──ああ。 ──視界の端で道化師が踊っている。 いつもは見ないようにしている。道化師は、何故だか過去を思い起こさせる。 過去の記憶。切れ切れで、はっきりとは思い出せない。 踊る道化師。黒色の。いつもは見ないのに。今日は、つい、見てしまった。記憶と共に。 あれはそう、10年前。今はもう細やかな破片になってしまった記憶たち。赤と黒を基調とした、無数の。 記憶。悲鳴と絶望の呻き。 記憶。この手で助けられると驕っていた。さしのべれば、必ず救えるものと。 記憶。次々と手の中をすり抜けていく命。 記憶。都市の何もかもが“崩れ”始めたあの時。       「どうして」 ──ああ。──訊ねる声が聞こえる。 答えられない。答えられない。 言葉は出ず、伸ばした手も届きはしない。 きっとあの時。世界と一緒に僕は壊れてしまったのだ。 呻き声の中をさまよい、数多の誰かの涙を無限に見つめながら、役にたたなかったこの両手を蠢かせて。 深い霧の中をもがくように。悪い夢の中で悶えるように。──10年。 気付けば、もう10年が過ぎていた。この«異形都市»が生まれて。 ──都市という世界が壊れてから。──10年。 都市下層。第3商業特区、別名を無限雑踏街。 今日もここは人で充ちている。かつては人間と呼ばれたはずの人々だ。 無数に行き交う人ならざる姿をした人。これが10年前であるなら異常な景色。けれど、今はこれが正常な都市の姿。 蜥蜴の顔をした男。梟の翼と爪を持った女。犬のような若者。そして、己の姿を隠す外套を被った人々。 これが正常。異常なのは、ただひとつだけ。視界の端。 ──視界の端で道化師が踊っている。──今日も。いや、いつだってそうだ。     『こんにちは。ギー』 黙れ。心の中で意味のない返答をする。幻は、今日も話し掛けてくるから。 小さな溜息をひとつ。巡回医師ギーは今日も下層を徘徊する。 市民等級の区別なく、都市法が定める当然の“選定”を無視する違法医師。イリーガル・クラッキングドク。 白衣と呼べない改造外套を羽織って人混みの中、無限雑踏街を歩く。     『こんにちは。ギー』 また今日も。幻が語りかける。ギーにだけ見える幻。 視界の端にちらつく道化師。焦点を合わせようとするとフッと逃げるこの幻は、10年間、ギーの視界に在る。 誰にもこの幻の話はしたことがない。この程度の異常なら、この都市じゅうに嫌というほど溢れている。それを今さら。 ……留守か。 雑踏街の一角。とある軒先を見てギーは呟く。 強欲なスタニスワフは留守らしい。可愛らしく憎らしく囀る双子の姿もない。きっとどこかで金を稼いでいるのだろう。 ならば、とギーは徘徊を続ける。自分の診るべき相手を探す。 客ならこの都市にはいつも溢れている。都市。その名はインガノック。 ──都市インガノック。──語る者なき«異形都市»。 かつては東大陸有数の大機関都市。美しく整備されつつあった、世界初の完全環境型複層都市。 今は違う。隔絶され孤立した異形たちの澱み。 そう。そうとも。きっと“外”の誰もこの都市を語るまい。 10年前の«復活»ですべてが変わった。不可思議な霧によって外界から隔絶され、インガノックは変わった。歪んだ。 都市は死んだという者もいる。言い得ていると、ギーは思う。確かに死んだ。 都市計画を大きく逸脱する異常事態。幾つもの区画ではびこる木々と植物。誰も見たことのなかった、それらは緑色で。 すべてが変わった。ギーが学んでいた“人間のための”医術は意味を失った。人々の体が変異したからだ。 鳥や猪のように幻想の異人種と化した者、物言わぬ石の塊と化した者、死へ至る植物へと変わる者。 ──誰も彼も。──誰も彼も、形を変えた。 もはや。純然たる人間は、都市下層部にはいない。 ──そう。 ──ギー自身も含めて。 「ありがとうございます……。 お医者さま、はるばる、こんな……」 「みすぼらしい場所へ、足を……。 運んで、くだすって……ああ……」 大丈夫。あなたは喋らないで。気管支を痛めます。 触診と“右目”が相手の容態を伝える。脳の中に認識が広がる。彼女は、ひどい肺炎だ。 無限雑踏街の更に下層に位置する区画、第13貧民街の一角。本日2人目の患者をギーは診察する。 肺炎。栄養不良と免疫力低下。10年前なら死んでいただろう、確実に。 けれど今は。変異する前にあった病など、どうとでもなる。 肉体治療に特化されたギーの現象数式、すなわちクラックが肉体を書き換える。 ──どうとでも、なる。 目を閉ざす。現象数式のもたらす光を瞼越しに感じる。 恐らく初めて目にしたのだろう、クラッキング光を目にした患者の女性が恐怖と感嘆とが入り交じった声を上げる。 大丈夫。目を閉じて、楽にして下さい。 すぐに終わる。大したことはありません。 (そう。大したことは、何もない) どうとでもなる。数式の“右目”で視える内臓位置と性質は10年前の人間とほとんど同じだ。助かる。 けれど。ギーの“右目”には視えている。 女性の下腹。腸の一部。既に変異を始めている。人間のものから、昆虫に似た内臓へと。 骨格もだ。肩胛骨と外骨格が同居を始めつつある。 かつてのギーなら思っただろう。なぜこの内臓でいながら生きているのかと。 複種の生物の内臓が融け合って。それでも生きている。 けれど、それがインガノックだ。豊かさをもたらす蒸気機関の排煙と廃液、そしてこれらの異形が合わさる孤立都市。 この女性……。5人の幼い子を持つ30代後半の彼女は、40歳を迎える前に完全変異するだろう。 昆虫の性質を持つ幻想の異人種と言えば、«上層階段»の森林に住まう«虫蟲»だ。穏やかな気性の種だが。 外見は昆虫そのもの。多くの場合、変異した肉体に絶望する。自らの運命と肉体とを呪い、発狂する。 ──何もできない。──ギーには。 完全な変異が訪れた時。この女性は、どうなるのか。 そして子供たちも。どう思うのか。 ──何もできない。──この10年、何もできなかった。     『こんにちは。ギー』 珍しい。今日3度目の幻からの呼びかけ。 変異のことは口に出さず。道化師のことを無視して。ギーは、起動させた数式に脳を集中させる。 ──脳が機能する。──現象数式を司る器官である“脳”が。 そう。ギーも変異しているのだ。 おかげで、これができる。10年前にはできなかったことができる。変異しているのだから。脳が。別の物に。 質の悪い冗談のような、この、現象数式という手品を扱えるように。ギーの脳は歪んでこうなった。10年前に。 ギーにはわかる。彼女を構成する数式と、その病巣。 つまり“計算違い”が見えるのだ。それを、いじる。慎重に、ひとつひとつより分けて。 3であるべき数字が1になっている。それを、正しく3へと置き換える。それで、治療は終わり。術式完了。 お疲れさまです。治療は終わりました、マダム。 “右目”で確認する。確かに気管支の細菌は駆除できた。 治療完了。簡単なものだ。この程度ならどうとでも。ギーは、患者を見つめながら、自嘲する。 この10年の間に生まれた無数の変異や病。それらが相手であれば、こうはいかない。こうはいかないのだ。 変異したこの脳に現象数式を思い切り詰め込んでも、治せないものは無数にある。汚染された第4貯水池に漂う細菌のように。 今回のように病巣を取り除いたり、内臓の機能を回復させる程度では、どうにもならないことも、ままある。 形質変異たる«忌罹病»。異形の死の刃たち。蔓延するドラッグ。そして、姿を隠す41体のクリッター。 こぼれ落ちていく命たちは無数に。掬い上げられるのは、僅かな一部。 ──だから。──こんな光など。 ──結局は、ただの手品止まり。 「ありがとうございます。 先生……その、お代は……」 今お支払い頂かなくても宜しいですよ。分割でも構いません。 5人の子供たちが見ている。部屋の入口からギーのことを覗いている。 月末でも、来月でも構いませんよ。大丈夫。払える時にどうぞ。 払える時など彼らに訪れるものか。下層の人々は貧しく、多くが病んでいる。誰もが上層貴族や機関富豪にはなれない。 「でも」と力なく呟こうとした彼女を、ギーは片手で制止した。 構いませんから。 ──構わない。 金は、取れる相手から取ればいい。金は、必要な人のところにはない。 不必要な人のところに集まるものだ。そこから取ればいい。 ……とは言え、自分もそろそろ飢えてしまう頃だ。 水とコーヒー以外の何かを胃の中に入れたのは、何日前だったろう。覚えていない。食欲を感じたのは何日前? そろそろあの故買屋のツテでも辿って小金持ちの上客を見繕ってもらわねば。自身の不養生もそろそろ限界か。 路地裏を見る。廃棄された機関機械がいつものように無造作に転がっている。あそこに座って少し休もう。 と。小さな影。ぴょこんと顔を出す。 せんせ! ギーせんせ! ……やあ、パル。ルポにポルンもそこにいるね。 はい。ふたりともいるの。せんせ、こんにちわ! おじちゃん、こんにちわ。きょうもお仕事ごくろうさまぁ。 あの、えと…。 おにいちゃんて言わなきゃだめなのよ。ね、ギーせんせ? えと、えと…。 え、そなの? おにいちゃんなの?でも、おにいちゃんなのはルポだしさ。 ルポはおとうとでしょ。おねえちゃんがあたしなんだから。 好きなように呼ぶといい。ポルン、こんにちは。腕の調子はどうかな。ルポもパルも、腕や脚はちゃんと動くかい? だいじょうぶー。 そうか、良かった。 子供たちの笑顔。無邪気な、明日への恐れなど何もない。 ──見るたびに胸を刺すものがある。──何が、良かったことがあるものか。 死を撒く種と呼ばれる«樹化病»に侵されてしまった、3人の子供たち。患部である手足を冷たい機械に置き換えて。 覚えている。あの夜のことは今も。 機械工モリモトへの貸しと引き替えに、安い数秘機関、すなわち機械の義肢をこの子たちに埋め込んだあの夜。 叫び声。泣き喚く声。 ──似ていたと思う。──あの、10年前の朧な記憶と。 いけない。考えてはいけない。ギーは頭を切り換える。 懐中時計を見ずとも空を見ればわかる。もう夕刻だ。灰色がほんの少しだけ濃い。 10年前の«復活»よりもずっと前から晴れることを忘れた灰色の空。排煙の空。その微妙な差異。 もう外で遊ぶ時間じゃないな。3人とも、もう帰りなさい。 ええー、きょうは親方がいっぱいおしごともってきたから……。 そうそう!親方、新しい機関機械を買ったんだって。工場じゅう、煙でもくもくなんだよ。 そうなのか。 機関機械。人々の生活を支える機械。偉大な碩学たちが形作った蒸気文明の恩恵。 工場用機関、農耕機関、生産機関。人々をインガノックで生かす機械。けれどそれらが生み出す排煙は、体を蝕む。 機関義肢のメンテナンスだけでなく、喘息の兆候も調べよう。次の検診時には、必ず。 ギーは思う。子供が住むには歪みすぎているのだ。 だからあそぶ時間、ぜんぜんなくて……。もちょっと、いいでしょ、せんせ? えと、えと……。もっとおそとであそびたい……。 ……駄目。帰りなさい。 小さな機関工場の親方が子供たちの養父。あの男がいつ虐待を始めるものかと近場の機関酒場での賭けの種だというが。 工場の仕事手伝いなら、まだ。まだ大丈夫だろうか。 (それより、時間を気にするべきだな) 周囲を見ても知った顔はない。この子らを頼める相手は居そうにない。近くにいるのは機関精霊1匹。あとは。 あとは──視界の端の道化師くらいのものだ。 僕が送っていこう。あの親方には僕が言っておくから、ちゃんとおかみさんに謝るように。 「えー」「えー」「う、うん」 ……返事が3つ。 「はーい…」「はーい…」 ……と、遅れて2つ。 手を引いて。ギーは3人の子供たちを家まで送る。 ほんの半マイルの距離でも。そうする必要がある。放ってなどおけない。 ──この都市はもう壊れているから。──放ってなどおけない。 さようならと放っておけば、きっと3人とも明日には生きてはいまい。 子供の誘拐も近ごろ多いと聞く。胸くそが悪くなる。 そう思える心を誇らしく思えたのは、数年前までだったけれど。それでも。 手を引いて。この子供たちを送らざるを得ない。 安全とは言い難い、機関工場へと。何もかもを考えないように。歩く。 ──ああ。──視界の端で、今も幻が踊る。 インガノックの夜── 雑踏街をギーは歩く。目指しているのは少しだけ上にある地区。上ではあるが、そこも下層には違いない。 上層と下層。前者は都市の頭頂部であるほんの一部だ。それ以外のすべてが“都市下層”なのだ。 20時か……。 また何か言われるかな。エラリィに。 ギーに接する下層民たちの反応は2種。細かく分ければきりがないが、大きく分けるのなら、2種だ。 ひとつはあの3人の子供たちや、先ほどの女性患者のように、暖かな反応。ああいった反応は、ギーは好きではない。 思い出してしまうから。都市が歪む前の、穏やかな日を。 何より、身につまされる。自分がいかに無力であるのかと。 対して、もう1種の反応は気が楽だ。ギーを指して「変人め」と蔑む人々。実際その通りだから。 雑踏街の顔役であるフィクサーや、かつて上層の大学で同期であった医師仲間。彼らからは、しきりに「変人」と言われる。 ギーは思う。自分でも確かに変人だと。 得はない。何をしようとも、無力感に苛まれるだけ。それでも。違法の巡回医師を続けている。 ──続けずにはいられない。 ──そうとも。 たとえ世界が変わっても。既に世界が壊れたのだとしても。 立ち止まる訳にはいかない。この10年間。ずっと。そうしてきた。 ──ああ。──視界の端で、今も道化師が踊っている。 聞いているかい、ギー。大事な話なんだ。お前さんにとって。 聞いている。ギーは頷いてエラリィを促す。 エラリィ・バーンズ。10年前の同級生。かつてインガノック上層大学医学部では共に医術を学んだ。 彼は«復活»の後にこうして医院を開き、それなりの成功を収めている。変異の少ない人間たちを相手にして。 奇妙なことに──変異が少なく人間の姿を保つ一部の人は、富裕層の高級市民であることが多いのだ。 だから、エラリィはうまくやった。自分の得た技術を“正しく”活かしている。純然たる人間のための医学を、無駄にせず。 診察時間は平日の13時から19時まで。週末2日は休み。週末には毎度パーティを開いているとか。 先ほど、医院の入口で愛嬌たっぷりに嫌な顔をしてみせた«蟻蟲»のナースのことを思い出す。 あの四本腕の娘が確か現在の彼の恋人だ。本命は、毎週のパーティで口説いている商家の娘だと双子の耳屋は言っていた。 そうとも、うまくやっているのだ。エラリィは。 お前は優秀な男だ。俺にはわかってる。大学でもお前に敵う奴はいなかった。私なんて、落ちこぼれもいいとこだった。 お前は実際よくやってるよ。医学を捨てなかった。誰もが諦める中で、お前は現象数式だって脳に修めてみせた。 わかるだろう、ギー。私はお前をある面では尊敬してるんだよ。 ギーは知っている。ある面では蔑まれていることも。 金のない連中を相手にすること、その意味。この都市では本当に意味のないこと。 エラリィにはわからないだろう。 ……ギー自身にもわからないのだから。 お前を上層兵に突き出すようなことはしたくないんだ。わかるだろ、ギー。 お前、機関工場に引き取られた子供とよく会っているそうだな。数秘機関さえ買って埋め込んでやったとか。 話が読めない。ギーは首を傾げる。元学友は一体、何の話をしてるのだろう。 施術後に弱った患者に服用させる医薬品。現象数式では力の及ばないもの。エラリィの医院にはそれを仕入れに来た。 しかし今日は。エラリィの説教と愚痴が長い。 いいか、間引きは罪じゃない。わかるな。だがその反対は罪だ。お前のそれはやはり都市法違反なんだよ。 ……私はいいんだ。けどな。 世間はそうは思わない。知っているだろう、子供の消失が多すぎる。お前が犯人だと言う噂だって雑踏にはある。 お前が無闇に無償治療するものだから、お前の手の届かない連中は逆にお前を憎む。わかるだろう? 彼らは確かに哀れだ。しかし、それがどうした? 手を出すな。出すだけお前の損だ。恩は与えたぶんの何倍もの恨みになるんだ。 なるほど。確かに、一理ある。 ギーは曖昧に頷いてみせる。そろそろ、医薬品の横流しをねだろう。説教も終わりに近付いてきたようだし。 まったく。これだけ言っても涼しい顔だ。 いいから、しばらく大人しくしてろ。賢く立ち回れ。違法治療も控えろ。荒事屋でも呼ばれて殺されたら損だぞ。 殺されたら、か。なるほど。 ……ああ。そうだな。 ああ── 視界の端で── 夜の無限雑踏街。昼間よりも夜のほうが喧噪が激しい。ここにいる誰もが一夜の夢を欲する。 酒か。女か。それとも、ドラッグか。 酔客は路地裏で盛大に嘔吐を続け、物盗りどもにその懐を探られながら眠る。 街娼たちは大通りで客を取り合い、違法ドラッグの安売りを華やかに喧伝する機関式電光掲示板が、頭上で火花を散らす。 流浪を失ったアーバン・ロマたちは今夜も演奏と呼べない音を響かせて、インガノックに閉じこめられた悲運を歌う。 ──あらゆる心は荒み。──人は一夜の夢のみ求めて。 ──王は民を守ることなく。──喜びのかわり、人は毒を呷り続ける。 ロマの前には糸の切れた弦楽器が転がり、数年前の都市配給食糧の空き缶が口を開けている。中には硬貨3枚程度。 半シリング3枚とパン屑の入った紙袋、それと、少しだけ液体の入った硝子瓶。壊れた楽器。 ──それが彼らの、今の財産。 ただの歌に金を払う人間は、もう、ここにいない。 10年前まではこんなことはなかった。巨大国家たる王侯連合随一の機関都市。そこで、人々は穏やかに暮らしていた。 完全環境都市。すなわち外部との交易が不必要な世界。 生産も消費もすべて、インガノックの内で生まれて消える。偉大な碩学たちが夢見た理想の都市。 それが今では。簡単に弾けてしまったものだ。 多くの悪夢と、ひとにぎりの悦楽。まるで人生のようだと語った老師のことを今でもギーは思い出す。6年前に会った彼。 猫科の生き物に似た«観人»へ変じた老師。生を達観した彼にとっては、自分の肉体を苛んだ異形化も涼風の如しか。 空き缶の口へ、彼なら何シリングを投げ入れるだろう。 (けれど。 僕はどうだ、未だに諦めきれずにいる) ……諦める。あきらめる。 ──何を。──僕は何を、諦めたくないのか。 雑踏街の阿片窟。ふと、視界にその入口が見えた。 視界の端で、はっきり見えるはずのない、まるで記憶のような道化師がその入口へ指さしている。そう感じた。 ここに何があるのか。ギーは知っている。 合法薬物から一部違法ドラッグまで扱う店。奥には違法娼館がある。快楽の坩堝と人は言う。 上層と繋がりのある富裕商家も一部出入りしていると双子は囁いていた。けれど、ギーには到底関係のない場所だ。 立ち止まることがあっても、女主人と短い挨拶を交わすだけ。 今夜もそのはずだった。けれど。 あら、巡回屋のお医者さま。きょうも遅いお帰りね。おひとりかしら? 生憎とね。いつも通りさ。景気はどうだい、アリサ・グレッグ。 貴方が店の娘を買ってくれるなら、そうね。この水煙管に混ぜたおくすりの量が減るわ。ねえ、人助けしてくれない? そういう冗談は好きじゃないな。アリサ・グレッグ。 アリサ・グレッグ。労働者から富裕商家まで、代金さえ払えば分け隔て無く快楽を提供する阿片窟の主人。 誰であろうとフルネームで呼ばなければ牙を剥いて襲い掛かるという噂は真実だ。彼女も、ギーの客だった。 数年前に流行したドラッグは彼女の心を蝕んだ。水煙管は彼女の命。 今夜はね。ギー。新しい女の子が入ったの。きっと貴方もその気になってくれるわ。ね?騙されたと思って寄ってみなさいな。 いや── いつもはこんなに長話はしない。けれど。今日は。 視界の端で踊る幻がまた、指をさした気がした。 ギーは言葉を躊躇ってしまう。幻に過ぎないとわかっている道化師の像が娼館の奥には何かがあると言わんばかりに。 娼館の奥にあるもの?それは? (奥にあるのはベッドだけだ。 フロイト師であれば何と言うことか) (……自棄になっているのか、僕は) 女主人の蛇腹の音が聞こえる。穏やかで心地よいその音に混ざる気だるさ。彼女も疲れている。ギーも。誰も彼もがだ。 小さく溜息を吐いて。肩をすくめる。 顔を見るだけだよ、アリサ・グレッグ。溜息混じりに言って。ギーは、扉をくぐる。 ──女を買う? ──いいや、それは、どうだろうか。 この違法娼館の他の部屋で楽しむ人々と同じく、享楽へ依存できれば楽だろうか。ふと、そう思う。 いいや。ただ疲れるだけだ。ギーは溜息を吐く。 ただ、少し疲れた。下層を1日中歩き回って6件治療を終えて。自宅へ戻るまでのあと少しが耐え難かった。 少し眠れればそれでいい。その娘には休憩時間をプレゼントしよう。 金がまた減るな。ギーはぼんやりとそう思いながら、ドアをノックしていた。扉が開く。 「どうぞいらっしゃいませ。 貴方の枕元を舞う朧の蝶にございます。 お客さま、今夜の夢をご一緒にいかが?」 ──サレム? ──薬瓶の匂い。白衣の姿。──帝国タブロイドを指さし笑う高い声。 ああ。そうだ。この、高い声。この、柔らかで薄い笑み。10年を経て姿が変わっていてもわかる。 ギーは言葉を発さなかった。代わりに、相手がぽかんと口を開けた。 すました笑みはすぐに消えて。よそ行きに作っていない表情が見えた。 ああ。やはり。この顔、この表情。そしてこの肌。間違えようがない程に、サレムだ。 ……え……? ……きみ……。……え、嘘……やだ、そんな……。もしかして……上層大学、の……? 医学部の同期だった……ね、そうよね!え、ほんとに、きみなの……!? ああ、僕さ。久しぶり。10年振りかな、サレム。 ……うん。ほんとに久しぶり。 恥ずかしそうな笑顔。昔はこんな風な顔はしなかった。 サレム。そう、サレムだ。 覚えている。同じ大学で医学を学んだかつての友人。まさか、こんな場所で再会するなんて。 驚くという行為を最近していなかった。自分はどんな顔をしたのだろう。ギーは想像しようとしたが無理だった。 サレムの顔を見てしまった。かつての友人の、変わり果てた姿。 ──肉体は。──人間に見えるけれど。 ──瞳に灯る、疲れた色の光が目立つ。 ええと、そ、そうね。何か、そう、そうね。お酒作る? きみとお話がしたいわ。いい? ああ。構わないよ。 媚びの混ざった、窺うような声。ギーの聞いたことのない声。 知らない表情がサレムの顔を覆う。けれど、それには驚かない。ギーの知らない10年間があるのだから。 ありがとう。ああ、どうしましょう。びっくりしてしまって、動悸が止まらないわ。まさか、アリサの言う通りだったのかしら。 アリサ・グレッグは何と? 変わり者のお客さんが来るから。まずは床に入る前に、そのお客さんを見て初日の緊張をほぐしなって。プロなのにね。 きみ、お金払ってもお店の娘と寝ないって本当なの? どうかな。それより、サレム。アリサ・グレッグは。 ああ、本人の前ではフルネームの話?そうしなきゃ危ないって本当なの。ねえ。 以前、ひとり顔を裂かれたよ。客だったけれどね。 まあ怖い。気をつけなきゃいけないわね。教えてくれてありがとう。 くすくすと少女のように笑ってみせて、サレムはベッドに腰掛ける。 プロなのに、か。なるほど。サレムの仕草は手慣れている。その言葉には、一切の偽りはないようだ。 実はね、3日前、この層に越してきたの。それでここに勤めさせて貰ったって訳。良かったわ。きみ、ここの近くに住んでる? ああ。すぐ近くだよ。 今度遊びにいくわ。お部屋はきちんと片づけてる? ……いや。 ……なあにそれ。遊びに行くのが駄目?それともお部屋が汚いって意味? サレム。今までどこにいた。この10年、どうしてたんだ。 死んだものと思うようにしてきたのだ。あの«復活»の日よりも前に知り合っていた人々のことは。 家族がそうだったから。多くの友人たちも。機関火災やクリッター被害で死んでいた。 だから。サレムもとうの昔に死んだものと。 この10年?ああ、もっと下にいたわ。ここよりもね。下層の中でも、特に“ひどい”ところよ。 ……ここよりも“ひどい”ところが? くすくす。そうね。そうね。どこも同じね。掃き溜めだわ。うん、そうね。きみ、冗談言うようになったのね。 言わないさ。そう。どこも同じだ。 けれど、きみは変わったのかい。以前のきみは── もう、やめてよ。そんなことより、どう?お話しながら楽しまない?凄く巧いのよ、前のお店でも評判だったの。 笑顔でかわされてしまった。過去は、触れてはいけないことらしい。それは、きっとギーと同じ意味だろう。 肩をすくめて。サレムの頬に、一瞬だけ触れる。 冗談。以前のきみを知ってるんだ。 すまないね。僕では無理だよ。 ……そんなに寂しい目で見ないで。こっちが悲しくなっちゃう。 お相手するわよ?好きにしていいの。きみが相手なら、うん、子供だって産んであげちゃう。本気なのよ? そう何度も冗談を言うものじゃないよ。きみは、ジョークが得意だったろ? あの頃はよく。サレムの明るい笑い声が聞こえていた。 断片化した切れ切れの記憶に、そんなピースがあるような気がする。笑うサレム。それを見ている、ギー。 懐かしい。いや。違う。そんなこともあったのか、と思う。 思い出すべきことでもない。思い出しても何もならない。 じゃあ、残り時間、どう潰すの?ずっとふたりでお話だけするには長いわ。 実は疲れていてね。眠いんだ。眠らせてくれると嬉しい。 そう……。わかったわ。じゃあ、おやすみ。ええと── ギーだ。今はそう名乗ってる。 それじゃあおやすみ、ギー。いい夢を。 ──おやすみ、ギー。──いい夢を。 そう言って、笑う。笑顔と声だけを記憶のままに。     『こんにちは。ギー』     『おやすみ。そして』      『目覚める時間だ』 ……瞼を開く。……部屋の中は既に明るかった。もう朝か。 確かに朝の気配が僅かにある。歪んだ小鳥の囀りが少しだけ聞こえた。 数式の影響が残った“右目”が視る。永久に晴れない灰色の雲の向こうの陽光を。まだ、カーテン越しでは暗いままだけれど。 カーテン。見慣れたものが視界に入る。 小さな自分の寝室だ。快適とは言い切れないアパルトメント。機関式空調だけが自慢の、ギーの部屋。 と── 誰かの気配があった。 この気配も慣れたものだった。緊張しかけた神経からふっと力が抜ける。 本来は暗がりに似合うこの気配。もしも本気で息を潜められたら、恐らくはギーでは感知できないだろう。本職相手だ。 ……アティ? 体を起こして隣を見る。そこにいた。ベッドに横たわる黒猫。 あ。起きた?ギー、もう何時だと思ってるのさ。つついても起きないんだもの、心配するよ。 眠りは浅いほうだけどね。まだ朝のはずだと思うんだが、どうかな。こんばんは、アティ。 朝じゃないのさ。こんばんは、ギー。ううん違う違う。おはよう、じゃなくて。こんにちはが正解さ、ギー。 それは失礼をしたね。こんにちは、アティ。 食事の匂いが鼻腔に届く。ドアの向こう。また彼女は自分のぶんだけ作って食べて、早々に仕事へ行くのだろう。 彼女は猫。黒猫。それが彼女の«通り名»だと聞いている。しなやかで俊敏なクローム鋼製の黒雌猫。 黒猫のアティ。金次第で何でもこなす荒事屋の猫。 それも首輪のない猫だ。いつも自由で、こちらを振り返りもせずに、気付けばここにいて、気付けばもういない。 放っておこう。ここへ来るのも既に珍しい事態ではない。ギーは、毛布を被って再び眠ろうと── ギーのぶんもあるから。ブランチ。美味しくないけど食べてね。 ……何。 目が覚める。はっきりと。あの気まぐれ猫が食事を作ってくれた? どんな気の変わりようなのか?食事を? この黒猫が? ──珍しいこともある。──黒猫の手は調理に向かないのに。 ところで、ギー。ゆうべはどこでお楽しみだったのかな? 女の匂いがする。すっごい濃い女の匂い。誰。 ──ああ。──そういうことか。 自分は自由の化身のような存在の癖に。この黒い猫は、どういう理由かギーの身辺を気にしたがる。 2種に分けた反応のうち、彼女はどうか。子供たちと同じでもある。故買屋やエラリィと同じ部分もある。 ギーには捉えづらい。どうにも、この猫は掴み所がなくて。 違う、昔の友人だよ。女じゃない。 嘘。 嘘じゃない。 嘘は嫌い。許さないから。嫌いなこと、しないで頂戴。ギー。 ……友達でしょ? ぐ、と力を込められてしまえば。ギー如きでは到底敵わない。 有無を言わさずベッドに押しつけられ、アティにのしかかられる。重みを感じた瞬間に、柔らかさがある。 顔が近い。吐息が頬と唇にかかる。 嘘つかないで。つきあい、あたしたち、長いんだから。 友人なら離してくれよ。頼むから。 ……つきあい長いのに。……ギー、最近、つきあい悪い。 (参ったな) ──ぴったりと身を寄せられると。──しなやかな体の感触がわかる。 人間よりも遙かに柔軟で密度の高い筋肉。 だからこそ。アティは荒事屋の世界に身を沈められた。機関人間や凶暴な獣を狩ることができる。 体格全般では勝っているのはギーのほう。けれど、本気でやれば勝つのは必ず彼女。必ず。 そもそも並の«猫虎»よりもアティは強い。理由は幾つかあるけれど。 それでも。ギーの骨が軋んでいないし、収納式人造爪に切り裂かれてもいない。手加減しているのだ。 傷つけるつもりはない。それは、ギーにもわかる。わかるが。 ……離せというのに。 い・や。 本気で拒むなら、そう。現象数式でも使ってみなさいな。あたしなんてひとたまりもないから。 僕は視るくらいしかできないよ。後は手品だ。 視て欲しいの、あたしは。 冗談は今日はもう打ち止めでね。悪いけど、もう少し眠らせて欲しい。 駄目。もうお昼。 ……。 ……ね? 遠慮してるならやめて。そういう間柄じゃ、ないと、思うし。 抱いて。ね。シャワーちゃんと借りたんだから。 道理で、機関工場製の石鹸の香りが漂って。吸い込まないようにギーは注意する。石鹸の香り。ウィークポイント、だ。 顔を背けると、アティの顔が追ってくる。すぐ近くから覗き込まれて。 逃げないで。あんまり逃げると、怒るよ。 ──もう怒っている。──そう、口にしようと思ったものの。 ……体力がなくてね。 じゃあ体力つけて。ちゃんと食べて。またコーヒーしか飲んでないんでしょう。 水は飲んでるよ。 同じじゃない。何か食べないと、死ぬわ。ギーが死ぬとあたし、困るのさ。 ──安全な寝床が減るから。 ──そう続くだろうと思ったけれど。 言葉はなかった。代わりに、視線だけが静かに注がれる。 美しい黄金瞳がギーを見ている。その右目は«猫虎»でも珍しい黄金の瞳だ。 沈黙の中で視線を交わして。一秒、二秒。 仕方なくギーのほうから折れた。この瞳にこうまで見つめられてしまうと、どういう理由か、逆らう気力が削がれる。 黄金色が美しいからだろうか。それとも。何か。 近いうちにね。 ……あっそ。そうなの。また口移しがいい?また無理矢理食べさせて欲しい? いや。それは。 じゃあ今ちゃんと食べる?お肉も野菜もちゃんと食べれるわね? ……いや。それは。 なにさ。 善処する。なるべく。 ……善処しなきゃいけないことなのね。嫌だけど、ちょっと安心した。変なギーだわ、いつも通りの。 そう。いつも通りさ。 ──そう。いつも通りに。 ──今日も、インガノックの一日が始まる。 灰色の空が比較的明るい。浮かび上がる都市の灯の明るさがなかった。 アパルトメントの外へ出る。なるほど。言われた通りに、もう昼だ。すぐ隣で「ほらね」と黒猫が胸を張る。 時計の針は午前11時を示している。目覚めたときに感じたのは、朝の名残か。 背後でアパルトメントの自動鍵が掛かる音。振り返らずにモノレール方面へ歩き出すとそっと隣にアティが近寄ってくる。 どうしたのだろう。昨日も。今日も。 道化師の幻といい娼館といいい。あろうことか、アティさえもが。いつもと違う。 視線をアティの頭あたりへ一度向けて、ギーは思う。道化師。視界の端に、今日もあれはあるのだろうか。 今日は認識すまい。どうも、あれには調子が崩される。 しばし無言で歩く。アティも。下層モノレールはアパルトメントから近い。 数分も歩けばモノレール駅に到着する。蒸気ガーニー式バス停に似た形の小さな駅。 ……あーあ。がっかり。甲斐性あるとこ見せてくれてもいいのにさ。 本当に、遠慮することなかったのに。禁欲主義じゃあるまいし。 西亨ではストア派風と呼ぶらしいよ。今はどう言うのかな。 ギー。 悪いね。埋め合わせは今度。 わかったわ今度ね。それで、今度っていつかな? ……今度。 最下層にあたる湖面付近区域へと向かうアティを下りモノレールへと押し込んで、窓硝子越しに手を振ってやる。 3人の子供たちにも似た笑顔を向けて、窓越しに「好きよ」とアティが言った。肩をすくめて返す。 発車音。機関式モノレールが遠ざかる。友人の姿が遠くなる。ギーは軽く息を吐く。 さて。仕事だ。 彼女もきっと仕事へ行ったはずだ。仕事。荒事、なのだろう。今日も。こちらは今日も、儲からない仕事の山だ。 巡回診療。だが、その前に故買屋のところへ寄ろう。 雑踏街の表と裏を取り仕切ると言われる男。故買屋のスタニスワフがギーを待っている。そのはずだ。 嫌なタイミングで顔を見せる男だな。ギー。お前に会わねばと思っていたのは確かだが、そこに丁度顔を出していいのは女だけだぞ。 ご機嫌よう。今日は口数が多いな、スタニスワフ。 子供が消えすぎている。知っているな。 珍しいこともある。思わずギーは片眉をぴくりと動かしていた。 都市がこれ以上の地獄模様になろうとも、金こそがすべてを得るための魔法の道具であることは変わらない、と言い切るこの男。 故買屋。フィクサー・スタニスワフ。あの彼が何かに気を揉んでいる。 ……僕が必要になる仕事が、そろそろ溜まっている頃と思ったんだがね。 その話は後だ。今月に入ってから、もう10人消えた。死体の一部も発見されてる。聞いたか? そう、一部。子供の一部。惨状の痕跡。 ──惨状。──赤と黒。 ──想像しないようにしていた。──思い出さないように。 どうやら怪力の幻想人種どもの仕業らしい。たとえば、例の新型で理性を綺麗に拭った2mを越す«熊鬼»であるとか。 他人の子供の安否を気にするなんて、珍しいじゃないか。フィクサー・スタニスワフ。 誰が死のうが生きようが我感せずの彼が、まさか、10年前の規準での善人などと。ありえることではない。 ギーは表情を動かさずに故買屋を観察する。何を言おうとしているのか、彼は。容易く話題に飛びつくことはない。 ああそうだ。たかがガキが死んだ話だがね。大層俺にも関係がある話なんだ、ドクター。高級市民だ。 へえ。 虫唾が走る。それを、表情には決して出さない。 上層への税金とウチへの保護料を払ってる高級市民サマの子供も消えたのさ。これはまずい事態だ、ドクター。 このままじゃ上層の連中に目をつけられる。貴族連中じゃあないぞ。都市管理部の屑連中だ。 屑ってことなら、ここにいる2人もそう変わらない。 違いない。冗談が巧くなったな、ドクター。いいや、冗談じゃないかね?面白いことを言う。だがね。 執行官……。ハイネス・エージェントがここへ降りて来ちまえば、あとはもうどうなることか。 ろくなことにはなるまいね。想像がつく。 ──想像したくない。──ハイネス・エージェントの行為など。 そうだ。その通りだ。だからドクター、お前にも言っておくぞ。怪しい屑を見かけたらすぐに俺に報せろ。 怪しい奴ならわんさといる。雑踏街を漁れば、1日で店が開けるさ。 ……まったくだ。まったくもって屑で糞ったれな都市だよ。 ともかく、お前さんの客の中にガキ殺しそうな筋骨隆々の気違いがいたら教えてくれよ。俺はまだ、命と金が惜しい。 ああ。わかったよ。ところで、こっちの話も聞いて欲しい。 話はするが、ドクターよ。 何だ。目だけで返答する。この男を相手に、今日は話しすぎた。 ──お前じゃないよな? まさか。冗談。 「まさか、ああ、まさか! あの現象数式使いでいらっしゃる医師に 来ていただけるなんて。ありがたいこと」 「これは感謝の証です。 お受け取り下さい、ドクター・ギー」 受け取ったシリング・クレッドの残額は確認するまでもない。多額の謝礼。 スタニスワフに紹介された上客は、富裕商家と呼ばれる高級市民の青年だった。父親からクレッドを受け取り、仕事は終了。 暫くは余裕ができるだろう。慎ましくしていれば。しかし、頭の中には義肢や医薬品が浮かぶ。 浪費癖はもはやどうしようもない。あの子供たちは成長期だ。3人ぶんの数秘機関、義肢には金がかかる。 服もできれば新調してやりたい。値は張るが……。もう、買い換えなくては、裾丈も足るまい。 3人……。 たった3人だ。この百万都市インガノックの中でたったの。それを引き取りもせずに、ずるずる続けて。 何という欺瞞だろうか。そう自嘲する意識はとうの昔に消えた。 ──それでも。──今も、考えずにはおれない。 (疲れが抜けないか) (昨日といい。 やけに、考え込む日だな。今日も)     『こんにちは。ギー』     『雑踏をよく見てご覧』 ──自然と視線が動いていた。 まっすぐに、人混みの中を見やる。鰐型の頭をした男たちの向こうの人影へ。 昨日の今日で。また会うとは思っていなかった。 サレム。すっと視線が吸い寄せられる。蝶に似たあの衣装は、仕事着なのだと昨夜言っていたかも知れない。 現在時刻は21時前。阿片窟へ出向くところだろうか。 ギーからサレムの位置までは距離がある。いつもなら、声など掛けるはずもないが、かつての友人だ。無視はできない。 挨拶だけはしておくか。人混みの中のサレムを見失わないように進むと、2秒と経たずにギーは気付いた。 ──誰かを探している?──雑踏のただ中で首を左右に巡らせて。 待ち合わせか。なら時間を取るのも。挨拶も止めておくとしよう。この調子なら、また会える。 と── 誰かが、サレムに声をかけたようだった。鼠色の服の男。都市管理部の嘱託警官か。 探す相手にしては物騒だ。嘱託警官は暴力を振るって人から金を奪う、都市管理部に許可された物盗りに過ぎない。 (運がないな、サレム) (警官連中は、道理の通じない相手だ) 助けに行くべきだろうか。金さえ払えば大した相手ではないものの。 逡巡したギーの視線の先で、サレムの細い指先が男の懐へと潜り込む。確かに、5シリング硬貨が握られていた。 ──賄賂か。 ──随分と、手慣れている。 続いてサレムは男の首筋にキスをする。多分、痕が残るくらいの。 欲情した嘱託警官の表情は滑稽だった。威圧の色も警戒の色もない。なるほど。場数は、サレムのほうが上だ。 ──逞しいものだ。──あれなら、心配する必要もなさそうだ。 ギーが背中を向けた瞬間、 ギー! きみ、ギーじゃない?ああ、やっぱりそうだわ。良かった。 どうにも不慣れで困っていたところなの。少しだけ時間、いいかしら。 ……向こうに気付かれてしまった。仕方がない。ギーは頷く。 昨夜に早く帰ったぶん、今日は多めに仕事をしようと思っていたところだったが。サレムからの誘いを断る気になれなかった。 視界の端でちらつく黒色の幻が、サレムを見ると少し動きを止める気がして。 サレム。きみ、仕事は何時からだい。 心配してくれるの? 優しいのね。大丈夫、きょうのお店は0時からなのよ。1日ごとに、外にも立つって決めてるの。 ──街娼か。──なら、先ほどのあれは客引きか。 ──ギーは、聞かなかった振りをする。 遅れて出勤かい?凄いな、新人にしては破格の待遇だ。 ……ええ、そうよ。当然よ。だって鳴り物入りなのよ?元いたお店では一番手だったんだから。 一番手、それは困った。まずいお茶とまずい食事しか案内できない。 くすくす。まずい食事で結構よ、ギー。美味しいなんて感覚はもう忘れているから。 なるほど、一理ある。 値段は安いが酒も料理も旨くはない、狭い機関酒場が近くにある。行くかい。 きみの行きつけ? さあ、どうかな。 確か── 記憶が正しくあるなら、ここ2ヶ月ほど顔を出していないはずだ。潰れていないことを願うが、どうだろう。 差し出されたサレムの手を取って、ギーは記憶を辿って機関酒場へと向かう。5分とせずに、覚えのある看板が見えた。 ──やけに蝶番が軋むドアを開けて。──機関酒場の中へ。 むせかえる酒の匂いが出迎える。街路の喧噪より3段階は上に感じる感覚、これが雑踏街の安酒場だ。騒音と酒臭さ。 今日の賃金を酒に替えに来た労働者たちと、機関精霊レースでささやかに儲けた貧民と。明日を忘れに来た連中に混ざる。 カウンターを見たが駄目だった。スツールは埋まっている。 その隙に、サレムが2人席を見つけて。肩をすくめてそこに座る。 「いらっしゃいませぇ。 ご注文はぁ、何になさいますかぁ?」 適材適所。女給は、可愛らしい人間のようにも見える幻想の異人種«葉兎»に変異した若い娘か。 手短に注文を伝える。以前見たメニューは記憶している。 第6貯水池産養殖魚の西亨風衣揚げと、機関工場製の野菜と培養肉の黒煮込み。それにシードルとコーヒーを、一杯ずつ。 きみ、お酒飲むようになったの。 ああ、いや。僕のじゃないさ。 あら、覚えていてくれたのね。嬉しい。シードルが好きだってこと。 それなら飲んでも酔わないこともね。仕事前でも、一杯ならいいだろう。 シードルなら何杯だっていけるわ。でも、驚いたわ。ギー。 何か、今までに驚くことがあったろうか。ギーは無言で続きを促す。 こういうお店。昔は慣れてなかったのに。今はもう、随分と来慣れている感じよね。変わったのね、きみ。 名前と同じ。ギー。 それを言うなら、変わったのは多分きみのほうだよ。 ……昔話、したいの? どうかな。 ──はっきりとは、もう。──覚えていない。 断片化した記憶はそのままにしてきた。閉鎖し孤立したインガノックにとって10年よりも前は意味を持たない。 今さら、何を。思い出す必要があるものはない。 ……そうね。嫌ね。大学にはあまりいい思い出もないし。 知ってる?上層大学はもう影も形もないっていう話。«復活»の日に、クリッターが1体出て。 聞いたかな。噂でね。 ああ、麗しき白き城は今は跡形もなく。あるのは夢潰えた子らの残骸なり。 ──僕らは残骸か。──なるほど、言い得ている。 されど絶望するな、人よ。耳をすませば、聞こえるだろう。 ──聞こえる?──何が。 ほら、今も。聞こえるだろう。背後に息づく彼らの、声と、呻きとが── ──彼らの、声と。──呻き。 突然の詩歌の朗読を終えて、サレムは気恥ずかしそうに口元を抑えた。ごめんなさいね、とギーへと笑いかける。 今のは? いつか見た夢で誰かが言っていた詩。夢なんてすぐ忘れるのに、これだけはなかなか頭から離れなくて。 跡形もないお城ってところがあるから、つい、大学のこと思い出して……。 いや、悪くなかった。お礼にここは僕が奢ろう。 そう……?でも、悪いわ。 今日は比較的小金持ちでね。明日がどうか、わかったものじゃないが。 くすくす。おかしい、その言い方。昔の、10年前のエラリィみたいで。 昔── ──10年前。エラリィ。白衣。──思い出せる記憶はバラバラで。 記憶の整合性が取れない。確か、エラリィは何かの副業をしていて。 覚えてる? あの頃の彼ったら景気良くて。いろんな相手に声かけては振られてたのよ。おかしいんだから。 あれは夏の夜だったかな。とうとうこっちにも言い寄ってきて、もう、困っちゃって困っちゃってね。 ──何? ……本当に。 ええそうよ、本当なのよ。これが。でも彼、いい趣味してると思わない? どうかな。難しい質問だ。 返答をかわすのと丁度同じタイミングで料理と酒と、コーヒーがテーブルに並ぶ。思い出す。ここのコーヒーは大分不味い。 シードルのグラスを渡して、こちらはコーヒーカップを片手に。乾杯。 がちり、と。ひどく情けない音が出た。 再会に。 ああ、再会に。 ……話を誤魔化すのも巧くなった?ああ、冗談は巧くなったのはわかるけど。 そう言ってサレムは笑う。くすくすと、まるで少女のように。 ──ああ、まただ。──この笑顔。この瞳。この声。 以前と変わらない?いや。今日は、そうは思えない。 サレムの瞳。沈んだ紫色をして。 かつては希望に充ちていたけれど、今は疲れと落胆に染まった光を湛えた瞳。アティの黄金色とは似つかない、この瞳。 楽しいわ。ありがとう、ギー。まるで昔に戻ったみたい。 ……ああ。そうかも知れない。 今、嘘をついた。昔に戻ったとは少しも思えないし思わない。 きっとサレムもそう思っているはずだ。何もかも昔と違う。何もかも変わった。 ──何もかもが。──何もかもが、形を変えた。 ……やっぱり前と変わっているわ。きみ。ギー。 そうかな。 ええそうよ。前は、もっと……。   「前はもっと、よく笑う人だったから」 (……笑う、か) こうして雑踏の中を歩けば聞こえてくる。笑い声。喧噪に耳を傾ければすぐにでも。酒混じりの、ドラッグ混じりの。 副交感神経の反応。もしかすると、数式用の脳変異と共にそこもおかしくなったのかも知れない。 笑わなくなったか。言われてみれば心当たりはある。 自嘲さえしなくなった認識もある。けれど、別に、どうということはない。 ──それでも。──サレムの瞳と笑顔が気に掛かる。 こうして別れた後でも何故だかあの顔を脳裏に浮かべてしまう。雑踏の中に、蝶のような姿がないものか。 (随分、変わるものだ) 変異してしまった人は数多く見ていた。元の姿を知っていた相手はもしかして初めてか、サレムが。 知っている人間は概ね死んだから。生きている友人、エラリィはそう、外見上の話なら人間のままではあるが。 ギーと同じだ。彼も既に、臓器の一部が変異を果たした。心臓が2つあるのだ。1つは既に死んだ。 2つの心臓が生み出す血流に動脈が耐えきれず、1つを潰さざるを得なかった。以後の彼は胸を潰す痛みと共に生きている。 (……変わる、か) 雑踏へ送っていた視線を戻す。今日は、もう少し仕事をすると決めた。 囀る双子は店にいるだろうか。多少は高くついても構うまい。今は、金がある。 罹病者の情報。こんなものを買うのは葬儀屋と泣き屋とあとは労働者を蝕む保険屋くらいだろう。 せいぜい彼らに恨まれよう。これが仕事だ。 いつか、殺される時が来たなら。いつか、執行官や荒事屋の刃が迫ったら。 ──そうなれば。 ──その時に考えよう。 と──     『こんにちは、ギー』     『雑踏をよく見てご覧』 ──自然と視線が動いていた。 まっすぐに、人混みの中を見やる。逞しい巨漢とその傍らの小さな人影へ。 男は恐らく«熊鬼»の変異者か。都市の中でも有数の屈強さと凶暴さとで恐れられる、幻想の異人種。餓えた巨獣。 連れているのは。少女か。 小柄な子。すっと視線が吸い寄せられる。重そうな革製鞄を片手で持って、もう片方の腕は、引きずられて。 現在時刻は0時過ぎ。宿へ連れられる街娼にしては若すぎる。 ギーから少女の位置までは距離がある。いつもなら声など掛けるはずもないが、視線が。外れない。 ギーにはわかってしまったから。«熊鬼»の目。独特の虚ろさ。 ──新型ドラッグ。──たちの悪いアムネロール中毒。 ──ああ。──嫌なところを見てしまった。 まさか親子ということはあるまい。あれは、まっとうな2人ではない。 少女が男を拒絶しようとしていること。男がそれを全く意に介していないこと。見ればわかる。 見ればわかる。例えば今、声をかけたらどうなるか。 ──賢く立ち回れ。 ──殺されたら。──損だぞ。 ──損、か。確かにそうだ。 少女が。こちらを、見た。 互いの視線が、確かに交差した。少女の目をギーは見る。 黄金瞳ではない。ギーが唯一興味を惹かれた瞳ではない。それでも、目を背けられはしなかった。 助けを求めて縋るような目ではなかった。ただ、視線を向けたギーを見つめている。じっと、黙って。 言葉もなく視線を交わして。一秒、二秒。 ──ああ。──これは駄目だ。これはいけない。 「アアン? ナンダァ、テメエ、ハ」 「ソノ手ヲ離セ、ダァ? テメエ、俺、俺サマニ、何、言ッテル?」 ──声を。──かけてしまった、男に。 人混みの中をするりとすり抜けて、毛深い男の目前へと立ち塞がって。まるで、10年前の絵本の英雄のように。 しかも、不機嫌な声で。手を離せと。 これはまずかった。自分が男と同じ立場で言葉をかけられればどう感じるか、とは、微塵も考えなかった。 だが仕方がない。どうにも、仕方のないことだ。 自分の子供にしてもだ。連れ歩いていい時間じゃないな、兄さん。 「アア……? 糞カ……? コノ、ガキ、俺ガ、買ッタン、ダ、ゼ?」 間違いなく。言語中枢にまで響くアムネロール。よりにもよって、重度の中毒者か。 「何シヨウガ、何喰ラワソウガ、 俺、俺サマ、勝手……ダロォガ……?」 「ナンダア……テメエ……。 変異ナシ、カァ……」 「ニンゲン、風情、ガ…… デカイ顔、スンジャ、ネエ、ゾ!」 しかも差別主義者と来ている。なるほど、これはどうにも運がない。 「サッサト、家、帰ッテ、 人間サマ、ノ、女、相手、シテナ!!」 理屈が通っていない。 「アァ……?」 その子も人間だ。何より、幻想人種も人間だ── 上層では違うだろう。けれど、少なくともこの下層では同じだ。誰も彼もが同じ、這いずり回る人間たち。 ──────。 気付くと、視界がぶれていた。ひどく体が揺れた。口腔に広がる赤の味。 言葉の途中でもう殴られていたらしい。一抱えもあるような男の拳が、脇腹に深々とめり込んでいた。 肋骨が折れて砕ける感触があった。ああ。内臓に破片が突き刺さる。危険だな。もう一度同じ場所を殴られたら死ぬ。 2度目の拳では内臓の位置がずれた。確かに«熊鬼»の豪腕は驚異的だ。 (これはひどいな) 計算はあった。この時間。この場所。運が良ければ。騒ぎになれば。 もっとも、周囲の人々は動かないだろう。暴れる«熊鬼»は並の幻獣より危険だし、何より関わろうとするほうが“変”だ。 ──────。 思考の途中で再び殴られる。殴るのはそれなりに疲れるのだろうか、今度は、片手がギーの首を強く掴んだ。 片手で首の骨でも折るつもりだろうか。不可能ではない。 ──みしりと音が鳴る。 耳の裏側から音がする。これは、危ない。血流と、酸素が。 視界の端に何かが見える。道化師か。いいや、違う。あの少女だ。黒衣の。目が合う。 (目が合う?) そう、目が合ったのだ。多分、先刻と同じように。 男が前方のギーに掴みかかっているぶん、少女と男の距離は離れている。悪くない結果だ。それだけは。 ギー自身は相当悪い。余計なことは余り考えていられない。 みしりと。今度は、確かに頸骨の軋む音がする。 このまま縊り殺されるのかと思った矢先、4度目の拳が腹に叩き込まれる。大型の鉄槌だな、とギーは思う。 ──────。 殴られる。殴られる。殴られる。数えるのが馬鹿馬鹿しいほどに殴られる。 どうやら、新型ドラッグの興奮と怒りとが、本来の凶暴性に火をつけてしまったらしい。いたぶるつもりか。 悪い、が……ね……。 きみを満足させる、前に……。死にそう、だな……これは……。 「グギエェ」 獣にしてもひどすぎる声。男は、焦点を失った目をぐるりと回す。 振り上げられた拳が頭部周辺を狙っている。とうとう、とどめでも刺す気になったのか。 「グェエア」 ──困ったな。──間に合わないか。    「……いい加減にしなよ」 ──────! 風が奔る。鋭く、切り裂く。 手袋越しに指先から伸びた爪は、黒色。指骨に収納されていた人造爪は、鋭く。切り裂く。引き裂く。 狂乱する«熊鬼»の腕から赤色が舞う。腕を裂かれて。 「ギィッ!?」 霞みかけたギーの視界に、黄金瞳と爪の軌跡がぼんやりと像を残す。 速い。«熊鬼»の目では追いきれまい。黄金瞳の猫と«熊鬼»とでは、神経伝達速度が物理的に違う── ……3秒程度だったろうか。 それから先は簡単だった。その後、何度か打ち付ける音が響いて、ギーの視界から«熊鬼»の男が消えた。 十中八九、地面に倒れ伏したのだろう。死んではいないはずだが。 声を出そうとすると血が漏れた。まだ修復できていない箇所があるのか。 ごほ……。……殺しは、ナシだ、アティ……。 ……あのね。ギー。あたしが来ること前提で喧嘩しないで。 今日は運良く仕事の打ち上げしてたから、良かったけどさ── アティの溜息が聞こえる。顔は見えない。なにせ、ギーも男と同じく倒れ伏している。 殴られている間ずっと、現象数式を起動して同時修復を行ったのだ。視界が揺らぐ。頭が痛い。立てそうにない。 修復したての内臓は過敏だ。動けないし、動きたくもない。 ──危なかった。──実に。 一応の計算はあった。今日の仕事が完遂していれば、アティが近くの酒場で飲んでいるはずとの計算が。 ──いや、計算ではないか。──賭けか。 何を無理してるのさ。ほんと、危なっかしいんだから。格好つけたっていいことなんか……。 ……ん……? こ、こほん。ね。ところでさ、こっち見てよ。この子。 見たくてもまだ動けない。体じゅうが悲鳴を上げる。それに、ギーの視界は徐々に狭まっている。 意識が霞む。誰のことか。ああ、そうだ、少女がいたのだった。 ──目が合った少女だ。 この子、誰? ……名前。 ……名前を知るはずもない。……機会がない。       「 キーア 」        ……そうか。 ……きみの名前はキーア、か。 ……瞼を開く。……部屋の中は既に明るかった。 朝の気配が僅かに漂っている。歪んだ小鳥の囀りが少しだけ聞こえた。 昼を過ぎた可能性もある。確か、昨日か一昨日かにそんな。 数式の影響が残った“右目”が視る。永久に晴れない灰色の雲の向こう、あの光。くぐもった明るさは姿のない“太陽”の光。 ソファの一部。見慣れたものが視界に入る。 雑踏街でも寝室でもない。ここは、アパルトメントの狭い居間か。機関式空調の嫌な駆動音が、耳に届く。 と── 誰かの気配があった。 音。空調の駆動音と屋外の雨音と。それと、誰かが発する物音。 香り。暖かな、これは日向の香り。それに何か。料理の。アティの? いいや、慣れた気配ではない。けれど、知らないものではないと思った。 ──ソファから体を起こす。──節々が痛い。 殴られていた時は生命を最優先にして、内臓や頸骨を中心に修復していたから。骨や筋繊維は治しそびれていた。 ひどい痛みに眉をひそめると同時に、 目が合った。 「起きた」 「……おはよう」 ──少女。──アティではなかった。 あの少女。雑踏の中で視線を交わした。目の前にいたのは、あの。弱々しく見えた、黒衣の。 ……きみは……。 ……いや……名前を……。僕は……。 聞いた……か……。 ──キーア。 ──そう、そうだ。名前は聞いた。 「ありがとう、助けてくれて」 ──何故か。 ──その笑顔は。 ──ひどく、眩しいものに思えた。 「昨晩は助けてくれてありがとう。 あたし、キーア。あなたは?」 「お名前はなんというの?」 「ギーというの? 愛称なの?」 「お医者さま……なの? ううん、だって薬瓶が沢山あるから。 それで、ギー、あなたのお年は幾つ?」 寡黙な印象は状況ゆえだったのだろうか。キーアと名乗った少女はよく喋った。 名前を尋ねて、職業を、年齢を尋ねて。素敵な部屋ねと呟いて微笑んで、怪我は大丈夫かとさらに尋ねて。 ──怪我は大丈夫。──今はもう、そう大したことはない。 そう言ってもなかなか信じようとしない。どうやら、現象数式を知らないらしい。 珍しいことだとギーは思う。一部の層では実在が疑われると聞くが。 キーアの言葉を聞いていると、どうやらアティが自分と彼女をここまで運んで来てくれたらしい、とはわかった。 何故かアティの姿がない。このくらいの年齢の子は苦手だった? 奥さんは出かけたわ。まだどこかに用事があるんですって。 仕事があったかな。 ……いや、彼女は奥さんではないよ。 そうなの? …そうなの? ああ。そうだ。 わざわざ2回尋ねる必要があるだろうか。ギーは肩をすくめる。 …そうなの。 ……ああ。つっ……痛むな。少し失礼するよ。 千切れた筋繊維と折れた肋骨が痛む。はっと息を呑むキーアをよそに、ギーは上着越しに脇腹に右手をかざす。 ──脳内器官の起動。──現象数式による置換修復の開始。 乱れた数字を次々に正しく置き換えると、みるみるうちに折れた肋骨が戻っていく。“右目”で視ずともわかる。 破砕したものはあらかた治していたが折れたものは放っていた。それでも、かなり、痛む。 光が漏れる。手のひらから幾らか。 漏れる輝きは碧色。鏡面に反射しないこのクラッキング光は、淡く、冷たさを伴って肉体へと浸透する。 数秒。呆れるくらい簡単に、外傷程度なら、これで癒えてしまう。多くの外科医師の意思を挫いた碧光。 ──と。 興味津々でそのさまを見つめる瞳ふたつ。 なあに、それ?綺麗な光。それに、傷、大丈夫……? これが現象数式だよ。傷はもう、ほら、治っているとも。 とん、と脇腹を指で何度か突く。痛みはない。痺れが少し。 現象数式……。それをかざすと怪我が治ってしまうの?ふしぎね……綺麗にぱちぱち輝く……。 手品さ。面白いものでもない。そう珍しくもない。 “右目”に現出させた内視光を消去して、小さく両手を叩いてみせる。これでおしまい。ギーの手品。 まばたきせずに見つめていたキーアが、思い出したように顔を上げる。きょろきょろと周囲を見回して、頷いて。 そうだ、食事を用意したの。お礼に。少しお掃除もしたけれど、まだしていないところがたくさん。 キーアはお掃除続けるから、ギーは、ご飯を食べてしまって? いいや、お礼は結構だよ。助けたのは僕ではなくてあの女性だよ。 奥さんにはお弁当を渡しておいたの。ギーには、まだだもの。 お礼はいいから家に帰りなさい。あと、奥さんではないから。 知ってるわ。ギー、助けてくれたって。奥さ……あのひとが来てくれるように、そう、計算していたでしょう? ……何? ──あれを見抜かれていた?──この子に? いいから帰りなさい。家事の手はもう足りているから。 …ほんとうに? 本当に。 ……嫌。帰りたくない。 そう言って、困った顔をする。ギーは驚いてしまう。 家に帰りたがらない子の代表格は、孤児だ。例えばパルたちのように。彼らの存在は珍しくない。 大概、彼らは里親や育成施設をひどく嫌う。少なくともギーの知る限りでは。 孤児を消耗労働力として扱わない里親登録者や施設の話など、この10年、一度も耳にしなかった。ただの一度もだ。 (孤児……?) (この子が、か?) なあに、ギー? いいや、この子は孤児ではあるまい。服の仕立てが彼らとは違う。 見たところ、6級以上の市民子女だろう。幾らかは恵まれた、数少ない家の人間。 (妙だな。家出の訳も、あるまいし) それこそ孤児でもあるまいし。6級以上の子女が受ける教育プログラムは上層を至上とした都市計画の再刷り込みだ。 彼らが自律的な層移動を行うはずがない。刷り込みの核たる都市法、その違反行為なのだから。 刷り込みの失敗例?いや、可能性としてはゼロではないが── 冗談にしてはあまりに巧くない。なら、別の可能性。 ──別の可能性。 例えば、人屋に誘拐されかけていた可能性?6級市民は間違っても市場に並ばないし、もしもそうならかなりの高額商品になる。 あの«熊鬼»では到底扱いきれまい。気性と素行の問題上。 (訊くのが早いか) ……キーア。その鞄の中身、見せて貰えるかな。 いいわ。でも、下着は駄目。恥ずかしいから。 ……? 桃色の袋だから開かないでね。絶対、ぜったいに、開かないでね。 これは、嫌がっている素振り?いいや、違うだろう。 意外なほどに素直にキーアは鞄を見せた。ナンバーロック式の鍵を開けて、パカリと中を機関灯の下に晒す。 まるで旅行鞄だな、と、ぼんやりと考えていた意識が混乱する。 ──鞄の中身。見てしまった。何だ。 ──何だ、これは。 これは……。 ……ぎっしり。ぎっしりだ。 まるで旅行鞄とは思った、が、こういう結果は一切予想だにしなかった。 色とりどりの少女の服がぎっしり詰まって、ああ、これは本当に旅行鞄なのだ、と。ギーは思わず己の視覚を疑ってしまう。 女物の服。サイズは恐らくキーアのもの。それが、ぎっしり。無数に、ぎっしり。 ……ぎっしり。詰まっている。 …………。 旅行鞄。人がどこかへ“旅”するための。遠くを目指して行くための。 そういった用途のものを見かけること、ああ、そんなもの。何年ぶりだろうか。 思わず感傷に浸りそうになるのを抑える。それどころの話ではない。これだけの数、ぎっしり。 (いや、いや、待て。 混乱しているぞ、ギー。待て) (何だ? この服の量は? 仕立ても悪くない。幾らするんだこれは) これは……。 ギーは覗き込む少女を見上げて尋ねる。──努めて、穏やかな声で。 自分の混乱が伝わらないように。しかし、声は幾らか乱れて唇から転がる。 これは、凄い、ね。こんなに服がある。キーア、どこへ行くつもりだったんだい? ここ。 ──ここ? 何? ううん、なんでもないの。持っていたもの全部持ってるだけだから。 なんでもないことは、ないだろう。悪い冗談だ。ここに、来るつもり? ──この服の量で? ──鞄いっぱいに、ぎっしりと詰めて? 衣類は、決して安いものではない。機関工場製の大量生産品でも、一般的な8級市民にとっては高級品だ。 鞄の中のこれらの服は、キーアの着ているものと同じく仕立ては悪くない。それなりに、値が張るだろう。 これが1枚や2枚なら驚きはしない。 ……ぎっしりと、詰まっていたからだ。……ともすれば、ワンメイドの服さえ。 少女が持ち歩くものではない。ちょっとした資産、だ。 なら、質問を変えよう。きみの家は、どこにあるのかな。どの層?ちなみにここは下層第28区域。7層目の。 ……ご飯、冷めちゃう。 そう言って、もう一度困った顔。ギーは溜息を吐く。 ──大きな大きな旅行鞄。──何故。 ──値が張りそうな服が詰まって。──何故。 ──育ちの良さを伺える受け答え。──何故。 ──帰りたくない? ──何故? 早く食べて。冷めちゃうし、片づかないし。熱いうちのほうが美味しいのだし。 …………。 わからない。一体、この子は……何なのだ? 雨が降り注ぐ── ある層では直接。ある層では支柱を伝い。無数の水滴がインガノックを覆っていく。最下層区では、水滴は滝となって零れる。 都市を包む灰色雲と«無限霧»が融けて、降り始めた雨は、そう簡単には止まない。きっと明日も雨。 排煙で汚染された雨水が降り注ぐ視界は、道化師の幻から意識を背けるのに役立つ。ギーは、雨が好きだった。 キーアを連れてギーは雨の中に出る。改造外套の襟を立てて、広げた裾で少女の頭を覆う。 少女の今の服にはフードがない。西亨式の雨傘があれば、とギーは思う。 倫敦という名の異境・西亨で発明された雨傘は、東大陸には浸透しなかった。北央大陸の帝国ならばあるというが。 ──昔の話だ。──すべて10年前の話。 隔絶されたインガノックにはもはや、東大陸の別地域も北央大陸も、ましてや西亨など。交流は存在しない。 「どこへ行くの?」 外套の中でキーアが尋ねてくる。先ほどと、少しも変わらない様子で。 フィクサー・スタニスワフの元を訪れよう。ともすれば正式依頼になるかも知れないが、ギーには構わない。 少女の服装をよく観察する。身なりは、上等のものではないけれど、やはり、それなりに整ったものだった。 しかも外出着の“替え”を持ち歩いて。これは家の手がかりとしては大きな物証だ。 3級市民でも、2級市民でも、裁縫機関でも、服飾機関でも構わない。まずは、身元を明確にする必要がある。 ──家に帰す? ──そう、少女のいるべき場所へ。 放っておけば誘拐に発展しかねない。……勿論、その場合の犯人はギーになる。 警察機構である都市管理部との揉め事は、なるべく避けておきたい。 雨の中で、歩みを早める。 街路樹を這う蝸牛を見つめようとする少女の手を引いて、向かう先は雑踏街。 ふと、路地へ目をやって少し迷う。近道を使うか否か。 逡巡した末、ギーは路地裏へ入った。遠回りだが狭い道だ。建築物が多少の雨よけになる。 雨宿りか、それとも同じく遠回りか、路地裏には何人か先客の姿もあった。 その人影のひとつが大きく手を振っていた。誰だ、と思う前にわかった。 ──サレム。今日も会うなんて。 これで3日連続? 運命的な出会いかしら。お互い、幾らか濡れてしまってるけど── え……え、その子……え? こちらが説明しようと口を開く前に、サレムが心の底から驚いた表情を浮かべる。 驚きの感情と、それに、些か落胆したかのような気配も。 ああ、これは。何かの勘違いをしている。それを説明することを思って、ギーは溜息混じりに首を振る。 サレム、きみの想像は多分外れだ。この娘は……。 キーアといいます。よろしく。ええと、サレムさん? よろ、しく……。え……。その子、きみ……の……娘……? 違うよ。迷子でね。これから家を探しに行くところだ。 そ、そうよね、そうよね!あはは、はは……。今日の冗談は、びっくり……したわぁ……。 まさか、奥方でもいるのかって……。そんな訳、ない── いいえサレム。ギー、奥さんはいるみたい。 いるの!? いない。いない。キーア、初対面で嘘をつくのは良くない。 …………。 都市計画プログラムで習わなかった?返事は、円滑な人間関係の基礎だ。 うろ覚えを口にしてみる。驚いたままの表情で固まっているサレムに何故だか、少し、すまない気持ちになって。 ……はぁい。 よろしい。 くるくる変わるキーアの表情は、あの3人の子供たちを思い起こさせる。 自分が置いてきたものを、この子たちは一体幾つ持っているのか。すべてを、まだ持っているに違いない。 ギーは肩をすくめる。そして、サレムに「また」と言い残してフィクサー・スタニスワフの元へと急ぐ。 ……だから。 ……だから。……ギーは、気付かない。 ……出て行け。 後ろを向け、そして歩け、もう来るな。口を開くな、何も言うな、俺を見るな。 ……出て行け。 開口一番これだ。少女の髪と頬の水滴をハンカチで拭い、スタニスワフ翁に説明し始めた途端に。 もしも彼が俊敏だったら背中を押していたかも知れない。そう思うほど、静かながら迫力のある剣幕だった。 良くないな。ああ、良くないぞそれは。冗談を俺に言うなよ、ドクター・ギー。 迷子の家さがしだと?お前は探偵か、それとも荒事屋か? 己の分をわきまえろ、ドクターよ。お前さんは弱った奴を治してりゃいいんだ。よりによって今、ガキだと? ……分相応かどうかは今はいい。この子のことが知りたい。家はどこか、誰なのか。 キーアって言ったのに……。 名前はキーア。頼むよ、フィクサー・S。これは依頼だ。一応金は払うつもりだ。それでも心配が? この時節にガキの案件なんざ参るってんだ。……何だいキーア嬢ちゃん、その膨れ面は。なに、ガキじゃない? おいおい。 淑女です。 ドクター、もう冗談を覚えさせたのか? 冗談なんて言ってないわ。ええと、ミスター・スタニスワフ。 ……ミスター? ええ、ミスター。 ……作法はある。ふん、いいとこのガキか。ギー、お前の手持ちじゃ概ね依頼不成立だ。いままでの貸しを使うかね? 貸し、ね。 一瞬、躊躇する。今までずっと過分な治療報酬は断ってきた。それが、この商人に対するイニシアチブだ。 それを使うか。今ここで?一体何年分の貸しになる? ふと、ギーはキーアを見た。眉根を寄せて首を横に振っているその姿。 “無理しないで”と表情で言っている。ギーは理解と同時に決断した。 貸しを使う。よろしく頼む。 ギー! キーアはきっと役に立つわ。一切の邪魔はしないと約束するし……。 駄目だ。きみが言わない以上、こうするのは僕の絶対のルールだ。 ……ぶぅ……。 初対面の人に2度も膨れ面を見せない。きみは淑女なんだろう? ……はい……。 ……仲のいいことで。本当に初対面か?しかしドクター、本気か? 貸しと金は使い切る主義でね。本気だとも。 初めて聞いたぞ。なるほど。そういう主義なら仕方がない。今のはここ1年で最も笑える冗談だった。 そう言うフィクサー・スタニスワフの顔は不満そうに歪んでいる。困難な依頼なのか。なら、早まったかも知れない。 見るからに渋々と手帳に書き込んでいる。成果は期待できるだろうか。 しかし、なんとも不満げな顔をするものだ。長い付き合いで«亀甕»の表情はわかるが、これほどとは。 ……ぶつぶつ。 こちらも、不満げな困った顔をしている。こちらは、すぐわかる。 ふうん……。へえ、そう。そうなの。あんな強欲亀爺に依頼なんかしちゃって、むしり取られてもあたし知らないからね。 それで? ギー、女の子連れたまま仕事してたの?こんな時間になるまで、ずっとお仕事? ……あ、待って。言わないで。してたでしょう。疲れた顔の具合がそんな感じ。仕事した後。 神経太いってか、ほんと無神経。知らない子連れたまま他人の内臓いじりなんて、よくできたもんだわ、ドクター。 気にすることか? ……なに、開き直ってるの。それ。 開き直ったりはしないよ。そうか、気にするか。 あたしが患者ならね。 ……ふむ。そういうものかな。 ……そういうものなの。 そんなだから待ち合わせも忘れるのさ。もう、夜なんだから。折角買った懐中時計が持ち腐れ。 見る日もある。 見ない日もある? そういうこともあるかな。 もー。なあに、それ。 ……いや。きみが正しいよ。今日は雨だ。 酒場に漂う煙草の煙越しに硝子窓を見れば、朝と変わらない空。雨の。降り続く雨と濡れそぼった外套の人々。 雨のインガノックには夜が訪れない。時間的な区切りでの夜はあるが、それだけ。 空の暗闇と都市の灯の時間は訪れない。雨の日は、そういうものだ。10年前からの、決まり事。 だから、ここには太陽がふたつあると、人々は口にする。曇りの太陽と雨の太陽。 10年前に生まれたもうひとつの太陽。雨の日の夜を消したもの。 ただの噂だ。実証した者はいない。空を覆う厚い灰色雲の向こうにある輝きを、そもそも、人々は目にすることができない。 ……ねえ、なぜ夜なのに明るいの。あと、このパンとっても甘くておいしい。なあにこれ? 太陽がふたつあるって話、聞いたことない?雨の日にはね、別のお日さまが昇るのさ。 あと、それはね。パンじゃなくてナン。遠い遠い西享の小麦粉料理。バターをね、パンに塗るよりずうっと多く練り込むの。 ふわふわで、パンじゃないみたいでしょ。硬くないもんね。 うん硬くない、やわらかくて……。あ、ほんとう。バターの香り……。アティは物知りなのね。 ねえ、ギー。ギー。あなたの奥さんはとっても物知りだわ。遠い国の料理のことも知ってるなんて。 奥さん? まばたきを2回。左右を見回してからもう一度、まばたき。 今はそう長くない爪で、自分を指さして。アティが首を傾げる。 ……奥さん? うん。 え、や、やだ、なに、この子、奥さんって?……あ、あはは。あは。やあね、もう。ね?大人をからかうんじゃないの。よね、ギー? ──アティ。 な、な、な、なに?ギー? この子のことなんだが。何か、聞いていないだろうか。 尋ね人の依頼の話は聞いていないだろうか。2級か3級の等級市民で、家族を捜すとか、そういった類のもの。 ……き、聞いてないと、思うけど……。 そもそも、さぁ……。どうしてあたしと約束した飲みの席に、この女の子がいるのかなぁ、って……。 ギーはまるで当然みたいな顔してるし……。多分あたし、聞いてないんだけどなぁ……。どうなの、どう思ってんのさその辺り……。またギー全然食べてないし飲んでないし、あたしだけモリモリ食べて飲んでるーみたいな感じになってるし……。割り勘なのに……。 どうした? 別に? 何でもないのさ? 今夜は遠慮したほうが良さそうだ、って言ったの。それだけ。ギー、遠慮しないと困るでしょ? 遠慮? そ、遠慮。そこそこ大人な話。 何が大人な話であるものか。ギーは小さく肩をすくめて窓を眺める。 ──昼間と変わらない空。──灰色の。 ──ふたつめの太陽。──雨の日の夜にだけ出る、そう。 そう、ひどく遠慮がちな太陽だ。多くの人は夜の不在を不気味がるけれど、ギーは、そう嫌いでもなかった。雨の陽。 明日も止むことはないだろう。今回は、随分と雨の勢いが強く思える。 (……しばらくは続くか) (助かるな) そうだ。何日かは雨が降り続く。その間は、道化師の幻を無視できるだろう。 しかしそれも、屋外であればの話だ。屋内は駄目だ。普段と同じだ。 例えば、アパルトメントの中であるとか。例えば、患者のいる集合住宅であるとか。 いつもと変わることはない。 そう。いつもと── ──いつもと。 ──変わることはない。そのはずだ。 ──しかし。──今夜はどうも例外であったらしい。 視界に関しては確かに変わらない。今も、ギーの視界の端で幻が踊っている。 問題はアパルトメントの鍵。鍵が、開いている。玄関の木製扉が開いたままになっていた。 ──いつもと違う。──鍵を掛け忘れたはずはない。 ──いつもと違う。──誰かが、中に入っている? 開いたままになっているドア越しに、ギーは屋内の様子を窺う。誰かがいるのか。いないのか。 強盗などそう珍しい話でもない、が、この層に金のある人間がいると考える者はそうはいない。狙うならもう2、3層は上。 なのに、ドアが開いている。部屋の中が見える。 明かりさえぼんやりと点いている。一体、誰が……? ……遠慮しない人がいたの? そういう冗談は言うものじゃない。少し、下がっていなさい。 はい。 そういう顔をしない。廊下のほうにいなさい、近づかないで。 キーアを少し離してギーは警戒を強める。誰かがいる可能性がある。概ね、強盗の類だろうが。 ただの物盗りは人が来れば逃げるものだが、たちの悪いものであれば逆上する。前者であると、願うしかない、が。 アティを連れて来れば良かった。もしくは、常日頃言われるように自衛用の拳銃でも携帯しておくべきだっただろうか。 (……冗談) 拳銃など。持てる覚悟がある訳が。 ドアに近づく。体は入れずに中を窺う。雨に濡れた誰かの靴の痕。小さな靴だ。子供か。いや。 女物か── 機関酒場で別れたアティが先回りしたか。いいや。それだけは、ない。あれはギーに嘘を吐かない。 誰か、そこにいるな。 すぐに出てこい。物盗りならそのまま出て行け。     「……俺は悪くない」 ────ッ! 女の声。それが耳に届いたと認識した刹那、強い衝撃がギーの全身を襲った。揺れる。神経に働き掛ける、強い、力が。揺らす。 銃ではない。ナイフでもあるまい。 攻撃型の現象数式、«力破»か«力場»か。衝撃に、神経も脚も耐えきれない。崩れる。 神経が、やられた。脳器官が動かない。故に、ギー自身の数式の起動ができない。 声が出ない。ここから逃げろ、と少女に叫べない──   「……きみが悪いんだ。ギー」 この声── まさか──    ──聞き覚えが、ある── カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……“今回”はどれほど保つかな。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ……瞼を開く。 ……一瞬、戸惑う。視界は闇のままだった。 慣れた臭気が濃く漂っている。じゃらり、と金属の擦れる音が聞こえた。 場所と時間がわからない。どこだ。確かに瞼は開けているはずだが、暗い。ここは、一体。どこ、だ。 少なくともベッドの上ではないだろう。冷え切った石床に両膝を突いた姿勢で、ギーは、暗闇の中心にいた。 (……場所……時刻……) (……どこ、だ……ここは……?) 混濁する意識を抑制する。窓はない。灰色雲の向こうから指すはずの明るさ、もうひとつの太陽がここにはない。 ただ暗い。湿った感覚。嫌というほどに慣れた臭気、これは、血か。 錆びた鉄に似た匂いと感じたのは子供の頃。今は、はっきりとそうだとわかる。血。空間いっぱいに充満した匂い。 じゃらり、と金属音。まただ。音がやけに響く。密閉空間か。屋内のはずだ。地下室か? 少なくとも自分のアパルトメントではない。あそこにあるのは狭い地下倉庫だけ。これほど音の反響する地下室はない。 意識が覚醒していく。アパルトメント。侵入者。突然の襲撃。そう、現象数式と思しき攻撃を受けた。 意識を失っていたのか、自分は。そしてここにいる。 体を動かそうとすると、金属音が響く。じゃらり。重い。両腕の自由が効かない。 ──壁に繋がれている。──鎖か。 概ね把握できた。連れ去られた上に監禁されている、か。 あの襲撃者。あの声── 確かに、聞き覚えがあった。あの声は。 「……進んで寄り添ったんだ、自分から」 「この道をね……。 娼婦を選んだのも自分自身だ」 そう。この、声……!先ほどと同じ。聞き覚えのある、声。 わかる。ギーには、嫌というほどに。なみなみと注がれて溢れてしまった狂気、それが声のかたちになって、外に漏れる。 この声。狂気そのものの、溢れてこぼれる音。 「くすくす。おかしいと思うよな? 頭がおかしくなったと思うよな?」 「くすくす。仕方ないじゃないか。 くすくす。だって、そうだもの」 「とっくの昔に、狂ってしまった」 「10年前に。 そうだろ、なあ、そうだろ、ギー?」 どこにいる。遠くはない。近い。この地下室のどこかにいるのだ。 「……男なんかに……」 「何度も何度も体を開いて。わかるか? わからないよな、お前には、わからない。 わかるわけないんだ」 「気が狂いそうになるのを何度も何度も 何度も何度も、堪えて、何度も何度も 汚されて、何度も何度も何度も何度も」 声が近づいてくる。ゆっくりと、足音と共に、ギーのほうへ。 「堪えきれずに狂って、また狂ってさあ! 10年、こっちはずっと、休む暇なく!」 「何度も、何度もさあ!」 「この……俺が……!」 一歩一歩と、近づいて。喚きながら、近づいて。近づいて。 ようやく、声の主の姿を見ることができた。 ……この俺が。女なんかになったんだ、お笑いだろ。 笑えよ、おかしいだろ、なあ、ギー。笑ってくれよ、俺のこと。 ──サレム。 ──薬瓶の匂い。白衣の姿。──帝国タブロイドを指さし笑う高い声。 ああ。彼だ。この、高い声。この、柔らかで薄い笑み。10年を経て姿が変わっていてもわかる。 ギーは言葉を発さなかった。代わりに、相手が口を開いて声を放つ。 穏やかな笑みはすぐに消えて。本物の表情が見えた。 笑えよ……!お前も、好きなだけ俺のことを笑えばいい!哀れな男だとお前も、蔑めよ、なあ、ギー! 蝶に似た衣装。美しく。この顔、この表情。そしてこの肌。間違えようがない程に、サレムだ。 ──言葉が出ない。──彼に、自分は、何を言えばいい? でもね。大変だったんだよ、俺も。この10年。 女の真似事をして、そうさ、俺はね、子供を、産もうって、決めたんだ。ギー。 こうなったからには、女に、なろうって。潔いだろ。俺。男らしいだろ。 ……受け入れようとしたんだ。俺。この体。女の体を。 大きく開いた胸元の肌に、指を這わせる。初めて女の肌に触れた男のように、ぎこちなく、何かを恐れるように。 サレムの指先は震えている。自分自分の肌に触れているのに、震えて。 震えは声にまで伝わって、地下室と思しき湿った空間を揺らす。 女なんかに。この俺が、女に……なろうと決めた。人生のすべてを諦めたっていうのに。 なのに、なあ。お笑いだよ。産めない。産めないんだよ、俺じゃ。 何をしても。何度も何度も何度も、体を開いても。 ……どんなに男を貪っても、この体は妊娠してくれないんだよ。 そう言って肩をすくめる。仕草は、白衣を着ていた10年前のまま。 些細な失敗を自嘲する時、よく彼はこんな仕草をしていた。 ──薬瓶の匂い。白衣の姿。──帝国タブロイドを指さし笑う高い声。変わらない。 変わったのは姿だけか。いや、違う。それだけでは、ない。 くすくす。なあ、笑えよギー?気付いた時には俺も笑ったね。だって、この体には月経がないんだ。 ないんだよ、この体には。子宮が。元から。 あんなにも蔑んでいた女にされて。けれど、その生物的機能すら果たせない。 ……だから、なあ。ギー。 一端言葉を区切って、耳元に口を寄せて囁く。笑みを混ぜて。   「俺はもう、狂うしかないじゃないか」 狂う── 血の匂い。まだ新しい。湿った気配。窓のない部屋。金属の鎖。そして、ひどく強い執着。 これは妄念と呼べるのだろうか。子供という存在への。 ……だから、お前は。子供を殺すのか。 血の匂いは惨劇の跡。そう思えるだけの確信が既にあった。 産めないから殺すのか。産む代わりに殺すのか。とんだ代償行為だ、理屈が通っていない。 そのはずだ。何故なら既に、彼は狂っているのだから。 そうだよ。だから子供を殺すんだ。 だって殺すしかないだろ?他に、俺に何ができるっていうんだよ。くすくす。ギー、変なこと、言うなよ。 心底楽しそうに、サレムは笑ってみせる。つまらない冗談を聞かされてしまったと主張する顔で、声で。 10年前と同じように。10年前とはまったく違う狂気と共に。 そう……か……。お前が……。 子供殺しの、犯人、か……。サレム……。 殺す。そう、殺すんだ。殺す。殺すか、いや、違う待って、ああ、待ってくれよギー。違う、殺していない。 俺は殺してないんだ。殺してるけど。殺してない。 ──何? 殺してない。殺してるけど。俺は、ただ、捧げてるだけなんだよ? ──捧げる。──子供の死を。誰に。誰に? 捧げるんだ、彼に。 ──彼。誰だ。 ぞくり、と。全身にひどい寒気が走った。熱病に罹る直前のような。 嫌な感じがする。誰だ。人間か。彼?未だ代名詞でしか聞いていないというのに、この、猛烈な、戦慄を催す感覚は何なのか。 吐き気がする。彼。誰だ。ひどい痛みが頭を叩く。 何だ。誰のことを、サレムは言っている。彼とは誰を指している? ひどい頭痛と、もうひとつ。これは。臭気か。血の。いや、別の何かもうひとつ。饐えた匂い、耐えられない悪臭。 意識が揺れる。ひとりでに眼球が白目を剥きそうになる。 この感覚は現象数式に似ている。誰かの攻撃を受けている?物理、違う。これは、強力な、心理操作の。 誰かが。何かが。サレムではない。たった今、ギーの脳神経を操ろうと── そうだ、きっとお前も気に入ってくれる。綺麗な目をしたひとなんだ。きっとお前も仲間になれるよ、なあ、ギー! ……そうだろう、ウェンディゴ! 「GRR……」      ──首の後ろに──   ──突き刺さったゼンマイ捻子── 「GRRRRRR…」 叫ぶサレムの背後から、姿を見せる。それは緑の異形だった。 ひどく歪んだ大猿に似た巨躯。石の天井に頭を擦りながら前進する肉体を覆う毛皮の色は、黒ずむ血に彩られた、緑。 口蓋から見える乱杭歯の数は大小で28。人間の頭蓋程度なら、軽く砕ける。腐った吐息を吹いて、それは笑う。 ──怪物。──正真正銘の。これは人間ではない。──変異した幻想の異人種では、ない。 知っている。ギーの全身が硬直する。あり得ない。恐怖に慣れきった体が震え、痺れる。 吐き気の正体は、恐怖だ。この怪物は根源的な恐怖を呼び起こす。 恐い。恐い。嫌だ。嫌だ。目の前のものが幻覚であればと願う。これが、こんな場所に、在るはずが。 ──クリッターがここに在るはずがない。 ──なのにそれは、実在していた。 ──首の後ろのゼンマイ捻子が。──ギリギリと音を立てる。 ……“死の捻子”……。 ……まさか……。本物、の……これが……。 嘘、だ……あり、得ない……。本物、の……クリッター……は……。 ──死んだはずだ。嘘だ。──“これ”は5年前に死んだはずだ。 その名と姿をギーは知っていた。ウェンディゴ。 人を喰らう41のクリッターうちの1体。都市を覆う41の大いなる恐怖のひとつ。 ──知らないはずがない。 10年前の«復活»を生き延びた人間で、これらを知らない者はいないだろう。 ──クリッター。──それは、恐怖の、力あるかたち。 これは、10年前、下層の子供の20%を喰らい尽くした。クロム鋼の刃も銃弾さえ弾いてみせる怪異の中の怪異。 変異した人間など目ではない。凶暴な幻獣など、何体いても敵うまい。 何ひとつ物理法則が意味をなさない、これは超常の“現象”だ。人間を殺すもの。そう、まるで病のように。 嘘、だ……。こいつは……死んだ、はず……。 当然のように人を蝕み、苦しめ、殺す。異形の王、クリッター。血の赤色を撒き散らす、闇の黒色の恐怖。 空洞の眼窩が“こちら”を見ている。そして異形は、笑みを浮かべた。 虚像ではない。実在している。過去にストリート・ナイトが討伐をしたと記録されているのに、それは、そこに在る。 脳が掻き回される。神経を。弄られる。サレムのように。お前も来いと。 ──狂気の底へ。──逆らわずに堕ちてゆけと。 ──植え付けることはしない。──既に己に在る狂気に、飛び込め、と。 やめ、ろ……。 声が── はは、はははは!美しいだろう、なあ、見ろよギー! こいつが全部喰らってくれる!俺に地獄をくれた都市を、壊してくれる! いいか、ギー! ギー!子供を全部喰らえば、都市は消えるんだ!地獄は消える。俺もお前も元に戻るんだよ! あの日に帰れるんだ、俺たち、全員!全部なかったことになる約束なんだよギー!ウェンディゴは俺とそう契約してくれた! こいつにできないことはない!子供さえ殺せば子供さえ、子供さえ殺せば!たった、それだけで、いいんだから! あははははは簡単じゃないか、なあギー!ギー! お前も! 一緒に、やろう! ──一緒に帰ろう。ギー! 縋るように、誇るようにサレムが笑う。狂気を隠そうともしない。 彼は解放されたのか。これに。晴れやかにさえ見える表情はそのせいか。 だが、ああ。だが、嘘だ。サレム。赤い涎を滴らせて唸るウェンディゴからは食欲と殺意以外の一切を感じ取れはしない。 クリッター・ウェンディゴの能力。それは物理作用の無効。それは恐慌、病原、そして感化。 ──感化能力に頭脳を破壊されたのか。──サレムは。 自分の脳も軋んでいる。保ちそうにない。現象数式の脳器官さえも悲鳴を上げる。歪めようと働く“力”には、抗えない。 拒むな、受け入れろよ、ギー!お前には用意してあるんだ! (用意……だと……) 何を── ──そこには。 ──あの、少女がいた。鎖に繋がれて。 王へ傅く騎士の如く、異形へと恭しく頭を下げたサレムが開いた、暗闇の中にたれ込めた黒色のカーテンの先。 それはキーアだった。瞼を閉ざして力なく項垂れて、繋がれて。 サレムは少女を逃がさなかったのだ。捕らえていた。そして、ここへ。 ……! ──少女は身動きひとつしない。──まさか、と全身から血の気が引いた。 殺したのか。あの子を。暗闇の中で意識を失っている最中、既に。 恐怖で痺れていた指先が動いた。無理矢理に、拘束された両腕を動かすと、関節が軋んで激痛が走る。鎖の音が鳴る。 猿の“力”に捻曲げられる寸前の脳神経、意識と狂気を混濁させようとするそれを無視して、ギーは叫ぶ。 死んでいるのか、生きているのか。わからない、それでも。 せめて、あの子だけは── キーア……! 生きているのか、生きていてくれ。ギーは叫ぶ。 ──生きていろ。──ここから、一刻も早く、逃げろと。 そんなに心配するなよ。大丈夫。まだちゃんと生きている。 お前にも、ちゃんと、見せてやるから。 ──見せる? 一度目にすれば、癖になるんだ。素敵だよ。きみも絶対に気に入ってくれる。 ……わからないって顔だなあ。じゃあ実演してみせるよ。 ねえ、ウェンディゴ。この女の子を喰って、ギーに見せてあげて。俺はね、初めて喰わせた時に確信したんだ。 ──確信? ──だから、殺すのか。 やめろ。サレム。お前は今、正気を失っている。 失ってるから何だってできる。だろ?あの日より前に帰れるなら、俺たちは、何でもする。 ──だから、殺すのか。 やめろ── 都市のもたらしたものなんかに寄り添って。何を考えてるんだよ、なあ、ギー。これは、俺たちのために仕方のないことだ。 ──だから、殺すのか。 都市は、このインガノックは俺たちの敵だ!気を許すな! 敵と交わるな!!こいつらは全員殺せ! お前が言うんだよ、殺せ、喰えって!さあ、やれよギー!俺と、一緒に、帰れるんだ! ──だから殺せと。──きみは言うのか、サレム。 やめろ……。 やめろ、サレ……ム……! やめろ……!! ──目を閉ざす。 「────────────ッ!!」 「────────────ッ!!」 「──────ッ!!」 サレムの叫びは止まらない。聞き取りづらい何かを喚き続けている。ああ、そうだ。10年前にも、こんな。 暗闇の中で思う。もう、終わりにしよう。 かつての友が狂気に溺れるさまは、耐えられない。止めなくては。けれど、ギーにはその手段がない。一切。 10年前と同じだ。誰かの呼びかけに自分は応えられない。 ならば今は応えよう。目を閉ざしたまま、サレムを待つ。 首筋に何かが当たる。冷たいもの。巨怪の吐息は腐臭を伴って。 (……これでいい) 悪夢の10年が、ここで終わる。それも悪くない。もう、疲れた。  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、ようやく。 消える。 サレム……。 言葉を── 「黙れ」 「黙れよ、ギー」 吐き捨てる声が聞こえたような気がした。縋り付いて泣くような声。捨てられた子が、泣きやむ時の声、か。 まだ、かけられる言葉はあるはずだ。かつての友に。 けれど、最後までは。述べられなかった。ギーの言葉は途絶えて、視界は暗転して。 憶えのない感触に背筋が震える。ああ、そうか。これがあのクリッターの── 言葉を続けようとする。息ができなかった。熱の塊が唇から溢れる。瞼が開かない。視覚が、動かない。 これがクリッターの力か。肉体修復のための現象数式が働かない。 脳の器官が、起動、しない。意識が。薄れる。 (……サレ……ム……) (……お前、は……) 思考がまとまらない。拡散していく。ああ、なるほど。これが。 悪夢の10年が、ここで終わる。 悪くない。 心残りは、あるけれど。  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、ようやく。 消える。 ──右手を伸ばす。 サレムへ、 その背後のウェンディゴへ。 あるいは繋がれた少女へと。 やめろ、と叫ぶ。声は出ているかどうか。わからない。だが叫ぶ。ギーは、叫んだ。右手を差し伸べて。 いいや、手は、動かない。血錆の浮いた鎖に繋がれているのだから。 伸ばした手は、動かない。かわりに。      ──かわりに──    ──別の右手が伸びて── ──右手を、伸ばす。──前へ。 ギーの右手は動いていない。繋がれて。けれど右手は伸ばされた。 ──鋼でできた手。──それは、ギーの想いに応えるように。 蠢くように伸ばされていく。自由に。その手は、血臭漂う空間を裂いて。 暗闇の中へ伸びていく。鋼色が、5本の指を蠢かせて現出する。 指関節が、擦れて、音を、鳴らしている。それはリュートの弦をかき鳴らすように、金属音を生み出す。 これは── 何だ── 何かがいる。誰かがいる。これはギーの手ではなく、その背後から。 誰かが──ギーの背後から、鋼の手を──! ──鋼が軋む音が響く。──何かが、ギーの背後に、いた。 誰だ。何だ。鋼を纏った何かが、背後に在る。ギーには見えないが、わかった。 背後から右手を伸ばす、鋼の何かがいると。正体はわからない。何者か。人間。いいや、これは違う。 わからない。誰が。何が、そこにいるのか。鋼の体躯を持つ者、まさか、そんなことはあり得ない。自分の背後にある訳が。 それが、在るはずはない。だが。だが。 ……やめろ。 その娘を、離せ。サレム! だが……! わかることがある!この手は、動く、ギーの想いのままに! この“手”を……!ただ、ただ前へと──伸ばす──! 「喝采せよ! 喝采せよ!」 「おお、おお、素晴らしきかな。 第1の階段を盲目の生け贄が昇るのだ」 「現在時刻を記録せよ。 クロック・クラック・クローム!」 「貴様の望んだ“その時”だ! レムル・レムルよ、震えるがよい!」 「第1の階段を盲目の生け贄が昇るのだ。 遍く者は見るがよい、 これこそ、我が愛の終焉である」 「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛のかたちあり!」 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇るあるじがひとり。 それは支配者。それは大公爵。それは愚者。インガノックの王。碩学にして現象数式発見者であった魔術師。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、求めて。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。   『あはははははははははははははは!』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。  『あはははははは、とうとうやった!  あはははははは、どこかの莫迦が!』  『──最後の«奇械»が顕現して──』     『──くすくす──』 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 歓喜の声を上げて手を伸ばすけれど。決して、その手は動かない。黒の下、その手は蠢くだけ。      ──彼の左手は──      ──蠢くだけで──      ──鋼の右手が──      ──暗闇を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光がひとつ── ……サレム。僕が、その子を殺すことはない。 僕は、誰かを殺さない。二度とだ。 既に、立ち上がっていた。繋ぎ止める鎖は鋼の“彼”が砕いている。 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界に違和感があった。道化師がいない。かわりに、異形の影が背後にあるとわかる。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。サレムと、クリッターの姿。41体の死、そのひとつが。 数式を起動せずともギーには視えている。脳神経を蝕む“力”を振り解き、ギーと“彼”はウェンディゴの緑色を睨む。 ──右手を向ける。──己の手であるかのような、鋼の手を。 ──現象数式ではない。──けれど、ある種の実感がある。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。今、こうして。 なんだ、なんだよそれ、ギー!何を出した! その背後にいるのは何だ! 俺たちのために来てくれたんだぞ、ウェンディゴは! なのに、な、何してる!そいつを! そいつを追い返せ!嫌だ、嫌だ、そいつは嫌な感じがする! ……きみが先だ。サレム。その子を解放して、後ろに下がれ。 嫌だ! 嫌だ!ウェンディゴ、ギーを、あれを殺せ!! 「GRRRRRRRR…!」 応じて、緑色の怪物が唸り声を上げる!緑色の殺意の塊が動く。現象が発生する。死を振りまくものが確かに視える。 ギーの“右目”は既に捉えている。クリッター・ウェンディゴのすべてを。 野太く鋭い硬化爪にまとわりつく黒の塊、あれこそが死だ。死の集合体。粘液。病原菌のようにして人を殺す、死の現象。 振り上げられた、死の硬化爪。向けられる殺意の先はギーと“彼”! ──分厚く鋭い黒爪が幾本も空を裂く。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間以外には。 もしも爪を避けられたとしても、まとわりついた死塊の粘液に殺される。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。ウェンディゴの黒爪が裂いたのは虚空のみ。 「GRRRR…!?」 ……遅い。 なんで……!ギーが、死んでいない……!? なんで、避けられる!人間がクリッターに殺されないわけない、おかしい、そんなの、おかしいぞ、ギー! 死んでくれよ!クリッターがその気になれば人間は死ぬ!俺の、俺の、ウェンディゴを困らせるな! そもそも、お前、なんかに!人間なんかに何ができる、クリッターに!クリッターは死なない、壊れ、滅びない! 「GRRRRRRRR…!!」 喚くな。 唸り声をあげた緑色を“右目”で睨む。恐らく今のが恐慌の声か。人の脳神経を破壊し、死か狂気を植える。 しかし生きている。ギーはまだ死んでいない。 先ほどまでなら死んでいたのだろうと思う。しかし、今なら、鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。ウェンディゴのすべてを“右目”が視る!    ──クリッターは不滅──    ──物理破壊は不可能──    ──ウェンディゴの場合──    ──唯一の破壊方法は──    ──太陽光、あるいは── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 緑色の死、ウェンディゴ。すべてを弾く表皮と加護された肉体。故に、確かに人間はこれを殺せない。 唯一の破壊方法は太陽光。故に、絶対に人間はこれを殺せない。 この都市の空には太陽がないから。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている!──“右手”と連動するかのように! 鋼のきみ。名前さえも僕は知らない。だから、僕はこう言おう。 “太陽の如く、融かせ”  ───────────────────! ──切り裂き、融かして消し飛ばす。 ──炎を纏う刃の右手。──それは、怪物を焼き尽くす炎の右手。 押し開いた鋼の胸から導き出された刃の“右手”は、超々高熱の火炎を伴ってウェンディゴを包み込んだ。瞬時に融かす。 叫び声を上げる暇もなく、高熱刃に包まれたクリッターは崩壊した。 凄まじい炎の滓を、爆砕するように残して。地下室を天井と壁ごと揺らして── ──揺らめく炎は。──床の血痕に触れて激しく燃えさかる。 それはギーの予想を超えていた。炎は、子供たちの血痕に対して油のように反応して、あり得ないほどの燃焼を見せる。 炎が回る。一瞬で、地下室が高熱に包まれる。 鋼の腕で鎖を引きちぎり、意識を失ったキーアの体を抱えて走る。 ドアの鍵は閉まっていなかった。開く。──だが、ギーは振り返る。──まだだ。まだ、ひとり。 ──サレム、逃げろ! はは……逃げる……? はは……。あは、はは……見ろよ……ギー……。 ほら、綺麗な……炎だ……。 ふふ……こんなに燃えて、綺麗に……。10年前と同じじゃないか……。 そうだよ……同じ……。そう……同じなんだ、同じ……。 なあ、ギー……?方法は、もっと、簡単だったんだよ。 ──笑顔を浮かべて。 広がる炎の中に、サレムは立っていた。急激な高熱に晒されて崩壊する天井の破片、瓦礫の中で。 自嘲するその笑みは記憶の断片のどこかに。でも、あの時は、こんな風には。 名を叫んでギーは手を伸ばす。けれど、炎の海から彼は出て来ない。 ああ……そう、だよ……。 ……こうすれば良かった……。最初から……そうすれば、俺は戻れて……。 あの子たちだって……。殺さずに……すんだのに……。 なあ、ギー。笑ってくれないか。俺、随分、遠回り……しちゃったよ……。 サレム……!何してる、こっちに来い、早く! ……俺、もう帰るよ。こうやって、10年前に帰るんだ。きみは、その子をちゃんと逃がせよな。 さようなら。ギー。お前のこと、嫌いじゃなかった。 だから、もしもまた──  ───────────────────。 友の名を叫ぶ。声は、崩落に掻き消されて。 炎が弾ける。ゆっくりと視界が朱に染まっていく。 差し伸べられたギーの手は届かない。友は消えた。踊る狂気のかたちと、共に。 ──ああ。 ──視界の端にもう道化師はいない。 いつも見えていたものが、ない。何故だか思い起こされる過去が薄れて。 過去の記憶。切れ切れで、はっきりとは思い出せない。 記憶。悲鳴と絶望の呻き。 記憶。この手で助けられると驕っていた。さしのべれば、必ず救えるものと。 記憶。10年前、あの瓦礫の中で。あの娘も。       「どうして」 ──ああ。──訊ねる声が聞こえる。 答えられない。答えられない。 だから今は、手の中にある小さな手を握る。 少女の手を引き、体で覆う。落ちていく瓦礫を背中と鋼の腕で守って。 ──10年前にはできなかったことを。──今の僕は。 僕のこの手は、果たせているのか。いいや。果たせていない。 ──気付けば、もう10年が過ぎていて。──今もこうして。 空が見える。曇り空を仰ぐと、もう、雨は上がっていた。 ひとつめの太陽を覆い隠す灰色の雲が、隠された陽光が朝の訪れを告げている。 視界の端にも、どこにも。踊る黒色の道化師はいなかった。 視界の端に見えたのは、細い影ひとつ。瓦礫の中から突き出た、1本の手。……サレムの右手。 何かを掴もうとして伸ばされたままの、歪んだ、サレムの右手だったもの。炎に晒されて、黒ずんで。 手はまっすぐに伸ばされたまま、微動だにしない。 ギーは己の頬に触れた。濡れた感触。雨は、もう止んでいるのに、ひどく冷たい雫が、指先にまとわりつく。 ……ああ。……そうか、これは。僕の。 それが涙なのだとわかるまで、3秒。瓦礫の中で空を見上げたまま。 涙を流して。      「……どうして」 誰かの声──     「……ギー、どうして」 ──ギー。──どうして。 顔を上げると、そこには少女の姿があった。黒衣の。ひどく悲しげな顔をして。 手を、差し伸べられていた。瓦礫の中で仰向けになったギーへと。 ──あの少女。 ──名前は、そう、キーア。 ──美しい薄赤色。──それは、灰色の空によく似合って。 じっと、薄赤色の瞳が見つめている。唇が。動いて。   「どうして、助けてくれるの」      ──どうして──      「助けてくれた」   「どうして、ギー。どうして……」 ──わからない。──なぜ。僕は、こうするのか。 ──なぜ。手は、届かないのか。──なぜ。涙が、こぼれ落ちるのか。 少女の手に縋り付いて。ギーは、もう一度だけ涙の雫を落とす。      「どうして……?」      ──どうして──       ──僕は──  ──きみひとり、助けられずに── ──都市摩天楼の朝。 都市摩天楼。無数のビルディング群。最強のクリッターたるドラゴンの出現で閉鎖された地下大機関に次ぐ機関の揺籃。 本来ならここが正真正銘の最大のエネルギー産出地区のはずだった。10年前の«復活»さえ起こらなければ。 上層によって任ぜられた都市職員が運営する、高層のビルディング区画。都市各所に送られる機関エネルギーの要。 いわばインガノックの心臓。無数のビルディングは動脈のひとつひとつ。 機関エネルギーは、すなわち金だ。動く金が多ければ影の跋扈する機会も多い。 だから、あたしはよくここにいる。仕事のためだ。荒事の。 金や腐敗は暴力に結びつきやすいから。ご禁制の銃の火が飛び交うこともある。仕事の宝庫。有り難すぎて涙も出やしない。 ……今日も、嫌な風。 呟く。爪の間を風がすり抜ける。 比較的、上層に近いここは風が強い。排煙混じりの嫌な風。風を好む人は、異形都市のどこにもいない。 風。耳の中にも潜り込む。ゆうべ耳にした噂のようにするりと。 嫌な話、聞いたかな。いまどき«奇械»のおとぎ話だなんて。 そう。耳にするりと。珍しく«奇械»の噂を聞いてしまったのだ。4年ぶり? 他愛もない、この都市唯一の。 10年前に現出した牙を剥く幻想は、あらゆるおとぎ話を滅ぼした。そんな中で、ただひとつ生まれたおとぎ話。 ──それは«奇械»。 ──それは人に美しい何かをもたらす。 美しいものなんて。もう、どこにもありはしないのに。 どうした、猫。憂いを込めて物思いか。あんた、そういえば女だったんだな。 うるさいな。羽根むしられたい、鳥さん?こうしてる時は話しかけないで。 不機嫌だな。嫌な猫だ。 不機嫌さね。嫌な鳥さん。 視線をわずかに動かせば姿が見えた。ビルの天辺に立つ自分の隣に、人か、鳥か。 つい、とそっぽを向く。異人種«鳥禽»に変じた人は無神経で困る。今まで組んだ仲間の中でも、こいつは特に。 でも、腕はいい。銃弾の雨をかわせない愚鈍な鳥人と違って、反射神経の数秘機関を埋め込んだこいつは。 速い。多くの人よりも。 それは、それだけで価値がある。こいつがいると生き延びる確率が上昇する。 今日は第12機関ビルへの強襲仕事。確か、6年くらい前に護衛の仕事を請けたことがある。だから、内部構造は、わかる。 下ごしらえは充分。あの感情のない上層兵への仕込みも完璧だ。 記録には残らない。身元も。大丈夫。いつも通りのことだ。 そして、あたしは金を得て生きて帰る。何も変わりはしない。いつも通りのことだ。 いつも通り── そのはず、なのに── 何をそんなに不機嫌にしてるんだ。猫。珍しいを通り越すぜ。いつも無駄に陽気なお前が、ふて腐れてガンくれときたもんだ。 無駄に陽気で悪かったね。そんな日もあるのさ。 何年ぶりかね。 ……不機嫌とは、言ったけど。そんなに不機嫌なつもりはないんだけどな。 つもりがないなら重症だ。 大丈夫。心配しないでよ。仕事には影響しないさ。 心配? まさか、そんなもんして堪るかよ。ああそうか、もしかして例の── ──例の?──何か噂になるようなことをしたっけ? 例の男。いたろう、あの青っ白い巡回医師。フィクサー・Sのお気に入りの人間サマにお前、随分入れ込んでたよな? 嘴、割るよ。入れ込んでないし、ギーは人間じゃないさ。 そらみろ、猫はすぐ嘘をつく。どうみても不機嫌は自覚してやがるし、そうやって入れ込んでるじゃあねえか。 そんなことないったら。 ──そう、嘘。──嘘つき猫と呼ぶがいいのさ。 その通り、不機嫌真っ盛り。今日だけで無意識にコップを2つ割った。さすがにちょっと、自分でも驚いたもの。 自覚? そんなもの、してるに決まってる。意識してる相手が何かだって。わかる。 ──黒衣。──儚さ、みたいなもの。確かに感じた。 ギーの隣から離れようとしない、あの子。あの小さな── ──音が聞こえる。──朝を告げる異形の小鳥たちの囀りと。 いつもであればそれだけだ。今は違う。聞こえるはずのないものがある。生活のための音が、囀りにするりと混じる。 瞼を閉ざす場所。眠るための場所。それ“だけ”だったこのアパルトメントに。 今は。音が聞こえる。遠慮がちに、静けさを破綻させない程度に。 ……瞼を開く。……部屋の中は既に明るかった。もう朝か。 朝の気配が僅かに漂っている。歪んだ小鳥の囀りと、それと、何か他の音。 違和感に気付くまで少し時間が要った。場所は。寝室のはず。いつもの薄暗い部屋。けれど、この音はいつもあるものではない。 誰かが何かをしている音。暮らしている音。 聞き慣れないものだ。小さな自分の寝室にまで、静かに響く。 と── ギーは意識を覚醒させて起き上がっていた。 誰かの気配がある。誰だ、とは思わなかった。もう3日目だ。 これは朝だ。3日よりも前の寝覚めに感じるものと違う。その残滓が漂う昼ではなく、正真正銘の朝。 (……またか) ──随分と、馴染んだものだ。 ──音と。──これは香りか。 ドアを開けると香りが漂った。配給食用油で合成ベーコンを焼く時のもの。 続いて聞こえた焼ける音は、スキレットで合成卵でも炒める音だろうか。 市民登録者に与えられる配給用食用油。生産機関製の安い合成ベーコンと、合成卵。パンでも加われば立派な7級市民の朝食だ。 特に珍しいことはない。 このアパルトメントが他人のものなら、だ。 ギーのアパルトメントにそんな食材はない。ない、はずだ。そう思いかけて、首を振る。 そうだ。今は違う。 3日前の晩、無針注射器を求めて雑踏街に立ち寄った。その時にまとめて買ったのだ。彼女に言われて。 「だって、味気ないんだもの」 「栄養剤だけじゃだめだもの。ね、ギー」 ──別段困ったことはない。 口にはしなかった。それでも、顔には言葉が出ていたらしい。 随分とへそを曲げられた。彼女も口にはしなかったが、顔で表現した。 結局、こちらから頼む形で買い物をさせた。無針注射器を安く購入できたぶん、その程度の余裕は懐にあったから。 それに、何よりも、そうだ。あの年頃はまともなものを口にするべきだ。自分と同じことをさせては、背も伸びない。 成長不良は死を招く。それは、ギーにとっても本意ではない。 (……何にせよ、助かった) ──そう、助かった。 外に連れて行くと彼女は何も食べないのだ。文字通り、何も。 出会った翌日の夜にはよく食べていたのに。確か、アティにあれこれ尋ねて機関酒場の味に喜んでいたはず。 けれどあれ以降、店に連れて行っても何も食べようとしない。黙りこくって、フォークすら手を触れない。 ──なぜと問いかけても返事がない。 ──故に、あの晩のことは渡りに船だった。 (……不思議な子だな、やはり) 昨日と一昨日の朝もそう思った。こうして、手慣れた調理の音を聞きながら。 不思議と手慣れている。6級以上の市民子女にしては、随分と。 袖を通した上着の感触もこの2日間と同じ、糊のきいた、丁寧にアイロン掛けされた服。妙なものだ。 ──不思議と。──彼女は、生活に手慣れていた。 どういう理屈でデータをかき集めたものか、家計簿なるものがつけられ始めているのをギーは知っている。 出会ってから既に1週間。特にこの3日で、彼女は“馴染んで”いた。 明らかに不案内であるこの層で。この層の生活に、彼女は“馴染んで”いた。 おはよう、ギー。悪いのだけどテーブルの上、片づけて?朝食、今できたから。たくさん食べて? ……キーア。 なあに?冷めないうちにめしあがれ。 いや、その服は……。 もう。何回説明したかしら。あのね、らしい恰好をするって決めたの。だって、看護婦さんはみんなこうだもの。 ナースは必要ない。こう言うのは3回目のはずだがね。 でも、でも、そんなの変だわ。お医者さまのところにはみんないるもの。 確かにね。医者のところにはいるだろう。 エラリィのところで働く蟻娘を思い出す。そう、確かに医院にはつきものだろう。ナースは10年前も今も存在している。 正確には、僕は医者ではないよ。これを言うのも3回目だ。 ……。 おかしいわ。うん、おかしい。ギーは、だって、お医者さまですもの。病気や怪我のひとを診て治すでしょう? 数式医だ。ナースが必要になる局面は僕にはない。だから、その服はきみには必要がない。 明るい色のナース服。のようなもの。自分の服をいつの間にか染めたのか、それとも元から持っていたのか? 少なくとも買ったものではない。機関工場製の大量生産品には見えない。 でもお注射は打ったわ。昨日も、一昨日も、その前の日も打った。あたし、ギーを手伝って暮らすのだもの。 ……。 昨日も一昨日も、その前の日も。確かにそうだ。 施術後の患者に栄養剤を打ったのだ。この娘が。ギーが目を離していた隙に。 驚いた。行為にではなく技術に。技能機関でも埋め込んでいるものかと思うほど、その手並みは鮮やかだった。 彼女は正真正銘の人間だということは確かに“右目”で確認しているというのに。けれどその時、数秘機関の可能性を思った。 不思議な子だ。物怖じする気配すらなかった。 あのね、ジョウミャクの場所はわかるの。ほら、役に立っているでしょう? いいかい、キーア。きみはあくまで── ──呼び鈴の音。 時計を見れば午前8時を回っている。なるほど、彼らが朝の一仕事を終えた頃。 席を立つ前にギーはテーブルを見る。かじられたパン。ああ、今日も、か。会話の間に、自分は食事をしていた。 ──また、一口、食べてしまった。──今日もだ。これで3日目。 少女の顔へ視線を移す。満足げに、どうかしらと誇る薄赤色の瞳。 お客さま? 患者だよ。 彼らの寝起きする工場はここから近い。週に一度は、来なさいと言っている。 だからいつもはそのせいで起こされる。ドアを叩く小さな音に。 そうなの。 ……でもここには、診察室がないわ。 そういうものは、僕には必要ないんだ。言っただろう。 ──正確には、医者じゃない。 脳器官に命令して“右目”を起動させる。視界の約半分が一種の明るさで覆われる。生物のかたちが視える。いつも通り。 ノブへ手を掛ける前に玄関扉が開く。ああ、アティの勧める保安機器を仕掛けておかずにいて正解だったな、とギーは思う。 もっとも、そのせいで地下室での事件だ。アパルトメントの保安については再考をしたほうが良いだろう。 来客へと目をやる。子供たち。呼び鈴に手が届くようになったのよ、とご機嫌な顔で言ってのけたのは、パルだ。 ね、ちゃんと呼び鈴の音聞こえた?おはようございます、ギーせんせ。ちゃんと時間どおりにきょうもきましたー! あれ、おじちゃんち何かきれい?前はもっとごみごみしてた。ごみばっかで。あ、キーア姉ちゃんだ。おはよー! えと、おはよう…。キーアお姉ちゃん、服きれい…。 わあ、おはようみんな。ありがとう、ポルン。お客さまはあなたたちだったのね。 患者さ。 ──正真正銘の。──彼らも間違いなく蝕まれた者たちだ。 はあい、では皆さんこちらに並んで。お茶をお出ししますからね。お菓子はないけど、パンなら……お腹は? ぺこぺこー!なに、パンくれるの? パンちょうだい! うん、おなか…。 あたしもあたしも、お腹ぺっこぺこなの!親方ったら朝は何も食べさせてくれないしお昼はオートミールがちょっとだけだし。 それじゃあ準備するわね。ちょっと焼いて、バターもつけちゃう。ちょっとだけ甘いジャムもつけよっか。 その前にパルのガーゼを換えようね。ポルンもお腹の包帯、先に巻いちゃおう?あ、だめだからねルポ、それに触っちゃ。 えー、この機械欲しいー。これ何、ねえ何? 新しい機関機械? んー。何かな?いたずらしちゃう子にはパンあげないよ? ちぇっ。はーい。 いたずら、しない…。 こらルポ、キーアちゃん困らせないの。ギーせんせのおせわで大変なんだから……。 ……僕の世話か。 肩をすくめる。世話をしているのはこちらのはずだが。 ──それにしても、不思議なものだ。──年が近いせいだろうか。 いつもなら興奮したルポが暴れる頃なのに大人しく、キーアの言うことを聞いている。まったく珍しい。 抑圧されている子供の好奇心は、解放の機会を決して逃すことはない。そう考え、ある程度は諦めてきたが。 どうやらそうでもないらしい。なるほど。物で釣るか。 (意外と単純なものだ) (……今のうちに、診ておくか) 確かに、少しは役に立つかも知れない。少なくとも時間は短縮できそうだ。 そうギーが思うのと同時に。少女の薄赤色の瞳が、こちらを見ていた。 お役に立つでしょう? まあね。 ──随分と。 ──随分と、馴染んだものだ。 もっとも── 馴染ませるつもりなど欠片も無かったのだ。それでも、今、こういうことになっている。理由はある。 何がどうしてこういうことになったのか。理由はある。 雑踏街の夜闇を取り仕切るフィクサー・S、すなわち故買屋スタニスワフはしくじった。失敗したのだ。ギーの依頼を。 ギーの興味から外れるところではあるが、これはちょっとした街の騒ぎになった。あの強欲の亀爺が商売を仕損じた、と。 入手できなかったのだ。情報を。身元がわからない。 キーアという、この少女。最低でも6級以上と思われる市民子女。 都市摩天楼はおろか上層貴族とのコネクションすら有するスタニスワフが、情報を得られなかった。 そして、キーアは何も言わなかった。自分が“誰”であるのか。 個人機関登録番号も言わず、カードもない。それ自体は珍しいことではないにせよ。 「……お世話になるわ。ギー。ね?」 ──あとはもう簡単だった。 ──致命的な世話焼きであることが。──彼のアイデンティティである以上は。 違約金のかわりに用立ててもらった安物の偽造登録番号とカードが、キーアの身分をギーの仮初めの娘へ変えた。 そうだ。たった人間ひとりの生き死に程度。 死ぬのと同じように。生きられる場所をひとまずは用意した。 ──いつだって、簡単なことだ。 ……ま、そうね。 だってそもそも、ギーが何かを拾ってくるのは不思議なことじゃないんだし。あの子たちだって初めは同じような感じだったし。 ……ま、そうね。……簡単なこと、ね。 簡単なこと。取るに足らないことさ。 ……。 ………………。 ……………………………。 簡単なこと、じゃなーい! あたしの寝床は? あたしの権利は?あたしの安眠は? あたしの夜這いは?娘って何よ、どうなってるのギー! 偽装だよ。落ち着き先が見つかるまでの。そろそろ上層兵がうろつく時期だ。 それと。夜這いがきみの権利とは知らなかった。 そーゆーことを言ってるんじゃないのさ!わかんないかなぁ、ギーは! 段差があるから気をつけて。 うん。親切ね、ギー。 怪我をされると僕が疲れる。 ……アティ。どうしてそう朝から僕を睨む。 ギーは朝から仲良くキーア連れて巡回診療?いつもならまだ、ベッドの中のはずなのに。なんで起きてるのさ。 あの、ね、あたしが起こしたから……。 ううん、いいの。キーアちゃんはいいの。悪いのはこの男のほうなんだから。いつもの恩を何だと思ってるのかしらって。 寝ていくなら寝ていけばいい。誰もいないから、ゆっくり眠れるぞ。 あーもう! ……仕事で何かあったのか。 仕損じるのは亀爺だけで充分。ちゃんと熊鬼のハーフをのして、きちんと依頼人の“ご利益”を守ってきたところさ。 それにしては不機嫌なことで。ギーは肩をすくめ、アティの頭へ手をやる。 視線はやけに険しかったが、頭の上の両耳はそう不機嫌でもなかった。撫でて、右上を見る。モノレールが来た。 冷蔵機関に貰い物の酒がある。空けてくれると助かる。 ……はいはい。キーアちゃん、ギーのことよろしくね。 アティ、あの、お仕事ごくろうさま。おやすみなさい。 キーア。ここも段差がある。 先に乗車して、手を差し伸べる。停車したモノレールと石畳との高い段差は少女にはまだ高すぎる。そう思ったからだ。 伸ばした手に、やけに視線が突き刺さる。黒猫の機嫌は直りそうにない。 (……何だかな) ──この不機嫌な視線を受けるのも。──もう3日目だ。 おはよう、キーア。今日もかわいいね。あ、それって新しい服?その服もよく似合ってるよ。いいね。 カァ。 ……それとギー先生もおはよう。相変わらず顔色悪いね。 ──この少年の不機嫌な視線もだ。──これはわかりやすい。 かつて熱病を患っていたこの少年、ミース。随分と太って元気になったものだ。若い回復力には驚かされるばかり。 つい1週間前までは痩せ細っていた少年。今では嫌味を言えるほどに回復して。勿論、6級市民の家庭ゆえのことだ。 彼は恵まれている。死が訪れる前にギーの施術を受けられたし、暖かい寝床も栄養のある食事も保証されて。 何よりも、運がいい。瓦礫から発見されたサレムのノートには、この少年も供物のリストに挙がっていた。 そう、スタニスワフから聞いた。失敗の補填として聞かされた情報だ。 ──ミース。──この少年は生きている。 ──死んだ子供たちと何も違わない。──運と親。それだけが彼の命を助けた。 ミース君、その後お加減はいかが?ごめんね、病気のときのこと知らなくて。疲れやすかったり、痛かったりはしない? ううん。元気だよ。こいつもいるし、キーアも来てくれて……。 もう病気になってはだめよ。家に帰ったら、きちんと手を殺菌してね。 一昨日にギーが述べた言葉を、キーアが当然のように少年へ告げている。 なるほど。物覚えも良い。これはこれでギーにとっては仕事が助かる。人と話すのは、あまり得意なほうじゃない。 けれど。キーア。生活にも仕事にも、馴染んでしまっている。これは後が大変そうだ。思わず溜息を吐く。 少年の視線がこちらを向く。不機嫌そうに。 どうして来てるんだ、と言わんばかりだ。何故かと問われれば巡回医師故なのだが。なるほど。この少年── どうしたの、ミース君。こわい顔して。 な、な、なんでもないよ?そんなことよりキーア、今度僕と一緒に摩天楼行かない? 秘密基地があるんだ。 まてんろう? カァ。 ──なるほど。──随分と。元気なものだ。 若さというものは、それだけで価値がある。恋をするのも悪くない。微笑ましいものだ。少し放っておいてやるとしよう。 頭を下げに来る両親へ“構いませんよ”と手を振り、診療先を記したメモを確認する。今日はあと12件。 余裕があれば最下層付近も流すところだが。今日は、寄りたい場所がある。 と、ところで、ギー先生のところに来てきみはどれくらい経つの? えっとその、じゃなくて、今、つきあってる男って── つきあう? カァ。 好きなひと、いる? ──おやおや。 「……おや?」 「おやおや??」 「「おやおやおや???」」 「「そこゆく貴女、お止まりなさいな♪」」 おやおやおや?ねえねえあなた、そう、亜麻色の髪の。顔色の悪いお兄さんとどこへゆくの? おやおやおや?ねえねえあなた、そう、顔色の悪い。亜麻色の髪の女の子とどこへゆくの? 珍しいこともあるものね、ドクター?ご高名な鉄面皮のおひとよしの数式医が、可愛い女の子なんか連れてなあに、誘拐? 珍しいこともあるものね、ドクター?新しい恋人? ああ、忘れてた。あなたに恋人はいないのよね。黒猫が怒るくらいに。 「「でも、驚いたわ〜♪」」 ほんとにびっくり、びっくりだわ。随分若い女の子なのね。 てっきり燃え尽きさんだと思ってたのに。隅におけないわぁ。 ……。 ギー、ねえ、ギー?このそっくりさんな女の子たちはだあれ? あちしはアグネス。よろしくね。無限雑踏街で働いてる情報屋さんなの。 あちしはフランシスカ。よろしくね。姉と一緒に働いてる羊の情報屋さんなの。 ──溜息をひとつ。──嫌な相手に捕まってしまったものだ。 しばらく顔を見なかったと思えば。こうして顔を出されると、なんとも喧しい。幻想の異人種へと化した、双子の姉妹たち。 逞しくもスタニスワフ老人の目を盗んで、無限雑踏街で情報屋を営むふたりだ。会えるものなら会おうと思っていたけれど。 アグネスに、フランシスカね。……うん、うん。わかった。覚えたわ。 キーア。違う。 ? フランシスカと言ったほうがアグネス。アグネスと言ったほうがフランシスカ。ふたりとも、初対面の相手で遊ばないこと。 「「ぶ〜」」 あーもう。嫌になっちゃう。雑踏街名物の美人姉妹を叱る男なんて、あなたくらいのものだわよ、ドクター。 あーもう。いいの、キーア?こんな男についていったら不幸になる。今ならお見合い相手もお安く探すわよ? ううん、ギーがいいの。ごめんなさい。 へえ。そんなにドクターがいいの?ねえ、どういうところが好きになったのぉ? ……ひみつ。 「「やだ〜、お熱い〜」」 ……調子を合わせる必要はないよ。キーア。あまりふざけない。 「「ぶーぶー」」 ふたりとも。この子の名前は知っているらしいね。 「「勿論」」 それは心強いことだ。何か、その大きな耳に入った話はあるかい。 情報買うのね?それなら勿論、お代を貰うわ? ……と、言いたいところなんだけど。特にないわ。行方知れずになった子たちのリストなら、半年あれば揃えられるけど。 こないだの“地下室魔”だけじゃなくてね、都市じゅうの行方知れずの子をあたるならそのくらいかかるかな。 ……幾ら掛かる? 「「幾らだと思う♪」」 ──なんとも満面の笑みで。──ふたり同時に、同じ角度に首を傾げて。 流石に、聞いてみたのが間違いらしい。都市の排煙の量を尋ねるようなものだ。肩をすくめる。 高いみたいだし、ほら、ね、ギー。無理しちゃだめ。 ……何か釈然としない物言いだ。キーア、きみのことだよ。 キーアのことだから無理しないでいいの。ほら、何もおかしくない。ええ。 ……。 そっちのネタはないんだよ、ごめんねぇ。その代わり、ドクターに合いそうな話ならそれなりに拾ってきちゃったりしてー☆ お仕事のお話。病人や怪我人。たっかーい都営医院や個人病院なんかに駆け込まれる前にお仕事取りたいよねぇ? ……派手に取りたくはないな。 亀爺のことなら気にしないでOK!あちしたちは正真正銘の情報屋なんだから、あんな兼業じいさんとは一緒にしないでよ。 で、ドクター。まずは幾ら出せるか言ってみよっか? ──双子の桃色羊。──時に可愛らしく、時に逞しく。 彼女らもまた、生に貪欲な下層の住民だ。随分軽くなってきた財布を探る。情報のひとつ程度なら買えるか。 このくらいの年齢の子らが、幻想の異人種としての肉体と自我を定着させるのは本来は難しいことだ。 それでも。彼女らはやってのけた。貪欲に金を漁り、こうして、生きている。 ──時に逞しく。──蠢く無限雑踏街の汚れにまみれて。 ──小柄な男。 彼の名はランドルフという。もっとも、その名を知る者はごく少ないが。 姓は誰も知らない。まさしく逞しさの化身である狂人である。いつも汚泥に身を浸しては、何かを探す。 こちらの瞳を覗き込んでまじまじと見つめ、この男はいつもわからないことを言う。それが“狂人”と人に呼ばれる所以だ。 このランドルフと出会うといつもそうだ。今日も、鉄机を挟んでギーの正面に座り、瞳を覗き込んでくる。 きょうはきっと天気がいい。明日も、明後日も晴れであるだろう。プルートーの誘惑が、背中から訪れるとも! おやおや……。珍しく、黒猫以外の娘を連れてると思えば。 随分とまた変わってしまったようだな。幻滅したよ、ギー。我が道化のお医者さま。 幻想の異人種である«穴熊»と化した彼はその変化した顔立ちが放つ愛嬌のため、初対面の相手には狂人と気付かれない。 たとえば、このキーアのように。ギーの隣に座った少女は、見るからに気を許した表情で彼を見つめて。 このひとはだあれ?ギー、彼は初めて見るひとだわ。 ランドルフだ。幻滅とはまた随分な物言いだな、穴掘り屋。 私は余人と違って虚言が述べられないのだ。かつて目にした«赤色秘本»がそうさせる、何度か説明したはずだがね。 ギーと名乗るきみ。お医者さま。きみ、顔の相がね、ひどく変わっているよ。残念だ。ああ残念だ。きみは地獄へ堕ちる。 じごく? 西享の“信仰”なるものの想像の産物さ。ランドルフ、僕は地獄へ堕ちるのかい。 キーアは多くのものを知らない。しかし、これは無理もない。 10年前。都市が外交を有していた頃、遥かなる異境“西享”の移民たちが幾らか都市インガノックへも流入したことがある。 信仰なるものは彼ら西享人特有の文化だ。神なる超自然の存在を信じ、救済を求めるものだという。 地獄とは、その救済の正反対に位置する。罪ある者が罰せられる場所だという。 ──罪か。なるほど。──それなら履いて捨てるほど持っている。 きみは私と同じように、狂い、やがて土の中へと死にゆくのみと思っていたんだ。それが、狡い。狡いなあ、ギー。きみだけ。 きみだけ地獄行きだ。うらやましい。 ??? 酔っているんだ。まともに聞く必要はない。 その通り、私はいつも世界に酔っている。これは醒めることのない酔いだよ。そう。月は堕ちて、今や小惑星帯が踊り場なんだ。 土星であるとか。 つき??どせい???? 初めて聞くな。何だい、それは。 天文の言葉だ。インガノックには関係ない。なにせ空がないのだから。はは。仕方ない。ギー。仕方がないことだ。 そう、仕方がないことだよ、ギー。何かあったようだね。何かと出会ったのか。 ──刹那の間だけ。 ──ほんの一瞬だけ。──狂気に濁った瞳が、澄んだ、ような。 キーアを目にしたわずか1秒に満たない時、この穴熊の瞳に理性が見えた。気のせいかも知れないけれど。 気のせいであるはずだ。彼が狂っていることをギーは知っている。彼が現実を見失ったことも、知っている。 それでもギーは言葉を遮らなかった。必要がないからだ。 狂っているのは、自分も同じ。とっくに狂っている。都市と共に、脳の一部と共にねじ曲がって。 ……彼に会いたまえ。 我らが老師に会うといい。きっと、きみの到来を待っているだろう。 ──まさかランドルフに言われるとは。──妙に勘の鋭い男だ。 ギー自身も今日の予定に入れていたのだ。確かに“彼”に会おうと思っていた。老いた“彼”にしか、訊けないこと。 6年前。彼は言った。どうしても訊きたいことがあれば来いと。お前にはわからないだろうが、答えると。 ──今日がその時だ。──何故だか、そういう確信があった。 キーアを連れて行くかどうか少し迷った。会う理由に、この少女は含まれていない。訊きたいことは自分のこと。 最後に会った6年前を、克明に思い出せる。何もかもを悟ったような“彼”。猫科の瞳。アティのものとは違う、あの目。 けれど、と思う。ランドルフよりは知性に溢れた瞳を持つあの老人の言葉は、真には理解できない。 少なくとも6年前にはできなかった。だからこうして今も都市をさ迷っている。 何を言われるだろう。失望されるだろうか。今も、何もかもに迷ったままの自分を見て。 ──諦めきれない自分を見て。──あの老人は何を言うのだろう。 ……あの時。 ──呟いていた。──隣を歩く少女には届かないほど小さく。 ……あの時、現れたものは。 あれは«奇械»だ。 言葉にすると何と空々しい。子供たちやミースが耳にすれば笑うだろう。 あの力。クリッターを灰燼と化した超高熱。突然、己の背後から現れたもの。万色の。道化師の幻を引き替えに得た影。人型の。 けれどあれは。あの万色の影は、きっと«奇械»だった。 ──この都市でただひとつ。──最後に生まれた、ひとつのおとぎ話。 ──人の背後より出でて。──人に“美しいもの”をもたらす。 ──最後のおとぎ話。──インガノックで囁かれ、嘲笑われる話。 一度だけ見たことがある。現象数式でも、数秘機関でもないもの。クリッターさえ斃してみせる第3の力。 異形都市インガノックで、ごく一部の人間だけに現れる囁かれる影。現象数式よりも少ない、おとぎ話、夢だ。 人がまだ生物の頂点に立っているという、人々の願いが生み出した儚い夢。そうであるとギーも信じている。 現に、噂にのぼる«奇械»所有者の殆どは荒事屋やハイネス・エージェントで、クリッター討伐で命を落とした人物だった。 幻想が生み出したおとぎ話。市民子女向けの10年史の教科書にだって、隅に小さく載っているはずだ。寓話として。 この都市でただひとつの。誰もが知っているけれど、殆どの人は見たことがない“あるかもしれないもの”。 なぜ……僕に……。 ──なぜ? ……なぜ……。 キーアを見る。気付けば、少女はギーの手を握っていた。 驚いて、その手を引こうとする。少しだけ肩が揺れた。 離れない。少女は強く強く手を掴んでいたから。 進む先を見たまま、少女は言った。それは返答だった。なぜと問うたギーへの。 聞こえないほど小さな声だったというのに、自分へとかけられた言葉であるかのように。小さく。小さく。 知らないわ。キーアは、何も知らない。 でも、ギー、凄かった。強かった。 ……凄くもないし、強くもないさ。 ──僕は何もしていない。 ──友が死んだ。──炎が砕いた。──ただ、それだけのことだった。 ──そう。──何ひとつ、できなかったんだ。 (では、何故僕は老師と会おうとする?) (何故──) 考えあぐねても意味はない。ギーは白い息を吐き、やれやれと首を振る。何もかもを解き明かす回答など、ないのだ。 そんなものは10年前に打ち砕かれている。気休めになればそれでいい。 と。思った矢先。6年前の時と同じものをギーは目にした。 おお? おおおおおおおおおお!?これは、おお! おおおー! おお、おおおお、おおー!?これはでかい、これはでかいぞー!! 何が釣れるか楽しみだ、ああ、何だろう!誰が釣れるか楽しみだ、ああ、誰だろう?おおお! そこな子ら、こっちへ来なさい!おおお、釣れる! 釣れてしまうぞ! ギー、ギー!おじいさんが大変、池へ落ちちゃう! いや、彼は── 助けなきゃ! おおお! 心優しい子、それ以上はだめだ!これはひとりでやり遂げてこそ意味がある!おおお! 釣れてしまうぞ! 釣れる、釣られる、釣れる!おおお! ──ポン! きゃあ! おお、おおお!これは見事な機関精霊が釣れてしまった!これは見事にまるまる太ってうまそうな! ボクハ食ベラレマセンヨ、フシュシュ。フシュー。 おお、おおお!よくも喋りおる、可愛い機関精霊なる!これを食べるのは良心が痛んでしまう! カタイデスヨ、フシュフシュ。フシュー。 おお、おおお!硬いのか硬いのか、それはそれは!では、放してあげよう、さらばだ! リリース! りりーす? ──ポチャン! ──そうだね。その通りだ。 かの«奇械»は人に美しいものをもたらす。そういうふうに、儂も聞いているよ。 それがどうかしたかね? ニャ? ──まるで、猫のような。──いいや、猫そのものであるのか。 期待したのが間違いだったろうか。だが、これも予想しなかった訳ではない。 老師は6年前と同じような落ち着きぶりで、変わらない柔和な瞳で静かに見つめてくる。理性ある«観人»の老人。 すべてのしがらみを失ったと言われる男だ。下層における恐怖の象徴である上層兵すら彼には手出しをしないという。 彼はすべてのものと関わりを持たない。ひとりで歩いて、ひとりで釣りをする。誰にも関わらずに生きることができる。 食事にも住処にも彼は拘らない。恐らく生すらも。 かつて恐らく人生を持っていたひと。けれどそれを、今は失っているひと。誰も彼の後を追わない。 ──けれど彼には生の名残がある。──現象数式も数秘機関も彼は理解する。 ──あらゆる人智の片鱗を彼は見たという。──脅威の観測能力を備えた«観人»変種。 ──だから呼ばれる、畏れを込めて。──老師と。 彼は今日も釣りをしていた。前もそうだ。あの時は、酷い目に遭った。 それにしても。随分と懐かしい顔と可愛らしい顔だ。 お久しぶりです。老師イル。手土産を持っていないことをお許し下さい。 5年、いや、6年ぶりかな。ギー。あの時のきみは池の中に落ちてしまったが、今日は落ちなかったようで、儂は残念だよ。 猫。 猫……。猫だわ。ね、ギー。猫さんがいるの。でもでも、アティとは全然違う……。 可愛らしいお嬢さん。ご機嫌よう。アティとは誰だね? ご機嫌よう、猫のおじいさま。あたしはキーアといいます。アティはギーの奥さん。綺麗で、強いひと。 ほう。所帯を持ったか。結構なことだ、生きているね、ギー。 ……老師イル。今一度お尋ねします、«奇械»とは。 ポルシオンと呼びたまえ。 ──ポルシオン? ──それは、名前か。 ポルシオン。影の名か。力に満ちて炎を上げる、かつて10年前に都市に溢れた«復活»を思わせるあの影の。 ──ポルシオン。──それが、あれの名か。 ん── ──排煙に澱む空気が停まる。──僅かの間だけ、そんな錯覚があった。 老猫のまぶたが開かれていた。巨大な瞳は、灯りを吸い込んで輝きを放ち、正面に立つギーとキーアを捉えて離さない。 かつて……。 かつて失ったものは二度と戻ることはない。それは儂だけではなくて誰もが知っていて、嘆きは永遠に止まることはない。 わかるね。なぜこの都市があるか。それは、草花が朝露をこぼすのと同じこと。 壁から落ちた卵の狂人は戻らない。大変だ。中身が潰れてしまう。しかし、落ちる前なら割れもしないものさ。 ──瞼が閉じられる。──空気が、再び澱みを伴って動き始める。 以上。ご静聴に感謝するよ。 ……老師。申し訳ない、言葉の意味が読み取れません。 それは詩のようでもあって、ランドルフにも似た狂気の言葉のようでも。ギーには、少なくとも意味は取れなかった。 そもそも質問への回答だったのか。それすらもわからない。 わからなかったかな。わかったかな? はい。ありがとう、猫のおじいさま。素敵な詩です。 優しい嘘をつける子は好きだ。良い子を伴って来てくれたものだ、ギー。 (──ああ、そうか) ──ああ。そうかと、確かに思う。 ──今、わかった。──なるほど。そういうこともあるのか。 今日の確信は間違ってはいなかったらしい。ギーには今もまったく意味がわからないが、それでも。 微笑みを返す少女を見やる。どうやらこの子は何かを理解したらしい。そんな顔をしていると、何故かそう思う。 なるほど。そういうこともあるものか。 ──キーア。不思議な子。 ──誰かもわからない子。──何故、ギーと離れようとしないのか。 ──同じく不思議な老猫の言葉に。──眉をひそめる素振りすらなく、笑顔を。 ご老人。思い違いをしていました。 あなたに会う必要があったのはどうやら彼女のようです。僕ではない。 そうかね。ギー。 彼女のことを何か知らないでしょうか。もしくは、どこかで見たことは。 さて。さて。誰かのことをわかる者がどれだけいるかな?人は、己も誰かをも理解できてはいないよ? ……はい。 いえその、そういうことではなく、ですね。彼女をどこかで見かけたりしなかったかと。 くすくす。 ……きみの話をしてるんだ。キーア。笑われるようなことをしたかな、僕は。 ごめんなさい。だって、今のギー、少し可愛かったから。 ふふふふ。確かに可愛かった。 ……老師まで、悪ふざけが過ぎます。僕は至って真面目です。 くすくす。 ……キーア。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじを見上げ、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……私の計測が確かであれば、今が。 「喝采せよ! 喝采せよ!」 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇るあるじがひとり。 それは支配者。それは大公爵。それは愚者。インガノックの王。碩学にして現象数式発見者であった魔術師。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 「おお、おお、素晴らしきかな。 盲目の生け贄は死せず未だ都市にある」 「現在時刻を記録せよ。 クロック・クラック・クローム!」 「貴様の望んだ“その時”だ! レムル・レムルよ、震えるがよい!」 御意。   『くくくくくくくくくくくククククッ』 「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛のかたちあり!」     『あなたの話だよ、大公爵』 『あなたはどこで何をするのかな?  あなたはもう駄目なのに何を?』 「──黙れ。黙れ。黙れ!」 「黙れ……」 ──静かに。静かに。 そうっと忍び込む。静かな仕事は得意技だ。黒猫って通り名はそもそもこれが得意だからついた名だもの。 静かに。夜闇に紛れて音もなく侵入する。当然の顔してプロの技術を悪用するなんて、この都市じゃザラだ。大したことじゃない。 あたしがやったって誰も文句は言わない。やられた奴以外は。 だから忍び込む。良心の呵責っていう奴は少しはあるけれど、そのせいで死んだなんて奴は、誰もいない。 ツールで鍵を開ける、カチリ、と僅かな音。懐中時計の秒針程度。耳のいい種以外には聞こえやしない。大丈夫。 扉を開く。大丈夫。平気平気。ここへの侵入は数え切れないほどやった。 ──大丈夫。──あたしは静かな仕事に慣れている。 ……ほら。誰も気付かない。 慣れた匂いのアパルトメント。ギーの。今はあの子の匂いが僅かに混ざる。 人の気配がある。ふたつ。あの子とギー。壁の陰からそうっと覗き込むと、ソファに座って何かをしているあの子の姿が見えた。 駄目。駄目だめ。いけない。このまま気付かれずにギーのベッドへ。 そうやって彼を脅かしてやろうと思った。だからわざわざ忍び込んだのに。 あの子のことは、気にしちゃだめ。悪い子じゃないのはわかる。悪意がない。わかってるんだ、そんなのは。 そもそも、おかしい。変だ。この黒猫が嫉妬とか、あり得ないこと。 あの小さな手に嫉妬したって意味がない。あたしの大きな手は、歪んで、もう人間とは呼べないものになったからって。 ──好きとか嫌いじゃない。──そういうのは、まっとうな人間のもの。 ──関係ない。──それなのに、見てしまう。 ソファに座って、嬉しそうに笑うあの子。その手の中に何かある。 小さなもの。何か動いてるような。ううん、何あれ? ──おもちゃ?──ギーが誰かに何かを買ってあげた? 駄目。ああもう駄目。我慢できない。あたしは静かな仕事の意識を途端に失って、ぴょこんと姿を現してしまっていた。駄目。 な、なにそれ、プレゼント!?あたしにだって年1回しかくれないのに! わっ、びっくりした!えっなに、アティ、アティいつ帰ったの!? ……あはは。こんばんは。それあいつからのプレゼント?良かったね、キーア……あはは、ねー? ううん、違うの。これは猫のおじいさんからいただいたの。ね、ほら、可愛いでしょ。この子喋るの。 コンバンワ、コンバンワ。アノ、ボク、モノジャナインダケド……。 ねー。ほら可愛い♪ あはは……そうだね、カワイイ、ねー……。 帰った、と言ってくれたのは嬉しいけど。でも駄目。ああ駄目だめ。何してるのさ。なんて間の悪い猫なんだろう、あたしは! 支離滅裂だ。言葉になってない。困った。ああ、いよいよ困った。駄目。 ……今のは驚いた。いつ来た? いや、さっきからいたのか?随分早いな、今日は早く上がったのかい。 ……何さ。困ってるのが丸わかり。そんなに迷惑?わざとらしく笑顔なんか作ってくれて。  ──────────────────。 ──嘘。──でも、今、確かに目にしたもの。  ──────────────────。 ………ギー? ギー、今。笑った。 何? あたしはきっと今、驚いた顔をしてる。でも。彼も今。同じような顔をしてる。 ううん、間違いじゃない。確かに見た。彼は笑っていたもの。 何年ぶりだろう。あなたが笑ったの。びっくり……した……。 ……笑った。僕が? ──うん。笑ったよ。 ──今、あなた。笑っていたんだよ。──困った感じだったけれど。  ──でも、笑っていたんだよ。 ……わたしは音を奏でる。今日も。 それだけが、わたしに残されたもの。失ってしまった中でひとつだけ。 奏でる音だけが、証明してくれる。わたしが“わたし”であったという事実。 ……だから。 ……わたしは音を奏でる。今日も。 ──機関式パイプオルガンの硬い鍵盤。──今日も、わたしは弾く。 奏でる音はなめらかに。流れる旋律は澄んだ水の流れのように。そうあるようにと、わたしは、努める。 けれども。けれども、指が言うことを聞かない。 最初の少しの時間なら、今まで通りに。しばらくすると、音はぎこちなく響く。ああ。わたしの指……。 奏でる音はなめらかさを失う。流れる旋律は濁った水の流れのように。わたしの指が、意思から、外れていく。 どうしてと問いかけることはしない。それは“上”で嫌というほどしたもの。今さら。 すべては“蔦”のせい。わたしの全身に絡みつく“蔦”のせい。 現象数式の原理を応用して施された、全身の貴族紋。こんなもの、効かない。 変異から守ってくれるはずなのに。あらゆる都市のケガレから、わたしを守ってくれると言っていたのに。 嘘。すべてはまやかし。わたしの体に“蔦”はまとわりついて、 大丈夫かな。大丈夫でいてね。わたしの指、せめて指先だけは無事でいて。 手首を不規則な強さで締めつけたり、不気味な優しさで撫でたりしてくる。嫌な“蔦”、恐ろしい“蔦”。 初めて“蔦”の正体を知った時……。わたしは、狂いそうなくらいに泣いたっけ。 もう、狂っているのかも。今こうしているのもわたしの見ている夢で。 誰にも拾われず、誰にもオルガンを用意してもらえずに。わたしはもう、朽ち果てているのかも。 ……いいえ違うわ。この音は、この音だけはわたしの本当。 わたしが“わたし”を確かめるすべ。本物のオルガンではなくて、機関式オルガンだとしても。 奏でる音だけは本物。そう、それだけは、本物……。 ……ふと。……彼の姿がちらりと浮かぶ。 わたしの嫌いな“犬”の姿をした男。彼を、どうして、わたしは思い出すの。 そういえば……。今、背後の彼に声をかけられたかも。 ううん、知らない。知らないわ。そんなこと。 音にだけ、気持ちを傾けよう。わたしにはこれだけ。わたしに必要なのは、音だけでいい。 ……ああ。……嘲笑うように“蔦”が蠢いている。 思い出す。わたしの小さな手を引いて歩く彼のこと。 あの時も。今も。わたしは彼を見ようとはしない。 気持ちは音にだけ。わたしは彼を見ようとはしない。 ……わたしは音を奏でる。今日も。 それだけが。落ちたわたしに、残されたこと。 ……音が聞こえる。今日も。 オルガンの音だけが、この子のすべて。失われてしまった中でひとつだけ。 きっとこの子は思っているのだろう。奏でる音だけが自身を証明するものと。 ……だから。 私の声にあの子は応えない。機関式パイプオルガンを奏でるこの子は、黙ったままで。何も。話してはくれない。 硬い鍵盤を優美に奏でるその指、その手。その小さな手を引いて歩いたことを、私は今も、昨日のように覚えている。 あの時も。今も。私はこの子を救えてはいない。 救えてはいないのだ。神の真似をしても、私は私のままだった。 ……音が聞こえる。今日も。 耳を澄ませること。それだけが、今の私にできるすべてだ。 ──夜。 この都市インガノックにおいては、昼間と夜中とで変わることは殆どない。空は暗く、下層には人々が充ちている。 都市下層。第3商業特区、別名を無限雑踏街。ここには特に夜が訪れないという。 行き交う人々で昼も夜も喧噪は消えない。誰かが眠っていても、誰かが歩いている。この街は眠ることがない。 夜の無限雑踏街の特徴。それはこの喧噪だ。昼よりも増えた雑踏の中にいれば耳にする。酒やドラッグに染まった、笑い声。 