 「ど、どうかしたのかな?」 「……いえ。なんでも……ありませぬ」  問われて、不意に桜守姫さんは俺から視線を逸らした。  湖面と睨み合うかのようなその瞳は、何かを耐え忍ぶ様にも見えた。 「そ……それより其方、いったいこの街へ何をなさりに……」 「何しに?」  なんか、妙な事を訊く人だな。  初対面の相手に、いきなり「この街に何しに」とは。  まったく見覚えのない相手と学園で会ったら、「こんな奴いたんだ」程度だろうし、せいぜい「見ない顔だが転校生か?」くらいの反応だと思うんだが。  ──ま、いいか。 「昨日、引っ越してきたんだ。桜守姫さん……だったよね? よろしく」 「引っ越……さ、然様ですか」  どうしたんだろう。  ひどく動揺してるような……。 「では、これからこの街にお住まいになられる……という事かえ?」 「話の流れからして当たり前じゃないか」  さも当然、という口調でふたみが横槍を入れる。 「クイはお黙りください」  すると、桜守姫さんがそう返す。 「そういうわけにもいかないんだ、コノ。なにせこのオトコは、私の──」 「あー! あー! あー!」  待とう待とうよふたみさん。  アナタ何を言い出すおつもりですか。 「どうしたんだ」 「あー……いや、発声練習」 「まあ、こんな奇人だが。紹介しよう、コノ。これでも私の──」 「さ……た、巽殿」 「はい?」  ナイスブロック。  桜守姫さんが何か言いかけた事で、俺は渡りに船とばかり話題に飛び乗る。 「あ……と……」 「……?」 「す、すまぬ。媛は先を急ぎまするよって、これで失礼させていただく」 「え? あ……」  ふたみが俺たちの船に飛び乗ると、桜守姫さんはどことなくそそくさといった様子で、その場を後にした。 (……あれ、ホウキ……?)  去り際、桜守姫さんの腰元に見えたもの。  まるでキツネの尻尾のような印象の、丸まった和毛。  ──思わず、ふたみが持っているものと見比べてみる。  ふたみが学園にまで持ってきているのは、また“ヨメの義務”とか、そういう流れだと思っていたけど。  他の人まで持っている……となると。  まさか流行ってるのか? 「どうしたんだ、コノのヤツ」  いつもながら無表情のまま、ふたみは首を傾げる。 「というか、まだ授業があるのに。アイツは白昼堂々と早退するつもりか」 「『牡牛座』の手伝いか何かじゃないのかな? そろそろだよ」 「ああ、なるほど」  今気付いたけど、お喋りなはずのメメがさっきからずっと黙ったままだった。  去っていく桜守姫さんの姿を横目に捉えている彼女の視線からは、どことなく敵意のようなものが感じられた。  思わず。  俺も同じように去っていく桜守姫さんの背中を見つめながら、思わず童話の本を開き、挿絵から抜け出てしまった人物がいないか確かめていた。  ──巽殿、ときたか。  けれど、何故だか彼女の言動は妙に違和感なく受け入れてしまっていた。  自分でも不思議だけれど。  振る舞いがあまりに自然だからか、それとも─── (……あれ?)  巽殿、って。 (俺、苗字って名乗ったっけかな……?) 「しかし、もうじき昼休みも終わりだぞ。これでは午後の授業しか受けられない」  確かに、登校二日目から遅刻はまずかった。 「ごめんね、策」  ふたみにたしなめられたからか、メメがしおらしく謝る。 「別にメメのせいじゃない。行ったのは俺の意思だ」 「…………」  その大きな瞳は、試すかのように俺の顔を覗き込む。 「先生は生活指導もされているのでな。遅刻には厳しいぞ」  とんでもないフラグを立ててしまった。 「……まあ、素直に怒られるさ」 「そうか。では、私も一緒に怒られるとしよう」 「えっ?」 「なんでだよ。ふたみが怒られる理由なんかないだろ」 「オマエが怒られるんだから、理由はそれで充分だろう」  真顔で、当たり前のようにそんな事を言うふたみ。  ……恐ろしくてメメの顔が見れない。  その時。  後ろから、聞き慣れない声がかかった。 「ちょっと。唯井さん?」 「ん」  振り向いたそこには、二人組の女の子がいた。 「トリマキか」 「と・お・り・ま・いっ! 透舞のんですわっ! 何度申し上げたら覚えてくださるのかしらっ!?」 「わかった。トリマキ」 「あの。お願いですから、どうか他人の話をちゃんと聞いてください」 「で、何か用か」 「何か用か、ではありません。貴女、また此芽お姉様に楯突いてらしたんですって?」 「違うぞ。楯突いていたわけじゃない。互いの意見の方向性が食い違った結果、少しばかり言い争いになっただけだ」 「それを楯突いていたと言うんですわよっ!」  あー……この娘たち、桜守姫さんの……。  だから『トリマキ』か。  さすがはふたみ。  鬼だ。 「“楯突く”というのは、目上の者に対して反抗する事を言うんだ。コノはクラスメイトなんだから、上も下もない。ちゃんと意味を理解してから使ってくれ」 「なっ……! ちょっ、ちょっと言い間違えただけじゃありませんの! それを……その、揚げ足を取るかのように……」 「自分の非を認めているなら結構だ。オマエは態度は偉そうだが、実は素直なんだよな。そういうところ、結構好きだぞ」 「あっ、貴女に好きと言われても嬉しくなんかありませんわよっ!」 「そうか。残念だ」  ──其は、他者のペースを乱す事にかけて、万人の追随を許さず──  ──その名、ふたみなり──  この娘たち、何か文句を言いに来たんじゃなかったっけ? 「と・に・か・く! いいかげん、此芽お姉様を煩わせる言動は謹んでいただきたいですわね」 「言い直したな」 「よろしいですわねっ!」 「別に意図して煩わせているわけじゃない。コノと会話をすると、何故か結果としてそうなるんだ」 「それは、貴女がお姉様に対して素直にならないからですわっ!」 「いや。実に素直に言葉を返してるつもりだが」 「……言い換えますわ。お姉様には、常に従順でありなさい」 「何故だ」 「それこそ、“お姉様”が“お姉様”たる所以ですわ」 「一つ訊きたかったんだが、コノはオマエとも同い年じゃないか。なんで“お姉様”なんだ?」 「あっ、貴女だって、未寅さんにそう呼ばせているじゃありませんのっ!」 「何度言っても止めてくれないんだ。昔から」 「そうだよ。愛が勝手に呼んでるだけなんだから」 「ふん──ま、貴女なんかと此芽お姉様とを比べても仕方ありませんけれど」 「つまり話を要約すると、“コノは凄い人なんだから失礼な言動を取るな”、と」 「そうそうっ! そうですわっ! ああん、やればできるじゃありませんのっ!」 「生憎だが、私は失礼な言動を取っているつもりはまったくない」 「…………え?」 「誤解があるようだから、この際ハッキリ言っておく。私はコノと喧嘩をするつもりなんかまったくない。できれば仲良くしたいと思ってる。が、何故か喧嘩になるんだ。不思議な事に」 「……不思議な事に?」 「そう。不思議な事に」 「貴女、“売言葉”ってご存知?」 「意味は知ってる。それがどうした?」 「話の流れ的に、皮肉を言われているとはお気付きになられません?」 「だから、私は喧嘩なんかしたくないんだ」 「でしたら、もうちょっと、言葉を選んでから口になされたら……」  ……やべぇ。 「私は他人に対して、常に、ちゃんと言葉を選んでから話しかけているぞ?」  ……ツッコミたい。  めっちゃツッコミたい。 「厳選して厳選して厳選して、相手にとって最も失礼でない言葉を口にしている」 「…………」  やば。ちょっ。  おなかいたい。おなかいたい。おなかいたい。 「あ……貴女、周りになんて呼ばれておられるのかご存知ですの?」  あ。気を取り直した。  この娘、根性あるな。 「『裏ボランティア』だとか、『逆懺悔僧』だとか……」  うわー、みんな良いネーミングセンスしてんなー。 「挙句には『超聖母』だの……もう意味がわかりませんわよっ」  いやー、何となく意味わかるよー。うん。  いやはや……うんうん。  色んな意味でナミダ出てきた。 「……ところで、先程から貴女のお隣にいらっしゃる男性はどなたですの?」  あ。一応、俺の存在に気付いててくれてたんだ。  いつの間にか壁と同化したかと思ったよ。  でも、何て自己紹介したらいいのやら。  この娘は、ふたみとどういう関係なのかを訊いているんだろうから。  とりあえず転入生って事で……後は上手く話の流れを……うーん。  あ、そうだ!! 「ああ。私のムコだ」  なにさらっと!? 「ム、ムコ? ムコってあの……婿?」 「他にムコという単語には、無辜の民くらいしか覚えがない」  ……俺の名案……いいんだ、もう。 「貴女、ご結婚なさったの!?」 「うん、まあ、そんな感じだ」 「え、ちょっと、え……ご、ご結婚、おめでとうございます」 「これはご丁寧に、どうも」 「末永くお幸せに……ってちょっと! どうしてわたくしが貴女に祝福を送らねばなりませんのよっ!!」 「今のノリツッコミは、もうひとつヒネリが足りないな。もっとこう……」 「どうして貴女は芸に厳しいんですのっ!?」  あ。やっぱり芸に厳しいんだ。 「と、とにかく。貴女みたいな方が、此芽お姉様と同じ『委員会』の人間だなんて、納得がいきませんわね」 「む」  ──その時。  いつも無表情なふたみの顔が、一瞬、硬直したように見えた。 「トリマキ。私とコノを比べて、人間的価値の優越をつけるのはオマエの勝手だ。だが、委員会を侮辱する事は赦さんぞ」  ……怒ってる。  静かだけど……ふたみが怒ってる。  その様子を感じたのか、トリマキさんはたじろいだ様子だった。 「べっ……別に委員会を侮辱しているんじゃありませんわ。ただ、貴女が委員である事が……」 「同じ事だ。私が正式な委員である以上、常に委員会の看板を背負っている。それを侮辱する行為は、委員会に対し唾を吐いたも同義だ」 「ふ、ふん。志はご立派ですけれど、貴女は所詮、半欠じゃありませんの。お一人しかいらっしゃらない『双子座』なんて、聞いた事もありませんわ」 「……それは……」 「あら。どうなさいましたの? 急に黙ってしまわれて」 「…………」 「委員会の看板を背負っているなんてご大層な事をおっしゃってましたけれど、半欠の貴女が委員会に所属しているという事そのものが、その看板に泥を塗っているのではなくて?」 「わっ……私は……」 「私は? なんですの?」 「…………」  ふたみは拳を握り締め、静かに震えていた。  言い返したいのに、言葉が出てこない───  そんなふうに受け取れた。  ふたみ……どうしたんだ?  彼女なら、軽く言い返しそうなものだけれど……。  こんな彼女は初めて見る。  ……違う。  違うぞ。  ふたみは言い返さない。  昨日、俺は何に気付いたんだよ。  この娘は、ただ言葉選びが下手なだけだ。  この娘は。  すごく純粋で。  ──なにより。  とても、優しい娘じゃないか。  言い返せない理由があるんだ。  その間も、透舞さんのふたみを詰る言葉は続いていた。  ……なんか、ムカついてきた。  事情はよくわからないけど、少し言い過ぎなんじゃないのか?  半欠、半欠って……それ、どう考えても良い言葉じゃないだろ? 「なあ、透舞さん」 「何ですの? 貴方には関係ございませんわ。黙ってらして」 「確かに関係ないかもしれないけど、でも」  ──でも、どうしてだろう。  言ってる事は確かにちょっとキツイと思うし、言い方も棘のある、煽っているものにしか聞こえないのに。  彼女からまるで悪意を感じないのは。 (……そうか)  わかった。  彼女──透舞さんは、他の誰かの為にこう言ってるからだ。  それは恐らく───  ……だったら俺は。  ふたみの為に、こう言おう。 「透舞さん。初対面でこんな事を言うのはあれだけどさ」 「なんですの?」 「少し言いすぎなんじゃないかな?」 「ですから、貴方には関係──」 「関係なくても、俺、ふたみがそんな事を言われてるのに黙ってるわけにはいかないからさ」 「お主人ちゃん……?」 「な、なんなんですの? 何か文句でも……」 「文句じゃないよ」  ただ、聞くに堪えなかった、というだけの事だ。  何もしないわけにはいかなかったって、それだけの事だ。  ……なんでだろうな。 「ちょっと。おねーさまに失礼な態度を取ると赦さないよ」 「あら。未寅さん、いらっしゃいましたの? 小さくて気付きませんでしたわ」 「ちいさっ……! ウシのクセにナマイキっ! あなたなんか無数の乳からミルクでも垂れ流してればいいのよっ!」 「ち、ちちっ……! で、では貴女は、全身の毛を刈られてしまえばいいんですわっ! ああ、ウール100%であったかーい」 「なによっ!」 「なんですのっ!?」 「まあまあ、二人ともその辺で……」 「黙ってて!!」 「はい」  この世には、他人が踏み込んではならない領域が三つある。  一つは男の美学。  一つは名作の矛盾点。  そしてもう一つは、女の争いだ。 「もういい。妾もやめろ」 「でもお姉様、このウシがっ……」 「妾」 「……はぁい」  口ではそう言っているものの、気持ちはまったく治まっていない様子だ。 「……トリマキ」 「なんですの?」 「ありがとう」 「は?」 「私は背伸びをしていただけだったんだな。  ずっとこの日を待っていたはずだったのに。決めた事だと、受け入れた事だと、思っていたのに。ヨメという形をなぞっていたに過ぎなかった。  オマエのお陰で気付く事ができた。礼を言う」 「貴女、いったい何をおっしゃって……」 「オマエに半欠だと言われた時、私はこう返すべきだったんだ。 “何を言っている。『双子座』は、一昨日の時点でようやく揃ったんだ”と」  ふたみの眼が見つめている。  じっと、俺を見つめている。  ──そして。  厳かに。  実に厳かに、その口を開いた─── 「私、唯井ふたみは」 「わが夫、巽策を──『双子座』として認める」 「…………」 「…………」 「…………」  え? 何? 何?  何、この静寂!?  メメが。  透舞さんが。  廊下での言い争いを傍で見ていた人たちも、みんな唖然とした表情のまま硬直している。  何が起こったんだ!? 「あ……貴女、ご自分のおっしゃってる意味がわかって……」 「おねーさま、本気なの?」 「私は大真面目だ」 「認める……って……貴女、何を勝手に……」 「『双子座』は二人いてこそ。まったく、オマエの言う通りだ」 「でも、それは担当委員が双子だった場合で……」 「では訊くが、“双子”とは何を以ってそれを証明する。  一卵性? 二卵性?──違うな。それは、決して離れる事のできない繋がりを持つ相手との絆をこそ指すんだ。  自分の夫をそう呼ぶ事に、何の不都合がある」 「…………」 「私たちはフーフだ。一心同体だ」 「ちょっと待て、なんだそのふんだんに誤解を混ぜ合わせた表現は」 「い、一心同体っ……」 「いや、ちょっと待って!」 「そうだぞ。私はちゃんと、“朝のご奉仕”だってしてるんだからな」 「ごっ、ごほっ……!」 「違う違うっ! あれはだからっ……!」  しまったすげー勢いで墓穴掘ったような気がす 「何が違う。“気持ち良い”“気持ち良い”と言ってたじゃないか」  待って待って待ってもう喋らないでお願いだか 「まあ、まだ不慣れなものでな。少し痛がらせてしまったのだが」  ふたみさん、もうコントは終了です!  幕を下ろしましょう! 「もっ! もう結構ですわっ! ああああ貴女がこんなにふしだらな方だとはっ!」 「何がふしだらだ。フーフなんだから当然じゃないか」 「あっ、貴女たちが新婚ほやほやなのは、もう充分わかりましたっ! で、ですが、それとこれとは話が──」 「違わない。『双子座』は本来、常に二人寄り添っていてこそのもの。そう思える相手であれば、それで問題はないはずだ」 「だ、だとしても、委員は女性しか──」 「規則にはそんなこと記されていない」 「記されてはおりませんけれど、これまでずっと女性だけだったのですから……伝統というものが……」 「伝統というのは、時代によって移り変わっていくものだ」 「じ、時代って……貴女……」 「このオトコが次の時代だ」  ナニ言ってんですかアナタ!? 「いや、ほら。委員会とか何の話かよくわからないけどさ。迷惑みたいだし、俺は遠慮して……」 「遠慮は要らない。私の覚悟はできた」 「いやふたみが覚悟できても俺ができてないっていうかそもそも何の話だかすら」 「ごめんなさい。お主人ちゃん」 「え?」 「オマエのヨメになると誓ったはずなのに、私が不甲斐なかった。  ……ずっと、待っていたはずだったのに」  待っていた……? 「オマエが来る日を、子供の頃からずっと待っていたのに」 「…………」  霞むほど遠い昔の記憶に浮かぶ面影。 「覚えていない」と言っていた少女の口から、「待っていた」と告げられる。  やっぱり、あの時の─── 「……やっと」  あの時の少女が、今。  その瞳に、切なげな光を湛えて─── 「オマエに逢えた気がする」  俺の胸に、飛び込んできた。  5月18日、木曜日。  雨のち晴れ。 「──そうだ」  気付けば、巽策はこう言っていた。 「俺は、『双子座』の委員だ」  静寂の中、その声は思いがけないほどによく響いた。  ──その後の授業の内容は、正直あまりよく覚えていない。  ふたみと二人、下校の為に正門を抜けた辺りを歩いていた頃。 「……で、さ」 「ん?」 「いまさら訊くのもなんなんだけど、委員会って何?」  いや、まったく今更だとは我ながら思うけど。  そう尋ねると、ふたみは。  ……ゆっくりと、晴れ渡った空を見上げた。 「……空?」 「うん。天文」 「天文? 天文って、あの星座を観測したりする?」 「そう」 「天文委員会?」 「うん」  ……意外というか、呆気に取られたというか。  どれほど大仰な委員会なのかと思ったら───  いや、こういう言い方は失礼かもしれないけど。 「天文委員会……ねぇ。  天文委員会?委員会?なんで委員会なんだよ。そういうのって、普通は部活じゃないのか?」  国が運営してるのなら、天文も委員会として聞いた事あるけど。 「なぜ部活と思う」 「何故って、天文って趣味だろ? それこそ同好の士が集まって作られる部活じゃないのか? 同好会とか」 「しかし、図書委員も放送委員も、みんな趣味の領域から出てないじゃないか」 「いや、図書委員は学園側が図書室の蔵書を管理しないといけないからだし、放送委員だって学園生活を円滑に進める為には放送が必要となってくるからで──」 「そう。だから、だ」  ふたみは一つ置いて、こう口にした。 「この街には、天文委員会が必要なんだ」 「だから、趣味じゃない」  そうして彼女は、再び空を見上げた。 「──“願い”だ」 「願い……?」 「そうだ。この街の、願いだ」  ──彼女たちが頂く冠は『星座』。 「じゃ、行くぞ」 「うん」  俺はふたみを乗せた小船をゆっくりと発進させる。  行きで転覆しなかったのは運が良かっただけだと思うので、ゴンドラは止め、普通の手漕ぎボートにした。  部活でもあるのか競技用カヌーなんかもあったが、俺が選んだのはよく公園などにあるような普通の小船だ。  ──水面に小さな波を作り出しながら、船は進んでいく。  メメが言っていた通り、少しずつだが水は抜けていっているようだ。  さすがにまだ歩いて渡れる状態には程遠かったが、この分からすると明日にはもう湖は消え失せているだろう。  それぞれの誕生月。  その中から、ただ一人だけ選ばれた少女。 「あいつかよ? 天文委員になったってのは?」  通り過ぎる船に乗っていた生徒たちが、こちらを見つめて何やら喋っていた。  その顔は、誰も彼も興味津々といった感じだった。 「あの人が巽クン? ねえー、キミ、天文委員になったんだって?」  すぐ脇を走っていた船からもまた、黄色い声が上がる。 「すごいですね! 今まで女の子しかなれなかったんですよ!?」 「ふむ、聞いた事もない話だ。このような事態もあるのだな……後の事例となろう」  ──それは。 『牡羊座』 『牡牛座』 『双子座』 『蟹座』 『獅子座』 『乙女座』 『天秤座』 『蠍座』 『射手座』 『山羊座』 『水瓶座』 『魚座』  12人の天文委員。 「女の子だけって言ってもね、その中でもほんの一握りの人しかなれなかったんだから!」 「しかも、百年に一回だよ? 百年に一回だけしか選ばれないんだからっ!」 「そうですよ! 天文委員は、この街のみんなの憧れなんですから!」  ただ一つの例外は。 『双子座』の存在。 「二人で一人」の『双子座』だけは、もう一人を指名できる。  ただ、これまで『双子座』には、文字通り双子の人しか選ばれていなかった。  だから、指し示す先は血を分けた片割れ。  それだって、姉妹だったというんだから───  男が選ばれる事なんて……。 「ホントびっくりだよね。巽クンっていったい何者?」 「先輩! 先輩! サインくださいサイン!」 「ふっ──記念に、この僕と握手を交わさないか?」  13人目の天文委員。  ──でも。 『天文委員会』って、いったいなんなんだ? 「ちょっと。待ってよー」  猫階段を上りきった時、後ろから駆け足でついてくる小さな姿があった。 「やっと追いついた」  メメだった。 「どうかしたのか?」 「一緒に帰ろうと思って」  と、彼女は素早くふたみの横に並ぶ。 「なんだか大騒ぎになってるね」 「それだけお主人ちゃんが大物だという事だ」  真顔でうなずくふたみ。 「間違いなく全然違う」 「おかしな日本語」 「文法の違いなど気にならないほど間違っているという事だ」  ──天文委員になったからってどうしてこんなに騒がれるのか、まるでわからない。  女性ばかりだった委員会に初の男性委員が誕生したから、という事で驚く人は確かにいるのかもしれないけど……どうにも騒ぎの桁が違うように思う。 「何を考え込んでるんだ?」 「いや、天文委員っていったい何なのかと思って」  そう口にした途端。 「ほらほら。策」  得意げな顔をするメメのスカートから顔を覗かせていたのは───  ホウキ……?  シッポみたいだけど、これ、ホウキだ。 「天文委員はね、みんなその証としてホウキを持っているんだよ」 「って事は……メメも?」 「そうだよ」  得意げな笑みが答えだった。  ──ホウキ。  ふたみ、メメ……それから、桜守姫さんも? 「だから、わからない事は愛が教えてあげるよ」 「頼もしい。じゃあ訊くが、天文委員になったくらいで、どうしてみんなこんな──」  そんな事をしてる間に、後ろから女の子たちが、なにやら楽しげに談笑しながらやってきた。  あれ、ウチの学園の制服か。 「あははっ。だよね〜」 「でもさ、コノ姫先輩なら……」 「だよね? だよね? コノ姫先輩なら、って思うよね〜」 「って事は、9月にはもしかして?」 「もしかしちゃうかも?」  通りすがりに耳に届いた会話。  それは、ごくごく日常的な語らいのように聞こえた。 (コノ姫って……桜守姫さんの事だよな)  確か、ふたみが『コノ』って呼んでいた。 “コノ姫先輩なら”───  という事は、桜守姫さんは少なくとも日常的にそういう位置づけで定着しているという事で。  彼女の事はまるで知らないのに、その姿を思い浮かべると何故だか納得できる。  でも、彼女たちは桜守姫さんに何を期待しているんだろう。  桜守姫さんも天文委員みたいだから、やっぱりその関連なのだろうか。  ますます謎が深まる天文委員。  いったい……。  ──物憂げだった。 「…………」  いつの間にか、脚はその動きを止めていた。  一枚の芸術画を愛でるように、俺はその光景に魅入っていた。  それは“目が離せない”とは違う。  ただ、心を、いつの間にかに奪われていて。  気付けばその画の中に入り込んで───  一つの芸術に動きがあったのは、その時。  彼女が最初に気付いたのは、ふたみだった。 「……クイ。申し訳ありませぬが、今は……」  ──言いかけた時、桜守姫さんと目が合った。 「さっ……た、巽殿……」 「あっ、こんにちは」  見惚れてた、なんて気恥ずかしくて。 「桜守姫さんも、今帰り?」  俺はできるだけ平静を装ってそう尋ねた。 「…………」 「?」  なんだろう。  桜守姫さん、また俺を見て固まってる。  ──すると桜守姫さんは、なにやら意を決した様子で切り出した。 「くっ……クイ。一つお尋ねしても宜しいかえ?」 「宜しいぞ」 「…………」 「ん?」 「……其方と巽殿はご結婚なされておられると聞き及びましたが……ま、まことかえ?」 「あ、いやそれは──」 「まことだ」 「だからっ」 「まだ式は挙げてないが」  更に言えば婚姻届を役所に提出もしていなければ、親御さんに挨拶した事も挨拶された事も親戚縁者に紹介した事も紹介された事もございません。はい。  この国において婚姻関係が成り立つ条件というものは 「だが、完璧なフーフだ」 「少し待てっ!」 「……さ……然様ですか」 「いや、桜守姫さんもちょっと待って。少しでいいから俺の話を聞いて」 「それは……その、なんと申せば宜しいのか……」 「うん。ありがとう」 「……おめでとう」  順序がおかしいよねー。  っていうか、俺もここにいるよー。  みんな俺のスピードについてこいよっ!  ていうか置いていくなっ!  ごめんなさい俺も会話に入れてください本当は寂しいんです。 「なんだ。わざわざ祝辞の為に待っていてくれたのか」 「……そのようなつもりでは……」  そりゃそうだ。  桜守姫さん、どう見ても考え事してたって感じだったし。  邪魔しちゃったんだよな。悪い事した。 「なんでもない態度を装って待ち伏せるとは、憎い演出だな。コノ」  大先生にはなんでもない態度に見えたのですか、それはどうもおめでとうございます。 「……その前提でお話を進めたとしても、媛がいつ隠れ伏せていたというのか」  そっちを突っ込むとはさすが桜守姫さん。  自分の都合を邪魔された、という部分には触れないでいる辺りに貴人の配慮を感じる。 「ふたみ。桜守姫さん、忙しいみたいだからさ。邪魔しちゃ悪いから、行こうよ」 「ん? コノ、忙しかったのか?」 「あ……いえ……」 「違うらしいぞ」  なんでそう取るかな、この娘は。 「ん、しかし、どうも顔色がよくないな。さっきも様子がおかしかったし……調子が悪いのか?」 「……そのような事は」 「では悩み事か」 「…………」 「私で力になれるか」 「別に……悩んでなどおりませぬ」 「むう。よし、では私が心温まる話をして、オマエを元気づけてやろう」 「其方の喉を通ると、“心温まる話”とやらが面妖な事に“心温まる欝話”に変化する事を、媛はよう存じ上げておりまする」 「気分が盛り下がる話をするはずがないだろう。愉快痛快、大爆笑だ。そして優しい気持ちで満たされる」 「……其方がそういうおつもりでお話をされる事も、お話の内容がそうである事も存じ上げておりまする。ただ、結果として気分がどんよりと沈んでいく様を、これまで幾度も目にしてきましたよって」 「むう?」 「語り手次第でお話の内容が如何様にも変化するという事を、其方から学ばせていただきました。のんが一週間自宅から出てこなくなった事件をもうお忘れか」 「トリマキは風邪で寝込んでたんじゃないのか」 「僅か五分の会話で相手を風邪で寝込ませるという稀有の才能に関しては自覚された方が宜しいと、失礼ながら其方の為に申し上げまする」  がんばれ桜守姫さん。  貴女は今、学園の為、ひいてはこの街の為に戦っておられる。 「オマエは面白い事を言うな」 「其方には敵いませぬ」 「ん。話の方向がおかしいぞ。いつから勝ち負けの話になった」 「然様、その土台において媛に勝利などあろうはずがありませぬ。媛はただただ、其方に自覚が芽生えてくれる事を願うばかり」 「ふむ。よくわからんが、では私の勝ちだ。やったぜ」 「……努力の空しさは募るばかり」 「いや、オマエは私なんかと違って天才肌だが、努力を怠るようなヤツじゃない事は知ってるぞ。これからもそんなオマエであってください」 「……ひどく絶望的な気分になってきたのですが、何故でしょうか」 「やはり元気がないんだな。よしわかった。私が心温まる話をして──」  ……なぜだろう。  喧嘩してるわけじゃないのに、皮肉の応酬に聞こえるのは。  出逢った時もそんな感じだったけど、この二人って……もしかすると仲が悪いのか?  ……なんとなく読めてきたんだけど……。 (きっと、いつもこんなふうにふたみから喧嘩を売ってるんだろうなぁ……)  本人には喧嘩を売ってる意識まるでなしに。  でもがんばって相手をしている辺り、桜守姫さんは偉大というか、なんというか。  なんとなく、彼女は頼まれると断れないタイプなんじゃないかと思った。 「…………」  それから。  やっぱり──どうしてか、メメは無口だった。  ──結局。 『天文委員会』が何なのかは、よくわからなかった。 「しかし、まあ……不思議な街だよな」 「そうか?」 「いや、まあ、なんというか……」  変わった街である事には違いないと思う。  言葉にすると、ニュアンスによっては住んでる人の前で街を馬鹿にしてるようにも受け取れる表現になってしまうから、上手くは言えないんだけど。 「普通だと思うが」 「いや、そりゃふたみは、この街にずっと住んでるんだろうから……」 「私だけじゃないぞ。皆そうだ」 「そんな事を言い出したらキリがないだろ」 「いや、そうじゃない。この街に住む人たちはな。皆、この街から出た事がないんだ」 「出た事がないって……何をするにも、この街で事足りるって事か?」  確かに都内だしな。  俺も前に住んでた街からは、ほとんど出なかったし。  よっぽど欲しいものがあるとか、どこどこに何ができたから遊びに行こうとか、そういう事がなければ。  でも最近じゃインターネットで欲しいものは自宅にいながらでも揃えられるし、俺も出不精ってわけでもないけど、率先して遠出する方じゃなかったから。  ……まあ、色々と忙しかったしな。 「そうではなく、この街で生まれた者は、皆今もこの街にいるという事だ」 「へえ……じゃあ、会社員とかも自宅はみんなこっちなんだ」  それだけ住み心地がいいって事かな。  交通の便がいいとか、土地が安いとか、教育に適した環境とか。 「いや、会社自体、この街にあるものに勤務している」 「全員って事ないだろ」 「全員だ」 「……遠くの学校を受験した学生なんかは?」 「皆、この街にある学園の生徒だ」 「それだと、農家ばかりの田舎みたいだけど」 「しかし事実だ」 「…………」  なんか極端な話だとは思うけど、そういう事もあるのか。 「ま、それはそうとさ」  もう、はっきりと訊いてしまおう。 「結局、『天文委員会』って何なんだ?」  ──そう問いかけると。  ふたみはまるで、答えるように。 「…………」  ゆっくりと、空を見上げた。 「いや、天文ってのはもうわかったよ。ただ……」 「……この街は、いつだって曇り空だ」 「いや、晴れてるけど……」 「…………」 「え?あ、いや、確かに梅雨だから、曇ってる日は多いと思うけど……」  ……何の話だ? 「……誰も、見た事がないんだ……」 「見たこ……」 「だから、私たちは……」 「…………」  見た事が……ない?  ……あれ……?  季節は梅雨まっ盛り。  ほんとうならお空の上で笑っているはずの太陽さんも、  これから大忙しの季節が待っているから、お休みを取っているのかな?  お空はいつも雲におおわれて、ぜんぜんお顔を見せないよ。  でもね、太陽さんはわたしたちの様子が気になるのか、  それでも時々お顔を見せてくれるの。  問題なのはお星さま。  いっつも雲の向こう側にいて、ぜんぜんこっちを見てくれないよ。  お星さまは、わたしたちが嫌いなのかな? 「じゃ、ウチはここだから。また明日な、メメ」 「うん。じゃ、またあとで」  にっこり笑うと、メメは去っていった。  ……あとで?  ──30分もしない内に。  何故か、メメは大きな旅行鞄を抱えて玄関先に来ていた。 「どうした?」 「お邪魔しまーす」  その騎士は仕える主人そっくりで他人の話をまったく聞いていない。  ……ん。ふたみの……騎士? 「え。まさか」 「察しがいいね、策。今日からここで暮らすよ。策がおねーさまにヘンな事しないか、見張らないと」 「だからしないって!」 「信じてあげてもいいけどさ、おねーさまがその気にならないとも限らないじゃない」 「いや、それこそ……ないだろ」 「どうしてよ。おねーさまの事だから、“ヨメはこうするのが務めと聞いた”とか言って、えっちぃ行為に走らないとも限らないじゃない」  何て説得力のある言葉だ。  メメ、本を書け。 「そういう時の為に、いてあげるのよ」 「いや、けどな……」 「あ、わかってるわかってる。“これからは自分の家だと思ってくつろいでくれ”って言いたいんでしょ? 最初からそのつもりだから、余計な気遣いはいらないよ」 「…………」 「ほら、策。女の子にいつまでこんな重たいものを持たせてるのよ。まったく気が利かないんだから」  と、メメが俺に向かって放り投げた旅行鞄───  俺の顔面に当たった瞬間、首が面白い音を奏でた。 「ひ弱だなぁ」  家主の意向を完全に無視して居座る闖入者の数、現在二名。  総合戦闘力は大幅に上昇。  家主の致死率も否応なく上昇。 「う〜ん……」  俺はまだふたみの言葉の意味を考えていた。  曇り空?  いつだって曇り空?  確かに梅雨だから曇りの日は多い。  現に今だって曇ってきた。  でも、だから何だって……。  それに、「見た事がない」って、あの言葉。  あれはどこかで……。 「あ……」  すっかり曇ってるな。  そういや、毎日のようにここから空を見上げてるような気がするけど、曇り空ばっか……。 (ふたみ……)  庭に立つふたみは、また空を見つめていた。  暗灰色の雲に覆われた夜空を───  ……なんだろう。  何かが引っかかっている。  ずっと昔。  そうだ。ずっと昔に、何か───  ──そうか。 『天文委員会』。  季節は梅雨まっ盛り。  ほんとうならお空の上で笑っているはずの太陽さんも、  これから大忙しの季節が待っているから、お休みを取っているのかな?  お空はいつも雲におおわれて、ぜんぜんお顔を見せないよ。  でもね、太陽さんはわたしたちの様子が気になるのか、  それでも時々お顔を見せてくれるの。  問題なのはお星さま。  いっつも雲の向こう側にいて、ぜんぜんこっちを見てくれないよ。  お星さまは、わたしたちが嫌いなのかな?  あ、ごめんね。  これは梅雨だからってことじゃないの。  この街は、ずっとずっと昔からこうなんだよ───  だから、ここはお星さまの見えない街。  空明市っていうんだよ。  ……曇り空の街。  夜になると何時だって、曇り空になる街。  覚えたての言葉で、そうだ。  俺はいつか、こう言った。 「じゃあ『空明市』なんて、ひにくな名前だね」って───  格好つけて、そう言った。  夜空がいつだって雲に覆われているって事は。  誰も。  誰一人として。  この街の住人は、星空を見た事がないって事じゃないのか。  ──だから、彼女たちは。 #«5月19日»  ──街に灯りが点り始める頃。  この街の空は、どこからともなくやってくる厚い雲の層に覆い隠されてしまう。  それは、ずっとずっと昔から続いている、この街の風物詩。  それから、信じられない事だけれど。  この街の人たちは、皆この街の出身であり、誰も街から出た事がないという。  ──つまり。  驚いた事に、この街の人たちは、誰も“星空”を見た事がないんだ。  誰もが知っている満天の輝き。  子供の頃、胸躍らせて見上げる夜空。  ──でも、それを生まれてから一度も見た事がないとしたらどうする?  本や写真でしか知らないで、実際に見た事は一度もないとしたら。  きっと想像はどんどん膨らんで、星々の瞬きは心の中で幾重にも輝き出す。  ──それはもう、物語。  架空の世界にしかない風景は、人の心にどれだけ潤いを与えるだろう。  ──けれどそれは、現実。  在って当たり前のはずなのに無いものは、空想と現実の狭間に宝石を生み出す。  その価値は人それぞれだけれど、まったく意味を持たない人なんかいやしない。  だから、「星空が見たい!」という想いは、この街に住む人々の共通の願い。  人は、願いを抱えた瞬間、どうにかそれを現実のものにしようと動き出す生き物だ。  その形は様々あって。  だから、『彼女』たちがいる。  人々の──この街の願いそのものを一身に背負う、少女たちが。  それが『天文委員会』。  この委員会は、どうやら相当古い歴史を持っているようで、100年に一度、『弐壱学園』の学生を対象として結成される。  とはいっても、現学園に百年もの歴史があるかというと、そうではない。  確かに、その母体は形を変えて存在はしていたようだけれど──つまり、現在の世の中に当てはめた時、弐壱学園の生徒が対象となった、という言い方が最も正確なようだ。  これまで男性委員が存在したという例はない。  これには理由があるようだ。  女の子の風習を受け継ぎ、語り継ぐのは、女の子でなくてはならないから。  これは象徴となっている『箒』が指し示す通り、天文委員会というものが、“てるてる坊主”を起源としているから。 “てるてる坊主”というのは、『掃晴娘』という故事が元になっている。  ──昔々。  とある都に、一人の若く美しい娘がいた。  晴の名を持つその娘は、美しいばかりか聡明で気立てがよく、特に手先が器用で切り紙が得意であったという。  その腕前は遥か遠方にまで知れ渡るほどの随一ぶりであり、貴人たちですら我先にと切り紙を買い求めた。  ある年の六月。  都をこれまで見た事がないほどの大雨が襲った。  その雨は絶える事無く降り続き、幾日経っても降り止む気配すら見せない。  これには、何人もの都の人々が、箒を空にかざす事態と相成った。  元々、“箒”というものは塵や埃を払うだけでなく、雲を払う一種の魔除けの道具として信じられていた。  日照りが続き水が涸れれば雨は救いの主だが、降り続く雨は決壊を引き起こす水害として認識される。  都合で善悪を切り替える人の性と言ってしまえばそれまでだが──だが、この時に限っては、この認識は正しかったのだ。  ──実は、この雨は陳塘関の海に住まう東海龍王の仕業だった。  彼は都に様々な災いをもたらす水害を何とか食い止めんとする人々を、香を焚き頭を地に打ちつけるまでに祈願する人々を嘲笑うかのように、都を水没させる勢いで雨を降らせ続けたのだ。  ある日の夜更け、突如、雲間から稲妻の如き轟きが鳴り響いた。 「この都に、晴の名を持つ娘がおる。──娘よ、光栄に思え。東海龍王陛下が、汝を太子殿下のお妃にとご所望なされた」  それが東海龍王の目的だった。 「従わぬ時は──さて、聡明と名高い娘御よ。もうわかっておろうな?」  彼は己の息子の嫁にと見初めた人間の娘を欲さんが為、都そのものを人質に取ったのだ。  晴の名を持つ娘は、精一杯に声を張り上げて答えたという。 「従います。ですからどうか、これ以上、都を荒らすのは止めてください」  ──途端。  一陣の風が都を横殴りに吹き抜け、娘の姿は消えた。  そして風に攫われていったかのように、雨雲も消えたのだという。  それ以来、この晴の名を持つ娘を偲んで、六月に雨が降り続く──つまり梅雨の時期になると、晴天を願って紙人形を作る女の子の風習が生まれた。  かの娘を模した人形を紙を切り抜いて作り、そこに箒に見立てた稈心の穂を持たせる。  これを軒先に吊るし、翌日の快晴を願う。  見事に願いが叶うと、お神酒を捧げ、川へと流す。  この風習が、平安期に大陸から日本へと伝わってきた。  元は女の子の風習だったものが日本において変化していったのは、この国で日乞いをするのは、天候に関して知るとされる僧侶であった事に由来するらしい。  日知り──聖。  すなわち“坊主”であり、そこから日照を祈願する“照る照る坊主”へ至ったという事。  それは“空を掃く者”。  この街に住む人々の総意ともいえる、星空への願望。  その願いを叶える為にいるのが、彼女たち─── 『掃晴娘』の故事のままに、彼女たちこそが“雲を掃く”役目を負っている。  天文委員会は12人の委員から構成され、それぞれ担当の“星座”が決まっている。  誕生日によって決定されるそれは、牡羊座から魚座まで、それぞれの“生まれ月”が担当範囲となる。  5月生まれのふたみは『双子座』、9月生まれの桜守姫さんは『乙女座』──といったように。  そして現在、5月19日は、『牡牛座』の期間というわけだ。 「あっつう……」  うだるような暑さだった。  雲一つない青空から注ぐ灼熱の日差しが、俺から若さを奪う。 「なに……これ」  信じられないような暑さだった。  お陰で空気の乾燥している事、乾燥している事。  都心での梅雨といえば、肌にまとわりつくようなじめじめとした不快な暑さが恒例なのに、まるで真夏のような日差しによる乾く暑さが朝から続いている。  考えてみれば、ここ最近妙に暑かったな──と、今更ながらに思い返す。  別に今日だけの事じゃなかったんだろう。  気付かなかったのは、まだこの街に来たばかりでそんな事に気付く余裕もなかったという事と、昨日の豪雨の印象が強かったからか。  その雨も、一昨日の夜から昨日の昼間までかけてあんな豪雨が続いていたっていうのに、降り注いだ雨はすべて蒸発してしまったんじゃないかと思えるほど、空気が乾燥している。  暑さが気力を奪う脳で、思わずそんな愚痴を零すと、 「まあ、確かに乾燥しているだろうな。ここ最近、街全体で断水していたという事も関係しているとは思うが」  と、意外な返答があった。 「断水?」  しかし、こんなに暑いのに表情一つ変わりませんね、ふたみさん。  そんな無表情ふたみの話によると、蛇口から水が出ないのは勿論、そもそも上水道下水道と、共にその機能が停止されているらしい。  また飲食店なども、その営業を停止。  ──要は街全体で、ここ最近は水を使用しない状態にあったらしい。 「え。でもご飯とか普通に……」 「あのねえ。おねーさまがあなたの為にどれだけ影で努力してると……」 「やめろ、妾」 「でも、おねーさま」 「そういうのは人知れずやるから“内助の功”なんだ。ムコが何も心配せずにどんと構えていられる環境を作るのが、ヨメの役目なんだ」 「うー」  ……何だか口を挟めないけれど。  でも、街全体で、ここ最近は水を使用しない状態にあったって─── 「……水不足とか?」  全然気付かなかった。  けど、そんな大掛かりな水不足が起こっているなら、自分の家にいた時にニュースか何かで気付くよな。  ……いや、家を出る出ないの話をしている時の俺に気付く余裕はなかったか。 「いや。天文委員に協力するのは、街の人間として当たり前の義務だからな」  ──天文委員。  その言葉が再び口に上る。 「じゃあ……」 「うん、これは『牡牛座』の照陽菜だ」 「あら。貴方は……」 「おはよう、透舞さん」 「トリマキか。おはようございます」 「……貴女もいらしてましたのね」 「生徒が登校するのは当たり前なんだが。おはようございます」 「……おはようございます」 「うん」  挨拶を交わすと、ふたみは教室へと入る。  俺も軽く会釈して教室に入ろうとしたんだけど──透舞さんに呼び止められた。 「なにかな?」 「……貴方、本気で『双子座』の委員になるおつもり?」 「ああ」  どういう形にしろ、一度引き受けたんだからな。  一応、とか、そういう言い回しだけは絶対にしたくない。 「──そう。まあ……決意が固いのでしたら、もう何も申し上げるつもりはありませんけれど」  俺はやや呆気に取られた。  この前は随分と抵抗──というより憤慨していたようにも見えたんだけど、彼女がいともあっさりとそう言ったからだ。  そんな気持ちが顔に出ていたのか、透舞さんはこう付け加えた。 「何故なら『双子座』の順番が回ってくる事など、永遠にございませんもの。照陽菜はわたくしの番で終わりです」  ──ん。 「って事は、君も……」 「──そう。わたくし、透舞のんが『牡牛座』の天文委員ですわ」  そういう事か。  昨日の話といい、なんだかようやく納得がいった。 「じゃあ、一つ訊いていいかな?」 「なんですの?」 「照陽菜って、いったいどんな事をするんだ?」 「雲を払う」なんて、漠然としすぎていて何をするのかさっぱりわからない。  まさか、祈祷だの何だのと儀式めいた事をするわけじゃ……。  けれどそう問いかけた俺に、透舞さんの呆れ顔が返ってきた。 「随分、堂々と探りを入れてこられますのね」 「え? いや、探りって……そんなつもりじゃ」 「では、どういうおつもりですの? 委員の一人となられた貴方が、わたくしに照陽菜の手段を尋ねる──この経緯から、わたくしは他にどのような意図があると受け取れば宜しいんですの?」 「……もしかして、照陽菜って……それぞれの委員が自分で考えてるのか?」 「当たり前でしょう?」  そんな事も知らないのか、と言いたげな口調だった。  となると、12人いるわけだから12通りのやり方があって……。  そういう事なのか。  なんとなく予想はついてたけど……だから委員同士ってライバル意識が強いんだな。 「ごめんごめん。そうだな。その通りだ。失言だったよ」 「…………」 「俺、まだこの街に来たばかりでさ。照陽菜とかよくわからないで委員になっちゃったから。不快にさせたなら謝るよ」 「……おかしな方ですわね、貴方」 「いや、面目ない」  ああ、じゃあ断水とか言ってたけど───  それが彼女の考案した照陽菜に繋がるものなのか。 「それからもう一つ、貴方に申し上げておきたい事がございましたのよ。唯井さんの旦那様」 「…………」  目の前に立った透舞さんが、俺を見つめている。  多分──ほんのちょっぴりもしかしたら──俺の事を呼んでいるような気がしないでもないんだが、その言葉に反応したら、俺の中の何かがガラガラと音を立てて崩れていく予感がしてならない。 「ちょっと。聞いてますの? 唯井さんの旦那様」  聞いています。  けれど、振り向く事を許さない俺がいるのです。  ……つっても、これじゃ無視してるような格好になっちゃうしな。 「なに……かな?」  ぎ、ぎ、ぎ、と錆びた歯車が回るような音を立てて顔を上げる俺は、鏡を見たら指差して笑い転げるほどぎこちない笑顔をしているんだろう。 「貴方に申し上げておきたい事がございます」 「はい」 「貴方の奥様の事なのですが」 「…………」 「あの方、いつもお姉様に失礼な態度を取りますのよ。きちんと面倒を見てくださらない?」 「えっ……と」 「貴方の奥様でしょう?」  そうはおっしゃいますが、言葉という抜き身の刀を振り回しながら我が道を闊歩するあの獣を繋ぎとめておく鎖などこの世には存在せず。  というか、俺のせいなのですか。 「あのね、貴方。此芽お姉様は、あの桜守姫家のご息女ですのよ? おわかりですの?」 「桜守姫家?」 「そうですっ! ようやくお姉様の偉大さをご理解なされましたかっ!?」 「…………」 「ん?」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「……まさか……桜守姫家をご存じない、なんておっしゃるんじゃ……」 「行間を読んでくれ」 「しっ、信じられませんわっ……! いったいどういう教育を受けてお育ちになられたのか……!」  透舞さんは、大袈裟によろめいて見せた。 「桜守姫家をご存じないお方がいらっしゃるなんて……! とても、この街で生まれ育ったとは思えませんわ!」 「いや、だから転入生なんだ。俺」 「えっ……転入?」 「そう」 「…………」 「転入」 「転入……だから、ご存じない……転……」  またこの反応か。  なんなんだろうな、いったい。 「とても信じられませんわっ!」  そこに戻るのかよ。  ──さて、せっかくの休み時間。  まだこの学園の中をあまり見て回っていない事だし、行けそうな範囲で一回りしてみようかな。  これだけ珍しい建物なんだから、ぶらぶらと見ているだけでも充分に面白───  あれ?  あれは、透舞さんと……。  それと……もう一人は、桜守姫さん? 「……常から申し上げておるはず。何故、あのような事をおっしゃったのです?」 「わ、わかっております。けれど、あの方は無礼にも……」 「彼は学友です。その間に、家柄などという隔たりを持ち込んでどうされまするか」 「け、けれどお姉様は、いつだって桜守姫家のお方として恥ずかしくないお振る舞いをなさって……ですから……わたくし……」  ……もしかして、俺の話……だろうか。 「それは、媛個人の問題です。それを他の方に押し付ける道理など、どこにもありませぬ」 「…………」  桜守姫さんに諭されて、透舞さんは、しゅんとしてしまった。  さっきもそんな話をしてたけど、そっか。  やっぱり桜守姫さんはお嬢様なのか。  言われて納得というか、しっくりくるというか。  何の違和感もない。  ……それってすごい事だよな。  でも、やっぱり桜守姫さんって……。  そこへまるで空気を読まずに、ふたみ大先生のご登場ですよ。 「コノとトリマキ」 「……クイ」 「い、唯井さんっ!?」  三者三様の反応。  ただ名前を呼び合ってるだけなのに、一触即発なムードが生まれてしまうのは何故でしょう。 「どうかしたのか?」 「何、のんと仲良く語らっておっただけです」 「そっ、そうっ! そうですわっ!」 「そうか。……ん、すまない。たいして興味もないのに訊いてしまった」 「ちょっ、ちょっと貴女っ! 此芽お姉様に失礼な言動は取らないようにって、昨日あれほどっ……」 「いや、だから失礼な言動など取っていないと、私も昨日あれほど」 「それのどこが失礼でないというんですのっ!」 「……?」  ふたみさんは首を傾げております。  あれは本気でわかっていませんね。はい。  そんな二人のやり取りを、桜守姫さんは優美な微笑みを湛えて見ていた。 「ほほほ……いやいや。相変わらず、クイは噛み付きっぷりが堂に入っておる」 「つまり、私は噛み付きっぷり道において、深奥の領域にまで達しているという事か? 意味がわからんぞ」 「何。其方以外には、みな意味が通じております」 「む」  おおおっ!  なんて切り返しの上手い人なんだ。  そうか。そういう手があったのか。メモメモ。 「あ、そうだ。オマエに言われて、昨日、色々と考えてみたぞ」 「……なにかえ?」 「心温まる話」 「…………」 「新たに3つも仕入れたぞ。さあ、遠慮はいらない。一挙三本立てでお送りしよう」  ──途端。  ざざざっと、透舞さんが大きく後退った。 「どうした?」 「あ、い、いえ……その……」 「コノ。トリマキはどうしたんだ。分裂症か?」 「……怯えておられるようには見えませぬか」 「何故だ」 「まず根本的なところをご理解くだされ。お話の内容がどうこうではなく、伝え方に問題があると」 「だから3つもあれば、どれかは素敵な話になるだろう」 「お話自体は、3つとも素敵でありましょうな」 「なんだ、聴きたいんじゃないか。ではいくぞ。まず、一丁目の恩田さんの家に子猫が生まれた話だが──」 「ひぃぃぃぃぃぃ」  透舞さんは完全に桜守姫さんの背中に隠れてしまっていた。  ……うわぁ。  人間って、あんなに怯えた表情ができるものなんだ。 「ま、待ちや」 「ん?」 「……人死が出る前に、この会話は止めるべきです」 「バカだな、オマエは。心温まる話なのに、そんなのが出るわけないだろう」 「いえ、お話の方ではなく」 「わがままだな、オマエは。では仕方ない。二丁目の河野さんが妖精を見た話だが──」 「その河野さんとやらには入院をお勧めしまするが、事の要点はそこではありませぬ」 「では三丁目の山口さんが吸い込まれるように谷底へ転落した話……」 「ただでさえ好く聴かせるのが難しそうな題材を其方がどう料理されるのかには非常に興味がありまするが、まことに遺憾ながら結果が想像できてしまうよって、止める勇気を提案させていただきまする」 「しかし、もうネタがないぞ」 「今、助かったという気持ちで胸がいっぱいです」 「むう」 「じゃあ、どんな話なら気に入るんだ」 「お話が堂々巡りになっておりまする」 「オマエが何を言わんとしているのかはわかる」 「わかっていただけたのかえ?」 「うん。要するに、私は良い話を悪い話に持っていってしまうというのだろう」 「おおっ。近いっ」 「だからこそ、悪い話をすれば逆に良い話になるとは思わないか」 「……それはそれは歴史に残る発想の転換と申しましょうか、もはやかけて差し上げる言葉が思いつかぬ己の不甲斐なさを呪うばかり」 「まったく。あのな、コノ。オマエは少し説教くさいぞ」 「は?」 「うん、オマエは偉そうなんだ」  ……なぜそういう結論に。  予測不可能な会話だ。  だいたい、桜守姫さんがそう見えてしまうような引き出しをふたみが一方的に開けてるだけというか、その結果として偉そうに見えてるだけのような。  彼女は人間としての“格”が高いだけだと思うんだけど。  取り巻きができる理由も、考えるまでもないというか。  ちやほやされて喜ぶようなレベルの人間じゃないからこそ、逆に皆が世話を焼きたがるというか、気に入られたがるというか。  やたら威張り散らす感じの悪いお嬢様と、その威を借りている取り巻きとかじゃないんだよな。  ……ああ、そっか。  なんとなくわかってきた。  この二人、仲が悪いんじゃなくて、まったく噛み合ってないだけなんだ。  要は、この二人。  構図としては、生まれてからずっと自分にかしずく相手としか触れ合った事がないのに、わがままに育たず自分の役目を子供の頃から認識してきた出来すぎってほど出来た姫君に、庶民としか触れ合った事のないコテコテの下町っ子が礼儀とかよくわかんないでタメ口を利いてるようなもので。  姫君に人徳を感じている人たちからすれば、権威とか抜きに「何を無礼な!」って反応になるんだろうな。  ……で、俺の位置づけはといえば。 「まあまあ、ふたみ。お姫様を困らせるもんじゃない」  つかその結論がよくわかんないし。 「ん? コノは困ってたのか?」 「…………」 「コノ?」  何故か桜守姫さんは大きく目を見開いて、驚いたように俺を見つめていた。 「あ、あれ? 桜守姫……さん?」 「今……なんと」 「え?」 「今、なんと……おっしゃいました……」 「あ、だから困らせるものじゃないって……」 「…………」 「あれ? お姫様って言った事……かな?」  まるで呆気に取られたような──そんな言葉では表現しきれないほどの呆然とした表情をしていて。 (なんかマズかったのかな) 「あ」 「む、いかん。先生がいらっしゃってしまう」  と、ふたみは皆を促すかのように教室に入っていった。 「…………」  けれど桜守姫さんは、まだ呆然としたかのように─── 「お主人ちゃん」 「あ、ああ」  いったいどうしたんだろう?  でも、まあ、さっきのは冗談だとしても。  それでもやっぱり、俺の『見つからない童話』に出てくるお姫様はきっとこんな人なんだろうな──なんて。  俺は、割と本気でそう思い始めていた。  ま、お坊ちゃんなんて言ったところでね、しょせん俺なんてものは平民に過ぎなくてね。  貴族どもの道楽になんざ付き合ってられんのですよ!  おうおう、廃頽主義だか虚無主義だか知らねーけどよ、こちとら日々汗水流して働かないとおまんまの食い上げなんだよ!! 「……!……!」 「お主人ちゃん。何をぶつぶつ言ってるんだ?」 「ん? 本当に苦労してる人にぶっとばされそうな脳内啖呵」 「そうか。それはどうもおつかれさまでした」 「おつかれさまでしたー」 「む、いかん。では教室に戻ろう、お主人ちゃん」 「したっ!」  ──まあ、あの二人の関係はよくわかった。 「昔からああなのか? 桜守姫さんとは」 「ああ?」 「あー……いや、なんか、あんま仲良くなさそうだからさ」 「ああ、そういう事か。コノとは、普通に話しているはずが、なぜか言い争いになるんだ。昔から」 「それはですね、基本的にふたみ大先生が」 「そして、そうなるとやけに周りの人たちがやきもきするんだ。理由はよくわからないんだが」 「その理由に関してご説明して差し上げたいのはやまやまなのですが、私などのボキャブラリーで大先生にご理解いただけるようにお伝えできるかどうか、いささか自信がなく……」 「ああ、でも、お主人ちゃんには誤解して欲しくないぞ。私とコノは仲が悪いわけじゃない。ただ、何故か会話を交わす度に言い争いになるだけだ。そこを間違えないでくれ」 「それを世間一般には──」  ま、要するに喧嘩友達って事だよな、うん。  ──とまあ、一度は正門まで行ったんだけど。  忘れ物をしていた事に気付いて、俺は教室まで戻ってきていた。  ふたみは「戻ってくるまで待ってる」とか言い出しそうだったんで、そこの辺りは、まあ、メメに任せて。  ──と。  廊下でばったりと透舞さんと出くわした。 「…………」 「あ、透舞さんも今から帰……」 「……今度は尾行ですの? 忠告したにも関わらず、これほど堂々と敵状視察とは……開き直ったという事ですの?」 「いや、そんなつもりじゃなかったんだけど」  それはちょっと自意識過剰というものですよ、お嬢さん。とは言えず。  でも、まあそう取られても仕方ないか。  なんだか妙に顔を合わせる日だな。 「……まあ、宜しいですわ。わたくしのやり方が失敗するはずがありません。期間が双子座に渡る事はないのですから、貴方に知られたところでわたくしは別に困りませんし」  その口振りは、どこか自分に言い聞かせている節があった。  牡牛座……それぞれの星座の期間が担当という事は、5月20日までが牡牛座の担当期間って事だよな。  透舞さんがどことなく緊張している──神経が過敏になっているように感じられるのは、そのせいか。  彼女の照陽菜は明日までなんだ。 「ふ、ふんっ。失礼いたしますわっ」 (……なんだかな)  でも、照陽菜──か。  いったい透舞さんはどんな事をしようとしているんだろう。  だいたい雲を晴らすっていったって、あまりに漠然としすぎていて……。 「桜守姫さん……」 「すまぬ。お話が聞こえてしまいました」 「ああ、いや……」 「……其方は、のんが如何様な照陽菜を執り行うか、ご興味がおありなのかえ?」 「え? あ、いや……」  桜守姫さんにもそう見えたのかな。 「……まあ、気にならないと言ったら嘘になるけど」  実は朝からずっと考えてるしな。 「然様ですか……」  桜守姫さんはやや思案したような様子を見せ、 「──雲というのはどのような仕組みで発生するのか、ご存知かえ?」  そう、問いかけた。 「どのような……って言われてもな。真冬に吐息が白くなるけど、あれもつまり雲だって事くらいしか」  桜守姫さん、俺の事を気遣ってくれてるのかな。 「然様。湿った空気が冷やされる事で、雲となりまする」  ああ、なるほど。  そういう事になるのか。  でも……。 「いいのかい? その……気にしてくれるのは嬉しいんだけど……」 「もはや流れは変わりませぬ。明日には答えが出ること故……」 「雲とは、簡潔に申し上げれば、微細な水滴や氷の結晶が大量に集まって空中に浮遊している状態をさすのです。  この雲を作る水滴や氷の結晶を総じて雲粒と呼びますが、これは雨粒に比べ非常に小さく、直径にすればおよそ百倍、体積にすれば百万倍も異なります。  故に雨粒は地上に落ちゆくが、雲粒はゆっくりとしか落ちる事ができず、ちょっとした風ですぐに押し戻されてしまう為に、雲というものはいつまでも降下せずにずっと空に浮かんでおるのです」  思わず聞き入ってしまった。  それも偏に、桜守姫さんの教え方が上手いからだと思う。  多分、桜守姫さんって他人に物を教えるのが得意──というか、好きなんだろうな。  授業内容が理解できなかった、また問題がわからない生徒には丁寧に親身になって教えてあげる、気のいい優等生。  そんな印象も、またしっくりくる。 「……なんです?」 「あ、いや。桜守姫さん、何だか楽しそうだなって思って」 「そ、そう……ですか?」  指摘されて、桜守姫さんは真っ赤になる。  素直な人だな。  そして桜守姫さんは続けてくれた。  雲とは見た目は白く大きな綿飴のようなものだが、これは地上から見上げるほど遠くにある為で、実際は先程言ったように、雲粒の集合体であるという事。  山頂などにできた雲に近づいてみれば理解できる。 「いつの間にやら濃い霧に包まれている事になりましょうが、これこそが雲に相違ありませぬ」  雲と霧との違いは相対的な問題であって、要は同じもの──霧の中にいる誰かの事を、遠くから見た他の者は雲の中にいる。 「なるほど」  わかりやすい。 「空気中には水蒸気が含まれておりまするが、これは気温が高ければ高いほど多く含まれまする。空気は上昇する事によって膨張するよって、冷えゆく……膨張には熱を必要とする故」  暖かい空気に比べると、冷えた空気はあまり水蒸気を多く含んでいる事ができない。  この時、余分を水として排出する。  ここに大気中に含まれる塵──地面から舞い上がった埃の粒など──が作用し、雲粒となる。 「つまりは──」 「ああ、なるほど。まずは空気が上昇しなければ、雲はできないわけだ」 「然様」  そう答えた俺に桜守姫さんが見せてくれた表情は、やっぱり嬉しそうだった。  ……教え子が理解してくれると喜びを感じるって辺り、教師の素質があるんだろうな。 「な、なんです?」 「いや、なんでも。雲は上昇気流が起きないと発生しないって事だよね?」 「はい。その上昇気流、発生する原因は大きく分類して四つほどありまするが──例えば火を焚けば、地表が太陽の熱にて暖められた場合に同じく、上に向かう気流が生じまする。  前線や、低気圧に空気が吹き込む事によっても。また、山の斜面を空気が吹き上がれば同じく」  早い話、湿った空気が上昇気流によって押し上げられ冷えれば、雲が生まれる。 「──では、巽殿。『牡牛座』がどのような照陽菜を行うかご想像がつきましょうか?」  突然ふられて、一瞬、返答に窮した。  折角教えてくれたんだ。先生の期待を裏切らないでおきたいところだが……。 「つまり……逆に考えればいいんじゃないかな」 「と申されますると?」  試すようなその口振りに、俄然やる気が湧いてきた。 「上昇気流を起こさなければいい──つまり、起こさないようにする」 「その答えは正解ではありまするが、不可能と申し上げねばなりますまい。小さな箱の中ならともかく、風を発生させないというのは……」  現実離れしている、と。 「うーん」 「では、梅雨が何故起こるのか……その原因を辿れば」 「待った」  俺は桜守姫さんの言葉を制する。 「少し自分で考えてみるよ」 「然様ですか」  俺がそう言った時、桜守姫さんは嬉しそうな表情を見せた。  教えるのが好き──でも、教えたがりじゃない。  自分の知識が相手の役に立てば、そういう気持ちじゃなければ言葉は続いていたはずだから。 「ありがとう。色々と教えてくれて」  素直に感謝の気持ちを伝えると、 「ななっ、何を申しておられるのです。この程度……」  桜守姫さんは赤面すると、そのままそそくさと立ち去ってしまった。  ──頭の出来がいい人は、自分より劣る者を見下してしまう傾向がある。  何故なら、その頭のいい人もまた発展途上だから。  自分と話が合わない相手を「程度が低い」と思ってしまう。  覚えが悪ければ苛立ってしまう。  まだまだ遥か先を見据える者は、決して後ろ振り返ったりはしないのだから。  ……それは、俺の身内が書いた本にあった言葉だけど。  桜守姫さんはその例に当てはまらない気がした。  牡牛座がどんな照陽菜を行うのか、か。 (梅雨が起こる原因をさかのぼる……か)  ──ま、要するに、だ。  梅雨ってのは、つまり梅雨前線が生まれるから起きるわけで。  この梅雨前線ってのは、春から夏へと季節が移り変わる時に、オホーツク海側の冷たい高気圧を、太平洋側からやってきた暖かい高気圧が押し上げる──ぶつかりあう──事によって発生する。らしい。  性質が両極端のものが二つ相食むわけだから、大気が非常に不安定になって……ってのはよくわかる。何か変なものが生まれちゃうわけだ。  この梅雨前線は、太平洋側の暖かい高気圧の勢力拡大によって弱まるか、どっか遠くへ押しやられるまで居座ってる。  それが梅雨。  で。  この太平洋側の高気圧──亜熱帯高圧帯とかいうらしいが──は、赤道で暖められ上昇した大気が流れ出し、下降気流となって形成されているらしい。  つまり上昇気流が起きない。  これが日本の夏に猛威を振るってるわけだ。  だから夏は雨が少なかったりするわけで──この亜熱帯高圧帯の影響に一年中さらされているのは、サハラ砂漠、カラハリ砂漠など。  日本は夏だけで良かった。本当に良かった。  ……というところまでが、ただいま書籍とにらめっこして理解できた事だ。  かなり乱暴な解釈のような気もするが、だいたいこんな感じだった。  ……と思う。  この本が間違ってなく、俺が根本的な部分で誤った理解をしていなければ。  要点としては、「上昇気流が起きない」って事だろう。  これはつまり、雲が発生しないって事だ。  勿論、気候である以上は様々な要素が絡み合って結果を生んでいるわけだから、必ずってわけじゃないだろうけれど。  それでも、限りなく起き難い条件下にあるのは間違いない。  ──そこで、桜守姫さんが説明してくれた事を思い出す。  内容そのものというよりも、どうしてあんな話をしてくれたのか、という事の方が重要だと思う。  ……「雲は上昇気流によって起こる」。  実は、もう、一つの仮説が立っている。  自信があるかと問われると「まったくない」と胸を張って答えられるような始末だけれど、他には浮かばなかった。  でも、それだと腑に落ちない点が一つある。  梅雨の時期の北と南の高気圧、どっちの勢力が強いにしても、どちらかの湿った空気は流れ込んでくるわけだから───  俺の考えが正しいとしたら。  この方法を取るには、時期が早すぎるはずだ。  それを透舞さんが見落としてるとは思えない。 「はぁ」  わからんなぁ。  俺はベッドの上を寝転がる。  ……うーん。  しかし、あっつい。  まったく朝から暑……  ──え。 (まさか……!)  俺は飛び起きると、居間に向かって走った。  居間へと駆け込んだ俺は、辺りをきょろきょろと見回す。 「どうした?」 「あ……いや。そういや、この家テレビが無いなって」 「テレビ?」 「考えてみたら、無くて当たり前なんだけどさ。無ければ無いで、意外と不便なものだなと」  まあ、天気予報が見たかっただけなんだが。 「…………」  けれどふたみは、何故だか首を捻って。 「……松脂を蒸留して得られる、テレビン油なら知ってるが」 「いや、むしろそっちを知らない。つか何のボケだ?」 「靴墨の材料になるという……」 「だから知らないって」 「?」  ふたみは首をかしげている。  なんか、前に似たようなやり取りをした事があったような。 「しかし、ラジオ……も無いし。PCも無いから、ネット以前の問題だしなぁ」 「? ? ?」  ふたみは何故か、難しい顔をして考え込んでいる。 「どうした?」 「うん。今お主人ちゃんが言ったものの中で、理解できたものが一つもなかったんだ」 「え?」 「ごめんなさい」  何故かふたみは、正座をして頭を下げる。 「もっとがんばります」  何の話だ。  そして何故ヘコんでいる。 「せめて、新聞くらいは取っとくべきだったか……」  それは単に口から漏れただけの愚痴みたいなものだったんだけど、聞くや否やふたみは急に瞳を輝かせて、 「新聞ならわかるぞ。待ってろ。すぐにご近所から借りてくる」  言うが早いか、あっという間に姿を消した。  ……なんなんだ? 「新聞です」  そして凄まじい早さで戻ってきた。 「あ、ああ。ありがとう」  受け取ると、俺は早速目を通す。  何々─── 『空明新聞 5月号』  ……これ、町内新聞じゃね?  町内新聞が悪いってわけじゃないけど、こういうのって月一とかで発行してるんじゃないだろうか。うん、5月号って書いてあるよね。  天気予報に関して知りたいんだから、毎日発行してる全国紙じゃないと用を為さないわけなんだが─── 「さ、どんと読んでくれ」  姿勢を正して俺の動向を窺っているふたみを見ると、それが言い出せない。  俺はとりあえず一面に目を通す。  しかし、町内新聞に天気に関して記してあるはずが…………あった。何故だ。  謎の多い街だな。  ああ、そっか。  季節の変わり目って事で、たまたまそれに関しての特集が組まれてたのか。  運が良いのか悪いのか……災い転じて福となす。  でも、これなら明日の天気はわからなくても、知りたい内容には触れられているかもしれない。  どれどれ───  ……なるほど。  これで、ここ最近の妙に暑い日々だった事にも納得できる。  すごいな、透舞さんはこれも計算に入れていたのか。  間違いない。  透舞さんがやろうとしてる『牡牛座』の照陽菜は、科学的根拠に基づいた─── 「あ、いや……本番を楽しみにしてるよ。明日なんだろうしさ」 「さ、然様ですか。余計なお世話でありましたな」 「じゃ……」  気遣ってくれたみたいだけど、どうせ明日にはわかるんだしな。  俺は帰路へとついた。  ──我が家は常に清潔に保たれている。  以前、こんなやり取りがあった。 「ふたみは随分と徹底的に掃除するんだな」 「そうか?」  きらびやかに輝く室内。  いや、室内だけじゃない──廊下も庭も、門前だって。  いったいいつ掃除してるんだって首を傾げるほど、我が家は清潔に保たれている。 「私はムコが住まう家を清潔に保ちたいだけだ」 「そんなに肩肘張らなくてもさ」 「来客時に家の中が汚れていたり散らかっていたりしたら、恥をかくのは家主だからな。私はムコに恥をかかせるようなヨメにはなりたくない」  返答は実にふたみらしい。 「しかし、こう綺麗にされると汚せないよな」 「違うぞ。私はお主人ちゃんに窮屈な思いをさせたいんじゃない。お主人ちゃんは、自分のしたいように、いつも通りに振舞っていてくれればいいんだ。  やりやすいように生活していたら汚れてしまうのならそれでいい。私が掃除するし整頓するから」  そんなやり取りがあったんだが───  それはつまり、こういう事で。 「ん?」  例えば居間にいて、視線を感じて振り向くと。  ……ふたみが柱の影からじっとこちらの様子を窺っている気配を感じる。 「……なにやってんの?」 「私の事は気にするな」 「気にするなって……」 「じ〜……」 (無理だろ) 「あっ……と」  はずみで、手にしていた袋入りのスナック菓子が床に零れた。 「はっ」 「…………」 「…………」  目が合った。  ふたみは一目散に走り去り─── 「じ〜……」  そしてまた、柱の影からこちらを見つめている。 「…………」  だから、まあ、なんつーか。 「はっ」 「じ〜……」 「……もしかして、部屋が汚れるの待ってる?」 「私の事は気にせず」 「…………」 「ふっ……吾が清掃領域においては、いかなるゴミの存在も許さぬ」 (……潔癖症?)  じゃないな、これは。  多分、この娘は掃除が「したいだけ」だ。 「綺麗にするのが好き」というか。  爪を切るのが大好きな人が、爪が伸びるのを待ちきれないって話があったけど……汚れてないと、掃除もし甲斐がないもんな。  多分、部屋が荒れ果てた状態になったら、「私の役目だ」とか言いながら嬉しそうに掃除をするんじゃないだろうか。  掃除ジャンキー。  ……まったくホウキの似合う娘だよ。 #«5月20日»  ──桜守姫此芽は、『誓い』を破った事がない。  それは『約束』と言い換えてもいい。  他人と交わす約束。  会話の中のほんの口約束さえも。  彼女は、ただごく自然に、それを守る。  それは『戒め』と言い換えてもいい。  自身と交わす戒め。  何気なく思い立った戒めさえも。  彼女は、ただごく自然に、それを守る。  その繰り返しの上に、桜守姫此芽という人物の評価が成立されている。  その積み重ねの上に、桜守姫此芽という人物の人格が形成されている。  だから、彼女にとってそれは絶対なのだ。 「誓いを守る」という、当たり前すぎるほど当たり前の行為。  花の咲かない桜の樹の枝の上。  ここは此芽にとって特別な場所。  早朝、ここを訪れるのは彼女の日課。  何もなくとも、何かあっても、彼女はいつもこの枝の上に立つ。  恐らくは、同年代の者よりも遥かに物事に動じない彼女。  それは一つの成長の跡として。  不感症故のそれではない。  物事を諦めているからでもない。  悟りを開いた達観でもない。  一人の人間として成長してきた結果なのだ。  年経る度にここを訪れる機会が減っていったのは、彼女が強くなった証だった。  その彼女にとって「何かあった」というのは──それこそ、本当に「何かがあった」という事なのだろう。  ──今、此芽は誓う。 (……『さく』)  込み上げる想いに、唇を噛んで耐えながら。  見下ろす大樹におでこをこつんとぶつけて。  ──泣かないと。  ──堪えるのだと。  ……遠ざけるのだと。 (……嫌ってほしい)  そうしなければならない。  その為には。 「……ごめんなさい……」  普段、他人に言わないような言葉を言うのがいい。  普段、他人に取らないような態度を取るのがいい。  普段───  ……本心と逆の事をすればいい。 (……よし)  誓った。  桜守姫此芽が、この朽ち果てた桜に誓ったのだ。  ──なら、この瞬間から、それは絶対だ。  歩き出そう。  これまでそうしてきたように。  顔を上げて歩こう。  枯れた桜の樹を見上げ。  此芽は静かに──瞼を閉じた。 「ごめんなさい……」  もう一度、繰り返す。  けれど、決して、忘れない。  此芽はそう強く想う。  ──もう一度、貴方と巡り逢えたこの奇蹟を──  弐壱学園天文委員会、『牡牛座』の期間最終日。  その日の夕方、街の人たちは一堂に集められた。  場所は俺たちの通う弐壱学園の校庭。  ──まるで風のない午後だった。 「──皆様。本日はわざわざのご足労、ありがとうございます」  壇上の透舞さんの通りのいい声がスピーカーから響く。 「まずは、今日までのご協力に感謝いたします。お陰さまでわたくしの照陽菜はこれにて完成を迎える事ができました。  わたくしの計算によりますと、本日の夜より雲は生まれず──いえ、雲が発生する理由はただの一つもございません」  透舞さんは一つ間を置くと、こほん、と勿体つけるように咳払いをして。  ──それから。 「即ち、皆様に星空をご覧になっていただけるという事ですわ」  そう、高らかに宣言した。  皆から一斉に歓声が上がる。  その声を一身に受けながら、やがて透舞さんは、どうどう、といったジェスチャーで皆を静めると、彼女が考案した照陽菜のやり方を皆に説明し始めた。  それは簡潔にまとめられていたけれど、だいたい俺が予想していた通りのやり方だった。  それは勿論、桜守姫さんの手助けがあってこそ結論に達する事ができたものなんだけど。  けれど確かに、それなら理論的には雲がなくなる。  なくならなければおかしい。  街の人たちは、今日までその為に協力していたというわけだ。  それは簡潔にまとめられていたけれど、実に根拠のある内容である事がわかった。  やや小難しい理屈ではあったが──すごいな。  確かに、それなら理論的には雲がなくなる。  なくならなければおかしい。  街の人たちは、今日までその為に協力していたというわけだ。  弐壱学園天文委員会『牡牛座』の天文委員、透舞のんが高らかにその手を天上に差し出す。 「──さあ!!」  その指の動きに合わせ、皆も一斉に視線を空へと移す。  黄昏は既に終わりを告げようとしている、いつもの時間───  この街へやってきた俺を驚かせ、街の人たちには見慣れた、あの雲がやってくる時間だ。  俺たちは待った。  雲のない夜空に星が瞬くその瞬間を待った。  この街の人たちにとっては、どれだけ待ち望んだ瞬間だろう─── 「──え?」  その声は、スピーカーを通して辺りに響き渡った。  雲が集まってくる。  厚き雲の層が、いつもと同じように、この街の空として見慣れた光景を作り上げる。 「そっ、そんな──」  その声は悲鳴のように細く轟いた。  そして、その夜空はいつもと変わらず。  星明りも、月明かりさえも通さない群雲に覆われる。 「なん、で……」  透舞さんの力のない声が───  その手から零れ落ちたマイクが地面にぶつかる音と共に、耳に……届いた。  という事は、つまり───  あの時と同じように、ふたみは夜空を見上げている。  ──いや、今ならわかる。  ふたみは毎晩、ここから曇り空を見上げていたんだ。  彼女が望むものを覆い隠してしまっている水の層。  それは、彼女の目にはいったいどう映っているのだろう? 「誰も見た事がない」という星空。  それは、彼女にとっていったいどれだけの価値があるのだろう?  もしかしたら、彼女にとって雲とは──愛しく想う相手との出逢いを邪魔する、恋敵のようなものなのかもしれない。 「……ん」  ふたみが俺に気付いた。 「どうかしたか?」  透舞さんの、『牡牛座』の照陽菜は、残念な事に失敗に終わってしまった。  だから、つまり─── 「明日から、『双子座』の期間になるんだろ?」  ──つまり、そういう事だ。  5月21日から6月21日までは双子座の期間。  その間に生まれた子の星座が、そう定められるように。 「うん」  それがふたみにとって、どういう意味を持つのか。 「ふたみの期間の始まりってわけだ」  知らない俺は、そんなふうにしか彼女の気持ちを確かめる事ができなかった。 「違うぞ。私の、じゃない。私たちの、だ」  言い直す彼女に、俺はほんの少し、苦笑しながら。 「俺にできる事があるなら、何でも手伝うよ」  とだけ口にした。 「お主人ちゃんは、星を見た事があるんだよな?」 「ん? ああ……まあ」 「やっぱり、馬鹿馬鹿しく思うか?」 「え?」 「当たり前のように星空を見て育ったお主人ちゃんからすると、私たちのしている事は馬鹿らしく思えるだろ?」 「そんな事……」 「いいんだ。はっきり言って欲しい」  ──彼女はいつだって直球を投げるから。 「……馬鹿らしいというより、少し大袈裟かな、とは正直思うよ」 「うん、ありがとう。はっきり言ってくれて」  きっと、受け取る球も直球を好むのだろう。 「だから私も、はっきりと言っておく。  ──私はずっと、この日が来るのを待っていた」 「うん」  それは感じていた。 『委員会』に対する彼女の姿勢。 “真面目な娘だから”という理由とは違う、真摯な態度。  ふたみが透舞さんの失敗を望んでいたとは思えない。  彼女は「『牡牛座』が失敗したら」ではなく、「『双子座』の期間が来たら」と思っていた。  一応、一緒に暮らしているんだから。  それくらい俺にだってわかる。 「その時が来たら」───  ──その時が来たのだ。  だから今日も、彼女はいつものように、夜空を見上げている。  いつもとほんの少しだけ違う気持ちで、夜空を見上げている。 「それが私の偽らざる気持ちだ」  そして今、俺を見つめてこう言っている。 「さっき、お主人ちゃんはこう言ってくれた。“俺にできる事があるなら、何でも手伝う”と」 「ああ、言った」  一度決めた事だから。 「だからもう一つ、偽らざる気持ちを言っておく。  私は、お主人ちゃんに手伝って欲しいんじゃないんだ」 「え?」 「一緒に、星空が見たいんだ」 「…………」  ──それはあまりに不意をつく言葉で。  俺は、返す言葉が出てこなかった。 「なあ、お主人ちゃん」 「あっ、な、なんだ?」 「双子座の由来を知ってるか?」 「双子座は冬の星座でな、カストルとポルックスという星座が中心となって形成されている」  星空を覆い隠す雲を、見透かすようにして。  ふたみはもう一度、夜空を見上げる。 「このカストルとポルックスという星にはな、幾つもの逸話があるんだ。  昔の人は、よく夜空の星々が形作るものと自分たち民族の神話とを結びつけた。  天体の運行は、すべての事象を指し示すものだと考えていたから。手に届かない大空の瞬きと、遥か高き御空から人々の生活を見下ろしている神々との間に共通するものを感じていたんだろう。  神話と星座とを結ぶ話で一番有名なのは、なんといってもギリシア神話だ」 「お。それなら知ってるぞ」 「知ってるのか?」  口調はいつもと一緒だけど、ふたみはどこか目を輝かせた様子で俺を見た。 「ああ。星座の話で一番有名なのがギリシア神話だ、という事を知っている」 「…………そうか」  口調はいつもと一緒だけど、ふたみは露骨に落胆した眼差しで俺を見た。 「……このカストルとポルックスというのは、スパルタ国の英雄でな。  都市国家スパルタの王妃レダは、ある日、この世のものとは思えないほど美しい白鳥を見たんだ。  羽ばたく姿は雄々しくも、その透き通るほどに純白な翼──水面に浮かんだその雄姿に、レダは魅了された。  ──この白鳥は、実は、神々の王ゼウスが姿を変えていたものでな。  それで、まあ……その、なんだ。  色々あってレダは身篭り、二つの卵を産み落とした」 「そこ、大事なところなんじゃないか?」 「う、うるさいっ。とにかく二つの卵だっ」 「はいはい」  ギリシア神話といえば、出てくる英雄出てくる英雄、みんなゼウスの息子ってくらいアレだからな。  しかもほとんど母親が違うんだから……大方の予想はつくけど。 「一つの卵からは、弟ポルックスと、妹ヘレネが誕生した。彼らはゼウスの──神々の血を引いて、いかなる傷を負っても死なない、不死の身体だったという」 「へえ……」 「そしてもう一つの卵からは、兄カストルと、姉クリュタイムネッ……」 「噛んだ?」 「クリュタイムネストラ」 (……逆切れですよ) 「しかしこの二人は、弟たちと違って人間の血を引いて生まれてきた。きっと、夫であるスパルタ王テンダオレスとの間の子供だったんだろう」  それは、“特別”であった弟と、“普通”であった兄の話だった。  ……どこかの兄弟とは、まるで逆しま。 「カストルとポルックスは、まるで親友のような兄弟だった。彼らはいつだって、“二人揃えば何でもできる”と、“怖いものなど何もない”と思っていたという」 「どうして?」 「二人は武人として、違った方向に優れていたんだ。  カストルは乗馬──なにより戦術に関して明るく、ポルックスは剣術と拳闘に抜きん出た腕前を持っていた。  特にポルックスは鍛冶の神ヘパイトスから授かった“鉄の手首”を嵌め、その絶大な威力を見事に使いこなして万軍にも匹敵したという」  兄の戦略。  弟の武力。  そこには“特別”も“普通”もなく。  自分が持たぬ才能に対して嫉妬もなく、ただ、互いが互いを認め合っていた。  けれど、それがいつまでも続くはずがない事を、俺は知っている。 「いくつもの冒険を二人で力を合わせて乗り越えてきた兄弟だったが、ある戦で、兄のカストルは矢に当たって命を落としてしまう」  ──そうだろうとも。 「ポルックスも同じだけ矢を受けた。だが、不死の身体を持つ弟だけは無事だったんだ」  ──“特別”と“普通”との境界が生まれた瞬間。  きっと、それが当たり前。 “特別”と“普通”とが、いつまでも同じ道の上を歩いていられるはずがない。 “特別”にとっては、“特別”である事が“普通”だから。 “普通”の人間がどれだけ才に恵まれ、努力を重ねても、“特別”にとっての“普通”にはなれない。  ほんの一時、肩を並べる事はあっても。  それは、細い細い糸の上で綱渡りをしているに過ぎないと───  気付いた時には真っ逆さまに、落ちて。  遥か高き“特別”を仰ぎ見ているだけの自分の器を思い知らされる。  その瞬間から、もう二度と這い上がる事はできないのだ─── 「ポルックスは嘆き哀しんだ」 「え?」 「彼は人目をはばからず大声で泣き叫び続けた。その姿を哀れに思ったゼウスは、半神半人だった彼を、正式な神の一員として天上へ連れて行こうとしたという。  しかし彼はカストルの亡骸を抱きしめたまま、その場を動こうともしなかった。  ──神の誘いを断ったんだ」 「ポルックスは……」 「ん?」 「ポルックスは、どうしてそんな……」 “特別”に生まれた者が、然るべき高みへと到達する。  仲の良い兄の死がいかに哀しくても、それは当たり前の事なのに。 「彼はこう言ったんだ。“カストルと一緒でなければ意味がない”と」 「意味が……ない?」 「そうだ」 「意味が……」  ……ああ、そうか。 「ゼウスはポルックスの想いを受け取り、彼の不死性を半分、カストルに分け与えた。  ポルックスは“初めからこうしておけば良かったんだ”と言い、ゼウスを苦笑させた。  こうして二人は、一日おきに天界と人間界とで暮らす事になった」  二人は……ああ、だから。 「それでも、神の力は半分になってしまった。だから二人は、いずれ朽ち果てた……それでも後悔などなかった。  その姿を見たゼウスは、いつまでも二人が一緒にいられるようにと、兄弟を夜空の星にしたんだ。  隣り合う、二つの星に。  それがカストルとポルックスだ」  ──だから、『双子座』。 「じゃあ、その二人はいわゆる“双子”じゃなかったんだ」 「うん」 「それでも、『双子座』なんだな」 「そうだ」  いつの間にか自分と重ね合わせていた事が恥ずかしくなった。  どうして、ふたみがこんな話をし始めたのか。  この話の意味がどこにあるのか。  彼女が俺と兄貴の関係を知っているとは思えない。  だとしたら、この話は。  カストルとポルックス。 “特別”と“普通”、決して越えられない壁。  だが、この二人には初めからそんな隔たりはなかったんだ。  あるのは、ただ───  ───互いを想う─── 「私、唯井ふたみは」 「わが夫、巽策を──『双子座』として認める」  楽しそうに星座の話をするふたみ。  彼女にとっては、これが夫婦で共有する大切な時間なのだろうか。  ……俺は。  俺にとって、それは。 「だからもう一つ、偽らざる気持ちを言っておく。  私は、お主人ちゃんに手伝って欲しいんじゃないんだ」  ──あの言葉。 「一緒に、星空が見たいんだ」  ふたみが俺を“もう一人”に選んでくれた理由が、もし本当にそういう事なら───  ……思わず赤面していく自分を感じた。  だって、それじゃあの台詞は、まんま……。 「どうした?」 「あ、いや……なんでも……」  ……なくない。  なんでもなくなんかない。 「ありがとうな」 「なにがだ?」  唐突な言葉の意味を計りかね、ふたみは不思議そうな顔をする。 「俺を、もう一人の『双子座』に選んでくれた事」 「えっ……」 「ありがとう」 「〜〜〜〜〜〜〜〜」  自分の気持ちの正体はわからないまま。  ただ、ふたみの気持ちが嬉しかったのは本当だから。 「とっ、当然だろうっ。ムコとヨメなんだからっ」 「うん」  ──当然。  そう、ふたみは言った。 「私は背伸びをしていただけだったんだな。  ずっとこの日を待っていたはずだったのに。決めた事だと、受け入れた事だと、思っていたのに。ヨメという形をなぞっていたに過ぎなかった。  オマエのお陰で気付く事ができた。礼を言う」  あの時の言葉の意味が、今なら少しだけわかるような気がした。  真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐな彼女の言葉には、着飾るという事がない。  ──ましてや、偽りなど微塵もない。  あの時。  彼女は“覚悟”を決めたんだ。  いつか、その想いが。  誤解の上に成り立っていたのだと、気付く事があったとしても。  ──そう言ってくれた彼女の、その時の気持ちは本当だから。  その気持ちには、応えるべきだと思う。 “当然”だと言ってくれた、彼女の気持ちに。 「──続き」 「え?」 「続きを聞かせてくれないか?」 「うん」  ──その言葉に嬉しそうなふたみを発見すると。 「他に双子座を構成するのは、プロプス、テジャト・ポステリオル、メブスタと」 「雌豚!?」 「なんとなく読めてたが、一応ツッコんどくぞ」 「ちょっ……だったら目潰しはさすがにナシだと思うんですが……」  俺の気持ちはどこにあるのかと、少し戸惑ってしまう。 「どこかに誤解があった上で築かれた関係だと思う」と言い。 「それに付け込むような真似だけはしない」と、メメに誓った。  ──ただ一つだけ、確かな事。 「それからな」  星の話を嬉しそうに俺へと語ってくれる、その姿を見て。  初めて、『ふたみ』って女の子をちゃんと見れたような。  ……そんな気がしたという事。 「こら。ちゃんと聴いてるのか?」 「聴いてる聴いてる」 「でな」  ──いつ尽きるとも知れない、曇り空の下での話。  語りたい事は沢山あったのだと、そう言ってくれているかのようで。 「ふたみにとって、照陽菜って何だろう?」  その答えは。 「ずっと昔から、逢いたかった」  今きっと、ここにある。 「照陽菜は、私にとって、ようやく巡ってきた機会だ」  この街の人たちは、誰もが皆、星空に憧れを持っている。  ほんの少しだけ違う、それぞれの形で。  ふたみにとっての形が──ほんの少しだけ、俺にも流れ込んできたような気がした。 「……私はな」  ──きっと、誰の心にも黄金があるんだと思う。  ふたみの黄金は、あの夜空の中にあって。  今は雲に覆われて見えないけれど、確かにそこにあって。 「──あの雲の向こうまで。  この想いが、どこまでも届くといい。  ……そう、思うんだ」  この娘は、精一杯に手を伸ばしているんだ。  届かない腕を指先まで精一杯に伸ばして、今にも転んでしまいそうなほどに爪先立ちになって、それでも一生懸命に夜空の黄金をつかもうとしている。  だから、ふたみにとって照陽菜というものは。  特別な意味を持っている。  それは、街の人たちの願い。  ──なにより、ふたみ自身の願い。  透舞さんには悪いけど、双子座の───  ──いや。  ふたみの順番が巡ってきて良かったと思う。  そう言ったら、彼女は「私たちの」と言うんだろうけれど。  満天の星々に見つめられていたら、照れくさくってこんな気持ちにならなかったかもしれない。  その時、俺は。  ──素直に。  ほんとうに素直に。  ふたみと一緒に星空が見たいって。  そう、思えたんだ。  ……ああ、そうしたら。  そうしたら、いつも無表情なこの娘の笑顔が、もしかしたら見れるんじゃないかなんて───  そんな事を、ぼんやりと考えていた。 「……結びつきはわかったけどさ。何で双子座は冬の星座なのに、誕生日に割り当てられてるのは五月下旬から六月中旬なんだ?」 「…………でな」 (逃げた……)  照れくさかったのか、それとも、気付いていない振りをしたかったのか。  俺はそんなふうに誤魔化した。  でも、一度決めた事だから。  明日からのふたみの手伝いは、ちゃんとやっていこう。  ……でも、いったい何をするんだろう? #«5月21日» 「見ておいて欲しいものがある」と、ふたみは言った。 「なあ、いったい何処に行くんだ?」  それはいつもの通学路。  ──から、一本外れた道。  この街で暮らすようになってからもうじき一週間が経過しようとしているが、近場であっても俺の知らない道はまだまだ多い。 「もう少しだ。説明するのが難しいので、実際に見てもらった方が早い」  さっきからずっとこの調子だ。  口では説明し辛いものって、いったい何だ?  道はやがて、ゆるやかな上り坂へと変わった。  ゆるやかだが長いスロープを描くその頂の先は見えない。  毎日の通学で下る事に慣れた今となっては、それは不思議な事に新鮮にすら感じられた。  ──この坂の向こうには、どんな景色が待ち受けているのだろう──  そんな、らしくもない気持ちになったのは、俺もいつの間にかにこの街の空気に中てられたせいか。  それとも───  ──桃色の木漏れ日に包まれたせいだったのか── 「…………」  吹き抜けた風はなでるように頬をくすぐり、静かに合図する。  不可視の衣裳を身にまとい、舞い踊りながら優しく俺の手を取って。  色鮮やかな雪景色の会場へ、ようこそ。  紳士を気取って会釈する。  次に頬をなでたのは、大気を泳ぐ結晶。  風に変わってお相手いたしますと、そっと掌に舞い降りる。  桃色に肌を染めて、微笑むように淑女を気取る。  俺は気の利いた言葉一つも浮かばないまま。  優雅に泳ぐ淑女たちの傍で舞い踊る紳士たちの、幻想的な交響楽を聞いていた。  5月に降る雪は淡紅色に着飾って、坂の上の景色を染め上げていた。 「どうして今頃、雪が……」  雪、と認識した途端に。  何かが違うと、違和感を感じた。  ──そうだ。寒くないんだ。  気温は5月のまま。  雪は触れれば冷たくはあっても、それ自体が気温を下げているわけじゃない。  雲から落下してきた氷晶が地上に到達するまでに、気温が一定以下であれば雪と呼ばれ、一定以上であれば溶けて雨となる。  だから、雪とは寒さの証明。  けれど、この雪は冷たくともなんともない。  触れても溶けず、溶けないどころか持ったままでいる事さえできる。  息を吹きかければ宙を舞い、つかまえれば軽い弾力すら感じられる。  ───まるで綿。  そしてどこか、タンポポの種のような─── 「なん……なんだ、これ……?」 「テレ雪だ」  呆然と立ち尽くす俺に、ふたみがそう答えた。 「テレ雪……?」 「まるで雪が人に見つめられて照れているように見える事から、そう呼ばれている。  とはいっても、雪とは違う。水気とはまるで関係がないどころか、天候ですらない。  空から降っているように見えるかもしれないが、それはテレ雪がちょっとした風でもまとまりなく浮かんでしまうせいで、実際は舞っているんだ」  ──降っている、ではなく、舞っている、という表現。 「原因はあまりよくわかってないみたいなんだけどな、何故か照陽菜が執り行われる百年に一度、これはここに現れるんだ」 「へえ……天候じゃないとすると、植物とか?」 「そうとも言われているな。まあ、これも百年に一度の風物詩の一つかな。初めは物見の客も多かったようだが、春先から現れるんでな……さすがに最近は客足も落ち着いてきたようだ」 「照陽菜って、12星座の期間なんだから一年だろ? じゃあ、これも照陽菜が終わるまでの一年中ここに?」 「いや、それが違うんだ。時期でいえば今だけでな。実は──」 「おねーさまっ!」  ──元気のいい声が飛び込んできたのは、その時。 「妾」 「メメ? どうしてここに」 「妾はここに住んでるからな」 「住んでる? ここに!?」 「うんっ!」  嬉しそうに微笑みを返す、メメの無邪気さ。  ──ああ、そうか。  その無邪気さの裏に隠された、人知れぬ苦労。  見上げればいつだって空が広がっている、屋根のない生活。  きっと、心無い人に心無い言葉を吐きかけられた事もあるだろう。  そのせいで、友達と上手く付き合う事ができなかった事もあるだろう。  それでもこの娘はいつだって、こんなに無邪気に笑うんだ───  そうと知っていれば、俺も明日から人に優しくなれるかもしれない。  この娘のように、どんな時でも笑顔で皆に接する事ができ─── 「とう」 「なっ、なにをっ!?」 「よくわからんが、つっこまないといけない気がした」  天性の芸人!?  なんだこの溢れんばかりの才能はっ!! 「勘違いしているようなので一応言っておくと、妾の家族はこの公園──『空明の里』の管理人をしているんだ。敷地内に家を構えているので、ここに住んでいると言った」 「ああ、なるほど。……ごめんなさい」 「?」  謝る俺に返ってくる、メメの無邪気な表情。  本当にごめんなさい。 「おねーさま、来てくれるなら言ってくれれば良かったのに。びっくりしちゃった」 「ごめん」  ふたみはふたみで素直だよな。 「お主人ちゃんに、ここを見てもらおうと思ってな」 「……あ……照陽菜の……?」 「うん」 「…………」  どうしたんだろう。  どことなくメメらしくない態度のように感じられた。  それに今、照陽菜って……。 「ダメか?」 「うっ、ううんっ! そんな事ないよっ! 愛はいつだっておねーさまの事を応援してるものっ!」 「そうか。ありがとう」 「じゃあ、お主人ちゃん。ちょっと妾のご両親に挨拶してくる。妾、悪いが少しお主人ちゃんの相手をしていてくれ」 「はーいっ」  挨拶って……公園なんだから、別に管理人に挨拶も何も……。  ああ、そうか。ふたみにとっては親戚だもんな。  近くまで来たら、一言挨拶するのが筋ってもんだ。  ……俺も行った方がいいのではないだろうか。  ──それから俺たちは、二人してこの“公園”を歩いた。 「やっぱすごい景色だよな」  改めてそう思う。 「うーん。さすがに見慣れちゃったかも」  興奮する俺に、メメは少し申し訳なさそうに言った。  ずっとここに住んでれば当然か。  観光地が地元の人は、生まれ育った場所そのものを誇らしく思ってはいても、初めて訪れた人のような新鮮な気持ちで見る事はできないだろうから。 「『空明の里』……だっけ?」 「ううん。『空明の里』」  メメは俺の言葉を訂正する。 「あれ? 街の名前から取ってるんじゃないのか?」 「そうなんだけどね。この街の名前、昔は“空明”って読んでたんだって。時代が移り変わるに従って、今の読み方に変わったとか何とか。 “市”も“ほこら”とか“まつる”って意味の、“祠”って字が当てられてたらしいよ」 「へえ……」  メメって意外と──って言ったら失礼だけど、街の歴史に詳しいよな。  自分が住んでる街の歴史なんて、知ってるようで実は何も知らないって人がほとんどだっていうのに。 「──でさ。さっきから気になってたんだけど、あの白い棒みたいなものは何なんだ?」 「ああ、あれね」  俺の問いに、メメは少し考え、 「──ねえ。星の距離の事を“何光年”って言うじゃない? じゃあ、100光年離れた星を夜空に見つけた時、実はその星はもう宇宙に存在しないかもしれないって知ってる?」  急に、そう問い返した。 「100光年離れた星の光は、地球に届くまで100年かかってるんだよ。だから星座っていうのは、ずっと昔の星の光を繋ぎ合わせて形にしたものなの。面白いと思わない?」  楽しそうにそう語るメメを見て、やっぱり彼女もまた天文委員なのだと実感した。  けれど、それがいったいどう……。 「だからね。ここは確かに位置づけとしては“公園”なんだけど、特別な意味を持つ“公園”なの」 「え?」 「──ここはね、この街にとって必要な場所なんだよ」 『牡羊座』の委員が口にした、不思議な回答。  その意味は、俺にはよくわからなかったけれど───  お陰で、幽玄の景色に目を奪われて忘れかけていた事を思い出させてくれた。 「なあ、メメ」 「なぁに?」 「さっき、ふたみに照陽菜がどうとか言ってたじゃないか。それって、もしかしたら双子座の……」  ──言いかけた時。 「…………」  あれほど晴れやかだったメメの表情が、一転して曇の陰りを帯びた。  いつもの何倍も働き通しだった彼女の舌も、急に次の言葉を忘れてしまったかのように。 「メメ?」  問いかける俺の言葉に、メメは反応しなかった。 「…………」  いや、反応してないんじゃない──俺には、返す言葉を選んでいるかのように見えた。  彼女は少し、ほんの少しだけ時間をかけてから、 「……ごめんね。言えないんだ。それは、おねーさまに直接訊いて?」  とだけ口にした。 「ごめんな。変な事を訊いて」  言い辛い事だったのかと思い、俺は謝罪した。  この街には、何だか変わったルールみたいなものが沢山あるから。  知らなかったとはいえ、それらに触れるような事を無神経にも訊いてしまったのかもしれない。 「ううん、違うの。そうじゃないの……」  けれど、メメの様子はそう感じた俺の想いを否定するものだった。 「メメ……?」  いつも元気いっぱいのメメ。  彼女のこんな様子は、初めて目にするものだったから。  俺は戸惑っていたのかもしれない。 「愛は……愛はおねーさまの味方だもん。ずっとずっと、味方だもん……」 「……ああ」 「だから……言えないよ……」 「ごめんごめん。いや、本当、変な事を訊いて悪かったよ。ごめんな?」  俺にはそう言うしかなく。  けれどメメの小さな身体は、いつまでも陰りの中にあった。  哀しそうに伏せられたその大きな瞳が、 「ねえ、策」  どこか頼りなげに、じっと俺を見上げていた。 「どうか、おねーさまの味方でいてあげて?」 「え?」  それは“お願い”だったのだろうか。  どこか頼りなげなまま。  すがるようにも見えた。  けれど真剣そのものだった、その瞳─── 「……だめ?」  恐る恐る、口にしたのだと。  そう感じた。 「別に、ふたみとは敵とか味方とかそんなんじゃ……」  俺は本当に戸惑っていた。  それはあどけなさの表れだけれども、だからこそ言いたい事ははっきりと言う娘だと思っていたから。  その彼女が、あえてこんなふうに声にした言葉に。  ……重みがないとは、思えなかった。 「…………」  今日は休日だっていうのに、制服を着ているメメを見て思う。  前に言ってた。 「おねーさまが“学生は制服を着るものだ”って言ってたから、自分もそうしてる」って。  確かに、ふたみは休日も家の中でない限りは制服を着ている。  ……彼女の、ふたみへの想いの強さ。 「メメ」 「……うん」 「俺は、ふたみの味方だよ」  もしかしたら、戸惑いが顔に出ていたかもしれないけれど。  俺は笑顔でそう言えたと思う。  ──そう言われる事で、メメは安心してくれるのだろうか。 “敵”とか“味方”とか、そういう言葉を口にする事、またそういう形で他人を区別する事は、自身の幼さの表れだとよく言うけれど。  俺にだって、そういう気分になってしまう時の気持ちはわかる。  メメはふたみが大好きだから。  もしかしたら、彼女にとって何か不安な事があって──だからこそ、確認するようにこう尋ねているんじゃないだろうか。 「ほんとう?」  彼女の満面の笑みが、その答えであるかのようだった。 「ああ。ほんとうだ」  彼女があえてこんな事を頼む理由は、わからなかったけれど。  そういう事なら、断る理由なんかどこにもない。  ヨメとかムコとかを別にすれば、俺はふたみって娘を決して嫌ってなんかいないんだから。  そして、そのふたみを慕う、この小さな少女の事も。 「じゃあ、“約束”だよ」 「ん、ああ、わかったよ。“約束”だ」  ──その小さな約束に。  小さな少女は、本当に安心したかのように。  俺に極上の笑顔を見せてくれた。  それからしばらく歩いていると。  視界の奥に、ログハウス風の建物が見えた。  小奇麗なペンションにも見えるその建物の前に、中高年の男女が二人と、見慣れた後姿の少女が一人。  ふたみだった。  という事は、傍にいる二人がメメのご両親という事だろう。  ここの管理人を勤めるという二人からは、物腰丁寧な、温和な印象を受けた。  二人とも、何度も何度もふたみに対して頭を下げている。  謝っているとか、そういう事じゃない。なんというか──恐縮しているというか、頭が上がらないというか、感じられたのはどうにもそういったニュアンスだ。  ふたみはいつも通りの様子なのだが。  天文委員に対する、この街の人たちの反応は見慣れている。  けれど、自分の娘だって同じ委員会の一員だろうに……とは思ったが、ふたみとメメは幼なじみという事だし、メメがふたみを慕う姿からすると、子供の頃からふたみが世話をしているとか、そういう関係であってもおかしくはない。  ご両親からすれば、「いつも面倒見てもらってごめんね」とか、そういう事なのだろう。  ふたみとメメの様子からして、もっと家族ぐるみの付き合いなのかと思っていた俺からすると意外だったのだが、これはメメのご両親がしっかりしているという事だろう。  家族ぐるみの付き合いである事と、なあなあの関係である事は違う。  良いご両親じゃないか、まったく。  俺も挨拶に行くべきかと考えていたが、今はちょっと入っていきづらい雰囲気だった。  ──また今度、機会を改めてご挨拶に伺う事にしよう。 「なあ、メメ」  それに、ふたみを待っている間に、一つだけ訊いておきたい事があった。 「なぁに?」 「さっきの話だけどさ、なんで急にあんな事を?」  別に、彼女が不安に思う要因を訊き出したいわけじゃない。  それはあまりに無神経だし、言えるような事なら、きっと彼女から口にしていただろう。  ──そうじゃなくて。 「え?」 「だってさ。前はあんなに、“ふたみに近づくな”って言ってたのに」  どうして俺に言ったのか、って事だ。 「…………」  俺の質問に、メメは不思議そうな表情を浮かべた。  訊かれて初めて気付いた、と言わんばかりに。 「そう……だよね。なんでだろう……」  首をかしげると、そのまま考え込んでしまった。  その姿に、自然と笑みが浮かんだ。 「──はは。いや、いいんだ。うん」 「なんで嬉しそうなの?」 「嬉しいからさ」  ──メメも少しは俺を認めてくれたって、そう思ってもいいのかな? 「お」 「終わったのか?」 「うん。ちゃんと話を通してきた」 「話を通してきたって、そんな大袈裟な」 「いや、こういうのはちゃんと筋を通しておかないとな」  どういう意味だろう?  やっぱり、さっき話題に上っていた照陽菜に何か関係があるのだろうか。 「…………」 「ん?」  でも、その事を気にしている様子のメメの前では訊き辛い。 「本人に訊いてくれ」と言ってはいたが、だからといってメメの前で訊いていいものかどうか。 「さて。ちょっと場所を変えよう。お主人ちゃんに聞いてほしい事がある」  どうやら間違いなさそうだ。 「あっ……あ、そうだ。愛はちょっと……よ、用事があったんだ」 「そうか」  それは見え見えだったけれど、きっとその言葉もふたみを想っているからこそ出てきたものなんだろう。 「また後でね、おねーさま。手伝う事があったら、何でも言ってね」 「ありがとう」  メメは自宅の方へと姿を消した。 「じゃあ行こうか。お主人ちゃん」 「ああ」  俺はふたみと二人、来た道を辿った。  しかし───  ここに来るまでも気になっていた事だが、あの円柱みたいなものはいったい何なんだろう。  メメは「この街に必要なもの」だと言っていたけれど、ライフラインのようには見えないし。  もしそうなら、公園として不特定多数に解放する事はあり得ない。  公園にわざわざ住み込みの管理人を置いているという事は、確かに重要な要素である事は間違いないだろうけれど、都市機能を維持するとか、生活に必須な設備であるとか、そういう意味合いとは違うと思う。 「なあ、ふたみ──」  さっきは話の流れが違う方向に言ってしまったから訊けなかったけれど、今ならいいだろう。  そう思い、俺はふたみに問いかけた。  けれど、ふたみから答えは返ってこなかった。  答えが返ってこなかったというか、  返事すらないというか、  ぶっちゃけ、ふたみがいねぇ。 「ふたみ? おーい、ふたみー!?」  俺はこの状況を知っている。  正確に何と言うべきなのか、その答えをこの胸に持っている。  迷子。  俺が。  ちょ、あれ、ここ似たような景色ばかりで高低差すらよくわかんないっていうか、振り向いてもすでにメメの実家は見えないし本格的に迷子っていうかこのパターンはきっと道だと思って進んだ先は崖で真っ逆さまに落ちてその手を離さないと君まで一緒に落ちてしまうとかのドラマが待っている予感がするわけでそこで俺はかっこよく自分から手を離して谷底に落ちていくんだけれども実は生きていてピンチの時には颯爽と登場「お前を倒すのはこの俺だ。それまで他の奴に倒されたら困る」とかツンデレ風味な事を言って見開きは当然さらにはいつ編み出したんだっていう新必殺技を  ──待て。  落ち着け。落ち着くんだ。  こういう時は、下手に動いたらいけない。  動けば死ぬ。  寝たら死ぬ。  そうだ、裸で温め合おう。  うん、いいぞ、落ち着いてきた。  よし寝ないように四人で山小屋の四隅に散って順に肩を叩き合おう。  一人目が二人目を、二人目が三人目を、三人目が四人目を、四人目が一人目を、そうして動いていれば……待てよ、一人目はすでに二人目の場所に移動しているわけだから、四人目が肩を叩いた相手はいったい…………。  いいから落ち着けよ俺。  たかが迷子で本気の取り乱しをしてどうする。  しかも公園だぞ、ここは。  ──桃色の雪景色。  だが、これは決して雪景色ではない。 (まったく)  そう、だから───  ──これを雪景色と呼ばないのなら。  降りしきる桃の輪を遮るものを、何と呼べばいいのだろう。  ましてや───  ──遮りを携えたその少女の事を、いったい何と呼ぶべきなのだろう。  少女と目が合った瞬間。  ──その雪景色が、とても優しく彩られて見えた──  桃色の結晶が舞う園にて。  俺は、妖精と出逢ったんだ。 「あっ……」  ぴくり、と、指先が震えた途端に動けなくなった。  それは、知らず迷い込んでしまった異世界で、そこの住人と顔を合わせた瞬間のようで。 「ここにいると、まるでこの街の優しさに包まれたような……そんな気分にならないかな?」 「えっ……」  妖精が、僕の知らないはずの言語で。  けれども意味が通じてしまう、微笑みの声で。 「今にも妖精が現れて、楽しく踊り出しそうだよね?」  妖精が。  妖精が現れるって。  そう、言ったんだ。 「ふふふっ」 「あっ!」  ──どうして、俺は彼女を追いかけたのだろう。 「お」 「ふたみ……」 「どこに行ってたんだ、お主人ちゃん」 「あの娘は……?」 「あの娘?」 「あ、い、いや……」  戸惑う俺に、ふたみは首をかしげる。  別に何が、というわけではないけれど。  なんとなく悪い事をしているような気がして。 「ま、見つかったので良しとしよう。さて、入り口まで戻ってきたので、そろそろ説明をしたいんだが、いいか?」  言われて気付いた。  確かに、いつの間にかに俺は公園の入り口まで戻ってきていた。  ……もしかしたらあの娘、俺が迷子だって気付いて、ここまで案内してくれたのだろうか。  まさか……な。 「ダメか?」  返答のない俺の様子に、ふたみが少しだけ困った調子で尋ねる。 「あ、いや悪い悪い。説明を頼むよ」 「うん。あ、いや、頼むのは私の方なんだが」 「やっぱり……それって、双子座の照陽菜の事なのかな?」  俺は単刀直入に切り出した。 「気付いてたのか。うん、そうだ」 「お主人ちゃん。この公園に無数に建っている、円柱のようなものは見たか?」 「ああ、それ、俺も訊きたかったんだよ。あれは何なんだ?」 「あれはな、星なんだ」 「星?」 「そうだ。ここは夜空だから」  ──その一言は神秘的に響いた。 「上空からこの公園を見下ろせばよくわかる。  あの円柱それぞれが星を意味し、夜空の星々そのままに配置されている。  そして、この公園は大きく四つのブロックに分けられていて、それぞれ『春の空』、『夏の空』、『秋の空』、『冬の空』と呼ばれているんだ」 「じゃあ、夜空って……星空って事か」 「そう。ここは星空の縮図。この街の“願い”が形になったものだ」  これは、ただのモニュメントなんかじゃない。  事件や業績を記念するのでも、示す為でもない。  誰かが、この街の願いを形にした。  晴れた夜空への望郷を、恥ずかしがり屋の星空との対面を。  夢見るように創り上げたここは、きっと理想郷。  ──だとすれば。  ここはどれほど優しくも哀しい光景なのだろう───  色が違うとはいえ、ただの雪景色だと感じなかったのはそのせいかもしれない。  望んでも手に入らない想いを詩にして、みんなの心を慰める子守唄の調べを奏で上げた。  ゆるやかに。  けれど絶え間なく。  いつ叶うとも知れず。  けれどいつまでも。  誰かが想いを口にした瞬間。  きっとここは、“形”になったんだ─── 「私は、ここで照陽菜をしようと思っている」 「……ここで?」  街の慰めという名の模型の上で、街の願いをほんとうの形にする。 「そうだ。あの円柱はそれぞれが星の意味を持ち、その配置は星座を模ったものとなっている。春夏秋冬──だとすれば、ここは夜空の縮図」 「ああ」 「ただの夜空じゃない。いわゆる“普通”の、あって当たり前の、夜空。  けれど私たちは知らない夜空」 「……ああ」 「そして、降りしきるテレ雪は積み重なり、それぞれの星を覆い隠してしまっている。  瞬き一つ見えないほどに、星々は隠されてしまっているんだ。  ならここは、この街の夜空そのものだ」  ───雲に覆われた、空明市の夜空─── 「だから私は、それを掃こう。  このホウキで、私が天文委員である証のホウキで、このテレ雪を掃こう。  それが私の照陽菜だ」 「……それって……」  ───それは、とてもとてもへいわな世界のお話。  かなしいことなんてなにひとつないその世界には、とてもきれいな湖がありました。  そこには、いつもだれかが見物にきていましたが、きょうは小人たちがとおくの国からはるばる遊びにきていました。  かれらは水の上に葉っぱの家をうかべ、みんなで水の中をのぞきこんでは「すごい」「すごい」と言い合っていました。  そこへ魔王がやってきました。  とてもよくばりな魔王がやってきました。  魔王が魔法の杖をひとふりすると、杖のせんたんからみるみる霧があふれ、湖をすっぽりとつつみこんでしまいました。 「たいへんだ。魔王が湖をどくせんしてしまったぞ」  小人たちがいくら目をこらしても、霧のせいで湖の水はくもってよく見えず、それどころか、右も左もわからなくなって、岸にもどることすらできません。 「どうしよう。もうここから出られないよ!」  小人たちはおおあわて。泣きだしてしまったものもいました。  それを見て、魔王はびっくり。  ちょっとだけイタズラをして、みんなにかまってほしかっただけなのに。  とてもよくばりな魔王は、じつはとてもさみしがりやの魔王でした。  魔王はあわてて湖をもとどおりにしましたが、あまりにあわてていたので、うっかり魔法の杖を落としてしまいました。  落ちた杖は、ねもとからぽっきりと。  するとどうでしょう。  霧がもどってきてしまったではありませんか。  かなしむみんなを見て、魔王はみるみる泣き顔になってしまいました。 「『よくばり魔王』……」 「──お主人ちゃん」  ふたみが、真っ直ぐに俺を見つめていた。  その瞳は彼女らしい真剣さでいっぱいで。  けれど、いつもより優しく感じられたんだ。 「一緒に……やってくれるか?」 #«5月23日»  魔王はあわてて湖をもとどおりにしましたが、あまりにあわてていたので、うっかり魔法の杖を落としてしまいました。  落ちた杖は、ねもとからぽっきりと。  するとどうでしょう。  霧がもどってきてしまったではありませんか。  かなしむみんなを見て、魔王はみるみる泣き顔になってしまいました。  岸のいちばんちかくにいた小人は、そんな魔王がかわいそうで、およいで岸までたどりつくと、杖をひろいあげました。  おれた杖のさきっぽは、ささくれみたいになっていて、まるでホウキです。  だから小人は言いました。  秘密の言葉を唱えました。  小人が魔王のまねをして杖をふるうと、なんと、みるみる霧がはれていきます。 「すごい!」  おどろいたのは魔王でした。  じぶんいがいに魔法の杖がつかえる人なんていないと思っていた魔王は、なんどもなんどもおれいを言って、小人にひみつをうちあけました。 「知ってるかい? この世界はとてもへいわだけど、ほんとうはね、この世には、どうしてもさけようのない、かなしいできごとがたくさんあるんだ」  そう魔王は言います。 「魔王っていうのはね、あの魔法の杖で、牢屋に入っている“かなしいできごと”を出られないようにするのがおしごとなんだ。  そうして見張っていると、まるでそいつらのおやだまみたいに思われて、みんなにこわがられちゃうんだけど、とってもりっぱなおしごとなんだよ。  でも、それにひつような杖はおれてしまった。もうぼくでは、あいつらをおさえておけない。  どうかな、きみが魔王をやってくれないかな?」 「わたしが?」 「だってきみなら、おれた杖でも魔法がつかえる」  小人はしばらくなやみ、それから、たずねました。 「どうしてあなたは、そんなだいじなおしごとをほうってきてしまったの?」 「さびしかったんだ。ずっとひとりぼっちで」 「どれくらい魔王をやっていたの?」 「そうだな、百年くらいかな」 「じゃあ、わたしも百年、魔王をやるわ。そうしたら、また他のだれかをさがしましょう。きっとそのころには、わたしもさびしくなってしまうもの」 「そうだ! それがいい」  こうして、ホウキのような杖をもった、あたらしい魔王がたんじょうしました。  魔王は、この世界が平和になるようにと、いつでも“かなしいできごと”をみはっているのです。  ──あれから二日。  双子座の照陽菜は昨日から開始されている。  ふたみの言った、あのやり方で。  約束通り俺も手伝ったんだけど……。 「…………」  今は朝食前。  手伝いたいけど手伝えないままの準備中、俺は大人しく食卓に着いて待っていた。 「おはよー……」  パジャマ姿のまま、メメが眠たそうな目を擦りながら居間に顔を見せた。  彼女はどうも、朝が苦手なようだ。  それでもここで暮らすようになってからは、朝食の支度をするふたみの手伝いをするべく、頑張って早起きしていたようだけれど……。 「さすがにもう諦めたのか?」 「だっておねーさま、ぜんぜん手伝わせてくれないんだもん」  メメは寝ぼけ眼のままぷんすかと頬を膨らませ、席へと着く。 「策のご飯を作るのは自分の仕事なんだって。愛の分もあるんだからって粘ったんだけど、“私を甘やかすな”って言われちゃったよ。もう諦めた」  実にふたみらしい台詞だった。 「なんか、ごめんな」 「……もういいよ。でも……ううん。だから策、忘れないでね。愛との約束」 「…………」 「策?」 「あ、ああ、勿論」 「ん、なにそれ」 「違う違う。そうじゃなくて」  昨日、ふたみの手伝いをしながらずっと考えていた事。  いや、ふたみの“やり方”を聞かされた時から─── 「……ちょっと訊きたい事があるんだけど、いいか?」 「なに?」 「メメは牡羊座の天文委員だろ? って事は、透舞さんの牡牛座の前だと思うんだけど……」  ──正直、訊いていいものかどうか。 「……ああ」  けれど察しのいいメメは、それだけで言わんとしてる事に気付いたようだ。 「愛がどんな照陽菜をやったのか、気になるんだ?」 「ああ。もしよかったら」  透舞さんの順番が回ってきたという事は、メメは失敗してしまったという事だから。  誰だって、そんな事を喜んで話すはずがない。 「別にいいよ? 隠すような事じゃないし、みんな知ってるからね」 「そ、そうか」 「愛はね……」 「へいお待ち」  そこへ、お盆に朝食を載せたふたみがやってきた。 「あ、じゃあメメ。また今度」 「う、うん」 「ん? 間が悪かったか?」 「いやいや。それよりなんだよ、その挨拶は」 「うん、私なりに食卓に笑顔を振り撒く演出を試みてみたんだが」 「それなら楽しそうに言ってくれ」 「私は楽しいぞ?」  いや、真顔で言われても。 「策はまだまだわかってないね。おねーさまはね、真顔で面白い事を言う第一人者として、この街のトップに君臨しているんだよ」 「それなら2位以下の奴を連れてきてみろ」 「お主人ちゃん。昨日はありがとうな」 「それは昨日も聞いたよ」 「……今日も、一緒にやってくれるか?」 「当たり前だろ」  当たり前。  その言葉に嘘はない。 「…………」  けれど、そんなやり取りの間、どことなく困ったような顔を──浮かべては気付かれないように隠すメメの姿に、俺は自分の想いが強くなっていくのを感じた。  ──昼休み。 「お主人ちゃん」  いつものようにふたみとメメとが集まっていたところに、 「クイ」  桜守姫さんが姿を見せた。 「どうしたコノ。オマエも一緒に、屋上でお弁当食べるか?」 「ありがたいお申し出なれど、かような行為は慎むべきと媛も承知しておりまする」  ──え。 「ふむ」  ……なんでだろう。  ふたみもどこか納得した様子だけど。 「……遂に、『双子座』の期間と相成りました」  厳かな口調で桜守姫さんが問いかける。 「うん」 「して、調子の程は如何かえ」 「で、食べるのか? 食べないのか? お主人ちゃんのお弁当はやれないが、私のなら半分ずつにしてやるぞ」 「とりあえず其方は、まず会話の流れを読む術を身につけた方が宜しいかと存ずる」  俺は静かに、しかし強く頷いた。 「今日はトリマキは一緒じゃないのか?」 「……ん……」  心なしか、桜守姫さんの表情が曇った。 「なにやら体調が優れぬようで……今日は欠席です」  桜守姫さんはそう言ったけれど、透舞さん、やっぱり落ち込んでるんじゃないだろうか。  ふたみにしろ透舞さんにしろ、天文委員の照陽菜に懸ける情熱は本物だ。  少し……心配だな。 「どうかお身体をお大事にと、お伝えください」 「承りました」 「ところでコノ、一つ訊いてもいいか?」 「なにかえ?」 「寝違えたのか?」 「……急にどうなされました」 「いや、さっきから随分と無理な首の向きをしながら話してるから」 「え、いや、そんな事は……ありませぬ」  ……実はさっきから俺も気になってた。  なんというか、身体はふたみの方を向いてるのに、首はあらぬ方を向いているというか、目はふたみの方を見てるんだけど、姿勢的に視界の隅にギリギリ入ってるだけというか。  俺も寝違えたのかと思い、訊くのも悪いかと思って黙ってた。 「向こうに何かあるのか?」  ふたみが向いたのにつられて俺も見たが、特に注目を引くものはない。 「わ、媛は其方とお話をしておりまする」 「それはわかってるんだが、それならこっちを向いたらどうだ」 「其方を見ておりまする」 「それもわかってるが、その体勢は苦しくないのかと訊いてるんだ」 「そ、それでは視界に……」 「ん?」 「い、いえ……」 「お主人ちゃん、わかるか。私には多感な年代の少女の気持ちはよくわからない」 「お前も多感な年代の少女じゃないのか」  その基準でいくなら、同性にわからない事をなぜ俺に訊く。  やっぱり寝違えたんだろう。  恥ずかしいから惚けてるんだと思う。 「まあ、いいじゃないかふたみ。気にしない気にしない」 「気になるから訊いたんだ」 「……桜守姫さんには桜守姫さんの事情があるんだよ」 「あらぬ方向に首を固定する事情とはどんなだ」 「俺が悪かった」  空気を読んでくれ、的なニュアンスで言っても意味がない事は重々承知していたはず。 「その話題には触れるな」 「何故だ」 「……桜守姫さんが困るから」 「ん? コノは困っていたのか? 私でよければ力になるぞ」 「…………」  どーしよー。 「…………」  ほら、やっぱり桜守姫さん困ってるじゃないか。  彼女はやはり、首の角度をその場に固定したままだった。 「わ、媛は、クイの様子はどうかとお尋ねに……」 「それはもう聞いた。私は万全だ」  質問に答えてなかったけどな。 「そ、それなら宜しいのです。お話はそれだけです」 「待て。首の謎を残して行くな」 「うう……」 「もういいって。ごめん、桜守姫さん。気にしないで」 「…………」 「桜守姫さん?」  ……やっぱり、無視なんかできない。  そういうのは、よくない。 「…………」 「なんだ。こっちを向けるんじゃないか」 「あ、当たり前です」  桜守姫さん、とりあえず自然な体勢になったけど……。  首が痛いのに無理してこっち向いてんじゃないだろうな。  誰に対しても礼儀と節度を守りそうな彼女だから、ないわけじゃない。 「桜守姫さん、あのさ……」 「……ぅ……」  俺の声に反応してこちらを向いた途端、桜守姫さんは弱ったような表情を浮かべて、またそっぽを向いてしまった。  ほらみろ、やっぱり無理してるんじゃないか。 「あ、もう休み時間が終わるじゃん。桜守姫さん、そろそろ席に戻らないと」 「まだ半分も過ぎてないが」  OKふたみ。  お前のほとばしる才能はよくわかったから、そろそろ黙ろうぜ。 「あ、そうだふたみ。さっきの授業でよくわからない部分があったんだ。教えてもらえるか?」  と、俺はとりあえず手近にあった教科書をめくる。 「む、現国か。すまない、お主人ちゃん。私はどうも、文章から作者の意図や登場人物の心の機微を読み取るのは苦手でな。  現国ならコノが得意だから、コノ、お主人ちゃんに教えてやってもらえるか」  なんという墓穴──そして言われて納得。 「…………」  ちらりとこちらを向く桜守姫さんに、俺は、ごめん、と合図する。  ……優しくしないで。 「…………」  再びこちらを向いた桜守姫さんは、真っ直ぐに俺を見つめていた。  ……首、大丈夫? 「どれかえ?」 「え?」 「おわかりにならぬというのは、どれの事かえ?」 「え、あー……と、あ! そうそう、ここなんだけど」  とりあえずさっき受けた授業内容のページを開いて、適当な場所を指差した。 「こっ……おほん! こんな簡単な内容もおわかりにならぬのかえ?」 「え?」  なんだか酷く動揺した様子の桜守姫さんが、急に強い口調でそう言った。 「こ、こんなかんた……よ、幼稚な問題もわからぬとは。て、て、程度が知れるのう」 「…………」  ……あれ? 「いや、実は私もわからないんだ。悪いが教えてもらえるか、コノ」 「…………」  何故か、桜守姫さんが泣きそうな顔をしているように見えた。 「こ、ここは、女子がわからぬのも無理はない。男子がわからぬのが問題なのです」 「なんだそれは。女子って、オマエはわかってるんだろう? 教えてくれ」 「……と……」  普段、会話中にあまり身振り手振りの表現なんかしない桜守姫さんの手が、なぜか泳ぐように右往左往。 「えっ……と、そう! 巽殿がわからぬのが問題なのです!」 「ますます意味がわからないぞ」 「……ぅ……」 「あ、いや、いいんだ。悪い、自分で考えるからさ」  と言ったら、なぜか桜守姫さんはもっと泣き出しそうな顔になってしまった。 「こ、ここの代わりに、こちらであれば教えて差し上げましょう」 「お、そこもわからなかったんだ。頼む」 「あ、うん。お願いするよ」  そこは本当に理解できなかった箇所だった。 「其方らは難しくお考えになってしまわれただけです。ここでは、主人公を取り巻く状況が……」  と、桜守姫さんはにこりと優しく微笑んで、丁寧に教えてくれる。  決して「なんでわからないの?」という態度は取らない、けれど恩を着せる様子もまったくない、いつもの桜守姫さんだった。 「あ、なるほど。ふむふむ、そういう事だったのか」 「さすがは桜守姫さんだな。よくわかったよ。先生よりずっとわかりやすい」 「お二人は少し勘違いをなされていただけです」  そしてフォローも忘れない。  まったくどこかの誰かさんに見習ってほしいものだ。 「ち、違う!!」  ──急に桜守姫さんがショックを受けた。ようだった。 「こ、こうではなく……」 「桜守姫さん?」 「どうしたんだ? コノ」  ──難しい。  人を罵倒するというのがこんなに難しい事だったなんて。  …………。  ……よし。  今度は、もっとわかりやすい言葉を言ってみよう。 「ば、ば、ばか」 「は?」 「あ、あ、あほぅ……」 「桜守姫さん?」  なぜか伏せ目がちになった桜守姫さんが、ものすごく申し訳なさそうな小声で喋っている。 「……どうです?」  そしてちらりと俺を見る。 「なにが?」 「えっ……!」  で、なぜかショックを受ける。  いったい今、この教室でなにが起きているんだろう。  ど、どういう事?  今、とてもひどい言葉を言ったのに……  この反応はいったい。  ……こんな。  これほどまでに……難しいとは。  これなら法律全集を一日で読破する方が遥かに簡単だ。 「桜守姫さん?」  なんだか心配になってきた。  いったいどうしたんだろう? 「コノ。オマエ、おかしいぞ」  はっきり言うなっ! 「やっぱり……透舞さんの事が心配で……」 「それは当然、しんぱ……」  ──そうだ! 「……其方などに心配されるいわれはない」 「え?」  あ、あれ?  ──これだ!  あの表情。そうだ、この路線。  せっかく心配してくれたのに、身勝手にも跳ね除けるという……なんという失礼な態度だろう!  これでいい。こうすれば、嫌われ……  …………  …………  ……がんばれ。  誓ったじゃないか。  もう、決めた……事だ。 「媛は、其方に心配などしていただいても、う、う……嬉しくありませぬ」 「あ……」 「よ、よよっ、余計なお世話です」 「…………」  ……ちょっと突っ込んだ事、言っちゃったかな。  怒……らせちゃった、みたいだな。 「──よしっ」  なんだ、今の「よし」っていうのは。 「悪い」 「えっ」 「そうだよな、ごめんな」  ど、どうして向こうが謝るの?  ひどい事を言ってるのはこっちなのに……。  …………。  ど、どうしよう。  どうすればいい? 「と、とにかくっ! 今後は、このような真似はなさらないでくだされっ!」  そう言い残して桜守姫さんが去っていくのと同時に、チャイムの音が鳴り響いた。 「どうしたんだ? コノのやつ」  首を傾げるふたみの横で、俺は苦笑する。  ……まいったな。  ふたみは授業が終わると、真っ先にここへと向かう。  期間は一ヶ月。  その間に、俺たちはここを綺麗に掃除する。  やがて訪れる夏を迎え入れる準備を始めた、この街の自然──顔を真っ赤に染めて、一生懸命に相反する季節を創作するテレ雪には悪いけれど。  彼女たちにはちょっとだけ退いてもらって、今の季節に相応しい風景を取り戻す。  基本的には、ふたみがホウキで掃き集めたものを俺が運ぶ、という地道な作業の繰り返しだ。  テレ雪は実際の雪と違い水気があるわけじゃないから、降り積もれば固まってしまうという事もなく、ホウキのひとなでで気前よくその居場所を明け渡してくれる。  一つ厄介だとすれば、それは彼らの茶目っ気だろう。  そこに確かにある一つの風景を幻想の色で染め上げてしまう存在を妖精と呼ぶのなら、妖精と悪戯はいつだって一組の夫婦。  まるでふたみのホウキをかわすかのように、容易く宙に舞い上がってしまう──彼らはあまりにも軽いのだ。  ホウキが起こす風と戯れるかのように飛び立ち、だからこそ空から降りしきる雪のように見えるこの現象を生み出している。  彼らは定住しない。安住を求めない。  発生した風と共に移動しては、また別の場所を遊び場にしてしまう。  それは子供であればあるほどに。  他の仲間とくっついて大人になった者なら一まとめにしやすいが、身軽な子供をつかまえるのは難しい。  ──俺たちは、悪戯好きの妖精と格闘しているようなものだった。 「……ふう」  俺が運ぶ先は、付近の方がご好意で貸して下さっている蔵だ。  屋根のある密閉された場所でないと、また風で舞ってしまうから──集めたテレ雪は大き目のビニール袋に詰め込んで、次々とここへ運び込む。  テレ雪自体は軽いからさしたる労力じゃないんだけど、こことの往復が厳しい。  そしてまた、ふたみの許へと戻る。  掃除をしてて気付いたんだけど、ここは驚くほどゴミが少ない。  皆無といってもいい。  街の皆が──いかにこの場所を大切にしているのかが、よくわかる。 「ふた……」  言いかけた時、ふたみの視線が俺の背中を通した向こう側にある事に気付いた。 「ん」 「どうした?」 「いや……」  ふたみの目線の先を追うように振り向くと、そこには─── 「透舞さん」 「あら。貴方もいらしてましたのね」  そこには、牡牛座の天文委員の姿があった。 「体調が悪いと聞いていたが、大丈夫か」 「…………」  ふたみの言葉に、透舞さんは苦々しい表情を浮かべる。 「あ、いや、透舞さん。ふたみは……」 「……ふぅ」  それから透舞さんは、溜息をついた。 「唯井さんが嫌味でおっしゃっているのではない事くらい、わたくしだって理解しております」  ……よかった。 「?」 「それで、どうしたんだ?」 「てっ、偵察ですわ」 「偵察?」 「そ、そう。どうせ貴女の照陽菜が成功するはずなんかないのですから、お姉様の際の参考にしようと、無様な失敗ぶりを拝見しに参りましたの」 「無様な失敗って、失敗したのはオマ」  ──“ま”と“え”の辺りで、ふたみの口を俺が封じた。 「むー。むー」  黙るんだふたみ。  いくら理解してくれている相手でも、何気ない一言が導火線を無視して直引火という事だってあるんだぞ。 「……宜しい?」 「あ、はい。どうぞ」 「つまり私の失敗ぶりを参考にして、コノがそれを上回るような高度な失敗を披露すると」  ちょっ。いつの間に!? 「おっ、お姉様が失敗などなされるはずがありませんでしょうっ!!」  あーもー。  なによ、この炎の子は。 「私だってそんなふうに思いたくはないが、オマエの言ってる事を総合するとだな」 「どう総合したら、そういう形で捉える事になりますのっ?」 「オマエの言ってる事は矛盾してるぞ」 「いいんですのっ! お姉様なんですからっ!」 「ムチャクチャだ」  ふたみに無茶苦茶って言われた。  何て破壊力のある言葉だろう。  案の定、透舞さんはショックを受けていた。  あーあー……。  立ち直れるだろうか。 「よ、宜しい?」  あ。立ち直った。 「貴女は所詮、前座にしか過ぎませんのよ? お姉様の乙女座の期間となるまで、客席を温めておくのがそのお役目。ご自覚くださいませね?」  要するに、それが言いたかったのか。 「確かにコノなら、私には想像もつかないような、すごい事をやってのけるだろうな」 「そうでしょう!?」 「けどごめんな。双子座の方が先なんだ」 「ふっ……わかっておりませんわね。間が空けば空くほど、お姉様が成功なされた時の、街の方々のお喜びがどれほどのものとなるか──」 「悪いが、それはない。照陽菜は私たちで終わりだ」 「どこからそんな自信が……」 「これだけは譲れないからな」  譲れない、というふたみの気持ち。  それは俺も───  ……俺なりに、わかっているつもりだ。  けれど。 「──そのやり方で?」  その一言が、場の空気を変えた。  ……少なくとも、俺にはそう感じられた。 「どういう意味だ?」 「言葉のままですわ。お聞きしましたわよ、貴女の照陽菜──本気ですの?」 「なにかおかしいか?」 「童話をそのまま再現するだなんて、呆れて物も言えませんわ」 「…………」 「むしろ驚きましたわ。貴女、随分と可愛らしい事をお考えになりますのね?」  透舞さんの口調に込められていた、ありありとした皮肉。 「…………いやあ」 「褒めてるわけじゃありませんっ!」 「そうだったのか」 「確かに『空明の里』は、この街の空を写し取った縮図。  ──けれど、だから?」 「だからとは?」 「貴女が童話を再現して、どうなるというんですの?」 「この街の願いが叶う」 「模型の上で作り話を再現して? それで願いが叶う?」 「そうだ」  ふたみの言葉に、透舞さんは大きく溜息をついた。 「……呆れますわね」 「要するに、何が言いたいんだ?」 「とんだメルヘンだと」 「メルヘンというのは、日本語の童話を独語にしたものだろう。それだと意味が一緒だぞ」 「……正直、言い返す気力も湧いてきませんわ」 「なんなんだ?」 「では、あえて言い換えましょうか。貴女がなさっている事は──」 「……もういいじゃないか、透舞さん。な? ふたみもさ」  聞いていられなかった。  気付けば、思わず口を挟んでいた。 「私も、って。私たちは別に喧嘩していたわけじゃないぞ。ただ、トリマキが何が言いたいのかよくわからないから、訊いていただけだ」 「あ、いや……だからさ」 「──貴方」 「え?」  その時、透舞さんが呆れた表情のまま、俺に問いかけた。 「貴方、唯井さんの旦那様でしょう? 貴方は本気ですの?  ──本気で、これで街の願いが叶うと?」 「えっ……」 「彼女がおっしゃっている事が正しいと、本気でお考えですの?」 「俺は──」 「おい」  その時ふたみが発した声は、いつもよりも鋭さがあった。 「なんですの?」 「いくら私でも、お主人ちゃんを疑うような事を言ったら怒るぞ」 (ふたみ……)  ふたみの表情に浮かんでいた、微かな怒気。  それは僅かなものだったけれど、いつも無表情な彼女だからこそ、違いの程は言葉よりも雄弁だった。 「…………」  そんなふたみを見て、透舞さんはまた一つ、大きく溜息をついた。 「よくわかりました。どうやら、わざわざ足を運ぶまでもなかったようで」  言いながら、透舞さんは踵を返す。 「『双子座』は、ただ恥をかいてお終いのようですわね」  ──そう捨て台詞を残して、彼女はその場を立ち去った。 「ごめんな、お主人ちゃん」 「え?」 「私のせいで、不愉快な思いをさせてしまった」 「いや、そんな事……」  そんな事は、正直、どうでもよかった。 「ごめんなさい」  透舞さんの一言。 「貴方は本気ですの?」  ……言い返せなかったのは、きっと。  なあ、策。巽策よ。  透舞さんの言い方は、確かにちょっとアレだったけれど───  言ってる内容は、ふたみに話を聞かされた時から、誰よりお前が言いたかった事じゃないのか?  彼女のやり方を見ただろう。  結果としては失敗だったけれど、決して考え方は間違っていなかったはずだ。  ふたみのやり方は、それとは真逆だ。  神頼みと変わらない。  別に簡単なんて言うつもりはない。  敷地いっぱいに舞い降るテレ雪を、一つ残らず掃除するなんて、とても大変な事だ。  けれど──いや、だからこれは。 “お百度参り”のようなものだって思う。  祈願により多くの苦労を重ねたから、それほど強く願っているのだから、叶えてください──と。  そう言っているのと同じで。 「本気ですの?」  そう訊きたかったのは、本当は俺なんじゃないのか─── #«5月25日»  ……たまに。  天気って奴は、こっちの気持ちを汲んで行動してるんじゃないかって思う時がある。  晴れてるから気分が良いんじゃなくて、気分が良いから晴れている。  冷静に考えてみれば、それは傲慢な話なんだけれど。  時々、どうしてもそんな気持ちにさせられる時がある。  いつもの朝。  いつもの道。  いつもの顔ぶれ。  手に持った、色とりどりの蝙蝠傘だけが違う。 「どうかしたか?」  ふたみが鋭いのか、俺が顔に出やすいのか。 「ん、いやいや。雨って嫌だなって」 「梅雨だもんねー」 「メメは嬉しそうだな」 「うん。雨は好きだよ?」  そういえば、あの日の──一方的にボコられるだけという名の決闘は、土砂降りの雨の中だった。  雨が降ると興奮する質なのかもしれない。 「雨が降ると、自分が自分である事をより強く意識できるから」 「どんな哲学だ?」 「哲学なんかじゃないよ。そのままの意味」 「……?」 「愛は今、おねーさまの為にここにいるんだって……強く思えるの」  ──それは呟きだったにも関わらず。 「だからほんとうは、カサなんかいらない」  俺の胸に強く語りかけた。 「そんな事より、策は?」 「俺がなんだ?」 「もうっ。策は、おねーさまと夫婦になる覚悟はできたの?」 「……い、いきなりなんだよ」 「愛はね、策ならいいよ?」  ──不意をつく一言。 「ね?」 「いや、ねっ……って言われてもな」 「覚悟も何も、私とお主人ちゃんはすでにフーフだぞ」 「それなら子供を作っちゃえ」  いきなりなんなんですか!? 「突然どうしたんだよ。今日のメメはおかしいぞ」 「突然じゃないよ。愛は愛なりに、ちゃんと策を見てたんだから」  大きな瞳で俺を見つめる。 「だって、策はおねーさまの味方でしょ?」  ──またか。  いったいなんなんだろうな。 「…………子供か」 「いや、ふたみも真面目に考え込むんじゃない」 「で、どうなの? 策の覚悟はできたの?」 「…………」 「策」 「……まだ……未定です」 「…………」 「いや、あのな……」  メメはある程度わかってくれてると思ってたんだが。  少しでも俺を認めてくれたのは嬉しいが、だからって何を急に焦ってるんだ。 「…………」 「どうしたの?」 「自分で言っておいてなんだけど、“まだ未定”って、おかしな日本語だよな」 「ん? “すでに既定”みたいなもの?」 「“確かに確定”とか」 「“決定って事に決まった”とか」 「お、やりますな」 「いやいや、あなたもなかなか」 「“残念な気持ちが残る”とか」 「“名残を残す”とか」 「いやいや」 「いやいや」 「はっはっは」 「はっはっは」 「……なんなんだオマエら」 「……誤魔化されちゃった。策は後で、校舎裏ね?」  ちょっ。呼び出し!? 「さ〜くっ」 「ん?」 「暇だから、わざわざ遊びにきてあげたよ」 「そうか。何か面白い話はないか?」 「愛の話、聞いてた?」 「聞いてはいたが、従う理由がない」  真後ろの席から移動しただけで“わざわざ”とは、これいかに。 「女の子を楽しませるのは、男の子の役目でしょ」 「男女平等を主張する」 「もー。じゃあナゾナゾね。はじめは四本足、次は二本足、最後は三本足、これな〜んだ?」 「化け物」 「当ったり〜」 「突っ込めよ」 「やだよめんどくさい」 「……随分と仲良くなったな、オマエたち」 「そんな事ないよ」  俺とメメ、二人の声が重なった。  しかも、同時にふたみへと振り向いたみたいだ。 「──わ」  ふたみは一呼吸置いてから、 「わ、私も仲間に入れてくれ」  真面目な口調でそう言った。 「あ。もう次の授業か」 「じゃあおねーさま、ごきげんよう。策、また後でね」 「ああ」 「あ……」 「ふたみも早く席に着いた方がいいぞ?」 「な、なあ。なあなあ。私も仲間に」  ふたみは何故かあわわしてる。  何をしてるんだ。  ──吹き抜けた風は、とても柔らかかった。  昔を振り返るほどにはさかのぼらないはずなのに、何故だかそれはとても懐かしくて。  いつでも身近に吹いていた風。  穏やかなのにそれはとても光り輝いていて、緩やかなのにそれは手を伸ばしても決してつかめない─── 「あに……き?」 「え?」  届かない、俺の前を泳ぐ風。 「なんだい?」 「あ……いや」  いつでも俺の前を歩いていた兄貴。  必死になって追いつこうとしても届かなくて、つかもうとしても服の袖すらも指先から擦り抜けて、並ぶ事も手に触れる事すらもできなかった存在。  俺にとっては気紛れに吹き抜ける風のような存在。 「……ごめん。人違いだ」  よく見れば違う。  違うけれど─── 「僕が君の知り合いに似てたのかな?」 「ああ、兄貴……兄に似てて」  やはり兄貴と話しているような感覚があった。  外見とか風貌とかじゃない。  どこか貴公子めいた端整な面持ちとか、そういった意味でも確かに──いや、かなり似ているところもあるんだけど、そうじゃなくて。 「……ああ、そうか。君が『双子座』の……」  ──その透けたような瞳が。  何もかも見通しているかのようなその眼差しが。 「知ってるのか?」 「ああ、君は有名人だからね。この街に住まう人々の願いを体現──いや、具現するべく設立された誉れある天文委員会、初の男性委員」  彼はまるで舞台上の俺を観客に紹介でもするかのように、どこかおどけた仕草でそう口にする。 「──『双子座』はどんな照陽菜を?」 「あ、いや……それは……」  一瞬、言葉に詰まった。 「はは、ごめんごめん。訊いていい事じゃなかったね」  冗談めかすような口調は、まるで道化。  つかみどころのないところも、兄貴そのまま。 「おや、うちのお姫様のお帰りだ」 「え?」  振り向いたそこに、桜守姫さんの姿があった。 「あっ、さっ……巽殿」 「あれ?」  ──振り向くと、いつの間にか兄貴に似た“彼”の姿はなくなっていた。 「如何なされました?」 「あ、いや……」  兄貴もそうだった。  さっきまでそこにいたと思ったのに、いつの間にか姿が見えなくなっていて、ふと気付けば──更なる高みへと上っている。 (やっぱり……似てる)  胸の奥で、ちりっ……と、焦げたような音がした。 「巽……殿?」 「あ、ごめん」  ──そうだ。 「そういえば、桜守姫さんも天文委員なんだよね?」 「さ、然様……ですが」 「何座なのかな?」 「乙女座です」 「へえ。なんか、桜守姫さんのイメージにぴったりだな」 「ど、どういう意味です」 「いや、桜守姫さんって、俺の中で“お姫様”って感じだからさ」  ……そう言ったら、そのままだけど。  でも俺は、やっぱり彼女は“お姫様”だと──そう思うんだ。 「…………」 「桜守姫さん?」 「あ、いえ……なんでもありませぬ」 「……?」  彼女はいったい、どんな照陽菜をしようとしているんだろう。  本当は訊いてみたかった。  透舞さんの照陽菜を見て、ふたみの照陽菜を聞かされて──メメのは訊きそびれてしまったけれど。  俺が知りたかったのはそこなんだ。  でも、さっき兄貴に似た彼に尋ねられた時に答えられなかったように、終わってしまった事ならともかく、これはそうおいそれと答えられる事じゃない。  ましてや彼女の星座は乙女座。  ふたみの双子座、その次の蟹座、さらにその次の獅子座と、言ってしまえばそれらの委員が“失敗”しなければ順番は回ってこないんだ。  後者は前者の行いを参考にはできるけれど、前者がなし遂げてしまえば後者には出番すら回ってこない。  順番がある以上、早い者勝ちという避ける事はできない不文律が存在する。 (でも……)  確かにそうだけれど。 「……桜守姫さんはすごいね」 「え?」 「みんな期待してるみたいだよ」  いつか帰り際に聞いた、他愛のない世間話の中で──さも当たり前のように語られていた事。  それだけじゃない。  俺はあの学園に通うようになってから、「桜守姫此芽ならば」という台詞を何度も耳にした。 「期待……かえ」 「うん。みんな“桜守姫さんなら”って感じで」 「…………」  その言葉に、桜守姫さんは静かに瞳を閉じた。 「……その方々、“もしかしたら”と前置きしてはおられませなんだかえ?」 「え?あー……確かに、言ってた……かな。  でも、それは言葉の綾みたいなものでさ。“一応”とか“多分”とか、会話で必ず使っちゃう人とかいるから」 「──綾ではなく」 「え?」 「そのままの意味です」 「そうかな。俺、桜守姫さんだったらって、本気で思うよ」 「…………」  それは本音だったんだけど、そう口にしたら、何故か桜守姫さんは俺から目どころか顔ごと逸らした。  ──少しだけ間を空けて、 「お、おほん」  と咳払いをした。  ……まだ怒ってるのかな、この前の事。 「えっと……俺はまだこの街に来てから日が浅いけど、浅い俺でもわかるくらい、桜守姫さんの事をみん……」 “みんな”って──桜守姫さんだったら、なんて言うかな。 「す、すべ……すべか……」 「……すべからく?」 「あ、そうそう。それそれ」 「…………」 「だから、日の浅い俺でもわかるくらい、桜守姫さんの事をすべからく……」 「……“すべからく”とは、“当然のように”という意味です。確かに言葉の響きとしては“すべて”や“全員”の古くかしこまった言い回しに聞こえましょうが、間違ってお覚えになられてしまっては他の方の前で恥をおかきに……」 「え……そうなの?」  ──そう反応した時、何故か桜守姫さんは、「これだ!」という顔をした。 「ま、まったく無知な殿方ですね。そんな事では女子たちに笑われて……い、いや、もう陰ながら笑われておられるやもしれませぬなっ」 「いや、本当に。ありがとうな、教えてくれて」 「え……」 「でもさすがだな桜守姫さん。いやー、俺は笑われても仕方ないな」 「…………」 「ん? どうかした?」 「……なんでも……」  なんでしょんぼりしてるんだろう。 「……仮に、其方がおっしゃったような想いを、他の皆も媛に対して抱いておられたといたしましょう。その上で“もしかしたら”と口にした、と申し上げればおわかりになられまするか」 「その上でって……」 「其方ならおわかりであ……」  ──言いかけた瞬間。 「こ、これだけ申し上げてもおわかりになられませんか。其方は、ば、ば、ば……えと、やっぱりこういう言い方は……あっ……お、お馬鹿ですねっ!」 「はぁ」 「そっ、そそっ、底が知れっ!」 「なんか無理してない?」 「なななにをむりっ」 「さっき舌噛んだみたいだけど、大丈夫かな」 「…………」 「痛い……んだね?」  こくり、と桜守姫さんが頷く。  ──次の瞬間、ハッ、とした表情をして、彼女は脱兎の如くその場を走り去った。  ……うーん。  まだ怒ってるのかな。  桜守姫さんって、意味なく他人を罵倒したり、皮肉を言ったりするような人じゃないと思うんだよな。  というか明らかにおかしいし。  ──それは、桜守姫さんの言う通りだった。  学園で。  街で。  今、人々の話題の焦点は照陽菜にこそある。  百年に一度の、街の願いを叶える機会───  無理もない。  けれど、それは言うなれば「もしかして」。  もしかしたら。  ひょっとすると。  あるいは。  運が良ければ。  だから、それは仮定。  疑問の意を込めた仮定。  照陽菜というのはお祭りだ。  まるで儀式のように感じていたのは、俺だけ。  そこに神秘を見出していた。  百年に一度の照陽菜。  だが、成功者はこれまでただの一人もいない。  ──だから。  皆はこれを世紀に一度のお祭りとして楽しんでいるだけで。  成功するなどとは、誰も思っていない。  ちりっと胸を焼く、“期待”という言葉の裏側にある真実。  ──兄貴を思い出したせいか。  いつだって比べられていた対象を、そして決して追いつく事のできなかった存在を、思い出したせいか。 「……そんなもんだ」  ひどく自嘲的な独り言。  そんなもんだよな───  ……ふたみ。  いったい、俺は彼女にどう伝えればいいんだ。  ──『神童』という言葉がある。  生まれながらにして才知に優れる子供。  もしくは外部から与えられた刺激によって、眠っていた非凡な才能に目覚めた子供。 “周囲”という比較対象とは、明らかに一線を画している子供。  しかし、神童のままで有り続ける事ができる子供はどれだけいるのだろうか。  ……実は、これは思いの外に少ない。  逆説的に捉えれば、『神童』である子供の数が圧倒的に多いのだ。  そこには親や教師の贔屓目は勿論、比較対象となった者たちの水準が大きく関係している。  つまり、「子供にしては」という前提。  なにも子供を馬鹿にしているんじゃない。  狭い枠の中で、たまたま自分の近くにいた他の子供よりも、何らかの才能において多少秀でている───  そんな子供が全国に、いや世界中にどれほどいるかと考えれば、自ずと答えは出る。  加えて、「このままいけば、将来が楽しみだ」という、周囲の無責任な希望的観測。  その才能が、今後も伸びるとは限らないというのに。  だが、周囲の期待が本人に思い込みを与えてしまう。 「自分は何々が得意な人間なのだ」──と。  では、いざ狭い枠から飛び出して、自分の力量を計る場に出た時。  もっと大きな枠の中に組み込まれた時。 『神童』と呼ばれた者たちは、同じく『神童』と呼ばれた者たちと出会うのだ。  そこで彼らは、自分よりも遥かに優れた力量を思い知らされる。 “杭”は打たれる。  出る杭は打たれる、という事じゃない。  鼻っ柱を叩き折られるのだ───  金色だと思っていた才能のメッキは想像できないほど簡単に剥がれ落ち、輝きは急速に失われる。  人はそれを“挫折”と呼ぶ。  ───だが、世の中には確かに、神童のままで有り続ける人がいるのだ───  ……それが、巽の家の者たちだ。  祖父も、父も、伯父も、叔母も、従兄弟も、兄も。  何らかの芸術的才能を開花させ、世の中に認知されるまでに成功を収めている。 「巽の家は、優れた芸術家を輩出する」  皆、『神童』で有り続けた人たちだ。  祖父は文芸作家として、時間芸術を。  父は映画監督として、総合芸術を。  伯父は陶芸家として、空間芸術を──といったように。  従兄弟たちは、音楽や書道に優れた才能を発揮し。  兄もまた、すでに注目を集めている。  だから俺は、子供の頃から「策には何の才能が眠っているのだろう」という期待の目にさらされ続けてきた。 「あって当たり前」という言葉の浮かんだ瞳。  ……何もなかった。  俺だけが落ちこぼれた。  巽の家に生まれながら、俺だけが何の才能も持たない。  俺だって必死に掘り返した。 「華道の家元」とか、そういう伝統の看板みたいに特定・限定された才能を受け継ぐわけじゃないのだから、可能性は幾らだってあった。  がむしゃらに探した。  才能の泉が眠っていそうな土を、手当たり次第に掘り返した。  芸術と名がつくものは、思いつく限り試してみた。  勿論、才能なんて簡単に開花するものじゃない。  一年や二年その道で修練を積んだところで、目覚めない事なんてざら──逆に人より多くの努力を重ねて、そうしたこれまでの経験から得た知恵を以って足りない才能を補う人たちだっている。  けれど巽の家の者たちは、生まれながらにしてそれぞれの才能を開花させていた者たちばかりだ。  才能の発見に努力は必要なかった。  才能があると気付いたからこそ、それぞれの道を極めるべくして努力を積んだのだ。  見つかるまでには偶然もあっただろう。  しかし、それは本当に───  ……ほんとうに、「ちょっと画を描かせてみたら、この子の才能がわかった」という次元での話だ。  だから、もしかしたら俺にだって何らかの才能が眠っているのかもしれない。  これから何らかの道が開けるのかもしれない。  他の皆と同じように、好きなものを見つけ、やりたい事を見つけ、そうした中でいつか一生の職にしたいものだって見つかるかもしれない。  ──しかし、俺はすでに巽の者として失格なんだ。  ……落ちこぼれ。  策は落ちこぼれ。  父の顔に浮かんでいた、隠し切れない失望の色を感じ。  子供の頃、顔を合わせる度に「策には何の才能が眠っているんだろうね」と楽しそうに繰り返していた親戚が、俺の前では殊更にその話題を避けるようになり。  遂にあの厳格な祖父が、「策は、自分の好きなように生きなさい」と口にした時。  俺は自覚したんだ。  ……自覚するしかなかったんだ。  兄も、従兄弟も、十代の半ばにはすでにそれぞれの道において一目置かれる存在となっていたのだから。  これまで巽の者たちが辿ってきた経緯と、同じように。  だから俺はここにいるのだろう、と思う。 「巽の者を代表して、誰かがあの街に行かなければならない」  家族、親族一同を集めて、祖父がそう口にした時。  あの時。  真っ先に手を上げたのは、俺だった。  彼女にとっての照陽菜──彼女が選んだ照陽菜。 「本気ですの?」  ……胸の奥に木霊する、一つの言葉。 「なあ、ふたみ」 「ん?」 「ふたみは……さ。透舞さんみたいに、街の人たちに手伝ってもらわないのか?」 「皆か? 手伝ってくれているぞ」 「え?」  俺が知らないだけで、街の人たちにも何か頼んでいたのだろうか。 「皆がこの街にいる。それだけで、私は皆の為にも頑張ろうと思えるんだ。これは立派な手伝いじゃないのか?」 「…………」  素で、こんな事を思う娘だからこそ。  俺も彼女の為に頑張ろうって思える。  でも、だからこそ─── 「…………」  ふたみは自分の選んだやり方を信じている。  ただ童話を模しただけの、このやり方を。  ……こんな娘だから、傷つけたくないんだ。  どうやって伝えればいいのか。  わかりきった結末を、どうすれば避ける事ができるのだろうか。 「えっと……さ。テレ雪を掃くにしても、みんなに力を借りたほうが早く済むと思うんだ」  そうすれば───  ギリギリまで時間をかけて失敗するよりも、早めに間違いに気付いておけば、別の手段を取る時間が生まれる。  ……失敗はできるだけ早い方がいいんだ。  何十年もかけてから「駄目だ」とわかるよりも、きっと。 「効率の問題はわかってる。けれど、委員としての権力という意味合いでなら、私はそうはしたくない。  これは街の皆も納得して与えられている権利なのだから、使う事が悪いとは思わない。ただ、私はそうしたくないんだ」 「ふたみの気持ちはわかるけどさ。けど、その方が──」  ──その方が?  言葉が続かない。  なんて言えばいい。 「…………」 「ふたみ?」  しまった。言い方がマズかったか? 「……違うんだ、お主人ちゃん」  けれど、予想に反してふたみは静かに首を振った。 「これは、私たちの手でやらないと意味がないんだ。ただ7月の光景を望むだけなら、何もしなくても手に入るのだから」 「7月の……光景?」 「……風がな、全部持っていってしまうんだ」 「風?」 「うん。私たちは『告白の風』と呼んでいる。一年に一度、決まった時期にこの街に吹く突風の事だ」  ──それは6月の終わり頃。  夏の到来を告げるかのように吹き抜ける風は、この公園を通り抜けていくのだという。  そして、彼らは旅路の共を求めるかのように、テレ雪をみんなみんな連れ去ってしまう。 『告白の風』と呼ばれる理由。  ──それは。  人前に出ただけで真っ赤になってしまうほど、初な粉雪たちに。  精一杯に男を磨いて求婚する、突風たちの事なのだろうか。  見事に淑女の心を射止めた紳士は、花嫁を連れて虚空へと飛び去っていく─── 「春に発生するテレ雪は、夏にはもういなくなってる。それは告白の風が運ぶ事を意味するけど、仮に街の人たちに手伝いを頼んだとしても、これと変わらない事になってしまう。双子座の手によるものじゃなくなってしまうんだ」  だからふたみは、メメの手伝いも拒んでいたのだろうか。 「でも、じゃあ俺も駄目なんじゃないのか?」 「お主人ちゃんはいいんだ。双子座の一人なんだから」 「けど」  そこまでの意味を込めているのなら、本来の『双子座』天文委員であるふたみ一人の手でやらないと意味がないんじゃないだろうか。 「わっ、私は、オマエと一緒にやりたいんだっ」  耳まで真っ赤に染めて。  ふたみは、はっきりとそう言った。 「…………」 「い、嫌だったらそう言ってくれ。私だって、無理やり付き合わせるつもりなんかない……」 「ふたみ……」 「無理……してるんだったら、はっきり言ってくれた方が……その……」  ───だから。  こんな娘だから─── 「ごめんな。言い方が悪かったみたいだ。  俺は無理なんかしてない。頑張って成功させような、ふたみ」 「ほっ……ほんとうか?」 「本当だ」 「…………」 「本当だ」 「……うん」 「お主人ちゃんの気持ちを疑うような事を言って、ごめんなさい」  ふたみはぺこりと頭を下げる。  放っておくと、今にも正座までしてしまいそうな。 「気にするなよ。さ、早速取り掛かろう。まず何からすればいい?」 「あ、ああ。じゃあ──」 「……お主人ちゃん」 「ん?」 「ありがとう」  ──この時。  ほんの少しだけど、ふたみが笑ったように見えたんだ。 #«5月26日» 「あれ? メメは?」  その日の通学時。  いつもふたみの傍に寄り添っている、小さな姿がなかった。 「ああ、何か用事があるとか言って、先に行ったぞ」 「ふーん……」  ──あれ。  今日は5月の26日だよな。  ……何かの日だったような気がする。  なんだったか。 「……あのな、お主人ちゃん」 「ん?」 「実は、その……だな。今日は……」 「今日は?」 「…………」 「ふたみ?」 「……いや、やっぱりいい」 「?」  なんだ?  すでに昼休みになるというのに、メメは未だ教室に姿を見せていなかった。  てっきり、先に登校してるって意味だと思ってた。 (何処に行ったんだろうな)  メメにはメメの予定があるんだろうけど、ふたみに行き先も告げず学園まで休むというのは、どうにも彼女らしくないような気がして、少し心配になってきた。  ──なんといっても女の子だ。 「あ……」  そんな事を考えていた矢先、メメが教室に現れた。 「おはよ、策」 「おはようって時間かよ」  心配するまでもなかったか。  杞憂に終わってほっとしている自分がいた。 「お主人ちゃ……妾」  俺に声をかけようとしたふたみが、メメの姿に気付いた。 「どこに行ってたんだ。教室にもいないから心配したぞ」  やっぱりふたみも心配してたのか。 「えへへ。ごめんなさい」 「学生は勉学が第一だぞ。こんな時間まで授業に出れないほどの用事だったのか?」 「うん。とっても大切な用事」 「言えないような事か?」 「ごめんなさい。これはちょっと言えないの」  むむむ。  俺にならともかく、メメがふたみにまで内緒にする用事ってなんだ? 「ふむ……まあいい。ほどほどにするんだぞ」 「はーい」  悪びれない様子からすると、特に心配するような事じゃないんだろうけど……。  なんか気になる。 「じゃあ、揃ったところでお昼にしよう。行こうか、お主人ちゃんと妾」 「おねーさま。人前で私たちの事を続けて呼ぶと、あらぬ誤解を呼んでしまうと思うの」 「何故だ?」 「策。説明して差し上げて」 「俺!?」 「えー。ちょっと聞いたー? 未寅さん、お妾さんなんだって〜」 「きゃー。それにそれに、主人がどうとか言ってなかった〜? これはもしかして〜」 「あ、あたし知ってる。あの二人、結婚してるんでしょ?」 「てことはてことは? きゃ〜!! 本格的な修羅場って事ですか〜!?」 「つまり、あのような」 「妾」 「はい?」 「正妻の座は渡さんぞ」 「自分で種を蒔いておいて、育った芽に簡単に食われるのはどうかと思う」 「タ、タネ……! ……も、もう蒔いたのか」 「あまつさえ開花させるわけか」 「……英雄、色を好むという。私だってそんな了見の狭いヨメにはなりたくない。ここはむしろ、ムコが大物だったと喜ぶべきところだろう。  だから、それはいい」 「いいのかよ」 「だけどな、お主人ちゃん。一言だけ言っておくぞ」 「はい?」 「避妊しろっ」 「はぁっ!?」 「産むのは私が先だっ」 「きゃ〜修羅場〜」 「な、何かスゴイ話になってるね」 「これはお昼ごはんどころではないですよ」 「ギャラリーに餌を与えるのはここらで止めにしておきませんか、ふたみ先生」 「そうは言うがな。妾に先に身篭られてみろ。私の立場がないだろう」 「まず前提がおかしい事に気付いてくれ。メメを妾と呼んだのは誰だったのか辺りから」 「よし、お主人ちゃん。こうなったら、今日は徹夜で子作りに励もう。私は覚悟を決めた」 「もう行こう。な、ふたみ。昼飯を食べよう。俺はとてもお腹が空いたんだ」 「わっ、私にだって意地があるぞ。今夜は寝かさないからな」 「あ。意外と良い方向に話が進んでるね」 「無責任な事を言うなっ」 「帰ったらコウノトリだからな。コウノトリ」 「コウノトリ?」 「子作りとは、ムコとヨメの想いが一つになった時、コウノトリに乗ったガブリエルが雄しべと雌しべを合体させて試験管から誕生させる事を言うのだろう」 「なんか色々混じってるんですが」 「あ〜、そういうオチか〜」 「本気で悔しがるなよ」  そんなこんなで昼休みは過ぎていったが、結局、メメの用事ってなんだったんだろう?  ──放課後。 「おねーさまっ」  授業が終わるや否や、メメは真っ先にふたみの許へと向かった。 「ね、ね。今日はちゃんとお掃除もお休みにしてくれたよね?」 「い、いや……何度もそう言ってくれるのはありがたいんだけどな。まだまだこれからだというのに、こんな事くらいで休むというのは……」 「おねーさまー、約束したでしょ?」 「う、うん……いやしかし……」 「ん? 今日、何かあるのか?」  例の用事とやらに関係があるのだろうか。  ──なんて考えていたら。 「は!?」  メメに怪訝な顔をされた。 「は!?って……今日は何の日ですか」 「何言ってるの!? 今日はおねーさまの誕生日じゃないっ!!」 「えっ」  ふたみの誕生日?  ──そうか。  考えてみれば、今は双子座の期間なんだから、当然、双子座のふたみは誕生日があるんだよな。 「え……ちょっと……策、まさかプレゼントを用意してないなんて事……」  メメは信じられないものを目の当たりにしたかのような目つきで俺を見る。 「いや、でも俺、今知っ……」 「…………」  メメの拳から殺意の異音が発せられる。 「え!? いや、ごめんっ。言い訳するわけじゃないけど、こればっかりは知らないとなんとも……」 「策……?」 「いやいやっ! 待って待って! それなら教えてくれたっていいじゃ──」 「あー……なにかしら、湧き上がるこの気持ち。そう、これが“殺意”ってやつなのね……」 「いや違うそれ怒りと殺意の区別がついてな」 「──さあ。棺桶に入る準備は万全?」 「お前は監獄に入る準備は万全なのかよっ!?」 「まさかあの技を出す日が来ようとは──」 「だから謝って……そっ、そうだっ! 30分!いや、20分でいい、俺に時間をくれっ! 今すぐに買って──」 「え……? おねーさまへのプレゼントを選ぶのに、たったそれだけしか時間をかけられないっていうの……?」  ああもういっそ殺してくれ! 「いや、いいんだ妾。言わなかった私が悪いんだ」 「そんなっ! だって普通、一緒に暮らしてる相手の誕生日くらい気にするよっ! それが当たり前だよっ! それすら気にならないなんて、策はどれだけクールな人間関係の上で生きていこうとしているのっ!?」  じゃあお前は俺の誕生日を知ってるのかよコンチクショウ。  ──という気持ちを声にできないのは、つまりこれが“気圧される”というやつか。  ただ、メメが言う事も間違っていないわけじゃないんだ。  日頃、色々と世話になっているふたみに、慌てているとはいえ適当な贈り物をするというのは随分と礼儀知らずな話だ。  こういう時は、機会を改めてちゃんとした物を送るべきだろう。 「あー……ごめんな、ふたみ」  だから今回は見送ろう。  本当に申し訳ないんだけど。 「いいよ。気にしてない」  思えば、今朝方ふたみが言いかけてた事は、この事だったのか。  気付いてやれないとは情けない。 「むー」 「いや、本当に悪かったって」 「もー……しょうがないな」  メメは不承不承といった様子で俺に近づくと、耳を貸せという手招きをする。 「じゃあ、策にも手伝ってもらうから、愛と一緒に用意した事にしようよ」 「え? いや、それじゃメメが……」  言いかけると。 「おねーさまの誕生日に、策のプレゼントがないなんてわけにはいかないでしょ!?」  襟首をつかまれて、耳元に怒号を囁かれた。 「いい? 愛のプレゼントより、策のプレゼントの方がおねーさまにとっては遥かに重要なの。あなたね、おねーさまにとっての自分の価値をちゃんと認識しなさい」 「そんな事は……」 「いい!?」 「はい」  ──まいったな。  けれど、ふたみを想うメメの気持ちの大きさに、改めて触れたように思えた。 「おねーさま。実はね、愛のプレゼントは策と一緒に用意したものなの」 「え? でも、さっきお主人ちゃんは私の誕生日を知らなかったと……」 「やだなぁ。策も照れてるだけだよ」 「そっ、そうか。……でもな、二人とも、あまり私の為なんかでそんなに……な?」 「えー。いいのかなー。策ってば、おねーさまに喜んでもらおうと、随分とはりきって準備してたのになー」 「えっ……そうなのか?」 「“ふたみの為に”が合言葉になるくらい」 「…………」 「よしっ」 「よし?」 「あ、ううん、なんでもない。じゃあおねーさま、ちょっとだけ時間潰してから家に戻ってきてくれるかな? まだ少しだけ時間かかっちゃうの」 「あまり無理するなよ」  ふたみは相手の為にかける労力は惜しまないくせに、誰かが自分の為にとなると途端に遠慮がちになる。  ──そんな娘だから。 「はい、わかってます。じゃ、策。行くよ」 「あ、ああ……じゃあふたみ、また後でな」 「うん」  ──そんな娘だから、メメはふたみの為にこんなにも一生懸命なのだろうか。 「うわっ……!」  思わず吐息が漏れてしまうほど。  食卓に所狭しと並べられた、見た目にも鮮やかな料理の数々。  家に帰った途端、居間から漂う好い香り。 「これ、メメが作ったのか?」 「そうだよ。なに、その意外そうな顔。失礼しちゃうなー」 「いやいや、そういうつもりじゃないんだけどさ。でも、驚いたな」 「先生がいいからね」 「なるほど。ふたみに教わったのか」 「うん。巽家だと手伝わせてくれないけどね、おねーさまが実家にいた頃は、よくお料理を教わりに行ってたんだよ。だから、いつかね、“おねーさまの教え子は、ここまで成長したよ”って事を伝えたかったの」  教え子が先生の為に、腕を振るい馳走を振舞う。  これまでかけてもらった苦労に見合う成果を伝える為に。  これほど恩返しと呼べる恩返しもないだろう。  ──それは、いつだってふたみの事を想っているメメらしい誕生日プレゼントだった。 「でも、さすがに時間がかかっちゃうから。前日から作っておいてもいい料理もあったんだけど、台所はおねーさまの聖域だから見つかっちゃうし」  だから授業を休んでたのか。  わざわざ先に行った振りまでして。 「ふたみを驚かせようと?」 「勿論それもあるけど、欠席してまで準備してるなんておねーさまに知られたら、怒られちゃいそうだから」  確かに、ふたみは真面目だからな。  自分の為に授業を休むなんて言ったら、間違いなく止められるだろう。 「で、俺は何を手伝えばいいんだ?」 「んー……そうね。あ、じゃあ揚げ物やるから、盛ったら食卓に運んで」 「それだけ?」 「だって、準備は万全にしてから学園に行ったんだもん」 「駄目だ。そんな……だってこれは、メメが時間をかけて用意した、ふたみへの感謝の気持ちじゃないか。たったそれだけで俺まで準備を手伝ったなんて真似はできないよ」  俺の作業量の問題じゃない。  それ以前の問題として、メメの気持ちにおんぶに抱っこなんて、やっぱりおかしい。 「同じ事を二度言わせない」  しかし、メメは頑として譲らない。  それがメメのふたみへの想いの形だっていう事はわかってるけど─── 「…………」  ──よし、じゃあもう考え方を変えよう。  今日一日、誕生日が盛り上がるように、せめて俺なりに精一杯にやらせてもらおう。  それが、今からでも俺にできる事だ。 「わかった。俺、今日はふたみに楽しんでもらえるように頑張るよ」 「ん。それでよし」  メメが満足そうに笑ってくれた。 「……これは……」  食卓を前にして、ふたみが驚いた表情を見せている。  彼女の表情の違いを見破るには結構コツがいるんだが、これはかなり驚いている部類だと思う。  ──俺よりもコツをつかんでいるメメは、その表情を見て、やっぱり嬉しそうだった。 「おねーさまの教え子も、結構成長したんだよ」  そう言って、メメはそれぞれの皿から取り分けた料理が載せられた皿を、ふたみに手渡した。 「お誕生日おめでとう、おねーさま。これが、教え子から先生への感謝の気持ちです」 「妾……」 「それから、策もいっぱい手伝ってくれたから、策の気持ちもいっぱい入ってます」 「あ、いや、俺なんてたいして……」 「ぐふっ!」 「策もおねーさまに喜んで欲しくて頑張ったと言ってます」 「……ありがとう。ふたりとも」  ふたみの瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。 「おめでとう、ふたみ。さ、じゃあ食べてくれよ」  ──メメの気持ちを。  言いかけて、その言葉を呑み込む。 「うん。お主人ちゃんも、ありがとう」 「あれ? お客さんかな?」 「本当だ。誰かな」  言ってる間にも、ふたみは応接するべく立ち上がっていた。  すかさずメメが制止する。 「だーめ。今日の主役はおねーさまなんだから。こういう日くらい、のんびりして」 「しかし、これはヨメの」 「策」 「そうだよ、ふたみ。今日はふたみの誕生日なんだから。俺が出るからさ」 「しかし……」  尚も立ち上がろうとするふたみを押し留め、俺は急ぎ玄関に向かった。  ──それは、あまりにも意外なお客様だった。 「桜守姫さん」 「…………」 「え、どうしたの?」 「そ、その……」  言い出しにくそうに口篭りながら、 「ぐ、偶然にも、今日が誕生日だと聞き及びまして……」  桜守姫さんは、聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう呟いた。  桜守姫さん、ふたみの誕生日を祝いに来てくれたのか。 「ク、クラスメイトの誕生日をお祝いするのは、別におかしな事では……れ、礼儀です、礼儀」  いつも口喧嘩ばかりしてるからだろうか。  照れくささを隠す為にそんな言い回しをするなんて、桜守姫さんも可愛いな。 「ありがとう。さあ、上がってよ」 「い、いえ、図々しく上がり込むつもりなど……た、ただ……」 「いいからいいから。さあ」 「あっ……!」  居間に戻ると、そこにはふたみの姿しかなかった。 「あれ? メメは?」 「ああ、なんでももう一つ私を驚かせるものがあるとかで、台所に行ったぞ」  隠し玉の料理でも作っていたのだろうか。 「じゃ、俺もふたみを驚かせよう」 「ん? なんだ?」 「じゃーん」 「…………」 「コノ?」 「桜守姫さん、ふたみの誕生日を祝いに来てくれたんだってさ」 「えっ……」  桜守姫さんは驚いた顔をしていたけれど。  こういう素直に口に出せない一言っていうのは、周りがカバーしてあげればなんとかなるもんだ。 「コノが? 私の?」 「えっ……いや、違……」 「まあまあ」  俺は無理やり桜守姫さんに席を勧める。  多少強引でも、一度場に交じってしまえば大丈夫。 「はい、おねーさま。お待たせー」  そこに、色取り取りのグラスをお盆に載せたメメが入ってきた。 「今日の為に用意した、愛特製の夢のドリンクだよ。その名も──」  部屋に入ってきたメメは桜守姫さんの姿を見るなり、手に持っていたお盆を床に落とした。 「ああっ」  特製で夢が床一面にっ。粉々にっ。 「あなた……なんで……」 「…………」 「私の誕生日を祝いに来てくれたそうだぞ」  手早く布巾を取り出し、割れたガラスを片付けながら、ふたみが言った。 「──え?」  いつもなら慌てて「自分が」と言い出しそうなものなのに、メメはそんな事にすら気付いていないほどに驚いていた。 「まあまあ。まあまあ」  メメもその反応はないだろ。  大袈裟だな、まったく。 「す……すまぬ。やはり媛は……」  場の空気が濁ったと勘違いしたのか、桜守姫さんは座席から立ち上がる。 「そんなこと言わないで。さ、ほら」  俺は食卓の料理を取り分けた皿を、桜守姫さんに差し出した。 「そ、それ。おねーさまの為に……」 「わかってる。けど、こういうのは大勢の方が楽しいしさ。ふたみ、いいよな?」 「ああ、私は別に」 「はい。桜守姫さん」 「か……かたじけない」 「…………」  メメはいつものように、ぷう、と──いうよりも、明らかに面白くなさそうな顔をしている。  そんなに怒るなよ。 「メメ」 「…………」 「どうしたんだよ。メメがふたみの為に一生懸命に用意したのはわかってるけどさ、桜守姫さんもせっかく祝いに来てくれたんだ。そんな態度を取るなんてメメらしくないぞ?」 「……策は知らないだけなんだよ。あいつは……」 「メメ」 「なによ」 「……今日は、ふたみの誕生日だろ?」 「…………」 「な?」 「……わかったよ。そうよね、おねーさまの誕生日だものね……」  ──と、メメは急に背を向け。  一つ呼吸を整えるようにすると。  振り向いた時には、いつもの笑顔になっていた。 「じゃ、戻ろっか」  良かった。  機嫌を直してくれたみたいだ。  ──5月26日。  こうして、ふたみの誕生日は幕を開けた。  心配するまでもなく、場は和やかなムードだった。  ふたみはなんだかんだと遠慮していても、やっぱり嬉しそうで。  メメは機嫌を直してからは、いつも通りの調子だった。  桜守姫さんは──まだ少しだけ居心地悪そうに見えたけれど、それでも来てくれたという事はふたみを祝ってくれる気持ちがあったわけだし。  今日はふたみに楽しんでもらうって決めたんだから、これほど相応しいゲストはいない。  俺の方でできる限りのフォローをさせてもらおう。  ──と。  今朝方から引っかかっていた、「今日は何の日か」の謎が解けた。  実は随分前に気付いてたんだけど、もう言い出す事はできなかった。  今日は──俺の誕生日だ。  つまり、俺とふたみは同じ誕生日だったって事だ。 『双子座』の委員が互いに同じ日に生まれたという偶然。  切り出せば話の肴くらいにはなっただろうけれど。  せっかく良い雰囲気になったのに、万一、変な方向に転んだらアレだしな。  どうせたいした事じゃない。  誰も知らない事だし、このまま黙っておこう。 「……巽殿」 「ん?」  廊下に出た時、背後から声がかかった。 「桜守姫さん? どうし……」  桜守姫さんは手に何やら持っていた。  綺麗にラッピングされ、洒落た包装紙に包まれたそれは─── 「あれ? それ……もしかして」 「……誕生日……お祝い、です」  桜守姫さんは顔を真っ赤にして、それを俺に手渡した。  ──直接は渡しづらいから、俺からふたみに渡しておいてくれって事か。 「ん、わかったよ。ありがとう」  ふたみの代わりに礼を言うと、 「あ……」  桜守姫さんは嬉しそうな表情を見せてくれた。  照れ屋なんだな、桜守姫さんは。  そこへ、丁度居間からふたみが出てきた。 「ああ、ふたみ。丁度良かった。これ、桜守姫さんから」 「私に?」 「え……」  ふたみは俺の手から、桜守姫さんの贈り物を受け取る。 「コノ、ありがとう」 「…………」 「コノ?」 「あ……ええ、大切にしてくだされ……」 「うん。大事にする」  ふたみは戸惑っている様子だったけど、やはり嬉しそうだ。  良かった。二人は仲が悪いってわけじゃないんだ。 「すまない。ちょっと失礼するな」  と、ふたみは廊下を歩き去った。  居間から出てきたって事は、どこかに行く途中だったんだよな。 「あれでよかったのかな」 「え……ええ、かたじけない……」  ……やっぱり、本人の前で渡すのはまずかったかな。 「桜守姫さんって、ふたみとは昔からの知り合いなんだよね?」 「え? ええ、そうですね。幼少よりの馴染みには違いありませぬ」  なんだか妙な表現をするな。 「ふたみって、子供の頃はどんな娘だったのかな?」 「……それは、どういう……」 「いや、昔はどうだったのかなって思ってさ」 「そう……ですね。今とは印象が異なりましょうか。小心という意味ではなく、あまりお喋りをなさらぬ子で」  ……やっぱあれ、ふたみだよな。  精気のない表情をした、車椅子の女の子。 「……巽殿?」 「あ、ごめんごめん。いや、実は俺、子供の頃にもこの街に来た事があってさ、その時にふたみに逢った覚えがあるんだよ」 「…………」 「街にいる間、ずっと一緒に遊んでた記憶があるんだけど、ふたみはまるで覚えてないって……桜守姫さん?」 「あ、い、いえ……それはおかしいですね。クイは昔の事もよう覚えておられる方ですから……た、単に、彼女特有の言い回しであっただけではないのかえ?」  まあその可能性は大いにありますが。 「でも、そんな感じじゃ……」 「い、いや。そんなはずはありませぬ。そんなはずは」 「ん……まあ、ふたみは世間ずれしてるところがあるからな」  ──その瞬間、何故か桜守姫さんはいつかのように「これだ!」と言った顔をした。 「其方はまったく……む、むむっ、無知よなっ。 “世間ずれ”というのは、社会で苦労し、その表も裏も知り尽くしたからこそ得た狡猾さを意味する、“擦れる”という言葉です。“ずれている”という意味ではありませぬ」 「あ、そうなんだ」 「え、あ、うん」 「やっぱ桜守姫さんは物知りだな。俺、また間違うところだった。ありがとな」 「うう……」 「……?」  むう。  やっぱり桜守姫さん、俺に対して何か思うところがあるような感じだよな。  何でだろう?  急に……だよな。ある日を境にってくらい。  人間が急に態度を変える理由として、真っ先に思う浮かぶものは。  ……普通に考えて、俺が桜守姫さんを怒らせるような言動を取ったって事だよな。  身に覚えがないけど、こういうのって覚えがない事の方が多い。  わざわざ相手が嫌がる行動を取る理由なんてないわけだし。  ……要は俺が無神経って事か。  まいったな。  とりあえず……“とりあえず”ってのはよくないな。  まずは、謝ろう。 「あのさ、桜守姫さん」 「な、なにかえ」 「えっと……その、ごめん」 「…………」 「ごめんなさい」 「な、何を謝っておられまするか」 「いや、俺、何か桜守姫さんを怒らせるような事したんじゃないかな」 「…………」 「桜守姫さん、俺に対して怒ってるよな?  だから、その、俺が桜守姫さんを怒らせるような事をしたのなら、ちゃんと謝ろうと思って」 「怒ってなど……み、身に覚えがおありかえ?」 「面目ない。思い当たらないんだ」 「り、理由もわからずに謝っておられるのかえ? な、なんです……それこそ相手に失礼というものであろう」 「あ……と、そうだな。その通りだ。これじゃ反省もせずに謝ってるのと変わらない。  うん……と。  不快な思いをさせた上に、重ねて失礼な行為を取った。これも謝るよ。  だから……だからってのは変だな。その、よかったら、桜守姫さんを怒らせてしまった原因を教えてくれないかな? 俺、ちゃんと謝りたい」 「…………」 「駄目かな?」 「わっ、媛は──」  どうしてか、桜守姫さんはひどく慌てているように見えた。  達観している、というのとは違う。彼女はもっと、いかなる事態に対しても悠然と構えていられる人だと思っていたから、それは少し意外だった。  もしかしたら、また気付かないところで俺が余計な事を口走ってしまったとか、そういう事なのかもしれない。  俺は鈍感なのだろうか?  人の心の機敏とか、器用さとは違うところでのより繊細なものを要求されるのが、巽の家の職業だとすれば。  俺の才能が開花しなかった理由は、案外この辺りにあるのかもしれない。 「わっ……媛、媛は、ですから……」  やっぱり困らせているみたいだ。  ……まいったな。 「……ん? どうかしたか?」  そこへ、ふたみが戻ってきた。  場の雰囲気を察したのか、僅かに眉をひそめる。 「…………」 「コノ?」 「……だいたい、元はといえばクイが──」 「何の話だ?」 「な、何の話? 媛の気も知らんで……」 「コノ。オマエ、なんだか最近おかしいぞ。お主人ちゃんが来た頃からだ。何かあったのか?」 「っ……!」 「ああ、ふたみ。違うんだ。それは俺が桜守姫さんを怒らせるような事を──」 「ち、違う。別に巽殿は何も……」 「いや、でも」 「いや、本当に巽殿は……たっ、ただ、だから……」 「コノ?」 「ううう、うるさいっ! 黙れ黙れ黙れっ!!」  ──一瞬、呆気に取られた。  桜守姫さんが取り乱すなんて、あまりに意外だったから。 「……コノ……」  ふたみも桜守姫さんの様子に驚いていた。 「そ、其方ら二人して媛を、ふたっ……二人して……」 「……どうしたんだ、コノ……」 「媛とて本当はずっとお待ちして……! それが、何故このような形でっ……!」  ──どうして。 「桜守姫さん……」 「媛には許されぬ……それは存じ上げておる。なれどっ……!」  どうして、桜守姫さんが……。 「わ、わら……媛はっ……」  桜守姫さんの目尻から、今にも溢れ出しそうな雫─── 「……オースキがやられたか……」 「サク・タツミ──なかなか楽しませてくれる」 「だが、オースキは我々『弐壱学園天文12人衆』の中でも最弱よ」 「ふふ、その通り。奴の力など、我々には遠く及ばん。せいぜい、今の内にいい気になっておくがいい」 「フフフ」 「クックック」 「カーッカッカッカ」 「カッカッカ……」 「あの」 「カ?」 「いや、“カ?”ってアナタ」  あれ? この人……。  あの時の─── 「おねさま」  抑揚のなさはいつもとまるで変わりないのに、ふたみの声はどことなく弾んで聞こえた。  知り合い? 「ふたちゃん、お邪魔してます」 「うん。お邪魔されてます」  ふたみはやはり嬉しそうだ。  どうやら、知り合いなのは間違いないようだけど……。  ……いつからここにいたんだ。 「どうした。お主人ちゃん」 「いや、桜守姫さんを屋敷に通した後、確かに玄関の鍵を閉めたはずなんだけど……」 「細かい事は気にするな」 「いや、細かいとかそういう話じゃ」 「おねさまは神出鬼没なんだ。気にしたら負けだ」  そんな言葉で片付けていいの!?  ──我が家のセキュリティはどうなっているんだ。 「そうだ、丁度いい。紹介しよう。  おねさまだ」 「ですからフルネームでお願いします。これはもう今後の為にも本気で改善してください」 「明日宿 傘です。よろしくね」  ふたみの説明不足を補うかのように、少女はにこにこにこにこ、嬉しそうに会釈した。 「あ、ご挨拶が遅れました。僕はタツ──」  ──言いよどむ自分を感じると、人の事は言えないな、と思う。 「……巽、策です。どうか宜しくお願いします」  それでも、先輩に対して自分の名前を隠すなんて失礼な真似はできなかった。 「どうした。急にかしこまって」 「どうしたって、明日宿さんは先輩だよな?」  そう感じたのは、ごくごく自然だった。  ふたみが、“おねさま”と言っていたのもあるけど……。  ……きっと、それだけじゃない。  上手くは言えないけれど。 「うん。おねさまは、私たちより一つ年上だ」  やっぱり。 「ふふふ。そんなに堅苦しくしなくても。気軽に名前で呼んで欲しいな」  明日宿先輩は朗らかに微笑む。 「えっ……い、いえ。先輩にそんな失礼な──」 「名前で呼んでよ〜」  先輩はちょっとだけ拗ねた表情を見せる。 「は、はい」  ……なんでだろう。  素直に従ってしまった理由は、ふたみの場合とはまるで違った。 「えと……で、ではですね」 「敬語とかも。ね?」  ど、どうしよう。  俺、縦社会の厳しい環境ばかり見てきたから、そういうの染み付いてるんだよな。  その割には、まだまだ礼儀のなってない部分も沢山あるんだけど。 「で、ではです……じゃあ……さ……」 「うん」  うう、自然に出てこない。  でも、いくら相手がいいと言ってくれていても、目上の方に対して呼び捨ては駄目だ。 「じゃあ、“傘さん”と呼ばせてもら──」  さんさん、ってオイ。  なんだよ七拍子かよ。 「……“傘姉”ってのはどう?」 「はい」  お好きなように、といった言葉が笑顔の中にあった。  ……ほんとう、朗らかな人だ。 「わがまま言ってごめんね? 敬語とか、そういうのちょっと苦手で」  傘姉はバツの悪そうな顔をする。  ふたみとは正反対に、表情豊かな人のようだった。 「……すみませぬ。獅子の君」  不意に、桜守姫さんが申し訳なさそうに廊下に現れた。  というより、いつの間にかいなくなっていた。 「ん?」  傘姉は「何の事?」とでも言いたげに、微笑みながら首をかしげる。 「……かたじけない」  ──あ。  そうか。傘姉、桜守姫さんの事を気遣って……。  今目の前にいる桜守姫さんは、申し訳なさそうな表情は浮かべているものの、様子自体はいつも通りだ。  いつも通りに振舞えている。  そりゃ人間、一度調子を崩したら、元に戻るまでには時間が必要なのは当たり前で……。  そんな気配りがあった事にすら気付けないんだから、俺は本当に鈍感なのかもしれない。  すごいな、傘姉って。  桜守姫さんは、傘姉の事を“獅子の君”と呼んでいた。  君っていうのは自分の主君、あるいは貴人、また目上の者を敬って用いられていたものだ。  現代では同等、あるいは目下の者に対して用いられる言葉となったけれど──というのは前にふたみが言っていた事だけど、桜守姫さんにそう教わったとも言っていたから、彼女は前者の、本来の意味合いで使っているのだろう。  相変わらず古風な言い回し──それに違和感を感じさせないのが、彼女の立ち居振る舞いの見事なところだけど。  どうやら傘姉は、桜守姫さんにも認められている存在のようだ。  ふたみのように、慕っている……というニュンアスとは少し違うように思う。  一目置いている人物、というのがより正確なところだろう。  桜守姫さんをして、決して無視できない存在。  ──あれ。  でも、“君”はともかく、なんで“獅子”? 「──あ」  そうか。わかったぞ。 「もしかして、傘姉も天文委員なんじゃ……」 「あれ? どうしてわかるの?」 「いや、だって“獅子”って……」 「さっくんは頭いいんだ〜。なでなで」  なでなでされた。  なんか嬉しい。  その呼ばれ方も素直に受け入れてしまった。 「…………」  え。なんで、ふたみが羨ましそうに見てるの!? 「8月8日生まれなので、いちおう、獅子座の天文委員だよ。でも、わたしなんて幽霊委員みたいなものなんだけどね」 「そんな事ない。おねさまは立派だ」  ふたみの言葉に、桜守姫さんもまた頷いている。 「天文委員は確かに学園においてそれぞれの星座の代表として選ばれるが、それは同時にこの街の12人の代表という事でもある。  私なんかまだまだだが、おねさまはただそこにいるだけで皆を取りまとめる事のできる人だ。  それは、誰よりも立派に『天文委員』をしているという事だ」 「ふたちゃんは大袈裟だよ」 「大袈裟じゃない。事実だ」  ──そう。ふたみは事実しか言わない。  だからこそ口が悪いと捉えられる事もあるけれど、歯に衣を着せる事ができないからこそ、間違った事は決して口にしない娘だ。 「うん。それぞれの星座に生まれついた年頃の生徒なんて沢山いるのに、その中から選ばれる一人になってる時点で、やっぱりすごいと思いま……思うよ」 「それはそうだ。私が委員に選ばれたというのに、おねさまが選ばれないはずがないだろう」 「そ、そういうものか?」 「そういうものだ。なにせ、おねさまだからな」  言葉の意味はまったく理解できないが、ふたみが傘姉を慕っているのはよくわかった。  ふたみを慕うメメ。  傘姉を慕うふたみ。  なるほど。 「あ、おおねえさま」  なるほどなるほど。 「メーちゃん、お邪魔してますね」 「いらっしゃい〜」  メメもまた、傘姉に懐いているようだ。  包容力のありそうな人だからな。  桜守姫さんとは違った理由で、周囲から好かれてるって事かな。  ──廊下で立ち話もなんだから、という事で皆で居間に戻ってきた。  傘姉が上手く取り計らってくれた。  一時はどうなる事かと思ったけれど、さすがは傘姉。皆に慕われるだけの事はある。 「じゃ、傘姉も加わってくれたところで、改めて──乾杯!!」 「かんぱーい」  それから、しばらくはわいわいと談笑が続いた。  ──いい雰囲気だ。  ほっとしながら会話の様子をしばらく見ていたら、それぞれの傾向みたいなものが見えてきた。  ふたみは今話している相手と、真正面から話す。  メメは基本的にふたみにべったりで、ふたみ、あるいはふたみが話している相手と話す。  桜守姫さんは、誰とでもそつなく話す。いかなる相手であってもこなせる、と言った方がいいか。  それで、傘姉は───  傘姉は基本的にはにこにこしたままで、本人はあまり喋らない。  ただ、会話が止まった時はすかさず話題を提供し、何より、会話に入らないでいる相手がいれば真っ先に見つけて、話題に入れるようにさり気なく誘導する。  ──大人だ。  本当に俺の一つ上かってくらい、傘姉は大人だ。  双子座、牡羊座、乙女座、牡牛座と見てきたけれど、『獅子座』の天文委員は、誰からも認められるみんなの良きお姉さんだった。  ──ところで。 「あの。なんで桜守姫さんが、“ココ”なんでしょうか」  傘姉は、会話の中で桜守姫さんを“ココちゃん”と呼んでいた。  ふたみを“ふたちゃん”と呼ぶのはわかる。  メメを“メーちゃん”と呼ぶのもわかる。  俺を“さっくん”と呼ぶのもわかる。  けれど、桜守姫さんの名前は此芽なのに、どうして“ココ”になるのか。  ──何かそれにまつわるエピソードでもあるのだろうか。 「あのね。ふたちゃんが、“コノ”って呼んでたの」 「ええ」  名前が『此芽』だからな。 「でも、一つより二つの方が親しみが湧くでしょう? だから“コノコノ”ちゃんの方がいいと思ったの」  いきなりわかんなくなった。 「でも、言ってる内に“コノコノ”よりも“ノコノコ”の方が可愛いかなって思えてきて」 「はぁ」 「けど、どっちも捨てがたいから、こうなった以上は間を取って、“ココ”ちゃんか“ノノ”ちゃんにしなければならないでしょ?」  どうして「間を取る」という選択が生まれたのかもわからなければ、何故「しなければならない」のかもわからない。 「そこで悩みに悩んだ末、これからの時代を先取りするにはこちらの方がいいという、わたしからの意見を取り入れて、“ココ”ちゃんに大決定したの」  つまり、自分で複数の案を出して、その中から自分の意思で決めたと。 「ね?」  傘姉はにっこりと微笑んだ。  ……なんて返せば、この人は喜んでくれるんだろう。 「さすがは尊敬するおねさまだ。そのセンスに敬服する」  俺は脱帽ですよ。二度と帽子は被らないと神に誓ってもいいくらい。 「おねさま。私の考案した“お主人ちゃん”はどうだ? ちゃんと本人の希望も加味して付けたんだが」 「さすがはふたちゃん。修行の成果が出てるね」 「ふふ」 「えー。じゃあ、愛も策の呼び方はもうちょっと捻ればよかったなー。そのままだし」 「ふふふ。これから、もっと親しみのあるものに変えればいいじゃない」 「そっか。策……さく……さくさくさくさくさくさ……くさー。臭っ!」 「まだまだだな」 「うふふ。修行よ修行、メーちゃん」 「うー」  すんげえカオス発見。  さすがは天文委員。  どれだけ優れた人格者でも、一筋縄じゃいかないぜ。  というか人の名前で遊ぶのは止めてください。  本人の目の前で。  ……あれ。  もしかして、ふたみのネーミングセンスって……傘姉の影響?  ふたみの師匠!?  実に恐ろしきは、天文の委員どもよ───  ──黄昏は既に過ぎて久しい。  人知れず屋敷を後にしようとしていた此芽の背に、 「──帰るの?」  愛々々の声がかかった。 「ええ、そろそろお暇させていただきまする。声もおかけせずに失礼かとも思いましたが、盛り上がっておられるご様子なので……」 「そう」 「場を壊すような真似をして、ほんに申し訳ありませなんだ。あのような事は二度としませぬよって……」 「…………」 「では、失礼させていただきまする」 「──『桜守姫』」  その一言に、場の空気が震えた。 「確かに、あんな事は二度あっちゃいけないわ。あなたがここにいるという事そのものがね。  今日は特別よ。おねーさまの誕生日だから、特別。こんな例外は二度とないわ」 「……承知しておりまする。ちょっとした手違いがありまして……」 「手違い……ね」  愛々々は策の前──ふたみの前ですら見せる事のない表情で、此芽を睨めつけた。 「そうね。あなたはおねーさまの誕生日を祝いに来たんじゃないものね?」 「……何の話です」 「策に余計なちょっかいはかけないでくれる? アレは『タツミ』。おねーさまのモノなの」 「…………」 「愛もそれを認めた。アレならいい。アレなら信用できる」 「……『さく』は……」  此芽の目がメメを鋭く睥睨した。 「彼は、其方らの玩具ではありませぬぞ」 「あなたには関係ないでしょう? 桜守姫たるあなたには」 「其方らはいったい何をなされるおつもりなのか。さくを……何も知らぬ彼を巻き込んで──」 「……ははっ……」  込み上げる愉悦を抑え切れないかのように、メメが嗤った。 「なにそれ? あなた、戦争を起こしたいの?」 「…………」 「別にいいけど? そっちから仕掛けてくるなら、愛はただ迎え撃つだけ。  ──いつだって潰してあげるわよ」 「走狗めがっ……!」 「そうだよ。愛は『未寅』だもの。ただ決定に従うだけ」 「…………」 「お帰りで?」 「興が過ぎました。失礼いたしまする」 「何のお構いもできませんで。どうか、もういらっしゃらないでくださいね?」 「…………」 「……ふん」  ───そら、見た事か───  此芽は己自身に悪態をついた。  自分が関われば、彼に迷惑をかける事になるのだ。  どうしてここへ来てしまったのだろう。  接触は可能な限り避けるべきだったのに。  それができるのは、精々“中立地帯”たる弐壱学園くらいなのに。  それだって、突き放すような態度を取らなければならないのに───  ……いてもたってもいられなかった、など言い訳にしかならない。  せっかくの贈り物だって、勘違いされたではないか。 (……あなたが、羨ましい……)  ふたみの姿を思い浮かべ。  言葉にしてはいけない想いを呑み込むべく、唇を噛む。  強く、痛みで忘れる為に、強く噛む。  ──けれど。  どれほど強く噛んでも、彼への想いは消えない。  その想いの強さに抗う為には、己の身体を苛む痛みなど微弱に過ぎた。  ……せめて、と、此芽は己に言い聞かせる。  連中が何を企んでいるのかは知らない。  けれど、『タツミ』がこの街に来たという事は、何かがあるのだ。  桜守姫の与り知らぬところで、何かが動き始めている───  想いは届かなくてもいい。  伝える事さえ許されないのだから。  だから、せめて。  ───せめて、あなたを護ろう───  彼を護る事は、遠い昔に誓った事なのだから。  気付かれなくてもいい。  自分の事は嫌って欲しい。  ──想いの綯い交ぜの中で、此芽はもう一度、唇を噛む。  未だ灯りの点る巽の屋敷を見つめ。  居間から零れる楽しそうな笑い声を振り払うように、此芽はその場を後にした。 #«5月27日»  ──早朝。  まだ街がゆるやかな静寂に包まれている頃。  我が家からは、音が鳴る。  それは総稽古。  奏者の性格を表すかのような規則的な音色は、やがて香りという名の調べへと変ずる。  その度に、一つ、また一つと、優れた作品が生み出されていく。  狭い音楽堂いっぱいに溢れた匂いの群れたちは、本番の開始を告げる為に入場券となって会場から飛び出していく。  すると──一人、また一人と、優れた芸術に拍手を送る為の聞き手が来場を始める。  聴衆は客席に座り、ただ静かに幕が開くのを待つ。  それが、我が家の朝の光景。  奏者はふたみ。  聴衆は俺とメメ。  それと。  本日は、もう一人。  朝食を待つ傘姉は、とてもうきうきしていた。  メメは昨日の今日という事で、まだ寝ているみたいだ。  準備に随分と時間をかけていたようだし、よっぽど張り切って──そして疲れたんだろうな。  ゆっくり寝かせておいてあげよう。 「本当に、帰らなくて大丈夫だったんですか?」 「ふふふ。大丈夫」  実は、昨日はふたみが傘姉と一緒にいたがって、結局彼女はここに泊まっていったのだ。  ……ふたみ、本当に傘姉の事が好きなんだな。  あんなふうにわがままを言うふたみは初めて見た。  それを見て、傘姉はふたみにとって甘えられる存在なんだな──と思い。  そう思ったら、もしかしたらそれが、ふたみの本当の姿で。  俺の前で家事を取り仕切る彼女は、相当無理してるんじゃないか……なんて思えてきた。 「どうしたの?」 「あ、いえ。ふたみは本当に傘姉が好きなんだなって思って」 「さっくん」 「はい」 「敬語」 「あ、すみませ……ごめん」  ついつい、この人の前では敬語を使ってしまう。  先輩っていうのも勿論あるんだけど、それだけじゃなくて─── 「でも、びっくりしちゃった。さっくんとふたちゃん、一緒に寝てるんだもの」  ──そうなのだ。  傘姉が泊まっていくのならふたみも一緒に寝ればいいものを、何故か「それはそれ。これはこれ」と、いつも通り俺の布団に潜り込んできた。 「ふたちゃんも成長したんだね」  傘姉がしみじみと頷いた。 「ふたちゃん可愛いのに、浮いた話一つ聞いた事なかったから。でも良かった。安心しちゃった」 「いや、それには誤解が」 「さっくん、ちゃんと責任取ってね?」  ──そんな目で見つめないでくれ。 「いや、ですからね、あれは文字通り一緒に寝ているだけで、やましい事は何一つ……」 「…………」 「本当に。世界中のあらゆる神に誓って」 「さっくん」 「はい」 「ちゃんと責任取ってね?」  まったく信じられてねぇ!! 「できたぞ。朝食」  ふたみがお盆を持って現れた。 「わーい」  傘姉は嬉しそうだった。  食卓に並べられたのは、オムライス。  程よく蕩けた卵が食欲をそそる。  ──と。  何故かふたみはお盆の中身を食卓に並べるや否や、再びお盆を持って立ち上がった。 「あ、気にせず先に食べててくれ」 「……?じゃあ、いただきま……」 「ごちそうさま」  早っ!  傘姉の皿は見事に空だ。 「やっぱりふたちゃんの料理は最高だね」 「ありがとう」  そこへふたみが大急ぎで戻ってきた。  お盆の上には、またまたオムライス。 「じゃ、これ、お替り」  そう言って、傘姉の前に差し出す。 「ふふふ。ありがとう」 「よ……用意がいいな」 「何言ってるんだ。おねさまが一皿で満たされるはずがないだろう」  もしかして、傘姉って食いしん坊?  とか言ってる間に、傘姉はまた食べ終わる。  ──どうやって食ってるんだ。  肉眼で確認できない。  これは俺の目の限界を超えた、速度の世界の出来事なのか?  ──俺もようやく食べ終わった。  その間、傘姉が平らげたのは実に5皿。  しかも俺が半分まで食べた頃には、すでに傘姉は満足げな様子でお茶を啜っていた。  ……そのスリムなお身体は、いったいどのようにして保たれているのでしょうか。  俺は今日、人体の神秘を見た。 「美味しいよね。ふたちゃんの料理」  俺が食べ終えたのを見計らって、傘姉は声をかける。 「ええ、本当に。たいした腕前ですよ」 「あらら。それだけじゃ、こんなに美味しくならないよ?」 「え?」 「前にご馳走になった時より、ずっとずっと美味しくなってる」 「ふたみの腕前が上がったって事ですか?」 「ふふふ」  そう答えた俺に、傘姉が可笑しそうに笑った。 「わたしがいただいたお料理と、さっくんのお料理はね。全然違うものなんだよ」 「え?」  ……同じオムライスに見えたんだが。  材料が違うのかな?俺の方は賞味期限が過ぎた卵を使ってるとか。 「……手料理っていうのはね、特別なの。作った人の想いが込められているから」 「はぁ……」 「腕前もね、もちろん上がってると思うよ。ふたちゃん、努力家だから」 「ええ」  それはよくわかっている。  ふたみは誰よりも努力の人だ。 「でもね、それだけじゃこんなに美味しくならないよ。前にご馳走になった時と、今と、違っているのは何かなー」  傘姉は惚けたように、そんな事を言い出した。 「手料理は、誰かへの想いを乗せたお手紙なんだよ、さっくん」 「…………」 「受け取る人が気付いてないんじゃ、ふたちゃん、可哀相」 「それ……は、つまり……」 「ふふふ」 「ね?」 「……はい」  この人の笑顔には、とても不思議な効力がある。  その言葉が素直に胸に染み込んでくるという、魔法の効力だ─── 「さて。では私は、公園に行ってくるな」  朝食後、しばらく俺がくつろいでいた居間へ顔を見せたふたみは、すでに外出の準備を整えていた。  真面目な彼女は、普段の外出の時も制服を着る。  ふたみ曰く、「学生なんだから当たり前だろう」との事だ。  私服OKの学園であえて制服を選ぶのもふたみらしいけど、こんなところもやっぱりふたみらしい。  かといって。  俺はふたみに「学生なんだから、外出時には制服を着ろ」と言われた事はない。メメにも言ってるところを見た事がない。  どれもこれもふたみらしければ、自分のルールを他人に押し付けようとしないのも実にふたみらしかった。  だから今驚いたのは、そういう事じゃなくて─── 「え。まさか今日も?」  掃除といっても、結構、ハードな作業だ。  平日の疲れを取る為にも、てっきり休日はゆっくり休むのかと思ってた。 「ああ、お主人ちゃんは休んでてくれ。休日も付き合わせたら申し訳ない」  もうわかってる事だけど。  ふたみは決して、嫌味を言わない。  