俺は彼女が好きだった。 それは恋とは違う好きだった。 今となってはその想い出は、曇ったガラス越しに見ているみたいにところどころが薄ぼんやりとしているのだけれど。 恋でもなんでもない想い出なのだけど、俺はたしかに彼女のことが好きだった。 証拠を挙げるのなら、俺たちはまだ幼かったのに~ファーストキスまで交わしていた。 その感触はいまだはっきりと覚えているので~それは確実にキスだった。 きっと俺たちはマセていた。 キスというのはおたがいのおでこに交わすものだと~勘違いする程度には、マセていた。 そんなふうに勘違いのキスを交わしたとはいえ~それはやっぱり恋ではなく。 だから俺は初恋を経験したことがいまだかつてない。 ただ俺は単純に彼女が好きだった。 この数年間、その想いだけは曇らずに胸の底あたりに残っていたように思う。 だから一度は離れたこの街に数年ぶりに戻ってきて、~なにを置いてもまずやっておきたいことは。 彼女との再会だった。 できれば感動的な再会だった。 ちゃんと目薬も用意した。 俺はけっこう用意周到な性分だ。 おそらくポイントになるのは彼女に見つからないように目薬を差せるかどうかだった。 ただ、もしも、彼女の前で俺が正真正銘に泣いて~しまったとしたら……。 「これ実は目薬の演出なんだ」と現物を見せながらドモらずに言えるかのほうが、はるかに重要なポイントになるのだった。 ……まあ、本気で泣くわけないんだけどな。 俺たちはキス(おでこに)まで交わした仲だけど。 再会の暁には、本当の意味でのファーストキスを交わすのかもしれないというのは、さすがにちょっと出来すぎだと感じていた。 ……したいわけじゃないからな? 期待と不安が交互に湧く。 俺は彼女の名前は知っていても連絡先は知らなかったので、再会するには少し情報不足だったりする。 だから彼女に電話なりなんなりで連絡を取ることはせず、こうして街を歩いているわけだった。 この坂相変わらず長いなあ、でも幼かった頃に比べれば短く感じる気もするなあ、なんて過去のおぼろげな記憶と照らしあわせて驚いたり寂しくなったりしながら。 彼女の成長した姿を思い浮かべながら。 あの性格も少しは落ち着いていることを~期待しながら。 俺は、彼女と再会できる予感がひしひしとしている。 相手の連絡先も、それだけではなく相手の住所すら~知らなくても。 俺が持つ唯一の情報は彼女の名前だけだったとしても。 俺たちは再会できる。 きっとできるのだ。 なぜなら、俺が今向かっているそこは……。 ふたりの約束の場所だから──── それは、俺がまだ自分のことを僕と呼んでいた頃のこと。 僕たちには、特別な場所があった。 着いたよ、〈洋〉《よう》くん 彼女に連れてこられたその場所には光があった。 たくさんの明かりがあった。 街の灯火と空の灯火。本当にたくさん。 ここが、雲雀ヶ崎の展望台だよ 陽がすっかり暮れた空は深い紺色に染まっていて、そのせいかやたらと高く感じられた。 ここってね、この雲雀ヶ崎で景色が一番キレイに見える場所なんだよ へえー だから夜空の星もキレイに見えるでしょ? うん 手を伸ばせばつかみ取れるみたいでしょ? うん 高い夜空に、その散りばめられた光の群だけが、まるで僕たちの小さな背丈まで降りてきたように見えていた。 背伸びをし、両手をいっぱいに伸ばしても、決してあの星たちには触れられないのに。 指先はただ宙をさまよい続けるだけなのに。 僕たちはその光をつかみ取るため、何度も何度もバンザイしていたのだった。 洋くんはどの星が欲しい? あの星がいいな。青くて白くてとても明るい星 それはこと座のベガ。 七夕でいうところの織姫だ。 あたしはあの白くて長いのがいいな どうして? だってあの白いの、あげパンに見えない? 天の川をそんなふうに言う人初めて見たよ あれ、天の川って言うんだ 知らないの? 悪いの? ……悪くないけど 洋くん、詳しいんだね うん 将来は望遠鏡になれるね ……なりたくないよ 今思えば、彼女は星座に関する知識はなかったけれど、そのくせ星が大好きだったようだ。 僕はといえば特に星が好きということはなかったものの、理科の授業で知識だけは仕入れていたので、有名な星座を教えることくらいは簡単だった。 洋くんが言った、青くて白くてとても明るい星ってどれ? あれ どこどこ? あげパンの上に載ってる星 あれ? たぶんそれ なんであたしが選んだのの上にあるのっ ……なんで怒るの 洋くん、あれにしなよ。あたしが選んだのの下にある星。あれも青くて白くてとても明るいよ それはわし座のアルタイル。 七夕の彦星だ。 それか、百歩ゆずって左側にある明るい星。あげパンの中に隠れてる星 それ、デネブだね ……でぶ? はくちょう座のデネブ 変な名前 で、さっき言ってたふたつの星を今の星と結ぶと、ほら。三角形になる あ、ほんとだ 夏の大三角って呼ばれてるんだ 洋くん、物知りなんだね 教科書に書いてあったから。習わなかったの? 悪いの? ……悪くないけど 洋くん、頭いいんだね 学年でいつも成績トップだよ 何様のつもり? ……ごめんなさい 洋くん、頭でっかちだね ……怒ったんなら謝るよ 怒ってないよ。うん、怒ってない ただ、悔しかっただけ だって、あたしのほうがお姉さんなのに…… 彼女は僕よりも年上だった。 きっとクラスのある階が違うから、学校に通っている間は彼女を見かけないのだと、僕は子供心に納得していた。 僕たちが出会うのは決まって放課後だった。 授業が終わり、下校の時間になると僕は家にも帰らず彼女に会いにいっていた。 どこに会いにいっていたのかは覚えていない。 ついでに言えば、彼女とどのように知りあったのかも覚えていない。 今、何時かな わかんない もう暗いし、帰らなくていいの? ………… 送ってあげようか? 男の子だね ……? キスってしたことある? なにそれ 洋くん、学校の勉強はできるのに、それ以外はうといんだね ……そうなのかな ちょっと目、つむって なんで? なんでも ……なんか怖いなあ 怖くないよ。うん、怖くない あやしいなあ 彼女はちょっとムッとして。 早くしてったら。お姉さんの言うことが聞けないの? 今思えば、彼女だって恋の類に詳しいわけじゃなかっただろうに。 僕に恋をしていたわけでもないだろうに。 あ、あたしの、ファーストキス……あげようって言ってるんだからっ ただ、頭でっかちな僕に、どうにかしてお姉さん風を吹かせたかっただけなのだ。 ……恥ずかしいから、目、つむって欲しいな いぶかりながら僕が目を閉じても、なかなかそれは起こらなかった。 まだ……目、開けないでね その言葉がいやに近くから聞こえてきたので、僕はどぎまぎしていたと思う。 開けたら、絶交だからね…… そのときの彼女の声は普段と違っていたのだけど、どのように違っていたのか当時の僕には説明できない。 たぶん、今でも説明できない。 おでこにちょこんとなにかが触れた。 ……えへへ 照れたような、勝ち誇ったような、そんな笑い声。 あと一分したら、目、開けていいよ 僕はきっかり60を数えてから、目を開けた。 彼女はいなくなっていた。 忽然と消えていた。 驚いた。 彼女の名前を呼んでも出てきてくれない。 ちなみに僕はここまで彼女によって連れてこられたため、帰り道がわからない。 僕は夜が明けて犬の散歩をする人に発見されるまで、泣いていた。 僕は、彼女とどのように知りあったのか覚えていない。 ただ、この展望台の存在を知ってからは、僕たちはよくここに集まるようになった。 彼女と遊びたいときは、街で一番星空がキレイに見えるこの場所を目指すようになった。 夕方に落ちあい、陽が落ちて星が姿を現すまで。 手を伸ばせばつかみ取れそうなその光を望んでいた。 今日はサークルのほう、いいんですか? いいもなにも屋上の使用許可が下りないんだもん。こっちはいいかげんまともに活動したいのに~! 騒々しい声に、想い出に浸っていた思考がすくい上げられた。 生徒会の方々、天クルを目のカタキにしてますからね 方々っていうか、こももちゃんだけね 姉さん、昔から星が大嫌いですから あたしは大好きだよ それはもう耳にタコができすぎて焼いて食べてしまいたいほど聞きました なんにしても、七夕まであと三日だよ? せめてそれまでに屋上使わせてくれないと…… 天体観測愛好サークル、略して天クルの名折れですね 織姫と彦星があたしを待ってるんだよ~! 天気予報も七夕にしてはめずらしく晴れでしたからね このチャンスを逃さずにかささぎの橋を見届けたいんだよ~! かささぎというのは、天の川で翼と翼を広げて架け橋となる七夕伝説の鳥ですね もう部室で延々トランプしてるの飽きちゃったよ~! 今度は花札にしますか? そういう問題じゃないんだよ~! 俺は気づけば学校の前を通りかかっていた。 展望台に続くこの坂の途中に建つ、雲雀ヶ崎学園──通称ヒバリ校。 