平日も週末も変わることなく、毎晩聞こえてくるこれらの声。ロマの人々の演奏はこの声にかき消される。 ギーは実感する。この街を歩いて、これらの声を聞くごとに、下層の人々が確かに“生きている”のだと。 ──いつもはそれだけだ。──生への実感は、その時くらいのもの。 ──あとは、そう。──アティの温もりを感じる時か。 右手の中の温もりへギーは意識を向ける。小さな、少女の白い手。 ひとりの少女。ギーの隣を歩く、キーア。看護用の服装は既に着替えて旅行鞄の中。今は、出会った時と同じ服。 患者の待つ家屋へ入るごとに、律儀に、少女はあの薄桃色の服に着替えている。意味などないのに。 (いや) (意味なら、あったか) 看護婦に似た服装を目にしただけで、肺病に伏せる老人や熱病に苦しむ子供らは表情を変えていた。あれはある種の安堵か。 かたちは人の心に印象となって伝わる。少女の忙しい着替えも、無駄ではない。 (しかし、僕は) (白衣という訳にもいかないな) エラリィのように医院を構えているなら、ともかくも。下層を歩き回る巡回医には、清潔な白衣は些か縁遠い。 白衣など。最後に着たのは何年前のことだったろう。 ──と。 それほど強くない力で服の裾を引かれた。少女が、ギーを呼び止める。 ギー。あのひと、手を振ってるわ。あなたのお知り合い? ……ああ。 ああ、やっとこっちを見てくれた。このまま通り過ぎてしまうのかと思ったわ。 気が付かなくてね。すまない。 妬けるわ、ドクター。偏屈さんが、女連れで夜歩きなんて。 こんばんは。ご機嫌よう、マダム── アリサ。雑踏街阿片窟のアリサ。可愛いお嬢ちゃん、貴女のお名前は? キーアといいます。ご機嫌よう、マダム。綺麗なお店ね。 あら、そう? 嬉しいことを言う娘ね。なにせ私たちは華だもの、見た目で人を寄せつけておかないとね? ……ん? なんなの、その手。仲よくお手々繋いで夜歩きの最中? ……からかわないで欲しい。夜のここを手放しでは歩かせられない。 あら、驚いた。 そう言って。しゃらしゃらと蛇の腹を女主人は鳴らす。 本当に驚いているらしい。百戦錬磨の阿片窟の女主人ともあろう者が。何を、そんなに驚くことがあるのだろうか。 雰囲気が少し変わったかしら。ドクター、心なしか普段より人間みたい。まっとうな人間によく似た顔をしてるわ。 いいえ、マダム。ギーはどこも変わってないわ。 あら、あら、なんてしっかりした娘かしら。初対面の相手に物怖じしないなんて。 うちの若い子たちにも、ええ、あなたを見習わせてやりたいくらいだわ。 お嬢ちゃん、お年はいくつ?もう、うちの窟の裏口から上がれる年? アリサ・グレッグ、悪いね。からかわないでくれるかい。 この子は一時だけ預かっているんだ。きみの店へは置けないよ。 私も冗談くらいは言うのよ、ドクター?お嬢ちゃん、いつか遊びに来なさいな。 そう言ってアリサは微笑む。女主人の静かな笑顔はこの街によく映える。 この街には眠りの夜がない。静けさの気配は、この街にあっては特別だ。 常に灯りがついていて。喧騒に溢れて、いつも音がある。 ギーが良いと言ったら遊びに来るわ。ねえ、ギー、こちらはどんなお店なの? ……キーア。 はい? ──雑踏街から少し。──目抜き通りから2本通りを渡った先に。 比較的静かな共同住宅街がある。第7層住宅街の中ではそれなりの治安度と、それなりに高い物価とそれなりに安い家賃。 歪んだ形の安いアパルトメント。その1室。 阿片窟への疑問を口にする少女の手を引き、ギーは、契約中のアパルトメントへ帰った。ひとりで暮らすにはやや広いそこへ。 ただいま。 ……今夜は、奥さんはいないのね。 キーア。 えへへ。着替えてきます。何か夜食を作るから、待っていてね。 コーヒーだけで構わないよ。 作ります。待っていないとだめよ、ギー。 ……ああ。 はい。 小さな笑顔をひとつ残して、2階の自分の部屋へとキーアは姿を消す。 このアパルトメントは狭いが、ひとりで暮らすには1階部分だけで充分。2階の部屋は一切使っていなかった。 2階の部屋ふたつ。どちらも客間と考えていた。 間違ってはいないだろう。キーアは確かにこの部屋の“客”だ。 改造外套を壁に掛けると、ソファに腰掛けて、ギーは溜息を吐く。睡眠欲や食欲はなくとも疲労感はある。 あの子はどうだろう。キーア。歩き回って、疲れているだろうに。 そんな素振りすら見せない。ギーに見せる表情は、笑顔が多いような。 笑顔が普段の表情という訳ではない。風景や建物を見ている時のキーアは、どこか神妙だ。 ──それでも。──向けてくる表情には、笑顔が多い。 お待たせ。すぐに暖かいもの、作りますから。 歩き疲れただろう。もうお休み。 だーめ。明日の準備もあるのだし。ギーはゆっくりしていて? 階段を降りてきて、そのままキッチンへ。きっと、明日の朝食と昼のための弁当の下拵えを始めるのだろう。 看護婦のものに似たあの服装は、彼女にとっては“作業着”であるらしい。 最初は驚いたこの光景も、何度も目にすると慣れてきてしまう。 キーアは当然のようにそうする。キッチンに立って背中を見せる。 ああ、とギーは思う。何かの面影と少女の背中が重なって。 面影。10年前の。 そう、まるで、かつて失った母のよう。いつも台所のことを考えていた母。清潔好きだった母。 10年前に死んだというあのひと、母。父と一緒に。クリッターの1体に襲われた、あの家と区画は、今はもう封鎖されている。 ……どうしたの? ギー? いいや。何でもないよ。 何でもなくない顔をしていたから。あ、コーヒー淹れたわ。即席だけど…。 ありがとう、いただくよ。 もう時間も遅い。準備はいいからおやすみ。 ……いや。 ──嫌。そう言って首を振る。 (……とは言え疲れているだろう) よし。明日は何か外で食べよう。少し懐にも余裕があるしね。 外食…。 ──少し表情が翳る。──先日の機関酒場では喜んでいたのに。 無限雑踏街の外れにね、揚げ魚のサンドイッチを作る屋台がある。 あそこへ行こう。そう悪くない味なんだ。 でも、食材…。お弁当…。 それは朝食か夕食にとっておきなさい。大丈夫、そんな顔をしないで。 …ちゃんと食べるから。 本当? 本当だとも。 いま、あたし聞いてしまったわ。ギーがあたしの作る料理ぜんぶ食べるって。嘘じゃないわよね、ギー? 本当なのよね? 全部は…。 …。 善処するよ。 もう! 頬を膨らませてキーアが怒っている。だが、本当に怒っている訳ではないだろう。 薄赤色の瞳はどこか機嫌よく。外食を誘われたこと自体は、嬉しいようだ。 これで今夜はもう休んでくれるだろう。この小さな体には無理をさせられない。少し安堵しつつ、ギーは息を吐く。 ──食事に誘う、か。 女性を食事に誘ったのは何年ぶりか。そう考えてみると、苦笑が漏れそうだ。 アティの言葉を思い出す。笑った。笑顔。 (副交感神経が正常に機能している?) (……変異した訳では、なかったのか。 僕は笑うことができる) さあ。今夜はもうおやすみ。明日も早い。 寝間着に着替えるんだよ。あと、毛布はきちんと被ること。 そう言って、ソファを立ち上がる。その矢先。 くい、と服の裾を引かれる感覚があった。白い手に掴まれている。 ……。 何だい? ──キーアが服の裾を掴んでいた。 ──眠るのを渋っている? どうかしたのかな。キーア。 ……おやすみなさい。 おやすみ。 ……うん。おやすみなさい。 ? 小さな手はギーの服の裾を離さない。何が── どうしたの、と声を掛ける直前に。ふとギーは思い至る。 母。先ほど姿を重ねたひと。自分の母。その表情は、もう思い出せない。だが、自分が子供だった頃のことはわかる。 白い手とその感触。それと、あともうひとつ。 語りかける声。ひとりで眠るのは嫌だと言った自分への。 ……うん、そうだな。 ……。 ソファに座り直して、目線をキーアの高さへと合わせる。 きみはどうやら眠気を感じていないようだ。なら、おとぎ話をひとつしよう。 …おとぎ話? きょとん、とした瞳。些かこれは、子供扱いしすぎただろうか。 ……都市行政についての話もいいんだが。あまり面白くはないだろうし。 ううん。いいえ、ギー。聞かせて。 ちょっと、ね。すぐには眠れそうに、なかったから…。 ありがとう、ギー。絵本とか、キーアは好きよ。 どんなおとぎ話? …ああ。 かえって気を遣われてしまったような、そんな気もするけれど。 ギーは唇を開く。母から聞かされた話を語る。 今はかたちを失った、かつてのおとぎ話。それは、緑色を知っていた人たちの話。 「ほんの10年前まで」 「木々の緑の美しさを本当に知る人は、 多くなかった。それは幻に近かった」 「たいていの緑色というのはくすんでいて、 どこかに灰色の名残があった」 「どこへ行っても、なかった。 インガノックのどこにも、美しい緑は」 「これは、そんな昔の話だ」 ──10年前の。──今では誰も語ることのないおとぎ話。 「まだこの都市に«復活»は訪れず、 連合首都にも南大陸にも、 北央帝国にだって旅することができた…」 「10年よりも前にあったおとぎ話さ」 「ずっと昔。 白い巨人に愛された緑の森で」 「緑の木々から生まれた人々が、 まず、小さな諍いをした」 「そこに、ひとりの、男の子が……」 ──翌日、午前中。 無限雑踏街。その一角。 ひとりの少年が傍らを駆け抜けていく。恐らくミースと同じ程度の年齢だろう。ぶつかりかけて、危うく避ける。 数シリングを屋台の主人に手渡して、左手にサンドイッチの入った袋を携えて。右手はキーアの小さな白い手を握り直す。 いい匂い♪おいしそうね、ギー。 冷めてからのほうが旨いんだ。そうアティが言っていた。 あなたは? …旨いと思うよ。 曖昧に頷いてモノレール駅へと向かう。味覚についてはギーは自信がなかった。脳変異は、舌の感覚を狂わせる。 昇り専用のモノレール駅が近くにある。そこを、ギーは目指す。 目的地は«上層階段»だ。今日は階段プレートの第1公園へ行こう。巡回診療の前に、今日はそこで食事をと。 これが、初めてのデートになるのね♪ふふ。なんだか不思議。 ギーったら、奥さんがいるのに。どうしてそこへ連れて行ってくれるの? ふと思い出してね。 ──緑の木々。 ゆうべの話で思い出したんだ。もう、随分と長いこと行っていない。 あそこは、ほんの瞬く間だけ、憩いを与えてくれる。 すべての人々へ、ね。僕はともかくきみには休息が必要だ。ここ数日、ずっと歩かせてしまった。 もう。気を遣わないで良いのに。でも、ギー、ありがとう♪ 今日も、笑顔を少女は見せる。道ゆく人々がどこか暖かな視線を向ける。 これまでの日々とは何かが違う。この少女は、何かを融かしているような。 ……♪ どうしたんだい。今日は、機嫌がいいね。 ええ。機嫌がよいの♪おわかり? 30分ほどで目的地へ到着する。下層と上層とを繋ぐ巨大な螺旋階段である複層プレート«上層階段»の、そのひとつ。 上層階段第1公園。緑の園。 機関排煙の溶け込んだ空気に充ちた都市で、この一帯にだけは、澄んだものが存在する。周囲に溢れる緑と水。 生い茂る緑。10年前の«復活»はここを強化した。 排煙の毒に負けない繁殖力の緑。排煙の毒に負けない浄化力の水。 ここに在るものだけは、唯一。都市のあらゆる汚れから解き放たれている。 ──目にするだけで安らぐ。──人々は、そう口にして溜息を吐くのだ。 灰色の空に覆われて、くすんだ木々と葉しか知らなかった人々が。この10年の中で唯一、迎え入れた奇跡だ。 10年前よりも美しく。10年前よりも澄み渡って。 ──ここで静かに昼食を取ろう。──幾らかの休息をキーアへあげよう。 また、あの笑顔を向けてくれるのだろう。そう、ギーは想っていたのだけれど。 けれども、不思議な声をギーは耳にした。予想だにしなかった声。 ……わぁ……。 すごい……。 ──それは感嘆の声だった。 きれい…!すごいわ、こんなにたくさんの…。 きれいな緑色がいっぱい…。 すごい…。こんなの初めて…これ、ぜんぶ…。ぜんぶが、木々で、草で…。 ね、ねえ、ギー? ギー?池のようなものに満ちてるのは何? お水…。こんなに澄んで、水道水より…。わあ…すごい…なんで…。 ふしぎな…景色ね…。うん、ふしぎ…でも、とっても素敵…。 ──小さな唇から出てくる言葉。──心を揺らして。 演技の気配を伺うことはできなかった。純粋に、視界に入るこの景色に対してキーアは驚いていた。 感嘆の声。溜息。緑と水とギーとを行き交う視線は輝いて。 木々の風景に溶け込む«虫蟲»たちの住居、独特の植物建築群にも少女は注意を向ける。あれは何?と不思議そうに。 あれは植物で作った家だよ。«虫蟲»たちが住んでいる。 しぇろぶ? そう、«虫蟲»。変異した彼らの習性は昆虫に近いんだ。 そうなの…。よくわからないけど、わかったわ。 すごいわ。ここにあるもの、すべて…初めて…。 連れてきてくれてありがとう、ギー。とっても嬉しいプレゼントだわ。 ──初めて見た? ──ここを? 下層に生きる人々の唯一の憩いの場であり、機関工場に勤める人の多くは週末になるとここで僅かな安らぎを得る。 この10年、この過酷な都市の中で。この第1から第7までの公園プレートは、人々の精神の安定にとって重要な存在だ。 それを。この少女は知らないという。 ──キーア。──不思議な少女。 ──他の誰かが口にすれば嘘と思うのに。──きみがそう言うと、信じてしまう。 (これまでに僕の歩いた層の多くを、 キーアは知らなかった) (それは感じていたことだ) (安全な区画で育てられていたのか) (……文字通りの箱入り娘か) ──それとも。 それとも。都市下層に渦巻く絶望と欲望が生み出す黒い渦が取り込んだ、哀れな、犠牲者か。 サレムに監禁されていた少年少女たち。ああいった境遇を強制されていた可能性もないとは言えないのが、現在のこの都市だ。 (……それとも) それとも。まさか、上層貴族の── 視線を少女へと送る。いつの間にか、キーアは水辺の近くにいて、足元にじゃれつく小さなものと戯れていた。 はい、こっちをお手々に持って。そうそう、上手。 あなたはお手々がたくさんあるのね?すごいわ、キーアはふたつしかないのに。 もそ、もそ。もそ、もそ。 うん、ええ、ええ。そうなの。編み物だってできてしまうの? すごいわ。キーアは編み物苦手なの。お料理は得意なのよ? 今度、持ってきてあげる。またギーとここまでお散歩しに来るわ。 もふ、もふ? ほら。あっちから見ているひと。手を振って? ──手を振ってくる──小さな«虫蟲»の子供と一緒に。 ギー、この子、とっても元気で可愛いの。この子も人間の子ね? ああ。そうだよ。それは«虫蟲»の子だろう。 キーアは初めて見たような口ぶりで。それでも笑顔を浮かべて。 もしも初めて«虫蟲»を目にしたならば、普通の下層の人間は恐怖を感じるだろう。彼ら«虫蟲»の姿は異様だ。 最も人間からかけ離れた姿形。最も人間からかけ離れた精神。 完全なる幻想の異人種。彼らへの排斥運動と虐殺行為は数年前まで、都市法更新の瞬間までは続いていたはずだ。 もふ、もふ♪ ふふ。そう、楽しい?これはね、あたしの得意なアヤトリなの。 西亨のずっと東にある国の遊び。あのね、これが塔で…これが橋…。 で、これが…。 ──初めて、か。 ギーは少し考えて。僅かに頷き、振り返そうとした手を下げた。 ──それから暫く。 上まで昇ったこともあり、比較的高い位置の下層各域を巡回して。 これまでに比べれば生活水準の高い、部屋数も多く調度品さえもある個人家屋の罹病者たちを、現象数式を用いて治療して。 同じ下層でも低い位置の層とは違って、中産層の人々の罹る病は、比較的軽い。 正確な統計を取っている訳ではないけれど。印象と、実際に歩く実感と要治療者の数だ。金払いは良いが人は少ない。 夕刻頃には── 夕刻頃には。ギーの仕事はなくなっていた。 下層上部に住まう人は裕福層、中産層だ。第7層以下の貧しい下層民とは市民権も私有財産の上限も配給食品も違う。 同じ都市に生きているのに。彼らは、多くの下層民よりも恵まれている。決して、上層の住む貴族ほどではなくても。 ある種のエリートだ。第6層以上に生まれていた時点で選ばれた。 幻想生物やクリッター、変異病などの脅威は他と変わらずにある。10年の恐怖と絶望は誰もが知っている。 それでも。ここに住む者は、それほど高い頻度では身元不明の巡回医師には治療を頼まない。 同じ層にいる医師たち、個人医院や公立医院の認可医を選ぶ。 余程の状況でない限り。彼らには、体面を気にする余裕さえある。選択の余地も希望すらない人々とは違う。 あるのは金と体面。なるほど、確かに余裕に満ちている。 ここには仕事はない。だから、ギーは下層低部を歩くのだ。 ──夕刻。──いつもよりは早い帰路について。 ──再び、上層階段公園へ。 「ね、ね。ギー?」 「もしもの話。 もしもの話なのよ?」 「もしも今日、 お仕事が早く終わるようなら……」 「もう一度……」 「もう一度……。 あそこへ連れて行ってほしいの」 「上層階段公園……」 これ以上の巡回はここでは意味がない、と。ギーが判断した時のことだった。 囁くキーアの言葉。自分の靴の爪先とギーの外套の襟元周辺へ何度も視線を往復させながら、遠慮がちに。 出会ってから2週間。珍しいことだった。 キーアがこんな風に頼み事をするのは、あまり見られるものではなかった。 ──だから。 ──ねだるキーアの言葉を聞き入れて。 ……きれい……。 ここでは、夕方の空は赤いのね……。緑が、こんなに赤く……。 ……まるで、炎のよう……。 そう静かに呟いて。キーアは、周囲の赤色へと視線を送る。 眼下に広がる“夕焼け”に染まる景色。それは都市で最も美しいもの。 都市の唯一のおとぎ話。それは«美しいもの»を人にもたらす話。それは«奇械»が背後から囁きかける話。 初めて«奇械»のおとぎ話を聞いた時、ギーが想像したのはこれだ。 赤い世界。空から溢れる赫炎の。 ──高度があるからだろうか。──ここの夕刻の空だけは、どことも違う。 ──上層階段公園。──現在のギーにとっての始まりの場所。 あの日、あの時、10年前。その瞬間をギーはこの近くで迎えた。 ここよりも上の層プレートだ。上層階段第3公園。 無数の瓦礫の中で。崩落の轟音が生み出す無音の世界に。 (……思い出す、か。今も) その時のことを明確には思い出せない。既に断片化されてしまった10年前の記憶。 第3公園。そこにはひとつの医院があって── ……ギー? この音、何かしら……。とてもきれいで、とても……。 どこか、悲しげな……。 ……オルガンの音……? 音がするの、と少女は言った。ギーは耳を澄ませる。 音── 旋律── 周囲に満ちる日暮れの赤色の中から、確かにひとつの旋律が聞こえていた。 機関式オルガンのものだろうか。組み合わさった幾つもの音が旋律を奏でて。水辺に佇むギーとキーアへと、風が届ける。 けれども、美しさを感じない。届く音はあまりに僅かで。 ……聞こえない? なんて、儚い……。今にも消えそうに……。 きれいなのに……。寂しくて、悲しげな……音……。 ……いや。 ──嫌。 こんなにもここは美しいのに。この音が、とても、似合ってる……。 ……そんなの、悲しいわ。 ──ああ。──そうだね。 旋律が悲しみを奏でているのなら。それは、この赤い美しさにとても似合う。 夜を待つ間のわずかな時間、ほんの一時だけ姿を見せる赫炎の世界は。 とても、悲しげで。とても、儚いように思えてならない。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……ブラッドツリーとの第一次接触を確認。……盲目の生け贄がふたつ目の供物を得る。 人の想いは旋律に乗るだろう。……あるじよ。貴方の望んだ“時”が来た。 ……さあ、演奏会の始まりだ。 ……我らの生贄はどの程度保つかな。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ──翌日。 ──昨日とは正反対に最下層域を歩く。──ひとりきりの巡回医師。 自分の傍らに誰もいないことが錯覚を生む。何もかもが元に戻ったような。少女と出会う前のすべてへと。 かつての旧友と出会うこともなく。背後に今も隠れている万色の鋼の“彼”も、その“目”と“右手”とを重ねることなく。 ただ人混みの中を歩く。無数の、幾十万を超える人々の住む街を。 昨日、富裕層の第4層や第5層を歩いた。そのせいもあるのだろう。 都市のほぼすべてを構成する貧しい層。その中でも最も困窮の呻きの中にある、最下層域をこうして歩いていると。 明確な現実を思い知らされる。昨日と今日とでは、人口密度に三十倍以上の開きがあるはずだ。 ここでなら客には事欠かない。金には、ならないが。 金なら今は充分にある。昨日だけで普段の1ヶ月ぶんは稼いだ。 ──金はある。──それでもギーは歩いている。 ──そうすることだけが、僕の。──僕の義務であり、都市での生き方だ。 ひとりで歩く。ひとりで要治療者を探し続ける。 ひとりで彼らを置換治療する。ギーだけで。 キーアには留守番しているようにと告げた。治安のすこぶる悪いこの最下層へ行く以上、危険は減らしておきたい。 何よりも、見せたくない。ここには多すぎる。 ──見せたくないものが。 (……治安、か) (とはいえ無限雑踏街も充分に悪いが) 無限雑踏街。危険な幻想生物こそ今では多くはないが、追いはぎやドラッグ中毒者は無数にいる。 それでも最下層周辺よりましだ。幻想生物は今も人を害し、ギャング共は貧しい人々から搾取を続け暴力を振るう。 モノレール駅を降りて3時間弱。既に、10件を超える幻想生物被害者をギーは治療していた。死んだ者は、3名。 キーアは連れて行けない。 いいや違う。 今日は、連れて行かない。昨日を、自分はゆるやかに過ごしすぎた。 だから今日は死の満ちる場所へ。自分が立ち止まることを、ギーは許さない。 (……怒っているかな) (キーアは) ……むぅー。 ……ひどいわ。ひとりきりにさせて、自分だけ出歩いて。 ぷく、と白い頬が膨らむ。 部屋の中にひとりきり。朝、目覚めてみたら誰の姿もなくて。 そろそろ昼になってしまう。お布団も干したし掃除もきちんとやった。 もうやることがない。キーアは頬を膨らませてしまう。 誰もいない部屋── テーブルの上に書き置きがひとつだけ。内容は短く、端的に。 留守番を頼みます。とだけ。いつもの朝よりずっと早く、日の出前にあのひとは出かけてしまったに違いない。 朝食を食べると約束してくれたのに。もう忘れたのかな、と思うと悲しくなった。 置いて行かれたことが悔しい。彼の仕事に対して役に立ててなどいないと頭ではわかっていても。悔しいし、悲しい。 少し迷った。泣こうか、怒ろうか。 ……迷っている間に、後者になっていた。……頬が膨れてしまっていて。 書き置きひとつだなんて。ひどいんだから。 もう。もう。もう! 書き置きを手に取る。こんなもの、捨ててしまおうかしらと。 ふと、裏面のことに気が付いた。手にとって初めて。 何か書かれている。表よりはよほど沢山の文字が記されていて。まるで、普段のギーのようね、と少し思う。 『すまない。キーア。 今日は危険な地域に行こうと思う』 『留守を頼む』 『部屋には護衛をつけておくから。 荒事屋、アティの友達に依頼しておいた』 『生活に支障ないようにと言づてした。 外部からの監視と護衛を行ってくれる』 『連絡用の無線型電信通信機を用意した。 何か不審な物音を聞いたら、 メモの番号へすぐにかけて』 『では、今日一日、よろしく頼むよ。                ギー』 ──なるほど。 アティの友達……。 無線型電信通信機……あ、これ。小さな板?? 金属製の板だ。朝からずっと、机の上に置いてあった。でも、これは何をする道具なのだろう。 機関機械なのは何となくわかるけれど。小さいのに、電信通信機?それはもしかして碩学製? そんな高価なものがここにあるはずは、ない、と、思う── ……どうやって使うのかしら、これ。あ。ピ、って音が鳴る。 少しいじってみる。パネルの表面を触ると合成音が出た。 知らずにどこかのボタンを押していた。西亨語で「短縮」と書いてあるところ。 次に、数字を押していた。1番。 ──短縮の1番。 ……あ。繋がったみたい。 ど、どうしよう、誰に繋がって……。あ、もしもし? ──声。──通話用スピーカーの向こうから。 ごめんなさい。間違って通信回線を開けてしまって…。 ……あれ?……あなた、どなた? ──それから十数分後。 ……何なんだ一体、突然。 いきなり緊急回線で繋いで来たと思ったら、代わりにどっかの誰かの部屋を監視しつつ泥棒来ないか見てて、と来た。 何なんだあの猫は。ったく。 そもそも誰の部屋だっつーんだ。襤褸アパルトメントに押し入る奴いるか? ……あーあ。 緊急回線なんざ開いて。酒の誘いだと思ったんだがなぁ……。 ……暇だぜ。 ──アパルトメントを一望できる位置。──双眼鏡を持った鳥がひとり。 ──機関事務机を製作する企業のビル。──その屋上に立って。 そもそもあいつ自身はどこ行ってんだ?電信通信も着信拒否で……。 ……遊び歩いてんのか? 無限雑踏街の人混みの中。モノレール駅へ向かって歩くふたつの人影。 小さな少女の人影と手の大きな女の人影。時限制の安売りのために市場へ押し寄せる、呼気覆面つき下層民たちのただ中を、歩く。 小さな影がよろめいて下層民たちの流れに飲まれそうになると、手の大きな影がするりと小さな影を抱く。 ややあって、人混みの津波からふたりは逃れていた。 ──目指すモノレール駅はもうすぐ。──最短距離で階段プレートへ向かう線。 危ない、危ない。よそ見してると呑まれるよ? ごめんなさい、アティ。鸚鵡によく似た姿の鳥さんがいたから…。 探せば幾らでもいるさ。まったくもう、よそ見が好きなキーア。 確かにこれはひとり歩きは危ないね。ギーは正解だ。 …ひどいわ。アティも意地悪を言うの? 誰かといれば大丈夫ってことさ。あたしや、ギーね。 …うん。ええ、そうね。 あなたかギーがいればキーアは大丈夫。どこへだって行けるもの。 ……時と場所は選んでくれると嬉しいな。今日は、まあ、いいんだけどさ。 はい。気をつけます。 もう、言葉は素直なんだから。可愛い娘は手に負えない。 はーい。 ……やれやれ。 人影のひとつはアティ。都市摩天楼の黒猫。 人影のひとつはキーア。留守番役のはずの。 ここ暫くであれば、キーアが手を繋ぐ相手は決まっていた。 今日は相手が違う。ギーではなくて。黒猫のふさふさの手がキーアの手を握って。 ね、アティ。そういえばあなたのお友達は? あたし、ご挨拶がちゃんとできていないの。部屋の護衛のお礼を言わないと…。 それに、ほら。今はもうキーアも誰もいないのだし…。 えーと、ね。いいの。全然気にしないでもいいのさ? 結局護衛はあたしが請けてた訳だし。暇だったから、つい。 …? 今は、まあ、ね。トモダチに引き継ぎさせたけど。 順番があべこべになっただけだから。全然気にしないでもいいのさ? …? 気にしないでいいってこと。さ、キーア。前を向いて。きみ、行きたいところがあるんでしょ? うん、ええ。はい。行きたいところがあるの。 ──行きたいところ。 ──あの旋律をもう一度聞いてみたい。 ……どうしても、気になって。 上層階段第1公園。澄み渡る水と溢れる緑。 昨日に2回、キーアが訪れたという場所。都市で最も美しくて。下層で最も高い位置。 見上げれば上層を目にすることができる。階段プレートを幾つも昇った先に、ある。小さなお城に見える最上層。 小さく見えるのは距離の問題。本当は、あれはとても大きい建造物だ。 ──上層。嫌なもの。──他の多くの人と同じように、アティも。 やれやれ、だね。度胸があるんだか世間知らずなんだか。 子供っていう年でもないかもだけど。ひとりでこんな遠くまで、さ。 お散歩って言うにはやや遠いし。ま、行きたいってならしょうがないけど。そもそも、キーア、どうしてここに……。 ……ん? 黒猫は手を繋いだままのキーアを見る。反応が、鈍いような。 キーアは言葉に対してはすぐに反応する。黙ったままというのは、今まで、この少女にはなかったことだ。 不思議に思いつつアティは少女の顔を見る。そう、不思議。不思議だらけ。 素性もギーのところにいる理由も。でも、敵意や害意の類を一切感じない。 感じないからこそキーアを受け入れている。ギーが幾ら側に置くと言っても、そうでなければアティは認めない。 ……。 ──何を見ているのだろう。──真剣な瞳で。 この瞳に、もしかしたらこの不思議な少女の秘密が隠されている?そんな風に、少しだけアティは考えつつ。 (何か探してる?) (何か。誰か?) 何をだろう。誰をだろう。それはここに来た理由であるに違いない。 視線を巡らせる前に、黒猫の嗅覚と聴覚は鋭く正確に、周囲一帯を探知し終えている。それは音だ。 ──音。ひとつの旋律。 人間と同程度の身体能力しかなければ、そこまでしか感知できないだろう。 アティはそれを正確に認識できた。右目の黄金瞳は伊達じゃない。 どんな«猫虎»よりも遙かに正確に、アティの感覚器は周囲の状況を把握する。 ……悲しい旋律。そっか、これをキーアは聞きに来たの。 アティには、聞こえる…? 勿論。 ギーは詳しく聞こえないと言ったの。でも、あたしは、聞こえてしまったから。 …それで、気になって。 耳がいいね、キーア。優秀だよ。都市で生きるにはとっても大切なこと。 (それとも勘がいいのかな) 頭の上の“耳”が旋律に反応する。ぴく、ぴくと。 猫や虎によく似たこの耳は変異の証。アティの聴覚の源。 キーアの耳は変異していないように見える。数秘機関で能力を増強している訳が、ない。窺える姿形から考えればあり得ない。 ──勘がいいのだろうか。──本人は理解していないようだけど。 今度こそアティは周囲へ視線を巡らせる。キーアが探している音の発生源へ。 ほら、あそこ。あそこじゃないかな、窓が開いてる。 どこ…? あそこ。小さな共同住宅が見える?木と木の間にひっそり建ってる住宅。 2階建てかな。そんなに大きくはないね。 ほら、よく見て。1階の部屋でひとつだけ窓が開いてる。 ──音は、その窓の向こうから。 あ…見えた、見えたわ。あれは…。 女の子が何か弾いてるのかな。見えるよね、キーア。 ──緑色の髪をした娘がひとり。 ──開け放した窓の向こうに、姿。──何かを弾いている。 ……やっぱり、オルガン……。 機関式オルガンだね。丁寧で繊細で綺麗な音。でも……。 ……ええ。どこか、悲しい。 キーアの視線がまっすぐ固定される。窓の向こうの娘へ。 緑色の髪をした娘。長くて綺麗で、ここの木々の葉のよう。 ……窓越しの娘。……オルガンで、旋律を奏でている。 公園に充ちる植物よりも鮮やかで明るい髪。緑色のそれらは輝くようで。 その横顔にもっと表情が浮かんでいれば、目を奪われてしまうだろう。 強化された視野で娘の姿を捉えながら、アティは思う。 娘の瞳に浮かぶ感情はよく知っている。諦念と、ゆるやかな絶望。 理由はすぐにわかった。オルガンを弾く指先にこそ絡んでいないが、その四肢には黒色のツタが巻き付いている。 物質ではない。ツタは服をすり抜けて娘の体に絡んでいる。 ──あれは。──クリッター災害のもたらす黒色だ。 ぞくりと背筋を寒いものが駆け上がる。開花して種子さえ撒かなければ感染はしないとわかっていても。 ──オルガンを弾く娘。 ──今にも死に取り込まれそうな。 音の悲しさの正体が明確に理解できた。諦念と絶望。悲観と恐怖。 よく耳を傾ければ、もっと、わかる。音と旋律のぎこちなさ。 キーアはどう思うのだろう。きっと、まだこの子は理解できていない。 あの黒色のツタを見ていないから。キーアは瞼を閉じている。 静かに旋律へと耳を傾けて。悲しげに、少女は表情を変えていた。 下層によくある型の共同住宅。貧しさの証そのもの。 植物が壁や机の脚に絡んでいるのは、公園に充ちる植物の一部なのだろう。溢れる生命力は建造物さえものともしない。 慣れない者は戸惑うだろうけれども、確かにそこに生活の痕跡はあった。 植物に浸食されつつあるこの部屋の中は、植物以外は清潔さが保たれている。生活の薄さゆえの清潔さではない。 部屋の主人の性格がよくわかる。几帳面で丁寧。 床も壁も机も、きちんと掃除されている。使い込まれた箪笥は磨かれていて。 けれども。主人の姿はないようだった。 アティは思う。少なくともこの緑の娘が主人ではあるまい。 部屋に佇んで虚ろな視線を向ける娘。この娘に、生活に気を配る余裕はない。 視線は虚ろで。諦念とあらゆる感情を沈ませて、隠して。 ……あなたたち、誰。 演奏を聴いてくれて、ありがとう。でも、あなたたちは誰。 理由があって、そうしていたんでしょう。わたしのオルガンを聴いたんじゃない。 ……わたしに、何の用なの。 窓越しに聴いていたアティとキーアをこの娘は部屋へと招いてくれた。 視線には気が付いていたらしい。演奏を終えると、娘は窓から顔を出して。 「黙って見ていないで」 「ここへ上がったらどうなの」 キーアは、申し出を喜んで受けたものの。演奏を聴いてくれた誰かを喜んで部屋へ歓迎、という気配ではない。 痛いほどよくわかる。警戒心、怯えきった感情が瞳の奥にある。 えーと、ね。あたしたちはただの通りすがりさ。邪魔をしたなら謝るよ、ごめんね。 音が聞こえたから聴いていただけで、きみのことは知らないよ。 ……そうなの。 あなたは、どうなの。あなたもこのひとと同じことを言うの。 キーア。あたしは、キーアというの。 ……名前を言ってくれてありがとう。キーアさん。よい名前ね。 ありがとう。でも、ううん、よくある名前だわ。 ……。 ──あれれ、しまった。──名前は言ったほうがよかったか。 素直に名を述べたキーアにだけ、娘の視線は注がれている。 どうやら自分は言動の選択を誤ったらしい。内心でアティは溜息を吐く。 わたしはドロシー。オルガン弾きのドロシー・ウッドストック。 キーアさん。ずっと目を閉じたまま聴いていたわね。 聴いていても、楽しいものじゃないのに。どうして聴いていたの。 ……綺麗な音だったから。それと、少し、気になってしまって。 あたしの気のせいならごめんなさい。でも、あなたの音は、どこか……。 悲しく聞こえてしまったから。昨日も、今日も。 そう。 ──反応は薄い。──当然のことを言われたような顔。 それにしても、とアティは思う。娘の全身に彫り込まれた貴族紋がわかる。 上層貴族の血族なのか。本来この貴族紋は彼らの特権の証だ。 それがこんなところにいる。不可解だ。 (珍しいもの見ちゃった。 この子、貴族崩れ……なんだ……) (貴族なのに樹化病に罹るの? 貴族紋は偽物じゃ……ないみたいだけど) ──捨てられた?──樹化が発現して、下層へ落とされた? 嫌な気分にさせたなら謝るわ。でも、仕方ないの。 あれがわたしの音だから。他には、もう、出すことはできない。 ……そう。できないの。 ええ、そう。もうできないの。キーアさん、そんな顔をしないで。 わたしの音が鈍いのは、別に、あなたのせいじゃない。 ──少しだけ。──言葉の中に何かの感情が混ざる。 でも、驚いたわ。感想を言ってくれたのはあなたが初めて。まともな、聴いたままの感想はね。 最初、どこの不審者かと思ったけれど。あなたは違うみたい。 あなた、音楽が好きなの?キーアさん。 うん、はい。好き。あなたの綺麗な音、好きだわ。 ……悲しいところ以外? ええ。悲しく聞こえるのは、悲しいから。 そう感じる? ……とても。悲しさがわかる。 そう……。 ──視線が床に落ちる。──ああ、そうなの、とアティは思う。 この娘の感情は深くに沈んでしまっている。罹病者や大切なものを失った多くの人々と同じように。 それでも、この娘は諦めていない。オルガンを弾いている。 惰性や気を紛らわせるためにそうしている訳ではない、とアティは確信する。弾いている理由。 昨日も弾いていたと言っていた。弾き続ける理由。 ──奏でることを。──この娘は、諦めきれていないのか。 聞いても笑わないでね、キーアさん。おかしな話をするけれど。 笑わないわ。 ……うん。わたしね、西享の音楽家たちの曲が好き。 大好きだったの。彼らの曲。大バッハ、モーツァルト、ハイドン……。 感情や物語が旋律の中に込められていて。わたしは、夢中になって。 ……いつかわたしもできればいいなって。彼らのように、色んな感情を込めて。 ……だから嬉しいわ。あなたに、わたしの何かが伝わってくれて。 ──悲しさは。──聴く者には、確かに伝わるだろう。 ……嫌な思いをさせてごめんなさい。それでも、わたしは嬉しいの。 新しい西享の曲にはもう出会えない。それでも、あなたひとりは、わたしのオルガンで何かを感じてくれた。 嬉しいわ。……ありがとう。キーアさん。 ドロシー。あたしは何もしていないの。あなたのことを知らない。 あなたは嬉しいと言うけど、でも、あなたがそう言うと……。 ……ここが苦しくなる。 小さな胸へ手を当てて。キーアは、ドロシーを見据えたままで。 あなたの弾くものは好きよ。でも、昨日と今日以外のものも聴きたい。 あなたはこんなに綺麗な曲を弾けるのに。何が、そんなに悲しいの。 ……教えて、ドロシー。 ──キーアは。──知らないのだろう。 娘の四肢にまとわりつく黒色の意味。死をもたらす樹化病。 もう、この深度では義肢に換えても意味はないだろう。既に致命的なまでに形質が変化している。 この深度で生き長らえているのが不思議だ。よほど部屋の主人が隠蔽に長けているのか、何かのコネクションがあるのか。 樹化病の重度罹病者。それは本来、都市法による処刑対象だ。 上層兵による処刑を免れて、ここまで生きてきたのはひどく珍しい。 現段階であれば感染しないと知っていても、娘の近くに寄ろうなどとアティは思わない。思えない。 キーアさん。あなたは、きっと幸せに生きてきたのね。 見て、わたしの腕。わたしの体。絡みつくツタ。 ……見えるわ。これは……何……? 終わりの印。すべて終わらせてしまう、黒いツタ。 会えて良かった、キーアさん。本当に、聴いてくれてありがとう。 また聴きに来るわ。もっと、あなたの音をたくさん知りたい。 ……だめ。 明日にだって、わたしは同じものしか聴かせてあげられない。それに……。 それにね。わたしはもう、だめだから。 明後日には、いないかも知れない。もうここには。 ──囁く唇は。──怯えるように、微かに震えていて。 夜の帳がささやかに落ちる。無数の灯りが都市じゅうに生まれて。 比較的静かであることだけが特長の、アパルトメント付近にも夜が訪れる。 倉庫部屋に戻ろうかとも考えたものの、アティはギーのアパルトメントにいた。キーアと一緒に。 部屋の監視兼護衛の仕事はあの小憎らしい鳥に任せてあるものの。 今日のことでキーアのことが少しわかった。驚くほど、何も知らない少女。 アティは思う。放っておくのはあまりに不安だ。 ──一緒にいよう。──ギーが戻ってくるまでは。 キーアには聞こえないように、口の中でそう囁いて。 ……ただい。 ただいまと言い終える前に。ギーの表情が変わった。 ……アティ? おかえり、ドクター♪きちんとお留守番したふたりを褒めて? おかえりなさい、あの…。あのね、ギー、今日実は、外に…。 ?? あははは。何でもないのさ。ギー先生はもう夕食は済ませたの?キーアのミートローフは絶品だよ? あの、あのね…。どうしても気になったから…。 ??? あははははははは…。 笑う声がわざとらしく乾く。出かけたことは誤魔化そうと思ったのに。 キーアはどうにも正直者だ。非難する気にはならないものの。 ──言いたくて堪らないという瞳。──ドロシーのことを。 ドロシーと長く会話をしてしまった時点で、アティも半ば諦めてはいた。きっとそうなるだろう、と。 キーアは娘の治療を依頼をするだろう、と。この巡回医師の男に。変わり者の数式医に。 ……アティに来て貰って、行ったの。昨日と同じ場所。 外に出たのかい。 はい。 キーア。僕は書き置きを残したね。何と書いてあった。 留守番を、って……。ごめんなさい、言いつけ、破ったわ。 ……アティがいたからいいものの。都市はきみが思うよりも危険だ。決して、ひとりでは出歩かないように。 …はい。 まるで兄と妹か、父親と娘のよう。あの変わり者の数式医が所帯じみている。 笑いそうになったけれども我慢する。空気くらいは猫でも読める。 それで、何かな。僕に話がある顔だね。 そうなの、ギーにお願いがあるの。お金は、きっと払うから。 アリサのところで働いて……。それで、きっと、お金を払うから。 駄目。駄目だ。冗談でもそんなことは言わないこと。 そうそう。やめときな、キーア。あんな女のところで働いたら不幸だよ? ……アティ。 ……ごめんなさい。連れて行ったのはあたしだもの。キーアを叱らないでやって。ね。 僕に彼女を叱る権利はないよ。預かっているだけだからね。 黙って置いて行ったのは済まなかった。しかし、無茶をしないでくれ。 ……それで、僕への依頼とは何かな。厄介事に巻き込まれたとか。 キーアに訊いてあげて。厄介事かどうかは、何とも言えない。 キーア。 ──ギーの視線がキーアを見る。──少女は見つめ返す。 珍しいこともある。笑顔も不思議そうな表情も浮かべていない。ギーを見るキーアが、これまでと少し違う。 訴えかけるような少女の瞳。何かを願う視線。 (……なんだかな) (短い間に、随分距離が縮んだね) (別に嫉妬してる訳じゃないけどさ。 本当、不思議な子) ──本当は、嫉妬を自覚しているけれど。──アティは肩を竦める。 ドロシーというひとがいるの。第1公園の住宅に住んでいるひと…。 とても困っているの。お願い、ギー。 お願い、ドロシーを助けてあげて。きっと病気に罹っているのだと思うから。 あなたなら…。きっと、助けてあげられる。 罹病者か。 ギーの視線がアティのほうを見る。説明を求めている。 どう言ったものだろう。現象数式にも不可能はあるというのに。 (隠しても仕方ないか) (言っても誰も損はしないし。 上層兵に告げ口なんかしないだろうし) 何せ、貴族崩れの上に樹化病の罹病者。密告すれば金一封程度は貰えるだろう。けれどもアティはそうしない。 はした金を貰っても意味などないし、何より、上層の肩を持つことは絶対しない。 その娘、樹化病に罹ってるの。深度はかなりのもの。 体表にツタがはっきり現出しちゃってる。本人も、わかってはいるみたい。 ……深度3か。 (あれ。何?) (ギー、こんな風な顔をするの?) ギーは、一瞬、痛ましい表情を見せていた。どんな罹病者に対しても冷静に、顔色ひとつも変えないこの男が。 他人の罹病に対して感覚が麻痺している。事象でしか捉えはしない。 普段からそう口にしている男なのに。今、明らかに表情が歪んだ。 (……何かあるの?) ──樹化病。──そういえば、あの孤児の3人も。 ──ギーの肩入れしているあの子ら。──彼らが罹病しているのも、確か。 ……そうか。樹化病ともなれば、厄介だな。 開花は近いのかい? 見る限りはまだみたい。でも、本人は近いと思ってるかも。 いつだと言っていた。 明日は大丈夫だって。明後日にはもう“ここにはいない”って。 ……深度が進みすぎている。それでは、現象数式でも手に負えないな。 ギー……アティ?何の話を、してるの……? その子の病気の話だよ。精神の衰弱は樹化を激しく進行させる。諦めたのなら、もう、それで終わりだ。 残念だがね。 ──そう。終わりだ。──妖樹の種は心を糧として育つのだから。 都市へ災厄を振りまく41のクリッター。そのうちの1体、妖樹ブラッド・ツリー。それこそが樹化病の根源。 無限に増殖し、心と体を蝕み、やがては宿主の命と共に弾け飛ぶ。 早期の発見ができていれば、パルやルポやポルンのように対処もできる。それが、根本的な問題の先送りだとしても。 樹化病は人の在り方を変える。形質変異。 罹病した手足を機関義肢に置き換えても、存在の根本が種子に浸食されている以上、いずれツタが全身を食い破る。 言った通りだ。悪いが、僕にできることはない。 ……ギー。でも、あのひと、苦しんでいるの。 できることはない。僕は、今そう言ったはずだよ。 ──声は、冷たく。 そんな言い方しなくてもいいじゃない。ギー、いつもと反応違うよ。 違わない。 もしかして何かあるの?きみ、樹化病に特別な思い入れでも。 僕は事実を言っている。それだけだ。 深度の進んだ樹化病には、数式も無意味。ただ、それだけのことだよ。余計な詮索はやめてくれ。 ………。 (あれ?) (なんでこんな反応なのさ) (躍起になって3人の子供とか、世話して 少ないシリング費やしてるのにさ) (変だ) (……これじゃまるで普通の下層民) (ギーじゃないみたい) 浮かんでくる疑問を口にしようと、アティは唇を開いたが。 言葉は出てこなかった。ギーの表情を見てしまったから。 ……。 (……あれ) (話しかけるな、何も訊くな、って。 きみ、そういう顔もできるんだ……) (へえ、そう) (そうなの) ギー以外の誰かであればごく普通の反応。無駄とわかっていることには労力も金も費やすことはない。 下層に生きる多くの人はこんな反応だろう。それはアティにもよくわかる。 自分だってこういう判断をよく行う。特に感情も表情も動かさず。 ──でも。 ──目の前にいるのは他の誰でもない。──変わり者のギー。 金にならない巡回医師を毎日毎日続けて、数式使いの癖にいつもいつも貧乏で。それでも、下層を歩くのをやめない。 何かを諦めるのを拒絶するように。彼は、いつも巡回する。 それなのに、この表情と背中は何?冷たい言葉も。 ……あっそ。わかった。 帰る。 ──どこへ帰ろう。──決まった寝床など、どこにもないけど。 ……ギー。やめて。 そんな風にアティに言わないで。言いつけを破ったのは、キーアなのに。 ギーの改造外套を白い手が掴んでいる。非難するように、強く。 外へ出ようとしたアティは、一体どうしたのかと動きを止めてしまう。 僕は事実を言っただけだよ、キーア。アティがどうかは関係ない。 やめて。 何をだい。 ……そう、わかったわ。 ギーがそんなにアティに意地悪するなら。一緒に寝させてあげませんから。 今夜は、アティはキーアと寝ます。同じベッドで寝ますから。 え? ──え。何それ。 ──え。どういう意味、それ? ……そうか。 いや、そ、そうかじゃなくって、え?何の話をしてるの、キーア?? さ。こんなに冷たいギーのことは放って、あたしたちは仲よくしましょ? え? え?? ね? え? え? え? ──え、何故? ──どうして急にそういう話に? 急にそんなこと言われても心の準備が。それ以前に、どういう理屈なのか。 戸惑っているうちに手を引かれていた。2階へと駆けのぼって。 そのまま、ベッドへ。ぽすんと。 そしてそのまま暫く。じっと見つめてくる薄赤色の瞳。 ──あれ? え……あれ?こういうことでいいの? ふふ。ふかふかでしょう♪お昼前に、お外で干しておいたから。 あれ?? どうしたの? アティ?びっくりした顔をしてるわ。 ……ま、まあ、そうよね。びっくりした。普通はこうだものね。 なにが? いいのいいの。うん。いいから。こっちの話さ。 うん? いいんだってば。黙っておやすみ。夜更かしが過ぎるといい女になれないさ。 ──客室のベッド。大人ふたりで眠るようには作られていない、安宿よりは幾らかだけましなシーツと毛布。 キーアと一緒に横たわる。華奢な少女の温もりが、わかる。 ──仲の良い姉妹のよう?──それとも、まさか母と娘。冗談。 アティは傍らの少女を見る。じっとこちらを見つめてくる薄赤色の瞳。大きな瞳に、自分の黄金瞳が映り込んで。 何かを言おうとしている。ふと、そう思い至ってアティは納得する。 だから呼び止めたのだろうか。帰ろうとした自分を。 キーア。ギーのことを見つめている少女。様子を見る限りではいつもそう。薄赤色の視線はあの男を追って。 だから、驚いた。こちらには興味がないと思っていたから。 ──何かを言おうとしてる瞳。──あたしに。 ──呼び止めたのはなぜ?──しかもあのタイミングでさ、あたしを。 アティ。 なに? あなたにひとつお願いがあるの。あ。ううん、黒猫さんにイライがあるのよ。イライじゃないと、駄目だって聞いたから。 イライ……。 イライ。 依頼のこと。発音が少し変。未だに謎である少女の出自のせいだろうか。それともそんなに“俗語”だっただろうか。 依頼。黒猫であるところの自分への頼みは、確かにそういった形、契約を取るけれども。でも、この子が依頼? 妙な話だと、思った。随分と妙な。 もっと幼い子供の依頼だって時にはある。それなのに、なぜか思ってしまった。アティは思う。似合っていない、と。 キーア。不思議な子。荒事などと関係ないところで生きるような、そんな顔をして、そんな瞳をしているのに。 ……何を依頼したいのさ? ……をね。 聞こえない。囁き声。 アティは耳を澄ませる。聞こえる。人間だった頃よりも聴覚は鋭いのだから。 ……ギーを、嫌いにならないでね。お願い。 ──ギーを。──嫌いにならないで。 へ? な、なにそれ。 だめ? だ、だめなんて言わないけどさ……え……。それ言うために、わざわざ? 引き留めて?そ、そうなの? ……だめ? ──薄赤色の瞳はまっすぐ。──真剣な様子で、あたしを見つめる。 だめじゃないけどさ。別に、さっきだって嫌った訳じゃないし。 ギー、ああなると話し掛けても返さないし。一緒にいても意味ないなって思っただけで、嫌いとかどうとかじゃないのさ。 よかった。 ほっと息を吐きながら。キーアが微笑む。 まったくもって驚かされてしまった。何かと思えば依頼と言って。嫌いにならないで、なんて。 じゃあ約束。ね。ギーのことを嫌いにならないで。 ──ああ、もう。──そんなに機嫌のいい笑顔をされたら。 ……随分こだわるね、依頼にさ。いいけど別に。 高いからね。あたしの依頼料は。 頑張って払います。でも……あの、ちょっとだけ待って……。 だーめ。待てない。 ……そう……。 待たないからね。明日の朝には用意して。たまには卵は茹でたやつもいいかしらん?できれば半熟で。 ……え。 用意できない?依頼料。 ううん、用意する。用意するわ!ありがとう、アティ、大好き! そっか。大好きか。照れるね。 あの……あのね、それじゃあ……。……えっと……。 まだ何か?いいよ、何でも言ってご覧よ。 じゃあ……。 もうひとつだけ、お願いしてもいい?依頼。明日の朝食もつけるから! ──あれれ。追加依頼? わかった。あたしの負け。……意外と逞しい女だね、キーア。 えへへ……。 ──本当に。可愛い顔してさ。 ──無防備な笑顔を振りまいちゃって。──嫌いじゃ、ないけどさ。 ……音が聞こえる。今日も。 オルガンの音だけが、この子のすべて。黒いツタに奪われた中でひとつだけ。 きっとこの子は信じているのだろう。奏でる音だけが自身を証明するものと。 ……だから。 私の声はあの子に届かない。機関式パイプオルガンを奏でるこの子は、黙ったままで。何も。話してはくれない。 硬い鍵盤を優美に奏でるその指、その手。私は覚えている。 その小さな手を引いて歩いた、あの時。握り返してきた暖かさを。 下層の誰もが近付かない、最下層の閉鎖地区の中で。さ迷い歩く私の手を握ってくれたあの手。 噂はあった。人知れず廃棄されてしまう貴族崩れ。 まさかそんなと。その時までは私も思っていた。 けれどこの子はいたのだ。手を伸ばして、私の手を強く握り締めて。 あの時も。この子は何も話さなかった。 ……そして今も。……この子は、何も言ってはくれない。 ……ドロシー。ただいま、今帰ったよ。 昨夜はひとりにさせてすまなかったね。仕事が長引いてしまったんだ。 でも、お陰で賃金は弾んで貰えたよ。そろそろ貯まったはずだ。 また、きみの服を買おう。きみの肌は昼の光には強くないからね。 私は今日も声をかける。届かないことがわかっていても。 この子は、ドロシーは今日も無言で。声を聞かせてはくれない。 私のことも目にしない。無理もない。 上層で大切に育てられてきたこの子が、こんなに醜く変異した私を見る訳がない。 かつてのあの日、あの時。私は«復活»によって姿を歪められた。狼と蜥蜴とが合わさった、奇妙な姿に。 この姿は私への罰なのだ。すべては私の不徳への尊い罰。 私は耐えられる。この姿に。 耐え難いのは、ひとつだけ。この子が今も幸せではないということ。 ……ドロシー。 ……。 きみを私は見捨てはしない。必ず、きみを治療できる医師を探すよ。 ……。 必ずだ。 ドロシーの表情は凍っている。声は届かない。 まるで、既に死んでいるかのように。閉ざされた唇は開かない。 けれど。けれど、私は覚えている。あの時、体を丸めて泣きじゃくるこの子の背中をさすった時に、この私は決めたのだ。 何をも残せなかった私の命のうちで。せめて、この子は……。 この子だけは。この子だけは、と……。 ──朝。 駅の小さなホームに立って、ギーは昇りのモノレールを待っていた。 傍らには少女が佇んでいる。キーア。 昨夜から今までの自分の態度について、この子はどんな風に感じたのだろうか。ギーは思う。 ろくに会話をしようとしない自分。こぼれ落ちた149の命を振り返ること。それを拒んで、少女と黒猫をも拒絶して。 醜い反応だっただろう。自分でも感じる。 ──キーアの視線を感じる。──起床時からずっと見つめてくる。 ──どこへ行くの、と問いかける。──薄赤色の視線。 キーア。 …はい。 昨日はすまなかった。僕は、樹化病の治療は得意ではない。 わかります。ギー。あなたはとても嫌がっていたから。 ……あれは人を蝕むものだ。多くの結末は死だ。 けれども、僕はまだ視ていない。ドロシーという子をね。 え……。 上層階段公園へ行こう。第1公園。 きみから、依頼を受けてしまったからね。僕はそこへ行こう。 ギー……え……。本当……? ああ。本当だとも。 昨夜の自分は否定しよう。そう、何ひとつ僕はその子を知らない。 ──立ち止まることはしない。──そう、自分は決めていたのだから。 上層階段公園。都市に生きる人々の精神の支え。 こんなに短い間隔で訪れたのは初めてだ。少なくともこの10年の間では。 力強く生い茂る芝を踏みしめる。どこか懐かしい感覚。 視線を上げれば第3公園のことを思い出す。今は必要ない。ばらばらの記憶も今はいい。ギーは思考を切り替える。 ──ドロシー。──樹化病に侵されたという娘。 まずは深度を確認する必要がある。現象数式の“右目”で、正確に。 樹化深度が浅ければ出来ることはある。例えば子供たち。パルは特に酷かった。熱病を併発していたから。 それでも、多くの樹化病患者に比べれば“大したことはなかった”のだ。 自然とアティの言葉を思い出す。明日は大丈夫。明後日は駄目。 彼女の見立てが正しければ、手遅れだ。理性は「行くな」と告げている。 感情さえも「意味はない」と囁きかける。それでも、たとえキーアを介した仲でも、僅かでも関わり持ってしまった以上。 ──立ち止まることはできない。 ──この手を最後まで伸ばすのだと。──僕は、そう決めている。 ただ放っておくことはできない。見捨てて、殺すことだけは絶対にしない。 どうしようもなくやり難い生き方だ。この都市においては。 慈悲も献身も、一切の意味を成さない。シリングにならないことを人はしない。 けれど。けれど。決してすべての人がそうではない。 キーアが「あそこの家」と指し示す。よくある型の下層の共同住宅。 ──1階の部屋。──あそこに、死にゆく娘がいるのだ。 こんな僻地にまでようこそ。何のご用でしょう。 来客など何年ぶりのことでしょうか。見ての通り、何もない粗末な部屋ですが、お茶くらいはお出しできます。 おふたりともよろしければ、お名前を。私はスミス。ジョン・スミスと言います。 穏やかな老爺が出迎えた。物腰と言葉とが、とても柔らかい。 彼の容貌は些か際立っていた。恐らく«狗狼»と«蜥蜴»の双方の特徴を発現させてしまったのだろう。10年前に。 それ自体は普通のこと。 ジョン・スミス。西亨語で「誰でもない」という意味。 このスミス氏は件の娘の父親だろうか。ギーは視線を部屋に巡らせる。 僕はギー。巡回医師をしています。 はじめまして、ミスター。キーアといいます。 ようこそ、ギー。キーア。お医者さまがどんな御用件で…? ああ、飯場の方々から聞いて…?しかし、私は、まだ…。お医者さまに依頼できるシリングは…。 まさかとは思いますが…。上層の監査の方では、ありませんね。 いいえ。僕はただの巡回医師ですよ。 ──警戒している。──それもそのはず、当然だ。 都市法は樹化病の罹病者を許しはしない。深度が進めば容赦なく執行官を送り込み、その命を奪う。 来客が初めてとの言葉に嘘はないだろう。そうでもなければ、生き続けられるものでもない。 キーアが、こちらのお嬢さんと、昨日、少しお話をさせていただいたらしく。 幾らか僕も聞き及びました。重い病であるとか。 この手がお力になればと思い。お邪魔した次第です。 なるほど、そうでしたか……。では、ドロシーを呼んできましょう。まさかお医者さまに診て頂けるとは……。 声が震えている。緊張しているのだろうか。 ギーを見るスミス氏の瞳は揺れていた。感情が不安定になっているのを感じる。 医師とは初めて言葉をかわしたのか。瞳には、期待と希望の感情。とても強く、ギーへとのしかかってくる。 (さて) (どこまでの深度か) アティの見間違いであることを願いつつ、部屋の奥の扉が開くのを見る。 スミス氏が声をかけるよりも先に、彼女自身でこちらへ来てくれたのか。 ……キーアさん。また、来てくれたのね。 また来たの。お医者さまを連れてきたわ、ドロシー。 ありがとう。でも、お医者さま、すみません。わたしは、既に手遅れですから。 ギーです。そこに立っていて下さい。 声と共に脳内器官が稼働して、ギーの“右目”に現象数式を起動させる。 公園の木々よりも明るい緑の髪の娘。数式の“右目”を用いるまでもなく、彼女の全身から伸びた黒色のツタがわかる。       ──解析──    ──肉体の状況は良好──   ──体温から推察される精神──   ──ごく不安定、危険度大──     ──罹病:樹化病──      ──樹化深度4──    ──種子破裂までの期限──     ──20時間と予想── (……見込み違いはない、か) (残り20時間、だと) (最善の手は……) (上層への報告。 上層兵派遣と区画駆逐の正式依頼) (……馬鹿な) 唇を噛みそうになるのを堪える。既に衣服をすり抜けて、こんなにも明確に黒色のツタが現出してしまっている、とは。 アティの説明に嘘はなかった。正真正銘、重度の樹化病罹病者だろう。 彼女の精神は崩れかけている。赤い瞳のぶれを、ギーは見逃さない。 視線が定まらないのは恐怖のせいだ。諦念と恐怖が充ちている。 ……不思議な光。それが、クラッキング光なのね。 わたしを見て下さってありがとう。無駄でしょう?素敵なお医者さま? ドロシー。お客さまに失礼だよ。このひとはきみを治療しに来てくださった。 キーアさん、言ってあげて。あなたのお医者さまに。 ──スミス氏を無視して。──緑色の娘は小さな溜息をひとつ。 何をしても無駄。そんなこと、自分が一番わかるの。 …いや。だめ。そんな風に自分のことを言わないで。 ギー、お願い。ドロシーを治してあげて。 ……。 首を縦に振らない。奇跡はない。この世にそんなものはない。 ギーは背後の“彼”を思い浮かべていた。あれの力ならば、取り憑いた妖樹だけを駆逐することもできる。 (できるのか。本当に) いいや。できはしない。 彼女の樹化深度では、下手に手を出せばこちらが瞬時に殺される。無数の医師がそうなってきたのを見てきた。 樹化病は正しく病ではない。クリッターなのだ。 人を害するもの。自然現象。その一部。人間には、あれを切除できない。 人の精神を養分として発芽するそれは、樹化深度がこんなにも進んでしまえば宿主とは不可分となる。 背後の“彼”の“手”を用いても。肋骨の“門”で“炎”をもたらしても。 同時にドロシーを焼き尽くすことになる。妖樹の芽だけを選べない。 ──本当にそうか?──ギー。僕は何を諦めようとしている? (閉ざした彼女では意味がない) (深度以外の情報を何ひとつ僕は知らない。 そう、僕は、だ) あの、ドクター、どうなのでしょうか。娘は助かるんでしょうか…。それとも、ああ、それとも…。 いえ、そんなことがあるはずはない…。この子は、まだ、何も…。 ──ジョン・スミス。──そうか、この男がいたのだ。 彼の視線はドロシーという娘を追っている。ここへ来るまでの間のキーアの瞳と同じに。誰かを観察し続ける瞳。 観察の結果を彼は得ている。そのはずだ。 ……外で話を。ミスター。 部屋の中も外も同じ。静けさ。 美しい水面を揺さぶるものはない。沈黙が暫くの間、続いて。 共同住宅の外へと出ても、スミスという老爺は言葉を発さなかった。揺らぎのない水面を、ただただ見つめて。 ギーも言葉を発さない。沈黙に応える。 残り20時間。娘の命とこの区画は危急の事態にある。 樹化病深度5。完全に発芽した妖樹の種は肉体を破壊する。娘の五体は四散し、無数の樹化の種を撒く。 ひとたまりもないだろう。貴族紋すら無効化する異形の歪みの病だ。 この区画は閉鎖される。ギー自身も、キーアも助かるまい。 それでもギーは沈黙する。言葉は、老爺自身が発さなければいけない。 無理に引き出す意味はない。樹化病は、精神と深く結びついている。 ──たとえ些細な違和感でもいい。 ──口にして欲しい。──彼自身が把握していることを。 ……ドクター。 はい。 あの子は可哀想な子なのです。そんなものは無数にいると、あなたはお笑いになるかも知れないが。 笑いませんよ。心を麻痺させることが、僕たちの敗北です。 だから僕は巡回医師なのです。ミスター。 立派な人だ。あなたのような人が……。 私は想像せざるを得ない。あの子を拾ったのが、あなたであればと。私以外の誰かであればと。 ……あれは可哀想な子なのです。 変異しきった彼の表情は読めない。穏やかな瞳だけがわかる。 おわかりの通り、あの子は貴族であったのでしょう。全身の貴族紋はあまりに精巧だ。 偽物ではないでしょう。 ……そう、本物です。 貴族を屈服させたがる欲求を持つ人は、子にああいった紋の偽物を彫ると言います。しかし、あれは本物だ。 捨てられてしまったのです。あの子は。 穏やかな瞳が揺れる。ささやかな風に揺れる、水面のように。 文字通りの捨て子です。あの子は最下層の閉鎖区に捨てられた。 ……あの子にとって。下層のすべては絶望の顕れです。 何も知らない。何もあの瞳には映らない。 せめて美しいものをと、ここへ来ても。あの子は何も言わなかった。 あの子は諦めてしまった。出会った時既に、何もかもを。 まだ早い。 ──20時間が残されている。──終わってはいない。 はい。私は、あの子に諦めて欲しくない。希望はきっとある。 きっと、いつか都市を包む霧は晴れる。そうでないはずがない。 10年後か、20年後か。 この都市をこのままになど、神がそうされるはずはないと信じています。いつか、希望は空から降り注ぐ。 ──神? その時、あの子には生きていて欲しい。あの子にだけは。 ──違和感を得た。 ギーは老爺の言葉の中にひとつを見出す。確かに口にしたはずだ。聞き慣れぬ単語。西亨からの外来語。 それはこの都市には、いいや都市を含めたこの大陸には。 都市が閉ざされる前でも後でも構わない。この«既知世界»に、その概念は、ない。 ──神。 ──いと高き場所に在って見守るもの。──空にて輝くもの。 信じ難き奇跡を用いて人々を救い、幸福すべてを司り、慈しむ、大いなるもの。 ミスター。もしや、あなたは。 あなたの血は── ……ええ。私はハーフでね。それ故にろくな仕事はあまり頂けません。 それに老い先もそう長くない。何かを、せめて、健康な体を……。 あの子には、残してやりたい……。せめて、昼間を歩くことのできる体を。絶望せずに明日を夢見られる体を。 ハーフ、と仰いましたね。ミスター。 ……ええ。 しかしあなたはご高齢に見える。失礼ながら。 ああ、そうですね。私の体は、あなたの仰る通りですよ。本来なら20歳に満たない年齢のはずだ。 ……しかし、私の話などどうでもいい。ドクター。 老爺は首を振る。いや、老爺の姿をした青年は。 いいえ、違います。彼女にとって必要なことです。 ……私の身の上が? はい。 ……そうですか。 別段、隠し事をするつもりはありません。私にとって、時は平等でないのです。 体だけでなく、きっと、脳とか心というものがね。老いていく。 止めることはできません。だから、私は、せめて彼女を遺したい。 ……この世界に。 揺らぐ瞳が濡れるのを、確かに、ギーはその“目”で視ていた。 彼の言葉に嘘はない。ならば。 私を傲慢だと言うでしょうか、ドクター。神を私のためだけに信じる私を。 いいえ、ミスター。 誰ひとり。あなたの言う神でさえ。あなたを蔑む者はいない。 私は、神が実在するかは知りません。ミスター・スミス。 神の奇跡は少なくともこの都市にはない。だが、あなたのもたらすそれはある。 ……ドクター? 治療を開始しましょう。あなたが、この事態の中で唯一の奇跡だ。 ──残り20時間。 ──たった20時間しかない。──いいや違う。 時間は充分にある。始めましょう。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……大いなるクリッターの1柱、妖樹。……感染し拡大を続ける無限の狂った花。 ……かのペトロヴナに率いられる無数の芽。……そのうちの1体がそこに在る。 ……貴様にやれるかどうか。……惨めな«奇械»使い。我らが生贄。 ……貴様の刃も熱も通じはしまい。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ──治療開始だ。 そう告げながら部屋へと戻る。扉を開ける音は些か粗かったも知れない。 だが、構うことはない。まさかの条件がここには揃っていたのだ。パルたちが望んでも得られない、条件が。 躊躇うことはない。少なくとも彼はそれを望んでいる。 ……ギー? ふたりで何かを話していたらしい、キーアが驚いた瞳を向ける。 治療……開始……?もしかして、方法が……。 ああ。 それとも、あなたの……。気が変わったの……? きみは外科手術用のセットを持っていたね。エラリィの医院で安く買ったあれだ。 机の上に広げて。どれでもいい、一番切れるメスを。 ……ギー……? ……違うよ。話が変わったんだ。ただちにドロシーの手術を開始する。 時間がない。使えるものはすべて使う。 は、はい。でも……。 今、キーアさんと話していたの。ドクター。 無駄なことはやめて下さい。私は、もう、駄目なのだから。 僕は依頼を受けた。キーアから。 ──ドロシーの言葉を拒絶する。──すべきことは、既に決まっている。 依頼を受けた。デコイがある。メスもある。 術式開始だ。キーア、下がっていなさい。 でも、ギー……。どうしたの、急に。なんだか恐い。 キーア。下がって。 ──150回目の正直だ。──意識はそれにのみ集中していく。 努めて穏やかに言葉をかけると、後ろから続いて部屋へ戻ってきた老爺へ、老爺の姿をしたスミス氏へと、道を譲る。 机へと近付く。不安そうにキーアが並べたメスへ。 老爺は一際大きなメスを右手に掴むと、左手を差し伸べた。 獣の毛にまみれて人間には見えない腕。それを、ドロシーのほうへと伸ばす。 ……ドロシー。きみには、私の声は届かないだろう。 それでも構わない。構わないんだ。 これは私のエゴでしかないのだろう。けれど、それを私は選択する。 ……。 ──ドロシーは老爺を見ない。 それでいい。きみは私の残すものだけを受け取りなさい。 初めてきみの手を握った時に、私は、私にできるすべてをすると決めた。 ミスター……何を……。危ないです、そんなものを持っては……。 いいんだ。キーア。 でも……。ミスターの手、震えてる……。 構わないんだよ。これですべていいんだ、お嬢さん。 ──音。切り裂く。 言葉と音の後に。赤色のしぶきが吹き上がった。 老爺の手首から吹き上がるものは赤かった。人間と、同じ色をしていた。手首の動脈から血が溢れる。 ミスター!! どうして、ギー!血が出てる、止めないと……! ……出てこい。 ギー!! 老爺は迷わずに自らの手首を刃で傷つけた。溢れ出す赤色が部屋に散る。 なぜ、と叫ぶキーアをギーは後ろへ下げる。これは始まりにすぎない。 流れ続ける赤色が床を浸していく。それは、やがて、ドロシーの爪先に触れる。 上層階段公園に流れる清流のように、爪先に触れた赤はゆるやかに流れを変える。部屋の隅々へと。 あ……ああ……。 な、んで……こんな……。あなたが、こんな、ことを……する……。 死ぬのは……!あたし、だけ、なのに……! やめて!やめて、やめて、やめてよ!! やめて……!! 娘の叫び声が響き渡る。周囲に充ちる静寂のすべてを突き破って。 赤い瞳が揺らぐ。精神が大きな衝撃を受けているのがわかる。ギーの“目”は彼女の体温の変化を捉える。 瞳の揺らぎ、精神の揺らぎ。叫ぶ声は止まらない。 キーアが何かを口にして服の裾を引く。破れんばかりの強い力で。 (……これでいい) (酷いショック状態。 これだけが20時間後を“今”にする!) そう。そうだ。これで構わない。彼女の中の“それ”が目覚めているのだ。深度など関係ない。この血を見れば動く。 こんなにも溢れ出す血。西享の。都市の中で唯一。 どんな血よりもクリッターを惹きつける。呪われていると伝えられる、西亨人の血。部屋に充ちる赤色。 こんなにも溢れてしまえば。“それ”は、目を逸らすことはできない。 ──見れば動き出す。──取り憑いてなどいられない! (出てくる。出てくるはずだ) (血の主を殺すために姿を見せる) 貴様の好物はここにある……!ここに来い! 来い、姿を見せろ!! ──クリッター・ブラッド・ツリー!! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああ……!! 叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。その体から這い出て来る影がある。 黒色のツタが無数にうねりながら伸びて、娘の体から逃げるように姿を現していく。妖樹そのもの。 こんなものが巣くっていたのだ。心と体を、確実に、ゆっくりと蝕みながら。 こんなものが人を死へ招くのだ。心と体を、確実に、ゆっくり破壊しながら。 それはうねる螺旋のよう。ぐるりと巻き上がった黒色の死の塊。 ──待っていた。──お前が姿を見せるのを待っていた! 来たか……! ああ……ドロシー……。それが、きみを、苦しめるものか……。 私は、一言、それに言いたかった。もしも機会があるならと……。 よくも、私の……。かわいい娘、に……。 取り憑いてくれたな……!この、醜く黒い、草の化け物め……! 疾く、去れ……!神は、お前の存在など、認めない……! あああああああああああああああああ!! ドロシー!待っていろ、今、そいつを……! そいつを……!きみから、引き剥がしてやる……! ドクター……!頼む!! 衰弱状態にあるはずの老爺の叫び。ギーは頷いて── ああ……あ……ああ……!!あああああああああああああああああ!! 駄目……外に……!!ああ、あ……あ、ああ……ああああ!! 叫び続けるドロシーの口から、痙攣する四肢から、指先と爪先から。 実体化していく死の塊がある。全身をぐるりと取り巻きつつも抜け出し、己の求める“血”を備えた獲物を探って。 流れ落ちる西亨の血。それを、求めて、蠢き、現れ出でる。 ……ここへ来い!お前の望むものがこの血なら! 幾らでもくれてやる!私の全身、すべてお前にくれてやろう! だから……!そこから、出てこい……! その言葉が最後だった。 ──歪んだものが完全に這い出る。──老爺へと、襲い掛かる。 ……これでいい。これで。 ギーは目を閉ざす。キーアとドロシーの悲鳴が聞こえている。だが、構わない。これが彼の望んだこと。 老爺の声がする。ありがとうと告げる声が確かに。 老爺の姿を持つ彼は望んだ。己の血が役に立つならと。 己の血を以て、救うことができるなら。捧げることで“それ”が娘を開放するなら。 命さえも投げだそう。それが、私に与えられた命の理由だ、と。 (……僕は) (……彼を、殺すことになる、か……) それはギーの10年の終わりを意味する。立ち止まること。こぼれ落ちる命を諦めること。 ──その時が来た。──この瞬間に。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 ギーは最後のひとつを諦める。目を閉ざしたままで老爺と娘の声を聞く。声には、確かに、悲しさの響きがあった。 (……これでいいと、彼が言うのなら) (これで……いいの、か……) 道化師が言った。 おかえり、と。 ああ……あ……ああ……!!あああああああああああああああああ!! 駄目……外に……!!ああ、あ……あ、ああ……ああああ!! 叫び続けるドロシーの口から、痙攣する四肢から、指先と爪先から。 実体化していく死の塊がある。全身をぐるりと取り巻きつつも抜け出し、己の求める“血”を備えた獲物を探って。 流れ落ちる西亨の血。それを、求めて、蠢き、現れ出でる。 ……ここへ来い!お前の望むものがこの血なら! 幾らでもくれてやる!私の全身、すべてお前にくれてやろう! だから……!そこから、出てこい……! その言葉が鍵となった。 ──歪んだものが完全に這い出る。──老爺へと、襲い掛かる。 呑み込まれていく。娘の体から溢れたものに、老爺が。 ……ありがとう、ドクター。私は、望みを果たすことができた。 これは確かにドロシーから出てくれた。あなたの、お陰だ。 ……あなたの覚悟がすべてです。ミスター。 さようなら、ドクター。ありがとう、ふたりとも。 その言葉が最後だった。老爺の全身が、黒い渦に呑み込まれる。 ……これでいい。これで。 ギーは目を閉ざす。キーアとドロシーの悲鳴が聞こえている。だが、構わない。これが彼の望んだこと。 老爺の声がする。ありがとうと告げる声が確かに。 (……僕は) (……彼を、殺すことになる、か……) それはギーの10年の終わりを意味する。立ち止まること。こぼれ落ちる命を諦めること。 ──その時が来た。──この瞬間に。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 ギーは最後のひとつを諦める。目を閉ざしたままで老爺と娘の声を聞く。声には、確かに、悲しさの響きがあった。 (キーアが聞いていたものは……。 これと、同じもの、だろうか) (……ああ) (……これでいいと、彼が言うのなら) (これで……いいの、か……) 道化師が言った。 おかえり、と。 ──ギーの“手”が伸ばされる。 何かを掴み取るかの如く。叫び続け、痙攣する娘へと伸ばされる。 その姿は、似ていた。手首を刃で傷つける直前の老爺の姿と。 出てこい……!そこから、出て、ドロシーを……! その子を、離せ……!黒くねじくれた化け物め……! その言葉が鍵となった。 ──歪んだものが完全に娘から這い出る。──老爺へと、襲い掛かるために。 『Wooo……』      ──その全身に──    ──描かれたゼンマイ模様── 『Wooooooo…!!』 叫ぶドロシーの背後から、姿を見せる。それは歪みの異形だった。 ひどく歪んだ植物に似た姿。住宅中を軋ませながら周囲に広がり続ける組織を覆う表皮は、黒ずむ血とほぼ同じ色。 幻想的なある種の美しさを備えた植物体。構成するすべてが、人間を浸食する。精神と肉体を砕き、人間を嘲笑する。 ──怪物。──正真正銘の。これは草花ではない。──変異した幻想の植物種では、ない。 知っている。ギーの全身の神経が自然と戦慄する。恐怖に慣れきった体が震え、痺れる。 猛烈な吐き気の正体は、恐怖。この怪物は根源的な恐怖を呼び起こす。 ──クリッターがここに在るはずがない。──そう、理性が叫ぶ。 ──植物に似た姿を覆うゼンマイ模様が。──ギリギリと音を立てる。 ……“死の捻子”……。 まさか、また会うことになるとは。思っては……いなかった。 ──宿主がこの深度で生きているとは。──上層による粛正を免れて。 ──そして。──西亨の血がまだ都市に在ったとは。 その姿をギーは知っている。妖樹。クリッター・ブラッドツリー。 増殖分裂もしくは種子の放出によって自らの摸造体を無限に生み出すクリッター。 都市下層で最も名高く、最も多くの被害を生み出す忌むべき存在。 人を喰らう41のクリッターうちの1体。都市を覆う41の大いなる恐怖のひとつ。 ──知らないはずがない。 ──クリッター。──それは、恐怖の、力あるかたち。 かつて“これ”に襲われる最中に、西享の人々は言った。これこそが悪魔だと。 もしくは、これこそが、西享人の言う“神”のもたらす罰なのだと。異境で繁栄を謳歌したことへの罰そのもの。 生きることを許さない怒り。決して逃れることのできない“これ”を、西亨人は神罰と呼び、恐怖と畏怖を叫んだ。 ……馬鹿な。 神が何かをギーは知らない。けれど、これが何かは知っている。 人を殺すもの。貪り喰らい増殖する死の塊。これらは物体ではなく、現象なのだと、最後の大学教授たちは叫んで絶命した。 ──人の手が届かないもの。──何者にも傷つけられないもの。 ……お前と会うのは。 ねじくれた赤黒い死の塊へと。ギーは手を伸ばす。      ──鋼色の手が──   ──ギーの“右手”に重なって──      ──鋼の右手が──      ──暗闇を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光がひとつ── これで、150回目だ。 ……そろそろ打ち砕かれてもいい頃だ! 僕と“彼”のこの“手”がお前を掴む!クリッター・ブラッドツリー! 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界の違和感はない。道化師はいない。かわりに、異形の影が背後にあるとわかる。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。覗き込む、中型クリッター。41体の死、そのひとつが。 数式を起動せずともギーには視えている。恐慌をもたらす気配を掻き消して、ギーと“彼”は歪んだ植物体の中心を睨む。 ──右手を向ける。──己の手であるかのような、鋼の手を。 ──現象数式ではない。──けれど、ある種の実感が在るのだ。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。サレムの時と同じように。 『Wooooooo…!!』 立ちはだかるギーへと渦が唸り声を上げる!周囲に無数の種子が浮き、現象が発生する。死を振りまくものが確かに視える。 ギーの“右目”は既に捉えている。クリッターのすべてを。 人間の精神と肉体に吸着する黒の種子。あれこそが死だ。死の集合体。歪みの死。跡形もなく人を蒸発させ得る、死の現象。 『Wooooooo…!!』 ばら撒かれる、死の種子。矛先を向けられるのはギーと“彼”! ──揺らめく種子群が空間を埋め尽くす。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間以外には。 もしも種子を避けられたとしても、空間を埋める新たな種子が全身を浸食する。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。疑似植物の放つ種子が歪めるのは虚空のみ。 キーアも老爺もドロシーも。感染させはしない。飛散する種子のすべてを“手”が刈り取る。 『Woooo…!?』 ……遅い。 『Woooooo…!!』 喚くな。 唸り声をあげた黒渦を“右目”で睨む。恐らく今のが恐慌の声か。人の脳神経を破壊し、死か狂気を植える。 しかし生きている。ギーはまだ死んでいない。 以前の自分なら死んでいたのだろうと思う。しかし、今なら、鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。荒れ狂う黒渦のすべてを“右目”が視る!    ──クリッターは不滅──    ──物理破壊は不可能──   ──ブラッドツリーの場合──    ──唯一の破壊方法は──    ──全身の、同時圧壊── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 歪みの死、ブラッドツリー。すべてを弾く表皮と加護された硬質の体。故に、確かに人間はこれを破壊できない。 唯一の破壊方法は全身の同時圧壊。故に、絶対に人間はこれを殺せない。 ギーの目前で149の命を奪った黒渦。あらゆる命を嘲笑する、植物ならぬ影。 砲弾も炸薬も体へ届く前に歪んで消える。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている!──“右手”と連動するかのように! 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “王の巨腕よ、打ち砕け”  ───────────────────! ──打ち砕き、粉々に消し飛ばす。 ──鋼鉄を纏う王の手。──それは、怪物を破壊する巨大な塊。 ──おとぎ話の、鉄の王の手。 押し開いた鋼の胸から導き出された鋼の“右手”は、超高密度の質量を伴って黒渦の全身を叩いて砕く。瞬時に破壊する。 叫び声を上げる暇もなく、超質量に圧されたクリッターは崩壊した。 黒渦のあらゆる部位を。ばらばらに、粉々に、打ち砕かれて。 凄まじい振動を、爆砕するように残して。無音の公園一帯を揺らして── ……音が聞こえるはずだ。……今日も。 オルガンの音だけが、この子のすべて。最後に残った唯一のもの。 きっとこの子は思っているのだろう。奏でる音だけが安らぎなのだと。 ……だから。 私の名をあの子は呼ばない。機関式パイプオルガンを奏でるこの子は、黙ったままで。何も。口にしてくれない。 硬い鍵盤を優美に奏でるその指、その手。その小さな手の震え。私は今も、昨日のように覚えている。 あの時も。今も。私はこの子を救えてはいない。 救えてはいないのだ。神の真似をしても、血を支払っても……。 私は私でしかない……。 ……音が聞こえる。今日も。 耳を澄ませること。それだけが、今の私にできるすべてだ。 ……ああ、これは。……音ではない、音ではなかった。 私の望んだものだ。これは、私が、ずっと……。 ……望んでいた、あの子の……。 スミス……。どうして……こんな……。 ねえ、どうして……。 どう、して……。……どうして、こんなに……。 血が……あなたの、血……。こんなに、流して……。 ……わたしの、ために……? ──雫が落ちる。──ぽとり、ぽとりと床の赤色に混ざって。 ──老爺は倒れていた。 死をもたらす黒渦が消えるのと同時に、膝を突いて、そのまま床へ前のめりに。倒れる音は軽かった。 現象数式でギーが傷を塞ぐも、出血量はあまりに多かった。 動脈を深く傷つけすぎたのだ。傷を修復することは容易にできても、失われた血液を補充するのは難しい。 本来であれば、健康な筋肉組織を血液へと現象数式で置換するところだが。 ──老爺の体は痩せ細っていた。──だから、軽い。 ドロシーは老爺の体を抱く。細い手で抱えられるほどに、彼は軽かった。 西亨の血がそうさせる。云われなき差別は、彼から労働さえ奪う。 恐らくは。ひとりをぎりぎり食べさせるほどの金しか。日雇いの重労働をどんなに多くこなしても。 なんで……こんなこと……。スミス……。 ドクターが……教えて、くれたんだよ。僕の父の血が……。 あれを呼び覚ます……。きみの、体から……。 ──宿主の体から現出するほどに。──彼の体に流れる血に、黒渦は反応する。 そんな……。 わたし、あなたの、娘ですら……。ないのに……。こんなに、血を……。 ……ああ、泣かないで。私のために、泣かないで、くれ……。 ドロシー……。きみは、覚えていないだろうね……。 ……私は、きみの、登録養父である、前に。それより、以前に……。 ……きみの、弾く、オルガンの……。 ……ファンなんだ。だから、ああ……。 泣かないでおくれ……。可愛い、私の、ドロシー……。 老爺の言葉は掠れている。きっと涙のために。 ──涙。そう、涙。──このふたりはそれを失っていない。 ──だからドロシーは生きている。──だから彼は傷ついて。 なに、それ……。なによ、それ、なんなの……。 おとうさん……ばか……!あなたが、死ぬなんて、わたしは……! 一度も、望んでいないんだから……!ばか……! 言葉は激しく。けれど、そこに今までの響きはなかった。 オルガンの音とは何かが違う。キーアが言ったあの旋律とは。違っていて欲しいと、ギーは願う。 ギーの手の中に誰かの暖かさがあった。小さな白い手。 キーアが、そっと手を握っていた。小さな手で。強く。 ──握り返す。──同じことを願う小さな手を。 父と……呼んでくれるのかい、きみは。私の……こと、を……。 馬鹿……。 わたしは……。死んでしまうから、あなたに……。 何も、残せはしないから……。あなたの……。 記憶の中にも、いるまいと……。そう、決めて……。 それは、無理な、話だよ。可愛いドロシー、私は、言ったろう……。 ……最初から、きみの、ファンだよ……。オルガン弾きの、きみ……。 「喝采せよ! 喝采せよ!」 「おお、おお、素晴らしきかな。 第3の階段を盲目の生け贄が昇るのだ」 「現在時刻を記録せよ。 クロック・クラック・クローム!」 「貴様の望んだ“その時”だ! レムル・レムルよ、震えるがよい!」 「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛のかたちあり!」 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇るあるじがひとり。 それは支配者。それは大公爵。それは愚者。インガノックの王。碩学にして現象数式発見者であった魔術師。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、求めて。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。  『あはははははははははははははは!』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 『あはははははは、まだもがくのか! あはははははは、どこかの莫迦が!』  『──最後の«奇械»を無駄にして──』     『──くすくす──』 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 歓喜の声を上げて手を伸ばすけれど。決して、その手は動かない。黒の下、その手は蠢くだけ。      ──彼の左手は──      ──蠢くだけで── ──こん、こん。 ──遠慮のないノックが2回。 返事をする前に玄関の扉が開く。何とも騒々しい。 彼がここに来るのは初めてのことだった。肩に黒い鴉を乗せた、いつもと同じ姿で。元気な声を響かせて。 お邪魔します!ちょっと、近くを通りがかったから! あのさ、キーア……。 あれ? おっかしいな。ここにキーアがいるって、双子の連中が言ってたのにな。 ……何かな。騒々しいね。ミース。 あ、どうも。ギー先生。いたんですか。相変わらず顔色良くないですね。 僕の部屋だからね。 やれやれ、この少年ときたら。どうやらキーアを目当てに来たらしい。 しかし残念なことに今日はいない。アパルトメントにはギーひとり。 キーアならいないよ。友達の家へ遊びに行っている。 ひ、ひとりで外を出歩いてるの!?俺ならともかくキーアは駄目だろ……! 黒猫と一緒だよ。 え。猫? カァ。 いや。安全だよ。護衛役を付けているからね。 そ、そっか。それならいいんだけど……。 ん。友達? 友達だって!?ど、どこの子、どんな奴!? ……女の子だよね!? さて。どうかな。 教えてよ!な、なんだよ、どこの子だよう! ……さてね? なんだようー!!教えてくれてもいいじゃんか、誰だよー! 「きれいな子だよ」 そう小さく告げて。肩を竦めてギーは手紙を屑籠へと捨てる。 それは老爺の手紙。遺書だ。血を差し出すことを決めた彼が残したもの。 自分が死んだ後、ほんのわずかな財産をギーとドロシーへと送るための都市申告書。 丸めて捨ててしまう。こんなものは。ただの紙屑だ。 ……音が聞こえる。今日も。 ……旋律は奏でられる。今日も。 週末のある日。都市の人々はいつものようにここへ集う。 どこからか聞こえる旋律に耳を傾けて。美しく、どこか儚い音。 それは、人々への。ほんの一時の憩いとなるのだろう。 ……音が聞こえる。今日も。 旋律が奏でられる。機関式オルガンは一切の変わりなく。 唯一の違いはひとつだけ。たったひとつ。 ──オルガンの旋律に込められたもの。──想い、ひとつ。 ──たゆたう海の中で私は漂う。 都市のあらゆる場所を駆けめぐる情報。無数の情報の海の中心に私はいて、けれども、私は、どこにもいない。 優しい父さま。愛しい母さま。 私の手はどこ。足は。私の胸は、腹は、顔はどこにあるの。 ──たゆたう海の中で私は思う。 ──誰かが私を呼ぶ声を。──あるはずのない、私への呼びかけを。 ──都市摩天楼の朝。 企業や都市管理部のビルディングへと通勤する市民たちが行き交う中で。 ビルディング同士を繋ぐ回廊で生活する不法居住者の厚紙小屋の手前に、ふたり。黒猫と鳥の影。 ふたりとも荒事屋。この都市摩天楼は彼らの主な仕事場だ。 本来であれば、堂々とこの回廊を歩ける身分ではない。襲撃したビルディングは数え切れない。 それでもこうして佇んでいられるのは、彼らの様子が際立っている訳ではないから。動きやすい服装や、装甲を施した服装でも。 装甲型の改造上衣を纏った企業人も多い。武装や警戒の服装は珍しくない。 ここには金が集まる。つまり危険も集まる。だから、彼らは人に紛れることができる。 それに何より。今日はかなり目立つ存在が近くにいる。 ……やれやれ。 真相を究明ね。また、随分と曖昧な依頼もあったもんだ。 文句垂れてんじゃないの。鳥は嫌なこと忘れるのが特技でしょうが。 うるせえよ、黒猫。こちとら脳みそは最悪なことに元のままだ。 何、その言い方。あたしが頭ン中まで猫みたいな。 違ったか? 違わないけどさ。 猫でも依頼を記憶することぐらいはできる。機関エネルギー配分異常の原因を究明する、都市管理部からの依頼。 珍しいこともある。上層から渡された権限で行政を担当する都市管理部は、多くの場合はふたりの敵。 敵。いいや、標的か。情報書庫や金庫を狙った襲撃の。 とりあえず生き延びることだけ考えよっか。あんまり前へ出ると、流れ弾喰らう。 違いねえ。案内止まりだ。せいぜい連中を見物させて貰うぜ。 あたしはパス。見物しない。連中見てるとイライラするのさ。 ちらりと背後を見る。貴族紋に似た防御効果を高める数式紋を刻んだ鋼鉄の鎧。完全武装の上層兵たち。 いつもなら。その姿を目にした瞬間に逃げている。 都市管理部や上層の息がかかった施設を警護する、半機械の無感情な兵士たちだ。本来は上層の守護をするはずの連中。 ──上層兵。──時に騎士とも呼ばれる機関人間。 どうせ、あれだよ。原因とやらを突き止める一歩手前でさ。 連中が手柄を横取りする? そそ。お決まりのパターンさ。もう飽き飽き。 だな。だが、そう上手くいくことを祈るぜ。せいぜいうまく横取りして欲しいもんだ。 触れちゃなんねえ情報のレッドゾーンに触れでもしたら、俺たちはたちまち── 平気。そんなヘマしないさ。あたしたちはプロなんだから。 違いねえ。 生意気な鳥が翼をすくめる。器用なものだ。 アティも一緒に肩をすくめる。真似した相手は、青白い顔の男だけれど。 依頼は完遂するさ。いつも通りに。       【解析深度2】     【高密度情報体との対話】 ──暗闇の中で。 ──僕はクリッターとの対話を始める。 『なぜ、それが起きたのか』 『都市計画は完全だった』 『生産性を内包した、人間のための 完全な都市空間。そう、完全環境都市』 『農業、漁業、工業、商業のすべてを 都市ひとつに内包し、外部との接触を 行わずに孤立しても生き続ける……』 『……永遠の都市だ』 『千年王国だと西享の人々は呼ぶだろう。 そう、まさに夢の楽土だ』 『誰もが不可能であると言った。 机上の空論ですらないと。だが』 『ひとりの天才がそれを可能とした』 『大公爵アステア』 『誰もが彼を信じた』 ──そう。誰もが。 『あれが起きるまでは』 ──僕は、声の主に相づちを打つ。──そう。お前の言う通り。 ──誰も、現在の都市を望んではなかった。 ──朧気な記憶の中。思う。──人は、明日を夢みていたはずだ。 ──インガノック。──ここはもはや楽園ではない。異形の都。 きっと、お前たちも。こんな都市は望んでいないはずだ。 『……ああ』 『……お前とは。 きっとわかりあえると思っていたよ』 『ギー。愛すべき生け贄よ』 ──ああ。──そうだな、クリッター。 ……何だって? ……依頼? 僕に? そう、お前さんの指名依頼だよ、ギー。驚くなかれ1級市民からの治療依頼だ。これは滅多にあることじゃあないぞ。 わざわざ開院前の忙しい時にお前さんを呼びつけたのは、冗談でも何でもないさ。 私は滅多に冗談を言わないしな。馴染みの情報屋が持ってきた話なんだ。私への依頼と思ったが、どうやら違う。 1級市民クライン氏からの治療依頼だ。場所は都市摩天楼。 そう言うと、芝居がかった仕草でエラリィは一通の電信通知書を渡してきた。 押された判は都市管理部の紋章。正真正銘の、公式電信を用いた通知書だ。 珍しいこともある。この第7層で公式の電信通知書とは。何かの間違いだろう、とギーは思う。 そんな顔をするな。鑑定を故買屋連中に頼んだが本物だよ。 随分、気前がいいな。 それはそうと電信文の内容だ。なかなかにロマンチックな文章なんだ、これが。お前さんも読んでみるといい。 幾らかかる? ロハだよ。この程度は。 ……冗談だったんだがね。 お前の冗談は笑えないんだよ、ギー。ほら。読んでみろって。 促されるまま通知書へ目を向ける。旧型電信装置が用いられた、電信の文章。電信文。一部の人間は電報と呼んでいる。 同時通話が可能となった無線電信通信機が現在のインガノックにおける通信の主流だ。こうした電信文は珍しい。 目を通す。通知書の中に記された電信文。 『ドクター・ギーへの依頼書』 『都市摩天楼の高層建築群の一角、 A区10番ビルディングへ行ってくれ』 『主人のいない書庫ビルディングに ただひとり残されたルアハ・クラインを』 『助けて欲しい。 私たちの産み育てた愛しい子を。 どうか、あの子を、救ってくれ』 『──1級市民アーサー・クライン』 ……これだけか。 これだけだ。 ……病状は? 不明さ。その微妙に詩的なような文章だけ。しかし、割が悪いとは思わないで欲しいな。報酬はかなりいい。 クライン氏の名義で口座が開設されている。通知書番号を入力すれば中が開く。 と言う訳で。既に報酬は頂いている訳だよ。流石は1級市民、前払いだ。 ……取り分は? いつも通りだ。 ……きみが2割か。 ──エラリィへの斡旋料。──普段は報酬の2割だったはずだが。 この表情は欲に目が眩んでいる時のものだ。どうやら2割では済みそうにない。 ……3割? けちけちするなよ、私たちの仲だ。山分けといこうじゃないか。 ……4割か。 お前さんと私は良い友人関係を築いている。大学連中で今でも続いてるのは私だけだろ。仲良くすべきだぞ、ギー? ……わかったよ。5割だな。 10と言わない私は親切だと思わないか。なあ、何せ私たちは友人だからな。       【解析深度3】    【高密度情報体との対話】 ──暗闇の中で。 ──僕はクリッターとの対話を続ける。 『……10年前』 『人々と大公爵の夢を打ち砕く かの«復活»がこの都市に顕現した』 『悪夢のような«無限霧» 肉体の変異と、死を招く奇病の流行』 『巨大湖の上にあったことも災いして 我らの都市は世界から完全に孤立した』 『そして41体の俺たちが クリッターがインガノックに現れた «はじめからそこにいた»だけだが』 『わかっているのだろう、ギー?』 ああ。 ──ああ。わかっている。──あの日から、死の時代が始まった。 ──今こうして。──かろうじて人々が暮らしていくまでに。 ──多くの惨劇があった。 ──41体の力ある現象。──恐るべき死のかたちが人々を蝕んだ。 『その発生と由来は異なるが』 『今や我々と人は不可分だ。 少なくともこの都市においては』 『わかっているのだろう、ギー?』 ああ。 ああ。わかっているとも。バンダースナッチ。 ──こいつだ。 ──こいつがこんなにも大きな穴を穿ち。──か弱い人の心に巣くうのだ。 ──鍵を開けて。 ──玄関の扉からリビングへ入る。 ギーは少しだけ戸惑いを感じる。見慣れたはずのアパルトメントの風景に、他人の部屋であるような違和感があった。 まだ朝の気配が残っている。歪んだ小鳥の囀りが窓越しに耳へ届く。 耳へ届くのはそれだけではない。音がギーの耳に届く。 ──音と。──これは香りか。 落ち着きを伴って響く調理の音と、安い合成ベーコンを油で焼く香り。 ギーはリビングから厨房へと視線を向ける。調理をする少女の姿があった。 キーアの後ろ姿。この部屋を他人のものと感じた原因だ。 アパルトメントに漂う生活感が、既にこの少女のものになっているのだろう。まるで、初めから彼女の家であったように。 その後ろ姿を、ギーは見つめて。彼女が無事であることをまず確認する。 日の出前にエラリィからの連絡があった。すぐに来てくれという話だった故に、彼女をここでひとりにしてしまった。 勿論、短時間の護衛と監視の依頼はした。アティの知己という«蜥蜴»の青年にだ。ギーは彼の顔を知らない。 無線電信通信機。先ほど目にした電信文のものよりも新型の。それを用いて、荒事屋の青年に依頼をした。 ──顔を知らないがために。──やや、不安はあったものの。 どうやら無事に何事もなく、この1時間は過ぎてくれたらしい。 キーア。おはよう。すまないね、ひとりにさせて。 あ、おかえりなさい。戻っていたのね。 おはよう、ギー。全然大丈夫よ。恐くなんてなかった。 恐かったのかい。……悪いことをしたな。 恐くないです。平気よ。前にもあったから慣れています。 ……なら、いいんだが。 もう少しで朝食できるから。お弁当も、ちゃんと今日は用意したの。 ああ。ありがとう。 いいえ、どういたしまして。今日は二口くらいは食べてくださいね? 善処するよ。 ……食べてくださいね? ……善処するよ。 もう。頑固なギー先生。倒れてしまったら許さないんだから。 頬を膨らませる少女を見て。ギーは、どこかに安堵する自分を感じる。 言葉を交わして初めて実感が湧く。確かに彼女は無事だ。 顔も知らない相手に安全を任せた不安を、今更ながらに自分は感じている。アティの知己とは知っていても。 ──顔も知らない相手、か。──なるほど。 (僕を名指ししてはいたが) (クライン氏。 あなたは、僕とは面識がないはずだ) (……あの子を頼む、か) ギー?どうかした? いや。少し考え事をね。キーア、今日は少し上へ出掛けるよ。 上……あ、もしかして。上層階段公園?ドロシーのところへ行くの? 残念ながら。高度の座標は近いけれどね。 都市摩天楼へ行くんだ。さっき、エラリィから治療依頼を受けた。第1級市民の所有するビルディングへね。 としまてんろう? ん。 聞き覚えはあるのだけど……。としまてんろう、どこだったかしら……。 (知らないのか) 表情をなるべく変えないように意識する。ギーは、僅かに驚いていた。 都市摩天楼を知らないと少女は言う。あれは、この都市の心臓部にして中枢部だ。市民子女の教育プログラムでも教えられる。 以前、子供たちの教育プログラムを目にした時に確認した。 都市摩天楼。都市の情報集積地帯であり、行政区であり、大規模機関エネルギーを分配する中枢区だ。 都市下層のすべてを管理する行政機関たるインガノック都市管理部のお膝元でもある。上層にある意味で最も近い場所だ。 上層階段公園は距離として上層に近い。対して、都市摩天楼は機能として近い。 何よりも、経済特区であるという特徴。それは他の層にはないものだ。 キーアくらいの年齢で、聞いたことがないというのは奇妙だ。 ──聞き覚えがある、と。──口にしてはいるけれども。 (……たとえばキーアが、 第1層や2層の箱入りだったとして) (家庭教師が就くだろう。 彼らが教えずにいるものだろうか) (両親の会話の上に出て来ないだろうか。 第1層や2層の市民なら、特に) としまてんろう……。ううん、えと、何だったかしら……。 キーア。たまに、部屋の灯りが消えるだろう? ええ。突然真っ暗になったり。でも別の区画の灯りはついていて……。 あれは、都市摩天楼にある管理部の運営に異常が起きてる証なんだ。 灯りが消えてから再び点くまでの間に、管理部の職員やエネルギー企業の社員がライフライン機関の修理をしているんだ。 そうなの……。すごく、重要で大切な場所なのね。 ああ。そうだよ。 嘘は言っていない。だが、すべてを告げた訳でもない。 都市摩天楼は確かにエネルギー管理区だ。だが、最大の特徴は経済特区であること。あそこには汚い金が常に集う。 下層の人々から搾取した金だ。税金であっても企業収益であっても同じ。 ──この少女は。──まだ、知らなくても良いことだ。 都市にはびこる汚れを知らせたくはない。それはきっとキーアの表情を曇らせる。 いずれ知る機会はあるだろう。それをもたらすのは自分でなくとも良い。 (……エゴイストだな。僕は) あ。思い出したわ! そういえば、アティが言っていたもの。とし……都市摩天楼でお仕事をするって。 アティがいつもお仕事をする場所。都市摩天楼。 そうでしょう?ギー、ね。正解かしら? ……ああ。正解だ。 ──そう言えば。確かに。──しかし、いつ黒猫は言ったのだろう。 ──自分の知らない間。──たとえば朝の十数分程度であるとか。 わかったわ。都市摩天楼へ行くのね。もしかしてアティのお手伝い? いいや、違うよ。治療依頼と言っただろう? あ、そうね。そうよね。アティに会えるのかと思って、早とちり。 彼女の真似は僕にはできないよ。体が保たない。 ギーの仕事とアティたちの仕事。その差は大きい。 アティたち荒事屋の請ける依頼業務とは、内容も意味も、何もかもが異なっている。対極とは言わないが。 どちらも命の近くにある仕事なのだろう。だが、ギーにはできない。 彼らの存在が都市に必要ということは、痛いほどよくわかる。今日も、依頼をした。 ──だが。自分にはできない。 ──この手を赤色に染めること。──それは、救うためにだけ行うと決めた。 ……そういえば、キーア。 はい? アティの仕事の内容について、何か聞いたかい? ……。 キーア? ……ん〜。 ? それは誰にも、しー、なのよ。言えないわ。 キーアは自分の唇に指を当てる。……なるほど。 教えられたのは確かなのだろう。そして、その内容は機密であるらしい。 危険に関わる知識は得て欲しくなかったが。口が堅いということは、わかって良かった。なかなかに逞しい。 ギーは息を吐く。思ったよりもよほど、この子は逞しい。 口の堅さは生き延びる秘訣。特に、誰かの秘密を口にしないのは絶対だ。 ──妙に繊細な心配をするまでもなく。──立派に都市の住人だ。 ……聞けなくて残念だよ。では、食事を終えたら行くとしよう。 都市摩天楼へ、ね。 はい! 都市摩天楼へと昇る方法はふたつ。上部層プレートへ行く方法と同じものだ。 ひとつは層と層を繋ぐ大階段を昇ること。だが、これは、あまりに現実的ではない。時間も体力も消費しすぎる。 もうひとつは、上層階段公園へ行くのと同じ感覚だ。昇りモノレールを使う。 都市摩天楼への路線は、公園行きと違って最寄り駅から通っている。ギーのアパルトメントから徒歩数分の場所。 ──幾つか列車を見過ごす。──ここから摩天楼への本数は多くない。 幾らかの待ち時間があった。そっと伸ばしてくるキーアの手を握って、ギーは自分の脳内器官の状態を確認する。 問題ない。器官に刻まれた現象数式は正常だ。 変異した大脳は、ギーに特異な感覚機能をもたらしていた。脳内器官のオンオフの切替と状態把握だ。 (症状不明、か) (いつもとそう変わりはしない) (……すべきことを、するだけだ) ね。ギー? 何かな。 都市をこう作ったのは王さまなのよね。上層貴族の誰よりも偉い方。 ああ。そうだよ。 どうして王様は、こんなに町を積み上げてしまったの? キーアの視線は上へ向けられている。ここ第7層よりずっと上方。 きっと都市摩天楼を見ようとしている。残念ながら、方向が違うけれど。 完全環境都市計画というものがあってね。それに基づいて都市は設計されたんだ。 もっとも、その計画は途中で放棄されてしまったけれどね。今から行く場所には名残りがあるよ。 あーころじー計画……。それも、聞いたことがあるわ。 何だったかしら。 “生産性を内包した、 人間のための完全な都市空間” “農業、漁業、工業、商業のすべてを 都市ひとつに内包し、外部との接触を 行わずに孤立しても生き続ける理想都市” それが、10年前の謳い文句だ。正確かどうかは覚えていないけれどね。 都市計画の理念。そらで言えることに自分でも驚く。 過去の多くを都市の人々は思い出さない。過去は«復活»の悪夢を蘇らせるからだ。 それが、すっと記憶の中の言葉を言えた。随分とよく覚えていたものだ。 うん、うん……。 思い出した。そう、確かそうなのよね。 都市の皆が暮らしやすくなるための計画。そんな風なこと、聞いたことがあるわ。 なぜ大公爵が言い出したのかは、誰にもわからないけれどね。 そう、誰にもわからない。計画遂行と放棄の本当の理由は不明だ。 机上の空論でさえないと言われた計画。それを彼は途中までは組み上げた。 もしかしたら、彼は“できる”と思いついてしまったのかも知れない。 大公爵は理工の碩学だったからね。彼は数を操る天才だった。あのレイディ・エイダのように。 碩学……。 天才のことさ。書物を読み解くのに精いっぱいの僕らとは桁の違う知能を持った、本物の天才たちだ。 世の中を変えてしまうほどの頭脳。それを備えた人々だよ。 大公爵……。都市の支配者は、そのひとりだった。 すごい人だったのね。王さまは。 ──凄い、か。──彼は確かに凄絶な人物だった。 物理さえねじ曲げる現象数式と数秘機関。そんなものを作り上げる人間など、世界中を探しても彼しかいないだろう。 昔はね。 今は? 今は、どうかな。 ……大公爵さまは、どこにいるの?上層に住んでいらっしゃるの? そのずっと上さ。誰よりも上で。 彼は玉座にいるはずだよ。今もね。 都市摩天楼。都市唯一の高層ビルディング・プレート。 都市の中枢部にして心臓部。最も多くのシリングが集まる経済の中心区。行き交う企業人と都市職員たちの大きな巣。 都市下層にあって、上層階段公園と並んで異彩を放つ区画だ。 建造途中の高層ビルディングは、朽ち果てるがまま放置されているのに。人々はそれには関与することなく働く。 廃墟であるのと同時に、ここは都市で最も価値あるものが動く町だ。 ──死にながら生きている。──または、生きながらに死んでいる。 富裕層の企業人たちが行き交う中で、不法居住者たちの厚紙小屋が回廊に目立つ。都市管理部は彼らを時折にしか排除しない。 登録市民としての生活にあぶれた者たち。不法居住者、スクワッター。 生きながらに死んでいる町ならば。どちらがどちらを象徴しているのだろうか。 企業人や都市職員、それとも、不法居住者。どちらが生きていて、どちらが死んでいる? ──少なくとも。──ギーにとっては後者こそが生ある人だ。 彼らの言葉には感情がある。計算装置そのものを目指す企業人や、行政歯車でしかない都市職員よりは。 ああ? なにぃ?A区10番の書庫ビルディングだって? ああ、あの幽霊屋敷かよ。よくねえ、よくねえな。 悪いこたぁ言わねぇよ。そんなとこに行くのはやめときなよ。 兄さん、そのナリじゃ下の層の人間だろ?商会や企業のさらりまんじゃあるめえ? ならあたしたちと変わりゃしないよ。これは忠告だ、行くのはよしな。 ……ああ。やめたほうがいいさ。死人に呪われちまうって専らの噂だぁ。死人か人形しかいやしねえ。 死人か、人形? ああそうさ、死人か人形だ。そこにゃそれしかねぇ。 めぼしいもんはなぁんもねえ。盗みに入る奴だっていやしねえんだ。 おっかない機械の自動人形がいるだけだ。あとは、死人だけ。 自動人形……。死人というのは? さあねえ。見たって奴がいるだけで、詳しい話は誰もしらねえよ。 行ったら呪われちまうんだ。狂った挙げ句に飛び降りて死んじまう。だから、誰も、近づきゃしねえ。 ……で?兄さん、なんであんなとこ行くんだ? 彼らの声に込められた感情。それは、多少の好奇心と幾らかの恐怖。 彼らの言葉は矛盾している。呪いの噂話をする割には、目撃者はいない。ただの噂に過ぎないのか、幻想生物の影か。 どちらとも判断はつかない。だが、情報は情報だ。 聞けることは聞いただろう。床に置かれた空き缶へと数シリング入れて、ギーは、すぐ後ろにいるキーアへ振り返る。 はい。はい。鬼さん、こちらにおいでなさいな。 ググ、目ヲ閉ジテ声ヲ頼リニ……。コレハ難シイ遊戯デスネ、ギギ。 目隠し鬼って言うの。でも、あなたちゃんと目を閉じてる? ギギ。失敬ナ。チャントホラ、ギュットシテマスヨ。 どこ?どこに目があるの? ホラ。モノ・アイ、ガ……。スリットノ中ニミエマセンカ? ここ? アッ、ソコハ……。 あれ。じゃあここ? アアッ、ソコハ……!ヤダ、モウ、オ嬢サンッタラ! ??? ──こんな高い層に精霊がいるとは。──少しだけギーは驚く。 遊び相手を見つけたばかりのようだが、時間はあまり無駄にはできない。ギーは、こほんと、咳払いをひとつ。 ごめんなさい。あの子、遊びたそうにしていたから。 いいや。急かしてしまってすまないね。 ……機関精霊の表情がわかるのかい?彼らの鉄の顔で? わかるわ。え、ギーにはわからないの? どうかな。 あ。わからないのね。駄目よ、ギー。人の顔はよく見なきゃ。 ──人の顔、か。──機関精霊も人間も区別がないのか。 他の誰かが言えば肩をすくめている。だが、ギーはそうしなかった。 そうだねと小さく言葉を述べて。キーアが自然と伸ばしてくる手を握って。 目指すべき場所。A区10番の書庫ビルディングへ向かう。 ──A区10番。 ──建造物に鍵はかかっていなかった。 ここがクライン氏の指定した場所だ。高層ビルディングにしては幾らか小さい。 鍵のかかっていない大型鉄扉。扉前の床を踏むと自動的に開閉した。 観察するギーの感覚からすれば、建築から10年以上は経っているはずだ。それにしては開閉扉というのは些か変だ。 開閉扉は6年前に発売された機関製品だ。つまり、アーサー・クライン氏は最高で6年前にここを改築したことになる。 内部へ入ると── 人の気配のない空間がふたりを出迎えた。キーアが咳き込んだのは、埃のせいか。 情報書庫ビルディング。都市摩天楼の一面を象徴するかのような、それは、書籍による情報の集積体だった。 無数の書棚が広がっている。図書館。いや、違う。 書籍の形で保存される、情報の倉庫なのだ。ビルディングすべてが書棚で埋まっている。ある意味では見事だ。 しかし、不気味でもある。確かに人間の作った建造物であるのに。 そこには生活の気配が感じられない。企業のビズ・ビルディングでさえ、ここよりは生活感が充ちているものだ。 どなたかいませんか。下層第7層より参りました── ……もしもーし? キーアの声はあまり反響しない。書棚へと吸い込まれて。 声の反響が終わると。しん、と静寂がビルディングに充ちる。 (誰もいない? そんなはずはないが) (場所は間違えていない。 A区10番の情報書庫ビルディングだ) 現象数式の“目”を用いて、内部の熱反応を探査するべきだろうか。 そう考えた矢先。書棚に充ちた玄関ホールの先で、何かが。 暗がりから歩みよってくる人影があった。ホールの奥から、何者かが、姿を見せる。ひとり── ──いや、ひとつと言うべきか。 (……ルアハ・クライン?) (いや、違うか) (これは……) それは人間ではない。鍛え上げられた鋼鉄で作られたそれは。 人間ではなかった。人間と、よく似た姿をしていたけれど。 ──いらっしゃいませ。お客様。 ……わぁ……きれい……。 感嘆の声にギーは同意する。確かに、美しい。 果たして、姿を見せたのは──ひとつの自動人形だった。 数秘機関式の自動人形。人間の代わりに労働を行うために作られた、鋼鉄で構成された、人型の作業用機関機械。 芸術的な完成度と言っても過言ではない。美しいという形容詞が確かに似合う。 自動人形。こんなにも見事なものは初めて見た。 第1層や2層で見かけられる自動人形は、機能を優先されているが故に、ここまで人間の外見を正確には模さない。 この、目前に現れた“彼女”は。人間と見間違うほどだ。 ──芸術品。 ──そんな言葉が脳裏に浮かぶ。 ご機嫌よう。お客様。 ギーは“彼女”の姿を見る。自動人形は、女性の“かたち”をしていた。 唇が動くと声が届いた。人間のものと一切変わりがないような声。よく出来ている。高価な人形なのだろう。 一流の造顔師の手によるものであろう顔。全体のバランスと美しさを考慮されて形成された全身のフォルムは、滑らか。 一目見ただけで“女性”の姿とわかる。球体関節さえ優美に映えて。 ご機嫌よう。あなた、お名前は? 人形は、言葉に反応しない。当然のことだ。 人間のような雰囲気を伴っていても。表情すらあるように見えても。確かに、これは綺麗な人形だ。 まるで人間のように繊細な瞳。見れば、その眼球は硝子製だとわかる。 しかし── 何とも不釣り合いだ。この書庫ビルディングには似合わない。 埃さえ積もった書庫の城。こんな場所に、こんなに見事な少女の細工、自動人形とは。クライン氏の趣味だろうか。 市民カードをご確認いたします。お客様方。 ああ。 自分とキーアの個人機関カードを渡す。一瞥しただけで、“彼女”は頷いてみせた。 確認いたしました。承っております、ギー様。 ご苦労様です。ワタシには検索機能があります。お探しの情報を仰って下さい。 いや、違う。ここには人を訪ねに来た。 ここには誰もおりません。 誰も? いないの?ここには、あなたがいるのに。 ここには誰もおりません。 ?? 彼女は人間の数をかぞえているようだよ。自分のことは数に入っていない。 ……そう、なの? クライン氏がいらっしゃるはずなんだ。ルアハ・クライン氏。わかるかい? ルアハさまはお亡くなりになっております。お探しの情報を仰って下さい。 ここには、都市建築史および現在に至るまでの都市下層史が納められています。お探しの情報を仰って下さい。 ……死んだ? はい。ここには誰もおりません。 お探しの情報を仰って下さい。ワタシは、お客様の入力を待機しています。 ──お探しの情報を仰って下さい。 ……探している情報。 探している情報はルアハ・クラインのもの。ギーはその彼か彼女を治療に来たのだから。けれども。 けれど、自動人形は言った。 「ルアハ・クラインについて。 私の正式所有する情報は多くありません」 「1級市民アーサー・クライン氏の血族」 「性別不明。 年齢は十代後半から二十代前半。 生前より健康状態に難あり」 「重度の変異病に罹病していたとの情報」 「死因は変異病の悪化による」 「葬儀は行われていません」 「配偶者なし。 扶養家族もなし。以上です」 ──死んだ。──確かに自動人形はそう言った。 エラリィであればここで帰っていただろう。けれど、ギーはそうしなかった。 自動人形に案内を頼み、書庫ビルディングを見て回ろうと決めた。 ルアハ・クラインは本当にいないのか。それを確かめてからだ。この書の城を去るのは。 しかし── 小1時間が過ぎても、ギーは人間の痕跡を見つけられなかった。この書庫ビルディングの、どこにも、だ。 書棚も床も壁も綺麗に掃除されている。けれど、それだけだ。 給湯室のポッドが沸かされた形跡はない。機関式冷蔵庫の中の合成アルコール飲料、その賞味期限は1年前。 ──そして、何よりも。 水洗式の便器の痕跡だ。もう数ヶ月間、水が流された形跡がない。 便座の蝶番の経年劣化をも“右目”は視た。最低半年、稼働した形跡がない。 つまり。少なくとも半年間、人間は活動していなかったことになる。 (本当に、既に。 ルアハ・クラインは死んでいる?) (なら、クライン氏の依頼は? 彼に確認を取る必要がある、か) ここに在るのは本だけ。本以外の何も、自動人形と埃以外には。 ──本。──そう、本だけだ。 ふと、書棚の本を手に取る。都市管理部非公認の下層第7層の記録書。 都市下層史の記録か。貴重な本だね。 いいえ。それらにはもう何の価値もありません。 このビルディングの中央機関。その情報書庫に、ここの書籍すべての情報は既に分解蓄積されているのです。 なるほど。 情報の抜け殻、か。 本を戻す。同時に。視線が一室の扉を捉えた。 脳裏に妙な予感が浮かぶ。背後で誰かがあそこを見ろと囁くような。 あそこは? クライン氏の居室です。 入っても? はい。現在は誰もおりません。ご自由に。 クライン氏の居室か。ここを別邸代わりに使っていたのだろうか。 彼の邸宅は第1層にあるはずだ。1級市民はそこに住むことを許されている。 ──扉を開く。──確かに、なるほど。 ギーは溜息を小さく吐く。もうクライン氏への確認は取れなくなった。ここに、この部屋の中に彼がいるのだから。 薄く開いたドアの向こう。部屋の中。 この書庫ビルディングの中で唯一、生活の痕跡らしきものがある部屋に見える。机、水の注がれたコップ、そして、人の影。 木乃伊化した死体だ。乾燥しきって、白骨になりかけている。 ……クライン氏か。 はい。 ……掃除は……。そうか、この部屋は命令されていないか。 はい。 ……そうか……。 なに?そこで何か見つけたの、ギー? ここにいて。中を見ないようにしなさい。 ?? きみ、キーアのことを頼むよ。中を見ないように。 はい。 何、やっぱり何か…… きゃあっ。ち、ちょっと、あなた!? 失礼いたしました。しかし、ドクターより侵入禁止の命令を入力されました。お許し下さい、キーア。 ど、どこ触ってるの!?きゃあっ、もう、やめ……ギー!? すまないね。すぐに戻るから。 薄く扉を開けて部屋の内部へと入り、ギーは痕跡を探る。 死因はこれでは判別できない。内臓部分が既に風化しかけているからだ。乾燥のお陰で、腐乱もなく、異臭もない。 机に上体をぐったりと倒した形で、クライン氏らしき遺体は木乃伊化していた。 右手がひとつの機関機械に掛けられている。死の間際に彼が触れたものだ。 ──旧型の電信通信機械。 死の寸前にこれを使おうとしていたのか。旧型の電信通信機を用いて、あの治療依頼を送ろうとしていたのだ。 彼の遺体の下にあったメモ。その文章は、電信文と完全に一致した。 これを見ながら電信信号を打ったのだ。ひとつ、ひとつ。迫り来る死に耐えながら。 ──彼は自分の治療依頼を送ろうとした?──いいや、違う。 電信文には確かに「愛する子ルアハ」と書いてあった。彼自身ではない。彼の家族か血縁者であるはずだ。 恐らく、今朝。何かの拍子で通信機が作動したのだろう。 ……なるほど。 あなたの依頼は受け取っている。安心して下さい。 あなたが助けを求めた彼もしくは、彼女。見つけないまま去りはしない。 ──短く告げて。 部屋から出てすぐに扉を閉める。キーアが決して中を覗くことがないように。 もうキーアは抵抗していない様子だった。静かに自動人形を見上げている。 戻ったよ。この部屋にルアハ・クラインはいない。 ……そう……。 きみ、質問があるんだが。 はい。 ルアハ・クラインが亡くなったのは、クライン氏がああなった前かな。それとも……。 前と記録されています。 ……そうか。 まさかとギーは思う。この自動人形が、ルアハ・クラインか? この見事な自動人形が、依頼にある要治療者なのだろうか。 自動人形を家族と呼ぶ人は少なくない。もっとも、高価な自動人形など所有する人そのものが少ないが。 ──ギーは考える。──たとえば、仮定の話として。 クライン氏は息子また娘が死んだ後に、生き写しの自動人形を作らせた、とか。 そういえば……。 きみの名前を訊いていなかった。きみはR・ルアハ・クラインかい? いいえ。違います。 私に型式番号は付属していません。私はオーダーメイドです。 私の通称をお付けになる前に。クライン様がお亡くなりになりました。 そうか。 自動人形は嘘をつかない。ならば、そうではないのだろう。 ──けれど。 キーアは彼女を見つめている。黙ったまま。 つい先ほどまでは騒いでいたというのに。今は、静かに自動人形を見ている。 人間の横顔へとそうするように。感情の色を伺うが如く、じっと静かに。 (……手がかり、か) (この自動人形? いや、他にもまだ情報はあるはずだ) (……ここをどこだと思っている。 ギー、すべきことは山ほど残っている) キーア。 はい、ギー? ここで少し待っていなさい。彼女と一緒に。 え……。 きみには自衛機能があるはずだね。名もなき自動人形のきみ。 はい。 大型幻想生物の出現に耐えうる設計が、私には成されています。 大人であれば1名。子供は2名まで安全に保護できます。 充分だ。よろしく頼む。 充分どころか。戦闘用でないのなら過剰な能力だ。 だが、あり得ない話ではない。愛玩人形へ機能付属する富裕者は存在する。 ──愛人兼護衛。──少なからず需要のある存在だ。 命令を入力いたしました。了解です、ドクター・ギー。 ギー、どうしたの。ひとりでどこかへ行くの……。 ああ。調べてみようと思うんだ。この書庫のすべてをね。 蓄積された情報書庫とやらを、確認してみたい。 クライン氏は最後の場所にここを選んだ。半ば死した状態の情報書庫ビルディング。 その意味は必ずある。そして、ルアハ・クラインに繋がるはず。 ──それを探し出す。──そのためには、あれが必要だ。 都市摩天楼の回廊。心持ち、早足になりながらギーは歩く。 あれを借りるアテを考える。まさか、都市管理部などに顔は出せない。順当に、スタニスワフへ連絡をすべきか。 現在でこそ情報を主に扱っているものの、彼の本分は故買屋だ。物品の入手のプロ。金さえ積めば何でも買える。 キーアの偽装戸籍。仕事依頼と下層貧民の傷病者情報。それに、そう、あれも入手できる。 だが、金がかかる。それに時間も相当に費やすだろう。 彼は無線電信による対話を好まない。頼み事をするなら顔を出したほうが良い。 ──時間か。──既に半年以上は費やされているが。 ──なぜだか気が焦る。──ルアハ・クラインは“今”危うい。 ──そう思えてならないのだ。──理由はない。 我知らずひとりごとを呟いていた。時間がない。理由がない。 そんな時、聞き覚えのある声が届いた。それは黒猫の鳴き声か。 やあ、珍しいとこで会うね!こんな場所でブツブツ呟いて、何さ? ギー。また顔色悪いじゃない。ちゃんと寝てる? ……アティ? そ。きみのアティさ。 なぁにがきみのアティだ気持ち悪ぃ。よう旦那、あんたが例の数式医だな? 丁度、いいところに顔出してくれたもんだ。クリッター討伐隊の従軍経験があるんだろ?今日の仕事、付き合わないか? あのぅ。臨時雇用登録者は2名ですよ。新しい方はご遠慮くださらないとー……。 ケチケチしてんじゃねえよ。数式医の後方支援は命に関わるんだって。 駄目なものは駄目ですよ。本当に必要なら正式書類で申請して下さい。じゃないと、誰も雇ってあげられませんー。 で、それ何日かかるんだ。 早くてぇ。3日くらいですー。 ここは雑踏街の演芸場か。ったくこれだから……。 ギー?何ぼーっとしてるのさ。聞こえてる? ……ああ。 声の主は黒猫のアティ。それに«鳥禽»の青年と«蹄馬»の女性、更には上層兵らしき一団を背後に従えて。 思わず目を疑う。何だ、これは何の集団なんだ。 ──荒事屋と上層兵?──«蹄馬»の女は管理部制服を着ている? ……どんな顔してんの、ギー。 あー……まあちょっと説明しにくい集団か。 今回はまっとうな仕事なのさ。都市管理部絡みのね。だから、こうして上層兵の面々もご同行。 ……なるほど。 わかったようなわからないような。だが、これは僥倖だ。 やはり«蹄馬»の女は都市管理部の人間か。求めていたあれが入手できるかも知れない。アティ様々、だ。 会えて良かった。アティ。 会えて良かった、と来たよ。こりゃまたお熱いこって。おふたりさん。 旦那に奥方さんよ。これからふたりで雑踏街の安宿かい? あ、もしかして旦那さまなんですかぁ?初めまして。都市管理部の── 奥さんじゃないってば。あは。あはは。 安宿を否定しろよ。お前、まだ仕事中だろうがよ。 ……アティ。 ん……。な、何さ。 僕は幸運だった。まさかここで会えるなんて、本当に。 ちょ、ちょっと冗談……。 安宿連れ込みとか本当、勘弁してよ!? 静かに。アティ。あの職員に頼んで欲しいことがある。 へ。 ……頼む。 首を傾げたアティの耳元へ──他の誰にも聞こえない声の大きさで囁く。 愛を囁く恋人のように。そっと囁く。 あの都市職員の女性に何とか言って、外付型機関接続器を借りて欲しい、と。 きみの協力がどうしても必要だ。どうか頼む、と。 あー……はい、はい。そゆことね。 ……ま、そーだよね。んなことだろうと思ってたけど? でも、そんなもの何に使うのさ。誰が使うの? 鼻と耳から血ィ出して、死んじゃうって聞くけど。それって。 何のお話ですかぁ? 機関接続器。外付け型のとびきり危ない嫌な機械。 あれか。趣味の悪い自殺機械だな。アナクロなハッカーもどきが遊ぶ頃とは違うんだ、旦那。青白い顔が吹き飛ぶぜ? 今じゃ本物のハッカーは、機関接続器を頭蓋骨にくっつけてるもんさ。 充分、承知の上だ。だがハッカーを雇うには時間が足りない。 だから接続器を使う。生身の人間でも情報空間に接続できる、唯一の機械。だが、大きな危険を伴う。 ……必要があってね。 やめときな。自殺はいかにも気分が悪い。 僕は既に依頼を受けていてね。それに、僕は人体の修復には慣れている。 そういや数式使いだったか、旦那は。まあ……どうでもいいが。 やめて。どうでも良くない。何さ、依頼って。 ギーが死んだら、意味ないじゃない。契約も何もなくなるよ。 黒猫が唇を尖らせて文句を言う。ギーは返答しなかった。 ──ただ、黙っていた。──既に、なすべきことは決めている。 ──約2時間後。 ギーは再び情報書庫ビルディングへ戻った。A区10番の高層建築体。幽霊ビルと呼ばれる場所。 玄関ホールに入るとふたつの人影。会話をするキーアと自動人形の姿があった。 キーアは自動人形に話しかけ、自動人形は機械的な対応を続けている。何を会話しているか、興味はあったが。 すぐにキーアはこちらに気付いた。手を振ってくる。 手を振り返すとキーアは近寄って来た。自動人形の手を引いて。 おかえりなさい、ギー。あのね、この子と色々お話したのよ。 仲良くなったのかい。 ええ、そうよ。キーアたちは仲良くなったの。 この子の色んな話を聞かせてもらったわ。コーヒーを淹れるのが得意なんですって。 ね? はい。 ほらね。 ああ。味わってみたいね。 それは命令の入力でしょうか。ドクター・ギー。 いや、今は── はぁ。仰々しく機関接続器なんて借りて、焦ってどこへ行くのかと思えば。お人形とキーアとでお遊戯会なの? アティ!よかった、あなたも一緒だったの! え、あ、う、うん。頼りないから少し仕事抜け出して……。 良かった、ならギーは大丈夫ね。アティがいるものね。 ……まあ、ね。 なんとか黒猫は笑顔を浮かべて。ギーと一緒にホールへ入ってきた時には、気付かれなかったことを口にしなかった。 荒事仕事に戻るはずだったのだが。機関接続器を借りて去ろうとするギーへ、黒猫は「危なげだから見張る」と言って。 ここまでついてきてしまった。借り物をした手前、ギーは断れない。 都市管理部の施設まで行って、黒猫は言ってくれたのだ。機関接続器が今回の仕事には必要だ、と。 人員の融通は利かなくとも、型落ちの接続器であれば話は違ったらしい。都市職員の女は小言ひとつで貸してくれた。 ──管理部の仕事か。──物であればすぐに出るのは有り難い。 そのヘルメット、なあに?大きいけれど、ブリキの玩具みたいね。 玩具だよ。少しこれを試してみたい。 ホールの片隅へ目をやる。本来なら係員の待機するはずの座席がある。 その手前の受付机。ギーは机の下の機関接続口を探す。 ──あった。 ──書庫の中央機関に繋がる接続口だ。 まだここに人間たちがいた頃は、計算・照会装置に繋がっていたのだろう。やや古びてはいるが、機能は生きている。 何をするの? これからギーはお昼寝の時間さ。機関の情報書庫にそれでアクセスして、色々と調べてみたいんだってさ。 あくせす。 西享外来語。接触とか、接続とかって意味。 ……危なくないの? 問題ないよ。じゃあ、少し行ってくる。 僕の体のことは頼むよ、アティ。せっかく来てくれた以上、報酬は払う。 はいはい。 頼りにするよ。 そう言って、ギーは椅子へ腰掛ける。接続器を頭へ装着して。 ──意識を情報空間へと送り込むために。──目を閉ざす。 ──その瞬間。 あの美しい自動人形が自分を見つめていた。そこに、ギーは何の意思も感じなかったが。それでも。 何かが気になった。僅かに。 ……お気を付けて。 そう告げる声が聞こえたかもしれない。刹那、ギーの意識は情報空間へ落ちる。気絶や昏倒によく似ている。 浮遊と落下の感覚。意識が、深い場所へと落ちていく── ──暗闇だった。 情報空間は文字とは違う意味合いの場所だ。正確には空間ではない。 情報蓄積装置にして計算装置としての機関。その内部に意識を接続した状態での、機関内の“情報書庫”のことを指す。 情報を意識として捉える行為。その際に発生するこの“視野”が情報空間。 ギーの意識は今、空間として認識される情報書庫の内にある。すなわち、ビルに蓄積された情報の内にだ。 情報空間の利便性はその汎用性にある。インガノックが得た数秘機関技術の中でも、機関接続に伴う情報空間技術は特に有効だ。 容易に人は情報を得られる。機関に蓄積された、あらゆる情報を。 書籍を手に取り頁をめくる必要はない。文字を読む必要すらないのだ。 空間内を歩き、該当する情報を見るだけだ。それだけで情報は脳に刻まれる。 時間すらも必要ない。情報を脳へ書き込むのに要する時間は、例えば本1万冊であっても数秒程度だ。 ──もっとも。 ──アティたちの言葉通り。──多大な危険を伴うのがネックだが。 ギーは暗闇を歩く。視界に何ら存在していないということは、この書庫には何の情報もないということ。 そんなはずはない。自動人形は確かにすべての書籍の情報はビルディングの機関に蓄積済だと言った。 と、言うことは。つまり。 ……暗闇は“虫食い”の痕か。 行儀の悪いハッカーが、ここを食い荒らした後らしいな。 情報を貪る者。その名はハッカー。 荒事屋の一種にして卓越した情報蒐集者。彼らは脳内に数秘機関を埋め込み、あらゆる場所の情報書庫に接続する。 第1層企業や都市管理部の情報を盗み、それを情報屋や故買屋、荒事屋に売る。彼らの多くは裕福で自堕落だ。 彼らは時折、自分の気に入った情報を荒らすことがある。この、暗闇のように。 自分だけが情報を得て。他の誰にも二度と渡らないようにするのだ。 それを俗に“虫食い”と呼ぶ。下層の荒事屋の間や企業間で使われる隠語。 ……しかし。 都市建築史と下層史。そんなものが金になるとは思えないが。 暇なハッカーもいたものだな。まったく。 ……もしくは。意図を以てそうする者がいるか、だ。 暗闇の中を歩く。見れば幾つもの穴が開いているとわかる。 既に数時間を歩いた感覚がある。あくまで、情報空間での感覚だ。現実ではまだ数分程度しか経っていない。 まともな状態で情報が蓄積されている状態であれば、今頃、歩く図書館になっている。 ──やがて。 ギーは大きな穴を発見した。ふたつの、深淵へ繋がる大きな“穴”だ。 情報を食い荒らした痕。感覚的に言えば膨大な量の情報の食い残し。 都市摩天楼全体の機関エネルギーを用いた情報網へと繋がる大きな穴。それがひとつ。随分と、深く掘り進めたものだ。 まるで、あのランドルフのように延々と。これがエネルギー配分異常の原因か。 暗号化された情報蓄積体で構成された防壁を食い破り、他の情報空間へ到るか。とんだ虫もいたものだ。 ……情報空間を渡るのか。 それは一流のハッカーだけの技術だ。本来、スタンドアロンの状態にある機関の情報空間は、それひとつで閉ざされている。 それを無理矢理に他の機関と繋げる。都市を駆けめぐる機関エネルギーを用いて、そこに情報空間を繋いで── ありとあらゆる機関に接続し、ありとあらゆる情報空間へと侵入する。 この特異技術を用いるハッカーは、今のギーのように目的の場所で接続する必要もなく、どこからでも接続ができる。 自分の部屋でさえ。たとえば第5層の自分の寝台から接続し、第1層企業の情報書庫の内に潜入できる。 ……厄介だな。 ──ああ、そうだ。──厄介だ。 ギーの言葉はしかし、ひとつめの大穴に向けられた言葉ではなかった。 ふたつめの大穴。それを目にして溢れ出た言葉だ。 何かが在る。何かがいるとでも言うべきだろうか。 高密度情報体の反応があった。それは、たとえば現在のギーと同じもの。 何かの生体が情報空間に接続すれば、それは高密度情報体として認識される。 ──大穴に潜む、高密度情報体。──嫌な気配があった。 そこにいる、きみ。 きみは誰だ。 返答はない。溜息をひとつ吐いて、ギーは検索する。 意識をダッシュボードに集中する。入力単語を検索式にかける。 ──検索開始。 ──検索終了。  【閲覧情報名:バンダースナッチ】     【種別:クリッター】 ……クリッター、だと……。 ……なんとも。厄介、だな。 ──情報体の姿を持つクリッターがいる。──噂には、聞いたことがあったが。 検索結果を疑うものの、確証はない。恐怖の感覚が一切起こらないのは、ここが情報空間で、ギーが生身でない故か。 情報のクリッター・バンダースナッチ。最も縁遠い存在と思っていたが、まさか出会うことになろうとは。 恐怖はない。恐慌はない。ただ、危険な気配を意識の内に感じる。 ……ルアハ・クライン氏の消失にクリッターの関与あり、か。 ……おいしい仕事か。 ──ダッシュボードを呼び出して。──接触を図る。 ──解析深度1にレベル調整。──目標の高密度情報体の接触解析を開始。       【解析深度1】    【高密度情報体との対話】 『ようこそ、私の領域へ』 ──声が響く。──声という形式を取った情報だ。 それの姿は正しく認識できなかった。幾つもの防壁が、それを覆い、守っている。 ギーの目前にそれがいた。情報空間のクリッター・バンダースナッチ。 やはり恐怖はない。やはり恐慌はない。ただ、不気味な危機感が湧き上がるだけで。 そして何よりも驚きがあった。それは声を放ったのだ。 言葉を喋る。そんなクリッターは聞いたことがない。 ──クリッター。──怪異の中の怪異。恐怖をもたらす王。 ──人語は決して解さない。──それは全クリッターに共通する特徴。 『驚くのも無理はない』 『私は人間たちの情報に触れ、 こうして自らを変質・進化させたのだ』 『あらためてようこそ、ギー』 ──既に名前を知られている。──クリッター・ハッカーという訳か。 『まずは話をしよう。 情報空間において、時間は無限にある。 ここでの1秒は現実では1万分の1秒』 『さあ、お茶の準備は整っている』 『話をしよう。ギー』       【解析深度4】    【高密度情報体との対話】 ──暗闇の中で。 ──僕はクリッターとの対話を続ける。 『わかっているのだろう、ギー?』 『お前は俺たちの仲間だ、そうだろう』 『ある1点においてのみ人は平等で その1点で俺たちとお前は繋がっている』 『深く。深くだ』 ……ああ。 ──ああ。 ──そうだな。 『もう、人間は終わりだ。だから──』 ──何かの気配を感じた。 ──黒猫は、黄金瞳で周囲を見渡す。 キーアと自動人形は何かを話している最中。ギーはぐっすりお休みしつつ情報空間散策。あとは、自分だけ。 アティは頭の上の“耳”を動かす。音は殆ど聞こえてこない。 気配の主は玄関の大型鉄扉の向こうから。人間よりも僅かに大きい何か。 キーア、それにきみも。そこの扉からもっと離れてて。 何かいる。 はい? 了解しました。キーア、こちらへどうぞ。 首を傾げるキーアを自動人形が連れていく。そう、奥へ行ってくれると有り難い。 アティは背筋のざわつく感覚に舌打ちする。彼が心配だとは思っていたものの。 まさか。本当に何かあるとは。 ──けれど驚いて混乱などはしない。──荒事なら慣れている。 ──けれど決して油断もしない。──それは死を招く。 鉄扉の向こうに気配は確かにあった。この無機質で重い感じ。 重い癖にやたらと“速い”あいつらか。連中は今頃デビッドと仲良く仕事の最中だ。こんなところまで来る理由は見当たらない。 騎士の異名を以て鎧に身を包む上層兵。下層の人々の畏怖の対象。 驚異的な身体能力と速度と質量で敵を殺す。今回は別段敵ではないはずだった。だが、ギーの一件ならば話は別だ。 また危ないことに首を突っ込んで。戻ってきたら、詫びだけじゃ済まさない。 ──ギーの一件。──ここに一体何があるというのか。 ……何なのさ。まったく。 唇を尖らせて横目でギーを見つめる。その、刹那。 その時、確かに、数秘機関で強化されたアティの反射神経はそれを捉えた。視線だ。 感情はとても薄かったけれど、それは、確かに意思を込めた視線だった。 ──自動人形。──溜息が出るほど見事な細工の彼女。 彼女がギーを見ていた。薄い、怯えの色を瞳にたたえて。 きみ……? 言いかけて── ──言葉は音に掻き消される! 黒猫は瞬時に戦慄する。意識に反応して埋込爪が長く伸びていた。色濃い敵意が、扉越しに届いて来ている! ────ッ!! 何者かが鉄扉を激しく叩く。建物の向こうから、今、打ち破られる!       【解析深度5】    【高密度情報体との対話】 ──暗闇の中で。 ──僕はクリッターとの対話を続ける。 『クリッターは人間を害する。 そうするようにできている。 確かにそう定められているんだ、ギー』 『誰に?』 『誰かにだよ、ギー』 『俺たちは自然現象の一種だ。 そう定義づけたのはお前たち、人間だ』 『だから俺たちはそう在るしかない。 人間を間引くための装置として存在する』 ……誰が決めた。 ──誰が、そんな。 ──人格と意思を持つ“誰か”が。──そう定める訳がない。 ──地獄を望む者はどこにもいない。──僕は、そう信じている。 『はは』 『はははは。甘い、甘いな。ギー』 『誰が決めたならお前は納得する? 大公爵か? 西享人の言う“神”か? それとも、そう、ギー、お前自身か?』 『これは現象だ』 『俺たちは無形の存在だ』 『誰ひとり、止められはしない。 あらゆる命は奪われるためにある』 『……いや、違う。そうではないな』 『消費されるために存在している。 そう、人間たちの情報は結論づけている』 『そうして生きている。 俺も、そう、お前もだよ。ギー』 『合成ベーコンにだって命はあった。 機関工場で作られる食物も元は命だ』 『そうだろう、ギー?』 ……ああ。 ──すべてわかる。こいつの言葉が。──そうだ。そうしてすべてが生きている。 ──けれど。──僕は。 『どうする』 『どうする、ドクター・ギー?』 『俺は他の奴らよりも優しい。 人間に、どんな肉体的苦痛も与えない』 『傷つけるすべてのものを、 この俺が消し去ってやるだけだ』 『苦痛を感じなくなるんだ。 何も見えなくなる。何も感じなくなる。 ただ、何もかもを、あきらめるだけだ』 『……誰よりも』 『誰より優しく、 俺は人間をひとりずつ終わらせてやる』 優しさ、か。 『そう。これは慈悲だ』 『お前の大好物じゃないか、ギー。 世界はそれに溢れるべきだと思うだろう?』 『だから。 俺とお前は何もかも同じだよ、ギー』 ……いいや。 『ンン?』 ……いいや、違う。 違う。そうだろう。クリッター・バンダースナッチ。 ──クリッター。お前は言っている。 ──あの鋼鉄の娘は。──人形であるまま命を終えるべきだと。 ──クリッター。お前は言っている。 ──この手を止めろと。──僕の、誰かへと差し伸ばすこの手を。 『そうだ』 『あの娘はあのまま終わる。 決して、もう、人間には戻れない』 『体のすべてを鋼鉄に置き換えて。 それでも人でいられるほど人は強くない』 『手を止めろ。ギー。 お前はここで、諦めればいいだけだ』 『俺にはわかる。 お前とは、きっとわかりあえるとな』 ……僕は。 ──僕は止められない。 ──この手を、誰かへと差し伸べることを。──何かを求めて抗うことを。 『……なぜだ?』 『なぜだ? なぜ、そうする? ならば、話はここで終わってしまう』 『終わってしまうのだぞ、ギー?』 ──終わる、か。 ──お前の話を聞いてきた。──そのどれもが、決して間違いではない。 ──それでも。──僕は、この手を止められない。 情報空間で目を閉ざす。すぐ近くでバンダースナッチの声がする。それは嘲笑し、勝ち誇るクリッターの声。 それはクリッター・ボイスだ。恐怖も恐慌ももたらさないけれど。 絶望と諦念が意識に充ちる。鋼となった娘を、この自分は救えない。 閉ざされた心を。どうやって開けばいいのかなど。 (……それでも) (……僕は、この手を……) 情報空間の中で意識が拡散する。それは、すなわち大脳の死を意味する。 本来、脳の中に存在すると言われる意識。それを情報空間の内へずらしているのだ。拡散すれば、意識は消える。 脳には二度と戻らない。なるほど、これはクリッターの攻撃か。 ──見事に、かかってしまったか。──バンダースナッチの罠に。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 クリッターが言った。 『今度はお前の番だ』 『女は喰い飽きたからな』 ──接続を切る。 ──情報空間から意識を戻す。──待機状態となっていた僕の脳へ。 ──僕は、この手を止められない。──けれど。 ──クリッターの言葉を否定できない。──僕にできることは、ない。 絶望と諦念が意識に充ちる。鋼となった娘を、この自分は救えない。 閉ざされた心を。どうやって開けばいいのかなど。 (……それでも) (……僕は、この手を……) 瞼を開けようとしても開かない。肉体の感覚が、既に存在していなかった。 なるほど、これはクリッターの攻撃か。長々と会話をするものだなと思ったが。そういうことか。 ──見事に、かかってしまったか。──バンダースナッチの罠に。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 クリッターが言った。 『安心しろ、ギー』 『死はすべての人間へもたらされる』 ……ああ。そうだな。 『わかってくれたか。ギー』 ああ。わかった。お前の言いたいことはすべて。 『俺とお前はわかりあえる。 こうして対話を果たした以上、友人だ』 友人か。 いいや、違うな。お前が何を言っても僕には通じない。 情報空間に張り巡らされたお前の網に。気付かないと、思ったか。 『何だと……』 時間は充分にあった。お前は、ずっと僕に仕掛けていた。 ……そして、この僕も。時間は充分貰うことができた。 お前の尾は既に掴んでいる。逃げられはしない、バンダースナッチ。 『何を言う。何を言うんだ、ギー』 『情報空間で我が翼に敵う人間はいない! お前の意識のすべては!』 『この俺が喰らう! 背後に佇む«奇械»さえも俺のものだ!』 確かに。人間ならそうだろう。 だが── ──僕の背後には“彼”がいる。──お前を掴むことができるのは“彼”だ。 『貴様……ッ!! なぜだ、«奇械»を使ったな!?』 『…ドクター・ギー!!』 ────ッ!! 3度目の打撃で鉄扉がぶち破られていた。アティは唇を噛む。何人だ。 『第1級の情報ホホホホウ犯罪ガガガガガ 確認されましタタタタタタ処刑イイイイ』 『違反者への無裁判処刑は許可されテテテ いママすスススススススススススススス』 (1体か! なら!) 扉を破って鎧姿を見せたのはやはり上層兵。上層とその法のみを守る騎士。殺戮執行者。人間であることをやめた半機械。 全身を覆う鎧。かぱりと開いた頭部兜に何かが蠢いている。不気味な肉が見えた。人間のものではない。 ──そう、人間ではない。──幻想の異人種でもないだろう。 