真顔だからわかり辛いけれど、基本的に言葉通りの娘だ。  その言葉選びには……まあ、多少のクセがあるけれど。 「お主人ちゃんも出かけるのか?」  腰を起こした俺を見て、ふたみが問いかけた。 「公園にな」 「ん?」 「一度、やるって決めたんだ。ふたみが行くなら俺も行く」 「…………」 「出かける準備するから、ちょっと待っててくれな」 「い、いいよ。悪いよ」 「俺にも俺のルールってやつがあるんだよ。ふたみが気にする事じゃない」 「…………」 「そ、そうか。ムコがそう言ってるんだから、ヨメが口出ししてはいかんな。うん」 「おねーさま? 嬉しい時は素直に嬉しいって言った方が、女の子の人生はトクだよ?」 「…………嬉しい」 「あははっ」  ──いつもの事ながら。  この家は、あたたかい。  それは多分、この家に住む人ひとりひとりが支えているものなんだと思う。  そうしてできている人の和。  この家の中にある和。  それが心に染み入る心地良さなんだと思う。  ──そして公園へのいつもの道程を、ふたみと一緒に歩いた。  と思っていたら。  傘姉も一緒についてきていた。 「ごめんね。迷惑だった?」 「いえ、そんな事は」 「あ……あの。おねさま」  珍しく、ふたみが口篭った。  言いかけた内容はわかる。  ただ、慕っている傘姉には言い辛いのだろう。  だから。 「傘姉。もし手伝ってくれるつもりなら、その……申し訳ないんですけど、これは僕らが二人でやるべき事なので」  ──誰だって、一緒に行くのなら手伝う気なんだろうって思う。  ましてや傘姉なら、何も言わなくても手を貸してくれそうだから。 「お主人ちゃん……」  俺は傘姉の反応を窺って、ちらりと顔を覗き込む。 「ふふふ。ふふふっ」  ──けれど意外にも、傘姉は嬉しそうに笑みを零していた。 「そっかそっか。これはいよいよ本物だ……ふふふ」  よくわからないけど、言いたい事は理解してくれていたみたいだ。  ──そして、いつもの掃除が始まる。  あれから一週間。  さすがに、互いに手馴れたものだ。  この時間から日が暮れるまでやったら、いつもの倍ははかどるだろう。  この調子で早く終わりさえすれば─── 「…………」  頃合を見て、言わないとな。  手遅れになってからじゃ遅いんだ。  そんな事を考えながら、いつもの運搬先に向かう途中。  何故か、傘姉がついてきた。 「……あの。ふたみはこっちには来ませんけど……」 「さっくんとお話がしたかったの」 「俺と……ですか?」 「うん。お邪魔かな?」 「いえ、そんな」  いったいなんだろう。 「──ねえ」 「はい」 「さっくんは、ふたちゃんのこと好き?」 「ぶっ」  唐突にそう訊かれ、俺は一瞬、どきりとした。 「ん?」  ──その目で見つめられると、嘘はつけない。 「……わかりません」 「そっか」 「決して嫌いとかじゃありません。ただ、傘姉が訊いてる意味で“好き”かというと……自分でもよくわからないんです」 「さっくん」 「はい」 「敬語」 「あ、す、すいません」  また、いつの間にか敬語に戻ってた。 「……じゃあ、もしふたちゃんがさっくんの前からいなくなったらどうする? 哀しい?」  ──それは。  いつの間にか、ふたみと共にある事が当たり前の生活に慣れてしまった自分を見透かされたようで。 「……正直、俺は何もできないから。それで愛想を尽かされるんなら、仕方ないと思う」 「そういう事を訊いてるんじゃないって、さっくんはわかってるんじゃないかな?」 「……哀しいです」  それが恋であるとか愛であるとかはわからないけれど。  ただ、俺の中でふたみという少女の存在感が大きくなっているのは、確かだった。  それは桜守姫さんも。メメも。──傘姉も。  少しずつ俺の心の面積を占めていっている人たち。  だから、いなくなってしまったら哀しい。 「そっか……大切って事でいいのかな?」 「はい。でも、別に変な意味じゃ──」 「恋人とか、夫婦とか──片思いの相手とか、友達とか、そんな事は関係ないよ。自分の心にいつの間にか住み着いちゃった人は、やっぱり大切な存在なの。  ふたちゃんがその中に入っているってわかっただけでも、安心したかな」  ……安心という言葉。  裏返せば、傘姉は何かを心配しているという事だろうか。 「……こんな事を訊くのは、おかしいのかもしれないけれど」 「はい」 「もしも、その大切な人たちの中から、たった一人しか選べないとしたら……さっくんはどうするかな?」 「どういう事ですか?」 「ん……やっぱり変かな?」  傘姉は苦笑する。 「ただ……ね。いつか、さっくんの大切な人に何かあった時。さっくんは、きっと迷う事になってしまうから」 「迷う?」 「うん。常識とか、どうしようもない事とか……様々な事に捉われて、何がさっくんにとって一番大切なのか見失ってしまう。  大切な事は胸の中に沢山あるけれど。これだけはどうしても譲れない、という“たった一つ”は、やっぱり“たった一つ”なんだよ。  ──なかなか見つからないし、選べないけどね」 「…………」 「もしそんな事が起こった時、さっくんがふたちゃんを選んでくれたら……」 「そしたら、わたしは────」 「……よくわからないです」 「ふふふ」  そう言った俺に、傘姉の朗らかな笑みが返ってきた。 「大丈夫。さっくんはちゃんとわかってるから。ごめんね、変な事言っちゃって」 「え? いや……」 「じゃあ、戻ろうか? ふたちゃん、待ってるといけないし」 「あ、はい……」  傘姉に促され、俺は二人で来た道を引き返した。  ──いったい、彼女は何が言いたかったんだろう?  ……いた。  ふたみは脇目も振らずに掃除をしている。  俺たちが戻ってきた事も気付いていなければ、そもそもこの場にいなかった事も気付いてなかったんだろう。 「ふふふ」  傘姉は嬉しそうだった。 「どうしたんですか?」 「ふたちゃん、さっくんの事を捜してるみたいね」 「いや、黙々と掃除してますよ」 「あらら。さっくんが気付いてあげなくてどうするの」 「ええっ……?」  俺の目には、掃除に夢中でそれどころじゃないように見えるんだが。 「…………」 「傘姉?」  いつの間にか、傘姉は俺の横で顔を覗き込んでいた。 「な、なにか?」  ──思わずどきりとする。 「さっくんは知ってるかな。街のみんなは、本当に星空が見えるなんて事は期待していない。  ただ、照陽菜が開始されるこの時期を、“星空が見えるかもしれない”と期待していられる時期として、一種のお祭りとして楽しんでいるだけなんだって事を」 「……はい」  それは、傘姉なりの言葉に変わっていたけれど。  内容は、桜守姫さんから聞いた話とまったく一緒だった。  でも……急に、どうしてそんな話を? 「そう……じゃあ、こんな話も知ってるかな?」 「え?」 「照陽菜がこの街を挙げてのお祭りなら──この街は一つの大きな社。そして天文委員は、12人の選ばれた巫女なんだって事」 「……巫女?」 「巫女は神の子と書いて神子とも呼ばれるように、元々は神を降ろす為の器とされていたの。だから巫女は、年頃の──成熟しきっていない、多感な年頃から選ばれる。  それに何より、神を降ろす為には穢れのない存在でなければならないとされていたから」  それは未婚の──未だ男と結ばれていない、清らかな心と身体。 「だから、わたしたちは代表者とも呼ばれているの。  この街の願いを神様に届ける為の巫女。  ──それでも、願いが叶うかどうかは神様の気紛れしだいだけれど」 「…………」 「巫女は12人いるけれど、活動するのはそれぞれが担当する一月の間だけ。  だから、天文委員は一年間を通してお祭りの主役なんじゃない。それぞれの一月一月、それぞれの委員だけが街でたった一人の主役なの」  今は『双子座』の期間だから。  たった一人の主役は、ふたみ。 「でも、それって──」 「うん、そうだよ。ただ言い方を変えただけ。  でも──」 「テレ雪に舞うあの娘が今の季節に華を咲かせる巫女だと思えたら、こんな話も信じちゃえない?」 「…………」  ──初めて傘姉を見た時。  俺は、この人の事を「妖精みたいだ」と思った。  その妖精が誇らしげに語る、別の妖精の艶姿─── 「ね? 素敵でしょ──照陽菜って」  あまりに屈託なく笑うものだから。  俺は思わず、虚をつかれたんだ。  その時。  やっとわかった気がしたんだ。  ああ、これが『おねさま』───  これが、『傘姉』なんだって。 「……うん」  傘姉は、急に納得した様子で頷いた。 「わたしも、さっくんの家に住んじゃおうかな」 「ええっ!?」 「……反対?」  傘姉は少し困り気に、俺の顔を上目遣いに覗き込む。  それはちょっと反則だと思った。 「とんでもない。みんな喜びますよ」  ──突然で驚いたけれど。 「ふふふ、良かった。でもさっくん」 「はい?」 「敬語は禁止だよ?」 「……はい。努力します」 「ふふふっ」 「おい、ふたみー。傘姉がな──」  ──いつもの事ながら。  この家は、あたたかい。  それは多分、この家に住む人ひとりひとりが支えているものなんだと思う。  ──そしてまた一つ。  とてもとても頼もしい柱が、この和に建ったんだ─── #«5月28日»  ──早朝。  居間へと訪れた俺は、傘姉とばったり出くわした。 「さっくん、おはよう」 「おはようございます」  朝から傘姉の笑顔を見る事ができるなんて、と、なんだか得した気分になる。  ───そう。昨日から、新たにもう一人この家に─── 「とうっ」  唐突に膝が笑う。  なにやらとてつもなく重たい鈍器で殴られたような衝撃。 「なにデレデレしてんのっ!」  朝からメメのローキックを喰らう事になるなんて、と、なんだか損した気分になる。 「ふふふっ。さっくんは、笑顔で挨拶してくれただけだよ?」 「愛にはわかるの。策は今、邪で淫らな妄想を脳内で繰り広げたわ」 「そんな事してねえっ! 何を根拠に言ってるんだ!?」 「寝起きの勘」  それ寝ぼけてるって言うんだよ、お嬢ちゃん。 「ふたちゃんがいるのに、さっくんがそんな事するわけないでしょ?」 「…………」  なにその目。 「できたぞ」  そこへ、ふたみがお盆を持って居間へと現れた。 「ふたちゃん、いつもご苦労様です」  傘姉は丁寧に頭を下げる。 「ん、ヨメだから」  当たり前のようにそう返しながら、朝食を並べていくふたみ。 「いつもながら綺麗に切ってるよね。さすがはふたちゃんの包丁捌き」  皿に盛り付けられた料理を見て、傘姉が感嘆の声を上げる。 「うん、確かに」  ふたみの性格っていうのもあるんだろうけど、切り口も盛り方も実に几帳面だ。 「おねさまの包丁さばきは私よりもすごいぞ」 「え」  意外な発言が。  てっきり傘姉は消費するのが専門だと思ってた。 「ものを思い通りに切るの、得意なんだ」 「へえ……器用なんだ」 「料理はできないんだけどね」 「…………」  ええ、まあ、なんとなくわかってました。 「作ってもらってばっかりじゃ悪いから、わたしも少しはお手伝いしたいんだけど」 「じゃあ、切るのは傘姉にお願いして、ふたみは料理に専念というのは……」  少しはふたみの負担が軽くなるんじゃないか、なんて思ったけど。 「いや、これはヨメの仕事だからな」  やはりふたみは、当たり前のようにそう告げる。  俺が言い出した時も、メメが言い出した時も、同じ反応だった。  ヨメ──か。  気付けば、ふたみとこうあるのが当たり前になっていて。  振り回されていたはずなのに、次第にそれにも慣れていって。  改めて、その事に関して考えた事はなかったな……と、今更ながらに思い当たった。  唯井ふたみ。  俺の親戚……で、間違いないと思う。 (でも、子供の頃の事だから、正直よく覚えてないんだよなぁ)  あれは確かに、ふたみだった。  うろ覚えって言えばそれまでだけど……それ自体に間違いはないと思う。  だとすれば。  問題は、どうして彼女が俺の“ヨメ”なのかって事で。  どういった経緯でそういう事になっていて、いったい誰のどういう意図があるのかとか、どうしなければならないとか。  俺は、何も知らない。  それになにより。 (……ふたみは、いったいどう思っているんだろう)  まさか、いきなり「俺と結婚したい」なんて思ったわけじゃないだろうし。  そうなると、やっぱり家同士で何らかの取り決めがあったとか──そう考えないと、まるで現実味がない。  そして、それが一番自然な答えだろう。  親戚同士での縁談。聞かない話じゃない。  ただ、俺には何も知らされていなかったわけだが。  そもそも、白爺さんはどうして突然あんな事を言い出したんだ? 「巽の者を代表して、誰かがあの街に行かなければならない──」  巽家としての決定に関しては、俺はこれまで会議に加わった事なんか一度もないし、勿論、相談なんかされた事もない。  決定権どころか発言権すらないのが、いつだって変わらない、俺の立場だ。  だから、“突然”だったのはいつもの事。  ただ。  行かなければならない。  文字通り受け取れば、行く義務がある、という事。  裏を読めば、外部から何らかの強制力が働いている、という事。  それに、あくまで「巽の者を代表して」という事なら、誰でもいいというわけにはいかないだろう。  ──どうして、俺なんかに許可が下りたんだろう。  確かに、他に立候補する者はいなかった。  けれど“代表”なら、相応しくない者を選ぶ事に白爺さんは躊躇したはずだ。  白爺さんは責任感の塊だもの。  老齢を重ねて尚、巽家の当主で在り続けているのは伊達じゃない。  そういう意味では、皆が信頼している。  となると。  俺でもよかった理由がなければならない。  なければ……ならないんだが……。  結局、幾ら考えても答えは見つからなかった。 「ん? どうした?」  ただ、一つだけ確認しなくちゃならない事があった。  本当に今更だけど。  ──大切な事だ。 「ちょっと訊きたい事があるんだけど、いいかな?」  それは朝食の片付けも終わり、居間に俺たちしかいない二人きりの時だった。 「うん」  ふたみは掃除の手を止めて、俺へと向き直る。 「あのさ。ふたみ、俺の事をどう思う?」 「ム、ムコ、だ」  あれ。訊き方が悪かったかな。 「い、いまさらなんだ。と、突然」 「あ、いやいや、違う違う。そうじゃなくて……」 「むっ」  あれ?なんか、ふたみ怒った?  こんなに喜怒哀楽の激しい娘だったかな。 「ああ……そうじゃなくてさ。結婚の事とかさ、ふたみはどう思ってるのか訊きたくてさ」 「どう、って……」 「一度、ちゃんと訊いておきたかったんだ」 「…………」  すると、ふたみは不意に、 「ごめんなさい」  きちんと床に正座すると、深々と頭を下げた。 「えっ! ちょ、ちょっとふたみ!?」 「私に至らないところがあったんだな。そんなに遠回しに言わないで、悪いところはどうかはっきりと言って欲しい。ちゃんと直す」 「いや、そうじゃなくてっ」 「手心は無用。さあ、一思いにサクッと、ヨメを躾けてくれ」 「だ、だから……」 「さあ。サクッと」 「……さ、策だけにな」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「……ぐすっ」 (泣いたっ!?)  ──まず、何だったか。  そもそも、どうしてこの街に来る事になったんだったか─── 「……策」と。  思いつく限りパズルのピースを拾い集めて、断片的に組み合わせては浮かぶ言葉。 「策。これから会いに行くのは──」と。  ──そうだ。  あの時、白爺さんが何か言っていた。  ──何だ?  なんだっけ───  確か、そう……。  ぶ……。 「……じゃ、じゃあ」  思い出しかけた時、ふたみが口を開いた。 「ん?」 「…………」 「ふたみ?」 「い、いや。なんでもない」 「なんだよ。言いかけてやめるなんて、ふたみらしくない」 「…………」  どうしたんだ?  ……訊き辛い事なのか? 「俺も変な事を訊いちゃったしさ、答え辛い事でもちゃんと言うから」 「……ほ、ほんとうか?」 「本当本当」  やっぱり訊き辛い事なのか。  いったい何だろう? 「じゃ、じゃあ訊くがな」 「ああ」 「オマエは、私の事をいったいどう思ってるんだ」 「──え?」 「ちゃ、ちゃんと答えるって言ったんだから、ちゃんと答えないとダメだぞっ」 「え、えと、それは……」 「オトコはこういう時ははっきり答えないといけないって、ばあさまが言ってたぞっ」  なんか違くね?  ……そういう話なの? 「ま、待て。落ち着け。落ち着け」  と自分に言い聞かせると、 「わかった。落ち着いて聞く」  ふたみが実に素直に落ち着いた。  胸に手を当てて、大きく深呼吸。 「よし。来い」  けれど、まだ頬が──どころか耳まで真っ赤だ。 「…………」  ──ふたみは真顔で、俺をじっと凝視している。 「俺は、ふたみを……」 「うん」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「とても……いい娘だと思っています」 「“とてもいいヨメ”には、まだまだ足らないか」 「いや、勿論、ふたみをお嫁さんにできる人はとても幸せだと──」  途端、これ以上ないくらいに真っ赤だったふたみの頬が、さらに朱に染まった。 「よし」  妙に力の入った一言を呟くと、すっとふたみは立ち上がった。 「私は頑張るぞ。ああ、もっともっと頑張るとも」 「いや、あの、ふた……」 「必ずお主人ちゃんに“とてもいいヨメ”だと言わせてみせるからなっ」  興奮した様子でふたみは居間を出て行った。 「……えっと」  まあ、いい娘には違いない。  ──思い出した。  あの時、白爺さんはこう言ったんだ。 「分家」と。 「唯井家とは、巽家の分家」と。  ……なんだか納得してしまった。  そう考えれば、何もおかしな事はない。  分家の人間が宗家に嫁ぐ。  だから、やっぱり二つの家の間で何らかの取り決めがあったんだ。  本人に何も知らされていない今の状況、冠婚葬祭ともなれば一家の主だった人間が出てくるはずなのに──とか、納得いかない点も多々あるけれど。  その背景には、きっと様々な事情があって。  それはまだ見えていないものの。  それでも、辻褄は合った。 (……今時、分家も何もないだろうけど)  それが率直な感想だった。  それでも、俺だって巽の人間には変わりない。  失格した今となっても、巽である事には何の変わりもない。  ……『巽』は『巽』。  自分の家がどういう家なのかくらいは理解している。 (……家に電話して、直接訊いてみるかな)  それが一番早いのはわかっている。  けれど、その行為を取る事に抵抗があるのも事実だった。  白爺さんの言葉を借りるなら、俺は「巽の代表」としてこの街に来ている。  だから、何ら恥じる事はない──しかし、それは理屈だ。  理論武装しているだけ。  借り物の言葉で体裁をつくろっているだけ。  俺は失格した。  だから俺が真っ先に手を上げた事を、皆は恐らく承知している。  一つ大きく深呼吸して、携帯のボタンを凝視する。  リダイヤルではなく、俺はあえて、電話番号を一つ一つ押していった。  一つ一つ、ボタンが戻ってこないほど強く押し込んで。  ──それから。  それから、ゆっくりと、通話のボタンを押した。 「…………」  ……今更、どうだってんだ。  そんな事を気にして──気にして抵抗を感じれば感じるほど、自分が惨めになるだけじゃないか。  第一、俺はもう自覚したんだから。  畜生、さっさと繋がりやがれ。 「あれ? 街中なのに……」  ──通じなかった。  携帯の画面には、“圏外”の表示が出ていた。  少し動いたくらいでは、アンテナが立つ事はなかった。 (この辺り、電波悪いのかな……)  そう考えながら。  ……どこか、安心している俺がいた。  そんな自分が、堪らなく嫌だった。 #«5月31日»  ふたみの照陽菜。  確かに一ヶ月あれば、できない量じゃない。  そういう意味で現実味がないわけじゃない。  けれど、俺たちが空明の里へと足を運べるのは授業が終わってからだから、そんなに時間があるわけじゃない。  暗くなれば掃き掃除もなにもないのだから。 「別に、授業休んでやってもいいんじゃないか?」  だから、俺はそう訊いたんだ。  それは登校時の事だった。 「確かに、誰も何も言わないだろうな。むしろ応援してくれると思う」 「だろ?」  俺は──焦っていたのかもしれない。  今日は5月31日。  もう、今日で5月は終わってしまうんだ。 「だけど、勉学は大事だぞ」  真面目なふたみがそう言い返してくる事は、なんとなくわかっていた。 「それはわかるけどさ、勉強なら後からでもできるじゃないか。『双子座』の期間は今しかないんだから」 「しかしな。私は幼稚園の頃から今日まで、一度しか学校を休んだ事はないぞ」  ──それはすごいな。  予想外の返答だ。 「あれ? じゃあふたみ、最初に会った日はどうしたんだ? あの日は、確か火曜じゃなかったか?」  長年住み慣れた家を出た日だ。日付までよく覚えている。 「だから、一度だけ休んだのがその日だ」 「え……」 「どうしてそんな顔をする。ムコと会う日だぞ。どっちが大切かなんて決まってる」 「ふたみ……」 「な、なんだ。その顔は」  思わずじっと見つめていたら、ふたみは顔を赤くした。 「お、おかしいか」 「いや、おかしくないよ。……ありがとな」 「べ、別に礼を言われる事じゃない」  でも──嬉しかったんだ。  子供の頃からズル休みなんか一度だってした事のなかったふたみが、その為に学校を休んでくれたって事が。  ──見上げた空は。  何故だか、いつもより近くに感じられた。 「あ。でもふたみ、病気の時とかどうしてたんだ? 風邪とか」  実は風邪をひいた事がないとか。  自己管理がしっかりしてそうだから、あながち可能性がないでもない。 「風邪をひいたくらいでは休まないぞ」 「いや、でも熱とか」 「お主人ちゃんは、39度くらいの熱で学校を休むのか?」 「休むだろ!っていうか休もうよ!」 「根性が足りない……」  ふたみは首を振り振り、溜息をつく。  なにそれ根性とかの問題なの? 「勉学は尊いんだ。ちょっと脳細胞が死滅したくらいで、学ぶチャンスを逃してたまるか」 「いや、一日無理をして残り四日休む事になるより、一日ちゃんと休んで残り四日出る方がいいっていうのが俺のモットーだから」 「詭弁だ」 「効率的と言ってくれ」  そんな事を話していたら、いつの間にか学園に着いてしまった。  今日で5月が終わる。  ……終わってしまう。  双子座の期間は、5月21日から6月21日まで。  明日にはもう6月に入ってしまう。  残り、21日。 「貴方は本気ですの?」  ──胸の奥に木霊する言葉。 「彼女がおっしゃっている事が正しいと、本気でお考えですの?」  俺は……。  ……俺は逃げているのだろうか。  何から?  ……何もかもからだ。  俺は巽の家から逃げ出した。  家に居辛くなったとか、居場所がないとか、そんなものは言い訳だ。  俺は、失格した事実を受け入れる事ができなかったから、逃げ出したんだ。  本当に受け入れる事ができていたのなら、俺はここにはいない。  でなければ、どうして未だに巽の苗字を口にする事を避けている? 「お前はいったいどんな才能の持ち主なんだ?」と問われるのが怖いからだろう?  その視線に耐えられないからだろう?  ……もし、本当にふたみの事を考えるのであれば。  俺が逃げていては始まらない。  第一、失礼だ。  逃げているくせに、俺がこんなふうに──ふたみの心配をするなんて。  自分自身をふたみに重ねて……自分勝手もいいところだ。  まずは、向き合おう。  未だ失格した事を受け入れられずにいる自分がいるのなら。  その上で、ふたみに対してできる事を考えるべきだ。  しっかりしろ! 巽策!! 「……よし」  ──一つ気合を入れて。  俺は、ふたみの許へ向かった。 「ふたみ」 「ん?」 「……んとな」 「ん? 疲れたのなら、私の事は気にせず先に休んでくれ。私も明日の朝食の準備をしたら寝るから」 「あ……いや、そうじゃなくてだな」 「?」  ……どう切り出すか。  よし、そうだな。まずは。 「……なあ、ふたみ。巽の家の事を覚えているか?」 「うん。覚えてるぞ」  あ、あれ?  てっきり、また「記憶にない」とか言われるかと思ってたんだけど。  俺の事は覚えてなくても、巽の家の事は覚えてる……って事だろうか。  そんなに印象薄い子供だったのか。  と、少しヘコむ。 「覚えてないって、前に言ってたような」 「うん。お主人ちゃんの事はまったく覚えてない」  はっきり言われると結構ヘコむわ。 「……とりあえず、巽の家の事は覚えてるんだよな?」 「うん」 「どんな事を覚えてる?」 「著名人が沢山いるとか」 「いや、違う」  ──そうだ。これでいいんだ。 「沢山、じゃない。正確には、俺以外のみんながそうだ」  これでいい。 「俺だけが有名になれなかった」 「…………」 「みんな何がしかの道において、一角の者になれる才能を持っていた。そして、見事にその才能を開花させた者たちばかりだ。  俺だけがそれをできなかった。俺だけが落ちこぼれたんだ」  ──はっきり言おう。 「俺は『巽』の人間として、“失格”したんだ」 「…………」 「だから、ふたみ……」 「……その」 「ん?」 「ご、ごめん」  ふたみは珍しく弱り気な表情を見せた。 「いや、違う違う。そういう意味じゃないんだ。  悪い。言い方が悪かったな。えっと……」 「…………」 「いや、本当に違うから。そんな顔しないで」 「う、うん」 「……俺は、失敗した人間の気持ちを知っている。  それこそ何年も、物心ついた時から始めて十何年もかけて努力して、その上で想いを果たせないという事がどういう意味を持つのか、少なくとも俺なりには理解しているつもりだ」 「…………」  ごめんな、ふたみ。  こんな伝え方しかできなくて。 「これは、俺自身がそう思い込んでしまっている、という事じゃない。巽の当主にはっきりと言われた事だ」 「……はい」  泣き言にしか聞こえなかったら、ぶっとばしてくれてもいいからさ。 「……だから」  だから─── 「もし、同じような目に遭いそうな人がいたとしたら。  できれば。俺にできる事が少しでもあるのなら、力になりたいと思うんだ」 「はい」  ……どんなに。  そうだ。どんなに─── 「どんなに願ったって、手に入らないものだってあるんだから」  その時、人は諦めなければならない。  何年かけていようが。  どれほど強く願っていようが。 “それ”は自分の手には入らないのだと──自分の思い通りには決してならないのだと。 “願いは折れた”。  そう痛感するのは。  他人に言われた瞬間ではなく、自分で理解してしまった時。  それでも。  わかっていても、すがり続けていたら。  その時、どれほど惨めな想いをするか───  ふたみにそんな想い、させたくない。 「ふたみ」 「はい」 「ふたみが今やっている、照陽菜の事なんだけど」 「…………」 「……その」  まだ取り返せる。  まだ間に合うんだ。  だったら、今日は哀しくても、明日の機会の為に。  今日哀しむのを恐れて明日に引き伸ばしてしまったら、明日得る事ができたはずの機会は永久に失われてしまう。 「勿論だ。願っているだけでは、想いは叶わない。けれど、私は天文委員に選ばれた。願いを叶える機会を得たんだ」 「わかってる。ふたみは舞台に立ったんだ。その資格を得たんだ」  ──でも。 「だからこそ、その機会は有効に活かさないと」  でないと後悔する事になる。 「ふたみは、まだ、間に合うから……」  どうか気付いて。  気付いてください。  このままだと、ただの自己満足に終わってしまう。  それは、お前の望みじゃないだろう?  ──輝く事のない星空の下で見せた、あの表情。  あの時、お前が語ってくれた素肌の想い。  それが本当なら。  本心だと信じているから。  失格した人間に、失格したからこそできる事があるのなら。 「ふたみが選んだ、童話をなぞらえたやり方。とても素敵だと思う。  けど、このままだと」  ──自己満足に終わってしまう。 「自己満足に終わってしまう」  よし、言えた。  言葉は選べなかったけれど。 「…………」 「ふたみ……」 「それが、お主人ちゃんが言いたかった事か」 「……そうだ」 「そうか……」  ──正直。  こんな事は胸の内に秘めて、ふたみが満足いくまで付き合っていた方がどれだけ楽だっただろう、とは自分でも思う。  けれど、その結果として待ち受けるものを、ふたみに負わせたくない。  その気持ちはきっと伝わると、信じているから。 「一つだけ言わせて欲しい」 「なんだ?」 「私は、このやり方を変えるつもりはない」 「ふたみ……」  ふたみは真っ直ぐに俺を見ていた。  決して目を逸らしたりはしていない。 「ちゃんと言ったぞ、お主人ちゃん。嫌なら、そうはっきりと言ってくれと」 「嫌だって言ってるんじゃない。俺はただ──」 「同じ事だ。私のやり方が子供染みていると、馬鹿げていると思っているのなら、そんなものに付き合う必要はない」 「そんな事は言ってないだろう! だから俺は──」 「私のやり方では雲は決して払えないと、そう思ってるんだろう?」 「そっ……」 「私は、お主人ちゃんにお願いしたんだ。“一緒にやりたい”と。無理に付き合ってくれだなんて言ってない」 「違うだろ。今はそんな話をしているんじゃ──」 「そういう話だ。お主人ちゃんは、はっきりと言ってるんだ。オマエの選んだやり方を信用する事はできないと。だから失敗する前に、違うやり方を考えようと」 「…………」 「ありがとう。はっきり言ってくれて。私は、その、言い回しが上手くない人間だから、自分にも……はっきりと言ってもらった方が……いい、人間だから」  いい、って。  そんな事を言いながら、そんな顔するなよ。  他人と話す時は決して目を逸らさないくせに、こんな時に限って……。  違う。違うだろ。  俺、こんな口喧嘩みたいな事で、ふたみを哀しませるつもりなんて……。 「色々、その、ありがとう。とても感謝してる。それから、私の事を気遣ってそう言ってくれた事も、本当に、ありがたいと思ってる」  僅かに震えたふたみの声が、胸に鋭く突き刺さる。  今日は哀しくても、明日の機会の為に───  でも、これは違うだろ。  これじゃ、ただふたみを傷つけただけじゃないか!! 「しっ……!」  信じていない、とふたみはそう言った。  違うんだ、ふたみの事は信じている。  俺は今、そう言い出すつもりだったのか?  ただ、今言いたい事はそうじゃなくて、と続けるつもりだったのか?  ──ふたみが言っている事を、俺は否定できるのか?  できるはずなんかない。  ふたみのやり方は間違っていると、そう思ったからこそ俺はこの話を始めたのだから。  自分は失格した人間だから。  その意味がわかるから。  今ならまだ間に合うから。  ──俺は、何を言った?  ふたみに、はっきりと、何を言った? 「本当に、ありがとう。私は、その……言い辛い事を言ってくれたのに、申し訳ない……んだが。もう少し、このやり方を続けてみたいと思う。いや、続けたいんだ」 「俺、は……」 「ごめんな、お主人ちゃん。ごめんなさい。  どうか、私の事は気にしないで欲しい。その、自分から頼んでおいて、本当に申し訳ないんだが、しばらく好きにさせてくれないか。  勝手な言い草だと……承知してるが……も、勿論、家の事もちゃんとやる。だから、というのもおかしいが……」  ──勝手?  ふたみは勝手な事なんか言っていない。  一方的に捲くし立てたのは─── 「あ、ええと、委員会……の事なんだけれど。これも、お主人ちゃんには迷惑……だったんだよな。  これも、ごめんなさい。  あれは、自分でも強引だとは思ったけれど、どうしても、お主人ちゃんと一緒にやりたくて。ずっと待ってたの、本当だったから。  ……そんなの言い訳だよな。ごめんなさい」  なんだよ。  今になって、そんな──謝るなよ。 「…………」 「ふた……み」 「えっ……と。その…………………………もう、寝る……寝ます。  おやすみなさい。  ……本当に、ごめんなさい」  いたたまれなくなったように、ふたみはその場を立ち去った。 「…………」  独り、その場に残された俺は。  急に壁にもたれかかって。  どうしてか、いつまでもふたみが去っていった方向を見つめていた。 #«6月1日» 「生きているという事は、動いているという事だ」  そう主張した、ある傲岸な哲学者がいる。  あえて暴君の揺り籠に揺られるのならば、生きている事を証明する為には、動いていなければならない。  ──そこは大気の流れが止まっている。  流れるべき時間が止まり、澱み、歪み、朽ちている。  ならばそこは、骸の閨だ。  締め切った部屋に漂う芳香。  濃密な空気と溶け合う香りは濃く、それはすでに匂いとは呼べず臭いとなってこの空間に吸着していく。  そうでもしなければ、この死体臭さは隠せないのだから──と、部屋の主は歪に口許を変ずる。  くぐもった笑い声。 “連中”の慌ただしくなってきた動向を感じて。  思案の為所は、こちらはどう動くべきか、という事。  死んだ大気と壊れた時間とが流れ着くこの最果てで、動くものなきこの墓場で、いかに動くべきか打算を巡らせるとは実に滑稽──三日月を口許に貼り付けて苦笑するも、それはすぐさま憤怒へと鎔けていく。  ──忌々しい。  その呟きを、これまでどれほど繰り返してきただろう。  人という種が性交の末に捻り出され、塵の如く朽ちていく様を何度見届けながら、どれほどの嘆きを呪詛として解き放ってきただろう。  部屋の主は独り、数えるのも馬鹿らしいほどに繰り返されてきた溜息を吐き出す。  大気に放った溜息は循環するのではないのかと疑うほどに。  独りごち。  しかしそれは、部屋の隅にたたずむ絡繰との対話だった。  ……上手く、なかった。  ただその言葉だけが、昨日から俺の頭の中に何度も浮かび上がっては消えていった。  結局、一睡もできないまま。  昨日は、ふたみは俺の部屋に来なかった。  独りの布団があんなに広いものだなんて、今更──本当に今更ながらに気付かされた。  そういえば、ふたみが初めて俺の部屋に来た時───  あの時も、俺は一睡もできなかったんだっけ。  ふたみと一緒の時も眠れず。  独りでも眠れないとは。  そんな事を考えて、苦笑した。  ……俺は、間違っていたんだろうか。  あんなふうに、ふたみを哀しませるつもりなんかなかった。  言い方が悪かった事は反省しなきゃいけない。  ……ただ。 (……はぁ)  正直、よくわからない。  でも、ふたみの言葉に対して言い返せなかったのも事実だ。 (どっちが正しいとか間違っているとか、そういう問題じゃないんだろうな)  ……まずは、謝ろう。  それだけは間違いない。  ふたみを哀しませたのは事実なのだから。  その上で。  ──その上で?  どうすればいいんだろう。  6月の1日……か。  十二支に入る事のできなかった鼬を哀れに思った神様は、月の初めの日を“ついたち”と呼ぶように定めた──だっけ? 「おはよう、さっくん」 「おはようございます」 「……雨だね」  傘姉は外を見上げて呟いた。 「あ……そう……ですね……」  正直、世間話をしている気分にはなれなかった。  ──けれど傘姉は、そんな俺の気持ちを知っているかのように、顔の顔を見て微笑むんだ。 「雨はね。一度降り出しちゃったら、仕方ないんだ。ヒトの気持ちと一緒で、止まれないから」 「え?」 「長く続く雨は、憂鬱になるけれど──いつか、雨が降って良かったなって、思える時がくるんだよね」 「雨が降って……良かった?」 「なんだっけな。雨降ってなんとか……なんだっけな?」  そんな事を言いながら、傘姉は廊下を歩んでいった。 「あ」  居間への襖を開いた時。  そこには朝食を並べるふたみの姿があった。 「あっ……と」 「ちょ、朝食の準備はできてるぞ」 「あ……ああ。いただくよ」  朝早くから。  この家の誰よりも早起きをして。  食事の準備をしてくれるふたみ。  学園で授業を受けて、公園で掃除をして、家では一手に家事を引き受けているふたみ。  ……誰よりも遅く寝るふたみ。  それなのに、一言だって愚痴を言わないふたみ。  真面目で真っ直ぐで、決して弱音を吐かない─── 「……ありがとう」 「え?」 「ご飯。いつもありがとう」 「ど、どうしたんだ突然」 「ありがとう」 「…………」 「それから。掃除とか、洗濯とか、戸締りとか、後片付けとか……みんなみんな、いつも本当にありがとう」 「な、なんなんだ、いったい」 「どう考えても、分担するべきだと思う」 「それはダメだ。ヨメの仕事だ」  ふたみはぴしゃりと言う。 「はは……」 「今日のお主人ちゃんはおかしいぞ。いったいどうしたんだ」 「──ごめん」  俺は頭を下げた。  いつもふたみがやっているように、身なりを正して、姿勢を正して。 「え……」 「昨日の事。本当にごめん」 「……お主人ちゃんが謝る理由なんかない。お主人ちゃんは、自分が思った事を言っただけだ」 「言い方が悪かった」 「それなら、私だって謝る必要がある。私の言い方は、いつも、何かがおかしいらしいから……」 「ダメだ。ふたみは昨日謝った。だから今日は俺の番だ」  俺はぴしゃりと言う。 「あ、謝る事に順番も何も……」 「俺はふたみを傷つけるような事を言った。だから謝るんだ」 「そ、それなら私も……」 「ダメだ」 「いや、私も謝る」 「強情だな」 「お主人ちゃんこそ」 「…………」 「…………」 「ごめんなさい」 「ごめんなさい」 「ごめんなさい」 「ごめんなさい」  ──二人して正座して。  お互いに頭を下げていた。  何だかもう、先に頭を上げた方の負けみたいな感じになって。  しばらく畳とにらめっこしてたんだけど──ふたみの様子が気になって、ちらちら向こうを見ていたら。  ふたみと目が合っちゃって。  ──そしたら。 「あははははっ」  何だか、抑えていたものが一気に溢れ出たような気がして─── 「……ぷっ……ふふっ」 「あれ? ふたみ、今笑った?」 「笑ってないぞ。……ふふっ」  ──ほんの少しだけ生じた、ふたみの表情の変化。  それがなんだか、嬉しくて。 「……ごめんな。本当に」 「もういいよ。私だって、お主人ちゃんがそんなつもりで言ったんじゃないって、わかってたんだ」 「…………」  わかっていた、とふたみは言った。  ──でも、と、きっと続く言葉がある。  けれど、ふたみがそれを呑み込んでしまう性格だってわかってる。  だから。 「あのさ。よかったら、どうして照陽菜にあのやり方を選んだのか、教えてくれないか?」 「え?」 「知りたいんだ」  俺は真っ直ぐに、ふたみを見つめる。  真っ直ぐなふたみには、真っ直ぐにぶつかっていくべきだったとようやく気付いたから。 「……それは」 「うん」 「い……言わないとダメか?」 「ダメだ」 「…………」  ふたみはしばらく俺の目を見つめていたけれど─── 「わかった」  根負けしたかのように、ぽつりとそう言った。 「これは、ばあさまの夢だったんだ」 「ふたみの……お婆さん?」 「うん」  ふたみは頷いた。 「前回の……百年前の『双子座』な、これは、私のご先祖様なんだ」 「え?」 「あの童話を模す事で……というやり方は、そのご先祖様が選んだ照陽菜だったんだ。  けれど、途中で……理由はわからないけど、最後までやり遂げる事ができなかったらしい。  ご先祖様は、それをずっと悔やんでいたそうだ。その姿を見て育ったばあさまは、ご先祖様の為にも、自分が代わりにやり遂げようと思っていたんだが……」 「お婆さんの時代には、照陽菜はなかった……?」  ふたみのお婆さんが幾つかはわからないけれど、普通に逆算して二世代前に照陽菜はないだろう。 「うん。望んでもその機会を得る事のできなかったばあさまは……私が天文委員に選ばれた時、本当に喜んでくれた。その時から、私のやるべき事は決まっていたように思う」 「じゃあ……ふたみは、お婆さんの為に?」 「それも勿論ある。でも、それだけじゃない。  ご先祖様からばあさまへ、ばあさまから私へ……これは、そうやって唯井の家系に受け継がれてきた事なんだ。  だから、私は……」  言いかけたきり、ふたみは押し黙ってしまった。 「…………」 「ふたみ?」 「わ、私は……」 「うん」  続く言葉は、きっと大切なものだから。  俺は自然と姿勢を正して、ふたみの言葉を待ち受けた。 「──私は」  そしてゆっくりと、ふたみは覚悟を決めたようにこう言った。 「『唯井ふたみ』が巽策と一緒になる為に、必要だと思ったんだ」 「…………」 「だから私は、このやり方を変えるつもりはない。  そして、巽策。他の誰でもない。アナタと一緒にやる事に意味がある」 「…………」 「それが、私がこのやり方を選んだ……理由だ」 「……そうか」  ふたみが拘っていた理由は─── 「ほ、ほんとうは、全部終わってから言おうと思ってたんだ。これだと少し……早すぎる。私にも段取りというものが」 「そりゃダメだ、ふたみ。今聴いたから良かったんだ」 「ダメなのか」 「ダメだ」 「ダメばっかだな」 「ああ、ダメダメだ」  俺が。 「決めたよ。ふたみ」 「ん?」 「俺はふたみと一緒に、ふたみが選んだ照陽菜をやり遂げる。いや、やらせて欲しいんだ」 「…………」 「こればっかりは、ダメって言われてもやるからな」 「……いいのか?」 「良いも悪いもない。俺が決めたんだ」 「だって……」 「だっても何もない。俺が、俺自身の意思で、俺の為に決めたんだ」  ──そう。 「家がそうだから」とか。 「誰かに認めて欲しいから」とか。  そんなんじゃない。  これは、俺自身の決断だ。  ──だから。  俺は、俺たちが選んだやり方を信じる。 「…………」 「ただ、やっぱりやるなら、ふたみの了解は得ておきたい。嫌がってるのに一緒になんてできないからな」 「い、嫌なわけないだろっ」 「──じゃあ、いいんだな?」 「うん……」 「決まりだな」 「……お主人ちゃん」  一呼吸置くと、ふたみはたたずまいを正した。 「私は、この事を双子座の期間が終わるまで言うつもりはなかった。お主人ちゃんは、今聴いたから良かったと言ってくれたが、私は事前にこんな事を言うのは卑怯だと思ったんだ。  ──でも、もう伝えてしまった。だから、一つだけお願いがある」 「なんだ?」  ふたみの眼差しは真剣だ。 「もし私が……私たちが、私たちの選んだ照陽菜をやり遂げる事ができたのなら。  その時は、お主人ちゃん……アナタの答えを聴かせて欲しい」 「俺の……答え?」 「お主人ちゃんが私の存在に戸惑っている事は知っている。  私はずっと昔から聞かされていた事だが、まさか相手の方が婚姻について知らされていないとは思ってなかった。  ──だから、お主人ちゃん。  私はアナタの答えが欲しい。  アナタが選んだ答えを、私は受け入れる」 「…………」 「お願いします」  そうして、ふたみは深々と頭を下げる。 「……わかった」  その眼差しから目を逸らす事はできなかった。 「為すべき事を為した時、ふたみ、お前に俺の気持ちを伝える」 「ありがとう」  本当か、などとふたみは訊かなかった。  ただ、ありがとうと言って、頭を下げた。 「必ず成功させよう、ふたみ。  俺たちが選んだやり方を、俺たちの手で為し遂げよう。  ──街中に星々の瞬きを見せつけてやろう」 「モチロンだ」  頼もしい相棒と二人。  ──同じ日に生まれた二人。 『双子座』は、夜空に輝くカストルとポルックスの如く、互いを認め、握手を交わした。 「さ。そうと決まれば……お腹空いたな。ご飯、いただくよ」 「あ、うん。……あれ? そういえば、おねさまたちは遅いな」 「ふわぁ〜、おはよう〜」  ──明らかに冴えた目をわざとらしく擦りながら、メメが入ってきた。 「おはよう」 「おはようございます」  俺は傘姉に頭を下げた。 「雨降ってなんとか……なんだっけな?」  ──地、固まりました、傘姉。  多分、二人とも襖の向こうにいたんだろうな。  入るに入れなくて、ずっと立ち往生していたんじゃないだろうか。  朝食の間中、メメが妙に俺に優しかったから間違いない。  傘姉もいつも以上ににこにこして。  二人は終始、嬉しそうだった。  ──昼休み。 「お主人ちゃん」  いつものように、ふたみが弁当を持って俺の許へと現れる。 「悪い。先に食べててくれるか?」 「どうかしたのか?」 「ああ。ちょっと、先に済ませておきたい用事があるんだ」 「そうか。じゃあ、屋上はまだ雨天時のまま締め切られていると思うから、教室で待ってるな」 「ああ、ふたみ。俺の事は気にしないで──」  言った時には、すでにふたみは俺の座席近くの空いた席を動かして準備を整え始めていた。  自分を中心にではなく、あくまで俺を中心に動かす辺りが彼女らしい。  俺が戻るまで、弁当箱も開けないでずっと待ってそうだな。  これはのんびりしてられない。  ──人間、気持ちが切り替われば行動は早いものだ。  朝、家を出てからずっと、まとまった時間が取れるのを待っていた。  俺が取り出したのは携帯。  用は一つだ。  ふたみと約束を交わしたからこそ。  俺は俺で、やるべき事をやらないとならない。  ──今、俺の周りで、いったい何が起きているのか。  それを知らなければならない。  俺はリダイヤルキーを押し、巽の家に電話をかける。  ──白爺さんなら、この時間でも家に居るだろう。  今なら面とだって向かい合える。  そう思える自分が、少しだけ誇らしかった。 (あれ?)  表示を見ると圏外になっていた。  ……ここもか。  場所を変えよう。  聴き取り辛くなるから、できれば人気のないところがよかったけれど。  まあ、そんな心配しなくても、昼休み中だからたいして生徒の姿はないか。  教室だと、さすがに迷惑になるし。  ──よし。  俺は再びリダイヤルキーを───  ここも圏外だった。 「……こ、ここまで来れば……」  なにをやってるんだ俺は。  それもこれも、やたらと圏外なこの受信状況が悪い。  雨が上がったからいいようなものの……。  ──さあ。気を取り直して電話を── 「また圏外ってどういう嫌がらせだよっ!!」  あの学園は生徒が携帯を使えないようにでもしてあるのか!? 「お。待ってたぞ」 「おそいよー。お腹空いたよー」 「すまん……先に食べててくれればよかったのに」  というかよく昼休みの間に戻ってこれたな、俺。  ふくれているメメの表情は、「だって、おねーさまが策を待ってるって言うんだもん。愛だけ先に食べてるわけにはいかないよ」と暗に語っている。 「重ねてすまん。遅れてしまって」 「いや、そんなに待ってないぞ。随分と早かったな」 「予想外のオチがついてな」 「?」 「食べよっ。食べよっ。おねーさまっ」 「そうだな。では、昼食にしよう」  ──さり気なく携帯を見てみたけれど、やっぱりここも圏外。  学園はどうも駄目だ。地理的な問題だろうか。  そういえば、思い返してみると携帯を使ってる生徒を見た事がない。  あまりに日常的なアイテムだから、使ってるかどうかなんて気にした事はなかった。  みんな、学園周辺じゃ使えないってわかってるって事か。 「おいしー」 「ありがとう。ほら、お主人ちゃんも食べてくれ」 「ああ。いただきます」  ──こうなったら放課後だな。  後で、改めて電話しよう。  ──空に雲が集まってくる頃合になると、俺たちは自然と手を休める。  それは暗黙の了解であり、その日の作業の終わりを意味していた。  日々の積み重ねの中で染み付いた、二人だけの慣習。  いつもと同じ事なのに。  何故だか、昨日までとは景色から違って見えた。  大袈裟かもしれないけど、本気でそう思った。  ──いい汗かいた、と。  気持ちの良さと同時に、その日が終わってしまう事をもどかしくすら感じた。  そういえばケータイだけど、帰り道でも公園でも、自宅に戻ってからも表示はずっと“圏外”のままだった。  どうやら、俺のケータイの方が壊れてしまっていたようだ。  平日はふたみと一緒だから──次の休日にでも、少しだけ時間をもらって修理しに行こう。  最悪、買い替えかもしれない。 「お主人ちゃん。ちょっといいか?」  夕食からしばらくして。  自室に戻って気分良く寝ようとしていた時、ふたみが部屋に入ってきた。 「ん?」 「家の掃除をしていたらな、妙なものを見つけた」 「妙なもの?」  ふたみが取り出したのは、黒皮の手帳だった。 「……何これ?」 「さあ」 「さあって」 「中身を確認してないからな。何であるのかまではわからない」 「確認してないって……見つけたのに?」 「失礼な事を言うな。勝手に見る訳がないだろう。  知ってるぞ。お主人ちゃんの部屋で、えっちな本とかを見つけても、黙って元の隠し場所に戻しておくのがヨメの礼儀だという事を」  ちょっ!! 「な、何か……俺の部屋で見つけた?」 「ん。天井裏のビニール袋に包まれた三冊と、本棚の裏の二冊、及び参考書の隙間に巧妙に隠されていた切り抜きの事か?」 「ちょちょちょちょちょっ!!」 「あ、いや、何も知らないぞ。うん。何も見つけていない」  すげー嘘がヘタクソなんですが。 「知らない。知らない。黙って元の隠し場所に戻しておいたから、私は何も知らない」  なにそのお母さんの美徳。  つか見つかってたのかよ畜生っ!! 「それにお主人ちゃんが、う、浮気とかしても、その辺は気付いていない振りをするのがヨメの務めだろう。それくらい、わきまえてるぞ」  なんかまた、大きく方向性を見失った勘違いが……。  というか、どこから情報を仕入れているんだ、この娘は。  そして何処へ行くのだろう。 「だから、それも元の場所に戻しておこうかとも思ったんだがな。なんとなく、お主人ちゃんのものではないような気がしてな」 「どうして?」 「ふふん。ヨメのカンだ」 「なにその得意げな眼差し」 「でも、実際にお主人ちゃんのものではないんだろう?」 「うん、まあ。その通り」 「ふふん」  ふたみは勝ち誇ったかのようで、どことなく嬉しそうにも見えた。 「……とりあえず、この手帳の中身を見てみるか」 「あ。では私は行くな」 「なんで?」 「私も見ていいのか?」 「当たり前だろ。隠す理由がない」 「そうか」  ふたみはやはり嬉しそうだった。  パラパラとページを捲っていく。 (しかしこれ、かなりの年代物だな……)  紙なんか完全に黄ばんじゃってるし、インクも随分と薄れてしまっている。表紙の皮もボロボロだ。  普通に考えて、この屋敷に以前住んでいたっていう、ウチの祖先のものだろうな。  リフォームしたせいか、そのテの私物はこれまでまったく見かけなかったけど、処分し忘れたという事だろうか。  あれ?でも時代が……。  いくら年代物の手帳っていっても、祖先が住んでいた頃までさかのぼって考えると、逆に新しすぎるんじゃ─── 「──え」  その時。  不意に訪れた符合。  それは、俺の心臓の鼓動を早めた。 「どうした?」  ──どうして。  そんな。まさか───  不思議そうに俺の顔を覗くふたみを見返す余裕もなかった。 「これ……白爺さんのだ……」  間違いない。  文芸作家の巨匠、『巽白』。  この独特の字体──書き順に忠実でありながらも、常に基本そのものを塗り替えるかのように自己主張の強い筆使い。  分類すれば間違いなく達筆の領域に不動の地位を築きながらも、完全に編集者泣かせという矛盾した文章。  こればかりは、何年経とうがそうそう変わるものじゃない。  ましてや、今なお現役である白爺さんの字は、日々使い慣れた───  見間違えるはずなんかない。  開くページ開くページ、そこには無数の漢字が並んでいた。  他に書いてあるものといえば、最初の方のページにあったいくつかの片仮名。  これは……『ミョウ』?  他に……『シ』?  後は……『コウ』か?  残りは、やはり漢字の羅列だらけだ。  ──どういう事だ? 「ふたみ……これ、どこで見つけた?」 「ん? 居間の掛け軸の裏の壁に、押したら開く小箱のようなものがあってな。そこに入ってた」 「……どうしてそんなところを」  先に新たな謎が浮上してしまいました。 「だから、お主人ちゃんのえっちな本の隠し場所を探し……」 「ちょっ!!」  今、何か聞き捨てならない事を言った。 「あ、いや。なんでもない。なんでもない。なんでもない」 「ふたみさん」 「はい」  俺は正座してふたみに向き直る。 「ちゃんと説明しなさい」 「いや、だからな。ムコのえっちな本の隠し場所は把握しておくのが、ヨメの義務だと」 「先程と言っている事が矛盾しています」 「矛盾してない。ムコに気付かれないよう探し当てるのがヨメの義務だが、何事もなかったかのように振舞うのもまた義務なんだ」  怖ぇ。  なんだ。この娘はいったい俺の何を知っているんだ。 「お主人ちゃんのは、全部この部屋にあった。一仕事終えたので、私は満足だ」  ……移動しても絶対に見つかるんだろうな、この分じゃ。  とりあえず都会の片隅で独り体育座りしたい気分になってきた。  ──ま、まあいい。気を取り直して。  居間の掛け軸の裏の壁に、押したら開く小箱のようなものが──か。  明らかに、隠す目的で作られたものだよな。  居間は基本的に当時の在り様をそのままに残してあるから、リフォームの際にも気付かなかった──しかし、元々はこの屋敷に住んでいた祖先が何らかの目的で作った仕掛けだとしても、それを見つけた白爺さんがそこにこの手帳を仕舞ったのは、隠す意図があったとしか考えられない。  ……見られてはまずいもの。  しかし、手帳に書かれた内容に意味らしきものはまったくない。  まず文章ですらないし、並び方は不規則で、ただ思いつくがまま漢字を書き殴ったようにしか見えない。  ──待てよ。  似たようなものを、前にどこかで見たような覚えが……。  ──そうだ。  白爺さんのアイデア手帳だ。  あの人は何処に出かけるにしても、こんな感じの手帳を肌身離さず持っていた。  散歩中に、あるいは街角での雑談中にでも。  小説のネタが思いついたらすぐに書き込めるように、手帳を持っていた。  その中身に似てるんだ。  前に一度だけ見せてもらった事があるけれど、ひらめきが重要とかなんとかで、原稿とは打って変わって内容が取りとめもない。  まともな文章にすらなっていないようなものだったり、場合によっては単語一文字がページの真ん中にでかでかと書いてあるだけだったりする。            「毒」とか。  それでも、白爺さんには意味がわかっているようだった。  それを元に次々とベストセラーを生み出すんだから、その時は、作家ってこういうものかと安易に納得してたけど───  ──え?じゃあこれ、白爺さんのアイデア手帳か?  やたらと漢字ばかり並んでるのは、登場人物の名前を決めようとしてたからとか?  ……あり得る。  何か一気に拍子抜けした。 「なんだぁ……」 「なにかわかったのか?」 「ああ、これ、ウチの爺さんのアイデアノートだよ。小説のネタ帳」  気が抜けたまま何ともなしにページを捲ると、そこには日付らしきものが書いてあった。 (あれ? この年って……)  さすがに月日までは覚えていないが、逆算すれば年度くらいはだいたい想定がつく。  ──昔、俺が白爺さんに連れられて、この街に来た時じゃないか?  ああ、つまりこれは、前にこの屋敷を訪れた時に思いついたネタを書き込んだ手帳で。  偶然見つけた隠し小箱に、丁度良いと仕舞って、そのまま忘れていったと。  白爺さん、前に言ってたもんな。  小説は頭の中に内容があるから何度でも書けるけど、ひらめきは一瞬だって。  だから、原稿用紙なんかよりも、アイデア手帳の方が何倍も大事なんだって。 「寝よっ」  馬鹿らしくなって、俺はそのまま布団に潜り込んだ。 「いいのか?」 「ああ。どうせ俺が見ても意味がわからないものだし。今度電話した時にでも、手帳の事を話しとくよ」 「ふむ……何々。『子』、『皿』、『合』」 「ん?」 「一番最後のページに書いてある。でかでかと」 「じゃあ、登場人物の名前でも決まったんだろ」 「『皿』って名前の人物なのか」 「白爺さんの事だから、ちゃんと深い意味を持たせてあるんだよ。俺にはさっぱりだけど」 「皿さん……」 「俺もう寝るよ」 「あ、待て待て。私も寝るぞ。  ──じゃ、電気消すな」 「ああ」 「おやすみなさい」 「おやすみ」  ──でも。  一つだけ腑に落ちない点があった。  あれだけアイデア手帳を大事にしている白爺さんが、果たして忘れていくものだろうか。  よしんば忘れるような事があったとしても、思い出したらすぐに取りに戻るんじゃないだろうか。 「…………」  ま、いいか。  寝よ寝よ。  ──桜守姫此芽は静かに息を呑む。  ここでは誰もがそう。  通りがかりですら、誰もがその傍に触れるという事だけで、心に筆を渡される。  そして、内に湧き上がる──抑制する事のできない──緊張という名の染料を筆に染み込ませ、顔色を変えていく。  身体の随所に埋め込まれた針を通して背後から糸で引っ張り上げられたかのように、身形を正し、姿勢を正し、顔の筋肉を引き締める。  そこは聖域。  他に何ら劣る事のない名家の誉れを欲しいままとする桜守姫にして、絶対の聖域。  ──ただの一つの無作法も。  ほんの些細な欠礼も。  不躾はまるで別世界。  誰もが頭を垂れる事しか知らぬそこは、聖の領域。  此芽もまた、最早しきたりであるとか掟であるとかいう次元ですら語れぬ桜守姫の絶対を、日々繰り返される“当然の事”として消化する。  それは本当に“当たり前”でしかなかったから。  即ち“考える”とか“受け入れる”とかいう以前の事柄。  此芽はいつものように庭に平伏すと、たっぷりの時間をかけてからようやく頭を上げた。  そうして、“声”がかからぬ事に安堵し──さらに一礼をして、そっと踵を返す。  そこからずっと離れてから。  此芽は振り向き、そして。  寒さに身を凝えさせるかのように、その一言を呟く。 「……『御前』」 #«6月2日»  ……ここはどこだろう。  俺は暗闇の中を泳いでいた。 (俺はどうしてこんなところにいるんだろう)  思い出せ。  ──そうだ。  確か、傘姉が出された料理を次から次に平らげても、まだ物欲しそうにしていて……。  うずうずしてる彼女を見ていたら、俺と目が合っ………………  え?  ちょっと、何この臓腑っぽい色合いに包まれた光景?  とても綺麗な薄桃色ですねー、健康そうな脈動ですねー……って。  俺はもしかして喰わ…… 「おい、お主人ちゃん。お主人ちゃん」 「うーん……うーん」 「おいってば。授業中に寝るやつがあるか」 「はっ!!」 「もう十二指腸っ!?」 「は?」 「あれ……俺はまだ動物界脊椎動物門哺乳綱霊長目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科ヒト属ヒト種に属する生物として定義できる存在のままなのか……?」 「ど、どうしたんだ。その滝のような汗は」  ふたみがたじろぐほどの存在感を醸し出してるらしい、今の俺。 「俺は消化物? まだ自律歩行できる?」 「いったいどんな夢を見たんだ」 「ごっはんー。ごっはんー」  屋上。  いつものように、俺たちはふたみが用意してくれた弁当をいただく。  メメがあの家で暮らすようになってからは、もちろん彼女も一緒だった。  なんか、家の食卓をそのまま学園にまで持ってきたような──そんな不思議な気分。 「ん」 「どうした? お主人ちゃん」 「あ、いや。そういえば、傘姉は一緒に食べないのかなって」  勿論、傘姉だって自分の友達やクラスメイトとの付き合いがあるだろうし、今日まで一緒に食べる機会がなかったって事は、そういう事なんだろうけれど。 「おねさまはな、この時間にはお腹がいっぱいなんだ」 「え!? 傘姉が!?」 「なんだ、その大袈裟なリアクションは」 「いや、だって……なぁ」  とてもじゃないが想像がつかない。  ──待てよ。  傘姉は人一倍朝食を摂る、と考えれば辻褄が合うんじゃないだろうか。  つまり、朝たくさん食べたせいで、夜までお腹が空かない。  そうだ。そうだよ。  いくらなんでもあの量は尋常じゃない。  規則正しい生活から考えるとあまり良いとはいえないけれど、毎食あの量を食べていると考えるよりは遥かに健全だ。 「何を納得した顔してるんだ」 「いやいや。じゃ、いただくよ」  そうだよな。  今朝もご飯を一人で二桁分も食べてたしな。  いやもうこんな事を言ってる時点で現実の話題とも思えないけど、よかった──本当によかった。  傘姉が人類の一員で。 「よし、では廃案だ」 「俺がいつ何を提案した。そして何の権利があって却下したんだ」 「何を言ってる。さあ、ほら廃案するぞ」 「はい?」 「策」 「ん?」 「わかってあげて」  なにをよ?  ふたみは弁当に箸を持っていくと、手頃な大きさの卵焼きをつかんで俺へと近付けてくる。 「廃案」 「…………」 「廃案」  ……えっと。 「さあ落ち着こう。もしかすると。もしかすると、だ。非常に可能性の低い事だとは重々承知しているが、一握りの勇気を振り絞ってあえて発言すると、ふたみは“はい、あーん”と言いたいのか」 「ん。そう発音するか」  お前はそうなんだ、みたいに言うな。 「廃案」 「…………」 「廃案」  意図がわかった以上、これを断るっていうのはすごく失礼な事だよな。  と、俺は目の前に差し出された卵焼きを口にする。  美味い。 「…………」  俺をじっと見つめているふたみ。 「うん、美味しいよ」 「…………」 「策もできる子になったねぇ」 「なにをしみじみと」 「愛も廃案してあげようか」 「メメは尋常ならざる握力で顎を固定しては弁当箱を引っくり返す形で食物を流し込むだけのような気がしてならないから遠慮しとく」 「勘まで鋭くなっちゃって……」 「遠い目をするフリして舌打ちすんな」 「おかえりなさい。さっくん」 「あ、ただいまです」  家に戻ると、ふたみは早速とばかりに夕食の支度に取り掛かる。  いつも通りに放課後の日課を済ませて、男の俺だって疲れてるのに──と言ったところで、そこは頑として譲らない。  さすがにもう諦めた俺ではあるが、俺よりも遥かにふたみの事を理解している傘姉は、帰宅してからずっと食卓を前にこうして待機しているようだと最近になって気付いた。  なるほど。  確かにその方が作る方としてはやる気も出るだろうし、それは家事をしてくれる人への礼儀でもあるだろう。  下手に手伝おうとか疲れてるんだからと止めさせようとするよりも、何倍もふたみに対して報いている。  彼女の気遣いは、いつでもあたたかい。 「ん?」  だから俺も近頃は傘姉の真似をして食卓で待っているようにしてるんだけど、だからこそ気になってきた事があるというか。 (……傘姉っていつも和傘を持ってるよな)  天候に関係なく──っていうか、室内にも持ち込んでるような。  なんて事を何気なく訊いてみると、 「それはね、さっくん。侍は刀を手放さないでしょ?」 「え? ああ……まあ、そうですね」 「ガンマンは常に銃を身に着けているでしょ?」 「はい」 「だからわたしも和傘を持ち歩くんだよ」 「いや意味わかんないですよ」 「これ、武人の心得也」 「わかりました。もうそれで結構です」  さすがはふたみの師匠。  よくわからんが、弟子の比じゃない。 「というわけで、そろそろご飯の時間だね」  まったく不自然な会話の流れだったような気がするんだが、きっと気のせいなんだろう。  これが世に言う処世術。 「そうですね。もうふたみが夕食の準備を始め──」 「ん?」  何そのドンブリ?  いったいどこから出し……もう食った。  そして次のドンブリが目の前に現れる。  和傘。  和傘から出てきたぞ、今。  傘姉が和傘に突っ込んだ手を出した時には、ドンブリを持っていた。 「…………」  四次元。  ほこほこと湯気を立てる親子丼を見つめながら、俺は我が目をうた……もう食った。  …………えっと。 「あの、傘姉。一応……訊いておきたいのですが」 「なぁに?」  滑舌よく喋る辺り、もう飲み込んだという事か。 「今朝、一緒にご飯を食べた後……この時間までに何か口にしました?」 「うん。一時間目の休憩時間に、中華丼を」 「…………」 「二時間目の休憩時間にはとろろ丼、三時間目はネギトロ丼で」 「……あの、つかぬ事をお伺いしますが」 「ん?」 「お昼休みのご予定などは」 「ああ、四時間目ってね、なんでだかお腹が空いちゃうんだよね。だから授業中にこっそり」 「食べて……しまうと」 「うん。だからお昼休みにはお腹が空かないんだよね」  そういう事か───  人類。  人類の消化器官の限界を問う。 「食べようと思えば食べれるんだけどね。でも、やっぱりお腹が空いた時に食べるのが一番美味しいから。美味しく食べてあげないと、お料理にも悪いもん」  傘姉。  言ってる事はとても可愛らしいような気がするんだけど、その、なんていうか、ときめかない。 「……ちなみに、この後のご予定は」 「んー、ここは悩みどころだね。でも親子丼を受けるとなると、次はカツ丼しかないんじゃないかな?」  かな、って意味わかんね。 「ん?」 「なぁに?」という顔をしてる間にも、次のドンブリが現れては空となる。  どこから突っ込めばいいのか、皆目検討もつかないまま、俺は。  とりあえず忘れる事にした。  勿論、出されたふたみの料理も美味しそうに食べていた。 #«6月3日» 「“シ”……“コウ”……」  ──昨日の手帳に書かれた言葉が、知らず口に上っていた。  白爺さんの考えってやつを看破したくて。 「ミョウシコウ……シコウミョウ……至高命……至高の命」  いつの間にやら堂々巡りで、やはり意味はよくわからない。  ──稀代の作家先生の考えを凡人が見抜くのは無理そうだ。  ちょっと悔しいが、素直に諦めた方がいいだろう。  ──さて。  俺の手に握られているのは、先日拾った装飾品。  いつものように公園を掃除している時に見つけた。  物陰で音がしたと思い、何の気なしに近付いたらこれが落ちていた。 (これ、桜守姫さんの……だよな)  どうして桜守姫さんのものだと思ったかというと、誕生日の時、彼女がふたみにあげたプレゼントとお揃いの品だったからだ。  ふたみが部屋に大切そうに飾っていた、桜守姫さんからの贈り物。  何故かメメが「爆弾でも捜してるのか?」というくらい執拗に調べていたけれど──とにかく、明らかに市場で量産されている商品って感じじゃないし、多分、手作りの品だろう。  桜守姫さんの自作か、ハンドメイドの店で売られていたものか注文したものかはわからないけれど、対になるように作られている事から考えるに、この世に二つとあるものじゃない。  店売りの品であれば、デザイン自体は注文されただけ世に出回る事になるだろうけれど、二つ合わせて一つの文字となる部分、これは頼んだ人間によって異なってくる。  ──『姫』。 「愛」とか「夢」とかいった、比較的沢山の人が注文しそうな文字じゃない。  だから、この片割れは桜守姫さんのもので間違いないと思うんだけど……。 (……問題はそこじゃないんだよな)  なんで桜守姫さんが公園にいたのかとか、どうして俺が近付いたら逃げるように去っていったのかとか、そういう余計なお世話はどうでもいい。  問題は、桜守姫さんもこれを大切にしてると思うんだけど──果たして俺が届けに行っていいものか、という事だ。  あんなに照れながらやってきて、わざわざ俺に渡してくれるよう頼んだ想いの片割れだ。  もしかしたら捜しているかもしれないから、早く届けに行ってあげたいんだけど……。 (俺、桜守姫さんに嫌われてるみたいだしなぁ)  つまりはそういう事だ。  月曜になったら学園で、という形でも問題ないんだろうけれど、もし失くした事に気付いて公園に捜しに戻ったら……と考えると。  ──実は以前、ふたみに相談した事がある。 「コノに嫌われてる?」 「うーん……。いや、まあ、俺の気のせいならいいんだけどさ」 「ふむ」  真面目な話だと判断したからか、ふたみはたたずまいを正す。 「どうも身に覚えがなくてさ。だから……ってのも変だけど、ふたみの方でもし気付いた事があったら教えてくれると助かるっていうか。  気分を害するような事をしたなら、ちゃんと謝りたいし」 「別に嫌われてはいないと思うぞ?」 「いや……うーん。なら、いいんだけど……」  思わず苦笑いが浮かんでしまう。  とてもそうとは思えない。 「コノはな、嫌いだったらあんな態度は取らない」 「え?」 「私は思うんだがな。“嫌い”というのは“好き”と反対というだけであって、“苦手”とは根本的に違うんだ。  苦手な相手なら避けるだろう。できるだけ意識の外に外に置こうとするからな。 “嫌い”というのは、最初はほんの小さなきっかけでも、段々と相手のやる事なす事すべて癇にさわるようになって、最終的には相手を否定する材料を言動から容姿にいたるまで、相手に関するあらゆる要素から見つけ出そうとする状態の事を言うんだ」 「…………」  これ……は……フォローしているつもり……なんだろうか。  さすが“逆懺悔僧”の異名は伊達じゃない。 「だからな、“嫌い”というのは、とにかく相手の事を意識して意識して仕方のない事を言うんだ。原理的には“好き”と一緒だ」 「ええと……とりあえず……桜守姫さんに意識され意識され意識されまくるほどに嫌われているのは……よく……わかりました……」 「何言ってるんだ。ちゃんと人の話を聞け」  俺はどうすればっ! 「それが“嫌い”という感情の根源だとしても、それをどう行動に表すかは人それぞれだ」 「え?」 「コノはな、本当に嫌いな相手は歯牙にもかけない。  あいつは芯がしっかりしてるからな。自分の一方的な感情を持て余したりはしない。自分を不快にさせる相手に対して、粗捜するように否定材料を探す労力も手間も、そんなものは一切が無駄だと考える。そんなものは小さな事だとな。  かといって、別段、相手を無視するような事もしない。あいつは偉そうだがな。結構、でかいヤツだぞ」 「……なるほど」  なんか……よくわかる気がする。  ──俺は一つ、思い違いをしていたのかもしれない。 「ふたみは……桜守姫さんの事、よくわかってるんだな」 「友達だからな。当然だろう」  当たり前の顔をして言う当たり前の言葉が、胸に染み入る。  友達……か。  そうだよな。 「ごめんな、ふたみ」 「なんだ突然」 「いや、俺、失礼な事を考えてたんだ。誤解してた……っていうのかな。とにかく、ごめん」 「うん。よくわからないが、気にするな。ハゲるぞ」 「ありがとう」 「だが、どうして私とコノが会話をすると喧嘩になるのかはよくわからない。逆に教えてくれないか、お主人ちゃん」 「え!?いや、だから、それは、ですね。まず、ふたみ大先生が」 「この前な。コノがいつもより明るい色の着物を着てたんだ。これはなかなか似合うものじゃない、着こなすとはさすがコノだ、と思って“なんだその極彩色の衣裳は。よく、そんなものが着れるな”と言っただけなのに、コノはなんだか妙な顔をするし、トリマキは憤慨して大騒動になったんだ」 「…………」  どうしてだろう。  どうして世界は不公平にできているんだろう。  ねえ、神様───  ……最後まで思い出さなきゃよかった。  途中までは、割といい話だったような気がするんだが。  でも、ふたみがああ言ってくれた事で、背中を押されたのは確かだ。  でなきゃ、俺がこうして桜守姫さんの家の近くまで来る事はなかっただろうから。  ──ま、これぐらいしたっておかしくないよな。  そう思えたのは、ふたみのお陰だ。  素直に感謝しよう。  ……それにしても。 (おかしいな。この辺りのはずなんだけど……)  いや、迷子ってわけじゃないんだ。  帰り道だってわかってるし、同じような道をぐるぐる回ってるわけでもない。  ただ───  さっきから、ずっと同じような道が続いているような気がする。  ……うん、壁だな。  壁だ。  壁以外の何物でもない。  問題は、何故こんなところにこんな長い壁があるのか、という事だ。  俺が思うにだ。  つまりこの壁は、人生を表していてだな。  何が言いたいかというと、これには深遠にして玄妙な哲学があるのだが───  あ。やばっ。陽が落ちてきた。  壁を前に人生について考えている場合じゃない。  とにかく、この辺りなのは間違いないんだ。  あんまり遅くに訪問したら失礼になっちまう。  急いで探そう! 「ちょっ……と……お……い……」  あり得ないだろ……この長さは……。  全力でダッシュして、まだ終点が見えないってどういう事だよ。  これはあれだ。  挑戦だ。  俺に対する挑戦だな?  おもしろい。 『壁』とやらがどこまでやれるか──見てみるとしようぞ。  ──承知いたしました──  という遊び。  ゴール。 「ふっ。ははっ。はっはっは」  所詮は壁よ。この程度か。 「うげっ。げほっ。おぅええっ」  ……なかなかやるじゃないか。 「ん?」  ──夕闇にそびえ立つ、古の雅。  訪れる者を圧倒する門構えは、仁王立ちした武者に似て。  そこに在るだけで主張される存在に抗う術など何もなく。  ただ頭を垂れ、内に生じる戦きの衝動に従い、足早に立ち去るだけが処世だと幼子ですら思い知らされる。  柱に穿たれた名は桜守姫。  桜を守る姫の御名。 「…………」  事前の心構えなど、まるで紙屑同然だった。  地元の名家だとは聞いていたものの、これは───  ──どう訪ねればいいものか。  ちょっとだけ緊張しながらインターホンを押して、「クラスメイトの者ですが、此芽さんはご在宅でしょうか?」と普段使い慣れない言い回しのせいでつっかえつっかえになりながらも、おとなしく彼女が出てくるのを玄関先で待っている──なんて一連の動作は一度に吹き飛んだ。  一応はインターホンがあるようだが、押す事すらはばかられる。  と、その時。  動かぬはずの岩が地鳴りと振動を引き起こしながら動き出したかのように、その巨大な門が左右に割れていった。  そこから、まさに───  ──まさに、このような屋敷から現れるべき姫御前が姿を見せた。 「桜守姫さん」 「た、巽殿……?」  桜守姫さんは俺の顔を見るなり、驚きの声を漏らした。  そりゃ、自宅の門を潜ったらいきなり見知った顔が現れたら驚くよな。 「あのさ」  俺は桜守姫さんの忘れ物を、目の前に差し出した。  ……口で上手く説明できる自信がなかったから。 「その為に……わざわざ?」  受け取りながら、桜守姫さんは目を丸くしていた。 「あ、いや、ざわざわっていうか、丁度ここらに用があったんで。ついでだよ」  良かった。何とか自然に受け応えできている。 「……ざわざわ?」  しまった。動揺が出てた。 「ご、ごめんな。本当はもっと早くに届けようと思ったんだけど、謎の壁に邪魔されて……」 「壁? ……もしや、屋敷の裏手から回ってこられたのかえ?」 「裏手?って……えええっ!?」  まさか、あれが全部─── 「桜守姫の敷地を半周近くとは……それはさぞかし難儀だったでしょう。お疲れになられたのではないかえ?」  半周、ですか。あれで。  ……でも桜守姫さん、俺の身体を気遣ってくれるん…… 「い、いや……其方のお宅からなら真っ直ぐ表門を訪れようものを、わざわざ裏手に回るとは。なんともはや、奇特な鍛錬法ですねっ」  思わず油断してしまったかのように、桜守姫さんは急に意地悪に言い直した。  うーん。  本当に嫌われていないのだろうか。  でも、ま、いいか。  受け取ってはくれたし。  そりゃ自分のなんだから受け取るのは当然だけど……手渡されても嫌って感じじゃなかったしな。 「それじゃ。それだけだから」  俺なりに一歩前進、って事で充分じゃないか。  満足げに踵を返すと─── 「お、お待ちください」  桜守姫さんは、急に俺を引き止めた。 「え?」 「こ、こんな遠くまでご足労いただいたというに、このままお帰り願うというのは……い、いくらなんでも礼を失するというものでしょう」 「いや、でも本当に届けにきただけだしさ」 「わ……媛の為にはるばる……あ……いや、そうではなく、ですから……」  逆に困らせちゃったかな。  桜守姫さん、礼儀に厳しい人だから。 「……でも、迷惑じゃ?」 「だっ、誰が迷惑などとっ……! と、いや、ほ、ほれ。先日、巽殿とて媛をご自宅へお招き入れくださったではありませぬか。そちらがそうで、こちらがこうというのは……その」  なんだか桜守姫さんらしからぬお言葉。  他人と比べてどう、とか、そんな次元の低い話は絶対にしなさそうなのに。 「じゃあ、お言葉に甘えて。少しだけ」 「さっ、然様ですか。では、どう……お、お上がりなさい」  桜守姫さんに招き入れられ、俺は敷地へと足を踏み入れた。  それぞれの家庭における邸宅というものは、自然とその家ならではの様相を呈していく。  この家にはどんな人が住んでいて、どれくらいの月日を暮らしているのか。  情報を惜しみなく与えてくれる。  空間プロデューサーなんて肩書きを持つタイプの設計士に頼んだ前衛的な家なら、ここの家の人は見た目を気にするのかな、とか、芸術に理解のある人なのかな、とか。  逆にどっしりと構えた古風な家なら、昔気質な人なのかな、とか──もしくは見た目から築年数をだいたいでも察して、歴史のある家柄なのかな、とか。  どれほどありきたりな家だって、語らずとも伝わってくるものがある。  初めての訪問となれば尚更──一家の長と面識があれば、それだけでその人の意外な一面が見えてきたり、やっぱりな、あの人らしいな、なんて思ったり。  面識がなければ、訪問時に建物の外観から色々と想像を巡らして、人物像を推測したりするものだ。  だから、住まいというものは一家の“顔”なのだ。  門構えよりも表札よりも、何よりも雄弁にその“家”そのものを訪問者へと語る。  けれど。  ──門を潜ればすぐに邸宅が出迎えてくれるだなんて、そんなものはただの先入観に過ぎないと、俺は思い知らされた。 (……なん……なのでしょう、ここは……)  俺はどうも、どこかの城下町に迷い込んでしまったらしい。  ここは、この麗しき姫御前の帰る時代。  ようやく童話の世界へと戻る事の叶った彼女が治むる国。  夢幻の上に打ち立つ古都。 「どうかなされたかえ?」 「あ、いや」  本当はどうかしたどころじゃないんだけど。  あんまり呆然としてるのも失礼だよな。  桜守姫さんはここに住んでるんだし、だいいち、こういう事で驚かれても得意げに喜ぶような人じゃない。 「たっ………………さく」 「え?」 「では、客間へとご案内させていただこう」 「…………」 「どうなされました?」 「いや、なんでもない」  今。  俺の事を、“策”って───  でもその事を訊いたりしたら怒られるような気がして、思わず誤魔化した。  それでも聞き間違いかと思った俺の手を、桜守姫さんがそっと握った。 「ま、迷い易いでな。こうしておこうかと存ずるが」 「う、うん」 「……さくがお嫌であれば、無理にとは申しませぬ」  やっぱり。  桜守姫さん、俺の事を“策”って呼んだ。 「嫌……かえ?」 「嫌じゃない、嫌じゃない。全然嫌じゃない」  むしろ、すげー嬉しい。  桜守姫さん、本当に俺の事を嫌ってなんかいなかったんだ。 「……然様ですか」  俺は桜守姫さんに手を引かれ、桜守姫家の敷地内を歩いた。  やっぱり、どこもかしこも凄かったんだけど───  正直、あまり覚えていないのは。  この手の温かさが、嬉しかったからなのかもしれない。 「──少々、お待ちくだされませ」  お茶の用意をすると暗に告げて、桜守姫さんは客間を後にした。 「…………」  独り残された俺は、落ち着きなく辺りを窺う。  この手の日本屋敷は、日本人にとってはどこよりも落ち着く、居心地のいい環境──なんだろうけど。  どうにも俺は苦手だ。  巽の屋敷は芸術関係の人間ばかりだったせいか、「本人が創作に適した場所」といったような手合いのものがほとんどで、それをごった煮にして一つの“家”と呼んでいただけのようなものだから──改築増築は当たり前。  早い話、広い敷地内に趣味丸出しの秘密基地が沢山建っているようなもので。  一昔前の探偵小説に出てきそうなクラシックな洋風を好む者がいれば、こうした純和風を好む者、無駄のない近代様式を好む者と、多種多様で。  何というか、解体前の九龍城砦みたいな、本当に綯い交ぜの場所だったんだ。  そんな環境で育ったせいもあるんだろうけど、俺はお坊ちゃんとはいってもかなり特殊な部類で。  自分の家の価値とか対外的な印象とかは骨身に染みているけれど、こういった場所で「ほほう、これはなかなか……」なんて台詞は間違っても出てこない。  家柄から考えると、本当は門前であんなに圧倒されるべきじゃなかったんだろうけど。  ……桜守姫さん、早く戻ってきてくれ。  背後で襖が開く音がした。  てっきり桜守姫さんが戻ってきたのかと思って振り向いた時、それに息を呑む小声が重なった。 「あっ……」 「ご、ごめんなさい。お客様がいらっしゃってるなんて知らなくて……」 「お邪魔してます」 「い、いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」 「あれ? 君は……」  照れた様子でお辞儀する目の前の少女を、どこかで見た覚えがあった。  確かにどこかで─── 「ちょっと。唯井さん?」 「ん」  振り向いたそこには、二人組の女の子がいた。 「トリマキか」 「あ」  この娘だ。  透舞さんの背後に隠れるように立っていた、あの無口な───  というより、終始困ったような顔をして、一言も喋らなかった、あの娘。 「君は確か、桜守姫さんの……」 「あ、は、はい。姉がいつもお世話になっております」 「え? って事は、君は桜守姫さんの……」 「はい。妹の、桜守姫みどのといいます」  ──妹だったのか。  てっきり、透舞さんと同じように桜守姫さんのファンなのかと思ってた。 「姉に何かご用でも……?」  妹さんの方はかなりの照れ屋であるようで、言葉の最後は消え入るような小声だった。 「ああ、ちょっとした用だったんだけどね。お茶をご馳走してくれるっていうんで、図々しくもお邪魔してます」 「そ、そうだったんですか」  妹さんはもじもじとしながら、会話をしながらも俺と目を合わせようとはしない。  優雅にして堂々としたお姉さんとは、随分と対照的な性格をしているようだった。 「…………」 「…………」  ……会話が止まってしまった。 「……あの」 「はっ、はい!?」  何か気になる事でもあるのだろうか?  照れからか会話中は目を合わせようとしないのに、先程からちらちらとこちらを窺っている。 「──何か?」 「あ、い、いえ。姉が誰かを招き入れるなんて、珍しい事なので……」 「そうなんだ?」 「はい。姉はあまり、学園のお友達を連れてはこないので……」  意外──というほどでもないか。  桜守姫さん相手だと、友達の方が思わず遠慮してしまいそうだ。  ──ん。 (もしかすると、妹さん……)  妹さんは客間で居心地悪そうにしながらも、席を外そうとはしない。  襖のところで立ったまま、ちらちらとこちらを窺うばかりだ。 「俺と桜守姫さんは、ただのクラスメイトだよ」 「え……!?」 「気になってるんじゃないのかな?」 「────」  妹さんの顔がみるみる赤くなっていく。 「お姉さんの事が大好きなんだね」 「ど、どうして……」 「ああ、ごめんね。なんとなくさ」 「…………」  その時、初めて妹さんは顔を上げて。  俺と顔を合わせてくれた。  その瞳は、様子を窺うかのように俺を見つめていたけれど─── 「はい」  その言葉は、問いへの答えだったんだろう。  小声で照れ屋な妹さん。  けれどその一言だけは、とても力強く聞こえた。  あんな人なら、きっと妹さんにとっては自慢のお姉さん。  透舞さんといい、こりゃ桜守姫さんと付き合う事になる男は相当大変だな。 「──失礼しまする」 「あ、はい」  襖が開き、桜守姫さんが姿を見せる。 「お茶をお持ち……みどの」  客間に妹さんが居る事に、桜守姫さんは少なからず驚いている様子だった。 「ああ、ちょっと話し相手になってもらってたんだ」 「……然様ですか」  その呟きには意外そうな響きがあった。 「じゃ、じゃあ、ごゆっくり」  妹さんはどこかあたふたとした様子で退室した。 「どうぞ」 「いただきます」  お茶と共に、お茶請けも差し出された。 (これ……)  俺はお茶請けの菓子よりも、その入れ物に目を奪われていた。 「その盒子がどうかなされたのかえ?」 「……ゴウシ?」 「今、さくがご覧になっておられるものの名称です。身と蓋を合わせるという意味合いから、そのような蓋付き小型容器は総称してそう呼ばれておりまする」 「あ、そうなんだ……いや、面目ない。初めて知ったよ」  そうか。こういうの盒子っていうんだ。  よくお客様用の菓子入れとして使われているのは見かけるけど、そういう名前があったなんて初めて知った。 「……その盒子がどうか?」 「ああ、いや、角伯父さんの作に似てるなって思っただけなんだけどさ」 「さくの伯父上かえ?」 「うん。あ、伯父さんは陶芸家だからさ」 「ほう……」 「あ」  ──何という事もない会話だったんだけど。  今、当たり前のように家の事に関して話している自分に気付いた。  以前なら、そこから変な方向に会話が結びついてしまうのを恐れて、言い出せなかった事。  ……嬉しかった。 「なんです。にやにやと……」 「あ、いやいや。そういう桜守姫さんだって、なんだか嬉しそうじゃないか」 「ひ、他人が嬉しそうになされていたら、自分も嬉しくなるのは当たり前ですっ」  ──当たり前。  他人の喜びを素直に受け取るという、なかなかできない事。  それを「当たり前」だと言えてしまう桜守姫さんは、やっぱり素敵な女性なんだと思った。 「この盒子、ちょっと見せてもらってもいいかな?」 「ご随に」 「じゃ、ちょっと失礼して」  俺は中身が零れないよう蓋を閉めてから、容器を手に取る。  名のある職人が作ったのは間違いないだろう。  しかし、一見すると伯父さんの作に近いものがあったが、よくよく見ると細かい箇所での相違が見受けられた。 (伯父さんの名前も彫られてないし、違うか……?)  その様子を、桜守姫さんはしばらく眺めていたけれど、 「──その箱の中には、いったい何が入っておるのか」  急に、ぽつりとそんな事を言い出した。 「お菓子……じゃ?」 「果たして蓋を開かずとも、それがおわかりになられるかえ?」  その口調が、あまりにも謎掛けのようだったから。 「『シュレーディンガーの猫』?」  そう、逆に俺は問いかけていた。 「確率の問題ではありませぬ」 「致死の罠が仕掛けられた箱の中、猫が生きておるか死んでおるか……それは量子力学における特異な認識と常識との相違点をついた見事な証明です。  では、さくはどうお思いになられましょうや。仮にその箱を開けぬまま、一年、十年、百年と経ってしまったら……?」 「どう……って、それでも量子力学的には双方等しくとなるんだろうけど、普通に考えたら餓死して……」 「では、箱の中に田畑があれば。猫がそれを耕し、穀物を生み出す術を知っておったとしたら」 「……それなら生きていけるかもしれないけど、やがて天寿を迎えるんじゃ」  この話に時間の概念を持ち込めば、どうやっても猫は死の確率が高まっていく。 「では、箱の中の猫が二匹ならば? 若き雄と雌ならば」 「…………」 「箱に入れられた猫は死んでおるかもしれぬが、“猫”は生きておる。その時、箱の内と外とは、完全に別の世界となるのです」 「どういう事かな?」 「箱の中に猫の王国が築かれておったとしても、外からはわからぬという事。  王国ではそこでの常識と、秩序とがあり、外の世界とはもはや切り離された空間となる。箱の中に誕生した新たな世界では外の世界を知らず、また外の世界も箱の中の世界を知らぬ。  ──故、蓋をしてしまえば、中には何が入っておるのかわからぬのです」 「……蓋を閉めた箱の中というものは、蓋を用意した者、あるいは蓋を閉めた者の思うがままとなりましょう」 「思うがまま?」 「然様。蓋を閉めたのが内側の猫ならば、猫の王国の法を司るはその猫であるという事」  ──不思議な話だった。  それはまるで御伽噺。  童話の世界のお姫様が、童話の世界に招き入れた読み手にその世界の不思議な法則を話して聞かせるかのような。  物語の女主人公の透き通るような瞳は、じっと読み手を見つめていた。  ──なんだろう。  まるで、何か言いたげなような───  ……どうか気付いて……。 「…………」 「さく……」 「あれ? 俺、何を……」  手に持った盒子に気付き、俺は思い出した。 「あ、そうそう。陶芸家の伯父さん、巽角って言うんだけどさ。知らないかな?」 「…………」  何故か、桜守姫さんは落胆した表情を見せた。 「──さく」  桜守姫さんは急に強い語調で、 「その名、我が屋敷においてはみだりに口になされぬ方が宜しいかと存ずる」  と告げた。 「え? 名って……巽の事?」  言われた矢先に口にした俺に怒ったのか、桜守姫さんは渋い表情をする。 「ごめん。……でも、なんで?」 「…………」  桜守姫さんはややためらった様子を見せたが、自分から言い出した事だからか、やがて口を開いた。 「我が桜守姫家は……唯井家とは正直、あまり良い間柄とは申せぬよって」 「唯井家と……って」  それは意外な事だったけれど、俺が驚いたのはそこではない。  唯井家と関係が悪いからといって、どうして「巽」と口にしてはならないのか──結びつく答えが一つしかなかったからだ。 「じゃあ、分家だって……」 「存じております。この屋敷におる者ならば、誰であっても」  その時の桜守姫さんの口調は、とても重たいものだった。  やっぱり……そうなのか。  唯井家は巽家の分家──ふたみには切り出せなかった事だけれど、まさかここでこの話を聞かされる事になるとは。 「桜守姫家と唯井家は、宿怨の関係にあると申してもよい。長い……それこそ、何が発端であったのか時代の流れに置き忘れてしまうまでに、時を逆しまに辿らねばならぬ確執」 「…………」  ふたみと桜守姫さんの間に感じた“壁”みたいなものは、これが原因だったのだろうか。  それでも二人は、“友達”と呼べるくらいには仲良くしてるみたいだけれど──それはあくまで二人の関係がそうであるだけで、家同士は仲違いしているという事なのだろうか。  じゃあ二人は、人前でおおっぴらには仲良くできない……そんな関係なのか。  ……だとしたら、哀しすぎる。 「白であっても、真っ先に黒だと懐疑の目が向いてしまうまでに……故、その関係者である其方もまた……ご理解いただけるでありましょうか」  俺は頷いた。  辺りに流れた、厳粛な空気──自然、気が引き締まる。 「……すまぬ」  次の瞬間、桜守姫さんが申し訳なさそうにそう切り出した。 「どうして桜守姫さんが謝るんだよ」 「それを承知で屋敷に招き入れたのは、媛に他なりませぬ。申し訳ない事をしました」 「それは違うだろ。桜守姫さんは客をもてなそうとしてくれただけで……なら、そんな事も知らずにやってきた俺が悪い」 「それも違うと存ずるが」  桜守姫さんは困ったように苦笑した。  そうか。やっとわかった。  それで桜守姫さん、俺の事を「策」って呼んでたんだ。  桜守姫さんに悪い事をしたな。  俺はこの家に来るべきじゃなかったんだ。  無駄に気を遣わせてしまった。 「お暇するよ」  そう言って、俺は立ち上がった。 「ごめんな」 「な、何を謝られるか……」  申し訳なさそうな顔をする桜守姫さんを見ると、こちらも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。  ──「無知は罪」だって、誰が言ったんだっけ? 「で、ではせめて……門前まで送らせていただきまする」 「ありがとう。でも大丈夫だよ。道は覚えたからさ」 「…………」 「……じゃあ、お願いしようかな」  安堵したかのように嬉しそうな表情を見せた桜守姫さんに。  俺は───  家柄に縛られる彼女を……感じたんだ。  しかし──桜守姫家と唯井家の確執、か。  前から気になってたんだけど、桜守姫さん……ふたみの事を“クイ”って呼ぶけど、あれもその辺りと何か関係があるんだろうか。  人前でふたみと話す上で、桜守姫家の人間として御家に最低限の義理を通している、とか。  立場が逆なら、ふたみの持ち前のセンスで名付けたんだろうって思うけれど。  なんか……そういうのって、哀しいな。  二人はただ、一人の女の子として仲が良いだけなのに。  でも、桜守姫家とふたみの家って……まるで巨象と喧嘩している蟻のような。  すごく失礼な言い方だけれど、それは“宿怨”と呼べるような関係なのだろうか。 「じゃあ、失礼するよ」 「ほんに……すまぬ」 「桜守姫さんのせいじゃないからさ」 「…………」  桜守姫さんの表情は沈んだままだ。 「……では、お気をつけてお帰りくだされ。さく……」 「あっ……そのさ」 「ん?」 「桜守姫さんさえ良かったら、その呼び方……そのままでいてくれないかな」 「えっ……」 「駄目かな?」 「…………」  ほんの少しだけ間があって。  それから桜守姫さんは、背を向けた。 「──ではの。巽殿」 「…………」  ……一つ嘆息して。  俺は、頭を掻きながら踵を返した。 #«6月4日»  ……ああ、またこの夢だ。  なんて、夢の中なのにやけに冷静に思う時がある。  厳密に言ってしまえば、夢だと気付いた時点で俺はもう起きているようなものなんだろうけれど、この夢の続きが見たくて、必死に食い下がるかのように自身を眠りへ眠りへと引きずり落とそうとする意思が働く。  でも、そんなふうにして意識的に働きかければ働きかけるほど脳は覚醒していって、夢の国は閉園間際の遊園地のように俺を追い出してしまう。  ──これは、俺が時折見る夢。  いつの頃からか繰り返し見るようになった夢。  まるで水の中にいるような──思うように動けないまま、俺は遠くの光景を見つめている。  手に取れるほど形がはっきりとはしていないけれど、確かにそこにあるもの。  見ようとすれば向こう側が透けて、触れれば弾けてしまって、近付けば風で四散してしまう──けれど、間違いなく存在している。  在りながら確かめられないもの。  そこには人影が──いや、人の形と認識できるほど輪郭がはっきりとはしていないけれど、俺はそれが何であるのかだけを知っている。  だからこれが、俺がいつまでも『お姫様』を忘れない理由の一つなんだって事を。 (……またつかみ損ねた)  この夢を見る度に思う事だ。  もう少し長く夢を見ていられたら、せめてもう少しだけ霧が晴れていたら、手がかりだけでもつかめるかもしれないのに、と。  ぼやっとした形で感覚を引きずってるんだけど、思い出そうとすればするほど遠ざかっていくのも、いつもの事。 (ま、気長に探しますか)  そう嘆息するのも、いつもの事だ。  朝食を済ませたところで、俺は切り出した。 「あのさ、ふたみ。今日は公園に行くのが少し遅れるかもしれないんだけど、構わないかな? ちょっと用事があってさ」  出かけるにしては早いけど、できれば、ふたみが公園に行く前に家に戻りたい。 「うん」 「それで訊きたいんだけどさ。この辺、ケータイショップってどの辺りにある?」 「携帯?」 「ああ。どうも調子悪いみたいなんだよな。で、ちょっと見てもらおうと思ってさ」  別に電話するだけなら、この屋敷を訪れた時にはすでに電話線が引かれていた自宅のでもいいんだけど。  どうせなら直しておこうかと。  あんまり使う方じゃないんだけど、やっぱり慣れちゃうと固定電話でかける事に逆に抵抗が出てくるっていうか。  妙に気恥ずかしくなるのは何故だろう? 「シャークなんだけど」 「しゃーく?」 「ああ。FU−KA」  FU−KAはシャークの愛称で御馴染みの、携帯電話会社の名前だ。  フーカーを略して鱶。で、鱶ってのは大型のサメ類の俗称だから、転じてシャークなんだけど……改めて考えるとかなり頭悪い愛称だな、これ。  ま、それはともかく、組み合わせプランの安さだけなら他の競合の追随を許さないのが特徴だ。  つまり、それが売りってわけなんだけど。  でもそれだけじゃ厳しくなってきたらしくて、より他社との差別化を図る為に、増えすぎた機能を削ぎ落とす作戦に出た。  言い回しの妙っていうか、それを「誰でも使える」という形で大々的にCMを打ち、高齢者へのアピールを開始した。  若者はほとんどの人が持ってるし、使う事にも慣れている。  けれど、高齢者は別だ。機能が多すぎて使いこなせない事が多く、それが手を出し辛い敷居の高さを生んでしまっている。  つまりFU−KAは、他の会社にはない新機能を追加する事での乗り換え組を確保し合ういたちごっこを止め、興味があってもなかなか手に取る事ができずにいた高齢者にターゲットを絞ったわけだ。  ちなみに俺は、その機能の少なさが気に入ってFU−KAを愛用している。  電話とメールができれば充分じゃないか? 「よくわからないが……で、何を携帯するんだ?」 「何って……だからケータイだよ」 「いや、だから何を携帯するのかと」 「は? 電話だよ電話。携帯電話」 「…………」 「なにその顔」  変化ないけど。 「お主人ちゃん、冷静に考えてくれ。電話機には、電話回線と接続する為のモジュラーケーブルというものがあるんだ。このまま携帯しようとするとどうなると思う?」 「いや、それ固定……」 「ま、ま。仮に、ケーブルを抜いたとしてもだ。電話線から繋がっていないという事は、電話機だけ持って歩いても、通話はできないんだぞ?」 「だぞ、ってあのな……」  からかわれてるのか?  けれど、ふたみの眼差しは真剣そのものだ。  というか、そもそもこういうふうに他人をからかう娘じゃないしなぁ……。 「わかってくれたか?」 「ふたみが固定電話の話をしているという事は」 「よし、わかった。お主人ちゃんはきっと疲れてるんだ。今日はもうゆっくり休もう。な?」  ……なんで俺が可哀相な子扱いになってるんだ。 「よ、よし。私が添い寝してやろう。だから、な?」  なんだか本気で心配されている。 「私との作業のせいで、お主人ちゃんに疲労が溜まってしまったんだな……うん。ムコを疲れさせるとはヨメ失格だ。  よし。一緒にフロに入ろう」  何でそうなるの!? 「じゃ、後は若い者に任せて、年寄りはこの辺りで退散するとしますか」 「いやまったく」  なに二人してにやにやしてんの!?  ……本当に出て行きやがった。 「湯船に浸かりながら筋肉をほぐすと、疲れが取れると聞いたぞ。責任持って私が揉む。それから、部屋に戻って布団でもご奉仕をしよう。  それでぐっすりだ。これでどうだ?」 「どうだ、ってちょっとあの……だから……じゃ、俺用があるから!」 「あ。お主人ちゃん」  目が本気だった。 「…………」  ──ゆっくりと、俺の足が止まる。 「…………」  同じ湯船。  もみもみ。  同じ布団。  もみもみ。  それから添い寝。 (惜しい事をしたなんて思ってない! 思ってないんだ!)  思ってなんか───  ごめん神様。  俺今めっちゃ嘘ついた。 (ま、まあ……とりあえず、ふたみはショップの場所を知らないみたいだな)  考えてみれば、ふたみはケータイ持ってないしな。  確認した事はないけど、持ってたらこれまでに一度や二度くらい見てなきゃおかしいし。  どちらかというとアナログっ子っぽいしな。  ま、利用もしなければ興味もなしじゃ、普段の通り道にある店だって意外と覚えていないものだ。 (適当に探すか)  問題は、FU−KAのショップがあるかどうかなんだよな。  量販店でもいいんだけど、あの手の店ってどうも……店員が苦手で。  ……贅沢は言ってられないか。  ──こうして歩いてみれば。  俺が未だ、この街の地理をまるで把握していない事に気付かされる。  この街は、一つの市として見た時、俺が想像していたよりも遥かに大きく。  そして、それに相応しいだけの人口を抱えている。  人口が多いという事は、それだけ集合住宅や一軒家が多いわけで──道もより複雑化される。  勿論、ベッドタウンでもない限り、大通りも栄えるという事なんだけれど。  だからこそ店舗の密集する大通りに沿って歩いていたはずなのに、どこでどう道を間違えたのか。  気付けば、入り組んだ路地に迷い込んでいた。  進めど曲がれど、さっきから同じような道ばかり続いている。  辺りは民家ばかりの整った歩道。  上空から見たら、方眼紙の網目のように見えるのだろうか──そんな事を考えさせられるくらい。 「あっ……」  朝から愚図ついた天気だったけど、遂に降り出してしまった。 (まいったな)  雨具の用意なんかないし、近くにはビニール傘が売ってそうな店もない。  こんな時、ふたみがいてくれたら──「ヨメとして当然の事だ」と、鞄からすっと折り畳み傘を出してくれそうだな、なんてふと思ってしまった。  傘姉は天候に関係なく、何故かいつも持ってるけど。  大通りからも随分と離れてしまった。  走っても、戻るまでには時間にして30分以上はかかるだろう。  そう考えたら、結局雨宿りするしかないわけで。  俺は近場のバスの待合所に逃げ込んだ。  バスなんかやってくるのか? ってくらい寂れた場所だったけれど、この場合屋根があるのはありがたい話で。  俺は雨露をしのがせてもらう事にした。  すぐさま本降りになったところを見ると、判断は、どうやら正解だったようだ。  しかし、こんなところで立ち往生も困りものだ。  急に勢いが強まる雨は、逆にすぐその勢いを弱める事が多いから、しばらくすれば止むとは思うけど……。  俺は無為に時間を過ごす事を楽しめるほど精神修行ができていないから、こういう時間はただ暇に感じてしまう。  そうなると、道行く人や付近の様子などを観察し始めてしまうんだけど───  さっきから気になっていた。  休日だというのに、誰も通らない。 「…………」  通らないどころか、付近の民家から物音らしき音も零れていない。  雨音に掻き消されるのだって限界があるだろうに。  日中とはいえ、これだけ曇っているんだから部屋の電気だって点いていてもよさそうなものだけど、辺りの家々から灯りが漏れている様子すらない。  ──まるで廃墟に俺独りたたずんでいるかのようで。  少し気味が悪くなってきた。  いや、廃墟というのは少し違うな……そう、街はいつも通りなのに、まるで暮らしている人間だけが忽然と消えてしまったかのような。  暮らすべき場所はあるのに、住まうべき人間がいなくなってしまった。  ──そんな感覚。  ……暇になるとロクな事を考えないな、俺は。  そうしてしばらく時間を潰していると。  あ。雨の勢い、少し弱まってき─── 「あれ?」  俺、ここで何してるんだっけ?  見知らぬ街角で立ち尽くしている自分に呆然とする。 「え? え?」  ちょっと待った──え? 何してるんだ俺?  目の前にはバスの停留所を示す標識。  見上げたら、待合の為に使われる小屋の屋根。  間違いなく、こんなところに用はない。  曇り空からはまばらな雨が降っていて。  霧雨の中に出てみると、そこは見知らぬ光景。 「何処だよ、ここ……」  そして振り向けば、すぐそこには大通りがあった。 (と……りあえず、大通りに出るか)  俺は歩いて10Mにも満たない、開けた通りへと向かった。 「──おや」 「また逢ったね、天文委員のお兄さん」  目に見えない大気の還流が頬をなでる。 「兄……」  ──一瞬、込み上げた想いを呑み込む。 「と……」  一歩引いている自分を感じたから。  ……いつだって、兄貴には引け目があったという事。 「こんなところでどうしたんだい?」  俺の気持ちを見抜いていながら、そんな事はおくびにも出さない──俺の意思とは無関係に、その姿は兄貴に重なってしまう。  どこか中性的な面持ちも、やはり似ていると。 「ん、ああ、ちょっと……」  それはむしろ、俺の方が訊きたい事だった。 「…………」  あの時とは違った気持ちで見る事ができても、胸の奥のしこりはなかなか抜けない。  戸惑っているせいもあったのだろうか。 「ふぅん……」  その透き通るような瞳が俺を射抜く。 「言葉には力が宿るよ」 「え?」 「だから言葉は暴力にもなる。殴られるよりずっと痛い事もね」 「えっ……何を言って……」 「痛かったかい? 腕力の伴わない拳に滅多打ちにされて」 「…………」 「あははっ……」  ──風は気紛れだ。  つかめないからこそ、それは気付けば目の前からいなくなっている。 「……ただいま」  自宅に戻るまでに、雨は止んでいた。 「もー、遅いよ。おねーさま、もう行っちゃったよ」  現在の時間を考えるに、ふたみは公園で間違いないだろう。 「ああ……悪い」  メメは「遅い」と言った。  これは単純に「ふたみが出かける時間に俺がいなかった」事を怒っているのか、それとも「遅れる事はわかっていたが、それにしても遅すぎる」事を怒っているのか。  前者なら、「遅い」ではなく「どこに行ってたの」といった類いの文句が飛んでくるだろう。  という事は、俺は今朝早く家を出たのか。 「……あのさ、メメ。俺、出かける時に何か言ってたか?」 「ん? ああ、携帯が何とかって」 「ケータイ?」  ──そうか。  今日は携帯電話を直す為に出かけようと思ってたんだ。 (で、なんで……家に戻ってきてるんだ、俺は)  ──仕方ない。  ケータイの修理はひとまず諦めよう。  今からショップを捜している時間はない。  そして俺は、屋敷に設置してある固定電話に向かった。  機械染みた多機能な製品ではなく、必要最低限の機能しか持たないものの、洒落た装飾の施してある年代物だ。  アンティークものというやつだろうか。  覚悟はもう決まっている。  今更確認するまでもない。  俺は受話器を取ると、巽の家の番号を回した。 「……2、3、と」  ──一つ大きく深呼吸して、繋がるのを待つ。  …………。  ……あれ?呼び出し音が鳴ってな…… 「────!?」  何だ!?  かけ直してみたものの、電話は通じなかった。  それどころか呼び出し音すら鳴らない。  受話器を取った時の「回線が通じている事を示す音」は鳴っているのに。  まさか、この電話も壊れてるのか? 「どうしたの?」 「あ、傘姉。どうも、電話の調子が悪いみたいで」 「え? おかしいな。さっき使わせてもらったばかりだよ?」 「ええっ……」  という事は、巽の家の電話の方が不通状態になっているのだろうか。  電話線が切れてるとか……受話器が外れてるとか。  でも、それなら話し中の音が鳴るんじゃなかったか。  ──結局、電話は通じなかった。  そして今日も午後の日課。  ふたみと二人、夕暮れが空の色を変えるまで黙々と掃除をやり続ける。  ──と。 「コノ」  ふたみが声を上げた時、そこには桜守姫さんの姿があった。 「双子座の照陽菜のご様子、如何なものかと思いまして」 「問題ない。手伝いなら別にいらんぞ」 「だっ、誰が貴女のお手伝いに来たと申し上げましたっ!?」 「何だ。トリマキもいたのか」 「当たり前ですわっ。お姉様を貴女と二人きりになんてさせられませんもの」 「何故だ」 「貴女が失礼な言動を取るからです」 「何度も言うが、別に失礼な言動など取らないと」 「ですから」 「だいいち、それならコノが怒るだろう。いつも怒っているのはオマエだ」  鋭いようで微妙に的を外しているふたみの指摘。 「そ、それはお姉様がお心の広いお方だからですわっ!」  そうだね、だから君が代わりに怒ってるんだろうけどさ。 「とにかくっ! わたくしは貴女とお姉様とを二人きりになんてさせませんからっ!」 「うん、わかった」  ……透舞さんも、ふたみが心配なら心配って素直に言えばいいのに。  なんて思いながらも作業を続ける俺は、自然と頬の筋肉が緩んでいくのを感じた。  大丈夫だよ、透舞さん。  ふたみはちゃんと納得して、これ以外にないってやり方を選んでるから。  その結果を、ふたみは──俺たちは、ちゃんと受け取るから。 「な、なんですの?」  しまった。  俺の表情を見咎めた透舞さんが、今度は俺に矛先を転じた。 「あ、いやいや」 「気持ち悪いですわね。おっしゃりたい事がおありなら、はっきりとどうぞ」 「ん……いや、透舞さんは桜守姫さんの事が大好きなんだなって」 「わ、わたくしは……ただ、少しでもお姉様に近付きたくて……」  ──近付きたい、という気持ち。  透舞さんは桜守姫さんをただ慕っているわけじゃないんだろう。  恐らくは彼女の天文委員としてのホウキが、まるで髪飾りのようにして彼女を彩っているのも──きっと、桜守姫さんの格好を真似しての事だろう。  その口調がどことなく桜守姫さんに似ているのも。 「あ、貴方には関係ございませんでしょう!?」 「はい」  すみませんでした。 「…………」  と。  集めたテレ雪を持って顔を上げた時、目の前にもう一人のお客さんの姿があった。 「あ。君は桜守姫さんの妹さんの……」 「ど、どうもです、先輩」  彼女は行儀よく、ぺこりとお辞儀した。 「え?」 「え? ……え?」  ……先輩。  なんという甘美な響きよ。  俺が感激に打ち震えていると、妹さんは怯えたように透舞さんの背後に隠れてしまった。 「みどのか。久しぶりだな」  まあ、桜守姫さんの昔馴染みって事は、当然ふたみも面識があるんだろう。 「…………」 「相変わらず寡黙だ。これがクールな女というやつか」  いや、普通に照れ屋さんなんだと思う。 「COOL」  ふたみは無表情のまま、みどのにビッと親指を突き出した。  何がしたいんだ。何が。 「どうやら、案ずるまでもなく順調なご様子」 「だから手伝いは別にいらんぞ」 「なるほど」  桜守姫さんは、少しだけ意地悪そうな微笑みを浮かべた。 「巽殿以外のお手伝いはお邪魔と」 「…………」  ふたみの両頬が一瞬で真っ赤に染まる。 「そ、そうだが?」 「ほほほ……愛い奴」  桜守姫さんはいつだって一枚上手だ。 「ほほほ……ういやつ……」 「……何をなさってますの?」 「あっ、う、ううん。何でもっ」  ……お姉さんの真似だろうか。  なんだか可愛らしい。  本当にお姉さんの事が好きなんだろうな。 「あれ?」  妹さんの被った帽子に光った、小さなアクセサリー。 (……ホウキ?)  それはふたみのわかりやすいホウキや、メメの尻尾まがいとはまた違った─── 「妹さんも……天文委員なのかな?」 「え? あ、は、はい。あたしは『蟹座』の……」 「へえ。姉妹揃ってなんて、なんだかすごいね」 「いっ、いえ。あたしなんて、そんな……」 「みどのはみどのですごいですわよ?」  と、透舞さんがずいと乗り出す。 「何故なら彼女もわたくしと同じく、大いなる役割を担った前座なのですから」 「前座?」 「ええ。わたくしたちは共に、お姉様を輝かせる為の前座。  わたくしたちが華々しく散れば散るほどに、街を大いに巻き込んでは失敗すればするほどに、お姉様の照陽菜がご成功あそばされた時の輝きも増そうというものですわ。  誰よりも美しく、誰よりも気高く優雅にあの雲を晴らすお姉様──ああっ! 天文委員に選ばれて本当に良かったっ!!」  透舞さんは恍惚とした表情を浮かべ、どこか別の世界へと旅立っている。  つか、透舞さん。  桜守姫さんを尊敬してやまないのはわかったけど、それ、なんか妹さんにひどい。 「というわけで、みどのはお姉様を輝かせる為の最後の砦ですのよ」  でも、なにやら本気で誇らしげに妹さんを自慢する彼女を見ていると、それが言えない。  ……きっと妹さんも同じ気持ちなんだろう。  人良さそうだしな、妹さん。 「乙女座の前の星座はおねさまの獅子座だが」 「うるさいですわねっ! わたくしがそう思っていたいんだから、別にいいじゃありませんのっ!」 「しかも“最後の砦”の使い方が間違ってだな」 「ああもうっ! 貴女はいつもいつも人のやる気に水を差してっ!」 「うん、まあ、別に止めないが。……オマエ、意外とアタマ悪いよな」 「貴女に言われたくはありませんわっ!」  アナタタチは漫才がお好きですね。  他人から見れば、俺たちがやっている照陽菜がどんなふうに受け取られるかはわかってる。  でも、俺はもう信じるって決めたから。  周りが何を言ったって、もう揺らがない。  これは俺が、自分で決めた事だから。 #«6月11日»  ──週の始まりは憂鬱。  そんなふうに考えていた頃があった。  それが今では、高まりさえ覚えるようになった。  ああ、今週も始まったのだと──今日という日、そして明日という日への期待感と共に押し寄せる言い知れぬ昂揚に、自然と背筋を伸ばして歩き出している自分がいる。  多分、充実しているという事なのだと思う。  自分でも驚くほどに毎日が楽しい。  見通しの悪い将来に不安を感じながら、それでも手探りで進んでいた頃とは違う───  恐らく、終わりの日が初めから決められている事も関係している。  自分の信じたやり方があり、ただ精一杯にやろうという気持ちがあるのなら、それは定められた期間でこそ最も活力を帯びる。  この充足感と士気の高さは、何物にも代えがたい。  ──けれど、そうして脇目も振らずに走っていられる幸運があるからこそ。  ふとした折に、足元が気になる事もある。 「──一つ訊きたかったんだけどさ」  これもまた、一つの成長と呼べるのかもしれない。  走っている自分が当たり前になっているという事だから。 「ん?」 「ウチの生活費って、いったいどうなってるんだ?」  俺は日々、当たり前のように水道を使い、電気を使い、ガスを使い──三食、ふたみが用意してくれる食事をいただいてるけど、電気代とか食費とかは当然、生活費として出ていってるわけだ。  今頃になって気付く辺り、どうかしてる。  ……本気で、こういった体質は直していかないと。 「問題ない」 「いや、問題になってからじゃ遅すぎるからさ」 「ムコはお金の心配なんかするな。そういうのはヨメに任せて、どーんと構えてればいいんだ」 「ふたみの志は立派だけどさ。それは少なくとも、俺が自分でそれなりに稼いでいてこそできる態度だと思うよ」 「そうか、立派か。ふふ」 「いや、反応するところはそこじゃなくて」  学生の立場である今現在、俺の収入は0円。  ふたみがやりくりするとか、そういうレベルの話じゃない。 「毎月、ちゃんと暮らしていける。だから心配するな」 「そのお金はどこから?」  巽の家から出ている可能性は高い。  俺は何も聞いていない──いや、ろくに話も聞かず、とにかく家を出る事を優先した行為への反省点もあるんだけどさ。  ただ、俺は通帳を見た覚えがない。  ふたみが預かっている……という考え方もできるけど。  彼女の性格を考えると、それなら俺にちゃんと断りを入れてきそうなものだ。  ……となると。  できれば、考えたくない事だけど……。 「まさか、ふたみの家が生活費を工面してくれてる……なんて事ないよな?」 「…………」 「お、おい?」 「気にするな」 「気にするとかしないとかの問題じゃないだろ!?え……本当なのか?」 「学生のフーフが暮らしていく為にはな、親の協力が必要なんだ。気になるなら、お主人ちゃんが社会に出てから、働いて返していけばいい。勿論、私も協力する」  ……なんてこった。  俺は、子供の頃に会ったのか会ってないのかすら記憶も朧気な──この街に来てから一度もご挨拶にすら行っていないふたみのご両親に、金銭的な援助を受けていたのか。  とんでもない事だ。  そんな事をしてもらう理由なんかない。  リフォームの件だってそうだ。 「二人が暮らす事になる家だから」って──気にせず出せるような金額じゃないだろう。 「何で言ってくれなかったんだ?」 「お主人ちゃんがそういう反応をしそうだったからな」 「当たり前だろう。そんな……だって、そこまでしてもらう理由なんかないよ」 「理由ならあるだろう。私とお主人ちゃんは……」 「それとこれとは、話が別だ」 「……じゃあ、どうしたいんだ」 「働く」 「…………」 「そうしなきゃ生活していけないんなら、働くよ」  俺が浅はかだった。 「家を出る」とは、こういう事だったのに──俺は本当に逃げただけだったんだと、痛烈に思い知らされた。 「……学園は?」 「両立に無理があるなら、辞めるしかないだろう」 「…………」  ふたみは溜息をついた。 「あのな、さっき言っただろう。そうならざるを得ないから、親の協力が必要なんだ。  学生は親の世話になってる事を自覚して、勉学に励むべきなんだ。それが、学生の身分を自覚する、という事だ。  お主人ちゃんが言ってるのは、子供の理屈だぞ」 「これまで子供だったから、大人にならなきゃならないんだ」 「だったら勉学に励め。それが唯一の恩返しだ。これは、私たちがフーフであるとかないとか、まったく関係のない事だぞ」 「そりゃ、自分の親ならまだ……」 「要するに、私の家の世話になってるのは、心苦しいと」 「心苦しいなんてもんじゃない」  ──完全に筋違いだ。  俺が頭を下げて頼んだのならともかく。 「…………」  ふたみはもう一度、大きく溜息をついた。 「私の家は、お主人ちゃんが生活に困る事を望んでない。それではダメか?」 「駄目だ」  というより、ご両親はふたみの為にお金を出しているんだろう。  俺はついでだ。 「私たちはフーフだ。赤の他人というわけじゃないんだから、資金援助くらい受けてもいいんじゃないかと思う。それでもダメか?」 「駄目だ」  そこも色々と誤解があるんだろうけどな。  ──例え、本当にふたみと結婚なんて事になっても、俺はそんな提案を受け入れるつもりはない。 「ではお主人ちゃんは、お主人ちゃんに今しかできない事を精一杯にやって欲しいという、私の家の厚意を無碍にすると」 「そっ……」 「社会人としての責任を、大人としての責任を精一杯に果たそうとしている者に向かって、“心苦しいからイヤだ”と言ってのけると。  唐突に“働く”なんて言い出して、余計な心配をかけると」 「そういう話じゃないだろう?」 「そういう話だ」  ふたみは睨むように俺の瞳を凝視した。  ……何で怒ってんだよ。 「おい、ガクセー」 「……はい」 「ガクセーは社会人に舐められて当然なんだ。“まだまだ自分で生活なんかできっこないんだから”と思われて当然なんだ。  だから社会人は、全力でガクセーを守るんだ。それは生きていく知恵を教える事だったり、学ぶべき環境を整える事だったり……時に、生活の為のお金だったりする。  これに反抗するのが、お主人ちゃんの言う“大人”なのか? “一人でできる”と突っぱねて、今しかできない事を犠牲にして、心配してくれる人を巻き込んで……それで見事にやり遂げたら、“ほら見た事か”と誇らしげに胸を張るのか?  どうして、素直に“ありがとう”と受け取ろうとしないんだ?」 「…………」 「今は勉強すればいい。部活でもいい。趣味に没頭するのもいい。今しかできない事を、お主人ちゃんがやりたい事をやればいい。時間を無駄にするな。  そうして守られた生活があって、そして、期が熟した時に見事に応えてみせればいい。  その時なら、きっと、守ってくれた人たちは祝福してくれる」 「……わかったよ」  俺が今やりたい事。  それは、ふたみと共に為す照陽菜。  一度決めた事───  確かにこれも、働きに出たら時間を作る事すら難しい。 「ん。じゃあ、学園に行こうか」 「ああ」  ──まったくこの娘は、ズレてるようでしっかりしてる。  俺なんかより何倍も大人だ。 「“一円を笑う者は、一円に泣く”……か」  その言葉は、小銭を大切にしない飽食への戒めとか、節約の心得とか、様々な意味で用いられる。  ──けれど、こうした“巡る環”の事も意味しているんじゃないだろうか。  俺たちの為に必死になってくれる大人がいてくれるから、俺たちはいつか子供の為に必死に頑張れる大人になれる。  そしてその子供たちは成長して、またいつかその子供たちへと───  一円は積み重なり、未来へと繋がっている。  将来という世界の為の未来貯金。 「…………」  そう呟いた俺を見つめるふたみが、少しだけ微笑んだように見えたから。 「──すると万札なんか見た日には、笑いすぎで死ぬって事だよな?」  と思わず言ってしまった。 「お主人ちゃん。そこに正座するんだ」 「はい」  ──遠くで予鈴の音がする。  俺たちは完全に遅刻だった。  なにやってんだか。  ──そして午後の日課。  いつも通り、作業は順調すぎるほど順調だ。  このままいけば、期間内で終わらせる事は難しくない。  それどころか、余裕すら出てきた。  不意に。  ──一陣の風が一滴の火の精霊を運んできたかのように。  景色は空の色をそのまま映し込んだかのような、茜色に燃え上がる燎原と化す。 「どうした?」 「いや、まるで燃えてるみたいだって思ってさ」 「……そうだな。でも、本当に燃えてしまったら大変だ」 「結果だけ見れば、俺たちは随分と楽になるけどな」  もちろん冗談だけど。 「…………」 「ふたみ?」 「楽にはならない。大変な事になる」 「だから冗談だって」  ふたみは真面目だな。 「……そうじゃなくて……」 「テレ雪はね、きっと恋の相手を捜してるんだよ」 「さんね……」  相変わらず神出鬼没な傘姉は。  いつの間にか、俺たちの傍に座り込んでいて。  そして、いつも持ってる和傘から───  ちょーっと待った。ちょーっと待った。  丼物はまだいいよ。つかもういいよ。  でも汁物はないだろう。  なにラーメンって。どうやったって和傘の中で零れるじゃん。  しかも作りたてみたいな湯気の出方はどういう 「?」  そんな不思議そうな顔をしないでください。  俺の方が不思議で胸が張り裂けそうなんですから。  空明市七不思議、残り六つを一度に見た気分になった。 「ほれへね」 「食べ終えてからどうぞ」 「うん」  どんな人間にだって欠点はある。  そうだよ。  そう思おうよ。  そう思えれば幸せじゃない。 「ふう」  ──きっちり40秒。  和傘の中から二杯目のドンブリが出てきた時はどうしようかと思ったが、それでもきっちり40秒。  替え玉三杯を入れても40秒。  ここに居られるのは、きっと世界に通用するお方なのだ。 「それで、何のお話でしたか」 「ん?」  ちょっと待て!今、和傘の中から食後のシャーベットらしきものを取り出そうとしてなかったか。  つかラーメンの後にシャーベットって。 「ダメ?」 「……ご存分に」 「だからさっくん大好き」  この胸の高鳴りは……宇宙人に初めて遭遇した時の緊張と同じものなんだろう、きっと。 「テレ雪はね、きっと恋の相手を捜してるんだよ」  苺のシャーベット、レモンスフレ、ココナッツババロア、クルミ餡のパイ、チョコカスタードのミルクレープ……と、肉眼で確認できたのはその程度に過ぎなかったが、その他大勢を瞬く間に制覇した女帝が、そう言い出した。 「恋、ですか」  俺は今まさに胸焼けしてるところなんですが。 「うん。だからね、小さな火でもすぐに燃え上がっちゃうの」 「テレ雪はね、きっと恋の相手を捜してるんだよ」 「傘姉……」  舞い散る照れ屋の淑女たち。  年頃の彼女たちは恋に憧れている、と傘姉は言う。  それは、男の何気ない気紛れですら、真に受けてしまうほどに。  ──静かに心に点った小さな火は。  大切に大切に、淑女を素敵に着飾り上げて。  些細なきっかけで燃え上がり、恋に盲目的な乙女を生み出すのだと。 「テレ雪はね、火によって増えるんだよ」 「火で増える?って……火を近付けると増殖する……とか」  冗談で言ってみたのだが、意外な事に傘姉は頷いた。 「原理は未だによくわかってないんだけどね。ちょっとした火でも燃え移って、爆発的に増えるんだって。  ……きっと、恋する相手を見つけたんだね」 「…………」 「だからさっくん。タバコとかは禁止だよ」 「吸った事ありませんよ」 「ふふふ」  夕焼けのせいか、傘姉の頬もまたテレ雪のように染まって見えた。  言われてみれば──ここを掃除してる時に出るゴミって、空き缶や空の容器の類いはあっても、タバコの吸殻ってのはなかったな。  街のみんなはわかってるってわけだ。  ……わかってるならゴミも捨てなきゃいいのに。 (……でも、テレ雪の恋……か)  ──それは素敵で、少し切ない話。  じゃあ、もしもその恋が叶わなかったら。  いったい誰がその心を慰めるんだろう?  6月の終わりに吹く告白の風は求婚者なんかじゃなくて、傷ついた彼女たちの心を救いにきた道化師なのかもしれない。 #«6月18日» 「──実家に帰る?」  ふたみの口からそんな台詞を聞かされたのは、ある日の朝食時。  それは、あまりに唐突な出来事だった。 「うん。帰る」 「…………」  あまりにも真顔のままだから、俺は一瞬、言葉も出なくて。 「ん? どうしたんだ?」 「おねーさま。策は今、猛反省をしているところなの。胸に手を当てて、自分の悪行の数々を振り返っている最中なの」 「お主人ちゃんは悪行なんかしないだろう」 「だって、急におねーさまからそんな事を言われたら……ねぇ?」 「? ? ?」  ふたみはしばらく首を傾げていたが──急に思い当たったように、 「あ、ち、違うぞ。実家に帰るといっても、アレだ。お主人ちゃんに愛想を尽かしたとか、そういうんじゃないぞ。ただ用事があるから、ちょっと行ってくるだけだ。それだけだ」  と、慌てて言い直した。 「あ、そ、そうか」  その言葉に、ほっとしている俺がいた。 「ああっ、当たり前だ。別に私は……不満など、ない」 「おねーさま。良い機会だから、策にもっとこうして欲しいとか、ああしてくれればいいのにとか、要望を言ってしまえばいいのに」 「だ、だから、私は別に、そういうの、ないんだ」 「えー。帰ってきたら抱き締めて欲しいとか、寝る前にはキスして欲しいとか、そういうのないの?」 「ばばっ、馬鹿言うな。そんなの別に……。  ……別に……。  ……………………してくれると嬉しいな……」 「策。今がチャンスだよ。抱き締めたりとかキスしたりとか、しまくりだよ」  いつの間にか俺の背後に回ったメメが、そっと耳元に囁きかける。 「い、いや。そういうどさくさ紛れはだな」 「チッ。このヘタレが」  胸にグサリとくるな、その台詞。 「あ、ま、まあとにかく。ちょっと用事があるから、実家に行ってくる。ただそれだけだ。深い意味なんかない」 「遠回しに深い意味があるんだよ? ちゃんと心してね、策」 「妾」 「はーい」 「じゃ、そういうわけで、朝食の片付けが終わったら行ってくるから」  要は、帰省って事だよな。  ふたみもここに住み込んでから随分と経つ。  その間、俺が知る限り、ふたみが実家に戻った事はない。  彼女の性格からして、行くのなら今のようにちゃんと言ってくれるのだろうから──そう考えると、随分と帰ってない事になる。  それに、例の掃除の方も随分と余裕が出てきた。  6月に入って以降、慣れてきた事もあって、作業効率のいい事いい事。  それに、やっぱり──気持ちの持ちようも多少は影響しているのだろう。  今日を含めなければ、残り期間は3日。  正直、充分すぎるくらいだ。  うん。ここらで一度、英気を養うのも悪くない。  ふたみにとって、良い休養になればいいんだが。 「どうかしたか?」 「ああ、いや。何でもない」  ゆっくりしておいで、と言うのもおかしな気がして言葉を呑み込んだ。 「きっと夫婦生活に落ち度はなかったか、色々と思い出してるんだよ」 「妾」 「あはっ。あ、この目玉焼き美味しいー」 「いつもと一緒だ」  ふたみは、ぽく、とメメの額に軽くチョップする。  メメは大袈裟にやられた振りをして、憎めない笑顔で舌を出す。  そんないつもの光景が戻ってきた事に、安堵している俺がいた。  でも───  ふたみの実家、か。 「…………」  朝食の間、ずっと考えていた。  そうだよな。  そうするべきだ。 「なあ、ふたみ」 「ん? お替りか?」 「いや、そうじゃなくて……とりあえずお替りはお替りでもらおうか」 「うん」 「でな、ふたみ」 「食事の心配なら必要ないぞ。昼食の準備はちゃんとしてあるし、夕食までには戻ってくる」 「そうじゃないんだ。……その、よかったら、俺もふたみの実家に連れて行ってくれないか?」 「え?」 「一度、ちゃんと挨拶しておこうと思って」 「…………」 「いや、遅すぎたくらいだ。向こうからすれば相当失礼に感じているだろうと反省してる」 「策っ!」  メメが何故か、期待に満ち満ちた瞳で俺を見上げている。 「やっとわかってくれたんだねっ!」 「ああ、メメもそう思ってたのか。うん、減点ものだ」 「ううんっ。そんな事ないよっ。わかってくれたのなら、それでいいのっ!」  うんうん、うんうん、と何故か傘姉も頷いていた。  その間、積み上げられていく皿の数は──あまりに不毛なので、もう数えるのを止めた。 「そう言ってくれるのはありがたいけど、やっぱり今更だよ」  ──本当に今更だな、と自分でも思う。  いくら家を出る時に何も言われていなかったとはいえ──いや、これは知ろうともしなかった俺の不甲斐なさが原因だ。  今まで散々世話になっておいて……。  だいいち、親戚だと気付いた時点で行くべきだったんだ。  考えようともしなかった──意識の外に放り出した──理由は、『巽』の名に触れたくなかったからか。  まったく不甲斐ない。  自分の思い込みに過ぎないかも、とか、記憶が曖昧すぎて間違っていたらどうしよう、とか、全部が全部、言い訳じゃないか。 「で、でも、急に挨拶とか、どうしたんだ?」  さっきからふたみは、何故か俺と目を合わせようとはしない。  なんか、ちょこちょこ俺の事を横目で見てるような気はするんだけど……。 「いや、急にってわけじゃないんだよ。前から考えてたんだ」 「そ、そうか。前からなのか」 「?」  何故かふたみは、さっきから頬を赤らめたままだ。  どことなく嬉しそうにも見えるけど──何でだろう?  ふたみの家は、俺の家から随分と離れた場所にあった。  まず、歩いていける距離になく──同じ市内とはいえ、バスの利用が必要となった。  それから、「この奥だ」と言われて歩き始めたのは山道。  階段やら歩道やら、きちんと整備されていたとはいえ、まさか山を登る事になるとは思わなかった。  しかし、随分と大きな山だ。  俺の家からも見えていたし──もしかしたら、この街のどこにいても見えるのかもしれない。  そして。  この街の象徴と呼んでもおかしくない山岳をようやく制覇した頃、目の前にふたみの家が広がった。 「こ……」  馬鹿みたいに大口を開けて。 「これが……唯井家?」 「どうかしたのか?」 「いや、だってこんな……」  ──立派な家だとは、と口に出してしまうのは失礼な気がして。  それよりも驚きが勝っていた、という方がより正確だけれども。  これじゃまるで、桜守姫さんの───  ──“巽の分家”。  その意味がより色濃く浮き出た瞬間でもあった。  そして何より、俺の記憶が正しかった事の証明に他ならないと。 (……ん?)  これは──家紋? 「…………」  真っ先に浮かんだのは、“炎”という単語だった。  ──どうしてだろう。  見ようによっては他の何に見えてもおかしくないというのに、何故だかその連想は俺の中で確信めいた響きを持っていた。 「おい、開門だ。ふたみがムコを連れて帰ったぞ」  ──すると。  ゆっくりと門が開き、中から眩い光が溢れ出した───  ──さあ。  これほど絶好の機会はない。  携帯は通じない。  自宅の電話からも公衆電話からも、何故か巽の屋敷に繋がらない。  移動を考えると遠すぎるし、なにより実家に行くのは、ふたみとの共同作業が終わってからでないと、自分に対して示しがつかない。  手紙──とかも考えたけれど、それよりももっと簡単な方法があった。  相手方のご家族に直接尋ねてしまえばいいんだ。  こういう事を訊くのに抵抗がないかと問われたら、あるって方に天秤は大きく傾くけれど。  それでも、言い方にさえ気をつけて、正直に話せば、きっとわかってもらえるだろう。  事実、俺は何も知らないんだし。  ふたみには……言わない方がいいよな。  また「私に至らない点があったのか?」とか、いらぬ誤解を生みそうだし。  そういうんじゃないんだよな。  ただ、俺は事実をちゃんと知りたいんだ。  今、俺の身の回りで何が起きているのか。  ──彼女に俺の答えを伝える為にも、正面から向き合うべきだから。  ……これはまた……。  桜守姫さんの家は途方もない面積の敷地に中小規模の屋敷が複数点在して建てられている印象だったけれど、唯井の家は同じほどの大きさの敷地を余すところなく使って一つの巨大な屋敷が建てられていた。  桜守姫家が城下町の縮図なら。  唯井家は、都としての城そのものだった。 「茂一、ただいま」 「お帰りなさいませ、お嬢様」  ──屋敷の外観を見上げた時から、こうなる予感はあったけれど。  その黒服の青年が地に膝をついてかしずいた時、ふたみがいつもと違って感じられた。 「突然のご帰還、少々驚きましてございます」 「修行が足らん証拠だ」 「これは手厳しい。茂一、精進いたします」 「うん」  会話が噛み合っていない気がするんだが。 「そちらの方は……」 「私のムコだ」 「この方が……」  茂一と呼ばれた青年は、立ち上がると俺の前に立った。  サングラス越しだから目線はわからないが……なんというか、品定めされている視線を感じるというか。 「午卯 茂一と申します。ようこそいらっしゃいました」 「巽策です。突然押しかけてしまい、申し訳ありません」 「策……?」  僅かに表情をしかめた──その時。 「お。お嬢じゃん。おっ帰りなさいましー」 「菊乃丸か。ばあさまはおられるか?」 「あー、いんじゃねえの? 呼んでこよっか?」 「……菊乃丸よ。お嬢様に対してその物言い、何度改めろと言わせれば気が済むのだ」 「あー? お嬢が気にしてねえってんだから、別にいいんじゃねえか」 「己の身の程をわきまえろと言っているのだ。吾らは唯井家に仕える身。貴様はお嬢様のご温情にすがっているに過ぎん」 「おめーは小せぇ。人間小っせぇ。ちったぁお嬢を見習えよ」 「器の大小の問題ではない。礼は礼である」 「かーっ。そう細けぇからハゲんだよ、オメーは」  ──あ。  何か今、踏み込んではならない領域に踏み込んだ音がした。 「……お嬢様、お目汚しとなります。今よりここに目つきの悪い山猿の死骸が散乱いたしますので、どうぞお屋敷の方へ」 「わかった。ほどほどにな」 「──は!」 「“は!”じゃねぇ、“は!”じゃ! だいたいテメェはいつも───  うおっ! ちょっ……マジか! テメー本気なんだな!?  OK完パゲ。来いよ。決着をつけてやろーじゃない」 「ばっ、馬鹿者! これは断じてハゲではない! ただ毛髪が新天地を求めて旅立っただけなのだ!!」 「それをハゲって言うんだろーが、この地肌の潤いクンがっ!!」 「……いいのか? あれ」 「うん。いつもの事だ」  なんか庭から日常生活には有り得ない重く鈍い金属がぶつかり合う音がしてるんだけど。  ……気のせいという事にしよう。  俺は客間に通された。  しかし、すごい家だ──ここに来るまで何人もの使用人と擦れ違った。  繰り返すが、俺の家は特殊だ。  確かに家政婦さんは沢山いたけれど、こういう感じじゃない。  ……俺は桜守姫さんの家を訪れた時と似た緊張と居心地の悪さを感じていた。  ふたみは例の用事を済ませるとかで、「すぐに戻る」と言い残して席を外していた。 「ふたみ、戻ったのか?」  ──襖の向こうから姿を現したのは、お婆さんだった。  恐らく、この人がふたみの言っていた「ばあさま」だろう。 「そちは……」 「お邪魔しています。僕は巽家の──」  これで「誰?」みたいな顔をされたら、それこそどうしたものか。 「おお、坊ちゃんか」  ──やっぱり。  訪れたのは随分と昔の事だから、俺の顔を覚えているかわからないし、覚えていたとしても子供の頃の俺の顔と一致しているかどうかはわからないけれど。 『巽』という言葉に反応したのは、間違いない。  じゃあ……そういう事か。  それでいいのか。 「……何をしておる」  俺は正座のまま、畳に額を着けていた。 「生活費、いつもありがとうございます。お陰様で勉学に励む事ができます。本当にありがとうございます」 「…………」 「……その。申し訳ありませんでした。お礼どころかご挨拶まで遅れてしまって」 「──ほ」  頭を上げる事のできない俺に、お婆さんの笑い声が届いた。 「それを言う為に、わざわざ?」 「ふたみさんがご自宅に用があるとの事でしたので、恥知らずにも便乗させていただきました」 「これはこれは──ほ。なるほどのう」 「……まずは頭を上げてくれんか。これでは話もできん」 「しかし……」 「坊ちゃん」  お婆さんの手が、優しく俺の肩に乗せられた。  恐る恐る頭を上げた俺の前に、お婆さんの顔が広がった。 「……よう来なすった。大きゅうなったのう」  その気さくな笑顔を見た時、ふと、懐かしい風が吹いた。  真っ先に感じたのは、その声に含まれる──柔らかさ。  あの時、ふたみの後ろにいた───  ───優しい笑顔のお婆さん─── 「ここまでは迷わずに来れたか?」 「は、はい。ふたみさんに案内してもらったので」 「そうかそうか。この街まで来るのも大変だったろうに、ようこの屋敷まで訪ねてくれた。  坊ちゃん、名は何と?」 「策といいます」 「……策……?」  そこに、僅かな空白があった。 「……馬鹿な」  その小さな吐息には、確かに驚愕の色があった。 「あの……何か」 「……いや、てっきり刻が来ると思っておったでな。すまんの」 (……また兄貴か)  巽 刻。  俺の兄貴。  いつだってそうだ。  もう慣れてるさ。  ……でも、今、確かに「来ると思っていた」と言ってたな。  という事は、間違いなく「巽の人間の誰かが来る」と知っていたわけで───  今は俺とお婆さんの二人きりだ。  これまでのやり取りから察するに、事情に精通しているようだし──これほどのお膳立てもそうはないだろう。  とにかく内容が内容だ。  相手に失礼のないように。  ここだけは気をつけないと。 「あの。唐突にすみません。一つお訊きしたい事があるのですけれど、宜しいでしょうか?」 「なにか?」  お婆さんはいたって気さくな様子だ。  これでは逆に言い出し辛い気持ちもあったが──そこは、ぐっと堪える。  言うべき事は言った。  失礼のない範囲での質問なら、許されるだろう。 「……その。ふたみさんの事なのですが。ご本人は……その、僕の嫁と……おっしゃっているのですが……」  ──続く台詞を考えながら、俺は慎重に言葉を選ぶ。  けれど、お婆さんはそれだけで察してくれた。 「おお、その事か」 「え、あ、はい。それでその……」 「すまんの。あの娘は思い込みの激しい質でな。その事で、何かそちらにご迷惑をかけたのではないか?」 「あ、いえ。迷惑だなんて事は」  ……拍子抜けした。  ──でも、もう間違いない。  どこかで、ふたみの勘違いがあったんだ。  巽家と唯井家、二つの家の間で何らかの取り決めがあった、これは事実だろう。  でないと説明のつかない事が多すぎる。  ただ、それはまだ両家が本格的に動くようなものじゃなくて。  つまり、正式にどうこう、なんて段階じゃなかったんだ。  ──少しだけ奇妙な戸惑いはあったけれど。  どこか安心したのも、また事実だった。 「儂からも少し尋ねてよいか」 「はい」  俺はたたずまいを正す。 「ふたみとは仲良くやってくれておるか?」 「あ、はい。ふたみさんにはお世話になっています」 「そうか。家事だけは得意な娘よ。そうか、役に立っておるか」  ──ふたみに世話になってるのは、それだけじゃないんだけど。  あの娘の真っ直ぐさに、俺がどれだけ救われたか。  でも、親族の前でそれは気恥ずかしくて言えなかった。 「学園ではどうか? あの娘はいつもと変わりないか?」 「ふたみさんは……その、飾らない方ですから」 「然り」  お婆さんは嬉しそうに見えた。  ──けれど、少しだけ声のトーンを落として、次にこう尋ねた。 「学園には桜守姫の娘もおろう。あの娘らとふたみは……どうか?」 「どう……とおっしゃいますと」  仲良くやっている──と言ってしまっていいのか。  両家の確執は桜守姫さんに聞いている。  二人は間違いなく友達なんだけど、それを唯井家の人間に言ってしまっていいものだろうか。  家同士の因縁めいた衝突に巻き込まれながらも、それでも互いに精一杯踏み出して、ようやく今の距離が保たれているとしたら。  俺はふたみも桜守姫さんも好きだ。  二人の迷惑になるような真似はしたくない。 「……そうか。吾らが関係を聞き及んだか」  しかしお婆さんは、俺の反応から言わんとしている事を察したようだ。 「桜守姫と吾ら……確かに、未だ多少のいざこざはある」  ……未だ、と言った。  という事は、少なくとも“昔からの確執がある”と受け取ってしまってもいいのだろう。  ──今となって考えてみれば。  桜守姫さんから聞かされた「両家の確執」という言葉は、俺が考えていたより遥かに重たく根が深いものだったのだろう。  桜守姫家にしろ唯井家にしろ、まさかこれほどの家柄だとは思いもしなかった。 「それでも、ここ百年ほどは互いに落ち着いたものよ」 「…………」  ──巽家が去ったこの地に。  分家である唯井家だけが残された。  分家とはいえ、やはり巽家の一部。唯井家は巽家の後ろ盾を受け、大きく発展していった事だろう。  そこには様々な悶着があったかもしれない。後ろ盾と一口に言っても、素直に受ける事ができたのかはわからないし、巽家の側で何らかの打算があったのかもしれない、両家の間に何がしかの取引があったのかもしれない。  けれど一つだけ確かな事は、唯井家はこの地に根を下ろした名家として成長を遂げたという事だ。  それは、この屋敷へと実際に足を運んで実感した。  そして、この地にはもう一つの名家がある。  桜守姫家。  唯井家の前に桜守姫家か、桜守姫家の前に唯井家か、それは俺の知る由のないところ。  その詮索は野暮というものだろう。  しかし、一つの土地に二つの名家──とは、きっとこういう事なのだ。  ……まったく。  家柄ってのは、どうしてこういつだって厄介で。  そして、子供たちを縛るのだろう。 「待たせたな」  ──そこへ、襖を開いてふたみが現れた。  きちんと正座をして、いつものように心得た作法で襖を閉める。 「ふたみ」 「ばあさま。ただいま戻りました」 「よう戻った」  再会を喜ぶ二人に親愛の情を感じながら、俺は、ふたみの礼儀作法はやはり“地元の名家のお嬢様”だからという事なのだろうか──と考えていた。  いつも思っていたけれど、随分と厳しく躾けられた印象を受けるし。  しかし、ふたみが“お嬢様”か。  ……なんて言うか、その。  桜守姫さんはすごくしっくりきたんだけど─── 「お主人ちゃん、失礼な事を考えてる目だな」  女の子ってのは、どうしてこんなに鋭いんだ。 「これ、ふたみ。坊ちゃんに失礼な」 「ごめんなさい」  ふたみは素直に頭を下げる。  やっぱり、躾けに厳しい。 「今回の罰は、水牢ですか。それとも、焼き串ですか」 「そんな程度で済ますものか。坊ちゃんに恥をかかせおって」  え、ちょ、ちょっと。 「そうさな……」  お婆さんの目が妖しく揺曳する。 「いやいやっ! 僕、全然気にしてませんからっ!」 「…………」 「いやホント、全然、まったく気にしてません。だから、ふたみを罰するのは止めてください!」 「冗談だ」 「冗談よ」  二人して真顔でそう言った。 「何となく、お主人ちゃんが考えてる事がわかったんでな」 「ふたみが考えてる事がわかったので、乗ってみたまでよ」  なにこの連携。  つか、けっこーノリ軽いんスね。 「……ふたみ」 「はい」 「肝心な事を訊いておらなんだ」 「何でしょうか?」  お婆さんは俺とふたみとを交互に見て、それから、ふたみの瞳をじっと見つめて───  こう、訊いたんだ。 「──幸せにやっておるか?」  と。 「……はい」  ふたみはこくりと、頷いた。 「そうか」  お婆さんは嬉しそうに。  本当に嬉しそうに───  ……微笑った。  訊くべき事はもう何もないと、皺の刻まれた笑顔が語っていた。  ──夕焼けが、やけに眩しく感じられた。  曇り空が来訪する前の、ほんの少しの猶予。  紅の衣をまとった天女が街中を仄かに染め上げる。  ……愛されているんだな、と、素直に思った。  そして、少しだけ嫉妬している自分を感じて、苦笑した。  でも、あんなお婆さんは素直に羨ましいよ。  ──ふたみはご機嫌だった。  表情こそいつもと変わらないように見えるけど、俺にも少しだけわかる。  それは、ふたみが俺の心を読んだように。  俺にもまた、彼女の事は言葉にしなくても伝わってくる部分があった。  ──なんでだろうな。  こういうのって、何て言うんだろう。 「そういえば、ふたみ。用事って何だったんだ?」 「え」  ──あからさまに。  それまで軽い足取りだった、ふたみの動きが止まった。 「べ、別に、たいした事じゃない」 「ふうん……」  言い辛い事だったのだろうか。  また余計な事を訊いてしまったのかもしれない。 「あっ……!」  その時、動揺していたのか、ふたみが道端で転んだ。  肩にかけていた鞄の荷物が路面にぶちまけられる。 「大丈夫か!?」 「あ、うん……ありがとう」  俺はふたみの手を取って起こすと、地面に散乱した荷物を拾い集めた。 「い、いい。拾わなくていい」 「いいって、こんなに散らばって……」  ──何を慌ててるんだ。ふたみらしくない。 「ん?」  道路に散乱したふたみの荷物の中に、ハードカバーの書籍があった。  タイトルは─── 「『なぜ☆なに★ヨメの心得 〜猛虎襲来の巻〜』……?」 「あ、ああっ」 「──曰く、ヨメの一日はムコの“ご奉仕”から始まる……なにこれ?」 「だだっ、だからっ」 「……もしかして、ふたみってこれでヨメの情報を仕入れてたのか?」 「お、教えてくれる人がいないんだ。仕方ないだろう」 「……お婆さんとかは?」 「ば、ばあさまは……」 “──愛しなさい。そして、愛されるようになりなさい” 「としか言ってくれないから……具体的じゃないんだ」 「……そうか」  何だか、とてもあのお婆さんらしいと思った。  柔らかで朗らかな微笑みが、脳裏に浮かぶ。 「それだと、私はどうしたらいいのかわからないから……」 「なるほど。なになに」 「こ、こらっ」 「〈ご奉仕とは〉……きゃー! ハズカシー! そんなコト書けないよぉ♪ ……である」 「その本、何故か内容は書いてないんだ」 「…………」 「どーしても知りたい人は、夜中にこっそりお父さんとお母さんの寝室を訪れてみてね♪」……って。  ……最悪だ。この本。 「ふたみ」 「なんだ」 「燃やそう」 「だだ、ダメだ。私の聖書だぞ」  ふたみは俺の手から、無理やり『なぜ☆なに★ヨメの心得 〜猛虎襲来の巻〜』を引っ手繰った。  彼女は『なぜ☆なに★ヨメの心得 〜猛虎襲来の巻〜』を、大事そうに鞄に仕舞う。 『なぜ☆なに★ヨメの心得 〜猛虎襲来の巻〜』を……。  ……何だ。この奥底から湧き上がるどす黒い感情は……。  今ならかつてない力が出せそうだ。 「……茂一よ」 「──ここに」 「墓を作り直せ。いささか予定が変更された」 「承知いたしました」 「あの娘には……気取られんようにな……」 #«6月20日»  ……最近、メメはどんどん起床時間が遅くなっている。  この家に来た当初はふたみの手伝いをしようと頑張って早起きしていたけれど、断られ続ける内に段々と本来の時間帯に戻っていってるみたいだ。 (メメも可哀相だけどな……けど、ふたみもこれだけは譲らないだろうし)  というわけで、いつの間にかメメを起こすのは俺の役目になってしまった。 「メメ。メーメ。起きろよ。そろそろ朝食だぞ」 「うーん……むちゃむちゃ……」  どんな寝言だよ。 「メメ。おいって」 「策……今だ……おねーさまに…………チッ、このヘタレがぁ……」 「…………」  このまま眠っていて欲しいと思ったのは内緒だ。 「メメ」 「ん……あ、ヘタレ君、おはよう〜」 「……おはよう」  引きつった笑みで朝の挨拶を交わし。  そしてメメは、再び布団の中へと沈んでいく。 「……起きたのに、何故布団から出ない」 「策が寝起きぱじゃまの愛を見て欲情するから」 「普段、パジャマのままのメメと一緒に朝食を食べてるじゃないか」 「……あのさ、策。今から大事な話をするよ?」 「え? あ、ああ」 「朝さ、起きるじゃない?」 「ああ」 「で、顔洗って、朝ごはん食べて、着替えて、学園に行って……」 「そうだな」 「……家に帰ってきて、ゴロゴロして、晩ごはん食べて、ゴロゴロして、お風呂に入って、ゴロゴロして……」 「……ゴロゴロしてる回数が妙に多くないか?」 「で、寝るじゃない?」 「要するに何が言いたいんだ?」 「合理化」 「…………」 「……朝、起きて……そして寝る。ああ完璧。無駄がなさ過ぎる」 「知らないようだから教えてやるが、世間的にはそれを二度寝って言うんだ。覚えとけ」 「むぅ。すでに先人が合理化済みか……」 「ごちゃごちゃ言ってないで起きろ」 「ちっ」  俺もメメを起こすのに慣れてきたのか、今日はふたみが料理を並べる前に間に合った。  しかし、だからこそ──俺は恐ろしい事実を知る事になってしまったのだが。 「おはよう、さっくん」  ふたみは台所。  そして、居間へと一番乗りを果たしているのは傘姉。  だから今日まで気付かなかった。  まさか───  まさか傘姉が、朝食の前に朝食を取っていた、などと。  まあ今更なんですけどね。  ホントに今更なんですけどね。 「さてさて」  ああ、和傘の中に手を突っ込んでらっしゃいますね。  とても素敵ですね。  構造とか別に知らなくてもいいです。  でも“素敵”って“滅法”って言葉と同じ意味ですよね。  法を滅するとか今の気分にぴったりですね。  さあ、今日の傘姉のお食事は─── 「…………」  取り出すのもめんどくさくなって、和傘からラーメンの麺だけが伸びてる状態。 「ふむ? どうしたの? さっくん」  ちゅるり、と伸びた麺を吸い込む傘姉。 「いいんだ。……そう、傘姉はありのままでいい。受け入れる事で男は一つ大きくなるんだ」 「?」  もう明らかに焼きたてのピザが出てきても、どう見たって今釣り上げたばかりの新鮮な魚が出てきても、おいそれ刈り取ったばかりの稲ってか精米すらしてねえよ!!  ……何もかも、すべてあるがままを受け入れよう。  もう全部大人気ない。  つかもういい。  めんどくさいめんどくさい。  はいマンガマンガ。  もうそれでいいじゃん。 「さっくん」  傘姉は真面目な顔をして、俺を見つめていた。 「今からとても大切な事を言うから、繰り返して言ってね?」 「え、あ、はい」 「大根は浪漫」 「大根は浪漫」 「卵は王者の凱旋」 「卵は王者の凱旋」 「しらたきはムービー☆スター」 「しらたきはムービー☆スター」 「お鍋の中に生まれる大宇宙」 「お鍋の中に生まれる大宇宙」 「食べ終わった後はバニラアイスを一気食い」 「食べ終わった後はバニラアイスを一気食い」 「うん♪」 「…………」  ……俺は傘姉の為に何をしてあげられるんだろう。 「…………」  メメ、無言になるな。  俺を独りにしないでくれ。 「愛ね、今日は留守番なの」  ──登校中、メメがそんな事を言い出した。 「留守番?」  って……俺とふたみが家にいないのはいつもの事だから、あえて言うって事は……。 「うん、実家の方。お父さんとお母さんが出かけなきゃいけなくて」 「そっか。でも、俺もふたみも公園にはいるんだからさ」 「うん! だから寂しくないよ。一休みしたくなったら、ウチの方に来てね?」 「はは。じゃあ、後で寄らせてもらうよ」 「お」 「どうした?」 「……蚊柱だ」  まだ夏前だってのに。  湿気が多くなると、どうしても虫ってのは湧いてくる。 「ま、大丈夫か。蚊柱にいるのはオスだけだから、刺されないし、気にせず通ろう」  しかし、ふたみはためらっているようだ。  一度止まった場所から、なかなか歩き出そうとしない。 「そういう問題じゃない。平気ならお主人ちゃんが通ったらどうだ」 「何言ってるんだ。そんな気持ち悪いマネできるわけないだろ」 「そこに座……」 「俺を甘く見るなっ! もう正座してる!!」 「…………」 「それより、蚊柱ってのは発情期のオスの群れの事なんだが、それを知った上で女の子が蚊柱に捕まってたりするのを見ると、あらぬ想像を働かせてしまうよな?」 「同意を求めるな」 「──もう終わってしまいますわね。双子座の期間も……彼女が選んだ照陽菜も」 「う、うん。すごいね? 二人でこれだけの事をしちゃうんだから」 「ほんとうに。呆れるくらい単純」  そう言って。  のんは窓の向こうに広がる景色を、溜息混じりに見つめた。 「……ねえ、みどの」 「なぁに? のんちゃん」 「この照陽菜……貴女はどう思われましたの?」 「え?」  のんはもう一度、溜息をつく。 「すっ、ステキだと思うよ。とってもっ」 「──そう。素敵ですわよね」  のんの口許が苦笑に沈む。 「あんなに真っ直ぐな瞳をしちゃって。いつだってわたくしに……お姉様にですら、真っ直ぐな言葉をぶつけてくるお方。  あんなに真っ直ぐだから──  ……もし、駄目だって事になったら……あの方は、どんなお顔をしてしまうのかしら……」 「のんちゃん……」 「……心配なんだね?」 「ちっ、違いますわよっ! わっ、わたくしは別に──」 「のんちゃん」 「だっ、だって、どうせご成功なされるのはお姉様だけなんですのよ? 失敗するってわかっておりますのに、あんな──」  のんは言いかけた言葉を呑み込んだ。  みどのにはそれが何だかわかった。 「あんなに一生懸命になっちゃって」……と。  悪戯な風が窓枠に落とした、桃色の胞子。  ──のんはそっと、掌で受け止める。 「……テレ雪の恋、か」 「……もしも。もしも、誰かがここで火を焚いて──せっかく掃いた景色がまた一面の桃色で埋め尽くされてしまったら。その時は、さすがにあの方も諦めるかしら……」 「のんちゃん……」 「そうしたら、あの方のせいにはならない。失敗したのではなく、火を焚いた誰かのせいにできる。哀しいかもしれないけど……真っ直ぐな気持ちは、どこにもぶつからないで済む……」 「…………」 「……ふふっ。なんてね。冗談ですわよ、冗談」  俺たちはご機嫌だった。  最早、大気に躍る妖精はその姿を隠し。  今月末には吹き抜ける告白の風には悪いけど、彼らには求愛する相手はなく──そしてもしも彼らが傷心の淑女たちの痛みを癒す為に現れていたのなら、今年は安心して飛び立っていける。  もう、終わりは目前に迫っていたのだ。 「残りは、妾の家の辺りだけだ」  暮らしの邪魔をしてはいけないと、一番最後に回した場所。  日は落ち始めてしまったけれど、あの程度の面積ならすぐに終わらせられる。 「今日はメメもいるから丁度いい。ちょっと出てきてもらって、終わりを見届けてもらおう」 「賛成だ。妾には、色々と迷惑をかけたからな」  ふたみのこの言葉を聞いたら、メメはどんなに喜ぶだろうか。  いよいよ──か。  終わりが見えてしまうと、気持ちは別の方向に向かってしまう。  終わらせるだけで精一杯だった気持ちに余裕が生まれて、その先の事を考え始めてしまう。 「…………」  俺は、ふたみを信じている。  彼女が選んだ道を信じている。 「今日の夜には、星空が見えそうだな」  その言葉は、決して強がりなんかじゃなかった。 「あ……」  俺はふたみの手を握って。 「さあ、行こう」  そう言った。 「うん」  頷いたふたみが、俺の手を握り返した。  俺たちは浮かれていた。  ……浮かれすぎていたのかもしれない。 (……なんだ? この音……)  妙な違和感。  ただの違和感じゃない。 「何かがいつもと違う」とか、そういった類いのものじゃない───  立ち上る黒々とした気体。  見渡す景色にあまりに似つかわしくなくて、一瞬、それが何であるかわからなかった。 「けむ……り?」  口に出した時、その言葉の意味が圧しかかってきた。 (煙だって!?)  それは焚き火で上がるような代物ではなかった。  ──主張している。  あれは、今、そこで何が起きているのか声高に主張している。  黒煙がもうもうと駆け上がる天は、茜色に染まり─── 「火事だ!!」  叫んだ次の瞬間に息を呑んだ。  何が燃えている?  この公園で燃えるものは何だ?  そんなものはいくらだってある。  でも、それは家だった。  炎熱で揺らめいたって形が失われるわけじゃない。  遠目にだってわかる───  そしてこの公園で、家といえば一つしかない。 「メ……メ……」  その事に気付くよりも先に、血の気が引いていた。  辿り着くまでに時間がかかったわけじゃない。 「そんな……」  それはあまりに日常からかけ離れた、不自然な光景にすら映った。  黄昏と領土を分け合った夜空を茜色に染めて──窓という窓から炎が手招きをしている。  炎というのは、これほどまでに早くその領土を広げるのか。  家がログハウスだったから?  辺りにテレ雪が積もっていたから?  いくら敷地面積が広大だとはいえ、同じ公園内にいながら──気付くのが遅かったのか?  俺が浮かれていたから?  動揺と焦燥の中に次々と浮かび上がる疑問符。  丸太の城の二階の窓。  紫にも似た赤黄色に染め上げられた視界に、薄ぼんやりと揺らいだのは人影。  間違いない。  あそこには人がいる。  ──メメがいる!!  ──消防車。  そんなもの、火の手に気付いた付近の人が呼んでくれてるだろ!?  間に合わない。  そんなものじゃ間に合わない。  ……どうすればいい。  俺に今できる事はなんだ!? 「あらら……派手に燃えちゃってるね……」  緊迫の事態にいささか呑気な声が飛んできたのは、その時。 「メメ!?」  我が目を疑う、という言葉はこういう時の為にこそあるんだろう。  振り向いたそこには、目の前で炎上する家の二階に見えたはずの人物がいた。 「どうしたの?」  あまりにあっけらかんと。  メメは、開いた口が塞がらない俺を不思議そうに見つめていた。 「……留守番……してたんじゃ……」 「あはは。タイクツしてたら、丁度家の前をウシが通ってね。ちょっとだけ替わってもらっちゃった」  え。 「10分だけならって条件で替わってもらったんだけど、いやーすっかり遅れちゃった」 「じゃ……じゃあ……」 「一時間以上も遅刻したら、さすがにもういないでしょ。不幸中の幸いっていうか」 「待てよ。俺、さっき二階の窓に人影を見たぞ」 「え!?」 「のんちゃん……」 「──桜守姫! 何であなたがここに……」 「の、のんちゃんと公園で待ち合わせてたの。そうしたら、のんちゃんが未寅さんの家から呼んでたから……あたしも少しだけお邪魔して……」 「あなたなんか家に上げるわけないでしょ! ここを何処だと思ってるの!?」 「ご、ごめんなさいっ。のんちゃん、未寅さんが戻ってこないからもう帰ろうとしてたみたいなんだけど……二人ならもう少し待ってやろうって……」 「ふざけないでよ! 桜守姫が未寅の領土を侵すなんて、これがどういう事か──」 「そんな事を言ってる場合じゃないだろ!!」 「ひっ……!」 「さ、策……」 「それからどうしたんだ? 妹さんは、透舞さんと一緒にいたんだろ!?」 「は、はい。でも、あたしちょっとだけ未寅さんの家を出て……」  ──今、戻ってきたと?  ──じゃあ?  じゃあ、あの炎熱に抱かれているのは───  目の前が揺らいだ。  すでに焔は家を丸々呑み込み、噛み砕くようにすべてを灰燼に帰し始めている。  ──遠くから近付いてくる消防車のサイレンの音も、どこか他人事のようで。  メメも。  妹さんも。  地に足を縫い付けられたかのように、呆然と立ち尽くすしかなく。  そうだ。  俺は、ふたみがその場にいない事にすら気付かないほど、冷静な状態からかけ離れていた。 「ふたみ!!」  炎上するログハウスから姿を表した一対の影。  気を失った様子の少女をおぶっていたのは、見間違うはずもない──ふたみだった。  焼け落ちていく。  足取りもしっかりと、透舞さんを運ぶふたみが出口から数歩進んだところで、丸太の家が音を立てて崩れ落ちた。 「ふたみ!!」  それが合図だった。  状況を翻弄する事態がかけた金縛りが解け、俺たちはふたみの許へ走った。 「おい、トリマキ。しっかりしろ。トリマキ」 「う……ん」  急いで彼女たちを離れた場所へと連れて行き、透舞さんを横にした。 「トリマキ。トリマキ」 「ふたみ!? お前、大丈夫なのか?」 「うん」  ふたみは毅然としていた。  彼女は「自分は大丈夫だ」と言って、寝かせた透舞さんに呼びかけ続けている。  制服はところどころ焼け焦げがあったけれど、彼女は言葉通り大丈夫そうだった。 「トリマキ。トリマキ」 「唯井……さん」  透舞さんは気を失っていたわけではなかったようだ。  熱と煙で少し意識が混濁していただけだった。 「あ、あの、わた……くし……」  慌てふためいていたものの、口調自体はしっかりしていた。  自分で起き上がる彼女の姿を見て、胸をなで下ろした。  ──急速に訪れる安堵感。  肩の力が抜けて。 「良かった」という言葉が、口から出るよりも先に全身の力を奪っていったようだ。 「大丈夫か」 「唯井……さん……」 「ああ……」  ──あまりにも見慣れた、しかしもうこの公園には姿を見せなくなっていたはずの胞子。  それが今、大気を埋め尽くすかのように増殖を繰り返している。  大気に舞う火の粉より、遥かに多く─── 「テ、テレ雪が……」  それはまるで星空だった。  火の粉とテレ雪とが、あの雲の向こうに広がる星空を模っているかのように─── 「そんな事はどうでもいい。オマエは大丈夫なのか」 「あ、あの……い……唯井さん……」 「大丈夫なのか」 「は、はい……わたくしは……でも、唯井さん……」 「そうか。良かった」 「ふたみ……あんま、無茶するなよ……」 「心配してくれたのか?」 「あっ、当たり前だろ!」 「そうか」  えっ……。  ふたみ……今、微笑った? 「どうした?」 「あ、いや……なんでもない」  ──その時。  乾いた音が、辺りに響き渡った。 「お、お姉様……」 「…………」 「ごっ、ごめっ……なさ、わたくし……」 「…………」 「ごめんなさいっ!!」  桜守姫さんは、無言で透舞さんを見つめている。  ──いや。あの目は─── 「っ……!」 「…………」 「ゆ、許して……お姉様……」 「……先程から、どなたに頭を下げておられる」 「え? い、いえっ……だから、わたくしこんなつもりじゃ……」 「何故、媛に言い訳をなされる」 「お姉様に言い訳をするつもりなんてっ……わ、わたくしは、お姉様にはいつだって素直に……」 「……先程、クイに何を申そうとしておられた?」 「だ、だから、こんなつもりじゃなかったって……い、言い訳だけど、でも……」  ──静かに。  桜守姫さんの瞳が凍てついていく。 「其方が謝らねばならぬのは、媛かえ? クイかえ? ……筋違いもいい加減になされ」  震えるその声に込められていたのは、押し殺した怒り。 「えっ……」 「…………」 「あ……」  透舞さんはようやく大切な事に気付いたように、慌てて───  ──メメの姿を捜し。 「ごっ、ごめんなさい! わたくし……」  そして、その前に膝をついた。 「そ……その、貴女の……お家……」  桜守姫さんは、己の右手を見つめていた。  左手で手首を握り締めて、掌を向けた右手を睨むように見つめている。 (……責めてるんだろうな)  桜守姫さんの事だから。  誰かを叩くという行為は、とても痛い。  俺は知っている。  透舞さんを叩く時、桜守姫さんがとても辛そうな顔をした事を。 (桜守姫さん……優しいな)  痛かったのは、きっと手首や皮膚なんかじゃない。  彼女は何よりも先に、透舞さんにしなければいけない事を示した。  本当は、すぐにでも透舞さんの無事を喜びたかっただろうに。  それでも彼女は、引っ叩いてでも透舞さんに気付かせたのだ。  ──今すぐにしなければいけない事が、何であるのか。  桜守姫さんはきっと、こう思っているはずだ。 「この事態を引き起こした彼女を、誰かが叱らねばならない」──と。  だから、その役目を自分が引き受けると。  ──誰かを叱った人は、その人と同じ痛みを自分が引き受ける。  叱る事と責める事は違うから。  何故なら。  その人と同じ立場に立って物事を考えなければ、誰かを叱る事なんてできないから。 「お……お姉様……」  ──この世のすべてから見捨てられたかのような表情をする透舞さんを。  桜守姫さんは、優しく抱きしめた。  本当は、真っ先にそうしたかったはずなのに。 「ご無事で……よかった……」 「おねえ……さま……」 「ほんに……よかった……」 「ふぇっ……ええ……えええ……」  桜守姫さんが透舞さんをどれほど大切に想っているか、痛いほどに伝わってきた。  口にする事はなかった桜守姫さんの言葉は、きっとこう続いていた。 「それから、誰かが彼女の無事を心から喜んでやらなければいけない」──と。  ……やっぱり。  桜守姫さんは凄いと思う。  ようやく到着した消防車が消火作業に入った時、救急車もまた到着していた。  ふたみの活躍により事なきを得たが、万一の事を考えて、透舞さんは病院で検査を受ける事となった。  彼女が運ばれていく時、当たり前のようにそれに付き添った桜守姫さんの表情を、俺は知っている。  俺たちも一緒に行くべきだと思ったんだけど、桜守姫さんは「其方たちにはやるべき事があるはず」と言い、それに対してふたみは「コノがいれば大丈夫だな」と──二人のやり取りは、信頼の証のように見えて。  妹さんと三人を乗せて、救急車は病院へと向かった。  ようやく到着した消防車が消火作業に入った時、救急車もまた到着していた。  ふたみの活躍により事なきを得たが、万一の事を考えて、透舞さんは病院で検査を受ける事となった。  ──救急車は病院へと向かった。  ──この娘たちは強い。  そして何より。  ほんとうに優しいのだと───  そんなふうに、俺は心から思った。 (ん……)  ……なんだ? 今の……。  鼓動が高まっていくのを感じていた。  早鐘のように震え動く俺の中心。  そして俺は気付いたんだ。  いつの間にか、あの娘から目が離せなくなっていた自分に。 「……しかし、さすがはあの御家のお嬢様だな……」  喧騒に紛れて掻き消された言葉。  消火作業も一段落したところで、後方支援をしていた消防隊員がそう呟いた。 「ああ。あの炎の中に防火服も着けず……水すら被ってなかったそうじゃないか」 「これがかの……初めて見たが、凄いもんだな……」 #«6月21日»  ──半分。  敷地内の半分までが、テレ雪によって覆われてしまった。  冗談でも何でもなく、昨日で終わりすら見えていた俺たちの照陽菜。  ──ふたみは。 「…………」  ……ずっと、掃いている。  朝からずっと。  ……朝とはいっても、昨日の事件が一段落してからだから……彼女は一睡もしていない。  小鳥たちが朝焼けの空に踊り出すよりも前から、彼女はホウキを握り続けている。  俺たちはただ黙々と、いつもの日課を続けている。  一言も───  ……一言すら。  出てくる言葉は何もなかったから。  残りはたった一日しかなくて。  お互い、その事に触れようとはしなかった。  口に出すのが怖かったのか。  わかりきってる事だからなのか。  ……こんな事になるなんて。 「…………」 「…………」  黙々と。 「…………」 「…………」  沈黙は互いに感じていただろうけれど。  それでも、何かを言い出す事はなかった。  苦痛──というのとは、ちょっと違う。  ……ただ。  そうだ、ただ。  ただ……やるせなかったんだ。  ──どれくらい、そうしていただろうか。 「……うっ……」  不意に、ふたみの身体が、震えて。 「うっ……う、ううっ……」  薄紅色に染まった頬に、何色でもない雫が零れ落ちていった。 (ふたみ……)  ふたみは透舞さんを責めているんじゃない。  ──そうじゃない。  そうじゃないんだ。  言葉にできない想いが、胸の奥に木霊する。  自分でもきっと、どうして泣いているのかわからないんだと思う。 「これは、ばあさまの夢だったんだ」 「ふたみの……お婆さん?」 「うん」  ふたみは頷いた。 「それも勿論ある。でも、それだけじゃない。  ご先祖様からばあさまへ、ばあさまから私へ……これは、そうやって唯井の家系に受け継がれてきた事なんだ。  だから、私は……」  言いかけたきり、ふたみは押し黙ってしまった。 「…………」 「ふたみ?」 「わ、私は……」 「うん」  続く言葉は、きっと大切なものだから。  俺は自然と姿勢を正して、ふたみの言葉を待ち受けた。 「──私は」  そしてゆっくりと、ふたみは覚悟を決めたようにこう言った。 「『唯井ふたみ』が巽策と一緒になる為に、必要だと思ったんだ」  これまでの苦労とか。  確かにあったはずの明日への希望とか。  待ってくれない時間とか。  どうにもできない自分への歯痒さとか。 「もし私が……私たちが、私たちの選んだ照陽菜をやり遂げる事ができたのなら。  その時は、お主人ちゃん……アナタの答えを聴かせて欲しい」 「俺の……答え?」 「お主人ちゃんが私の存在に戸惑っている事は知っている。  私はずっと昔から聞かされていた事だが、まさか相手の方が婚姻について知らされていないとは思ってなかった。  ──だから、お主人ちゃん。  私はアナタの答えが欲しい。  アナタが選んだ答えを、私は受け入れる」 「…………」 「お願いします」  そうして、ふたみは深々と頭を下げる。  そういうもの、みんな。  誰かを責める事で楽になれる娘なら、きっとあんなふうに震えたりしない。  ……声を押し殺して泣いたりしない。 「……ふたみ」  俺は、ふたみを抱き締めた。  胸にうずくまったふたみの泣き顔を見ないように。  ……誰にも、見せないように。 「俺には見えるよ。今日の夜、ふたみと一緒に星空を見上げている光景が。ふたみにも見えるだろ?」  胸の中で───  ふたみがゆっくりと、うなずいた。 「だから大丈夫だ。な?」 「……うん……」  俺にできる事は、ただこうして、彼女の傍で共に日々を繰り返す事。  今日まで時間をかけてやってきた事を──どれだけ急いでもさほどの短縮にもならないと知りながら、今日と明日、いつもと同じように為し遂げる事。  ……歯痒かった。 「……ふたみ。少し休んだらどうだ?」  返答がわかっているくせに、俺はそんな事を口にしていた。 「休めば気分も変わる。そうだ。少し休んで、それから一気にやっちまおう。二人で頑張れば、きっと終わる」  ──気休めに過ぎないと知っていても。 「…………」 「大丈夫。俺を信じろって」  嘘つきだな、俺は。 「俺を信じろ」なんて台詞、今日まで生きてきて一度だって言った事なかったくせに。  大切な人を騙す為に使う事になるなんて。 「な?」 「…………」  お前の言いたい事はわかってる。  けどごめんな。俺、口が止まらないよ。 「……ふたみ?」  その時、俺はようやく気付いた。  ふたみの様子がおかしい。  彼女は呼吸を荒げ、虚ろな瞳のまますでに掃き終わった場所を掃いていた。  ──どうして気付かなかった。  ふたみが、ホウキを支えにして立っている事に。 「ごめん!」  俺はふたみの額に手を当てた。  指先に絡むぬくい汗。  ──ちょっと待て。  この汗の量は尋常じゃないぞ。  そして、そんなものの比ではない熱さの─── 「ひどい熱じゃないか……!」 「へ……平気だ……」  そう言ってる時点で足元はふらつき、よろけた彼女は俺の腕の中に倒れてくる。 「ふたみ!」 「……う。あ……ごめん……」  起き上がろうとする彼女の顔色は蒼白だ。 「っ……馬鹿……!」  こんな状態になるまで、ずっと黙ってたのか。 「ふたみ。休もう。無理をしすぎたんだ」  俺は何をしていたんだ。  ふたみは昨日からずっとここにいるんだぞ?  炎上するメメの家から透舞さんを助け出して、それからずっと───  ──いくら本人が平気そうにしていたからって。  どうして病院に連れていかなかったんだ! 「ダメだ。今……休んだら……」  体調だけじゃない。  無理をしているのは───  今にも張り裂けそうなのはきっと─── 「身体を壊したら何にもならないだろ。さあ、ほら」  病院に、と言いかけ、俺は口をつぐんだ。  病院なんて言ったら、彼女は必死になって抵抗するだろう。どれだけ時間がかかるかわからないのだから。  ……とはいっても、近場のメメの家はもうない。  俺はふたみに肩を貸し、自宅への帰路を急いだ。 「あっ……!」  こんな時に限って降り出しやがって。  なんて意地悪な天気だ。 「ちょっと我慢してくれな」  俺は制服の上着を脱ぐとふたみの頭から被せ、そうして彼女の肩に手を当てて、後ろから押すように歩いた。 「少し歩きにくいかもしれないけど、家までの辛抱だから。我慢してくれ」  ──二人で毎日歩んだ道。  家から公園、公園から家までの距離。  気の進まないまま歩いた事もあった。  けれど本音をぶつけ合ってから、通るのが楽しみで仕方なかった道。  この道の長さをこんなに恨めしく思ったのは初めてだ。 「……まっ……て、待って……」  歩き出した矢先、ぐったりしていたふたみが苦しそうに顔を上げた。 「私は大丈夫だ。だから戻ろう。公園に……」  喉の奥から搾り出すような声は擦れて、最後まで聞こえない。  それでもふたみは、懸命に声を張り上げた。 「つ……疲れたのなら、お主人ちゃんだけ戻ってくれ。ごめんな、いつも無理させて……」  ──何を言ってるんだ。  本気で頭にきた。 「ご……ごめん」 「あ……」  表情に出ていたのだろうか。  こんなふらふらの女の子を相手に何をしてるんだ、俺は。 「……まだ、間に合う。まだ……今日一日あるんだ。最後まで……頼む、最後までやらせてくれ」 「今戻らないと、私は後悔する。双子座の期間は今日までだ。今しか機会はないんだ。  やっと……やっとつかんだチャンスなんだ」  大丈夫だという事を主張するかのように、ふたみの滑舌がしっかりしたものになっていく。 「わかって……! お願い……!」  熱を隠しながら作業をし続け、もう、足取りすら満足におぼつかないくせに。  その瞳は、悲壮な決意に心を固めた殉教者そのものだ。  ……なんて娘だ。 「…………」  そこに、ずぶ濡れの少女が立っていた。 「透舞さん……病院に行ったんじゃ……」 「……わたくしが代わります」 「…………」 「代わらせて……ください」 「ありがとう。でも……」 「お願いします……!」  容赦なく降りしきる雨に打たれながら、少女は懸命に頭を下げた。  ……その姿は、ひどく弱々しく見えた。 「わたくしの……せい……です、から……」  ──いつも強気で、桜守姫さんに負けないくらい聡明で優美な透舞さん。  彼女は「敬愛するお姉様を見習っている」と、いつか言っていた。  きっと人知れぬ努力を乗り越えて、そして俺の知っている“透舞さん”が学園にいたのだろう。  その彼女が、今、目を合わせる事もできずに震えている。 「……ふたみはそんなふうに思ってないよ」 「だから、わたくしがしなければなりませんの」  けれど、その声だけはとても力強く聞こえた。  彼女もまた、ふたみを知っている。  だから今、彼女はここに立っているんだ。 「……トリマ……キ」 「唯井さん……」  よろめきながら顔を上げるふたみを、透舞さんは辛そうに見る。  けれど、今度は目を背けなかった。  まるで、「どれだけ辛くても、自分はそれを見届けなければならない」と言わんばかりに。  それもまた、桜守姫さんを見習う事で身につけた彼女の強さだったのだろうか。 「ただ代わると申し上げているのではありませんわ。現実的に考えて、その……今からでは……とても……」  遠慮がちに言葉を選びながら、透舞さんは続けた。 「ですから、双子座の次……蟹座の期間で、貴女の……貴女たちの選んだやり方を実行します」 「何……言ってるんだ、オマエは……」 「みどのには、わたくしが頭を下げてお願いしました」  その言葉通り、今この瞬間に意を決した、という感じではなかった。  すべての覚悟と準備をしてここへ来た──その目がそう語っている。 「貴女のやり方を、みどのが引き継ぎます。  勿論、みどのはただ休んでいるだけでいい……わたくしが責任を持って為し遂げます。  引き継ぐのは、貴女の想い。ただやり方を引き継ぐのではありません」 「……ありがとう、トリマキ。でもな、負い目とか罪悪感とか、そういう気持ちでそんな事を言うな。なんだか哀しいぞ」 「違いますわ。わたくしが決めた事です」 「違わない。蟹座は蟹座の照陽菜をするべきなんだ。  今期の『双子座』は私たち。だから、『双子座』の照陽菜は私たちにしかできないんだ。  今期の『蟹座』はみどの。そして、『蟹座』の照陽菜はみどのにしかできないんだ。  同じやり方とか……代わりとか。そういう事じゃないんだ」 「貴女の意思を継ぐ事が、みどのの照陽菜だと申し上げても? それをみどのが承知してくれていたとしても?」 「……そんな照陽菜、私は見たくないな……」 「わっ……わたくしは……」 「……行こう、ふたみ」  俺は彼女の肩を抱いて、その歩みを促した。 「まっ、待って!」 「ありがとう、透舞さん。でも……6月の終わりには告白の風が吹くんだ。俺たちが選んだやり方は、双子座の期間ででしかできないんだよ」 「あ……」 「仮に、そうじゃなかったとしても……蟹座の期間じゃ意味がないよ。  ふたみが言った通りだ。双子座の照陽菜は俺たちじゃないとできない」 「…………」 「本当にありがとう。透舞さん」 「……こんな事にも気付けないなんて。  わたくし、結局……いくらお姉様の真似をしても、お姉様みたいにはなれない……。  お姉様のように心豊かにもなれず……賢くもなれない……」 「何を言ってるんだ。牡牛座の照陽菜、すごかったじゃないか」 「あれだって……本当は、わたくしが口にした子供染みた内容を元に……ほとんどお姉様が……」 「…………」 「……行くよ。ごめんな、ふたみが心配だ」 「はい……」  ……この街の人たちは、どうしてこんなにあたたかいのだろう。  俺が出逢った人たちは、みんなみんな優しすぎる。  優しすぎるから傷付いていく。 (……くそっ!)  込み上げる苛立ちの正体もわからず、俺はまた言葉を失ってしまったふたみをかつぐようにして歩を進めた。  ……相当、無理したんだろう。  喋るのもきつかったはずだ。  畜生。  畜生────  見上げた空から降りしきる雨。  ──なあ、痛めつけるのは俺だけでいいだろう?  どうしてみんなを傷つけるんだ。  どうして。  ──不意に。  打ち付ける雨が、止んだ。 「え……」 「……はい。そこまでね」 「傘姉……」 「男らしいのもいいけど、自分を責めるだけじゃ何も解決しないよ」  ──何もかも見通したかのような言葉に、俺は打ちのめされる。 「……傘姉。俺は、どうしたら……」 「──さっくん」 「はい」 「何て言って欲しいのかな?」 「え?」 「さっくんのそれは、質問じゃないよ。言って欲しい言葉があっただけだよね?」 「…………」 「さっくんはもう、自分のするべき事がわかってるんだよ」 「……お姉様にはおわかりでしたのね。こうなる事が……」 「…………」  うつむいたのんに、此芽は一言だけ己の意思を伝えた。 「ようやり遂げなされました」 「あはは……お姉様に褒められてしまいましたわ……」 「…………」  それでも、のんが顔を上げようとしないであろう事はわかっていた。  ただ、それが此芽の本心だったから。  彼女は一度だって、のんを上から見下ろした事などない。  どれほど慕われようと、「お姉様」などと呼ばれようと──いつだって“友達”として付き合ってきた。  だから彼女の言葉は、のんが自分に望んでいるであろう「役割」として発せられたものではない。  自分の認める“友達”に、“友達”としての自分の本心を伝えたのだ。 「……ようやり遂げなされた」  だから、もう一度だけ。  その気持ちを伝えた時、のんが此芽の胸に顔を埋めた。  此芽は優しく、濡れたのんの髪をなでる。 「くや……しい……」 「…………」 「わたくし……あの方の為に、何もできませんの……?」 「…………」  充分にやったじゃないか──喉元まで押し上げられた言葉を、此芽は呑み込む。  必要なのは、言葉ではなかったから。  ただ、今はこのまま。  友人の気が済むまでこのままでいる事だと、過ぎ去っていく時の流れにすがった。  ──やがて。  のんは、はっと気付いて顔を上げた。 「お、お姉様。お召し物が濡れてしまいますわ」  互いにカサをささず、天候の気紛れに左右されるがままだった。 「どうか……お戻りになって……」 「其方はまだお帰りにならぬのであろう?」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「お姉様、どうか……」 「其方が濡れておられるのにかえ」 「…………」  敵わない、とのんはいつも思う。 「其方が案じておられる方も……濡れておられる」  本当に敵わない、と強く思う。  世界中の何処を捜せば、こんなに素敵な女性がいるのだろうかと。 「ふふっ……」  くすり、と。  唐突に、のんは可笑しそうに微笑んだ。 「一人……足りないのではありませんか……?」 「足りぬ……?」 「ええ……わたくしよりも誰よりも、真っ先にお姉様のお心に上るお名前があるんじゃありませんの……?」 「…………」 「……お姉様、一つお訊きしても宜しいですか……?」 「なんです?」 「あの……」  のんはためらいを見せたが───  意を決したように、その言葉を紡いだ。 「……あの、巽策という方……いったいお姉様の何なんですの?」  ──僅かな間。 「……妙な事をお尋ねになられまする。ただの学友です」 「…………」 「何をおっしゃりたいのです」 「……だって。こんなお姉様、見た事がなかったから……」 「媛はいつもと変わりませぬ」 「そう、お変わりありませんわ……お姉様はいつだって誇り高く、聡明で理知的で。  いついかなる時だって、お姉様はわたくしの尊敬するお姉様。  お心遣いもさり気ない……いつものお姉様」 「だから、それがお姉様の愛し方なのだと……気付いてしまいました」  本当に、さり気ない。  誰も、誰だって気付かないかもしれない。  一番気付いて欲しい人に気付かれない、こんなやり方……。  ……のんは悔しかった。  この人が報われない人生を歩んでいる事が、堪らなく悔しかった。 「わたくしは、ずっとずっとお姉様を見てきました。貴女のようになりたくて、貴女に認めていただきたくて……」  認めている。  此芽はのんを友人として認めている。  こんな、たいした事もできはしないくせに気ばっかり強くて、いつも傍をうろちょろして、迷惑ばかりかけている真似っ子の自分を。  ──だからこそ。 「お姉様の事で、わたくしに見抜けない事などございませんわ」 「…………」  再び、僅かな沈黙が訪れる。  だが、今度の沈黙は陽炎の如く揺れ動いた。 「……巽殿はそのようにお思いになってはおられませぬ」 「お姉様に嫌われているとお思いになっておられる──でしょう?」 「……敵いませぬな」  初めてそんな事を言われた。  いつも自分の一歩も二歩も先を言っている此芽。  ──けれど、嬉しいはずのその言葉に、素直に喜べなかったのは何故だろう。 「…………」  見上げた此芽が。  自分の為に雨に打たれてくれている此芽が。  ……まるで泣いているように見えたからだろうか。  いつもは傘姉にあてがわれている部屋に、ふたみを寝かせた。  今、濡れた衣服を彼女が着替えさせてくれている。 「…………」  ──俺は。  俺は、あの目を知っている。  鏡を覗けば映し出される、ほんの少し前の自分。  ただ必死に。  少しでも前に進もうとする、目的を持った者の目。  俺は以前、「自分が失格した人間だから」と、「ふたみが同じ痛みを負わないように」考えた。  ──そして、ふたみを傷つけた。 「…………」 「傘姉……」 「メーちゃん、呼んでくるね」 「メメ……?」 「実はね。私たち、今日学校さぼっちゃったの」  ──そういえば、どうして傘姉はあんな時間に家の前にいたんだ?  俺はそんな事にすら気付いていなかったのか。  二人とも……俺たちを心配して……。 「昨日、ほら……色々あったからね。本人からすれば……お家が焼けちゃったわけだから。  なのに、メーちゃん……。  でも、公園に行って心配そうに見てたら余計に気を遣わせるだけだからって、家で待ってるって……二人に合わせてずっと起きてたんだけど……」 「…………」 「ちょっと起こしてくるね」  そう言って、傘姉は廊下の奥へと消えた。 「さっくんはもう、自分のするべき事が──」 「おねーさまっ! おねーさまが倒れたって!?」 「メメ……」 「あなたがついていながら、何してたのよっ!」  ──ありがとう。  そう言ってくれて。 「すまない」  俺が頭を下げると、メメはハッとした様子で、 「ごっ……ごめん。策のせいじゃ……ないよね……」 「いいんだ」 「……おねーさま、どうなの?」 「今は眠ってる。熱が酷いんだ」  俺は襖を開き、メメを室内に促す。  ──しかし、メメは室内に一歩足を踏み入れたきり、そこから進もうとはしなかった。 「……ねえ、策」  その声が震えている。 「おねーさまは……何処?」  ──血の気が引いた。  部屋に入った俺が見たのは、抜け殻となった布団だった。 「ふたみっ!!」  公園への道すがら。  ふたみは、坂道の終わりに倒れていた。 「おいっ! しっかりしろっ! ふたみっ!」  ここまで独りで来たのか。  カサもささずに、その身体で歩いてきたのか。 「馬鹿だよお前! 本当に馬鹿だ……っ!!」  自分が寝巻き姿である事にすら気付かない、朧気な意識で。 「……クイの事はご心配なさらず」 「え?」 「媛が其方のお宅へとお運びいたしまする」 「桜守姫さん……」  先刻、急に振り出した雨だからか──桜守姫さんもまた、カサを持ってはいなかった。  上質そうな着物も、彼女の長い髪も、雫に濡れていた。 「ん? ああ……この格好がお気になりまするか。すまぬ。濡れても乾く彼の方々とは異なる故……」 「え?」 「なれど、媛が濡れておっても、風邪をひくのは媛であってクイではありませぬ……其方には申し訳ありませぬが、媛が風邪をひく前にお宅へお送りすればクイには伝染りませぬ。どうか、それで納得してはいただけませぬかえ?」 「でも、一人で運ぶのは──」  桜守姫さんが何を言っているのかはわからなかったけれど、今はそれどころじゃない。  すると彼女は少しだけ優しい顔をして、道の隅に視線をやった。 「透舞さん……」 「頼もしい援軍も到着いたしました。女子の柔腕でも、二人おれば……のう?」 「けど、どちらにしろ俺も戻──」 「……巽殿」  その声は低く──鋭かった。 「其方の嫁御は、媛たちが責任を持って介抱いたしまする。  ならば其方は、其方が為すべき事を全うなされませ。  ──憂いなく、前へ」 「…………」 「……のう?」 「……わかった。頼むよ」 「承知いたしました」  そうして桜守姫さんは、透舞さんと共にふたみの肩を取って俺の家へと向かった。 「……待った」 「なんです?」 「ふたみのホウキは置いていってくれないか」  そう告げた俺に、桜守姫さんは優しく微笑みかけてくれた。 「さすがは、さくです」  手渡されたホウキを握り締め、 「ふたみの事を、お願いします」  俺は頭を下げた。 「はい」 「それから、ふたみに……」  初めて使う言葉。  決して、今までの俺には言えなかった言葉。 「俺に任せておけって、伝えておいてくれないか」 「──承知」  そう言った時の桜守姫さんの表情は、やはり優しく───  そうして、今度こそ彼女はふたみを伴って姿を消した。  俺は独り空明の里に立ち、睨むように辺りを見渡した。  降りしきる雨の中、一つ呼吸を整え、気合を入れる。  俺は以前、「自分が失格した人間だから」と、「ふたみが同じ痛みを負わないように」考えた。  ──そして、ふたみを傷つけた。  今俺は、「自分が失格した人間だから」、だからこそ「ふたみの目的を達成させる為にできる事があるんじゃないか」と考え始めている。  俺の経験は無駄じゃない。  前に進む為に活かす方法があるはずだ。  傘姉は、それに気付かせてくれた。  桜守姫さんが背中を押してくれた。  ふたみが──待っている。 「……ああ。わかってる。わかってるよ、傘姉」  巽策。  5月26日生まれ──双子座。  ──頭上に掲げたホウキ。 「このホウキは、ふたみのホウキだ。『双子座』のホウキだ。だから──」  ──だから。  だからこそ。 「扱う資格があるのは、俺だけだ」  ───『双子座』の意地を見せてやるよ───  ──ふたみがその瞼を開いた時、最初に瞳に映ったものは、傍らで心配そうに顔を覗き込んでいる愛々々の姿だった。 「おっ、おねーさまっ!」 「妾……?」  不思議と熱は引いていた。  あれだけ苦しかったはずなのに、まるで一時の悪夢であったかのように──規則正しい生活を繰り返した朝のように、すがすがしい目覚めだった。  そして、ふたみは我に返る。 「そうだ。今日は何日だ? 何日の何時だ?」 「…………」 「妾」  ふたみに強く言われると、愛々々は逆らえない。  逆らえない理由は根本的に別の場所にある。  だが、違うのだ──まさかあの桜守姫家の人間に指摘されるとは思ってもみなかったが。  ふたみを連れた此芽がこの家にやってきた時のやり取りは、愛々々の中で確かに何かを変え始めていた。 「6月21日の……」  ──双子座の最終日。 「午後10時……33分です」 「そんな」  ふたみがそういう顔をする事はわかっていた。  ──わかっていて、どうして言ってしまったのだろう。  本当なら──未寅の者ならば──まず第一にふたみの体調を気遣うべきであり、嘘をついてでもここは寝かすべきだったはずだ。 「だっ、駄目だよ。おねーさまっ」  跳ねるようにふたみが飛び起き、公園に向かおうとする事など予測できたはずなのに。  行ってもどうにもならない。  行っても行かなくても、何も変わらない。  なのに。  何故、止めようとしない。 「──未寅よ。  其方とて、お止めしても無駄だという事はご承知でおられるでしょう」 「で、でも」 「其方と同じく、媛もまた、この娘御の事をよく存じ上げております」 「…………」  その言葉に、メメは押し黙る。 「コノ……どうして、オマエ……」 「無駄口を叩いておられるお暇がおありかえ?」  そう言うと、此芽はふたみに着替えを差し出した。 「お着替えなされ。今日という日が終わってしまいまする」 「……いいのか。オマエ、これはさすがに……」  肩を貸して歩く此芽に、ふたみは困惑する。 「病み上がりはあまりお喋りにならぬが美徳というもの」 「けどな、誕生日の事といい……」  言いかけた言葉は、今日まで二人の間にあった不文律。  ──制した呟きは、不文律の中に隠された二人の本心。 「コノ……」  いつしか雨は上がっていた。  想いの故に彷徨う人々の上に降っていた激しい雨露は止んでいた。 「…………」  気付いてしまってよかったのか。  二人の間に引かれた、決しては越えてはならない線。  それを守り続けてきたからこそ辛うじて保たれてきたもの。  どうしてその線を越してしまったのか。  桜守姫此芽を動かしたものが何であったのか、気付いてしまってよかったのか。 「オマエ……もしかすると、お主人ちゃんの事……」 「…………」  けれどそれは、線の反対側でありながらこうした関係であり続けた、あり続ける事ができたふたみだからこそ悟らずにはいられなかった事だから。  巽策が、自分との関係を大切にしていたから。 「バカだな……オマエ」 「…………」 「ほんとうに……バカだ」  だから言おう。 「今日、お主人ちゃんは私に答えをくれる」  正直に伝えよう。 「……然様ですか」  ──何の答え、と此芽は訊かなかった。  それは二人の間柄だからこそ言葉にせずとも伝わった事柄なのか、それとも、それこそが此芽が此芽たる所以なのか。 「それがどういう答えだとしても、私はそれを受け止める」  ふたみらしい言葉だった。  いつだって真っ直ぐな瞳をして。 「ごめんな、コノ」 「何を謝られるか」 「私が先だった事だ」 「それこそ、何を謝られるか」 「……オマエらしいな」 「其方も」  ──小さな触れ合い。  表立つ事を許されない触れ合い。 「もし……駄目だった時は、コノ……」 「駄目だった時は、などと口になされるとは其方らしくもない」 「らしくなくてもいい。オマエには、ちゃんと伝えておきたい」 「其方の事です。いずれにせよ、それは雲が晴れたらのお話なのでしょう。  其方がお選びになられたやり方の是非は問いませぬ。  ……なれど其方には酷ですが、今日一日ではとても……」 「自分を誤魔化すな、コノ」 「お主人ちゃんが“任せろ”と言ったんだろう。なら、大丈夫だ」 「…………」 「オマエだって、本当はそう思ってるくせに」 「……ほんに」  込み上げる苦笑を抑えきれぬまま。 「皆、媛の心を見透かしおる……」  此芽はいつもよりずっと優しく、笑っていた。 「ありがとう、コノ」  此芽は頷くと、踵を返した。 「──では、媛はここまでです」 「見ていかないのか?」 「6月の21日が終わりとなるまで、まだ1時間近くありまする。ならば、今は『双子座』の期間。  ……まだまだ、其方らお二人の時間です」 「……そうか」 「ええ」  ──二人は見つめ合い。  互い、不意に笑みを零した。 「では」  去っていく友人の後姿に、もう一度「ありがとう」と言い──かけ、ふたみもまた踵を返した。  背中を押されてしまったから。  ──さあ、もう一人の双子座の許へと行こう。  そこに、テレ雪と呼ばれるこの街一番の恥ずかしがり屋は、ただの一人もいなかった。  一面に漂うのは緑の香り。  新緑の息吹を感じさせて。  次の季節が一足早く、この場所へやってくる。  そして私は。  この景色を創作したあの人の背中を捜した。 「──テレ雪ってなんなんだろうな」  あの人は待っていてくれた。 「テレ雪がどうして火によって増えるのか、ずっと考えてたんだ。俺は、ふたみと一緒に掃除をしながら、テレ雪を観察してた」  背中を向けたあの人が私に振り返る。 「気付いた事があったんだ。ふたみ、テレ雪は降ってるように見えるけど、これはちょっとした風でも舞い上がってしまうからだって、そう言ってたじゃないか。  ──俺、もしかしたらテレ雪は土につかないようにしてるんじゃないかって思った。  彼らは土を蔑ろにできないんだって。土の上に足をつけるような真似はできないんだって。  どうしてそんなふうに思ったのか……『テレ雪の恋』なんて話を聞かされていたからかもしれない」  それこそ童話。 「『告白の風』もそうだけど、テレ雪を動かすのはいつだって風なんだ。風がテレ雪を動かしてるんじゃなくて、風が吹くからテレ雪は動く。  そんなふうに視点を変えたら、見えるようになったものがあって。  テレ雪は、水に濡れると威嚇するように震えてた……まるで敵が攻めてきたみたいに反応するんだ。ほんの小さな反応だから、そんなふうにでも考えないと、綿のようなものが水に濡れた時に起こす反応にしか見えないけどね。  それから夜になると、まるで身を伏せるかのように身体を丸めるような仕草をする。  警戒って意味では水の時と反応は似てるけど、なんだろう……少し違うんだよな。恐れるような反応なんだ。  だからテレ雪は、火の仲間で、水の敵で、風によって動き、土には逆らえず──闇を畏れる。  これには何か意味があるんじゃないかって、そう考えたんだ」  もしも、テレ雪に意思があるのなら。  百年に一度ここを訪れる彼女たちに、望みがあるとしたら。  だから小人は言いました。  秘密の言葉を唱えました。  ──あの時、テレ雪が増え広がる様に何故だか夜空の星を重ね合わせたから。  その言葉は、きっと。 「あなたたちは、光になれたんですよ」  水と敵対する火は、闇を畏れ土に敬意を払いながら、風にさらわれる前に光を望む。  彼女たちは待っていた。  そう言ってもらえる事を待っていた。  きっと、ずっと──待っていた。 「間に合ったよ、ふたみ」  だからこの人は微笑みかけてくれる。  笑わない私に、いつものように微笑みかけてくれる。 「うん」  ──信じてたから。  やはり「ありがとう」と言うのもおかしい気がして、 「お主人ちゃんは頼もしい」  と言った。  この人が「任せろ」と言ったのだから。  これは為し遂げられて当たり前の事だと、自分は受け止めるべきだと思った。 「初めて言われたな、そんな事」  照れくさそうに頭を掻くこの人は、以前、「自分は失格した」と私に告げた。 「でも……だからかな。失敗してばかりで、最後には失格しちまった俺だから、テレ雪が何を求めているのか、なんとなくわかったのかな」  ──大丈夫。  他の誰が失格だと言っても、他の何に失格しようとも。  私はアナタを認めているから。  見上げた曇り空は、見飽きた曇り空。  夜になればいつだって頭上にあった、生まれた時からの知り合い。  この街の古い古い友人。  だから、この言葉を伝えます。  この街の子供の一人として、皆の願いを託された天文委員会の一員として。  そして、とても素敵な男性の傍にこうしていられる、一人の女の子として。  この人と一緒に星空を見上げてみたいから。 「さよなら」  ──小人が魔王のまねをして杖をふるうと、なんと、みるみる霧がはれていきます── 「綺麗……」  ふたみがそう呟いた。  その言葉に、どれだけの意味があっただろう。  星空を見上げて呟くこのありきたりの台詞に、今、どれだけの意味が込められていただろう。  俺が毎日見てきたもの。  いつだって当たり前のものとして、そこにあったもの。  けれどこの街の人たちにとって───  この娘にとっての宝物。 (──ああ、そうか)  あの雲の向こうに。  ふたみの想いが───  ───届いたんだ───  幾多の星座に見守られながら。  満天の輝きに瞳を潤ませながら。  いつも無表情なふたみが───  初めて……微笑ってくれたんだ。 「──知ってるか? ふたみ」  思いやる二人が神に認められ、夜空の星座となった──双子座。  その星の下に生まれついた俺たちが、今、互いの手を握り締めているように。  二人で一人の星座がある。 「ん?」  俺は、彼女に何か贈り物をしてあげたかったんだと思う。  この照陽菜は───  こうして見上げる事ができる星空は、俺たち二人で手に入れたもの。  だから俺は俺として、双子座の相方がくれたものに見合う贈り物をしたい。  彼女が惜しげもなくくれた思いやりに。  でも、生憎俺にはろくな持ち合わせがない。  気の利いた台詞の一つも言えない俺が必死に頭を悩ませて、出てきたものといえば。 「──知ってるか? ふたみ。夜空に瞬く伝説の星座を」 「伝説?」 「そうだ、伝説だ」  横文字を用いれば効果は倍増。  それが日本人。 「なんだかとても嘘っぽい響きだが、どんな話だ?」  ……鋭いなチクショウ。 「星座にまつわる話なら、私もそれなりに詳しいと豪語させていただいております」  おかしいよな。  ふたみは俺の好物とかたくさん知ってるのに、いつだって知ろうとしてくれていたっていうのに、俺は彼女が星座好きだって──そこにこそ情熱があるという事しか知らない。  これから知っていかなければいけない沢山の事。  でも、今、この場で渡せるものといえば。 「伝説は語る。夜空に六つの星が瞬く刹那の言い伝えを──」 「南斗六星の事か?」  あっ。しまった、それがあったか。 「い、いや違う。それとは別。絶対、別」 「なぜ必死なんだ」 「別なのっ!!」 「わ、わかった」 「それは特別な意味を持つ星座でな。実は……」 「星座なのか。それは何ていう星座なんだ?」 「名前? え、えっとな……」  何か気の利いた事を言わなくては。  何か気の利いた事を言わなくては。 「ふさく座」 「………………………………………………ほう」  今ふたみさんが見た事もない顔をしました。 「いっ、いや、本当! 本当なんだって!」 「誰も嘘だなんて言ってないが」  俺は子供の名前とかつけない方がいいタイプだな、絶対。  いや一生懸命考えたんですよ。  俺とふたみの名前を合わせたんですよ。 「で、そのフサク座はどんな話なんだ?」  ……なんでだろう。  自分で命名したのに、その名前、めっちゃムカつく。 「どうした?」 「い、いや」  よし、気を取り直して。 「伝説は語る。夜空に六つの星が瞬く刹那の言い伝えを──  ──その六つの瞬きが一つに重なり合う、その時。  その星座は、流れ星となりて夜空を渡る」 「流れ星?」 「そう。そうしたらすぐに追いかけないといけない。でないと見失ってしまうから」 「追いついたらどうなるんだ?」 「どんな願いも叶う」 「どんな願いも……」 「そうだ」  そして俺はこう言うんだ。 「ふたみ。でも、この星座の話はあくまで伝説なんだ、本当にあるかどうかは……おっと、だからってそんな哀しそうな顔をしないでおくれ」と。  次に、すすり泣くふたみは「えっ?」と、驚いたように顔を上げ。  そこで俺は鏡を前に研究し尽くした“俺が最もかっこよく見える角度”である斜め42度に顎を固定し、ビッとこう告げる。 「だってキミは、もうこの星座を見つけてるんだから。何故かって? ハッハー、だってキミの願いをみんなみんな叶えてくれる星は──」  ここでタメ。 「……もう、目の前にいるだろう?」と、白い歯を輝かせる。  いや、まいったな。  もしかしたら俺は口説きの天才なのかもしれん。  こんな才能が眠っていたとは。 「六つの星というのに意味はあるのか?」 「そっ……!」  それは、ふたみの本心に触れたあの話をしたのが、6月に入ったその時だったから─── 「そっ……それに、意味は……ないんじゃないかな、うん」  俺にとって、それはとても大切な日だから。 「そうか」  それからふたみは。  ためらいがちに、けれどもやっぱり真っ直ぐに俺の目を見つめて。 「お主人ちゃん」 「うん?」 「アナタの答えを、私にください」  彼女が求めた答え。  俺たちがなし遂げた事の結果。 「ああ。ふたみ、俺は───」 「……え?」  落ちた杖は、ねもとからぽっきりと。 「お……い」  するとどうでしょう。 「雲……が……」  その逞しい腕で無理やり口を塞がれてしまったこの空間を支配したのは、静寂。 「な……なんだよ……これ……」  込み上げた想いがいったい何であったのかもわからないまま。 「なんなんだよこれ!!」  叫びが虚空に木霊する。 「あ……」 「ふたみ!?」  ──そんな顔を、初めて見た。  よろめくように後退る彼女は、 「っ……!」  その場を飛び出して─── 「ふっ……ふたみ! ふたみ!!」  ──これは同日、今から数時間前の出来事。 「桜守姫! なんであなたが──」  ──ふたみの姿に驚きの声を上げた愛々々は。  次に、のんと共にふたみに肩を貸す人物を見咎め、そう叫んだ。  てっきり、策が連れて戻ってくると思っていたから。 「未寅よ」  それは予想されていた反応だった。 「なによ」  だから、かもしれない。  此芽はひどく冷静にこう口にした。 