子供の頃はいずれ自分もこの学校に通うのかもしれないと、展望台に向かう道すがらに漠然と考えていた。 自分よりもずっと大人に見える生徒たちを、羨望が混じった眼差しで見つめていたんだろう。 だけど急な引っ越しが決まり、この街を離れることになって、それは叶わないのだとばかり思っていたのに。 こさめちゃん、こももちゃんのことお願いっ。姉妹のよしみで許可取れるよう頼んでみてくれない? わたしは天クルの一員ですけど、姉さんの味方でもありますよ こさめちゃんの裏切り者~! 裏切り者ではありません。わたしは明日歩さんの味方でもありますから だったらこももちゃんのこと説得してよ~! わたしは姉さんの味方でもありますから じゃあどうすればいいんだよ~! どうすればいいんでしょう? こさめちゃんも少しは考えてよ~!! ………… と、女子生徒と目が合ってしまった。 いつまでも見ていたら不審者扱いされかねないので、俺は道を急ぐことにする。 どしたの? 急に黙って あの人、〈夢見坂〉《ゆめみざか》を登っていくみたいです ほんとだ、めずらしいね この先って行き止まりなのに…… ……え? 観光の人でしょうか。道を間違ったとか 行き止まり? 道を間違った? そんなはずはない。 俺の記憶では、この先には展望台があるはずだ。 彼女に教えてもらった雲雀ヶ崎の展望台。 間違うわけがないのだ。 霞んでしまった想い出の中で、その場所だけはまだ俺の中で鮮明に息づいているのだから。 わっ、もうこんな時間。急がないと 喫茶店のお手伝いですか? うん。お父さんに悪いし、先帰るね はい。また明日、学校で ばいばいっ 坂を走って下りていく彼女とは逆方向に、俺もまた走って頂上に向かった。 ……マジか そこはたしかに行き止まりだった。 展望台へと続く道はフェンスで仕切られており、そこに立ち入り禁止の看板がかかっている。 記憶とは違っている。 こんなフェンスは初めて見た。 だが、そのほかは覚えていた。 フェンスの向こうに見える細長い道は、彼女と一緒に歩いた道だ。 俺が間違ったわけじゃない。 つまり俺が引っ越したあとにこのフェンスが建ったのだ。 どうして…… この奥にある展望台は、雲雀ヶ崎の観光地のひとつだったはずだ。 特に有名じゃないし地元民でも知らない人がいるくらいだが、雲雀ヶ崎を一望できる夜景は格別だった。 彼女と一緒に眺める夜空は心打つ風景だった。 夏の夜空は俺の中で彼女の代名詞とも言えるくらいに。 だからこそもう一度、彼女と一緒に夏の星座を眺めたい。 彼女があげパンと言った天の川に向かってふたりで手を伸ばしてみたかった。 幼い頃よりも、きっとその手は星に近い。 ……くそ それなのに、展望台は今は立ち入り禁止だ。 ……工事中とか? 改装のため一時的に立ち入れないようにしている? だがそんな文句は見当たらない。 看板には立ち入り禁止と簡素に書かれているだけだ。 どうするかな…… フェンスに手をかける。がしゃりと揺れる。 もうほんの目と鼻の先に、彼女と約束を交わした展望台があるというのに。 再会の約束を交わした想い出の場所なのに。 俺がこの街に帰ってきた暁には、そこで彼女が怒ったように待ちわびているのだと思っていたのに。 まあ、彼女がまだ俺のことを覚えているのか、断言できるわけじゃないけど……。 ……洋くん、引っ越ししちゃうの? うん この街から出ちゃうの? うん どうしてっ お母さん、転勤になったんだって てんきん? 仕事する場所が代わること どこでお仕事するの? 都会のほうだって それ、遠いの? うん どのくらい遠いの? とても遠いんだって たぶん、手をいくら伸ばしても届かないあの星々と同じくらいに。 あたしたち、お別れなの? ……うん そんなの許さないっ ……そんなこと言われても 転勤するのは親なのにどうして洋くんまでいなくなっちゃうのっ しょうがないよ……。僕、まだ子供だもん 子供だからってなんでも許されると思ったら大間違いだよ! そ、それなんかおかしいよ 洋くんはなんとも思わないの! そりゃ僕だって嫌だけど…… だったら洋くんだけ残りなよ 残れないよ。アパートも解約するって言ってたもん かいやく? 家がなくなること だから洋くんもいなくなっちゃうの? うん そんなの許さないっ そんなこと言われても…… 洋くん、ここに住みなよ ……え おうちがなくなっちゃうなら、この展望台に住めばいいんだよ。そしたらここで一日じゅう遊んで暮らせるよ む、無理だよ やらないうちからそんなふうに決めつけちゃダメだよ! で、でも、食べるものもないし…… 男の子なんだから我慢しなくちゃダメだよ! 背に腹は代えられないよ…… このキノコ食べられないかな きっと笑いが止まらなくなるよ…… それなら一日じゅうハッピーでいられるよ! 失うものが大きすぎるよ…… 洋くん、文句ばっかり 言いたくもなるよ…… 洋くん、悲しくないんだ ………… もう、会えなくなるのに あたしたち、お別れなのに…… 彼女のこんな沈んだ声は初めてだった。 彼女はいつでも明るかったし、楽しそうだし、笑っていたしで、こんな気弱な姿を見るのは初めてだった。 だからだろうか。 このとき僕は彼女を元気付けるためにこう言った。 絶対、戻ってくるよ 彼女の瞳が僕を射る。 絶対、お別れなんかじゃない 涙が盛り上がったその大きな瞳が僕を見つめる。 僕、戻ってくるよ この街に戻ってくる だから、お別れなんかじゃない 本当? 消費税くらいの確率で本当 うわーん! 大泣き。 だ、大丈夫だよ。きっと数年後には消費税も200%になってるから…… ……じゃああたし、消費税が早く上がりますようにって祈ってるね きっと彼女は将来有望な政治家になる。 それで、消費税ってなに? ……前言撤回。 あたしたち、また会えるの? うん 絶対、ぜーったい、再会できるの? うん あのお星さまに誓って? うん 織姫と彦星に誓って? 七夕伝説ではふたりが待ち焦がれた七月七日は雨模様が多くそのため天の川の水かさが増して織姫は向こう岸に渡れず彦星との再会も叶わず川面を眺めて涙を流し うわーん! 大泣き。 だ、大丈夫だよ。織姫と彦星は、最後にはちゃんと再会を果たしたから…… 本当? うん 本当に本当? うん じゃあ、約束ね うん、約束 あたしたちは必ず再会すること! この展望台で必ず再会すること! 織姫と彦星みたいに離れ離れになっても、最後にはちゃんとふたりは再会すること! そして、再会したらケッコンすること! 僕は、うんと答えた。 結婚なんて急に言われて驚いたけど、僕は自然とうなずくことができたんだ。 だって、彼女は笑っていたから。 それが僕の一番好きな彼女だったから。 ケッコンして、あたしのお尻に敷かれること! ……それはやだな 僕たちは再会できる。 再会して結婚できる。 きっとできるんだ。 きっと。 ……たぶん彼女は、結婚の意味も知らなかった気がするけどな それともママゴト感覚で言ったのかもしれない。 彼女は見た目以上に幼かったと思うから。 ……っと 服に引っかかった枝を払いのける。 辺りは暗くなっていた。方向感覚が狂いそうになる。 忌々しいフェンスを横目に、山側へと回り、獣道とも言えない林の中を掻き分けて進んでいた。 それからようやくフェンスの迂回に成功して。 俺は、展望台までの道を登る。 細くなだらかなこの小道をひた登る。 ああ、そうか。 そうなんだ。 ここは変わっていない。 ここまでの道程はいささか変わっていたけれど、ここは寸分たがわず変わっていない。 むせ返る草木の匂い。 薫風にそよぐ梢。 高く澄んだ虫の鳴き声。 想い出の中のまま。 記憶と現実が重なる。 だから彼女はいると思う。 この先で俺を待っていると思う。 そう、思えるんだ。 引っ越しの前夜、僕たちが展望台に集まった最後の日。 七月七日の七夕の日。 この場所で僕たちは必ず再会するという約束を交わし。 おでこにキスを交わして。 彼女は笑っていた。 織姫と彦星の下で笑っていた。 笑いながら泣いていた。 僕は彼女に笑い返していた。 彼女はなんだか変な顔になっていたから。 だけども僕もまた唇の端のところがひくひくってなって、うまく笑えなくなっていたから、たぶん彼女と同じくらい変な顔だったんだと思う。 YUME_e01a_parts 泣いていたんだと思う。 そのとき初めて、本当の意味で知ったんだと思う。 僕は、彼女に感謝していた。 俺は、彼女が好きだった──── だから、彼女はそんな俺を待っていてくれた。 おかえりなさい、洋くん 彼女は俺を待っていた。 約束どおり、そこにいた。 ちょっと、待ちくたびれちゃった 夏の星座に彩られた夜空。 七夕が近いその星空。 月影と星明りに照らされた彼女は成長を果たしていた。 背丈も変わらず顔もあどけないままなのに、衣装と持ち物がべらぼうに変わっているのがその証拠。 記憶と重なるその風貌。 重なるどころかうりふたつのその姿。 なのに彼女のその身にまとう衣装は奇抜であり。 