レディにいきなり中身見せるなっての!あんた一応元は人間だろう! 幻想生物への抗体処理ぐらい打て!貴族紋とか、さぁ! ──もしくはクリッターにでも憑かれたか。──どちらでも変わりはしない。 頼むと言われたのだ。今は眠る彼に。 上層兵の前に立ち塞がる自分の背後に、確かにキーアと自動人形の気配がある。声はない。 悲鳴を上げないのは褒めてやりたい。けれど、それは後だ。 『処ショショショ刑ィイイイ!!』 目前の上層兵1体は明らかに狂っていた。何かの影響下にあるのだろう。あの姿、尋常な様子ではない。 見覚えはない。記憶した幻想生物にあんな肉片はいない。 何だ。何を仕掛けてくる。両手に携えた、斬首用の大型剣か? 先手── ──必勝ッ!! ──長く伸びた埋込爪を振るう! ぎこちない動きを伴って大剣が爪を防ぐ。上層兵の動きは鋭くない。これなら、すぐに殺されはしないはず。 通常の上層兵であればこうはいかない。彼らの“速度”はアティすら時に凌ぐ。速さは強さだ。 『ヲオオオアアアア違反者ァアアア!!』 ──刃と剣が行き交う! ──人間の手応えとは違う重さが疾る! 速さがないぶん重みが増している感覚。膂力が随分と上がっているのか。 だが、やはりその動きには不自然さが残る。アティは直感する。勝てる、と。 機械的な動きで、上層兵は柔軟さを失った。フラクタルな戦術思考が売りのはずの兵が、ただの機械に成り下がったか。 アティを障害物としか見ていない。そんな気配さえ。 ──獲物が別にある?──誰か、他の人間を狙っている? (この黒猫を前にして!) (随分と余裕があるじゃないのさ! 脳みそ半分見せた、木偶の坊如き!) 黒猫は気配を探る。眼球の見えない兜の視線を伺う。 黄金瞳は上層兵の動作すべてを把握する。──理由はわからないけれど、なるほど。こいつの獲物は。 ギーを狙っているのか。刃を交わしていてもなお彼を狙っている。戦闘動作が鈍いのも、半分はそのせいか。 ──ギーを狙う。──この、黒猫のアティの前で? きみじゃ似合わないよ。残念だけど。 王子さまを起こすのはお姫さまだ。ナイトの役目じゃない。 させない。絶対! 『内蔵火器キキキキ展開ィイイイイイ!!』 叫びと共に鎧が展開する! 内臓の隙間さえないほど密集した重火器が、展開した鎧の内からギーへと銃口を向ける! 何その奥の手! 『処刑ィイイイイイイ──ッ!!』 悪いけど! ──ギーはまだ眠っている。大丈夫。──彼には見せずに済む。 その首、貰う!! カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじを見上げ、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……私の計測が確かであれば、今まさに。 ……情報空間の王と子羊は接触した。……人間の奥底を喰らう貪欲な情報の王と。 ……大いなるクリッターの1柱、機械の獣。……スナークを名乗りしザーバウォッカ。 ……貴様にやれるかどうか。……惨めな«奇械»使い。我らが生贄。 ……貴様のあらゆる力は働くまい。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ──沈黙したまま。 ──キーアは彼女を見つめていた。 静かに佇み続ける鋼の彼女。自動人形だとギーは言っていた彼女を。 響き渡る激しい金属音が気になるけれど。きっと、アティは大丈夫だから。恐ろしい騎士を、止めてくれる。 そこにギーがいる限り。アティは、彼を守ってくれる。 ──だから。 だからキーアは彼女を見ていた。ずっと、扉が打ち破られるその時でさえ。 彼女を見つめていた。鋼鉄に覆われている美しい彼女を。硝子で作られたと思しき、その瞳。 キーアの視界の中で。彼女は、奇妙な行動を取っていた。 戦い続けるアティと騎士を無視して。何かに誘われるように。 ──彼女は両手を伸ばしていた。──ギーへ向けて。 無言のまま、ゆっくりとギーに近付いて。その青白い首を思い切り握りしめていた。無表情な顔をして。 キーアが見つめていることに、彼女は気付いていない。 そっと近付く。アティの剣戟の金属音を背にして。 ──彼の首を絞めようとする彼女。──その肩に。 ──静かに触れる。 ──少女の手が肩に触れていた。 不意に、両手の力が緩む。入力命令を腕が拒否できるはずはないのに。私は、自分の入力していた動作命令を思う。 安楽椅子に腰掛けたまま目を閉ざした男、医師。ギー。その首に両手をかけていた。殺すために。 殺さなくてはいけない。私が、このままの私であるためには。 私の中で誰かがそう言うから。だから、私は、その声に従おうと……。 した……。はずなのに……。 ──止めるのですか。──あなたは。 ……あ……ァ……。 だめ。 殺さないで。だめ、ルアハ。あなたは。 ──あなたは。何。──私が、この鋼の私が何だというの。 私は殺す。血の通わない鋼の腕で彼を。彼を、殺さなくては。 殺人の原理を私の情報は把握している。頸椎を折る。それだけで済む。私と違って、人間たちの体は脆いのだから。 この男は機関化もしていない。特に脆い。もう数秒あればすべて終わる。 ──止めないで。殺させて。 ……その手を離しなさい。だめ。 その手を離して。何をそんなに、怖がっているの。 そんなに綺麗な顔なのに。どうして?何をそんなに怖がっているの。何をそんなに戸惑っているの。 そんなにも悲しい顔をして。ギーを殺すの? ……違い……ます。ワタシに、こわいものなんて、ない……。 こわいと、感じること……。そう思う、感情を……。 取り戻したくないと……ワタシは……。思って……いるから……。 ……だから……。 ──少女の手が。肩から離れて。 ──私は視覚情報を疑った。──少女の、白くて小さな手の様子に。 差し伸べられている。私に。少女の連れ合いを殺そうとするこの、鋼鉄製の人形である私に対して。 攻撃もせず。逃走もせず。ただ、少女は私に手を差し伸べた。 だいじょうぶ。手を離して。お願い。 あなたを、きっとギーが助けてくれる。あなたはもう大丈夫だから。 あなたの心に開いた穴。ふさがなきゃ、だめ。 ね。ルアハ。 あ……ぁ……ルア、ハ……?誰……が……? ワタシが……ルアハ……?いいえ、違います……ワタシは……。 ……自動人形……。 人形だなんて言わないで。あなたは、ルアハ。人間なのだから。 ……ワタシは……。 ……人間……ですか……?この……鋼鉄の……人形、が……。 うん。可愛い女の子。 ……あ……ァ……キーア……。ワタシ……人間……なの、ですか……。 ……ワタシが……人間……。 ──呟いて、私の瞳の見つめる先には。──少女の小さな手があって。 ──その手へ。──私は、逃げるように縋りつく。 『なぜだ!』 『みっつの罠をお前に仕掛けたのに!』 『なぜお前の肉体は生きている! なぜお前の精神は生きている!』      ──長い首筋に──   ──突き立ったゼンマイ捻子── 『なぜだ!』 叫び声をあげる影が、姿を見せる。それは金属の異形だった。 金属で構成された獣の如き姿。情報空間を軋ませながら全身が露わになる。体躯を覆う表皮は、死に青ざめた人間の色。 いびつに歪んだ竜の如き異形の金属構成体。その赤色の眼球が、人間の精神を抉る。長く伸びた舌肉が、人間の精神を砕く。 ──怪物。──正真正銘の。これは生物ではない。──鉄で組み上げられた彫刻でもない。 知っている。ギーの全身の神経が自然と戦慄する。恐怖に慣れきった体が震え、痺れる。 猛烈な吐き気の正体は、恐怖。この怪物は根源的な恐怖を呼び起こす。 ──クリッター。──理性がその存在に叫ぶ。 ──長い首筋に突き立つゼンマイ捻子が。──ギリギリと音を立てる。 ……“死の捻子”……。 正しくこれは金属体ではない。異形の高密度情報体、バンダースナッチ。 数多あるクリッターの中で唯一、情報空間を己の領域に選んだ知識の怪物。 かつて10年前の«復活»の際、都市各所で多大な被害をもたらしたもの。機関エネルギーを貪り、人の精神を抉る。 人を喰らう41のクリッターうちの1体。都市を覆う41の大いなる恐怖のひとつ。 ──知らないはずがない。 ──クリッター。──それは、恐怖の、力あるかたち。 都市計画を歪め、理想都市を悪意で以て改造してみせた。各層に貧困を与えたという説すらある。 これは、諦めろと人に呼びかける。甘い声を伴って。 人間性を喰らい続けて精神に穴を開ける。おぞましきもの。暗きもの。 ……諦めろと。僕に言ったな。 嘲笑を止めない高密度情報体へと。ギーは手を伸ばす。      ──鋼色の手が──   ──ギーの“右手”に重なって──      ──鋼の右手が──      ──暗闇を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光がひとつ── ならば僕は諦めない。少なくとも、お前の前では絶対に。 ……ルアハ・クラインの心は。 もうお前には喰わせない。クリッター・バンダースナッチ。 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界の違和感はない。道化師はいない。かわりに、異形の影が背後にあるとわかる。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。覗き込む、中型クリッター。41体の死、そのひとつが。 数式を起動せずともギーには視えている。恐慌をもたらす気配を掻き消して、ギーと“彼”は歪んだ情報体の中心を睨む。 ──右手を向ける。──己の手であるかのような、鋼の手を。 ──現象数式ではない。──けれど、ある種の実感が在るのだ。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。サレムの時と同じように。 『ならばすべての人間を救ってみせるか! できまいよ、人間!』 『諦めてしまえばいいものを! 愚かだよ、楽な道を選ばぬ貴様は!』 立ちはだかるギーへと情報体が叫びを放つ!周囲の情報空間が裂けて、現象が発生する。精神を穿つものが確かに視える。 ギーの“右目”は既に捉えている。クリッターのすべてを。 人間の精神に大穴を開ける金属の爪。あれこそが奴の武器だ。情報と心を殺す。人間を内部から崩壊させ得る、死の現象。 『この俺たちでさえも! 本当にこうありたいと望んだと思うか!』 『死ね!』 振り上げられる金属爪。矛先を向けられるのはギーと“彼”! ──金属の如き爪が情報空間を引き裂く。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間以外には。 もしも爪を避けられたとしても、引き裂かれる情報空間が精神を断裂させる。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。爪のもたらす黒穴が穿たれるのは虚空のみ。 『何ィ…!?』 ……遅い。 『たかが人間ごときィ…!!』 喚くな。 唸り声をあげた情報体を“右目”で睨む。咄嗟に放った恐慌の声か。人の脳神経を破壊し、死か狂気を植える。 しかし生きている。ギーはまだ死んでいない。 以前の自分なら死んでいたのだろうと思う。しかし、今なら、鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。嘲笑する情報体のすべてを“右目”が視る!    ──クリッターは不滅──    ──物理破壊は不可能──   ──バンダースナッチの場合──    ──唯一の破壊方法は──    ──全情報の焼却処理── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 精神の死、バンダースナッチ。情報空間の領域に加護された情報体。故に、確かに人間はこれを殺せない。 唯一の破壊方法は焼却処理。故に、絶対に人間はこれを殺せない。 情報空間に潜むものは誰にも焼けない。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている!──“右手”と連動するかのように! 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “太陽の如く、融かせ”  ───────────────────! ──切り裂き、融かして消し飛ばす。 ──炎を纏う刃の右手。──それは、怪物を焼き尽くす炎の右手。 押し開いた鋼の胸から導き出された刃の“右手”は、超々高熱の火炎を伴ってバンダースナッチを包み、瞬時に焼却する。 叫び声を上げる暇もなく、高熱刃に包まれたクリッターは崩壊した。 凄まじい炎の滓を、爆砕するように残して。情報空間の大穴を揺らして── 「喝采せよ! 喝采せよ!」 「おお、おお、素晴らしきかな。 第4の階段を盲目の生け贄が昇るのだ」 「現在時刻を記録せよ。 クロック・クラック・クローム!」 「貴様の望んだ“その時”だ! レムル・レムルよ、震えるがよい!」 「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛のかたちあり!」 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇るあるじがひとり。 それは支配者。それは大公爵。それは愚者。インガノックの王。碩学にして現象数式発見者であった魔術師。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、求めて。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。  『あはははははははははははははは!』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 『あはははははは、まだもがくのか! あはははははは、どこかの莫迦が!』  『──最後の«奇械»を無駄にして──』     『──くすくす──』 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 歓喜の声を上げて手を伸ばす白色の手。決して、その手は動かない。黒の下、その手は蠢くだけ。 そのはずだった。しかし。      ──彼の左手は──      ──前へ前へと── ──仕事は完遂された。 今回の護衛料と迷惑料と、更に“面倒な戦闘をさせた”詫び料をアティに払ったために目減りはしたが。 それでも、なお。しばらくは生活が保つだけの額が入った。 多少は高価な薬品を入手しても、多少は栄養剤を数多く揃えても、大丈夫だろう。 ──仕事は完遂された。──ルアハ・クラインは救い出された。 ──精神という情報に空いた穴は。──いずれ戻る。 微妙な違和感── ここ数日、首の調子が良くない気がする。頸部に妙な圧迫感が残っている。 詳細な状態把握はしていない。そうするべきではないとギーは思っていた。 放っておけばそのうち治る。その程度のものだ。 違和感を伴いながらギーは首を巡らせる。厨房の様子が視界に入った。 少女の後ろ姿があった。キーアが何かを調理をしているのか。 ──音と。──香りが漂う。 どこか楽しげな様子で調理をしているキーアの傍らにひとり。 聞き慣れない足音の主がいた。耐えず笑顔を浮かべるキーアの真横で、それをじっと見つめている娘がひとり。 新鮮な卵と、パン♪こんなにたくさん手に入るなんて♪ ねえ、見て。この卵。お皿の上に割ってもぷるぷるするわ。 はい。ぷるぷるしています。 ね♪ はい。 ──彼女の名前を知っている。 彼女の名前はルアハ。ルアハ・クラインが本当の名だ。 アーサー・クライン氏は彼女に名を残した。彼女が鋼を纏うよりもずっと前に。 ルアハ。書の城にひとり残された娘。 自動人形ではない。機関人間。よく似ているが、違うもの。 ──彼女は人間だ。 ギーは機械工モリモトの話を思い出す。つい昨日、彼から聞いた。 『機関人間の成功率な。 それは決してゼロじゃないんだよ、ギー』 『かつて10年前には交流があった、 かの北央帝国の皇帝サマ。知ってるか?』 『かのクセルクセス9世陛下が 機関人間だって話は、業界じゃ通説だ』 『要は、延命させたいと願う熱意と財力。 それは愛情とは断言できないがね』 『どっちもどんだけ注ぎ込めばいいのか、 見当もつかんさ』 『だが、不可能ではないんだ。 どちらかがどちらかを補えばいい』 ──そう。──決して不可能ではない。 ルアハとキーアの声が聞こえてくる。片方の声は楽しそうに。片方の声はやや無機質に。 ふと、ギーは思う。ルアハという娘を助けたのは仕事だ。 エラリィ経由での依頼の上のこと。報酬も既に受け取った。 けれど、何がどうして、こうなっているのだろうか。 ──なぜ僕のアパルトメントに。──またひとり、増えてしまったのか。 彼女らの様子が見える。華やかな調理はそろそろ終わるようだ。 (なぜ。なぜ……) (なぜ、か……) ギー、食事ができたから。手を洗ってから食卓についてくださいね。 ね。ルアハ♪ 殺菌消毒は健康維持の基礎です。留意して下さい。ドクター・ギー。 いや、僕は気にしないよ。別段構わない。 いいえ、ギー。キーアの健康維持への留意です。 ……なるほど。 溜息をひとつ。ギーは、肩を小さくすくめて。 「ああ。すぐに手を洗ってくるよ」 そう言って── ──雨が降り注ぐ。 ──どれだけ雨が降ろうと変わらない。──空模様は普段と同じ。暗い色の空。 10年前と同じだ。空だけは。 そう、この空だけが。他のすべては10年前にねじ曲がった。 あらゆるものが異形と化したこの都市、多重積層型蒸気機関都市インガノック。この世の果て。 雨が降り注ぐ。都市の麓、最下層地帯から見上げても。 絶対に変わらない灰色の空。変わらずに在るものは、それだけで尊い。 ──ここは都市インガノック。──語る者なき唯一の«異形都市»。 絶望の10年前。あの«復活»ですべてが歪んでしまった。数多の呻き声と涙とが、すべてを壊した。 ──空だけが。──この、永遠の灰色雲の空だけが。 ──すべてを見ていた。──人々と世界とが壊れていくさまを。 静かに雨は降り注ぐ。 無数の層を伝い、用水路へと流れ落ちて。この最下層へと、滝のように大量の雨が。 雨は流れてゆく。この10年間で人々が流した涙のように、とめどなく、やがて地下へと染みこんで。 ……やがて、海へと還るか。 無数に染みこんでいく水滴たちの果て。それは、一体“どこ”であるのか。 ずっとずっと地下の奥深く。湖上を埋め立てた広大な人工土壌の上に建造された巨大都市インガノックの地下。 都市の誰もが恐れて近付かない無限の闇。理由はさまざまだ。幻想生物の巣があり、凶暴な«熊鬼»の集団が隠れているとか。 ……荒ぶるドラゴンが眠っているとか。 ……そう、おとぎ話の竜が。 西亨では20世紀を過ぎたかも知れないこの時代に、おとぎ話の竜を恐れるのだ。おかしな話だ。 狂人の妄言だろうか。 いいや、違う。 それがインガノックなのだ。あらゆる幻想が«復活»した異形の都だ。人を喰らう竜がいても、不思議ではない。 都市下層地下。誰もが恐れて近付かない無限の闇。 けれどひとりだけは闇を恐れない。それはひとりの男だ。彼の名はランドルフ。 気狂いランドルフ。暗がりの中、小型蒸気機関を用いて明かりを灯すランタンを掲げた、男。 誰もが恐れる闇の中、ランドルフは構わずに掘り進んでいくのだという。毎日。毎日。毎日。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 北北西より偏西風が吹きすさび、大地は本日も航路を逸れず、輝きは瞼の中には。それでこそ我が悲しみ。 慈しむべき銀の機関が門を叩き、鍵はどこかと問いかける。嗚呼、私は哀れ、本日も穴を掘る。穴を掘るとも。 ……ふう。今夜はだいぶ奥まで来たな。硬い土だ。 彼はいつも“今夜”と言う。朝でも昼でも、夜でも。 確かにここには朝と昼はない。空はいつでも灰色に覆われているからだ。 けれど夜は暗闇の帳が落ちる。都市には町灯りが無数に浮かぶけれど、それでも、一目見れば夜は夜とわかる。 仕方がない。この男、ランドルフは狂っているのだから。多少の言葉には目を瞑ろう。暗闇のように。 ……ただし。狂っているのは頭の中身だけだ。 いつも夜だと口にして、意味のわからない言葉を年中呟いていたとしても、頭だけだ。それ以外はまっとうだ。 顔も目も鼻も。手も。 ここインガノックではまっとうだ。幻想の異人種と呼ばれる、さまざまな獣の姿を持つ異形だったとしても、ごく正常だ。 ランドルフは確かに狂っている。けれど、それは、頭の中だけだ。外見は立派な«穴熊»の男の姿をしている。 ……10年よりも前であれば。 ……彼は化け物だったかもしれないが。 またお前たちか。今夜はどんな用だ?忙しくも銀の機関が騒いでいるのだから、私はあまりお前たちに時間を割けぬのよ。 なあ、子供たちよ。 彼は暗闇に呼びかける。それは、以前にも会話をした相手だった。 すなわち誰もいない何もない闇。そこに、ランドルフは声を掛けるのだ。 またこんな老いぼれに用とは。暇なのか。なんなんだね、狂人にどんなご用だい。 ──いけないよ。いけないよ。──水が枯れてしまうよ。おじさん。 それは確かな音声だろうか。それとも、彼にだけ聞こえる幻の声か。 今夜は雨だよ。子供たち。 ──水を慰めておくれよ。──おじさん。お願いだよ、おじさん。 おお、子供たち。この前とは別の子かな? 無茶を言ってはいけないよ。私はほら、この通り穴を掘らなくてはいけないんだ。 人柱は別のおひとに頼みなさい。可愛い子供たち、もしくは子供よ。 ──いけないよ。いけないよ。──涙がこぼれてしまうよ、おじさん。 ──涙を止めておくれよ。──お願いだよ。 意外に涙もろいんだなお前は。お前たち。姿もないのに。何があったんだい、なあ。涙は、10年前に置いてきたよ。 ──ぼくじゃないんだ。あたしでもない。──水が泣いてしまうんだ。 変なことを言うやつだね。愛しい子供たち。お前が、お前たちが誰だか知らないが。 水は最初から泣いてるじゃないか。 男はばさ、と肩に溜まった泥を落とす。それは無数の機関によって輩出された排煙を無限に吸い込み、黒ずんで。 知らないのかね。すべての水は、涙から生まれてるのだよ。海という名の神の涙から、こぼれ落ちて。 ──フードをすっぽり被った子。 ──その子の髪はひどく濡れていた。──髪だけ。他はどこにも雫はない。 トテトテと少し歩いて。不思議そうに街並みを見上げて。 大きく大きく首を傾げる。どうしてだろう、と黒色の瞳が告げる。問いに答える人は誰もいないのだけど。 ここは都市下層。夜を知らぬ無限雑踏街。賑やかで人の多い大通りではなく路地の、ひっそりとした場所。 まともな子供は歩かない。下層の路地裏。 ──下層に“まとも”な子なんて。──いる訳がないけれど。 ともかくそこに、その子はいた。黒いフードをすっぽり被って。 たったひとりで。トテトテ歩いて、ポツンと立って。 ……。 何かをお探しかい。綺麗な瞳のお嬢さん。ここは、ひとりで探しものは難しい町だ。特に小さな子にとってはね。 ……うん。さがして、いるの。 掛けられた声にその子は頷いて。声の主であるところの、路地の影へ応えた。 小鳥や仔猫のような小さな動物が鳴くような、か細い声で。震えるように。路地の影は思ったろうか、変異した喉を。 おじさんはだれ。黒い影のおじさん、黒い猫のおじさん。 どちらも正解だ、くろぎぬの子。影の猫だ。儂はどこにでもいて、呼べばニャアと鳴く、そこいらにいる老いぼれた猫の爺いだよ。 名はイルという。ひとは老いぼれ猫だとか老師であるとか呼ぶけれども。好きに呼ぶと良いよ。ニャア。 ……イル。 さあて、どこの子かな? ……。 はてさて、何をお探しかな。 ……。 おやおや。面白い子だ。それも、わからないのかな? ……うん。 ふむ。なるほどそれは。時にお前さん、名はなんという? ……ん? ふうむ。自分の名もわからぬか。ほう。いいや、構わないよ。そういう輩もここではそう珍しくはないのだからね。 ふうむ。名もわからぬが、何かを探しているのは確かと見えるが。さて、どうしたものかな。 ……うん……。 そんな顔をしなくとも良いよ、おさなご。儂が案内しよう。このインガノックをな。 ……インガノック……? おやおや、この名すらも知らぬか。はてさて、無限なる«霧»にて外界とは隔絶せし都市に異邦人もあるまいからに。 おお、では、そうだ。さては相当の下層区域、魔境の都市層にて生まれたおさなごと見える。あるいは── ──あるいは? いや、構うまいよ。おいで。儂はこれでも、顔が広いほうでね。ニャ。 見るものすべてを問う幼子へ。イル老人は、幻想の異人種«観人»特有の大きな大きな肉球の目立つ手を差し伸べる。 柔らかなようで硬い肉球。そのひとつを、幼い手が掴む。 ──ぎゅっと、力強く。──ありがとうと告げる代わりに。 では出発しよう。さあ、お前さんの失せもの探しだ。 都市下層。第3商業特区、別名を無限雑踏街。 今日もここは人で満ちている。かつては人間と呼ばれたはずの人々だ。 無数に行き交う人ならざる姿をした人。これが10年前であるなら異常な景色。けれど、今はこれが正常な都市の姿。 コオロギの顔をした男。梟の翼と爪を持った女。鼠のような若者。そして、己の姿を隠す外套を被った人々。 これが正常。老師イルの姿も自然と溶け込む。 これはこれは、老師さま。コフー。本日もご機嫌うるわしゅうございます。どうか、尊き機関の恵みあらんことを。 ホッホ。儂は機関とは関わりなき身だよ。けれどきみときみの家族と友人たちには機関の恵みがあるとよいだろう。 ……機関? うむ。生活を支える動力たる機関がの、毎日健やかに不調なく動くようにとね。まあ、まじないだ。 ああ、有り難きお言葉でございます。老師は今日も老師でいらっしゃいますね。コフー。 年老いた猫の戯れ言だ。何事も、ほどほど。ほどほどがよい。 恭しく何度も礼をして去っていく、外套と覆面とに全身を覆い隠した人間たち。一体、なんなのだろう。幼子は首を傾げる。 そんなに息苦しいのだろうか。被っていた覆面は、確か、呼吸覆面だ。 機関式採掘を行う鉱山などでは珍しくない。確か、以前にそう聞いたことがある。でも、それは、誰の言葉だったろう。 ──幼子は首を傾げる。──なんだろ? …………? ……異形化の少ない人々は、ああして、吸い込まぬようにしておるのよ。空気を。気休めだがね。まあ、気休めは、重要だ。 かの41の怪異のひとつたる妖樹の種も、異形化も、空気を媒介して発生するとな。信じているのだよ。 この10年での流行だ。少しでも気休めになれば、それで良い。 ……。 そうか、わかったか。うんうん。賢い子だね。 ……ううん。 ホッホ。正直な子だ。賢い子も正直な子も、どちらもよい子だ。 ヨイコ、ヨイコ。ガガッ、老師サマ。ゴキゲンウルワシュウ。フシュー。 ……わあ。これはなに。とてもかわいいものが、うごいてる。 機関精霊だな。そう珍しくもないが。10年前からよく見かける、機関工場から生まれ出た幻想生物なのだが。可愛いかね? うん。 エヘヘ。アリガトゴザイマス。老師サマ、ト、クロギヌノアナタ。 先ほどの人々とそっくりに、機関精霊と呼ばれた鉄の塊が一礼をする。 なんだか、冗談のようでとても可笑しい。自然と幼子は笑い声を上げていた。 くすくすと笑うと、小動物の声がした。今度は小魚たちが水面で泡を吹く音に似ていたかも知れない。 ──ささやかに。か細く。──笑いがこぼれる。 気に入ったようだね。よし、では道連れとすることにしようか。おいで、そこの機関精霊20305号や。 オチカラニナリマス。オチカラニナリマス。 ……ふふ。 ……そして。 ──ポヨポヨと歩く。小さな黒い影。 ──トテトテと歩く。大きな黒い影。 ──キシキシと歩く。小さな薬缶影。 1匹と1人と1体の組み合わせは、不思議な組み合わせかも知れない。もしも、この異形の都市でなければの話。 この都市であれば注目はされない。時折、老師イルに礼をする人がいるだけ。 「……あら。珍しいこと」 イル老師? あら、これはこれは。こんな白粉と阿片の匂いの充ちた場所までご足労だなんて、珍しいこともあるものね。 その子はなに?下層魔窟から拾い上げてきた奴隷の子?それとも、なあに、もしかしてお稚児? ……。 ホッホ。さて、どうだろう。今日も美しいよ、アリサ・グレッグ。 あらあらこれはご丁寧に。どうかしら、一服。うちの窟なら上物揃い。お望みとあらば、煙の夢と女の夢をどうぞ? ……くつ……。 阿片窟。あらあらご存知ない?お嬢ちゃん……かお坊ちゃんか、ううんとわからないけど、一服やっていくかしら? アムネロール以外は取り揃えてるの。どう?西享人の言う“天国”にだって行けるわ。 奥の部屋の“女の子”になるのも、私は一向に構わないのだけれど、ね? ……? ホッホ。アリサ・グレッグは今日も逞しい。儂は安心したよ、その目を見てね。ニャ。冗談が巧くなった。 ここいらには本気の連中も多いですからね。なにせここは無限不夜城、下層無限雑踏街。お気をつけて、老師。 くろぎぬの子、貴方もね。それにお供のあんたもね。 アイ、アイ。フシュー。命令受諾イタシマシタ。チュイシマス。 いい仔だ。それじゃあ老師、ご機嫌よう。また今度。 金はないので、またここで話そうか。明日も生きていてくれよ、レディ。 ふふ、貴方もね。素敵な老師。 あやしいけれど感じの良い、綺麗な蛇のお姉さん。機嫌よさそうに蛇腹が音を立てていた。 あのひとは、優しそうだけど。でも。でも。 きっと、ここはひとりでは歩けない。ここだけじゃない、都市全体がそう。幼子は思う。 蜥蜴の頭をした雰囲気の嫌な男たちや、呼吸覆面をしている立ち居振る舞いの良くない男たちの姿がある。 たくさん、そういう人がいるようだ。老師に礼をしない人たち。 2人でよかった。ううん、3人でよかった。 ──ポヨポヨと歩く。小さな黒い影。 ──トテトテと歩く。大きな黒い影。 ──キシキシと歩く。小さな薬缶影。 あ。猫のおじいちゃんだ?あれれ、えんじんせいれいと、女の子。だあれ? んもー、ルポ!ちゃんと老師さまっておよびするの。ごきげんよう、老師さま! 路地裏の陰から声がして。小さな影。ぴょこんと顔を出す。 ひい、ふう、みい、と3人。ちょうどこっちと同じ人数の子供たち。人間に見える子供ふたりと、蛇の子供。 老師のおじいちゃま。こんにちは。きょうはおさんぽですか? おさんぽ……。ポルンたちも、えと、おさんぽ……。 こんにちは。 「こんにちはー」 「こんにちは!」 「…こん、にちは…」 元気な男の子と女の子。控えめな子。3人は、嬉しそうにはしゃいでイル老師の周りをぐるぐる回る。 なんだかとても可愛らしくて、ふふ、と鈴虫の声で幼子は喉を鳴らした。 「きれいね」と女の子が言って。 「ふしぎー」と男の子が言って。 「…うん…」と蛇の子が頷いて。 ふと目に留めて、幼子は首を傾げる。なんだろう。子供たちの手足。 鈍い鉄の色をしているような。まるで、鉄で出来ているみたいに硬く。 ん? なあに、これ気になる?へへー、モリモトのおっちゃんがつけてくれたんだ。ギーせんせがお金くれたの。 こーらっ、ルポ。おっちゃんじゃないでしょ、おじちゃま。ん……機関義肢見るの、めずらしい? うん。機関義肢。 ……びょうき、で、変異、すごく……、しちゃうから……。ギーせんせが、くれたの……。 あなたは手足だいじょぶなの?すごい、そんな子、はじめてみたかも! ごめんね。 ……?? なんであやまるの?すごいんだよ、机のかどっこにぶつけてもぜんぜん痛くないんだ、へーきなんだもん。 ソウデス。テツノカラダハジョウブデス。デモ、雨ニハ注意デス。帰ッタラチャント、油サシテネ。 わかってるよーだ!ギーせんせみたいなことゆー精霊だっ。 ホッホ。そうだね、精霊先生だ。ちゃんと言うこときくのだよ。 きみたちのいる工場は近かったかな?あまり遠くまで行かないこと。知らない場所へ行ってはいけない。 「「「はーい」」」 幼子は少しびっくりしていた。優しい人たちはいるけれど、嫌な気配がたくさん詰まっているこの大きなお城で。 いいえ、お城よりも大きな、お城のような重苦しい都市の中にあって。 あの子たちは平気で歩いて。見たことのない、鋼鉄の手足で。 さっきイル老師が言っていた、妖樹だとか異形だとか、そういうものが。きっと、あの子たちの手足を蝕んでいる。 でも、ここではきっと、それが普通で。幼子は息を吐く。何度も息を吐く。 ──ポヨポヨと歩く。小さな黒い影。 ──トテトテと歩く。大きな黒い影。 ──キシキシと歩く。小さな薬缶影。 「……おや?」 「おやおや??」 「「おやおやおや???」」 「「そこゆく猫爺、お止まりなさいな♪」」 また幼子は驚いてしまった。だって、ここにいるのは亀のお爺さんだとちょうど聞かされた時だったから。なのに。 可愛い子羊のような女の子ふたり。年の頃はさっきの子たちよりは上だろうか、なのに、お店は自分たちのものという顔で。 ぴょこんと動く耳が可愛らしい。目をきらきら輝かせて。 あらら、あらら?あのご立派な老師さまもとうとう悪い道に? あらら、あらら?都市がこれ以上の地獄になっちゃうかしら? 老師が子供をさらうようになっちゃえば、無登録の数式医は巡回をやめちゃってえ、死んじゃうひとたちぽこぽこぽこ。 機関精霊までそんな悪事を覚えちゃえば、居住区にいても幻想生物やクリッターで死んじゃうひとたちぽこぽこぽこ。 「「見〜ちゃった、見〜ちゃった〜♪」」 ……? 「「見〜ちゃった、見〜ちゃった〜♪」」 ……。 あれ、あれれ。ちょっと。どうしたの、しょんぼりした顔して。 これじゃ、あたしたちがいじめたみたい。もう、やめてよアグネスってば。本当に人をからかうのが好きなんだから。 ……いちぬけたするの好きよねフランシスカ。もー、お姉さんは感心しませんことよ。 お姉さんはあちしのほうだわ? お姉さんはあちしのほうだわ? ドッチモ、ドッチデス。フシュフシュ。 「「む」」 これこれ、喧嘩も悪態も良くないことだよ。いけないな、ふたりとも。この子が怖がってしまう。 悪いことは、お前さんたちがせずとも、充分他の連中がやっている。これ以上増えたら都市が崩れてしまうニャ。 「「は〜い」」 さあて困った。スタニスワフの亀爺にこの子のことで相談があったのだがね。これでは情報は買えそうもない。 老師さまは情報をお求め? それなら雑踏街一の情報屋のあちしたちにご用命をどうぞのことよ?ねえ、一体どんな情報をお求め? また迷子かしら? キーアみたいな難度AAの迷子ちゃん?うーん、腕が鳴るわよアグネス。 さてはて。お前さんたち、その調子では、さほど情報も揃えてなかろうに。耳がキュッとしているよ、何かあったかい。 「「…………」」 ……なんにも? ……ありませんのよ? どうしたの。なにか、あったの。そんなかおしてる。 「「…………」」 ……なんにも? ……ありませんのよ? ふうむ。いつもは朗らかな子らなのだが?今日はいかにもとげとげしい。はてさて、どうしたのだろうか。ニャア。 ふーんだ。そんなことないもの、あちしたちはいつも通りですことよ。お客さんじゃないなら帰った帰った☆ ふーんだ。そゆことそゆこと。あちしたちはいつも通りですことよ。お客さんじゃないなら帰った帰った☆ ……。 ……ばいばい。 可愛い桃色の子羊さんふたり。あんなにくるくると輝く笑顔であるのに。 すらりと述べた、ここが地獄であると。そんなことは言わないで欲しい。幼子は、また息を吐いてしまう。 でも。でも。ここは、そうなのかも知れない。 わからないけれど。何も。優しいひとたちに出会えているけれど、それはすべてこの老いた猫のおかげか。 幼子は老師イルのコートの裾を掴む。異境の匂いがした。きっと西亨のもの。 ──ポヨポヨと歩く。小さな黒い影。 ──トテトテと歩く。大きな黒い影。 ──キシキシと歩く。小さな薬缶影。 ……? これはモノレールという。ある種の機関車のようなものだというが。儂も詳しいことは知らないのだよ。 このインガノックはの、とても大きい。10階建ての高層建築を何倍も何倍も、何十倍にもしたような、積層都市だ。 その名の通り、幾つもの層、プレートで構成されている訳だ。 ……。 うん、わからなくても無理はない。よほど深いところにいたのだろうから。 層移動には階段をのしのし昇るのも、儂は好きなのだがね。お前さんには恐らく難しいだろう。 モノレールデ移動スルンデスネ。ドコヘイクンデスカ。一層上デスカ、ソレトモ下デスカ? そうだね。いっそ一番上まで昇ってみるかい? ガガッ、ピーッ!イケマセン、イケマセン、上層ニハ、上層貴族サマト上層兵以外ハ立入禁止! 個人認証用機関カード剥奪ノ上ニ、死刑、死刑、死刑! ……? 上層というのは、ほら。あそこ。この都市のてっぺんにあるお城だよ。小さいお城が見えるかな? ちいさい。 うんうん、小さく見えるがね。実際は相当に大きい。縮尺の問題だ。 そうなの。 あそこには入れないから、そのすぐ下。螺旋状の階段があるだろう、大きな階段の層プレートが。 上層階段公園と呼ばれているものだ。あそこへ行こうか。 アソコデ、探シ物ノ探シ物デスカ?フシュー? なに。なにもかも初めてのようだからね、せっかくなら綺麗なものを見るといい。 ……。 何かね? ……イエ、イエ。サスガ老師。泰然トシテイラッシャルデス、ガガッ。 と、喋っていた機関精霊が転がる。モノレールという鉄の機関動力の乗り物が扉を開けて、どっと人が降りてきたからだ。 たくさん、たくさん。こんなに詰まっていたのかと驚くほどに。狭い場所にたくさん、みっしりと人々が。 ──これは老師さま。お先にどうぞ。──現象数式で子供を救ってくださったとか。──大公爵さまをお助けなさったと聞いたが。 ──なんにせよありがたいお方じゃ。──こんなとこまでもったいねえことです。 押し寄せた人は、次々に口々に、老師イルへと話し掛けてくる。びっくり。 ……いやはや。 すごい。イル。 やれやれ、何がすごかろうかね。儂はただの猫の爺ぃだよ。 その割には。おひげが動いている。ぴくぴくと楽しそうに。 幼子は少し嬉しく思った。面倒見がよくてとてもひとのいい老猫に、人々が嬉しそうに接するのが、心地よい。 ──よかった。──まだ、怖いけれど。 怖いけれど。まだ、この都市に“人”はいるのだ。 ──開いた鉄扉から外へ出る。 ──雨が上がっていた。──視界に広がるのは灰色でも黒でもない。 空は当然のように灰色だけれど。でも、視界に。こんなにもたくさんの緑。幼子は、はふ、と息を漏らしてしまった。 すごい。澱んだ空気がない。そう、今までの場所はすべて空気が澱んで、それ自体は幼子も慣れていたものだけれど。 ここは違う。緑がたくさんある、これは木々の緑だ。植物が、生命力を謳歌して生い茂って。 ……わあ……。 ……すごい……。 ……こんなに……たくさんの……。……うん、すごい……。 すごいことなどひとつもないよ。ふふふ♪ それでは早速釣るとしようか♪ フシュ? 足元に群がってくる緑色の蠢く何か、芋虫のような犬のようなものをよしよしと撫でて、老師イルはひょいと。 釣り竿を。ひょいと池へとやって針を投げ込む。 おお? おおおおおおおおおお!?もう掛かった、おお、ニャアー! おお、おおおお、おおー!?これはでかい、これはでかいニャー!! 何が釣れるか楽しみだ、ああ、何だろう!誰が釣れるか楽しみだ、ああ、誰だろう?おおお! ふたりとも、こっちへ来なさい!おおお、釣れる! 釣れてしまうぞ! モウ釣レテル!フシュー! ……。 ──ポン! なんと! わ。 おお、おおお!これは見事なオニオコゼが釣れたものだ!これは見事にまるまる太ってうまそうな! 「びちびち、びちびち」 この魚を見るのは初めてかな?8年前に発見された顔のこわい魚だがね。しかし煮付けにすれば淡泊でよい味わい! 「びちびち、びちびち」 おお、おおお!よくも喋りおる、可愛いオニオコゼよ!これを食べるのは良心が痛んでしまう! 「びちびち、びちびち」 おお、おおお!怒っておる怒っておる、さすがだ!では、放してあげよう、さらばだ! リリース! りりーす。 ──ポチャン! 残念、逃げられてしまったようじゃ。今度はちゃんと釣らねばニャ。 ……。 おやおや。嬉しそうだね、どうしたかな。お前さんはオニオコゼの味方だったかな?それは悪いことをした。 イルは、みずとしたしむのね。 ああそうさ。生き物だからね。水と親しむとも。 ここは上層階段公園の“第3公園”というのだよ、と続けて。老師イルは微笑む。 眼下に広がる都市下層を指し示し、肉球を誇らしげに揺らして。老師イルは、こほんとひとつ咳払い。 釣り竿をどこかにスッと隠したかと思うと、誰かの真似でもするかのように両腕を大きく広げて、高らかに。 アァ─────── ──喝采せよ! 喝采せよ! 「喝采せよ! 喝采せよ!」 「おお、おお、素晴らしきかな 盲目の生け贄は死せず未だ都市にある」 「ここは都市 歪んでしまった都市インガノックなる」 「お前さんはきっと知るまい どこからか来たかわからぬ子よ」 「ここは都市 ここは孤独都市。«無限霧»に阻まれて」 「かつて百万の人を擁せしも、 10年前に幾万幾十万が死せる地なる」 「人々は変異し、幻想の生物たちは現出し 強大なるクリッターどもが恐怖を撒いて」 「人はそれでも生きねばならぬ 人はそれでも涙を堪えねばと」 「10年前に置き去りし、 忘れたものを求め、 清浄なる上層貴族たちの優雅さを夢見て」 「けれど、けれどもお嬢さん 忘れてはならない すべての幻想が蘇りしこの都市なれども」 「たったひとつのおとぎ話 鋼鉄の ひとに«美しきもの»をもたらすもの」 「41のクリッターと対を成す 41の鋼鉄人形、それが唯一のおとぎ話」 「忘れてはならぬ 何故に41の鋼鉄人形が在るのかを」 「──ここはインガノック ──涙と血とが紡ぎ出した最後の城」 「──世界の果て、道化の異形都市──」 ──ああ。 ──視界の端に道化師の姿はない。 いつも見ないようにしてきた幻だ。道化師は、何故だか過去を思い起こさせる。 過去の記憶。切れ切れで、はっきりとは思い出せない。 踊る道化師。黒色の。拭い去ったはずなのだ。なのに、何故か思い出す。記憶と共に。 あれはそう、10年前。今はもう細やかな破片になってしまった記憶たち。赤と黒を基調とした、無数の。 記憶。悲鳴と絶望の呻き。 記憶。この手で助けられると驕っていた。さしのべれば、必ず救えるものと。 記憶。次々と手の中をすり抜けていく命。 記憶。都市の何もかもが“崩れ”始めたあの時。       「どうして」 ──崩れ始めたあの時。──確かに、唇は、そう動いて。 答えはない。答えはない。 言葉は聞こえなかった、あの瞬間。 きっとあの時。世界と一緒に僕は壊れてしまったのだ。 呻き声の中をさまよい、数多の誰かの涙を無限に見つめながら、彼は、自分の両手を、呪い続けて……。 深い霧の中をもがくように。悪い夢の中で悶えるように。──10年。 気付けば、もう10年が過ぎていた。この«異形都市»が生まれて。 ──都市という世界が壊れてから。──10年。 ──記憶。それは、今でさえ。 『はは……。 あは、はは……見ろよ……ギー……』 『ほら、綺麗な……炎だ……』 『ふふ……こんなに燃えて、綺麗に…… 10年前と同じじゃないか……』 『そうだよ……同じ……。 そう……同じなんだ、同じ……』 『なあ、ギー……? 方法は、もっと、簡単だったんだよ』 ──記憶。 『……10年前』 『人々と大公爵の夢を打ち砕く かの«復活»がこの都市に顕現した』 『悪夢のような«無限霧» 肉体の変異と、死を招く奇病の流行』 『巨大湖の上にあったことも災いして 我らの都市は世界から完全に孤立した』 『そして41体の俺たちが クリッターがインガノックに現れた «はじめからそこにいた»だけだが』 『わかっているのだろう、ギー?』 『お前は俺たちの仲間だ、そうだろう』 『ある1点においてのみ人は平等で その1点で俺たちとお前は繋がっている』 『深く。深くだ』 ──ああ。 ──そうだな。 『もう、人間は終わりだ。だから──』 ──記憶。 ……瞼を開く。……部屋の中は既に明るかった。朝だ。 狂気の残り香を感じた気がした。ギーは、頭を振って視覚情報を拭い取る。 再び見えてしまったのか、あの幻が。視界の端で踊る道化師。嘲笑する、ギーの狂気。 ……まさかね。 朝の気配は確かに充ちて。歪んだ小鳥の囀りが意識を揺り動かす。 数式の影響が残った“右目”が視る。いつものことだ。永久の灰色雲の向こう、カーテン越しにゆるりと差す陽光の鈍さ。 大脳の変異が進んでいるのだろう。ほんの僅かに使用したはずの数式の目が、およそ7時間はこの“右目”に残るのは。 物体を把握し認識する“右目”が、カーテンとベッドの他にもこの部屋にあるものを視る。 見慣れたもの。快適とは言い切れないアパルトメント。機関式空調だけが自慢の、ギーの部屋。 存在しない幻の道化師には、夢に現れたあの“薔薇の右目”にだけは。反応してくれない、この役立たずの目は。 それでも── 傍らで眠る、黒猫の姿を捉える。 ……ん……ぅ……んん……。 ……ん……。 すぐ傍ら。ベッドに横たわる黒猫。これも見慣れた風景だ。 寝入る瞬間に気付かないのも、こうして目覚めた時にようやく気付くのも。侵入者かと殺気じみた緊張を走らせるのも。 もう随分と慣れた気がする。この10年で。 ──けれど、こうして。──寝入っている黒猫はそう見ない。 悪戯っぽい笑みを浮かべて、こちらの寝顔をじっくり見つめるのがこの黒猫の趣味であると認識している。 (随分遅くまで仕事をしていたか。 相変わらず、無理をする) もしも言葉にすれば、何と返されるか容易く想像がつく。 「コーヒー飲むだけで食事済ませて ろくに睡眠も取らないような男に、 そんなこと言われる筋合いはないさ」 「文句あるなら何か食べて」 「死ぬよ。ギー」 ──何度も聞いた言葉。 ──もっとも、ここ暫くは聞かないが。 アティ。黒猫の。幻想の異人種«猫虎»の女。 都市摩天楼を主な狩り場にする荒事屋だ。肉体に埋め込まれた幾つもの数秘機関は彼女を最速の兵士たらしめる。 硝煙と血煙と刃が舞う、荒事稼業の中にあって。10年間、彼女は死なずにいるのだから。 昨夜も荒事を幾つか済ませたはずだ。擦り傷が幾つか見える。 白い肌。剥き出しの肩に残る傷跡。うっすらと残る深い傷跡のうち、幾つかは、この10年で刻みつけたもの。ギーも見た。 ひときわ大きなものは、そう、確か、ギーを守った際についた傷だ。噛み砕く幻想生物バーゲルの牙の痕。 この都市にあって、命の値段は安い。修羅場をかいくぐる彼女でさえ大した稼ぎはない。痕跡治癒も。 この傷は、ギーが大脳を変異させる前だ。けれど、現象数式を扱える今ならば今夜の傷くらいは容易に拭い去れる。 手を伸ばしかけて。 ギーは逡巡する。 眠りを妨げるか、と── ……ちがい……ます……。う……ん……。 ……なん……で……また……。こんな、に……。伝票……計算、でき……な……。 (珍しいな) 寝言か。珍しい。話している内容も今の彼女とはほど遠い。 伝票。思わず肩をすくめる。機関工場の女計算手を想像してしまった。まさか、アティにそんな職は似合わない。 過去の夢でも見ているのだろうか。興味は、少しだけあったが。 (野暮だな) ──手を差し伸べる。──アティの艶やかな黒髪へと。 ──手をかざし、脳の位置を把握する。──正確に。 ──脳内器官の起動。──現象数式による置換修復の開始。 ……ん、ん……。 あり得ないはずの現象を引き起こすもの、その名は現象数式。力ある光。かの大公爵が作り出した都市特有の技術。 物理に作用し現象を発生させる。夢と脳構造を理解できずとも、数式の光は神経を置換し、不快の状態を正常へと戻す。 物質の置換。現象数式の基礎原理の一端だ。 ……だめ……。 ……まって、まだ……。 ……ママ。 何かが煌めいた。放射されるクラッキング光を反射して。 こぼれたものをギーは見なかった。目を逸らして、窓を見る。 ……ママ……。 ──こぼれた雫は。 ──果たして、涙だったろうか。 ──静かにドアを開ける。 きっとあの子が蝶番に油を差したのだろう、普段なら軋む開閉には物音が伴わなかった。 アティは起きなかったようだ。よほど深く眠っているのだろうか。 珍しいことは重なるものだ。まだ朝の6時程度だろう。あの子には早い。けれど、鼻腔に漂ってくる香りが既にある。 ──音と。──食事の香り。 配給用食用油と合成ベーコンを焼く音。そして香り。油と肉の焼ける。 脳内器官の発達と引き替えに、恐らくは食欲というものを失った身には不明だが。 きっと、10年前なら。 見事なものだ。安物のスキレットを巧く扱っている。よくよく、あの少女には驚かされる。 ソファへ腰を掛ける頃には、少女は皿を幾つか手に持って姿を見せた。前掛けを器用に外しながら、片手に数皿。 おはよう、ギー。 西亨の人形のような姿。思わず、ギーは目を細めてしまう。何故か、雲の向こうの陽光を思う。 少女は室内着のままで。油が散っていないのは器用さ故か。 ──キーア。 ──不思議な子、薄赤色の瞳の少女。 お早いのね、ドクター・ギー。ご飯の準備できてるけれど、食べます? おはよう。ありがとう、キーア。 食べるとは口にしない。今のギーはできないことを口にしない。 コーヒーの他には、卵の炒め物を少し。それが、ぎりぎりの彼女との妥協点だ。 昨日とうって変わってきょうはいい天気。空、なんだか少し明るい気がするわ。 そうだね。 ──変わらない。陽射しだけだ。──空の色は灰色で、朝も昼も同じ色。 雨がたくさん降った後だから、少し涼しいかもだけど。きょうは、どの層へお仕事に行くの? 少し離れた層へ降りようと思う。寒いから、きちんとコートを着ておいで。 はい、ドクター。 キーア。 はい。 ドクターはやめてくれないか。何度も言うが、僕は医者ではないよ。 はいドクター。数式医だものね、魔法のお医者さま。 いいや、キーア。手品だよ。種がある。 いいえ、ドクター。 ──にこり、と。 僅かな微笑みを目にしてしまった。負けか、とギーは肩をすくめる。 一切の強制はしない。誰にもだ。それは10年の間に決めたギーのルール。呼び名などは、好きなように呼べば良い。 3人ぶん作ったのだけど……。どうしよう、大丈夫かしら。 奥さんはまだお休み中?冷めた朝食だと、悪いかなと思って。 アティならまだ寝ているよ。大丈夫、彼女は──猫舌だから。 あ、あ、そうよね。はい。そうでした、覚えておきます。ギー。 あと、これも何度も言うがね。……キーア。 奥さんじゃない、でしょ? 冷めちゃうから、早く食べてね。 ──笑みを浮かべて。──言葉ではこの少女には敵わないか。 この子が来てから何日経ったのだろう。随分と慣れたもの、だが。芯からは慣れそうにない。 もっとも、ギーは慣れるつもりもないけれど。 (……慣れないといえば) ギーは思い出す。都市摩天楼の書庫ビルディングに佇む陰。もうひとりいたはずだ、鋼の娘がひとり。 人間であった彼女は、このアパルトメントの内部2階の個室、客間だったキーアの寝室にいるはずだ。 その姿がない。あの凍った視線を感じていない。 ルアハは起きないのかい。昨日も確か、起きてこなかったが。 ええ、今日も起きないみたい。明日には起きるって言ってくれたの。 そうか。 問題がないならそれでいい。地区用大型機関から導力管で配分される蒸気エネルギーの消費量は、上昇するが。 キーアは既に配膳を終えて、真横に座っていた。 ──ああ、そうか。 ……では、いただきます。 はい、よろしい。いただきます。たくさん食べてね。 ──朝食のさなか。──聞こえてくるのは小鳥の囀り。 朝食はいつも静かなものだ。この少女が訪れる前でも、訪れた今でも。キーアはナイフとフォークの扱いが巧い。 カップを両手で抱えるキーアを見る。ベーコンと卵はもう食べおえたらしい。 パンは一番先に消えていた。好物らしい。 彼女は柔らかいパンがお気に入りらしい。パンが硬いのは10年前の常識だが、当時からあった西亨製法が今は一般的だ。 最初は柔らかさに驚いて目を丸くしていた。やはり不思議な少女だ。一体どこで育ったのか。 立ち居振る舞いや服の仕立て、それに幾つも持っていた着替えの量。ある程度以上の層なのだろうけれど。 市民等級で言えば6級以上。居住する層の高低で市民等級が上下するこの都市にあって、第6層以上の市民か。 なのに、パンの柔らかさに一喜一憂する。本当に。不思議な子だ。 (……いつになったら教えてくれるのか) 雑踏街のフィクサーを自認する老人、スタニスワフ老ですら情報取得には失敗している。それ故に。 キーア自身が語るしか、彼女が何者であるかを知るすべはない。 ……あつ、あつ……。 慌てずに飲みなさい。僕のぶんのパンも食べるかい? はい。あ、ううん、いいの。いいのよ。べつに、そゆのじゃないのだから。 卵、美味しかったよ。 ふふ。そう?良かった。あ、ちゃんと食べてる。 ……ベーコンは? 食欲がね。 もう。お夕飯は野菜たくさんにするので、その時はちゃんと食べてくださいね。 ……善処するよ。 ──嘘はついていない。──ギーは目を逸らしかけて、ふと。 ふと思いつく。まだ巡回開始の予定時刻には間がある。たまには、会話のある朝も良いだろう。 キーア。 はい、なあに? 少し、話をしようか。ベーコンを食べなかったお詫びに。 お話は好き。なんのお話?灰かぶり姫? 白雪姫?ううん、西亨のおとぎ話じゃなくても。 ……ああ。 懐かしい名前を聞いた。この都市では既に失われたおとぎ話たち。 都市には実在するからだ。魔法のようなものを使う人間も、小人も、人間を永遠の眠りに誘う妖樹果実も在る。 ハッピーエンドだけが存在しない。だから、人々はおとぎ話をすべて捨てた。 恐ろしいものを呼び出してしまうのだとそう信じて、この都市には必要ない、と。あらゆる幻想が現出するここには。 そうだな。10年前のおとぎ話をしよう。 昔はたくさん、おとぎ話があった。知っているみたいだけど。 今はちがうの? 今はもう、おとぎ話はひとつしかない。だから、昔の。10年前の。 ……水のお話だ。 ──水のお話。 ──それは水の姫のおとぎ話。 ──遠くの国に住んでいたという。──きれいな水のお姫さま。 ──悪い魔法使いに囚われて。──塔の中に押し込められて。 ──ずっとずっと閉じこめられて。──悲しくて、お姫さまは泣いていた。 ──1年も、2年も、3年も。──ずっと涙に暮れて過ごしていた。 ──そして、とうとう。──お姫さまの牢獄は涙でいっぱいに。 ──お姫さまは、溺れそうになった。──自分の涙で、溺れそうになった。 ──けれど。──お姫さまを、助けてくれる人がいた。 ──そのひとは、勇気に溢れて。──お姫さまを牢獄から解き放った。 ──泣きやんでと、声をかけて。──外へおいでと、声をかけて。 ……きみのおかげで思い出したよ。確か、こんな話だった。 ふんふん。お姫さま。それで、その子は幸せになったの? なったとも。皆が幸せに暮らして、めでたしだ。 ……そうなの。 ん……。 表情の翳りをギーは見た。少女は何かがお気に召さなかったらしい。些か、話の筋が平坦で短すぎただろうか。 細かなディテールを付け加えるべきか。仕方ない、ギーは肩をすくめる。 お気に召さないかな。すまないね。次は、もっと面白い話を思い出すよ。 ううん、違うの。すてきなお話。でも……。 ギーの言葉が変なのだもの。それで、ちょっと、気になって。 変かな。 だって、いつも嘘をついてるんだもの。 ──嘘? 嘘はついていないよ。 ──賢い少女だ。──子供扱いすればすぐに露呈する。 本当は幸せに暮らすことなどなかった。お姫さまは、泡になって消えた。 願いを込めて。誰をも恨まず。 ──水の泡となって消え去ったのだ。 ──嘘。嘘か。 この都市のすべてがそうだ。何もかもが嘘だらけ、ギーと同じだ。 客ならこの都市にはいつも溢れている。都市。その名はインガノック。 ──都市インガノック。──語る者なき«異形都市»。 かつては東大陸有数の大機関都市。美しく整備されつつあった、世界初の完全環境型複層都市。 今は違う。隔絶され孤立した異形たちの澱み。 そう。そうとも。きっと“外”の誰もこの都市を語るまい。 10年前の«復活»ですべてが変わった。不可思議な霧によって外界から隔絶され、インガノックは変わった。歪んだ。 都市は死んだという者もいる。確かに死んだ。 すべてが変わった。ギーが学んでいた“人間のための”医術は意味を失った。人々の体が変異したからだ。 鳥や猪のように幻想の異人種と化した者、物言わぬ石の塊と化した者、死へ至る植物へと変わる者。 ──誰も彼も。──誰も彼も、形を変えた。 もはや。純然たる人間は、都市の大半を占めるこの下層部には存在していないだろう。 ──ギー自身も含めて、だ。 理想都市たるアーコロジー、完全環境型巨大構造体だったはずのこの都。今や、その名残は、外観にのみ留められて。 幻想生物と呼ばれる、幻獣や精霊たち。人智の及ばない奇病、樹化病に変異病。 そして、41体のクリッター。 数多の変異。信じられない嘘。それが、ここだ。 嘘で作られたようなこの都市で、正真正銘の真実などあるのだろうか。 (……そんなものがなくとも) (生きていくことはできる。 溺れかけた魚が、水面で息をするように) ──ギーは今日も都市を巡回する。──嘘のような手品を使って。 都市法を破り続ける巡回医師。それが、自分の今の姿。それが、自分の今の嘘。 かつて、10年前には医学生であった自分に与えられた役割。偽物の医者。嘘の塊だ。 医術と呼べない手品。現象数式で、病を取り除く。外傷を治す。 あの自分が……。大学の付属医院に進むだろうと漠然と思っていたあの自分が、人々に触れて。 そう、まさに、嘘のようだ。嘘のような自分が、嘘のような力を操って。 呼吸を楽にして。大丈夫、あなたの命は助かりますよ。 初期の腫瘍です。安全に取り除ける。心配は要りませんよ、ミスター。 ──大脳の脳内器官を起動させる。──現象数式が光を放つ。 クラッキング光が患部を置換していく。現象数式を用いて、今日も人々を治療する。 かつてであれば驚愕もしただろう、この力なき力。現象数式。 初期腫瘍と言ったのは方便、嘘だ。“右目”に浮かんだパネル光が患者の体の状態を正確に情報体として送り込んでくる。 ──認識できる。 本当はひどい末期の癌。普通は助かるまい。けれど、癌はクラッキング光の敵ではない。 遺伝子がねじ曲がろうと、置換で済む。物質は現象数式の前に無力だ。ねじ伏せ、健康な細胞を置く。 物質置換では介入さえできないものがある。存在の本質を蝕む、樹化病、そして変異病。それらに対しては数式は意味がない。 魔法であるものか。こんなものは、ただの手品だ。 「ありがとうございます、ありがとう、 ドクター……貴方を呼んでよかった……」 「生体クラッキングなど、恐れることは なかったのに……ああ、ありがとう……」 構いませんよ。正常な反応ですとも、ミスター。 人を死に追いやるものが癌でなくなった。さらに恐ろしい、病とも呼べない現象がそれに取って変わっただけ。 だから。こんなものは、手品だ。 擦り傷に対して絆創膏をするのと同じ。 ……けれど、この都市にはその絆創膏すら。 (意味がないか。嘘か) (それでも) (……僕は) 10年前に都市のすべては一変した。人は変異し、幻想生物が人々を蝕み、理想を目指す都市は恐るべき異形と化した。 この10年、多くの犠牲を支払って人々はかろうじての生存を許されている。まったくもって、かろうじての命。 都市上層に姿を隠した大公爵。貴族の頂点たる支配者の定める法の下で。 ──それでも。 ギーは、手を差し伸べることを止めない。 ──今日も何人かを助けた。──そして、より多くの死を目にした。 皮肉なものだ。貧しい者から死んでいく。環境など、異形の病には意味がないのに、貧民層であればあるほど。 今日は、第12と第11の貧民街。そして第9中産層の家々を巡回した。助かった人々の多くは、中産の民。 まるで大公爵の定めた法のままに。弱者排斥を謳う都市法の掲げる理想通り。 大人が4名。子供が10名。 中産層から降りる際に、エラリィにキーアを預けて来て良かった。14の死を、あの子には見せずに済んだ。 流石に1日では多い数だ。異形の病の重度伝染地域とは言っても。 ──今日は14名。──助けることが、できなかった。 ──こぼれ落ちていく。──あらゆるものは、この両手から。 それでも。ギーは巡回医師で在り続ける。 都市の夜── ギーは雑踏街を進む。このすぐ上の層にエラリィの医院はある。 上とは言っても下層には違いない。上層は都市の頭頂部であるほんの一部だ。それ以外のすべてが都市下層。人間の巣。 そう、人間の。たとえどんなに姿を変えても。やがて死にゆく人々の群れだ。 ったく、お前さんが来る時は必ずそうだ。いつになったら無心をやめるんだ、ギー。金ならまだ可愛いものを。 医薬品はこのご時世じゃ貴重なんだ。金になるかと言われれば、ならないがね、中産の偉いさんたちは“薬”に安心する。 ま、食い物たっぷり食ってるあの連中に打ってやるよりは、お前さんの言い分もわからんではないがね。 なにせ下層民はいつも栄養失調だ。安物のこんな栄養剤だって効くってもんさ。 ……て。 聞いているのかい、ギー? 聞いているよ。いつも済まないな、エラリィ。 なんだその手は。 金だ。要らないなら払わないが。こちらも助かる。 そうは言っていないだろう?はした金でも、金は金じゃないか。 エラリィ・バーンズ。彼もまた人間だ。数少ない変異が外観にない型の。もちろん、内臓には既に幾つか。 もっとも、彼にとってはそれは汚点だ。中産層の他にも希に上層貴族さえ診る彼にとっては“外観”は商売の種。 変異を嫌う資産家たちは多い。エラリィの主な顧客はそんな彼らだから。 ところで、ギー。例の噂はもう聞いたかい? さあ。 耳ざといのかそうでないのか……。都市法による間引きが近いって情報だよ。どのあたりかまでは漏れていないけどね。 そうか。ありがとう。 ……ありがとう。じゃないだろう。いい加減、老人や子供と関わるのはよせ。重病患者もだ。一体、何の意味があるよ。 お前さんの商売は知ってるつもりだがね。まったくもって金にならない。駄目だよ。もっと真面目になれ、ギー。 巡回医師なんて無意味だよ。下層の傷病者はまだまだ増え続けるだろう。ここは、もう、そういう都市になったんだ。 ──真面目、か。 無差別に治療してもどうにもならない。剪定をするべきだ。お前も。それが法だ。傷病者は、都市経済にも悪影響を及ぼす。 何も、すぐにこっちへ来いとは言わない。医師の義務を果たせと言ってるんだ。 ──義務。 命の選定は医師の役割だ。でなければ、都市法はお前をも処分するぞ。 私がお前とこうして会うことだって、まあ、上層貴族と繋がりのある一級市民の耳には入れられない危険行為なんだぞ。 そもそも、大学で私より優秀だったお前が。そんな風でいるのは耐えられないんだよ。 ……すまないと思っているよ。エラリィ。 恩に着せたい訳じゃないが。その、何だ。 設備も医薬品もろくに整わないで、そのぶん数式で補っているんだろうがね。それはお前のエゴでしかないんだ、ギー。 ──エゴ。エゴか。──確かに、そうかも知れない。 意味も意義も既に都市にはないのだろう。それは、ギーにもわかる。 お前の才能を無駄に失うのは都市の損失だ。私は認めないぞ。 いいか、認めないからな。ギー。 かつての友の声を背に受けて医院を出る。既に医院の中に灯りはない。至極“常識的な”医者は19時で閉院だ。 週末のパーティの準備で忙しいのだろう。エラリィの服のポケットにあった蝶タイには最初から気付いていた。 エラリィは正しい。ここではこれがまっとうな医師の姿。 ──どこか狂っているのだ。──巡回医師などを買って出る輩など。 ギー、ねえ、ドクター。お話は終わった? お薬はいただけた?あのね、キーアはご本をもらったのよ。 それは良かった。何の本だい。 医学書。1903年の西亨のものですって。あそこのきれいな女性がくれたの。 見れば、四本腕の娘が見えた。看護服に身を包んだその姿は知っている。 愛嬌のある«蟻蟲»のナースだ。まだ若い。確か、現在のエラリィの恋人だったはずの。こちらへ手を振っている。 薬を安値で無心しに来るギーには笑顔など見せたことがないが、なるほどどうして、キーアにはああして。 (立ち居振る舞いのせいかな) あのね、これで頑張ります。お役に立てるようになるんだから。 ん── 今日は少ししかお手伝いできなかったし、もう置いてけぼりされないように頑張ることにしたの。ギーの役に立つわ。 もっと、ギーを近くで見ていたいから。キーアはがんばります。 ──本当に。 ──心の底から不思議な少女だ。 家路へと少し急ぐ。灯りの少ない地区の夜は安全とは言えない。 ふとキーアを見ると── 歩くというよりも、小走りになっていた。そもそも歩幅がギーと合っていないのだ。 急ぎすぎただろうか。気遣って、少し速度を緩めると、キーアは何故か怒った顔をした。 (やれやれ) 一体、何故── このつまらない男の何が気に入って、この娘は離れようとしないのだろう。自分さえ、わからずにいる男だと言うのに。 まともな医師は幾らでもいる。例えば、あのエラリィでも良いはずだ。 それなのに。この少女は、どうして。毎日。巡回に付き合おうとするのか。 ……路地裏に差し掛かる。 廃棄済み機関機械が転がっているあたりに視線を向けると、まさかのものを目にした。 さすがにこの時間には出歩かないと思っていたが。 どうやら、些か甘く見ていたようだ。ギーは自らの認識を改める。彼らは一筋縄ではいかない。 ……出てきなさい。そこにいるのはわかっているよ、ルポ。 パルにポルンもそこにいるね。 え? ギー、どこ?パル? ルポ? ポルン? あそこの陰にいる。こんな夜更けに隠れ鬼かい、パル。 ……ごめんなさい、せんせ。 ちぇー。なんだ、見つかっちゃったぁ。うまく隠れたと思ったのにな。 ……ごめん、なさい……。ギーせんせ……。 陰から子供たちが顔を出す。続けて、外灯の明かりにぎりぎり入る程度。全身が見えると、キーアが喜ぶ声を出した。 ギーには視えていた。まだあと数時間は“右目”に数式が残る。 あの、あのね、悪さしてたんじゃ、ないの……。ちょっと、休けいして……。 ひどいんだよー、ねえ、親方ってばさぁ。夕飯ぬきで、しかもよどーし仕事だってどなりちらしてさ。 …おなか、すいたね…。 おなかとせなかがくっつくよー。あー、はらへったー! はしたないこと言わないの!ルポはすぐおなかへってもんく言う! ……ごめんなさい、ギーせんせ。すぐ工場にもどります。 事情は大体わかったよ。そうか。 この子たちもか。エラリィの医院へ寄る前に同じような事態に遭遇したばかりだ。今日は多い。 今日は下層の労働者たちの楽しみの日。機関精霊の賭けレースの開催日だった。合点がいく話だ。 楽しみであるのは勿論、成人に限るが。個人認証機関カードの提示が義務づけられた、公営競霊だ。 子供たちの形ばかりの“里親”である工場主たちが、金を紙屑に変える日だ。苛つきは子供たちへ帰結する。 ギーは財布の重みを確認する。エラリィにはそれほど払わなかったから、まだ、かなりの金額が残っているはずだ。 ……ギー。どうにかしてあげて。ね、うちに連れて帰ろう? いいや。駄目だ。 ギー! 誘拐罪だよ。代わりに、親方の顔でも見よう。それで、ひとまずどうにかなる。 ……? きみが言ったんだよ。僕は、魔法使いだったはずだね。 夕刻に診察した中産層の男性からの謝礼。かなりの額を得たが、どうせあぶく銭だ。手の届くところで使おう。 これも手品。種があるうちは、魔法にも見える。 え? え、なに、ギーせんせ…?おやかたに何言うの…。 親方を叱ったりはしないよ。きみたちが困るしね。 じゃあぶんなぐってくれる?おじちゃん、ケンカよわいんじゃない? ルポ! おじちゃんて呼ばないの!せんせでしょ!あと、ケンカ弱いとか言わない! ぶー。 …でも、つよそに、みえないよ…。 ポルンまで、もう……。ちゃ、ちゃんとしなきゃ、だめ。 涙ぐむパルの頭を撫でる。柔らかなはずの髪はとても硬い感触で、工場での扱いが手に取るようにわかる。 あの機関工場の親方には、それなりに心付けを渡していたのだが。どうも、予想以上に強欲であるようだ。 あ、そうだ。待って。ちょっとだけ。いいものがあるの。 いいもの? ギーがいなくなっちゃうんだもの。だから、お夕飯用にとっておいたの。 ……えへへ。 ライスボールを握ったの!西亨のずっと遠くの国の保存食なの。あのね、ライスを炒めずに炊いて…。 たべものだ! おいしそーう!これなんていうの? …らいすぼーる…。 へー、らいすぼーるかぁ。西亨語っておもしろいなぁ、たいたお米をにぎってるのかな、じゃあ、おにぎりかな。 おにぎり? そそ、おにぎり。いま、ぼくがかんがえた名前ね。 おにぎり、可愛い名前。それじゃあ今からこれはおにぎりね。 「おにぎり?」「おにぎり!」「…うん…」 お姉さんは首を傾げて、弟は嬉しそうに。控えめな子はこくこくと頷いて。わあいと喜んでライスボールにかぶりつく。 あっというまになくなってしまう。見事なものだ。 機関工場の親方たちは子供たちへは1日1度か2度の食事しか出さないだろう。今日、ギーの目前で目を閉ざした子もそう。 機関式製造器の粗悪な合成オートミール、それを1日に1杯。足りるはずがない。 ギーは肩をすくめると、ルポをひょいと抱え上げて肩車をした。ポルンの手を、片方の手で引っ張る。 パルの手はキーアが引いてあげなさい。さ、行くよ。 うん! あー、キーアねえちゃん、ぎょうぎ悪ー。はいっていわないとだめなんだよ。 ルポ! なまいき言わないの! はーい。 …はい…。 はーい。 ギーは“右目”で子供たちの義肢を視る。折角だから、簡易検診をしよう。進行が早まる気配はまだないか。 接合部に炎症がある。節々が痛むはずだ。子供たちは、口にしないけれど。放っておけば骨が削れてしまう。 やはり成長が早いせいか、機関義肢が合わなくなってきたのだろう。モリモトに頼んで交換の時期を早めよう。 (機嫌が良いといいが) 修理工のモリモトとは話をつけてある。それでも用心しないと額が跳ね上がる。ごく近いうちに義肢を換えよう。 既に義肢そのものが、子供たちに潜んだ樹化病に侵された可能性も否定できない。忌々しい、都市の奇病。 樹化病。クリッターの1体が撒き散らす、都市の、下層の人々を……子を殺す現象のひとつ。 正確には病ではない。そういう風にできている“現象”だ。 一度罹れば完治する方法は殆どない。 ──だが、絶対ではない。 この子らが無事に大人になる可能性。今日の10名のうちの1名にならず、生きていく望み。 そんなものが下層にあるはずがないと、ギーは言葉にしない。法に、反していても。 ──たとえ都市が壊れていても。──エラリィのようには、ギーはなれない。 さあ。財布の紐を解く準備はできている。親方の負け分をせいぜい補填して、せめて1日2杯のオートミールを。 さ。行くぞ。二度と夜中に外に出てはいけないよ。 「「「はーい」」」 ……はい。ドクター・ギー。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 ……不器用なのだよ根本的に。 穴を掘るのに必要なのは水平角と黄金三角、さらには輝ける«緑色秘本»に触れし頭脳、つまりはこの私の頭脳である訳だが。 我が母は私に素晴らしく器用な指先を与えてくれたが、どうやら今は違うようだ。困った困った。ああ困った困った。 ……。 ……何?困ったのは今なのかと?もっと前からではないかと言うのか? ……。 さて。どうだったか。そんなことは、どうでもいいことだ。 「……ギー?」 時刻は深夜4時。もしくは早朝か。声を聞き留めてギーはグラスを置いた。 内部2階へ続く階段から声が聞こえた。まだ彼女の起床の時間には早い。 寝つけなかったのだろうか。機関空調は必要ないと言っていたが、しかし今夜はやけに寝苦しい湿度だ。 振り返ると、キーアが降りていた。階段から1階のここ。居間のように使っているソファルームへ。 からん、と鳴る。強めの蒸留酒に浮かせた氷の音。 ……ギー。お酒、のんでるの。 ああ。どうだい、きみも一杯。寝酒には少し強いが。 ……ううん。いりません。そういう冗談、好きじゃない。 ああ。 ──我ながら嫌な冗談だ。──何を、彼女に当たる必要がある。 起こしてしまったかな。すまないね、もう僕も寝るよ。 ……ね。もう、朝の4時過ぎてる。 問題ないよ。6時には起きる。 ……ギー。どうしたの。 どうもしないよ。いつも通りさ。 長く眠る習慣はない、それだけだ。他に理由はない。ない。 滅多に開けないボトルに手をつけた。──それだけだ。 …………。 キーア? ……。 言葉はない。薄赤色の瞳が見つめている。なぜか、ギーにはわからない。 肩をすくめる。まだきみが起きるには早いよと、努めて優しい声を出そうとするが。喉が掠れた。 ……どうしてそんな目をするのかな。僕は何かをしたかい、キーア。 心配だから。ギー、今は、何か、変だもの。 心当たりがないな。今日はまた遠出だから、早くおやすみ。 いや。 ──嫌? いや。だって、あなた、泣いているもの。 泣いてはいないよ。思い出しているだけさ。 何を……? 何をかな。 ……そういえば、思い出せないな。 ──ああ。 ──視界の端で道化師が踊っている。 その記憶は消え去ることがない。瓦礫の中。無数の白い服、足音、怒鳴り声。 10年の月日が過ぎて。それでも、今も変わらずに思い出せる。 ──あの日。──あの時、確かに。 ──あの声を聞いた。      『こんにちは。ギー』  『都市に、嘘などひとつもないのさ』  『嘘をついているのは、人間だけだ』 ……瞼を開く。……部屋の中に充ちる気配に寒気がした。 普段の朝の気配。何も変わらない。歪んだ小鳥の囀りが少しだけ聞こえて。 数式の影響が残った“右目”には何も。一切の異常は認識されなかった。黒猫の姿も、今は見当たらない。 寝室にひとり。ギーはこめかみを押さえて起き上がる。 頭痛はない。吐き気も感じていない。汗もかいてはいない。 代謝機能は落ち着いている。緊張状態にはない。少なくとも肉体的な反応は何もないのだ。 いつもの朝、たちこめる灰色雲の朝。誰かがいることもない。何を感じることもない。 悪夢ではあったが、ただそれだけだ。悪夢なら、既にここには充ちている。 ギーは溜息を吐く。 ……道化師だった、あれは。2日続けて、か。 ──なるほど、どうやらまだらしい。──あれが消えるのは。 ──ランドルフ。──未だに。僕も狂ったままらしい。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……充電は終了した。……我があるじ、これより起動に入ります。 新薬Aの大量流通も開始される。……あるじよ。貴方の望んだ“時”が来た。 ……さあ、楽しい間引きの時間の始まりだ。 ……我らの生贄はどの程度保つかな。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ──都市摩天楼の目覚めは早い。 都市唯一の高層ビルディング・プレート。最強のクリッターたるドラゴンの出現で閉鎖された地下大機関に次ぐ機関の揺籃。 上層によって任ぜられた都市職員たちが運営する、高層の経済特区にして行政区。上層以外の都市の心臓部だ。 無数のビルディングは動脈か。機関エネルギーと計算式が血液の代わり。 機関エネルギーは金そのものだ。動く金が多ければ多いほど影は長く伸びる。 ──あたしたち、荒事屋の仕事場だ。 依頼の後始末つったってロハだぜロハ。いちいち呼び出すんじゃねーよ。 いい迷惑だぜ、っと。充電完了を確認だ。こっちは問題なし。お前のほうの首尾はどうだ、黒猫サン? さーね。いいんじゃない?都市職員を顎で使えるってのもなかなか。こっちは、10分も前に多分充電完了さ。 予備機関エネルギー増槽は残り5コね。これ、結構かかりそ。 大型の鉄の塊をガコンと取り外す。これもまた大きな機関エネルギー接続口に挿入されて、シュウと圧縮蒸気が噴き出す。 誰が一体こんな面倒なものを。アティは「あーぁ」と退屈な息を吐く。 変異で得た素質と訓練と埋め込みで得た、しなやかな筋肉が泣いている。重い物を持つなんてこりごり。 華麗な立ち回りが身上なのに。これじゃまるで機関工場の労働者だ。 防刃型の大事なレザースーツに汚れでもついたら、桁を2つ増やして請求しよう。そう、心に決める。 点検はどう、ウマのお姉さん? ウマじゃないです«蹄馬»ですから。現在問題なしでーす。予備増槽10個確認。記録帳にメモしておきますねー。 あとぉ、あんまり文句言わないで下さい。機関接続器が傷ついていた件についてぇ、上にすごく怒られたんですからぁ…。 あー……。うん、ごめんごめん。ゴメンネ。 先日の書庫ビルディングでの立ち回りで、上層兵を相手にやらかした時の傷だ。そういえば、大きな顔はできないか。 これはいけない。話題を別のものに変えておこう。 内心でぺろりと舌を出す。ゴメンネ。 でも、おかげで異常は収まったし?きみもこっちも問題なし。 ね。OK? 確かにぃ、機関エネルギーの配分異常は収束したんですけどぉ…。何か変なんですよねぇ…。 い、異常って何さ? 現在、機関エネルギー配分のミスは規定の誤差範囲内で収まってるんですよ。でも、でもぉー…。 今回の誤作動で、下層D区画へ凄く大量の機関エネルギーが流入したっていう事実が判明しちゃったんです。 でも、そこから先がわからなくてぇ…。あ、こ、このお話は2級機密ですからね! 嘴にジッパーかけとくよ。しかし、そんなに変な話かね。 工場とかじゃないの?また機関精霊がぽこぽこ生まれたとか。 …うぅーん。似てるんですよね、すごく。精霊の自動生産とパターンが酷似してて。でも、でも、大量すぎるんです。 本当の本当の本当にぃ、“どこに行ったのかわからない”んです。 ──おかしな話もあるものだ。──数字とエネルギーの集積地たるここで。 機関エネルギー大量行方不明事件? 爆発事故も起きていないし、機関精霊が大量生産された話も聞かない。そんな大事を耳が“聞き”逃す訳がない。 けれど、それなら一体。機関エネルギーはどこへ行った? ……うーん。なんだろね、不思議。勝手にどっか行くものでもないのにさ。 ──アティは知らない。 ──先日の事件でギーが破壊したものを。 狂った上層兵とアティが刃を交わす間、破壊された都市摩天楼情報空間の王を。アティは知らない。 ──クリッター・バンダースナッチを。 ンなことより急ぐぜ、アティ。こっちは次の仕事が控えてるんだ。翼蛇と気狂い«熊鬼»が出たって話だ。 え。翼蛇、ほんとに?10万の賞金が掛かってる幻想生物! お前、朝の無線聞いてねえな。それでよくもまあ«通り名»がつくもんだ。 え、え、この後もお仕事なんですか?忙しいんですね……お気をつけて。 ま、死ぬ時は死ぬんだけどな。 そゆこと。 ──ポヨポヨと歩く。小さな黒い影。 ──トテトテと歩く。大きな黒い影。 モノレールから降りてきた影はふたつ。大きな黒い影。小さな黒い影。 一番小さな薬缶影はもういない。上層階段公園で燃料が切れてしまって、その上、蒸気槽を補充する金もなくて。 仕方ないので置いてきた。恐らくは何らかの拍子でまた動き出すよ、と大きな影が言ったので、幼子は頷いて。 誘われるままにここへ辿り着いた。モノレール駅から降りて。まっすぐ、緩やかな坂へ。 やがて小さな共同住宅が見えた。ここで求める人物が待っているのだという。 ……。 ここを訪れる人は、そうはいない。訪れる時は、死んで欲しくない者がいる時。 お前さんに見合っているかどうかは、儂にはわからないのだがね。引き合わせて、損はないはずだから。 ……うん。 幼子は頷く。老師イルの案内する場所なら構わない。このひとの紹介するひとなら構わない。 この2日で都市を巡ったふたりは、最後にこのアパルトメントへ辿り着いた。小さな、住人のあまりいない共同住宅に。 この── ──ギーのアパルトメントに。 驚きを隠せない表情を浮かべる男性。このひとが、ギー。老師が言っていた。 出掛けようとしていたところだったらしい。丁度、良いところで会うことができた。幼子は「よろしく」と、仔猫の囁きで。 すると隣の少女が目を輝かせた。かわいい、と言って。 その隣に佇む娘が小首を傾げた。かわいい、と言って。 ──いらっしゃいませ。 本日は、ドクターは巡回診療の予定です。明日も、ドクターは巡回診療の予定です。 明後日以降においで下さい。ワタシの予測では、明後日もドクターは巡回診療の予定ですが。 ルアハ! あのね、ルアハ。お客さまを追い返してはだめなのよ。 はい。キーア。命令受諾です。ワタシは来客を追い返しません。 ホッホ。新たな友ができたようだね。きみが友人を作れているのは嬉しいよ。ギー、ようやく、何かを学べたのかな? ……すみません、老師。失礼しました。どうかお座りになって。 構わないよ。突然の珍客だろう。ただね、きみに託したいことがある。さあ、くろぎぬの子。 ……ドクター。 幼子が微笑むと、ギーと呼ばれた男性は自己紹介をした。笑みを、返してくれることはなかった。 幼子にはわかる。ああ、このひとは、きっと。 笑わないひとなのだ。顔を見て、すぐにわかってしまう。 よろしく。老師のご縁の方ですね。お名前を伺っても? ……。 名前がわからないそうだ。どこから来たのかもわからないらしい。だが、何かを探しているのは、確かだ。 何かとは? そこから先は、きみの仕事だよ。ギー。 わかりました、イルおじさま。お引き受けいたします。よろしくね、えっと、黒衣だから……。 くろちゃん。 くろちゃん。 くろちゃん。 いや。僕はわかっていない。老師、お言葉ですが、僕は巡回医です。それもまっとうな医者じゃない。 なぜ僕に── キーアをきみは側に置いているね。それに、新しい友人もいる。 ワタシはルアハです。ご機嫌よう、オールド・マン。 良い子だ。さあ、ギー。頼んだよ。儂はしばらくこの層をうろついているから。良い報せを待っていることとしよう。 ……ろ、老師イル。確かにキーアも身元不明です。ですが、それとこれとは── 何か、違うの?キーアとこの子は、何が違うの。 幼子は首を傾げる。同時に、ルアハという娘も同じように。 幼子は思う。キーアという少女と自分は同じだろうか。同じようには見えないし、思えないけど。 けれど、ギーは口を閉ざした。2秒、こめかみに手を当てて。 ……ご老人。ここは迷子の預かり所ではないのです。 うむ。今まではね。 ご老人! ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 ……性分なのだよ困ったことに。 誰がそうしろと言う訳ではない。中には私には穴堀りがお似合いだと言ってくれる親切な連中もいるにはいるがね。虫とか。 輝ける銀は鍵となって私を翻弄する。それはすなわち光であって、私は灼かれる。私は以前までは蝶に焦がれる太陽熱だった。 ……。 何、太陽とは何か、とね。それはあの立ちこめる灰色雲の向こう、かつてこの惑星に蒼天が在りし頃の光。 ……。 ああ、そう、そうかも知れないな。 届かぬが故に、ひとは涙に暮れるのかも知れない。 ──視線は、背を向けた誰かには届かない。──それでも私は彼女を見る。 ──出て行く少女の後ろ姿を見送って。──私は待機状態をとる。 与えられた命令は待機。私はアパルトメントの保安維持と理解した。だから、休止状態にはならない。なれない。 「ルアハ。お留守番、お願いしますね」 少女の言葉が反復される。如何なる機関をも使用せずとも、声が蘇る。 少女の言葉だけだ。私の脳に届く、私のこころに届くものは。 少女と男、そして黒衣の子。あの«観人»の老人も部屋を出て行った。 私は私に残された限られた頭脳で思考する。彼らの会話の意味を。何を意図していたか。 「この子の、探しものを探すのですね?」 あの黒衣の子。あれが“求めているもの”を探索する。それが彼らの交わした会話内容だった。 身元の特定と同義だろうか。老人は、そうは言っていなかったが。 ──接続用数秘機関、起動。──情報検索状態へ移行。 私の全身を構成する金属塊。現象数式によって生み出される機関が、私の体。生体部分など、ほんの、僅か。 各層の市民に分配される機関エネルギーを導く導力管の接続口。そこへ、私は、鋼の手のひらをかざす。 金属の擦れる音。肘の球体関節が僅かに動き、手首が折れる。生物であれば骨の覗く場所に、機関接続器。 普段は、動力の充填を行う際に使用する。しかし、別の使い道もある。 ……接続。 導力管の接続口へと、手首断面の接続器を押し込む。接合する。 ……接合。 ……感知針、及び探査針を露出。……情報空間に接続。 都市摩天楼でのみ可能とされる、情報書庫への接触。それは、こうして、外部からでも行える。 都市全体を駆けめぐる、機関エネルギー情報網。これに接続し、ほんの僅かに干渉を図る。 こうすることで、都市摩天楼の情報書庫にも遠隔接触できる。当然、都市行政に対する敵対行為であるが。 荒事屋の一種である“ハッカー”たちがそう言ってのけるように、露見しなければ問題ない。 ……情報書庫に接触。……検索開始。 ……検索終了。 検索結果。 情報書庫に、正確な該当情報は存在しない。類似情報たる10322件は不適当と判断。 ……一切の情報なし。 ああ、それは── つまり、少女と同じということなのか。 7級以下の市民の行方不明者なら腐るほど。5級6級は103名、4級以上は20名だ。さて、お前の連れてきたガキは何級だ。 ……わからない。 帰れ。 まるで、キーアの時とそっくり同じだ。まったくもって旨みというものが存在せん。 お前の相手をしてる暇はないぞ、ドクター。俺も忙しい。なにせ各層で大騒ぎだからな、金のないお前相手に割く人員もコネもない。 随分と忙しいらしいが。フィクサー、きみらしくもないな。 らしくないのはどっちだ、気狂い数式医。向こうで遊んでいる黒いガキもキーアもどっちも俺にとっては疫病神だ。 俺は無限雑踏街の顔だ。泥を塗るな。厄介事はもうたくさんだ、帰れ。 大騒ぎとは、何かな。 ……借りから引くぞ。新型ドラッグだ。 アムネロールか。物騒だな。 下層の裏社会界隈を騒がせる新型ドラッグ。大きく分けて2種類が存在している。ひとつは、犯罪集団の地下幻想毒草。 服用者を死にも似た恍惚を与えるという。そんなものを味わいたいと思う人間が溢れているという実情が、この都市だ。 もうひとつはアムネロール。これは解析機関もお手上げの代物らしい。 過去の悦楽を現出させるというが、具体的な成分は未だに不明のまま。狂乱した中毒者の犯罪が毎晩数百は起きる。 ──アムネロール。──人を狂わせるための花というが。 狂気なら間に合ってるんだがね。どこの誰が撒いているんだか。 これまでの比ではないぞ。この2日で中毒者の事件が3倍に膨れあがってる。異常だ。まっとうなシノギじゃない。 という訳で、だ。ドクター。雑多な情報なんざ拾っていられるか。 金を出す気があるなら嬢ちゃんたちを頼れ。ついでにお前用の仕事も用意してやろう。良いタイミングだったかもな、ドクター。 あの子たちか。 桃色の耳と髪を思い出す。あの双子とまともに仕事をしたことはない。この老人の紹介ならば、問題はあるまいが。 そういえば、ここ数日は見掛けていない。どこかで必ず目にするものだが。あの双子の活動半径は凄まじい。 もっとも、嬢ちゃんたちにとってはどうか。それどころじゃないかもしれんがね。 ……というと? 仕事の詳細はこの機関カードに記してある。読んでおけ。 お前がしくじれば、双子は使い物にならん。俺は願ってもないことだがな。 せいぜい期待させてもらおう。なにせお前は疫病神だからな、ドクター。 二度言わなくてもわかるよ。僕は疫病神だろうさ。 いいや、わかっているものか。キーアだよ。結局のところ、あの娘はどういうんだ? お前の狭苦しい部屋には似合わんだろうに。良ければ、身請け先ぐらいは探すが? 冗談。 本気だとも。 なら、嘘が下手だ。 ──肩をすくめて。──ギーは老人に背中で別れを告げる。 髪が濡れている。フードの下に殆ど隠れた綺麗な黒髪が。 キーアがそのことに気付いたのは、雑踏街に来たことはあるの、と訊ねた後。幼子が「うん」と小さく頷いた時だった。 小さな雫が幾つかこぼれるのを目にした。涙と、見間違えそうになって。 ──雨は降っていないのに。 ──シャワーを浴びたまま?──それとも、溜め池に落ちてしまった? ね。濡れちゃってるわ、髪。拭きましょう?ハンカチーフはあるから── ……ううん。 でも、風邪を引いてしまうし。熱だって。 ……。 ね。フードを脱いで? ……。 ……えと、フードを取るのは嫌? ……。 ううん、そうなの。困ったわ……。……ううん、ううん……。 幼子はフードを脱ごうとしない。言葉も少なく、表情を見せてくれるだけ。 幼子は何も自分からは語ろうとしない。時折、辺りを見回していることから何かを探している様子ではあるのだけれど。 何を探しているのか。それさえも、幼子は言葉にしない。 僅かに頷いて、僅かに囀って、僅かに微笑む。 (可愛いのだけど……) (もう少しだけでいいの、 意思の疎通ができたらいいな) 彼女の“探しているもの”を探す。雲を掴むような話だけれど、キーアはそこには疑問を抱いていなかった。 不思議なひとは不思議なことは、この都市では珍しくないのだと知っている。ギーが、普段から、そう口にしているから。 ──と。ギーが戻ってきた。──スタニスワフ老人の店から歩いてくる。 ギー、おかえりなさい。亀のおじさまからお話は聞けた? スタニスワフは忙しいそうだ。双子を紹介してくれたよ。親切なことに、僕の仕事もそこで用意されているらしい。 お仕事?アグネスとフランシスカがくれるの? ……ひつじの、ふたごさん。 そう、«零羊»の双子の情報屋だ。知ってるのかい? ……。 知ってるみたい。会ったことあるのね?可愛らしい羊の姉妹さん。 うん。 知り合いか。なら話は早いかも知れない。早速、降りてみようか。 降りるの?双子さん、よく雑踏街にいるけれど── スタニスワフの店を借りてるだけなんだ。これから行くのは、自宅のほうさ。 それなりに距離があるからね。モノレールを使おう。 そんなに遠い層から、いつも雑踏街まで来ているのだろうか。キーアは、つい、小首を傾げてしまう。 隣で、幼子も首を傾げる。キーアのほうを見て、まばたきをして。 そんなに遠いの? ここよりもずっと下の層だ。第2水源地区さ。 第2水源地区……。 ──下層、第2水源区画。 周囲に漂う緑の気配に胸を弾ませるけれど、すぐに、楽しさは消えてしまって。 ずっと上にある上層階段公園とは違う。ここは、あそこの緑とは何もかも違う。踏みしめる草の感覚さえ、硬く感じられて。 繁茂する緑の柔らかさ──ない。 包み込む草花の香りも──ない。 虫や生き物の気配さえ──ない。 違っている。ここは。 どんよりと沈んでしまった緑。濁りきって殆ど見通せない池。悪意を持って上層階段公園を崩したような。 鼻腔を突く匂いは水のものだろうか。見渡す限りいっぱいの、広い広い水溜まり。下層、第2水源区画の、市民用生活貯水池。 キーアは沈みそうになる気持ちを抑えて、表情を柔らかく心がける。ギーへと、微笑みかける。 ね、ギー。ここにも、木々や草花があるのね。 ……そうだね。 ここはね、キーア。まだ都市に«復活»が訪れるよりも以前に、巨大湖の麓の漁師たちが移り住んだ地区だ。 下層の人々の生活用貯水池であると同時に、漁師町なんだよ。 今でもね。ほら。 ギーが指し示したのは、ボートの群れ。目を凝らせばわかる。広大な貯水池のあちこちに、小さなボート。 浄水施設と思しき建築物の付近以外の水面には、ボートが浮いている。 漁船── そう、正解。 そう……。 キーアはじっと視線を注ぐ。ギーの横顔。 さっきから、そう。隙があればこうして横顔を見上げていて。 ギーの顔と、瞳とを、いつの間にか覗き込んでしまう。 雑踏街からモノレール駅へと戻りがてら、幼子を一度ルアハに預けて、この地区に辿り着くまでの数時間。 数時間。ずっとそうしている。ギーを盗み見る。 なんだい?何か、気になることがあるかな。 う、ううん。いいえ?えと、置いてきて良かったのかな……。 ああ、構わないよ。僕の“仕事”を終えないことにはね。 失せ物探しを双子に頼めるのは、その後になるね。 そう……。 …………。 また。瞳を見つめて。もし。彼の瞳の光がこの水のようだったら。 ──キーア? ……いつもの色。 あ、ううん、なんでもないの。いつものギーのようだから、安心しました。 ……今朝はすまなかったね。もうしないよ、キーア。 …はい。 ──わかってくれたのなら。──数時間、費やした甲斐があった。 口の中で「よかった」と呟いて。ギーの外套を掴んでいた手をぱっと離し、転ばないように足元の草に注意して歩く。 水辺へと近づいてみる。覗き込む。 あまり水辺に顔を寄せてはいけないよ。危ないから。 はい、ギー。もしかして、こわい幻想生物が? 一般的にね。上層階段公園以外の水辺は水妖が棲息することが多いから。 この地区は 確か……。ああ……いや、どうだったかな。 ここは……そうか、第2水源……。もっと古い伝承があった……ような……。 なあに?? ……古い伝承があった気がする。きっと、10年よりもずっと前のものだ。 ヴォネガット老人なら、伝承を覚えているかもしれないな。 ──ミスター・ヴォネガット。──第2水源地区に長らく住まう老漁師。 移動中のモノレールで、キーアはギーから彼のことを聞いた。 双子のおちびさんたちの実の祖父であり、貯水池で漁師を営んでいる老人。都市下層を支える水産業の重鎮だという。 スタニスワフ老が用意したという依頼、“ギーの仕事”は、この老漁師の病の治療。 ──双子に貸しを作るんだよ。 ──ヴォネガット老人を治療できれば。──多少の難しい情報も仕入れてくれるさ。 ──ギーはそう言っていた。 すぐに貸し借りで物事を図る。それは、ギーではなくて都市の性質だけど。キーアにとっては、何だか、面白くない話。 さあ、行くよ。危ないからこっちへおいで。 はい、ギー。 あの双子の家。すなわちヴォネガット老人の住宅は近い。 水辺を覗き込むのを諦めて、ギーの手を掴む。今日も、冷たい彼の手。 歩きながら、振り返ると──水辺にたゆたう漁船が魚の背びれに見えた。 「「はーい、どなたですか〜♪」」 「「第2水源漁業組合に何のご用〜♪」」 「「…………げ」」 ──華やかな声が出迎えて。──ギーの顔を見た途端、トーンが落ちて。 見間違えでなければ、その瞬間に浮かんだ双子の表情は妙だった。ほっとした、迷惑なような、複雑な表情で。 それを不思議に思ってしまって、挨拶が遅れてしまった。 ご機嫌よう、アグネス。こんにちは、フランシスカ。 あ、あらあらこれは。かわいいかわいい、ドクターのお稚児さん。遠路はるばる辺鄙な貯水池まで、何のご用? あ、あらあらこれは。ご高名な“変人”でいらっしゃるドクター。わざわざあちしたちの顔を見に、ここまで? どうかな。ミスターはご在宅かい。 あら失礼ね、ドクター・ギー。残念だけれどお爺さまは不在なの。 またおいでになって下さるかしら?お茶のひとつもお出しせずに失礼あそばせ? ──なにか、変。──もっと話しかけてくるふたりなのに。 まるで何かを避けているかのよう、と。キーアは思う。 アグネス、フランシスカ。お茶の用意を。そのふたりは私に用があるようだ。 「「……」」 ふたりとも。いい子だから。お前たちの躾は、すなわち、私の責任だ。この老人に恥をかかせないでくれるかな? 「「……お茶、いれてきます」」 静かに姿を見せた老人の言葉のままに、双子らが入れ替わりに奥へ消えていく。頷いて。不満そうに。 ヴォネガット。精悍な老人だ。遠目に見れば若者と見間違いそうな人。 浅黒く焼けた肌と、齢を経てなお逞しい漁師の体。 久しぶりだね。ギー。 お久しぶりです、ご老人。突然の来訪をお許しいただきたい。 許すかどうかは話次第だと思うがね?そちらのお嬢さんは、初めて見る顔だな。 はじめまして、ミスター。キーアといいます。ドクターの助手をさせていただいてます。 ほう、助手かね? 見習いですよ。 それで、用件は?助手まで伴って爺ぃの顔でも見に来たかね。それはそれで嬉しいが、そうではあるまい。 アグネスとフランシスカからです。雑踏街のスタニスワフを経由していますが、あなたの治療を依頼されたのです、ご老人。 病に臥せっておられるとか。 ふうむ。 老人は笑みを見せた。でも、それは嬉しさから来るものではなく。 じっとキーアは見つめた。老人の、瞳の奥に隠れているはずのもの。けれど、それは頑なに、閉ざされていて。 ──伺うことができない。──まるで、この灰色に満ちた空のよう。 出て行きなさい。ドクター、私に特別な治療は必要ない。 弱みを作りたくないものでね。出て行きなさい。あの子らに何も残せない私が、誰かにあの子らへの弱みを作れるかね? ……ご老人、僕は。 きみを疑う訳ではないよ。人を疑うのだ。わかるだろう、私は当然の判断をしている。帰りなさい。 ……わかりました。 帰りましょう。ですが、せめて診察だけでも。 それなら好きにするといい。既に、私は自分自身の体を知っているから。 感謝します。 言葉を述べるギーの“右目”に光の板。現象数式のクラッキング光だ。 診察はほんの2秒程度で終わってしまった。ギーは、その“右目”で視るだけで相手の肉体の状況を正しく認識する。 ……なるほど。 どう、ギー……?すぐに治せるよね。ね、ドクター。 蒸気病と忌罹病を併発している。形質変異が始まっている。 ……え……。 ──どちらの病名もあたしは知っている。 ──ギーが言っていた。──本でも、目にした。 蒸気病。機関排煙を吸い込み続けることで発症する、呼吸器を致命的に侵す病気。“普通”の病。 忌罹病。幻想の異人種に肉体が変異する、都市の病。遺伝子をねじ曲げ、人の姿を変えてしまう。 2種の病が融合した難病は、外見上は肉体を少しも変化させないものの、致命的なまでに根本的な形質を変化させる。 都市の定める“死”の定義に当てはまる。労働力とはなり得ない、致命の病。 外部からの治療は困難。たとえ、現象数式であろうともだ。 急性のものですね。手を入れなければ、恐らくは。 そう。長く保っても数日程度だろう。治せると思うかね? できない、と。僕が言うとお思いですか。 言わんのだろうがね。噂は聞いているよ、変わり者の数式医と。 ……ミスター。きっと、まだ間に合います。だから。 残念だがね、可憐なお嬢さん。私が許したのは診察をすることまでだよ。 お茶が間に合わずに申し訳なかったね。さあ、出て行きなさい。帰り道は、水辺には近寄らずにいたまえよ。 「「──待って」」 追い出されたのはこれで2度目。老人にそうされたのは、これが、初めて。生気のない雑草を見ながら、そう思って。 こういうことはよくあると呟いたギーに、いつもはどうするの、と訊ねながら。 ギーの冷たい手を掴もうとした時、その声が届いた。 待って、と。双子の言葉が背後から。聞いたことのない声色で。 ふたりとも……。 あの……。 その……。 ふたりとも、もう、帰るの……?あの、お爺ちゃん、なんて言ってたの……? 教えて……くれない?病気のこと、何か、言ってたかしら……。ドクターは……治しに来てくれたのよね? 彼は自分の症状をよく理解している。治療は、必要ないそうだ。 ……そうなの……。 ……なんで……?治療、断ったのはどうして、なの……? 何故かな。 肩をすくめるギーを、キーアは見る。言わないのだろうか。老人は、双子のことを口にしていたと。 ──ギーは何も言わない。──沈んだ双子を黙って見ているだけで。 ……あちしたちの、せい……? ……あちしたちの、仕事のこと……。お爺ちゃん、気にしてたり、するの……? ああ、そうか。双子の言葉をキーアは理解してしまう。先ほどに見せた、複雑な表情の理由を。 自分たちのことを想うから。この都市で生きていくふたりのために、老人が治療を受け入れないだろうこと。 ──それを、双子は知っているのだ。──察しているのか。 考え過ぎだ。僕と、彼との間の話だよ。 ……だめ。 ……だめ。だめ。 ……だめ。だめ。治して。ギー、ドクター。お爺ちゃんを治してあげて。何回ぶんでも、借りに、してあげるから。 ……お願い、お願い。治して。ドクター。お爺ちゃんを助けてあげて。なんでもするわ、なんでも、するから。 あちしたちが……。 プレゼント……。 ──プレゼント?──贈り物。誰から、誰への贈り物。 プレゼント、あげる約束、したの。7日後の……。 お爺ちゃんの、誕生日に……。だから……。 それまでは絶対に生きてるって、お爺ちゃん、言ったの……。 なのに、なのにね、だめなの。お爺ちゃん……。きのう、ううん、その前の日から……。 お爺ちゃん……。みるみる、弱って、たくさん、咳して……。たくさん……シーツ、いっぱい……。 血を吐いて……。 キーアはふたりの瞳を見る。ああ、たとえこぼれ落ちていなくても。 震える声が。伝えてくる。祖父を、どうか助けて欲しいと。 ──涙が。──たとえこぼれ落ちていなくても。 ドクター、ドクター。お願い、助けて。お金なら。幾らでも、出すから……。金庫に溜め込んでるの全部出すから……。 足りないぶんは何でもして稼ぐから……。やれないことだってなんでもするから。ドクター、ドクター。助けて、お願い。 「「……お願い」」 ふたりの言葉が重なる。いつもは明るく朗らかで威勢のよい声、それが、共に、ずっと深くまで沈んで。 キーアは視線を移す。見上げた先にある数式医の表情へ。 彼は、無言だった。言葉を探しているのだろうか。それとも。 ……ギー。ドクター。 服の裾を掴む。強く、強く、引っ張る。このまま去って欲しくない。このまま見捨てるのは、嫌。 ──ううん、違う。 ──誰かを見捨てるギーを見たくない。 ……良い心がけだが。あまり褒められたことじゃないな。 幾らでも、なんて言葉は特に。僕でなければ困った事態になるところだ。 ……ギー。 ──思わず笑みが漏れる。──やっぱり、ギーは、ギーでいてくれる。 「「……え……それじゃ……」」 どうせ、元から違法行為だ。多少は無理強いの治療だってするさ。 しかしあれはなかなか頑固だな。ミスター・スミスのように、話を聞く土壌があれば有り難いのだけども── ──ジョン・スミス。──西享の血を引くというあの男性。 キーアは思い出す。あの時は、そう、彼と話したギーが解決の糸口を見出した。今の状況とは、さまざまなものが逆さま。 少し考えて。キーアは笑顔をギーに向けた。 ……キーア? この前は、ギーがお話をしたわ。だから今回は。キーアに任せてください。 きっと、理由を聞いてみせるから。 大きな大きな水溜まり。濁った雫で充ち満ちた第2水源貯水池。 もしもこの巨大な貯水池が、無数の雫でできているなら。どれだけ、幾人の瞳が必要なのだろう。 水際に佇む老人の影── それを目にした時、キーアは思った。 まるで、ひとりで泣いているようだと。思ってしまったから。見えてしまったから。 ……きみか。お嬢さん。 確か名前は、キーアと言ったかな。まだ帰っていなかったのかね。 はい。あなたとお話がしたくて。 嬉しいことを言ってくれる。一緒にいた、か細い医者先生はどうしたね。 ギーはむこう。ここにはいません。……どうか、気を悪くしないでください。 あなたは、なんだか、お医者さまが嫌いみたいだったから……。 はは。そうか。 本来であれば快活で力強く映るのだろう、笑みは寂しく。弱く。 一見すれば健康なこの浅黒い老人の体が、何らかの力、病に、蝕まれているのだと。キーアにもわかる。 いや、悪いね。笑うつもりはなかったんだが。 いいえ、お構いなく。悪いだなんて思いません。ギーも。 随分と仲が良いようだね、きみたちは。そうか……。そう見えたかい。 嫌っている訳ではないがね。そのつもりも、私にはないよ。治して欲しいとは思わない、それだけだ。 私は死ぬ。余計なものを残したくない。それだけのことだよ。 ……。 ──瞳を見つめる。──あたしは、きっと間違えていない。 なぜ、嘘を言うのですか。ミスター。 嘘? あなた、きっと嘘をついている。理由を聞かせてください。 嘘など、ついてはいないよ。 嘘。 それも、嘘です。 ──瞳を見つめる。──彼にも、ギーと同じものがあるから。 ……勘の鋭い子だ。ドクター・ギーには不似合いな助手だよ。 ──溜息混じりに。──老人が肩をすくめて首を振った。 諦めたような口振りは、少し嫌だった。振り返る老人の顔。なぜか皺が目立つ。 キーアの言葉を認めるのと同時に、急に、老人が弱ってしまったような錯覚。 再び水面へと視線を戻した老人は、小さな声で告げた。黙っていてくれと。 「……孫たちには黙ってくれるかい。 あまり、幻滅させたくはないのでね」 「我が儘だと思うかい」 いいえ。思いません、ミスター。 ありがとう。私にはね、約束があるんだ。 約束……。 そう。ずっとずっと昔に交わした約束。今は思い出すことさえ難しい── 「65年前のことだ」 「まだ、ずっと私が幼かった頃。 きっときみよりも若く、未熟だった頃。 都市の在り方がすべて異なっていた頃」 「第2貯水池で出会ったひとりの少女。 あれと、約束してしまったんだ」 「ひどく簡単な約束だ」 「いつか私がおじいさんになって 今にも死にそうなくらいに弱った時、 それでも、漁師を続けていたら……」 「そっちへ連れて行って欲しい、と」 “ひとりでは寂しい、あなたといたい” 「……そう囁いた少女のために。 私たちは、共に生きることはできない。 生産力を減らした家の末路は、悲惨だ」 「でも、せめて私が、私の命を 唯一自由にできる……最後の時だけは」 「その時だけは この子にすべてをあげよう、とね」 ……今となっては顔も覚えていないがね。我ながら、与太話だ。 きっと、初恋を思い出して耄碌したのだよ。今日死んでも、明日に死んでも、何も変わりはしないというのに。 なぜか思うんだ。このお迎えには、逆らうまいと。 ──逆らうと、会えない気がしてね。──あの子に。 そう言うと、老人は渇いた声で笑った。ひどく寂しそうに。ひどく悲しそうに。 孫たちには、すまないとしか言えない。笑ってくれて構わないよ。 これは、私の我が儘だ。……本当に、あの子たちにはすまない。 首を横に振っても、キーアは言葉を選びきれなかった。 老人の想いは尊いのかも知れない。でも、キーアは返すべき言葉がわからない。初恋、とは死を受け入れるに足りるものか。 その少女は、今はどうしているのだろう。ずっと前に死んでしまったのか、それとも、約束を守って、今も。 待っているのだろうか。老人の死を。 ──わからなかった。──だから、あたしは黙ったままで。 深夜の無限雑踏街。喧騒に満ちた雑踏。夜を知らないここでは今が最も華やかな時。 行き交う人々は皆、過酷な都市環境でも生き抜いていく力強い意思に溢れている。怒声と嬌声。笑い声と泣き声。 すべて、すべて、あの老人からは感じられなかったもの。 ──ドロシーでさえ、もっと。──もっと。 ぐるぐると思考が渦巻いていく。だから、不意にギーが声をかけてきた時、躊躇ってしまって、口をぱくぱくさせて。 落ち着いて。ずっと、考え事をしているね。 えと、あの……。わからない、から……。 どうしたらいいのか、わからないの……。約束を守るって、あのひとは、言う……。でも……。 仕方がないさ。 ギーの手のひらがキーアの頭を撫でる。子供にするような仕草。本当は、やめて欲しい。 でも、今はそうされると落ち着く。わからないことでいっぱいの胸が軽くなる。 彼は老人で男性だ。以前の、ドロシーの時とは違って当然だ。 ギーみたいに、できない……。 僕も、きみと同じことはできない。ドロシーに語りかけたのは、きみだった。 ……うん。ギーはこんな時、どうするの。 さて、どうするかな。本人に自覚があるのが救いだけれど。 ……意地悪……。 小さく不平を漏らすと、再び、彼の手のひらと指が頭に触れた。 ……時間を置こう。だが、余裕はない。明日の夜明けすぐに彼と会いに行く。 たかだか数時間後でも、何かを吐露した後の“時間”の揺さぶりだ。幾らかは、心理的な効果をもたらすはずさ。 慰めてくれているのだろうか。それとも、本気で。 彼を説得できるだろうか──彼を説得してくれるだろうか、ギーは。 …うん。 アパルトメントに着いた頃には、既に、時計の短針は0時を過ぎていた。 出迎えてくれたのはルアハと、もうひとり。もう随分と遅い。眠っているものとばかり思っていたのに── 幼子も「おかえり」と言ってくれた。ルアハの隣に立って。 低くしゃがんで、目線を同じ高さにして。キーアは幼子に語りかける。どこで、何をしてきたかを。 だいにすいげん……? そう。第2水源地区。ここよりも、もっと下にある層。 あなたのことを調べてくれる人がいるの。アグネスと、フランシスカ。双子のひつじの情報屋さん。 でもね、その前に。治さないといけない人がいるから。ごめんね。もう少しだけ、待って。 ……はい。 ……? ──なぜ笑うのだろう。──ほっとしたような、小さな息を吐いて。 ……よかった。 ──ああ。 ──視界の端で道化師が踊っている。 消え去ったのに再び現れるそれは。道化師は、何故だか過去を思い起こさせる。 10年の時が過ぎて。今はもう細やかな破片になってしまった記憶たち。赤と黒を基調とした、無数の。 ──あの日。──あの時、確かに。 「…………」 ──何かを言おうとする誰かへ向けて。──僕は。 ──僕は、この手を。      『こんにちは。ギー』  『そろそろ、あきらめても良い頃だ』   『きみは、わかっているはずだ』 ……瞼を開く。……部屋の中はまだ暗いままだった。夜だ。 機関工場製の安いカーテン。覆われた硝子窓の向こうには暗闇が充ちて、囀るもののない静寂は夜のままだと告げる。 数式の影響が残った“右目”が視る。ギーが気配に気付くよりも、早いか。室内の二酸化炭素の量が多いと認識されて。 ああ── やはり本職には勝てない。 その気で暗がりに潜めば、猫がギーのような素人の感覚に気付かれはしないのだと、よくよく、思い知らされる。 息を潜めた何者かの姿。いつもよりも一呼吸遅れてギーは目にする。 夜の暗闇に慣れた目でようやく、隣に横たわる姿を捉えることができる。 ──アティ? 呼びかける。影へ。 影は眠らずにこちらを見つめていた。瞳を、僅かに輝かせて。 ……うん……。 ……ごめん。起こした。まだ、起きるには、早いよね。 偶然、嫌な夢を見ただけだよ。本気のきみに、僕が気付ける訳がない。 眠り、浅いから、すぐ起きるって……。いつもは、言うくせに。 そうかな。 ……うん。そうだよ。 ──傍らにアティはいた。──しなやかで俊敏なクローム鋼製の猫。 いつもと同じように寝床を確保して、いつもと同じように丸くなっていて。それでも、違和感を覚えるのは声のせいか。 どこかが違う。いつもと。 (声が……) 声に、震えを聞き取ったのは気のせいか。そうではない。確かに。その言葉は揺れていた。 ギーの“右目”が理由の候補を挙げていく。また、アティの体には傷が増えていた。 また怪我をしているね。無茶をするなと、何度言わせる。 また傷が少し増えている。肩に触れようとすると、猫の手に遮られた。人間よりも大きな«猫虎»の大きな手と指。 ビロードの質感の指が。冷たい指に絡む── ……邪魔した訳じゃないのさ。ちょっと、ね。 悪い夢を見たのよね、ギー。どんな夢だった。 覚えていない。 そうなの、嘘が上手なドクター・ギー。すぐわかるんだから。 ……嘘は、言っていない。 ……うん、そう……。 …………そう。 美しい黄金瞳がギーを見ている。その右目は«猫虎»でも珍しい黄金の瞳。 沈黙の中で視線を交わして。一秒、二秒。 ──三秒目。 ──普段ではあり得ないことに。 折れたのはアティのほうだった。抵抗心を吸い込むはずの黄金瞳の効果より、先に、黒猫は、唇を開いて言葉を紡ぎ出す。 どっちでもいいんだ、そんなことは。……意地悪してる、あたし。 ね。キスして。ギー。 ……駄目だ。 絡み合う指をそっと離して、白い頬へと手のひらを当ててやる。熱い。 冷たいギーの手指に温もりが移るほど、アティの肌は熱さをたたえて。仕事の後のせいか、熱が高い。 ひどく疲れているね、アティ。眠ったほうがいい。 いつもそう言うね、ギー。疲れてるから、いつもいつも駄目だって。 今夜は僕じゃない。疲れているのは、きみのほうだよ。 ……そうかな。 ……ううん、そうかも知れない。かな。 簡単な仕事のはずだったのさ。ううん、厄介なものは、いつだってそう。誰かが言うんだ、ごく簡単な仕事だって。 いつだって、そう。いつだって、みんなして騙されて。 早くきみの寝顔を覗きに行ける、とか、余計なこと、考える。 言葉の一部がぶれる。瞳の揺れに、ギーは見ないふりをする。 ……ふたり死んだ。 荒事仲間が死んだ。2名。黒猫はそう続けて自嘲気味に微笑んだ。 知ってる? アムネロール、新型の。あれで狂った«熊鬼»を仕留める時にね。あっというまに、ふたり、殺されたんだ。 ひとりは鋼の歯牙に頭を砕かれて、ひとりは鋼の義肢で心臓を掴み出されて。 黒猫が囁く。呟くように、震えるように。 あっというまに……。 ……ちゃんと、仕留めたけど、さ……。あっというまだったんだ……。 ──あのね、ギー。──仲間が死んでも体は動くんだ。 荒事屋だもの。それが仕事。10年前に得たこの脚が奴の牙を避けて、10年前に得たこの目が奴の首を捉えて。 いつも通りのことをしたのさ。抑えきれない相手にする、いつものこと。 笑っちゃうね、ギー。未だにあたしはどこかで意識をするんだ。この爪で、何をするか、何をしてきたか。 ──爪で。──奴の頸動脈を確かに切り裂いた。 1年以上一緒に仕事をしてた仲間の死体が足元に転がっていても、気にもしなかった。その時は。 ううん。少しは思った。 ──これで不利になったな、なんて。 情の薄い女に……なるね……。どんどん、あたし、鋼が多くなってる。 脱感作が起こっているだけだよ。人は死に慣れる。 そう……。 ……じゃあ。殺しにも、慣れるのかな。何も感じなくなる。 ──心当たりはある。──ギー自身、日々感じているもの。 あらゆるものに我が身は慣れてしまう。無限の涙の果てに。そう、死にさえも。 ギーは言葉を返さなかった。ギーは言葉を返せなかった。ただ頬に触れたまま、黄金瞳を見つめて。 すぐ、検死が来たんだ……。層の掃除屋でも並列葬儀組合でもなくて、上層の息がかかった、白い服のあいつら。 ハッカーに頼んで……。調べた仲間が、言ってた。テストだって。 ──テスト? 新型の薬効を試していた節があるって。アムネロールが……。どれだけ、効いて……。 どうやって狂っていくのか、とか……。上層の連中、暇だよね。 上層の、貴族さま。都市の支配者。あたしたちを守ってくれない、王さま。 ……おかしいね。こんなの、今に始まった話じゃないのに、あたし……なにか、ヘンだ……。 誰も彼もが死んでいく。生き延びていることは、きっと偶然。そんなの、誰に言われなくたって。 殺してるのがあたしじゃなければ、殺されてるのはあたしなんだ。 そんなことはわかってる。でも……。 でもさ……。 あたしたち、いつから……。こんな感じになっちゃったんだっけ……。 もう、10年前がどんなだったかなんて、これっぽっちも……。 ……思い出せないね……。 闇の中でもうっすらと輝く黄金瞳が揺れる。溜まってしまった雫に、指で触れる。 涙は指に伝わって。頬へと流れていくことはない。 ……優しいね。ギー。わかるんだ、こんなの迷惑だろうって。 きみがこうしてくれる時は、いつも、そう。あたしが……駄目に、なりそうな時、だけ。でも……。 お互いさまだ。 ──そう。お互いさまだ。──かつての自分から遠く離れていくこと。 静かにギーは囁く。助けた数と、死なせた数を比べるように、命を数で認識するようになったのだから。 何も変わりはしない。アティと。 ──そう。お互いさまだ。──恥じ入るのなら、相手が違っている。 嘘……。 嘘ではないよ。僕も、きみと大差ない。 ……そう。なら、嘘でもいい。いいよね。 ──そう言って。──黒猫は、爪のある指で頬に触れた。 かき抱いたのは柔らかな熱。強靱であるはずの体が、腕に重みを寄せて。 耳元で言葉を囁くと、黒猫の頭の上の“耳”がぴくりと揺れる。 ──かき抱く。──熱は、彼女の内にだけあるから。──熱は、冷たい肌に吸い込まれて。 白い首筋に口づけると── ──熱がわかる。──アティの、生きている人間の熱。唇に。 滑らかな白い肌に唇が触れる。一度だけでなく、何度も、何度も。 触れるごとにアティの肩が揺れる。背中が震えて、熱が昂ぶっていく。ギーが失ったものを彼女は持っている。 生命の力強さ。この熱はその象徴なのだとギーは思う。だから、こうして、触れる。愛おしく。 何度でも。白い肌に口づけを繰り返す。 ……ん……。……ギー、熱い……唇……。 きみの体、こんなに冷たいのに……。唇だけ……どうして……。 ……熱いのかな……。……こんなに、火照って……。 それはきみの熱だよ、と。ギーは黙ったまま首筋に口づけていく。 僅かに舌を滑らせると汗の味がした。アティの背筋が震える。 はっ……んッ……。舐めるのは……やめて……ギー……。 背中に回された«猫虎»の手に力が入り、ギーの背中を掴む。猫の爪が食い込む。 痛みは僅かに。けれど、ギーは少しの声も漏らさなかった。この爪がもたらす痛みに、不安などはない。 骨格と筋力を数秘機関で強化した黒猫。並の«猫虎»よりも、よほど力は強く、ただの市民はすぐに動かなくなるだろう。 それでも不安はない。背中からは、ささやかな血が落ちるだけ。 骨が砕けることもない。収納式人造爪もギーを引き裂きはしない。 8年前なら酷い目にあったこともある。今は、随分と、器用になった。アティは無意識に手加減する。 ……ううん……。嘘、嘘……やめないで……。 そのまま……。……ね、お願い……。 ──頷くかわりに。──指で、アティの背筋をなぞる。 しなやかさが震えながら指に伝わる。力を込めたアティの腕は、ギーの胸に柔らかな体を押しつける。 ……ん……。胸、潰れちゃう……。 いっつも……仕事の邪魔、だけどさ……。こういう時は、思うの……。 ……このままで、よかった。ギーは好きだものね。 ──8年前と変わらない感触がわかる。──柔らかさと弾力、か。 あの«復活»の後に顕現した黄金瞳は、アティの肉体の成長と老化とを止めた。変わらないのだ。何も。 涙をギーは覚えている。化け物になったのだと泣き叫んだ黒猫。 背中を締め付ける大きな手も、表情以上に感情を示す“耳”も“尾”も。すべてを拒絶し、泣き叫んでいたあの日。 体は変わらない。こうして、あの時のままの感触。 ──けれど。──慣れていくのだ、心だけは。 ね……ギー……。熱い……。 頷くかわりに頬に唇を触れる。黄金瞳が、すぐ近くで見つめていた。 ひとつ……約束して……。嘘でいいから、ギー……お願い。 先に、死なないって。あたしが死ぬまで……消えないで……。 きみが消えるまで……。あたし、このままで、いるから……。 ……ね……? ──嘘は、幾らでも口にできる。──けれど。 ──約束は── ……ふ、ううッ……! ……はっ、あ、んッ……!んっ……ぅ、あ、はぅっ……! や、だっ……きつい……ね……ッ。やっぱり、これ……。恥ずかしく、なって……くる……。 んっ、はっ……あっ……!……ギー……! ──熱がアティの全身からあふれ出す。──昂ぶるもの。躍動するもの。 肉感に充ちて繋がる場所で感じている。──感情と。──熱とを。 体の内側に充ちて溢れたひどく多量の熱は、肌に浮かぶ汗の玉となって。白と黒の肢体を美しく彩る。 埋め込んだ数秘機関だけ増加したはずの重みを、ギーは感じていない。アティの太股の筋肉が支えて。 ギーの脆い体を気遣うアティの意思が、放たれようとする力みをすべて熱へと変えて体じゅうに溜め込んでいる。 数式の“右目”が伝えてくる。なめらかな腹の下で激しく波打つ力の塊、抑制と性的な感覚とに挟まれたアティを。 ギーだけ……きみ、だけ、だから……ッ。こんなの……。こんなふうに、我慢、して……ッ。 ……きみ、だけ、だよ……ッ!んうッ……! 溜まりきった熱の衝動に、アティは身をよじらせる。それは、結果として更なる昂ぶりを生む。 無意識的な筋力の抑制は、アティのあらゆる神経へと負荷をかける。 荒い息はきっと性感のためだけではない。軋んでいるのだ、彼女自身が。 ──だから、ギーは求めない。──応えるだけで。 神経修復のための現象数式を常に起動させたギーの脳内器官が、叫ぶ。長時間の起動は、極めて危険だ、と。 ……ギー、あ、あッ、あぅッ……!おなかの……奥ッ……! んっ、はあッ……。熱い……浮いてくる、よ……ギー……。 ……お願い……。ギー、ね……いいよ……ッ。 ん──────ッ! 全身が震える。反り返るアティの背筋が限界を告げる。 ギーの感触を受け止め続けるアティの下腹部が、激しく動いて。吐息と、ささやかな悲鳴。 引き絞った複合弓のようにしなる体が。鍛えられた背中と腰とが、強く強く力と熱を込めていく。 ……ひっ、んっ、んううっ……!ギー、ギーっ……! んう、んッ、はッ……!だめ、もう……ごめん、ね……ギー、あたし……このまま……ッ。 ひっ、ひぅ……ッ! ────────────ッ!! 限界にまで溜め込まれた熱が、体の隅々、指の先まで瞬時に流れ込んで。 その間、アティは呼吸を止めていた。全身を襲う痺れにも似た感覚と、熱とが、神経へ全力で叩きつけられるのがわかる。 痙攣する腹部にギーは触れた。肌の下で何度も脈動して引き絞られている。昂ぶったものを、次々に、送り込みながら。 ──昂ぶる熱は。──今はギーのものと混ざっていた。 ……はっ、あっ……あ……。んっ……。 ……んっ、はあっ……。 ……ありがと、ギー……。こんなに、疲れさせて……ごめんね……。 ──起動した数式が神経を修復する最中。──黄金瞳が揺れていた。 ゆるやかに、時間をかけて。引いていく熱と昂ぶりの中でアティは囁く。それは、独り言のようにも聞こえたけれど。 ギーの耳には確かに届いている。荒い息遣いと声。 聞いた、よ……デビッドに……。第2水源地区に、行った、って……。 だめ……。あそこは、もう、だめだから……。行かないで、ね、ギー……。 ──第2水源地区に。──行くなと、言っているのだろうか。 ……噂が、あるの……。都市法、執行が……近い、って……。場所は……。 ……第2水源、地区……。 ──都市法による執行。──その言葉が意味するところは、つまり。 もう……あの区画も、終わり……。だから……。 終わりが来たら……。誰も、止められやしない、から……。 ……行っちゃ、だめ……。ギー……。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじを見上げ、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……私の計測が確かであれば、今まさに。 ……完全起動に成功。……楽しい楽しい、間引きの始まり。 「喝采せよ! 喝采せよ!」 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇るあるじがひとり。 それは支配者。それは大公爵。それは愚者。インガノックの王。碩学にして現象数式発見者であった魔術師。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 「おお、おお、素晴らしきかな。 盲目の生け贄は死せず未だ都市にある」 「現在時刻を記録せよ。 クロック・クラック・クローム!」 「貴様の望んだ“その時”だ! レムル・レムルよ、震えるがよい!」 御意。  『くくくくくくくくくくくククククッ』 「これこそ、我が愛の終焉である」 「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛のかたちあり!」    『愚かなものだよ、大公爵』 『あなたはまだそこを踏みしめて。  あなたはもう駄目なのに何を?』 「──黙れ。黙れ。黙れ!」 「黙れ……」 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 これは困ったことになった。都市の果てだ。まさか、私の潜地機関でも掘れないものに突き当たってしまうとは。 なんという硬い土だ。いいや、これは土ではないのだろう。 なるほど、これが“真実”か。 ──真実を見つけたの? もちろん見つけたさ。私は天才なのだから。しかし、これはそのほんの一部だ。これで、私の穴掘りが終わる訳はない。 ──なあに?──真実を見つけたのに? なに、私にとってはただの行き止まりだ。ここから先は誰も行けない。無理に掘れば崩れて死んでしまう。生き埋めになってだ。 ──じゃあ、どうするの?──それは真実のはずなのに。 回り道をするのさ。 ──黎明の中で。──都市は2度、自らの体を揺さぶった。 ──都市全体が鳴動するかの如き地震。──観測史上初めての。 震度そのものは大した規模ではない。まず、1度目の揺れを感知できた者など、全市民の10%も存在しなかったはずだ。 その揺れが何を意味するのか。理解した者は、恐らく1%にも満たない。 けれど。何かを感じたかも知れない。 たとえば、虫の報せであるとか。たとえば、悪寒であるとか。 恐るべきものを感じ取った者。多くは、悪夢としてそれを捉えただろう。 何故なら、それは確かに悪夢の顕現だから。1度目の揺れが意味したもの。1度目の地響きが生んだもの。 ──それは、巨大。 ──それは、恐怖。 ──それは、41体のクリッターのひとつ。 実に8年の歳月を経て顕現した、それは、巨大な悪夢であり現象であった。 ──出現位置は、下層。──濁った緑と水の充ちる第2水源地区。 「GUU……」     ──背中の中心に──   ──突き刺さったゼンマイ捻子── 「GUUUUU…」 第2水源地区中央部に、巨影があった。それは人形だった。それは異形だった。 ひどく歪んだ人型に似た異形。異様なまでに長い“両腕”を引きずらせて、周囲の建築物を当然のように破壊する、影。 決して、意思を以て破壊したのではない。腕を動かした結果として浄水機関工場や建築群が吹き飛んだだけ。 ──意思はない。──殺意もない。──存在し蠢くことの帰結として破壊する。 見る者がいれば。およそ確実に、精神が硬直しているだろう。恐怖に慣れきったはずの体が震えるだろう。 見る者に恐怖をもたらす。この異形は根源的なそれを備えているから。 破壊。死。恐怖。叫び。それらのすべてがこれの根源を構成する。都市に生きる者を、残らず、畏怖させる。      ──クリッター── 背中に突き刺さった“死の捻子”こそ、この異形がクリッターであることの証。都市に眠る恐怖。 10年前の«復活»を生き延びた人間で、これらを知らない者はいない。 人を喰らう41のクリッターうちの1体。都市を覆う41の大いなる恐怖のひとつ。 ──個体名、ゴーレム。 ──クリッター。──それは、恐怖の、力あるかたち。 中でも、ゴーレムは最大の脅威。一切の区別なく数万の命を容易く奪うのだ。超高熱の指先と吐息が、すべてを融解する。 「GUUUUU…」 恐慌の咆哮。鳴り響いて。都市が、先刻よりも大きく揺さぶられる。 ──それが、2度目の揺れだった。 「GUUUUU…」 ──遥か下方からの“声”を耳にした瞬間。──ギーは戦慄に震えた。 精神に衝撃を叩き込むそれを知っている。知らないはずがない。都市に生きる者なら、誰もが、恐怖する。 指先までが震える。立っていられない。呼吸さえも苦しくなる。まさか、この身さえも。 (……クリッター・ボイス……!) (これほどまでに……巨大な……。 あの、ウェンディゴ、以上の……!) 強く歯噛みする。耐える。半ばひとりでに脳内器官が起動していた。現象数式が神経の硬直を緩和させていく。 手を繋いだキーアを見る。少女は、恐慌状態には陥っていなかった。まるで、何が起きたかを知らぬかのよう。 ──知らない? ──5年前のあれを知らぬ訳がないのに。 しかし今は。キーアの反応に感謝する。周囲の状況に流されずに済む。人々は、酷い恐慌状態にある。 叫ぶ者、涙を流す者、地に伏して震える者。呼吸覆面さえも外して何事かを喚いている。耳を塞ぎ痙攣する者さえ。 停車したばかりの下りモノレール──今まさに乗り込もうとしていた車輌からは、悲鳴と共に乗客が我先にと逃げ出していく。 あの“声”は下から聞こえていた。故に、彼らは逃げ出すのだ。 ……キーア。ルアハが来るはずだ。ここにいて。 だめ!今の音……ううん、声、だめ……!みんな、こんなに……苦しそうに……! 明け方に彼を訪ねると決めたのは僕だ。大丈夫。きみは知っているね。 ギー! キーアの声を背に。車輌へ。緊急作動機を操作して急行に切り替える。速度を上げて、目的地は第2水源地区へ。 抗議の言葉を放つキーアが車輌に乗り込むよりも前に昇降扉を閉じて、モノレールを発進させる。ブレーキはなし。 ──急がなければ。──誰よりも先に。 ──背後の影が、そう叫んでいる気がした。 「……急いで」 「……ギー、早く。もっと、早く!」 ──全力疾走など何ヶ月ぶりか。──車輌から転がり出るように、走って。 水源貯水池へと急ぐ。目指す先はヴォネガット老人の共同住宅。進めば進むほどに、“声”の振動が強く。 数秘機関で精神を強化した人間や、生来の心理調整機能を備えた幻想人種が恐怖に呑まれずに逆方向へと走っている。 (こちらへ進む者は、ほぼいない) (……かえって都合が良いか) 疾走の負荷に締め付けられる左右の肺を、数式を用いて機能を強化する。これで、まだ走っていられる。 ──やがて、水源貯水池が見えてくる。 ──無数のケーブル帯も。 昨日にはなかったはずのクローム製封鎖帯。既に、貯水池付近への道は封鎖されていた。監視兵がこちらを見る。 最悪だ。ただの監視兵ではない。 ──上層兵。貴族から遣わされた数秘機関の塊。都市法を執行する、生きた機械人。 (このタイミングで……。 都市法の執行……だと……?) (何だ。この違和感は) (まるで、クリッターの出現を……) 別ルートを探すしかないのか。舗装道路では、もう貯水池までは進めない。出入りそのものが禁止されてしまっている。 ──逃げる人間たちも。──この封鎖帯の向こうからは出られない。 と── 「「ドクター……!」」 封鎖帯の前に立ち尽くすギーの背後、逃げ惑う人々を押しのけてくる小さな人影。ふたりの影は、アグネスとフランシスカの。 咄嗟に確認する。彼はいない。 アグネス! フランシスカ!お爺さんは── あ、あちしたち、追い出されて……。変な声、聞こえて、兵隊たち来て……。こんな……これ、何なの、ドクター……? お爺ちゃん、まだ、家にいる……。家にいるの……ねえ、どうしよう!どうしたらいいの、わかんないよ……。 聞こえてくる、この声……。何……? こわいよ……ドクター……。お爺ちゃん、まだ……向こうに……。いるのに……兵隊さん、口きかない……。 まだ、中にいるんだな。わかった。 ──既に剪定済みということか。──立ち塞がる仮面の上層兵を強く睨む。 有価値市民、すなわち都市全体にとっての有益な生産者と見做された若い人間だけが区画から追い出されているのか。 老人。子供。傷病者。それらの人々は封鎖帯の中に残されて。 双子たちが外に出されたのは、若年の身で優秀な情報屋であるからだろう。そうでなければ、この場には恐らくいない。 ──つまり。──確かに都市法は執行された。 生命の剪定を。効率的に。けれど、上層は彼らを殺しはしなかった。 ──見捨てただけだ。──まるで、そう予定していたかの如く。 剪定対象者が一体どれだけの数に及ぶか。ギーにはわかる。10や20で済むまい。桁が違う。 ギー? ギーか!?……お前、こんなところで何してる!? エラリィ──? 旧友の姿がそこにあった。何故だ。数名の上層兵たちを従えるかのようにして、封鎖帯の背後からこちらへ駆け寄ってくる。 ……上層兵数名?……エラリィが、どうして。 都市傭兵であれば一個師団を超す戦力を、一介の下層医師が保持できるはずもない。 それに、この“声”の中でなぜ動ける?5年前の記憶が僅かな幼い双子たちとは違う。 ──理解する。彼の両耳には外付け型の数秘機関があった。上層兵たちの通常装備、耐クリッター機関。 エラリィ、お前──都市管理部の片棒を担いだのか。 ひどい言いようだな、ギー。私は、さんざんお前に言っていただろう。 ……残念だよ。本当はお前も今日はこちら側のはずだった。 この音が何か。忘れた訳ではないはずだ。 そうだ、正真正銘のクリッター・ボイス。忘れもしない5年前の悪夢だ。 エラリィは両腕を広げ、指し示す。濁りきった第2水源貯水池と澱んだ緑を。 そして、その先に見え隠れする影。数階建ての建築物よりも巨大な影。恐怖の具現── ……あんなものは予定にはなかった。だが、あれは僥倖だ。これで皆が納得する。都市法の、明確な執行は行われないだろう。 見捨てる訳でもないぞ、ギー。あれは現象だ。 ──クリッター。──人間を殺し尽くす都市の自然現象。 だから、もう、終わりだ。あそこにいる人々はこれで終わりなんだ。これこそが都市法だ。これこそが現実だ。 幸い、水源はまだ幾らでもある……。こんなことくらいで下層は滅びたりしない。大丈夫なんだ、その子たちも、お前も私も。 ……まだ。生きていられるんだ。 ほんの僅かだけ。声に、10年前の医学生の面影が見えた。 幸運に感謝しろ、ギー。妙なことだけは考えてくれるなよ。 今この時この瞬間、あそこにいなかった僕らは生きることを許されたということだ。わかるな。 ……生きることを、許された、だと? そうだ。 ──都市インガノック数十万の人々は。──定められた法の下で生きている。 例えそれが生命を剪定するものであっても。10年前の基準では異常なことだとしても。これが現実。 エラリィの言葉は事実だ。何ひとつ、彼は“間違って”などいない。 背後に控えた上層兵たちが証だろう。法も、現実も。言葉の通りだ。 ……ギー……。……そいつの言ってるの、本当? お爺ちゃんは、もう、だめなの?ドクター、ねえ……お爺ちゃん、は……。 けれど。 本当に。これは── ……ただの自然現象なのだから。 ギーは目を閉ざす。すぐ近くで再びあの“声”が響いている。5年前、無慈悲な惨劇とそっくり同じ。 エラリィの声がする。双子たちのすすり泣く声も、耳に届く。 10年前と同じだ。誰かの呼びかけに自分は応えられない。 熱気が肌に触れる。その正体をギーが知ることはなかった。 (……心残りは) (……幾つか、あるな……) 悪夢の10年が、ここで終わる。それも悪くない。似合いの幕引きだ。 ──その時が来た。──ただ、それだけのこと。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 ギーは何かをひとつ諦める。目を閉ざしたままで都市の空を見上げる。そう、灰色の空が永遠に続くのと、同じ。 道化師が言った。 おかえり、と。 ……どちらにせよ、同じか。 ギーは目を閉ざす。すぐ近くで再びあの“声”が響いている。5年前、惨たらしい惨劇とそっくり同じ。 エラリィの声がする。双子たちのすすり泣く声も、耳に届く。 10年前と同じだ。誰かの呼びかけに自分は応えられない。 大脳器官が力を失っていく。この10年で得た現象数式が、消えていく。 (……ああ、そうか) (僕には……不要な、ものだったか。 あのクラッキング光は) 思考が拡散していく。器官と力を得ていたことの代償が、これか。 (……心残りは) (……幾つか、あるな……) 悪夢の10年が、ここで終わる。それも悪くない。似合いの幕引きだ。 ──その時が来た。──ただ、それだけのこと。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 ギーは何かをひとつ諦める。目を閉ざしたままで都市の空を見上げる。そう、灰色の空が永遠に続くのと、同じ。 背後の影が言った。 さよなら、と。 ──いいや、替えなどない。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 ……黙れ。 視界の端に再び生まれた仮面の道化師を、諦めろと囁くそれをねじ伏せる。笑い声だけ残して、幻は消えた。 ああ、そうか。何も変わってなどいなかった。 道化師は変わらず視界の端で踊っていて。僕は、何かを変えた訳じゃない。 ──すべきことは何ひとつ変わらない。 ──だから。 今、この手を。在るべき場所へと伸ばそう。 ……激しく咳き込む。……地揺れが大きくなるのに合わせて。 水差しを取った手が小刻みに震えている。老人は激しく咳き込むと、幾らかの血を床に吐いた。 もう窓まで歩いていく体力はないだろう。ヴォネガットは瞼を閉じて、孫の無事を静かに願った。 5年前に他層の水源地区を壊滅させた巨像が現れたのだ、という話は聞いた。避難する漁師が伝えてくれた。 区画の建物を次々に破壊しているのか。音と、振動が、それを伝える。 ……大層な、迎えが……。この、老いぼれ、なんぞに……。 儂だけを……。殺しに来れば、良かった、が……。 怪物ども、には……。関係の、ないこと、だろうな……。 意識がばらばらになりかけている。言葉にしなくては、もう、保てそうにない。もう、寝台から起き上がることもできない。 数日などと。随分と鯖を読んでしまった、と笑う。 「……他にも。 嘘、ついていたんですね」 昨日に出会った少女の声が聞こえる。記憶さえも、迷ったか。 視線だけを巡らせて── ──少女。黒服の。──幻にしてはやけにはっきりとそこに。 老人の枕元の傍に。静かに見つめてくる薄赤色の瞳があった。幻か、いいや、仮にそうだったとしても。 これは……驚かされた、な……。どうやって、ここへ……。 ……いや、いや、いかん……。逃げなさい……。お前さんが、幻では、ないのなら……。 逃げなさい。儂は、いいんだ……。孫たちは兵隊さんが……連れ出した……。 これでいい……。あの子たちは、立派に、金儲けもできる。都市のどこにいても、もう、大丈夫……。 ……残した、未練は、ない。逃げなさい。ここは、もう、危ない。 老人は静かに告げる。本当に、未練も恐怖もここにはない。 穏やかな心地が胸の中にある。ちくりと刺す痛みには気付かれないように、立ち尽くす少女の幻へと、笑顔を、向ける。 だめ。だめ……。 嘘は聞き慣れてしまったの。だから、どうか、やめてください。 嘘を言うのはやめて。プレゼント、貰うって、約束したのに。 ──プレゼント。──ああ、孫たちが話したのだろうと。 胸を刺す痛みの正体はそれか。老人は、とうとう明確に自覚してしまう。約束は、果たさなくてはいけないものだ。 けれど。もう。65年前。かつての約束を自分は選んでしまった。 あの日。あの時。溺れかけた少年の頃に出会ったものと。 黒い少女。この幻の子とは別の。 ──そうだ、もっと背は低かっただろうか。──そうだ、水に濡れた黒髪が美しかった。 おお……。そうだ……もう、ひとり……。 その子は……。 キーア、その隣にいる……。誰……だろう……?黒いフードを、被った子……。 ……いけない……ふたりとも……。逃げなさい……。 黒いフード── 少女が首を振る。不安げに、そんなものはいないと語る。言葉ではなく、瞳が、そう告げていた。 けれど老人には見えている。優しげな表情を浮かべた黒髪の幼子が。 と──  ───────────────────。 衝撃が共同住宅に響き渡る。進路上のすべてのものを破壊しながら迫る巨像の存在など、老人は知り得なかった。 何かを破壊する音。硬質な。砕け散る先から蒸発していく異様な音も。 老人は目にしてしまう。共同住宅の2階から上をいとも簡単に吹き飛ばす、巨大な硬質の“左手”を。 ──空が見える。──砕け散った、天井から。 消えた天井の先には灰色の空。永遠のそれすらも異様な歪みで遮りながら。 ──ぬるり、と。──巨像がその“顔”を覗かせて。 ──視線らしきものを泳がせる。──老人と、少女の幻を、確かに捉えて。 腐った超高熱の吐息を吐き出しながら、巨像は“顔”を寄せる。人間の命を。壊すため。 ……お人形……。 少女の囁く声は恐怖のためか震えていた。巨像は反応する。指先を伸ばして。 もぞりと蠢く指先から超高熱が放たれる。触れれば瞬時に蒸発させる、死に歪んだ空気が放たれて── ……!  ───────────────────。 「……ご老人。あなたには悪いが」 ──聞き覚えのある声。──鋭く。 衝撃は僅かだけ。破片が飛び散っていた。巨像の指先を止める“手”があった。巨像の破壊を止める“手”があった。  ───────────────────。 ──遮る“手”が伸ばされる。 破壊の指から、寝台の老人を庇うように。あるいは幻の少女をか。 老人は、名を呼ぶ。声は出ているかどうか。わからない。だが叫ぶ。彼の名を、叫んだ。巨像を止めた男へと。 いいや、声は出ていない。老人は赤い塊を吐き出しながらも叫んだ。 「その子らを」 「助けてくれ、ドクター」 「……ギー!」      ──声に応えて──    ──その“手”は前へ── ──彼の“右手”が伸ばされる。──前へ。 ギーの右手だけではなかった。背後から。別の“右手”が伸ばされて。 ──鋼でできた手。──それは、ギーの手と確かに重なって。 蠢くように伸ばされていく。自由に。その手は、高熱漂う空間を裂いて。 巨像の“顔”へ伸びていく。鋼色が、5本の指を蠢かせて現出する。 指関節が、擦れて、音を、鳴らしている。それはリュートの弦をかき鳴らすように、金属音を生み出す。 これは── 何だ── 何かがいる。誰かがいる。これはギーの手ではなく、その背後から。 誰かが──ギーの背後から、鋼の手を──! ──鋼が軋む音が響く。──何かが、ギーの背後に、いた。 誰だ。何だ。鋼を纏った何かが、背後に在る。老人には、それは影にも見えた。 背後から右手を伸ばす、鋼の何かがいると。正体はわからない。何者か。人間。いいや、これは違う。 わからない。誰が。何が、そこにいるのか。鋼の体躯を持つ者、まさか、そんなことはあり得ない。おとぎ話など。 それが、在るはずはない。だが。だが。 ──老人は知っている。──おとぎ話は、現実との違いなどないと。 ……ヴォネガット老人。あなたには悪いが。 この木偶は、僕の、敵だ。 ……あなたを、殺させはしない! 鋼の影が“かたち”を得ていく。鋼の手が、動く、言葉に応えるように! 鋼の“手”を……!ただ、ただ前へと──伸ばす──! カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……大いなるクリッターの1柱、ゴーレム。……かの«三博士»さえ戦慄する破壊現象。 ……ザハークに対応する33体のうち。……最上級の1体を用意した。 ……貴様にやれるかどうか。……惨めな«奇械»使い。我らが生贄。 ……貴様の刃も熱も通じはしまい。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ──あり得ないことが起きていた。 如何なる刃も銃弾も通用しないはずの鎧。上級数秘機関たる«完全装甲»を纏った屈強な上層兵が昏倒していた。 意識を失って倒れている。そもそも、彼らは睡眠すら必要としない上層貴族のために生きている生体機械だ。 それが、いとも容易く。倒れている。 ……そんな、馬鹿な……。 エラリィは顔面を蒼白にさせていた。見てしまった。あれは、何だ。 上層兵が膝を突くのと同時に駆け抜けた影。中型の異形── ──あれは。──何だ。何が通り過ぎたのか。 ああ、あ、あれは……。ギー、見たか、今のは……まさか……。 ……ギー……?どこへ……行った……?      ──鋼の右手が──      ──暗闇を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光がひとつ── なぜお前たちは現れるのか。僕は知らない。 けれど。 この手を阻もうとするのが、お前たちであるなら。 何度でも。何度でも! この手で排除するまでだ!クリッター・ストーンゴーレム! 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界の違和感があった。道化師がいない。かわりに、異形の影が背後にあるとわかる。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。覗き込む、大型クリッター。41体の死、そのひとつが。 数式を起動せずともギーには視えている。恐慌をもたらす“声”を掻き消して、ギーと“彼”は巨像の顔面の眼窩を睨む。 ──右手を向ける。──己の手であるかのような、鋼の手を。 ──現象数式ではない。──けれど、ある種の実感が在るのだ。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。これまでの時と同じように。 「GUUUUUUUU…!」 不可解な闖入者へ巨影が唸り声を上げる!高熱が大気を灼き始め、現象が発生する。死を振りまくものが確かに視える。 ギーの“右目”は既に捉えている。クリッター・S・ゴーレムのすべてを。 超大な質量と硬質な体表を覆う高熱。あれこそが死だ。死の集合体。熱死。跡形もなく人を蒸発させ得る、死の現象。 振り上げられた、死の腕。矛先を向けられるのはギーと“彼”! ──燃えさかる火炎が空間ごと破壊する。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間以外には。 もしも指と拳を避けられたとしても、まとわりついた超高熱が体を蒸発させる。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。巨像の放つ高熱が融かすのは虚空のみ。 「GRRRR…!?」 ……遅い。 「GUUUUUU…!!」 喚くな。 唸り声をあげた巨像を“右目”で睨む。恐らく今のが恐慌の声か。人の脳神経を破壊し、死か狂気を植える。 しかし生きている。ギーはまだ死んでいない。 先ほどまでなら死んでいたのだろうと思う。しかし、今なら、鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。荒れ狂う巨像のすべてを“右目”が視る!    ──クリッターは不滅──    ──物理破壊は不可能──   ──ストーンゴーレムの場合──    ──唯一の破壊方法は──    ──全関節部の、破壊── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 高熱の死、ゴーレム。すべてを弾く表皮と加護された硬質の体。故に、確かに人間はこれを破壊できない。 唯一の破壊方法は全関節部破壊。故に、絶対に人間はこれを殺せない。 砲弾も炸薬も体へ届く前に蒸発する。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている!──“右手”と連動するかのように! 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “刃の如く、切り裂け”  ───────────────────! ──切り裂き、融かして消し飛ばす。 ──炎を纏う刃の右手。──それは、怪物を両断する炎の右手。 ──おとぎ話の、火の王の手。 押し開いた鋼の胸から導き出された刃の“右手”は、超々高熱の火炎を伴って巨像の全身を包み込んだ。瞬時に寸断する。 叫び声を上げる暇もなく、高熱刃に包まれたクリッターは崩壊した。 すべての関節部を。ばらばらに、粉々に、切り裂かれて。 凄まじい炎の滓を、爆砕するように残して。貯水池の水面を揺らして── 「喝采せよ! 喝采せよ!」 「おお、おお、素晴らしきかな。 第5の階段を盲目の生け贄は越えたのだ」 「現在時刻を記録せよ。 クロック・クラック・クローム!」 「貴様の望んだ“その時”だ! レムル・レムルよ、震えるがよい!」 「これこそ、我が愛の終焉である」 「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛のかたちあり!」 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇るあるじがひとり。 それは支配者。それは大公爵。それは愚者。インガノックの王。碩学にして現象数式発見者であった魔術師。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、求めて。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。   『あはははははははははははははは!』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 『あはははははは、木偶が壊れたよ! あはははははは、大嫌いな木偶が!』   『──最後の«奇械»が剣を手に──』     『──くすくす──』 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 歓喜の声を上げて手を伸ばしていく。蠢いて、その手は引き裂く。黒の下、その手は空を掴む。      ──彼の左手は──      ──黒布を裂き──      ──僅かに姿を── ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 ……これで、回り道ができたかな。 大切なことは結果として何が残るかなのだ。すなわち、私の通った後には穴が残るのだ。これで万事解決だ。 私の穴に対して“真実”などが立ち塞がるなど、笑止千万じゃないか。 ……。 ……何?そもそも“真実”とは何なのか? ……。 さて。どうだったか。そんなことは、どうでもいいことだ。 ──幼子は翌日に姿を消した。 ギーもキーアも気付かないうちに、書き置きらしきものを残して消え去った。ルアハさえも、それには気付かなかった。 それから6日後だった。ヴォネガット老人が姿を消したのは。 現象数式による病状の抑制措置を受け入れ、彼は、それまで、確かに生きていた。 そして──誕生日を祝った深夜に彼は消えた。 ──夜だったはずだよ。確か。 ──暗い中、ひとりでボートに立っててさ。──そんな器用な真似、できるのは…。 ──ヴォネガット爺さんぐらいのもんだ。 小さなボートの上に立ち、貯水池を見つめていた老人を見たという証言が数件あったと亀の老人は口にした。 彼はもう自力で立てる状態ではなかったし、証言の主は誰も彼もが酒気を帯びていたし、何より、夜の貯水池に近づく人はいない。 都市法執行のための上層兵の動きも、もう聞こえてこない。 ──けれど。 ──けれど。──残されたものは、在る。 「……あら?」 「あらあら??」 「「あらあらあら???」」 「「朝から仲良くいちゃいちゃしてる!」」 あらあらあら。仲のよろしいこと。朝も早くからふたりっきりでくっついて。顔色の悪いおにいさん、何してるの? あらあらあら。妬けちゃうわねー。朝からこんなに見せつけてくれちゃって。可愛いお嬢さん、騙されちゃだめよ? 「「ほんと、仲のおよろしいこと!」」 アパルトメントへ押し掛けてきた勢いで、そのまま、アグネスが片手を振り上げて。思い切り── ぱしん!! と、ギーの顔面へ薄い札束を叩きつけて。 薄い薄い札束の袋だったけれど、大きな音を立てて、ギーの顔を覆い隠す。 …………。 だ、大丈夫、ギー?ふたりとも何するの……。 決めたの、あちしたち。お爺ちゃん探すのはアティとかに頼むって。 決めたの、よく考えて。だから、もう、ギー先生はお役御免なのよ! もう、お爺ちゃん、ふらふら出歩けるくらいには元気になっちゃったんだから! だから、もう、ギー先生はお役御免なのよ!きっと元気なんだからね! それじゃあまたね。ご縁があったらよろしくどーぞ! よろしくどーぞ! ──そう言って胸を張るふたりの目元は。──驚くぐらいに真っ赤で。 一晩も二晩も泣き腫らしたような赤さ。キーアが言葉をかけようとしたけれど、ふたりはすぐに踵を返して。 「「……色々、ありがとね」」 小さく、そう言って。逃げるように去っていってしまう。 さよならとも声を掛けられずに。可愛らしい背中がふたつ、消えていく。 ……そして、すぐに。……静かな早朝の時間が戻ってきて。 ルアハはまだ起きて来ない。アティはきっと機関酒場にいるのだろう。ふたりになると、自然と、静寂が充ちる。 何だかね。相変わらず、騒がしいふたりだ。 ……うん。 彼が見たらきっと安心するよ。あんなに逞しい子は、そういない。 ……うん。 スタニスワフも一目置いている。口では色々言うけれど。 ……うん。 キーア? …………うん。 …………ううん、やっぱり。 やっぱり……へん……。みんな……何も、なかったって……。 ……お爺さんは……いないのに……。どうして……。 ──どうして。──みんな、そんな風に言えるの。 ──ぽとり、と。──ひとりでに雫が溢れて。 ……どうして……? ──輝く雫。──ぽろぽろと溢れて、止まらない。 薄赤色の瞳から流れ落ちてしまう、雫。抑えようとしても、止めようとしても。次から次に溢れて。 頬を伝って滴って。雨戸を打つ、空から降り注ぐ雨のように。 キーア。泣くことはないんだ。 ……ギー、どうして……?あたし、わからない……わからない。 みんな……どうして……。 あの子たち……。あんなに、ちいさいのに……。 ……どうして……。あんな風に、言えるの……? ──あんな風に。──精一杯に胸を張って、表情まで。 きっと、キーアが……おかしいの……。みんな、みたいには……。 できないよ……。 ……泣くことは、ないんだ。 とめどなく落ちる雫を、そっと指で拭う。閉じた瞼からはまた溢れて。 静かに雫が落ちて。 頬を伝い、手のひらへと流れて落ちて。リノリウムに幾つも幾つも滴っていく。 雨のように。降り止まないまま、ぽろぽろと。 ──涙が。 この10年間で人々が流した涙のように、とめどなく、やがて都市へと還るように。 ……どうして……。 みんな、ずっと、嘘ついて……。これからも……きっと、そう……。 でも……。あたしは……みんな、みたいに……。 嘘は……うまく、ないから……。だから……。      「……だから……」 「……気に入らねえな」 「大型クリッターが出たってのに。 あれでお仕舞いとは、締まらねえ話だ」 第2水源貯水池の水辺。雑草を踏みつけて佇む男の影がひとつ。 手足を黒で覆った姿。男は、まるで影のようにも見えて。 最後の«奇械»ポルシオンと、それを操るクソッたれの数式医ね……。なるほど、なるほど。反吐が出そうだ。 大層ご立派な嘘で固めたもんだ。こいつは、ヒトを殺すためのただの力だ。 ──そうだろう、グリム=グリム?  ───────────────────。     『こんにちは。ケルカン』  『都市に、嘘などひとつもないのさ』  『嘘をついているのは、人間だけだ』  ───────────────────。 ああ。その通りさ。お前とは気が合うらしいな、道化人形。 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 『あははははははははははははははは!  あははははははははははははははは!』  『──これで、めでたし、めでたし──』      『──くすくす──』 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 歓喜の声を上げて手を伸ばしていく。蠢き、その手は引き裂いて。空へ、その手は伸ばされて。      ──彼の左手は──      ──拘束の闇を──      ──引き裂いて──      ──その白さを──     『……待っていて……』    『……僕の、キーア……』 ──薄暗い、雑踏街の違法娼館の一室で。──私は嗚咽する。 ──いつものように男を誘う。──いつものように意識を閉ざす。 マグダルの体は何の反応も返さない。焦れた男の硬い手でどんなに愛撫されても、猛ったものを深くに埋め込まれても、何も。 ああそうか、とさえ思わない。マグダルは天井を見つめる。 それなりに装飾された娼婦部屋の中でも、天井だけは別。手を抜かれてる。安い違法娼館であることの証だ。 古ぼけた天井。自分の体に覆い被さる男の肩越しに。 「くそっ、ちっとも濡れねえぞ。 あの蛇女め、安い女を寄越しやがる」 「お前もなんとか言ったらどうだ。 俺を愉しませるのがお仕事だろうが」 男が何か言っている。どうでもいい。勝手に何かを言えばいい。 もう仕事は終わっている。待合室で気をよくさせて、部屋に誘って。ベッドへと押し倒されてこうなる時点で。 ここから先はどうでもいい。男が勝手に動いて勝手に果てればいい。 乱暴に胸を掴まれても、何も感じない。何度も突き込まれても、何も言わない。天井を見るだけ。 ──いつもしていたこと。──心と体を切り離して。 ──いつものように、あのひとに謝って。 ──なのに。──できない。ただの仕事のはずなのに。 ──私の体は男を拒絶する。──あの手紙を、読んでしまったから。 ──私は口を閉ざす。──何も、この男と話すことはない。 「……くそっ!」 焦れきった男が舌打ちして、腰と片腕を掴んで、激しく突き入れてくる。体が揺れる。視界の天井も揺れて、ぶれる。 揺さぶられる。何度も何度も何度も。視界が歪む。歪む。 不意に思い出す。歪んだ視界の中で、愛したふたりの姿。 共に下層民の身でありながら、上層へ招待されるという栄誉を受けた彼ら。愛した夫と息子。誰より愛していたふたり。 歪んだ視界に蘇る。記憶。 ──ああ。見える。私のヨハン。──可愛いペドロ。 う……ううっ……や……。やだ……やめて……見せないで……。 ──あたしは、嗚咽する。思い出す。──死体となって上層から戻ったふたり。 歪む視界は過去に繋がって。マグダルは、すすり泣きながら懇願する。見せないで。動くのを、今だけは止めて。 ……お願い、やめて。 「何を泣いてやがるんだ。黙れ!」 男の声が怒気をはらんで。無理もない。突然、泣きながら「やめろ」と言われて、返す反応は戸惑うか怒りくらいのものだ。 何か、罵声が浴びせかけられる。何と言われたのかはよくわからなかった。 男の動きが速度を増す。興奮しているのか。濡れてもいないそこを、狂ったように抉る。膨らんでいるのがわかる。 涙と声は男を昂ぶらせていた。こんな客ばかりだ。 「これはこれで愉しめるが、腹が立つ」 「俺は上物を買ったはずだ。 もっと愉しませろ、俺を愉しませろ」 ──言葉の前にもう殴られていた。──痛い。 頬に衝撃が伝わる。なるほど。男は割り切って愉しむつもり。激しく体を揺すりながら、歓声をあげて。 殴られれば呻き声くらいは出てしまう。それに、涙はまだ止まらない。 ──枯れてくれない。私の涙。──ふたりを失ってからずっと、そう。 「ははははははははは! ほらよ! 泣くならもっと喚け、叫べってんだよ」 ──アリサさんが来る前に、あと何発か。──私は殴られるだろう。 ──明日の仕事のときには。──化粧をよほど濃くしておかないと。 ──私が«猫虎»で良かった。 ──もしも人間のままだったら。──人前に出られない顔になっている。 「もっと呻け、もっと泣けよ。そら! せめて声で愉しませてくれよ、なあ!」 ──殴られる。鼻血が吹き出た。──ああ、赤い。私の血も赤いんだ。 ──あのひとと、あの子と同じ。──赤い血の色。 ふふ……あは……。おんなじ……色……ふふ……。 「なんだ……? お前、笑ってやがるのか……?」 不審そうな声。気味悪がる気配。それでも、男は昂ぶったものを突き入れて、腰を揺さぶるのをやめようとはしなかった。 男の動きが激しくなる。背中が、ベッドに叩きつけられていく。 ……ふふ……。あは、あはは……やだ……やめて……。やめてください……。 ……お客さま……。ふふ……。 ──本当だ。私、笑ってるんだ。 ──駄目なのかな。──私もう、駄目なのかな。笑ったりして。 ──こんな仕事、続けていける訳ない。──こんなことを毎日、毎日。 ……でも……。あは……私……持ってる……。持ってるんだから……大丈夫……。 ──大丈夫。 ──私はまだ大丈夫。──あの手紙があるんだ。あの手紙が。 ──今日も雨が降っていた。 情報書庫ビルディングのひとつの屋上。黒猫はひとり、そこから摩天楼を見る。 今夜の仕事場を遠目に見ながら頭の上の“耳”を動かす。 溜まった雨水が周囲に飛び散る。今日は文句を言うあの鳥の姿はない。 ……今日はひとり仕事。 群れるのも嫌いじゃないけど。猫だもの。たまには一匹でやりたいさ。 誰に言うでもなく呟いて。目標のビルディング2Fの下見を続ける。警備状況は、それほど固くもなさそうだ。 ハッカーには2人ほど渡りをつけてある。警報装置は切っておいて貰おう。 仕事。書類と現金を幾らかを強奪。ただの強盗の仕業に見せかけて書類を頂き、ビルの所有者と敵対する企業に売りつける。 一通の手紙をアティは思い出す。鼠顔の情報屋から手渡された粗悪な恋文。暗号文で書かれた愛の言葉は、依頼内容。 なんのことはない。いつも通りのそれなりに危険な仕事。 雨で湿った空気を吸い込む。決行まではまだ数時間ほど間がある。 このまま下見を続けるかどうか。少し迷う。 と── 無線型電信通信器が振動した。小型の連絡装置。 主に仕事で使用する仲間との連絡装置だ。友人と呼べそうな間柄の数人にも、回線番号は知らせているけれども。 あーもぅ、間の悪い。ひとが緊張を高めようとしてんのにさ。 ……はい。もしもし? ん。誰? ……あー、久しぶり! 何、元気そうな声してるじゃないさ。もうとっくにくたばってるかなって。 冗談冗談。……ん、あたしはどうかって? ま、ぼちぼちさ。それなりに野良猫をやってるよ。 それよりどうしたのさ、珍しい。きみから連絡してくるなんて。 何かあった? ……ん、誰、それ。第5層のマグダル?聞いたことない名前だけど。 へ。同僚?どんどん欠勤が多くなるって? ……知らない知らない。知る訳ない。 あたしがそこにいたのいつだと思ってんの。マグダルなんて名前、初耳。 ……うん、うん。 あ。そう……«猫虎»なんだ……。 それを早く言ってよ。うん、知らない名前だけどさ。 ……あたしに連絡してきた理由。聞いてもいい? ──通信機の向こうの相手。──過去に“同僚”だった娘が口籠もる。 もう何年ぶりに言葉を交わしただろう。気だてが良いせいで男に騙されるあの娘。 わざわざ荒事屋に連絡なんかして。最近入ってきた«猫虎»の話なんかして。何か、揉め事の話なのだろうか。 ……言ってみて。 ううん、泣かないで。怒らないからさ。 ……うん、うん。 …………うん。 ……そっか。ドラッグか。間違いないの? ──たぶん、と小さく告げる声。 遠慮がちに小さく告げるその声は、どこかあのキーアという少女を思わせる。 そういえばあの少女とこの娘は似ている。誰かを心配してしまうところ。この都市では、生き難い性格。 ……うん、わかった。知り合いのドクターに相談してみるよ。 期待はあんまりしないでね。でも、確かに伝えるから。 ……うん。ええ、そう。わかった。あんまり気にしちゃだめだよ。 それじゃあまた。 ……ううん、駄目。あたしは行かない。 そこにはいい思い出ないしさ。うん。じゃあ、またね。どこかで会ったら、お茶を奢るよ。 ──会話を終える。──電信通信機の回線を切る。 今日の仕事場を下見していたはずなのに。視線は、いつの間にか真上を向いていた。雨を降らす空へ。 灰色の充ちる空。ふう、と短く溜息をひとつ。 ……ドラッグ・アムネロール……。 ……やな名前。聞いちゃったな。 ──深夜1時。 雨は一旦止んでいた。きっと明け方にはまた降り出すだろう。 仕事は少しだけ手間取った。長らく目にしなかったものをアティは見た。警備兵たちが違法火器で武装していたのだ。 少しだけ動きが鈍った。驚きのせいで。 猫の本能が発砲の音と光に反応したけれど、理性を保ってそれに耐えて。回避できた。 銃弾などに当たる道理はない。15フィートも離れれば充分。 予定時間より2分だけ遅れて。目当ての書類とシリングを幾らか頂いた。 警備兵2名を昏倒させて、残りの2名は放ったまま逃げてきた。 依頼主の第2層企業に書類を届けて。それで今日の仕事は終わり。 足のつかないシリングを報酬に貰った。つつましく暮らすなら2ヶ月ぶんの生活費。 数秘機関の調整やら何やら。最新型の無線電信混乱装置やら何やらで。経費を引けば、1ヶ月も保たないけれど。 それでも充分。それなりのシリングだ。 (さ。今晩はどこを宿にしよう) (……いつものとこで、いいか) (頼み事もあるし) アティは特定の家を持たない。安全のために。 倉庫代わりに使っている部屋なら、ひとつふたつあるけれど。生活のための部屋はどこにも借りていない。 いつでも逃げられるように。痕跡を残さないように。 ──だから、多くの場合。 ──安宿で仮眠を取るか、もしくは。 ──静かに。静かに。 するりと入り込む。静かな仕事はアティの何よりの得意技だ。 静かに。夜闇に紛れて音もなく侵入する。ちょっとした、仕事の予行演習も兼ねて。 きっとキーアは寝ているだろう。鋼鉄の娘のほうは機関動力の残量次第。 部屋の主人は起きているかも知れない。そもそも、そう予想して忍び込んでいる。 ちんまりとした居住用建造物。あの男が住んでいる安めのアパルトメント。少し前までは、男が仮眠を取るだけの場所。 外に面した廊下を静かに歩く。扉の前でしゃがみ込む。 慣れた手つきでツールを取り出して。鍵穴に差し込んで2秒。カチリ、と音が鳴った。 扉を開く。静かに。数え切れないほどこうしてきた。 ──するりと入り込む。──部屋の中に黒猫の体を滑り込ませる。 予想は外れてしまったらしい。鋼鉄の娘の姿は少なくとも1階にはない。 玄関からリビングへ侵入して。厨房に立つ人影ひとつをアティは認識する。 部屋の主人ではない。ギーが厨房に立つ訳などない。 小さな人影。これはつまり── ……ありゃ。起きてたんだ、キーア。 わっ。び、びっくりした! アティ、ちゃんとベルを鳴らして下さい! ああ、びっくりした……。心臓が止まってしまったかと思ったわ。もう、アティったら、静かなんだから。 ごめんごめん。まだきみが起きてると思わなくってさ。こんばんは、キーア。 こんばんは、アティ。何か飲むものを用意しますね。食事は? 気にしないでいいよ。どっちも今は大丈夫だから。 ……それより。 はい? どーれ。お姉さんが確かめてあげようかね。ちょっとお嬢さん、お胸を見せてご覧? え? え? きみの心臓がちゃんと動いてるかどうか。確かめてあげようかなーって。 ……あ。なるほど、そういうことね? アティは冗談がギーよりずっとうまいわ。 そ、そうかな。今のはだいぶおっさんぽくなかった…?ギー、きみにどんな冗談言ってるの…? おっさん? あれ、汚い言葉は知らないか。えーと、中年の男って意味。おじさん。 うん。覚えたわ。おっさん。 ……おっさん……。 でも、アティ。ううん……うん。それは何だか変だわ。 ん? あなたは中年の男のひとじゃないわ。だから、何だか変。 あー…………。 …………そうね。うん、変ね。 ?? ……気にしなくっていいから。忘れて忘れて。 首を傾げる少女へひらひらと手を振る。やっぱり、この子は、第1層や2層出身のお嬢さまかも知れない。 深夜のアパルトメントで厨房に立って、物音僅かに明日の朝食を準備する少女。不思議なキーア。 物を知らないのは育ちの良さか。それにしては、やはり、下層らしい日々の生活に慣れている。 まるで真面目な主婦のようだ。それも、下層域の苦しみを知らない類の。 ……若いのに夜更かしは良くないよ。寝ないの、キーア。 ふふ。 ん? ギーと同じことを言うのね、アティ。やっぱり奥さんだわ。 ……こほん。 ──咳払いをひとつ。 夜更けに騒がせてごめんね。話があるんだけど、ギー借りてもいい? うん? どう? どうしてキーアに聞くの? え、えーと……。 言葉に詰まってしまう。少しバツが悪く思えたのはなぜだろう。 ──ギーと体を重ねたから?──この子が2階で眠っているのに? 馬鹿馬鹿しい。キーアをそういう風に意識するのは変だ。嫉妬するにしても、もっと堂々としよう。 大人の笑顔を心がけよう。意識して形作る「表情」を貼り付けよう。 そうね。うん、そうよね。じゃあ、ちょっと失礼するね。 また明日。おやすみなさい、アティ。 ──どうしてだろう。 ──やっぱりどこかバツが悪い。 そっと扉を開けて。足音を立てないように部屋の中へ入る。 時刻は深夜1時半。普段であればまだ彼は起きているはず。 部屋に灯りはなかった。安い金属製の椅子に座る人影も見えない。 ──寝台。──横たわる彼の影があった。 ……寝てる? 既に、起きてしまったかもしれない。キーアと話している声を気付かれて。 この時間に横になっているということは、恐らく明朝早くに出るつもりなのだろう。しまった、とアティは思う。 彼の予定を狂わせてまで、自分の頼みをねじ込みたくはなかった。もしかして、自分は何か、焦っている? 起こしてしまったなら謝ろう。眠っているなら朝にでも話せばいい。 ……うん。 静かに静かに囁いて。アティはギーのベッドに潜り込む。 ……ギー。起きてる? 呼吸音がわかる。まだ眠っていない、とアティは認識する。寝息と起きている時の呼吸は異なるから。 呼びかける声は小さく。伺うように。 ……邪魔したならごめん。 起きているよ。横になっているだけだから。 そっか。 ああ。 いい子だね、キーア。 ああ。育ちが良いんだろうね。僕より礼儀がある。 あたしよりもあるよ。 どうかな。 ……ね。ギー。ちょっと、話、聞いてくれる。 ああ。 横たわる彼の視線がこちらを向く。天井を見ていた瞳が、アティを視る。 クラッキング光の“板”がなくともわかる。彼の瞳にはまだ現象数式の名残がある、と。 視線を向ける時の“間”でわかる。どこか一点ではなく、全体を視る感覚。 遅くまで巡回診療を続けていたのだろう。きっと、ついさっきまで。 ──ふと、思う。──可能であれば彼と同じ目が欲しい。 ──あたしの体はどう視えてるのだろう。──彼の数式の“目”には。 あたしの昔の同僚からの話。聞いてくれる、かな。 ああ。 ……荒事屋? ううん。そっちじゃなくて、さ。……うん。 言葉が濁る。昔のこと、あそこにいた時のことは自然と。 特にギーにもあまり話したくない。嫌な記憶。 ギーはすべて知っているけれど。できれば、思い出して欲しくはない。 もっと前の同僚。荒事屋の前の、あんまり稼げなかった時の。 ……ああ。 マグダルっていう女なんだけどさ。虎に偏った«猫虎»の女。 聞かない名前だね。 うん。あたしは全然知らないんだ。ヤムンから聞いたの。 ──ヤムン。──久しぶりに連絡を寄越した元同僚。 マグダルはいい奴だって。いい女、なんだって。 優しい旦那と可愛い男の子の写真。それ見せて、いっつも笑うんだってさ。 でも── ……写真の中のふたりとも、さ。どっちももう死んだって。 ヤムンと同じ仕事を始める前に死んだ。そうアティは聞いている。 死因は聞いていない。野良の幻獣にやられたか、何かの事故か、クリッターか、ドラッグ中毒の気違いか。 そうでもなければ病気かもしれない。ともかく、その写真のふたりは死んでいて。 仕事をするようになったのが1ヶ月前。死んだ旦那と息子の写真を、いっつも大事そうに見る女だったって。 最初は健気に頑張ってたらしいんだ。でも、だんだん、おかしくなってきた。 ヤムンが言うには、ね。ドラッグらしい。 ……中毒。アムネロールの。 その単語を口にする時。どうしても、身構える自分を抑えられない。 あの時のことを思い出す。狂乱する中毒者に殺された仲間の顔。 自然とシーツを握り締めていた。もう少しで破いてしまうところだった。 ──大丈夫。──まだ、あたしはきっと人間のまま。 ──口惜しいと思う心。──あたしは確かに感じている。 ……それは、依頼かい。 心身の衰弱は歪んだ病を招く。それなら、僕の仕事もあるだろう。 けれど、そうでないなら。僕は確約できない。 ……ギー。 それでも良ければ。そのマグダルという女性を診よう。 うん。あたしらでシリング出すから。診てあげて。 わかった。 ……ありがとね。ギー。 ──嬉しい、と素直に思えた。 ──なぜって、そんなの。 マグダルを完全な他人とは思えないから。一度も会ったことがなくても。 大切な何かを失ってしまった«猫虎»。自分自身、いつそうなるかわからない。可能性は常にある。 ドラッグは常に人を誘惑し続けている。過酷な現実から逃れてしまえと。 この10年で失った夢を、僅かだけでも再生させてやろうかと。 そんな誘惑には乗るまいとアティは思う。けれど、可能性はあるのだ。常に。 ──例えば。 ──もしも、あたしの前から。 ……ん。 ……な、なに? ギーが見ていた。視線をまっすぐに黄金瞳へと注いで。 現象数式の“目”ではなかった。それは、確かにギー自身の瞳の視線。 なに……。 ……いや。何でもないよ。 なに……よ……。 ──何よ。 ──すべてわかってるみたいな顔して。──嫌な、ドクター。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……観測は順調に行われている。 ……顕現は確かに行われた。……我があるじ、これより同化に入る。 新たな子羊と新薬Aの被験者だ。……あるじよ。貴方の望んだ“時”が来た。 ……さあ、記憶の宴の時間の始まりだ。 ……我らの生贄はどの程度保つかな。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ──時刻は午前5時過ぎ。 再び雨が降り始めていた。無限雑踏街の朝、つかの間の静けさの中。 肩に鴉を乗せた少年が欠伸をかみ殺して、朝の裏路地へと顔を出していた。 夜通し、悪い遊びでもしていたのだろう。少年は酒臭くなった服をはたく。 人の少ない路地裏で少年は背伸びをする。楽器を奏でるロマの一団は、もういない。夜のうちに別の通りへ行ったのか。 ……なんだ。小銭を減らそうと思ったのに。 こんなだから稼ぎが少ないんだよ。なあ、そう思うだろ? カァ。 ……うー。頭痛い。ちょっと酒、残っちゃってるなぁ。 カァ。 肩に乗った鴉は、親が買い与えた幻想生物。遊び歩く彼を守る、護衛代わり。 幾らかの生活が保障された6級市民ゆえに、彼は都市の過酷さの多くを知らない。 世慣れた風ではあるけれど。まだ、少年だ。 ん……。珍しいな、こんな時間に。 カァ。 ほら、あそこ。子供が歩いてる。ロポじゃないよな? カァ。 少年の視線の先にひとりの子供がいた。それは幼い男の子のようだった。 珍しい。確かに。人通りが少ないとはいえここは雑踏街だ。 幼子がひとりで歩く場所じゃない。少年自身、一昨年までは出歩けなかった。 おい。お前、迷子か?こんなとこ歩いてたら攫われるぞ? ……大丈夫だよ。 僕はひとりじゃないし、俺がいる。 顔は人間のものと大差ない。けれどもすぐに«鳥禽»の特徴がわかる。 小さな体を覆うかのような大きな翼。両腕がほぼ完全に変異している。 大きな瞳は猛禽類を思わせる。子供の割に、妙な迫力があった。 大丈夫なもんかよ。ひとりだろ。んー……お前、どこの子だ? 管理事務所まで連れてってやるよ。ああ、多分そのまま攫われたりはしない。うちの親がさ、賄賂送ってる事務所だし。 ……。 ……どこから、か。確か、僕は、あそこから来たんだ。 ん? 指さしたのはすぐ上の層プレート。ということは、第6層の子供だろうか。 6層かよ。 お前、ひとりでモノレール乗ったのか?階段歩いてきた訳じゃないだろ? ……よくガキひとりで乗れたなぁ。普通ならその時もう攫われてるぞ、お前。 ……違う。 違う? 6層じゃない。9層。俺は……確か、そこで暮らしていた。 上を指さしたの、お前だぞ?そっか、2層下か。 ……そっか。お前孤児だな?なんだよ、見栄なんか張っちゃってさ。 まあ、そうだよな。孤児か。普通はそうだな。 つい、自分を基点に物事を考えてしまう。少年は、自分の癖を思い出す。 自分は恵まれているという自覚。それを少年は持っていた。 第1層や第2層で暮らす6級以上の市民でもない限り、それが普通だ。うろつく子供は大抵が都市孤児だ。 どこの工場勤めだ?抜け出して来たんだろ、お前。 それとも、あー……もしかして娼館?嫌だなあ、俺そういうの苦手だ。 ……用がないのなら失礼する。誰かと話している暇はないんだ。 まだ、慣れないんだ。どうしても、僕の部分が多いし。 記憶の、混乱もある。俺は死んだ時のこと以外が思い出し難い。 僕も、あまり思い出せないんだ。ママのこと以外。 ……んん? 妙な違和感。この子供、口調と言葉がどこか奇妙だ。 まるで── 死んだ時の記憶?お前、何言ってるんだ? 僕って言ったり、俺って言ったり……。妙に大人っぽく話すし……。お前、大丈夫か? こめかみに指を当てる。まさかこの年齢でドラッグ中毒だろうか。 ない話ではないと聞くけれど。もしそうなら、初めて目にすることになる。 どうかな。 お前、なんかおかしいぞ。自分がどこの誰かちゃんと言えるか? ……? 男の子は首を傾げる。少年の言葉の意味がわからないという風に。 何を言ってるんだ、お前。 僕は僕で、俺は俺だ。他の誰でもない。 ……話をしてくれてありがとう。少し、僕の唇と舌が俺に馴染んだよ。 あ、おい。待てよ! カァ。 肩を掴もうとするとふわりと羽が舞った。男の子は、人の増え始めた雑踏に消える。羽毛を僅かに残して。 路地裏に残されて、少年は暫くぽかんと口を開けたまま佇む。 俺とも僕とも言う、妙な子供。すぐに消えてしまって。まるで幻か何かを見たような気分だ。 ……何だよ。変な奴。 カァ。 ──明け方には。 朝の気配に瞼を開いた時には、既にギーの寝室から黒猫の姿は消えていた。 リビングには鋼鉄の娘がいた。ルアハ。キーアの朝食作りを手伝っていたらしい。既に、その光景にもやや慣れた。 朝食を待つ間の時間。合成コーヒーの香ばしさを嗅ぐ時間。念には念を置くべきとギーは考えた。 ルアハに情報空間への接続を頼んだのだ。都市管理部の情報書庫に接触して貰って。 新型ドラッグ・アムネロールについて。幾つかの情報を引き出して貰った。 そして、巡回診療へ。まずはアティから依頼された件。 無限雑踏街。女主人アリサの経営する阿片窟へ。 ──アティにとっては10年前の古巣。──そこへ足を運んだ。 ──阿片窟。 裏の顔である違法娼館。そこには行き場を失った女が辿り着く。 女たちの事情はさまざまだ。あらゆるものを失ってアリサに拾われた者。それ以外の生き方を見つけられなかった者。 女たちの瞳の奥底に浮かぶものは2種類。諦めか、疲れか。 可愛いお嬢さんね。お年は幾つ? いいえ、娘ではありませんよ。預かっている子です。 外に置き去りにしてしまって大丈夫?あまり放っておくと良くないと思うけど。 アリサが一緒にいますから。問題ありません。 そうね。あのひとと一緒なら大丈夫ね。お店をひとりで切り盛りできる、強くて、逞しい、凄い女なんだし。 ええ。 それにしても、本当に可愛いお嬢さん。なんだか羨ましい。 あんなに綺麗な声な上に、言葉遣いまで、とても丁寧で。 うちの生意気な悪ガキとは全然違うわ。本当、羨ましいったらない。 躾がよくできているのね。偉いわ。 ──明るい女性に見えた。 近頃、この違法娼館で勤め始めた女性。名はマグダル。 昨夜、アティに聞かされた名だ。ギーはその名前に別の印象を抱いていた。 ドラッグ中毒患者に偏見を抱く訳ではない。けれど、もう少し錯乱した様子を想像した。目の前にいる女性とは結びつかない。 彼女には妙に生活感があった。第4層あたりの6級市民の夫人のよう。 どこか、アティに似た勝ち気そうな表情。それは«猫虎»に共通する特徴だろうか。 声はとても明るくて。都市下層の残酷な苦しみを見ないように、今だけを見ながら生きようとする人の声。 他者に対する警戒心が薄いのか。それとも、ギーを信用しきっているのか。 どちらにせよ、彼女は。彼女の声は。 ──明るい上に、穏やかに聞こえる。 その声は、誰かに保護されている人の声だ。この穏やかさは、ひとりきりでは、無理だ。歪んだ都市がそれを許さない。 都市に充ちる歪みの中で、ひとりきりでも穏やかに過ごせる者。 それは、老師ぐらいのものだ。他にはいるまい。 彼女は、既にひとりきりのはずなのに。それでも、穏やかさを保つのか。 夫と息子を失ったばかりの人物とは。到底、思えない。 これではまるで── ……本当、羨ましいったら。私にはがさつな息子しかいないから。 ほら、見て?この子、真ん中で笑ってる男の子。見るからに悪ガキって感じでしょう? いつも私の言うことを聞かなくて困るのよ。夫の言うことなら、聞くのにね。 はにかみながら見せるのは、一枚の篆刻写真。 写真には3人の人間の姿があった。マグダル自身と男と少年。これは彼女の家族か。 マグダルと、夫と、息子。 あたしと、ヨハンと、ペドロ。仲がいいのだけがあたしたちの取り柄。どう、仲よく見える? ええ。とても。 ──本当に。 可愛らしいお子さんだ。ご主人は«熊鬼»でいらしたんですね。 ええ、そうなの。見た目はとっても恐いでしょう? でも、それは見た目だけ。ヨハンはとても優しいの。仕事仲間にも好かれてるんじゃないかな。 ええ。そう思います。 でしょう? あら、いけない。惚気たかしら。 いいえ。僕のほうこそ羨ましい限りです。 あらあら。お上手な先生でいらっしゃるのね? 写真の男性── 写真を見る限りではただの«熊鬼»だ。だが、このマグダルの表情を見れば、言葉は嘘ではないのだろうと思える。 (……しかし) (違和感があるな) 聞いた状況と目の前の女性が重ならない。違和感は募っていくばかり。 違和感の正体を確かめるべきだろう。状況も確認しなくてはいけない。 では、始めましょうか。気を楽にして。ミセス・マグダル。 ええ……。でも、先生、私、不思議なの。 どうしてお医者さまの先生が私に?私、どこも悪いところなんてないわ? わざわざ来て頂いたけれど……。本当に私は具合の悪いところはないのよ。 ヤムンさんに頼まれたんです。あなたが最近、お疲れのようだと。 そうなの……。本当、ヤムンさんったら心配性なんだから。 大丈夫。ただの健康診断ですよ。注射も薬も使いません。 すぐに終わります。ヤムンさんの心配もすぐ解消できますよ。 ええ、そうね。あまりヤムンさんを心配させてもいけないし……。 わかったわ。じゃあ、お願いします。先生。 はい。では、始めます。 ……気を楽にして。目を閉じていても構いませんよ。 いいえ、先生。私、現象数式を見るのは初めてで…。 すごいわ。本当に光るのね。これが、その…なんと言ったかしら…。 ええ、クラッキング光です。これがあなたの健康状態を把握します。 さあ、気を楽にして。始めましょう。 脳内器官は既に起動している。大脳が現象数式を働かせ、光が励起する。 ギーの“右目”が視る。マグダルという女の肉体の状況について、正常な状態であるかどうかの確認を開始。 なるほど。流石は«猫虎»だ。しなやかな肢体にはひとつの損傷もない。 年齢はアティよりも上であるはずだ。経産婦ということだし、何よりも黄金瞳が顕現していない。 ……大きな問題はないようですね。あなたは健康ですよ。 そうかしら。 ええ、ミセス。 各関節部、異状なし。 筋肉組織、異状なし。 感覚器官、異状なし。 現象数式の“右目”は皮膚も筋肉をも透過して、内臓の状態を確認する。異状なし── ──生命維持活動に関して、であれば。──すべて異状なし。 けれど、暴行の痕跡はあった。違法娼館の客につけられた傷だろうか。 強い肉体を持つ«猫虎»故に、外見上は傷がないように見えているものの。頬の皮膚の下には今も殴打の痕跡があった。 下腹部、生殖器には擦過傷の跡。並の人間であれば酷いことになるだろう。 ──けれど。──生命維持活動に関しては、異状なし。 (肉体に残留する薬物の痕跡はなし) (内臓への副作用もなし) アムネロールの副作用。ルアハを介して入手した症例情報によれば、最も危険なものは、内臓器官の損傷だった。 少なくともマグダルにその症状はない。ならば別の副作用か。 アティを介して得た事前情報によれば、マグダルは「おかしくなっている」という。 であれば。次に確認すべきは……。 (……脳を視るか) 大脳の働きと認識方法については、医療用数式使いの間でも意見が分かれる。 特に最も見解がばらつくのが、意識と記憶についての扱いだ。 脳神経の信号によって構成されているとも、器官としての記憶装置は人間にはないとも。大きくわければこの2種類の見解。 ギーは特にどちらも支持していない。必要がないから。 痛覚の制御や脳神経の置換。それらの行為にはどちらの定義も必要ない。 どちらの見解を口にする数式医であっても、記憶そのものには介入できなかったのだ。当然、意識を操作することも。 ただの理屈にはギーは興味を持たない。だから、どちらも支持しない。 だが── (……ん?) (これは……何だ) マグダルの大脳には。これまでに視たことのない異状があった。 薄いぼんやりとした膜が“右目”を塞ぐ。その膜はクラッキング光に似ていた。 数式の力が及ばない左目には見えていない。しかし、膜は確かに“右目”による視覚を阻害していた。 (これが……) (アムネロールの、副作用……?) 現象数式の“右目”でさえ認識できない。それは、大脳を覆う、不可視の光の膜だ。 視たこともない。症例として耳にしたこともない。 確認する必要があるだろう。これがアムネロールに依るものかどうか。 ──違和感の正体。──直接、確認するしかない、か。 ……終わりましたよ、ミセス。あなたの肉体は健康です。 でしょう?良かったわ、これでヤムンさんにも安心して貰えるわ。 ああ、緊張した。じっと見られていると変な気分ね。 先生ったら結構いい男だし。……まあでも、夫ほどじゃないけれど? ほっと息を吐いて、マグダルは悪戯っぽく微笑んでみせる。 その言葉から違和感は拭えていない。ギーはやや逡巡しつつも、確認が優先であると判断した。 彼女の反応は予測できない。だが、内臓の損傷がない以上は── ──アムネロールの中毒者かどうかは。──こうして判断するしかない。 すみません、ミセス。簡単な問診をさせて頂けますか。 問診? 簡単なお喋りですよ。あまり上手いほうではないですが。 僕の視る限りあなたの体は健康です。ですが、それも完璧ではない。 あなた自身、異状を感じていないか。確認させてください。 でも先生、私はもう言ったわ。別に悪いところなんて……。 ……ありませんか。 ないわ? 疲労を感じていたりは? ……しないわ。 ──現象数式が残った“右目”が視る。──体温変化有り。 ──マグダルは、嘘をついた。 何か悩み事があったりは? ……ないわ。 ──体温変化有り。嘘だ。 では、最後に確認します。ミセス・マグダル。 あなたのご家族、ヨハン氏とペドロ君。おふたりは亡くなっていますね。 ……1ヶ月前に。 え? ヨハンとペドロが死んだ?先生、あなた、何を言ってるの。 ふたりとも、死んでなんかいないわ?恐いことを言わないで頂戴な。 いいえ。残念なことに、ミセス。 ふたりは亡くなった。死亡証明をあなたは持っているはずだ。写真と一緒に、いつも持ち歩いている。 マグダルとこの部屋に入る前に、ギーはヤムンから直接確認していた。 本当にふたりが死んでいるのかどうか。それは、確認のために必要なこと。 現在を認識していますか、マグダル。あなたは恐らく、この瞬間。 アムネロールの影響下にありますね。そのはずだ。 ふ、ふたり、は……。ふたりは……。 ……生きて……る……。生きてるわ……。 ──瞳が揺れる。──彼女の言葉から、明るさが消えて。 ──現象数式の“右目”は視る。──マグダルは、今も嘘をついている。 招待状が届いて、上層に行って……。それから……。 ううん、違うわ。ええと……。ええと、ああ、そう、そうよね……。 炭鉱で……事故が……あったのよ……。それで、ヨハンは、死んで……。 ……ペドロも……。私が、ここで……働いてる、うちに……。 家のすぐ近くで、遊んでる、時……。殺されて……。それで、そう、私、ひとり……。 でも、ああ、そう、そうよね……。ふたりは上層に呼ばれて、行っただけ……。 炭鉱……?上層……?あれ、どう、だった、かしら……。 あ、あぁ、あ……。 う、うう、ぁ……。でも、上層からふたりの遺体が……。……どう、だった、かしら……。 炭鉱から、ヨハンの遺体……。私……あれ、どう、だった、の……? ああ、ぁ……あ……!かわいそうな……ペドロ……! ──瞳からこぼれ落ちるものがあった。 ──現象数式の“右目”は視る。──嘘はない。 ……すみません、ミセス。 言葉と涙とが溢れる彼女の頬に触れる。現象数式のもたらすクラッキング光で、ギーは、彼女の神経に介入する。 ごく僅かな神経の麻痺効果。睡眠に近い状態へマグダルを移行させる。 すぐに、マグダルは静かになった。ギーはそっと慎重にベッドに横たわらせる。 (言葉のひとつで) (……精神の混乱。過去を口にしても、 混乱が収まることがなかった。これは) ──現在の喪失。──過去への意識遡行と混乱。 ──ルアハから聞いた症状と一致する。──アムネロールの重度中毒症状。 ……心配は的中か。新型ドラッグ・アムネロール。 精神の混乱と……現在の喪失……。なるほど、これが……。 ……違和感の正体か。 このマグダルという女性は、まるで、夫も息子も失っていない素振りだった。 言葉と声、それに表情からも。ふたりを失った喪失感は感じられなかった。 アムネロールに依るものだ。使用者の“現在”を喪失させるドラッグ。過去の記憶の中で生きることのできる薬。 記憶を……歪める、か……。アムネロール……。 ……厄介だな……。 ほらほら。あんまり離れないの。ひとりでフラフラすると攫われちゃうわ。 はい。ミス・アリサ・グレッグ。遠くへは行かないわ。 私の周囲10フィートから離れないこと。いい、ギーといる時も気をつけるのよ。 はい。 行儀の良い子ね、キーア。貴女は……ううん、やめておこうかしら。うちの店は、貴女には似合わないものね。 ギーにも怒られてしまうしね。可愛いから、名残惜しいけれど。 ごめんなさい、アリサ・グレッグ。ギーをお手伝いすると決めているの。 あなたのお店では働けないわ。キーア、不器用だし。 不器用なのが好みなお客もいるのよ?まあ、いいわ。やめておく。 私にもね、キーア。それっぽい分別くらいは残っているのよ。ほんのちょっぴりだけれどね? ……にしても、時間がかかるのね。マグダルの具合はそんなに悪いのかしら。 キーア、ドクターから何か聞いていて?マグダルのこと。 いいえ、ミス・アリサ・グレッグ。詳しい話を聞いていません。 そう、残念ね…。重い病とかじゃなければよいけれど…。 大丈夫、病気でも。きっとギーは治してくれます。 ──そう言って微笑む。 ──そして、ふと首を傾げる。 キーアの視界。気怠げに紫煙を吐く女主人アリサの背後。阿片窟入口の少し先に、男の子がひとり。 体を覆うような大きな翼。それは変異してしまった両腕。 小さな小さな男の子。大きな大きな翼の腕を持って。 男の子はどこか苦しげな表情をしていた。キーアはすぐに彼へと駆け寄っていた。 アリサの周囲の半径10フィートからぎりぎり出ない範囲まで。男の子の元へ、駆け寄る。 ……大丈夫?顔色が悪いわ、あなた。 ……ん……。 ああ、問題ない……。声をかけられるのは、これで2度目、か。 問題、ないよ。ありがとう。小さなお嬢さん。 あらあら。行き倒れって訳じゃなさそうね。こんなところを子供がひとり歩き? 顔色が悪いわ。アリサ・グレッグ、休ませてあげて? ……ううん、そうね。子供を中に入れるのは嫌なんだけれど。 ……。 そんな目で見られると困ってしまうわ。そうね、ドクターもいることだし。 少しくらいなら構わない、かしら。いい、キーア。少しだからね? はい!ありがとう、ミス・アリサ・グレッグ。 ……ドクター……? お医者さまがこの建物の中にいるの。ね、診てもらいましょう?あなた、ほら、ふらふらしてる。 この建物は……だめだ。俺は、まだ、会う訳にはいかない。 そうか……ここは、あの建物か。いつの間にここまで歩いてたんだ……。 ……なかなか馴染まないな。記憶と、体。 ……? 心配には及ばない。お嬢さん。ただ、この体にまだ馴染まないだけだ。 俺には“彼”がついている。問題ないんだ。 でも。 その時、男の子の背後を見ただろうか。そこには佇む影があったかも知れない。 けれどキーアは背後を見なかった。男の子の手に触れていた。 翼となった手。震えている。これは痙攣だ。 ……手、震えてる。 ああ……本当だ。もっと馴染むはずなんだがな……。 手が震えてる。なら、やっぱり俺はここへは入れない。 俺が、俺を取り戻すまでは……。まだ会えないんだよ。 だから、俺は、彼女に手紙を出すんだ。手の震えが止まるまで。 もうすぐ……もうすぐだ。だから、俺はここへは、入らない。 ……手紙? 何を言っているのか尋ねる暇はなかった。手を握ろうとするとふわりと羽が舞った。 男の子は、雑踏の中に姿を消していた。羽毛を僅かに残して。 キーアは驚いてまばたきを繰り返す。男の子は、止める暇もなく消えたから。 するりと人混みの中に紛れて、見えなくなってしまう。 ……あらあら。勿体ない。 人の親切なんて、滅多に貰えないのにね。気にしないでいいわよ、キーア。 でも……。 見たことのない子供だったけれど。妙に、冷めきった目をしてたでしょう。 ああいう手合いに関わるとね、ロクなことにならない。 囁いて、女主人は微笑む。厄介に巻き込まれずに済んで良かったと、口にはせず。表情ではっきり告げながら。 キーアは返事をしない。女主人のくゆらせる紫煙の中に立って。 男の子の消えた先、無限雑踏街の人混みを見つめていた。 手を離さないようにね。気をつけて。 はい。ギー。 無限雑踏街からやや離れて。小さな手を引き、人混みから抜け出して。 雑踏街の中心部からやや外れたアリサの阿片窟を後にする。 昼を過ぎても雨は止む気配がない。巡回診療を続けることは当然だとしても、キーアは部屋に置いておくべきだろうか。 アパルトメントにはルアハがいる。キーアの安全を荒事屋に頼る必要もない。 雨に濡れたままでは風邪を引く。それ自体は現象数式の脅威ではないが、弱った肉体と精神は、歪んだ病を招く。 ……キーア。 アパルトメントへ戻ったほうがいいね。そのままでは風邪をひく。 いや。 ──嫌。 このくらいの雨なら平気よ。キーアはそんなに体は弱くありません。 熱を出してからでは遅いよ。ルアハを呼ぼう。 熱が出ても、ギーが治してくれるわ。魔法使いのお医者さま。 魔法ではないよ。雨傘があればいいんだが……。 雨傘とは大きく出たものだな。お前には似合わないぞ、ギー。 これまた珍しい物を欲しがったものだな。そんな嗜好品をお前が口にするなんざ、この長雨にも納得が行くというものだ。 フィクサー・スタニスワフ。珍しいじゃないか。 この俺がずっと留まっているものかよ。お前ほど歩き回りはしないがな、ドクター。 ごきげんよう、ミスター。こんにちは。 やあキーア。今日もよく出来た子だな。実にドクターには勿体ない。 聞いているぞ、ギー。アムネロール中毒の女に会ったそうだな。どうだ。お前の手に負えるのか、それは。 あむねろーる?なあにそれ、ギー。 いや。何でもないよ。 余計なことを言うなと老亀へ視線を向ける。阿片窟でマグダルに会ったことはキーアは知っているが、説明はしていない。 知る必要のないことだ。この子にとっては。 何? 病の名だよ。 ──きみは気にしなくて良いんだ。 努めて穏やかにそう言うはずだった。あのマグダルほどの虚飾には及ばなくとも。 だが、言葉は出なかった。唇を開く寸前に、ギーは表通りを見ていた。 何かがいる。誰かの気配をギーは感じ取っていた。 背後の“彼”が囁く声が聞こえる。それは空気を振動させる音ではないが、確かに、ギーの耳へ言葉を届けていた。 囁くように。小さく。       「彼がいる」  「きみは、彼に会うべきじゃない」 ──彼とは誰だ。 ギーの視線はまず人混みへ向けられた。背後の“彼”が怯えるように呟いた声は、一体、誰を指して告げられた言葉なのか。 雑踏街の人混みはやや離れた場所にある。つい今しがたまで、足を踏み入れていた。 背後には安堵したような気配があった。人混みの中では、ないのか。 興味とはまた違う感覚がギーを動かす。それは緊張と戦慄に似ていた。 背後の“彼”。意思を重ねた«奇械»ポルシオン。 クリッターすら砕いてみせる“彼”が怯えたように話す男など存在するのか。 (誰だ) (男。人間か) (それとも、クリッターなのか) 幻想生物やクリッターは、場所を選ばない。人通りのある場所でも決して安全ではない。人間の犯罪者とは違う。 神経を張りつめたままギーは気配を探る。油断なく周囲を窺って── ──見つけた。 路地にひとつの人影があった。黒い影。男。 それは黒衣の男だった。見覚えがある。 ……フィクサー・スタニスワフ。この子を少し、頼む。 ん? 何だ急に? ギー? 古い知り合いを見つけてね。少し話をしてくる。 ここで待っていて。フィクサーといれば安全だ。 え。なに、誰がいたの? ──問いかけるキーアの声を背中に。──ギーは路地裏へ入る。 久しぶり。ギー。 相変わらず景気の悪い顔だな、ドクター。てめえの顔を見ると吐き気がするぜ。 ……ケルカン。 名を覚えていたことに自分でも驚く。この男。黒衣の数式使い。 その面影には確かな見覚えがある。何年ぶりだろう。 ──ケルカン。──万色に濁った紫煙をくゆらせて。 僕を覚えていたのか。ケルカン。 ああ、てめえの顔は覚えてる。幻想生物討伐に同行したお医者さまだ。 せっかく死ねそうだった連中を、片端から治しやがって。 ……反吐が出たぜ。 僕も同感だ、ケルカン。 被害も顧みずに敵を殺すきみ。見ていると、反吐が出そうだった。 気が合うな。 いいや。合わないだろう。 違いねぇ。 ──覚えている。この男。 巨蛇の幻想生物であるナーガを切り裂いた、背後に黒いものを従えた、ひとりの男。 この10年間でただひとり目にした、自分以外の«奇械»使い。 クリッターにさえ及ぶと呼ばれたナーガを、いとも簡単に。無造作に、殺した男。 彼の素性をギーは耳にしている。畏怖と共に語られる彼の名、彼の前科。 ──大量殺人者。──正真正銘の特1級指名手配者。 命の脆さと都市の地獄を誰よりも知る荒事屋たちが怯えた表情で語っていた。ケルカン。彼は、死に親しむ、と。 ……お前。 面白いものを手に入れたそうじゃねえか。なあ、ギー。聞いてるぜ。 何の話だ。 興味があるねえ。そいつは、お前にとっては何だ? きみには申し訳ないが、何の話をしているのかわからない。 殺すぞ。 ──速い。 路地の騎士すら思わせる反射速度。かつてとまったく変わらないその速さは、アティ以上か。ギーは首を掴まれていた。 自分と変わらない細身であるのに。彼の握力は異様だった。 その手は機関義肢だった。鋼をも砕く出力を誇る高価な数秘機関。 俺に嘘をつくなよ。なあ、てめえはそんなに偉いのか? 殺すぞ? 視界を一瞬だけ光が埋める。クラッキング光。 この男は現象数式さえ操るというのか。義手は赤熱していた。鋼鉄の指先が炎の色に染まり、喉を灼く。 凄まじい高熱はギーの喉を融解する。即死だ。 ──ギーがただの人間のままであれば。──しかし、そうではない。 ……器用なもんだな。この状態でも体を修復できるのか。 ……僕、は、数式医……だ……。 そうだったな。まあいい。 お前がどうでも俺には一切の関係がない。失望させるんじゃねえよ、ルーキー。 お前も持ってるんだろう?あいつらのうち、最後に顕現した1体を。 ……何……を……。 融解する喉を最大速度で修復する。修復のために用いられる全身の筋肉組織が、みるみるうちに削り取られていく。 これでまた体重が減るだろう。そう、意識の片隅で思う。 俺を見ろよ。ドクター。てめえは持っているはずだぜ。 俺の、クセルクセスと同じものを。 言葉と同時に。影が、男の背後から伸び上がる。 ──影。 ──それは、人型の。      ──黒色の影──       ──鋼鉄の── ──それは、男の背後から伸びあがる。 黒影は一見すると人間のようでもある。けれど、ひどく歪んでいた。 鋼鉄に包まれたかろうじての人型。鉄鎖と鉄板が体表を覆う。 古びた仮面のような白色の貌。ぽっかりと空いた髑髏の眼窩。恐らくその体躯はポルシオンを超えている。 歪んだ人型の黒影。刃に似た両腕、腰から下は尾のように長い。 ……«奇械»、か……。 ──人間ではない。──そして、それは、クリッターでもなく。 ──肌が総毛立つ。戦慄。──この感じを、ギーは確かに知っている。 ──クリッター。違う。──違うとも、ギーよ。──それは人の持つものだ、人だけが持つ。 ──そうだろう。ギー。──それは殺気と呼ばれるものだ。 人のみが備えるものだ。それは歪んだ黒影のものか、男のものか。 黒衣の男の背後に佇んで。虚ろな眼窩でギーをぼんやりと見つめる。 知ってるぜ。お前、あの女に介入を始めたな。 あれはもう駄目だ。無駄なことはやめておけ。 ……な、に……? 声を僅かに漏らしながら、ギーは己の喉の修復速度を上げる。 ケルカンの赤熱手の温度は上昇していく。並の修復速度では、間に合わない。 ──この男に。──背後の“彼”を顕現させたとして。 勝てるとギーは思わなかった。たとえ«奇械»同士で圧倒できたとしても。この男から、自分は逃れることができない。 ただ、睨み付ける。紫煙をくゆらせたままのケルカンを。 マグダルは俺が殺す。てめえはここで止めておけ。数式医。 その背後にそいつを顕現させた以上、お前は俺の獲物だ。 獲物が、狩りの邪魔をするんじゃねえよ。お前の順番はまだ後だ。 ……きみの……いや……。貴様……。 貴様の、言葉は……。 ひどく、独善的、だな……。……意味も不明瞭……だ……。 ハハッ。 いいからてめえは巡回とやらを止めろ。俺の邪魔をするんじゃねえ。 意味があると思っているのか?人の苦痛が、本当に拭えると? ──自分がこうする意味。──都市を、歩き続けることの。 ……さあ、どう、かな……。わからない……。 ……ハッ。 ……強情な奴だ。ギー。 せいぜい、やってみろ。てめえには絶対に俺は止められねえ。 言い捨てて、ケルカンはギーを放った。黒影は彼の背後に消えている。 力なく路地裏に転がる。ギーは、荒い息を吐きながら立ち上がる。両脚の筋力が低下しているのがわかった。 視線を叩きつけながら、ギーは再度思う。この男には自分は勝てない。 全身の神経が命の危険を伝えている。右手の指先が痺れる。 たとえ背後の“彼”の力を借りたとしても。この男の殺意に、圧倒される自分を感じる。かつての時と変わりなく。 黒衣のケルカン。息をするように誰かを殺す男。 お前が巡回医師であるなら── この俺は“巡回殺人者”だ。お前の真逆だ。 あの女が最後のひとつを諦めた時。俺は、あの女を殺す。 ──声だけを残して。 黒衣の男は、雑踏の中に姿を消した。振り返ることなく。 ギーは言葉をかけることができない。声を発する代わりに喘ぐ。 焼けた喉が今更ながらに痛みを訴える。自然と、路地裏の土の上に膝を突く。 半自動的に喉を修復する数式を組み、それを確認する暇もなく── ギーは意識を失った。 残された言葉を脳裏に浮かべながら。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじを見上げ、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……私の計測が確かであれば、今まさに。 ……古き子羊が活動を再開した。……止まることなく間引きを行う黒き子羊。 「喝采せよ! 喝采せよ!」 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇るあるじがひとり。 それは支配者。それは大公爵。それは愚者。インガノックの王。碩学にして現象数式発見者であった魔術師。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 「おお、おお、素晴らしきかな。 盲目の生け贄は死せず未だ都市にある」 「現在時刻を記録せよ。 クロック・クラック・クローム!」 「貴様の望んだ“その時”だ! レムル・レムルよ、震えるがよい!」 御意。   『くくくくくくくくくくくククククッ』 「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛のかたちあり!」    『愚かなものだよ、大公爵』 『あなたはまだそこを踏みしめて。  あなたはもう駄目なのに何を?』 「──黙れ。黙れ。黙れ!」 「黙れ……」 ……それから暫くの間。 ギーは、マグダルへの診察を続けた。黒衣の男の言葉に逆らうように。 彼女は薬物を使用している自覚があるのか。逃避している自覚が、彼女自身にあるのか。 それを見出すために。もしくは、そうなるよう導くために。 中毒患者を救う方法はそう多くない。現象数式は、精神的な依存に対して無力だ。 強制的な拘束による“薬抜き”。それを実行するためには、彼女が自分の状態を自覚する必要がある。 ……だから。 彼女が仕事を終える朝か、仕事前の夜。ギーは阿片窟へ顔を出すようになった。 ……はい?初めて先生とお会いした日のこと? え……? 私が泣いていた?何を仰ってるのかしら、先生は。 あらまあ、おかしいこと。そんなことある訳がないのに。 先生は、私が、そんなに簡単に涙を見せるような弱い女に見える? ……男前だけれど。冗談はどうにもお下手なのね、先生。 涙は10年前に置いてきたのだし。私はそんなことしないわ。 ──ああ。 彼女はまた現在を否定して、すぐ近くの過去さえ改竄してしまったのか。 ……そうですね。 そうですとも。おかしなことを言わないで、先生。 ──やがて、7日が過ぎても。 マグダルの口から、ドラッグの話が語られることはなかった。 アムネロールという言葉にも反応はなく。夫と息子が生きている前提で彼女は話す。ただ、日数だけが過ぎて。 初日に見せた錯乱もなかった。彼女の頭脳は学習してしまったのだろう。 耐えられない過去、耐えきれない現在。そのどちらをも“感知しない”振る舞いを。 ──そして、8日目の夜。 ああ、先生。ギー先生。毎日ごくろうさま、悪くもない私のために。 でも、ふふ。良かったわ。今日は嬉しいことがあったから……。 誰かに言いたくて仕方がなかったのよ。先生、聞いてくださるかしら。 ええ。良い事ですか、何です? 息子さんの誕生日はもう過ぎましたし、ああ、結婚記念日とか。 ふふ、ハズレ。違うのよ、そうじゃないの。 ……あのね。他の誰にも内緒よ? 少女のように恥ずかしそうに。それは娼婦の囁き声には聞こえなかった。 はにかむようなあの顔を見せて。マグダルは言った。 ……手紙が来たの。 手紙? そう。ヨハンからの手紙。やっと、私を迎えに来てくれるのよ。 ……手紙、ですか。 新しい出来事だった。これまで耳にしたのは彼女の明るい過去。 逞しく優しい夫ヨハン。生意気だけれど夫によく似た息子ペドロ。ふたりについて、マグダルが持つ思い出。 マグダルと話す前後には、必ず、ヤムンとも話して会話内容を確認している。 今までに、マグダルがギーに話した中で。ヤムンから聞いていない情報はなかった。 すなわち、かつては在った幸せの日々。それだけをマグダルは語って。 ……だが。……今、彼女は手紙と言った。 公共機関としての郵便施設は都市にはない。それは10年前に消えた。 層プレートの間を違法に飛行する郵便屋。現在の都市にいるのは、その程度。 (手紙、か) (ヨハン氏からの手紙) 夫であったヨハン氏の死亡情報は確実だ。既にそれをギーは確認している。 ……情報空間へ接続を終了しました。検索結果をお伝えします。 都市管理部に残された記録です。第10級市民ヨハン・ワールドロップ氏、37日前に死亡を確認。 死亡原因は崩落事故に伴う頸椎骨折。もしくは急性の心臓麻痺。死亡確認場所については記録なし。 第10級市民子女ペドロ・ワールドロップ。35日前に死亡を確認。 死亡原因は狂乱者の暴行による出血多量。もしくは急性の心臓麻痺。死亡確認場所については記録なし。 ……そうか。 死因が特定されないものは、そう珍しくもないが……。 二重記述か。 はい。検索結果に誤りはありません。 そして、さらに追加の情報があります。ヨハンにも、ペドロにも。 何だい。 都市管理部を介した上層への招聘命令記録。両者へ、38日前に命令状が送付されたと。 ……上層への、招聘? 情報記載のミスと処理されています。上層へ両者が昇った記録は一切ありません。 ハイネス・エージェント以外に。少なくともこの10年間の記録では、上層へ渡った下層の市民はいません。 ……ああ。その通りだ。 嫌に不可解な記録だった。二重記述に、記載ミスなどと。 ふたつの誤りを都市管理部が行うとは。そう多くあることではない、が── ヨハン・ワールドロップ氏。彼女の夫。 ──死亡原因は崩落事故とも心臓麻痺とも。──死亡場所は記録なし。 死んだ夫の手紙。それは、マグダルの生む夢想や妄想なのか。今までに聞いていなかっただけの、過去か? 果たしてそうだろうか。彼女は今日も過去を生きているのだろうか。 手紙が実在する可能性を考える。クライン氏のように生前に出していたもの。そう思いかけたが、ギーは回答を否定する。 彼女は言ったのだ。あのひとが迎えに来てくれる、と。 (……いいや) (たとえこの異形都市であっても) (死者は、死者だ。 生きる誰かのことを迎えになど来ない) (では。手紙とは、何だ……?) だから、先生。残念だけれどもう長くは会えないかも。 迎えに来てくれたら、私はこのあたりから引っ越してしまうから。 ああ、そう。そうね。引っ越しするなら準備をしなくちゃ。 そんなに荷物もないことだし。もう、纏めてしまったほうがいいかしら? ……ねえ、先生? これは現在と過去を否定する表情だろうか。これまで見た中で最も── 最も、彼女の声は晴れやかだった。ギーにはそう思えたのだ。 ──その日の巡回診療をすべて終えて。──夜。 夕食を終えた時のこと。西享の北部地方由来の煮込み料理ポトフを、また、殆ど食べられなかったギーに対して。 小さな声で文句を言っていたキーアが、ぽつりと口にした。 その単語。数時間前にマグダルが言ったのと同じ。 ──手紙。 ──キーアはそう呟いていた。 何度言っても、ギーは聞いてくれないし。なら、やり方を変えてみるのもアリね。 たとえば、うん。そうよね。お手紙。 気持ちを込めてたくさん言葉を書くの。……あなたへ。 そうすれば、ギーも少しは……。どうかしら……。 手紙? ええ。お手紙。郵便屋さんにお願いして……。 僕への手紙なら、手渡せばいい。そもそも話せば済むよ。 ……それじゃあ駄目なんだもの。ギー、食べてくれない。 すまないね。次は、もう一口くらいは多く食べるよ。 約束? 善処しよう。 ……もう。ギーったら。 ぷいと視線を外して怒った表情。そういえば、とギーは彼女を思い出す。 マグダルは怒りを見せたことがない。初めて会った日ですら、錯乱するだけで。 感情の振り幅が固定されている。過去のある一点で。そういう印象が、マグダルにはあった。 新型ドラッグ・アムネロール。それは確かに人間に現在を失わせるのだ。 ──心の内のみであっても。──彼女や多くの人はそれに依存する。 どうしたんだい。キーア。急に手紙だなんて。 阿片窟の前で待っている間に、«鳥禽»の郵便屋にでも会った? ううん。いいえ、違うの。男の子が、ね。 キーアよりもずっと小さな男の子。子供。一週間前に出会った子。 その子が言っていたの。ここにいる誰かへ、手紙を出すって。 意味は、よく、わからなかったけれど…。俺は手紙を出すんだ、って。 ──一週間前? 一週間前のいつかな。その男の子を見かけたのは。 ミス・アリサ・グレッグと一緒にいた時よ。きれいな翼を持った男の子。 どこか不思議で…。誰かに、雰囲気が似ていて…。 ──阿片窟の前で? ──子供? ひとりで阿片窟の前にいたのかい。その男の子は。 うん。ええ、そうよ。 そうか。ありがとう、キーア。 いいえ? 偶然に聞いたそれを結びつけるのは早計だ。少なくとも、繋ぐ証拠はない。 それでもギーは無線型電信通信機を取って、短縮番号に記録した回線を開いていた。 阿片窟の前にいた子供。阿片窟の誰かへ手紙を出すと言っていた子。 迎えを告げる手紙が来たと言うマグダル。結びつけるには材料が少なすぎる。理性的ではなく、直感に依りすぎている。 ……だが。 手紙の主が“実在する”と仮定するなら。状況は随分と変わってくる。 (マグダルは何と言っていた)      ──引っ越ししなくちゃ── (あの時、気が付くべきだったのか) (彼女が受け取ったのは、 少なくともヨハン氏からではない) (その子供) (この直感が正解か、不正解か。 その子供が手紙の差出人かどうか──) キーアの話す子供ではないかも知れない。黒衣の男の姿が脳裏に浮かぶ。 マグダルを殺すと言っていたあの男。あれが虚偽の手紙を出した? ──わからない。──現状では、手紙の差出人が誰かは。 手紙が実在すると仮定するなら、今なすべきことは彼女を事前に止めること。 ……キーア。これから少し出かけてくる。 え。もう、こんなに遅いわ。0時を過ぎてしまっているのに…。 きみはもうお休み。ルアハと、ここの留守を頼むよ。 ギーは、いつ帰るの…? 朝には帰るよ。やり残した仕事があるんだ。 まず、アティの回線を開いて状況を伝える。心配性だと言われても気にはしなかった。 正式にマグダルの身柄確保の依頼を交わし、ギーは無限雑踏街へと足を向けていた。 第7層の裏社会を取り仕切る亀の老人、スタニスワフは無線電信の会話を好まない。だから、直接彼に会って依頼するしかない。 人探しだ。マグダル以外の2名は彼に依頼する。 今夜のうちに。少なくとも朝が来る前に行方を突き止める。 雑踏街の隅々にはびこった不法居住者を統括するスタニスワフであれば可能だろう。リアルタイムで、老亀の網は細かく広がる。 3人を見つけ出す。手紙が実在するという仮定の下に。 ──マグダル。 ──黒衣のケルカン。 ──そして«鳥禽»の幼い少年。 まず、マグダルの身柄を確保する。それが最優先だ。 ヨハンではない何者かからの手紙に対して、彼女は何の行動もすべきではない。危険だ。 そして手紙の差出人を探し出す。黒衣の男をギーは思う。 少年のことも依頼したのは、ついでだ。さすがに関係がある可能性は薄い。 そもそも、すべて手紙が実在すればの話。仮定の上で行動するのは好きではないが、今は、仕方がない。 マグダルの安全のためだ。偽の手紙に従って生き延びられる程に、この都市は人間にとって優しくはない。 ……それに。 ……ざわつくのだ。ギーの胸の内が。 ケルカンの言葉。それだけがギーの内心を不安にさせる。 「お前が巡回医師であるなら」 「この俺は“巡回殺人者”だ。 お前の真逆だ」 「あの女が最後のひとつを諦めた時」 「俺は、あの女を殺す」 ──殺す。──ケルカンがそれを決める時とは。 ──最後のひとつを諦めるとは、何だ。 ……ったくもう。 あたしから依頼しといて何だけどさ。変なとこで心配性なんだから。 引っ越ししないように捕まえとけって、何だかな、もう。 ……マグダルって女。そんなに、いい女だったとか。 深夜の空気に独り言が溶ける。雑踏街の人混みの中を黒猫は歩いていた。 無数の人を避けながらやや早足で進む。視線と注意を周囲へ巡らせながら。 マグダルという女。助けてあげてと電信越しに聞いたその名。 ひとりで住むにはやや広いコンドミニアム。雑踏街から1時間ほどかかるその場所には、女の姿はもうなかった。 心配性の数式医の言葉は当たっていた。女は姿を消していて。 備え付け契約の家財道具だけが残されて。元々数はなかったのだろう、服などもなく。 綺麗に掃除されていて。確かに、転居後の娼婦の部屋の様子だった。 ──どこに消えたのか。──マグダル。 ひとりで探すのであれば時間が掛かる。だが、すぐに見つかるはずだった。 スタニスワフの息の掛かった不法居住者。スクワッターたちの情報網に接触をして、女の足取りはすぐにわかった。 雑踏街の違法娼館からコンドミニアムに一度帰った後、女はふたたび雑踏街へ。 目抜き通りを20分前に歩いていた。それが最後の情報。 ──この辺りにいるはず。──マグダル。 ……ん。 いた。あいつか。 黄金瞳が300フィート先の人影を捉える。虎縞をした手と“耳”がわかる。ギーの口にしていた特徴と同じ。 妙に穏やかさの漂う瞳。表情は、どこか明るく見えて。 (旦那と子供が死んだんだよね) (……情が薄い?) ──いいや違う。──それがアムネロールのもたらすもの。 人の充ちる300フィートをすり抜けて。黒猫は虎縞模様の女に声をかける。 親しげに、警戒心を持たれない強さで。そっと腕を掴んで。 ……や。見つけた。 え……と、あなた、誰かしら。黒い«猫虎»の……どこかで会った? ううん。初対面。でもヤムンからきみのことを聞いてる。 まあ、そうなの。ヤムンさんの友達?彼女も近くにいるの? ええそう。すぐそこにいるの。 ──嘘。ヤムンはここにはいない。 すぐ近くの機関酒場。きみの姿が見えたから捕まえてきてって。 ……でも、きみ、大きな鞄を持ってるね。急ぎ? どこか行くの? ええそう。遠くへ行くのよ。悪いわね、ヤムンさんのお友達の……。 アティ。 アティさん。いい名前ね、可愛い響き。ごめんね。酒場には行けない。 私は待ち合わせをしているの。急がなきゃ。 ……待ち合わせ? そう。夜明けまでに。裁縫工場前のモノレール駅へ行くの。 ……夫が、そこで待っているの。 ──そう言ってはにかむ表情は。 ──黒猫には、随分と眩しく見えた。 深夜5時を過ぎれば。朝の気配が下層のあちこちに充ちてくる。 裁縫工場前。明け方のそこに誰かの気配はなかった。 動くものはない。あと数時間もすれば労働者で溢れる路地は、まだ、冷たい風が埃と排煙を散らすだけで。 誰もいない。 ……ギーの姿以外には。 (夫が待っている、か) (死者であるヨハン氏を騙る者) (それは、誰だ) (……貴様なのか。ケルカン) 裁縫工場前のモノレール駅。早朝の始発まで残り時間は30分と少し。 機関式自動掲示板の物陰に立ち、ギーは待ち続ける。 手紙の差出人がここへ来るはずだ。アティからの無線電信はそう告げていた。 朝の気配がゆっくりと充ちていく。無人の駅前で。影の位置が変わる。歪んだ小鳥の囀りがどこかで聞こえ始める。 ──まだか。 ──死者を騙る者。 そして、始発までの残り時間25分と少し。歪んだ小鳥が飛び立って。 ひとつの人影が姿を見せた。女ではない。 ──男の人影。 ──けれどそれはケルカンでは、ない。 ……何だ。随分と背が高いと思ったが。 人違いか。 そこのきみ、ああ、きみだ。ここで«猫虎»の女性を見なかったか。 ……ああ。見ていないよ。 そうか。まだ、来ていないのか。 誰かと待ち合わせかい。 ああ。待ち人があってね。 妻なんだ。今まで随分と待たせてしまった。 ようやく俺の記憶と僕の体が馴染んだんだ。だから、俺は妻を連れて行く。 もっといい場所へ行く。暮らしやすくて、もっと綺麗な場所へ。 人影はケルカンではない。それは、大きな翼を持った幼い少年だった。 キーアの言葉をギーは思い出す。ああ。そうか。彼が、そうか。 ──手紙の差出人は実在した。 ……ここで待つ必要はない。 ん? マグダルは来ない。きみは、ヨハン氏ではないね。 きみは、誰だ。彼女をどうするつもりだい。 ヨハン氏を騙って。彼女を、きみはどこへ連れて行く? ……お前……。 マグダルと言ったな、今……。何者だ。お前は。 きみが誰かを聞いている。 俺か? 俺はヨハンだよ。……知っているなら、話は早い。 邪魔をしないでくれないか、青年。誰にも迷惑はかけない。 ヨハン氏は既に死亡している。きみは、彼ではない。 俺はヨハンだ。僕はヨハンではないけれど。 ……何? 確かに俺は一度死んだ。だが、俺の記憶はあいつに残っていた。 そしてあいつは新たな宿主を見つけた。この、僕の体を。 宿主、だと。 ああそうだ。あいつのお陰で、俺と僕はひとつになった。 俺はヨハンだ。そして僕でもある。邪魔をするなよ、青年。 悪いことは言わない。人間は、誰も俺を止めることはできない。 なあ。何度も言わせるな、青年。死にたいのか? 脅しではないぞ。俺の、僕の、邪魔をするな。 幼い少年であるはずだ。しかし、彼の視線はあまりに鋭かった。 ──肌が総毛立つ。戦慄。──この感じは、数日前にもあったはずだ。 ──クリッター。違う。 ──違うとも、ギーよ。 ──それは人の持つものだ、人だけが持つ。 ……きみは、何者だ。 ここにマグダルは来ない。そして、きみはヨハン氏ではない。 彼女は連れて行かせない。彼女は今も過去と現実を混乱している。 ……これ以上、惑わせるな。きみの手紙は彼女の狂気を助長する。 邪魔をするなと言ったぞ。俺は、ヨハンである俺はまだ理性があるが。 僕は、理性がまだ幼い。俺も止められない。 ……記憶は馴染んだがね。こればかりは。 止められない。お前、死んでも俺を恨むなよ。 言葉と同時に。影が、少年の背後から伸び上がる。 ──影。 ──それは、歪んだ人型の。     ──澄んだ色の影──       ──鋼鉄の── ──それは、少年の背後から伸びあがる。 その影は一見すると人間のようでもある。けれど、ひどく歪んでいた。 腕の生えた揺りかごにも見える歪んだ人型。硬質の鉄の体がそこには在った。 ぽっかりと空いたひとつの穴。人間の骨盤を思わせる、体躯。ギーの背後の“彼”と同程度の大きさか。 穴の中で浮かび上がる光は単眼か。頭部に見える部分から伸びている“緒”は、少年の足元の影へと繋がっていた。 ゆらり、ゆらりと“緒”が揺れる。それはケルカンの黒影にもあったものだ。 ……これは……。 ──人間ではない。──そして、それは、クリッターでもなく。 ──肌が総毛立つ。戦慄。──この感じを、ギーは確かに知っていた。 ──クリッター。違う。──違うとも、ギーよ。──それは人の持つものだ、人だけが持つ。 ──そうだろう。ギー。──それは殺気とも敵意とも呼ばれるもの。 人のみが備えるものだ。それは歪んだ影のものか、少年のものか。 人間であれば支持肢にあたる触腕が蠢き、穴の中の光がギーを見つめる。 『邪魔をするな』             『後悔するなよ』 『僕の邪魔を……するな』             『忠告はしたぞ』 『ママは死んだ』      『だが、マグダルは生きている』 『ママは僕が守る』      『マグダルだけは、俺が、守る』 『ママのようにはさせない!』      『そう。俺はマグダルを守る!』 叫ぶ少年の背後で、異形が蠢く。それはまさしく«奇械»の姿だった。 歪んだ人間のようにも見える鋼鉄。無人のモノレール駅前の朝の静寂の中で、弦楽器の音色にも似た鋼の軋みが、響く。 少年の背後のやや上あたりに浮かぶ鋼の体。あらゆる影響を受けない体。あらゆる物質を破壊する力。 ──人の背後に佇む者。──都市インガノック唯一のおとぎ話。──断じて、幻想生物の一種ではない。 知っている。ギーは戦慄の正体をようやく知る。 ケルカンと同じ感覚。それは、この少年が彼と同じであるからだ。 決して恐怖ではない。驚愕でもない。己と同じ“力”への戦慄だ。 ──クリッターとはまったく違う緊張感。──そう。これは同じだ。      ──この自分と──    ──背後に佇む“彼”と──      ──«奇械»── 『美しいものなんざ、知ったことじゃない』           『僕はどうでもいい』 『俺の望みはひとつなんだ』           『僕の望みもひとつ』 『マグダルは俺が守る』        『ママは二度と死なせない』 耳へと届く声はふたつ。どちらも、確かに少年の声のはずだった。 だが、そこにはふたつの意思がある。俺と告げる声。僕と告げる声。 圧倒的な殺意と敵意を送り込み続けながら、それでも、ふたつの少年の声は語りかける。 それは懇願なのか。それは警告なのか。 己の挙動のすべてを注視されている感覚が、ギーの全身に張り巡らされている。 少年は伺っている。ギーが、自分にとっての敵になるかどうか。 ……きみは、ヨハン氏だと言うのか。 『そうだ』           『そして僕でもある』 『確かに俺は死んだのかも知れない』           『僕のママは死んだ』 『だが、俺はマグダルを守る』          『ママのかわりに守る』 同じように。ギーもまた少年を視ていた。 背後に佇む“彼”もまた、少年を視ていた。現象数式の“目”すらも越える感知能力で。語る声を聞きながら。       ──そして──       ──ギーは── ──ひとつ、頷いて。 ──目を閉ざす。 『わかってくれたんだ』           『ありがとう。青年』 『そう……』            『これでいいんだ』 『邪魔をしないなら……』          『俺はマグダルを守る』 少年のふたつの声が聞こえる。彼もしくは彼らの意思は同一でばらばらだ。人間だからか。それとも«奇械»使い故か。 暗闇の中で思う。どちらでも、構いはしない。 少年の言葉に秘められた意志に逆らえない。どこかクリッター・ボイスに似た感覚。ギーは、その時、すべきことを失った。 少年はマグダルを守ると断言した。その言葉は……。 ……ギーの意思を挫いた。彼を止める理由が、見当たらない。 目を閉ざしたまま、彼が去るのを待つ。少年の足音が遠ざかる。 (……これで) (……これで、いい、のか……)  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び声を響かせて。 ギーは何かをひとつ諦める。 ──首を横に振って。 ──目を閉ざす。 『わかってくれたんだ』           『ありがとう。青年』 『ありがとう』            『殺さずに済んだ』 『さよなら』          『俺はマグダルを守る』 少年のふたつの声が聞こえる。彼もしくは彼らの意思は同一でばらばらだ。人間だからか。それとも«奇械»使い故か。 暗闇の中で思う。どちらでも、構いはしない。 少年の言葉に秘められた意志に逆らえない。どこかクリッター・ボイスに似た感覚。ギーは、その時、すべきことを失った。 少年はマグダルを守ると断言した。その言葉は……。 ……ギーの意思を挫いた。彼を止める理由が、見当たらない。 背後に佇む“彼”が何かを囁くけれど。ギーは動かなかった。 目を閉ざしたまま、彼が去るのを待つ。少年の足音が遠ざかる。 (……これで) (……これで、いい、のか……)  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び声を響かせて。 ギーは何かをひとつ諦めて。 その手のひらから、また、こぼれ落ちる。幾つかの命が。 ……きみの言葉は理解した。 いや、きみたちの言葉は。理解できたよ。 少年の背後から伸び上がる影へと。ギーは手を伸ばす。      ──鋼色の手が──   ──ギーの“右手”に重なって──      ──鋼の右手が──      ──虚空を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光がひとつ── だが、きみを行かせることはできない。見逃すことはできない。 きみは神経負荷に耐えきれていない。その«奇械»は、きみを殺す。 だから。僕はその“彼”を、今から。 ……きみから切り離す! 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界の違和感はない。道化師はいない。かわりに、異形の影が背後にあるとわかる。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。宙に浮かぶ少年の«奇械»。人に美しい何かをもたらすもの。 数式を起動せずともギーには視えている。撒き散らされる神経負荷を掻き消して、ギーと“彼”は歪んだ鋼鉄の中心を睨む。 ──右手を向ける。──己の手であるかのような、鋼の手を。 ──現象数式ではない。──けれど、ある種の実感が在るのだ。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。これまでの時と同じように。   『僕の邪魔をするな!』  『俺の邪魔をするな!』 立ちはだかるギーへと少年の叫びがふたつ!浮かぶ«奇械»の周囲に黒霧が立ちこめる。あらゆるものを砕く力が確かに視える。 ギーの“右目”は既に捉えている。触腕をしならせる«奇械»のすべてを。 力の名は«この胸を苛む痛み»。触腕から噴出される霧状のものは破壊の力。鋼も人も、触れるものすべてを自壊させる。     『死んじゃえ!』    『そこを退け!』 振り上げられる影の触腕。矛先を向けられるのはギーと“彼”! ──自壊を促す力を纏った触腕が疾る。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間以外には。 もしも触腕を避けられたとしても、空間を埋める力が肉体すべてを自壊させる。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。触腕と霧とが共に砕いたのは虚空のみ。      『……!?』      『速い!』 ……遅い。   『僕はママを守るんだ!!』 『«奇械»オロは負けない!』 喚くな。 叫び声をあげた少年を“右目”で睨む。影からは霧が周囲に拡散していく。クリッターであっても侵食する破壊の力。 しかし生きている。ギーはまだ死んでいない。 以前の自分なら死んでいたのだろうと思う。しかし、今なら、鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。荒れ狂う影のすべてを“右目”が視る!   ──すべての«奇械»は不滅──     ──物理破壊は不可能──       ──オロの場合──       ──破壊方法は──    ──宿主との“緒”を切断──        ──しかし──    ──少年の肉体は既に限界──    ──オロのもたらす記憶は──    ──少年の神経を破壊する──  ──これ以上の神経負荷をかけない──     ──唯一の破壊方法は──     ──全箇所の同時圧壊── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 少年の«奇械»オロ。物理効果を受けつけない強靱な鋼鉄の体。故に、確かに人間はこれを破壊できない。 唯一の破壊方法は“緒”の切断。人間と異形の影とを繋ぐあの細い“緒”だ。 あれを奪ってしまえば«奇械»は消える。少年の背後には誰も立たない。 だが、それだけでは少年を傷つける。異形の影がもたらす神経負荷は、今や少年の大脳を破壊するまでに増加して。 ギーと背後の“彼”は視ている。悲鳴をあげる少年の大脳と神経のすべて。 全箇所の同時圧壊。それだけが、少年への負荷を瞬時に消す。 しかし«奇械»の体は銃弾も刃も通さない。故に、絶対に、人間はこの少年を救えない。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている!──“右手”と連動するかのように! 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “王の巨腕よ、打ち砕け”  ───────────────────! ──打ち砕き、粉々に消し飛ばす。 ──鋼鉄を纏う王の手。──それは、怪物を破壊する巨大な塊。 ──おとぎ話の、鉄の王の手。 押し開いた鋼の胸から導き出された鋼の“右手”は、超高密度の質量を伴ってオロの全身を叩いて砕く。瞬時に破壊する。 叫び声を上げる暇もなく、超質量に圧された«奇械»は崩壊した。 全身のあらゆる部位を。ばらばらに、粉々に、打ち砕かれて。 凄まじい振動を、爆砕するように残して。無人のモノレール駅を揺らして── 『俺は……』               『僕は……』 『彼女を、守って……』              『ママに……』 『伝えなくてはならない』              『言わなきゃ』 『伝えられなかった言葉を』              『言いたいよ』 『マグダル…』                『ママ…』 『きみを、愛している』                『うん…』 ……背後に佇むものを失って。 意識を失い、少年はその場に倒れた。 ひとつの体にふたつの声を持っていた少年。背後の«奇械»がもたらす神経負荷に大脳を蝕まれ、死にかけていた幼い子。 脳だけは現象数式で視ても理解できない。背後の“彼”の“目”がなければ、この少年を見逃していたかも知れない。 ──彼の言葉に。 ──嘘を、ギーは感じていなかった。──今、この瞬間。 少年はマグダルを妻と呼んでいた。その理由を今、知った。 ……そう、か。 きみは……。 あなたは……本当に……。ヨハン、だった……。 倒れていく少年の姿。それは確かに。 マグダルがはにかみながら見せた、あの篆刻写真の男性と重なって見えたのだ。 逞しい巨漢。優しげな目をした幻想人種«熊鬼»の男。 小さな少年の体に、幻のように重なって。倒れて、そのまま消えていった。 その様子は«奇械»オロの消滅と同じ。崩れて、やがて粒子となって消える。 ……死者が……。 記憶を«奇械»に載せて……。 ……戻ってきた、のか……。 ──彼女はすべてを見た。 ──その場に、膝から崩れ落ちながら。 自分を捕らえようとした見も知らぬ女から、なんとか逃げ出してきたばかりの、彼女は。何の声も上げることなく。 ここまで走ってきたのに。素早い«猫虎»の能力を最大限に活用して。 本気で取り押さえようとするアティの腕を爪で傷つけて、その隙に逃げてきた。 ここまで、必死に。ここまで、懸命に。 あのひとが待っている。モノレール駅にはヨハンがいてくれるんだ。 そう信じながら息を止めて走って。恐ろしい俊敏さで追ってくる女を、なんとか、無限雑踏街の人混みで撒いて。 ──モノレール駅まで走って。──この路地裏から、駅が見えて。 そして目にした。マグダルは、目にしてしまったのだ。 確かに見えた。ヨハンが消えていった姿が。巨大な拳に打ち砕かれて消えていった姿が。マグダルは確かに見た。 あの感覚。空気の軋むような。あれは、生前の夫から感じられていたもの。 けれど今。拳がそれすら打ち砕いて。ヨハンを形成していたすべては消え去って。 ──まるで、最初からなかったように。──塵ひとつ残さずに。 ……ヨハン……。これから、会いに……行くのに……。 そう、そうだわ……。引っ越し……。 ……引っ越し……しなくちゃ……。 私……迎えに来るから……。彼が、来てくれるんだから……。 弱々しくよろめきながら立ち上がり、顔を上げた彼女が見つめる視線の先。暗がりひとつ。 誰。あなたは誰。 それは人影。黒い姿が見える。 マグダルは認識する。あれはそう、誰よりも死に近しい男の影。 ……雨の中。 ……万色に濁った紫煙をくゆらせて。 路地の中の暗がりからぬらりと姿を見せる。その顔をマグダルは知らない。 だが、身に纏う気配はわかる。これは夫と子供の遺体に漂っていたもの。 男の背後に黒い影が見えた。それは、ヨハンの背後の“彼”を思わせる。 この俺とこの鎌を呼び寄せたのはお前だ。インガノックに在る限り、誰にも幸福など訪れない。 今こそ──«安らかなる死の吐息»に抱かれよ。 ──ああ、そうなの。そういうことか。 ──夫は死んだ。──あの子も死んだ。 ──倒れた子。──あれはきっとあたしの子。 ──ふたりとも、また死んだ。──なら。もう。 ええ。そうだったわね。私には、待ってくれている人がいる。 お願い、死神さん。私が待っていたのは、きっと、あなた。 私をそこへ連れて行って。もう、私はここでは生きていけない。 願いは聞き入れられる。お前は、都市から解放されるだろう。   「──安らかなる死によって」 静かに私は瞼を閉じる。引っ越し先は、誰にも言えそうにない。 さようなら。インガノック。これでまた会えるわ、愛しいあなたたち。 ……さようなら。私の愛したすべてのもの。 ──そして。 マグダルは阿片窟からも姿を消して。都市管理部への失踪届は受理されなかった。 戸籍上の縁者以外の申請は認められない。それが、ヤムンへ対する管理部の返答だ。 マグダルは消えた。けれど今も、阿片窟には彼女の名札がある。 ギーの脳裏にケルカンの横顔と言葉がちらつく。失踪は彼女の死を示しているのか。 彼の刃は、マグダルの命を奪ったのか。彼女は何かを諦めたのか。 少年が守ろうとした彼女は。殺されたのか。 それとも── はい。じゃ、これで書類も全部かなっと。引き渡し書と、市民子女預かりの証明書ね。 きみも忘れ物はない?ヨシュア? うん!! 持てる荷物は全部持っていかないと損だよ。ま、これから色々貰うだろうけどさ。 ありがとー!おねーちゃん、あと、おじちゃんも! あは。おじちゃんだってさ。ギーおじさん? ああ。 少年。ヨシュアは笑っていた。毒気の抜けたという表現は似合わないか。これがきっと、この少年本来の顔なのだ。 倒れた少年。スタニスワフへの追加調査の依頼の結果、母を失った子だったということを知った。 そして、もうひとつ。里親の元から逃げた孤児だということも。 ギーにはわかっている。彼の記憶がこの子に混ざっていたのだ。背に顕現してしまった«奇械»と共に。 でも、あれだね。すっかり治ってるみたいで良かった。 うん?? ううん。いいの、こっちの話さ。里親に聞かれたら、ちゃんと説明してよ? はい! せつめいする!数式医のギーおじさんに治してもらった! そゆこと。じゃあ、元気でね。 うん。さよなら、おねーちゃん!おじちゃん! ばいばーい。 さようなら。ヨシュア君。 うん!! 手を振って、幼い少年は回廊へと走る。短い子供の足だ。そう速くはない。 都市摩天楼回廊の中央には里親の姿がある。穏やかな顔の老婆。見る限りは虐待を行うようには見えない。 それでも過剰労働はさせるのだろう。老婦人が都市法による処刑を免れるために、あの子には2人分の経済活動が求められる。 ……都市の常識だ。愛するために子を引き取る里親はいない。 それでも。少年は笑顔を浮かべて。 里親の手を握って。管理部の里親再登録所前から去っていく。 なんだろ……。病気にかかってたようには見えないね。 急に性格が変わって、家族がどうとか妻がどうとか叫び始めて、里親の家から逃げ出しちゃったんだっけ? ……現象数式って。そういうの、治せたんだっけか。 アティは自分の頭をこんこんと指で小突く。上目遣いにギーへ訊ねながら。 どうだったかな。 ともかく。あの子はもう治っているよ。 そうなんだ。 ああ。 ……あのさ。こんなおとぎ話があるの、知ってる? 世にも珍しい«奇械憑き»のおとぎ話。そもそも«奇械»が珍しいけど、さ。 死んだ«奇械»使いの魂が、その«奇械»に残ったまま……。 次の«奇械»使いに乗り移るんだって。そういう、おとぎ話。 ……でも、おとぎ話だよね。 ──それ以上、アティは訊ねなかった。 里親である老婆と手を繋ぎ、手を振りながら去っていく少年を見つめて。 暫くしてから。ぽつり、と言葉を漏らす。 ……あたしが、さ。 もし、一番大切な人を失ったら。 どう思うんだろう。死にたいとか消えたいとか思うのかな。 ……アムネロールに手を出して。 僕が止めるよ。きみにドラッグは似合わない。 ……あは。ううん、それは無理。 回廊の奥へ消える少年へ手を振りながら。アティは小さく囁く。 ギーに聞こえないように。小さく、小さく。 ……無理だよ。 ……あたしは誰にも弱みを見せない。 どんな時でも毅然と。どんな時でも自分が何者かを忘れない。 下級貴族たちの羨望の眼差しの前でも。社交界の汚泥に身を浸している時でも。いつでも、そう。 あたしは、伯爵の娘。センケンネルの名があたしの背中に掛かる。 どんな些細なミスも許されない。あたしの言動すべてが、いつも試される。 都市の支配層である上層貴族の中にあって、センケンネル伯爵の名前はあまりに大きい。だからあたしは、弱みを見せない。 都市運営を円滑に進めるための優秀な頭脳、上位貴族らしき品格を指し示す言動と教養。それがあたしのすべて。 故に、あたしにはあらゆる力が与えられる。都市運営を左右する権力も、隅々にまで力を及ぼす財も。 ──そうしてあたしは生きてきた。──そうしてあたしは育てられた。──だから。 だから、あたしは知らないのだ。だから、あたしは何もできないのだ。 巨大都市論も品行方正な言動も意味がない。1シリングの価値もない。 ……あたしは誰にも弱みを見せない。……だから、誰もあたしを助けてくれない。 ……誰も、彼を助けてくれない。 あたしが何よりも大切に想っている彼を、センケンネルの名に一切関わらない彼を、誰ひとり、助けてくれない。 どうすればいいのかさえ教えてくれない。誰も、あたしに与えてくれない。 だから誰か。お願い。 ……助けて。……彼のために何ができるのかを教えて。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……青年は“勝利の塔”を昇らない。……我があるじ、これより収穫に入ります。 彼はあなたの望みを叶える逸材たるか。……あるじよ。貴方の望んだ“時”が来た。 助けは来ない。収穫の時は未だ妨害されたことがない。 ……我らの生贄はどの程度保つかな。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 助け無用と老猫は言う。ひとりでやり切ってこそ意味があるのだと。 それでも老猫を支えようとするキーアへ、大丈夫だよ多分と少年は告げて。 さりげなく肩に触れる。初めてキーアの体に触れてしまったかも。 そんなことを考えているうちに。少年の視界の端で老猫が大声を出していた。 おお? おおおおおおおおおお!?もう掛かった、おお、ニャアー! おお、おおおお、おおー!?これはでかい、これはでかいニャー!! 何が釣れるか楽しみだ、ああ、何だろう!誰が釣れるか楽しみだ、ああ、誰だろう?おおお! ふたりとも、こっちへ来なさい!おおお、釣れる! 釣れてしまうぞ! たいへんたいへん!ミース君、ギーも、ほら釣れるわ! う、うん。釣れそうだね。でもどうせまた靴とか魚の骨とか……。 ──ポン! きゃあ! おお、おおお!これは見事な缶詰君が釣れてしまった!これは見事に経年劣化した金属の缶詰! ……。 おお、おおお!これは……うーん……。 ……。 おお、おおお!まだ、水に親しんでいたいのかね!では、放してあげよう、さらばだ! リリース! りりーす! リリース! ……って、キーア、付き合わなくても……。 ──ポチャン! 残念、今日の釣りは調子が悪いようじゃ。今度はちゃんと釣らねばニャ。 雑踏街近くの小さな用水路。老師イルは今日も釣り竿を垂らしていた。老師イルは今日もろくな獲物を釣らない。 まともに見物するのは、少年にとっては5度目だった。 初めて見た時はずっと幼かった。だから、一緒に喜んでしまったけれども。 今では楽しくも何ともない。無限雑踏街の違法ダンスホールに行って、夜通し騒いでいたほうがよっぽど楽しい。 自分と同年代の少年少女は皆そうだ。誰もが一度は老師の釣りを見物して騒いだけれど。 今では誰も楽しいだなんて思いはしない。酒やドラッグのほうがいい。 ……でも。 この子は違う。少年は隣にいるキーアを横目で伺う。 ずっと昔の自分のように目を輝かせて、すごいわと言うのだ。 餌もつけないのに何でも釣っちゃうのね。老師さま、すごいわ。 凄いことなど何もないよ、キーア。糸を垂らすだけで何かが掴んでくるものさ。 なぜ? 溺れたくないからだよ。ニャア。 そうなの。 そうじゃよ。 お魚も? 魚類であっても。 缶詰も? 鋼鉄であっても。誰もがここから出たいと思っているんだよ。だから、こうも簡単に引っかかってしまう。 そうなの…。あたし、魔法の糸なのかと思っていたわ。 魔法の糸でもあるがね? そうなの!? 引っかかっちゃだめだよ、キーア。老師はそう言って子供をからかうんだし。 ……キーアは子供じゃありません。ミース君、ちょっと失礼だわ。 あ、あっ、そういうことじゃなくてさ!いつも子供を引っかけてるって意味だから! キーアのことじゃないよ!?きみは、うん、立派なレディだし……。 そう。立派なレディ。小さなキーアは悪友の誰より大人びていて。 気に入らないことはひとつだけ。今も少し離れてこちらを見るひとりの男。 巡回医師ギー。少年からすれば、金にならない仕事をして、才能を用水路に捨て続ける馬鹿男に思える。 両親の言葉を思い出す。7級以下市民は皆、貧しく愚かな生き物だ。 なるほどと納得できる。確かにあのギーという男は貧しくて愚かだ。 でも。でも、この子だけはそんなことに関係ない。 ……立派なレディだし、なあに? う、う、うん?何の話、え、あ、そうだよきみはレディだ。 本当に? う、うん。本当だよ。なあカラス? カァ。 ……そうかしら。 柔らかな笑顔を浮かべてくれる。両親も、悪友たちも誰もこんな顔はしない。 眩しく思えてならない。きっと、灰色の雲の向こうで輝くという太陽は、こんな感じなのだと少年は思う。 キーア、そろそろ時間のようだ。ギーが呼んでいるよ。 はい。老師さま、釣りを見せてくれてありがとうございました。 ごきげんよう。ミース君も、またね。 う、うん。またね! カァ。 怪我も病気もしないでね。じゃあ、また。 キーアは巡回医師のところへ駆けてゆく。とびきりの笑顔を残して。 何だか悔しい。何だか悲しい。どうしてあの男のところなんかにいるのか。 ろくな暮らしをさせていないはずの男に、どうして、キーアはあんなに嬉しそうに。 去っていく背中を見つめながら。少年は溜息を吐く。 はぁ。 そういった感情は儂は離れて久しいものだ。ミース、きみには無限の若さが溢れている。羨ましいね。 何ですか。笑えるとでも言いたいんですか。 ああそうだ。とてもきみは微笑ましく儂の瞳に映る。 好きなのだね、彼女のことが。お前さんは。 ……。 カァ。 ……ひとめぼれだよ。 無限雑踏街。第7層12番都営モノレール駅。 ギーはホームに立って列車を待つ。今日はアパルトメントの最寄り駅ではない。直通運行を行っている駅はここが一番近い。 傍らに立つキーアは、先ほどからずっと笑みを絶やさない。 顔を見なくともわかる。握った小さな手はいつもより温かい。 今日の診療場所はいつもと随分違う場所だ。それ故に楽しいのだろう。随分と機嫌のよい振る舞いが際立っている。 (楽しい場所では、ないんだが) (水を差すこともない) (……それに、特別、嫌な場所でもない) 率直に言えば。ギーはその場所をどうとも思わない。 ──今日の診察場所。 ──上層。 待っているのは«上層階段»への直通列車。そこから昇降ゴンドラに乗り換える。 恐らく10年ぶりになるはずだ。上層大学があった頃には通学していたから。 都市上層。下層に対して完全に閉ざされた特別区。都市を支配する貴族たちの住まう場所。 行こうと思って行ける場所ではない。上層第3公園よりも上の座標を越えれば、普通は、上層兵が侵入者を即刻処刑する。 無裁判処刑だ。下層の誰もが上層へ渡ることを許されない。そもそも昇降ゴンドラ門は閉ざされている。 螺旋状の«上層階段»を歩いて昇れば、上層兵のもたらす“死”が待っている。誰も上層へは昇れない。 ──そのはずだった。──けれど。 ……何だって? ……貴族の治療? 僕が? なんだよその顔は。私が冗談を言うとでも?心外だな、そういう悪ふざけはお前さんの専売特許で、私のじゃない。 私も詳しい話は知らないがね。馴染みの情報屋が持ってきた話なんだ。なんだってまあ、お前さんばっかりが。 いいのかい。エラリィ。 何が。 話が本当なら上客中の上客だ。僕に来るような話じゃないだろう。 まあ、そりゃあね。普段なら私が貰う話だ。たとえば下層の第2層の資産家だって、普段から最下層を歩くお前を嫌がるだろう。 相応しいのはお前さんじゃない。確かにそれはその通りではあるんだが、ね。 エラリィ。かつての友人。謙遜など一切なく話してくれるのは嬉しい。かつては彼の欠点だったが、今では長所だ。 ギーは肩をすくめる。かつての友人の言葉には何も嘘はない。 最下層を歩くような巡回医師は嫌われる。不潔で、伝染性の病原菌を撒き散らして、かえって病に罹りやすくなる。 ──普通、資産家たちはそう考える。──事実とは違っても。 それでも僕なのか。エラリィ。 上層とも下層第1層第2層とも、一切の繋がりを持たない数式医をご所望だ。きみも多少の顧客は第2層あたりにいるが。 それでも繋がりなんかないも同然だろう?どうせ流し歩いただけなんだから。 まあね。 そこで、お前の出番だ。金持ちとパイプを維持しない変人の数式医。 貴族は苦手だよ。期待に添えるとは思わない。 連中のことが大好きな奴なんてどこにいる?その点じゃ、お前さんも他も変わらないよ。 せいぜい多くのシリングを稼いで来てくれ。勿論、情報屋と私への仲介料もだ。 ……大丈夫さ、ギー。 彼の言う通り。上層行きの手配については問題なかった。 青年貴族クルツ・ヒラム・アビフ。彼の治療を行うためにギーは上層へと赴く。昇降ゴンドラの開門指令書も渡されている。 我知らず。ギーはやや重い息を吐いていた。 直通列車はまだ来ない。週末でもなければ«上層階段»行き列車はそう多くはない。まだ、少し、待つだろう。 自分の気分が重いのがわかる。そもそも上層に良い印象など持っていない。 彼ら貴族は混沌の充ちる下層を捨てたのだ。自分たちだけを保護して。人々を苦しみの中に放置した。 現象数式実験と数秘機関。そのふたつの技術公開だけが助けだった。 上層から支配権を与えられた都市管理部は、都市法を執行するための情報収集に忙しい。誰をも助けようとは、しない。 ──そう。──都市法だ。 大公爵の名の下に施行された死の法。それが、何よりも貴族の意味を強く示す。 都市法。都市における経済活動維持のためと言い、下層の人々を次々と、無数に間引きする。 ──ギーは息を吐く。──貴族を治療する自分が想像できない。 ギー……。 どうしたの。顔色、いつもより良くない。 いつもと変わらないよ。大丈夫。 ……すまないね。楽しい気分を邪魔してしまった。 いいの、そんなこと。あなたの具合のほうが心配だもの。 ……どこか痛いの?無理をしないで、ギー。 大丈夫。 そうか。配慮が足りなかった。息を吐く自分を見られてしまったらしい。 不安げに首を傾げて見上げてくるキーアへギーは口を開く。言葉を選ぶ。 上層は好きになれなくてね。少し、気が重いだけさ。 そう……。貴族さまのことが嫌いなの? どうかな。好きではないだけだよ。 そう……。 ああ。 言いながら、思う。果たして自分の言葉は本当だろうか。 都市法をもたらした彼らを自分は憎む。だが、それは総体としての上層に対してだ。 都市法をどう考えているのか。下層域をどう捉えているのか。彼らが、ひとりの人間としてどう思うのか。 貴族を嫌悪するかどうかはその後だ。人を区分けで判断することをギーはしない。人のよい«熊鬼»も凶暴な«鳥禽»もいる。 言葉を交わすまでは。少なくともそれまでは、考えない。 好きではないだけだ。都市に充ちる多くのものと同じように。 ……貴族さま、か。 それは都市のどこかの奥深く。最下層の基部か中心巨柱のどこかの座標か。 ずっとずっと地下の奥深く。湖上を埋め立てた広大な人工土壌の上に建造された巨大都市インガノックの地下。 都市の誰もが恐れて近付かない無限の闇。たったひとりの男だけがいる場所。 ……荒ぶるドラゴンはここにはいない。 ……おとぎ話の竜はいない。 現在の都市では、恐怖を伴って語られる。地下には最大のクリッターが眠るのだと。しかし、そこにはひとりの男しかいない。 狂人ひとり。 穴を掘る。 都市下層地下。誰もが恐れて近付かない無限の闇で。 そのひとりの男だけは闇を恐れない。闇に親しみ狂気に触れる。彼の名はランドルフ。 気狂いランドルフ。暗がりの中、小型蒸気機関を用いて明かりを灯すランタンを掲げた、男。 誰もが恐れる闇の中、ランドルフは構わずに掘り進んでいくのだという。毎日。毎日。毎日。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 北北東より季節風が吹きすさび、大地は本日も航路を逸れて、輝きは消えている。それでこそ我が楽しみ。 憎むべき銀の鍵は現在でも虚空をさ迷って、門はどこかと問いかける。嗚呼、私は哀れ、本日も穴を掘る。穴を掘るとも。 ……ふう。今夜はだいぶ奥まで来たな。柔らかい土だ。 彼はいつも“今夜”と言う。朝でも昼でも、夜でも。 確かにここには朝と昼はない。空はいつでも灰色に覆われているからだ。 けれど夜は暗闇の帳が落ちる。都市には町灯りが無数に浮かぶけれど、それでも、一目見れば夜は夜とわかる。 仕方がない。この男、ランドルフは狂っているのだから。多少の言葉には目を瞑ろう。暗闇のように。 またお前たちか。今夜はどんな用だ?銀の鍵はどこかで沈黙をしているから、私は今日はお前たちに時間を割けるのだが。 なあ、子供たちよ。 彼は暗闇に呼びかける。それは、以前にも会話をした相手だった。 すなわち誰もいない何もない闇。そこに、ランドルフは声を掛けるのだ。 またこんな老いぼれに用とは。暇なのか。なんなんだね、今日は何があった。 ──刈り取りの季節だよ。──また刈られてしまうよ。おじさん。 それは確かな音声だろうか。それとも、彼にだけ聞こえる幻の声か。 外ではもう秋だろうか。子供たち、不思議なことを言う。 ──また誰かが刈られるよ。──おじさん。止めようよ、おじさん。 おお、子供たち。この前とは同じ子か。 無茶を言ってはいけないよ。私はほら、この通り穴を掘らなくてはいけないんだ。 人柱は別のおひとに頼みなさい。可愛い子供たち、もしくは子供よ。 ──いけないよ。いけないよ。──刈られてしまうよ、おじさん。 ──鎌を止めておくれよ。──お願いだよ。 刈り取りには鎌は必要だ。何かの命を人は刈らねば生きられない。 ──違うよ、人ではないよ。──おじさん。 ──ぼくじゃないんだ。あたしでもない。──誰かが刈られてしまうんだ。 変なことを言うやつだね。愛しい子供たち。お前が、お前たちが誰だか知らないが。 人でないものでここは充ちている。 男はばさ、と肩に溜まった泥を落とす。それは無数の機関によって排出された排煙を無限に吸い込み、黒ずんで。 ……刈り取りか。嫌な季節が来てしまったものだ。 ──都市上層、準3級貴族区。 昇降ゴンドラの門が開かれる。都市インガノック上層区がその姿を見せる。 記憶のどこかへ追いやっていた。そう、都市の頂上部に位置する上層にも、下層と同じに等級ごとの区画分けがある。 けれどその景色は下層とは完全に異なる。立ち並ぶ荘厳な屋敷。僅かに姿を見せる緑。 そして何よりも全体的な景観だ。まるでひとつの“城”であるかのような、各区が繋ぎ合わさった巨大な構造体様式。 誰も迎える者はいなかった。人の姿はない。 少なくともこれは“街並み”ではない。行き交う人も暮らしの音もなく。 一切の生活感がここには存在していない。ただ、ひとつの“城”の威厳のみ。 ギーは息を吐く。息が白い靄となるのは頂上部故だろうか。 繋いだ小さな手を感じる。握りしめてくるその力はささやかで。 ……すごいわ。 町の中に……。木々が、あるのね……。 ……誰も、いないけれど……。 視界には確かに誰もいない。正確には、ギーとキーアの背後にひとり。 先ほどから同行する上層兵の姿がひとつ。麓の«上層階段»の昇降ゴンドラ門から、護衛と称して彼か彼女は背後に立つ。 威圧感を以てふたりを見つめる上層兵。兜に包まれて見えない目から注がれる視線は、無機質な剣呑さを備えて。 キーアはちらちらと彼か彼女を気にして、何度も振り返っていた。昇降ゴンドラの内部で。 ──それが。──視界に充ちる上層の景色を前にして。 ぽかんと口を開けて、すっかり背後の上層兵を失念している。 (……驚くのか) (キーアは上層の人間ではない、か。 万が一の可能性だとは思っていたけれど) (……当然、か……) 自分と手を繋ぐ小さなキーア。ギーは、その表情を意識して観察する。 笑顔は浮かんでいなかった。どこか硬い表情。 上層兵を見た時の緊張の気配とはまた違う。何を、彼女は考えているのか。何を、彼女は感じているのか。 ギー。ねえ、ギー……。 何だい。 なぜかしら……。とても、不思議な感じがする……。 街路樹のせいかな。あれは、下層にはないからね。 街路に植えられた植物。そんなものは下層には存在しない。 宝石を道に放り投げるようなものだ。上層階段公園以外の緑は、下層にとっては高価なシリングとなる。 上層階段公園からの植樹だそうだよ。公園のものほど緑は濃くないね。 ううん。違うの、そういうのじゃなくて…。 人通りがないのは、貴族区だからさ。市民はいないからね。 10年前であれば使用人もいただろう。朧気にそう記憶している。 しかし、今では自動人形がその代わりだ。彼らは地上を歩かず地下通路を歩く。 町に人の姿はない。そもそも貴族は生身で外には出ない。 機関馬車程度は幾らか通るはずだよ。貴族を乗せてね。 ……ううん。違うの、ギー。 何か……。変な感じ、胸がもやもやするの。 眉根が寄っている。何かの痛みに耐えているかのように。 何を感じているのだろう。何を考えているのだろう。キーアは、ひどく息苦しそうに見えた。 身体的な異常は認識できない。実際に、痛みや息苦しさは感じていない。 ──それでも。 ──キーアは眉根を寄せていた。 ……無理はしなくていい。僕もここは苦手だよ。 先に戻るかい。ルアハを呼んで迎えに来て貰おう。 ……ううん。いいの、大丈夫、ギー……。 大丈夫、すこし……。驚いてしまった、だけ……。 お仕事の邪魔、しないわ。ギー。平気だから……。 クルツさんを、助けてあげなきゃ。ね。ドクター・ギー。 ──そう言って。 ──キーアはぎこちなく微笑んでみせた。 ──クルツ邸。──それは区画の端に位置していた。 他の屋敷に比べると些か見劣りするだろう。あくまで相対的な比較の話だ。下層と比べれば充分に豪奢か。 正面の門をくぐると、丁寧に手入れされた中庭が広がっていた。 屋敷と門との間に横たわる形の植物庭園。偽造植物とは違う、本物の緑。 第1層や2層の富裕層市民の庭とは違う。あらゆるものが本物だ。 植え込まれた緑の木々。自動人形の手で丁寧に刈り揃えられている。 彫刻が施されたオブジェは、恐らく都市の外の芸術家の手によるものだ。つまり、10年前から存在する高価な宝物。 宝の充ちた庭園。けれどもそれはここでは当然のこと。 模造品や合成品を探すほうが難しい。人の表情以外は。 ようこそクルツの屋敷へ。あなたが、件のドクター・ギーね。 連れがあるとは聞いていたけれど。まさか子連れとはね。 ご招待により馳せ参じました。僕はギー。彼女は、キーアといいます。 はじめまして、レディ。ドクターの助手を務めています。 どうでもいいわ。早く彼に会って頂戴。早く治して。 ……ああ。忘れていたわ。 作法を心得ない人と話すのは初めてだから。つい、忘れてしまっていたわ。 あたしはサラ・センケンネル。彼の友人。代理人よ。 ──作り上げた表情で娘はそう言った。 出迎えたのはクルツではなかった。サラ・センケンネルを名乗る貴族の女性。 すぐに下層民とのあらゆる違いがわかる。貴族紋。明るい色の繊細なドレス。連合共通語の発音すらも、異なる。 キーアは娘のドレスに目を奪われていた。無理もない。 第1層の服飾企業の特注品以上のものだ。下層から選りすぐられた専属の職人が、その手で縫い上げた本物の絹のドレス。 数少ない蚕工場で生産された絹糸を、合成品を一切用いずに作り上げた一級品。 高価さの桁が違う。美しさは、言葉にせずとも理解できる。 お姫さまみたい……。 お姫さまだよ、正真正銘のね。彼女は上級貴族だ。 姓には聞き覚えがあった。センケンネルの名は下層にも届いている。 上層の3分の1を大公爵から託された、上級貴族の筆頭たるセンケンネル伯爵。彼女はその血に連なる者か。 無駄なお喋りをするつもりはないの。早く、彼に会って。 屋敷の中で彼が待ってる。案内するわ。 ──案内。この女性が自ら? 僅かな違和感があった。そういえば出迎えたのはこの女性ひとり。 センケンネル伯爵の令嬢か血縁者が。屋敷で働く自動人形さえ連れず、わざわざ自分から、案内をする。 妙な感覚だった。そのままを受け取って言葉にするのなら、夫の治療を頼む下層の夫人と変わらない。 サラの視線をギーは追っていた。それはギーとキーアの後ろへ注がれている。 門の外で佇み、ギーとキーアが戻るのを待っている上層兵。 ──上層兵を気にしている?──なぜ? シリングなら思うがまま払ってあげる。だから、早く。 ……彼を助けてあげて。 部屋には何かの香りが充ちていた。香水かハーブか。 サラ・センケンネルに案内された広い寝室。屋敷の中で最も奥まった場所にある。長い廊下を10分は歩いただろうか。 同じ区画に在る貴族の屋敷の中では最も小規模なものだと言うのに。この広さは、ギーの感覚を些か狂わせる。 人間のいない無人の屋敷。自動人形さえ。 家人の生活の気配もなければ、家事を行う自動人形の気配すらない。 その最奥にいたのは人間だった。この屋敷に住む唯一の人であるのだろうか。 ありがとう。よく、ここまでおいで下さいました。 はじめまして、ドクター。それに、可愛らしいお嬢さんも。 長旅でお疲れでしょう。どうか座ってくつろいで下さい。 ……わぁ。 ……王子さまみたい……。 キーア。失礼だよ。 ……え。 あ、ご、ごめんなさい、ミスター……! 王子さま、か。溜息混じりに言うのも無理はない。 確かに彼は上層貴族の一員。下層民から見ればまさに“王子さま”だ。 サラ・センケンネルには幾らか劣るものの、上質のローブ型の礼服。本物の硝子の眼鏡。高貴な香りがよく似合う。 構いませんよ。もっとも、私は王子ではありませんがね。 私はここの主人クルツ・ヒラム・アビフ。上層貴族の準3級男爵です。 突然にお呼び立てしてしまい、申し訳ない。ドクター。お嬢さん。 はじめまして。サー・クルツ・ヒラム・アビフ。第7層巡回医師、ギーです。 この子はキーア。僕の助手を務めています。 ──助手と口にした。──実際はどうあれ紹介には都合がいい。 キーアを連れて歩くことにも、随分慣れた。ここへも当然のように連れてきてしまった。 アパルトメントにはルアハもいるのだ。置いていても良いはずだった。 けれど。ギーはキーアを連れてきた。 下層を歩くことと今日の診療は変わらない。特別な意識を持つことも対処も必要はない。そう、自分に言い聞かせるように。 ごきげんよう、はじめまして。ミスタ…サー・クルツ・ヒラム・アビフ。 クルツで結構ですよ。既にアビフの名はあまり意味を持たない。 ……何よ、それ。意味がないことがあるもんですか。 あなたはヒラム・アビフ家の当主なのよ。もっと堂々としていなさい。 あと。無理して起き上がって来ないで。わざわざ礼服まで着て、何なの。 いいんだよ、サラ。横になっていても変わらないんだから。 安静にしてろって、うちの医者にも言われたでしょう! 大きな声を出さないで。お客様の前だよ。 ……知らない。診察が終わったら、呼んで。 言い残して、サラは部屋を後にする。乱暴に扉を閉めて。 圧倒されたのかキーアが目を丸くしている。お姫さまの態度にしては、確かに、些か乱暴だった。 サラ。クルツ。ふたりの関係はまだ耳にしていない。 センケンネル伯爵の血縁者がなぜ、準3級の下級貴族の屋敷にいるのか。 (……関係ないことだな) (僕は彼を治療する。 ただ、それだけのことだ) サー・クルツ。では、診察を始めます。 気が早いですね。もう少しお休みになられては。 数式使いの診察はごく簡単なものです。まずはあなたの体を視ましょう。 あなたの自覚している症状なども、一緒に教えて頂きます。 ──そう。症状を聞く。──ギーはまだ彼の症状を知らないのだ。 エラリィも情報屋もそれを口にしなかった。依頼は数式医を見つけることだけで、具体的にどんな病気か、怪我なのか。 わかりました。では、申し訳ありません。お嬢さん。 はい。 少し部屋を出ていて頂けますか。男同士以外では、話しにくいことも── え……えと……。で、でも、キーアは助手なので……。 キーア。すまないが。 ……はい。ドクター。 やや躊躇ったものの。クルツとギーの言葉にキーアは頷いた。 サラが出て行ったのと同じ扉から、ギーを何度か気にしながら廊下へ出て行く。 こういう状況の経験が一切ない訳ではない。自分の症状を誰にも知られたくない、医師と自分の秘密とする患者もいる。 ──廊下へ出たキーアが扉を閉める。──音はない。 よく手入れされた蝶番は音を立てない。大きさの割によくできている。 失礼ですが、サー・クルツ。お屋敷に自動人形は見えませんでしたが。 ああ、ええ。お恥ずかしい話ですが。 我が家が抱えている自動人形はないのです。屋敷の手入れは、主に、サラの連れてくる自動人形が行いますから。 庭園も? あれは私が手入れをしています。ああ、サラには内緒にして下さいね。 ……ええ。 幼馴染みなのです。彼女とは。だから、よく、私の面倒を見てくれる。 なるほど。 いえ、では始めましょう。 ……気を楽にして。クラッキング光が出ますが、驚かないで。 はい。 始めます。 言葉と同時に脳内器官を起動。大脳が現象数式を働かせ、光が励起する。 ギーの“右目”が視る。クルツという貴族の肉体の状況について、正常な状態であるかどうかの確認を開始。 (……ん……) いかがですか。ドクター。 ええ。 各関節部、レベル3の疲労。 筋肉組織、レベル2の衰弱。 感覚器官、レベル1の衰弱。 現象数式の“右目”は皮膚も筋肉をも透過して、内臓の状態を確認する。異常は── ──生命維持活動に関して。──異常あり。 (肉体に残留する薬物の痕跡を発見) (内臓への副作用を認識) マグダルのものとは違う。だが確かに、アムネロール中毒者の症状だ。免疫力の高い«熊鬼»に多く見られるもの。 肉体の疲弊。そして、内臓の極度の損傷。 精神の狂乱状態という一点のみがないが、他はすべて、アムネロールの症例と一致。重度の中毒状態だ。 (……アムネロールか) (馬鹿な) (上層にドラッグが出回る? 都市管理部がそれを許す訳がないのに) (そもそも……。 僕以外の数式医を呼ぶこともできたはず) (何故、こうなるまで放っておいた?) (……何故、僕なんだ) クルツ・ヒラム・アビフ。彼の肉体、特に内臓は酷い有り様だった。 本来であれば機能するはずの臓器が、幾つも、誤動作を引き起こしている。 辛うじて損傷なく動いているのは心臓だけ。他は、殆どが機能障害に陥っている。血管内の血液さえもが、濁っていた。 人払いをしましたね。あなたは。 はい。 ご自身の体に関して。何かの異常を感じることはありますか。 はい。歩くのも、立つのも困難です。 口だけはよく回ります。ですが、それ以外は些か困難だ。 (……困難か) その一言で済む状態ではない。彼の内臓は今まさに死へと至っているのだ。酷い状態だ。修復は可能だが、命に関わる。 置換するための部位が殆どない。これではすべての内臓を快復させられない。 生命維持に最も関わる臓器はどれだ。現在どれを修復すべきなのか。肺か、それとも肝臓か腎臓か。 ……あなたの内臓は損傷しています。数多くの器官が機能低下の状態にある。 はい。 何か、心当たりはあるでしょうか。サー・クルツ。 あなたは薬物を服用されていますか。注射でも、タブレットでも。 ──アムネロール。──それを、彼は服用しているはずだ。 ……いいえ、どうでしょう。わかりません。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 ……隠されているものを暴く。 穴を掘ることで得られる私の快感がそれだ。必要なのは水平角と黄金三角、そしてこのどんな土をも掘ってみせるスコップ。 都市の«復活»は私に素晴らしい筋力と持久力を与えてくれた。有り難いことだ。 しかし元の私はとてもとても非力だった。死の暗がりを恐れていたのだ。ああ恥ずかしい。恥ずかしい。 ……。 ……何?恥ずかしいのはどうしてか?誰も見ていないのに何が恥ずかしいか? ……。 さて。どうだったか。そんなことは、どうでもいいことだ。 ……何なの、あなた。 ついて来ないで。あたし、子供はあまり好きじゃないの。 長い長い廊下を歩いて。途中でこの中庭へと出て更に歩いて。 このまま外へ出て行くのだろうか。そうキーアが思った矢先、サラは振り返りざまに言い捨てていた。 子供は好きじゃない。ついて来ないで。 ──子供じゃないわ。──キーアは、あたしは大人です。 いつもならそう言っている。でも、今は。 ごめんなさい。レディ。あなたに訊きたいことがあったから。 あたしに訊いてどうするの。小さな助手さん。 医者が必要なのはクルツ。あたしじゃないし、言うことはないわ。 訊きたいの。あなた、クルツさんのことが嫌い? 関係ないわ。 ……なぜ? あなたにも関係のないこと。一介の助手風情が喋り掛けないで。 ただクルツを治せばいいの。そうすれば幾らでもシリングをあげる。 黙って、彼を治しなさい。そして帰って。 サラの言葉は険しい。けれど表情にそれほどの激しさはない。 形作ることに慣れているのだ。自分の表情を。 キーアは視線を逸らす。自然な表情を強い意思で変えてしまうこと。それは、ひどく、悲しいことに思えるから。 ──なぜ。 ──そんなにも、あなたは。 ……なぜ? あなたは彼のことが大好きなのに。なぜ、そんな顔をしているの。 ……何ですって? ──僅かに。──表情に驚きの感情が混ざる。 ……あなた、今、何と言ったの。 あなたは彼のことが好き。なのに、どうして……。 どうして、彼に笑ってあげないの。そんな顔をするの。 ……あなた、わかるの?あたしのこと、誰にも……。 言ったことなんか、ないのに……。断言、できるの……? ……ええ。わかるわ。 キーアは見ていたから。僅かな時間だけでも、ふたりを見ていた。驚いたのは声に圧倒されたからじゃない。 ──見ていたから、わかる。──このお姫さまが持つ強い想い。 想いのもたらすものをキーアは知らない。けれど、見ればそれは伝わる。 何かを願うこと。強く強く、誰かを想って見つめる瞳が。 そう。あなた── 自分以外の誰かを好きになったこと。あなたも、あるのね。 ええ。 ……そうよ。あたしはクルツのことが好き。 彼のためなら何でもするわ。あなたたちだって、上層へ呼びつける。 ……何でもするの。あたしは、彼に、何もできないから。 現象数式による第一次診療を終えて。少しの休憩を取ることにした。 クルツの肉体は極度の疲弊状態にある。内臓の損傷に加えて、体力の低下だ。 長時間の無理はさせられない。ベッドで休むようにとギーは告げた。 続きは明日にしましょう。あなたの現在最大の患部を修復します。 できますか、ドクター。 善処しましょう。長期的な快復計画を立てます。 あなたの肉体は疲弊しすぎている。クラッキング光でも、瞬時には治せない。 ……ですが、不可能ではない。 僕の腕は完璧とはほど遠いものだ。ですが、全力を尽くしましょう。 あなたからの治療依頼です。あなたにも協力いただくことになります。 ──具体的には。──アムネロールの服用の中止、だ。 薬抜きのプログラムを組む必要がある。彼と屋敷を管理しているのがサラなのであれば、彼女の協力も必要だ。 ……依頼、ですか。 すみません。ドクター。実は、私は依頼をしていません。 ……今、何と。 彼女が、サラが依頼したのです。私のためを思ってくれて。 そうでしたか。なるほど。フィアンセでいらっしゃる? まさか。私には勿体ない。 彼女はセンケンネル家の息女です。私とは身分違いですよ。 ……ですが。この屋敷を管理しているのは彼女だと、あなたは確かに仰いましたね。 僕は、構わないと言っているんですがね。それでも、彼女は来てくれるのです。 ……毎日。来てくれる、無理をして。 たとえ短い時間でも、ああして顔を見せてくれるのです。 ──空を指さして。──ドレスを纏ったお姫さまは言った。 「見て、灰色の空」 「排煙混じりの灰色雲に覆われて」 「太陽の輝きは雲越しにしか降り注がない」 「誰もこの空を、綺麗とは言わない。 海と同じ。汚染されて元の色を失った空」 「でもね」 「クルツは空が綺麗だと言うの。 灰色雲に覆われていても、それでも」 「陽の光は地上へと降りてくる。 僅かでも、それは光に違いないって」 空を見る視線は強く。憎む誰かを睨む様子によく似ていた。 キーアはサラに近付いて、そっと、貴族紋の浮いた白い手を握る。 ……暖かいのね。あなたの、キーアの手は。 彼とは違う。彼の手はもうずっと震えが止まらない。 ……こうして握ってあげたいと思うのに。あたしは、できない。 握ってあげて。彼は、きっと喜んでくれる。 そうね、嫌な顔はしないと思う。でもあたしはできないの。 ……? ……手を握って、何を言えばいいの。何より強く彼の死がわかるのに。 どんな顔、してればいいのよ。そんなのあたしは誰にも教わらなかった。 サラ……。 あなたが羨ましい。あなたはきっとあたしよりも知ってる。 自分以外の誰かと接する方法。それは、貴族がずっと昔に捨てたものだわ。 視線は、繋いだ手へと向けられる。今までよりは幾分か柔らかく。 けれど、何かへの憤りを確かに込めて。それは自分への感情か。それとも他の誰かへの。 ……ううん。クルツなら、少しは違うかも知れない。 彼は他の貴族たちとは違うの。ええ、全然違う。 ……彼だけよ。あたしが知る中では、彼だけが。 この上層以外のことを考えていた。クルツだけが。 自分のことなんか少しも考えないで、下層の人たちのことをいつも気にしてた。 自分たちだけが何の苦もなく豪奢な暮らしを続けているのはおかしいって、いつも、いつも。 ──キーアは知らない。──それがどんなに特異な例であるのかを。 貴族たちに施される教育プログラム。それは、下層とは完全に切り離されている。 貴族にとっての下層は生産力でしかない。下層に生きる人々はそのユニット。 知る機会が与えられないのだ。少なくともこの10年間、下層が上層のことを何も知らないように。 貴族たちは下層を知らない。違法手段を用いて接触を図らない限りは。 随分と、無茶をしていたんだと思う。下層の情報書庫に接触したりして。 若い貴族たちを集めて会を開いていたわ。勉強会と言っていたけれど……。 上申書が幾つも作られて。何度も何度も、大公爵府へ送って。 ……でも。 あたしのお父さまも大公爵も、クルツの言葉に耳を貸さなかった。上層貴族の委員会は彼を無視した。 何も返答はなかったわ。勉強会に参加した貴族たちは、離れて。 ……それから、すぐのことだった。 手が強く握りしめられる。少し、痛い。 サラの感情が僅かに繋いだ手へと漏れる。それはやはり、強い憤りだった。 誰かへの怒り。自分自身を含めた、大きなものへの。 彼が倒れて、こうなってしまったのは。勉強会が解散したすぐ後。 ……何をしたっていうの? 他のどんな貴族もあんな病気に罹らない。彼だけ、彼だけが……。 誰かのために何かをしようとした彼だけが、どうして……? ……なんで、よ……。 繋いだ手へ落ちる。雫は、雨ではなかった。 キーアはサラの顔を見上げなかった。どんな顔をしているか。見なくてもわかるから。 ぽつり、と僅かに落ちた雫。たったひとつだけ。 ……サラ。 あたしは……。あたしにできるすべてをしたよ……? でも、駄目……。あたしは、何も、できやしない……。 彼は、毎日……。口にするの……死んだ後の、こと。 この庭園をあたしに、くれるって。これしかもう、残ったものは……ないから。 ──繋いだ手から伝わる。 ──言葉以上に。──サラから、伝わるものがあった。 ……嬉しくない。こんなもの、幾つ、貰ったって。 彼がいないここに……。どんな価値が、あるっていうの……? ああ、そうか。そうなのね。 キーアは思う。このお姫さまは、サラという名のひとは。 ──彼以外には誰もいないのだ。──誰も、彼女を助ける誰かはいなかった。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 ……手が寂しいな。 この手に握られるものは黄金のスコップ。そして輝ける彼方の空からのランタンと、私の持つ穴を掘る勇気だけな訳だが。 足りないものがある。ああ、足りない。ああ、足りない。 ……。 ……何?足りないものは他の誰かが持っている?ひとりで求めようとしても意味がない? ……。 さて。どうだったか。そんなことは、どうでもいいことだ。 ──夜。時刻は20時。 食事を終えて。主人のものと同じ様式の部屋に案内され、ギーは硝子窓越しの上層夜景を目にした。 静かな町だ。下層のどこよりも静寂が充ちている。 上層階段公園よりもここには音がない。あそこにはまだ生物の気配がある。 歪んだ鳥も犬も機関精霊もいない。およそ町に存在する命の気配が存在しない。 それは彼によく似ていた。クルツ。この屋敷ただひとりの住人。 ヒラム・アビフ家は半ば断絶状態にある。彼が死ねば、この屋敷は無人となるのだ。それは屋敷を見れば理解できた。 両親は既に他界したと彼は言った。自分がヒラム・アビフの最後のひとりだと。 ……滅びる貴族か。 唇から言葉が溢れた。誰もいない部屋に声だけが響く。 キーアは屋敷を探検すると言って、ひとりで出ていった。だから、この部屋にいるのは自分ひとり。 普段であれば絶対に許さない。あの子がひとりで歩ける場所は下層にはない。 けれど、ここであれば何の危険もない。ないはずだ。 上層にもクリッターが出現したのは、10年前の«復活»だけの出来事だ。それも、記録上では討伐が成功している。 数少ないクリッター討伐の記録。そのひとつが、この上層だ。ここは都市のどこよりも守られている。 幻想生物も発生しない。機関精霊さえここでは目撃例がないという。 地下大機関から上層までを貫く都市基幹部。巨大な都市の柱。そこにドラゴンがいるという噂だけ。 ──だが。──竜は二度と羽ばたくことはないはずだ。 この区画は安全だ。保安機構と上層兵に守られているから。 ──そして、誰もいないから。 何。ひとりで窓なんか見て。そんなに、硝子窓が珍しいかしら。 ええ。ここまで透明度の高いものはね。 ノックはなかった。センケンネル家の息女は当然の顔をして、ギーに割り当てられた部屋へ姿を見せる。 足音と気配には気付いていた。彼女はそれを隠さない。 ギーは振り返って彼女を視る。現象数式の影響が残った“右目”で視る。 ──体温に変化あり。──精神状態に幾らかの興奮の痕跡。 食事の時と変わっていない。キーアと話して、彼女には何かがあった。 キーアは? お屋敷の中を歩くと。クルツ氏の許可は得ています。 そう。迷子にならないといいわね。 見取り図を頂いています。大丈夫でしょう。 ……そう。 ……遅くなったら迎えに行ってあげて。迷子になると可哀相だから。 はい。 ──気遣う言葉。 ふと、サラの顔を視る。先ほどと変わっていないはずの作った表情。 いい子ね、あの子は。下層に置いておくのは忍びない。 勿体ないお言葉です。レディ・サラ。 そんな風に言わないで。あたしは、あなたを信じることにしたの。 ……はい? ──僕を信じる? あたしは、あなたのことを警戒していたわ。でも、やめることにした。 あたしは、あの子と話したから。あなたを信じる。 ……それに。もう、あたしには他に何のあてもない。 ──彼女が、サラが依頼したのです。──私のためを思ってくれて。 僕は僕の仕事をするだけですよ。そう依頼されている。 彼を助けて。 そうするつもりです。レディ。 彼を死なせないで。 死なせはしない。僕は、もうその依頼を受けている。 彼女の瞳を視る。そこだけは、何も形作られていなかった。 強い強い意志。それは誰かに縋りつくのではなく、何かと戦うことを決意したものだ。 ──キーアはどんな魔法を使ったのだろう。──お姫さまの瞳に、こんな。 レディ・センケンネル。僕に、二重の依頼は必要ない。 彼を今のままの状態にはさせない。既に僕は、依頼を受けている。 ──魔法のように雲が晴れて。──本物の空を目にすることができるかも。 そう本気で思っていた訳ではない。キーアは、空を見上げて小さな溜息を吐く。 都市で最も高い場所。上層階段公園よりも上に位置した区画。 この上層であれば。公園の空よりも美しい夜空が見えるかと、思っていたのに。下層と何も変わらない。 夜空はいつものように濁って。灰色雲は消えていない。 ……公園より上なのに。でも、空は、下にいる時と同じなのね。 ええ。そうです。学術的な見解は未だに出ていませんね。ここは、上にあるのに空が変わらない。 下層よりも勝っているものは、せいぜいが居住環境と食物くらいでしょう。 いかがでしたか。上層の料理は口に合いましたか。 え、えと……。 えと……はい、とても。美味しかったです。サー・クルツ。 ──本当は。──緊張してしまって味はわからなかった。 おとぎ話に出てくる宮廷料理。それと殆ど同じものが長くて白い食卓に幾つも幾つも数多く並べられてしまって。 配膳してくれる自動人形たちの無機質な動きも気になって。 本物のお姫さまと王子さまと一緒の食卓を囲むという事実も手伝って。 ひどく緊張してしまって。何を食べたか、どんな味だったのかは。 ……美味しかったです……。 嘘はいけませんよ。キーア。 ……うん。はい。 ……ほんとは……。味、よくわからなくて……。 ごめんなさい……。 こちらこそ、失礼しました。私の気配りが足りなかったのでしょう。 それでも、私は嬉しかった。お客様を招いて食事をするのは久しぶりで。 あなたたちが来てくれて良かった。ありがとう。 本物の王子さまは微笑む。ひどく、弱々しい気配を漂わせたままで。 夜中に外になんて出てはいけない。キーアはそう言ったのに。 ローブも着ないで彼はついて来てしまった。折角ですから、案内しますよと言って。 父と母が急逝してから、僕にはこの屋敷と庭だけが残されました。 委員会にも下級貴族相談会にも、僕は顔を出すことができない。だから、ここを引き継ぐ人は誰もいない。 ……サラに遺せればいい。そう思っていた。 ですが。少し、私は希望を持つことにしました。 きっと、ギーがあなたを治します。彼はお医者さまだから。 ええ。あなたのお連れのドクター。彼という人を、私は信じることにしました。 私がすべてを託せるのは、今やもう、この都市に彼しかいない。 ……はい。 すべてを託すと彼は言った。それは、治療を委ねるということだろうか。 違う。言葉に含まれた意思。それは、治療のことだけではない。 キーアは思う。それは予感でしかなかったけれど。 ──クルツはギーの何かを知っている。──だから、そう言った。 都市のすべてを彼に委ねる。それが、私にできる最善のことだ。 ……都市の、すべて……。 ……わかりません。どうして、キーアにあなたは言うの。 ギーはあなたをきっと救ってくれる。でも、都市……。 都市のことなんて……。ギーには……。 どうしてでしょう。あなたに言うべきだと思ったのです。 薄赤色の瞳を持つ、あなたに。暗がりの恐ろしさを知るはずのあなたに。 あなたは知っていますね。僕の見ているものと、同じものを。 ──暗がり。 ──彼の見ているものと、同じもの。 ううん、知らないわ……。サー……。 ……知りません……。 ──朝。時刻は7時過ぎ。 2時間程度の睡眠の後にギーは目覚めた。少し、驚いたかも知れない。 朝を告げる歪んだ小鳥たちの囀りがない。上質のレースのカーテン越しの朝の気配、それだけが時刻を告げていた。 驚いた理由はもうひとつ。隣り合った広いベッドにキーアの姿。 同じ部屋でキーアと眠るのは初めてだった。アパルトメントでは2階の部屋を彼女とルアハに割り当てているから。 寝顔を見たのは。これが初めてになる。 穏やかな顔。眠っていてもどこか優しげで。 羽毛の詰め込まれた寝具がよく似合う。上層のこの屋敷にも。 起こさないように部屋を出て。無人の廊下へ── ──そして、呼び止められた。 使用人代わりの自動人形の姿は、やはりこの屋敷には存在しない。ギーを呼び止めたのは、サラだった。 「クルツが呼んでるわ」 「行ってあげて」 来て、とは言わなかった。彼女はクルツの部屋に同行しなかった。 サラの目元が赤く腫れている理由を、ギーは訊ねなかった。 ──ノックの後。 ──招く声が耳に届いたのを確認して。 一礼してギーは部屋へと入る。屋敷の主人クルツ・ヒラム・アビフの寝室。 クルツの姿は一見すると部屋にはなかった。椅子にもソファにも彼はいない。あのローブの姿はどこにもない。 天蓋つきの大きなベッド。そこへ、彼は静かに横たわっていた。 ……サー・クルツ。お加減が良くないようですね。 ……あなたの言う通りです。ドクター。 失礼します。 現象数式を起動させる必要はない。まだ“右目”に影響が残っている。暖かな寝具越しでも、彼を認識できる。 各関節部、レベル3の疲労。 筋肉組織、レベル4の衰弱。 感覚器官、レベル3の衰弱。 ギーの“右目”はあらゆる状態を認識する。彼の肉体の疲弊度と損傷度。 生命維持活動がひどく低下していた。昨日よりもずっと。 心臓の鼓動はずっと弱く。酸素を吸い込むはずの肺も弱々しく蠢く。肝機能は、稼働しているかどうかの状態。 酷い状態だった。昨日診察した時より更に。 (ひどいな) (これでは、置換修復に耐えられない) (昨日から、今までの間に。 ……この男は、何をした。自分の体に) 各臓器機能が著しく低下しています。……昨日よりもずっと。 ……はい。そう、でしょうね……。 私は今日のぶんを服用した。だから……。 服用。何をです、クルツ。あなたは体を蝕む何かを使っている。 ええ……そうですよ、ギー。あなたが、昨日、仰った通り……。 私は薬物を服用している。毎日……毎日……。 ……アムネロール。だが、上層に流入するはずがない。 あなたはどこでそれを手に入れた。あなたは現在を失うことを望んだのか。 名は知りません。効能もね。 薬はこの家へ送られてくるのです。毎日、決まった時刻。午前6時ちょうどに。 ……大公爵府から。 大公爵? 貴族紋に代わる防疫のための処理として、毎日、私の元へ届くのです。区画に張り巡らされた気送管を通じて。 ──大公爵が。──アムネロールを彼へと送りつける? 言葉の意味を理解するのに、ギーは2秒ほどの時間を要した。 違法薬物。都市管理部があえて放置する、実験の噂すら流れる新型ドラッグ。 上層による一種の人体実験。そう見る向きは確かに存在していた。 ──だが。──都市の王たる大公爵、本人。 ──そんな噂はひとつもなかった。──誰もが、口にするはずのないことだ。 初めは何の異常もありませんでした。サラのことを、やけに思い出すくらいで。 体は健康だった。だが、数日ほど薬を飲み続けてから。 ……私はこうなった。 あなたは、知っていますね。今こうして私を蝕むものが、何であるか。 ……ドラッグ・アムネロール。 名ではない。あなたはそれが何をもたらすかを……。 ……知っている……。 ──苦しそうに。彼は続ける。 ……私の背後に現れた、恐ろしい“誰か”のことさえも。 ……何? 今度は理解までに1秒の時間で済んだ。クルツの唇から発せられた言葉。 ──背後に現れた“誰か”と。──確かに、青年はそう口にした。 ギーは自分の背後を自覚する。背後に佇む“彼”を。 クルツは«奇械»を知っているのか。いいや、現れたと彼は言った。 彼もまた«奇械»使いであるのか。だが、そんな気配は感じなかった。 ケルカンにもヨシュアにも感じたもの。激しい敵意と殺意。クリッター・ボイスに並ぶほどの意思。 ……背後の“誰か”とは。 あなたはよく知っているはずだ。ドクター・ギー。 ほら。あなたのすぐ後ろにも。……僕の知らない“誰か”がいます。 ──見えるのか。──わかるのか、彼には。 なぜ……。 直感ですよ。ドクター。背後から現れた“誰か”と、あなたは、どこか似た気配を持っているから……。 知っているのですか。 知りません。ただ、わかるだけです。 彼は微笑んでみせる。苦しげな呼吸の中で無理に表情を作って。 肺が悲鳴をあげている。本来なら、声を出すことも困難なはずだ。彼の肉体は、もはや、死の淵にあるから。 誰かが僅かでも押してしまえば。落ちていく。 あのアムネロールを。僅かでもその体内に入れてしまえば。 すぐに絶命するだろう。それが、ギーには明確に認識される。 ……できれば私は、死にたくない。 サラのために。そして自分のために。僕は生きたい。死にたくない……。 僕は──? サラといたい。生きていたいのです。 だが、それは……。今さら言うべきことではない。 ──青年の瞳がギーを見る。 ──もしくは。その背後の“彼”へ。 私が耳にした噂は本当だった。我々の背後に佇む“誰か”を知るあなた。 私は、あなたに依頼したい。 私の背後に顕現してしまったものは、既に狂ってしまっている。それを……。 ……破壊して貰いたい。私は、既にそれを抑えきれずにいる。 