「状況を見極めなされ。早急に彼女を閨へとお通しせねばならぬ」 「そんな事はわかってる! さっさとおねーさまを離して!」 「媛が邪魔ならばそれで構いませぬ。なれど、のんは入れてやってはもらえませぬか」 「……拒む理由なんかないよ。あなたなんかを慕っているという汚点さえなければ、その娘は生意気で気のいいクラスメイトだよ」  ──なにより彼女は、“一般人”だから。 「……どうして」 「え?」 「貴女、どうしてこんな時にそんな……今がどういう状況だか、どうして理解なさろうとされないんですの?」  あなたは何も知らないから───  言いかけ、愛々々は口をつぐんだ。  のんの表情があまりにも哀しそうだったから。 「……わかった。とりあえず、おねーさまの事が優先」 「すまぬ」 (……なんであなたが謝るのよ)  ふたみを寝かせた策の部屋。 「わ、わたくしは何をしたら……」  のんは今にも泣き出しそうだ。  ここ連日、あまりにも色々とあり過ぎた。 「とにかく、熱がひどい。まずは氷水とタオルを頼めましょうか」 「わっ、わかりましたわっ!」  こんな時、冷静に指示をくれる此芽の存在が、のんにとってどれだけありがたいものだっただろう───  彼女は自らがするべき事を理解すると、急ぎ部屋から姿を消した。 「……さて、未寅よ」 「…………」 「おわかりになっておられましょう。これは、ただ疲労の蓄積ではないという事。  ──きっかけとなりましたのは精神的なものでありましょうが、根本的な原因は別のところに求められるという事」 「…………」 「其方にはこうなる事が予測できたはず。何故、止めようとされなんだ?」 「…………」  それを訊きたいのは自分の方だ。  そうメメは思った。  どうして止めなかったのか──何故、「自分はこの家で二人の帰りを待つ」なんて選択をしたのだろう。  未寅たる自分が。  許されざる事だというのは、考えるまでもないではないか。  ──なのに、どうして。  押し黙る愛々々の姿を見て、此芽は静かに微笑んだ。 「なっ、何笑ってんの!?」 「すまぬ。つまらぬ事をお尋ねいたしました」 「えっ……」 「それは、其方が彼女の事をようご存知だという事ですから」 「…………」 「果報者ですね」  そう言って、此芽はふたみを優しく見つめた。 「な、なんなのよそれ」 「其方は焦っておられるのでしょう。自分は予想していたよりもずっと慌てている──と。それ故に」 「…………」  ……なんなのよ、と、愛々々は心の中でもう一度繰り返す。 「──さて、本題です。この症状、媛たちの手には負えませぬ。“抑薬”が必要となりましょう」 「……ここにはないの」 「其方のものは?」 「愛は……耐性がずっと強いから」 「なるほど。それ故に選ばれたと」 「気付いてたの?」 「其方が常に共にあった由は、それだけではありませぬでしょうが……」 「…………」  もう一度。  此芽は、先程よりもずっと優しく微笑んだ。 「ともかく、山頂の屋敷に赴かねばお話は始まりませぬ」 「じゃ、じゃあ、急いで──で、でも。その間におねーさまに何かあったら……」 「その間は、媛が診させていただく」 「あなたが?」 「責任を持って」 「…………」  名が表すまま愛らしい愛々々の表情に、僅かな警戒の色が走った。  無理もない事だった。  此芽だから、ではない。 「だってあなた、桜守姫の人間じゃ──」 「その上で申し上げておりまする」 「…………」 「疑いは無理からぬ事。なれど、媛は──」 「……十分」 「ん?」 「十分で戻る。だから、その間だけ……お願い、ここを学園だと思って」 「お願い……と、申されましたか」 「……言った」 「…………」  その台詞が、愛々々の立場においてどれだけの譲歩か───  ──そして、どれだけの屈辱であるか、此芽は理解していた。 「承知いたしました。これより十分の間、ここは弐壱学園の敷地内です」  ありがとう、などと、愛々々の口からは出てこない。  ──言えるはずがない。  此芽はそれも承知している。  ただ、消え去るその一瞬、愛々々が頭を下げた───  けれど、此芽はそれを見ない振りをした。  ……自分がどうというのは関係がない。  桜守姫此芽がどうであるのかなど、まるで関係がないのだと理解している。  愛々々が玄関から出ていく音が聞こえた瞬間だった。 「──何してるの?」  音もなく忍び寄った影法師は、年頃の少女の形をしていた。 「……ご覧の通り」  此芽は振り向きもせずに答えた。  それが影絵の少女の癇に障ったのか──語調も荒く、彼女は此芽を詰問する。 「その女がどこの家の娘だか知ってるでしょ?」 「……桜守姫家が宿敵」 「じゃあ何やってんのよ、あんたは」  そこにいたのは、此芽の知るみどの。  学園における彼女の面影など微塵もなかった。 「──アイス」  唐突に。  みどのは、声を張り上げた。 「アイスが食べたい」 「……このような時に無茶を申すでない」  苛立つと甘いものを欲しがるのはいつもの事。 「何よそれ。口答えすんの?」 「…………」 「ふん……」  やはり音はない。  現れた時のように、みどのは忽然とその姿を消した。  まるで暗闇から手招きする異形の腕に抱かれたかのように。 「冷蔵庫にあったわ」  そして何食わぬ顔で現出する。  襖を開いた音はなかった。 「あんたが無断で食べた事にしなさいよ」 「……勝手になされよ」  此芽の返事など初めから待たず、みどのは不味そうにアイスを舐め上げていた。  ふたみが夫の為に用意した菓子に、不備などあるはずもなかったのだが。 「ああ。二つあったから、あんたにもあげるわ」  そして気紛れに思いついたかのように、そう言った。 「…………」 「何、その驚いた顔。失礼しちゃうわね」 「あ……い、いや……折角なれど、媛はこんな時に氷菓子など……」 「ほら。ちゃんと受け取りなさいよ」  やはり此芽の返事など待たず、みどのはアイスを投げて寄越した。  放り投げた、のではない。  みどのは振り被った。  そして──わざと手を滑らせた。  彼女は、熱にうなされるふたみの顔めがけてアイスを投げつけたのだ。  次の瞬間には、「此芽がちゃんと受け取らないから、ぶつかっちゃったじゃない」、とでも言うつもりなのだろう。  愛々々が戻ってきた時、それらしい言い訳を用意する為に。  無防備なふたみの顔面に冷凍の菓子が─── 「……何やってんの?」  此芽のしなやかな髪から、ねっとりとした塊が零れ落ちる。  落ちまいと爪痕を残すかのように絡みついた、固形ならざる腕はきめ細かな毛髪にべったりと張り付き──甘美な香りを大気中に放っていた。 「媛に……と申した。だから、もろうたまで」 「……馬鹿じゃないの?」 「すまぬ。折角いただいたというに、台無しにしてしもうて」  ──カチン、ときた。  その瞬間、みどのは自分が食べていたアイスを姉めがけて投げつけていた。 「…………」 「あら。お似合いよ、お姉様。慰み物にされたみたいで」  妹の心無い言葉に、姉はただ黙っているだけだった。 「ほら。洗いに行けば? 向こうにお風呂あったわよ」 「……いえ、結構」 「行けって言ってんのよ」  みどのは風呂場の方向を顎でしゃくる。 「媛がここを退いたら……みどのは何をするつもりかえ」 「別に。代わりにその娘を診ていてあげるだけよ」 「…………」 「なによその目。ほんっとムカつくわ。あんたって」 「……みどの。もうお戻りなされ。其方の出る幕はない」 「はぁ? あんたねぇ、自分が何やってるのか本当にわかってるの?  あたしが、代わってあげるって言ってんの。このあたしが」 「……其方は戦争でも始めるつもりか」 「ははっ、上手くやるわよ。ご本人は熱で朦朧としてて、気付きはしないだろうし──それに戦争なんてとんでもない。あたしが御前からお叱りを受けるわ。  これは単なる憂さ晴らし。桜守姫家の人間なら、誰だって望んでる事でしょ。  それにさ、仮にバレるような事があったって、あんたが罪を被ってくれんでしょ?」 「…………」 「誰もあんたの言う事なんか信用しないもんねぇ。才能の枯れ果てた『出涸』が、注目されようと馬鹿な行動に出たってくらいにしか思われないわよ」 「10分とか言ってたけど、いくら未寅の早駆けとはいえ、ここから往復となれば──戻ってくるまでに後20分はかかるでしょ。充分すぎるわ。  さて、このお嬢ちゃんをどうしてやろうかな。とりあえずさ、素敵な方法を23通りほど思いついたんだけど、どうしてあげるのがいいと思う? あんたに選ばせてあげるわよ」 「…………」 「……だからさ、何のつもりなの?」  此芽はみどのの前に立ちはだかっていた。 「言っとくけどね、あんたを力ずくで退かすなんて簡単なのよ? 『出涸』とあたしとじゃ、比べるのも馬鹿らしいってもんだわ」 「そうさな」  それでも此芽は怯む様子すらない。  変わらずみどのをその眼差しで見つめるだけだった。 「……! 何であんたみたいなのが、このあたしの姉なのよ……!」 「……この娘御が」 「?」 「この娘御が傷付く事あらば……きっと、哀しむ方がおるでな……」 「は?」 「…………」  呆気にとられた──次の瞬間。  みどのは、ひどく冷静にこう言った。 「もういいわ、出涸。  あんた、死んじゃいなさいよ」  ……無骨な。  あまりにも無骨な鉄片が、みどのの頬をなでるように現れた。  鈍色に揺らぐそれは、妹が指差すがまま姉に向けて─── 「お姉様っ! ご用意ができましたわっ!」  ──そこへ。  洗面器へ氷水をいっぱいに入れたのんが戻ってきた。 「あ、あら、みどの……いつこちらへ?」 「あ、うん。ついさっき」  そこには、のんの知るみどのの姿があった。  先程の面影は、最早どこにもない。 「あたしも、彼女の事が心配で……」 「みどの……」  親友の思いやりに、のんは心打たれ─── 「お、お姉様っ!? そのお姿は?」  それから、敬愛する存在の見るに堪えない姿に気付いた。  彼女が真っ先に気付かないとは、よほど慌てていたのだろう。 「大事ありませぬ。少々、へまを仕出かしまして」 「た、大変。すぐにお着替えしませんと……」 「あ、あたし、タオル取ってくるね」 「あ、みどのっ。タオルならここに──」 「構いませぬ。それは彼女にお使いなされ」 「で、でも……」 「媛は案ずるまでもありませぬ。どちらが優先するべき事態かは、考えるまでもない事です」 「は……はい……」 「お姉様。タオルを取ってきました」 「ほれ。媛の事はお気になさらず」 「じゃあみどの、お姉様をお願いしますわ」 「うん」 「はい、お姉様」  ふたみの世話を焼くのんに見えないように手渡された“タオル”は。  床拭き用の、汚れきった雑巾だった。  ……饐えた臭いがした。 「ふたみ? ふたみ!?」  迂闊にもふたみの姿を見失ってしまった俺は、彼女を捜して街中を走り回っていた。 (くそっ……何処へ……)  ふたみのあの表情。  初めてふたみの笑顔を見る事ができた──それなのに!! 「……え」  不意に、脚が止まった。  空明市? 「ふむ……何々。『子』、『皿』、『合』」  ──あの時に並べられていた漢字に、何があった? 『合』、『皿』、『子』。  なあ、冗談だろ?  揃っていく。  合わさっていく。  こんな時に───  何だよ。  何なんだよ、これ。 『盒』『子』  三つが二つに。 『盒子』  一つの形に。 「その盒子がどうかなされたのかえ?」 「……ゴウシ?」 「今、さくがご覧になっておられるものの名称です。身と蓋を合わせるという意味合いから、そのような蓋付き小型容器は総称してそう呼ばれておりまする」  盒子というのは、蓋付小型容器の総称───  つまり匣。 『子』、『皿』、『合』。  これを、『盒子』の順に合わせれば。 『合』、 『皿』、 『子』。  白爺さん、あんた──何を調べてたんだよ。  だって、これって……。 「『空明の里』……だっけ?」 「ううん。『空明の里』」  メメは俺の言葉を訂正する。 「あれ? 街の名前から取ってるんじゃないのか?」 「そうなんだけどね。この街の名前、昔は“空明”って読んでたんだって。時代が移り変わるに従って、今の読み方に変わったとか何とか。 “市”も“ほこら”とか“まつる”って意味の、“祠”って字が当てられてたらしいよ」  コウミョウシ。 『空明市』。 「……冗談だろ?」  いつか、メメが言っていた。  今は『空明市』と呼ばれているけれど、この街は昔、『空明祠』と呼ばれていたのだと。  時代を経る中で、読み方と字が変わったのだと。  何だよこれ。  言葉遊びにしちゃ、妙に出来すぎ……。 「だから言葉は暴力にもなる。殴られるよりずっと痛い事もね」  言葉に宿る力。  ──言霊。 「馬鹿言うな!!」 「この街に住む人たちはな。皆、この街から出た事がないんだ」  誰も街から出た事がない、という事。 「転入生……ねえ」  これがどんなに異常な事なのか。 「転入……だから、ご存じない……転……」  誰も出た事がない。  誰も出る事ができない?  ……入る事も、できない? 「“おかしい”と思った。なのに、どうして疑わなかった?   俺はどうして疑おうとしなかったんだ?」  疑う事ができなかったから。  都合の悪い事は考える事ができないようになっているから。 “誰”にとって、都合の悪い事? 「…………」 「メメ……!そうだ、ふたみ! ふたみを見なかったか!?」 「…………」 「……メメ?」  様子がおかしい。 「前に訊いてたよね。牡羊座はどんな照陽菜をしたのかって」 「急に何を──」 「教えてあげるよ。愛はね、何もしなかったの」 「え?」 「どうして絶対に失敗するのにやらなくちゃいけないの? 雲は必ず戻ってくるのに」 「……な、何を言ってるんだ、メメ……」  哀しそうに伏せられたその大きな瞳が、 「ねえ、策」  どこか頼りなげに、じっと俺を見上げていた。 「どうか、おねーさまの味方でいてあげて?」 「え?」  それは“お願い”だったのだろうか。  どこか頼りなげなまま。  すがるようにも見えた。  けれど真剣そのものだった、その瞳───  知っていた?  メメはこうなる事を知っていた?  童話を再現する事で願いが叶うと信じているふたみが、失敗した時に傷つかないように──じゃなく。  照陽菜は絶対に成功しないと知っていたから?  だから、ふたみの味方でいてくれって───  じゃあ、何だよ。 「『照陽菜』って、いったい何なんだよ!」 「──昔々。あるところに、神様に導かれた奴隷たちがいたの」 「──?」 「神様は奴隷たちをこの世の楽園に案内してあげるって言ったんだけど、そこに行くまでには沢山の困難が待ち受けていたの。  苦難に直面する度に、奴隷たちは元の生活を望んだ。  彼らにはね、神様なんかよりご主人様の方が良かったの。  だってご主人様の言う事さえ聞いていれば、何も考えずに生きていけるから。食事だって与えられるし、寝るところだってある。後は何も考える必要はない。  奴隷が欲しがるものはたった一つ──“優しいご主人様”だけ。  奴隷が可哀相なんていうのは、奴隷じゃない人たちのエゴ」 「何を……」 「でも、神様はエゴの塊だったから。どうしても奴隷たちを楽園へ案内したかった。  だから神様はね──自分で楽園への道程に引き連れてきておきながら、ある日を境に、ぱたっと声を聞かせなくなったの。  何十年もの間、奴隷たちは放置された。  ねえ、どういう事だと思う?」 「メメ!? いったい何を言ってるんだ?」 「今の世代に奴隷根性が染み付いてしまっているのなら、その子供たちを導けばいい。  神様が救いたかったのは、その民族だから。別に今の世代じゃなくてもよかったの。  つまり」 「世代……交代?」 「あははっ!」 「だからあなたはここにいるんだよ。『おとどい』たるあなたたち一族が──」 「お……とどい?」 「芸術一家? ──芸術一家? あははっ……あははははっ! おっかしい」  腹を抱えて笑うメメ。 「何も気付いてないんだ。あなたがどうしてこの街に来たのか。自分が何者なのか」 「メ……メ……」 「──『タツミ』とは何であるのか」  ──世界に亀裂が入った。  かちり、と異様で耳障りな音を立てて。 「──ねえ、『エド』──」  それは鐘の音のように。  世界の終わりを告げる音が、響いたんだ──── 〜ラベル『«哀しいほど優しきこの世界»』の内容は記述されていません〜 〜ラベル『斜陽の気持ち』の内容は記述されていません〜  ──紅い。  まだ誰も起きてはいないと思ってか、早朝の太陽は油断して素顔をさらす。  そして早起きな人と目が合って焦るのか、光の散乱現象という名の働きを伴って、染まった頬の色で街を淡く染め上げる。  この街に舞う特異な産物であるテレ雪と旭日とは、よく似ている。  彩られた緋の光景に、見知った人影が立っている。  見慣れた場所で、見慣れた無邪気な微笑みを浮かべている。  笑って──いや。  ……嗤っている。 「『狼』が追いついてしまう」 「お……おかみ?」 「そう。すべてはそこから始まった。だから吾らはここにいる」 「メ……メ?」  少女の笑みは、凶暴に捻れ。  ──その姿は、朝焼けの大気に溶けて揺れた。 「メメ!!」  何故、と俺は問いかけた。 「なんで……」  繰り返し己に問いかけた。  そこには、メメの家があった。  炭と化し塵と果てたはずのログハウスは、かつて見上げた時と寸分の違いもなくそこに建っている。 「あらら……派手に燃えちゃってるね……」  燃え盛る友の家を前にして、ただ焦慮に押し潰されそうだったあの時。  飛び込んできたのは──あまりにも呑気な声。  あの時は、てっきりあまりの事態に思わずそんな反応しか出てこなかったのかと─── (……俺はまた、疑わなかったのか?)  疑えなかったのか? 「……どうしてあんなに他人事めいてたんだ?」 「どうして?」 「メメ? 何処だ? メメ?」  俺はその声に反応するが─── 「どうして、“どうして”なんて言うの?」  何だ──すぐ近くから声が聞こえるのに、何処にも姿が見えない。  大気が揺らいでいる。  照りつける太陽に悩まされる真夏の日中にそうなるように、揺れ動く蝋燭の火に似た陽炎。  直射日光で熱せられた地面近くの空気に生じるむらを通過する、光の不規則な屈折──火を焚いてるわけでもなんでもない。  何が大気を熱したわけでもないのに。  生じるべき理由の一つすらないまま、ただ結果としての現象だけが起こっている。 「それぞれの家が何らかの対策を施してあるなんて事、ちょっと考えればわかるでしょ?  大事なものはいつも倉庫の中。身の回りには必要最低限のものだけ。  誰だって未熟な頃があるんだもの──未寅はいつでも建て直せるようにしてある。ただそれだけの事」 「何処なんだ? メメ!!」  見渡すも彼女の姿は見つからず──代わりに目に入ったのは。  家紋……?  これは─── 「どうして……」 「──どうして? また“どうして”って言った?」 「メメの……家が、ふたみの家と何か関係があるって事か……?」  関係があるのは当たり前だ。親戚なのだから。  だが、違う──これはそんなものじゃない。  俺の感覚を持ち込んではいけない。  そんなもの、そもそもこの場には存在する事すら許されない。  そう肌で感じたのは、決して間違いじゃなかった。 「ここは吾らが『未寅』が預かりし領土。彼の方々の眠りの地。  勿体無くも、偉大なるご宗家のご家紋を門前に拝し奉るは──これぞ、吾らがこの地を治むる大任を仰せつかった事の証明に他ならない。  其は、吾らが誇り」  ──その時。 「ぐっ……!」  それは飛来する突風に他ならなかったが─── (これは……まさか、これが『告白の風』なのか?)  求愛に訪れる紳士?  傷心を癒す道化師?  そんな考えがどれほど甘い妄想であったか思い知らされる──これは。  これは軍馬の蹄。  人間など即座に押し潰される重装に身を包んだ甲冑の騎士が、喉千切れるまで雄叫びに狂う暴れ馬を駆って迫りくる音。  騎士の顔は重苦しい兜に包まれて見えず、ただ奥底に不気味に浮かび上がる赤黒い光が揺曳するだけ。  右の手には、無造作に髪の毛をつかんで子供たちを引き摺り。  左の手には、抵抗した両親たちを突き刺した血まみれの騎槍。  ──これは。  高笑いをしながら駆け抜ける、魔の眷族の行進だ!!  連れて行かれたくなくば、見つからぬよう必死に隠れていろ。  魔王の御前に引き立てられたくなくば、地面に蟻のように張り付いてやり過ごせ───  脆弱な人間ども。  せいぜい吹き飛ばされないように気をつけろ。 「──ねえ、知ってる?」  駆け抜けた連行者の置き土産の如く、霞む視界に少女が姿を見せる。  その表情は、まさに魔王の眷族の如き高笑いを引き継いで。 「世界を六日で創造し、一日だけ休んだ……“外”の世界の神様のお話」  ──“外”と。  これ見よがしに、友人がそう告げる。  よく知る顔に、見た事もない表情を張り付けて嗤う。 「神様はね、その創造の過程で、自分に忠実な僕を創ったんだ。  それはそれは忠実な下僕たち。  でも神様は、誰よりも神様に忠実な彼らを差し置いて、彼らより遥かに下等な存在を愛すると宣言したの。  土くれからこねりだされた神様の写し身──その不細工な粘土細工を」  口調はいつもと変わらないのに、まるで別人のそれのように聞こえたのは、何故だったのか。 「創造の二日目だっけ? 誰よりも何よりも忠実な下僕たちがキレちゃったお話。  外で生きてきたエドの方が詳しいよね? だってこの神話、外では世界中に広がってるんでしょ?  不細工な粘土細工を拝せと命じた神様に、下僕たちは何て言ったんだっけ?」  目の前の少女はメメに違いないのに、見知らぬ誰かに見えてしまうのは何故だ!? 「なんだ、エドは知らないのか。愛は知ってるよ。下僕はこう言ったんだ」 「──如何にして炎の子が土くれの子を拝せようか」 「それが自ら天と誉れを捨てた下僕たちの捨て台詞。  ねえ、エド……土くれの子が人間なら、炎の子はいったい何?」 「なっ……!」 「これ……は……」  四方を赤ら顔の尖兵が無数に折り重なって埋め尽くす。  視界の一切──それどころか、首が折れるまでに天を仰いでも真緋の竜騎兵が縦横無尽に席巻している。  振り返ろうと横目だろうと見上げようと、首を刎ねた敵兵の鮮血で戦模様を顔中に描いた軍勢が取り囲んでいる。  それは神の名を唱えて。  それは王の名を叫んで。  祖国の為に。  両親の為に。  恋人の為に。  友人の為に。  馬に鞭打ち、両足を躍動させ、自分たちのものではない領地を粗暴に訪問する。 「お前……なのか、メメ……! お前が……!」  敵城を陥落させた野蛮な殺戮者どもが、挙げた首級の数を競い合う。 「お前は──お前は何者なんだ!!」  王を殺し、貴族を殺し、神官を殺し、民衆を殺し──財宝を奪い女を奪い、築き上げた死骸に続松の先端を押し付ける。  それが虚空を焦がすまでに膨れ上がる頃には、かつて活気に満ちた都市には魂の灯しか住まう事を許されない。 「──何者?」  為政者の剣と盾が錦を着て帰路に着く背後に黒煙を上げて、凱旋の宴に酔う。  それは荒れ狂う大洋から迫り来る津波に似ていた。  ──それは炎の壁。 「『おとどい』たるタツミが、どうして知らないの?」  自然と震え出した身を抑え込んでも、驚愕は止まない。 「おと……どい……」  その言葉を聞くのは二度目。  身を焦がす焔に脅迫されながら、俺はその言葉にしこりに似たものを感じていた。  待てよ。  知ってるぞ──確か。  確か、どこかの方言だ。  陶芸家の伯父さんの住み込みの弟子の一人が、未だ訛りが抜け切らず、たまに使っているのを聞いた覚えがある。  おとど……弟……弟兄。  そうだ。兄弟だ。兄弟の事だ。  兄弟。  兄と弟。  一つの血で連なりしもの。  ──宗家と分家の関係を言ってるのか?  唯井家の宗家たる巽の者なのに、どうして知らないのかと──? 「あなたたちは逃げたから? 逃げたあなたたちだから?」 「逃げた? 巽が……逃げた?」 「それとも、やっぱりあの薄汚い血が混じっているから?」 「メメ、待ってくれ。お前が何を言ってるのか──」 「エドにわかりやすいように、この国における、と、言い方をするとね」  事態に翻弄される俺になど構わず、メメは饒舌に声を踊らせる。 「この国における火葬の歴史は古く長いものだけど、一般に普及したのは明治政府によって制度化されてからでね。意外かもしれないけど、それまでは土葬がその多くを占めてたんだよ」  えっ……。 「けど、土葬は疫病の発生源になるとか色々と問題があってね。土地にもよるんだけど、風土的な事情から、こちら側では随分と早くから火葬を取り入れていたの」  なんだ……これ……。 「そちら側では火葬は仏教の影響が大きいとされているみたいだけど──こちら側で火葬を早くから取り入れていたのは、宗教的な問題じゃなくて、風土的な理由」  炎……俺を囲む炎に……。  歴史が……映ってるのか……?  群像の如く蠢く歴史は、大昔のものに見えた。  青史が踊る。  多く情熱に例えられる色の銀幕に、とある一族の活動写真が映写される。  その映像は歪んでいた。  いや、映像だけじゃない──歪んでいたのは物語そのものだ。  陽炎が大挙して押し寄せる劇場で幕が開かれる舞台の役者がまともなはずはない。  歪んだ俳優によって歪んだ物語が演じられる歪んだ映画。  それを観せられる──買った覚えのない入場券を無理やり掌にねじ込まれた観客が、まともでいられるはずもない。 「やめろ! 俺に……俺にこんなものを見せるな!」 「知りたがったのはあなたでしょう」  それは、息を止めた世界でしか理解できないものだった。  正常を嗤い正気を見下し正経を踏みつける事でしか成り立たない理だった。  罪過と審判。  罪忌と断獄。  伏せた罪の上に獄が下る。  処刑! 処刑! 処刑! 「あああっ……あ、ああああああっ!!」 「うわああぁああぁぁあああああぁああぁあっ!!」  澱んだ沼の上に浮かんだ腕が俺の服をつかむ。  無数の腕が俺の手首を握り締める。  温度の失われた腕が、皮膚も肉も失くしてしまった腕が、無機質に俺の身体に絡みつく。 「やめろやめろやめろおおおぉぉぉぉっ!!」  ──気付けば、俺は走り出していた。  生まれたままの姿で墓場を転がる思い。  肌に付着するのは湿った土と乾いた爪と動かない骨。  何も見えない。  何も見たくない。  上っているのか下っているのか。  走っているのか歩いているのか。  そんな事すらまともに理解できない。 「やめて……やめてくれ……!」  その想いは声になっていたのか?  言葉になっていたのか? 「──さっくん」  こんな時。  いつも、俺に声をかけてくれる人がいる。  そっと、優しく手を差し伸べてくれる人がいる。 「さっくん」 「さ、傘姉……」 「短い間だったけど、楽しかった」 「え?」  唐突な一言。 「始まっちゃった。だからもう、一緒にはいられないんだ」 「な、何を言ってるんです?」 「さよなら、さっくん。  今までありがとう」 「傘姉!?」  俺は慌てて傘姉を追いかけたが───  一本道のはずなのに、すでにその姿は失われていた。 (傘姉……?)  彼女がどういうつもりであんな事を言ったのかはわからない。  ただ、最後に一つの方向を指差したように感じた。  その先にあるのは───  ──かつてこの家は、“失格”の烙印を押された俺が逃げ込んだ場所だった。  何もかも忘れるつもりで辿り着いた家だった。  その門は、都合のいい言葉で体裁を取り繕って潜った門だった─── 「ふたみ……」 「…………」  その門の前に、いつか門の先で待ち構えていた少女がいた。 「オマエのヨメだ」と俺を驚かせて。  俺に間違いを気付かせてくれた少女がいた。 「良かった……」  意識する前に喉奥から言葉がせり上がっていた。  本当に。本当に良かった。 「…………」  ふたみは俺と目を合わさず、ただ地面を睨むように見つめていた。 「どうしたんだ? さあ、家に入ろう」 「…………」 「ふたみ?」 「お主……」  言いかけて、ふたみは口を噤んだ。  上げたと思った顔をすぐに伏せて、やはり俺と目を合わせずに押し黙る。  彼女の胸の中に渦巻く想いが、俺にはわかった。  木霊するその気持ちは、とても一言では言い表せないけれど───  いや。だからこそ、俺は彼女の手を取って家へと引っ張ったんだ。 「帰ろう」  他に言葉はいらないだろう? 「…………」  それでもふたみは、その場を動かなかった。 「ふたみ」  強引にでも家に入れてしまうかどうか迷ったけれど、結局俺は、彼女が自分から動き出すのを待った。  自分の家に帰るのに、他人に無理やり連れ込まれる道理はない。  ただ、俺は握り締めた彼女の手を離す事だけをしなかった。 「気付いたら、ここに立ってたんだ」  やがて、ぽつりとふたみは話しだす。 「うん」 「私には実家もあるのに。帰る場所はここしか思いつかなかった」 「うん」 「……私は、この家に帰ってもいいのか?」 「当たり前だろ。何を言ってるんだ。さあ、早く家に帰ろう」 「“当たり前”……で、いいのか?」  何故、彼女がこんな事を言い出したのか───  それが今、よくわかった。 「いいんだ。“当たり前”だ」 「…………」  ふたみは自分に確認してるんじゃない。  俺に訊いているんだ。  それは実に彼女らしい行動だったけれど──哀しいとか、辛いとか、そんなんじゃなくて。  少し、情けない気持ちになった。 「ここは、ふたみの家だ」  だから俺は、はっきりとそう言った。  そしてじっと、いつもふたみがそうするように、じっと彼女の目を見つめた。  ──真っ直ぐに。 「う……うん……」  満天の星空に願いを託していた。  そこから何かが始まるのだと、一歩を踏み出す事ができるのだと根拠もなく信じていた。  確信のある成功──過信でも慢心でもなく、信じ続ける事ができたから、どんな結果が待ち受けていたって受け入れる事ができるのだと。  それは強さの証明のはずだった。  自分の心の強さ?  二人の絆の強さ?  ……どんな結果が待ち受けていたって。  俺たちはやり遂げた。  確かに星の海は長い長い時化の季節から脱し、輝く魚たちは波間に躍り、跳ねた。  天文委員会、創立の理のままに。  夜空の暗雲をホウキが─── 『双子座』のホウキが払ったのだ。  勝ち負けで言えば、俺たちは勝者だった。  直面した苦難を乗り越え、望んだ黄金をこの手にした。  ……なのに。 「…………」 「…………」  なのに俺たちは、揃って口を閉ざしたままだった。  つい二日前も似たような状況だったけれど……あの時とは違う。  込み上げるのは、不甲斐なさでもやるせなさでもない。  ただ、気持ちだけが追いつかない。  心の座椅子だけが置き場所も定まらないまま、ふわふわと浮かび上がっては着地地点を見失っている。  入り込む穴が見つからない鼠のように、止まる枝を知らない鳥のように、当て所もなく彷徨い泳ぐ座椅子にただ身体だけが横たわっている──そんな感じ。  座る事のできる場所、帰るべき家があるという事だけが、今の俺たちを救っていた。 (……家)  俺と、ふたみと、傘姉と……それから。 「…………」 「ふた……」  言いかけた言葉を呑み込んだのは、ふたみだけじゃない。  真っ直ぐな気持ち。  いつだって真っ直ぐな彼女だから、行き場を失った気持ちはどこへ行ってしまうのか。 「本気ですの?」  ──透舞さんの心配はそこにあったと、俺はあの時に気付いていた。  彼女は自分が失敗したからこそ、頑ななまでに真っ直ぐなふたみの気持ちの行き先を案じていた。  不意に、ふたみが立ち上がった。 「ご飯」 「え?」 「ご飯を作らないと」 「こんな時に……」  ──無理するなよ、と言いかけて、言葉が続かなかった。 「そうは言ってもだな、どんな時だってお腹が空くんだ。今食べたくないならそれでもいいが、ムコがいつお腹が空いてもいいように備えておくのが、ヨメの……」  言いかけ、ふたみもまた、言葉をつぐんだ。  互いに言葉が続かなかったのは、きっと……。  ──渡すはずだった答え。  満天の星空の下、微笑んだ彼女に告げるはずだった答え。  それは彼女にとって、もらう事のできなかった答え……そういう事になってしまうのだろうか。 「と、とにかく、食事の準備だ」  ふたみは落ち着かない様子で。  働き者の彼女は、いつだって何かをし、常に誰かの為に動いていた。  そうあるのが当たり前だと言わんばかりに。  今は、ただ──ふたみが心配だった。  彼女は強い……けれど。  ……本当に、“失敗”だったのか?  ……ふたみはどう思っているのか。  ……俺はいったい何を見たのか。  いったい、事態は何処へ向かおうとしているんだ。  ──何が始まっている? 「おい。おいって」 「え?」  突然、ふたみの顔がすぐ傍にあって驚いた。  どうやら、いつの間にか随分と時間が経っていたようだ。 「あ、ああ……悪い。なんだ?」 「お主……」  言いかけた彼女の表情が曇る。  けれどそれは一瞬の事で、 「……食事の用意ができたんだが、後の方がいいか?」  いつもの調子でそう問いかけた。 「いや、今いただくよ」 「そうか」  台所へと踵を返すふたみの背中に尋ねた。 「あれ? そういやメイド服は着ないのか?」  制服のまま家事をする姿を見るのは、初めて会ったあの日以来だ。  どうでもいい事なんだけど、今はただ、一つでも多く会話をするべきだと思って。  こんな時なんだから忘れていて当然なんだ、「そういえば」なんて答えを期待して─── 「だって、あれは……」  けれど、その問いかけはふたみの表情を曇らせただけだった。 「ヨメ……の、戦闘服だから……」 「…………」  馬鹿だな。  俺は本当に馬鹿だな。  それでもふたみは、次の瞬間にはいつも通りだった。  いつも通り。  ……本当にいつも通りに見えていたら、まだよかったのか。  ──人は。  咄嗟の判断で、哀しい顔を隠そうとするものだ。  それは一言にまとめてしまえば、自分が哀しんでいるという事を、目の前の相手に悟られたくないからに他ならない。  ただ、その理由は大きく分けて二つある。  一つは、負けず嫌いな性質から生じる。  相手に言い負かされたと思われたくない。  相手の言葉で傷ついたと思われたくない。  つまるところ、“弱み”を晒したくない。  原材料は矜持や見栄。  できあがった安物の仮面に彫られた素知らぬ顔で、「それで?」と強気な態度を示す。  もう一つは、思いやりという愛情から生じる。  他人の気持ちの機敏に敏感だから。  盛り上がっている場の空気を壊したくないから。  誰であれ傷つけたくないから。  自分が哀しんでいると知られてしまっては、相手が気にしてしまうから。  つまるところ、自分独りが我慢すればそれで済む事ならば。  優渥の大地に根を張った、深緑のたしなみ。  本当は誰よりも優しいから。  いつだって周りを気遣っているから。  ただ、それがわかり辛いだけ──傍若無人とすら受け取れてしまう言動の裏側には、相手を思う気持ちで溢れている。  ふたみは「わかってもらえない」辛さを知っている。  その上で他人を思いやる事ができる。  だから俺は。  せめて俺だけは。  彼女の優しさに気付いてあげたいと、そう思う。  ──何故なら。 「買い物に行ってないから、あり合わせなんだが」 「ふたみが作ってくれたものなら、何でも構わないよ」 「…………」  俺は上手くない。  またふたみが哀しそうな顔をして──そして、それを咄嗟に隠した。  俺が気を遣っていると、だからそう言ったのだと。 「美味い」 「何だ、突然」 「美味いものを美味いと言って何が悪い」  俺は上手くない。 「そっ……そうか。ありがとう」  だから上手く言えない。  けど、いくら嘆いても、今すぐに上手くなんてなれないんだ。  だったらせめて、言いたい事ははっきりと、胸を張って言わせてもらう。  ──何故なら。  俺の答えはとうに決まっていたから。  渡す機会を失ってしまった答え。  俺はふたみが好きだ。  いつの間にか芽生えた、この気持ち。  いつからだったのか、そんな事は覚えていない。  他人の心の機敏に鈍感な俺は、自分の気持ちにすら鈍感だった。  けれど、今──彼女をどう思っているのか、それをはっきりと言える。  胸を張って、自分の気持ちに正直になれる。  それは彼女が教えてくれた心の在り処。 「お主……」  つっかえる度に棘が刺さるのは、きっとふたみの心の柔い部分。 「今まで通りに呼んでくれ」 「……いいのか?」 「何で駄目なんだ?」 「だっ……て」  続かぬ言葉が続く度、無機質な棘はより鋭さを増して。 「だっても何も、止めなきゃいけない理由なんかない」 「あるじゃないか」 「皆無い」  言い切る事で少しでも誰かの支えになれると、そう信じていられるほどに子供だったわけじゃないけれど。  俺は他に方法を知らなかった。  ……もっと上手ければ。 「恥ずかしい……と思う」  こうして、彼女をうつむかせずに済んだのだろうか。 「成功するって……私は当たり前の顔をして……」  我慢していただけ。  ふたみは、ただ堪えていただけ。 「この炒め物は最高だな。ご飯の上に乗せるだけで、見ろよ、こういうのを芸術品っていうんだ。模造品はふたみの料理を参考にするべきだ」 「……お主人ちゃんに……偉そうな事を言って……」  だから、ふとしたきっかけで零れるような事があれば。  堪えた分だけ、溜まった水は一気に溢れ出て─── 「ふたみが店を出したら、明日にでも大英博物館は潰れるな。この漬物だけでも世界を狙えるぞ」 「お主人ちゃんがあんなに頑張ってくれたのに……結局、私のやり方は失敗して……」 「ふたみは失敗なんかしてない!!」 「成功したんだ。あの時、確かに雲は払われた。だから星空が見えたんだ」 「……でも」 「約束は果たされたんだ」 「ありがとう、お主人ちゃん。でもな……」 「だから、ふたみ。お前に訊かれた問いに、今答えるよ」 「えっ……」 「ごめんな。言うのが遅れて」 「…………」 「ふたみ。俺は──」 「待って。ま……待って」 「いや、ちゃんと伝えるべきだ。俺は──」 「待って。待って。お願い、待って」 「……ふたみ?」 「い、今は……今は駄目だ。心の準備が……その……」 「…………」  ふたみが積み上げてきた積み木。  途中から、俺も積み上げる手伝いをした。  それはいつの間にか二人の共同作業になって、俺が積んだものの上にふたみが、ふたみが積んだものの上に俺が。  合わせる練習などした覚えもないのに、歩調も吐息も、いつの間にかぴったりで。  それは見上げるほど大きく、立派で、誇らしい代物となって。  けれど、「崩れない」という確信は簡単に崩れてしまった。 「ごめん」  慌てて拾い集めても、もう元の形には戻らない。 「な、なんで謝るんだ。悪いのは私だ。自分で訊いておいて、こんな……勝手だ」 「…………」 「ごめん……今、訊いたら……も、もし……」  どんな形だったのか、誰も覚えていない。 「ごめん……なさい。今は……無理……」 「……わかった」 「ほんとうにごめん……」  積み木は───  あの日の積み木は、もうここにはない。 「おやすみなさい。お主人ちゃん」 「おやすみ」  いつもと同じように、ふたみと枕を並べて俺たちは眠る。  いつもと同じ。  ──そう。  俺たちは、努めて“いつもと同じ”であろうとしている。  当たり前であったはずの生活に生じたズレを互いに感じて。  補填するように、補完するように、互いが埋め合わせようとしている。  あの日の積み木を思い出しながら。 (傘姉……どこに行ったんだろうな)  気にならないはずはなかったが、言葉にはしない。  帰ってこないメメと同じく、傘姉もまたこの家に戻ってこなかった。  あの時から、何かが少しずつズレ始めている。  俺たちの照陽菜の終わり───  何かが変わってしまった。  ……布団の中の俺の手に、重ねられたぬくもり。 「ふたみ?」 「……こう……していても、いいか?」 「ああ」  僅かな震えを感じて。  自分を慕っていたメメ。  自分が慕っていた傘姉。  それは一月程度にしか過ぎないけれど──共に一つ屋根の下で寝食を共にした二人が、唐突にいなくなって。  今、ふたみの傍で力になれるのは、俺だけなんだ。 「あっ……」  気付けば、ふたみの手を握り返していた。 「俺が守る」 「えっ」 「俺が守るから。ふたみは心配しなくていい」 「…………」 「おやすみ」 「……おやすみ……」  何が起きているのかはわからない。  どんな事態が待ち受けているのかもわからない。  けれど、俺は決めた。  この娘を守ろう。  どんな苦難が襲ってきても、俺が盾になる。  必要なら俺が矛になる。  それが沢山の事を教えてくれた、ふたみへの恩返しであり───  そして、それが俺の。  俺の、この娘への偽らざる気持ちだ。 〜ラベル『遠く近くの触れ合い』の内容は記述されていません〜  空の野原に群生する、俺たちが刈り取ったはずの雑草。  星々の瞬きも、円月の輝きすらも、その一切を遮ってしまうまでに生い茂った、つかめない氷の艸。  彼らは朝焼けと共に四散していく。  朝焼けはテレ雪にこそ似ている──そう思ったけれど。  それよりも似ているのは……。  見えたんだ。  あの時──駆け抜けた騎兵がひるがえした外套のように降りた、炎熱の幕の向こう側に。 『桜守姫』という名が。  どちらが先か、などという事を求めるのは無粋だと思った。  唯井と桜守姫、どちらも互いにこの地で名家としての誉れを欲しいままとする大家。  けれど、確かに──後からやってきたのは桜守姫だった。  何処から。  それは知れない。  ただ一つだけ確かな事は、最下層の住人として唯井家の先祖が暮らしていたこの地に、桜守姫家の始祖がやってきたという事だ。  この時に、何かがあった。  それにより、この地には未曾有の災いが降りかかる事になる。  元凶たる桜守姫の始祖を打倒する為に、この地の人々は立ち上がった。  この時、まだ桜守姫という言葉はなかった。  だからこの始祖を、仮に『彼』と呼ぼう。 『彼』が恣意的に災厄を呼び込んだのか、奇禍が起こった時期にたまたま来訪した『彼』を人々が元悪と決め付けたのか、それはわからない。  だから───  自らを責め立て、武器を手に迫り来るこの地の人々を『彼』が虐殺した理由は──災禍であったからなのか身を守る為の仕方のない行為であったのか、それはわからない。  ただ、この地の人々が何人束になろうが、『彼』を殺しきれなかったのは確かなようだ。  累々と積み重なる死者の群れを前に、『彼』は愉悦の嘲笑を漏らしていたのか、嗚咽の嘆きに沈んでいたのか。  ──発端が何であれ。 “得体の知れないもの”というだけで、人は足元から這い上がる恐怖を感じ。 “同じ土地に住んでいる”となれば、嫌悪は憎悪に変わり。  身内を、同郷の者を、“すでに惨殺されている”となれば取り返しはつかない。  もはや事態もここまで到達すれば、人々は『彼』を滅ぼす以外になかった。  しかし冷えた山に種を持たぬ新たな苗木を植える事になるだけで、『彼』を殺す事は叶わない。  唯井家の前身──忌み名とまで蔑まれた『浄任』の立場に変化が生じたのは、この時だった。  打倒したのだ。  彼らはこの地の為と信じて、自らを忌み嫌っていた人々の為に命懸けで戦った。  それが人々が信じていたように、『彼』がこの地に仕掛けた何がしかの影響であったのか、それともいかなる偶然であったのか、まして天意であったのか。  それは計り知れない。  しかし確かに、浄任の一族だけが『彼』に対抗し得る“手段”を持ち得たのだ。  その一件以来、浄任は“土地の守り神”として住民たちに強く支持される事となった。  どれほど虐げられようが、綿々と受け継がれてきた役割に殉じ、息を潜めてこの地を愛してきた一族。  その役割が人々に認められる──奉じ献じ拝される──崇高なる使命へと変じた時。  昂揚する彼らの流した涙は、どれほどの価値を持っていたのだろうか。  頑なにして至誠なる、かの一族。  彼らは人々の求めを自分たちの使命として忠実に受け止め、常にこの地の平穏を守り続けてきた。  それこそが、唯井家が名家としての道を歩み始めた第一歩。  やけに朝早く目覚めたのは、きっと偶然なんかじゃなかっただろう。  庭へと出ようと思ったのも、偶然じゃない。  ──ふと耳元に舞い降りた、小さな足音。 「メメ……」 「…………」  今、彼女との距離があまりに遠く感じられる。  俺は友達だと思い──そして、彼女もそう言ってくれた。  日々の暮らしの中で深まっていったはずの友好。  踏み出せばすぐに届く距離にいるのに。  同じ庭に居ながら隔たれた間が、今の俺たちの距離のように感じられた。 「おかえり」  それでも、出てきた言葉はそれ。 「朝帰りとはやるじゃないか。今から寝るのか? それともお腹が空いてるなら……ふたみを起こすのも悪いしな、何か買ってこようか?」  精一杯に明るく振舞っている自分に、違和感がなかったわけじゃない。  でも、一つ屋根の下で暮らす家族が帰ってきたら、最初はいつだって「おかえり」だ。  絶対にそうだ。 「…………」  メメの小さな溜息。  ──俺はすがっているのか。  当たり前だったあの日々に。 「ここへ帰る事を当たり前だと思っていいか」と問いかけたふたみに、当然のものとして頷いたように。  ──彼女がああ問いかけた瞬間、すでに何かが変わり始めていると気付いていたはずなのに。  それとも、彼女が哀しまないように、当たり前だったあの日々を取り戻そうとしているのか。 「……ただいま」 「あ……ああ!!」 「そう告げる場所は、ここじゃない」  静かに──何かがズレ始める。  歯止めなど利かないのだと、痛烈に張り飛ばされるかのように。 「なんて顔してるのよ」 「ふたみも……お前の帰りを待ってるよ」  そう切り出した俺は、きっと卑怯者だったのだろう。 「ふたみお嬢様のお気を揉ませてしまうとは、愛もまだまだね」 「…………」 「──エド」 「なんだよ、畜生」 「炎の向こうに何が見えたの?」  ざわっ、と。  問いかけられた瞬間、身体中の毛穴という毛穴から汗が噴き出した。  ぞぞぞと足元を這い上がった形のない腕が背中に取り出せない重石を埋め込んでいく。  悪寒という名の長い髪が絡みつき、戦慄という名の兄弟たちを招来する。 「……何、だって?」  見えたのは、予期せぬ『彼』の出現によって浄任が結果的に注目を集めた一件だけじゃない。  ──言ってしまえば、英雄は“力”で里を救済したのだ。  力とは即ち武力。  出自は何処でもよい、質は何であれ構わない。  未知なる恐怖を切り開いたのは、人々を奮い立たせる高説でも結束させる人徳でもなく、また兵を雇い集めるだけの財でもなく。  ただ己に宿りし、純然たる“力”。  ただ──否、だからこそ、それ故に。  個体で増え過ぎた力を保有する者は、集団の中で危険視される。  どれほど感謝の心を捧げられようが、どれほど敬意を集めようが、時の流れと共に人心は移ろいゆく。  気付けば孤立、揶揄と陰口に楚国の唄を聞く。  平時において、強すぎる力は平和の象徴ではなく、畏怖の刃で削り作られた偶像に他ならない。  それでも今以ってその力が保有されているのならば。  それは即ち、武力が権力に変じた──あるいは、結び付いたという事に他ならない。 「……“英雄は豪族に”」 「そうよ。未寅はご宗家の決定に従うだけ」  それは、唯井家の宗家が巽であるように。 「未寅だけじゃないよ。ご宗家に行ったでしょ? 午卯の茂一が守る大門を抜けて」 「午卯茂一と申します──」  目的を持って動いている彼らに、現状維持という言葉はない。  保身など初めから度外視なら、豪族としての彼らは繁栄するか衰退するかのどちらかだ。  ──答えは前者。  巽が去ったこの地に──残された唯井家は、残された年月の数だけ、俺が想像していたよりも遥かに強大な力を手にしたのだ。  けれど、それだけじゃない。  ただそれだけなら、これほどの震駭が込み上げるものか。 「なるほどな。つまりこういう事だろ、“面倒くさくなった”」  休息の仕方を知らぬ時計の針が前進する度、強靭に広大に膨らむ権威は、やがて唯井家を大きく歪ませていった。  世界の終わりまで休み方を覚えられぬ時計とは違い、人間はどこかで終わりなき休息の時間を迎える。  鼓動という名の秒針を止めてしまった人間を焼く事こそが、厳粛な条理であったはずの唯井家。  歴史の波の中、焔は消えず──歪んだ。  澱み淀み濁り、底の見えぬ粘液となった炎はやがて大火と化し業火に変ずる。  ──処刑。 「“死ぬまで待つのが面倒くさくなった。どうせ焼くなら生きてる内から焼いてしまえ”」  その方が断末魔の叫びと悶え苦しむ姿を愉しめる。  産まれた瞬間から墓を用意できる。  裁判官は唯井家であり、処刑執行人も唯井家。  彼らの手にした松明は、死人を浄化するものではなく生者に押し付けられる焼き鏝となった。  この地の平穏を乱す者。  それを決めるのは誰か。  誰が基準になっていったのか。  悪を悪と定めるのは、いったい誰か。  彼らは焼いた。  彼らにとって悪しきすべてを。  彼らにとって悪であれば生きたまま炎にくべられた。 「それが唯井家だ。彼らは選別を始めた。邪魔となる者を、“守護者”の名目で狩り始めたんだ」 「“イイ”? そう──策にはそう聞こえていたんだ」 「何だよ……どういう意味だ?」 「どういう意味も何も、そのままだよ。修正の対象外である愛には正しく聞こえているの。策が“イイ”と発音した事が、正確に聴き取れる」 「は……?」 「それでも何を指しているのか、意図は伝わるんだよ。それが言霊という名の、言葉の持つ霊なのだから」 「浄任は穢れ役だったから、葬儀が起こらない限りその名を呼ぶのは好ましくないとされていたの。  里の北西──戌亥の方角に家を構えていたから、戌亥の連中とか、汚れ戌亥とか、そう呼ぶ事で代用していた」  大地が干上がるまでに焼いた、とまで囁かれたその呼び名は“戌亥”。  方角を表す戌亥は“乾”とも書き、これは“乾く”と同じ字に他ならず。 「──炎上に雲。雲下に雨。降り止めばたちまち、劫火は燎原を焼く──」  死者の為の鎮魂に非ず、生者の為の埋葬。  焼けば立ち昇る煙はやがて雲を生む。  そうして降り出した雨によって劫火は消えるも、その雨が止む頃には新たな炎が立ち昇っている……消え去る事もなく空を席巻し続けるは、雲。  この地の支配者は雲。  暴君は戌亥にあり。  故、その名を。 『雲戌亥』。  それこそが炎獄の処刑人として君臨した一族の名。 「雲……戌亥?」 「気にする必要はないよ。策も例外じゃなかった、っていうだけの事だもの。今、愛によって正しい認識を与えられたから、ようやく知覚できるようになったというだけの事」  同じように認識し、同じように発音している者もいたかもしれない。  けれど指し示す対象が同一なら、それは他の者にとっては違って聞こえるのだと、メメが嗤う。 「つまり、そういう事だよ。それがこの空明市にいる、という事なの。  誰もが正しく発音しているのに、誰にも正しく聞こえない。  ──或いは、誰一人として初めから正しく認識できないまま、誰もが納得してしまう。  正しく『クモイヌイ』と言っていようが、人によっては『クヌイ』とも『モイヌ』とも聞こえている。  そして、それで正しいと認識してしまう。  あなたには『イイ』と聞こえていた。どんな漢字を当てはめていたのかは知らないけれど、聞いた瞬間に納得し、そう認識していた……ただそれだけの事だよ」  英雄の末裔に付き従う眷族が、薄く冷笑う。 「例えば、『クヌイ』と聞こえていたとしたら。  それは『勾縫』? 『口縫』? 『空縫』? “勾かしに縫われた”の? “口が縫われたから本当の名を意識、無意識に関わらず言葉にできない”の?  それとも──“空を縫われた”の?  どんなに遠くてもそれは近い。結びつかなくても絡み合っている。  けれど気付く事も認識する事もできない。  突き放しながら手がかりを与え、けれど解答の権利は剥奪する」 「…………」  なら──『唯井』とは。 『唯』、たった一つを取り立て限定する、それより他のものがない意。 『井』、一文字で井戸を表し、そして井戸のあるところにこそ人は集まると──だから市井という単語を生んだ。  つまり『唯井』とは、“ただ一つ限定された街”。  比べるものなき人々の中心。 「……そういう事かよ」 「そう、そういう事よ」 「メメ……お前は……」 「なぁに?」 「お前たちの目的は……いったい何だ?」 「──あの雲の向こうに、エドは何を見たの?」 「雲……だって?」  込み上げたのは腹立たしさ。 「雲の向こうに何が見えたのか、そう訊いたのか?」  俺の隣で微笑んでくれた少女の笑顔が脳裏を掠める。 「星空だ」 「それだけ?」  その試すような口振りに、俺は思わず呑み込んだ言葉を吐き出した。 「雲の向こうにあったのは、ふたみの星空だ!!」  メメは一瞬、目を丸くしていたが─── 「あははっ! あははははっ!」  笑いたいなら笑えばいい。  あれはふたみの星空。  彼女が望み、彼女が手にした、彼女の星空だ。  誰に笑われたって、俺はこの想いを曲げるつもりはない。 「ははは……うん、それでいいの。それでこそ、あなたに頼んだ甲斐があるというもの」  ──頼み? 「どうか、おねーさまの味方でいてあげて?」  今となってみれば、あれはどういう意味だったのか。  俺は騙されていたのか。  都合よく利用されていたのか。  ……それでもいい。  そんな事は構わない。 「メメ。お前の言葉は嘘だったのか」  俺が訊きたいのは、その事だけだ。 「いつだってふたみの味方だと言ったお前の言葉は、嘘だったのか」 「嘘じゃないよ。未寅はいついかなる時であれ、ご宗家のご意思に従うのだか──」 「そんな事を訊いてるんじゃない!!」 「…………」 「どうなんだよ」 「そんなわけないでしょ。愛はふたみお嬢様の身辺警護をお役目として与えられていただけ。  誰の味方か、なんて幼稚な事実を確かめないと納得できないなら、はっきり言っておくよ。  愛は、雲戌亥家ご当主様の味方よ」 「……そうかよ」  ご立派なお仕事ですね、くそったれ。 「そうか、そうだよな。護衛かよ。必要だよな、学園にはお前たちの桜守姫家がいるもんな」  わかったよ、畜生。  下らねえ。  ──本当に下らねえ!! 「弐壱学園もそうなんだ。こじつけに等しい、けれど確かに結びついている」  ──戌亥。  戌亥とはメメが言ったように北西の方角を表す言葉としても用いられるが、つまりは戌と亥──犬と猪、十二支の最後の二つの事だ。  十二支とはそもそも大陸の考え方であり、大昔から日付を記録するのに用いられてきた。  そう──メメの腰に光るホウキが示す牡羊座と同じように、黄道十二宮も十二支も、共に天体を十二分割する事によって測定の術を見出したものだ。  これが時代を経るにつれ年月、時刻、方位にも適用されるようになった。  十二支とはそうして順序を表す為に用いられたものであり、もともと動物とは関係がなく、これは後世、人々が暦を覚え易いようにと、身近な動物を当てはめたに過ぎない。  子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥。  戌亥とは、月で言えば9月と10月。  時刻で言えば20時と22時───  21時は、弐壱へと。  戌亥の間を取ったもの。 「弐壱学園ってのは、長い緊張状態の続く雲戌亥家と桜守姫家、両家にとっての“中立地帯”なんだ」 「へぇ……」 「どんな条約が結ばれたのかは知らない。いや、そもそも条約なんかなかったのかもしれない。間違いなく和平なんかじゃない。  けど、確かに“中立地帯”は必要なものだったんだ。  これは俺の勝手な推測だ。この地の守護者として住民の支持を得て、雲戌亥家が統べる者としての椅子に座ったってのに──桜守姫家は出て行かなかったんだ。出て行こうとしなかったんだ。  居座った上に、どういう間違いかは知らないけど、歴史の中で雲戌亥家と肩を並べるほどに成長を遂げちまった。  両家が動けば街そのものを巻き込んだ“戦争”になってしまうほどに──もう、制圧でも鎮圧でもない、一方的な追討になんかならないまでに両家は土地に根差した力を持ってしまった。  だから“中立地帯”が必要になったんだ。それぞれの子供たちを育てる為の環境。そして街を滅ぼす事はどちらの望みでもなかったから。  何故なら」  そう──何故なら。 「街はその時、すでに閉ざされていたからだ。  閉じ込めたんだ。盒子という名の言霊で、雲戌亥家は文字通りにこの街を閉じ込めた。  お前が言ったんだ、メメ。遠くて近い、結びつかなくても絡み合っている、と。  例えば空を縫われた、と。  そうだ、空は縫われていたんだ。  言霊という力を借りた結界の正体は、あの“雲”だ。  毎晩毎夜現れる、律儀に時間を守ってこの街の空を覆う雲──この街の空を。  この街では誰も星空を見た事がない、つまりこの街の何処にいてもあの雲は頭上にある。  あの雲に覆われている部分こそがこの街、つまり雲戌亥家の空明市だ。  豪族なんてものじゃない、ここは雲戌亥の街そのものなんだ」  魔王が魔法の杖をひとふりすると、杖のせんたんからみるみる霧があふれ、湖をすっぽりとつつみこんでしまいました───  また───  またここで、あの童話が出てくるのか。 『よくばり魔王』。  あれは。  あれこそは、雲戌亥の詩だ。  桜守姫の始祖が現れた時の事件──支配者は外部からの侵入者に誰よりも敏感だ。  自らの支配の及ばぬ土地からやってきた新参者は、いらぬ価値観を植え付け、整備した国に望まぬ波紋を起こす発端となる。  過去から学び、領地の基盤をより強固なものとする。  だからこの街を閉じ込めた。  二度と同じ事が起きないように。 「時期はわからない。けど、雲戌亥家はこの街を居座った桜守姫家ごと閉じ込めたんだ。  きっと、その時期の桜守姫家ってのは雲戌亥家からすれば取るに足らない存在だったんだろう。“いつでも潰せる”と思える程度でしかなかった──もしかしたら、かつて自分たちがそうであったように、“集団の中には憎まれ役が必要だ”としてあえて残したのかもしれない。  だが、その判断はとんでもない手落ちだった。  桜守姫家は返り咲いたんだ。  かつてこの地を恐怖で震撼させた始祖の時代のように──その恐怖が加害者の意図だったのか被害者の汚名だったのかはともかく、今度は豪族という形で、権力者という形で、街に根差した名家として発展を遂げたんだ。  でなければ説明がつかない。  両者の力が拮抗していなければ、“中立地帯”は必要にならない。  義と力が自分たちのみにあれば、雲戌亥家は桜守姫家を潰して話を終わりにできたはずだ。今日まで続く遺恨なんか残るもんか」 「……たいしたものだね。ご宗家の有識結界の正体にそこまで気付いているなんて……ここまでとは思わなかったよ」 「褒められて嬉しくなかったのは初めてだよ、メメ。貴重な経験をありがとよ」 「──そうよ。桜守姫。桜守姫。桜守姫!!」  その名を告げる時にこそ鋭さを増すメメの声。  ずっとそうだった。  彼女が桜守姫さんに向ける視線には、敵意というだけでは表現しきれないものがあった。  根深い確執。  時代を、世紀を跨いだ、後世に綿々と続いていく対立。 『浄任』と『彼』。  それは、互いにその姓を名乗る前から始まっていたんだ。 「桜守姫さんはそんな事をする人じゃない」 「……訂正して、エド。桜守姫を擁護する発言は赦さない。  あなた、目の前で親を肉団子に変えられた子供の気持ちになれる?  両の指をすべて削ぎ落とされた兄弟と握手をした経験は?  帰宅したら食卓の上に夫の生首が置かれていたショックで流産した新妻に、同じ台詞が言える?  エドのちっぽけな主観で括る事は侮辱としてしか受け取れない。  ──桜守姫此芽がどうであるかなんてまるで関係がない」 「…………」 「薄汚さを省みもせず奸智を誇りとし泥の中で息をする、鏡で自分の姿を見る事すら忘れてしまった外法者ども。  中立地帯の提案はご宗家のご温情だったのに、憎しみは拡大した。ただそこでは戦わなくなったというだけ。  エドの言った通りだよ。話は終わりにならなかった。遺恨は今でも続いている。  全面的な衝突がないだけで、小競り合いはいつだって何処だって起きているよ」 「……雲戌亥家の人間ってだけで狙われるっていうのか」 「他に何があるの。こっちだって桜守姫というだけで四肢を引き裂く理由が成り立つよ。学園敷地内における不戦協定もどこまで当てになるかわかったもんじゃない。だから──」 「だから、ふたみの護衛をしていた。そういう事か」 「そうだよ。学園では特に念入りに、ね」  ──だとすれば。  弐壱学園が雲戌亥家によって創立され、桜守姫家との中立地帯として解放されたものなのなら。 『照陽菜』は──『天文委員会』は。 「……ふたみは」 「ん?」 「ふたみは……この事を知ってるのか?」 「知っていてあんなに真っ直ぐに照陽菜に打ち込めると思う?」 「…………」  牡羊座の天文委員、未寅愛々々は言った。 「何もしなかった」と。  きっと、建前として行動している振りはした。  しかし実際は、本質としては何もしていなかったんだ。  それはつまり、この街の雲から開放される術などないという事を隠す為の。  雲戌亥家の結界支配から目を背けさせる為の───  天文委員に与えられる特権。  羨望の眼差し。  弐壱学園が中立地帯として解放されたものならば。  雲戌亥家と桜守姫家の縁の者は、初めから選ばれて然るべきじゃないか。 「けれど、私は天文委員に選ばれた。願いを叶える機会を得たんだ」 「照陽菜には……本当は何の意味も……」 「それは違うよ。意味はあるの。ただ、愛たちがやっても何の意味もないというだけ。  12人の天文委員。その中で本当に照陽菜を行う必要があるのは、ただ一人だけ」  思いつく答えなんて一つしかない。  木を隠すなら森の中。  真相に蓋をする。 「……ふたみ……?」 「──ようこそ、エド。吾らが雲戌亥家の庭へ」 「狂ってるよ。頭おかしいよ、お前ら」 「自分の世界と理から外れたものを、容易くその一言で括るのは感心しないね。狂っているのが自分なのか世界なのかなんて、誰にも判断がつかないもの」 「もう一度訊くぞ。お前たちの目的は何だ」 「さっきの冴えはどうしたの? 推理してみればいいじゃない」 「茶化すな! 答えろ!!」  俺は冷静じゃなかった。  メメの変貌、この街を取り囲む──いや、この空明市そのものの異常。  焦燥も驚愕も綯い混ぜて、煮詰めて気色悪い粘液となって身体中に塗りたくられている。  ──けれど、一番の理由は。  連中の目的がふたみに関係していると、最悪の予感が込み上げる衝動を抑えきれないから。 「メメ!!」 「愛はね、ご宗家の使者だよ」 「何の為の使者だっていうんだ!!」 「それは──」 「ん? お主人ちゃん、もう起きてたのか?」 「────!」  ふたみ!?  目の前の空間が陽炎めいて揺れた。  それは一瞬の事だったけれど、その透明の衣が棚引いた後に、メメの姿は何処にもなかった。 「どうかしたのか? お主人ちゃん」 「いや……」  ふたみお嬢様、か。  ……恐らく彼女は何も知らない。 「なあ、変な事を訊くけどさ。ふたみ、名前は?」  訊ける事は、ただそれだけ。 「物凄い矛盾した質問だが、私はふたみだ」 「苗字は?」 「雲戌亥だが」  聞こえるようになっている──聴こえるようになってしまったという事だけ。 「急にどうしたんだ」 「いや……」  彼女は俺が知っているふたみに他ならない。  唯井ふたみでも、雲戌亥ふたみでも、どちらでもいい。  ……守ると。  護ると誓った。 「お主人ちゃんが私よりも早起きしたのは初めてだな」 「そうだったか?」  本当はあまり眠れなかったからだけど、ふたみに心配をかけないように誤魔化した。 「わ、私はもう平気だぞ」  それでも何かを感じ取ったのか。 「わかってるよ」  そんな気遣い方をしてしまう娘だからこそ、俺の事で余計な心配なんかかけられない。 「…………」 「どうした?」 「ん……」  ふたみは口篭ったが、やがて意を決したように切り出した。 「……なんだか、昨日からお主人ちゃんの様子が……」 「なんだよ」 「おかしい……と、思うんだが」 「そんな事はない」 「そうか?」 「そうだ」 「…………」 「そんな事ないって」 「なら……いいんだが……」  辛いのは自分だろうに、俺を気遣うふたみの思いやりは。  俺が早かったとか、ふたみが遅かったとか、そんな事じゃなくて。  今ここにある状況は、俺が目覚めた時に見る彼女の格好がいつもの服じゃない事が、すべて物語っている気がした。 「お主人ちゃん」  居間に着くなり、ふたみは正座して俺を向いた。 「ありがとう」 「今度はなんだよ、突然」  尋ねながら、俺も思わず座り込んでいた。 「きっとお主人ちゃんは、私を気遣ってるからだ」 「え……」 「私を気遣って、独りで悩みを抱え込んでる」 「…………」 「当たってるだろ。自信があるぞ」 「なん……で」 「私は皆が言うように無神経かもしれないけどな、相手の事を知る努力を惜しんだ覚えはない。不思議な事に、上手くいった試しがあまりないんだが……ただ、お主人ちゃんに関しては自信があるぞ」 「……なんだよ、その自信は」 「なんでかな」  思わず目を逸らした俺に、ふたみの言葉がちくりと棘を立てた。  今、彼女はどんな顔をしているのだろうか。  そう考えて、きっといつもと同じなんだろうな、と苦笑した。 「私は上手くないからな」  どこかで聞いた台詞だな。 「だから、上手くは言えないんだけど」  それもどこかで聞いた。 「でも、お主人ちゃんにはちゃんと意味が伝わってると思うんだ。これは私の自惚れなんだろうか」 「…………」 「気遣ってくれるのは嬉しいけど、独りで悩んでるお主人ちゃんを見ているのは辛い」  ありがとう、と、今度その言葉を口にしようとしたのは俺だった。  けど言えないよ。  唯井家の──今となっては、雲戌亥家の。  俺たちの身の回りで起こっている、異常な現象。  今のふたみに、こんな事……いや、きっと今でなくても言えない。 「いや、こういう言い方は卑怯だな」  なあ、ふたみ。  お前は背伸びをしてるんだろ? 「悩んでる姿を見ているのが辛いから、だから言ってるんじゃない」  無理をしてるんだろ?  自分は平気だからって、相手に心配をかけないように、自分もそう思っていられるように、頑張ってるんだろ? 「私は、お主人ちゃんの悩みを分けて欲しいと、そう思ってる」 「────」  だからさ。  そういう、どきりとするような事を言うもんじゃない。  男なんて単純なんだから、本気にするだろ。  それでも、やっぱりありがとうな、ふたみ。  今だから出てきた言葉なんだろうけどさ、やっぱり嬉しいよ。 「あ……とさ」 「うん」  身を乗り出すふたみを見て思う。  まだまだだな、と。  まだ俺は、変化に乏しい彼女の表情から本音を拾えるところまでいっていない。 「と……」 「うん」 「…………」  ふたみは正座を崩さず、じっと俺の言葉を待っている。  けれど、俺の言葉は続かなかった。 「……気にしすぎだよ。別に悩んでなんかいない」  そう言うのが精一杯で。 「ありがとうな。お主人ちゃん」  礼を言われるような事じゃない。  これまでずっと俺を支えてきてくれたのは、ふたみなんだから。  ただ、今度は俺の番だというだけの事だ。 「何度でも言うぞ。ありがとう、お主人ちゃん」 「だから……」 「強引だと思われてもいい。ただ、これだけはちゃんと伝えておきたい」  それが、無理をしているふたみが、自分の心のバランスを取る為に選んだ方法なのだという事。 「お主人ちゃんが無理をしてるのがわかるから。肩肘張って、難しい顔をして」  それはふたみの方だろ。 「わかったんだ。お主人ちゃんの顔を見ているだけで、勇気が湧いてくるという事」  ──は? 「気付いてたかもしれないが、私は昨日、落ち込んだ。かなりヘコみました」 「そりゃ……」 「でも、一晩経って思ったんだ。“どうしてこの程度なのか”と」 「この程度?」 「私は照陽菜に懸けていた。ほんとうに、色々なものを懸けていた」 「ああ」  それだけは、誰よりも知ってるつもりでいる。 「でなければ、お主人ちゃんにあんな事は言えない」  それは「答えが欲しい」と告げた事なのだろう。 「なのに、“この程度”だったんだ」 「どういう意味だ?」 「きっと、ほんとうなら、しばらく何も手につかないくらい落ち込んでいたはずだ。私はそれだけ本気だった。  なのに、お主人ちゃんが独りで悩んでいると気付いたら、それが私を気遣ってのものだと気付いたら、“こんな事じゃいけない”と思えたんだ」 「…………」 「私は何をしているのだろうと、自分が恥ずかしくなった。落ち込んでいても何も変わらない。  そんな事よりも、目の前にもっと大切な事があった。お主人ちゃんが気付かせてくれたんだ」 「…………」 「先に言っておくが、これは“ヨメの義務”とかそういう事じゃない」  俺は。  俺は、ふたみを見損なっていたのか。  今だから出てきた言葉─── “今”というこの瞬間の意味を。  履き違えていたのは、俺の方なのか? 「ふたみは……強いな」 「違う。お主人ちゃんが傍にいるからだ」 「…………」 「間違いない」  それは、不器用で。  とても真っ直ぐな。  愛の告白──だったのだろうか。 「お主人ちゃんが言いたくない事を無理に訊き出すつもりはない。けれど、私がそういう気持ちでいる事は知っておいてほしかった」  いつもの真っ直ぐな瞳がそこにある。  決して目を背けない、いつものふたみがそこにいる。 「そうだ」 「え?」 「昨日はごめんなさい。自分で答えをくれと言っておきながら、今はダメだとか勝手な事を言った」 「いや、別に勝手とかじゃ……」 「今なら大丈夫だ」 「え?」 「いや、私の身勝手な都合に合わせて、今すぐにと言ってるんじゃない。いつでもいい。お主人ちゃんの気の向いた時にでも、改めて答えを下さい」 「大……丈夫なのか?」 「どんとこい」  いつもの真顔で。  ふたみが胸を張った。 「もしダメでも、さっき言った私の気持ちは変わらない。  たいした役には立てないかもしれないが、私はお主人ちゃんの側にいるぞ。  お主人ちゃんは独りじゃない。どうか、それだけは忘れないでほしい」 「ふたみ……」 「それと」 「……はい」 「朝食を作り忘れました。ごめんなさい。  今から急いで作りますので、ちょっとだけ待っててくれ」  言うが早いか、ふたみは立ち上がった。 「すぐだ」  親指をビッと突き出して、そしてふたみは襖の向こうに消えた。  ……しばらく、俺は呆然とその場に座り込んでいた。  正座したまま、ふたみが消えた方角を唖然と見つめていた。  そしたら。 「ははっ……」  なんだよ。 「はははっ」  なんなんだよ、それ。 (……まいったな)  ──不器用という言葉。  不器用だからどうした、そう言わんばかりに。  彼女はそんなものを埋め合わせるだけのものを持っている。  悩んでる俺が馬鹿みたいだと、逆にそう気付かされる。  俺が惚れた女の子は、とても強い。  安心──とは違う。  柔らかなあたたかさを感じたからか。 「いてて……」  ぎゅっと締め付けられるかのように、胸の奥に痛みが走った。  瞼を閉じれば浮かぶ、夜空に広がる群雲。  この街ではあまりに見慣れた風物詩──今となっては、黄昏と領土を分かち合う時、夜という名の皇が引き連れてくる軍隊にすら感じられた。 (雲戌亥家の兵隊……か)  あれがこの街を閉じ込めている有識結界の正体。  檻の柵であり格子であり、領土を仕切る有刺鉄線。  桜守姫家の始祖の事例から、外部の侵入者に過敏になった──その結果としての産物。  それはつまり、この土地で生まれ育った者以外の一切を拒んだという事。 (──待てよ)  じゃあ、どうして俺はここにいるんだ?  どうしてこの街に入れたんだ?  出る事は叶わずとも、入る事は自由……そんなはずはない。  それこそ本末転倒だ。  この土地で生まれ育った者以外の一切を───  巽はもともと、この土地の出身だ。  しかし、一度でも土地を離れて暮らしたのなら、土地を捨てた裏切り者と見なされるだろう。  だとすれば───  ──そうか。  雲戌亥家は“血”で縛ったんだ。  雲戌亥家の血縁者のみが結界を自由に出入りできるんだ。  血が関係しているのなら、雲戌亥家が何を目論もうと、宗家たる巽家を避けて通る事はできない。 (避けて通る事はできないからこそ……か?)  メメは俺を『エド』と呼んだ。  その指し示すところは未だわからないけれど、巽家に何かを仕掛けてきている事は間違いない。  俺に、じゃない。  巽の一族である俺に、仕掛けてきているんだ。  そこにこそ、この街に来たその日から悩み続けている──ふたみが俺を“婿”と呼んだという事、そしてその裏に潜む、両家の間に交わされたのであろう密約めいた事態があるのだろう。 「…………」  雲戌亥家はそれを利用して、巽家をどうにかしようとしている。  どうにかしようとしているから、用いた仕掛け──その結果が、もしくは過程が、俺とふたみの関係。  それは考えすぎなのだろうか。  エド……“穢土”は、仏語でこの世界の事を意味する言葉だと思ったが……。  穢悪に満ち、煩悩に穢れた者が住む、迷い彷徨いし現世。  外部からの侵入者に対して過敏なら、外の世界からやってきた俺に対する揶揄とも考えられる。  なにせこの街は、雲戌亥家が治める城とも国とも世界とも呼べる場所なのだから。  ……けど、それだと巽に対してではなくなるな……いや、宗家でありながら外に住む巽に対してという事も……。  ──朝食を摂ってから、しばらくして。 「あれ? ふたみ、その格好は……」  片付けを終えたふたみは、制服に着替えていた。 「登校するのに制服を着るのは当たり前だろう」 「登校?」 「2日も休んでしまったからな。今日は行かないと」 「そんな、無理してまで……」 「無理などしてない。私はもう大丈夫だ」 「…………」 「大丈夫だ」  ……ほんとうに。  この娘は、強い。  そこにあるのは、いつもの日常──なのだろうか。  そんなに日にちが経っているわけでもないのに、ふたみと並んで歩く通学路が随分と懐かしく感じられた。 「さくさん」 「酢酸?」 「策さん。オマエの事だ」 「いつものままでいいって」 「そう言ってくれるのはありがたいんだけどな。色々考えたんだが、やっぱりダメだ。それでは私は卑怯者だ」 「何でふたみが卑怯なんだよ。それを言うなら、答えを伝えてない俺の方が卑怯だろ」 「それは違う。聴けるべき時に耳を塞いだのは私だ。策さんは卑怯者なんかじゃない」 「…………」  単に名前を丁寧に呼んでもらっているだけなのに、何故だかふたみから遠ざけられたように感じた。  彼女はそんなつもりないんだろうけど……正直、あまりいい気がしなかった。  いつもの日常───  ふたみはわざわざ担任に謝って──何故か俺の分まで自分のせいだと謝っていたが、先生は別に彼女を叱ったりはしなかった。  むしろ困った顔をして、慰めている有り様だった。 『双子座』の照陽菜も失敗したと、周囲にはそう思われているのだろう。  ……いや、それだけじゃない。  先生のふたみに対する態度の原因は、天文委員というだけじゃなく、雲戌亥の一族への──先生にはどう聞こえているかは知らないけれど──ものもあったんだ。  この地で生きる人々にとって、雲戌亥家は王族にも等しい。  それを笠に着るようなふたみじゃないけれど、これは本人がどう思うかではなく、周りがどう思っているかだ。  それだけは身に染みてわかっている。  俺はこの街の仕組みを何も見ていなかったのか。  自分の事ばかりで……。  いつもの教室、いつもの日常……それが違って見えるのが哀しかった。  俺の視点は世界から外れてしまったのか。  以前と同じ感覚で目の前の光景を見る事ができない。 「策さん」 「刺激臭と酸味が特徴の、無色の液体」 「は?」 「水との混合液は腐食性が高く、また可燃性」 「なんでそんな嫌そうな顔をする」 「別に」 「怒ってるのか?」 「怒ってない」 「…………」 「で、なんだよ?」 「その、だな。お弁当も作り忘れてしまいました。ごめんなさい」 「昨日の今日なんだから仕方ないだろ」 「策さん」 「なんだよ」 「私の事を甘やかさないでくれ。悪い事は悪いと叱ってほしい。 “チッ、まったく使えないアマだ。使えるのはあっちくらいのもんだぜ”と口汚く罵ってくれ」 「あらぬ誤解を招くような事を言うな。いつも言ってるみたいじゃないか」 「……ほらみろ」 「おかしいな。こういうのがオトコの望みだと書いてあったんだが」 「またあの本か。いい加減、全速力で明後日の方向に向かってる事に気付いてくれ」 「で、あっちとはどっちの事だ」 「もういいっつーの」  やれやれ。  でも、ふたみ……やっぱり無理をしてるんじゃないのか?  ふたみはいつだって自分で自分を甘やかしたりしない。  だからこそ、周りが甘やかしたくなるような娘だ。  甘えた言動の人間に対して、周囲は意外と厳しく接するものだからな。  弁当を忘れた事なんてどうでもいい。  そんな事を言う辺りが、やはり彼女がいつもの調子に戻っていない事を暗に示しているような気がしてならなかった。  しばらく待ってはみたものの、メメは欠席だった。  いつかみたいに、午後になったらひょっこり顔を見せるかもと期待する気持ちはあった。  けれど、放課後になっても彼女の姿を教室で見る事はなかった。 「…………」  今日は一日、上の空だった。  やたら色々と考えてしまって。  例えば、この学園。  多分……これは推測というよりも勘だ。  弐壱学園はもともと雲戌亥家の領地だったんじゃないのか──と、ふと思った。  そう考えたのは、桜守姫家が後から“追いついた側”だからだ。  追い上げた方からすれば、前を走る相手は抜かすしかない。  出来レースを提案するのは、いつだって“追いつかれそうになる側”──手持ちの領地でも資金でも、一部を“共有”として切り崩すだけで自分たちの立場がこれまでと同様の安泰が約束されるなら、安い話じゃないか。  けど、別に確証があるわけじゃない。  満足いくまでに成り上がったから、という理由で“追いついた側”が“追いつかれそうになる側”に手打ちを提案する事もないわけじゃない。 「…………」  そんな事ばかり考えてしまって。 「策さん、今日はこの後どうするんだ?」  その呼び方はやはりむず痒い。  照れくさいのではなく、釈然としない方向で。 「どう……って、特に予定もないけどな」  考えてみれば、この街に来てからというもの、生活に慣れる前からあの公園に通うのが日課になっていた。  ──もう、双子座の照陽菜は終わったんだ。  なんだか実感が湧かないが、“やるべき事”は……なくなってしまったんだ。  暇になったんだと改めて考えてみると、学校が終わったら家に帰る事くらいしか思いつかない。  どんな形にせよ、今日まで俺は日々やるべき事があった。  この街に来てからは言わずもがな──それまでは、巽の者として認めてもらう事に必死で。 「忙しいと気付けない日々こそが最も幸いだ」。  そう言ったのは誰だったか。 「暇っちゃあ暇だな」 「そ、そうか」 「ん? 何処か付き合ってほしいところがあるのか?」 「う、うん」 「いいよ。何処に行きたいんだ?」 「よかったら、その……」 「うん」 「で……」 「ん?」 「で、でーとしないか」 「は?」 「い、嫌か」 「デートって……あのデート?」 「ランデブーという言葉も同じ意味を持つらしいが、こちらはもっぱらSFでしか使われてない」 「それはそれは一つ賢くなりました……けど、急にどうしたんだ?」 「今まで私に付き合わせてしまったせいで、策さんは休日も満足になかったんだ。だから、今日はお礼も兼ねて、私が街を案内しようかと思ってだな」  ──なんだ。そういう事か。 「俺が自分で選んだんだ。ふたみは付き合わせてなんかいないし、お礼というのは違う」 「やっぱり怒ってるだろ」 「そういう言い方をされるのは腹が立つ」 「じゃあ、なんて言えばいいんだ」 「なんてって……」  こんなふうにふたみを困らせたら、また後でメメに叱られるな。  ──そんな事を考えながらふと横合いを向いた時。  いつもそこにあった小さな姿を見つけられない事に気付く。 「悪い。ちょっとおかしいな、俺」  言葉通り、俺は怒ってなんかいない。  俺はきっと、苛立ってるんだ。  知らず遠ざかっていくふたみとの距離がもどかしくて。  ……色々なものが変わり始めている。  ──いつも通り。  いつも通りという言葉。  俺はいつもと変わりないと思う。  ふたみもまた、いつも通り……少なくとも本人はそう言うだろう。  俺からすると彼女は無理をしているようにしか見えないけど、でも、俺から彼女がそう見えているように、彼女からは俺がいつもと違って見えるのだろうか。  ──わからない。  環境が変わったのは確かだと思う。  これまで脇目も振らずにやってきた事が終わってしまい、落ち着かない気持ちはよくわかる。  当たり前のように馬鹿やっていた仲間と一緒だった学校を卒業した時──そう、これはそんな時の気持ちに似ているのだろうか。  環境が大きく変わってしまって、結びつきに不安を感じる。  出会う機会が嫌でも減ってしまって、あんなにいつも一緒だったのに、疎遠な気持ちを感じて……。  状況は違うけれども、これはそんな時とよく似て───  ……違う。  違うよ。  同じであってたまるもんか。  それじゃ、俺とふたみの結び付きが双子座の委員だったからって事になるじゃないか。  照陽菜があったから俺たちは一緒だったわけじゃないだろう? 「しよう」 「ん」 「デートしよう」 「そ、そうか。うん、しようしよう」 「──で、行きたいところがあるんだっけ?」 「行きたいところというより、その、まあ、策さんとでーとがしたかったんだ」  だから、そういう直球は勘弁してくれ。  ……嬉しいけどさ。 「問題ない。でーとこーすはおまかせだ」 「お?」  ふたみとは思えないお言葉が。 「じゃん」  そうしてふたみは、鞄から『なぜ☆なに★ヨメの心得 〜猛虎襲来の巻〜』を取り出した。 「…………」  ……つかいつも持ってんのかよ。 「これによると、まずは……」  ──何が来るんだ。  あの本の事だ、どうせまともな内容じゃないだろう。 「腹ごしらえという事らしいな」  ……とりあえずは、まともだった。  次に何が来るかわからんがな。 「それじゃ、まずは何か食べに行くか」 「うん」  いつものように弁当を当てにしていたせいで、昼食は購買部のパンだった。  慌てて走ったんだけど、売れ残りのものしか買えず……しかも一個。  ふたみと半分ずつ食べたんだけど、そんなもので胃袋が満たされるはずがない。  実はかなりお腹が減っていた。 「すまない」 「え?」 「お腹空いてるだろう」  ふたみはその事に責任を感じているようだった。 「ふたみに頼りっきりになってる自分自身のせいだよ」 「それは違う。いつも私が用意してたんだから、今日もあって当然だと考えるのが自然だ。忘れた私が悪い」 「……止めよう。堂々巡りになる」 「そ、そうだな。でーとは楽しく、だよな」  なにより、ふたみの料理に慣れた自分は舌が肥えてしまっているのかもしれない。  三食あれでは、そこらの食べ物では満足できなくなっているのだろう。  まったく贅沢な悩みだ。  腹ごしらえとはいっても、俺はこの街の飲食店をよく知らない。  勿論、何処に何があるのかくらいは多少覚えたものの──朝昼晩とふたみに作ってもらっていた為、味の方はというとさっぱりだ。  そこで、彼女にお勧めの店を案内してもらう事となった。 「ここのうどんは極上だぞ」  彼女ほど料理が達者な娘が言うんだから、間違いないんだろう。  暖簾を潜ると、中は随分と小奇麗な印象を受けた。  使い古されてはいるものの、手入れはしっかりとしており、清掃も行き届いている。  妙に味のある──地元の老舗といったところだろうか。  ふたみの姿を見た店員は、慌てて畏まったお辞儀をすると奥に引っ込んだ。  入れ替わりに、厨房から店長らしき人が大慌てでやってきた。  そしてがちがちに緊張した様子で、ふたみに来店の感謝を述べている。  ……雲戌亥、か。  店長さんは来店のお礼をひとしきり言うと、心得た様子で「いつもので?」と訊いてきた。 「いや、今日は……策さんは何にする?」 「俺は……そうだな、ふたみと同じので」  そう言ったら、ふたみが変な顔をした。 「何かおかしな事を言ったか?」  何度もこの店に来ているようだし、ふたみと同じものなら間違いないと思ったんだけど。 「あ……いや、私のオススメは、策さんには……」 「いいよいいよ。同じもので」 「う……ん。じゃあ、そこの胡麻味噌だれうどんを二つ」  ふたみは壁に貼ってあるお品書きを指差して注文した。  店長は「かしこまりました」と地に膝をつく勢いで会釈すると、大急ぎで厨房へと消えた。 「……すごいな」  つい声に出して言ってしまった。 「何がだ?」 「あ、いや、ここの店長はちゃんと挨拶してすごいな、と」 「ん? 客が来ると店長が挨拶してくるのが当たり前なんじゃないのか?」  ……そうだよな。  この街しか知らないって事は、どの店に入ってもそうなるわけで──その勘違いで固まるよな。 「どうかしたのか?」 「い、いや。そういや、いつものって何だったんだ?」 「酢うどんだ」 「素うどんって、かけうどんの事か?」 「いや、そっちじゃなくて、お酢の方の酢うどんだ。来るとそれしか頼まないから、“酢うどんの女”とでも覚えられているんだろう」  ……実在していたのか。  子供の頃、俺は“すうどん”という響きからてっきり“酢うどん”だと勘違いして、赤っ恥かいた事があったんだが───  小学校を卒業するまで、“ひつまぶし”を“ひまつぶし”だと信じ込んでたし。 「あれ? ていうかふたみ、酸っぱいもの好きだったのか?」 「うん。好物だ」 「…………」 「どうした?」 「……今までふたみが作ってくれた料理で、酸っぱいものってあったか?」 「策さん、嫌いだって言ってなかったか」 「……言った……かな?」  随分前に訊かれた時、「あんまり好きじゃない」とか言ったような。 「え? ちょっと待て。じゃあ俺がそんな事を言ったから、ふたみは自分の好物を作らないでいたっていうのか?」 「自分の好物を作ってどうする。私はオマエに食べてもらいたくて作ってるんだぞ」 「…………」 「ヘンな顔をするな」 「……俺が嫌いだからって、ふたみはふたみで食べれば……」 「目の前で嫌いなものを食べられたら嫌だろう」 「…………」  馬鹿だな、俺は。  ふたみならそんなふうに気遣うってわかってる癖に──今日までまったく気付きもせず、のほほんと俺に合わせた食事をいただいていたのか。 「どうした?」  急に立ち上がった俺にふたみは不思議そうな眼差しを向けていたが、俺は構わず店の奥へと向かった。 「お待たせしました」と、やはり店長自ら注文を運んできた。  丁寧に丁寧に料理が置かれる。 「待て。私は酢うどんを頼んではいない」  その言葉に、店長は「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。  ふたみを怒らせてしまったと思ったのか、店長は助けを求めるように俺を見た。 「いいんだ。俺が変えてもらうように頼んだんだ」 「しかし、策さんのものまで酢うどんになってるぞ」 「それも俺が頼んだ」 「何故だ」 「あ、すみません。これでいいんです。無理を言ってしまって申し訳ありませんでした」  俺が頭を下げると、店長はとんでもないといった様子で、そそくさと奥へと消えた。 「さ、食べよう」 「待て。まだ理由を聴いてないぞ」 「理由なんてそのままだよ。俺もふたみの好物が食べたかったんだ」  と、俺は割り箸を割る。 「え……」 「食べないのか? ふたみ」 「し、しかし策さんは、酸っぱいものは嫌いだと……」 「そうだな。嫌いっていうのはちょっと違うけど、得意じゃないな」 「じゃあ……」 「考えてみたんだけどな。ふたみはさ、自分の分だけ作ればいいとか、一人の時に食べればいいとか言っても、きっと食べないと思うんだ。臭いが残って不愉快な思いをさせてはいけないとか、多分言う。すでに家から酢が処分されている可能性もあるんじゃないかと思った。  だからさ、俺が好きになればいいんだよ。俺が酸っぱいものを好物だって言うまでになればいい。  嘘はつきたくないし、俺が我慢して食べてるって知ったらふたみも嫌な思いをするだろうから、今日から取り組む事にしたんだ。  それなら、できるだけ美味しいものを食べた方が好きになれると思うんだ。だから頼んだ。  ここは俺が知る限り最高の料理人が認めた酢うどんを出す店だからな」 「策さん……」 「ただ、やっぱり……できる事なら、俺の知る最高の料理人に作って欲しいかな。その方がもっともっと早く好きになれそうだ」 「わ、わかった。作る。作るぞ。酸っぱいものを作る」 「頼むよ」 「うん」  酢うどんを食べているふたみは、実に幸せそうだった。  俺に合わせて、そんなに好きなものを我慢してたのか……まったく、これだから俺は。  俺はといえば、最初に口に含んだ時こそ脳髄が痺れるような感覚を覚えたが、喉許を通り過ぎる頃にはその独特の味わいに不思議な魅力を感じていた。 「意外と癖になる味だな」 「ふふ」  ……本当に嬉しそうだな。 「でも、無理はするなよ」 「わかってるよ。言ったろ?」 「うん」  嬉しそうなふたみは、見てるこっちまで幸せな気分になってくる。 「…………」 「どうした?」  思わず見とれてた。 「いや、なんだか幸せそうだなと思ってさ」  誤魔化すようにうどんをかっ込んだ。  うお。きた、きた、きた。 「確かに酢うどんは美味しいがな」 「幸せなのは、酢うどんのお陰じゃないよ……」 「さて、腹ごしらえも済んだし……」 「次はだな」  ふたみはすでに例の本を取り出している。  今度は何だ? 「歩く、と書いてあるな」 「歩くのか」 「うん。ひたすらに歩くらしい」  という事で俺たちは歩く事になった。 「ひたすらに、か?」 「ひたすらに、だ」  てくてく。  てくてく。 「でーとだな」 「紙の上の知識ここに極まれりという形でな」 「策さんは楽しくないのか?」 「ふたみは楽しいのか?」 「私はオマエと一緒ならどこでも楽しいぞ」  ──不意の一言に頬が染まっていくのを感じる。 「どうした?」  昔よりふたみは反則技が多くなった。  自覚していないから、この反則技はより高い威力を放つ。  というか、表裏のない娘だからこそ、その言葉はそのままの意味なわけで─── 「あ……歩く事に関して、他には何て書いてあるんだ?」  気持ちの置き場所を咄嗟に見つけられなくて、俺はそんなふうに誤魔化した。 「ちょっと待ってくれ。ええと……歩くという行為は、手を使わずに移動するという意味合いにおいて人類の進化を証明するものに他ならず、特に散歩という概念は人類のみが持ち、そして持ち得る表象である。目的を持たずに歩く事そのものを楽しめるというのは人類が」 「待て。本当に同じ本か? それ」 「そうだ。私の聖書だ」  いったいどんな作家なんだ。 「まだ続きがある。歩いている間、気になる相手が見ているものを注意深く観察するべし。そこにはその人の人間性そのものが表れるからである」 「え?」 「擦れ違う人々が何をしていようが、まるで無関心な人もいるだろう。それとは逆に、周囲にばかり気を取られている人もいるだろう。  その人は今夜の月がどのような形をしているのか気付くだけの余裕がある人だろうか? それとも、目の前の事だけで精一杯な人だろうか?  ──相手を見抜くとは、相手の考え方を知るという事。何をどのように見ているのかを見るというのはその重要な手がかりであり、会話を交わしているだけでは決して知り得ない部分を伝えてくれる掛け替えのない媒体である。  何故なら人間とは、己の想いすべてを言葉に表す事はできない動物だからである」 「…………」 「うん。素晴らしい」 「そう……だな」  いきなり度肝を抜かれた。  本当に同じ作家が書いたのだろうか。 「他にも何か書いてあるのか?」 「え? ほ、他か? も、もう何も書いてない」 「何もって事はないだろ。ちらっと見えたぞ」 「い、いや……えーと……だな」 「ん?」  と、急にふたみが俺へと近づいてきた。 「…………」 「ど、どうしたんだ?」 「べ、別になんでもない」 「…………ちょっと失礼」 「あっ、こら」  俺はふたみが指を挟んでいた部分をつかんで本を奪うと、彼女が読んでいた部分の続きを読んだ。 (なになに……) 「──なにより、歩いている間の互いの距離が重要である。  それはそのまま今の二人の関係を表している。  近ければ近いほど気の置けない関係であり、あなたが相手にとってより近しい関係になりたいと思っているのなら、この距離を詰める事こそが課題である」 (これっ……て) 「か、返せ」 「あっ」  ふたみは大慌てで俺から本をひったくった。 「か、勝手に見たらな、ダメなんだぞ」 「わ、悪い」  真っ赤だったのは、ふたみと俺、どちらだっただろうか。 (……まいったな)  本当はまいってなんかいないくせに、少しでもそう思っておかないと気持ちを落ち着かせる事ができない。 (あー……っと)  喉がカラカラだ。  ちらりとふたみの方を見ると、半分髪の毛に隠れた耳が真っ赤になってるのがわかった。  真っ直ぐな彼女だからこそ─── (近ければ近いほど……か)  顔をまともに見る事はできなかったけれど。  今度は俺からふたみに近づいて。  そっとその手を……握った。 「あ……」  ──俺たちの距離は、決して遠くなんかない。  俺が歩き出すと、ついてくるふたみが、ぎゅっと、手を握り返した。 「──そこの。そこのお二人」 「ん?」  そこには占い師らしき人がいた。 「お若いお二人。占ってしんぜよう」 「──私は占いという手合いをまったく信じていない」  会話は一言で終了した。  俺たちはそのまま何事もなかったかのように歩き続ける。  そうだろうな。占いの結果に左右されるような娘にはどうやっても見えない。  が、占い師はめげなかった。 「お二人の“相性”を占って差し上げましょう」 「む」  ふたみの歩みがぴたりと止まった。  ──が、一秒ほど経ってから思い直したようにまた歩き出す。 「これは……ほほう。ああっ、なんて事だ! このままではお二人は……!」 「む」 「だが、この助言さえあればお二人はいつまでも……ああっ、お伝えしたいっ! しかし拒まれているのに無理にお伝えするような真似はできないっ! 私はいったいどうすればっ!」 「むむ」  ふたみの歩みが再び止まる。  やっぱりふたみも女の子なんだなぁ。  ──なんて思えればよかったんだが、問題はこの占い師のやり方にある。  占いとか関係なく気になるだろ。 「ふたみ。気になるなら占ってもらったらどうだ?」 「いや、しかしな。見ず知らずの人間が出した結論に従うというのは」 「じゃあ、まず俺が占ってもらうよ。それを見てから決めるってのはどうだ?」 「しかし、それでは策さんが──」 「いいっていいって。俺もなんだか気になってきたしさ」 「え……」 「じゃあ、まず俺の事を占ってもらえますかね? 人生運とか」 「あ……なんだ、そういう事か」 「ん?」 「い、いや。なんでもない」 「──よろしい。この私に、この私に占って欲しいと。貴方はそうおっしゃるのですね?」 「なぜ二回言った」 「おっしゃるのですね!?」 「というかあこぎな営業手段に負けたというか、なんか可哀相になってきたというか。ぶっちゃけ、そんな無駄な雰囲気とか出さなくてもいいから」 「…………」 「あ、すみません。続けてください」 「おほん。では、まず──」 「はい」 「貴方の性格を教えてください」 「は?」 「貴方の性格です」 「あの、占いってそういうものを見抜くんじゃないんですか」 「違います」 「いや、最初にそれっぽい事を言って信用を得てから本題に入るのが、占いのお約束だと──」 「お前いい加減にしろよ」 「すみません」 「あ、いえ。コホン。そういった手順もありますが、私の占いは対象が自分をどのような性格だと認識してるかを把握する事から始めるのです。  激しく思い込んでおられる方もいれば、己を俯瞰し客観的に見ておられる方もいる。その程度と実際との符合度合いによって運勢を占うのですよ」 「なるほど」 「貴方、占いを頭から信じていないでしょう」 「あ、すごい。当たった」 「…………」 「い、いや、そんな事はないですよ。俺は一週間に八日は占いの本を読むほどの通でして」 「なんだか燃えてきましたよ」 「では、貴方はご自分の性格をどのようにお考えですか?」 「そう……ですね。割と頑固かもしれませんね。いや、頭が硬いのかな?なのに時々、優柔不断になる事も……」 「ふむふむ」 「あとは……自分に甘い、かな」  なんだか悪い方面しか思い浮かばないな。 「ん?」  くいくい。  ふたみが後ろから俺の袖を引っ張っている。 「どうした?」 「…………」  ふたみは何故だか、少しだけ拗ねた様子だった。 「なんだよ?」 「……大事なものが抜けてる」 「え?」 「……“優しい”が抜けてる」 「え……」  ふたみは顔を真っ赤にして、 「ちゃ……ちゃんと付け加えないと、占いにならないんじゃないのか」  俺と目が合った途端、珍しくうつむいてしまった。 「い、いや……これは、俺が自分の性格をどう思ってるのかと、実際のものとの差で占うみたいなんで……」  俺もふたみの顔をまともに見れず、しどろもどろになっていた。 「そ、そうか。じゃ、じゃあ、余計だったな」 「…………ふ」 「な、なに笑ってるんですか」 「私は最初に言ったはずですよ。お二人の“相性”を占って差し上げましょうと」 「あ……」 「ふっ」  なにそのしてやったりみたいな顔。  ……まあ、してやられたけどさ……。 「あ、あの占いはインチキだ。結局、何も占ってなんかいないじゃないか」  どうやらご立腹らしいふたみの頬は、まだ朱に染まったままだった。  そのくせ、口ではそんな事を言いながらも、彼女はどこか楽しそうで─── (……実はすごい占い師だったのかもしれない)  占いというよりも話術というか、気持ちを引き出すって意味では催眠術の類いのような気がしないでもなかったが。  ──でも、今は素直に感謝しておこう。  こうしてふたみが楽しそうにしてるんだから。  やっぱり俺には、彼女が無理をしているように感じられるから。 (……もうそろそろ、雲が出てくるな)  一月近くもこの街にいれば、だいたいの頃合は読めてくる。  次は「見晴らしのいい公園のベンチで休憩するべし」だそうだ。  内容自体はベタなんだよな。  ふたみは今、飲み物を買いに行ってくれている。  俺が行くって言ったんだけど、例の「ムコの喉が乾いているのに気付かないようでは、ヨメとして」と言いかけたところで、彼女は口を噤み、制止を振り切ってダッシュしていった。  ……やっぱり無理してるんじゃないか。  ──でも、今気付いたけど、あの本って外から持ち込まれたものなんだよな。  さっき「今夜の月がどのような形をしているのか」という文があった。  この街で生まれ育った人が作家になったとしたら、決してこんな表現はしない──「夜空を見上げれば月が出ている」という認識は、この街の人間にとっては紙の上の、もしくは伝聞による知識でしかないのだから。  ……改めて考えてみれば。  街が閉ざされているとはいっても、流通する物品は必ずしもこの街で作られたものとは限らない。  それでは限界があるし、だいいち、壁を隔てた向こう側の世界から大きく遅れを取ってしまう。  世間では今何が流行っておりどういった考え方が起こっているのか、いかなる発明がなされどのような物品が市場に出回っているのか──それらを情報としてはきちんと得ているが、自分の家に持ち込むかどうかは家主が判断する、という形でなければならない。 “国”とはそういうものだ。  誰かが規制を敷き、検閲して都合の悪いものを持ち込まなければいい。  この街にあるものは「あっても構わない」と判断がなされたもの。  与える情報は管理されている。  ──ふたみは。  テレビも。  ラジオも。  ケータイも。  インターネットも。  知らなかった。  それはきっと、ふたみだけじゃない。  この街は情報が統制されている。  文明の最先端を取り入れている事が不味いんじゃない。  自分たちで制御しきれない情報を配信される事が不味いんだ。  この街に住む人たちは、この街しか知らないかというとそうでもない。  ここが日本で、東京都の一部だという事をきちんと知っているし、外国の事だって知っている。 「この街から出ようとする意思が持てない」「それを不思議に思わない」という部分を抜かせば、後はそこらにある街と変わらない。  そして規制が取られ、誰かにとっての基準で検閲が行われ、物品が外から取り込まれている。  その上に、この街における“常識”ができあがっているんだ。  ──これは分家の反乱。 「雲……戌亥」  地方に封ぜられていた領主は長い時の中で力を蓄え、臣下と共に皇帝へと牙を剥く。  茨を用いて領土に城壁を築き、領主が皇帝を名乗る。  簒奪という名の挙兵。  宗家などいらぬと───  自分たちこそが宗家だと?  そして招き入れた皇帝の一族に対し……。  ……待てよ。  よく考えてみろ。  ──何かがおかしくないか? 「おい」  だって、そうして考えると─── 「おいってば」 「え? あ……ふたみ。悪い」 「どうしたんだ。ぼーっとして」 「いや、なんでもないよ」 「…………」  ふたみはどこか釈然としていない様子だったが、手にした缶コーヒーを俺へと差し出した。 「ありがとう」  受け取ると、俺はさっそく喉を潤す。  丁度、口の中に苦味が欲しかった。  ジャワか──今、まさに飲みたい味だった。  ふたみは俺が人心地つくのを見届けると、ようやく自分の分に口をつけた。  キリマンジャロだった。 「ふふ」  缶コーヒーを飲むふたみが嬉しそうに見えた。  キリマンジャロは苦味が強いジャワとは違って酸味が強いから、酸っぱいものが好きなふたみの嗜好に合うのかもしれない。 「コーヒーも酸味系とは、よっぽど酸っぱいものが好きなんだな」 「ん? ああ……これか」  ふたみが嬉しそうにしていたのは、どうやらその事じゃなかったみたいだ。  言われて初めて気がついた、といった感じだ。 「ま、そういう事にしておこう」 「…………」  ふたみはそう言ったが、なんとなくわかってしまった。  彼女は俺が今、何を飲みたがっているかを当てたんじゃないだろうか。  だから苦味系と酸味系のコーヒーを用意した。  そして俺の顔を見て、どちらを欲しているかを当てた─── (つか……)  それ以前の問題として、「コーヒーを飲みたがっていた」事を完全に当てている。 「……まったく」 「ん?」 「ふたみには敵わないな」 「なんだ、それは」 「上手く言えないけどさ」  上手くは言えないけど、この気持ちは伝えないといけない。  考えてみれば、丁度いい機会なんじゃないだろうか。  こんなふうに落ち着いて──ふたみと一緒にいれる機会なんて、これまでそうそうなかった。  彼女の思いやりを受け取っているだけじゃ、あまりに情けないってもんだ。 「あ……あのさ」 「…………」 「ふたみ?」 「やっぱり……言ってはくれないのか?」  その声はふたみらしくもなく、か細くて。 「え……」 「…………」  それでも聞こえてしまった。  いっそ聞こえない振りをしてしまえば───  ……言えないよ。  見上げた雲の事で悩んでるなんて。  あの雲が俺たちの行く手を遮って、今にも飛びかかってきそうだなんて。 「なんでもないよ。ふたみが心配するような事じゃないから」 「…………」 「本当に。ありがとな、心配してくれて」 「策さん」 「はい?」 「ちゃんと言っておく」 「なに……を?」 「私は、一からやり直す事に決めた」 「え?」 「私はこれまで、“ヨメだから”とか、“ムコの為には”とか、そればかりだった。私がする事は、みんなみんな、その上に成り立っていた。  でも、もうそれじゃダメなんだってわかったから。  だって私は、まだ答えをもらっていないんだから」 「なんだよそれ。だから、それは──」 「いいんだ。私はこれを好機と捉える事にしたんだ」 「チャン……ス?」 「うん。私はな、ヨメじゃなく、ムコでもなく、雲戌亥ふたみが巽策の事を想って行動しようと決めたんだ。  策さんと向き合うんだ。オマエの事を知って、ちゃんと理解して、そうやって頑張ろうって決めたんだ」 「…………」 「さっ…………策さんに好かれるようにがんばるって……決め……たん……」  ごにょごにょと、最後の方はふたみらしくない小声だった。  それからふたみは顔を上げて─── 「これまで、迷惑ばかりかけてごめんな。  でも、まだオマエから答えをもらうまでは好機があるってわかったから───  だからもう少しだけ、お付き合いください」 「…………」  いいんだろうか。  こんなに素敵な娘が俺の事をこんなに想ってくれてるなんて、そんな事があっていいんだろうか。 「お、俺は……」 「うん」 「…………」  彼女があまりにも眩しくて。  ほんの些細な微笑みで胸が締め付けられるようで。  自分が耳まで真っ赤になっていくのがわかって─── 「ちゃ、ちゃんと、ちゃんと伝えるから」 「うん。それまでは頑張ってもいいだろ?」 「…………」  ……ちぇ。  俺、ダセエな……。 「そうだ。策さんを案内したいところがある」 「案内したいところ?」  急になんだ? 「うん。是非、一緒に行きたい」 「あ、ああ……」  ふたみは俺の手を握り締めると、駆け出した。 「へえ……こんなところがあったなんて」  街を一望できる小高い丘の上。  そこはちょっとした休憩所のようにも見えたけれど、地元の人間でも知っている人は少ない見晴らしのいい穴場のようにも感じられた。 「ここに来たかったのか?」 「う、うん。……本にな、書いてあったんだ」 「なんて?」 「え、あ……だな」 「ん?」 「で、でーとの締め括りは、最も大切な人と、とっておきの場所に行くものだと書いてあったんだ」 「……そうか」  俺の中ですっかり株を上げたあの本は、実にいい事が書いてある。 「あれ?」  暗がりで見分けがつきにくかったけれど、よく見ると本の表紙には『猛虎襲来の巻』ではなく、『竜神召還の巻』と書かれていた。 「それ……」 「この本がどうかしたか?」 「前に見た本と違くないか?」 「言ったろう、ヨメがどうこうは止めたんだ。この本は上下巻でな。前のはヨメについて記された下巻。こっちは……その、恋人とか、そういうのだ」  そういう事か。 「作者は一緒だがな」  そこが納得いかないんだが。 「でも、お嫁さんについて記されているのが下巻のみなのに、共通のタイトルが『ヨメの心得』というのは……」 「いいじゃないか。上巻でヨメになるまでの心得が記され、下巻でヨメになった後の心得が記されているんだから」 「なるほど。深い……」  のか? 「策さん」 「ん?」 「今更言っても仕方のない事だとわかってるが……それでも、伝えるつもりだった事だから言うよ。また策さんに怒られるのも嫌だしな」 「なんだよ?」 「私はな、照陽菜が終わったら……ここでゆっくり星空を眺めようと思っていたんだ」 「え……」 「アナタと一緒に」 「ふたみ……」 「届かないものに手を伸ばす時、人間というのは自然と高いところに登ってしまうらしい。これが、私にとってのそれ……だったんだろう」  ──本当は── 「うん、言えた。よかった……ありがとう、聴いてくれて」  ふたみはそれを言いたかっただけなのかもしれない。  それを伝えたかっただけなのかもしれない。  彼女から言い出したデートの目的は、それだけだったのかもしれない。  ……言おうとしてくれた。  言ってくれた。  伝えようとしてくれた。  伝えてくれた。  何もかもどうでもいいなんて気持ちで転がり込んだ街で、“ヨメ”を名乗って俺の前に飛び出してきた少女。  その少女は、いつの間にか俺の中に『雲戌亥ふたみ』という等身大の女性として住み着いてしまった。  責任感の強い彼女が抱えた義務。  だから彼女の中で、俺は“ムコ”だった。  けれど今、彼女は俺を“ムコ”ではなく、“巽策”として見てくれている。  その彼女がいつか俺に語ってくれた、夢。  真摯な彼女の夢。  その夢の中には、義務から生まれた“ムコ”の存在があった。 「ムコとしての巽策」がいた。  唯井ふたみが巽策と一緒になる為に───  ……だったら、今、彼女にとってあの星空はどんな意味を持つのだろう。  答えをもらうまでは好かれる努力してもいいんだと、そんなふうに言ってくれた彼女の中で、今の俺が「ムコではない巽策」なら─── 「…………」 「ムコではない巽策」にできる事はなんだろう?  晴れない空を見つめる彼女の、あまり動かない表情から、「ムコではない巽策」は何を気付く事ができる? “ムコ”だとか何だとか、真面目すぎるほど真面目な彼女の夢から、義務を一切合切取っ払って───  ──なあ、策。  お前が惚れた女の子の夢は、今どこにある? 「……あれが北斗七星、あそこにあるのは木星」 「え?」 「あれがこと座のベガ……織姫か。そういや、もうしばらくしたら七夕だもんな」 「策さん……?」 「見えないのか、ふたみ。星空が」 「え?」 「俺たちの星空が見えるだろ?」  俺は夜空を見上げた。  雲ひとつない、満天のきらめきを散りばめた星の海───  ──ああ。  空って、こんなに綺麗だったっけ? 「そういやこと座の神話ってさ、ヘルメスが発明した竪琴を譲り受けたオルフェウスが、死んだ妻を連れ戻す為に冥界の王ハデスの許へ赴いて竪琴を弾き鳴らし……って話だったよな?ハデスはその調べがあまりに美しかったので許可を与えたが、一つ条件を出した。それは冥界を出るまでは決して後ろを振り返ってはならないという条件で……」 「…………」 「はは……この話って、日本神話の伊邪那岐命、伊邪那美命と……」 「……も、もういいよ」 「…………」 「も、もう……」 「あ。そういや、かみのけ座なんて変わった星座もあるんだよな。あれがそうかな?  この神話がまた面白くて、かみのけってのは王の無事を祈ったある王妃が女神に差し出したものなんだけど、この話には実はオチがついてて──」 「もういいってばっ」 「…………」 「いい……よ。もういいんだよ……」 「……やめないよ。  あそこには星空があるんだ。確かにある。  俺には見えるんだから仕方ないだろ」 「…………」 「──海と天の川は繋がってるって話を知ってるか?  筏で海へと漕ぎ出した人は、いつしか機を織ってる女と牛を牽く男の許へと辿り着くんだってさ。その時、地上では天の川のほとりに見知らぬ星が観測されるそうだ」 「その話が……どうし……」 「──その程度で」 「え?」 「その程度で、あの雲の向こうに行く事ができたんだ。  ……なのに、こんなに想ってるふたみの気持ちが届かないはずがない」 「…………」 「ふたみの傍にずっといたから、どうやら俺にも見えるようになったらしい。  ──ふたみには?ふたみにはあの星空が見えないのか?」  ……本当は。 「……ばか……だな……」  ……本当は、ずっと泣きたかったんだ。 「ほんと……ばか……だな……」  ずっと我慢していたんだ。 「ふっ……ぇっ……ぇぇ……」  この娘は強いから。  ……でもさ。  強いからって。  我慢できてしまうからって。  泣きたい気持ちがどこかに行ってしまうわけじゃないんだよ。 「ぇっ……ぇぇ……ぇぇぇ……」  この娘は表情から気持ちがわかりづらいから。  だからこそ、俺だけはこの娘の想いをわかってあげたい。  そう思った、あの時の気持ちは本当だから。  ──俺はせめて、ふたみにとっての泣く場所でありたいと、そう願った。  どれだけの間、そうしていたのかはわからない。 「……ん……」  いつしか、胸の中のふたみが顔を上げた時。 「……こんなところにも星があった」  そんな事を思ってしまうほどに。 「え?」 「ふたみの瞳が……」 「ば、ばか」  この娘が愛おしかった。 「……ありがとな」 「それにしても……前は星の話には詳しくないみたいな事を言ってたのに、随分よく知ってるな」 「勉強したんだよ」 「どうして?」 「ふたみに置いていかれないようにかな」 「ば、ばか」 「あんまり馬鹿馬鹿言うな。上手い具合に流れ星が落ちて実現したらどうする」 「いや、ばかだぞ。策さんはばかだ」 「願うまでもないみたいに言うな」 「……じゃ……言い直す。策さんはズルイ」 「ズルイ?」 「うん。ズルイ」 「なんだよ、ズルイって」 「…………」 「ん?」 「わっ、私は……オマエの顔を見るだけでこんな……こんなにドキドキしてるのに……」 「えっ」 「……お……オマエは平気な顔をして……」 「へ、平気じゃないよ」 「ウソつけ。平気じゃないならそんなに涼しい顔してられるはずないだろ」 「こ、これは男の嗜みだ」 「なんだそれ」 「そういうものなんだ」 「意味わかんないぞ」 「男の見栄に意味なんかないんだよ!」 「やっぱりばかだろっ」 「馬鹿馬鹿言うなっ!」 「言いたくもなるぞっ。私がどれだけオマエの事で悩んでると思うんだっ」 「俺だってお前の事で悩んでるよっ!」 「ウソをつくなっ」 「嘘なもんかっ!」 「わっ、私の方が悩んでるっ」 「俺だって本気で悩んでるっ!」 「オマエよりもいっぱい悩んでるぞっ」 「こればっかりは負ける気がしないなっ!」 「だいたいオマエはいつもそうだっ。この意地っぱりっ」 「お互い様だろ!」 「お互い様なもんかっ。私は本気でオマエが好きなんだっ。ちゃんと気付けっ」 「ふざけんな! 俺だって大好きだよ!」 「えっ……」  あ……。 「……今……なんて言ったんだ……?」 「…………」 「な、なんて言ったんだ?」 「だ、だから……」 「ちゃ、ちゃんと言ってくれっ」 「好き」 「……誰が?」 「ふたみが」 「続けて言ってくれないか?」 「ふたみが好き」 「……ほんとうに?」 「ああもう! ふたみが大好きだよっ!」 「な、なんで泣くんだよ」 「オマエが……泣かすような事……言うから……」 「な、泣かすような事って……」 「おろおろするなっ」 「むむっ、無茶言うなっ」 「……まったく」  ぎゅっと……ふたみが俺の背中に手を回し、胸に顔を埋めた。 「……どうだ?」 「凄まじい勢いで心拍数が上昇していきます」 「おかしいな。女の身体の感触は男を落ち着かせる効果があると」 「それ多分意味合いと状況が違っ」 「うーん……」  ふたみは更に強く、しなだれるように俺に身を預けた。 「……気持ちいい」 「そそそそれは結構でありますなっ」 「ふふ」 「ふ、ふふって、ふふふっ、ふふふふふ」 「壊れたか」 「そうだな壊れるほど幸せだなっ」 「……オマエはほんとうに口が上手いな」 「上手くない上手くない上手くなっ」 「ふふ」 「だからふふってふふふふふ」 「……イジワル」 「へ?」 「イジワルがしたくなった」 「い、いじわる?」 「たまには……いいだろ?」 「ふた……み」  ──時間が、止まったかのようで。  そんなふうに思うのは、きっと陳腐でありきたりだったのかもしれないけれど。  でも俺にとっては、何にも替え難いありきたりで─── 「んっ……」  家へと戻る最中、ずっと手を繋いでいた。  どちらからともなく差し出された手は、気付けば指を絡め合っていて。 「……ふたみってさ」 「うん?」 「もしかしたら、子供の頃は悪戯っ子だったんじゃないか?」 「な、何故そう思うんだ?」 「当たりか」 「だっ…………こ、子供の頃の話だ」 「ふうん」 「な、なんだその勝ち誇った笑みは」 「別に」 「……なんでわかったんだ?」 「…………」 「ん?」 「……本当に気を許した瞬間ってのは、そういうのが出る事があるんだと」 「むぅ……」 「…………」 「に、にやにやするなっ。  ……経験則か?」 「は?」 「オマエは……もてそうだからな……」  ……実は俺も初めてだったんですけど。  日々練習に明け暮れてた俺にそんな暇があったはず……まあ、そういう事にしておくか。  まったく男の見栄ってのはこれだから。  ……ふたみの手の感触が、まだこの手に残っている。  そしてこの唇に。 「…………」  経緯はどうあれ、気持ちを伝える事ができた。  あの日に置き去りにされたままだった答え。  ……初めて知った。  溜め込んだ気持ちって、吐き出すとすっきり───  した次の瞬間には、不思議な昂揚感に包まれるんだな。  一つの事をやり遂げた達成感とか。  今日までの事を振り返っての満足感とか。  変な話だけど肩の荷が下りた開放感とか。  そんなもん全然なくて。 (あー……なんつーか……)  心の中がぽかぽかして。  頭の中がはればれして。  でも。  体の内がそわそわして。  今なら何でも笑って許せるような、まるで世界と一体になったかのような───  優しい気持ちで満たされる。 (で、でも、まずくないか)  些細な自制心が水を差す。  今日もいつもと同じように、ふたみと一緒に寝るんだよな。  ね、寝るん……だよな?  平常心に羽が生えて飛んでいった。  俺の辞書から“冷静”“沈着”“平静”の三文字が物凄い勢いで消えていく。  だ、駄目だ。  どう考えても今の俺は冷静じゃない。  冷静じゃないってわかってるのに頭のスイッチが切り替わらない。  こんな昂ぶった気持ちでふたみと一緒に寝てみろ───  横合いのふたみの吐息とか首筋に感じたり。  ふたみの体温を寝巻き越しにでも感じたり。  頬の染まったふたみの肌の熱さを感じたり───  ……幸せじゃね?  いや待て待て待て!!  そんな一方的な感情をぶつけては駄目だ。  もっとこう、そう、なんというかもっとこう………………。 (寝よう)  そうだ。それがいい。  ふたみが来る前に寝てしまえばいいんだ。  今の俺は駄目だ。  自分で自分の感情がコントロールできてないっていうかお花畑にちょうちょが飛んでてあはは待てよこいつぅー  寝るべきだ。  人類の平和の為とかそういうまったく具体性を伴わない抽象的なものの為に手を打った事にして寝よう。  そうと決まれば───  寝るぞ寝るぞ寝るぞっ!!  …………。  …………。  …………。 「寝るのか」 「ふた……み」  どうしよう目の前に世界一可愛い女の子がいます。 「い……つから、ここに?」 「ずっと前からいたぞ」 「…………」 「声をかけたんだが、部屋中を七転八倒しながらもんどりうっていたので、先に布団に入らせてもらった」 「見て……ましたか」 「うん」  そう言うと、ふたみは布団から出て、自分のいた方に俺を押す。 「ん」 「……はい」  あったかい。 「ぬくぬくか」 「ぬくぬくだな」 「そうか」  ふたみは俺の反応に満足そうだった。 「……うん」  それからふたみは、何かを確認したかのように口許をゆるめた。 「義務じゃない……」 「…………」 「よかった……」  ……一人で慌てていたのが馬鹿みたいで。  うららかな春の日差しの中で、季節の陽気に中てられていた気持ちが、ふっ……と。  ただ、穏やかな気持ちで春の光景を見つめていられた。  ああ、やっぱり俺はこの娘の事が好きなんだな……なんて、改めて思いながら。 「あちこち連れまわしてしまったから、今日は疲れただろう」 「疲れなんかと引き換えにできないものをもらったからな。全然平気だよ」  ──そんな言葉が自然と出てしまうほど。  高まる鼓動は治まらなかったけれど、俺は目の前の少女への気持ちに素直でいられた。 「……そうなのか」 「うん」 「素直に喜んじゃうぞ」 「うん」  俺もそうしてる。 「ふふ……」  そうしてふたみは、その華奢な腕を俺の背中へと回してきた。 「ふ、ふたみ……」 「布団が冷たいんだ」 「じゃ、じゃあ、俺と換わ──」 「こっちがいい」 「ふたみ……」 「こっちが……いい……」  背中に回されたふたみの腕が、ぎゅっと俺を抱きしめた。 「あったかい……」  俺もまた、ふたみの背中に腕を回して、彼女を抱きしめた。  ふたみの吐息を首筋に感じる。  ふたみの体温を寝巻き越しに感じる。  頬の染まったふたみの肌の熱さを、感じる。 「もう一回……」 「ん?」 「もう一回……キス、したいな……」  ふたみの顔がすぐ傍にあった。  頬を上気させ、瞳を潤ませた彼女が俺を見上げていた。  近くて遠い。  それが、今の俺たちの距離だと思っていた。 「俺も……したい」  あの時、何かがズレ始めた時から。  だけど自分の気持ちに素直になれば、その距離が縮まる。  縮める事ができるんだって、俺は気付いた。  遠ざけていたのは俺なのかもしれないと気付いた。  ──いや、知ったんだ。  この娘が教えてくれた。  いつも真っ直ぐな瞳に負けないよう、俺もじっとふたみを見つめ返した。 「ん……」  重ねた唇に、ふたみの温度を感じる。  縮まった──縮める事のできた距離を感じる。 「んっ……ふ、んんっ……」  それはお互いにつたない、押し付けるようなキスだったけれど。  俺はふたみが傍に来ようとしてくれているのを感じ。  ふたみは、きっと俺が同じ想いだって事を感じてくれたんじゃないかって思う。  何かが触れ合っていないと、不安になってしまうくらいに。  ただ、俺たちは唇を重ね合った。 「ふっ……ん、ん……んんっ……」  ──しばらくして離れると、なんだか名残惜しさを感じて。  触れ合う前よりずっと瞳を潤ませて俺を見上げるふたみも、同じ気持ちでいるように思った。 「あ……」 「ん?」 「キ……キスって、いいな」 「はは」 「わ、笑わないで……」 「ごめん」 「……あの本に、キスの事が書いてあって……」 「なんて書いてあったんだ?」 「……好きな人とだけしろと」 「そりゃ正解だ」 「で、でも、こんなに気持ちいいなんて書いてなかったぞっ」  そんな事を必死で訴える彼女が、堪らなく愛おしくて。 「上手く……言葉にできなかったからじゃないか?」 「あ……そうかもな」 「…………」 「…………」  ──もう一度。  俺たちは唇を重ね合った。 「ぅ……ふっ……ん、ううん……」  俺たちは丸まるように抱き合ったまま。  二人して、お互いの唇を奪い合った。 「……ずっと、こうしてたいな……」 「うん……」 「なあ、お主人ちゃん……オマエは香水か何かを使ってるのか?」 「まさか」 「ウソをつくな。オマエの匂い、すごく落ち着くんだ……これって香水の効果だろ……?」 「……ふた……」 「……どうしたんだ……? 変な顔して……」  顔を上げたふたみの頬はこれでもかというほどに上気し、その瞳は蕩けるように潤んでいた。 「……その」 「ん……?」 「あの本には、他に何か書いてなかったか?」 「他に……?」 「だ……だから、キスの……続きとか」 「ああ……下巻だな」 「…………」 「“コウノトリ”だろ?」  使えねぇ。  あの作者、下巻の執筆前に宇宙人に攫われて脳手術でも受けたんじゃないのか。  何が“ムコとヨメの想いが一つになった時、雄しべに乗った試験管が雌しべとコウノトリを合体させてガブリエルを誕生させる”だ。  ……違ったっけ?  ──やはり書物は参考にする為にこそあるもの。  頼れるのは己の力のみよ。 「はっきり言うぞ、ふたみ」 「うん?」 「俺は、お前を抱きたい」 「……今……抱いてる」 「……そうじゃなくて」 「?」  無垢な表情で首を傾げるふたみは、とても無防備で。  何一つ疑っていない事がわかるから、俺の中にためらいが生まれる。 「……なに……?」  せめて意図してる内容さえ通じていれば、イエスかノーか汲み取れたのに。 「……ごめん」 「え?」 「よく……意味がわかってない……かな、私」 「……っと」 「私に……何かしたい事がある……って事でいいのかな」 「ああ」 「……じゃあ」  ふたみの目元が優しくなる。 「お主人ちゃんはいつだって、自分で考えて、自分の責任で行動してきたじゃないか」  ──その言葉は。 「俺は、自分の気持ちを押し付けるつもりはないよ」 「知ってるよ」  ふたみの気持ちが凝縮された言葉。 「そんなこと言わなくても、お主人ちゃんの事はわかってる。……じゃあ、私は?」 「え?」 「私の事は、言葉にしないと伝わらないか……?」 「ふたみ……」 「したい……事があるなら、好きにして……いいんだよ」 「……いいか?」 「……わかってよ」  ちょっとだけ拗ねたようなふたみの表情が、堪らなく愛らしくて。  そして、優しく俺を包み込んでくれていた。 「ん……」  ふたみの首筋に唇を這わした。  すっかりからからになっていたのは口の中だけじゃなく唇も同じだったようで、ささくれ立ったように彼女の柔らかな肌にざらついた感触を与えた。 「んっ……ん」 「悪い……なんか唇が乾いてるみたいだな。痛かったか?」 「…………」  するとふたみは、俺の頭に手を回して唇を重ね合わした。  ──押し付けられた唇は湿り気を帯びて、そして、彼女は小さく舌を出して俺の唇を舐めた。 「これで……いいか?」 「ふたみ……」 「……足りない……?」  堪らなくなって、俺は彼女を抱き締める。 「んんっ……!」  首筋に唇を押し付けて、火照った感触をいっぱいに感じるかのように滑らした──耳へと行き着いた時、そっと耳たぶを挟み込んだ。 「あっ……」  挟み込んだ耳たぶの感触は不思議なもので、俺はその肌触りを愉しむかのように何度も甘噛みをした。 「んっ……くすぐった……」 「はは」 「んー……」  俺は顔を上げ、唇を尖らせるふたみの髪の毛をなでながら、こう言った。 「お前の肌が見たい」 「確認……しなくていいってば」 「そうか」 「……脱げばいいのか?」  そう言って、ふたみはパジャマのボタンに手をかける。  その手を、俺の手が握り締めていた。 「ん?」 「俺が脱がせる」 「はい」  瞳を閉じて身を任せるふたみは、俺が一つ一つボタンを外している間、とてもおとなしかった。  ……安心しきっている。  少しずつ露になっていく肌が暗がりの中でも眩しく感じられて、でも目を背ける事なんてできなくて。 「あんまり……見られると、恥ずかしいんだが」 「それは無理だ」 「ムリか」 「無理だ」 「じゃあ……仕方ないな……」 「…………」 「どう……した?」 「……下着……してなかったのか?」 「寝る時は苦しいからな……いつも外してるが」 「いつも?」 「うん」  ……毎日、隣で寝てたのに気付かなかった。  愚かなり、巽策。 「さ……触るぞ」 「お主人ちゃんの好きなようにすればいいんだってば」 「う、うむ」 「……表情が強張ってるぞ」 「う、うむ」 「もう」  ふたみが俺の手を取って、自分の胸に持っていった。 「あ……」 「……こうしたかったんだろ?」 「うん」  固まっていた指先をほぐすように、ふたみの胸を揉んだ。 「んっ……」 「ふたみって、割と着痩せする方なのかな」 「どうしてだ?」 「……大きい」 「それは……」  ふたみが少しだけ頼りなげな表情を見せた。 「オマエにとって……どうなんだ」 「ふたみならどっちでもいい……かな」 「……答えになってないような気もするが……でも……うん、ありがとう」  手に馴染む感触が俺を夢中にさせた。  餅肌ってこういうのをいうんだろうか……肉付きがよく、掌に吸い付くようで、これまで感じた事もない弾力に吸い込まれそうになる。 「へ……へんな事をしたがるんだな……」 「こういうものなんだ」 「そ……そうか……」  ふたみ自身、戸惑っているように見えた。  揉み続けると肌は段々と熱を帯びていき、うっすらと汗ばみ始めていく。 「んっ……んんんっ……」  時折、彼女は身悶えし、ほんの少しずつだが呼吸は乱れ出した。 「なっ……なんだ、これ……」  自身に起きている事態にどう対処していいかわからず、彼女は首をふりふり、身をよじれさせる。  上向きの乳首が硬くなっていくのを感じ、俺は指先に挟み込んだ。 「あっ……!」  びくり、とふたみの身が海老反りに震える。 「えっ……なんか、へんだよ……な、なに……これ」  不安そうに俺を見上げる彼女の瞳は潤んでいた。 「俺のしてる事に、ふたみが感じてくれてるんだ」 「……?」 「お前が知らなかった事の答え……かな」 「こた……え……?」 「……嫌だったら言ってくれよ」  俺も男だ。  その場合、とりあえずそこらの柱にでも頭を打ち付けて我慢しよう。 「……さっきより、お主人ちゃんを近くに感じるぞ……?」 「そっか」 「な……なんで……?」 「……なあ、ふたみ。“結婚”ってなんなんだろうな」 「え……?」 「ずっと考えてたんだ。スタートなのかな? それともゴール?」 「……わからない……」 「俺、今までそんな事を考えた事もなかったよ」 「……それなのに、今は考えるのか……?」 「そこから始まった娘が腕の中にいるからな」 「私は……」 「うん」 「そこから始まるはずだった。その日の為に花嫁修業をして、時間の許す限り自分を磨いて……そうして、この家でオマエを出迎えた」 「じゃあ、ふたみにとってはスタートだったんだ」 「そういう意味ではそう……かな。……お主人ちゃんにとってどうだったのかは、訊かない」 「どうして?」 「それ以前の問題だったと、今は知ってるから」 「……今は?」 「うん」 「俺は……今は、もっとわからなくなったよ」 「お主人ちゃんは真面目だな」 「俺が?」  誰より真面目な娘に真面目と言われるのは、なんだかおかしな気分だ。 「前にも訊いたかな。ふたみは、俺との結婚の事をどう思った?」 「そういう……意味か」 「あの時は少し違ったかな」 「今は……わからない」 「うん」 「でも」 「うん」 「お主人ちゃんとずっと一緒にいる事が結婚の意味なら、私はそれを望む。これは決められた事じゃない……私がそうしたいと思った事だ」 「ありがとう」 「私はのぼせているのかな?」  惹きつけ合う距離が当たり前のように。  肌をさらしたふたみの上に覆い被さった俺の身体。  おでことおでこがくっついた。 「ほんとうだ。熱いな」 「そ……そんなことをすると、もっと……熱くなるぞ」 「もっと?」 「うん」 「そういやふたみは、40度の熱でも学校に行ったんだったな」 「39度だ。それ以上の熱は経験した事がない」 「今は何度くらいかな?」 「だから……超えちゃうだろ」 「苦しい?」 「そうだな……でも熱じゃなくて、心臓の方かな」 「心臓?」 「動悸が止まらない」  ふたみがそっと……まるで包み込むようにして、俺の手を取った。 「触ってみればわかる」  そうして、ふたみはその手を自分の胸へと当てた。  再び、俺の掌が柔らかい感触で満たされる。 「伝わるか……?」 「うん……速いな」 「ああ……そうか、苦しいのとは違うかな……もどかしいのかな」 「もどかしい?」 「私の想いが伝わらないのがもどかしい」 「……伝わってるよ」 「そうかな……ほんとうに伝わってるのかな」 「不安?」 「不安は何もない。こうして傍にいれるんだから……これは……そうだな、わがままかな」 「ふたみのわがままとは貴重だな」 「私のわがままは貴重なのか?」 「貴重だよ。こんな時にしか見れないのなら、俺しか知らない事になる」 「なるほど」 「じゃあ、ふたみのわがままを独占したいって気持ちは、俺のわがままかな」 「…………」 「ん?」 「ま……まるで、愛の告白みたいじゃないか」 「まるでじゃなくて、告白だよ」 「……う……上手いなぁ」 「俺は上手くないよ」 「私も上手くない」 「似たもの同士だな」 「そうだな」  ──どちらからともなく、もう一度唇を重ねて。  それから俺は、首筋から下に向かって舌を這わせた。 「んんんっ……!」  双球の片方に辿り着くと、充血した先端を口に含む。 「はっ……あっ」  吸い込むように乳首に刺激を加えると、ふたみの肌が震え──脳内で麻薬に似た何かが溢れ出したかのように、俺の熱が高まっていくのが自分でわかった。  口腔にある先端を舌先でつつき、嘗め回すように舌の表面で転がす。 「あっ……ひっ……い」  ふたみの甘い吐息が俺を痺れさせて、俺は夢中になって行為を繰り返した。  でもそれだけじゃ足りなくて、片方の腕をもう片方の胸に回して、きめ細かな肌を揉み回した。 「どっ……どうしよう……へんな感じ……」 「嬉しいな」 「うっ……うれし……い?」 「うん」 「はっ……あっ……! じゃあ……これでいい……のか……な」 「ああ」 「お主人ちゃんがそう言うんだから……そう……なんだろうな……」  乳房を滑らせていた指先をつつ……と動かし、滑らかな肌の感触を得ながらへそへと到達する。  爪に当たる、下半身を覆うパジャマの先端。 「…………」  ほんの少しだけためらいを感じたけれど、次の瞬間には、俺の指先はパジャマの中に侵入していた。  次いで生じる段差の上を滑っていくと、下着越しに茂みを感じた。  そのまま指を走らせると、そこには僅かな湿り気があった。 「あっ……!」  少しだけ力を込めて押すと、想像以上の柔らかさに俺の方が驚かされる。  感触を確かめるかのように何度も押すと、下着の弾力も手伝って擦れるような形になった。 「うー、うー……うー……」 「ちゃんと……触りたいな」 「も、もう訊かないで……」  俺はパジャマの端っこをつかんで、下へとずり下げていく。  露になるふたみの下着──そのまま、俺は下着も下ろしていった。 「あ、あっ」  これまで見えなかった部分がじょじょにさらされていく。  生え揃った茂みが目に飛び込んできた時、なんだかいつも見慣れたふたみからは想像もつかなくて。  それから、彼女の大切な部分が無防備に俺の目の前にあった。 「み……みんな見たがるんだな……」 「そりゃそうだ。好きな娘の事はみんな知りたい」 「…………」 「ん?」 「そ、それはちょっと不公平じゃないのか」 「不公平?」 「お主人ちゃんは……服を着てるぞ」 「あ……」 「わ、私だって、好きな人の事をみんな知りたい」  弱ったような表情で俺を見上げるふたみ。  俺は自分の服に手をかけ─── 「だ、ダメだ」  た時、彼女に制止された。 「……オマエだって私の服を脱がしたんだから、私だってオマエの服を脱がしたい」 「いや、それはなんか……」 「ず……ズルイぞー……」 「…………」  俺はなすがまま、ふたみに服を脱がされていく。  起き上がった彼女は俺のシャツを捲り上げ、丁寧に丁寧に腕を通し首を通す。  それから、彼女は俺のジーンズのベルトに手をかけ─── 「ちょ、ちょっと待て。それはいくらなんでもマズくないか」 「ズルイ……」 「わ……わかったよ」  胸元をはだけたパジャマを上半身のみ着た状態のふたみが、俺のベルトを外していく。 「ん? んー……難しいな」 (この状況は……やっぱりマズいよな)  けれどふたみは嬉しそうで、俺は戸惑いながらも興奮する気持ちの方が上回っていく。  おぼつかない手付きながらもようやくベルトを外した時、 「んしょ……」  彼女がジーンズを下ろしていく。  その手付きは丁寧だが、やはり慣れていない事もあってか、ごわごわと硬いジーンズを下ろす度に下のトランクスごと下がっていく。 「ふ、ふたみ……」  なんだか気恥ずかしい。 「わっ」  下着の下に隠されていたものと対面した時、ふたみは息を呑んだ。 「…………」 「あんまりまじまじと見るな」 「いや、と……ええ?」  彼女は目をぱちくりとさせている。 「ちょっ……と、おかしくないか。普段、服の下にあるというのにこの形状は……い、いつもどうやってしまってるんだ」 「いや、その、だな。今は、いつもとちょっと形と大きさが変わっていてだな」 「変化するのか」 「ん……まあ、変化といえば変化だな」  すっかり膨張しきっていたそれを、やはりふたみはまじまじと見つめている。 「触ってみて……いいか」 「ふたみも訊かなくていいよ」  これまでふたみの身体を好き放題にしておいて、俺は断るなんて事はあり得ない。  彼女の気持ちに応える俺の言葉は、それだけだった。 「うん……ありがとう」  初めは、軽く。 「わ……」  どことなくおっかなびっくりと、指先で先端に触れた。 「すごい、弾力だな」  それから確認するように幹に触れると、自然と掌に包み込む格好になる。 「……熱い」  ふたみに触れられていると、余計に熱が増していきそうだった。 「それに……びくびくと、脈打ってる」 「解説しなくていいから」 「不思議な……ものを、お持ちで」 「こういうものだ」 「そうなのか……やはり私は、よくわかっていないんだな」  それから、ふたみは─── 「ふっ、ふたみ?」  顔を近づけ、自らの頬と幹とをくっつけた。 「なんだろう……なんか、愛しい」  まるで頬ずりするかのように。  俺の熱を確かめながら、彼女は瞳を瞑る。 「なんでだろう……」  知識ではなく、本能で察しているかのように。  それがなんであるのか身体で感じているかのように、ふたみは火照った顔に穏やかな表情を浮かべていた。 「ちゅ」  と、ふたみが幹にキスをする。 「おっ……」  思わずびくりと反応する。 「ん?」  俺の反応が気になったのか、ふたみは続けて同じ行為をした。 「おっ……おっ……!」  腰から背筋へと、ぞくぞくと心地良いものが込み上げ、俺は身震いする。 「どうした?」 「いや、ふたみがそんな事をするから」 「……? なにかヘンなのか?」  ふたみがいやらしい気持ちでしてるんじゃないって事はわかってるんだが、身体は自然と反応してしまう。 「そうされると、気持ちいいものなんだ」 「…………」  なんだか意外そうに目をぱちくりとさせて、 「じゃ、もっとするぞ」  何度も何度も、幹に唇を這わせた。  その度に小さな呻きを上げる俺の反応が嬉しそうで、彼女は夢中になって行為を繰り返す。 「他……には、どうすれば気持ちよくなる?」  そう言い出した時には、もう彼女の唇が触れていない箇所は一つとしてなかった。 「いいのか?」  俺もすっかり気分が昂揚していて、ふたみの申し出をありがたく受け入れる。 「んっ……」  言われるがまま、ふたみは亀頭を口に含んでいく。 「ふぉ……おっひい」  彼女の口腔の温かさに包まれると、それだけで幸せな気分になって─── 「ふぁ」  思わず腰を浮かせていた。 「あ、ごめん」 「んーん」  首を振って、それから彼女は丁寧に鈴口を舐めた。  反応する俺が嬉しいのか、やはり彼女は何度も何度も舌を這わせる。 「少し……そう、首を……」 「わあっは」  言われた通りに、ふたみは首を上下に動かして幹を呑み込み、吐き出していく。 「嫌だったら、止めろよ?」 「いやわっはら、やってはいぞ」  それもそうか、なんて思いながらふたみの奉仕に感じ入る。 「んっ……ん、んっ……ん」  ふたみらしい定期的な動きがとても気持ちよく、落ち着かない俺の手が彼女の髪の毛をなでる。 「んっ……ん」  しばらくして、ふたみは何かに気付いたかのように口腔から怒張を抜いた。 「あのな、もしかすると……」 「ん?」 「これがほんとうの“ご奉仕”か?」  そういえばそんな話もありましたな。 「騙したな」 「だってなあ、ふたみ、言ったら本当にやりそうでな」 「喜んでるんだから、別に、よかったんじゃないのか?」 「…………」 「ん?」 「……いや……」 「ああ……そうか。そうだよな。あの時だったら、きっとこんな気持ちではできなかったよな」 「…………」 「ありがとう」 「礼を言われるような事じゃないだろ」 「礼を言うような事だぞ」  ふたみはじっと俺を見つめ、それから─── 「……ごめんな」  と言った。 「私が……もう少し、ちゃんとした知識を持っていれば、お主人ちゃんを煩わせずに済んだんだ」 「ふた……」  ──ちりっ……と。 「っ……」  胸の奥に、火花が散った。 「どうした?」 「いや、なんでもないよ」  ……なんだ? 今の。 「い……痛かったのか? ごめんな」  と、ふたみは今しがたまで口に含んでいた怒張を擦った。 「い、いやいや。大丈夫大丈夫」 「…………」  ふたみが申し訳なさそうに顔を上げる。 「あ……そっちじゃなくて、胸だったし」 「そ、それは大変じゃないか。一大事だ」 「──大丈夫。きっと、そういうんじゃないから」 「え?」 「幸せすぎるせいかもな」 「も、もう……」  ふたみは頬を赤らめて目を背けると、亀頭に口付けした。 「あ。……大きくなった」  俺の下半身に宿るそれは、とても正直な子だった。 「じゃあ、ようやくちゃんと覚えたんだから、もっとするな」 「……嬉しいんだけど、ふたみ」 「ん?」 「俺は、お前と一つになりたいな」  俺はまだ、この娘の奉仕を甘んじて受け入れていられるほど成熟していないから。 「どうすればいい?」  焦っているわけじゃないけれど、それはきっと次の段階なんじゃないかって思えてしまって。  ──だから。  ゆっくりと、俺は彼女を組み敷いた。 「なあ……」 「ん?」 「どうして……力が入らない……?」 「俺に身を任せてくれてるって思っていいのかな?」 「ああ……そうか。そういう事か……」  ふたみは妙に納得したような様子で。 「こういうのって不思議だが……全然……嫌な気分じゃないんだ。……嬉しいんだ」  俺にはその言葉が嬉しかった。 「やっぱり俺のわがままかな」 「私のわがままだろ?」 「じゃあ、ふたみがわがままだから、俺もわがままなんだ」 「お主人ちゃんのわがままは、私のわがままの上に成り立ってるのか」 「そうだな」 「じゃあ、お主人ちゃんのわがままを独占できるのは私だけだな」 「そうだよ」 「……いいヨメっていうのも難しいな」 「なんだよ、それ?」 「そういうのって、あまりいいヨメじゃないだろ?」 「ふたみは硬く考えすぎだよ」 「私は硬いのか」 「そういうのもふたみっぽくて好きだけどな」 「……私はどうしたらいいんだ」 「したいようにしたらいい」 「……私の望みは……」  そんなもの、初めから決まっているといわんばかりに。 「お主人ちゃんにとっていいヨメである事かな」  そう言った。 「それでいいの?」 「それが幸せな女の子もいるんだよ」 「じゃあ俺の望みは、ふたみがもう少し自分の事を考えてくれるようになる事かな」 「これは私自身の幸せでもあるよ」 「そうなのかな?」 「そうだよ。お主人ちゃんが嬉しそうだと、私も嬉しい。お主人ちゃんが幸せだと、私はもっと嬉しい」 「俺は幸せだよ」 「うん、知ってる。だから今、私はこんなに幸せなんだ」 「ふたみがそんな顔を見せてくれるのは、二度目だな」 「ごめんな。私はあまり上手く気持ちを表情に出せないんだ」 「いいよ、それで。だから価値があるんだ」 「また貴重か」 「そうだ。ふたみは貴重だらけなんだ」  その言葉に、ふたみは優しく瞳を閉じ─── 「お主人ちゃん」  目を開いた時には、俺をじっと見つめていた。 「ん?」 「教えてくれ」 「何をだ?」 「こういう時の事をだ。やはり私は随分と多くの事を勘違いしていたみたいだ。私の勘違いで済むならいいが、お主人ちゃんに恥をかかせるのは嫌だ」 「そんなふうに考えなくてもいいのに」 「私は真面目に言ってるんだ」  ──わかってるよ。  ふたみが真面目じゃなかった事なんて、一度だってなかったろ? 「私にとって、お主人ちゃんはそういう人だ。沢山の事を教えてくれる」 「何言ってるんだ。教えてくれたのはふたみの方じゃないか」  それはさすがに違うと思う。 「お主人ちゃんに私が教えられる事なんかないよ」 「ふたみは自分の魅力に気付いてない」 「そっ……」  ふたみは一瞬、硬直し。 「……そんな真顔で言うな。て、照れ、照れるだろ」  火照った頬をさらに火照らせて、困ったような表情を浮かべた。 「でも本当だ。ふたみはとても魅力的な女の子なんだよ」 「ヨメとしてではなく?」 「分けて考えないでくれ。嫁として優れた娘を好きになるんじゃなく、好きになった娘を嫁にしたいと思うんだ」 「…………」  ──尖った眼差しが、ゆるやかにほころびていくかのように。 「ああ、そうか……」  きつくきつく締め付けられた糸の結び目が、一気にほどけていくかのように─── 「そういう……事なんだな……」  ふたみはなんだか納得した顔をしていた。 「……難しいな。でも、なんだか……嬉しい」  その言葉には、どこか、覚悟めいた響きがあった。 「お主人ちゃんに教えて欲しい。そうしたら、私はそれを受け入れる事ができる」 「……いいか? ふたみ」 「うん……」 「入れるよ」 「お願いします」  指先で花弁を開きながら、はち切れんばかりに膨張した亀頭を亀裂にあてがう。  そうしてゆっくりと腰を落としていく。 「っ……!」 「痛いか?」 「んっ……いい……続けてくれ。これは……きっと受け入れるべきものだ」 「ふたみ……」 「痛み……が、この瞬間が嘘でないと教えてくれている……そんな気がする。  忘れない……この痛みを、私は忘れない。  お主人ちゃんと一緒の……思い出」 「…………」  怒張がふたみの膣内へと呑み込まれていく。 「っ……ぅ……!」  身をよじって痛みを露にするが、彼女は唇をきゅっと結んで声を抑える。  その気持ちに応える為に、俺にできる事は。 「ぅぅ……っ」  こうして、彼女の奥へと侵入していく事だけだった。  ──男は征服する事でしか自分の気持ちを伝える事のできない生き物らしい。  どうしてだろうな。 「あっ……」  痛みに眉を寄せながら、彼女はハッとしたように声を上げた。 「お主人ちゃんは……痛く……ないか?」 「俺は……男は、別に」 「そう……か。それは……良かった」  乏しい知識から湧き上がったその疑問が、俺の胸を締め付けた。  どうして男は痛みを伴わないのだろうか。  ──そうすれば、彼女と痛みを共有できたのに。 「優しい……目、してる」 「え……?」 「んっ……お主人ちゃんのその目、好き……」 「ふたみ……」 「好き……」  ──俺がこの街に来た理由とか。  やらなければならない事とか。  みんなみんな、今、この腕の中にある。 「あっ……」 「……入った」 「そ、そう……か」 「平気か?」 「信じてるから……平気」  これはこういうものなのだろう?  彼女の表情が、そう言っている。  俺は少しずつ腰を動かし始めた。 「うっ……あっ……!」  異物を納めたばかりの膣は狭くて、俺がこじ開けた領域にしか広がっていなかった。  とてもきつい締め上げが俺に快楽の刺激を送り込むが、膣壁を擦り上げられるばかりのふたみはやはり強い痛みを感じているようだった。  それでもふたみは、止めてほしいとは言わない。  もう少しゆっくりとか、少しずつとか、そんな事も言わない。  ただ彼女は、俺が与えるものを───  ──いや、俺自身を受け入れてくれている。  ……信じていると。  その言葉のままに。 「なん……と、なく、わかった」  不意にふたみが上げた声に、俺は思わず動きを止めた。 「あ、いや……続けてくれ」 「何がわかったんだ?」 「あ、うん……」  ふたみは目に涙を溜めているくせに、表情は嬉しそうだった。 「私が……何を勘違いしていたのか、なんとなくな。好き合う者同士が取る行為とは、こういう事なのかと」 「お前が考えてたものより、ずっと変だったか?」 「ううん、私が子供だったって事がわかった」 「子供?」 「考えが浅かったんだ。……やっぱり硬かったのかな? 表面的なものばかりなぞって、肝心な繋がりを考えてなかったんだ」 「…………」 「だから、私は子供だったと」 「ふたみにとって、それは良い事だったのかな?」  ──その問いに、ふたみは首を傾け、目線を下へと向けた。  俺がふたみへと侵入している、そこへと。 「……繋がってる」  その言葉の意味を図りかねた俺に、 「お主人ちゃんと繋がれて、嬉しくないはずがない」  そう、ふたみが微笑んだ。  ──好きな人と手を繋げたら嬉しい。  好きな人と唇が触れ合えたら嬉しい。  彼女の言葉は、その延長線上にあった。 「あっ……」  ふたみが急に、びくりと震えた。 「な、なんか……おっきくなった、気がする」  ──侵入とか、こじ開けてるとか、痛がってるとか。  まだ俺は、受け入れてくれたふたみの想いがよくわかっていなかったのだと。  恥ずかしい気持ちが湧き上がって、次に、安堵に満たされて。 「……? ……?」  不思議そうな表情を浮かべるふたみが愛おしくて、再び腰を動かし始めた。 「んっ……! んんんっ……!」  俺はこうする事でしか今の気持ちを伝えられない。 「っ……! あ、んんっ……? えっ、あっ……なっ……?」  ふたみの反応が変わってきた。  奥に達する度に触れ合う股に、湿り気という表現では追いつかない潤いを感じる。 「えっ……あっ……、な、なんだこれ……?」  感じた事のない刺激に戸惑いながらも、火照った身体は悶えている。  ふたみの吐息が荒ぐほどに、その瞳が潤み、身体が汗ばんでいく。 「ふたみも感じてくれてるんだな」  ぷくぷくと勃起した乳首を、指先で弾いた。 「んんっ……!」  張りのいいその先端は、健気な彼女そのままに、弾かれてもすぐに真っ直ぐ立つ。 「ちょ、ちょっと……お、お主人ちゃんも、こんなふうに気持ちいいのか?」 「女の快感の方が数倍だって、よく言うけどな」 「そうなのか……オンナはズルイんだな」  別にずるくたっていいじゃないか。  男はそれで悦ぶんだから。 「し、しかし……いったいあの本は私に何を伝えようとしていたのだろう。こんなに良い事を書かないでどうするんだ」 「良い事も書いてあったよ」 「そうか?」 「ああ。だからこうして一緒に居れるような気もする」 「そうか……ふふ、さすがは私の聖書だ。これでお主人ちゃんの御墨付きになった」  嬉しそうなふたみの顔は、昂揚と快感とを織り交ぜて、これまで見た事のない表情をしていた。  ──それから。 「……でも、きっと、あの本には書いてなかった事が沢山あるんだろうな」  彼女の目つきが、悪戯っ子めいて。 「せっかくだから、しよう」 「ふ、ふたみ?」 「しよう」  ──どこかでスイッチが入ったらしい。  俺にとって悦ばしいスイッチが。 「といっても、俺もそんなに詳しいわけじゃ……」 「む。百戦錬磨のお主人ちゃんが詳しくないなんて事、あるのか」 「だからその設定はどこから」 「数多のオンナを泣かせてきたんじゃないのか」 「……初めてなんですけど」 「え?」 「…………」 「…………」 「…………」 「……そうなのか?」 「……はい」 「ふぅん」  何故か、ふたみがニヤリと笑った──ように見えた。  ……何故、俺はふたみを見上げているんだろう。  そして何故、ふたみが俺の上に乗っているんだろう。  しかもちょっと得意そうな表情で。 「体勢から考えると、きっとこうだ」 「何がでございましょうか」 「攻守の逆転」 「…………」 「今度は私の番だ」  え、ちょっと。なにこの才能!? 「んっ……」  ふたみは腰を浮かせると、再び腰を埋めていく。 「んんんっ……いたたたた」  ずぶずぶと幹が埋まっていく度に膣壁は擦り上げられ、さっきまでと体勢が違うせいか、これまでと違った方向へと膣を掘り進んでいく。 「初めてなんだから無理すんな」 「お主人ちゃんだって初めてなんだろ?」 「まあ……そうだけど」 「なら順番だ」  だからなんで嬉しそうなんだ。 「んっ……んっ……」  ふたみは順応性が高いのか、小気味よくリズムをつけて俺の上で腰の浮き沈みをする。  彼女のなかがきついのは相変わらずだったけど、受け入れるばかりだった彼女が調子を取り戻してからは、気のせいか締め付けが余計にきつくなった気がする。 「んっ……あっ……ど、どうだ……?」  蕩けた口許が俺に問いかける。 「お主人ちゃんも……私と同じように、気持ちよくなってくれてるか……?」 「ああ……すごい気持ちいい」 「ふっふっふ。そうかそうか」  この人、MなようでSというか、割合的に今の彼女はM3割S7割というか。  とういうか、あの時もそうだったけど、何でこういった事になると急にスイッチが入るんだろう。 「んんっ……いたきもちいい……!」  それはMだな。 「ふふ……お主人ちゃんも気持ち良さそうだぞ。身体は素直だな」  それはSだな。  というかどこから持ってきたんだ、その台詞は。 「こうしたら、どうだ?」  と、ふたみは亀頭まで見えるか見えないかまで腰を上げてから、一気に腰を落とす。 「んんんあっ……!」  張り詰めた先端から幹の奥まで一気に刺激されて、思わず腰の周りに甘い痺れが込み上げる。 「んっ……! と、ふたみ、あんまり激しくすると……!」 「激しくすると、どうなるんだ?」 「……出る」 「なにが?」 「だから……」  そうか、そうだよな。  何て説明しよう。 「そうか、何か起こるのか。それは楽しみだ」  ふたみはコツをつかんできたらしく、腰の動きを速めていく。  その度に擦り上げられる俺は、自分でペースを保っていないせいもあってどんどん限界に近づいていく。 「いや、ふたみ、まずいって。このままだと本当になかに……!」 「なかにぃ……?」  とろんとしたふたみの目は、行為に陶酔するかのようで。  彼女が跳ねる度に飛び散る汗。  その度に上気しながら震える胸。 「…………」  その魅惑に言葉が詰まった時には、俺はすでに彼女に征服されている錯覚に陥っていた。  ……それはそれで悪くない、とも。 「ふふ……お主人ちゃん、気持ち良さそうだぁ……な」  嬉しそうにふたみの口許が綻ぶ。  ごくり、と唾を飲み込んだ時、その艶かしい身体に魅了されていた。 「ふふ……」  そしてどことなく魔女めいた妖しい笑みを浮かべると、急に上体を下げ─── 「かぁいい……」  そのしなやかで白い腕が、俺の顔を胸に埋めた。  両の頬を挟み込んだじっとりとした双球が、ふたみの高まりを教えるように熱を伝える。  そのまま、ふたみは腰を動かし続けている。  悪いくせを覚えたかのようなその動きは、いつの間にか上下の単調な浮き沈みから、焦らすように左右に捏ねるものへと変わっていた。  ほどよい熱気とか良い匂いだとか気持ちいいだとかで、軽く天国を垣間見始めた俺もいつの間にか身体から力が抜けていた。  彼女のなすがまま。  彼女の愛撫を受け入れている。  自分の腰の動きに反応し、陶酔していく俺を間近で嬉しそうに見ていたふたみは、 「んん〜〜〜」  堪え切れないとばかりに俺に唇を重ねた。 「んっ、んっ」  甘噛みするような口付けは、次第に吐息も荒く熱を帯び、 「んんっ、ん〜……」  それから、ふたみの舌先が唇を割って侵入してきた。 「ふぅ……ん、ちゅ……んちゅ……ぅん」  俺はもう頭の中が真っ白になっていた。 「えへへ……かぁいい」 「ふた……み……」 「お主人ちゃん……子供みたい……な」  それで思い出した。 「あ、だから、ほんと、もう限界」 「そんなに気持ち良いのかぁ……」  ふたみは心底嬉しそうだ。 「いや、だから、気持ち良いからこそ……もう出そうで……」  この体勢では直前に抜くなんて芸当もできそうにない。  普通の体勢だって、できたかどうか初めてだから怪しいものなのに。 「だからっ……ん、なにっ……が、出るんだ……?」 「……せ」 「せ?」 「精……子」  口に出すとすげー恥ずかしいなこの単語。 「それがぁ……出たらぁ……マズイ……んっ、のか?」 「いやマズイだろ! 子供が──」 「あ」 「え?」 「“コウノトリ”、だなっ?」  あらぬ方向から繋がった!? 「ああ……そうか。そうい……んっ、こと、かぁ……」  ふたみは納得しながらも腰を動かす事を止めない。  擦り付ける動きが完全に俺を絶頂へと導いている。 「い、いいのかっ?」 「当たり前だろ」 「え」 「お主人ちゃんの……なんだから、出して……いいんだ」  ふたみがその潤んだ瞳でじっと俺を見下ろす。 「お主人ちゃんは……?」 「え?」 「どうしたい……?」 「このまま出したい」  考えるよりも先に口から本音が出ていた。 「ふふっ……じゃあ、出そう?」  ふたみの動きがこれまでよりも一層と速まっていく。 「あくっ……! んんんっ……!」  愛おしそうに俺の唇に、頬に、首筋に、耳たぶに口付けしながら、そうする事が俺の言った事をなすのだと本能的に察知したかのように、激しく膣壁で怒張を擦り上げる。  俺の胸に押し付けられた双球の柔らかさが心地よくて、俺の顔の周りをなで回る彼女の愛情が嬉しくて。  満たされた気持ちのまま、腰に広がる甘い痺れが限界を迎えて─── 「ふ、ふたみっ!」 「うっ、うんっ。うんっ。うんうんうんっ」  ──到来を感じ取ったのか、ふたみは何度も何度も頷く。 「あああああああっっ!!」  真っ白な世界の向こう側に、恍惚とした表情のふたみがいた。 「な……んか、出た……」  ほっとしたかのような、どこか残念そうな、その眼差しは。 「……まだ、出てる……」  俺の射精を全身で感じ取っているのだと、伝えていた。 「いっぱい……出るん、だな」 「……あんまり気持ち良かったから」 「ふふっ……そうかぁ……」  やっぱり嬉しそうなふたみが、俺の上で、微笑っていた。 「……たくさん教えてもらったな」 「なんかやらしい響きだな、それ」  いつの間にか形勢が完全に逆転していたが。 「そうなのか」 「そう真顔で返されると、俺の捉え方が下劣だって事が浮き彫りになるな」 「こら」  ふたみが拗ねた表情を浮かべる。 「私の大切な人を貶めるような事を言うな」  怒られた。 「下劣な人は、こんなにたくさん、たいせつな事を教えてはくれない。今日からお主人ちゃんは、私の先生だ」 「先生?」 「うん。布団の中の先生だ」 「それはまた……」 「うん?」  ほんとうに安心しきった顔で小首をかしげるふたみを見ると、言葉が続かなかった。 「……いや。俺はどうも心の修行が足らないらしい」 「?」  首を傾げるふたみを見ると、本当にそう思う。 「……修行か。高みを目指すのはいい事だが、あまり先へは行かないでくれ。  ちょっとだけでいいから、待っていてくれ。  すぐに追いついてみせるから。  今はちょっと……差がありすぎる」 「逆だよ。俺がふたみに追いつかないといけないんだ」 「どうしてそうなる。お主人ちゃんが先生で、私が生徒だぞ?」 「だから……」 「もっともっと頑張るから、ちょっとだけ……待っていてくれ。  きっと、お主人ちゃんに相応しい女になってみせる」  ──こんな娘だから。  俺はなかなか彼女に追いつけない。  ふたみがもっともっと頑張るなら、俺はもっともっともっともっと頑張らないといけない。  俺たちの距離は近いようで遠い。  けれど─── 「お主人ちゃん」 「ん?」 「受け入れてくれて、ありがとう」 「俺の方こそありがとう」 「私たち、こればっかりだな」 「そうだな」  それが幸せだった。 「ん」 「どうした?」 「……急に酢うどんが食べたくなったんだが、これはもしかするとだな」 「いや、多分違う」 「最後まで言ってないんだが」 「なんとなくわかる」 「私の考えなどお見通しか。さすがだ」  そう言ったふたみは、やっぱり嬉しそうに見えた。 〜ラベル『反転』の内容は記述されていません〜  ──幸せで胸がいっぱいになった時。  どうやら人が到達する状態は、大きく分けて二つの傾向のどちらかに分類されるらしい。  一つは、心地よい安心感に満たされて、身体が自然と眠りに入ってしまう人。  それから、逆に興奮してしまってなかなか寝付けない人。  後者が俺だった。  幸せそうに眠りにつくふたみの寝顔を見つめながら、嬉しいくせにどこか落ち着かない俺がいる。  それとも、これは傾向ではなく、段階なのかもしれない。  ふたみの寝顔を見ていたら、そんなふうに思った。  彼女が今、本当に信頼しきって俺の横で眠りについているのを感じる。  俺はといえば、自分なんかの身にこんな幸せが訪れてよいものかと、どこか素直にこの幸福を噛み締められないでいる。 (……馬鹿だな)  そんなふうに考えてしまうのは、俺を受け入れてくれたふたみに対して失礼な事なのに。  眠れなかったのは、この幸せをいつまでも感じていたかったから。  そうする事で、ようやく実感を持てるような気がしたから。  ──まったく。  俺は早くふたみに追いつかないといけない。  俺の身体に回されたふたみの腕を、彼女を起こさないようにそっと退けて──静かに立ち上がった。  襖を抜けて、一歩一歩、足取りを確かめるように階段を降りていく。 “自分の立ち位置”を間違えないように。  ──何故なら。  俺が眠れなかった理由の一番大きなものは。  この娘を守ると己に誓ったからに他ならない。 「いるんだろ? 出てこいよ」  利いた夜目でこそ、波に似た大気の揺れを見分ける事ができた。  何もないはずの空間に、目線の低い輪郭が描かれる。 「…………」  ──彼女はずっとここにいた。 「おかえり、メメ」 「……まだ言うの?」 「何度でも言うさ」 「…………」 「メメの呆れた顔も見慣れてきたな」 「……随分と怖い顔をしてるね」 「お前にじゃない」 「え?」 「お前を警戒する理由なんかどこにもない。  俺が昂ぶっているのはな──お前以外にもう一人いるからだ」  ──それは、幕が下りる事から始まった。 「うぃーす」  整わぬ水晶で編み上げられた幕が──下りた舞台に立っていたのは、眼帯の闖入者。  腰に不揃いの双刀を帯びて。  その男は、ただそこに居るだけで剣呑を振り撒いていた。 (こいつは……!)  この街で最も高い山の頂に構えられた居にて、その姿を見た覚えがあった。  確か─── 「き……菊乃丸? どういう事? なんであなたがここに──」 「手順が狂ったってか? まだるっこしい事してんじゃねえよ。こいつだろ? 例のは。さっさと連れてこうぜ」 「……この件は愛に一任されているの。あなたに口を挟む権利なんかないわ」 「わかってるよ。俺は黙ってそいつを連れてくだけだ。何を挟むつもりもねェ」 「菊乃丸!!」 「あんたも……雲戌亥の……」 「ああ、俺は申子。申子菊乃丸。異国の地から遠路はるばるようこそ」  ──そいつは俺を、“異邦者”と呼んだ。 「で、正しく『雲戌亥』と認識できてるアナタサマは、訳知り顔のタツミのご子息サマって事でOK?」  有識結界の外からやってきた俺を、越えられるはずのない壁を乗り越えてやってきた俺を、城壁を乗り越えて侵入した異国の者だと呼んだんだ。  だから、そいつはこう言ったという事だ。 「ど偉いババァがアナタサマのお越しを待っていやがるんで、さっさといらして下さりやがらねーでしょうか?」  ──吾らが王国へようこそ、と。  そして。  吾らが王がお呼びだと─── 「菊乃丸!!」 「寅のお嬢ちゃんよ、おめえさ……迷ってんじゃねえの?」 「え!?」 「ははっ! すげえ反応だな、おい。訊かれるまでもなく、誰より自分が問いたかった……ってか?」 「っ……」 「あの寅の子がよ──すげえな、おい。タツミのご子息サマは寅を飼い慣らしたのかよ」  その足取りは気だるげで。  そいつは笑いながら、ゆっくりと俺に近付いてくる。 「ま、いいや。とりあえず、ご子息サマにはゴソクロウいただくって事で一つ頼んますわ」 「……どこへ連れて行こうっていうんだ?」 「北西の山頂にそびえる王城へと」  冗談じゃない。  どっちが本来の宗家だとか──そんな事は関係ない。  ただ。 「俺がどうするかは、俺が自分の意思で決める。お前の言いなりになるのはご免だ」 「ま、道理だわな」  意外な事に、そいつは俺の言葉に頷いた。 「それでいい。テメェはテメェのやりたいようにしろ。  だから、俺も俺の道理を通させてもらう。俺の意志で決めた事をやらせてもらう。  双方の目的が搗ち合えば──どっちかが従うしかねェ。地べたを舐めた方が引きずられていくしかねェ。  それだけさ、それだけでいい、以上も以下も以外もねェ。それが一番面倒のないやり方だ」 「……雲戌亥家はいったい何を企んでいるんだ?」 「そいつは自分の目で確かめな。自分の耳で聴いて自分で判断しな。他人に言われてはいそうですかじゃあ、ちっと情けねえってもんだ」  ──兄は都会へ行ってしまった。  自分はいつも兄と比べられていた。  兄は御家の自慢であり、自分にとっての誇りだった。  けれども兄は都会へ行ってしまった。  それからしばらくして、弟は一口の刀を手に入れた。  兄ですら持っていない、自分だけの業物。  いつしか弟は刀の切れ味を試したくなった。  刀は恐ろしい切れ味だった。  そのあまりの鋭さに、周りの皆が恐れかしずき、自分に従う者さえも現れた。  それは感性が鋭い兄が持っていないもの。  だから弟は。  その刀で、兄を殺す事にした。 「巽が邪魔になったのか?」 「あ?」 「土地を牛耳り、壁を敷いて国を築き、王冠を手にした今となっては巽が邪魔か!!」 「あー……なるほど。こりゃ派手に誤解してる」 「誤解?」 「つっても、別にあんたのせいじゃないやな。ただ物の見事にハマッただけだ。間抜けであっても馬鹿とは言われたくねえよな。  ま、自分の家の歴史なんて案外知らねーもんさ」 「巽の歴史……?」 「列島に名を轟かせるタツミサマ。世界の芸術界に覇を唱える生粋の創造一家。新作は常に世間の注目を集め──か。じゃあ、その前は?」 「その……前?」 「お前の家は芸術で財を成したのか? 違うだろ。芸術一家として知られる前から、お前の家は資産家だったんじゃねーのか?」 「…………」 「じゃあ、その金は何処からやってきた?  戦争のどさくさで成り上がったのか? 子々孫々までの貯えを残せるだけの事業家? 官吏? 軍人? 政治家?  そんなものがないとしたら? それでも、いつだって、どんな状況だって、お前の家が潤っていたのは?  毎日毎日汗水流して働かなきゃ暮らしていくのもままならねえ、ローンなんて都合のいい言葉がなきゃ家も建てられねえ“自称中流”どもが世の中に溢れ出した時、お前の家が一線を画していられたのは?  ──そもそも、芸術家としての成功を陰で支えていたのは?」  巽の去ったこの地に───  残された雲戌亥は。  俺が想像していたよりも遥かに巨大な力をつけていた。  分家より更に分かたれた家々。  それはもはや傘下と呼ぶに等しい。  ──おかしい。  そう、俺は以前にも「おかしい」と感じた。  じゃあ、巽はいつこの地を去ったんだ──? 「まさ……か……」 「雲戌亥はな、お前たちへの全面的な支援を絶やさずに──それこそ、宗家さながらにもてはやし続けてきたんだ。  長い長い歴史の中で、子孫たちが“自分たちは分家”だと忘れてしまうまでに。“自分たちこそが宗家”だと勘違いしてしまうまでに」  じゃあ……あの時、白爺さんが言っていたのは……。 「そういう事さ、ご子息サマよ。勘違いを始めた世代の末裔であるお前が知らなくても無理はねェ」  分家は巽の方?  巽の分家たる雲戌亥が、この地で勢力を築いた──のではなく。  この地の豪族、支配者たる雲戌亥から派生したのが巽。  戌亥とは戌の西北西と亥の北北西との間の方角、即ち北西を意味する。  巽とは、十二支の辰と巳──辰巳。  つまり、戌亥の真逆の東南だ。  辰巳があったから戌亥が生まれたわけではなく、戌亥に住んでいた彼らから派生したからこそ辰巳。 「何の……為に……」 「あん?」 「何の為に、そんな事をする必要があったんだ!」 「ちっと考えりゃわかんだろ。お前たち一族が分家で、俺らが担ぐ御輿が宗家なら──どうしてお前たちは外で暮らしていた? どうして外で暮らす事を許された?」  ──どうして?  あの時、メメは「逃げた」と言っていた。 「逃げたあなたたちだから?」と。 「逃げたんじゃないのか? 分家であっても血縁者である事は変わりがない。結界は越えられる」 「そういう事じゃねえよ。“逃げた”ってのはこの街からじゃなくてよ、テメェの使命からって事さ」 「使命……?」 「考えてもみろ。俺の申子も、こいつの未寅も、後から組み込まれたものなんだよ。  宗家から派生した、いわゆる“分家”ってのはタツミただ一つ。  御家分けをしたとはいえ、本来なら由緒正しい雲戌亥の血族であるはずのタツミが“裏切り者”扱いされる理由ってのは何だ?」 「…………」 「お前たち一族がこの街から出ていく事を許されたのには、それなりの理由があったって事さ」 「──さて」  ちりっ……と。  眼前で火花が炸裂した。 「がはっ……!」  そいつは確かに、一足で届くような距離にはいなかったはずだった。  だが、そいつの拳が俺の腹に深く食い込んでいる。 「無理を通して道理を引っ込めさせてもらうぜ。俺は他にやり方を知らねえんでな」  身体はくの字に折れ曲がっていた。  もろに鳩尾に入った──込み上げる胃液が口腔に酸を振り撒く。 「お前は確かめたい事がある。俺も確かめたい事がある。なら、それでいいじゃねえか」  だが、菊乃丸は吐く事すら許してはくれなかった。  無造作に俺の髪の毛をつかんだ腕が、反射的に折れ曲がった身体を無理やり反対側へと引き剥がす。 「で──こんなもんなのか?」 「かっ……は……」  臓腑から押し出されたものが出口へと到達できず、僅かに口の端から溢れ出す。 「マジでこんなもんなのかよ?」  吐きたくても吐けない───  海老反りになった身体の中央。  水月に。  再び、容赦なくブーツの先端が食い込んだ。 「げぼっ……!」  もはや口から発せられているのは声ですらなく、逃げ場もなく押し出された二酸化炭素が音になっているに過ぎなかった。  吐きたい。  胃の中身をぶちまけたい。  だが、前かがみほどに後ろへと曲がらない身体は、構造上の問題として嘔吐を許さない。  ──瞬間。  肘鉄が俺の頬に食い込んでいた。  俺は転がるように地面に叩きつけられた。  その衝撃はハンマーで殴られたかのような一撃には違いなかったが、ある意味において、俺はようやく解放された。 「げほっ! げぼっ! おっ……ええ……!」  胃の中身をすべてぶちまけた時、見えるものは涙で滲んだ視界に広がる床と汚物。  ──だから。  横っ面から繰り出された蹴りなど見えるはずもない。 「ぶっ!!」  鉄板の仕込まれたブーツの先端が、たった今肘が食い込んでいた場所へと正確に到達する。  脳が震盪した事で意識を失いかけていたのか、それとも白目を剥いていたのか。  ぐるん───  視界。  が、反  転  倒れこむ許可すら与えられず、次に衝撃が走ったのは下からだった。  逆の足で顎に蹴りを入れられたのだろう───  ──多分、強制的に顎を押し上げられた事で上の歯と下の歯が激突した音。  もう、自分がどちらを向いているのかもわからなかった。 「あんまふざけねえでもらいたいんだが?」  自分の意思で動いているわけでもないのに視界の景色が流れているのは、俺が吹き飛んでいるからか、それとも目を回しているからか。  気付けば仰向けで床に倒れていた。  運悪く噛んだ舌の先端から、口中に血が流れ出ていた。 「げ……あ……あぐっ……ぅ」  焦点が定まらない。  気持ち悪い。  きもちわるい。  キモチワルイ。  胃の中身をぶちまけても吐き気が治まらない。  目がぐるぐる  あれ  ここ、どこ 「おおえぇ……! ぇぇ……!」  嘔吐を繰り返すも、口の中からはもう何も出てこない。  ただ口腔に広がった胃液が歯の隙間から零れ落ちていくだけだ。 「ホントにこんなんなのかよ。今回戻された奴は」 「もど……ざれ……?」  派手に舌が切れたせいか、上手く喋れない。  俺はこの菊乃丸と呼ばれた男の台詞に反応したわけじゃない。  何故なら、こいつが何を喋っているのか理解できない。  理解できていない。  俺は揺れ動く視界の中に混じって届く音に反応して、鸚鵡返しをしただけだ。 「っざけんじゃねェ!!」  なに  あたま  いたい  こいつ  かかと  おとした  ひどい 「ちったぁ期待してたのによ。弱えのはともかくとして、もちっと骨太だと思ってたぜ。こんなんじゃ──」  おと  うるさい 「チッ!」  つば  はいた  きたない  ひかり  これ  わかった  かたな  ぬいた 「オラどうした。噛み付けよ」  ──ようやく目が多少なりともまともに機能を取り戻した時。  鋭い切っ先に宿る鈍い光が、俺を脅迫していた。  刀の先端が、脅しつけるように俺の顎を持ち上げる。  だが、思考はすぐさま薄弱する。  ゆらり、と、視界が歪んで。  考えが上手くまとまらなくて。 「ふた、みを、どうず、る、つもり、だ」  自分でも何を喋っているのかわからなくて。 「テメェの知ったこっちゃねえよ」  ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………  ……ふたみだけは。  ──わかってる。  居間に追い込まれた時点で不利だったんだ。  存分に振るえる環境を提供してしまった。 (……廊下)  相手の狙いが俺にあるなら、俺自身が移動すれば誘い込める。  定まらず揺れ動く視界に覚える嘔吐の感触を押し込めて、俺は身を横へと転がした。 「あ?」  唐突に起こった奇抜な行動を目の当たりにして、菊乃丸は一瞬だけだが油断を見せた。  ぼろ雑巾の如き有り様で床に伏した状態の男に、反撃の意思が持てるとは思わなかったのだろう──渾身の力を込めて立ち上がる刹那は、この機をおいて他に非ず。  動かなかったものが突然動き出した時、相手の取る行動は警戒。  ──咄嗟に刀を引く。  意識とは関係なく、反応として身を守ろうとするのは自然な動作だ。  動く瞬間を今か今かと神経を鋭敏にして待ち構えていたのならともかく、相手を徹底的に痛めつけた感触があり、例えどう動こうが完全に対応できるだけの自負を持ち合わせていれば、今この瞬間“油断”と──そう呼んでも差し支えのない状態に置かれていたはずだ。  ──じゃあ今この瞬間、刀の横を擦り抜けて体当たりを試みれば、相手が取る対応は刀で薙ぎ払う事だろうか?  菊乃丸が取った対応は蹴りつける事だった。  これは賭け。  そして俺は、ひとまずこの賭けには勝ったようだ。  襖を破って廊下へ転がった俺に、菊乃丸が不敵な笑みを浮かべる。 「手癖の悪い野郎だ」  俺の手には、吹き飛ばされる瞬間に手を伸ばし──つかんだ、一口の刀。  眼前の男が浮かべる笑みの意味を、俺は理解していた。  奪ったところで何ができるのか、と。  如何なる手段を取ろうとも完全に制する事ができるという自信。  これを俺は、“二度目の油断”と呼ぶ。  ──両の手に閃く剣光。  腰には二口の鞘。  その内の一つを俺が持っているのなら、何故この男の手に二つあるのか───  ……こいつは一つの鞘から二口の刀を抜いた。  先端の柄。  末端の鞘。  前と後ろから引き抜く事で成す一対の刀。  だが、その長さは同一。  ならばこいつの得物は───  刀を自由に振るえるほどの隙間はない。  けれど振り下ろす事と振り上げる事だけはできる。  ──それで充分。  一矢で充足。  付け根。  刀の付け根。  その刀の弱点はここだ。 「──は?」  覚醒した脳が緩やかに磨耗していく。 「折った……ってのか? 俺が? お前に? 折られたのか?」  急激な集中が逆に拡散を高めてしまったかのように、自分でもありありとわかるまでに鈍化していく。  ──待ってくれ、まだ早い。  必死で追いすがるも、そもそもどこまでが自分の意思であるのか境界線が引けない為に願いは力を持たなかった。 「おいおいおい。おいおいおいおい。外の世界で教科書代わりに読まれてるマンガじゃねえんだからよ、そう簡単に刀が折れてたまるかよ。  いくらこの刀の刃が薄く──」  言いかけた時、菊乃丸の瞳に熱が宿った。 「……テメェ。いったい、何を視てやがるんだ?」 「おえの……こどは、いい。  そんなこどより……おまえりゃは、ふたみをどうずるきだ」 「ちゃんと喋れよ、色男」 「こだえろ!!」  もう──なんだか、よくわからなくて。  ただ、一つ。  たった一つだけ譲れないものだけは頭から離れなかった事だけは覚えている。  ぞくり。 「はっ……」  ──込み上げた悪寒に忠実であったのは、菊乃丸の人生における最大の美点であっただろう。  でなければ、その美徳はこの世で示す最後のものとなっていた。  まともに躱す価値もない素人の太刀筋に対し、彼は必要以上に跳んでみせた。  受け止めようとも受け流そうとも思わず。  己自身の反撃の余地などないまでに距離を開いて。 「なん……だと」  ──“斬った”。  力任せに粉砕したのでも刃を削って裂いたのでもなく。  焦り。  菊乃丸は焦燥という感情が湧き上がってくるのを確かに感じていた。  いかなる相手であれ全力で挑む、いわゆる“獅子の理屈”は単なる心構えの問題でしかない。  相手が素人だと実際に対峙した上で身体が判断した時、それは本人の意識の是非を問わず、自然と緊張の緩和を生じるものだ。  緊張は限られた時間内であるからこそ、爆発的に身体の能力を高め精神をより鋭敏なものとする。  だからこそ“油断”という言葉の存在する余地がある。  ──虚を突かれたのだ。  意識的にであれ、無意識にであれ、今の今までただの素人だと思っていた者が、唐突に達人の領域まで足を踏み入れた時。  相対する者に生じる動揺は、初めから達人とわかって挑みかかる時の比ではない。  それが菊乃丸の精神修行の甘さと言ってしまえばそれまでだが、一度でも弛緩した心身に緊張を走らせるのは達人とて容易ではない。  外部からの刺激によって強制的に引き起こされた緊張は、この場合における緊張ではない──それは焦燥に程近い。  だから菊乃丸は焦燥という感情が湧き上がってくるのを確かに感じていた。 (──こいつ)  喉許に込み上げた声は、冷や汗として流れてしまったのか。  湧き上がる疑問はただ一つ。 (飛び越したのか?) “斬る”という行為には、熟練が必要とされる。  ただ刀を持っただけの素人ならば、斬る事は叶わない──刀身を傷つけるばかりか、己自身もまた傷つけるのが落ちである。  刃を持つ武器ならばこそ刃で負傷する人体を破壊する事は可能。  だが、“斬る”という事はまったく別の事柄。  故に剣の道の熟練者とて、だから斬れるというわけでもない。  剣道の有段者であっても真剣を持つのが初めてであれば、これを使いこなすは容易ではない。  同じ刀を握っても、折れるか兜を断つかは技量が分ける。  ──そのすべてを、目の前のこの男は。 (間違ェねえ……こいつ、飛び越しやがった)  修練の果てに行き着く領域へ。  今、目の前のこの男を“達人”と呼ぶ事に何の遜色もない。 「──ハ」  口許に浮かんだのは。 「ハハハハハッ!!」  込み上げたのは、馬鹿らしさ。 「それでいい。それでいいんだよ。腕の一本も喰い千切ってくれなきゃ意味がねェ。わざわざ確かめに来た甲斐がねえってもんだ」  本人に自覚はないが、口の軽さがこの男の欠点であった。 「う……」  何が……起きた。  まだ、思考が上手くまとまらない。  口の中が酸っぱいな。  あれ? なんか腕が重……これ、日本刀じゃないか?  どうして俺は刀なんか握ってるんだ?  思い出せない。  ……思い出せないというのは少し違うな。  記憶が断片過ぎて、拾い集める事ができないというか……よくよく考えると部分部分は思い出せるんだけど、繋ぎ合わせて一連の流れに組み立てられるほど意識がはっきりとしていない。  目の前に眼帯をした不躾な男がいるのはわかる。  なんだ……?  こいつ、警戒してる……? 「……始まりは遠い昔」  雰囲気が先程までとはまるで違う。  飄々とした態度は変わらないままだが──目つきが違う。 「この街が一匹の化物を抱え込んじまった時。飽くほどの血溜まりに愉悦していた化物が、この土地に呪いを放った」  鋭き眼光は威勢を宿し。  四肢より立ち昇る蒸気に似た揺らめきこそが闘気。  触れれば切れる。  近付けば吹き飛ばされる。  目を合わせた瞬間、すでに相手に呑まれている───  ──恐らくは。  こいつが菊乃丸なんだ。  雲戌亥の眷族の一角を為す、申子の兵。 「呪いに耐えちまった者たちがいる。呪いのせいで変化しちまった者たちがいる。  そいつらはいつだって、ただ黙って葬儀を行ってきた。どれほど虐げられようと、いつだって死者の尊厳を守り続けてきた」  人々は、『彼』を災いの温床と決め付けながら、追い払う事ができなかった。  殺しきる事ができなかった。  その言葉がいったい何を指しているのかはわからない。 『彼』──桜守姫の始祖がいったい何者であったのかなど。  けれど。  それに唯一対抗し得る手段を有していたのは、雲戌亥──その前身たる浄任だけだった。  その“手段”とは何だ?  ──いや、有していたんじゃない。  有したのは、と語っていた。 「そのままなんだよ、ご子息サマ。話はとても簡単だ」 (……なんだ?)  大気に走る微かな揺らぎ。  みしり、と僅かな異音を発して、姿のない侵入者が息を殺しているかのような──形のない何かがにじり寄ってくるかのような、実体のない感覚。 (なんだ……? この熱さは)  暖かい、とは違う。  差し出した指先を咄嗟に引っ込めてしまうかのような、肌を焼く熱を感じる。 「……何をした?」  いや─── 「何をしている?」  その現象は常軌を逸していた。  菊乃丸の足元から流れ出た異様な物体。  水を零したようにみるみる広がっていくそれは、よくよく注意して見てみれば水飴のような粘液で。 (ガ……ラス?)  靴底を乗せる床には、その侵入者がノック代わりに粉砕したガラスの欠片が大小織り交ぜて散乱していたはずだ。 (じゃあ、あれは……)  あり得ない。  などと言って、我が目が映し出す光景を否定する事に何の意味があっただろう。  これが雲戌亥。  火葬を取り仕切ってきた一族が有した力なのか!? 「お前……! この家を燃やすつもりか!?」  これは──炎!?  不可視の炎か!? 「的外れな心配はいらねえよ。俺らにとって、炎ってのは愛でるものであって傷を負わされるもんじゃねえ」 「────!」  ──あの時。  メメの家に残ったままだった透舞さんを助けに行った時、ふたみはまるで無傷で─── 「愛でるものってのはよ、従えてるって事よ。下僕が原因で起こった一切は、主人の身体に何ら爪痕を残さねえ」  ──大気が震えたのは、菊乃丸の左手の刀が振るわれたのだと。  軌跡が過ぎ去った後に気付いた。  まるで炎の刀。  見えざる焔がその身に宿ったかのような刃は、反射的に差し出した俺の刀を抉り取った。 「っ……!」  僅かに浅かった。  にもかかわらず。  俺が持つ刀は欠けたのでも削れたのでもなく、触れ合った部分を持っていかれていた。  その周りはまるで溶かされたかのように液状の泡を吐いていた。 「なっ……に」  揺れ動くは群れをなす剣の舞。  剣光は影を潜めたかのようにまるで視覚できず。  自由を奪ったはずの戦地で、無双の剣豪の得物は縦横無尽に領土を渡る。  狭さなど問題ではなかった。  奴が刀を横に薙ぎ払えば、刀の軌跡が通るよりも僅かに早く炎が道を開く。  燃え広がり焼き尽くす焔という概念はそこになく。  鋭利に研ぎ澄まされた、まさしく刃の如き火炎がそこにあった。  鋼鉄の閃光を先導するかのように寄り添った炎熱の焼刃。  二つの一つは折れ、ただ一口と化していた眼前の武芸者の振るう刀は──折り重なるように合わさった双刀。 「ようやく面白くなってきやがった。今のお前は戦うに値する」  がくん、と膝が外れたかのように体勢が崩れる。  自分の行動に身体が耐えかね悲鳴を上げるかのように。 「お試し期間は終了だ。さあ、遊ぼうぜご子息サマ。持て成してやるよ」 「くっ……」  よろめく身体に鞭打っても、足腰はまともに支えの役目を果たさない。 「契約の対象でありながらぶっちぎった──それだけでも前例がねえってのに、こっちの方も達者とはよ。お前は納得いくまで確認するだけの価値があるぜ」 「契約……?」 「百年に一度、お前たちの誰かがこの街に戻される──そいつが契約だ。宗家と分家の間に交わされた、揺るぎなき契約よ」  上手く思考がまとまらない。  百年に一度……百年といえば。 「照陽菜の……度に……?」  脳裏をかすめるのは、かつて聞いた“世代交代”という言葉。 「……うんざりだ。また照陽菜かよ……」 「あん?」 「あいつが……どれだけ真っ直ぐにあの空を見上げていたと思ってるんだ……!」  ──あの娘が積み重ねてきたもの。  みんなみんな、踏み躙られていく。 「お前ら、くだらねえ……! 本当にくだらねえよ! なにやってんだお前ら!?」 「照陽菜の事か?」 「全部だよ! 何もかもだ! 必死になってる人を嘲笑うような真似をする屑どもだ!!」 「ああ……」 「“ああ”じゃねえよ! この馬鹿野郎! この街の星空を雲で隠したのはお前たちだろうが!!」 「な……」  ──おい。  冗談……だろ? 「なに……それ」  ふたみ。  ふたみに……聞かれたのか? 「今……なんて……」 「…………」 「お主人ちゃん……」  先程まで大気を弾くまでに迸らせていた殺気もどこへやら、菊乃丸は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。  それはそうだろう、雲戌亥家にとってはこれまでふたみに隠し続けてきた事柄だ。  その理由はまだ不透明だが……逆に考えれば、こいつは雲戌亥の眷族である以上、彼女に対してその事を隠さなければならない。  ──この事に関して、こいつは邪魔をしない。  俺が白を切り通してしまえばそれで─── 「……ま、それならそれで。しゃあねえわな」  菊乃丸はやれやれといった様子で頭を掻き、 「そいつが言った通りスよ、お嬢」  と言った。 「な……!」  ──馬鹿な。 (……言っても構わない、そういう事か?)  事態はそこまできているのだと?  だとすれば───  こいつがこの場に現われた本当の理由は、俺ではなく─── 「やめろ」 「この街の空が晴れないのは、晴れないようにしていた奴がいるって事っス」 「やめろ! やめてくれ!!」 「……そうか」  ふたみは沈痛な面持ちを浮かべ─── 「お主人ちゃんがずっと悩んでいたのは、その事……だったのか」 「なるほど、そう繋がるワケで。流石はお嬢、聡明っスね」 「違う! あいつが言ってる事はデタラメだ!」 「……ごめんな、お主人ちゃん」 「違う!!」  なんて事を───  俺はなんて事をしてしまったんだ!! 「菊乃丸」 「はい?」  ──早朝の静まり返った廊下に、乾いた音が響き渡った。 「……お嬢らしくないっスね」 「お主人ちゃんをやったな」 「は?」 「男同士なんだ。譲れない事情がかち合えば、殴り合いの喧嘩もするだろう。それは女の私が口を挟む事じゃない。  でもな、オマエは歴史ある申子の者として剣術を修めた、一廉の武術家だろう。それが得物を抜いて襲いかかったのか。  いつからオマエの刀は喧嘩の道具に成り下がった」 「…………」 「お主人ちゃんに謝れ」 「……なるほど、お嬢らしい」  ばつの悪そうな顔をして、菊乃丸は苦笑を浮かべた。 「でもね、お嬢。俺が頭ァ下げなきゃいけない理由なんかないんスよ。結果論だろうがなんだろうが、そいつは──ま、それを差し引いたとしてもね、俺は得物が刀だからこそ抜かなきゃならなかったんだ。玄人とか素人とか関係ねえよ」 「見損なったぞ、菊乃丸」 「どうぞご自由に」  ふたみは唇をきゅっと結び、それから俺へと向き直った。 「お主人ちゃん……」 「……ふたみ」 「すまない」  俺の事は今はいい。  そんな事はどうでもいい。 「待ってくれ、ふたみ。話を聞くんだ」 「…………」 「ふた……」  ──その目が何を語っていたのか、俺は察してしまう。 「確かめなきゃいけない事が、できた」  あえて彼女がそう言葉にしたのは、彼女もまた俺が何を言わんとしているのか察していたから。 「…………」 「心配するな。確かめてくるだけだ」 「っ……」  ああ畜生。  腹が痛い。  視界もまだふらふらするし、口の中は鉄臭く、手足は悲鳴を上げている。 「大丈夫。私は必ず帰ってくる。お主人ちゃんの傍へと戻ってくる。だって私の居場所は──」 「──ふたみ」  俺は彼女の両肩をつかみ、 「俺は、俺たちの家で待ってるから」  その目を見据えて、そう告げた。 「ありがとう」  ──まだ、倒れるなよ。  この一瞬だけ役者の優となれ。 「んじゃ、お嬢……」 「ああ」  俺は“雲戌亥ふたみ”を見てきたんだ。  耐え抜け。  笑って見送れ。 「行ってこい」 「はい」  去っていく二人の背中が見えなくなるのを確認して。  ──俺は前のめりに倒れた。 〜ラベル『たがいおもうひび』の内容は記述されていません〜 「う……」  朧に揺蕩う水面から波紋が消え去っていくかのように、ゆっくりと焦点が合わさっていく。 「気がついた?」  正常に機能を始めた視界を埋め尽くしたのは、見知った少女の愛らしい面持ち。 「メメ……」  上半身を起こした瞬間に走った激痛は、瞬時に全身を駆け抜けた。 「っ……う」  ここは……俺の部屋か。  所在を理解した途端、自分が置かれている状況を理解する。 (そうか……俺、あの後で倒れて……)  四肢に走る痛みが、眠りにつく前の出来事を思い出させてくれた。  ……我ながら、無茶したもんだ。 (ふたみ……)  ……頑張れよ。 「メメ」 「……なに?」 「どうして俺を助けてくれたんだ?」 「……別に助けてなんかいないよ」 「俺は確か廊下で倒れたはずだが、ここは何処だ?」 「…………」 「ご丁寧に布団の中だ」 「世の中は不思議な事だらけだね」 「俺が何より気になるのはな、目が覚めたとき傍にいてくれた女の子の目の下に、くまがあった事だ」 「……何が言いたいの」 「ありがとう」 「ばっかみたい」 「何でもいいよ。ありがとな」 「……なんでそんなふうに言えるかな」 「仲間に助けられて礼も言えなくなったらお終いだよ」 「…………」  ちょっと話すだけでも身体中が悲鳴を上げる。  あちこちに負った打撲傷が特に酷い。  打撲ってのは、負った瞬間よりも時間が経ってからの方が痛みを如実に実感するものだ。  負った瞬間は精神が昂揚してるから痛み自体には割りとすぐに慣れてしまう──というより、身体の防御作用としてその痛みに耐えられるだけの精神状態に持っていかれているが、睡眠などを取って落ち着いてしまうと痛みは鈍痛として絶え間ない波を送り続けてくる。  しかも腫れて熱まで持ち始めている。 (あの野郎……随分と派手にやってくれやがって)  妙に熱いのはそのせいか。  耐えられないほどじゃないが──意識が朦朧としてくるのは、いかんせんどうともしがたい。  腫れた箇所を擦ると、掌に広がる熱と共にあの男の凶暴さがじんわりと腹の底から浮かび上がってきた。 「……メメ。一つ訊いていいか」 「なに?」 「菊乃丸……とか言ったか。あいつもメメと同じで、雲戌亥の眷族なんだよな?」 「そうだよ。雲戌亥家をご宗家と仰ぐ守護四家の一つ、『申子』の菊乃丸」 「訊きたい事は一つだ。あいつがふたみに乱暴な真似をするって事はないか?」  今更──という気もしないではなかったけれど、それでも確認せずにはいられなかった。 「それはあり得ないよ。あいつはご当主様の犬だから……命令でもない限り、絶対にあり得ない。むしろ命懸けで守るよ」 「そうか。よかった」  僅かな安心を感じたのと引き換えだったのだろうか、メメの言葉が引っかかった。  ……命令でもない限り。 「雲戌亥家の……当主ってのは……」 「ご宗家に行った時に謁見したんじゃないの?」 「ふたみの祖母さん……だよな」  信じられない──そんな言葉で括ってしまうのは簡単だ。  確かに、あの優しそうなお婆さんと、唯井から雲戌亥へと認識が移ったと共に俺の中に芽生えた炎の処刑人の印象は容易には結びつかない。  けれど、俺が信じる信じないはまるで関係がない。  これは事実だ。  あの婆さんこそが空明市を有識結界で封じ込め、領土と化したこの街を支配し続けてきた雲戌亥家の──現当主。  この街の王。 「…………」  今、俺の身の回りで起こっているすべての事は、あの婆さんの企て……なのだろうか。  そう考える事にもまた抵抗を感じている俺がいた。 「お嬢様が心配?」 「当たり前だろ」 「……そう。じゃあ、どうして行かせたの?」  そうだ。俺はわかっていたはずだ。  雲戌亥家は何か途方もない事を企てている。  そして、それはすでに──いや、とうの昔に始まっていたんだ。  そこに、なんらかの形でふたみが関わっている───  ……本人の与り知らぬところで。 「ふたみには確認しなきゃいけない事があった。自分の目で見、そして自分の耳で聴かなきゃならない事があるんだ」  ──彼女なりに確かめねばならない事。 「なのに心配してるんだ?」 「それとこれとは話が別だろ」  不安がないといえば嘘になる。  けれど、俺はふたみという少女を知っている。  彼女はいつだって、真っ直ぐにあの雲と向き合っていた。  その雲こそ自分の家が生み出したものだと知ってしまったら……誰だって。  いや、ふたみなら。  ふたみだからこそ──自分で確認せずにはいられなかったはずだ。 「メメこそどうなんだよ」 「なにが?」 「──いったい何に反発してるんだ?」 「え?」 「これは勘だ。考えたんじゃない──勘なんだよ。  俺には、メメが嘘をついているようには見えないから」 「何を言ってるのかわからないよ」 「日本語が不自由な世代らしいからな」 「メメは自分の事を使者だと言った。唯井家の──雲戌亥家の使者だと」 「言ったね」 「悪いがそれは嘘だ」 「…………」 「雲戌亥家は俺に真意を伝える必要なんかないんだよ。  俺は巽家の代表としてこの街へ来た──連中が巽をどうしようと考えているのかは知らない。  ただ、理解を求めてなんかいないって事ははっきりしてる。  雲戌亥家にとって巽家なんて微々たる存在なんだ。歯車の一つでしかない。  加えて、雲戌亥家の望み通り、巽家はすでに人を一人寄越している。  いまさら使者を立てる理由なんかどこにもないんだ。  だからメメは、嘘をついてなんかいない」 「……もう少し頭の中を整理してから話したら?」 「整理してるさ。お前は雲戌亥側の人間なんだよ」 「そうよ」 「けど俺には、メメはふたみの味方だとしか思えないんだ」 「…………」 「そんな呆れた顔するなよ。わかってるさ。宗家の味方という意味ではふたみの味方には違いない、けれど個人的な味方かというとそれは違う、だろ?」 「よくわかってるじゃない」 「だからこれは勘なんだ。勘ってのは直感で判断した物事だ。考えて出した答えじゃない。  俺は──この家で一緒に暮らしたメメを信じているから。  だから、これは勘なんだ」 「…………」 「きっと、ふたみの為だ。メメは自分の意思で、俺に教えてくれたんだ。  その為に、自分から使者の役割を演じた。命じられたんじゃない」 「…………」 「違うか? なんて訊かない。だってメメは嘘をついていないんだから」  メメの表情に陰りが差した。  きっとそんな顔をするだろうって思ってた。 「エドは……」  続く言葉は、きっとメメの中にはない言葉。  恐らくは自身に対する問いかけに等しい。 「愛がご宗家のやり方に反発してるって言いたいの?」 「…………」 「……覚えてますか?  昔、いたずらをして、ばあさまを怒らせてしまった事がありました」 「…………」 「あの時も、こうしてここに閉じ込められましたね」 「…………」 「……ばあさま」  ふたみの声に含まれていた陰りに、格子を隔てた向こう側の住人は気付いたであろうか。 「本当……なんですね? この雲戌亥の家が……」 「…………」 「黙っていてもわかりますよ。私、お婆ちゃん子ですから」 「…………」  ……初めは、言われた通りにしていただけだった。  やがてこの街を訪れる、タツミの人間──それが自分の夫になる。  ずっとそう言われ続けてきたから、それは自分の中で当たり前の事となっていた。  それがすでに決められた事ならば、いずれ再会する婿の為に自分にできる事は、嫁として恥ずかしくないだけの器量を身につける事だけだった。  そう悟った時から、ふたみの花嫁修業が始まった。  そう悟れてしまうほどに聡明だった事が、  素直にそう思えてしまうほどに純真だった事が、  なによりそう信じてしまえるほどに真っ直ぐな心根だった事が、  今日のふたみという少女を形作った。  それは、彼女に生まれて初めて芽生えた“自分の価値”だったのだから。  雲戌亥家の人間でありながら、何の力も持たずに生まれた自分。  あって当たり前のものがない自分。  できて当たり前の事ができない自分。  車椅子での生活を余儀なくされてきた彼女にとって、それはどんなに眩しく輝いていただろうか。  ──では、“嫁として恥ずかしくないだけの器量”とは何か。  ふたみの問いは、まずそこからだった。  子供の価値観とは、まずその家の在り方──すなわち在り方を為す家族から生じるものであるが、祖母が一家の当主であり、母を幼い頃に失っていた彼女にとって、“嫁のするべき事”というのは普段目にする機会のないものであった。  例え祖母がその役になく、母が存命であったとしても、彼女が生を受けた家はまごうことなき名家中の名家である。  一般でいうところの“嫁の仕事”を目にする機会があったかどうか。  そこで、学校で訊いてみる事にした。  自分が何をすればいいのかわからないのでは、何を覚えればいいのかもわからない。  ──何人かの学友に尋ねた結果、どうやら“家事”というものをするらしい。  では家事とは何かというと、“暮らしを支える”事らしい。  その意味はふたみにとってちんぷんかんぷんであったのだが、よくよく話を聴いてみると、炊事、洗濯、掃除といったものがそのおもだった内容だと理解した。  これに育児が含まれていないのは、彼女がこれを尋ねたのが小学校の時であり、まだまだ手のかかる世代とはいえ赤子の世話というほどわかりやすい育児ではなかった事、また尋ねた友人がたまたま一人っ子であったり年の近い兄弟姉妹であった事が原因である。  歳の離れた弟や妹の世話に四苦八苦する母親の姿を見なければ、育児という概念は生まれない。 “自分が世話を焼いてもらっている”という認識はそうそう芽生えるものではないのだから。  炊事、洗濯、掃除。  この三つが、ふたみにとっての目的となった。  彼女の家では使用人がやるべき事だ。  この時から彼女は炊事場などに姿を表すようになる。  そもそもふたみにとって、家事をする事は習慣だったわけでもなんでもない。  覚えようとして身につけたものだ。  炊事場をうろつき始めた令嬢に使用人たちは困惑していたが、悪戯っ子のきらいが強かった彼女を散々見てきた彼らは「いつもの事だ」程度にしか思っていなかった。  皆は、どうして彼女が悪戯などをするのかを知っていたから。  ようやく自分の足で歩く事ができるようになった今の彼女の気持ちは、察して余りある。  ──だが、これは実にふたみの聡明さの表れだったのだ。  わけのわからない──概念すらまともに持っていないものに、いきなり手を出したりはしない。  彼女は注意深く観察していたのだ。  やがて“炊事”が何の事か悟った彼女は、遂に「私にもやらせてくれ」と手を出すようになった。  幼少時から才覚の片鱗が見え隠れするほど特に何かに秀でていたわけではない彼女は、「自分ならできる」という、才覚によった自信──あるいは根拠のない過信──というものを持ち合わせてはいなかった。 「やってみなければ上達しないに決まっている」  努力の人である彼女のこうした考え方は、この頃にはすでに固まっていたのかもしれない。  ふたみの申し出に驚きながらも、なんとかなだめすかして追い返そうとしていた使用人たちは、令嬢の驚くほど頑固な一面を見る事になる。  彼女はわがままだったわけではない。  頑固だったのだ。  一度決めた事を決して曲げないのは、彼女が生来持っていた性格だった。  やがて洗濯。  やがて掃除。  こうして、ふたみは本来ならば自分がやらなくてもいい事を次々と身につけていった。  いつしか家事をやる事は彼女の中で当たり前の日課へと変化し──いや、彼女は意図的に“日課”になるように努めていたのだろう。  積み重ねこそが上達への第一歩だと知っていたから。  彼女が“怠ける”という行為を嫌うようになったのは、こうした日々の中から培われたものだ。  特に自分に対して厳しくしていたつもりはない。  ただ、それを“当たり前”と思いながら成長していっただけだ。  己に課した“家事”こそが、ふたみという少女を構成している。  そして、現状に満足しない向上心があった。  一通りの家事をこなせるようになったら、その中で何かにこだわるという事の楽しみを覚え、またより良いものを目指すようになった。  ──気付けば、ふたみは屋敷の使用人の誰よりも家事に秀でた令嬢となっていた。  ──どんな人がやってくるんだろう。  その事を気にしなかったはずもない。  年頃になるにつれ、その気持ちはどんどん膨らんでいった。  そのまま夢見る少女でいられたのなら、あるいは彼女の人生は今よりずっと楽なものになっていたのかもしれない。  ふたみはどうも、特定の誰かによった考え方はしない娘だった。  もし期待しすぎて当てが外れたらどうしようとか、そしたら嫌々結婚するのかとか、色々と考えている内に、そうした考え方そのものが相手に対して物凄く失礼だという事に気がついた。  平等といえばそうだろうし、思考の矛先がそもそも均衡しているといえばそうだろう。  だからこそ、ふたみにとって“嫁である事”は義務であったのだ。  決められた事は絶対だ。  ふたみとて、自分の家がどういう家柄なのかは理解している。  家が決めた事なら、これはきっと避けられない事柄なのだ、と。  ──だから。  初めて逢った時には、相手がどうあれ、きっと同じ対応をしようと心に決めていた。  ふたみとて一人の人間であり、女の子だ。  好き嫌いもあれば、得手不得手もある。  ──自分勝手な想いを相手にぶつけるのはやめよう。  決して失礼のないように。  だからこそ、相手がどうあれと決めたのだ。  いつから、あの人の姿を追いかけるようになったのだろう?  ──そこに義務はなかった。  気になって仕方がないから姿を追い求めていた。  いったい、いつバランスを崩したのだろう?  ──そこに平等はなかった。  誰よりも先にあの人の事を考えていた。 「貴女、いったい何をおっしゃって……」  ──いつか、自分に覚悟が足りないと感じた時があった。 「オマエに半欠だと言われた時、私はこう返すべきだったんだ。 “何を言っている。『双子座』は、一昨日の時点でようやく揃ったんだ”と」  それはこれまでの自分を、これまで積み重ねてきたものを否定するようなものだと、一歩を踏み出す事で自分を戒めた。  あの人に自分の夢に触れてもらう事で、より近付ければ。  そんな動機だった。  思えば、あれがいけなかった。  あの時、ふたみは相手を理解する為ではなく、自分を理解してもらう為に動いてしまった。 (まったく……私は上手くない)  込み上げる苦笑が、何故だか心地よかった。  こんな感覚は初めてだった。  ──そして気付けば、この有り様。 (……簡単な事だったのに、私は何を難しく考えていたんだろうな)  それは簡単な事ではない。  とても困難な事だった。 (私はいつも遠回りだ。上手くやれずに、他の人の何倍も遠回りをする)  努力を積み重ねる事で物を為す人はそう思う。  だからこそ見えるものもある。 (好きに……なっちゃったんだよ)  そう気付いた時に。  他人の夢に巻き込まれたのに、あの人はいつも優しかった。  その優しさに甘えているのだと気付いた時──ふたみは自分の気持ちを悟っていたのかもしれない。 (あの人は……受け入れてくれた)  昨日、とても幸せだった事を思い出し。 (受け入れて……くれたんだ……)  込み上げる気持ちは、まだふたみには持て余すものだったけれど。  それでもきっと、この気持ちを体験した人は皆一様にこう思う。  ──自分の中に、こんなに優しくて柔らかい気持ちがあったなんて。  表現は人それぞれ異なれど、感じるところは皆一緒。  そう感じる事のできる自分を好きになれる。  ……すぐに戻るつもりだった。 「お腹……空かせてないかな……」  知らず、ふたみはぽつりと呟いていた。  ちゃんと食べてるかな?  洗濯物は溜めてないかな。  ゴミ出しはちゃんとしてるかな。 (……意地張ってないで、ちゃんと本人にも覚えてもらえばよかった)  何度も言ってくれていたのに。  意地っ張りな自分に溜息をつく。 “良い嫁である事”、ただそれだけが自分の価値だと思い続けてきたふたみにとって、それだけは譲れない事であったから。  ──だが、彼女は気付いていない。  そう思い続けてきたからこそ、いつの間にかそれこそが自分の価値だと信じるようになっていたからこそ、彼女は家柄を気にしない少女に成長したのだ。  彼女は家の事を“理解”している。  けれど、ただの一度としてそれに笠を着た事はない。  別の価値を自分に見出す事ができたからこそ、“雲戌亥家の自分”の前に“嫁の自分”があったのだ。  でなければ、“雲戌亥家の人間として”が先にきていた。  成長の分岐点において、それが“雲戌亥家の者であるこの自分が”といった高慢な面が育ったか、“雲戌亥家の者として家柄に泥を塗るような真似だけは”といった自戒が強まったか、あるいは“どうして自分だけが雲戌亥家なんて家柄に縛られなければ”といった重荷に思う心が生じたか、それはわからない。  しかし、家の決定を受け入れる事から始まったはずの彼女が、確かに“良い嫁である事”のみに己の価値を見出す形で成長を遂げたのだ。  それは状況と性格と、様々な偶然の積み重ねの上に成り立った、一つの奇蹟と呼んでもいいだろう。  そんな彼女だからこそ。  ──ずっと一緒だと思い込んでいた。  自分が嫁として、相手が婿として、顔を合わせた時から。  ずっと……世話を焼くのだと……。 「…………」  私は自惚れていたのだろうか、とふたみは自問する。  照陽菜をやり遂げたら──その時、あの人がどんな答えを自分に告げようと、それを受け入れようと覚悟していたはずなのに。  相手は結婚の事など何も知らされずにいた。  なら、相手には断る権利がある。  自分は家の決定に従う事を受け入れたが、相手がそうでないのなら、それは単なる押し付けだ。  押しかけ女房になるつもりなどないし、まず第一にふたみは、他人の迷惑になる事を好まない。  もし自分の事を気に入ってもらえなければ、断られても仕方がないと思った。  順序がずれた事で言い出す機会を失ったが、あの人から歩み寄ってくれた事で、ちゃんと伝える事ができた。 「アナタの答えを、私に、ください」  ……怖くなかったはずはない。  ふたみにとって、これは遠い昔に受け入れていた事。  ずっとずっとその為に、その為だけに努力を重ねてきた。  断られたら、などという可能性が待ち受けている事柄を言い出す事に抵抗がなかったといえば嘘になる。  それでも勇気を振り絞って伝える事ができたのは──きっと、自分の強さじゃない。 (お主人ちゃんが……優しかったから)  だから言えたのだと、ふたみはそう思っていた。  ……もしも断られていたら。  義務の上に成り立っていたものが崩れ始めた時、ようやく自分の気持ちに気がついた。  そうしたら、“良い嫁である事”ではなく、“好かれる努力”をしなくちゃいけないと思い当たった。  ……いや。  思い当たった、のではない。  好かれたかったのだ。  あの人に好きになってほしかった。  そうしたらもう何がなんだかわからなくなって、自分はわけのわからない行動を取っていたように思う。  だってそんなの、した事がなかった。  ……断られたくなかった。  ずっと一緒がよかった。  その時、初めて──ふたみは「怖い」と思ったのだ。 (まいったな、ほんとうに)  ふたみは苦笑する。  困ったような嬉しいような、自分に優しくなれる苦笑。  彼女が初めて経験する苦笑。 (どうやら私は、夢中らしいぞ)  やがてこの街を訪れる、タツミの人間──それが自分の夫になる。  そう聞かされたのは、分家であるタツミの現当主、白によってかつて男子の孫二人が連れてこられ───  そして帰宅していって、しばらくしてからの事。  どんな人がやってくるんだろう───  どんなふうに成長しているかわからないから。  ましてや弟の方だったら、一度顔を合わせたきりで、まるで覚えていないから。 「エドは、愛がご宗家のやり方に反発してるって言いたいの?」  その口調は強かった。  ……まるで意識して考えないようにしていた事を指摘されたかのように。 「俺は確かめたかったんじゃないよ、メメ。  俺は雲戌亥家が何を目論んでるのかも知らない。“そう”か“そうでないか”なんて、確かめようもないんだ。  俺はただ──安心しただけだ」 「……安心?」 「ああ。やっぱりメメには“おかえり”でよかったんだなって、そう思えて安心した」 「……勝手な事ばかり言ってるよ」 「ごめんな」 「…………」  唇を尖らせながら、けれど戸惑うかのように視線を泳がせるメメは、どんな顔をしたらいいのかわからないでいるように見えた。 「確かめるって事なら、その為にふたみは実家に向かったんだ。  今の俺にできる事は、ふたみを信じて待つ事だけだよ」  ──立ち上がると足から背中にかけて痛みが走った。 「っ……っっ……」  痛みで思わず顔が笑ってしまう。 「どうしたの?」 「ん? いや、掃除でもしようかと思ってさ」 「は?」 「思いっきり小馬鹿にした表情をありがとう。俺が掃除したらおかしいか?」 「いや……だって、なんで急に……」 「ふたみがさ、気にすると思うんだよ」 「え?」 「あいつさ、毎日掃除してたじゃないか。だからいない間に埃が溜まってないかとか、そういうの気にしてると思うんだよな。  あ、そうだ。洗濯物も洗わないと。そっちも気にしてると思う」 「…………」 「飯は適当に済ませてもなんとか誤魔化せると思うんだけどさ。勝手に溜まっていくものばっかりはなぁ。  っっ……だからまあ、初挑戦ってわけだ」 「……愛されてる自信まんまんだね」 「そういうんじゃなくて、そういう娘だから」 「…………」  でないと、きっと帰ってきた時、責任を感じるんじゃないかと思う。 「エドは──」  その一瞬。  メメの表情は、俺の知っている彼女のものだった。 「ふたみお嬢様がこの家にお戻りになると、本気で思ってるの?」 「どういう意味だ?」 「…………」 「戻ってくるよ」 「え?」 「ふたみは戻ってくる」 「随分……はっきりと断言したものだね」 「ふたみが言ったんだ。“必ず帰って来る”と。だから戻ってくる」 「……そう」 「ああ」  その事に疑いはない。 「あれ?」  ……鼻血?  なんだこれ……止まらないぞ。  あれ?  なんか景色が逆に見え……  あれ? 世界ってこれでよかったんだっけ?  せかいてこれ  なんだこれ…………。  よくわからないけどすごくきもちわるい。  はきそうだ。  目覚めた時、見慣れた天井がそこにあった。 「…………」  ……なんで倒れたんだ? 俺。 「っ……!」  身を起こそうとすると、相変わらず身体の節々から激痛が走る。  あいつにやられた怪我は、俺が想像していたよりも遥かに酷かったって事か。 (やれやれ……)  こんな姿、ふたみには見せられないな。 「起きたの?」 「メメか。どうやら俺はまた倒れたみたいだな」 「うん……」  倒れる前に見た光景と、目覚めた時に見た光景はよく似ていた。  室内の明るさ──それはつまり、陽の高さという事で。  という事は……。 「メメ。俺はどれくらい寝てた?」 「丸一日」  やっぱりそういう事か。  倒れてすぐに起きたんじゃないなら、他に考えようはない。  腕も脚もどこもかしこも──身体の随所から発せられる熱のせいだろう。  耐えられると思っていたけど、俺の意識が耐えられるとかは別問題で、身体は休息を欲していたという事だ。  ……こんな事してる場合じゃないんだけどな。 「っ……と」 「起きれるの?」 「ああ。もう平気だ」  本当はあまり大丈夫そうもなかったが、まずそう思う事から始めないといつまで経っても熱が冷めないような気がした。  普段通りに振舞う事を身体が許してくれないのなら、せめて気持ちだけでもそうありたい。  ──と。  そう思った矢先、膝から力が抜けて、気付いたら俺は敷布団の上に尻餅をついていた。 「あれ?」  もう一度立ち上がろうとするも、  気付くとまたベッドの上に倒れている。  足腰にまったく力が入らなかった。 「…………」  自分の身体の事は自分が一番よく知っている、なんて決まり文句を作ったのは誰だ。  気持ちと身体の状態がまるで噛み合っていない。  借り物の身体を動かしているような感覚だった。 「エド」 「ん?」 「ご飯」 「悪いが俺は料理を作った事など一度も」 「じゃなくて、作ってきたから食べてよ」 「え?」  メメは襖の向こうに置いてあったお盆を持ち上げると、俺の傍まで持ってきてくれた。  お盆の上には小さな土鍋があって、彼女が蓋を取るとふわりとした匂いと共に湯気が立ち上った。  梅干入りのお粥だった。 「……俺にか?」 「お嬢様ほど美味しくはないだろうけど」 「…………」 「そんな顔してるならあげないよ」 「あ、いや、悪い。いただくよ、いただく」  なんだか嬉しかった。  やっぱりメメは、俺たちの仲間なんだって──そんなの当たり前の事なんだけど、それでも、嬉しい気持ちを抑え切れなかった。 「あれ?」  メメの気が変わらない内に、なんて思いながら、急いでお盆に添えてあったしゃもじを手に取ったんだけど。  指先が震えていた。  しゃもじを手に取っても、満足に握る事ができない。  ……なんだこれ? 「食べさせてあげる」  言うが早いか、メメは俺からしゃもじを取り上げると、鍋からお粥をすくってくれた。 「ふー。ふー……はい、あーん」 「あーんって……い、いいよ。自分で食べれるから」  なんだか気恥ずかしくて。 「震えてるくせに」 「震えてても食べれるって」 「いいから、ほら。さっさと食べる」  けれど半ば強引に、お粥を口の中に押し込められた。 「ふごっ!?」 「はい。ゆっくり噛む」 「ふごふご」 「ちゃんと噛んでよ」 「さもひをにゅけっ」 「さもしいひとりやもめ?」 「……わかってて言ってるだろ」  首を後ろに引く事で、メメの歯医者さんごっこから抜け出す。 「ちっ」  計算式ができた。 «怪我人への優しさ―なんか癪な気持ち=メメ» 「エドがなんかいやらしい事を考えてる」 「違うぞ。俺は失礼な事を考えてたんだ」 「へぇ……」 「すみませんでした」  誘導尋問とは、この策士さんめ。  五体満足でも勝てやしないのに、この状況では逃げる事すら叶わない。 「もー、せっかくすくってあげたのに、冷めちゃったじゃない」 「食わせる気があったのか?」  ──と。 「え?」  メメは俺の口に入っていたしゃもじを、そこに残ったお粥ごと自分の小さな口に入れてしまった。 「もっはいない」 「勿体無いって……お、俺が食うよ。別に冷めたっていいからさ」 「エドには新しいのをあげるよ」  メメは再び土鍋からお粥をすくうと、 「ふー、ふー……はい」  と、冷ましてから俺の口許へと運んでくれる。 「…………」 「もうしないから」  半信半疑ながら口を開くと、今度は食べ易いようにしゃもじを扱ってくれる。  ……さっきのは何だったんだ?  俺で遊ぶのにもう飽きたのだろうか。 「どう?」 「……美味しい」 「そうじゃなくて、食べ易いかって訊いてるの」  ──あ。  だからお粥なのか。  メメも一応女の子らしい気配りができたんだな。 「エドがいやら……」 「すみませんでした」  危ない危ない。 『お粥殺人事件』なるミステリの新境地に不動の名を刻むところだったぜ。 「うん、でもやっぱり美味しい」  すでに半分くらい平らげたが、何口食べてもそれは一緒だった。 「美味しいのは当たり前だよ。おねーさ……ふたみお嬢様に教えていただいたんだから」 「…………」 「なっ、なににやにやしてんのっ!?」 「別に」  そうかそうか。 “おねーさま”か。 「……も、もうあげない」 「エサを半分与えておきながら取り上げるのはよくないぞ。飼い慣らす時はな、あげるかあげないか、それで飴と鞭を使い分けるんだ。半分まで、なんてのはない」 「……ワンって言え」 「ワン」 「プライドないのか」 「いいからくれ」 「ずうずうしいなぁ」  そんな事を言いながらも、メメは丁寧にお粥をよそっては口に運んでくれる。  心なしか嬉しそうに見えた。 「ごちそうさま」  ふう、食った食った。 「おそまつさまでした」 「ありがとな。この借りはいずれ」 「気にしないでいいよ。この貸しはいずれ」  高くつきそうだ。  メメはお盆を持って立ち上がると、襖を開き───  廊下へと消える手前で足を止めた。 「メメ?」 「…………」 「?」 「……ねえ、エド」  メメは背中を向けたまま、呟いた。 「もしも……明日で世界が終わってしまうとしたらどうする?」 「は?」 「…………」 「明日、死んだらって事か?」 「……そうだね」 「どういう意図かは知らないけど、寝たきり状態の怪我人と終末論を語り合おうってのは会社が倒産するかしないかの瀬戸際にいる社長に会社の起こし方を訊きにいくくらい空気読めないスキルが全開だな。惚れそうだ」 「例えばだよ」 「そうだな……」  俺は考え───  けれど結論はすぐに出た。 「何もしないかな」 「何もしない?」 「ああ、普段通りの日常を送る」 「どうして」 「世界が終わってしまう、なんて程度で取り乱すのは悔しいからかな」 「明日死んでしまうとしても?」 「そんなもんで揺らぐほど、俺の日々の生活は軽いものじゃない。……そう思いたい」 「……呆れた」 「だろうな」  そんなふうに考える事ができたのは、きっとふたみと過ごした日々があったから。  当たり前の日常が何より輝いていたから。 「さて……と」  俺は足腰に力を込めて立ち上がる。 「また掃除?」 「ああ。だが……その前にトイレ」 「……なにやってんの」 「あれ?」  転んでしまった。  立ち上がろうとしても足腰に満足に力が入らず、辛うじて立ち上がれても、すぐに膝が笑ってしまい、まるで支えのない案山子のように倒れてしまう。 「っ……」 「エド……」 「だ、大丈夫。つか格好悪いところ見られたな」  こうなったら這っていこう。  ちょっとずつ……お、意外と進めるもんだな。  気分は狙撃手。  ……見ろ、まだ余裕あるぞ、俺。 「…………」  メメはしばらく芋虫の行進を見下ろした後、不意に部屋を出て行った。  そう何度も笑えるようなネタでもないしな。  うんしょ。うんしょ。  ──が。  俺が襖に到達する前に、メメは戻ってきた。  ……その手に奇怪な物体を抱えて。 「……一応訊いておくが、なんだそれは」 「尿瓶を知らないの?」 「なぜ我が家にそんなものが……いや待て、それをどうするつもりだ」 「……あ……愛がやってあげるよ」 「は?」  メメは俺から目を背けて、なにやら世迷い事を言い出した。 「だ……だから、愛がやってあげるって言ってるの」  ……何を言い出すんだ。  俺はのそのそと匍匐前進を続ける。  足腰に満足に力が入らないから、まず腕を前に投げ出して、それから身体を引っ張るように……。  ずる。ずる。  お。段々とコツをつかんできたような気がする。 「無理しなくていいから。……ほら、かしてよ」  と、メメは目を背けたまま「投げろ」といったジェスチャーで手を差し出す。 「脱着可能みたいに言うな。こいつとは幽体が離脱するまで一蓮托生なんだ」 「し……仕方ないな」  メメは芋虫の行進を続ける俺の傍までやってくると、いきなりジーンズを脱がしにかかった。 「ちょっ、ちょっと待て!」  腹回りが苦しくなるのでベルトをしていなかった為、すんなりと半けつが空を仰いだ。 「なんてもの見せてんの!」 「お前が脱がしたんだろうが!」 「あーもう……この人ストリップキングダムだよ〜」  天国のお婆ちゃん。  最近の女の子の言動はよくわかりません。 「ほら。仰向けになって」 「ま、待て! この状態で仰向けになるって事がどういう結果を生むか、お前わかって──」  じたばたしながら、俺はジーンズを履き直す。 「横向いてるから。見ない見ない」 「そういう問題じゃない」 「看護師さんがやってる事じゃない。愛は昔から看護師さんに憧れてたの。だから大丈夫」 「どっちかというと病院に行く理由を作る側のくせに、素敵な夢をお持ちだな」 「あ、愛はふたみお嬢様みたいに何も知らないわけじゃないから。めちゃめちゃ詳しいから大丈夫」 「耳年魔な奴ほど自己主張するんだ。めちゃめちゃとか言ってる辺りで墓穴を掘ってるぞ」 「もーごちゃごちゃうるさい。さっさとして」  もがきながらも折角腰まで引きずり上げたジーンズを、メメが再び脱がしにかかった。 「ちょっ、ちょっと待て!!」 「愛はあんまり気が長くないんだよ」  絶対なんかヘンなスイッチ入ったぞこの女!?  どこだ? 俺はどこで間違えた!? 「あーもうめんどくさい」 「待て待て待ってお願いっ!!」  ──次の瞬間。  俺の下半身は剥かれていた。 「うわっ……!」 「うわってちょっとおまえやめてまじで……もー」 「お山の間からなんかぼーぼー」 「ミナイデ」 「あだっ!」 「えっ……と」 「いまさらリアクションに困ったからって尻を叩くんじゃない」 「だっ……て」 「真っ赤だぞ、お前」 「〜〜〜〜〜」 「あだだだだっ! 痛い痛い痛いってんだろうがゴラァッ!!」 「あのね、エド。言いたくないけど、愛はオトコの人とそういうの…………その、ないんだよ。モテるけど」 「それはさっきの会話でなんとなくわかった。というかさり気なく自慢すんな」 「それなのに、こんな……こんなのって……ひどいよっ!!」 「じゃあもうどっか行ってくれっ!!」 「はい。じゃあ仰向けになって」 「その切り替えの速さはなんなんですか。ピン芸人ですか?」 「仰向け」 「…………」 「あーおーむーけ」 「…………」 「あ〜〜お〜〜む〜〜」  ごろん。 「ちょっ!!」 「ぶふおおぉっ!!」 「ななっ! なにしてんのっ!!」 「今……とても……とてもとても鈍い音が……」 「し、信じらんない。は、犯罪だよ、これ。犯罪」 「お前が仰向けになれって言ったんだろ!!」 「乙女には心の準備ってものが必要でしょ!!」 「合図を出してから準備を必要とするなっ!!」 「あ。開き直ったね」 「というか、もう我慢の限界なんだ。リミットまでの時間をロスし過ぎた。漏らすよりは尿瓶の方が百倍マシだ」 「覚悟を決めたってわけ?」 「そうだ」 「……よし」  と、メメは改めてそっぽを向く。 「じゃ、ほら、貸してよ」 「だから脱着は不可能だとあれほど」 「愛の手を……その……それに、近付けて」  メメが手を差し出す。  ……改めて見ると、物凄く小さな手だな。 「臨界点突破までの時間が限られてるから、ストレートに持ってくぞ。いいな? “それ”って何? ちゃんと言ってくれないとわからないよゲヘヘ。  なんて流れになる事を期待するなよ?」 「誰が期待してるかっ!」 「じゃあ……」  ……なんというか、物凄いヤバ気な感じがしてきた。  メメの小さな手を取って、その柔らかな感触を俺の局部へと連れて行く。  ああ、俺は今───  一生ものの弱みを握られようとしている。  きっと俺はこの先、これをネタに強請られ続けるんだ。 「あっ……!」  触れた瞬間、メメの身体がびくりと震えた。 「……それ」 「こ、これだね?」 「……なにしてる」 「だ、だって」  得体の知れないものに見えないまま触れているせいか、メメの指先の動きは非常に怪しげだった。 「こ、こら」 「え? え? なんかヘンなの?」 「お、おい。そんなところ擦ったら……」 「ちょちょっと! おかしな事言わないでよっ!」 「とりあえず、尿瓶を……」 「そ、そうだね。尿瓶を、これ……に」  見えないながらも、メメは手探りで尿瓶を近付けていく。  というか、かなり無茶な体勢をしてる。  身体ごと斜めに背けたまま、右手で俺の陰部を握っているんだけど──その体勢で左手の尿瓶が届くはずがない。  メメはテンパっていて気付いていないのか、必死に左手を伸ばして、そして右手に持つ俺の─── 「いててっ! 引っ張るなっ!」 「えっ? ご、ごめん。どどどうすれば」 「とりあえず身体をこちらに向けて、じっと正面の壁を見つめていればいいんじゃないか」 「な、なるほど。エド頭いいね」  メメがようやく身体をこちらへ向ける。 「……あの。なんか形状が変わってきたんだけど」 「形状は変わってない。体積が変化したんだ」 「え、エド、ヘンな事考えてない?」 「お前があちこち触るからだ。不可抗力だ」 「こんなセクハラって……!」  メメがさめざめと泣き出す。 「わかった法廷で会おう。だが、今は俺が膀胱炎の宿命を背負うかどうかの瀬戸際なんだ」 「わ、わかってるよ……」 「お、いいぞ。メメ、そのまま真っ直ぐだ」 「……ここってこういう感触なんだね」 「聞いてるか?」 「きっ、聞いてるよ」 「だから握るな」 「他にどうしろっていうのっ」 「抓めば? 汚いものを扱うみたいに」 「そんな事したらエドが可哀相でしょ!」 (……変なところで優しい娘だな) 「またいやらしい事を考えたでしょ」 「ごめんなさい」 「まったくもー、ごちゃごちゃ言ってると手刀でちょん切るよ?」 「……だめだよそんなこといっちゃあ……」 「じゃあ、おとなしくしててよ」 「はい。本当に申し訳ありませんでした」 「あ。もしかして入ったんじゃない?」 「もう少し左だ、左」 「あ、あれ?」 「ぶつかってるぶつかってる! つか尿瓶の表面で先端が刺激されるっ!」 「ヘンなこと言うなっ!」 「馬鹿お前限界を早めてどうするんだ! 右だ右っ!!」 「──ここだ!!」 「やったぞメメっ!! OKだっ!!」  もう限界だった。  俺は下腹に込めていた力を抜き、そのまま─── 「やったやった! 成功でしょ!?」  ──喜んだメメが、バンザイのポーズで手を離した。 「ばっ! バカッ!!」 「え?」 「…………」 「……その、なんというか」 「…………」 「言葉のかけようもなく」  そこには顔を中心にずぶ濡れの少女がいた。  髪の毛からも水滴が零れ落ちている。  何故ずぶ濡れなのかというと、それはとてもとても口にはできない。 「いちおう謝る事は謝るが、比較的俺のせいではなかったと思うんだ」  全面的に責任はないと思うんだが、無言のままのメメが怖いので折半にしておく。 「…………」 「メ、メメさん?」 「……少し……」 「はい?」 「……飲んじゃったん……だけど……」 「あは、あは、あははははははははは」  虚ろな瞳をした少女はゆらりと立ち上がり、部屋を出て行った。  そして階段を降りていく音──の最後に、転んだ音がした。  それからしばらくして。  随分と距離を隔てているはずなのに、さめざめと泣く声が聞こえた。  ……あの。  この格好で放っておかれている俺も少しは泣いていいですか?  俺は俺でびしょ濡れなんですよね。  だから服を着るわけにもいかないし、まず第一に部屋がアンモニア臭い。  動くと身体の表面に溜まった水滴が零れるし……まあ、この際贅沢は言ってられないか。 「っ……」  仰向けの身体をうつ伏せにし、なんとか這って───  ──また──  今度は、視界が欠けて。  気付けば、俺は。 「…………」  ……またか?  なんなんだ、いったい? 「あれ? 俺、服……」  気付けば俺は、きちんと衣服を身にまとっていた。  よくよく見れば布団も異なっている。  ……あの惨事の後はどこにもない。 「起きた?」  メメが頃合もよく部屋へと入ってくる。 「メメが……?」 「なにが?」  我関せずといったメメの手には、やはり土鍋を載せたお盆があった。 「…………」 「ん? お腹空いてない?」 「いや……メメさ、もしかしたら俺が起きるの待っててくれてるのか?」 「え?」 「昨日といい今日といい、随分とタイミングよく部屋に現れるような」  それに、作ってくれているのも消化のいいお粥ってのは勿論だが、保温効果の高い土鍋ってのが……。  まるでいつ起きてもいいように。  それだっていつまでももつわけじゃないけど、起きるのがもう少し遅ければ、また温めに行ったんじゃないか──なんて。 「な、なんで愛がエドの為にそんな事しなくちゃいけないの」 「そうだよな」  そりゃそうか。  朝の苦手なメメが、俺の為にわざわざ早起きしてくれてるなんてあり得ないな。  ……しかし、これって本当に、あの眼帯野郎にやられた事だけが原因なのだろうか。  身体の節々はまだ痛いけれど、熱はだいぶ引いている。  にも関わらず、立ち上がろうとするだけでこの有り様とは。  骨が折れてるってわけでもないだろうに。  昨日は、思っていたより重傷だった──なんて理由で納得した。  いや、納得せざるを得なかったけれど。  二日も続けて唐突に意識を失うほどかというと、それは決してあり得ないんじゃないかと思う。 「で、食べるの? 食べないの?」 「あ、ああ。いただくよ」  そう言うと、メメは俺の枕元にちょこんと座って、昨日と同じようにお粥をしゃもじにすくってくれる。 「はい」 「だ、大丈夫だよ。自分で食べれるから」 「何言ってんの。食べれないよ」 「断言しやがったな」 「ほら。いいから」 「言っとくがな、今日は割と調子がいいんだ」 「え……」 「そんな大袈裟に驚くな。ほら」  俺はすっと立ち上がる。 「な?」  歩くにも支障はないし、この分なら走り回る事だってできる。  四肢に力が漲っている感じだ。 「そう……なんだ」 「あのな。こういう時は、大丈夫、とか、体調は良くなったか、とか、少しは訊くもんだ。それをお前は一昨日から──」  …………。  その瞬間に生じた違和感は、あまりに間が抜けていたとしか言いようがなかった。  ──可能性。  可能性という名の、一つの推測。 「こんな考え方もできる」という、状況に根差した一つの見込み。  そいつは二本だけでは飽き足らず三本も四本も足を生やして、そして足早に脳裏を駆け抜けていった。 「エド?」  ──ああ、そうか。  そういう事だったんだ。 「どうかしてたよ。冷静じゃなかったのかな、俺」 「え?」 「メメが倒れた理由に関して触れようともしない事に、どうして気付かなかったんだろう」  ずっと介抱してくれているにも関わらず、彼女は一度もその事に関して触れなかった。  何故か?  考えられる理由なんか一つしかない。  ──知っていた。  俺がこうなる事を知っていた。  つまり─── 「俺の身体の不調も、雲戌亥家の目論見に関係してるって事だ」  それが、俺がこの街に来た理由に繋がる。 「巽の者を代表して、誰かがあの街に行かなければならない」という、白爺さんの言葉が意味する先に。 「わかってたのにな。メメが何かを伝えようとしてくれてるって事」  それなのに、俺は何も見ようとしてなかったのか。 「じゃあ、ふたみは……」  ふたみがここにいない事も、奴らの筋書き通り?  ──そもそもあの菊乃丸って奴は、本当に俺も連れていく目的でここにきたのか?  どちらでもよかったんじゃ?  いてもいなくてもどちらでもよかった───  本当の目的は、ふたみを連れて行く事にだけあったんじゃないのか?  ……じゃあ、何だ?  確実に関係はしているのに、計画の中で必要不可欠の要素として機能しているのに。  それでも、いてもいなくてもいいなんて結論に達する理由は何だ? (……簡単だ)  それは絶望的なほど単純だった。  あまりに簡単すぎて今の今まで考えもしなかった。  俺には何処にいても避けられない運命が待ち受けているから。  だから何処にいてもいい。 「…………」  避けられない……運……。  ──それがこの身体の不調と関係しているとしたら?  これこそがその“結果”として起きている現象なら?  メメが一度も触れようとしなかったのは。  彼女が知っていた事は─── 「メメ」 「…………」 「答えてくれ。だからなのか? だからメメは俺に教えようとしてくれていたのか?」 「…………」 「メメ!!」 「……そうだよ」  そもそも現実感なんて言葉は、いつの間にか遠い何処かへと旅立ってしまっていたけれど。  次にメメが口にするであろう言葉は、この場に、ほんとうに、浮いていた。 「エドはもう助からない」 「…………」 「あなたは、もう、死ぬだけなんだよ」  ──唐突に。  あまりに唐突に。  俺が死ぬ事は決まっていたのだと、宣言された。 〜ラベル『黄昏の支配者』の内容は記述されていません〜  ──そうか。  遅かった。  本当に気付くのが遅かった。  ……遅すぎた。  メメは俺に何を教えようとしていたのか?  街を語り、歴史を語り───  俺の世話を焼いてくれていた彼女は、「起きても大丈夫なの?」とは訊かなかった。 「起きれるの?」と訊いていた。  大丈夫ではない事を知っていたから。  もう二度と大丈夫にはならない事を知っていたから。  ──その日は、自分でも何をしていたのかよく覚えていない。  唐突な……。  あまりに唐突な、終わりの宣告。 「どうするの?」 「どう……って。待つよ。ふたみは帰ってくるって言ったんだから」 「…………」 「……待つ」  突然「もう助からない」なんて言われても、現実感なんかなくて。  俺は普段から身体の変調を感じていたわけでもなく、自分が病人であるという自覚が刷り込まれるほど寝たきりの生活だったわけでも、病院のベッドに縛り付けられていたわけでもない。  だから俺は、その話をどこか他人事のように聞いていたのかもしれない。  メメは。  俺が死ぬ理由を教えようとしてくれていたんだ。  本来なら理由も知らずにただ死んでいくだけの俺に、何の為に死んでいくのか教えてくれようとしていたんだ。  ──それがメメの抵抗。 “せめて”という名の情け。  あの娘の優しさだったんだ。  何故なら。  死は避けられない事だから。 「それがよくわからないんだよね。エドはさ、本当ならまともな生活なんか送れるはずはなかったんだよ。  ううん……それ以前の問題として、この街にも来れるはずがなかった」  なんだよ、それ。 「そもそも、この街に来るタツミの人間が、あなただけではあるはずがなかったんだよ」  そんな事を言われてもな。 「世代交代が終わって……それで初めて不調を感じるなんて……」  昨日までの状態がまるで夢だったかのように。  昼過ぎからの体調の良さは本当だった。  やはり立ち上がるのに問題もなければ、歩き回る事にも何の支障もない。 「だってご宗家がかけたものだもの。蝋燭の最後は──」 「なにしてるの?」 「だから掃除だよ」 「…………」 「お? 馬鹿にするなよ。掃除くらい俺にだってできるぞ」 「……最後の……」 「え?」 「……蝋燭の……最後の……」 「…………」 「……こんな事に使って……いいの……?」 「縁起でもない事を言うな」 「……縁起……とかじゃ、ないんだよ……」  夕焼けの空を見上げながら、次に訪れる暗雲を待つ。  ──待つと決めた俺が、今この街で起きている事を確認する唯一の方法。 「メメ……」 「…………」  いつの間にかメメが傍にいて、黙って隣に座った。  それから俺たちは二人して空を見上げていたけれど、やがて、 「……一言だけ」 「え?」  ぽつりと、メメが呟いた。 「一言だけ、独り言を言うよ」 「…………」 「……ふたみお嬢様は、もうこの家には戻ってこない」 「だから、あいつは……」 「お嬢様はきっと、この家に帰りたがってるよ。でも、戻ってこないの……もう戻ってはこれないの」 「連中が何かするって……ふたみの身に何か起きてるっていうのか!?」 「…………」 「メメ!?」 「一言だけって言ったでしょ」  ──破損したタイヤに空気を送り込み続ける。  何度も、何度も、日が暮れるまでそれを繰り返す。  飽きようと倦もうと撓もうと、ただこなし続ける。  それは当たり前の事だから。  ──穴の空いた肺に酸素を送り込み続ける。  何度も、何度も、世が暮れるまでそれを繰り返す。  飽きようと倦もうと撓もうと、ただこなし続ける。  それは当たり前の事だから。  息を吸うのは当たり前の事だから。  生きていく為には仕方のない事だから。  漏れていくと知っていても、必死で息を吸い続ける。 「ぜっ……! はっ……!」  漏れた空気が胸に溜まっていくかのようだ。  肺はどんどん圧迫されて、息を吸い込んでもまともに広がらず、段々と呼吸が困難になっていく。  この世に生を受けてからずっと共にあったこの身体が、まるで別の生き物みたいで。  思い通りに動かない──だけならまだしも、すでに細胞が死滅した他人の身体の部分部分が身体の各所に取り付けられているかのようで。 「はぁっ……はっ、はぁっ……!」 「もしも……明日で世界が終わってしまうとしたらどうする?」  ……そういう事かよ。 「ぜっ……!」  まったく、あの娘は遠回し過ぎる。  辿り……着いた。  ここは頂。  この市の──雲の茨で城壁が築かれた炎の王国の頂。  街を俯瞰するように建てられている事も、何よりも誰よりも高い位置に在る事も、道端に転がる小石さえ、今はすべてがこの峯にこそ繋がると思えてならない。  戌亥に御座す処刑人ども。 「あんたらに……用がある」  城門を睨みつけ、俺は腹から声を絞り出す。  気管を駆け上った空気は、もうまともに声帯すら振動させる事が叶わないのか。  擦れたその音は、すでに“声”と呼んでいいのかすら怪しい代物となっていた。 「……どうすればいい?」  それでも俺は、もう一度、腹から声を絞り出す。 「城壁を登らなければ城に入れないならそうしてやる。  登れない城壁なら壊してでも中に入ってやる。  壊されて困るなら、門を開けろ。  ……俺は。  俺は、あんたらのお姫様を攫いにきた」  小さく。  ──厳粛な静寂が通り抜けた時。  小刻みな振動が地表を伝わると共に轟きが辺り一帯を席巻していく。 「待っていた」  まるで、そう言わんばかりに。  高みに開かれた庭園はまるで理想郷。  旅の始めに目指すべき、いつか辿り着くべき指針の行き先。  心地よい風にさざめく木々は笑い合っているかのようで、小鳥たちはつがいで枝葉に寄り添い、旅路の果てにようやく立ち至った詩人の心情を鳴い上げる。  これまでの艱難も辛苦も呑み込んで、微笑みをくれる空は暮れなど知らぬとばかりに何処までも碧く広がって──見上げれば、柔らかな日差しが祝福をくれる。  ……ああ、ここはこんなに優しいのに。  満ち足りた酸素が俺の首を絞める。  一呼吸ごとに肺が焼けていくかのように、炎の臭いが鼻腔を焦がす。 「……よもや」  何故ならここは。 「よもや、ここまでとは思っておらなんだ。過剰な演出に感謝する」  ここは炎者たちの為の極楽浄土なのだから─── 「あ……なたが、雲……戌亥の……」 「然り。この雲戌亥静こそが当主である」 「そう……か」  俺は何にショックを受けているのか───  受け入れろ。  受け入れて前に進め。  俺がここへ何をしに来たのか、もう一度思い出せ。  こんな事でいちいち躓いている時間はない。 「じゃあ、雲戌亥家の当主であるあなたに尋ねます。ふたみは何処ですか?」 「ほ──訊いて如何にする?」 「連れ戻します」 「これはしたり。あの娘の住居はここのはずだが、己の家以外に帰るべき場所があるとは」 「生憎と、俺たちの家もふたみの住居なんですよ」 「ほ──」  くしゃり、と、皺の刻まれた頬に喜色が走る。 「あれはそちが住み易いようにと、あえて外から建築を生業とする者を連れてきたが──住み心地は如何だったかね?」 「外見や作りなんかはどうでもいいんです。あの家は、あなたのお孫さんがいてくれたから最高の住み心地だったんです」 「当の祖母を前にして、よう言うたものよ」 「何度でも言いますよ」 「ほ──ほ。まったく。呆れるほどに予定通りよ」 「あなたがたの目論見なんかどうでもいいんです。教えてもらえませんかね──ふたみは何処にいますか?」 「そうよな。吾らの企てなど、そちにはどうでもよい事。例えこの街を焦土にしようと案じていたとしても、そちにはまるで関係がない」 「ええ、その通りです。でもね、一つだけあんたに言いたい事がある」 「何かな?」  ずっと気になっていた事がある。 「どうしてふたみは何も知らない」のか、という事だ。  当然、自分の家の歴史は知っているだろう。  けれど、ふたみは今この街で起きている事に関して、何も知らないに等しいんだ。  その理由は何だ?  そうであっても構わない理由は何だ?  まだ、何かある──ふたみには、“雲戌亥の一族”という以外にも何かあるんだ。 「あんたは、ふたみにいったい何を背負わせようとしてるんだ!!」 「──ほ」  静当主は目を丸くして。 「ほっほ……ほほほほっ」  それから、込み上げる愉悦を抑え切れないとばかりに口許により深く皺を刻んだ。 「ただそれだけを言いにきたか。その身体で、武者の甲冑の比ではない重さと化した己が身体を引きずってまで、吼えた一言がそれかよ」 「あんたたちの目的は桜守姫家だろう。  宿怨の……宿怨なんて言葉では語り切れないほどの、割り切る事も、もう何を割り切るのかさえもわからないほどの年月を積み重ねてしまった先にある仇敵。  雲戌亥家と桜守姫家が交わしてきた恨みもそねみも、俺なんかに口が出せる事じゃないだろうさ。  俺なんかじゃ重すぎてわかんねえよ。  ──でも、ふたみにとって桜守姫家は敵でも何でもない。  彼女と桜守姫さんは親友なんだ。  巻き込むなよ。  あんたらの下らない確執に、ふたみを巻き込むな!!」 「ほっ……言いたい事はすべて言うたとばかりの顔をしおって。自身に起きている現象の正体を知るより先に、巻き込まれた憤慨を吐き出すより先に、まずはふたみか」 「あんたらへの文句は、後でまとめて言わせてもらうさ。俺はふたみを迎えにきたんだ」 「ここまでとは……是非もない。そちが死ぬる時は、この街挙げての祭とせねばな」 「ふざけんな! ふたみを返せ!!」 「ふざけてなどおらん。ここまで期待に違わぬものを、儂は初めて見た」  階上から俺を見下ろす静当主の目許には、微笑みすら浮かんでいた。 「返礼代わりに答えよう。まるで家同士の宿怨を押し付けられたとでも言いたげだが、あの娘とて無関係というわけではない。  ──あの娘の両親は桜守姫の者に殺されておるでな」 「なっ……!」 「そちが今言うた桜守姫とは、桜守姫此芽の事か? ならば尚の事。吾が娘夫婦を惨殺したのは桜守姫此芽の両親──相打つ果てに互いの屍を晒したわ」  ──確かに、今日までふたみから両親の話を聞いた事はない。  この屋敷を初めて訪れたあの時も、てっきり彼女の二親が出てくると思っていたら、姿を見せたのは静当主だけだった。  才覚に溢れ、一家の柱たる器を有する者が老齢になっても当主であり続ける事は往々にしてある。  巽もそうだ。  でも───  死んだ?  殺された?  殺し合った? 「それでも尚、周囲からまでも親友と捉えられるとは……あの娘は健やかに育った。  真っ直ぐに、穢れを知らず……否、穢れを呑み込み、他人に尽くせるまでに健気に成長した。  ……だが、爪痕は残っておる。  あの娘は笑わなかったろう」 「──え」 「当たり前よ。慕った父の顔が目の前で石榴の如く吹き飛び、愛した母の五体が逆に捻じ曲げられれば……そんなものを幼少の時分に見てしまえば、ああなる」 「…………」 「押し付ける、背負わせる、これはそんな話ではない。これが雲戌亥と桜守姫。あの娘がこの家に生を受けた時、持って生まれた宿命よ」  ……淡い日差しが照らす山頂で。  張り詰めるほど厳粛な大気の中に差し込む、木漏れ日に似た感覚はなかった。  そこにあったのは、見つめた先から瞳を焼く業火。  目の前さえも覚束ないほどに大気を歪ませる酷熱。  俺はここを何処だと思っていたんだ?  確認したはずじゃないか。  ここが炎の城塞だと─── 「それでも、ふたみは……」  あいつは。 「桜守姫家をどうしようとか、そんなふうには考えていない」 「然様か。まっこと健やか。自慢の孫娘よ」 「……え?」 「そちは一つ勘違いをしておる。──言うたろうが。吾らと桜守姫、ここ百年ほどは落ち着いたものよと」 「狙いは桜守姫家じゃないって……いうのか?」 「あれが如き外道の相手は吾らが本懐に非ず。あちらから仕掛けてくるのならば別だが」 「…………」 「……どっちにしろくだらねえ」 「──ほ。この小僧、吾らが悲願を一言で吐き捨ておったわ」 「教える気がないんなら……」 「勝手に捜させてもらうからな!!」 「無礼な……」  ──老齢の戸主の横合いを駆け抜けたと思った瞬間。  俺の身体は宙を舞っていた。 「御大への無礼、この茂一が赦さぬ」  ──そこに阿吽がいた。  寺院内に仏敵が侵入する事を防ぐが、その威容の根源。  開口の阿形と閉口の吽形、一対ならばこそ二つはある一点で共通している。  それは“怒り”。  阿形は怒りを如実に語り、吽形は怒りを内に秘め──二つは表現方法は異なれど、静と動にて互いにその想いを体現する。  その男の声は何処までも落ち着いたものだった。  いかなる事態であれ、取り乱す事は恥だと戒める事こそが弁え──そう言葉なくして語る姿こそが阿吽の姿に重なった。  忿怒は形相ではない。  その身からこそ立ち上っていたのだ。  如実に示しながら表情は動かず、そこに阿形と吽形は同居し。  金剛力士。  あるいは仁王と呼ばれし守護者。  ──そこに立っていたのは、まさしく阿吽に他ならなかった。 「あんた……確か、茂一とかいったか」 「然様。吾が名は午卯──偉勣の道塗を往く雲戌亥家大門を守護せし大任を預かるは、午卯が茂一である」 「邪魔すんな。退けよ」 「それでは響かぬぞ。男ならば、道を望みし時は覇を唱えるべし」 「倒して進めってか」 「──龍の視界を持つ一族の末裔よ」 「龍の視界……?」 「何に見える?」 「は?」 「吾が手に馴染む兵仗、これは何であろうか」 「槍……じゃないのか?」 「ふむ」 「がっ……!!」  駆け抜けた衝撃は、我が事にすら感じられず。  気付いた瞬間、腹部から兵仗が生えていた。  茂一は槍を逆手に持って、刃のない先端で俺の腹に一撃を喰らわせたのだ。  ……えっ……。 「では今一度問おう。これは何であろうか?」 「……ほ……こ……?」 「ふむ。槍と判断しながら矛と認識した……やはりそういう事か」  槍と矛の区別など見た目ではつき辛い。  見る者が見れば一目で看破できるのだろうが───  兵仗という意味合いで類似のものを並べるなら長巻や薙刀も含まれるが、槍と矛の違いを分けるのは、使われていた時代に他ならない。  古代日本には槍といったものは存在せず、昔話の挿絵などに描かれる兵仗は──それを描いた後世の絵師の認識はともかく──そのすべては矛でなければならない。  考古学的には「金属そのものに穴を開け、そこに柄を差し込むのが矛」「柄に穴を開け、金属を差し込むのが槍」という形で分別する。  つまりは製造の過程と技術、これらの推移によって変わっていったのだ。  最たる違いとして、槍はおもに突くものであり、矛はおもに斬るものであるという事。  時代が下るにつれ、扱いに難のある矛よりも突くだけで殺傷兵器となり得る槍が主力となっていった事には素直に納得させられる。  矛の熟練者に槍の新参者が立ち向かっても勝ち目はないだろうが、それはあくまで個々の戦いであり、軍対軍の戦という部分に視点を移せば、普段から鍛錬を積んでいる武士はともかく、農具しか持った事のない農民を兵隊とするからには槍の大量生産が望ましい。 「…………」  ……なんで俺は、こんな事を知っている。 「なるほど、茂一よ。これがこやつの『解対』というわけか」 「差し出がましい真似をいたしました」 「よい。墓を用意するからには、この程度は知らねばなるまいて」 「解……対……?」 「異能を二つ掛け合わせ、生まれてくる子が異能でないなどという事があろうものか」 「何を……言ってるんだ」 「そも、何故タツミなる分家が派生したのか。雲戌亥に非ず血を取り込んだだけならば、吾が一族においてこれは分家とは呼ばぬ。  未寅、午卯、申子、酉丑──吾らを守護せし四家のように、雲戌亥の血を分け与えた者は限定されているとはいえ、炎者としての能力をその身に宿すようになる。  ただの血ならば乾きし戌亥に喰われるが故、家を分ける必要などない。  だが、それに耐え切るだけの異質の血であった場合はどうであろうか」  脳裏をかすめる、重く黒い影。 「この世にただ一つ、吾らから家を分けざるを得ない血脈があるとすれば──」 「まさか……!」  積み重ねた歴史の数だけ重く、流した血の量だけ黒い、影。  その答えは、たった一つしかない。 「然りよ。当時の雲戌亥当主の娘、事もあろうに桜守姫の息子と通じた結果がそちたち。  かつてこの地に災いをもたらした異邦者に対するべく、吾らが授かりし炎の力──その異邦者を始祖とする、忌々しきは彼の桜守姫。  二つの血が混ざり合い、溶け合った結果」  巽は、雲戌亥家と桜守姫家との間の子。  そうか。  そういう事か。  だから─── 「巽……なのか」  戌亥の真逆。  北西の戌亥の真逆、東南の辰巳。  まったく正反対の道を行った者。 「あんたたちにとって、桜守姫家と結ばれた俺の先祖は自分たちと真逆の道を歩んだ裏切り者だった。だから、巽と呼んだ……」 「なるほど、どうやらそちは十二支の辰巳──あるいは八卦の巽の事を言うておるようだが、それは誤りというものよ。  タツミとは、“龍が視る”と書いてこその『龍視』に他ならぬ」 「龍……?」 「まだ気付かぬか。そちは先程、何を視た?」 「…………」 「異能を二つ掛け合わせ、生まれてくる子が異能でないなどという事があろうものか」  静当主は繰り返す。  そして突き付ける。  巽が異質の血だと。  俺が異能の持ち主だと。 「巽は……非凡な才能に恵まれてはいても、ただの……」 「ただの人間、か。たまたま三代、芸術の分野において能力を発揮し易いものに固まれば、勘違いも生じようものよな」 「…………」  ゆっくりと、何かが融け始めた。 「そも、近代の解対が芸術に偏っておったのかどうかも怪しいものよ。  一代ならば、ただ卓越した個人。二代ならば、己が偉大なる父のようにと。三代ならば、その時点で“そういう血筋”と──か。  本来として縁るべき質から外れてでも、思い込みが蓋をする」  意思の力によって築かれた、堅牢な石壁が融け始めた。 「対象が“草花”であれば活け花に道を加え華道、“文字”であれば書道、“音響”であれば作曲か? 演奏か? 指揮か? “色彩”であれば画家……あるいは“形状”、例え“情景”などといった抽象的なものであったとしても、手先が器用でさえあれば画家への道は開けようものよな」 「まさ……か……」 「そちだけは芸術に転用の利かぬ──利かせるきっかけなどない代物だったと、ただそれだけの事に他ならぬ」 「…………」 「転用など利かぬであろうともよ。こうも戦闘に特化していておってはな」 「雲戌亥に生まれた者にただの一人も例外がないように、龍視に生まれた者にもまた、ただ一人の例外もない。  それが『解対』。生まれながらに有する異能。  龍視が龍視たる由縁よ」 「……なん……で」 「ん?」 「白爺さんは、そんな事は一言も……」 「龍視の現当主か。あやつもまた知らぬのであろうよ。  そも、この街から出ていった龍視が名を改めたのは、吾らとの関係を断ち切りたいからに他ならぬ。  桜守姫との抗争を嫌い、先祖伝来の宿命を捨て──生まれ来る子も孫も異能を有するは避けられぬというに、それを伝えず鬼籍に入った。  ならば次の世代が解対を知る由はない。  生まれ持った特殊な能力に気付こうが、才能という一括りに変じ──それを活かし財を成した者もあろう、活かせず凡庸なままこの世を去った者もあろう。  その繰り返しこそが龍視の系譜であった。  だが近代、世の流れに乗れるほどに芸術という分野において調和した解対を持つ者が現れ、その子が、その孫が……という事よ。確かにたまたま偏りはしたのだろうが、さて、思い込みとは恐ろしいものよな」 「……じゃあ、俺は」  落ちこぼれ。  策は落ちこぼれ。  違っ……た? 「だが、今日までそれに気付かなんだ事がそちの明暗を分けた」  その一言で、茂一が一歩前へと歩み出る。  込み上げた思いにハッとし、俺は首を振る。  ──今はそんな事はどうでもいい。 「解対、か。吾らとて、龍視には存命さえしていてくれれば伝える義務も理由もない。施しは充分に与えてきたでな」 「宗家と……思い込ませていた事か」 「ふむ、菊乃丸か。あやつはどうも言葉を額面通りに受け取りすぎる」 「なんだって?」 「吾らは雲戌亥。宗家たる誇りを背に負って王道を闊歩する。  悲願を為すに龍視が必要とはいえ、“宗家と思い込ませる”などと……そのような度量の狭い真似はせぬ。吾らは金銭的な援助を怠らなかっただけよ」 「……子孫の俺らが勝手に勘違いしただけってか」 「別に責めておるのではない。そう思い込んでも仕方のない状況ではあっただろうて」 「金を……出したのは、巽の祖先がこの街を去った時に契約があったって……」 「やれやれ、まったくあやつにも困ったものよ。  ──契約などはない。  桜守姫の息子と二人、手に手を取ってこの街を抜けた落伍者が築いた龍視なる一家。  桜守姫を、そして吾らさえも出し抜いたあの二人には敬意を表したが──その子を追わぬ理由はない。  生かしてやったのだ。  その上で、吾らは慈悲を与えた。それが金銭であったというだけの事」 「何が慈悲だ! 巽を利用する目的があったから……自分たちの目の届かない壁の向こうで、何が起こるかわからない動乱の世の中で死なれでもしたら困るから、そうしたんじゃないのか!?」 「だが、受け取ったのはそちの先祖」 「っ……」 「賢帝の子が賢帝とは限らぬ。龍視の始祖となった二人は確かにたいした器の持ち主であったが……貧困に喘げば、泥まみれの金であろうと溝から浚う者も現れよう」  ずきり、と。  その時、何かが身体の中で叫び声を上げた。  声の質は悲鳴。  嗚咽の嘆き。 「うっ……あ、ぐっ……ぁぁ……」  全身から力が抜けていく。 「蝋燭が最後の輝き、失われたか……ならば、そちは朽ち果てていくのみ」 「あっ……あああっ……」  視界が揺らぐ。  視界が反転する。  視界が削られる。  ……立て……ない。  立っていられない。  足腰は彩りの終わった枯れ木のように。 「うああああっ!!」  気付けばその場に崩れ伏した俺の身体。  倒れた衝撃にすら皮膚も肉も骨も耐えられない。 「さても解せぬは、そちの身体よ」 「な……に?」 「そちはとうの昔に死んでおるはずであった。あの日──白によってこの街へと連れてこられた時、そう……定めの楔が穿たれた時に」 「くさ……び、だと?」 「あれは百年に一度繰り返される、欠かす事の許されぬ行事。吾らが悲願を為すになくてはならぬ過程」 「あ……あれ……が……?」  幼い頃、この街へと遊びにきた記憶。  あれすらも雲戌亥家の目論見の一環だったっていうのか?  百年に一度の照陽菜。  百年に一度の巽の来訪。 「白は先祖伝来の慣習をなぞっただけであろう。それこそが龍視の当主たる者の責任なのだから。  吾らの援助を受け取った代より、以降──子々孫々に至るまで、百の年が経過する度に最も歳若き者をこの街へ連れてくるようにと言い含めた。それが為されておる限り援助は必ず続けられると。  援助が上納と化し、分家が分家でなくなったとしても、この掟だけは失くさずにきたのは龍視の美徳よな。  それに、運良くか悪くか……その時に限っては常に二子以上あった事も。子孫繁栄、結構な事よ。でなくば龍視が滅んでしまう可能性が出てきてしまう」  ──その言い方からすれば。 「連れて……こられた……子は……」 「死ぬる」  当たり前のようにそう口にした。 「もって数年。それでも運が良い方よ」  ──それが、雲戌亥家が裏切り者である巽を生かした理由。  援助と引き換えなどという形での、人身御供。 「ただ、今回に限り条件をつけた。若き男子を、と」 「なんで……おれ、だったん……だ?」  何も知らない白爺さんに連れてこられたのは、俺と兄貴の二人。  別に兄貴だったらよかったなんて、そんなつもりじゃない。  ただ、俺だった理由が知りたい。  自分が苦しむ理由くらいは知っておきたい。 「別にどちらでもよかった。ただ───  この街におる間、ふたみと遊んでおったのが兄の方であったのでな。  では、後にあの娘の婿として寄越してもらうのは兄の方が相応しかろうと」 「いやいやいや。ほら、俺が昔この街に来た時に、遊んだ事があったじゃないか。覚えてないか?」 「覚えがないな。まるで」 「……まるで?」 「まるで」 「ただ、二度目にこの街に寄越した者がふたみとの婚姻を前提としておる事など、白は知らぬ。余計な動きをされては困るのでな……白はそちたちを溺愛しておった上、実に勘のいい男であった」 「……安心しろよ。その中に俺は含まれてないからさ」 「ほっ……どちらでもよい事よ。  さて、策……そも、ここにおるはずもない者よ。とうに喰われておる計算にも関わらず、未だ立ち得る背景だけは見えぬが……餌たる一族の使命、今こそ果たせ」  餌……。 「あなたがエド?」  ───エド─── 「幼き日のそちが辿り、そしてこの街へと来訪した兄もまた辿るはずだった使命。  あり得ぬ事ではあるが一度目を生き延び、そして二度目までもそちであるとは……今回に限り二人必要であったのだが、まったく、よくよく運のない男子よな」 「……勝手な事……言いやがって……」 「よかろう。恨み言を聴く責務は当主たる吾にある」 「そうじゃねえ……!」 「ほ?」  ──その一瞬。  視界は正常な世界を取り戻した。 「俺はな、この街に来た事を後悔なんかしちゃいない。  この街に来たからふたみに逢えた。  この街に来たからふたみを好きになれた。  ──兄貴が来る予定だったって?  冗談じゃない。こればっかりは兄貴に譲れない。  こればっかりは、誰にも譲れるもんか!!」 「…………」 「ざまあ……みやがれ……」 「……策」 「あ?」 「感謝する」  次の瞬間、静当主は声を張り上げた。 「ふたみを連れてまいれ!」 「──は」  一礼した茂一の姿が陰りへと消える。  ……いや。  闇へと堕ちたのは俺の視野。  それは鼻で笑うかのように、ふっ──と素気なく意識を突き放す。  ……黄昏が墨色の世界に塗り潰されていた。  耳に届くのは、僅かに言い争うかのような声。 「どこへ連れて行くつもりだ?」  聞き慣れたその声に。  何よりも聞きたかったその声に、俺は何とか身体を転がし、そちらを向く。  地べたに這いずり回ったまま、霞む視界にその姿を捉える。  ……ああ。  やっと逢えた。 「お主……」  俺と目が合ったふたみは、喜びの表情を浮かべ───  次の瞬間、愕然とした。 「お、お主人ちゃん?」  ふたみは俺の有様に驚倒していた。 「…………」  声が出ない。  やっと逢えたのに。 「──失礼いたします」  音もなくふたみの背後に忍び寄った茂一が、彼女の腕を取ってその身動きを奪った。 「離せ! 茂一! お主人ちゃんが! お主人ちゃんが!」  それはふたみとは思えない大声だった。  蒼褪めた顔をした彼女は、俺の知る彼女とは思えないほどに取り乱していた。  だが、屈強という言葉に何ら遜色のない茂一の腕は、万力のように彼女の腕を締め付けて離さない。 「お主人ちゃん! や、やだ! お主人ちゃん!!」  ……見るな。  俺を見るな。 「──菊乃丸」 「ああ」  いつからそこにいたのだろうか。  静当主が顎でしゃくると、菊乃丸は心得た様子で俺の傍までやってきて、無造作に髪の毛をつかんだ。 「……う……」  抵抗もできないまま無理やり上に引っ張り上げられ、気のない背筋運動のような体勢でふたみと目を合わさせられる。 「っ……」  瞳に生気はなく、顔色は青白く開いた口を閉じる力さえも満足にない。  だらしなく垂れ下がった手足はもはや自分のものとは思えなかった。 「目を背けるでない」  静当主の静かに張り詰めた声が発せられると、茂一が「失礼」と言ってからふたみの顎を取り、首を固定した。  やめろ。  見るな。 「──雲戌亥の血を引きし者は、必然として炎者の能力をその身に宿し生まれくる」  その厳かな口調は、まるで孫娘に絵本を読んで聞かせる祖母のように。 「というに、そちは如何なる炎も扱えず、また火熱に対する耐性も酷く低い──以前、未寅の娘が『抑薬』を取りに参った事があったろう。  あれを用いねばならぬのは、未だ身体が整っていない幼子だけだという事は承知しておろう。火に触れた時、調整が利かぬが故に耐性が過剰反応を示し、反動として身体が変調をきたす……そちの場合は昔から高熱であった」 「な、何の話です。今は……」  ──だが、読み手が手に取る本は絵本ではない。  絵本などであるはずがない。 「その理由、聡明なそちが一度として考えもしなかったとは言わせんぞ」 「え……」 「百年周期に一度そのような者がある。炎者でありながら外れた質を持ち生まれ来る者。  ──まともに生きる事さえ叶わぬ者」  しわがれた声が読み上げるのは、どこかの気の触れた詩人が残した、この世の裏側の法則を記した書物に似て。 「歳経る毎に骨は磨耗し、血の巡りは滞り、十も数えぬ間に足腰は立たなくなる。ただ指折り、短き生の灯火掻き消えるのを待つだけよ」 「…………」 「そちが今生きておるのは何故か」  ……わかった。  わかりたくない事がわかってしまった。 「覚えておるか。そこで地べたを這いずり回る男子は、かつてこの街を訪れた事がある。この屋敷へと参った事がある。あれはそちとはまともに遊んだ事もなく、そちはもっぱらあれの兄とばかり遊んでおった」  俺は餌。 「そちは喰らったのだ……餌を」 「え……ど……?」  ふたみの為の餌。 「餌は同じ血脈の者でなくてはならない」 「…………」 「何を間の抜けた顔をしておる。これは事実よ」 「…………」  ふたみは固まっていた。 「そちは生きる為、あれの命を喰らった」 「…………」 (……め……ろ)  俺は精一杯に声を張り上げた。  だがそれは声になっていない。  やめろ。  やめろ!  やめろ!!  やめてくれ!! 「嘘……だ」  ようやく発した声は、酷くかすれて。 「ほう、この婆を疑うか。儂がこれまでそちに一度でも嘘をついた事があったか?」 「嘘だ!」 「──ならばはっきりと言うてやろう、ふたみ。  そちが。  そちがあれを殺すのだ。  そちが生きているという事そのものがあれを殺す」 「わ、わた……わたし……」 「あれはそちを生かす為の餌として、ただそれだけの為にその生涯を終える」  ──おい。  その娘はな、あんま笑っちゃくれないんだよ。  いつも無表情で、感情を顔に出してはくれないんだよ。 「疑えるか? 自らの足で立つ事すらままならなかったそちが、如何にして回復の兆し宿ったか……それは誰と出逢うた後の出来事であったか。  疑えるか? この婆を。目の前の現実を」 「おしゅ……じん、ちゃ……」  でもな。  最近、ようやく少しは笑ってくれるようになったんだ。  微笑んだ顔を見せてくれるようになったんだよ。  ──なんて顔させてんだ。 「ぐ……」  立ち上がれ。  赦せない。  ふたみにあんな顔をさせて。  雲戌亥家なんかどうでもいい。  俺は俺が赦せない!! 「ごめん……なさい」  ──やめろ。 「そう……だったんだ、私……」  違う。 「何も……知らないで、わたっ……何も知らないで、お主人ちゃんの事……」  違う、違う。 「好き……とか、勝手だ……い、命……奪っ……なのに、好き……とか」  違う違う違う!! 「戸惑って……たのに……私がヨメだとか言ってるから、迷惑だったのに、追い払えなく……て……」  伝えなきゃ。  今すぐ言わなくちゃ。 「……ぅ……ぅ……ぅ……」 「あ……ああ……」  もう声が出ない。  喉は潰れてしまったのか。  潰れててもいい。  声を出せ。 「ごめ……ごめんなさい……」  届け。  届けよ。  ふたみに届け。  この想いがどこまでも届くといい───  畜生!  こんなに近くにいるのに、こんなに大切な想いが届かないのかよ!! 「好きになって……ごめんなさい」  ふざけるな!! 「ごめん……なさい……」  俺は。  俺が。  俺がお前に出逢えてどれだけ幸せだったか。  どれだけ救われたか。 「ぐっ……く」  立ち上がれ。  脚なんか折れてもいい。 「う……あ……」  腰なんか砕けてもいい。  今立ち上がる事ができれば、それでいい。  ──伝えなきゃいけない事があるから。  頼むから、今だけもってくれよ。  頼む。  頼むよ。  ふたみに届いてくれよ。  あんな顔してるんだよ。  ふたみにあんな顔──あんな顔をさせちまってるんだよ。  頼むよ!! 「……た……み」  笑え。 「……お……レ……」  微笑え。 「おレ……へ…………キ」  精一杯に微笑え。  いつかあの娘が見せてくれた笑顔に負けないように、微笑え。 「おレ、は、へいキ」 「…………」 「だイ、ジョぶ」  上手く微笑えた──だろ?  ……あれ?  なんだ? 急に真っ暗に……。  あ、そうか。目を閉じてるのか。  こんな時に何をやってるんだ俺は。  急いで目を開けて───  …………。  開けてるぞ、俺。  間違いなく瞼を追いやった。  風を眼球に感じるもの。  …………。  …………たみ。  ふたみ…………。  ……これは、本当に俺が見ている光景なんだろうか。  ──泡が弾けた。  それは、ふたみの二の腕から生まれたものだ。  掌から生まれたものだ。  足首から生まれたものだ。  肩から、肘から、腿から、身体のいたるところから生じた泡が全身を覆っていく。  泡が彼女を覆ったのか、彼女が泡と化したのか。  わからぬまま彼女の形が消えていく。  じょじょにじょじょに、俺の大切な少女の形が失われていく。  ──やがて。  その先端は凄まじい勢いで天空を目指し、大気を駆け抜けた。  すでに俺の知っているふたみの姿はどこにもなく。  そこにはただ、天を支えるかのような雲の柱が建っているだけだった。  見上げれば空は暗雲で覆われている。  薄めたように広がって、夜空を覆い隠していく。  ……星が喰われていく。  瞬きを一つ一つ消し去って、人々の目から輝きを隠して。 「星空が見たい」と願った少女が。  今、星空を喰らっている。  薄れた視界が、込み上げた何かでさらに滲んだ。  ふたみ。  ふたみ。  届かない雲をつかもうとして、空に向かって差し出した腕。  もう感覚のない、満足に動かない腕じゃなくて。  この腕は────  それが、俺がこの世で最期に見た光景だった。 〜ラベル『あの雲の向こう側』の内容は記述されていません〜 「……河原でメメにぶちのめされて以来、こうして見上げる時はいつもお前の顔があるな」 「馬鹿」 「……なんで生きてるんだ? 俺」  上半身を起こしつつ身体を確かめるが、どこも変わった様子はない。  まったく変わっていない──どこもかしこも異常だらけだ。  今すぐこの場で絶命してもおかしくない。  というより、今すぐこの場で絶命しないとおかしい。  生きている理由がまるで成り立たない。  笑えない冗談だ。  こんな状態の人間が生きていていいはずがない。 「まだ生きていると思い込んでいるだけで、実は幽霊だ」と言われた方が遥かに説得力がある。 「──メメが機会をくれたのか?」 「好機と捉えるわけ?」 「当たり前だろ」 「……酷な……ようだけど」 「生きる機会にはならないってんだろ? そんな事は期待してないよ。俺はもう、自分は死んだと思い込んでいたんだ」 「…………」 「……説明、してくれるよな?」 「…………」 「メメ」 「……わかった」 「……その」  メメは言いよどんだ。 「心して……聴いてほしいんだけど……」 「ああ」 「胸に……手を当ててみて」  言われた通りに手の平を胸に当てる。  ──慣れ親しんだ感覚がそこにない。  実際の位置と多少ずれようが、胸に手を当てれば必ず感じるはずの鼓動がない。 「なるほど」 「……あんまり驚いてないね」 「いまさら何で驚くんだよ。心臓が停止してる程度でいちいち驚いてられるか」 「…………」 「というより、心臓が停止しているにも関わらず、俺がこうして生きて物を考えていられる事の方が驚きだ」 「心臓が停止してるだけじゃ物を考えられない事にはならないよ。考えているのは脳だから」 「でも、心臓が停止すればポンプの役目を果たす器官がなくなり、血液を循環させる事ができなくなる。取り入れた酸素を運ぶのは血液だから──酸素が絶たれた環境に一番弱いのは脳細胞じゃなかったか?」 「そうだね。だから心臓が停止すれば、遅かれ早かれ脳も死んじゃうね」 「じゃあ……」 「人工臓器ってものがあるよ。肉体の器官が役目を果たせなくなっても、その役目を引き継ぐ代替が」 「って……」  今この状況でそれを口にするのは、あまりに荒唐無稽だった。 「餌とは文字通り“他の誰かを生かす為の食料”だけど、喰われるのは肉体じゃない。腹を裂いて肝を啜るなんて、鬼女じゃないんだから。  喰われたのは“生きる”という権利そのもの。  その結果としてエドの心臓は停止したの」  生命でもなければ精力でも活力でもない。  俺が喰われたのは権利。  生物が生物として持ち得る不可侵の絶対。 「でもね、実際に臓器が破損したかというと、これは否。エドの心臓は今も健全な状態でその身体にあるんだよ。もう二度と動く事はないというだけでね。  これを覆す事はできない。“餌に定められた者の死”は、この街を覆う有識結界と同じく“言葉”で縛られている。  エドは死んだ。言霊の機能として呪詛は為し遂げられた。  けれど、その結果として心臓が止まったというだけで、肉体に致命的な破損箇所はない──放っておけば確かに血液が酸素を運搬できなくなって脳細胞も死んでしまったけれど、じゃあ逆に、心臓が停止しても血液だけは変わらず循環していたらどうなると思う?」 「…………」 「そういう事だよ。だからエドは生きているの。二度と動かない健全な心臓を抱えて」 「待ってくれ、メメ」 「なに?」 「お前の顔が蒼く見えるのは、俺の目がいかれたからか?」 「残念だけど、あなたの全身はもうどこもかしこもいかれているよ」 「その通りだ。だけどな、お前以外は普通に見えるぞ。って事は、俺の目はまだ少なくとも物体を形状も色も正常に見る事ができているという事だ。その上でお前の顔色だけが異常に見えるってのはどういう現象だ?」 「それなら鏡を持ってこようか」 「……俺も同じ顔色だってのか?」  同じ顔色?  ……俺と同じ顔色? 「ばっ……!」 「馬鹿はお互い様」 「メメ」 「機会と捉えるんでしょ? だったら何がどうであれ、誰がどうであれ関係ない。すべてを踏み台にしてでも立ち上がりなよ」 「お前が……俺の血液を動かしてくれているんだな?」 「言ってる事、聞こえてる?」 「お前が俺の心臓なんだな?」 「大袈裟だよ」 「…………」 「なに?」 「……メメまで俺みたいになるって事はないよな?」 「残念だけど、エドと心中にはならないよ」 「随分と派手に振られたもんだ」  ……良かった。  本当に……良かったっ……! 「愛の事はともかく、これだけは言っておかないと……って事が、あるんだけど……」 「いつまでももつわけじゃない、って事だろ?」 「…………」 「だろ?」 「……うん」 「どれくらいだ?」 「それはわからないんだ。数日かもしれないし、数時間かも……」 「今この場で絶命する可能性もある、と」 「……ごめん」 「なんでメメが謝るんだよ」 「だって、ぬか喜びじゃない?」 「とんでもない。一分だって、一秒だって──生きてさえいれば、ふたみを取り戻す機会がある。  充分だよ、メメ。ありがとう。本当にありがとう。  俺、必ずふたみを助け出すからさ」 「なによ……それ。愛は……」 「わかってるよ。未寅の者として……だよな?」 「……わかってないよ。愛は策を……助けたんだよ」 「ははっ」 「なっ、なんで笑うの!?」 「やっと“策”って呼んでくれた」 「……あ……」 「でも素直じゃないな。ふたみが心配だって、一言いってしまえば楽なのに」 「…………」 「……悪い。そう簡単に割り切れるものじゃないよな」 「割り……切るとか、そういう話じゃないよ。愛はご宗家に……」 「じゃあ、なんで俺は生きてるんだよ」 「だっ、だから……それは」 「ふたみを助け出す為に……だろ?」 「それは自惚れだよ。策に何ができるっていうの?」 「死にかけだからな。自惚れでもなんでもいい───  今なら何でもできる」 「…………」 「──『解対』」  その呟きに、メメは軽く驚いた表情を見せた。 「『解対』って言ってた。俺に……巽には力があるって」 「そっか。知ったんだ」 「教えてくれないか」 「──異能を二つ混ぜ合わせて、生まれてくる者が異能でないはずがない」  その言葉は、静当主が言っていたものと一緒だった。 「それぞれの異質が薄まったのか、より濃くなったのか、それはわからない。けれど確かに、異質の中からは異質が生まれる」  それが血によって継承、ないし発現するものであるのなら。  雲戌亥家と桜守姫家。  二つの異質が混ざり合った結果として生まれ来るものが異質でないはずがない──という理屈。  となると、桜守姫家もまた何がしかの……つまりそういう事だろうが、それは今はいい。  ……それらに触れる機会など、そうそうあるはずもなかった。  ありきたりの日常から最も縁遠いもの。  縁遠いからこそ、人はその胸に憧れという名の感情を抱く──必要だから手に取るのでも、生きる為に仕方なく背負うのでもない。  だからこそ、その欲求を満たす為、世には模造品が溢れている。  そこから飛び出すとすれば、それは常軌を逸した興味が後押ししなければならない。  殺傷と護身。  戦場を住処とし、戦闘を生業とする者によってこそ活用されるもの。  それらを為すべくして生み出されたもの。  それこそが本懐であるもの。  ──『武の器』。 「武器としても使える」では話にならない。  それなら道端の小石でもいい、折れた枝葉でもいい。  それは「武器として作成されたもの」でなければならない。  ──例えば鋏は「物体を切断する」広義の用途で生まれたもの。  包丁もまた料理用の刃物でしかない。  模造刀やモデルガンも、“模倣”を前提としているものだ。  どれも殺傷と護身を目的として生み出されたものではない。  日常は映画でもなければ小説でもない。  本物の武器になど、当たり前の日常をただ浪費しているだけでは、なかなか触れる機会はない。  居間の掛け軸の下に置かれていた、模造刀。  触れたところで何も感じはしない。 「これは武器として生まれたものではない」のだと知った瞬間、「お前が触れたところで俺の事など何一つわからないのだ」と、冷たく突き放される。  わかり合おうとしても、氷を握ったかのように差し出した手の温度を奪われるだけ──握手はできない。  けれど。  目覚めたその時、俺の枕元に置かれていた一口の刀。 (こいつは……あの時、菊乃丸から奪った……)  俺はメメを見る。 「なによ」 「……いや」  苦笑しつつ柄を握った瞬間。  俺はこいつと握手をする。  ──本質、構造、設計コンセプトに至るまですべてが瞬時に流れ込んでくる。  技術とは別問題として、何をどうすればこの武器を最も活かしきる事ができるのかが理解できる。  それは、わかる、わからないの問題ではない。  記憶しているかどうかでもない、問題を出される前から教わっていない答えを知っている。  ──それが“視る”という事。 「策はね、すべてを飛び越える事ができるの」  そうメメが告げる。 「普通の人が頭で理解して、身体で理解して、ようやく“識る”事ができるものを、触れるだけで“視る”事ができる。  垣間見ているのでも凝視しているのでもない、“視る”事は“識る”事なの。  製作者がどんな意図でそれを設計したのか、製作者の心情という意味ではなく、出来上がったものは何を目指して生み出されたのか──そうした製作者本人に訊かなければわからない、もしくは記録に残されていてこそ初めて確認する事ができる、本来なら使い手が推測するしかない設計コンセプトは勿論、分解しなければわからない各種構造、それぞれが何の為に在るのか、それらを労力なく知る事ができる。  理解する、理解できる以前に“識る”事ができる。  でも、ここまでならただの薀蓄。知識をひけらかす事しかできない」 「──いい? それらを“識っている”という事は、何をどうすればそれが最も活きるのかもわかっているという事なの。  策は手にした武器を最も有効に使いこなす事ができる。  刀を持った瞬間に“斬る”事ができる。  槍を持った瞬間に“突く”事ができる。  矢を持った瞬間に“射る”事ができる。  ──何年も修行して初めて、それも限られたごく一部の、稀有の才能を持つ者だけが到達できる領域まで一気に飛び越えられるんだよ。  策はその武器の才能を開花させる事ができる。誰よりも、より正確に。  本質を読む事ができるんだよ」 「どうして巽の芸術家が誰も彼も世に認められる逸材揃いだったのか、今ならよくわかるよ」 「それは当然の事なんだよ。どうすればその花が最も活きてくるのか、触れるだけで識る事ができる者が活ける花が人々の心を震わせないはずがないもの。どんな芸術も根本はみんな同じ、“人の心に訴える事ができるかどうか”だから。  龍視の者たちは、みんな“自分はこうすればいいと思う”じゃなくて、解対を通して視た“対象が最も活きる形を再現”していたはずだよ」 「ああ。巽の者たちの“努力”っていうのは、その“再現”をなし得る為の技術を磨く事だったんだな。“感性”なんか初めから必要なかったんだ」  俺がどうして芸術家として芽が出なかったのか、今ならよくわかる。  俺は表現に関してあーだこーだと悩んでいた。  だけど、巽の皆はそこを初めから飛び越していたんだ。 「少し……救われたよ。俺は自分の事を落ちこぼれだと思っていたから」 「落ちこぼれなんてとんでもない。龍視の人間は、龍視であるというだけで解対を有して生まれてくる。何を“視る”事ができるかが違うだけ。  ──だから、こと戦闘という意味合いにおいて、策を追い抜く事は誰にもできない」 「……行くんだ?」 「ああ」  俺は上手くない。  ──でも、こんな時に気の利いた台詞なんか必要ない。 「これだけわかれば充分だ。時間もない事だしな」 「策……」 「逃げる理由がないよ、メメ」  惜しむ命がすでにない。  俺はふたみを──助けたい。  なら何処へ向かって走ればいいのかなんて、決まっている。  ……俺は、もう死んでいるも同じだ。  死体との明確な違いは、腐るか腐らないかでしか語れない。  生と死の判定で辛うじて天秤が生に傾いているだけ。  ならば俺は、動く死体。  ……それだって、いつまでももつわけじゃない。 「俺の時間を、ふたみにやるんだ」  残り、何日だ。  何時間だ。  何分だ──何秒だ。 「……そっか」 「メメ」 「……ん?」 「色々とありがとう」 「勘違いしちゃ駄目だよ。策がご宗家に仇なすなら、愛は敵だよ」 「向かった先でメメが敵として立ち塞がっても、俺には文句を言う筋合いなんかないさ。  ただ──手加減はしてやれないぜ?」 「はは……」  メメは可笑しくもない冗談で笑ってみせた。 「ありがとう」  もう一度、俺はその言葉を繰り返す。  何度感謝してもし足りない。 「じゃあな」 「まっ……待って! 待ってよ!」 「俺を止める理由があるのか?」 「……あるよ」 「俺を止める事ができるのか?」 「えっ」 「脅しは効かないよ、メメ。  メメの炎は心を焦がす炎だ。それがお前の能力なんだろう」 「……気付いてたの?」 「自分を生き長らえさせてくれた理由も考えられないようじゃ、ふたみを助けに行く資格すら得られないさ」 「…………」 「けど、今の俺の心は焦がせないよ、メメ──もっと熱いもので燃えている」 「…………」 「同じものの在り処を、俺は知ってる」  拳で、こん、と。  メメの胸を叩いた。 「さよなら、メメ。  俺は必ずふたみを助ける。  だから、後の事は頼むな」 「策っ……!」  もう自分が助からない事くらいわかる。  ──不思議なもんだ。 「死んでしまうかもしれない」とか「もしかしたら助かる方法があるかもしれない」だったら、俺は取り乱していたかもしれない。  死の恐怖に怯えながら周りに当り散らし、眠れない夜を過ごしながら必死に自分を落ち着かせようとしていたかもしれない。  それとも自暴自棄に陥ったか。  けれど、もう無理なんだ。  それがよくわかる。  自覚が人を変える。  それが成長なのかただの変化なのかはわからないけれど、この事は俺がこの街に来てからずっと痛感してきた事だ。  失格したという自覚。  失格した事を認めていなかったという自覚。  それらに気付く度に、俺の中で心構えが変わり、例え前と同じ環境であったとしても、俺に見える景色には変化が生じた。  なによりも。  ……ふたみの事を好きなのだという、とても大切な自覚。  自分には解対があるという自覚。  為せる事があるのだという自覚。  ──もう無理だと悟ったから。  後は、やるべき事をやり抜くだけだと気持ちが固まる。  門を抜け、俺は屋敷に振り向いた。  短いようで長かった、この家で過ごした一ヶ月ちょっとの日々。 「お世話になりました」  頭を下げ、それからゆっくりと顔を上げる。  ありがとう。  ──さあ。  死にに行こうか。 「……まったくさ」  主のいなくなった屋敷に取り残された愛々々は、独りごちる。 「自分を生き長らえさせてくれた理由も考えられないようじゃ、ふたみを助けに行く資格すら得られない」  そう、彼は言った。  ──その通り。  策を生かす事は、愛々々だからこそできた事であった。  愛々々の異能は『意炎』と呼ばれている。  これは、対象に直接情報を送り込む事のできる能力である。  だが、雲戌亥家の異質の血から生まれたものである以上、それは炎にまつわる。  送り込まれた情報は負の心象を伴って、対象を侵食するのだ。  だから愛々々の能力は、彼が言った通り、「対象の心を焼き焦がす」と認識されている。  彼がいつその事に気付いたのか。  能力を見せたのは、ただ一度きりだ。  あの状況下で、周囲のものが一切物理的に燃えていない事に気付いたのか──それとも、後になって思い返した時に気付いたのか。  いずれにしろ、彼の状況認識能力が優れている事を認めざるを得ない。 『意炎』を持つ彼女にとって、生きた人間を廃人に変える事など容易い。  心の弱い人間なら尚更、強い心の持ち主とて、僅かな隙間からその炎は侵入し侵略していく。  だが、その能力がどうして死にかけの人間を生かす事に繋がったのか?  策は何を見抜いたのか。  心を焼く『意炎』。  だが、対象が死体であった場合はどうであろう。  これは考えるまでもなく、能力の対象外である。  では、死に瀕した相手であれば。  これは相手が生きている間であれば、効果があろう。  では、能力の使用中に相手が死んでしまったら──?  その時『意炎』は、その効果を発揮する場を作ろうと、初めて対象の身体へ向かって物理的な機能を見せるのだ。  当然であるが、送り込む情報の行き先は対象の脳である。  これが機能を停止する事を避けるべく、『意炎』は働く。  策の場合は心臓が停止した事によって、酸素の運搬が妨げられ、脳が死亡しようとしていた。  だから『意炎』は、血液の運搬を促すべく心臓の代替となったのだ。  だが、これは副次的な能力でしかない。  情報を送り込む場を維持する為に働く事は、つまり本懐を達成する為にこそある。  本来の機能ではないこの裏能力は、恒久的な持続が叶わず、もって数時間から数日。  つまり策が再び死亡するのは、時間の問題だという事だ。  この事は愛々々しか知らない。  自身が対象になったという状況も手伝っただろうが、見抜いたのは策が初めてだ。  他の雲戌亥の眷族も、宗家の当主さえも、裏能力に関しては知らない。  彼女がまだ精神的に分別もなく、能力に関して満足な自覚すら芽生えていなかった幼少時。  近所に誰彼構わず吠える犬がいた。  昔はおとなしい犬で、懐かれていた彼女はこの犬を可愛がっていたのだが、最近になってやたらと吠えるようになり、彼女も段々とこの犬を避けるようになっていた。  その日、とある理由で機嫌の悪かった彼女は──煩わしく思っていたこの犬に吠えられた時、自分でも意識しないままに『意炎』を使用していた。  突然苦しみ出した犬に驚いたのは彼女の方であったが、飼い主は哀しそうな表情を浮かべただけで、平静であった。  飼い主が言うには、この犬はもう病で長くなかったらしい。  死期が近づいた犬はおとなしくなるというのが一般的だが、この犬は己が生きていた事を主張するかのように、いつも顔を合わせていた人たちに「忘れないでくれ」と訴えるかのように、逆に吠えるようになったという事だった。  この時、誤解していた彼女が犬に泣きながら謝ったという話はともかく───  ──異変が起きたのはそれからだった。  犬は生き続けたのだ。 「次に発作が起きたらもう助からない」と聞かされていた飼い主は驚き、獣医もまた首を傾げるを通り越して仰天した。  犬は死んでいたのだ。  なのに生前と変わらないままに動き回っている。  そして数日後、犬は動かなくなった。  この一件は「こんな事もあるんだなぁ」という、生命の神秘を物語る話として終わったが、後に彼女が自分の能力を自覚した時、そして能力に関して知れば知るほどに、犬の話を思い出さずにはいられなかった。 「どうして犬は生き返ったのか?」  当時の彼女はこれを“生き返った”という形で認識したが、よくよく能力の構造を考えてみれば、「効果を与える場を守ったのではないか」という結論しか導き出せなかった。  能力を使用した時の独特の感覚は本人にしかわからないものであるから、あの時、犬に頭にきて『意炎』を使っていたのだという事は、思い返せば彼女には知り得た事。  そして彼女にしかわからない事。  ──犬を殺したのは彼女だ。  生かしたのも彼女であるが、殺したのも彼女だ。  例え次に発作が起きれば耐え切れないほどに衰弱していたとしても、その発作を引き起こしたのは、彼女の見せた白昼の悪夢に驚いたからに他ならない。  彼女はこの事を本気で反省していたので、「二度と使うまい」と誰にも話さずにいたのだが───  ……こんな形で役立つとは。  いや、本当に役立ったのだろうか。  あの犬の時と同じように、本人の意思を無視して、死ぬべき者を勝手に生かした。  策は感謝していたが───  愛々々にはわからない。  命を自由にできると思っているほど彼女は傲慢ではないし、不意の事故から助けたというのならともかく、避けられない死が待ち受けている者の運命を捻じ曲げた。  それも、人並みの寿命を与えてやれるというのでもなく、ほんの僅か死期をずらす事ができるだけ。  その罰なのだろうか。  本来の用途から外れた『意炎』は、使用者本人にも苦しみをもたらす。  副次的な作用のせいで、情報の伝達が上手くいかないのかもしれない──ある意味において、これは相手の脳と自分の脳とが直結しているのかもしれない。  対象の痛みが自分の中に流れ込んでくるのだ。  犬の時もそうだった。  策にしてもそう。  実際は彼女はまったく負傷などしていないのだが、対象者と酷似した状態にその身が置かれるのだ。  催眠状態にかかった者に、火のついた煙草だと偽って棒を押し付けると火傷をする、これはそれと似た現象なのかもしれない。  この状態は『意炎』が効果を及ぼしている期間中、つまり対象者の生命が停止し、『意炎』が“場を守る事が不可能になった”と認識するまで続く。 「…………」  やはり、愛々々にはわからない。  それでも、自分の身が相手と同じ状態に置かれているという事が、彼女の気持ちを少しだけ救っていた。  ──ただ、一つだけ。  策は勘違いをしていた。  いや、気付かないままで行ってしまった事がある。  あの会話が行われた場所に立ち、愛々々は思い返す。  策は言ったのだ。  優しく微笑って。 「なんでそんな難しく考えてるんだよ」  と。 「ふたみとメメは友達だった。そういう事じゃないのか」 「え……」  あの時、愛々々の表情は、あまりにも意外だと言いかけていた。  まるで、そんなふうに考えた事など一度としてなかったとでもいわんばかりに。 「ご宗家のご令嬢に対して、愛なんかがそんな……」 「どこのどちら様であっても関係ない」  そんな当たり前に考える事すら許されなかった。  ──彼女もまた、家柄に縛られた人間だ。 「メメさ。俺と初めて会った時の事、覚えてるか?」 「なによ、急に」 「メメは何て言ったんだっけ? “『タツミ』と逢ったら”……」 「あ、あれは……」 「そうじゃなくてさ。メメはこう言ったんだよ。“ずっとずっと前から考えてた”って。  ずっとずっと前から、メメはそうだったんだ」 「…………」 「ずっとずっと、ずっと前から、ふたみの事を考えていた。  本当なら、未寅の者なら、俺は歓迎するべき餌であったはずなのに、メメは俺を……『タツミ』を邪魔者だと思っていたんだ。  そして、ずっと俺を試していた。  なんでかな?」 「策……」 「答えは出ていたはずだよ、メメ。難しく考える必要なんかないんだ。自分の気持ちに素直になればいい」 「……まいったな」  と、愛々々は再び独りごちた。 「みんなみんな、あなたの言った通りだよ、策」  その気持ちに気付いていなかったはずはない。  ただ、それを認めてしまう事は、背負った未寅の名が、刷り込まれた眷族としての教えが許さなかったのだ。  そして愛々々は、晴れやかな顔で苦笑する。 (……別の意味では素直だったんだけどなぁ)  初恋の相手が死にかけなどというのは、まったく締まらない話だと笑う。  宗家の令嬢の相手だと知りながら、その存在が日に日に自分の中で大きくなっていく事を感じた時、彼女は戸惑った。 (ま、フラれちゃったんだけどね……でも本人はフッた自覚、まるでないんだろうなぁ)  それなのに、こんなに気持ちが清々しいのは何故だろう。 「ねえ、ご当主様……静様」  瞳を閉じて、優しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 「おねーさまと策、お似合いのカップルだと思いませんか?」  ……一呼吸一呼吸が、まるで人柱と知りながら敵地へ向かう行軍の如く感じられた。  息を吸い込む度に、酸素に一つずつ針を持たせているかのように。  職務に忠実な血液は、棘の出っ張りに気付こうが気付くまいが酸素を全身の細胞に行き渡らせるべく運搬し──その度に細胞を一つずつ死滅させ、茨はやがて臓器に穴を開けていく。  破壊の為の呼吸運動。  それでも酸素を取り入れる事でしか、生き延びる術はなく。  矛盾の中で着実に終着へと向かっているのは人間という生物として大差ないが──尺が短過ぎる。  それでも一つだけ違うのは。  これは負け戦じゃない──いいや、負け戦になどさせない、という事だ。  死んだら負けじゃない。  それはもう決まった事なのだから。  ふたみを救い出す事ができれば俺の勝ち。  後も次もない。  ただそれだけがたった一つきりの勝利条件。  それからもそしてもない。  ふたみを救い出すまでもてばいい。 「……ふたみの事、教えてくれよ」 「…………」 「人一人分の“生きる権利”を喰らって、ふたみはどうなった?」 「それは……」 「いいだろ? もうすぐ消えてなくなる半死人を相手に独り言ぐらい」 「こんな時だけ同情を引くの?」 「こんな時じゃないと使えない手だからな」 「策はずるいね」 「まったくだ」  都合のいい時だけ神様を頼る──しかも何処の神様とも特定していない男の行き先は、天国かな、地獄かな。 「……言える……」 「──範囲で構わないよ。言葉にできない事はわかってる。  メメが能力を使って俺に教えてくれたのも、制限がかかってるからなんだろ?」  その言葉に、メメは息を呑む。 「それでも尚、制限があった。でもそれがきっかけだった。だから俺は突破できた。……そういう事なんだろ?」 「……ホント、まいったね。これは」  メメは感心したような、呆れたような──複雑な表情を浮かべて。 「せっかくまだ頭が動いていてくれてるんだ。考えられる間に、考えられるだけは考えてみるからさ」 「わかった」 「策は……“あまりょう”って知ってる?」 「雨……? “りょう”って“竜”か? それも雲戌亥家お得意の言霊?」 「ううん。これは実際にある言葉だよ。そう、確かに雨の竜とも書くね」  ──かの益荒男。  当時の慣習をことごとく破っては敵軍の虚をつき、歴史に不滅の驍勇を刻み込んだ時代の破壊者の名は、源九郎義経。  判官贔屓という言葉を生み出すきっかけともなった、嘆きの英雄───  その寵愛を一心に受けた者の名を、歴史は記憶している。  稀代の白拍子として名高い彼女が歴史に最初に姿を見せるのは、時の帝が京は神泉苑で執り行った雨乞いの儀式であるといわれている。  その当時、京の都は数年もの間に続いた日照りによって涸れ果て、朽ちていこうとしていた。  この時代、雨乞いの儀式を以って恵みを招聘できるかどうかというのは、頂の椅子に座る者の真価が問われるほどの重要性を持っていた。  天候というどうしようもない災厄に対し、どうしようもないものだからこそそれを制し、民草を救う事ができてこそ王冠を被る条件とされていたのだ。  だからこそ、簡単には開かれない。  何故なら失敗は許されないのだから。  失敗は、それ即ち自らの無能を世に知らしめる事に他ならないのだから。  雲を呼び、雨を降らせる八大竜王が住まうと伝わりし神泉苑の池。  朝廷の威光を世に知らしめる為、帝たる後白河法皇が招来した舞姫は百人。  それが法皇が選んだやり方だった。  舞によって神に訴えかける事こそ、この国の神話に起源を置くものなのだから。  一人。  二人。  いかに可憐に舞おうとも効果は非ず。  十人。  二十人。  やはり効果はなく。  遂には九十九人。  八大竜王は微笑みかけてくれる事さえなかった。 「『蛙蟆龍』っていうのはね──」  この時、後白河法皇より最後の舞姫が賜った舞衣に描かれていたものである。 “雨竜”や“雨龍”とも書き、吉事の前兆をもたらし、好運を呼ぶと信じられている想像上の生物の事だと、メメは言う。  害をもたらす妖怪である“蛟”と同一視される事もあると。  今では当たり前。  だが、当たり前となるまでにどれだけの惨劇を呼び込んだだろう。  当たり前が当たり前であるという事は、即ち、何ら疑問の余地もないという事だ。  どう考えてもそうあるべき事柄であり、自然、行き着く先見の結果だという事だ。  連中が呼ぶところの『有識結界』。  有識とは僧の称号の一つともなっている通り、対象を分析し、それによって認識する心の働きを有する者を指す。  なるほど、まるで見た目や目先の感覚に囚われ、いつまで経っても解脱の悟りを啓けぬ沙門のようではないか。  結界とはやはり仏語で区域の制限の事なのだから、制限された有識では疑問すら持つ事ができない。  有識とは有職とも書かれ、有職家、有職故実などといった言葉があるように、学問に精通する事を差す。  なるほど、まるで自分が知っている範囲こそが世界のすべてだと思い込んでいる学者のようではないか。  結界内こそが連中の領土ならば、情報はそもそも規制されている。  つくづくよくできている。  まったくよくできた──吐き気を催す王様ごっこよ。  この街の支配の根源。  まさしく、あの雲こそが。  ──身震いする。  この街の空が雲で覆われた日の事を、忘れない。  それは雲戌亥家の旗が掲げられた日。  独裁の曙を告げる狼煙であり、邦家を樹立した宣言。  その為にいかなる犠牲をも辞さなかった。  一族の支配の為とあらば、喜んで身を投げ出すなどという狂気を内包する血脈よ。  雲の名は『蛙蟆龍』。  あれは生きた人間だ。  人の変化にて領土の占有を保持するなどと、如何なる独善の狂態を演じれば思いつこうか。  ……為し得ようか?  内に宿りし炎の力を極端に制限する代償として、身体そのものを作り変えるなどと──ましてや、その状態で子を生し子孫にまで楔を打ち込むなどと。  ……あれこそが呪詛でなくてなんだというのだ。  それを受け入れ続けてきたあの一族の精神はもはや正常とは呼べぬ。  あれを正常と呼んでしまうのなら、産まれたばかりのまっさらな赤子すら疑って生きていかねばならない。  蛙蟆龍の命が費える世代、新たな蛙蟆龍が生まれる。  その周期は百年。  元は脆弱な人の身をいじってそれほどまでに生きられる理由は───  ……恐らく、同じ周期で“外”より連れてこられる、かの一族が関係していよう。  また百年、連中の支配が続く。  狼煙の雲が上がり、抵抗の術を持たぬ者は疑問を疑問とすら感じられずに日々を過ごし、隔離された歴史書の頁がまた一枚捲られる。  あれの対象外であるのは、『有識外し』が施されている者のみ。  そして対象外でいられるのは、そうであれる術を持つ桜守姫──そして。  今代に生まれくる者が、今回の蛙蟆龍である事は考えるまでもなかった。  故にこそ幼子の内にと───  此芽、みどの、随一の使い手としてあれの二親が向かったが、蛙蟆龍の二親に阻まれた。  く、と、口許に浮かんだ揶揄。  恵みをもたらす龍───  誰にとっての恵みか。  ……正直、こんな時は安っぽい英雄的な感情が押し寄せてくるものだと思っていた。  けれど、こうして直面してみてわかった事───  そんなもの、物語を端から見てる側にしか感じる事はできない。  きっとあの英雄は背負った大義にだとか、己の身を省みない自己犠牲の精神にだとか、自身の悲劇的な状況にだとか、そんなものを全部含めて──陶酔なんて一言で片付けて、世の中を斜めに見た事もあったけれど。  はっきり言って、そんなものを感じている余裕なんかない。  目の前しか見えない。  果たすべき目的しか頭にない。  鏡を覗き込んでる暇もないのに、自身の状況を冷静に鑑みてる余裕なんかあるわけないだろ。  陶酔は死んでからでいい。  時間に余裕ができたらゆっくりと浸らせてもらうよ。  今はただ。  己が己に下した最後の使命を果たす事しか考える事ができない。  英雄を称える唄になど興味はない。  鎮魂歌など聴いている暇はない。  ──そうだ。  例えいかなる存在がその門を護っていたとしても───  俺は、そこを通らないといけないんだ。 「……御主が未だ存命である理由は問うまい。だが、脆弱であれ生きているならばこそここへと参られる……そう確信しておったぞ」 「退けよ」 「あまりにも芸のない言葉よ。己に自信を持つ者は、容易く取り乱さぬものである」 「自信なんざねえよ、馬鹿野郎。いっぱいいっぱいだ」 「その上で。この午卯の茂一が守護にあると知りながら、この大門の突破を試みるか」 「試みるか、だって?」  ──笑っちまう。 「突破できるか、じゃない。  ──俺は“そこを通してもらう”とお前に言いに来たんだ!!」 「その覇、心地よし。受けようぞ、龍視」  漆黒の阿吽の腕に抱かれた長柄が宙を旋回する。  身を回す度に生じる大気の摩擦を押し退け、風切り音をその場に残す。  ──それは威嚇。  障害となる一切は払い除けられるのだと。  抵抗の無意味を大気を通して辺り一帯に知らしめるは、見えざる覇道。  武の覇道。  刃は覇を語り、その先端を俺へと向けた。  俺は腰の刀に手を添える。  ベルトの間に無理やり押し込んだ、一口の兇器。  柄を握り、差し抜こうと──した瞬間、詰まった。 (……とんだ素人だ、俺は)  落ち着け。  静く視れば解る。  持ち方は逆。  刃を下に向けるのは太刀。  打刀は刃を上に。  でなければ鞘と刀身を傷つけるだけ。  菊乃丸とかいう奴と戦った時は、とにかく夢中だったからな───  冷静に、正常な精神で刀を抜くのはこれが初めてだ。  随分重いな、まったく。  人を殺せる道具の重み。  人を殺してしまう事のできる兇器の重み。  馬鹿でかい太刀を振り回しては戦場に覇を唱えた豪傑が化物だって、今ならよくわかる。  この大きさ、重さだって、振り回し続けていたら体力なんかすぐに尽きてしまう。 「──ハッ」  冷静?  正常な精神?  白昼堂々、他人様の家の門前で刀抜いてる奴のどこがまともなんだよ。 「……恨まないからさ」 「む?」 「あんたが俺を殺しても」 「……ふむ」 「だから、俺があんたを殺しても恨んでくれるなよな」  虚勢を滑らせ己を鼓舞しろ。  素人が玄人に勝てるもの。  それはたった一つ、気概しかない。  勝てると鼓舞しろ。  負けるはずがないと鼓吹しろ。  ──気持ちで相手を叩き伏せろ!! 「……よい判断だ」  茂一の口許が、僅かに動いた───  長柄と対峙した時、穂先との距離は零に限りなく近付く。  眼前に突きつけられた切っ先は、操者がもう一歩でも深く踏み込めば容易くこの身を串刺す。  次の瞬間の映像は、後頭部に出っ張りを設けた我が骸骨。  鴉の群れが気紛れな食事にありつく、晒された骸。  ──身を引いた時、狙いは胸部へと移る。  瞬時の判断が死活を分かつ。  突き出された一閃は、既に軌道を変え頭部めがけて繰り出される。  刃の表面で薙いだ時、矛の身は俺の頭を飛び越して。  踏み出すまでに時間は要らない。  阿吽の無防備な身体がぐんと近付き、俺はさらにもう一歩踏み込む。  目前まで迫った時、相手の得物は半回転して俺を横殴りに強襲する。  ならばこそ、俺はすでに刀を振り上げていた。  ──一閃は茂一の残像を斬り裂き、手応えのない感触を教える。  一瞬前までいた場所に茂一が戻った時、矛の柄は俺をしたたかに打ち据え──ず、空しく大気をなでる。  腰を屈めた俺が背筋も伸ばさず刀を突き立てたのは、黒衣の外れ。  回転した矛が頭上高くに持ち上げられていた時、雷撃が弾ける。 「むんっ!!」  紙一重で肌に触れようかというところで天を下った稲妻は、僅かに引いた次の瞬間には横に払った俺の刀に対してあまりにも無防備だった。 (ここだ!!)  ──けれど大気をなでただけ。  大柄の身がまるで剽悍な獣の如く跳んでいた。  ──静止。  次いで。  飛来する稲光。  打ち返すは三日月の風。  疾駆する鋼鉄の誉れ。  熱せられた玉鋼が兇器と化して武芸を語る。  剣戟は喧々。  風切りは囂々。  葬送に辿り着くにはまだ早い。  互い、僅かに一呼吸を置く。 「ふむ……」 (……驚いた)  ──これが『解対』か。  これが“武器を視る”という事。  いける。  いけるぞ。  俺はこの不動の阿吽と互角に打ち合っている。  これならいける─── 「……外の歴史において」 「え?」 「群雄たる武の時代を制し、三百にほど近き治世を布いた将軍がいたな」 「徳川……の事か?」 「その刀に触れ、その銘を知ったであろう」  刃に波打つ巨大な波紋は、両揃え。  華やかさからはかけ離れた極致を目指し旅立った果てに、辿り着いたのは純粋な切れ味。  そうだ。  俺はこの刀の名前を知っている。  理解するよりも先に刻み込まれた、この刀の銘は─── 「『村正』」  伊勢湾に面する桑名に生まれた、千子村正なる刀鍛冶。  その手より生み出され、またその名を継いだ者たちにより生み出された。  磐石の将軍治世に陰を落とせし、連鎖する妖刀。  大御所、徳川家康の祖父である松平清康。 「三十歳まで生きていれば、必ずや天下を統一した」とさえ呼ばれた名将であったが、彼の重臣に謀反の疑いありとのあらぬ噂が持ち上がった時、その息子は父が処刑されたと早とちりをして主君に牙を剥いた。  この時、清康を惨殺した刀こそが村正──これこそが妖刀伝説の始まりである。  元々は「常軌を逸した切れ味」という意味合いでこそ妖の刀と呼ばれていた村正であったが、これを機にまるで怨霊じみた祟りの象徴として偶像化される。  家康の父は酒に溺れた家臣に斬りかかられるが、この時の刀もまた村正。  家康の息子が切腹した際に介錯をした刀もまた村正。  そして己自身を傷つけた刀もまた村正。  遂に家康は、村正と銘のつく刀を廃刀処分するよう命じるまでに至った。  ──時の将軍の抑圧下にあれば、それは“禁じられたもの”としての性質を帯びる。  芝居という娯楽を通じれば、これほど“災いの刀”として物語を引き立たせるにおあつらえ向きの小道具はない。  禁じられているが故の畏怖は空想を掻き立て民草の酒の肴となる。  帯刀も、所持すら禁じられても──否、だからこそ呪詛はあまねく人々に知れ渡ったのだ。  家康こそが妖刀伝説を増幅させ流布させた張本人という皮肉に他ならない。  徳川に仇なす刀だと───  大阪夏冬両陣において徳川勢を苦しめ、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と嗤った、後に『真田十勇士』の創作を生む事になるほど世に名を知らしめた静かなる猛将、真田信繁──いわゆる真田幸村。  数千人もの門下生を抱えた軍学塾『張孔堂』の塾長であり江戸期における稀有の軍学者、徳川の武断政治を正すべく慶安の変を起こした由井正雪──そして、幕末期において徳川の世を打倒せんと志した勤王志士たち。  彼らは皆、村正を好んで腰に帯びた。 「家康とは頭のいい男だな」 「何?」 「であれば、随一の名刀を独占できるではないか。祖父を、父を、息子を──肉親を斬り殺し続けた刀を、生き残った己こそがまるまる平らげる。  専制の磐石を築きし器あればこそ、それは狂っていなければならない」 「たいした持論だ。雲戌亥家だからこその経験談か?」 「越権である。吾は仕えし刃なれば」  斬り結びから後ろへ大きく跳び、再び距離を取る。  槍だろうが矛だろうが、刀で長柄に立ち向かうには相手の三倍の実力が必要だとか言うけれど───  問題はない。  だからこそ、ふつふつとある感情が湧き上がってくる。  呪いは偶然の積み重ねの上に捏造されたものだとしても、切れ味は本物だ。  ……肉に触れれば裂ける。  斬れば血を浴び、貫けば臓腑を抉る。 「もう一度だけ訊く。そこを退く気はないんだな?」 「その問いかけは侮辱であると共に自嘲である。守る為にここへ参った護るべきもののある御主が、この門を守護する吾が誓いに泥を塗るか。恥を知れ」 「……そうだな。悪かったよ」 「宜しい。ならば望みは──器で語れ!!」  覚悟を───  俺は覚悟を決めたはずだ!!  ──交差する寸の異なる影。  俺が振るう刀は、この刀にとって最も速度の出せる道程しかなぞらない。  最も効果的な運用法しか取らず、無駄は一つもなく、刀は最大限に武器としての性能を発揮する。  仕留めてしまえる。  優越が心を焼く。  その炎を吹き飛ばしたのが、対峙する相手の気概だというのが皮肉だが───  だからこそ、俺はこの一撃を叩き込まなければならない。 「っ──!」  ……なんだ? この感覚。  この不愉快な感覚。  嘘で築かれた立場に置かれたような、偽りの上で成り立った関係を推し進めているような……。  まるで石の上に金メッキを塗って見栄えだけ整えたかの如き───  ──ほんの間隙を狙って繰り出される矛先。 「くっ……!」  馬鹿な。  何を考えている──今は戦闘中だ。  余計な事は考えるな。  俺にはかます余裕も見せてもいい油断もない。  全神経を集中させろ。 「……目というのは不便なものだな」 「っ……?」 「見ようと思って見たところで、存外見えぬもの。何気なく視界に留めておく方が見える事もある。 “視る”とは比喩。目で見ているわけではない。“視している”のだ。  それこそが『解対』なり」 「……いいのか? そんな事を教えちまって」 「ここを何処と知って、ただ独り、ただ一口を手にやってきた武士よ。御主には尽くすべき礼がある」  この気骨に報いる為には、打ち込むしかない。  俺ができる最高の一撃を。 「……ふむ」 「午卯の茂一、覚悟っ!!」 「──意味が通じておらなんだか」  ……何が起こった。  立て……ない。  まるで獰猛な獣に喰い尽されるかのような一瞬が過ぎ去った後、俺は地べたに転がって天を仰ぎ見ている自分に気がついた。 「うがっ……っ!」  僅かな身動きをする度に、全身の骨が一本一本折れていくかのようだ。  骨の妙な軋みを感じるのは一箇所だけじゃない。  一つ一つの衝撃が大きく、複雑に混ざり合って正確には割り出せないが……最低でも三。  あれは連撃。  見えない先端が続けざまに打ち込まれた。 「刀を振り回したいのか、刀に振り回されたいのか」  その口許は静かながら、語調は僅かに窘めで歪んでいた。 「な……に?」 「実によい動きだ。……動かそうと望む先に関しては」  その言葉に息を呑んだ。 「でも、策。策は今知った。知ったばかりなんだよ?  それに合わせて肉体を整えたわけでもない、だからこその修練を積んだわけでもない。  ──使い方が理解できるだけで、肉体的な限界は突破できないんだよ」 「わかってるよ」 「わかってないよ。策は力を頼りにした。解対があると知ったから、ご宗家との戦いにもお嬢様を救い出すだけなら勝機があると見出した。  だからはっきり言わせてもらうけど、策の弱点は明確すぎる」 「…………」 「どう使えばいいか識っていても、身体がそれを実行できるとは限らない。  簡単に言うと、策には持ち上げる事ができない重量の武器があるとして、策はそれを持ち上げる事ができるまでに身体を鍛えたわけでも、持ち上げた後に思い通りに振り回す事ができるようになるだけの修練を積んだわけでもない。  その武器の必殺の一撃を識っているだけでは、それを行い得るとは限らないんだよ」 「なるほど。俺は本でも書いてるべきだな」 「そうだね。策の本に書かれた事を忠実に再現できる人は、無敵の武術家になるだろうね」  メメの言葉には、冗談とは思えない響きがあった。 「十年……五年、ううん、三年でもいい。その眼を自覚し、駆使した策が本気で修行を積めば、あなたはいかなる武器でも使いこなす無双の存在になれる。  愛や菊乃丸なんか目じゃない。世に名を馳せたいかなる剣豪も、武術家も、軍人も、あなたには敵わないよ。何をやってもあなたには敵わない。  百の刀剣を使いこなし、千の銃器を必中させ、いかなる近代兵器であっても手に取った瞬間に習得済みと化す戦場の覇者。  ──まさに一騎当千。  到達するべき場所を初めから識っているあなたの成長速度は、他の人間とは雲泥の差だもの」 「時間さえあれば、だろ?」 「…………」  知ってる。  そうしてきた人たちが身の回りに沢山いた。  そうやって考えてみると、巽の人間の才能ってのは本物だ。  それそのもののすべてを瞬時に見抜く事ができる──それが自分にとって当たり前──の者たちが、幼少の頃からその道で修行を積んだのだから。  誰よりも習得が早いのは当然、誰よりも使いこなせるのも当たり前。  何をどうすればそれが最も活きてくるのかを本質からして理解しているのだから。 「メメ。ないものねだりをしてても仕方がないんだ。  俺は今この時の俺なんだ。それで考えないといけない。  知らないよりはずっとよかったさ。可能性は上がった。ぐんと上がった。  俺はふたみを助け出せればいい。  一瞬の可能性に懸ける事ができればいいんだ」 「…………」 「だから」 「……行くんだ?」  ……気付かれた。  たったあれだけの間で気付かれた。  ──ほんもの。  目の前にいるのは本物の武人。  俺なんかとは違う──反則技で無理やり力を引き上げた癖に浮かれていた素人なんかとは比べものにならない、修練の果てに卓越した冷徹な武芸者。  そんな相手と正面切って戦おうとしてるんだから、俺もいよいよ焼きが回ったって事だろう。  そういうのって、昔は凄かったとか、そんな過去があってこそ初めて感じるものかと思ってたけど……意外と状況次第なんだな。  しかも正面切ってって事は、この無双の矛使いを力で捻じ伏せようとしてるって事じゃないか。  まったく馬鹿げてる。  正気の沙汰じゃない。  ……でも、逃げようという気がまったく起こらないのはどういうわけか。  ここは一旦引いて体勢を立て直そうとか、隙を見て忍び込もうとか、浮かんだ矢先から考えが打ち消される。  一度でも引いたらもう戻ってこれないと知っているからか。 「……まだだ」  大丈夫だ。立てる。 「その程度じゃ俺は殺せない」  ──目の前に浅黒い円があった。  それが石突──刃のない側の先端だと気付いた時、俺の身体はおかしな具合に捻じ曲がっていた。  人中に衝突して気を失いかけたかと思ったら、臓腑を背中に押し出す勢いで左腹をしたたかに打ち付けられ身が自然の反応で前かがみになり、と思えば右肩に棒の先端が食い込んで押し戻され、右腿を側面から叩かれて体勢を崩し、次の瞬間には顎を下から大きく跳ね上げられ、よろめいた身体のバランスを取る為に左足が後ろに引けば、再び腿の急所を狙われ、今度こそ前のめりに倒れるところで手を差し出して受身を取ろうとすれば甲をはたかれ、終いに地面に激突する寸前で棒が伸びて俺の身体を支え───  次の瞬間。  一瞬だが、俺は宙を飛んでいた。 「むんっ!!」  そして、がら空きの背中を───  ──柄で叩き伏せられた── 「ぅっ……ぐ」  ……連撃とかそういう段階は通り越している。  見える、見えないの問題ですらない。  こいつは化物だ。  ……だけどな。 「……ほう」  茂一が意外そうな声を発した。 「まだ立てるか」 「……おちょくってんのか?」 「む?」 「矛なのに逆に持ち替えてよ、さっきから叩いてばかりじゃねえか。 “まだ立てるか”だと?  殺す気がないんならさっさとそこを退けよ。邪魔だ」 「理解できぬ。そのように焚き付けて、御主に何か得があるとでもいうのか。激昂による油断を誘っているのならば、それは無駄というものぞ」 「あのな、そこまで考えてるわけないだろ。こっちはいっぱいいっぱいなんだ」 「では何故か?」 「お前が俺を舐めてるんだろうが。  助からないと知って乗り込んできた相手に手心を加えてどうすんだよ。  殺さない限り俺は何度でもここへ来るぞ」 「それが御主の気概か」 「いちいち問うな。答えはもう出ている」 「──よかろう。ならば受けよ、吾が一撃」  ──そうだ。この軌道だ。  俺はこの軌道を通ると知っていた。  この武器を最も速く走らせるならこの軌道。  達人だからこそ、この軌道を通る。  解対が武器を最も活かす方法を見抜くなら。  俺は解対を最も活かす方法を考えればいい───! 「むっ……!」  すでに刀を振り被った俺の眼前で、茂一は未だ矛を突き出した体勢のまま。  うっ、と、その刹那、俺の身体が僅かに震えた。  金メッキ。  ……そうか。  そういう事かよ。 「くうっ……!」  だが今は駆け抜けろ。  そうだ、振り被ったまま、もう一歩。  さらにもう一歩、加えてもう一歩だけ。  それで届く。  一撃を。  ただ一撃にすべてを込めろ。 「ああああああああっ!!」  ためらうな───!!  柔い肉を引き裂き、飢えた刃が血を啜る。  空虚の意味さえ知るほどに、喰い込む瞬間は呆気なく。  ──死は隣り合わせの友人だと、殺す気で刀を抜いた者は覚悟を決めるらしい。  殺すか殺されるかの上に契られた負の盟約ならば、返り討ちに遭おうと文句はなく。  相手が応じた上で、結果として命を奪ったのなら、何ら恥じる事はない。 「やはり、よく視えていなかったようだな」  だから。  不吉な宣言が、俺の身体を貫いていた。 「こ……い、つは……」 「──私は『伽藍』と呼んでいる」  それは、この場にはあまりにも似つかわしくないもののように思えた。  まるでオルゴールの蓋を開いたかのように。  シリンダーオルゴールの中で踊る、棘を生やした金属の筒。  ただし、それは棘とは呼べないほどに細く長い。  そう、丁度、音を奏でるために円筒が回転しながら持ち上げる櫛歯と一体になったかのような───  鋭く研ぎ澄まされた棘は、柄に巻きつけてあった硬質のピアノ線が放射状に解放されたもののようにも見えた。 「“外”にも尊敬に値する優れた武人はいる。かの美髯公といえば青き竜の偃月刀らしいが、そも、当の時代にそれはあらず、時代が下りし宋に発明されたものとか──演義においての脚色ならば、吾が矛にその名を拝借してもよかろう」  ……届かない。  もう二歩。  後二歩で、こいつに刃が届いたのに。 「……一つ、聞かせてくれるか」 「む?」 「午卯……だったか。あんたも雲戌亥家所縁の者なら、炎の能力が使えるんじゃないのか……どうして使わない……?」 「武の語らいに用いるものではない」  ……なるほど。  こいつは予想以上に腹に響く答えだ。  この男はあの菊乃丸とかいう奴とは毛色が違う。  どっちが良いとか悪いとか──そんな基準に意味はない。  こいつは良くも悪くも武人なんだ。  ──だが。 「どうせ……こっちも解対を使ってるんだ。遠慮……するな……よ」 「またか。御主が解対を用いてこそ初めて力の天秤が均衡を保ち始めようというに、何故そのような事を口にする」 「……こっちは余裕もないし、あんたみたいに自然体でもいられない。玉砕覚悟の正義感……俺の自己満足で大団円ってわけでもないんだ。  あんたが勝手にハンデを背負ってるなら、見て見ぬ振りが利巧ってもんだ。  ──でもな。ハンデも二つになったらさすがにどうかと思うからさ」 「……何?」 「ぐ……」  脇腹に突き刺さった刃は、木漏れ日射す中で鮮血の滴りを鈍く輝かせている。  ──まともにすら流れてない、こんな血でよければいくらでもくれてやるよ。 「む?」  握ったら駄目だ。  きっと握力はこいつの方が強い。  だから俺は、柄を脇に挟んで固定した。 「ハッ──」  お陰様で、さっきより遥かに深く、切っ先が腹の中で暴れてくれてますよ。  だが、これでこいつはここから動かない。  俺はただそれだけでいい。 「……忘れないでもらいたいね。  俺はまだ、振り被ったままなんだぜ」 「むうっ!!」 「ぐ……く」  ──見た目、左の首筋より程近くから反対側の脇腹にかけて一刀。  この体勢から戟の柄に刀の刃が当たらないよう避けて振り下ろしたら、こうなった。 「ば……馬鹿な」  相当の油断。 「届いた……だと?」  まさに吽形の如く沈着を絵に描いた表情に初めて走った驚愕。  不測の事態に驚愕が起これば、次に走るは焦燥と警戒。  それよりも早く。  俺は刀を前に突き出した。 「ふっ……!」  ──刃は切っ先すらも届いていない。  だが、茂一の背中から迸ったのは鮮血。  刃は寝かせた。  でないと骨にぶつかって貫けないからな。 「かっ……は。お……御主……は」  気管を逆送した血液を口から滴らせる茂一は、この時点ですでに己の得物を構え直していた。  ──流石だな。  俺もまた矛先から逃れて距離を取っている。  だが、もう距離も間合いも不利にはならない。 「何を……した」 「──お前、この刀の銘を知ってるか?」 「むぅ……?」 「村正? 徳川を祟る刀?  ──違うね。この刀の名前はな、『北谷菜切』だ」  戟の全長より、遥かに遠く互い隔たれて。  俺は振り被り、 「あんたの覚悟を疑ったら、あんたに悪い。だから遠慮なくいかせてもらうぞ」  その場で刀を振り下ろした。 「ぐおおっ!!」  俺が振るった軌跡のまま。  仁王の鋼の身体に、第三の傷口が疾駆する。 「……この刀はな、思い出したんだよ。俺が知ってしまったから」 「何を……視た」 「“嘘”を」  ──こんな話がある。 「村正という銘の“祟りを押し付けられただけの刀”だと思い込まされていたのに、“自分は本物の咒いの刀”だと思い出してしまった。  嘘は暴かれた。  こいつはもう、『北谷菜切』なんだ」  ──それは、北谷村で起こった奇妙な出来事。  子供の成長だけを楽しみに慎ましく日々を生きている、一人の母親がいました。  ある日の午後、近くの水田に田芋を取りに行った際、ついてきた子供が駄々をこね始めました。  優しく諭す母親でしたが、子供は泣きじゃくって手が付けられません。  とうとう母親も作業の手を止め、子供をあやそうと芋の根切りに使っていた包丁をしまおうとした時。  遠く離れた子供の身体が真っ二つに両断されてしまいました───  ──やがて刀として打ち直され献上されたという、その忌むべき鋼。 「何故、そのような……」 「……だからさ。咒いの刀だったからだろ?」  徳川を祟るという属性は流言と後付による眉唾物。  必要だったのは、“咒い”という関連性。  咒いという重ね。  事実でありながら真実から遠ざける。  誰より雲戌亥家が得意とする言霊──本物の咒いの刀に、咒いなど「世間が勝手に言っているだけ」と思い込ませた。  この刀は、その本性を封印されていただけだったんだ。 「……く」  張り裂かれんばかりに膨れ上がった丸太の如き脚が、地面を大きく踏みつけた。  ──斃れぬと。  その身が言葉もなく語った。 「“ただ一つを度重ねよ”──それが午卯の家訓である」 「……?」 「私は午卯の体現者として、今この時ここにある。……ただ一つを茂ものとして、茂一は大門に在る」 「何……言ってんだ、あんた……」 「遺言、やもしれぬな」  初めて、茂一の口許に喜色らしい喜色が浮かんでいる。 「宜しい。飛躍であるが、これを以って相打つ事叶ったと受け取ろう。  震える歓喜で迎えよう──龍視策」 「あんたの骨太な生き方を尊敬するよ、午卯茂一」 「斜陽までにはまだ僅かばかりの猶予がある」 「──さあ、存分に語り合おうぞ」  ──始まったか。  時の化身が怪我をして、歩む事を止めて久しいこの部屋。  嗅ぎ慣れた死臭に顔をしかめながら、部屋の主は瞼を閉じて思案する。  ──動けない。  潰すには兵隊が足りない。  まだ動けない。  期は熟されていない。  飽くほどの問いを重ね、一度でも答えに達した事があっただろうか。  傍にたたずむ絡繰仕掛けが、不愉快な音を立てていた。 「これが……龍視か……」 「よくやった──」  身体つきからして、刀を握った事もない素人である事は、茂一ほどの男からすれば一目で見抜けた事。  それでも、同年代の者からすれば相当に身体は鍛えられていた。  これは茂一にはわからなかった事だが──それはいかなる道において才能が開けようと対応できるようにと、策が常日頃から重ねてきた努力の結果だった。  身体こそが何事においても資本であるから。  だが、武芸において素人である事はまるで変わらない。 「遥か遠くから攻撃できる」事は、即ち、その優位を保つ為には「できるだけ離れなければならない」という事。  特殊な刀を手中に収め、伽藍の間合いより遥か遠くから攻撃できようとも。  一足が修練を積んだ者より速いわけではない。  茂一に間合いを詰められた瞬間、勝負は決していた。  いかにその武器を使いこなす最上の方法を見抜けても、それに身体がついてこなかった……敗因は、ただその一点。 「勿体無くも、午卯の『雄』に御大御自らご推挙下さったこの茂一を相手に、よくぞここまでやった」  それと知りながらも挑んできた策に、茂一は敬意を払った。 (尊敬に値する男である)  それだけが、この場にあった真実であった。  技術の拙さなど問題ではない──親の仇を討とうと、非道な領主に石を投げる幼子を誰が笑えようか?  問題があるとすれば、始末である。  この始末をどう付けようか。  武人としての茂一が策に敬意を払う事と、宗家の大門守護を仰せつかった己の責任を果たす事とはまったく別の事柄。  大いなる雲戌亥家に弓を引いた、この勇敢な若者をどうするべきか─── (……答えなど一つしかない)  僅かでも思案したのは、倒れ伏す若者の心意気に打たれた為であったのか。  茂一はゆっくりと策へ近づき、そして穂の先端を頭部に定めた。 (あるいは不死身と呼んでもよい男だったかもしれんが、脳を破壊されれば生きてはいまい)  茂一は気付いていた。  策が有していた不死性に。  刃を立てる事を望んだのは策本人であるが、それに茂一が応じたのは先に放った連撃で策が倒れなかったからだ。  矛を棒として用いたからといって倒れない道理はない。  長柄を修める午卯家なればこそ、彼は棒術においても無双である。  その茂一の連撃を余す事無くその身に受けて、立ち上がれる道理などこの世にはない。  だから思ったのだ。  この男は痛みを感じていないのではないのか、と。 (……如何様な手段を用いてこの場へと到ったかは知らぬが、恐らく常套ではあるまい。なればこそ、この男は“痛み”を落としてきたのだ)  大切な部品が外れたままの機械のように。  まともな手段ではない蘇生と引き換えに痛覚神経を失った。 (私は死者を相手にしていたのやもしれぬ)  頭蓋骨はその形状も手伝って、真っ直ぐに振り下ろされた真剣さえも滑らせる事がある。  だからこそ、茂一のその一閃に手心が加えられる事はなかった。  急所を狙いながら仕留め損ねるなどと、勇者と認めたこの男に対する無礼であるから。 「さらば」  ──呟きは経に他ならない。 「策に手を触れるな!!」 「────!!」  一陣の疾風が駆け抜けた時、茂一は大きく翻らざるを得なかった。  何故なら、ほんの刹那を遡ったまでは、そこにそれは居なかったのだから。  午卯の茂一をして万全の厳戒を以って迎えねばならぬ相手。  ──その少女は、漆黒の阿吽など比べものにならないまでに疾駆い。 「未寅……!? これはいったい何の真似だ?」  飛び退いた茂一と倒れ伏す策の間に入った愛々々。  その行動に、彼は狼狽せずにはいられなかった。  辺り一帯を覆う剣呑の正体は、周囲を窺うまでもなく目の前にこそある。  それが自分に向けられている。  針刺すような敵意、冷徹な瞳に宿る憤怒。  守護四家の一角を成す未寅にして、近代最強と謳われた寅の牙が向けられている。 (……頑張ったんだね、策)  茂一の負傷を一見しただけで、愛々々は状況と経緯をあらかた察した。  あの午卯の茂一を相手に、あれだけの痛手を負わせる事ができる者など、どれほどいるだろう。  ──解対が彼を変えた。  それを力と認識したからこそ、彼は飛躍した。  だが、それだけではない。  それだけでは決してなかったはずだ。  現時点における策の弱点を最初に見抜いたのは、他ならぬ彼女である。 (あんまりかっこいい事してると、本気で惚れちゃうからね)  嘯く彼女の顔は、未だ蒼白の色を隠せなかった。  ──想像以上に体力の消耗は激しかった。  消耗は体力だけではない。  急速に活力が失われていくと同時に精神もまた磨耗し、漸次に思考は薄弱していく。  まともにものを考える事さえ厳しい。  見直すしかないな、と愛々々は思う。 “本体”である策の消耗は彼女の比ではない。  この状態で日々を過ごし、“帰ってくる”ふたみを迎える準備をし、そして何より、こんなものを背負いながら決断したのだ。 「俺の時間を、ふたみにやるんだ」  何故だろう。  あらゆるものがただ一方的に奪い攫われていく状況だというのに、奥底から込み上げてくるものがある。  勇気が湧いてくる。  ──何より、愛々々は誇らしさを感じていた。 (好きになって、よかった) 「未寅! 吾が問いに答えよ!」 「決まってるじゃない。おねーさまの為よ」 「お嬢様の為だと? 何と浅はかな……」  茂一は静かに落胆した。 「私も御主も、お仕えしているのはご宗家であり、お嬢様個人ではあるまい。御主の行為は、ご宗家のご意思に逆らう事に他なら──」 「そうよ」  そんな台詞は聞き飽きた。  自分自身に何百回も言い聞かせ、何千回も問いかけた事だ。 「愛は逆らってるんだよ。ちゃんと聴いてね? 愛は、愛の好きな人たちにひどい事をするご宗家を赦さない。  許されなくてもいい。愛が赦さないの。  策にも、おねーさまにも、指一本触れさせない。  もう決めた。愛は決めたの」  ──愛々々が言いたかった事は、ただ一言。 「愛は、“お友達”を守りに来たの!!」  ……聞こえたよ。 「ぐっ……!」  響いたよ。  こんな……ところで。 「寝てる場合じゃ……ないよな!!」  眼前に待ち受けるは。  ──王者の紋章──  ──さあ。  光眩しき理想郷へようやく辿り着いた。  最期の力を振り絞れ。  脇目も振るな。  なけなしの力を足腰に込めて。  ──疾駆り抜けろ!! 「ほ──」 「────!!」  込み上げた寒気が、意識する間もなく俺の身体を動かしていた。  気付けば大きく跳んで後退っていた俺は、ようやく顔を上げてその姿を視界に収める。 「俺をシカトしてここを通ろうなんてのは、ちょいと虫のいい話じゃねーか?」  ──申子の菊乃丸── (今のは……こいつか?)  心臓を鷲掴みにされたかのような戦慄。  動悸は未だ治まらず、冷や汗は噴き出し続けている。  こいつ……?  この程度の男があれだけの威圧を? 「なっ──」  唐突な来客に驚愕を隠す事はできなかった。  白い目隠しが大気の海を走る。  飛来した猛烈な突風が、冬の使者を引き連れて躍っていた。 「ふ……ぶき?」  目の錯覚なんかじゃない。  我が目を疑う必要なんかない──痛いほど肌を擦り上げる寒さの波、つい先刻まで見通す事のできた距離を隠すそれは、みるみる地面に屋敷に張り付いて世界を白銀で覆い隠していく。 「……始まりやがったか」  横殴りに暴れ回る飛礫を見つめながら、菊乃丸が呟いた。 「これも……お前たちの仕業なのか」 「いや、これは合図さ。始まったっつー事よ」 (始まった……?)  その意味を計りかねた時、手足がかじかんでいくのを感じた。  生暖かく湿った気候という名の薄い色彩の上に原色の絵の具を垂らしたかのように、梅雨が吹雪に取って代わられていく。  剥き出しの肌が寒さで乾燥していくのと同時に、衣服などまるで役に立たぬとばかりに首を竦めさせられる。  尋常ではない季節の移り変わりの中で、俺は確実に凍えていった。  冗談じゃない。  立ってるのだってやっとだってのに、この上、気温の低下だって?  寒いだけならいくらでも我慢してやるさ──だが、手足が思い通りに動かなくなっていくのは俺の意思ではどうにもならない。  それから菊乃丸は、どうでもよさ気に俺を見下ろし───  不意に、意外そうに眉を持ち上げて俺の手に握られた刀を見つめた。 「その刀──化けやがったか」 「……わかるのか」 「見りゃあわかる。申子は刀の家系だからな。直刀だろうと太刀だろうと打刀だろうと、刀剣でさえあればなんでもござれだ。そういう意味じゃあ槍だって矛だって刀剣類だがよ、ありゃ作られたそもそもの概念が違うからな」 「ご高説ありがとよ。でも、それでもこの刀の正体を見抜けなかったわけだ」 「言ってくれるじゃねえか。見ているものが違うんだから、俺にわかってお前にわからねえもの、お前にわかって俺にわからねえものとがあるんだよ」 「……どうでもいいさ」 「まったくだ。どうでもいい」 「俺は侵入者で、あんたは番人の一人。それだけわかってれば充分だ」 「そういうこった。本物だったか贋物だったか、なんてのはどうでもいい話だ。お前の装備は、現に距離を隔てて相手を斬り殺せる刀っつー──問題はただそれだけ」 「俺は茂一ほど甘くねえぞ?」 「知ってるよ。あいつに比べたらたいした事がないってのもな」 「カッ」 「一度殴り返してやろうと思ってたんだけどな。もういいや。忠告だけしてやる。  そこを退け。でないと後悔する事になるぞ」 「言うようになったじゃねえか。一人前って顔しやがってよ。ええ? 癪に障る面構えだ」 「なら俺は、あんたを斬り殺してでも先へ進まないといけない」 「それでいいんだよ。言ったはずだぜ、龍視のご子息サマよ──双方の目的が搗ち合えば、どっちかが従うしかねえ。地べたを舐めた方が引きずられていくしかねェってよ」 「……なら、死んでも文句言うなよ」  ──そう腹を括らなければ、俺はもう立っている事さえ許されない。  気力だけが今の俺に残された活力だ。  俺は一秒だって立ち止まってはならない。  たった一瞬でも肩の力を抜いたら、安堵の溜息でも漏らそうものなら、その場で崩れ落ちて二度と立ち上がる事はできない。  メメがくれた最後の機会。 「文句が出るのはお前の口さ。そいつはお前の死出の旅のお供にくれてやるよ。咒いの刀を抱きながら、呪詛を撒き散らして死ね」 「それはない。でも安心しろ、すぐ後で聴いてやるから」  ふたみを助けるまでもってくれよ───  だが、問題はこの男一人だけじゃない。  今、いったい幾つの眼が、不当に領土を侵した俺を見つめているだろう。  ここは王族の住処、統べるものの象徴。  ならば、ここを突破される事は一つの国が征服される事を意味するのだ。  ──どれだけの兵隊蟻が湧き出てくるのか想像もつかない。 「ふ〜ん……」  菊乃丸は受け流すように俺の眼差しを繁々と見つめ、 「余裕のねえ顔だ」  と吐き捨てた。 「これが死人の顔だ。よく覚えとけ」 「ハッ。ご子息サマは、自分がどこまでトんじまったのか、実感がねえと見える」 「いや、身の程を知ったさ」 「そいつは相手が悪かっただけだ。トんだ先にはまた壁が待ってるって事よ。情けねえ話だが──ウチの兵隊どもじゃあ、もうお前の相手にはならねえなぁ」 「え……」 「努力の天才がよ、決して超えられねえ壁ってやつがあってよ。  そういうのを易々と超えちまう奴がいる。初めから超しちまってる奴がいる。  そこから始める事ができる奴はな、普通の奴が何年も必死こいて積み重ねた成果を、始めてすぐにつかんじまうのさ。  自覚して最初の相手が茂一だったって事の意味が、まだわかってねえらしい」 「…………」 「才能が有り余ってる奴が音のない世界で経験を積めば、そこが基準になる。はい、ここに一人の剣豪の誕生ってわけよ」 「俺……が?」 「わかんねえかなぁ。それが龍視なんだよ。  お前はたまたま戦闘でしか活かしようのない代物だったが、芸術の世界で解対を使ってきた家族を見てきたんだろ? 初めから超えられない壁を超えてる奴らを見続けてきたんだろ?  周りの奴らがどんなに努力しても追いつけない次元の頂を、お前は知ってるはずだ」 「…………」 「確かに源流を辿れば、系譜は雲戌亥へとご到着よ。  でもな、お前のトコのはもう“別物”なんだよ。ただの血に混じればまるごと喰っちまうような濃すぎる血をよ、二つ混ぜ合わせて──結果から言えばどっちが勝ったわけでもねえ。  もしも雲戌亥の血が勝っていれば、お前は炎を“熱い”とも感じずに生きてきたはずじゃねえか」 「なんで……」 「あ?」 「なんで、お前はそんな事を俺に教えてくれるんだ?」 「なんでって……お前、ヘンな事を訊くな」  菊乃丸はきょとんとした顔をしていた。 「どうせ殺し合うなら、そっちの方が面白いじゃねえか」  こいつは─── 「だがそれでも、戦なればこそ数は質に勝る。王将も歩のもの……最低の兵士で勝てる策術を練るのが将の役目、ってか。  安心しろよ。他の連中に手出しはさせねえ。もしお前が俺に勝つような事があったら、お前がここで何をしようが黙って見届けさせてやるさ」 「……本当だな。約束したぞ」 「ああ、構わねえよ。あり得ねえから」  あっけらかんとした声で、菊乃丸が断言した。  あり得ない事なら、あり得るようにしなければならない。  でなければ望みを達成する事はできない。 「──さあ遊ぼうぜ、ご子息サマ」  ためらいなど最早ない。  走らなければ届かない。  俺はすでに振り被り、遥かなる距離を隔てた菊乃丸めがけて刀を振り下ろしていた。 「そうこなくっちゃあなぁ」  菊乃丸の不敵な笑みが、暴力的な白銀に溶けた。  すでに吹雪で視界は零に等しく。  菊乃丸が跳ねた時──距離を置かれた時点で、もはや相手の姿など掻き消えて見えない。 (いくら『北谷菜切』を持っていても、相手の位置がわからなければ狙う事はできない……そういう事か?)  相手は熟練の武芸者だ。  あれこそが申子の『雄』──実力はあの阿吽と同等と考えていいだろう。  だがしかし、その性質は真逆。  菊乃丸は手段を選ばない。  礼を捨てても利を取り、仁を捨てても享楽を取る。  午卯茂一が武器と武器、技と技、対等の環境における武の語らいにこそ興じる武人なら、申子菊乃丸は互いがいかにして勝利に噛み付くかにこそ快楽を得る。  ……ようやくわかってきた。  あいつはあいつなりに筋を通している。  前回と今回じゃ条件が違う。  以前は、あいつの目的はふたみにこそあった。そのついでに俺がいただけだ。  ……恐らくは俺を試した。  使い捨てられるだけの俺を試した理由はわからないけれど──その上で、連れて行けるものなら連れて行こうとしただけだ。  だが今、侵入者は俺の方。  なら番人の一人として、あいつは俺を撃退しなければならない。  その条件を最大限愉しむ為に必要なら、相手の得になるだけの事でも惜しげもなく伝達する。  だから菊乃丸は、今ここにある環境のすべてを利用する。  俺の持つ刀の性能を見抜き、射程限界が存在しない武器と知れば目晦ましに吹雪も利用する。  距離を制する優位はすでに崩された。  俺は相手の位置を把握しなければ当てる事ができない。  けれど─── “見えない”というだけなら条件は対等。  銀世界などという上っ面だけを見た都合のいい言葉など、猛威と化す白き魔力の前には容易く捻り潰される。 (僅かでいい。服の切れ端でも見えれば、俺の──)  結晶の群れより飛び出した鈍色の切っ先。 「なっ……!」  すんでのところで身を捻れたのは、運が良かったとしか言えない。  追撃を避け、俺は距離を置く。 (……偶然か?)  この状況で、相手にだけ俺の位置がわかる道理はない。  白銀の幕の切れ端は目では追えず、足音は暴風に掻き消される。  いくら熟練の違い、経験に雲泥の差があっても、これでは─── 「────!!」  音速の刃が俺の肩を貫いた。 (なんで……!?)  疑惑が駆け抜けた次の瞬間、俺は横薙ぎに振り抜いていた。  ──手応えはない。  得物がそこにあるという事は、操者もまたそこにいるという事には違いなかったが───  疾駆い。  すでに俺の肩を突き刺した刀も消失していた。 (……どうして)  理由は不明ながら、認めざるを得ない。  あいつには俺の姿が見えている。  俺の位置を正確に補足している。  これが単に武器の扱いに長けただけの者と、場数を踏んだ手練との違いなのか──武器を通して識るだけでは知り得ない理由がそこにあるのか? (なら──)  こうだ!!  俺は屋敷へと駆け上がり、襖を開いて奥へ奥へと突き進む。  さらにもう一部屋、もう一部屋へと突き進み、一心に奥まった場所へと向かう。  俺は部屋の一角を背にして、刀を構える。  負傷は左肩だったのが幸いした。  痛みは──なかった。  精神が昂揚してるせいだろうか?  これなら振り下ろすだけなら難はない。  ……さあ、どうするよ。  お前は襖のどれかから入ってくるしかない。  お前がどれほど剽悍に駆けても、刀を振り下ろすだけの俺の方が速い。  俺はお前の姿を視認するだけでいい。 「…………」  ほんの一呼吸。  待つ身の焦りに、息を呑んだ瞬間───  微かな異音。  あまりに鋭利。 「なっ……!」  その音の正体が背後の壁がずれたものだと気付いた時、壁面はすでに斬り崩されていた。  崩壊の異音に混じって跳ぶ獣がいる。  ──ほんの一瞬。  後、ほんの一瞬でも反応が遅れていれば斬り殺されていた。 「ハッハー!!」  鍔迫り合いになるより前に、菊乃丸の蹴りが俺の腹を打ち抜いた。 「ぐっ……!」  後ろによろめいた身に双刀が襲いかかる。  中央より広がる数は弐。  左右どちらに逃げても斬られる─── (後ろだ!!)  もう一歩。  よろめいた状態からの飛躍は困難だったが、そんな場合じゃない──受身など考えるな。  床を蹴りつけ後退った俺は、帯状に広がる刀身をまさに眼前に見た。  ──躱せた。  だが、体勢を完全に崩した俺の状態は転倒にも等しい。  俺は喰われた。  奴は口に入れた獲物を噛み砕くかのように、その牙を振り下ろすだけでいい。  次は防ぎきれない───  ──とでも思ったか?  出鱈目でいい。  俺の軌跡は滅茶苦茶で、刃が相手に届かなくたって構わない。  お前がそこにいる事さえわかればいいんだ!! 「ぐっ」  くぐもった声が届いた時、衝撃に身をよじらせた菊乃丸の刃は僅かに軌道を外れていた。  頬をかすめた切っ先が畳に突き刺さる──この隙を逃すほど俺はお人好しじゃない。  覆い被さる格好の双刀使いを足蹴に弾き、俺は野獣の口腔から脱出する。  ……流石だな。  確かに斬られたはずなのに、ほんの少しばかりの声を漏らしただけで、こいつは刀を引っ込めようともしなかった。  しかし──浅かった。  まだこいつを仕留めていない。  だが次で終わる。 「……ご子息サマよ」  俺が刀を振り被った時。  菊乃丸は、笑っていた。 「室内に逃げ込んだのは失敗だったんじゃねーの?」  ──肌を焦がす熱の臭い。  急激に上昇する室内の温度。  不可視の炎が焚かれ、刹那、眩暈を覚える。  野獣の如き剽悍を前に眩暈とは───  自らの命を安く投売りしたも同じだ。 「くっ……!」  弾かれるように後ろへ跳んだ事だけが、その場における俺の判断で唯一の正解だった。  唸りを上げた切っ先が俺の残像を切り裂き、追撃の前に俺は襖を突き破って外へと転がり出ていた。  寒波の次は熱気か。  まるで北風と太陽──そしてまた北風の順番へと舞い戻る。  飛び出した俺を受け止めてくれたのは雪には違いなかったが、その白い悪魔は引き換えとでも言いたげに俺の体温を容赦なく奪っていく。  だが、今は即座に俺の命を奪いにくる隻眼の死神を出迎える方が先だ。  顔を起こした俺に込み上げたのは、舌打ち。  ──これじゃさっきと同じ状況じゃないか。  自分の足元さえも覚束ないほどに視界が白銀で塗り潰される状況下で、菊乃丸は俺の位置を正確に捕捉してきた。  打開策も見出せていないのに轍を踏むとは、俺はやはり“武器の扱いに長ける”だけで“戦上手”ではない事を自ら露呈したようなものだが──反省は後だ。 「……?」  何故、討って出てこない?  追討なら今この時をおいて他になかったはずだ。  あいつに仕切り直す理由なんて──時間をかければ距離を取れる俺が有利になるだけだ。 (まさか……!)  行き着いた一つの結論。  それは単なる仮説に過ぎなかったが、今、熟考が許されるほどの余裕はない。  ──一歩。  そして二歩。  俺は今まさに跳んだ距離を縮め、廊下を目の前にするまでに肉薄した。  獣と目が合った。  目が合ったのだ。  手負いの獣は先程の場所から動いていなかった。  負傷という理由も、あるにはあっただろう。  けれど絶好の好機を逃してまで身を庇う程度の相手とは思えない。 (……間違いない)  動けない理由があった。  追いかける事のできない理由があったのだ。 「どうした、追ってこないのか? 距離が隔たれた状況で不利になるのはあんただぜ」 「…………」  黙する事は肯定に等しい。 「今、俺を追いかければどうなるか……誰よりあんたが理解してるって事だよな」  不可視の炎を操っている、その認識は俺の誤りだった。  俺は大気を走る見えない炎の熱を感じていたんじゃない。 「申子菊乃丸──あんた自身が熱の塊と化していたんだ」  触れたもの一切を溶解するほどに。  それがこいつの能力。  自身を中心とする熱源の支配者。  だからこいつは、視界が塞がれた状態でも俺の位置を正確に捕捉できたんだ。  こいつがどれほどの高温を発しようが、体内の細胞はその状態に耐え得るようになっているんだろう。  もしかすれば、触れたものに伝達させる熱の量を自在に調節できるのかもしれないが──身に着けている衣服、帯びた刀、そのどれもが影響を受けていない──発生源である肉体の細胞が、部屋の気温を急激に上昇させるまで高まっている事には変わりがない。 「熱膨張」  触れたものを溶かすまでに上昇した超高温の身体が、急激な温度差で冷やされたらどうなるか─── 「勝ち負けはどうでもいいが、あんたの番人役はここまでだ」 「……たった二回」  菊乃丸の声が重く沈む。 「たった二回で、俺の『煩悸』を見抜いちまうとはな……」 「──で? すでに振り被っている俺からどうやって逃げるんだ?」 「…………」 「じゃあな、申子菊乃丸」 「御大御自らにお嬢様の護衛にと抜擢された才覚──如何ほどのものかと思えば」 「失望したぞ……何が寅の子か。これでは児戯にも等しい」 「あはは……半分死にかけの女の子相手に言ってくれるわ……」 「裏切りは死を以って償われるべきである」 「……裏切ったんじゃ……ない。  愛は、ずっとおねーさまの味方だった。  だから、いつものようにするの。それだけよ」 「それがご宗家のご意思に逆らうものだとしてもか」 「雲戌亥家のご当主様が愛に命じたのは、“ふたみお嬢様を守れ”という事よ。“それよりもご宗家の意思を優先しろ”なんて言われていない」 「子供の理屈である」 「そうね、子供でいいわ。愛は命令を履き違えたの。言葉を額面通りにしか受け取れない、馬鹿だったの。愛が間抜けの出来損ないだったの」 「……未寅の御家に災いが降りかからぬようにとの配慮か」 「馬鹿だから何を言ってるのかわからないよ」 「よかろう、出来損ないの寅の子よ。  ──だが、今この時に御家を守って何になる。御主にはわかっているはずだ。すべては塵と──」 「策が門を越えた。午卯の茂一が守る大門を、愛のお友達が越えたの」 「信じているという事か」 「友達を信じるのは当たり前じゃないの」 「ふ……」  茂一は苦笑した。 「聞いた話との大きな隔たりを感じるぞ。前任者である吾が父が大門守護の任から降りざるを得なくなったのは、手のつけられぬ寅の子に手酷く敗れたからと伺っていたが──」 「……あいつ、陰でおねーさまを笑ったのよ」  愛々々の唇が、小さく、きゅっと結ばれる。 「笑わないお嬢様だって……嗤ったのよ。  おねーさまはね、ちょっと表情が硬いだけなのよ。ほんとうはとっても感情豊かで、優しくて……なのに、あいつ……。  ちょっと強いと思っていい気になってたから、教育してあげたのよ」  ──再び。  しかし今度は、茂一は愉悦に笑みを零した。 「どうやら、初めからご宗家よりもお嬢様であったようだな」 「……そうみたい。気付かないなんて、どうかしてた」  その事に気付かせたのが龍視だというのが、また笑わせる。  ──餌のはずの龍視を信じて、自分がここで捨石になっているのが何より笑わせる。  自分が助けに行った方が、どう考えたって成功の確立が上がるだろうに───  ……でも、駄目だ。 (お姫様を助けに行くのは、王子様でなきゃ)  ふたみを助けに行くのは彼でなければならないと、どうしてか愛々々は素直にそう思った。  それに、彼は餌じゃない。  巽じゃない。  龍視でもない。  ──彼は『策』だ。 「愛のお友達だ」  笑う膝を押さえながら、寅の子と呼ばれた騎士が立ち上がる。 「午卯の茂一。悪いけど、ここで沈んでもらうよ」 「御主の『意炎』は効かぬぞ」 「知ってるよ。あなたみたいな揺るぎない信念を持った狂信者と──」  愛々々はくすりと笑い、 「それから、馬鹿には効かないんだ」  その笑みは今日まで彼女が見せたどの笑顔よりも、誇らしげだった。 「炎なんかいらないよ。愛には拳がある。──拳があるんだ。  未寅の拳は申子の刀より斬れ午卯の長柄より届き酉丑の飛び道具より速い。  それで充分」 「よくぞ言った」  ──ほんの一瞬の逡巡の後。 「くっ……!」  俺は刀を振り下ろ─── 「────」  ころされる。 「はっ……は……」  動悸が治まらない。  表面に浮かんでは、止め処もなく零れ落ちる……俺は汗を掻いているのか。  固定されたかのように視線は動かず。動かせず。 「……これはこれは」  地に足が縫い付けられたかのような現実から目を背けるかのように声を発するも、喉を鳴らして唾を飲み込む。  我が世の春よと詠い出しかねないまで、傍若無人に暴れ回る吹雪の向こう側。  まるで捕まえられた子猫のように、その襟首を持たれ。 「ご当主自らのお出迎えとは、恐れ入りますよ」  廊下に転がる菊乃丸の襟首を握っていたのは、まごうことなき、この王城の主。 「ほっほ……琉球より持ち込んだ気紛れな土産が、とんだ仇となったか」  そこにあったのは、ただ愉悦。  見世物に興じる童心に程よく似て。 「そも刃物とは、優れておればこそ切れ味を試さずにはおれぬ欲求に駆られるものであるが……それはちと度が過ぎておったでな。  言葉の封を施し、刀剣を修むる申子に預けておったが……菊乃丸が持ち出しておったか」 「やっぱり……あんたが」 「ほ、慧眼よな。仇となりしは片刃に非ず、武の解対を有するそちそのものか」 「っ……」  その時、菊乃丸が上体を起こした。 「あっ……ば、ババァ……」  見上げたそこに老いた当主の姿を見つけ、彼はおおいに動揺した。 「ちっ、違う! 俺は敗けたわけじゃねえ! まだ決着は──」 「無様」  ただ一言の宣告が、無双の剣士の表情を凍りつかせた。 「……まったく。守られておるばかりでは身体が鈍って仕方がない。そうは思わんか」  ゆらり、と。  僅かな動作すら見せた素振りもなく、静当主は庭へと降り立っていた。  ……俺は。  言葉がなかった。  いや……言葉が出なかったのだ。 「娘夫婦を惨殺された時もそうであった。女系家族である理を、誰よりも解すが故に身を挺した婿殿まで死なせる始末……」  喉が強力な万力で握り潰されているかのように、声が出ない。  足元から無数の蟲が這い上がってくる。 「それでも相打つは、流石は吾が娘。吾が誇りよ。  ……が、それで溜飲が下がるものか。“痛み分け”だと? “手打ち”だと? 桜守姫め……ふざけおって」  瞬く間に身体中を埋め尽くした千億の蟲は、口から、耳から、ほんの些細な切り傷であっても、その隙間から体内に入り込んでくる。  駆け抜ける悪寒は、すでに悪寒とすら呼べない代物へと変化していた。 「そちは桜守姫の門の向こう側を見た事があるか? ただ一つの例外もなく離れておる、かの敷地の建物を。  何故だかわかるか?  連中はいつ火を点けられるかと怯えておるのだ。そうしないと枕を高くして眠れんのさ」  ──威圧。  それは菊乃丸や茂一などの比ではなかった。  比べる事さえ馬鹿らしい。  初めから横に並べる対象になどない。 「力の使い方を知らぬ外道ども。百を知りながら千を望む、それが故に百を海と為せず池と化し、溝に捨てる……薄く浅い者どもよ。  不要なものを何億身につけようと何も果たせぬ。  ただ一点。  あれが如き、ただ一点を突き詰めた吾らに及ぶ道理はない」  桁が違う。  彼女は俺を睨んですらいない。  威圧されたわけですらないというのに。 「易く動けぬ“当主”などという座を、どれほど呪い殺して生きてきたか。……儂は連中に教えてやりたかった……」  間違いない。  こいつだ。  屋敷に駆け上がろうとした時に感じた、目が合った瞬間にはすでに殺されているかのような戦慄の正体。  見つめただけで心臓を握り潰す鷲爪。 「“力”とは……」  ──当主。  これこそが雲戌亥の戸主。  炎熱の茨を王冠とする君の威圧!! 「力とは、こう使うものだとな」  ──前に一度、考えた事がある。  弐壱学園はかつて雲戌亥家の領土だったんじゃないのかって。  不思議だったのは、どうしてあんな辺鄙な場所を選んだのか、という事だ。  雨が振り続けば水が溜まるような──この街でも最も低い位置にある、湖に浮かぶような場所を。  まるで冗談のような話じゃないか。  景観という視点からみれば確かに絶景には違いないが、そんな場所に己が城を築くなんて正気の沙汰とは思えない。  いつか聞いた眉唾な話なんかじゃなくて──この街の統治者が住まう場所が湖の上にあるって?  そうだ。  大地が干上がる程に焼いた、とまで言われたその姓は『戌亥』。  立ち昇る煙はやがて雲を生む。  そうして降り出した雨によって劫火は消えるも、その雨が止む頃には新たな炎が立ち昇っている……消え去る事もなく空を席巻し続けるは、雲。  この地の支配者は雲。  暴君は戌亥にあり。  ──その連鎖の上にこそ雲戌亥の名が生まれたのなら。  雨によって湖と化すあの場所こそ。  ──雲戌亥家にとって、王師の力を知らしめる格好の舞台だったんじゃないのか── 「ふぶ……き、を」  歯の根が合わない。 「ふぶ……きを……吹き飛ば……」 「有識の結界という概念を擦り抜けこの街に侵入した、不遜な吹雪に退場願っただけよ。  雪を焼き、風を弾いた──炎を修めし雲戌亥が前に、あれが如き無力と知れ。  逆しまなる世から来訪した闖入者など、邪魔でしかない」  こい……つ……は。  ……ばけもの……だ。 「人が死すれば、火葬を為すが理なり」  ──丸みを帯びた面持ちに穿たれた、二つの大きな眼が俺を睥睨する。  愛らしくも美しき、壮麗の華。 「故に思い馳せる。火刑と火葬の違いとは何処にあるのか。  その答えは“生きながら焼かれる恐怖を与える”事、“腐敗の末路を辿るのみと成り果てた骸を浄化する”事にこそ他ならぬが──骸はもはや何も感じぬ、などと誰が確信を以って言えようか。  死体は焼かれながら声にならぬ悲鳴を上げているやもしれぬというに」  この街の為政者の、誠の姿。 「小僧、そちはどうか。生きながら焼かれるか? それとも、死してから焼かれるか?」 「その……姿」 「言葉もまた時の流れのなかにある」  驚くほど凛とした声が言の葉を大気に踊らせる。 「それは人心よりも硬く形を整えておるものの、人心に等しく時間と共にうつろいゆく。時代変われば人の心も変わり、また言葉も変わる。  故にこそ、使わぬ言葉は年を経る。  使い続けた言葉こそ、時代が移り変わろうとも若々しく在り続ける───  言葉なればこそ、吾が力は『辞』。行使せねば老いるは理よ」 「…………」 「およそ70年ぶりか」  水の都における示威が行われなくなってから、それだけの年月が過ぎ去り。 “力”はどこかで使われなければならなかったのかもしれない─── 「ここ百年ほどは落ち着いたもの」という台詞。  山獄の王土を土足で踏み躙った俺が、格好の場を与えてしまったのか。 「……ほう」  歯がかちかちと音を立てている。  背筋を徒党を組んで悪寒が這い上がっている。  指先に思ったように力が入らず、柄を握っているのか掌に乗せているのかの区別もつかない。  ……それでも。 「賢しきそちなればこそ、事の意味を察したであろうに……それでもこの婆に切っ先を向けるか。誉れあれ、胆力よ。  が、曲がろうとも上手くすれば斬れる、などという妄想に囚われておるわけでもあるまい」  ……そう。  北谷菜切はすでに死んでいた。 「『武器』なる概念を視る解対なればこそ、解しておろう」  その通りだった。  降り積もった雪も突風も巻き込んで吹雪が消え去った時、北谷菜切も曲がった──その自在なる炎。  それは“操れる”なんて段階じゃないのかもしれない。  燃やすものと燃やさないものとを意識的に選別、調節が叶う。  その気になればこの街そのものを刹那で焦土に変える事も思うがままなら、街の住人すべてを皆殺しにしながら建築物には一切の傷をつけない事すらも容易い。  刀は高熱で焼かれれば刃文が失われる。  どれほどの名匠に焼き直しを頼んでも、こうなればもはや形を整える事しかできない。  刃文を取り戻す事はできる。  だが、強度はすでに失われているんだ。  蘇ろうと、元の形を肴に在りし日の思い出を語る事しかできない。  あの炎──とすら呼べない脅威に巻かれた時点で、この刀は死んでいたんだ─── 「……要らねえよ」  刀でなくてもいいんだ。  単身で敵陣の真っ只中に躍り込む気概があれば、折れた木の枝でだって、道端の石ころだっていい。  問題はどう使いこなすかだ。 「……なるほど。ふたみが心揺れるも無理なき事か……婿がそちであった事への感謝は募るばかりよ」 「え……」 「そちほどの男子なればこそ、あれほど想いを募らせた。いやはや……絵図を描いた本人なればこそ、期待通りにいかぬ場合を想定するものであるが……これほど所望叶うとは。否、期待以上であった」 「……ふたみと俺の結婚に、何の意味があったんだ」 「さても若き男と女よ。もう済ます事は済ませたのであろう?」 「は……?」 「あの娘の膣に精を注いだか、と訊いておるのよ」 「なっ、なにを……」 「わざわざ棲家まで用意してやったというに、あの娘の器量では気に召さなんだか?  ……あれは昔から、貞淑に貞淑にと育てたものよ。  夫を世話し、その生涯を尽くし、陰となりて支えるが妻の在り様であると指針を埋め込んだ。  あの娘はもう覚えておらぬであろうが───  ──手段は己が手で模索させる事にこそ意味があった。  覚えておるか、かつてこの街へと訪れた幼き日の事を。  枯れ木の如き手足の女子を。蒼白き面を素とする車椅子の少女を。  生まれたその日より、成長すればするほどに衰弱していく運命を負うが蛙蟆龍よ。  車輪の力借りねば歩く事さえままならぬまでに痩せ衰えた、その身……積み重ねし年月が長ければ長いほどに、回復の兆し宿れば、本人は如何ほどの歓喜を覚えようか。  これまで人並みに物を為す事も叶わなかった己が、飛び跳ね、走り回ること叶う───  ……ここに“目的”を与えられたらどうなろう。  生きる目的を。  果たすべき目的を。  いずれこの街を訪れる、龍視が男子が婿であると───  人並みまでに回復したその身体で、あの娘は己が心に描いた理想の妻たらんと精励した。  その成果、受け取ったか?  ……そう。これまでのあの娘の人生は、すべてそちの為にあったと言うても過言ではない。  故に問う。  あの娘の肌は柔かったか?」 「…………」 「良い顔をしおる。  ほ……そんな顔をさせるそちの気概こそが、あの娘の婿が龍視でなければならなかった条件を必要以上に満たしてくれたのだろうて」 「餌……だからか?」 「然り」  全身の毛が逆立つ思い。 「それが為に龍視を生かした。どれほど血が薄れても、忌まわしい事に餌としての資格は失われておらぬ。  百年に一度、龍視の誰かが死ぬる為にこの街を訪れる。  百年に一度、雲戌亥より生まれし蛙蟆龍を生かす為に」  ……ああ。  そういう事なのか。 「忌々しきは桜守姫よ。『御前』などと呼ばれておる奴ら畜生どもの首魁に気取られ、邪魔をされては叶わぬ。  これは雲戌亥の歴史に脈々と繰り返されてきた悲願の蓄積なのだから。  百年に一度、執り行わなければならぬ儀式──故に」  隠した。  儀式が行われている事を隠す為に、お祭り騒ぎを仕立て上げた。 「そちもよく知っておろうが、それこそが」  なあ、おい、婆さん。  あの娘がどれだけ真っ直ぐ、それと向き合っていたか知ってるか? 「照陽菜よ」  あんたの孫娘が頑張ってたのはな、あんたの為でもあったんだぞ? 「龍視の命を喰らい、悲願の体現者となる者の任期は百年。百年ごと、蛙蟆龍は交代される。  であればこそ、照陽菜の時期が到来した今年──世代は交代されなければならない。  そして、それはすでに為されておる」  ふたみが語ってくれた、曾祖母のあの話。  あれは、あんたの作り話だったのか? 「雲を掃う事に、意味など初めからない。掃われる事などあり得ない。  ──意味があるのはただ一つ。  あの娘が世代交代の儀式を為し遂げるという事のみ」  曾祖母がやり残した事。  同じやり方をして“失敗”した。  ──当たり前だ。 「あの童話は雲戌亥を謳った唄。あれこそが儀式の手順のすべてである」  あれもそうなんだ。  すべては─── 「そしてあの娘は、雲となった」 「あんたはっ……!!」  込み上げた黒い塊が臓腑を焼く。  それは最早、怒りとすら呼べなかった。 「初めて結ばれた──夫を──喰らって生きねばならぬと知れば、あの娘も生きる事に絶望しよう。  一家挙げての祝言とせなんだのも、その為。“家の為に”“家に言われたより仕方なく”などという心の逃げ場はあらかじめ封じておかねばならん。  人生に蓋をする為の婚姻よ」  ……憎い。 「……これは慈悲である。あれは。あれがこれから為す事は、正気を保っては為し遂げられん。故、先に壊す事こそが……」  憎い。憎い。憎い。 「俺は、お前たちが憎い」 「…………」 「俺は……俺はお前たちが憎い!!」  お前たちはふたみを犠牲にした。  お前たちの望みを叶える駒として利用した。  お前たちはふたみの心を踏み躙った!! 「ふたみを……ふたみをいったい何だと思ってやがるんだ!!」 「──何、とな──」 「え……」  そこに、あるはずのないものがあった。  この目があり得るはずのないものを見た。 「あの娘を差し出す事でしか、この地を守る術はない──不甲斐なき吾らを死に際まで呪え──龍視──」  ──逃げ続けた。  逃げ続けてきた。  この地の皇が、天の皇を見上げてそう呟いた。 「……なれど、達する」  時は満ちてしまったのだと、初めて、その声は弱々しく震えた。 「──地球を。この星を中心として空を見上げた時、火輪とはいったいどのような動きをしておるか、知っておるか」 「……何の話だ」 「そちが知りたがっている事の答えよ」 「……東から昇って西へ沈む」 「然り。では、その後を追いかけておるものを知っておるか」 「月……の事か?」 「否。あれはあれで追われ続けておる」  静当主は静かに首を振り、その声に熱を点した。  濡れた熱を。 「火輪は常に逃れ続けてきた。どれほど振り払おうと望んでも、執拗に追跡する“それ”に追いつかれまいとして──故、あのような動きをしておるのよ」  追いつか…… 「『狼』が追いついてしまう」 「……『狼』……か?」 「然り」 「……追いつく?何が追いつくんだ? だって太陽は動いてなんか──」 「逆しまに折り重なりし世なれば、そういう事もあるのだろうさ。そも、この世は辻褄の合わぬ事だらけよ」 「…………」 「……嗚呼」  ふっ──と。  その始まりは唐突だった。 「なっ……なにが」 「吹雪は合図。なればこそ……追いつかれおったか」 「えっ──」  ──見上げた空は、墨を浸したように真っ黒だった。  黒い池の真ん中にぽつりと浮かんだ、同じ色の円。  箱に仕舞っても遮る事はできない宝石の輝きのように、その身からは光が溢れ出している。  あれは日食。  皆既日食だ。  だが、形がおかしい。  皆既日食なら中心に月が重なっている状態なのだから、白紙をくり抜いたかのような黒部分は円形になるはずだ。  正確な円でなくても、形体としてはそれ以外にあり得ない──にも関わらず、あれはまるで形が違う。  がさつな円を描いて切り抜いた白紙を、上下から挟み込んだような。  先端を鋭く尖らせた何か──先になるほど細く後になるほど太い針を横に並べたものを、上下から合わせたかのような。 「おお……かみ?」  喰われているのか、などと思った瞬間に負けだった。 「大方、その巨大な口に火輪がすっぽりと納まってしまったのだろうて」  その言葉を否定できない。  俺の中の常識をすぐさま総動員して城に立て篭もっても、二度と否定する事はできない。  認めた瞬間、何かが崩れ落ちていこうとしていた。  墨色の景色に目が慣れてきたのか、異様な日食を中心とした影の絨毯のところどころで星々が瞬き始めた。 「──そちは、見上げた空に陽があるのがどれだけ幸せか、一度でも考えた事はあるか?」  昼日中の夜の許、静当主が俺に問いかけた。 「え?」  ──天上に輝く王者の名を、誰もが知っている。  火輪、日輪と呼び名を変えても、誰もが太陽という恵みの響きを知っている。  太陽が輝いて見えるのは、水素ガスやヘリウムガスを燃料として燃えている恒星だからだ。  しかし、星とて歳を取る──その度に、星の中心には燃え粕が溜まっていく。  そして赤色巨星として膨張した後、ガスを吐き出し萎み、白色矮星と化す。  収縮の為にしばらくの間は高温を放ち、白く暗く光るが──冷えていくにつれ、遂には黒色矮星となり見えなくなってしまう。  これが星の運命だ。  皇たる太陽とて避けられない、宇宙の仕組みだ。  星の進化に基づいた計算式において、太陽の寿命は残り50億年ほどと言われている。 「それが明日にも失われてしまうとしたら? 当たり前のものが当たり前でなくなるとしたら、そちはどうする」  絶望という名の静寂に満たされた空間の支配者が、厳かな口調で言葉を紡ぐ。 「盲いた世界でただ死を待つばかりの病人ども。  食物の連鎖は断ち切られ、地表は温められず、氷河の世となりてすべての生は無に帰す。  ……吾らは炎。  焔こそにただ特化した一族であるからこそ、それを知り得た」 「それが……今、起きてるって?」  馬鹿な事を言うな。 「今、太陽が……その『狼』ってのに喰われてるっていうのか!?」  あれは日食だ。  ただの日食だ。  そうでなければ─── 「…………」  静当主の無言が、俺の中で何かを肯定した。  否定できない。  否定する根拠が世界中の何処にも転がっていない。 「なんだ……よ。狼って。狼って、いったいなんなんだよ!!」 「何処の世界が絡んでおるか、現象としての結果を紐解く事に意味はない。この世は常にそうあった。  異なる世界が折り重なっておればこそ、辻褄は合わなくて当然よ──それでもこの世界は均衡を保ち、今、確かにここにある。  吾らが知り得る真実は、それが避けられぬ事実であるという事。  ならばこそ」  ……まさか。 「ならばこその蛙蟆龍よ」  まさか、蛙蟆龍ってのは───── 「一族が始祖は常に言葉と共に在った。言葉の焔こそが、呪詛に耐えし始祖にもたらされた力。  蛙蟆龍こそは始祖が縛りし最古にして最大の言霊。  ──光を。  虎狼の餌と朽ち果てる火輪に成り代わり、この世を照らす光を集積せよ。  光という概念は、日中にあっては火輪と同義。  ならばこそ、夜の星。  それはただ光り輝くだけであってはならぬ。であれば、それは日中にあっても火輪に打ち消されながら瞬いておる。 “照らす光”という概念。人間の作りし脆弱な灯火など話にならぬ。  故にこそ蛙蟆龍は夜空の光を蓄積する。  かの判官の供養を為すべく渡り歩いた始祖が辿り着きし、この地より始まった──鎌倉の世より続きし吾らが一族。  それと知ってから、悩み悩み悩み狂い、幾千もの手段を講じて、出した結論はこれしかなかった。  ──百年。二百年。如何ほどに溜め込んだか。   三百年。四百年。まだ足りぬ。   五百年。六百年。これではいずれ尽き果てる。   七百年。八百年。言葉で縛りしものなれば、終わりのその瞬間まで溜め込まねばならぬ。   九百年。一千年。最後の蛙蟆龍が寸前まで、ならばこそ永遠と信ずる事叶う。   強すぎる言葉はこの地を縛り付けた。   吾らが負った誓い破らぬぬ限り、有識の結界は破れぬ。  吾らは雲戌亥。  この地の守護者である。  何人にも譲れぬ。  何人にも媚びぬ。  何人にも臆さぬ。  吾らは命を懸け、この地を守る。  その結果、そのついでに世界が守られようと──それは吾らの与り知らぬ事。  吾らは如何様にあっても雲戌亥なのだ」  来るべき暗黒の世の為に用意された、第二の太陽。 「頼むぞ──この街を──……」  散っていった幾多の魂。  いずれ訪れるこの世の終わりを避けれると信じて、彼らは礎と果てた。  夜毎にこの街を空から見守って、百を数える度に砕け散っていった。 「あの童話は雲戌亥を謳った唄。あれこそが儀式の手順であり──そしてあれこそが蛙蟆龍の葬送よ、葬儀よ。  何故なら、街の者たちにテレ雪と呼ばれておるそれは、蛙蟆龍の骨なのだから」 「骨……?」 「然様。空明の里とは、即ち墓場よ。未寅とは墓場の守に他ならぬ」  幻想的な光景を作り上げる、あの頬を染めた淑女たちが──骨? (じゃあ、あの雪景色は……)  人間である事を捨ててまでこの街を守ろうとした人たちが……交代してくれる者が上がってくる事を感じて、安堵に包まれ、ようやく眠りにつこうとしている光景。  ──ふたみの照陽菜。  俺たちの照陽菜。  これが世代交代であるのなら、役目の交代であるのなら、今代の蛙蟆龍が先代に敬意を払って墓を掃除するなんて当たり前じゃないのか。 「あなたたちは、光になれたんですよ」  じゃあ、あの言葉は。  俺が唱えた、あの秘密の言葉は─── 「そちの思い違い、一つだけ埋め合わせておこう。  ──これが最後の蛙蟆龍よ。  あの娘こそが、光を受け継ぎ世を照らす第二の太陽。  吾が一族が綿々と繰り返してきたこの儀式は、此度で幕を迎える。  生きる権利を喰らう、この所業。二つ掛け合わせればどうなろうか……それは、あの娘が証明してくれよう。  最後の蛙蟆龍は、不滅の時を刻む弐式の火輪となりて。  貯えに気の遠くなるような年月を必要とした、これまでの蛙蟆龍に用いる事はできなんだが──最後なればこそ」  こいつは。  こいつらは。  ……あなたがたは。 「あっ……あ」  ……知らなければよかった。  心から。  感動でも同情でも憧憬でもなく。  俺は心からそう思った。 「もしも……明日で世界が終わってしまうとしたらどうする?」 「あ……あああ……」  ──聞きたくなかった。  そんな話、聞きたくなかった! 「……俺は」  俺は。  俺は、お前たちを憎んでいたかった。  怒り、憎み、恨み、吐き捨て。  憎悪の対象であって欲しかった。  ……ああ、そうだ。  俺はお前たちに、どうしようもない悪党でいて欲しかったんだ!! 「畜生」  俺はただ、ふたみを助ける事だけを考えていたかった。 「畜生! 畜生! 畜生!」  一度でも立ち止まったら───  ……俺はこの場に、立ち止まってしまった。  ……嗚呼。  ……知らなければ、お前たちを憎んでいられた。  子供の正義を振りかざして、大人の正義を踏み躙っていられたのに!!  含んだ水分も涸れ果て、砂の時計もまた壊れた──ただ壊れていくだけの部屋。  立ち籠めた骸の芳香だけを嗅ぎ慣れた部屋。 「己が志が折れない限り」。  雲戌亥家が張った結界が厄介だったのは、その一点に他ならない。  属性が炎というだけなら、如何に強大無比な結界だとはいえ、世代を跨げば解除は可能であった。  桜守姫家はそれほど甘くはない。  ……ふん、と、一つ嘆息する。  もし折れるような事が一度でもあれば───  ……それでも。 「俺は……」  前を見ろ。  顔を上げろ。  巽策。  ──お前の目的は何だ? 「俺は、ふたみを助けにきた」  そう決めた俺は嘘にはならない。  俺はその為だけにここにいる。 「ほう、ならばこの街の住人は見殺しか。大した傲慢よな」 「…………」 「そちの願いはこの街──ひいては世界を破滅させるものよ」 「……“ごめん”って、言ったんだよ」 「ん?」 「“好きになってごめん”って……“好きになってごめん”なんて言ったんだよ。  どんな気持ちで……どんな気持ちになれば、そんな事が言えるんだ。  俺はあいつに、どんな想いをさせちまったんだ!!」 「…………」 「俺はあいつにあんな顔をさせた。  守らなきゃいけない娘に、一番大切な娘に、俺、あんな顔をさせちまったんだよ。  俺は!!  俺はあいつに、言わなきゃならない事ができたんだ!!」 「……世が終わってしまえばふたみとどうという事もなかろうて」 「何が“終わり”だ」  ──込み上げる想いを、噛む。 「正義とかな、そんなのどうでもいいんだよ」  奥歯に挟んで噛む。 「俺はふたみを助けにきたんだよ。何度も言わせるな」  もう一度、自分の目的をしかと凝視しろ。  そして二度と目を離すな。  ───噛み砕け───  でなければ救えない。  ただでさえ極限の均衡の上に、お情けで生きている身だ。  同情するな。  憧憬など以ての外。  ふたみの事だけを考えろ。  他の想いのすべてを噛み砕き、ただ一点に集中しろ!! 「正義とは容易く口にするものではない。それは言葉の形を取ったその瞬間からうつろい始めるものであるから」  望むは平和。  ただこの地の安寧。 「忌々しき桜守姫の始祖を撃退せし時、里の者たちの期待に吾らが祖先は誓った。  この地を守る事こそが役目であると。  いかなる時代、いかなる事象が起ころうとも揺るぎなき基盤を。  吾らはそれを受け継いだ。  これからも変わらぬ。それが吾ら、それが雲戌亥」 「うるせえ」 「ほっ」 「俺はあんたの孫娘をもらっていく!!」 「──ならば、この祖母の前を押し通れ」  ──轟が駆け抜けた。  皆の注意が一斉に音がした方角へ向いた時、俺だけがそちらを向かなかった。  轟音の正体などわかっている。  わかりきっている事だ。 「午卯が!」と、次いで大気を震撼させたのは叫び声。 「午卯の茂一が突破された!」……と。  ああ、そうだろうともさ。  あの程度の卓越、たかが他に並ぶ者なき達人なんて程度で──俺の友達に敵うものかよ。 「未寅か」 「何もかも承知してるって顔しやがって。言っとくがな、メメは──」 「あの娘はあの娘で、己が志に殉じる覚悟で望んだのであろう。ならば責める道理は何処にもない。吾ら雲戌亥は常にそうあった」 「…………」  その言葉に、軋んだ歯車のどれかが、これまでとは異なった方向に回転を始めた。 「……まさか。桜守姫と手を取って逃げた巽の始祖って……知ってて逃がしたんじゃ……」 「知らぬ」 「……そうかい」 「何故、儂に問う。儂は今代の当主に過ぎぬ」 (……嘘つきだな。あんたは)  ──炎の力によって老いない身体。 「鎌倉の世より続きし」と言った。  救済の象徴を『蛙蟆龍』と名付けた。  ──そうだ。  彼女は何て名乗りを上げた────?  舞い敗れた九十九の姫。  最後の舞姫として現れた者こそ、名を静といった。  法皇はこの息を呑むほどの絶世の美女であった白拍子に希望を込めて、一つの舞衣を授けたといわれる。  ──静寂を切り裂いた若き舞姫。  その舞は雨雲を招来し、見事に恵みの粒を降り注いだという。  そして法皇は、静こそを「日本一」と褒め称えた。  ……この嘘つきが。  何が“先祖”だよ。  何が“受け継いだ”だ。  呪詛に耐えたってのは、他の誰でもない───  俺の横合いを駆け抜けていった一陣の風。 「おっ、お前! そいつは──」 「やっぱりそうか。“最期”だものね。一番いい刀を持ってきてると思った。  悪いけど借りとくね、菊乃丸。あなたより有効に使える人、知ってるんだ」  ──そう口にした時、一口の刀が宙を舞っていた。  狙いすましたかのように、俺の手元に舞い降りる刀。  受け取っただけで、面白いように腕の骨がその方向に曲がってしまうかのような衝撃。 「策。あなたなら使いこなせる」  ……もう、俺の身体の事は笑うしかない。 「ううん。使いこなしてよね、これくらい」  そう言って、メメが微笑んだ。  ──彼女はいつだって俺を試している。  けれど、こんなに当たり前の顔をして言ってくれたのは初めてだった。 「おおっ!!」  まだ折れてくれるなよ、俺の腕───  素早く柄へと指を走らせる。  ……そういう事か。  そういう事かよ、メメ。  ──つかんだ。 (つかんだな! 魂を!!)  振るうに値する牙を!! 「……あんたさ、いつでも俺を殺せただろ?」 「…………」 「なんで刀だけなんだよ。ふざけやがって」 「そう問われれば、儂にはそちの命を奪う理由がないからとしか返答のしようがない」 「領土を侵している俺をか? あんたのところの番人は、俺を殺す気で向かってきたのによ」 「番人か……ここにおる者は総じて、すでに任を解かれておる。  にもかかわらず、誰一人として去りゆかなんだ……ここに雲戌亥にまつわる者として残る事がどういう結果をもたらすか、承知しておろうに。  その上で、彼らそれぞれがそれぞれなりの志を果たした。  儂にはもはや咎める筋も命ずる道理もない」 「何の話だよ」 「そこに守るものあればこそ、仕えし刃は外敵に牙を剥く。当主しかおらぬ家で、当主が守るべきは己の命か、という事よ」 「それでも処刑人かよ?」 「…………」  ……わかってる。  わかってるよ。  この街が閉ざされているなら、警察も司法もない───  だからだろ。  だからなんだよな?  あんたはあんたのやり方で秩序を守ってきた。 「焼けよ」 「…………」 「俺を焼いてみろよ」 「…………」 「やる事はみんな終えた……そんな顔しやがって」  どれだけの年月、彼女たち一族はこれを繰り返してきたのだろう。  いつか訪れる災厄からこの土地を守る為に、どれだけのものを投げ出してきたのだろう。  だが。 「俺は、あんたたちを認めない。正しさなんて受け入れてやらない」  ──否定しなければならない。  俺はこの一族の願いの集大成を奪いにきたのだから。 「それでよい」  その指先は、ただこちらに向けられただけのものだ。  即ち“指差した”に過ぎない。 「それがそちの志ならば、応じよう。二度喰われ、尚、死骸と成り果ててまでそこに立つそちへ……儂は敬意を以って接する由がある」  にも関わらず。  駆け抜けた炎獄は辺り一帯をまるまる包み込んだ。  ──だから、間違いなく彼女は進むべき方向を指針しているのだ。  ただ、彼女の力の効果範囲からすれば、この山があまりにも小さすぎるというだけ。  鳥を狙えば空を焼き焦がし。  魚を狙えば海を干上がらせる。  人を狙えば街を溶かす───  これが雲戌亥。  雲戌亥静の力─── (……敵わねえなぁ)  手応えを感じた。  掌に吸い付くかのように馴染んだ刀から響く鳴動。 「……斬った、だと?」  眼前──どころの騒ぎではなく。  視界という視界の一切を埋め尽くした焔。  常軌の境目など容易く踏み越える炎熱の規模。  今、真一文字の切れ目が走る。 「伝説は伝説。逸話は逸話。乾いた心を潤すだけの御伽噺だ」  大気の裂け目の向こうに座する、赤と黒の王族に。  言ってやれ。 「だけどな」  敵わなくてもいいのだと。  強さを語り尽くす為に俺がここにいるわけではないのだと。  ……反撃の狼煙を上げろ。  反旗の矛先を突きつけろ。 「──使い方を知ってさえいれば、伝説はすぐにでも事実になるんだぜ」  それは、『雷神』と畏怖されし誉れの手にあった。  半身不随でありながら戦場へ輿に乗って赴き、敵の矢面に立って軍配を振るいし雄。  ──若き日。  木陰で休息を取っていたその者、立花道雪を刺客が襲った。  それは天候という名の刺客であり、見渡す限りに広がった雲間から舞い降りたのは、一筋の雷光。  引き抜いたその刀で、稲妻を一刀両断───  この衝撃でこそ下半身が麻痺したと伝わる道雪であるが、彼はただ「よい経験をした」と豪快に笑い飛ばしたものであった。  ──故にその軍神は、雷神と讃えられ。  手にした刀の銘は、柄に鳥をあしらいし装飾から千鳥と。  なれどその日より、千の鳥は雷を切る栄えを名に改めた。 「『雷切』……そうか。あの刀ならば、確かに……」  道雪が斬ったのは、“稲妻”という対象ではなく、“形なきもの”に他ならない。  雷神が先であったのか、雷切が先であったのか。 「だが、実に恐ろしきは『解対』よ。新刀古刀を問わずして、本質そのものを引き出しおる」 「安い事言うなよ、当主様。  使いこなせるかどうかなんて今更問題にもなりゃしない。使いこなせなけりゃ死ぬだけだ。  ──俺は死人だぜ。止められなければ俺の勝ちなのさ。どっちが強いかなんて関係ない。  さあ、俺はふたみを迎えにいく。邪魔するなよ」 「吼えよったわ、小僧が」 「確かにあんたからすれば小僧だろうけどな。  ──命を懸けてる相手に気安く小僧なんて言うな」 「ほ──これは眼福。この世の終わりが訪れる前に、良いものが観れた」 「……一つ訊こう。何故、ここを訪れた。そちが望む吾が孫なら、すでに天に居る。家捜ししたところであの娘の影すら見つけられぬぞ」 「決まってんだろ。ここが、この街で一番高い場所だからさ。  届かないものに手を伸ばす時ってのはな、人間、自然と高い場所に登っちまうんだぜ。  ここから、昇ったんだ。  ここで、あの娘に、あんな顔をさせた。  ……だから、ここなら届く」  俺は空に手をかざす。 「届くか」 「ああ」  確信を持って。 「届きますよ、お義祖母さん」 「……ほ」  ──あの時。  世代交代の結果としてふたみが──新たな蛙蟆龍が昇っていった時、これまで夜空を覆い続けてきた前任者はその役目を全うした事を告げられた。  そして後進に想いを託して眠りについた。  最後の蛙蟆龍に。  見上げた空に暗雲はない。  何処にいるんだ、ふたみ。  お前はこの空の何処かにいるんだろう?  それは雷鳴の唸りにも似ていた。 「……ふたみ」  お前なんだな? 「弐式の火輪への変化、始まったか」  瞬く間に天上を席巻した暗雲が、太陽を中心に渦を巻き始めた。  ちぐはぐな光を世に降り注ぐ日の輪を、取り囲むかのように。 「……そこにいるんだな、ふたみ」  ──届け。  届けよ。  あの雲まで。  あの雲の向こうまで。  ふたみのところまで届け!! 「……頃合か」 「なっ……!」 「弐式の火輪が世を照らす時、吾ら雲戌亥は一族総じて皆殺しとなる」  ──その言葉に虚を突かれた。 「なっ……に、言って……」 「吾らは自らの志に背を向けた。  生贄を差し出して遵守する大道とはただの利己。  交換条件に応じた龍視の人身御供は取引であった。  だが、生まれた時からそうであるという理由だけで、一人の娘から人に生まれてきた意味を奪う……これのどこに正しさなどあろうか。  吾らは折った。心を折った。そして他に術を知らぬ。  ならば吾らの頭上に裁きの雷が下るは必然」 「……なんだよ……それ……」 「この街を覆う有識結界、蛙蟆龍とはそのようにして成り立っておる。  故に誰にも破れぬ。  小賢しき妙術に長ける桜守姫であっても──例え神であったとしても。  それを遵守し続けてきたからこそ、誰一人として破れなかったのだ」 「わかってて……。  あんたら、わかっててやってたっていうのか!?」 「それで皆が救われる。ならばそれでよい」  当たり前の顔をして。  不遜な支配者が、そう言った。 「坊ちゃん」 「…………」  その神妙な表情の意味を計りかね、俺は思わず言葉に詰まる。 「生き長らえてくれた事に感謝する」 「え……?」 「生きておった。生き抜いてくれた。ほんに、ほんに……ありがとう」 「あんた……」 「……済まなかったの、策」  ──掠める記憶に浮かぶ、思い出という名の雲は。  遠い昔、この街に来た時の。  ──優しい笑顔のお婆ちゃん── 「謝るなよ! 畜生! いまさら謝るなよ!!」  そんなの卑怯だ。  卑怯だよ。  ……よろめいたのは、足腰に力が入らなかったからか、それとも。  何かが踵にぶつかった。  冷たく硬い感触───  ──ああ。  振り向かなければよかった。  庭の片隅にひっそりと建てられた墓。  それは、俺の名前が彫られた墓。  その横に、そのまた横にも巽の名。  横並びに連なる、百年に一人ずつ消えていった先祖の名。  本来なら“家”に対して用意するべき墓。  それは個人に、故人に対して用意してあって。  そこには花が捧げてあって。  一つ一つ綺麗に掃除してあって、一つ一つ丁寧に設えてあって。  考えなければいいのに想像がついてしまった。  ふたみに気取られないように、彼女が学校に行っている間。  毎日、毎日。毎日毎日。  この雲戌亥家の人々は、生贄となった巽の墓前にひざまずいていたんだ───  だって雲戌亥の連中は、どいつもこいつも……いつだって。  そうだ。  いつだって喪服を着ていたじゃないか!!  もし折れるような事が一度でもあれば。  その場で全員皆殺し、とは。  だからこそ、この閨で飽く事なき惰眠を貪る破目となった。  御家断絶を懸けた有識結界。  桜守姫をして破れぬ不滅の鎖。  ……このような真似、できるはずがない。  できようはずがないではないか。  正義に狂ってなければ、こんな真似はできない。 「──さあ、吾らが背負いし『炎』よ。吾が同胞よ」  その身を差し出すように、静は空を仰ぎ両手を広げた。 「吾らは誓いを破った。存分に裁くがよい」  その言葉を合図とするかのように、彼女を覆う炎が勢いを増した。  身を包み込むそれは、まるで炎の柱───  柱は一つではなかった。  一つ、二つ、三つ、四つ──これまで何処にこれだけの数の人間がいたのだろうか。  百の数をも満たすほどの炎の柱が立ち昇っている。  俺を見つめていた、姿なき番人たち。  この屋敷に仕える使用人たち。  雲戌亥の血を持つ者たち。 「おう、茂一」 「うむ」  ここにも、また二つ。 「決着の続きは向こうでだな」 「道を外れし吾らに、極楽への切符は配られまい。後は裁かれるのみよ」 「しゃーねーか。……ま、楽しかったぜ」 「うむ。御主がいたから私の人生が充実していた事は否定しまい」 「んじゃな、相棒」 「さらばだ、相棒」 「龍視のご子息サマ」  炎の向こうから声が届いた。 「やるじゃん」 「え……」 「お嬢の相手がお前で良かったわ」 「おま……え……」 「ババアが決めた事だからさ、俺なりに割り切ってたつもりだったんだけどよ……まあ、やっぱ、それでもなんつーか……さ」  ──こいつ。  こいつもまた、俺を試していた。  ふたみの為に。  心に爪を立てる為の婚姻だと知っていながらも、割り切れない気持ちが俺を試した。 「悪かったな」 「お前もか! お前も謝るのかよ!!」  だからこいつはあの時、刀を抜いた。  ──それがこいつの、譲れない魂だから。 「菊乃丸。散り逝く前に、御大にお伝えせねばならぬ事があるのではないのか」 「あ、あー……ま、そうなんだけどよ……」  菊乃丸は苦笑いを浮かべ、そして。 「いいや。気持ちも一緒に持っていく」 「そうか」  ──微笑っていた。  その笑顔が墨と消える。  次々、次々に、雲戌亥の者たちの姿が燃え尽きていく。  あまりに壮絶な光景は俺の身を竦ませた。  火柱が黙していく中、ただ一人、変わらぬ姿のまま毅然と背筋を伸ばす者がいた。  その身を赤黒い腕に抱かれながらも、浮かぶ表情は焼かれる恐怖に対するものでも、死すべき絶望に対するものでもない。  ただ──怒り。 「……なんだこれは」 「儂を舐めておるのか、炎よ。儂は、儂こそが雲戌亥の当主ぞ」  全身を業火に焼かれながら、その女傑は声高に吼えた。 「すべてを始めた者に対する仕打ちがこの程度か? 笑わせるでない!  誰よりも激しく儂を焼け。誰よりも激しく、誰よりも苦しみぬく殺し方を選べ!!」  その威勢は炎などよりも遥かに熱く。  さらなる勢いを増した炎熱よりも、彼女の咆哮が大気に轟く。 「足りん! まったく足りん! 熱いものか! この程度で儂を焼き尽くせると思うてか!!  今日までの一族の苦しみ! 北条に生かされた吾が子より続きし、吾が一族が背負いし重責の苦悶!  蛙蟆龍と果てた者たちの懊悩! 煩悶!  そして、ふたみ! あの娘がこれより負う孤独の痛み!  今日まで苦しめた分まで! あの娘が泣いた数だけ、これより泣く数だけ!  二度と人として生まれたくないと泣き叫ぶまで、儂を裁け!!」  彼女は懐に手を入れ、何かを握り締めていた。  強く、強く、そして優しく握り締めていた。 「この鬼の如き女を、二度と這い上がれぬ奈落の底へと突き落とせ……!!」  ──その身が焼き尽くされていく。  耐え難い異臭が立ち込め、凛々しくも可憐な容姿が見るも無残に崩れ落ちていく。 「……それでよい」  そして、彼女は───  この地を世界から隔離し、ただ平穏だけを願いながら治め、守り続けた雲戌亥の当主。  揺るぎなき専制の王者が、遂に黙した。  ……最期に彼女が呟いた言葉が、耳に残って離れない。 「こんなお婆ちゃんでごめんね……」  言葉に霊を持っていた彼女。  だから、すでにそこにはいない彼女の言葉が、耳の奥で木霊し続けたのだろうか。 「あなたは……」  ……ああ、そうだ。  あの人は。  あの人は、きっと。  ──最後の蛙蟆龍として生まれし者。  その産声を忘れない。  かの判官の鎮魂を為すべく、渡り歩いた末にこの地へと辿り着いた。  時は鎌倉。  愛したあの方の兄が、あの方の命を奪ったあの油断ならない方が治めし武家の世。  乳飲み子であったあの子と二人、この地へ辿り着いた。  世には男子という事になっているが、産んだ子は女子。  益荒男の子。  ──この地において、彼女たちは蔑まれた。  それはそうであろうとも。  そこは前時代の支配者たる一族の残党が築いた里であったのだから。  彼らをことごとく討ち滅ぼした武将の寵愛を一心に受けた彼女が歓迎されるはずなどない。  それでも、時代の破壊者とまで呼ばれたかの武将の、あまりな末路を哀れんでか。  恨みこそ消え去りはしないまでも、取り立てて害を受ける事はなかった。  ……この地に根を下ろそう。  そう決心させたのは、里の者から弔いを頼まれた時か。  もともとは山林の奥深く、移り変わってしまった世から逃れるべく築かれた、旧時代の遺児たちの隠れ里。  僧などいるはずもない。  里を降りて呼びにも行けぬ身なれば、残る生を鎮魂に捧げると、尼僧と何ら変わらぬ生活を送っていた者を当てとするのも宜なるかな。  やがて訪れた転機。  いつしか、この地の守護者と称えられ。  娘が子をなし、またその子が子をなし、不思議な事に生まれくるのは女子ばかり。  ただ独り老いず、子が、孫が、老いて死んでいくのを見るのは想像を絶する辛さがあった。  それでもこの世に在り続けたのは、新しき世を望んでいたあの方の夢を、せめて「守る」事で果たせずとも近づければ、という想いがあったればこそ。  それはきっと、志と呼ばれるもの。  女子の身でこのような───  そう思わないでもなかったが、次なる世への展望を分かち、異母でこそあれまごうことなき弟を死地へと追いやった、あの油断ならない方が築いた世に迎合する事はできない。  ──気付けば、その鎌倉の世も終わりを迎えていた。  幾星霜、そうして在り続けただろう。  桜守姫なる病巣を抱え、箱庭として膨れ上がった空明の地。  そも、隠れ住むからこそお天道様の許を大手を振って歩けぬと、せめてと里の名につけられた空明の──祠。  この世の終末を視てしまった、感じ取ってしまった彼女にできる事はただ一つ。  皆がその志に散っていった。  彼女が背負ったものはあまりに大きく、そして重くなり過ぎ、もはや立つ事さえままならない。  それでも歯を食いしばって立ち続けた。  在り続けた。  ──そうして最後の蛙蟆龍。  その産声を聞いた時、彼女が流した涙は、守り続けたこの地が救われる事への歓喜か。  それとも、生まれたばかりの赤子が辿る道を哀れんでか。  それとも、ようやく解放される事への安堵か。  死んでいいのだ、と、やっと思えた事か。  それは彼女自身にもわからないだろう。  想いを積み重ねるにしては、年月はあまりに長すぎた。  常に清く、常に正しく在るべきと戒め続けてきたが、精神が磨耗していくのはどうにもならない。  自分より後に生まれた者が、自分より早く年を取って死んでいくのにも、もう慣れてしまっていた。  だから。 「ばあさま」  ──そう呼ばれた瞬間、虚を突かれたのだ。  あまりに遠い記憶の片隅にある言葉だった。  最後の蛙蟆龍の母となった者が、慌てて非礼を詫びる。 「よい」と、静は自分でも気付かぬ内に、そう口にしていた。  雲戌亥の者として生まれてきた者には、まず最初に当主の存在を教えなければならない。  それがいつの間にかに定められていた不文律。  当主が背負い続けてきたものを知っていればこそ、一族の者たちが、絶対の信頼と最上の敬意を込めて子に伝えてきた事。  一族の者にとって、雲戌亥静は大先祖であり、生き神に等しかった。  崇拝は──されてしまえば、されてしまった側にとってもはや拒む事はできない。  まして可愛い子孫が自分の為にとなれば、受け入れるしかなかった。  そうして常に高みへと置かれる彼女には、肉親であっても近しい者という存在がなかった。 「ばあさま」  その言葉が、どれほど静の心を震わせたか。 “この家で一番偉い存在”である老婦がいれば、それは自分の祖母だと思うであろう。  先祖伝来の慣習をなすべき時期は物心つくより前からと定められていたものの、最後の蛙蟆龍となった女子は、想像だにしないほど早くから知性が発達していたのだ。  その実の祖母はすでに亡くなって久しい。 「……よいだろうか」と、静は遺影に問いかける。  それはすべてを他の誰かの為に捧げてきた彼女の、たった一つのわがままであった。  雲戌亥ふたみは最後の蛙蟆龍にして、一族の者としてただ一人の例外。  大御所・雲戌亥静の実の孫として育てられた者。  血脈の遥か下った子孫であるふたみの両親もまた、彼女の前では実の娘とその婿として扱われた。  ……「お婆ちゃん」と、ふたみにそう呼んで欲しかったんじゃないのかなんて。  彼女が年老いた姿を取り続けていた理由に、そんな淡い想いがあったんじゃないのかなんて。  どうしてこんなに自然に思ってしまったんだろう。  この写真を握り締めながら。  自身を焼き殺す炎にその身を委ねながら、その炎さえも叱咤しながら、呟いていた。 「……ふたみ」  と。 「二見。  双水」  と。 「……ああ、ふたみ……」  ……あの人は。  どれだけ一族を愛しながら、街の為の生贄にしようと決断したのか。  やっとわかった。  あの人は、もうとっくに死んでいたんだ。  一族を犠牲に差し出すと決めた時から─── (……本当の死人は……どっちだよ)  込み上げた想いは、上手く言葉にはできなかった。 「……静様」  この写真だけが焼けなかったのが、あなたの遺言のような気がして。  囁き、そして俺は欠けた太陽と薄れた闇と暗雲に取り囲まれた空を見上げる。 「行きます」 「届く」という確信が、俺の身を引っ張り上げる。 (……なんだよ)  暗雲の中、俺は霧の海を泳ぐ。  あいつら。  あいつら畜生。  あいつら!あいつら!あいつら!  ──なあ、策。  巽策。  彼らはたった一言でも言い訳をしたか? 「畜生!!」  当たり前の顔しやがって。  死んで当たり前みたいな顔しやがって。  当然の報いだってのかよ。  ……一人くらい。  死にたくないとか、まだやり残した事があるとか、そういうのがあってもいいじゃないか。  なんでどいつもこいつも満足した顔してやがるんだよ!!  この地の支配者は───  ああ、畜生。  ほんとうに支配者だった。  誰も敵わない。  並ぶ者などいやしない。  雲戌亥家はほんとうに、命懸けでこの地を守り続けてきたんだ。 「策。お前は好きに生きなさい」  ──ああ、馬鹿だな。  ほんとうに馬鹿だな。  今頃になってやっとわかった。  この言葉にどんな意味が込められていたのか。  白爺さんは気付いていたんだ。  宗家と分家の逆転に気付いていた。  恐らくは、かつてこの街に来た時。  もともと勘繰っていたのかもしれない──そして、この街で確信したんだ。  そして百年に一度の掟めいた慣習の裏で、対象となった子供は必ず死亡している事に行き着いたんだ。  白爺さんは愕然とした。  他ならぬ己自身の手で、孫息子を生贄に差し出してしまったのだと。  ……これは贖罪。  白爺さんは考えた。 「何故、巽の家なのか」 「何故、巽の家でなければならないのか」  遥かなる太古の始祖までは手が及ばなかっただろう。  解対に関して伝えずに旅立ったのなら、始祖は雲戌亥家と桜守姫家に繋がる一切を処分していたに違いないから。  だから、白爺さんが解対に関してどこまで感付いていたのかはわからない。  けれど、巽が巽たる根源──なにより「巽でなければならない理由」がそこにある事は悟っていた。  ……時折、優れた芸術家を輩出してきた家系。  それが白爺さんから見た巽の系譜だったのかもしれない。  あの人からすれば、親もそのまた親も芸術家じゃなかった。  生まれてくる子が、親族が、芸術に偏った時──環境と状況が「芸術に偏った」と思わせた時、宗家と分家の関係に気付いていたあの人は、そこにこそ理由を求めたんだろう。  だからそれは、わかりやすかったはずだ。  近代の一族の中で、芸術家として芽が出なかったのは俺だけだ。  故にこう仮定した。 「あの日、生贄に選ばれたのは策」  そして。 「芸術家としての才能がなかったので助かった」  俺は空明市を後にしてからも、ずっと健康に日々を過ごしていたのだから。  ……そう、わかりやすかった。  何に怯えればいいのか、これほど明白なものはない。  白爺さんは、俺が芸術家として芽が出てしまう事が恐ろしかったんだ。  開花するような事があれば──それはそのまま、俺が死んでしまう事を意味していた。 「策。お前は好きに生きなさい」  あの言葉は。 「命が救われた」と悟った白爺さんの、安堵の溜息。  孫の無事を喜ぶ祝福の言葉───  だから。 「巽の者を代表して、誰かがあの街に行かなければならない」  真っ先に俺が手を上げた時の、あの表情。  あの表情は───  ……本当に馬鹿だ、俺は。  遥か昔に餌に選ばれていた俺が生きている理由はわからない。  どうして今日まで生き長らえていたのか、生き長らえてこれたのかはまるでわからない。  けれど、今はこの幸運に感謝しよう。  何故なら、今この街にいるのは、欠番のはずの俺。  数にすら入れられていなかった俺。  ふたみに手が届くのは。  ──この俺だけなのだから。  ここはふたみの中。  手に取る事もできない霧のすべてが、あの娘なんだ。  でも、俺の声は未だ届かない。  手足に話しかけたところで本人に声は届かない。  ──何処だ。  ふたみは何処だ? 「ふたみ───!!」  まだ、話し足りないんだ。  もっともっと、お前と一緒にいたい。  お前が笑った顔を見ていたいんだよ。  ……泣かせちまった。  ごめんな。  謝らないといけないんだ。  お前に伝えないといけない事があるんだ。  だから。  届いてくれ。  ──あの雲の向こうまで。  この想い、どこまでも届け── 「ふたみ」  ……届いた。  見つけたよ、ふたみ。 「逢いたかった」 「…………」 「帰ろう、ふたみ」 「…………」 「ふたみ」 「…………」 「ふたみ」 「お主人……ちゃん」  俺は精一杯に微笑ってみせる。 「今度は俺から、ちゃんと言うよ」  俺はわがままだ。  世界一、わがままな男だ。 「結婚しよう」 「え?」  不意の一言に、ふたみの顔がきょとんとした。 「ずっと言うつもりだった。  俺たちの出逢いは、別の誰かが決めた関係の上にあった。  だから──だからこそ、今度は俺から言おうって。俺の気持ちを伝えて、ふたみにちゃんと決めてもらおうと思ってた。  今度こそ俺たち自身の手で始めようと思ってたんだ」 「お主人ちゃん……」 「ごめんなんて言うな。好きになってごめんなんて言わないでくれよ。  お前の気持ちを知って、俺がどんなに嬉しかったか。どれだけ救われたか。  俺はまだ、お前にちゃんと伝えてないんだ」 「それを……伝える為に?」 「そうだよ」 「……こんなところまで?」 「どんなところにだって行くさ」 「…………」 「一緒に星空を見よう、ふたみ。二人じゃないと意味がないよ」  それはいつか、この娘が言った台詞。 「…………」 「ふたみ」  もう助からない男が好きな女に求婚している。  剥き出しの想いをそのままにぶつけている。 「ダメだよ、お主人ちゃん」 「……ふたみ」 「みんなが今日まで背負ってきたものはどうなる。代々の先祖が、ばあさまが抱えてきたものは何処へ行ってしまうんだ」 「ふたみ……」  知ったのか。  何が自分に課せられているのか、知ってしまったのか。 「……私も雲戌亥家の人間だから」  その言葉が答えだった。  ──そうだ。  彼女は雲戌亥ふたみ。  真面目で責任感が強くって、家事が得意で、料理なんかプロ顔負けの腕前で、綺麗好きで──ちょっとだけ言葉の上手くない女の子。  誰よりも可愛い女の子。  あの日、俺に答えを求めた彼女は何て言った?  唯井ふたみが──「雲戌亥ふたみが巽策と一緒になる為に必要だと思った」と、そう言わなかったか? 「……上手く言えないんだけど、色々な事がわかったんだ。  蛙蟆龍になった時……代々のご先祖様が蓄えた光を受け取った時、様々なものが流れ込んできたんだ。  皆がどんな気持ちでこの地を守ってきたのか。何を信じて天へと昇ったのか。  私はな、その雲戌亥家の末裔なんだよ」  知ってしまった。  知ってしまったら、この娘は。 「ごめんな、お主人ちゃん。苦しかったろう。  でも、アナタが生きていて良かった。  生きていてくれて本当に良かった。  今ならアナタを……押し付けられた役目から解放する事ができる。  私にはもう供給は必要ないんだ。条件はすべて出揃った。  今この時、アナタが生きているのなら、もうこれ以上何かが失われる事はない」 「嘘だ」 「え」 「お前は嘘が下手だな。本当に下手糞だな」 「…………」  俺の心臓はもう停止している。  これ以上何かが、とか、それ以前の問題なんだ。 「……お主人ちゃんに嘘はつけないんだな」 「当たり前だろ」 「アナタは死なない。死なせるもんか」 「……何をしようとしてる?」 「怖い顔をするな。私の好きな顔が台無しだ」 「ふたみ!」 「ふふっ……ムコが栄養失調になるのはヨメの失態だ。ムコに恥をかかせる事になる。私はそんなヨメにはならないぞ」 「おま……」 「大丈夫。上手くいく。  願いはきっと叶うんだって、そう教えてくれたのはアナタだから。  ……後は、私が……私が太陽となる事で、すべてが丸く治まるんだ」 「治まるか! 丸くなんて治まってたまるかよ! お前独りが犠牲になって、何が治まるっていうんだよ!!」 「犠牲じゃないよ。私は誰かの犠牲となる為に、この世を照らすわけじゃない」 「ふたみ……?」 「お主人ちゃんが生きている。  お主人ちゃんがいる──いてくれる世界を、私は照らすんだ」 「ふたっ……」  とん、と、ふたみが俺の胸を押した。 「だから、さよならじゃない」  隔たれた俺たちの距離。  あの日縮まった距離が、再び遠ざかる。 「……!」  ──冗談じゃない。  手を。  この手を離してたまるか。  この手だけは絶対に離さない。 「まだ……だ」  ──何を見てたんだよ、婆さん。  見ろよ。この娘はな、あんたらが余計な心配なんかしなくても、こんなに強い心を持っているんだ。  俺が惚れた女の子を見損なうんじゃない─── 「お主人ちゃん……」 「俺は……諦めないぞ……」 「なんで……」 「聞かなきゃわかんないんなら、一晩かかってでもお前に伝えてやるよ」 「……だ、誰かがこうしないとならないんだ。それは私にしかできないんだよ」 「だったら俺も一緒に連れて行け!!」 「え?」 「俺も一緒に連れて行ってくれ、ふたみ……一緒に世界を照らそう。  これがお前の役目なら。これがあの家に生まれたお前が背負った事なら、俺も一緒に行く。  俺は、雲戌亥ふたみを嫁に貰ったんだから」 「……お主人……ちゃん」 「ふたみ。今こそ、お前の答えを、俺にくれ」 「…………」 「ふたみ!!」  ──好き。  アナタの事が、大好きです。  とん、と。  ふたみの手が、再び、俺の胸を押した。 「ふたっ……!」  ──落ちていく俺が見上げた時。 「やっぱり……私は上手くないな」  ふたみが、微笑っていた。 「ふたみぃぃぃ────!!」  落ちていく。  ふたみとの隔たりが大きくなっていく。  ふたみへの距離が遠ざかっていく。  落下していく俺の身体を、幾重もの雲の層が受け止めてくれていた。  濃度を増した水の膜が、俺を優しく受け止めてくれていた。  この感覚は。  ふたみを抱いた時の。  ふたみに抱かれた時の。  あの感覚に、よく似て。  そうして俺が地面に辿り着いた頃合を見計らうかのように、雲が変化を始めた。  虚空に横たわるように渦を巻いていた螺旋の雲が、さらなるまとまりを見せた。  自らの尾を喰らうかのように自身の身体に折り重なった龍は、住処を見つけた獣のように丸まって眠りにつく。  その度に、雲間から木漏れ日のような陽が溢れ出す。  眩しい日差し。  今まさに失われていく太陽と寸分違わぬ、恵みの光。  今日までの蛙蟆龍が命と引き換えに蓄え続けた光。  この街に住む人々から星空を隠した代わりに得た光。  そして。 「ふたみ……」  あの娘の光。  ──嗅ぎ慣れた臭い。  照りつける日差しに焼かれた地面と、現れては通り過ぎる大小様々な車が吐き出す排気ガス。  ──聞き慣れた音。  ちぐはぐな建物の隙間を縫って舞う風と、多種多様な人々が時に小さく時に大きく群れを作って織り成す会話。  街角にはその会話という名の雑踏が溢れている。  交差点で信号待ちをしている人々が、知人と友人と仲良く談笑を交わしている。  信号が青に変わると、それを合図に路面は人の波で埋め尽くされる。  行き先は様々。  例え同じ方向であっても、何をしに行こうとしているのか、目的が違う。  例え同じ目的であっても、物事の捉え方が人それぞれなら、想いが違う。  想いの数だけ人がいる。  四季折々合わせての星々より、ずっと数多くの人々。  ──みんなが生きている。  いつもと変わらない日常を生きている。  彼女のお陰で生きている。  どうか。  ……どうか、忘れないでほしい。  時々でいいから、空を見上げて欲しい。  首を傾けてあげてほしい。  そこに、あなたたちを救った人がいる。  何もかも一身に背負って、あそこにいる事を選んだ人がいる。  だから、どうか忘れないで。  ──あの空にはいつだって、俺たちを照らしてくれる少女がいる事を──  ……そんな未来なら、俺は、いらない。  ごめんな、ふたみ。  お前の想いを無にする事になるかもしれない。  けど、けどな───  俺、お前がいない世界でのうのうと生きるなんて事、できないよ。  ──飛び越せ。  もっと遠く。  あの雲まで。  あの雲の向こうまで。  あの雲の先まで。  ずっとずっと先まで。  ──今こそ届け!!  ……見えた。  あれだ。  あれこそが。  おまえか。 「お前が『狼』か!!」  お前が。  お前がいる為にこんな事になった。  お前が皆を苦しめる。  ──お前のせいでふたみが!! 「お前が! お前が!! お前がぁぁぁぁっ!!」  ──俺は探した。  武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を武器を  辺りを見回しても、そんなものあるはずはなかった。  ──ならば。  武器がないのなら。  俺が武器になればいい。  あの咒いの刀は俺に手がかりをくれた。  それそのものが完全にそう思い込んでさえいれば、思い込ませる事さえできれば、それはまったく違うものになり得るのだ。  身体がすでに使いものにならない状況は、むしろ都合がいい。  下手に意識通りに動いてしまえば俺は自分の身体と──人間である自分の身体だと認識してしまう。  肩からぶら下がっているだけの腕。  腰から垂れ下がっているだけの脚。  呆れ果てるほど荒れ果てた臓腑を抱える胴。  満足に頭部を支える事すら叶わない首。  みんなみんな死んでいる。  ここには骸が転がるだけ。  それでいい。  これはもう生きている人間の身体じゃない。  人間の身体ですらない。  そう。  これは武器だ。  人の形を模した武器だ。  ──我が身は一口の剣。  思い込みが真実となった瞬間に事実と化す。  意思を持つという伝説の武器なんかが「自分を得るに相応しい主人を定める」というのは、案外こういう事なのかもしれない。  誰かに使われてこその武器ならば、存在意義はそこにこそあるのだから。  