用途不明の大きなカマを持っているのはきっと愛嬌。 俺の想像など及びもしない方向で、彼女は成長を果たしたのだ。 おひさしぶり、洋くん その声すらも記憶とうりふたつで。 約束を守ってくれて、ありがとう だけど、それは感動の再会とは違っていた。 俺の手から目薬がぽとりと落ちた。 わたしのこと覚えていてくれて、ありがとう──── これで、わたしもやっと務めが果たせるわ フライパンから昇る朝食の芳ばしい香りを嗅ぎながら、キッチンの小窓に覗ける四角い空を眺めていた。 天気は快晴、差し込む陽光が目に痛い。 初夏ともなればこんなふうに料理をしていると暑くてたまらず、キッチンに扇風機は必須だったりするのだけど。 この雲雀ヶ崎はこれまで住んでいた都会とは違って、気温はだいぶ下だった。 空気もきりりと澄んでいて、もっと太陽が高くなれば暑くなるのだろうけど、じめっとした暑さの都会に比べれば過ごしやすそうだ。 ありがとう北の街、ただいま我が故郷(しみじみ)。 学校もまだ始まらないし、ひさしぶりに落ち着いて朝食をいただけそうだ。 寝過ごした寝過ごした寝過ごした────っ!! と、水を差すようにばたばたと階段を降りてくる足音が聞こえてくる。 ごめんお兄ちゃん今すぐ朝ご飯の支度するから……って、なんでもう食べてるの!? 妹の〈千波〉《ちなみ》が勢いよくダイニングに飛び込んできた。 おはよう 優雅にコーヒーカップ掲げておはようじゃないよっ、なんでもう朝ご飯食べてるのかって聞いてるの! 朝食抜かしたら一日の元気が足りなくなるじゃないか そうじゃなくてっ、朝ご飯は千波の係りでしょ! そうなのか? そうなのっ、冷蔵庫のとこに当番表が貼ってあったでしょっ、今日から毎日千波が朝ご飯作るって! ああ、あれか あれだよ! 字が下手すぎて読めなかった ひどっ!? なのでシュレッダーにかけて隠滅した ひどすぎだよっ!? だいたいおまえ朝弱いんだから無理に自分で作らなくたっていいだろ それじゃ誰も作らないじゃない! 俺が作ってる なんてこと!? ……どこのお嬢? お兄ちゃん、お料理できたの? 今さらなに言ってる。俺、よく母さんが作るの手伝ってただろ この人悪魔だよ!? ……どういう意味だよ この目玉焼きなんで色が白いの? 普通白いだろ 千波が作ると黒いよ? 焦げてるからだろ ぱりぱりしておいしいよ? ……おまえは二度とキッチンに立つな でもでもっ、今度から心入れ替えて早寝早起きして毎朝ちゃんと千波がご飯用意するって天国のお母さんに誓ったんだから! そして早速破ったと ごめんなさいお母さん! 天井に拝んでいる。 とにかくまず顔洗ってこい。髪はぼさぼさのままでいいから、さっさと朝飯食べろ うー…… 寝起きの髪を手で押さえながら不満顔。 ……朝ご飯、ほんとにお兄ちゃんが作ったの? ああ なんで作るの! ……怒る理由がわからん 目玉焼きとトーストとコーヒー、全部? ああ せめてお皿くらい千波に並べさせて! ……我が妹ながら怒るポイントがほんとわからん。 いいから顔洗って千波も食べろ。それとも今日はいらないのか? ……いる じゃあ食べろ ……ん 席に座る。 まず顔洗ってこいって ……洗ったもん さっき思いっきり二階から直で来てたじゃないか とにかく洗ったのっ ふて腐れている。 千波は目玉焼きにマヨネーズをたっぷりかけてぱくつく。 うまく半熟で焼けてると思うんだけど ………… うまくないか? ……おいしい よかったよ おいしいからよけい腹立たしい なんだよそれ…… 朝っぱらから千波は不機嫌だった。 つつがなく朝食を終え、俺と千波は本日の仕事に取りかかる。 昨日に配送業者から受け取った引っ越しの荷物を片付けなきゃならないのだ。 転入予定の学校が始まるのは、来週の月曜日から。それまでまだまだ時間はある。 その頃には片付けも終わっているだろう。 都会に暮らしていた頃となんら変わらぬ環境、とまではいかないだろうが、自分の部屋くらいは同程度の環境に整えられるはずだった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! うるさい あうっ 額にチョップ。 ぶたれたっ!? お母さんにだってぶたれたことなかったのに! 俺だってない。 で、なんだ? あのねあのねっ、ダンボールお部屋に運ぼうとしたんだけど重くてねそれでね千波もがんばったんだけどねっ 落ち着け あうっ デコピンする。 痛いよ痺れるよっ、千波自慢のぴかぴかおでこが今ごろ真っ赤に腫れ上がってるよきっと! 夕陽みたいでキレイだぞ 謝罪どころか拝み出した!? あのさ、おまえ、なんでもかんでもひとつのダンボールに詰め込みすぎなんだよ。だから重いんだよ リビングの隅に積まれたダンボールの山は、誰の物か見分けがつくように俺たちの名前が書いてある。 その中で、千波のダンボールは俺のものより一回りも二回りも大きかった。 引っ越し業者の人も運ぶの苦労してたじゃないか お金もらってるくせに態度でかくて困ったものだよね そのせいで底が抜けて中の荷物が散らばって大変だったじゃないか 文句垂れてる暇があったら早く拾えって感じだよね だから俺がもういいですからそこらへんに捨てといてくださいって頼んだんじゃないか 聞き捨てならない事実が発覚!? まったくおまえのフォローも大変だよ フォローじゃないよね? 突き落としてるよね? ほんとに捨てるわけないだろ。俺のダンボールに小分けにして入れたんだよ お兄ちゃん大好き! しかしおまえってけっこう下着持ってるのな いやああああああああっ!!! 俺のダンボールを片っ端から開ける我が妹だった。 俺と千波は荷物を引っ越し業者にあずけたその日のうちに、この雲雀ヶ崎に着いていた。 引っ越し先は母さんの実家。 つまりここ。 今は母さんの妹である〈詩乃〉《しの》さんの家だった。 故あって母さんが急死し、もともと父親もいなくて二人きりになった俺と千波を助けてくれたのが彼女なのだ。 詩乃さんには感謝している。 クラスの仲間と離れるのは寂しくもあったし、母さんの死でナーバスになっていた千波も、友達との別れを惜しんで泣いたりしていたけれど。 それでも、引っ越すとしたらここ以外にないだろうというのがこの雲雀ヶ崎だったのだ。 俺と千波が生まれた土地。 そして、この家。 俺が産まれたばかりの頃は家族で暮らしていたというこの家も、千波の誕生と同時期には出ていたらしい。 母さんはお腹に千波を抱えたまま、赤ん坊の俺を抱いて家を飛び出し、アパート暮らしを始めたのだ。 そのあたりの事情はごちゃごちゃしていて説明するのは難しい。 そもそも当時のことを赤ん坊の俺は覚えていないので、すべて人づてに聞いた話でしかない。 それは想い出を作るにも至れない過去の話でしかない。 だから俺は誰にもその事情を話したことはない。 まあそういう理由に加えて、雲雀ヶ崎でも都会でもアパート暮らしだった俺は、一戸建ての家に暮らすというのはどこか奇妙な感慨があった。 アパート暮らしに文句があったわけじゃないけれど。 不自由なんかはなにもなかったし。 朝の弱い千波を苦労して起こし、母さんが作った朝食を残さず食べ、ふたりで遅刻ぎりぎりの時間に登校する。 授業はつまらなくなかった。 俺は勉強が嫌いな子供じゃなかった(千波は嫌いのようだったが)。 そして、放課後になれば彼女に会いにいく。 展望台で待ちあわせ、ふたりで夜空を見上げていた。 それは自由で、楽しい時間だったのだ。 だからこの雲雀ヶ崎に戻ってきて、まずやりたかったのは彼女との再会だった。 再会だったはずなのだが……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! うるさい あうっ 喉に手刀。 最愛の妹に対する所業とは思えないよ!? 最愛じゃなくて愚妹だし 本人の目の前で言っちゃったよこの人!? 愚妹はただの妹の謙称だけど愚かな妹でまあいいのだ。 で、なんだって? あのねそのねっ、千波の整理ダンスの引き出しにテープがいっぱい貼ってあってねっ 運ぶときに引き出しが出ないようにしたんだよな そうなんだけど、なんかテープが固くてがんばってもなかなか取れなくてねっ 簡単に取れたら意味ないからな それはそうなんだけどあまりにも固すぎて、でも強くひっぱると塗装剥げちゃいそうだしで、どうしたほうがいいのかなお兄ちゃんっ 諦めれば? なんて清々しい一言!? おまえ、べたべたテープ貼りすぎなんだよ。だから取るのに苦労するんだ でもたくさん貼らないと服いっぱい詰め込んでるから飛び出ちゃいそうだったし だから業者の人がひいひい言って運んでたのか……。 どうしたほうがいいかなお兄ちゃんっ 服着なきゃいいじゃないか なにがなんでも手伝いたくなさそう!? こっちだって片付けがあるんだよ 千波のが終わったら手伝ってあげるから! ありがとういらない なんて冷たい無表情!? テープを剥がすくらいひとりでやれ だって困ったことに千波だけじゃ手に負えないんだもんっ、神さまがイジワルなんだもん! 