私が、私を失った時……。きっとあれは、彼女を傷つけてしまう。 ……あなたの言葉が事実であれば。見逃すことはできない。 あなたの肉体では、危険だ。恐らく“それ”と共に在ることはできない。 ──そう。──あのヨシュアのように。 脆い肉体は«奇械»に侵食されて。脳神経は完膚無きまでに破壊されるだろう。 クルツには記憶の侵食は見られない。だが、危険には変わりない。 自分以外の“誰か”の存在。それは、人間の神経を容易く揺るがせる。 ありがとう。けれど、まだ、あるのです。 ……あなたへの依頼。私の望み。 この薬を、この苦しみを。私以外の誰にももたらさないで欲しい。 ……僕はただの巡回医師です。サー・ヒラム・アビフ。 アムネロールを都市から消せと。そう言うのだろうか。 どう止める。何ができる。今も下層に蔓延し続けるこのドラッグを。 クルツの言葉が事実と仮定するならば、その発生源は大公爵府と関与している。それを、一介の数式医がどうやって止める。 何もできはしない。都市管理部と上層を相手に、何も。 はい。知っています。あなたは、ただの、巡回医師だ……。 しかし、これはあなたの仕事です。ドクター・ギー。 あなたと。あなたの背後の“彼”だけが……。この連鎖を、止めることができる。 他の誰でもない。あなた……。 既に、33の命を収穫してしまった、閣下を……。 かりそめの命で着飾る、閣下を……。止められる……。 ──クルツは瞼を閉じる。 感覚器官の衰弱は凄まじい。もはや目を向ける意味が彼にはないだろう。 見えないのだ。言葉も正しく聞こえているかどうか。 ……最後に。もうひとつだけ、依頼があります。 私は薬を飲み続けなくてはいけない。大公爵府から、送られてくる限り。 ……34つめの収穫物になれなかった、この私は。生存を許されない。 だが、もう、あれを飲む訳にはいかない。私は死にたくない。 そう。死ぬのだ。彼は二度とアムネロールを服用できない。 記憶の改竄は彼にはもたらされない。いや、初期にはあったかも知れない。現在では、ただの毒だ。 現在を失わせる。それは確かに新型ドラッグの効能だ。 精神と記憶の現在の喪失。もしくは、現在を生きる肉体の破壊。 ──皮肉にもなりはしない。──ただ、それは人に死をもたらすだけ。 けれど、それを拒めない。拒めないのです。 拒めば、上層兵は私と関与した者を殺す。私は既に、大いなる実験の関係者だから。 私が拒めば。サラさえも、傷つける……。 ……けれど……。 たとえば、僕が眠り続けてしまえば。昏睡状態にあれば……。 ──クルツの手が、ギーの手を取る。──弱々しく震えながら。 瞼を閉じたまま。それ以上を彼は口にしなかった。 自分と同じように冷ややかな手から伝わる。それは、クルツという男の意思か。想いか。願いであるのか。 言外のそれをギーは認識する。現象数式による状態把握とは違う。 手のひらから伝えられたこと。彼の願い。 巡回医師ギーへの依頼。ひとつではなく、みっつの依頼。 それで良いのですね。あなたは。 はい。 最後にそう呟いて。クルツは瞼を閉ざしたまま、頷く。 ギーは手を彼の頭へと翳す。本格的に起動させた現象数式の“目”でクルツの脳神経と信号状態を、把握して。 脳内器官に命令する。神経置換を行うための光を放つべく。 ──クラッキング光が。 ──青年の意識に充ちる。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじを見上げ、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……私の計測が確かであれば、今まさに。 ……最新のザハークの元へ。……哀れなる生け贄の子羊が辿り着いた。 「喝采せよ! 喝采せよ!」 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇るあるじがひとり。 それは支配者。それは大公爵。それは愚者。インガノックの王。碩学にして現象数式発見者であった魔術師。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 「おお、おお、素晴らしきかな。 盲目の生け贄は死せず未だ都市にある」 「現在時刻を記録せよ。 クロック・クラック・クローム!」 「貴様の望んだ“その時”だ! レムル・レムルよ、震えるがよい!」 御意。  『くくくくくくくくくくくククククッ』 「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛のかたちあり!」    『愚かなものだよ、大公爵』 『あなたはまだそこを踏みしめて。  あなたはもう駄目なのに何を?』 「──黙れ。黙れ。黙れ!」 「黙れ……」 庭園の最奥。彫刻のように刈り揃えられた木々の間。 そこにはひとつの大理石の彫刻があった。平たい石が並べられた“床”のオブジェ。中心には小さな扉がひとつ。 クルツとサラが子供の頃。まだクルツの父と母が健在だった頃。 ふたりでよくここに入って遊んだらしい。今では想像もつかないが、ふたりも無邪気な子供だったのか。 小さな扉。それはクルツにとっては秘密の場所。 父がひそかに集めていた10年前の品、主に西享からの輸入品を隠した倉庫。 そこに、クルツとサラは入り浸って。年代物の羅針盤や西享儀を、悪戯でよく壊してしまったのだとか。 ──秘密の場所。──それは、現在でもそうだった。 クルツが“誰か”を隠していた場所。薬の服用の後に背後に現れたそれを、彼はここへ隠した。 鉄扉を閉ざして。鍵を掛けて。 ……ギー。 何だい。 ここは、駄目。とても……嫌な感じ、恐い感じがする。 ああ。そうだね。 ──肌が総毛立つ。戦慄。──この感じを、ギーは確かに知っていた。 クルツの顕現させた«奇械»がここに在る。そのはずだ。この奥で蠢いている。それを、ギーは確かに感じている。 疑問はつきない。背後に佇む“彼”は、ギーの知る限り、長く伸びた“緒”を、足元の影に繋ぐ。 けれどクルツの影に“緒”はない。ここに隠したと言うけれど、ここに伸びる“緒”はない。 ……帰ろう? クルツもサラも可哀相。助けて欲しい、でも。 ……あなたが傷ついてしまう。この奥は、危ない何かが、いる気がするの。 ああ。 ギー……。 少女の手が服の裾を掴む。暫く、ギーはそのまま無言で立ち尽くした。 秘密を納めて固く閉ざされた鉄扉。それを見て。ギーは。 ──少女の手を取って。 ──屋敷へと背を向ける。 ここまで案内してきた上層兵が今も待つ、庭園の向こうの正門へと足を向ける。 安堵するキーアの声が聞こえる。けれど、その声はどこか寂しく響いていて。何かを、ひとつ諦めるような気配があった。 (……これでいい) (……これ以上の神経負荷は、 クルツの命にも関わってしまうだろう) (だから、僕はこれを破壊しない) (……これでいい) 二度と。上層には来ることはないだろう。ふたりのことを、思い出すことも。  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び声を響かせて。 ギーは何かをひとつ諦める。その実感があった。 この手を伸ばさなかった。求める者に。 ──果たして。──これで、良かったのか。 ──目を閉じる。 ここを去ろう。そう、囁く声でキーアに告げて。ギーは目を閉じたまま灰色の空を仰ぐ。 安堵するキーアの声が聞こえる。けれど、その声はどこか寂しく響いていて。何かを、ひとつ諦めるような気配があった。 (……これでいい) (……これ以上の神経負荷は、 クルツの命にも関わってしまうだろう) (だから、僕はこれを破壊しない) (……これでいい) 二度と。上層には来ることはないだろう。ふたりのことを、思い出すことも。  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び声を響かせて。 すぐそこで道化師は嘲笑する。お前のすべてはここで終わりだ、と。 差し伸ばす手の先を見失ったお前に、行くべき場所はもうない。昇るべき“勝利の塔”はお前にはない。 ──言っていろ。──これで、何も問題はないはずなのだ。 クルツはもう目覚めない。もう、送られる薬を服用できない。 これで彼は死なないだろう。目覚めることも、二度と、ないけれど。 王たる大公爵の成すべきことに。この自分に、何ができる。 ──できることなど。──何もない。 ──キーアの頬に触れる。 心配は要らない。きみは下がっていなさい。 でも……。 問題ないよ。 小さな手を引いて、キーアを木々の向こうまで連れて行く。 ここで動かないで。僕が戻るのを待っていて、キーア。 そう短く告げて。鉄扉の前へ戻る。地下へと続く入口を閉ざした鋼鉄の扉の前。 開くための鍵は既に預かっている。サラが、クルツから言づてを受けていた。きみが預かってくれと渡されていた鉄鍵。 赤く腫れた目元の彼女は。叩きつけるように鍵をギーに渡した。 受け取った際の手の痛み。まだ残っている。 ──秘密の鍵を手に取って。──鍵穴へ。 ──暗がり。──どこか、サレムの地下室に似ていた。 灯りなどなかった。だが、ギーにとって一切の問題はない。 暗闇の充ちる地下室。無数の高価な舶来品が並ぶ亡父の秘密倉庫。灯りがなくとも、ギーはその奥底へと進む。 既に視えている。地下の暗闇のすべてを“目”が見通す。 果たして、最奥にそれは在った。酒樽と思しき木樽の間にうずくまるように。 それは、ギーに反応した。ギチギチと音を鳴らして。 音と同時に。影が、そこから伸び上がる。 ──影。 ──それは、歪みきっていた。     ──透き通る黒影──       ──鋼鉄の── ──それは、暗闇の中から姿を見せる。 その影は一見すると蜘蛛のようだった。人型の名残はどこにもない。 それは誰の背後に立つこともなく。今や、人影ですらなかった。 球体型の胴から伸びる脚の数は6本か8本。硬質の鉄の体がそこには在った。 輝く8つの水晶体は眼ではない。胴体中央に位置する閉ざされたものが眼だ。ギーの背後の“彼”とは、何もかもが違う。 穴の中で浮かび上がる9つの光。下腹部から伸びる網のような“緒”は、半ばで途切れて、虚空へと消えていた。 ゆらり、ゆらりと“緒”の残滓が揺れる。それはこれが“彼”と同類であることの証。 ……これが……。 ──人間ではない。──そして、それは、クリッターでもなく。 ──肌が総毛立つ。戦慄。──この感じを、ギーは確かに知っていた。 ──クリッター。違う。──違うとも、ギーよ。──それは人の持つものだ、人だけが持つ。 ──そうだろう。ギー。──それは殺気とも敵意とも呼ばれるもの。 人のみが備えるものだ。それが、この異形の影から放たれている。 幾つもの腕を蠢かせ、口蓋部分を鳴らして。閉ざされた光がギーを見つめる。 ……クルツの«奇械»か……。 異形を睨んでギーは呟く。それはまさしく«奇械»の姿だった。 けれども、鋼鉄の体は何かが違う。長らく閉ざされた秘密倉庫の静寂の中で、弦楽器の音色にも似た鋼の軋みが、響く。 床から幾らか浮かびあがってみせる鋼の体。あらゆる影響を受けない体。あらゆる物質を破壊する力。 ──人の背後に佇む者。──都市インガノック唯一のおとぎ話。──断じて、幻想生物の一種ではない。 ……クルツと共にいないきみは。 きみは何だ。蜘蛛の姿をしたきみは。 僕の背後の“彼”と同じではない。クルツはきみと共に歩くことはできない。 威嚇するように音を鳴らす影へと。ギーは手を伸ばす。      ──鋼色の手が──   ──ギーの“右手”に重なって──      ──鋼の右手が──      ──虚空を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光がひとつ── きみがクルツの背後に現れた意味。それを、僕は知らない。 クルツは眠った。きみは、解き放たれてしまうだろう。 きみが備えるその殺意を。ここから外へ漏らす訳にはいかない。 ……だから。その前に。 ……きみを“ここ”で止める。 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界の違和感はない。道化師はいない。かわりに、異形の影が背後にあるとわかる。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。宙に浮かぶ蜘蛛の«奇械»。人に美しい何かをもたらすもの。 数式を起動せずともギーには視えている。撒き散らされる神経負荷を掻き消して、ギーと“彼”は歪んだ鋼鉄の中心を睨む。 ──右手を向ける。──己の手であるかのような、鋼の手を。 ──現象数式ではない。──けれど、ある種の実感が在るのだ。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。これまでの時と同じように。 『Rooooo…!!』 立ちはだかるギーへと影が叫ぶ。浮かぶ«奇械»の8つの支持肢の尖端に、あらゆるものを砕く紫電が集束していく。 ギーの“右目”は既に捉えている。蠢いて音を鳴らす«奇械»のすべてを。 雷の名は«忌まわしき暗き空»。摸造眼球の前へと集束する紫電は破壊の力。鋼も人も、触れるものすべてを焼き尽くす。 『Rooooo…!!』 放たれる紫電の槍。矛先を向けられるのはギーと“彼”! ──超高熱の紫電を纏った黒槍が迫る。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間以外には。 もしも槍を避けられたとしても、空間へと放たれる紫電の網がすべてを灼く。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。槍と紫電とが共に砕いたのは虚空のみ。 ……遅い。 『Rooooooo!?』 喚くな。 叫び声をあげた影を“右目”で睨む。影からは紫電が無数に放たれる。クリッターであっても崩壊させる灼熱の光。 しかし生きている。ギーはまだ死んでいない。 以前の自分なら死んでいたのだろうと思う。しかし、今なら、鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。荒れ狂う影のすべてを“右目”が視る!    ──すべての«奇械»は不滅──     ──物理破壊は不可能──      ──ザハークの場合──       ──破壊方法は──    ──宿主との“緒”を切断──        ──しかし──   ──既に“緒”は途切れている──  ──暴走状態にある顕現«奇械»の──     ──唯一の破壊方法は──     ──全箇所の同時圧壊── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 解き放たれた«奇械»ザハーク。物理効果を受けつけない強靱な鋼鉄の体。故に、確かに人間はこれを破壊できない。 唯一の破壊方法は“緒”の切断。人間と異形の影とを繋ぐあの細い“緒”だ。 だが、それは既に虚空へと消えている。破壊方法は存在しない。 全箇所の同時圧壊。それだけが、最後に残された顕現の否定法。 しかし«奇械»の体は銃弾も刃も通さない。故に、絶対に、人間はこれを破壊できない。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている!──“右手”と連動するかのように! 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “王の巨腕よ、打ち砕け”  ───────────────────! ──打ち砕き、粉々に消し飛ばす。 ──鋼鉄を纏う王の手。──それは、怪物を破壊する巨大な塊。 ──おとぎ話の、鉄の王の手。 押し開いた鋼の胸から導き出された鋼の“右手”は、超高密度の質量を伴って蜘蛛型の胴体と8本の脚を瞬時に破壊する。 叫び声を上げる暇もなく、超質量に圧された«奇械»は崩壊した。 全身のあらゆる部位を。ばらばらに、粉々に、打ち砕かれて。 凄まじい振動を、爆砕するように残して。暗闇の地下室を揺らして── ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 ……なるほど。 彼の言うことを聞いてしまったのか、ギー。黄金三角を以て水平角を維持するよりも、それは困難な穴掘りとなることだろうさ。 遠き空の下で猛る雷電の戦士の生き様か?それとも、仮面に依りてすべてを嘲笑う茫洋なりし黄昏の真似事か。 お前はやはり狂っているようだ。この偉大なる土掘りにしてランタン持ち、銀の機関と鍵を求めしランドルフよりも。 ……。 ……お前にできるのか。その土は、お前が思うよりもひどく硬い。 「……先を越されたか」 「だが、てめえはまだまだだ。 生かしてやっているうちは甘すぎる」 下層第4層のモノレール駅前。行き交う人混みの中で佇む男の影がひとつ。 手足を黒で覆った姿。男は、まるで影のようにも見えて。 ……一番新しいザハークが壊れたか。余計なことをしやがって。 そいつはてめえにくれてやるよ。ドクター・ギー。 運があったな。だが、次はこうは行かない。 ──そうだろう、グリム=グリム? 舌打ちだけを残して。黒衣の男は、路地裏の闇へと消えていく。 ──そして夜が訪れる。 彼が好きだと言った灰色の空は暗くなって。上層のこの区画にいっそうの静寂が充ちる。 サラは窓辺に立って、僅かな灯りだけが見える上層を眺める。 ……空が好きだと言うけれど。あたしは、夜の町の灯りのほうが好き。 暗い町のほうが好き。誰もいない、この町だとしても。 ……誰もいないほうが。あなたに、あたしは、素直になれる。 返事はない。眠りを示す息さえも聞こえなかった。 窓に映った彼の顔をサラは見る。動くことのない、瞼を閉じた彼の表情を。 ……あたし、待ってるわ。あなたのことを。 いつまでも。お婆ちゃんになっても。 おとぎ話のお姫さまみたいに。たとえ、生まれ変わっても。 あなたを待つわ。クルツ。 返事はない。それでもサラはひとつ小さく頷いて。 あなたが目覚めた時には、きっと、今より……。 もっといい女になってるんだから。ね、クルツ。 ──返事はない。 ──それでも、サラは小さく頷いて。 ──私は、いつも目で追っている。 私へ手を差し伸べた少女のことを。薄赤色の瞳をしたあのひと。 ──キーア。 私は、一日の殆どを待機状態で過ごす。だからこそ。目覚めている時は、必ず。見つめてしまう。 私を人間だと言ってくれたから。なぜ、そんなことが言えたのか。なぜ、そんなことを言ってくれたのか。 わからないから。だから、私は、決めた。 キーアの傍らにいよう、と。彼女が許す限り、見つめていようと。 迷惑そうな表情を少しも見せずに、今日も、少女は私に告げる。 「おはよう、ルアハ」 私は、眠っている訳ではないのに。それでもキーアはそう言う。 そう言ってくれるのだ。おはようと、人間へそうするように。例えそれが、朝でなかったとしても。 おはよう、と。そう言って微笑んでくれる。 脳の一部しか生体部分は残っていない、多くの人が鋼鉄の人形、怪物と呼ぶ私の体。 それなのに、彼女は微笑んで。かつて私が確かに人間であった頃に見た、父や母と同じ表情を、確かに、浮かべて。 ……だから。 だから、私は、今日も彼女を見つめる。なぜそうするの、と言葉にせずに。あなたは誰なの、と言葉にせずに。 ……キーア。 ……ただひとりの。 ……私を人間だと言ってくれたひと。 今日は遠出をする、とあの男は言っていた。だからキーアには留守番を頼むと。 例によって、だ。男の行動傾向の幾つかを私は把握していた。最下層区へ赴く際、男は少女を置いていく。 気付かれていないと思っているのだろうか。最下層の人々の傍らには、いつも、無数の“死”が色濃く漂っている。 連れ歩けば、少女に死を見せることになる。それを避けているのか。それを嫌っているのか。 きっと両方だ。それは男の、あの巡回医師のエゴだろう。 少女が気付いていないはずはない。鋭く、彼女は人の心を見る。この私の脳に残った心さえも、見たのだ。 「……またお留守番だなんて。 ギーは、そんなにあたしといるのが嫌?」 「……ううん。嘘、嘘よ。 キーアは、困らせたりしないわ」 「いってらっしゃい」 「気をつけてね、ギー」 そう言って、少女は笑顔で見送った。男は「遅くなる」とだけ短く言い残して。 それでも少女はひとつの条件を勝ち得た。すなわち、こうして出歩くこと。 食糧の買い込みのために、私を伴って雑踏街を歩くことを認めたのだ。だから、今、この私と少女は、ここにいる。 無限雑踏街の外れ。機関工場が数多く溢れる地区の近辺。 もしも出歩くのが少女ひとりであれば、男は許可しなかっただろう。都市は、ひとりで歩くにはあまりに危険だ。 けれどこの私がいれば。少女ひとり程度は、守ることができる。 書庫ビルディングの管理者へと偽装するために両親が私に施した強化手術。肉体の90%以上の数秘機関への置換手術。 それによって、私の肉体は鋼となった。戦闘用の数秘機関はなくても、極度に強力な個体以外なら逃走が可能だ。 この少女を抱えてでも、買い込んだ食材を捨てれば何とかなる。 だから、こうして外をふたりで出歩いて。買い込みを済ませて。今はここにいるのだ。 へっへー、まーたぼくの勝ち〜♪これでさんれんしょーだもんね、えへん! ポルン、ビリじゃない…。えへ、ごめんね、おねえちゃん…。 ああん、またルポに一番取られたぁ。こーんなにせまいところで隠れてるのにぃ、どうして差がでちゃうの…? あん、また見つかっちゃった。ルポもポルンもパルも、うまいのね! ぜんぜんうまく缶を蹴れないわ。だ、だんだん悔しくなってきちゃった…。 次は負けませんからね。お姉さん、今度こそ本気出しちゃうわ。 ……買い物帰りに遭遇したのだ。……この、小さな彼らと。 まず私は小型の生体反応を発見した。映像として認識されるその熱量塊は、彼らの生命力の暖かさを私に伝えてくれる。 言葉にした途端、少女はとても嬉しそうな笑顔を浮かべて。 「こーら、またこんな時間に出歩いて!」 叱っている言葉なのに声は笑顔で。それを指摘されると、少し怒った顔をして、ひとしきり彼ら3人を叱る素振りを見せて。 いつものように工場へと彼らを送ってから帰宅するかと思ったものの。 ……予想外だった。……あの男が、今日はいないからだろうか。 「それじゃあ、30分だけ。 30分だけお姉ちゃんと遊びましょ?」 「そしたら一緒に親方に謝ってあげる。 ね、パル、ルポ、ポルン?」 ……ああ。……その声、その口調。 少しずつ思い出すことがある。この少女といると、まるで、10年前の“私”を取り戻したかのような。そんな。 そんな気持ちにさせてくれる。その声、その口調はまさに私の記憶の。 ──まるで母のようで。──ルアハは、脳にこびりつく記憶を思う。 だから、私はこの人といると決めたのか。見つめていると決めたのか。 えへへ、でも、どーかな〜。キーア姉ちゃん、缶蹴りよわすぎー♪も、どこにいてもわかっちゃうんだよ? うう、ほら、場所はこの路地限定で……。隠れる場所は限られてるから、それで……。見つかっちゃう……? …ちがう、かも。 …あのね、キーアお姉ちゃん、そのぅ…。 ルアハが隠れないからすぐわかるよ♪見つけやすい! ??? ぜったい、ルアハが見てるほうにお姉ちゃんがしゃがんでいるもんねー。 え。ルアハ? はい。 ……うん、わかったわ。ルアハ、次は一緒に隠れてちょうだいね。 ワタシのサイズではこの路地の木箱や樽、円筒缶の陰には隠れられません。 ……なるほど。た、確かにそうよね。 じゃあ、お願いっ。今は、キーアのほうを見るのを── いいえ。目を離しません。 今だけでいいから……。 ギーからの命令が受諾されています。あなたを、現在のワタシは保護しています。 残念ですが、キーア。命令の解除にはギーの確認が必要です。 ああん、それじゃ勝てないぃ。せめて一勝、パルにもう負けたくないのっ。 入力は受け付けません。 ……うう、てごわいわ、ルアハ……。 ……嘘をついて、ごめんなさい。……キーア。 私はあなたを見つめると決めました。あなたの困る顔を見るのは、苦しいけれど。 でも、こうすることが。今の私のすべてであると、私は決めたから。 ……じっと見つめて。 ……次の缶蹴りも、少女の負けになって。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段を昇り続けるあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……収穫が失敗した今。……目的のためには新たな供物が必要だ。 あなたの目的を果たすためには、だ。……我があるじ、孤独なる大公爵アステア。 さあ……。あるじよ、どの程度……。 ……あなたの渇望はどの程度保つかな。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ──ワインは、長くは保たない。 この都市ではワインの類の寿命はごく短い。年数を経た品であれば、特に。 問題となるのは決して品質だけではない。変異してアルコールが未知の成分となり、毒酒となることもあるにはあるが。 多くは10年の間に破損してしまったか、既に誰かが空にしてしまったのだ。 都市が歪む前の、10年物の酒。それは人々に過去を思い起こさせるから。 だから、どんなに高価な値が付こうとも、クリッター災害で封鎖された下層区から発掘されれば── 発見者はすぐさま飲んでしまう。赤い雫は涙の代替品となる。 だから、貴重品となる。物によれば屋敷のひとつも買えてしまう。 舶来物は特に重宝される。都市の外からもたらされる品ということは、最低10年以上──隔絶前に来た品なのだ。 現在の都市でワインは製造されない。原料となる葡萄が、育たないからだ。葡萄はすべて毒の種に変異してしまった。 だからアティは、今日、機嫌が良かった。幻の味を味わえるかもしれない。 入手したと耳にしたのだ。別段、顔を見るのが嬉しいわけじゃない。そう、弾む自分の胸に言い聞かせながら。 「……一口くらいは」 「ご相伴に預かれるはずさ。 うん、それぐらいの関係はあるはず」 「ダメって言ったらキーアに泣きつこ。 うん、それならギーも逆らえないよね」 ──呟いて。彼のアパルトメントへ。 玄関扉をノックノック。今日は鍵開けをせずに、礼儀正しく。 こーんにちはっ。ギー? アティ、こんにちは。ご機嫌よう。ちょうどいいタイミング♪ あ、えへへ。そう?ちょうどいいタイミングだったかな? そうなの。お昼を作り過ぎちゃって。ギーのぶんまで作ったのだけど、帰ってこないから冷めてしまいそうなの。 あのね、あのね。ゆうべの市場でね。第3層から流れた合鴨が安く売っていたの。それでね、香草の詰め焼きを作ってみたの♪ 合成のお肉じゃなくて、養殖物!でもね、市場のおじさまが安くしてくれて。 でも1羽はキーアには多くて…。どうぞ、あつあつのうちに召し上がれ♪ わお、合鴨まるまる一羽?それってごちそうって言わない!? ギーはいないんだ?じゃあ、悪いけど御馳走に── ──待て。──ギーはいないと、少女は言った。 あれ?ギーは不在? そうなの。遅くなるって言ってたけど…。きのうから帰って来なくて…。 …あれ?きのうから、帰ってこない? アティは首を傾げる。香ばしい鴨の匂いで集中力が途切れそうになるけれど、ギーのことへと、切り替える。 あの故買屋の老爺は言っていた。とっておきの品を数式医に渡してやったと。 その情報を得たのは先刻。故買屋が“とっておき”を渡したのが昨夜、そう聞いているし、一応は情報料も払った。 フィクサーを自称するあの老亀は、金だけは裏切らない。それが彼の誇りだ。得た情報は、決して、嘘ではないはずだ。 (……もしかして、早合点) 舶来物の、西享製の10年以上は確実なワインが老亀の手元へと流れたという話。そうアティは聞いたのだ。 ワインという“お宝”を得たはずの老亀がとっておきの品を数式医に渡したと言った。ギーに、だ。 ならばワインはギーに渡ったのだと。思ったのだけれど。 ……キーア、あの、えっとさ。 なあに? ワインは? ──率直に。アティは訊ねてしまう。 ワイン? あ、西享のお酒。それならきのうスタニスワフのおじさまに呼び止められて……。 ギーがいないのに受け取るのは、駄目ですから、って言ったのだけど…。 でも、おじさまったら、これで巨大な貸しひとつだからな、って、機嫌よく笑って仰るものだから、つい…。 ありゃ。キーアが受け取ってたのか。ギーだとばっかり。 ………。 ………………ん? 確かに“お宝”はギーの家に届いている。ギーに渡したというのは、かいつまんだ話? そんな曖昧なことを老亀は言うだろうか。“とっておき”をギーに渡した。“お宝”のことと同義のものか。 ──別のもの。──ふたつの品を老亀はギーへ? ……頭こんがらがってきた。 うん、キーア。お昼を御馳走になるよ。食べれる時に、食べておくのが荒事屋さ。 ワインも一緒に一緒に飲んじゃう?ね、キーア? だめです。飲む前にギーにお伺い。ね? そりゃあね、まあね。勿論あたしもそう思ってたさ? ところで、キーアはひとりなの?この家にひとりきり? うん? ……ルアハは? ……私は見つめている。横顔を。 ……いつもと違う空気の中で。……いつもと違う景色の中で。 ……いつもと違う、その横顔を私は見る。……彼の横顔。 ……ギーという男の横顔。 ……それは、下層の住宅区域ではなく。 ……それは、無限雑踏街でもなく。 ……それは、上層階段公園でもなく。 ……ここ。都市上層。……貴族たちの城、上層貴族区。 ……その、さらに上部。……都市の、恐らくは頂上にあたる場所。 ……都市上層、特1級貴族区。 ……特1級貴族はひとりしかいない。……すなわち、都市インガノックのあるじ。 都市の王。現象数式をもたらした天才碩学。都市法による死を司る支配者にして殺戮者。ただひとりの大公爵。 私やあの3人の子の命を救ったことになる、数秘機関なるものの提唱者。無貌の王、大公爵アステア。 青年とすら呼べそうなほどに若々しく、美しさを称えられていたのは10年前の姿。現在、大公爵の素顔を知る者は誰もいない。 それ故呼ばれるのだ。無貌、と。 ……その王が座すという邸宅。……そこに、私はいて。 ……そこで、ギーの横顔を見つめている。 ……不可解極まりないな。 いや。この場合、分不相応、か。僕らはいかにもこの場に不釣り合いだ。 ギーの呟きが聴覚素子に届く。確かに、ここは私たちには不似合いな場所だ。 豪奢なシャンデリアが吊られた広いホール。10年前には溢れていたペイパーバックに出てきそうな、大貴族の邸宅。そのホール。 装飾の塊であるシャンデリアの様式と大きさは、すなわち邸宅の主である貴族の王侯連合内での等級を如実に示してくれる。 これほどまでに豪奢な。連合皇帝と選帝侯を除けば、他にはいまい。これが、大公爵が有していた国内での力か。 都市が隔絶された今では意味のない、まさしく虚飾と呼ぶべきものか。 けれど、ここでは大公爵を褒め称える声。ホールに集った無数の男女の影。 「素晴らしいわ」「本当に」「何度来ても」「ワインも料理も一級品ですもの」「本当」「大公爵閣下に栄光あれ!」「栄光あれ!」 「舶来の、特に西享のものが素晴らしい」「ここにはすべてがありますな」「本当に」「あらゆる贅はここに集まる」「ああ…」 「乾杯!」「大公爵閣下に乾杯!」「素晴らしいパーティを開かれた閣下に!」「今宵も上層貴族を楽しませてくれる方!」 ……貴族たち。 ……私は、貴族を目にするのは初めてだ。……肖像などではない姿で。 まるで本当に人影そのものであるかのよう。誰も彼もが、同じ貌をしている。太っているかスマートかの違いしかない。 なんという不可解な場なのだろう。下層に充ちる景色からは想像もできない場。 ひとつの変異も見当たらない貴族たち、変異と樹化病を防ぐための数式紋が、幾つもの同じ貌の上に浮かび上がっている。 生まれながらに選ばれた人々。都市に充ちる下層民とは決定的に異なる命。 ……守られることを前提とした。……値段の高い命だ。 数式紋つきの金属鎧に身を包んだ上層兵が、彼らの命と安全を絶対に保証する。彼らは酒を飲み、笑っているだけ。 ……なんという不可解な場なのだろう。ギーと私は、完全に、場から浮き上がる。 ルアハ、入力だ。僕から離れないように。 もしくは、割り当てられた部屋からは決して外に出ないこと。いいね。この場の意図が、まだ何もわからない。 ……入力を受諾しました。ワタシは自己保全状態をとります。 アナタの護衛について。入力をお願いします。 いや、僕のことはいい。自分の安全を第一に考えてくれ。 はい。 危険を、私は感じていないけれど。貴族たちは私たちを見ない。 いいや、視界には入っているはずだ。見ないようにしているのか。私たちと彼らは明らかに“違う”。 同じなのはひとつだけ。ギーの右手の中にある一枚の真っ白な封筒。それと同じものを貴族の全員が携えている。 封蝋は、大公爵の紋章を象って。便箋は、異国である北央帝国製の上質紙。 ギーは«亀甕»の故買屋スタニスワフから上層からの届け物として手渡されたという。それを、上層兵は“本物”と判定した。 ……それは一通の“招待状”だ。……大公爵からこの場の各人へ宛てられた。 その1点でのみ、彼らと平等なのだ。その1点でのみ、この場は成立する。だから彼らは私たちを糾弾することがない。 本来であれば、上層階段に足をかけ、規定の座標を超えた時点で殺される。上層兵たちに。 けれどギーは生きている。私もそう。 そして、私の感覚機関は、この状況が決して夢幻の類ではないと告げている。すべて現実だ。 10年前に都市へやってきた赤い雫を飲み、笑い、称える言葉だけを述べる貴族たちも。私がこうして見つめるギーの姿も。 すべて現実。すべてが確かにここに在る。 ……けれど。……そもそも、何故? インガノックの支配者たる大公爵その人、それがなぜギーを呼ぶのだろう。この男に、何があるというのか。 上層へと進む特別モノレールの中で、ギーは静かに言った。ここまで昇るのは久しぶりだと。 貴族だったのですか、と私は問うた。彼は肩をすくめてこう答えた。 「上層大学に通っていたんだよ」 「医学部にね」 理由にはならない。そんなもの。 この場へいる理由にはならない。かつて存在した上層大学は、才在る下層民を拾い上げる学術施設だった。 大公爵との面識はギーにはない。上層との繋がりもない。きっと、あのスタニスワフのほうが余程。 それでもギーはここにいる。私は、こうして彼の横顔を見つめている。 ギーは静かに貴族たちを見つめている。その視線の意味はわからない。緊張は、状況の不可解さ故だ。 この無数の“貴族たち”へ対する彼の感情が読み取れない。感覚機関が伝える彼の熱量は通常のまま。 興奮状態にはない。つまり、怒りであるとかの類の感情はない。 ……何も胸に浮かばない。……不思議だ。 あの少女は、キーアは、こうして、いつも彼を見つめているのに。そこには、何かの意味があるはずなのに。 私は何も抱かない。そこには、ひとりの人間の男がいるだけ。 ……と。 ギーの視線が動く。笑う貴族たちのではなく、別の貴族へと。 それはホールへと現れた男性貴族だった。左右に上層兵を従えて。貴族たちも、その男を自然と見ていた。 しん、と静まりかえる。恭しく。ああ、そうか。 「お集まりの皆さま。 ご歓談の最中、失礼いたします」 「我らがあるじよりお言づてがあります。 どうか、ご静粛にお願いいたします──」 彼はメッセンジャーなのだ。大公爵そのひとの。招待しても、支配者は姿を見せないらしい。 「現在時刻13時。 これより“遊戯会”を開催いたします!」 高らかに男性貴族が告げると、演奏機関からファンファーレの音が響いた。なんともわざとらしく、且つ、貴族らしい。 男性貴族は一礼すると、静寂を破ってどよめく貴族たちへと続ける。 「明後日正午までの間、 ひとつのゲームを楽しんで頂きます」 「ルールは簡単」 「──この場の皆さま100名の中から」 「──“裏切り者”を探し出すだけ」 裏切り者? 「たったひとり紛れ込んだ“裏切り者”。 それを当てる推理のゲームでございます」 「館のあちこちには、証拠がございます。 ご招待の前に用意いたしました」 「証拠にはすべて、 大公爵閣下の印章が施されております。 そう、お手持ちの封筒と同じものです」 「証拠の殆どは事前に用意いたしましたが、 新しく加わる証拠もございます」 「それらを見つけ出し、用いて推理し、 たったひとり“裏切り者”を探すのです」 「証拠から、誰が“裏切り者”かを当てる。 ルールは、それだけ。 他はすべて自由となっております」 「あらゆることが──自由でございます」 笑っていただろう。私に、感情らしい感情が残っていれば。私に、かつてと同じに表情筋があれば。 ……自由。 ……そんなもの。……この都市で、最も忘れ去られた言葉だ。 ……誰も彼もが縛られているのだから。……そう。 ……あの少女以外の、誰もが。 ──息が詰まる。──耐えられないと思うほどに、だ。 ホール全体に充ちる香水と高級酒の匂いは、神経を極度に疲弊させていた。金の匂いだ。胸が悪くなる。 透明な高純度のガラス戸を開き、ギーは、ひとり、邸宅の庭園へと出ていた。 ルアハには自室へ戻るよう告げた。彼女は「はい」と短く告げて素直に従った。 邸宅で2日間を過ごすため割り当てられた貴賓室は、きっと彼女の姿に似合うだろう。何度か咳をしつつ、ギーは思う。 庭園の空気は澄んでいる。対照的だ。 裕福さそのものの匂いに充ちたホールと、上層階段公園と同等の清浄な庭園の空気。あまりに、異なっている。 冷たく澄んだ空気には、庭園に充ちる植物の放つ水分が感じられる。そうだ、あのクルツの邸宅のものと同じ。 「……あなたへの依頼」 「私の望み」 「この薬を」 「この苦しみを」 (……重いものを、託されてしまったな) 果たして偶然だろうか。この、大邸宅へと自分が招かれたのは。 クルツに託されたひとつの願い。それは、上層に充ち満ちて下層まで溢れる、アムネロールの流通と蔓延を、止めること。 自分にできることなど、何があるのか。そう思う暇さえなく。 ──ギーは今、ここにいる。──大公爵の、まさに手のひらの中にだ。 静けさに充ちる、緑の茂る暗い庭園。まだ昼間だというのにここは“暗がり”だ。大公爵の存在のように、陰に覆い隠されて。 アーチ状の建築物は門の名残か、それともただの装飾なのだろうか。 虚飾という言葉がギーの意識の中にある。上層すべてに感じるもの。この邸宅も例外ではない。 充ちる植物さえもが虚しく、軽い。上層階段公園には感じられる生命力がない。 ……証拠だと。 遊戯のために、僕を呼んだ。 馬鹿な。あり得ない。 ──右手に握りしめた“招待状”。──はっきりと、ギーが名指しされている。 便箋に書かれたメッセージは簡素なものだ。封蝋の紋章がなければ、信じはしなかった。荒唐無稽、だ。 『明日正午に上層区へ、 どうか、ギー様おひとりでお越し下さい』 『我が邸宅へご招待します。                アステア』 冗談にしてはつまらない。上層階段の途中に存在する“死の座標”、踏み超えれば、瞬時に生命が奪われる。 都市の常識、下層の常識。それを嘲笑うかのような封蝋の大公爵紋章。しかも、手渡したのはスタニスワフ老人だ。 手紙の真贋を確認するため、双子にも裏を取るよう緊急の依頼をして、荒事屋一組に別ルートの調査を依頼した。 翌日の午前中までかかったが、結果はシロ。本物の上層からの手紙だった。 結局、アパルトメントには戻らなかった。直接上層へと向かい、ルアハと遭遇した。 ……キーアは心配しているだろうか。 彼女の身の安全をルアハに確認すると、返答は意外なものだった。 「アティがいます。 部屋の保安については問題ありません」 昼間にアティがアパルトメントに来た。それは、予想外のことだった。 しかし、予想外なことはもうひとつ── ルアハは、なぜ……。  ───────────────────。 ──戦慄。 ──何かの香り。 呟きかけた声が消える。ギーは息を呑む。 一瞬で、大脳器官へと命令していた。1秒の遅れなく現象数式が脳内で起動する。神経の緊張状態を緩和しつつ、状況を把握。 誰かがいる。この庭園。確かに自分ひとりしか人影はなかったはず。 突然、気配もなくもうひとつ現れたのだ。人影。荒事屋並の気配殺しか。 上層兵ではないはずだ。あれらは確かに人間を凌駕する身体機能を備えているが、ギーの“右目”は瞬時に認識する。 彼らはあまりに生体部分を捨てたが故に。目立つのだ。 そう、まるでルアハのように。ささやかな命の煌めきは却って注意を引く。 (──誰だ。この感じ) (知っているぞ) (彼を……僕は、知っている……!) ──肌が総毛立つ。戦慄。──この感じは、以前にもあったはずだ。 ──クリッター。違う。──違うとも、ギーよ。──それは人の持つものだ、人だけが持つ。 ──そうだろう。ギー。──それは殺気と呼ばれるものだ。 (……ケルカン!) 人影。黒い姿が見える。認識する。あれはそう、間違えようもないあの男。 ──ケルカン。──万色に濁った紫煙をくゆらせて。 こちらには気付いていないように見える。しかし、ギーの全身が危険を伝えている。右手の指先が痺れる。 彼には暗がりがよく似合う。皮肉混じりにそう思うが、緊張は解けない。 ケルカン。もうひとりの«奇械»使い。 ──そう、黒色の死の使い。 彼は庭園をゆっくりと進んでいた。迷わずに。知っている場所を歩くように。 ──ギーにはわからない。──なぜ、彼がここにいるのか。 (いいや、理由は絞れるはずだ) (彼もここに招待されたか) (あるいは、仕掛けている側か、だ) 庭園の裏手を彼は目指しているようだ。逡巡の後、ギーは彼を追う。 隠形の心得が一切ないことが悔やまれる。彼には、恐らく気付かれるだろう。 それでも放ってはおけない。彼からは、死の香りが漂いすぎている。 (……もしも、彼が呼ばれたのなら) (誰かを殺すためか) 彼は言った。自分は都市の“巡回殺人者”なのだと。 誰かを殺すためだけに存在している。彼は、確かにそう言った。 では、ここへ来た理由もそうであるのか。誰かを殺すために来たのか。ケルカン。けれど、一体誰を。 ふと、黒い人影が立ち止まる。気付かれた訳ではない。いや、既にもう気付かれているのかもしれないが、違う。 認識できる。彼が立ち止まった理由。ケルカンの眼前に2m近い巨体があった。 鋼に身を包まれた姿はどこか«奇械»に似た印象をギーに与える。巨体の鎧騎士。それは、ホールにも配置されていた。 上層の安全を絶対確保し、侵入する下層民と幻想生物を殲滅する兵。 ──上層兵。──それが、ケルカンの前に立ち塞がって。 『ここから先は進入禁止となっています。 2日間、客人は敷地外には出られません』 『お戻り下さい』 邪魔だ。 『回答に対して疑問を提示します。 お戻り下さい。 この措置は、大公爵閣下のご命令です』 『これ以上の侵入は処刑対象となります』 『我々には権限が与えられています。 我々には人間を破壊する能力があります』 邪魔だと言ったろうがよ。木偶。 『あなたを処刑します』 うぅるせえんだよ、木偶ッ! ──光の軌跡が弧を描く。──美しく、濡れた鎌を思わせる黒色の光。 ギーの“右目”が認識する。他の誰にわからなくとも正しく把握できる。それは«奇械»のもたらした、死の能力か。 切断する鎌の黒い幻像。瞬時に上層兵を両断して、虚空に消える光。 ──そう、殺したのだ。──無敵と囁かれる機関人間を。 元は確かに人間であった者を。上層貴族の安寧のために身を捧げた誰かを。 ケルカン!貴様ッ……! ……ああん? おやおや、これはこれはドクター・ギー。なんだよ、尾行はもうやめか? 阿呆ヅラさげてノコノコついてきたなら、こいつみてえに殺してやろうと思ったが。タイミングが絶妙だぜ。 紫煙が吹き付けられる。茂みから姿を見せた、ギーに対して。 ……一歩遅ぇのは専売特許だな?残念ながらこいつは、もう、死んだぜ。 ケルカンは軽く肩をすくめて、転がる上層兵の頭を踏み潰す。跳躍力を向上させる機関靴が噴煙を上げる。 紫煙に噴煙が混ざる。庭園に、死の香りが立ちこめる。 為政者が自由と言ったんだぜ、ドクター。すべてだ。わかるか? すべてだよ。なぁ? ……その足をどけろ。ケルカン。 なんだよ、お前の弟かぁ?はは、随分とまあ似てないご兄弟で! カシャ、と軽い音。機関靴が兜を近場の茂みへと蹴り飛ばす。 この木偶の坊どもはな、とっくに人間とはかけ離れた生き物になってんだぜ。 良心とやらも痛まんさ。なあ、そうカッカしなさんな。ドクター。 きみの、あらゆる言葉は。僕には届かない。 ……きみは殺した。 奇遇だな。俺もだ。てめえの言葉は俺には届かない。 てめえは直そうとしすぎる。ボロクズを。てめえの言葉のすべては、糞だ。 ──殺人者。──正真正銘の特A級指名手配者。 それが、大公爵直々の指名で招かれている。平然と、人間をこうも簡単に殺してみせた。決してあり得ることではない。 あり得ることではないのだ。視界の端では、別の上層兵が近付いている。この黒い男を攻撃する素振りなど一切なく。 転がった“仲間”の死体を片づけて。何も言わずに去っていく。 ほらな。進入禁止はハッタリだ。なにもかも自由なのさ。 さあ、一緒にゲームとやらを楽しもうぜ。折角こうしてお呼ばれしたんだ。 せいぜい、謎とやらを解いてやろうや。大公爵のクソ面が拝めるかもしれねえぜ? 何もかもがおかしい。何もかもが幻影であるかに思える。 本当に、自分は今── 上層の邸宅内にいるのだろうかとさえ。 ……僕の悪夢だ。きみが、こうして実在していることが。 奇遇だな。俺もだ。 飽きもせず、他人の命で自慰にふける男。ドクター、てめえは俺の悪夢だよ。 ……気が合うな。 ハッ!まったくだ、ドクター! せいぜい、楽しもうぜ!ゲームに勝ったら褒めてやるぜ、ギー! ……見てしまった。 ……私は、確かに今、目にしてしまった。 今のは何?今のは何?強化された私の視野、視点の先で何が? 理解できない。私の感覚機関は確かに視覚情報としてのそれを認識したのに。あれは、何。 収集した聴覚情報には、会話するギーの声がはっきりと残っている。名前。あの男、あれをした男は、ケルカン。 ケルカン。なぜ、彼はああしたの。 ……殺したの。 ……邪魔だと告げる声のままの表情で。……ひとつの人形を破壊した。 私と同じ、90%以上の機関人間。戦闘用に調整された数秘機関の塊。元は人間だった、僅かな“自分”を残す兵。 機関工場で熱切断される鋼鉄のように、ナイフで切り取られるバターのように私と同じであるひとりの“彼”が、死んだ。 殺された。あんなにも簡単に。 ……なぜ。……見てしまった、私は。 ギーの入力を保留状態にして、彼の背中を見つめていたはずの私の視界。あのケルカンが現れて、殺してしまった。 顔。見たことのないあの顔。私は半ば自動的に情報空間へと接続して、彼が“何者”であるのかを検索していた。 ケルカン。特A級指名手配者。5年前までは都市法の執行官であった男。 ……殺した。……この私の視界の中で、当然のように。 ……初めて目にした。……人が死ぬ瞬間。人が人を殺す瞬間。 突然の死が数多充ちるこの都市にあって、今まで目にする機会がなかったのはやはり、この体をくれた“親”のお陰なのだろうか。 私はずっとあそこにいたから。閉ざされた書庫ビルディングの中にいて。だから、こんなもの、目にすることさえ。 情報としては知っていた。視覚情報も情報空間で得たことはある。 ……けれど。……初めて私の目は、それを見た。 生理的反応はない。嫌悪感も何もない。ただ、見てしまった、という意識だけ。 あんなにも迷いなく。緊張も、興奮も、まったく見せずに。 「だめ」 「殺さないで」 「だめ、ルアハ。あなたは」 ……なぜ。……なぜ? ……ケルカン。……命は、彼にとって、そんなにも……。 胸の中で何かが動く。駄目だ、と私は私に言い聞かせていた。 この感覚は少女だけへ向けられる。私が感情として抱く“興味”はキーアだけ。 ……だから、私はあそこを出た。……書庫ビルディングという檻の外へと。 そう私は知っているし、決めている。それは当然のこと。現在の私の活動意義。キーアへの“興味”なくして私は、ない。 それなのに。あの、黒い姿から目が離せない。 現象数式で編み上げられた数秘機関の目は、彼の情報をリアルタイムに私へ送り続ける。熱量、正常。予想感情値、正常。 ……キーアの横顔を思い出す。……私を人間だと言った、たったひとりの。 ……どうして、自分はここにいるのだろう。キーアと離れないと決めたのは自分なのに。なぜ、ここにいる。 なぜ来てしまった。こんなところにいなければ、私は。 殺人を見ることもなかった。あの黒い男を見るはずもなかったのに。あんなもの、私は、見たくはなかった。 ──体が動く。──ルアハの体はひとりでに。 ……私の体は脳の入力以外は受け付けない。……そんなことは、当然のことなのに。 ギーと別れて歩いていくケルカン。私はその背中を追う。歩く。体が、勝手に。本当に、これ以上の何をも見たくないのに。 「だめ」 「だめ、ルアハ。あなたは」 ……駄目なのに。……私は、キーアの傍らにいなくては。 私は隠密状態となって彼の背中を追う。意識と行動とが、切り離される。 くしゃりと音を立てて何かが潰れてしまう。それは、私の手の中の“招待状”だったか。それとも。 ……それとも、別の、何か。 ──それとも、別の、何か?──それは何だい。可愛いルアハ。 少女の横顔が見えた気がした。ほんの、一瞬。 花瓶の中にそれはあった。下層の何処よりも澄んだ水の中に浸されて。 これは何だ。手のひらに収まる煉瓦の破片。かなりの年数を経ているように見える破片。瓦礫以上の意味があるようには、思えない。 他を集めれば理解できるということか。それとも、別の、何か。 たとえば、これが。何の瓦礫であるかということ。 ……わからないな。少なくとも、これひとつでは。 刻印はあった。煉瓦の破片の表に大公爵紋章。 脈動する命、滴るワインの赤色の刻印。水溶しないインクでつけられたそれは、濡れると不気味に光を照り返す。 これが第一の“証拠”か。花瓶の中の。 用意されたすべてのゲストの部屋には、こうして証拠があるのだろうとギーは思う。ひとつひとつは別の“証拠”であるはずだ。 複数人を招待する意味があるはずだ。ギーはそう前提する。 無論、すべて同じということもあり得る。全員が同じスタート地点に立つゲームも。けれど、それは、ここではあり得ない。 あり得ないという確信がある。すべて同じところから始まるものなどない。それがこの都市、この上層、すべての象徴。 大公爵の人となりはわからない。把握できていればゲーム内容も類推できるかも知れないが、現在は、仮定でしかない。 ならば、とギーは仮定する。随分と悪趣味なゲームを始めたものだと。 不可解な“招待状”。不可解な煉瓦の破片、瓦礫の一部。 不可解な都市には相応しい。悪趣味なところも。 瓦礫を裏返す。黒ずんだ染みは、かつて真紅であったもの。 ──血の跡だろう、ギー。──人間の。それも、かなり以前のもの。 ──10年前。──あの地獄に充ちた無数の瓦礫のような。 やはり、相容れそうにないな。大公爵閣下。 なぜ彼が自分を招待したのか。ケルカンを、ルアハを集めて何を目論むか。 理由はなにひとつわからない。まさか«奇械»を集めた訳でもあるまい。ルアハにはかつても今もその気配はない。 (ルアハの部屋の“証拠”は) (……いや。やめよう) (部屋の外に出すことはない。 彼女は、ゲームの外にいるべきだ) 彼女には「部屋を出るな」と告げておいた。ケルカンにさえ出会わなければ、ここは都市の中で最も安全な城。 皮肉にも上層兵が守ってくれる。都市法が正しく適用されていたとしたら、彼女は、彼らに殺されていたというのに。 ここは皮肉に充ちている。ギーが、上層へ足を踏み入れること自体が。 (こんな大層な皮肉に付き合うのは、 僕だけでいいだろう) (さて──) 割り当てられた貴賓室を出る。コートは脱がなかった。ここは“外”だ。誰かの家の中だとは、ギーには思えない。 先刻のホールへの道筋の途中に位置するエントランスで、貴族の男女を見つけて。ギーは咳をひとつ。 奇異の目に晒されるのは慣れている。かつては下層でも、誰も彼もがそうだった。 頭のおかしい巡回数式医。死を嗅ぎつけて飛び回る卑しい猛禽の如く。そういう視線には、既に、一切を感じない。 「下層の蠅が。 何をたかりにやって来たのか」 明確にそう告げられても、ギーは怯まずに貴族たちへと話しかける。 (さあ) (“証拠”を集めてみようじゃないか) 遠い過去、10年前の上層大学で教わった社交知識が多少は役に立つ。数は少ないが、大学の同級生には貴族の子弟もいた。 彼らに付き添って、酔狂な青年貴族の社交界に顔を出した経験。まさか、10年も過ぎて、役に立とうとは。 ……何ですの、この匂い。気が遠くなりそうなほどの悪臭……。 ご安心されよ、レディ。下層民は貴族への接近を許されてはいない。これ以上は、このどぶ鼠も近づきはしない。 僭越ながら。ここではあらゆることが自由であると。 法は法だ。首を刎ねられる前に、立ち去れ。下層民の若者よ。 失礼いたしました。 ──さあ、ギー。──この貴族たちから始めよう。 「──失礼いたしました。 どうか、下卑の身の失礼をお許し下さい」 「私は、卑しき下層7級市民。 大公爵より教えを賜った«数式医»」 「かつては貴族の身にありながら、 恋のために下層へと落ちた、愚か者です」 「どうかお見知りおきを。 尊く美しき、紳士淑女の皆さまがた」 ──嘘を、すらすらと伸べるものだ。 ──多くの貴族たちが顔を顰める中。──若い女性貴族が興味の感情を覗かせて。 ──さあ、ギー。──まるで幻影の如き影法師に囲まれて。 ──ゲームを始めてみようか。 ……私は彼を見つめている。 ……彼の横顔を見つめている……もう8時間。 彼が気付く素振りはなかったはず。私の感覚機関は、彼の眼球運動を捉えて、私の位置へと注意を向けないかを報せる。 大丈夫。気付かれていない。見られていない。 人間は主に視覚と聴覚を感覚器とする。だから、見られなければいい。だから、聞かれなければいい。 私の内部の数秘機関の駆動音は、人間の可聴域をずっと下回っているはず。彼の聴覚が変異していなければ、大丈夫。 足音も立てていない。嗅覚については……これも恐らくは平気。 私に体臭はない。汗を、この鋼の体はかかないから。 大丈夫。彼を、私は見つめていられる。 ──そうかな。果たして。 ……そのはずだった。……その時までは、私の中では確かに。 まず、腕に何かの感触があった。すぐには気付かなかった。 痛覚を持たない私。触覚──それは視覚・聴覚情報よりも遅く脳に届く。 ……ぐい、と引っ張られて。……彼を見ていたはずの視界が揺れて。 8時間と2分もご苦労なことだ。なんだ、てめえは。 ……腕を掴まれていた。……彼に、ケルカンと名乗ったこの男に。 感覚機関は嗅覚情報を伝えてくる。煙草。この男の体から漂う匂いは、ひどく濃い。煙草の。何かを覆い隠すような。 男の瞳が私を見ている。体に搭載された数秘機関は、沈黙したまま。 伝えてこない。──私の、生命活動の危険を。何も。 変わった気配をしている女だな。上層兵では、ないな。 お前……。 ……私を見ている。男の目が。……私の爪先から、腹、胸、そして顔。 最後に、帽子を一瞬だけ見た。私の帽子。父と母が私にくれた最後のもの。 人間か。 ──人間と。──そう、確かにそう言ったようだ。 ──どう思う、ルアハ。──これで“ふたりめ”が現れてしまった。 ……に……。 ……にんげん……人間……? ……だれが……。……どこに、人間が、いるの……。 あァ? 俺の目が誤魔化せると思うな、小娘。人間ごときが。 男が私の顔を覗き込む。背が高い、きっとあのギーよりもこの男は。 まじまじと見つめられる。私の肌を。瞳を。作り物である、この私の体。鋼鉄の上に人造皮膚を貼り付けられた肌。 言わない。この男はまだ言わない。私を見て、言わない。 ──何と言わない? ……人形と。……鋼鉄人形と、私に、言わない。 なぜ。 なぜ、ですか。 ……なぜ、わかったの。……わかったのは少女だけだった。今まで。 ……そのはずだったのに。……この男は。 何を質問しているのかわからん。殺されたいのか? いいえ。ワタシは活動停止を望みません。 そうだろうな。俺も今は殺さない。お前は、俺にとっては初めての“証人”だ。 ……証人……。 ここで見た中では、お前とドクターだけだ。顔があるのは。 ? 何を……言っているのだろう。彼は、明らかに、この私を警戒していない。 証人とは恐らくゲームに関する言葉。発音のニュアンスに意図的な強調があった。この邸宅で開催されるゲームの“証人”か。 けれど、私は違う。私はゲームについて関わってはいない。 私のしたことは……。ギーの入力を拒否してこの男を追ったこと。 ……ただそれだけ。……それ以外のことは、何もしていない。 ……ただ見ていただけ。……一緒にいると決めた少女を放ったまま。 俺が目的を遂げるには、腹の立つことだがてめえらの協力が要る。 ……目的、とは。 本物の貴族を探すことだ。お前、知らないか。 ……いいえ……。 役に立たない小娘だ。いいか、貴族どもを見かけたら俺に伝えろ。あんな連中じゃない、本物の貴族連中をだ。 なぜ。 なぜ、貴族を探しているのですか。 殺すためだ。俺は、貴族たちを殺しにここへ来たのさ。それが俺のゲームだ、こんなものは違う。 ──砕けた何かを彼は地面に叩きつける。──そう、それは、煉瓦だ。 ──亀裂の入った煉瓦の表面。──そこには、大公爵紋があった。 俺は、誰かを殺すため以外には行動しない。それが俺の定めた俺自身のルールだ。 ……誰かを殺す。……ああ、彼は言っているのだ。 ……人間を殺すと言っている。 ……なぜ。……なぜ、あなたは殺すの。ひとを。 とは言え、貴族どもを殺すために、上層兵を何百も相手にするのは面倒だろう? 大公爵の“招待状”は絶好の機会だと思ったんだがなァ……。てめえも見てないとなると、やれやれ。 そう言って肩をすくめる。その仕草は、どこか、ギーを思わせる。 貴族なら無数にいたはずです。ホールにも、各個室にも。 いいや。いないね。 ひとりもいない。俺が事前に用意しておいた情報と、ここの貴族もどきの顔がひとつも一致しねえのさ。 お前は知っているのか?奴らは何だ? ……知らない……私は、そんなことは一切知らない。 連中は本当に貴族連中なのか?どいつもこいつもつかみ所のない。 まるで影法師だ。どいつを殺せばいいか、わからん。 影法師……。 私は首を傾げる。疑問を示すために。この男、ケルカンは何を言っているのか。 ……わからない。……影法師、どいつもこいつも? ここに集った貴族たちの顔の見分け?そんなもの、つくはずがない。 私に搭載された感覚機関は常に正確だ。彼らは、皆、同じ顔をしている。 ……ここには、4種類しかいない。……7時間前からずっと。 ……4種類の影法師があるだけだ。……男女2種類、体格2種類の。 ──やがて。 ──ひとつめの夜が訪れた。 ゲーム開始から12時間が経過している。ゲーム終了まで36時間弱か。 幾人へも声をかけてきた。けれど、ギーには見分けが付かない。どの貴族も似たような顔をしている。 同じ相手に何度も話しかけてしまうのは大幅の時間のロスだ。貴族の話は長すぎる。 それでも、辛抱強く対話を続けることで幾つかの“証拠”と情報とは集められた。──たったの7つ。 初日の夜。現時刻までに得た“証拠”の情報は7つ。 ひとつは、最初に発見したもの。すなわち瓦礫の一部と思しき煉瓦の小破片。 ひとつは、植木鉢の玩具。ゼンマイで枝と幹が動く植物を模した草だ。 ひとつは、ドラゴンの玩具。これもゼンマイ仕掛けで羽と口が稼働する。 ひとつは、小さな猿の玩具。これもゼンマイ仕掛けで打楽器を打鳴らす。 ひとつは、ブリキの昆虫玩具。これもゼンマイ仕掛けで羽と口が稼働する。 ひとつは、ブリキ人形の玩具。これもゼンマイ仕掛けで腕と目が稼働する。 ひとつは、熱されて歪んだリボン。ひどい高温に晒されて殆ど原形を留めずに。 ゼンマイ捻子がついた玩具は、クリッターのことを暗示しているのだろう。瓦礫の破片も熱されたリボンもあの悲劇か。 すべての“証拠”が真実であるとして、示すものは何か。現時点でわかるのは10年前の«復活»に関わるということか。 ──10年前の«復活»を示しているか。──悪くはない推理だ。 ……真偽はともかく。……幾つか“証拠”を得られたのは確かだ。 (だが、効率は良くない) これらのうちのたったみっつだ。探索の結果、実際に手中に収められたのは。 煉瓦の破片と植木鉢玩具とドラゴンの玩具。それ以外は、話を聞き出しただけ。すなわち確定された情報ではない。 ──やはり、探偵の真似事も限界か。──ドクター・ギー。 話術だけではどうにもならない。散らばった“証拠”を見つけ出す捜索の技術も学んでおけばよかったのだろうが。 どう学べというのか。荒事屋のハッカーに弟子入りでもするか? 疲労だけが募っている感覚がある。そもそも、喋るのは得意ではない。それがこんなに長い時間ずっと話していた。 機嫌を取り、相づちを打って。作り笑顔だけは浮かべられなかったけれど。 殆ど喋ることをしていなかったこれまでの自分であれば到底無理だった。 キーアに出会ったお陰だろう。会話する習慣を、少しだけ取り戻していた。 今夜はこれで最後にしよう。この、目前の、女性貴族の相手を終えたら。 話しかける相手のうち、男性貴族は殆どこちらの言葉を聞き入れようとはしない。自然と女性へ語りかけることになる。 ひどく珍しいものを見るような、10年前にはあった動物園の珍獣か何かを目にした時のように夫人たちは反応を返す。 ……目前の女性貴族もそうだ。……ガバリス伯爵夫人と名乗った女性。 「あなたが私に声を掛けたのは幸運ね」 ……幸運か。 「わたくしの知るところ、わたくしが最も ゲームの“証拠”を集めているのだから」 「驚いた顔も可愛いわね、ぼうや。 他愛のないぼうや。 貴男は、今までに、一体幾つ集めたの?」 「へえ、そう、7つ。なかなかね」 「でもわたくしには遠く及ばなくてね。 わたくしは23の“証拠”を集めてよ? それも、すべて自ら獲得したものですの」 ……それはそれは。……貴方には敵いそうにありませんね。 ……さすがはガバリス伯爵夫人。……名声を持つ方は、情報入手すら容易だ。 「わたくしが一言述べれば、 差し出す殿方が幾人もいらっしゃるの」 「ううん、そうね。 あなたの7つを教えて下さるのならば、 わたくしはひとつ教えて差し上げるわ」 「そう、たったひとつ」 「ご不満なようなら構わないのよ? わたくしは、別段、困ることもないし」 「……そう、そう。可愛らしい坊やね。 素直に頭を下げるのは臣民の義務だわ」 「それでは教えてあげる。 ひとつは、布の切れ端だったわ」 そう言って伯爵夫人が見せたもの。それは、かつては白かったはずの布きれだ。 服の切れ端のようにも旗の一部のようにも、布巾や手ぬぐいの一部のようにも、見える。何だ、これは。 ギーの脳裏に浮かんだのは白衣。それは、10年前に見慣れていたものだ。 まるで今でも未練を残すように、エラリィが常に身につけて離さないもの。かつては、ギー自身も、それを着ていた。 (さて、困った) (布切れはいいが何かは不明だ) (これを“証拠”として数えるか。 それとも、さすがに、不確定すぎるか) 伯爵夫人の策略との可能性も否定できない。このゲームは、参加者同士で妨害が可能だ。すなわち、嘘をつけば。 嘘。都市に充ちるもの。いつかのキーアの言葉を思い出す。 夫人の手にある布切れには、大公爵の紋章がない。裏返されているのか、それとも、真偽は自己判断せよと言うのか。 今日はまだ現象数式の“右目”を一度も起動できていない。体温を計れない。嘘をついているかの軽い判断も、できない。 と──  ───────────────────。 何かの音がした。破砕される硝子のような。高音であったのは確実だ。同時に悲鳴のようなもの。 「あらあら、今の音は何かしら。 それに誰かの悲鳴も聞こえたようね?」 扇で口元を覆うガバリス伯爵夫人。彼女は、さほど興味を抱かなかったらしい。 伯爵夫人に一礼すると、ギーは音の方向へ向かった。最初のホール。それは、この廊下を進んですぐの所にある。 まずは一時保留だ。伯爵夫人の示す“証拠”の真贋は。 ──時が止まったかのように見えるだろう。──ギー。その場に、動く者はいない。 そう、動く者はいなかった。ホールには。およそ20名以上はいる貴族のすべてが凍ったように動かない。 息を潜めているのだ、と理解する。貴族たち20名は人だかりを成していた。 その中心にあるのは横たわった人影。誰だ。貴族だ。太った男性貴族の影。彼は眠るように仰向けに横たわっていた。 人だかりを掻き分けてギーは彼を見る。死んでいた。心臓を一撃。 ……死んだ貴族がひとり。……胸に突き立っているのは銀色の光。 ……誰だ。……誰が殺した、誰の死体なのか。 「テルトゥリア男爵だ」 誰かが言うのがギーの耳に届いていた。 「恐ろしい」「まあ恐ろしい」「恐ろしい」「誰がこんなことを」「誰がこんなことを」「大公爵の邸宅で」「誰が」「こんなこと」 「恐ろしい」「恐ろしい」「恐ろしい」 静寂を破って囁き声がホールに充ちていく。ざわざわと、口々に、恐ろしい、と囁いて。 声のすべては貴族たちのもの。彼らをギーは見る。……なぜだ。 言葉では「恐ろしい」と囁く夫人たちの口元はしかし、笑みに歪んでいる。なぜ。表情はどれも似通って。 僕は医者です。彼を、検分させていただきたい。 返答はなく、ただ人だかりが道を空けて、ギーは男性の人影の傍らにしゃがみ込む。男は死んでいた。 心臓をたった一突き。ただそれだけ。生命の残滓を示す赤色の染みは殆どない。 けれど脈はない。冷たい肉体。この自分の手の体温すら奪うほどの冷たさ。男が絶命しているのが、はっきりとわかる。 ──冷たすぎる。 ──完全に絶命している。──そう、数式の“目”を使う必要もない。 ──断言できる。これは死体だ。──急激な体温低下は内臓の変異のせいか。 ──さあ、ドクター。──彼は死んでいるとも。 10年前のペイパーバックに描かれていた想像上の殺人のようだ。まるで冗談か何か。それでも、確かに男は死んでいた。 (いいや違う) (冗談では、ないらしい) 赤色はもうひとつあった。死体の襟元近く。ギーの有する“証拠”7つにはあったもの。布きれにはなかったもの。 ──すなわち大公爵紋章。──この死体が“証拠”であるという証だ。 死んだ貴族。胸に突き立って輝く小ぶりの銀色。 ……なぜ。……なぜ、殺した。 そもそも生きている貴族なんてものが、この大公爵の邸宅に存在しているのか。影絵のように変わり映えしない顔、顔、顔。 恐怖を口にしながらも笑みに歪む女性貴族。嘲笑を貼り付けて微動だにしない男性貴族。この中の“誰”が“生きている”のか。 そして、ギーは、テルトゥリア男爵の胸に輝く銀色に目を留めた。この男を殺した刃。引き抜きはしない。 柄をよく見るだけでわかる。これを、かつて、ギーは毎日見ていたのだ。 ──医療用のメス。刃。──見覚えがあるはずだろう、ドクター。 ──悪寒。怖気。──それを感じている。そうだろう、ギー。 ──クリッターを示す玩具。 ──10年前のあの時を示す煉瓦。 ──10年前のあの時を示すリボン。 ──白衣の破片。そうだ、あれは白衣だ。 ──そして、メス。 ──よく見るがいい。そのメスを。──柄に刻印された名前は? ──ドクター。お前の名前は? ……なんだ、これは……。 そんなことが……。あるはずが、ない……。 ──これまでに集めた、たった8つの証拠。──それが示すものは。 ──誰を示している?──ギー? (……僕が……“裏切り者”か……?) (僕を……示しているのか……? 大公爵アステア、それとも) ──それとも? ──すべてあの男の作為だとでも? ──ケルカンが、きみを陥れているとでも? ……私は見つめている。横顔を。 ……いつもと違う空気の中で。……いつもと違う景色の中で。 ……いつもと違う、その横顔を私は見る。……彼の横顔。 ……ケルカン。 彼の視線は窓の外へ注がれている。ずっとそう。もう、3時間3分と3秒そう。景色が夜へと変わっているのに、動かない。 窓の外に何があるのか、わかる。夜空の“下”の片隅に灯る明かりが見える。それは不夜の都市摩天楼、私のいた場所だ。 あそこにずっといた。10年間。 ケルカンはそれを見つめて動こうとしない。私は、彼をじっと見つめている。 10時間と2分2秒が経過する。疲労を感じない私は、ずっと立ち尽くして貴賓室で時を費やすこの黒い男を見ていた。 私の内部で1次警告が発せられている。そろそろ、機関エネルギー補充が必要。こんなに長時間の稼働はあまり経験がない。 でも、私は彼を見る。彼が何をするのかを見なければ。 ……私は見なければならない。……そのために、ルールを破ったのだから。 貴族を見かけたら教えろと言ったぞ。どうして俺を見ている。 はい。 3時間と4分と5秒ぶりに彼が声を放つ。けれど、私は答えない。それは、私だけの秘密。 ただ見ることしかできない。理由を、言ったら、意味がないのだから。 彼が何をするのか。なぜ、彼がそうするのかを。それだけを。 問いかけることもしない。私は、ありのままの彼を目にしたいから。少女に対して思ったのと……きっと同じ。 ……私は見ている。彼を。 ……チッ。 狂った奴は色々見てきたが、お前は別だな。それだけ立っていられるのは大したもんだ、飽きもせずに。 欠伸のひとつもないと来る。便利なもんだな。 機能停止することもあります。長時間の稼動は、体に負荷をかけます。 なら休め。 なぜですか。 目の前で倒れられると迷惑なんだ。寝覚めが悪い。 なぜ……? ……なぜ。……当然のような顔をして。 あんなにも簡単にあなたは奪ったのだ。人間の体と命とを破壊してみせたのに。そう、命を。 キーアが「だめ」と言った、それを。いとも簡単に。 雑草を踏みつけるように。壊れた小さな機関を路地へ捨てるように。 簡単に、あなたはそうしてみせた。それが今さら。なぜ。 理由? 理由ねぇ。 死は人間すべてに訪れる救いだ。少なくとも、この都市においてはな。 救い……。 ……死が、救い。 私は感覚機関の聴覚情報を疑う。まるで“神”を信じる西享人のような言葉、信じられないことを、彼は、静かに言った。 意味がわからない。それが、なぜ、私のことに結びつくのか。 ま、わからんか。 はい。 わからんだろうな。 アナタは西享人なのですか。信仰と呼ばれるものを、アナタは有する? いいや?連中のシューキョーとやらは知らねえな。 だが、俺にはわかる。死は救いだ。俺がこの都市にもたらす。 自然と倒れるなんざ許さねえ。俺がそうするまで、お前は倒れるな。 彼は笑みを浮かべていた。それは、危険な表情であるかに見える。 言葉の意味は正確に把握できていない。すべての死は己の管理下にあると、彼は、そう言っているのだろうか。 アナタの言葉を、もしも、ワタシが理解できているとするなら。 アナタは非論理的で独善的です。論拠がない。 いいや、あるのさ。 10年前のあの時をどれだけ忘れても、俺は、俺だけは、ひとつだけ忘れない。 俺にはそうする理由がある、ってな。どっかに転がってるはずだ。 きっと10年前か、それより前に俺はそれを理解したんだろうさ。 俺は、気付いた時には、こうだった。殺しを生業にしていた。 ……執行官……。 そうだ。もっとも、すぐに辞めちまったが。あれはヌルすぎた。 ……そうですか。 都市法の執行官。その言葉だけで私の意識が戦慄する。 私を殺すはずだった都市法のしもべ。クリッター災害が激減した現在の都市で最も人々から恐れられる“死”のひとつ。 それなのに、彼は平然と。なまぬるい、と。 俺は正しい道を見つけた。で、こうしてる訳だ。 断言するのですね。 ああ。 ……チッ、随分と喋りすぎたな。何だ? 久しぶりに人間と話して舌が滑ったか。もう休め。聞いたことは忘れろ。 視線を窓へと戻して。彼は、何度か小さく舌打ちして呟いた。 呟き声は私に向けてではなく、誰か、もっと別の。すぐ近くにあって、私には見えていないような、そんな風。 ……ケルカン。 あァ?聞こえただろう、休め。 聞かせて下さい。アナタは、ワタシも殺すのですか。 ああ。殺すぜ? では、なぜ、ワタシは生きているのです。もう、10時間以上も見逃されています。なぜ。 いつ殺すかは俺が決める。心配するな、いずれ、殺してやるよ。 この都市の人間すべて、俺が殺す。言ったはずだが? そうですか。 ……また言った。 ……彼は自覚していないのだとしても。……確かに、私のことを。 ──彼は何と言った?──さあ、言葉にして。ルアハ。 ワタシは、人間ですか。アナタにとって。 あァ?てめえ、いい加減にしろよ。 いいえ。まだ、です。ワタシを見て、答えて下さい。 私は一歩、彼に近寄っている。それは確かに私の意思であったはずだけど。 わからない。確かに人間であった頃なら、これを私は“ひとりでに”と言っていた。そう、昼間のように。 もう一歩、彼に近寄って。私は彼を見つめながら胸元へ手を伸ばす。 人造皮膚に包まれた鋼鉄の指は、器用に、私の意思を命令として作動する。 ……衣擦れの音がする。……僅かに。 ……見てください。 これが、ワタシです。 ……とす、と落ちたのは帽子。……両親から私への最後のプレゼント。 私は服の前を開き、体を晒す。薄暗い部屋の機関灯が胸部と腹部を照らす。 機関式の自動人形と何も変わらないこの体。外見的な違いは、一切ない。富裕層のための、細工人形。 女の体を模して作られた鉄の外骨格。その上を、表皮が覆っている。現象数式で作られた人造皮膚。 精巧な人形細工。一見すれば女のよう。けれど違う。これは違う。 暖かな人肌も、女の柔らかさも。何もない。冷たい肌。 これが私。これがルアハという人形だ。女のなめらかさを表現するように形作られた外骨格は、かえって醜い。 人形の顔。人形の胸。肘や膝には、剥き出しの球体関節。 ……美しいと呼ぶ者もいる。……けれど、それは人形の持つ美しさだ。 ──ルアハ。──きみは人形と何も違わないだろう。 ……アナタは、どうですか。 ワタシは、アナタにどう見えていますか。人間ですか。これは。 ワタシの体の90%以上は鋼鉄です。生命維持用の数秘機関と、人型を保つための駆動機関でできている。 大脳の一部だけが、ワタシです。他のものは、すべて、置換されています。 胴体部分は第5層の造形技師の手で。指先部分は第4層の人形技師の手で。四肢関節は帝国の元技術士官の手で。 内臓部は、上層専属の数式医の手で。顔は、第3層の造顔技師が2年をかけて。 この声も、そう。唇も。 唇が動いているのは造顔技師のお陰。本当は、口を閉ざしていても、喉元の疑似声帯装置が音声を発します。 体のすべてが取り替えられています。人であった頃の、ほとんど、すべて。 ……よくできている、でしょう? これが……。 これが、人間ですか……?アナタには、どう見えるのですか。 あァ? どう、だと? ……はい。 どう見えていますか。アナタには。 どう、だと──? 彼の声に何らかの感情が加わっていた。それは、ひどく強い。 そして、私は、ようやく理解する。今の今まで彼の声と視線には何の感情も籠もっていなかったのだろうということ。 初めて彼は感情を伴って私を見た。私の体。鋼の体。 視線が突き刺さる。肌に、胸に、腹に。手足のあちこちに。顔に。瞳に。 触覚の薄いはずの私の肌がそれを感じ取る。感情を伴った視線は、こんなにも。 ──それは痛みか?──それとも嫌悪と卑下であるものか? ……違う。痛みには似ている。……これは、私が初めて身に受けるもの。 彼が私を睨み付ける。その強い強い視線に伴う感情は、何? 目を逸らしそうになるのを、堪えて、私はまっすぐケルカンを見る。 感覚機関は彼の感情を伝えて来ない。体温に、一切の変化はないのだから。 それでもわかる。何かの感情。私の言葉と体とに、彼が抱いた、何かの。 人間を殺すと言いました。アナタは。 本当に、アナタはワタシを殺しますか。人間のワタシを? そう言ったぜ。……さんざん言ってやったろうが。 でも、アナタは殺していない。生きています。ワタシは。 それも言ったぜ。 ……でも。まだ、生きています。 なんだ、俺の言ったのは全部シカトか。気に入らねえな。 気に入らねえな、お前。 ……これは敵意?……殺意。いいえ、それもきっと違う。 視線がこんなにも肌に突き刺さるのは。外骨格をもすり抜けて内部さえ見通す、それは彼の。 ……これは意思?……これは想い? ……これほどまでに強いそれは、まるで。……キーアによく似ていて。 殺して欲しいって口振りだ。 ……男の太い片腕が私を容易に抱き寄せる。……強く、強く。 ギーのように細身の体に見えた彼、腕は。こんなにも太く逞しくて。そして、熱い。吐息が私の顔にあたる。 離れていた彼の顔がすぐ近く。8フィート以上はあったはずなのに。 腕に籠もった強い力は昼間と同じ。自衛のために反射的に抵抗しようとする私の体の行動回路など、一切、構わずに。 すぐ近くにある顔。瞳。唇と唇が触れそうなほどの近くにあった。私は逃げずに、彼の顔をじっと見つめる。 まさに生命維持の危険が迫ったのだと勘違いした動力機関が、悲鳴を上げるけど。 ……そう、聞こえ、ましたか。 ああ聞こえたね。今のは、俺に殺して欲しいって口だった。 自殺か? ………………。 疑似声帯が軋んでいる。呼吸のようなものが、私の喉から漏れる。 私は酸素を呼吸しない、だから、息が荒くなるなんてことは、本来ありない。 疑似声帯が軋んでいる。荒くなる息のようなこれは危険の信号。私の危機状態を、周囲に告げるための。 ……でも。抵抗しない。……自衛行動の回路を、私は抑え込む。 俺は死にたがりが嫌いでね。 それじゃあ殺し甲斐がないんだよ。当然の顔で生きる奴を殺して、初めて── ──あいつへの。 償いになるんだ、と彼の唇が言った。声はない。なくても認識する。 声にならずに発せられた言葉。あいつ、とは、誰。 ……訊ねられない。知りたいのに。……彼の顔を私は見つめてしまっていた。 一瞬だけ歪んだその表情を見てしまった。だから、質問はできなかった。だから、意識の底で思うだけ。 ……なぜ、と。 ……なぜ、償うために殺すのかと。 それで初めて、俺の理由は維持される。だから、お前は言うな。 殺せと言うな。二度とだ。 ………………。 遅れて感知する。嗅覚。直前まで彼のくゆらせていた紫煙の名残り。 そして触覚。私の最も薄い感覚。忘れたはずの痛み、痛覚を思い起こさせる。 それは熱。彼の体の。温もりと呼べるような優しいものじゃない。 ……激しく滾る、それは彼の熱。……生きた人間の体から発せられる炎。 ……まるで、彼の中に滾る意思のよう。……ひどく熱くて。 ……私はこれを“痛み”と捉えた。……それでも私は彼に嫌悪は感じていない。 心地よい。僅かに、内部まで貫かれて。肌を突き抜けて、外骨格をすり抜けて、私の体の奥まで達する……。 ……そんな錯覚まで感じる。感じている。……これが、人間の。 いいえ。この男の熱。この男の激しく強い感情のあらわれ。 感覚機関が告げている。男の体温の急上昇。彼の体にたっぷり詰まった、強い強い想い。……熱い。とても。 …………はい。 急に素直になったな。あァ? ……わかり、ました。ひとつだけ。あなたにもある……。 感情……。 ……何? へ理屈はいい。はい、とだけ言え。素直な女は嫌いじゃない。 …………はい。 ……いい子だ。小娘。 しかし、匂いがない人間なんぞには、俺も始めて出会ったもんだと思ったが。なるほどな。 そうか、こいつが機関人間の女の体か。よく出来てる。 男の指が私の胸に触れる。遠慮なく突き立てるその指先は、熱い。 すぐに手のひらが胸と腹部を撫でた。熱い。物理的な攻撃を受けたと錯覚する私の体は、彼の手を掴み、砕こうとする。 私は、意思でそれを抑える。命令する。駄目、と。 ……体が震える。……命令と自動回路の矛盾に戸惑う体が。 ほらな、よく出来てるもんだ。 ……な、なに……。なにを……。 人間のように脆くもない。これなら、思い違いをする訳だ。 ……思い違い? そうだ。お前がしてる、その思い違いだ。 今度は、男は私の手首を強く掴んでみせる。同じように私の体が震えた。 試してやろうか。 ため、す……。 ……試す……? 何を、試すと、言うのですか……。ワタシの……なに……。 お前が人間かどうかだよ。 ……囁く声は耳元で。 ……う、あ……ぁ……。 ……熱い。熱い。……彼の、体が、私に密着してきたから。 視覚情報を私は遮断する。目を閉ざす。彼の熱量を目にしてしまうのが、恐い。熱のすべてが押しかかると、想像するのが。 私は口を開く。疑似声帯の震えが止まらない。 ……何、これは……。 ……おかしい、こんな。……私の肌から浮かぶこれは、何。 汗のように浮かぶのは体内の水分。機関冷却のためのそれが浮き上がっている。内部機関が、異常稼働しているのだろうか。 おかしい。彼の熱だけで。こうなるはずはない。 私が……私の内部が熱を持っている……?こんなにも、昂ぶって、機関が熱く。 ……あ……。 これは……なに……?なんなの、この、感じ……熱さ、は……。 炎に晒される人間のように、息が上がる。熱が。これまで感じていなかったものが、私の疑似声帯を壊そうとする。 ……熱い。あつい。……のしかかる彼の熱があつい。 ……壊れてしまう。……私が、私を、壊してしまう。 うるさい女だ。 彼が何かをした。静かな水音がした。わからない。わからない。 首筋と頬と唇に何かが当たっている。彼が、何かしている。何。なに? 彼がそうするたび、熱の感知部位が増える。次々に吸い込んでしまう。内部機関が悲鳴を上げる。 ……熱い。あつい。……壊れてしまう、壊される。熱に。私に。 ……彼に。 ……あつい……。……ケル、カン……。 や……だ……やめて、下さい……。やだ……。 心地よいのだ。本当は。嫌だ、と声を出すのは私に勝った自衛回路。私の意思を打ち負かして、自衛を優先する。 でも、力では敵わない。彼の腕を私の自動回路はふりほどけない。 だから声が出る。嫌だ、と。 熱いかよ。ハハッ、てめえは冷たいぜ。 死体の冷たさだ。気に入らねえんだよ。 私の“声”に構うことなく彼は熱を増やす。私の“体”が跳ねる。震える。 ほぼ完全に私の意識の支配下にあるはずの体が、まるで別の誰かのものであるように。跳ねて、震えて。 言葉さえ発して彼から逃げようとする。私は、それを無視する。 ……壊されてしまいそうな、この熱。……彼のもたらした私の内部の。 ……これを私は味わって。……忘れていた感覚ひとつ、貪って。 そう、貪欲に。まるで女のように、私は。見ていると決めた少女のことさえ忘れて。忘れて……。 ……あ……ぁ……、あ……。まてん、ろう……。 ……見える……。 うっすらと開かせた瞳で見た窓の向こう。少女がいるはずの下層部ではなくて、視覚情報が捉えたのは、私の、故郷。 夜空の“下”の片隅に灯る明かりが見える。あれは不夜の都市摩天楼、私の故郷── ……見えない。キーア。 あ……あ、あつ、い……、はっ……。やだ……。やだ……っ……。 お前。名前は。 ワタシ……ワタシ……の……。名前は……。 ……ルアハ……。 ルアハか。花の名前だ、悪くない。覚えた。 ……覚えられた。私の、名前。 なぜ俺にまとわりつく。ルアハ。 ……見て、いたい、から……。アナタを……。 震える疑似声帯の主導権を一時的に奪って、私は、私の意識を言葉に乗せる。 そう。見ていたい。私は。……他には、何をすることもできないから。 ……見つめていたい。……なぜ殺すのか、理由を知りたい。 ……なぜ。あなたは殺すの。……こんなにも人間らしい熱を持つのに。 なら、見せてやろう。ルアハ。俺は、いずれ、都市すべてを手にかける。 ……都市。インガノック……それは、私の生まれたここ。故郷。 その時、お前にも見せてやる。この都市の在るべき“かたち”ってやつを。 ……はい……。見せて……ケルカン……。 ……見せて、ください……。ワタシ、に……アナタ……アナタの……。 ────。 ……………………ッ……! 彼の熱が私の体に強く押しつけられる。内部機関が軋んだ。鋼の悲鳴。 ……あつい。心地よい。……体は、もう、耐えられない。 次の瞬間、全身は休止状態となっていた。自動的に意識が閉鎖される。 だから、聞こえなかった。その時、ケルカンが耳元で囁いた言葉。 ……聞こえなかった。……彼が、何を、言っていたのか……。 ──窓の外を見ればわかる。──夜空の“下”の片隅に灯る明かり。 ギーはふと窓を見る。無数の街の灯。見下ろしたそれは不夜の都市摩天楼。都市行政区にして情報・機関エネルギー区。 ルアハの件以来、あそこへは一度も足を運んでいない。 ふと思い出す。ルアハ。彼女は部屋で大人しくしているだろうか。 機関エネルギーの導力管接続口が貴賓室に備え付けられているのは確認済み。待機状態で、彼女はじっとしているはずだ。 彼女は大丈夫だろう。現在は、この“証拠”が最大の問題か。 導き出された答えは自分。探し出すべき“裏切り者”は、ギー。 ……なぜだ。……都市法の違反者ならケルカンも同じだ。 しかし“裏切り者”はギーであるのか。ならばゲームを終結させるべきなのか。……わからない。 死したテルトゥリア男爵は何だったのか。ギーを示すためだけに、殺したのか。 ならば彼の死の責は誰にある。殺人者?それとも“証拠”から導き出される者?自分に責の一端はあるのか。 ──殺した。殺したのか?──ドクター? ──ひとりの貴族を殺した?──ゲームのために、手を掛けさせた? 馬鹿な、あり得ない。僕ではない。 僕は誰をも殺さない。殺していない。彼には会ったこともない。 ──本当にそう断言できるか?──貴族たちは皆、同じ顔をしているのに。 ……ドクター? アノーゥ……。ソンナ顔シナイデクダサイ、ドクター。 アア、ヤット見ツケタッテイウノニ……。ソンナ顔シテショボクレテナイデ!ドクター・ギー! ……何? ──機関精霊?──なぜ、そんなものがここにいるのか。 機関精霊!?ど、どうやってここに入ってきた!? ……我が目を疑う。現象数式を起動させて“右目”を励起しておくべきだったかと思う。気付かなかった。 ギーの視界、テーブルの脚の影にそうっと。小型の薬缶に似た鋼鉄人形が顔を覗かせて、支持肢を振っている。 ひょこ、と姿を見せたのは機関精霊。下層では珍しくもない。 しかしここでは話は別だ。上層なのだ。10年前の«復活»の混乱時ならともかく、機関精霊が自分から姿を見せるはずがない。 ヤット見ツケマシタ。フウ、ヤレヤレ。世話カケサセナイデ下サイヨゥ。 きみは下層から来たのか……?いや、そのはずだ。だが。 ハイ。上層階段ヲ歩イテキマシタ。エート、ハイ、上層兵ガイナカッタノデェ。 ……無茶をする。きみの形式番号は? 02204号デス。ドクター。キーア姉サンノトモダチデス、ボク。 キーアの……。 ──なるほど。あの少女。──不可思議であることは変わらないが。 上層階段ヲ昇ルノハ恐カッタンデスケド。デモ、キーアサンガ心配シテタノデ。 上層ノ雰囲気モ何カ“変”ダシ、行ケソウナラ覗イテミヨウカナッテ。 ……随分と簡単に言うね。 ??? ──いや。いいや。違うとも。──考えてもみるがいい、ドクター・ギー。 ──彼ら精霊はそもそも“何”だ? (機関精霊たちは、都市精霊の一種。 彼らが気配を読み取ったのであれば) (それは決して勘などではない。 都市の地域情報を感知して行動した) (ならば) ……上層の警備網は消えている? ハイ。誰モイマセンデシタ。 デモ、下層民ハ誰モ来マセン。ワカッテイナイシ、ソモソモ、恐イデス。上層ノコトナンテ考エルコトモナイデス。 デモ、大変デシタ!ウロウロウロウロ探シテ回ッテ、夜中ノ夜中ニヨウヤク見ツケタ! 匂イ、ワカッテテヨカッタデス。ドクター・ギー。 ああ。ありがとう。ご苦労だったね、02204号機関精霊。 エヘヘ。 確認させてくれないか。ここへ来るまでに、きみは── 誰ニモ会イマセンデシタヨ? 誰にも。 ハイ。誰ニモ。 ……なるほど。これは、そういうゲームか。 ならば“裏切り者”の正体は明らかだ。このゲームは、今終わった。 ??? きみのお陰だ。きみと、僕を心配してくれたキーアの。 表情には既に驚愕も混乱の陰もない。やるべきことを、彼は理解した。糾弾すべき者を、彼は理解した。 上層へ導かれた時から提示されていたこと。すべては、始めから明らかだった。すべては、くだらない道化芝居だ。 ──背後の“彼”の沈黙が答えか。──それは面白い。 ──ならば、少し早いが幕引きと行こうか。──ドクター・ギー。 胸くそ悪いドクター・ギー!これはまた、景気のいい顔でお出迎えだな! こんな紙切れで俺を呼びつけるか。なァ、ドクター? 仕掛けがわかったからね。遠慮はしないさ。 結構。 破り捨てられる一通の封筒。それは招待状。大公爵から送られたものではなく、ギーからケルカンへと宛てられた。 ギーの招待状。正午に庭園で待つとだけ記された。 メッセンジャーは機関精霊。彼は正しく自分の仕事を果たしてくれた。 名札のない貴賓室をひとつひとつ調べて確かにケルカンへと届けたのだ。そう、一部屋一部屋を調べてだ。 時間はかかったが“確実”だ。他の誰かに見つかる可能性など一切ない。 ただひとつギーにとって予想外だったのは、ケルカンがひとりでここへ来なかったこと。もうひとり。 ──ルアハ。──彼女は黒い男の傍らに立っている。 さっき、部屋を覗いてね。きみの姿がなくて驚いていたんだよ。 ……そこで何をしてるんだ。ルアハ、きみは。 事故です。ギー。偶然に発生した、入力の手違いです。 彼女を離せ。ケルカン。 は。ご自由に? ギー。彼は私を保護してくれました。危害は加えられていません。身体各部の損傷率は、0%。 ……ルアハ、こっちへ来なさい。その子も一緒に。 ……はい。 返答に間があったことには気付かない。機関精霊を抱えたルアハは、言葉通りにギーの背に立つ。 背後に立つルアハの視線に気付かない。機関精霊の頭を撫でる彼女の、視線は、黒い男へと注がれて。 ──気付くまい。──ドクター・ギー。きみには。 ──気付くまい。──何者を救うこともきみはできない。 暫しの静寂が充ちる。機関精霊の駆動音だけが僅かに聞こえて。 熟練の荒事屋や路上騎士にも似た、緊張感がギーと黒い男の間に張りつめて。けれども、それは、容易に打ち破られる。 声を発したのは黒い男だった。短く息を吐いて。 ……仕掛けがわかったと言ったな。ギー。もうゲームが解けたか? ああ。解けたよ。ゲームはこれで終了だ。 まずは僕が集めた“証拠”を見て貰う。現物は3つ。情報が4つ。 合計で、7つ。 2日目の正午ちょうど。現時刻までに得た“証拠”の情報は7つ。そう、昨晩から何も増えてはいないのだ。 ひとつは、最初に発見したもの。すなわち瓦礫の一部と思しき煉瓦の小破片。 ひとつは、植木鉢の玩具。ゼンマイで枝と幹が動く植物を模した草だ。 ひとつは、ドラゴンの玩具。これもゼンマイ仕掛けで羽と口が稼働する。 ひとつは、小さな猿の玩具。これもゼンマイ仕掛けで打楽器を打鳴らす。 ひとつは、ブリキの昆虫玩具。これもゼンマイ仕掛けで羽と口が稼働する。 ひとつは、ブリキ人形の玩具。これもゼンマイ仕掛けで腕と目が稼働する。 ひとつは、熱されて歪んだリボン。ひどい高温に晒されて殆ど原形を留めずに。 ゼンマイ捻子がついた玩具は、クリッターのことを暗示しているのだろう。瓦礫の破片も熱されたリボンもあの悲劇を。 すべての“証拠”が真実であるとして、示すものは何か。現時点でわかるのは10年前の«復活»に関わるということか。 ──10年前の«復活»を示しているか。──悪くはない推理だ。 ──そう。推理としては、だが。 それで? きみにはわかるまいがね。証拠を見る限り、僕が犯人なのだろう。 とんだ冗談だな。それで俺を笑わせようってのか? 何だ、てめえ、俺の気分を変えたいのか?今ここで殺されたいと? 僕が冗談を言ってる訳じゃない。だが、確かに冗談ではある。 何? そう。そうだ。趣味の悪い冗談に過ぎない。 ──何が言いたい。ドクター・ギー。──つまり、誰が。 つまり、ゲームの“裏切り者”は── ……それは、僕なのだろう。 ──灯りが消える。──決して、目を閉ざしたのではない。 自らが導いた暗闇にギーは包み込まれる。すぐ近くで再びあの“声”が響いている。幻の道化師。 10年前と同じだ。あらゆる事象に対して己は無力であって。 (僕が彼に死をもたらした) (テルトゥリア男爵。 顔も知らぬあなたを、僕は殺した) ──では“裏切り者”はきみか。──ドクター。 そうだ。僕だ。 ──ではわかっているだろう。──きみは終わりだ。  ───────────────────。    『さよならを選べ。ギー』       『哀れな男だ』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 ギーは何かをひとつ諦める。目を閉ざしたままで都市の空を見上げる。そう、上層であってもこの色だけは同じ。 背後の影が言った。 さよなら、と。 ──では、きみは。──私の糧となりたまえ。生贄の子羊よ。 ……それは、ケルカン。きみだ。 ──灯りが消える。──決して、目を閉ざしたのではない。 自らが導いた暗闇にギーは包み込まれる。すぐ近くで再びあの“声”が響いている。幻の道化師。 10年前と同じだ。あらゆる事象に対して己は無力であって。 (そうか) (テルトゥリア男爵。 顔も知らぬあなたを、僕は殺したのか) (そう、ケルカンではないさ。僕が) ──では“裏切り者”はきみか。──ドクター。 そうだ。僕だ。 ──ではわかっているだろう。──きみは終わりだ。  ───────────────────。    『さよならを選べ。ギー』       『哀れな男だ』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 ギーは何かをひとつ諦める。目を閉ざしたままで都市の空を見上げる。そう、上層であってもこの色だけは同じ。 背後の影が言った。 さよなら、と。 ──残念だったね。──最後の«奇械»と共に在ったきみよ。 そんなものはどこにもいない。始めから、いなかった。 ──いいや。──ひとりいる。そういうルールだ。 ──ルールは何があろうとも遵守せねば。──それだけがこの世の救いだ。 ──そうだろう!──違うとは言わせぬよ、ドクター・ギー! ──選びたまえ、ドクター!──誰が“裏切り者”であるのかをだ! 選ぶことはない。誰もいないんだ。 ここには、始めから僕ら3人以外には! 何だ、てめえ何を言っている!あの貴族どもは── きみをここに呼んだ理由はただひとつ。ゲームの参加者であるからだ。 エセ貴族の連中がいるだろうが!上層の貴族名鑑に名前も顔もねぇ奴らがよ!トチ狂ったか、ドクター! 狂ってはいないさ。いや、狂っていないことは、ないがね。 ケルカン、巡回殺人者!このゲームは僕たちに向けられている!正確には、そう、僕たちふたりだけだ! 何── ──ギーとケルカン。──そこに共通点があるとでも言うのか。 そうだとも。僕らは、共に背後に“彼”が在る。 ……何が言いたい、ドクター。 消去法だよ。唯一の疑問点はルアハだ。けれどブラフはゲームにはつきものだ。 ……ミスリード、だと? そう。ゲームの参加者はふたり。ルアハの部屋に“証拠”はなかった。 そして、貴族を名乗る彼ら。あんなものはただの影法師に過ぎない。貴族名鑑に載るはずなんて、ないのさ。 で、“裏切り者”はどうなる?俺たちふたりのゲームなら、解く条件は? ──そう。その通りだ。──解答を見つけなければ終わらない。 “裏切り者”はいない。 ──いいや。──ひとりいる。そういうルールだ! ──ルールは何があろうとも遵守せねば!──それだけがこの世の救いだ! ──喝采せよ! 喝采せよ!──素晴らしき生け贄こそがきみたちだ! いいや、“裏切り者”はいない。初めからいない。 強いて言うなら、そうだな。あなたかな。 ──誰だ!!──誰が“裏切り者”であるのか! ……あなただ。大公爵アステア。 ──!!!!!!!!!!!!!!!!! ……灯りが消える。……邸宅も、庭園も、灰色の雲も消える。 ……代わりに。……スポットライトが当たる。 ──ここは舞台の上だ。──王侯歌劇のために建造された大舞台。 ──初めからだ。──初めから、きみたちは、ここにいた。 ──舞台にあがることを許そう。──ドクター。 ──私はきみへ拍手を送ろう。──たったひとりの喝采で、申し訳ないね。 ──観客席が空なのは気にしないでくれ。──初めから、あるのは影法師だけ。 ──きみの言う通りにね。 ……ここが、本当の会場か。 ──見事なものだ。──今ので命をふたつ失ったよ、ドクター。 ──なるほど、きみは見事に。──作劇家にして演出家である私を殺した。 姿を見せろ。あなたは、どこにいる。 ──私はここだよ。──無人の観客席の中、ただひとり座す。 ……大公爵アステア。 10年前、都市計画の第2次成功の祝賀式。あの時に人々に姿を見せた姿のまま。 あなたは変わらないのか。その姿のまま。 ──しかし、今、2回殺されたところだよ。──ドクター・ギー。きみにね。 ──作劇家としての私の命と。──演出家としての私の命を。 ──見たまえ。私の口元の赤。──これは、きみが無力でなかった証だ。 ──おめでとう。ゲームクリアだ。──見事に、きみは私の挑戦を打ち砕いた。──解き明かしたのではなく、打ち砕いた。 ………。 ──現象数式を用いて囁く心の声。──自身のものと混同するこの声を受けて。 ──見事、きみは惑わされなかった。──素晴らしい。 ──流石は我が盲目の生け贄だ。──流石は数多のクリッターを破壊せし者。 ──しかし。──しかし。──きみは収穫されなくてはならない。 ──私の悲願を成就させるために。──残念だよ。ドクター。 ──31体の我が«奇械»がきみを喰らう。──きみはここで終わりだ。 ……僭越ながら、大公爵閣下。 あなたへの伝言がある。ひとりの青年から。 ──ほう? あなたを止めろと、言われている。そして僕は依頼を受けた。 ──私を殺すと?──しかし今きみに2回殺されたばかりだ。 ──残念なことに私は不滅だよ。──きみは第8の階段を昇ることはない。──第7の階段を昇ったきみは収穫される。 ──我が«奇械»ザハークの新たな生け贄。──それがきみに用意された道だ。 ザハークか。そうでしたね、閣下。 ──何を笑う。数式医。 知っているはずだ、私は青年から聞いた。あなたのことを。 ──何を。 あなたは33の命を持っているのだと。そしてそれは、決してあなたの命ではない。 ──そう。──都市に顕現した«奇械»ザハーク。──それと同じ数だけ、私は命を持つ。 ──すなわち!──我が新薬Aによって昇華せし33の命! 大公爵アステア。 都市の王。現象数式をもたらした天才碩学。都市法による死を司る支配者にして殺戮者。ただひとりの大公爵。 数秘機関なるものの提唱者。10年を経て無貌と化してしまった王。 それがあなただ。大公爵、アステア。 理想都市を形作ろうとした貴族、救いの現象数式をもたらす碩学よ。 「大公爵は、既に──」 「大公爵さまは、どこにいるの?」 あなたは、既に、この世にはいない。今そこにいるあなたは何だ。 大公爵アステア?いいや、そうではないはずだ。 ──そう。──私は、私ではない。 ──いつから気付いていた? 僕に教えてくれた人々がいる。そして、今、こうして目にした瞬間に。 確信した。あなたは、既にあなたの命を有していない。あなたは、大公爵アステアその人ではない。 奪った命をただ消費して、動いているだけの、腐りかけた死体。 それがあなたであるはずだ!無貌の王! ──然り!──今やこの体は、朽ち果てた命の残滓! ──かつて生きていた私が目指したもの!──それを求めるための、道具に過ぎぬ! ならば。 ならば僕は、あなたへと剣を振るおう。あと、31回。 ──喝采せよ! 喝采せよ! ──おお、おお、素晴らしきかな!──盲目の生け贄は死せず未だ都市にある! ──第8の階段は今や盲目の生け贄の前に!──遍く者は見るがよい。 ──これこそ、我が愛の終焉である! ──黄金螺旋階段の果てに!──我が夢、我が愛のかたちあり!! 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “刃の如く、切り裂け” カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 男は、あるじに代わり黄金螺旋階段を昇る。男は時計を見つめたまま、段を昇る。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……私の計測が確かであれば、今まさに。 ……あるじよ。大公爵よ。……あなたの糸はすべて切れてしまった。 喝采はない。喝采はない。 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇る男がひとり。 それは計測者。それは鋼騎士。それは愚者。かつて都市を救ったストリート・ナイト。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、求めて。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。  『あはははははははははははははは!』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものに閉じこめられた彼は笑う。今も。今も。 『あはははははは、人形が壊れたよ! あはははははは、大嫌いな人形が!』 やはり、たとえ33の命を括り付けようと死者は死者。蘇ることはない。 結局、あるじの“かたち”に似たあれは、現象数式という名の糸で動かしていた死体にすぎない。 生き物ですらない。操り人形だ。 ……しかし。しかし。……盲目の生け贄は死せず未だ都市にある。 クロック・クラック・クロームの名の下に。現在時刻を記録した。 貴方の望んだ“その時”だ。レムル・レムルよ、お言葉を賜りたい。        『当然さ』  『あいつ、途中で勘違いするものだから』    『また作り直してやんないとね』 御意。 『サレムって奴も ルアハって子もダメだったんだろ?』   『結局、芽が出たのはふたりだけ』  『ふたつも無駄にして、駄目な大公爵様』 『でも、しばらくはこのままにするよ。 そのほうが、僕も、都合がいいんだ』 御意。 『あははははははははははははははは! あははははははははははははははは!』  『──これで、はじまり、はじまり──』     『──くすくす──』     『……待っていて……』    『……僕の、キーア……』 ──そして。 大公爵崩御の噂はほんの数日だけ、都市の裏社会界隈を緊張と共に賑わせた。 けれど、やがて他の風説と一緒に消えた。上層は今日も変わりなく。下層を支配し続けている。 巡回医師と殺人者が上層劇場に招かれた、という風説もあったが。それも、消えた。誰も事実を語らない。 ──何ひとつ変わらない。 都市は今日も変わらない。何も変わらない。上層は下層の上に在って、人々を見下ろす。変わることはない。 ──何ひとつ変わらない。──何ひとつ変わらなかったはずだった。 ──私は、いつも目で追っている。 私へ手を差し伸べた少女のことを。薄赤色の瞳をしたあのひと。 ──キーア。 ──私は、決めたはずだ。 あなたの傍らにいよう、と。あなたが許す限り、見つめていようと。 迷惑そうな表情を少しも見せずに、今日も、少女は私に告げる。 「おはよう、ルアハ」 ……キーア。 ……私を人間だと言ってくれたあなた。 今日は遠出をする、とギーは言っていた。だからキーアには留守番を頼むと。 例によって、だ。男の行動傾向の幾つかを私は把握していた。最下層区へ赴く際、男は少女を置いていく。 それでも少女はひとつの条件を勝ち得た。すなわち、こうして出歩くこと。 食糧の買い込みのために、私を伴って雑踏街を歩くことを認めたのだ。だから、今、この私と少女は、ここにいる。 無限雑踏街の外れ。機関工場が数多く溢れる地区の近辺。 「きょうはあの子たち、いないかしら?」 「……うん、いないみたい」 半ば嬉しそうに、半ば寂しそうに。呟く少女の横顔を私はじっと見つめている。 ──見つめながら思う。──あの時のこと。 何があったのか。あの瞬間。ギーが“裏切り者”の正体を突き止めた時。 私は、よく覚えていない。あの前後のことも、殆ど思い出せずにいる。 何か靄のようなものが意識に覆い被さって、記憶情報が鮮明にならない。思い出せない。何か── ただひとつだけ。何か、悪い夢を見たような気がする。 人を殺すことをためらわない男。そこに何の感情も見出さない男。 そんな男に、私……。 「……ルアハ……?」 「どうしたの、手……」 ──私の行動は制御されている。──体は回路と意識が支配する。──意識の外で動くことなど、ないのに。 それでも、私は、無意識のうちに。手を離していた。 キーアと繋いでいた右手を、そっと。静かに。自分から。 ──ひとりでに。──私は、そう意識してはいないのに。 こんにちは、ミスター・マクドガル。ごきげんよう。 今日も少しだけいいお天気ね。空も少しだけ綺麗。 こんにちは、キーアお嬢ちゃん。今日も空は変わらん灰色雲だけれども。 お嬢ちゃんの顔を見るたびに思うんだよ、ここの空気は肺と体にいかにも悪い。お嬢ちゃんも呼気覆面をつけたほうが…。 ああそうか。ドクターが一緒だから。肺は大丈夫なんだね。 あなたもきっと大丈夫だわ。今日はすこし空気もきれいだと思うの。 はは、お嬢ちゃんが言うと本当のようだ。ありがとうよ。 きみの顔を見ると元気が出る。ドクター、可愛い助手さんを大切にね。 …ええ。 それでは、また。奥さまとお子さんたちに機関の恵みを。 お嬢ちゃんとドクターにもね。それでは、雨が降る前に仕事へ戻るよ。 そう言って背中を向ける呼気覆面の人へ手を振って、キーアはギーを見る。 笑顔を浮かべて。この少女は、今までと何も変わりない。 よい人ね、ギー。ジョンさんにはきっと機関の恵みがあるわ。 ああ。そうだね。 それなりの時間が経っているはずだ。それでも驚かされる、この少女には。 呼気覆面で身を守ろうとする下層民たち。その見分けをつけるのは難しい。 一様に同じ覆面に襤褸をまとって。ギーには名前を覚えることはできない。 巡回診療をした相手で、覆面を外した姿を知っているというなら話は別だけれども。 あの姿では。誰も彼もが同じに見える。 ──大人と子供の区別すらつかないことも。──男女の区別は余計にそうだ。 …キーア。 はい? いや。何でもないよ。 無限雑踏街を歩く。今日は、故買屋に顔を見せてから巡回だ。 道中、いつもの顔ぶれと遭遇した。昼間ということも関係しているのだろう。 「あ、ギーせんせ!」 「キーアお姉ちゃん!」「こんにちは!」「…こんにちは…」 「今日は買い出しなんだ〜」「おかみさんがね、お小遣いくれたの」「…お小遣い…嬉しい…」 「キーアお姉ちゃんに会えて良かった〜」「今日はいいことあるかも」「…いいことあるかも…」 ──いいこと? 「キーアお姉ちゃんと会うとね。えっとね」「…その日はいいことあるかも…」 「ごめんなさい、ギー先生。 キーアお姉ちゃん。 変なこと言って……これ、願掛けなの」 「えー、だって本当だよー」「…本当だよ…」 「キーアお姉ちゃんの顔見るとねー」「嫌なこと、ちょっと忘れる」 子供たちの表情は明るかった。どこかにいつも感じていた痛々しさが、今日は、少なかったかもしれない。 ギーは思う。自分ひとりではなかったことだと。 この少女。キーアのお陰か。 ギーが笑顔を浮かべるようになった、と、そう黒猫は言っていた。キーアと出会ってからのことだ。 そう言う黒猫自身も、そう。アパルトメントにギーしかいなかった頃に比べれば。どこか、明るさが増したような。 (すごいな。キーアは) はい? 何か言って、ギー? いいや。言っていないよ。聞こえていたならひとりごとだ。 そう?ふふ、おかしなギーね。 ああ。そうだね。 今日も、キーアは笑顔を浮かべる。ギーへと向けて。 声をかけてくる下層民たちの声は、この10年間を忘れたかのようにどこか明るく響いて。 子供たちの言葉と表情も、そう。それにあの少年も。 「あ! こ、こ、こ、こんにちは、キーア」 「ひさしぶりに会う気がするな…。 そ、その、今日もきれいだね、キーア」 「ああっ、会うんだったら、 ちゃんとあれを持ってくればよかった」「カァ」 「え? 何をかって? そ、そのさ、投射フィルムなんだけど」「カァ」 「上層階段公園のフィルムなんだ。 だから、すごくきれいな……」「カァ」 「え? 見てみたい? 本当!?」「カァ」 「じゃあ、えっと、今度届けるよ!!」「カァ」 「え……しばらくは夜中にしか家にいない? 巡回診療があるから?」「カァ、カァ」 「そっか……う、ううん、暗い顔なんか 全然してないよ、大丈夫!」「カァ」 「じゃあ約束しようよ、どっかで会おう? その時フィルムを渡すよ」「カァ」 「うん、うん。わかった、来週の昼ね。 ギー先生が休みの予定だから……?」「カァ」 「まあそれはどうでも……うん、うん。 わかった、じゃあ1週間後ね!」「カァ」 「いやあ、嬉しいなあ……!」「カァ!」 ……いや。……彼はいつも通りだったかも知れない。 それでも、キーアに対する彼の表情。声。それは少女が存在するがゆえのもの。 こういった明るさに充ちるものを、ギーは、忘れていたかもしれない。 その直後に通りがかった双子もそうだ。表情はいつも通りだとしても。 「「ごきげんよう、おふたかた♪」」 「「おふたりで今日も巡回診療?」」 「ほんとに仲がいいのね、ふたりとも」「ほんとにデートばかりだわ、ふたりとも」 「妬けちゃうわ」「妬けちゃうわ」「冗談だけど?」「冗談だけどぉ?」 「……あーもうだめだわ、だめだめ」「……あーもう嫌になっちゃう、だめだめ」 「そんなに明るい顔をしないで、キーア?」「そんなに無防備では生きていけないわ?」 「こっちはこれから商談なのだし」「こっちは大事な情報源確保なのよ?」 「あなたのにこにこがうつると困るわ」「あなたのぽわぽわがうつると困るのね」 「あーもう、嫌になっちゃう。 お気をつけてね、おふたりとも?」 「あーもう、嫌になっちゃう。 妙な噂もあったことだし、気をつけて?」 随分と機嫌よく声をかけられたものだ。からかう声が殆どなかった。 手を振るキーアにふたり仲良く振り返して。しっぽを振りながら人混みに消える。 この感覚をギーは知っている。人と人の“親しみを込めた”やり取りだ。 無限雑踏街の人混みの中で、何度も。何度もそれを見ることになる日があるとは。 ──想像したことなどなかった。──出会うまでは。 すべて、この少女だ。周囲には力にすべてを委ねる犯罪者たちやドラッグ中毒者の呻き声が響いているのに。 キーアはあまりにそれを気にしない。耳に入らないかのよう。 不安な素振りを見せようともしない。こんな、青白い数式医と歩いているのに。 親の腕の中にある赤子のように、全幅の信頼を寄せて、手を繋ぎ、歩く。 (……親か) (この僕が。人の保護者気取りか) (……不思議なことも、ある) 不思議なこともある。キーアといるから、そう感じるのだろう。 ──不思議な少女。──本当に。 今日はエラリィのところには寄るの?なら、本はもう返したほうがよいかしら? 本を借りていたのかい? ええ。1週間前に、借りていたの。今度は感染症についての医学書。 貴重なものだからあげられないけど、貸すだけならいいよって。 そう。 返せと言われなければ、借りたままで構わないよ。 あれは医学書をそれほど読み返すほど暇ではないだろうしね。 ──かつての、10年前の医師であれば。──それは怠慢なのだろうけれど。 はい。わかったわ。 ああ。 今さらながらにギーは感じている。キーアがいることによる微細な変化を。 空は灰色で変わることがない。機関の排煙は空気を澱ませ、人々は明日について深くを考えずに生きる。 ──この10年で受けた苦しみを顧みずに。──それは何ら変わることがない。 それでも。現在、大きな災厄はない。 大規模な層プレートの崩落もなく、恐るべきクリッター災害も発生していない。 現在あるのは、穏やかに見える日常なのだ。この都市にあるものは。 ──違うのはこの少女。──キーアの笑顔と、その僅かな周囲のみ。 けれど。果たしてそうだろうか。 大公爵は既にない。存在したと思っていたものが、ないのだ。 何かが、違ってはいないだろうか?キーアのもたらす微細な変化以外の何か。 (そういえば) (ランドルフの姿を見ない) 穴堀りランドルフ。彼は、ここ暫く穴を掘らずにいるという。 であれば機関酒場の前などで姿を見ても不思議ではないはずなのに。 姿を見ない。酔いつぶれて倒れる彼の姿を。 ──きっと、キーアだけではない。──今までとの違い。 ──けれど、それは、目に見えていない。──ギーはそう思う。 支配者は倒れたのだ。既に倒れていたということがわかったのだ。その影響力も、今では、存在しないはずだ。 あり得るのだろうか。それで、何も変わらないということが……。 やあギー!なんだ、今日も辛気くさい顔してるな! ──ギーは思い直す。 何、機嫌がよさそうだって?いや、その、何……あはは、わかるかねえ!やっぱりお前さんと俺は付き合いが長いし! ──変わっていた。随分と。 お前さんには隠すこともないだろうな。何より、ほら、はは、隠すまでもないかな!こういう噂はあっという間に広まるものだ! ──機嫌がよい。──よく喋る男ではあったけれども。 エラリィ・バーンズはすこぶる機嫌よく、普段は「滅菌されていない」と嫌がって触れることもしないギーの肩を抱いて。 何度も肩を叩いてくる。飲んでいるのだろうかと“目”で視ても、残留アルコールの兆候は見られなかった。 ただ興奮しているようだった。悪いほうにではない。 ふと向こうを見ると、患者用控え室(今は昼休みで無人だが)で、自分とエラリィのものと似た光景があった。 キーアが、ギーと同じようにあの«蟻蟲»のナースに抱き締められて。 ああ。そうか。あのナースも連れて行くと決めたのか。 実はな、ギー。 ……暫くは他言無用だぞ?言っても構わんが。 ……ああ。 驚いてくれても構わんよ!上層貴族の御殿医契約が決まりそうなんだ!なんとこの俺が、上層通いか上層暮らしだ! ……それは……。 大公爵なんて大物じゃないがね。それでも2級男爵家だ。なかなかだろう? ああ。凄いな。 下層医院の御殿医契約。そんなことを夢想する医師は多くない。 万に一つあるかないかの奇跡だから。誰も、奇跡は夢は口にしない。 だがエラリィは言った。強く肩を抱いて、感極まった様子で。 奇跡はあるんだよ、ギー。わかるか。 そうあるべきものに奇跡はもたらされる。そう、俺は思うよ。 上にいる彼らもわかってるのさ。俺がこんなところで終わる男じゃないって。 ……そうか、そうだな。 おめでとう。エラリィ。 ありがとう。ギー。 ──涙を流すのだろうかと、思ったけれど。 彼の瞳は渇いていた。この10年間で得た枯れた表情をしていた。 ──変わっては、いないか。 胸のどこかに安堵があったが。ギーは、その理由には思い至らなかった。 そういえば知っているかい、ギー。その顔じゃ知らないんだろがね、奇跡はひとつじゃないんだ。 ……いや、何だい。 下層のあちこちに散らばる都市孤児たちに、新しく引き取り手の話が出ているんだよ。 機関工場? いや。労働力かどうかは知らんがね。まあ、恐らくは違うだろう。ドラッグ・ギャングや娼館でもないらしい。 何……? 新しい引き取り手はな、ギー。 ……上層らしい。 ──都市の状況は変わっていない。 ──そのはずだった。 大公爵崩御の噂はほんの数日だけだった。都市の裏社会界隈を緊張と共に賑わせて、すぐに収束した。 大公爵の消滅について上層は口を閉ざした。そのはずだった。 ギーが僅かな眠りを得た一晩のうちに、何かが音を立てて変わっていったのだ。都市の何かが変化して。 上層からの公式発表がささやかに行われた。ギーが僅かな眠りに落ちた間に。 大公爵は病のために一時的な休養を取ると上層は発表したのだという。 第1席上級貴族であるところのセンケンネル伯爵に都市運営と都市法の全権を委ねるという旨を、発表していた。 ささやかな休養。それは1週間に限定された全権委譲。 下層は一切の混乱なく発表を受け入れた。崩御の噂は多少の混乱をもたらしたのに。 ──何かがおかしい。 ──違和感が、ギーの中に膨らむ。 都市運営と都市法の施行の殆どが大公爵自身の裁量の下にあったことを、ギーはあの青年貴族から確かに聞いた。 実体を伴わない、恐怖をまとったがらんどうの人型。 それこそが大公爵アステアの正体。存在しない王。無貌の王。 既に死者となり、あらゆる者の前に姿を見せていなかった彼。 崩御の噂にその死を悼む者はいても、具体的な混乱や暴動には到らなかった。 既に、彼は、いないも同然だった。そうとさえ思われて。 ギーとルアハとケルカンが招かれたこと。そして、あそこで一体、何があったのか。 大公爵の姿をしたものが消えたことも。ギーがそうさせたことも。 上層は、それを、知っているはずなのに。どこにも記録は残っていない。外部に漏れた形跡も一切ない。 ──それなのに。 ──都市の状況の何かが、変わっている。──下層の誰にも気付かれずに。 誰かが、何かをしている。上層で。一体誰が。 大公爵の存在は消えたはずだ。すべての“奪った命”を霧散させたはずだ。 ──ギーが。──その右手と彼の“手”によって。 ただいま、ルアハ。もう起きていたのね。おはよう。 おはようございます。キーア。 お夕食の準備をするわ。ごめんなさい、手伝ってくれる…? はい。命令受託。入力完了。 ワタシはアナタを手伝います。今日は何のメニューの予定ですか、キーア。 お芋の良いのが手に入ったの。そのままふかしてバターを乗せて……。あと、潰してマッシュポテトにもしたいわ。 シチューも作りましょう?本物のお芋だと、味がぜんぜん違うの。 了解です。キーア。 うん。ええ。 しかし、根菜はそうすぐ腐敗しません。すべて費やすことはないかと。 あれ、そうだったかしら…。そ、そうね。全部は使わずにそれなりに。 はい。 ♪ 静かに2階の部屋から降りてきたルアハと、キーアは厨房へと入っていく。 着替えもせずにそうしてしまっている。きっと、純正品の芋が手に入ったのが相当嬉しいのだろう。 まさか、市場で顔なじみができるとは思ったこともなかった。 今ではキーアは幾人かの露店の主人と顔なじみで、彼らは便宜を図ってくれる。 ──そうすることで得られるものなど。──少女の笑顔ひとつしかないのに。 ささやかな都市の変化か。いや、人々の微細な、変化と感化か。 キーアの笑顔は人にするりと潜り込んで、失ったはずのものを疼かせる。 そんなことをギーは考えてしまう。今までも、幾らかそう思うことはあったが。 それは自分自身についての変化で。少女と触れ合う他人までもがそうだとは、あまり、意識したことはなかったと思う。 ──黒猫のことといい。──気付いてみれば、大したものだ。 (本当に) (すごいな。キーアは) (……僕のできないことが、できる) ソファに腰掛けてギーは自分の手を見る。消毒薬の匂いがした。 今日は吐血を続ける患者が何人かいた。彼らの血を洗う際に、消毒薬を使った。 つんと鼻につく匂い。渇いた、冷たい自分の手を見つめる。 ──右手を。 ……ポルシオン。 僕ときみは、何をしたのだろうね。この手で。 ──大公爵が人々から奪った命。──33の命。 それをすべて無に帰した。この手で、背後の“彼”の伸ばす手で。 キーアは人々を僅かに変えていく。失った明るさを取り戻していくかのように。 対して、自分はどうだろう。人を救うのだと決めたはずのこの自分は。 ……手に掛けたのか。僕は。 ──殺したのか。──奪ったのか。 ギーはこの都市で生きるうちに決めていた。たったひとつの決まり事。自分のルールを。すなわち、奪わないこと。 誰をも殺さないこと。誰からも一切を奪わないこと。 (いや。違うはずだ) (あれは殺人ではない) ギー自身、“彼”へそう口にしたのだ。否定する要素はない。あれは殺人ではない。あれは、既に、人間ではなかったのだから。 奪い取った命で構成された33の虚像。現象数式。いいや違うはずだ。 無数に生まれ出る«ザハーク»と己を繋ぎ、それを命のように振る舞っていただけだ。残された大公爵の記憶が動いていただけだ。 (……そのはずだ) (僕は、殺してなどいない) (命を奪う狂った現象を。 止めただけだ) キーアの後ろ姿を視線で追う。忙しそうに、厨房でぱたぱたと動く少女。 半ば無意識に。視線はキーアの背中と横顔を追っていた。 大公爵へと幾多の刃を振るったあの日。あれ以来、増えたかもしれない。自分の視線がキーアを追う回数。 それは、あの時。大公爵の胸から溢れた赤色の飛沫と、それがもたらす熱さを忘れるためか。 それとも、縋っているのか。彼女に。彼女の笑顔に。 ──誰が? ──僕が。彼女にだ。 ──だから。──僕は気付かない。 ──静かに、彼女が僕を見ていたことに。 いつもはキーアを見ているはずの彼女が。その視線を向けていたことに。 気付かなかった。すぐ傍で起きている変化に対して。 自分のことだけを。この手のことだけを、考えていたから。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男の手の中にある懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 男は、大公爵に代わり黄金螺旋階段を昇る。男は時計を見つめたまま、段を昇る。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……我が新たなる無垢なる白色の王子よ。 ……あなたの時間だ。……大公爵の糸はすべて切れてしまった。 ……時間は動く。……すべて、あなたの望む通りに。 ミラン・ガガールの起動を確認した。上層への命令も指示通りに。 ミラン・ガガールは生贄の子羊と接触する。それは子羊を殺すか、それとも昇らせるか。だが、それをあなたは……。 ……どうとも思っていないのだろう。……あなたは。 ……だが、時間だ。 ──翌日の午前。 時刻は午前7時。巡回診療に出かける直前のこと。 誰も気付くことがなかった。それは見事なまでに静かな仕事だった。 慣れた手つきで行われる、それ。玄関の扉が音もなくそっと開かれていく。 侵入者。すべてに対して慣れた素振りの。 その気になれば、玄関へは視線を向けずにソファに座っている主の首を落とすことも容易にできるだろう。 けれど、それをしない。黒猫はこの部屋の主人を傷つけない。 いつものように部屋へと忍び込んで。そっと背後から声をかけて。 ……ちぇ。残念。もうふたりとも起きちゃってたんだ。 寝首を掻こうと思ったのに。あーあ。 おはよう、アティ。こんばんはと言うべきかな。 もっと驚いてくれてもいいのに。そうね、まだ寝ていないからこんばんは。キーアは……。 朝食の後片づけをしている少女の後ろ姿。まだ黒猫には気付いていない。 代わりに、その傍らに立つ鋼鉄の娘が歓迎とは言い難い視線を送ってくる。 適当に手を振って、黒猫はギーの隣に座る。暖かさがまだ残っているのは、きっとキーアが座っていたから。 ……珍しいね、その服は。 ま、ね。似合う? ああ。似合っているよ。 ……へへ。お世辞でも嬉しいかな。今日も巡回? ああ。その予定だよ。 そっか……。 ……ううん。ま、そーだよね。ギーはそうしてるのが普通なんだし。 ああ。それが普通さ。 うんうん。あたしもこれが普通。夜中じゅう駆けずり回って、体が空くのは明け方か、今みたいに、みんなが起きる朝。 どうしても、ずれちゃうね。残念。 ん。 時間が合う仕事ならいいのに。一緒にいる時間も、長くなるじゃない? ああ。 たとえば、ほら、夜。きみの冷たい体も温めてあげられるしさ。 そうだな。 あは。冗談。 ああ。 ……ギー? ん。 ……ちょっと待ってよ。ギー、何かあった? 変な顔してる。どうしたの、何か、変な感じ。 いつも通りさ。きみが今、言ったばかりだ。 嘘。よく顔見せて。 そう言って、黒猫はギーの顔を覗き込む。黄金瞳で見つめる。 ……変な顔? 僕が? (自覚はないんだ。あれ、この感じって) ──黒猫は思い出す。──笑った顔を指摘した時のこと。 ──今日はあの日にどこか似ていた。──この男の表情、いつもと違って見える。 ギーの考えていることが、わからない。だからこれはただの勘。 黒猫の勘。獣と荒事屋の勘。生き抜く野生は変化を見逃さない。 黒猫は首を傾げて小さく小さく呟く。ギーにだけ聞こえるように。 変な顔。ギー、泣きそうな顔してる。 いつものことです。彼はいつも暗い顔をしています。 あ。そっか。そいえば、そうだよね。 はい。 小さく言ったのに。流石に鋼鉄の娘には聞こえていたらしい。 随分と高性能な聴覚素子を持っていること。お金があるって素晴らしいことさ、と黒猫は僅かに肩をすくめてみせる。 ……ひどい言い草だな。 あら? あれ、え、あれ、アティ?その服とっても綺麗……。 素敵、すごく似合ってるわ、アティ…。 ん?? アティ! いつからいたの!?あっ、もしかして夜明け前から── ご、ごめんなさいっ。朝食に呼ばなくて……あ、あっ、今から何か作るから、食べて? ね? アティ? いいえ。違います。彼女が部屋へ侵入したのは今のことです。 このアパルトメントにある生体は、朝食作成時には確かに3体まででした。 ですから、キーア。アナタは慌てることはありません。 そゆこと。たった今ここに侵入したばっかり。 ありがとね、キーア。朝食は済ませてきたから心配しないで? そうなの…?残念だわ、時間が合えば一緒に…。 …うん。ええ。アティとは時間がもっと合えばいいのに。夜も朝も一緒にいたいし、お買い物だって。 キーア。彼女は荒事屋を生業としています。 アナタとギーの生活循環とは合致しません。彼女の生活は夜に傾いています。 …そうなのだけど…。 そんな顔しないでいいのさ、キーア。ルアハの言う通り。合わないものはしょうがない。 それに、ほら。今みたいに。朝はこうしてお邪魔することもあるし? それに…。 ──それに。──こほんとアティは咳払いをひとつ。 ソファに座ったままのギーへ視線を寄越す。それに気付いたのはキーアと、キーアを見ているルアハだけだったけれど。 それに、ほら。今みたいに。オフの日ってのもたまーにはあるものさ。 オフ? 休日という意味です。キーア。西享からの外来語です。 え、本当!? 今日はお休みなのね、アティ!?まあ、そうなの!そうならそうって早く教えて下さい! ね、ギー聞いた?アティは今日は「オフ」なんですって! ん。ああ。 珍しいね、アティ。きみが一日じゅう空けるなんて。 え。あっ。え、えーと……そう、かな? あはは? ぐ、偶然ね。たまたま今日はオフ。でも気にしないでいいからね? 慌てて、黒猫は大きな手を振って誤魔化す。別段言うつもりはなかったのに唇から言葉がこぼれてしまった。 ギーは気にしないだろうけれど。キーアに言うと。 変に気を遣おうとしてしまうだろうから、言わずにおこうと思ったのに。 オフの日にすることは決めている。眠るだけ。 からっぽのギーのベッドで、彼の匂いが強く残ったそこで眠り続ける。 それがオフの日に決まってすること。ギーが帰ってくるのを待って。 ──考えてみれば。──いつぶりのことだろうか。 戸惑ったように慌てる顔のキーアを見る。こんなに可愛い困った仕草。なんだか、悪い気分になる。 こんな顔をさせるつもりもなかったのに。ああ、困ったな、と黒猫は思う。 何とか誤魔化そう。気を遣われてしまうのは、嫌だから。 キーアの笑顔は眩しくて、好き。でも、気を遣われるのは嫌。 ──この子の笑顔は崩したくない。──だから、そんな顔は、させたくない。 ……そうだ。 ギー。どうせアテもなくうろつくんでしょ?なら、2時間……ううん、1時間でいい。 キーアを貸してくれない?ルアハも。 ん。 ??? ワタシもですか。 きみがいたほうがキーアが喜ぶからね。せっかくだし、少し歩こ? え、え、アティと?お買い物?? そゆことさ。上品にショッピングって言おうかな? ショッピング…? キーア。西享語で買い物との意味です。 そう── アティとお買い物!うん、うんうん、嬉しいわ。お願い! 滅多にないことだものね、ええ。ショッピング。不思議で素敵な響き…。 ギー。いい? ギー、できれば…その…あの、ね?一緒に来てくれると嬉しいの…。 1時間だけでもいいから、ううん、30分でもいいの。 一緒に……来てくれる? ……僕は。 そそ、たまにはいーじゃない?炭鉱事故があったって訳じゃないんだしさ。荷物持ちに、ほんの少しだけ付き合っても。 いつもなら。その30分を嫌がることが多い。 ──けれども。 ……そう、だな。たまにはいいか。付き合おう。 わぁい♪ 悪いが体力に自信はないよ。それで構わないなら。 やだ、ギーったらひどい男。オフのあたしに全部荷物持たせる? ……いや。 レディ・ファーストね。ルアハ、あなたも荷物はギーに渡してね? いいえ。すみません、キーア。 ワタシは留守を預かります。残り機関エネルギーも心許ないです。 そう…。 (ん。あれ?) ──違和感があった。──ルアハがそう言うことに関して。 いつもと変わらないことのはず。この鋼鉄の娘は、あまり外出をしないから。 このアパルトメントで目覚めている時は、ルアハはキーアから離れようとしない。けれど、外出に関してはそうこだわらない。 機関エネルギー残量を気にしている。そのことに嘘はないはず。 けれど、けれども。そんな時は、いつも……。 (残念そうな顔、してなかったっけ? ついていきたそうな) (ちょっとだけ表情が変わってさ。 そう、だった……よね) それなのに。今、何か、いつもの表情と違った。 お土産、買ってくるからね。ギーはいまとってもお金持ちなの。 第1層とかで稼いだんだ?じゃ、あたしがカンパしなくてもいい? ……そうだけども。多少、そうしてくれると有り難い。 あは。冗談冗談。金をせびるような猫じゃないってば。 それじゃあ、ルアハ。少しだけ行ってくるわね。 巡回の前には一度荷物を置きに来るから。お留守番、お願いね。 ……はい。キーア。 …うん。 お任せください。留守の間のアパルトメントを保安します。 そう言って頷く鋼鉄の娘。やはり、黒猫にとっては違和感があった。 ──今日のこのアパルトメントは何か変。──いつもと少し違う。 ギーもそう。ルアハもそう。 それに、キーアも。いつの間にか自分の隣に座って笑う、この不思議な少女でさえも。表情が。 笑顔にどこか翳りが見える。きっと、ルアハの変化に気付いているのだ。 ──ギーに笑顔をくれたこの少女。 ──この子がそんな顔をすると。──朝なのに、暗がりを感じてしまう。 (そんな顔、しないで欲しいな) (……きみは、もっと笑ってないとね) 下層第7区域。上から数えて7番目に位置する層プレート。 その中心街であり下層最大の繁華街。それが無限雑踏街だ。 昼も夜も変わらぬ雑踏。喧騒については夜のほうが大きいけれど。 ここには、およそ下層で手に入る物資類のすべてが集まってくるのだと人は口にする。シリングさえあればすべてが買える、と。 正確には。シリングで買えるもののすべてが買える。 大量生産の代替食材に、純正品の肉や野菜。大小さまざまな機関機械に、数秘機関まで。衣服もジャカート織機から手織りまで。 戸籍や、市民権を示す個人機関カード。そんなものだって買える。居住権だって売られている。 何でも買える。シリングさえ足りていれば。 「ねえ、ギー。 ショッピングって西享語知ってる?」 「さっき聞いたよ」 「あらま。 ちゃんと話、聞いてたんだ」 「まあね」 「3人でこうして雑踏街を歩くのって、 もしかしたら初めてかしら?」 「そう……かな? キーアとだけなら、あったかも」 「僕は付き合いが悪いからね」 「あれ。自覚あったんだ、ギー?」 「アティ、そういう言い方は……。 あんまり……」 「冗談冗談。 さ、買い物買い物。ショッピング♪」 「オフに付き合ってくれたお礼にさ、 キーアには色々買ったげるよ」 「ありがとう。でも、無理しないでね」 「おねーさんを誰だと思ってるのさ。 ギーよりは多分稼げてるよ?」 「そうなの?」 「……」 「そうなのさ♪」 ──アティの手は大きくて暖かい。──それに、ふさふさ。 ──暖かくてふさふさ。──あたしは、嬉しくて笑顔になる。 ──不思議だな。不思議ね。──こうしていると、歩くのさえ楽しいの。──ねえ。ギー、あなたはどう感じてるの。 ……ふふ♪ 随分とご機嫌かな、お姫さま?さっきはちょっと寂しそうだったけど。 こうしてると、なんだか不思議。すごく楽しくなるの。 ね。ギー。楽しい? ……少し重い。 それぽっちの荷物で文句言わない。それとも、あたしたちに荷物持たせる気ぃ? がんばって、ギー。レディファーストだものね。 それも西亨語? はい♪ ──ギーの手もあたしは握る。──ほら、こうすると3人繋がるのよ。 ──まるで家族のよう。──お父さんとお母さんとキーア。 道行く人があたしたちに声をかけてくれる。呼気覆面越しでも、穏やかな言葉とわかる。嬉しいな。嬉しいね。 元気そうだね、とか。楽しそうだね、とか。 あたしは好き。声をかけてくれるみんなが好き。 夜のほうが賑やかだよとアティは言うけど、あたしは、昼間の無限雑踏街のほうが好き。ふたつの太陽を感じる。 灰色の雲越しの暖かな光。それが好き。 暖かさ、たくさん。ふたりの手と太陽で。あたしはどちらもが大好きだから。 ……しかし、これはアレかな。見ようによっては見えなくもないのかな。 親子みたい? ち、ち、違う違う。仲良し姉妹かなって。お、お、親子とかだと駄目駄目。あたしそんなに年いってるように見える? ──そう言って。──アティはそっとギーの横顔を見るの。 ギーはどう思う?親子かしら、それとも姉妹とお兄さん? ……そんなことよりも。重いねこれは。 もう。ちゃんと聞いてください。ドクター? ん……。 次はどの店に行くのだったかな。ライラの雑貨屋に行くなら、そこを右に。 駄目。そっちの路地は行かないよ。遠回りして行こ? 遠回りするの? ──アティの表情に何か浮かんで。──でも、あたしは、それを口にはしない。 ──避けたい場所があるならそうするの。──遠回りも平気。 ……回り道か……。 いいから。ほら、あっちの露店も見よ?玉葱焼きが美味しいのさ。 え? ん? アティ……あの、変なこと訊くけど……。タマネギは大丈夫なの……? なんで? 食べても……平気?アティ、お腹壊したりはしないの? しないよ?? ……ううん。なんでもないの。良かった。それじゃ、そこへ行きましょう? ──あたしはまた笑顔を向ける。──回り道も平気。 ──握れば、握り返してくれる手がある。──ふたりの手。 ──あたしは嬉しくて仕方がない。──あたしは願う。お空のふたつの太陽に。 ──ずっと。──このままでありますように。 ──ずっと、ずっと。──こんな時間が続きますように。 少女のようにはしゃぐふたり。キーアは、見たままのことだけれど。 アティは、些かはしゃぎすぎかも知れない。そう思いながらもギーは目抜き通りを歩く。荷物を持ったまま。 キーアに手を引かれながら。そろそろ1時間が過ぎる頃だろうか。 声を掛けるべきか少し躊躇った。キーアは、いつも巡回に付き合わせている。息抜き程度は、それなりに与えてやりたい。 あと30分か。それとも1時間か。 そうしている間にも、自分の手を求める誰かがいるかも知れない。 そう考えると──この手を離すことが正しいと思える。 ──そうだ。──僕のこの手は、求める誰かへ。 そう考えていた矢先。視界の端に見えた路地裏に彼の姿があった。 おお? おおおおおおおおおお!?これは、おお! おおおー! おお、おおおお、おおー!?これはでかい、これはでかいぞー!! 何が釣れるか楽しみだ、ああ、何だろう!誰が釣れるか楽しみだ、ああ、誰だろう?おおお! 誰も見ていないかも知れないが!おおお、釣れる! 釣れてしまうぞ! ん。どうしたのギー。何見てるの。 ん。なあに? ああっ! ギー、ギー!老師さまが大変、また大変! 大丈夫。 でも用水路に落ちそう!落ちちゃいそう! おおお! 心優しい子、近付いてはだめだ!これはひとりでやり遂げてこそ意味がある!おおお! 釣れてしまうぞ! 釣れる、釣られる、釣れる!おおお! ──ポン! わ。 おお、おおお!これは見事な革の靴が釣れてしまった!これは見事にふやけてしまった革の靴! ……。 おお、おおお!これは……うーん……。 ……。 おお、おおお!まだ、水に親しんでいたいのかね!では、放してあげよう、さらばだ! リリース! あー……。 ──ポチャン! ──おやおや。今日は賑やかだね。 よい顔をしているね。キーア、アティ。 ごきげんよう、老師さま。あたしたちショッピングの最中なんです。 ども。 ギー。どうかしたかな。 老師イル。いつも変わらず下層を歩くもの。変わらない柔和な瞳で静かに見つめてくる。理性ある«観人»の老人。 雑踏のすぐ近くの路地にあってなお、彼の声はぴんと通って、ここが雑踏街の中だということを刹那の間だけ忘れてしまう。 人は言う。彼こそは観測能力によってすべてを見ると。 知らぬことなどひとつもない。老師イル、その名の由来のひとつ。 きみは誰だい。 ……老師? きみは誰だい。 僕は……。 きみではない。きみだよ。静かに見つめるきみは一体誰なのかな。 儂にはきみが何者かがわかっていても、きみが誰になろうとするのかはわからない。 幻影ならぬきみよ。きみは、誰であるのか。 ??? じいさま、何言ってるの?もしかしてもうボケちゃった……? 儂はいつも呆けているものさ。儂だからね。ただ、少し気になったものだから。 ギーのことが? さあ、どうかな。 老師。お言葉の意味を図りかねます。あなたはどんな意図で……。 いや。いいのだよ。ニャア。邪魔をしてしまったようだ。すまなかった。休息はしっかり楽しみなさい、3人とも。 よくわからないけど……はい。ありがとう、老師さま。 またね、じいさま。それ以上ボケないでいてね。 それはどうかニャ?ともかくも、残念だがもう時間のようだ。 ──きみは誰だい。 確かに彼はそう口にした。ギー。いや、もしかしたら背後の“彼”へ。 言葉の真意を確かめようとギーは口を開く。けれど、彼の姿はそこにはなかった。 夢か、現か。そんなはずはない。キーアもアティも彼と言葉を交わしていた。 それなのに。どこにも彼の姿はなかった。 賑やかさを失わない雑踏街の路地裏の中に、既に、老猫の姿はなかった。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 男は、大公爵に代わり黄金螺旋階段を昇る。男は時計を見つめたまま、段を昇る。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……我が新たなる無垢なる白色の王子よ。 ……ミラン・ガガールは既に崩壊している……第3の者は目覚めたが、目覚めない。 喝采はない。喝采はない。 ただ、あなたがそこにいるだけだ。そして、それが、この都市の真実である。 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇る男がひとり。 それは計測者。それは鋼騎士。それは愚者。かつて都市を救ったストリート・ナイト。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、求めて。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。       『……ふふ』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものから解き放たれた彼は笑う。今も。今も。 その声は確かに少年のものであったが、どこか、大公爵と呼ばれた王にも似て。支配者の響き。   『彼女はいつだって壊れているさ』 『そのために、ミラン・ガガールは在る。 そのために、僕は彼女を目覚めさせる』     『……どうでもいいのさ』 御意。 クロック・クラック・クロームの名の下に。現在時刻を記録した。 貴方の望む“その時”は近い。レムル・レムルよ、お言葉を賜りたい。   『……どうでもいいと、言っただろう?』 『大公爵の哀れなしもべ。  哀れなペトロヴナ、僕とは違う愚か者』         『でもね』  『……盲目の生け贄には充分な相手だよ』 ──そう言うと。 ──背後に蠢く“彼”と同時に。──少年は暗く微笑む。 ──夜の帳は都市を暗闇には染めない。──空ではなく都市が灯となる。 インガノックの夜。ただ、僅かな静けさだけをもたらすもの。 たとえば新たな少年王が誰かを嘲笑しても。夜は、総体として見れば、静けさを保って。 無限雑踏街の喧騒さえも。都市の総体として見れば、静けさを保って。 ──だから。──夜、人は想ってしまう。 ──夜、人は考えてしまう。 酒やドラッグで逃げることのできない夜。人は、考えてしまうのだ。 時刻は深夜2時過ぎ。買い物の後、巡回診療を終えて。 午前中の買い物。1時間強のあれ。我知らず意識し過ぎたのだろうかと思う。 気付けば0時を過ぎていた。キーアは疲れを訴えてはいなかったけれど。 帰宅するや否や、キーアはややふらつく足取りでシャワー室へ入った。 ひどく疲れさせてしまった。何をしているのだろう、とギーは思う。 夕食は早めに済ませてある。買い物で疲れただろう、と考えたからだ。あの時は、まだそういった余裕があった。 その後。最近の“普段”を上回るペースで歩いた。 ──焦っていたのか。──午前中の僅かな時間を費やしたことに。 これまで、そういった焦りはなかった。僅かな睡眠の時間も、コーヒーを飲む時間も。 どこかで自分を待つ患者がいたとしても、この体は永続的には稼働できない。ある程度の休息は、必要なのだから。 (……焦るくらいなら) (キーアを置いて行けば良かったんだ。 アティに任せて) (僕は、何を……) (……何を、しているんだ……) (……混乱している、のか?) (なぜ……) ルアハがもし起きていれば言われただろう。キーアに無理をさせないでくれ、と。 そう。無理をさせた。ぼんやりとした朝の思考のせいで、焦り、こうして巡回の医療を増やしてしまった。 自分が何をすべきかを。考えなかった。 ──ある程度は仕方がない。──都市のすべての人の命は救えない。 ──それはわかっている。──なのに、今日の、焦りは何だったのか。 ルアハのどこか冷ややかな言葉を思う。彼女は、機関エネルギーを充填するために、既に2階のキーアの寝室で待機状態にある。 ルアハの冷静な思考は、どう思うだろう。無駄に充ちた今日の自分の行動を。 ……無駄、か。 自分の手を見つめながら。ふと、老師の言葉を思い浮かべる。 「きみは誰だい」 あの言葉。ギーへの言葉ではないという。けれど、今、考えてしまう。 ……僕は、誰だ。 巡回医師か。それともキーアの……。 ……保護者気取りか……? この手で、自分は果たして何ができるのか。震えている理由は、筋肉疲労のせいだろう。 多くの荷物を持っていたから。軟弱な腕。 ──荷物を持つ?──あたりまえのことだ。手がある以上。 あたりまえの、こと……。 あたりまえ……。はは。あたりまえ、か……。 ──けれど、あたりまえのことを。 ──僕は幾つ、できているのか。 ──できていないのか。 ……感傷的だな。随分と。買い物に幾らか付き合った程度で。 かつてであれば、キーアと出会う前なら。道化師が思考を閉ざしているところだろう。 視界の端で踊る影。少しだけあれが懐かしくなる。 もう随分とあれの姿を目にしていない。一度は再び見えるようになったあれは、今はもう、影も形も見えなくなった。 背後の“彼”の声が聞こえるかわりに。ギーはあの幻を失った。 ──軋む精神の証。──この10年の間に得てしまった狂気。 ……ん。 視界の端にそれがいないことを確認する。同時に、何かに思い至る。 聴覚が研ぎ澄まされている感覚があった。現象数式の聴覚特化?いや、起動はしていないはずだ。 そもそも聴覚を強化する数式は不得手だ。せいぜい視覚と、自己と他者の修復のみ。だが、確かにギーは認識する。 ──無音。 シャワー室から響いていた音が消えている。耳に届くのは住宅区画の静けさ。 キーアがシャワー室に入ってから、もう、随分と時間が経つはずだ。 