ならばこそ、その“使う誰か”は自分で選びたい。  自分の意思で自在に動けるとしても、だ。  俺は武器だから。  武器の気持ちがわかる。  もう、握手はしない。  俺はお前たちの同族だ。  ──いつか。 「あの雲の向こうまで、この想いがどこまでも届けばいい」  そう、ふたみが言った。  ……ああ、そうだな。  と、俺も思った。  先端が狼に突き刺さる。  鋭く激しく喰い込んでいく。  そうか。  足りないか。  こんなもんじゃ、お前にはまったく歯が立たないか。  そうだな。  ただの武器じゃ駄目だな。  俺は武器。  俺は狼を殺す武器。  狼を殺し得る武器。  ただその一点に集中しろ。  俺はすでに人間じゃない。  ならば武器としての昇華を望め。  俺は鍛冶師が鍛えなければ鋭さを増す事のできない武器じゃない。  己が意思を持つ剣。  だが、その程度じゃ終わらない。  俺は。  俺こそが。  ただ狼を殺す為だけに生まれ、その為だけに在り、ただそれのみを為し得る剣。  人を毛ほども傷つける事は叶わずとも───  狼ならば確実に殺し得る武器。  特化する事で想いを増せ。  道を狭めても真っ直ぐに通せ。  他には何もいらない。  ──我が銘は『狼殺し』。  吹き飛んだ。  多分、巽策の脚だったモノ。  それでいい。  効いている事が実感できる。  俺はさらに深く喰い込んでいく。  右腕だったモノ。  効いているからこそこいつは暴れている。  俺を破壊しようと必死になっている。  左腕だったモノ。  ざまを見ろ。  意志の強さはあの娘がくれたものだ。  胴体だったモノ。  ふたみがくれたものならば───  ──お前なんかに敗けるもんか!!  残ったのは、多分、巽策だったモノ。 「喰い千切ってみろよ、太陽を呑み込む化物が」  ……ああ、よかった。  ──落ちこぼれ。  策は落ちこぼれ。  視えるものが『武器』で、ほんとうによかった。  ……この世の最期に見たものは。  呑み込んだ太陽を吐き出しながら崩れ落ちていく、狼の姿だった。  ──少女が目覚めた時、辺りには誰もいなかった。  目の前に広がるのは、彼女が育った生家。  遥か昔ここに居を構えて以来、まるで街を見下ろすかのように鎮座し続けた屋敷。  屋敷に人影はない。  人影どころか気配すら。  幾重もの襖を開いても、まるで迷宮の如き構造の最奥に達しても、ただ一人の姿すら見つけられない。  すべては夢だったのだろうか……。  そんな淡い期待を宿した彼女の頬をなでた、ささやかな風。  大気の悪戯な流れが運んできた、小さな小さな切片。  少女の掌に納まってしまうほどに小さなそれは、着物の切れ端のようだった。  端が焼け焦げ墨と化した……それは、かつて彼女が幼い頃、祖母に送った着物によく似ていた。  彼女の祖母は常に喪服を着ていた。  思い出の中の祖母は、いつだって影法師のようだった。  小さな頃は、それを不思議とも思わなかった。  ずっとずっと見慣れてきたものだったから、物心ついた時にはすでにそれを受け入れていたし、自分の中では当たり前のものとなっていた。  ──いつしかそれを喪服だと知り、そして喪服の持つ意味をも知った時、初めて不思議に思った彼女はそのわけを祖母に尋ねた。 「自分はその生涯を通して喪に服さねばならない」  返ってきた答えがそれだった。  意味がよくわからず首を傾げる孫娘に、祖母はもう一言だけ付け加えた。 「もしも自分がそれから目を背けるような事があれば、龍視に対して申し訳が立たない」  孫娘にはやはりよく意味のわからぬ事ではあったが、祖母がいつも背筋を伸ばして堂々としているのは、そこに理由があるんだな、と、なんとなく思った。  その話はそれきりだった。  祖母がこの事にあまり触れたがらないというのは、お婆ちゃん子であった彼女には肌でわかった事だった。  そう、彼女にはわかった。  ──耐えているのだ、という事がわかってしまった。 “耐えている”という事の意味を、幼い彼女がどれだけ理解できていたのか───  ただ彼女は「ばあさまが可哀相だ」という思いから、街の着物屋に独りで買い物に行った事がある。  供も誰もいない外出は初めてだった。  生まれつき足腰の強くない彼女ではあったが、この頃はまだ車椅子を必要とするほどではなかった。  とはいえ、健常な子供の程には及ばず──加えて言ってしまえば、そもそも子供の足であり、山奥に住みながら野山を駆け回った事のない令嬢の事である。  彼女なりに早起きしたつもりだったが、山を下りるだけでも随分と時間がかかってしまった。  ようやくお目当ての店を捜し当てた時には、彼女は泥だらけで、あちこち擦りむいており、時刻はすっかり夜の頃合だった。 「おきものをちょうだい」  すでに下りていたシャッターを叩き、精一杯の大声で店の人を呼んだ。  静まり返った夜の街で何度も何度も叩き続けていると、やがて店主と思わしき恰幅のいい中年男性が怪訝な顔をして店から出てきた。 「おきものをちょうだい」  この言葉に、店主はますます怪訝な顔をして、「お金は持っているのかい?」と泥だらけの少女に尋ねた。  この頃、彼女は“お小遣い”という概念を持っていなかった。  例えば外出した時、気に入ったものを「いいな」と見ているだけで、すぐにそれは自分のものとなった。  また、本に載っていたものを「これ、いいな」と口にするだけで、次の日にはそれが自分の目の前にあったから。  首を傾げる彼女に、店主は溜息しいしい、どうやって追い払おうか思案している様子だった。  遂に「お父さんかお母さんを連れてきなさい」と言われて、少女は困ってしまった。  だって、どちらもいない。 「ばあさまのなの」と言うと、「そう、じゃあお婆ちゃんを連れてきなさい」と冷たくあしらわれる。  店前での会話が聞こえたのか、奥から店主の妻が出てきた。  一見してだいたいの事情は呑み込めたようだったが、暗がりにいた少女の顔を見咎めた時、妻は驚いた顔をして、慌てて夫に耳打ちをした。  王族の姓を模った言葉は、少女の耳には届かなかった。  その瞬間から、店主の態度が豹変した。  店の奥へと少女を案内すると、飲み物やらお菓子やらを食べきれないほど振舞い、あの山頂の屋敷から独りでここまで来た事を知ると、「偉いね」「おりこうさんだね」と連呼した。 「おきものをちょうだい」  もう一度、少女がその事を口にすると、店主は満面の笑顔で彼女を商品の並ぶ部屋へと案内した。  雲戌亥家に恩を売る、という事はこの街では免罪符を得るに等しい。  代金とて多少上乗せしても支払ってもらえるだろう──それどころか、上手くすればお得意様になってもらえるかもしれない。  とにかく店主は、泥だらけの少女に気に入られるよう必死に努めていた。  ──もう一つの重鎮たる桜守姫家に睨まれるような事をしているわけでもない。  店主にとっては損な事など何一つなかった。  そんな大人の打算などまったく知らず、少女は瞳を輝かせながら、様々な色合いの布の中から祖母に似合うものをと選んでいた。 「ばあさまは、よろこんでくれるかな」  その事だけで頭がいっぱいだった。  ──慌ただしい音が響いたのは、それから然程も経たぬ内だった。  どうやら店主の妻が気を利かせたようで、連絡を受けた雲戌亥の者たちはすぐさま令嬢を迎えに現れた。  全員が武装していたところを見ると、もしや桜守姫家に攫われたのやもしれぬと、警戒を張り巡らせていたのだろう。 「ばあさま、あのね……」  見上げた“大好きなお婆ちゃん”は、これまで見た事もない顔をしていた。  彼女が頬を引っ叩かれたのは、これが初めてだった。  唐突な出来事に、一瞬、何が起こったのかわからず。  次に、喜んでくれるものだとばかり思っていたのに「怒られた」という事、そして込み上げる痛みに彼女は───  しかし、泣かなかった。  それは、やはり祖母が見た事もない顔をしていたからかもしれない。  よく見れば祖母は蒼白な顔色をして、息を切らせ、そして……その目にみるみる涙を溢れさせた。 「ばあさま、どこかいたいの?」  その言葉が最後まで届かぬ内に、少女は抱きしめられていた。  少女の身体についた泥が、祖母の顔を汚していく。  けれど、強く、強く、しわがれた腕が孫娘を抱きしめた。  ……あの日の祖母のぬくもりを、私はまだ、覚えている。  結局、祖母があの着物に腕を通してくれる事は一度としてなかった。  仕立てには応じてくれたものの──幼い自分が「今日は着てくれるのかな」と催促するような顔をする度、やがて「今日も着てくれないの?」という顔をする度、祖母は申し訳なさそうな顔をしていた。  あの頃は、祖母を「冷たい」なんて思ってしまった事もあるけれど───  今ならわかる。  祖母の責任に終わりはなかったのだ。  喪服をまとわない日など、一日たりともあってはならなかったのだ。  でも祖母は、あの日の事を覚えていてくれた。  ……そしてきっと、大切にしまっていてくれたんだ。  でなければ、どうして。  どうして、今日この日、これがここにある。 “最期の日”だと受け入れていた祖母だからこそ、今日この日、これをまとっていてくれたのではないのか─── 「……結局、一度も、袖は通してもらえなかったな」  握り締める指先が震えた。  悪戯な風が運んできた、紙片のように小さな布切れ。  ……何一つ、夢などではないのだと。  思い出の燃え滓が教えていた。  少女は走った。  ──滅び去った炎の王国。  亡国の姫君となった少女は、焦燥を抑え切れずに走り出した。  真っ先に捜した背中があった。  それは、いつも見ていた背中。  気付けば追っていた背中。  追わずにはいられなかった背中。  山を下りた彼女が真っ先に向かった場所。  それは、たくさんの思い出が詰まった場所。  あの人に喜んでもらえるようにと試行錯誤を繰り返して調理に励んだ部屋。  あの人が自分の料理を美味しいと言って食べてくれた部屋。  ──毎晩、あの人と共に眠りについた部屋。  けれど、あの人はどこにもいない。  目を閉じれば埋もれるほどの思い出が溢れてくるのに、目を開けるとあの人の姿だけが見つからない。  嫌な予感が駆け巡る。  家を飛び出し、少女はひた走った。  ああ、戸締り──そんな事を考えるのが彼女らしかったが、彼女は初めて、玄関の鍵を閉めずに家を出た。  その事に何の意味があったのか。  その意味を、彼女は意識していない。  ここも。  ここも。  ここも。  ここも、そこも、どこもかしこも。 「…………」  その度に、少女は挫けそうになる。  この街はどこもかしこも、あの人と巡った思い出で溢れている。 「お弁……」  ──当を持ってこないと、などと思った瞬間。  彼女はその場から動けなくなる。  好物を知るまでに苦労したな、とか。  あれが好きであれが嫌い、今では随分と把握した、とか。  あの人が喜んでくれる料理に関してなら誰にも負けないぞ──とか。  次々に溢れ出てきてしまう。 「うっ……」  一度だけ瞼を強くつぶり、そして。 (行か……ないと)  彼女は再び走り出した。  走りながら彼女は思った。  自分が走る事のできる身体になれたのも、あの人のお陰なのだと。  お陰──違う。  奪ったのだ。  命を無理やりに奪い、健常な身体になった。  今までそんな事さえも知らずにのうのうと生きてきた。  ……知らなかった。  などと、そんな事が何の言い訳になるだろう。 「他人に比べて自分の身体は弱い」と知った時は、まだぴんとこなかった。 「同年代の子供が当たり前にできる事ができない」と気付いた時──気付いてしまった時、どれだけ嘆き哀しんだか。  走る事さえ満足にできない足腰を呪い。  成長するほどに弱っていくその身を嫌い。  遂に車椅子がなければ生活できないと知った時、彼女はお山の頂に閉じ込められた。 (……どれだけ嬉しかったか)  再び自分の足で歩く事ができるようになった時、どれだけ彼女が喜んだか。  屋敷の庭を走り回る事ができるようになった時、調子に乗りすぎて躓き、転んで、それでも嬉しくて仕方なかった。  ──その陰で誰かが犠牲になっているなんて考えもしなかった。 (ごめんなさい)  彼女は繰り返す。 (ごめんなさい)  何十回でも、何百回でも繰り返す。 (喜んでしまって、ごめんなさい)  いったい彼女に何の罪があるだろう?  じょじょに衰弱していく身体を抱えて、回復の兆しすらもないまま、光のない未来に希望さえも持てず、先行きさえも頼りなく生きてきた少女が“満足に動く身体”などに喜んだとして──それにいったい何の咎があるだろう?  彼女は“与えられた役目”の為に努力を重ねてきたではないか。 「家の為」と素直に受け入れ、その中で楽しみを見出し、健やかに成長を遂げたではないか。  望みさえ持てない病の淵に垂れ下げられた蜘蛛の糸。  引っ張り、上れば、そこに生き方が用意されている。  初めて得た活力を、存分に振るう事のできる場所が設けられている。  そのすべてが老獪などという言葉では語り尽くせぬ一人の当主が立てた筋書き通りだったとしても──踊らされた人形に罰は及ぶのだろうか? 「知らなかったからといって、理由にはならない」  きっと本人はそう言うだろう。  孫娘がそういう性格である事を祖母は知っていた。  だから彼女は焼き尽くされたではないか。  孫娘に罪はないとその身を以って示し、吼え、そして散っていったではないか。  ──罰はすでに下されているのだ。 (ごめんなさい)  それでも尚、その言葉を繰り返すのならば。  祖母の想いこそが無残に散ってしまうのではないだろうか。 (だって)  だって、今、走る事ができるのは─── (アナタに逢いたいから)  だからごめんなさい。 (ごめんなさい、ばあさま)  ──気付いた時には、すでに夕闇すらもほど遠く。  それは、雲のない夜空だった。  彼女が何よりも待ち焦がれていたはずの星空。  今、遮るものは何一つない──大小さまざまな宝石が、その身を誇らしげに輝かせている。  これまで届ける事ができなかった分まで輝き照らしている。  ……どうしてだろう。  彼女はそれを見ても、少しも嬉しいとは思わなかった。 「結婚しよう」  あの言葉が耳から離れない。  起こった事のすべてが夢であればいいなどと望んでも──それを素直に信じる事ができなかったのは、あの言葉を嘘にしたくなかったから。  あの言葉を伝えてくれたあの人の想いを、なかった事になんかしたくないから。 「…………」  星空を見上げながら、少女は思い出す。 「──『結婚』って何だろうな?」  いつか、あの人はそう言っていた。  その時は、何も答えられなかった。  言われた通りの事を務めてきただけの自分は、これまでそれと向き合った事はなかったから。  けれど───  その答えを、今なら持っているような気がして、ならなかった。 「お主人ちゃん……」  夜空に向かって、呟きを掲げ上げる。 「結婚って……言うのは……」  ──駄目だ。 「結婚……は……」  泣いたら駄目だ。  気付いてしまった。  何もかも悟ってしまった。  あの人がここにいない事。  この地上の何処にもいない事。  ──どうしてそうなってしまったのかという事── 「結婚は……“一緒に頑張っていこう”っていう……誓いの言葉だよ……!」  けれど、もう“一緒に”は頑張れない。 “一緒に”いるべき相手がいない。  どこにも、いない。  ──この世界中を捜しても。  もう見つからない。  あんなに見たかった星空なのに。  それは彼女にとって何にも替えがたい、心の黄金であったはずなのに。  たちまち黄金は滲んでいく。  うつろい、澱み、姿を変えていってしまう。  それを少しも惜しいとは思わなかった。  ──結婚を申し込まれた。 「……ぅ……」  今度は自分が返答していない。  あんなに答えを望んだのに。  今度は自分の番なのに。 「……ぇっ……」  泣いたら駄目だ。  あの人は自分の為に犠牲になった。 「ぇぇっ……ぇっ……」  街でも、世界の為でもない。  それがふたみには──ふたみだけにはわかった。  自分だけはそれをわかっていなければならなかった。 「ぇぇぇぇっ……ぇぇっ……」  自分は、自分だけは泣いたら駄目だ。  自分があの人の気持ちに応えないでどうする。 「ぇぇぇぇっ……! ぇぇぇぇぇっ……!」  私は───  あの人の“ヨメ”でしょう? 「あああああっ! うわあああああああっ────!」  伝えたいよ。  この気持ちを伝えたいよ。  アナタがいないと嫌だよ。  アナタがいないと寂しいよ。  わがままを言ってごめんなさい。  ごめん。  ごめんなさい。  でも、アナタと一緒に生きていきたいよ。  ──すべてが終わった時の中で。  在るべきものが無く。  残されたものが泣く。  滲んだ星空は、まるで───  ……たくさんのひとたちのやさしさにまもられた、  このせかい。 〜ラベル『ふたみエピローグ』の内容は記述されていません〜 「おねーさま、もう諦めようよ〜。きっと冗談だったんだよー」  先に根を上げたのは、愛々々だった。  ふたみは、うん、と頷いただけで、変わらず一心不乱に分厚い書籍をめくり続けている。 「おねーさま〜」 「うんうん。そうだな」  ふたみの目線は変わらず本に釘付けだ。 「……きっと冗談だったんだよ。愛、そんな星座聞いた事もないよ」 「ん」  愛々々がそう口にした途端、ふたみは顔を上げる。 「何を言うんだ、妾。あの人が嘘なんか言うはずないだろう」 「嘘……かどうかはともかく、世の中には人の心に潤いを与える善意の作り話ってものが……ね?」 「あ、この話…………違うな。ええい、使えない本だ」  と、ふたみは今見ていた本を投げ出すと、次の書籍へと手を伸ばす。 「…………」  愛々々は肩をすくめて、諦めたように再び本へと目を落とした。 「むう……」  ふたみはまだ唸ったままだ。  目当ての本が見つからなかったせいだろう。 「おねーさま、いつまで探すつもりなの?」 「見つかるまでだ」  当たり前のように言うふたみに、愛々々の表情が渋みを増して応えた。  ──今日でいったい何日目だろう。  あの日から、おねーさまはずっとこうだ。  見つかるはずのない星座の話を探し続けている。  それが見ていて辛い。  恐らく彼女は。 (見つからないって知ってる)  そして。 (見つからないって知ってるから、探してるんだ)  何故なら彼女のその行為は、“彼”との繋がりを確かめるかのようだから。  ──探している間は彼と繋がっていられるから。  繋がっているのだと思い込む事ができるから。  他の何も見ないで済むから。 「あれが見つかるまでは」と言っておけば。 (それは永遠)  だから、彼女は探している。  見つかるはずのない物語を探している。  そして、誰よりおねーさまが「見つかってほしくない」と思って──いや、願っている。 (策。あなたがあげた贈り物は、おねーさまを苦しめてるよ)  誰かを苦しめる為の物語なんてこの世にあってはならないと、そう思う。 「あ」  そんな愛々々の横で、ふたみが段差につまづいた。 「お、おねーさまっ! 大丈夫!?」 「うん、大丈夫だ。すまない」 「…………」  見ていて辛い。  明らかに無理をしているのがわかるから。  だから愛々々はこう言う。 「もー。おねーさま、気をつけてね? 図書館通いもいいけど、おねーさまに何かあったら大変なんだから」 「うん……」  ふたみは──ゆっくりと、お腹をさする。 「でしょ?」 「わかってる。心配かけてすまない」  大切そうに、ふたみは指先でお腹をなでる。 「そうだな。さっき拾った捨てネコ、お腹の中であたためていた事を忘れてた」 「凍えてたからね。まあ目が離れてて黒くてブサイクだったし、捨てたくなる気持ちも心からわかるんだけど、そんなんでも命は命だから」 「気をつける」 「うん」 「…………」 「…………」 「はっはっは」 「あははっ」 「…………」 「…………」 「ふつー、こーゆー時は忘れ形見を残していくもんなんだけどね。流石は策、ヘタレだなぁ」 「そんな事を言うな。あの人はな、とてもとても頑張ったんだ」 「それはわかってるよ」  彼女はその目で見たのだ。  あの男は未寅愛々々の心を動かし、午卯茂一を突破し、申子菊乃丸を退け、そして──雲戌亥静の炎を一瞬とはいえ両断したのだ。  そして空に吸い込まれていった。  ……あの日からもう一年。  もう一年も経った──経ってしまったのだ。  ふたみはここにいる。  ふたみだけがここにいる。  番のはずの二人なのに、片割れだけがここにいない。  双子座は二人で一人だったはずなのに。 「…………」 「ん? なぁに? おねーさま」 「いや……」  愛々々の笑い顔も、どこか作り物めいて。  かつて未寅よりいでし寵児と呼ばれた彼女がここにいる理由は、隣を歩く少女を護る為に他ならない。  尽くすべき宗家はすでになく、血族の中でただ一人“部外者”の烙印を押された存在だとしても──それでも彼女は、あの頃に任された役目を未だ全うし続けている。  この街の法であり秩序そのものであった雲戌亥家が消滅した今、桜守姫家の跳梁はもはや誰にも止める事はできない。  互い、どれほど恨んでも飽き足らぬ宿怨の家柄──どれだけの年月、煮え湯を飲まされ続けてきたか。  大いなる雲戌亥静の存在、そして彼女を取り巻く、守護四家を中心としたこの街の家々。  それらが組織として機能し、法と秩序をもたらし、そして維持してきたからこそこの街の平和は保たれてきた。  例え水面下では積年に亘る熾烈な争いが繰り広げられていようとも、それだけは決して変わる事のない事実だ──いつか彼女が言った、「桜守姫此芽がどうであるかなんて関係ない」とは、実にその通りである。  静も守護四家も失った雲戌亥家の忘れ形見を、桜守姫家が放っておくなどという事があり得るだろうか。  ……けれど未だ、襲撃は一度としてない。  いや、正確には何度かあったのだが──おかしな事に、それは御家絡みではなく、個々としての動きでしかなかった。  雲戌亥家に恨みを持つ個人としての行動。  その際、愛々々は襲撃者たちを尋問している。  愛々々は知っておかなければならなかった。  これから桜守姫家がどう出るのか、雲戌亥家の残党となった自分たちをどうするつもりなのか──ふたみの為に、どうしても知っておかなければならなかった。  しかし彼らの言う事は要領を得ず、実に奇妙だった。  神がそのお姿を隠されてしまわれた。 「間に合わなかった」と、「遅すぎた」と言い残し、消えてしまったのだ、と。  そして、桜守姫此芽の姿も見かけない。  此芽は彼女にとってはどうでもいい存在だが──ふたみが気にかけている。  これ以上、彼女の悩みの種を増やしたくはなかった。  ただ、どうも二人はお互いがお互いの家の事情でいつどうなってもおかしくはないと、そう子供の頃から思い続けてきた節がある。  その上で成り立っていた関係なのだと、思い返してみれば納得できる。  泣いて暮らす桜守姫みどのの噂も聞いた。  彼女が姉である此芽を毛嫌いしている事に愛々々は気付いていたから──その“神”とやらがいなくなった事が関係しているのだろうか、と考えてみるも。  もはや一つの血族として機能しているとは言い難い桜守姫家は、彼女たちの生活を脅かすものとはならなかった。  みどのを元気づけようと、あの家に律儀に通い続けるのんの姿は不憫だったけれども……。  しかし、今尚あの家に住まうふたみと愛々々が帰る家を同じくしている理由は、それだけではない。  それが理由にはならない。  ──無粋な問いかけだ。  それでもあえて尋ねるのならば、答えはいつだって同じだろう。 「自分の家に帰ってきて、何が悪いの?」  ……と。  それは、ふたみのいつもの日課だ。  夜空を見上げるのはずっとずっと昔から繰り返していた事だったが、こうして雲ひとつなく晴れ渡った空を見上げるのは──なにも星空が見たいから、ではない。  彼女は今日もあの場所から空を見上げる。  お互いの気持ちを確かめ合った、あの場所で。  共に星空を見上げるはずだった、あの場所で。  星空を見たいから──ではなくなってしまった、今もまだ。  変わってしまった理由で、空を見上げる。  同じ空を、愛々々もまた見上げていた。 (……おねーさま)  隣のふたみをちらりと見つめ、心に呟く想い。 (あの時、おねーさまが言いかけた言葉、わかってるよ。  愛は策がいなくなって寂しくないのか、って……そう訊きたかったんでしょ?  いないのは寂しいけどね。  でも、もう逢えないってわけじゃないから。  だって、策は愛と約束してくれたもん。  ずっとおねーさまの味方でいてくれるって、約束してくれたもん。  だから、策がおねーさまを置いてどこかに行っちゃうなんて事はない。  ──愛、わかってるから) 「……え?」  星の瞬きは悪戯だ。  見えたり見えなかったり、ほんの僅かな雲にさえその姿を隠されて、星座は形を変える。 「あれ……は……」  瞬いた六つの星。  あるはずのない星座。  いくら探したところで見つかるはずのない物語。  ──あの人は何と言った?  六つの瞬きが一つに重なり合う時。  その星座は。 「その星座は……流れ星となる……」  呟いていた成句。 「っ……!」  ふたみは走り出していた。  脇目も振らずに夜空の流星を追っていた。  見えたから。  あの人が語ってくれた星座が見えたから。  ずっと探していたあの星座が夜空に瞬いたから。 (だって)  だってほら、すぐに追いかけないと追いつけなくなってしまうって───  きっと、どんな天文学者だって見つけられない。  ふたみにしか見つけられない星。  流星は確かに落ちていた。  ふたみは確かに追いついていた。  ──だったら。  どんな願いだって、叶う。  彼女は、彼がどうなったのか、その事に気付いている。  その“結果”を、彼女は、彼女だけは悟らなければならなかったから。  だから、彼女はその“過程”を知らないのだ。  もしもあれが、彼女を抱き締めた右腕だったら。  それは落ちゆく。  もしもあれが、彼女の肌に触れた左腕だったら。  それは落ちゆく。  もしもあれが、彼女と共に歩いた右足だったら。  それは落ちゆく。  もしもあれが、彼女を支えていた左足だったら。  それは落ちゆく。  もしもあれが、彼女を守り続けた胴体だったら。  それは落ちゆく。  もしもあれが、彼女に微笑みを与えた頭だったら───  ──それが一つに合わさったのなら、それはいったい、“何”と呼ばれる存在なのか。 “誰”と呼ばれるのか? 「お主人ちゃん!!」 「汝は……我を手にするに値する者か……?」  落ちた流星がそう語りかける。 「お主人ちゃん……?」  彼女は、彼女の呼び慣れた言葉で、流星を呼ぶ。 「我……我こそは『狼殺し』。人を毛ほども傷つける事は叶わねど、“狼”であれば万別なく斬り裂く一口の剣なり。  群れの如何なる猛者であろうと、群れを率いる王者であろうと……群れそのものとて恐るるに足らず。我の一振りにて、狼どもはたちどころに地に伏す骸と成り果てよう」 「な……何言ってるんだ」 「例えそれが現世の存在にあらず、その骸が動き出す魔の宿主であったとしても。そう、例え……それが例え、神であったとしても」 「お主人ちゃんっ」  ──まただ。  ふたみは、零れる涙を止められなかった。 (お主人ちゃんは……)  ずっとこうしてきたのだと、気付いてしまったから。  彼は繰り返し続けてきたのだと。  それを何十回も何百回も何千回も、今日の今日まで唱え続けてきたのだと。  強すぎる想いがそれを引き起こした。  思い込む為に、彼はすべてを捨て去る覚悟で信じ込んだのだ。  ──それはいったい、何の為に?  だからまだ唱え続けている。  ずっとずっと唱え続けている。  その想いが強すぎたから、その想いが本物だったから。  だからふたみは、気付いてしまった。  彼はあの日、人間である事を捨てたのだと。 「うっ……」  あの時、泣いてしまったから。 「ごめんな……ごめんなさい。お主人ちゃん、ごめんなさい」  もう泣かない。  アナタの想いを受け止めて。  誰よりもアナタの事を理解して。  そうしなければならないのに、あの日、泣いてしまったから。 「──娘よ」  未だ地面を睨みつけるかのように顔さえも上げぬまま、ふたみに“お主人ちゃん”と呼ばれた剣が口を利く。 「汝は“狼”という容の危機に直面する者か?」  ふたみは首を振った。  強く強く、首を振った。 「違う。もう……違う。アナタ……が……」  彼女の一族が命を賭す事となった元凶は、他ならぬ彼が滅した。  その功績を、彼女は声を大にして言わなければならないから。  ──世界中の人々にだって、彼女は胸を張ってこう言える。 「お主人ちゃんが“狼”から救ってくれた!!」  だがその声は、彼に届いているのかいないのか。 「ふむ」と唸ったきり、彼は黙し、 「では、我に何の用がある」  やがて淡々とそう問いかけただけだった。 「我は狼以外を傷つける事はできぬなまくらぞ。相手が狼でないのならば、護身すら果たせぬ鉄屑ぞ」  ──込み上げた想いは、辛さだったのか、哀しさだったのか、やるせなさだったのか。  けれど彼女は堪えた。  鼻の頭がつんとした。 「違う……アナタは、鉄屑なんかじゃない。絶対に、絶対に……もしもアナタが剣なら、それは世界一の名剣だ」 「ならば汝は、我が使い手となる夢を抱く者か? 気ままに狼どもを殺して回りたいのか?」 「違う……それじゃ、逆だ……」  ふたみは首を振る。  何度も何度も首を振る。  使い手、だって───? 「汝は──我が主となる事を望むか?」  その問いが耳に届いた瞬間。 「っ……!」 「しっかりしろ! 私の主人はオマエだろう!!」  ふたみの怒号が轟いた。  彼女がこれほどの大声を上げた事など、今日までの日々、果たしてあっただろうか。 「何が“使い手”だ! オマエがしっかり私を使え! 上手く使えっ!」 「…………」 「わ、私は……私はふたみ。雲戌亥……ふたみ……」  駄目だ。 「私は、『巽ふたみ』になる者だ」  泣いたら駄目だ。 「……結婚……しよう、って……」  駄目だっていうのに。 「結婚……しようって、言ってくれたじゃないか……!」  ああ──ごめんなさい。  アナタにとても辛い想いをさせてしまった。  私はアナタから、人として生きる事さえも奪い取ってしまった。  アナタの命を喰らって。  二度も喰らって。  今度は、アナタを生まれた種からさえも追放してしまった。  ごめんなさい。  ごめんなさい。 「ごめんなさいっ……!」  お主人ちゃん。  私の旦那様。  いつだって何かが擦れ違っていた。  答えを望まれた時には答えられず。  答えようと思った時には、聴いてもらえる状態じゃなかった。  抱き締めた後にはいなくなり。  やっと届いたと思ったら、さよなら、って。  そして最期には、さよならを告げる側になった。  互いをずっとずっと待っていた。  求めた時に応えてくれない相手を待っていた。  今度はずっと、彼女が待っていてくれた。  ──だから、俺たちは。 「──やっと答えを貰えた」 「お……おしゅ……」 「──やっと答えを渡せた」 「お主人……ちゃん……?」  ふたみの二つの目がゆっくりと開かれていく。  目の前にある奇蹟を確かめるかのように、ゆっくりと開かれていく。  けれど決して逃さないように、その目は真っ直ぐで逸らされる事はない。 「変わらないな、ふたみは」 「上手くない」が口癖。  料理は玄人裸足、綺麗好きで家事は完璧。 「ふたみ」  俺に大切な事を教えてくれた人。 「いいんだ。もう、泣いてもいいんだ」  俺を救ってくれた人。 「ありがとう」  ずっと傍にいたい。 「バカッ……!」  ふたみの柔らかな手が、俺の胸を叩く。 「私は……私はオマエのヨメだぞ。泣くもんか。泣くもんかっ……!」  強く、でも優しく、胸を叩く。 「うん」 「なっ……泣かないからなっ……!」 「うん」 「うわぁっ……ぁ、ぁぁぁぁぁん。  お主人ちゃん。お主人ちゃぁぁぁぁん」 「待たせてごめんな」 「お主人ちゃぁぁぁぁぁぁん」  叩いた胸に、顔を埋めて。 「未寅の領土に落ちてくるとは、あなたもわかってるじゃない」 「メメ……」 「なんてね。二人が揃うのは、いつも空明の里だよね」  冗談めかして告げたメメが、唇を尖らせる。 「あなたがなかなか帰ってこないから、おねーさま、呑んだくれてたんだから」 「えっ?」 「一日一本ずつお酢の一升瓶がなくなっていくんだからね。どうしてくれるの?」 「ごめん」 「でも、帰ってきたから赦してあげる」 「ありがとう」 「今度は愛が、あなたに“おかえり”って言ってあげる」  そう言って微笑った、俺の大切な友達。 「よ、よしっ。今日はご馳走だ。ご馳走を作るぞっ」  手足をぱたぱたさせて、はしゃぐふたみ。 「おねーさま、気持ちはわかるけどもうこんな時間なん……」 「よしっ。腕によりをかけるからな。お主人ちゃんが好きなもの、いっぱいいっぱい作るからなっ」 「はは。楽しみにしてるよ」 「まかせろっ」  ふたみは逸る気持ちを抑え切れないかのように、足早に走り出す。 「もー……ま、いいか。シャッター開けない店主がいたら、愛が軽くシメてあげよう」 「…………」 「ゴネたら潰そう。店ごと」 「変わらぬ武闘派で安心しました、師匠」 「策」 「ん?」 「愛ね、わかったんだ」 「え?」 「あの時──おねーさまを迎えに天まで上がった時。  策は、“届く”って、ただそれだけの確信で本当に天へと昇っていった。それで気付いたの。  あなたが解対で視ていたのは、“武器”じゃなかったんだね」 「…………」 「あなたが視ていたのは───」 「こらっ。何をぐずぐずしてるんだ。行くぞっ。お主人ちゃんの凱旋だっ」  ふたみは頬を真っ赤に染めながら、俺の手を握って走り出す。 「お、おいっ」 「お主人ちゃんは英雄だぞ。だが私の旦那様なんだからな。亭主関白でいこうっ」 「ふたみ大先生、なんかキャラがですね」 「何言ってんの。あなたがおねーさまをそう変えたんでしょ。ちゃんと責任取りなさいよ」 「…………」  変わった──か。  そうだな。 「よし、行こうっ!!」  この街に来て、最初に出逢った少女。  あの家で待っていた、“ヨメ”を名乗る少女。  ──確かに、彼女は変わったかもしれない。  俺の大好きなふたみは───  笑顔がよく似合う女の子に、変わったんだ。 〜ラベル『«誇らしきその歩み»』の内容は記述されていません〜 〜ラベル『逃亡者』の内容は記述されていません〜  ──出られない。  その言葉が、俺を戦慄させた。  ──閉じ込められた。  その想いが、俺から冷静さを奪った。  そこから出る事なんて簡単だから。  いつだって、その気にさえなれば。  ぶらりと散歩するような気分でだって、気付けば隣の街にいる。  そんなの当たり前の事だ。 「はっ……! はっ……!」  ──当たり前の事なのに。  足が止まらない。  どうして俺はこんなに必死になって走っている。 「はっ……!」  ……この街の街並み。  どうして気付かなかったのか──まるで昔のままじゃないか。  確かに古い建物が並んでいるとは思った。  でも、それはどこかの街のように、昔ながらの景色を残しているとか、それ自体が観光名所の一つになっているとか──そんな、誰に確認したわけでもない理由を勝手に引っ張り出して納得していた。  ……けれど、もし、こう考えてしまったらどうなる。  疑ってしまったらどうなる。  ここが閉ざされているのなら、その上で外と変わらない文化があるのなら、誰かが外から文化や文明を持ち込んでいるという事じゃないのか──なんて。  時代遅れなのは、誰か一握りの人間がそれを行っているからだ。  流行っているから自分も、という資金の許す限りの新たな文明の招来を街の住人個人では行い得ない。  ……止まらない。  こんな事考えたくもないのに、一度疑い出したら止まらない。  それに触れているのが一部の人間だけだから──“彼ら”は自分たちの思い通りにこの街を造り替える事ができる。  ──つまり、その人間たちだけがこの街を自由に出入りできるんだ。  この街は──“外”の世界の基準に当てはめれば、江戸、よくても明治の時代で家の外観が止まっている。  それはこの街の街並みが、住宅が、かつての城下町における町人地そのものだからだ。  町人地とは、即ち軍事的な配慮を元に起こされた一種の防衛迷路。  家の正面を街道に直面させ、隙間なく隣家と密接させられた町家は、道の両側にびっしりと敷き詰められている──攻め入った軍隊からすれば、それは行きたい方向へ進めないという事であり、そういった構造の街道を思うさま歪曲させておけば、どうすれば城の中心に行けるのかすらわからない。  町家とは城壁そのもの。  町家は限られたスペースを有効に活用する為に二階建てが一般的だったらしいが、二階は人の住めるような縦幅はなく、もっぱら物置として利用されていたはずだ。  何故なら町家は街道に面している──そこを大名行列が通るからだ。  町人が大名を見下ろすような事があってはならない。  居室として利用できるだけの幅があったら、嫌でも見下ろす事に……だから今日のような高さの二階が解禁となったのは、明治時代からだ。  二階が高い家、低い家、平屋を抜かせばそれらが入り混じっているのがその証拠。 「はぁっ……! くっ、畜生……!」  脇腹に込み上げた痛みすら、昂ぶりが押し隠していく。  ──押し寄せたのは、視界を塗り潰すが如き黒い衝動。 (……待て。待て! 落ち着け!!)  さっきから俺、何で同じところをぐるぐる回ってるんだ。  動揺するな。  冷静に、冷静に──ただこの街から出る事ができるかどうか確認するだけだ。  できて当たり前の事をするだけだ。  下らない妄執に取り付かれて、馬鹿な事を考え始めちまっている俺を一喝するだけだ。 (確か、俺はこの街へ来た時、この道から──)  確かめるんだ。  そして否定するんだ。  俺の考えている事が、下らない、三文小説にも出てこないような馬鹿話だって笑い飛ばすんだ。 (……なんでだよ)  どうして街から出られない。  確かにこの道から来たじゃないか。  入れたのにどうして出られない!!  きっと道を間違えてるんだ。  そうだ、そうに違いない。  例え、あの山を目指して走っているのだから、道を間違えたとしても方角さえ合っていれば街の何処かかしらからは出られるはずなのに、なんて当たり前の理屈がまかり通らなくても、俺の勘違いに違いない。 (──俺の勘違いだ!!)  脇腹を殴りつけ、俺はもう一度、地面を蹴って駆ける。  これ以上、馬鹿な事を考え始める前に。 「出よう」と考えながら街の外へ向かうと、歩き慣れた道ですら迷う──なんて。 「いいっ……加減に、してくれっ!!」 (……何処だここ?)  俺はなんでこんなところに……確か、俺は……えっと、何して……たんだっけ。 「帰……らなきゃ」  そうだよ、帰らなきゃ。  家に帰って……そうだ、きっとふたみがご飯の用意をして待ってる。  あれ?そもそも、今って何時……。  ……ふたみ? 「…………」  背筋が凍るような想いだった。  忘れてはいけないものを忘れさせられた気がする。 (落ち着け)  二度目だ、きっとこれは二度目。  前にもこんな事があった気がする。 (気がする、じゃない──あったんだ!!)  そう確信する事でほんの少しだけ記憶が浮上するような気がした。  思い出せ。思い出せ。思い出せ。  ここで思い出せなかったら、この記憶は二度と取り戻せない……そんな気がする。  落ち着かず、焦燥感から掻き毟るように手を──胸に触れた時、服のポケットに硬い感触。 「ケー……タイ」  取っ掛かりが。  泥の沼の底に沈んだものを引き上げる。  忘れる、というのは、消えた、という事じゃない。  思い出せない、という事だ。  だから忘れたくない事柄はメモを取るなり、折に触れて思い出すなりしておけば、引き出しやすくなる。  取っ掛かりがあれば思い出せるからだ。  触れられないでいた記憶ほど泥の奥底へと沈んでいく。  封じる事はできても、一度覚えてしまった情報を記憶から完全に消す事は不可能なのだから─── (そうだ……俺は、あの日、ケータイを直しに行こうとして……)  そして“封じ”られた。 「封……じ……?」  記憶……が? “封じ”られた?  ──じゃあ何だ?  あの時と今と、共通するものは何だ?  何をしようとすると事前の行動が“封じ”られる? 「そう……か」  街から出ようとすると、だ。  けれど、俺はあの日、街から出ようとしてたわけじゃない。  しかし、俺はあの日、ショップを探している最中にたまたま街から出そうになっていたんだ。 (──そういう事か)  だから“封じ”られた──今と同じように。  思考が規制されているんじゃない、境界線に近づくとこの働きがあるんだ。 「はっ……はは」  こんな事を考えている時点で。  俺が否定したかった“下らない話”を肯定している。 「…………」  どんな質の悪い冗談よりも、今、俺が気付いてしまった事は馬鹿げている。  でも、どうやって否定すればいい───  ──否定する材料なんか何処にも転がっていない!  ……今、俺は、身を以って立証してしまった。 「…………」  道の先を見つめ、その先が、蜃気楼が運ぶ遠くの景色よりも遥か向こうに感じられた。  あの先には届かない。  あの先に行く事はできない。  だからここは、遠い昔、天体とはすべてこの星の周りを回っているものだと信じられていた時代の名残。  球体という概念すらなく、地平線の向こうには終わりがあるのだと信じられていた時代の正道こそが誠としてまかり通る。  ──ここは世界の果て。  この向こうには何もない。 「出れない」という事は、そういう事だ。  ──それは、鏡面に触れているに等しかった。 “境”は確かに見えていた。 “あちら側”で動く人々の様子が見える。  けれど、あちら側からこちら側が見える事はない。  原理としては半透膜に程近かったが、立場は逆だ。 「閉じ込められている」のはこちら側。  我々はあちら側の世界を覗き見る事はできても、辿りつく事はできない。  届かなければ憧れるのは当然の心理。  何より、今日この時まであって誰一人として為し得ない、という先人たちの失敗の積み重ねこそが不動の価値をもたらす。  それはこの街の誰もが星空に憧れているに等しく。  ──故に一歩を踏み出す。  自分こそが、という気概が不可能を可能にする。  それが自信であるのか過信であるのかは結果が証明してくれるだろう。  だから彼は鏡面に触れる。  我が影は 。  その道において、204の『枝』を為した存在ではないか。  何一つ、恐れるものなどない……!  その想いこそが彼を突き動かす衝動に他ならない。  自身の内に火種を点し、その想いこそを薪としてくべ、己が腹に熱を宿す。  肝が据われば、後は、身体が欲求のままに動くだけだ。  だから彼は鏡面に触れる。  ──その時、足元に炎熱が点った。  ──立ち尽くした世界の果て。  そこには、同じように立ち尽くす先客がいた。 「ふたみ……」  望んだ瞬きを覆い隠す雲。  雲で敷き詰められた空を見上げながら、彼女は立ち尽くしていた。 「…………」  俺に、気付いているのか、いないのか。  気付いていても─── 「…………」  どんな言葉をかけても、それは陳腐にしかならないだろう。  けれど、何か一つ。  何か一つくらい、頭を捻れば出てくる言葉があるはずだ。 「……帰ろう」  俺がその言葉を発してから、どれだけの間があっただろう。  未だ空を見つめたままの彼女が、ぽつりと呟いた。 「……雲が、戻ってきて……」  一言一言、風に流されてしまうかのような小声は。 「どこ……から、来たのかっ……て……。……気付いたら、追いかけて……いて……」  きっと彼女自身、何を言ってるのかわかってなかったのだろう。 「えっ……と」 「…………」 「……ごめん」  ──首を振る代わりに、俺は彼女の手を取った。 「じゃあ、行ってみようか」 「え?」 「雲が途切れるところまで、歩いてみようか」  それで結論が出るのかはわからない。  きっと、どこまで歩いたって納得なんかできない。  できっこない。  ──それでも、今日まで彼女が積み重ねてきたものは、何らかの形で報われなければならない。  それは良し悪しの問題じゃなくて。  宙ぶらりんのまま、認める事も、受け入れる事もできないまま、認めているつもりで、受け入れているつもりで日々を過ごしてしまうっていう事が、どういう意味を持つのか。  その事に気付かせてくれたのは。  他ならない、彼女だから。 「行こう」 「……うん」  ──かつてこの道を、そんな間違いを犯しながら逆送した俺が。  今、彼女の手を引いて真っ直ぐに歩き出す。  立ち止まっていた彼女が、一歩一歩、前に進む。  ……こうして歩いている事も。  何の為に歩いているのかも、俺たちは忘れてしまうのだろうか。 『境界線の仕掛け』が働いたという事は、ここは街の端っこという事で───  出る事は叶わない街だから。  それでも俺は、一歩一歩、踏み締めるように歩いていく。  あの雲を睨みつけるように歩いていく。  ……一つ引っかかるのは、“入る事はできた”という事だ。  出る事はできなくても、入る事は自由──というのは少し考え辛い。  それならうっかり入り込んでしまった人がこれまで何人もいただろう。 “入る事が許される”のに、何か条件があるのだろうか。 「巽の者を代表して、誰かがあの街に行かなければならない」  あの言葉の真意を、俺は“呼ばれた”と受け取った。  巽の側からの意思ではないと──断言はできないが、それでも確信している。  何かをなす為に送り込まれたのなら、俺が持ち得る情報はあまりにも少なすぎる。  確かにまともに話も聞かないで家を飛び出したが、その程度で──となれば、あまりにも間の抜けた話じゃないか。  それなら初めから事情をすべて呑み込んだ者からの人選が行われるだろうし、“俺でもよかった”理由にはならない。  だから“呼ばれた”んだ。  それでこそ今俺がここにいると考えるのが、最も筋が通る。  問題は、誰が呼んだのか。  そして、“呼ばれたから入る事ができた”と考えていいのか、という事だ。 「…………」  横合いのふたみは、黙ったまま空を見つめている。  俺とは違った気持ちであの雲を見つめているのだろう。 (やっぱり……唯井の家が、と考えるのが自然だろう)  そこに、唯井家と巽家の間で生じた何かがあった、と考えれば思考は堂々巡りになる。  もしかしたら、巽の側は何ら事情を把握していなかったのかもしれない。  結婚とかそういう話に関しては、あの時、ふたみのお婆さんが言っていたように、ふたみの些細な勘違いから生じた事なのかもしれないけれど、やはり巽の人間を呼び込んだのはあの家の人の意思なんじゃないかって思う。  あの時はそういう視点で捉えてなかったから、気付かなかったけれど───  ……それとも、別の何者かの意思が働いているのだろうか。  唯井の家が何らかの形で利用され、宗家である巽の人間まで呼ばれる事になり、その結果として、ふたみが勘違いするに至った……筋が通らない話じゃない。  結局、結論なんか何も出ない。  わかったのは、この街からは出る事ができないという事だけだ。  ──それは瞬間よりも早き刹那の間隙を縫った。  ぱっくりと口を開いた野獣の顎が閉ざされる。  足の爪先から頭の髪先まで覆った焔に、抗う術などないまま皮が焼かれ肉が燃え骨が軋む。  自らの身体の表面を炎熱に支配されたという認識こそが後からやってきた。  だから、は、は、は、と繰り返される短い呟きは悲鳴ではなかった。  ──にもかかわらず、男がまとう衣服も路面の塵も、その一切が炎熱の影響を受けていない。  処刑人の鎌が狙っているのは、罪を犯した者だけだ。  追跡者は罪人だけを、ただそれだけを追い詰める。  ──これが罪と。  だから男に込み上げるのは、嗤いでしかない。  炎の形を伴わぬ、今こうして自らの身を以って体感していなければ、炎とすら認識できぬ脅威───  それに全身を焦がされながらも、嗤いしか覚えない。  その認識そのものが、自らの傲慢を露呈している事に何故気付かぬ、と。  不遜な支配者どもが!!  彼の目には見える。  その壁を前にして、壁は壁としての機能を果たしながらも、視界を覆う役には立っていない。 “彼ら”にはこの先も延々と変わらぬ道が続いているようには見えぬのだ。  壁が見せるその幻視の効果を、彼らは生まれながらにして突破しているのだから。  はっ、と、込み上げる苦笑。  見えているのに無い事になってしまう。  目の前にはこの街でないものが広がっているのに、どうしてもそこへは到達できない。  境界線の仕掛けの一部たる『贋』──その作為的・恣意的な幻覚、記憶の操作を伴うまやかしから解放されても、直接触れる事によって作動する『獄』の前にこの有り様だ。  ──いったい、自分で何人目になるのだろう。  彼はふと、そんな事に思いを巡らせた。 「贋獄の奢り」とはよく言ったものだ──こうして連中の不遜を目の当たりにしながら、連中の倨傲に焼かれ、連中の慢心に唾棄しながら命潰える。  贋と獄、そして奢り。  こうして腕に覚えがある者が何人、志半ばで散っていった。  連中の奢りを打倒しようと命を懸けた者が何人、ここに骸を晒したのだ。  有識の結界によってこの街を己の領土と化した、あの暴君どもを呪いながら、何人が。  ──手を伸ばした。  越えられぬ壁に指先が触れる。  その瞬間、罰が階段を二段飛ばしで駆け上がり、彼に襲い掛かる。  やはり込み上げるのは、嗤い。  ならば焼け焦げる前に。  この世から消え去る前に。  せめて指先だけでも、この檻から出てみせよう。  ──暴虐な王者が用意した檻から── (──ここは!?)  なんで……こんな。  この街に線路なんかあるはずがない。  いくら人口や面積がそれなりの規模であっても、電車での移動を想定しなければならないほどとは──精々、運行していたところでバスくらいのものだ。  第一、客を乗せてどこへ向かうっていうんだ。  隣町へ繋がっているわけがない。  駅があれば、いくらこの街に来て日が浅いといっても気付くだろう──これまでこの街で線路を見た事もなければ踏み切りだって、ましてや電車が運行していたのなら一度くらいどこかで走行音を聞いているだろう。 (“出れた”……のか?)  行き着く結論はそれしかない。  ここは空明市の外?  俺が空明市へ向かう途中で通った街か!?  真っ先に空を見上げた。  ──ない。  この時間帯に雲がない。 「ふ、ふたみ……」  音に反応したのか、空を見上げていたはずの彼女は前を向いていた。  目の前に広がる光景に驚いている様子で、彼女は空から目を離している。 「なんだ……これ」 「ふたみ! 空だ! 星空だ!!」 「え?」  言われて、彼女が首を傾けた瞬間───  ──目の前を電車が走り抜けた。  空を見上げるどころじゃない──吹き抜けた突風と、鉄塊が眼前を走り抜ける衝撃に、咄嗟に身が萎縮する。  俺も思わずふたみを庇いながら線路から遠ざかっていた。 「今の……何だ?」  遠ざかっていく音。  そしてふたみの声にハッとし、慌てて空を見上げるも───  夜の帳は朝焼けで染め上げられていた。 「そんな……」  すでに顔を見せ始めていた朝日は、星の瞬きを覆い隠すまでにその身を晒していた。  近くに高い山があれば、もう少し、ほんの少しだけでも時間を稼げたかもしれないのに。  ──昂揚した気持ちが急速に萎んでいく。 「……? どうしたんだ? 星空がどうしたって?」 「いや……なんでもないんだ」  言ったところで彼女を落胆させるだけだ。 「……?」 「お主人ちゃん、今のは何だ? それに、ここはいったい何処なんだ?」 「え……」  言われて我に返る。  そうか、ふたみは電車を見た事がないんだ。  あの街にないものは知らない──もしかしたら情報としては知っているのかもしれないが、あって当たり前のものとして認識して育ったわけじゃない。  こんな形で出会ってしまっては、咄嗟に結びつかないだろう。  ──そうだ。  ここは空明市の外。  俺は、あの街から出る事ができたんだ……。 (どうして……出れた?)  理由がわからない。  ……待てよ。  俺は……街の境目に近付いた時、以前と同じように『境界線の仕掛け』に襲われた。  ──ふたみは?  彼女にそんな様子があったか?  あんな出来事の直後だ、気持ちが不安定だったのは当然だとしても──彼女に「そこへ到るまでの記憶の錯乱」が見受けられたか? 「ふたみ。お前、街から出る時、何かおかしな事にならなかったか?」 「おかしな事? ……というか、ここは空明市じゃないのか?」 「ああ」 「ふむ……なるほど。確かに、言われてみると街の様子が違うな。生まれてからずっとあの街にいたので、どこまで行っても空明市のままのような気がしていたな」  そういう感覚になってもおかしくない。 「それで、どうなんだ?」 「どう……と言われてもな。“何かおかしな事”というのは、具体的にどういう状態だ?」 「と……わけがわからなくなったり、だな」 「ん……ごめん。確かに、少し取り乱してた。ごめんな」 「あ、いや、そうじゃなくて……」  ──違う。  彼女の反応は当然のものだ。  けれど、俺に起きた現象──そして恐らくは、これまで街の境目に近付いてしまった者に起こってきたであろう現象とは違う。  ふたみに『境界線の仕掛け』は働かなかった。  ……もしそうだとしたら。  街から出る事ができたのは、ふたみが一緒だったから……そういう事にならないか? 「なあ、ふたみ。訊いていいか」 「なんだ?」 「お前、今日までどうして街から出ようとしなかった?」 「突然どうした」 「気になるだろ? 街の外の様子とか、ちょっと遠出してみようって気になったりとか」 「ばあさまに止められてたからな」 「止められて……た?それを律儀に守ってきたのか?」 「うん」 「…………」  ふたみは自分の意思で街から出なかった。 “街から出ようとする意思が持てなかった”わけじゃない。  彼女はただ、言いつけを守って──つまり、出ようと思えばいつでも出れたんだ。 (唯井……家)  その名が、突然背中に重く圧し掛かった。 「それに、私は花嫁修業で忙しかったからな。遊んでる暇などなっ……」  言いかけたところで、ふたみの表情に陰りが差した。 「ふたみ?」 「……“答え”……」  短い吐息が沈む。 「聴けなく……なったんだな」 「あ……」 「わ、悪い。俺、一方的に捲くし立てて……」  ふたみの気持ちも考えずに、何やってんだ俺は。 「ううん。お主人ちゃんのせいじゃない」  そう言っている彼女が、今、どれだけ無理をしているのか俺は考えたのか?  ──恥を知れ。  ふたみが空を見上げる。  雲一つない、鮮やかに澄み渡った空を。 「……うん」  何かに納得したかのように、彼女は一つ、頷きをする。 「ありがとうな」  そうして、その瞳が俺へと移る。  ほんの少しだけ、晴れやかな表情。  変化に乏しい彼女の、ちょっとした──違い。 「…………」  何を納得したというんだろうか。  雲の切れ間ではなく、俺たちが見たのは街の境目。  ──過ぎ去っていく時刻の無情と、何より、身勝手な俺の行動がその機会を失わせた。 「……悪い。本当に……ごめん」 「何を謝る。私は感謝しているぞ」 「ふたみ……」  ──戻ろう。  今はふたみの事が優先だ。  街の事はひとまず忘れて、まずは彼女を家まで送り届けよう。 (それ……から……)  ──それは、小さな違和感だった。  視界の外れに生じた、ほんの些細な、ずれ。 「え?」  だから俺は、どこか呑気に、そちらに首を傾けただけだった。  ……指が浮いている、としか、俺はこの現実を伝える術を持たなかった。  一本だった指が二本に増える。  まるで質の悪い手品を見せられているかのように、一本、また一本と、何もない空間に人間の指が増えていく。  五本揃った時、それは手となった。  だが、それは果たして“手”と呼んでいい代物だったか。  ──骨。  剥き出しになった骨。  手首まで飛び出した腕は、思わず目を逸らしたくなるような有り様。  白き支持器官にこびり付くかのような黒き塊は───  距離を隔てて、尚、濃厚に漂う異臭。  その焼ける臭いが。 (肉、が……)  あれは炎に焼かれている。  そう感じたのは直感に近かった。  ──待て。  今更気付くなよ。  この状況で振り向いたらどうなるのかなんて、今頃になって思い当たるなよ。  振り向いたら空明市があるに決まってるだろ。  ──無い。  そんなもの、影も形もない。  そこにあるのは、“線路から見た街並み”というありふれた光景。  どこにでもある景色。 (空明市側から見渡した時……今、俺が立っている街の様子が少しでも見えたか?)  そういう事だ。  ……居る。  誰かがいる。  空明市側に……境界線に触れるその場所に、誰かがいる。 『仕掛け』を突破し、そこを境界線と知りながら触れた誰かがいる。 「見るな、ふたみ」  ──気付いてしまった。  あの腕は、あちら側から境界線に触れた末路だ。  出ようと試みた結果だ。  あれは今、あちら側から街を出ようとした人間が炎に焼かれ───  ──それでも腕を突き出して、こちら側へ来ようとしている姿だ!!  ぴくり、と。  その骨は、まるで何かに反応したかのように、奇妙な動きを見せた。  ──しまった。  俺たちの足元には線路──後ろに下がりすぎていた。 「ふたみ!!」  思わず運転手と目が合った。  目が合ったという事は、相手も俺たちの存在に気付いたっていう事で───  ふたみと二人、身を投げるように横合いへと飛び出した。  急ブレーキをかけて尚もこの速度。  擦れ違いざま、巨大な鉄の塊が通り過ぎていく─── 「熱っ!」 「どうした!?」  顔をしかめたふたみを見ると、膝の裏側辺りを擦っている。 「い、いや……」  電車とレールの間に起きた強烈な摩擦によって生じた火花が、彼女の脚をかすめたようだ。 「大丈夫か?」 「う、うん」  赤く腫れ上がってはいたが、どうやら大事には至らなかったようだ。  ──ふたみ、と、いったか──  その声は──声とすら呼べない不快な音は。  中空の骨から漂う臭いに混じって届けられた。  俺には、こう、聞こえた。  あつい、と。  炎に焼かれるそれが、そう言った。 「あつい、と、いったのか」と。 「おまえが、あつい、と、いったのか」と。  ──次の瞬間、それは高笑いと化した。  はははははハは  そうカそウかそうイうこトなノカ  ひひひひひヒひヒヒひひヒヒヒいひあひゃヒャひゃひゃヒャ  大気に木霊する壊れた音。  そうして白骨は、音が聞こえなくなると共に消えてなくなった。 「…………」  何一つ、言葉らしい言葉も喉を這い上がる事ができず。  きみ、と声をかけられた時、ハッと振り向いたその先に、駅員らしき人が運転席から慌ててこちらへ向かって走ってくる姿があった。 「い、行こう、ふたみ」  混乱した頭でも、厄介事になるという判断だけはついた。  ふたみの手を取って、俺は急いで来た道を引き返す。  それは目の前に張り巡らされるフェンスに向かって飛び込むという事に他ならなかったが───  ──案の定、俺たちは空明市へと戻っていた。  あれは幻視。  その先にあるものを隠す為、変わりばえのしない風景という名の映画を映し続ける映写幕であり、誰一人として気にする事のないであろう銀幕。  振り返ったそこにあるのは銀幕の裏側ではなく、今度は違う映画を映し続ける別の映写幕。  こちら側で見れる映画の表題は、『空明市』───  俺は辺りを見回したが、人影なんかなかった。  当然だ、あるはずがない。  あったのは人一人分の衣服と靴だとしても、それがいったい何だっていうんだ。 「お主人ちゃ……」 「行こう」  冷や汗を拭いながら、言えた事といえばそれだけだった。 「……そうだな」  行きよりもずっと。  ……その足取りは、重かった。 〜ラベル『懇願者』の内容は記述されていません〜  ──棺が運ばれる。  納めるべき骸はない。  生は平等ではない。  何一つといっていいほど平等ではない。  生まれる場所によって、人格が形成される過程に大きな影響を及ぼすのだから。  生まれる家の家庭環境、家族構成、親族の性格から資産状況に至るまで様々な要素がその者の人生に影響を与える。  ──その場所に生まれたから、この学区であり、この学校に通う事になり、このクラスメイトと出会う事になり、この人物と友人関係が築かれる事となり、このようなトラブルに巻き込まれた───  およそ人一人の人格が形成されるまでに“場所”が与える影響は尋常ではない。  だが、その逆。  終わりは常に等しい。  死はこの世で起こる現象において、ただ一つ平等を保ち得るものである。  だが死を彩るという意味合いにおいては、これは平等たり得ない。  葬儀はおよそ人という種の為にこそ行われる。  他の種であっても特段の思い入れがあればこそ葬儀はなされるが、それはあくまで人にとっての死の概念が左右してこそのものである。  この街で人死が出れば、届出はあの家にこそなされる。  葬送は脚を使って。  埋葬は腕を用いて。  鎮魂は心を磨り減らして。  それが古よりの理だ。  それがあくまで不文律だが───  この屋敷の表札に掲げられた名の許に在る者たちにとっては、このような形で、あの家に接触を試みる道理こそない。  故に彼らの“葬儀”は、彼ら自身の手で執り行われる。  それでも火葬をなぞらねばならないのは、この街の風土であればこそ避けられぬとはいえ、隠し切れない不快が頭をもたげる。  ──だから彼らは葬儀が嫌いだ。  葬儀好きな人間がこの世に居るのかどうかは考えるだにおぞましい事であるが、彼らはまた、別の理由で鎮魂の儀式をこの上なく嫌悪している。  せめて、とでも言いたげに喪服を着用しないのが、彼らなりの抵抗であったのか。  葬儀に喪服は礼儀とて、いつしかあの家の制服として根付いた衣裳をなぞらねばならぬ結果を呼び込んでいる事もまた、不興を増幅させている一つの要素であったのだから。  桜守姫家の広大な敷地に建てられている家々は、それぞれ格式高い設えを施してあるが、そのどれもが例外なく離れている。  その理由を子供の頃に聞かされるのが、この家の習慣だ。  だから、庭を歩けばその理由が嫌でも思い返される。  日々、そうして過ごすからこそ、積み重ねたものは相応の重みとなって背中に伸し掛かる。  ──ぷくぷくと球体を浮かび上がらせながら、鯉が泳いでいる。  庭の中程に位置する彼らの住処には、彼らにとっては誠に迷惑な事ながら、観賞用の橋が架けられている。  だが本日の観賞客たちは、彼らを見てはいなかった。  水面に濃い影を落としながら、複数の男女が談義に花を咲かせている。  その表情は──今この時、何が執り行われているのか忘れてしまうほどに──華やいだものであった。  彼らの話題は故人になぞ露ほども触れてはいない。  いや、正確にはある一点において触れてはいるのだが、故人の生前はどうであったとか、残された遺族はどうであるとか、弔いという名の偲ぶ気持ちはまるでどこかに置き去りにされてしまったかのようだ。  恐らく彼らは、そもそも何の為にここにいるのかまるで意識していないのだろう。  親族から死者が出た、だから葬儀を執り行う、という事務めいた形式以上の意味はない。  甚だ面倒な法事に義務で出席しているという認識。  彼らは口々に言葉を並べる。  嬉々としたその声で。  ──忌々しき処刑人ども──  ──だが聞いたか、御前のお話──  ──そうだ、あれさえ──  この葬儀の主役がその礎となった、という一点にのみおいて彼らは故人を思い浮かべる。  最早この世にいない、などという程度では彼らの心に小波ほどの変化も起こさないが、そのきっかけを作ったという視点からのみ見れば、彼らにとって故人は英雄だ。  哀しみで流す涙は持ち合わせてはいないが、悦びで流す泪は持ち合わせている。  それこそが彼らの悲願であるから。  動けるのはどれほどぶりか。  意味のない小競り合いなどではない。  誰々がやられた報復であるとか、ちょっとした利権を争っての衝突であるとか、その場しのぎの小賢しい遊戯ではない。  あんなものいくら起こったところで、どうせ事態は収拾されてしまうのだ。  街そのものを巻き込む全面衝突に陥る事を双方の首魁が望んでいない限り、どれほど凄惨であろうが、どれほど趣向を凝らした殺し方をして盛り上げようが、結局は小さな形に握り潰されてしまう。  あんなもので腹は膨れない。  何の為に日々を研究と練磨に費やしているのか───  その蓄積を先人たちが後世に残したのは、つまらない局地戦を行う為ではない。  自分たちの研究を後世に残すのは、自分たちと同じ退屈を子孫に味わわせる為ではない。  ──だが、遂に“許し”が出たのだ。  これから行うのは、その下準備。  その先に待ち受ける未来を思えば、退屈な葬儀の時間など早く過ぎ去ってしまえとしか思えない。  ──くく、    くく、    くく──  くぐもった笑い声の合唱を頭上に聞きながら、池の鯉たちは何を思うのか。 「…………」  家人たちのそんな姿を見つめながら、此芽は眉を顰める。  人一人が──それも親族が──亡くなったというのに、何という光景なのだろうか。  彼女には、時折、この家の者たちが醜悪な化物に見えてならない時がある。  彼女は決して口にしないだろうが、それは汚物を前にした気分に等しかっただろう。  けれど即座に首を振って、その考えを振り払う。  彼らの良い部分を探そうと努力してしまう。  だが、ここでまともなのは彼女ではない。  異端なのは彼女の方だ。  彼女は彼らが何の話題で盛り上がっているのかを知らない。  先天的に何かが欠けているとはいえ、“御家”という意味合いでならば断固たる結束を持ち合わせる彼ら──面倒に思いながらも、親族に欠席者は一人もいない。  その上、御前から何がしかの発言があるという話もあり、この敷地内には『桜守姫』を集合体として見た場合のほぼすべての人材が揃っている。  にも関わらず、此芽だけが蚊帳の外。  彼女は『桜守姫』の名を冠する、まごうことなき本流の息女であるというのに。 「あら、お姉様」  そこへ妹のみどのが姿を見せた。  やはり彼女も、池の橋で口許に喜色を走らせる親族たちと同じ表情をしている。  同じ理由で昂揚が抑え切れない、という事だろう。  その背後にいるのは、みどのの取り巻きたち。  彼女たち姉妹に両親はいない。  祖父も祖母も、むろん曾祖の代もすでに鬼籍に入っている。  彼女たちが子を産むまで、中核たる桜守姫の名を冠する者はこの二人しかいないのだ。  ──故にこそ、彼女たちに取り入ろうとする者は少なくない。  親の都合、自身の保身、理由を挙げれば切りがないが、強いものに巻かれるというのは集団に属する者が最初に覚える処世術である。 『桜守姫』とはこの街を二分する一派。  逆らう者などいはしない。  この街に住んでいる以上、命を懸けるに値する理由と気概がなければ桜守姫家に歯向かう事などあり得ない。 「こんなところで何してんの?」 「……生前の叔父上の事を思い返しておった」 「はぁ?」  言ってしまえば、亡くなった叔父は彼女たち以外で唯一『桜守姫』の姓を持つ者であった。  父の弟であった彼は結婚していなかったから、家庭もない──これで本流という意味合いではなく、文字通り二人きりの姉妹になってしまったというのに。 「あんな奴の事を思い返してどうするのよ。あたしたちの事、まだ若いからとかなんとか散々理由つけてさ、好き放題だったじゃないの。摂政気取りの勘違いオヤジが死んで、何か思うところでもあるの?」 「…………」  確かに生前の叔父は傲慢で自尊心が強く、そのすべてが実力に裏付けられているとはいえ、人を人とも思わぬ言動が目立つ人柄ではあったけれど───  それでも叔父は叔父だ。  結局好きにはなれなかったが、やはり嫌いにもなれなかった。  まして亡くなったとなれば、やはり、寂しいものである。  葬儀の当日なればこそ、厳粛な気持ちで事実を受け止め、喪に服すが当然の─── 「あ、清々したとか、そういう事か。いくらあんたでも、その程度のまともな神経は持ち合わせてるわよね」  そんな当たり前の感情さえ持ち合わせていない。 「ま、それでも役には立ったか。何せあの忌々しい連中の力の絡繰を──」 「……どういう意味かえ?」 「あ、ごめーん。あんたには関係ない話だったわ」 「…………」  みどのに合わせて、取り巻き連中が笑う。  それからソフトクリームを食べ終えたみどのは、包み紙をくしゃりと丸めると庭へと放り投げた。 「捨てといてね」  そう捨て台詞を残して、彼女は取り巻き連中を引き連れて去っていく。  いつもの……事だ。  高笑いをしながら去っていく実の妹と親族たちの背を見つめ、此芽は唇を噛む。  こうなってしまった原因を作ったのは、他ならぬ自分なのだから。  仕方のない事なのだと、彼女はいつものように自分を戒める。  ──棺が運ばれる。  納めるべき骸はない。  叔父の遺体は、いつものように、火葬に処される前にあの場所へと通されるのだろう。  それもまた習慣なれば。  庭のそこかしこから。  この毒の蓋を開いたかのようなおぞましい蒸気の空間に満ち満ちていた──囁き。  ──戦争が始まる。  それもまた、桜守姫が桜守姫であればこその濁りに他ならなかった。  ……やっぱり、だ。  光景が広がったその瞬間に「夢だ」と気付いてしまうのは、ちょっとズルい気がする。  このところ色々あったせいか見るのは久し振りだったけれど、それでも、いつも通りなのは変わらない。  もうこの時点で夢だって気付いているって事は、ここでどんなに頑張ってももう目が覚めてしまうのだろうし、今日もまた何もつかめず、この光景は水の向こうに秘密を隠したまま俺の頭の引き出しにしまわれてしまうのだろう。  ……いったい何なのやら。  いつ、どこで見たのか、誰に聞かされたのか、せめてそれだけでもわかればこの水の向こうの光景に結びつくんだろうけれど──本当に、覚えているのは『お姫様』ってだけで、過程どころか話の結末すら思い出せない。  やれやれ。  そう思う度に、違うと断言できるほど確かなものではないけれど、それでも僅かにボタンの掛け違いがあるような感覚を覚える。  似ているけど違う。  言葉にするとそんな漠然としたものは、とても朧気で、つかもうとすればするほど、その形が霞んでいくような。  その感覚はまさに夢に似ていた。  朧気で矛盾した光景を見ていたり出来事が起こったりしてるのに、それに何ら疑問も持たず、「これは夢だ」と認識すれば目が覚める──覚めてしまう、決してつかめない目の前の在り様。  ……ああ。  だからほら、目の前の光景が霞んでいく。  見慣れた天井が視界に広がって─── (……またつかみ損ねた)  で、結局、こう思う結末に行き着くわけだ。  忙しさにかまけて、すっかり探す手も止まってしまった──俺の探し物。  今まで見つからなかったんだから、いまさら慌てて探すようなものじゃないんだけど、今日はどうしてか、いつもの嘆息には繋がらなかった。  やけに気になる。  ……気になる?  そもそも、俺はどうしてあんなに必死に童話の行方を追っていたんだろう。  気になるから──ただそれだけなんだろうか。  確かに、子供の頃に印象に残ったもので、それを成長してからもずっと覚えているとなれば、断片的にしか覚えていないからこそ気持ちの悪さも手伝って「あれはなんだったっけ?」と探し始めるのは不自然な事じゃない。  昔読んだんだけれどタイトルの思い出せないマンガとか、毎週観てたくせに次クールで始まった新番組の印象が強すぎて内容をすっかり忘れ主題歌のサビしか覚えていないアニメとか、言い出せばキリがない。  特にこんなふうに、事ある毎に思い出してしまうようなものであれば─── (……そういや、そんなふうに考えた事はなかったな)  でも、なんか違うような気がする……気がするだけかもしれないが。 「お兄ちゃん」  やっぱ……ふたみに聞かされた昔話なんじゃないのかな。  俺の事を「お兄ちゃん」なんて呼んでたのはふたみだし、あの童話はこの街に伝わる昔話で間違いないみたいだし。  子供の頃の事だから記憶がごっちゃになって、その話を聞かせてくれた少女の声が混じって───  でも、あの話にお姫様なんて出てきたっけか? 「起きたか」 「ふたみ……」 「? どうかしたのか?」 「……いや。おはよう、ふたみ」 「おはよう。朝食の支度ができてるぞ」 「ありがとう。今行くよ」 「うん」  ふたみの様子はいつもと変わらない。  ……変わらないように見える。  彼女はいつものように早起きして、食事の支度をしてくれて、当たり前のように学校に行って、そして帰宅してからも家事をこなす。  でも、何も変化がないなんて、そんな事あるはずがない───  繰り返される“毎日”の中に、ただ、「空明の里に通う」という部分だけが足りない。  たったそれだけが、彼女にどんな変化を与えているのか。  ……あの一連の出来事を、俺の中でどう整理すればいいのか。  何かに気付き始めている俺がいる。  何かに気付いてしまった俺がいる。  ……それにしても。  折角、街から出れたっていうのに……ふたみに星空を見せてやる事ができなかった。  その事がとにかく残念だった。  後ほんの少し、ほんの少しだけ何かがずれていたら、彼女は頭上に広がる満天の星空をその目に焼き付ける事ができたのに。 「…………」  ……いや。  あの状況じゃ、仮に見る事ができていても、彼女が望んだ形にはならなかったか。  あんな慌ただしい最中で見たところで……。  ──己の手で。  俺たちの手で為し得てこそ、そこに価値が生まれていたんだから。 (それでも……)  やはり、残念に思う気持ちは拭えなかった。  食卓には誰の姿もなかった。  お盆を手にしたふたみが台所からやってきて、食卓に朝食を並べていく。 「メメはまだ寝てるのか?」 「いや、それがな、居ないんだ」 「いない?」 「うん」 「何も気付いてないんだ。あなたがどうしてこの街に来たのか。自分が何者なのか」  彼女は何かを知っている。  それが昨日、俺の中で反転したこの世界──当たり前だったこの街の街並みを原色で塗り潰し、見える景色さえも変えてしまった──気付いてしまった出来事に関係があるなんて事は、考えるまでもない。  そして、ふたみと共に越えた境界線の外から見た、この街の─── 「お主人ちゃん?」 「あ。い、いや……悪い」 「まったく。妾もそうだが、おねさまもいないし。みんな何処へ行ったんだ」 (傘姉も……?)  ……偶然。  なんて言葉で片付けられるほど、俺は呑気でも冷静でもなかったのだろう。 (何かが起きている)  いや。 (ずっと何かが起きてきた。けれど、それに俺は何一つ気付かないままでいた)  ……そういう事。  そういう事なのだろうか。  だとすれば、出る事は叶わないこの街で、今───  ──“今”はいったい、何が起こってるんだ? 「…………」 「どうした?」  ……ふたみはどう思ってるんだろう。  彼女と一緒だから“外”へ出る事ができた……とすれば、唯井家がやはり何らかの形で……。  ふたみ自身がそれに関わっているとは思えないけれど、彼女もまた昨日の出来事を目撃した。 「お主人ちゃん?」 「ふた……」  ──言いかけ、言葉に詰まる。  何を訊き出そうっていうんだ。  照陽菜があんな事になって、誰より落ち込んでるのはふたみだっていうのに。 「……あ。この豆、美味しいな。なんていうんだ?」 「う……」 「ん?」 「すまない、ありあわせで。今日はあまり準備もちゃんとできなくて、ほんとうなら、食卓に出すような料理じゃないんだ。ほんとうにすまない」  ……馬鹿か俺は。 「い、いやっ。これめっちゃ美味いって! 準備ができなくてもこれだけのものが作れるんだから、やっぱふたみはすごいって!」 「……ごめんなさい」  う……。  ふたみにとっては、「準備を怠る事になってしまった」という事そのものが負い目になってしまっているんだ。  ……だいたい。  こうして“何事もなかったかのように”二人で朝食を取っている事自体が不自然なんだ。  今、ふたみがどれだけ無理をしてこの環境を作り出していると思ってる?  やっぱり……。  ふたみには……訊けないよ。 「昨日はありがとう」 「え?」  正門を出たところで、戸締りを終えたふたみが俺に頭を下げた。 「まだ、ちゃんとお礼を言ってなかった」 「いや、俺は何もたいした事──」 「手を引いてくれたお陰で、気持ちの……区切りみたいなものができたと思う。だから、ありがとう」 「……そうか」 「うん」  ふたみはあの事には触れない。  今は照陽菜の──そして、彼女が言うところの“区切り”として雲を追いかけた事。  その事で気持ちの整理をつけるのが精一杯なのだろう。  あれだけの情熱を注いできたんだから、当たり前だ。  あんな───  ……あんな事、思い出したくないに決まってる。  いつもと同じ時間、いつもと同じ道程。  ──足取りだけが異なっている。  俺は、以前とは違う気持ちで街並みを眺めている自分に気付く。  誰か一握りの───  防衛の迷路、か。  だとすれば、簡単には行けない場所。  無遠慮な闖入者は容易に入り込めない、行かせたくない場所があるはずだ。  それはきっと、この街の───  それだけの規模で物事を動かせそうな家を、俺は二つ、知っている。  これは、そのどちらかの仕業……やはりそういう事になってしまうんだろうか。  そして、そのどちらに天秤が傾いているか、俺はもう気付いてしまっている。  考えてみれば、一連の流れとして一気にこの街の“見えなかった部分”を見てしまった、気付いてしまう事になった俺が混乱していたんだろう。  状況的にすべてを結びつけて考える事ができた俺の思考の矛先がそちらに向いてしまうのは自然かもしれないが、ふたみからすれば、自分がこれまで積み重ねてきたものの一つの結果を受け止める、という事。  まずはそれであって、あんな──事は、ちょっとした気の迷いが見せた出来事として片付けてしまえるものなのかもしれない。  気のせい、という、魔法の言葉で。  ……どうか、そうであってほしい。 「…………」  それでも───  真っ先に思い出してしまう事があるから、続くこの街以外の光景を目の当たりにした事、そしてあの奇妙な出来事と、優先順位的に気のせいで片付けられる──そこまで考えている余裕がない、気持ちが追いつかない、という状況が生まれているとしても。  真っ先に思い出してしまう事だからこそ、彼女はその気持ちの整理でいっぱいなんだ。  ……だから、無理をしてる。 「どうしたんだ?」 「え?」 「なんか考え込んでるみたいだ」 「あ、いや……」  ……あ。 「そ、そうだ。なんか変な夢を見てさ」 「夢?」 「ん……時々見る夢なんだけどさ、なんつーか、はっきりしない夢でさ。  子供の頃に印象深かったものが記憶の中でごっちゃになって、ごっちゃになったものそのものが夢になっているような。  ……なんつーか、泡……みたいなものなんだけど」 「泡か。随分と詩的な表現をするんだな」 「いや、上手く言えないってだけなんだ」 「それで、その泡の夢がどうしたんだ?」 「やっぱ……ふたみから教えてもらったこの街の昔話だと思うんだよな」 「ふむ……子供の頃、という事は、以前この街にきた時に、という事だな」 「多分」  そういう事になるんだろう。 「悪いが、やはり私はお主人ちゃんの事を覚えていない。だから、私が話して聞かせたなんて事もないと思うぞ」 「そっか」 「確かに、タツミという親戚が遊びにきた事はあったように思う。けど、策という名のオトコのコと遊んだ記憶はというと、さっぱりだ」  俺にとってはふたみとの出会いそのものが印象的だったけれど、彼女には──という事なんだろうか。  けど、その割には断片的というか漠然としすぎているというか、俺自身あまりよく覚えていない。  ずっと心の中にしこりのように残っているけれど、なんでしこりとなっているのか思い出せないっていうか……出来事としてはっきりしないんだ。  それも最近──この街にきてから思い出したものだ。  子供の頃に会ったといえばふたみだから、彼女と再会した事をきっかけに思い出したのかと思ったんだけど、どうも……なんだろう、違うのかな。  ……うーん。 「思い出したいのに思い出せないから、気持ちが悪いのか?」 「いや、そういうんじゃないんだ。なんか、そこに……」  ──そこに。 「大事な……何かがあったような。何かがそこから始まった、そんな印象があるんだよな」 「初心がそこにあった、という事か」 「あ、そうだな。そんな感じだ」 「私は今でもたいした事はできないが、その頃の私であれば尚更、策さんに影響を与えるような事ができたとは思えないな」 「そんな事はないだろ」 「事実だ。策さんの記憶の中で私がどうなっているかは知らないが、あの頃の私は……」 「あ、いや、なんか変な話になっちゃったな。悪い」 「いや」 「……ん、ふたみ、今なんて言った?」 「いや」 「そこじゃなくて、俺の事、なんて呼んだ?」 「策さん」 「酢酸?」 「策さん。オマエの事だ」 「……急にどうした?」  どうした、と問いかけた俺自身が、それがどうしてなのか、きっと心のどこかで納得していたんだろう。  彼女がつけた俺の呼称は、彼女が俺の“ヨメ”である為に、彼女が俺に合わせた……その結果だ。  彼女は答えを望んだ。  その答えは、照陽菜を為し遂げた時に、星が顔を覗かせた空の下で伝えるはずだった事。  だからこれが、彼女なりに出した──一つの結論、という事なのだろうか。 (策さん……か)  なんだか急にふたみが遠のいてしまった気がして、正直に言えば寂しい想いもあったけれど。  それでも俺は、それを受け止めるしかない。  だって俺は───  俺の気持ち。  ふたみに渡す答えの在り処。  ──真っ直ぐな彼女だからこそ。  うやむやになるような事じゃないし、うやむやにしていい事じゃない。  ……わからない、という言葉が一番しっくりくる。  わからないならわからないで、その気持ちをはっきりと本人に伝えればいい。  でも─── (……本当にわからないのだろうか)  そう自分自身に問いかけてみれば、自ずと答えは導かれる。  はっきりしない。  はっきりとはしないけれど──こんな気持ちで、ふたみの問いにうなずく事はできない。  適当に上手い事を言えば───  言えてれば、そもそもこんなふうに悩んだりしない。  悩まないし、誰かを傷つける事もなかったんだろう。  ……これまで曖昧な関係のままでもやってこれたのは、一つの“区切り”があったからだ。  照陽菜が終わったら───  だから脇目も振らずに打ち込む事ができたし、目を背けているという意識もなかった。  ……でも、もう、気付いてしまった。  今のままでは、この関係は成り立たない。 (……ふたみ)  彼女に抱くこの気持ちは、きっと───  恋じゃ、ないから。 「桜守姫さん」  教室を出た彼女を追いかけ、俺は廊下で呼び止めた。 「な、なんです」 「あ、ちょっと……話があってさ」 「お話?」 「ああ、実は──」  言いかけ、俺は二の句を呑み込んだ。 「…………」 「巽殿?」  こんな人通りが多い場所で話していい内容じゃないな。 「屋上に付き合ってもらってもいいかな」 「こ、このようなところで……いったい何のお話です」 「……うん」  俺は言葉を選びながら告げる。 「桜守姫さんが……前に言っていた言葉の意味が、ようやくわかったよ」 「と……おっしゃいますると?」 「『シュレーディンガーの猫』」  ──そこに、僅かな間があった。 「……然様ですか」  察しのいい彼女は、それだけで事の意味を理解した。  その表情が沈痛な面持ちに沈んだのは、やっぱり……。 「つまり、そういう事です」 「……それは、ふたみの……」 「……そこまで繋がるとは」  桜守姫さんが僅かに驚いた様子を見せた、次の瞬間。 「巽殿は“突破”──なされましたか」 「とっ……ぱ?」 「我らが生まれより持ち得るもの。なれど、隣人は決して持ち得ぬもの──生物としてこの街に在る以上、避けられぬ有識の結界の網。身体どころか思考さえも蝕む、『贋』という名の病巣」 「『贋』……?」  陰湿な響きに首をかしげた俺に返るのは音色。 「文字通りの贋物、目隠しをする為のまやかし」  調べを紐解く唄の如き、麗しき姫君の声。 「この街を覆う有識結界には、二つの強力な作用がございまする。  その一つが『贋』と呼ばれる、心理的、認識的要素。複数の領域を持つ、階層的規制」 「……授業が始まったようですが」 「続きを……頼めるか?」 「……承知いたしました」  桜守姫さんは頷き、睫を穏やかな眠りにつかせるかのように、その瞳を閉じた。  ──その仕草に覚悟めいたものを感じたのは、俺の気のせいだったのだろうか。 「一つの──知性を以って生活を営む生物が集団として属する一つの空間において、そこに常を超える力の働きがあるとするならば。そこにはやはり、必ず矛盾が生ずるのです。目に見えようが見えまいが、綻びは生ずる。  どれほど巧妙に隠されていたとしても、勘が鋭い方はお気付きになられましょう。  そして知恵を働かされ、矛盾の正体をお突き止めになられる方もおりましょう──『贋』の第一領域は、“有識結界内における如何なる矛盾も疑えない”という事です」 「えっ……」 「つまり空明市に足を踏み入れてしまえば、さやかに“おかしい”要素を“おかしい”と感ずる事すらできぬ、という事です」 「ま、待って。待ってくれ! 何を言って──」 「目の前の現実を、そして辿り着かれた真実から、其方は目を背けられましょうか」 「……!」 「其方は“確信”なされたのでしょう。“この街は閉ざされている”と。ならばこそ、“何故、そうであるのか”と理由をお求めになられた──転がった回答を前に、其方は耳を塞がれまするか」 「……悪い。気が動転してたみたいだ」 「お気になされる必要はございません。それが当然の反応というものです」 「続きを……話してくれるか」 「はい」 「この第一領域は、そのおもだったものを挙げるだけでも、“街から出る事ができない”“誰も入ってくる者がいない”“夜空は雲に覆われている”などがございまする」 「それを……この街の人は、この街に入ってしまった者は、疑え……ない?」 「然様です。それが当然と──いえ、そも当然であるのかどうかすら考える事無く受け入れてしまいまする」  その言葉に背筋が凍った。  疑問を疑問と感じる事すらできない……それがどれほど恐ろしい事なのか、今だからこそ理解できる。  誰も、誰一人として「おかしい」と感じる事さえないままに、どこかの誰かが「これが世界だよ」と用意した場所で生きている。  ……生かされている。 「でも、その基準は……“矛盾”じゃないだろう」 「……!」 「桜守姫さんは俺にわかりやすく説明してくれようとして“矛盾”って言葉を使ったけれど、それは違う──だってそもそも、そんなものが仕掛けられているという事自体、“矛盾を起こす”事を目的としているんじゃない。 “結果として矛盾が起きている”だけだ。  だから──それは理由を辿れば答えに行き着く。 “結界を仕掛けた者にとって都合の悪い事”に対して疑問が持てないんだ」 「……なるほど。流石は自力で突破なされた御方……」 「つまり、あの家の──」  言いかけた時、桜守姫さんの指先が続く言葉を制した。 「──こういったものが第一領域に該当しまする。簡単な例ではございましたが、其方はそれそのものが持つ事の本質をご理解なされたご様子。ならば掘り下げる必要もありますまい。  ……これは、其方がこの街に入られる前から捕まっておられたものです」 「この街に入る前から? 入ってから、じゃ──」 「ではお尋ねいたしまするが、其方は何の情報も目的もなく、この街に入ろうとお思いになられたかえ?」 「……!」  ──そうだ。  向こう側からは、この街は見えなかった─── 「其方が如何なる経緯でこの街へと足を踏み入れられる事になられたのかは存じ上げませぬ。なれど、其方は確実に“ここに空明市という名の街がある”とご存知の上でお訪ねになられたはず。  存在の確信なくば結界内への侵入は叶いませぬ。そも結界とは、“そこにそれはない”と思わせる為にこそ張る、どなたの注意も引かぬ、どなたにも認識されぬ領域を保有する為の境界線。  結界内に“入る”とは、そういう事なのです。知らぬ者であれば、確信なき者であれば、この街には“入ろう”という意思すら持てぬ。  ──近付こうとする意思すらも打ち消されるのです」 「出る時……のように、か」 「少し異なりまする。ここに街があるというのは見た目では判別がつかぬよって……『東京都空明市』などと、“外”では聞いた覚えもありますまい。  打ち消されるのは、この街の境界線に偶然にも近付いてしまった場合です」 「“帰ろう”……そう思う」 「然様です。“帰ろう”、“戻ろう”、動物が本来持つ帰巣性が刺激されまする。これは確かに“出る”場合も然りなれど──“出る”場合の作用強制力は“入る”場合の比ではございませぬ。  そも、“出よう”とする意思すら持てぬのですから」  それは、完全に結界内にいる事と、結界の外から結界の影響を受ける事との違いなのだろうか。 「これが第二領域となりまする。街の境、即ち結界の境界線を中心に起こる『贋』です」 「それでも、“出よう”と……思えてしまったら」 「『獄』が待ち受けていまする」 「『獄』……?」  その重々しい響きに、俺は息を呑んだ。 「『獄』は『贋』とは異なり、物理的、異能的要素。文字通り阻まれるのです。街の境界線から出ようとなされば──」  ──脳裏を過ぎった、あの光景。 「焼かれ……るんじゃ」 「────!」  次に息を呑んだのは、桜守姫さんだった。 「何故……それを」 「見たんだ。双子座の照陽菜がしっぱ……」  ──失敗したんじゃない。 「終わっ……て、掃ったはずの雲が戻ってきて、ふたみが駆け出して……」  俺は、あの日あった出来事を桜守姫さんに話した。 「…………」  桜守姫さんは俺の話を聞くと、沈痛な面持ちを浮かべて黙り込んだ。 「それで思ったんだ。もしかしたら、あれがこの街から出ようとした結果なんじゃないのかって」 『贋』とか『獄』とか、領域とか、そんなもの知らなかったけれど、俺が乗り越えたあの──頭の中身を直接掻き回されるかのような衝撃の向こうに、あれが待ち受けているんじゃないかと思ったのは理屈じゃない。 「……然様です。それが『獄』……罪人を捕らえ押し込む獄、逃げ出そうとする罪人を、牢獄そのものが罰する……のです……」 「……桜守姫さん?」 「……其方がご覧になられた人物というのは……媛の叔父です」 「え?」 「…………」  あれが──あの人が、桜守姫さんの?  ──ふたみ、と、いったか── 「ご、ごめん」 「……いえ……」  それきり黙した桜守姫さんは、やがて空を見上げるように首を傾けて、 「……然様ですか。やはり叔父は、『獄』を突破なされようと……」  ──その口振りは。  まるで、初めてではないかのような─── 「…………」  まるで黙祷を捧げるかのような桜守姫さんに問いかける事はできなかったけれど、“やはり”という言い方が、俺に一つの確信を与えた。  何故、桜守姫さんがこんな事を知っているのか。  それはそのまま、彼女が“桜守姫家の者であるから”という答えへと帰結する。  名家として、この街に君臨する桜守姫家。  この街を──有識結界とか言ったか──超常の範疇で閉じ込めたのが、もしも俺の考えてる通りなら。  だとしたら、それと“並ぶ”という事そのものが、桜守姫家がこの街の仕組みをどれほど知っているのかを物語っている。 “宿怨の相手”という構図。  それは裏返せば、“宿怨の相手であり続ける事ができた”という事だろう。  それがいったい何を意味するのか。  具体的にはわからないけれど、闇夜に漆黒の羽を広げたかのような──濃い影が落ちるのを、感じた。 「桜守姫さん」 「あ……はい」 「一つ、いいかな?」 「なんです?」 「どうして、その事をみんなに教えないんだ?」  ふとした疑問。 「俺にだって、その──“突破”ってやつができたんだ。影響下にある人たちだって、教えれば、みんな……みんな、この街がどんな状態にあるのかって事に気付くだろう? そうすれば──」 「──そうすれば、なんでありましょうか?」 「結界……だって、なんとかなるんじゃないのか?」  桜守姫さんの、やや冷淡にも受け取れる反応に、俺は言葉を詰まらせた。 「俺っ……俺には、桜守姫家がどういう家なのかわからないけどさ。でも、少なくともこの街をそんなふうに占有する家があって……桜守姫家は、それとずっと対立してきた家柄だろう? だったら──」 「──だったらかの御家の結界支配を崩す事は望むところであれ、否やを唱える理由などないと?」  ……それとも、まさか。  まさか、結界が張られた事で─── 「……桜守姫家も何らかの利益を得てるのか?」  その言葉に、桜守姫さんは首を横に振る。 「桜守姫家歴代の者たちは、腕に覚えがある者ほど結界の解除に挑んできました。今以て有識の結界が機能し続けているという事が、その結果を物語ってはおりまするが……」 「じゃあ……!」 「巽殿。事はそれほど単純ではありませぬ。  ……このような申し上げ方は好ましいものではありませぬが、桜守姫家は桜守姫家として、やはりこの地に根を下ろした看板を背負っておりまする。  桜守姫家が動く、とは、如何なる意味を持つか……巽殿がおっしゃる事は、なるほど。しかし、そうなれば最悪───  ──最悪、戦争に発展しまする」 「そんな大袈裟な……」 「大袈裟? どこが大袈裟なのでしょう。  街をまるごと己の都合のよい形に閉じ込めておる、この袈裟の大小、其方ならばおわかりでしょう──そして、それを行い、また行い得る相手にとって不利益な行為を取るという事。  桜守姫家が桜守姫家であればこそ、見過ごされる事などありえませぬ」 「…………」 「……それに、残念な事なれど……桜守姫家は“この街の住人の為に”などという理由では動かぬでしょう……」 「え?」 「……其方はお一つ、思い違いをなされておられまする」 「思い違い?」 「誰もが“突破”できるわけではないのです。例え先程の内容をこの街の人々にお伝えしたところで、彼らはその物事の意味をご理解なされる事も、それがどれほどの異常であるのか察する事もまた、できぬという事。『贋』は確かに作用しておるのです」 「…………」 「この事は、第二領域まで突破した其方だからこそお話できる事です。媛とのお話を思い出す事叶いましたのも、突破なされた後だからこそ……媛はあの時、例え話を用いました。にも関わらず、『贋』によって阻まれました」 「そう……だったな。今なら、わかるよ」 「それがこの街です」 「そして、それを行ったのが……」 「……ぎりぎりの筋ですね。恐らく、これ以上はまた『贋』が働くでしょう」 「領域にまだ先があるのか?」 「今、媛は結界のお話しかいたさなんだ……これを“誰が行ったか”の前提でお話ししておれば、最初から、ここでのお話は其方のご記憶には残らなかったでしょう」 「でも、二つ目までいけたんだから、三つ目だって──」  その訴えに、桜守姫さんは首を振った。 「これ以上は『有識外し』が施されていなければ無理です。媛はその手段を存じ上げませぬ……それこそ……」  それこそ、の続き。  桜守姫さんは言葉を選んだけれど、それはきっと……。 「言葉に出せないなら、紙に書く、とか……」 「言葉に出す出さないではなく、これは相手の認識によって作用するのです。如何なる媒体で相手にお伝えしても変わりませぬ」 「……そうか」 「なれど、巽殿──其方は其方ご自身のお力で、突破できる限界にまで達されたのです。媛は、其方が誇らしゅう存じます」 「……桜守姫さん……」 「あ、いえ、その……」 「じゃあ、一つ……後一つだけ教えてくれ」 「お答えできる事なれば」 「──どうして桜守姫さんは、俺にこの事を教えてくれたんだ?」 「ですから、それは第二──」 「それは、だから今なら理解できるという意味だろう? じゃあ、『シュレーディンガーの猫』は?」 「そ……それは……」  桜守姫さんは頬を赤らめたまま、何故だか狼狽した様子だった。  けれど彼女は、それから静かに俺を見つめて、 「……お逃げくだされ」  と言った。 「どういう事だ?」 「この街に居られ続けては、其方は……」 「桜守姫……さん?」 「…………」 「おうす……」 「……お願い……」  擦れた呟きに、俺は一瞬、身を強張らせる。 「逃げて……!!」  喉の奥から搾り出すような声でそう告げた桜守姫さんが、力なく膝をついた。  桜守姫さんの言葉の真意がどこにあったのか。  休み時間に戻ってきた俺に、「どうかしたのか?」と問いかけるふたみにも曖昧な返事しかできず──その後も、ずっとその事の意味を考え続けていた。  ……でも。  桜守姫家。  桜守姫家の者であるという事の意味。  彼女にとって、それがどういう意味を持つのか……それだけは少し……ほんの少しだけ、わかったような気がした。  ──泡の記憶。  ふたみに「初心」と言われた───  ……初心、か。  確かに、そう言われてみればしっくりくる。  俺にとって“初心”なんて大層な言い方ができるほどに積み重ねたものといえば───  思い当たる事柄は、一つしかない。  同年代の奴らが──誰かに恋をしたり、好きな事に打ち込んだりしながら、青春ってやつを謳歌してた頃。  俺は自分の才能の欠片を探す事に必死だった。  俺自身が望んで、選んでやってきた事だ。  だから勿論、誰かのせいだなんて言うつもりはない。  物心がつく前から始めていた事だからそれは当たり前のように日々のなかにあって、その事の意味を理解する前に自分の一部となってしまって、だからその為にかけた年月が長すぎて、積み重ねたものが多すぎて、引っ込みなんか今更つかなくて──「諦める」なんて、選択肢にすらなかった。 「これが駄目なら他のものを探そう」、いつだっていつまでだって挫折も知らないで、次へ次へと渡り歩いていればよかった。  でもそれは、今考えてみると長続きしないアルバイトみたいなもので。  痛みを伴わなければ反省なんかあるはずがない。  だから焦りを覚えた頃、その正体がなんだかわからなくて。  ずっと適当に生きていたら、いつの間にかいい歳で──そんな時の漠然とした将来への不安に近いのだろうか。 「もういい加減、終わってしまうぞ」って。 「可能性はいくらでもあるって言ったって、限度はあるんだぞ」って。  一つ一つの項目を食い潰していったら、「試しにやってみようか」なんて気持ちでも数に限りがある事に気付く。  ……自分の気持ちに嘘をついたって仕方ない。  俺はずっと前から焦っていた。  兄貴がどんどん世間に認められていく度に、俺より年下の親戚の才能が開花する度に、親父や伯父さんが『巽』として名を成した年齢を聞かされる度に───  余裕なんかとうの昔からなかった。  そんな気楽に構えてなんかいられなかった。 「試しにやってみようか」なんて嘘だ。  そんな気持ちでいられたのなんかほんの子供の頃だけ。  俺はいつだって「これが俺に眠っている才能でありますように」と──切り刻むほど強く紙に記した願い事を賽銭箱に投げ入れるようにして、一つの物事に打ち込んできた。  その度に挫折して、打ちのめされて、超えられない壁の前で膝を屈した。  ……認めてほしかった。  根っこにあったのはそれ。  でも、もしかしたら俺は───  積み重ねたものが大きくなりすぎて、歩けなくなるほど背負ったものが重くなりすぎて、気持ちの置き場所がどこにもなくなって。  ……ああ、そうだ。  俺は多分、もう。  とうの昔から自分の限界に気付いていたんだ。  ずっと気付かないふりをし続けてきたけど、でも、そんな矛盾した気持ちもまた重荷になって。  もう押し潰されていて、解放されるその瞬間を心待ちにしていて、それでも自分から捨てる事はできなくて。  だから俺は。  ……褒めてほしかったんだ。  よくやったなって。  よく頑張ったなって。  俺が頑張ってきた事を、とても多くの日々を費やしてきた事を、とても多くのものを積み重ねてきた事を。  形にはならなかったけれど、良い結果としては出せなかったけれど。 「苦労したんだから頭をなでてよ」って。  ……そうすれば、俺は、自分の才能のなさを素直に受け入れる事ができたのかもしれない。  巽の名に過敏に反応する事も、兄貴たちに劣等感を感じる事も、逃げるようにこの街へやってくる事も。  その“場”で敵わない人たちの事を認めて、俺自身がどうあるべきか考える事ができたのかもしれない。  ……ああ、そうか。 『巽』を認めていなかったのは、俺の方なのか。 「ふたみ」 「ん」  呼びかけるとふたみは動かしていた手を止めて振り向いた。 「あのな」  ……まだ、逃げられない。 「真面目な話のようだ」  それから彼女は、畳に正座した。 「……うん」  俺もまた、彼女と向かい合わせに正座する。 「……照陽菜が終わったら。お前とそう、約束した」 「…………」  ふたみは一瞬、間を置いたが─── 「そうだな」  と言い、 「答えをくれるのか」  そうして、俺の目を見つめた。  いつもの───  いつものふたみの眼差し。 「……はい」 「わかった」  これ以上ないくらい綺麗な正座をしておきながら、ふたみはもう一度、姿勢を直す仕草をする。  俺のはつまり、言ってしまえば「認めてほしい」という欲求からきていた。 「……お前が俺にくれた言葉、お前が俺に見せてくれた姿勢……お前と一緒にいれた事、俺は本当に感謝してる」  出だしは「そういう家柄だから」というものだったんだろうけど──いや、逆だろうか。 「認めてほしい」という素肌の想いに、「そういう家柄だから」という自覚が上塗りされたのか。  ともかく、俺がこだわっていた理由の大部分はそこにこそあった。  自分の居場所がほしかった。  居場所と思える場所がほしかった。  俺はそれを、自分の家柄の中で──自分が生まれてきた、育ってきた、育っていく枠組みの中で求めていた。 「…………」  ふたみは聞いている──聴いている。  ただ黙して、真っ直ぐに俺を見つめて。 「……私も」  厳かな口調で、ふたみが言った。 「私も策さんと一緒にいれて良かった、そう思う」 「……ありがとう」  自分が『巽』である理由がほしかった、という想いと。  だからこそ『巽』として認めてほしかった、という想いの綯い交ぜ。  上手くは言えないけれど、俺にはそれしかなかったし、ただそれだけをがむしゃらに求めていた。  きっと桜守姫さんにも……俺みたいな中途半端な奴と比べるのは失礼だけど、似たような想いがあったんじゃないかって思う。  桜守姫家の者としての、桜守姫家の此芽としての何か、みたいなものが。  その先に、きっと俺の知っている桜守姫さんがいて─── 「逃げて」  どういう意味なのか。  確かにこの街はおかしい。  一度でも異常と口に出してしまえば、もう他に表現する言葉がないほどに。 「……困ったな」 「え?」  でも、だから逃げる、には繋がらない。  その理屈でいえば、みんながみんな逃げなければならない。  ──だってみんな、この街で暮らしているじゃないか。  君自身、そうじゃないか。  それはみんながこの街の住人で──俺は部外者だから。  そういう理由ならわからなくもないけど、でも、俺はまだ、ここにいる。 「策さんの顔を見ていたら、なんとなく、答えがわかってしまった」 「…………」 「……うん……そうか。それが策さんの答えなら、仕方がない」  俺は逃げられないよ。  まだ逃げられない。  だって俺はこの街へ逃げてきたんだから。  そして、俺が逃げているんだと気付かせてくれた人がいるから。 「……ごめん」 「ごめん、というのはどういう意味だ」 「…………」 「謝る、という事が、どういう事か、わからないのか」 「……ごめん」  …………。 「…………まったく」  ──彼女のこんな顔を、俺は初めて見た。 「仕方のない人だ」  ああ畜生、こいつ、本当にいい女だな、なんて……俺は思っていた。  ……いつ頃からだったかは覚えていない。  でも、その気持ちはいつも胸の中にあった。  俺の中には影があって。  張り付いたようにくっついて、忘れられないかのようにしがみついている影がある。  顔はぼやけて形はふやけて、何がなんだかわからないんだけど、その黒い影が──お姫様、だって事はわかる。  何故だかわかってしまう。  だから俺は、ふとした弾みに心の引き出しから零れ落ちるその輪郭を、いつしか憧れの眼差しで見つめていた。  心の中に住み着いたお姫様。  でもやっぱり、どうしてこんなに鮮明なのに朧気なのかって矛盾が気になって。  きっと自分に影響を与えた何かがあるんだって、お姫様なんだから昔話なんだろうって、よく白爺さんの書庫に入り浸っていた。  幼い頃、よくそこで本を読んでいたから。  その頃に読んだどれかが、例えば話自体は難しくてわからなかったけれど印象に残った一節があったとか、もっとわかりやすく挿絵とか、そういったものが幼心に焼きついたんじゃないかと思って。  ……「一度実家に戻る」と、ふたみが言い出したのは、その日の夜の事だった。  ──だからそれは、生まれたその瞬間から手にしていたものがあった。  それが何であるかを求める事にはまるで意味がない。  それが何であったとしても、それはただそれでしかなく。  意味があるのは、それが何を持って生まれてきたかという事でしかないのだから。  それは、死を秤にかけた。  己自身の死さえも、必要ならばと容易く天秤の上に乗せて。  正気と狂気の狭間に船を浮かべて、溺れる事を楽しむ行為にどこかよく似て。  求めるものが死ぬ事によってしか手に入らないと悟った時、それはためらう事なく、生まれながら手にしていた己の分身とも言うべきものを。  ──その胸に、突き刺した。  ──また何か苛立つ事があったのだろう。  此芽が部屋に入った時、みどのはお気に入りのアイスクリームを食べていた。  苛立つと甘いものを欲しがるのは、子供の頃からの癖──そして、それはいつの間にかアイスクリームで定着した。 「…………」  そして此芽は、ここにいるという事は自分を待っていたという事だとも理解した。  桜守姫家の敷地内には、屋敷が無数に建っている。  此芽とみどのとは、それぞれ別の屋敷が割り当てられている──桜守姫家の正統な嫡子である彼女たちには当然の待遇であり、それ自体が一つの“部屋”であるという認識なのだから。  だからこそ一週間でも一ヶ月でも、言ってしまえば、会うべき理由か偶然のどちらかがなければ、顔さえ合わせない日々が続くという事だ。  にも関わらず此芽の“部屋”にいるという事は、彼女に用があるという事。  そしてお気に入りのアイスクリームを冷蔵庫から出してきたという事は、苛立っているからこそここにいる、という事。  ──実にわかりやすい話だ。  要するに憂さ晴らしがしたいだけ。 「──アイス」  部屋へと入った此芽を一目見るなり、挨拶もそこそこにみどのは言い放った。 「買ってきなさいよ」 「今、食べておるのでは……」 「足りないから言ってるんでしょ? そんな事もわかんないワケ?」 「…………」 「ほら。早く」  二の句を許さず、みどのは顎をしゃくる。 「…………」 「……買うてきましたぞえ」 「遅いわよ、愚図」  と、みどのは此芽の手から品物をひったくる。  買ってきたのは、モナカの中にアイスが入ったタイプの菓子だった。  バニラアイスが好きな妹の、何よりの好物だと姉は知っていたから。 「ふん」  面白くなさそうな声を出しながらも、口許は笑っている。  アイスクリームを食べている間だけは、みどのは昔のままのみどのだ──此芽はそう思う。 「おねぇさま……」  ──泣き虫だったみどの。  いつも自分の背中に隠れていた、小さくて柔らかい自慢の妹。  とっても小さな手で、必死にあたしの服の端を握り締めて。  今にも消え入りそうなか細い声で、いつも何かを伝えようとしていた。 「み、みどの……ね」  妹が何も言わなくても、自分にだけはその意味が伝わる。  それが此芽の小さな自慢だった。  ──此芽、と、あの日、父が言った。  その傍らには母もいた。  此芽。  私たちは、桜守姫家の者としての務めを果たさなければならない、と。  優しい父のいつもとどこか違う雰囲気を感じていた。  気難しくて自信家だけれど、自分と話す時は必ずかがんで目線を合わせてくれる母の、あんな戸惑った顔を初めて見た。  ──もしも。  もしも、私たちが帰ってこないような事があったら──  その言葉はすぐさま現実のものとなり。  残されたものは、たった二つ。  もしも、私たちが帰ってこないような事があったら──此芽、お前がみどのの面倒をちゃんと見てやるんだぞ。  その言葉と、そして。  いつもと同じように優しく頭をなでてくれた父のぬくもり。  ──あの日以来、此芽は誰にも頭をなでてもらった事がない。 「ふぅ……」  食べ終えて満足しきった表情を浮かべる妹を、姉は優しい眼差しで見つめている。 (……また、あの頃のように……)  言葉にできない想いが、胸の奥でそっと音を立てる。  ……が、よく見ると、モナカ部分だけが残っていた。  みどのはモナカの上の部分を取り外し、スプーンで中身のバニラアイスだけを綺麗に食べていたようだ。  ──次の瞬間。 「あたしはモナカが嫌いだって言ってるでしょ!」  と、激昂して床に叩き付けた。 「え、いや……みどのはモナカ好きでは……」 「昨日飽きたのよ。それくらい気付きなさいよ」 「い……いや、それは……」 「わざわざ人が嫌いなものを買ってくるなんて、嫌がらせのつもりなの?」 「そんな……」 「ほら、ちゃんと責任もって食べなさいよ」  と、床に落ちたモナカを汚らしそうに指差す。 「みどの……」 「あんたが買ってきたんでしょ? それとも、やっぱり嫌がらせなの?」 「…………」  水気によってふやけたモナカに弾力はなく。  ただ、へにゃっ……とした食感に。  みどのが取りこぼしたバニラの味だけが、僅かに染みていた。  ──きっかけっていうのは、意外と覚えてないものだ。  その後に抱えた想いが現実と結びついてしまって、結びつき過ぎてしまって、最初の想いを掘り起こせない。  叶える為の努力の期間、積み重ねている月日の方が長いのだから当然だけど、つまりは「初心忘れるべからず」ってやつで─── (……夢破れた後でも初心に帰れないって、なんだかわびしいな)  破れる事になった原因は、やっぱり俺自身の心にあるんじゃないかと思えてならない。 「認めてほしい」という欲求。  じゃあどうして、俺はそう思ったのか──思うようになったのか。 「…………」  ……なんで……だったかな。  それが、俺が思い出せない“初心”なのだろうか。 「…………」  廊下を歩いている時は、廊下を歩く音だけが。  居間へと入れば、襖を開く音だけが。  俺がこの時間、この部屋へとやってくる時にはいつも、鼻腔をくすぐる匂いと───  ……それから、食卓に朝食を並べる音があった。  おはよう、お主───  その声をかけてくれた少女は、もうこの家にはいない。  それなのに、匂いだけはいつものままで。  俺が起きるよりずっと早くにこの家を出ていった彼女が───  ──最後に作っていってくれた朝食が、食卓に並べられている事に気付いて。  それが、いつか俺が「美味しい」って告げた、俺の好物だって事に気付いて───  ──学園。  隣の席に座っている、見知った姿はない。 (ふたみ……)  彼女は今朝早く、実家へと戻った。  俺がこんなふうに思うのが、そもそも筋違いで、傲慢だって事はわかってる。  ──振り向いたそこにも、見知った姿がない。  なんとなく、彼女に一発ぶっとばしてほしい気持ちになったんだけど、結局はそれだって甘えてるって事だ。 「…………」  登校してきたら、いつもと変わらない態度で接しよう。  どうしても意識してしまうのは避けられなくて、すぐにいつも通りとはいかないだろうけど、それが俺にできる事で、俺がすべき事だと思うから。  ──昼休み。  さて飯はどうしたものかと席を立った俺は、桜守姫さんと目が合った。 「巽……殿」 「桜守姫さん……」  丁度……いいか。 「ちょっと、いいかな」  幸い、屋上に人影はなかった。 「昨日、桜守姫さんが言ってた事なんだけど……」 「…………」 「どういう……意味かな」 「…………」 「桜守姫さん……」 「ではお伺いいたしまするが、其方はなぜ、空明市におられるのか」 「……なるほど」  目的さえもわからずに、呼ばれるがままやってきた──それがそのまま、利用されていたという事と捉えるのなら。 「俺の身に何かが起こる、と」  その事態を生んだのは俺だ。  捨て鉢になって現実から目を背けた、あの頃の俺が犯した罪。  罪なんて言い方は大袈裟なんだろうけど、俺が俺である以上、それは今の俺が清算しなければならない。 「俺が……いや、そういう意味で言えば、『巽』である俺の身に、何かが起こる」 「其方はご聡明です」  俺は『巽』の一員として呼ばれたのだから。 「であれば、どうなされば宜しいかすでに答えは出ておりましょう」 「そうだな。“利口な方法”ってのは明白だな」 「では──」 「その前に一つ教えてもらえるかな。いったい何が起こるっていうんだ?」 「それは……」 「もしかしたら、桜守姫さんは何が起こるのか……起きようとしているのか、わかってないんじゃないのか?」 「…………」 「起こるかもしれないから、利用され危険な目に遭う可能性があるから、逃げろって……そう言ってるんじゃないのか?」  ──不穏な気配を感じて。  その矛先が俺に──巽に向かうって感じ取ったから。 「……だとしたら」  桜守姫さんは、その整った眼差しを俺へと向ける。 「其方はどうなされまするか?」 「尋ねるよ」 「尋ねる?」 「それは、この街から逃げ出せば防げるものなのか? ──って」 「……つまり、この街からお出になられるご意思はないと?」 「ああ」 「内容が……不透明だからかえ?」 「多分……違うんだと思う」  瞳を閉じて、肩の力を抜いて──精一杯に穏やかな気持ちで心の中を見渡せば。  無数に並べられた雑多な棚の中、たった一つの引き出しから見つかる答えは。 「俺は逃げたくないんだ」 「…………」 「……ただ、それだけなんだよ」  もう逃げたくない。  それが俺の本心。  言葉にしてしまうと安っぽく、色褪せてしまうけれど、たった一つの間違いのない真実。  ……この気持ちは廉くないと、俺が思っていられる限り。 「然様……ですか」 「ああ」 「…………」  瞼を伏せた彼女が引き連れた静寂は、先程の俺とよく似ていて。  でも──どこか違っていて。 「では……媛も一つ、其方にお尋ねしたい事がございまする」 「何かな?」 「クイの……事です」 「コノ」  ──聞き慣れた声が耳に届いたのは、今朝、学園へと向かう道すがら。 「クイ……」 「今から学校か?」 「然様。其方は如何なされました?」 「ああ、実家に行くところなんだけどな」 「……其方が授業を欠席とは珍しいですね」  ふたみをよく知る此芽だからこそ、これがどれほど日常にあらざる事態かよくわかる。  その上で、彼女が実家に──あの家にとなれば、これは何かがと勘繰るのも自然な事だった。  ──だからこそ、隣の男は誰か、など、此芽は尋ねなかった。  桜守姫である自分が尋ねれば、ふたみはともかくとして、男が返す反応など見え透いている。  ……だいたい。  白昼堂々と兇器を帯びてまかり通るのが、あの家の者でなくてなんだというのか。 「…………」  この男───  飄々とした風貌だが、恐らくは腰の得物を自在に操る熟達した武芸者であろう。  此芽の背に、じんわりとした嫌な汗が流れた。  ……ちょっとでもおかしな素振りを見せたら、瞬時に両断される。  それは、かの一族と敵対する定めを負った家に生まれた者の遺伝子に刻まれた戦慄か。  もはや予感とすら呼べない、行動を間違えば次の瞬間には事実と化す死の現実。 「頼みがあるんだ」 「え?」 「どうした? コノ」 「あ、い、いえ……」 「?」  ──変わらないな、と、此芽は苦笑する。  両家の確執の中心にいながら、この少女は昔からずっと変わらない。 「でな、オマエに頼みがあるんだ」 「媛に……かえ?」  いささか意外な響きに、此芽は狼狽した。  この少女はずっとずっと変わらない。  ──けれど、何も知らないから、何も気付いていないから、確執から外にあるわけではない。  すべてを承知しながら、受け止めて彼女はこうあるのだ。  その事をよく知る此芽だからこそ、その申し出は意外だった。  ──家なんて関係ない、とはふたみは言わない。  産まれた家があの山の頂からこの街を見下ろすからこそ生じる出来事を彼女は受け入れている。  だが、だから誰かを傷つけるとなれば、彼女は毅然とした態度を通すだろう。  それが彼女の受け止め方だった。  だからこそ彼女は、此芽と学友として、昔馴染みとして接しながらも、両家の均衡に抵触するほどの付き合いを避けるようにしていた。  それがいつの間にか二人の間で不文律となっていたからこそ、今日までやってこれた。  哀しくないといえば嘘になるが──でなければ成り立たない関係だと見抜けてしまうほどに、互い聡明であったからこそ。  ──親友と認めながらも、一緒にはいられない関係。  その上でのふたみの申し出にどんな意味があるのか、それを察する事のできない友人ではなかった。 「うん。策さんな、家事とかはどうも苦手らしい」  それほどふたみにとって、無視できない問題なのだと。 「策さん……?」  その言い方に、此芽は僅かに引っかかる。 「放っておいたら死ぬかもしれない」 「クイ……其方」 「だからコノ、頼んだぞ」  会話の内容はそれだけだった。  そう言い残し、ふたみはその場を立ち去ろうとした。 「お、お待ちくだされ。何故──」  呼び止めた此芽は、友が何と答えるか知っている。 「オマエにしか頼めないからだ」 「…………」  続く言葉が出てこなかったのは──いや、そもそも尋ねてしまったのは何故だったのだろうか。 「じゃあな、コノ」  今度こそ、ふたみはその場を後にした。 「…………」  取り残された此芽は、独り、科せるように自問しながら立ち去った友人の背中が消えるまで見つめていた。 「……そっか。知ってるのか」  その言い方で、何を指しているのか見当がついた。 「…………」 「そうだよな。桜守姫さん、ふたみの親友だもんな」  つまりはそういう事なんだって、他に言いようもなくって。  だから、次の瞬間にやってくる沈黙に、俺はただ従うしかなくて。 「クイ……が」  ──その厳かな口調は、気遣いからきたものか。 「いやいや、それは違う。ふたみがどうとかじゃないんだ。なんていうか、うん、本当におかしな偶然が積み重なって、そういった状態になってただけでさ。  誰かのせいっていうなら、勘違いだってわかってる状況に甘える形になってた俺のせいなんだ」  桜守姫さんがふたみを責めるような真似をするはずないって知りながら、俺は饒舌に捲くし立てていた。 「…………」 「ふたみは何も悪くないよ」 「なに……ゆえ」 「え?」 「何故……クイとの関係を終わりになされたのです?」 「ん……」 「お、お教えくだされ」 「……ふたみが真剣だから」  そこに答えがあるとしたら、答えとして伝えられるのは、たった一つだけ。 「…………」 「その気持ちが一番大きい」 「……然様ですか」 「だから、ふたみは実家に帰ったよ。……もう、俺の家に帰ってくる事はない」  やはり、その言葉の後には沈黙があった。 「未寅……それから獅子の君は?」  その言葉も、きっと、気遣いからきていたんだろうけれど。 「もともと曖昧だったんだ。ふたみがいるからみんながいた」 「そういう……事かえ」  桜守姫さんはその言葉だけで意図を察してくれた。 「そう。だから、これでいいんだ」 「其方は……ご納得されておられるのですか」 「寂しいか寂しくないかって言われたら寂しいけど、納得はしてるよ」  その言葉にも、この気持ちにも、偽りはない。 「……戻ろうか」  その言葉に、桜守姫さんは頷いた。  ──水の中。  沈む身に浮かび上がる想い。  緩やかで、柔らかくて、けれどつかめなくて。  階段を一歩下るごとに夢の中に溶け込んでいくかのような。 (……どうして)  問いかけてみても答えはない。  どうして今、あの夢を思い出しているのかなんて───  ……俺の隣には、今、お姫様がいる。  まるで童話の中から飛び出したような風采と容貌をしていて、言動からは品格が溢れていて。  その品位は気位の高さとは異なる。  気位っていうのは、周囲に対して自分の方が格上だと考えるからこそ品位を保とうとする気の持ち方の事であって──同格でありながら、一人、抜きん出てしまう事ではない。  同じ立場で物を考えているからこそ他人の気持ちを察する事のできる心の在り処を感じる事のできる、とても近しいお姫様。 (……どうしてだろう)  どうして彼女は『お姫様』なんだろう。  私服が認められているこの学園で、好んで着物を着ているから?  立ち居振る舞いが優雅だから?  ──違う、と、思う。 (そういや……)  いつか、ふたみが桜守姫さんの事を「偉そう」とか言ってた事があったな、と思い出した。  …………。  ……やはり、違う、と、そう思う。  彼女が『お姫様』である事はあまりにも自然だったから。 「桜守姫さんは……言い訳を、しないよね」 「え?」 「“理由と言い訳は違う。言い訳を口にする度、自らの価値が下がると知れ”……白爺さ、いや、俺の祖父さんにさ、以前そう教えてもらった事があるんだ」 「…………」 「桜守姫さんはそれを体現してる人なんじゃないかなってさ、よく知りもしないくせに失礼かもしれないけど、そう思うんだ」  決して気位の高さとは違う。  どこか、「誇り高くあらなければならない」という、彼女の内側にあるものを感じ取っていたから。 「……桜守姫さんみたいに、やっぱり、地元の名家ってなると……看板を背負ってるようなものだからさ」  ──巽── 「だから、その名に恥じない行動ってのが要求されてくるわけで……」  ──巽として──  俺はそんな領域に到達する以前の問題で。 “巽である事”に必死ですがりついていた。  巽の者たちに自分がその“一員”である事を認めてほしくて、ただそれだけが、日々、俺の中で渦巻いていて、それだけしかなくて。  今は、自分の気持ちにケリがついた──つける事ができたけれど。  もしも俺が、俺が越える事のできなかった壁を越えられていたら、桜守姫さんに近付けていたんじゃないか、なんて思えてしまって。 「だから俺は、桜守姫さんを尊敬するよ」 「……? よう……意味を理解しかねまする」 「ん……上手く言えないんだけどさ」  出逢った時から彼女に感じていた気持ちの根本は、きっとその辺りにあるんじゃないかって。  お嬢様と聞いてしっくりきたのだって、その辺りを感じ取っていたからじゃないかって。  俺が届かなかった領域にいる人。  そこを当たり前の居場所とする人。  だからやっぱり、俺にとって桜守姫さんは「すごい人」なんだ。  それが、あの霞む夢の中にいるお姫様と彼女とを結び付けようとする俺の気持ちの……正体、なんだろうか。  ──そんなふうに過ぎていった、その日の学園生活。  結局、ふたみは登校せず……また、彼女を慕う小さな少女の姿も見つけられなかった。  下駄箱で靴を履き替え、一人、門を潜って下校する。  登校の時もそうだったけど、まだ実感がなかったっていうか……。  ようやく実感してきたせいか。  ……なんだか新鮮な気分だった。  自分で決めた事だ、前向きにいかないとな。 「……メメ」 「…………」 「今朝は、家に帰ら──」 「……何を言ったの」 「…………」 「エド!!」  ……この娘はいつも。  ふたみを見ていた。  ふたみの傍にいるから、俺を試していた。  だから─── 「……ちゃんと答えて」  この娘が怒る理由が、ふたみの事でなくて何だというんだろう。 「覚悟はしてたよ」 「…………」 「俺がメメの気持ちを裏切った事に変わりはないもんな」 「なにそれ。ムカつく。開き直り?」 「気の済むまで殴ってくれ」 「…………」 「誰か……その、他に……いるわけ? 好きな人……とか」 「……わからない」 「わからないって……! じゃあ、どうしてふたみお嬢様の事を──」  ふたみ……お嬢様? 「……まさかとは思うけど……相手は桜守姫家の人間じゃ……」 「え?」 「あ、あなた……」 「……味方か味方じゃないか。あの時、メメと約束した事──そういう意味じゃ、俺はずっとふたみの味方だよ。  あの娘に感謝してるし、そんな言葉じゃ表現しきれないものをもらった。ただ……」 「それが桜守姫なら!!」  僅かな静寂を掻き消す、メメの威勢。 「エドは、愛の……愛たちの敵だ」 「……どうして」  彼女の顔にありありと浮かんでいたのは、激昂から驚愕、そして敵意へと。 「メメ。前に、お前が言っていた事──」  この娘は何か知っている。  ──この街に散らばっていた断片。  それが繋ぎ合わさって、一つの形を取った時──現れたのは、メメだった。  この街の隅っこで起こった、一つの出来事。  あれは、その先にある出来事なんじゃ……ないのか?  その答えを、今、彼女に求めていいとは思えない。  どれほど罵倒されても、いくら殴られても、今は、彼女の怒りに応えないといけない。  俺は───  ──俺がしたのは、そういう事だ。 「……なに?」 「いや……」 「一つ教えておいてあげる。桜守姫家はね、海外からやってきた一族なんだよ」 「それは……」 「ん?」 「……どういう意味でだ?」 「どう?」 「“海外”っていうのは、“この街の外から”って意味か? それとも……」 「文字通りの意味よ。少なくとも、あなたが住んでいた街を指して海の向こうとはならないでしょ」 「…………」  いったい、何が言いたんだ? 「桜守姫さんの家が、もとは海外からの移住者……でも、だからなんだっていうんだ?」 「肝心なのは“海外”じゃない。あれが海外の──」 「……海外の?」 「…………」 「メメ?」 「……いいや。どのみち、あなたは……」 「俺が……なんだよ?」 「好きにすればいいんだ……」 「…………」 「本当は『意炎』で『有識外し』を……でも、もういい。勝手に……すればいいんだ」 「メメ……?」 「もうあなたなんか知らない! 勝手に───  勝手に……し………………」  メメは目線を外すと、眉間に皺を寄せて。  ──その一瞬、見た事もない表情をした。  ……怒り。  ……労わり。  ……哀しみ。  ……憤り。  ……よく、わからなかった。  ただ、“喜び”でない事だけは……確かだった。  ──それから。  猫階段を上りきって、いつもの通学路に足を向けた時。 「透舞さん……」 「…………」 「君も……俺に何か話があるのかな?」  山岳の斜面を上り下りするような真似をしない限り、学園へ登校する道も下校する道も一つしかない。  上りきった後はそれぞれの帰路へばらけるとはいえ、必ず猫階段は通る事になるのだから──となれば、誰かを待つのが正門でなければならないという理由はない。 「わたくしが……口を挟んでよい事柄ではないでしょう」 「……そっか」  彼女はずっと、ふたみの事を気にかけていた。  気にならないはずはないだろうけど、メメと彼女とでは距離が違う。  だからそれが、透舞さんの出した結論だった。 「ただ……」 「うん」  言われる事は、すべて受け止めよう。 「その……お、お姉様の事、どう思われます?」 「はい?」 「で、ですから此芽お姉様です。あ、貴方、どう思ってらっしゃるんですの?」 「どう……って、立派な人だなぁ、と」 「そ、それはその通りです。ええ、そうでしょうとも。あ……あと、は……?」 「あと、とは」 「じょ……女性として……どう思われますの?」 「綺麗な人だと」 「当たり前ですっ!!」 「はい」 「あ、いや、そうではなく……その」 「……?」 「もっ、もう結構ですわっ! 貴方にお訊きしたのが間違いでしたっ!」 「なんかよくわかりませんが、ご期待にそえなかったようで申し訳ありません」 「と、とにかく、お姉様を泣かせるような真似をしたら赦しませんからっ!」 「……なんで俺が桜守姫さんを泣かせるのさ?」 「ああもうっ、このニブチンッ! まったく、唯井さんの相手をしている気分ですわっ! ホントに二人揃って──」 「…………」 「あっ……ご、ごめんなさいっ」 「……いや、いいんだ」  ──一瞬、会話が詰まってしまう、この空白。  これは俺が招いた事。  気を遣わせてしまうのが、むしろ申し訳ない。 「本当に……その、わたくし、いつも配慮が足らなくて……」 「気にしないで」 「……巽さん」 「うん?」  そう呼ばれたのは初めてだな。 「わた……くしは、お姉様をご尊敬申し上げております」 「うん」 「いろ……いろと、お姉様を……その、真似て……少しでも近付きたくて……」 「前に言ってたね」 「…………」 「うん」 「……わたくしは、お姉様のお幸せを願っております」 「……うん……」 「それだけ……申し上げておきます」  そう告げると、透舞さんは複雑そうな表情を見せて──そして、それを隠すように俺の横合いを通り過ぎていった。  彼女の言葉の意図するところは俺にはよくわからなかったけれど、その言葉に込められた想いの強さは、その表情から垣間見えた。  ──梅雨ももう明けようかという、夏の到来を感じさせる空。  湿り気を帯びた風が柔らかな暖かさを込めた風に押し流されていく。  どこにでもある、季節の移り変わり。  通り過ぎる人々は、この街の本当の姿に気付いているのだろうか。  誰も出た事のない街。  誰も出る事ができない街。  ──逃げて、と、桜守姫さんは言った。  逃げなければどうなるというんだろうか。  俺を──巽を呼んだ唯井家に、どうにかされるとでもいうんだろうか。  この街にきて一月近く経ったが、された事といえば……。  ……起こった出来事といえば、唯井家のお嬢様と、ちょっとした勘違いから一緒に住む事になっただけだ。  でも、それももう終わった。 「と……」  不意に、何にもない場所でつんのめった。  ──というより、急に足腰が力を失ったというか、なんというか。  なんか、昨日からおかしいな。 「桜守姫さん……」 「…………」 「どうしたんだ?」 「そ、その……」  耳まで真っ赤にした桜守姫さんが、床を睨むように見つめて──というか、目は前髪にすっぽり隠れてよく見えない。 「ん?」 「し、失礼っ」  言うが早いか、桜守姫さんは顔を合わせないまま室内に上がり込むと、そのまま駆け出した。  ──買い物籠の中身がカサカサと揺れる。 「お、おだいどころ、……は」  桜守姫さんは何故か猛烈な小走りで。  といってもわかりやすい全力疾走じゃないんだ。  全力でダッシュするのはみっともないけど、なんだかいてもたってもいられなくて早歩きになってるというか。  その後を俺が追いかけてるんだけど─── (つか、速っ!!)  競歩のスピードとしては異常だぞ。  大会に出場すれば間違いなく栄冠を手にする。 「桜守姫さん?」  なんとかその横に追いつき、俺は問いかける。  ちなみに俺は全力疾走。 「なんでそんなに急いでるのかな?」 「ゆ、有酸素運動です」 「……健康的なダイエットって事?」 「そうです酸素を多く取り入れながら可能な限り長期に亘って全身運動を継続する事こそが血液中に流れる脂肪ひいてはすでについてしもうた体脂肪を有効的に燃焼させる方法なのです」 「ほう、流石は桜守姫さんだ」 「なななにが流石ですか流石の語源は孫楚が“枕石漱流”を“漱石枕流”と誤って言うてしもうたときに実にそれらしい理由をこじつけたという事で“流石”になったとかならないとか」 「つっても桜守姫さんにダイエットの必要があるとは思えないけど」 「何故ですっ」 「だって、そこらの女の子じゃとても太刀打ちできないほど綺麗じゃないか」  その瞬間、桜守姫さんが柱と大激突した。 「っ〜〜」  ちょっと待て。  何故、そんな場所で曲がろうとした。  ここは曲がり角ですらないぞ?  この、度を新調したばかりのメガネで距離感がいまいち取れていないくせに「慣れてやるぜ」みたいなノリでというか散髪したてのようなさわやかな気分に浸りたくて思わず自転車に乗っていつものスピードで帰ろうとしたらやっぱり距離感がわからなくてぶつかっ──例えがよくわかんないからどうでもいいや。 「大丈夫か? 桜守姫さん」 「あ、ええ、かたじけ──」  と、差し出した手を取って、目が合った瞬間。  いきなり俺を突き飛ばして再び競歩王に立ち返った。  やけに目に染みやがった、あの鮮やかな夕焼けの日。  俺たちは、互いの成長という名の速度を競い合った───  ──みたいな流れになってるんですが、どうなんでしょう。 「で、桜守姫さん。何処へ向かおうとしてるのかな?」 「お、おだっ、おだいどころですっ」 「それならもう過ぎてるよ」 「は、早くおっしゃってくだされっ」  なぜ泣く。  というかそんなに顔が真っ赤になるほど走っては、もはや有酸素運動でもなんでもないんじゃないのか。 「あ。そこだよ、台所」  言った瞬間、桜守姫さんは台所へと続く居間に跳び込む。 「桜守姫さん、顔真っ赤だけど」 「は、走ったからですっ」  前に一度来ている居間の向こうに台所を確認したのか、思い出したのか、それともなんだかわけわかんなくなってたのかはわからないけど、桜守姫さんは台所へと滑るように進んでいった。  ──あ。 「待った桜守姫さん。今、台所は──」 「これは……」  ……見られてしまった。  買い置きしておいたカップラーメンの山。  が、崩れた。 「これが……もしや、巽殿のお食事かえ?」 「うん、まあ」 「…………」  ふたみが実家に帰った事で、いよいよ俺の生活能力のなさはありありと浮き彫りになった。  心機一転。  気持ちを切り替えて自身の状況を客観的に省みれば、少しずつでも自炊はしていかないと、という強迫観念に近いものは覚えたんだけど──それでもちゃんと生活として成り立つまでは、とりあえず目の前の空腹をなんとか凌がないといけない。  そんなこんなで、今はこの状態。  これを消費するのを一個ずつ、一個ずつ減らしていく事で、やがて──という作戦だったんだけど、始めたばかりなのでまだまだ機能しているとはいえない段階だ。  このタイミングで見られてしまったのは痛い。 「巽殿……」  静かに台所の引き戸を閉めた桜守姫さん。  ──言いたい事はわかる。  だが、まだだ。  まだ結論を出すには早いぜ、桜守姫此芽さんよぉ。 「実はこれには遠大なけいか」 「い、致し方なき事。インスタント食品で栄養をお摂りになられるよりは……ま、まだ、媛の料理の方がましというもの」 「え?」 「お、お台所をお借りいたしまするよ?」 「作って……くれるの?」 「かかっ、勘違いなされるでない。頼まれたより致し方なく……そ、それだけです」 「……頼まれた?」 「っ……とっ、とにかく、媛が其方のお食事をお作り差し上げましょう。媛とて、それくらい……できまする」 「いや、でもそんな……」 「巽殿はそちらでごゆるりとされておれっ!」 「はい」  ……ちょこん。  居間で正座待ちの俺。  なんか前にも似たような事があったなぁ。 「…………」  ──去り際にふたみが教えてくれた、通帳の在り処。  色んな意味で、自分に一般常識が欠落している事は自覚している──その俺でも、そこに記されていた額がどういうものなのか、また、それだけの額がありながら、ふたみがいかに節約して使っていたのかがよくわかった。  見る人から見れば、それは綺麗事なのかもしれない。  でも俺は、俺にとってそれは、綺麗事でも何でもなかった。  ──あの娘の真っ直ぐな眼差しを向けられて、物事をうやむやにできる人がいるなら是非会ってみたい。  恐らくそれは、殴り飛ばしたくなるような奴なんじゃないかと思う。  ……綺麗事と思われてもいい。  俺はただ、最低にはなりたくなかっただけだ。  だから、その事に関して俺が責められても仕方ない事は──すべて受け入れるつもりだ。  ……本当は、俺はメメが殴ってくれる事を期待していたんだと思う。  でもあの娘は、振り上げた拳を俺へと下ろさなかった。  あの時の表情……あれがいったい何を意味していたのか。 「…………」  綺麗事ではないといったところで、結局は俺の自己満足だったのかもしれない。  ──でも、あのままずるずると続けていてよかったとは、どうしても思えないんだ。 「……何を思い悩んでおられるかは存じ上げませぬが」 「おっ、桜守姫さん!」  声に反応して見上げたそこに、お盆を手にした桜守姫さんがいた。 「味覚とは精神と同様に磨かれてゆくもの……という格言もありますれば」  と、お盆を下ろし、そこに載せられた皿を俺の前に置いた。 「…………」 「クイのお手より生み出される品々は、どれもとても美味と伺っておりまする。それに慣れておられる其方のお口に合うとは思えませぬが……」 「…………」 「巽殿?」  ──その時、私は度肝を抜かれていました。  何と表現すれば宜しいのでしょうか。  目の前に広がる、鼻腔をくすぐる芳香を漂わせる御品目。  一言で申し上げると、それは、 『男の料理』  なのです。  まことに恐縮ながら、「この程度に分かれていれば火も通るだろう」という観点から分断したとしか思えない、大胆かつ豪快な切り口のニンジン、ジャガイモ。  それらは無論、「え? なに、これって剥くものなの?」みたいな絶妙の野生的感性によって皮が剥かれていない。  そして言うまでもない事ではあるが、ジャガイモは皮層どころか芽も取り除かれていない為、有毒であるアルカロイド配糖体様ご一行は五体満足のままご到着だ。  「だいたいこのくらい」という、明らかに目分量で調整されたと思わしきカレールー。  すなわち「多い方が美味しいに決まってる」という何の根拠もない質より量の強硬論が発揮された結果、だいたい2パック入りで市販されているカレーの素は、本来なら1パック5人分相当となるんだが、うん、何て言うかな、全部入れたでしょ、桜守姫さん。  しかも三日分とか一週間分とかの作り置きを前提としたわけじゃなくて、一食分として。  異常に濃い。  いや、もうこれ“濃い”とか言っちゃダメ。世間的な濃さの基準に革命が起こる。  その上、溶けやすくする為に板チョコのような折れ目がついているにも関わらず、そのまま折らずに放り込まれている。  何故わかるかというと、ルーがな、立ってるんだよ。  皿の上で天を仰ぐ黄色くどろどろとした垂直の物体を俺は初めて見た。  作り方の前提が、とりあえずご飯にかければ美味しいだろ、っていうか─── “胃の中に入ってしまえばなんでも同じ”  という主張を全体から感じる。  たおやかで優美な桜守姫さん。  誰よりも振る舞い優雅にして、見目麗しいご令嬢───  その手が生み出す料理が、とても男らしい豪胆さに溢れております。 「食指が動きませぬかえ?」  硬直したままの俺を見て、桜守姫さんの声が僅かに沈んだのを感じた。 「え、いやいやいやいや、そんな事は」  そうだよ、食指が動く動かない以前の問題っていうか豪胆すぎます。 「味付けが薄かったか……そのような時は、こうすれば宜しい」  と、桜守姫さんは奥から醤油差しを持ってくると、唐突にカレーの上に醤油をドバドバかけだした。 「ちょっと!!」 「ん、おや、あまり出が宜しくない」  カレーに醤油という意味合いではもう充分かかっていたにも関わらず、桜守姫さんはお気に召さないご様子で醤油差しの蓋に手を 「ちょっと待った! 何する気だ!!」  叫んだ時には、蓋を外した醤油差しから大量の中身が溢れ出していた。 「ん?」  おう、真っ黒だね。  なんかルーよりも遥かに液体面積が多いよ。  醤油の侵略を受けた白米が、なんか黒くてへにゃっとした物体へと変貌を遂げている。  お百姓さんに謝れ。 「これで程好く味がついたはずです」  そうだね。  味がついてる、ついてないでいえば、間違いなく表彰台に登れるほどの味のつきっぷりだね。  いやちょっと桜守姫さん。  否、桜守姫此芽よ。  もう一度自分の行動をよく振り返り、そして考えてみるんだ。  ……そうか。  考えてみれば、桜守姫さんはまごうことなきご令嬢───  きっと、自分で料理を作った事なんかないに違いない。  それなのに、俺の為にわざわざこんな─── 「いつも桜守姫さんは、自分で食事を作ってるのかな?」 「然様。媛は自炊しておりまする」  料理を作った事もないお嬢様がお約束を踏んだ説、撃沈。 「自分で作って……自分で食べてるんだよね?」 「そうですが、どうかなされましたかえ?」 「食べて……るんだよね?」 「ええ」 「食べ……」 「?」  ──策。  巽策。  おいおい、生後より今日この時まで経験した事もない脂汗を滝のように流してる場合じゃないぜ。  桜守姫さんがわざわざ、俺を心配して料理を作りにきてくれたんだぞ?  あの桜守姫さんが。  思い込みによって事を成せ。  お前は醤油好きだ。  お前は醤油好きだ。  お前は醤油好きだ。  いや、むしろお前が醤油だ。  目の前の器になみなみと注がれた物体と一体と化すのだ。  そう、この黒い池と。  醤油。しょうゆ。ショーユー。  その手に命の代価を握り、この戦場を駆け抜けろ。  ──さあ。  喰らえ。  ──は? 「思えば、殿方にお食事を作って差し上げた事などありませなんだ……」 「なにを、なさって、いらっしゃる」 「殿方は女子どものような柔いお食事はなさらないでしょう。これでは味が足りぬだろうて……食が進まれないのも道理。クイならばお気付きになられるのでしょうが……その、気遣いが足らず申し訳ありませぬ」  いらねえよそんな気遣いよぉ。  黒い池の上に、黄色く丸い物体が、白い粘液を伴って浮いています。  いや、俺が言いたいのは、関西方面では割と好まれているという「カレーライス+生卵」への批判じゃない。  すでに醤油を一気飲みするのとさして違いもないその流動食に、これ以上の変化はいらない、という事だ。  ──どうする。  どこから突っ込めばいい!?  なっ!! 「か、かき回して差し上げまする……」  ぐっちゃぐっちゃぐっちゃ。 「お、桜守姫さん、その辺で……」 「あ、まだ卵が足りませぬかえ」  いやちょっと待って!!  ……不思議だ。  熱々のご飯の上に、具としては実にポピュラーな食材を煮込んだカレールーをかけて、人によっては味が深まると大喜びの醤油を垂らして、これまた人によっては嬉しい気遣いの生卵を落として───  項目としては何一つ間違っていないのに、どうして俺は今、人里離れて隠れ住む魔女が新たな毒薬を作成している現場に出くわしているんだろう。  桜守姫さんのかき回し方はとても優雅だ。  黄身に突き刺した箸の持ち方も優美なら、一挙手一投足から溢れ出す気品。  なのにどうして、こんなにおどろおどろしい空気が場を支配しているんだろう。  いやもう、おどろおどろしいっていうかぶっちゃけ汚いと思うんですよ。  なんか食材というか贖罪って気分になってきたし。  つかもうカレーライスでもなんでもないよね、これ。  まあ待て、待て。  ……俺は思い違いをしているんだ。  そうだ、彼女はいつだって、俺の一歩も二歩も先を行っていたじゃないか。  これもきっと、いざ食してみれば俺の価値観を大きく塗り替え、成長させてくれる導きの御手に違いないんだ───  ──なんて思えるわけねえだろっ!!  ……子供の頃。  自分には書道の才能はどうなのかなって、意気込んで挑んだ時、墨汁を派手に床にぶちまけて。  泣きながら雑巾で床を拭いた時の事を思い出した。  ……なんでだろうなぁ。  とりあえずさぁ、醤油の取り過ぎは命をも落とすんだぜ。 「待った待った待った。もういいもういい」 「然様ですか。三つで充分とは、卵嫌いかえ?」  いやそういう問題ではなく、というかもうツッコミとか面倒だからいいよね? 「味が薄いと感じられたならば、後はお好きなだけ醤油をおかけになられれば宜しい。醤油ほど優れた発明はありませぬ」  まだかけろと。 「……もしかするとさ。桜守姫さんの得意料理って、ご飯にかける前提のものが多いんじゃないかな」 「おや。ようおわかりですね」 「…………」  ──完璧な人間、というのはこの世にあり得ない。  もしも完璧な人間というのがこの世に存在するとしたならば、それはすでに人間ではなく、人間の領域外にあるものである。  何故なら人間とは、不完全を以ってその存在が証明されるものだからである。  あ、やべ。  なんか哲学の扉が開いた。  ──白爺さん。  今の俺なら、少しは褒めてくれますか。 (喰い切っ……た)  あ、ごめん白爺さん、やっぱいいや。  今話しかけないで。  なんか新しい生物が口から出てきそう。  自分の胃が、今いったい“何”を消化しているのか──そんな事を考えながら、俺は食後に出されたお茶を貪るように啜っていた。 (お茶ってこんなに美味しかったんだ……)  大発見だヨ。 「……お腹の方は落ち着かれましたか」  そうだね。もうここから動けないって意味では、落ち着いたのと大差ない気もするね。 「ごちそうさま、桜守姫さん」  俺は笑顔で彼女にお礼を言う。  偽善的な顔をしてませんように。  偽善的な顔をしてませんように。  偽善的な顔をしてませんように。 「では、其方にお話がございまする」 「……また、逃げろって話かい?」 「…………」  俺はたたずまいを正す。 「俺は自力で第二領域まで突破した……そう言ったね」 「はい」 「じゃあ、桜守姫さんは? 桜守姫さんは、どうしてそんな事を知ってるんだ?」 「……我ら桜守姫家は、生まれながらにして『贋』の影響下から逃れておりますれば」 「生まれながらに……して?」 「桜守姫家は“桜守姫家である”という理由のみにて、二つの質の内の一つを、完全に無効化しておりまする。  そも『結界』という場において、如何なる者であれ我らに先んじる事など叶わぬ──叶うはずなどありませぬ。  にも関わらず『獄』の突破だけは一般人と変わらず叶わぬ、ここにおいて我らが一般人と変わらぬ段階まで落とされるという事が、如何なる意味を持つか──そう考えれば、この街を覆う有識結界がどれほど強力なものであるかおわかりになられましょうや」 「何……言ってるんだ? それじゃまるで、桜守姫さんの家が──」 「──故に」 「タツミはあちらとこちらで相食んだその結果、既に別物と化したとは伺っておりまするが……なれど、どちらの影響もまったく受けておられぬというわけではありませぬ。  突破されたのは間違いなく其方のお力。  なれど突破できたのは、其方がタツミであったが故」 「どういう……」 「タツミの血を引く者は、どうやら『贋』の影響を生半に受けるようです。突破できる“質”は有する、なれどそれは生まれつきすべての領域の影響下から逃れておられるのではなく、本人次第。  知性、意思、胆力、それらを伴いてこそ“質”はようやく“質”として機能する──なれど、それも第二まで」  その言い回しは玄妙で、俺には意味がわからなかった。  けれど、一つだけ。  一つだけ、はっきりした事がある。  それは、桜守姫家が“地元の名家”というだけのものではない、という事。 「なれど、それこそが遡ればあちらの血が混じっておられるという事の証明ともなりましょう。  それがそのまま理由となっておるのか、なればこそ繋がる何かがあるのか、媛は明確な答えを有してはおりませぬが……無関係とは思えませぬ。  故、其方はこの街に居られ続ける限り──」 「じゃあ、桜守姫さん。一つ教えてくれるかな」 「……なんです?」 「どうして桜守姫さんは、そんなふうに俺の心配をしてくれるんだ?」 「っ──」  桜守姫さんは時々、ふとした弾みで真っ赤になる。  これほど理路整然としてしっかりした人が、何の弾みで赤くなるのか俺にはよくわからないんだけど─── 「…………」  とりあえず、桜守姫さんの気持ちが落ち着くまで待つ事にした。  それから随分と間があって、 「……この街の動乱に其方が巻き込まれるのを見るは……偲びない」  桜守姫さんらしい言葉だった。  でも、その言葉が自ずから語っている。  彼女もまた、その“動乱”の渦中にいるのだと。 「君は……いったい何者なんだ?」 「媛……?」 「いや、『桜守姫家』っていうのは……いったいなんなんだ?」 「それは……」  メメは言った、“海外からやってきた一族”だと。  でも、ただそれだけであれば、だからどうという事にはならない。  何処の出身であろうが、ハーフだろうがクオーターだろうが結構じゃないか。 「……いえ。それをお知りになられる前にこそ、巽殿はこの街を後になさるべきなのです」 「…………」 「動きが……慌ただしい。あの時と同じように、巽殿が『タツミ』殿である以上、必ずや──」 「……あの時?」 「…………」 「桜守姫さん?」 「お逃げなされませ、巽殿。これは忠告でもなければ警告でもない……勧告です。  すでに。この街へお越しになられた時点で、恐らく其方は巻き込まれておりましょう。それが目に見えぬ形であったというだけで──」 「見える形になったさ」  白爺さんの手帳。  そして、桜守姫さんの『シュレーディンガーの猫』という言葉のお陰で。  ……何も知らないままでいるより、ずっとよかった。 「其方の目に映られたのは、この街の特異性でありましょう。これだけでは何ら其方に危害は及びませぬ。“変わった街へ迷い込んだ”でお話は終わりではありませぬか。  ──今申し上げておりまするのは、其方を、巽策という個人を狙い済まして引き金が引かれる、という事です」 「…………」 「そして恐らくは、すでに引き金は引かれておりまする」 「この街へ……入った時点で?」 「でなくば、この街へ入る事が許可された意図がまるで不明瞭です」 「だって、そんな事を言ったら……」  ……この街へきて、起こった事といえば。  あらかじめ用意してあったこの屋敷で、“ヨメ”を名乗る少女が待っていたという事─── 「…………」  この街を閉じ込めたのが誰なのかは、もう予想がついている。  でも、確かに桜守姫さんの言う通り──それだけなら、ただ“変わった街を作り出した一族”というだけで話は終わってしまう。  見も蓋もない言い方をしてしまえば、実害はない。  けど、呼ばれた以上は理由がある。  そして、俺の身の回り──俺自身に未だ何か特別な事柄が起きていない、とすれば。  それはこれから起こるのか?  それとも、もうすでに起こっているけれど、俺が気付いていないだけ……なのか?  ……恐らくは後者だろう。  呼ばれた以上は理由がある。  呼びかけに応じてこの街へとやってきた時点で、俺の身には何かが起こっていた。 「それって……もう手遅れって事じゃないのか?」 「そんな事、媛がさせませぬ」  軽い気持ちで言った一言に、力強い言葉が返ってきた。 「あっ、いえ、その……ですから」 「それだけ……じゃ、ないような気がする」 「え?」 「……少し、考えたいんだ。心配して言ってくれてるのに、本当にごめん。  でも俺は、もう……もう二度と、ちゃんと考えもしないまま、納得もしないままで、その場所から動くような事だけはしたくないんだ」 「…………」 「ごめん、桜守姫さん。それから、ありがとう」 「……承知いたしました。なれど、あまり悠長に事を構えていられるほどの時間はもう残されてはおらぬと、それだけはご自覚くださいませ」 「わかった」  ──あれでよかったのだろうか。  夕闇が落ち、夜が雲の層を引き連れ、そうして街が眠りにつく時刻まで、此芽はその事ばかりを考えていた。  あの空に旗を掲げた一族がタツミを利用しようとしている。  それがわかっているのに、自分は何もできないままでいる。 (何が……護る、だ)  不甲斐ない自分に心底嫌気が差す。  本当に心配なら、首に縄をつけてでも、引きずってでもこの街から追い出してしまえばいい。  ──それは、この街から出れば解決する事なのかな?  彼の問いかけ。  それはその通りだ。  それで解決するなどと、誰が保障してくれたわけでもない。  けれど、問題はそこではない。 (あの人の顔を、見て……いると)  ……駄目だ。  普段は必死に表情に出さないように努めているが、鼓動が速くなるのだけは止められない。  そうして結局、自分は諭すような言い方しかできないのだ。  理屈をいくら並べたところで、人の心に響くはずもないと知っているだろうに。 「…………」  空を見上げ、此芽は嘆息する。 (あの雲が……あの人に絡みつくまでには)  昔の此芽であれば、事の原因を突き止めるのもそう難しい事ではなかっただろう。  けれど、今の彼女にはそれができない。  だから今の彼女には、せめて、こんなふうにして彼の心配をする事しかできないのだ。  ──就寝前の日課。  当然の事として繰り返される儀式めいた慣習。  此芽は桜守姫家の者として、『御前の間』と──やはり屋敷そのものを指して呼ばれる聖域へと足を踏み入れ、祈祷に似た手順を踏む。  それは神社へ参る事とよく似ていた。  桜守姫家にとって、『御前』とはいわば祀られた神だ。  守り神なのか荒ぶる神なのか──その是非はさて置くとしても、彼らにとって神に等しい存在であるという認識は揺らがない。  誰一人として顔を見た事すらないまま、桜守姫家の者たちは代々、御前を拝し奉ってきた。  ならばこそこれは参拝と同義であり、言うなれば桜守姫家とは『御前』という神に仕える神官。  血によって継承される神官の、最たる座に現在ある二人の内の一人が桜守姫此芽。  今宵もまた、床に就く前に神の官の片割れは拝殿にて頭を垂れる。  いつもはただ、それで終わる。  けれど時折、変化が起こる。  鈴を鳴らしたわけでもない。  賽銭を投げ入れたわけでもない。  願いを胸に抱いたわけですら。  ──けれど時折、神の側から声がかかる。 「此芽」と。  親しみの込められた温かい声。  見る者が見れば、それは“神託”という形で受け取るだろう。  ──そしてその声が届いた時、此芽はびくりと震える。  声がかかる時は、決まって、ある出来事があった時だからだ。 「なんぞあったか」と、胸に染み入るような音が問いかける。 「……いえ。万事滞りなく、いつもの日常でございました」  此芽がそう返すと、神の声は途切れる。  神に対して隠し事などできようはずもない──何かあったからこそ問われているのだから。  それでも彼女は、今日まで、ただその言葉を繰り返し続けてきた。 「みどのは」と、その言葉に彼女は再度震える。 「みどのは、如何、しておるか」と。  なにもかも見通した上で問いかけている、やはりそういう事なのだろうか。 「桜守姫家の者として、日々、御家の為の精進を真摯に行っております」  それでも彼女は、相も変わらない答えを返す。  そしてまた、神の声は途切れる。  ──この間、此芽の背にじっとりとした汗が浮かび上がる。 「ならばよい」と。  そう告げられた時、息が詰まる感覚から解放され、彼女は胸をなで下ろす。 「では、本日は休ませていただきます」  もう一度、深く深く頭を下げ、彼女はその場を後にする。  ……本当は。  どんなにか、あの人の無事を神に祈りたいだろう。  けれど、その本心を明かした瞬間に、みどのの事もみんな透けてしまいそうで。  ……だからずっと、できないでいる。  ──静かな庭。  静寂というほどの無音ではない。  気の早い昆虫が梅雨の湿気と熱気につられ、草花の隙間で囁き声を交し合っている。  ただ、空気がざらついている。  湿気とは異なる、まとわりつく粒子がこの庭には、この家には満ち満ちている。  首筋に触れて溶け出していくかのような感覚。  息が詰まる。  誰も彼もが、己の屋敷に割り当てられた屋敷に篭って己が研究に没頭しているのだろう。  それは桜守姫家に生まれた者にとって誉れなれど─── 「お姉様じゃない」 「みどの……」  どうやら、みどのは今から御前の間へと向かうようだ。 「これからかえ?」 「…………」  ──みどのは目敏い。  姉を睨めつけるように見やると、彼女のちょっとした変化からそれを見抜いた。 「また御前にお声をかけていただいたんだ?」 「あ、いや……」 「いいわねえ、お気に入り様は。可愛がってもらえて」  ──そう、それは此芽だけ。  条件は同じはずなのに、これまで御前がみどのに語りかけた事はない。  いや、条件は同じではない──同じなどであってたまるものか。  どちらが桜守姫家の者として優れているかなど、誰の目から見ても明らかなのに。  なのに、どうして自分ではないのか。  この世でただ一人、御前から認められる資格を有しているのは自分なのに。  ……なんでこんな奴が。  みどのの底に沈殿したこの想いは、ほぐれぬまま凝り固まって、すでに彼女の身体の一部となってしまっている。 「すまぬ……」  その一言が、みどのの腸を煮えくり返させる。 「っ……」 「あんたはそうやって、いつだって高いところからあたしを見下ろしてるのよね」 「媛は……そのようなつもりなど……」  つう、と此芽の額から伝った血が頬へと流れる。  何を言っても、きっとみどのは憤慨しただろう。  黙していても同じだった。 「なに? その目?」  どのような眼差しであっても、みどのには同じ目に映るのであろう。  それが桜守姫此芽である以上、彼女は姉がどのような表情をしていても同じ憤慨を抱く。  ──もはや、表情など関係がないのだ。 「みどの……」  どんな台詞であっても関係がないのだ。  どれほど気を遣おうが、どれほど言葉を選んで話しかけようが、それが桜守姫此芽の声であるというだけで彼女には充分なのだ。  ──憤慨する理由には充分。  怯えた顔をすればみどのの嗜虐心が満たされるのであれば、あるいは此芽はそうしていたのかもしれない。  自分が堪える事で相手が満足であれば──ましてや、可愛い妹の為ならば、と。  此芽は偽善を好まない。  ……ただ、優しいのだ。  そしてその優しさは、いつだって己自身の痛みを伴っているのだ。  ただ、此芽が目を背けた理由は別の事柄。 「……では、先に休ませてもらいまする」  何事もなかったかのように、彼女は静かにこの場を立ち去る。  もしも自分が痛がる様を見せては、みどのは気にするかもしれない──そんな姉の細やかな思いやりは、妹にいったいどれほど伝わっているというのだろう。  痛みが表情に出ていては、悟られてしまっては、そんな想いから咄嗟に目を背けた事など。 「──アイス」  背を向けた此芽に、みどのが苛立った声をぶつける。 「アイスが食べたい」 「……このような夜更けにお店は……」 「聞こえなかったの? あたし、アイスが食べたいって言ったんだけど?」 「…………では、少し待っておれ」  門へ向かう姉の姿。  ──ああ。  何をしても、みどのの苛立ちは治まらない。 「言っとくけどね、もう、あんただけじゃないんだから」 「……ん?」 「御前はあたしにもお声をかけてくださったのよ。もう、あんただけが特別だなんて思わないでよね」 「それは良う……」 「……なによ。“良かった”とでも言いたいの?」 「……いや」 「…………」 「…………」 「……なによ?」 「なにも……」 「はっ、早く行けっ!!」  追い立てるみどのに、此芽は足早に門へと向かう。 「……出涸のくせに」  吐き捨て、みどのは聖域へと踵を返した。 (くそっ! くそっ!)  姉とは異なる理由で唇を噛み締めながら、苛立ち治まらぬまま御前の間へと足を進めていく。  いったい自分は何に苛立っているのか─── 「ふん」  だが、こう思えば心は落ち着く。  いったいもう何度繰り返したであろうか、それはもはや呪文とすら呼べるほどに。  ──ああ。  明日は、どんなふうにあいつを痛めつけてやろうか。 「夜分恐れいりまする。すみませぬが、バニラアイスを……」  それは、それがそれであるが故に粘土を捏ねた。  どこのそれだってしている事だ──粘土を捏ねるが故に、それはそれであるという認識ですらある。  だが、やはりそれが何であるかは、さしたる問題ではない。  議論の末席にすら加える必要がない。  捏ねた粘土細工は数あれど、あれほど“役目”そのものが生まれてきた意味であるものはないのではなかろうか。  いったい何であれ、生み出された以上、これから先の時間のすべては生まれたものの為にこそある。  だからその粘土細工は、人形といってしまってもよかったのだろう。 「何かの形に似せてあるだけ」で、実際は似せられたものから大きくかけ離れており、その行動は粘土を捏ねたものの思うがままなのだから。  だからその人形は、存在しているという事すべてを懸けて『役目』と呼べる。  呼んでしまえる。  その役目とは即ち、『審判者』であるという事なのだから。  それがやがて欲するであろうものを選り好むのがその役目。  だがしかし、人形はやはり人形でしかない。  生の定義を度外視して──生きて動いて考えて、どれほど何かに形を似せられていようとも、やはりそれの為のものでしかないのだ。  だから人形は指人形。  それの指に納まった、それの意思を実行する身体の一部でしかない。  だから人形はそれの吐息であり、声でもある。  それから発せられるすべてのどれかであってこそ、その存在の定義が実証されるのだ。  だからその、粘土細工であり人形であり指であり髪の毛であり吐息であり汗であり声であるものは、形状を以ってなんであるのかではなく、存在そのものを以ってこう呼ばれた。  ──『骸を貪り食うもの』と。  花の咲かない桜の樹の枝の上。  ここは此芽にとって特別な場所。  早朝、ここを訪れるのは彼女の日課。  何もなくとも、何かあっても、彼女はいつもこの枝の上に立つ。  ……我々は沼を泳ぐ魚である。  此芽は時々、本気でそう思う事がある。  あの桜守姫の家の中、目の前に広がるのは、一寸先さえも見えないまでに濁った底なしの泥沼。  そこから幾つもの川が流れ、蜘蛛の巣状に張られた網目そのものを俯瞰した時に『桜守姫』という組織がこの街に根を張っている事を知る。  ──だから我々は、いつだって溺れているのだ。  眼前を満たしている水の透明度さえも判別できないほどに濁った眼は、いったいどちらが上でどちらが下であるのかの区別がついているのだろうか?  息をすればそれが肺といわず胃といわず流れ込むというのに、そんなものを至極当然の呼吸として吸い込んでいるというのに──もはや、あの沼を出ては生きてはいけない身体になっているというのに。  きっと指先を切っただけでも泥が溢れ出してくるというのに。  この身体中に張り巡らされた血管を通るものは───  だから、沼を掻き分けたところで、何処へ辿り着けるというのだろう。  だから……きっと我々は、溺れているという事そのものに溺れている。  そして何も気付かぬまま、奥底へと沈んでいくのだ。  泥の沈殿する底へと辿り着き、そこで穴倉を掘っては棲家となして閉じ篭り、己が研鑽にのみ着手する。  沼の中でどれほどもがこうと、そこは沼でしかないというのに。  遥か頭上に輝く青空も目に入らず、そんなものがあった事すらも忘却の彼方に追いやり、微笑みを浮かべるのは己自身の昇華を実感した時のみ。  我々に似合いなのは、精々、沼の奥底に沈んだ宝物を掘り当てては後生大事に抱え、さらなる奥底へとほくそ笑みながら沈んでいく事だけ。  川の行き先が何処であっても、生まれるのはやはり同じ沼。  ──水自体が腐っている。  言ってしまえば蒸留とはまるで縁のない陰湿な水を溜めた海そのものである桜守姫家において、その水の中でこそ泳ぎ、生活を営む魚たちはずっと水面に口を出して餌を待ち続けていたのだ。  それこそ幾年、指折り数えるのも馬鹿らしいほどの年月を。  ……遂に、餌が、垂らされた。  あれほどの騒々しさは尋常ではない──それも刺々しく、触れ合おうとすれば互いを傷つけるほど鋭利に研ぎ澄まされて。 (……剣呑)  そんな言葉で語り尽くせるかどうか。  此芽が知る限りにおいて、桜守姫家があれほど慌ただしく蠢き始めた事はない。  桜守姫家の敷地に点在する家々。  体のいい“部屋”は──今となっては隔離に等しい。  確かに振り分けられた当初は桜守姫家の正統な嫡子である証の一つであったが、今は、それは建前として通される筋として機能しているに過ぎない。  すべての情報は自分を素通りして伝達されていく。  だから、知らないのは此芽だけ。  伝えられていないのは此芽だけ。  叔父の死後、桜守姫がみどのを中心としてまとまると、ますます自分の居場所はなくなった。  もともと、傲慢といってもいい叔父の性格もあって、彼が主導権を譲る形になっていたに過ぎなかった。  若すぎるからどうのと、様々に理由をつけての摂政気取り───  確かに叔父の実力は誰もが認めている。  言うほどの事はある能力は充分すぎるほどに兼ね備えていた──が、それにはあくまで「みどのを除けば」という前置きがつく。  言ってしまえば、叔父の顔を立てていただけ。  皆がみどのをこそ現在の桜守姫家における頂点として認識していた事は、いまさら誰に尋ねるまでもない。  研究成果がそのまま等号で表される実力でしか物の価値を計れぬ桜守姫家だからこそ、一切の反論許されぬまで徹底的に示された実力は誰もが童心に返るほど素直に認める。  ──認めざるを得ない。  今代の『A』こそが彼女であると───  その上で桜守姫が桜守姫である為の正統な血統となれば、何の否やがあろうか。 (……女王、か)  いつか誰かが本気で口走っていた台詞を思い返し、此芽は嘆息する。  幼き日の妹を思い返すほどに、その吐き出す息は静かに深くなる。  けれど。 (秤……なんか、実力しかないじゃないか)  自嘲めいてそうも思う。  そもそも、彼女らが“それ”として生まれくる以上、根本的な問題として物差しは他にない。  本流こそがいつ如何なる時代にあっても一つ飛び抜けた実力を持っていたからこそ、本流は常に本流であり続けたのだ。  本流であるだけでは価値を持たない以上、自分は「本流のくせに実力を持たない」という認識であって然り。  ──みどの。  その呟きは、弱々しかった。 「……ここのところ、毎日毎日どこかへ出かけているかと思えば……」  常ならばただ独りのところに、不意の来客。 「み、みどの?」  此芽が驚いたのも無理はない。 「なによここ? いったい、こんなところで何をしてるの?」 「それは……」 「あら? 聞こえなかった? あたしは質問したんだけど? 聞こえる耳がないの? それとも、答える口がないの?」 「…………」 「ふん」  どうやらみどのは、ここへ来るまでの間、ソフトクリームを食べていたようだ。  一つ苛立ちを投げると、包み紙をくしゃりと丸めてその場に捨てた。 「で? あんたいったい──」 「……!」  此芽は慌ててみどのが捨てたゴミを拾う。 「……何やってんの?」 「ど、どうか……ここを汚すのだけは止めてたもれ」 「はぁ?」  花の咲かない桜の樹の枝の上。  ここは此芽にとって特別な場所。  早朝、ここを訪れるのは彼女の日課。  何もなくとも、何かあっても、彼女はいつもこの枝の上に立つ。  ──幸いにして、今日は休日。  という……事で、いいのだろうか。 (……立てない)  起き抜けから天井をじっと見つめ続ける事になっている俺。  確かに寝起きはよい方ではないけれど、起床からもう随分と時間が経っているから、頭の方はすっかり覚醒。  いわゆる、すっきりぱっちり状態──なんだが。 (なんだ……こりゃ)  指先に力が入らず、満足に腕も上げられない。  やけに頭が重たく感じられて、枕を使っているからまだしも、そうでなければ首の筋肉では支えきれないんじゃないかとすら思えてくる。  人の形を模しただけで動力の失われた鉄屑は───  今、ゼンマイ仕掛けの玩具が巻かれた労力の分だけ働き続け、ゆっくりと停止していく時の気持ちがわかる。  活発に動いていたはずの自分の体内の電池が緩やかに消耗して、在りし日の馬力を夢見るだけに成り果てた電池を動力とする玩具の気持ちがわかる。 「くっ……」  なんだ……これは。  立ち眩み……にしちゃ、ちょっと酷いな。  まともな眩暈になんかお目にかかった事はないけど、これが正真正銘の眩暈ってやつなのかもしれない。  ──病は気から、というように。  一度そう思い込んでしまうと、なんだか身体が熱っぽくてダルイように感じられる。  ……これはいよいよ気のせいだろうが、節々の関節まで痛いような感覚を覚えて。  こういった事が気になり始めると、普段なら気にかけもしないちょっとした痛みまで大袈裟に感じられてきて、全部が全部、身体の不調へと結び付けてしまう。  そんな精神状態に達していく過程そのものが重傷っちゃ重傷なんだが───  一段一段を、ずり落ちるようにしか下れない。  壁に身体を預けながら、ゆっくり、バランスを崩さないように、慎重に下っていく事しかできない。 (なん……なんだよ、いった──)  次に階段をずり落ちた時、足の裏は段を捉える事はできず。  なでたのは何もない空間─── 「いっ……つ」  階段の終わりに最初に到達したのは足の裏ではなく、顔面の真正面衝突を避けようと咄嗟に横を向いた事で擦り切れた頬の皮。 「いたたた……」  あまりに唐突すぎて、遂には理不尽とすら感じてきて、段々と腹が立ってきた。 (俺の身体は、いったいどうしちまったんだ!?)  こういう時はあれだ、医者だ。  自分の身体の事は自分が一番よくわかっている、なんて嘘だ。  人間っていうのは意外と──どころか、自分の身体の事なんてほとんど知らないまま日々を生きている。  普段から知ろうともしないんだから、わかるはずなんかない。  目を背けて見ない振りをして、それで調子を壊すくせに、それでも見ない振りをし続ける。  いよいよとなれば医者に頼る身勝手さ。  巽の家には主治医がいたし、子供の頃はともかく記憶が確かな範囲ではこれまで大きな病気もしないでやってこれたから、街の病院・医院ってのはほとんど経験がないんだが──これはちょっと尋常じゃない。 (金、が……必要だよな)  隠してある通帳を取りに、なんとか廊下を歩む。  ふたみが食費やら何やらの支払いの為に今月下ろした分の残りは、最後の朝食と共に居間の机の上にそっと置かれていた。  加工食品はそれで買い込んだんだけど──医者ってのは幾らくらいかかるものなのかわからないから、残り分で足りるかどうか心配だ。  だいたい、みんなはどうしてるんだ?  そもそも病院ってのは、身体に不調を感じたから医者に診てもらって、治療を受けるところだろう?  もしかしたら俺以外のみんなはこの症状なら幾らって目安がわかっているのかもしれないけど、診断をするのは医師なんだから、事前に金を用意しておくってのは無理がないか? 「…………」  意味わかんね。 (あれ? あと、保険証もいるんだっけ?)  ていうか俺、保険証なんか持ってないな。  実家にいたわけだから家族で入っていたはずだけど、実家を出た場合は所在が変わるんだから確か個人に切り替え──あれ、その場合は役所に手続きをしに行かないと。  ここは市だから市役所だよな、っていうかそもそも転居手続きを済まさないといけないんじゃないのか。 「…………」  自分のお坊ちゃんぶりに愕然としてきた。  病院と医院の違いとか、たいして役に立たない事なら知ってるのに。 (もういい……とりあえず医者に行こう)  その前に金を下ろさないといけないわけだけど、銀行で金を下ろすってどうやるんだろう、とか無駄な不安はこの際忘れよう。  なんとかなる。  ……多分。 「くっ……」  左右どちらかに身体を預けながらでないと進めない。  もしかしたら、這って進んだ方がマシなんじゃないかって思えるほど、鉛と化した身体は進行上の単なるお荷物にしか過ぎずに。 「ぜっ……はっ……」  たったこれだけの運動がどれほどの重労働か思い知らせるように、ここぞとばかりに警鐘を鳴らす動悸は兄弟である息切れを引き連れてくる。  ──なんだかもう、笑うしかない状況だ。 (……あれ……?)  ガラス張りの視界の向こうに広がる庭先に、一瞬、人影が見えたような気がした。  こんな状態だからなのか、こんな状態でも頭だけはしっかりと働いているからなのか、妙な緊張感を覚えた。  ──生物が生物である以上、自然と身構えてしまう、という事がある。  本当に何でもないような、悪戯な風が起こしたどうでもいいような現象を、必要以上に警戒してしまう事が。  その正体を確認すれば「なぁんだ」で済まされるような出来事でも、身体が弱っている時は、そんな“つい身構えてしまう”状態──つまり危険を察知し、何かあればすぐさま対応するべく構える自己防衛にも陰りが生じている。  病気の時は幽霊を見やすいというのも、要はそういう事で。  そもそも気持ちが弱っているという前提も勿論だが、平常通りに身体が動かないという事態そのものが、意識するしないは関係なく、今この時では危機に対処できないと──弱気の虫を刺激して、ありもしないものを見せる。  弱っているからこそ、普段なら気にも留めない部分に目がいってしまう、という事で。  原因は身体であっても、結局それは、気持ちが弱っている事が問題だ。 (不甲斐……ない、な……)  ──こんな時に。  やっぱり笑うしかない。  ……とりあえず、今日が休みでよかった。  こんな時に登校の心配ってのもおかしな話だが、こんな時だからこそ普段通りの生活を送りたい、っていう事だってあるんじゃないだろうか。  ──だいいち、“こんな時”って何だよ?  今はいったいどんな時なんだ? (……動悸……が……)  治まるどころか、それは翼を広げて風に乗ったかのように早鐘と化す。 「なん……なんだよ! これっ……!」  窓の向こうから感じる不安。  居もしないものに対する恐怖が膨らんでいく。 「ああもうっ! 畜生っ!!」  確認すれば動悸も治まるだろう。  ──やればできるもんだ。  俺は窓を開けると庭へと出て、さっさと安心するべく辺りを見渡した。 「妹さん……?」 「…………」  彼女に声をかけつつ俺は、奇妙な感覚を覚えていた。 「え? どうか……したのかい?」 「──唯井家のお嬢ちゃんは?」 「え?」 「唯井家のお嬢ちゃんよ。いないの?」  こんな気分になるのは、調子が悪いせいだろうか。  正体のつかめない奇妙な感覚が、胸の奥をざわつかせている。 「ふたみ……の事かい? 彼女なら、もうここにはいないよ」 「……なんか引っかかる言い方ね」 「うん……まあ、そのままの意味で受け取ってもらえれば」  なあ、妹さん。  あんた、他人の家の庭で何やってるんだ?  ──弾けたのは違和感。 「──そうなんだ。残念ね、ついでにどうにかしてあげようかと思ってたのに」 「妹……さん?」 「そう、妹さん。みんなそう覚えるのよね。“桜守姫此芽の妹さん”、って」  そこにいた彼女は、俺の知っている少女とはまるで別人の印象で。 「別にいいんだけどさ──あははっ、あたしの名前、教えてあげようか?」 「……みど……の」  いつも透舞さんの背後に隠れていた、触れれば消えてしまいそうな儚げな印象は影を潜め。  代わりに─── 「知ってるならそう呼びなさいよ。何が“妹さん”よ」 「いったい、何の用……」  ──みどのが、右手を中空で大きく振り払った。  立てられた人差し指と薬指。  あまりに唐突な行動に、俺は思わずその軌跡を目で追っていた。 「え……」  胸元に走っていた一本の線。  ぱくり、と、それは唐突に傷口が開いたかのように。  上着の胸元に当たる部分が不自然な形で開いている。  定規で綺麗に線を引いたように、その斜めに直進した線に沿って赤い斑点模様が現れた。  ぽつ、ぽつ。  一つ、二つ、同時に現れた斑点はやがて手を取り合うかのように繋がると、胸元に走った線の上を綺麗に塗り潰す。 「────!!」  背筋を駆け上がった冷たい感触に突き動かされ、俺は一歩後退っていた。 「別にあんたに用はなかったんだけどさ。せっかくだから作ってあげるわよ、用」 「お前、は……」 「あたし、お前って呼ばれるの嫌い。上から見られてるみたいだし、それに気安いじゃない?」 「…………」  ──線が二つ。  先程の線をなぞるかのように、平行に並んだ線が胸元に走っている。 「ねえ、聞いてよ。御前がね、あたしにもお声をかけてくださったの。でね、あいつは何も聞かされてないみたいなんだぁ。  それってつまり、あたしだけって事だよねぇ」  言葉が出なかった。  こいつ……今、何を。  こいつ、今いったい何をした!? 「お前……いったい……」 「──ねえ、『出涸』」 「でが……?」 「あんたもあいつと一緒、絞り粕なんだよ。もう何も出てこないの。  ……目障りだよね。あいつ見てるみたいでさぁ」 「…………」 「そうだよね。家主に用もなく、勝手に庭に入っちゃいけないよねぇ。だから、殺しにきました、って用事を作ってあげる」 「殺……?」 「そっちの理由なんてさ、顔を見てたらムカついてきました、それで充分じゃない?」 「…………」 「巻き込んだ唯井家を恨むのでも、直接命を奪うあたしを恨むのでも、どっちでもいいけどさ。  ──とりあえず、さようなら」  みどのの瞳が薄く細まった時、俺はすでに走り出していた。 (何だ!? 何なんだ、いったい!?)  咄嗟に廊下に上がった俺は、家の中を奥へ奥へと向かって逃げていた。 (あれ……あれ、みどのだよな? いつも透舞さんの背中に隠れるようにしてた、桜守姫さんの妹の──)  ──脳裏に浮かび上がったのは、気弱そうな少女の表情。  その目元が細まっていく。  薄く、薄く、愉悦に興じるかのように、込み上げ溢れ出す法悦を抑えきれないかのように。  ──消え入りそうな小声が耳奥から這い上がってくる。  けれど次の瞬間には、その声が掻き消されていく。  耳元を通り抜ける、不気味な旋回音は─── 「……え?」  なんだあれ。  目の前に。  今、たった今、曲がろうとした角の、正面の壁に。 「あー……残念。外れちゃった」  漆黒にほど近い色で浸された少女が奥まった暗がりに揺らいでいる。  赤と青の間色で表されるそれは、まるで毒薬を詰めた瓶に生じた泡──泡は作り手の意図を汲み取ったかのように、意思を持って動き出す。  流動のまま蓋を内からこじ開け、あるいは瓶そのものを倒して外界に解放される。 「あんた、どっか悪いんじゃない? 当たるように投げたのにさあ」  触れれば消えてしまいそうに儚い少女──だから、儚さの例えである事そのままに。  それは水泡。  紫の水泡。  ──弾けて飛沫を大気に撒く。  ──鈍色の先端が、俺を睥睨していた。 「お……の?」  一瞬、目の前で起こっている出来事が把握できなくて。  形状からその物体が何であるかは認識できたけれど、  どうして、  斧が、  どうして、  独りでに、  どうして、  宙に浮いて、  そして何より、どうして、その切っ先が俺に向いているのかがわからなかった。 「うわああああっ!!」  断頭台の刃のように中空を滑走した斧は、飛び退いた俺が一瞬前までいた床に、深々と突き刺さっていた。 「な、なんだ……これ」  初めから体温などというものは持っていなかったかのように、身体中の血が一斉に沈んでいく。 「なんだよこれ!?」  わけもわからず叫んだ時───  みどのの両肩、僅かに離れて。  二つの斧が浮いていた。  ──回転っている。  さも、これから標的に向かって力いっぱい突き刺さりますよとでも言いたげに。 「お、おまっ! おまっ!」 「──ちゃんと喋ってよ」  旋回した斧が弧を描いて飛来する。 「ぐっ……!」  慌てて背を向けて走り出した時、身体を駆け抜けた痛痒─── (こんな時に……!)  堪える事のできる痛みも、他に気を取られれば忘れる事のできる痛みもある。  けれどその逆に、身体が勝手に反応してしまうほどの痛みも─── 「あっ……うっ……!」  そのせいで僅かに身を屈める形になった。  頭の真上を、何か重たいものが通過していった。  当たっていれば俺の頭蓋骨など砕け散っていた何かが。  ひたり。  廊下を歩む軽い足取り。  けれどそれは嬉しさから飛び跳ねるような類いではなく、何かが欠けているからこその軽さ。  ひたり。ひたり。  ──動悸が治まらず。  振り向く、という行為が、これほどまでに恐ろしい事だとはこれまで考えもしなかった。 「運がいいね、先輩」 「ひっ……!」  背後に立たれた時、俺は息を殺していた。  こいつの興味の対象から外れるように。  俺などここにいないと思ってほしくて。 「西瓜割りがしたいんだけどさ。先輩も途中まで観ていってよ」  けれど、俺はこの刺激に飢えた斧の目の前に転がった玩具のままでしかないのだと気付く。  ゆっくり。  ゆっくりと振り返りながら。  蟻の巣にお湯を注ぎ込みながら嗤う子供のような無邪気さで俺を見下ろす、鉄片で着飾った少女と目が合う。  桜守姫は?  桜守姫は海外の?  海外の────何?  俺は。  俺はどうして、この街にこだわっている?  もう逃げたくないから?  まだ納得できないから?  嘘じゃない。  嘘じゃないけれど─── 「みどの」 「あら。やっと名前を覚えた?」 「みどの」 「……なによ?」 「──お前になんか殺されてやるもんか!!」 「…………へえ」  夕闇に染まり始めた日差しが、照りつける対象物から濃い影を生み出していた。  耳元に落ちた髪束をかき上げるみどのの、その髪の一本が変化したかのように───  ──中空に浮かび上がる鈍色の重量。 (影……)  なん……だ、あれ。  影が……不自然な形で曲がっ……いや、あれは……文字?  夕日に照らされ、床に落ちた彼女の影──その中に、奇妙な文字が浮かび上がっている。 (スケッ……ギ、オールド……?)  みどのがその指先を俺へと向けた時。  ──再び中空から鈍色の斧が飛来する。 (……ああ、そうか)  魔術師。  海外の魔術師。  それは理屈でも何でもない、ただすんなりと腑に落ちた直感だった。  壁に突き刺さった三つの斧。  ──今度も運良くかわせた。  いや、違う──違うのだと、震撼する奥底から答えが浮上する。 「その遊びは愉しいか? この魔女が」 「ん?」 「さっきからギリギリ当てないようにして俺が慌てる様を見物するのは愉しいかって訊いてんだよ、魔術師様よ」 「へえ……」  ──それこそまた一つ愉悦の対象を提供してしまったかのように、みどのの口許が歪む。  よく気付いたな、とでも言いたげに。  それはどちらの事に対して言ってるんだよ? 「じゃあ、桜守姫さん……も……?」 「“桜守姫さん”はここにいるじゃない」 「君のお姉さんも魔術師なのか!?」 「あいつは違うわ。だった、と言えば正確なのかもしれないけど」 「“だった”……? 魔術師だった……?」 「でもあれね。君のお姉さん、という言い方はいいわね。それなりに気に入ったわ」 「君、は──」 「でもさ、あんなのがあたしの姉ってのが我慢ならないわよね」 「…………」  ──一つだけはっきりした事がある。  こいつは遊んでいる。  俺をいびり、追い詰め、恐怖におののく姿を見る事で愉しんでいる。  満足に動く事のできない俺が、足を引きずるようにして、それでも必死に走ろうとしている様を見て嗤っている。  鉛のような身体を抱えて、抑え切れない動悸に心臓が潰れてしまうそうな俺を姿を見て嘲弄している。 「くっ……そ」  ひた、ひた、と。  距離を取れば、廊下の奥から悠然と歩いてくる。  走れば簡単に追いつけるのに、ゆっくりゆっくりと近付いてくる。  振り向かなくてもあいつの顔がわかった。  ぞぞっと駆け抜けた悪寒が、俺の背中を押した。  廊下の角を曲がった時、俺は腹を一発殴りつけるように無理をして床を蹴った。  そうして今にも倒れ込むかのような体勢で廊下を走り抜ける。 「はっ……!」  ──振り向いたそこに、あいつの姿はなかった。  開いた差は、廊下の端から端。  あいつがその気になれば、簡単に追いつける距離だ。 「…………」  …………来ない。  角からあいつの姿は現れない。  振り切った……はずはない。  だが、今のうちだ。  今のうちに、外へ……他に逃げ場所が思いつかなかった。  そして俺は、動悸を静めるべく息を呑んで一呼吸置くと、顔を上げて前へと走り出─── 「──何処へ行くの?」 「うわあああっ!!」 「失礼ね、女の子の顔を見て叫び声を上げるなんて」 「どっ、どうし……」  ──問う事に意味はない。  こいつは普通じゃないんだ。  魔術師なんて存在を俺の常識の枠で計れるわけがないだろう!? 「“空間を断ち切る”という概念が理解できる?  空間を制御下に置く、というのは根源的な要素であるが故に、“空間移動”となるとその難度は格段に跳ね上がるけどね。でもね、“断ち切る”だけならそんなに難しい事じゃないのよ」  魔女が何か言っている。  得意げに異界の言語を発している。  ゴムの塊を押したら、指先は押した先まで移動するでしょ──とか。  それと同じで、空間を削り取ってるわけじゃないんだから、空間そのものに変化を与えるような高度で消耗の激しいものとは違って──とか。  如何に効率よく処理能力の高い式を編み出したのか、語っている。 「あたしが移動した後は元に戻ってるのよ。ゴムと違うのは、一度押した先まで移動した指先がゴムが正常な形を取り戻した時に元の場所まで戻らないって事だけでさ」  魔女の晩餐に招かれた哀れな生贄の気分が理解できる。 「あたしはね、桜守姫なのよ。『桜守姫みどの』なの。誰一人として否やを唱える者のない、今代の『A』なのよ」  魔女の宴の主催者だからって、なんだってんだよ!? 「──『斧の時代』が歓迎するわ」  その瞬間、再び影に文字が浮かび上がった。   ──と。 「くっ……!」  ──跳ねるように反対側へ跳んだ。  勿論、ガラス張りの窓を開いている間なんかない───  ──そのままの勢いで庭へと転がり落ちる。  ガラスの破片で背中を切っていたみたいだが、気にしている余裕なんかない。  とにかく外へ。 (外に出さえすれば──) 「だからさ」  目の前に漆黒に微かな明るみを持たせた影絵が浮かぶ。 「人の話、ちゃんと聞いてる? いわゆる空間移動なんてね、制御下に置くような本式のものでない限り、さしたる労力も必要ないのよ。  どれだけ逃げても無駄。やれる事は限られるけど、“追いつく”だけならこれで充分──さて、と」  そして桜守姫みどのは、それが何でもない事のように。 「大丈夫大丈夫。首を落とすだけだから」  初めてその手に、鈍色の物体を持った。  それは先程まで宙を飛来していたものとは比べものにならない大きさだった。  俺の家の随所に穴を開けてくれた斧は、柄の部分まで含めても、今、彼女が手にしている鉄片の刃にも満たない。  ──みどのはそれを軽々と振り回す。 「追いかけっこ、飽きちゃった。腹抱えて笑えるくらいの形相で逃げ回ってくれたら、もっと時間かけてもよかったんだけど。  あんた、最初だけでさ。なんか……」 「…………」 「……ああ、そう、その目。気に喰わないんだよね。誰かさんを見てるみたいで」 「……お前なんかに殺されてたまるかよ」 「ああ、もういいよいいよ。そういう台詞、大嫌い。ほら、ちゃっちゃと死んで」  地面に置いた時は地表に穴を穿つほどに凶悪な重量を見せ付けながら──振り被った少女はまるで一切の重力から解放されてでもいるかのように。  背に隠れた刃が腰まで届き、反動を感じさせながら身の丈もある斧が軽々と振り下ろされる。  ──その一瞬。 「んっ」  俺は跳ねた。  ──逃げれば追われた。  掻い潜ったところで追いつかれる。  だから、ぎりぎりまで引き付けるしかなかった─── 「んっ……!」  思った通り、あれだけの重量を誇る斧が力いっぱいに突き刺さったのだ、そう簡単に抜けるはずがない。  まるで重みを感じていないという事は、そういう事だ──感じていないからこそそれは刹那の間隙を縫うまでの速度を増して振り下ろされる。  感じていないだけで、あの巨斧に重量はあるのだから。  ──みどのが遠ざかる。  最後の力を振り絞り、正門へ向かって俺は必死に走る。 「あんた……本気でムカつくわね」  距離はあった。  けれどその棘のある声は、耳元で囁かれた。 「────!!」  俺は物言わぬものに取り囲まれていた。  ──縦横無尽に、斧、斧、斧。  十──二十。  それは三十ほどもあっただろうか。 「なっ……な」  狼狽する俺を逃がすまいと揺れ動く斧は、生み出した者の悪意をぶつけるかのように切っ先だけは俺に向けたまま目を逸らさない。 「えへへっ……」  ──心底から愉悦が零れ出すかのように。 「ひっき〜にく〜♪」  どこか調子外れな音程で、この光景の創造主はふざけた事を言い出しやがった。  きっかけは何だったのか。  三十の無骨が一斉に俺へ飛びかかる。  ──死ぬ。  かすめた予言は次の瞬間の現実。  この暴力から逃れる方法なんて─── 「みどの!!」  ──響き渡った凛とした声に、大気が震えた。 「……あら、お姉様じゃない。こんなところで何してんの?」 「其方……いったい、何を……」 「質問したのはあたしが先なんですけどー」 「其方はいったい何をしておるか!!」  その一喝。  野蛮な鉄片を自在に操る魔女の威圧など、霞ませるほどに。 「何? あんた、あたしに逆らうの?」  みどのの眉間に、不快を表す皺が刻まれる。 「──いつもみたいにされたいワケ?」  え? 「みどの……」  みどののは、ふん、と一つ鼻を鳴らすと、どこか平静を装うかのように、 「見ればわかるでしょ。連中が呼んだお客様を、ちょっと芸術的な塊に変えてあげようとしただけよ」  あげつらう口調は姉を逆撫でしたいかの如く。 「其方っ……」 「連中がこの一族を呼ぶのはいつもの事だけど、どうせろくでもない事を企んでるのはわかりきってるでしょうが。  しかも、この男はいつもと違う周期で現れた。となれば、とりあえず潰しておこうってのが正しい判断なんじゃないの?」 「彼はもう充分に利用されておる! 巻き込まれておる! この上、どうして桜守姫家までもが彼を傷つけねばならぬのか!!」 「はぁ? 何その視点」 「…………」 「だいたい、こいつはもうあんたと同じ『出涸』なんだか……」 「え?」 「ちょっと待って。あんたまさか……」 「お姉様? いったいどうなされたんですの?」 「の、のん……ちゃん」 「あら、みどの」  ──気付けば空気が変っていた。  大気中の粒子にまで満ち満ちていた剣呑は泡となって弾けたかのように消え去り、すでに、今まさに襲いかからんとしていた斧もまた霧散していた。 「みどの、今、お姉様のお声が……いったい何がありましたの?」 「え、えっと、その……」 「のん、すまぬ……みどのを自宅までお送り願えませぬか」 「え? あ、でも……」 「……頼めませぬか」 「あ、は、はいっ。了解いたしましたわ、お姉様」  のんは小首を傾げながらも、此芽に従ってみどのを連れ出した。  ──そして俺と桜守姫さん、二人だけがこの場に残された。 「……すまぬ……」 「桜守姫さんのせいじゃないさ」 「…………」  桜守姫さんはまるで地面を睨みつけるかのような、沈痛な面持ちを浮かべていた。 「桜守姫さんが気にする事じゃ……」  言いかけた時、俺は視界が揺らいでいる事に気付いた。  ──不意に解けた緊張の糸。 「もはや、一刻の猶予もありませぬ」 「え?」  俺は彼女の言葉に問いかけていたのかも定かじゃない。  張り詰めていたものから解放された瞬間、身体は今自分がどんな状態にあったのかを思い出したように──そしてどれだけ無理をしたのか思い知らせるように、鉛へと変化を始めていた。  鉛は身体そのものの重さじゃない、凄まじい勢いで腹の底に溜まっていくかのようで。  今にもその重みで胃腸が腹から飛び出してきてしまいそうで、俺は立ってさえいられなかった。 「其方を──この街から連れ出させていただきまする」  だから俺は、その言葉もすでに閉ざされた瞳の向こう側に流れる音としてしか聞こえなかったんだ。 「どうなさったのかしら、お姉様」  のんはまだ小首を傾げていた。 「でも、のんちゃん、どうしたの? タツミ先輩に何かご用だったの?」 「…………」 「のんちゃん?」 「……よ、用があったのはわたくしではございませんわ」 「え?」 「わたくし、お姉様が心配で心配で……何かお力になれる事でもあればと、後をつけてきてしまいましたの。そうしたら、お姉様ったら、門の前で入るか入るまいか……と、うろうろとなさっていて」  その時の光景を思い出したのか、のんがくすりと微笑みを浮かべる。 「わたくし、たまらずお声をかけてしまって」 「どういう事?」 「貴女、お気付きになっておられませんの? お姉様のお気持ち……」 「お姉様の気持ち?」 「……あっ……貴女だから申し上げますけれど、お姉様は……そっ、その、巽さん……を……」  自分の事でもないのに、のんの頬が真っ赤に染まっていく。 「…………」  それを聞いたみどのは、一瞬、呆気に取られたような表情を浮かべたが─── 「……へぇ」 「みどの?」 「ううん。そっか、そうなんだ。お姉様もお年頃だね」 「だからみどの、わたくしたちも応援しなければなりませんのよっ。ああ、勿論、陰ながらですわよ。お姉様の慎ましさを見習わなければなりませんからっ」 「うん、わかってる。──上手くいくといいね、お姉様」 「上手くいかせますのよ。わ、わたくしなどの力でも、少しはお役に立てるかもしれませんもの」  唇をぎゅっと結んで、のんは意気込んだ。  そんな彼女の姿を見て、みどのが微笑む。 「うん、頑張ろうね。頑張って、お姉様のお役に立とう。  お姉様の面白い顔が見れるように頑張ろう」 「おかしな表現をなさいますわね、貴女。でも、そうですわね。きっとお姉様、お喜びになってくださいますわ」  決意を新たに、興奮冷めやらぬ様子ののんは───  隣で微笑みを浮かべる親友の、その笑みの理由に、気付かなかった。 「……桜守姫さん」  何故、こんな状態になっているのか。  俺は今、桜守姫さんにおぶられてこの街を脱出しようとしている。 「……すまぬ。お荷物はどうか諦めてくだされ。其方にとって大切なものもありましたでしょう。持てるものならば可能な限りは持って差し上げたかったのですが、さすがに……それでも、命あっての物種と、どうかご理解くださいませ」 「…………」  桜守姫さんの声は聞こえている。  けれど俺は声が出せずにいた。  出そうにも吸い込む息は無理な長距離を無理な速度で走りきった後のように呼吸を整える役にしか立たず、満足に舌も回らない。  意識だってさっき戻ったばかりだ。 (ここは……何処だ)  見慣れない光景のような気もするが、満足に周囲も窺えない今の俺の認識など当てにはならない。  通い慣れた道かもしれないし、これまで縁のなかった道かも……いや、そんな事はどうでもいい。  ──逃げて。  何度、そう言われただろう。  彼女はどれだけ俺の事を心配してそう言ってくれてたんだろう。  それなのに俺は意地を張って、この街に残り続けて、そして──実際に命の危険にさらされて、こうして自分で歩けもしない状態のまま彼女におぶわれている。 (何……やってんだ、俺は)  逃げたくないって。  納得できないって。  そう言って自分なりの考えを主張するのは勝手だけど、その結果として引き起こされる出来事を自分で解決する事もできずに、どうして俺を心配してくれた娘に迷惑をかけているんだ。  ──あの時、彼女が現れなかったら、俺はどうなっていた?  ……身震いが隠せない。  巨大な鉄塊でお手玉をする紫の水泡。  転げ回る俺を嘲笑いながら追い詰め、「飽きた」という理由だけで容易く俺の命を刈り取ろうとした。 「さ、寒いのかえ? 巽殿」 「…………」  違うって、そう言いたいのに、首を左右に振る事すらできない。 「もうしばらくの辛抱です。どうか、我慢してくだされ」 「…………」  どうして、君が、そんな事を言わなければならないんだろう。  不甲斐なさで唇を噛み締めた事は何度もあるけれど、これほど身が沈んでいこうとする経験は初めてだ。 「すまぬ……女子なんぞにおぶられるのは、男子として気持ちのよいものではありませぬでしょうが……」  ああ、そうか。  だから桜守姫さん、こんな人通りのない道を選んで歩いているのか。  景色が満足に把握できなくたって、周囲に人がいるかどうかくらいはわかる。  …………。  ……不甲斐ない、どころじゃない。 「重い……だろ?」  酷く擦れてはいたけれど、やっと声が出た。  それだけでも舌が痺れ、肺に鈍い痛みが走る。 「平気です」  そう言ってくれる桜守姫さんは、さっきから肩で息をしている。  自重を支えきれていない男を背負うのが平気なはずはない。 「だい、じょう……ぶ、だから」  吸い込んだ酸素の何倍もの二酸化炭素を消費して声を出しているような感覚。 「…………」  桜守姫さんは黙って歩みを続けた。  今の俺のどこをどう好意的に解釈したところで、大丈夫なんて状態には結びつかない。 「そう……ですね。巽殿は、大丈夫、です」  その優しい口調が胸に痛い。  ……そのまま、どれほどの時間が経過しただろう。  次に俺が意識を取り戻した時、辺りは暗がりに包まれていた。  見上げるまでもなく空は雲に覆われ、眠りを求め始めた街は静寂の中にあった。 「気が付かれましたか。もう街の外れです、後ほんの少しのご辛抱……」 「もう……大丈夫」  ふらふらとよろけながらも、俺は桜守姫さんから離れる。  そのまま倒れてしまいそうになったが、俺の中に残された数少ない力を足腰に込めてその場に踏ん張る。 「巽殿……」  疲弊しきった君のその面持ちが。  それでも疲労を隠そうと気遣う君の表情が。  今の俺を、ぎりぎりでここへ立たせてくれます。 「あり……が、とう」 「……礼には及びませぬ。いえ、其方のご意思を無視し、媛は勝手にも街の外れまでお連れしてしまいました……道理としては、責めるべきでしょう」 「違……う」  まず言わなきゃいけない事は、ここまで連れてきてくれた事に対しての礼じゃない。  それだけは、声が出る内にしておかなきゃいけない事だったから。  ──それから、もう一つ。  やっぱり声が出る間に、訊いておかなきゃいけない事がある。 「……なあ、桜守姫さん」 「はい」 「訊いても……いいかな」  訊きたい事は沢山あった。  けれど、今、最も気になる事──いや、確認しなければならない事は一つだった。  俺にはどうしても信じられない。  この娘の妹は魔女だった。  正真正銘の、揺るぎない、俺の知る世界の理とは別の法則の中で生きる存在だった。  ──それが『桜守姫家』という血に受け継がれたものであるのなら。 「…………」  俺にはどうしても、俺をおぶってくれたこの少女と、その妹とが、同じものだとは思えないんだ。 「……承知いたしておりまする。ああまで目の当たりにして、今更隠して何になりましょう。  なれど、其方はここから去りゆく身。知らずに済めば、それに越した事はありませぬ」  それはきっと、正論だったのだろう。  俺は彼女がただ正論をぶつけたいが為に、調和を乱される行為を嫌うが故に、理路整然とした言葉を他人に対して並べる人間ではないと知っている。  彼女の口に上る言葉は、いつだって相手への思いやりに溢れている。  知らずに済めば、これ以上巻き込まれる事はない。  余計な事を知るというのは、重荷になると共に足枷ともなるのだ。 「頼むよ。教えてくれ」  けれど、俺は好奇心から尋ねているわけじゃない。  巻き込まれたから、命の危険があったから、だから正体を知らないと納得ができないとか、そういう気持ちからでもない。  俺はどうしても、その事だけは確認しないといけないんだ。 「なれど……」 「頼むよ……お姫様」 「え?」 「……桜守姫さん?」  あれ? 俺、今……。 「…………」  苦悩するかのように眉を潜めた桜守姫さんは、僅かな間を置いて─── 「……わかりました」  そう、言ってくれた。 「ありがとう」 「桜守姫家は……魔術師の家系です」  改めて言葉にされて突き付けられる現実。 「魔術……師?」  一度は俺の中に浮かび上がった言葉。  これどこうしてみると、あまりにも突拍子のない響きにしか聞こえなかった。 「そう申し上げたら、其方はどう思われまするか」 「……疑えるはずがない」  俺は宙に浮かぶ斧を見た。  確かにそこになかったものが、現出するその刹那を見た。  俺を取り囲む無数の───  それだけは、事実だから。 「ならば、そういう事です。桜守姫家の血を引く者は、生まれながらにして魔術師としての素質を有しまする。  それぞれが一つ、一つずつ、生まれ持った御名がありまする」 「御名って……」  ──みどのの影に浮かんだ、あの奇妙な言葉。 「スケッ……ギョルド」 「『斧の時代』がみどのが生まれ持った御名。桜守姫家においては……『骸を貪り喰う者』と呼ばれておりまする」 「骸……」  その陰鬱な響きに、俺は息を呑んだ。 「誕生より背負うた『骸を貪り喰う者』を如何ように発展させるかが才能の分かれ道。『枝』と呼ばれるそれ──桜守姫家では、御名からより数多くの術を生み出す事こそが尊ぶべきものとされておりまする。  修練に修練を重ねた果てに到達するただ一つの極意を編み出すよりも、より多岐に渡る式を完成させる事……それが桜守姫家における価値観です。  みどのは『斧の時代』から、三百近くもの術に通ずる式を完成させました。  一つの『骸を貪り喰う者』から生み出せる術の量は、過去、いかに高名な魔術師であっても五百が限度だったとされてきました。  あの若さで、すでに三百にほど近き術を身につけているみどのは、紛れもなく今代の『A』──」 「アル……ヴィス」 「その時代において最高位の座にある魔術師を、敬意を表してそう呼ぶのです。  これまでは……その、叔父の性格もあり、その座は彼に明け渡していたのですが、亡くなった今……という申し上げ方も不謹慎ですが、そも実力からして、紛れもなく妹こそが現代の桜守姫家を代表する魔術師なのです」  ──俺の命を容易く手中に収めた少女。  赤と青の間中の水泡。  彼女こそが、この街を二分する一派の最高位の──魔術師。 「桜守姫さんも……」  けれど、俺が訊きたい事はそんな事じゃない。 「はい?」  俺が受け止めておかなければならない事は、そんな事じゃないんだ。 「桜守姫さんも……その、持つのかな。『骸を貪り喰う者』を」 「桜守姫家に生を受けた者に例外はありませぬ」 「…………」 「なれど、媛は……今の媛は、何一つ術を行使する事が叶いませぬ。魔術を駆使する法を以って魔術師と呼ばれる資格とするのならば、媛は対象とはならぬでしょう」 「……今は、か」  その言い方からすれば、昔は使えた、という事になる。 「…………」  ……なんでかな。  不思議とショックはない。  それどころか、すんなりと喉許を過ぎていくかのように腑に落ちて───  ……俺は多分、この女性を信じているんだと思う。  桜守姫家の此芽さんを、ではなく。  桜守姫此芽さんを。 「……悪い、桜守姫さん」 「礼には及びませぬ。ああは申し上げましたが、このお話をせねばならぬのも媛の──」 「いや、そうじゃないんだ。やっぱり俺、このままこの街を出て行く事はできない」 「た、巽殿」  ──だって僕は。 「“だって僕は、立派な巽の人間にならないといけないから”」  水の中に霞んだお姫様が、俺にその言葉を置いていった。 