大丈夫。おまえならひとりでもできるよ え…… 自信を持て。おまえは必ず成し遂げられる。おまえは俺の自慢の妹なんだ お、お兄ちゃん…… だから服を着なくても胸を張って生きていける うんわかったありがとうお兄ちゃんって、そんなのできるわけないじゃないエッチ! こいつの相手はとても疲れる。 そのタンス、おまえの部屋にあるんだよな 千波の頭をぽんとたたいて、二階へ向かう。 あっ……うんっ 千波は俺の腕をひっぱって先導した。 何重にも巻かれたテープを塗装まで剥がさないよう慎重に剥ぎ取り、終わった頃には一時間が経過していた。 ……疲れた だが俺のほうの片付けはまだなんにも終わっていない。 さっさと終わらせよ…… 片付けが終わったら、また展望台に足を運んでみるつもりなのだ。 昨日に出会ったあの彼女。 もしかしたら、また会えるかもしれない……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! うるさい あうっ 目つぶし。 このつぶらな瞳を傷物にする気!? 見えればいいだろ 血も涙もないよこの人!? で、今度はなんだ あのねそのねっ、千波愛用のサイドボードにガラス戸がはまってなくてねっ 運び出すときに外してたじゃないか でねでねっ、はめ直そうと思ったんだけど肝心のガラス戸が見つからなくってねっ それならおまえが今踏んでる えっ 毛布に包まっていたガラス戸がバキバキと音を立ててくずれていた。 ああっ!? 飛びのいた拍子にもうひとつの毛布に乗る。 バキッ。 あああっ!? 飛びのいた拍子にさらにもうひとつの毛布に乗る。 バキッ。 ああああっ!? ……きれいに三つ全部割れたな そ、そんなあ……千波愛用サイドボードがあ…… さめざめと泣いている。 ……千波、そんなに気を落とすな あ……お兄ちゃぁん…… 気を落とす暇があったら割れたガラスを掃除してくれ お兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカぁ!!! ぽこぽこたたかれた。 わかったからマジメにどいてろ。ケガするぞ あ……うん 飛び散った破片を毛布ごと外に出す。 ……ごめんなさい、お兄ちゃん これくらいいつものことだろ 千波は複雑な顔だった。 最後に掃除機をかけて細かい破片をすべて吸い取り、ようやく片付けを再開する。 ……ぜんぜんはかどらねえ 俺は一つ目のダンボールを手に取る。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! うるさい あうっ ダンボールを千波の頭に載せる。 重いよ辛いよ首が折れそうだよお兄ちゃん! 折れたらウケるな それでいいのお兄ちゃん!? なにか問題あるのか? 真顔で聞き返されてる!? で、今度はなんだよ…… あのねうんとねっ、本棚に仕切りの板がなくなっててねっ 棚板のことか。運び出すとき外してたじゃないか それでねそれでねっ、その板を外して別にしてヒモでちゃんと結んでたんだけどねっ 千波にしては上出来だ ここで困ったことにその結んだヒモっていうのが実は千波愛用リボンだからねっ、結び目がきつくてほどけなくてもゆっくり優しく慎重に…… 切ればいいじゃないか 言うと思ったよ!? よし早速兄ちゃんが切ってやろう 今まではなかなか手伝ってくれなかったのに今回はなぜそんなやる気に!? 大事なリボンだったらわざわざヒモ代わりにするな そこは千波のことだからちゃんと最初はお兄ちゃんの制服のネクタイ使ったんだけど、途中でなんかぼろぼろになってすり切れちゃってしかたなく千波の…… 棚ごとリボンを切り刻んでやるううぅぅ!!! お兄ちゃんがチェーンソー持って暴れ出した!? 悪い子は居ねがああああああ!!! それいろいろ混じってる! 和洋が混同してるよお兄ちゃん!! 怒りを静めるのにまた一時間を費やした。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! いいかげんにしろ あうっ 千波を倒してゴールドをもらう。 それ強盗だよ!? 千波が起き上がって仲間になりたそうにこちらを見ている モンスター扱い!? なにか問題あるのか? また真顔で聞き返されてる!? ……で、いいかげん聞きたくなくなってきたけど次はいったいなんだ えっとねうんとねっ、どのダンボールにどんな物入れたのかわからなくなってねっ ちゃんとダンボールに入れた物書かなかったのか? ちゃんと書いたよ書きまくったよっ、これは千波が嫌いなのこれは千波がちょっと好きなのこれは千波が大変好きなの…… さてどのダンボールから運ぶかな スルーされてる!? ……いちおう書いてあるんならだいたい見当つくんじゃないのか それがねそれがねっ、千波が嫌いなのって次の日には好きになってることが多々あってねっ、千波としてもこれが思春期特有の目移りだからしかたないって…… 次はどのダンボール運ぶかな 思春期の子を無視するとグレるんだよ!? ……おまえは大好きなものも次の日には大嫌いになってるのか ううんっ、大好きなものはずっと同じで変わらない なにが大好きなんだ? ……えっと マシンガントークの千波がめずらしく口ごもる。 千波、片付けに戻るね ぱたぱたと立ち去った。 ……なんなんだ 手伝って欲しいんじゃなかったのか。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 俺はそろそろこの片付け作業は一筋縄では終わらないことを痛感していた。 千波のドレッサーが割れてるっ、真ん中からピキピキってヒビ入ってるっ、これって賠償金ものだよね! 鏡の部分を外して梱包しなかったおまえが悪いんだよ でもでもそれだけじゃないんだよっ、引き出しの中にあったコスメのボトルとビンも割れてるんだよ! 服と違うんだから引き出しに入れっぱなしにしてたらダメだろ このままじゃ花も恥じらう千波がいつまでも末永くすっぴんで過ごさなきゃになっちゃう! なにか問題あるのか? 真顔で聞かないでお願いだから!? 割れたガラスはどうなってる? あっ、えとっ、千波の部屋に…… さわるなよ。おまえはここにいろ。片付けてくるから う、うん…… ごめんなさい……お兄ちゃん…… べつに謝らなくてもいいから う、うん…… 謝るくらいなら倒されてゴールドになって欲しいから それ千波よりお金が大事ってことなの!? 夕方になって、俺のほうはまだまだだが、千波はいいかげん片付けが終わっただろうと思っていると。 あの……お兄ちゃぁん…… 千波がしょんぼりしてリビングに降りてきた。 どうした? 元気だけが取り得のおまえらしくない声出して その言葉はとても引っかかるけどツッコむ余裕も今はないよ…… どうもただ事ではないようだ。 なにがあったんだ? うん……すっごく言いにくいことなんだけど…… じゃあ言わない方向でファイナルアンサー? やだよ聞いてよっ、ていうか耳ふさがないでよ!? で、言いにくいことって? う、うん……あのね、千波のベッドがね…… 組み立てたんじゃないのか? しようと思ったんだけど……できなくて…… なんで その……ベッドを置くスペースがなくて…… ………… つまり、先に本棚やら机やらを部屋の中で組み立てたので、ベッドを置く場所がなくなったということか。 これ……もしかして、せっかく片付けたのに、ベッド入れるにはまた全部部屋から出さなきゃってこと……? ……眩暈がする。 大きなものから先に組み立てなきゃダメだろ…… だ、だってえ……千波、引っ越しの片付けなんて初めてで…… 言われてみるとそうだ。 昔、この雲雀ヶ崎から都会に引っ越したときは、俺と母さんだけでそのあたりの作業をすべてこなしていた。 千波はまだ小さくて非力だったので手伝えなかったのだ。 それでも手伝いたがる千波を、危険だからと言って母さんは優しくなだめていた。 そのときの千波は悔しそうにしていた。 悔しそうに、俺と母さんの作業を後ろから眺めていた。 でも……今度こそって思って……千波だって手伝えるんだって思って…… ……俺もやるよ 千波はうつむかせていた顔を上げる。 ふたりでやればすぐだよ 千波はやっぱり悔しそうに。 ううん……いい そう、否定した。 ……遠慮するなよ、おまえらしくない。手伝って欲しいから呼んだんだろ? ううん……この大変さをお兄ちゃんにアピールして見事こなす千波の雄姿をその目に焼きつけたのちに千波の株を上げて欲しかったの ……がんばれよ ウソです冗談です見捨てないでえ! しがみつかれる。 まあ、ちゃんと教えなかった俺が悪かったしな。だから、ふたりでぱぱっと終わらせよう お兄ちゃんは悪くないよ 足手まといは、いつも千波なんだよ…… 千波の頭に手を載せる。 