いつもは聞こえてくるはずの鼻歌が、ない。機嫌良さそうに響かせるあの旋律が、ない。 まさか、何かあったのか。ギーは立ち上がる。 ……キーア? 耳を澄ませる。音はあった。けれどそれは無数の水が流れていく音のみ。 軽くノックをしても返事はない。強めに叩くのは気が引けたが、仕方がない。 ──ノック。強く何度も。 声は返ってこない。名を呼ぶ声にも、いつもは返る声がない。 着替えを取って来て欲しいであるとか。合成石鹸や洗髪剤の替えを取って欲しいと頼む時の、やや遠慮がちな、あの声がない。 キーア。開けるよ、いいね。 ──ドアノブに手を掛ける。 ──水の音。水の音。それだけ。 少女の言葉はなかった。けれど、声だけは、ギーの耳に届いた。 僅かな声。ドアを開けなければ届かなかった、声。 ……ぅ……ぁ……。 ──流れて落ちる水の音。──上質な肌着はじっとりと濡れていて。 冷え切った空気が肌を刺す。降り注ぐ水滴の中で、少女は佇んでいた。様子がおかしい。視線は宙を泳いでいる。 亜麻色の髪が濡れて。白い肌を、無数の水が伝って落ちて。 薄赤色の瞳が揺れて。ぼんやりと、意識の光を虚ろに湛えて。 何かを見ている。ギーには、見えない何かを。 (……何だ) (何があった……?) シャワーの蛇口を締めかけて思い留まる。熱病の可能性。変異の可能性。変異する肉体は酷く発熱する。 ──幼年以外の肉体変異。──ヴォネガット老人の例を思い出す。 脳内器官を起動させて“右目”で視る。熱はなかった。むしろ、その逆だ。冷え切った少女の体が認識される。 華奢な白い手足。細くて、触れれば折れてしまいそうな。ひどく冷え切って、微かに震えていて。 長い時間、こうしていたのだろう。中途半端な格好でシャワーを浴び続けて。 肌着が水に濡れて透けてしまっている。きっとそれは、少女の鞄にあったもの。上質な肌着。 ──降り注ぐ水滴に表情ひとつ変えず。──キーアは、半裸のまま。 (……水……) そう、水だ。温度を感じない。少女の体に降り注いでいるのは湯ではない。 キーア。僕がわかるかい。何があった。 ……ぁ……う……うぁ……。 言葉に反応した?違う、喉から音が漏れたに過ぎない。 キーアの表情は虚ろで、ギーを見ていない。薄赤色の瞳は明確には定まっておらず、しかし、何かを見ている気配はあった。 何かを見ている。何を。そこには何も在りはしないのに。 ──クリッター。違う。──あの独特の気配ならばすぐに気付く。 ……オネ…イ……。……リテ……ナ……ナイ…デ……。 小さな唇が。動く。 ワ……タシ……。ダイ……ブ……ダ……カラ……。アナ……ハ……コナ……イ……デ……。 大きな瞳が。動く。 ……ギー……。 ……心配、かけて……。……ごめん、なさい……あたし……。 キーア。風邪を引く。シャワーを止めるよ、いいね。 ──意識はある。こちらを見た。──確かに名を呼んだ。 ……ア……タシ……。コノ……トヲ……ツメル……ケ……。 ……キーア? ──何だ。──彼女は、何を言っている。        ──誰に── その人影は、何かを誰かに言った。小さく、小さく。 誰にも聞こえないように発せられた声。精巧な職人の手による合成音声。 数秘機関式の人工声帯が僅かに震える。それは、誰にも聞こえない。それは、別れの言葉だった。 深夜のモノレール駅の前にひとり立って、その人影は別れを告げる。 ……さようなら。 ──ずっと見てきた、あの少女に。 ──自分を人間だと呼んでくれた。──ひとりめの誰かに。 彼女のことを見ていたい。彼女がなぜそう言うのかを知りたい。 そう、決めていた。その意思は今も変わっていない。 それでも足はこうして動いてしまっていて。情報空間を用いた探索で導き出された場所、彼のねぐらへと向いてしまう。 ──少女の見つめる数式医とは真逆の男。──彼のところへ。 ……キーア。 ごめんなさい。何も言わず、去るワタシを……。 アナタは、きっと許すのでしょうね。それでも……。 ワタシは……。 アナタの瞳が揺れるのを見たくない。これは、ワタシの、エゴなのでしょうね。 ……さようなら。たとえ少ししか、見ていられなくても。 アナタの横顔は美しかった。誰よりも。 ……誰よりも。 ──深夜のモノレールが停車する。 下り列車へと乗り込んで。ひとりの鋼鉄の娘は、第7層を後にする。 ……そして。 ……それは、下層の住宅区域ではなく。 ……それは、無限雑踏街でもなく。 ……それは、上層階段公園でもなく。 ……ここ。都市上層。……貴族たちの城、上層貴族区。 ……その、さらに上部。……都市の、恐らくは頂上にあたる場所。 主を失った太守公邸跡に存在しているもの。それは、現在、確かに瓦礫であった。 黄金螺旋階段はそこにない。そこに在るはずのものが、そこにはない。 瓦礫の中にひとりの女の影がある。ゆらめき、立ち尽くすその姿は、似ていた。 かつてひとりの数式医が失った友。クリッター・ウェンディゴに魅せられた男。その男によく似た、それは女の人影だった。 ゆらめくように立って。ひとりの“魔女”が姿を見せていた。 それはシの魔女。それは緑の女王。都市に残された«奪われた者»のひとり。 魔女は微笑み、誰かへと囁く。それは見えない41の何者へか、それとも。 『フフ……』 『フフフ、フフ……』 『……待っていてね、生け贄の子羊……』 『今、行きますから。 この私が、あなたのところへ……』 『フフフフフ、フフ……』 『愛してあげますよ、私の、すべてで……』 『……ギー』 ──過去の記憶。 ──それは私にとって何の意味も成さない。──こうして在る“現在”がすべて。 喜びも悲しみも“現在”だけのもの。大空と太陽とは“現在”だけのもの。かつて失ったものに執着するなんて、無駄。 私は“現在”を生きる。私は“過去”には既に裏切られている。 10年前に何があったのか。10年前に私たちは何を失っていたのか。 知る必要はない。そう願うことにもやはり意味はない。 縋る必要などないのに。目の前にあるものを受け入れるだけで、私たちは、きっと、幸せになれるのに。 ──人々はそれでも縋る。──“過去”を避けながら、焦がれて。 ひどく滑稽な道化芝居。けれど、自分が舞台にいることに気付かず、人々は、私の見つめる中で踊り続けている。 愛おしい、都市の人々。こんなにも愚かで、矮小で、健気で。 ──あなたたちは、振り返り続けるといい。──私だけは振り返らない。 都市に生きるあなたたちの知らないことを、都市に生きるあなたたちの望んでるものを、私は、私だけは知っている。 だからこそ。私は言う。 長きに渡る拘束を解かれて。少年の許しを得て自由の身となった私は、排煙に濁る空気を吸い込みながら、叫ぶ。 ──過去の記憶。──そんなものに意味はないと。 ──過去の記憶。──解き放たれることこそに意味があると。 ──それが、生きるために必要なこと。──この都市で。 ──少なくとも、この私にとっては。 ──音が聞こえる。──都市の小鳥たちの朝の囀りと、生活音。 随分と聞き慣れた組み合わせ。キーアが朝食とコーヒーを用意している音、歪んでしまった嘴を持った小鳥たちの囀り。 静けさが残る第7層居住域の朝。モノレールの本数が幾らか増えてくる時刻。 音が届く。聞き慣れたふたつの音の組み合わせ。 ……瞼を開く。……部屋の中は既に明るかった。朝の気配。 はっきりと認識できる。厨房とリビングを往復するキーアの足音。 違和感を覚えることはもうなかった。あの子の持つ気配は朝の風景に染みついて。人に対する警戒心は湧き上がっては来ない。 人の暮らす音。本来、ギーには関わりなかったはずのもの。 聞き慣れたものだ。寝台から身を起こしながらそう思う。 と── シーツに僅かな温もりが残っていた。 黒猫の名残だろうか。彼女が少し休んで去っていったのだろう。 アパルトメントの気配はひとつ。キーアのもの以外に誰かの物音は届かない。 (……アティはもう出たか) (ルアハの音がないが) ──まだ待機状態でいるのだろうか。 朝の時間は数少ないキーアと彼女の時間だ。ルアハは、それを何よりも大切にしている。それをギーも理解している。 ルアハがこのアパルトメントに留まる理由、それはキーアがそうするように言ったから。それ以外の理由ではない。 自分がクリッター・バンダースナッチと対峙していた時に何かがあったのだ。それを、ふたりは口にしないけれど。 首筋に僅かに残る指の痕。それを、ギーも口にはしなかった。 (妙だな) (機能異常ならモリモトに相談するか。 合成食材機関の大量受注は終わったはず) (……またシリングを持って行かれるな) 懐には幾らかの余裕がある。多少の目減りは、別段問題にはなるまい。 元々、財産もシリングもそう長持ちしない。何かに費やせばすぐに消えてしまう。 費やす対象にこだわりはない、自分以外の誰かに使うのであれば、特に。 (まずは“右目”で視ておくか) ──ルアハだけではなく。 ──キーアのことも。 ──音と。──鼻腔に届く香り。 いつもの朝の香りだった。配給食用油で合成ベーコンを焼く時のもの。 同じようにいつもの音も。スキレットで合成卵と合成野菜を炒める音。 食欲というものが正常に働くのであれば、きっと唾液が分泌されているだろうと思う。キーアには残念なことに、そうではないが。 いつもと変わらない音と香りに、やや安堵する。 今さらながらにギーは自覚する。自分は緊張していたのか。 寝室からリビングへの扉を開けたばかりの右手へとふと視線を向ける。 ──震えてはいない。──昨日の、荷物運びの残滓はもうない。 起動させていた“右目”で視ても正常だ。幾らかの筋肉疲労があるだけ。 (……問題はない、か) おはよう、ギー。今日もとっても気持ちのよい朝ね? ちょっと早くに起きてしまったから、お部屋のお掃除もしておいたの。 あ。安心してね?朝食は、もう準備できているから。 いつもと変わらない。キーアは笑顔をギーへと向けてくる。 笑顔で少女は「おはよう」と告げてくれる。黒猫以外の誰からも、10年間、聞かされたことのなかった言葉。 現在では聞き慣れた言葉。この小さな唇が、ギーに毎朝そう告げる。 (変わらないな) (異常はない) そう、変わらない。キーアの様子はいつもと変わらなかった。 クラッキング光で構成された“板”は今この瞬間は励起されていないけれど。それでもギーの“右目”は彼女を視ている。 何も変わらない。そのはずだ。 この“目”はどんな異常も発見していない。生命維持装置としての内臓機能と骨格なら、あらゆる状態を知覚するこの“目”は。 微細な体温の変動によって、感情の揺れすら認識できるこの“目”は。 キーアのどこにも異常を認めない。いつもの朝と同じ。 生理学的にはこの少女は何も変わらない。何もだ。一切が同じ。 ──なら、なぜだ。 ならば、あれは、何だったのか。昨夜。深夜2時過ぎ。 シャワー室で、虚ろに── ギー? どうしたの、ぼうっとしてしまって。ギー、変な顔してるわ。 声もいつもと変わらない。柔らかな響き。心配そうに首を傾げて。 キーアはこちらの表情を覗き込んでくる。アティに似ている、と僅かに思う。 昨日の朝も確かこんなことがあった。アティがそっと真下から覗き込んで。 いや。何でもないよ。 本当?もしかして、風邪とか。 そのくらいなら数式で治せるさ。大丈夫、僕は何ともないよ。 そう? それなら、良いのだけど…。たくさん食べて元気をつけてね。 えっと。朝食はいつもより多いですから。きのうのシチューの残りもあるし、今朝の卵はお芋と一緒に炒めてみたの。 せめて一口ずつは、食べてください。ね。ドクター。 ああ。善処するよ。 ──何も変わらない。──何も。 けれど昨夜の出来事が幻だったはずはない。何かしら、原因を探る必要があるだろう。未知のクリッターの影響の可能性もある。 そう思いながら、ソファに腰を落とす。視界が2階への階段を捉える。 閉ざされた2階の部屋。キーアの寝室にと模様替えした元客間。 鋼鉄の娘がいるはずの場所。気配はない。待機状態であれば当然だが。 キーア。 はい? 今朝はルアハの姿が見えないようだね。まだ待機状態……寝ているのかな。 ……ええ、いいえ。違うわ。 外出? ……そう、だけど、違うの。行ってしまったから。 ──表情が変わっていた。 朝にいつも見る眩しさを感じる表情とは明らかに違う、それは、涙を堪える顔か。知っている表情だった。 涙は溢れないけれど。キーアは、確かにその時表情を変えていた。 けれどすぐに。無理をするような笑顔で覆い隠して。 ……ルアハは出て行ってしまったの。行くところがあるから、って。 行くところ? ……見つかったんだと思う。あのひとの行こうとしている場所が。 書き置きが、あったの。テーブルに。 ギーも、前に置いてくれていたわね。ここのテーブルに、書き置き。 ──記憶にある。──守られなかったあの書き置きの言葉。 お世話になりました、って。ギーにね、使用した機関エネルギー代金はいつか、お返しします、って……。 キーアには……一言だけ。 ……心配しないで、って。 都市下層。第7層第3商業特区、無限雑踏街。 いつもと変わることのない風景。キーアと歩いていてもそれは変わらない。 今日もここは人で充ちている。かつては人間と呼ばれたはずの人々で。 声をかけてくる幾人かの顔見知りたち。ギーへではなく、キーアへ。 無数に行き交う人ならざる姿をした人。これが10年間のこの都市の正常な景色。異形へと変じても、人で在り続けた彼ら。 犬と狼の顔をした女。熊の体格と爪を持った男。外骨格の女たち。そして、己の姿を隠す外套と覆面を被る人。 変わることはない。視界に入るものはいつも通りの景色だけ。 (いつも通りか) (……ルアハがいなくても) ──いつもとは違うはずだ。──この、自分と、キーアにとっては。 けれど視界に見えるものはすべて同じもの。この10年間で見慣れた、都市下層の風景。変わらない。 唯一の違いは、そう。ギーにとってはただひとつだけ。視界の端。 ──視界の端にあれの姿がない。──今日も。キーアと出会って消えたあれ。 背後の“彼”を感じるのと同時に消えた。あれは、一度は再び現れた影はもういない。 視界の端の──     『こんにちは。ギー』 ……な、に……? キーアと繋いでいた右手を離していた。確かに、今、聞こえた。 いいや。それはもう消えているはずだ。聞こえているはずはない。 巡回診療へ向かう歩みを止める必要もない。そんなものは、聞こえてなどいないはずだ。錯覚に過ぎない。 視界の端にあれはいない。黒い道化師。 ギー……? どうしたの、立ち止まって。何か……。 いや。何もないよ。 けれど自分の足は確かに歩みを止めていた。時間は無駄にできない。昨日、意味もなく焦ったのだから。 錯覚程度で、今さら。立ち止まって戸惑う必要などどこにもない。 大丈夫。考え事を──     『こんにちは、ギー』      『ごきげんよう』   『すこぶる、調子は良いようだ』 ──視界の端に。 いいや。確かに刹那、それは正面にいた。ギーにだけ話しかけてくる幻の道化師が。     『こんにちは、ギー』 黙れ。心の中で意味のない返答をする。幻は、もはや消え去ったはずだ。 実体を持たずに視界の端で踊る影。焦点を合わせようとするとフッと逃げるこの幻は、当然のように、言葉をかける。 黙れ。黙れ。今さら自分の生み出す幻などに用はない。 誰にも聞こえない声をかけてくるのは、背後の“彼”だけでいい。それ以外は不要。消えろ。お前を、狂気を、僕は認識しない。     『こんにちは、ギー』 なぜだ。黙れ。なぜ聞こえる。 なぜだ。そこになぜ留まっている。 ……なぜ、だ……? ギー、どうしたの。ドクター……?誰に話しかけてるの、ギー。 顔色が良くないわ。青ざめて、ううん、真っ白。だめ、だめ。 具合が良くないのなら戻ろう?無理はしないで、今日は、休んで……。 だめ、だ……。 縋るように見つめてくるキーアに告げる。駄目だ。この足を止める訳にはいかない。この手で、今日も。 思考が歪む。視界がひとりでに傾いていく。 (なぜだ) (なぜ、再びお前が現れる) ──狂気が。──都市の10年そのものである影が。 (僕は、混乱、している) (それとも……ランドルフ、僕は、まだ。 狂った……ままか……?) (巡回医師を……) (続ける……僕は……まだ……。 狂っている、まま、なのか……)     『こんにちは、ギー』 (……黙れ……) ──ああ。 ──視界の端で道化師が踊っている。 いつもは見ないようにしてきた。道化師は、何故だか過去を思い起こさせる。 過去の記憶。10年前の。切れ切れで、はっきりとは思い出せない。 踊る道化師。黒色の。確かにそこに在った。視界の中央で、こちらを見つめる仮面を。 記憶。断片化されたそれが不意に蘇る。 記憶。悲鳴と絶望の呻き。 記憶。この手で助けられると驕っていた。さしのべれば、必ず救えるものと。 記憶。次々と手の中をすり抜けていく命。 記憶。たったひとりを、僕は、助けられずに。 記憶。都市の何もかもが“崩れ”始めたあの時。 いや、そうだったろうか。記憶は断片化されて混ぜ合わされている。 こうも考えられるはずだ。都市の«復活»よりも、あれは前だったと。 ほんの1時間か2時間。その程度の“ずれ”が、あった、ような。       「どうして」 ──ああ。──きみの声が聞こえる。 僕は言葉もなく。きみを見つめる。 いや、いいや。僕は何かを言ったはずだ。 あの日、あの時。世界と僕とが壊れてしまう少し前のこと。 呻き声の中をさまよい、数多の誰かの涙を無限に見つめながら、役にたたなかったこの両手を蠢かせて。 深い霧の中をもがくように。悪い夢の中で悶えるように。──僕は。 何かを言ったはずだ。僕は、その声に対して、何かの言葉を。 ──あの日、あの時。──10年前。     『こんにちは、ギー』     『おやすみ。そして』      『目覚める時間だ』 ……瞼を開く。……部屋の中には夜の暗がりが充ちていた。 朝の気配はどこにも感じない。聞こえてくる音には囀りも足音もなかった。 現状を認識するまでに2秒のずれがあった。ここはどこだ。現在時刻は。 なるほど、と思ったのは人影のお陰か。少女の影が自分を覗き込んでいる。 ──暗がりの中でも。──見つめてくる薄赤色の瞳がわかった。 ……ギー、起きたの……。 起きないでいいわ。ギー、あなた、倒れてしまったの。 ……な、に……? ──声が出ない。 喋らないで。大丈夫だから。 聞こえていないかも知れないけど、言っておくね。ギー。 あなた、ひどい熱があって……。雑踏街の往来で倒れてしまったの。 ミース君が偶然通りがかってくれて、それで、エラリィのところへ行ったわ。お薬をもらって。 エラリィが言うには、風邪だって。ひどい病気じゃないから、大丈夫って。 ──熱を出して、倒れた?──自分が。 そんなことがあるはずはない。熱を失ったこの体は、熱病には罹らない。ましてや風邪程度のものは、あり得ない。 エラリィはそう有能ではなかったものの。そうも明確な誤診をするだろうか。 無理をしすぎだって。だから、ね。ギー、今日は休んで。 ゆっくり眠って。大丈夫。 キーアが、見てるから……。大丈夫だから。 ──キーアが何かを言っている。──声が遠い。 口を開こうとすると、唇が重かった。それでも何とか「大丈夫」とだけは囁く。 大丈夫。そう、僕は大丈夫だよ。キーア。 見えていたものが再び見えるようになった。冷静に考えれば、それだけだ。ただそれだけのことだ。 狂気が消えたわけではなかった。ずっと近くにあった。共に、すぐそこに。 ──それだけの話だ。 ──混乱することも、熱を出すこともない。 (僕、は……) (自覚を、した、だけ……) (大公爵を、破壊した……あれ……か) ──彼の狂気に触れたからか。 ──あれが己の狂気を自覚するきっかけか。──彼と自分は変わらないのだと。 (けれど……) (僕は、彼、とは……) (……違う……) カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 男は、大公爵に代わり黄金螺旋階段を昇る。男は時計を見つめたまま、段を昇る。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……我が新たなる玉座に在る大いなるもの。 ……あなたの時間だ。……大公爵の糸はすべて切れてしまった。 ……時間は止まらない。……恐らくは、あなたの望む通りに。 生け贄の子羊は今や自壊の憂き目にある。第2の«奪われし者»には敵わぬだろう。 己に割り当てられたクリッターを吸収したミラン・ガガールは何者よりも強大無比だ。それは子羊を殺すか、それとも昇らせるか。 ……どうとも思っていないのだろう。……あなたは。 ……だが、時間だ。 ──翌日のことか。 ──それとも、翌々日だったろうか。 時間経過の概念を失っていたかも知れない。ギーはひとり、雨の中の都市を歩いていた。 傍らにキーアの姿はない。改造外套を雨の滴に濡らしつつギーは歩く。 さ迷い歩くことを止めてはいけない。使命感、いいや、そう崇高なものではない。揺らいだ意識の中心に義務感だけが在った。 歩かなければいけない。決して、立ち止まる訳にはいかない。 ひとりで歩く。都市下層を。 果たして自分は巡回診療をしているのか。それすらも認識できていない。 ギーは歩いて、呼び止められる声に応える。脳内器官は常に起動させたまま、現象数式の“右目”を励起して。 ──熱。熱か。 何かに浮かされているのは自覚できている。けれど、それは熱ではない。 視界の端に在って踊る道化師の影。それの囁く声が、足を止めさせはしない。 声を振り払うようにギーは歩く。キーアを置いて。 キーアのことをアティに頼むだけの自意識はかろうじて残っていたのが幸いか。ギーは、朧気に心の中でそう呟く。 ──何をしているのだ。──僕は。 雨の中をさ迷って。改造外套を裏地まで無数の雫に浸して。 歩いて、歩いて。下層のあらゆる場所をさ迷い歩いて。 気付けば── 上層階段公園。第3公園。 都市下層で最も高い層プレート。上層階段公園の中で、下層民が歩くことを許された中で最も高い位置に在る緑の公園。 自分が来るはずのない場所。まともな思考であれば。 ──かつて10年前の«復活»の日。 ──あの日、あの時。 ギーが立っていた場所。無数の瓦礫の中でここに立ち尽くしていた。 上層階段公園第3公園。下層民にとっては最も空に近い場所。 ここにはかつて医院があったはずだ。断片化された記憶の中で、確かにそう思う。 上層大学の医学生課程を終えて、研修医として任命された自分の初の勤務地。それは、確かに、この医院であったはずだ。 今では瓦礫すらもない。異常繁茂する緑に呑み込まれたのか。 それとも誰かが瓦礫を除去したのか。正確な記録は知らない。 ……何も、ないんだな。 ここへ来るのは10年ぶりか。なぜ、ここへ来た? 道化師がそう囁いたから。違う。違う。 道化師の声に対して逃げ出さないためにだ。目を閉じ、耳を塞ぐことをしないためにだ。だからここへ来た。 混乱したままの意識でギーは思う。さ迷い歩いて、ここまで来たのには理由がある、と。 ……道化師。僕の幻。 お前が、僕の、記憶と共にあるなら。ばらばらのそれを……思い出させるなら。 僕の狂気は……ここで始まった。そうだろう、道化師。 答えはない。答えはない。沈黙の緑と、他の階段公園と変わらぬ水。 降りしきる雨の中で僅かに水音を立てる池。ここだろうか。 現在は澄んだ水の漂う場所。ここへ、自然とギーの足は向いていた。 ……ここに、何がある。 何もない。そうだ、何も……ない。 お前は幻だ、道化師。何も、ない。 お前がたとえ、僕の記憶から生まれても。それには……。 ……何の意味も、ない。たゆたう水と同じだ。そこに在るだけだ。 呟く。自分自身へと。 ──と。 視界の端に影があった。それは踊ってはいないけれど、人影だった。 道化師か。僕自身の記憶の断片と狂気か。視界の正面にそれを捉える。 消えなかった。視線を動かして確かにそれを捉えても。 違う。人影ではあっても、それは踊る黒色の道化師ではなかった。どこか、甘い香りが漂っているような。 ……ああ……。 ……ああ、ごめんなさい。人がいたのね。 こんな雨の日に……。私以外の、誰かが、いたのですね……。 ……ごめんなさい。みっともないところを……見せてしまう。 ごめんなさい……。 ──道化師ではない。 その人影は女の姿をしていた。美しさを感じたのは、雨のせいだろうか。 降り注ぐ無数の雫が女の姿に似合っていた。美しく、たゆたう水面に泳ぐ人魚のようで。 滴る雫に艶めかしさがあった。拭おうともせずに溢れる涙に想いがあった。 滴り落ちる涙は真珠のように煌めいて。水かきのある手へと。 女は、泣いていた。ひとり、水辺で静かに佇んで。 ──誰かに似ていた。──知っているはずの、誰かの姿に。 ……ごめんなさい、こんな……。でも……。 ここに、いると……。 振り返りたくなど、ないのに……。私……。 思い出してしまうの……。……10年前の、あの日……。 ……あの時の、ことを……。 涙は悲しさのためか、他の何かか。女の瞳の奥にある感情がギーには読めない。 女は幻想人種である«水魚»の特徴を色濃く発現させていた。けれど、人間の外見を幾らか保っていて。 表情は読みやすいはずだった。けれど。 ……思い出すと、言いましたね。 ……はい、思い出して、しまうのです。あの時のこと……。 覚えているのですか。あなたは……。 ……はい。覚えています、すべてを。知っています、すべてを。 だから……。ここに来ると……私は……。 ……思い出したくなど、ないのに。こうして……。 涙を……。 女は言葉を詰まらせて。涙に暮れる。 こんなにも多くの涙を溢れされているのに。それでも、その感情は見えない。 ──悲しみなのか。──それとも、憐れみか。 背後の“彼”が何かを叫んでいる気がする。けれど、それは道化師の幻に掻き消されて。 ギーは、女と同じように佇んで。降り注ぐ雨に打たれた。 しばらく後。涙を拭いながら女は言った。 「……ペトロヴナ」 ペトロヴナ。それは、その女の名前であるらしかった。 ──翌日のことか。 ──それとも、翌々日だったろうか。──そもそも、1日のことではなかった。 「覚えていますよ、はい。私は」 「思い出したくはないけれど。 なにひとつも」 「それでも私はあなたに答えましょう。 あなたが、そう望むのであれば」 「ここに在ったのは、ひとつの医院」 「皆が忘れてしまっていても、 私は覚えています」 「上層大学付属医院。 もうひとつの名は上層公園病院」 「多くのお医者さまがいらっしゃいました。 多くの患者さんが通っていましたね」 「ええ、そう。 入院していたひとも多かった」 「そう、多かったのですよ」 「上層の補助金で運営されていましたから。 保険の概念は現在ほどなかったけれど」 「下層の人々の多くにとって、 支払い可能な診察費はごく少なくて」 「それに応えるために作られた、 とっても、とっても立派な医院でした」 「だから、人は多く、そこに集まって」 「人々は皆」 「感謝していたのですよ」 「上層の、大公爵閣下の恩恵と、 献身的に尽くしてくれる医師たちに」 「……あの日、あの時まではね」 ──言葉。──つい昨日のことのように。 ギーは第3公園へと通うようになっていた。涙に暮れていた女の言葉を聞くために。 聞かなくてはならない。自分が断片としてのみ持っている記憶。都市の誰ひとり有していないはずのもの。 正しく組み合わさった記憶。ギー自身が既に失っているもの。 あの日、あの時の。10年前の«復活»の日の出来事。 そのすべてを聞く必要がある。数日を経ても揺らぐ意識でそう考える。 道化師が断片化された記憶と共に在る以上、それらをつなぎ合わせることで── 消えるのではないかと。今度こそ。 ──そう、ギーは考えていたから。 ──1日だろうか。──それとも数日のことだっただろうか。 第3公園へと通うようになっていた。キーアを置いて、ひとりで。 ……今日も来てくれたのですね。ドクター・ギー。 はい、ミス。今日も聞かせて貰いたい。 あなたの語る記憶は興味深い。……とてもね。 ふふ。面白いことなどないでしょうに。あなたは変わったひとね。 過去に興味を持つだなんて。都市の人々みなが、忘れているのに。 ……ねえ、ドクター。あなたはきっとわかっていないのですね。 忘却は、美徳なのですよ。つらいことを覚えている意味なんて。 意味なんて、ありはしないのです。あなたもわかっているはず。 僕には、意味があります。ミス・ペトロヴナ。 ……ミスはつけなくても結構ですよ。私はただのペトロヴナです。大公爵閣下でさえ、そう呼ぶでしょう。 ──微笑みに明るさは、ない。──そう感じる。 何もかもが不思議な女だった。キーアのそれとは異なっていたけれど。 あらゆる生活感というものが存在しない。いつギーが訪れても、ここに佇んでいて。水辺を見つめて。 言葉を交わして、別れて。それからまた会うまでの間── ずっとここに佇んだままでいたかのような、そんな感覚さえ覚えてしまう。彫像や、人形のようでさえある。 ……まあ、まあ。今日はお土産を持ってきてくれたの? 雑踏街で買ったものです。せめて、お話を聞かせていただくお礼に。 お口に合うかわかりませんが。ぜひ。 ……まあ。これは、ええと、あれですね。西享から伝わった食べもので……。 サンドイッチと呼ぶそうです。ゲームの傍らに手にできるのだとか。 ……そうなの……。目にするのは初めてのことです。珍しいものを、どうも、ありがとう。 いえ。 ──珍しいことなどないはずだが。──彼女は、どの層の人間なのだろうか。 身に纏う服装はきらびやかで美しく。変異した手や頭部の魚類特徴を溶かし込み、不自然さを僅かも感じさせない、繊細な服。 きっと高価なものだろう。貴族の服装とは些か趣が異なっているが。 ──何者なのか。──ペトロヴナと名乗るこの女は。 似ている、とギーは思ってしまう。生きる疲れを色濃く奥底に沈ませたこの瞳。炎の中に消えた、かつての友人を思わせる。 その瞳を覆う諦めを湛えた光は、妖樹に心身を侵された娘の姿を思い出す。 ──どこか、似ていると感じるのだ。──あのふたりに。 それで、ドクター。今日はどんなお話を聞きたいのでしょう。 10年前の暮らし?10年前の崩落とクリッターの顕現? クリッターのことであれば、僕も憶えていることがあると思います。 人々の暮らしを、聞かせて頂きたい。ペトロヴナ。 そう。でも、覚えてはいるのでしょう?皆が忘れているのはその時のことなのだし。それ以前であれば── 思い出してみたくなったんです。10年よりも前。 それを思い出すことを、失ったものが何であるのかを……。 僕らは、皆、努めてそうしてこなかった。思い出して来ませんでした。 だから、言葉で聞いてみたい。あなたの口から。 ……皆、ではないのですよ。ギー。 私は覚えているんですから。この私だけは、何も失ってはいません。 ──どうして。──そう、言い切ることができるのか。 黒衣の男を思い出す。ケルカン。殺し屋。彼もまた、覚えているのだと言っていた。けれども。 けれども彼の言葉の中には、あった。焦燥と怒りが。 彼は恐らくは“すべて”を覚えてはいまい。ギーは思う。他の誰より多く覚えていても、すべてではないはずだと。 覚えているのなら、口にしたはずだ。あの男は何かを隠すことなど、するものか。 あの男にはその瞬間しか存在しない。だから、人を殺せる。過去も、明日さえもケルカンにはない。 ──そう信じている。──少なくとも、ギー自身は。 あの頃、人は、絶望を知りませんでした。明日は輝いていたから。 アーコロジー計画。北央帝国碩学協会の協力さえ取り付けて、大公爵閣下はすべて順調に進めていました。 生産は確保されて、あらゆる生活設備は充実する。 人々は、そんな夢を見ていました。きっとあなたもね。 唯一の憂いは……。 そうね、強いて言えば、この空。この灰色の空の暗さだけが人々の翳り。 排煙が生み出す蒸気病。それだけは、どうしても克服できなくて。 ──蒸気病。肺病だ。──たかがそんなものを憂いていたのか。 そうだったろうか。言われてみれば、朧気に思い出す。 医学書が通用しない数々の病の中で、蒸気病は、手術不能とされる重病だった。肺に染みついた肺炎の黒色は、拭えない。 でも、概ね、人々は上を向いていました。明日を恐れなかった。 けれど……。 ──けれど。 けれど、それはあくまで。鳥籠の中で囀る小鳥の安寧だったのです。 本当の解放を誰もが知りませんでした。その日、その時まではね。 ……解放? ええ。解放です。あらゆる束縛から逃れて空を仰ぐこと。 ……わかりますか、ギー? ──解放。束縛からの。──わからない。言葉の意味が取れない。 勿論、その時が来た今でも、真に解放された人は多くはありません。 たとえば、この私であるとか。 あなたは、解放されている。そう言うのですね。 ええ、そうよ。そうです、ドクター。あなたもそうあって欲しいと、私は思う。 ──何から解放されている? 今を受け入れること。空を仰ぐこと。それこそが、この都市における人の解放。そうでしょう? 自らの死を受け入れた今、大公爵閣下が解放されているように。 同じように。都市のすべてを、私は受け入れているから。 ……私は解放されているのです。 ──今。 ──彼女は何と言ったのか。 大公爵が自らの死を受け入れた、と。それ故に、彼は解放されたのだ、と。確かに言葉を聞いたとギーの意識が告げる。 上層貴族の恐らく一部と、ギーとケルカンとルアハ以外には誰も。そのことを、知る者などいないはずだ。 上層貴族であるのか。彼女は。 ……大公爵が死を受け入れた? ええ。そうです。何か、私はおかしいことを言って? なぜ、知っているのですか。そのことを。 大公爵が存在していないということ。あなたは、上層の……。 いいえ? 私は、上層貴族などではありません。西享から来たただの女。 理想都市計画の進むここへと訪れたのです。楽園となる城を、目にしたくて。 ……楽園にはほど遠いものになったけれど。それでも、私は、解放されました。 偽りの劇場であなたにすべてを解放された、大公爵閣下と同じように。ね? ……なぜ、知っている。 ──全身に緊張が走る。──背後の“彼”が何かを叫んでいる。 視界の端で道化師が踊っている。嘲笑しながら何か囁いて、背後の“彼”の告げるすべての叫びを、掻き消そうとする。 疑問が意識の中に渦巻く。なぜ、この女は劇場のことを知っている。 あそこにいた人間は3人だけ。自分とケルカンと、ルアハだけだった。 知っているはずがない。最後の瞬間を目にしたのは自分だけだ。大公爵の、33の命を奪い取ったのは。 言ったでしょう、ギー。私はすべてを知っていますと。 10年前の«復活»で何があったのか。ここにかつて在った医院で失われ、人々に忘れ去られることとなった41の命。 生まれるはずだった41の命。彼らに与えられるはずだった41の玩具。 黒衣の男は言うでしょう。あなたたちは、その罰を受けているのだと。 41の命……玩具……? 罰……? ──何を言っている。一体この女は何を。──緊張感だけが全身を痺れさせる。       「危ない」    「ギー、このひとは」     「きみを傷つける」 聞こえた。確かに、背後の“彼”の言葉。道化師は今も視界の端で踊っているのに、それは確かに耳へと届いた。 音ではない言葉。背後の“彼”がギーへと告げる声。 41の命は世界を見なかった。だから、都市は、こう在るのです。 誰もが過去を振り返ろうともせず、誰もが現在を受け入れようともせず。愚かで在り続けるから。 ……少なくとも、ね。私はそう考えているのですよ、ギー。 ……41の数字。それは、クリッターの総数だ。 何を言っている。あなたは、何を知っている。 すべてをです。ギー。 ──そう言って。──女は可笑しそうに笑った。 無垢な少女のように、無邪気に、笑って。揺らぐことのないその瞳を、ギーは見る。疲れと諦め。 もうひとつの何かが見える。それは、ひどく残酷なものに感じられた。 ──戦慄が深くなる。──危険だと、ギーは今や確信していた。 私はすべてを知っています。私は何も失ってなどいないのですから。 私がここに在る意味、命を奪われてなお在り続けることの意味。この、10年間という時間の意味すらも。 都市法がなぜ存在するのか、大公爵は果たして一体、誰だったのか。 なぜ彼は都市をこうしたのか。それは、41の命への贖罪のためです。 ──現象数式実験は、ご存知? ──今、孤児を上層が集める理由はご存知? ……何を言っている。 あなたの言葉は、混乱しているように聞こえる。 ……わからない。何も、僕には。 ──現象数式実験。──それは、世界で初の数式実験。 それが何だと言うのだ。都市を救うためにと大公爵が行った実験だ。狂気に落ちて以降は«奇械»を作るために。 いいえ違うのですよ、ギー。誰もがわかっている、覚えているはずです。 けれど、今行われようとしているのは別。孤児たちから奪うため。その可能性を。 大公爵の実験を引き継ぐ、若い王が立ってしまったのですよ。ギー。 ……あなたは混乱している。落ち着いて下さい。 いいえ、駄目。駄目ですよ、ギー。私は昂ぶりを抑えることはしません。 あなたを愛してあげましょう。あなたは、過去に多くを置きすぎたのです。 ……あなたの言葉が、わからない。何を言っているのか、何を指しているのか。 だが……。 それに対して断ると言えば、僕はどうなりますか。 あなたはすべてを失うでしょう、ギー。奪うことは生きることです。奪わないことは死ぬことです。 この生と死のジレンマにあって、選択肢など、ひとつしかありませんもの。 ──狂っている。そう確信する。──言葉は今や連続性を持っていなかった。 この視界の端で踊る道化師が可愛く思える。彼女の中で渦巻く狂気は本物だ。戦慄したまま、四肢が動かない。 肉食獣に睨まれた獲物のように。ギーの四肢は、動こうとしていなかった。 彼女の危険性は自覚している。何もかもを知るという彼女、大公爵の死さえも知りながら艶然と微笑む。 (混乱しているのは僕も同じか) (この感じ……) (……«奇械»使いか!) あなたの考えがわかります、ギー。そう、私は«奇械»を操るもののひとり。 哀れにして愚かな«奪われた者»のひとり。今や3人となったうちのひとり。 我が«奇械»と対になるべくして在るひとつの玩具を得た唯一のひとり。 ……そして、すべてを知る者のひとり。 ──その言葉の直後。 ──蠢く影と無数の“蔦”が彼女を覆った。 『私はすべてを知って、それでなお、 こうなることを望んで』 『手に入れたのです』 ぬるり、と── 歪んだ大樹の“蔦”が女の体から這い出る。それは樹の異形だった。 ひどく歪んで不気味に蠢く“蔦”。美しく滑らかに輝くペトロヴナの肢体を覆う表皮の色は、凝固した血液にも似て。 ──怪物。──正真正銘の。これは人間ではない。 ギー以外に見る者がいれば。およそ確実に、精神が硬直しているだろう。恐怖に慣れきったはずの体が震えるだろう。 ギーは理解する。四肢が動かなかったのはこのためだと。 見る者に恐怖をもたらす。この異形は根源的なそれを備えているから。四肢も、視線さえも動かすことを許さない。 破壊。死。恐怖。叫び。それらのすべてがこれの根源を構成する。都市に生きる者を、残らず、畏怖させる。      ──クリッター── 上部に突き刺さった“死の捻子”こそ、この異形がクリッターであることの証。都市に眠る恐怖。 ……妖樹ブラッド・ツリー。それが、あなたの得た“玩具”だと……? 『はい。これが私が都市に与えられた力。 大公爵アステアの遺産、妖樹本体』 『私の«奇械»ミランと融合したこれは、 今やクリッターでも«奇械»でもない』 『ミラン・ガガールであるのです! ですから私は、大公爵に成り代わる!』 ──叫び。それは願いか。 ギーは目を細めて見上げている。既に彼女は、歪んだ大樹を吐き出しながら、同時に取り込まれながら体を軋ませている。 既に人間ではない。怪物。正真正銘の化け物だ。 ──化け物と人間とを分けるものは何か。──それは、自覚の有無。 彼女は既に自覚している。歪んだ樹こそが己であって、人ではないと。だから、ギーは、己の右手を彼女に向ける。 空へと伸ばして。開いた手のひらを向ける。 彼女の目は髪に隠れて、表情は恍惚として。クリッターと同化して、こんな顔ができる。それは生を諦めた人のかたちか。 『祝福せよ! 祝福せよ!』 『ああ、ああ、素晴らしきかな! 盲目の生け贄は今や私の聖餐である!』 『私の時計は動かない! レムル・レムルよ、あなたは動かない!』 『愛しき私の«奇械»使い、 大公爵が食べ残してしまったあなた!』 『──私の糧となって! ──矮小なる身を知り! ──永遠が何たるかを知りなさい!』 ッ……!! クソッ……野郎……早ぇじゃねえか……!大公爵の、食い残し、の……分際で……! アナタの身体に異常が起きています。ケルカン、苦痛を……。 アナタは苦痛を感じています。なぜ、突然に……。 鋼鉄の娘が男の肩に触れる。けれど、男はそれを乱暴に振り払う。 細身であるはずの男の膂力は凄まじかった。突き飛ばされ、娘は寝台へと倒れ込む。 ハハ……!ハハハハ……見直したぜ、数式医!! 一足飛びに“そいつ”とヤるのかよ!臆病者のドクター! ギー! 男の叫びは安宿の薄い壁を震わせる。階下で「五月蠅い」と壁を叩く音がした。 ギー! ギーよ!お前には勝てない、俺が── そいつは俺がただひとり!この都市に在って殺せなかった相手だ! カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 男は、大公爵に代わり黄金螺旋階段を昇る。男は時計を見つめたまま、段を昇る。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……我が新たなる無垢なる白色の王子よ。 ……ミラン・ガガールが最後の声を上げる。……第3の者はとうとう目覚めなかった。 喝采はない。喝采はない。 ただ、あなたがそこで嘲笑うだけだ。そして、それが、この都市の真実である。 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇る男がひとり。 それは計測者。それは鋼騎士。それは愚者。かつて都市を救ったストリート・ナイト。幾多のクリッターを屠った都市の英雄か。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、求めて。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。       『……ふふ』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものから解き放たれた彼は笑う。今も。今も。 その声は確かに少年のものであったが、どこか、大公爵と呼ばれた王にも似て。支配者の響き。     『彼女は輝いているよ』 『この瞬間、この時のために彼女は在る。 彼を苦しめ僕を楽しませるためだけに』    『……どうでも、いいことだよ』 御意。 クロック・クラック・クロームの名の下に。現在時刻を記録した。 貴方の望む“その時”は近い。レムル・レムルよ、お言葉を賜りたい。  『……何度も言わせるのは大公爵の趣味?』 『大公爵の哀れなしもべ。  哀れなクロック、哀れなペトロヴナ』   『せいぜいそいつを切り裂くがいい』  『……盲目の生け贄を喰い殺してご覧よ』 ──そう言うと。 ──背後に蠢く“彼”と同時に。──少年は暗く微笑む。 『あははははははは…!』 ──首の後ろのゼンマイ捻子が。──ギリギリと音を立てる。 ……“死の捻子”……! ……クリッターと同化した«奇械»か。それがあなたか、ペトロヴナ。 妖樹、その本体。そんなものと結びついて……! あなたは何を得る。あなたは、その姿で、何をするんだ。 ──その姿には見覚えがある。──これまでに150回目にしたものだ。 その名と姿をギーは知っていた。妖樹ブラッド・ツリー。 人を喰らう41のクリッターのうち1体。都市を覆う41の大いなる恐怖のひとつ。 ──数多在る妖樹の、根幹。 10年前の«復活»を生き延びた人間で、これらを知らない者はいないだろう。 ──妖樹本体。──それは、死を撒き続ける恐怖のかたち。 これは、10年前、人々のうち20%へと死の種子を撒いた。クロム鋼の刃も銃弾も通用しない怪異の中の怪異。 変異した人間など目ではない。凶暴な幻獣など、何体いても敵うまい。 何ひとつ物理法則が意味をなさない、これは超常の“現象”だ。病のかたちを以て、人を殺すものだ。 ……僕は、その姿に因縁がある。149の命を僕の前で奪ったものだ。 当然のように人を蝕み、苦しめ、殺す。異形の王、クリッター。血の赤色を撒き散らす、闇の黒色の恐怖。 みるみるうちに巨体となったその頭頂部で、半ば埋まった彼女が“こちら”を見ている。きっと笑みを浮かべている。 ──心の底から。──自らの境遇を楽しんでいるかの如く。 あは、はははは!美しいでしょう、私の体は、ギー! あなたのすべてを愛してあげる!いいえ、あなた以外のすべてをも愛する!都市のすべてを私は包んで、弾けさせる! 聞こえているのでしょう!現象数式実験などもう必要ないのです!私の愛だけが都市を解放させるのです! 過去は必要ない!私が現在のすべてを与えてあげましょう! 都市の現在! すなわち、死そのもの!私のこの体が示すすべてのもの、黒き死! 私にできないことはない!無数の種子を撒き、無数の私を撒いて、人々は幸せのうちに私によって死ぬの! あなたの熱も刃も鋼も私には通じない!クリッターと«奇械»を、誰も、同時には破壊することはできないのです! あははははは楽しい楽しい、でしょう!?ギー! あなたを取り込んで! ──私は完全となるのです。ギー! 嘲るように、叫ぶように彼女が笑う。狂気と死とが色濃く漂う。 彼女は解放されたのか。これに。晴れやかにさえ聞こえる声はそのせいか。 だが、ああ。だが、ギーは頷かない。周囲に死の種子を浮かべる妖樹本体からは憎悪と殺意以外の一切を感じ取れはしない。 ……申し出は断ろう、ペトロヴナ。 大公爵の消失があなたをこうさせるなら。まだ、この手にはやるべきことがある。 ──ギーの声と当時に。──呼びかける声がふたつある。       「どうするの」       『何をする?』       「どうしたいの」       『何をしたい?』   「きみは、どうしたいの。ギー」   『きみは、何をするのか。ギー』 ふたつの存在をギーは感じていた。視界の端の道化師と、背後に佇む“彼“を。 ふたつの声が重なっていた。ギーは頭上で嘲笑する彼女を見つめたまま、どちらの声を聞くかを選択する。迷わずに。 ──決まっている。──どちらの声が、僕への声なのかは。    「あなたを見ているよ」   「ぼくは、もう、体がないから」  「あなたを見ることしかできないけど」   「あなたが、なぜ、そうするのか」     「ぼくは、知りたいから」 ──耳を塞ぐ。──どちらの声もギーは拒絶する。 「────────────ッ!!」 「────────────ッ!!」 「──────ッ!!」 ペトロヴナの叫びが遠くに響く。狂気の渦巻くままに何かを喚き続けている。ああ、そうだ。きっと、自分と同じように。 無音の中で思う。ここが、自分の終わりだと。 すべてを知るという彼女が狂気に落ちて。何も知らない自分に何ができるのか。 ふたつの声は呼びかけてくる。どちらの声を聞くべきかはわかっている。 けれど、ギーにはその手段がない。一切。あれには通じないだろう。炎の手も、鋼の王の手も。 この手は届かない。彼女の叫びに自分は応えられない。 ならばこうするまでだ。ギーは、まっすぐに彼女を見つめる。 体の周囲を黒色が取り巻く。埋め込まれる。甘い香りが鼻腔へ届く。 (……これでいい) 悪夢の10年が、ここで終わる。それも悪くない。もう、疲れた。  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端で踊り続ける幻。道化師が、ようやく。 これで、消える。 ──静かに。瞼を閉ざす。 「────────────ッ!!」 「────────────ッ!!」 「──────ッ!!」 ペトロヴナの叫びが聞こえている。狂気の渦巻くままに何かを喚き続けている。ああ、そうだ。きっと、自分と同じように。 暗闇の中で思う。ここが、自分の終わりだと。 すべてを知るという彼女が狂気に落ちて。何も知らない自分に何ができるのか。 ふたつの声は呼びかけてくる。どちらの声を聞くべきかはわかっている。 けれど、ギーにはその手段がない。一切。あれには通じないだろう。炎の手も、鋼の王の手も。 ──たったひとりにさえ届かないのだ。──あの時から、ずっと。 この手は届かない。彼女の叫びに自分は応えられない。 ならばこうするまでだ。ギーは、まっすぐに彼女を見つめる。 体の周囲を黒色が取り巻く。埋め込まれる。甘い香りが鼻腔へ届く。 (……ああ。そうか) (150回目は、僕、自身か) 悪夢の10年が、ここで終わる。それも悪くない。もう、疲れた。  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端で踊り続ける幻。道化師が、ようやく。 これで、消える。 ──右手を伸ばす。もっと、上へ。 ──彼女の狂気の笑みへと向けて。──ギーは手を伸ばす。 妖樹の巨体へ、頭頂部のペトロヴナへ。あるいはその上にある空へと。 何かを叫ぶ。言葉になっているかどうか。わからない。だが叫ぶ。ギーは、叫んだ。右手を差し伸べて。 背後の“彼”が動いている。ギーがそうするのと同じように、手を。      ──虚空へと──    ──鋼の右手が伸びて── ──右手を、伸ばす。──前へ。 ギーの右手に重なるように、まっすぐに。何かを掴み取ろうとする手。 ──鋼でできた手。──それは、ギーの想いに応えるように。 蠢くように伸ばされていく。鋼の手は、種子の充ちる空間を裂いて。 ペトロヴナへと伸びていく。鋼色が、5本の指を蠢かせて現出する。 指関節が、擦れて、音を、鳴らしている。それはリュートの弦をかき鳴らすように、金属音を生み出す。 これは── 何だ── それまでの“彼”のものではない。だが確かに“彼”の“手”だった。ギーの背後から伸ばされるその色は、真紅。      ──赤色の──   ──赫の炎にも似た、鋼の手──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光はふたつ── その姿は真紅に充ちて。鋼を纏った“彼”は、姿を変えていた。ギーには見えないが、すぐにわかった。 背後から右手を伸ばす、鋼の“彼”の姿。それはギーの体をかき抱いて、それでもその“手”を伸ばす。 わからない。なぜ。姿が、変わったのか。鋼の体躯は真紅に染まり、瞳はふたつに。姿は違う。けれど“彼”に違いはない。 ギーは動じない。背後の“彼”は確かに“彼”だから。 視界の端に── 既に、踊る道化師の姿はなかった── ……あなたを外には出さない。 ここで、止める。ペトロヴナ! その妖樹を……あなたの刃を、砕く! 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──意思を伴って伸ばされる“右手”。──それは、ギーの“右手”。 その手は今や、尋常な人間の手ではない。真紅の鋼を纏った“右手”がそこに在る。背後の“彼”と同じ、刃の手。 金属の擦れる音。ギーの意思に、応じるように。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界に広がる妖樹の巨体を睨み付ける。激しい敵意と殺意。それは、ペトロヴナの持つものなのだろう。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。真紅に変じた鋼の“彼”が、妖樹本体と彼女を視ている。 数式を起動せずともギーには視えている。狂気の嘲笑を続ける彼女を無視し、ギーと“彼”は巨体の根本部分を睨む。 ──右手を向ける。──ギー自身と“彼”のものである、手。 ──これまでの手とは違う。──けれど、ある種の実感がこの手にも。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。これまでの時と同じように。 砕けるのは!あなたのほうです、ドクター・ギー! ──死の触腕が、伸びる。 彼女の叫びに巨体が応じる。巨体から繰り出される無数の触腕すべてに、まとわりつく無数の種子が、確かに視える。 ギーの“右目”は既に捉えている。ミラン・ガガールという名の異形のすべて。 それは死を振りまき、それは種子を植える。それは人間の精神と肉体を蝕み破滅させる。都市全土の人々さえ。 人は絶望と諦念の中に落とされる。何者も、それから逃れることはできない。 振り上げられた、触腕。矛先を向けられるのはギーと“彼”! ──幾つもの赤黒い軌跡が空間を縦断する。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間でさえも。 もしも触腕を避けられたとしても、周囲の空間ごと死の種子が取り込むだろう。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。巨体の繰り出す触腕が裂いたのは虚空のみ。 何……!? 初期型、中期型の«奇械»でかわせる訳が!私は«奇械»と対応するクリッターを得た!どんな«奇械»使いも殺せるのに! ……遅い。 愛してあげると言うのに! 喚くな。 叫び声をあげた彼女を“右目”で睨む。空気が震えるかと思うほどの、彼女の怒り。 クリッター・ボイスか。人間の頭脳すべてを崩壊させる恐慌の声。ギーの精神と大脳は、まだ死んでいない。 真紅の鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。荒れ狂う彼女のすべてを“右目”が視る!   ──すべての«奇械»は不滅──   ──すべてのクリッターは不滅──     ──物理破壊は不可能──    ──ミラン・ガガールの場合──     ──唯一の破壊方法は──  ──増殖する“現在”を奪いとること──    ──この“手”であれば可能──   ──この«悪なる右手»であれば── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 クリッターと«奇械»の合成体。すべての物理効果の及ばない妖樹の体躯。故に、確かに人間はこれを破壊できない。 唯一の破壊方法は“現在”の奪取。故に、絶対に人間はこれを殺せない。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている!──“右手”と連動するかのように! 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “光の如く、引き裂け”  ───────────────────! 『きぃああああああ!!』 ──真紅の右手が疾って。──赤黒く蠢く死の塊の根本深くを薙ぐ! ──真紅の右手はすべてを奪う。──妖樹の全箇所を完全に取り込み奪う。 ──巨体は程なく消え去るのみ。 ──接続を切断された«奇械»と同じく。──何の痕跡も残さずに。 上層階段公園。第3公園。 都市下層で最も高みに位置する層プレート。そこには既に、蠢く妖樹の巨体はなかった。 ミラン・ガガールは消失していた。静けさ充ちる緑と水だけが公園に残されて。池の水面には、降り注ぐ雨の雫だけがある。 誰もいない。公園には誰ひとり。 ──ギー以外には。 ……ペトロヴナ。 あなたは、そうか。大公爵と……同じ、だった……。 だから……。あなたに、過去は、ない……。 狂気に微笑むペトロヴナの姿はない。ギーの視線の先にあるのは、死体だった。 草むらの中に埋まるようにしてあるそれは。年数を経て完全に白骨化した死体。 脳内器官を起動させる。現象数式の“右目”が白骨の状態を視る。 女性の白骨体。年齢はペトロヴナと同じ頃。死後経過、10年。 ……10年。 ──彼女は、死んでいたのか。 ──既に。10年前に。 ……大公爵と、同じ、か。 ああ、そうか。そういうことなのかとギーは静かに思う。 混乱は既に意識から引き剥がされていた。視界の端から消え去った、道化師と共に。 だから……。 だから、彼女は……。あんなに、はっきりと、過去を覚えて……。     『……よく、できている』  『きみは、レムルの望みを果たしている』       『それ故に』  『レムルは、きみを許さないだろう』 ──下層の一角にある安宿の一室。 黒衣の男が仮の宿と決めた場所。鋼の娘が突き止めた、その男の潜伏先。 叫びと共に激しく突き飛ばされてもなお、娘は部屋から出る素振りを見せなかった。ただ、男を見つめて。 男が何を言うのかを。男が何をするのかを確かめるために。 ──何を求めて。 ──何を果たそうというのかを。 ……お前には、悪いがな。ルアハ。 はい。 終わりの時が来た。 終わり……? あいつが、まさか、奴をヤるとはね。なら、この俺も同じことをする必要がある。 覚えている奴から奪う必要がある。俺の持っていないものを、揃える必要が。 ……遅れは、取り戻す。 二度と手遅れにはさせない。二度とだ。 時間は巻き戻らない。なら、同じ過ちは、絶対にしない。 そう言って窓の外を睨み付ける男の瞳は。娘にとっては見覚えがあった。 同じことを言う人を知っている。それはふたり。 記憶を電気信号に移し替えても覚えている。それは、娘の両親と同じ言葉だった。 ──時間経過の感覚が戻っていた。 合計で4日。それがペトロヴナと出会ってからの日数だ。ひとりきりで第3公園へと出向いた日数だ。 たった2時間を惜しんでいた自分が。時間を、一体何に費やしたのか。 得たのだと感じられるものは殆どなかった。いいや。あったのだろうか。上層階段病院と、現象数式実験。 大公爵の現象数式実験。クルツもそれを口にしたのを覚えている。 ──ふたつの単語は繋がらない。 ──記憶は合わさらない。──それとも、初めから何も知らないのか。 玄関の鍵を開ける。時刻は深夜2時を過ぎていた。 誰も起きていないだろうと思っていた。外部からの侵入者すべてを正確に認識するルアハは、既に、アパルトメントにいない。 黒猫は、キーアの護衛を頼んでいた彼女は、今夜は仕事へ出向いているはずだ。 ──だから。──誰もいないものと思って、部屋へ。 ……ギー。おかえり、なさい……。 ……ああ。ただいま。 起きていたんだね。ありがとう、でも、もう遅い。 どこに、行っていたのか……。今夜は……。 教えて、くれる……?ギー……。 ──ああ。──キーアが笑顔を浮かべていない。 こんな顔をさせてしまう。そうだ。4日、何も話をしていなかった。 埋め合わせをしよう。そうギーは思う。けれど、すべてを話すべきではないだろう。あれは、死した彼女の妄念と狂気の残滓だ。 誰かに話すべきことではない。だから、ギーは、キーアの頬に手を触れる。 ……今度、話そう。暫くの間、寂しい思いをさせたね。 ううん。いいえ、寂しく、ない……。それより、ギー……。 悲しいの……? いいや。何もないよ。僕は大丈夫。 でも……。ギー、泣きそうな顔をしてる。 ……ああ。 大丈夫。そんなことはないよ。キーア。 背後の“彼”が何かを囁いた気がする。それは、キーアと同じ言葉だったろうか。 キーアの頬に手を触れて。ギーは、表情を形作って見せる。 ──それは。 ──果たして、笑顔になっただろうか。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 男は、大公爵に代わり黄金螺旋階段を昇る。男は時計を見つめたまま、段を昇る。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……我があるじ。……我が新たなる無垢なる白色の王子よ。 ……あなたの時間だ。……大公爵の糸はすべて切れてしまった。 喝采はない。喝采はない。 ただ、あなたがそこにいるだけだ。そして、それが、この都市の真実である。 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇る男がひとり。 それは計測者。それは鋼騎士。それは愚者。かつて都市を救ったストリート・ナイト。 彼は黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、求めて。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。       『……ふふ』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒いものから解き放たれた彼は笑う。今も。今も。 その声は確かに少年のものであったが、どこか、大公爵と呼ばれた王にも似て。支配者の響き。     『都市インガノック』 『すなわち、僕を縛り付けるすべて。 すなわち、僕から10年を奪ったもの』      『……憎らしいね』 御意。 クロック・クラック・クロームの名の下に。現在時刻を記録した。 貴方の望む“その時”は近い。レムル・レムルよ、お言葉を賜りたい。 『異形都市インガノック。 10年前、ここで何があったのか』 『僕は知ってる。 そう、哀れなペトロヴナと同じように』 『だから僕には“その時”が訪れる。 こんな都市は終わらなくちゃならない』 『でもね』 『……キーアだけは別だ』 既に、螺旋階段を昇り続けた者はいない。最初からいなかったのだ。ここに在るのは新たな王。 少年王。階段頂上に聳える暗闇玉座のあるじ。 その背後に見えるものは、何だ。酷似している。螺旋階段を形成する黒色に。暗闇もしくは影、もしくは蠢く何かの意思。 少年王を守るように。少年王を包むように。 ──かつて彼を覆い隠していた“影”が。──形を成している。 ──名は、ラウダトレス。──原初にして無敵なる«奇械»のひとつ。 『もういい頃合いだよ。クロック』 『生贄の子羊は、確かに、 願いとやらを受け止めるかもしれない』 『でも、いらないんだ』 『それは、かつて大公爵の望んだ尊きもの。 それは、かつて人々が忘れ去った、何か』 『……僕には無用だもの』 御意。 ……新たな主よ。……ならば、あなたの願いは何であるのか。 『キーア』 ……それ程に。あの少女を。 『ああ。それほどに、だよ』 『──さあ』 『喝采はいらない。 喝采はいらない。 都市のすべては、僕の気持ちひとつだ』 『ああ、ああ、素晴らしきかな。 盲目の生贄に奪われし娘を我が手に』 『現在時刻を記録してよ。 クロック・クラック・クローム』 『僕の望んだ“その時”だ。 誰をも愛さない生贄よ、震えるがいい』 御意。 『これは復讐だ! これは復讐だ! あいつさえいなければ!』 『あいつさえ、いなければよかったのに!』   『あははははははははははははは!!』 ──あなたさえ。 ──あなたさえ、いなければよかったのに。 ……夢を見ていた。 ……ひどく、嫌な夢。悪夢。 あたしの口から出るはずのない言葉。それなのに、あたしは、夢の中で何度も。 ……瞼を開く。……部屋の中はまだ暗かった。まだ真夜中。 それでも朝の気配が僅かにある。歪んだ小鳥のさえずりが少しだけ聞こえた。 暗闇を見通すあたしの“猫目”が視る。永久に晴れない灰色の雲の向こうの陽光を。まだ、カーテン越しでは暗いままだけれど。 趣味の悪いカーテン。見慣れたものが視界に入ってくる。 小さな寝室。快適とは言い切れないアパルトメント。機関式空調だけは一流の、ギーの部屋。 うん── すぐ傍らに彼の気配がある。 この気配も慣れたものだった。悪夢に痺れかけた全身から力が抜ける。 暖かさを伴わないこの気配。まるで死体のようだと、出会ったあの時は心底驚いてしまったっけ。ギーの冷たい体。 ……ギー。 体を起こして隣を見る。そこにいた。ベッドに横たわる男。 ギーは眠っている。きっと今夜も浅い眠り。それでも、こんなにも彼は無防備な恰好で。襟元から覗く白い肌。 本当に。まるで生きていないかのよう。 もう何年も経つのに。不安になる。生きているよね、ギー。眠っているだけだよね。 ──ただの友人。──この地獄の10年を共に過ごしてきた。 あたしと彼は、ただそれだけなのに。見つめてしまう。彼の姿。 変だ。こんな風に、まるで女の子みたいに。恋する相手を見つめるみたいに。そんなこと、あるはずないのに。 ただの友人。ただの知己。拠り所だの愛だの恋だの猫には必要ない。 そういうものを持った奴から死ぬ。それは、誰もが言わないけれど誰もが知るインガノックにおける、ルールのひとつだ。 ──少なくとも。──あたしは、そう思って生きている。 ──そう思ってきたから、生きている。──今も。こうして。 なのに、こんなに。ギーってば。 本当、無防備なくらいに油断して。静かな寝息は頭上の耳を傾けると心地よく。 ギー。こんな姿をかつては見せなかった。この10年間で、何度お目にかかったか。数えるほど。 きっと10回もない。しかも、その殆どはここ最近のこと。 あの子が来てからかな。 ──やっぱり。変わったのは。──キーア。 遠慮なく笑顔を見せるあの子、キーア。あの子が来てからギーは変わった。 僅かだけど笑うようになった。僅かだけど心の動きが見えるようになった。きっと、ギー自身、それを自覚していない。 変わっていく。それは決して嫌なことではないけれど。 ──でも。 ──でも、あたしはどう思っているの。 嬉しいような気もしているし、そうではない感情も胸の中にある気がする。あたしは、自分の心と向き合うのは、苦手。 猫だもの。10年前に生まれたこのあたし。もう、名前なんて思い出せない。あたしはアティ。ただの、黒猫。 猫はそんなこと考えない。多分。 本物の猫がどうなのかは知らない。だって、動物の言葉なんてわからないから。 ……本当。わからない。 囁いて、あたしは自分の頬を叩く。軽く。音を立てないように。 男の寝顔なんか見たって、いいことない。どんな夢を見ているかなんて知らない。どんな夢がどんな意味を持つかなんて。 そもそも、ギーはきっと夢なんか見ない。あたしとは違う。数式使いだもの。 数式医。巡回医師。上層や行政に睨まれてもやめようとしない、下層で一番の変わり者、気狂いのドクター。 ……瞼を閉じて。……視線を注がれても眠っていて。 あたしはもう一度自分の頬を叩く。ぺし、と音が鳴った。 ……ワイン、飲みたいな。 10年物の。美味しいやつ。 ──音と。──くんくん。香りが鼻腔に届く。 ドアを開けると香りが漂った。配給食用油で合成ベーコンを焼く時のもの。 続いて聞こえた焼ける音は、スキレットで安い合成卵を炒める時のもの。 市民登録者に与えられる配給用食用油。生産機関製の安い合成ベーコンと、合成卵。パンでも加わればご立派な7級市民の朝食。 特に珍しいことはない。 でも、ここはギーのアパルトメントだから。ずっと、そんなものとは縁遠いはずだった。 ギーのアパルトメントにそんな食材ない。今まではなかった。そう、今まではの話。 そう。今は違うよね。 「聞いて、ねえ、アティ」 「栄養剤とコーヒーだけで済ませちゃうの。 ギーったら」 「そんなの体によくないのに。 ね、ちゃんと食べるように、言って?」 ──ギーは殆ど固形物を口にしない。 今まではそうだった。彼は、明確な栄養を摂取するのを嫌がった。でも、あの子は気に入らなかったみたいで。 随分と協力をせがまれた。何度かは、無理矢理口に突っ込んだことも。 (……不思議な子。キーア) もう随分と馴染んだはずなのに。こうして調理の音を聞いていても、思う。 不思議と手慣れている。6級以上の市民子女にしては、随分。 ギーの服も変わった。着けているものは同じ、でも、丁寧にアイロン掛けされた服だもの。変な感じ。 ──そう。不思議と。──あの子は、生活に手慣れているんだ。 あの隠したがりの数式医からどうやってかデータをかき集めて、家計簿もつけている。本当。器用で不思議な優等生の子。 明らかに、この辺りの層には不案内なのに。この層の生活にあの子は“馴染んで”いる。疎まれているなんて話は耳にもしない。 ──順応性が高い?──ううん、そういうものじゃないと思う。 ──それはきっと。──あの子の出自に関係しているんだ。 おはよう、アティ。お待たせしちゃってごめんなさい。朝食、今できたの。たくさん食べて? おはよ、キーア。もちろん。遠慮なくいただいちゃう。 たっくさん食べて。ギーはどうせ、また一口だけだもの。 あは。そうだね、また一口だけかな。作り甲斐のない奴なのさ、ギーって奴は。 うん、そうそう。そう。……でも、奴とか言っちゃだめよ? はいはい。彼ね。それじゃ遠慮なく、いただきまーす。 はいな。めしあがれ♪ 手際よくテーブルに並べられていく朝食。卵の炒め物、ベーコンを油で焼いたもの。焼き直したパンとスープ。 合成豆を挽いたコーヒーの注がれたカップ。ふたつは、濃く。ひとつは、薄く。 ──3人分。──あたしのぶんもちゃんとある。 明け方前にあたしが一度目覚めて、ギーの顔を見てからもう一度寝て。やっと起きたのが、今。 二度寝の浅い眠りの中で認識していた。キーアが起きて、朝食を作り始める気配。 不思議な子。あたしがいるのに気付いて。誰かが部屋を覗いた気配なんて、なかった。なのにこうして。 (……そういう変異をしてるのかもね) (勘。鋭いみたいだし) ね。おいしい? おいしい? うん。おいし♪熱さも丁度良いし、キーア、大好き。外で食べると何でもかんでも熱くて。 猫舌だものね、アティ。 そ。正真正銘の猫舌なのさ。 空調の前に置いて冷ました皿が幾つか。キーアの用意してくれた朝食。 ベーコンほどほど、卵ほどほど。スープもほどほど。コーヒーには氷の欠片が浮かんでいて。 所謂“普通”の人間の舌に比べて温度に敏感なあたしの舌には、丁度良い。 ──説明したことはないのに。──顔に出したことも、ないはず。 ──それでもキーアは黙ってこうする。──勘の鋭い子。 あたしが視線を向けると目が合った。笑顔が「おいし?」とあたしに訊ねてくる。 まるでお人形のような看護服。似合ってる。ギーに合わせて自分で繕ったと聞いている。可愛い子、キーア。 ──本当に、本当に。──インガノックには似つかわしくない子。 ──まるで、突然現れた妖精のよう。──恐怖も悲鳴も知らないような顔をして。 ──そんなはず、ないのに。絶対。──都市に生きている限り、絶対。 ──でも。 ──あたしは10年前を思い出してしまう。──この子の笑顔、この子の言葉から。 何も不安なことなどなかった、あの日。誰も恐怖を知らずに過ごした、あの日。もう、思い出すことも難しい、あの日。 ね、アティ? ん? あのね、今度、市場の裏のダニエルさんが第3層から取り寄せた薫製を買う予定なの。腸詰めやハム。ぜんぶ本物! ……天然物? ほんとに? そうなの。予約させてくれたの。だから、買った日には絶対ここにいてね? 腕によりをかけてご馳走するわ。ギーにも、二口は食べてもらいたいし── それなら任せて。無理矢理にでも口をこじ開けちゃうさ。 うん。はい!じゃあ約束ね、アティ。 うん、約束さね。 ──天然物?──あの強突張りのダニエルが? 普段なら高値で上層に売りつけるはずだ。それを、下層の貧乏人に売るなんてこと。あり得ない。 でも、キーアならとあたしは思う。この子の言葉と表情には“力”があるから。 現象数式でも数秘機関でもない、何か。そんなことをあたしは思う。 だって、この子はギーに笑顔をくれた。あの冷血男に。 ──だから信じる。──あたしは、この子の言葉を疑えない。 ちくり、と。胸のどこかを刺す痛みのことは気にしない。自覚はしている。嫉妬。でも、気にしない。 気にしたって意味がないもの。逆立ちしてもあたしはこの子になれないし、この異形の手はスキレットなんて握れない。 ──あたしはこの子が嫌いじゃない。 ──死なせたくない側の人間だと、思う。 ──それだけでいい。──他には何も思わない。思えないもの。 無償の好意なんてものが、この都市にも、たったひとつくらいあってもいいと思う。だから。 だから、あたしは、キーアに笑顔を返す。困ったような、嬉しいような、そんな顔。不器用なものだと我ながら思うけど。 おはよう。ふたりとも。 おはよう、ギー。冷めてしまうから早くテーブルについて? おはよ、ドクター。……なあに、そんなとこに突っ立って。……さっきから、ずっとそこにいたね? ──あたしの感覚は鋭く。──周囲30フィートの気配を把握する。 ずっと彼は見ていた。あたしとキーアを。乙女ふたりの会話を盗み聞いていたのさ。まったく、悪趣味なドクターだこと。 見ていただけだよ。そういえば、と思ってね。 そういえば、何さ? きみは子供好きだったんだなと思ってね。そういえば、そうだった。 コドモズキ? あの。子供じゃないです。レディに何度も何度も失礼だわ、ギー? ……コドモズキ……かぁ。 ──子供好き? どうなんだろう。あたしが?そんなの、一度も意識したことがないし。可愛いものは嫌いじゃない。でも、子供。 どうだろう。嫌いではないけれど。好き。好き、ね。 ──好き、か。 ……好きって、なんだっけ。 冗談交じりに呟く。キーアだけは気付いて笑顔を向けてくる。 あたしは同じく笑顔を返して、肩をすくめながらギーに舌を出してやる。案の定、彼はあたしの行為に気付かない。 ……でも。……でも、本当に。 ──本当に。好きってなんだろう。 ──10年。──考えないようにしてきたから。 ──そんなもの、もう、忘れてしまった。 ──よく思い出せない。──まっとうな人間サマの気持ちなんて。 ──それ、具体的にはどんなものなのさ? ──都市摩天楼の夜。 都市摩天楼。無数のビルディング群。最強のクリッターたるドラゴンの出現で閉鎖された地下大機関に次ぐ機関の揺籃。 上層によって任ぜられた都市職員が運営する、高層のビルディング区画。都市各所に送られる機関エネルギーの要。 いわばインガノックの心臓。無数のビルディングは動脈のひとつひとつ。 機関エネルギーは、すなわち金だ。動く金が多ければ影の跋扈する機会も多い。 ──だからここが、あたしの主な仕事場。荒事屋の仕事は影の中に。 ……今日も風が吹いている。耳の後ろと爪の間をすり抜けていく嫌な風。 排煙混じりの。大嫌い。こんな風、一秒だって浴びたくないのに。 ──それでも。──ここがあたしの仕事の場所。 ──今夜も一件、予約がある。──公立研究施設の襲撃と情報の奪取。 仕込みは上々。一時間もすれば報せが入る。今夜は第2級のハッカー様が雇えたからな、こっちのリスクは最低限で済む。 もっとも、簡単な仕事じゃないがね。運が悪けりゃ上層兵が大挙して押し寄せる。 仕込みがうまくいけば木偶の坊はお休みだ。だが、そうはならん可能性もある。 そんなの、いつも通りさ。 違いない。嫌な猫だ。 いつも通りさ。嫌な鳥さん。 緊張とは違った気配が«鳥禽»の男にある。ある種の諦めのようなものと、戦闘の期待。年季の入った荒事屋にはよくある。 最低限の戦闘で済ませるのが優秀な荒事屋。それでも、刃傷沙汰は絶えない。それ故に、あたしたちは慣れる。 刃を振るうこと。銃弾をくぐり抜けること。変異や数秘機関で強化された肉体を、思う存分発揮して敵を叩き潰すこと。 ──戦闘の予感は体を震わせる。──そういうことは、時々は、ある。 (何を気負ってるんだか。 たかだか、等級4の公立の研究施設) 屈強な«蟲虫»の傭兵が警備にいるって話。それが、男を滾らせているのだろうか。鳥さんは、虫を相手に昂ぶってる、か。 引き裂く欲求が理性を刺激する感覚。この男は求めているのだろうか。自分の体、反射神経の数秘機関を全力稼働する瞬間を。 変異しても元は人間なのに。これじゃ、まるで野生の鳥と変わらない。 ──もっとも。──あたしも似たようなものだけどさ。 ──人間サマの感情ひとつ、忘れてさ。──きっと野生の猫以下だ。 ……ねえ。嫌な鳥さん。 絡むなよ。嫌な猫。 お前がそうして不機嫌な時は嫌な酒になる。いい加減、機関酒場の安シードルで酔う癖、なんとかしたほうがいいぜ。 きみの奇声をあげる癖。それも止めたほうがいいと思うけど。 ……なんだよ。普段の陽気さの欠片もねえな。 お前、どうした。1年以内に2度もそんな不機嫌な顔なんざ見せて。死ぬぞ、猫さん?気の抜けた奴から減ってくんだぜ? うるさいな。嘴折るよ、嫌な鳥さん。 くるっくー。 笑えなーい。そんな鳩いないさ。 ──そのまま黙ろうと思ったけど。──つい、口が滑って。 ねえ。“好き”って何。 は? ……いよいよ重症だな。何を口走ってんだ。あー、例の生白い人間サマの巡回医師だな?入れ込むのもいいが大概にしとけよ。猫。 レイたちを見たろうが。ああいう末路だぜ。悪いことは言わん。仕事の時は、忘れとけ。俺はお前のケツ拭いで死ぬのは御免だぜ。 うん。 おいおい。噛み付かねえのかよ……。 あ。噛まれたい? おいおい。 冗談、冗談。ぜんぶ冗談さ。きみこそ肩の力抜いたほうがいいよ。 ──冗談だと思って欲しいけど。──悪いね、あたしは、嘘つき猫なのさ。 そもそも“嘘つき猫”なんて仇名を勝手につけたのは、この小憎らしい鳥なんだから。嘘だと気付かないのは自業自得。 この鳥とはそんなに短い付き合いでもない。何度も死線をくぐってる。特に最近は。 随分、仲間も減った。今でも残る古い顔は数えるほどしかいない。前衛を張るような奴は、特にそう。いない。 ──ふと思う。──そういえば、この鳥はどうなの。 どうなんだろ。疑問に思ったこともないし、聞きたいと思ったことさえない。今までは。でも、今夜は興味が湧いた。 ……そういえばさ。きみ。 何だよ。 佳い人いるの? いるように見えるか? さァ。興味ない。 なんだよそりゃ。 彼は翼の“肩”を器用にすくめてみせる。そうそう見かけることもない無言の返答。 ……ふうん、なるほど。 へー。そうなんだ。 お。今のでわかるのか? 全然? なんだよそりゃ。 ……しかし、何だ。意外だな。こうも見え見えにまあ、なっちまうとはさ。さんざからかっちゃいたがね。なるほどね。 お前のそんな顔を見ると拍子抜けっつーか、言うだけ野暮っつーか。ったく、この猫は。わかってるだろうが、仕事に影響出すなよ。 何さそれ。 気付いてないのか? ──心底呆れたような声。──何さ、生意気で嫌味な鳥野郎のくせに。 お前の顔。いっちょまえに黒猫が女の顔だ。よっぽど、例の巡回医師はいい男らしいな。 怒るよ。 ──嘘つき猫。──そう、言うほどは怒っていないさ。 怒るより何より、ただただ意外だった。女の顔か。あたしが。 そういえば、あたしは。黒猫のあたしは。荒事屋であるところの、このあたしは。ああそうか、なんて馬鹿馬鹿しいけど。 ──そういえば、あたしは女だったんだ。 ──10年前も。今も。 「なんて顔をしやがる。人形風情が」 ──下層、第2水源区画。 ひとりの男が歩いていく。黒色に身を包んだ彼の視線は濁った水辺を突き刺したまま、一切、揺るぐことがない。 囁くように呟いた男の傍らに。小柄な人影がある。 人間のように見えるその人影は、けれども、露わな球体関節部がはっきりと見えている。自動人形。いいや違う。 人間。人形のような。少女のような。男の傍らに付き添って。 ……ワタシは、どんな顔をしていますか。ケルカン。 お前がそんな顔をする必要はない。俺を見るな。 いいえ。はい。 黙れ。話しかけるな。 ですが、あなたは自ら── 小柄な人影の声は遮られる。第3の“何者か”が水辺に姿を見せたから。一般的な人間よりも大きな体躯をした、影。 影は猫科の生き物に似ている。けれど、その大きさにも関わらず、表情は穏やかで、彼と彼女を歓迎するかのようで。 自然と緊張が解される。そう、人形のような彼女は思う。 ──儂を呼んだようだね。ケルカン。 ああそうだ、呼んださ。俺はあんたの顔を拝みに来た。 そうか。そこにいるのは、ルアハかな。珍しい取り合わせで出向いてくれたものだ。だが、残念なことに何も持ち合わせがない。 この爺にあるものは言葉だけ。しかし、お前さんに何を言えば良いものか。 ケルカン。歩みを止めた男。階段を昇ることをお前さんはやめているね。 ……忘れ物を取りに来た。 むう、わからんね。ニャア。何かな? ……いいや、知ってるぜ。猫爺。 背後に隠れた“誰か”が浮かび上がる。男と同じく黒色で、虚ろな眼窩を持つ影が。 果たして老猫には見えるだろうか。虚ろな黒影の手が携える死の“かたち”が、ぬめった闇色の輝きを鈍く放つ、そのさま。 ──死の顎。──それが、大きく、振りかぶられるのを。 ……はて。何をかな。 あんたを人が師と呼ぶのは、あんたが呆けてるからでも学があるからでもない。 ほう? あんたは何ひとつも失っていない。この都市でただ一人、あんただけが、何も。失わなかった、失わずに、ここにいやがる。 持たざるものだからね。儂は。 羨ましい話だ。だから、俺はあんたから奪う。 ケルカン、なぜ、彼を── 黙れ。黙れと言ったぞ。俺は、奴よりも先に“勝利の塔”を昇る。時間がない、既に、裁定者は降り立った。 あんたのすべてを俺とクセルクセスは奪う。数多の命と共に“かたち”と化せ。 ……断ると言えば? 我が«安らかなる死の吐息»の意味。その身を以て、理解して貰うしかないな。 老師イル。あんたは充分生きた。そうだろう── ──静かに。静かに。 そうっと忍び込む。数時間前の研究施設に続いての静かな仕事。黒猫の通り名の通りに、するりと音もなく。 黒い服と髪と耳とが夜闇に溶け込んで、あたしは慣れた手つきでツールを取り出す。目を閉じていたってここの扉は開けられる。 ツールで鍵を開ける、カチリ、と僅かな音。懐中時計の秒針程度。耳のいい種以外には聞こえやしない。たとえばあたし。 扉を開く。蝶番は軋まない。きっとあの子が油を差したんだなと思う。 ──忍び込む。──あたしは慣れた“そこ”へと侵入する。 ……あれ。かすかな違和感。 もう何度目かも覚えていないここへの侵入。慣れた匂いのアパルトメント。ギーの。それが、いつもと少し違う気配と匂い。 今はもう馴染んでいるあの子の匂い。違う。姿を消してしまった人形の子の匂い。違う。この匂い、ギー。 コーヒーの匂いとギーの気配。濃い。寝室にはいない?すぐ近くにいる? ──いた。うん、すぐ近く。 明け方には早い。まだ今は真夜中なのに、ギーはソファに座ってこちらを見ている。息を潜めたあたしが馬鹿みたい。 こんばんは。黒猫さん。 ……こんばんは、ドクター。 珍しいね、アティ。プロのきみが僕に気付かれるなんて。 疲れてたんだ。さっきまで仕事してて。こんな時間に起きてるなんて、最近じゃ珍しいじゃないのさ、ドクター・ギー? 眠る気になれなくてね。 明け方前に横になって、朝には起きるのがきみの最近のスタイルでしょ? ……そうかな。 ──意外そうな顔なんかして。──わかってないの? あなたはあなたが思うより変わっているよ。ギー。あたしが、こんなに油断するくらい、この時間に眠るのがあなたの日常。 あたしはソファに座る。無遠慮に、ギーの真横で肩をくっつけて。 湯気を殆ど立てていないコーヒーカップ。温くなっていたそれを勝手に飲んでやる。砂糖もミルクもない、不味い味。 キーアが淹れると悪くない味なのに、この男が淹れたものはただただ苦いだけで。 ……苦。 コーヒーなんか飲んでさ。これじゃ、キーアが来る前のきみだよ。 来客がある気がしたんだ。それでね。つい。 ──なにそれ。──どういう意味さ、それ。 ロクな灯りもつけずに座ってさ。意味のない医学書でも読んでたって言うの?あなたの“目”は暗がりで読めないくせに。 本を読むのは好きじゃない癖に。現存しているペーパーバック以外の書籍は、殆どが、«復活»前の10年物なんだから。 思い至ってしまって、あたしは戸惑う。まさか。そんなことある訳ない。 あの子が来てから彼は変わったけど。まさか。そこまで変わりはしない、と思う。 ──待ってたって言うつもりなの?──あたしを。 あ、そう。そうなの。そうなんだ。 じゃあ、お邪魔だったね。さよなら。来客の誰かさんによろしく言っといてね。 アティ? ちゃあんと空気を読むのが猫の得意技さ。邪魔なんてしないから。ま、せいぜい仲良くやってよ。 いいや、来客はもうないよ。きみが来た。 ……口説いてる? 別に。最近、勘が鋭くてね。自分に関わることが妙によく“わかる”。 何それ? 新しい現象数式?クスリに手ぇ出してる訳じゃ、ないよね。 違うよ。言っただろ、勘だよ。きみが来る気がしただけ。 ……そうなの。 そうだよ。 ありがと。もう頂いてるけど。 ──ぬるいコーヒーの意味。──本当に、あたしを待ってたんだ。 彼なりに気を利かせたのかな、と思う。苦くてぬるくて何もいいところのないコレ、まるでギーそのものみたい。気の抜けた味。 でも、嫌いじゃない。だからあたしは何度もここへ忍び込む。 ……ありがと。ギー。 ──そう。嫌いじゃない。──好きかどうかは、ううん、わからない。 ──わからないことにしておく。──嫉妬ならわかるのに。好きは、駄目。 頭の中が一瞬だけぐるぐると乱れた。戦闘に際しての緊張感と戦慄とは違って、すぐ、呼吸ひとつで元の平静に戻るけど。 きっと、あの鳥が変なことを言うせいだ。妙に意識する。あたしの、今のこの横顔。ギーが見ているあたしの顔。 女の顔だと鳥は言った。この黒猫が。 好きが何かも思い出せない、あたしなのに。この顔は、本当に女の顔をしているの? ──この顔は、どう見えるの。──あなたには。 ね。どんな顔してるかな。 誰が── ん。ん。 大きな指で自分を指さし。わざと埋込爪を少し伸ばして、つんつん。 ああ……きみの?いつも通り、きみの顔だよ。アティの顔だ。 へへ。そっか。至極まっとうなお言葉。そりゃそうさ。 どうやら怪我はしていないようだ。今夜も、無事だね。 当然。 にこりと笑顔をギーに向ける。うん、妙にカチンときてしまった。今のは。アティの顔。心配する素振りなんか見せて。 そっか。アティの顔か。もっと気の利いたこと、言うと思ったのに。 これじゃあの鳥のほうがマシ。ただの猫目とかただの顔とか、そう言って欲しかったのに。アティの顔。なにさそれ。 ──よし。それなら。──少し、意地悪をしてやろう。 通り名付きの荒事屋だもの、全然元気さ?だから、体力余ってて。 外に出よ?ちょっと、買い物つきあってよ。 この時間に? この時間に。 ……そもそも、この前付き合ったろう。 ──キーアと3人で。──うん。あれは、覚えてる。楽しかった。 あれで足りなかったぶんを買うのさ。きみ、あたしに随分と借りがあるよね? 命の貸し借りだけでも足し算引き算で、えーっと……3つぶんくらいは貸してる。情報とコネの貸しならプラス7か8かな。 ……キーアがひとりになる。置いてはいけないよ。 ──あ。そう。──このタイミングでそう言うんだ。 いよいよもってカチンと頭に来てしまう。意地でもあたしは連れていこうと決めて、緊急用の小型通信機関を取り出す。 ブローチに似た形をした小型通信機関。二番の回線を開く。 コール。通信相手は数時間前の仲間たち。出たのはやっぱり鳥だった。死線を越えて疲れ切った体に、安酒を染み込ませてる声。 『なんだよ。揉め事か?』 そ。揉め事。第7層第28区域に緊急集合。今すぐに。モノレール駅近くのアパルトメントまで。 2号室。亜麻色の髪の女の子がひとりいる。あたしが戻るまでガードして。侵入者は全部確保ね。殺すな。 『鳥づかいが荒いぜ……。わかったよ。 緊急なんだな。貸しひとつだ』 お願いね。じゃ、また。 な、何をしてる?アティ……? キーアのお守りの依頼をしたの。これで文句ないのさ、ドクター・ギー? ……な……。 流石に唖然としたみたい。絶句してるよ。間抜けな姿は、少しだけ可愛らしいかな。よし、よし。 あたしは片目を閉じる。ウィンク。せいぜい愛嬌たっぷり込めて。 ──黄金瞳を一瞬だけ、隠す。 都市下層。第3商業特区、別名を無限雑踏街。 今日もここは人で充ちている。かつては人間と呼ばれたはずのみんな。 無数に行き交う人ならざる姿をした人。これが10年前であるなら異常な景色。でも、でも今は、これが正常な都市の姿。 蜥蜴の顔をした男。梟の翼と爪を持った女。犬のような若者。そして、己の姿を隠す外套を被った人々。 これが普通。あたしの大きな手だって目立たない。誰も、気にしない。あたしも、そう。 ──どうして。思い出す。──10年前、異形に変わったあたしの体。 ──何よりも恐かった。──あたしが、あたしでなくなる実感。 今はもう名前も覚えてない。あたしの名前。それまでの“あたし”は消えてなくなって、黒猫のアティが生まれて。 ──どうしてかな。思い出す。──今の“普通”を、やけに意識する。 隣を歩くギーのせい?彼は、少なくとも外見は人間のままだから。 ううん。前に誰かに言った。ギーだってもう正しくは人間じゃない。だから、あたしと同じ。都市の住人だ。 あたしは知ってる。都市摩天楼で見た。現象数式を操る人は脳が変異するって。だから、同じ。あたしと。 ブティックを5軒も回って何も買わない?アティ、目当ての服は? ウィンドウショッピングって知ってる?西享語。そゆ買い物の仕方もあるのさ。 気に入ったものがあったら買うの。前回の時は、結構、計画的だったからさ。 お気に召すまま。今日は、やけに押しが強いな。 そう? 普通だよ。変なことなんてない。今夜も雑踏街はこんなにうるさいし、明るいし、色んな匂いでいっぱいさ。 未明の無限雑踏街。零時を過ぎてもここは変わらない。むしろ昼より喧騒は華やかで賑やかで、煩わしい。 ダンスを踊るようにあたしは街路を歩く。ステップは軽い。ちょっと楽しく。 昼間に少しだけ降った雨の水溜まりを踏む。飛沫をあたしは簡単に避ける。大事な大事な、一張羅だもの。 途中、倉庫部屋に寄ってわざわざ着替えた。夜中のデートと洒落てるのだから、これぐらいのおめかしは許容範囲。 ──勿論、あたしの許容範囲。──ギーはいつも通りのコート姿で。 退屈そうな素振りひとつ見せない。眠そうな声も。欠伸のひとつでもすればほんの少しくらいは可愛げがあるのにさ。 リファーンの地下酒屋の話、したっけ?蒸留酒が結構な数揃ってるって。 いや、初耳だな。 行ってみる?お酒、最近は飲むんでしょ? どうかな。 ふぅん。そう。 ──嘘。あたしは知ってる。──亀爺から受け取った舶来物のワイン。 酒好きなら幾らでも払うっていう話だもの。そんなもの、好きでもない男が受け取って、売り払ったなんて噂も聞かない。 後生大事に取ってあるはず。あたしの知らないうちに酒飲みになったの? ……そ、そんなことよりさ。ギー。 何だい。 ね。きみ、ワイン飲まないの? さっさと開ければいいのに。 何の話かな。 しらばっくれても駄目さ。知ってるよ。スタニスワフの亀爺から貰ってるんでしょ? 舶来物の西享のワイン。10年以上前にここへ来たとっておき。言いふらしちゃってもいいんだけどな。 参ったな。 ──困った声。ほら、嘘つき。──あたしに隠し事なんてしないで。 ──友達でしょ? 確かにそれらしき物は受け取ったがね。でも、僕は開けないよ。そう決めてる。残念ながらね。 なにそれ? 何かな。 もう。なあに、キーアが飲むの?冗談言わないで。 僕は冗談は下手だからね。言わないよ。 あっそ。そーですか。わかりました。保冷庫が突然カラになっても知らないから。今のうちに、保険屋にでも金払っておけば? 彼らとは相性が悪くてね。そうもいかない。 はいはい。 それだって知ってる。命に値段をつけて買い取る保険屋たちは、ギーの商売敵。逆に襲われかねない相手。 あたしは知ってる。知ってるよ。あなたのことはわかる。 ──そう思ってきたんだけどな。──なんだか、最近、調子が狂ってばかり。 ──よく喋るし。──それに。笑うようになったね。 ──キーアの笑顔がそうさせるの?──あたしの前では、見せなかったのに。 ……え、えーと、そんなことよりさ。この服どう? 似合うかな? わざわざ倉庫部屋まで付き合って貰って、ごめん。すっごく着たい気分だったから、つい、さ。 別段構わないよ。歩くのには慣れてる。 しかし、今日は随分と気まぐれだな。憎まれ口をきいたり謝ったり。 気まぐれは«猫虎»の性質なの。きみは知ってる癖に。あたしと話すのにはコツが要るんだから。 確かに、そんな話を聞いたね。似合っているよ。 流行のスーツタイプじゃないんだけどね。ちょっと動きづらいのも難点なんだけど、この服、好きなんだ。 似合う服を着ればいいさ。お気に入りだろう? そ。お気に入りなのさ。 ──いつか、あなたが似合うと言った。──だからお気に入り。 そ、そんなことよりさ……。 3回目。 ん? きみが“そんなことよりさ”と言った回数。この街路に入ってから3回目。気まぐれにしては遠慮がちだ。 ……何かトラブルでも?アティ。 え。 ──え。何、その目。変に思ってる?──あたしを? ないよ。ううん、ない。何にもないさ?今日はちょっと、仕事で疲れてて、それで、いつもと調子が違うだけ。 気にしないで。気にしないで?あの、さ、ほら。昔もあったよね、何回も。仕事しくじったあたしが腕を怪我して──        ──あ──       ──視界に──       ──見える──       ──駄目── 言いかけて。視界に“それ”が入っていた。なんて間の悪いことだろう。そうか、この街路はそうだ。 ここは、忘れるはずもないあの街路だった。駄目。ここは駄目。あたしはなんとか頭を働かせて言葉を続ける。 気付かれたくない。駄目。駄目。ここはギーと一緒には来たくない。 通り過ぎてしまおう。ここは駄目。明け方だけ開いているあのカフェに行って、アイスティーと甘ったるいケーキを頼もう。 それで終わり。それで朝が来る。そうすれば問題はない── 他にも、ほ、ほら、あったよね。大怪我。鼠の大群の制圧に行ったあたしが囓られて、意識なんか朦朧としちゃって、死にそうで。 どっちもギーが治してくれたっけ?外科手術の予約席は4層市民で埋まってて、腕の悪い闇外科医は死んじゃった直後でさ。 ほ、ほら、あれもそう! 5年前!クリッター災害の時もうっかり傷貰ってさ、丁度、ギーがうろうろしててくれてさ── アティ? 不審そうな視線。駄目。こっちを見て。絶対、後ろを向かないで。 ……なに? 急に、どうした。幻覚剤を打ってる訳じゃあるまい? あはは。ガスでも使われてたのかな。今夜は公立の研究施設に踏み込んだから? 僕の“右目”はそんな痕跡を見ていない。アティ、何でもないことはない。さっきから、きみは何を見てる? 後ろか? あっ、だ、だめ! ──ギーの視線が“それ”を捉える。 ……ここは。そうか。 ──あたしも見てしまう。──彼の背後にあった一軒の店。阿片窟。 駄目なのに。見ないでよ、馬鹿。ギーの馬鹿。 視線の先にあるのは阿片窟。違法娼館。かつて、10年前のあたしが行き着いた先。 初めての客が肩に手を触れた途端に泣きじゃくりながら大暴れして、そいつを殺しかけて、殺されそうになった場所。 無力な人間の娘だとあたしは自分を思って。そう思っていたから。行き着いた。でも、それでも、我慢できなくて。 駆けつけた女主人に殺されそうになった。客のとれない子は喰い殺してやるって。 今では顔も覚えていない。初めての客。悪いことをしたなんて思ってない。このあたしの肩に触れたんだから。 ──でも、吐きそうになる。──駄目。何ひとつ思い出したくない。 ──客の取れないあたしは殺されかけて。──古い雑巾よりもひどい状態になって。 ──そして、会った。 ──この男。ギーに。 あそこはギーと出会った場所。それまで生きてきたあたしが消え去って、この“アティ”の生き方が始まった場所。 それまでのあたしは、あの時に消えた。泣いて、泣いて。泣きじゃくって。 泣くだなんて。今にして思えば、随分と可愛い“女の子”だったものだけど。 すまない。気付かなかった。ここは、きみにとっては良くない場所か。 ……馬鹿。ギーの馬鹿。 連れ回して疲れさせて困らせようと思っただけなのにさ……。 どうして、こんなとこ……。来ちゃってるの、あたし。 ここには。ここにだけは。ギーと一緒には来たくなかったのに。 忘れていた?うん、きっとそう。ずっと忘れていたもの。無意識に、この辺りには近づかないように。 それが今夜に限ってこんな。このあたしが、どうしたっていうんだろう。冷静な計算も状況判断も何もできていない。 ──でも。今こうして。──はっきりと視界に入れてしまった。 ──だから、思い出す。 ──あたしを助けてくれた、このひとの。──差し伸べた手。温もり。 変だ。今日のあたしは駄目だ。絶対おかしい。 駄目なのに。ここは記憶を蘇らせるから。無力な自分を憐れんで泣いていたあの頃。 駄目なのに。ここは思い出すから。助けてくれる“誰か”を待ってたあの頃。 ……そんなの。このあたしじゃない。……黒猫のアティとは違う。 ああもう!嫌だ、嫌、嫌。こんなのは! ………………………………………………。 ──よし。決めた。 ……あーあ。今日のあたし、いいところ何もない。 ね。ドクター・ギー。みっともないところ見せちゃった。 ……さっさと通り過ぎようと思ったのに。きみが、妙に勘を働かせるからだよ。大人しく帰るって、決めてたのにさ。 ……ん。 ギーは逡巡する。涼しい声で。何事もなかったみたいな声をしてさ。 きっとあたしを気遣っているんだろうけど。見なかったことにするって風な声色なんて。その間とその声に腹が立つ。 でも、そのお陰で助かった。逡巡の隙をついてギーを思い切り引っ張る。腕力であたしには絶対、彼は敵わないから。 な、何だ、アティ? ……嫌なのさ。いつまでも苦手なまま避けるなんて。 こういうのは、うん。ね。ギー。勢いだと思うから。 蘇ろうとする記憶が煩わしい。こんなもの。忘れてやる。別の記憶を作れば、いいんだ。だからこうする。 ──ギーの腕を引いて。──背筋を走る悪寒を無視して。 阿片窟の入口をくぐる。顔を出してあたしたちの様子を窺っていた嫌な女主人が、「毎度あり」と手を振って。 あたしは思い切り舌を出してやる。すれ違いざま、シリングを床に放って── 朝にはまだ早い。暗がりの夜の気配が部屋じゅうに充ちて。 少女は、ひとり、暗がりを見回す。誰もいないアパルトメントの中でひとり。 ギー? 小さく声をかけるけれど。返事はなくて。 なのに少女は振り返っていた。誰かの声を、呼びかける声を聞いたように。まるで懐かしい誰かを見つけたかのように。 視線の先には。誰もいない。 何もいないはずの暗がりを少女は見る。見つめて、唇を開く。 ……ああ……ここにいたのね……。あなたたち……。 そう……うん、うん。……わかってる。わかってるわ。まだ大丈夫。だから、怖がらないで。 ……降りてきたのね。彼が。 ……そう……。 ──何から何まで。──以前の通り。 ──何ひとつ変わっていないように見えた。──そんなはず、ないのにさ。 ──甘ったるい嫌な香り。──安い造りの部屋を誤魔化すための。 偽造品の白梅香なんか、まだ使ってるんだ。ここの女主人の趣味は昔から大嫌いだった。甘ったるさで覆い隠して。 窓辺から漂う朝の気配。それと、彼の体臭があたしの気分を晴らす。 肌の香り。汗すら殆どかかないギーの肌。 ──冷たくて。──あたしの体温を当然のように奪う。 ……ギー。呆れた? 別に。 良かった。でも、あたしは呆れてるよ。あたし自身にさ。 ……卑しい猫だなって。 ううん。猫のほうがきっとマシさ。急に盛りがつくなんてこと、ないものね。 冷たい胸に寄り添って。あたしは、ギーの全身の体温を感じ取る。 ひどく冷たい肌。白くて、死体のよう。異形の手のひらが胸に触れると、心臓の鼓動だけは伝わるけれど。 冷たさ。心地よい。この胸に抱かれていると安心する。 仲間が死んだ時。過去を思い出した時。そんな時はいつもこうしてる気がする。冷たさに寄り添って。 ただでさえ少ない口数が更に減って。いつも、あたしの独り言ばかり。だけど、それが逆に有り難くて。 優しくするね。絶対、壊したりしない。 ……是非頼む。 なに、その言い方。傷つく。ひどいドクター。 本音だよ。アティ。 ……うん。そうだね。気をつけるから、許してね。 ギーの胸をあたしの黒い手が這い回る。それなりに逞しさを感じさせる筋肉は、きっと毎日歩いているせい。 あたしのそれとは質が違う。全身の筋肉は、異形となった時に得たし、維持するための訓練だって毎日続けてる。 もっとも、訓練なんて。意味がないけど。 放っておけば衰弱しそうなギーの体とは違って、あたしの体は特別だから。時間は、あたしの体に影響しない。 黄金瞳が顕現した時から、ずっと、あたしの体は何もかもこのままで。変わらない。老化も、変化も、何もない体。 最初は恐かった。化け物の体。でも、今は、そんなに嫌いじゃない。 ギーには若い女の体のほうがいいと思う。現象数式で老化を抑制した彼には、そう。このままでいいよね。 気持ちいい?あたしの体、感じてくれてる。 囁いて。強く体を押しつける。ギーの体が軋まないよう、気をつけながら。 あたしの胸がギーの胸の上で形を変える。わざとらしく動かすと、柔らかな肉は大きく揺れて。 ギーの表情をあたしは見ない。目だけ。見つめて。 ──つまらない顔をされていたら嫌。──だから、今は見ない。 そんな顔する男じゃないけど、でも。今日のあたしは変だから。もしかしたら、と思って。 ……アティがわかるよ。 ん。あたしもギーがわかる。心臓の音。 ああ。 ……ん……ほら、こんなに。 ぎゅっと押しつける。あたしの胸が歪む。大きさがちょっと邪魔。もっと薄ければ、もっと鼓動がわかるのに。 片手でギーの脚に触れる。毎日歩き回る両脚は、彼の体で一番逞しい。さすが、下層をうろつく巡回医師だけある。 ……ん、ギー……。 ……痛くしないから。手。いい?優しく撫でるから。 ──無言は肯定だよね。──あたしは悪戯っぽく笑って、触れる。 ふざけているような顔をして。声をして。熱のあまりない彼の体の、そこに触れる。優しく。優しく。 そう、これは悪ふざけ。嫌な記憶を塗りつぶしてやるんだから。 気の利かないことに“同じ部屋”じゃないけれど、それでも、ここはアリサの阿片窟。ここであたしは記憶を作る。 新しい記憶を覆い被せて。この10年を生きたあたし自身を真似て。 ……ね、ギー。きみは、どう。こういう猫は嫌い? ……嫌いではないよ。 好きって、言って。 好きだよ。 馬鹿。きみ、馬鹿だよね。知ってるけどさ。 あたしはまさぐる。彼の冷たい体。でも、きちんと刺激には反応する。 この大きな毛むくじゃらの手。肉球だけは柔らかいけれど、人間のものとは全然違う。でも、反応してくれる。 ギーがそうしているのか、体が勝手にそうなるのかは知らない。 あたしはふざけた笑みを消さないで、そのまま。彼に触れる。彼を撫でる。注意を払いながら。 ──ギーのどこも壊さないように。──背中に爪を立てるのも、我慢しよう。 ……準備、できたかな。ギー、ここ、少し濡れてきてるよね。 どうかな。 そうなの。触ってるんだから。ね、後ろから抱いて。あたしは、もう、大丈夫だから。 ──そう。大丈夫。 ──あたしの体は平気。──多少の無理は利くほど頑丈だし。 それに、そもそも、手を引いた時から、大きな声では言えないけれど。 発情してる。人間の体にはない感覚。尻尾はお尻から少し離れた位置に浮いて、体温はもう、平熱よりもずっと昂ぶって。 自分の熱をあたしは感じている。これから、ギーに分け与える昂ぶりすべて。 ……ね。抱いて。後ろから。猫みたいにして。 ──正面からは、嫌。──今日は、彼の顔を見たくないから。 ……んッ、はッ……。はあッ……んん、ん……うん……。 んッ……ギー、そんなに……。優しく、しないでも……いいよ……? いつもはあたしがギーを抱き締める。でも、今日は反対。 背中に冷たさを感じながら。あたしの昂ぶりをギーに分ける。貪らせる。あたしの体は、発熱して、汗を浮かべてる。 どんどん熱くなるあたしの体を、ギーが抱き締める。体温が奪われていく。 ぞくぞくする感覚が心地よい。あたしが、今、ギーに何かをあげてるんだ。湧き上がる昂ぶりを、彼の体が吸い込んで。 ──ぜんぶ奪っていいよ。──この体の熱すべて、あなたにあげる。 ──そう思う。本気で。──こうしている瞬間はいつも。 ん……んんぅッ……!もっと、動いて、いいから……さ……。ね、ギー、もっと、もっと……ッ……! ん……はぅッ……。んんんッ……。 いつもはあたしが体を動かしてる。でも、今日は反対。 胸が弾む。文字通り。元はこんなには大きくなかったと思うけど、そんなの、今は、どうでもいい。どうでも。 彼は本当に動いてくれた。あたしの体が、突き上げられる。揺れる。お腹に意識を集中させると、脚が震えた。 全身の筋肉が緊張していく。彼がどんどん熱を奪っているはずなのに、あたしは熱くて、熱くて、呼吸が乱れる。 ぎゅっと両脚の太股に力をこめると、自然と腹筋が締まって。彼の小さな声が聞こえる。 ……気持ち、いい……?ね、ギー……これ、いいの……? 何度でも、してあげる……。きみの……いいと思うこと、ぜんぶ……。してあげる、よ……? ……んッ……はッ……ね、ほら……。あたし、たち……。 ……友達、でしょ……?ギー……。 ──友達に。こんなことするの。──違うよ。違う。 ──ギーだからするんだ。──そんなのわかってる。わかってる。 全身が震えて、彼を受け止める。かたちも冷たさも動きもぜんぶ。ぜんぶ。背後からあたしを抱くこの人の、ぜんぶ。 あたし、変だ。今日のあたしはやっぱり。ギーを感じる。今日は激しく。 ……はッ、あッ……! 感じすぎてる。いつもは、ギーの体が体の熱をどんどん吸い取ってくれるはずなのに。 この姿勢でよかったと、思う。正面を向いて、いつもみたいにこの両腕で抱き締めたら、力の加減が効いたかどうか。 熱い。なんて熱いんだろう。苦しくて、呼吸が途切れ途切れになってる。 あたしの熱さが変わらない。彼の、冷たさに染み込ませても、熱いまま。 熱い。熱いよ。あなたを感じすぎて、おかしくなる。 ──おかしく、なる。 ──ううん。おかしいのは最初から。──今日はずっとそうだよ。 あっ、んっ……ギー……ねえ、ギー……。あたし、今日の、あたし、おかしいの。だから、許してね……。 ……ギー……あたし、に……。言って……? ──何を言うの。──何を言ってもらうのさ、黒猫さん。 ねえ、嘘で、いいから、言って……。聞かせて、ギー……。……あたしのこと、好き……? ……好き……? ……ああ。       「好きだよ」 ……んッ……! ──ギー。きみ、どんな顔をしてるの。──どんな顔でそう言ったの。 ──今日だけはギーの顔を見たくない。──でも。でも。 あたしは唇を噛んで我慢する。駄目。今日は顔を見ないって、さっき決めたもの。今日は彼の顔を見たくないって思ったもの。 でも、でも。あたしの体はもっと昂ぶって。 言葉のせい?うん、きっと、そう。彼の言葉のせい。 あたしが言わせただけなのに。そう思ってなんてこと、一言も口にせずに、ただその“単語”を発音してもらっただけ。 なのに。あたしは溢れて止まらない。恥ずかしい。今さら。 ──何してるんだろ。あたし。──こんな風に、顔を、隠したりして。 あ……ッ、はっ……!あんん、んッ、うぅ……あたし……。だめ、な……猫……だ……ううん……。 ……ううん、違う、よね……。 ……駄目な、猫。 ──見られるのが恐い。見るのが恐い。──彼の顔を。あたしの顔を。 なんて臆病な猫なんだろう。度胸のない。勇気もない。ここに来た時とぜんぶ同じ、あたしは何も持ってない。 怖がって。こうして縋るだけ。縋りたいよ。ギー。 はッ……はぁっ……。……ギー……お願い、手、我慢する……。だから、お願い……。 前、向かせて……。 顔を……。 ……きみの、顔、見せて……? ──決めていたのに。──あたしは、なんて弱い猫なんだろう。 ──猫。猫? ──そうじゃない。──あたしは、なんて弱い女なんだろう。 ギー、ギー……ギー……!あたし、気をつける、から……ッ……。ね、だいじょぶ、だか、ら……ッ……。 あなた、を……ッ……!ん、ぅあッ……! ──ギーの顔を見つめる。──ギーの瞳を見つめる。 自覚しないうちに体の向きが変わっていた。きっと、ギーがそうしてくれたのだろう。熱に浮かされたあたしは、把握できない。 ただただ熱かった。彼の瞳を見て、彼の顔を見て。 あたしを見つめ返す青い瞳がそこにあって。表情は、いつも通りの、こういう時のギー。そう、変わらない。 あたしの顔を見ても変わらない。ギーは。なのに、この体はこんなに昂ぶって。 ギーの冷たい体を胸と腹で受け止める。腕を握ってと囁いたのに、ギーは手を握る。爪がきみの手を傷つけるかも知れないのに。 抱き締めたい。でも、駄目、こんな状態でそれは駄目。せめて、もう少しだけ落ち着かないと。 ──彼を傷つけてしまう。──だから、あたしの手は掴まれている。 もっと乱暴にしてくれればいのに。何も考えられないくらい、激しく。……ううん、今でも、充分激しいけれど。 いつもと同じギーの顔。でも、いつもよりも動いてくれてる。 ──あたしがそう頼むから。──そうしてくれる。ギーはいつだって。 あ、あ、あ、あッ……!ギー、おなか、に、とどい、て……ッ……。 ……んッ……!はっ、は、あっ……はっ……。 もっと、もっと、して……ね……。いいから、平気、だから、もっと……。 ……して……。 全身が引きつる。背筋が震える。もしかしたら、痙攣しているかも知れない。 こんなに感じてる。彼を。こんなに感じてる。熱を。嫌な記憶を、上書きするだけのはずなのに。 止めどなく震える体は、引き絞られて、あたしの中に留まるギーを掴む。腕は彼をかき抱こうとするけれど、耐える。 今は駄目。駄目。ひっかき傷じゃ済まない。だからあたしは震える全身を絞って、体の中のギーを代わりに抱き締める。 ぎゅっと。強く。ひとつの感情を込めながら。 ──感情。何。──わからない、でも、あたしは思う。 ──正しい人間の感情なんて知らない。──人間じゃないから、あたしは。 ──でも、あなたのことを。──あたしは。 ──ギー。あたしのドクター。 あたし、馬鹿だ……すごい、馬鹿……。最後まで……。 ふざけた調子、で、すませる……。つもり、だったのに、さ……。 ……我慢、できないよ……。 ──あなたの顔を見つめて。──あなたにこうして手を握り締められて。 「面倒な友達で、ごめんね」 せめて。恰好だけはつけて。そう言っておこう、そういうことにしてさ。 ──そう思ったのに。──駄目。駄目だよ、アティ。 ううん、駄目。駄目だ。……わかった。あたし、わかったよ。 ……惚れちゃってるんだ。あたし、あなたに。 好きよ。ギー。 ──あなたが好き。好きだよ。──ギーせんせ。 ──我が儘に付き合ってくれるきみが好き。──修復が必要なほど神経に負荷をかけて。──こうして。 ──嫌な顔ひとつ見せないで。──あたしを助けてくれた、ただひとりの。 ──感情を示す“耳”と“尾”を見ずに。──この顔を見てくれる、きみが好き。 ──見も知らぬあの子さえ守ってあげて。──当然のようにしてる、きみが好き。 ──すべてを拒絶して泣き叫んだあたしを。──救い出してくれた、きみが好き。 ……好き。 ──あなたが好き。 ──あなたがいたから生きてこられた。──この、10年の時間。 アティ……? ギーの手を振りほどいて。あたしは、そっと彼の頭をかき抱く。 ──大丈夫。今なら、もう、平気。──意識は明瞭だもの。ギーは傷つけない。 全身の熱がギーの体に移っていく。あんなにも冷たかった体が、もう、今では、あたしと同じくらいの温かさになっている。 ……わからない、けど……。でも……好き……。 ──好き、と。 ──なぜ、あたしは言ってしまったの。──わからない。 ──何を言ってるの、あたし。──何を言ってしまったんだろう。 ──焦燥? キーアへの嫉妬?──猫の独占欲? ううん、違うと思う。どれも違う。あたしにはわからない。わからないけど。 約束……したよね。嘘でもいいから、あたし、ひとつ……。 ……ギー。好き。だから、消えないで。どこにも行かないで。 好きなんだから。あたしは……あなたが……好きだ。好き。 ……アティ、何を……。 うるさい。黙れ。あたしはギーの唇を塞ぐ。同時に、弾けた。 ん…………ッ…………。 ……んんんッ……ん……ん……。んっ……ぅ……ッ……。 体の中心で。あたしの熱とギーの僅かな熱。弾けて、機能しない子宮が満たされて。 あたしはギーの言葉を奪う。言い逃げでいいんだ、だから、こうする。ベッドの中の戯れ言でいいよね。アティ。 ──あたしが、あなたを好きなこと。──自覚できただけで。 ──それだけで充分だから。 ──今だけは何も言わないでいて。──お願い、ドクター。 ……うん、うん。そうね。そう。 朝の気配が充ちていく部屋の中で。少女は、声なき相手と言葉を交わしていた。 声のない何か。姿のない何か。 少女にだけは見えているのだろう。視線は、虚空を捉えて揺るがない。 大丈夫。あなたたちが心配しなくても。まだ、きっと、大丈夫だから。 ──ほんとう? ええ。……本当。 ──それなら、いいけど。──僕たちは不安で仕方がないんだ。 複数の声なき声。それは、ランドルフと対話していたものか。地中を進む彼に何かを告げた、41の声と。 ……でも。彼が、来たのなら。もう……時間は……。 ……なんだか気恥ずかしい。 しばらく時間を置いたほうがいいと思う。だって、どんな顔をして話せばいいのかわからないから。 だからあたしはギーを置いて部屋を出た。またね、と声を残して。逃げるように外へ出て。 自分の倉庫部屋への道を急ぐ。冷水で顔を洗いたい。阿片窟のシャワーは使う気になれなかったから、汗が残ってる。 次、いつ会おう、いつ会うだろう。何を言えばいいのかな。どんな顔を、見せれば。 ──ギーに。──それに、そう、あの子にも。 思い出すだけで恥ずかしい、あたしの告白。誰にも聞かせたくない。誰にも知られたくない。 でも、でも。もしも、あの子が聞いたら。おめでとうと言う気がする。あの優しい笑顔を浮かべて。 ──そう思う。でも。──あたしの胸は小さな痛みを感じている。 ──あの子は、どう思うのだろう。──あたしのことを。        「お姉さん」 ──誰? 声。可愛らしい響き。女の子の声かな、とあたしは思いながら。 振り返る。あたしの背後。気付かなかったのは考え事をしていたせい?注意を払えないくらい、あたしは考えてた? 子供だった。真っ白な肌をした小さな男の子。真っ黒な服を着て、立っている。 ──少年。 男の子があたしを見ている。古びた鉄製歩行器をつけた、澄んだ瞳の子。今時、機関義肢をつけていないのだろうか。 不思議な子。下層の貧民の子には見えない。なのに、歩行器なんてつけて。 その瞳の色はギーよりも澄み切っていて。吸い込まれそう。 ──ぞく、と何故か背筋を寒気が走る。──瞳を見たら急に。 お姉さん、ひとり歩きはあぶないよ。まだ明け方なんだから。 危ないのはきみのほうだよ、少年。見たとこ服の仕立てもいいし。 ──ちょうど考えていたから。──あたしはあの子を連想してしまう。 仕立ての良い服。不思議な子。まるでキーアみたい、と言いそうになる。 “まるでキーアみたい?” え? ──反応が遅れた。──悪寒は敵意。何をしてるの、あたしは。 普段なら既に反応している。爪を伸ばして。なのに遅れたのは、なぜ。疲れていたから?ううん、違う。 体に残る気怠ささえも心地よいと思ってしまっていた、あたしの甘さのせい。 この都市で今さら油断なんてするなんて。自業自得。殺される。あたしは覚悟する。来たるべき衝撃に身構える。 ──ナイフ? 銃弾?──それとも、現象数式による部位破壊? 大丈夫。殺したりしないよ。ナイフもない。銃なんてない。 そんなに警戒しないで。僕は、きみを決して傷つけはしないよ。 お姉さん。きみは現在を肯定するべきだ。 ゆっくり話している隙に動けるはず。なのに、あたしの体は何も反応しなかった。 少年の真っ白な“手”があたしに翳される。あたしの体は動けない。彼の動作を見るだけで。 ──何?──何をしようとしてるの。 全身が総毛立つ。嫌だ。駄目。この子は。この子は、あたしの敵だ。嫌な感じ。敵。駄目。あの“手”は駄目。 男の子の背後に何かが見える。誰。何!? 真っ黒なそれは少年の影から伸びて。同じように“手”を翳して。 駄目。あの“手”に触れてはいけない。あたしの直感が叫んでいる。逃げろと。でも、動けない……! ──動いて。──あたしの手、動け、爪を出せ! ──戦闘感覚を解放して!──今すぐに少年と影の“手”を切り裂け! 野蛮だなぁ。お姉さんは。ここの人間たちはみんなそうなのかな。 破壊しないよ。奪い取ることもしない。僕はね、あの男よりも上品で心優しいんだ。 僕は、決して破壊しない。僕は、決して奪い取らない。 僕はすべてを生み出す。過去再生者にして現在増殖者だから。 レムル・レムル……? 僕は人間の“過去”を無限再生させ、彼は人間の“現在”を無限増殖させる。 僕は、きみたちの味方だよ。敵はあの男だけ。 ──あの男。誰。 あの男の現在をひとつずつ消去するんだ。だから、まずはお姉さん。 きみは“現在”を肯定する必要がある。 ──少年の“手”があたしに触れる。──駄目。やめて。やめて。 ──やめて、触れないで!──あたしに、その“手”で触れないで! ──駄目! くすくす。 あ……あ……あぁ……! ギー……!! …………? 虫の報せ。いいや、違う。背後で誰かが何かを告げた気がして。 ギーは立ち止まっていた。水溜まりの手前。僅かな飛沫が上がって頬に届いた。 今の声は……きみ、か……? 自分の背後の“彼”のことを意識する。声ならぬ声は、確かにこの耳に届いていた。だから、足を止めた。背後へと振り返って。 常に自分の背後に在る“彼”は、見えない。姿はなく。声もなく。 ──けれど。確かに届いた。──行くべき道はこちらではないはずだと。 戻れと言うのか、きみは……?何がある、ポルシオン。 ──返答の声はない。──ただ、足元の影が僅かに揺れるだけ。 ……嫌だ、嫌、嫌、こんなのはいや。……助けて、誰か、だれか。 体が軋む。痛い。手足が悲鳴を上げてる。こんなの、もう、二度と嫌だと叫んでも。苦しい。助けて。 ……10年前のあの日。……10年前のあの時。……泣き叫ぶあたしの体に起こったこと。 それがこうしてあたしの体を襲ってる。軋んでいる。変化していく。黒い異形、人間ではないものに変わる。 何も見えない。誰もいない。暗いよ。どこなの、ここは。 あたしの体が歩いているのがわかる。ひとりでに、足が、動いてる。 嫌だ、嫌、嫌、こんなのはいや。助けて、誰か、だれか。 これは何。これは過去?10年前に過ぎ去ったはずなのに。 ……変化する肉体。……あたしの体が勝手に動いて。 10年前。あの日、あの時、異形化して爪を振るったあたしの体。あの悪夢。今。今。今。今! 今──こうして──!! 苦しい。苦しいよ。誰なの、あたしの後ろ。背中の向こうから囁きかけるのは、誰なの。あたしの……影……? ……あたしの影が囁いている。……41の、さまよえる彼らのひとりが。 これは。罰なの?あなたたちを、あの日、あの時、忘れたあたしたちへ、罰を、与えているの……?    『きみは どうしたいの?』    『きみは なぜ生きるの?』 あたし……?あたし……は……どう、したいの……? あたし……?あたし……は……なぜ、生きるの……?     ……あたしは……。    ……どうして……。 (なぜだ) (なぜ、僕をここへ連れてきた。 背後のきみ。«奇械»ポルシオン) 雑踏街の路地裏。暗がりへ足を踏み入れる。既に、ギーは、脳内器官を起動させている。現象数式の“目”が視る。 路地裏の状況を認識する。暗がりに蠢くものが在る。 黒い影。何だ。 ここまで導いた背後の“彼”は無言のまま。黒い影以外に人の姿はない。気配もない。ギーと、暗がりの影だけがここには在る。 ギーは身構える。右手を前へ。いつでも背後の“彼”を顕現できる。 ──現象数式の“目”が伝えてくる。──黒い影は危険を与えうるものであると。 ──何だ。──あれは。認識できない。 ギーは記憶を探る。幻想生物。違うはずだ。クリッターであるはずはない。違うはずだ。それらがもたらす威圧感が、ない。 異形化した人間?気配には、ギーには覚えがある。 ──匂い。僅かに香るもの。──知っている。 誰だ。 『……ああ……あ……あぁ……ああ……』 声……? 咆哮でもクリッター・ボイスでもない。それは、声のように聞こえた。人間の。覚えがある。 ──この香り。この匂い。──知っている誰か。 けれど、これ程の殺気をギーは知らない。暗がりで蠢く黒い影から発せられている殺意の強さ。 クリッターではない。近いものは、彼か。ケルカン。 ──けれど彼ではあるまい。──彼の気配は既に認識してあるのだから。 ……きみは、誰だ。 『ああ……あ……ああ、あぁ……ぁ……。 あ……ぎぃ……ぎぃ……? ぎぃ……?』 ──名前を呼んだ。ギー、と。──やはり、知っている何者かであるのか。 暗がりから動こうとしない黒い影を視る。その背後に、何かが在る。確かに見えた。それは蠢く影。 黒い影とは別のものがその背後に。それが«奇械»なのだと、ギーにはわかる。他者の«奇械»を、今は瞬時に認識できる。 強化された現象数式。ギーの“右目”は今や«奇械»すら見通す。 黒い影の背後には«奇械»が在った。強制的に引きだされたものだとも、わかる。あのヨシュアのように。心を、狂わすもの。 ……背後の声に耳を傾けるな。それは、きみを滅ぼす。 『あ……うぅ……あ、ぎぃ、ぎぃ……? ぎぃ……なの……?』 『ぎぃ……!』 『……ぎぃ……あたしの……あたしの! あぅ、がっ……ギー……!』 『……ぎぃぃいい……!!』 ……ッ! 聞き覚えのある声を発して、影が疾走する。速い。まともに言葉を述べられないほどに狂乱しているのに。 襲いかかるその速度。襲いかかるその容姿。 ──見覚えがある。──声と、香りと、しなやかなその姿! 『あぁあああああ…!!』 ──────! 風が奔る。鋭く、切り裂く。 手袋越しに指先から伸びた爪は、黒色。指骨に収納されていた人造爪は、鋭く。切り裂く。引き裂く。 驚愕に目を見開くギーから赤色が舞う。腕を裂かれて。 『あぁああ…!!』 クラッキング光が灯るギーの視界に、黄金瞳と爪の軌跡がぼんやりと像を残す。 速い。普段のギーの目では追いきれまい。黄金瞳の猫と人間の体とでは、神経伝達速度が物理的に違う── 荒れ狂う嵐を身に纏い襲いかかる、黒い影。驚愕はギーの反応を緩めている。鉤爪が、切り裂いて。引き裂く。 ──速い。あまりにも。──生身のままでは対処できまい。 ──けれど。──ギーは躊躇する。 その、黄金瞳……! ──知っている。黄金瞳。──つい先刻、見つめていたはずの瞳が。 アティ! 『ギィぃッ…!!』 苦痛に悶えるように、助けを求めるように。叫びながら。黒い影が爪を振り上げる。 振り上げられた、死の埋込爪。向けられる殺意の先はギーと“彼”! 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間以外には。 もしも爪を避けられたとしても、次々と繰り出されるはずの牙と爪がある。 ──視えている。その動き。──対処はできる。 ──«奇械»ポルシオンであれば。 (駄目だ!) (速すぎる。 炎や王では«奇械»だけを狙えない!) (巻き込む……アティを!) ──アティ。そう、黒い影は。──黄金瞳とこの声と香りは、間違いない。 ──なぜ、彼女が襲いかかってくるのか?──なぜ、彼女の四肢は異形化している?──わからない。なぜだ。 ──大公爵はもう何処にもいない。──なのに。なぜ。 『あぁああ…!!』 逡巡の隙を容易に見出して、黒い影が迫る。指と半ば融合した鋭い埋込爪が空を裂く。速度を増して。これは、回避、できない。 襲い掛かる“死”をギーは見る。同時に。黒い影の黄金瞳に浮かんだ光。 ──浮かべているもの。涙。 『あぁああ…!!』 『……だ……め……』 あり得ないはずの手が、空中で、停止する。更なる異形化で歪んだと思しき爪が止まる。 ──ギーの“右目”の前で。──眼球と脳とを同時に砕くはずだった爪。 ──ひどく震えている。──その尖端。 ……アティ。 『だめ……でき、ない……よ……。 だって、あなたは、ギーなんだから……』 『ごめんね……』 ……今、背後の“それ”を消す。アティ。すぐに助ける。      ──鋼の右手が──      ──暗闇を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光はふたつ── 人を蝕む迷い出し«奇械»よ。きみと共に歩く者は、彼女ではない。 きみが何を伝えたいかを僕は知らない。だが、彼女のために僕は言おう。 “刃の如く、切り裂け” カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと0時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 黄金螺旋階段の頂点に座すあるじをよそに、男は時計を見つめたまま、動かない。男は時計を見つめたまま、物を言う。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……時間だ。 ……既に彼女の無限再生は開始されている。……その人間には耐えきれない“現在”が。 ……既に«善なる左手»は彼女を捉えた。……立ち止まることは許されない。 ……立ち止まれば、崩壊が始まる。……それこそ彼女のただひとつの“現在”。 ……貴様はどうする。……惨めな«奇械»使い。我らが生贄。 ……どこまで保つかな。せめて、1分。いいや、2分。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 ……あたしは、何、してるの。ギー。 ……あたしは、何を、したの、ギー。 ──何かを、あたしに言っていたけれど。──背後の何かは砕けて消えた。 わからない。何もかもが、今のあたしには。背後の何かはギーと“誰か”が消していた。影のようなもの。見えた。 現象数式のクラッキング光、なのかな。ううん、よく、わからない。 わからない。何も。痛い。四肢が軋んでいる、張り裂けそう。 背後で囁く何かは消えてくれた、でも、あたしの変化は止まらない。 意識は何の意味もなさなかった。この体。10年前と同じように変化していく四肢は、暴風のように荒れ狂って、ギーを、襲って。 ──今だって、そう。──変化する“現在”が終わってくれない。 ──戻らない。元に。 唸り声を上げてギーへ襲い掛かろうとする、この体。あたしのものだったはずの、四肢。こんなに歪んで。こんなに鋭く。 ──駄目。駄目。──お願い、止まって、あたしの体。 ギーを傷つけるのは駄目。駄目。慣れてるはず、あたしは。ギーを傷つけないように意識すること。 ──神経が軋む。意識が軋む。──あれ、何。視界が変。 倒れたの、あたしが……この黒猫のが。そんなの、変……。 どんな態勢から落下しても両脚で軽々と着地できるはずのあたしが。倒れていた。駆け寄ってくるギーの姿が、見えて。 ……ギー……生きてる……?ギー……。 よかった……。 ──声だけは、少し。戻っていた。 ……あれ……。……ギー……生きてた……ね……。 ほんもの……?良かった、うん……ほんもの……。 彼の両腕が倒れたあたしを抱いてくれる。抱き寄せられる。あれ。何これ、変なの。ギーのくせにあたたかい。 それは、流れ出てしまったあなたの血?ギー。あたたかい。 ……ギー……。 ギーは見ている。ギーは何も言わない。 現象数式の“右目”であたしを視ている。あたしは、どうなったの。あたしの、体と、心、どうなってるの。 ……ううん。そんなことよりも。……あれ。何だっけ。 あたしは、何を考えていたのだっけ。わからない。意識が混濁する。10年前。同じ、何もかも、異形化する意識と肉体。 あれ? 視界が変だ。あたし、どうして、立っていないの。 倒れたの、あたしが……この黒猫のが。そんなの、変……。あれ。何、だっけ。 ……生きてる、ギー? 生きているよ。大丈夫。 ……うん……。あなた、ほんとう、からだ……。弱いんだから……。 何があった。アティ。 あたし、あなたを、殺そうとした……?あれ、おかしいな……。何言ってるの、あたし……ねえ、ギー……? わかってる。 いまも……うん、今も、そうだよ。殺したい……。 引き裂きたいんだ、あなたを……。誰も、彼も……。あたしをこんな風にした、都市、ぜんぶ。 ううん、駄目……。そんなのは、もう、嫌だから……。 まだ……だめ……あたし、だめだよ……。止まらない、もう、戻らないんだ……。 ギーの、こと……殺したい……殺したい、殺したくない……やだ……やだよぅ……、あたし、殺したくない……。 爪と……牙が……。こんなに、あれ、あたし、何……? ──あたしは化け物になっちゃったよ。──先生、あたし、もうだめだ。 こんなこと、前にも言った。おかしいな。あれ、何だっけ。これ。 ……あれ、ギー……? そうだよ、ギー……なのに……あたし……!殺そうとしてる、今も、今も……! 彼の腕に爪が食い込む。悲鳴が聞こえた。彼のじゃない。あたしの。喉が、震えて。叫んでしまう。 あたしは何と叫んだんだっけ。10年前。そう、それと、今も同じ言葉。 たすけてと叫ぶあたし。そんなあたしに、医者を名乗る彼は── ……ギーは目を閉ざす。……あたしも、一緒になって真似をする。 暗闇はなんだか安心する。すぐ近くで再びあの“声”が響いている。10年前と同じ、今も、何も変わらない。 ギーの息遣いがわかる。あたしのすぐ近くで鼓動する心臓もわかる。 ぜんぶ10年前と同じだ。変化していく自分にあたしは耐えられない。 ギーの胸に触れる。10年前にはギーが切除してくれた殺意が、今はこうして。ううん、何も、変わらない。 (ねえ、ギー) (……あたし、治ってないね……) ごめんなさい。ごめんね。爪に食い込んでいく彼の体を感じながら。 ──あたしは嗚咽する。──何も変わっていなかった自分自身に。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。アティ』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 あたしはすべてを諦める。目を閉ざしたままで都市の空を見上げる。そう、灰色の空が永遠に続くのと、同じ。 何も変わってなかった。10年前に生まれたあたしの“現在”は。 血に濡れるためにある爪。肉を裂くためにあった牙。 ……視界の端で、あたしの道化師が言った。 おかえり、と。 ……ギーが何かを言って。……あたしは、そうねと言って目を閉じる。 暗闇はなんだか安心する。すぐ近くで再びあの“声”が響いている。10年前と同じ、今も、何も変わらない。 ギーの声がわかる。あたしのすぐ近くで鼓動する心臓もわかる。 ぜんぶ10年前と同じだ。変化していく自分にあたしは耐えられない。 ギーの体を抱き締める。10年前にはギーが切除してくれた殺意が、今はこうして。ううん、何も、変わらない。 (ねえ、ギー) (……あたし、治ってないね……) ごめんなさい。ごめんね。爪に食い込んでいく彼の体を感じながら。 ──あたしは嗚咽する。──何も変わっていなかった自分自身に。 彼の言葉さえ届かなくなったこの心に。あたしは、やっぱり、化け物だったよ。ごめんね、ギー。  ───────────────────。    『あきらめる時だ。アティ』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師が、再び見えて。 あたしは涙を流して。目を閉ざしたままで都市の空を見上げる。そう、灰色の空が永遠に続くのと、同じ。 何も変わってなかった。10年前に生まれたあたしの“現在”は。 血に濡れるためにある爪。肉を裂くためにあった牙。 ……視界の端で、あたしの道化師が言った。 さよなら、と。 ──闇色の手が頬に触れる。 ──あたしの頬に彼の“手”が触れていた。──闇色に染まった異形の右手。 恐ろしい形をしたギーの右手。あたしの手よりもよほど怪物じみてるのに、触れていても痛みを感じない。優しい、右手。 知ってるよ。ギー。これは……あなたの右手……。 さっきまで、背後にいた誰かが言ったの。すべてを奪い取り、あらゆる意義を奪う、回帰の右手。 ──比類なき«悪なる右手»。 やだ、やだよ、ギー。やめて……。これをあたしに向けないで。これは、都市に在る10年をすべて奪う。 “現在”すべてを破壊して、奪い尽くす。“過去”だけを、都市にもたらす“右手”。 ……アティ。聞こえるね。 覚えているかい、アティ。あの阿片窟で僕らが会った時のこと。 ア、ア、ぁ、ぎぃ……ギー、ギー……。やだ……。 声が。ちゃんと出てくれない。喉が変異しかけている。10年前と同じに。元の声が出なくなる、新しいあたしの声に。 やだ。やだ。あたしの声。変わりたくない、元に、戻して。       ……戻す……。  ……どこまで戻れば“あたし”の声……。 唇をわななかせて震えるあたしの顔を、ギーが見つめている。優しい瞳。澄んだ色。 いや。やめて。見ないで。そんなに優しい目で見ないで。ドクター。 ……初めて会った時。アティ。僕は嬉しかった。きみに声をかけられて。 嬉しかった。僕が……。 俺が、今も生きているのは、きみがずっとここにいてくれたからだ。 アティ。許してくれとは、言わない。すまない。 きみの体と心を蝕むものは“現在”だ。僕には視えた。だから、戻す。       ……戻す……。      ……どこまで……。 や、だ。 やだ、よ……。 いや……。 やめ、て……? ギー……? 頬が熱い。視界が滲んでギーが見えない。血だと思ったけれど、違った。あたしの涙。雫が溢れていて。 涙なんて流し尽くしたのに。今さら、どうして溢れるの。やめて、ギーを見せて、邪魔をしないで。 彼の手が頬に触れている。そっと。優しく、優しく撫でてくれる。 どうしよう。言葉にならない。まだ声が出るうちに、あなたに言いたい。もっともっと言いたいことが、あるのに。 あたしは……あなたと、もっと、もっと、つらいのも、くるしいのも……。 ワインの蓋は開けない。あれは、きみに渡すつもりだったから。 やだ、やだ、嫌っ……! 嫌ぁ……!! ギー、あなたと……!あたし、いっしょに、ずっと……! すまない。 「すまない。アティ」 「きみが好きだった。 凍っていく僕を止めてくれたきみが」 「もしもまた会うことができたら。 その時は、きっと」 ギー……! ……そして。 そして、あたしはすべてを失った。黒猫のアティは消えてなくなった。 ひとりのアティ・クストスが再生される。都市のことも、異形のことも、すべて跡形もなく消え去って。 あたしにとってのこの10年のすべてが。消えてなくなる。 何も知らない10年前を生きていた、ひとりの娘。第3層出身の裕福な家の娘。 就職先は機関工場の計算手。計算は得意な娘。上層大学へ行くには幾分足りないけど。 ただの人間の。女。アティ・クストスに“あたし”は戻る。 ──そして。 そして、僕はひとりの誰かを永遠に失った。共に都市を生き延びてきた、最愛の誰かを。 永遠に。永遠に。 ──雨が降り注ぐ。 ──どれだけ雨が降ろうと変わらない。──空模様だけは同じだ。暗い色の空。 そう、何ひとつ変わらない。空だけは。 そう、この空だけが。他のすべては10年前にねじ曲がった。 あらゆるものが異形と化したこの都市、多重積層型蒸気機関都市インガノック。この世の果て。 雨が降り注ぐ。都市下層、無限雑踏街から空を見上げて。雨の中、ひとりの女は呆然と立ち尽くす。 言葉もなく。ただ、空だけが知っているものと同じ。 女は戸惑っていた。周囲のあらゆるものが歪んでいたから。自分以外のすべてが、見も知らぬ風景。 完全環境都市計画に基づいた理想都市。それがインガノック。そのはずなのに。何。 女は知らない。10年前のあの日を。女は知らない。都市に訪れた歪みを。 ──ここはどこ。──あたしは……誰、だったけ……。 ──あたしの、名前……は……。──名前は……。 アティ……。 水溜まりに映り込む顔を見る。そばかすの浮いた顔。肌の白さだけが自慢。いつもかけている度の合わない眼鏡は……。 眼鏡。どこにやったのだろう。なくしてしまったら、困る。 眼鏡にだけは、シリングを掛けているから。王侯連合に保護されていない、私有工場の計算手の給金での精一杯。 ──頭が痛い。何だろう。──雨に濡れて、風邪を引いたのかしら。 …………。 水溜まりに映り込む、自分の顔。灰色の瞳。そう、まだ灰色の瞳。片目が黄金瞳になるのは、あの恐ろしい日の後。 あの日。あの時。あの恐ろしい«復活»が起きて── ……え、何……だっけ……。 ──今、何を考えたのか思い出せない。 ……目? ずっと灰色の瞳。……黄金色になんかなったりしない。 ……変なの。なるわけないのに。 ふと手を見る。どうしてか確かめたくなったから。 力仕事を知らない手。白い手。黒い獣毛も長い鉤爪も何もない。ううん、あるわけないよね、そんなもの。 ……アティ・クストス……。 自分の名前。ぼんやりと呟いて周囲を見る。やはり変だ。 見慣れた風景とはどうしても違って見える。都市インガノックが、随分古ぼけて見える。ここは、どこ。 まるで、知らない間に時間が過ぎたような。最低でも10年くらいは。 ──変な感覚。──そんなこと、あるわけないのに。 帰らなきゃ……いけない……。叱られちゃう、門限7時なのに……。 お父さんとお母さん……心配する。帰らなきゃ……。 帰る家があるはずだ。自分には。暖かな愛を向けてくれる父と母がいるはず。不安なんて何もない。何もないはずなのに。 でも。こんなにも。 ……どうして。……どうして、こんなに胸が痛いの。 ……心がつらいの。切ないの?……あたしは、どうしてここにいるの。 ……う……あ……。 あれ……何……?涙……なんで、あたし……。 泣いてるの……。こんなに……胸、苦しいの……。 ……どうして、こんなにも。……あたしは涙を流すのだろう。 ……まるで。……大事なものを、大事な誰かを。 ……たったいま失ったみたいに。……胸が。痛いよ。 黒猫はもういない。雨の中、呆然と佇むのはひとりの女。 10年前の姿と何もかも変わることなく。アティ・クストスが立っていた。 たったひとりで空を見て。何も変わることのない灰色空を見上げて。 ……次から次へと涙が溢れて。……あたしは。 ……知らない誰かの名を呼んだ。 ──静かに雨は降り注ぐ。 無数の層を伝い、用水路へと流れ落ちて。この最下層へと、滝のように大量の雨が。それは都市の流す涙か。 雨は流れてゆく。この10年間で人々が流した涙のように、とめどなく、やがて地下へと染みこんで。 無数に染みこんでいく水滴たちの果て。それは、海ではない。都市を取り巻く湖ですらなく。 ずっとずっと地下の奥深く。湖上を埋め立てた広大な人工土壌の上に建造された巨大都市インガノックの地下。 都市の誰もが恐れて近付かない無限の闇。ひとりの男が穴を掘り続ける場所にこそ、降り注ぐ雨は集う。 都市下層地下。誰もが恐れて近付かない無限の闇の中、ただひとりの男だけが今日も穴を掘る。 男の名はランドルフ。気狂いの二つ名を与えられた«穴熊»の男。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 輝きは消え去るも瞼の裏に残るものだ。揺れている。都市が、何かを囁いている。それは41の声か、41の訴えかける声。 ああ、そうか……。 その時が来たか。間に合うのかと思ったのだが。 彼は暗闇に呼びかける。それは、以前にも会話をした相手だった。 返事はない。あの子供らの声。ここで彼にだけ聞こえるはずの幻の声が、今はどこからも響いて来ない。静寂だけ。 幾人もの声。もしかしたら41の。聞こえてくることはない。 ……そうか。あの子のところにいるのか。それは無理もないことだが。 悪いことをした。私たちは、またお前たちを殺してしまう。その日その時を忘れた、愚かな私たちは。 ……41の子らよ。 ──声。 ──声が聞こえると信じてた。──あたしは、ずっとそう言っていた。 大好きなお母さんのお腹の中にいる誰か。それは、これから生まれてくる命。それは、あたしの弟になる男の子。 あたしがそう言うと、家の中に笑い声。お父さんは新聞紙で顔を隠して。お母さんは「あのね」と言うの。 「あのね、まだ、性別はわからないのよ。 だから、もしかしたら妹になるのかも」 「ううん。きっと男の子」 「あたし、わかるのよ。 だってお腹の中から声が聞こえる」 ──不思議だね、とお父さんが呟くの。──そんなことないのに。 特別なことなんて何もない。あたし、おとぎ話の魔法使いじゃないもの。 兄さんみたいに運動神経もよくないし。兄さんみたいにお勉強だってできない。でも、でもね。 聞こえたの。本当に。 聞こえたの。お母さんの中から語りかけてくる声。明るくて、ちょっと生意気な男の子。 その時、あたしは普通の子だったけれど、それでも聞こえたものは聞こえたの。……ううん、嘘なんかつかないわ。 第8層の、どこにでもある家に生まれた娘。毎日工事の音が響くけど、素敵で暖かな家の女の子。 あの時のあたしは、声のことだけ考えて。お母さんのお腹から届く声は、はやく生まれたいと騒いでて。 ──名前は何がいい?──あたしは、声にそう訊ねたけれど。 名前が何なのかもわからなかったみたい。だから、あたしはお母さんとお父さんに相談して。 もしも男の子だったら、名前をつけさせて。そう頼んだのだけれど。 「……ふふ。残念でした」 「もう、名前は決めてあるのよ。 男の子の名前と、女の子の名前をね」 ──もう。──ひどいわ、お母さんったら。 ──ずるい、もう決めちゃってたなんて。──あたしは頬を膨らませたけど。 それでもいいなと思ったわ。そう言うお母さんの笑顔はとっても幸せで、お父さんの横顔がなんだか恥ずかしそうで。 ふたりとも、よい顔をするものだから。それでもいいかなって思ったの。 ──そう。名前。──弟になる男の子の、名前。 ──名前。 ──忘れてなんていない。──すべて、あたしは覚えているの。 ……決着をつける。 ……絶対に。 無限雑踏街のすべてを知る故買屋たる老亀。囀る双子の情報屋。荒事に通じるハッカー。下層の闇を駆けめぐるドラッグ・ギャング。 ギーは下層を巡り歩く。持ち得るすべてのコネクションを利用して。 伸ばすことのできるすべての場所で情報をかき集め、探し求める。情報を貪り喰らう。一体誰があれをやったのか。 ──アティの変貌。──彼女の背後に蠢いていた«奇械»の影。 情報が必要だ。誰があれをやった。何者かの介入があるはずだとギーは信じて、無数の情報屋とハッカーたちに依頼を行う。 「無茶を言うな。人間を変異させる人間?」「幻想生物かクリッターか現象数式だろ?」「ドラッグが人を狂わせるって話もあるぜ」 「求める情報が曖昧すぎるんだよドクター」「一体誰がおかしくなって誰にやられた?」「何も言わずに情報も糞もないだろうさ」 ギーは記憶を探る。幻想生物。違うはずだ。クリッターであるはずはない。違うはずだ。それらがもたらす威圧感はなかった。 現象数式。あり得ない。存在の本質を変化させることはできない。 人を変化させるもの。ならば、知っている。人に«奇械»を憑ける新薬アムネロール。 しかし大公爵は既に活動しない。彼の狂気は、もはや人を歪めることはない。その最悪の置き土産である都市法以外には。 アムネロールの流通は停止して久しい。入手は不可能でこそないものの、荒事屋がドラッグなどに手を出すはずはない。 ──自然発生?──いや、そうではないはずだ。 自然発生的な出来事とはギーには思えない。そうではないと、背後の影が囁くのだ。あれはきみの“敵”がそうしたのだと。     「アティは巻き込まれた」  「きみの敵が、きみを狙ったがために」      「彼女は犠牲者だ」 ……敵。 ……僕の、敵だと言うのか。 ──敵。 ──敵とは。誰だ。 ──最初の一日は無為に過ぎて消えた。──情報が集まらない。 情報屋もハッカーも一様に時だけを費やす。今さら幻想生物の出現情報など要るものか。何の価値もない。 情報。知り得る限りの情報すべてが欲しい。人の“現在”を増殖させる何者かの。人の“現在”を異形とする何者かの。 数式を解除しても“右目”に残っている。歪みきったアティの身体情報。高熱を発して異形化し続ける。 ──許しはしない。──絶対に。 どれだけ金が掛かろうと構うものか。好きなだけ捨ててやる。持ちうる金すべて、お前を見つけ出すためだけに使ってやろう。 金だ。