〜ラベル『守護者』の内容は記述されていません〜  ──いけない事だってわかっている。  御前。  我らが桜守姫家の現人神よ。  みどのが動き出したという事は、これはあなた様のご決定なのでしょう。  桜守姫家の血脈にまつわる者たちが取る行動のすべてという名の川は、御前、あなた様のお考えという大海からこそ流れてきたものなのですから。  だから此芽は、海からの流れを塞き止め孤立した、ただ朽ち果てていくのを待つばかりの川なのでしょう。  それでもあなた様は、お声をかけてくださった。  かけ続けてくだされた。  涸れ果て朽ちていく野ざらしの此芽に、ただお一人、優しい言葉をかけてくだされた。 『出涸』と揶揄されるこの魔術師を、幼少の頃から庇い続けてくだされたのはあなた様だけ。  あなた様の庇い立てがなければ、すでに居場所はなかったでしょう。  本流でありながら物心ついたばかりの幼子にすら劣る魔術師など、桜守姫家では何の価値もない。  だから御前。  あなた様が海から伸ばしてくださった水流が、此芽を涸らさないでいてくれたのです。  あなた様への感謝の気持ちは、未来永劫、変わる事はありません。  それなのに、あたしは。  この男性の寝顔を見つめています。  彼がどの家に生まれた者で、御前のご決定を受けたみどのが──今代の『A』が「邪魔」だと判断し、標的にと定めた存在だと知りながら、こうして寝顔を見つめています。 (なに……やってるんだろう)  こんな事をしていては、彼に危険が及ぶかもしれないのに。  自分はあの時、今度こそ、首根っこを引っつかんででも彼をこの街から追い出さなければならなかったのに。  再びここまで戻ってきてしまって、衰弱した彼を寝かせて、こうしてずっと懺悔を続けている。 (……どうして……)  どうして、あたしは。 「彼とまだ一緒にいられるんだ」って、喜んでしまっているんだろう。  ──やるべき事はわかっている。  これまで自分にしか聴こえていなかったお声。  自分にしか語りかけてくだされなかった御前。  それがようやく、となれば、みどのがどれほどの昂ぶりを覚えたかは想像に難くない。  その事で、これまで妹がどれほどの苛立ちを抱えてきたのかも。  御前は遂に、あの娘をお認めくだされた、という事なのだろうか。  あの娘の実力を考えれば、これは遅すぎた事──御前のお情けで巫女の役割を与えられてきた日々も終わり。  あの娘が選ばれたのは、当然の結果だ。  御前に逆らうつもりは毛頭ない。  あの方への恩義は、巫女の役割から外された今となっても変わるものではない。 (……護る)  けれど、そう決めたから。  それはずっとずっと昔から守り続けてきた事だから。 「…………」  ……守り続けてきた事だから、ではない。 (……護りたい……)  けれど、今の自分では彼を護れない。  何の力も駆使できない今の自分では、本気になったみどのの前には太刀打ちすら叶わない。  同じ土俵にすら上がれていない自分に、何ができるというのか。 「…………」  力で敵わなくとも。  考える事はできる。 (できる事は……ある。きっとある) 「う……」  ──鉛は鉛のまま、何の変質もしてはいなかった。  無理をした分の重みも加算されているんだろう、腕を上げるのさえ荒仕事に違いなく。 「くっ!」  敷布団と張り付きそうになっている背中を無理やり引き剥がし、俺は起き上がる。  身体は例える事さえ困難なほど重いのに、頭の中だけは冴えている。 (──もう充分に休んだだろう?)  己を一喝し、俺は部屋の引き戸から廊下に出る。 (──もう充分に甘えただろう?)  そして俺は、きっとこの家のどこかに居てくれているだろう少女の姿を捜した。  ──いた。  いてくれた。 「おうす……」 「──巽殿」  唇を制するように、言いかけた俺に桜守姫さんが言葉を被せた。 「……なにかな?」  彼女が時折見せる、芯の硬い決意を感じさせる表情。  あの瞳の奥に見え隠れするものを感じた時、俺は何も言えなくなる。 「一つ、お尋ねいたしまする。其方がやり残した事とはなんぞや?」 「え?」 「双子座としての照陽菜をやり遂げ、クッ……クイ……との、関係に……けじめをつけ。  もはや其方に、この街でやり残された事などないはず。逃げたくないという其方のお気持ちはわかりまするが、其方は、命の危険があるこの街に残られ、では何をなさねばならないのです?」 「それは……」 「もしや其方は、“逃げ出す事はできない”という想いに固執されておられるだけではありませぬか」  ──桜守姫さんの口調は厳しいものだった。 「…………」  でも俺には、その言葉が、その目が。  あの火事の日に、透舞さんの頬を叩いた彼女の姿に重なった。 (君は優しすぎるよ、桜守姫さん……) 「──其方は何かをなされるべくこの街に参られたのかえ?」 「いや」 「──其方はこの街に参られてより、何か目的を持たれ、今現在、なし遂げておられないものがおありかえ?」 「いや」 「ならば、ただ、其方のお気持ちの問題……」  気持ちは大切だけれど、それでも、と続くであろう台詞。 「でも俺は、この街に残るよ」 「巽殿!」 「ごめんな、困らせて。けど桜守姫さん。  俺はね、この街で知らなければならない事ができたんだ。  俺がこの街に来るまで必死に、俺なりに必死にやってきた事の原点を」 「原……点?」 「ああ。それはきっと、この街にある──この街にしかないんだ。  ……やっと、思い出したんだよ」 「思い出し……た?」  その言葉に、桜守姫さんは何故だか狼狽したように見えた。 「思……い、いったい、なにを……」 「遠い昔、この街にきて、誰かと会った。そこであった出来事が、その後の俺を形作ったんだ。  ──こんなふうに言ったら大袈裟かもしれないけど、でも、言葉通りの意味なんだよ」 「…………」 「俺はそれを、ふたみだと思ってた。でも、違うみたい……なんだよな。もちろん、ふたみが覚えてないだけなのかもしれないけど」 「そっ、それが、そんなものが! 命の危険を冒してまでお求めになられるものか!」 「桜守姫さん……」 「そんなもの、くっ、くだらぬ……お早く街から出て行かれるがよい!」  ……何故だろう。  この娘の言葉は、とても哀しい。  心配してくれている気持ちが痛いほど伝わってくるから。 「……確かに、命の危険を冒してまで求めるような事じゃないのかもしれない」 「…………」 「けど、俺は気付いてしまった……気付いてしまったんだ」 「だっ、代償は命ですよ!?」 「──命だからこそ」  胡乱でしかないこの想いが、何故だか俺を揺り動かす。 「それはきっと、求めるに値するものなんだ」 「ど、どうか……しておられる」 「まったくその通りだ」  唖然としたままの桜守姫さんに、俺は苦笑を浮かべる。  確かにどうかしてる──でも。  巽策が、巽策である理由を、巽策となった原点を探す。  ……これはそんなにおかしな事か? 「ありがとうな、心配してくれて」 「呆れて……物も言えませぬ」 「申し訳ない」 「…………」 「だから、桜守姫さん。俺の事はもう心配しないでくれ」 「え?」 「俺が言ってる事は馬鹿げてるよ。正気を疑うようなものかもしれない。  俺は、君の優しさに甘えてしまった。だから迷惑をかけている。  ──桜守姫さん。俺の事はもう、放っておいてくれて構わないから」 「…………」 「だって君は、きっと、寝てないんだろう?」 「────!」 「俺を街の外れまで運んで、どれほど疲れたかわからないってのに。君は、きっと寝てないんだ。寝ないで……」 「わ、媛が勝手にした事です」  ──そう。  君は、そういう人だから。  だからもう、迷惑をかけられない。 「……桜守姫さん」 「できませぬ」 「桜守姫さん!」 「できないっ!!」  俺の声よりも強く、激昂に似た彼女の声が響いた。 「けど、相手は魔術師だって──そんな事、君の方がよく知ってるんじゃないのか!?」 「──魔術師であればこそ」 「え?」 「この仕掛け、容易に突破など叶いましょうや」 「桜守姫……さん?」 「桜守姫の泣き所なればこそ桜守姫が存じておりまする。端くれとはいえ、媛もまた桜守姫である事に変わりはありませぬ」  行使できなくとも、魔術に対抗する知識なら有している。  それは信仰を持たずして、学術的な興味だけで聖書を開く行為に似ている──深遠なる領域の智は、その深遠を照らす事は叶わない者にも、深遠に転落せずに済む方法を教えてくれる。  そう言って、桜守姫さんが厳かに瞼を閉じた。 「何を……したんだ?」 「沙汰の外で行われている事など、知らずに済めばそれに越した事はありませぬ」 「…………」 「其方がこの街に居られるのならば、この屋敷を砦と化すまで」 「──俺はのけ者か?」  駆け抜けたのは苛立ち。 「君がそこまでしてくれてるっていうのに、俺は護られるだけか!?」 「巽殿は、ではお気がかりであるという問題をお早く片付けなされませ」 「何……言ってるんだ」 「それは媛の台詞です」 「いつまでかかるのかも──俺自身、決意がはっきりとしてるだけで、まだ何もかもあやふやなんだぞ!? それなのにっ……」 「ですから、それこそ媛の台詞です。それなのに、巽殿はこの街に残ろうなどとお思いでおられまする」 「それは……」 「護られている、などとお考えにならぬ事です。どこぞの誰かが自分の家で勝手に何かをしていた、その後、たまたま闖入者が追い返される出来事があった──いえ、初めから、この家には誰も侵入などしなかった、と」 「…………」  苛立っていたのは、結局、自分自身への歯痒さからに他ならない。 「巽殿」 「……なんだい」 「本日は折角の休校日。体調が思わしくないのであれば、ごゆるりと休まれては如何でしょうや?」 「あ、ああ……まあ、休みでまだよかったかな。こんな状態じゃ登校なんてできないから」 「そうですね」  互い、思ってもいない事を口にしながら、何ともなしな談笑の空気に触れる。  それはとてもぎこちなくて、けれど、今この場に必要な事だった。  ──けれど此芽は、今日が休日であるからこその危険性を承知していた。  みどのは学園にこだわっている。  桜守姫家は今、御前の命令が下った事で大きく動き出してはいるが、恐らくはまだ準備段階と見ていいだろう──その状態では、みどのは学園を休んだりはしない。  両家にとって唯一の“中立地帯”である、弐壱学園。  だが、そこが真の意味で中立であるなどと信じている者は、桜守姫家にはただの一人もいない。  そこが中立であるという“前提”があるからこそ、先に手を出せば向こうに火を点ける口実を与えてしまう、という、ただそれだけの認識でしかない。  わざわざ向こうに条件の出揃ったカードを配る事に、何の得があるというのか。  ──だから言ってしまえば、あちらから襲ってくる事を願っているのだ。  学園においての、みどののあの態度。  あれは「私を襲ってください」という訴えの一つだ。  弱々しくもか細い、吹き抜けた嵐に容易く弾き飛ばされる性格と性質を演じている。  仮に標的が自分となった場合は容易く捻り潰される事になるだろうが、何の役にも立たない今の自分が死んだところで、「最期にようやく役に立った」と短い感謝を捧げられるだけで終わるだろう──けれど、いざとなれば対応できるだけの実力は兼ね備えていると、自信家揃いの桜守姫家なればこそ、これはみどのだけではなく、あの学園に通う年頃の魔術師たちは、皆一様に何がしかの仕掛けを施している。  だからみどのは、誰よりも早く学園に登校する。  まだ部活動の早朝練習さえ始まっていない時間、生徒は誰一人として登校していない時間、朝もやさえ出ている時間に学園に向かい、調査を開始する。  それが妹の日課だ。  連中が何か罠を仕掛けていないか。  もしくは、罠を仕掛けようとしていた痕跡を残していないか。  ほんの少しの手がかりでいい、残滓であっても連中を問い詰める材料には充分だ。  捏造ならばお手の物。  だが捏造とは事実を捻じ曲げる事であって、ありもしない出来事を作り出す事ではない。  材料がなければ奇術も魔術も成り立たないのだから。  ──だからみどのは、早朝の学園を徘徊する。  では休日は?  休日でも、気が向けば学園へと足を運ぶ事もあるだろう。  けれど研磨こそが尊ばれる桜守姫家において、折角の休日を他の何に費やすというのか。  虎視眈々と爪を磨ぎ、来るべき日の為により多くの『枝』を生み出す式をこそ完成させる。  しかし御前の命が下った。  その内容を此芽は聞かされてはいないが、桜守姫家の悲願は常にたった一つであったはずだ。  推測も推察も、ましてや想像すら必要ない。  その“来るべき日”が遂にきたのだと、それ以外にいったい何があると考える事ができようか?  だとすれば、それは他の何よりも優先される事項となる。  研いだ爪を振るう機会だ、その時の為だけに暗き賢人たちは歴史を積み重ねてきた。  相互の利益にしろ一方的な利用にしろ、悲願の対象であるあの一族と密接な関わりを持つタツミが素通りされる謂れはない。  三百の枝を束ねる式を試す絶好の機会として、休日であるからこそみどのが襲撃してくる可能性は高い。  ──気付けば夕刻。  茜色の空に漆黒の鳥たちが舞う。 「…………」  先程、己の姿を鏡で見つめた。  開かれた瞳に宿る冷徹な光。  張り詰めた空気。  それは警戒という名の剣呑。  僅かな嘆息すらためらう緊張感の中、此芽の精神は限界にまで磨り減っていた。 (まだ……まだ駄目だ)  頭を振って意識を覚醒させる。  頬を叩いて目を覚まさせる。 「桜守姫さん!?」  ──寝ていろというのに。  どうして彼は、立つのもままならない状態で自分のところまで様子を見にくるのだろうか。 「…………」  ……そんなに酷い顔をしてるのだろうか。  見つめる彼の表情が、とても辛そうだった。 「媛の事はお気遣いなく」  もう何度、繰り返しただろう。  こう告げる度に、彼の顔に一つずつ皺が刻まれていくかのようだった。 (変わらないね。あなたは、ずっと……)  くにゃり、と、やや視界が歪む。 (えっと……)  ……なんだったか。 (そうだ。嫌われないと……)  ぼんやりとした意識で思い出す。 「えっと……」 「寝てないだけじゃないだろう。ずっと気を張って……それに、さっき仕掛けがどうとかって……」  ……ええと。 「なんです、そのフレーメン反応みたいなお顔は」 「桜守姫さん……」 「え……えっと、えっと……」 「桜守姫さん、もういいから。どうか休んでくれ」 「…………」  ──これじゃ逆だ。  彼に心配をかけてどうする。 (まったく、上手くない……)  思わず口から零れそうになった想い。  それは決して崩れ落ちる事はない壁の向こう側にいる幼馴染の口癖だと思い出し、苦笑した。 「桜守姫さん?」 「いえ……」 「頼むから休んでくれ」  此芽は静かに首を振る。 「桜守姫さん」 「…………」  そんなに真っ直ぐに見つめないで。  想いが溢れてしまうから。 「で、で……は、何か、お話でも」 「話?」 「気が紛れますでな……」  ああ、そうだ。  幼馴染で思い出した。  どうしても──訊いておきたい事が、あったんだ。 「ほ、他に……クイはどのような事をなされておられたのかえ?」 「え?」 「ク、クイが……其方の為になされておられた……他の家事、などを……」  ふたみがしてくれていた家事、というと……。  ──何もかもです!  そう答えてしまうのは簡単なんだけど、桜守姫さん……ふたみがしていてくれた家事を、みんなみんな代わりにやってくれようとしてくれているんじゃないだろうか? 「そ、其方の為ではありませぬ。わ、媛が……勝手に、その」 「て、言っても……」 「え、遠慮は……無用です」  でも……ここで言い渋るのは、なんか、ふたみがしてきてくれた事を俺の勝手で否定するような形にならないだろうか。 「情けない話だけど、みんなふたみがやってくれてたんだ」  そう答えるのが正しいと思う。  その上で、桜守姫さんの厚意に甘えるような真似はできない、って事だよな。 「然様ですか。ならば……」 「それなんだけどさ、俺もこれから暮らしていく上で、ちゃんと自分でも覚えていかないとって思ってるから……」  なんか、ふたみともこんな会話をしたような気がするな。 「媛が家事をするのは……ご迷惑ですか」 「いやっ、そういう意味じゃなくて……」 「…………」 「…………」  ……思わず会話が止まってしまった。 「あれ? 桜守姫さん、その手……」  いつも着物の裾が手の甲まできてたから気付かなかったけれど、僅かに覗いた彼女の腕に─── 「な、なんでもありませぬ」  痣のように見えた。  痛々しい痣の痕。 「ちょ、ちょっとぶつけてしもうただけで……」 「…………」  仕掛け……って言ってたのと関係あるのだろうか。  裾を直した彼女の脚にも、似たような痕が見えた。  殴られたような痣。 「おうす……」 「なんでもありませぬ」 「…………」 「…………」  ……また会話が止まってしまう。 「えっと……あ、そういや桜守姫さんってふたみの事を『クイ』って呼ぶけど、どうしてなのかな?」 「クイ?」  その言葉に、桜守姫さんは一瞬だけだが妙な表情を見せた。 「あ、あれ? 確か……『クイ』だったよね?」 「巽殿にはそう聞こえておりましたか」 「え?」 「……まるで渾名のようですね」 「渾名……なんじゃ?」 「本来ならば、媛が何と口にしようと、指し示す対象が同一であれば其方には其方が認識しておられる通りに聞こえるのです。“渾名として聞こえる”という状況そのものがあり得ませぬ」  その言葉の意味がわからず、俺は首を傾げる。 「確かに媛は、苗字ではなく桜守姫家においてあの御家を示すものとして無数に飛び交う俗称の一つを用いて呼んでおりまする。  なれど、俗称であれ正式な苗字であれ、呼んでいる対象が同じであればそれは其方の認識内において同一のものに変換される、という事です。“渾名として聞こえる”という事は……」  桜守姫さんはそこで言葉を切り、それから、 「媛が……渾名という認識で呼んでいるから、という事……か」 「…………」 「故にこそ、かの一族にとって媛たちは厄介なのでしょう。それを身に着けているから、中和する術を持って生まれくるから」 「……よくわからないけどさ」  いや、本当によくわからないんだけど。  ──一つだけはっきりした。 「桜守姫さんが、ふたみを友達だと思ってるって事がよくわかったよ」 「っ──」 「それだけわかればいいさ」 「…………」 「桜守姫さん?」 「色々と……ございました。媛とクイの間には……」  桜守姫さんは遠い過去に想いを馳せるかのように、その長い睫を重ね合わせた。  ……それは何となくわかる。  二人の間にあったのは、見えない確執。  けれど互いをよく知っている、という信頼の上に築かれた友情。  お互いについて語り出せば、一晩では語り尽くせないほどに知り尽くしているのに──触れ合う事はためらわれる関係。  一定の距離感がなければ、一緒にはいられない。  その距離を保たなければ、一緒にいる事そのものが許されない。  ──互い好意を持っているけれど、素直にそれを示し合う事はできない──  俺には、二人の関係がそんなふうに感じられていたから。  その裏に、家同士の確執がある事を今は知っている。  互いがどう思うかではなく、その家の一員である以上は無視できない境界線が存在するのだと。  それが形なって表れたのが、あの二人の距離感。  長い年月をかけて、譲歩と確執とがせめぎ合った一つの答え。  ……この距離さえ保てば、自分たちは一緒にいられるのだと。 「やっぱり……親友、なんじゃないかって思うよ」 「え?」 「それでも離れなかった、という事がその答えなんじゃないかって思う」 「…………」 「言葉にすると陳腐になるけどね」 「……媛の両親は、クイのご両親を殺害しました」 「え?」 「媛の両親は、クイのご両親に……殺害されました」 「ちょ、ちょっと」 「……そういう事です」 「…………」  何故。  どうして。  喉許まで出かかった言葉があった。  でも、それを問いかけて何になるっていうんだ。  答えなんて目の前に転がっている。  一方が桜守姫家に生まれ、一方が唯井家に生まれた。  理由はそれだけ。  きっと、それだけで語れてしまうんだ。  二人の親御さんが──争った──のかはわからないけれど。  そういう結果になった、という事の理由もそれで、それだけで語れてしまう。  そして対立する両家の、そういう結果になってしまった夫婦の下に子供がいて。  それが、かつてこの家にいた娘と、今目の前にいる娘だって事で─── 「ごめん。俺、知りもしないで勝手な事を」 「構いませぬ。そうした幼少時から積み重ねて、今の媛たちがある。其方のおっしゃる通りなのでしょう」  訳知り顔で語った俺の妄言なぞ、彼女たちの前では骨と皮ほどの重みもない。  ──むしろ失礼だ。 「だからこそ、媛は其方がこの街に残る事を望まれるのであれば、其方のお世話をさせていただかねばなりませぬ」 「ふたみが……何か?」 「…………」 「じゃあ、親友の……」  ……いや。  こんな安っぽい言葉で、二人の関係を語ってはいけない。 「ふたみの頼み……だから?」 「…………」  ──その一瞬の間は、いったい何だったのか。 「……然様です」 「そ、其方こそどうなのですか」 「どう?」 「そ、その……クイと離れて…………ですね」 「…………」 「はっ……離れて初めて、相手の大切さがわかるという事もありましょう」 「ああ……」 「近ければ近いほど、それは……わかり辛いもの、というものではないかえ?」  ──確かに、俺とふたみとの距離は近かった。  近すぎた。  初めから近すぎて───  寂しいか寂しくないかで言えば、やっぱりいつも一緒だった大切な人が傍からいなくなってしまっては寂しいけれど。  それでも、自分の決断に後悔はしていない。 「桜守姫さん、そんなに気を遣わなくてもいいよ」 「え?」 「これで……いいんだから」 「さ、然様……ですか」  ──結局、今日はこの時間まで何も起きずに済んだ。 (油断は……しちゃいけない)  まだ夜は始まったばかりなのだから。  目の下の隈を指先でなぞり、此芽は苦笑する。  ──庭を見回りながら、そういえば、と、ふと思い当たる。  日々、就寝前に当たり前のものとして繰り返してきた儀式めいた行為。 (御前……)  今日まで一日として欠かす事のなかったそれができないのだと気付いた。 (いや、昨日も……)  此芽は地に膝をつくと、ゆっくりと頭を垂れた。  ──桜守姫家の屋敷がある方角へと。  御前の間を前にせずに行うそれは、あまりに簡易的に感じられて。  生じる罪悪感と、背徳めいた想い。  けれど巽の家で夜を迎えた今の自分では、こうするより他になく。 (申し訳ございません。御前……)  御前に背く事はできない。  その身に染み込んだ、あたたかい想いがあったから。  ──では、今自分がしている事は何だ?  その矛盾が此芽の胸を締め付ける。  一段、また一段と、頭が深く沈んでいく。 (申し訳……ございません……)  その額は初めから地に到達していたというのに。  ──此芽が顔を上げたのは、儀式が終わりを迎えたからでも、懺悔に似た行為を終わらせようとしたからでもない。 「誰か?」  この庭に自分以外の気配を感じたから。  重く深い闇の中に沈んだ誰何。  ……彼ではない。  これは魔術師独特の気配だ。 「…………」  ためらいよりも警戒が此芽の足を重くした。 (もしも……侵入を許したとすれば)  正面から戦って勝ち目はない。  仕掛けはすべて侵入を拒む為にこそあったのだから。  今の自分にできる最善はそれだけであったのだから。 (彼だけでも逃がすべき……?)  今、この場を離れる事は彼への危険を増す。  背を向けた自分を逃すほど易い相手ではないだろう──ここまで侵入したとなれば、尚の事。  一歩、此芽は足を踏み出す。 (せめて……)  さらにもう一歩、泥と化した水が撒かれる方向へ。 (彼の……盾と、叶えば……)  湧き上がった想いは、此芽の中で否定された。  ──駄目だ。 (あたしが死んだら、彼もまた死んでしまう)  泥に似た澱んだ気配は目前。 「せめてみどのであってほしい」などと思うのは、自己の抱えた矛盾であったのだろうか。  ──だから此芽はそれを前にして、立ち尽くしていた。 (そういう……事、か)  へなへなと、足腰から力が抜けていくのを感じた。  張り詰めていた空気が弛緩していく。  それが何であるのかを理解した瞬間、此芽はその場に座り込んでいた。 〜ラベル『接触者』の内容は記述されていません〜  ──桜守姫さんの姿がないと気付いたのは、起きてしばらくしてからの事だった。 「桜守姫さん……?」  目覚めた時、まず俺がした事といえば屋敷中を捜し回る事だった。  笑うどころかそんな動作さえも緩慢な膝が、気力という言葉の意味すら忘れてしまった身体を頼りなく支えて歩く。  あと一歩。  もう一歩───  次の一歩で負荷に耐えられず折れるんじゃないかと懼れながらも、逸る気持ちを抑えきれずに着物姿の少女を捜す。 「…………」  でも、結局。  ──悪い予感なんてのは、たいがい。 「はっ……はっ……!」  ちょっと……洒落に、なってないな、これ。  広がる青空が今の自分とやけに対照的で。  柔らかな日差しも湿気の篭った風も俺を物体としてしか認識していないとばかりに、俺自身、生きてる心地がしない。 「ぜっ……!」  それでも。  何度か壁に寄りすがり、身体を引きずるようにしてたどり着いた───  ──古の雅。 「…………」  初めて訪れた時と受ける印象の変わってしまった御家の門前。  かすめる予感が俺を頭から喰らい尽くす。  込み上げた思いを押し殺す唇を噛み、そして──俺はハッと我に返る。  ──桜守姫さんが俺にしてくれた事を思い出せ。  あれだけしてもらって、俺はこの程度でびびって尻込みしちまうのかよ。  ……例え。  この門の向こうに待ち受けるのが悪戯に俺の命を摘み取ろうとする魔女だとしても─── (往け。巽策) 「やあ」  声をかけられ、一瞬、身が縮む思いをした俺が振り向いたそこには───  ──例の彼がいた。 「……こんにちは」  急速に訪れる安堵と、そして、彼を前にした時の俺の心理の変化。  ──今なら、彼の目を真っ直ぐに見れる。  そう思える自分が、少しだけ誇らしかった。 「ふうん……」  彼はやや斜に構えた様子で俺の目を見つめると、にこっ、と微笑みを浮かべた。 「いい目になったね」  ──そう告げた彼の姿は、やはり兄貴と重なった。 「ありがとう」  そう言ってもらえたという事を、誰よりも真っ先に伝えなければならない人はもう俺の傍にはいないけれど───  彼が言ってくれた“いい目”っていうのには、もう一人分の影響が込められているんだろうか。  ……そうであってほしい。 「この家に何か用かい?」 「ああ。おうす……此芽さんに会いにきたんだけど」  そう告げると、彼は一瞬、含んだような表情を浮かべて、 「ははぁ……なるほど。まあ、入り辛い家だしね」  そう言った。 「何でもお見通しだね」 「君は僕を妙に持ち上げるね。……いや、そういう視点で見ている、と言った方がいいか」 「…………」 「いつか、君のお兄さんに似てるって言っていたけれど──もしかしたら、君がお兄さんをそんなふうに見つめていたという事が、君とお兄さんを遠ざける結果を生んでいたのかもしれない」 「……手厳しいね」 「ごめんごめん。そういう意味じゃないんだ。あー……僕は一言多いっていうか、余計な事を言っちゃうからな。気にしないで」  苦笑する彼は、次の瞬間には笑顔を浮かべて、 「うん、じゃあ、お詫びって事で。──こっちだよ」 「え?」 「ついてきなよ」  と、彼は門から離れると、屋敷の壁に沿って歩き出した。  その後について歩くと、以前、延々と走り続ける破目になった長い壁が目の前に広がった。  ──相変わらず、すごい奥行きだな。 「こっちこっち」  よどみなく進む彼に従い歩く事、数分。  ──不意に、彼が立ち止まった。 「ここだよ」 「ここ……って……」  代わり映えのしない壁の一点に彼が触れた途端、それは奇妙な音を立てて───  ──畳ほどの面積も一段奥まった壁は、そのまま横にスライドしていった。 「さあ」  そう言って彼が潜った隙間は、人一人分は優にあった。 (こんな仕掛けが……)  仕掛けそのものには驚いたものの、仕掛けがあった事自体はさほど驚くような事じゃない。  これだけの屋敷だ──仕掛けの一つや二つ、あっても何もおかしくはない。  ……問題は。 (こんな事を知っている彼は、いったい何者なのかという事だ)  彼の正体を詮索するなんて、きっと野暮なんだろうけど─── 「君は……桜守姫の家の人なのかな?」 「うーん……どうだろうね。そうであるような、そうでないような……」 「曖昧な返答だね」 「正確な答えさ」  意味深な言い回しは変わらない。  兄貴に似た彼は、何でも知っている。  そう考えるだけでしっくりきてしまう俺は、やっぱり兄貴に負い目を感じていたと同時に、頼りにしていたのだと改めて痛感した。  眼前に広がる古の雅。  留まるはずの時代から足を滑らせて、うっかり迷い込んだ古都──その印象がどれだけ負の形で変質しようと、捜す相手がお姫様である事に、やはり、何の疑いもない。 「あれ?」  ──気付けば、俺の前を歩いていたはずの彼の姿がなかった。 (何処へ……)  他人の家に無断で侵入して、辺りをきょろきょろと窺う俺は不審人物そのもの。  尚も。  独り、と意識した途端、門前で感じた嫌な汗が再び俺の表面をなで上げる。  古都は魔境へと変貌し、風流な趣は陰惨の温床と化す。  流れる風は勿論、景色さえも違って見える。  踏み出す足に──生じた躊躇い。 「…………」  それでも門前での誓いを奮い立たせ、踏み潰すように一歩を踏み出した時─── (やばい。誰か来た……)  耳に届いた足音。  ──俺は咄嗟に、手近な建物の影へと飛び込んだ。 (まずい。こっちに来る……)  だがその目的は俺が隠れた建物そのものにあったのか、足音はこちらへと近付いてくる。  慌てた俺は、とりあえず靴だけ脱ぐと、隠れていた建物の中へと忍び込んだ。 (よかった。行ってくれたみたいだ)  遠ざかっていく足音に安堵すると共に、あまりにも灯りのない建物の内部の様子に気付く。 「…………」  冷静になって状況を確認すれば。  咄嗟に入り込んだこの建物──気のせいか空気は嫌に重苦しく、呼吸には圧迫すら感じる。  灯りがないどころか外の明かりさえも満足に取り込まない構造。  ──魔術師の一族──  ……脇腹にじんわりと広がった痛みは、先日から続く体調の不良のせいだけとは思えなかった。  緊張が増すと、一歩一歩もより慎重になる。  小さな音もより大きく聞こえる。  歩む廊下の床が軋む音さえ命の綱渡りにも聞こえ、過敏すぎるほど過敏になった神経は薄暗いこの場所の陰鬱な印象を嫌というほどに高めていく。  ──息が詰まる。  そして、詰まった息が俺を窒息させる。  いつ誰に見つかるとも知れないのならば大手を振って庭を歩くわけにはいかないとはいえ、こんな場所は一秒でも早く出て行きたい。 (……ん?)  音を殺して歩む廊下の先にある部屋の襖から、ほんの少し、灯りが漏れていた。  常ならば気付かないほどの灯火。  けれど、昼日中で見れば陰りにすっぽりと覆われてしまうほどの灯りでも、光を取り込まない構造のこの屋敷の中では、眩しくすら感じられた。 (誰か……いる)  ──近付いた襖。  部屋の主の姿は見えなかったけれど、暗がりの中でも気配めいたものは感じられた。 「何を……してるんだ?」  僅かに。  ほんの僅かに開いていた、締め切りの甘い襖の隙間から覗くものがあった。  もしも部屋に灯りがなければ、一応とはいえ外に面している廊下にいる俺の姿に気付かれてしまったかもしれないが──どうやら俺に気付いている様子はない。 (いったい……)  でも、問題はそんな事じゃなかった。 (なんだ……あれ?)  そう。  そんな事じゃ、なかったんだ。  襖の隙間から僅かに覗いたもの。  部屋の主の膝元に寝かされた、それ。  それは沈黙しているもの。  動かないもの。  けれど、ヒトのカタチをしているもの。 (あれ、は)                         死体。 「────」  息を呑む俺の前で、襖越しに繰り広げられる──狂態は。  すい、と。  朽ちた骸を前に座する者から腕が伸びる。  伸ばした指先は死体に触れながら、                         ずぶり、  と乾き始めた肉に爪を穿っては深々と喰い込  ──何処をどう走ったのかまるで覚えていない。  自分がどうして走り出したのか考える事さえも放棄して。  唐突な負の冷たさに混乱して、頭の中身を指先とは呼べない指先に掻き回されたような気がして、俺はただその場から離れたい一心で。  逃げ込んだのはまたどこかの部屋。  そのまま襖を閉めて、そのままの体勢でしばらく呼吸を整えていた。 (なん……だよ、あれ……)  ──そうして考えてしまうこと自体が寒気を呼んで。  震えよりも息苦しさがより濃くて。  思い出さないように務めている自分に気付く間もなく。 「っ……!」  走り抜けたのは、背中から針で刺されるような痛み。  ──痛み?  違う、これは痛痒じゃない。  肌が、この場にいる事を拒否している。  逃れようとしている肌が骨と肉の上を走り引き裂かれる。 「ぐっ……あっ……!」  凄まじい激痛が走り抜け、連鎖する怪異に翻弄されるがまま。  俺は、振り返─── 「……っ!」  ──思わず後退っていた。  なん……だと。  今、俺は……なんだと……感じた?  な…………に?  ……畜生。  腕が痺れてやがる。  指先が震えてやがる。  足が地面に縫い付けられたように動かない。  脚が己の意思に反している。  この場に満ちた大気に触れた瞬間、そいつが、ある事を、ある真理を俺に伝えている。 「うぉっ……!」  唯一、俺に許されたのは。  踵を返して、この部屋から飛び出す事だけだった─── 「なん……だったんだ」  なんだったんだ、アレは───  ──なんなんだよ、ここは。  魔術師ってのは─── 「──ああ、ここにいたのか」 「……!!」 「どうしたんだい?」 「い、いや……」  自分自身、驚くほどの汗をかいていた事に今更ながら気付いた。  喉許まで出かかったのは、「アレはいったい何なんだ?」という問いかけ。 「どうやら此芽は帰っていないようだよ」  けれど、続くその言葉が俺を僅かに冷静にさせる。 「え?」  ──帰ってない?  じゃあ、もしかして。  ここにいないとなると、彼女の行き先は…………。 「はっ……あ、あ……っ」  ──息苦しいなんてものじゃない。  吸い込む先から酸素が肺から漏れていっているかのようで。  できて当たり前の事ができない時ほど辛いものはない。  呼吸、が──いや。  ぎりぎり呼吸だけが行えている、という感覚。 (弱音を……吐いてる、場合じゃ、ない)  無理やりにでも顔を上げて、俺は階段を踏み締めるように一歩一歩上っていく。 「あら、巽さん」  一つの階段を上りきったところで出会ったのは、見慣れたクラスメイトの姿だった。 「透舞……さん」 「ど、どうなされたんですの?」  そんなに酷い有り様に見えるのか。 「……桜守姫さんを見なかったか?」  気遣いは嬉しかったけれど、今はそれに応える余裕がない。  俺は不躾に自分が訊きたい事だけを一方的に切り出した。 「お姉様? まだこんなお時間ですもの、ご登校なされておられないと思いますけれど」 「…………」  ……俺は、透舞さんから目を逸らす事ができなかった。 「でも、じきに皆様ご登校なされるでしょう。お姉様もすぐにいらっしゃるんじゃありませ……巽さん?」 「……本当に」  目を逸らす事など、できない。 「本当に、見なかったのか?」  彼女の──彼女の背に隠れるように顔を覗かせた、その二つの瞳から。 「あ、みどのにお尋ねですの? お二人は姉妹ですから一緒のお家にお住まいなのは当然……と思われるかもしれませんが、桜守姫家はとても広大な敷地をお持ちですので、それぞれ別のお屋敷に住まわれていて通学も別べ……」 「どうなんだ? 見たのか? 見てないのか?」  俺が見つめているのは、桜守姫みどの。  ──赤と青との間色に揺らぐ水泡。 「……見たよ」 「────!」 「あら。お姉様、もういらっしゃってましたの?」 「うん。さっきね、見かけたよ」 「それで? 桜守姫さんは、今何処に?」  この魔女の姉の身体に滲んでいた痣。 「──何処へやった?」  どうして結びつけて考えなかった。 「う、うん……何処へ行ったのかな……」 「俺は何処へやったと訊いてるんだ!!」  焦りが背中を押して、俺は込み上げる赤黒い塊を抑え切る事ができなかった。 「た、巽さん? いったいどうなされたんですの? そんな剣幕で……みどの、怯えてしまっておりますわよ」 「悪い、透舞さん。少し黙っていてもらえるか」 「巽……さん?」 「…………」 「どうなんだ?」 「せ、せんぱ……」 「どうなんだ!? 桜守姫みどの!!」 「…………」  ──その一瞬。  一帯の時間が停止したかのような錯覚が駆け抜けた。 「さっきそこで見かけたんだから、きっと、まだ近くにはいるんじゃないかなぁ」  ぞくり、と、俺の身体を包み込んだ肌寒き暴力。 「学園からは出てないよ。授業を受けにきたんだから、出ていく理由がないもの」  言葉の一つ一つがこの身に突き刺さり、鋭く刃を立てて臓腑を抉ろうとするかのように。 「ちょっと……巽さん? 真っ青ですわよ? 本当に大丈夫ですの?」  俺の耳には、透舞さんの声は届いていなかった。  いつもその背に隠れていた少女の両の眼が、無言で俺を脅迫しているかのように感じられて。  魔術師の眼差しには、通常とは異なる力が宿るとか──何かで読んだような気がする。  普通の人間でさえ、相手を凝視すれば、対象となった者に「視ている」という事を背中越しにでも気付かせる事ができる。 “視線”そのものが説明のつかない幽玄を棲家とする理ならば。  魔の法を繰る者が相手を見つめる行為が如何なる結果を引き起こすか、という理論。  不可視の鎖で縛り上げるかのような、対象の心の捕縛。  それは魅了と言い換えてもいい。  見つめた先の相手の心を自在に操り、己が支配下に置いてしまうあやかしの視線。  では、対象を害する気持ちで見つめたならば───  ──それは『邪眼』と呼ばれていた。  見つめただけで相手を呪い、最悪、死に至らしめるという邪なる眼差し。  俺は今まさに、彼女の邪眼に射竦められているかのような気分だった。 「…………」 「みど……」  ──息が、詰まった。 「かっ……かはっ」 「……? ……どうなされたんですの?」 「い、いや……」  相変わらずみどのは透舞さんの背中に隠れて、無口にこちらの様子を窺うばかりだ。  ──そう、学園の中では相変わらず。  俺の命は、今、彼女に握られているのだと。  否応にもそう痛感させられる。  背筋が冷えるどころの騒ぎではなく、身動きすら満足に叶わないまま舌の根が乾いていく。  ここが学園で、傍には沢山の生徒が談笑に華を咲かせている事など、どこか遠い世界の触れざる出来事なのだと本気で信じ込んでしまえるほどに、他のすべては“背景”だった。  ──音のない世界。  今まさに、彼女の目が赤く光って、見えざる腕が俺の心臓を鷲づかみに─── 「巽さん? 巽さん?」 「え? あ……」 「いったいどうなされたんですの?」 「い、いや……」  我に返れば、身体中が汗だくだった。 「おかしな方ですわね」 「……おかしな先輩」 「は、はは……」  これほどぎこちない笑顔を浮かべたのは生まれて初めてだ。 「さて。では、そろそろ参りますわ。わたくし、今日は用があって朝早くに登校しましたのよね。巽さん、ごきげんよう」 「……先輩、さようなら」 「ま、待──」  必死の抵抗を試みて、喉から搾り出したその声。  それは音にならぬまま、俺の横合いを二人が通り過ぎて行く。  その時、彼女の長い髪が俺の首に巻きつくんじゃないかなんて本気で考え─── 「──先輩は死にたがりなの?」  通り過ぎたはずなのに耳元で声が囁いた。  それは息を吹きかけるほどに甘く、それでいて毒素を持つ長い舌で耳の穴を嘗め回されたかのように。 「みどの?」 「ううん、なんでもない。ごめんね、のんちゃん」  去り往く彼女の背中に、霞む陰を──見た。 「──いい格好ね、お姉様」  晦のこの街の夜によく似た光景は、この世の影がすべて集まったのではないかというほどに濃い暗の塒。  その黒き絨毯を切り裂くかのように光の柱が伸びる時、柱の中央には少女の影絵が描かれている。  薄い冷笑みを湛えた少女。  ここは普段、仕舞われた用具たちがその出番を待ち望んで眠りにつく場所だ。  室内で運動競技を行う為に用意された、中ほどの高さで弓なりになった──いわゆる蒲鉾形をした施設を、この学園の景観に合わせて作られたものだ。  だからここは、体育用具室と呼ぶのが正しいのだろう。  差し込む日差しに照らし出される、麗しき少女の霰もない姿。 「さっきね、訊かれたわよ。“桜守姫さんは何処に行った”ってね」 「…………」  ──誰か自分に用がある者がいたのか、という程度にしか思わなかったのだろう。  彼女に用があるのならば、妹であるみどのを見かけて尋ねる事に、何の不思議もない。  それは実にその通り。  ただし。 「ああ、違う。“桜守姫さんを何処へやった”だ」 「……え……」  生じた違和感に、此芽が顔を上げた。 「失礼しちゃうわよね。あたしだって“桜守姫さん”なのにさ。なんでこの学園で“桜守姫さん”はあんたになるんだろうね。  ま、あんたみたいな『出涸』じゃあ、あたしたちみたいに矢面に立っても仕方ないし? 精々、周りからちやほやされていい気になってればいいけどさ」 「…………」  言いかけた言葉を呑み込んだ気配があった。  みどのが餌を投げかけておきながら、わざと話を逸らした事を此芽は気付いていた──そしてみどのもまた、此芽がそうと知った上で言葉を呑み込んだ事を感付いていた。 「…………」  生じた沈黙。 (……なによ。何か言いなさいよ)  ──自分はいったい何に対して苛立っているのだろう。  みどのの奥底にわだかまりが木霊する。  だが、それは言葉にはならない。  自問となるまでの明確な形を持たない。  だからこそ、“わけのわからない感情”として彼女の内で苛立ちだけが増幅する。 「貴女、お気付きになっておられませんの? お姉様のお気持ち……」  きっと、此芽が自分から口にしたわけではないだろう。  けれど、のんは彼女の態度からその事に気付いた。  自分は──気付きもしなかった。 「おっ……お姉様。今、桜守姫家が大きく動き出している事をご存知?」 「…………」 「きっ、訊いてんでしょ! 答えなさいよ!」 「……外でどれだけ巧妙に隠そうとも、内であれだけ慌ただしくしておりますれば」 「そうだよね、気付くよね」  此芽が答えを返してくれたというだけで、どうしてか湧き上がった安堵。  けれど、己が口にした台詞が胸を焼く。  ──気付かなかった自分。 「あ……ご、御前がね、遂に動かれたのよ。我々桜守姫家の積年の悲願を達成する為にね」 「…………」 「あれ? お姉様、教えてもらえなかったの? 御前に一番可愛がられているのに?」 「…………」 「きっ、訊いてんでしょ!?」 「……ええ、媛には」 「あ、あははっ。可哀相にね、お姉様。一番のお気に入りなのに、肝心なところでは除け者なんだ」 「…………」  大袈裟に笑うみどのに対し、此芽はただ瞼を閉ざして黙しただけだ。 「な、なによ、黙っちゃって。悔しいの?」 「…………」  ──違う、のだと。  気付いてしまう事ができなければ、この苛立ちは訪れないでくれるのだろうか。 「なっ……なによ」  沈黙に堪えられない。  ほんの僅かな沈黙でさえも。  ──それは熱した鉄串となってみどのの胸を焼く。 「……何、澄ましてんのよ!!」  不快なまでにどろどろとした粘液が込み上げるのを抑え切れず、平手が拘束された者の頬を叩いた。 「…………」  けれど此芽の表情は露ほども動かない。 「────!」  その様が。  より熱を増して、より溶けた粘液と化して、みどのの中で増幅していく。 「なによっ!!」  人形のように魂の抜け殻として、ではない。 「なんとか言いなさいよっ!!」  此芽は──姉は、いつもの姉のままで。  いつもの。  ──いつも。  いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも!! 「馬鹿にしてっ────!!」 「…………」  変わらず訪れる沈黙。  先程よりも、より澱んだ空気を伴って。  静寂の中、姉妹は互いに。  己の想いに、沈んでいた。  ──此芽は考えていた。 『タツミ』とは何か、と。  確定ではないにしろ、おおよその想定はつく。 “あれ”はあの家の象徴だ。  あれこそがあの家の傲慢を顕示する狼煙であり、恣意を誇示する示威の旗──桜守姫家に生まれた者ならば、誰でもそう教わる。  その随意の程は此芽にはどうでもいい事ながら、ならばこそ、それは「決して折れてはならぬ旗」だという事は旗を立てた者たちの真意がどこにあるにしても曲がらぬ事実であろう、そう認識している。  掲げられた旗は風雨にさらされ月日に削られ、次第に朽ちゆき、いつしか折れるもの。  それを防ぐ為に取られている行為が、同等の旗を定期的に新調しているのか、旗の支えを補強しているのかは定かではない──しかし、旗の維持が行われているのは間違いない。  前者にしろ後者にしろ、その周期こそが百年なら。  ならば、その度に呼ばれる『タツミ』は。 (……問題は)  問題は、何故“今”なのか、という事だ。  何故なら彼はすでに一度呼ばれているのだから。  維持を“更新”と呼び直す事に不都合はないだろうが、その為に必要な代価はすでに支払われている。  それでこそ“今”、更新が行われるのだろう──これまでの歴史が証明しているように、『タツミ』が呼ばれる時期と更新の時期は多少の前後があった。  即ち照陽菜。  照陽菜より前に、数年、あるいは十数年前に、『タツミ』はこの街へと召喚される。  しかし彼は再び呼ばれた。  ここに「彼でなければならなかった理由」などないだろう。  何故なら、あの家にとって彼の生存は予想外でしかなかった事柄なのだから。  彼であったのはまったくの偶然──そして、百年の間に『タツミ』が二度も呼ばれる事などこれまでの歴史において一度としてなかったという事例から察すれば。  ……“今”というこの時期、そして“今回”という更新には。 (これまでとは違う何か特別な意味がある、という事)  だとすれば、それこそ彼が桜守姫家に狙われる理由に結びつくのだろうか。 (ごめんね、ふたみ)  それは具体的ではない。  一族としてのまとまりを欠く桜守姫家にあっては、「御前がご存知でさえあればいい」という事例があまりにも多すぎる。  だから、あれがどのようにして生まれ、また何によって更新されているのかは想像の域を出ない。 (それでも、あなたに関わる事なのだとは想定がつく)  ──ついてしまう。  今更、何故ついてしまうのかの理由を列挙する事には何の意味もないだろう。  かの一族の純血たる者が百年に一度の時期に忽然と姿を消すという事、あの雲が遥かなる太古から今日まで折れぬまま在るという事、そして今現在、かの一族の純血たる資格を有するのは長を抜かせば一人だけであるという事。  そして、それに必要なのが『タツミ』なのだ。  彼女はその『タツミ』としてこの街に召喚された者に剣呑を説いた。  しかし、ああは言ったものの─── (恐らくあの家の者たちは、さくを狙ったりはしない)  もしも彼が──『タツミ』が更新に必要不可欠な歯車であるのならば、彼らは全力で護らねばおかしい。  何故こうも野放し状態なのか、現にみどのによる襲撃を許したではないか。 (……恐らくは違う)  すでに目的は果たされているのだ。  だからこそ彼らは召喚した『タツミ』に関与しない。  そこに彼の花嫁として据えられたふたみがいれば、彼女の護衛が結果的に彼をも護ったかもしれないが─── 「アレもあんたと同じ『出涸』」とみどのは言った。  二度目の目的もすでに果たされている、とすれば。  彼はもはや護られる事もなければ狙われる事もない。  だとすれば、残る問題は桜守姫側だ。  だからこそ、彼女は学園にやってきた。  そしてだからこそ、彼女は今ここでこうして捕まっている。  問い詰めたみどのにこの場所へと押し込められ、彼女が編み込んだ拘束着を着せられて身動きを奪われている。 (……いや)  桜守姫側、ではなく、みどのなのだろう。  あの時、庭で見つけたアレ──彼女が巽家を来訪した理由はそこにある。  そして彼女の言う通り彼がすでに『出涸』であるのなら、桜守姫側にとってタツミには利用価値など何もない。  だから、みどの個人に彼を狙う理由がなければ─── 「…………してやる」  犬歯に挟み込まれた唇から、つつ、と血が伝う。 「あいつ……巽、策。殺してやる」  その時になって初めて。  黙していた此芽の身が、びくりと大きく震えた。 (……何、その顔)  僅かな変化だって見逃さない。  血を分けた、たった二人の姉妹だから。  その一瞬、姉の双眸が見開かれた事を妹は見逃しはしなかった。  ──その心は闇に暮れる。  ……悪循環である事は、よくわかっていた。  御前が自分に目をかけてくれるほどに、庇えば庇うほどに、みどのの苛立ちが高まっていった。 (あたしは御前がかけてくださる期待を裏切っている)  裏切り続けている。  だから、いいのだ……と、心のどこかで納得していた。  御前が期待をかけてくれるほどに、妹の心が姉から離れていくという事。  御前が目をかけてくれればくれるほどに、妹の心が荒んでいくという事。 (この娘がこんな態度を取るようになったのだって……)  ……それで、みどのの気が済むのなら。 (だってこの娘は、ほんとうは、とても心優しい娘だもの) 「ふん。あたし知ってるんだから。あんた、あの男を──」  今はほんの少し、擦れ違っているだけ。  だから、それでみどのの気が済むのなら。  ……それで。 (それで……彼の身の安全が保障されるのなら) 「……好きにせい」 「えっ……」 「媛を、みどのの気が済むようにせい」 「な、なに……を」 「どうか、それで……巽殿は許してもらえまいか」 「…………」 「どうか……」 「…………」 「みどの……」  薄暗い体育倉庫。  近くに転がっていた、リレーのバトン。 「……ホントに何でもするのね?」 「ええ」 「…………」  みどのは足元のバトンを拾い上げると、此芽に向かって投げつけた。 「──挿しなさいよ」 「え?」 「手足の拘束は解いてあげるわ。だから、ほら」 「……?」 「わっ、わかんないの? あんたの大事なところに、それを挿せって言ってんの!」 「……!」 「な、何よその顔。何でもするんでしょ? 許して欲しいんでしょ?」  ──できるはずなんかない。  そう、みどのは思っていた。 「本当に……みどのの望みを叶えたら、巽殿は許してもらえるのかえ……?」 「ええ、二度と手は出さないと誓ってあげるわよ。できるもんならね」 「…………」 「ふん」  みどのは鼻を鳴らす。  姉はいったいどう懇願してくるだろうか。  それだけは勘弁してくれ、なんて陳腐な台詞をぶつけてくるか。  それとも、どうか許してくださいと、泣きついてくるだろうか。  プライドの高い姉が屈服する姿を想像して、妹は口許を歪ませる。  だが、もしも彼女の友人が、此芽がそのような選択を迫られたと知ったらこう言うだろう。  お馬鹿ですわね、みどの。  お姉様がご決意の下にそう口になされたのなら、あの方はその誇りの故に─── 「えっ……」 「約束……したぞえ」  此芽のたおやかな指先にバトンが握られる。 「ちょ、ちょっ……」  そして彼女は、ゆっくりと。  一瞬のためらいを噛み締めるかのように。  擦り切れ薄汚れたバトンの先端を、己の下腹部に─── 「ばっ……」  ──押し寄せる感情の正体は。 「ば、ばっかじゃない! じょ、冗談よ、冗談。冗談に決まってるでしょ! なに本気にしてんのよ!」 「……よいのかえ?」 「いっ、良いも悪いも……ちょっとからかっただけよ! あ、ああ白けた! 馬鹿馬鹿しい!!」 「…………」 「い、いつまでそんな格好してるのよ! ほら、拘束は解いたからさっさとどこへでも行きなさいよ!」 「みどの……」 「行けって言ってんのよ!!」  ふらつく姉を妹は追い立てる。 「巽殿の事は……」 「もっ、元々あんなのどうでもいいのよ! 何もしやしないわよ!!」 「みど……」 「しないって言ってるでしょ!! さっさと行って!!」  此芽を追い立て、みどのは独り、静寂の中に取り残された。 「はっ……」  肩で大きく息をする。  心臓が早鐘の如く動いて、込み上げる想いがそれを助長する。  ──何故だか、泣きそうになっていた。 「なに……やってんの、あたし……」  みどのの脳裏に、ある言葉の断片が木霊した。  あれを自分に言ったのは、いったい誰だっただろう。  いったい何と言っていたのだったか。  確か、そう。  あの頃、敬愛してやまなかった存在が、こう言っていた。 「魔術師たる者────」 「なにを……なさっておりますの」 「…………」 「みどの……貴女」  ──動けなかった。  その信じ難い光景を目にした時、硬直して動けなかった。  足が竦んで、呼吸さえも忘れて、我が目が映し出す映像を見つめている事しかできなかった。  そんな事をしている間に、彼女の敬愛する存在は衣服を手に飛び出して─── 「のん……ちゃん……?」  その事態を生み出した張本人もまた、唐突な出来事に動けずにいた。 「何の……冗談……」  迂闊、といえばただそれまでだったのかもしれないが──早朝の学園の事なら誰より彼女が知っている。  今日はどの運動部の朝練でも体育館は使用されず、授業が開始されるまで完全に無人となっているはずだったのだから。  それなのに、どうしてここに彼女がいる?  よりにもよってなぜ彼女が?  見開かれた四つの瞳。  ──互いが。  互いが互いの居場所を疑っていた。  いるはずの彼女がいる、という事。  ありえるはずがない事を彼女がしている、という事。  双方の双眸が己の眼を疑う。 「みど……の」 「の、のんちゃん。ど、どうしたの? そんな怖い顔し……て」 「貴女……は」 「の、のんちゃんってば」 「貴女はいったい、今日まで何をしてきましたのっ!」  ──透舞のんは、今日まで、桜守姫の姓を持つ二人の女性とその行動の多くを共にしてきた。 「のん……ちゃん、なに言ってるの? あ、あた……し、わかんないよ……」  一人は人生の模範とすべき尊敬の対象として。  一人は何気ない時間も分け合える親友として。  だから、わからないはずがない。  我が目という劇場で上映された映像が、演じられた作り話であったのか否かなど。 「のんちゃん……」 「見損ないましたわ! あ、貴女は……貴女はっ!!」  しかし、その上で、わからなかったのだ。  気付く事ができなかった。  恐らくは常習的に繰り返されてきたであろうこの姉妹の関係を。  例え血は繋がらなくとも、最も近くにいるのは自分なのだと。  同じ姓の下に生まれた者でなくとも、姉妹の一員としての輪の中に──その“特別”な輪の中にあるのだと、無邪気に信じていた。  一人っ子だった彼女が得たはずの、尊敬する姉と、可愛い妹。  けれど、その図式は今すべて粉々に砕け散った。  自分は蚊帳の外だった。  何も気付かなかった。  何も、何一つ、わかっていなかった。  姉と妹の間に生じていた確執の何一つ──学校の友達の前では見せようとしなかった、その壁の向こう側にしか自分はいなかった。  自分は姉妹の一員などではなかった。  始まりはとても静かだった。  燃え盛る蝋燭の炎が、ふっと、掻き消されるかのように。  だが、それは吐息で掻き消されたなどという生易しいものではなかった。  ──泡が弾けたのだ。  炎といわず蝋燭ごと包み込んだ水泡が、蝋どころか芯どころか燭台もろとも激昂のまま握り潰すかのように内側に破裂したのだ。 「なっ……なによ、なによ……!」  水泡の中央に開いた二つの穴が、狼狽と戸惑いの中にいる女生徒を睥睨する。 「えっ……」  双眸が揺曳するまで待たず、眼光の対象者となった少女に異変が生じた。 「なっ……え、あ……く、苦し……い」  まるで脈打つ心臓を鷲づかみにされているかのような圧迫。  己の意識とは無関係に浅くなっていく呼吸が体内の血の巡りを変え、鼓動を押さえつける。 「あっ……か、はっ……」  見慣れたはずの、見知ったはずの少女が女王へと変貌を遂げる。  桜守姫家の御前に祈祷する巫女へと。 「みっ……みど……」  薄暗い倉庫の暗がりに幾重にも折り重なるように溶けた女王の影に文字が浮かび上がった事など気付く余地もなく──ただ彼女に理解できた事は、この瞬間、すでに己の命が女王の膝元に献上されていたという事だけだ。  ──怖かった。  ただ、純粋に、眼前の少女が恐ろしかった。  これが本当に、あの気弱なみどのなのだろうか?  耳をそばだてないと聞き取れないほどの小声で話し、注意深く、辛抱強く言動をうかがわないと何を望んでいるのかもわからないほど自己主張の苦手な──自分がいないとクラスメイトの輪の中にすら入っていく事のできない少女なのだろうか? 「──ねえ、のんちゃん?」  びくり、と。  聞き取れないはずの声は薄闇の中で驚くほど響き渡る。  ただそれだけで、のんの身体は大きく震えた。 「のんちゃんさ、今、とんでもない事をしちゃったんだよ。わかる?」 「え……?」 「あたしを、引っ叩いたんだよ。このあたしを」  ……友達。  その言葉が、今、空色の絵の具で塗り潰したかのように色褪せる。 「ちょっと図に乗っちゃったよね。学園でさ、いつも一緒にいさせてあげてるっていうのに──勘違いしちゃったんだ? そういうのって、ちょっとイタイよね。  のんちゃんはさ、誰彼構わず言いたい事は言っちゃうような娘だからさ。だから目をかけてあげてたっていうのに」 「みどの……?」 「ちょっとした事でも大きな騒動にしてくれてさ、トラブルメーカーじゃない? そんなふうにいつだって目立ってくれるから、だから選んであげたのに。  あんたの背中は、弱々しく認知されるには格好の居場所だったからいてあげたのに。どうしてあたしを叩いたりするのかな?」 「…………」 「一応さ、トモダチだって思っててあげたんだよ。あの時だって、のんちゃんのお願いを叶えてあげたじゃない」 「お願……い?」 「そうだよ。空明の里に火を放ちたかったんでしょ? だからあたし、やってあげたのに」 「…………」 「鉄片を擦り合わせれば火花が生じるんだから、あたしだって火を作り出す事はできる。簡単だよ」 「みど……の、貴女……」 「びっくりしちゃったよ。のんちゃん、自分のせいだなんて思うんだもの。ふふっ、よっぽど混乱してたんだね?」 「…………」 「ね? あたし、のんちゃんの事をトモダチだと思ってるんだよ」 「…………」 「なのに、どうして叩いたりするの?」 「…………」 「どうして、って、訊いてるんだけど?」 「──ま、いいや。のんちゃんは特別に殺さないでおいてあげるよ。トモダチ、だもんね。  だからのんちゃん。今度は一緒に、お姉様をイジメよう?」 「…………」 「仲間に入れてあげる。のんちゃんはどんな事がしたい? 学園じゃあんなふうに振舞ってるお姉様がね、家じゃとっても情けないんだよ?」 「…………」 「のんちゃんがしたい事していいよ? ねえ、どんな事して遊びたい?」 「…………」 「ねぇ? のんちゃん……?」 「……のんちゃん?」 「みっ……見損なわないでくださいます!?」  魔女が支配した空間に、魔女が捕獲したはずの獲物の怒号が、轟いた。 「わっ……わたくしはね、お姉様をお慕い申し上げておりますの! 誰よりも気高くあられるお姉様をお慕い申し上げておりますの!!」  怖かった。 「お姉様に少しでも近付きたくて、少しでもお傍にいたくて、それで真似て……」  怖くて仕方がなかった。 「そのわたくしが、こっ……こんな事くらいで、貴女の言いなりになんかなるものですか!!」  未知の脅威を前に、人は抵抗の力を失う。  思考力さえも麻痺する。  手足は震え、身体は竦み、表情はどれほど恐怖におののいていただろう。  それでも、声だけが。  声だけが、戦慄で塗り固められた壁に、たった一つ、決して譲れぬものが開けた僅かな隙間を縫って──飛翔した。  ……それはどれほど力強い声だっただろう。 「なっ……なによ。せっかく仲間にしてあげようと思ったのに……これがどれほど光栄な事か、のんちゃん──」 「貴女の仲間なんかこちらから願い下げですわっ!」 「は……はぁっ?」 「絶交……絶交ですわ! あ、貴女なんか、もう絶交ですわっ!!」  この状況下で、我ながらよくこんな子供っぽい言葉が出てきたものだ、とのんは思った。  けれど、言っておかなければならなかった。  絶対に、これだけは言っておかなければならなかった。  ──この娘は裏切ったんだ。  お姉様を裏切ったんだ。  いや───  この娘は、最初から最後までお姉様を裏切り続けてきたんだ。  それだけは、赦せなかったから。 「…………」  みどのの両眼が揺れ動き、ゆっくりとのんを見下ろした。  何の力も持たぬくせに気高く声を張り上げた少女を──水泡の魔女が睥睨した。 「ひっ……!」  のんは思わず目を瞑っていた。  それは彼女が臆病だったからではない。  今代の『A』たるみどのの邪眼『斧瞳』に射竦められれば、抵抗力を持たぬ一般人など容易く抜け殻と化す──だからそれは、身が感じ取った自然の防衛反応だったのだろう。  今この時になって、彼女はようやく、彼女が敬愛する存在の想い人がさきほど何を叫び、何故息を呑んだのかを理解した。  ………………………………。 「……え?」  恐る恐る、瞼を開いた時───  のんの視界の何処にも、みどのの姿はなかった。 「みどの……?」  扉を開いた様子さえもなかった。  ただ忽然と、桜守姫みどのの姿だけがこの映像から掻き消えていた。 「…………」  独り残されたのんの頬に、自然と溢れてきたものは涙。 「なんで……なんですの」  怖かったのもあるけれど。 「馬鹿……馬鹿……!」  きっとこの涙は違うと、 「みどのの馬鹿っ……!!」  透舞のんは、理解していた。 「桜守姫さん!!」  俺がようやく桜守姫さんの姿を見つけたのは、散々校内を走り回り、生徒も少しずつ登校し始めようかという時間だった。 「巽殿……」 「あっ」  はだけた着物に気付き、俺は咄嗟に目を背ける。 「ご、ごめん」 「…………」 「みどのに……何か、されたのか?」 「……何故、ここにみどのの名が出てきましょうか?」 「やっとわかったんだ。みどの……みどのは、桜守姫さんの事……」 「……巽殿は、何か誤解なされておいでのようです」 「誤解だって!?」  ──思わず顔を桜守姫さんへと向けた時。  彼女はたたずまいを正し、いつもの瞳で真っ直ぐに俺を見つめていた。 「桜守姫さんは、俺を護ろうとして……」 「何を自惚れておいでですか。媛はただ、独りでは満足に立ち上がる事さえできぬご様子の其方を放ってはおけなかったというだけの事……“護る”などと、何を大仰な」 「けど、みどのは──」 「妹が先日其方に仕出かしてしまった事ならば、姉である媛が代わって謝罪させていただきまする」 「しゃ、謝罪って……俺はそんなもの……」 「妹は少々悪戯が過ぎる質でして……桜守姫の魔術師でありながら、魔術をあのような戯言に用いるなど許される事ではありませぬが……この通りです。どうか、妹をお赦しくださいませ」  そう言って、桜守姫さんは俺の目の前で頭を下げる。 「何で桜守姫さんが謝ってるんだよ!!いや、俺は謝罪なんてどうでもいいんだ。俺は──」 「どうか、平にご容赦を」  桜守姫さんはそのまま地に膝をついて、俺に頭を─── 「やめろよ!!」 「…………」 「……やめてくれ」 「……もう」  桜守姫さんは顔を上げないまま。 「もう、みどのは其方に害をなさいませぬ故……」 「え?」  そう、静かに口にした。 「……桜守姫さん?」 「どうか、ご容赦くださいませ」 「…………」 「……顔を上げてくれ」 「もはや其方に危害は及びませぬ。すべては其方と無関係のところで起こる事……」 「そんな真似、よしてくれ」 「妹が其方の御宅を訪れたのは、其方の御宅が五箇所の点の一つに偶然にも重なっておっただけで……」 「桜守姫さん!!」 「…………」 「……やめてくれ」 「……其方のお赦しをいただくまでは……」 「……俺は」  言わなければならない事があった。 「俺は、いつも君を気高いと思っていた」  伝えなければならない事があった。 「……でも、その気高さは……君の誇りは、堪える事で生まれていたものだった」 「……!」 「君は、いつも、何かに堪えて……今だって、自分が辛い思いをしたっていうのに、妹を庇おうとする……」 「桜守姫さん、君は……」  ──一緒にはいられない。  一緒にいればあなたを苦しめる事になる。  近付きすぎれば反動が起こる。  だから一緒にはいられない。  あなたを護ると決めたから。  それは遠い昔からずっとずっと続いてきた誓いだから。  あたしは  …………。 「前にも言ったけど、俺は、そうあり続ける──あり続ける事のできる桜守姫さんを尊敬するよ。  でも、桜守姫さん……」 「やめて……」 「…………」 「やめ……て……」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「……媛が其方を……き、きろっ、嫌うておる事は、ご存知でしょう」 「……うん、知ってる。俺は、君の人の良さの上に胡坐をかいて、助けてもらってるだけだ」 「…………」 「でも……だけどさ、桜守姫さん……」 「な、ならば、それで宜しいではないかえ。も、もう、このお話は……」 「でも俺は、桜守姫さんの事が好きだよ」  すんなりと喉許を擦り抜けた言葉。 「いや、勿論……」 「好きなんて軽はずみに言わないで!!」 「えっ……」  その剣幕に押されて、俺は言葉を呑み込む。 「いや……ごめん。そういう意味じゃないんだ。ただ……」 「なんでもよ! そんなこと言わないで!!」 「…………」  ……等身大の女の子。  何故だかそんな言葉が俺の中に浮かんでは消えていった。 「嫌ってる相手にこんな事を言われたら、そりゃ嫌だよな。それは謝るよ。でも……」  例えそれがどんな意味の「好き」でも。 「自分の気持ちを伝えた事だけは謝らないからな」 「…………」 「どうせ嫌われてるんだ。これ以上、いくら嫌われたって同じだろう?」 「…………」  桜守姫さんはうつむいたまま、何も言葉を返してこない。  そりゃ、こんな自分勝手な事を言ってりゃ当然だよな。  そう思った。  ……けれど。 「桜守姫さん。どうして……」 「…………」 「どう……して……」 「…………」 「好きなんて……言わないで」 「…………」  ……なんで……。 「……嫌ってよ」 「…………」 「嫌ってよ……!!」 「桜守姫……さん」 「どうして……?」 「え?」 「どうして……戻ってきたの?」  その言葉の意味がわからず、ただ狼狽する俺に。 「もう戻ってくるはずなかったのに……どうして? どうしてここへ戻ってきちゃったの?」 「…………」 「どう……して……」  逢わないはずだったのに、と。  もう、二度と逢うはずはなかったのに、と。  そう告げて。  ──目の前の少女が、泣き崩れた。  ──中身が子供のままの大人が増えている。  よく、そういう言葉を耳にする。  じゃあ、それをそうと言ってしまえる人に訊いてみたい。  だってその人は大人なんだろうから。  大人になれば、このモヤモヤとした気持ちを上手く処理できるんだろうか。  なんだかよくわからなくて。  でも決して無視できなくて。  自分自身でもどうしていいかわからないこの気持ちの在り処を、置き所を、大人はどうやって解決しているのだろうか。  俺は多分、子供ではないと言い切りたくて。  でも大人ではないと気付いてしまっていて。  ──だから大人に訊いてみたい。  俺が、今、立っている理由は、いったい何ですか?  ──不思議な事に。  昼過ぎ辺りから、昨日までの脱力感がなくなっていた。  満足に立ち上がる事さえもできない、這って進むのが精一杯の虚脱状態はどこへやら、いつもの俺がそこにいた。 (……いったい何だったんだ?)  そんな言葉で片付いてしまうほど。  しかも、心なしか普段よりもずっと調子がいいような気さえもしていた。  なんだろう──奥底から力が漲るかのような。 「…………」 「嫌ってよ……!!」  わからない。  何故、彼女が泣くのだろう。 「どうして……戻ってきたの?」  あの言葉の意味は、いったい何だったのか。 「もう戻ってくるはずなかったのに……どうして? どうしてここへ戻ってきちゃったの?」 “ここ”……と言っていた。  ここ……。 (この……街……?)  掌に握り締めていたのは、あの娘の落し物。 『姫』の文字が書かれた装飾品。  涙を零した彼女がいたたまれない様子で俺の横を擦り抜けていく時、地面にそっと舞い降りた落し物。 「…………」  甘えていた、という自覚はある。  桜守姫さんの好意の上に胡坐をかいていた、という事。  彼女みたいな人に甘えるっていう事は───  きっと本人は何くれともなく、気にする事もないといった態度で接してくれるんだろうけど。  だからこそ、甘えてしまうと、それだけで対等と見られなくなってしまうような気がして。  俺は俺でしっかりやれるんだって事を認めてほしいっていうか、おんぶにだっこな関係になってしまうのは悔しいっていうか。  ……こんなふうに思わせられたのは初めてだ。  自然と足が向いてしまった彼女の家──その途中で通る道。  思わず足を止めて、俺はその急勾配の階段を見下ろしていた。  今日は授業が午前中のみ──昨日と明日は学園が休校。  詳しくはわからないんだけど、なんでも理事長が代わるとかで、それに伴って学園の一部を改築する大掛かりな工事が行われるそうだ。  工事自体はかなり長期に亘り、生徒たちはしばらくの間その作業音をBGMに授業を受ける事になるわけだが、休校は業者の機材を運び込む為に設けられたものらしい。  そりゃそうだ。  あの学園は車で乗り付ける事ができないんだから、どんな工事をするのか知らないが業者も機材を運び込むのに一苦労だろう。  敷地の広さから考えると置き場所に困るような事はないはずだから、大まかなものは一辺に運び込んでおきたいと考えるのが自然だ。  となると搬入口となるのは猫階段しかないわけで、そしてすべての生徒が登下校に使用するのも猫階段なわけで……まあ、どこかで生徒たちが使用しない状態を作るしかない。  様々な条件的に都合がついたのが、「どうせなら日曜含めて四連休にしてくれればいいのに」と生徒たちから不評の日程だったのだろう。  先週の土曜日に授業があったのは、休校分の代理だ。  ややこしい日程だが、学園側も調整が大変なのだろう。  だから生徒たちは今頃、全員学園から帰宅させられているはずだ。 (……さて)  掌を開いて、俺は桜守姫さんの落し物を見つめる。 (今度は、“口実”になってくれるのか)  思い返せば、あの日、初めて彼女の家を訪問する理由となったのもこいつを届ける為だった。 「…………」  そしてそれを上着のポケットにしまい込み、踵を返す。  落し物だよ、なんて、便利で都合のいい言葉を頭の中に浮かび上がらせながら─── (──あれ?)  なんで俺、空を見上げてるんだ?  しかも空が心なしか遠ざかっていってるような気がするって事は、つまり、ていうかこの落下感って。 (おい。これ、洒落になってな……)  おいおいおいおいおいおい!!  ──それは、錆びた歯車が上げる軋みの悲鳴に似ていた。 「え?」  偶然が与えたほんの弾みと重力がなければ、今以て俺がいたであろう空間が、真っ二つに裂けたような気がした。  そして俺は足を使わない形で石段を下りていった。  靴底の代わりに背中や腰、さらには頭まで使って。 「っ……てて」  なんて言ってる程度で済んだのは、途中で一度手摺へ派手にぶつかって減速した事と、最初の踊り場がそれほど下になかった事──それに何より、運が良かったという、ただそれだけの事だろう。  倒れたまま眼下に広がる光景を見つめ、俺はぞっとした。  何処から見てもさして変わらないほどに長い長い石段は、もしも最初の踊り場で止まってくれなかったら、などと想像させて───  ──思わず萎縮した俺が、大袈裟に首を竦めた時。  目の前を稲妻が走り抜けた。 「……え?」  稲光はあまりに垂直。  雷鳴はあまりに鋭利。 「は?」  俺が発した一言は、あまりにも間が抜けていただろう。  眼前。  肉薄。  ──そいつは錆びていた。  雨ざらしの中で酸化していった銅から流れ落ちた錆が水溜りの中で一塊になったかのような、緑青が目の前に広がっていた。 「なんだ、おま……」  再び悲鳴が木霊する。  軋みの悲鳴が声高に奇声と化していく。  その時、俺は─── (……ああ、そうか)  不思議と目の前の出来事が腑に落ちていた。 「ああ、そうかよ! そういう事かよ!」  込み上げる気持ちを抑え切れず、俺は叫んでいた。 「で? あんたは──どっちだ!?」  問いかけていたのは、その一言。  すでに逃げ場はなかった。  慣れ親しんだこの階段──引き返す道は塞がれ、脇に逸れる事もまた叶わない。  幅も進路も限られたこの下り坂を下りるしか選択肢はない。 「くそっ……!」  選ぶ余地がないのなら突き進むだけだ。  せめて速く──少しでも速く!!  下り始めたその瞬間、俺の頭上を通り過ぎていくものがあった。  編まれた竹の間に突き刺さった、鋭い切っ先。 「なんっ……だよ、それ」  後、一瞬でも下るのが早ければ俺は串刺しになっていた。  ──開けた距離はそいつにとって眼前に等しかったらしい。  前進も後退も許されない板挟みの状況。  進退谷まった俺との距離を、一歩、一歩と詰め始める。  緩やかな動作がやけに不気味で。  何故だか、人間めいて感じられなくて。  それでも、俺が動き出した瞬間、僅かでも背中を見せた瞬間。  そいつが瞬時に俺を串刺しにする事だけはわかっていた。 (───え?)  轟くように響いたその音。  僅かな振動を足の裏に感じて。 「なん……だ……」  俺の位置からは階段の上の様子はわからない。  けれど、一瞬。  階段を下り始めた気味の悪い錆色の背に、まるで背景だけが移り変わったかのように起こった変化─── (貨物自動車?)  その特徴的な形状には見覚えがあった。  ──そういえば、学園で小耳に挟んだような気がする。 「理事長は」「炎がどうの」という断片的な情報──ちゃんと聞いていなかったのでかなりあやふやだが、「理事長の名前はずっと昔から変わらぬまま」で「その理事長が代わるとなれば、新しい理事長は」──どうのこうの。 「だから液体燃料が大量に運び込まれる」とか何とか─── 「──え?」  その大型車両は。  減速すら、しなかった。 「…………」  ──そういや、俺、この街にきてから車なんてほとんど見かけなかったな、なんて、どうしてこんな時に呑気に考えて───  今朝、家を出てから。  わけのわからない事だらけだ。  当たり前のように感受していたこの世界の時間に、俺は取り残されてしまったのか。  それとも、俺はすでに見知らぬ世界へと足を踏み入れてしまっていたのか。  その世界の時間の流れの中に別の世界で生まれた俺の感覚が混じっているから、こんな、わけのわからない出来事が連続して、それが、あまりに唐突で、まるで、完結していない物語の断片だけを続けて観ているような気分になるのか───  気持ちだけが、置いてきぼり。  何処に立っているのかすらわからなくて。  ……でも。  でも、そう、わかるよ。  一歩一歩、恐る恐る、階段を上りながら。  どうしてタンクローリーが爆発したのか、って。  疑問には思わなかった。  階段があるのに気付かなくて、猛スピードで転がり落ちたっていうのならわかる。  でも車両は落ちる前に爆発した。  あの錆びた串刺し野郎にぶつかって爆発した。  跳ね飛ばしたんじゃない。  ぶつかって爆発したんだ。 「…………」  だって、俺は見たもの。  減速しなかったあの車は、確かにあいつの存在に気付いていたという事。  あいつに当てにいっていたという事。  それから。  食い込んでいたという事。  ──だから。  あの炎熱の宴の中央にあいつが何事もなかったかのように立っている事はわかっていた。  あいつは重車両の接近を気付いていなかったわけじゃない。  自分には関係がないと知っていたから。  ぶつかろうが炎上しようがまるで問題にならなかった───  へしゃげていたのは車両の方。  食い込んでいた、という事が指し示す事実は。  ──それは渦。  回る歯車の群れが噛み合っては渦を巻いている。  きり、と。  きり、きり、と。  きり、きり、きり、きり、きり。 「機械……仕掛け?」  そうだ。  そいつの動きはどこか生物らしくなかった。  人間臭さなど初めから度外視された、不自然で滑稽な人形。  ヒトのカタチだけを整えたもの。  ──筒?  炎熱に隠れてよく見えなかったが、あいつのいる辺りから飛び出したその奇妙な物体。 「…………」  中空をゆっくりと浮遊するそれを、呆気に取られて見ていた俺は─── (──違う!)  これは──高速で回転しているだけだ!!  筒じゃない。  これは重ねられた手裏剣だ!!  ──宙を裂いて飛来する、無数の角を生やした円が俺の命を脅かす。 「ぐっ……!」  剣光が消え去るまで脇腹に深々と食い込んだ一閃。  それでも咄嗟に身を屈めたのが功を奏したのか、無数に拡散した弾雨の中、他は二つばかり俺の肩と腕をかすめただけで済んだ。  ──手裏剣とはそもそも相手を仕留める為のものではなく、相手の移動を妨げる為のもの。  だからこそ───  こいつは今、俺の目の前で振り被っているんだろう?  それはあまりに咄嗟。  俺の髪の毛をかすめた閃光。  ──階段の手摺を滑るように転がり、すんででかわせた幸運は恐らくこのたった一回きり。 「ハッ……畜生」  どうやら、こいつはどうあっても俺を串刺しにしたいらしい。 『串刺し公』かよ──なんて、そんな皮肉を投げつける相手は人間ですらない。 (──どうする!?)  転がった階段、俺の手の端に何かが触れた。  そこには、腹部に突き刺さった手裏剣の一つがあったに過ぎなかったのだが─── 「…………」  ……今の……は。  奇妙な出来事は連鎖する。  理解を超えた出来事は重なりすぎて常識を押し潰す。  違う時間の流れる異界へ足を踏み入れてしまった俺に、考える間など与えられるはずがない。  俺の命を脅迫する、目の前の物体。  どうしてか、俺はある種の確信を以ってその手裏剣を投げつけていた。  当たっ……た。 「ざまあみろ!!」  奴が怯んだ隙に、俺は再び階段を下り始める。  他に行ける場所もないとはいえ、思わず学園に来てしまった。  ──休校であるはずの学び舎に、こんな形で来る事になろうとは。  だが、これは僥倖だ。  生徒たちがいない今なら、学園に入っても誰にも迷惑をかける事はない。  少なくとも、命の心配をする事は─── (……よし)  来いよ、機械野郎。  ──決着をつけてやる!! 「……え」  眼前、白い蛍が二つ。  そして響く、錆びた駆動音。 「機械野──」  次の瞬間、俺は宙に浮かび上がっていた。  蛍から伸びた腕によって首をつかまれ、高々と持ち上げられていた。 「ゲッ……ボッ」  自らの重量がまるまる首一つにかけられている、という事。  呼吸に要するその首もまた、奇怪な腕の圧迫によって締め付けられている、という事。 「離っ……オ、ゲ」  声など出しようもないまま、意識だけが遠ざかっていく。  まるで剥き出しとなった胴体は、この人の形をした歯車にとっては指先で容易く突き破る障子の薄紙に過ぎない。  どうしてか、彼女の泣き顔が白く溶け込んだ景色の中に浮かんでは──消えた。 「彼女かい? ──彼女はね、“天才”だったんだよ」  その一言が脳裏に響く。 「天才?」 「いや、そんな言葉で表す事ができるかどうか……彼女を前にしては、天才という表現も陳腐に過ぎる。あれこそがただ一つの“絶対”と……そう呼べる唯一の存在だった」 「桜守姫さん……の事だよな」 「ま、言ってしまえば──だ」  彼は肩を竦め、どこか苦笑めいた表情を浮かべていた。 「この敷地内に蠢く無数の魔術師ども。奸智に長け、妙術を駆使し、常ならざる領域から手を伸ばす異界の水先案内人──それら全員が束になってかかったところで、彼女が魔女として在るのならば一夜の内に容易く皆殺しにできる」 「…………」 「そういう存在なのさ、彼女は。あれこそが桜守姫。桜守姫が桜守姫たる真価をただ一人有した、歴代において唯一の存在。 『A』とは彼女の為にこそあるべき称号──歴代の『A』たちも、かつての彼女を見たらすぐさまその名を返上し、ひざまずくだろう」 「桜守姫家って……何なんだよ」 「言葉通りさ。桜守姫は桜守姫だよ」  その言葉の意味を図りかねていると、彼はどこか嘲弄めいた表情を浮かべ、 「魔の法を繰るあやかしどもの棲家にあって、“聖域”と呼ばれる領域に祀られた神様はね、まだ信じてるんだ」  そう語った。 「神……?」 「そう。『御前』と呼ばれる聖域の老人さ」 「御……前?」  俺がその言葉を口にすると、彼は苦笑した。 「御前はね、此芽の失われてしまった才能が帰ってくると、今でも本気で信じているんだ。  ──ああ、そうだ。骸を漁る事でしか見つける事のできない秘宝を求めた槍の王のように」 「──はっ!!」  急激に息を吸い込んでいた。  尻と背中を強く打ちつけた痛みが俺を我に返らせる。 「な……なんだ……?」  軋んだ音を奏でる塊。  先程まで俺の命を手中に収めていたはずのそれは、今、カタカタと異音を発して俺の前で小刻みに振動している。  まるで歯車の間に何かが挟まったかのように。  床に転がっていたのは、ポケットにしまっておいたはずのもの。  桜守姫さんが落としていった、俺に彼女に会いにいく口実を与えてくれたもの。  ──まるで何かの誓いのように『姫』の文字が記された── 「……オ……」  異音に混じったのは声。 (──喋れるのか?)  限りなく人間に近い声。 「オモ……セ……」 「…………」 「オモ……イ……ダ……セ」 「……何……だ?」 「ウッ……」  ガクン、と、動力炉が停止したかのように肩を落としてその動きを停止した。 「なんなん……だよ」  始まりも唐突ならば終わりも唐突。  まるで壊れた玩具に付き合わされた気分で、俺はしばし、呆然とその場に座り込んだままだった。  何処かの誰かが編み上げた歪な模型。  ──けれど次の瞬間。  再びあの異音が響いた時、まるで歯車が一斉に逆回転を始めたかのようにそいつの腕が奇怪な軌跡を描いた。 「────!!」  咄嗟に身体を丸めて腕で庇った頭上を、センチという単位では測れないほど肉薄した真横を、白刃に似た閃光が走り抜けていく。  人間では持ち得ない数と箇所で折れ曲がったそいつの腕が、きりきりと音を立てながら滅茶苦茶に振り回される度に空間がぶつ切りにされていく。  ──そして。  次に訪れた静寂は、引き起こされる轟音の前触れだった。  跳ねるように飛び起き、俺は廊下を奥へ奥へと走り出す。  背筋を一足で駆け抜けたのは、嫌な予感、などといった程度の代物じゃない。  背に響いた崩壊の轟音。  それは軋みながらも奇跡的な均衡でその身を保っていたものに、ほんの僅か、余計な圧力を加えてしまったかのような。  まるで続けざま、衝撃と振動とに巻き込まれた隣人たちの身体に亀裂が入るかのように。  天井が崩れた、なんて、そんな非日常的な事を咄嗟に呑み込めるはずもないまま───  俺はその崩壊に巻き込まれていた。  ……水の底に深く沈んでいた。  それは時折水面に顔を覗かせるけれども、近付くとすぐにまた水の底へと隠れてしまう。  だから俺は、水の中に飛び込んだんだ。  それが池だったのか河だったのか海だったのかはわからない。  けれど、水の中ではそれは歪んで見えなくて。  どんなに目を凝らしても、姿も形もはっきりしない。  近付こうとすると遠ざかって、波に流されるようにして遠ざかっても、ずっと近くにいるような気がしてならない。  水の中に長くいる事はできない。  だから夢は覚めてしまう。  もう少しだけ長く息を止めていれば、と思っても、意識すればするほどに息苦しくなって、気にしないでいる時はもっと長く潜っていられるのに、なんて悔しがっても後の祭りで。  ──ずっとその繰り返しで。 「お兄ちゃん」  また、あの声が聞こえた。  水の中に染み入るように響く幼い声。  子供の頃に会った、ふたみの声。 「お兄ちゃん」  そう、ふたみの─────  ふたみじゃ、ない。  ──運はどうやら俺の味方をしてくれたらしい。  何故なら、俺はその偉容を見る側でいられたのだから。  歩き慣れた廊下。  けれど俺の知っている学園は、在りし日の様相から大きくかけ離れていた。  通い慣れた学園は、半壊という言葉がそのまま符合してしまう有り様と成り果てて。  だからそいつは、積み重なった屍の上に立つ戦場の覇者のように。  栄えし王国を徹底して討ち滅ぼし、亡霊の棲家と化した廃墟を見下ろす破壊の権化のように。  ──瓦礫を従えた緑青の水巴は、遺跡の上から俺を見下ろしていた。 (不死身か……?)  きりきりと噛み合う歯車が異音を立てる機械仕掛けの身体。  自らが引き起こした崩壊も、連鎖する瓦解の中にあってもただ無傷で立ち上がる。  ただ、定められた標的を。  串刺すだけがその役目と─── (──違う!)  防いだのは、あの身体じゃない。 “機械仕掛け”だからじゃない。  もっと別の───  ……こいつ。  こいつの、影。 「桜守姫の方……かよ」  恐らく『』と読むのであろうそれは、紫の水泡の影に浮かび上がったそれと同質のもの。 「──あんたも魔術師か!!」  それこそは桜守姫家に生を受けた者が、誕生のその瞬間から宿しているという御名──『骸を貪り喰う者』に他ならない。  機械仕掛けの魔術師。  だが、恐らくこいつは全身が絡繰仕掛けの自動人形ってわけじゃない。  桜守姫家に生まれた者にただ一人の例外もない、という事は、桜守姫家に産まれていないものが御名を持つ理由は成り立たない。  さっきの様子からもそうだが──“喋れる人形”といった感じじゃなかった。  あれは人間の声。  人間の温度が点った、人間のみが発する事のできる声だ。  ……こいつは、機械の身体を持つ人間の魔術師だ。 (相手が人間なら……)  恐れてなんかやらない。  そして。 「俺はな。桜守姫が魔術師なんて理由で恐れてなんかやらないからな!!」  ……でも、何かおかしくないか?  平日だっていうのに、校舎に生徒の姿は一人も見当たらない。  今日は徹底した半日授業だからだ。  どうして半日なのか──理事長が交代するとかで、学園に工事の手が入るからだ。 (なのに、どうして誰もいないんだ?)  機材の運搬の為に執り行われた措置なら、業者はどうした。  猫階段を封鎖して搬入が行われているなら、学園のこのあり様を見て──あの轟音に誰一人として気付かなかったとでも? (なにか……おかしい)  ──そして俺は、やけに見晴らしのよくなった“窓”の向こうに異様な光景を見た。 (なんだ……なんだあれは!!)  学園が巨大な壁に取り囲まれている!!  まるで地の底に眠っていた鉱石が意思を持って目覚めたかのように。  鈍色に揺らぐ鋼鉄の板が幾重にも折り重なって、雨が降り続けば水が溜まり四方を埋め尽くす窪地に群生している。  天を仰ぎ見るかのようにそびえ立つ鋼の草は、この学び舎を完全に覆いつくしては──封鎖していた。 (……そうか)  誰も気付かないんじゃない。 (そういう事か)  誰も入ってこれないんだ。  ──俺は思い返していた。  猫階段に続く路面を走行していたタンクローリーは、あの時、眼前の魔術師を前にして減速する素振りすら見せなかった。  俺はあの時、運転席に座る運転手の姿を確認した。  居眠り運転だったとか、そんなんじゃない──彼は間違いなくアクセルを踏み込んでいた。  瞳を充血させて、何やら叫んですらいたように見えた。  ……もし、あの運転手が、外套に身を包んでいたこの緑青の正体に気付いていたとしたら?  桜守姫家の者だと知っていたとしたら?  この空明市を分断する、二つの勢力───  運転手は唯井家の人間だったんだ。  彼は自分が何を運んでいたのか知っていたはずだ。  事故を起こす事がどれだけ危険か──階段の遮蔽に隠れて見え辛かった俺には気付いていなかったようだけれど、だとすれば彼は間違いなく激突させるつもりでスピードを上げた。  ……そしてもし、この工事の関係者が唯井家の人間だと、眼前の魔術師が知っていたとしたら。  あの壁は何の為にある?  岩山の如きあの鉄板の群れを生み出したのが、こいつなら?  唯井家の人間をこの学園に入ってこさせないようにして──いったい何をしようとしてるっていうんだ!? (順序が、逆……なのか)  こいつはもともとこの学園を訪れるのが目的だった。  俺が逃げたから学園まで追ってきたのではなく、こいつの行き先に俺が逃げ込んだ?  じゃあ俺を狙ったのは──たまたまそこにいたから、ただそれだけの理由か?  今日あの階段を使うのは工事の関係者だけのはずだったから、俺も唯井家の人間だと思った? 「…………」  ……まずは、この場を切り抜けないとな。  考えるのは後だ。 「えっ……」  亀裂。  床に入った歪な爪痕。  浮遊感。  そこかしこに伸びていた崩壊の余波は、第二の轟音を呼び込んでいた。 (しまっ……)  こんなところを奴に狙われたら。  落ちた先では身動きが取れない─── 「うわああああああああっ!!」  ──季節は梅雨まっ盛り。  ほんとうならお空の上で笑っているはずの太陽さんも、これから大忙しの季節が待っているから、お休みを取っているのかな?  お空はいつも雲におおわれて、ぜんぜんお顔を見せないよ。 (あれ? これ……) 「でも、太陽はあたしたちの様子が気になるんでしょうね。ちゃんと顔を見せるじゃない」  そんな可愛らしい事を言った、誰かがいた。 (なんだ……? これ……)  問題なのはお星さま。 「いつも雲のむこうがわにいるから、こっちを見てもくれないわ」  あたしたちの事が嫌いなのかしら、なんて言っていた、誰か。 「でも、これは梅雨だからって事じゃないわ。この街は、ずっとずっと昔からこうだった」  そうだ。  訳知り顔で言う彼女に、言ったんだ。 「ここは星の見えない街なんだね」って。  この街は『空明市』って名前だって白爺さんに聞いていたから、その漢字の意味も教えてもらっていたから。  だから“僕”は、覚えたての言葉で「ひにくだね」なんて大人ぶって───  ──君は誰? 「あたし? あたしは、おーすきこのめさまよ!」  花の咲かない桜の樹の枝の上。  ここは此芽にとって特別な場所。  早朝、ここを訪れるのは彼女の日課。  何もなくとも、何かあっても、彼女はいつもこの枝の上に立つ。  それは『誓い』を忘れぬ為に。  あの頃の日々を風化させぬ為に。  目覚めたばかりのこの時間、“在るべき姿”を己に刻む。  そして一日が始まるのだ。  忘れぬ為に。  色褪せないように。  己に課した『誓い』を──果たす為に。  だが、今日はここに彼女の姿はない。  彼女がここを訪れる事がなかったのは──あの日から数えて、僅かに二日。  一日は、彼の寝顔を見つめて過ごした日。  一日は、彼の安否を確かめる為に妹に会いに行った日……。  ──あのころ、セカイのまんなかにあたしはいた。  まわりのすべては、あたしにひれふす。  だれもかれも、みんながあたしをほめてくれる。  あたしの名前を言うだけで、みんながあたしにしたがうわ。  この街でいちばんえらいのよ。  この街はあたしの“にわ”。  みんながあたしのことを「すごい」って言ってくれる。 「過去に例のない天才」って。  ふふん、トウゼンよ。  ある日、あたしの“にわ”に男の子がはいってきた。  見たこともない男の子。  近くにすむ子供はみんな知っているはずなんだけど。  たしか、「この街に引っ越してくる人はいない」はずだから……街の反たいがわからでも、あそびにきたのかな?  けっこう広いもんね、あたしの街は。  おほん。  でもね、ここはあたしのばしょなんだから。 「こらあなた。あいさつなさい」  ちゃんと言っておかないと。  あらあら、フシギそうな顔をしちゃって。  あなた、この街の“るーる”を知らないのね。  かわいそうに。  だからおしえてあげるわ、ここは、あたしの街なんだってこと。  よくわかってないみたいだから、あたしはおしえてあげる。 「あたし? あたしは、おーすきこのめさまよ!」  この名前を言えば、みんなひれふすもんね。  ……………………。  ……あ、あれ?  え?  ちょっと! あたしの名前がヘンって、どういうことよ!  なんてしつれいな男の子なのっ……!  ……それにしてもどういうこと?  ……そうだ。 “あの家”の人だけは、たしか……。  ちょっ、ちょっと。  あなた、お名前は?  ……あれ? ちがうみたい。  じゃあ、どうしてあたしの名前をきいてこんな……それにしても、あなたこそヘンな名前じゃない。  なによ『さく』って。  あたしの方が、ずっとずっとステキだわ。  そ、そうよ。  ちゃんとあやまればいいの。  うん。なかなかすなおな男の子じゃない。  え? 女の子にはやさしくしなくちゃダメだって言われてた?  あ、あのね。  あたしは“とくべつ”なの。  そこらの女の子といっしょにしないでちょうだいっ!!  すなおな男の子だと思ったけど、“ぜんげんてっかい”よ。  ふんっだ。  ──これは事故だ。  ──もうっ! なんど言えばわかるのよ!  あたしは“とくべつ”なのっ!  どうしてあなたは、あたしと他の子を同じようにあつかうのよっ!  あのね。彼らは、あたしのしもべよ?  ああもう、イライラするわ。 『さく』は、気にくわない男の子。  とくに“あの家”のコと仲良くしてるところなんか、いちばん気にくわない。  あのね、あなたのために言っておいてあげるけど、あそこはとても悪い家なのよ。  ウチのみんなはそう言ってるんだから。  だれだって知ってることでしょ?  この街は、おーすきと、それから……どうしたのよ?  あなた、この街の外からきたの?  え? え? どういうこと?  ……よくわからないけど、さくは“べつの街”からやってきたみたい。  ──これは事故だ。  ワタシにあった、たった一つの他人には真似できない才能。  無能、無能と呼ばれて過ごしたワタシはきっと、ただそれだけに特化していた事に気付かなかっただけ。  ワタシの魔術師としての天恵。  この事は、まだ誰も知らない。  だってワタシすらも知らないんだから。  そう。誰も知らないから、ワタシが創り出したアレの事も誰も知らない。  ワタシは凡庸な魔術師。  才能の片鱗など微塵も感じさせない、どこにでもいる魔術師。  ──こんな道具など創り出せるはずもない魔術師。  ──なんでこんなことになったのか、わからない。  でもきづいたら話してた。  ある日、あたしは、こんなことをさくに話してしまっていた。 「お父さま、かえってこないの」って。  お母さまは『ごぜんのま』にとおされたから……そういうことなんだって……わかる。  でも、お父さまは、あの日からいなくなったまま。  話してるうちに、あたし、泣いちゃって。  泣き顔なんて見せるのいやなのに。  どうしてだろう?  話したら泣いちゃうってわかってたのに、どうしてあたし、さくに話しちゃったんだろう?  なんだか、さくになら話せるような気がして。  そしたら、さく、「さがそう」って言ってくれた。  ワタシは残滓。  ワタシはワタシであってワタシでないモノ。  ワタシはすでに人格ではない、人格ですらない。  ワタシであった人格の、最後のヒトカケラ。  じゃ、じゃあ、あそこでまちあわせましょう。  ……いつもの公えんでいいんじゃないかって?  そ、それはそうなんだけど……。  かかっ、カンチガイしないでよね。  他の子に知られたくないからとか……ふっ、ふたりきりがいいとか!!  そういうんじゃないんだからね!!  えーと、えーと、じゃあね……。  そうだっ! あそこにしよう!  今は桜がまんかいの花を咲かせる季節なんだから、あそこなら目立つでしょ。  この街のことをよく知らないあなたでも、きっとすぐに見つけられるわ。  それに、ふふ。  見たら、きっとびっくりするわ。  あたしたちはそれから。  ──いつも決まった時間になるとまちあわせばしょに行って、  日がくれるまで二人で街を歩きつづけた。  ワタシと──ワタシであったモノと、彼女とが、殺し合った、あの日。  どうしようもなかった。  いつかこんな日がくるんじゃないかって、お互いにわかっていたけれど。  逃れられない御家の事情。  親友、なんて言葉が、やけに、お腹に、響いて。  お互い、傍には互いの夫がいて。  たくさんのことを、さくと話した。  いつか、マジメな顔をして、さくがこう言っていた事がある。 「僕は立派にならないといけないんだ」って。 “りっぱ”ってどういう事? って訊いたら、「巽の者として立派にならないといけない」って。  ふうん。  じゃあ、あたしから学びなさい。  あたしは生まれたときから“とくべつ”だったんだから。  あなたがいう“りっぱ”って、そういうことよ。  ……なにその顔。  アニキみたいにならないといけない、ですって。 「兄貴は巽の者として立派だから」って。 「期待されてるから」って。 「その期待にちゃんと応えてるから」って。 「僕はただ期待されてるだけだから」って。 「まだ応えられていないから」って。  ……ん?ようするに、お兄ちゃんになりたいってこと?  じゃ、じゃあ、あなたのこと、お兄ちゃんって呼んであげてもいいわよ。  あたしが呼ぶからには、ほんとうは上品に“お兄さま”ってところだけど、しょみんであるあなたに、とくべつに合わせてあげる。  こ、こうえいでしょ? このあたしに………………。  だからなんなのよ、その顔はっ!!  ……ふ、ふんだ。  まあいいわよ。  お礼だからね。  ちゃんと、お兄ちゃん、って呼んであげる。  たっ、たまにだからね。たまにっ。  ──いつも決まった時間になるとまちあわせばしょに行って、  日がくれるまで二人で街を歩きつづけた。  ──残火。  ワタシがこの世に残した小さな熱。  アナタが気掛かりで。  ワタシの可愛い子。  アナタを護る事はできたけれど、でも、これで終わりじゃないから。  これで終わりになるはずなんかないから。  ──アナタを護りたい。  この世に残ったのは、その想い。  ある日、あたしはさくにお話を聞かせてあげた。 『よくばり魔王』っていう、この街に伝わる“どうわ”。  この話をすると、家の人たちはみんなどうしてかイヤそうな顔をするんだけど……あたし、この話が好きなのよね。  なんだか魔王がかわいいじゃない?  さくは熱心に聴いていた。  うん、なかなかわかってるじゃない。  よしよし。  あれだけの衝突。  しばらくは目立つ争いも起こらないだろうけれど。  それも、一時的なもの。  親ユ──ウ。  シンユウ。  ……どんな意味だったっけ?  いいや。  シンユウの娘。  特に姉の方の才能は危険すぎる。  ──今に、きっと。  今にきっと、あの娘を苦しめる事になる。  だからワタシは残った熱で。  この世に触れた最後の熱で。  土に向けて頭を低くしながら風に翻弄されるように流されて。  濁った水の中に沈んで堕ちた。  支配が容易かったのは、この魚は才能という名の偶像に見放されていたから。  けれど、僥倖。  奥底に固まった泥の藻をどけたら、本人さえも気付いていなかった黄金が眠っていた。  この特技は活かせる。  ──だから、これは事故。  ……さくって、なんだかいなくなったお父さまに、にてる。  ある日、ふとそんなことを思った。  なんでそんなことを思ったのかはわからない。  でも、なんだろう──顔とかふんいきとかぜんぜんちがうのに、どうしてだろう。  たまに、すごくにてるって思っちゃう。  ……なんでだろう?  ……あの子は、なかなか独りにならない。  いつも誰かが傍にいる。  ふうん。  もうすぐ、あなたのたん生日なんだ。  …………。  い、いつなのかきいてあげてもいいわよ。  ……5月の26日。  そうなんだ。  べ、べつにイミなんかないわ。  ただきいただけよっ。  ──いつも決まった時間になるとまちあわせばしょに行って、  日がくれるまで二人で街を歩きつづけた。  ……いつの間にか。  手をつないで、歩いていた。  ワタシはもうワタシが誰だかわからないから。  早くしないといけないのに。  ──かえっちゃうってどういうこと?  明日!?  そ、そんな急に……。  石神井さんのツゴウ?  はくじいさん?  どっちでもいいわよ、そんなのっ!!  ……急すぎるよ。  あたし、あなたのたん生日プレゼントもちゃんと考えてたのに……。  あ、明日!  じゃあ明日、かえる前にもう一度あたしと会って!  ヤクソクよっ!!  いいわねっ! まってるからねっ!!  来なかったらしょうちしないからっ!!  ………………。    ……。  あたしは、おめかししてまっていた。  じまんの“ふりそで”。  いつものまちあわせばしょ。  ……おそいな。  もうっ! このあたしをまたせるなんてっ!  ……ムリ言っちゃったのかな。  ううんっ。かならず来てくれる。  さく、ヤクソクやぶったことないもん。  ……独りなの?                      へえ、そう。             ヘエ。       ワタシはゆっくりと近付いてイく。   これは“事故”。  ただの、              ナんでもない、    偶然起コってしまッた──                    哀しイ“事故”。               連中に気取られ  るシンパイはない。                      さヨなら、             濁り水のお家ノお嬢様。  消えておナくなりなさイ。 「……お姉さん」、と声をかけられたのはソの時だった。  唐突すギて、息が止まルかと思っタ。  イつの間にか、此芽の“お気ニ入り”が傍にいタ。  あら。  アラアラ。  ぶつかってタの。  ごメんなサイね。  ワタシ、これからヤらなくちゃいけナイ事があるかラ、邪魔しなイでネ? 「ボク、確かお嬢様のお友達よね? いつもお嬢様と仲良くしてくれて、ありがとうね」、ソう、ワタシは精一杯の笑顔を作ル。  デきるだケ自然ニ。 「お姉さん」、とその子供は繰り返す。  名前ハ確か──……そんなモの、いちいち覚えテイるはずがナい。  モう覚えテいられなイ。 「ん? なあに?」と、ワタシは笑顔デ。 「やめよう」ト、ソの子供は真っ直グにワタシを見て。 「だめだよ、そんなこと。やめようよ」と、やはリ真っ直ぐにワタシを見テ。 「お姉さん、その“剣”で何をするつもりなの?」ト。  …………。  何ト言っタ。 「ボク、何を言ってるのかな?」……今、何ト? 「僕の友達にひどいことをするつもりでしょう? やめてよ」と、ソウ訴える子供の瞳カら、思わず目を逸らしテイた。  言葉が続かズ。 「だって、その“剣”──どうして? どうしてそんな目的のためにつくったの?」と、そウ告げラレた時、ワタシは思ワず後退ッた。  ──どうシて?  ドうしてこレが刃物ダと気付いた? “剣”とは子供の表現だロう。  問題はソンな事ではなイ。  コの子は、どう見ても刃物とハ結びつかナいこれを、刃物と見抜いタトいうのか──?  ……『タツミ』。  遠い昔、なんダろう、遠い昔に聞いた事があル言葉が脳裏を過ギった。  その記憶の正体はわからないママ。  ケれど、ワタシはこの子ニ「視られてしまった」事だケは理解シていた。  何を知っタ?  何を理解ってシマった?  少なくとモこの子は“これ”ヲ刃物と見抜き、“これ”を創っていル時に塗り込めたワタシの想イを視た。  知られテはなラない事を悟られてシまった。  ……オちツけ。  相手はタかが子供。  何とでモなる。  どうトでもデきる。  ソウだ。落ち着ケ。  ──だっテコれは、“事故”じゃなイか。  巻き込マれル人数が一人か二人かなンて、たいシて違いがナい。  こレは、とてモとテも哀しい“事故”ダから。 「お姉さん……」ト。  ──ナに?  なニよ、そノ目。  その見透かしタようナ目。 「僕、だれにもいわないから。だから、やめよう」、ソの言葉に、ワタシの焦リは緩やカに鎮まっていっタ。  ……ワタシは。  哀れミをかけられたノだ。  5歳ダか6歳だカの少年に、哀れミをかけられたのダ。  ──ワタシの可愛いアの子と、同じ年代ノ子に。  ──地面ガ、足元から崩れ落ちていくようニ。  なゼだかワタシのカワいいあのこガとテモかなしソうに  ああアああアアああああアああああアアアあっっっ!!!  ──ねえ。  ねえ、ふたみ。  お母さん、必ずアナタを護るから。  気付けば、ワタシの傍に桜守姫家の令嬢が立っていた。  呆然と、立ち竦んでいた。 「……ごめんね、お嬢様」と、知らず、ワタシの口は動いていた。  奇妙な音を立てて動いていた。 「アナタのお気ニ入り、コんナになっチャった」ト。  ──声がでない。  立てないよ。  どうしよう。  さく。  さく。  たすけて。  どうしてねているの?  ねえ、こわいよ。  そんなところでねていないで、あたしを助けて。  ────あ……。  あたし、あたしは、おうすきこのめ。  この街でいちばんえらい人間。  なのに、どうして。  どうしてなにもできないの? 「なんでもできる」って。 「どんな『えだ』も思うがまま」だって、みんながそう言ってくれていたのに。  …………。  ……どうして、あたし、うごけないの。  ──その時、ぴくり、と。  ねむっていたさくの手がうごいた。  その手は目の前の女の人の足首をつかんで。  にげろ、って、さけんでいた。  早くにげろ、って。  それから、さくは、またうごかなくなった。  女の人がさくになにかをした。  …………。  ……やっと、わかった。  こんな時なのに、あたし。  どうして、さくとお父さまがにていると思ったのか。  あたしはからっぽなんだ。  お父さまには、とてもいっぱいだった。  さくも、いっぱいだった。  なかみがいっぱいいっぱいつまっていた。  あた……しは……。  あたしは、ただ、いばっていただけだ。 「力があるんだ」って。 「えらいんだ」って。  イミもわかってないくせに、自分がだれよりもすごいんだって───  不意ニ、見下ろシた少女が口を開イた。 「ごめんね」  ソウ言っタ。 「ごめんね」  そウ繰り返シた。  ヨうやく己ガ生きていてはイケない事に気付いタのカ。 「ううん。あなたにあやまったんじゃない。  あたしは、さくにあやまっているの。  ──あなたなんかに、あたし、ぜったいあやまらない」  しんだのはあたし。  しんでいたはずだったのはあたし。  ……なのに、さくがかわりにしんじゃった。  ごめんね。  ごめんなさい。  ──そうか。  気にくわないんじゃない。  気になってしかたがないんだ。  たぶん、これが。  あたしのはつこい。  うごかなくなってしまったさくが、すきです。 〜ラベル『婚約者』の内容は記述されていません〜 「う……」  俺は瓦礫の布団に寝そべっていた。 「っ……」  どうやら、大きな瓦礫の下敷きにはならずに済んだようだ。  すでに天井が抜けていた場所の床だけが外れたんだろう、一階分の高さから受身も取れずに落ちて身体の節々が痛いが──どうやら大きな怪我はしてないみたいだ。  見上げればすでに天井のないこの学園では、首を傾けるだけで空が見渡せる。 (朝……か?)  随分と長い時間眠っていたのだと気付き、愕然とする。  どうやらいつの間にか雨が降っていたようで、抜き抜けの屋根と化したこの湿った瓦礫の山で。  ──どうして生きてるんだ?  あの機械仕掛けの魔術師は俺を襲ってこなかったのだろうか。  俺が落ちた場所がすぐにでも三次四次と崩れ落ちてきそうなところだったら巻き込まれないように警戒もしたろうが、俺が助かった通り、床が抜けただけだ。  様子を見る時間は充分にあっただろう。  やっぱり……たまたま、か?  目についたから始末しようとしただけで、追ってまで殺す理由はなかったって事なんだろうか。 (まあ、助かったんだったら……どっちでもいいけどな)  俺は身体に乗っていた小さな瓦礫を退けると身体を起こし、廊下を歩み出した。  崩壊したかのように思えた学園だったが、どうやら被害は局所的なものだったようだ。  半壊──とでもいえばいいだろうか、振り向けば瓦礫の山だが、前を向いている限りはいつもの光景とまるで変わらない。 「…………」  俺は何かを忘れている。  そして、何かを思い出しかけた。 「あたし? あたしは、おーすきこのめさまよ!」 「桜守姫……さん?」  いったい何を忘れているというのか。  あれはふたみじゃなかった─── (ふたみじゃ……ない)  桜守姫さん……なのか?  ──その時。  扉を隔てた教室の向こうから、誰かが動く気配を感じた。 「……!」  聞こえるのは、何やら小声で囁きあう声。  唯井家に邪魔をされては敵わない、と、そんな囁きが耳に届いた。 「…………」  気付けば俺は、音を立てないように扉に耳をそばだてていた。  あの忌々しい当主がどうして理事を降りる気になったのかは知らんが、後任は例の狂信者どもらしいな。  ああ、連中を神だとか言っている───  だから万一の事態に備えて、大量の液体燃料を運び込もうとしていたらしい。  どういう事だ?  連中は『有識外し』を施された唯井家の崇拝者どもだが、“外”との繋がりを保つ為の連絡要員でしかないからな。  なるほど、あの忌々しい異能を持たぬが故に……。  そうだ。血縁関係でない奴らは、この学園の秩序をこれまで通り維持させる役目に不安を覚えたのだろう……中立地帯を中立地帯であり続けさせる為の、奴らなりの思惑だったのだろうさ。  くくっ、そういう事か。狂信者というのは考える事がいちいち極端すぎるな。  まったくだ。いざとなれば学園ごと火の海にする為の下準備だったのかどうかは知らんが、やたら“炎”なぞにこだわる辺り──それにあの御前の人形に体当たりなどという愚考に出たのも、本家の連中の役に立とうという一心だろう。  なるほど、合点がいった。  我々との争いを拡大せぬよう務めている本家の弱腰連中にしては、随分と思い切った行動に出たと思っただろう? 『軍勢の守り手』の御名を持つあの絡繰には、如何なる物理手段も通じんというのにな。  まあ、御前があの人形の何処をお気に召されてお傍に置かれているのかは存じ上げぬが──あれは壁の役目しか果たせん。そこらの人間どもなら充分に通用する絡繰だろうが、連中と一戦交えるとなれば弱々しい人形よ。  まったくだ。この街には、あの程度の絡繰人形如き秒針がひと回転するまで待たずに解体する魔人どもで溢れ返っているからな。  とはいえ、これから先は少しは役に立つかもしれんぞ。なにせこの計画の成就の暁には、連中は丸裸となるのだからな。  ああ、そうだ、遂に……。  ──そう、我らの悲願が達成されるのだ。  ──ん?  誰だ、との誰何を待たずに駆け出した俺の判断はどうやら正解のようだった。  教室内にいた奴らが扉を開けるよりも先に階段を降りていた俺は、先日まで立つ事もままならなかった事など忘れてしゃにむに走り抜けていた。 「ふっ……」  振り返るも奴らの姿はない──けれど、もたもたしていたらどうなるかわからない。  それにしても、奴らはこの学園で何をしようとしているのか。  考えている時間はないが、あれは間違いなく桜守姫家の連中だろう。  そして前方の壁を見つめ、俺は途方に暮れる。  隙間なんかどこにもない。  今この学園は、完全に孤立した要塞と化している。  いったいどうすれば───  ……扉を隔てた教室の向こう側から聞こえた、連中の囁き声の続きを思い出す。  それにしても大袈裟すぎたのではないか? これでは連中に気取られなければおかしい。  邪魔が入らなければいい、という事なのだろうさ。どうせここで最後だ。それぞれが配置についた今、あの壁はむしろありがたいくらいだ。決行はもうじきだ。終わった時には、連中など邪魔にすらならん。  みどの様はどうなされておられる?  ここへ来る途中で見てきたが、みどの様はおられなかった。代わりの連中を置いて、どこぞへ行ってしまわれたらしい。  もしや、中央に行かれたのやもしれんな。  ああ、今回は御前御自らが中央での発動を行われるのだからな……みどの様はあの通りのご気性だ、畏れ多い事だが、御前のご尊顔を拝謁されに行かれていたとしても不思議はない。  なるほど、どうりで箇所の一つをお一人で担当されると言い出されたわけだ。我らはこうして数人がかりで行わなければならんが、みどの様ならばお一人で充分……複数では連中に感付かれる恐れがあるからこそこうして当日に行っているわけだが、お一人ならば自由にも動けようというもの。埋め込み作業は先に終わらせておられたか。  さて、無駄話はここまでだ。埋め込み作業に加担できぬ低位の奴らも、そろそろここへ集めるとしよう……。 「…………」  いったい何が起きているのか──起きようとしているのか。 (今は、そんな事は考えるな)  逢いにいこう、桜守姫さんに。  俺が何を忘れているのか、何を忘れてしまったのか、確かめにいこう。  ……その為には。  その為には、この壁が邪魔だ─── (……え?)  その時、俺が前にしていた岩山のような壁が崩れ落ちた。  ──通れる。  これなら、この隙間があれば向こう側に行ける。 「…………」  どういう事かはわからないが、今はこの幸運に乗るしかない──俺は壁の隙間を抜けると、全力で猫階段に向かって走り出した。 「はぁっ……はぁっ……」  ──辿り着いた。  顔を上げた先にそびえる威圧の砦。  産まれた後に人として付けられる名ではなく、生まれたその瞬間には桜守姫としての名を影に刻まれている一族の巣窟。 「はっ……」  息を整えながら、俺は門前を通り過ぎる。  ──相変わらず、この世の果てまで続いているのではないかとすら本気で思わせる奥行きの壁。  しばらく進み、俺は壁へと手を当てる。 (確か、ここを……こう)  あの日、彼が行った行為をなぞる。  開く扉。  それは、魔窟への招待状。  俺は真っ先に、以前、桜守姫さんに手を引かれて向かった屋敷へと足を運んだ。  だが、そこに桜守姫さんの姿はなく─── 「…………」  唐突に、この場にいるという事が、領域を侵すという意味で俺の首を絞めた。  己の命を脅かすという意味では、ここは敵陣の真っ只中に他ならない。  点在する屋敷の数々。  このどれかに、桜守姫さんがいるとすれば。  それが当たりだとするならば。  外れはすべて敵。 (……上等じゃないか)  ……忌々しい。  まっこと忌々しき、かの連中めよ。  ──何故、気付かなかったのだろう。  何故、気付く事ができなかったのだろう。  幾年重ねても達成叶わぬ、我が役目。  過ぎ去る月日の度に、より複雑に絡み合っていく糸かと思っていたが。  ……これほど。  これほど簡単に結び目がほつれようとは───  一つ一つ尋ねるしか術はない。  覚悟を決めて挑んだからこそ、俺は拍子抜けせずにはいられなかった。  どの屋敷にも人影はまったくなかった。  無人とすらいっていい。  そう思った瞬間、不気味な感触を感じずにはいられなかった。  これだけの敷地面積に、これだけ無数の建物の中に、誰一人として住まう者がいない。  まるで廃墟の如き様相─── (何かが……動き出している……)  不明瞭ながらも俺に告げてくれた、桜守姫さんの警告。  それはつまり。  これだけの人員を投入して行われている何かが、今、この街で進行しているという事。  ──一瞬、生じた、その間の意味を。 「おや、君か」  考える間もなく、無人という認識を覆した、彼の姿。 「丁度いい。桜守姫さんを知らないか?」 「──君が桜守姫という事は、此芽の事かな?」 「ああ」 「…………」  彼はしばらく考えるような素振りを見せて、それから、 「こっちだよ」  と、背を向けて歩き出した。 「ここは……」  その建物には見覚えがあった。 「ここはね、桜守姫の聖域だよ」 「聖域?」 「ああ。“社”という概念で捉えてもらえばいい。ここはね、桜守姫にとっての“神”が祀られている場所なんだ」 「先祖崇拝とか、そういう……」 「いや、ちょっと違うかな」 「じゃあ……」  ──襖の隙間から垣間見た、あの光景がにじり寄る。  迷い込んだ先に転がった、かの不吉。 「前に言ってた、『御前』……の?」 「──御前?」  けれどその言葉に、彼の微笑みは奇妙な形に崩れて。 「御前、御前……御前?」 「お、おい……」 「御前。御前……ねえ。御前かぁ……」  ──ぱん、と。  限界まで空気を送り込んだ風船が弾けるかのように。 「アハハハハッ! 御前? ……御前だって? 何を言ってるんだ!?」  ──緩やかに変色した景色の渦。 「ここには誰もいないよ!!」  溝に溜まった清らかな水に、そっと一滴、色を垂らしたかのように。  閾で覆われたこの水溜りが変容を始める。  ……いない?  誰もいない? 「待てよ。だって今、聖域って……」 「誰かが境界線を引きさえすれば、そこがどれほど価値のない場所であろうと、何処だって何時だって聖域になりえるのさ」 「桜守姫家の神が祀られてる……って」 「神を祀るのは人間の心さ。誰かがその場所には神が宿ると言い出し、周りがそれを信じさえすれば、神は祀られ続けるんだよ──社と名がつく場には、社と呼ばれる場には、常に神が居られるのかい?」 「…………」  何故、俺は否定しようとしているのか。 「……でも、誰かがいただろう」  それが何であったのかさえわかっていないのに。 「俺はあの日、確かに見た」 「見た? 何を」 「この社に……人の姿を」  そうだ。  あれは間違いなく─── 「ああ、あれか。ちょっとした事故があってね、急に運ばれてきたんだよ。悪い事したね、急に手が離せなくなってさ」 「──え?」 「だから、あの日は君の案内をしていただろう? なのに、急に消えてしまう形になってさ───  でもまさか、見られていたとは。建物の中には原則として誰も入らないから油断してたよ。  そうだよね、部外者なら、事情がわからずに入り込んでしまう事もあるよね」 「…………」  ──一歩。  知らず、後ろへと下がっていた。 「あの……死体、は……」 「世の中には、どうしても優先しなければならない事柄というものがある。  桜守姫の者はね、その鼓動が停止した時、その骸は必ず真っ先にここへと運ばれるのさ。例えどれほど原型を留めていなくてもね。  ──だから臭いが染み付いてしまって困るよ。  僕の指にも、この建物にも」 「ああ、まったく……ここは死体臭くて敵わない」 「君……が……」  ──神、といった。  ここは聖域であり、社という認識こそが正しいと。  ならばこいつは、社に遺骸を招き入れるもの。  祀られ恵みを与える代わりに要求をするもの。  けれど祭壇に腰を下ろし続ける事に飽くもの。  聖域からはみ出し、自在に闊歩する──神。  こいつこそが。  ───桜守姫の『御前』─── 「……ようやくだ」  底も知れぬ沼の上に浮いた畸形な藻が、文字を模る。 「いや……もう“ようやく”なんて言葉の響きも擦れ、意味すらも霞んでしまうほどに待ち続けた。けれど遂に、アレの回収が叶うんだ」  その藻はよくよく近付いて見てみれば、水草ではなかった。  植物では──ましてや生物ですらなかった。 「忌まわしき唯井家に力を与える原因となってしまったアレ。そして、連中が力を持ってしまったからこそ回収が叶わなくなってしまった──アレ」  何故ならこの沼は生を育まない。  この沼の水は息吹と鼓動とは相容れない水路から流れ込んでいる。  息吹も鼓動も否定した領域から、もはやそれらを必要としなくなった世界から。 「どれだけの者が、唯井家の築いた壁に挑んでは焼き尽くされてきただろう」  だから文字を模る藻が水草であるはずがない。  それは底の底に息づくもの。  沼の底に沈んでは、浮かび上がる事すらおっくうになったものたちが、底の底で煮詰められて一緒くたに溶け合って、もはや元が何であったのかすらわからなくなるまでに成り果てた──常に末の末にあるもの。 「僕の兵隊を次々と焼き殺しやがって。あいつらもあいつらだ。無駄だって言ってやってるのに、挑戦だかなんだか知らないけどむざむざ殺されに行きやがって。  お前らが死ねば、それだけ兵力が下がるんだよ。いつ連中を潰す機会が巡ってくるかわからないってのに、勝手に死ぬなんていったい何様のつもりなんだ。自分の立場がわかっているのか。  どうせお前らの寿命は短いんだから、生きている間だけでも役に立ちやがれってんだ。いったい誰のお陰で生きていられると思ってるんだ!」  その藻のようなものは、唐突に饒舌になったかと思えば、話してる内に自らが模った内容に腹を立てては激昂する。  悪戯な風と振動によって揺れ動く水面そのままに。  ──こいつは海だ。  きらびやかな水面を湛える雄大で穏やかな凪であるかと思いきや、突然、思いついたように時化となって暴れ回る海原だ。  通りがかった船を丸ごと呑み込んで、乗客を噛み砕くように懐へしまい込んで、人魂を蝋燭代わりに祭壇を築く蒼海だ。  沼の底に溜まったそれは、いつしか底などとは呼べないほどに水位を増して蓋から溢れ出した。  沼の上に海が出来上がった。  初めから汚れた海が出来上がった。  初めから取り返しなどつかないまでに濁った、取り返すも何もどれだけさかのぼっても透けていた記憶などない、取り返すものなどない海が出来上がった。 「でも、あいつ……あいつは役に立ったな。有識結界に向かっていった馬鹿の中で、あいつだけが唯一役に立った。たいした力もないくせに、あの姉妹を退けて采配を取り出した時は殺しておこうかと思ったけど……生かしておいてよかった。本当によかった」 「桜守姫さんの……叔父さん、の事か……?」 「僕は勘違いをしてた。勘違いをしてんだよ。わかるかい? この土地に染み込んだアレのせいで、唯井家は力を持つ事になってしまった──そう思っていたんだ。でもね、違ったんだよ」 「…………」  ……ああ、こいつは。  この海は。 「あははっ! 唯井家はさ、この土地だからこそ力を振るう事ができたんだ。アレが染み込んだ空明市の土の上だから!  ここじゃなきゃ駄目なんだよ、あいつら。あいつらはただそれだけの存在だったんだよ!! “外”へ頻繁に出入りしていた連中は、とうの昔にその事に気付いていただろうにさ。よくも今日まで隠し通してきたものだよ。まったく感心する……あははっ! あははははっ!!」  地表を覆い尽くす大洋は一つ一つの物体など識別しない。  いちいち避けて腕を伸ばしたりはしない──口を開けばいつの間にか呑み込んでしまっていただけのちっぽけな存在だ。 「唯井家は力を付けすぎたから。情けない話だけど、ずっとずっと辛酸を舐めながら、ただ機会だけを窺う日々が続いていたんだ。連中を打倒しなければアレの回収は叶わない……そう思い込んでいたから、同じ場所を行ったり来たりさ。  でも、こうなれば話は別だ。だってそうだろう? 僕の兵隊が全部壊れたってさ、とにかくアレを回収しさえしてしまえば、忌々しいあいつらを丸裸にできる。  そうなれば──ただの人間になったあいつらなんか脅威でもなんでもない。一匹ずつ踏み潰して歩けばいいだけの話じゃないか」 「あん、た……」 「あれ? 君、こんなところにいたの? いったいいつの間にやってきたんだよ……ははは、まぁいいか。僕は今、気分がいいんだ。とてもとても気分がいいんだよ」 「…………」  ──回収。  こいつはさっきからその事ばかりを繰り返している。  回収するのに唯井家が邪魔だった、と。 「──まったく面白いよね、君たちは。生まれた時は純白……ははっ、これは君たちの言葉だよ」  だから、と、御前は笑う。 「だから、なんだろう? 初恋の思い出だとか、いつも一緒にいたかけがえのない仲間たちとの思い出だとか、歳を取っても、ずっと胸の中に仕舞い込んで。  それは仕舞い込むほど輝きを放つから、いつまでも色褪せずに。人それぞれのその輝きを。それだけは“特別”だって信じ込んで。  守りに入った人生も、味気なくなった人生も、後はただ朽ちていくだけの人生も」  だけど、と、御前が嗤う。 「だけど、いつまでも白いままいられるはずなんかない。どこかで、必ず、黒く、染まって。  挫折が呼び込む屈折、何もかも思い通りになるわけではないと知った時の焦り、望みは手に入らないと理解してしまった時の虚無感……それは、自分は何もなせないのだと悟ってしまった時。  その時から、君たちは身の程にあった枠の中で日々を生きる為に小金を集め始める。  身体の隅々からほじくり返すように奸智を寄せ集めて、同じように自らがどれほど矮小な存在だか思い知った者たちと小さな小さな諍いを始める。  白はいつかは黒く染まって、現実を直視する事で染まっていくしかなくて、でも現実を見ないからこそ染まっていく事もあって、摩滅するかのように擦れ合って、肉も心も削げ落ちていく。  ──それを“大人になるってこういう事だ”って言い訳にして」 「君も」 「────!」  ずい、と顔を突き出して、御前は耳元で囁くように呟いた。 「“持っていなかった”側の人間かい?」 「……だったらどうだっていうんだよ」 「そうかそうか。君も挫折した側の人間か」 「だから……」 「だから? ああ、だから初めから黒くいられるようにしたのさ。  どうせ黒く朽ちていくのなら初めから黒い方がいい。どうせ黒いなら濃い方がいい。黒く、黒く、黒い方がいい」 「…………」 「その方が拾い集め易いから、桜守姫の中に毒を一滴、垂らしておいた。  純白ならすぐ染まる。清ければすぐ濁る。桜守姫に生まれた者は、生まれたその瞬間から毒を母乳代わりに啜って育つ」 「所詮、人間の一生など白と黒でしかない。白い頃は黒い事が成長の証なのだと憧れ、黒く染まれば白い頃こそが輝いていたと振り返る。  だから御前の神託を飲み干して、魔術師たちは自ら命を縮めるのさ」 「僕はそれを拾い集める。拾い集めて組み立てる」 (拾い集め……)  瞬間、隙間風のように脳裏を通り抜けたのは迷い込んだ聖域で見た光景。  障子を隔てた向こう側、大気が逃げ場を失った篭りの部屋で、骸に向かって差し伸べられる手があった。  その指先につかんでいたものは、小さな欠片。 (……欠片?)  桜守姫の者は、その生命が停止するとまず『御前の間』に通される─── (欠片を拾い集めていた?)  桜守姫家に生まれた者は生まれながらにして魔術師。  ──そうか。  そういう事なんだ。  桜守姫の者には何かの欠片が埋め込まれている。  だから桜守姫は桜守姫なのだとしたら。  ──じゃあ、何の欠片か?  御前は亡骸から拾い集めた欠片をどうしていたか。  僕はそれを拾い集める。  拾い集めて組み立てる。 (『槍』……)  この桜守姫家の聖域に奉じられていた『槍』。  欠片はあの砕けた槍の断片なんだ。  御前は亡骸から欠片を拾い集めて、あの槍を組み立てていたんだ。  けれど、欠片が埋め込まれているからといって、どうして魔術師になるんだ?  あの槍はいったい─── 「僕はあの槍でこの土地に染み込んだアレを回収する。ようやくこの瞬間がやってきたんだ……ずっとずっと待ち続けてきたものをやっと手にできる、この喜び……ああ!!」  ──“アレ”とは何だ? 「僕が──僕こそが『主張する者の血』を回収するんだ!!」  主張する者の……血?  この土地に染み込んだ?  唯井家に力を与える事になった?  いったい……。 「おっ、お姉様っ!!」  歩み出した此芽の前に飛び込んできた見知った少女。  ──ようやく見つけた。  その瞳はそう語っていた。 「……のん」 「お、お姉様! わたくし、わたくし──」  必死の形相が訴えかけているものがあった。  けれど。 「すまぬ……媛は、行かねばなりませぬ……」  今の彼女には、余裕と呼べるものはなかった。 「お、お姉様……」 「すまぬ……」  申し訳なさそうにする此芽はいつものように微笑む。  その笑みが呑み込んでしまった言葉。  もしかしたら、あの人が待っているかもしれないから、なんて。  ──行かないと。  いつものように、あの場所へ。  それはあの日から始まった、欠かした事のない日課。  彼女は日々、御前の間を前に跪いてきた。  それが『桜守姫』に生まれた者としての習慣ならば。  これはきっと、『此芽』として欠かさぬよう在り続けた慣習だ。  回収、と。  御前はそう口にした。 『主張する者の血』の回収を、と。  やはり俺など眼中になく、鏡に映る己の姿に酔いしれるかのように歓喜に震え──その様は、演説に他ならなかった。  演説家の恍惚とは、己が声高に掲げた話に聞き入っている聴衆の姿にこそある。  それこそが独裁者の支配欲を刺激する、自らの思想に染めている実感から生まれる洗脳の呼び水。  見下ろす者たちの意識を塗り替え、ただの大衆であったものを自らの支持者に、賛成者に、同調者に変えていく過程は何にも代え難い興奮と化して壇上の支配者に絶頂を覚えさせる。  けれど、演説家の恍惚はそれだけではない。  演説している己の姿という、それそのものに酔いしれている場合こそがそれ。  もはや相手の心理を読むに長けた先に身につける話術でも何でもない、響き渡る己の声でもいい、己が口から飛び出す一切の無駄なく整理された話し方でもいい、己が考え抜いた思想の内容でもいい──そこに相手の存在は関係ないのだから。  誰が聞いていようが、誰も聞いてなかろうが関係ない。  その海の荒れ狂う様は後者。 「地図の上からたっぷりと墨を垂らすんだ、ぽた、ぽた、ぽた、ぽた、ぽた……膨れた墨はやがて紙に滲んで結ばれていくよ。  五つの点と点が結ばれて紙は墨色に染まる。円を描くように墨を落とせば、残るのは真ん中だ。最後の空白」 「…………」  五つの……点? 「墨はそこへ向かって集まっていく」 「もはや其方に危害は及びませぬ。すべては其方と無関係のところで起こる事……」  確か、桜守姫さんが……。 「妹が其方の御宅を訪れたのは、其方の御宅が五箇所の点の一つに偶然にも重なっておっただけで……」  ──五箇所? (だと……したら)  俺は先程の光景を思い出した。  人気のない弐壱学園を徘徊していた桜守姫──彼らはいったい何をしていた?  ……それに。 (学園……俺の家。もしそれが、五つの点の一つなら?)  空の上から降ってきた墨。  残りの三箇所が何処であったのかなんて知らない。 「僕の骸骨どもは墨の上に身を浸している。後は綱を引くだけだ。墨が紙に滲めるように、真ん中から引っ張ってやるだけだ」  魔術師が出没するという事に何らかの意味があるとしたら──膨れた墨として広がっていくのは何だ?  ……回収。  血の回収。  この土地に染み込んだ『主張するものの血』の回収。 「集まった墨はみんなみんなあの槍が吸い上げてくれる。『主張する者の血』を余すところなく吸い上げた槍──嗚呼、血を吸う媒体があの大いなる槍でなくて何だというのだろう!!」  絶頂を迎えたかのような歓喜に震える御前を見つめながら、俺は……。  ……俺は、矛盾に気が付いた。 (そう……なのか?)  こいつの言っている事はおかしい。  だって、桜守姫家に生まれくる者はあの槍の欠片なのだとして考えてみれば─── (……ただその場にいるだけで、『血』の回収が叶うのか?)  魔術師たちは五箇所に散った。  その五箇所というのは、彼の語り口から察すれば『墨』が垂らされた場所だ。  だとすれば、墨とは魔術師。  墨は墨でしかなく、地面に染み込んでいるという『血』とは別物──あくまで地図を染めていくのは墨。  何故なら、『主張する者の血』とやらはこの土地にすでに染み込んだものなのだろうから。  だから“回収”する。  今から染め広がっていくのは、墨。 (……そう考えてみれば) 『槍』の欠片が埋め込まれているからこそ、桜守姫家に生まれくる者は魔術師となる。  それは逆に言えば、『槍』の一部分であるからこそ魔術を駆使する資質を有している、という事だ。 『槍』の一部が人と混じると魔術という性質を帯びるのか、この場合でいう魔術とはそもそも『槍』が持っていた能力だったのか──それはわからないが。 『桜守姫の魔術師』とは『槍』である事でこそ成り立っている。  だからこそ。 (“魔術師であるという事”、その時点で『槍』としての機能は果たされているんじゃないのか)  それこそ、果たされた結果じゃないのか。 (だったら、魔術師たちがそれぞれの地点に配置されただけじゃ『血』の回収はなし得ない)  血は血だ。  墨じゃない。  御前の目的があくまで『主張する者の血』なら、この土地に染み込んだ血の回収の為に墨が必要になるんじゃないのか? 「……あんたにとって、桜守姫家ってのは何だ?」  波立つ水面に小石を投げかける。 「あんたは桜守姫家を──どうするつもりだ!?」  とととっ、と、小石は水上を跳ねて新たな波紋を作り出す。  そして小石は沈んでいく。 「…………」  ──その時、桜守姫家の御前がゆっくりと投石者を向いた。 「どう? 桜守姫が? どうって君……桜守姫ってのは、もともと僕が目的を果たす為に作り上げたものだからさ」 「そうかい」  ……なんとなく、そんな答えが返ってくる事はわかっていた。 「だから桜守姫をどうしようと僕の勝手なんだよね」  その答えも初めから俺の中にあった。  いつの間に、俺は唇を噛んでいたんだろう。 「──じゃあ御前なら、どうやって『主張するものの血』を回収する?」 「ん?」 「この土地に染み込んでしまった血を、どうやって回収する?  自分の桜守姫家をどう使う?」 「あの邪魔な唯井家さえいなくなれば、この街に方陣を描いて一気に吸い上げるさ」  ああ、五箇所。  空明市を覆う魔方陣。  それがいったいどんな形をしているのかは知らないが、垂らした墨と墨とを結びつけると出来上がる方陣がある。 「その方陣の中で、桜守姫家の役割は?」 「役割も何も、あいつらは元々あの『槍』の一部じゃないか。然るべき形に還るだけだよ」 「っ……!」  息が──詰まった。  呼吸は整わないまま、俺は息を殺すように声を絞り出した。 「か……還る、って事はつまり……」 「そう! 遂にあの槍が復元するんだ! あいつらに壊された、あの槍が!!」 「…………」  ──続く声が出てこない。  還る。  然るべき形に還る。 「そう、だよ……な。槍は復元するんだよな。壊れたままで破片の足らなかった部分が、ようやく全部揃うんだよな」 「そう、やっと完成だ。実に長かった」 「…………」  墨が地図の上に広がっていく。  濡らして染めて広がっていく。  墨はすでに抜け殻だ。  中身だけが溢れている。  殻は─── 「それ、で……完成した槍、には……」  ……割れた殻に鼓動が宿っているはずがない。 「『主張するものの血』が……吸収されて、いるん、だよ、な」  地に染み込んだ血を集める為に欠片は一斉に集められる。 「そう。それもこれも、此芽が生まれてくれたお陰だ」 「えっ」  桜守姫……さん? 「あの娘だけが違った。あの娘だけが、白いままで生きていた。  黒い土を踏みながら、毒を啜りながら、簡単に染まっていくはずの純白なのに、色は変わらなかった。まとわりつく埃を振り払い、凛として前を向いていた」 「…………」 「ああ、そうだろう……そうだろうともさ。だって彼女に宿った『骸を貪り喰うもの』は……」 「でも彼女は……確かに昔は天才とまで呼ばれたけれど、今は魔術を扱えない……だろう?」  ──そう口にした途端。 「扱えなくしているのは誰だ」  海が嵐の色に染まった。 「いったい誰なんだよ、巽策」 「どういう……意味だ」 「君は罪深い。どうして桜守姫此芽が魔術を扱えないのか、今日までそれを知らずに生きてきた。この世で最も罪深い男だ」 「俺が……何か関係してるとでも……」 「此芽はもう助からないよ」 「…………」  一瞬、こいつが何を言っているのかわからなかった。 「……は?」 「君が生きてここにいる。だから此芽は助からない」 「お……い……」 「だからアレの回収は、此芽が死ぬまでに行われなければならないんだ」 「…………」  地に広がった赤い斑点。  一つ、二つ……それは指の隙間から零れ落ちる度に、増えていく。  咽込んだ際、咄嗟に口許を押さえた掌から。 「ごほっ! ごほほっ!!」  それはすでに、咳と呼べる類いのものではなかった。  吐き出したのは濁った酸素ではなく、塊。  赤黒く凝固した、全身の管を流れているはずの体液。 「ごっ……ほ、ごほっ! げほっ!」  ──止まらない。  止められない。 「げっ……ぉ……ごぼっ……!」  ──ここまで、か。  地につきそうになる膝を押さえ、此芽は蒼褪めた顔に覚悟に近い眼差しを浮かべていた。  とうの昔に覚悟していた事だから。  いつかこうなる事を、彼女は知っていたのだから。  だから彼女は、ただ。  もう少し。  もう少しだけ。 (もって)  ただ願う事だけをし、そして願うばかりではと言わんばかりに一歩一歩、震える足を前に向けて歩き出した。  もう少しだけでいい、もって。 (あの人のところに行かないと……いけないの)  だから、もってよ。 「桜守姫さんが俺のせいで死ぬって……どういう事だよ!?」 「…………」 「おい!?」 「……君はさ、彼女がどうして魔術を扱えないのか、考えた事はないのかい?」 「それが何の関係がある!?」 「彼女が魔術を扱えないのは、その結果だからさ」 「結果……?」 「それに一つ訂正するとね。僕は、此芽が君のせいで死ぬ、なんて言ってないよ。桜守姫此芽は君の為に死ぬのさ」 「どういう……事なんだよ、それ」 「はっきり言えばね、此芽は魔術を扱えないんじゃない。扱う事を頑なに、そう──それこそ一生をかけて拒んでいるだけさ。君の為に、ね」 「…………」 「そして、それこそが回収の妨げとなっていた。今この時それが為せないのであれば、それはそれでもよかった──けれど、それが為せる事がわかってしまった。  彼女の叔父に当たる骸骨が唯井家の秘密を暴いた以上、それは今すぐに為されなければならない。  そうなると此芽が魔術を扱えない状況は致命的だ。あれほど適任な存在は桜守姫の歴史を見渡したところでただの一人もいないのだから」  彼女でなければなせない──目の前で熱弁を揮う男に聞かされた「彼女は天才だった」という事からすれば、それほどの逸材でなければなせないほどの大掛かりな魔術だという事なのか。 「巽策。君はね、とうの昔に死んでいるはずだったのさ」 「は?」 「でもね、彼女が生かしたんだ。緩やかに朽ち果てていくはずだった君を、彼女が生かした。  魔術師であるという事のすべてを放棄してね」 「だからそれは、たった一つの魔術」 「正確に言えばね、彼女はある魔術をずっと実行し続けているんだよ。だから他の術を行使できないんだ。複数同時発動が叶わないんじゃない──彼女が執り行ったのは、それが許されない類いのものなんだ。  もし使ってしまえば、その時点で彼女が実行し続けている魔術は効果が無効となってしまうのだからね」 「…………」 「わからないかな。もしも彼女が他の魔術を扱ってしまえば、その途端に君は死んでしまうんだよ」 「だから彼女は、頑なに魔術の使用を拒み続けた──これはつまり、端から見れば魔術師であるという事を放棄したも同然だよ。  そして魔術師であるという事を放棄するという事は、桜守姫である事を放棄するという事だ。  この桜守姫で実力を持たない者がどんな目に遭うか知りながら、他の誰に『出涸』と蔑まれようと、彼女はたった一つの魔術を解除しようとはしなかった。  ──理解をしている事と体験する事は違う。  初めは相応の決意を以って挑んだだろう。けれど、実際にその代償を支払い続けている間に、彼女は何度も心が折れそうになっただろう。だって彼女はいつだって元の“天才”に返り咲けたのだから。  簡単な事だ、君を見捨てるだけで彼女はその瞬間から桜守姫の女王として君臨できた。妹のみどのなんて彼女からすれば塵屑も同然だよ。『A』は初めから終わりまで彼女のものだったんだ。  でもしなかった。  でも、しなかったんだよ。  彼女は堪え続ける道を選んだ。選び続けた。もう二度と逢う事もないであろう君なんかの為に。  ここから遠く離れた街に住み、自分の事など思い出す事もなくのうのうと生きているであろう君程度の存在の為に。  どんな目に遭おうと、彼女は堪え続けてきたんだ」 「桜守姫の魔術師の力の根源は、体内に埋め込まれている槍の欠片だ。  これは桜守姫にとっては命と同義でね。つまりさ、人間のような経緯を辿ってはいても、概念としては動力を与えられた骸骨が動き出しているようなものでさ。  だから僕は、骸骨どもが動かなくなったら即座に欠片を拾い集める。骸骨と共に死を共有し合う前にね。槍の許へ還してしまえばそれはまた別の身体、欠片は在り続ける。  ──桜守姫の魔術師は動力そのものを魔術として使用しているのさ」  ならば魔術の行使は命を縮めるのか、使い続けていれば欠片の持つエネルギーはいずれ消費し尽くされ、魔術師は死んでしまうのか、というとそうではない、と御前は言った。  瀕死の重傷を負ったとしても、生きてさえいれば、有機生命体はいずれ回復する。どれほどの疲労が身体を蝕もうとも、睡眠を取り栄養を摂る事でまた活力を取り戻す。  それが命という事。  肉体はさて置き、欠片自体に老いるという能力がない以上、その認識は命そのものなのだと。 「だっ……たら、桜守姫さんは……なんで……」 「君は“魔術を行使する”事と“命を犠牲にする”事の区別がついていない。  ──たった一つの魔術。  先人が残し、未だ式の構築さえも不確かだった幼少時の彼女が見聞きして覚えていた、しかしそれでも稀有の才覚が扱う事を許してしまった魔術。  それは二つの命を繋ぎ合わせるという事。  その瞬間から──そして今現在に至るまで、君と此芽の命は繋ぎ合わされていた。  君の命はいつでもからっぽだ。あの嫗が用いた言霊は“死”そのものであったのだろうからね。  常に零に向かって進み続ける君の命の杯に、此芽は自らの杯から並々と生命の酒を注ぎ続けてきた。だから辛うじて君は生き続ける事が許されてきた」 「…………」 「飢え続ける需要側を常に満たし続けていれば、先に枯渇するのは供給側だ。僅かばかりの回復など追いつくものか」  まるで星の資源を喰らい尽くす人間そのままだな、と御前が嘲った。  新たな金脈を見つけても、僅かばかりのそれもすぐに喰らい尽くしてしまう。 「桜守姫……さん、は……」 「……もう手遅れだ。何年かけたと思う。何年、消費するだけの相手と命を共有し続けてきたと思う。  彼女はとうの昔に命を削り尽くしていてもおかしくなかった。むしろ、ここまでもったのが──奇蹟、ってやつかな」 「……どうして、そこ……」  どうしてそこまで。  その言葉が、彼女にとても失礼な気が──した。  ──気付かなければよかったのに。 『さく』。  一目見ただけで、あなただって気付いてしまった。  ……なによ。  なによなによなによ!  なんで、気付いちゃうのよ─── 「……其方などに心配されるいわれはない」  もう、こうするしかないじゃない─── 「と、とにかくっ! 今後は、このような真似はなさらないでくだされっ!」 「あっ……そのさ」  彼が言った。 「桜守姫さんさえ良かったら、その呼び方……そのままでいてくれないかな」  ……ひどいよ。  そんな事、言わないでよ。 (……呼びたいよ。あたしだって、あなたの名前を呼びたいよ)  でも駄目。  そんなふうに呼んでしまったら、歯止めが利かなくなる。 「──ではの。巽殿」  あたしはあなたに嫌われないと。  顔も見たくないって、遠ざけてもらわないと。  でないと、あの日の魔術が解けてしまう。  思い出しては駄目。  認めたくないけど。  ほんとうに認めたくないけど。  再会しただけで、こんなに───  ……こんなに。  胸が、高鳴ってしまっているから。  ……恩人だって。  ただ、それだけだって。  ずっとそう言い聞かせてきたのに。 (……悔しい)  違ったんだ─── (くやしいよ……)  ……遠ざけないと。  遠ざけてもらわないと。  ねえ。  ねえ、お願いだから。  あたしを嫌ってよ。 「こ、これだけ申し上げてもおわかりになられませんか。其方は、ば、ば、ば……えと、やっぱりこういう言い方は……あっ……お、お馬鹿ですねっ!」  こうすれば嫌ってくれる? 「い、いや……其方のお宅からなら真っ直ぐ表門を訪れようものを、わざわざ裏手に回るとは。なんともはや、奇特な鍛錬法ですねっ」  ……上手くいかないね。  昔だったら、こんなの簡単だったのに。  それなのに、あなた、あんな事を言うんだもん。 「でも俺は、桜守姫さんの事が好きだよ」  ひどいよ。 「いや……ごめん。そういう意味じゃないんだ。ただ……」  そんなことわかってる。  わかってるけど、駄目。  ひどい。  ひどいよ。  あなたの一言で、こんなに胸が苦しいのに。  ……また泣いちゃったよ。  馬鹿だね、あたし。  あなたが嫌ってくれないなら、あたしが嫌えばよかったのにね。  嫌いになれるようなこと。  もう、二度と顔も見たくなくなるようなこと。  気付いたらあなたを捜しているこの目が、たまらずあなたを避けてしまうようなこと───  ……思いつかなかったよ。  だって、目が合うだけで、胸がこんな──……  なにしたって、どうせ───  ──どうせ、嫌いになんかなれないよ。 「もちな……さい……!」  喉の奥から搾り出した叫び声は、声にすらなっていない。 「ぅっ……く」  もともと、気力だけで立っていたんじゃないか───  そう己に言い聞かせて、なんとか立ち上がる。 (……もうじき、あたしは死ぬ)  そんなこと、もうとっくにわかってる。 「でも、ここで君が停止してくれれば、今この瞬間生きている此芽はこれ以上の命を削らずに済む」 「…………」 「需要先がなくなれば、供給をする理由はなくなる。増えた減ったで根源は語れるものじゃないけど、肝心なのは、君が死ねばあの娘はあの状態を取り続ける理由がなくなる、という事だ」 「…………」 「そうなれば、あの娘も諦めがつくだろう。桜守姫の為に気高く振舞ってきた娘だ。君さえいなくなれば、否やとは言うまい」 「…………」 「再会、か。いったい何時からあの娘は気力だけで立っていたのだろうな。ふっ……はは、あはははは!  ──君の顔を見て、ぷっつり糸が切れてしまったようだね」 「おい、人形」  ──耳障りな音が湿った空間に反響する。  次の瞬間、そこには機械仕掛けの串刺し公が現出する。 「役に立て」  何ら感慨もない一言をその場に落とすと、御前は踵を返した。 「…………」  俺は。  俺は。 (さけられ……ない)  そう気付いた時、幼き此芽はどうしたらいいのかわからなくなった。  あの魔具が、“結果を早めただけ”なのだと気付いてしまったから。 “死”に至る結果だけを早める魔具。  生物を傷つけるような機能は一切持っていない。  そこらの小石だって、ぶつければ外傷を与える事ができるが──あれはそれすらもできないほどに柔らかく、引っかき傷を与えるほどに尖ってもいない。  だからこそ、外傷は一切残らず、一切の証拠も残さない。  あれを使用された者は、突然、何の理由も因果もなく死んだとしか思われない──それ自体が逆に不自然ではあるが、だが、辿る痕跡も一切なければそうとしか判断できない。  ──終わりの瞬間。  生物が生物である以上、必ず訪れる末期の結果。  あの魔具は、ただそれだけを持ってくる。  だからこれは、いつか彼が辿る結末。  ただ、それ自体は命を持つ身なれば当たり前だとしても、 (のろい……!)  これは後の彼が辿る結末。  咒いの結果として引き起こされる終焉。  だから避けられないのだ。  老衰や事故の結果としての末期を連れてこられただけなら、彼女は力押しでそれと彼とを引き剥がす事ができた。  それだけの力場が、桁違いの力場が、彼女の内にはある。  けれども“縛られた呪詛”は彼女では解除が叶わない。  力量が及ばないのではない──この咒いは使用者がすでに己の命を捧げる事で縛られている。  外部からの干渉など、力の大小は関係なくその一切を受け付けない。  そも、咒いとはそういうものだ。  咒いとは本来誰かを不幸にする事を目的としたものではなく、盲目なまでの己の熱望を達する為にその身を、魂すらも捧げる行為をいう。  周囲の制止の声も聞こえぬほどにただ目的だけを見つめ、だからこそ周りがどれほど巻き込まれていようと気付かず、気付けず、だから結果として誰かを不幸に陥れる。  あの魔具を生み出した魔術師は、彼に咒いがかけられていた事など知りもしなかっただろう。  ただ邪魔な子供を自慢の作品で排除しただけ。  此芽ならば老衰や事故の死神程度、容易く“弾く”事ができたというのに。  だが。  数年後──限りなく近い未来。  彼がこのようにしてその命を終える事は、すでに決定された未来。  決して避けられぬ炎熱色の呪詛。  あの魔術師が連れてきてしまったのは、最悪の死神だ。 (……しなせる、わけには、いかないよ)  咒いは確かに昨日まではなかった。  今日、家に帰ると言っていた──最終日に、彼は咒われたのだ。  巻き込まれた。  いや、誰も訪れるはずのないこの街へ“来た”という、“来れた”という、その時点で─── 「…………」  それでも、自分のせいだというのは何も変わらない。  自分がここへ呼び出したから。  呼び出したのが自分だったから。  だから彼はこうなってしまった。  彼が咒われていたかどうかなど関係ない。  ──一つだけ。  たった一つだけ、彼を現世に繋ぎとめておく方法がある。  その方法を彼女は知っている。 (でも、それをしてしまったら……)  息を呑んでいた。  それがどういう事なのか、彼女は理解していたから。  理解できてしまう頭脳を有して生まれてきたのだから。 (…………)  選択の余地なんかない。  彼をこのまま見殺しになんてできない。  ──その想いだけが。  今の彼女にある、たった一つの“なかみ”だった。  あたしを見つめるあなたが、なんて言うのか。 「…………」  ほうけたようにあたしを見つめるあなたが、あたしをどう“にんしき”するのか。 「このめ……?」と、あなたはさいしょにつぶやいて。  それから。 『お姫さまみたいだ……』  ──そのしゅんかん、それは“ちかい”となる。  どきっ。  むねが、きゅっとしめつけられた。 (こ、これは……さくがもどってきてくれたから)  そう言いきかせて、むねのどきどきをおさえる。 「そ、そうでおじゃる。わらわはお姫さまなのよですの」  あなたが“にんしき”したその“かたち”を。 “ことば”を。  あたしはきざむ。 「このめはお姫さま?」 「そう。でもね」  あたしは首を横にふった。  ──一つのうそ。 「わらわがお姫さまであることは、みんなにはヒミツなのです。明かしちゃダメなんだよでござる」 「そうなの?」 「うん」 「ひみつ? 僕と、このめとの?」 「そ、そうじゃぜ。わらわと……あ、あなたとだけのヒミツっ!!」  ──だからこれは、あたしだけのヒミツ。 「わかった。僕、ぜったいだれにも言わないよ」  ──うん、だから。 「しんじるよ」  だからね。 「あなたは、このことを、わすれてしまう」 「えっ」 「あなたのいしがほんものなら、それがちかいとしてきのうする。あなたがわらわとのヤクソクを守るからこそ、あなたはこのことをわすれてしまう」  守るからこそ守れないヤクソク。 「よ、よくわからないよ」  ──ごめんね。  あなたはあたしを『お姫さま』と“にんしき”した。  だからあなたにとって、“おーすきこのめ”は『お姫さま』だ。  あなたとつながっているあたしは『お姫さま』。  あなたの“つま”であるあたしは、だんなさまがのぞむ女でありつづける。  これは『結婚式』とよばれる“まじゅつ”。  ほんとうは使っちゃいけない“じゅほう”。  それからだんなさまは、あたしに“ゆびわ”をはめる。  この“ゆびわ”は、“つま”へのおもいのあかし。  ──ほら、よく、「給料の三ヶ月分」って言うじゃない。  だから、そういうことでなくてはならない。  つよいおもいがこめられたものでなくては。  ……ごめんね。  あたし、ずるい言いかたをしたんだ。 “ゆびわ”をえらばせてもらっちゃった。 「……やだよ。僕、わすれたくない」  あなたは、そう言ってくれた。 「うん」  ──ありがとね。  あたし、そう言ってくれるってわかってたから。  ──今、“ちかい”はむすばれた。  これで『さく』と『このめ』はむすばれた。  だいじょうぶ。 「都合よく記憶の修正が行われる」から。 「都合のいい記憶に修正”され、“近しい出来事があれば合一」される。  あなたがこの街へきたという、そのきおくは消えない。  そのとき、だれかに出会ったということもおぼえてる。  ──あたしにかんしてのきおくだけが消える。  だから、あなたのきおくのなかにのこる“おーすきこのめ”は、できるだけ近いころに出会った、あたしと年とかかっこうとかが近い女の子にすりかえられる。 「不都合がない程度に、限りなく自然になる」ように。  消えるのは『お姫さま』に「関連する事柄」。  だって、そうしないと、あなたがかわいそうだから。 『お姫さま』にかんする一切は消えてなくなるから、あなたがここでたいけんしたこわい出来事も、みんなみんな、わすれてしまうことができる。  自分があんな目にあったなんてこと、わすれてしまった方がいい。  あなたは“きおくのゆびわ”をあたしにくれたの。  あたしが『お姫さま』──あなたの“つま”でありつづけるかぎり、この“まじゅつ”がとけることはない。 「わすれないよ」 「えっ……」 「僕、ぜったいにわすれないから」 「…………」  …………。  ……。  ……泣かないよ。  ──ありがとう。  でも、ごめんね。  だからあなたはわすれてしまうの。  とってもまっすぐなひとみをしているあなたが言ってくれたことが、ほんとうだから。  だから、さよなら。  あなたのきおくはゆがんで。  あわになって。  ここであった「あり得ない出来事」は、「あり得る他愛のない日々」にしゅうせいされる。  あなたのなかのあたしは、ほかのだれかになってしまう。  ……なんかね。  泣きそう。  ……だいじょうぶ。  あたし、ちゃんと『お姫さま』になるから。  あたしわがままだけど、がんばるから。  だいじょうぶ。  あなたに“なかみ”をもらったから。  だからあなたも。  そう、あなたが言っていたように。 「りっぱな“巽の者”になるんでおじゃるよ」  ──あたしはお姫さま。 “なかみ”のつまったあなたを見習って、からっぽだったあたしはお姫さまになる。  それが、わたしのじんせいのもくひょうです。  だから記憶は水の中に溶けた。  ──だってそれは、桜守姫の魔術師が使った魔術だから。  俺は「お兄ちゃん」と呼ばれていたんじゃない。  あの娘がくれた思いやりの中に、そうした出来事があったから。  どれだけ不自然のない形に記憶が修正されても。  その言葉は、記憶の片隅に埋もれていた。  けれど、それは溶けただけで、消えてはいなかった。  俺は、どうして「お姫様が登場するのは童話だ」なんて思い込んでいたんだろう。  ……記憶がごっちゃになっていたのか。 『お姫さま』という存在の置き場所を、俺は、「その頃に聞いた童話」にしか見つけられなかった。  だって姫といえば昔話に登場するものだって───  ──俺は捜していた。  あの日の魚を。  俺が探していた『お姫さま』。  その、居場所は。  ──行かないと。  いつものように、あの場所へ。  彼女のお父さんを捜してあげないと。  ……二人で手を、繋いで。  ──待ち合わせ場所は、いつもあそこ。  ──辿り着いた。  朽ちた桜から見上げる園に。  あの日と同じ。  ただ、桜の樹が花をつけていない事だけが違う。  もはや二度と息吹を見せることのない朽ちた大樹の枝に、此芽は立ち尽くす。 (ごめんなさい)  彼女は腰を屈め、申し訳なさそうに枝をなでる。 (汚れちゃった……)  口の端から零れ落ちる真紅の雫は止め処もなく。  拭いても。  拭いても。  零れ続ける。 (ごめん……なさい……)  そうして、ふっ……と此芽の意識は途絶えた。  あたしはこのまま、眠りにつくのだろう──ただそれだけを、彼女は理解していた。  ……墨の上に水晶を砕き撒いたかのような空が広がっていた。  ゆっくり首を動かして、小さな輝きで敷き詰められた暗がりの絨毯を見渡した。  ぼんやりと見つめていたら、指先に力が宿っている事に気付いた。  それから、動かそうと望む手足に何ら抵抗が生じない事も。 「…………」  意識もしっかりとしている。  だから、此芽は理解した。 (……そっか。ここはもう、空明市じゃないんだね)  産まれてからずっとあの街で生きてきたから、よくわかる。  出る事の叶わないあの街から出る事ができるのは─── (ここは……天国? それとも地獄?)  あの街において語られる神話と真っ向からぶつかる御家に誕生したからこそ、そこに生じる宗教観は彼女の中にはない。  故にこそ、桜守姫家において死後の概念は曖昧だった。  聞きかじった知識を此芽が引っ張り出したのも、その為だ。  それでも一つだけ確かな事があるとすれば。  肉はあの街に埋められ、その前に御前に差し出されるのだろうという事。  ──後悔はない。  生きたかったか、と問われれば、それは生きていたかったに違いないが──それでも、己がその生涯を懸けてやり遂げると誓った事を完遂した。  完遂できたのだ。  後悔などあろうはずがない。  背にしていた大樹を、背にしたまま見上げた。 (……そうか。あなたも、こっちにきていたんだね)  もう花をつける力もない、大地から養分を吸い上げる事も叶わぬその身なれば、後は滅びゆくだけ。  現世に器を残してはいても、それは最早からっぽ。 (……からっぽ)  あの日の自分と同じ。  この世に存在していても、何もないと同じ、薄っぺらい自分。 (ねえ、あたし、からっぽでなくなる事はできたのかな)  ある日、この街を訪れた不思議な少年が教えてくれた事。  気付かせてくれた事。  今日まで──つい先程まで、彼女が積み重ねてきた事。  その答えはどこからもやってはこない。 (無駄だった……とだけは、思いたくないよね)  それがせめての抵抗。  あの日の誓いを守り続けた彼女の、たった一つの自負。 「ここまでしてあげたんだから、さく、ちゃんと生きなさいよ」  思わず、あの頃を思い出してそう口にする。  ──でも本当に、これで彼は生きられたのだろうか。  胸に込み上げる不安は、その事ばかりだ。  限界まで命を分け与えたとはいえ、彼にかけられていた咒いに期限などない。  あれは彼の生命を喰らい尽くすまで機能し続ける。  あれは──恐らく、死ななければ終わらない。  生命力を奪うとか、人として与えられた一生の時間を削るとか、そういった類いではなく、死そのものが概念として渦巻いていた。  ……その種の咒いだった。  わかっていた。  気付いて、理解して、それでも自分は続けてきたのだ。  でも、もう、何もしてあげられない。 (ごめんね)  中途半端な形になっちゃってごめんね。  ああ、そうだ──あたし、せめてここで待ってるから。  この世界の使者がやってきても、あたし、ここから動かない。 「後が支えてるんだよ」って言われても、謝って、なんとかここにいさせてもらうから。  そうしてあなたがやってきたら。  今度こそ、あたしの気持ちを伝えよう。  静かな空を点す無数の光に見下ろされながら呟いた、素肌の想い。  彼女もまたあの街に生まれ、育ち──そして何より、天文委員の一人だ。 (綺麗……)  満天の輝きへの憧憬があった。  雪景色に彩られたそれは、どれほど幻想的な光景として此芽の胸に響いただろうか。 (きっと……星空って、あんなんなんだろうね)  あの世はとてもこの世に似ている。  そう思った瞬間、此芽はすでに自分にとってあの世とこの世とが逆転している事に気付き、苦笑した。 (でも……本当に、何もかもあの場所のまま)  ただ、夜なのに雲が晴れている事だけが違う。  どうせなら、この桜の樹も昔みたいに満開の花を咲かせていればいいのに──なんて考えて、また苦笑した。  もしかしたら、あの場所は死後の世界に繋がっていたのかもしれない。  それとも、最後に見た光景が──それか、最も思い出深い場所が、その人が死後に行き着く世の光景なのだろうか。 「……え?」  そんな事を考えながら、なでた桜の枝に付着していた染み。  点々と付着していたそれらの中に、どこか見覚えのある……拭き跡。 「まさ……か」  静かに息を呑んだ此芽は、もう一度、夜空を見上げた。  夜空、ではなく、現世の夜空に似た隠世の空を。 (星空……なの?)  だとすれば、それは。 「……どうして?」  その問いへの答えは、たった一つしかない。  自分が生きているという事が何を意味するのか。 「そん……な」  気付けば此芽は力なく崩れ落ちていた。  見上げれば輝きが散りばめられているはずの空には、見慣れたそれよりも遥かに厚い雲が層をなしている。 「……此芽」  気配を感じたのは、それからどれほど経ってからだろう。  いつの間に、そこにいたのだろう。  もしもここがあの世なら、それこそが使者なのだと紹介されても素直に納得していた。 「御前……にあらされましょうや」  それを“声”として聞いたのは、生まれて初めてなれど。  何故だか、此芽にはそれが『御前』なのだと理解できた。 「君は、あの日の君のまま」  ──その言葉に。  此芽の両の眼にみるみる涙が溢れていった。  自身に生命が宿っているという事は。  その受け取り先が、もう命を必要としなくなったという事。 「……ふぅ……っ」  声を押し殺した嗚咽が、静寂に包まれた夜の時間を漂流する。 「ふっ……ぅ、ぅぅ……ぇ……」  ──行き先もわからず。  目的地さえも見失って。  すでに通った道であるのか、これから通る道であるのかもわからず、目隠しのまま、しじまのなかをたゆたう。 「…………ぅ…………」  驚いたのは、ほんの一瞬。  ──きっと、彼女は気付いていた。  ただ、それを信じたくなかっただけだ。  彼女が泣いていたのは、何の為か。  今日まで積み重ねた一切が徒労と終わった事か。  如何なる状況にも耐え忍び続けてきた事が、結果として残らなかった事か。  それとも、ただ一人、残されてしまった事か。  ──繋がっているのだと思う事ができた。  遠く離れていても、いつも、どこかで、あの日の少年の姿を思い描いていた。  もう二度とこの街へやってくる事はないだろうとわかっていても、もう二度と逢える事はないだろうとわかっていても──自分を思い出してくれる事は二度とないのだろうとわかっていても。  それでも、自分が始まったのは、あの人との出会いがあったから。  桜守姫此芽は『さく』がいて、初めてこの世に生まれたのだから。  成長すればするほどに、その想いは強くなって。  こんなのいけないって、よくないんだって、理性が働いても、幻想を追い求めるようにあの人を強く心に描いていた。  きっと成長すれば、あんな顔じゃないかって───  ……心臓が止まるかと思った。 「……此芽」  桜守姫が神のお声が耳に届く。  ──これは神託。 「日に日に強大になっていく連中に対抗できるだけの戦力が必要だった、だから桜守姫は始まった」 「稀有の才能を持って君が生まれた時、僕は『此芽』と名付けた。  ──すべては“此”から始まった、此から“芽”が生えた──  切望に似た万感の想いを込めて、特別だった君の名は僕がつけた」  ……御前。 「君は、桜守姫の希望なんだ」  あたしなんかでも、まだお役に立てますか。 「此芽。どうか、桜守姫の為に力を貸しておくれ」  ──考えるまでもない。  あたしは静かに、頷いた。  ……あたしの目の前には、一本の槍がある。  継ぎ接ぎだらけの、不恰好な槍だ。  そこに宿る力は息を呑むに充分すぎるものだった。  ここには大気が満ちている。  この街に漂う風のすべてが中央の槍目掛けて吹き込んでいるかのように。  ……いや、事実、集まっているのだろう。  これから起きる事に対する威嚇か、それとも迎合か。  身を震わせ予兆を感じ取った彼らは、行動に出たのだろう。  あれはそれだけの器。  聖域に祀られた我らが祭神のお膝元に置かれた、桜守姫の御神体。  ……何故だろう。  そこに叔父を感じた。  叔父が傍にいる時に感じた気配に似た、僅かな吐息に触れた気がした。  遠い昔に死に別れた母を感じた。  懐かしい香りが鼻腔をくすぐったような気がした。  だからあたしは、唐突に理解した。 (……ああ、そうか)  桜守姫家とは──魔術師とは。  では、あたしの身体にもこれがあるのか。  かつて槍だったものの破片が埋め込まれているのか。  これが「魔術師である」という事なのか。  ……桜守姫家。  あたしが生まれた家。  あたしを生んでくれた家。  あたしを『さく』に逢わせてくれた家。  あたしは桜守姫家にとって良い魔術師ではなかった。  あたしはあたし個人の都合を取って、桜守姫家の為の魔術師である事を放棄してしまった。 “桜守姫家の為に”。  それはずっと胸の中で木霊していたけれど。  桜守姫家の一員として、御家に恥をかかせるような人間にだけはならないように努めてきたけれど。  あたしは魔術師としては最低だった。 (ようやくお役に立てますね、御前)  それでも、あたしを見捨てないでいてくだされた御方。  どうかご存分にお使いを。  これが、桜守姫家の為となるのならば。  あたしは今こそ唱えましょう。  我が御名を解放するその言葉を。  ────-./012────  ──弾け飛んだ事を覚えている。  だから繋ぎ合わされた事を覚えている。  縫合をしたのは女だった。  ひどい有り様の女だった。  服も髪も肌も、焼け爛れたかのような、二目と見れぬ醜悪な身なりをして、耐え難い異臭を放っていた。  ただ、彼女は絡繰において随一と謳われた女だった。 「死なせてあげない」、そう女は言っていた。  それが女の最期の言葉だった。  彼女の醜い有り様は、どうやら手酷い負傷が原因のようだった。  ──どうしてこの桜守姫は、こんなにも汚濁い。  意識が薄弱としていた。  私が覚えていた事といえば、自分が『桜守姫』であるという事だけ。  桜守姫であるのならば、決して覆せぬ絶対が胸の奥に息づいている。  ────『御前』。  私は聖域の片隅に、ただ、朝も昼も夜も、たたずみ続けた。  一昨日も昨日も今日も明日も明後日も。  動かす度に軋みの悲鳴を上げる身体。  機構は秀逸にして滑らかで剽悍でありながら、どうしてか、私の身体は錆びている。  何故、だったのだろうか。  ただたたずむその姿が、似ている、そうおっしゃられて。  御前が私をお招き入れくださったのは。  誰一人として立ち入る事を許されなかった御前の間。  ──その意味を理解する事もなく。  また、理解する必要もなく。  私は御前のお役に立つべく、在る。  ただそれだけで『桜守姫』である私の意味は満たされていた。  いつしか私は、“御前のお気に入り”などと呼ばれ。  ある日、私に一つの命令が下った。  一人の少女の護衛。  あれは使えるかもしれないから、と。  私は頷いた。  特に何の感慨もあるわけではない。  私は『桜守姫』なれば。  ……何故だか歯車が軋む。  なれど、僅かながら、畏れ多い事なれど、疑問がなかったわけではない。  宿敵となるあの家の者どもに対してのみ、私は絶対の属性を持つ。  私はあの女の研究の成果。  幾年月日を重ねようとも実らなかったあの研究を、あの女は死の間際において遂に完成させた。  常ならざる魔人の蠢くこの街において、私の機能は、能力は、共に中程に過ぎない。  この程度の絡繰など瞬時に鉄塊となす化物を数え上げればきりがない。  しかし、あの山頂より連なる一族の血に僅かにでも関わった者ならば、私の前においては無力化する。  魔人は常人と化す。  ただそれのみにおいて、私は絶対者として君臨するべく繋ぎ合わされた。  だというのに、何故、睨み合い膠着し続ける状況を打破するべくお使いになられないのか。  ……いや。  御前は我らが桜守姫の神、すべてを見通しておられる御方。  きっと、何かお考えがあっての事なのだ。  ──ある日、奇妙な出来事があった。  いつものように気取られぬよう少女を監視していた時に起こった出来事。  奇妙。  私の認識においてそれはそれ以外の何物でもなく。  何故だったのかはわからない。  私はその出来事から目を瞑った。  まったくあの女は私にどんな機能をつけたのか。  忘れなければ、と思った。  忘れなければ、きっと私は御前にこの事を報告してしまう、と。  これは少女にとってとても大切な事柄だから。  他の誰かに知らせるような行為を取ってはならないのだと。  何故だかそんな事を思った私は、その出来事から目を背けた。  私の内にあるものはすべて御前に捧げる供物なのだから。  だから、私の内に残してはならなかった。  それ故、私が覚えているのは、少女を亡きものにせんと近付いたあの魔術師をその場より連れ去ったという事。  僅かに少女の注意を逸らし、その瞬間にあの魔術師の身柄を拘束し離脱した。  ──そして、後は、少女の護衛たる役目を果たした、と、それだけ。  この時、どうして私がその場で魔術師を片付けなかったのかはわからない。  特段戦闘に秀でているわけではないとはいえ、あの程度ならば瞬時に片付ける事もできた。  何故だか、そんな光景を少女に見せてはならないと、そう思ったのだ。  ……私の身体の軋みが少しだけ和らいだような気がした。  それからどれほどの時が経ったのか。  少女に敵は多かった。  命令が下った当時はかしずいていた者たちばかりだったが、いつしか彼女は虐げられる立場に置かれていた。  私はその筆頭となっていた少女を殺すべきだったのかもしれない。  御前から下った命令に忠実であるとするならば、彼女もまたその対象に他ならなかった。  にも関わらず、私はその少女を“外敵”と認識する事ができなかった。  彼女は魔術師として相応の実力者には違いない。  しかしそういう事ではなく──まるで不可解な事ながら、彼女の“害意”に私は反応を示さなかった。  やはり私は、どこかに欠陥があるのだろう。  関節が軋んで動けぬ、錆びた銅と腐った肉の塊なのだ。  そして今もまた、私は動けずにいる。  護衛の対象が死に瀕していようとも、私の任務はあの少女を外敵から護る事。  病魔に程近き、内から湧き上がった理由で生の灯火が掻き消えていこうとも、私にはなす術がない。  ……身体が軋む。  軋む。  ──あの少年。  どうして私はあの少年を前にした時、動けなくなったのだろうか。  時が来た、と。  あの娘に目をかけ続けてきてよかった、と。  そして、だからこそ───  ──見つけた、と、御前。  桜守姫の魔術師総掛かりとなる計画の中、私は初めて少女の護衛以外の役割を与えられた。  不可解に思ってしまうのは、やはり私が欠陥品のせいだろうか。  あの少女がこの計画の要ならば、今こそ護衛を外してはならない、と、思うのだが。  あの少年を殺害せねばならない理由は理解できた。  なれど、まるで、たまたま目に留まったから私にお命じになられたように感じたのは──気のせいだったのだろうか。  ……。  不要。  私は御前のご命令に忠実でさえあればいい。  ……。  なれど。  思い出せ。  ……どうして私はあんな事を口にした。  何故。  わからない。  わからない。  その事は決して思い出してはいけないのだから。 「死なせてあげない」──何故だか、あの女の言葉が思い出された。  意地悪なあの女。 「ごめんね」と謝ったあの女。 「一緒に死んであげられなくてごめんね」と謝ったあの女。  ──この世の誰よりも美しきあの女。  ああ、そうだ。  あの女が──妻が私を死なせなかった理由。  私たち夫婦の願い。  そうだ。  光を。 「な……なんだと?」  風を握り潰すように伸びた仕掛けの腕が、御前の首に絡みついていた。 「いったい……何をしている」 「ナ……ニ、ヲ、シテ、イル」 「この我楽多がっ! その手を離せ!!」 「ナニ……ヲ、シテ、イル」 「チッ……遂にいかれたか」 「何をしている!!」  ──轟いた一喝。 「貴様は! 貴様は、私の娘にいったい何をしているのだ!!」 「なっ……な……ん、だと……?」 「あの娘にいったい何を背負わせる気だ! この方陣を完成させ──桜守姫家の者たちを皆殺しにして! そんなものをあの娘に背負わせるのか!!」 「……ま……さか……」 「これまでは唯井家に対抗できるだけの戦力が整っていなかった。例え『血』が回収できても、それでは過去の再来だからな──また槍が砕かれるような事になってしまってはたまらない。  何より、これだけの仕掛けを行い得るだけの魔術師がいなかった。だから、なのだろう?」 「…………」 「何故なら貴様は──」 「……そんな有り様と成り果てても、流石は先代の『A』というわけか」 「此芽の誕生は貴様にとっての天啓……そういう事だろう。  そう、天啓だ。神ではない貴様もまた、受け取る側。  貴様にとっての神はあれだろう。独りでぶつぶつぶつぶつ、部屋の隅に転がった私相手に何度も呟いていた、あの神だろう。  貴様は何度も言っていたな、ご──」 「黙れ! だっ、黙れ!! お前如きが気安く口にしていい御方じゃない!!」 「──ふん。御前。桜守姫家の病巣、水を濁す毒の一滴よ。  死んで本物の神となれ」 「────!!」 「錆びた銅と腐った肉の塊が、貴様の旅に付き合ってやる」 「おっ、お前! いったい何のつも──」  きりり、と、歯車が駆動を始める。 「……どうか、私たちの二人の娘に」  奇妙に奇怪に、不快な音を立てて──けれど、力強く。 「……いや。“姉妹”という意味でならば三人か……」  ──そして彼は、笑ったのだろうか? 「どうか、私たちの娘に……」  絡繰仕掛けの表情は変わらぬながら、確かに零れた笑み。 「貴様以外の神の祝福を」 「う……」  いったい何が起こったのか。  あたしは朽ちた桜の樹の枝の上に倒れている自分に気付いた。 (……御前のお役に立とうとして、それで……)  この街に仕掛けられた方陣を完成させる為の魔術を執り行おうとし、そして───  ──そうだ。  御前のお気に入りと呼ばれているあの絡繰人形が現れて、自分を槍の傍から引き剥がして、それから。 (それからどうなったの?)  どうやら自分は、両手を回してもまるで届かない太い大樹の幹を挟んで、槍から遠ざけられていたようだった。  なんとか槍の方へと進もうと枝の上を這うと、目の前に広がったのは凄まじいまでの粉塵。 「っ……!」  起き上がれない自分に気付く。  指先は震え、四肢に力が入らず、顔を上げる事さえも渾身の力を込めねば叶わない。 (ああ……そうか)  身体の方がもたなかったんだ。  唐突に此芽は理解した。 “彼”との繋がりが断たれた今、供給は何一つ行われていないけれど──これまでの経緯に身体の方が耐えられなくなっていたんだと。  繋がりが断たれた事で、ふっ、と糸が切れたように、気が抜けてしまって。 (夫に先立たれた未亡人は、悲しくて哀しくて、自分の身体も壊しちゃうんだね)  なんて冗談めかして、そう思った。 (……しょうがないか)  口許に浮かぶ笑みは。 (じゃ……さく。あたし、追いかける側にするから)  決して何かを諦めたものではなかった。 (向こうでちゃんと、あたしの気持ちを聴いてよね?)  そうしたら、やっと呼べるよ。  あの頃の名前で。  霧の如き粉塵の網の中、霞む人影があった。 (御……前……?)  申し訳ございません、その言葉ももはや声にならない。 (結局あたしは……魔術師として、一度も御家のお役には……)  だがそこに、彼女が感じていた御前の気配はない。  ──代わりに聞こえた、呟きのような声。 (大丈……夫……? “大丈夫”って……言ったの?)  何故だか語りかけられているような気がして。 (“来る”……? 来るって……何……が……?)  とても懐かしい声で囁かれているような気がして。 「“彼”が……“来る”……?」  あの日、手を引いて前を歩いてくれた彼がいた。 「一緒に捜そう」って、そう言ってくれた彼がいた。  見つからなかった探し物。  何故、桜守姫家に生まれた者は“魔術師”であるのか──その本質に気付いた時、地に根を這うかの如く眼前に座する槍の中に、遠い昔に亡くなった母の存在を感じた。  ──そうだ。  もしもそうであるのならば、あの時、その存在を感じなければおかしかった。  桜守姫家に生まれた者が還る場所に、その存在を感じなければならなかった。 「お父……様……?」  あまりに唐突で。  そしてその呟きは、粉の嵐に掻き消える。  どれほど目を凝らしても、その姿は揺らぐ渦の中に影さえも映し込まない。  視界を霞めた人影は幻だったのだろうか───  けれど確かに、聞こえたような気がしたのに。 「大丈夫」って、そう言ってくれたような気がしたのに。  それから……「来る」って。 「彼」が。 「彼」が「来る」って──── 「桜守姫さん!!」  耳元に届いた言葉があった。  けれど幻聴だと疑ってしまう声があった。 「さ……」  こう言いたくて、どれほどその言葉を呑み込んできただろう。 「さ……く……?」  ……もう、いい?  もういいかな?  幻聴なんだからいいよね?  あの頃と同じ、あたしの知ってる、あたしにとっての呼び方で呼んでもいいよね? 「さく……」 「桜守姫さん!!」  何故だろう。  抱き起こされる感触がある。  優しい指に触れられて、逞しい腕に包まれて、顔を上げる事のできる瞬間がある。  幻覚のはずなのに、幻聴のはずなのに、どうしてこんなにあたたかいの? 「しっかりしろ! 桜守姫さん!!」 「…………」 「頼む! 死なないでくれ! 桜守姫さんっ!!」 (来て……くれたの?)  自分でも何を言ってるのかわからなくて。 「思い出したよ! 俺、みんなみんな思い出した!」 「…………」  ──ああ、そうか。  消えている。  彼の身に巣食っていた咒いが消えている。 (そうか)  此芽は理解した。 (この人にはもう、あたしは要らないんだ) 「君が使った魔術はもう無効なんだよ! だからっ……だから死なないでくれ! 桜守姫さん!!」  あたし、この人に看取られるんだ。 (ごめんね)  こんな事させちゃってごめんね。  嫌だよね、こんなの。  知ってる人間の最期を看取るなんてやだよね。  でも。 (嬉しい) 「……思……い……」 「!!」 「……思い……出され……た……なら……ば……」 「桜守姫さん! 気がついたんだな!?」 「おわ……かり、でしょ……う。あの……日、媛をお助けくだされ……た、のは、そな……た」 「何を言ってるんだ!! 君が、君が……してくれた事は……」 「……わら……わ、は、其方のお陰で……生かさ……れ……。  受けた恩……返す、は、当然でありま……ほほ……其方、桜守姫家の娘に恩を与えたまま……済まされる……かえ?」 「…………」  ……なんて顔してるのよ。 「元に……戻る、だけ……です。あの……日、死ぬ必要などなかっ……其方が、生き……死んでいたはずの……媛が、死……ただ……それだけ」 「終わったんだ。俺は思い出したんだ。だからもう、あれは……君が使った……使ってくれた……」 「…………」 「使い続けてくれた魔術は……無効……なんだよ」  ……だから生きてくれって、そう言ってくれるの?  ありがとう。  ありがとうね、さく。  あなたはいつまでも優しいね。  でもね、あなた、もうわかってるでしょう?  あたしが助からないってわかるから、そんな顔してるんでしょう?  駄目だよ。  絶対に駄目。  無効になんてさせないよ。  もうあなたにあたしは必要ないだろうけど。  あたしは積み重ねてきたんだから。  あなたの“妻”として、今日まであなたの“認識”を守り続けてきたんだから。  なかった事になんかさせないよ。  今更遅いよ。  ──だってあれは。  さくとあたしとの、たった一度きりの結婚式だったんだから───  無効なんてひどいよ。  渡した指輪を返してくれなんて言ったら、お嫁さんは泣いちゃうんだからね。 「……すま……ぬ……」  ねえ。  一言だけ、あなたに伝えたかった。 「なんでだよ。なんで桜守姫さんが謝るんだよ!!」 「これ……は、媛が決めた事……媛が決め、始め、今日の今日まで……やり抜いてきた……事」  あなたは忘れてくれたんだよね。  あたしの事なんか、ずっとずっと忘れてくれてたんだよね。  あなたの気持ちが本当だったから、忘れてくれてたんだよね。 「媛……は、其方の寿命を身勝手にも……引き伸ばし、生かし……其方の命を悪戯に弄び……まし……た」 「何……言ってるんだ」 「何……度、地に額を擦り付けても……足りませぬ。ほんに……すま……ぬ……」 「何を言ってるんだよ!!」  でもね。  あなたがあたしを忘れていた間。  あたしの事なんか、思い出しもしないでいてくれた間。  あたしはずっと、あなたの事を想っていたよ。 「俺は……俺は、桜守姫さんに生かされて……桜守姫さんは俺を生かしてくれた。  今日まであった楽しかった事、哀しかった事、嬉しかった事、辛かった事、みんな、みんな……生きてるって事そのものが、君のお陰だった……君のお陰だったんだ!!」 「…………」 「そんな事にいまさら気付いて……今頃になって思い出して!!」 「…………」 「俺は──俺は今から、君に何をしてやれるんだ!!」  変わらないね。 「……ほんに……おめでたい御方……」  あなたは、ずっとずっと、さくのままだね。 「だから…………まったく。  ほんに…………まったく。  …………だから、媛は其方が……」  ───大好き─── 「……だいきらい……で……す……」  ……ああ、くやしいなぁ。  もう……声……出ない。 「……このめ?」  ……いま……。 「この……め? このめ?」  なんてよんだの? 「このめ!! このめ!!」  ねえ、なんてよんだの?  ああ……くやしいなぁ。  ……あたし、また……。  …………忘れられちゃうんだね…………。 「このめ!! このめ!! このめっ!!」 『このめ』。  遠い昔、偉そうに踏ん反り返っていた、一人の姫。 「この……め……」  再会なんて嘘っぱちだ。  記憶は作り変えられ、同じ時期に出逢った少女との思い出に書き換えられていた。  ──運命の悪戯が、俺と君とを再び出逢わせた時。  俺は、君を君だと思い出す事ができなかった。  君にとってそれは再会だった。  でも俺にとっては、それは出逢いにしかならなかった。  あの時の、君の驚いた顔。  君が見せた表情の意味を、もう少し、もう少しだけでも深く考えていたら、考える事ができていたのなら、俺は結論に辿り着けたのだろうか。  もう少しだけでもちゃんと受け止めていたら、受け止める事ができていたのなら、君が何を抱えていたのか、もっと早くそこに触れる事ができていたんだろうか。  俺の前に『お姫さま』として現れた君。  現れてくれた君。  あの日の誓いのままに、君はお姫さまのまま。  あの日よりもずっと、お姫さまとして。  ……ああ、そうか。  君がお姫さまである事に、俺が違和感を抱くわけがない。  君は俺にとって、ずっとお姫さまだったのだから。  それは、君という存在がずっと俺の中に残っていた証拠。  思い出す事はできなくても。  思い出そうとすれば、君の顔は君の親友と入れ替わってしまうとしても───  ──『桜守姫さん』。  その呼び方は、ただの礼儀に過ぎなかった。  ……そう、思っていた。  けれど違った。  それは押し付け。  遠ざけていたのは、この俺──── 「……『このめ』」  漢字が難しくて覚えられなかった。  俺は音で覚えていた。 「『このめ』」  ──あの日の事を、俺たちは、もっと語り合うべきだったのに。  ようやく語り合える今になって、その機会は永久に失われた。  もう、届かない。  俺の声は届かない。 「……う……」  唇を噛んで耐え続けた君の想いに、何一つ報いる事ができないまま。  俺はただ与えられ続けるがまま。  与え続けてくれた君が、どうして、動かなくなってしまう。 「……う……うう……うぁぁ……」  そこに倒れているのは俺だ。  そこで倒れていなければならないのは俺だ。 「うわああああああああああっ!!」 「……いやいや。死体臭い家だとは思ってたけど、まさか亡霊まで出てくるとは思わなかった」 「御前……!!」 「さあ、此芽。君にしか扱えない呪文を唱えておくれ。君は桜守姫の希望、僕の宝だ」  御前はいつかの演説めいた表情を浮かべ、手を差し伸べる。 「大丈夫。詠唱が終わりを告げた時、君もまた『槍』へと還るのだから。背負うものなど何もないよ」  なあ、御前。  ……あんた、その手に、いったい誰の腕をつかむ気だ? 「……此芽?」 「彼女は……死んだよ」 「は?」 「いや、俺が……殺したんだ」 「…………」  御前の両眼がゆっくりと見開かれる。 「間に合わなかったって……いうのか?」 「……あんたを」  眼前の御前は、呆けた表情のまま宙を睨んでいた。 「あんたを恨むのは、お門違いだ」 「…………」  唇を噛め。  噛んだ数じゃ敵わない。  引き千切れるまで強く噛め。 「彼女を利用したのはあんただ。でも、殺したのはあんたじゃない……俺だ。俺が彼女を殺したんだ」 「…………」 「俺が……殺した」 「……ああ、そうだ。よくわかっているじゃないか」 「けど、邪魔をするならあんたを斃す」 「はあ?」  一歩一歩、俺は中央の槍へと向けて歩む。 「ああ。その槍で、この僕を刺し殺すつもりなのかな?」  馬鹿にしたような声が背中に届く。 「“徳”ってさ……濁点を加えるだけで“毒”になるんだよな。  濁点って濁ってるって事じゃないか。  ……俺は、いったい、何をやってたんだろうな」 「……何を言っている?」  俺はずっとお姫様を見ていたんだ。  あの娘の姿にお姫様を重ねていた。  俺の中で美化したお姫様。  勝手な都合で作り上げ捏造したお姫様。  ……俺は一度も、『桜守姫此芽』の姿を見ていなかったんだ。 「…………」  ──『槍』。 『神器』。  あとほんの少し手を伸ばせば、『神器』に届く。  俺は理解っている。  もう一度、アレの本質に触れたら。  きっと。 「……ちょっとさ、借りが大き過ぎるんだよな」 「何の話だ?」 「狂ったぐらいじゃ返せないとは思わないか?」  ……どうか。  俺。  巽策よ。  狂ってもいいから。  どうか、此芽を助ける形で狂ってくれ。  ──伸ばした腕で強く。  槍を────つかむ。  世界と俺とが引き剥がされる。  熱した鉄串を力いっぱい握り締めたかのように、指の表面が離れない。  溶けた皮膚が張り付き、焼けた肉が柄と一体化してしまったかのように俺は居場所を失う。  ──この世での居場所を。  目に見える世界をつかんでいる感触があるにも関わらず、つかんだ先からこの世が消えてしまうかのように────  引きずられ突き放され俺は隠世と分離する。  ひび割れ亀裂が伸び崩壊し瓦礫が気付けば俺自身と化し       硝子の目玉で見つめる先に広がる             この世が   二つに                       四つに        八つに 「ぐっ……!!」  意識ごと持っていかれる。  俺という存在がこの世界から引き剥がされ、この世に在らざる場所に隔離される。 「──まだだ!!」  視ろ。  ……もっと。  もっと。  もっともっともっともっともっと。  もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと  ────もっとよく視ろ!!  何故だか俺の中に湧き上がっていた、“視える”という確信。  ──そうだ、巽策。  お前は視る事しか能がないだろう────!!  ……違う。 「……違う」  これは。 「これは」  違うぞ、これは───  これは『槍』なんかじゃない!!  これは。  この槍の形をした物体は──── 「ハッ……」  分離した世界は両極端で一緒で目の前に転がっていて。 「ん?」 「は……ははっ……」  近くて遠く遠く遠く遠く               光ひかりひかりひかりひかり       しhごlじょpjg 「あははっ! はははははっ!!」          bhgjkじぇげgちぇcjhげせdcbkじぇbcじぇbcじぇwkjcじぇ  あぱおぱ             ゲゲゲゲゲゲゲゲ 「クケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ」 「……当然だ」  ひくはしvjhghj 「堪えられるはずがない。連中と混じった末に吐き出された異能が如何なる形で開眼しようと──人間の資質ではどうにもならない」  hhsjdhkさhd:;!              あさd?  ヒ?  ハケケ。           だハハ        ハハハからウケケケケケ            俺ヒヒヒヒ          ヒヒは。  ……微かに残る正気を掻き集めて。  穿て、この一撃を──── 「……なるほど、後を追うか。  桜守姫に生まれた者は、皆その槍の一部──桜守姫此芽もまたその槍であり、言うなれば、槍は彼女の還る場所であり彼女自身でもある。後追いにこれほど相応しい手段もないだろう。  だが、命を削り取ってまで生かされた挙句、自害の道を選ぶとは……」 「誰が死んでやるかよ」 「────!!」 「誰が生かしてくれたと思ってるんだ。俺はな、どうあったって、何があったって、簡単に死んでなんかやれねえんだよ」 「ど……どうして」 「気付かなかったのかよ。ええ? ずっとずっとこの槍を見てきて、気が遠くなるほどの年月、死体漁りまでして。本当に今日まで気付かなかったのか?」 「気付かなかった……だって?」 「この槍が何であるのか。あんたのご主人様の持ち物だったこの槍の正体がさ」  何で自分がそんな事を知っているのか、なんて、どうでもよくて。 「ばっ……馬鹿な! 正体だって? ぼ、僕は全部知ってる! そんな事があり得るか! だって僕は──」 「おい。あり得るとかあり得ないとか、ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ。  自分の目を信じろ。  ──あんたの目にはどう映ってるんだ?」  あの日、彼女が俺にかけてくれた術は解かれた───  俺は思い出した。  思い出してしまった。  その瞬間から、この魔術は不安定になっていたんだ。  だから、まだ。  まだ、俺と彼女は繋がっていたんだ。 「今度は、俺が彼女に命を分け与える番だ」  さあ。 「見ろよ」  奇蹟を待つな。  奇跡を生み出せ。  ───その手で。 「お姫さまが、目を覚ます」  幹ほどに太い枝の上に落ちた、彼女の影。  一人一つずつの御名。  一人一つずつのはずの御名。  ──彼女は魔女なんだよ。  正真正銘の魔女だ。  桜守姫の熟達した魔術師が束になっても敵わない、一夜の内に皆殺しにできるたった一人の魔女なんだ───  そんな言葉を思い出しながら。  そして、彼女は唱える。  幾重の御名がそこに刻まれていただろう。  『 !"』?  『#$%&'()*+,』?  重なってしまって判別できない文字までも。  ──その時。 「ふん」 「……みどの」  その狭間に揺らいだのは、赤と青との合間に浮かぶ水泡。 「……へえ、すごいわね。力を取り戻したんだ」  暗く沈んだ瞳に映し出された姉の姿。 「…………」 「でも、だから何だっていうの? 子供の頃、天才だった? 神童? 麒麟児? 寧馨児?  ただそれだけで、今この時『A』として在るあたしに勝てるとでも思ってんの?」 「みどの。そこを退いてたもれ」 「…………」 「みどの」 「……できるわけないでしょ」 「みどの、どうか心して耳を傾けたもれ。其方にとって……いえ、桜守姫家に生を受けた者にとって御前は唯一にして絶対の神なれど。  この街に網を張るこの方陣、なされるとあらば、桜守姫家の血に連なる者は……」 「だから……何?」 「……みどの?」 「あんた、勘違いしてる」 「え?」 「御前じゃない。御前じゃなかったんだよ。ただ、あたしは……もうそれにすがるしかなかったのよ」 「……みど……の?」 「あっ、あたし。いまさら……そうよ、いまさらっ……!」 「…………」 「いまさら、あんたと同じ道の上を歩けるわけがないでしょっ!!」  ───叫ぶ少女の影が模る。  鉄片の御代の幕開けを─── 「桜守姫さん!!」 「巽殿はお下がりくだされ」 「できるかよ!!」 「妹を正せなかったのは媛。姉としてあの娘の前に立たねばならぬのは、媛の責任」 「桜守姫さん……」 「呑んでくだされ、巽殿」 「……わかったよ」 「『斧の時代』」  姉を取り囲んだ、無数の斧、斧、斧。  あの時とは桁違いだった。  これこそが、桜守姫みどのの真の実力。  百を優に越えるその鈍色の鉄片こそは、まさしく今代の『A』の名に相応しき─── 「え……」  ──だが、妹を取り囲んだ斧の数はその比ではなかった。 「う……嘘」  比べる事さえもおこがましい。  十では足りぬ。  百でも足りぬ。  ──千を数えてようやく事足りる。  千万の大斧が狼狽するみどのを包囲している。 「な……何、これ。何これ。魔術なの? これも魔術なの? こんなのが魔術であっていいの!?」  これをおいて他に斧の時代と呼ばれるべき光景があろうか。  それは人間だ。  産まれて増えて地に広がっていく人間そのものだ。  この世を埋め尽くし万物の霊長と驕り支配を騙る人間の奔流──斧の時代がここに在る。  古き時代が砕けて散った。  地の底から呼び覚ました法によって妹が築いた時代は、同じく天の頂から舞い降りた法を駆使する姉によって打ち砕かれた。 「あ……あた、あた……し」  ──舞い散る粉雪に似た屑鉄の意匠の中。 「あたしが『A』なのに!!」  廃墟と化した世の上で、亡国の女王が嘆きを声高に叫ぶ。 「──ああ」  その嘆きを吸い込む空は、ただ静かに黙して。 「『A』、欲しければくれてやる」  彼女が見つめる先に座するは、桜守姫家に祀られし神。  夜毎に頭を垂れた、祈り捧げる先に在る見上げる存在。 「──幾つ」  口許を歪ませ見下ろす神霊に、今、彼女は何を思うのか。 「いったい幾つ、『骸を貪り食うもの』をその身に宿してるんだい? 変わらぬ才覚に敬意を表するよ、此芽。  やっぱり、みどの如き塵じゃ相手になんかならないよね」 「……御前」 「さあ、此芽。僕の可愛い『完全なる賢者』よ。どうかその力を、桜守姫の為に使っておくれ」 「……失礼ながら。桜守姫ではなく、御前、あなた様の御為でございましょう」 「どちらでも変わらないよ。桜守姫は僕が汲んだ水で作られた海なんだから」 「…………」 「さあ、此芽……」 「……水を汲む手が汚れておれば、出来上がる湖に泥も混じりましょうな」 「ん?」 「桜守姫の者が吸い込む息には、常に毒が混じっておりました。それもそのはず。我らは聖域に祀りし大海より流れ生じる池なれば、その池の水滴なれば……」 「な……何言って……」 「桜守姫の者は、代々短命の兆しがあるとされてきました。それも然り。欠片の回収を早める為、海そのものが喜々として毒を振り撒いておられたのですから……黒くも濁りましょうや」  ──みどの。 「えっ……」  ──みどの。 「御前……なのですか?」  ──此芽が憎いか? 「え?」  ──姉が憎いだろう? 「そんな。あたっ、あたしはお姉様を……」  ──憎いだろう? 「あたし……」  ──憎いだろう? 「…………」  物心ついた時には。  老いて果てるまで傷口を見つけては抉られる。  けれどその過程は記憶に残らない。  毎夜繰り返される『御前の間』への参拝とは、即ち刷り込み。 「生まれて初めて御前に声をかけてもらった」という感動が夜毎繰り返される。  だからそれは覚えていなくとも麻薬のような常習性を生む。  だから囁かれる声に心が支配されていく。  要は、ただ一人だけその影響を受ける事がなかったというだけ。  記憶を残したまま、先日の会話を覚えていられた。  だから彼女は特別だった。 「わかっ……て、たのか? わかってて、君、今日まで……」 「いいえ。歯車が……当たりまして」 「は? ぐる……ま?」 「打ち所が悪かったのでしょう、闇き閨で呟き続けたあなた様のお声が聞こえてまいりまして。  あなた様が何をなされてこられたのか、あなた様が何を為されようとお望みでおられるのか……まるでお傍で見聞きしてきたかのように、鮮明にこの心に焼きつきましてございまする」 「…………」  呆けたかのような御前は、次の瞬間、驚愕に両眼を見開いて─── 「あっ……あいつ! 出来損ないの我楽多が!!」 「……その我楽多を用いれば、あるいはあの御家の打倒も叶いましたものを……」 「え?」 「いいえ……御前の御目は開かれてはおられぬのだと。“神”であらされたのは、桜守姫を始められた御方なれば、そして桜守姫があなた様を祀り上げたからこそなのだと」 「なっ……何が言いたいんだ! 僕が桜守姫を作ってやったんだ! 僕が! この僕が!!」 「然様にござります。桜守姫は媛の家族。そしてあなた様は、その家族が祀り続けてきた神」 「…………」 「……何より、あの方を護る魔術を下されたのはあなた様」 「そっ……そうだよ! そうだよな!? だっ、だから此芽、君は──」 「──図に乗るな」 「え?」 「ひざまずけ。あたしは不変なる王者の眷族。貪欲なる探求者、“激怒”の末裔。  あなた如き矮小な人虫がこのあたしと同じ目線に立つなんて、何のつもり? どれだけ恥知らずなの?」 「な、なんだって? この僕に、今……」 「それはあたしの台詞。このあたしを前に、たかが神様がいったい何の真似よ?  今すぐ地に伏し、泣いて許しを請え。  ──不愉快だ」 「こっ……この、このめぇぇぇぇっ!!」 「ですから……ほほ、あなた様がお望みの、あの頃の此芽でございまする」 「うるさいうるさいうるさいうるさい!! お前はさっさとこの方陣を発動させればいいんだ! 少しくらい特別だからっていい気になるな! お前を力で捻じ伏せるなんて簡単なんだからな!!」 「たかが小娘に噛み付かれた程度でお取り乱しあそばれては、神としての面目も立たれませぬでしょう」 「いいからやれ! 今すぐにだ!!」 「お断り申し上げまする」 「な……ん、だと……」 「──妖精とは悪戯好きなものなれど、あまりおいたが過ぎれば人間に手痛いしっぺ返しをくらうもの。相違ありましょうや?」 「だったらやりたい気分にさせてやるさ!  ふん! いつ何がどうなってもいいように、才能のあるお前は特別に目にかけてきてやったっていうのに──この恩知らずが!!」 「返す言葉もなく……」  此芽は恐らく、すべて、薄々と感付いていたんじゃないだろうか。  その行為の裏側に潜む想いに触れていながらも、恩義は恩義として大切にしてきたんじゃないだろうか。  御前の掌から糸が垂れた。  それは無数の帯状に広がって球体を編み込んでいく。  ──それは毬。  昏く澱んだ沼の色をした、腐食の毬だった。 「『骸を貪り喰うもの』よ。我が身に巣食いし、桜守姫の摂取者よ」  此芽の影に文字が疾駆る。 『槍の戦』──と。  ──ただ一言。  その一言が、身体を得たかのように御前へ向けて飛来した。  一本が二本へ。  二本が四本へ。  四本が十六本。  十六本が───  無数の槍の洪水が、御前という名の大海が放った手毬を撃ち落とす。 「このっ……!!」  御前の指先が奇妙な動きを見せると、その円を描くかのような動きと共に毬が廻る。  糸は藻。  水中に生える草。  変幻自在に踊り狂い、槍の強襲をかわして此芽の頭上から襲いかかる。 「『軍勢の守り手』」  ──短き呟きが、此芽の眼前で形をなす。  それは、あの機械仕掛けの魔術師の影に浮かんだ文字と同じ───  自身に向けて迫る一切を防ぐ壁。  壁とは遮るもの。  そして仕切るもの。  大海の中、海原さえも押し流せずに孤立した池。  ──同じく。  御前もまた球体の如き壁に覆われて、此芽が放った光鏃を防いでいた。  攻と防。  占と守。  その間、瞬きほどの間もない。 「この、め……」  静まり返ったこの空間を焦がしたのは、裂帛の憤怒。 「このめぇぇぇぇぇぇ!!」 「『盾を壊す者』」  呟きは短く。  間隙は刹那。  次の瞬間、御前を覆っていた殻は破壊されていた。  舞い散る殻の向こう側に、彼の引きつった形相が張り付いていた。 「あ……ああ、ああああ……。う……嘘だ。こんな……事、あるはずがない……」  哀れなほどの狼狽を見せて、後退る。 「嘘だ嘘だ嘘だぁぁあぁぁぁぁぁっ!!」  ──一つ、疑問に思う事がある。  幼きあの日から魔術を封印し、頑なに使用を拒んできた彼女に、果たして『枝』と呼ばれるべきものはあったのだろうかという事。  幼少の頃に編み出したものはあるだろう。  しかし、それだけだ。  積み重ねたものがない。  言ってしまえば、封印を解いた今の彼女は稀有の才能を持っているだけ。  強大な力を有して生まれながらも未だ扱い方を知らない幼児に等しい。  みどのの『枝』は今日までの積み重ねだったのだろう。  日々を研究に費やし、研鑽をうず高く積み重ね、今日この時まで彼女が生きてきた数だけの蓄積が、彼女を『A』とまで呼ばせる魔術師に育て上げたのだろう。  ──だというのに、何故。  用意周到、といってしまえば性格的にも納得できる。  いつか封印を解く日がくれば、と、その日に備えて研究だけは怠らずにいたと。  だが、恐らくは違う。 「使わない」と決めた彼女が、万一にしろ何にしろ、式を作り上げるとは思えない。  彼女なりにあった、けじめ。  だから、俺は今、彼女こそが歴代の魔術師など及びもつかぬ存在であるという事を思い知らされている。  ……今。  まさに今、この時、その瞬間に。  彼女は式を組み立てている。  組み上げ構築し結び合わせ、即座にその場で実行しているのだ。  ──これが桜守姫此芽。  天才と呼ばれた少女の真の実力なのか!! 「あ、あああ、あり得るもんかっ! い、いくらお前だからって……お前如きが僕にっ! この僕にっ!!」 