足手まといなんて思ってない あ……お兄ちゃん…… 一度だって思ったことないからな お、お兄ちゃんっ、それはすっごくうれしいんだけど頭に載ってる手が痛いよっ、これもう載せてるんじゃなくてアイアンクローになってるよ!? 千波は足手まといなんかじゃないからな? 絶対足手まといって思ってるっ、その手がすべてを物語ってるっ、もう両手で千波のこめかみぐりぐりしてるよお兄ちゃん!? さて、それじゃあ最後の大仕事、千波の部屋を最初から片付け直そうか。 ……俺の部屋の片付けは今日中には無理そうだな。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……大声で呼ばなくても聞こえてるって でもでも大事件なんだよ! ついにメルトダウンでも起こしたのか? さすがの千波もそこまでの大惨事は起こせないよ!? ベッドの組み立てに問題あったのか? それがねどうやっても組み立てられないのっ、これってもしかして不良品っ、それとも運送事故で破損っ、引っ越し業者に損害賠償求めたほうがいいかなっ ……ネジが合わないだけじゃないか でもでもそれっておかしくないっ、ネジはちゃんと全部袋に入れてたから、なくなることも逃げ出すことも生まれ変わることもできないはずなのにっ おまえが後先考えずデタラメにネジを使うから、そうなったんだよ そんなの千波はネジ博士じゃないんだからわかるわけないよっ あのな、こういうのはどこにどのネジを使えばいいかわかるようにパーツにネジを貼っておくんだよ ……やっぱり千波は足手まといなんだね なに今さら言ってんの? 数分前のお兄ちゃんとは別人のような言葉が!? ベッド組み立て終わったら物運び込むからな。まずはこのバッグと…… わああっ、それ開けちゃダメ! なんだ千波のパンツか 少しは驚くとか目を逸らすとか顔赤くするとかそういう態度取ってよお兄ちゃんのバカ! そんなこんなで片付け(千波の部屋だけ)は終了した。 俺たちの荷物は各自の部屋の分だけなので、あと片付けが残っているのは俺の部屋だ。 この家はもともと詩乃さんが住んでいるので、リビングやその他の部屋を整理する必要はない。 都会で使っていたそれらの用品は、すでに処分している。 母さんとの想い出の品ではあったし、千波も最後まで反対していたけど、しょうがなかった。 むしろ、空き部屋を俺たちに使わせてくれる詩乃さんに感謝しなければならない。 両親のいない俺たちが途方に暮れず、雲雀ヶ崎で生活できるのは、すべて詩乃さんのおかげなのだ。 あら、洋ちゃん。おはよう 詩乃さんがようやくお目覚めだ。 おはようございます。うるさくしてすいません なにかあったの? 千波の大声でもぐっすり寝られる詩乃さんだった。 こっちこそごめんなさいね、こんな時間まで寝てしまって いえ、仕事のほう大変なんですよね? もう少しで山場は越えるから。そうしたらちゃんとご飯も用意するからね ダメですっ、それは千波の係りですからっ 部屋を借りてるだけで充分ですし、食事くらいなんとかしますから そうですっ、詩乃さんの分もちゃんと作りますからっ 俺がちゃんと作りますから 千波が作るんだよ!? すいません、たまにこの子とち狂うんで かわいそうな人を見る目で見ないでよ!? 洋ちゃんも千波ちゃんも、遠慮なんかしなくていいのよ? 夕飯は私に任せていいから ふたりの引っ越し祝いに、腕を振るっちゃうから 詩乃さんはほほえみながらキッチンに入っていった。 学費は母さんの貯金でなんとかなるとしても、食費のほうはどうしても詩乃さんの負担になってしまう。 甘えてばかりじゃ悪いし、俺もバイトを考えたほうがよさそうだ。 転入先の学校がバイト禁止じゃなければいいのだが。 詩乃さんっ、千波も手伝いますっ 千波も詩乃さんを追っていった。 それじゃあ俺は、と。 ちょっと出かけてきますね どこ行くの? 千波がすぐさま戻ってきた。 街を見てくるだけだよ 昨日も行ってなかった? また見てこようかなと じゃあ千波も行くね ……いや、おまえは詩乃さんを手伝うんだろ こっちはいいから。ひさしぶりなんだし、ふたりで見て回ってきたらいいじゃない はいっ、お兄ちゃんのお守りは任せてください! そりゃ俺のセリフだ。 でも、夕飯までには帰ってきてね? はーい! 詩乃さんのほほえみに見送られながら、千波をお供に家をあとにした。 外は比較的涼しかった。 吹き渡る風が、引っ越しの片付けで汗をかいた身体に心地よい。 重労働で疲れている足も、いくぶん軽くなる。 さすが雲雀ヶ崎だねっ、都会よりもずっと涼しいね しかし、できればひとりで出かけたかったんだが……。 千波ねっ、あそこ行きたい ダメだ まだなにも言ってないよ! 行き先はもう決まってるんだよ どこ? 夢見坂の先にある展望台 千波はきょとんとする。 展望台って、あの観光地としてはマイナーなあれ? そうだよ マイナーで悪かったな。 なんでなんでっ、星空でも見上げたいの? まあそんなところだな いつからお兄ちゃんはエゴイスティックなロマンティシズムを語るようになったの? ひどい言われよう。 もしかして昨日もそこ行ってたの? まあな そういえばお兄ちゃん、昔はよくそこで遊んでたみたいだよね 俺は学校帰りに展望台に寄り、あの彼女と遊ぶことが多かった。 陽が落ちるまで彼女と一緒だったから、帰宅するのはいつも遅かった。 母さんから怒られたことはなかったが、俺が帰ってくるまで遊び相手のいない千波は寂しそうにしていた。 とはいえ、彼女と遊んでいたのはほんの一ヶ月間くらいだったと思う。 俺たち家族が引っ越したことで、ふたりの夜遊びも終わったのだ。 その展望台って、実は想い出の場所だったり? ………… お兄ちゃんなんか照れてる ……照れてない でも千波が長年つけ続けたお兄ちゃん観察日記によると、お兄ちゃんがムスッとしてるときは照れてるか後ろめたいことがあるときで…… 観察日記とやらを取り上げて破り捨てる。 千波のライフワークの結晶が!? 遅くなると詩乃さんに悪いし、急ぐぞ 踏みにじってるっ、お兄ちゃん観察日記のカケラがお兄ちゃん本人の土足によって踏みにじられてる! 置いていくぞ 待ってよっ、いいよもうっ、どうせその日記は布教用だもんっ、観賞用はべつにあるもんっ ときどき我が妹の行動が計り知れない。 わあっ、この坂ぜんぜん変わってないねっ、先が見えないくらい長く続いてる 夢見坂と呼ばれるこの坂は、展望台と同じく雲雀ヶ崎の観光地のひとつとして数えられている。 ただ展望台があまり知られていないのと同様、この坂も観光に訪れる客はめったにいないようだ。 どうせ行くなら湾岸部のほう──海水浴や運河でのボート乗りをしたいと観光客が思うのもうなずける。 このあたりは、どこか寂しい風景だ。 千波はこの坂、上まで登ったことあるのか? ううんっ、一度子供の頃に登ろうとしたんだけど、途中で疲れちゃってタクシー呼んで帰って来ちゃった 昔から腹黒かったもんな なんで腹黒いんだよっ、ちゃっかりさんって言ってよっ そのちゃっかりが勉強その他に生きてくれればいいんだけどな 生きてるよしっかり そうなのか? うん たとえば? それは内緒だよっ 突然腕を組んでくる。 夢見坂は観光地としてだけじゃなく、学校の通学路にもなっているので、下校中の生徒が俺たちとは逆に坂を下りている。 その生徒たちの視線が、腕を組んで歩く俺たちにちらちらと向けられていた。 あの人、昨日も見かけましたね 隣にいる子、恋人かな ご、誤解されてる? あの人たち、きっと、千波たちが通うことになる学校の生徒だよね…… 俺たちの転入先のヒバリ校は、この坂の途中にある。 恋人同士で旅行かもしれないですね だったらこんな寂れた坂じゃなくて、海とか運河のほうがいい雰囲気になれると思うんだけどな 完全に誤解されてる。 千波は、元気だけじゃなくて、ちゃっかりなところも取り得なんだよ…… すぐに千波を振り払う。 ……バカなことやってないで、行くぞ お兄ちゃん、照れてる 照れてないっ でもお兄ちゃん観察日記によると、お兄ちゃんが目を逸らして毒づくときは照れてるか後ろめたいことがあるときか、もしくは恋にドキドキして…… 破り捨てる。 二冊目もお亡くなりに!? 置いていくからなっ 待ってよっ、いいよもうっ、どうせその日記は観賞用だもんっ、保管用はべつにあるもんっ 追いかけっこのように頂上を目指す。 あの人たち、ケンカしたみたい 痴話喧嘩でしょうか 彼女が怒って彼氏を追いかけてるね 彼氏の浮気を問い詰めた挙句に逃げられたという図式に見えますね じゃあこの旅行は彼氏の浮気を吐かせるために仕組んだ、彼女の巧妙な罠なのかな 可能性は高そうです。くわばらくわばら くわばらじゃねえ。 願わくば、彼女らと学年が同じじゃありませんように。 クラスメイトだったら目も当てられない。 あれ、お兄ちゃん…… ヒバリ校を通り過ぎて五分ほど歩くと、大きなフェンスが立ちはだかる。 