手持ちでは足りない。情報屋たちに手形を打ち続けるのも限界だ。 空になったシリングを補充する必要がある。何もかも売り払えばそれなりの額にはなる。金が必要だ。 12人目の情報屋と依頼契約を結んだ後、足は自然とモノレール駅へと向かっていた。 自然と、この足が向いていた。アパルトメントへ。 ──いつもと。 ──変わることはないアパルトメント。 ──僅かに。──僅かに。──部屋には、猫の香りが残っていた。 視界に関しては外出する前と同じ。見慣れたソファとテーブルが出迎えていて、ソファ。黒猫が隣に座った時のままの形で。 確かに彼女はここにいた。今は、もういない。ソファにその香りだけを遠慮がちに残して。 ──思い出す。──いつもここに腰掛けていた黒猫。 ──もう二度と。──その姿を目にすることはできない。 感傷に浸っている暇はなかった。金だ。ギーは屋内の様子を窺う。誰かがいるのか。いないのか。 気配がある。誰かの。扉を開ける前から認識できていたものだ。怯みはしない。強盗程度ならどうとでも。 黒猫の香りに意識が逸れそうになるのを押し止めて、ギーは何者かの動きを探る。誰がいるのか。いないのか。 部屋の奥に誰かがいるのがわかる。ギーを見ている。 ──視線。──誰かが。 ──誰だ。──そこにいるのは、誰だ。 ……アティ。 ──唇が、名を呼んでいた。 口にする意味は既にないのに。彼女である可能性はないのに。部屋の中央に佇む人影に、期待していた。 ひとり佇む人影。他の誰でもある訳がないのに。 強盗を思うなら、彼女である可能性を考慮すべきだ。 それでも、ギーは可能性を失念していた。そう。そうだ。 キーア。きみか。 起きるにはまだ早い時間だ。眠っていなさい。 ……ギー。 おかえりなさい、ギー。あの……。 ……どうしたの……?きのうの朝から……ずっと……。 どこにいたの……?ギー、どこに……行ってたの……。 細い声は少しだけ震えていた。怯えるように。 自分のせいなのだろうとギーは自覚できる。身に纏った気配の剣呑さぐらいは、わかる。怯えても無理はない。 こんな気持ちで。こんな心で。 険しくなった自分を見せたことなど。なかったように思う。 ……ギー?何か言って、黙っていないで。 ああ。 恐らく眠っていなかったのだろう、キーアの顔色は悪い。目の下に隈を作って。 ──黙って消えたのはこれで二度目か。──何と思慮の足りない。 キーアの身の安全を考えていなかった。ひとりで、この部屋に置き去りにしたまま、長い時間が過ぎていたことに今さら気付く。 早急に荒事屋へ依頼する必要があるだろう。キーアの護衛とアパルトメントの安全維持。多少は金がかかるが。 情報料を引いても前金程度は残る。それで問題ない。 ……すまない。不安にさせてしまったね。 ──頬に触れる。──震えが、指先に伝わる。 ……ギー。 あなた、今……怖い顔してるわ。いつもと違う。 ずっと、寝ていないのでしょう?目の下、隈がすごいもの。あなたがすごく疲れてるって、わかる。 今日は、家にいて。……どこにも行かないで。 お願い。ギー。 ──何があったのかを少女は訊ねない。──ギーも、言う気はない。 この子はアティにあんなに懐いていたから。都合があって、遠くの層へ移ったと言おう。すべてが終わってから。 敵を。見つけ出した後で。 外出する用事があってね。今日も遅くなる。 今も、帰った訳じゃない。すぐに出るよ。 ……だめ。だめ、出かけないで。今日はここにいて。 ね……?ギー、ここに……いて……? すまない。無理だ。 ……お願いだから。 ……今日だけでいいの。今日だけ。一緒に、いて。 小さな手がギーの改造外套の裾を掴む。強く。強く。 そうするキーアの顔をギーは見なかった。宥めることも謝ることも、嘘を言うのも今ではない。 ……だから。……ギーは、気付かない。 ──そっと逸らされて床へと落ちた。──少女の視線に。 ──ごめんなさい、と僅かに囁いた。──少女の言葉に。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 時に、姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 今は、そんな彼らと話をすることもなく。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 ……芯が揺らぐな。 穴を掘るのに必要なのは水平角と黄金三角、さらには我らに«復活»をもたらせし黒色、すなわちこの都市の根源であるわけだが。 それは我々の視界に在って実体を持たずに、常に何処かで踊り狂う“彼”であるわけで、すなわち狂気の証明でもあるのだが。 人は、それに耐えることができない。増殖し続ける“現在”などに誰も敵うまい。 ……危ういかもしれんな、ギー。 雨が降りしきる。改造外套は無数の雫を吸い込んで重くなる。翌日の午後が来ても、未だ雨は降っていた。 頬を伝う雨の冷たさを感じない。ここの空気は下層のどこよりも気温が低い。 ギーは回廊を目指す。都市摩天楼の中央部に在る都市管理部付近、高層ビルディング同士を繋ぐ、ひとつの橋。 そこにギーを待つ人物がいるはずだ。果たしてそれが敵かどうかは、わからない。スタニスワフの情報は、曖昧なものだった。 ──回廊にて待つ。──時刻は、午後3時33分。 危険は厭わないと告げるギーに押し負けて、いや、半ば脅迫と恫喝に近い再度の依頼に恐怖の色すら見せたスタニスワフによって。 ギーは情報を得ていた。たったひとつ。 故買屋の老人が接触を図った上層貴族1名。彼は、ギーの名前に興味を示したという。彼は、ギーへの伝言を残したのだという。 上層貴族は電信通信機越しに老亀へ言った。その男を探している“ある御方”がいると、貴族の言葉を示す機密暗号と共に。 上層の遣いたるハイネス・エージェントが今日の午後3時33分に都市摩天楼回廊で一度だけ顔を合わせると、暗号は告げた。 ──回廊にて待つ。──指定された時刻まで、あと5分。 老人は言った。嫌な匂いがすると。これは恐らく罠に違いあるまいよ、小僧。 上層は絶対だ。下層の声に耳を傾けることは絶対にない。 いつも上層からの声は突然に。幸運か災厄の如く、強制的にもたらされる。召喚命令。それすらも現在では伝説に近い。 ──しかし。──ギーは疑わなかった。 過去にも経験があった。上層の支配者とすべての人々が信じているあの大公爵は、一度、確かにギーを呼んだ。 たとえ上層のすべてが大公爵の持つ狂気を継いでいたとしても、そう驚くこともない。 たとえ敵が上層のすべてだとしても。驚くこともない。 ──回廊にて待つ。──その言葉をもたらしたものが、敵だ。 ──誰だ。上層のすべてか。──それとも大公爵の意思を継ぐ何者か。 果たして回廊に人物の姿はあった。ひとりの男。 ……時間だ。……待っていた、ドクター・ギー。 銀色の懐中時計を片手に携えた男。恐らくは注文品であろう最高級のスーツに身を包み、優美な立ち姿を回廊に晒した男。 この場にはひどく似つかわしくない。実利のみを追求される情報区間であるこの都市摩天楼で、男のその姿は、浮いていた。 目元を覆う貴族紋。それは、確かに彼が貴族であることを示す。 しかし、違和感がある。この男を取り巻く異様なまでの静かさ。 どんな荒事屋も上層兵ですら持ち得ない、圧倒的な膂力を持つ肉食獣の気配がある。強く、速い。 ……時間ちょうど。……お前の性格は私と合っている。 男の動作が見えなかった。背後の“彼”でさえ、見えたかどうか。 銀色の懐中時計がこちらへ向けられていた。動作も見せず、0時を告げる時計を掲げて。 きみは誰だ。 ──敵か。この男が。 緊張感をギーは意識する。戦闘状況の開始に備えて、肯定した瞬間に背後の“彼”を顕現すべく。    「違う。この人じゃない」 ──違う、か。──背後の“彼”の囁きは明確だった。 私はただの遣い走りだ。きみの敵対者ではない。都市の支配者のメッセンジャーをしている。 ハイネス・エージェントか。 確かに、そう呼ばれることもある。……おっと。 ……時間だ。……案内しよう。 どこへ。 ……あるじの待つ場所へ。……都市の支配者の待つ玉座だ。 大公爵は既に都市にない。どこにもいない。 ……ならばついて来い。……そこが、盲目の生け贄の最後の場所だ。 ──男は歩く。──回廊を渡り、高空の大吊り橋を進む。 ギーは彼の背を追う。ともすれば見失いかけるほどに、彼は速い。走っているのだろうかと、錯覚すら覚える。 時計の男の歩みには迷いがなかった。機械のように正確な歩調は、彼の両脚が数秘機関の組み込まれた義脚だと告げる。 大吊り橋を渡りきった先の上層階段公園。ここへ来た者は、すべて、溢れ返る無数の緑に目を奪われる。何度でも。ギー自身も。 男は緑に目もくれない。視線はまっすぐにやや上を向いていた。 都市摩天楼の上。上層階段公園の更に上、すなわち。 ──都市上層。──支配者たちの住まう層。いや、城か。 ──本当に、メッセンジャーなのか。──あそこからの。 ──あるじのない城。──支配のみを続けるがらんどうの城の。 ……世間話をするか。……恐らくは、これが最後の機会だ。 突然、男の歩みが遅くなる。それでも背中を追うことには変わりないが。 男の横顔が見えた。視線は、ギーを見てはいない。 お前は10年前を覚えているか。あの日、あの時のこと。 覚えている。誰もが«復活»の日を忘れない。 ……嘘は、いけないな。 嘘。そう、嘘を言った。ギーは10年前の«復活»の日のことを正確には記憶できていない。断片だけだ。 だが、それが何だ。ギーの意識は男のあるじへと向いている。その男が自分にとっての敵であるならと。 私も覚えてはいない。正確には。だが、記録は在る。 大公爵はすべての記録を残していた。それによれば、私は上層の研究者だった。記録係だよ。 時間を計ることが私の使命。あの日、あの時もそうしていたはずだ。 ──男は、言いながら何かを見つめる。──懐中時計。か。 一度はストリート・ナイトとも呼ばれ、下層を根城にしていたが。私は、使命を思い出した。 ──ストリート・ナイト。──それはクリッターと戦う下層の戦士。 ギーは驚きの感情を隠せない。数年前、まだクリッター災害による恐怖が声高に叫ばれた頃、騎士は最後の砦だった。 人々が生きるために戦う最後の砦。たった数名だけが記録に残る、街路の騎士。この男が? 上層の犬として現れた、彼が? 嫌な冗談だ。 思えば、時間を無駄に過ごしたものだ。願いの成就を待つ使命を取り戻すまで数年。 全身を数秘機関に換えてなお、私は、使命の欠如による違和感を拭えなかった。 囁く声を耳にしてなお、私は、使命の欠如による違和感を拭えなかった。 ……現象数式の完成こそが我が使命だった。……記録にはそう在る。 冗談に応えている余裕がなくてね。悪いが。 現象数式の完成は«復活»の後だ。きみの話は矛盾している。 ……矛盾しているのは都市そのものだ。……お前は、どうだ? 黙れ。 ……やれやれ。……気の短い男は嫌われるというのに。 ……黙れ。 ……哀れな盲目の生け贄だ。 ──それきり。──男は緑の中では言葉を話さなかった。 ──都市上層。──貴族たちの城、上層貴族区。 ──その、さらに上部。──都市の、恐らくは頂上にあたる場所。 以前ここへ訪れた時とまったく同じように、守護の任に当たる上層兵の姿はなかった。無人の上層がギーと男とを出迎えていた。 誰ひとりすれ違うことはない。貴族も上層兵も誰も、いない。 男の進む先は都市上層のさらに高みだった。かつては大公爵の邸宅があったはずの場所、そこはインガノックの頂上。 都市の王。現象数式をもたらした天才碩学。都市法による死を司る支配者にして殺戮者。ただひとりの大公爵の居城。 数多の下層民の命を救ったことになる、数秘機関なるものの提唱者。無貌の王、大公爵アステアの座す場所。 無貌と呼ばれながら、真には肉体すらも失っていた王の玉座。 それが、都市上層の果てにはある。インガノックの頂上には。 ──そのはずだ。──ギーは、邸宅の位置を記憶している。 ──けれど。 見たことのないものがそこには在った。異様な建造物。巨大な螺旋状。 すなわち、灰色の空のただ中に在って、暗闇を纏って黄金色に輝く巨大なもの。螺旋の塔。 ──そこに在るはずのないもの。──すなわち。 ──果てなく空へと伸びる螺旋階段。──黄金色の。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 まだか、まだか、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。         …カチリ。 秒針が動く。ぴたりと1時を指して止まる。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。 暗闇にそびえる黄金螺旋階段。その麓に立つ男こそ、白銀時計の持ち主。 ギーの眼前に白銀時計を掲げて、男は、時計の男クロックは高らかに宣う。男は、大公爵の御名と共に何事かを叫ぶ。 男は、黄金螺旋階段を昇れとギーに囁く。男は時計を見つめたまま、指し示す。男は時計を見つめたまま、動かずに。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……生け贄の子羊よ!……我が古きあるじの望みを背負う者よ! ……これより先はお前の時間。……白色の王子がその到来を待っている。 喝采はない。喝采はない。 ただ、お前がそこを昇るだけだ。そして、それが、この都市の真実である。 この先か。 王に会うのだろう。ドクター。 言ったはずだ。既に大公爵はいない。 大公爵ではない。お前が今、会うことを望む相手だ。 名は、レムル・レムル。お前が今、敵であると信じる男だ。 ……では、僕はこの螺旋階段を昇ろう。そこに僕の敵がいるのなら。 ──昇る。──果てなく続く黄金螺旋階段を。 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇る男がひとり。 それは数式医。それは巡回医師。既に都市での絶望を知っているはずの男。 ギーは黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、目指して。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。 『……おいで。おいでよ』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 黒い影を背後に背負った。今も。今も。 その声は確かに少年のものであったが、どこか、大公爵と呼ばれた王にも似て。支配者の響き。 『数式医、ギー』 『都市法に抗い続ける愚かな巡回医師。 未だに、きみは過ちに気付きもしない』 『……だからだよ』 『……だから、きみは猫を失ったんだ』 黙れ。 彼女を傷つけたのがお前であるのなら。お前を、僕は許しはしない。 『なら話は早い』 『僕を見れば、きみは理解するだろう』 『僕の持つ権能が何であるのか。 きみの敵。きみにとっての復讐相手が 如何なる力を以て、きみを罰するのか』 黙れと言った。 ──黒色階段。──最後の一段を、今、昇りきる。 ……ようこそ。ドクター・ギー。 よく来てくれたね。ここがきみのつまらない人生の終着点だ。 きみのゴールだよ。 ──大公爵ではなかった。 ──少年王。──この彼がレムル・レムルであるのか。 階段頂上に聳える暗闇玉座に在った少年。姿形に似つかわしくない威厳は、王を名乗るには確かに相応しい。 ギーは鋭い視線を向ける。少年の背後、何かが揺らめくのが視える。 その背後に見えるものは、何だ。酷似している。螺旋階段を形成する黒色に。暗闇もしくは影、もしくは蠢く何かの意思。 少年王を守るように。少年王を包むように。 ──彼と玉座の足元から伸びた“影”が。──形を成している。 ──その気配。──その感覚。──ギーの背後に在る“彼”とほぼ同一。 ……きみも«奇械»使いか。 そうだよ。きみよりはこいつの扱いに慣れているんだ。きみが思うよりも遙かに、これは強いんだ。 勝てないよ?きみは。 ……レムル・レムル。 なんだい?哀れにして愚かなるドクター・ギー。 きみがアティをああしたのか。増殖させたな、彼女の“現在”を。 玉座に在る少年は細く、白く、黒い。両脚を補強する歩行器は彼の肉体の脆弱さ、押せば折れてしまうほどの儚さを思わせる。 けれど、ギーは彼に何も感じない。胸の奥にはひとつの感情だけが在って。 ──睨み付ける。──大切なものを奪い取った“敵”を。 ──視線に呼応するが如く。 ──少年王は笑顔を浮かべた。──それは、暗く昏い、闇の色を思わせる。 ギーは確信する。この彼こそがアティを害した相手であると。この彼こそが自分の探していた敵であると。 自然と意識する。背後に佇む“彼”の存在を。 ……じゃあ、刃をかわす前に。改めようか。 終焉へようこそ。盲目の生け贄。ああ、今はもう目が開いたんだっけね? 勝利の塔を昇ったのは、きみで2人目だ。祝福してあげるよ。 お前に殺されはしない。絶対に。 殺しはしない。冗談を言うのはやめてよ? 破壊しないよ。奪い取ることもしない。僕はね、きみよりも上品で心優しいんだ。 僕は、決して破壊しない。僕は、決して奪い取らない。 僕はすべてを生み出す。過去再生者にして現在増殖者だから。 ……ああ。そういえば、同じことを言ったよ。あの黒猫のお姉さんにも、今のを。 ──つい数秒前のように思い出される。──黒猫の叫び。涙。 許しはしない。この、大公爵に似た狂気を瞳に宿した少年。たとえ彼が、外見通りの子供だとしてもだ。 きみを許しはしない。レムル・レムル。 準備はいいね?始めようじゃないか、ラウダトレス。 ──時間だ。 ──少年は残酷な悦びに微笑んで。──左手を翳す。 ──この左手が。──アティを侵した“手”であれば。 ……きみを許しはしない。だが、決して殺さない。 ──憤りが体を突き動かす。──右手を、少年のほうへと向けて。 ……きみが振るった力をすべて僕が砕く。きみの«奇械»を砕く。きみと«奇械»は敵だ。 僕は砕く。今、«奇械»使いであるきみを。 ハハッ!! できるものか! やってみせるがいい!きみには絶対に無理なんだ! 無理だよ!きみにだけは、絶対に! ……砕く。ポルシオン。 背後の影、鋼の“彼”へ静かに声を掛ける。眼前の敵を破壊するために。暗闇と白い手を砕くために。 鋼の影が“かたち”を得ていく。鋼の手が、動く、言葉に応えるように! 鋼の“手”を……!ただ、ただ前へと──伸ばす──!      ──鋼の右手が──      ──暗闇を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光はふたつ── なぜきみがアティを害したか。僕は知らない。 けれど。 償いをするべきだ。きみは。 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──意思を伴って伸ばされる“右手”。──それは、ギーの“右手”。 その手は今や、尋常な人間の手ではない。真紅の鋼を纏った“右手”がそこに在る。背後の“彼”と同じ、刃の手。 金属の擦れる音。ギーの意思に、応じるように。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界に広がる黒い«奇械»を睨み付ける。攻撃の気配はない。けれど、その姿に秘められた力が視える。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。真紅に変じた鋼の“彼”が、少年の«奇械»を視ている。 数式を起動せずともギーには視えている。余裕の笑みを浮かべる少年を無視し、ギーと“彼”は異様な影の“顔”を睨む。 ──右手を向ける。──ギー自身と“彼”のものである、手。 ──これまでの手とは違う。──けれど、ある種の実感がこの手にも。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。これまでの時と同じように。 砕けるのは!お前のほうだよ、ドクター・ギー! ──白い手が、伸びる。 少年の叫びに«奇械»が応じる。黒影からたったひとつだけ伸ばされた腕に、渦巻いて集積されていく力が確かに視える。 ギーの“右目”は既に捉えている。ラウダトレスという名の«奇械»のすべて。 それは何も破壊せず、それは何も奪わない。それは人間の“現在”を無限に増殖させる。無限に。どこまでも。 ただの“現在”をではない。それは“耐えきれない現在”を増やすのだ。 それは人の精神の許容量を超えて増殖する。それはいわば精神の死だ。心を、破壊する。誰も、都市の“現在”には耐えられない。 ──10年前の«復活»の日の出来事。──それこそが“現在”の正体だから。 ──誰ひとり。──あの日を繰り返すことに耐えられない。 振り上げられた、白い手。矛先を向けられるのはギーと“彼”! ──白い軌跡が空間を優美に縦断する。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«猫虎»の兵や、神経改造を行った重機関人間でさえも。 もしも“左手”を避けられたとしても、周囲の空間ごと“現在”は増殖するだろう。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。黒影の繰り出す“手”が裂くのは虚空のみ。 なんで……!? そんなに速いはずがない!僕が、僕が一番うまく«奇械»を操れる!僕は、ラウダトレスとぜんぶ同じなのに! ……遅い。 うるさい黙れぇえ!! 誰も僕たちを傷つけられるものか!僕たちは、絶対に、人間にはやられない! 喚くな。 叫び声をあげた少年を“右目”で睨む。空気が震えるかと思うほどの怒り。 しかしただの声だ。引き裂くように高い少年の声に過ぎない。ギーの精神と大脳は、まだ死んでいない。 真紅の鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。荒れ狂う黒影のすべてを“右目”が視る!   ──すべての«奇械»は不滅──     ──物理破壊は不可能──     ──ラウダトレスの場合──     ──唯一の破壊方法は──    ──宿主との“緒”を切断── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 精神の死をもたらす“手”。すべての物理効果の及ばない黒影の体。故に、確かに人間はこれを破壊できない。 唯一の破壊方法は“緒”の切断。故に、絶対に人間はこれを殺せない。 長く伸びて宿主の人間と繋がる“緒”も、確かに«奇械»の体を構成する一部分だ。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている。──“右手”と連動するかのように。 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “光の如く、引き裂け”  ───────────────────! ──真紅の右手が疾って。──黒影から伸びた“緒”が切断される! ──真紅の右手はすべてを奪う。──黒影の“緒”を完全に取り込み奪う。 ──接続を失った«奇械»は程なく消える。──ヨシュアの時と同じ。──何の痕跡も残さずに。 ……そんな、馬鹿な……。 ……原始にして……最強の……僕の……!僕のラウダトレス……!僕の僕自身が……なんで!? ……なんで……!終わるのは……お前のはずなのに! 奪ったのか……!ペトロヴナの力を奪ってるんだろ!賤しい泥棒め、また、お前は奪う! 知っているのか。ペトロヴナを。 解放したのは僕だ!それを……お前が、お前が……! ……殺した! ──殺した?──違う。彼女は既に死んでいた。 ──大公爵と同じように。──既に、都市の中で死んでいた。 彼女のようにはしない。僕は、«奇械»使いであったきみを消す。力と、その記憶すら持たない少年が残る。 終わりだ。 やめろ……!僕からは何も奪わせないぞ! クロック! こいつを殺してよ!こいつ、僕のラウダトレスを消したんだ! ……誰も来ない。 彼ならずっと下の麓だ。残念ながら。 やめろ……!僕に、触るなぁぁ……!! ──ギーは“右手”を翳す。──鋼の“彼”と同じ形に歪んだそれを。 ──少年の肩に。──触れる。 やだあああああ……!!くそ、くそっ、こんな……ことが……!!あって、たまるかっ……クロック……!! うああああああああ…!! ──叫び声だけが残った。──後には、何も残ることがなかった。 ──絶叫の余韻が空間に充ちている。──少年の声は、確かに、そこに在った。 ──けれど。──後には、何も残ることがなかった。 ──何も。──姿かたちのすべて、残さず。 赤色の右手が彼から奪った、手応え。この10年間で彼が得た“歪み”すべてを奪い取った感触は、ギーの右手の中にある。 彼の肉体を傷つけることなく。彼から“歪み”だけを奪い去る赤色の右手。 アティにそうしたように、ギーは少年の持つ力だけを奪い取った。 ──そのはず、だった。──けれど。 な……。 ──少年の姿が、ない。 ……何……だと……? ──叫び声だけが残った。──後には、何も残ることがなかった。 少年は姿を消していた。肉体も意思も力もあらゆるものが消えて、そこには、絶叫の残滓だけが残っていた。 狂気と力とを奪われた少年が残るはずだ。この赤色の右手は、人を傷つけはしない。ギーの望み通りに。 «復活»が都市にもたらしたものだけを、選んで奪い取る。消し去る。 けれど少年は消え去った。そう、消滅だ。 大公爵やペトロヴナのように──衣服の一片、頭髪の一房さえ残すことなく。玉座には今、何もない空間だけが残された。 赤色の右手がその肩に触れた刹那、レムル・レムルのあらゆるものが消えた。 ……な、ぜ……? ……僕は、今……何を……した……。彼を……。 ……レムル・レムルを……。        殺した? ……殺した……。 そんなはずはない。あり得ない。この10年で得た異形の力だけを消し去る。人を決して殺さない。この手はギーの意思。 この胸の中で燃え滾る感情が、怒りが、どれほど激しく渦巻こうとも。 ──それでも。──たったひとつだけは決めていた。 ──傷つけることだけは。 誰かを殺すことことだけは。 誰かの命をこの手で奪い取ることだけは。誰かの悲鳴を自分で作り出すことだけは。 ──僕は、それだけはしてはいけない。 ──唯一のルール。──この都市で生きると決めた、僕の。 どこに……消えた……?僕は……。 消したのか……?この、手で……僕が……。        殺した? ……殺したのか。僕は、彼を。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 今こそ、今こそ、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。       カチカチカチカチ。 秒針が動く。それは決して止まることがない。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。狂ったように秒針を回転させる懐中時計。 そう。その認識は間違っていない。 その通り。殺したのさ、ドクター・ギー。お前は誰かを殺している。 ……それをお前は覚えていなくとも。……お前の手が。……お前の心が。 ……覚えている。……それは鎖となってお前のすべてを縛る。 秒針が動く。凄まじい勢いで、狂ったように、逆回転を。巻き戻すものは何かを、男は今も知らない。 ……時間だ。……お前自身は一秒たりとも動いていない。 お前の手からこぼれ落ちていくすべて。あらゆるもの。 それが命だ。ギー。 ──あたしは、キーアは覚えている。──絶対に忘れない。 ──あの日。──あの時。 ──上層階段公園のとある場所。──大きな大きな病院で。 ──何があったのか。──何を、みんなが忘れてしまったか。 その時、その瞬間。ひどく大きな音がして、耳を塞いだ一瞬後、あたしは大きな何かに挟まっていたと思う。 重いと思ったのだけど、すぐにそういう感覚は消えてしまって。 ともかく抜け出さなきゃ。視界は暗くてよく見えないけれど、挟まってしまったのは確かだから。 そう、うん。暗かった。病院の白い廊下を歩いていたはずなのに、大きな音の後、あたしの視界は塞がって。 ──暗くて。──寂しくて。──なんだか、とても怖くなって。 ひとりでに涙がこぼれてた。覚えてる。暗くて寂しくて怖くて……。 でも、あたしはお姉さんになるのだから。これからここで弟が生まれる。お姉さんは、泣いたりしない。 強がって、勇気を振り絞って。涙を拭おうとした。 ──そう、拭おうとしたね。──でも、手が動かなかったね。 手だけじゃなくて、足も。右手も左手も、右足も左足もぜんぶ。動かなくて。 ──あれ、おかしいな。──手も足もぜんぶ挟まってるのかな。 詳しいことはよくわからなかった。ただ、動かなくて。首も、回らなくて。 ひどく狭いんだな、ここ、と思って。そうしている間にも、涙はぽろぽろ落ちて。 ──まさか。──壁が崩れたりしたのかしら。 ──閉じこめられた?──出なきゃ。でも、どこも動かない。 痛みはそのすぐ後に来た。苦しさも。 あたしは多分、悲鳴を上げたのだと思う。そもそも声が出たかどうかもわからない。痛くて、苦しくて。 その頃には、もしかすると、重さは消えていたのかも知れない。 それでも、もう、そんなことよりも。あたしは大変だった。 ──痛いよ。──苦しいよ、何なの、これ。 ──視界はずっと暗いまま。──瞼はちゃんと開いてるはずなのに。 あたしの体は何ひとつ自由にならなくて、暗いまま、怖いまま、何も変わらなくて。 声を出そうと思っても。出ているかどうかよくわからない。 ──音が。──多分、ちゃんと聞こえていなかった。 でも、幾つもの足音と言葉がどこか遠くでぼんやり響いた気もする。 ──担架。──救急。──手術室がない。 確か、そんな風な音だったと思う。言葉かもしれない音の中でわかったのは。 理解なんてしていなかった。頭の中にはぐるぐると熱いものが渦巻いて、怖さと、痛さと、苦しさだけがあったから。 ──早く家に帰りたい。──そう思いながら、ぐるぐるに耐えて。 お母さん。お父さん。兄さん。助けて、暗いの、苦しいの、動かないの。 どこも動かない。何も見えない。 ──あたし。──もしかして、今、ここで。 ──死んでしまうの? ──あたし。死ぬの? ──だって、こんなにも痛くて苦しくて。──こんなの知らない。──こんなの嫌、嫌だ。 こんなところに来なければ良かった。弟なんて生まれなければ。 ──いいえ。──そうじゃないわ。 ──あたしはすぐに思い直したの。──弟は、何も悪くない。 きっとこれはあたしのせい。弟が生まれるからって、はしゃぎすぎて、看護婦さんの言うこと聞かなかったから。 悪くないもの。弟は、悪くない。だって、まだ生まれてきてもいないのに。 弟──そう、弟はどうしただろう。 お母さんが今日生んでくれるはずの弟。無事なのかな。 さっきの大きな音が、事故とかじゃ、なければいいけど。 ──弟。──きっと元気に生まれてくれる。 ──あたしの弟。──そう、あたしのたったひとりの。 男の子ならレムルと名付けると、お母さんは言っていた。嬉しそうに、微笑んで。 会えないかもしれない。あたしが、ここで死んでしまうなら。 「いや……」 「……死にたく、ないよ……」 ──その時だった。──誰かの声が聞こえたのは。 ──よく聞こえなかったはずだけれど。──今は、わかる。 ──あたしに呼びかけてくれていた声。──知らない男のひとの声。       「死なせない」      「きみは絶対に」       「僕が助ける」 ──声が。──手を差し伸べるあなたの声が。 ──確かにその時、聞こえたから。 ──聞こえたから。      ──あたしは──      ──あなたを── ──昇る。──果てなく続く黄金螺旋階段を。 昇る、昇る、昇る。黄金螺旋階段を昇る男がひとり。 それは殺人者。それは元執行官。既に都市での絶望を自らの力へと変えた男。 ケルカンは黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、目指して。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。    『さあ。あきらめる時だ』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 旧き王も新たな王も消えたはずなのに。今も。今も。 その声は少年にも大公爵にも似ていたが、そのどちらでもなく、どちらでもあった。しかし支配者の響きはない。 たとえて言えば、すべてを嘲笑する響き。涙を流して笑いながら、心から焦がれて願う声。 ──たとえて言えば。──狂った道化師が何かを囁くような、声。      『殺人者、ケルカン』   『都市法をすべて理解した哀れな男』  『既に、きみはあきらめているはずだ』       『……それ故に』  『……それ故に、きみは階段を昇りきる』 黙れ。 俺たちを導く姿なきグリム=グリム。お前を、俺は許しはしない。      『ならば話は簡単だ』   『見せるがいい、きみの“願い”を』 『この都市に訪れた10年の意味。 きみがその手を赤色に染めてきた意味。 如何なる理由と願いとが、その根源か』 黙れと言ったぞ、道化め。たとえ貴様が……。 俺たちのア・バオ・ア・クーだとしても。すべてを決めるのはお前ではない。 決めるのは俺たちだ。  『ならば«美しいもの»を見るがいい』  『きみのためのそれが用意されている』 黙れ。 ──黄金階段。──最後の一段を、今、昇りきる。 ──大公爵ではなかった。 ──少年王。──レムル・レムルでさえもなかった。 階段頂上に聳える暗闇玉座すら消えている。王を名乗る誰もそこにはいなかった。在るのは、ただひとつの球形の何か。 色彩の感覚を見る者から奪う、何か。それはひとつの色のように見えて、万色を混ぜ合わせた塊にも見えた。 ケルカンは鋭い視線を向ける。クリッターに似た気配が、漂っているのだ。 殺意を向けると“それ”は蠢いた。やめて、と囁くように全体が“ぶれる”。 視界そのものが歪む感覚が襲う。ケルカンは唾を吐き捨てて、言った。 ……何だこれは。 眼前に在るこの物体は、何だ。こんなものが約束された«美しいもの»か。こんなもののために、階段を昇らせたのか。 数多の人をケルカンは殺してきた。すべては、ただひとつの願いのためだけに。 ──命すら手に掛けてきた願いの果てが。──これだと言うのか。 ──万色の塊。──それは人間の胎児にも似て。      『さあ、ケルカン』  『きみの“願い”を述べるがいい』 根源たるグリム=グリムの声がする。この都市すべてを歪めた憎むべき声が響く。それはケルカンへと、優しげに問いかける。 ケルカンは唇を開く。どんな茶番だとしてもこれが自分の望みだ。 問いに対して、彼は、己の望みを口にする。すなわち「この都市に終焉を」と。願い焦がれてきた、唯一の想いを。        『それは』  『私の聞きたい“願い”ではない』 黙れ。黙れ。黙れ。ここへ到った俺にはそれを言う権利がある。 お前の望みなど、知ったことか。これだけが俺の願いだ。        『そうか』  『きみも、大公爵と同じだったか』 何とでも言うがいい。俺は、イルからお前の正体を聞いている。 残念だったな。俺は知っている。お前が既に、俺の言葉を無視できないと。俺は、導きを得て確かにこの場へ到った。 ……やっとこれで、終わる。     『それは、どうかな』 ──静かな感覚があった。 ──音も声もなく。──大切な何かがひとつ終わったような。 都市には雨が降り注ぐ。静かに、今日もずっと雨の時が続いている。これまでの10年間と何ひとつ変わらない。 視界に入る景色は何ひとつ変わることなく。ただ、何かが変わってしまった実感だけが、ギーの胸の中にある。 髪と頬と改造外套を濡らす雫は止まらない。都市の涙のようだと、ギーは思わなかった。機関排煙で濁った水が涙であるものか。 息を吐く。白い。ギーは灰色の空を見上げた。 太陽がふたつある、空。光は厚い雲に隠されて。最後にこの空を見上げたのはいつだったか。 この濁った空の下で自分がしてきたことは、下層を歩き続けてきた理由は、何だったか。この10年を生きてきたのは、なぜか。 ──ただ、静かな感覚だけがある。──何かを失った。 ──アティを失って。──ただひとつ決めていたことさえ失って。 ……僕には、何が残る。 ──残っているもの。──自分の日常。こうして下層を歩く習慣。 病や怪我に命を奪われようとする人々に右手を翳し、クラッキング光を照らすこと。正常な状態に肉体を置き換えて、治すこと。 すべて習慣。呼吸するようにそうしてきた。この手を伸ばすことを、諦めずに。 まだ、できることがあるものと。そう信じて。 人間の命を奪うあらゆるものを否定して。ただ、それだけを胸に生きた。 ──10年。都市の中で。 ……巡回医師、か。 医師と名乗ることができるのか。僕は……。 例え名乗ることができなかったとしても。それ以外に、生きる方法を知らない。 ──だからギーは歩く。──混沌の中でかろうじて息をする下層を。 ──自分にとっての日常を。──変わらずに死が充ちるインガノックを。     『なにを、いまさら』 ──雨でできた水溜まりで溺れるように。──混沌の中でかろうじて息をする。 ──変わらずに死が充ちるインガノック。──それが、日常。 手のひらからこぼれる無数の命。失ったものを嘆く声がいつも響く都市。それが、この都市の日々であるはずだ。 そう決められているのだ。かつて10年前に、この都市は変貌した。 誰もが絶望し、誰もが悲鳴を上げた。何もかもがその日、その時に姿を変えて。人を傷つけるものが都市の全土に充ちた。 クリッター。幻想生物。変異病。 あらゆるものが人を害し、涙を奪った。それがこの都市。インガノック。 あの日、あの時。ギーと一緒に世界は壊れてしまったのだ。 呻き声の中をさまよい、数多の誰かの涙を無限に見つめながら、役にたたなかったこの両手を蠢かせて。 深い霧の中をもがくように。悪い夢の中で悶えるように。──10年。 この«異形都市»が生まれて、10年。あらゆる異形は日常となって。 ──そのはずだった。 ──けれど。 ──今、こうしてギーの耳に届く音がある。──それは都市全土へ響き渡る合成音声。 都市摩天楼では毎日正午の刻を告げる音声。下層の大部分にあっては、避難警報や年に数度の上層告知をもたらすものだ。 それが、響いていた。上からも下からも。 ここ第7層の上からも下からも立体的に音声は響き渡っていて、故に自然と、それが都市全土への放送であるとわかる。 ──上層からの全土放送。 ──音声は告げていた。 ──終わりを。 『皆さん、都市に生きるすべての皆さん! この喜びを共に分かち合いましょう!』 『忌むべき41の脅威は消え去りました!』 『クリッターはすべて消え去ったのです!』 『都市インガノックは解放されるのです! 本日、午後3時3分を以て!』 『10年の時を経て! 美しいものを、我々は目にするのです!』 『皆さん、都市に生きるすべての皆さん! 私たちは生き抜いたのです!』 『参政権を持つ上層貴族の全賛成を以て、 開放計画の発表と発令が行われました!』 『──悪夢のすべては!』 『──終わったのです!』 ……終わった……? まるでおとぎ話の本の頁をめくるように。かつては都市に溢れていた数多の絵本を、ひとつ取り出したかのように。 ──都市下層がその声で変わっていた。──空気が、違う。 まるでおとぎ話の本の頁をめくるように。そう、10年前の«復活»の時のように。すべてが変化する。 都市管理部が各所に設置した電信放送機が乗っ取られることなどあり得ない。しかも、複数の各層にまたがって。 声は告げる。すべては終わったのだと。 都市に充ちる痛みのすべてが今終わる、と。上層貴族による開放計画の発表と税の緩和。 クリッターの全種個体は排除された。すべてを包む無限の霧さえも晴れて、近日中に全土が“開放”されると声はいう。 『クリッターの情報吸収力と感染力を鑑み、 都市全市民に計画は隠蔽されていました』 『清浄化計画は成功したのです。 すべては今のために行われていたのです』 『残酷な都市法もすべて、 すべては多くの皆さんを救わんがため!』 『──今こそすべてが! ──すべての悪夢が終わる時です』 『──クリッターはいない! ──変異の現象もすべて消えるのです!』 『──都市は、開放されるのです!』 都市の開放。すなわち外界との交流の再開、当然それは、外への脱出に対する危険の消滅を意味する。 不可能なことであるはずだ。都市は永遠の«無限霧»に閉ざされている。けれど、それは晴れつつあると放送は言う。 閉ざされていた都市は開放される?ならば、本当に、終わったということ? そんな……ことが……。 ……馬鹿な……。 言葉を漏らすギーの視界がぐらりと傾く。誰かが肩にぶつかったのだ。すまない、と涙ながらに声を掛けられる。 大柄な«穴熊»の男の瞳から溢れるそれは、確かに流れ落ちる涙だった。雨ではない。 無限雑踏街を歩いていた人々の声が届く。歓喜の声を上げて手を取り合う人々の姿が、傾いたギーの視界で幻のように踊っている。 放送を聞いたせいだ。彼らはむせび泣き、笑い、声を上げている。 むせ返るような喧噪が、消えていた。無限の喧噪と雑踏が充ちるはずのこの街で、人々のすべてが立ち止まって、何かを叫ぶ。 ……馬鹿な……。 ……«無限霧»が、消えて……。 ……開放……? ……この都市が……? 立ち止まって歓喜の渦を形作る人々から、ギーはひとり、路地裏へ抜け出していた。馬鹿な。 立ち止まることはできなかった。それは、自分には許されないはずだから。誰かへ、手を差し伸べることだけが自分。 ──命を奪わず。──この手を差し伸べつづけるのだと。 視界が揺らぐ。馬鹿な。都市が、開放されたのが真実であるなら。これが、何者かの見せる幻でないのなら。 自分が歩く理由は何だ。下層を巡回し、医師の真似事をする理由は。 ──ギーは歩く。──無数の歓喜の中を、ただひとり。 ──けれど。──ギーがどんな場所を歩いても。 歓喜する人々は一切の窮状を訴えなかった。すべてから解放されるのだと信じた、人々。彼らは、口々に生の喜びを告げた。 地獄の10年間を生き延びたことへの感謝、この時を作るために尽力した上層への感謝。ギーの手を取り、涙ながらに口にして。 その中で。ただひとりだけ。 ギーだけが涙を流さない。傾いだままの視界で、冗談のような歓声に包まれたままの都市の中を、ただ、歩いて。 既にエラリィとナースの姿は下層医院から消えていた。ふたりは既に旅支度を調えて、王侯連合帝都への旅券を手にしたという。 資産家の娘など知ったことか。自由恋愛を尊んで彼女と結婚するのだと、エラリィは涙ながらに叫んでいたという。 ──多くの人々が都市の脱出を選択した。──エラリィのように。 ──たとえ変異していても人間は人間だ。──受け入れられない訳がない、と。 スタニスワフの姿もどこにも見えなかった。彼は、上層との交渉によって、都市公認の貿易商の地位を手に入れたという。 逞しい老爺。故買屋スタニスワフ。都市に留まって数秘機関の輸出事業を始め、莫大な富を得てやるぞと笑っていたという。 阿片窟の女主人アリサは、渋い顔をしつつ、これで違法娼館の商売品たち──娘たちを解放できると静かに笑っていたという。 囀る双子は、都市外への旅券を手に入れたとある漁民一家と大陸南部へ向かうという。老人がかつて口にした澄んだ海へ。 機関工場の子供たち3人には、裕福層の新しい里親が名乗り出たという。 普段から見掛けていた彼ら3人を、いつか引き取ろうと決めていたのだとか。今この幸運の瞬間こそ、その時なのだと。 算術の得意なあの少年。ミースは、西亨へと渡るのだと口にした。 「碩学協会の試験を受けようと思うんだ! そうすれば、帝国から西亨へ行けるだろ」 「霧が晴れたんだから外国にだっていける。 な、そうだろ、ギー先生!」 「キーアとは……離ればなれになるけど。 でも、俺、立派になって迎えに来るよ!」 「だから……その……。 それまでは文通しようと思って」 「大人になったら迎えに来る! 会えるよな、だよな、ギー先生!」 ──ああ。きっと会えるさ。 そう口にしたかどうか定かではない。ギーは視界の中で起こる出来事のすべてと、聞こえる声のすべてを、虚ろに感じていた。 幻ではない。彼らの喜びと熱気と涙は本物だ。 ただひとり。自分だけが涙すら流すことなく、歩いて。 獲物を求める餓えてやせ細った獣の如く。誰か、この手を必要とする者がいないかと、歩いて、歩いて、ただただ下層をさ迷って。 ……おお、ドクター!この際あんたでも構わんか。なあ。 なあドクター。この馬鹿騒ぎはどうだい。どいつもこいつも浮かれきって、まさに馬鹿か気狂いの祭りだよ。悪くないがね。 都市の安全が確保できたってんなら、さ。もう俺たちもお役ご免ってやつだろうな。なあ、あんたどうやって生きる? 俺は運送屋でも始めようかなと思ってる。層を超えた個人飛行も今や違法じゃない。かなり稼げそうだぜ。なあ。 しかし、目出度いこともあったもんだぜ。まさかこんな日が来るなんてな、先生よ。 ……ぷはッ。 なんだよ、もう空か。おーい姉ちゃん、もう一杯だ! 機関酒場に充ちる喧噪もどこか華やかで、酒を運ぶウェイトレスの表情さえ明るい。荒事屋の鳥へと機嫌良く二杯目を渡す。 金属製ジョッキを一気に空けて、鳥は嘴を笑みの形に歪めて肩をすくめる。 あんたはやらないのか?祝いの盃だぜ。 ああ、ああ、そうか。あいつがいねえ。あんたに声をかけたのはそれだ。あいつとも一杯呑みたくってね。 黒猫の奴を知らないか。こんな日に、どこにもいないんだよ。 ……ああ。そうだな。 彼女はどこにもいないよ。 何だよそれ。おい、ドクター!来たと思ったらもう帰っちまうのかよ! 背中に鳥の声を感じながら。ギーは、いつもの機関酒場を後にする。 ──そうだ。──ここに、彼女の姿はもうないのだから。 酒場を出ると灰色の空が出迎えた。今日のこの日でも、これだけは変わらない。覆い尽くす灰色は、10年前とも何ひとつ。 雨が落ちてくる。機関排煙を吸い込んで灰色に濁った水が、撥水加工の改造外套の表面を滑り落ちる。 頬を雨が流れる。見る者がいれば涙に見えたかも知れない。 ──けれど。──ギーはそれを流すことがない。 ──既に枯れ果てた。──サレムの時のあれが本当の最後の涙。 そうか。これが終わりか。 都市の中で、すべきこともその相手もない。胸を突き上げる喜びの感情も自分にはない。これが終わりか。 ……だが、僕は。 僕は、立ち止まる訳にはいかない。 たとえ誰も見つからなくとも。どこかに、必要とする誰かがいるはずだ。 だから、歩いて、巡回診療を続けよう。そうすることだけがこの自分のすべて。都市がどんなに変わっても。 地獄でなくとも。異形であることを都市がやめても、だ。 と── ──視線が路地裏へと吸い込まれる。──何かがいる。 それは小さな人影。機関精霊ではなかった。人間だ。見慣れた3つの影は、子供のもの。あの子たちか。 こちらへ駆け寄ってくるのがわかる。満面に笑みを湛えて、何ら暗い影を見せず。 ──子供たちの姿が見える。──何かを言おうと、こちらへ駆けてくる。 既に彼らのことは聞いている。引き取り手。あの厳しい機関工場の親方から解放されて、彼らは新しい里親を得るのだ。 祝福を言うべきだろう。優しい声で。 ギーは唇を開いた。気付かないうちに乾ききっていた唇を。 けれど、そこで動きが止まる。体の。何を口にすべきか。 ──何を言う?──おめでとうと言えばいい? 自分の胸の中の空虚をギーは自覚している。それは、喜びの声を舌に乗せようとしない。呼吸音だけが漏れた。 あ……。 子供たちが立ち止まっていた。不思議そうな瞳が、こちらを見つめている。 ひとりが、怯えるように一歩だけ後ずさる。こちらの顔を見て。目を見て。唇を見て。 ──ああ、そうか。怖いのだ。──僕が。 ──僕はきっとまだ昨日のままなのだ。──だから、彼らは怯えてしまう。 口を閉ざす。ギーの唇は何も言わなかった。ただ、手を振って子供たちから視線を外す。無言のまま。 言葉はない。彼らは既に解放されたのだから。 都市から変異なるものが消えたのだから、彼らも絶対死の運命からは逃れたはずだ。自分は、もう必要ない。 子供らにかける言葉はもうないだろう。自分の枯れた声に意味はない。彼らには、もう、明日がある。 ──それに。 ──子供らにかけられる言葉はない。──もう、何も。 ──殺人者たる自分が。──何の言葉を、子供にかけられるのか。 ──そうだ。殺人者。 ──人を殺したのだ。──この、ギーという狂った男は。     『なにを、いまさら』 ──夜が来ていた。──ギーは、自室の寝台に腰掛けていた。 夜通しの巡回診療を行うと決めていたはず。今日は、ずっと歩いていようと。都市が変わっても、そうすると。 そう決めていたのに。夜、時刻は午前2時。ギーはアパルトメントの自室に戻っていた。自覚はなかった。 ひとり、暗がりの中にいて。ぼんやりと。 都市に起こった新たな変化のことを思い、人々の歓喜の顔と声とを思い出しながら。ぼんやりと。 カーテンの閉まったまま見えるはずのない空を見つめていた。布越しの灰色雲。ふたつの太陽を覆い隠す、永遠の空。 今日はひとりであの空の下を歩いた。この10年間でギーがしてきた日々と同じ、変わり映えのしない灰色雲の下を、延々と。 ──ひとり。 ──ひとり。──そう、ひとりで、だ。 思い至ることがなかった。濡れた改造外套を脱ぎもせずに。 座ったまま窓を見ていた。カーテンに覆われた、夜の気配の向こうを。 都市にもたらされた新たな変化を、どこか、遙か遠くで揺らぐ幻のようだと考えたまま。思い至らなかった。 ──キーア。 ──彼女のことに思い至らなかった。 ──その声が響くまで。──ドア越しに、ささやかに届く声。 遠慮がちに。けれども声はどこか明るく。いつもとそれほど変わりのない声が響く。扉は開かれていない。 黒猫であれば声を掛ける前に扉を開ける。けれど、少女はそうしない。 ──声を掛けてくる。──遠慮がちに。 ……入ってもいい? どうぞ。開いているよ。 ……ギー、眠っていたの? いや、起きていたよ。どうしたの。 ギーが帰ってきた音が聞こえたから、それで……。 でも、寝ているかと思ったの。ノックをしても返事がなくて……。 ノック? ……うん。 ──ノック? ──そんな馬鹿な。──確かに自分は目覚めていたはずだ。 眠気は微塵も感じていない。キーアと出会うよりも前と同じように、肉体の疲労を幾らか認識していただけ。 アティを失った時から。自分は、一睡もしていないはずなのに。 ……本当にノックをした? 何度も……。最後は、強めに、叩いて……。 困った顔。申し訳なさそうな。言うべき言葉が何も見つからない顔だ。 ──嘘ではない。──その顔を見ればわかる。 ──ならば。──おかしいのは僕自身なのだろう。 たったひとつ決めていたルールさえ破って、ついに、この都市でひとを殺してしまった。ひとりを。 いいや。本当にひとりだったのかどうかも。既にもう証明すらできない。この手で消した、3つの命。 ──いいや。もっとだ。──数式で救えなかった命も数えれば。 (人殺しか) (……そうだな。僕は) (殺しすぎているのかも知れない。 この手で、幾人も) あの男。ケルカンを非難できるものか。あの男。自分と何ら変わらない。息をするように人を殺す。 少女の顔に視線を向ける。薄赤色の瞳が、じっとこちらを窺って。 ……すまない。きみをひとりにさせたね。 ううん、謝らないで。ギーは悪いことなんてしてない。 ……おかえりなさい。 ──笑顔。まっすぐに。──どこか太陽を感じさせる暖かさで。 まっすぐにその笑顔を見つめられない。ギーは視線を逸らしていた。 だから気付かない。笑顔の中に隠れていた少女の感情に。 こちらを窺うように。不安げに、瞳を揺らしていたことに。 ……そういえば……。今日は、留守番をしていたね。 体調が良くない?もしそうなら、言ってくれれば……。 ……え……? ──少女の表情が変わる。──笑顔が消えて、大きく首を傾げて。 嘘……。やだ、ギー、何言ってるの……。 キーアはお留守番……。 ギーが……今日は……。ひとりで行くって、言ったから……。朝ご飯の時に……。 ……ああ。 ──そうか。確かに、そうだった。──記憶が蘇る。 だから、警護契約は解除していないのだ。この部屋の周囲を荒事屋たちが鷹の目を鋭くして護衛しているはずだ。 キーアを置いていったのは自分だ。外に護衛役も用意して。 彼女がここにいると言った訳ではない。それを、忘れていた。完全に、記憶の外に。 (……そうか) (僕は、そこまでガタが来てるか) (破綻している。 僕の、何もかもが) ──もう、潮時だ。──到底無理だったということだ。 ──この子を手元に置いているという自覚。──それすら失って、自分は何をしている。 ──下層をひとりで歩いた。──ただ、それだけだ。 ──すべての人が去りゆく都市を。──ひとりだけ、変わる自覚さえもなく。 ……すまない。今日は、迷惑をかけたね。 ううん、迷惑なんてない。キーアは平気よ。 いや。すまない。 なぜ謝るの?ギー、何もキーアに悪いことしてない。 ……なぜかな。 ここでも公共放送は聞こえたはずだね。都市のすべてが開放される。 もう、ここにいる必要もない。この都市から危険は消える。 幻想生物もクリッターも存在しないなら。上層がその気になれば治安は回復できる。自由に出歩くことができる。 それが、例え女子供であっても。自由にどこへでも行ける。 ……なぜ? 上層指導で正規の市民登録が始まる。きみの家族も見つかるはずだ。 ……なぜ……。 ……キーア。 言葉はない。唇を開いても、何も。 都市以外のことは、口にできない。自分自身のことは。 この子に一体何を言えばいいのだろう。己は殺人者ではないという自負だけが、拠り所だった自分が。 破綻を自覚してしまった。自分自身の根本の何かを。だから、もうここへは置いておけない。 ──そして。 ──僕の近くには、もう、誰ひとり。──いないで欲しいんだ。 それを少女には伝えまい。きっと、ひどく悲しむだろうから。 ……さよならだ。 きみが僕のために費やした時間だけでも償ってやりたいが、どうも無理らしい。都市開放は明日にも始まる。 自由になるんだよ。外で、連合調査官への要請もできる。 たとえば記憶の多くを失っていても、再市民登録があれば手がかりは掴める。家に帰れるんだよ。 ……きみの在るべき場所へ行きなさい。ここは、駄目だ。 言葉はない。唇を開いても、声さえ出ない。 唇から出てくるのは嘘の羅列。そこに、ギー自身の言葉はひとつもない。そこに、ギー自身の感情はひとつもない。 僕の近くに誰かがいれば。またいつか、それは失われるのだろう。 ──だから。──さよならなんだ、キーア。 ……なぜ……? ……ギーは嫌い?……キーアのことが、嫌い? いいや。 ──好きだと言ってと。──きみは、僕に言っていたね。 ──アティ。 嫌いではないよ。ただ、僕はここから離れない。 ──ここを、離れられない。──僕の前で死んだ無数の命が眠る場所。 すまない。きみには何もしてやれなかった。 …………どうして。ギー。 どうして。あなたはそんな風に泣くの。涙を、そんなに溢れさせて。 ……何?       ……涙……。     ……泣いている……。 ──誰が。この僕が、泣いている?──そんなはずはない。 涙はこの瞳に溜まることがない。アティを失った時でさえ、涙はなかった。感情が理性を覆い隠して、心が震えても。 涙は枯れ果てたはずだ。下層に生きていた多くの人と同じように、この都市の10年間のうちにそうなった。 きみと出会ったあの時に、流れた。あれが最後の涙。 ──だから。──涙はもう流れはしない。 ──わからない。──なぜ。 ──わからない。──なぜ。きみは、僕にそう言うのか。 ──なぜ。きみは、ここから離れないのか。──なぜ。きみは、僕を見つめ続けるのか。 少女の手を取って。ギーは、もう一度だけ静かに告げる。 泣いてはいないよ。大丈夫。 嘘は、わかるの。 初めて会った日に……。あたしは、キーアはあなたの涙を見たの。わかるの。また、あなたが……。 泣いてる……。 何が、悲しいの。 何が、怖いの。 ……ギー。 ……泣いては、いないよ。キーア。僕は、涙を……。 嘘は……わかるの。あなたは、知っているはずなのに。 隠さないで。ギー。 涙など流れていないのに。この少女は、何を言っているのだろう。 けれど、少女の言葉は優しくて。反論のために動いた唇を止めてしまう。 ……無言で手を伸ばす。……己の頬に。 そっと頬に触れてみる。濡れた感触。雨は、部屋までは届かない。ひどく冷たい雫が、指先にまとわりつく。 ……雨ではない。 ……窓硝子を打つ雨は部屋には届かない。……ならば、これは。 ……ああ。……そうか、これは。僕の。 それが涙なのだとわかるまで、3秒。少女から視線を逸らしたまま。 涙を流して。 ……これは、僕の涙か。……僕は。 ……いつも、そう。 いつも、誰かのためだけに。あなたは泣くの。 ……この前も、アティのために。あなたは泣いていた。 僕は……。 ──誰ひとりも。──この手で助けることができず。 ──アティさえをも失って。──僕は。 ──僕は。──涙を、こんなにも溢れさせて。 ……あ……。ああ……そうか……。 ……ああ……僕は……。僕は……そうか、こんなに、まだ……。 ……涙を……。 ……流すことが、できる……。 ──長い月日を僕は。──ずっと、気付かずに生きてきたのか。 ──僕はようやく理解する。──これこそが“耐えきれない現在”だ。──これこそが、僕の失ってきたものだ。 ──溢れたものが涙となる。──だから、僕は、泣いているのか。 ──いつも。──いつも、誰もがそうしてきた。 ──誰もが。──涙を、こんなにも溢れさせて。      「泣いて、ギー」    「あたしが、見ているから」 ──その声は。──あまりに優しく耳に届いて。 ──僕は、嗚咽していた。        「ギー」        「泣いて」   「もっと、泣いて、いいから」 ──涙を流すあなたを。──あたしは、両腕で強く抱き締める。 この両手では届かないほど広い背中。ひどく震えていて。 あたしは頬を彼の髪に押し当てて、頭を胸にかき抱く。 薄い胸で、彼を抱き留める。鼓動を伝えるの。 いつか誰かがあなたにしたはずのこと。愛する誰かがあなたにしたはずのこと。今だけは、キーアが。 ──そう。──今だけ、こうしているから。 ──泣いていいの。──枯れ果てたとあなたが思った時から。──ずっと、ずっと、溜めていたそれを。 僕は……。何もできない……。 殺しはしないと決めたのに……。それだけを、守って……。 ここで、10年を……。生きてきた、はずなのに……。 殺した……。僕は、もう、数え切れないほど……。 それに気付かなかった、だけだ……。……僕は……。 いつも……誰かの、命を……。この手に、かけて……。 うん。 聞いているよ。大丈夫。あなたの言葉ぜんぶ、あたしは聞くの。 あなたの姿をぜんぶ、見てきたように。言葉を聞かせて。 自己満足をしていただけだ、僕は。……誰かの、命で。 あの少年を、殺して、初めて……。僕は……。 自覚した……。僕自身の、浅はかさと……。 これは、僕の、エゴだ……。 ……ううん。 ギー。大丈夫……。 あたしはあなたを見ている。だから、大丈夫。 そんなことない。あなたのことを、誰も責めたりしない。ギーは、誰も殺してなんていないもの。 ──知っているの。──あたしは、何もかもすべてを。 きみは……知らない……。僕の、過ちの、多さと……。 醜さを……。 ……ううん。わかるよ。あなたのことを、見てきたから。 ずっと。ずっと、あなたは泣いていた。 誰かを、救いたいって。いつも叫んで。 だから……そんなこと、言わないで。あたしは嬉しいの。 あなたは、何も……。変わっていないから……。 ……ギー。 何があっても。何が起きても。あたしは、あなたを、ずっと見てるの。 ……ギー。あたしを助けてくれたひと。 涙を浮かべてその手を差し伸べた。あなただけが。 暗闇に閉ざされていたあたしを。あなただけが。 あたしはあなたを抱き締める。いつか、あなたがそうしてくれたように。いつか、冷めた体を暖めてくれたように。 あなたの髪を手で撫でる。あなたの額に、ほんの少しキスをして。 ──優しく、囁く。 ……好き。あたしを助けてくれた、あなた。 魔法使いのお医者さま。素敵なギー。 ……好きよ。ギー。 ──きっと誰かがあなたに言ったこと。──今だけ、あたしも。 不親切なようだけど、本当はとっても優しいところ。 毎日、毎日、誰かへ手を差し伸べて。眠ることも忘れるくらい。食べることも忘れるくらい。 あなたの、優しい目。ぼさぼさの髪の毛も。子供たちと話している時のあなたも。 ……誰かのために泣くあなたも。 ぜんぶ好き。きっと、みんなもそう。 ……だから。ね。何も、怖がることなんて、ないの。 ……僕が……恐れているもの……。それは……。 それは……。 ──それは、あなた自身。──差し伸べた手の無力さを想うあなた。 ……ギー。あたしの、心臓の音。聞いて。 ……ほら。聞こえる。こんなに、あなたのことが好き。 ──あなたの手を握って。──あたしは、そっと、横たわる。 あなたのことを抱き締めたまま。涙を止めないあなたを、あたしは、撫でて。 そっと横たわって。あなたの胸に、あたしの手が触れる。あたしの胸に、あなたの手が触れる。 ──ね。聞いて。──これがあたしの心。 ──触れることは、怖いことじゃない。──きっとそう。 ──その冷たい体は拒絶のためじゃない。──温もりを求めてるせい。 だから、あたしに触れて。そうするあなたの瞳を見せて。 ……わかるよね、ギー……。あたしの心臓。あなたを想うとこんなに強く……。 ……ね。ギー。 あなたの瞳があたしを見ている。キーアのことを。 ……ごめんなさい。こんなあたしで。……あなたの全身を抱き締めたいのに。 ……あたしはアティにはなれない。……あなたの体を、抱き締められない。 ──こうして見つめ返すことしか。──できなくて。 あたしはいいの。あなたを見ていられれば、それでいい。悲しいのは、広い背中に回せない腕だけ。 あたしはいいの。言葉を聞いて、あなたの瞳を見るだけで。 あたしは── 知りたいだけ── あなたが、なぜそうするのかを。あなたが、なぜ手を差し伸べるのかを。 泣いてもいいの。でも、あなたは忘れないでいて。 あなたのことを好きな誰かは、きっとどこかにいて、こんな風に……。 ……あなたを想っているから。 ……ギー。大好きなギー。 信じて、お願い。あなたは誰かに愛されているって。 ──あたしは笑顔を浮かべる。 元気づけようと思って、いつもあなたに向かって浮かべている表情。でも、今は、少し困った笑顔かも知れない。 あなたの瞳から。涙は、まだ止まっていない。 あたしの頬へと落ちてくる。あなたの心。 ──もっと泣いていいよ。──あたしはずっと見つめているから。 ──いつだって笑顔を浮かべて。──あなたを見るから。 ……キーア……。 ──あなたの瞳があたしを見ている。──キーアのことを。 こぼれ落ちる涙は止まらずに、あたしの頬へ、胸へ、ぽつぽつと落ちて。 意を決してあたしは両腕を伸ばす。ちゃんと回らないのはわかっているけれど、あなたの全身を、包むように、抱き締めて。 細い体を押し当てる。あなたの、冷え切ってしまった体に。 ……ここにいるよ。あたしはここ。ほら……ね。 ……大丈夫……。涙ぜんぶ、あたしに落として。 ──ぎゅっと抱き締める。──もっと、もっと、あなたを強く。 なんの力のないこんな腕でも、あなたを強く強く抱くことぐらい、できる。流れる涙を受け止めることぐらい、できる。 ……できるよ。……だから、涙をもっと流して。 ──思い切り力を込めて。──強く。 あなたを強く強く抱き締める。思い切りこうしても、力を込めていても、あなたのどこにも痛みはないと思うから。 だから思い切り。あなたを、あたしは強く抱き締める。 あなたの体を包みたい。あなたを愛する誰かがそうするように。 ……ギー……。大好き、ぜんぶ、好き……。 ……もっと、早く。こうしてあげれば、良かったね……。 ……あなたが……。 あなたがわかる。こんなにも震えて、涙を流して。 見ている時よりも、もっともっと、あなたのことがわかる。 ……あなたが誰かの手を嫌うのは。……誰にも触れられたくないのは。きっとそのせい。 温もりを、あなたは欲しがらないね。暖かさを、あなたは否定して。 だから。こんなに。 あなたの体は冷え切って。心と一緒に、凍えてしまいそうになる。 ……だいじょうぶ。ギー。何も、心配いらない……。 決してあなたはひとりではなかったし、決してあなたはひとりではないのだから。 知っているの。見てきたから。いつも、誰かがあなたを愛している。 あなたが思うよりも。この都市も、この世界も、暖かいよ。 ──知っているの。 ──あたしは。すべてを見てるから。 ──いつの間にか閉じていた瞼を。──あたしは、開いて。 ──あなたを、見つめる。──たくさんの雫で濡れたのあなたの瞳を。 ──あたしを、見つめる。──何かを常に叫ぼうとするあなたの瞳が。 ……ギー。 ……キーア……。僕は……どこで、間違えた……。 間違えていないよ。ギー、あなたはずっとあなたのまま。 その涙が。あなたが、あなたのままである証。 けれど……僕は……。あの子を……。 たったひとりさえ……。この手で……救えずに……。 ………………。 あなたは唇を動かして。何かを、あたしに言ったのだと思う。 ……うん。そうだよ。       「────」 あたしも、ギーも、誰かの名を呼んだ。それが誰の名だったのか、わかるひとは誰もいない。 声を発したあなたも、あたしも。お互いの言葉は聞こえなかったと思う。       ──だって──     ──知らないから──      ──あたしは──    ──あなたの、本当の──       ──名前── ──そして。──あなたの最後の涙が、落ちて。 ──あたしは、あなたのその唇に。──涙混じりのキスをする。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 今こそ、今こそ、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。       カチカチカチカチ。 秒針が動く。それは決して止まることがない。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。狂ったように秒針を回転させる懐中時計。 ……時間だ。……おめでとう、ギー。 ……お前も駄目だったようだ。……お前だけはと思っていたのだが。 ……大公爵。あなたの負けだ。 ……レムル。あなたの負けだ。 秒針が動く。凄まじい勢いで、狂ったように、逆回転を。巻き戻すものは何かを、男は今も知らない。 ……時間だ。……ケルカン、お前の勝ちかも知れない。 お前のその冷ややかな手が掴み取るすべて。あらゆるもの。 それが命だ。ケルカン。 ……残念だが時間だ、ギー。 ──暗闇の中で夢を見る。 ──夢など、この10年間。──見たことなどないはずだったのに。 ──涙を。流したせいだろうか。──キーアに抱かれて、際限なく、涙を。 暗闇の中でギーは自覚する。これが夢であること。ぼやけた意識だけが闇を漂うこれは、夢。 ギーは拡散する意識の中で思う。今日、開放されたというインガノックを。 ──都市は開放された。──ならば、なぜ«復活»は訪れたのか。 ──誰もが。──理由を探すことをしなかった。 ──変異し異形と化した都市。──時に美しいそれはひどく残酷で。 ──それが厳然と在る現実であるからこそ。──理由は無意味だった。 けれど。都市は開放されたと放送は言った。なれば、その原因はあるはずだ。 クリッターの駆逐。                 違う。 無限の霧の消滅。                 違う。 上層による開放計画。                 違う。 時計の男の言葉は確かに記録されている。現象数式実験は«復活»の前にあったと。それが、真実であるなら。 理由があるはずだ。インガノックという都市が選ばれた理由。異形の地獄が、ここに存在していた理由。 ──理由は、あるはずだ。──無数の涙を溢れさせたことの理由が。 ──そしてそれを行った者が誰であるのか。──現象数式実験。 ──それが«復活»を引き起こした?──あり得ない現象を生み出す“魔法”が? ──誰だ。──どんな理由で、誰が、こうした。 大公爵アステア。                 違う。 彼は死んだ。死んでいた。あの劇場でギーがその名を呼ぶずっと前に、大公爵アステアという名の男は死んでいた。     『彼は、哀れな道化』   『4人の«奪われた者»のひとり』     『ペトロヴナも、そう』    『レムル・レムルも、そう』    『ただひとりを除いては』   『傀儡の身に、彼らは甘んじた』 暗闇であるはずの視界の端で何かが囁く。ならば誰であるのか。 望んだのは誰だ。誰が大公爵を操ったのか。この声は、誰だ。僕は、知っているはずだ。囁きかける声。 拡散する意識は聞き慣れた声と記憶とを繋ぎ合わせることをしない。わからない。誰だ。 ──誰が。こうした。 ──僕を。 ──皆を。 ──キーア?  『やっと気が付いたのか。馬鹿な男』 声が聞こえる。たった今まで聞こえていたものとは別の、それは、この手で消してしまった少年の。 ──きみは。死んだはずだ。 ──僕がこの手で。──きみを、殺したはずだ。      『僕を、殺した?』 『僕は«都市»の申し子なんだよ。 僕には死もなければ生だって、ない』 『それより、時間切れだよ。  きみたちがぐずぐずしているから』 ──時間切れ。──何が。 『きみたちのせいできみたちは死ぬ。 もう、大公爵も僕もいない』     『止める者はいない』 『残念だよ。 きみも死んでしまうんだからね。 きみの悔しがる顔を見たかった』      『でも、これで』   『キーアは僕のものだ。   お前なんかに、渡さない……』 ──そして。 そして。そして。 そして。開放が約束された翌朝の日の出の直前に。 朝を告げる歪んだ小鳥たちの囀りが消えた。飛び立つ無数の彼らの姿を誰も見なかった。ただ、囀りは消えた。 あらゆる音が消えていた。夜も朝もなく稼働を続ける機関工場の音も、無限雑踏街の喧噪も開放の喜びの声さえも。       ──消えた──       ──音が── すべてが消えた。その時が来た瞬間に、忽然と。 沈黙の時は一秒、それとも二秒。誰も知る者はいなかったけれど、時は来た。誰も止めることはできず、その意思もなく。 ──時が来た。 ──約束された時か。──誰が、誰に対して、どんな約束をした? ──誰も。 ──誰もいない。約束した者はいない。──だからその時は訪れる。 それこそが«美しいもの»なのだと、大公爵が存在していたとすれば言うだろう。誰もが忘れ、誰もが罪を犯した命のかたち。 それは復讐か。それとも。 その時、それを知る者はいなかった。かたちを保ってそれを知る人はひとりだけ。けれど。彼女は、その時、眠っていたから。 止める者はいない。歪んでしまったケルカンの願いだけが残る。 ──その時。──都市インガノックは揺れた。    都市インガノックが変わる   かつての«復活»と同じように     無数の声を呑み込んで     無数の涙を呑み込んで   それは都市の第2の産声であって   希望に満ちた終焉の始まりだった ──都市が歪む。──インガノックが異形と化していく。 それは確かに«異形都市»の終焉だった。都市のあらゆるものを素材として、都市のあらゆる悲鳴を呑み込んで。 破壊が。始まってしまう。 何もかもが崩れ去って、誰も見たことのない“もの”へと変わる。 異形はやがてひとつの“かたち”を成す。手足は細く、腕は奇妙なほど長く垂れて。都市はいびつな人型へと変わる。 それは新たなこの都市の“かたち”か。住まう人々と存在する物質すべてを己の体の一部へと変えながら、空を見上げて。 ──大きく。──口を開けて。 ──まるで、そう。──ギーの背後の“彼”のように。      『…………………』 響き渡る震動。生まれ出る赤子が、誕生の喜びに身を震わせるように。それは叫ぶ。産声を。 都市は、今、まさしく。生まれ出ようとしている。 崩壊は止まらない。変異は止まらない。都市に住まう、すべての人々を包んで。 インガノックのすべての矛盾を内包した、最後の“かたち”がそこには在って。      『…………………』 ──足りない“部分”を求めて激しく蠢く。──赤子が乳をねだるように。 ──41体のクリッターと。──41体の«奇械»とを求めて。 ──それらがあれば“外”へ出られる。──そう叫ぶかのよう。 都市は這い出ようとしている。広い“外”へ生まれ出て、光を求めるべく。人々の“外”への焦がれを体現するように。 光を。生まれるはずだった41の子らに。 眩く輝く赫炎の光をと。求めて。 何の音も聞こえない。轟音が認識できない。あまりに巨大な音はすべての音を呑み込み、無音の破壊をもたらす。 崩壊はアパルトメントを一瞬で呑み込んだ。押し寄せる無数の瓦礫群を即座に認識して、ギーはキーアの手を掴んだ。 背後の“彼”へと声なき言葉をかけて、無数に迫り来る瓦礫と破片とを払いのける。状況が、把握できない。爆弾の爆発か、と。 現象数式による破壊ではない。クリッターでもない。あの気配は一切ない。 ただの破壊の暴風だけがそこには在った。アパルトメントの壁は溶けるように崩れ、足場さえも揺らぐ。 この揺れは知っている。層の基盤が軋み、崩落を始めかけている。 ……キーア! ──状況は把握しきれない。──安全な場所は、どこかに、あるのか。 ギーは少女の手を強く握る。体を抱き寄せる。 ……安全な場所を探す、外へ……! 言葉は最後まで出ない。出なかった。 ──噴き出す鮮血は赤色。──刃の感覚。胸の中央に刃が突き刺さる。 「…………!!」 少女の声は無音の世界では届かない。自分の名を呼ぶ、その声。 ──視界が暗転する。──衝撃と血液の急激な減少が暗闇を招く。 ──痛覚をギーは理解する。──胸の中央を、黒色の刃が貫いていた。 ──少女の手を離してしまう。──衝撃を受けた自分の手が感覚を失う。 ……キーア……。 ──自動的に脳内器官が起動する。──現象数式が、破損した心臓を修復する。 筋肉組織を血液に置換する。急激な疲弊感を意識せずにギーは視る。暗がりに呑み込まれかけた視界が蘇る。 ギーは視た。瞼の先に在るもの。 決して幻ではない。それは、確かに崩壊の中の現実だった。 ──ああ。──視界の中央に道化師の姿が見える。 視覚情報を認識しているはずだった。それをギーは疑う。それはあり得ない。 全壊したアパルトメントの中にある黒い影。それは«奇械»でも、人間でも、なかった。黒色の道化師。 右目の薔薇が何よりの証。それは、10年間、ギーの視界の端にいた。それは、決して現実ではないはずの幻影だ。 狂気の証。都市の中にあって自分が狂っているのだと、ギー自身に自覚させていた、狂った道化師。 彼は踊っていた。片腕の中に、キーアの体を抱えて。 ひときわ高い場所にある瓦礫に立って、道化師はキーアを捕らえ、小さな顎を掴み、滑らかに体を踊らせる。 ──激しい崩壊の続く中で。──道化師だけが、その影響を受けずに。 ……お前は……何、だ……? 馬鹿な……。馬鹿な……。そんなことが、あるはずが……。 キーアを……離せ……。その手を……その子から、離せ……。 お前は……僕の……俺の……。 僕の、幻……幻で、あるはずだ……。道化師……! ──そう叫んでも。──起動した“右目”は現実を告げる。 背後の“彼”は動こうとしない。ギーと同じ視線を黒色の道化師へと送って、怯えるように、背後から姿を見せなかった。 その手を離せ、道化師!幻が……キーアを、捕らえるわけが……! ──そう叫んでも。──その道化師はキーアの顎を掴んでいる。 少女の反応はない。力なく、道化師の腕の中でうなだれて──    『さあ、終焉の始まりだ』   『きみは、ここで終わるかな』 それは言葉。耳へと届く声ではない。 崩壊のもたらす無音の世界の中に在って、道化師の言葉は確かにギーへと届いている。嘲笑するかのような、慈しむかのような声。   『きみは、ここで朽ちるかな』       『それとも?』 ……その手を、離せ……!       『上で待つ』 ──上とは。──どこだ。 ギーが言葉をかけるよりも前に姿がぶれる。道化師は姿を消し始めていた。確かにそこに在るというのに。 視界の中に確かに存在している。それでも、うっすらとその映像がぼやけて。視覚情報は混乱を伝えて、吐き気を覚える。 傾いだ視線が瓦礫に留まる。駄目だ。駄目だ。 奴は、幻であるはずの奴はどこへ行くのか。キーアを捕らえたままで、どこへ行くのか。視なくてはいけない。 ──しかし。──ギーの視線は、動かなかった。 瓦礫から目が離せない。意識の中にあるのは混乱とキーアのこと。彼女を、あの何者かから、助けなくては。 崩壊から守らなくてはいけない。あの、あり得るはずのない幻から助ける。混乱している暇など、どこにもないのに。 ──それでも。──瓦礫へとギーの視線は吸い込まれる。 ……あ、ぁ……あ……。 ザッ、と過去の風景が記憶を過ぎる。 ……キーア……? ──声は届かない。 誰の声も届かない。すべてが取り込まれ、呑み込まれていく。 すべてが終わる。すべてが始まる。 ──希望があるとすれば。──それは、たったひとつだけ。 ──それは。──差し伸べられる、誰かの── ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 誰の声も届かない地下の奥深く。都市の下層のさらに下のそのまた真下。ランドルフは、今夜も穴を掘っている。 時に、姿の見えない誰かと話しながら。地下の狂人、穴を掘る。 今は、そんな彼らと話をすることもなく。地下の狂人、穴を掘る。 都市がうねりと共に歪んで崩壊していても。地下の狂人、穴を掘る。 ごりごり、ごりごり、ごりごり。 どさどさ、どさどさ、どさどさ。 ……ひどい揺れだ。 黒の根源がこの先には見当たらないようだ。これでは、掘り進めていっても無駄、だな。すべては徒労だ。 目に見えるもののすべては真実でしかない。目に見えることのない現実のすべてなどは、ただの障害でしかない。私には。 けれど、人は現実に生きるのだ。如何なる幻があらゆるものを否定して、黒色の“彼”が何を口にしようともだ。 ……お前はわかっているはずだ。 ……最初からすべてわかっていたはずだ。 ……ギー。 ……私以外の誰も。……この都市に、狂人などいないのだ。 崩れていく。崩れていく。 木々が、葉が、土が、水が。あらゆるものが崩れる。 崩壊していく上層公園の姿。その中央部に突き立った巨大階段を駆ける。崩落する層基部の瓦礫の中を走る影がある。 誰だ。そうする影は、誰だ。 ──改造外套を真紅に染め上げて走る影。──瓦礫の雨の中を駆け上がる。 ──影は、ギーだった。 口から真紅の塊を吐き出しながら、損傷した心臓の傷口を何度も広げながら、同時に再生させながら。走るひとつの影。 医療特化したギーの現象数式を用いてなお、道化師から伸びた黒い刃のもたらす傷口は完治はしていなかった。 無理矢理の全身駆動に心臓が悲鳴を上げる。思考が千切れ飛びそうになる。激しい痛み、呼吸困難と目眩。 現実が正確に認識できない。リアルタイムで肉体を置換修復させても、痛みが、苦しさが、視界の揺らぎが残る。 見えているもののすべての現実感がない。崩壊する都市。崩壊していく緑。 子供たちは、友人たちは、この崩壊の中で果たして生きてるのか。いないのか。潰れたモノレールが視界の端にある。 建築物や緑や人を取り込み始めたこの都市は、果たして“何”であるのか。 取り込まれた人々は、生きているのか。それとも。 (……くそ、何だ……) (……この吐き気、と……) (……戦慄……) 根源的な恐怖がギーの胸を締めつけている。恐い。恐い。嫌だ。嫌だ。助けて。視覚情報のすべてが恐怖を呼び起こさせる。 これは違う。自身の感覚ではない、とギーは思う。 圧倒的なまでの恐怖だけに塗り潰される、この感覚。こんなものなど知らない。クリッターのもたらす恐慌とは違う。 恐怖だけがある。今ここにあるすべてのものが嫌だ、と。 ──これは。──誰かの感覚だ、自分以外の。 けれど、意識が削られる。思考が働かない。生身でクリッター・ボイスに晒された際の、理性の叫びが頭の中に響き渡る。 クリッターのもたらす恐怖。そう、ひどく似ている。 削り取られそうな意識でギーは考えている。クリッターが呼び覚ます恐怖の、その理由。あれは人の根源的な恐怖。 人の。自分のものではない。誰かのだ。 圧倒的なまでの痛みと死と苦しみへの恐怖。根源的な、自己の生命を失うことへの恐怖。誰かがかつて感じたもの。 誰だ。誰が感じたものだ。思考がぼやける。 ──理性が叫ぶ。──それ以上を考えてはいけないと。 ──理性が叫ぶ。──それ以上を駆け上がってはいけないと。 ──僕は、何をしている。──ギー。幻などを追って何があるのか。 ……あそこには、キーアがいる。 僕の、幻だとしても。助け出す。 真紅を溢れさせる唇でそう囁いて。恐怖のただ中を駆け上がる。 上層へと続く巨大階段を飛び越えていく。背後の“彼”のもたらす反射神経だけが、損傷したギーの体を稼働させる。 致命傷を与えうる瓦礫だけを回避し、無数の破片をその身に受けて。 ──無数の真紅の尾を全身からなびかせて。──ギーは走る。 「随分と無理をするじゃねえか」 「見ているこっちが痛くなりそうだ。 止まれ、ドクター」 ──声。 ──見上げた先には、黒衣に身を包んだ男。──荘厳な気配を湛えた闇色巨人を伴って。 この俺とこの鎌を呼び寄せたのはお前だ。インガノックに在る限り、誰にも幸福など訪れない。 今こそ──«安らかなる死の吐息»に抱かれよ。 願いは聞き入れられる。お前は、都市から解放されるだろう。   「──安らかなる死によって」 ──声の主はケルカン。──言葉は、音ではない何かが伝えてくる。 ──黒衣の男。──そして、その背後に佇む闇色の巨人は。 ──ぬるり、と動いて。──ギーの視界いっぱいに広がって遮る。 『GOOOOOO…』 ──声は嘆きのようにも聞こえた。──崩落のもたらす無音の中にあってさえ。 ぽっかりと空いた眼窩は以前のものと同じ。クセルクセスの名を有していた頃と、同じ。体躯は一回り巨大だった。 闇色であるのは確かだった。けれど、今は、顔だけでない部分が白色。 ケルカンの«奇械»クセルクセスにも似て、あの少年の«奇械»ラウダトレスにも似て。闇色と白色の巨人。 人間に似た姿をしているが、人間ではない。 いびつに歪んだ人型だ。それは、この都市が現在とりつつある形。 ──人になろうとする何者か。──鳴き声と嘆きをもたらす、それは影。 ──人の背後に立つもの。──名は«奇械»。 ──都市唯一のおとぎ話。──人に«美しいもの»をもたらすもの。 ……よう、ドクター。暫く見ない間に男前になったじゃねえか。 俺の«奇械»もいい男になっただろう。お色直しをさせて貰ったんだ。俺は、勝利の塔の階段を昇りきった。 ──名前はトートだ。 ……醜いな。まるで、死そのものだ。 ハハッ、違いない。だが、そいつはあんまりな物言いだぜ? こいつが何かわかるか?こいつが何かを知ってお前はそう言うのか? こいつが何故ここにある?なぜ、トートや、ポルシオンがいるのか。なぜ、都市にこいつらと俺たちがいるか。 さあ、な……。 返答する唇から塊が溢れて落ちる。心臓の傷は、今も、ギーの命を蝕んでいる。現象数式は、今も、ギーの内臓を修復する。 崩落する公園の緑と瓦礫との中に佇む影。ふたつの影、男と闇色巨人。彼らが幻ではないという確信が持てない。 ギーは視線を険しくする。会話している暇は、どこにもない。 10年前の続きだよ。俺たちは結局、間に合わなかった。 道化師が俺に教えてくれた。思い出したんだ、俺は。 誰も救えなかった。41人の子を見殺しにして、俺たちは、俺たちだけのことを考えて生きてきた。 これはそのツケさ。これは«奇械»トート。都市のすべてを終わらせる俺の願いだ。 ツケは払うもんだ。最後の最後に。 ……邪魔を、するな。 話を聞け。都市はもうここで終わるんだ。 連中はもう充分、甘い夢を見ただろう?希望って奴を連中は知った。 だからもう心残りはないんだよ。だから俺が殺す。 ……終わりにしようや、ドクター。お前の役目は終わりだ。この先には、助けられる誰かはいないぜ。 ……邪魔を……。 するな、ケルカン……。 いいか、安らかなる死だ。誰も、この崩壊の中で苦しみはしない。 静かに取り込まれていくだけだ。生きながらに死んでいくだけだ。何も変わらない。 この10年、お前がそうしてきたように。この10年、連中がそうしてきたように。生きながらに死ぬだけだ。 ……瞼を閉じろ。ギー。悪夢の10年は、ここで終わる。        終わる?        悪夢が? ……終わる……? そうだ。だから、お前はもうその手を伸ばすな。お前は、もう充分にやったさ。 一休みとしようや。終わりの時だ。41の願いは今こそ果たされる。 ……何もかも遅すぎたんだ。俺たちは。……誰ひとり、救うことは。 救うことは“できなかった”んだよ。ドクター・ギー。        救うことは       できなかった ……救うことは、できなかった……。 自分の言語野が把握しきれない。意識がぼやけ、声と言葉とが途切れていく。激痛は今もギーの全身を駆けめぐっている。 ケルカンの言葉を理解する。理解できない。この男は何を言っている。 ──僕は。──ただ、助けるだけだ。 ──たったひとりを、助けることが。 諦めろ。 お前の手は誰ひとりにも届かなかった。いいか、届かなかったんだ。あの日、あの時と何も変わりはしねえんだ。 ……今さら、何ができる?……お前に? ──お前の言葉通りだ。 『GOOOOOO…』 言葉の意味はわからない。それでもギーはひとつのことを思い出す。ああ、そうだ。10年前のあの日あの時。 瞼を閉ざす。視界に暗闇が充ちていく。 この手を伸ばした結果をケルカンは知る。それは、ギーの過去。 10年前の過去。誰かをこの手は助けられなかったのだ。 今まで忘れていたこと。都市のあらゆる人が覚えていなかったこと。 死への恐怖を叫ぶ41の彼らの声。それを耳にして、人は忘れることを選んだ。生まれることのなかった命の叫びを忘れて。 ──誰もが耐えられなかったから。──彼らの嘆きに。 (……だから、か) (……これは、罰か) あの子ひとりを助けられなかった僕への。これは罰なのか。  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師は、踊っていた。 その腕の中に。 ひとりの少女を抱えたままの姿で。 ……邪魔だ。 『GOOOOOO…』 ……せめてもの情けだ。お前は最低の屑野郎だったよ、ドクター。 『GOOOOOO…』 ──視界が暗転する。 ──何かの吐息を嗅いだかも知れない。 ケルカンの言葉の意味はわからない。それでもギーはひとつのことを思い出す。ああ、そうだ。10年前のあの日あの時。 瞼を閉ざす。視界に暗闇が充ちていく。 この手を伸ばした結果をケルカンは知る。それは、ギーの過去。 10年前の過去。誰かをこの手は助けられなかったのだ。 今まで忘れていたこと。都市のあらゆる人が覚えていなかったこと。 死への恐怖を叫ぶ41の彼らの声。それを耳にして、人は忘れることを選んだ。生まれることのなかった命の叫びを忘れて。 ──誰もが耐えられなかったから。──彼らの嘆きに。 (……だが、僕は) (……彼ら以外の、誰かを……) この手を差し伸べたはずのたったひとり。彼女すら……。 (助けられなかったのか……?) (僕は……たったひとりさえ……) (助けることも、できず……。 命を……10年、弄んで……なお……) (立ち止まれない……)  ───────────────────。     『こんにちは、ギー』       『さようなら』  ───────────────────。 暗闇の視界の端にいたはずの幻。道化師は、踊っていた。 その腕の中に。 ひとりの少女を抱えたままの姿で。 ──右手を伸ばす。 ケルカンへ、その背後に佇む闇色巨人へ。あるいは頂上で待つ少女へと。      ──鋼の右手が──      ──暗闇を裂く──    ──鋼の兜に包まれて──   ──鋭く輝く、光はふたつ── きみの言葉の、多くを……。僕は、理解できていないのだろう。 きみが知り得たことが何であるのかを、僕は……知らない。 けれど。 そこを通して貰う。絶対に。 静かに右手を前へと伸ばす。なぞるように、鋼の右手も前へと伸びた。 ──意思を伴って伸ばされる“右手”。──それは、ギーの“右手”。 その手は今や、尋常な人間の手ではない。真紅の鋼を纏った“右手”がそこに在る。背後の“彼”と同じ、刃の手。 金属の擦れる音。ギーの意思に、応じるように。 ──動く。そう、これは動くのだ。──自在に、ギーの思った通りに。 視界に広がる闇色の巨人を睨み付ける。男と同じに殺意に充ちた闇色の巨魁は、白と黒の体を震わせながら腕を広げていく。 鋼の腕を伸ばして“同じもの”を視ている。真紅に変じた鋼の“彼”が、闇色巨人トートを視ている。 数式を起動せずともギーには視えている。哀れぶった色を瞳に浮かべる男を無視し、ギーと“彼”は異様な影の“顔”を睨む。 ──右手を向ける。──ギー自身と“彼”のものである、手。 ──破壊の手とは違う。──けれど、ある種の実感がこの手にも。 背後の“彼”にできることが、何か。ギーと“彼”がすべきことは、何か。 ──この“手”で何を為すべきか。──わかる。これまでの時と同じように。 馬鹿野郎が!てめえは死ぬ寸前まで屑だったな!! 『GOOOOOO…!』 ──咆哮が、空間に亀裂を走らせる。 男の叫びに«奇械»が応じる。闇色巨人の口のない顔から放たれる言葉が安らかなる死をもたらすのが確かに視える。 ギーの“右目”は既に捉えている。トートの名へと変わった«奇械»のすべて。 それは命を破壊して、それはすべてを奪う。それは人間の“現在”を完全に否定する。痕跡の一切を残さない。 ただの死をもたらすのではない。それは“存在の完全な否定”を与えるのだ。 それは人間の存在したすべての痕跡を消す。それは決して苦しみを与えず、命だけ奪う。誰も、この吐息からは逃れられない。 ──10年前の«復活»の日のように。──あらゆるものが否定される。 ──誰ひとり。──吐息のもたらす安寧から逃れられない。 発せられる咆哮と吐息。矛先を向けられるのはギーと“彼”! ──死の吐息が周囲の空間へと充満する。──速い。目では追えない。 生身の体では避けきれまい。鋭い反射神経を備えた«奇械»使いや、神経改造を行った街路の騎士でさえも。 もしも第一の吐息を避けられたとしても、増殖する死の空間が対象を包み込むだろう。 しかし、生きている。ギーはまだ。 傷ひとつなく、立っている。闇色巨人の繰り出す吐息は虚空のみを汚す。 ちょこまかと……! てめえが都市を生きる人間である限り!すべて忘れ去った連中のひとりである限り、こいつを殺すことはできない!! ……遅い。 『GOOOOOO…!』 喚くな。 叫び声をあげた巨人を“右目”で睨む。空間が揺れる。軋む。 しかしただの声だ。死の吐息は再装填に時間を要するらしい。ギーの精神と肉体は、まだ消えていない。 真紅の鋼の“彼”がギーを守る。死にはしない。まだ。 睨む“右目”へ意識を傾ける。荒れ狂う黒影のすべてを“右目”が視る!   ──すべての«奇械»は不滅──     ──物理破壊は不可能──      ──トートの場合──     ──唯一の破壊方法は──    ──宿主との“緒”を切断── ……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう。 すべての物理効果の及ばない黒影の体。故に、確かに人間はこれを破壊できない。 唯一の破壊方法は“緒”の切断。故に、絶対に人間はこれを殺せない。 長く伸びて宿主の人間と繋がる“緒”も、確かに«奇械»の体を構成する一部分だ。けれど、けれど。 ──けれど。 けれど、どうやら。鋼の“彼”は人ではない。 ──“右目”が視ている。──“右手”と連動するかのように。 鋼のきみ。我が«奇械»ポルシオン。僕は、きみにこう言おう。 “光の如く、引き裂け”  ───────────────────! ──真紅の右手が疾って。──巨人から伸びた“緒”の切断を狙う! ──しかし。 遅ぇな。言葉を返すぜ、ギー。 『GOOOOOO…!』 闇色巨人が再び咆哮する。それは“緒”を切断すべく迫る真紅の手を震わせた。無数の震動が鋼を歪ませ、砕く。 右手が完全に砕かれる。そのまま、鋼の“彼”の体は引き裂かれる。崩壊する。都市のように、全身が崩れ去る。 ……ポルシオン! ハハッ!!形勢逆転だな、ドクター! 安らかなる死の吐息は«奇械»すらも砕く。触れた右手ごと打ち砕いて、死をもたらす。けれど。 けれど、再生を始めている。けれど、真紅の鋼はギーから離れていない。 ギーの影から繋がる“緒”が砕ける前に、鋼の“彼”は自らの体を切り離していた。故に、再生が始まる。 砕く条件は同じ。すなわち“緒”の切断か完全なる破壊か。 さすがはポルシオン。そいつは随分我慢強い子らしいな、ギー。なにせ、圧死の上に熱死させられたんだ。 だが遅い。再生前にお前を殺す。 ……二度は、ない。 台詞を返すぜ。 ──沈黙。──ギーは一切の言葉を返さなかった。 殺意の視線と赤く濡れた視線が交差する。それは一秒か、二秒か。それとも三秒だったか。 先に動いたのはケルカンだった。戦闘動作ではなく、唇だけを、動かして。 ……なあ、ギー。ドクター。俺たちはこの10年、よく苦しんだはずだ。 大勢が死んだ。最初に死んだ41人の“生まれなかった”こいつらを、誰ひとり助けられなかった。 だから、もう終わりだ。 10年与えられても、俺たちは誰ひとり、こいつらを思い出さなかった。 あの«復活»の瞬間の前後を、俺たちは誰ひとりだって覚えちゃいない。恐怖と共に、すべてを忘れちまったんだ。 ……この、俺でさえも。俺の中にさえ断片と感情しかなかった。 なあ。随分と、冷たいもんだよ。俺たちは。人間は。だから。 終わることがせめてもの救いだ。償いだ。地上から、都市は消え去る。全員死ぬんだ。死ぬことで、俺たちは、償って、救われる。 それで初めて。あいつに、顔向けできるんだ。      ──あいつとは──       ──誰だ── ──ギーは唇を開いていた。──戦闘行動ではなく、黒い男と同じく。 ……お前と。 お前とよく似た男に、会ったことがある。あれは……そうだな、10年前だったか。 記憶の断片だけがあるのだ。過去を完全に再生できない。口にできることなど、何もないはずなのに。 ギーに把握できない過去を語るケルカンへ、静かに語りかける。それは、記憶ではない。この手に残ったただひとつ。 ──願いだ。──ギーの手に、今も残されたもの。 ほう? けれど、僕は……。同じことをきみに言おう。 言ってみろよ。 ──諦めるな。絶対に。 諦めるな。僕は、僕が僕であるのなら、言ったはずだ。 ……変わらないな。10年前のままだ。だがお前は思い出せちゃいまい? ……ああ。 じゃあ無効だな!イイ線行ってたぜ、研修医さんよォ!! 『GOOOOOO…!』 闇色巨人が再び咆哮する。それは周囲の空間数百フィートを巻き込み、すべてを埋め尽くす。物体の、何もかもを。 咆哮は空間を震わせる。真紅の鋼を引き裂いた時と同じように。 震えた空間は、光となって。眩い白色が。 ──空間に白色が充ちる。──光が弾ける。 ──闇色巨人の純白の翼が飛散して。──真紅が輝く。 ──10年前の記憶。──それはひどく断片化されていて。 ──けれど。──光が視界を灼き尽くす瞬間に視えた。 ──ギーは思い出す。 ──たったひとつ、あの日、あの時の記憶。──それは、黒衣の男の記憶かも知れない。 「もう駄目だ。駄目だ! こいつを死なせてやってくれ……!」 「俺の、妹を、死なせてやってくれ」 ──駄目だ。 ──諦めるな。 ──僕は、諦めない。 ──何度でも、幾年を経ても。──僕は。 ──そうだ。幾年の地獄を経ても。──たったひとりを求めて。 「……ようやく」 「ようやく思い出した顔だな、ドクター」 「それなら、負けても悔いはないぜ。 行けよ、階段を登り切れ」 「キーアが待ってる」 ……崩れていく。……崩れていく。 木々が、葉が、土が、水が。あらゆるものが崩れる。 崩壊していく上層公園の姿。歪みつつある視界の中で男は安堵する。美しいものが崩れるさまを見ずに済む。 美しいものだけを見たかった。今は、そう思う。暗闇がそうさせる。 暗闇が男の視界に満ちてくる。その時が近いのだと、知らせるように。 ──暗い。──何もかもが見えなくなっていく。 ──多量の失血が原因か。──体中から奪われる体温を自覚する。 きっと、妹もそうだったのだろう。見えないと言っていた。暗くて怖いと、何度も。 四肢の自由は既に利かない。見様見真似で現象数式を起動させても、男が脳に刻印した数式はすべて攻撃用。 修復などという器用な芸当はできない。外傷に、男は無力だった。 ……ざまあ、ねえな。 己の«奇械»との接続線たる“緒”は、数式医との戦闘の際に消し飛んでいる。制御不能という奴だ。 歪み続ける«奇械»を抑えるだけの意思は既に男の中に存在していない。敗北を認識した時、それは潰えて消えた。 変化していく«奇械»トート。接続箇所であった部分から肉体を浸食し、四肢を奪い取り、内臓を取り込んでいく。 この都市に起きている状況そのまま。男の身にも、同じことが。 ……これが、末路かよ……。俺の……。 ……なあ、おい。 お前が……見たがった、男の……。最期は……。 こんなもんだ……。 ……どうだ……満足か……? いいえ。はい。 ワタシは見ていました。アナタが刃を振るうさま、敗北するさま。 ──私は見ていた。──死を纏う影が真紅に打ち倒される姿。 ギーが去った後のあなたを見ていた。何かをひとつ諦めた表情を浮かべて、こうなるあなた。 猛り狂う黒い炎の如く感じたあなたが。今は、こんなにも弱々しく。 ──死がそこにある。──彼が求め続けたものが、そこに。 ──私の見たかったものは。──これか。 ──こんなものを、私は、見たかった?──こんなもののために。 アナタは、それで、満足なのですか。 ケルカン。そこで終わるのがあなたの望み。 ……さあな……。 ……俺は、知りたかった……。俺と……。 俺と、あいつの……どっちが……。正しかったのか……。 死なせてやれと、言った俺は……。いいや……。 間違っているとは、思わんさ……。俺の、運が……。 なかっ……た……だけ……。 ……ケルカン。 ──唐突に。──彼の言葉を聞きながら、私は。 私は理解する。人間の命に対する彼の認識を。 ……くそっ……。これで……俺は、終わりか……。 ……もっと……。救ってやる連中が……腐るほど……。 ……いるってのに、よ……。 ──耐えることができなかったのだ。──彼は。 命が朽ちていくさまを。目にすることが、耐えられないが故に。自らの手で、次から次へと刈り取って。 それは、ひどく臆病で。残酷で。醜くて。誰の倫理からも遠く離れて。 ──けれど、そうせざるを得なかった。──耐えられないが故に。 ──私は理解する。──あなたの感情と認識を、たった今。 ──耐えられない。──あなたが、そうして死にゆくこと。 ……ワタシの感覚機関は優秀です。ケルカン。 あなたの生体とそれを切り離します。アナタの生命維持活動を、ワタシは持続させられます。 ……馬鹿、野郎……。どう見ても、これは……。 手遅れって、奴、だぜ……。肺にまで……届いていやがる……。 はい。胸郭部の損傷率は30%以上です。 ワタシの内部機関と接続します。生命維持活動を、継続できるでしょう。 ……は……冗談……。てめえが……死ぬ……だけだ……。 いいえ。はい。可能性の問題です。 ワタシに蓄積されている動力は、アナタの生命維持活動を補助することで残時間は2時間となるでしょう。 ……死ぬ、だろうが……。てめえも、共倒れ、する、だけ……。 ……可能性の問題です。ケルカン。 外科手術が可能な状態を維持した医院に、辿り着くことができるかも知れない。数式医が、通りがかるかも知れない。 単純な可能性の問題だ。私は、それに望みを託すことにした。 ……やめろ……。俺は、ここで、終わる……。   「……死なせてくれよ。ルアハ」 いいえ。嫌です。 ワタシはアナタに死んで欲しくない。アナタが、誰であっても。 死に対してアナタが感じたものを。ワタシも、感じているのです。 ……だから。 ──だから。私は私の胸郭を開く。──死なせることを、私は、選択しない。 ──あの少女も。──きっと、同じことをするはずだ。 それを止める者はいない。崩壊は、都市の歪みを伴って延々と続く。 それは死をもたらす永遠の崩壊か。終わることのない震動と歪みと瓦礫の渦だ。 崩壊していく。崩壊していく。都市のあらゆるものはかたちを失っていき、もはや、声を放つものも動くものもいない。 確かにそれは男の告げた通り。終わりの姿だった。 けれど。動く影がひとつ。瓦礫の積み上がった階段状の塔を昇る。 緑の美しさを失った上層階段公園。その中央部に突き立った巨大階段を駆ける。崩落する層基部の瓦礫の中を走る影がある。 誰だ。そうする影は、誰だ。 ──改造外套を真紅に染め上げて走る影。──瓦礫の雨の中を駆け上がる。 ──影は、ひとりの巡回医だった。 口から真紅の塊を吐き出しながら、損傷した心臓の傷口を何度も広げながら、同時に再生させながら。ギーは、駆ける。 瓦礫で構成された巨大階段を昇りきり。上層さえ走り抜けていく。 そして、辿り着く。灰色の空の下で暗闇に閉ざされた黄金色。崩壊を始めつつある、支配者の待つ玉座。 ──黄金螺旋階段の麓へ。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。 時計の音。時計の音。 今こそ、今こそ、と、呼びかけ続ける。 カチカチ。        カチカチ。               カチカチ。                カチカチ。        カチカチ。カチカチ。       カチカチカチカチ。 秒針が動く。それは決して止まることがない。 それは白銀色の懐中時計。それはひとりの男が持っている懐中時計。狂ったように秒針を回転させる懐中時計。 男は、黄金階段の麓に現れた男を見ない。男は時計を見つめたまま、上を示す。男は時計を見つめたまま、動かずに。 クローム鋼の機械仕掛けの人形の如く、無機質な声で。 ……昇るがいい。……時間だ。お前は上へ行け。 ……時計が止まる、その前に。……お前はお前の目指す先へ行くがいい。 ……これより先はお前の時間。……二度目にして、本当のお前の時間だ。 喝采はない。喝采はない。 ただ、お前がそこを昇るだけだ。そして、それが、この都市の真実である。 ああ。昇るさ……そのつもりだよ。 お前の待っている者がそこにいる。それはお前の敵かも知れない。 ……では、僕はこの螺旋階段を昇ろう。僕には……。 ……敵など、いないよ。 ──ぽたり、と赤い雫が落ちていく。 ──歩みのひとつごとに。──黄金色の階段を小さな赤色が汚す。 ──昇る。──果てなく続く黄金螺旋階段を。 それは数式医。それは巡回医師。無数の崩壊の中を傷つきながら進む男。 崩れつつある黄金螺旋階段を昇る。一歩、一歩と踏みしめて。今も。今も。 頂上を目指して。いと高き場所に在るものを、目指して。 そして、頂上に在るものは笑うのだ。今も。今も。    『さあ。あきらめる時だ』 そこは黄金螺旋階段の果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。 旧き王も新たな王も消えたはずなのに。今も。今も。 その声は少年にも大公爵にも似ていたが、そのどちらでもなく、どちらでもあった。しかし支配者の響きはない。 たとえて言えば、すべてを嘲笑する響き。涙を流して笑いながら、心から焦がれて願う声。 ──たとえて言えば。──狂った道化師が何かを囁くような、声。       『数式医、ギー』  『力を得たつもりになっている哀れな男』   『既に、きみはあきらめているはずだ』       『……それ故に』  『……それ故に、きみは階段を昇りきる』 そうだ。 僕は、階段を昇りきる……。けれども……。 ……何ひとつ、諦めはしない……。     『ならば話は簡単だ』  『見せるがいい、きみの“願い”を』 『この都市に訪れた10年の意味。 きみがその手を赤色に染めてきた意味。 如何なる理由と願いとが、その根源か』 ……きみに見せるためじゃない。きみは、僕の幻だ。 そこに……いるなら。キーアが。 ……僕は、階段を昇りきろう。 ──黄金階段。──最後の一段を、今、昇りきる。 ──大公爵ではなかった。 ──少年王。──レムル・レムルでさえもなかった。 階段頂上に聳える暗闇玉座は既に崩れ去り、ただひとつの瓦礫だけが、そこには在った。王の姿はない。 王ではなかった。かつては玉座であった瓦礫の上に立つ姿。 決して幻ではない。それは、確かに少女を抱えた仮面の人影。 ──ああ。──視界の中央に道化師の姿が見える。 視覚情報をギーは正確に認識している。それを疑うことはない。これが、今ある現実だ。 半壊した螺旋階段の玉座跡で静かに踊る。それは«奇械»でも、人間でもなかった。黒色の道化師。 右目の薔薇が何よりの証。それは、10年間、ギーの視界の端にいた。それは、幻などではなく、確かに在る現実。 狂気の証と信じていたもの。都市の中にあって自分が狂っているのだと、ギーに信じさせてきた、囁きかける道化師。 彼は踊っている。片腕の中に、キーアの体を抱えて。 かつて大公爵と少年が座した瓦礫に立ち、道化師はキーアを捕らえ、小さな顎を掴み、滑らかに体を踊らせる。 ──崩れ落ちていく螺旋階段。──道化師だけは、その影響を受けずに。 彼はギーへと恭しく一礼する。優雅に、少女の体を少しも離すことなく。       『よく、来たね』 視界の端で踊る道化師……。きみの名を、僕は知らない。 ……きみは、幻のはずだった。僕だけの。 それが……。こうして、その場所にいて。 ……キーアを捕らえて離そうとしない。   『そうだね。でも、そうではない』  『すべてのひとに、私は、姿を見せる』       『子供たちも』        『大人も』        『きみも』       『ケルカンも』       『誰も彼も』    『全員が、私を見ていた』    『私は、きみたちの幻だ』  『そして、この都市も、私を夢見た』 ……そうか。 お前が、すべての源と言う訳だ。幻の道化師。      『そうだとすれば』     『きみは、どうする?』  『この娘もまた«奪われた者»のひとり』      『私のものだよ』     『きみは、どうする?』 そうだとすれば、納得することもある。わかったことも、ある。 ああそうかと、理解できたことも。ある……。     『ならば、どうする?』 ……こうするだけさ。      ──手を伸ばす──    ──背後の“彼”と共に──  ───────────────────!       『駄目、駄目』 ……ぐ……うぁッ……! 唇からこぼれ落ちる鮮血の塊は命の赤色。先ほどよりも激しく吐血する。衝撃と痛みも、何倍も、多い。 全身に黒い刃が突き立っている。道化師の体から無数に伸びた鋭い影── そのひとつひとつが«奇械»と同じもの、決して破壊することのできない影色の体。ギーは“右目”で視る。  ───────────────────!       『駄目、駄目』 視覚で認識しようとするギーを遮るように、次々と刃が肉体のあちこちへ埋め込まれる。刺し貫かれる。 四肢を貫かれる。手のひらを、肩を、脚を。内臓への損傷は器用なほどにするりと避け、ただ心臓だけを貫いて。 衝撃がギーの体を揺らす。駄目だ。このままでは。現象数式の修復速度を上げなくては── ──けれど。 ──暗がりが視界に落ちる。 あまりに多量の出血は置換による増血も間に合わない。視界が、歪み、暗転する。瞬間。 僕は── 暗転する視界の中で僕は把握する。全身の状態。損傷中の体。 全身の神経を寸断する激痛の中にあって、微かに意識が保たれている理由がわかる。キーアだ。 彼女がいる。だから。 まだ終わらない。何も、僕はできていないのだから。 ──僕は、この手を伸ばそう。──そうしなくてはならないと誰かが叫ぶ。 捕らえられたのであれば、助けなくては。傷ついたのだとしたら、すぐに、治そう。そう決めたのだ。 ──いつ、決めた。──ずっと前。 ──10年前のあの日、あの時に。 思わず口元に笑みが浮かんでいた。視界を塞がれていても表情は形作れている。道化師は、きっと驚いた仮面を被るだろう。 刃の正体を、僕は認識する。言葉を思い出す。 時計の男は言っていたんだ。現象数式実験は«復活»の前にあったと。 ならば今は仮定しよう。それに基づいて行動するのもいい。 現象数式実験がすべての発端であったなら。それが、あらゆる始まりであったのならば。これもまた現象でしかない。 幻想生物も。クリッターも。背後に立つ«奇械»たちさえも。 現象数式のみで構成されたそれらのものは、実在するが決してあり得ない、物理の法のすべてをくつがえすもの。 ……そうか……。 この大脳に記憶された現象数式の意味。今ここで、やっと。 幻か……。 僕は手を伸ばす。無数の刃に心臓が裂かれるのも構わずに。 幻など、僕の手を阻むことはできない。彼女が待っている。     『すべてのものは、儚く』  『想いの果てを、阻むことはできない』 ──瞬間。 ──道化師は泡のように弾けて消えて。 ──キーア。 あなたの体はひどく冷たいはずなのに。その時、感じたのは暖かさ。その時、見たのは優しい瞳。 無限に続くかのような崩落の中で。あなたの腕が、あたしの体を抱き留める。 さっきとはまるで逆。あべこべ。あなたを抱き締めていたはずのこの腕は、今は、あなたの広げた両腕の中にあって。 意識が目覚めていく。道化師が消えていくのと合わせるように。 眠っている間も聞こえていたよ。あなたの声。 あなたが諦めないことがわかったから。だから、まだ、あたしはこうしている。かたちを持って。 あなたの腕の中で。あなたの濡れた瞳を、見つめられる。 瞼を開こう。あなたの顔を見たいの。 道化師が閉ざしたあたしの瞼は。二度と、暗闇以外を映さないはずだった。 ──でも。──そこにあなたがいるから。 ──あたしは瞼を開けられる。 ──濡れた頬。ああ、ギー。──こぼれ落ちるその涙は誰のため。 ……ギー。 ……また、泣いてる。 ああ。 きみがそう言うなら。僕は、きっと泣いているね。 ……うん……。 きみが無事で良かった。さあ、ここを出よう。外へ。 優しいね。ギー……。 本当は冷たいはずのあなたの体。いつも儚く鼓動するあなたの心臓の音。 あの時、あたしを助けてくれたあなた。あの時、手を差し伸べてくれたあなた。優しいあなた。 あなたはもう知っているのに。道化師の言葉は、あなたに真実を伝えた。 なのに、そんなに優しいの。その腕であたしを暖かく包んでくれるの。 ──ああ。ギー。──あなたに決めて良かった。 ──優しいひと。──誰かのために、いつも、泣いて。 ──そんな、あなただから。──あたしはかたちを保つことができて。 ──見つめ続けていられた。──ねえ。ギー。 ……ギー。お願い。 あなたはすべての階段を昇ってしまった。だから、もう……。 これが最後……。 あたしは微笑む。とびきり穏やかな顔を作ろうと思って。 あなたの瞳に永遠に残るように。あたしが、できるだけ綺麗に映るように。あたしが、あなたの中に留まれるように。 ──微笑む。──これが最後だから。 でも。さっきと同じ。明るい笑顔だけを浮かべられない。 ──ああ。 ──視界の端で道化師が踊っている。 いつもは見ないようにしていた姿。道化師は、何故だか悲しさだけを運ぶから。 道化師グリム=グリムは視界の端で嗤う。誰かの幻へと戻り、大公爵の皮をかぶり、銀色の髪の少年の人形を片手で操りながら。 道化師は声をかける。あなたと。あたしに。      『さあ、ギー。キーア』  『きみの“願い”の果てへと至るがいい』 ──あたしの願い。──ずっとあなたを見つめ続けた理由。 ──あなたを見たかった。──ギー。 ──あなたがどんなひとなのかを。──知りたくて。 ──なぜ、あなたがそうするのかを。──知りたくて。 ──どうして。 ギーの背後に在る“彼”が動いている。唇を開こうとするあたしに、合わせて。そっくり同じに。 唇を開いて。あなたに問いかける。 同時に。あなたに問いかける。 ……見せて。ギー。      「見せて。ギー」 あなたの望んだものが、望むものが、何であるのか……。  「あなたの望んだものが、望むものが」      「何であるのか」 どうして、あなたはそうするのか。  「どうして、あなたはそうするのか」 不思議そうな顔をしないで。ギー。あなたは、もう、すべてわかってるのに。 あたしをこうして抱き締めてくれる。まるで、何も知らない子供みたいに。あなたは、もう、すべてわかってるのに。 こんなにも涙を流して。あたしのために、こんなにも傷ついて。 ──ごめんなさい。──誰よりもずるいあたしを、許して。 ──41人の彼らを裏切って。──あなたを見つめ続けた、あたしを。 ──貪欲さを抑えきれない、あたしを。 あなたが唇を開く。あたしは、すべてを聞き漏らすまいと、全身であなたの声と言葉を受け止める。 僕は……。 あなたは……。 ……きみを助けたかった。あの日、あの時から、今までずっと。 あたしを……。       ……あの日……       ……あの時…… 「……まだ息がある!」 「輸血用血液が不足してる。搬入まだか!」「別病棟からの救急患者20名入ります!」「助動装置が破損!」「患者が多すぎる!」 「妹なんだ! 助けてやってくれよ頼む!」 「この医院だけで何人被害が出ているんだ」「大規模事故」「崩落が起こったと報告が」「早くこいつを助けてくれよ、なあ先生!」 「医療スタッフの重傷者も多数」「駄目だ」「ここでは」「手が足りない」「緊急事態」「こんなに血が出てるじゃねえかよ、なあ」 「集中治療室の収容数を既に上回ってます」「上層階段公園が崩落」「工事計画に穴が」「輸血搬入きます!」「もう間に合わない」 「誰が生きて誰が死んでるのか報告しろ!」「死体だらけだ」「産科病棟が全滅してる」「41人」「多すぎる」「一体何があって」 ──これは過去。 ──あたしの記憶。──あなたの記憶。 過去の記憶。あなたが思い出せなかった記憶の破片。 悲鳴と絶望の呻き。諦める声さえあちこちで響いて。 これが10年前に起こった出来事のすべて。ここは大学付属上層階段病院の集中治療室。あたしが運ばれた場所。 瓦礫の中に挟まれて。死につつあったあたしが運ばれた。 あの時のあたしは見えていなかった。だからこれはあなたの記憶。 崩落事故に巻き込まれて運び込まれた少女。包帯。血。止まらない赤い色。そして、あなた。年若い研修医さん。 あたしのすぐ近くでたくさんの命が消えた。41名の母親の死。41名の胎児の死。 院長先生から新生児に贈られるはずだった、41体のゼンマイじかけの玩具。人形。猿。植木。ブリキ。 たくさんの白衣があたしの周囲にあって。けれど、何もかもが間に合わない。 差し伸べた手からこぼれていく、暖かな命。ちいさな命。生まれなかった、子供たちの。41の命。 そして、あたしの。キーアという名を持っていたあたしの。       「死なせない」 あたしに呼びかけてくれていた声。それはあなたの声。      「きみは絶対に」 ──聞こえていた。──手を差し伸べるあなたの声が。       「僕が助ける」 ──そう、あなたは言ったから。 ──こんなに多くの誰もが諦める中で。──こんなに多くの絶望が充ちる中で。──あなただけが。 ──だから、あたしは。 ──あなたに問うの。       「どうして」 ……どうして。ギー。 どうして、あなたは諦めなかったの。あたしに手を差し伸べて。 ……どうして、あなたはそうするの。涙を流すあなたは。 あの時のように無数に降り注ぐ瓦礫の中で。あたしは、あなたの頬へと手を差し伸べる。濡れている頬。 あなたの涙は止まらない。こうして拭っても、すぐに溢れて。 あたしを見つめる瞳はいつも。こんなにも溢れて、雫に充ちて。 聞かせて……。 あなたの抱擁から抜け出て。あたしは、あなたの頬へと手を差し伸べる。 あの日、あの時。あなたがあたしにしてくれたように。 どうして、ギー。 ……どうしてかな。 あの時のように無数に降り注ぐ瓦礫の中で。きみを見上げながら、僕は手を差し伸べる。濡れているきみの頬へ。 きみの涙は止まらない。こうして拭っても、すぐに溢れて。 僕を見つめる瞳はいつも。こんなにも溢れて、雫に充ちて。 泣いていたのは僕だけじゃない。きみも、そうだね。 きみは僕の前に佇んで。小さな手を、僕の頬へと差し伸べる。 あの日、あの時。僕がきみにそうしたのと同じに。 41人の、生まれなかった子供たち。82の瞳に見つめられながら。   『きみの“願い”は果たされた』       『幕引きだ』 崩落は激しさを増すけれど。僕たちの周囲は、ひどく静かに思えて。 都市の巨人は“かたち”を失うだろう。インガノックへと姿を戻しながら。 僕たちを瓦礫の生み出す暗闇に隠して。あの日、あの時。そうあるはずだった形のそのままに。 ずっと僕は。きみひとりを、助けられずに。 この10年をさまよって。力を得てなお願い、追い続けたのは。 ……きみを探していた。ずっと、きみと、言葉を交わしたかった。 僕は、きみを助けたかったんだ。キーア。 ──優しげに、寂しげに首を傾げて。──きみは微笑む。 ──嬉しくて、寂しくて涙を堪えて。──あたしは微笑む。 ……どうして? ──僕は首を振り、口を開く。──何かをきみに言う。 ──あなたは首を振り、口を開く。──何かをあたしに言う。 ──それは言葉になっているだろうか。──いいや、言葉にはなるまい。 ──それは言葉になりきらない唇の動き。──そう、言葉にはならない。 ──声にはならない。──それは、想いでしかないからだ。 ──声にはならない。──それは、願いでしかないから。 ……うん。うん。 あのね、あたし……。ううん、あたしたちは、ずっと……。 言いたかったの。ずっと、あなたに。あなたたちに。 ──恨んでなんかいないわ。──誰もが、誰のことをも。 ──憎んでなんかいないわ。──誰もが、誰のことをも。 ──誰も、苦しさなんて与えたくなかった。──誰も、誰かを傷つけようとしなかった。──誰ひとり。 ──あなたを見ていた。──あなたたちを、あたしたちは。 ──時に笑って、涙するあなたを。──あなたたちを。 ──ずっとずっと見つめながら。──言いたいことは、たったひとつだけ。 ありがとうって、言いたかった。あなたに。あなたたちに。 ありがとう。 ……ありがとう。ギー。  ───────────────────。     「ありがとう。ふたりとも」  ───────────────────。  ───────────────────。 そうして、ぼくは消えていく。抱き合うふたりの声と一緒になって。 瓦礫の中に消えるふたりと、一緒に。やがて誰にも見えなくなる。 ずっと言いたかったことを言えたから。ずっと伝えたかったことを伝えたから。ぼくはあなたの背後から消える。 消えていく。黒色の何もかもから解き放たれて。 さようなら、ギー。さようなら、キーア。 ぼくは消えていく。けれど。 その時、ぼくにも見えた。消えていくはずのぼくの“目”に映って。 光が見えたんだ。眩しい光。まるで炎みたいに赤い、赤い、輝くものを。  ───────────────────。 地震というものを男は思い出す。この10年間は存在しなかった自然現象。けれど、こんなにも激しかっただろうか。 下層のあちこちが崩れている。眼下に広がるのは瓦礫が生み出す噴煙。 どんな状態になっているのか見えない。大規模な惨事となったのか、それとも。 ──奇跡は、あるのか。──翼のない者は生きているのか。 抱えた3つの小さな人影を草むらに放る。男は、デビッドは息を荒げて。 ……ったく。疲れた。3人も抱えて飛ぶのは骨が折れるぜ。 生きている。小さな人影は子供たち。状況を掴めていない顔できょろきょろと、ここがどこかさえわかっていない表情で。 子供たち3人。あの巡回医師が面倒を見ていた餓鬼ども。この子らがデビッドの翼が届いたすべて。 まったくの偶然だった。子供たちが彼の視界の中に入ったのと、都市全層の崩落の前兆が始まったのは。 それも、巡回医師の電信を受けた直後に。まったくの偶然だった。 あの、あの……おじさま……。あなたは、だれ……? おじちゃん誰……?ねえ、いま、ぼくたち空飛んでた!? …飛んでた…。 そんなことより、あれ見なさいルポ!ポルンも、ほら、あそこ……! 下層が……。 わぁ……煙でなんにもみえないよ。なに? ぜんぶの工場の機関がこわれたの? …こわい…なに、あれ…。揺れてる…。 ……怖くなんて、な、ないわ……。ルポ、手、つないで……。 そんなにびびるなって。ここにいれば死んだりしないさ。とりあえず、ここは崩れないらしいからな。 え、えと……。 デビッドだ。感謝ならドクターにしておくんだな。 ギーせんせ?知りあいなの、おじちゃん? 知り合いの知り合いだ。電信があったんだよ、ドクターからな。お前らを連れてここまで飛べってさ。 まったくの偶然。巡回医師からの電信を受け取ったのでさえ、暇だったから回線を開いてみただけのこと。 ──幸運なのか。──それとも、奇跡か。 にしても……。 ……そろそろ終わったみてえだな、地震。一体全体、どうなっちまってるんだ。 揺れが収まってきた。煙が晴れたら下へ降りてみるのもいい。 生きてる誰かがいるかも知れない。助けてやるのもいいだろう。 ──まったくの偶然。──この子供たちの顔を見ていたから。 ──誰かを助けてみるのも。──それほど、悪い気分にはならない。 都市の異形は崩れていく。光を得られずに。 周囲に立ちこめる、無限の霧。それらを巻き込んで── 最後に、その“手”を高みへと伸ばして。何かを求めるかのように、空へ。 空へ── 高く── 手を── その後、都市がどうなったのか。語る者は殆どいない。 大規模な都市全層の崩落は確かにあった。けれど、驚くべきことに、死傷者数は殆どなかった。 老朽化していた建造物は殆ど崩れ去った。偶然であるのか、誰かの手によるものか、それはこの10年で建造されたもの。 それより以前の建造物は無事だった。老朽化という観点から見ても、あり得るはずはないと監査官は首を捻る。 ──そう、あり得るはずがない。 ──あれだけの地震が。──人的被害を、殆ど、出さないなんて。 ぽつぽつと数える程度の行方不明者が、上層と下層で報告されているけれど。 誰ひとり、その数名のことを気にする人は都市上下層の何処にもいないように思えた。皆が、空を見上げていた。 ──晴れていたからだ。 ──空が。 都市を取り巻いていた無限の霧が消えて、灰色雲の、ほんの一部が“穴”を空けて。空が。晴れていた。     ──灰色ではない──   ──ひとつの太陽を覗かせる──       ──空が── ──上層階段公園には人が充ちていた。 誰もそうしようと口にした者はいなかった。それでも、そこには、人々が集まっていた。空へ最も近い場所に。 かつてひとつの医院が建っていた場所には。都市の誰も彼もが忘れていたその場所には。無数の花があって。 子供たちが遊ぶ声が響いていた。あらゆる幻想人種の子供がそこにはいた。 陽の光をいっぱいに浴びて。かつて生まれるはずだった、41の命たち。彼らへと、誰かが祈る言葉を小さく告げて。 子供たちは遊ぶ。41の命がそうするはずだったように。 「みて! ほら!」 「みて、ほら、あんなに空がきれい!」「見たことない」「すごくあったかいね」「それに、まぶしい」「うん、まぶしい!」 花びらが舞う。子供たちの声に応えるように。 そして、人々は見上げる。空を。 灰色の雲の向こうを── 「……生きてる?」 「うん、生きてる!」 「…うん…ちゃんと息してる…。 生きてる…」 「ああもう何してるの! 急いで急いで、引っ張り出してあげて!」 「ああもう焦れったい! 急いで急いで、あちしも引っ張るから!」 「うん!」 「ねえ、きみ、あなた、生きてる? だいじょうぶ?」 「誰だろこの子?」 「誰でもいいから引っ張りなさいな! 男の子代表、さっさと手伝うの!」 「ここの大きい瓦礫どけて! 男の子代表、ぼーっとしないの!」 空が見える。曇り空を仰ぐと、知らないものが見えた。 ひとつめの太陽を覆い隠す灰色の雲が、ぽっかりと大きな穴を空けている。 視界の端にも、どこにも。ぼくの大切なふたりはいなかった。 視界のあちこちに見えるのは、人影。瓦礫を押しのけながらぼくを見ている。 ぼくを覗き込んでいる何人かの誰か。小さい。子供だろうか。 ──穴から見える空の色は透き通って。──太陽はまばゆい光を放っている。 ──赤い、赤い炎のように。 「そこから出してあげるからね。 あなたの手、こっちへのばして?」 「だいじょぶ? けが、してない?」 人影のひとりが手を差し伸べてくる。まっすぐに。迷いもなく。 とても小さな手。それは、女の子の手のようだった。 ぼくへと伸ばされた手。赤い陽光を、眩しいくらい照り返して。 「手、のばせる?」 「そうね、ええ。 手を掴んで引っ張り上げるのがいいわ」 「そうね、ええ。 この子、そんなに体も大きくないし」 ──ぼくは手を伸ばす。──自分の手。 初めて見るその手は、真紅の鋼ではなくて、10歳くらいの子供の手だった。 真っ白な手。まるで、あのひとのよう。キーアというひとに似ている。 華奢で、白くて細い。いつもギーの手や服を握っていた手。ギーの体を懸命に抱き締めていた手。 ──ああ。──どうして、こんなに似ているの。 「どうしたの? 泣いてるの?」 「…どこか痛いの…?」 「いますぐ引っ張ってあげるから! 出してあげるから!  そこ、狭いもんね、くるしいよね……」 「えっと──きみ。名前は?」 「ああもう! 名前なんていいから早く出したげて!」 「ああもう! さっきからのろのろしすぎよ、ルポ!」 「で、でも、こゆときは名前呼べって、 せんせとキーア姉ちゃんが……」 ……せんせい……?……キーア……? 「うん、ギー先生っていうの。 優しいひとで、お姉ちゃんと一緒に」 「パルまで、もう!」 ……ギー……キーア……。 「…え…いま、名前…」 「あれ、もしかして知ってるの? ふたりのこと?」 ……うん……。……うん……知ってる……知ってるよ……。 目元が熱い。涙が出ていた。溢れていた。涙が出る体が、ここにある。 影でもない、刃でもない、ぼく。ふたりからもらった、この生きた体で。 ──ぼくは泣いた。──生まれて初めての、声と、涙を。 ──ふたりへ。 ここでは、この話における、登場キャラクターの心の声を聞くことができます。 画面中央に配置されたキャラクターのうち、心の声を聞くことのできるキャラクターは、セピア色で表示されています。 暗く影になっているキャラクターは、今の段階では、心の声を聞くことができません。 しかし、他のキャラクターの心の声を聞くと、クリックして心の声を聞くことができるでしょう。 セピア色になっている、クリック可能なキャラクターの上にマウスを置くと、 画面上部に、このキャラクターの次に、心の声が聞くことが可能になるキャラクターが表示されます。 特定のキャラクターの心の声を聞くと、画面左右の対応したオブジェクトが発光します。 同時に、左右のキャラクターが徐々に、実像化していきます。 完全に実像化した場合、シナリオの進行に重要な影響を及ぼす選択肢が、この先のストーリーで選択可能になります。 章によっては、選択肢が出ない場合があります。 その章の心の声では、左右のキャラクターの画像は、最初から実像化した状態で表示されています。 心の声をこれ以上聞くのを止める場合、また、画面上にクリック可能なキャラクターがなくなった場合。 画面下部中央の“End”と描かれたボタンを押して、心の声を終了してください。 それでは、うまく、各キャラクターの心の声を聞きつなげてください。 ……不思議な子。 キーアと名乗ったあの少女。漠然とした意識で僕はそう感じていた。 不思議な子。その面影にはどこか、覚えがあるような。 僕は、キーアと……。どこかで出会ったことがある? いや。ないはずだ。会ったことなど。記憶を走査しても彼女のことは出てこない。 可能性として。10年前に出会っていたなら── 10年前のあの日、あの時。恐るべき«復活»の時の記憶だけは……。 僕は、いや都市の誰もが、あの時の記憶を正しく有していない。 ある研究者は言った。それは巨大な恐怖の影響なのだと。 真相はわからない。誰にも。その研究者、クリッター研究を続けていた最後の大学教授は発狂して死んだ。 断片化された記憶の中。 ……いや、やはり、それはないだろう。 現在よりも10年前であれば彼女は一体何歳であるのか。今よりもずっと幼いはずだ。 ……もっとも。 何らかの変異の影響で、肉体年齢を固定されていれば、話は別だが。 不思議と……。 僕は、彼女に変異の名残を感じていない。第一印象での話だが。 ……それも、不思議な話だ。変異のない下層民などいないというのに。 ……昔のサレムのことを覚えている。 今とはまったく違う姿をしていた。顔かたちは同じだけれど、何もかも違う。 女性の瑞々しさと、サレムは、考えてみれば対極にあったのかも知れない。 静かな性格だが、激昂することもあった。その激しさは、そう、炎のようで。 白衣を着たままで、仲の悪い友人と乱闘することもあった。 ……今は、その名残はない。サレムもまた、変異してしまったのだろう。 サレム。かつての僕の友人。きみは変わってしまったが……。 それでも、きみはきみなのだと思う。きみは僕を覚えていた。 ……僕も、きみを覚えていた。 ……アティ。都市摩天楼の黒猫。 きみと出会ったのは10年前だったか。黄金瞳が完全に固定化されたのが、確か、8年前だったはずだ。 出会った頃のきみのことを覚えている。今とは、少し、違っていたね。 ……きみには感謝している。アティ。 僕が最低限生きていられるのは、恐らくはきみの力に依るところが大きい。 体温を失い、睡眠欲と食欲を失った僕は、ああでもされなければ身体機能と生命をまともに維持できないだろう。 僕も、わかっているつもりではある。生物が動くには燃料が必要だ。 そう、機関と同じに。エネルギーは何かを燃焼させなくては発生してくれない。 ……けれど、なぜか。僕はコーヒー以外を口にできない。 使用期限がとうに切れた栄養剤を打って、気休めをするくらいしかできない。 だから、ありがとう。アティ。きみには感謝している。 無理矢理ものを口に詰め込もうとする行為。たまに、窒息しそうになるけれど。 ……きみには、感謝しているんだ。ありがとう。 きみがいなければ。きみが言葉をかけてくれなければ。僕は、この都市で生きてはいけなかった。 ここは、ひどく不思議な都市。何もかもが奇妙で。 まるで歪んでしまったかのよう。知らないものが、たくさん。 ものもたくさん。人もたくさん。こんなに多くの人を見たのは初めて。 パレードなのかしらと思っても、そういう訳じゃないみたい。 わからないことがたくさん。だから、あたしはじっと見つめてしまう。 ……失礼にならない範囲で。……じっと。 知らないことがたくさんある都市。なぜだか、胸が弾む。 ──ここは、誰も彼もが不思議。誰もが当然の顔をしているけれど。 見たことのない人だらけ。あたしは驚いて、ぽかんとして。 だから、危うく連れられそうになって。大きな男性に引っ張られて、嫌と言っても無視されてしまって。 もうだめ、と思ったの。 でもね。でも。その時、あのひとが声をかけてくれた。……なんとかあたしは無事でいられた。 怖かった。すごく怖かった。 ……でも。あの黒い女性は素敵だった。一度見たら忘れない。 あんなに格好良くて、綺麗で。あたしが見とれてしまいそうになったのを、あの女性は気付いた……かしら。 気付いていないといいけど……。 ……見つけた。 やっと、目にすることができた。嬉しい気持ちが胸に広がる。 やっと見つけた。不安な気持ちも少しだけ。 ……あなたは、どうなのかな。どう思うの。 あたしを見て。あなたは何を思うのだろう……。 ギー。数式医。あたしとの古い馴染みで、巡回医師。 ひとことで言えば変わり者。彼を知ってるみんながそう言う。 あたしもそう思う。変わってる。……色々と。 体温の殆どない体。どこを見てても、物憂げな瞳。慣れた景色に出会っても、そんな目をする。 わざわざ医療用に特化しちゃって、戦闘にまったく使えない現象数式も。あれも変わってる。 力があれば稼ぎになる。荒事屋にも犯罪者にもなれるのにさ。あ、どっちも似たようなもんだっけ。 ギーは変わってる。見た目こそ、人間のままだけどさ。 中身が変わってるからそう言われる。見た目のおかしさなら、勝る連中は幾らでもいるんだし。 変わり者。ギー。 ……でも、あたしはそんなに嫌いじゃない。 この都市で生き抜くのは楽じゃない。面倒なことばっかりさ。 何をするにも金、金、金。シリングがないと何もできやしない。 勿論、住む層によって必要な量の金は変わってくる。上のほうならたくさん。下のほうなら安くで済む。 部屋の出来も、食べ物の味も種類も、買える服だって変わってくる。掛ける金が少ないと、もう大変。 層の下のほうに行けば行くほど、生活の水準はぐんぐん下がっていって、手に負えなくなってくる。 第1層や2層で豊かに暮らしたければ、次の人生では高い層に生まれるよう願うか、金を稼いで居住権を購入するしかないんだ。 ああ、そうだった。頑張らなくてもいい連中のほうが多いさ。 生まれた層が第1層なら、豊かに。生まれた層が第7層なら、貧乏に。生まれた層が最下層なら、ご愁傷さま。 あたしたち荒事屋とかになると偽造居住権だって手に入れやすくなるし、一発当てれば大きな稼ぎにもなる。 でも、まあ。うん。 普通は無理。それなりの努力をくぐって修羅場を抜けないとね。 あたしだって、結構名の知れた荒事屋だけど、部屋は雑踏街の近くだし。 もっとも、倉庫がわりの部屋ね。ちゃんと寝るのはギーのとこが多いし。 ……確か、ギーも偽造居住権のはず。元はどこの生まれか……。 ……覚えてないや。ま、どこで生まれたって同じさ。 ああ、勿論。食えるだけの腕があるなら、の話。 ……そいえば、あの子。 ギーのところへ置いてきたあの女の子。名前は、確かキーアって言ってた。 随分、仕立てのいい服着てたっけ。どこの娘なんだろう。 雑踏街をうろつくにしては、ちょっと品もいいし、若いみたいだし。 ……不思議な子。そもそも、何であそこにいたのか。 暫くは注意していようかな。ギーがあんなになって助けた子だしね。 ……悪い子じゃ、なさそうだし。 スタニスワフの亀爺には内緒にしよう。あの爺ぃ、何言うかわからないし。 ……荒事屋が人の面倒なんて、変だし。 まだ彼が……。ギーが医学生だった頃の話。 確か、彼は理論肌の学生だったと思う。医療現場よりも理屈のほうが優先で。 それが、今は巡回医師。なんだかおかしいね。 女の子からは好かれるほうだったと思う。よく覚えていないけれど、確かそう。 母性本能をくすぐるとか。熱意のあるところが素敵よねとか。 ……そんな話をよく聞いたっけ。 熱意。今の彼に、あるのかな。 熱意……。熱意か……。 ……ギーとは同級生。こちらもあちらも真面目な医学生だった。 どちらも同じ。上層大学入学試験に受かったエリート候補。 もっとも、こちらのほうはと言えば。彼ほど優秀じゃなかった。 自負は勿論あったけれど。上層に選ばれた優秀な人間だっていう、それなりのプライドと、優越感と。 でも、それも崩れ去ってしまった。10年前の時に。 思い出したくない。それに、«復活»の日のことは、そもそも記憶が断片的だから。 ……丁度いい。思い出せなくて構わない。 思い出すと狂ってしまうから。今よりもいっそう、狂ってしまうから。 だから、丁度いい。かつてエリートだったという事実だけで。 それだけあれば。別に、いいと、いつも、言い聞かせてる。 自分と。 緑色の彼に。 女性差別主義というものがある。10年前から存在していたとある主義だ。 ……ギーはそうでもなかったけれど。こちらのほうはだいぶ影響を受けた。 エイダ主義とかいう、北央帝国発祥の女性優位主義だか男女平等主義だかがまずのさばってきて。 差別主義はそれに対するアンチテーゼ。一も二もなく飛びついた。 女は家庭にいるべきであって、そもそも男の場に出るものじゃない。 そう信じていたから。差別主義は渡りに船だった。 ……もっとも、そのせいで。……随分とつらい思いをしてきた。 ……こんなにも。 ……取り返しのつかないくらい。……狂ってしまって。 ──インガノックとは。 王侯連合所属1級機関都市インガノック。それが、かつて呼ばれていたここの名だ。 現在ではそう呼ぶ者はいない。誰もが皆、ここを«異形都市»と呼ぶ。 東大陸南端部に位置する、かつては王侯連合の機関都市だった都。 ひとつの巨大な城のようだと言う者もある。元は、アーコロジー都市計画に基づいて建造されていた多層環境型都市だったのだ。 幾層もに連なった巨大構造体であり、擁する人民は100万を超える。 100万の人民……下層民が住まうのは、インガノックの98%を構成する「下層」。都市頂上部以外のすべての層だ。 都市頂上部、インガノックの2%の部分。それは「上層」と呼ばれる。支配者たる上層貴族たちの城である。 アーコロジー計画は順調に進んでいた。インガノックは、やがて理想都市となるはずだった。 だが、今では都市は«異形都市»だ。あの日、あの時から……。 北央歴2206年にして連合歴533年12月25日── ──すなわち運命の«復活»の日。 爆発的に発生した«無限霧»に包まれて都市は外部から完全に隔絶された。 そして、都市は異形へと変わった。 まず、人々の姿が変異した。そして、恐るべき幻怪物たちが出現して、見も知らぬ奇病までもが各層で蔓延した。 地獄であった、とある研究者は言う。当時の詳細な記憶と記録は失われているが、その日から1ヶ月後には……。 ……都市人口は50万にまで激減していた。恐怖と、絶望が、人を襲ったのだ。 それから暫くの時が過ぎて。都市支配者である大公爵アステアによる現象数式と数秘機関の発表によって── 人々は都市の中で生き抜くすべを得た。いや、共存と呼ぶべきか。 恐るべき怪物の王たちは現在では息を潜め、時折出現する幻想生物たちや奇病を恐れながら、人々は生きている。 ……明日を夢見る人は多くない。 ここはインガノック。語る者なき«異形都市»。 灰色の空と無限の霧とに覆われて、誰も、明日の夢を誰かに語ることはない。 ──都市下層とは。 都市インガノックの98%を構成する部分。都市頂上部以外のすべてを指す。 豊かさも貧しさもすべてが下層にはある。ないものは慈悲だけだ。 第1〜13までの層プレートに別れており、上部には裕福な中産層や企業家が住まう。下へ降りれば降りるほど貧しさが目立つ。 完全環境都市、アーコロジー計画の残滓である都市内生産システムによって物資はある程度確保されているものの── 都市内では自由な経済活動が許されている。それ故か、どうか。 貧富の差は10年前よりも際立っている。最下層では餓死者も出るという。 下層のどこかには、今も、親を失った都市孤児たちがうろついている。そして、それを拾うのは機関工場主程度だ。 都市下層にあって多くの場合。人間は、消費源か、労働力か、もしくは売却するための商品でしかない。 ……10年前であれば。……道理を説く者もいたかも知れない。 けれど。今は、誰もがそれを受け入れている。 大公爵の定める死の都市法さえも、人は、受け入れてしまう── 都市インガノックに現出した、凶暴な大型の異形41体。 かつての«復活»の日から1ヶ月の間に、クリッターたちは50万人の人間を殺害したという。 人々はクリッターを“災害”として扱う。生物として捉える者はいない。 物理手段で打ち倒すことができない以上、そうする他にないからだ。銃弾も毒も、クリッターには通用しない。 おとぎ話の幻想生物たちの姿を模したクリッターたちは、人間を害するようにと、何者かによって定められていると言われる。 通常の幻想生物たちとの違いは、体のどこかにあるゼンマイ捻子。クリッターの体には必ずそれがある。 体長3m〜20mの大型であり、特定の弱点以外の物理的な破壊力は決してクリッターの体を傷つけない。 恐慌の声と呼ばれる、人間の精神を硬直させる音を放つ。別名を、“クリッター・ボイス”。 一部個体は“討伐された”と伝えられるが、その多くは休眠状態にあるとされる。 ──機関(エンジン)とは。 あらゆる機械の動力であり、高度な演算を果たす計算機であり、情報処理機でもある。 インガノックの存在するこの«既知世界»全土における文明の要だ。 現在では世界と隔絶されているインガノックとはいえ、例外ではない。機関は都市各層のあちこちに顔を出す。 これらはすべて外燃機関であり、大型であればあるほど出力を増す。 貴族の邸宅や機関工場、大商家には大型〜中型まで機関設置が認められている。 一般の臣民や市民のレベルになると、小型の機関が各戸にひとつずつ存在する、という形の他に── 都市行政が運営する各層の大機関から導力管を引いてエネルギーを利用する形式も、ここ近年では一般的である。 現在主流になりつつあるのは、都市下層の上部に位置する都市摩天楼から全層へと機関エネルギーを送り込む様式だ。 ──10年前の記憶。 インガノックにおいて、それを正確に持っている者はいない。 あの日、あの時。恐るべき«復活»が訪れる瞬間のこと。誰もが、その前後の記憶を持ち得ていない。 誰もがそれを思い出すことはない。人は、その時を振り返らない。 誰かは言う。それは恐怖のためだと。1ヶ月の苦しみを思い出したくないのだと。 確かにそうであるかも知れない。痛みの記憶へ繋がるゆえに、自ら失った。 ……けれども。違う。 思い出さない理由。思い出せない理由。 それは、人を見つめる“彼ら”に由来する。誰かはそう言う。 ──都市法とは。 大公爵アステアの定めた死の法である。それは、弱者の生存を許さない。 弱者は都市の罪である。序文にはそう記されている。 重度の病を患ったり、幻想生物出現による被害を被った人々には、上層兵の手によって無裁判処刑が行われる。 法制定の理由は、上層と下層において些か異なっている。 下層においてはこう発表されている。正式な大公爵発表である。 “2級以上の生活障害は 都市の生産性を著しく落とすため” 一方で、上層貴族への発表は異なる。以下のものだ。 “肉体と精神の衰弱は 幻想生物たちの跋扈を招き、 やがて、多くを死に至らせる故” ……以上。 これらの制定理由の矛盾については、上層と下層の交流が禁じられた現在では、指摘できる者はひとりもいない。 ──現象数式と数秘機関とは。 都市インガノックで研究開発された、まったく新たな“異形の”技術である。 異形化し滅びつつあった都市を憂えた大公爵の手によってそれは形を成した。彼は偉大な碩学でもあるのだ。 恐るべき«復活»の日より2年後。大公爵は「現象数式実験の成功」を告げた。 それはすなわち、とある数式理論を頭脳に修得することで物理の法をも超えた現象をあらわす技術。 理論の名称はアステア理論。俗称を「現象数式」という。習得できる者はごく限られていたが── それは人々の希望となった。おとぎ話の“魔法”が生み出されたのだ。 火器をも爆薬をも超えた破壊力、欠損した肉体を修復する脅威のわざ。 幻想生物やクリッターに対する決定的な有効打にはなり得なかったものの、現象数式は、ある副産物を産んだのだった。 ──それこそが数秘機関。 現象数式を用いることで成立した、人体置換もしくは埋め込み式の機関機械。 