「では何故、あなた様ご自身のお手でこの方陣の締め括りとなされませなんだ」 「っ……」 「悲願なればこそ、本来ならばあなた様ご自身のお手を以って計画を完遂へと導きたかったでありましょう。  何故、そうなされなかったか──答えはたちどころに返りましょう。  あなた様に魔術は扱えない」  なあ、無理だよ御前。  俺の兄貴に似た神様よ。  勝てるはずがない。  ──お前の“高慢”。  ──彼女の“誇り”。  お前と彼女じゃ格が違いすぎる。 「あなた様のお力の源は、我らとはまったく異なるところにあられる。  なれど、それではこの方陣を為すこと叶わぬ──そも、『血』の回収はあなた様では“性質”の問題として行えませぬ。相違ありましょうや?」 「黙れぇっ!!」 「故、桜守姫を利用せねばならなんだ」 「黙れと言ってるだろうがっ!!」 「──否。故にこそ生み出しなされ──」 「黙れ黙れ黙れぇぇぇぇぇぇぇっ!!」 「僕が任された! 僕が! 僕がっ! 僕にできないなんて事があるかっ!!」  ぬるり、と。  ──御前の両手から再び沼色の糸が擦り抜ける。 「お前はもう槍に戻れ。お前は沢山の欠片になるぞ。一人一欠片ずつしか埋め込まれてなかったのに、お前は一番最初のあれみたいな事になってたんだからな……はっ、はははっ! 復元しよう。そうだ、復元だ!!  あの槍は信頼の証。僕が託された槍だ。  そうだよ、僕にはあの御方がついてるんだから! あの御方が期待してくださっているんだから!」  編み上がる毬の大きさはもはや手毬とは呼べず、人の頭ほどもあった。  それでも飽き足らずに編み続け、人の身体ほどもあった。  それでも飽き足らず──編み上げたのは、視界いっぱいまで広がった、珠。 「……『槍』、か」  呟く此芽は上空の御前に背を向ける形で歩み出した。 「……桜守姫の……始まり……」  その手に触れたのは槍。  俺の身体から引き抜き、遠ざけるように端へと追いやった槍。 「此芽!!」  俺は咄嗟に、その手を握り締めていた。 「……かたじけない。なれど、ご心配には及びませぬ」 「でもそれは──」 「“視”えてしまわれるのは其方。それに、媛もまたこの槍の一部なのですから……触れる事に支障はありませぬ」 「えっ……」 「……桜守姫は、変わる事も、終わる事も、槍によって為されなければならぬ。媛はそう存ずるのです」  そう言って。  此芽はまるで月を見上げるかのように、上空の御前を見据えた。 「お返ししましょう。あなた様に、あなた様がお作りあそばされた桜守姫を」  どこか物憂げな表情に宿る、強い決意を感じさせる瞳。 「媛は此芽。此から始まった芽……ならばこそ、この媛が、桜守姫の一人として。  被造物から、造物主へと」 「此芽……」  ……君はすごいと思うよ。  いつだって、たった独りで想いを貫いてきた。  その瞳が見つめる向こうには、俺には見えない景色が広がっているんだろう。  でも。  でも、此芽。  俺は受け取ってばかりだったんだ。  何も返していない。  何一つ、君に報いていない。  ──君には到底届かないけれど、俺は。 「此芽。俺は……」 「……『さく』」  たおやかな、いつもの仕草。  優美で気品に溢れた、芳香漂わせる彼女の動作。 「どうか、其方のお力をお貸し願えぬであろうか」  ……初めて。  此芽が、手を、差し伸べた。  力を貸す為ではなく、力を貸してほしいと、そう言った。 「其方にしか頼めませぬ」 「──勿論だ!!」  何をためらう必要があるだろう。  桜守姫家を生み出し、桜守姫家の元となった『槍』。  締め括りとして必要なのは、ただ一口。  ──疾駆る。  脳裏を、押し潰すかのように不可視の巨人が走り抜ける。  あの時と同じ感覚。  俺は世界と分断される。  近く。  遠く。  光。  でも、大丈夫だ。  今なら大丈夫。  ──だって俺の手は、此芽と繋がっているんだから。 「『神々の残されたもの』」  共に槍に添えた指先が触れ合うと、此芽の手からある種の力の脈動を感じる。 「媛が返すべき道を確保いたしまする。其方は槍を扱ってはもらえませぬか」 「ああ、わかってる」  俺になら扱えるという、奥底から湧き上がる確信。 「では往こう。見上げし月よりも遥かなる高みまで」 「其方と共に」  俺たちの手から離れた槍が───  ──吹き荒れる天に向けて吸い込まれていく。 「ん……」  泥の創立者たる妖精は、背後の異変に気付いていた。  背にしたそれは月輪。  この街では見る事の叶わない、この異邦者にとっては久しい空の目の片割れ。 「な……なんだ、あれ……は」  それは吹雪を切り裂いた。  何故なら、それこそが魔術王なれば。  王者が闊歩する道に、例え塵屑とて微塵の無礼も許されぬ。  すべてがすべて平伏すかのように、見えなくなるまで縮こまるかのように、皇の視界から消えていく。  だから、そう。  例え狙いが何であれ、それはただ天空を飛翔する槍にとっては障害の一つにしか過ぎなかったのだ。  そう、言わんばかりに。 「……あっ……」  ──返った。 「……そう……か。そういう……事、なの……か」  帰り、還り、返った。 「僕……は」  それを用いてオースキの一族を生み出した者の胸に。 「……僕は……間に合わなかったのか……」 「──御前。桜守姫の偉大なる祭神よ」 「その海の底の底まで。  桜守姫の毒、お持ち帰られよ──」  物体としての槍そのものは使用者の身体で固定されたが、放出された膨大なエネルギーはその身体を貫いていた。  これを放った人間の片割れは知るまい。  真名が解対され『神々の残されたもの』が開かれたこの槍が、今どれほど神器としての活性を果たしていたか。  それを知るもう片割れすら知り得まい。  月の裏側から顔を覗かせていた存在の末路を。  すでに決定された未来として切り裂く予定を担っていたその獣が、跡形もなく消滅した事を。  返ったのならば、後は落ちていくだけ。  今日という日までかけて這い上がってきた者が堕ちていく。  呪いはすでに成就されていた。  ならば、自分は間に合わなかったという事だ。  その絶望に抗う術を、この妖精は持っていなかった。  その為だけに今日この時まで生きてきたのだから。  ──誰かに似ている、そう思っていた。  ずっとずっと、意識しないようにしていた事だが、片時も頭から離れる事はなかった。  稀有な才能を有して生まれきたあの子が魔術を操る、その姿が。  ──あの輝かしき遠い日の『主』の姿と重なった── 「嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁ!!」  その叫びはもはや声にすらならず、転落する虚空の中に掻き消える。  ──あの娘に、あの方の姿を重ねていたのだろう? 「違う!」  ──あの娘が成長するほどに、魔術の才を開花させるほどに、離れて久しいあの方の姿を重ねては己を慰めていたのだろう? 「違う!」  ──あの娘を見捨てる事ができなかったのは、利用価値があったから、本当にただそれだけだったか? 「そ、そうだ」  ──お前は、本当は、もうあの方には逢えないという事に気付いていたのではないか? 「な、なんで。だって僕はあの御方に信用されて……」  ──お前は、あの娘を見ている間だけ、“いつか”という日を夢見る事ができた。 「だから何を言ってるんだ! そんな事があるはずないじゃないか!!」  ──何故なら。 「だ、黙れ!!」  ──何故ならお前は。 「黙れと言ってるだろうがぁ!!」  ──その“いつか”を期待して、この一族に『osci』という名をつけたのではないか── 「違う違う違うぅぅぅっ!!」 「──だって、ぼくは」  ──確信があった。  此芽は希望。  あり得ない数の『骸を貪り喰う者』を宿し生まれた。 『骸を貪り喰う者』を生み出し従えた主、そのままに。  だから、この時代に何かが起こる。  あれに妹が生まれた時。  ぼくは『みどの』と名付けた。  それ以外に考えられなかった。  あれは希望だから。  あれは芽だから。  此から生えた芽だから───  みどのになりますように。  緑野に。  あれは二つで一つ。  姉妹、共に手を取り合って。  ──此の芽が、緑の野になりますように──  ……ぼくは。  どうして、あんな事を思ったのだろう。  桜守姫なんてただの道具なのに。  そうだよ。  あれがあまりにあの御方を思い起こさせたから。  だから、ぼくの、あの御方の、願いが達成されるように、そんなふうに思ったに違いない。  そうだよ、それ以外に考えられないじゃないか。  ……ぼくはいつまで経っても馬鹿ですね。  もう一人の……あいつみたいにはなれませんでした。  こんなぼくを信じてくださったのに。  この地でなすべき事を託してくださったのに。 「……ごめんなさい……信頼……してくださったのに……。  ……失敗……してしまい……まし…………た……」 「…………ごめんなさい…………。  ……………ご主人様……………」  ──天の世を漂う月は道を見失っていた。  常に眼下には墨を塗した灰が山のように連なり、自分はいつだってその上を歩いて夜の散歩を楽しんでいたというのに、動かぬはずの山はまるでそれが霧ででもあったかのように唐突に消え去っていた。  だから彼は目を細めて地表を見下ろし、帰るべき道標を探そうと躍起になっているのだろうか。  眼鏡を持たぬまま胡乱に揺れ、地にぼんやりと浮かび上がる人間たちの所業を見つめている。  照らし出しながら、けれど、よく見えぬままその意味もわからずに。  ──女帝が歩んでいた。  彼女が身につけている幽玄の世界から持ち込んだ作法は、降り積もった雪の上に草履の跡を残すだけの事でさえ意思を持たぬ大気すらも見惚れさせるかのように。 「ひっ……!」  ──女王は怯えていた。  地表を塗り上げた雪よりもなお原色に近くその表情を染め、瞳を見開いて身を竦ませていた。 「あっ……あた、あた……し……」  虐げてきた存在こそが最たる頂にいた。  現世に跋扈する水の導師の頂点に立ち、現代において常ならざる法を布く者どもの従属を欲しいままとする、『A』としてまごうことなき不動の座にあった自分───  ──その自分など比べものにならない、歴代の魔術師が雁首そろえても比べ合う事さえできない、至上の魔術王。  その女帝は桜守姫の神すら容易く屠った存在。 「ごっ……ごめ……なさ……」  歯の根すら合わず、戦慄くままに怯えているのは。  自分がこれまで何をしてきたのか、自覚している証拠に他ならない。  責め続けた妹はただ脅え、堪え続けた姉はただ歩む。  その歩の先に虐待者を見据えて。 「──みどの」 「ぃっ……!」  肉親に名前を呼ばれたという、ただそれだけの事で。  みどのの下腹部を覆う衣服にじんわりと生暖かい液体が広がっていった。 「ひぁ……ぁ、ふぁ……」  座り込んだのは、その事を恥じたからではない。  彼女はそれにすら気付いていなかった。  もう立っている事もできなかったのだ。  竦み上がった足腰はすでに身体を支える役目を果たす事さえも放棄して、折り目に従って崩れるように倒れていった。 「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」  顔を覆って叫び続ける少女はとても小さく見えた。  女王はすでに大臣でも官吏でも──ましてや従僕ですらなく、ただ蹂躙され奪われていく被征服者に他ならなかった。 「ゆゆ、赦……して」  思うが侭に振舞っては他人を傷つけ、気に入らなければ罵倒して気分が悪ければ痛めつけて。  相手がどれほど苦しもうがどれほど泣こうが、それさえも憎しみの糧として。  その挙句、鼠が牙を剥けば猫は。 「赦してくださいっ!!」  ──叫ぶ。  雪景色に木霊するその嘆願は、とても身勝手だった。  ──赦してほしい、と、みどのは言った。  いったい何を赦してほしいというのだろう。  その時。  敷き詰められた雪の絨毯の上に、もう一つの真新しい足跡が出来上がっていた。 「お待ちください! お姉様!!」  駆け足で飛び込んできたその足跡は、一つ一つが大きく離れて。 「のん……」 「待って……お待ちになって、お姉……様」  息を切らして胸を抑えて、その姉妹の間に割って入ったその少女が、女帝の行進を中断した。 「お、お姉様。わたくし、今日まで一度だって、お姉様がなされる事に口を挟むような真似をした事はございません」  その声は喉の奥から絞り出すかのようで。  逸る気持ちを抑えきれず、必死に何かを伝えようと、満足に息も吸い込まぬまま吐き出しているかのようで。 「でも、一度だけ……どうか、一度だけ、わたくしのわがままをお聞きになって」  だからこれは短冊に書いて結びつける願いじゃない。  欲したんじゃない。  わがままじゃない。  彼女が、彼女が大切に想う人に伝えなければならない“想い”だ。 「どうか、みどのを赦してあげてください」  敬愛する相手を真っ直ぐに見つめた一人の少女が、懸命な眼差しでそう告げた。  ──此芽が大切だから。  そして──みどのが大切だから。  だからこれは、お願いじゃない。 “告白”だ。 「…………」 「お姉様、お願い……!」 「のん……ちゃん」 「お願い……!」  ──俺は。  俺は、その光景を笑いながら見つめていた。  本当は言ってやりたかった。  必死になって訴える透舞さんに。  怯えたまま呆けるみどのに。  どうしても言ってやりたい言葉があった。  でもそれは、俺が言うべき台詞じゃない。 「──みどの」  姉の目に映る妹。 「はっ……はいっ!」  妹の目に映る姉。 「覚えておらぬか。いつか、こう申したであろう?」 「え……?」 「──魔術師たる者、心強くあれ」  だって彼女は桜守姫此芽だもの。  俺が憧れたお姫さまだもの。  俺の大好きな──此芽だもの。 「でなくば、魔術に心喰われるぞ……と」  だから俺は言ってやりたかったんだ。  大丈夫だよ、って。  俺よりも遥かに彼女の事を知っている二人のくせに、どうしてわからないんだよ、って。 「おねえ……さま……?」  ──月下の下で。  耳に届いた言葉とその態度に、目を見開いて姉を見上げる妹。  意味がわからないわけじゃない。  けれど、意味をわかってしまっていいのか、と戸惑うように。  だって、それって─── 「立てるかえ? みどの」  地べたに座り込んだままの妹に、姉の手が差し伸べられる。 「…………」 「ん?」 「ひっ……ぇ……」  ああ、そうか。  俺はその時、納得していた。 「ふぇぇっ……ええ……」  これが、透舞さんが護ろうとした友達。  これが、此芽が信じ続けた妹なんだ、って。 「ふええええぇぇぇぇぇ〜」  ──あの頃に戻りたかったのだと。  誰よりも姉を尊敬していた。  才能に満ち、常に自信に溢れている姉は、幼き自分にとってこの世の何よりも自慢の存在であり、そして尊敬するべき対象だった。  臆病な自分はいつも姉の背中に隠れていて、けれど、守られている安心感が自分を満たしてくれて。  自分の居場所はそこなのだと、いつしか疑う事もなく信じてしまっていた。  自慢の姉。  自分の居場所。  自分だけの居場所。  でも、いつしか姉はそうではなくなってしまった。  上手く言えなくて。  上手く伝わらなくて。  もどかしさがいつの間にか苛立ちに変わってしまって。  姉が悪いんじゃない。  何があったのかは知らないし、姉も語ってはくれなかったけれど、それだけはわかっていた。  当たり前だ、自分はあの桜守姫此芽の妹だ、自分がその事をわからないでどうする。  わかっていたけれど、どうにもできなかった。 “自慢の姉”という存在が形を変えてしまった事に、幼い自分は戸惑う事しかできなかった。  本当は遠ざけたくて。  そうするのが、このモヤモヤを抑える唯一の方法だって気付いていたけれど。  けれど、姉が好きで好きで仕方なくて、気付けば近付いていってしまう。  これまでは比べられる対象の基準があまりにも高すぎて気付きもしなかったけれど。  どうやら自分には魔術師として恵まれた才能が眠っているようだと、周囲の反応からじょじょに理解していった。  だから。  当たり前のように自分を追い越してくれない姉に、ずっとずっと溜め込んでいた気持ちが、一度でも苛立ちとして噴き出してしまった時。  もう、後には戻れなかった。  一度、噛み合わなくなってしまった歯車は、誤ったままただ回り続ける。  仲直りしたいのに、どうすればいいかわからなくて、八つ当たるように姉を虐げた。  もうどうしようもなく廻り続けてしまった。  気付けば「愉しい」と思い込むしかなくて。  もう“桜守姫みどの”は何処にもいなくなってしまったのだと気付いていても。  これが“桜守姫みどの”なのだと信じ込むしかなくて、『A』である事だけに価値を求めた。  だから、本当は、あの頃に戻りたかったのだと。  とても都合のいい事だとは思うけれど。  戻りたくて、戻りたくて、戻りたくて。 「ごめんなさい! ごめんなさい!」  わんわんわんわん泣きながら。  みどのは、そう何度も、何度も、謝り続けた。  ──そうか。  みどのが恐れていたのは、その真なる力を解放した姉ではなく。  これまで自分がしてきた───  ──だから、桜守姫此芽はそういう娘だから。 「え……」  ……俺が。 「忘れない」と言っておきながら、今日まで思い出す事ができなかった……記憶の片隅に漂っていた『お姫さま』を理想化して、「似てる」だなんて勝手な事を思って、押し付けるようにそれを被せていた……そんな俺が。  お姫さまであり続ける、という、その誓いを。  今日まで誓いを守り続けてきた、誇り高い──本当の“誇り”の意味を知るこの娘の頭をなでるのは、大きな間違いだろう。  けれど、誰かが。  誰かがこの娘の頭をなでないといけないんだ。  今日までがんばってきたこの娘に、誰かが言わないといけない。 「がんばったな」  殴られてもいいよ。  俺はわがままだと思うよ。  けど、この役は俺がもらった。  誰にもやらない。  此芽の顔が真っ赤に染まっていく。 「わっ、わわ、媛は子供ではっ」 「知ってるよ」  君は俺なんかよりずっとずっと立派な大人だから。  立派な──桜守姫此芽だから。 「な、ならば、何故このような……」 「嫌だろうけど、ごめんな」  これは必要な事だと思うから。 「いい嫌などと誰が申しましたかっ!」 「ごめんな」 「た、巽殿……?」 「ありがとうな」 「た……」 「本当に、ありがとう」 「…………」 「もう一度逢えてよかった。  思い出す事ができてよかった。  生きていてくれてよかった。  ──君と再会する事ができたこの命をくれて、ありがとう」 「さく……」 「ありがとう……」  どうか、神様。  この娘が幸せになれますように。  沢山の辛い想いをしてきたこの娘が、どうか誰よりも幸せになれますように。  どうか。  どうか。  どうか、俺が彼女を幸せにする事ができますように…………。 〜ラベル『此芽エピローグ』の内容は記述されていません〜 「お姉様〜」  ──最近、こんな光景をよく見かける。  仲睦まじい姉妹の姿。  ずっとずっと抑え込んでいた気持ちがようやく解放されて、これまでの分、精一杯に甘えているかのような。  ──捻じ曲がってしまった想い。  今、ようやく正しく機能し始めた想い。  幸せそうなみどのの姿を見るにつけ、本当の彼女の心がこれまでどこにあったのか、ようやくわかったような気がした。 「お姉さんの事が大好きなんだね」 「ど、どうして……」 「ああ、ごめんね。なんとなくさ」 「…………」  その時、初めて妹さんは顔を上げて。  俺と顔を合わせてくれた。  その瞳は、様子を窺うかのように俺を見つめていたけれど─── 「はい」  ──不意の一言に、彼女が聞かせてくれた答え。  きっと素直で、誰よりも姉を誇りにしている妹が、あそこにいたんだ。  どれだけ物事を計算していても。  人を欺く仮面を被っていても。  何を前提としているかこそに、その人の本心が隠されているのだから。  もしかしたら、と思う事がある。  俺たちの学園で──いつだって透舞さんの背中に隠れていた、みどのの姿を思い出すにつけ。  みどのはもしかしたら、透舞さんを此芽の代わりに見立てていたんじゃないのかって。  そこには桜守姫の魔術師としての打算もあっただろう。  けれど……。  負けん気が強くて、見方を変えれば偉そうに見えて、実行力の塊のような存在。  それは遠い昔、あの桜の樹の枝の上で待ち合わせた少女そのままに。  彼女が誰よりも尊敬し……言い方が悪いかもしれないけれど依存し、そして、いつしかそうではなくなってしまった姉。  誰よりも此芽に憧れ、近付こうと努力し続けた透舞さんだからこそ。  努力を重ねれば重ねるほどに、それは姉の姿に重なり───  透舞さんはもしかしたら、その事を薄々と感じ取っていたのかもしれない。  それでも彼女はみどのを親友と呼んだんだ。  いや。  だからこそ、なのかもしれない。 「──じゃあ、お役御免かい?」  どうしてそんな話になったのかはわからない。  それはあの季節を思い出す雨が朝から降り続いていた、ある日の出来事だった。 「とんでもない。わたくしなどまだまだですもの。これからもしっかりとお姉様を見習わせていただきますわ」 「ははっ」  そう真顔で告げる透舞さんが眩しくて、頬が思わず緩んでしまった。 「だいいち、みどのはお友達です。これまでがおかしかったのですわ」 「……そっか」 「ええ。みどのは、わたくしの大切な親友ですもの」  きっと。  彼女にとっても、みどのは欠かせない存在だった。  姉の姿を重ねてくるから、  ──それが、彼女にとって尊敬するべき対象だったから。  ああなりたい、と、彼女が願った姿だったから。  もしかしたら、彼女の頑張りを支えていたのはみどのの存在だったのかもしれない。  勿論、彼女はいつだって懸命に前向きに歩んできただろう。  けれど、人間なのだからバランスを崩す時はある──挫ける時だってある。  そんな時、彼女を支えてくれたのが、みどのの存在。 “何か”を求めてくる友人の姿。  それが何であるか、はっきりと自覚したわけではないけれど──もしかしたら、形としては「気弱なこの娘は自分が護らなければいけない」としか捉えていなかったのかもしれないけれど──どこかで感じ取っているものがあった。  それが嬉しくて。  それが糧となって。  彼女は歩み続ける事ができた。  そしてみどのもまた、姉を想う本当の気持ちを誤魔化す為に。  その上で、二人がお互いを大切にできていたのなら。  だからこそ二人は、互いに足りないものを補い合う親友だったのかもしれない。 「歪かもしれませんわね」  とんでもない。  もしそれが歪だというのなら、真っ直ぐに整った道というのはどんなものなのか、俺は訊いてみたい。  ──そんな二人にとって。  慕うべき存在であり、憧れである此芽。 (……頑張らないとな)  だからこそ俺はしっかりしなくちゃいけないと思う。  俺が彼女に対して抱える想いは、二人とは違うから。 「な……なんです?」 「いや」  みんなから慕われていて、憧れてばかりいられたら、きっと疲れてしまうから。  だから俺は、俺だけは、この人にとって心休める場所でありたいと、そう強く思う。  ──そう在らなければ、俺は少しもこの人に近付けない。 「……のんちゃん」 「ええ、みどの。遂に『O計画』を実行に移す時がきたようですわね」 「失敗は許されないよ」 「勿論ですわ。ふふっ……覚悟なさい、巽策」 (……さて)  授業が終わり、皆が思い思いの行動を取り始めた放課後の教室──  ──からしばらくして。  ちょっとした用事があってすっかり遅くなってしまったけれど、俺は帰宅する為に鞄を手に取り、廊下に出た。  学園は──あの時に壊れた部分に関しては通行禁止となったままだが、どうも、「壊れ方がよかった」とか何とか、幸い建物そのものが倒壊する危険性はないそうだ。  もともと、やたらと広い面積に様々な建物が建っているこの学園。  使えなくなってしまった教室などの代用場所も、すぐに用意された。 (さて、今日は何を作ろうかな)  家路を急ぎながら、俺は今日の献立を考える。  最近、ようやく料理のコツを覚えてきた。  コツを覚え始めると、段々と料理ってものが楽しくなってくる。  そうだ。  丁度小腹も空いた事だし、夕食前にバーニャカウダでも作ろうか。  まあ誰でも知ってる事ではあるが、バーニャカウダっていうのは温めたソースに旬の野菜をつけて食べる料理の事だけれど、オリーブオイルとアンチョビ、そしてふんだんに使用したニンニクで作られるソースはニンニクの臭いが強すぎてなかなか思い通りの味付けにならない。  そこはまあ、まさに腕次第──そうだな、フェンネルでも入れてみるか。  フェンネルってのは日本では茴香として知られる、甘い香りを放つ、有史以前から薬草として用いられているもの。  あの香りは、きっと俺特製のバーニャカウダソースとよく合うはず。  ああ、ちなみにバーニャカウダってのは“バーニャ”で“風呂”、“カウダ”で“温かい”……つまり“温かい風呂”って訳される事があるけど、本当の意味は違う。  まったく、料理の本にも当たり前のように“温かい風呂”なんて書かれているから困る。  そのままでいいんだよ。 “バーニャ”の意味は“ソース”さ、そのままなんだ。  バーニャカウダといえばイタリアはピエモンテ地方。 “ソース”だったら“サルサ”になる、だって?  ハッハー、ピエモンテ地方では昔“バーニャ”と言っていた事もあるんだよ。  やれやれだ──料理を作る時っていうのは、その国の文化と風習に心を通わせる必要があるんだぜ?  料理ってのはレシピ通りに作る事を意味するんじゃない、まずは心で感じる事を言うんだ。  まっ、俺が言うまでもないか。  こんなの常識だよな、常識。  ついでにデザートにサントノーレでも作るか。  フランスの伝統菓子なんて当たり前の事はさておき、ただ作っても面白くないな──そうだ、上に飴細工でも乗せるか。  飴細工なんて基礎、だって?  おいおい、そんな口を叩けるあんたの水とグラニュー糖の配分はどうなってるんだ?  言っとくけど俺の手から生み出される飴細工は、神すらも唸ら……おっと、ちょっと大人気なかったかな。  そうだな、飴細工を王冠のように仕上げて被せよう。  タイトルは──そう、『遥かなる夢』……かな。  必要な材料をどこで買うか考えながら、上機嫌で帰路に着く俺の目に。  廊下の奥にたたずむ人影が映った。 「みど……」 「──学園というのはね」  一瞬、だけれど。  いつかどこかで身に刻まれた、命を脅迫する空気を──感じた。 「閉じ込められ若き日の学ぶべき時間を浪費する檻。牢獄の中で人はもがきながら疲弊し、磨耗し、潰され朽ち果てていく──気付かぬまま卒業していく骸の群れ。  だからここは、共同墓地」 「何……言ってるんだ?」 「刻んであげるよ、あんたの名前をさ。この墓に」 「みどの……?」 「この桜守姫のみどのが。あんたの血で」  みどのの口許が妖しく揺曳した時─── 「……!」  灯火が床に落とす影が模った文字。 『斧の時代』の御名。 「み、みど……」  ──背にした壁に響き渡った轟音。  それはいつか、俺の頬をかすめて通り過ぎた鉄片の記憶─── 「……なんで」  信じられない、という思いだけが胸の中に木霊して。  かつての女王の冷笑が俺の視界を揺るがした時。 「なんで!!」  目前まで迫った黒い影。  弾かれるように身をよじった俺の脳裏に呼び起こされた記憶が背中を押したのか、気付けば階段に駆け込んでいた。 (どういう……事だ)  どうして、みどのが今更───  逃げ込んでいたのは教室だった。 「…………」  こんな逃げ場のないところへ──と考えて、自分がどれほど動転していたのか思い知らされる。  いつもの教室。  列を作って並べられた机と椅子の中には俺のものもある。  だからこそ、かもしれない。  慣れ親しんだ場所だという感覚が、反射的にいつもの行動を俺に取らせていた。  こんな時だっていうのに、つい視線を走らせてしまうのは、あの娘の─── 「さく……?」  そこに、いつもその椅子に座って授業を受ける、あの娘の姿があった。 「此芽!? どうしてここに──」 「ここで待つようにと、のんに頼まれておりまして」 「透舞さんに?」  ──その時だった。  背にした扉の向こう側から、囁くような声が漏れてきたのは。 「みどのっ。上手くいきましたの?」 「大成功だよ、のんちゃん。今頃二人が教室で鉢合わせしてるよ」 「作戦の第一段階は成功ですわね。でもみどの、二人きりで放課後の教室というシチュエーションは宜しいのですけれど、だからといっていいムードになるとは限らないんじゃありませんの?」 「それは大丈夫。“命からがら再会した二人”って演出を入れておいたから。これで盛り上がるよ。つり橋効果だよ」 「よくわかりませんけれど……すっ、するとお姉様は今頃……」 「ふっふっふ」 「…………」 「あっ。ダメだよのんちゃん、盗み聞きは」 「しっ、しませんわよっ、そんな事。あっ、階段辺りで張っていましょう。万一、誰かが忘れ物でも取りにいらっしゃったら台無しですわ」 「そうだね。何人たりとも通さない、だね」 「では、お二人に気取られる前に退散するといたしましょう。みどのは奥の階段を」 「うん。このあたしを突破できると思うなよー」  扉の向こうから、左右に散っていく二人の足音が聞こえる。  ……つか、丸聞こえなんですけど。 「はぁ……」  そういう事か。  一瞬でもみどのを疑った事が、なんだか申し訳なく思えてきた。 「どうかなされたのかえ?」 「いやいや。うん、透舞さん、急用で行けなくなったって、さっき言ってたよ」  二人とも、目の前の少女の為に一生懸命だ。  本当に一生懸命。  ……俺だって負けていられない。 「然様ですか。ならば致し方ない……」 「待った」  ここまでお膳立てしてもらっておきながら、この機会を逃したら男じゃない。  ──いつの間にか。  雨が、上がっていた。  ……夕暮れの景色の中にいると、あの日の出来事が胸の中に浮かび上がってくる。 「さく?」 「ああ、ごめん。思い出しててさ」  ──あの日、俺を逃がそうと必死になってくれた此芽におぶわれて、街の外れへと向かった事。  彼女もその事を思い出したのか、急に頬を赤らめた。 「ごめんな。重かっただろ?」 「あ、あの時は無我夢中で……」  無我夢中で、ただ俺の身を案じてくれた。  あの時だけじゃない、彼女はずっとそうだったんだ。  遠い昔。  ──俺が忘れてしまった遠い昔から。  二度と出逢える事はないとわかっていても、彼女は俺の身を案じ続けてきてくれた。  そのせいで、沢山の辛い目に遭ってきたっていうのに。 「……一度くらい」 「ん?」 「お前のせいだって、俺をなじってくれればいいのに」  本当は言葉に出してはいけないってわかっていたこの想い。  それでも、いつかどこかで言わなければならないと思っていた。  彼女は耐え忍んでしまうから。  内側に溜めて、溜めて溜めて溜め続けて、いつか爆発──なんてしない。  彼女は未だに溜め続けている。 「…………」  俺の言葉に、その長い睫を寝かせるように瞳を閉じて苦笑する彼女に。  無理しないでくれ、とか。  抱え込まないでくれ、とか。  そんな言葉がとても失礼なのだと感じた。  ──人間なんだから、溜まってしまったものっていうのは、引きずってしまうものに変わってしまうと思う。  子供の頃に誰かに苛められた事だとか、信頼していた人が何気なく口にした一言に傷ついた事だとか、見ないふりをしてきた事だとか、気付かないふりをしてきた事だとか。  例えその時は赦せても、月日の流れが痛みを和らげても、ふとした弾みに思い出しては胸にちくりと棘を立てる。 「昔の事だから」と笑ってみたところで、一度刺さった棘はなかなか抜けない。  場合によっては、月日が経つほどにより深く深くと突き刺さっていく事だってある。  だから、苦笑する彼女の胸には、きっと未だに棘は突き刺さったままで。 「気にしなくていい」なんて口にできたとしても、もしも本心からそう思えたとしても、棘はやはり刺さったままなんだ。  その清算を、俺はまだしていない。  でも彼女はきっと、その清算もさせてはくれないだろう。  だから彼女に「どうすれば気が済むのか」と問いかける事に意味はない。 「してくれればいいのに」なんて言ってみても、困らせるだけ。  ──だから、ここから始めようと思う。 「俺は、貴女が好きです」 「…………」  自分の立ち位置だけは、はっきりさせようと思う。  俺の気持ち。  俺の中にある想いの在り処。 「その事だけは、どうか知っておいてほしい」  俺の気持ちに彼女がどう応えるか、とか、そういう事じゃなくて。  振られるかもしれない、とか、そういう事でもなくて。  気持ちを押し付ける、とか、もちろんそんな話でもなくて。 「あ、あの事をお気になされておられるなら──」  僅かな間を置いてから、伏目がちに彼女が告げた言葉。 「負い目があるから、なんて気持ちでこの想いを伝えるのが此芽に対してどれだけ失礼なのかって事くらい、俺でも自覚してるよ」 「…………」 「言われても仕方ないけど、あんまり見損なわないでくれ」 「す、すまぬ……」 「謝らなくていい。知っておいてくれればいい」 「…………」 「俺は、それだけでいい」 「わ、媛は……」  きゅっ、と結ばれた唇。 「うん」 「わ……媛も、媛も……其方が……」 「此芽」  発した言葉は、思っていたよりもずっと強い口調だった。 「は、はい」 「俺は、お姫さまでいなければならない君も含めて好きになった。  お姫さまであり続ける事を選んだ君。  お姫さまであり続けた君。  ──でも、お姫さまである君を好きになったわけじゃない」 「…………」 「俺は、桜守姫此芽を見ています」 「…………」 「それだけは、どうか忘れないで」  だから、ここから始めようと、そう思った。 「……………………あたし」 「うん」 「あっ……あたしは、さくが好き」 「うん」 「ずっとずっと、好きだった」 「うん」 「ただの恩だと思ってた。確かに……その、さくの事は気になってたけど。気になって……し、仕方なかったけど。  でもあれは、幼い頃の淡い気持ちだったんだって──いつかは薄れて、思い出になっちゃって……って、そう思ってた。だから、子供の頃にあたしを助けてくれた男の子は、あたしの恩人なんだって。  あたしはその恩人に恩返しをしてるんだって、“誓い”はその為でもあるんだって……からっぽだったあたしに中身をくれた、その恩人に。  あたしが“あたし”としての意味を持つ事ができるきっかけをくれた、その恩人に」  ゆっくりと、少しずつ。 「でも、さくが来てから、あたしおかしくなっちゃったよ」  今日まで塞き止めていたものが溢れ出す。  水が溢れ出す。 「わからなかった。どうしてこんな気持ちになるのか。何年も経って……ずっとずっと昔の話で。  あの日の事を忘れた事はなかったけど、それはあたしを戒める為のものだから。ずっとずっと昔の、ぎゅっと胸が苦しくなる……でも素敵な思い出だから。  なのに、あたし……なんで、どきどきしてるんだろうって」 「どきどき……?」 「そっ……そうだよ」  恥ずかしそうに、けれど真剣な。 「あり得るはずのなかった再会に、もう見れるはずのなかったさくの姿に、あたしはどきどきしてたんだ」  水を乗せた手紙。 「……ふたみ……との結婚の話は丁度よかった。理由ができた。自分の気持ちを誤魔化す理由ができた……あきらっ……め、られる……って……」 「…………」  此芽は続ける。  俺はそれを、聴いていた。 「……諦めるとか思った時点で、あたし、自分の気持ちに気がついていたはずなのに」 「此芽……」 「さく、あたしは──」  うつむいた此芽が、顔を上げて俺を見つめる。  きっと、とても大切な瞬間。  続く言葉は、滅多な事では口にできない素肌の心。  ──その言葉を言い終わる前に。  俺は、此芽を抱き締めていた。 「さ、く……」 「ごめん」  だって俺は、ずっとこの娘にしてもらってばかりだったから。  どれほど辛い想いをしているのかもしらないで、与えられ続けてばかりいたから。 「…………」 「ごめん……!」 「どうして……謝るの……?」  抱き締めた此芽が、耳元で囁く。 「あたし、こんなに嬉しいのに……」  俺の腰に回された彼女の手があたたかかった。  耳にかかる吐息があたたかかった。  触れた頬が、とてもあたたかかった。  ──触れ合った唇の方が、もっと尚更。 「俺……調子に乗ってるかな」  肩を抱かれたまま、唇が離れて。 「…………」  ほわっとした眼差しで俺を見上げる此芽は、それから、触れ合った感触を確かめるかのように唇をすぼめていた。 「も……もっと調子に乗っても……いいよ」 「え?」 「き、訊き返さないで」 「此芽……」 「だっ、だから、いいんだよ」 「…………」 「……気になるなら、待った分を埋め合わせて」  此芽は俺の僅かなためらいの理由を見抜いたかのように、 「あたしを女の子として見てくれてるなら、それで……埋め合わせられるんだって。……それ以外では埋め合わせられないって……わかってよ」  染まったままの頬で、俺を見つめた。 「でも、俺……」 「やり方は、さくの好きなようで」 「…………」 「ね?」  ──ああ、俺は。 「あっ……!」  とても素敵な娘を、好きになったんだ。 「嫌だったら言ってくれよ?」 「……調子に乗っていいって……言ったでしょ」  こんなに素敵な娘が、俺の事を好きになってくれたんだ。 「…………」 「あ、あんまりじろじろ見ないの」 「綺麗だ」 「うっ……」 「綺麗だよ、本当に……綺麗だ」 「…………」  気持ちの置き所を探すかのように目を逸らし、 「……うん。あたし、まだ素直じゃなかったかな」  それから、うなずくように言った此芽は、 「恥ずかしい……けど、ちゃんと見て欲しい。これがあたし。さくを好きだと言ってる女の子の身体」  そう告げて、はにかみながら俺を見つめた。 「ちっちゃい……でしょ、胸」 「そうだな」 「……ぅぅ……はっきり言うね……」 「小さいのも好きだ」 「……ろりこん宣言というやつでしょうか」 「いっ、いや! 此芽だったら小さくても好きだって、そういう意味で」 「…………」 「そんな目で見られてもだな」 「成長してやっと逢えたのに、成長する前の方がよかったってオチ?」 「だから違う違う違うって…………何その目」 「…………」 「…………」 「ぷっ」 「はははっ」  ──ああ、俺は今。  この街に来て、初めて『桜守姫此芽』と言葉を交わしたって──そんな気がしていた。 「触って……いいかな」 「……いいよ。さくの……だから」 「お、俺の、って……」 「だってあたし、ずっとさくに捕まったままだから」 「え?」 「指輪は約束の証だけどね、外す事だってできたんだよ。  でも、外さなかった……あたしが“外したくない”って思ったの」 「…………」  ──どんな辛い目に遭っても? 「だからあたしは、ずっとずっと昔からさくのものだったんだよ」  そんな事には一切触れずに、そう言ってしまえるこの娘は───  俺はゆっくりと此芽の胸に手を伸ばす。 「あっ……」  柔らかな感触に触れた瞬間、どこか悲鳴に似た小さな吐息を零す。  びくり、と震える肩。 「緊張……してる?」 「…………」 「ん?」 「“嫌がってる?”って訊くと思った」 「もう疑わないよ」 「……そっか」 「いや、疑ってた……ってのは違うかな。怖がってたのかな」 「……怖い……?」 「うん、多分……」  多分、俺はまだ実感してなかったんだ。 「多分、なに?」  彼女の好意があまりにも大きすぎて。  それが、愛情に繋がってるって──結びつけて捉える事に、抵抗に似た気持ちを感じていた。  でも、もう恐れない。  近付こうとしてくれている彼女の気持ちを裏切らない。  彼女の好意の上に胡坐をかく事だけは、もうできない。  ──あの時。 「力を貸してほしい」と差し出された手を、握り返した時から。  彼女と俺の距離は限りなく近付いていたんだから。  俺はやっと一歩を踏み出せたんだから。 (まったく俺は不甲斐ない)  もっと。  もっと距離を縮めよう。  零に近い距離まで縮めよう。  支えられて、支えられ続けて。  辛い気持ちを押し隠して、そんな事はおくびにも出さずに何くれともなく俺を支えてくれた彼女に──少しずつでも報いる事ができるように。 「んっ……!」  肌の感触を確かめるように、指の先で表面をなで回すと此芽が顎をびくりと引いて反応する。 「ん、ちょっ……ちょっと、急にどうしたの……」  ──彼女は言った。 「あれは恩返し」なのだと。 「んっ……く、くすぐった……」  じゃあ、今日までの日々は?  俺を生かしたのが恩返しなら、この街に来てから彼女が俺にしてくれた事は、いったい何だっていうんだ? 「ふぅ……ん」  先端に触れるためらいを隠すかのように、乳房の周りを指でなぞる。  恥じらいと緊張が混じった吐息が俺の肌に触れる。  俺の身を案じて手がかりをくれた事。 「逃げて」と言ってくれた事。  俺の家まで世話を焼きにきてくれた事。  この街から連れ出そうとしてくれた事。  俺を護ろうとしてくれた事────  もっと、もっと、もっと沢山。  幼き日のあの出来事を恩だというのなら、そんなものもうとっくに返して、有り余るほどおつりがくる。  だから、もう一歩、踏み出そう。  目の前の見えない壁ぎりぎりまで近付いていてくれた彼女に気付かず、壁から遠ざかっていたのは俺。  壁の意味を間違えて、彼女を遠くへと追いやっていたのは、後退っていた俺。  爪先で彼女の先端の突起に触れて、 「あっ……」  指の腹に挟み込んだ乳首を転がし、きゅっ……と力を込める。 「んんっ」  身をよじるようにした此芽の反応は意外なものだった。 「ちょっ……ん、んっ」  大袈裟なほどの彼女の反応に驚いて指先の力を緩めて、それからまた確かめるように桃色の突起に触れると、 「んっ!」  やはり彼女は、びくりと大きく身体を震わせる。  初めは緊張がそうさせているのかと思ったけれど、どうにもそれだけじゃないみたいだ。 (胸……弱いのかな)  彼女の弱点を見つけた悦びに、俺はそこを集中的に責め出す。 「あ、あっ……あくぅん……!」  吐息に湿り気を帯びてきた頃、俺は彼女の弾力のある太ももに指先を這わせていく。 「あっ……!」  彼女の痙攣の意味は、そこを誰かに触れられるという恐れにも似た感情からくるものだったのだろう。  けれど、その瞳はやや怯えの色を湛えていたものの、嫌がる素振りはまるでなかった。  白皙というほど白皙の彼女の素肌は、俺を出迎えるかのように優しい感触を指先に伝える。 「いい……かな?」 「きっ……訊かないの」  恥じらいに悶えるかのように硬く瞳を閉じながら、それでも此芽は僅かでも抵抗らしい抵抗を見せない。  ──受け入れているのだと。  俺の行為を、彼女はその身体で受け入れているのだと。 「やり方はさくの好きなようで」と告げた、その言葉通りに。 「えっ……」  辿り着いた茂みに、指先に絡みつく湿り気を感じた。 「此芽……?」 「そ、そんな不思議そうに見ないで」  ぬらりと光る液から目を背ける此芽は、ますます頬を朱に染めた。 「好きな……人に、触られたら、女の子はこうなるの」 「…………」 「……そうなの」 「ま……待って」 「え?」 「さくも……沢山触ってくれたんだから、あたしも……」  潤んだ瞳は今にも泣き出しそうな彼女の勇気を伝えていた。 「だ、だって、あたし、さくに触られて嬉しかったから……」 「嬉しい……って、そう思ってくれるんだ」 「あ、当たり前でしょ」  当たり前。  いつか、他人の喜びをまるで自分の喜びのように感じられる彼女を、とても素敵な女性だと思った。  そして今は、俺が触れてくれて嬉しいって、そんなの当たり前だって言ってくれている。 「じゃあ……いいかな」  ──まだ、どうにも俺はしっくりときていない。  気持ちの在り処ははっきりとしたけれど、だから上手く彼女の気持ちに応えられているかというと、答えは否だろう。 「俺も、此芽が触れてくれたら嬉しい」  だから俺も素直に気持ちをぶつけよう。  遠慮とかためらいよりも、俺の気持ちを彼女にぶつけて、ちゃんと知ってもらおう。  そうやって、いつかしっくりくるように、彼女へと近付こう。 「上手くできなかったら……ごめんね」 「いいよ」  君の痛みを少しでも知りたい。 「んっ……」  恐る恐ると突き出された舌先で、先端を舐め上げる。 「ふぅ……?」  初めての感触に戸惑いながらも、此芽は丁寧に丁寧に亀頭を舐めていく。  その弾力に首を傾げるようにしながらも、ちろちろと舌先を絡めて男根を濡らしていく。 「おっ……」  彼女が初めてなら、俺もまた初めてだ。  彼女が与えてくれる刺激に、俺は一瞬、肩を震わせた。 「あっ……」  すると此芽は嬉しそうにして、また眼前で雄々しく滾っている怒張に顔を埋めるように近付いていく。  彼女はその口を開くと、口腔内に俺のものをしまいこんだ。 「ふむぅ……むぅ……」  やや苦しそうにしながらも、口に納めた俺の亀頭を舌先で転がす。 「はふぁ……んふぅ……むはっ……ん」  その間もびくりびくりと震え続ける幹を感じるのか、転がすばかりではなく舌先で突いたり、舐めあげたり、思いつく限りの事を彼女は試し続ける。 「…………」  そして俺の反応が気になるのか、彼女は口腔内に熱棒を納めたまま、心配そうに俺を見上げる。 「すごい……気持ちいい」 「んふっ……」  彼女の頬が、ぺこりと窪む。  俺の反応に嬉しそうな表情を見せると、彼女は思いきった様子で、口腔内で震える幹を更にしまいこむかのように、そのまま上下に動かした。 「んふぅん……んふっ……」 「こ、此芽……」 「ふぅ……ん、ふぁっ……」  激しく擦りあげられる幹は腰を中心に刺激を伝え、腰を浮かせるかのような感覚に手の置き所に困った俺は彼女の頭を固定するようにその手を置いた。 「んんっ……!」  その際、丁度呑み込めるところまで呑み込んでいた彼女の喉奥に先端が当たってしまい、 「おっ……ごほっ! ごほっ!」 「わ、悪い。大丈夫か?」 「ん……へいき」  彼女は咳き込んだが気を悪くしたふうもなく、再び目の前の怒張に顔を埋めた。 「んんっ」  頭をなでると、此芽はぴくりと反応した。 「んふっ……」 (嬉しい……のかな)  充血した幹を此芽は必死に擦りあげながら、先端を舌先で何度も何度も舐め上げる。 「はっ……はっ……ん、ふぅ……」  ちらちらと顔を上げて俺の様子を窺いながら。  そんな彼女を見ていたら、俺の中でも段々と昂ぶりが抑えられなくなってきて。 「こ、此芽、もう……」 「ふん?」 「そろそろ……」 「………ん」  意図を察したのか、此芽の頬がさらに赤く染め上がる。 「……そっか」 「此芽が頑張ってくれたから……」 「それって……恥ずかしいけど、すごく嬉しいね……」 「じゃあ……」 「う……うん」  突き出すように向けられた尻に手を添え、俺ははちきれんばかりに充血した亀頭を彼女の筋にあてがう。 「いいか……ってのは、もう訊かないからな」 「うん」 「でも、今大丈夫かって意味では訊くぞ?」 「ふふっ……」  此芽は可笑しそうに微笑み、 「あたしたちが……その、繋がったのは、もうずっと前だから」  そして、 「だから、あたしはいつも通り」 「……そっか」 「うん」 「んっ……!」  俺たちは繋がれていた。  遠い昔から繋がれていた。  互いの命を分け合っていた。  だから、いつも通り──俺たちは、一つになる。 「んんんんっ……」  また彼女は受け入れてくれた。  ずっとずっと昔から、同じように。 「いいんだ」  こんな言い方はひどいと思う。 「もう、痛かったら痛いって言っていいんだ」  でも、言わなくちゃいけないって、そう思う。 「……痛いよ、ばか」 「うん、ごめん」 「でも、あたし知ってるから」 「え?」 「繋がる事は痛みを伴う事だって、知ってるから」 「…………」 「はい、そこ、そんな顔しない」  ──遠い昔、ふんぞり返っていたあの娘が俺を叱った。 「だったら……」  俺も痛みを伴うべきだと、言いかけた言葉を此芽が制した。 「さくは痛がってるよ。痛がってるあたしを見て、胸を痛めてる」 「…………」 「だから……あたしたちは繋がってるの」  どうして男女の痛みは平等じゃないんだろう。  そしてどうして、彼女はこんなにも……。  踏み出したのは俺。  けれど、埋め合わせていたのはいつだって彼女の方だ。  その内側に侵入する事でしか、男は繋がれない。  受け入れて、耐えて堪えて、女は繋がる。  ──だったら。  俺は俺を受け入れてくれる彼女の内側で、彼女の痛みを和らげよう。  繋がる事は痛みを伴うと告げる彼女に、それを知りながら俺と繋がる事を望んでくれる彼女に、痛みの緩和ではなく彼女の心を支える事で和らげよう。  それが男の役目なのだと、気付いたから。 「……戸惑ってる?」 「え?」 「急に『お姫さま』をやめて……どんな自分でいればいいのかって、戸惑ってる?」 「……ううん」 「そう……」  でも、きっと今彼女が見せた間は─── 「さくがどんなあたしでも受け入れてくれるって信じてるから、戸惑ってない」  虚を衝かれて。 「戸惑ってなんか、あげないから」 「此芽……」 「だからさくも、何を焦ってるんだか……わからないけど」  わかってるから、と。 「少しはあたしを信用して」 「…………」 「……媛では其方の信用を得るには足りぬかえ……?」  ──冗談めかした、その言葉。  聞き慣れたその口調が、俺の背中を押す。  まいったよな、ほんと。  何年も何年も、俺がぐだぐだやってる間に彼女が積み重ねたものは大きくて。  ちょっとやそっとじゃ追いつけない。  でも、俺は手を握り返したから。  当然だって、あの時、握り返したから。 「あっ……!」  ──突き入れる。 「あぅっ……く! んんんっ……!」  深く。  もっと深くまで、柔肉を掻き分けて。  侵入する事で女を支配する男の性で。  俺と彼女が、共に一つであれるようにと、その為の痛みを届けよう。  膨れ上がった亀頭と充血した幹が膣壁を擦りあげる度に、彼女は大きく身悶えしながら唇を噛む。 「んー……! んー……!」  きっと彼女は、今日までずっとこうしてきていた。  与えられる痛みに唇を噛みながら、ただ堪え続けてきた。 「んぁっ……! はぁっ……! んんんっ……!」  その痛みを、今度は俺が与える。  ──いや、元を正せば、これまでの痛みも俺が与えてきたも同然で。 「んんくぅんっ……!!」  なのにどうして、君はただ受け入れてしまうのか。  ──一つになれるって。  この痛みはその証拠なんだって、彼女はそれを知っていたから。  そう信じてきたから。 「んぁっ……ああっ……!」  誰にも触れられた事のない大切な部分を荒らされながら、それでも彼女はやはり唇を噛んで堪える。 「あっ……ふぁっ……!」  ──その痛みが、やがて悦びに変わる事を知っているから。  打算ではなく、それが彼女の誓いだから。  広がりきった彼女の膣が、俺が出し入れする度にさらに押し広げられていく。 「んっ……! っ……あっ!!」  けれど、内から込み上げる痛みと広がる快楽の波とが互いに混じり合って、彼女は少しずつ大胆になっていく。 「気持ちよくなってきた?」  わかりきっているからこそ訊く、意地悪な質問。  けれど、それはこれまでの彼女には──これまでの俺では、彼女には訊けなかったものだから。 「う……ん」  恥ずかしそうに頷く彼女が愛しくて。  俺は少しでも早く彼女の痛みがどこかへいってしまうようにと、強すぎず、それでも休みなく突き上げる。 「んぁっ……! あっ……!」  そのまま背中に覆い被さるようにしながら、俺は指先を彼女の胸へと伸ばす。 「ああっ……!」  やはり彼女はそこの刺激に弱くて、びくりとしなるように大きく震えるものの、その間も密着する形で後ろからの抽挿は続く。 「んあっ……くぅぅっ……!」  敏感な乳首を責められながら、初々しくも過敏な下腹部へと何度も出し入れされ──次第、痛みの声と嬌声のバランスは崩れ始める。  だから何度も何度も、俺は彼女の痛みをすくい取るかのように、繰り返し続ける。  ──一度引き抜いたのは、それからしばらく経ってから。 「はっ……あ、はぁっ……」  彼女が立っている事さえもできないと、腰を振るわせ始めた頃。  先程の挿入ですでにこじ開けられていた膣穴はやや痛々しくも、ひだが艶かしい水滴を滴らせながら俺を誘う。  とても可愛らしい、彼女の女の子の部分。  そして成長した、彼女の女の部分。 「いい……よ」  尋ねる前に、此芽がすでに覚悟はいいと俺に微笑みかけた。  目尻に涙を溜めたまま微笑む彼女の姿は、やはり俺の知っている彼女で──そして、遠い昔に置き忘れてきた彼女。  成長という過程を踏まえて、重なり合う今と昔の彼女。 「んっ……!」  突き入れた先端に、さっきほどの抵抗は感じなかった。  湿り気と熱で蕩けたように柔らかい膣壁は、突き進む俺を包み込むように受け入れていく。 「あっ、あっ、あっ……!」  その度に此芽はびくりと身体を震わせて、侵入する俺へと反応を示す。 「さ、く……」  ぱくぱくと、潤んだ瞳で見上げる此芽の唇が動いた。 「ん?」 「また……繋がっちゃった……ね」  心底嬉しそうな口振りが、俺の下腹に熱を与えた。  だから俺は一度腰を浮かせると──勢いをつけて、一気に奥まで突き入れた。 「うぁっ……!!」  此芽は大きく顎を上げて、身に走った衝撃を物語る。 「はぁん……! はぁっ……ん……!」  繰り返す度に彼女は大きく跳ねて、俺の行為が彼女にどんな刺激を与えているのか俺に伝える。 「うぁっ……ああっ、んぁぁっ……!」  ずっと深くまで届いている。  さっきよりずっと深く、ずっと奥まで。  未開拓だった奥底の柔肉を掻き分けて、膣壁に強く擦りあげられながら、俺たちは互いに痛みを伴いながら深く結び付き合う。 「……ねえ……訊いて……いい?」  絶え絶えの声で、火照った吐息を撒き散らしながら、此芽は覆い被さる俺の首筋に腕を回す。 「なんだい?」 「あなっ……たは……頑張ってきて……よかった?」 「え?」 「“巽の者として立派にならないといけない”って……そう言ったあなたは、がんばってきてよかった?」 「俺は……挫折したよ」 「でも、がんばってきたんでしょう?」 「……ああ」  やれるだけの事はやってきたと、でも、言えるのはただそれだけ。 「あたしは……がんばってきてよかったよ」  そんな俺に、此芽は微笑みかける。 「もう一度さくと逢えた。……だから今、こうして繋がっていられる」  いつもの微笑みを俺へと向けてくれる。  ──遠く感じられていた距離は、俺が遠ざけていたから。  その理由にようやく気付いて、その間違いをようやく反省して、だから今、俺と此芽はここでこうしている。 「これって……自己満足?」 「違うよ」  冗談めかして言う此芽の台詞を、俺は即座に否定する。 「じゃ……あ、さくのそれも……違うよ、ね?」 「…………」  ああ。 「やってきた事。がんばってきた事。積み重ねてきた事。  ……無駄だなんて、思わないで」 「…………」  ああ、君は。 「ね?」  やっぱり素敵すぎて、俺はまた君を遠ざけてしまいそうだ。  ──でも、もう間違えない。  首に回された此芽の腕。  だから俺は、彼女の腰に腕を回して、彼女を持ち上げる。  ──この方が、ずっとずっと彼女が近いから。  この方が、上気した君の肌のあたたかみをより近くに感じられるから。 「くぁっ……はぁっ……!」  その体勢になった瞬間、彼女の重みで俺の先端がより深く彼女の膣内を抉った。 「んん……ん、んぁっ……ふぅん……」  動く度に擦りあげられる。  締め付ける柔肉だけでなく、下腹部の触れ合った肌と肌とが、互いの茂みを互いで掻き分けていくかのように擦りあげられる。 「重く……ない?」  涙目の此芽が俺に問いかける。 「重いよ」 「……ぅ……」  此芽の思いやりが。  此芽が積み重ねてきたものが。  だから俺は彼女を支える。 「支えるんだ」 「え?」 「重ければ重いほど、がんばり甲斐もあるよな」 「さく……?」  彼女の重みに比べたら、俺の腕はまだまだか細くて弱々しいかもしれないけれど。  もしかしたら、ふとした弾みで折れてしまうかもしれないけれど。  彼女が唇を噛んだ数には、その痛みには、まだまだ到底及ばないから。 「一緒……が、いいっ……」  ぎゅっ、と首筋に回された此芽の腕に力がこもった。 「さく、さくっ……!」  愛しい者の名を呼ぶ彼女が、より身近で、より愛おしくて。 「此芽……!!」  だから俺も彼女に負けないようにその名を呼ぶと、さっきよりもずっと強く彼女を抱き締めて。  そして、腰に込み上げる甘い痺れを促進するかのように、抽挿の勢いを強める。 「ああっ……! さく、さく、一緒……いっ……しょ……!!」 「ああ、一緒だ」  ──だから俺たちは。 「ああっ……ああああああっ……!!」  ようやく一つになれたのだと、ここに実感できる。  ──なあ、此芽。  君の笑顔は。  その微笑みは、彼女が積み重ねてきた『お姫さま』であるかのようで──けれど、等身大の彼女でもあるかのようで。  近付けた。  手を握って一緒に歩けるくらいには近付けた。  まだまだ、手を取って先を歩けるほどには及ばないけれど──それでも、踏み出した一歩は俺たちの距離を変えた。  俺はきっと遠慮していたんだ。  彼女は俺から遠い人だったから。  だから、関係がわかっても、何もかもすべて思い出しても、そうであるから近付けるなんて思えなくて。  彼女がしてきた事を、してきてくれた事を、知ってしまったからこそおいそれとは近付けないなんて──遠慮に似た気持ちで遠ざけていた。  勝手に高く高く押し上げて、まるで雲をつかむかのように俺は彼女を見上げていたんだ。  ──馬鹿だな。  だから、どうすればいいのかまるでわからなくて。  はっきりしていたのは自分の気持ちだけで。  ──馬鹿だな。  だって、ほら。 「お兄様っ」 「はぁっ!?」 「此芽お姉様のお相手だから、お兄様。おかしくございませんでしょう?」 「お兄様」 「み、みどのまで……」 「みどのにとっては本物のお兄様になられるかもしれませんわね」 「ちょ、ちょっと……」 「なってもらわなきゃ困るよ……お姉様と、その……ねえ?」  みどのが頬を赤らめる。 「……まさか、見てたんじゃ……」 「そっ、そんな事しませんわよっ! ただ、結果がどうであったのかは……お姉様のお顔を見れば、わたくし、わかりますもの」 「あたしも」 「こんな可愛い妹が二人もできて、お幸せですわね。お兄様」  なにそのニヤニヤ面っていうかしてやったりみたいな顔。 「ふふっ。『O計画』は大成功ですわね」 「ちょっと待て、なんだそれは」 「勿論、『誰よりも気高くお美しい此芽お姉様ラブラブ大作戦』の略ですわ」 「“計画”って単語が入ってないだろ! しかも“O”から始まってもいねえ!」 「お兄様は細かいですわね」 「お兄様こわい〜」 (……やれやれ)  きっと、これが二人の此芽への愛情の形。 「大好きな人に幸せになってほしい」という、彼女たちが使った魔法。  だったら俺は、その魔法が壊れてしまわないように。  いつかの哀しい魔術なんかじゃなくて、みんなが使える、みんなだから使える、誰かの為の魔法。  歩き出そう。  今、あの娘の隣にいれる幸福を噛み締めながら。  これが当たり前だ、なんて思える日がきてしまったら、どうか過去の俺よ、未来の俺をぶっとばしに行ってくれ。  さあ、行こう───  俺と彼女の道が交わった、その先へ。  花の咲かない桜の樹の枝の上。  ここは此芽にとって特別な場所。  早朝、ここを訪れるのは彼女の日課。  だが、その日課も終わりを告げたようだ。  あの時と同じように、俺たちは並んでいた。  あれからどれほどの年月が経ったのだろう。  目の前の少女はあの時よりずっと成長していて。  そして俺も多分少しは成長していて。  けれどあの時と同じように、その少女は『お姫さま』だった。 「ごめん」  それが第一声。  まず、俺はそれを言わなければならない。 「君との誓いを破ってしまった」 「…………」  此芽は静かに目を伏せる。 「だからそれは、秘匿制約によって──」 「君との約束を覚えていなかった事はそうかもしれない。  でも、俺は“誓い”を破った。“巽の者として立派になる”って誓いを……俺は挫折して、この街へ逃げ込んだ。それは変わらないよ」 「…………」  ──才能に関してじゃない。 「巽の者として立派になる」っていうのは、芸術家としての云々じゃないんだ。  それが、彼女の姿を見ていてよくわかった。  魔術的素質のすべてを封印し続けた彼女は、“立派になる”というあの日の誓いに反したか?  何があっても堪え続け、文句も、言い訳の一つすらしなかった彼女は、誰よりも立派に誓いを果たした。 「才能がなかったから」なんてのは、俺の言い訳だ。  才能がないからって諦めた、俺の言い訳だ。 「だから、ごめん」 「……謝ってばっかりだね」 「そうだね」 「気にしないで。あたしも誓い、破ってるから」 「そんな! 此芽は──」 「あたしね、この樹に誓った事を破っちゃったんだ」  そう言って、此芽は枯れた桜の大樹に手を触れた。  愛でるように、どこか、愛おしそうに。 「だから、おあいこ」 「樹に……誓った?」 「うん」 「桜の花言葉って知ってる?」 「え? えと、確か……“高尚”とか“純潔”とか、“精神美”、“優れた美人”……」  桜を守る姫の御名を冠する彼女。  どれも、彼女にとてもよく似合う言葉だった。  でも、桜は枯れてしまった。  毎日、毎日──彼女が訪れるこの場所で待っていた桜の樹は、もう二度と花を咲かせる事はない。 「他にもあるよ」 「え?」 「“私を忘れないで”」 「忘れ……ないで……?」 「彼岸花の花言葉としての方が、有名だけどね」 「…………」  その言葉は。  この朽ちた桜の樹と同じように。  忘れられ続けてきた此芽の─── 「此芽。俺は……」 「──散っていいの」 「え?」 「散っていいんだよ。花は散るものだから」  そんな哀しい言葉。  それは君にとてもよく似合って。  でも、君の口からは聞きたくない言葉。 「だって」  でも、そう言って彼女の唇が模った言葉は。 「──散らない花を、いったい誰が愛でるの?」  とても鮮やかで──震えるほど綺麗で。  桜を守る姫の御名。  此から始まった芽。 「ずっと渡そうと思ってたんだ」  だから。  取り出した、彼女への贈り物。 「俺が君に渡した“指輪”は、君を苦しめただけだったから」 「それは──」 「俺のせいじゃない、なんて言うなよ」 「…………」 「“ずるい”って顔しないでくれ」 「……じゃあ……」  此芽はその白皙の指を俺へと差し出した。 「ん」  真っ赤に染まった彼女の頬。 「……右手を出してくるかと思ってた」 「うそつけ」 「うん、ごめん。嘘ついた」  だってもう、婚約はとうの昔に交わされた約束だから。  だとしたら、婚約指輪は彼女の右手を締め付けただけ。  だから今度は、彼女を彩り上げる指輪を左手にはめてあげたい。 「後からの変更はききませんよ」 「はい」  ──謹んで。  俺たちは再び、ここで結婚式を行う。  招待客は誰もいない。  たった二人の結婚式。  ──いや── 「これ……此芽が……?」  この季節ではないはずだった。  そして、枯れて朽ち果てていたはずだった。 「ううん、あたしじゃない。だって──」  言いかけた言葉の続きはわかった。  死んだ、と口に出す事をはばかったのだろう。  だから続く言葉は、死んだものを生き返らせる事はできない、と。  それは稀有の才能を有する魔術師である彼女にだってできない、この世の法則を逆しまに辿る行為。 「じゃあ……」 「お祝いかな?」  そう言って微笑んだ此芽。  どうやら、二人だけだと思っていた俺たちの結婚式に参加してくれる相手がいたらしい。 「────そうだな」  祝辞はもう、もらった。 「俺は約束を果たせなかった。なににもなれなかった」 「さく」  ごめん。  でも、どうか言わせてくれ。 「──でも。俺は巽の者として立派になれなかったけれど。誇れる力が、俺にも一つだけあった」 「え?」 「俺が誇れる力は───  お前を守る事ができる、力だ」  そして、此芽を守ろうと想える気持ちと、意思。  ──俺の“誇り”。 「では、お姫さま。俺のお姫さま。  ──なんなりとご命令を」  ちょっぴりおどけて、俺は彼女の前に膝をついて会釈する。 「…………」  驚いたような顔を見せた彼女は、けれど、すぐに思いつくものがあったのだろう。  真っ先に願うものがあったのだろう。  願ってくれるものがあったのだろう。 「では、巽策。其方に一つ、命令を与えまする」 「はい」 「媛を──」  左手の薬指に桜を模った指輪をはめたお姫さまが、こう告げる。  こう、告げてくれる。 「あたしを幸せにしなさい」  ──その願いを待っていた。 「誓います」  そう。 「この、桜の樹に誓って」 「うん」  花の咲かない桜の樹の枝の上。  ここは此芽にとって特別な場所。  早朝、ここを訪れるのは彼女の日課。  だが、その日課も終わりを告げたようだ。  ──けれども特別である事は、きっと一生、変わらない。 〜ラベル『«背に負ったいしの重みは»』の内容は記述されていません〜 〜ラベル『この手を離せない』の内容は記述されていません〜  ……俺は。  気付けば、彼女の手を握っていた。 「……さっくん?」 「……何処へ」 「え……?」 「何処へ……行ってしまうんですか、傘姉」  どうして俺は、こんな事を問いかけているんだろう。 「……わたしは何処へもいかないよ」  その言葉が、きっと本当なんだろうけど、それでも嘘なんだって、どうしてそんなふうに思うんだろう。 「傘姉と、もう、会えないって。  ……俺、どうしてか今、そう思ったんです」 「…………」  ──傘姉はもう一度。  一つの方向を、指差した。 「さっくん」  指し示す方向にあるのは──俺の知っている範囲でいえば、俺の家だけ。 「……ふたみが帰ってきてるんですか?」  何故だか、傘姉は何もかも知っているような気がして。  俺はそんなふうに問いかけていた。  傘姉は言葉にも、頷きによる態度にも表さなかった。  ただ、俺をじっと見つめるその瞳が答えだったように思う。 「そう……なんですね」  ──だから。  行って、と。  ふたみの傍にいてやってくれと、未だその方角を指差したままの傘姉が、無言で語りかけているような気がした。 「……行けません」 「…………」 「今、ここから離れたら……今、傘姉と別れたら。きっともう会えない」  この手を離したら。 「……さっくん」 「俺、そんなの嫌です」  彼女とは二度と逢えないのだと、俺はその事を疑いもしなかった。 「……どうして」  その時、傘姉が初めて目を逸らした。 「どうして……そんな事を言うの?」 「わかりません」 「ふたちゃんが心配じゃないの?」 「……心配です」 「大切……だよね?」 「はい」 「じゃあ……ね?」 「…………」 「さ、ほら」  傘姉は俺の背後に回り込むと、肩を取って───  ふわり、と、俺の頬をなでた傘姉の髪。  ……とても優しい匂いがした……。  そして、彼女は俺の背中を押した。 「女の子を待たせちゃ、ダメだよ」  柔らかな声。  すべてを包み込むかのような。 「……ふたみは大切な人です。俺の恩人です」 「うんうん」 「でも俺、今、ここから離れるわけにはいきません」 「さっくん」 「嫌だ!!」  ──多分。 「さっくん……」 「……すみません、大声出して。でも俺、嫌です」  多分、この一言が、何かのきっかけだったんじゃないのかって思う。  自分でも、どうしてここまで慌てていたのかわからない。  でも、この予感はきっと気のせいなんかじゃないって。  ──今を逃したら。  きっと永久に、この人と会う機会は失われる。 「…………」  ……そんな顔するって、俺、わかってたのにな。  それはあまりに唐突で。  心の準備なんか勿論なくて。  自分が今、どうしてこんな事を言っているのかさえもわからないまま。 「ふたちゃんが……」 「じゃあ、傘姉も一緒に」 「…………」 「傘姉も一緒に、帰りましょう」 「…………」 「帰り道が一緒なんだから、一緒に帰ったっていいじゃないですか」  音の途切れた間があった。  早朝とはいえ街は動いているのに、周囲の音が掻き消されていくかのような、そんな静かで残酷な間が。 「なんで……」  うつむいたままの彼女が、ようやく、ぽつりと呟いた言葉。 「俺、傘姉ともう会えなくなるのは嫌です」 「…………」 「すいません、わがまま言って」 「……わたしは何処へも行かないよ」  顔を上げた彼女が言ったその言葉の意味が。 「本当ですか?」 「でも、さっくんがこの道を真っ直ぐ進まなければ、わたしはさっくんが知っているわたしではなくなってしまうから」 「……え?」  俺には、よくわからなくて。 「わたしは、さっくんが知っていてくれるわたしでいたいな」 「どういう……意味ですか」 「そのままの意味」 「…………」  穏やかな日差しに似た彼女の柔らかな声が形にしたその言葉が、俺の頭の中でぐるぐると回る。  その意味がつかめなくて、俺はただ、彼女の表情からその意味を読み取ろうとする事しかできなくて。 「だから、ね?」  そう言って、彼女が俺の手を優しく振りほどこうとした時。  ──俺の中に湧き上がった一つの感情は、不安、と呼ばれるものだった。 「俺!……俺、傘姉が一緒じゃなければ帰りませんから」 「……ずるいよ、さっくん」 「すいません!」 「…………」 「すいません! でも、俺、このままじゃ戻れません!」 「このまま……じゃ?」 「はい。このまま、一人じゃ戻れないんです」 「さっくんじゃなきゃ、ふたちゃんを支える事はできないんだけどな」 「そういう……」 「今こそ、巽策が男を魅せる時なんだよー」 「そういう……事じゃ、なくて」 「…………」 「…………」  ……じゃあどういう事なんだ、と問われたら満足な答えも返せない。  呆れるほどじっと地面を見つめたまま。  続く言葉の行方も探せない俺は、ただ、傘姉の手を握っていた。 「さっく……」  ただ、握り締めていた。 「…………」  ──どれほど、そうしていただろう。 「……じゃあ、帰ろっか」  その囁きに、ようやく顔を上げて。 「傘姉……」 「さっくんがこんなに強引だったなんて、知らなかった」  困ったような、拗ねたような、でも気遣っているような、そんな傘姉の顔を見つめていた。 「すいません……」  ──傘姉の指差した先。  そこにはやっぱり俺の家があって。  そしてその前には、やはり、ふたみの姿があった。 「ふたみ……」 「…………」 「良かった……」と、自然に喉奥からせり上がってきた言葉が、何故だか声にならなかった。  そのまま飲み込まれていった言葉が、ちくり、と、小さな棘を残して消えていった。 「…………」  ふたみは俺と目を合わさず、ただ地面を睨むように見つめている。  隣の傘姉が、じっと俺を見つめていた。  彼女なら今のふたみにかけてあげられる言葉が見つかるだろうに、それでも俺を見つめていた。  呑み込んだ言葉が、身体のどこかで棘を立てる。 「ど……」  ──どうして。 「どうしたんだ? さあ、家に入ろう」  どうして、ふたみに告げたその言葉が、俺の中で安っぽく響いたのだろう。  ふたみへの気持ちに嘘なんかないはずなのに。  ……気持ち?  どんな……気持ち? 「ふたみ?」 「お主……」  言いかけて、ふたみは口を噤んだ。  上げたと思った顔をすぐに伏せて、やはり俺と目を合わせずに押し黙る。  彼女の胸の中に渦巻く想いが──わかりかけたその瞬間、俺の身体をすり抜けていった。  どうして。  彼女の事なら俺なりに理解していると、そう声を大にして言えたはずなのに。 「…………」  戸惑っていたのは俺の方。  馬鹿な。  今辛いのはふたみだろう?  俺は何をやっている? 「ふた……」  ──資格がない。 (え……)  彼女の気持ちに踏み込む資格がない。 (なにを……)  俺が今気にしているのは、落ち込むふたみではなく、ふとしたらいなくなってしまうんじゃないかと───  ──そんな不安がいつまでも消え去らない、傘姉の事。  その事だけで頭の中がいっぱいだ。 (馬鹿な!!)  大切な人を心配する事に何の資格が要る。  ふたみは俺を……救ってくれた。  そんなふうに言ったら大袈裟かもしれないけれど、恩とか、愛情とか、言葉にしたら陳腐かもしれないけれど、俺にとってふたみはとても大切な女の子だ。  その気持ちに嘘なんかない。  こんな顔をしたふたみを前にして、俺は何を馬鹿な─── 「……ふたちゃん」  びくり、と、俺の指先が震えた。 「お家に入ろう?」 「…………」 「ほら。さっくんも心配してるよ?」 「……でも」 「ん?」 「私には、もう……ここを自分の家だと思っていい資格なんか……」 「どうしてそんな事を言うの?」 「だっ……て」  うつむいたままのふたみ。  そんな彼女を、俺は初めて見た。  ……だっていうのに。 「じゃあふたちゃんは、どうしてここにいたの?」 「…………」 「ふたちゃんには、立派な実家もあるのにね。なんでここなのかな?」 「……それは」 「だから、それでいいの。ね? 帰ろう?」 「…………」 「さっくんもそう思ってるよ」  ──そう言われた時。  初めてふたみが顔を上げた。  恐る恐る、ゆっくりと、俺を見つめて。 「……そうなのか?」  今にも目を背けてしまいそうなほど頼りなげに、ふとした風に掻き消されそうなほどの小声で。  当たり前だろって。  喉許まで出かかった言葉を呑み込んでまで、俺は何を守ろうとしてるんだ?  ふたみを心配するのも、元気づけるのも、「自分の家に帰るのは当たり前だ」って言う事も、彼女を大切に思っているんだから当然の事なのに。  俺は何に遠慮をしてるんだ?  ……遠慮?  なんだよ遠慮って。  今この場で、どうして遠慮なんて言葉が出てくる? 「あ……あ、さっくん、ふたちゃんの事を心配しすぎて言葉が詰まっちゃったんだね。ごめんね、ふたちゃん。でも、さっくんがそう思ってるのは本当だから」  そうだよ、当たり前だろ。  ……声に出して言えよ。 「さ、ふたちゃん。お家に入ろう?」  傘姉がふたみの肩を取って歩を促すと、 「………………いい……か?」  ふたみが申し訳なさそうな上目遣いで、俺を見つめる。 「入って……いいか?」 「あ……ああ」  ようやく声になった言葉。  なんだよ、俺。  どうしたんだよ。  どうしちまったんだよ。  どうしてなんだよ。  どうして。  どうして俺が安心した理由が、ふたみが家へ戻ってくれた事じゃなく、傘姉がここを「家」と呼んでくれた事になって─── 「……傘姉、ふたみは……」 「ん……ようやく寝付けたみたい」 「そう……ですか」  それきり言葉が続かない。  こんな時間までずっと廊下をうろうろとして、ふたみの事が心配で堪らないくせに。 「…………」  立ち去らなかったのは、俺はきっと傘姉に叱られると思っていたからだろう。  ──でも、彼女は叱らなかった。 「……すみません、俺……」  結局、自分から謝っている。 「もう。さっくん、しっかりしなきゃ駄目だよ」  促されてようやく出てきたその言葉。  本当は、俺の顔を見た瞬間に言いたかった事だろうに。 「……すみません……」  本当に、どうしちまったんだ俺は。  情けない。  こんな様じゃ、傘姉に─── 「…………」  ……傘姉に、なんだよ? 「さっくん」 「わっ!!」  不意に傘姉の顔が目の前にあって、思わず素っ頓狂な声を上げていた。 「さ、さっくん?」 「い、いや、えと……はい、なんでしょうか」 「さっくんもずっと起きっぱなしでしょ? 少し休まないと」  ──そんな事を言ったら。  あの時間にあんなところにいた貴女は、ちゃんと休んだんですか?  もしかしたら、貴女も照陽菜が終わるまでずっと待っていてくれたんじゃないんですか? 「いや、俺は別に……」  それなのに、俺の心配なんかしないでください。 「駄目だよ、ちゃんと休まないと。さっくん、疲れてるんだから。ちゃんと休んで、ちゃんと頭が働くようにして……そうしないと」  そうしないと? 「ふたちゃんが起きた時、優しい言葉がかけられないでしょ?」 「…………」 「ふたちゃんに一番効くのは、さっくんの魔法の言葉なんだからね」  ……魔法が使えるのは貴女じゃないですか。 「魔法の言葉……ですか」 「そうだよ。さっくんがふたちゃんにだけ使える、さっくんにしか使えない言葉」  二の句が告げられない。  どうして貴女は、そんなにあたたかいんですか? 「……さ……傘姉こそ、ちゃんと休んでください。寝てないんじゃないですか?」 「ん? わたしは大丈夫だよ。ちゃんと休んだから」  貴女は嘘つきですね。  ずっと心配しながら起き続けて、ふたみは戻ってきたけれどひどく落ち込んでいて、慰めるべき人間をふたみに気付かれないようにあんなところで待っていて、ようやく来たと思ったら駄々っ子みたいに喚き散らされて、振り回されて、わけもわからないまま言うべき言葉を呑み込んだその駄々っ子のフォローをして、それからふたみが寝付くまでずっと傍についていて……それなのに、貴女はいつものように微笑むんですね。  貴女の笑顔は、いつだって色褪せないんですね。 「俺」 「ん?」 「……確かに、少し疲れてるみたいです。傘姉に言われた通りに寝ます」 「うん」 「でも、傘姉」 「ん?」  本当に、どうしてだろう。 「気付いたらいなくなってる、なんて無しですよ」 「…………」 「お願いしますよ」  どうして、こんな事を言ってるんだろう。  俺はいったい、どこを向いているんだろう。 〜ラベル『選んだのは……』の内容は記述されていません〜  ──目覚めた時には朝になっていた。 「んっ……ん……」  どうやら相当疲れていたようだと、泥のように眠っていたとき特有の感覚から実感する。  起きている時は「まだまだいける」と思っていても身体は正直なもので、一度眠ってしまうと疲労度に比例して眠りは深いものに───  ──駆け抜けたのは焦り。  隠し切れない不安。  向かった先は自然と─── 「おはよう、さっくん」 「傘姉……」  よかった。  ──食卓、向かって一番奥の席。  傘姉はいつものように、そこにいた。 「どうしたの? さっくん、そんな顔して」 「あ、いえ。なんでもありません」 「さっくん」 「はい」 「敬語」 「あ、ごめん」  そんないつものやり取りに、心底安心している俺がいた。 「なぁに?」  そのままじっと見つめていたら、そう問いかけられた。 「あ、いや……」  見透かされたようで、一瞬、戸惑う。  俺は戸惑いから目を逸らすように辺りをきょろきょろと見回し、そうして、 「ふた……」  ──みは、と真っ先に浮かんだ名前を呑み込んだ。  傘姉はいつも通りにそこにいる。  ただ、すべてがいつも通りなわけではないと──いつもの早朝、いつもの居間、食指を動かす匂いが漂ってこないという現実が思い知らせる。 「メメ……は、まだ寝てるんですか?」 「……帰ってきてないみたい」 「…………」  ──緋き揺曳に取り囲まれた瞬間を思い出す。 「……そうですか」  ざわざわして落ち着かない。  考えなければならない事はあるはずなのに、どうしてか俺はそれらを一緒くたに呑み込むようにして、食卓の定位置に腰を下ろした。  ──何を苛立っているんだ?  苛立ちの理由がわからない。 「あっ、と……」  ご飯、遅いですね。  そんな話題を投げかけようとして、会話の行き着く先を想像して呑み込んだ。 「…………」  何やってるんだ、落ち着けよ。 「さっくん」 「は、はい?」  反応した声は裏返っていた。 「そんなに心配なら、さっさと行ってきなさい」  諭すその穏やかさが、胸に突き刺さる。 「し、しんぱ……」  何かに対して目を瞑っている、という自覚を抑え込みながら。 「もしかしたら、傘姉……いなく……なってるんじゃないのかなんて。そんな心配をしてしまいました」  口を通過する事を許可した言葉はそれ。 「……釘、刺されちゃったからね」  傘姉が僅かに苦笑する。 「…………」 「…………」  ──生じた沈黙。  嘘はついていないのに、嘘をついている罪悪感が駆け巡る。 「ねえ、さっくん」  沈黙を破ったのは傘姉だった。 「は、はい」 「訊いてもいいかな」 「なん……でしょうか」 「さっくんは……どうして、わたしを引き止めたの?」 「え?」  ──一瞬、俺の中に湧き上がった空白。 「そ、そりゃ、傘姉は仲間じゃないですか。一緒に暮らしている仲じゃないですか。いなくなったら嫌ですよ」  出てきた言葉はそれ。 「……それが理由?」 「えっ……」  傘姉のつぶらな瞳が、俺を見つめている。  柔和な笑みを絶やす事のない彼女の表情が、ほんの少し、影を落としたかのように沈んで───  不安。  そんな言葉が、その表情から読み取れたような気がした。 「そうなの?」 「……はい」  どうして喉が渇いているんだろう。  ……でも、他にどんな理由があるっていうんだ? 「そっか……なら、うん……いいんだ」  何が“いい”んだ? 「ごめんね、変な事を訊いちゃって」 「いえ……」 「さてさて、さっくん」  いつもの笑みが訴えかけていたもの。  ──わかってる。  わかってます。 「美味しい朝食がないと、一日が始まりませんよね」 「うん」  よくできました、とばかりに笑顔は柔らかさを増した。  実際、朝食なんてどうでもいい。  傘姉が言いたかったのは、ふたみがまだ起きてこない、という事。  そして、今の彼女を起こしに行くのは自分の役目ではない、という事。  ──だから、という事。  そうして俺は今、傘姉が寝室として使っている部屋の前に立っている。  ふたみが昨日、眠りについた部屋に。  ……居間へと駆け込むまでは、どちらの、と言い切れるものじゃない。  俺たちの朝の集合場所は、いつだってあそこだったのだから。  どちらとも言い訳がついてしまう。  けれど、俺が真っ先に安否を確認したのは……。 「…………」  傘姉のあの表情。  あの“不安”は……いったい何に対しての“不安”なのか。  そんな事を考えてる間に襖が開いた。 「ん……」 「ふたみ」 「おはよう」 「もう……起きて平気なのか?」  言ってから、まったく気が利かない台詞だと思った。 「うん」  ……うん、か。 「すまない。今からすぐに朝食の支度をするから」 「そんな事はいいから、今はゆっくり休んでくれ」 「そんな事とはなんだ。これはヨメにとって大事な──」  言いかけ、そして。 「ちょ、朝食の支度をする」  目を逸らすふたみがいる。 (ふたみ……)  だから、俺は今、ここにいるんだって事は理解している。  それだからこそ、廊下の奥からこちらを心配そうにうかがう視線があるって事も。 (……傘姉)  貴女は、みんなの良きお母さんでありすぎますよ。  わかってる。  今、何を優先するべきかって事くらい。  ──だから。 「さっくん」  俺の背中を後押しする小声が耳に届く。  ぐずついていたら、貴女は当たり前のように俺たちのフォローをしてしまう。  そんな俺を、しばらくふたみは見つめていたが、やがて。 「……人を好きになるというのは、良い事ばかりじゃないな」  ぽつりと、そう呟いた。 「今よりもっと、今よりもっとと、その人の事をより深く知りたくて、どんどんどんどん欲張りになっていってしまう。  ……だから、その人が何を言いたいのか、とか、言葉にする前になんとなくわかってしまう」 「…………」  ごめん、と。  そう言いかけて、呑み込んだ。 「そういうところ、好きだったぞ」  ──俺。  なにやってんだ? 「……ありがとう」 「?」 「さあ、はっきりと言ってくれ。察しはついてるが、やはりオマエの口から直接聴きたい」 「わかった」  この娘の真っ直ぐな瞳から、目を背けてはいけない。  俺は小さく息を吸い込んで、そして。 「俺は──」 「え?」  真ん丸く目を見開いた傘姉が、慣れ親しんだ廊下に立っている。  しばらく、立ち竦んで。 「ま……またまた、さっくんってば。恥ずかしいのはわかるけど、肝心な時に誤魔化すような事を言っちゃ駄目だよ」  優しくそう諭す。  でも、傘姉。  これは俺の自惚れかもしれませんが、貴女は、俺がこんな時に冗談を言う人間かどうか、知ってくれているんじゃないですか?  俺は確かに不甲斐ない男ですけれど──貴女のその瞳に、俺はどう映っていますか? 「…………」  貴女の沈黙は。  声にならない想いは。 「…………」  それから、ゆっくり。  ゆっくりゆっくりと。  貴女の表情が、変わっていく。 「傘姉」 「えっ……」 「ふたみは勿論、大切です」 「う、うん。だよね?」 「でも、それはきっと、傘姉が思っている意味ではありません」 「え?」 「傘姉が言っている意味での“大切”なら、俺には、もっと、大切な人がいます」 「…………」 「それは──」 「……ちょっ……ちょっと、さっく……」 「聞いてください。それは──」 「さっくん!!」  傘姉の大声を、俺は初めて聞いた。  初めて聞いたその声は、擦れるような悲痛な叫びで───  彼女はふたみを、俺を、交互に見つめて。 「仲間だからって! 家族だからだって言ったじゃない!」 「……すみません、傘姉。でも俺、自分の気持ちに嘘はつけません」  いや、違う。 「俺は……」  嘘をつけないのは。 「俺は、ふたみに嘘はつけません!!」  そう、思いの丈をぶつけた時。  ふたみが静かに、頷いた。  ──すべてを受け入れたかのような表情で。 「……駄目だよ、さっくん。そんなの駄目……!」 「だからどう、とか、そんな事を言い出すつもりはありません。傘姉に迷惑をかけるつもりはない。  でも俺、もう気付いてしまったから。  気付いた以上、自分を誤魔化す事なんて──ましてや、ふたみの真っ直ぐな眼差しから目を背ける事なんて、できません。  ……傘姉、俺は……」 「駄目、駄目、駄目……!」 「知っておいてくれるだけでいいんです。俺は……」 「──っ」  その瞬間、傘姉の背中が遠ざかった。  ──結局、そのまま傘姉は戻ってこなかった。  きっと、もう戻ってこない。  それくらい俺にだってわかる。  要するに俺は、わがままを喚き散らして引き止めておきながら、相手が望まぬ事を突きつけて何もかも台無しにした、最低の野郎だって事だ。  飛び出す時に傘姉が見せた表情が、俺の脳裏から離れない。 (……ああ、そうか)  それは、とても自然に胸の中で溶けていった。  ──やっとわかった。  初めて言葉を交わした時から、俺が傘姉の言葉に抵抗できなかった理由。  年上とか礼儀とか、そんなものとは関係のないところに理由はあった。  ──傘姉の笑顔は、本当に眩しいから。  俺は、その笑顔が崩れるような真似をしてしまう事を、心のどこかで恐れていたんだ───  ……その笑顔を崩して。  崩してまで。  俺が言った事は──何だ? 「…………」  あの時、傘姉の手を取ったのは咄嗟だった。  ここで別れたらもう二度と会えなくなるって、どうしてだか確信めいた予感がよぎって、気付いたら彼女の手を取っていた。  勿論、傘姉ともう会えなくなるなんて嫌だ。  けれど、あの時の──底冷えにも似た「嫌だ」って気持ちの正体に気付かないなんて。  ……気付かないままでなんて、いられない。  俺はそういう事に無頓着で、ろくに経験もない子供かもしれないけれど。  けれど、この気持ちがいったいなんであるのかを理解できないほど子供でもなかったって事だろう。  あの時の咄嗟の行動が、俺に気付くきっかけを与えてくれた。  この気持ちは嘘じゃない。  嘘じゃない……けれど。  相手を思いやる事もできないで、自分の気持ちだけぶつけるなんて。  そんなの本当にただの子供だ。  ──今日ほど俺は俺に絶望した事はない。  ただの子供ならいい、けど、俺がした事は、俺が大切に想う人たちを傷つけた。  大人になっても持ち続けていていい童心と、積み重ねた経験がないからこその無邪気さを裏返せば表れる思いやりのなさとが決定的に違うって事くらい、俺にだってわかっている。 「すまない」  縁側に腰かけていた俺の横に、いつの間にかふたみが立っていた。 「私があんな事を言ったせいで、グダグダになってしまった」 「ふたみのせいじゃない」 「いや、私のせいだ。私がああ言わなければ、オマエはあの場でああはしなかっただろう」 「……しなかったとしても、その理由は、俺が情けないせいだ」 「すまない」 「謝らないでくれ」  本当なら、お前に謝らなきゃいけないのは俺だろう、そう言いかけてまた口をつぐむ。 「……やれやれ、だな」 「ん?」 「なんとなくわかってしまう、というのも厄介なものだな」 「…………」 「私たちは、しばらく離れていた方がいいのかもしれないな」 「えっ?」  唐突な一言。  けれど、なんで、とか、どうして、とか、そんな言葉が出てくるはずがない。 「……大丈夫なのか?」  言ってる言葉だけ受け取れば、ひどい傲慢。 「大丈夫だ」  続く言葉が出てこない。 「実家に戻って少し気持ちを落ち着けようと思う」 「……そうか」 「お主人ちゃん」  いつものように、彼女は俺を真っ直ぐに見つめて、そう呼んだ。  きっと、あえて、そう呼んだ。 「がんばれ」 「ふたみ……」 「おねさまなら仕方ない。私では太刀打ちできない。  ……それになにより、お主人ちゃん自身が選んだんだ。私はそれを受け入れる」 「…………」 「何の力にもなれなくてすまない。私は、たくさん力を貸してもらったのに……。  すまない。今はちょっと、無理だ。すまない」 「…………」  何も言えない。  この娘の優しさに、思いやりに、何一つ報いてやれない。 「がんばれ」  何一つ、返していい言葉を持たない。 「がんばれ」 〜ラベル『透明の巫女』の内容は記述されていません〜  ──下手に声をかけたりしない方がいいのだろうか。  俺は彼女を追い込むような真似をしてしまった。  いつも朗らかに笑う彼女の笑顔を……壊すような真似をしてしまった。  謝ろう、なんて、そう考えて傘姉の教室の前までやってきても。  いざ前にすると、結局は俺の自己満足なんじゃないかって──思考は堂々巡りを繰り返す。  だいいち、謝ってどうしようっていうんだ。  謝ってみたところで、ごめんなさいと繰り返してみたところで、都合よくあの頃に帰れるわけじゃない。  気付いてしまった自分の想いに嘘はつけないから。 「ねえ。どうかしたの?」 「えっ」 「キミ、さっきからずっと教室の前にいるけど。誰かに用事? 呼んでこよっか?」  うろうろしていた俺を見かねた先輩の一人が声をかけてくれた。 「い、いいえ……」  ──断ってどうなる。  いったい何を誤魔化しているんだ。  そして、会ってみたところでどうなる? 「すみません。傘ね……明日宿先輩はいらっしゃいますか?」  それでも、このままグダグダしているよりはマシなのだろうと。  俺はそう、尋ねていた。 「明日宿さん? 今日は……お休みかな? 来てないみたいだよ」 「そう……ですか」  ──あの頃の日々。  俺が壊した日々。  人知れずそっといなくなろうとしていた傘姉の手を取って、彼女がどうしてそうしようとしていたのかの理由を知りもしないくせに、無理やり握り締めて、強引に繋ぎ止めて、それからまた……壊した。  ──自分の気持ちだけを押し付けた。  青空を見上げると自分の気持ちを──なにより小ささを見透かされてる気がして、「馬鹿だな」って責められてる気がして、でも何故だか「全部見ているよ」って、そんな柔らかさに包み込まれている気がして。  ごめんなさい。  どうにもならないってわかってるのに、空に頭を下げた。  当の本人に謝っても仕方ないって、それぐらい俺にもわかってるから、せめてこの気持ちの行き場所を求めるようにして。 「…………」 「いいところで会った、メメ」  というより、この状況はどう見ても待ち伏せていたとしか思えないが、それならむしろ丁度いい。 「──とりあえず、俺をぶっとばしてくれないか?」  吹き抜けた突風が、気持ちいいほどに俺の横っ面を叩いていってくれた。 「……これが、あなたの“答え”ってわけ?」 「…………」 「答えて」 「ああ、そうだ」 「…………」 「遠慮なく殴ってくれ」 「……おおねえさまは、確かに、ふたみお嬢様が慕っている方だけど……」  ……ふたみお嬢様? 「でも、だからって……! 明日宿家なんてご宗家傘下の一つでしかないのに……!」  ──納得できない。  そんな想いが、メメの表情から……読み取れた。  ──炎の中に踊る歴史があった。  熱の壁に浮かんでは消える、壁画めいた歩みの系譜があった。  後からやってきた桜守姫家。 『彼』を殺しきれず。  浄任の一族だけが持ち得た、『彼』に対抗し得る“手段”。  ──英雄は豪族と化し、やがて処刑人へと変じた──  だから空明市は。  唯井家の街。 「……年上好みなの?」 「いや、そんなんじゃない」 「ああいう……その、きょにゅーとか好きなワケ?」 「いや、それは……」 「甘えたいの? 甘えるのが好きなの?」 「……メメ」 「おおねえさまみたいな、ああいう……」 「……もう、やめてくれ」 「俺の事ならいくらでも責めてくれていい。でも、傘姉の事を悪く言うのはやめてくれ」 「なっ、なによ……!」 「頼むよ」 「っ……」  ごめん、わかってるんだ。  メメは傘姉の事を悪く言いたいわけじゃない。  ただ、ふたみに対して一生懸命なだけなんだって事。  でも、どうしても──これだけは言っておかないといけない。 「メメ、俺は……」 「納得できるわけないでしょ! ふたみお嬢様に辛い想いをさせて──それで、どうして明日宿家なの!? 未寅家よりもずっと格下じゃない!!」 「明日宿家がどうとか関係ない。俺は傘姉が……」 「うるさいうるさいうるさいっ!!」  やるせない想いを乗せた激昂は、殴られるよりも痛い。 「明日宿家なんて、かつてご宗家が調伏した魑魅魍魎の類いが祖だって言われてるくらいなのに──ああもうっ! エドの馬鹿っ! もうあなたなんか知らないっ!!」  メメの目の端に溜まっていた涙が、その叫びと共に飛び散った。  ──そして背を向けて走り出した彼女の姿が、俺の視界から消えて。 (……メメ……)  ごめんな。  俺、嘘つきになっちまった。  ──おねーさまの味方でいてあげて──  俺は今だって、ふたみの味方のつもりでいるけれど。  けど、メメから見れば俺は裏切り者だろう。  俺は彼女が望んだ“味方”にはなれなかった。  ──だからごめん。  ごめんな、メメ。  俺はお前の気持ちを裏切ったんだよな。 (……バカ、バカッ!!)  気付けば自宅への帰路を辿っていた。  吹き抜けた風が、火照った愛々々の頬を優しく冷ます。 (バカッ……!!)  未寅家の管理領域。  この街の願望を形にしたという──“看板”の裏に隠された墓場。  御家として担う代々の役目は未だ引き継がれぬまま、彼女の両親が担当している。  何故なら彼女は、“特例”どころか“異例”とまで囁かれるほどの選別を受けた者だから。  宗家の人間を護衛するというのは、代々、申子家が担ってきた役割だ。  守護四家にはそれぞれ役割が割り当てられている。  どれが上、どれが下、というわけではなく、無論それぞれが宗家が宗家として機能する為に決して欠かす事はできない役所を与えられているに相違ないが──やはり宗家に近ければ近いほど上、という認識は少なからず生まれている。  そういう意味では、“墓場の守”である未寅家は四家の中でも末席に過ぎない。  そう思われている理由は、それだけではなかったのだが。  代々の役目、それぞれの歴史。  それら一切合切を飛び越して宗家の息女付きの護衛となった彼女が、如何なる逸材であったか──推して知るべし。  そこには、申子家における今代の剛の者が男に偏ってしまったという背景、そして宗家当主が令嬢にいらぬ気苦労をかけたくないと、できるだけ同性から選んでやりたいとの配慮は少なからずあったが──そもそもが女系家族である、そんな事態は数多くあった。  悶着は当然あった。  当主の意向は絶対なれど、口に出さぬだけで憤懣は未だ糸を引いている。  それでも確固たる事実として、ふたみという令嬢の護衛が愛々々であるという事が、彼女の抜きん出た実力を物語っている。  ──その彼女をして、その音には息を呑んだ。 「……あ、あなた……」  まるで水溜りが跳ねる音。  気配を捉える前に移動はなされている。 「……未寅、カ」  声をした方を振り向いても、そこに姿はない。  そも、その声は大気に薄めたかのようにして届けられる。  音が走らないのだ──位置の特定などそもそも叶わない。 「なん……で……」  驚愕に見開かれた瞳も、その位置をつかんではいない。  ……俺は何をやってるんだろう。  この角で曲がるのが、俺の家に辿り着く最短の道だ。  一つ見過ごし、また一つ見過ごす。  次で曲がればいいだろう──なんて、曲がり角を一つ越すごとに自分を誤魔化しながら、どんどんと、自分の家から遠ざかっていく。  ……本当、何をやってるんだろうな。  気付けば夕刻。  何処とも知れぬ道を、俺は独り歩いていた。 「がんばれ」  あの娘が残していった言葉が胸の奥に木霊する。  あの娘はどんな気持ちであの言葉を口にした?  あの娘はどんな気持ちで実家へ帰っていった?  ──諦めたら駄目だと思い知らされる。 (傘ね……)  ──幻かと本気で疑うほど、ほんの一瞬。  俺の視界を彼女の影がかすめた。  それは、あの娘が届けてくれた奇蹟……だったのだろうか。 「傘姉!!」  間違いなかった。  彼女の背中が、俺の視力で捉えられる限界まで離れた距離に揺らいでいる。  ──追いかけてどうなる?  自問とも自制ともつかない想いが湧き上がったが、足の動きは止まらない。  気付けば、俺は後を追って駆け出していた。 (……何処だ? ここ……)  なんだか妙なところに迷い込んでしまったようだ。  いつの間にか見失っていた、傘姉の姿。  鬱蒼とした藪を掻き分けながら進まなければならないここは、獣道ですらなかった。  山道に入ったところまではわかっているんだが、彼女を見失わないようにと慌てている内に奥へ奥へと踏み込んでしまい──気のせいか、確かに彼女が向かった方向であるにも関わらず、追いかけた先は地割れの如き渓谷で、付近に橋もなければ「ちょっと頑張れば向こう岸まで跳べる」ような代物ではなく、俺は彼女が使ったであろう迂回用の道などを捜している内に、見事に迷ってしまったというわけだ。  ……まいったな。  気のせいか霧まで出てきた。 (……いや、気のせいなんかじゃない)  この一帯の大気すべてに着色を施したかのような濃密な霧が、俺の視界を狭めていく。  まるで白き夢の入り口から伸びた腕に捕まったかのように。  狭まった視界の中では目の前さえも覚束ず、少しでもよろければ見えない谷底に転落するのではないかとの恐怖に怯えながら、一歩一歩を確かめるかのように足を踏み出す。  すでに傘姉を捜すどころか、自分自身の位置さえも確かめられない状態だった。 (このまま……暗くなったら……)  僅かな不安が全身に伝播する。  傘姉を追いかけた時点で、時刻は夕方だった──となれば、もう陽は落ちていてもおかしくはない。  濃密過ぎるほど濃密な霧のせいか昼夜の境はわかり辛かったが、少なくとも“明るくはない”事くらいわかる。 (この……まま……)  帰り道すらもわからないまま、包み込む霧に俺は翻弄され続けるのだろうか。  ……そう考えてしまった時点で負けだったのだろう。  急に足元に暗い穴がぽっかりと開いたような気がして。  それがどこまでもどこまでも広がっているような気がして。  歩けば歩くほど、俺はその深い闇の只中へと進んでしまっているような気がして───  ……気付けば、歩みは止まっていた。 (もしかしたら、下手に動かない方がいいんじゃ……)  その判断が賢明なのかどうかすらわからなくて。  白い海の中で、俺は独り、せり上がってくる息苦しさに胸を抑えた。 「え……?」  顔を上げたのは、視界の隅に色のある何かがかすめた気がしたからだ。  掻き分ける事もできないほどに敷き詰められた霧中とはいえ、それでも大気と共に動いている事には変わりない──ほんの僅かな悪戯心を起こしたかのように、霧の端にできた隙間。  じっと見つめた時にはすでに塞がってしまっていたが、間違いない─── (何か、ある……!)  樹林だったとかいう落ちじゃない。  確かに、何か──“人の手で作られた何か”を感じさせた。  こんなところに民家が?  なんて期待するのは都合がよすぎるのかもしれないが、それでも俺は、霧の向こうに消えてしまったその方向目指して進むしかなかった。 「神……社?」  霧の向こうに霞む建物に、俺は何故だかそんな印象を抱いた。  濃密という言葉ですら表現しきれないほどのこの霧の中、一寸先すらも覆い隠してしまう視界の中──ほんの僅かに覗いた瓦屋根を確認しただけでそう思ってしまったのは、きっと、俺はこの場の雰囲気に何か玄妙めいたものを感じ取っていたからなのだろう。  だから俺は、悪戯な風が切り裂いた霧の向こうに霞んだ屋根を見てそう思ったんじゃない。  いつの間にかその“領域”に入っていた事を感じ取っていたんだ。  ここが深遠な道理の上に打ち立てられた空間なのだと。  気付けば歩みを止めていた。  立ち尽くした俺は、霧の向こうから現れたその少女に見惚れていたのだろうか。  それがあまりに自然だったから。  目の前の少女を見た時、俺は真っ先に「ここに居るのが当たり前だ」と思った。  それから、その少女の格好から彼女が巫女だという事に思い至り──だから俺は、その少女が透舞のんである事を最後に気付いたほどだ。 「透舞……さん?」 「……意外と早かったですわね」 「え?」 「いえ……貴方が最初の参拝者ですわ。さ、せっかくいらっしゃったのですから、是非とも参拝なさっていってくださいな」 「あ、いや、俺は……」 「──鳥居よりこちらは神の領域。中央は神様の通り道なのですから、端を歩かれませ」  言いながらも抗えなかったのは、きっとそういう事だったのだろう。  ここはあまりに澄んだ気配に満ちていた。  ここが俗世と隔離された霊妙な空間なのだと肌が感じ取っていた。  迷い込んだとはいえ、勝手に神聖な領域に入り込んでおきながら挨拶もせずに出て行く事などできやしないと、俺の身体が否定していた。 「あ、ああ……」  透舞さんに促され、俺は霧を掻き分けるように進んでいく。  この霧の中でもまったく狼狽する様子のない彼女の足取りはしっかりとしており、俺は落ち着いた歩みを見せる目の前の赤い衣裳の後に従って歩いた。 「その格好……」 「神社に仕える巫女が巫女装束をまとって、なにかおかしな事がございますの?」 「……君はこの神社の巫女なのか?」  わかっていた───  彼女を一目見た時から、この少女がこの神社の巫女である事は確信していた。  けれども、後から訪れた“知り合いの透舞のん”という認識が、俺の口にその質問を上らせた。 「そうなりますわね」  圧倒されるほどの霊妙。  子供の頃から霊の類いにただの一度もお目にかかった事のない俺でさえ、この場がどれほど神秘的に尊い領域なのかと思い知らされる。 「ここまでいらっしゃれば大丈夫でしょう。さあ、歩みなされませ」  透舞さんが促した向こうには、本殿らしき偉容が俺を見下ろしていた。  僅かだが、霧が晴れている。  ──まるで招き入れた者にいまさら隠す必要などないのだと、言わんばかりに。 (……隠す?)  どうしてそんな事を思ったんだろう。  確かに濃密だけど、これはただの霧に過ぎないっていうのに。 「どうなさいました?」 「ここ……は、何て神社なのかな?」  呼吸をする度に神聖を吸い込むかのような霊験に圧倒されながらも、俺は問いかけた。 「え?」 「お参りするにしても、何の神様が祀られているのかも知らないで……っていうのは、さすがに失礼かと思って」 「……なるほど」  言われて、透舞さんは奇妙な表情を浮かべた。 「おっしゃる事はごもっともですわ……まったく、わたくしはいつも詰めが甘いったら……」  まるで自嘲するかのような表情だった。  ……どういう意味だ? 「さっき、俺を見た時に“早かった”って言ってたけど……」 「え? ええ」 「俺……を、待ってた……とか?」  そうである理由はまったく思い当たらないけれど、その言い方が気になった。 「あらあら、随分と自意識過剰ですこと。別に貴方でなければならない必要はありませんでしたわ。  ただ、隠れていたものの姿が露となれば、いずれどなたかが発見なさるでしょう。それが思っていたよりも早かった、という意味ですわ」 「隠れ……」  さっき感じた事との奇妙な符合に、俺は驚かずにはいられない。 「この神社の事……だよね?」 「……まあ、それこそ隠すような事ではありませんしね。いずれそれも遠い昔の御伽噺となるのですから……この神社が“開放”されて初めての参拝者となられた貴方に、これから昔話となる小さな御伽噺をさせていただくのも宜しいかもしれません」 「“開放”……?」 「いえ……“解放”なのかもしれませんわね。語り継がれ受け継がれてきた、“隠れていなければならない”という定めからの解放」 「先程、貴方はわたくしを巫女……とおっしゃっておられましたが、この格好を見てそう思われましたの?」 「いや……その、おかしな話かもしれないけど、君が現れた時点で巫女だと思った。半分霧に霞んだ巫女装束に気付いたのは、その次だ」 「それから透舞のんだと?」 「え、あ、いや……」  なんだかすぐに気付けなかった事が申し訳なくて、言いよどんだ。 「ふふっ……宜しいんですのよ。だってまだ、霧は晴れきっておりませんもの」 「え?」 「まだ、先代までの力がこの霧に残っている以上──この霧に『透明の巫女』を感じて当然ですわ」 「『透明の巫女』……?」 「──巫女」  透舞さんは、その一言を強調した。 「巫女なればこそ、この神社もまた、一つの“舞”を伝承しております」  舞の本質とは、神を呼び込む為にこそある。  そう彼女は言う。  舞う──踊る事によって雑念を振り払い、己の心を限りなく無心へと近付ける。  俗世界に浸り生きている事で帯びた垢を落とすという行為は、それそのものが外界との接触を断ち、深い瞑想状態に入る事を意味する。 「即ち舞とは本来、他の方にご覧になっていただく為のものではなく、自身の精神を練磨させる為にこそあるのですわ」  巫女とは神子。  瞑想の極致に至った穢れなき存在であればこそ、神を降ろす“場”は創造される。  天岩戸伝説における天鈿女命の歌舞にまで遡る、巫女舞の起源。  弟、須佐男命の暴虐なまでの振る舞いを嘆いた天照大神は、天岩戸に閉じ篭り──あまりに有名な、日本神話のこの一節。  太陽の神たる天照大神を引っ張り出す為に開かれた宴会で、舞を披露したのは天鈿女命だった。  この女神の舞こそが神楽──巫女舞の発祥である。  この時に彼女が岩戸に篭った天神を引っ張り出す為に舞ったように、舞とはつまり神を呼び込む為のものでなくてはならない。 「透舞の舞は、“隠す”事をこそ目的として執り行われる。それは即ち、“遠ざける”という事」  遠ざける……? 「そこに在りながら見えなくなる。無くなっているのではなく、確かに存在しながら誰にも気にされなくなる。  視野の死角に入ったかのように、それは心の死角にこそ棲家を移し変え置かれる。形ある“物体”であっても、形なき“認識”であっても──遠ざけられたそれは、確かに目の前にありながらも、今この瞬間まで確かにそう思われていたものであっても、次の瞬きの後には無いものとなる、認識から外れる」 「それ……って」 「この霧も、それによって生じた結果。“見えない”という状態にて年経れば、言霊に支配されたこの街では相応の様相と変わり果てる……そのような力を持った巫女たちの存在を隠す為、その社である、この神社を隠す為」  やっぱり──それは、この街を覆う結界と同じだ。 「そうか。だから『透舞』……」  それは透きとおる効果を生み出す舞──『透明の巫女』。  神妙な気配に中てられたのか、ここではいかなる不可思議を語られても素直に受け取れた。  ここが神社で、そして巫女が語るのであれば、そしてそのどちらも霊験から切り離しては考えられないと、まったく腑に落ちて思い込む事ができるここでならば。  俺の言葉に、透舞さんは静かに頷いた。 「ですが、それももう終わり」 「終わり……?」 「『透明の巫女』たる透舞家は、そのお役目に幕を降ろしたのですわ。  ──ですからこの霧も、やがて晴れる事でしょう。視覚的にも心理的にも死角に置かれ、衆目に触れる事のなかったこの神社も、もはや隠されている理由がなくなったのですから」 「どうして……」 「御伽噺はここでお終いですわ。不思議な力を持った巫女たちがいた神社が──かつてあったかもしれない。それで御伽噺としては充分ではございません?」  二の句が継げない微笑みに、俺は押し黙るしかなかった。  でも──そうか。  ようやく、さっきの「早かった」という言葉の意味がわかった。  ずっと隠され続けていたこの神社──その存在を知る者以外は、誰一人として訪れる者のないこの神社。  俺の知っている神社とはまるで違う。  この街でいうところの“外”──俺が住んでいた世界での神社は、開放されていて当たり前だった。  誰でも訪れる事ができるし、勿論、山深いところにあったり人目につきにくいところにあったりと立地条件が異なったり、もしかしたら忘れられてしまっているようなものもあるのかもしれないけれど、それでも誰にも知られない事が目的で建てられる神社なんかない。 「隠れていなければならない」というその決まり事から、この神社はようやく解放された。  解放されたから開放された──けれど地図にも載っていない、皆がその存在を知っているわけでもない。  だから「早かった」。 「もしかしたら……」 「はい?」 「もしかしたら透舞さんは、開放されたこの神社を誰かに見つけてもらうのを……」  待ってたんじゃないか──なんて、どうして思ってしまったのか。 「……何故、そのようにお思いになられますの?」  逆に訊かれてしまえば、言葉が続かない。 「でもご明察。確かにわたくしは待ち望んでおりましたわ。  何故なら、もうこの神社は“特別”でもなんでもない、普通の神社なのですから。それはもう、ごく当たり前の、ありふれた……そんな普通の神社が誰にも気付いてもらえなければ、訪れる者もない聖域となってしまうのならば、そこはただ朽ち果てていくだけなのですから」 「…………」  そう語る透舞さんの表情は、何故か……。 「普通に参拝者の方々を迎え、お守りや絵馬、破魔矢などを置き、御祓いを求める方々には……」 「──待って」  けれど、そこにほんの小さな違和感があった。 「なんですの?」 「普通に、って言ったね、今」  違和感の正体は。 「え? ええ……」  この街で「普通に」というのはおかしい。  俺が何に違和感を感じたのか、その正体に気付いた時、今日まで目にしていながら意識すらしなかった事が、疑問となって次々と浮かび上がっていった。  何が「おかしい」のか。  簡単な事だ──俺はこの街で他の神社を見た事がない。  神社どころか、仏閣も、教会も。  宗教絡みの建物を一つとして見た事がないんだ。  その違和感に気付いた時、俺は一つの結論に辿り着いた。  彼女が「普通」と口にした事は、何もおかしな事じゃない。  この街は“外”の世界にあるものが溢れている。  閉ざされているとはいっても、すべての物品がこの街で生産されているもののみで成り立っているわけじゃない。  東京都における一つの街として、“外”の世界と普通に流通が行われているのだろう──恐らく、その際に何らかの検閲が行われているのは間違いないだろうが。  今更になってふたみとのやり取りを思い出してみれば、テレビやらラジオやらケータイ、インターネットなど、彼女が──恐らくはこの街の住人のほとんどが──知らなかったものには、ある種の共通点がある。  運び込む物品を検閲する事は不可能ではないだろうが、電波に乗ってしまう情報をこの街にいる誰かの基準で検閲する事はできない。  あれは受け取る事しかできないのだから。  例え何らかの手段を講じたところで都合よく規制を敷くのはあまりにも現実的ではないし、抜け道とは必ず存在する。  だから端末となる機器そのものがこの街にはないんだ。  そこから考えると、透舞さんが「普通に」と言ったのは、“外”における神社の様相を書籍などで読んでいたと考えれば納得できる。  この街では、恐らく住民に「ここは東京都の街の一つ」と可能な限り違和感なく思わせる為であろうが、“一般常識”が俺が住んでいた世界とそう大差ない。  この街の常識が特殊すぎればそもそも住民と話が噛み合わず、幻想の世界に飛ばされた物語の主人公のように、俺はもっと早くこの街の異常に気付いていただろう。  だが、これだけは断言できる──この街に、宗教に絡むものは一切ない。  少なくとも、“外”で宗教と呼ばれる類いのものは運び込まれていない。  住民たちは日本神話は知っているだろう、けれど神々を祀った神社はない。  偉人として釈迦やキリストを知ってはいてもその教えを学ぶべき媒体も場所もない。  つまり──信仰の対象になるようなものを検閲している。  その理由は何だ?  ……簡単な事じゃないか。  宗教というのは「死を克服する事に始まる」と言われるように、死後に対する恐怖心を取り除く為にこそ存在する。  これは乱暴な言い方だが、ある種の本質だ。  生きている以上は死が避けられないものであるとの前提があるからこそ、良い行いをすれば死後に天国に行ける、極楽に行ける、神様はいつも見ているよ──その言葉を支えにする事ができる。  だから日々を生きる為の心の拠り所として、模範として、“教え”が存在する。  逆の行いをすれば地獄に堕ちるよ、悪人は現世で好き勝手していても、死んだら永遠の責め苦を味わうんだよ──そう思えれば悪事に手を染める事を恐れもするし、不条理なこの世の出来事を誤魔化しながら受け入れる事もできる。  救いを求める心と畏れの心が神を育て、信仰心を育てる。  これは避けられない事。  ──だとすれば、それが人が人である以上は避けられないものであるのならば、その対象を何かに向けさせようと試みるんじゃないだろうか。  答えはもう出ているだろう。 「透舞さん。『透明の巫女』は、いったい誰の為に活動してきたんだ?」 「ですから、それは──」 「じゃあ言い方を変えるよ。ここは神社だ。そして巫女が巫女である以上、それは当然、神様の為に行われるんだ。  ──この神社にはいったい何が祀られていた?」 「…………」 「唯井家じゃないのか?」  ──この街を閉じ込めた唯井家を支配者と言い換える事に、何の不都合があるだろう。  彼らはその支配を磐石のものとする為に、様々な手段を講じてきただろう。  そう、例えば。  自分たちを信仰の対象とするように仕向けるとか。 「透舞神社は、きっと唯井家にとって都合の悪い事を局所的に隠す為に機能してきたんだろう。  君が言っていたように、巫女舞とは“神を呼び込む為”に──つまり、空明市に唯井家が君臨するように」 「…………」 「違うかい?」 「……ごめんなさい。わたくし、貴方がこんなに鋭い方だとは思っておりませんでした」  そう言って、透舞さんは一つ嘆息した。 「どうせ昔話となるのですもの。御伽噺にはもう少し続きがあっても宜しいのかもしれませんわね」 「“覚悟”──と、そう伺っております」 「覚悟……?」 「我らが祭神の覚悟。これで終わりなのだという決意の表明……だから祭神は、自らをこの世に降ろす巫女の存在を必要としなくなった」 「唯井家が……何かを始めるって事か?」 「詳しくは存じ上げませんわ」 「…………」 「なんですの、そのお顔は。これでも神職なのですから、嘘などつきませんわよ」 「あ、いや、そんなつもりじゃ……」 「申し上げました通り、『透明の巫女』としての透舞家の役目には幕が降ろされますの。  わたくしは透舞家にあって最後の『透明の巫女』ではなく、『ただの巫女』として歩み始める最初の者……最後の『透明の巫女』は、お母様」 「え? じゃあ、君は……」 「先程のお話は、すべてお母様の受け売り。わたくしは何も知らされずにきた。ただ、あるがままを受け入れる最初の役割を担って。  ──わたくしが存じ上げておりますのは、わたくしは何も知らされずにいる、という事」  透舞さんが緩やかに苦笑する。 「ですから、わたくしは否定」 「NON……?」 「そうですわ。これまでのお役目を返上し、異なる道を歩んでいくという事の証明をなすべく」  最後、ではなく、最初の巫女。 「“外”と一体となるのなら、とお父様が名前をつけてくださったそうですけれど……“我々にとって“外”とは日の出島国の事ではなく、この街以外のすべてであるから”と、どうして外国語であるのかとかつてお尋ねした時の言葉の意味は、未だにわたくしにはわかりかねますわ」  ……間違いない。  これはきっと演技なんかじゃないし──そもそも俺を“最初の参拝客”と呼んでこんな話を始めた彼女に、隠さなきゃいけない理由があったかどうか。  透舞さんは結界の影響下にある。  この街に住まう皆が当たり前に受けている影響を当たり前に受けている。  だから俺は言った。 「そして、詮索するつもりもない……って事だよね」  どうしてその名をつけたのか、彼女はその想いを知っているから。  それが家族の願いなのだと、彼女は理解しているから。 「わたくし、透舞家の娘ですから」  そう言って当たり前のように微笑んだ透舞さんが、眩しかった。  ……でも。  透舞さんの話から考えると、彼女が生まれた──ないし名付けられた時には、もう透舞家がその役目を終える事は決まっていた、という事になるな。  隠されていたこの神社が開放されたのはつい最近の出来事のようだから、実際に役目を終えたのはそれくらいとしても───  ……“覚悟”。  いったいどういう意味なんだろう。 「……先日、明日宿家のご当主もご挨拶にいらっしゃいました」 「明日宿家!?」  ──傘姉の家だ。  閉ざされたこの街で、こんな珍しい苗字の家がそうあるとも思えない。 「かの御家もまた、この街に深く根差した古き家系。  透舞家が『透明の巫女』である事を捨て去ると子供の頃から聞かされていたとはいえ、実際にお役目を終えたのが今この時期であるという事……それに合わせた明日宿家ご当主のご来訪。  確かに、何かが起こっている……あるいは、起ころうとしているのかもしれませんわね」 「その明日宿家のご当主って人は、いったい何をしに?」 「…………」 「あ、いや。不躾かもしれないけど」 「手を合わせていかれました」 「……は?」 「“透舞神社の祭神があの御家である間に”と、そうおっしゃられて」  眷族の一員として、宗家が祀られている神社に──って事だろうか。  でも、なんか……。 「いったい明日宿家っていうのは、どういう家柄なんだ?」 「わたくしは、皆様もご存知の範囲でしか存じ上げませんわよ?」 「それでもいいんだ。教えてもらえないかな?」 「……そうですわね。明日宿家とは、唯井家所縁の御家柄と伺っております」  それは、メメの言葉からも察する事ができた事柄だった。  ご宗家の─── 「唯井家とは、この街の中心的な役割を遥かなる昔より担ってきた御家柄です。  ですから、その根は深く広い。傘下……という申し上げ方もあまり宜しくはございませんが、事実だけに触れるとするならば、唯井家傘下の御家柄というのは、この街の至るところにございます」 「明日宿家もその一つ?」 「そういう事なのでしょうね。どの家がそうであったとしても、別におかしくはございません。唯井家とはそれほどの御家柄なのです」  まさしく神として祀られていた神社が目の前にあるのだから。 「唯井家と肩を並べる事ができたのは、歴史上でも此芽お姉様の御家──桜守姫家だけです」  この街を二分する、二つの名家。 「一つの領地に王は二人もいらない……か」  故にこそ、互い相食む。 「王……? まあ、そういう認識でも別段間違いではございませんわね。けれど、王が王として在るのは、少なくとも何らかの“理由”があるからだとは思われません?」 「え?」 「王は生まれた時から王ですが、それは、その先代が王であったからです。その前も、その前も──では、いったい、いつから王は王であったのでしょうか?」  ──炎の向こうに透けた、一つの歴史。 「この街を……」  ──『彼』から── 「救っ……て、それで、英雄として祀り上げられて……それから、やがて豪族として力を持って……」 「そのようなお話がございますわね。ですが、それは唯井家が豪族として力を持つに至った経緯──あるいは発端でしょう。  長い歴史の中ならば、他にも有力な力を持つに至った豪族が沢山あったとは思われません?  その中からただ一家、唯井家のみが『王』とまで認識されるに至った理由は?」 「それは……」 「そしてそれこそが、明日宿家が歴史に初めて登場する瞬間となります」  ──見上げた虚が爆ぜた夜明け。  幾層も積み重なった漆黒の雲が夜空に溶け込むように広がった。  星明りがなければ、灯火が消えていく現象が伴わなければ、誰もその事を気にもかけなかっただろう──それほど自然に、まるでそれはそこにあって当たり前とでも言いたげに。  そして、それは一瞬の事だった。  すぐに朝日は昇り、茜色の陽が射すと共に雲は霧散していった。 「いったい……何が?」 「それは存じ上げません。ただ、この日より唯井家はこの街の事実上の頂点に立った──と、そう神話は語っておりますわね」 「……神話?」 「ええ。ただ、これはこの神社に隠された類いの代物ではなく、童話に姿を変えてこの街で流布されておりますわ」 「童話……って、まさか」  この街で童話と口にすれば、思いつくものは一つしかない。 「『よくばり魔王』……」 「ええ。わたくしは先程も申し上げました通りの立場にありますから、神話そのものは存じ上げませんが……あの童話がこの神社の祭神について触れられた神話を元にしている、という事だけは存じております」  唯井家の神話──つまり、唯井家の歴史、という事か。  どの程度その歴史について触れられているのか、いったいどの部分の歴史なのかはわからないけれど、『よくばり魔王』が唯井家の歴史について語られたものだとしたら─── 「唯井家がこの街の『王』として認識されるようになってから、この街では夜に星が見える事はなくなった、と」  透舞さんは気付いているのだろうか?  きっと、その日からそれは“当たり前”になったんだ。  誰も「おかしい」とは思わず、それがこの街の常識の一つとなった。  星空が見えない、けれど雲の層の向こうには星空があると知っているから、皆は「見える事のなくなってしまった星空」を望んだ。  隠されれば誰もが気になる。  見えなくなれば誰もが見たくなる。  星空が消えた日。  ──その瞬間から、この街の人たちにとって星空は宝物となった──  天文委員としての彼女が、雲掃いに必死だった事を思い出す。  確かに彼女は、それ以上の事は知らないのだろう。  ──いや。 「きっと何かがあったのだろう」と、それを知っていれば誰もが思う疑問を抱えながらも、彼女は真摯に照陽菜に挑んだんだ。 「……なんですの? じっと見つめて……」 「あ、い、いや……」 「でも、それが明日宿家とどう……」 「その日、唯井家が襲撃される事件があったそうですわ」  ──“気付いた”人たちがいたんだ。 「おかしい」と思える人たちがいたんだ。  それが明日宿家? 「明日宿家による反乱、と、そう伝わっておりますわ」 「反乱……って事は、明日宿家はそれより以前から唯井家に仕えていた、って事か」 「詳しくは存じ上げませんが」  そして、この事件により桜守姫家は返り咲いたとも言われているそうだ。  明日宿家の反乱には桜守姫家も加担し、共に唯井家を討ち滅ぼそうとしたのだと。  その結果、かつて『彼』がこの地を恐怖で震撼させた当時のように──今度は土地に根差した、一つの“家”として発展を遂げるきっかけをつかんだのだと。 「明日宿の御家もまた、この山のどこかにあると聞いております」 「えっ? じゃあ……」  やっぱりあれは傘姉─── 「見かけた事はございませんけれどね。あれはあれで色々と仕掛けが施されているとも聞きますし」 「え?」 「この山一帯の何処か──ですわよ。それ以上の事は、わたくしは」  そう言って、透舞さんは首を振った。 「さて、御伽噺が少し脱線してしまいましたわ。ところで……先程から気になっていたのですが、貴方、お参りはしていかれませんの?」 「えっ? あ、そ、そうだな」  といっても、もうこの神社は─── 「この神社はきっと、たった今生まれたのですわ。神様を頼りに訪れになる方あってこその社ならば、最初の参拝者がいらっしゃったその瞬間こそが、この神社の生誕です。お好きなようにお参りされると宜しいですわ」 「…………」 「ふふっ。神社の定義が間違っておりますかしらね?」 「いや……それでいいと思うよ」  思わず言葉が出ないほど、俺はこの少女に巫女としての存在感を感じていた。 「でも、透舞さん。それだったら、俺を最初の参拝者として数えるのは止めてくれ」 「まあ。どうしてですの?」 「俺は神様を頼りにやってきたわけじゃない。だから次に訪れる人の為に、本当にこの神社を必要としている人の為に取っておいてくれ」 「では、貴方はいったい何をなさりにここへ?」 「俺は、人を捜してる間に迷い込んで」 「それでしたら、頭の中はその方の事でいっぱいだったのですわね。その方はご友人?」 「えっ……」  ──一瞬、虚を突かれて。 「そ……そう、だけど」 「あらあら。そういう事ですの。  ──決めましたわ。わたくし、ここを失せ物にご利益がある神社といたします。  これまで“隠す”為の神社だったのですから、わたくしより始まる神社は“失せ物が見つかる”ご利益がある神社としますの」 「透舞さん……」 「だって貴方、ここを訪れるまでの間、その方の事ばかり考えていらっしゃったのでしょう? 頭の中はその方の事でいっぱいだったのでしょう?」 「そ、それは……」 「だとすれば、これも何かの縁、と、神社に仕える者ならばこう申し上げるのがお決まりの台詞というところでしょうか?」 「…………」 「ふふっ。ついでに恋愛成就の神社ともしておきましょうか?」 「と、透舞さん……」 「さて──お帰りはあちらですわ」  と、透舞さんは鳥居がある方向を指差した。 「真っ直ぐにお進みなさいませ。脇道に逸れず、振り返らず、ただ前を向かれて。  この神社は、この神社を目指して進む者は真っ直ぐに辿り着き──そして、この神社に願いを残して立ち去る者に帰る道を指し示す。  霧が消えようともそれは変わらない。  けれどもこれからは、迷える者も招き入れるでしょう」 「…………」 「迷える者が迷い込み、神様の前で悩みを打ち明けたのですから、お帰りは迷わずに歩かれなさいませね」 「わかったよ」  俺は透舞さんにお礼を言うと、踵を返して神社を後にした。  ──と、俺は数歩進んだところで立ち止まり、 「……一つだけ訊いていいかな」  振り返って、彼女に尋ねた。 「なんですの?」 「君はどうして、桜守姫さんを尊敬しているんだい?」  こういった歴史のある透舞家に生まれたのなら、彼女にとってふたみとは特別視しなければならない──まさに神の一族であったはず。  にも関わらず、彼女が慕っているのは桜守姫さんだ。  唯井家とは歴史的にも根深い確執があり、学園では──仲が悪いのとは違うけれど、何かと衝突の対象となる相手だ。 「ですから、わたくしはのんですのよ。この家の娘としてわたくしに望まれる事にはお応えして差し上げたいですけれど──だから家柄に縛られる、とは違いますわ。  わたくしは自分で選びましたの。お姉様と出逢った時、わたくしが、わたくし自身の心で、あの方のようになりたい、と思いましたの。  ──ねえ? これっておかしな事ですの?」 「いや」  きっと俺は、その言葉が聞きたかったのだろう。 「ありがとう、透舞さん」 「たいした事はしておりませんわ。わたくしは、この──地域に密着した神社の巫女として、参拝にこられた方にこの街のお話をして差し上げただけです」  その言い方に、透舞さんらしさと──それから、『最初の巫女』としての決意めいたものを感じて、俺は彼女に悪いと思いつつも微笑んでしまった。 「なっ、なんですのっ!?」  ──やっぱり怒られた。 「いや、ごめん。でもさ、話してて思ったんだけど、やっぱり透舞さんはすごいと思うよ。前に桜守姫さんのようになりたいって言ってたけど、俺、桜守姫さんと話してるような気分になったもの」 「なっ……なっ」 「じゃ俺、行くよ。本当にありがとうな、透舞さん」  俺は今度こそ、この神社を後にした。 「なっ……なんですのよぅ……」  ──風が吹く。  熱を巻き込み、この街に点る火を巻き上げて、この街を包み込む業火と化す。 「…………」  風の息吹は、誰にも止められない。  ──さあ踊りだせ、魔人ども。  ──大気に撒き散らされる吐息量は飽和の頂を飛び越え、すでに常軌を逸した領域にまで達していた。  断続だった吐息は恒久的な継続に。  二酸化炭素の大盤振る舞いは、これまた常の域ではない速度で走る鼓動という名の太鼓の音頭で祭りと化す。  ──自分は誰だ?  そう己に問いかける。  息切れを隠せもせず、苦しみを抱えながら走り続ける自身を省みる。  吾こそは、ご宗家大門守護の任を仰せつかってきた一族の末裔。  積み重ねし年月は年経れど未だ衰えを見せぬ大樹の如く、背負いし責務は肩を抜くほどに重量を増せども輝きを失わぬ黄金の如く。  それこそが矜持。  一歩たりとも譲れぬ自負。  ──だというのに、自分は何をしている?  この不甲斐なき様。  己が今、いったい何をしているのかと振り返れば。  逃げたのか? (私は……午卯たるこの私が、無様に敗走しているというのか?)  敗ける事は恥ではない。  己より力量の勝る者に屈服させられる事は、その手に鏃を持つ者の常である。  それを恐れる者は、命を懸ける事の意味を根本から誤って覚えているのだと承知している。  ──だが、自分は今、逃げているのだ。  敗走ではない。  敗北の辛酸を舐めながらではない。  自分は戦ってすらいないのだから。  ただ恐怖に駆られ、怯えを隠せもせず、息も絶え絶えに背中を向けて逃げ出した。  己の命を惜しむなどという真似を望んだ覚えはない。  与えられた任務に殉じる事は誉れでこそあれ、例え如何なる命令も降りていない時であれ、御家を背負った身なればこそ、またご宗家に属する身なればこそ、その家紋に泥を塗るような真似だけは許されない。  己自身が全身全霊をかけて赦せない。  だというのに。  身体が拒否した。  その場に在る事を全身全霊を以って拒否した。  ただ、あれと、目を合わせただけ。  ──それだけなのに! 「おおおおおおおっ!!」  引き千切れるまで唇を噛んで、その丸太のような脚を大地に穿った。 「吾が……名は……」  踏み締め、根を張るまでに筋肉を緊縮し、逃走する自身を一撃の下に踏み殺す。 「吾が名は茂一! 午卯が茂一である!!」  振り向き様に叫んだ。  声帯引き千切れるまでに吠えた。  この身を震撼させる恐怖を打ち消す為に。  己の矜持を取り戻す為に。  ──嗚呼、三日月が嗤っている。  どれほど疾駆しようとも、あれは背中に張り付いたかの如く距離を保つ亡霊だ。  今代、かの守護四家より宗家に差し出されたそれぞれの『雄』は、その誰もが近代最強と謳われた逸材揃い。  これほどの才覚が一同に会するなど、これまでのいかなる時代にもなかったとさえ称えられた。  運命なのだと信じる者もいた。 “最期”であればこそ、守護四家はそれぞれの役割を全うするべく、この時代にこそ血脈においてもてる力のすべてを出し尽くしたのだと。  ならば今代の『雄』こそは、凝縮された血の桶の底に溜まった最も濃い部分を具現化したものであろう。  だが、三日月は嗤っているのだ。 「御主……は、私を……」  ──“雑魚”だと。  午卯の『雄』たる無双を、“雑魚”だと嗤うのだ!! 「おっ、おおお! おおおおおおお!!」  だが、彼は知っている。  彼ほどの兵だからこそ、その肌で理解してしまう。  そこのそれの笑みが事実なのだと。 「──勝負、で、ある……!」  そう口にした午卯茂一は、恐らくこの瞬間、すでに死んでいた。 「あんた……は」  見覚えがあった。  鮮血に染まったその男の引き締まった顔は、かつてふたみと共に山道を登った時の記憶と重なった。  あの山の頂に座していた門の向こうで出会った、寡黙な偉丈夫。 「確か、茂一……とか」  ふたみにそう呼ばれていた。  透舞神社の帰り道。  俺は、地面に倒れ伏すその男と出逢った。 「ぐ……はっ」  割れた色眼鏡の向こうで僅かに開かれた瞳に力はなく。 「な、なんなんだよ……おい! あんた、しっかりしろよ!!」 「……む……ぅ、どなた……か、存ぜぬ……が」  その瞳は目の前にいる俺の姿を映し出してはいない。 「無礼を……承知で、どうか、お頼み……申す」  なんだよ。  なんなんだよ、これ。  地に転がる細長い兇器。  血まみれで倒れる屈強の偉丈夫。 「明日宿家……が、動き始めた……と」  ──明日宿家? 「どう……か、御大……に……」 「お、おい! あんた! おい!!」  明日宿って──傘姉の家の事だろ?  どうしてここにその姓が出てくるんだよ!? 「おい! しっかりしろよ!!」  揺さぶってみたところで、すでに事切れているのだと素人目にもわかった。 「おいっ!!」  反乱だとか造反だとか、そんな言葉が頭の中で渦巻いていて。  霧の中の神社で聴いた話がぐるぐると回っていて。  ただ、くるくると。 「…………」 「あっ……あんた」  その姿にも見覚えがあった。  そいつもまた、あの時、ふたみの実家に行った時に見た─── 「菊乃……丸」  そいつは黙ったまま近付いてくると、 「…………」  事切れた丈夫の亡骸と、それから、転がった槍のようなものを手にして。  ──自身もまた血で染まっていきながら。  ただの一言も発する事なく、その場を後にした。 〜ラベル『Ask』の内容は記述されていません〜  ──どうして起き上がる事も満足にできないほどまで寝込んだのかはわからない。  頭だけは澄んでいるのに身体が鉛のように重く、関節は油を注す事を忘れ続けた機械製品のようにぎくしゃくと──確かに色々な事態が重なって、心労なんてご大層なものが俺の内にも溜まってはいたんだろう。  それでも、三日も寝たきりに近い状態が続くのは、自分で自分の身体の調子を疑うには充分だった。  本当なら、今日も、明日も、見つかるまでずっと、学園へ登校しなくなった傘姉の家を捜すつもりでいた。  見つけたらどうする──なんてつもりじゃなかったんだけど、あの広大な山の中から彼女の家を見つける事ができるのなら、もしも見つける事ができたのなら、その時、きっと答えの断片でも見つかるような気がして。  考える時間だけは充分あるのに、まるで満足な行動に起こせない日々。  獄中の人はこんな気持ちなのだろうか──なんてどうでもいい事まで考え始めた三日目の昼過ぎ、俺はようやくいつもの調子を取り戻した。 (……忘れよう)  そして結論付けた。  どうしてか遭遇してしまった、日常からかけ離れた事態。  何の前触れもなく、唐突すぎるほど唐突に出逢ってしまった断末の光景。  あの鮮やかな色彩が俺の目に焼きついて─── (忘れるんだ)  今、俺がしなければいけない事だけを考えればいい。  そうだ。  俺は、傘姉を捜さないといけないんだから───  そして夕刻。  今度は日が暮れない内にと、熟した橙の実の色に染められた空が雲の層に覆われる前には山を下りた。  明日こそはと透舞の神社がある山を振り向き、背を向けて帰路を辿る。 「臭イガスル」  ──やけに酷い吃音が、黄昏が終わりを告げた世界の暗がりに跳ねた。  跳ねた蛙は水溜りから水溜りへと渡る。  夕闇が零れ落ちて生まれた陰から陰へ、夜へと向かって流れ込む時が一帯を黒き海となしていく様に領土の広がりを感じながら。  陰溜まりを渡る蛙に気配はない。  ただ、耳障りな鳴き声が居場所も告げずに響き渡るだけだ。 「ゲ、ゲ……明日宿、ダナ」  暗色へ沈んでいく巨像に、蛙がまとわりつく。 「何者だ」  誰何する声は、対して豪。  吐息一つが烈風に等しく。 「オレ、オマエノ臭イ、追ッテキタ。明日宿ノ臭イ、追ッテキタ」 「それは初耳だな。我が身よりそのような香りが放たれていようとは」  生じた苦笑。 「後学の為に聴かせてはくれんか。“明日宿の臭い”とは如何なるものか」 「オレ、口、上手クナイ。“臭イ”トシカ言イヨウナイ」 「……そうか」  黙した豪と、伝えられぬ蛙。  ──その一瞬で。  剣呑の粒子が大気に混ざる。 「オマエ、ガ、犯人」 「何の事だ?」 「午卯ノ『雄』、殺サレタ。桜守姫ノ仕業、違ウ」 「……ほう」 「死体、臭イ、シタ。明日宿ノ臭イ、シタ。午卯ノ茂一ヲ殺レルノ、ソウイナイ。アイツモ『雄』。オマエ、強イ。犯人、明日宿」 「…………」 「コノ街デモットモ強イ、明日宿ノ臭イ」  ──跳ねると消えるは同義。  陰溜まりより跳ねた漆黒の蛙の動きとは即ちそれに他ならなかった。  凝視していたところで視界から外れた事さえも気付かぬ。  故に横を擦り抜けた事さえ──背後に回り込まれてさえも。  背にした影の形は寸分も変わらず、けれどそこに異形の息吹だけが宿っている。  跳ねた蛙が休息に選んだ池から飛び出すは、水飛沫。  その水が昏き粒子なら、それは光沢さえも知らずに育った影絵でしかない。  黄昏の隙間から差し込む僅かな灯火さえも反射しない歪な小刀が──鋼の家主の死角から襲いかかる!  首筋に突き刺さった一刀。 「……『酉丑』か」  が、当の本人は突き刺さったまま意にも介さず、一閃が生じた方向に首を傾けた。  そうして、いつの間にか指先に刺さっていた小さな棘を弾くかのように、無造作に小刀を引き抜いた。 「ふむ……塗るならもう少し強力な毒でないといかんな」  馬鹿を言え、と、その毒を開発した者は思うであろう。  それならばいったい、何百人殺せるだけ凝縮した毒を用いればよいのだ、と。  お前の体内に取り込まれた毒素量は──と言いかけ、そして無駄だと知っては口を噤むであろう。 「貴様らの専門であろう。酉丑家といえば、かの一族子飼いの──」 「違ウ。コレ報復。ゴ当主、コノ事、知ラナイ」  変わらず声は闇の奥底に篭るのみ。  すでに別の陰溜まりに跳ねたのであろう、その姿は杳として知れず。  ──それが陰溜まりを渡る蛙ならば。 「……当主の命が下ったのではないのか?」  その豪は、毒を吸う鉄だ。 「オレ、幽閉サレテタ。勝手。ゴ当主ノ命令ナイノニ、役ニ立テルト思ッテ桜守姫ノ奴、殺シタ。沢山殺シタ。  駄目。オレ、危険、ラシイ。閉ジ込メラレタ。報復ト殺戮ハ違ウ、言ワレタ」 「その貴様が、何故ここにいる?」 「ワカラナイ。“来ルベキ時”ガ近付イテイルカラ、ラシイ。ゴ当主、オレ出シテクレタ。ソレカラ、イッパイ説明シテクレタ。ケド、オレ、ヨクワカラナカッタ。オレバカ」  木々のさざめきさえもない真空の夜更けに、抑揚の激しい音だけが溶け込んでいく。 「オレ、ゴ当主ノオ役ニ立チタイ。喜ンデホシイ。コレ、報復。茂一ノ仇。ゴ当主、喜ブ」 「…………」 「オレ、強サシカナイ」  蛙は跳ねるもの。  陰を欲し、沈むもの。  溜まり場から溜まり場への歩行が始まる。  影溜まりを跳ぶ音には焦げた音色が混じる。  ──なんだ、これ。  俺は思わず立ち尽くしていた。  俺が感じたのは、この辺り一帯の空気の澱み。  俺が見たのは、首筋に黒い折り紙が張り付いた大男の背中と、どこからか風に運ばれてきたのであろうその折り紙を取り除こうとした大男が首から引き抜いたものが奇妙な形をしたナイフのようなものだった事と、それを事も無げに投げ捨てた事と───  大男以外の、滑らかでない声。 (誰か……他に誰かいるのか?)  時折、大男のものだとは思えない声が聞こえる。  けれどそれは静寂に溶け込むかのようで──いや、そんな綺麗なものじゃなくて、夜闇を文字の形に切り抜いたよれよれの影絵を他人の背中に貼り付けては会話をしているつもりになっているかのようで。  しかし、そのつもりの主はどこにもいない。 「ふむ……」  いつの間にその手にあったのか、巨漢の手には先端鋭き鈍色の短刀が幾重にも握られていた。  数枚の刃が、男の丸太の如き腕が振り上げられると共に虚空に消える───  ぷつり、と夜空に垂れ下がったのは送電線。 「む……」  そして彼は、並木のように立ち並ぶ電柱の、他との繋がりを失ったその一つに腕を回すと─── 「むんっ!!」  へし折ったそれを小脇に軽々と抱えて、ゆっくりと向き直った。 (先……生……?)  だから俺が見たのは、コンクリートで固められているはずの電柱を小石を拾うような気安さでへし折った巨漢と─── (先生……だよな、あれ……)  ──それから、街頭の届かない暗がりが放射状に広がった事。 「むうっ!!」  ……なんなんだ。 「なんなんだよ、いったいよおっ!!」  ──目を背ける事も。  後ろを向いて逃げ出す事もできず。  目の前の怪異に、俺はただただ絶叫を上げていた。  ──このような場に居合わせてしまった、哀れな目撃者の叫び声が轟いた時。  異なる世界に住まう二つが交差した。  まさしく刹那の間隙を縫う、閃光すらも後から追いつくかのような──否。  刹那と数える事さえ正しかったかどうか。  くいん、と。  それは天へ向かって真っ直ぐに伸びた塔が、まるで超常の不可思議に包まれて真横へと引っ張られていく──崩れた映像のように。  確かにそこにあった存在が、瞬きの間に大気の海に掻き消える。 「む……」  視界の中に捉えていない事は疑いない。  右か左か、動いた先の予測さえもつかない。  これが“移動”というのならば、通常の概念はこの場には介在しない。  これは“消失”というのだ─── 「オマエ、オレニ勝テナイ」  ただ声だけが場に揺れる。 「……言ってくれる」 「オレ、コレシカナイカラ。戦イ、負ケナイ」 「ム」  それは迎撃であった。  影を渡り闇を泳ぐ酉丑の蛙には、速力で敵う事も──それどころか追いつくなどと望む事も許されない。  だが白き巨漢は間合いに入った攻撃のすべてに対応した。  8メートルにも及ぶコンクリートの塊をまるで小刀でも扱うかのように軽々と振り回しながら、喪服の暗殺者が繰り出す無数の閃光を打ち返していた。  その場から一歩も動く事はなく。  狙われているのがあくまで己でしかないのなら、相手に合わせて動く必要などない。  ただ待ち受ければいい。  そしてその矛先のすべてを打ち落とせばいい───  そう言わんばかりに鉄の障壁を敷くそれは、完全なる白き盾。 「速度の世界を制する相手に、わざわざ追いつこうなどと不毛にも程がある。  要は反応できればいいのだ。同じ土俵で競い合う必要などない」  耐える事もなく触れる事も叶わぬが、まごうことなき“盾”。  そして─── 「むんっ!!」  無限に連鎖するかと思われた攻撃が止んだ、ほんの一瞬の静寂をつかまえるかのように。  影を踏み潰すかの如き一撃を大地に撃ち立てた。  ……が、無論、轢き蛙の死体はない。 「貴様は疾駆い。が、軽い」  四散した影へ向けて、苦味を浮かべる。 「常よりも重い、が、我よりも軽い。“一撃”で我を出し抜こうなどと考えるな。如何なる得物であっても、常ならざる領域の上乗せでもなければ、我が豪腕を上回る事能わず。  速いから強いなどという計算式は必ずしも成り立たない」  闇は声を発さず、ただ、さざめいた。 「我が一閃──力で粉砕できずば、この囲みを突破できぬと知れ。ならば貴様の刃は届かぬ。  継承されし“武の証”が我が手から離れた時より、その場にある如何なるものであれ得物となすが我が試しとなった。  森林にあっては大木を、街中にあっては──」 「ゲ……」  薄く──それは、冷笑ったのだろうか? 「ソノ場ニアル如何ナルモノヲモ、ト、イウノハ、任務ヲ達成スルガ優先ノ暗殺、或イハ勝ツ事ガ至上デアル覇者ノ心得。  心ヲ磨グ武士ハ、魂ヲ一口ニノミ込メル」 「邪道とでも?」 「イヤ──オマエハ、吾ラ守護四家ノ中デモ、酉丑ニ近イ」  そしてまた夜に溶ける。 「近い……か。言ってくれたな。明日宿と殺人狂どもを並べて比べおった」 「ナラバドウスル?」  近くて遠い声だけが大気に運ばれ耳をかすめる。 「──貴様は吹き矢だ」 「ゲ……」  ならばこそ、愉悦は口の端から唾液として零れ落ちるほど。 「吹キ矢デ盾ハ貫ケヌ、ト。ゲ、ゲ、ゲゲゲッ」 「誇りを折る事、これ即ち万死に値する」 「見込ミヲ違エタト、オマエハ知ル」  ──だからそいつは、きっと、その辺り一帯の陰溜まりに初めから棲んでいたのだ。  昼日中は消え去ってしまうほどに薄く透けてしまうけれども。  黄昏の来訪と共に命を増やし、あの群雲の訪問と共に産み広がっていたのだ。  だからそいつは、ここの陰溜まりすべてを数えて初めて“一人”と呼べる。  星明りの届かないこの街では、家の明かりと街頭以外はすべて陰なれば───  不滅すら象徴するかの如き巨躯が初めて震えた。  明日宿は知る。  かの宗家を守るべくして在る四家の内、未寅は拳、申子は刀剣、午卯は長柄と──これは初めから隠されてもいなければ、隠す素振りすら見せた事もない。  彼らの本質はあくまで武家なれば。  それは誇るものであって隠匿するものではないからだ。  だが四の一、酉丑だけは趣が異なる。  彼らのそれが日の光を浴びぬこそ輝く飛び道具なれば。 「ゲ」  蛙の嗤いに鉄の戦慄。  ──次の瞬間、己が身を余すところなく鈍色よりもなお濃い切っ先が貫いている事を感じていた。 「…………」  が。  訪れるはずの未来の足音はいつまでも聞こえなかった。 「……ワカラナイ」  代わりに聞こえたのは、吐息さえも闇へと吸い込まれるかのような呟き。 「オマエ、強イ。確カニ、強イ……」  それは、考えた、という行為とはやや異なった。 「ケド、アイツハ逃ゲタ。午卯ノ茂一ガ……逃ゲタ。逃ゲテ、踏ミ止マリ、ソシテ……」  鋭敏に研ぎ澄まされた野性の感覚の領域において、腑に落ちなかった──そう表現するのが最も近かっただろうか。 「ソウ……カ」  息を呑むように呻いた。 「ソウイウ……コト、カ」  呟いた瞬間、陰溜まりは蛙の棲家ではなく、夜の一部へと変貌を遂げていた。  ──剣戟が始まる瞬間は唐突にして、静寂が訪れる刹那もまた唐突──  今まさに目の前で繰り広げられた常軌を逸した激闘などまるで夢だったかのように、ただそこにはどこにでもある街角の、何気ない光景だけが残されていた。  静かにたたずむその姿は、まるで大樹の如く。  見上げるほど雄大なその姿。  ……明日宿、と。  確かにそう言っていた。  俺はただの目撃者のはずだった。  二度も遭遇してしまった、運のない目撃者に過ぎないはずだった。 「貴方が……明日宿家のご当主だったんですね」  けれどその巨漢を前に、俺は何の疑問もなく問いかけていた。 「タツミの者か」  その呼び方が、俺の思いを肯定している。  いつもの彼の姿は、明日宿家当主としての彼の姿ではなく。  ただ、この街に生きる一人の市民としての偽装。  影に溶ける彼らならば。 「教えてください。いったい何が起こっているのか──いったい、何が起ころうとしているのか」 「…………」 「お願いします。教えてください。  明日宿家はいったい何をしようとしてるんですか?」  もしかしたら、それは、あの人に何か関係してるんじゃないかって。  勝手な思い込みかもしれないのに、嫌な予感が抑え切れなくて。  もしもそれが明日宿という御家でなければ、見て見ぬ振りが健全。 「それは当主が判断する事だ」 「だから貴方に尋ねているんです」  でも、どうしても譲れなくて。 「なるほど。貴様は一つ誤解をしているようだ」 「え?」 「確かに、そのような時期もあった……だが、我はもはや明日宿の当主ではない」  ──一瞬の間があった。  ……違う?  この人が当主じゃ……ない? 「今のこの我は明日宿の所有する一口に過ぎず。現在の当主は、我が娘───  たった七歳にしてこの我を打ち負かした、あの鬼才である」 「むす……め……?」 「然様、我より『傘』の名を継ぎし娘である」  ──たった七歳。  たった、七歳であったのだ───  父は娘と話す時、できるだけその目線に合わせる為、腰を屈めた事はあったが───  ──それよりも尚低い。  己が身が地に伏していた理由を、彼は理解しかねた。  彼は傲慢ではなかったが、明日宿の猛者どもをその豪腕で従えてきたという自負はあった。  明日宿の当主とは常にそうあるべき存在であったから。  三十歳にも満たない年齢で当主の座に就いた時、やれ天賦よ俊英よと騒がれたものだが──今となっては、そのすべてが虚無の中に置き去りにされたかのようだった。  それが前人未踏の記録というのならば、己が娘はいったい幾つであるというのか。  ──確かに、その才覚に感じ入るところはあった。  両の指を折りきるまでも満たぬ娘に、冗談交じりとはいえ真剣勝負を挑むなどと、他に理由はない。  あくまで腕試し。  才覚の片鱗を感じさせた実の娘が、いったいどれほどの才能を秘めているのか、実際に刃を交えて実感したかった。  だが──きっと彼は、その時点で気付くべきだったのだ。  応じた娘が真剣勝負の持つ意味の如何をすべて悟っていた事に。  全盛期より老いたとはいえ、父に衰えはなかった。  彼は歴代の当主を並べて腕を競い合わせたところでなんら劣るところのない、それどころか最後まで残る器である事を誰も疑わない実力者。  当主を継ぐ年齢の最年少記録保持者であった事実は伊達ではない。  そもそも、この一族は完全実力主義によって代々の当主を決定してきたのだから。  だから、それは純粋に。  限りなく純粋に。  ただ、その少女が強かったのだ、と。  あまりにも強すぎたのだという以外の答えを持ち合わせてはいなかった。  いったい、時間にしてどの程度だったのだろうか。  気付けば彼は地べたを舐めていた。  倒された事にすら気付けなかったのは油断故──そう思うしかなかった。  その他にいったいどう思えばよかった?  だが、これで終わり。  ──終わりだったのだ。  腕試しをされていたのが自分の方だと悟った瞬間に。  彼は地に伏していた。  捻じ伏せられたのではなく、今度は己の意思で。  恭順の意を示していた。  ──この日、彼が当主であった時代は終わりを告げた。  そしてたった七歳であった娘が当主を継いだ。 『傘』の御名を、受け継いだのだ。  ──墨を浸した夜の闇に、赤黒い塊が跳ねる。 「オマエ、スゴイ」  塊は枝葉に安らぎを求める小鳥のように、その少女にほど近い薄闇のいずれかを仮宿とした。  先刻、激闘が繰り広げられた場所にほど近く、されど遠く。 「オマエ、明日宿ノ臭イシナイ。コンナ奴ハ初メテダ。明日宿ナノニ明日宿ノ臭イ消シテル。  ──デモ、明日宿」  少女はその塊に気付いていた。  けれど振り向く事さえせず、構わず歩を進めた。 「臭イシナイ、ケド、完全ジャナイ。時間カカル、ケド、注意シテ辿レバワカル。犯人、アイツジャナカッタ。オレ、間違エタ」 「…………」 「オマエ、キット、明日宿ノ当主」  その一言に、ようやく少女は口を開いた。 「……わかるのですか」 「腕、痺レテキタ。脚、痙攣シテル」  ──今代の酉丑の『雄』といえば、強さの領域において比類なき存在だ。  その彼が今、身震いを隠せない。 「身体中ノ毛、逆立ッタ。オマエ、格、違ウ。桁違イ。  サッキノ奴、強イ。トテモ強イ。デモオマエ、モット強イ。トテモ比ベラレナイ」 「…………」 「ダカラ、報復、スル。午卯ノ茂一ヲ殺ッタノ、オマエ」  殺害の宣告を受けた少女が、ゆっくりと口を開く。 「わたしどもの理に抵触した存在へと近付くに、もっとも最短の距離を選んだはずですが……その上で尚、となれば、わたしどもが取るべき手段は一つしかありません」  ──そこに、否定の言葉はただの一つとして含まれていなかった。 「駆逐します」 「デキルカ」 「容易い」  ──静寂が収束する。  静かに、けれど確かに、何かに幕が降ろされる。  終わりは始まり。 「『暈の型』」  天に向けて掲げられた傘の和傘。 「『意』」  ……それは、ほんの少し目を離した瞬間にはいずこともなく失せていそうな。  ふとすれば、振り出したばかりの雨音にさえも掻き消されてしまいそうなほど、閑かな始まり。  ここに彼女を知る者が在れば、ある、不可思議な印象を抱くであろう。  この少女が和傘を持つ姿は見慣れたものなれど、開いているのは初めて見た、などと──改めて思い返すだろう。  ただそれだけの事だというのに胸の内にくすぶり続けるその奇異なる感触の正体に思いを馳せ、行き着くのは一つの結論。  それは、彼女が手に持つ差し傘をそんなふうに構えた時。  それが、とても当たり前で。  ごくごく自然で。  それはそう使われるべくして有るのだと──何故だか思ってしまった、という事。  天より雫が舞い降りた時、その手に遮りとなるものを持つのならば開いて当然だというのに。  陰溜まりを蛙が跳ねる。  影が透け闇に沈む彼の隠形は、十全の域に達している。  速度で捉えられないというだけの話ではない。  彼の気配は完全に死んでいるのだ。  黒き領域を渡っているのは霊。  息を殺すまでもなく呼吸を必要としない、操り糸で操作される骸の如く。  ──それは常の知覚領域を凌駕した速度に達する事を許された、棺桶に寝そべる側の住人。 「……ッ!」  彼が息を呑む事などあるはずがなかった。  その理由などこの世の何処にもあろうはずがなかった。  黒きしじまを渡る事を許された彼と同じ領域に立てる者など、あろうはずがない──先の明日宿家前当主のように、またこれまで相対してきた兵どものように、彼と対峙する時は「速度では敵わない」という前提の上にこそ対策を練るのが常であった。  そして、それ以外に戦術などないはずだったのだ。  だから訊きたかった。  全身全霊でこの問いをぶつけたかった。 「何故、オレヨリ先ニソコニイル!!」  あまりにも陳腐。  何の捻りもない、ただ率直で横暴な疑問。 「貴方を追いかけたからですよ」  何ら感慨もなく、少女の唇が言葉を象る。  ただ事実を述べただけのその音こそが、この世に存在するはずがない。  明日宿家前当主が口にした、あの言葉は真実。  速度の世界を制する相手に、わざわざ追いつこうなどと不毛にも程がある。  要は反応できればいいのだ。  同じ土俵で競い合う必要などない───  では、どうして“追いかけた”のにこの少女は自分の前にいる。  万に一──億に一、仮に追いつけたという前提でこの話を進めるとしよう。  だとしても、進む先にいる理由にはまるで結び付きはしないではないか。 「ッ……!」  ──再び蛙が跳ねる。  認めるわけにはいかない。  たった一つの単純な答えだが、それだけはどうあっても受け入れるわけにはいかない。  引き千切れるまでに消化器官を痛めつけてでも否定しなければならない。 「……!」  だが、結果は変わらず。  まるで既視感のように繰り返される光景。  ──どうすればいい。  認めなければならないのか。  受け入れなければならないのか?  己よりもこの少女の方が遥かに疾駆いのだ──と、その絶望を。 「ウガッ……ガガガガガガガ」  元より情緒不安定な男ではあったが、この時の彼は完全に取り乱していた。  速度の世界を制覇していた──それが当たり前だった──自分が、何の前触れもなく、あまりに唐突に玉座から蹴落とされたのだ。  腕力で劣るというのならばわかる。  各々の領域を極めた者にその途で届かぬというのならばわかる。  そしてそれらすべてを混ぜ合わせた先に“強さ”と呼ばれる尺度が生まれるのなら、その上で敗北を喫するという事もあろう。  ──だが、この次元で── 「……カ」  認めざるを得ないのだと、自制心が冷静さを取り戻させた。  何の為にここにいるのか、来たのか、その自問が彼を奮起させた。 (ゴ当……主……)  そうだ、すべては偉大なる御大の為にこそ。  その為にこそ山頂より駆けた己が、この程度で取り乱してどうする。  そもそも、あの午卯の茂一を容易く捻り潰した時点で、相手の強靭さは推して知るべしと己を戒めていたはずではないか。  死体の“臭い”から経緯を辿った時、どれほど一方的に惨殺されたか嗅ぎ解いていたはずではないか。 「今……矛を収めるのなら、この事は忘れましょう」  ──その、張り詰めた大気を。  凛とした声が震わせた。 「……ゲッ……」 「行きなさい」  その響きに曇りはなく、また微塵の震えさえも混じらない。  だからこそ。 「ゲッ……ゲゲ、ゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲ!!」  蓋から溢れ出すまでに込み上げる愉悦に心肝が捻じ切れるほどの笑みが零れる。 「ナルホド……コレデハ、午卯ノ茂一デハ追イツケナイ。  ……イヤ、逃ゲ切レナイ、カ」  ──水溜りが独りでに跳ねるように。 「……これが答えですか」  眉間へと吸い込まれた一閃が、傘の指の間に挟まっている。 「当タリ前ダ。オレ、オマエ、殺ス」 「そうですか」 「オマエモ、構エロ」 「わたしは“忘れましょう”と言ったのです。『暈の型』はすでに死合まっている。  ──とうに構えていますよ」  そう言って、傘は手にした和傘を横に薙ぎ払った。  強風に煽られた雨天の如く、裏返った傘布。  和傘の表面を覆う平紙を貼り付ける骨の幾つかから分かたれたそれは───  異形にして異端。  およそ正規とは真逆を往く、禍々しき凶の具現。 「『曝』」  飛び出すは幾重もの、そして幾層もの厚刃。  ──それは一口の異型の剣。  ──跳ねる陰溜まり。  尋常を一足で飛び越した疾さで暗き光が襲撃する。  それは明日宿家前当主が地に根を張るかのようにして迎撃した群れと、同数。  息を殺して大気を徘徊った異形。  薙ぐは一閃。  たった一振りで、無数の暗器はすべて叩き落とされていた。 「ゲゲ、格……違ウ」  今こそ、蛙は愉快の池に沈んでいた。  ──ならばこそ。  すべての陰溜まりは手を取り合うかのように同胞の証を示す。  次の瞬間に訪れる未来は、全身を貫かれた少女の惨殺死体。  ──先の戦いにおいて、放たれていれば明日宿家前当主の命を握り潰す結果を生んでいた業である。  だが、少女は黙したまま。  千億の鏃がただ殺意のみで己を睨みつけていると知りながら、微塵も表情を動かさなかった。  邪神を象った異形の如き形態を解き、傘が傘としてあるべき状態で開かれた時──その名を持つ少女が、柄を握り締めた。  合図もなく、節目も前触れもなく。  殺戮の業が宙を渡る。  大気を窒息させんと空間を埋め尽くす。 「『注』」  そして乗せた鞠を転がし戯れるかのように、彼女はそれを回転させただけ。  廻ったのは世界。  瞬間、大気を渡った刃は表面の平紙と同じ数だけ。  百への折り返しに程近き数の白刃が現世を旋回す。  廻る巷間に翻弄された、黒き殺意のすべては地に落ちる。  堕落を嗤い、ただ堕ちる。  ──骨だけとなった和傘に、先端の突起を覆う器具から次々と平紙が補充されていく。 「ゲゲ……タダノ一ツモ届カヌナド、知レタ……事」  わかりきっていた。  先の戦闘において、これによって明日宿家の前当主を仕留められるだけの実感は得ていた。  それだけで殺害に至れたかといえばそれほど易くはない相手であったが、しかしそれによって勝敗が決定した事は明らかであった。  ──だが、目の前の少女はあの剛の者と比べられるような対象ではない。  そもそも───  ──そもそも、それはいったい何だったのだろうか。  ようやく見つけた。  ようやく逢えた。  捜し続けてやっと巡り逢えたってのに、俺が遭っていたのは災害そのものだった。 「…………」  もう一度逢う事ができたら──言おうと決めていた事とか、謝ろうと思っていた事とか、大切だった事の何もかもが吹き飛んでいて。 「……え?」  誰に問いかけているのかもわからないまま、俺はその場に立ち尽くしていた。  だから俺には、それが、馬鹿の一つ覚えだったのかどうかもわからない。  効かない事がわかっているのに今更、なんて、そんな基準が俺の中にあったはずがない。  俺にわかった事といえば、暗がりから飛び出した腕が傘姉に向かって伸びたという事と───  それから、傘姉の頬に赤い線が生まれたという事。 「カワセ、マイ」  夜の帳に溶けた声が、どこからとも知れずに反響する。  次。  次。  瞬きを一つする度に、傘姉の身体に赤い線が一つずつ増えていく。 「スンデデカワシテイル、トイウ辺リハ流石ダガ」  調子外れの声にくぐもった愉悦が混じる。 「デハ今一度、先程ト同ジヨウニ飛ンデキタラドウナル」 「…………」 「『大気窒息』、全方位ハカワセマイ」  ──途端、周囲が一斉にざわめいた。  それは暗がりという暗がりが一斉に帯刀する音のようだった。  街外れだからこそ潜み広がる夜の闇は勿論、外套に絡みつく、錆の隙間に生まれたほんの小さな影さえも。  一帯の景色に点在する黒と黒に程近きすべての領域から剣呑がほとばしる。 「終ワリダ」  いったい何が起こっている!? 「ゲ……」  漏れる音は一つとしてない。  だが確かに、大気に息を呑む気配だけは混じった。 「あの家の者ならば、貴方も何かを焼けるのでしょう」 「見抜イタ……トデモ」 「“抗力”」  感慨のない呟きが、闇のどよめきをくびり殺しているかのようだった。  次の瞬間、傘姉が和傘を構える。  雨天の中で、カサの柄を持つ──それがどんなにか当たり前の光景だっただろう。  にも関わらず、肌がぴりぴりと、焼け焦げていくかのような感覚。  ふとした刹那に臓腑など握り潰されてしまうかのような圧迫。  くるり、と。  和傘は世界と共に廻っていた。  その気配を察知した時、暗がりもまた腕を伸ばしていた。 「……なるほど」 「焼いた灰を集める事ができる……けれど、それは掌いっぱいまででしかない」  黄金の火の粉が飛び散る中、和傘を差す少女が囁くように詠う。  その名を持つ少女が手にする骨組みに、先端から滑り落ちてきた刃が補充されていく。 「どうやら貯蓄量は一定──加えて、一定の時間が経過するとリセットされるようですね」 「……!」 「わかりやすい反応、どうもありがとうございます」 「ナッ……何故、何故ワカル!?」 「貴方の異能は、自身の抗力を焼く事による速度の上昇、またその際に焼いた灰をそのまま対象に被せる事ができるというもの。  ──もしも制限がないのであれば、日頃から貯蓄をしておけばいい。  それこそ、貯蓄した抗力のすべてをわたし自身へ加えて身動きすら叶わない抵抗下に置いてしまえばいい。  風にも左右されず自在に空を飛べる者が、水の中で溺れる者を啄ばむなど容易いでしょう?」 「…………」 「加えて言えば、先程から、貴方自身が動いた分がわたしの身体へ、貴方が放った暗器の分がわたしの放った──と、物体の形状、あるいは大きさといった、より近しい条件のものにしか加算されていない」 「ゲッ……ゲゲ、ゲゲゲゲゲッ。コレホドナノカ。コレホドマデノ存在ガ、コノ街ニ──」 「──では、速度を上げる事にしましょう」 「ハ?」 「『飛』」  陰りに鈍い光が突き刺さっていた。  目を凝らしても、例え近付いたところで見通す事のできない常闇の只中に研がれた鋼が突き刺さっていた。  ──あそこに誰かいるのか?  それだけだ。  俺が思った事は、ただそれだけ。  この場の出来事に取り残されていた俺は、そこに何があるのかという事すらわからないまま。  ただ、暗闇に突き刺さる苦無を見つめていた。 「…………」 “苦無”と、そう呼んでよかったのだろうか。  それにしてはあまりにも不恰好な、まるで刃のみしかないかのような、それ。 「苦しみも無く」という意味を持つ兇器。  ──“何”に突き刺さった?  ──“誰”に突き刺さった?  腹部に苦無が突き刺さっていた。 「ナンダ……コ……」  目で追う事すら叶わなかった、どころか。  感じ取る事すらもできなかった。 「……エ?」  気付けば再び、今度は左肩に苦無が生えている。 「ジョウダ……」  今度は右肩。  右腕。  左脚。 「ハッ…………エ?」  気付けば針鼠。  笑うしかなかった。  知覚できない。  己に宿りし異能である『抗躬』を使用できない。  銃弾降り注ぐ中ですら、そのすべてを知覚し抗力を焼く事も上乗せする事もできるはずの己が──“投げた”という事を察知する事もできない。  ……始まってもいなかった。  これは命のやり取りではなかった。  小手調べですらない。  そもそも。  あの明日宿家現当主は、闇の中に溶けているはずの自分の位置をいつから正確につかんでいたのか。  追いつけた、追い抜けた、というのは速度の世界での話だ。  隠形はいつから見破られていた。  ──初めから?  初めから、あれの前では隠形になってすらいなかった? 「やはり、“この領域に入ったものへ自動的に抗力を加算できる”といった、特殊な場を形成しているわけではないようですね。  貴方自身が知覚できたものに対して──ですか。なるほど、自身の練磨が必要となるわけです。  貴方の卓越の程は素晴らしい。互い刃の雨の中、そのすべてを知覚していたのですから。  ……けれど、“数”の対処はお見事ながら、“速度”に対する限界値は易い」 「ヤッ……スイ?」  ──あれが?  限界まで重量を削った銃弾と何ら変わらぬ速度の世界での打ち合いを、この女は今「遅い」と言ったのか? 「狭い」と。 「あんな程度で“世界”とは視野が狭いにも程がある」と? 「…………」  ……ああ、この気持ちは。  この感情は。 “恐怖”ですら、ない。  自身の移動にかかる抗力を限界まで削り、一心不乱に走り続けた。  遠く遠く遠く。  ただちにすぐさま即座に、あの場から離れなければならなかった。  ──オレは誰だよ。  臓腑を焼く自問。  オレは誰だ。  オレは誰だよ?  オレについてこれた奴なんかいない。  オレは隠形を極め、速度の世界を制した“溶けるもの”だ。  だからやりすぎて。  己の力を知らしめる為に桜守姫家の連中に手を出しすぎて、危険だからとご当主に幽閉された。  オレはやり方が上手くない。  オレは茂一のように、厳格ながらも無骨な意地と貫く姿勢で周囲の信頼を得る事はできない。  オレは菊乃丸のように、不敵ながらも気さくに面倒見よく周囲の和を取り持つ事はできない。  オレは愛々々のように、反抗的ながらも純真な眼差しと態度で周囲に愛される事はできない。  オレは力を知らしめる。  オレには力しかないから。  オレは他の四家が出してくる『雄』よりも、強い事でしか役に立てない。  偉大なるご当主のお役には立てない。  あの場から踵を返して、およそ一分ほども経過しただろうか。  先んじて動き出した彼からすれば、充分な距離を引き離しただろう。  後から追いかけてきたところで、逃げた方向も、道も、一切の手がかりとなる痕跡は残していない。  ──追いつける道理など何もない。 「ハッ……」  込み上げた。 「ハハハッ……」  己が安堵している事に気付いたからだ。  逃げ切った、と、心底から安心を覚えていたからだ。  何という事だろう。 「逃げ切った」と、己が人心地ついた場所は公園。  あの鬼とも魔とも区別のつかぬ、常ならざる世界で生きてきた彼をして更なる異界からやってきたと身震いする事しかできなかった存在が、少しでも攻撃を仕掛け辛い場所をと選んでいた。  深夜の公園に人通りはなかったが──問題は、そんな事ではない。  そんなものに頼った逃げ場所を選んでいた、という事。  ──その時、ようやく。  ようやく、今この時になって彼──酉丑の『雄』は理解した。  アレは敵などではなかった、と。  アレは災厄だ。  人間などとは間違っても思ってはいけない。  斃すとか斃さないとか、殺すとか殺さないなどといった次元ではない。  アレは自然の災害と同じ。  台風が直撃するのならば家に閉じこもってやり過ごさねばならない。  津波が発生するのならばできるだけ高い場所に避難しなければならない。  ──吾々は「生き残る」事だけを考えなければならない。  午卯である自負と宗家に仕えているという責任の塊である茂一をして逃げ出した理由が、今になってよくわかった。  逃げ出すくらいならば、その場で腹を切って詫びると言い出しかねないあの男──そう、それも、「逃げ出した」と自覚していればこそ、だ。  自覚するまでもなく逃げ出していた。  気付いた時には恐れおののいて逃げ出し──“避難”していたのだ。 「オレ、ハ……」  ──助かったのだ、と、そう感じるのが自然なのだと。 「ハハ、ハハハ……」  駆けよう、あの山岳の頂へ。  なすべき事はそこにあるのだから。 「ゴ当主……」  酉丑の『雄』は、己の居場所へと駆け出した─── 「もしかすると……」 「逃げてるつもり……だったんですか……?」  追いつくまでにかかった時間は、秒針が二十回転もする間。  跳ねた瞬間に消えた二人の行方を辿れたのは、奇蹟に近かった。 「傘……姉……」  地を染めた鮮血。  転がった肉塊。  それは、虫を捻り潰すようにして殺されていた。 「『余』」  そう言って傘姉が和傘を閉じた時、それがこの闘争の終わりを告げていた。  俺は見ていた。  一部始終を余さず見ていた。  けれど、我が目が映し出した光景を受け入れる事はできなかった。  どうしても、できなかった。  ──したくなかった!! 「傘姉、どうして……」 「…………」 「傘っ……ねえ……」 「……どうして?」  思わず口から零れてしまった俺の言葉に振り向いた傘姉の表情からは、何ら感情らしい感情が読み取れなかった。 「それは、どうしてこんな事をするのか、という意味?」 「…………」  やはりその表情の意味を図りきれず、俺は思わず押し黙った。 「その“こんな事”は、わたしの一族がずっと懐にしまい込んで大切に温めてきたもの」  ──“一族”という言葉が、腹の奥にずしりと響いた。 「わたしは明日宿の当主として、一族の本懐を遂げなければならないの」  俺はこの時、彼女を捜して辿り着いた山奥の神社を思い出していた。  濃密というほど濃厚な、一切の隙間さえも覆い隠してしまうほどの水滴の中に鎮座していた荘厳な聖。  隠され続けてきた透舞の神秘。  それは霧の向こうにぼやけて霞む──表に出てきたとはいえ、姿を晒したとはいえ、やはり遠く果てしない存在で、ふと気付けば威圧に押し潰されそうで。  目と鼻の先にあるのに霧の向こう。  ……目の前の傘姉が、どうしてか俺にはそう感じられた。 「……明日宿はね、歴史の闇に溶けてきたんだよ」 「え?」  いつもの傘姉とは違う──その無機質な響きが俺を戸惑わせる。 「知りたいんでしょ?」 「きっ……聞きたくねえよ!!」  思わず叫んでいたのは──きっと、明日宿家の事が知りたくなかったからじゃない。 「そうなの?」  聞いてしまったら、何かに頷いてしまうような気がして。  目の前の傘姉を認めてしまって、俺の知っている傘姉を否定してしまうような気がして。 「聞き……たく、ねえよ……」  腹の底から搾り出す声は、最後の吐息が擦れていた。  ──緋に染め上げられた路面を見つめていた。  それが。  誰が引き起こした出来事なのか。  誰が取った行為の結果なのか。  誰が───  真っ赤になっていく視界がまざまざと思い知らせる。  人を一人、殺………………………………。  ……考えないようにしている俺がいる。  この目で捉えた出来事を全力で否定しようとしている俺がいる。  これがもしも、抜け出せないほどにこじれた人間関係の結末だとか、追い込まれた末の衝動的な犯行だとか、そういった類いのものであれば、俺は傘姉の側で物を考える事もできただろう。  だがこれは違う。  唐突に目の前に投げ出された現実は、俺の住んでいる世界とは異なる領域に棲む理で。  それでも味方でいられるとか、庇おうとか、警察に突き出そうとか、そういった次元ではなく──殺し、殺される事が暗黙に潜む、物語めいた世界の出来事で。  質の悪い夢なんだって、ありきたりの言葉を必死で並べて。  ちょっとした誤解なんだって、都合のいい考えを反芻するように繰り返して。  その気持ちを少しでもホンモノにしたくて、顔を上げると。  傘姉の眼差しが、表情が、姿が、そのすべて、一切合切が現実を突き付ける。  俺のニセモノの眼鏡を粉々に粉砕する。  ……嗚呼。  遠いんだな、と。  その気持ちが胸の奥に浮かび上がった時、俺はきっと膝をついていたんだ。 「お……」  呟きはきっと、“屈した”という事に他ならず。  ざらつく舌がやけに不愉快で。 「教えて……くれ。明日宿家の……事」  それでもすがろうとする俺の気持ちの在り処は、俺自身にもわからなくて。  ──アナタハダレナノデスカ?  そう思い込む事ができれば、どれほど楽だっただろう。  でも、それができないからこそ俺は今ここにいるんだろう。  通りすがりにも傍観者にもなれずに、膝をついてこの少女を見上げているんだろう。  ……吐き気がするほどの鮮血のなかで、叫ぶ事も狂う事もできずに、正常でいれてしまえるのだろう。 「──『病める舌の願い』こそが明日宿の骨。けれどそれは、骨であり肉であり血であり、素肌であり顔でもある」  耳にした事もない異国語に触れているかのように、彼女が発する言葉が聴覚を刺激しては通り抜けていく。 「わたしどもは着飾らず、着飾る理由もない。素肌を隠す為の服なのか、着飾る為の服なのか──ならばわたしどもに衣服の持ち合わせなどない」  けれどその言葉は、聞き慣れた声で形作られていて。 「何故ならわたしどもにとって、それは隠すべきものではないから」  この街には、唯井家と桜守姫家という名家がある。  互い相食む宿怨の家系。 「だから、それ故に辿った経緯を隠す事もない。わたしどもは何も隠さない。秘匿も隠蔽も異なる世界の理。あえて声高に叫ぶ事ではないけれど、知りたいのならばすべて伝える」  けれど、もう一つあった。  それは互いの鼻先まで近付けあって睨み合う両家の影に隠れて見えなかっただけで。  いや──明日宿家そのものが、歴史の表舞台に出る事を好まなかっただけだ。  唯井家の傘下などという認識そのものが誤りだった。  明日宿家の存在はあまりにも知られていない。  恐らくは唯井家の眷族であろうメメですら正確に把握していなかったどころか、誤解さえしていた。  明日宿家は体面というものにまるで頓着しない。  誤解を解くどころか、誤認をそのまま放置した。  利用できる要素であったからではない、「どうでもよかった」のだ。  かつて俺が抱えた自棄の気持ちからではなく、彼らは自分らの志にさえ忠実であれば、世間にどう思われようと構わなかったのだ。  明日宿家とは一言で語ってしまえば、“守護者”であった。  守護者の称号を持つ家は明日宿家だけではない。  他でもない──この街に君臨する“王”である唯井家だ。  唯井家とは、もともと英雄という位置づけから始まった。  それが“何”であったのかの真偽はともかく───  ただ一つの真実は、この街──里──の人々にとって災厄として認識されていた脅威から、皆を救済したという事実。  人々が畏れた闇を切り裂いた英雄は守護者と祭り上げられ。  そして祭り上げられた守護者は、やがて王道を闊歩する。  ──それが如実に形になった瞬間こそが。  王が王として有る為の旗が掲げられた日。  それは、透舞さんに聞いた邦家樹立の宣言。  俺の考えが正しければ、その時からこの街は唯井家の領土と化し──設えられた玉座に、然るべき形で座るべき者が必要となったんだ。  守護者は政の中心として権力と結びつき権威を持ち、民草を見下ろす役目を担った。  だがその裏で、文字通りの“守護者”として在り続けた者たちがいた。  日の当たる場所へと出た唯井家とは背を向けるように、けれど決して歩む道が異なるわけではなかった。  唯井家が表の道からこの街の秩序を保つのならば、自分たちは裏の道からとでも言うように。  けれどそれは、決して“唯井家の”協力者ではない。  だから唯井家と表裏一体の関係なのかというと、それは即座に否定される。  あくまで利害が一致しているというだけであり、目的が合一しているという状態であるのならば協力はやぶさかではないという事でしかない。  唯井家だからではない。  そして。  唯井家である必要もない。  何故なら、唯井家はこの街の守護者であったが、明日宿家は己が理に基づいた守護者だったからだ。  だからこそ、傘姉の──明日宿家の当主である彼女の態度から感じた、これだけは間違いないという事は、彼女たちは唯井家を特別視もしていなければ何ら必要としてもいない、という事。  明日宿家はあくまで明日宿家としてあり、唯井家の後押しも──恐らくは対比となる桜守姫家に対しても、何ら関連性を持たない。  個々として独立した御家であり、唯井家と桜守姫家との確執にも関わらない中立の存在なのだろう。  この街の歴史上、幾度としてあったであろう両家の衝突には何らかの形で絡んできた、けれどそれは怨恨に育つようなものではなく、あくまで明日宿家の方針と抵触する場合にのみ接触を持つからこそ“確執”としては絡まない。  一時的に恨みを買う事はあっても後に引く形にならないのは、それをしたところで明日宿家には何ら利益らしい利益などなかったからだろう。  彼らは権力にも領土にも絡まない。  この街で行われているのは、あくまで唯井家と桜守姫家との対立。  それがこの街の支配権を賭けたという類いのものであれば、明日宿家がこうも透明に浮き彫りとなる理由もわかる───  彼らは状況次第で敵方にも味方にもなり得るのだ。 “空明市の守護者”ではない彼らは、場合によっては街すらも敵に回すだろう。  そこには優勢な側に付くといった将来的な打算もなく、あくまで彼らの背骨を流れる理に反するか否かであり、引き入れようとして味方になる存在でもない。  打算のない彼らに、いったい何を条件として交渉するというのか。  これは三者が睨み合う鼎立ではない。  鼎の足は二本しかなく、そのままでは椅子が倒れてしまうからこそ互いは中央に巨木として居座る為に相食むが──明日宿家は初めから“別の椅子”なのだ。  彼らは歴史の闇に好んで溶け込んだのではない。  それは彼らにとってあまりにもどうでもいい事だった──誤解も吹聴もすべてどこ吹く風で毅然と前だけを見つめていたら、結果的にそうなった、というだけで。  ……じゃあ、彼らにとっての方針とは何だ?  守護──それはわかってるが、「秩序を保つ」という意味でなら唯井家となるだろう、「新たな秩序を打ち立てる」という意味でなら桜守姫家となるだろう。  彼らにとっての明確な指針はいったいどこにあるんだ?  そこまで聴いて、考えて。 「傘姉」  俺が知りたかった事は、確かめたかった事は、きっと。 「ん?」  きっと、たった一つきりだったんだと思う。 「傘姉はもう、あの家に帰ってきてはくれないのかな?」 「え?」  その時、彼女はどれほど呆気に取られた顔をしていただろう─── 「……さっくん?」  その呼び名に、俺は心底安堵しながら。 「帰ってきてもらえないのは仕方ないと思う。  けど、俺は帰ってきてほしい」  自分の想いを彼女に伝えた。 「…………」 「あの家が、傘姉にとって帰る場所であってほしい」  いや──違うだろ? 「俺は、傘姉と一緒にいたいんだ」  それが本心。  曇り硝子の向こう側には映らない、嘘偽りのない心。 「…………」 「でもね、さっくん。もう始まっちゃったよ」  ──俺がこの人の手を握った時と、同じ言葉が風に踊る。  今度は風よりも重く、踊る前に地面へと落ちて沈んで。  俺の掌から擦り抜けていく。  でも、何故だろう。  俺にはその言葉が、まったく違った意味に聞こえたんだ。  ──始まった──  あの時は、この街で起こり始めている何かに関して。  だから自分はもうここにはいられないのだと。  どうして「いられない」のかまだ俺にはわかっていないけれど、でも俺はその言葉を恐れて、取り返しのつかない事になってしまうって、気付けば彼女の手を握り締めていた。  ……だから“今”がここにある。 「──ねえ」  朝日に照らされて、背伸びしたように長くなった影。 「ほんとうに、帰る家としてわたしをここへ迎えられる?」  門を前にして立ち止まった傘姉と、俺との、ほんの僅かな距離と同じだけの。  ……ほんの僅かな間が、そこにあった。 「………………当たり前です」 「…………」 「さあ、帰りましょう。傘姉」 「少し、歩こっか」 「え?」 「ね?」 「……傘姉?」  ──傘姉と二人、朝焼けの街を歩いていた。  夜の帳が引き上げられようとするなか、背中に伸びる影が照らされ広がっていく頃合。  ……こうしていること事態、すでに“普通”じゃないって事はわかってる。  あんな事があった直後に、こうして、朝焼けの歩道を一組の男女が歩いているという事。 「えっ……と」  何か話さないと、そう思って話題を探す俺は。 「あの、傘ね…………と、ですね」  目につくものの何でもいい、何か適当な話題はないかと辺りをきょろきょろと窺いながら。  けれどもどんな話題もとても白々しく、一往復したらすぐに終わってしまうと察しがついてしまって、途方に暮れる。 「あ、そ、そうだ」 「さっくん」 「あ……はい?」 「無理しない」 「俺は無理なんて……」 「してるでしょ?」 「…………」  してませんよ、という言葉が、どうしても喉を這い上がれずに胃の中に沈んでいった。  胃液で溶かされた想いが蒸気となって身体の内側に張り付いていく。  自分が今どんな顔をしているのか、考える余裕もないほど。  だから気の利かない俺は、それを見た傘姉がどんな気持ちになるのかなんて、まるで考えもしないほど自分の事ばかりだったんだ。 「わたしは、あの家に行くべきじゃなかったんだね」  不意に呟いた一言。 「ううん。さっくんと出逢うべきじゃ……なかったんだね」 「傘姉……」 「後悔……してるよ」 「…………」  せっかく出逢えた事を後悔だなんて──そんな一般論も、綺麗事も、酸の海に沈んでいく。 「な、なんで……そんな事を言うんですか」  ──なんで?  察しがつかないほど間が抜けていたのなら、いられたのなら、まだ開き直る事もできたんだろう。  けれども何か言わなくちゃって、その言葉はとても哀しい事なんだって……そう考える俺は、やっぱり子供だったんだろうか。 「俺は、傘姉と逢えて……よかったって、そう思っています」 「…………」  ああ、ほら、そんな顔をさせてしまう。  俺は本当に自分の事ばかりだ。 「……すみません」  謝るくらいなら初めから言うな。  それでも食い下がらなくちゃいけないって気持ちが押し寄せる。  でないと、この人は……。 「……わたしはね、『約束』を……見たかったの」 「……約束?」  見たかっ……た?  その奇妙な言い回しが、思わず俺の足を止めていた。 「うん。この目で見届けたかった。だから、わたしはさっくんに逢いにいったの」 「……どういう事ですか?」 「…………」 「傘姉……」  それを答えないのは卑怯じゃありませんか、なんて、口に出せればこうはならなかったんだろうか。 「女の子はズルイよね?」  だからいつだって、彼女が先にフォローしてしまう。  相手の気持ちを無視して繋ぎ止めて、無茶な事を言って引っ掻き回して、迷惑だってわかってるくせに傍にいたがって。  そんな俺を、この人は、包み込んでしまう。  俺がもう少ししっかりしていれば、この人は“女の子”でいれるのかもしれない、なんて。  ……そんな欲張りな事を、考えていた。  別に、どこを目指して歩いていたわけでもない。  ただ、気付けば歩き慣れた道をなぞっていた。  方角が反対だったら、きっと、いつもの通学路を通って自然と学園へ向かっていただろう。  だから、たまたま歩き出した方角がこっちだったから───  ……そういえば。  彼女と初めて逢ったのは、この場所だった。  ……今はもう舞ってはいない、あの桃色の綿に敷き詰められたこの場所で。  同じ名を持つ雨の遮りを広げた彼女と、出逢ったんだ。 「なんだか懐かしいね」  いつだって、俺の考えてる事なんか彼女の前では明け透けで。 「そんな昔の事ってわけでもないのに。おかしいね」  彼女も同じ想いでいてくれた、なんて、無邪気に喜んでいる自分を発見すると、彼女との差が浮き彫りになる。 「そうですね」  どうして俺は、こんなにも不注意なんだろう。  どうして俺は、彼女の気持ちを考える余裕を持てないんだろう。  ここへ足を運べば、思い出す人物なんて一人しかいないっていうのに。 「すみません」  謝ってばかりの俺は、ただその場でじたばたともがいてるだけの。  ……引っくり返った虫。 「さっくん、そんなに後ろ向きだったっけかな」 「え?」 「わたしの知ってるさっくんは、もっと男らしいぞ」 「…………」 「ほら、しゃんとしなさい?」  ……どうして、貴女は、そんなにも。 「これってデートですよね」  結局、俺は開き直るしかないんだ。 「え?」 「デートです」  今すぐにこの人との差を埋められるはずなんかない。  考えれば考えるほど、貴女は遠くの存在で。  でも、見苦しくも食いすがって、どれだけみっともなくても追いすがって。  それで今、貴女がここにいてくれるのなら、俺は気の利かない子供なりに貴女に少しでも近付けるように、もがくしかないじゃないか。  今こうしている事そのものが、例え現実から逃避しているだけだとしても。 「何か欲しいものないですか?」 「欲しいもの?」 「はい。俺、なんでも買ってきますよ」  突然の言葉に、傘姉は面食らったような顔をしていたけれど──それでも「うーんと」と首を捻って考え始めてくれる。  それもきっと、俺は彼女に包み込まれているだけなんだって、わかっているけれど。  それでも俺は、ただ、精一杯になるしかない。 「綺麗な……もの」  やがて、ぽつりと、傘姉が呟いた。 「うん、綺麗なものが見たいかな」 「綺麗な……」 「うん」  どうしてそれなのか、そう勘繰ってしまった俺の脳裏に原色が広がる。  とても赤く、それでいて黒い原始の色が。  だから傘姉はやっぱり傘姉なんだって、俺の知っている傘姉なんだって、必死にすがり始める俺がいる。 「う、海とか!」 「ふふふ、この街じゃ海は見れないね」 「あ……」  発想が貧困な上、やっぱり気が利かない。  ……でも、そうか。  傘姉は─── 「お姉さんは何でも知ってるんだよ」  先に言われてしまい、俺はまたろくでもない表情を浮かべているんだろう。  やっぱりあれは現実なんだって。  でも、「綺麗なものが見たい」と言う傘姉がここにいるんだって思い込みたくて、俺は─── 「じゃ、じゃあ、星とか!」  何を言ってるんだ俺は。  それこそ─── 「…………」 「……さっくん?」 「ちょっと待ってください。確かここに──」  俺は慌ててポケットをまさぐった。  そうだ。  寝込んでる間、ふらふらと台所に向かった俺は、居間でこれを見つけて──もし逢えたら渡そうって思って、外出着のポケットに入れておいたんだ。 「こ、これ」  そうして俺は、上着のポケットから取り出したものを傘姉に見せる。 「……手鏡?」  唐突に服をまさぐり始めた俺にきょとんとしていた傘姉は、それを見せる俺にも、やはり同じ瞳をして見つめていた。 「っ……と、だから……」 「…………」  彼女は手渡された手鏡を、不思議そうな眼差しで見つめている。 「その……だ、だから……」  ……だから。  綺麗なものが見たいって言うから─── 「ふふふっ」  不意に、傘姉が笑みを零した。 「殺し文句ってやつだね」  無邪気に微笑む彼女にほっとしたり、照れくさかったり。  一瞬、俺の心を縛り付けていた鎖がほどけて、何を悩んでいたのかも忘れてしまうほどに。  ──どうか、この女性がいつまでもこの笑顔を絶やさないでいてくれますように。  そんな願いが湧き上がる。 「でもこれ、わたしのだった手鏡だよ」 「えっ? 傘姉の?」 「ふたちゃん、前から欲しがってたんだ。その装飾が気に入ったみたいでね。だか……」 「え?」 「…………」  ──だから、置いていこうと。  そう言いかけ、傘姉が言葉を呑み込んだ事がわかった。  それはきっと、あの日、俺が手をつかんで引き止めた時よりも前の事だろうから。  彼女は、あの家には変わらずふたみがいるって。  それを当たり前の事だと思って、置いておいたのだろうから。 「すみません」  結局、俺は謝っている。  やる事なす事からまわり。 「ううん」  けれど傘姉は、そう言って。 「下手な殺し文句だね〜」  なんて、ちょっとだけ拗ねた顔を見せて。  そして彼女は、 「ありがとう」  と言って、笑ってくれた。  今しかないって、そう思った。  それが彼女のあたたかさの上に気付かれたものだってわかっていても。 「傘姉は……」  ──次の言葉が喉を焼く。 「さっき、帰る家として迎えられるのか、と訊きましたね」 「……うん」 「じゃあ……」  ──次の言葉は肺を焼く。 「…………」  息苦しくなって、けれど、搾り出すように俺は声を出した。 「傘姉は、何処へ帰るんですか?」 「…………」 「傘姉……」 「…………」 「教えてください!!」  沈黙の意味を計りきれずに、俺は傘姉の瞳を見つめていた。 「……さっくん」 「はい」 「わたしはわたしだったんだよ。ずっとずっとわたしだった」 「……え?」 「何も変わってないの。初めから、何一つ。さっくんが“変わった”んだって、“変わってしまった”んだって、思ってるだけ」 「それっ……て」 「わたしは明日宿の当主として、一族の本懐を遂げなければならない──初めから何も変わっていない」  続く言葉に、  ──あれが、“当主”として傘姉がやらなければならない事だっていうのなら。 「そんな……傘姉、それじゃ、家の為に自分を犠牲にするのか?」 「言ってる事がわからないよ。犠牲なんかどこにもない。  明日宿の当主であるわたしはこうあるのが当然であって、その為に何を捨てたわけでも何を引き換えにしたわけでもない」 「でも!!」 「積み重なった歴史。代々の当主は常にそうあった、そうあり続けてきた──わたしはそれを受け継いだ。これはわたしの責任。わたしは明日宿の当主なの」  ──巽の者として──  前を見つめてそう告げる傘姉の姿に、いつかの俺が重なった。  だけど、それは決して同一じゃない。  同一になんかしていいものじゃない。  挫折し、諦め、逃げるようにこの街へやってきた俺と──彼女が背負い続けてきたものの重さは、決して同じなんかじゃない。  だからその言葉は、ごく自然で、当たり前のものだったのだろう。  彼女からすれば、いつだって喉許から零れ落ちる、呼吸のようなものだったのだろう。  それでも俺は食い下がるしかないんだ。 「傘姉!!」 「──だからわたしは、殺さなければならない」  その宣言に狼狽しちゃいけなかったっていうのに。 「え……」 「唯井ふたみを殺さなければならない」 「さっ……!!」  動揺しないで叫ばなければいけなかったのに───  ──言いかけた瞬間、俺の意識はすでに白濁としていた。 「貴方はわたしどもの目的の弊害となるでしょう」 「……さ……ね……」 「貴方に選択の権利があった。警告は常にあった。その上で、となれば──これも一つの結末」 「…………さ…………」 「貴方は見届ける役目は担っていない。だから、“外”における新聞を見るように、ニュースを観るように、“すでに起こった事件”の顛末を受け取りなさい」 「蛙蟆龍の首級を夜空に掲げ、この仕組まれた街の最初の星としよう」 〜ラベル『病める舌の願い』の内容は記述されていません〜  ──痛みはなかった。  目覚めたその瞬間、俺はどれほど自然と眠りについたのかを思い知った。 「ん……」  そうして起きようとした瞬間に手足の自由が利かない事に気付いて、眠りにつく直前の出来事が脳裏に蘇る。 (傘姉……!)  当身で痛みを残すなどと技巧が練達していない事の証拠──だから何一つ後遺症のない身体は、和傘を広げた少女が創作したあの光景が夢などではなかったと痛烈に思い知らせていた。  けれど不自由のない身体が不自由という矛盾の答えは、動けば手足に食い込む縄の痛みが教えていた。  ここは巽の家。  踏み出せばすぐにでも玄関から出て行ける、出口にも入口にもなる部屋。  ──けれど柱に回した後ろ手を縛られ、ご丁寧に両の足まで縛られた状態では、俺以外の人間にとって出入り口となるだけの部屋だ。 (くそっ……!)  猿轡までされたら、もう完璧すぎて、じたばたと暴れるしかない。  傘姉は俺を「目的の妨げとなる」と言った。  つまり、彼女がこれから為そうとしている事は、俺にとって止めざるを得ない内容─── 「唯井ふたみを殺さなければならない」  冗談……だよな? 「んー! んー!」  冗談だとわかっているのに俺は必死で暴れている。  冗談でそんな事を口にできる人じゃないと知っているから。  それが本気でなければ、それがどういう意味なのかを理解していなければ、あんな事を口にできる人じゃないから。 「んんー! んんんー!」  どうして、と脳裏を駆け巡る疑問符。  明日宿という家の名と、当主という座に込められた重み。  まだ俺の中でそれはしっくりとしていなくて、理解しているとか納得しているとか、この段階で言うのは無責任すぎて、ただ一般的に言うような程度の──それと、まがりなりにも良家と呼ばれる部類の家で育った俺なりに、自分の家が世間的にどのような認識をされていたかとか、そうと知った上で当主ってものがどういうものか、やっぱり俺なりに理解していた、理解したつもりでいた巽家当主である白爺さんの責任の重さとか、そういうものがごちゃごちゃと渦巻いて。  だから、どうして、と駆け巡る。 (どうして、傘姉なんだ?)  それは言っても詮無き事。  ただ俺が知らなかっただけだ。  出逢った時から、出逢う前からずっとずっとそうであった事を俺が今日まで知らず、彼女にとっては殊更に伝える必要がなかったというだけの事だ。 (どうして、ふたみなんだ?)  それこそ悩んだところで答えが出るはずもない事だ。  明日宿家の当主がふたみを狙う理由なんて、俺にわかるはずがない。  俺が知っているのは、俺にとって彼女は大切な恩人で、この街では神として祀られるほどに高貴な一族の一人で─── 「…………」  ……案外、答えはその二つの中にあるのかもしれない。  俺がこうして縛られている理由。  そして“唯井ふたみ”が狙われる理由。  後者は答えと呼んでしまえるほどに明確なものではないけれど、唯井家の事を何も知らないに等しい俺が、今日まで知り得ないできた秘密がふたみにあったって何もおかしくはない。  ──だから、「どうして」と問いかけたいんだ。  どうして─── (……縄が……緩い)  これなら解ける。  目的の妨げになると思われた俺は、傘姉にとって邪魔者であるはずなのに。  あれほどの達人がこんな不手際を犯すとも考えられないのに。  ──どうして、縄はほどけてしまった?  いや、そもそも縄なんて使わなくても、目的を達するまで邪魔者を幽閉しておく手段も道具も幾らだって─── 「…………」  考えていたって仕方ない。  玄関から飛び出すと、俺は迷う事無く駆け出した。  ──行かなくちゃ。  傘姉はきっと───  ──その光景はどれほど異様だっただろう。  この街の頂と呼んで何の差し障りもない山岳の峰に鎮座ましますその屋敷を取り囲む塀の上、奇妙な影が揺らいでいた。  その事に気付く者があれば、ただ一瞬、口をあんぐりと開け立ち尽くす事になろう。  くるり、くるぅり。  境界の上に真紅の円が廻っている。  横へゆらり、横へゆらぁり。  誰かが回しているとするならば、柄を持つ姿もあろうはずだがその気配もなく。  瓦を踏むにも音はない。  狂り、狂ぅり。  真紅の円は深苦の和傘。  だからそれは、威嚇に相違なかった。  これからこの家で起こる事を知らしめる予言に他ならなかった。  発狂り、発狂ぅり。  朝焼けに溶け込むかのように宏大な敷地を一周した真紅は、ふっ、と宙を舞った。  悪戯な風にさらわれた紙飛行機のように軽々と空を泳ぐ和傘に着目すれば、ここで初めて、それが一対である事に気付く。  和傘が少女の腕であったのか、少女が和傘の身体であったのか。  まるで重みなどないかの如く風船のように長い時間をかけて気紛れに宙を漂った一対は、ようやく庭へと降り立つ。  ふわ、と、出来上がったのは傘を持った少女の影絵。  地表に薄い影を落として。  そしてその時、薄い影は無数の濃い影に囲まれていた。 「『深苦の令』……か」  手に手に得物を持つ屈強の武の者たちの奥から、比にならぬ偉容を身にまとった媼が姿を現す。 「久しい。実に。前に目にしたのは、最初の蛙蟆龍が天へと駆け上がったその日であったな」 「…………」 「もっとも、あの時に用いられたのは傘ではなかったが……ほっ、『傘』か、なるほど、なるほど……故にこそ『暈』か。『暈』を極める事で吾らへの示威となすか」  皺の刻まれた口許に揶揄が歪む。 「つくづく頑な。曲がる事も折れる事も知らぬ抜き身の刀で在り続けるのだな、明日宿は。  奸智を誇りとする薄汚い道化ばかりを相手にしておると、そちたちのような骨太が腹に響くわ」  大気はすでに凍りついたかのように、ただ、たたずむばかり。 「して、何の用向きかの」  この王城の玉座にまします皇は、白々しくも問いかける。 「蛙蟆龍を狩りに」 「──ほ」 「理由は申し上げるまでもないでしょう」 「ほ、ほほ、ほほほ……」  どれほど呑み込もうと望んだところで押し上げられるかのような愉悦が喉奥より零れる。  何たる不敵。  何たる豪胆。  この家の、この一族の、頂に座する領土に土足で侵入しながら、この少女は今容易く言ってのけた。  不滅の驍勇を歴史に刻む王国の軍勢に取り囲まれながら、何一つとして臆する事もなく。  この王にして、あれを少女と呼ぶ事、抵抗を感じずにはいられない。 「そちならばこそ解しておろう。蛙蟆龍は誰の為にも必要であるという事を」 「貴女ならばこそご理解していらっしゃるでしょう。それが明日宿にとって如何なる存在となるか」 「ほっ。吾らが蛙蟆龍を潰すとなれば、そちは──」 「世界を敵に回す、とでも?」 「……またしても言いおったわ、小娘が」  そう口にしたところで、当主はこの相手を小娘などとは微塵も思ってはいない。  それを信じる事ができるのなら、性善説すら鵜呑みにできる。 「貴女がたの願い、命懸けの渇望。その結果として、世界もまた救われる事となる。  ……けれどその視点で物事を捉える事そのものがわたしどもにとっては筋違いであるという事も、やはり貴女ならばこそご理解なされておりましょう。  ──わたしどもは明日宿。  貴女がたは王道を闊歩すればいい。  わたしどもは『病める舌の願い』を全うする」 「それは利己」  言いかけ、そして、 「……そう叫ぶ資格は吾らにはないか」  自嘲に口許の皺が増える。 「構いません。ただ、わたしどもの心には響かないというだけです」 「ほ──望むは灰燼か」 「いいえ」 「では、如何なる由を以って午卯と酉丑の『雄』を討ったか」 「午卯茂一は、貴女の一族の血の受け皿となった四家の一つとしての異能を駆使し、この屋敷の大門を守っていました」  円、四角、いかなる形も問わず、“内部”を形成している場であれば能力を発動する条件は完成する。 「あれこそは、彼が生きている限り続く不滅の守護の連鎖」  それは“内部”を“内部”たらしめる要素を確固たるものにする機能だ。 「午卯茂一の意思なくして門は開かず、それ故に彼は門番でありながら門前に座する必要がなかった」  閉塞されているからこその“内部”の定義を使用者の許可なく揺るがした者は焼失する。 「門を開く」「壁に穴を開ける」──「塀を乗り越える」事さえも。 「午卯は守護四家の一角として宗家大門守護をその任とされてきましたが、あれほど“門を守る”という役割をなすべくして生まれた異能者も今日までいなかったでしょう。  彼は門前に立つのではなく、閉ざされた門の向こうに隠れてしまう事で、何人の突破も不可能としてきた」  ただし、能力の範囲規模は限定される。 「彼の『塞塁』は、貴女がご自分の異能を駆使してこの街に仕掛けた有識結界に、ある点においてよく似ている。彼はこの敷地内を覆えば充分だったようですが」  傘は実に淡々と口にする。 「──故に」 「他行を狙うた、か」 「武人として相対するに相応しいと認めた時こそ、彼は門前に“門番”として長柄を構えるとか。気骨な方ですね」 「だった、という事になろうて……よう調べておるわ」 「酉丑の『雄』は独自の判断によって、あちらから仕掛けてきました。これを撃退するに理由は必要ないでしょう」 「獅子が蟻を踏み潰すに呵責は必要ないか」 「邪魔立てする者は排除します。ええ、そういう意味では呵責など必要ありません」 「呵責は内から湧き上がってくるものであって“必要とする”ものではないのだが」  また一つ、口許の皺が増える。 「──ねえさんよ」  まるで気紛れな風が吹き抜けたかのように。  腰に双刀を帯びた長身のその男は、唐突にその場へ姿を見せた。 「守護四家の一角、申子の方ですね。宗家の者の護衛をその任とされてきた、刀剣を修むる家系……今代の『雄』、菊乃丸」 「どうやら自己紹介はいらねえようだな」 「貴方の異能も言いましょうか」 「ハッ──あんたさっき、王道、って言ったよな。王道を闊歩すりゃいい、って。  だったらここには王がいるってこった。王がいれば当然、それを命懸けで守る連中もな」  飄々とした態度の向こう側、その瞳に揺らめく炎を傘は見逃しはしなかった。 「ウチの王様はちぃっと甘いところがあるからよ、こういうのは好まねえんだろうが───  あんたと目が合った瞬間、俺さ、死んだと思ったよ。ちらっとでも敵意を見せりゃ、ああ俺は次の瞬間には確実に殺されるんだなって。  一応俺、つえーわけよ。宗家の奴らを抜きにすりゃ……ま、ババアを例外とすりゃ今はお嬢だけになっちまうからアレだけどよ、上から数えた時、片手の指に入るワケ。  だからそういう基準なんだ、あんたは。規格外が相手となりゃよ、こっちも総掛かりなんてダセー判断を下さなきゃなんねえ」 「構いません」 「そうかい。後さぁ、一つ確認したいんだけどよ。あんたが茂一を殺った、で間違いねえんだよな?」 「その通りです」 「わかった。素直な返答ありがとよ」 「貴方の両足に真新しい傷があるのは、その為ですか」 「ああ、あんたが怖くて怖くて仕方ないらしくてよ。言う事聞かねーからちょいとな。  悪いけど俺、あんた殺すから。ぜってーブッ殺すから」 「ええ。邪魔をされるおつもりでしたら、是非そのつもりで挑む事を願います。  ──力の出し惜しみをしていては、貴方がたも亡くなる時に無念しか残らないでしょう」 「カッ」  菊乃丸は内から湧き上がる昂揚を抑えきれなかった。  自然、口許が笑みに沈む。  これが明日宿を統べる『傘』なのか──と。 「『意』」  ……門は開かれていた。  頭上を遥かに越してそびえる大門を抜け、俺は庭へと滑り込む。  