展望台って立ち入り禁止だったの? いや、前に住んでたときはちゃんと行けたよ じゃあ今は工事でもしてるのかな だったら着工時期や完成見込み時期を書いた看板がどこかにぶら下がっていてもおかしくないのだが。 千波、まだついてくるのか? ついてくるって……お兄ちゃんこの先も行くの? まあな でも行き止まりだよ? 山に入って迂回するんだ 今晩のおかずに山菜でも取るの? なんでだよ。展望台に行くって言っただろ 俺は横に広がる林の中に入っていく。 わっ、待ってよお兄ちゃん! 腕をつかまれる。 なんでそこまでして展望台行きたいの? いいだろべつに よくないよっ なんで 理由くらい知っとかないと千波の服が汚れ損になるじゃないっ ……ついて来るのか? うんっ、だってお兄ちゃんのお守り任されてるから 俺は深々とため息をつく。 ……会いにいくんだよ 展望台に誰かいるの? ああ。たぶん 誰? ……ええと どう説明したものか。 お兄ちゃんの友達? ……そんな感じかな 昔よく展望台で遊んでたって人? 即答はできなかった。 千波、ずっと気になってたんだけど……。子供の頃からずっと気になってたんだけど その人って、女の人? べつにどうだっていいだろ 初恋の人なんてロマンチックなこと言わないよね? ……言うわけないだろ なんか図星っぽいなあ なぜに。 お兄ちゃん、その人のこと好きなの? そ、そそそんなことないぞ? お兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカぁ!!! たたかれる。 この先に千波のお兄ちゃんをかどわかした悪女がいるんだねっ 千波は我先にと林の中に突入した。 きゃああっ、スカートに枝が引っかかったっ、切れちゃう破けちゃうしかも見えちゃうお兄ちゃんに見られちゃう! バカなことやってないで行くぞ なんで千波のパンツをいつもスルーするんだよ! 思春期の妹を持つと苦労するなあ。 フェンスを迂回するのはそんなに時間はかからない。ほんの少し林の中を掻き分ければすむ。 それでも文句ぶちぶちの千波を連れ、展望台にたどり着いたわけなのだが。 ……誰もいないよ? ううむ。 お兄ちゃんきっとフラれたんだよっ、でも元気出しなよっ、詩乃さんのごちそうが心の底から楽しみだね! うるさいので鼻をつまんだ。 お兄ちゃん息ができないよっ、いくらここが新鮮な空気だからって口呼吸だけじゃ心もとないよっ、千波窒息死しちゃうよこのままじゃ! いいだろべつに なんて軽い死刑宣告!? たしかにここは無人のようだった。 展望台をぐるりと一周してみても、人っ子一人見つからない。 お兄ちゃん……千波とふたりっきりになったね 会えると思ったのだが。 確たる自信があったわけじゃないが、そう思わせるなにかが彼女にはあったのだ。 ここなら、誰はばかることなくなんでもできるね…… 俺は彼女に尋ねたいことがある。 問いたださなければならないのだ。 キミは俺と昔一緒に遊んでいた、あの彼女ですか、と。 展望台の彼女ですか、と。 千波……い、いいよ。お兄ちゃんとだったら…… じゃあ帰ろうか バカバカバカバカバカバカバカぁ!!! たたかれる。 千波は先に帰っていいぞ えっ、お兄ちゃんも帰るんじゃないの? これから来るのかもしれないし、もう少し待ってみるよ ダメだよお兄ちゃんっ、恋を忘れるには新しい恋に出会うことが一番なんだよ! なんの話だ。 詩乃さんの夕飯には間に合うようにするからさ ……そんなにその人に会いたいの? まあな じゃあ電話でもすればいいんじゃない? 連絡先は知らなかったんだ 知っているのは名前だけ。 昨日は会えたの? ああ どんなこと話したの? ………… その人、どんな人なの? 千波はしつこいくらい聞いてくる。 ……千波には言えないの? まったくもってそんなことはない 少しは躊躇して欲しかったよお兄ちゃん! しかしどう話していいものか難しいところではある。 たぶんな、信じないぞ なにが? その子がどんな子かって話 俺が手ごろな草むらに座ると、千波も隣に腰を下ろす。 一望できる雲雀ヶ崎の街並みが、夕陽によって橙色に染め上げられていた。 それが目に痛いくらい鮮烈だったから、俺は瞳を細めながらその言葉を口にした。 その子な、死神だったんだよ その子は展望台の彼女とうりふたつだった。 今となっては曇りガラス越しに見ている記憶でも、彼女に関することだけはまだ鮮明に残っている部分があるのだ。 そのひとつが、女の子の容姿。 俺の記憶からそっくりそのまま引き出してきたみたいに、その子は展望台の彼女そのものだ。 ただひとつ決定的な相違点を挙げるとしたら、その衣装。 衣装の一部のようにも見える、その大きなカマだった。 キミは…… 近づこうとしても、まるでふたりの距離を裂くように構えられたカマが、俺の足を前に踏み出させてくれない。 キミは、あの子なのか……? こんなふうに、震えた声を投げかけるしかなかった。 あの子? あ……ええと 目の前の彼女は、展望台の彼女とうりふたつ。 だがその記憶にある容姿とは、俺が子供の頃に別れた当時の彼女のままなのだ。 それとうりふたつだなんてありえない。 俺はあれから成長した。身長だって40センチは伸びた。 彼女だって俺と同じく成長しているはずなのだ。 目の前の彼女が、展望台の彼女と同一人物であるはずがない。 だけど。 だったらなぜ彼女はこんなにも……。 こんなにも、あの子と似ているんだ? あの子って誰? ……いや、その わたしの名前を聞いてるの? ……あ、ええと、うん どう見ても年下の彼女に気圧されながら、俺は呆然とうなずいている。 わたしの名前はメア メア──── これでいい? 展望台の彼女とは違う名前。 それどころか日本人の名前にも聞こえない。 ……彼女は、展望台の彼女とは別人? もしかしたら外国人かとも思ったが、彼女は流暢に日本語を話している。 いや、べつに外国人でも日本語を話せておかしくないか。 ……というか、そんなことはどうでもいい。 彼女は、俺が会いたかったあの彼女ではない? ただ似ているだけ? それにしたって似すぎている。 世の中には、その人のそっくりさんが三人いると聞いたことはあるけど。 次はわたしの番 メアが向き直ると、カマの銀刃が生々しく星明りを反射する。 あなたは小河坂洋くんでしょう ……あ、ああ やっぱり 彼女は小さくうなずいた。 疑問が持ち上がる。 彼女が展望台の彼女とは別人なのだとしたら、なぜ俺の名前を知っているんだろう。 ……聞いていいか? いいけど なぜキミは俺の名前を知っているんだ? 洋くん、自分のこと俺って呼ぶんだ 俺は確信する。 彼女は展望台の彼女ではないかもしれない、だけど少なくとも幼少の頃の俺のことを見知っている。 俺が自分のことを僕と呼んでいた小河坂洋を知っている。 キミ、俺のこと知ってるんだな うん どこで会った? ずっと昔。ずっと わたしが待ちくたびれるくらい、それは過去 ……俺のことを待っていたのか? うん どうして? 約束があったから ……キミはやっぱり そんなはずはない、だけどそうとしか思えない。 ……なんだこれは? 心臓の鼓動は落ち着くどころか暴れ出すばかり。 やっぱり、なに? 俺はかぶりを振る。 落ち着け、落ち着けと強く念じる。 でないと正常に思考が働いてくれない。 俺のこと待ってたのって……いつだ? だからずっと昔。言ったじゃない 今から何年前だ? そんなの忘れたわ たとえば七年前として、その頃キミはいくつだ? このわたしに歳なんてないわ ……え、なに? だからわたしがあなたに出会ったのは、わたしが赤ん坊の頃じゃない。わかった? ……ち、ちょっと待ってくれ ええと、今彼女はなんて言った? このわたしに歳なんてない? 歳がないって……どういう意味だ? そのままの意味だけど ……できればわかりやすく説明して欲しいな これ以上の説明はないと思うけど たとえばキミは死神だから歳を取らないとかさ 目の前の彼女──メアの姿格好から出た言葉だった。 死神…… メアは思案するように反芻した。 あなたがそれで納得するなら、それでいいわ あっさり肯定された。 つまりキミは死神だから歳を取らなくて、だから俺と再会した今も昔のままの姿ってことか? そうみたいね き、キミは……死神なのか? あなたが自分で言ったんじゃない 死神って、あの? どの死神を指しているのか知らないけど、わたしという死神はこのわたししかいないわ なんかもう禅問答をしている気分だ。 ああ、そうか ここに至ってやっと彼女の言いたいことが理解できた。 それ、死神のコスプレなのか ……こすぷれ? そういうアニメキャラがいて、でもキミはそのアニメキャラとは別人ってことを俺に知って欲しかったんだ。オリジナリティってやつ? なに言ってるのかさっぱりだわ そのカマ、作り物だろ? こうしてここにあるんだから、誰かが作ったものだとは思うけど 本物じゃないんだろ? なにを指して本物なのかは知らないけど、わたしにとってこれは唯一無二だから本物だと思うけど それ、斬れないんだろ? 