肉体変異の罹病者のための義肢として開発されたが、現在では応用が進み、現在では頭脳や身体をも強化できるという。 下層の人間の多くは、幻想生物に襲われて失った四肢や、変異した肉体をこの機関に置換している。 ──クリッター・ウェンディゴ。 分類では小型とされるクリッターである。もっとも、人間より遙かに大きいが。 外見が似ているとの報告から、東大陸北部の雪山に住まうという伝説の猿の怪物の名が割り当てられている。 これは夜行性であり、人間を捕食する習性を持つ。 犠牲者の精神と恐怖を自らの滋養として取り込むと言われているが、詳細は不明。 滅多に自分から人間を襲うことはせず、感化能力──催眠の能力を用いることで配下とした人間に犠牲者を運ばせるのだ。 かつて、5年前には、これの配下となった人間たちによる恐るべき«生贄教団»が存在したという。 大量の犠牲者を生み出した«教団»は、ストリートナイトによって壊滅させられ、ウェンディゴも姿を消したとされている。 ……キーア。 あのスタニスワフすら音を上げてしまった。あの子は、一体、誰なのだろう。 身元不明の他人。それはこの都市では危険を示す。 たとえ少女でも。たとえ老人でも子供でも。他者は警戒されるべきなのがこの都市だ。 たとえ相手に悪意がなくとも。それは変わらない。 幻想生物の毒や奇病に侵されているとか、クリッターに操られているとか。 可能性は無限に考えられる。それなのに。 ……僕は、彼女を警戒しているだろうか。何かを疑っているだろうか。 ……いいや。そうしてはいない。 なぜ、僕はそうしないのか。彼女を信頼している? ……どうだろう。そう言えるほど彼女を僕は知らない。 それでも、僕は……。 彼女に対して警戒心を抱いていない。なぜか、自然と。 ……本当に。不思議な子だ。 ……僕の背後に佇む“彼”。 その正体に僕は気が付いている。それは、都市にある唯一のおとぎ話。 クリッターすら打ち砕くと囁かれる、人々のささやかなおとぎ話。 それが“彼”の正体であるはずだ。僕は確信している。 けれど……。 ……なぜ、僕なんだ。 ……なぜ、きみは僕の背後に佇むのか。 わからない。だが、僕は……。 きみと、この手を確かに重ねたのだ。鎖に繋がれてはいても。 確かに。僕は、きみの手の温かさを感じていた。 ……老師イル。 彼はこの都市のすべてを知ると言う。それは彼が幻想人種の«観人»であって、その脅威の観測能力故の噂だろうけれど。 彼には何か、隔世の感がある。まさしく老師だ。 誰もが彼に頭を垂れる。上層貴族さえもが教えを請うことがあるという話は、さすがに誇張だろうけれども。 彼は、都市の中にあって、まるで都市の外にいるように振る舞う。 この10年、彼はここにいるはずなのに。彼はまるで……。 少し留まっているだけ。そう言うかのように、飄々として。 どこにも根ざさない。恐らく市民証であるところの個人機関カードも持っていないだろう。 ……彼は、知っているだろうか。 僕の背後に佇む“彼”のことを。都市唯一のおとぎ話を。 ……もしも今、6年ぶりに会ったら。彼は、何を言うのだろうか。 また、叱られるだろうか。それとも……。 あたしは朝が好き。灰色雲越しに柔らかく届く陽の光が好き。 コーヒーの匂いが好き。飲むのはそんなに得意じゃないけれど。 ギーはタブロイドを読まないのが残念。読んでくれればいいのに。コーヒーの匂いと、紙をめくる音が好き。 でも。 少しだけ気に入らない。ここの朝。 窓越しに外を眺めても、雲と一緒になったたくさんの霧があるの。これは、これだけはどうしても、だめ。 霧は嫌いじゃないけれど、朝はもっとすっきりしたいから。 ……だから。……朝は好きだけど、この霧はちょっと嫌。 ……料理のことについて。あたしは、本当は、だいぶ驚いていた。 だって。合成卵って……なに? キッチンの様子は知っているけれど、合成卵とか、合成ベーコンとか……。 なに……? これ……? 味見しようとしてみたら、あまりにあまりの味をしていたから。もう、驚いてしまって2分は呆然と。 おいしくない……。 ……いいえ、まずい。 言い方を選びたいけれど、この言葉しか見つからないほどの味だった。 なので。あたしは頑張ってみた。なんとか美味しくなるように、試行錯誤。食材を無駄にしないよう、再利用しつつ。 その結果。3日目にして。 おいしいスクランブルエッグと、ベーコンの焼き加減を覚えたの。 えへん。 市場のことなのだけど……。あそこはいつ閉まっているのだろう。 夜中に見ても開いているし、昼間も。いつ休んでいるのだろう。 不思議。すごく不思議。 いつ、掃除をするのかわからない。お店を締めなくても掃除できるの? 不思議……。 24時間開店営業だというけど、じゃあ、店長さんはいつ休むの……? ……やっぱり、不思議……。 ……アティもそう。夜のお仕事というのは、何?? ランナーという言葉を聞いたけれど。自分で調べるしかなさそう。 ……それにしても、本当に。不思議な町……眠らない……。 ……夜が、ない町……。 ギーのところにいるあの子。キーア。 不思議な子。結局、彼女がどこの誰か、亀爺ですら突き止められなかった。 一体、誰なんだろう。物腰や服装からは上のほうの印象だけど。 それにしては妙に生活感もあるようだし。ううん、不思議。 あ。もしかして。上層のお姫さまだったりして。 何かトラブルがあって下層へ逃げて、貧乏巡回医師のところへ転がり込んで……。 ……うん。うん。やめよう。 これじゃ10年前のダイムノベルみたい。ああ、恥ずかし。なしなし。 あたしはあんまり料理にはこだわらない。熱いの苦手だしね。ほら、舌が。 それでも美味しいものは好き。作るのは……無理。 あたしの手じゃスキレットは握れない。特別製を注文するとなると、高いし。 そう。高い。料理ってのはこだわればこだわるほど。 機関工場製の大量生産品が安いのは、食器も調理器具も食材も同じかな。 合成卵とか、生じゃ食べられないし。焼いてなんとか。 でも、結構、料理の腕は関係する。まずい合成食材でも、うまい人が作ればそれなりになる。 ……その点。……あの子は、凄いと思う。 ……随分、手慣れてるみたいだし。 ……ちょっと、羨ましい。かな。 ……子供たち。儂はお前さんたちを見ているよ。 お前さんたちは儂を«観人»と呼ぶ。儂が実際にその幻想人種であるのか、定かではない。 儂はただ見るだけだ。どこでもそうしてきたし、ここでもそう。 インガノック。語る者なき«異形都市»。 すべてを見よう、儂は。お前さんたちのすべてを見よう。 誰に頼まれた訳でもない。大空を飛び回る我が娘を見ることだけはできぬが故に、儂は、お前さんたちを見る。 その行き着く先に待つものも。すべて見ていよう。 ……41の彼らの見るのとは、また別に。儂は見ていることとしよう。 ギー。お前は果たして、その背後の子を……。 受け入れるのか。願いを、果たすことができるのか。 ……儂は見ているよ。 ……ランドルフという男がいる。 彼とは随分と因縁が深い。出会ったのはもうずっとずっと前のこと。 彼がまだ人間の姿をしていた頃だ。比類なき碩学と謳われたザ・ファースト。 ローラと共に西亨から渡ってきた碩学。彼は、いつから狂ってしまったのか。 都市がこうなった時に?都市の歪みと共に? いいや、それは違う。彼はだいぶ前からもう狂っていたよ。 彼は求めているのだ。真実を。 都市の真実?なぜ都市がこうなったのか? いいや、それは違う。彼は彼にとっての真実のみを求めているよ。 ……すべての人がそうだ。自分にとっての真実を見つけなくては。 儂にはそれがない。だから、儂は、お前さんたちを見ている。 幻想人種たる«観人»の能力で?まあ、そうかもしれない。 ……そうでないかも知れないがね。 ……«奇械»というおとぎ話がある。 それはインガノック唯一のおとぎ話。幻想すべてを脅威と信じてしまった都市で、ひとつだけ残されたおとぎ話。 この10年という月日が生んだおとぎ話。都市の誰もが知っている。 それは人に«美しいもの»をもたらす影。美しさの殆どを失ったこの都市で。 ……だが、だがね。 本当にすべてを失っただろうか。この都市は。 本当に«奇械»だけがそれを見せるのか。儂には何もわからないがね。 ひとつだけ言えるのは……。 ……儂には、すべてが美しく見える。生きとし生けるすべてがね。 ──幻想人種とは。 幻想の異人種とも呼ばれる。本来は人間であったものの、«復活»の影響によって肉体が変異した人々を指す。 インガノックの住民の殆どが大なり小なりの変異を発症させているため、狭義では「インガノック市民」全体を指す。 大きな変異で外見が人間から離れた人々を指すことが一般的である。 その細かな種別はさまざまである。一部をここに記す。 «猫虎» …猫や虎の特徴を持つ人。      身体能力に優れる。 «狗狼» …犬や狼の特徴を持つ人。      身体能力と嗅覚に優れる。 «蜥蜴» …爬虫類の特徴を持つ人。      強靱な肉体を持つ。 «虫蟲» …昆虫の特徴を持つ人。      付随する能力はさまざま。 «水魚» …魚類の特徴を持つ人。      水中適応能力を持つ。 «熊鬼» …熊の特徴を持つ大型人。      巨体と凄まじい膂力を持つ。 «観人» …猫の特徴を持つ大型人。      脅威の観測能力を持つ。 ──幻想生物(モンスター)とは。 幻想の異人種でも、クリッターでもない、おとぎ話の妖精や精霊にも似た生物たち。神秘生物とも呼ばれる。 工場から希にポンと生み出される機関精霊も幻想生物の一種であるが、 インガノック下層のあちこちに棲息する。基本的には動物と同じであるため、撃退することも、手なづけることも可能。 ──弱い個体であれば、の話だが。 もしも強力な個体となれば、出現域は多大な被害を被ることとなるだろう。 下層の数字の多い層、特に最下層には強力な幻想生物が多数棲息している。 荒事屋の護衛を付けていない限り、ふらりと最下層に迷い込んだとしたらたちまちのうちに命を落とすことになる。 ──現象数式実験とは。 10年前の«復活»によって発生した災厄に対処するために大公爵が上層で実施した数式実験を指す。 現象数式ことアステア理論を完成させ、災厄に抗しうる力を都市に与えるため、大公爵は尽力したという。 実験開始日は«復活»の日の7日後。そう公式発表されている。 大公爵による「現象数式実験の成功」が発表されたのが«復活»の2年後であることを鑑みるに── 数式の完成までに、実に2年の歳月を費やしたことになる。 災厄の中で多くの碩学たちが現象数式実験に参加し、倒れたと言われる。大公爵自身、病に伏せることになったとも。 現に、大公爵は……。 この10年のうち、貴族と市民に顔を見せたことはない。 現象数式実験の成功を告げた時も、死の都市法の施行の宣言の時も。 どちらの時も。放送機器を用いた音声のみであった。 ……市場における物価について。 第1層や第2層の上層認可企業が巨大な経済活動を行う影響が、各層の市民の生活を支える市場に現れる。 表向きにはそう言われている。だが、一部のフィクサーは知っている。 それがフェイクであるということを。経済は完全に管理されていることを。 都市内自由経済は表向きのもの。実際には、物価の変動を……。 ……上層貴族が調整しているのだ。突然に市民が死なぬように。突然に市民が栄えすぎることもないように。 上層認可企業。それは貴族の傀儡だ。シリングを与えられて黙る犬だ。 外貨の概念が存在しないこの都市では、それが必要なのだと彼らは言う。 そして、誰もそれを知らないし、知ったとしても異議を唱える者はいない。 知ってしまった者は思うだけだ。天然物の卵の値段がぐんと上がるたびに。 ……仕方ないな、と。 「……僕は、きみだと決めた」 「ギー」 「ギー先生。 ギーせんせ。 ドクター・ギー」 「親しみを込めて呼ばれる、きみ」 「僕は決めたよ」 「ひとつだけのこの目で、僕は」 「きみを見ていよう」 「きみと同じものを見よう」 「きみの手と同じように」 「僕は、この手を、前へと伸ばそう」 ──グリム・グリムという噂。 それは幻想生物の噂だ。10年よりも前であればおとぎ話だろう。 けれども幻想生物の噂だ。牙を剥く彼らは確かに実在しているから。 けれどもそれは不思議な噂だ。実在するのかどうかがわかっていない。実在を匂わせる跡も見つかっていない。 本当はおとぎ話と呼ばれるはずだ。あの«奇械»と同じように。 しかし、それは幻想生物の噂だ。ピエロの姿をした生物の噂。 誰がそれを口にしたのかわからない。誰も言っていないかも知れない。 けれども、それは噂だ。人を狂わせる、笑う道化師の噂。 幻想生物にクラウンと呼ばれる者がいる。きっとそれに違いない。 誰かがそう言った。誰も言っていないかも知れない。 ……クラウンを見た者はいないのに。見たと口にする者は誰もいないのに。 けれども誰かは言うのだ。それは、道化師の姿をした生き物で……。 クリッターも人間も幻想生物も区別なく、心を貪り喰らうと。 ……«奇械»使い。 その噂の殆どは英雄的人物を示す。曰く、伝説の腕前を持つ荒事屋であるとか。曰く、ハイネス・エージェントであるとか。 中でも信憑性の高いものは、かつてのクリッター討伐に関わった人物。 ストリート・ナイト。都市最強最速を謳われた路地の騎士。全身に数秘機関を埋め込んだ、機関人間。 ……事実かどうかはわからない。僕には。 だが、僕は«奇械»使いを知っている。一度だけ見たことがある。 この10年間に一度だけ。目にしたことがある。 巨蛇の幻想生物であるナーガを切り裂く影。背後に黒いものを従えた、ひとりの男。 男の背後の影──すなわち«奇械»は巨蛇を容易に破壊した。上層兵の撃つ、無数の銃弾に耐えたそれを。 クリッターにさえ及ぶと呼ばれたナーガを、いとも簡単に。無造作に。 そして、男は笑っていたのだ。返り血を浴びて。 ……ケルカン。 男の名を僕は知っている。男は、かつては都市法の執行官だった。 ……幾人、幾百人もの命を奪った男だ。 ……きっと、今も。 ……妖樹。 それは人の精神と肉体を浸食する異形。恐るべきクリッター・ブラッドツリー。僕は記憶している。 人に取り憑く死の種子。それはやがて育ちきって人を殺す。 僕は、149例を目にしてきた。 僕は、149人を救えなかった。 ……今までに。149人。僕は、樹化病の罹病者を救えなかった。 存在の形質変異を引き起こす病に対して、肉体を置換修復する現象数式は通じない。何も、できなかった。 現象数式による肉体の正常化と、数秘機関への置き換えによる「切り離し」。それだけが、唯一の対処法だ。 ……あの、パルたちのように。それ以外には、何をすることもできない。 肉体を浸食する種子を取り払っても、精神に根ざした種子は拭えない。 ……やがて、精神の根幹が浸食されて。 ……絶望だけが残った時に。 ……育ちきった“芽”は、弾けるのだ。 今までに、149人。僕は……。 ……救えなかったのだ。 ……朧気な記憶がある。 クリッター・ブラッドツリーに関する記憶。確かそれは、10年前のこと。 «復活»からの1ヶ月の間に起きたこと。あの地獄の日々の一幕だ。 他のクリッターと同じく、ブラッドツリーは下層へと出現していた。そして、あの黒き死を無数に撒き続けた。 その時に……。 ブラッドツリーの活動傾向には、とある特徴があったと……。 ……僕は、朧気に記憶している。 それは、ある特定の人間に対しての反応だ。ブラッドツリーは過剰反応を示していた。 特定の人間。そう、確か……。 ……西亨の……。 音楽は大好き。あたしは楽器を弾けないけれど、聞くのは好き。演奏会も大好き。 西亨の曲が好き。バイオリンの音が好きなの。ピアノも、オルガンも好き。 キョウカイ音楽というものも好き。迫力があって、荘厳な響き。 歌も好き。……歌なら、少しはできる。 あの子のオルガンに合わせて、歌ってみたい。 頑張らないと無理だけれど、綺麗な音色になるような気がする。 ……でも、あの子は。 誰にも聞かせてはくれない。綺麗なオルガンを。 ……スミスさんにさえ。 上層のことは、よく知らない。貴族が住んでいるのだとか……。 一番偉い大公爵さまが住んでいると、そう聞くけれど。 貴族という人たちも、大公爵さまも、あたしは見たことがない。 どんな人たちなのだろう。王さまなんて、おとぎ話の中くらいで。 ……そうギーに言ったら笑われた。……少し、悔しい。 あたしが冗談を言っていると彼は言った。何を指してそう言うのかはわからない。 ともかく。ギーの言葉を借りるなら……。 上層は、気持ちの良い場所ではないって。行くことはできないし、行っても何も得られるものはない。 ──嫌な場所。 ギーがそう言っているように、あたしには聞こえた。 ……ドロシー。あなたの旋律はとっても綺麗。 でも、聴いていると悲しくなるの。わかるよね。 あなたがどう思って弾いているのか。わからないけれど、伝わる。 ……ドロシー。お願い、絶望しないで。 あなたが絶望しているぶんだけ、鍵盤から響く音は悲しさに充ちる。 その音は、きっと……。あなたを、もっと絶望させるから。 貴族たちは、嘘をついている。 都市インガノックを支配する上層貴族。彼らは皆、嘘をついている。 上層貴族の証である貴族紋。わたしの体にも彫り込まれている、それ。 それは嘘の塊でしかない。クリッターや幻想生物などがもたらす、未知の病を完全に防ぐだなんて、嘘。 こんなもの。ただの気休めに過ぎない。 貴族たちは、嘘をついている。貴族の生命は何よりも優先されると、彼らは言うけれど。 本当は違う。 気休めに過ぎない貴族紋が効かずに、異形の病に罹病した者がいたら……。 彼らはすぐさま殺そうとする。都市法に則って、罹病者を出した一族ごと処刑されてしまう。 ……だからわたしは捨てられた。父さまと母さまに。 壊れた玩具を捨てるように。簡単に、上層から投げ捨てられて。 ……そして、わたしは彼に拾われた。 ……でも。彼も、嘘を吐いてる。 わたしのまわりは、嘘ばかり。 それなのに。彼は、わたしにこう言うの。 大丈夫、きみはオルガンを弾いていなさい。そう言うの。 ……嘘つき。 わたしは知っている。彼が下層民の中でも浮いた存在であって、ろくに仕事を得られない身であることを。 彼は、西亨人だから。少なからず、下層でも差別される。 それさえも……。彼は、わたしに言おうとはしない。 ……わたしは、どうすればいいの。 オルガンを弾くだけで、他には、何を。蝕まれていく自分を感じる以外、何を。 わたしは今日も鍵盤を弾く。音を奏でる。 けれど、わたしは……。不安でたまらない。心が壊れてしまう。 浸食していく妖樹から、目を逸らせない。毎朝、起きるたびに。水浴びをするたび、わたしはわたしの体を見てしまう。 ……怖い。 ……わたしは、どうなるの。……誰か。教えて。 ……どうすれば、いいのか……。何をして、生きることを肯定すればいい? ……わたしに、教えて。 ……«奇械»使い。 それは俺だ。この俺、かつては都市法の執行官として下層に数多の死をもたらした、この俺だ。 やっていることは変わらねえさ。俺は殺すだけだ。 世間じゃ«美しいもの»だなんだと大層な理屈をつけちゃいるが。 «奇械»は力だ。 それ以外の何でもない。俺たちは、それを振るうために選ばれた。 命を奪い取り、殺すためだけの力だ。あいつらは、«奇械»はそれだけの存在だ。 ……少なくとも。この俺にとっては、そうだ。 俺以外の«奇械»使いの場合も、大して変わるもんじゃない。 あいつらは俺の獲物だ。出会えば── ──必ず殺す。 ……現象数式使い。それに数式医。 この俺も、現象数式は幾らか使う。もっとも破壊専門だがな。 数式医。せっかく脳に刻み込んだ理論を、現象数式を金に換える連中。奴らの数は多くない。 数少ない連中の殆どは、上層お抱えの御殿医か第1層第2層の企業家どもにひっついてシリングを吸う。 金の亡者だ。力が何かもわかっちゃいねえ。 ……気に入らねえ。 ……中でも一番気に入らねえのは。 ……タダ同然でそれを使う、巡回医師だ。 てめえだよ、ドクター・ギー。クソより匂う偽善をいつまで続ける? ……俺の頭に残る記憶。 そいつが囁くんだ。いつも、いつも俺の耳元で。 まさかとは思うが«奇械»の声なのか?こいつの記憶なのか。 事実は俺も知らない。ただ、俺はそいつを“思い出す”だけだ。 ──41。 それはクリッターと同じ数だ。その数字、それが俺の頭に浮かぶ。あの光景、いつも俺の頭に浮かぶ。 俺にはわかる。それは、10年前のアレだ。 俺は覚えているのか?それとも、記憶を植え付けられているのか。 どっちでも構いはしねえが。……41。 ……俺は、ただ、殺すだけだ。その果てで待っているものを目指して。 ──西亨人とクリッターについて。 発掘された記録情報がある。10年前、出現した41体のクリッターは、まず、都市じゅうの特定の人間を殺害した。 特定の人間。すなわち西享人とその血縁者である。 クリッターは執拗なまでに彼らを探し出し、恐怖と共に喰らい尽くしたという。その数は記録されていないが、百足らずか。 そしてその後で、クリッターはその他の人間たちへと牙を向けた── 記録情報にはそうある。だが、事実は異なっている。 西亨人とその血縁者に反応していたのは、とある種類のクリッターのみだったのだ。無数の分身を作り出す大型クリッター。 その名は、ブラッドツリー。 増殖能力が人を襲う能力そのものとなる、大型クリッターである。 ──クリッター・ブラッドツリーとは。 その特徴と姿から、南洋に棲息した吸血植物の名を与えられた、41のうち唯一の増殖型クリッターである。 俗称として、妖樹と呼ばれることもある。 都市下層でたびたび目にされるのは、うねる黒色と赤色で構成された“蔦”。 不気味であるが、どこか幻想的で、ある種の美しさを備えているという。 だが、それは種子が発芽したものであって、決してクリッターの本体ではない。 ブラッドツリー本体の目撃例は、10年前が最後のものとなっている。 下層で活動が目撃されるもののすべては、かつてブラッドツリー本体が撒いた種子だ。本体は未だに姿を消している。 このクリッターは、増殖分裂もしくは種子の拡散によって己の摸造体を生み出す。 10年前の出現時に撒き散らされた種子は都市下層の待機中に粒子として漂っており、生命力の弱った子供や老人に取り憑いた。 そして、宿主の滋養を吸い、肉体と精神を奪いながら成長し、やがてはその命が終焉する時に破裂して種子を撒く。 ……もっとも。多くの場合は、その前に上層兵による都市法の執行が宿主と共に死の種子を滅ぼすことになる。 このクリッターは、都市下層で最も有名で、最も多くの被害を生み出す存在である。 宿主の死までは成長以外の活動をしないが、切り離そうとすると蔦で攻撃してくる。 ──樹化病とは。 正確にはこれは病ではない。クリッター・ブラッドツリーの死の種子が肉体に着床してしまった人間の状態を指す。 精神を蝕まれ、肉体を“蔦”に奪われ、罹病者は数年のうちに死に至る。 数秘機関による肉体置換や現象数式である程度の延命を行うことが可能であるとの報告もある。 都市法では、樹化病の罹病者は排除対象、すなわち処刑の対象である。 多くの場合、下層の人々は樹化病のことをひた隠し、数秘機関の義肢をつけて不自由を補う。 ……必ず訪れる死に、怯えながら。 ──数秘機関と医療。 現在でこそ荒事屋やドラッグ・ギャング、上層兵などの戦闘力強化の印象が色濃い数秘機関ではあるが。 本来、これは医療用義肢として開発された。可能な限り拒否反応と負荷を抑え、失った肉体機能を補うための機械として。 事故被害や事件被害での肉体損傷や変異病などに罹った人間の治療法として、下層ではごく一般的な存在となっている。 医療用数秘機関の多くは、上層認可のある純正品であれば高価である。 それ故、下層の人々は闇医院や市場で違法に安価な数秘機関を入手する。 公然の秘密ではあるが── 下層には安価な数秘機関を大量生産する機関工場も存在しているという。拒否反応と負荷は、純正品の数倍に及ぶ。 この事実に対して、都市上層は沈黙という反応を保っている。 ──上層貴族保護政策とは。 都市に蔓延する変異の病。肉体を幻想人種に変異させるこの病から逃れる術はないというのが医療的見解だ。 下層においては、呼気覆面を装着することで防げるという迷信が広まっているが、根拠は一切ない。 対して上層では、より現実的な対処法が行われているという。 上層貴族の肌に彫り込まれた、ある意味で貴族の証明でもある“貴族紋”。 これは現象数式に基づいた数式紋様であり、肉体を歪ませる変異の病に対して絶対の防御効果を持つのだと言う。 下層の人々はこの紋を羨望している。自分たちにも彫ってくれ、と。 しかし、上層はこう発表しているこれは人体実験を行っている段階なのだと。 支配者である上層貴族が先に立ち、己の肉体を以て実験を行い、しかる後に安全性が確保されれば── ──いずれ下層にも技術供与しよう、と。 その言葉を信じる者もいる。信じぬ者もいる。 貴族たちの間では、この紋を彫る制度を、上層貴族保護政策と呼ぶ。 ……本当に人体実験なのかどうかは。その名を見れば一目瞭然である。 「……聞こえるよ」 「きみの声が、聞こえる」 「きみの無念が、僕に届く」 「失ってしまった、149の人々」 「それは、きみにとっては悪い記憶」 「けれど」 「けれど、僕はきみの見ているものを見る」 「きみは、本当に」 「それが、悪い記憶だと、思うの」 「諦めて、しまったの」 ……ルアハ・クラインという人物。 書庫ビルディングに住んでいたという、クライン氏の血族。息子か、娘か。 あまりに不可解だ。それは実在する人物なのだろうか。 この書庫ビルディングには、人間の生活の痕跡が存在していない。 自動人形は嘘をつかない。名前を名乗らない彼女──女性型のあの自動人形は言った。ルアハは死んだ、と。 であれば、彼もしくは彼女は本当にもう存在していないのだろうか。 しかし、僕への電信依頼は有効だ。これを僕が受け取った以上。 たとえそれが5年前の電信でもだ。ルアハ・クラインという人物が死亡したという確定情報がない限りは。 ……確定情報、か。 それならあの自動人形の証言は?自動人形は、嘘をつかないのだから。 ……その言葉を以て確定ともできるだろう。だが、僕はそうしなかった。 何かが引っかかっている。何か、重要なことを僕は見逃していないか。 ……この書庫ビルディング。 奇妙な違和感があった。クライン氏は第1層出身の資産家だ。 それがなぜこの書庫ビルディングなのか。第1層の邸宅ではなくて、ここなのか。 都市摩天楼とはいえ、資産家が住むにはあまりに飾り気がない。 このビルディングにいる理由があった?そう、僕は考える。 この建築物の第一印象は、圧倒的なまでの外界との隔絶感だった。 他者の進入を拒むような、閉ざされ、ある意味では完結した世界。 ビルディングに充ちる書籍もそうだ。情報空間のライブラリにすべて転写済みの、現在では意味のない、ただの、紙の束……。 残った書籍には金銭価値などないだろう。ただの紙の束。 そしてその情報は公開されている。侵入の意味などないと告げるかのように。 ……隔絶されたビルディング。侵入の意味はない場所。 何かが、明らかに不可解だ。クライン氏はなぜ、こうまでも……。 こうまでも、この場所を守ろうとするのか── ……クライン氏。 クライン氏の死因は不明だ。白骨化した遺体では“目”にも視えない。 現象数式の“右目”が視た彼の白骨の経過年数は死後5年。 彼の送りかけの電文。それを、僕は5年越しで受け取った。 ……ルアハ・クラインは存在する。この電文がそう告げている。 仕事を途中で放棄はしない。あなたの言葉を僕は確かに聞き入れた。 ……見捨てはしない。何としても、見つけてみせる。 ……わからない。ギーは何をしているのだろう? 誰を探しているの?誰を探して、ここまで来たの? ……わからない……。みんな、何をしているの。 ルアハ・クラインさんを探しているの?……本当に、そう? ……もしも、そうなら。あたしには、やっぱりわからない。 だって……。ルアハ・クラインさんは……。 ……人形なのだと言うけれど。 本当にそうなの?人間のようにしかあたしには見えない。 人形だと言ったのは、誰?人間ではないと言ったのは、誰なの? ……あたしは首を傾げてしまう。この建物は、わからないことばかり。 みんな、どうかしてる。機械の人形なんて、どこにいるの……? ……あたしにはわからない。彼女が、なぜそう言ってしまうのか。 あなた。自動人形だと言った、あなた。あなたは誰? なぜ、何も言わないの。あなたは。 あたしは……まだ、一度も……。あなたの言葉を聞いていない。 声を聞かせて。言葉を述べて。あなた自身の言葉を、聞いてみたいの。 ……自動人形だと言ったあなた。あなたには、自分の言葉があるはずなのに。 自動人形を見た時、驚いた。あの嫌な上層兵とかを思い出したから。 衛視の役目でもあるのかなと思って、あの子の動きを見ていたけど。 並の人間よりは頑丈だけども、特別、戦闘用に調整されてはいないみたい。 あんまり警戒することもないか。それより、上層兵のほうが気になる。 あいつらは無茶苦茶だから。出力も速度も、呆れるくらい。 ……速度だけ、なら。 ……負けない、と、思うけど……。 でも失敗したら死ぬし、やっぱり、できればやり合いたくない。 どうか、何も起きませんように。トラブルが起きるなら、上層兵以外の何かでありまように。 ……よし。これで多分大丈夫。 ……あの自動人形。なんだか、気になって仕方がない。 そもそも何がどうして女の形なのさ。書庫管理なんて、筒の人形でいいのに。 あんなにも精巧で、綺麗で。芸術品みたいで。 ……だから、気になって仕方がない。 ……あの自動人形。……本当は、別の用途で作られたのかも。 ……たとえば……。 ……たとえば、えと……。 ……こ、こほん。ま、まあ、色々あるけどさ。 ルアハ・クラインについて。ワタシの正式所有する情報は多くない。 この書庫ビルディングのあるじであった、1級市民クライン氏の血族。 性別不明。年齢は十代後半から二十代前半。生前より健康状態に難あり。 重度の変異病に罹病していたとの情報。クライン氏が逝去した本年よりも以前、5年ほど前にルアハ氏は逝去。 死因は変異病の悪化による。 葬儀は行われていない。 配偶者なし。扶養家族もなし。 ──以上。 ワタシの正式所有する情報は以上。正式に、ルアハ・クライン氏は既に死亡。 ……正式に。 機関人間並びに自動人形について。簡易的な情報。 両者はきわめて酷似した存在ではあるが、根本的な部分が異なっている。 前者は高度に機械化された“ただの人間”。後者は純然たる機械である。人間か。機械か。 フラクタルな思考と強靱な身体能力を備える機関人間は、上層でも重用される。 理論上、人間のサイズを有したものでは戦闘用の機関人間に勝るものはない。インガノックにおける記録上の事実である。 しかし、その有用性にも関わらず。製造数はごくごく少数に限られる。 これは、肉体の大半を数秘機関へ置換する外科手術の成功率がごく低いためである。手術費用も通常のものより跳ね上がる。 そのため、上層による兵団設立もしくは特殊な事情の裕福な下層民によってのみ手術は行われている。 ──特殊な事情。 第一の可能性、荒事屋としての成功を望む、裕福な下層民であるという事情。 第二の可能性。すなわち── 重度の罹病により、生体の殆どを置換しなくては生存できない裕福な下層民。 下層における機関人間は、おおむね以上の理由で製造される。 年に数人の手術が成功するかどうか。その可能性も低い、というのが実情である。 ──以上。 ──クライン夫妻について。 ワタシを製造した第1級市民の夫妻である。本来、彼らは下層第1層の、すなわち富裕層の市民であった。 しかし。ワタシの製造を境に、彼らは私有財産の殆どを売却している。 その売却額は、記録されているワタシの製造費用と同一。 この数字の一致についてはワタシは詳細な情報を持たない。 ……情報を、持たない。 ……ワタシは、何も知らない。 ……知らない。 ──都市摩天楼とは。 都市インガノックの下層の中でも、最も上層に近い高度に位置する層プレート。高度としては上層階段公園群とほぼ同じか。 この層は高層建築群で構成されている。西亨の一都市であるマンハッタンをモデルにしていると言われるが、詳細不明。 かつてはアーコロジー都市計画の要として建造されていたが、10年前の災厄のため幾つかの高層建築は途中放棄されている。 現在は、都市管理部による行政区並びに都市全土の機関エネルギー管理区として稼働している。 機関エネルギーを利用した情報ネットワーク中枢としての側面もある。 巨大機関によって発生させた莫大な機関エネルギーを下層各部へと配分する、まさしく都市の心臓部と呼べるだろう。 現存する高層建築の多くは、巨大な計算機関であるとも言われる。 都市の中でも有数の大商会、企業は摩天楼に高層建築という名の城を有し、己の権勢を誇る。 ──書庫ビルディングのハッカー情報。 ──その1。 ──まず、機関接続とは。 接続用数秘機関を肉体に埋め込むことで得られる、計算機関や情報機関と同調し、各種の情報を引きだす機能。 計算機関などに手を触れて、意識を数秘機関に集中することで機能が起動する。 初級の接続用数秘機関はごく小さなものを頭脳(後頭葉)に埋め込むもので、手術痕は髪に隠れるため殆どわからない。 下層の人間の多くは闇医師に金を積み、手術失敗による命の危険と引き替えに、機関工場の生産力を幾らか向上させている。 上層によって禁じられた“上級”の数秘機関については、脳の一部を置換する大手術が必要となる。 失敗による死亡率が極めて高い手術だが、もしも手術に成功すれば── その人間は多くの計算機関を瞬時に操り、超人的な情報処理能力を得られるだろう。 しかし、頭脳置換の手術を成功させられる腕を持った闇医者を探すのは、手術を成功させる以上の困難を極めるだろう。 その困難を乗り越えた者だけが、ハッカーと呼ばれる。 ハッカー。それは情報専門の荒事屋の一種である。 都市を駆けめぐる機関エネルギー情報網。これに接続し、干渉し、各々の情報書庫に遠隔接触するのである。 都市管理部、企業、商会、機関工場。ハッカーはあらゆる情報書庫に侵入できる。 望むままの情報を得ることができるのだ。勿論、危険は常につきまとう。 違法に接触を図る何者かを自動的に灼き消す、機関エネルギー操作装置も既に開発されているからだ。 ……しかし、それでも。 多量の情報を蓄積した大型機関内の情報書庫(俗に情報空間とも呼ばれる)は、彼らハッカーにとっては宝の待つ部屋だ。 あらゆる情報は金、シリングとなる。故に日夜、ハッカーたちは“灼き器”をかいくぐって情報を漁る。 企業間闘争においても、ハッカーは重要な位置を占める。 熟達した接続ハッカーは、重火器以上の脅威だとさえ呼ばれるのだ。敵対企業の見取り図は襲撃に欠かせない。 現在、下層の路地で名の通るハッカーはおよそ10名前後。数式使いよりも少ない人数だろう。 ちなみに、ハッカーと呼ばれる者の全員は、特2級の指名手配犯である。 ──書庫ビルディングのハッカー情報。 ──その2。 ──情報空間のクリッター。 ──クリッター・バンダースナッチ。 情報空間では無類の強靱さを誇るハッカーたちにとっての恐怖の存在である。 それは肉体を持たないクリッターである。血と肉と骨を有する体を持たない。 バンダースナッチの名の由来は、西享の物語に登場する凶暴な肉食獣である。ドラゴンに匹敵する恐ろしい存在だという。 記録によれば、10年前の«復活»の際に都市各所で多大な被害をもたらしたとある。 情報空間に接続できる者であれば、運が良ければ(悪ければ)その姿を目にすることができるだろう。 バンダースナッチの頭蓋には、8本の長方形型の歯がある。指は長く3本で、爪は鋭いが長くはない。 首がにょきりと長く、長細い体と尾を有し、両翼さえ持つが、ドラゴンほどの勇壮さは有していない。 歪んで戯画化されたドラゴンと言うべきか。ある意味ではそれよりも恐ろしいが。 バンダースナッチは情報空間を食い荒らす。機関エネルギーを寸断し、ネットワークを好きに操ることができる。 10年前には、このクリッターは多くの大事故を引き起こして人を苦しめた。 ハッカーたちの噂によれば、現在に至って、このクリッターは趣向を変えたのだという。事故も爆破もやめたのだとか。 バンダースナッチが現在興味を向けるのは、人間の精神について。 精緻でありながら脆いそれを、追いつめ破壊することを、楽しんでいる── ──そう、ハッカーたちは囁いている。 ──書庫ビルディングのハッカー情報。 ──その3。 ──根源存在について。 とある伝説のハッカーがいた。名前はケイスともKとも伝えられている。 彼は上層貴族の情報書庫に潜り込み、あろうことか大公爵の情報に触れたという。 翌日。ケイスともKとも呼ばれた男は、自宅前で消し炭になっているところを街路の不法居住者に発見された。 そのケイスともKとも呼ばれた男。彼の残した最期の言葉。 “誰も信じるな” “根源たるもの” “真実はそこにある” ……たった、これだけ。 この言葉は荒事屋たちの間ではちょっとした話題になった。 伝説の男が大公爵の秘密に触れて死んだ。センセーショナルな響きの事件だった。 この言葉の中の2行目。根源たるもの。 これは現在では«根源存在»と呼ばれる。都市インガノックの中枢であるとも、大公爵そのものであるとも言われるが……。 なにぶん伝聞を元にしている上に、人によって意味を違えて話すために、この名はあまり浸透しているとは言えない。 ──クリッター現象について。 これは10年前に一瞬だけ存在していた、クリッター学において提唱された説である。 すなわち«復活»によって出現した41体のクリッターは生物などではなく、現象の一種に過ぎないと捉える説である。 情報空間にすら存在するクリッターは、人を害する現象そのもの。 この考え方は当時でこそ拒絶されたが、現在では一般的情報として浸透している。 ──«奇械»の謎について。 謎とはいっても、おとぎ話の存在である。元来多くが語られているものではない。 謎というのはその特徴である。目がないであるとか、安らぐ音楽が好きであるとか……。 ……クリッターを滅ぼせるであるとか。 人々の願いを受けて生まれたおとぎ話。それが彼らの発生源なのだろうか。 もしもそうであれば、クリッターを撃破できる理由も納得できる。 ……だが、本当に。本当に、そう言えるのだろうか? ──根源存在並びに4人の«奪われた者»。 これはハッカーの間にのみ伝えられる、一般の市民や荒事屋は知らない噂話。 “根源存在は実在する” “4つの«奪われた者»を侍らせて” “最も高い場所で笑っているんだ” ハッカーたちは時折、この言葉を口にするものの。 意味を理解する者はいない。彼ら自身、何を言ったのかわかっていない。 ……そう。わかっていない。……まだ、誰も。 ……最後に涙をこぼした自覚。それは、サレムが炎に消えたあの日。 キーアと出会ってすぐのこと。涙は、溢れて。 この10年で、僕は、他の人々と同じく無限の涙に溺れながら日々を生きてきた。 既に失ったはずだった。流せるものなど。 失ったものは多すぎた。人は、あの日、無限の悲鳴に包まれて。 僕の失ったものは、体の熱と──睡眠と食に関する欲求と。そして、そう、涙だった。 けれど。けれども僕は、涙を溢れされて。 ……そして“彼”の存在を得た。……僕のこの手に、今は、鋼の“彼”が。 これで何ができるのか、わからない。それでも── この手の届く人々へ、僕は、差し伸べることを止めはしない。 絶対に。絶対にだ。 ……ゴーレム。この名を、僕は知っている。 41のクリッターの1体。熱死の殺意。名の由来は西亨の一地方である古カナアンに由来する泥人形だという。 人間を模して作られた泥人形。動作を止めるには、記された文字を一文字だけ削り取ることだというが。 クリッターであるゴーレムは、カナアン泥人形のその特徴を継がなかった。上層兵で構成された師団が、壊滅したのだ。 文字を削るべくさまざまな手段を講じた上層兵師団は、ゴーレムの高熱によって灰燼と化した。 ……5年前のことだ。あれは、ひどい惨事だった。 現在では復興が進んでいるけれど、5年前にゴーレムが活動した層の周辺は灼熱のマグマの海となり、熱死を撒いた。 クリッター・ゴーレムは熱を有する。それ故か、水源付近での目撃例が多い。 ゴーレムは総数33体が存在しており、5年前の惨事を起こしたのは中でも最大の個体だったという説もある。 最大の個体は、最大の被害をもたらしたという訳だ。 絶望的なあの“災害”で、最低1万、最大で10万の人々が消えた。 もしも、僕がまともな睡眠を得て、過去を明瞭に呼び覚ませる夢を見たなら。きっと……。 あの惨事が、浮かび上がるだろう。そう思えるほどに、あれは、酷かった。 ……僕は、無力か。 この僕はあまりに無力だ。誰かへ差し伸べるこの手に、力はない。 力に焦がれることはある。アティの熱は、僕にはとても眩しくて。スタニスワフの気迫には、圧倒される。 けれど、これが僕だ。どうしようもなく弱い人間。無力で、何をも残せない男。 ──ポルシオン。──王の左手と炎の右手を持つ鋼。 鋼の“彼”でさえ、僕の力ではない。あれはきっと、力ではない。 あれに関する知識など何もないのに、漠然とそう思う。 たったひとつのおとぎ話。都市インガノックに残された、最後の。人に、«美しいもの»をもたらすもの。 ……そんなことができるとは思わない。僕には、ひとつだけだ。 この手を。 ただ、ただ、前へ── ……ギー。あたしを助けてくれた、お医者さま。 暗がりに鎖で繋がれていたキーアを、ギーは助けてくれたの。 魔法使いのお医者さま。素敵なギー。 不親切なようだけど、本当はとっても優しいところが好き。 毎日、毎日、色んなところへ出掛けて。巡回医師のお仕事をする彼の背中が好き。 髪の毛はもっと綺麗に切ったほうがいいと思うのだけど、あんな風にぼさぼさなのも、好き。 ギーの、優しい目が好き。子供たちと話している時の彼が好き。 ……誰かのために泣いた彼が、好き。 ……きっと忘れない。あの日、あの時のギーの瞳を。 だって、あの時の、ギーは……。……とても……。 ……うん。 ……ギーのことは大好きだけれど。嫌いなところだってあるわ。 どんなに腕によりをかけて作っても、お料理にはちっとも手をつけないの。そんなギーが嫌い。 シャワー室にまだキーアがいるのに気付かずにドアを開けて、顔を赤らめもしないギーが嫌い。 コーヒーを朝食と言い張るギーが嫌い。栄養が偏ります。 キーアを子供扱いするギーが嫌い。失礼しちゃうわ。 ……眠ろうとしないギーが嫌い。 ……本当は優しい目をしてるのに。たまに、ひどく怖い目をするギーが嫌い。 ……本当はそんな風に思わないのに。冷たいことを言ってしまうギーが嫌い。 でも。ギーのことが好き。 ……あの子の呼ぶ声が聞こえる。 気のせいだと決めつけても、声は響いていて。 そんな時、ギーの服の裾を握るの。胸があたたかくなるから。 素敵な魔法使いのお医者さま。あなたは、あの子に……。 ……ギー。あなたは、あの子に……。 空の暗さをあたしは知ってる。誰もがそう。あの灰色雲。 排煙が立ちこめるどんよりとした景色。それが空。他には何もないのさ。 いつだって変わらない。夜だってそう、暗いけど排煙が見える。 ……あたしは思う。あの空ってやつは、ギーによく似てる。 すごく似てる。そう言ったらキーアは変な顔をした。 でも、あたしにはそう見えるのさ。灰色の空は暗いけど、その向こうはきっと輝いてるんだ。 そう、与太話。あたしだって“太陽”なんて信じない。輝く赤い炎なんて、空にある訳ない。 でもさ。ギーなら……。 そういうことも、あるかもしれない。そう思うのさ。 ……笑っちゃうさね。 荒事屋の仕事にも色々ある。ハックにスラッシュだけじゃないのさ。 たまには男をひっかけるなんてふざけた真似をしなきゃいけないこともあったり、なかったり、あったりもする。 年に1回くらいは、そんな仕事の日がある。 向いてない。全然、そういうのは向いてない。 ハックとスラッシュが一番いい。おめかししたって、野良猫は野良猫さ。 ひっかける男は大抵はごろつきだし。金があろうとなかろうと、中産層だろうと下層だろうと、さ。 ろくでもない男ばっかり。ま、お似合いなのかも知れないけど。 こっちはいい迷惑さ。そういう仕事は、ほら、その……。貞操の危機ってやつが、あるから。 ……ま、ね。 いざとなったら爪が唸るだけさ。それで、今のところなんとかなってる。 あたしの相手をしたいなら、医療用の現象数式のひとつも使えて、金にならない巡回稼業でもしなきゃ。 ……別に、誰のことでもないけど。 ……10年前のこと。 実は、殆ど覚えていない。あたしは機関工場に立ち尽くしてた。 あそこで、あたしは……。何をしてたんだろう。 顔も思い出せない両親は、あの日に死んだと聞いているけど。 あの日……。確か、大きな事故が上層階段で……。 パパとママの顔は覚えてない。気付いた時には、お爺ちゃんがいたから。 お爺ちゃんは腕利きの漁師さん。雨の日だって平気で漁に出かけて行って、うんとおいしいオニオコゼを捕ってくる。 オニオコゼのからあげ。お爺ちゃんの得意な料理。大好き。 オニオコゼのおさしみ。お爺ちゃんの得意な料理。大好き。 お爺ちゃんはあちしたちの自慢。いつでも元気で、強くて、第2水源区の漁師のみんなから慕われて。 お爺ちゃんはほんとに凄いひとだわ。都市行政から表彰だってされたりしてて。 だからあちしたちは平気。パパもママもいなくたって平気だわ。 あちしたちはいつも元気。お爺ちゃんがいるんだもの、元気だわ。 情報屋になったのだって、お爺ちゃんが面倒みてくれたから。 パパとママを探すために、あちしたちが言った我が侭だったのに。 お爺ちゃんは認めてくれて。スタニスワフの亀爺に頭まで下げて。 あちしたちのぜんぶ、ぜんぶ。お爺ちゃんがいてくれたおかげ。 なのに……。 どうして……。 どうしてお爺ちゃん、病気になったの……。まだパパもママも見つけてないのに。 まだ、プレゼント……。渡せてないのに……。 お爺ちゃん……。 何のお話だったのかしら。お爺ちゃんが、ずっと前に話してくれた。 お爺ちゃんがずっと前に話してくれたわ。あちしたちが生まれる前のこと。 ずっと、ずーっと前のこと。 10年前よりももっと昔のこと。不思議な生き物は水の中にいたんだって。 お爺ちゃんは言ったの。10年前のあれこれは、それが見えるようになっただけだって。 不思議な生き物。どんなものだろうってあちしたち、いろんなものを想像して騒いだわ。 水の中でも錆びない溺れない都市精霊。水をすいすい泳ぐ«猫虎»。 ずぶ濡れで風邪を引いたバーゲスト。 いろんなものを言ったけど……。 お爺ちゃんはこう言うの。ぜんぶぜんぶハズレだな、って。 正解は……。 何だったのかしら……。 キーアとギーって、ちょっと変。だってそう思わない? あの組み合わせは、ちょっと変。だってそう思わない? ずるい!キーアはあちしたちとそんなには変わらない年齢だと、思うのにぃ。 だって!あの子ったら男と同棲してるのよ!そんなに若くないけど、男と同棲! でも、どうなのかしら……。大人っぽいのがちょっと悔しいわね。 本人は大人だって言ってるのね。なんとかして情報を手に入れたいけど、あの子の情報は特1級クラスの機密並。 おませさんなキーアめ……。 いつかぎゃふんと言わせて……。 いつか、絶対謎を解いてやるわ。 あの子はどこの何者なのか。わかったら、言いふらしちゃおうかしら。 ……。 ……。 ……言いふらすのはないわね。 ……言いふらすのはないわよ。 ……さがしているの。 さがしもの。 あたし、さがしてる。ずっとずっと。 ずっとまえに、みつけたの。 でも……。 ながい時が、たったから。 ……わからない。 もう、わからない……。 どんなすがたに、なってるの。 どんな声に、なってるの。 ……さがしているの。 ……さがしもの……。 ……おぼえていたこと。 たくさんのあわと、たくさんのみずと。 ……ううん。 おもいだせない。“かたち”をもらったの、このまえだから。 ずっとずっとまえ、おぼえてたのに。 たくさんのあわと……。 たくさんのあわ……。 すきになったの……。あの子……。 たくさん、わすれたけど……。 ひとつだけ。 やくそく、わすれない。 ──クリッターとは。 都市インガノックに現出した、凶暴な歪んだ異形41体。 人間を害することを目的として存在する。人々はこれらを“災害”として扱う。生物として捉える者はいない。 物理手段で打ち倒すことができない以上、そうする他にないからだ。 おとぎ話の幻想生物たちの姿を模したクリッターたちは、人間を害するようにと、何者かによって定められていると言われる。 通常の幻想生物たちとの違いは、体のどこかにあるゼンマイ捻子。クリッターの体には必ずそれがある。 体長3m〜20mの大型であり、特定の弱点以外の物理的な破壊力は決してクリッターの体を傷つけない。 恐慌の声と呼ばれる、人間の精神を硬直させる音を放つ。別名を、“クリッター・ボイス”。 正確性は不明だが、ここ5年間、姿を消していたと噂される。一部を除くクリッター大半が、である。 数秘機関を全身に埋め込んだ強力な機関人間を多量に投入すれば、辛うじて活動を一時的に停止させることもできる。 ……ただし、小さな個体に限るが。 ごく一部の小型個体は完全に“討伐された”と伝えられるが、詳細不明。 ──機関(エンジン)とは。 あらゆる機械の動力であり、高度な演算を果たす計算機であり、情報処理機でもある、«既知世界»全土における文明の要。 現在では世界と隔絶されているインガノックとはいえ、例外ではない。機関は都市各層のあちこちに顔を出す。 これらはすべて外燃機関であり、大型であればあるほど出力を増す。 貴族の邸宅や機関工場、大商家には大型〜中型まで機関設置が認められている。 一般の臣民や市民のレベルになると、小型の機関が各戸にひとつずつ存在する、という形の他に── 都市行政が運営する各層の大機関から導力管を引いてエネルギーを利用する形式も、ここ近年では一般的である。 ──«復活»とは。 連合歴533年12月25日、都市インガノックを襲った異常現象である。 地下大機関は荒ぶるドラゴンの住処となり、都市の各層には妖精や幻獣、異常植物など無数の幻想生物がはびこった。 生き延びた下層の人々のうち多くが異形の姿へと変じ、恐るべきクリッターが跋扈し、無力なる人々を襲う── 被害者数は最大で数万とも、数十万とも。 10年の月日を経た現在では、多くの犠牲と知恵によって幻想生物たちと辛うじての共存を果たしている状態にある。 41体の大型異形“クリッター”から逃れ、生きるための領域を確保し、失われつつあった機関文明を現在は瀬戸際で維持している。 また、現象数式や数秘機関など、独自の技術を発展させる契機ともなった。 ──«異形都市»インガノックとは。 ここ«既知世界»東大陸南端部に位置する、王侯連合の大型機関都市である。 ひとつの巨大な城のようにも見える、アーコロジー都市計画に基づいて建造されていた多層環境型都市であった。 幾層もに連なった巨大構造体であり、擁する人民は100万を超える。 北央歴2206年にして連合歴533年12月25日── 爆発的に発生した«無限霧»に包まれて外部との接触が不可能となってしまった。 恐ろしい霧に包まれて、都市は異形のものに変化してしまったのだ。«既知世界»における空や海と同じように。 ……周辺地域の人々は、かつての都市との接触を諦めてしまった。 王侯連合は、既にインガノックを「連合非所属の廃墟」として定めたという。 ──«既知世界»とは。 蒸気機関のもたらす繁栄に満ちながらも、暗い灰色の空と海に覆われた世界。 太陽も星々も、時折、排煙と雲とが混ざり合った灰色の空の片隅に姿を覗かせるだけである。 この世界での“晴天”とは排煙の厚みが“比較的薄い”状態を指す。 世界地図には3つの大陸、北央大陸、東大陸、東南大陸が記載されているが、極点地域の詳細は判明していない。 北西部は«ロマール海»に、南方部は«世界の水殻»によって行く手を遮られており、世界地図の作成は難航中。 世界が“惑星”という巨大な楕円球体だということは実証されているものの── 3つの大陸を有する暗い世界以外、そこに住む人々は世界を知らない。 超大国である北央帝国及び王侯連合では、惑星としての世界地図を完成させることを禁忌としている。 «既知世界»とはつまるところ、惑星のほんの一部ではあるが、面積は西享(地球)とほぼ同一か、それ以上。 赤道の存在は確認されていない。 ──現象数式について。 10年前の«復活»であらゆる幻想が現出したインガノックで生み出された力。 他の«既知世界»では存在しない、隔絶されたインガノック独自の技術である。 都市に満ちた«復活»の理由と原因を研究していた大公爵アステアによって発見された怪理論である。 ある種の«数式»を理解することで、脳裏に描くことで、おとぎ話に登場する“魔法”にも似た現象を操ることになる。 熟達すれば──火器を超える破壊の高熱炎を操ることも、欠損した肉体を治癒することさえも可能。 しかし、複雑で奇怪なアステア理論を習得できる人間はごく一部であり、使用者は都市人口の1%にさえ満たない。 必要な素養として、大脳の変異が挙げられているものの、実例が多くないため詳細は未だ不明。 ──数秘機関について。 現象数式を用いることで成立した、人体置換もしくは埋め込み式の機関機械。 他の«既知世界»では存在しない、隔絶されたインガノック独自の機関機械。 肉体変異の罹病者のための義肢として開発されたが、現在では応用が進み、頭脳や身体を強化することが可能となった。 下層の人間の多くは、幻想生物に襲われて失った四肢や、変異した肉体をこの機関に置換している。 この置換手術や埋め込み手術を、俗に“機関化”と呼ぶ場合もあるという。 中には、利便性のために自ら機関化する下層民も存在するが── 生命と精神の危険が非常に高いとされる“40%以上の肉体の機関化”例は少ない。 戦闘用として開発された数秘機関の義肢や内蔵武器を埋め込む、荒事屋(ランナー)には“機関化”した者が多い。 全身を機関化した“機関人間”ともなれば、大型の幻想生物すら殲滅できると噂される。しかし── 頭脳と精神へもたらされる負荷は凄まじく、置換手術の成功例は未だ記録されていない。 一部の人々は、この技術を「サイバネティクス」と呼ぶ。 ──幻想人種とは。 幻想の異人種とも呼ばれる。本来は人間であったものの、«復活»の影響によって肉体が変異した人々を指す。 インガノックの住民の殆どが大なり小なりの変異を発症させているため、狭義では「インガノック市民」全体を指す。 大きな変異で外見が人間から離れた人々を指すことが一般的である。 異人とも呼ばれるが、これは上層から下層民に対して呼びかけられる言葉で、多分に差別的ニュアンスを含んでいる。 下層の人々がその名を使うことは殆どなく、種族の名を指す«猫虎»«虫蟲»«蜥蜴»などの言葉を用いるのが一般的である。 ──幻想生物(モンスター)とは。 幻想の異人種でも、クリッターでもない、おとぎ話の妖精や精霊にも似た生物たち。神秘生物とも呼ばれる。 工場から希にポンと生み出される機関精霊も幻想生物の一種であるが、 インガノック下層のあちこちに棲息する。基本的には動物と同じであるため、撃退することも、手なづけることも可能。 ──弱い個体であれば、の話だが。 もしも強力な個体となれば、出現域は多大な被害を被ることとなるだろう。 下層の数字の多い層、特に最下層には強力な幻想生物が多数棲息している。 荒事屋の護衛を付けていない限り、ふらりと最下層に迷い込んだとしたらたちまちのうちに命を落とすことになる。 ……マグダルの症状は明らかだ。 現象数式の“右目”で視る限り、彼女の肉体は健康と呼べるものだろう。 問題の症状は、対話テストによって明らかになった。 現在という時間感覚の喪失。極度の多幸感と、特徴的な記憶の混乱。 ……そして、色彩感覚の異常。 アムネロール中毒の症状だ。人によってはここから極度の興奮状態か、肉体の変異すら引き起こすことさえある。 手を打つ必要がある。だが……。 彼女は、突然豹変した。それまでは現実そのものを認識していたが、ともすれば彼女は、もう── 現実と、妄想状態の区別がつかなくなっている、のか? ……«奇械憑き»という言葉がある。 人は«奇械»のおとぎ話の続きだという。悲しく恐ろしい夢の続き。 美しい何かを求めたがために、または求めなかったがために、狂ってしまった悲しい«奇械»使いの話。 «奇械»を頼りすぎたがために、«奇械»を無視してしまったがために、狂ってしまった悲しい«奇械»使いの話。 詳しい話はない。誰も、それを知らないからだ。 ……もしもそれが現実ならば。僕は、どちらだろうか。 今やこの僕は«奇械憑き»なのか。それとも«奇械»と共に在るのか。 ……僕には、わからない。 ……«奇械»の記憶。 背後の“彼”は音ではない声で、時折僕に話し掛けてくる。 それは僕にしか聞こえない声だ。僕にしか届かない言葉。 背後の“彼”には意識があるのだろうか。自我のようなものが。 僕にはわからない。ただ“彼”は僕の背後に佇んで、時折、言葉を放つだけで。 もしも“彼”に意思や自我があるのなら。記憶を有しているのだろうか。 僕の背後に佇む前の記憶。僕より前に共に在ったかも知れない、誰かの背後にいた頃の記憶。 ……どうなのだろう。わからない。 だが、僕は思う。僕の背後に立つ“彼”は、ひどく純粋だ。 たとえば、そう。生まれたばかりの赤子のように。 ……私の夫は、下層第9層の鉱夫だった。とても明るくて朗らかで、私を愛してくれた人だった。 第5層出身の私とは身分違いだ、なんて信じられないことを言っていたっけ。 冗談交じりにそう言っては、笑うの。明るく。 ……でも、死んでしまった。私に何の言葉も残さずに、ひとりで。 鉱山の崩落事故だったのだと聞いている。夫は同僚たちを助けた後、要救助者を探しに行って、死んだ。 信じられなかった。彼は、普通の人ではなかったのに。 ……そう。普通じゃなかった。あの人は。 私に気付かれていないと思っていたのか、彼が口にしたことは一度もないけれど。 彼の背後には……いつも……。見えるようで見えない、不思議な影がいて。 私は、おとぎ話の«奇械»の話を思い出したけれど……。 彼にそれとなく尋ねても、彼は、ヨハンは明るく笑うだけだった。 ……どうして。……どうして死んでしまったの、ヨハン。 ……私を、ひとりに、しないで。 ……私の息子。ペドロ。 夫に似て、明るく笑う顔が可愛くて、風が吹いただけでも喜んでいたっけ。可愛い子。 年の頃は……そう、あの子よりは下だった。あの、キーアという少女よりもずっと。 ……キーアは、子供というには、もう無理があるかな。 最近、私は幼い子供の姿を見ていない。阿片窟と自宅を行き来する他には、薄暗い路地裏に佇むだけの私には。 ペドロ。あなたがもしも生き返ってくれても、私はあなたに会えない。 こんなにもくすんでしまった私。あなたは、ママと呼んでくれないよね。 ……ヨハンが死んだ後。ドラッグで発狂した幻想人種に襲われて、殺されてしまったあなた。ペドロ。 ……どうして、ふたりとも。 ……私を置いていってしまうの。 ……既に、見失っているのかも知れない。生きる術のすべてを。 息子を奪ったドラッグ。新型ドラッグ、アムネロール。 それを、私は打たずにはいられない。初めは、息子を奪ったものを集めて、焼き捨ててやろうと思っただけだったのに。 ……今ではもう。あれがないと、私は駄目。 あれの見せてくれる夢だけが、私の“現在”を忘れさせてくれる薬だけが、私の拠り所。 こんな私に。息子を奪ったものに溺れる私に。生きている意味なんて、ない。 ……そう思っていた。 ……そう思っていたのに。 希望は私の前に現れてくれた。手紙が、届いたの。 あのひとからの手紙。見知った筆跡に、見知った文章。 それは、間違いなくヨハンからの手紙。私宛てに、毎日、届くの。 ……死んだはずのあなた。……本当は、生きていたのね。 私は歓喜に震えて明日を待つようになった。アムネロールを打つ量も減って。 ……私は思い出さないようにする。 あなたの死。ヨハン。あなたの死体を、あたしは検分したの。 ……でも、嘘よね。嘘。きっと何かの間違い。 ……手紙は、今日も私に届くのだから。 ……マグダル。 俺はその名前を覚えている。忘れることなどない。 ああ、マグダル。マグダル。俺の愛したきみよ。 きみが立たされている状況を耳にした。俺には、どうしても耐えられない。 俺は、僕であって、既に俺なのだ。この体をきみのために使うと俺は決めた。 僕はあまりよくわからないけれど、俺がそう決めたことをしようと思う。 マグダル、待っていてくれ。この体と背後の“彼”を完全に俺が得た時。 俺はきみを迎えに行こう。俺は、完全に俺を取り戻して── ──きみの夫であった俺へと戻るのだ。 ……«奇械»とは。 それは背後に立つ“彼”だ。かつて俺の体がもっと大きかった頃に、確かに俺と共にあった尊い友だ。 都市唯一のおとぎ話。人に美しい何かをもたらすもの。 だが、俺はそうしようとはしなかった。俺には息子とマグダルがいたから。 俺は“彼”に何も頼まなかった。求めるものなどなかった。 欲を言えばより良い暮らし、シリングに困らない日常が欲しかった。 だが、それは“彼”に言うべきではない。背後の“彼”はあまりに無垢だから。 だから俺は“彼”に頼まなかった。最後の時を除いて。 ……最後の時。 炭鉱が崩れて、生き埋めになった時。俺は、窒息しかけた彼らを── ──放ってはおけなかった。 だから“彼”に頼んだ。どうかこいつらを助けてやってくれと。 ……引き替えに俺は死んだ。 生き延びたあいつらは、泣きながら俺に礼を言っていたっけか。 いつも炭のかけらで黒くなった仏頂面、何を考えているかわからない顔。他人を見ない、気にしない── ──あいつらの顔。俺たちの顔。 ──それが、泣いてたんだ。 驚いたね、実際のところ。 ……確か、それが、俺の最後の記憶だ。背後の“彼”が記録した、俺の記憶だ。 ……俺の記憶。 今現在俺が有している記憶、僕を埋めようとしているこの記憶は。 マグダルを求める記憶は……。 背後の“彼”が記録してくれた記憶だ。死んだはずの俺の記憶を留めていた。 そして僕にそれを植え付けた。いや、植え付けたんじゃない。芽吹いたんだ。 僕の中に俺が芽吹いた。それは、とても自然なことだった。 ……自然、そう、自然さ。 ……俺にとっては、そうなんだ。 ……«奇械憑き»か。 哀れで愚かな連中だ。せっかくの«奇械»を無駄にした連中。 俺にとっては俺以外の«奇械»使いの殆どは«奇械憑き»と言える。 力の使い方を知らない。力の意味を知ろうとすらしない。 だから呑まれる。以前の宿主の記憶やら、自分の感情やらに。 ……俺は奴らを殺す。 それは現在の俺が俺に決めた仕事であって、何者にも邪魔はさせない。 ……マグダルとか言ったか。 あの女。あれの背後に俺には見える。 今にも出てこようとする影。あの女は、今やもう«奇械憑き»寸前だ。 ……そうだ、俺の獲物だ。殺してやるのが、せめてもの情けだ。 ……10年前に始まったあの実験。 大公爵実験。現象数式実験だったか。あれが俺に力を与える所以となった実験だ。 面識はねぇが、ありがとうよ。大層お偉い大公爵サンよ。 あれがなければ。何も始まりはしなかったんだからな。 機会をあんたは与えてくれた。それだけは本当に感謝してやるよ。 手術、投薬、祈祷に合成に接合に調整。あらゆることをあんたはやったそうだな。ありがたくて涙が出るぜ。 ……ま、言ってもあんたには無駄か。なあ、大公爵サン。 ……俺の記憶。10年前の。 他の連中と同じく俺も覚えちゃいない。だが、俺は覚えているはずだ。 忘れちまったことを覚えている。俺は、何かを忘れてる。 だが、ひとつだけは覚えている。ただひとつ。 ……忘れる訳にはいかないものを。失う訳にはいかないものを。 たったひとつだけは決して失わない。だから、俺は殺し続ける。 巡回殺人者を続けていられる。奥底から突き動かすものに逆らわない。 ……俺はわかってる。たったひとつを、覚えているだけでも。 ──10年前の崩落事故の記憶について。 10年前のその日、その時。都市すべてに«復活»という名の災厄が降り注ぐよりも少しだけ前に起きた事故。 崩落事故。それは下層のどこかで起きた。 正確に記憶している者はいない。クリッターによって大きく崩落した層プレートのことは、覚えていても。 «復活»の寸前に起きた事故のことを。今では誰も覚えていない。 断片化された記憶は«復活»のものと半ば組み合わさってしまって、万が一に覚えていたとしても── それは«復活»の時のものだと、記憶の持ち主は思うだろう。 けれども違う。事故は確かにあったのだ。 崩落事故。無数の悲鳴。こぼれ落ちていく、誰かの命が。 ──新型ドラッグの蔓延について。 新薬の流行とその危険性は叫ばれているが、流通の大元は現在に至るも判明していない。都市管理部は一切の発表をしていない。 けれども、噂があった。 新型ドラッグ・アムネロールの蔓延には、上層が関わっているという噂である。 狂死もしくは都市管理官や荒事屋によって殺害された中毒者の死体を、都市管理部の特殊検死官が回収したとの噂があった。 普通、死体の処理は決まっている。検死官などは伝染病の危険がある場合しか姿を見せないというのに。 普通は、身元のわかる死体であれば、並列葬儀組合が数多の死体と共に処分する。身元不明死体は、各層の掃除屋が清掃する。 けれども。特殊検死官の姿が確認された。 特殊検死官は、都市管理部に所属する。管理部は上層の代理管理組織である。 彼らは決して自分たちでは行動しない。行政機能の運営の一部を担うだけで、治安の維持すら行わない。 その彼らが検死官を送り出してきたのだ。本当であれば異常事態である。 故に、一部の耳聡い人々は囁く。新型ドラッグは上層がもたらしたのだと。 ──何らかの実験のために。 ──10年前の現象数式実験について。 ひとつの噂がある。上層に近い位置にある第1層での噂だ。 かの大公爵アステアが、現象数式実験で重傷を負ったという噂。それ故に、人前に姿を見せないのだと。 同じような噂には、実験で大公爵は死んだ、というものもある。現在の上層にいる閣下は影武者という訳だ。 どちらも根拠もなく信憑性も薄い。だが、どちらにも共通している部分がある。 それは実験の内容だ。 物理の法を自在に書き換える脅威のわざ。それは、およそ人智を越えている。 下層の多くの人々は“魔法”とも呼ぶ。まさしく、失ったおとぎ話のわざだと。 それを生み出すに到った現象数式実験。その過程。 無数の碩学の命を薪として、無数の鉱石と無数の宝石と無数の塩水を蒸留させ続け、やがてそれは成った、と。 無理矢理に大型計算機関を埋め込んだ大公爵の脳へと書き込まれたのだ、と。そう、噂では囁かれている。 ……真偽の程はわからない。 ……信じている者も多くはない。 囁かれる噂の中で、唯一信じられているのは── ──まだ実験は続いているという噂だけ。 ──新型ドラッグ・アムネロールについて。 新型ドラッグ・アムネロール。新式の無針注射器で静脈に注射することで効果をもたらす、下層全域に蔓延する新薬。 違法ドラッグである。ドラッグギャングを始めとする犯罪集団や、闇社会の商人たちが取り扱っているという。 投薬による効果は以下のものである。 現在という時間感覚の喪失。極度の多幸感と、特徴的な記憶の混乱。 そして、色彩感覚の異常。 異常は通常の免疫力を有した個体の場合。免疫力の高い幻想人種などはまた異なる。たとえば、以下のように。 突然発生する精神の狂乱。肉体の疲弊。内臓の極度の損傷。 もしも«熊鬼»であれば、異常体力を見せることもあるという。 ちなみに──この薬物の中毒者の死亡率は極めて高い。 狂乱して管理官や荒事屋に殺される者、内臓の損傷で死に到る者。そして、最も多いのが……。 ……自殺者である。 ──新型ドラッグの発狂者上限数について。 奇妙な統計がある。ある闇医院で気まぐれに院長が数えた結果。 新型ドラッグで発狂する中毒者の人数には、奇妙な一致があったのだ。 闇医院の院長はハッカーに依頼してこのデータを裏付けした。 やはり、統計結果は変わらなかった。すなわち── 都市下層において。1日のうちに発生する重度中毒者の人数は、つまり発狂者の数は、必ず41である、と。 毎日、毎日。どこかで41人の中毒者が発狂している。 ……41人。 「きみは、どうするの」 「ギー。きみは、どうするの」 「その子を、どうするの」 「傷つけるの?」 「それとも──」 ……クルツ・ヒラム・アビフ。 彼の言葉に僕は驚きを隠せない。大公爵府から送られてくるという薬。それは、まさか。 噂は、真実であったのか。アムネロールの流出源がどこなのか。 そして、彼の背後に現れたというもの。それは、僕の背後の“彼”と同一か。 ふたつを繋ぎ合わせるのなら。大公爵が行おうとしているのは── 背後に佇む“彼ら”を── ……クルツ氏とサラ嬢。 ふたりを見ていると、キーアの言葉通りの言葉が浮かぶ。 まるで王子と姫。失われたおとぎ話の登場人物。 それは、この10年間で僕は想像すらしなかったものだ。 上層貴族に対する総合的な憤りの感情。搾取する彼らへの想いであるとか、虐げられる下層の想いであるとか。 そういったことを、僕は、ふたりを前にして思い浮かべない。 ただ、こう思うのだ。微笑ましいと。 ……だが、それは既に蝕まれている。何者かの手によって。下層の多くの人々がそうであるように。 ……何者か。 それは、都市の支配者か。無貌の王。 ……大公爵アステア。 ……下層第1層で流れている噂。 僕は耳にしていた。それは、どんな根拠があるのか不明の噂。現象数式実験が今も続いているという噂。 聞いた時は別段気にしていなかった。特に、何も。 もたらされるものを僕は想像していた。新型の現象数式であるとか。新型の数秘機関であるとか。 ……けれど、違う。 大公爵の手で行われている行為。それが、本当に何かの実験であるのなら。 それは……。 背後に佇む“彼ら”を引き出す実験か。現象数式実験などではなく。 ……いいや。構いはしない。どんな実験でも僕は構いはしない。 大切なことはただひとつだ。大公爵。 あなたは、自分の目的のために。誰かの命を弄ぶのか。 あなたが彼らと“彼ら”を弄ぶのなら。僕は── 僕は── ……誰かが誰かを好きになるということ。あたしは、それまで知らなかった。 そんなもの。色恋沙汰なんて。 下らないと思っていたし、興味はなかった。10年前のダイムノベルの中の出来事か、下層民の獣じみた発情の一種だと思って。 だから、驚いた。あたしが、彼を好きになったとき。 何歳の頃だろう。確か、10歳ぐらいだったはず。 父からあたしに与えられた小さな邸宅の、造りだけは綺麗な庭園で。彼と出会って。 下級貴族の嫡子という紹介、策略だった。あたしと引き合わせることで、センケンネル家の権力の傘に入るための。 そんな見え透いた手に、引っかかるはずはないと思ってた。 ……一目見て、もう、あたしは。好きになっていた。 ……クルツのことを。 優しい彼、穏やかな瞳と言葉。あたしよりも多くの知識を持っていて、彼の話はとても楽しくて。 その日が終わる頃にはもう、どうしようもないほど、好きになって。 ……それからだ。 あたしが、弱みを持ってしまったのは。ただひとつの弱み。 でも、誰にも見せないようにしてきた。誰も知らないはず。 ……それでうまくいくと思っていた。インガノックという世界の過酷さを、あたしは他人事に捉えていて。 他の貴族たちと同じに。自分だけは、大丈夫なはずだと。 そんなあたしへの、これは罰なの?クルツを……。 ……クルツを、奪わないで……。お願い……。 ……クルツはあたしに隠している。病気のこと。 ただの疲労なんかじゃない。もう3年もベッドの上にいるなんて。 あたしも今まで黙っていた訳じゃなかった。打てる手は、打ったはずだったのに。 考え得る限り最高の医師を用意して、クルツを診て貰った。 センケンネル家お抱えの貴族医にも、第2層や第1層で評判の医院にも、莫大な報酬を求めてくる数式医にだって。 ……でも、駄目だった。全員。 口を揃えて「疲労ですね」と言って。素人目にも、嘘だとわかった。 ……下層第7層の巡回医師に依頼した、この今になって、ようやく理解した。 何かの圧力がかかっていたということ。あたしの回した手は、すべて、誰かに見張られていたということ。 ……誰? もう、弱みだなんてあたしは気にしない。一体誰が、あたしを邪魔するのか。 誰が……クルツを苦しめているのか。予想だけなら、できる。 調査しようとしても無理だった。手配した部下も、企業調査員もすべて。一様に「何もありません」と口を揃えて。 逆に、あたしは予想する。そんなことができる人物を。 一語一句まで同じ報告を行わせる、巨大な圧力のあるじ。 あたしが思い浮かべるのは、彼。都市の王。 ……大公爵。 けれど……。そんなことを彼がする理由が……。……あたしには、見当たらなくて。 もしもそうだとしても、どうすればいいのか……。 こんなにも……。 あたしは、無力で……。 ……大きな計画なのだと、私は思う。 この体に刻まれた貴族紋のことを、上級貴族で構成された都市運営委員会は防疫のための実験なのだと発表している。 貴族紋は実験ではない。それは、貴族の誰もが知っている。 ……けれど、実験はあった。 大公爵府から送られてくるこの薬。服用命令。 これは確かに実験なのだと、私は思う。背後に“別の誰か”を感じた時、私はそう確信していた。 これだ。これを導き出すために、閣下は……。 大公爵閣下のお考えは私にはわからない。遠大な深慮があるのだろうと思う。 ……それでも、私は口惜しい。 死にたくない。私は、まだ、死にたくない。 私たち貴族の暮らしが、下層の犠牲の上にあることは知っている。 無数の犠牲を、私は、きっと、呼吸するだけで強いている。 ……それでも、私は……。 まだ、生きていたい。サラと……。 ……離れたく、ない。 ……サラ。愛しいあなた。 あなたはきっと覚えていないだろう。初めて会った日のこと。 私の目に、あなたはとても眩しく映った。表情も、声も、仕草も、すべて。 私はあなたに憧れた。センケンネル家の長女という重責の中で、あなたはあまりに堂々とひとりで立って。 私にない強さを、あなたは持っている。たとえば下層に落ちたとしても── ──あなたなら大丈夫。あなたの強さは、人の持つ本来の強さだ。 だから私は憧れる。あなたの眼差し、あなたの言葉。 ……ああ、いや。いいや、どうだろう。そうなのだろうか。 これは、きっと。もっともっと単純なことなのだ。 ……私はあなたに一目惚れをしている。 ……それ以上でも、以下でもない。 ……背後に“誰か”を感じた時。 私は恐怖していた。私にとってそれは恐ろしいものだった。 言葉もなく声もなく、それはただ沈黙したまま背後にいて。 私の何かを待っているようだった。声か、それとも行動か。 私はどちらも選ばなかった。私は背後の“誰か”が去ることを待った。 ……そしてその翌日。眠ることなく夜を明かした私は、知った。 私の選択は“不正解”だったことを。大公爵閣下からの一通の手紙。 流麗な筆致で、こんなことが書かれていた── 『私の偉大なる愛の実験の中で』 『残念ながらきみは誤った』 『今までありがとう』 『さようなら』 『きみは生け贄の子羊たり得なかった』 『我が愛の果てを、きみは見ない』 ……私は、実験に失敗したのだろう。かの尊き大公爵実験に。 それでも薬は送り続けられている。恐らく自動的にそうされるのだろう。 そこに、私は人間の関与を感じなかった。別れを告げる閣下の手紙にすら。 そう……。私は感じなかった。 ……薬が届いた最初の日から。 ……人間の関与を、感じていなかった。……一切、何も。 ……貴族どもが何かを企んでいる。 そのことに気付いたのは随分と前だ。執行官だった頃にはもう、知っていた。 連中はいつも何かを覆い隠す。腐った肉を香水で誤魔化すみてえに、だ。 匂って匂って仕方ない。だから、俺は捨ててやることに決めた。 貴族どもの企みすべて。俺が潰してやる。 奴らの浅知恵程度で── ──都市を永らえさせてたまるかよ。 ──«奇械»はてめえらの玩具じゃない。 ……ここ最近のことだ。 やたら«奇械»の影を感じるようになった。それもかなりの数を、同時に、だ。 あの数式医のクソじゃねえ。他の、もっととるにたらない連中の背後に。 どうやら“上”の計画とその感覚は繋がっていたらしい。 下層に流行する新型ドラッグ。まさにこの歪む都市を体現するかのように、そいつは“現在”を消し去る幸福薬だった。 今を忘れて夢見心地、ってか?うまい皮肉だ。 ……だが。気に入らねえ。 薬で発狂する連中の背後に、たまに見える。殆どは顕現する前に消えちまうが。 薬からもたらされる純粋な狂気は、容易く«奇械»の興味を惹く。巨大で純粋な感情は、奴らを呼ぶからな。 ……ただ、まあ。 何事も、そううまくはいかねえもんだ。貴族どももせいぜい── ──いや、大公爵ひとりか?詳しくは知らねえが、ともかく上の奴の目論見は外れてたって訳だ。 ちろりと姿だけ見せても無駄だ。«奇械»は正しく顕現しない。 ま、つまるとこ。 ……全部、無駄って訳だ。 ……つまるところ、終わっちゃいない。 大公爵サマの現象数式実験とやらは、結局、今でも続いてるって訳だ。 今度のは現象数式も生み出さなかった。今度のは数秘機関も生み出さなかった。副産物は中毒者と死者だけか。 ま、宝くじを引こうってんだ。無理もねえ。 次は何をする気かねえ。あの、顔も見せねえ大公爵サマは。 ……その前に、上層の連中を潰すがな。 流石に、調子に乗りすぎだ。死は、俺が«奇械»使いに与えるものだ。 無理矢理に顕現させられた偽物を殺しても、ちっとも手応えがないんでね。 ……ひとつ、ご挨拶に行ってみるか。 ──量産型«奇械»とは。 アムネロールによって引き出されるもの。個性を持たない、大量生産品の如き姿の哀れなる«奇械»。 その名は«奇械»ザハーク。人型ではなく、大蜘蛛に似た鋼鉄の異形。 無数の複眼と8本前後の長い脚を有する。特徴は、複眼とは別に存在する巨大単眼だが、その眼は閉ざされている。 攻撃方法は放電、および、それを集束させ発振する熱線«忌まわしき暗き空»である。それは如何なる鋼をも砕く。 他の«奇械»は名前ごとに1体のみだが、この«奇械»は総数で33体が存在する。 1体は現象数式実験で顕現させたものだが、他の32体はこの10年で研究開発された人工的な«奇械»であると言える。 主にアムネロールの使用によって、宿主の背後へ強制的顕現させたものだ。 これらは単純な力しか有さない。他には何もない。 これらは確かに“可能性”ではあるが、真の意味での“可能性”ではない。 人型ではなく蜘蛛に似た姿である理由は、実験者の心理に潜む恐怖のイメージか。       (第3次現象数式実験報告書より) ──ゼンマイ螺子とは。 41体のクリッターに埋め込まれた螺子。その由来を研究した者はいない。 遭遇記録によってすべてのクリッターに螺子が存在していることがわかっただけ。他には何もわからない。 本当にわからないだろうか。それが何であるのか。 観察するだけで構わない。それは、確かに、ゼンマイ螺子だ。 ──まるで、玩具についているような。 ──大公爵実験とは。 現象数式実験を指す言葉のひとつである。上層では、主にこう呼称される。 大公爵の偉業を現す言葉であると同時に、大公爵が都市運営に対して無関心であり研究に没頭し過ぎると揶揄する意味もある。 もっとも、大公爵本人に届く言葉ではない。上級貴族でさえも── 大公爵と面会することはできない。ただ、手紙で指令を伝えられるだけで。 ──黄金螺旋階段とは。 上層における噂のひとつである。かつて大公爵実験(現象数式実験)により生み出された巨大な黄金螺旋階段があると。 それは現象数式の粋を集めて作られた、本物の黄金で作られた螺旋階段。 かつて西亨で研究された錬金術の究極。人類文明の極致を示す光の階段。 大公爵の偉大さを示すに相応しい、都市の最上部に位置する、至高の極み。 ──しかし。 ──実際にそれを目にしたものはいない。 都市の最上部、すなわち上層頂上部にあるのは、邸宅だ。支配者たる大公爵の公邸が存在するのみ。 誰も黄金螺旋階段を目にした者はいない。だが、それは噂として囁かれる。 上層貴族たちは囁くのだ。いつか、その階段を昇りきり── 王権を手にする次なる貴族が現れ、大公爵の持つすべてを引き継ぐのだ、と。 ──1人目の«奪われた者»とは。 それはひとつの輝きを得ようとした者。己の過ちを過ちと知っている者。 極みに立ち続けようとする者。己を顧みることを、忘れてしまった者。 貌を失った者。かたちさえも失った者。 今や完全な狂気へと落ちた者。愛を叫び続けながら、それを捨てた者。 かたちを保ち続けるために31の命を奪った、恐るべき者。 ──大公爵の願いとは。 現象数式実験に際して数多の碩学が倒れた。昼夜を問わず研究と実験を続ける大公爵に追いつける碩学はいなかったのだ。 大公爵に協力し補佐する者は、ひとり、ひとりと消えていったという。 そのうちのひとりの手記が後に発見された。それは。大公爵の言葉のメモだ。 ──読み取れた文章を、以下に記す。 「私は願う」 「たとえこの身を捧げようとも」 「たとえあらゆるものを犠牲としても」 「たったひとつを手に入れる」 「救わねばならない」 「暗がりはまだ早すぎる」 「あれは」 「まだ」 「生まれてすらいないのだから」 ──以上。 ──4人の«奪われた者»とは。 人のかたちを持ちながら、人ではない者たち。 人ではなく、人であったかも知れない者たち。 この都市の異形を保つ根源によって、彼らの“かたち”は保たれている。 彼らは正しく人ではなく、あらゆる物理効果は彼らには及ばない。 その在り方はクリッターとよく似ている。背後に佇む者たちとも似ている。 都市には、4人の«奪われた者»が在る。だが、それを知るのは彼ら自身のみ。 ──大公爵の娘とは。 大公爵についての多くの記録は、インガノックにおいては廃棄されている。それは上層からの命令によって行われた。 そういった記録の消去が功を成したのか。それとも別の理由があるのか。 大公爵に娘がいたということは、多くの人々に忘れ去られている。 11年前のタブロイド紙の記述によれば2級市民の男性と駆け落ちしたというが、事実かどうか定かではない。 10年前のタブロイド紙の記述によれば大公爵の娘が懐妊したと囁かれていたが、事実かどうか定かではない。 誰もが覚えていない。あの日、あの時のことを。 ──だから、大公爵の娘のことも。──覚えてはいない。 ──当然、どこに入院していたのかも。 「どうするの、ギー」 「きみは、言葉を聞いた」 「きみは、願いを聞いた」 「どうするの」 「彼の言葉と彼女の願い」 「……きみは、どうするの」 ……大公爵。都市の王。 すべての事象が彼に繋がるということを、現在の僕は理解していた。 クルツの言葉がすべてのきっかけだ。彼は、僕に伝えてくれた。 大公爵と呼ばれる人物。姿を見せずに人々を支配する無貌の王。 都市のすべてを彼の責にはしない。だが、僕の周囲の人々を── 彼らを苦しめるのがあなたであるなら。あなたは、恐らく僕の敵だ。 誰かの命を弄び続ける限り。誰かに涙をもたらす限り。 ……あなたは、僕の敵だ。 ……現象数式実験。それは、大公爵の手で成された偉業。 僕もそう信じ続けてきた。一切の疑問なく、大脳の変異を受け入れて。あなたの理論を変異した器官に刻み込んだ。 それが誤りだったとは思わない。あなたは、確かに人を救ったのだ。 だが、それは恐らく偶然に過ぎない。この現象数式と数秘機関のどちらも、ただの副産物だ。 現象数式実験の目的は……。 ……背後の彼らを顕現させること。 なぜそうするのかは、僕にはわからない。だが、僕は既に決めている。 ……僕は既に依頼されている。 ……クルツ・ヒラム・アビフから。 ……都市法の真意を僕は知る。 ただの憶測に過ぎないと人は言うだろう。だが、都市法を施行したのがあなたならば。 それが真意なのだと僕は言おう。都市法も、同じなのだと。 アムネロールを撒いたのと同じ理由で、あなたはそうしたのか。 目的のために。僕らを、下層に住む人間を費やしたのか。 ……ならば。 やはり、あなたは僕の敵なのだ。大公爵閣下。 既に都市法は完全に組み込まれている。あなたが声を発さなくとも、貴族たちに運営され続けるのだろう。 だが、それでも。 あなたを止めなくてはいけない。第3の実験を、あなたが行うよりも前に。 ……僕は、依頼されているのだから。 ワタシはキーアを見つめると決めた。それは、興味故のこと。 彼女の言葉に。彼女の視線に。ワタシは惹かれた。 視線……。すなわち、それは、あの男への視線。ギーへと向けられるキーアの視線。 そこにワタシは幾つかの感情を認識する。それは複雑に絡み合って、判別できない。 彼女が何を抱いているのか。ワタシの感覚機関は、認識しない。 ワタシは……。 あの男。ケルカンを見てしまった。彼の行動の迷いのなさと、彼の言葉に充ちた敵意とを。 彼の言葉に。彼の行動に。ワタシは、興味を抱いていた。 殺人を否定しない彼。 キーアが否定したものを許容する彼。だからこそ、ワタシは興味を抱く。 キーアの持つ尊さを、あの男はすべて否定してしまうのか。 ──それが知りたくて。 まるで、ギーを見つめるキーアのように。ワタシはケルカンを見る。 ──ワタシは自己矛盾している。 至上命令はキーアの観察だったはず。それなのに。 ワタシは、最優先事項を間違えている。あの男をなぜ優先するのか。 ワタシの認識と頭脳は正常に稼働している。それで、なぜこうなるのか。 ……壊れているのだろうか。ワタシは。 人間のように言うならば。狂っているのだろうか、ワタシは。 この都市に生きる数多の人間たちと同じように。ワタシは。 ……俺の«奇械»の力。 そいつには名がある。どうやら俺の背後の奴がつけたらしい。 名は«安らかなる死の吐息»だ。力のもたらすものをそのまま現してる。シンプルで、嫌いじゃない。 外見は黒色の影の大鎌だ。外見なんざ、ま、どうでもいいがな。 そいつで、少しだけでいい。殺したいやつに傷をつければいい。 0.5インチに満たない傷でいい。皮膚を軽く切る程度で。 ……それですぐに終わる。 ……苦しみはない。痛みもない。 クソの貴族どもには勿体ないが。ま、これも、俺の寛大な慈悲って奴だ。 ……ルアハ。妙な女だ。 あの数式医と一緒にいた女だ。別段、気にも留めちゃいなかったが。 あの目は妙に俺をざわつかせる。わずかだが、意識が向く。 どういう女なのか、気になった。あいつは死を恐れなかった。 俺が誰かを知ってなお、俺を恐れることがなかった。 ……あの女。 あれは、死を知っている目だ。一度死んだみたいな目をしていやがる。 ……妙に、気になる。 ……現象数式実験。 ……それに、あのグリム=グリムの野郎。 ふたつが繋がるものなのかと思ったのは、ただの偶然だ。大した理由じゃない。 物理とやらを歪めて操る現象数式。視界を歪めて現れる、グリム=グリム。 ……共通点があった。 ただ、それだけだ。なるほど、後は簡単だ。 どちらも同じようなもの。ならば、根も同じなんだろうさ。 グリム=グリムは否定しなかった。珍しく、消えやがった。 ……なるほどね。 ま、俺には関係のねえことだ。俺は、都市を終わらせられれば……。 ……殺してやれれば、それでいい。 ──10年前の崩落事故について。 その記録は残されていない。その記憶は誰もが失ってしまった。 それでも語るのであれば、それは夢か。夢でも構うまい。 10年前のこと。あの日、あの時のこと。 崩落事故を耳にして、大公爵は泣き叫んだ。ささやかな愛を奪うのかと慟哭した。 そしてすべてを呪った。次の瞬間には、すべてを愛すると叫んだ。 ──取り戻してみせる!──そのためならば、この身を捧げよう! ──西亨との回線を繋げ!──供与された«秘本»を使用する! ──我が理論を今こそ完成させるのだ!──物理を曲げ、摂理を我がものとする! ──愛が奪われたのならば! ──私が、この私が、復活させるまでだ! ──せめて、せめて!──生まれなかった“彼ら”だけでも!! 崩落事故直後の大公爵の言葉である。この後、彼は2年に渡る実験を開始する。 同時に、都市に«復活»が訪れる。インガノックが歪む時が。 ──黄金螺旋階段とは。 少なくとも大公爵にとって、それはただの黄金の階段ではなかった。 生け贄の子羊がそこを昇りきることが果たしてどんな意味を持つのか。それは大公爵自身にも既にわかるまい。 彼は狂気に落ちてしまった。彼が強制的に顕現させた«奇械»は、すべてザハークにしかならなかった。 そしてザハークの宿主たちは、決して黄金螺旋階段を昇ることはなかった。 故に狂ったのか。それとも。 ……既に、狂っていたのか。 ──根源存在グリム=グリムとは。 それは噂にすぎない。もしくは誰かの見る夢か幻だ。 白き死の仮面。別名は幾つもあって、数え切れない。 無数の名のひとつがグリム=グリム。西亨における童話作家の名が引用された。 その実体は……。 ケルカン以外の誰にも知られていなかった。少なくとも、その時は。 ──現象数式使いの意味とは。 変異してしまった大脳を持ち、特殊な脳内器官にアステア理論を刻み操る者。それが現象数式使いである。 都市の全人口の1%にも満たない彼らが、大公爵によって導き出された意味。 それは大公爵自身、忘れているのだろう。自分以外の他者に力を与えた意味を。 意味は、たったひとつ。都市を生き抜く力を与えたのではない。それは人々を救うためのわざではない。 実験の協力者である碩学はすべて倒れた。故に、もはや誰も止める者はいないのだ。だから公開した。 ……誰かに、引き継ぐために。 ……現象数式実験を、ではない。……そうではない。 止めるために。歪んでしまった根源を止めるために。 だが。今や、既に。大公爵はそれを覚えてはいないのだろう。 ──41の何者かとは。 都市において特別な意味を持つ数字。それこそが41。 災厄をもたらした41のクリッター。誰かの背後に佇む41の«奇械»たち。 それは決して偶然ではない。理由は在る。 大公爵は知っているはずだ。そして、黄金螺旋階段の頂上の彼も。 けれど彼らは41の声に耳を傾けない。そうすることを忘れているからだ。 ……現在。……声を聞いているのは、ひとりだけ。 ……たったひとり。……広大な都市の中で、ひとりだけ。 ──41の死因と«奇械»の能力とは。 これらの情報は散逸している。正確な比較検討は可能ではないだろう。 大公爵の手によるメモ書きだけが、唯一の比較的理解しやすい情報となる。 「焼死          «切り裂く炎の右手»」 「失血死         «安らかなる死の吐息»」 「圧死          «打ち砕く王の右手»」 「窒息死          «この胸を苛む痛み»」 「衝撃死          «忌まわしき暗き空»」 「???             «善なる左手»」 「???             «悪なる右手»」 ……以上。 ──«奇械»の意味とは。 それは、41の“彼ら”自身が探している。故に、誰もがその意味を知ることがない。 41の“彼ら”が果たして何を望むか。それは、人々に委ねられる。 ──根源の現象数式とは。 大公爵の手による現象数式実験の際、彼の脳内器官へ刻まれるはずだった、原初にして根源のアステア理論を指す言葉。 最後に倒れた碩学の残した記録によれば、都市の«復活»に深く関係するのだという。 だが、根源の現象数式は、大公爵の脳には刻印されなかった。 彼の脳に刻まれたのは第2の現象数式。会得した、ただのアステア理論。 根源の現象数式は、一体誰のどこに刻まれたのか。 記録を残した碩学は、それを知ることなく倒れた。 ……僕は認識している。キーアが来て以来、何かが変わったと。 変わらないはずの都市の風景。この10年の間に蓄積されていった、明日を夢見ることをしないこの世界。 日々目にするものは変わっていない。そのはずだ。それなのに。 ……何かが変わっている。 それは人々の声。誰かの浮かべる表情のひとつひとつ。 きっと、それは喜ばしいことなのだ。僕はそう思う。 僕はきみのようには笑えないけれど。きみを眩しいと思う気持ちを、否定しない。 ……きみの手が僕の手を掴んでいる。 ……この手を、僕は拒絶すまい。 きみの笑顔を曇らせることはすまいと。そう、思うんだ。 ……アティ。きみには謝ろう。 きみがいつも細やかに気を配っていること、僕の肉体に蓄積していく疲労と栄養の欠如、どちらにも注意してくれていること。 それらに対して、僕はきみに礼を言ったことがあったろうか。 僕は何もしていない。きみが時折求める見返りに対して、気怠げに応えるだけで── ……僕はきみに、何ができるのだろう。そんなことを考える。 この僕は何も持っていない男だ。きみにあげるものがない。 プレゼントを贈ることを考えても、きみにとって必要なものは、まず間違いなくきみ自身が既に持っている。 僕には何ができるだろう。数え切れないほどのきみからの助けを、きみへの借りを、僕は返せるだろうか。 ……。 ……駄目だ。考えても、何を贈ればいいか思いつかない。 今は、まだ。僕の頭は、まだどこか……。 ……あの幻の劇場にいるかのようで……。 ……まだ、僕は、混乱しているのか。 ……大公爵アステア。あなたは、誰かを愛していたのか。 あなたは確かに叫んでいた。誰かへの愛を。 それは尊いものなのだと僕は思った。あなたの叫びに、偽りはなかった。 ……なら、なぜだ。なぜ、あなたはそうなってしまったのだ。 あらゆる人々を苦しめるこの都市を、なぜあなたは放っておいたのか。 ……狂気ゆえか? ……都市に充ちる狂気にあなたも?……天才の頭脳を持つ、あなたが? 答える者はもういない。背後の“彼”の胸から現出した“手”は、彼の偽りの31のかたちを完全に砕いた。 大公爵アステア。あなたは、何を求めていたのか。 それほどまでに叫んで。何を、成そうとしていたのか── ──何を果たせなかったのが、それほどまでに無念であったのか。 ……アティ。都市摩天楼を駆ける黒猫さん。 あたしはアティのことが好き。綺麗な顔と黒髪が好き。抜群のぷろぽーしょんと格好いい服が好き。 雑踏街であたしを助けてくれた、アティ。都市摩天楼でも爪を振るって。 怖い怖い荒事屋さんだと言うけれど、暖かな手を繋いでくれる。 可愛いひと、アティ。どんな時も強がってみせるあなたが好き。 ギーにだけは表情が変わってしまう、でも自分は気付いていない、そんなアティのことが大好き。 あなたの黄金瞳が好き。吸い込まれそうなほどに輝いて。 ……アティ。もう、いっそのこと……。 ずっと、ギーのアパルトメントにいればいいのに……。 お似合いなのに……。勿体ない……。 ……お似合いのふたり。ギーと、アティ。 アティ、綺麗で可愛いひと。ギーのことをずっと守ってくれてきたひと。 ギーの近くに寄り添って、あなたはいるの。腐れ縁なんだよと、うそぶいて。 あたしが見たのとは別の10年の月日を、あなたはきっと知っていて。それでも、こうして、寄り添って。 あんなにも生活に無頓着で、睡眠も食事も忘れてしまうギー。彼が生きているのは、あなたのおかげ。 ギーのことを見るあなたの目、わかる。彼の体が動くかどうかを窺う瞳。 彼の無理が限界にまで到っていないか、あなたはそうやって窺って。ずっと、ずっと、彼を守ってくれた。 アティ、アティ。お願い。 ……ずっと、そうしていてね。これからも、彼のことを。 見ていてね、守ってあげてね。お願い、アティ。 ……ギーだけを見ていても、違う。 ……アティだけを見ていても、違う。 ふたりを見ていると思い出す。あたしがひとりのキーアであった頃を。 お父さん、タブロイドに顔を隠して。お母さん、優しく笑顔を浮かべて。 兄さん、寝ぼけた顔で勉強ばかり。生まれてくるはずの   は、まだ、お母さんのお腹の中にいて。 お母さんのお腹に耳をあてて、声が聞こえるのよと言っていた、あたし。 あの頃のこと。もう二度と見ることのない景色。 ……どうしても、思い出してしまうから。あたしは笑顔を浮かべるの。 ……涙のかわりに。 ……ああ、今も、聞こえる。他の誰にも聞こえない、その声が。 ああ、41の声があたしに届く。ごめんね、みんな。 ごめんね、裏切り者のあたしを許してね。ひとりでここにいるあたしを。 ……41の声が聞こえる。あたしと同じことを願う、小さな声。 ……うん。……うん、わかってる。 ……大丈夫。きっと、その時は訪れるから。 ……10年前のこと。思い出したくもない、あの時のこと。 10年前。都市に«復活»が訪れた日の、きっとすぐ後のことだと思う。1ヶ月か、2ヶ月か後のこと。 ひどい変異をしたあたしは高熱が続いて、記憶も幾つか失って。 ある店に引き取られた。雑踏街の阿片窟。あのアリサの店。 思い出すだけで吐き気がする。やっぱり駄目。これ以上は。 でも、あのことがあったからこそ。あたしはギーと出会えた。 変わり者の数式医と出会って、今もこうして、付き合いが続いてる。 ……そう考えると。悪いことばっかりじゃなかったかな。 ううん、別に、ギーのことが特別良かったとか、そういう訳じゃ、ない、けどさ。 でも……。 ……総合的に見れば。うん、良かったのかも知れない、かな。 ……キーアのことは嫌いじゃない。可愛いし、品もいいし。 それに結構口も回るし。それなりに逞しさも最近は感じる。 長いこと7層なんかにいるからかな。教育上、よろしくないかも。 なにせ1層や2層のお嬢さまの可能性もあるって話なんだから……。 あんまり悪影響を与えるのも、ほどほどにしておこう。 ……ギーが何も言わないようなら。……別にいいんだけどさ。 最近あのふたり、仲が良い気がする。ギーとキーア。 変わってないと双子は言うけれど、あたしにはそうは思えない。 ふたりが出会ったばかりを知ってる。どうだったろうか。 ……ん。 そういえば、キーアだけで考えると。ギーに対して物怖じしなかったはず。まるで顔見知りみたいに。 ギーのほうは、まあ、うん。明らかに動揺してる感じだったかな。 ……ううん。 もしかして、キーア。……以前にギーと会ったことがある? 都市の支配者たる大公爵アステア。無様な男。哀れな男。 己の死すらも顧みずに果たそうとした、あなたの研究はすべて失敗した。 唯一の成功は僕だけ。そう、原初にして最大の«奇械»使い。レムル・レムルだけ。 僕からすべてが始まった。大公爵が、僕の存在を見出した瞬間から。 彼は理解したんだ。生まれていなかった41の命の可能性を。 だから、僕を閉じこめて。僕と同じ41の«奇械»を監視して。 時に、強引に増殖させて。時に、宿主同士をぶつけさせて。 最後の階段を昇り切り、願いの果てに辿り着く者がいないかを、彼は探し続けて。探し続けて。探し続けて。 そして狂った。彼は、その願いを失った。 だからああなった。無様な男。哀れな男。 ──僕は。──彼のようには、ならない。 ──僕の«奇械»ラウダトレス。 僕は僕の«奇械»と同一だ。この都市、いいやこの世界において、僕だけがそういう“かたち”を得た。 僕の手こそ«奇械»の手。僕の目こそ«奇械»の目。 人間なんかがどんなに真似をしても、僕にはなれない。 最後の階段なんてものは、大公爵の夢想した願いに過ぎない。 もっとも、そう言うとクロックは嫌な顔をするけどね。 でも、僕はそう信じている。僕だけが«奇械»と正しく在るんだ。 人間とは違う。僕には、父も母もいない。 10年前の、都市の人間たちが忘れたあの時に僕は生まれた。 ──いや。──正確には、可能性を得た、か。 ──僕の中で焦がれる想いがある。──キーア。 きみは僕のものだ。だって、僕はきみを知っている。 僕が僕の可能性を得るよりも前から、きみの声を知っている。 優しく語りかけるきみの声。鈴の音が鳴るより、もっと繊細で美しい。 きみのすべては僕のものだ。きみは、きっと、僕と同じはずなんだ。 ……ああ。……視界の端の道化師が煩わしい。 黙れ。黙れ。僕に偉そうに物を言うな。 キーア……。ああ、僕だけのきみ。愛しいきみ。 きみがあの男を見つめる限り。僕は、大公爵の真似事をしてやるのさ。 ……待っていて。キーア。 ……ギー。諦めない彼。 彼を見ることはそろそろやめるとしよう。彼の行く末を儂は見るべきではない。 それをするべきなのは、儂ではないね。そうなのだろう? 幾つかの声が儂の耳に届いている。それはランドルフが聞いていたものか。 彼の場合は勘定には入らないだろう。彼以外の誰かが聞くべきものだ。 彼でも儂でもない誰かが、誰かひとりがそれを聞いている。 ……ひとりか。 ……ひとりにしか届かないというのは。とても、寂しいね。 声は、できる限り多くの人へと届けよう。乗せる想いが尊くあるなら。 ……届かないのは、あまりに悲しい。 ……キーア。優しい瞳の子。 お前さんの瞳はとても美しい。儂は、大空を舞う我が娘のことを思い出す。 薄赤色の瞳。もう少しは見つめていたかったかな。 だが、それももう終わりのようだ。儂にも時間が来たらしい。 この都市に来た時から儂も都市の一部だ。ひとり、知らぬ存ぜぬは通せない。儂は、その日、その時を外から見ていた。 都市に何が起こったのかを。生まれる霧の中で、儂は外から見ていた。 心残りはあるといえば、ある。もう少し釣りを楽しみたかったものだ。 まだ釣っていない魚がたくさん。たくさんあるニャア。 ……まあ、なんとかなるだろう。幾らかは時間がある。 ……«奇械»とは長い付き合いになる。 さまざまな«奇械»とその友を見てきた。この10年の間。 その中で、ひとりの友だけを有したのは、お前さんだけだったか。ギー。 最後の«奇械»の友。お前さんは友となるか宿主となるか。 それとも敵となるのか。それを見届けられないのが残念だ。 ……敵にはなるまいがね。お前さんは、わかっているはずだ。 ……あれは、8年前になるか。 殿様に呼ばれて……。都市の一番上のそのまたてっぺんに昇り、随分ときらびやかなあれを目にしたのは。 黄金でできた螺旋階段。暗闇の中にそびえ立つこの世ならぬもの。 あれは鉱物としての黄金ではない。この世にあるものではない。 現象数式と同じものだ。都市に充ちるあれやこれやと同じだ。 だが、人はそれに触れることができる。あるかないかは多分に個人の問題だ。 黄金螺旋階段。誰かが、あれを昇りきれたら……。 誰かが、真に頂上に座す者に応えれば。その時こそ。 ……その時こそ、この都市は……。 ──ハイネス・エージェントとは。 その言葉にはふたつの意味がある。大公爵に支配権を与えられた者との意味と、上層貴族の命令を受けた執務官との意味だ。 前者であればかつて7名が存在していた。後者であれば都市摩天楼に数名が常駐する。 前者の7名はその名が記録されていない。だが行為については幾つかの噂がある。 曰く、クリッター討伐を指揮した。曰く、悪夢の1ヶ月の後の再建を指揮した。曰く、現象数式の理論書を下層に配布した。 記録によれば、«復活»より後の数年はハイネス・エージェントは下層では喝采を以て受け入れられたという。 だが、すべて過去の出来事である。現在では、ハイネス・エージェントとは、都市法執行指揮者のことを指すことが多い。 かつては人々を救った者たち。現在では、無慈悲に死をもたらすもの。 大公爵の二面性を示すかのような存在。それが、ハイネス・エージェントである。 ──数秘機関の発生について。 それは現象数式実験の副産物である。機関機械に現象数式を刻むことで、肉体への負荷と拒否反応を抑える技術。 現象数式実験がもたらした都市への恵み。医療用の義肢技術の最高峰。それが、都市における常識である。 だが、それは結果にすぎない。数秘機関が存在する意味、開発された本当の理由は別にある。 機関機械に、物理の法を曲げるほどの数式を刻むこと。その、本当の理由を誰もが知らずにいる。 大公爵は、とある機械を、生きた存在へと変えようとしたのだ。 成功したのか、それとも失敗したのか。残された数秘機関技術だけがそれを語る。 では、とある機械とは何であるのか。大公爵が手にした機械とは。 それは西亨からもたらされたという。碩学協会と名乗る結社によって供与された、ひとつの本の形をした機械。 世界のあらゆる幻想が眠るという書籍機械。それを、大公爵は紐解こうとした。 己の持てるすべての技術を費やして。己の大脳と無数の碩学を犠牲として。自分と碩学たちの命を、薪のようにくべて。 そして……。 ……根源たる存在は降り立った。 ──3人目の«奪われた者»とは。 それは過去のすべてを否定する者。現在のみを肯定する者。 背後に佇むものと玩具を得た者。己を顧みることを、忘れてしまった者。 過去を失った者。かたちさえも失った者。 今や完全な狂気へと落ちた者。愛を叫び続けながら、それを捨てた者。 根源存在に命を奪われた4人のひとり、第2の«奇械»使い。 少年王たる2人目の«奪われた者»に嘲笑され続ける、哀れな者。 ひとりの女。あらゆる過去を知り、それを呪う魔女。 ──41の贈り物とは。 話は過去に遡る。現在より10年の昔。 とある医院の院長は決めていた。出産を控えた41名の若い妊婦たちへの、いや、生まれる子らへの贈り物について。 41の玩具を院長は用意した。ゼンマイ仕掛けの玩具を。 ひとりひとりに宛てて、院長は玩具に簡単な名を記した。 その最中に、院長は怪我をしてしまった。動く植木鉢の玩具で指を切ったのだ。 器用なものだとナースは笑った。その玩具に尖ったところなどないのにと。 ペン先で切ってしまっていたことに院長が気付くことはなかった。 ちなみに── 院長は西亨人だった。 ──ハイネス・エージェント。 ──そして、ストリート・ナイト。 かつての«復活»より数年の間囁かれた、下層全域における路地の英雄たちである。 生存確率のごく低い機関化手術を受け、彼らは機関人間の中でも最も優れた者、重機関人間となった。 この世の者とは思えぬ速度と人間からかけ離れた脅威の膂力によって、幻想生物やクリッターを討伐していった。 弾丸よりも早く駆けて。彼らは、下層を人間の手に取り戻した。 現在における人と幻想生物の共存状態は、彼らの功績であるとする説もある程だ。 2種の彼らは同一の人物たちであった、とする説も存在する。 それを否定する根拠は現在のところ発見されていないが── 死の執行者の意味合いが強くなったハイネス・エージェントに対しては、現在の下層の人々は冷ややかな反応を返す。 今や、都市の英雄は1種のみ。すなわちストリート・ナイトただひとつ。 ……もっとも。それも、過去に活躍した伝説上の英雄だが。 ここ数年、路地の騎士の活動報告はない。目撃例すら存在しない。 ──グリム=グリムという噂について。 それはただの噂だ。根拠はない。それでも、まことしやかに囁かれ始めた。 都市で最も新しい噂話だ。都市上層に潜むという幻想生物の噂。 上層貴族や大公爵をも手玉にとって、それは最も高い場所に隠れているという。 誰もがその姿を知らないが、とある子供はぽつりとこう呟いた。 「真っ白な、恐いお面をしてるの」 ──大人たちは息を呑んだという。 ……上層第3公園。下層で最も高みに位置する層プレート。 僕は……。ここには来ないようにしてきた。 足が向いたのは道化師のせいか。視界の端で踊り、嘲笑する、白い仮面を被った黒い影。 違う。そうではない。僕は道化師から逃げないためにここへ来た。 ……本当に、そうだろうか? ここへ至れと誰かに告げられる感覚がある。それは道化師の囁きであったし、同時に別の何者かの声のようでもあった。 誰の声だろうか。一体、誰の。 もしかすると、それは。未だに僕の背後に佇むはずの── ──背後の“彼”の声か。 ……10年前の時のことを覚えている。そう彼女は言った。 ペトロヴナと名乗った彼女。人間と魚類とが組み合わさった幻想人種、水に親しむ«水魚»の特徴を有する彼女。 道化師の姿に見間違えた彼女。僕は、この女性と初対面だっただろうか。 彼女は言う。すべてを覚えているのだと。 俄に信じられることではない。だが、完全に否定することもできない。 都市に生きる人々があの日、あの時のことを覚えていない理由。それを、誰ひとり解き明かしていないから。 物理的な作用で記憶が書き換えられた?いいや、違う。 現象数式の“目”で視ても、そういった形跡は僕らにはない。 なぜか忘れているだけだ。なぜか記憶は断片化しているだけだ。 だから……。 ……完全に覚えている人がいても、おかしな話ではない。 今まで僕が出会っていなかっただけで、彼女のように覚えていると断言できる人はまだまだいるのかも知れない。 ……。 ……本当に、そうだろうか。 ……本当に? ……記憶のメカニズム。それは実のところ解明されてはいない。 脳神経の信号によって構成されている。ひどくあやふやなもの。そういった理解だけはあるけれど。 それより上の認識には、碩学も現象数式使いも踏み込めてはいない。 記憶は絶対ではない。それは容易に改変されてねじ曲がる。 そう、まるでこの都市のように。さまざまに姿を変える。 ……僕たちは直感的にそれを理解する。記憶がいかに揺らぐものかを。 思い出せないことがあるからだ。10年前の、あの日、あの時のこと。 けれど、彼女は。 ペトロヴナは静かに言い切るのだ。すべてを、覚えていると。 ……なぜ。 ……なぜ、そう言い切れる? ……震える言葉が聞こえてくる。 それは、あたしに届く41の声のひとつ。彼女の声に呑まれてしまって、自分の玩具を手にしてしまう。 震える声は大きくなっていく。ああ……。 きみは嬉しいの。41のひとりのきみ。そんなにも声を震わせて。 自分の玩具、貰えるはずだった植木鉢。やっと、手にすることができたから。あなたはそんなに嬉しいの。 嬉しさがわかる。震える声は、楽しさと悦びに充ちて。 ……でも、でもね。 それは違うの。それはもう、あなたの植木鉢ではなくて。 ……それは、誰かを傷つける。……あなたはそんなの願っていないのに。 彼女は出てこれないはずなのに。出てしまった……。 その時は、近いのかも知れない。ああ……。 ……視界の端に。何かが見える。それは、本当は幻であるはずなのに。 ……踊っているの。……黒いものが、あたしの視界の端で……。 私は、過去を恐れている。 私には意味のないもの。それはすなわち空虚であって、無。 私は無と空虚を何よりも恐れる。恐ろしさのあまり、震えてしまう。 だから私は思う。人は、過去に囚われるべきではないと。 私だけではなくて。すべての人々の過去の究極は無であって。 ……私は、無である過去を恐れる。何よりも、何よりも。 人が生きるのに必要なのは、輝ける“現在”だけなのだから。 私はずっと、ある人に隔離されていた。もう何年も何年も。 ある人は、アステアと名乗った。貴族のような姿をしていたかも知れない。 もしかしたら10年くらいかも知れない。それほど長く、私は閉じこめられて。 同じように閉じこめられた男の子。あの子だけが、私を慰めてくれて。 私はあの男の子を素敵だと思うけれど、それ以上のことは想わない。 ……だって、彼は。どうしても私には駄目だから。 ……彼は。過去に、囚われ続けているから。 だから。彼は“現在”を手にすることが出来ない。 永遠の過去の中に生きるだけ。それは、私にとっては無と同じだから。 可哀想な男の子。銀髪の。 既に、あなたの手は少女に届かないのに。あなたの行動のすべてが、アステアと名乗った人の手のひらの上。 ……ああ。 ……可哀想な子。 ……私はすべてを知っている。都市のあらゆることを。 それが、私にとって無意味なものでも。すなわち過去の出来事でも。 私はすべてを知っている。10年前の«復活»の日に何があったか。 だって、私は数に入らないから。だから覚えていても誰も文句は言わない。 上層階段公園病院の悲劇。崩落事故。 あそこで死んだ41の命が、都市に無限の苦しみを与えているとしても、それを知っても、人は何をすることもない。 ……忘れているから? ……それ故に怨嗟を生む? いいえ。そうではない。それは、とても簡単なこと。 服のボタンを掛け違えてしまっただけ。とてもささいな、簡単なすれ違い。 けれど、そこに何者かの意思が加われば。悲劇は回転する。 無限の苦しみが生み出されてしまう。哀れで、愚かな人々と41の命たち。 道化師の幻に惑わされて。あれが、何をしようとしているのかさえ、知ろうともせずに。 ……けれど、それも。 どうせ過去にまつわる話。“現在”だけを見ていればいいだけ。 ……ああ。なんと哀れで愚かで、愛おしい人々。 ──この都市に住む人間は。──全員、頭のどこかが狂っている。 それは大公爵の持論だ。彼が永遠の狂気に落ちた瞬間から、それはやがて都市全土に広まった。 誰もが思っている。それが大公爵の狂気だとも知らずに。 狂気は伝染するらしい。もっとも、僕には伝染していない以上、それも確かめようがないけど。 ひとつだけ確かなことがある。記憶だ。 10年前の出来事。10年前の«復活»の日に何があったのか。 あの五月蝿いクリッターどもの出現?幻想生物? 異形化? すべて違うね。それは、結果でしかない。 ……それは、結果でしかないんだ。 都市がこうなっている理由。人々が«復活»と呼び恐れる日の発端。 誰も知らない。ただし、それは人間に限った話だ。 この僕にはわかる。«奇械»と同一である僕になら。 原因となった出来事があったんだ。10年前のあの日、あの時。 その時点で大公爵には狂気の芽が生まれ、彼の12時間に及ぶ実験の結果── あとはきみたちの知る通りさ。都市には狂気が充ちて、異形が充ちた。 誰も知らない。一体何があって、なぜこうなったのか。 10年前のこと。なぜ、人間たちが知らないでいるのか。 大公爵の言葉を借りるなら── 忘却だ。すっかり忘れてしまったんだよ。現在において考えるなら、一番大切だったことを。 さすがは人間だ。未来を予測した行動が、何もできない。 ……大したものだよ。本当に。 だから、地獄を見るというのに。すべてに対して何もしようとしないから。 哀れなものだよ。愚かなものだよ。人間たち。 ……過去に対する俺の怒り。 身を焦がす怒り。この俺と、世界のあらゆるものへの怒り。 たったひとつだけ残った俺のすべて。無力さと残酷さへの怒り。 ……それが、何よりも熱く燃え滾る。 それが、俺の全身を突き動かす。執行官に志願したのもそのせいだったか。 だがあれは駄目だった。あの程度ではあまりにヌルすぎた。 呼吸するように人を殺そう。俺はそう決めた。 だからこうしている。こうして都市を歩き続ける。 巡回殺人者ってやつさ。俺こそが、真に都市と人を救ってやれる。 この都市では、誰ひとりも生きることを許されない。 ……無音の世界こそ相応しい。 だから、てめえは邪魔なのさ。ドクター・ギー。 ……過去の記憶は現在に繋がっている。 俺はそう信じている。たったひとつの俺の感情、俺の記憶。 これだけが俺が俺であることのすべて。俺を滾らせ突き動かす衝動の源。 ……俺は、考えないようにしている。たったひとつの記憶について。 都市の誰もが思い出すことのないそれを、俺だけは忘れずにいる。そのことに対して、疑問は、浮かべない。 考えない。俺はもう考えることを許されない。 ……考えはしない。……やることは決まってるんだからな。 ギー。てめえが階段を昇る以上、俺もまた、立ち止まることはしねえさ。 ……俺が。 ……先に、階段を昇る。 ……俺のすべてはひとつだけ。 たったひとつ残された記憶、誰も彼もが忘れ去っても俺には残された。 この怒り。俺にはそれがすべて。 だが……。 ……俺にも願いはある。 そういう風に考えてみりゃ、ひとつでもねえか。 ……だが、ひとつだけでいい。 俺は殺す。慈悲に充ちた怒りによって。それだけでいい。 ……願いを果たすのは最後の最後だ。階段を昇りきったその時だ。 ……俺が、先に、昇りきる。 ──上層階段第3公園とは。 ──«上層階段»第3プレート層。 それが“第3公園”の正式な名称である。螺旋状に繋がった層プレート群の、下層から5番目。上層から3番目。 滅多なことがない限り、下層の人々はそこに訪れはしない。 第3層から少しでも上に昇ってしまえば、上層兵の無裁判処刑が待っているからだ。だから人はそこを避ける。 憩いの場であるはずの上層階段公園。その中にあって、唯一。 人の気配がしない場所。誰もが近付くことをしない緑の園。 そこはかつて、10年前には、医療および福祉施設用の層プレートだった。幾らかの木々を植えた公園であると同時に。 ──上層階段公園病院とは。 それにはさまざまな呼び名があった。特に俗称はひどく多かった。 上層階段公園病院。上層公園病院。上層大学付属病院。 どれもが意味を違えてはいない。正式名は「上層大学付属病院」だったか。 大公爵の名の下で上層貴族の補助金を潤沢に与えられて運営される、それは下層の人々のための医院だった。 傷つき弱った人々が数多く収容された。献身的な医療活動は多くの命を救った。若き医師たちは使命感に滾っていた。 あの日、あの時。10年前のあの崩落が起こるまでは。 ──10年前の崩落。それは事故だ。 上層階段公園の層プレート群を繋ぐ、螺旋状の巨大階段。 崩れるはずのないそれが、崩れた。12月25日のことだった。 起こりえるはずのないことだった。果たして、基礎設計の誤りであったのか。果たして、補強工事の事故であったのか。 覚えている者はいない。いないはずだ。 巨大な鉄塊が第3プレート層へ落ちた。上層大学付属病院へと。 鉄塊はひとつの病棟を紙のように崩した。41人の入院者がいた、ひとつの病棟を。くしゃり、と崩した。 ……その数時間後のことだ。 ……恐るべき«復活»が始まったのは。 ──«奪われた者»とは。 人のかたちを持ちながら、人ではない者たち。 人ではなく、人であったかも知れない者たち。 この都市の異形を保つ根源によって、彼らの“かたち”は保たれている。 都市には、4人の«奪われた者»が在る。いいや、在ったと言うべきか。 ひとりは王。愛を叫びながらも願いのために狂った王。 ひとりは少年王。大公爵の権能のすべてを継いだ、男の子。原初の«奇械»を操り、都市を嘲笑する。 ひとりは魔女。背後の子と玩具とを揃えた唯一の女。 そして、もうひとりは……。 ──現象数式実験と根源存在とは。 現象数式実験を端的に説明すれば。物理を曲げる数式を、ひとつの機械へと刻もうとした実験だ。 それは根源の現象数式。それは根源の数秘機関。大公爵の願いを叶えるはずだったもの。 彼の願いは叶わなかったのか。それとも、叶ったのか。 生み出された根源存在は何を思うのか。そもそも生物なのか、機械なのか。 ──そのどちらでもないのか。 ただひとつ言えることは。それは、願いのために在るということだ。 ──大公爵の失敗作とは。 41の«奇械»と、41のクリッター。それぞれには対応する固体が存在する。 そのことを大公爵は理解していた。故にひとつの実験を行った。 第2に顕現した«奇械»ミラン。第2のクリッターであるブラッドツリー。ふたつを組み合わせたのである。 外科的手段を用いたのか、現象数式を用いたのかは定かではない。 命を持たずに生まれ出たクリッター。命を持ちながらも生まれなかった«奇械»。 互いに矛盾を孕みながら結びついてしまったそのふたつは狂った。正しく対応するはずだったにも関わらず。 自らの存在を嘆く以外の行為はできず、黄金螺旋階段を昇ろうとしなかった。 故に、大公爵はそれを「失敗作」と断じた。 黄金螺旋階段の先に待つ根源存在。それと出会うことのできない者は必要ない。そう、大公爵は言い捨てた。 ──その頃にはまだ。──大公爵は、完全に狂ってはいなかった。 ……アティ。 きみには今まで黙っていたことがある。理由があった訳じゃないが。 この冷たい体にきみの熱を感じるごとに、僕は、ささやかな充足感を得るんだ。 それはきっと僕のエゴなのだろう。だから、口にはしなかった。 けれど、きみが望むのであれば。僕は黙ることをやめよう。 きみが僕への好意を口にしてくれた時。僕は……。 ……僕は、戸惑ってしまったけれど。 変わりきってしまった都市の中で、それを口にすること。想いを躊躇うことなく言葉にすること。 それを僕は尊いと思う。これまで目にしてきた数多の人々のこと。都市の中で、想いと涙を失わない人々を。 きみも、彼らと同じだ。尊いものを失ってはいなかった。 ……僕は、戸惑ってしまったけれど。 ……嬉しかった。 嬉しいと感じていたよ。アティ。ありがとう。 僕は── ……キーア。 不思議な少女。笑顔を向けてくれるきみ。未だにきみの身元は不明なままだ。 きみがなぜ自分のことを語らないか。僕は、それを訊こうとは思わない。 きみは賢い子だ。必要であれば、きっと話してくれる。 ……僕は、そう信じている。 ……けれど。 ……それで、良いのだろうか。 人は声だけで言葉を伝えない。たとえば背後に佇む“彼”のように。 声なき言葉は存在する。それは仕草であったり、表情であったり。 僕は、何か見逃していないだろうか。本当に、キーアのことを……。 ……僕は、理解できているのだろうか。 ……聞こえているかい。 ……僕の背後に佇む“きみ”。 きみに、僕の言葉は伝わるのだろうか。声が一方通行でないことを僕は願う。 きみは、姿を変えたね。ミラン・ガガールと対峙した時に。 理由は僕にはわからない。だが、きみの存在を以前よりも……。 以前よりも、大きく感じている。きみの気配は今や、まるで人間そのものだ。 ポルシオン。鋼のきみ。今や、きみは赤熱化した鋼鉄のようだ。 きみに僕は尋ねたことがなかったね。ポルシオン。 きみは、なぜ僕の背後に佇む?僕に何を望む? ……僕にできることは限られている。……この手の届く先は限られている。 それでも、きみが、僕の背後に立つなら。僕の何かをそこで見ているのなら。 僕は、きみの期待に応えよう。僕は、僕で在り続けよう。 ……ギー。魔法使いのお医者さま。素敵なあなた。 あなたは……。 あなたは何も変わっていない。あなたは、きっと気付かないけれど。 ねえ、ギー……。あなたは、きっと、また……。 ……また……。 彼がそこから降りてきてしまったことを、あたしは、もう知っている。 彼の探しものが、きっとあたしであることも。 いつかその時が来ると、思っていた。確信していたのに。 ……なぜ、彼女なの。 ……アティを、傷つけないで。 彼は誰も傷つけないと言うけれど、それが嘘だということが、あたしはわかる。 あなたは誰かを傷つける。あなたは誰かを奪い取る。だから、その左手を伸ばすのをやめて。 ……やめて。そのひとは、大切なひと。 ギーにとって……。大切なひとなのに……。 ……お願い。ギー。 彼女を、アティを……。無限に増殖してしまう“現在”を……。 ……助けてあげて……。 その、右手で……。 ……あなたの右手で……。 ……10年前のこと。思い出したくもない、あの時のあたし。 阿片窟での出来事。ギーと初めて出会った日。 あたしの体の異形化が進んで、あたしは理性を失いそうになっていた。脳にまで、変異が及びかけていたから。 目の前全部のものを壊したくて、生きているものを殺したくて、あたしは、衝動に負けそうだった。 ……それを、助けてくれた。……ギーが。 現象数式であたしの体を、あたしの脳の一部を、置き換えてくれた。 だから、なんとかあたしは生きている。その場で殺されずに済んだ。 本当なら、変異は治りようがない。存在の根本を変えてしまうから、現象数式で置き換えてもすぐに戻る。 でも、あたしは運が良かった。 確かにそれは変異による異常だったけど、原因が別の病原菌だったらしくて。 結びつきさえしなければ、変異は収まってくれるっていう話だった。 ……で、今こうなってる訳。黄金瞳はその時の後遺症、かな。 あの時から、あの瞬間から。あたしの体は時間の影響を受けなくなった。 ──と、いうわけさ。 ギーがあたしに隠し事をしてるのは、正直、割とすぐに気付いていた。 言動はいつもと変わらないし、多少の変化はキーアの影響かなと思って。 それでいいかと思っていたけど。最近、ギーの様子が少しおかしく……。 ……見える気もしないでもない。気のせいかも。 何か隠してるな、というのはピンと来た。特にはっきりした根拠はない。 ただの黒猫の勘。でも、この勘はあまり外れない。 ……ま、いいんだけどね。言わない隠し事ってことは、言う必要もないってことなんだから。 ……それより、今は。あたしは、あたし自身が気になって。 ……ギー。 ……あたしは……さ。 ……よくよく、考えてみても。よくわからない。 ……あたしにとって、きみは何? 考えようとすると混乱する。だから、考えない。 今まではそうしてきた。これからも、多分そうしていくつもり。 ……うん。……そのつもりさ。 ……許せない男がいるんだ。 数式医のくせにろくに金稼ぎもせずに、巡回医師なんて趣味であの子を連れ回す男。 10年前に大脳が変異した男。大公爵お気に入りの現象数式を操って。 それだけならまだ我慢もできた。でも。許せない。 キーアとあんな近くにいるだけじゃなく、あの男は«奇械»を得た。 ──裏切り者のポルシオン。 お前だけがふたつの力を持つ。お前だけがふたつの苦しみの可能性を持つ。 調子に乗らせるつもりはないよ。ギー、ポルシオン。 きみたちのことは調べてある。大公爵は、几帳面な性格だったからね。 ……まずは、きみの“現在”をひとつ。いじってあげるよ。 破壊はしない。奪い取ることもない。僕は、きみとは違うんだから。 ──キーア。僕の愛しいひと。 きみのことを想わない時はない。たったひとり、僕に相応しいきみ。 ペトロヴナは駄目だった。可能性はあったのに、自分で駄目にした。 きみだけだよ、キーア。僕が可能性を得るよりも前から知るきみ。 瞼を閉じればきみの声がわかる。優しい声。呼びかける声。 僕の名前を呼んでくれたのも、きみだ。だから僕はレムル・レムルだ。 だから僕は«奇械»の姿にならなかった。こんなにも人間に似た姿で。 きみを待つためだけに。きみと、言葉を交わすためだけに。 ……さあ。 すべての準備が整ったら、すぐに会いに行くからね……。 あの男を……排除するんだ……。……ポルシオンごと、この都市から。 道化師が何を言おうと構うものか。僕が、王だ。 今や僕だけが。この都市を統べる支配者なんだ。 ──ラウダトレス。──僕と同一である僕の«奇械»。 僕の«奇械»が一番強いんだ。僕が誰よりも一番偉くて、一番強い。 ラウダトレスの“左手”は無敵だ。対象の“現在”を無限増殖させることで、対象の“耐えきれない現在”を揺さぶる。 無限の力。無限の変容。 この«善の左手»は、立ち塞がるものの肉体と精神を変容させる。耐えうる知性生物は存在しない。 誰もが“耐えきれない現在”を持ってる。人間なら、誰もが。 僕はそれを揺さぶるだけ。増やすだけ。破壊しない。奪い取らない。 僕は上品なんだ。きみ以外の誰も傷つけはしないよ、ギー。 僕のやり方を見せてやる。さあ、楽しみだ。 きみはどんな顔をするのかな?ドクター・ギー? ……老師と呼ばれる老猫。 俺は躊躇うことなくこの手にかけられる。たとえ、老師であろうとも、 俺は躊躇しない。しなかったはずだ。 ギー。てめえがペトロヴナから奪った以上。俺が追い抜くにはこれしかない。 老師から奪い取る。黄金螺旋階段という“勝利の塔”を昇る、そのための条件をこの俺のものとする。 俺は躊躇しない。……しなかったはずだ。 ……躊躇など、俺にはない。 この怒りを成就させるためなら。西亨人の崇める“神”でさえ殺してみせる。 ……後悔? 焦り? そんなものがこの俺にあるものか。俺は後悔しない、焦らない、躊躇わない。 焦ってなどいるものか。俺は……。 ……俺は、てめえなんざに負けはしない。ルーキー程度に先を越される訳がない。 焦ってなど……。 いないはずだ……俺は……。 ……断片化された記憶が繋がっていく。 なるほど、そうか。これが俺の怒りの理由のすべてか。 理屈と仕組みを俺はようやく知った。老師から奪い取ったお陰で。 ありがとよ、老師イル。あんたはやはり人に称えられる老師だった。 あんたの願いは叶えられない。だが、少なくとも俺の願いは叶うだろう。 ……ギー。てめえの負けだ。 ……俺は確かに条件を揃えたらしい。 ──10年前の上層大学付属病院。 ──そこで起きた出来事とは。 接続螺旋階段の崩落事故。それによる“とある病棟”の壊滅。 大公爵はその報告を聞いた直後に豹変した。娘の名を叫んだという記録も残されている。駆け落ちで姿を消した娘。 大公爵はあえて娘を追わなかったという。自分には与えられなかった解放の喜びを、娘には感じさせてやりたいのだと。 スキャンダルを狙うタブロイド紙には圧力をかけたが、それは、支配者としての面子を保つためではなかった。 娘の行方だけは記さないでくれと。自ら頭を下げ、そう頼んだのだという。 ……しかし大公爵の愛は砕けた。上層大学付属病院を襲った鉄塊によって。 41の若い女性の命と。41の生まれなかった命と共に。 ──人の想いと願いとは。 心よりの想い、そして、願い。それは何よりも尊いのだと大公爵は言った。 故に己の想いは現象数式実験を成功させ、願いの果てへと到ることができるのだと。実験を開始させながら、彼は叫んだ。 そして想いは根源を生んだ。あらゆる幻想を生む«復活»の根源を。 グリム=グリムとハッカーたちが名付けた、白き仮面の持ち主を。 故に彼は望む。グリム=グリムは望むのだ。 ……人の想いと、願いを。 ──41の声と41の命とは。 都市においてたったひとり。穴を掘る狂人と老師たちを除いて、ひとり。 たったひとりが41の声を聞いている。それは41の命がもたらす声。 正しく言おう。41の生まれなかった命のもたらす声。 耳を傾けて、たったひとりは何を想うのか。何を願うのか── 「きみは、どうするの」 「ギー。きみは、失ってしまう」 「その時、きみは何を想うの」 「何を願うの」 「きみは、どうするの」 「きみの手が届かないのだと知った時」 「きみは、その時、何をするの」 「どうするの──」 ──現象数式実験。 ──それに伴うグリム=グリムの誕生とは。 誰もが信じている。大公爵は«復活»の後、人々を救うために数多の碩学と共に現象数式実験を行ったと。 けれど、それは誤りだ。現象数式実験は«復活»の前に行われた。 そして生んだのだ。ただひとつの根源存在グリム=グリムを。 そこからすべてが生み出された。あらゆる幻想が現出し、41のクリッターと«奇械»とが顕現した。 すべては現象数式実験によって生まれた。すべては大公爵の行いによって。 上層階段第3プレート層。そこで起きた悲劇を嘆く大公爵によって。 ──現象数式実験。 ──それに伴う«奇械»の発生とは。 誰もが信じている。大公爵は«復活»の後、人々を救うために数多の碩学と共に現象数式実験を行ったと。 けれど、それは誤りだ。現象数式実験は«復活»の前に行われた。 そして生んだのだ。41の«奇械»たちを。41の背後に佇む者を。 彼らは“緒”によって人間と繋がり、その人間の心に応じてやがて変化していく。 彼らは何かになろうとしている。人間のようであり鋼である彼らは、何かに。 まるで、生まれ出ようとする赤子のように。じっと誰かの背後で待ち続ける。 ──現象数式実験。 ──それに伴う«復活»の始まりとは。 誰もが信じている。大公爵は«復活»の後、人々を救うために数多の碩学と共に現象数式実験を行ったと。 けれど、それは誤りだ。現象数式実験は«復活»の前に行われた。 そして生んだのだ。無数の涙と悲鳴をもたらす«復活»の時を。 誰もが知らずにいる。けれど、それがただひとつの事実だ。 大公爵は既にない。事実を口にする者はいないだろう。 故に、人はそれを知ることができない。歪んでしまった都市の中で、生きていくことしかできずに── それでも── 人々は想いを失わない。枯れ果てたはずの涙を、流すことができる。たとえ、明日を夢見ることができなくとも。 ……アティ、僕は。 僕は、きみを苦しめた。涙を流すきみに、何もできなかった。 だから、せめて。苦しみにみちた現在のすべてを僕は消そう。きみを苦しめるすべてを、僕は、奪い取る。 ……きみのすべてを、僕は奪うのか。この赤色の手で。 償うことはできない。僕は、きみに、何もしてやれない。 きみを失ってから、初めて。僕はプレゼントをした。 第2層の偽造戸籍。改竄した資産情報。あの後、ハッカーに依頼して用意させた。 ……こんなものがプレゼントなものか。あまりに、たちの悪い冗談だ。 きみはそれを望まないだろう。僕が奪う前の、黒猫だったきみであれば。 ……けれど、もう。 僕には……。 これくらいしか、きみに……。できることは……ない。 ……償うことは、できないのに。 アティ。僕を生かし続けてくれたきみ。僕はきみを裏切った。 この手で、また……。 ……たったひとりを……。 ……助けられずに……。 ……僕は、何をすることもできない。傷つけるだけだ。 アティのように。きっと、僕はきみをも傷つけるだろう。 ……だから。 ……僕は、きみを……。 もう……。 この手は、きみも、誰をも……。 ……僕は、この手を差し伸べ続けた。 それだけがこの都市で生きる理由。たったひとつの僕のルール。 そうする理由は、10年前の過去。たったひとつを僕は覚えている。 僕は、誰かを助けられなかった。崩落した瓦礫の中で。 この手を伸ばして、助けると口にして。それでも救うことができなかった。 たったひとりを。僕は、助けられなかった。 ひとり……。 そのひとりの顔、その子の顔を、僕は思い出すことができない。 断片化された記憶。繋げようとしても繋がることのない記憶。 初めて死なせてしまったあの子。僕の手を信じて、何かを囁いたあの子。 ……あの時と、何も。 ……僕は、何ひとつ変わっていない。 ……たったひとりさえ。……この手は、救うことができずに。 それでも僕は、歩き続けるのか。無力を知ってなお。 ……この手を、誰へ、伸ばすのか……。 ……ギー。あたしを助けてくれた、お医者さま。 暗がりに閉じこめられたキーアを、あなたは助けてくれたの。 おろしたての白衣のお医者さま。真面目なギー。 ……何かに対してあなたは叫ぶの。まだだ、まだだと、何度も。 兄さんが口にする言葉のすべてを、あなたは否定するの。 まだだ、まだだと、何度も何度も。あなたは……。 ……ギー。あなたはあの時、諦めなかった。 ……なぜ。 ……ああ。……視界の端で道化師が踊っている。 その時が来たのだと、叫んで……。道化師は、踊る。 あたしたちをこうした道化師。すべての人々と、あたしたちの瞳の中で、グリム=グリムはいつまでも踊り続ける。 ……綺麗だけど、恐ろしい仮面をつけて。……踊り続ける。 そして、告げるの。すべての人々に。 ……あらゆる願いを。 ……あきらめてしまえ、と。 ……なぜ。 ……どうして、あなたはそうするの。 あたしの心の中にある言葉。いつも、あなたの背中と横顔に掛ける声。 「なぜ」 「どうして」 それはあたしの、キーアの疑問。 あの日……あの時……。 41の消えゆく命と共に、あなたへと抱いたあたしたちの……。 ……たったひとつの……。 ワタシはケルカンを観察する。ずっと、今日も。 彼の焦燥がワタシには認識できる。何かを、彼は恐れている。 質問に対する返答はない。彼は、畏怖および恐怖の対象をワタシに説明することはない。 老師と呼ばれた人物と対峙した際も、彼には明らかな焦燥があった。 ──何を。焦っているのか。 彼が口にしない以上。ワタシは、彼を観察し続ける。 今日も。ワタシは。彼の背中を見つめ続ける。 ──キーアの否定したものを肯定する男。──ケルカンのことを。 ワタシは自問する。自己矛盾を孕んだままで活動する自分へ、最優先順位の事項は何であるのかと。 未だに。ワタシの意識が定めた最優先事項は、キーアの観察のまま変わっていない。 現実には。それは最優先処理を成されていない。 ワタシは彼女の元を離れ、ケルカンと行動を共にしている。 彼が誰かを殺そうとする姿を。彼が何かに焦燥する姿を。 ワタシは観察し、記録し続ける。 けれども最優先事項は書き換えない。そう意識することもない。 ワタシは、彼の言動を認めたいのか。それとも逆なのか。 ──認識できない。──自分自身の処理が。 ……人間のように言えば。……心が、理解できないのか。 ──仮定の話として。 ワタシがケルカンを見つめる理由。彼と行動を共にする理由。 物的証拠は一切存在していないが、もしも、これが恋慕の情であるのなら。 もしも、ワタシの自己矛盾と行動が、人間の“好意”と同じくするものなら。 もしも、そうであるなら。ワタシは愚かだ。 何の計算もできていないということか。ワタシの頭脳は、正常に稼働しているのに。 ……父さま、母さま。……そうであるならワタシは、本当に。 ……人間で、あるのかも知れない。そう思うのです。 ……こんなことを述べたら。……キーアは、何と言うのだろうか。 ……きっと……。 ……僕はようやく、到達した。行くべきところへ。 随分と寄り道をしてしまった。あの男なんかに関わって。 やっと僕は理解する。僕は、僕自身をよくわかってなかった。 僕は命ではない。僕に在るのはそれに似た可能性だけ。そのことを、理解できていなかった。 ……ようやく理解した。……ようやく届いた。 ……ふふ。ギー。きっと、きみのせいだ。 僕はかたちを失って、初めて、本当の在り方を知った。 僕たちの在るべき姿。すなわち……。 ……視界で踊るあの道化師と同じ。……僕ら«奇械»は、これが本当なんだ。 だから、僕は永遠だ。人間なんかには及びもつかない。 ……僕は、永遠だ。 僕たち«奇械»は、41の命の可能性。正しく命ではない。 だから、死なない。だから、朽ちることがない。 けれどそれは物質としてのかたちを持っていないということだ。 僕たち«奇械»は可能性であるだけ。クリッターも、同じこと。 だから強い。可能性なんだから。 ……だから人間たちを圧倒できる。そうする意図が、なかったとしても。 そうする意図を、人間に埋め込まれたのだとしても。強いんだ。 ……人間よ。もしも僕らが敵であると言うのなら。 そうしたのは、あなたたちだ。僕らを可能性に落とし込めたのは……。 ……あなたたちだ。人間。 僕は今や永遠だ。かたちを失い、二度と揺らぐことがない。 都市が存在し続ける限り。僕たちは、永遠であり続けるのだろう。 勝手に朽ち果てるがいい。最後の階段は、大公爵の最後の罠は動いた。 人間。あなたたちの負けだ。願いが果たされなかった時、すべて終わる。 ……もっとも。……僕には、関係ないことだけど。 ……でも。 ……ああ、心残りがひとつだけ。 ……きみをひとりにさせてしまった。僕のキーア。 ……かたちを失った僕にはわかる。あなたが誰だったのか。 どうして僕が声を聞いていたのか。あなたの、声を。 理由は、簡単……。 ……あなたは、僕の……。 ……記憶が再生されていく。 すべての記憶を俺は取り戻していく。老師から奪ったもの、引き継いだものが、断片化された記憶と失った記憶を、繋ぐ。 そして俺はようやく。ようやく届く。 俺のこの胸に、全身に滾る想い。怒りの正体。 ……そうだった。そうだったな。あの時に俺はたったひとつを諦めた。 それ故に怒りが俺を焦がすのだ。理不尽に対する怒り、傍らで諦めなかったひとりへの怒りが。 怒り。それは、焦りか。 ……俺は、焦っているのか。 ……奴の存在そのものに。 ……俺の怒りを否定し続ける、奴に。 ……ギー。数式医。巡回医師。 お前への怒りの理由をも俺は取り戻した。お前は何も変わっちゃいない。 あの時のままだ。ずっと、お前はそうしているんだな。 俺は否定する。お前のあらゆるものを認めない。 決着をつける時だ。俺の怒りと、お前のその手。 ……お前が俺を否定し続けるのと同じだ。 ……俺は、お前のすべてを否定する。 お前は階段を昇りきることができなかった。だから“勝利の塔”は俺のものだ。 俺の勝ちだ。そうだろう、グリム=グリム? ……キーア。 お前にずっと俺は気付かずにいた。すまなかったな。 お前にだけはすまないと思う。キーア。 ……だが、これですべては終わるんだ。キーア、お前はもう無理をするな。 瞼を閉じろ。俺がそうしてやる。 お前と、都市の全員にだ。その時は、今まさに訪れるのだから。 ──都市すべての人々の狂気とは。 都市に生きる人々のすべて。下層も上層も貴族も市民も一切の区別なく、老人も幼子も労働者も企業家も、皆すべて。 すべての人々には、ある1点において共通したものがある。 意識の大小は当然あるけれど。彼らのすべては、あることを自覚している。 すべての人々が共通して自覚するもの。それは、自己の狂気である。 子供でさえもが幾らかの自覚があるのだ。自分の狂気について。 ──都市のすべての人々が。 ──見えないはずのものを。──見ているのだ。 誰もがそれを口にしない。周囲の誰にも、数少ない愛する人にさえ。 口を閉ざして話さない。多くの場合、やがて慣れてしまうから。 気にしなければいいだけの話。視界の端に見える、自分の狂気の証など。 だが。それを明確に意識してしまった時。 人は完全な狂気に落ちる。もしくは── もしくは。背後に“彼ら”が顕現するのだ。 ──視界の端で踊るもの。 それこそが狂気の証。都市の人々すべての視界の端に現れる幻。 誰もがそれを口にしない。周囲の誰にも、数少ない愛する人にさえ。 口を閉ざして話さない。多くの場合、人はそれにやがて慣れるから。 それは黒い人影なのだという。白色の仮面を被った、全身黒色の人影。 それはいつも踊っているという。嘲笑うように、待ち続けるかのように。 やがて人はその幻に慣れる。狂気は、この都市ではよくあるものとして。 けれど。 けれど、そうではない。そうではないのだ。 それは、狂気の証などではない。それは、幻であって、ただの幻ではない。 ──人を見つめ嘲笑する幻だ。 ──願いの果てとは。 根源存在グリム=グリム。それは、その生まれ出た由来ゆえに求める。 人間の持つ想い。そして、その願いが行き着く果てを。 大公爵が成し得なかったものを。生まれ出た由来ゆえに、待ち続けるのだ。 ──黄金螺旋階段の真なる果てで。 ──10年前の41の死とは。 現象数式実験が開始された理由。都市が現在こうある理由。 41の死からすべてが始まった。突然の鋼鉄の崩落から。 現象数式実験。そして、グリム=グリムは生まれた。そして、何かを、ひとつだけ歪めた。   『人は、尊くあらねばならない』     『それは大公爵の願い』  『それが、願いの果てへ到る道であれば』       『そうしよう』 41の生まれなかった命。41の死。 その願いをねじ曲げた。本当は、何ひとつ変わってはいないのに。 何かをひとつ歪めただけで。41の玩具は、荒ぶるクリッターとなった。 クリッターの生み出す恐怖は、41の生まれなかった命の感じた恐怖は、人々を苦しめ続けた。 そして人々は完全に記憶を失う。恐怖に上書きされて。 41の生まれなかった命を、忘れ去った。その前後の記憶は断片化されて。 ……そして、10年が過ぎたのだ。 ──41の願いとは何か。 それは、彼らの疑問。彼女の疑問。 彼らはかたちを得ることなく命を終えた。そして、現象数式実験によって、望んだはずのない鋼の体を得た。 彼らの疑問。彼らの願い。 それを知る者は、たったひとり。彼らの声を聞く者は、たったひとり。 ……彼女ただひとりだ。 ──全オブジェクトの記録者である私。 私は記録者。都市インガノックに残された情報と記録のすべてを収集し、きみの記憶と共に残す者。 きみが触れ続けた幾人かの人々。彼らの心の記憶。そして、私の残すオブジェクト記録。 きみには時間の概念は存在しない。なぜなら、現在のきみは、この世に生まれてすらいないからだ。 きみは目にしてきたはずだ。幾人かの人間たちの心の声と、記憶。そして、私の残すオブジェクト記録。 きみは、果たして何を選択するのか。すべてを知った上で。 彼らのすべてと。都市のすべてを知った上で。 きみは── これを見ている者、きみは、何を選ぶ。私はそれを知ることができない。 私はきみとは異なる時間の上にある。だから、きみはきみひとりで選ぶのだ。 きみの名は«奇械»ポルシオン。生まれなかった41の命のひとつ。 ギーの背後に佇みながら、彼の周囲の人々の心の声を聞き続けた者。 ……都市の中で何かを思う者。 これからきみの見るすべてが、彼らの願いの果てだ。 我が友たる大公爵の成し得なかった、彼らの願いの果てだ。       (西方碩学協会主宰トートが記す)