そこで繰り広げられていたのは、この世の理から大きく外れた界での出来事。  俺はきっと、自分でも気付かない内に異世界へと迷い込んでいたんだ。 「『注』」  純白に装った少女が手にした得物をその場で回転させた時、骨の部分から飛び出した弾雨が真逆の色をまとった武家の者たちを貫き倒す。  庭といわず、屋敷内といわず、屋根といわず──この境界に舞い降りていたのは、華。  散華の世界。  易々と命が売られる散りゆく華の世界。  ……摘み取っているのは、俺が好きになった女の子。 「『曝』」  花を摘む見目麗しい令嬢が、強い日差しから肌を守る為に差した日傘を気紛れに横に払った──時、そこには異形の大剣が完成する。  一閃にして刈り取る命は片手の指では足りず。  ただ独り。  その傘一つ。  それぞれが武の道において一角の者であろうに、卓越も逸出もまるで関係ないとばかりに。  雑兵と。  兵士の形に切り抜いた紙の軍隊を相手にするかのように、明日宿が命を喰らう。  その鋭き視線の先に、この王城の頂点を見据えて───  ──跳ねた。  その時。  地より光の苔が生えた。 (あれは唯井家の門に描かれた──)  それが家紋の形をしていると気付いた時、王家の紋章は蒼白い光を放った。  大気に黒い粉が舞い上がった──そう見えた。 (テレ雪……?)  何故、そんなふうに思ってしまったのだろう。  舞い上がった黒き粉塵がその姿を取っていたのは、ほんの一瞬の事だった。 「────!」  その光が傘姉の身体を通り抜けた瞬間、鎖が彼女の身体を絡め取る。 「理の狩人よ」  地に伏した獣を嘲笑うかのように、人が己の持ち得る業を振りかざす。 「明日宿として、理から外れた吾らを狩るが道理なれば、吾らもまた明日宿の襲撃があって道理と心得ていたとは思わぬか?」 「……っ」 「なればこそ、罠の一つや二つ仕掛けてあろうよ」 「……さて、吾らに明日宿の理念を恨む筋合いはない。が、吾らはすでに同胞を討たれておるとなれば」  この始末は命以外の代物では贖えないのだと。  でなくばこの場を納得させる事はできないと、その厳粛な口調が俺に彼女こそがこの家の当主なのだと教えていた。  いつか対面した、ふたみのお祖母さん。  ──その御前にひざまずく独眼の美丈夫。 「頼む、ババア。俺にやらせてくれ」 「…………」 「頼むよ。こいつは茂一を殺った。あの野郎をよ、殺りやがったんだ」 「……よかろう、最後となる申子の『雄』よ。獅子の首はそちに取らせよう」 「ありがとうございます、ご当主様」  菊乃丸は深々と頭を下げると、当主の前で一度は腰に納めた双刀を再び引き抜き、傘姉へと向き直った。 「まっ、待て!!」  ──次に引き起こされるであろう出来事が脳裏をほんの僅かにかすめた時、俺は駆け出していた。 「お前! お前、何するつもっ!!」  叫びが途切れる。  俺の傍にいた男の一人が、鍛え上げられた屈強な腕で身動きを奪う。 「離せ! おい! あんた、やめろ! おいっ!!」 「すっこんでろよ、タツミ」  俺に一瞥もくれる事なく、菊乃丸は双刀をしならせ歩んでいく。 「……なあ」  地に伏す傘姉を睨めつけ、菊乃丸はどこか感情が欠落したかのような抑揚のない声を投げかけた。 「あいつは……茂一は、自慢の長っちょろい得物をあんたに向けたか?」 「…………」 「答える理由がないのはわかるけどよ、どうしても訊いておかなきゃなんねえ。頼むから教えてくんねーかな、ねえさん」 「硬糸の仕込がなされた矛の事ですか?」 「……ああ……そうか」  菊乃丸はその瞼をゆっくりと閉じると、何故だか納得したかように笑みを浮かべた。 「なら、恨み言をだらだらとくっちゃべるつもりはねえ。あいつは武人としてあんたに立ち向かって、笑っちまうぐらいボコボコにやられたんだろ。  戦の始まりはいつも唐突で、それに関して文句を言う武人なんざいねえ──一対一で、きっとあんたは真正面からあいつを殺りにかかって、だからあいつは武人として逝けたんだろ。  あいつは武家の者として、宗家の為に死ねたんだ。ありがとよ」  菊乃丸の穏やかな笑みが、この凍てついた空間に浮いていた。  ──違う。 「ホント……に、よ」  その声は震えていた。  彼は今、必死に堪えているだけなのだと振動する音が告げている。 「だから……って、納得はできねえ。できるわけがねえ。何一つ文句なんざねえよ……あんたがやった事は筋が通り過ぎてて、綺麗すぎて! だけど俺はあんたが赦せねえ……!!」 「なら、どうしますか」 「……“丸”ってのは、ウチが刀剣の家系だからだけどよ」  唐突に、菊乃丸は言い出した。 「“菊”ってのは、一年で一番終わりに咲く花って事でよ、漢名で“最後”ってー意味があるらしいぜ。  だから俺は“菊乃丸”。申子の者として、最後の最後までお役に立ちますようにってよ」 「この御家に関わる者は、皆燃えてしまうからですか?」 「……何でもご存知で」  その瞬間、菊乃丸が持つ双刀に異様な変化が起こった。 (……何だ?)  それは夏の熱射が起こす陽炎に似て。 (あいつの刀の周り……空気が歪んでる)  揺曳などという生易しい次元ではない歪曲は、濁っている、という表現こそが相応しい。  それはまるで。  ……まるで、刀自体が熱を持ったかのように。 「それが『煩悸』ですか」 「そーゆー“わたしは何でも知っていますよ”って態度はよ、俺みてぇな単純な奴を煽るだけだから気をつけた方がいいぜ?」 「ご忠告どうも」 「──あばよ」  鷲。  獰猛な猛禽の群れ。  ただ一つの地上の餌めがけ、一斉に襲いかかったかのように。  だが、その爪が刃ならば。  それは引き裂かれるのではなく切り刻まれる。  群れが飛び去った後に残るは──膾。  が。 「斬れねえ……だと?」 「いえ、斬れますよ。ただ焼く事も溶かす事もできなかっただけです。  ──貴方は、この家の従僕である事にこだわり過ぎたのです」  ゆらり、と、傘姉が立ち上がる。 「それを刀として振るえばよかった。激昂を思いの丈、わたしの首筋にあてがえばよかった。わたしも人間ですから、刃が触れれば肉は裂け、首を刎ねられれば死に至ります」  その凛とした威勢が知らしめていた。  彼女は初めから囚われてなどいなかったのだと。 「動いた? 動けた? 捕縛、叶わぬ……と? 馬鹿な……」  驚きに目を見張ったのは、双刀の使い手だけではなかった。 「そちらの神ですら、身に刻んだ数は十と八つ。明日宿の歴史においても最たる数は三つ──どれほどの俊英現れようと、片手の指を超えるはずもない。  如何なる組み合わせとて、ただそれだけであればこの綰を突破すること叶わぬ……この仕掛け、いったい何時から張ってあると思うか。呪詛は月日経ればこそ重なり増すものぞ」 「焼かれる覚悟もなく、この屋敷に足を踏み入れると思いますか」 「む……」 「炎の王者へ挑むに、焼き尽くされる程度の覚悟がないとでも思っていたのですか?」 「それは菊乃丸の異能が通じぬ理由にしかならぬ」 「何故わたしが『傘』であるのか、貴女はご存知なのでしょう?」 「────!」 「明日宿はね、とうの昔から宣言し続けてきたんですよ。代々の当主が『傘』を名乗るようになった時から。  となれば、静当主。貴女が如何に対明日宿用の仕掛けを施していたとして、その程度が足枷となるはずがないでしょう」 「そんなものが──」 「おわかりでしょう。『傘』の名の意味を理解したのなら。  わたしどもは貴女がたの行く末を見守る覚悟を決めていた。“その日”が訪れるまでは、この地に留まる事を決めていたのです。  蛙蟆龍とは本来、恵みをもたらす龍の意。貴女が用いた理由は恵みの招来という意味での合わせでしかなかったのでしょうが、雨は雨。  それを防ぐ為だけに『傘』はいたのですよ」 「ほほっ……ほほほっ。そうか……そういう事か。儂がそちの器を計り損ねたと。これまでの明日宿の白眉などと比べてはならぬと、そう言うか」  もはや笑うしかない。  これが笑わずにいられようかと言わんばかりに。 「蛙蟆龍の顕現を感じ取ったからこそ異才は誕生したのか。  対となる異才の誕生が蛙蟆龍を顕現させてしまったのか。  これが最後であると、すでに決められた道程をなぞるばかりとはいえ──詮無き事なれど、あえて言うなれば。  卵が先か、雛が先か。  因果が街を紅く染めような……」  ──なんだ。  なんなんだよ。  目の前で起きているこの出来事は何だ?  俺はいったい何を見ているんだ? 「なんなんだよ、いったい!!」  濃密な霧の一粒一粒に凝縮された刃がそのまま大気と化しているかのようなこの剣呑の空間で。  ちりちりと肌を焼くのは真夏の日光に非ず──暗がりから伸びた手に閨の世へと引きずり込まれるかのような肌寒き感覚。  皮膚が剥がされ、さらけ出された肉を棘がなでる。  ──息が詰まった。 「明日宿の始祖がこの地へと到ったのは、貴女がたがそうあったよりも遡る」  突き抜けるほど蒼い空の下、広がる冥き途を支配しているのは誰でもない。 「桜守姫の始祖が、貴女がたの言うところの“災厄”とやらをばら撒いたよりも遡る」  ──この少女だ。 「わたしどもの理たる『病める舌の願い』とは、その始祖が残した──」  ……そんなの。  そんなもの! 「そんなの、咒いでなくて何だっていうんだよ!!」  ──気付けば、俺は叫んでいた。 「『霰』」  呟いた傘姉が、手にした和傘を空へ高々と掲げ上げた。  ──あれは何だ。  それは剣山の如き。  和傘の表面を覆う平紙から生えてきたかのように群れをなす切っ先は、天に唾を吐くかのように。  よくぞこれだけというほど醜悪な姿形ばかりの不恰好な刀剣たちは、生まれてきた事を呪うかのように神を睨み上げる。  ───何故、創った─── 「やめろ! 傘姉、やめてくれ!」  武装した乙女はただ黙したまま、その奥義を完成させる。 「傘姉!!」  不信神者どもが一斉に跳ねる。  親を弑逆する為に。  自らを捏ねた創造の御手を一本でも削ぎ落とすべく。  吸い込まれるように虚空へと消えた無数の親不孝者。  ──そうして彼らは思い知らされる。  自分たちが生まれてきたのは、誰かを傷つける為だったのだと。  皮を剥ぎ肉を裂き血を浴び命を奪い、奥底の魂を砕く為だったのだと。  牙を剥いた子供たちを微笑って受け入れた親の懐の温かみに触れて。  だから、親の心を識った子供たちは。  今度は親の期待に応えるのだ。  それは。  親殺しになり損ねた者たちの行進。  ──雨が降っていた。  天空より襲来した軍勢とは逆に、天地を逆しまに地表からもまた雨が噴き出していた。  庭にいた者たちから噴き出す鮮血は、一帯を霧で包み込んでしまうほど。  悲鳴が飛び交うまでもなく、苦悶の声を上げるまでもなく、皆が唐突に物言わぬ肉塊と化した。  ……俺が運良く無傷だったのは、本当に幾重もの偶然に救われたとしか思えない。  ……そう……思いたかった。 (傘姉……)  五体満足だったのは俺だけだったのだ。  あの瞬間、彼女にほど近い距離にいたのは俺も含めて二十人余。  俺以外のすべてが撃ち抜かれた。  ──まるで針の穴に狙い済まして糸を通すかのように。  天空よりの凶弾は、彼女の狙い通りに寸分も違わず降り注いだのだ。  一人として負傷にのた打ち回る者がいないのが、その証拠。  全員がもはや言葉の必要とされない世界へと旅立った。 (傘……姉……)  これが『病める舌の願い』?  明日宿家は──明日宿家の当主である傘姉は、その為にこんな事をしなきゃならないっていうのか!?  ……ふざけるな。  ふざけんなよ!! 「じゃあ、傘姉の気持ちはどうなるんだ」  気付けば俺の呟きは。 「傘姉の心はどこにいっちゃうんだよ!!」  叫びとなって大気を跳ねていた。 「…………」 「さ……ん……姉……」 「…………」 「さ……」  どれほど精巧な出来栄えでも、一目ではわからぬ巧緻な技術の結晶でも。  如何に愛情を注いでも、名をつけ日々を共に過ごしても。  それでも話しかけた相手が人形では答えなど返ってはこないかのように。  ──俺の言葉など彼女には届かない。 「傘姉っ!!」  嗚呼。  ここの空気は、とても重い。  俺の声は重みに潰され、届く前に沈んでしまう。  その重みに耐えて飛び交える音は剣戟だけ。  だから、届く言葉はないままに、刈り取られた命だけが積み重なる。 「……わたしに、こころなど、いらない」 「えっ」  その呟きが耳に届いたのは、気紛れな風が起こしたほんの些細な悪戯だったのだろうか。 「傘姉……?」 「ここに立つは明日宿が現当主──『傘』の名を継ぐ者。  脚が折れてもわたしは立つ。  腕が折れてもわたしは討つ。  目が抉れてもわたしは捉える。  生きる事ができなくなっても、わたしは牙を剥く。  それがわたしの責任」 「それが本当に傘姉の望みなのかよ!?」 「望んだのは始祖」  俺の問いには、初めから答えが用意されていたのようだった。 「叶えるのは当主」  磨耗するほど繰り返し問いかけ続けてきたのは、他ならぬ傘姉であったのだろうか──擦り切れたその問いには、もはや隙間なく答えがはまり続けているのだろうか。  いまさら誰が問いかけたところで、覆すどころか振り返る事すらも叶わないほどに。 「そんな昔の! 遠い先祖が残した願いが何だっていうんだ!  それを叶えるのが当主の責任って──こんな事をしてまで果たさなきゃいけない当主の責任って何なんだよ!!」 「始祖は生きている」 「えっ」 「……この胸に」 「…………」 「始祖は死なない。明日宿が明日宿である限り生き続ける。今はわたしの中に、そして、明日宿に生まれた者すべての中に。  綿々と受け継がれてきたこの『願い』。  始祖からその子へ、その子へ、その子へ、その子へ……明日宿の血を継いできたご先祖たちは、皆わたしの中に生きている。  だからわたしは戦わなくてはならない。逃げ出す事は許されない」  ──あの日。  前当主をこの手で打ち負かした日から───  そして明日宿の意思を継ぐ長が。  唯井をしてこの街を統べる長と向かい合う。 「…………」  互い、言葉もなく。  見上げる者と見下ろす者とは対等で。  誰もがその一瞬、二人の動向を固唾を呑んで見守っていた。 「チッ……!」  即座に菊乃丸が唯井家当主を庇うかのように立ち塞がる。  ──その背に、押し殺した声が届く。 「退け、菊乃丸」 「できねえ」 「そちでは敵わぬ」 「んな事いちいち言われなくてもわかってんだよ、クソババアが」 「儂はもはやそちたちの当主ではない故、戻うてきたそちたちが思う通りに振舞う事を止める権利はないが……さりとて限界よな。ようもここまで屍を積み重ねた。  退いてくれぬか、菊乃丸。申子菊乃丸。  儂が焼く。  この静がそこのそれを塵芥に変えてやる」 「ババア……」  ──双刀の使い手が己の想いを押し殺すべく、血が伝うまで唇を噛んで退いた時。  再び、唯井家と明日宿家、両家の当主が向かい合う。  邪魔するものは最早なく。  ──否、誰一人として邪魔などできない。  後は互いの命を暖炉にくべ、どちらが先に拾い上げる事ができるかを競うばかり。 「純潔の炎と汚濁した水。この街を擦り抜け積もった砂は土」 「そして、深遠の闇……か?」 「この街に足りないのは、風と光」 「風とは、そも、望む望まざるとに関わらず、不躾に侵入される猫の如きもの。  なれば風はじきに吹き荒れるではないか。逆しまに連なりし隠世から、不遜にもこじ開けて闖入してくるではないか」 「なら、光は何処にありますか」 「光にはあの娘がなる」 「…………」 「その為にこそ、代々の蛙蟆龍たちは……」 「空明の里に降る骨が役目を終えたその亡骸ならば、生贄に捧げた一族に光となる事を許され……成仏もしましょうか」 「む?」 「いえ……」  微笑っ……た?  気のせいだったのだろうか。  一瞬、傘姉が口許に笑みを浮かべたように見えたんだけど、彼女の表情は露ほどの変化もない。 「光ではない──貴女がたは炎にしかなれない」 「炎はじきに消えてなくなる。なれば、土はもはや土として呼ばれる事はない。そして風もやがては止む。  残るは水。しかし腐った水のままなれば、いずれ見向きもされなくなろう。  であれば、在り続ける事叶うは光と闇のみ。光なくして闇はなく、闇なくして光はなく……なれば、そちたちの存在も歓迎しよう。  あの娘が照らす世で、明日宿は狩人となれ」 「そこまで理解しておきながら……」 「理解する事と受け入れる事は違う。  とはいえ。そちたち明日宿の存在あればこそ、吾が幻視、誠と信じざるを得なかったとも言えようが……」 「…………」 「……詮無きことか」  唯井家当主は苦笑するように呟くと、威圧という言葉など生温い瞳で傘姉を睨めつける。 「さあ、この地における最も古き一族の末裔よ。儂はそちを焼く」 「では、わたしは貴女の首を飛ばしましょう」 「応」  その時、縁の下に在る側に動きがあった。 「──ご当主様」  すっ……と、傘姉の傍らに現れた巨躯が、うやうやしくひざまずく。 「何ですか?」 「ここはどうか、この我に」 「これは襲撃に非ず、迫撃です。その上で、近衛は王への道を譲った。ここは当主が受けねば非礼となりましょう」  諭す口調には一辺の澱みもない。 「承知で申し上げます。どうか、ここは我に」 「……あえて父上と呼びましょう。過去、父上とあちらの当主との間に何があったのかは知りません。しかし、今はわたしが当主であれば──」 「私怨ではございません」 「では?」 「…………」 「…………」 「どうか」  僅かな間が生じた次に、傘姉は口を開いた。 「……いいでしょう。往きなさい」 「ありがとうございます」  その頭がもう一段、深く沈む。  立ち上がったその威容は在りし日を誇るかのように。  傘姉の意思に触れその結果を間近にした今だからこそ、彼女が当主である事を疑いもしないが──そうでなければ、やはりこの巨躯こそが当代の主であると誰の目にも映るであろう。  それは並外れて大きな身体を授かったからでも、そのすべてが余すところなく鋼にまで鍛え上げられているからでもない。  ──それを“器”と呼ぶのなら。  ただ一見、それだけでその大きさを感じさせるこの英姿こそが。 「…………」  互い黙したまま、塵として動きはない。  唯井家の当主がいつからその座にあるのかはわからないが、あの高齢だ。  恐らくはここ十年や二十年の話ではないだろう──とすると、傘姉が生まれる以前、この二人は互い唯井家と明日宿家の当主として肩を並べていたという事になる。  そこにどのような関係があったのかはわからない。  油断ならない関係であったのか、朋友としての交流があったのか。  双方動かぬ唇は、無言のまま語り合っているかのようにも見えた。  地に根を張る大樹の如きあの巨躯が、どれほど疾駆く動けるか──俺には確信を以って断言できる。  この目に焼きついた異形の闘争。  あの時は、あくまで対峙した者が沙汰の外の速度を叩き出す相手だったからこそ、速力の世界で勝負をしなかっただけだ。  その証拠に、彼はその場から一歩も動かずとも、相手の動きそのものには一歩たりとも遅れを取らなかったではないか。  追いつけなくとも、“見切れる”という事自体が───  ……ならばこそ、それは。  対峙した者の間合いが次の瞬間には殺されるものでなくてはならない。  ──鋭く突き出された刃金の指先が、唯井家当主の首筋へと届く──  大気を震撼させた轟音。  目前で炸裂したその閃光に、瞼を閉じたその一瞬──何が起こったのかわからないまま。  ただ驚愕するばかりの俺の開かれた視界を、人間らしきものの五体が散り散りになって浮遊していった。 「……なるほどのう」  ぽつり、と唯井家の当主が呟く。 「あやつ、この仕掛けに気付いておった……故にこそ跳び込んだか。  この婆に害意を持って攻撃を仕掛ける者は、それが拳であろうが刃であろうが超常の矛先であろうが種わい問わず、肌に触れた刹那にて爆殺さるる……昔、己が生まれ持った稀有の異能を以って儂にこのような“盾”を贈ってくれた、一族の者があった。  解除の術はただ一つ──“盾がその機能を果たす”事。  即ち誰か一人は死なねばならぬという事であるが……逆に言えば、ただ一度きりの絶対なる防禦。  吾が身は常に代々の申子一族が守ってきた故、これまでこの身まで殺意が届いた事はあらなんだが……」  唯井家当主は肉片と化して飛び散った明日宿家前当主を見下ろしながら、一つ吐息を零した。 「……最後は人の親として己が娘を守り、か。首だけになってまで満足そうな表情を浮かべおって……家督を奪われたのも道理、娘ほどに鉄面皮は保てなんだか」 「…………」 「実の父が目の前で己を庇って死んだというに、眉一つ動かさぬか。ほっほ……なるほど、これは儂の早合点だったやもしれぬ。  仕掛けに気付いた父が娘を守ったのではなく、犠牲が必要と悟った娘が父を生贄に差し出したか?」 「…………」 「ほっ……どちらでも構わぬ。ともあれ、これで存分に吾が身へ鋼を打ち込めよう。事ここに至っては、吾が力を振るうに何の躊躇いもあろうはずがない。  ──明日宿の鬼才よ。この静がお相手仕ろう」 「ヒト」  それはあまりに唐突だったのに。  その一言は何故だか、染み渡るようにこの場の大気へ溶け込んだ。 「いつだってヒトはヒトだった。  どれほど頭を垂れても供物を捧げても、神は何もしてくれない。偶像は祈りを捧げる拠り所であって、願いを記した短尺を吊り下げる笹の葉にはならない。  いつだってヒトはヒトの力で生き残ってきた。種を存続させてきた。  どれほどの災厄に巻き込まれようとも」 「…………」 「鬼がいた。妖怪がいた。悪魔がいた。  何時だっていい、何処だっていい。  けれどそれを討ち倒してきたのは、ヒト。  ヒトはヒトの力で生き残る。  ヒトの力で為せぬのであれば、ヒトは滅びるしかない。  そういう事だ、それだけの事だ、そしてそれだけが真実。  廉潔の焔光よ。  貴女ほどの方がどうしてその事をわかろうとしないのです」 「では、このまま放っておけとでも──」 「──たかが」  みしり、と。  言の葉が生い茂る樹木の枝を、踏んだ。 「たかが世界が終わるくらいでなんだ」  それが例えこの街で最も高く、最も長く、そびえ続けた守りの霊樹だとしても、容易く手折るかのように。 「……相容れぬわ」  この時初めて、唯井家当主が苦々しい表情に侮蔑の意を示した。 「だから人外が加担すると? ヒトの生存を懸けた争いに人外が加担?  ──貴女がたは貴女がたの身を守ればいい。逸早く、いずれ訪れる避けようのないその日に気付いたのなら、立ち向かうも逃げ出すも貴女がたの自由。  けれど“立ち向かう”という選択肢を選んだといって、間違うな。  その選択は貴女たちのものだ。貴女たちの身を守るべき為のものだ。間違えるな」 「吾らは人間だ!!」  張りのある強い声が、凛と響く。 「ニンゲン?  炎を繰り焔を統べ、有識の結界で蛙蟆龍を生み出した一族がニンゲン?  ヒトと交われば容易くヒトの種を喰らい異能を産み落とす血を体内に巡らせる一族がニンゲン?」 「…………」 「貴女は“望んでそうなったわけではない”などとは言わないでしょう。だから貴女は王なのです。  そうとも、そんな事は関係がない。  貴女たちはヒトに非ざるモノだ。  ヒトである事を止めたモノたちだ。  すでにこの時、貴女がたは紛れもなくヒトではないのです。  だから貴女がたは貴女がたの事を考えなさい。  鳥は鳥の事を考えていればいい。  魚は魚の事を考えていればいい。  虫は虫の事を考えていればいい。  ヒトはヒトの──人外は人外の事を考えていればいい」 「人の理より外れし者は相応にしていろと?」 「化物を侮辱するつもりは毛頭ない。  貴女がたも桜守姫も、自らの望んだ未来を手にする為に在ればいい。  その結果としてわたしの隣人に危機が及べば、わたしは身を以って隣人を守るでしょう。  しかし今、わたしはここに明日宿の当主として在る。  それは貴女がたが『病める舌の願い』を侵したからです。  ヒトを見縊ったからです。  ならばこそ、『傘』は今、ここに在る」 「人間が人間の為に命を懸けてなぜ悪い!!」 「例え神であっても赦さない。  ──それが『病める舌の願い』です」 「……話にならぬ」 「もとより談笑に興じにきたわけでも議論を交わしにきたわけでもありません」 「ならば“宣言”させてもらう。吾らが望む人間の未来にこそ蛙蟆龍が必要であると!!」 「“把握”しました。やはり、相容れません」 「待ってくれ! 傘姉!!」  ──今この瞬間、俺は邪魔者以外の何者でもなかった。  飛び込んだ瞬間に「邪魔だ」と斬り捨てられてもおかしくなかった。  でも、言わなければならなかった。 “今”だから。 “今この瞬間”だから。  ……泣いていたのは、いったい誰だったか。  本当に辛い顔をしていたのは、誰だったか───  どうしてもそれだけは伝えないといけなかったから。  本人が顔を鉄で塗り込めて気付こうとしないのなら、俺が言わなければならないから。  それが、彼女を好きになった俺の責任。 「……もう戻れませんよ」  傘姉はこちらを見向きもしなかった。 「そんな事ない! そんな事は絶対にない! 絶対に、そんな事はさせない!!」  けれど、俺の声に反応してくれた。  応える事には届かなくても、俺の言葉に答えてくれた。  きっとわかってくれる。  だから俺は、そう信じる事ができた。 「…………」  彼女は庭へと視線を落とした。  ──転がるおびただしい数の肉塊。  わかってる。  そんな事わかってるよ。  それでも俺は。 「傘姉に帰ってきてほしいんだ!!」 「…………」  ──とてもゆっくりに見えた。  傘姉が俺に振り向いてくれて、そして。 「……ありがとね、さっくん」  いつもの笑顔を見せてくれた。  ──俺の知っている傘姉の、あの微笑みを。 「さんね……」  凍ったのは、俺の視界だったのか。  世界だったのか。  ……心だったのか。 「ほら、これでもう帰れない」  ……あまりに呆気なかった。  ただの一閃。  会話のついで。  神とすら称えられ、この地を支配し続ける一族の頂点など──明日宿家の現当主にとっては、ただそれだけの存在に過ぎなかったのだと。  気付けばよろよろとよろめいて、地面に尻餅をついていた。  これが傘姉の覚悟。  これが決別の意思。 「うわぁああああああっぁあぁぁ!!」  静止した時計の針を動かしたのは、響き渡った絶叫。 「なにやってんだよ!! テメェ、ババァに! ババァに!! ああっ!! ああぁあぁあああっっ!!」  ──その瞬間、双刀はすでに大気を斬り裂いていた。  薄い密度の酸素の中を、これ以上はないまでに埋め尽くす縦横無尽の軌跡。  憤怒、狼狽、悲愁、絶望。  その群れの名は──感情。  ぞぶり、と、主の仇の肩に突き刺さった切っ先。 「あぁあぁっ!! あぁぁあぁあぁぁあぁぁっ!!」  続け様、がむしゃらに振り下ろした鈍色の光沢がその少女を滅多刺しにする。 (……知っていた)  傘姉は知っていた。  あいつが背後から襲ってきている事を知っていた。  それは俺の中で、確信として──響いた。 「畜生! 畜生! チクショォォォォォォォッ!!」  さっき、捕縛された……あの時も。  動けたはずなのに、あいつの一撃が振り下ろされるまで待った。  そうしなければいけない理由なんか何一つとしてなかったのに、あいつが憤慨を叩き付けるまで待ったんだ。  ──何の為に? 「雨降ってなんとか……なんだっけな?」  俺が知っている明日宿傘って女の子は、とても穏やかで、柔らかな物腰で、それからとても食いしん坊で。  でもみんなよりお姉さんで、俺たちが困った時には包み込んでくれて、それがとてもさり気なくて、まるでお母さんみたいで。  誰よりも優しくて、いつだって何もかも受け入れて、それから朗らかに微笑む─── 「さっくんはもう、自分のするべき事がわかってるんだよ」 (……傘姉。貴女は……)  ──どこまで痛みを受け入れれば気が済むんですか── 「はぁっ……はぁっ……はぁ──」  練磨された名刀に綻びの陰さえも差すほどに斬りつけ。  息を荒げる菊乃丸が、吐き出すように呟く。 「……畜生」  何度繰り返そうと飽き足らぬとばかりに、その咒いを。  顔を上げて見つめる仇は、ただの一滴の血も流さずに立ち尽くす。 「ふざっ……け、やがっ……て……同情かよ、そりゃ……」 「もう止めよう、傘姉」  喉許までせり上がっていた言葉が、知らず口から零れ落ちていた。 「俺の言葉が届かない事はわかってる。そういう事じゃないんだって事も。  だから聞き流してくれていい。  聞こえないんだって、届かないんだって、無視し続けてくれていい。  だけど俺は伝えるよ。  勝手に喚いてる」  声帯など引き千切れてしまえばいい。  舌など抜けてしまえばいい。  ──でも、今この時、そうでないのなら。  俺は声が嗄れるまで叫び続けてやる。 「『病める舌の願い』。それが明日宿家の背骨、当主がなし遂げなければならない理。  それがどんなものか、ようやくわかってきた。やっと見えてきた」  もう、俺の感覚は麻痺していたんだろう。  透舞神社を下りてから今日までの日々、あまりにも異様なものを目にし続けてきた。  俺の住む日々とは異なる領域に潜む者たちの息吹。  ──だから、唯井家は。 「具体的な事はわからない。けれど、触れてしまった──踏み越えてしまった。 “その時”が来れば、明日宿家の当主は鍛え上げ練り上げた業を以って、その傘を振りかざさなければならない。  それは極々自然の事で、当たり前の事で、他人の家の仕来りに誰が首を突っ込む権利もないだろうさ」  それでも譲れない。 「でも──何だって? 世界? 世界が滅ぶ?」  当主が貴女だから譲れない。 「滅びようとしている世界を救おうとしている人たちが邪魔? 食い止めなければならない?  それが『病める舌の願い』に抵触したという事?  ……何言ってんだ?」  何もわからないままに叫ぶ。  あんたら何をすでに決定されていて避けられないみたいな前提でそんな話してんだよ。  頭おかしいんじゃないの?  世界は今日も明日もここにあるよ、いつだっていつまでだってここにあるよ!  ……そう言いたのに、叫ぶ言葉は違う。  臓腑を焼くような想いに胃液が逆流しそうになる。 「ホント、何言ってんだよ。  じゃあ何か? 世界が滅ぶなら、流れのままにそれを受け入れるべきだっていうのか?  それが『病める舌の願い』?それが明日宿家の当主がなすべき事?くっだらねえ!!」  こんな事をしてまで。  大切な人の手が血に染められてまで──黙ってるなんてできるわけねえだろ!!  世界が滅ぶ滅ばないなんざ知った事かよ!! 「間違ってるだろ? なあ、傘姉! そんなの間違ってるだろうがよ!!」 「ふざけないで!!」  道化と化した俺の叫びに何の反応も示さなかった傘姉の口から、不意に飛び出した一喝。  初めて聞く、彼女の怒りの声。 「ヒトがヒトを見縊ってどうします。避ける事も防ぐ事もヒトの力で為せないのならば、ヒトはそこで結果としての滅びを甘受するだけだと……そう言っているのです」  そして再び、その瞳は闇に暮れる。  それは厳しく。  暴圧と呼べるほどの圧迫さえも存在していたというのに。  だが、何か。  何故だろう───  ……胸の奥に木霊する想いがあった。  ヒトの尊厳。  それは、どこまでもヒトの尊厳を守ろうとする言葉。  でも待てよ。  それって。  ──それって、“他の種”から見たヒトという種の尊厳なんじゃないのか──  ──かつてご宗家が調伏した魑魅魍魎の類いが祖だって──  いつかの言葉が脳裏をかすめた。 (そんな馬鹿な)  即座に否定するも、その根拠はまるでない。  唯井家と……明日宿家の主従関係が誤解の上に成り立っていたものだとしても、魑魅魍魎───  ──少なくとも、人間ではない?  一度そう考えてしまったら、もうそこから逃れる事はできなくて。  そうである事が自然だという気にすらなってしまって。  ……人外を狩る人外。  明日宿の法を犯した人外を狩る為に。  そういう……事なのか……? 「傘……姉……」 「──かつてこの街から飛び出した、一人の男と一人の女。一組の番」  刃を納めた傘姉の和傘が、通常の形態へと変化する。 「かの女傑が『龍視』と呼んだから、それは『龍視』となった。  戌亥の許に集いしは、未と寅、申と子、午と卯、酉と丑。だからそれは、本来ならば『辰巳』と呼ぶべきものだったのだろうけれど──」 「え……」  ……タツミ? 「けれど、それでは何の為にこの街から出て行ったのかわからない。しかし彼女にそう呼ばれた以上は逃れられない。  だからそれは『巽』となった。  避ける姓を探した末に辿り着いた逃げ道。言霊の効力を薄める為に」 「…………」 「──あの日。この御家の旗が天空を埋め尽くした日。  明日宿は『蛙蟆龍』を狩りに馳せ参じました。  旗を折るつもりはなかった、それがただ王者の為政の為に用意されたものだったのなら。  けれど、その旗はいずれ訪れる災厄の為に用意されたものだったから。  これ幸いと桜守姫が便乗したのも、わたしどもにとっては一つの流れでしかなかった。  わたしどもの目的は、あくまで蛙蟆龍。便乗した桜守姫とこの御家との戦いは、あくまで双方の問題。  ──もしもタツミの介入がなければ」  え……? 「新たに生まれくる蛙蟆龍は幼少時を乗り切れないほどに衰弱しているという不文律、けれど初代の蛙蟆龍は勿論そうではなかった。  一族の者として健やかに成長を遂げた者が被験者となったのだから当然ですが、引き換えとして餌が必要であった事は変わらない。  ──だから、タツミには選ぶ権利があった。選ぶだけの権利があった。  彼らの始祖はこの街との関係を断ち、自分たちの幸せを得る為に飛び出した。けれど、その子孫が呼び戻された。  当時のタツミの当主──彼にとっては両手で抱えきれないほどの黄金だっただろう、けれど一握りの小銭の為に御家を売った。自分の子供を、子々孫々に至るまで売った。  連れてこられた子供は何も知らなかった。自分の意思ではなかった。何も知らないまま餌とされ、蛙蟆龍を飛び立たせる為に生きる権利を喰われた。  その亡骸を抱き締めて、かの女傑が蒼穹に木霊する嗚咽を上げる姿を見た時──明日宿は、当時の明日宿当主は矛を納めた。志を受け取ったから。  そして明日宿は決断した。  タツミに選ばせよう、と。  その権利を唯一有するのはタツミ。  最期の蛙蟆龍が駆ける時──もしもこの街へと連れてこられたタツミがこの御家を選ぶのなら、それをタツミの意思と受け取り、わたしどもは矛を納めたままでいよう。  けれど、もしも選ばなかったのなら──それを否定の意思と受け取り、わたしどもは本来あるべき姿として、『病める舌の願い』を敢行する、と」 「──ねえ」 「さっくんは、ふたちゃんのこと好き?」 「もしも、その大切な人たちの中から、たった一人しか選べないとしたら……さっくんはどうするかな?」 「うん。常識とか、どうしようもない事とか……様々な事に捉われて、何がさっくんにとって一番大切なのか見失ってしまう。  大切な事は胸の中に沢山あるけれど……これだけはどうしても譲れない、という“たった一つ”は、やっぱり……“たった一つ”なんだよ。  ──なかなか見つからないし、選べないけどね」  じゃあ、傘姉……あれは。  ……だから?  だから、ふたみの傍から離れないでくれと?  彼女を支えてくれと?  ……待てよ。それじゃ───  傘姉が明日宿家の当主として動かざるを得ない事態を生んだのは、この俺って事じゃ……ないのか?  途端、背筋をひんやりとしたものが通り抜ける。  もうこれ以上何で驚く事もないというほどの光景を目の当たりにしているってのに、止め処もなく内側から衝動が押し寄せる。 「もしそんな事が起こった時、さっくんがふたちゃんを選んでくれたら……」 「そしたら、わたしは────」  ……わたしは?  ワタシハフタミヲコロサナイデスム?  ──それは重なり合った偶然だったのだろうか。 「神に叫んだものの想いを、明日宿は知っている」  眩いほどに瞳を焼く日差しが照りつけているというのに、建物や木々の陰が幾多にも折り重なって彼女の背に広がった影。 「だからヒトに叫んだこの御家の想いを、明日宿は受け入れた。  しかし、決断は下された──あの誰よりも偉大で誰よりも不遜な神がかつて取った行為とまったく同じなのだと」  けれどそれは、影と呼んでしまうにはあまりに濃く、陰と呼んでしまうにはあまりに深い。  ……嗚呼。  多分、あれこそが闇と呼ばれるものだ。 “見えない”という恐怖が夜の暗がりを指差して付けた名とは違う。  あれが孔だ。 「その正義。その心意気。それには座して敬服します。しかし。  事ここに至っては、王族たる貴女がたが、あくまでヒトの可能性を信じる事ができないと断ずる。  あくまで蛙蟆龍の計画を推し進める為に立ち塞がると断ずる」  孔が蠢く。 「ならば明日宿は、全力を以って貴女がたからヒトの尊厳を死守する」  張り付くように飛び交うそれは、無数の蟻の群れ。 「我が従属たちよ。共に始祖の願いを背負い分け合う同胞たちよ。  今この刻、この界にただ一人の『傘』の名において命じる」  白銀の髪をなびかせた女王が、その色にほど近い細長き指を差し出し。  配下の蟻たちに、ただ一言、こう命じた。 「鏖」  ──それは、闇と炎の戦いだった。  明日宿家は黒ではあったが澱みの黒ではなかった。  それは限りなく純粋な闇にこそ、ほど近い。  闇を畏怖の対象とするのは人の心だ。  何よりも視力にこそ頼る人間だからこそ、それが効かない領域を恐怖する。  そして人の想像力が警戒の対象となるその領域に魔を生む。  怨霊という名の寒気も、化物という名の畏怖も、人の目を通して映される闇にしか生まれない。  ──その目の一切を盲目とすれば。  その時こそ、そこに純粋な闇だけが残る。  ただ純然たる昏き領域。  それが明日宿家だ。  対する唯井家は、まさに炎だった。  彼らは燃え上がっている。  支配者という名の驕りなど、そこには微塵もなかった。  俺は彼らの見方を誤っていた──彼らの内を焼いているのは驕りなどではなく、志という名の種火。  内側で燻り、息を吸い込めば燃え上がり、そして爆ぜる。  彼らは常に自身の臓腑を焼かれながら戦っていた。  ただの一人として膝を屈せずに、今日まで立ち続けてきたのだ。  独裁者などではなく王者。  その歩みは凱旋に他ならず、振るう腕は旗を掲げるに等しく。  彼ら一人一人がこの街を背負い、その重みに焼かれながらも雄々しく在り続ける勇者に他ならなかった。  炎の驍勇を轟かせる唯井家と。  闇の咆哮を秘める明日宿家と。  どちらの闊歩も決して曲がらない。  彼らはただ真っ直ぐに己の意思を通している。  だからぶつかり合えばこうなる。  これは何一つ避けようのない事なのだと、俺の腹を震撼させながら思い知らせる。  ……俺は今、誰より神様って奴が赦せない。  どうして?  どうしてここまで、傘姉を?  ……神の居ないこの街で。  俺はいったい、誰を呪っている。  神なら今、死んでいる。  目の前に神の首が転がっているよ──次々と転がっていくよ。  一つ。二つ。三つ。四つ。五つ……。  ひねもす頭上に居わす神々は地上へお降りあそばされ、守る為にお統べになられ、そして一柱また一柱と捻り潰されていく。  親指と人差し指の間に挟んで、ぷちり、と。  そんな簡単に。 「うっとうしいから」なんて理由で殺される虫のような易さで。  摘み取られる軽々しい命。  ──とても易しい神殺し。  あれは何て神だろう。  今腕がもげたのは何を司る神?  今脚が千切れたのは?  胴体に風穴開けたまま突進し、神殺し三人を道連れに滅んだのは?  ……地獄だって。  きっともう少し、まし。  どちらかが善でどちらかが悪だったら、もっともっと、まし。  どちらも善でどちらも悪であったら、その時、その衝突は“戦争”という名でしか呼ばれない。  戦争ってのは国家間の衝突の事だろう。  行き詰まった外交の最後の手段だろう。  口喧嘩でどうにもならなくなってつい手が出ちまったって事だろう。  ──ここは、俺の知っている“国”ではないから。  俺の生まれた国の地図には載っていない、俺の育った国の一部だとは誰にも認められていない場所だから。  だから──ああ、そうか。  神と神殺しの衝突もまた“戦争”と呼ばれるんだな。  どこかの神話にでもありそうな成句。  だけど、ごめんよ。  この戦争は何処の神話でも語られないよ。  だってもう、この神を祀る神社は役目を終え、この神話を伝えるべき語り部たちは否定の名を与えた娘にすべてを託してしまった。  だからこれは、ただの殺し合いだ。  神秘の欠片なんか微塵も転がっていない、鉄と鉄で火花が散らされる澱んだ血の宴だ。  赤と黒の闘争だ。  流れ出したばかりの血は赤い。  塊と化した血は黒い。  見ろ、お前たちだよ。  お前たちが互いの首を掻っ切って流し合っているのは、お前たちそのものだ。  ──始めた唯井家。  ──終わらせようとしている明日宿家。  炎と闇の殺人狂どもめ。 (………………畜生め)  やっぱり俺は、誰より神様って奴が赦せない。  そしてその何倍も、俺は誰より巽策って奴が……憎い。  憎い。  憎い。  憎い憎い憎い───  何もできずに立ち尽くすしかないこの俺の不甲斐なさが、何より憎い!!  ──気付けば俺は走り出していた。  見渡す限りに広がる世界の上に屍を創り出す赤と黒の創造主たちの隙間を抜けて。  番人とその影が相食むかの如き光景は、俺にはもはや吐き気にほど近い唾棄以外の感慨をもたらさなかった。  ──いつから俺は迷っていたのだろうか。  どこまでもどこまでも続く広大な敷地だとは思っていたが、庭を走り続けていて初めて気が付いた事───  それは、屋敷そのものがどこか幾何学的な紋様を描いたかのような構造をしているという事。  恐らく上空から見下ろせば左右対称となっているだろう屋敷は、視点を横に移せば階段状になっており、そして全体を捉えれば煉瓦で大雑把に積み上げた簡素で不恰好な四角錐形を真っ二つに割いて左右に倒した形になっているはずだ。  何処まで走っても段差のような構造しか見えないのはその証拠。  そして横の視点から見た時に階段の頂上となっている建物を越せば、今度は下りの連鎖が始まる。  それを越せばまた下り、それを越せばまた下り──と、言葉にすればエッシャーの無限階段のような形になるが、その時には敷地内を一周してもとの玄関へと戻ってきているだろう。  途中、まるで隠されたかのようにして設えられた墓地があったように見えた。  隠された、というのは別に樹の影に隠れるようにとか、何らかの建物の隙間になどといった意味ではない。  それはそれは立派な──木陰などには一切遮られない、まるで誇らしげに胸を張るかのようにして大地にそびえ立つ見事な墓石があった。  ……いや。  あれはもしかしたら、墓を建てた者こそが埋葬された者を誇ったのかもしれない。  王の古墳などにありがちな、自分のような身分の高い者が埋葬される墓はこうあらなければならないと自身で設計指示から行う手合いとはまったく逆に、骨壷に納められた故人を遺族がどれほど手厚く葬ったかが滲み出るほどに伝わってくるかのような───  誰が埋葬されているのかは知らない。  けれどあの群れをなすかのように並べられた数々の墓は、唯井家で家宝の如く大切に取り扱われている。  それだけは間違いなかった。  隠されていたというのは、心理的な隙間に、とでも言えばいいだろうか。  あの場所は日常で使用されるであろう通り道からも大きく外れていたし、庭の池などを観賞する際に通りがかりもしなければ視界にすら入らない。  仮にふと思い立って敷地内を一周したところで見つかりはしないのではないか───  あれは、屋敷の構造も知らないままに当て所もなく彷徨い歩いた俺だからこそ偶然にも発見する事ができた。  下手をするとこの屋敷に一生住んでいても、死ぬまで気付く事はないかもしれない。  まさしく心理の死角、堂々とその雄姿を日の下に晒しながらも知らぬ者は一度として巡り会う事はない。  けれど知っている者たちは毎日欠かさず手を合わせに訪れる。  ──あれは、そういう墓だった。  ……そして俺自身、今何処を走っているのだろうか。  この屋敷の構造に気付くまで、俺は広大な敷地内を無駄に走り回っていた──その結果として。 “ここ”へと辿り着いたのだろう。  目の前に建つのは蔵。  異様な横幅を誇るそれは、樹林の間に広がる雄大な山岳にも見えた。  その巨大さも特筆に価するが、真っ先に目につくのはそれではなく。  寸分の隙間もなく入り口を埋め尽くすほどに展開した鉄鎖の帯。 (蔵の鍵……って意味の錠にしちゃ、これは……) 「むしろこれは封印に近い」などと思ったのは、果たして見当違いの思い込みだったのだろうか。 (……違う)  触れた瞬間に走り抜けた思い。  これは錠として生み出されたものじゃない。  ……かつて鉄鎖使いがいた。  この巨大な鎖を自在に操り、唯井家を守る一角を務め上げた者がいた。  特殊な精錬を施し鍛えられた上で編まれたこれは、物理的な手段で容易く粉砕されるものじゃない。  繋ぎ目を狙っても壊れない。  他より細い部分を殊更に標的にしたからといって打ち砕かれるものじゃない。  そもそも、これは鎖というより─── (薙刀)  これはしなる薙刀だ。  ああそうか。  だからこれは、かつて午卯の『雄』であった者の───  そもそも“錠”というのは、後世になってから用いられるようになった当て字だ。 “錠”の字には本来“じょうまえ”としての意味はなく、もともとは“鎖”──なるほど、盒子と空明市の繋がりのように言霊云々で縛るのなら、“鍵”としてこれほど打って付けのものはない。  ハッとした。 (どうして俺、こんな事を……思った?)  調べ物をする為に文献を漁った時のように、「これはこういう事なんだ」と素直に知ったこの感覚。 (いや、今はそんな事はどうでもいい)  首を左右に振って思いを正す。  両の手を広げても届かない蔵の扉を前に、俺はそこを雁字搦めに封印する鎖を凝視する。  触れるだけでいい。 (──簡単だ)  確信に近い──いや、確信そのものであるこの思い。 (これがどれほど“鍵”の役目を果たしていても、創られたそもそもの目的が「武器としての使用」である事には違いない。  どれほど緻密で精巧でも、完璧な武器などこの世には存在しない。  時代を経ても世に残り、後世に不滅の驍勇を刻む一品──それが如何なる神器名剣であったとしても、折れる事のない名刀など存在しない。  霊妙にして玄妙な力が働いていたとしても、名刀であればあるほどに歳経れば神通を宿すとしても、綻びは必ずどこかに生じる)  ──だから。 (俺になら壊せる)  どうしてそんな事を思うのか。  どうしてそれを当たり前の事として、信じる信じない以前の問題として内側から出てくるのか───  その正体もわからないまま。  俺はこの時、すでに“鎖”を破壊していた。  そして蔵の扉を開き、俺はその光の射さない内側へと足を踏み入れる。  譲れぬ想いとその代償となる命が火花と鮮血となって飛び散る外はあれほど騒々しいというのに、ここだけは嫌味なほどの静寂に支配されている。  現世にぽっかりと穴を開けた隠世への入り口のように。 (──在る)  ここには、今、俺が必要としているものがある。  それもまた確信。  そもそもこの蔵を前に足を止めたのは、きっと偶然なんかじゃない。  ──だから。  落ちた空気の中にひっそりとたたずむそれを目にした時。 「こ……」  物言わぬまま座するその存在に、俺は驚きはしたけれど─── 「これは……!!」  ──この出会いを、きっと俺は、知っていた。  敷地内の至るところで繰り広げられる激闘は、苛烈を極めていた。  赤と黒の実力が均衡していればこそ、それは永遠に終わらない神々の終末戦争に似て。  ──だが、それはあくまで個々の話である。  赤の当主はすでに斃れ、黒の当主は未だ存命。  それが戦況を決定付けていた。  加えて、炎の王国における武官の頂点に立つ『雄』も、午卯、酉丑と共に失われている。  残る申子のそれは善戦こそしていたが、だからこそ目立った戦力は徹底的に狙われる。 「ハッ……ったく、随分と人気者じゃねーの。俺ってば」  明日宿家もまた層が厚い。  その魁となる前当主こそ討たれていたが、息を潜めていた黒き猛者たちに一斉に襲いかかられれば、異能を有する双刀使いとて一溜まりもない。  ──戦況を一変させたのは、一陣の風。  突風は猛威と化し戦場を駆け抜ける。  この疾さは酉丑のそれ──否。  酉丑は溶けるがこれは駆けている。  疾風という意味合いでは酉丑より劣るが、暴風という意味合いでは酉丑の比ではない。  酉丑は抜足で渡るだけだがこれは触れるものすべてを薙ぎ払っている。  ──これは肉弾。  得物は手にせず、生まれ持ったその身が切れ味鋭き刀剣にも間合いを制す長柄にも瞬の飛び道具ともなる。  拳こそが凶具。 「おまっ……!」  未寅の『雄』──愛々々の推参である。 「遅れちゃった。ごめんごめん」 「な……何やってんだよ、お前……お嬢についてるって……」 「……ごめんね、菊乃丸。最期だからって、茂一と一緒に必死でご当主様を説得してくれたのに。  でも、やっぱり放っておけない。  今回のやり方とか、色々……愛、やっぱりまだ納得してないみたい。  けど、あなたたちが望んで最期の炎に焼かれるのならともかく、こんなふうにして殺されていくのなら、黙って見ているなんてできないよ。  愛も未寅だもん。今代の『雄』だもん」 「馬鹿言ってんじゃねえ!! お前がお嬢の傍にいなかったら、誰がお嬢を守るんだよ!!」 「──大丈夫だよ」  小さな少女の瞳に宿る冷徹な光。  拳士の背に浮かぶ闘気は激越にして獰猛。 「こいつら全員倒せばいいんでしょ? 誰もふたみお嬢様の許へは行けないんだから、それでお話はおしまい」 「ハッ……」  ──呆れた。 「ね?」  まことしやかに言ってのけた小さな同胞の笑顔に呆気に取られ、 「ハハハハハッ! 違ェねえ! まったく違えねェぜ!!」  そして菊乃丸は、込み上げる痛快を抑え切れなかった。 「じゃ、さくっと潰しちゃおうか」 「おおよ。……ったく、お前だけは敵に回したくないぜ」 「さすが、愛にボコボコにされた事がある子はよくわかってるね」  ──村一つ熱病に冒され空気も澱むそこへ、一服の清涼剤を投げ入れたかのように。  病と同じように、気持ちもまたたちまち伝染する。  大いなる援軍は友軍の士気を高め、崩れ落ちていくばかりだった足腰に裂帛の気合を、もはや上がらぬと思っていた腕に脈動を与え、消えかけた命にすら再び炎を点す。  何故なら彼らは炎の子ら。  気持ちが死んでいた者などただの一人もいなかったのだから。  身体さえ動けば、彼らはいつまでだって戦い続ける。  この街の平和は、そうやって保たれてきた。  ──だが、清涼剤の効果も長くは続かない。  病を食い殺す寅が庭に放たれようとも。  そこには、その寅さえも飼い慣らしていた主人を容易く屠った病んだ舌の化身がいる。  それは銀の鋼に姿を変えて寅を見下ろす。  かつて巽と名がつく家で共に過ごした二人の少女が、向かい合う。 「……おおねえ……さま」 「…………」 「……あのね。愛、明日宿家の事をちゃんと教えてもらったよ。これまで明日宿家は同胞みたいなものだと思ってた。  でも、違ったんだね……それで、こうなっちゃったんだね」 「なってしまった、のではなく、必然の結果です」 「うん……」  小さな吐息が宙を舞う。 「仕方ないよね。愛ね、誤解してた……っていうのもあるんだけど、明日宿の御家に関してはあんまり良い印象がなかったんだ。  でも、おおねえさまの事は好きだったよ。ふたみお嬢様が慕ってたからってわけじゃなくて……うん。本当に、大好きだった」 「…………」 「よかった、いつもの笑顔じゃなくて。愛、おおねえさまの笑った顔が一番好きだったから」  僅かな間は、それでもほんの一瞬。 「これで遠慮なく殴れるよ」 「立ち塞がる者はすべて排除します。宜しいですね? 未寅の『雄』」 「宜しいですね? って? 誰に訊いてるの?  ──明日宿が当主、『傘』。未寅の愛々々があなたを潰すよ」 「…………」  守護の名を冠した四家の中、未寅家は常に他の三家に後れを取ってきた。 “末席”であるという認識に至った最たる理由は、御家の代表者たる『雄』の実力こそが、四家の格を定めてきたという事。  役割の違いなど端から問題ではない。  ──未寅愛々々の祖母の名は、愛という。  果たせなかった祖母───  ──未寅愛々々の母の名は、愛々という。  果たせなかった母───  不思議な事に、宗家に等しく女系家族。 「女だから仕方ない」などと言われ、時として「お情けとして守護四家の末席に加えてもらっている」などとすら陰口を叩かれてきた。  愛々々は知っている。  母が、祖母が、どれほどの努力を重ねてきたのか。  遡れば、その前も、その前も、その前も。  自分では果たせないと知った時の、その涙の意味を。 “四家の末席”という苦汁。  だからこそ。  自らを『愛』と呼び、友人から『愛々』と呼ばれる事を好んだのは、彼女たちの想いを継いでいる事の表れ。  彼女は負けられなかった。  申子家にも、午卯家にも、酉丑家にも。  最期だからこそ。  最期だからこそ、悔しさを呑んできた先祖たちの想いを愛々々は叶えてあげたかった。  その為に彼女が積み重ねた努力も犠牲も涙も血も汗も、誰も知らない。  誰にも語らず、ただ、一心に。  悪戯に勝負を挑むような真似こそしなかったが──その資質は、そしてその資質を十二分に引き出すだけの修練を積んだ成果は、確かに宗家の当主の目に留まった。  そして彼女は、今代、未寅家より出された『雄』として、守護四家屈指の存在としてここに在る。  彼女こそが、未寅家の想いの体現者。  ──最期にして最強の“墓場の守”。 「ちょっ……と、なにこ……れ。勝負……とか、正直……そういう次元じゃ……ないん……だけど」  なのに。  打ちのめされていたわけではない。  ──愛々々は思い知らされたのだ。  魔人たちが蠢くこの街で頂点を競い合う事に意味はない。  それぞれがそれぞれの“場”において頂点を極めた者たちばかりだからだ。  だが、それでも──あくまで制圧という意味合いでの衝突ならば、武家の一員としての彼女には自負があった。  それは自負であると同時に事実だ。  だが、今、制圧されているのはこちらだ。  単身乗り込んできたたった一人の少女の為に、午卯が討たれ酉丑が斃され申子が制され、あまつさえ首魁を取られた。  今更のこのこやってきたところで──それはわかっている。  しかしそれでも、今代最強の『雄』が、防壁にすらならないとは如何なる理屈か。  だから思い知らされたのだ。  この差は埋まらないのだと。  これはもはや差などと呼んでいい代物ではないのだと。  ──違う、と。 (……違う。あれは違うんだ)  吾々と同じ道の上を歩いていない。  吾々と同じ世界で生きてはいない。  今日まで彼女にそうとまで思わせた存在は、己が仕える宗家の当主のみであった。  当主はあらゆる素養を以って偉物に他ならなかったが、純然たる脅威として彼女にそう思わせたのは、あくまで異能の領域においての話──武と武で競い合った時、彼女が敗北を喫する道理はない。  だが、目の前のこれは。  ──だから吾々は。  勝利とか、敗北とか、そういう次元ではなく。 (ただ生き残る事だけを考えないといけないんだ)  この場はそもそも戦場にすらなっていなかったのだと、愛々々はようやく理解した。  武を語る領域など、何処にもない。  ここは、ただ狩られるだけの処刑場だ。 「……ねえ、おおねえさま。みんなを怒らないであげて」  だから彼女は。 「『傘』であるおおねえさまが、どうしなければいけないのかは知ってる。  でも、でもね。みんな必死に考えたの。確かに愛も、やり過ぎだって……おねーさまの気持ちを考えろって、反発してたけど。  でも、みんなが人の心を持たないから、そういう結論に達したわけじゃないの。みんな優しいから、みんなみんな優しすぎるから、そういう形になっちゃったの。  ……どうか、それだけはわかってあげて」  そう、だから彼女は。 「理解しています。ですが、わたしどもは明日宿の──」 「よかったぁ……」  ……こんなにも、安堵したのだろうか。  愛々々の目尻に広がる雫は群れとなって。 「……楽しかった……よね。策のお家で、策と、おねーさまと、おおねえさまと……みんな一緒の生活。愛はとっても楽しかった」 「…………」 「……ねえ。もし、もしも……世界の終わりなんかこなければ。  みんなはまだ一緒にいられたのかな? みんなは笑って過ごせたのかな?」 「…………」 「愛は、みんな大好き……どうせ死んじゃうなら、大好きなままがいい」  だから。 「愛が立つ前に殺して。立ち上がったら愛は、未寅の者として最期までおおねえさまの前に立ち塞がるから」 「…………」 「どうか……お願いね」  そして、愛々々はゆっくりと立ち上が───  赤と黒との違いといえば、異能を有するか否かしかなかった。  明日宿家歴代の猛者たちの中でも、極限られた者にしか習得が叶わなかった秘術を操れるのは、今この場において、この時代においては、現在の当主のみ。  塀で囲われた山頂の土の上に獣たちが放たれていた。  それはまるで、蠱毒の瓶に詰められた毒蟲どもの如く──互いの牙で互いを食い殺し、屍の上により強い毒を持った蟲が立つ。  獣たちが互いの毒を舐め合う毒殺の宴。  だがそれは、獣ではない。  互いが人間でしか持ち得ない志をこそ牙として命を削りあっている。  空腹を覚えたからでも縄張りを侵されたからでもない。  むしろ彼らは、腹いっぱいの想いに満たされているからこそ互いの縄張りを侵し合っているのだ。  ──その群れの中に、異様な風体の影が飛び込んだ。  ──“外”の世界で、この国に隣接する“太陽の国”が世界を相手に戦争をしていた頃。  殺戮、占領、防衛、いったい幾つの名の下にそれぞれをなすべく極めるべく兵器は生産されていっただろう。  戦争ほど兵器の発展を爆発的に高める時代はない。  だからこれは、その時代の忘れ形見だった。  これは輸入されたものだ。  金銭的な手打ちはついているとはいえ、持ち出されたものだ。  そしてこの国の炎にまつわる技術者たちが、面白半分に弄くり倒したものだ。  この街では本来、このようなものは必要にならない。  街そのものを巻き込む形での衝突を誰も望んでいないからだ。  こんな代物に頼らずとも、やろうと思えばその程度の事は容易くやってのける魔人どもが蔓延る街だからだ。  だからこれは玩具。  興味半分で解体され、好奇心の赴くままに強化改造がなされた翫物。  元が量産された物の一つであろうが、そのたった一つを潤沢な資金を背景に技術者がいうところの“遊び心”いっぱいに手を加えれば、それは特製であり格別になり得る。  いずれ量産へと行き着く為にこそ試作を重ねた品の完成形を遥かに凌駕する性能を持ち得る事さえも。  ──そして飽きて捨てられたゴミ捨て場の人形。  この街に身請けされてから飽きて捨てられるまで、どれほどの期間をかけてこの玩具は遊ばれてきたのか。  きっと外から技術を取り入れる度、またこの街にしかない技術が発展する度、そしてその時々にしか存在しない能力者が生まれる度に。  休日のちょっとした日曜大工気分で、遊び半分に新たな機能を加え続けられてきたんだ。  その果てに、あれほど厳重な封を施さねばならなくなるほど凶悪に変質した。  かつて『三式中戦車』という名称で呼ばれたこれは、もはやその原型を外装にしか留めていない。  内部の構造すらもはや別物というほどに造り替えられているのだから、一から造り直した方が早いだろうに──それは要するに、あくまで“戦車”を弄りたかった、という事なのだろう。  こいつは俺の思い通りに動く。  いや、俺が思い通りに動かす事ができた。 (どうして)  なんて事は微塵も思わなかった。  これが戦車であるなら、兵器として生み出されたものなら、動かせて当たり前だ。  ──そもそも、今はそんな事はどうでもいい。  人の波を掻き分けたその先に、少女は在る。 「…………」  入り口は異なれど、操縦席のシートを後ろにずらせば戦闘室へと辿り着ける構造。  フル状態の人員で動かしていれば何の意味もない仕掛けだが──というより、そもそもこれを取り付けた技師も、機能として役立たせる為ではなく単に取り付けてみたかっただけだろう──誰もいない室内では、動かしたシートが妙な窪みに沈み、そのまま俺は転がるように室内へと移動が叶う。  自動装填装置に不備はなく、砲弾も触ってみれば未だ現役である事がわかる。  やるべき事はあまりに少ない。  潤沢な資金のもと膨大な労力と遊び心が注ぎ込まれたそれは、もはや搭乗する人員を必要としているのかどうかすら疑問だった。  ──標的を捕捉。  自動追跡状態になったこれは、例え標的がどれほど剽悍に動こうが狙いを外さない。  元は日本初の75mm砲を搭載したこの戦車──いったい、今のこの数字は何だよ。  最大初速は680m/sだった?  最大射程は───  ……はは。  技術者さんたちよ、あんたら算数もできないのか?  桁を間違える勢いで何やってんだよ。  あのな、三式中戦車って名称だっただろ? 「…………」  ……後は。  後は、主砲の発射レバーを引くだけで、こいつの兵器としての任務は完了する。 「もう止めてくれ、傘姉」  ……世の中を斜めに見れば大人だなんて、そんなふうに思っていた頃があった。  斜に構えて世の中を見つめて、「あれはこういうものなんだよ」とか、「結局、世の中の仕組みなんてものは」なんて、メディアを通して世界の在り様を見ただけで何もかも知り尽くした気になって、血反吐を流すほどの本当の理不尽にさらされたわけでもないくせにこの世の理不尽を理解した気になって、誰かの言葉をさも自分の言葉のように他人に語る。  それが世の中と割り切っているなら、結局はどうしようもない事だらけで下らないものだらけだって知っているのなら、受け入れられるはずだろう。  ……目の前に突きつけられた本当の理不尽。 (……ハッ)  だから俺は今、結局は子供なんだって──思い知らされてるんだろう? 「もう一度言うぞ。止めてくれ、傘姉」  車内マイクからスピーカーを通して外部に届く俺の言葉は、傘姉の心にも届くのだろうか。 「…………」  彼女は動かない。  野草を磨り潰したかのような色彩で埋め尽くされた画面の上に熱分布だけで表示される、彼女の表情はわからない。  わからないが──わかる。  彼女の表情はまったく動いていない。  きっとただ無機質に首をこちらに傾けているだけ。  下手をすると、こちらを見てさえもいないかもしれない。 (けど、もうこれしかない)  傘姉を止める手段。  言葉は届かない。  どれだけ声を嗄らしても、すべてが上っ面だけをなでてしかいないように空々しく響く。  気持は届かない。  どれだけ想いを込めても、すべてが苦し紛れの言い訳でしかないように弱々しく折れる。  ──その鋼鉄の前に。  俺に残された手段は、“力ずく”という野蛮な愚行のみ。  彼女の想いを無視して、彼女の言葉から耳を塞いで、力ずくで彼女の行動を制限するという事。  選ぶ事のできる権利も自由も何もかもこちらの勝手な都合で奪い取って、威力で脅し暴力で屈服させ、言う事を聞かせるという最低の手段。 「頼む、傘姉。もう止めてくれ」 「…………」 「頼むよ!!」  お願いだ。  わかってくれ。 「撃ちたければ撃ちなさい」 「さっ……!」 「砲弾如きが『病める舌の願い』を砕けるものか」  何……言って……。  淡々とした口調に込められていたのは、激昂でもなければ憎悪でもない。  ただ──意思。  何人にも侵せぬという意思の表れ。  ……どうして気付かなかったんだ。 「撃て」  無機質な表情、抑揚のない喋り方、起伏のない態度……そのどれもが俺の知っている傘姉とはあまりにもかけ離れていたからって。 「さ、傘ね……」 「撃て!!」  表情も、喋り方も、態度も──ただ一つの絶対を表していたんだ。  覆せぬ絶対。  砕けぬ絶対。  折れぬ絶対。  譲れぬ絶対。  揺れぬ絶対。  背かぬ絶対。  変らぬ絶対。  明日宿の──絶対。  口に出してしまえば安っぽく響く“絶対”という名の意思を、彼女は彼女の全存在を以って示していたんだ。  息を呑んだ。  きっとその時点で、気圧されていたのは俺の方。 「……う……」  俺がレバーを引けばただそれだけで、装填された砲弾が確実に傘姉を狙って発射される。  この距離、この状況で、索敵も捕捉も完了された凶弾が外れる事はあり得ない。 「…………」  ……あり得ないんだ。 「…………おっ………………」  う……             ……撃てるはず……ないだろ!!  ──荒い吐息が車内に立ち込めていた。  ぞくり、と背筋を走った悪寒を肯定するかのように、振り向いたそこに長身の男の姿があった。 「あっ……あんた……!」 「…………」  そいつは俺を見ていなかった。  俺がここにいる事になどまるで気付いていない──いや。  その目は、まるで飼育の過程で繁殖させられ、一切の色素を失った飼い兎の如く。  暗がりではっきりとはしなかったが、そいつはどうやら頭部が割れているようだった。  額といわず耳といわず零れ落ちてくる血が、致死を物語るには充分すぎた。  真っ赤に染まった瞳は充血しているわけではなく、垂れ落ちる血が立ち寄る過程で白濁に色を流し込んでいった結果。 「菊乃……丸」  いつか聞いたそいつの名を口にしても、そいつの目にはもはや光らしき光すら浮かばない。  こいつはきっと、今目の前にある光景など見てはいない。  その瞳に映っているのが現世か隠世かさえも。 「……だんじゃ……ねぇ」 「え?」  すでに顔の筋肉を動かす力さえも失われているのか、ゆっくりと停止していくだけとなった脳がその信号すら送り出す事ができないのか──唇すらまともに動いていないそいつの口から、迫り出すように擦れた声だけが零れ落ちる。 「冗談じゃ……ねえ。俺は……俺たちは、お嬢さえも差し出す真似を……したってのに……」 「え?」  お嬢、って……。 「俺らがどんな想いだと思ってる……あのお嬢を……俺ら……俺らよ……。  いや……俺らなんかいい……ババア……ババアが……どんな気持ちで…………俺は知ってんだ……ババアが今日までどれだけ泣いてきたか、俺は知ってんだ……」  誰に向けて喋りかけているわけでもない。 「ババアにとって……お嬢は特別だったんだ……」  ただ溢れ出す想いが止め処もないかのように、まるで蒸気の如く、たまたま開いていた顔の穴から噴き出していくかのようだった。 「俺たちは……いつだってババアを……あの方のやろうとしている事……これまで背負ってきたもの……みんな……そうだ。みんな……この家にまつわる者はみんな……。  何が“王”だよ。何が“神”だ……! そんなもん……ババアが望んでたはずねえ……だろ。  幻視ちまったんだよ……気付いちまったんだよ、仕方ねえだろ……やれる事をやろうって、見過ごす事はできないって必死に手段を模索したら……この街を閉じ込める事になっちまって……何が“旗”だよ、畜生めが。  責任感が強すぎんだよ、ババアはよ……もう誰かが統べるしかなくて、人が人と暮らしてる以上は政治やら法律やらが必要になって………………ああ畜生、頭痛えな。俺はどうなっちまったんだ」  虚ろな瞳が焦点も定まらず揺曳する。 「……みんな戻ってきちまった。  俺は……これでも申子の『雄』だしよ、それに……ああそうだ、俺は初めから逃げるつもりなんかなかった。みんな……そうだ。  俺ら『雄』の者たちだけじゃねえ。『雄』になれなかった武の者たちだって……いや、身体を張るのが仕事の俺らだけじゃねえ……女中……料理人……庭師……使用人の誰一人として逃げ出さなかったんだ……。  ババアは俺らを逃がしてくれたってのに……宗家と縁を切らせて……こことはもう無関係だって、そう言ってくれたのに……俺ら、みんなここに戻って……きちまっ……て。  ここにいるって事が……宗家との関係を主張する事がどんな意味を持ってるか……わかってるのに。  覚悟……覚悟、決めて……俺ら、この家……この家の者だって……言いたくて…………譲れなくて…………これだけ、絶対、譲れなくて……」 「…………」 「この……後……有識結界……解けて……外と……。その時……この街は桜守姫の……あの陰湿な野郎どもに……支配され……て……。  わかって……でも……それでもって……どうしても……どうしても……」  沈んでいくだけのはずの言葉が、どうしてかとても腹に重たかった。 「俺らがこの街にかけた……想い……ババアが……ババアが今日まで……死にたくても死ねなくて……やってきた……事……みんなみんな……こんな……事で……。  ……だいいち、タツミに申し訳が立たねえっ……!」  ……今、何て言った。 (巽……だと?)  その時、菊乃丸の光のない目に浮かんでいた雫。 「あいつらはもう関係なかったんだ……! この街から出てって……ちゃんと筋を通して……!  なのに……俺らの都合で呼び戻して……何人も……何人も、死なせちまった……! 取引とか……そんなの関係ねえ! やっぱり俺らがあいつらを殺しちまったんだよ! 畜生めがっ……!!」 (……こいつ、何を……) 「ああ……今回の、策って言ったっけか……ごめんな、ごめんな……!」  俺の名前を呼んだそいつは、目の前にいる俺の事に気付かないまま、一歩一歩、這いながらゆっくりとこちらへにじり寄ってくる。 「言い訳なんてできねえけどよ……でも俺ら、命懸けでやってんだ。  あの太陽……太陽の代わり…………ああお嬢っ!!  なんも知らねえままで……けどお嬢がこれからなろうとしているものは、正気で耐えられるもんじゃねえ……どうかババアを恨まないでくれ。お嬢、ああお嬢……どうか、俺を……ババアの代わりに、俺を……。  う……うう……こんな事で終わらせられねえ。こんな事で終わりになんかさせられねえ!!  俺らはみんな死んでもいいよ! 殺せよ明日宿の狩人どもっ!! でも計画を潰すのだけは止めてくれ!!」  菊乃丸の歩みは、俺が座っていた砲手席まで近付いて─── 「おっ、おい! お前、何するつもりだっ!!」 「──あ?」  そいつは初めて、今ここに自分以外の者がいると気付いたようだった。  誰であったのかなどわかっていなかっただろう。  ただそいつは、自分が今からやる事の邪魔をしようとしている存在だという事だけを悟った。 「っ……!」  内部装甲に縫われた俺の手。  菊乃丸が手にした刀で俺の掌を突き刺したのは、ほんの一瞬の出来事だった。  振り回す事もできないこの狭い空間で、的確に。 「わりぃ。邪魔、すんな……」  こいつの刀の切っ先が掌に突き刺さった瞬間、あの鎖を前にした時のような奇妙な感覚が駆け抜けたが──今はそんな事、どうでもいい。  こいつはいったい、どれほどの間この状態で戦い続けてきたのだろう。  冷静な識別もできないまま、敵であるか味方であるかだけを獣の如き嗅覚で判断していたのか。  そいつはもう、ただ気力だけでそこに立っていた。  決して譲れぬ想いだけで刀を振り続けた。  ……こいつはもう、死ぬ。 「どうか……」  そいつの右手が宙を渡る。  そして眼下の──砲弾の発射レバーを、そいつは見てもいないのに確実に捉えていた。 「どうかこの空明市が平和になりますように」 「嘘……だろ?」  その瞬間、菊乃丸は僅かに正気を取り戻していたようだった。 「防いだ……だと? 直撃を防いだ? 避けたんじゃなく?」  あんぐりと口を開けた菊乃丸は、確かに、目の前の出来事を現実のものとして認識していた。  ただ単身で砲弾の直撃を浴びながら、無傷で立っている白銀の女王。 「例え──例えあの武式傘が直撃に耐え得る代物でも、よ……」  よろよろと、そいつはよろけて。 「砲弾の衝撃をまるまる受け止めた生身が無事であるはずがねえだろ!! 武式傘を持ってた腕も折れてねえって、あいつはっ……!」  絶句する菊乃丸は、目を剥いていた。 「……あの女は、本当に人間なのか……?」  ──その問いかけが、菊乃丸の最期の言葉となった。  次の瞬間には踊っていた彼の頭部。  砲塔が両断されたのだと気付いた時、傘姉の姿はすでにそこになかった。  生きている、という実感だけが残った。  俺の真横にいた、俺と同じ高さにいた菊乃丸の頭部も同一線上にあった装甲も真一文字に斬り裂かれていたというのに。  ……俺だけを擦り抜けて斬った?  生きていたという事よりも、そんな芸当が可能なのかという事の方に驚いていた。  僅かでも動いた瞬間、まるで漫画のように俺の首もごとりと転がる方がまだ現実味がある───  もう俺は、きっとどんな事態が起こっても受け入れる事ができてしまえるのだろう。  対戦車戦を前提としている戦車の装甲がどうのと、むしろ今となってはそれこそが異世界の戯言。  ……結局俺は、思い知るしかなかったんだ。  どんな言葉もこの人には届かない。  言葉に意味はなく気持ちは筋違い。  そしてどんな力を以ってしても、この人は止められない。  殺してでも止める、などという範疇からは外れた世界の理に生きる者。  ───其は武の王者。  明日宿が当主、『傘』の名の継承者───  倒れ込むようにして地面へと立った俺は、傘姉に向き直った。 「…………」  彼女の瞳が、ほんの少し──注意して見ていなければわからないほどにほんの少し、揺らいだ。  ぽつり、と、その唇が言葉を刻む。 「どうして、貴方が泣いているのですか……」  ……俺は泣いてるのか。  殺したいほど憎い奴がいると、悔しくて悔しくて、自然と涙が出るんだな。 「……まさか、貴方は……わたしに同情でもしているのですか?」 「そんな失礼な事するかっ!!」  滲んだ世界に木霊した絶叫。  俺はもう思い知らされたから。  何もできないと身に刻まれたから。  なら、俺にできる事は。  ……受け入れる事だけだ。  もう二度と落ちる事はないんじゃないかと本気で信じ込んでしまえるほど、この身体にまとわりついて離れない堪え難き異臭も。  これから眠りにつく度に何度も繰り返し見る悪夢と化してしまうであろう、網膜に焼きついた目の前の光景も。  雪ってやつは優しくて。  冷たいくせに温かくて。  ……白く塗りこめて覆い隠してくれる。  この空間を満たす罪も痛みも想いも、何もかも。 (……ありがとな)  でも、隠さなくていいよ。  どうして突然こんな猛吹雪が起こっているのかとか。  そんな事、どうでもよくて。  在るがままのすべてをただ受け入れようと。  あれほどの事があったというのに、露ほども変化のない傘姉の瞳。 (だから、それでいい)  それがそういう事なら。 「──傘姉、俺は見ているよ」  俺は傘姉の瞳をじっと見つめ、そして口を開いた。 「傘姉がする事を、全部、一つだって見逃さずに。決して目を逸らさない。  これが傘姉だって言うのなら。これが本当の傘姉だって、これも本当の傘姉だって言うのなら。  迷惑だって言われたって何だって、俺は見ている」 「…………」 「だって俺は、傘姉が好きだもの」  その時、僅かに──本当に僅かに。  彼女の瞳が、動いた。 「それは、どういう意……」  ……なんとなく、わかっていた。  蛙蟆龍だとか何だとか、俺にはよくわからない言葉が飛び交っていたけれど。  傘姉の目的が──『病める舌の願い』とやらにぶつかるものが、いったい誰なのかという事。  白銀の女帝が狙わねばならない相手がいったい誰なのか。  白亜の結晶が舞う山頂の庭に、一人の少女が横たえられた。  当身を食らっているのか、炎と闇における後者側の一人に抱きかかえられ、気を失ったまま転がされた。  とてもよく見知った少女。 「…………」  傘姉は静止していた。  蛙蟆龍を見下ろしたまま、静止していた。  邪魔する者は───  警告はした、目的も告げた。  その上で立ち塞がる者があるならば、実力を以ってこれを排除する。  それはわかる。  だけど、昏倒したままの少女は違う。  彼女は初めから標的であり、そこに彼女の意思などまるで関わっていない。 「…………」  黙したままの当主の吐息を形にすれば、いったいどんな言葉になるのだろうか。  ……きっと、その当主は止めて欲しかったんだろう。  そんな事を言ったって彼女は認めないだろうし、むしろ何の反応も示しはしないだろう。  けれど、心の池の底の底にそっと眠っているほんの少量の砂金は……彼女の気持ちの形に並んでいて。  でなければ、どうして門が開いていた。  そもそも彼女が明日宿に徹し、本気で俺を「邪魔」だと感じていたのなら──俺はきっと、ここには来る事もできなかった。  方法は幾らでもあったはずだから。  ──でも。 「…………」  でもさ、傘姉。 「…………」 「いつまでそうしてるんだ? 傘姉。  さっさと殺せばいいじゃないか」 「……!」  ほんの少しだったけれど。  傘姉が息を呑む気配が伝わってきた。 「俺は止めないぞ、傘姉──いや、明日宿家のご当主」  俺は受け入れるって決めたから。  俺は勘違いをしていたんだ。  彼女は『当主』なんだ。  わかっていた事なのに、勘違いしてた。  明日宿家あってこその彼女。  彼女こそが明日宿家なんだ。  だから決めたから。  彼女が当主としてなす事のすべてを、見届けるって決めたから。  俺は何かを捨てないと、彼女と釣り合いが取れない。  だから、ここで起こるすべての事から目を背けない。  誰が死んでも。  俺が死んでも。  神が死んでも。  ──傘姉が死んでも。  ただ、傘姉。  それはポケットに入ったままだった。  覗き込んだ俺の顔を映し出す、彼女のものだった手鏡。  転がる少女に渡そうと置き去りにされた、彼女の贈り物。 (……ひどい顔してるな、俺)  どうでもいいくせにそんな事を思いながら、俺はそれを、傘姉に向けて。 「うん、綺麗なものが見たいかな」  ──地面に、叩き付けた。  そして彼女は、 「ありがとう」  そう言って、微笑った。 「おね……さま……?」 「…………」  ……わかってる。  わかってるよ。傘姉。  きっと貴女は、当主としての責任を果たす。  だから、その結果として。  蛙蟆龍の命はこの世から失われるだろう。  そんな事はわかってる。  でも、俺は知ってるんだ。  ……俺は、知っている。  貴女が女の子だって事を。  年頃の、とても、とても魅力的な女の子だって事を。  だから貴女は。  当主としての責任を果たして“女の子”に帰るんだ。  その時、貴女が何を思うのか───  ──わかっていたから。  だから俺は、ここまできました。  透舞さんの神社があった山の中を、必死で駆けずり回って貴女の家を探しました。  目的を果たした貴女がたが吸い込まれるように暗がりへと消えた後から、ずっと。  見つけられたのは奇蹟に近かったのかもしれません。  だってもう真夜中ですから。  深夜の山中を駆けずり回って、灯火さえも目立たないように仕掛けを施された明日宿の御家を探し出すのは至難を通り越して不可能の領域だったでしょう。  思ったより山は広く──どころか、地続きの大地を歩き続けるかのように、あの辺り一帯の山は繋がっていたんですね。  だからこれは奇蹟に近い確率だったのでしょう。  でも俺は神様を信じてはいません。  俺はこれを奇蹟だと思いたくはない。  貴女がたが殺したこの街の神様も、尊敬はしていますが信仰というものとは違います。  だからこれは偶然だ。  俺が必死になってつかみ取った偶然だ。  ──そして、決して離してはいけない偶然だ。  ──混じり気のない白。  その少女はまるで穢れを知らないかのように。  白無垢に身を包んだ少女の前に、俺は立つ。 「傘姉は卑怯だよな」 「……そうだね」 「ふたみを…………なのに、自分は責任を果たすとか言って死ぬのかよ」 「責任を果たすわけじゃないよ」 「わかってるよ!!」 「…………」 「……ごめん」 「……何をしにきたの?」 「多分……止めようとしたんだと思う」 「そんな顔してないね」 「…………」  傘姉の心がわかるから。  彼女が今こうして、白無垢を着て、誰も彼も遠ざけて独りでいる理由に気付いているから。  ──でも、俺なんかがこの人の気持ちをわかってるなんて、口が裂けても言えない。  それぐらいは俺にだってわかってる。  俺の中の良心を総動員して、なんとか踏み止まる事ができる。 「それでも……やっぱり俺は、止めようとしたんだと思う」 「……そう」  その短い呟きに返す言葉がなくて、俺は込み上げる想いをどうしたらいいのかわからなくって。 「なっ……なんだよ、この部屋。切腹か? 侍かよ?」  嘆きは苛立ちへと変わる。 「形式的なものだよ。特に意味があるわけじゃないんだ」 「死ねればいいって事かよ?」 「…………」  ……本当にそうなのか? 傘姉。  これは──この作法は、もしかしたら明日宿家の作法なんじゃないのか?  だとすれば意味はある。  彼女が自らの命を絶とうとした時に、自分の生家のしきたりに従ったのは何も不自然な事じゃない。  それはただ、最も近くにあった手段を取ったってだけの事だから。  ……問題なのは。  もしもこれが明日宿家の作法で、彼女があえてそれにこだわったのだとしたら───  それは彼女が、「明日宿家の者として死のうとしていた」という事だという事。 「……もう、出て行ってもらえるかな」  持っていくのかよ。  がんじがらめにこの人を縛って、重い荷物を背負わせて、全身にひとっつも隙間なくこの人と同化して、その上、死ぬ事さえも持っていこうっていうのかよ。 「来てくれてありがとう。見つけてくれてありがとう。  でも、さっくんは──わたしの悲鳴が聞こえたから駆けつけたわけじゃないよね。  わたしは音の声でも、心の声でも、悲鳴なんてあげてないんだから」 「…………」 「わたしがなすべき事を理解してくれたのなら、どうか、出て行って」 「…………」 「見られていたらやりにくい。見られていたら、優しいさっくんの心に何かを残してしまう」 「いかせねえ……」 「……さっくん」 「絶対にいかせねえぞ。なんだよそれ。何かを残す? 見てたって、見てないところでだって、結局何か残るだろ。  傘姉、あんた──俺の告白を聞いてなかったのか!?」 「……だったら、尚更……」 「十より九の方がまし、なんてのは、あんたの勝手な推量だろうが」  一歩、踏み出した時。  それは二歩踏み出したも同じだった。  すでにこの人の儀式は妨害された。  けちがついてしまった。  だから俺は。 「仕切り直す間なんてやんねえからな」  最初の一歩を、飛び込むように大きく踏み出していたんだ───  ──こんな華奢な身体のどこに、あれだけの力があるのだろう。  組み敷いた彼女の腕に指を滑らせ、手首を握り締める。  人差し指と親指の先端がくっつくと、ああ、俺の掌の中で一回りできてしまうんだな、なんて思った。  とても細い腕。  日焼けなんか知らないんじゃないかってくらいに白くきめ細かな肌。  すくい取れば簡単に指先から逃げ出してしまうほど柔らかな髪。  誰よりも女の子らしい女の子の身体─── 「……ねえ、さっくん」 「ん?」 「そんな辛そうにわたしを見ないで」  ──見透かされた一言。 「……ごめん」 「謝ってほしいんじゃないよ。ただ、わたしのせいでさっくんが辛い思いをする必要なんかどこにもないんだよ」  その一言の方がもっと痛い。 「あるよ」 「ないよ」 「ある」 「ないってば」 「どうしてもそう思いたいんだな」 「…………」  傘姉は僅かに黙し、 「……あの事を赦せないって、怒ったさっくんが“思い知らせてやる”って、無理やり犯された方が楽」  そう、静かに口にした。 (──くそっ)  怒ってなんかやらねえからな。 「じゃあ、尚更そんな事してやらない」  だから俺は、そう返した。 「……そっか」  傘姉は苦笑した。 「じゃあ、同情かな」  どこか上の空のようで、でも俺を見つめているかのような瞳。 「違う」  ──ちょっとでも気を抜いたら、この人の心の在り処を見失ってしまいそうで。 「可哀相って、そう思ってるんだ」 「違う」  俺は、必死にこの場に留まろうとしていた。 「お門違いだよ、さっくん。わたしは……」 「違うって言ってるだろ!!」  ──けれど、それはとても不安定で。  知らず、声を荒げていた。 「…………」 「悪い」 「何で謝るの」 「俺を突き放そうとする傘姉の手管に巻かれて、まんまと怒ったから」 「意味わかんないよ」 「俺は俺でいなければいけないから。いきなり大声出して悪いと思ったから、謝る」 「…………」  敵わない相手に対してどうすればいいのかなんて、俺にはわからない。  力とかそんな事じゃなくて、俺はとてもこの人には敵わないって認めてしまっているから。  わからないから俺はきっと必死に自分を保とうとしている。  少しでも自分を見失ったら、この人は簡単に指の隙間から抜け出していってしまいそうで。  怖くて。  怖くて。  仕方がない。  ……あの時。  俺が手を取らなかったら、きっと二度と逢う事はないのだと恐れた時のように。  結局俺は、またあの日に帰ってきた。  けれど、状況が違う、何かが違う。  同じなのはきっと彼女だけで。  ……自分自身だけじゃない。  俺は彼女自身の事をちゃんと見つめていなければならない。  理解はした。  受け入れる事もできた。  けれど、だからといってちょっとでも安心して脇目を振ったら、やはり彼女はいなくなってしまっているような気がしてならない。 「……さっくんは、何をそんなに怖がってるの?」  また見透かされた。 「傘姉がいなくなってしまう事が」  だから俺は正直に答えた。  この人を上回ろうなんて、精神的に優位に立とうなんて、今の俺じゃどだい無理な話だ。  ──必死に食い下がって、やれるだけの事は何でもやって、その上で俺は俺であり続けなければならない。 「そんなに辛いなら……」 「俺が決めた事だ」  静かに、けれど強く、彼女の言葉を制す。 「譲れない」  俺の意思だけは知っておいてほしいから。  俺の心が何処にあるのかだけは、疑ってほしくないから。 「……さっくんのしたいようにすればいいよ。でも、それでさっくんに何が残るの?」 「…………」  言葉にするのは難しい。 「ふたちゃんを殺したという事をさっくん自身まで受け止めて、いったいどうなるの?」  ──だから、押し殺し続けてきた事をはっきりと口に出されて、俺は言葉が出てこない。 「傘姉は……」 「わたしは明日宿の当主だから」 「…………」  ……畜生。 「…………知ってるよ、そんな事」 「独りで背負うには重いから、きっと独りでは堪えられないから、だから二人で背負おう……そう思ってくれているなら、さっくん、わたしは大丈夫だから」 「じゃあ、どうして白無垢なんか着てるんだよ!!」 「それとこれとは別なんだよね」  言葉。  気持ちを伝えるのも、知るのも、言葉。 「わたし、ふたちゃんが大好きだったから……」  そう呟いて、傘姉が静かに瞼を閉じた。  言葉。  言葉なんて、無力だ。  何も出てきやしない。  何一つ変えられやしない。  ──彼女を救う手助けになんざなりやしない。 「……何もかも、悟りきったような顔しやがって」 「それは違うよ、さっくん。わたしは……」 「違わねえよ!!」  ──ああ結局、俺はまた大声を上げて怒鳴っていて。 「全部が全部、果たさなきゃいけなかった……果たして当たり前だった、そんな……それがたまたまふたみだったとか、そういう……」  不甲斐ないのは俺なのに。  頭にきてるのは俺自身になのに。 「だから傘姉は死ぬのかよ!!」  彼女を責めるような言葉を吐く。 「そうだよ」  穏やかな、けれどはっきりとした声。 「だってもう、蛙蟆龍はいないもの。『傘』はもう必要ないもの。 『病める舌の願い』は果たされた。  ……だからわたしは、わたし自身の好きなようにする」  俺の知ってる、傘姉の声。 「そん……な……のって」 「死ぬ自由ができたんだよ」  その言葉に何も言い返せない。 「もうわたしは当主である必要もないんだよ。剛を以って当主を選別してきたのは、“如何なる者よりも強い”必要があったから。  ……でももう、その必要もないんだ。  わたしがいなくなっても、他の、皆を取りまとめる事ができる者が当主を継げばいいの。 “わたしである必要”がもうないの」 「…………」 「明日宿は明日宿のままだけど、『傘』はもう必要ないから」  続く言葉が、また一つ、背中に石を積み上げる。  死ぬ事は自由なんかじゃねえよ、とか。  やりたいようにやって自分は勝手に死ぬのかよ、とか。  ──そんな当たり前の、当たり障りのない、一般論が喉許まで押し寄せてきたって。  それは何一つ彼女には響かないし、俺自身、何一つ心を込める事はできない。  意味がないと知っている。  意味がない事はしたくない、とかじゃなくて、意味のあるなしですらなくて。  彼女が住まう世界から、彼女が背負う領域から、俺から足を踏み外すような真似だけはできないから。  ……どうしてこんなに石を積み上げて、彼女は立っている事ができたんだろう。  押し潰されそうな俺との差を思い知る。  思い知るけれども。  押し潰される事もなく立っていた、立ち続けていた彼女が、遂に自分からそれをやめたという事が。  きっと、俺にこう言わせているんだと思う。 「俺は、“傘姉である必要”がある」 「…………」 「俺は、傘姉じゃなきゃ嫌だ」 「……また……告白されちゃった」  傘姉が朗らかに微笑った。  ──本当に嬉しそうに。 「でも、それだったら尚更。わたしを好きになってくれた人を、こんな事に付き合わせるなんてできないよ」 「嫌だ」 「告白されたんだよ。わたしだって、ちょっとくらいいい女でいたいよ」  拗ねたような傘姉の表情。 「嫌だ」 「さっくんってば」  困ったような傘姉の表情。  どれも、これも、傘姉。 「告白って言ったよな、傘姉。だったら俺は、告白はしたけど返事はもらってない」 「……そっか」 「そうだ」 「じゃあ言うね、さっくん。わたしは……」 「いらない」 「え?」 「答えなくていい」 「え、え〜……?」 「代わりに質問するよ。傘姉は俺の事が嫌いか?」 「……そんなわけな……」 「じゃあもう、それでいいだろ」 「そ……」  傘姉が一瞬、言葉に詰まった。 「それってズルイよ、さっくん。それじゃわたし、何も言えないじゃない」 「ああ、ズルくて結構だ」  ──そのまま。 「んっ……!」  俺は、傘姉の唇を奪った。 「んんんっ……ん……」  取り止めもなく。  つたない。  初めてのキスは。  甘い香りと。  悲壮な決意に似た覚悟の冷たさを感じた。 「ぷはっ」  ようやく顔をどけた俺の前で、やっぱり傘姉は拗ねたような顔をして。 「さっくん。わたし、初めてなんだよ」  それはきっと本当なんだろうけれど、今この時、そう口にする彼女の気持ちがわかってしまって。 「もうちょっと優しくっていうかね、ロマンチックなね……」  おちゃらけたように飛び交う言葉が、彼女の痛みを助長する。  ……違う。  痛がっているのは俺だ。  この人はどこまで優しく在ろうとするんだろう。  この人がこんな言い方をしているのは、いったい誰の為なのか──その答えを、俺は初めから、きっとこの人と出逢った時から知ってしまっていた。  そして同時に。  ──今、彼女がどれほど自分を大切にしていないかが流れ込んでくるかのようで。 (……だったら)  俺はどこまでも彼女を大切にしてやろうと、そう決意した。 「んっ……」  首筋に這わせた唇の動きに、傘姉の身体がびくりと反応する。 「傘姉……」 「んんっ……ん……」 「首筋……弱いんですか?」 「わっ……わかんないよぉ……」  吸い付くかのような肌に軌跡を描きながら、俺はつたないながらも彼女の反応を得ようと必死だった。  俺の何かが彼女に届くようにと懸命だった。 「んくっ……!」  曲線をなぞり上げるだけで傘姉の顎が大きく浮く。  でもそれは、俺の願いが届いたわけじゃないだろう。  そんな事はわかってる。  けれど。  とても敏感な傘姉の肌は、稀有の才能を持って生まれた彼女に与えられた救いだったのかもしれない。  そんな事を思って少しの安堵を得た。  ──誰かと対峙を成せば。  勝って当たり前。  滅ぼして当たり前。  死ななくて当たり前。  ……彼女にとっての“当たり前”が、少しは和らぐんじゃないかって。 「んっ……くぅん…………はぁっ……」  くすぐったそうな、けれども僅かに上気の篭り始めた吐息が、彼女がほんの一時でもその事を忘れていられるのだという事の証明だと願って。  俺は夢中になって行為を繰り返した。 「はぁっ……ん、んんっ……くぅ……ん」  どこかへ行ってしまえ。 「はぁっ……ん、くぅっ……」 『明日宿』なんて──彼女と遠い世界へ行ってしまえ。  けれど俺は、彼女がその『明日宿』そのものだって事も知っていて。  だからこの願いは彼女自身を遠ざける事にしかならない矛盾を抱えているってわかっていても。  それでも俺は夢中で行為を繰り返す。 「ふぅ……ん、さ、さっくんってば。もう……」 「やめませんよ」 「…………」 「やめません」  止めたいなら俺をどうとでもしてください。  貴女になら簡単でしょう?  ──その言葉は俺の口から零れない。  俺は卑怯者になって、卑怯者のまま、開いているはずなのに見えない彼女の傷口に触れる。 「ずるい子」  はい、すみません。 「傘姉は……自分を幸せにしようとは、考えないんですか?」 「ん……なに……それ……?」 「幸せになろうって……普通、幸せになりたいって……」 「どうして……さっくんがそんな事を考えるの……?」 「……考えますよ」 「わたし、普通じゃない……?」 「そういう意味じゃありません」  ──じゃあ、どういう意味だ。  彼女が在る世界に飛び込んだところで、俺は即座に押し潰されるだけで。  当主としての責任を果たして、彼女が、昔、俺の知っていた──あの家で過ごした頃の彼女に戻るといったって。  傘姉はやはり明日宿でもあって。  気持ちの在り処の証明がこの白無垢だとしても、背中に積み重なった石を彼女は退かそうとはしない。  それがどれほど重くても、心の重荷であっても、それを退かしたら傘姉は傘姉でなくなってしまうから。  彼女を育てたのは石の明日宿だから。 「…………」  ──だったら。 「あっ」  俺は彼女の襟首をつかむと、そのまま衣服を脱がしにかかった。 (こんなもの、脱いでしまった方がいい)  そうして生まれたままの彼女を見つめて。  明日宿色の鋼をした白銀を見つめて。  これほどの石の重みですら沈まない彼女の下敷きとなろう。 「さっく……」  貴女は下を向かなければいい。  下を向いたら、貴女はすぐに退いてしまうから。  ──俺は貴女の知らないところで、貴女の土となろう。 「…………」  見透かすな。  ──無垢ほどに透き通る瞳で、俺の心を見透かすな。  俺だって、ギリギリのラインで立っているんだ。  今はどうか、その事を俺に突きつけないでくれ。 「…………」  負けないよ、と、そんな声が聞こえたような気がした。 「んっ……と」 「さ、傘姉?」 「こうしたら……さっくん、喜んでくれる?」  下ろされたジーンズから飛び出した幹に伝わる、あたたかな感触。  傘姉の胸に挟み込まれた怒張は脈打ち、互いの温度を分け合っていた。 「……嫌?」 「嫌、だなんて、そんな……でも、どうして……」 「…………」  やはり見透かされているのか。  それはあまりに唐突なのに、何故だか自然だと受け取れてしまえる流れ。 「ふふふ。おねえさんが可愛がってあげる」  でも、傘姉。 「気持ちよくしてあげるね」  貴女が無理をしちゃ意味がないんだ。 「んしょ……んしょ……」  手馴れていないその動きが、彼女の無理を俺に教える。 「い、いいよ傘姉。無理しないで」 「無理してるのはさっくんでしょ」 「違うよ」 「違わないよ」 「俺は、無理なんか……」 「してるでしょ」 「…………」  ──たった一言で、何歩も先の一手を打たれたかのような感覚は。  きっとこの人以外だったら、「そんな事ない」なんて言いながら自分を誤魔化す事もできたんだろうけれど。  明け透けの本心をすべて見透かされている瞳の前では、続く言葉がなくて。 「なんか、すごいね。脈打ってる……」  豊満な胸の谷間に挟み込んだ俺の温度を感じながら、上下に動かす傘姉の頬が染まっていくのがわかった。 「……なん……か……ふふふ、変な感じ……」 「くっ……」 「あ、あれ? もしかして、気持ちよくなってくれてるの?」  そんな事を言いながら、上目遣いに俺を見上げたりしないでくれ。 「……なんか、さっきよりも……」 「うっ……っ」 「…………」  だから、見ないで─── 「ふふふ。遂にわたしの時代がきてしまったようだね」 「さ、傘姉。そんな……動かさ……」 「こんな感じ?」  傘姉の双球は、それ自体がまるで意思を持っているかのように艶かしく動く。  包み込まれ擦り上げられ──張り詰めた怒張はその度に過敏な反応を示す。  翻弄されるがまま身をよじる俺を、傘姉は嬉しそうに見ていた。 (く、そ……)  抵抗を試みるも、力は入らずただ押し寄せる快楽の波に呑み込まれていく。 「ふふふ。こうしたら……どう?」  コツをつかんだのか、傘姉の胸の谷間で俺は左右の柔らかい崖にいいように刺激されていく。  受け取るばかりの刺激なのに、それはどうしてか傘姉と一体になったかのような錯覚を覚えさせて───  蕩けていく。 (くそっ……!)  届かない。  その動きからも初めてだってわかるのに、俺はやっぱり傘姉に包み込まれている側で。  擦り上げられる度に俺は腰を浮かせてしまって、込み上げる甘い痺れに必死に抵抗するも──無駄だと思い知らされて。 「ごし、ごし、ごし……ふふ、さっくん」  彼女の一言一言が俺をより敏感にさせていく。 「な、なんです……か」 「してほしい事があったら言ってね?」  ──どうしても、この人には敵わないのだと。 「してほしい事、なんて……」 「遠慮しないでね?」  どうすればいい。  強弱をつけて擦り上げられる幹は固まり、亀頭を中心とした一帯は真っ赤に腫れ上がって限界を伝えている。 「お? お〜? まっかっかだよ」  彼女は自らの谷間に挟み込んだそれを覗き込むように見つめながらも、上下に揺すりあげる動きをやめない。 「ねね。さっくん、なんだかすごいよ?」 「さ、ね……」 「さっくんってば。ほらほら」 「さっ……傘姉、俺は──」 「わ……」 「ご、ごめん」  限界に達した俺は翻弄されるがまま胸の動きに合わせて射精していた。  飛び出した精液は傘姉の顔に飛びかかり、彼女の白い肌を違う色の白濁で染め上げている。  驚いたように見つめる彼女の目線の先には、びくりびくりと震える先端があって。 「ふふふ。さっくん、男の子だね」  なんだか可愛いとでも言いたげに、傘姉が微笑んだ。  ──チクショウ。 「すいません……」 「気にしないで。なんだか貴重なものが見れたみたいで、得した気分だよ」  ……チクショウ。 「まだ……です、まだ……」  俺にはやらなければならない事がある。  このままじゃ駄目だ。  俺は引くわけにはいかないんだ。 「……そっか」  傘姉は未だ充血の治まらぬ俺の怒張を見つめていた。  そそり立つ幹が震えるまま揺れ動く亀頭を、じっと見つめていた。 「さ、傘姉!?」 「こう……したかったんだよね、さっくん」  やめろ。 「じゃあお姉さん、ちょっとだけ勇気を出してみちゃおうかな」  違う。  こんなんじゃない。  これじゃさっきと同じ─── 「んっ……!」  二人が一つになる。  唐突に、それはあまりにも呆気なく。 「っ……!」  柔肉を掻き分けて進んでいく感覚が俺の足を痺れさせる。 「んっ……んんっ……!」  膣壁は初めての異物に怯えるように凝り固まり。  けれども力を抜いて、傘姉はなんとか俺を呑み込んでいこうとする。 「はっ……ん、んん……んっ」  彼女の目を通したこの世界とは、いったいどんな在り様なのだろうか。  ──今、潤んだ瞳で見つめる世界は、少しでも滲んでくれているのだろうか?  緩やかに輪郭がぼけて、遠くのものは霞みに消え、近くのものだけがやっと認識できる───  その為に俺はここへ来たはずなのに、どうして俺が彼女に包み込まれている? 「──今、傘姉の前には俺しかいません」  言わなくちゃ。 「うっ……ん」  段取りとか、順序とか、そんなもの初めからなかったけれど、それでも彼女のペースに呑み込まれてしまっている事に気付ける内に。 「だから」  朧の世界にどうか。 「俺だけを見ていてください」  独占染みた愛の告白に似た台詞が、彼女の世界をそのまま朧で包み込んでしまいますように。 「んっ……んん、んんくっ……」  奥へと沈んでいく俺を受け入れながら、繋がっている俺さえも見えなくなったら。 「あっ……さ、さっく……ん」  彼女はきっと、ほんの少しだけ眠りにつける。 「痛い……ですか?」 「……痛くない」 「平気ですか?」 「うん。平気……」 「…………」  平気、と傘姉は言った。  その言葉が、俺には、我慢とか気遣いとかそんなものじゃなく、痛みに慣れてしまった彼女が発するもののように聞こえてしまって。 「……っ……」  胸の奥底で、ちりっと、何かが爪を立てた。  ──この痛みを分かち合う事はやはりできない。  ほんの少しでも、肩に担ぐだけでも、なんて淡い期待はもう持たない方がいい。 (……不甲斐ない)  それは承知した上で、やはり俺はこの人の土になるべきなのだと改めて思う。  彼女が世界を閉じたまま優しい眠りにつける、柔らかな土に。 「ふふふっ……はいっちゃった……ね」  互いの茂みが触れ合った時、幹は根元まで彼女の内側に納まっていた。  ──いや。  包み込まれていた。 「ええ」 「……さっ……くん」 「はい」 「敬……語」  僅かに荒げた吐息混じりにそう言われた時、ふっ……と、緊張が緩んでいた。  ──ああ。  俺は、このまま……。 (くそっ……!)  それでも土に。  彼女に踏み締められるその場所へ。  ゆっくりと俺が動こうとした矢先、それを察したかのように傘姉が腰を動かし始めた。 「傘姉……!」 「ふふっ……ふ。こういうのはね、年上がリードするものなの」  互いが初めてなら、年上も何もないだろう──そんな言葉は彼女には届かない。  動く度に彼女の内側を抉っているかのように、充血した膣壁が柔らかさを持てずに幹を擦りあげる。 「うっ……」 「あっ……これ、気持ちいいのかな……」  ──痛いのは彼女に違いないのに。  彼女は身体のすべてを使って俺をもてなす。 「さん、ね……」 「へいき」  微笑う。  また彼女は朗らかに、俺を包み込んで微笑う。 (どうして)  もう、その疑問は湧いてこない。  これが傘姉。  これが、俺が好きになった人。  人知れず為し遂げようとしていた事を邪魔されて、侵入者のはずの俺をもてなして。  だからこれは、恋人同士の目合なんかじゃない。  間違っても違う。  ──これは奉仕だ。  俺は今、血まみれの聖母と肌を重ねている。 「あっ……ん、くぅん……!」  ──近い。 「ふふふ……してほしい事があったら言ってね……?」  彼女は「遠い」という存在感を感じさせない。  ただ、近付こうとすればするほどに彼女の重みを思い知らされるんだ。  いつだって傍にいるのに、自分なんかとは格が違うのだと思い知らされる。 (ハッ……!)  この人に並べる男なんて、いったい何処にいるってんだよ。 「はぁっ……ん、ふぅ……ぁ、く……」  抽挿の度にぶつかるように触れ合う互いの性器は、すでにどちらの熱がどちらのものであるかすらわからないほどに充血してお互いを温めあっている。  こなれてきたのか、柔らかさを増してきた膣壁は先程とは違った形で、今度は絡みつくかのように俺を締め付け、俺の身体に女を教えていく。 「うっ……く、はぁん……」  傘姉が動く度に胸の双球もまた大きく震え、ほど近くまで密着している俺の肌に乳首が擦れる。 「あっ……!」  顎を大きく浮かせて、傘姉が反応する。  ──敏感な肌は、彼女にとっての救い。 「ぅっ……あ、あふぁん……!」  慣れてきた彼女の吐息は湿り気を帯び、動きもまた快楽を吸い上げるかのように艶かしくなっていく。  ──救い。 「さっ……くぅ……ん」  身体に流れ込む刺激に抗えず反応する俺を見て、潤んだ瞳で彼女が微笑む。  救……い……。  救われてるのは、俺だ。 「あっ……!!」  突然、上へと激しく突き上げた俺の行為とそれによる刺激に、傘姉が驚くように身を大きく震わせた。 「さっ……く……?」 「──嘘ですよね、傘姉」 「え……?」 「さっき傘姉は、もう自分が当主である必要なんかないって──そう言いましたよね」 「ん……ん? それが……どうした……の?」 「それが嘘なんです」  俺は倒れ込むようにして傘姉を押し倒す。 「嘘……じゃ、ないよ」  唐突な俺の行為に目を見開いて、彼女は覆い被さる格好の俺を見上げていた。 「いいえ、嘘です。『病める舌の願い』っていうのは、蛙蟆龍を討つこと自体が目的じゃないでしょう。 『病める舌の願い』に抵触する存在……いえ、“行為”の一つが、蛙蟆龍だったんでしょう。  明日宿家は、あの家の動向を見守るって遠い昔に決めた。最後の最後まで見守って、もしもその上でとならば、って、そう決めてたんだ。  だから『傘』が必要になった──だとしたら、確かに『傘』はもう必要ないかもしれない。  けれど『病める舌の願い』が明日宿家の理である限り、背骨である限り、やっぱり当主は剛を以って決められるんだ」 「…………」 「傘姉が嘘じゃないって言ったのは、『病める舌の願い』を貴女自身が犯したからだ」 「さっ、くん……」 「貴女が自ら死のうとした行為は、『病める舌の願い』に触れるものなんだ。触れるから貴女は死のうとしたんだ──ふたみに詫びる為に!!」 「…………」 「貴女は『傘』だった。明日宿家の当主だった。だから『病める舌の願い』を遂行しなければならなかった。  ──だから。  だから貴女は、死ぬ事で明日宿家の当主を辞めるつもりだったんだ。  自ら死ぬ事で罪人になるつもりだったんだ。 『傘』である貴女が当主である必要がなくなったんじゃない──『病める舌の願い』を犯して罪人となった貴女が当主である事が許されないんだ!」 「あっ……!」  激昂を叩き付けるかのように、俺は激しく彼女を突き上げる。 「貴女は明日宿家の当主である責任を果たした。  心が引き千切られるほどの絶望と苦悶と引き換えに、貴女は先祖の願いを果たしてやった!」  昂ぶりのまま、彼女の内に侵入した自身を膨張させて突き上げる。 「あっ……! んんっ……! んぁぁっ……!」  ごつごつと、恥骨がぶつかり合う卑猥な音が夜の静寂に響き渡る。 「──そうして知らしめてやるんだろう! 『病める舌の願い』を果たした当主の末路を、明日宿家に知らしめてやるんだろう!!」 「どう……して、さっく……」 「俺がそんな事にも気付かないって──気付いてないって! 本気で思ってるのか!?」 「んん〜っ! んぁっ! あっ!」 「俺がムカつくのはな、貴女が初めから終わりまで自分の命の重さを少っしも考えてないって事だ!!」  ──俺は叫んでいた。  押し寄せる衝動のまま彼女を責め上げながら、猛る気持ちを声に出して叫んでいた。 「冗談じゃねえぞ、傘姉!!誰も放ってはおけない!やるべき事がある!自分に従う明日宿家の人々!俺ら!たった独りで──出口のない迷路に迷い込む事すらもできなかったから!!」  もう、止まらなかった。  傘姉が明日宿家の形式に乗っ取っての死に方を選んだのは、その為なのだと気付いた時から。  ──彼女の不幸は。  その重みに耐え切るだけ彼女が強かったという事。 「さっ……さく、さっく……ぅっ……ん」 「だから、傘姉」 「ふぇっ……え、え……?」 「逝くなら俺も一緒に連れていってもらう」 「えっ……」 「嫌とは言わせないからな」 「なっ……に、言ってるの、そんな事……」 「そうだよな。できるはずがない。  もしできてたら、俺はあの庭で一緒くたに首を並べていたんだから。  わざわざ俺だけ避けて斬るなんて器用な真似をする理由なんか本当ならどこにもないんだから」 「…………」 「無関係な者は巻き込めない。そんな事を思ってるなら、俺は無関係じゃない。  むしろ、張本人は俺だ。  ──俺が傘姉を選んだから。だから傘姉は動かなければならなくなった」 「それ、は……」 「いまさら関係ないって、そう言うんだろう。わかってるよ。  自分はその結果を受け取って動いたんだから、動いた結果は選んだ者には関係ないって──でも、俺はそんなふうには思わない。  傘姉を苦しめたのは俺だ」 「それっ……は、違うよ、さっく……んんっ……!」 「じゃあ傘姉がやってる事はなんだよ。  ──何もかも背負って。たった独りで背負って。  ああ、貴女は強いよ。押し潰されないでいる貴女は、強いよ……強すぎるよ」  駄目だ。  もう、駄目だ。 「どうして誰にも頼る事ができなかったんだよ!!  なんで泣けなかったんだよ!!」  わかってる。  こんな事を言っても仕方ないんだって。  彼女は俺には想像もつかない重みを背負って、そして、それに耐え切れてしまう人だったから。  あまりにも強すぎたから。  ただ、俺は、無性に……。  ……無性に、悔しかったんだ。 「わかったよ、傘姉。もっと簡単な言い方をする」  ──俺の初恋は血の中に流れていく。 「貴女が好きだから、独りでなんて逝かせない」 「さっ……さっく……」 「もう敬語も使わない。絶対に。分不相応だとわかっていても、俺は貴女の隣にいる」 「駄目、さっくん……!」 「もう決めたから」  ──これは本来、新たな生を産み出す為の崇高な儀式のはずなのに。  俺たちは、互いに死にいたる為にまぐわい続けた。 「あっ! あっ! あっ……!」  腰を浮かす甘い痺れが込み上げている。  そのせいで膨らんだ亀頭が、激しい抽挿と共に彼女の膣内を擦り上げている。 「だめ……らめぇ……」 「好きな、人を……」  もう嫌だ。 「惚れた女を大切にできないのなら、男なんか廃業した方がマシだ」  もう、貴女の強さに屈服して、包み込まれる甘えに居心地の良さを求めるのは嫌だ。  貴女はいつも微笑っていたけれど。  俺はきっと、本当は。  ──本当は、たった一度だって貴女の笑顔を見た事はなかったんだ。 「だめぇぇぇぇぇっ!!」  だから俺は、終わりに至る為に精を放つ。  新たな命の種を、終末に向けて注ぎ込む。 「あっ……あ……」  勝手だよな。  でも、強すぎる貴女の傍には、勝手な男じゃないといられないんだ。  ごめん、と、言い出しかけた言葉を呑み込んで。  俺は、彼女の膣内から零れ出てくる精を見つめていた。  ──無理なんかしてない。  俺はとてもとてもひどい事をしたけれど、一歩だって引く気はないから。  そう思いたかった。  けれど、今朝、家を飛び出してから今この時までの疲労の積み重ねが、精を放ったら一度に襲ってきて───  ……気付いたら意識が飛んでいた。  ──中断された儀式。  彼女が最期の締め括りとして執り行うはずだった事。  決行に変更はない。  自分はそうしなければならないのだから。  償いなど許されはしない。  けれど、そうしなければ自分を赦せない。  なのに。  刃の切っ先は、己の身を抉らない。  風が泳ぐ。  雲のなくなった空を渡る。  縁側から見上げる、彼女が作り上げた空。 「……わたしが……死んだら……」  何故、こんな事を呟くのか。 「さっくん……は、哀しんじゃうん……だよね」  自分でも、不可解だとは思いながら。  しかしそう思うと、腕が動かなくなる。  彼は『病める舌の願い』を“咒い”だと言った。  明日宿を祟り続ける呪詛だと。  ──ならばこれも“咒い”だと、彼女は思う。  この夜を明かす前の自分なら、彼と肌を重ね合わせる前なら、きっと、彼に「ごめんなさい」と謝りながら首筋に刃を当てる事もできた。  けれど、今はできない。  少女でなくなった今の自分は、この身体が少女である事を取り上げた男が崩れ落ちる姿を想像するだけで、「もしも」と思ってしまうだけで動けなくなる。  これこそ呪詛でなくてなんだというのか。  けれど。  これだけはわかる。  一緒にはいられない。  それだけは真実なのだと強く思う。  自分は幸せにはなれないのだと。  自分は、誰も幸せにはできないのだと。  そう、理解してしまった時。  傘は、生まれて初めて涙を流した。  強すぎた、あまりにも強すぎた彼女の涙腺が、初めて震えた。  ──雲のなくなったこの街の星空が、それを見下ろしていた。 〜ラベル『傘エピローグ』の内容は記述されていません〜  ──『鳥の森』において。  小人であったはずの者が鳥へと姿を変える。  刻の到来を告げる為に。 「最初の刻を告げるのは、赤い雄鶏フィアラル……」  少女はいつからそこにいたのだろう。 「そういえば、あの小人の名前もフィアラルでしたね……弟は……ガラールはどうしたのですか?」  ──フィアラルと呼ばれた者は、言いかけた言葉があった。  だが、次の瞬間──瞬間?  瞬間などというほどの時すらも要せず、フィアラルはその口を塞がれていた。 「最初のあなたが鳴かなければ、二羽目の雄鶏も鳴かない。二羽目が鳴かなければ、三羽目の雄鶏も鳴かない。  これで、最後の戦争が始まる順序は崩れる」  最後の戦争としない為にここへきた、と、そう言った。 「わたしは死に損ねたの」  もう『傘』ではないわたしは、いったい何者なのだろう、と。  フィアラルと呼ばれた小人は、目の前の少女に面影を見ていた──遠い昔、自分たち兄弟の宝物を奪っていった巨人の面影を。 「死ねないの……」  こんな事態は予言には語られていない。  すでに決定されくつがえる事のない、ただなぞりあげるだけのはずの予言なのに───  何故、ここに少女がいる。  何故、この『鳥の森』にこのような少女がいる。  そして何故、自分はくびり殺されようとしているのだ。 「わたしはいったい……何を……してるんだろう……ね……」  ──なんとなくわかっていた。  俺は俺なりに身体を張って、磨り減るまで心を使い続けて、なんとかあの人の気持ちを理解しようとしたんだ。  だから、ああいう事があったからこそ、あの人が俺の前から姿を消すという事は……わかっていた。  そして、あの人が自らの手に自らの血を浴びる事がなくなった───  いや、できなくなった、という事も。 (……卑怯者は俺だ)  あの人が死ねなくなる事をわかっていた。  わかっていて、ああしたんだ。  俺は罪を犯した。  ずっと気になってたんだけど、あの時、彼女の指先から閃いた鉄火に当主が打ち倒された辺りから──『クモイヌイ』という言葉が聞こえていた。  相食む両家の争いの中で、怒号であったり悲嘆であったり、叫びの中にその音があった。  ……今となっては、それが何であったのかはわからない。  けれど、俺が唯井家だと思っていた御家の名前が雲戌亥家──それだけは事実であったようだ。  あれから少しの間、皆はそれぞれまちまちな言い方であの家を呼んでいた。  しかしいつの間にか、不自然なほど自然に統合され統一されていった。  それはきっと、外とのやり取りが──出入りが自由となったこの街が、今では東京都の市の一つとして認知されているという事と同じなのだろう。  街は「突如出現した」という形にはならず、当たり前のように地図に加わり、当たり前のようにこの街を訪れる人もいれば出ていく人もいる。  不自然に消えた街は自然に世界に溶け込んでいく。  それから、外と繋がった事でわかった事だけど、あの吹雪が吹き荒れたのはこの街だけではなかった。  なんと、全世界で一斉に巻き起こった現象だったそうだ。  原因は未だ不明。  学者たちは頭を捻りながらも諸説云々、弁を戦わせ、神秘学好きな連中たちはこぞってある事ない事言い出した。  ──明日宿家はあれ以来、一切の姿を見せなくなった。  もともと人目に触れるように動く相手ではないし、捜そうと思って捜せる相手でもなかったのだろうが、どうやらこの街からいなくなったようだと最近になって確信した。  あの人が言っていた通り、明日宿家から『傘』を生む必要はもうなくなったのだ。  この街である必要は最早どこにもない。  彼らは今頃、何処かで『病める舌の願い』を果たす為に動き続けているのだろうか。  新たな当主の旗本で。  全部、あの人は知っていたんだろうか。  みんなみんな、知っていたんだろうか。  ……懐かしいこの街の空気。  見上げた空に広がる氷片の群れが月と星の明かりを隠す。  けれどそれは、見慣れた群雲ではない。  あの雲を追い払ったのは他ならない、この手なのだから。  かつて獅子の箒を身につけて、十二の星座の一つに数えられた。  ならばそれはわたしがなした、赤黒い鉄の照陽菜だったのだろう。  ──あの頃、お気に入りだった服。  わざわざ似たものを探してきてまで。  いったい何をしているんだろう。  誰かに見つけてほしいのだろうか。  ……ここにいると、気付いてほしいのだろうか。  ──夜が明ける。  けれど空は塞ぎ込んだまま。  瞼を閉じて陽光を遮断する。  雨は降り続ける。  情緒も風情もなく、ただしゃにむに地を叩き付けるかのように降り続ける。  ──雨の中に人影があった。  カサを持たない人影があった。  それは駆け出すでもなくのんびりでもなく、ただ、しっかりとした足取りで近付いてくる。  わたしが逃げ出さないと、まるで確信しているかのような足取りで。 「おかえり」  最初の言葉は、なんとなくわかっていた。  彼はいつだって、誰にだってそうだったから。  けれど、続く言葉をわたしが返すわけにはいかない。 「独りで平気だった?」  次に彼は、そう訊いた。 「きっと、ずっと独りでも平気だったんだろうね」  わたしが何かを言い出す前に、彼はそう続ける。  こんな時の彼は、いつものように優しくて、いつもよりもずっと男らしい。  わたしはそれを見ているのが、見守っているのが、大好きだった。 「俺は無理だよ。独りじゃ寂しくて生きていけない」  ──ああ、そうか。  そう続ける為だったのか。 「……相変わらず、ずるいよ」  それが、わたしの第一声。  雨音に溶けたわたしの響き。  ほんの少しだけ、拗ねた声が滲んでいた。 「ごめん」  謝るけど取り下げない、そう言いたそうな顔にわたしは苦笑する。  ──ねえ、さっくん。  わたし、貴方の事、好きだよ。  あそこまで男を魅せられたら、女の子はみんなその気になっちゃうよ。  でも、でもね。  ──ね? わかるでしょう? 「無理だって──」 「『てる』」 「えっ……」  湧き上がったのは、懐かしいという気持ちすら懐かしい気持ち。 「ど、どうして……」  わたしはうろたえていた。  だってそれは、あんまりにも遠い過去の響き。 「『傘』ってのは、かつて閉ざされていたこの街で、始祖の願いである『病める舌の願い』を──それに抵触する、蛙蟆龍に対すると決めた明日宿家の当主が代々受け継いできた名前だ。  貴女はその名を襲名した時、まだ七歳だった」 「……うん」  わかりきった筋道をなぞる彼の口調は、いつだって次の言葉に繋がっている。 「だったら、『傘』になる前の名前があるはずじゃないか」  それは、確かにそう。  でも、どうして。 「蛙蟆龍は恵みを望んだあの家の人々の願いが込められた存在だ。  だから俺たちの知っているあの娘は、そうあるようにと二見と、双水と名付けられた」  よく調べ上げた──いや、違う。  彼は気付いたんだ。  彼はいつだって、その物事の意味を、本質を、真摯に向き合って考える人だった。  だからわたしは、彼の背中を支えるのがとても好きだったのだから。 「そして『傘』は、その雨を防ぐ者の頭上に抱く冠の名前だった。  でもそれは、当主として負うべき、継ぐべき称号。  だったら貴女にもまた、そうあるようにと願いを込められた名前があったはずだ。  この世に生を受けた一人の女の子にあげた、ご両親の最初の贈り物が」 「…………」  わたしはいつの間にか、黙って彼の言葉に耳を傾けていた。  ──何を?  わたしは何を期待しているの? 「貴女は『てる』。  生まれてきてくれてありがとう、『晴』──って、貴女のご両親がそう名付けた。  傘は雨が降り出したら差すもの。  あの家が雨を降らせれば傘は動き出す。  だから雨なんか降らないでくれって、ずっとずっと晴れていてくれって、貴女のご両親は願った。  貴女はその願いの結晶なんだ」 「……うん。でも、わたしはその七年後にはもう……」 「たった七年だよ、てる」  強い口調でそう告げる彼。  ねえ、どうしてわたしをその名で呼ぶの? 「俺はずっと、貴女の本当の名前を探していた。  その為にここに残った。いなくなってしまうだろう貴女を追いかける事もせずに、ここで待ってた」 「なんの……為に」 「貴女を貴女の名前で呼ぶ為に」  その事を思い出してほしかったから。  そう言って、彼は問いかけた。 「もう、『傘』はいない。この世の何処にもいない。  ──じゃあ貴女はいったい誰?」 「わたし? わたしは……」  …………。  ……どうしてだろう、言葉が続かない。 「動かそうよ、てる。止まっていた貴女の時間を」 「時……間?」  わたしは彼の言葉に鸚鵡返しをする事しかできずに。 「七歳で『傘』の名を継いでから、貴女はずっと当主として生きてきた。ずっとずっと『傘』の時間だった。  だから動かすんだ。  七歳の時から止まっている、てるの時間を」 「…………」  駄目だよ。 「動かそう」  言わなきゃ。  だって、そんな。 「そんな……」 「なかった事になんかならないよ」 「え?」 「都合がいい、って言うんだろう? でも、てる、なかった事になんかならないんだよ」 「…………」 「貴女が『傘』としてなした事は、どうやったってなかった事になんかならない。  貴女は明日宿だ。明日宿の御家に生まれた事実は決して変わらないし、なくなったりしない──だから、先代当主の明日宿傘がなした事は、決してなかった事になんかならない。  明日宿傘は貴女に違いないんだから」 「……そうだね」 「でも、これから貴女に流れる時間は、もう『傘』じゃないんだよ。  これから先は、何をどうやったって、てるの時間なんだ。  それが良くても、悪くても。  感謝しても、後悔しても」 「…………」 「七歳──なったばかりだったのかい? それとも、八歳近かったのかい?  どちらにしても、たった七歳だ。てるはたったそれだけしか生きていない。  だから、たくさん増やすんだ。てるとしての思い出を、てるとして過ごす時間の中で」  ねえ、さっくん。  貴方、何やってるの?  そんな事を言う為に、ずっと待ってたの?  貴方にとって辛い思い出もいっぱいあるはずのこの街で、もう何処へだって行けるこの街に残って、ずっとずっと、そんな事ばかり考えてたの? 「……さっくんは馬鹿だね」 「俺が馬鹿なのは否定しないけどさ、俺がやってきた事まで馬鹿にしないでくれよ」 「馬鹿だよ」 「でも、てるは帰ってきてくれたよ。この街へ戻ってきてくれた」 「…………」 「だろ?」 「ほんとうに……馬鹿だよ。こんな……たった一人の女の為なんかに……」 「たった一人の女だからさ」 「…………」 「だろ?」 「かっこ……いい事、言っちゃって……」 「──ああ。なにせ俺は、あの明日宿傘を仕留めた男だからな」 「……射止めた?」 「……射止めた」  ……ああ、少し。  ほんの少しだけ。  顔の筋肉が、緩んだ。 「帰ろう、てる。俺たちの家へ」  優しくて、そして力強い手が、わたしの手をつかんだ。  とてもあたたかい手。  わたしを包み込んでくれる手。  ──いつか、去ろうとしたわたしの腕をつかんだ手。  いつもわたしを引き戻そうとしてくれる手。 「てるに紹介したい人がいるんだ」 「紹介?」  意外な言葉に、わたしは少し驚いて。 「ああ」  それから彼は、こう言った。  私はどうしてここにいるのか、そう俺に尋ねた少女だって。  わからないよ、って、その時は答えたんだって。  ごめん、って、言ったって。  どうして謝るのか、と訊かなかった──少女だって。  それから。  よくがんばったな、と──俺にそう言ってくれた、少女、だって。 「そんなふうに笑うんだな、てるは」 「ごめん」 「そんなふうに泣くんだな、てるは」 「ごめん」 「普通の女の子なんだな、てるは」  ──当主としての責任。 「ごめん」  ──人間としての責任。 「ねえ」  いつだって彼女は責任の中にあった。 「ねえ」  とても背負いきれない責任を背負って、たった独りで、そして背負いきれてしまって。  それが貴女の中で闇になった。 「ねえ、言っていいかな……言ってもいいかな。言っても……いいのかな」 「いいよ」  強すぎたからこその哀しみがあった。  とても暗くて、深くて、底のない闇。 「わたし……わたしね、わたし……」 「うん」  もう、呑み込まなくていいよ。  貴女は何も望まなかった。  何一つ、望まないまま責任だけを果たして生きてきた。  夢も、なりたいものも、何も望まず。  貴女はたった七年しか自分の時間を生きていない。  だから吐き出して。  てるの気持ちを吐き出して。 「わたし……!」  俺に聴かせて。 「わたし、幸せになりたい……!!」  ──雨が止んだ。 「貴方を幸せにしたい……!!」  長い長い雨が止んだ。  いったいいつから降り出していたのかもわからない、この雨が─── 「貴方と幸せになりたいよっ……!!」  ──もう大丈夫。  空は晴れたから。  貴女の名前と同じく晴れたから。  とても綺麗に晴れたから。  この闇が乾くまで。  割れた鏡よ、彼女の素顔を映し出せ─── 〜ラベル『«異ならぬ世の終わりより»』の内容は記述されていません〜  ───この瞳が開けた時───  この目に映るすべてを“世界”と呼ぶ事に、何の不都合があっただろう。  何故なら“世界”とは、己を中心に構成されているものだからだ。  ──見よ、我が頭上。  世が回る軸はそこにこそある。  そう在るべきもの故、生まれたその瞬間に視認した隠世の在り様についてこう述べさせてもらおう。 “世界”は、『人間』と呼ばれる存在によって霞む果てまで奪われていたと。  ──故に“私”は、生まれたその瞬間にはすでに玉座から引き摺り下ろされていたのだ。  では、この私は何者か。  この重要な命題に関して、私は何ら知るべき拠り所を持たなかった。  だから、次に「私は何者でもない」のだと考える事にした。  生まれたばかりの己は、ただ白く透けていて。  触れれば──指先に付着した僅かな汚れでさえも、染料と化してしまうまでに。  純白とは清廉の上に打ち立てられた空の器に他ならない。  だから、これから何色にでも染まっていける。  無垢という名の、何でもない存在。  だが、己が他の何にも染まらぬと理解していた。  どれほど染料を混ぜ合わせても染められぬ、絶えの対なる強固にして拒絶の白。  だから私は、初めから有していたただ一つのものだった。  ──私は『**』。  ただそれのみである存在なのだと。  受け入れるまでもなく持ち合わせていた、自身という所有物の頂に被せられていた冠。  だから私は限りなく純粋に、『**』なのだ。  他の何も持ち合わせず他の何にもなる事のできない私が、手にしたものは一つきり。  立ち上るより先に。  歩き出すより先に。  裸を隠すより先に。  真っ先に手を伸ばし、この掌に抱いたのは───  ────『槍』。 『**』である私が槍を第二の所有物とする事に、何の疑問もなかった。  自身が何者であるか知らぬ私でも識っている。  この槍で為すべき事があるのだと識っている。  何故なら私は。  ……『邪悪』を、識っているのだから。  人間。  大いなりしその邪悪。  その息吹は不情の芽を育てる風。  その言葉は我情で埋め立てた土。  その思考は無情を促がし進む炎。  その有様は真情を逆さに映す水。  その存在は──群小にして根強く世に蔓延る病そのもの。  斃さねばならない。  世界を席巻する、あの悪徳の王族どもを滅ぼさねばならない。  この槍で。  我が二人の兄弟、『歓喜』と『哀切』と共に。  そうでなければならないのだ、と考えたのはあまりに自然だった。  ──おお、皇の簒奪者よ。  原初の人間よ。  誰よりも大きく。  誰よりも力強く。  誰よりも俊敏で。  誰よりも見識な。  誰よりも先に生まれた───  ──そして、誰よりも邪悪な貴様を。  見上げただけで気が触れるかのような思いよ。  視界の一切を覆い隠すその巨大なる不浄は、拒絶するかのように、座すだけでありながら私を意識ごとこの世界から駆逐しようとする。  お前はこの世界に要らぬ、と。  そう言いたいのか、不出の偽王よ。  貴様は不遜だ。  不易で不快で不乙で不器で不行だ。  ……そして何より、不運だ。  貴様が今の“世界”なら、私は不軌となろう。  貴様にとって不虞なる災いと化そう。  湧き上がるこの昂ぶりは、私が『**』であったからか。  ──振るえ。  識別した敵の色に向けて。  勢いを増して、その感覚は強く凝り固まっていく。  急速に周囲を覆っていく───  否。  絶対的なまでの力を行使し、己の領土と化していく内なる暴君よ。  ぞぞぞぞと徒党を組んで背筋を這い上がっていく、この感覚は戦慄。  知らず荒いでいく呼び吸い。  我は戦士。  どれほど強大な難敵であろうとも。  どれだけ数多の軍勢であろうとも。  ただ殲滅し根絶し虐殺し惨殺し抹殺する。  挫ける事などない。  臆する事などない。  私は貴様を殺す。  だから貴様は私を殺せ。  互いの命を天秤に預け。  預けた事など次の瞬間にはもう忘却の彼方に捨て去り合い。  死の上で武勇を語り合おう。  さあ、“人間”よ。  存分に不忌し合おう───  人間よ。  その奢りが貴様らを世界の頂点に立たせたとは思わぬか。  その奢りが貴様らの前にこの私を立たせたとは思わぬか。  故に、その奢りが───  ──今、貴様が地べたを舐めている“起因”だとは思わぬか──  横たわったそれは、世界の死骸に他ならなかった。  溢れ出したのは世界を生あるものとしていた血潮。  それは洪水となって瞬く間に人間どもを飲み込み、ことごとくを死滅させた。  即ち。  ──この瞬間、人間の時代は終焉を迎えたのだ。  だから我らは、世界を創ろう。  血の海に浮かんだかつての支配者の身体から、新しい世界を創ろう。  古き世界の亡骸で新たなる世界を創造しよう。  胴から大地を。  骨から岩を。  頭蓋骨から天を。  髪の毛から樹木を。  死体に湧いた蛆から小人を創り、四人を選んで天を支えさせよう。  火花で太陽と月、そして星々を創ろう。  そして睫毛を使って柵を設けよう。  波打ち際に生えていた、二本の樹木。  そこから男を創った。  そこから女を創った。  男よ。  女よ。  貴様らの国を築くべき土地に、“柵”を設けておく。  貴様らに一つ、訊きたい事がある。  私は生まれたその瞬間には玉座から引きずり下ろされていた。  私は自分が何者か知らぬ。  たいした矛盾だ。  だが、それはそういうものだ。  だからこそ尋ねたい───  貴様らは、私をいったい何と呼ぶのだ?  ──そうか、そう呼ぶか。  人間よ、貴様らが私をそう呼んだように、“神”とは常に矛盾ある存在なのだ。  だからこそ、神の手でこねられた貴様らもまた矛盾を須らく抱えている。  では、私の名を貴様らに伝える。  ──我が名は『激怒』。  ───『激怒』である───  ……何故、私が“柵”を設けたのか。  それは、一つの確信めいた予感があったからに他ならない。  死体から溢れ出た血でことごとく死滅した人間ども。  自らの奢りに溺れた結果が溺死とは、できすぎよな。  ──だが、あれは滅びぬと私は思うのだ。  人間とは“蔓延るもの”なのだと、ことごとく失われてもその種は決してなくならぬのだと、私は思うのだ。  故にこそ、私は“柵”を設けた。  新たに生まれたこの世の中央を取り囲む閾を。  そこを一つの“世界”とする為に。  再び蔓延るであろう人間どもから守る為に。  再び築くであろう王国の侵略を許さぬ為に。  何故なら、あそこに住まう者はこの世の病巣たる人間ではないのだから。  波打ち際に生えていた二本の樹木から創り上げた、男と女。  これこそを『人間』と呼ぼう。  人間とは蔓延るものではなく、産み広がるものであるという願いを込めて。  そして、あの忌々しい王族──であったもの──を、『巨人』と呼ぼう。  ほんとうの『人間』が、貴様らでありますように。  ……予感は見事に的中した。  やはり『巨人』は生きていた。  血の津波に呑み込まれながらも生き延びた、ただ一組の夫婦───  そこから再び蔓延った。  空き地に住み着いていた奴らは、驚くべき速度で繁殖を遂げた。  まったく生き意地の汚い連中よ。  ──それで?  空き地からやってきた巨人の女どもよ、この私にいったい何の用だ? 「呪われろ!」と、一人がそう言った。 「咒われろ!」と、もう一人もそう言った。  三人目も、やはり同じ事を口にした。 「百億の巨人たちの呪いを受けろ@」……と。  傍に控えた従者を制し、私は三人の女巨人たちの罵りを一心に浴びていた。  滑稽だったからだ。  かつてこの世を支配した存在が、今となってはこのように金切り声で叫ぶ事しかできぬその無様な醜態が。 「太陽が呑ほされるぞ」と一人が言う。 「そうだ。嘲るものだ」と一人が言う。 「月が切り裂かれるぞ」と一人が言う。 「そうだ。憎むものだ」と一人が言う。 「一羽目の鳥が鳴く時、残りの二羽も同じく鳴く。一羽目は巨人たちに、二羽目は神々に、三羽目は死者たちに」──それこそが開戦の狼煙だと、一人が言う。 『神々の黄昏』  それは予言だった。  そして、忌むべき呪いだった。  暗き閨。  締まりゆく闇。  居心地悪くも生臭いそこは、獰猛な牙に囲まれて。  巨大な獣の、閉じられていく口───  その予言の中で、私は狼に喰い殺されていた。  ──冬が訪れる。 『冬の中の冬』が訪れる。  長き戦争により荒廃した世界にとどめを刺すように、吹雪が吹き荒れる。  一匹の狼は太陽を呑み込み。  一匹の狼は月を切り刻み。  そしてあらゆる戒めは解かれ、彼ら狼の父である魔狼が大地を駆ける。  赤い雄鶏が巨人たちに到来の刻を告げると、金色のとさかの雄鶏は神々に刻を告げ、赤茶けた雄鶏は死者に刻を告げる。  最後の刻の始まりだ。  時間は己を刻む意味がなくなる事を知るだろう。  巨人も神々も死者も、何もかもが入り乱れて殺し合う。  荒れ狂う炎が九つの世界を灰にする。  太陽は喰われ月は粉々になり、星は空から姿を消す。  男も女も子供も老人も。  動物も植物も妖精も小人も、ぜんぶぜんぶみんな死ぬ。  大地は海の底に沈んでいく。  すべてはきえてせかいはおわる。  おわる。  終末わる。  ──それは、この世の破滅を望む呪いに他ならなかった。  私は呪いを解かなければならない。 『神々の黄昏』という名の不吉な呪詛を。  ……だが、私は槍を振るう事しか知らぬ無骨な“武神”である。  そのような手段など知らぬ。  世界を破壊する事はできても、世界の破滅を逃れる方法など思いつきもせぬ。  ……探るしかあるまい。  世界中の智を掻き集めてでも、この呪いを解く手段を探り当てねばならぬ。  すでに決定された未来を、避けようのないいずれ訪れるその日を変えねばならない。  知恵を育み、知識を獲得し、真実を悟り、理の先駆者とならねばならない。  ──例えそれが、戦士としての生き様を捨てる事であるとしても──  ……その泉の噂は聞き及んでいた。  味わう者に洞察力を、そう囁かれる水が、あの閾に隔てられた巨人の国に沸いているという。  神などと崇められているとはいえ、所詮は古き時代の“部品”から新たな世界を創造───  否、改造した紛い物の神に過ぎぬ。  創造主などとおこがましい。  無から有を生み出したわけではない。  ならば「神にすら思いもよらぬ」などという事態は、この世界にあってはその言葉そのものに存在する価値がない。  思いもよらなくて当たり前だ。  ……皮肉なものだ。  かつて私は「知恵とは戦いの中でこそ身につけるものだ」と吐き捨て、泉の水の話を耳にする度に「軟弱者」だと叱咤したというのに。  今、その私の目の前に、『知識の泉』がある。  そして、その水を欲している己がいる。  飽くほどの日々、絶えず噴き出す液に飽かせて喉を潤し続けてきたこの泉の番人──巨人のミーミルといったか──は、行動だけみれば間違いなく変人だが、流石の見識よ。  そうやって、泉の水を目当てにやってきた物欲しげな客を追い払ってきたか。  だが、誰のものでもないものに番人とは笑止。  ──このような頭でっかちの巨人など引き裂いて道を明け渡させればいい。  そう思った矢先、四肢に巡る力を抑制したのは、これからはこのような力押しであってはならぬとの自戒。  ──私は“賢神”にならなくてはならない。  力では解決できない問題もあるのだ。  粘り続ける事でしか食い下がれないのは屈辱の極みであったが、今はただ耐え忍べ。  殺すのは後からでもいい。  ……否。  否……。  殺さずとも済ます方法を考えよ。  遂に根負けしたミーミルは、交換条件を出してきた。  言うに事欠いてこのような世迷い事をほざきおった。  泉の水と引き換えに、片目を差し出せ──と。  込み上げた。  笑いが、あの日の血潮と同じように、溢れんばかりに。  知恵の巨人よ、それは私が戦士だから言っているのか。  ただそれだけを誇りとして生きている私が、私では、戦士としての不利を被る条件を呑めるはずがないと?  たいした見識だな、ミーミルよ。  巨人風情がこの私を試しているのか?  ──次の瞬間には、私は指先を己の眼窩に突き刺していた。  指先に絡みつく感触を笑い飛ばし、眼球に付着する過敏な一切を引き千切り、ほんの一瞬前まで我が“目”であったものを塵屑として巨人に投げつけてやった。  その瞬間、戦士としての私は死んだ。  無論、隻眼であってもそこいらの者に負けるつもりなどない。  ──故にこれは誓いなのだ。  すべてを捨ててでも守らねばならぬ誓い。  己に課せ、己に負わせる誓いである。  私は黄金の兜を脱ぎ。  魔術を操る者が好む鍔広の帽子を被ろう───  泉に近づく私を、もはやミーミルは止めようとはしなかった。  喉下を過ぎた水は、私にある文字の存在を教えてくれた。  流石は渇きを潤すだけで智を与える誉れ高き液よ。  我が意思を汲み取ったのか、その文字こそは、私がこれから歩んでいく道に必要不可欠なものであった。  だが、私に得られた情報は「かつての秘儀は既に失われて久しい」という事でしかなく、その所在──あるいは名残──は無論、取り戻す方法も具体的にどんなものであったのかさえもわからぬという有り様であった。  ──しかし、やはり私は冷笑ったのだ。  失われたものならば、失われた世界に行けばよいだけの話ではないのか?  ──見よ、彼の大樹を。  私ですら仰ぎ見上げねばならぬほどとなれば、この樹を偉大なる誉れとして、世界樹と呼ばねばなるまい。  大地に根を張る世界樹よ。  この大地こそは世界だ。  ならばこの根は、この世のどこまでへも伸びている───  ──私は天と地とを逆さまに磔となり、世界を逆から見渡した。  生きているこの世界を、生きているものたちを、逆しまに凝視したのだ。  反転する世界は、生と死の転換。  だから私は。  かつてあの原初の巨人の命を奪い、戦士たる私と常に共に在った第二の所有物で。  自らを、串刺しにしたのだ。  何を悩む必要があろう。 “失われた世界”とは、死者の国に他なるまい。  死人にしか行けぬ国に秘密が眠っているのならば。  死ねばいいのだ。  ……私はとうに狂っていたのかもしれない。  大いなる言葉。 『吼えし唸り』。  死者の爪が我が身に刻みし、魔力を宿すは十八の文字よ。  第一の呪いは、『救済』である。  心とは鍛錬を怠った脆弱な肉体と同じように、病を得るものである。  哀しみ、不安、乾き──貧弱なる想いの欠片たちよ。  これらを取り除き、心の均衡を保つがその効果と知れ。  第二の呪いは、『治癒』である。  医師なる道徳を志すものは心せよ。  身体を預けた患者を生かすも殺すもその手にかかっていると知れ。  第三の呪いは、『防御』である。  この身に向けられた切っ先に殺意あれば、その鉄塊はたちまち鈍と化す。  赤子の皮膚すら傷つけること叶わぬと知れ。  第四の呪いは、『解放』である。  この身を縛するいかなる制限も、その結び目は紙切れに等しいと知れ。  第五の呪いは、『感知』である。  飛来する危機はそれが何であろうと、我が目に止まると知れ。  第六の呪いは、『呪返』である。  それが道端の小石であれ、私を傷つけようと呪いを刻まれしものあれば、たちどころにその効力を失うと知れ。  第七の呪いは、『鎮火』である。  炎の国の如何なる眷族とて、たちどころにくびり殺されると知れ。  第八の呪いは、『沈着』である。  生ける者、死せる者を問わずして内より湧き上がる昂ぶりの名は憎悪。  生死を問わずしてそこに在るものを殺すその昂ぶりは、瞬く間に霧散すると知れ。  第九の呪いは、『和凪』である。  気紛れな海原が如何に機嫌を損ね荒れ狂おうと、即座に平地に等しき心理に到達すると知れ。  第十の呪いは、『退魔』である。  邪なる魂が揺らぎし時あらば、その魂魄を永久なる迷いの宮に追放できると知れ。  第十一の呪いは、『鼓舞』である。  戦士とは同時に勇士である───  が、もしも心折れる事あらば、その内に萎縮し誇りを取り戻せると知れ。  第十二の呪いは、『亡話』である。  肉の器を失いし亡者の如何なる囁きをも聞き逃さず、対話かなうと知れ。  第十三の呪いは、『死忘』である。  生ける権利を有する者より死せる権利を奪い、その身を不滅と為せると知れ。  第十四の呪いは、『約諾』である。  これは認められた者だけが、その身に宿せる証───  神と妖精の厳秘に触れること叶う。  私が認めるだけの者にこそ、この印を刻むと知れ。  第十五の呪いは、『不滅』である。  『約諾』が人間の為のものならば、これは神と妖精、そして私の為のものと知れ。  第十六の呪いは、『情愛』である。  耳元で囁く戯れ一つで、容易く女どもの心を虜にできると知れ。  第十七の呪いは、『貞節』である。  すでに手に入れた女がいる男は心せよ、心変わりは世の常ならば。  であればこそ、その女を生涯に亘って己の膝元に置けると知れ。  最後の呪いは、言葉にはできぬ。  言葉にせぬ事こそがこの呪法を完成させるものである。  それはこの私のみが知る、そして知り得た『吼えし唸り』と知れ。  ──偉大なる世界樹よ。  現存するこの世のすべてを網羅するまでに根を張る、その漲る生命に感謝する。  貴様という馬を駆る事で、私は死者の国へと辿り着けた。  私を指し示す呼び名は数あれど、世界樹よ。  貴様にはその一つである“恐ろしき者”より名を取り、今日から『恐ろしき者の馬』と呼ぼう。  ──だからそれは、たった一つの流言から始まった戦争なのだ。  どこからともなく現れた魔女。  神々にことごとく忌み嫌われた魔女。  三度焼き、三度生き返ったあの性悪女を魔女と呼ぶ事に、何の不都合があっただろう。  黄金への欲しか語らぬあの派手好きな女に、まさか“神”などという認識を持つものか。  我らの仕打ちに憤慨しながら消え去った魔女の報復は、最悪な形でもたらされた。  ──ヴァン神族。  我らとは違う、我らとは異なる、我ら以外に存在する神。 「神は我々であるはずなのに」、そう私に問いかけた者がいる。 「いったい何処から現れたのか?」と。  その問いに私は答えた。 「目を凝らしてよく視よ。この世界には神が溢れているではないか」と、そう語った。  何故なら世界を創ったのは確かに我々なのに、他の神が創った世界が入り込んでいるのだから。  あえて。  あえて“種”という言い方をするならば。  この世界には、まったく異なる“種”の神が当たり前のように遍在している。  彼らがこしらえたそれぞれの世界が組み合わさっている。  そして有り得ない確率で、均衡が整ってしまっているのだ。  時間という概念、空間という概念、たった一つとして信じられている一切、しかし確かにたった一つとして機能してしまっている一切、そのすべては複数の世界が合わさり整った結果だ。  世界に幾多の神話があるのは、異なる民族が暮らしているからではない。  馬鹿馬鹿しいほど無数。  在り得ないほど単一。  消し飛び浮かび上がり目を閉じ始まる──この現象。  その答えとして、この『逆き連なりし隠世』が在る。  それ故に───  と言いかけ、私は口を噤んだ。  口にしても愚痴にしかならないとわかっていたからだ。  ……まあいい。  要は、だからヴァン神族とやらが存在していてもおかしくない、という事だ。  ──だからそれは、たった一つの流言から始まった戦争なのだ。  忌々しき魔女がその閨へと戻り、よく回る舌で吹聴した結果として引き起こされたものなのだ。  異邦者たる連中をヴァン神族と呼んだ時、連中は我々をアース神族と呼んだ。 「他に神が在る」という概念が生まれたその瞬間にこそ、神の区分けは発生する。  ……だが、元より呼び名などどうでもよい。  ──開戦の狼煙となったのは。  迫りくるヴァン神族の群れに投げ込んだ私の槍だった。  昂ぶりが我を忘れさせた。  身体を包むは亢進。  喉許を駆け上がるは咆哮。  舌を悦ばせたのは闘争の気配。  何と心地のよい終の時間か───  ……“激怒”は“激怒”なのだと。  そう易々と槍を手放せるものではないのだと。  ──そも。  骨の髄まで“武神”であるこの私に、容易く“賢神”への道が開けるはずがないのだと───  敵陣より飛来した剣が我が自慢の城壁を砕いた時、自嘲など吹き飛んだ。  知恵を捻るよりも先に大地を駆けていた。  魔術を駆使する前に愛槍を振るっていた。  ──敵だ。  敵だ!  兵が大挙してやってきたぞ@  何という甘美。  得がたき極上の戦争よ。  我が前に立つ命知らずの勇者は誰ぞ。  我を殺しきる無双は無比は無類は無二は。  恨まぬ。  この身がどれほど無様に引き千切られようと、決して恨まぬ。  私を殺せるのならば、落とした首に唾を吐きかけ、石ころ代わりに蹴り飛ばすがいい。  だから来い。  神を名乗りし不遜な猛者ども。  この槍の王が相手をしてやる。  戦う理由すらとうに忘れ。  ただ、目前に死の山だけを築き続けた。  神であるはずの我よ、今となっては闘争という邪神に飼われた鬼と成り果てよう。  泥沼の膠着状態から、ようやく和平の兆しが見え始めた時。  我らは手を取り合う証として、皆で一つの壷の中に唾を吐き合った。  それぞれの神の才覚を持ち寄った。 “神”と呼ばれ、また豪語する、不遜者どもの吐き溜まり。  私は───  私の才覚は、いったい何が吐き出されたのだろうか。  いったい何を分け与えたのであろう。  ……“賢神”であってくれと。  魔術であってほしいと。  そう強く願っている私がいた。  その名はクヴァシル。  神であって神に非ず。  人であって人に非ず。  彼はこの世で最も賢き者として君臨した。  彼をこの世界すべてに精通する賢者と称える事に、否やを唱える者は誰もいない。  その噂が世界中に広がった時。  嫉妬深い小人のフィアラルとガラール兄弟は、彼に激しい妬みを覚えた。  つのる妬みが憎しみに変わった時、二人の小人は賢者を宴の席に招いたのだ。  ……ああ、お人好しのクヴァシルよ。  どうして小人についていった。 「内密にご相談がございます。とはいえ、ここでは誰に聞かれるかわからない。どうか、こちらへ。どうか」などという誘い文句を少しも疑わなかったのか。  智の玉座にましますお前が、どうして連中ごときの浅ましき企てに気付けなかったのだ。  病んだ小人どもにめった刺しにされてからでは、遅すぎるのだ───  しばらくして、クヴァシルの不在に気付いた神々が、小人の許を訪れた。  二人は口を揃えて言った。 「あの旦那なら、神さんがあんまり賢くしちまったもんだから、増えすぎた知識を喉に詰まらせて死んじまったぜ」──と、いけしゃあしゃあと語ったのだ。  実はフィアラルとガラールは、ソンとボドンと呼ばれる二つの大きな壷、加えて大釜のオードレリルに、賢者の身体から噴き出した鮮血をすべて受け止めていた。  だが、あまりの生臭さに流石の兄弟も嫌気が差したのか、壷と釜に蜂蜜を注ぎ込んだ。  すると驚く事に、それは素晴らしい蜜酒へと変わったのだ。  ……飲んでみよう、と言い出したのはフィアラルだった。  恐る恐る──一口だけ。  恐らくこの浅ましい小人は、賢者の血から作られた酒がどれほど美味なのかに期待していたのだろう。  ──美味?  否。  断じて否。  クヴァシルは賢者なり。  彼こそはすべての神々の手による、この世の最高傑作である。  味で論ずる次元ではない───  蜜酒を飲んだフィアラルは、己の頭脳がみるみる冴え渡っていくのを感じたのだ。 「こいつは凄い!」と。 「たった一口で賢くなっちまった!」と、湧き上がる興奮を抑える事ができずに叫んだ。  醜悪な心を持つ小人の兄弟。  彼らはこの宝物の事を誰にも教えず、二人だけで独占すると誓い合った。  ──こうして、「飲めば賢くなれる」という、伝説の蜜酒が誕生した──  クヴァシルの件で気を良くした二人は、今度は大地主である巨人のギリング夫婦を宴に招いた。  噂に名高い「この世で最も不愉快な兄弟」の誘いなど話自体を聞かなかった事にした上で忘却の彼方に捨て置きたいところではあったが、しかし「この世で最も不愉快な兄弟」だからこそその誘いに応じないわけにはいかなかった。  行かなかったら、いったいどんな嫌がらせをされるものか……彼らの豊富すぎるほど豊富な想像力が如何なる形で発揮されるか、考えるだけでその巨大な身体を震わせざるを得なかった。  それでもギリングは、招かれた場に赴けば地元の名士らしく振舞う事を忘れなかったが、妻の方はそうはいかなかった。  地主の細君とは思えないほどの不快感を露にして──普段は決してそのような事はないのだが、それほど二人が不快だったのだろう。 「おい兄弟。巨人の旦那の様子はどうだい?」とフィアラルが訊くと、ガラールは仏頂面で二人の様子を答えた。  するとフィアラルもまたみるみる不愉快な表情となり、「なんだと。せっかく俺たちが招待してやったってのに、喧嘩してるってのか?」と、激しく地団太を踏み始めた。  流石は世に知られるまでのさもしさよ。  財産目当てに招いておきながら、自分たちの持て成しに感謝していないと知った途端、相手が憎らしく思えてきた。  ──遠回しに財産を奪うなんてもう止めだ。 「おい兄弟。あいつも殺しちまおう」と弟が懐からナイフを取り出すのを見て、兄が制した。 「気持ちはわかるがな、あいつは巨人だ。不意をついたとしても、小人の俺たちが力で勝てるわけがないだろう?」と諭す兄に、弟が「じゃあ、どうすればいいんだ?」と問いかける。 「惚けた事を言うなよ。力で勝てなければ、頭を使えばいいんだ。俺たちは賢者の血を飲んだんだ。それを早速、試してみようぜ」──それを聞いた弟の、何と品のない笑い方よ。  彼らは巨人夫婦の許にこれ以上ないくらい下手糞な作り笑いを浮かべて近づくと、今まさに喧嘩に気付いたかのように大袈裟に驚いて、「自分らの持て成し方が悪かったせいでお二人のご機嫌を損ねてしまった」と心にもない謝罪を述べた。  そして「そうだ。この近くの海には、とても心地良いそよ風が吹くんですよ。あれに当たれば、きっと嫌な気分も一辺に吹き飛んでしまいますよ」と、まるで今まさに思いついた名案のように言って聞かせた。  もはや小人たちの醜悪な顔を見る事すら堪えられぬ様子の妻を残し、ギリングはしぶしぶ小人たちの提案に従って、船へと乗り込んだ。  しかし、それは随分と遠出だった。 「おい。まだか」と問うと、「まだです。もう少しだけ」と返事がある。  その度に、ギリングの顔色は蒼褪めていった。 「おい。まだか」と繰り返すと、「まだです。もう少しだけ」と、やはり同じ数だけそう返ってくるばかり。  七度は同じやり取りを繰り返しただろうか──その頃には、彼の表情は蒼白となっていた。  何故なら彼は、泳げなかったのだ。  小人たちに妻へのあらぬ不興を抱かせない為に提案に従い、辛抱強く堪えていたが、それでも忍耐の限度があった。 「ま、まだか」と、もはや何度目になるかもわからぬ問いかけに「この辺りです」とようやく返ってきた頃には、随分と沖の方までやってきてしまっていた。 「どうです。ここらの風は気持ちいいでしょう」と言われても、すでに風を感じるどころではない。  そこはもう、いかに巨人とはいえ立ち上がる事すらできない深さとなっていた。  船が転覆したのはその時だった。  小人たちは速度を緩めずに、水中に隠れて見え辛い岩に船をぶつけたのだ。  これは二人がよくやっていた“遊び”だった。  いかに波を読み、どれだけ船を上手く操る事ができるか──岩場にぶつけて綺麗に転覆させる勝負。  船底に上手く飛び移って、立っていられたら勝ち。  海に落ちたり船を壊してしまったら負け。  ──まるで正気とは思えないが、それが彼らの“遊び”の基準だった。  初めは岸に程近いところで行っていたこの遊びも、慣れてくるにつれどんどん沖合へと飛び出していき、今ではこれほどまでの深さがなければ愉しめないところまできていた。  コツも何もかもわかっていた二人は、船を少しも壊す事なく引っくり返し、見事な身のこなしで船底に飛び移った。  投げ出されたのはギリングのみ。 「さあ、旦那」と、見下ろす小人どもが醜悪な本性を剥き出しにして嗤う。  助けてくれ。  助けてくれ。  助けてくれ。  繰り返すほどに兄弟には小気味のいい合唱に聞こえてならない。  ──小人はギリングが泳げない事を知っていたのだ。 「助けてほしいなら、あんたの財産の何もかもを俺たちに寄越すと誓うんだ」と小人たちは笑いながら脅迫する。  彼らでは自分たちの何倍もある巨体を持ち上げる事などできはしない。  それを知っていながら、彼らは脅すのだ。  だが、ギリングにはそもそも小人たちの声など聞こえてはいなかった。  もがけばもがくほど沈んでいく──その度に跳ね上がるしぶきによって音など掻き消されていた。  沈んでいく巨体を見つめながら、彼らは舌打ちした。 「考えは上手かった。失敗したのは、あいつが生意気だったせいだ」と、兄弟は二人して頷いた。  まず二人は自宅に戻ると、夫の帰りを待つギリングの妻に事の次第を説明した。  芸術的なまでに下手糞な、この世でこれほどわざとらしいものがあるのかというほど芝居がかった口調であったが──彼らの態度よりも、妻は彼らが告げた事実に唖然とし、身を震わせた。  小人たちは大声で泣き出した妻が愉快で愉快で堪らなかったが、あまりにもずっと泣き続けるので、愉快だった泣き声も次第に不愉快になってきた。 「うっとおしいな」と堪らず弟が呟いた時、「違いない。お前が言ってる事はもっともだ」と、兄も大きく頷いた。  そして結局、彼らはこの泣き叫ぶ未亡人までも殺してしまったのだ。  ──それからしばらくして。  小人の許を、スットゥングと名乗る巨人が訪れた。  聞けば、彼はギリングの息子であり、いつまで経っても帰らぬ両親を心配してやってきたのだという。 「厄介な」と思った小人たちだが、事の次第を詳細に──勿論、彼らにはまったく落ち度がないという部分を強調して──実に不幸な事故だったと大幅に脚色して、スットゥングに話して聞かせた。 「なるほどな」と、静かに聴く彼の目が細まった。  彼は実に注意深く「この世で最も不愉快な兄弟」の話を聴いていた。  ──些細な矛盾、小さな穴。  それらを繋ぎ合わせて、彼は事の真実を見抜いた。  彼でなければ、時間をかけて実によくできた話に仕上げられていたその話を鵜呑みにしていただろう。  次の瞬間、小人たちは海にいた。  驚いたのも束の間、それはギリングを溺れさせた場所ですら生温い──もはや、泳ぎが達者な兄弟ですら戻る事はできない沖合だった。 「たっ、助けてくれ!」と叫ぶ小人を、「きっと親父殿もそうおっしゃったのであろうな」と巨人は冷酷に見下ろす。  その巨人スットゥングは、まるで海面に立つように浮かんでいた。  ──僅かばかりの頭脳を得た小人どもはいい気になり過ぎた。  いかな神秘の蜜酒とて、一口舐めた程度では、魔術を駆使する知恵者の巨人を出し抜く事などできはしない。  もはや敵わぬ事を悟った小人たちは、声高に許しを請う。 「お願いです! どうか! 私たちの宝物を差し上げますから@」と、彼らは命惜しさに、訊かれてもいない蜜酒に関して知っている限りの事を話した。  出し惜しみをしている余裕はない。  なにより、これほどの知恵者ならば欲したものはすぐさま手に入れてしまえるだろう───  彼らの持ち物で最高の価値があるものでしか、交渉の材料にはなり得なかったのだ。  ……どれほど、スットゥングの静かな眼は閉ざされたままだっただろうか。 「親父殿、御袋殿……」と呟いた時、小人たちは元いた家にいた。  才子の巨人の心がどのように揺れたのかはわからない。  ただ一つ確かな事は、助かったと胸をなで下ろす兄弟が次の瞬間には無言で見下ろす巨人の威圧に身を震わせていた事だ。  こうして蜜酒はスットゥングの手に渡った。  小人たちは蜜酒が自分たちのものであった時は頑なに秘密を守り続けたが、他人の手に渡った途端にその噂話を始めた。  わざわざ遠方にまで足を運んで、スットゥングがいかに汚い手段で自分たちが大切にしていた宝物を取り上げたかを舌の根が乾くまで語った。  無論、自分たちがクヴァシルを殺した事など隠して───  ──時を経て、神々の許へと届いたこの話。  小人の兄弟の話がいかに自分たちに拠ったものであったかなど、どうでもよい事。  問題は、どうして連中がそんなものを持っていたかだ。  ……となれば、和平の証として生まれし、祝福された賢者は。  クヴァシルの訃報は神々を嘆き哀しませたが、その中心には狂気ともいうべき知識欲に取り憑かれた神がいた。  捨てると誓った“武”に身を焼かれ続ける、隻眼にして最強の王。  彼はただ、一笑に付した。  戦場において勇敢なる戦いの果てに散った戦士ならばともかく、小人ごときの浅知恵に騙された挙句、無様にも背中を取られたただのお人好しにこの神が憐憫の情を抱くはずがない。  人の良し悪しなど理由にもならない。  それは彼にとって、ただ無様でしかなかった。  そしてオーディンは巨人の姿に変身した。  この世の何よりも忌み嫌う巨人の姿に化ける事が、誇り高い彼にとってどれほどの屈辱であったかは知る由もないが───  それすらも捻じ伏せる欲望が、猛りとなって渦巻いている。  あの日。  眼窩に爪を食い込ませた時と同じ、しかしそれでは知る事のできなかったものを識る賢者の骸なれば。  この世界とは異なる智、ヴァン神族の知識をも凝縮したものがそこにあるのならば。  ──この渇きを賢者の血を飲み干して潤そう──  ……だから私は。  自らを“悪をなすもの”と名乗った。  それは痛烈なまでの自嘲───  そして、「如何なる手段を用いてでも蜜酒を手に入れる」という決意の表れ。  いつかのように巨人の国へと乗り込んだ私は、スットゥングが住まうというフニット山へ向かう途中、牧草地で働く九人の農夫に出会った。  やけに疲れた顔をさらす農奴たち。  その原因は、手に持つ草刈り鎌にあった。  彼らは多額の報酬に惹かれて人間の国からやってきた人間たちであったが、雇い主に与えられた鎌は使い古され、まともに刈る事もできないほどに錆びついていたのだ。  私は彼らに「君らの主人は誰か?」と尋ねた。 「バウギ様ですよ」──その答えに、私は知らずほくそ笑んでいた。  農場の主であるバウギは、スットゥングの兄弟だ。  目先の報酬に目が眩んだ浅ましき人間どもよ、してやられたな。  これではどれだけ誠実に、いかに汗水流して働こうとも、成果は微々たるもの──それを理由に難癖つけて、バウギなる巨人は報酬をまともに払わないつもりなのだろう。  恐らく雇われた人間たちは、「早く作業を終わらせてくれたら、それだけ報酬を上乗せする」とでも言われて張り切って始めたのだろう。  だからこそ、今この状態なのだ。  しかし、バウギとて作業を終わらせてもらわねば困るはず。  ならばこそ、直前になって新しい鎌を与え、「完遂できなければ一切払わない」と昼夜を問わずに働かせ、使い潰すつもりなのだ。  これなら最低の賃金で済む。  巨人の考えそうな事だ。  激怒よ。  貴様は呪われた日々の中で誓ったはずだ。  もはやスットゥングの許に乗り込み、一撃の下に奴の頭を粉砕して蜜酒を奪うなどと望むまい。  そして悪をなすものよ。  その名を決して忘れるな。  巨人如きに身をやつしてまでこの地に足を踏み入れた理由を、忘れるな。  私は農夫の一人から鎌を受け取ると、魔術を用いてその刃を瞬時に研いでみせた。  まるでこの世に生を受けたばかりとも思しき輝きに、農夫たちからどよめきの声が上がる。 「実はこの砥石は不思議な力を持っていてな、一撫でするだけで刃を新品同然に変えてしまう。どうせ私には不要なものだ、よければ君らに差し上げよう」そう告げた途端、彼らは色めきたって我先にと砥石を求めた。 「ふむ、どうしたものか。石は一つしかないのだが……」困ったように言った私は、思いあぐねたかのように彼らに一つの提案をした。 「そうだ。私がたまたまここを通った事で砥石を必要とする君らに出会ったのも運ならば、この石の持ち主となれる者もやはり運なのだ──運に決めてもらうとしよう」と、空高く砥石を投げた。  彼らは慌てて砥石を拾おうと動き出した。  ──すまぬ。  手に草刈り鎌を持ったまま慌ただしく走り回る彼らは、その石の落ち方が不自然な事に気付いただろうか?  誰一人として気付かぬほどに疲れきっていたから、彼らは入り乱れるがまま互いに喉を掻き切って作物を赤く染めたのだろうか……。  私は頃合を見計らってバウギの家を訪れた。  予想通り、この農場の主は慌てふためいていた。  雇った作男が全員死んでしまった、と。  牧草を刈り取っておかねばならない時期だというのに、肝心の農夫がいなくなってしまった──これでは冬場に牛や馬が飢え、多大な損害となってしまう。  家畜は財産なのだ。  九人分の仕事をやってみせよう、と申し出た。  突然の申し出に疑いの眼を向けたバウギではあったが、試しに一日、という条件で私を働かせ、そして彼は九人分どころではない成果にその態度を改めた。  大喜びで仕事を依頼してきた彼は、報酬に何を望むのかを尋ねた。  また何とでも上手い事を言って値切るつもりであったのだろうが、返ってきた答えは彼にとってあまりにも意外なものだっただろう。  ──スットゥングが所有する蜜酒をいただきたい。  バウギは難色を示した。  どうやらバウギはスットゥングと不仲であり、兄弟とはいえ、長い間顔を合わせた覚えすらない様子だった。  しかし断れるはずもない。  今から新しい作男を探していたのでは時間が足りぬ事は明白であり、彼に私以上の働き手を見つけてこられる当てなどない──なにより、九人騙すよりも一人騙す方が簡単ではないか。  夜が明けるまで続いたバウギによる説得の末、私は「スットゥングに掛け合う」という条件で頷いた。  まざまざと働きぶりを見せつけながらも、私がなかなか首を縦に振らなかった理由は別にある。  バウギは気付かなかったのだ。  この時点ですでに、バウギが私を「雇ってやる」のではなく、私がバウギの為に「働いてやる」という形へと持ち込まれていた事に。  主従関係が逆転していた事にすら気付かぬとはなんたる間抜け。  そして夏の間、私は農場で働いた。  この私が草刈り鎌を手に日々汗水流すという光景をさらす事など、後にも先にもこれきりだろう──しかし、今はそんな事などどうでもいい。  目的を果たす為に取るべき手段を取った。  ただそれだけで充分だ。  ──そして夏の終わりの日。  私はバウギに連れられ、スットゥングの住まうフニット山へと訪れた。  久方ぶりの兄弟の来訪に、スットゥングは露骨ではなかったが怪訝な表情を見せた──私が見るに、どうやら不仲の原因はバウギの心持ちの方にあるようだった。  不愉快な小人どもとの経緯を思い返すに、なかなか帰ってこない両親を心配して迎えに行ったのは──それもあの最も不愉快な兄弟の許へ──なるほど、と、内心で頷いた。  バウギに蜜酒を分け与えなかった理由もわかろうというものであった。  だが、それでも兄弟だ。  バウギの手綱は私が握っている。  彼は私に逆らえない。  農場での働きぶりを見た、否、見せつけられたバウギは、何としてもスットゥングを説得しなければならないと必死になっている。  働いてやったから、ただそれだけではない。  九人分どころか容易く十八人分は働く私の姿を見せつけられて、彼は恐怖に駆られている。  もしも契約を違え、この私を怒らせるような事になってしまったら──その拳骨の一つで自分の身体など跡形もなく消し飛ぶに違いない、と、震えているのだ。  バウギは必死だった。  恐らく、彼の人生でこれほどまでに必死になったのは生まれて初めての事だったかもしれない。  だが、それでもスットゥングににべもなく追い返されてしまった。  バウギに立つ瀬はなかった。  ──使えない男だ。  ……やはり、どうにもこのようなやり方は性に合わぬ。  絶望に蒼褪める浅ましき巨人は、懇願するような眼差しで私を見上げた。  俺は契約を守った、と連呼する。 「契約を守った! 説得した! 本当に、本当に本気で説得したんだ!」そう、何度も何度も。  バウギも、スットゥングも、共に四肢を引き裂いて望みのものを手にする事ができればどれほど簡単だろうか。  望んだ次の瞬間にはそれが叶うというのに。  だが、私は知らねばならぬ。  力押しではない方法も識らねばならぬ。 「貴様にはまだ使い道がある」と、私が発した声は震えていただろうか。  まだだ。  まだ──堪えろ。  私は腰から魔術によって生み出された錐を取り出すと、この怯える巨人に手渡した。 「フニット山に孔を開けろ」と、そう命じて。  それからは拍子抜けだった。  バウギが発狂寸前となりながら孔を空けている最中、スットゥングは邸宅を留守にしていたのだ。  ふん、と気付けば一つ嘆息していた。  ……それが落胆なのだと気付いた瞬間、込み上げたのは苛立ち。  これほど手間隙かけたのは、武の王者たる己への戒めに他ならなかった。  目指すべきものは賢者、その過程としての魔術師。  ならば運も味方につけたのだと、計画の成功を喜びこそすれ、唾棄する必要などどこにもないというのに。  留守であるなら好都合ではないか。  いったい何を残念がっているのだ。  ……私は望んでいたのか。  心のどこかで、荒事となる事を待ち望んでいたのか。  息を呑む声に気付き、顔を上げたのはその時だった。  ──娘がいた。  見目麗しいその娘は、恐らくスットゥングの子供であろう。  僅かにでも期待した己に襲いかかった感情は、やはり苛立ち。  ただの、娘───  治まらぬ猛り。  ただの娘ならば。  抱けばよいだけの話。  この身に刻まれた古代の──今となっては私こそが現代に蘇らせし──文字の中に、女心を拐かす術はある。  だが、そんなものは必要がない。  不敵。  侵入者たる私が、館の主人の留守中、父の宝物の番をしていた娘を白昼堂々と口説いた。  欲するのならば。  ただ堂々と、己が魅力を見せ付けてやればよい。  こう在ればいい。  こう在り続けていたい。  純潔であったその娘と、その日の内に閨を共にしたのは答えであった──のだろうか。  才識の帝よ。  お人好しのクヴァシルよ。  貴様がこの世に残した血潮はいただいたぞ。  鷲に姿を変えて飛び退った私と、もう一羽の鷲。  蜜酒がなくなっている事に気付いたスットゥングが後から追ってきたが──私は奴を振り切って神々の国へと戻り、そうして、他の神々にこの至宝を振る舞った。  この時、僅かに零れ落ちた蜜酒は人間たちの下へと降り注いだようだ。  いいだろう、分け前だ。  ──くれてやる。  ……その話は本当だろうか?  あのオーディンが、“皆と知識を分け合う”などという行動を取るであろうか?  単純に考えても、知識というものは他者と比較して「多い」か「少ない」かが決まるものであり、他の神々に──加えて一部の人間にまで──与えてしまえば、全体的な知識量が増加するだけで、「オーディンが賢くなった」とはとても言えなくなってしまう。  また、この神話では「蜜酒を一口舐めた小人が賢くなり、他人を貶める」とあり、その次に「しかし知恵者の巨人には、一口分賢くなった程度では敵わなかった」と続く。  これはつまり、「より多く飲めば、それだけ賢くなれる」という解釈で受け取れる。  それが『クヴァシルの血』の効果だとすれば、ますますオーディンが独り占めしなかった理由がわからなくなる。  彼は『激怒』。  邪魔者をすべて容赦なく引き千切ってきた不遜な王者ではないか───  ……だから、ここに神がいる。  識るべき世界を股にかける軍馬にまたがり、この辺境の地まで逃れた己の眼前に神がいる。  憤怒の神が。  また“巨人”か、と。  また“復讐”か、と。  その目が込み上げる負を吐き捨てている。  神は問う。  もう充分だろう、と。  この世界の破滅を願うだけでは物足りぬのか、と。  己はスットゥング。  騙されたと気付いたこの荒ぶる神の灼熱の眼光に、今まさにさらされている者である。  ──巨人よ、と、オーディンの睨めつける眼差しに我が身が裂けていく思いだった。  館に保管しておいた賢者の血のなれの果てが贋物だと気付いた彼は、すぐさま己を追ってきたのだろう。  効果の程が知れた秘宝なればこそ、飲み干せばその真偽はただちに露となるだろう。  まして、知識という欲念に支配された彼ならば。  渡せ。  神の要求に混じり気はなかった。  己が背にする容器にこそ、彼の望みは凝縮されている。  己は鷹に変化して彼を追いかけてなどいない。  バウギの傍らに控えた隻眼の巨人を見た瞬間、己は彼に気付いていたのだから。  ……遂に、“その時”が来たのだと。  だからバウギを追い返したその直後、すぐさま蜜酒を持って逃れたのだ。  彼を追いかけた鷹は己が生み出した幻に過ぎない。  彼がその程度の事にすら気付かぬとは──いったい何に気を取られていたのだろうか。  だが、王を王としてたらしめる彼の玉座は千里も一跨ぎとする。  逃れられない。  その槍の切っ先に一度でも睨まれたならば、必ずその身を貫かれるのと同じように。  今こそ、その槍の切っ先は己に向けられている。  怒りに爆ぜた彼が立ち返る先は、やはり“武神”なのだ。  我々には責任がある、そう武神は告げた。  何の責任か、と己は問うた。  神としての責任だ、と槍の王は答えた。  ──王。  まさに、神々の王としての責任なのだと。  その瞬間、怒りに支配されたのは己の方だった。  何という奢りだ。  そもそも、呪われたのは貴様ら神々ではないか。  世界は巻き添えにされているだけだ───  気付けばそう叫んでいた。  だからこそ、我々は。  そう神が言いかけた言葉を己は遮っていた。 「それが奢りだというのだ! 世界と神々は同一ではない!  人間を、人間という一つの尊厳として認めよ、と言っているのだ! その程度もできずして、何が神々か!  ならば貴様らは、貴様らの考える人間──“ただ力を持つだけの人間”に過ぎないではないか!」……と。  そう吠えた己に、神々の王は「巨人風情が」と露骨な唾棄を浮かべる。  だが、己は告げねばならない。 「それが『武神』としての貴様の誇りから出た言葉ならば受け入れよう、オーディン! 気高き戦士よ@  だが、『神々』という高みから見下ろしての不遜ならば、オーディン! 貴様は王の器ではない@」……そう、声を嗄らしても告げねばならない。  己はその為に蜜酒を見える場所に置き、その噂話が彼の耳に届く日を待ったのだから。  貴様は魔狼に喰われる運命にある、と己は続けた。  知っている、と神は答えた。  そして「では貴様は、私が死を恐れるがあまりに蜜酒を欲していると思っているのか」と問いかけた。  ──次に唾棄したのは己の方だった。  誰が、戦士としてのこの王者を疑うものか。  誰が、戦士としての彼の高潔を汚すような非礼を働くものか。  己は知っている。  彼が狂ったように知識を求め、槍を投げ捨てるが如き真似をしてまで魔術に手を出したのは。  ……「人間を護る為」だと。  その時になって、ようやく彼は己が何者であるのかに気付いた。  彼の胸中を知る己に、あの憤怒の双眸が驚愕に見開かれ───  そして次に、大声を上げて笑った。  そうか、と。  当たり前だ。  巨人如きがこの私を謀れるはずなどないではないか、と。  己は叫んでいた。  知っている、と。  神が人間を信じている事を識っている、と。  そして罵倒した。  であるにも関わらず、この様は何だ、と。  あまりにも不甲斐ない。  ──何が「護らなければならない」だ@  お前が、お前自身とその仲間を救う為に命懸けになるのは勝手だ。  尊敬さえもこの身から零れ落ちる。  だが、すべてを救おうなどと、傲慢にも程があるだろう───  己が告げたかった事は、ただ一つ。 「──他の種の尊厳を汚すな@」  何故ならオーディン、人間はお前が創造した生物だろう。  お前がこの世で生きる事を許し、望んだ種だろう。  だから己は、背にした蜜酒の容器を砕いて地に撒いた。  まさに驚倒の勢いで身を震わせたオーディンの前で、望むすべてをぶちまけた。  ──神の沈黙は、次の瞬間には激怒に変わるだろう。  わかっているとも。  激怒は決して、己を許しはしない。  ──オーディンよ。  後に語り継がれる事になるであろう賢者の血の行く末でお前が取った行動も奇妙なら、己の行動もまた奇妙であったのだろう。  何故、「手にした至高の蜜酒で自身の渇きを潤しもせず、ただ隠していた」のか。  本気で隠そうと思えば、いくらでも隠しようはあった。  己は待っていたのだ。  いつの日か噂を聞きつけやってくるであろうオーディン、お前を待っていたのだ。  その為にあの小人どもを放置し、蜜酒の話が世間に幅広く流布される事を狙った。  自分のものでなくなった途端に彼らが口汚く罵る事などわかりきっていた。  己はギリング夫婦の本当の息子ではない。  彼らは往く当てもなく彷徨い続けていた己を拾ってくれた恩人だった。  その彼らの死と引き換えにしてまで蜜酒を得たのは、お前を釣り上げる餌とする為だ。  智の君臨者の血潮にまつわる一つの神話は、とうに幕を閉じているのだろう。  この世界の果ての島国にて。  玄妙なる均衡の果てに連なりし一つ、八百万の神々が治めし四季の島国にて──己が本物の蜜酒を物言わぬ地面に盛大に振る舞った宴に関しては、語られる事はないだろう。  それでいい。  己は、ただ、この神に思い知らせてやりたかっただけだ。  神の加護などなくとも、人間は人間の力のみで『神々の黄昏』を生き延びるのだと。  それが己の叫び。  腹の底から吐き出した、大地すら震撼させる血みどろの咆哮。  声が嗄れても、喉が潰れても、声高に宣言しなければならぬ言葉。  人間は神々の下僕ではないのだから。  神々は人間の主人ではないのだから。  何故、「護ってやらなければならない」などと考えるのだ。  神々の庇護下でしか生きられないなどと思うな─── 「ヒトの限界を勝手に決められてたまるものか」  己は、人間として生まれてきた事の誇りを、神に伝えねばならなかったのだ。  ──処刑の刻が訪れた。  すでに己には語るべき事はない。  この舌はもはや不要。  激怒にすべてをぶつけたのだから。  けれど、何故だ。  何故なのだ。  あの武神が、何故、振り被った槍を的から外したのだ。  地面に突き刺さった槍を見つめ、ただ呆然とする己に、王者は言った。  いかんな、と。  やはり魔術になど手を出すものではない。  お陰で手元が狂ったではないか、と───  そして己の名を呼んだ。  スットゥング、巨人に化けた人間の魔術師よ、と。  いつから魔術を扱えるようになったのだ、と問いかけた。  己が誰であるのか気付いていた彼には、この答えで伝わるはずだった。  あれだけ目の前で使われれば誰でも覚える、と。  しかし意外な事に、彼は首を振って否定を示したのだ。  それは違う。 “覚えている”事と“使いこなせる”事とでは、意味が違う。  まったく違う。  それは、まぎれもない貴様の才能だ、と。  ──虚をつかれた。  次に込み上げたものが、下腹をくすぐった。  これが笑わずにいられるか。  あの誰よりも不遜な王者が、己の才能を認めたのだ@  いずれ貴様は、私をも超える魔術師となるやもしれぬ。  などと、己の知るそれとは思えぬ言葉を吐いた。  いや、貴様の血を継ぐ誰かが、そうなるやもしれぬ、と。  いったい彼は、どれほど上機嫌だったというのか。  ──さらばだ、『病める舌』。  そう言い残した彼は愛馬に跨り、天空を颯爽と闊歩して消えた。  彼は槍を放置した。  彼の第二の持ち物であったはずの愛槍を捨てていったのだ。  その時になって、己はようやく理解した。  それは破られ続けてきた誓いの、最後の確認であったのかもしれない、と。  決別の表明。 「『戦士』であるこの自身を、ここに置いていく」のだと。  その目を抉っても。  自身を殺害してすら、乾く事のなかった昂ぶりを。  生まれた時から持っていたその槍を、オーディンは『グングニル』と呼んでいた。  何故ならグングニルとは、剣戟の擬音を表す名。  オーディンは誰かの叫び如きで、その意思を曲げるような男ではない。  だが、決意を新たに。  半端だった自身に活を入れる為に。  ──ああ、そうか。  ヒトの叫びし嘆願は、不遜な神の心にも届いていたのだ───  ……だが、時を経て。  名工として名高いイーヴァルディの息子が鍛え上げた自慢の槍を彼に献上した時、かつて戦士であったあの魔術師は、いったいどのような心持ちになったのだろうか。  己はその場に居合わせたわけではないが、想像はつく。  オーディンは震えていたはずだ。  込み上げる想いの意味を計りかねて。  神技とまでに称えられし巧は、魔術と区別のつかないものだから。  だから目の前に捧げられたその槍を、“魔術の槍”と呼ぶ事に何の不都合もない。  ……原初の巨人を屠り、自らを貫いた、あの─── “戦士”であった頃の腕。  いつかどこかに置いてきた、何よりも、この世の何よりも手に馴染む、あの。  ……なんという、と唸っただろう。  これは決して皮肉などと呼べるものではない、と。  何と言った?  今、何と言ったのだ?  そう何度も自問しただろう。  目の前にある槍の名を何と?  誇らしげな小人が、魔術師たる王者に献上した槍の名もまた───  ───『グングニル』と───  だから彼は、それを自身に対する戒めと受け取っただろう。  わかるとも。  お前の従者として仕えた二人の内の一人であるこの己には。  わかるとも。  ……さあ。  己は叫び続けよう。  人間だと叫び続けよう。  オーディン。  お前が創りし原初の人間と同じ名で、この土地から叫び続けよう。 『明日宿』────と。  ……ならば。  ならば、それが知られる事のなかった神話ならば。  これは、忘れられた逸話なのだろう。  だから、それは捨てたものではない。  捨てた事にすら気付かなかったものだ───  従者はいつ如何なる時であれ、主人の傍に控えていた。  戦を糧に己を昂らせる主人の傍に。  呪いを刻まれ苦悩する主人の傍に。  識への欲に乾き続ける主人の傍に。  けれど主人は従者の存在など意にも介していなかった。  目にかけた従者はあったが、それはすでに主人の許を去っている。  もう一人の従者の存在など忘れていた。  いても、いなくても、気付かないまでに。  従者はそれを「常に当たり前の存在として傍に付き従う事を許されている」と思い込んでいた。  片割れの従者がいつしかいなくなっても、たった独りきりとなっても。  だから、捨てた事に気付かなかったのでも、捨てられた事を悟れなかったのでもない。  主人にとって、そんな従者など初めからいなかったのだ。  ……愚かで哀れな従者は。 「主人は、自分にすべてを任せて去っていったのだ。何故なら、それは自分を信じているからだ」と、そう心の底から信じていた。  いつものように、当たり前の事として。  四季に彩られた辺境の島国まで従者はついてきていた。  だから従者は。  名もなき従者は。  置き忘れた事すら主人に気付いてもらえない、自分が捨てられるほどの価値もない存在なのだという事にすら気付けなかった従者は。  主人が何故、蜜酒の回収をしなかったのかを悟る事もできずに。  ……必死に知恵を絞って。  何年も年月が経った頃、ようやく行動を実行に移した。  かつて原初の巨人の血を吸い、また魔術の秘密を暴こうとした主人の血をも吸い。  無数の敵──主人にとっての“敵”──の血を吸った槍。  同じ“血”の回収ならば、この槍を置いて他になし。  血の回収には血が流れた方が相応しかろうと、洒落たつもりで従者は、そこらにいた人間を捕まえて、串刺しにした。  ──だってこの槍は、ご主人様がぼくを信じて置いていってくれたものなんだから。  もう一人。  もう一人。  もう一人。  もう一人。  もう一人。  集落らしきそこに人間は沢山いた。  ぼくは手当たり次第にそいつらを捕まえては槍を突き刺していた。  そうしたら、なんでか「鬼」とか「化物」とかひどい事を言われるようになって、そのうち人間たちが歯向かってくるようになったけれど───  ぼくに勝てる奴なんかいなかった。  当たり前だろ。  だってぼくは、あのご主人様のけらいだぞ。  偉い神様の中でも、一番に偉い御方に仕えているんだ。 「変わった妖精だな」って、ご主人様がお声をかけてくださった時から、ずっと。 「妖精としては稀な力を宿しているようだが、その使い方をまるで知らぬ」なんて言ってそっぽを向いたご主人様は、すぐにどっか行っちゃおうとしたんだけど───  それって、ぼくに目をかけてくださったって事だよね。  だからぼくは、それからずっとご主人様にお仕えさせていただいているんだ。  ……どうしてか、それ以来、ご主人様がぼくにお声をかけてくだされた事はなかったけれど。  でも、ぼくはご主人様のけらいだよね。  人間なんかに負けるもんか。  でも、その日は様子が違った。  いつものように、歯向かってくる人間たちをけちらしてやろうと思ったんだけれど。  なんだ?  なんなんだ、こいつら?  ぼくは妖精だから、人間にはない力を持っている。  ご主人様も認めてくださったように、決して人間には真似できない不思議な力を持っているんだ。  でも、その日歯向かってきた奴らは、人間が持っているはずのない力を使ってきたんだ。  こいつら、人間じゃない。  そう思ったけれど、やっぱりそいつらは人間だった。  ぼくにはさっぱり意味がわからなかった。  どうしてこいつら、人間なのに何もない場所から火を生み出す事ができるんだ?  母と子。  たった二人だけなのに、そいつら、とっても手強かった。  ……砕けちゃった。  そいつらと戦ってる時、ご主人様の槍が砕けちゃったんだよ。  ──怒られる!  ご主人様がぼくを信じて置いていってくださった大切な槍が砕けてしまって、ぼくは顔が真っ青になった。  そしたら、あいつら、ひどいんだ。  ぼくは慌てててそれどころじゃないのに、卑怯にも「好機!」とか言って襲ってくるんだ。  思わず逃げ出しちゃったよ。  どうしたらいいのかわかんなくって。  ……どうしよう。  どうしたらいいんだろう?  こんな時、あいつなら名案が浮かぶのかな。  ぼくと一緒にご主人様にお仕えさせていただいていた、もう一人の従者。  人間のくせにご主人様に気に入られてて、身の回りのお世話を任されていたあいつ。  ぼくはお声をかけてもらえないのに、あいつは何かと…………。  ……わかってるよ。  あいつは頭が良かったよ。  それは認めるよ。  ぼくは……あいつと比べて、あんまり頭がよくないよ。  それも認めるよ。  でも、あいつはもういないじゃないか。 「これを認めるという事は、生まれてきた意味を否定する事」とか、「それそのものが主人と認めた彼を卑下する行為に他ならない」とかなんとか、わけのわからない事を言っていなくなっちゃったじゃないか。  ぼくは……。  ぼくは、そうだ、ぼくはご主人様に信用されて、こんな大任まで任されているじゃないか。  槍は……砕けてしまったけれど。  でも、きっと、なんとかなる。  だってぼくは、ご主人様に信頼されているんだから。  そう考えるだけで、なんだってできる気がした。  ぼく……。  ……僕はしばらくしてから、槍を突き刺した場所へと戻ってみた。  あいつらは……よし、いないな。  でもあいつら、どうしてあんな力が使えたんだろう?  砕けてしまった槍を前にして、僕はしばらく考え込んだ。  ……あいつら、また来るかな。  手強かった。  あの変な力に不慣れな感じはしたけど、特に母親の方……うん、なんだろう、怖かったんだ。  すごい必死で。  それから、すごい怒ってた。  ああ……もうちょっと、ちゃんと力を使えるようになっておけばよかった。  いなくなってしまったあいつも言ってたけど、僕にはすごい才能があるらしい。  妖精の持つ不思議な力っていうのは本来ならイタズラに使われるようなちょっとしたものでしかないんだけど、僕はそれが極端に大きくて───  ええと、何て言ってたかな。  ああ、そうだ。  大きなイタズラができる、って言ってたんだ。 「それこそ、国を一つ滅ぼすような悪戯をな」なんて言って、あいつ、冗談だよって笑ってたっけ。  でも、使い方がわかってないから複雑な事はできないって。  ……悔やんでも仕方ないよね。  これからがんばろう。  とりあえずは、今どうするのか考えないと。  あいつら──火を自在に操ったあいつら。  まだまだ使いこなせてなかった感じだけど、「ああいうのは伸びる」って直感が教えている。  僕だってご主人様のお傍に仕え続けて、沢山、ご主人様がやっつけた奴らを見てきたからね。  勿論、ご主人様には歯が立たなかったけれど──才能を見抜く目って言うのかな、身についちゃったんだよね。  いなくなってしまったあいつも、そうだったんだろう。  自分のはよくわからないんだけどね。  となると、あいつらに対抗できるだけの戦力が必要だよね。  僕は一人しかいないし……これからがんばるとしても、まだ、あいつらに勝てる自信はないかな。  上手くすれば勝てるかもしれないけれど、こういうのって、「勝機を見出した時」にこそ仕掛けるべきなんだよね、確か。  今までは向こうが勝手に来てたけど、こっちからとなると慎重にいかないと。  うん、いいぞ。  僕は今まで考えが足りなかったんだ。  こうやってちょっとずつでも、ちゃんと考えて行動するようにしよう。  その時、ちょっとびっくりする事が起こったんだ。  槍──ご主人様の大切な槍が砕けてしまった時、槍は最後に刺した人間の死体に突き刺したまま固定しておいたんだよね。  もう血は見るのも嫌になるくらい流したし、結局、いくら血を流しても地面に染み込んだアレは回収できなかったから、あんまりご主人様の槍を使い続けるのもいけないかな、と思って。  だからあの火の母子と戦った時は、僕は自分の力を使ってたんだけど───  ──最後に槍を突き刺したままだった土台が、動き出したんだ。  よく見たら、そいつの身体には砕けた槍の破片が飛び散っててさ。  そいつが起き上がって歩き出すまでには、欠片はそいつの身体の中に吸い込まれるように消えていた。  その時、僕にはわかったんだよ。  ちょっと前までの僕だったら、「槍の破片が消えちゃった! どうしよう!」なんて慌ててただろうけど、今の僕は前とは違うからね。  だってあの槍は、ご主人様が僕を信じて置いていってくださったものなんだから。  人間っていう存在は、きっと、“器”として機能するんだ。  そして“器”から、“器”の中身を飲み干し、力とするんだ。  稀にそういう奴らがいるんだ。  ……もしかしたら人間っていう存在は、“力”によって変異し易いのかもしれない。  ──そうだよ。  だからあの母子は、人間にはない力を持っていたんだ。  そう考えれば納得がいく。  あいつらは、この土地に染み込んだアレによって力を得た人間なんだ。  そう──『主張する者の血』によって。  だったら、あの『槍』によって力を得る人間がいないと、どうして言い切れる。  とりあえず僕はそいつを連れて森の中に逃げ込んだ。  しばらく付き合ってみてわかった事は、そいつはどうやら魔術を扱う事ができる、という驚くべき発見だった。  ……ご主人様が使い続けた槍だから、だろうか。  とにかく、僕にもやっと仲間ができた。  しかも魔術師なんだから、こいつはすごいぞ。  けれどそいつは、すぐに動かなくなった。  僕はまた独りになってしまった。  まあ、あいつ──元が死体だからか考える事はできないし、どうやら力はすごいみたいなんだけど使いこなせないし、戦力としては程遠かったんだけど。  せめて、生きてる人間程度の頭があったらなぁ……。  これからどうしよう?  僕はまた考え込んでしまった。  そういえば、と思い出した。  今はもう動かないあいつが犯した娘。  死体に犯され、気の狂ったあの人間の娘から産まれた赤子───  それもまた魔術師だったんだ。  けど、才能はあいつとは比べるべくもなかった。  まるで、あいつの才能の一部だけを持って生まれたかのように。  ……あいつの?  ……『槍』の?  その子も、その子も、しばらく様子を見てたんだけど、産まれてくる子はみんな魔術師としての才能を持っていた。  僕はいつしか気付いた。  産まれてくる子供たちは、身体のどこかに必ずあの槍の欠片が埋め込まれている事に。  何という事だろう。  老いて死ぬ事のない者たちには決してわからない。  人間とは。  人間とは、短い命が散る前に、子にその才能を譲るのか。  最初のあいつに溶け込んだ『槍』が、子が産まれる度に吐き出されている。  ──それは動き出した死体から始まった、欠片の回収劇だった。  だから、この瞬間。 『桜守姫』と呼ばれる一族が誕生したんだ。  その名は、数十の名を持つご主人様の名を一つ、頂戴したもの。 『OSCI』───望む者。  あの槍は、ご主人様の信頼の証だから。  ……遂に、終末の刻が始まる。  私は鍔広の帽子を被り──そして、最期の場所へと赴こう。  ここまで足掻いたのだ。  最期の最期まで足掻いてやろうではないか。  ……私は“賢神”にはなれなかった。  大いなる遠回りをして、ただ骨の髄まで“武神”である事を思い知らされただけだ。  鍔広の帽子を被り、そして…………。  この手に。  この手に握られているのは“槍”だ。  武神であると思い知ったならば。  ならばこれは、私の奥底に張り付いて──決して離れなかった信念。  私は今日まで、己の眼で見たものだけが信じるに足るものであると確信してきた。  私の判断は、即ち神々の総意なれば。  故に、揺るぎない決断をこそ己の戒めとせねばならない。  ──故に私は『激怒』である。  ならばこそ。 “我が目を疑う”などという行為は、今日この時までただの一度としてなかったのだ。  なれど今、私はその行為を禁じ得ない。  頭上に傾けた己が首が──この双眸に映る光景に、懐疑の思いを沸き立たせずにはいられない。  ……太陽が。  ……太陽が……喰われぬまま?  月もまた変わらず────  尚も雄鶏たちは開戦の狼煙を上げず。  呆けたままの私は、だらしなくも口を開いて突っ立っていたのだろう。  ……何が起きている?  いや。  起こるはずだった出来事が起こらない何が起こっているのだ?  ……そうか。  浮かんでは消えるこの世界。  在り得ない均衡で保たれているこの隠世。  分かたれた選択もどこかで繋がっている。  我が千里眼が見通した。  ──人間。  人間が。  ……ハハ。  ハハハハハ。  ハハハハハハハハハハハハハ@  何という事だ。  これほど笑える出来事があろうか。 「……これだから」と、呟いた言葉は。  この王にして紛れもない本心。  これだから───  ──“神”などという理由で胡坐を掻いてはおられんのだ──  あいつらは追いついてくるぞ。  すぐにでも我らの座を狙いにくるぞ。  ──もらったぞ。  確かにいただいたぞ。  ──人間。  貴様らの心を@ 『フローズヴィトニル』と呼ばれる存在がある。  地響きを上げながら、私に向かって突進してくるそれこそが。  ──貴様が。  ──貴様が“狼”か。  私を喰い殺す“狼”か。 『フローズヴィトニル』。  だが、その名よりも、もっと世間に流布された名がある。  ──『フェンリル』。 『魔狼フェンリル』───  それは私を喰い殺す事が決められた獣の名。  フ……。  フハハ。  フハハハハハ@  喰い殺す?  喰い殺す事が定められた?  たかが犬っころが、この槍の王を?  ──なんたる不遜だ@  巨人。  私は貴様を引き裂く事から始まった。  そして魔狼に喰い殺される事で終わるはずだった。  だが、聞け。  耳を済ませてよくぞ聴け。  散りばめられたこの世界に響く、この凱歌を。  ──人間賛歌を@  気付けば私は。  ───この薄汚い獣を両断していた───  当たり前だ。 『人間』。  愛すべき矮小なる可能性である貴様らが、定められた未来さえをも変えたというのに───  ──この私があんな狗如きに喰い殺されてどうするか@  変えたのは貴様らだ。 『終末の予言』を捻じ曲げたのは貴様らだ。  信じて疑わなかった、当たり前の結末として甘受するしか術がないと──足掻き続けたこの私すら嘲笑い、定められた未来に亀裂を入れたのは貴様らだ。  人が、変えた。  私の意思を。  神の心を。  おわりのせかいを───  ……人間。  視えたぞ、貴様の姿。  聴こえたぞ、貴様の名。  ……『サク』、か。  確かに覚えたぞ、貴様の名を。  このオーディンの心をすら変えた人間よ。  死の世界から土産として持ち帰った文字に等しく、この身に刻んだわ@  ──そうか。  身につけた知識が教えている。  かつての支配者の睫毛を用い、人間の国を囲ったものも──貴様の生きる世界において、国において、同じく『サク』と呼ぶのだな。  あれは下衆な巨人どもの侵略から、人間の世界を護る為にこそ創り上げたもの。  ……そうか、貴様も。  貴様も人間の世界を護ったのだな。  貴様たちが何処の神が生み出した世界の結果なのかは知らぬ。  だが、どのような螺旋の系譜を辿ろうと、必ず貴様に───  貴様たちにこの借りを返そう。  誓った。  ──この『激怒』が誓ったのだ。  私は大空を見上げ、届かない声を張り上げる。  後は、『サク』───  貴様しだいだ。  貴様が何を選び、何を得るのか。  貴様たち人間にとって「避けようのない未来」に、僅かばかりこの私が干渉したところで───  選ぶのは貴様たちなのだからな。  では、残りの下衆どもを片付けるとしようか。  丸ごと平らげてやろう。  後は私の役目だ。  貴様らの世界を踏み荒らさせなどしない。  貴様らは貴様らの世界を護れ。  命懸けで護れ。  邪魔と言われようと不遜と蔑まれようと、私は貴様らの世界を護る。  では往くぞ。  ──我が名は『激怒』。  ───『激怒』である─── 〜ラベル『スタッフルーム』の内容は記述されていません〜  警告。  ここから先は本編の印象を著しく損なう恐れがあります。  今すぐ「ALT+F4」を押し、ゲームを終了した方が宜しいかと。  ………………。  ………………。  ………………。  ……おやりになられる。  そうですか……。  では、以下はパラレルワールドになっております。  時系列などは一切考えていない作りになっておりますので、軽いお気持ちでお楽しみください。 「みんな、いらっしゃい」 「本日は昼餉にお招きくださり、ありがとうございまする」 「お邪魔いたします」 「お……お邪魔します」 「うん、お邪魔されている」 「ちっ」 「いきなり舌打ちはやめろ、メメ」 「まあ……じゃあ今日は休戦ね。休戦。貸しって事で」 「それはかたじけない」 「ああん?」 「今休戦って言ったろうが!!」 「ちっ」 「オマエたち喧嘩するな。よし、わかった。ここは皆の和を取り持つ為に、私が心温まる話を聞かせてやろう」 「ひっ……!」 「おやめくだされ」 「おおおおねーさまおねーさまっ! で、今日の晩御飯は何なのっ!?」 「ナイスだメメ」  でもお昼ご飯ですよ愛々々さん、慌てすぎです。 「うん、今日はいい材料が手に入ったんでな。皆が来るという事で、丁度……」 「あら。料理名人と名高い唯井さんがわたくしたちの為に腕を振るってくださったとは、光栄ですわ」 「何を言ってる。私はお主人ちゃんに食べてもらう料理に手を抜いた事など一度もない。皆が来るというので、今日は多めに作っただけだ」 「はいはい。アツアツですわね」 「うん。アツアツの料理だ。皆も喜んでくれると嬉しい」 「はいはい」 「遂に通り魔イノーンまでもが倒されるとは……」 「えっ!?」 「だが、奴はここへはこれん。これぬ理由があるのだ」 「フッ……例のあれか。まったく小細工が好きな奴だ」 「クックック……」 「ハッハッハ……」 「カーッカッカッカ」 「この声は──まさか!!」 「ふっふっふっ」 「ささっ、傘姉!!」 「ラスボスがっ!!」 「ふたちゃんのご馳走なのに、わたしを呼んでくれないなんてひどいよー」 「いや、呼びたかったんだが、おねさまの家は未だどこにあるのか謎だからな」 「あー、明日宿は隠れちゃってるからね」 「というわけで、わたしもまぜてよー」 「何という絶望的な戦力差だ」 「戦車の砲弾を防いじゃう人相手に、どーしろっての」 「ハンデがあるのはよくないな。ばあさまを呼ぶか……若返ってもらえばなんとか」 「菊乃丸もついてきそうでウザイんだけど」 「そうか。じゃやめよう」 「ぶえっくしゅ!!」 「風邪か?」 「いや、よくわかんねーけど。なんかひでぇ扱いされた気がした」 「日頃の行いの成果だな」 「日頃の行いが良くてもハゲるんなら、俺は俺の道を往くぜ」 「……さて。葬儀には立ち会ってやれんが、棺桶だけは用意した」 「そっか。俺もなんだかこんな事になるんじゃねーかと、装備は万全だ」 「御大。このような山猿の血で庭先を汚すご無礼、どうぞお許しください」 「OKババア。愛してるぜ」 「…………」 「……平和よな」 「いや、まったく」 「ふむ」 「メ……メメが。みどのが、透舞さんが……秒殺とは」 「トリマキは初めから戦力外だったようだが」 「ふっふっふ〜」 「──獅子の君、媛がお相手いたしましょう」 「おおっ! この街の最強が遂に激突かっ!!」 「本当の戦いはこれからだ。らんぷおぶしゅがーの次回作をご期待ください」 「不吉な宣言をするなっ!!」 「そんな事を言ってる間に、此芽が『345678 9:;<=>?』をっ!!」 「『注』」 「ちょっと。家とか滅茶苦茶なんですけど。何二人とも大技出してんのさ」 「まったく掃除が大変じゃないか」 「嬉しそうな顔すんなっ!!」 「ああっ! おねーさまが雲にっ! おねーさまっ! おねーさまっ!」 「お、メメ復活したか」 「打たれ強さが未寅の売り」 「そういや本編じゃ一度も技らしい技を出してないよな」 「何? 見たいの? いいよ。策如きに使うのは勿体無いけど」 「ほう……この俺に拳を向けるとはいい度胸だ。我が『解対』の前に平伏すがいい」 「愛に下の世話までされた人の台詞とは思えないね」 「俺の黒歴史に触れるなっ!!」 「あれってぶっちゃけ、がん……」 「わあああああああああっ!!」 「あ、みどの。これ美味しいですわね」 「うん」 「おい何勝手に食い始めてるんだよっ!!」 「あ、巽さん。マヨネーズ取ってくださらない?」 「はい」 「あ、先輩。そっちのお醤油も……」 「醤油は鬼門だっ! 天を仰ぐカレーライスを思い出すんだっ!!」 「なにそれ……お姉様を侮辱すると挽肉にするよ……?」 「ううううるせええええっ! お前とメメは微妙にキャラ被ってんだよ!!」 「収拾がつかんな」 「あ、おねーさま。もう蛙蟆龍はお終い?」 「最近は気を抜くとすぐ雲になってしまって困る」 「幽体離脱みたいだね」 「実は太陽にもなれるので、一瞬でこの街を焦土にもできるんだが」 「街じゃ済まないよね、それ……」 「ふふふ。やるねココちゃん」 「獅子の君も噂と違わず」 「ココちゃんだったらわたしの事を止めてくれてたのかなー」 「時系列的には、獅子の君が大暴れなされておられる頃、媛はもう……」 「あ、ごめんごめんっ。え、えと、そうだっ。ネギトロ丼とプリンアラモードと江戸前寿司あげるっ」 「一度お尋ねしたかったのですが、その和傘の機構は如何様な……」 「それはね、明日宿の厳秘の中に隠されているの」 (何と便利な言葉よ……) 「お姉様っ! これ、とても美味しいですわよ。どうかお食べになって」 「おお、然様ですか。では獅子の君、停戦と……ん? みどのは如何しました?」 「あちらで巽さんをシメてますわ」 「み、みどのっ! こらっ! さくに手を上げる事は赦さぬぞっ!」 「我が前にかしずくがいい。すべての愚民ども……」 「さ、さくっ! さくっ! しっかりなさらぬかっ!!」 「六つに解体とは桜守姫妹もよくわかってるね」 「どうせくっつくんでしょ?」 「さて。では私は後片付けを」 「ま、待てっ! 俺まだ食ってないぞ!!」 「おねさまがすべて平らげてしまった」 「ごちそうさまでした」 「あああああっ!? 何人分あったと思ってるんだっ!?」 「何を今更」 「☆●△=Жっ!!!」 「さ、さく。キャラが崩壊しておられるぞえ」 「まあ、バラバラになったりイっちゃったり忙しいからねえ……色々と溜まってるんじゃない?」 「お漏らしもしたんでしょ?」 「それはお前も一緒だろうがっ!!」 「なっ!!」 「さ、さく。お腹が空いておられるのならば、媛がお作り差し上げる故……」 「いやあああああああああっ!!」 「じゃあ、たまにはわたしが」 「完全消費専門じゃないですかああああああ」 「巽さんが完全に壊れましたわ」 「人間なんて脆いよね」 「…………」 「あ、お父様」 「…………」 「え、何々? グダグダすぎてこのままじゃオチがつかないから自爆する? あ、爆発オチって事?」 「あら大変。さ、お姉様。避難いたしましょう」 「さ、さくっ! さく〜っ!」 「じゃ、おねーさまも」 「おねさまは?」 「あ、わたしは爆発しても平気」 「ったく俺だって色々と大変なんだっつーのよく考えると重婚みたいな事になってるしだいたい白爺さんも思うところがあったんだったら先に言っておけっつーの俺がこの街に来てどれだけ」  くどくど。  くどくど。  くどくど。 「あー………………ま、いいや」  人間前向きに生きなきゃね。 「あれ? みんなは?」 「…………」 「あ、此芽のお父さんじゃありませんか。  子供の頃、随分と捜し