斬れるわ 断言。 試してみる? 待った待ったっ、ほんとに斬れたらシャレにならないから! 斬って欲しいんじゃないの? それで俺が死んだらキミほんとに死神だろ!? だから死神なんだってば。あなたが言ったくせに ムッとする。 その表情がようやく歳相応のものに見えて、俺は焦りながらもホッとしていた。 彼女は見た目に反して大人びているふうに感じるのだ。 特に口調が。 展望台の彼女とはまるっきり正反対。 やはり別人なんだろうと思う。 じゃあ……とりあえずメアちゃんが死神だと仮定してだな ……ちゃん付け ますますムッとする。 わたしのほうがお姉さんなのに…… 彼女は、展望台の彼女とは別人なのに、この口調は想い出と重なった。 でも、年上ってことはないだろ どうして じゃあさっきも聞いたけど、キミ、いくつだ? 死神は歳なんて取らないわ ……キミってどこの学校通ってる? 死神は学校なんて通わないわ お父さんとお母さんはどこ? 死神はお父さんもお母さんもいないわ そればっかりだ。 ……じゃあそれがすべて本当だと仮定して 仮定しなくても本当なのに キミは、ここでなにをしてるんだ? 言わなかった? メアの唇が釣り上がる。 それは幼い容姿に似つかわしくない、どこか妖艶な笑み。 あなたを、待っていたの ……なんのために? 約束を果たすために 俺との再会の約束を果たすために? それだけじゃない メアはきっぱりと言った。 あなたの悪夢を刈る約束を果たすために わたしは、人の悪夢を刈る死神だから ……お兄ちゃんの悪夢を刈る? そうらしい それってどういう意味? 俺のほうこそ知りたい。 お兄ちゃん、それからどうしたの? もっといろいろ尋ねたかったんだけど、いなくなった 帰っちゃったの? だと思うんだけど そのときは急にあたりが暗くなり、空が雲で陰って星が見えなくなったと思ったら彼女は消えた。 別れのあいさつもなく、忽然と消えていた。 それもまた、展望台の彼女と初めてキス(おでこに)を交わした状況と似ていたかもしれない。 目をつむって60数えたらいなくなっていたというやつ。 とにかく、死神云々の部分を除けば、どこもかしこも展望台の彼女と酷似しているのだ。 それでまた会いたいと思ったの? ああ 死神のカッコした電波な子なのに? ひどい言われよう。 だいたいそのメアって子、お兄ちゃんが会いたかった女の子とは別人なんだよね 普通に考えればそうだな お兄ちゃん浮気はダメだよっ、するならむしろもっと身近な子に目を向けるべきだと千波は思うなっ 身近に女の子なんか皆無だし アウトオブ眼中どころか異性とすら認識されてない!? ケータイの時計を覗くと、そろそろいい時間だ。 七月だけあって陽は長いが、それでもすぐにここも橙色から紺色へと移行するだろう。 帰ろうか。詩乃さんが待ってる 不機嫌になっている千波を促す。 悪かったな、つきあわせて まったくだよっ、千波もうお腹ぺこぺこだよっ 勝手について来たのはそっちなんだけどな……。 死神のカッコした子、この街の子かな そうだろうな だったらこの場所じゃなくてもまた会えるんじゃないかな、そんなカッコしてるなら目立つだろうし 普段からあんな格好だったら補導モノだけどな……というか、真っ先に銃刀法違反で逮捕だ。 ここって理由は知らないけど立ち入り禁止になってるし、勝手に入ってるとお兄ちゃんが逮捕されるよ? そうだな。ほどほどにしておくよ ……二度と来ないってわけじゃないんだ。お兄ちゃんも諦め悪いんだから 俺はなんとなく、彼女とはここでしか会えないんじゃないかと感じていた。 それは彼女の容姿が展望台の彼女にそっくりだからだろうか。 ここが俺と彼女にとって特別な場所だからだろうか。 それとも、まったく別の理由があるんだろうか。 見て見てお兄ちゃんっ、初めてふたりで展望台に来た記念に木の幹に相合傘のイタズラ書きっ……て言ったそばから消そうとしてるっ、しかもペンキで念入りに!? 人の想い出を汚したらダメだろ千波 それじゃ千波の想い出はどうなるの! そんなの必要なのか? 真顔で聞かれるとほんと泣きたくなるよ!? 家に戻って来た頃にはすっかり陽も沈んでいた。 夏のわりに日の入りが早く感じるのは、この街が都会よりもずっと北に位置しているためだろう。 洋ちゃん、ちょっといい? そうして今晩のごちそうを心待ちにしていると、詩乃さんがキッチンから顔を出した。 はい。手伝いですか? なんでも言ってください、これでも家事手伝いは得意なんで 母さんひとりでは負担だった部分は、日ごろからよく手伝っていたのだ。 手伝うたびに大惨事を起こす千波の子守りが主な仕事だったわけだが。 それじゃあ、スフレ焼いたんだけど、夕飯前にお隣さんに持っていってくれる? 引っ越しのごあいさつを兼ねて、千波ちゃんと一緒にね? そういえば引っ越しのあいさつがまだだった。 了解です。おーい千波 なになにお兄ちゃんっ、わっなにそれすっごくおいしそうっ、千波もう我慢できないいただきまーす 千波は箱に入った三つのスフレを鷲づかみして一口で平らげた。 おいしいねお兄ちゃん……って、どうしたのなんで千波のこめかみに拳当ててるのっ、やだよダメだよやめてよこれはとても痛い愛のかたちだよお兄ちゃん!? あらあらダメよ洋ちゃん、千波ちゃんいじめちゃ いえこれは躾けてるんです。ここで叱らないとつけ上がる一方なので 千波ちゃん、おいしかった? すっごくおいしかったです! ありがとう。だから洋ちゃんも許してあげて? ……詩乃さんは甘すぎですよ 昔から怒ったのなんか一度だって見たことがない。 たくさん焼いてるから。またすぐ包むわね 詩乃さんはキッチンに戻っていく。 今のスフレ、お母さんの味がしたよお兄ちゃんっ ……そっか 今日のごちそうってそれかな? 食後のデザートだと思うけど。 お隣に持っていくんだからもう食べるなよ それは難しいよお兄ちゃんっ、スフレとタルトとマフィンは千波の動力源だから目についたらなにを置いても口に入れることがDNAレベルで決まってるんだから! じゃあその動力源断ったら千波も動かなくなるかな? マジメに相談されてる!? はい、洋ちゃん、千波ちゃん。よろしくね 詩乃さんお手製スフレを手に、いざ引っ越しのあいさつへ。 俺たちの家があるこのあたりは夢見坂のふもとに位置していて、比較的平野となっている。 少し歩けば駅や商店街があって、交通の便もいいし買い物するにもうってつけの立地条件だ。 お隣さんもそろそろ夕飯の時間かな ああ。留守ってことはないだろ どんな人たちかなっ、お友達になれるかなっ 以前に俺たちがこの雲雀ヶ崎に住んでいたときはアパート暮らしだった。 住所は商店街の離れのほうだったし、俺自身この家に近寄ることもなかったため、このあたりの住宅街には詳しくないのだ。 だからお隣さんがどんな家族なのかもわからない。 表札に名前が載ってるね そりゃ載ってるだろ なんて読むのかなこの漢字 たぶん〈蒼〉《あおい》だな 蒼ちゃんとお友達になれるかなっ 間違っても初対面の人に蒼ちゃんなんて呼ぶなよ それは難しいよお兄ちゃんっ、千波の生涯の目標は友達千人作ることで、相手が老若男女に限らず千波にかかればおたがいちゃん付けで呼びあう仲になるんだから! 千波ちゃんは本当に痛い子ねえ その目は友達に向ける目じゃないよ!? なにはともあれインターホンを鳴らす。 十秒経過するが音沙汰がない。 留守なのかな? 明かりはついてるけどなあ リビングらしき窓からは、カーテンの隙間から部屋明かりが漏れている。 もう一度インターホンを鳴らす。 誰も出ないね どうしたものか。 浄水器の押し売りとか新聞の勧誘とかと間違われてるのかな? 都会では夕飯の時間を狙ってしつこいセールスが押しかけるのが多かったけど。 この街って水きれいだし、浄水器は必要なさそうだけどな あっ、お兄ちゃんっ、ポストに新聞が刺さってる 夕刊を取り忘れているようだ。 雲雀ヶ崎日報だって ローカル紙だな。昔は俺らも取ってたんじゃなかったか お兄ちゃんっ、千波にいい考えがあるよっ 却下 まだなにも言ってないよ! そっかそっかそれはいい案だな、却下 まだなにも言ってないってば! 千波のいい案が世の平和に貢献した試しはない。 とにかくここは千波に任せておいてっ 止める間もなく千波はインターホンを押す。 すみませーん雲雀ヶ崎日報の者ですけどー集金に来ましたんで出てきてくださーい それ悪徳キャッチだろ!? ……集金? ああっ、善良なお隣さんがひっかかってる! わっ、ウソみたいにひっかかってる ……ひっかかる? あ、いえっ、こんばんはっ、蒼さんのお宅ですよね? ………… ……ひどく疑わしげに見つめられる。 あのっ、お名前なんて言いますかっ、蒼ちゃんって呼んでいいですか? きびすを返すお隣さん。 ちょ、待ってくださいっ、俺たち昨日隣に引っ越して来た者なんですけどっ ……さっき集金って言ったのに あ、ええと、あれは 騙されるほうが悪いんですよ! きびすを返すお隣さん。 お兄ちゃんっ、これでこのスフレは千波のものだよ! おまえもう黙れ 背中を指で突っつく。 あああっ、そこはダメダメっ、千波の弱いところだからとてもダメなのお兄ちゃんっ ……最近のセールスって怖い 悶える千波を薄気味悪く見つめるお隣さんだった。 あの、さっきは集金なんて言ってすみませんでした。愚妹に代わって謝罪します 謝ってから、スフレの包みを渡す。 これ、よかったら家族の皆さんで食べてください ……新聞の更新のおまけ? い、いや、引っ越しの手みやげです。俺たち、隣に引っ越してきたんですよ ………… まだちょっと疑わしげだったが、お隣さんはスフレを受け取ってくれた。 それじゃ、夜分遅くにすみませんでした ああっ、あっ、お兄ちゃん早くその指どけてっ、じゃないと千波ダメになっちゃうおかしくなっちゃう! ……変な人 俺も苦労してるんです ……がんばってください お隣さんは帰っていった。 よし、変な千波を見せて相対的に俺をまともに見せる作戦は成功した 千波ダシに使われたの!? これで俺の第一印象はばっちりだ 千波の第一印象は最悪だよ!? 帰るぞ千波 あの子と友達になれないどころか同情されちゃったらお兄ちゃんのせいだからね! 大丈夫だろ。おまえなら だって、前の学校で友達千人は無理でも、ちゃんと百人作ったもんな ………… 家に戻ろうか。詩乃さんが待ってる ……うんっ 千波は笑顔で俺の腕に抱きついた。 詩乃さんのごちそうはゆうに三人分を超える量だった。 食べきれるか不安だったが、詩乃さんは食べきれなくてもいいとほほえみながら言ってくれた。 千波は食べきろうとがんばっていた。 詩乃さんの料理は母さんの味だった。 千波はときどき泣きそうな顔をしたけど、すぐに笑顔に戻って一心不乱に食べていた。 いつもだったら食べ過ぎると太るぞとか釘を刺すのだが、今回ばかりはなにも言えなかった。 ただただ俺も目の前に並ぶ数々の料理を味わっていた。 母さんの想い出と詩乃さんの優しさを味わっていた。 もうダメ千波死んじゃうかも…… そして食べきった千波はグロッキーになっていた。 どうぞ、千波ちゃん。お茶が入ったわよ は、はいぃ…… 苦しいんだったらあとにしてもらえばいいだろ う、ううん……今日の千波はいつもの千波と違うんだからあ…… いつもと同じで後先考えない千波だと思うが。 洋ちゃんもどうぞ はい。いただきます 私、ちょっと仕事のほうに戻るわね。なにかあったらいつでも呼んでね 洗いものもすませたようで、詩乃さんは自分の仕事部屋に戻っていく。 詩乃さんは絵本作家で自宅作業が多いのだが、締め切りが近くなるとこんなふうに部屋に閉じこもりがちになるらしい。 いそがしい中で時間を作って、俺たちのために引っ越し祝いのごちそうを披露してくれた詩乃さんには頭が上がらない。 はぁう……胃のわずかな隙間に熱いお茶がいい具合に染み渡るよう…… 寝転がりながらお茶を飲むな、行儀悪いぞ。それに食べてすぐ寝ると牛になるぞ いいんだよう……今日の千波はいつもの千波と違うんだからあ…… まるっきりいつもの千波である。 ……まあいいか 千波のおかげで詩乃さんの手料理を残さずにすんだのだから。 俺、ちょっと涼みにいってくるよ どこ行くのぉ? そのあたりを散歩するだけだよ はぁーい、いってらっしゃーい だるだるした千波を置いて外に出る。 そうして俺は夢見坂を登っていた。 ……つくづく俺も諦めが悪いな。 目指すはこの先の展望台。 夕方には会えなかったのに、夜になったら会えるなんてどうして考えられるだろう。 今は夜の八時半。 普通の家庭だったらもう外出なんてしない時間。 展望台で遊んでいた俺とあの彼女だって、もう少し早い時間には帰宅していた。 そもそも彼女──メアは子供だった。 俺よりもずっと年下、幼かった頃の展望台の彼女と同程度の歳に違いなかった。 なのに夜も更けたこんな時間に、明かりも乏しい展望台に足を運んでいるとは思えない。 ……わかってるんだけどな。 この目で展望台が無人であることを確認したらすぐに帰るつもりだった。 要するに自己満足の類なんだろう。 メアがいないならそれでよかった。 ただ俺がどうしても我慢ならないのは、自分で確認もせずに相手がいないと決めつけてしまうことだった。 もしかしたらいるかもしれないのに、そのわずかな可能性すら捨てて諦めてしまうことだったのだ。 子供の頃、引っ越しすると母さんに言われた瞬間に、彼女と別れることを漫然と受けとめてしまったのと同じで。 彼女は諦めなかったのに。 最後まで俺を引きとめようとしていたのに。 再会の約束を交わしてからだって……。 洋くん、あたしにいい考えがあるよっ いい考えって? 洋くんが引っ越ししなくてもよくなるいい方法を思いついたの! どんなの? 洋くんが大ケガするの! え、な、なんで? 大ケガしてね、近くの病院で暮らすことにするの! そしたらあたしが毎日お見舞い行ってあげるから! これなら住む家も食べるものも困らなくてすむよ! で、でも、それはちょっとやだな どうして? だって……ケガするなんて痛いし怖いよ 男の子なんだからそれくらい我慢しなきゃダメだよ! そんな人事だと思って…… この展望台から街まで転がり落ちるだけでいいから や、やだよそんなの…… 洋くんって意気地なしなんだから 普通だと思うけど…… ……じゃあ、どうすればいいのかな ………… どうすれば、洋くんと離れ離れにならないのかな…… ……約束したじゃない 僕たち、再会するって 絶対に再会するって ……でも いつになるか、わからないんだもん 洋くん、いつ帰ってくるかわからないんだもん あたし、いつまでも待ってられるかわからないんだもん──── ────待ってたわ、洋くん そこには白い人影が待っていた。 会えるとは思えない、だけど会えるかもしれない小さな希望に賭けた結果がこれだった。 だから俺の胸はちくりと痛む。 あのとき、彼女の言うとおり俺がケガでもして入院していたら、俺たちは離れ離れにならなかったのかもしれないと。 本当のケガじゃなくたっていい、仮病でも使って母さんを説得しようと試みるだけでもいい。 俺は、もっと努力すべきだったのかもしれない。 だって俺は母さんに反発もせず引っ越しに従った。 引っ越しを決めた母さんが悪いんじゃない、当たり前だ、母さんだってこの街を離れたくなかったに違いない。 悪いのは、ただ成り行きに任せて従ってしまった俺なのかもしれない。 たとえ結果が伴わなくても、彼女と離れ離れにならないように努力しなかった俺の怠慢が、このやるせない現状を生んだのかもしれない。 どうしたの、難しい顔して ……いや 俺はかぶりを振る。 ……今は、そうだな。彼女と話すことが先決だ。 せっかくこうして会えたのだから。 過去に離れていた意識を、目の前の彼女に集中させる。 そっちは今日も星見か? べつに 俺を待ってたのか? べつに ……さっき待ってたって言わなかったか? 待っていたのは本当だけど、あなたの顔を見たら待たなきゃよかったと後悔したの ……どういう意味だよ だってあなた、わたしを見た瞬間に辛そうにしたもの ………… わたしは人の悪夢を刈るのが仕事だけど、できればその人が自分の悪夢を自覚していないときに刈ってしまいたい あなた、悪夢を思い出したから辛そうにしたんでしょう? 俺の眉間にしわが刻まれていくのを自覚する。 ……それは、冗談だとしてもちょっと笑えないな べつに冗談じゃないわ キミは俺の想い出を悪夢と言った それはたまたまかもしれない。キミに俺の思考を覗けるわけがないし、それは偶然に違いない その上でなぜそんなことを言えるのかは知らないけど、おかげで俺は非常に気分を害している キミが、俺の大切な想い出を悪夢と言ったから そうなんだ なのでできれば謝って欲しい いや 拒否られる。 ……落ち着けよ、相手は子供なんだ。 ええと、ごめんって一言だけでいいから言ってくれるとお兄さんはうれしいな いや このやろう。 わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが謝罪なの。だからいや この死神コスプレ少女はどうやら反抗期らしい。 いいけどさ……千波で慣れてるし 誰それ 俺の妹だよ。昔はひどい反抗期だったんだ 今では妙な方向で安定はしているけど。 あなたに妹なんていたの キミはひとりっ子か? 死神に兄弟なんていないわ つまりひとりっ子なのか。 ……そういえば両親もいないって言ってたような 死神に家族なんていないわ じゃあこの子は……天涯孤独なのか? だからこんな時間でも外出することができる? さすがに冗談だと思うのだが。 ふと思いついた。 キミ、よくここに出没するのか? 出没って……。わたしをなんだと思ってるの 死神なんだろ ……なにその投げやりな言葉 俺は展望台の彼女について名前しか知らない。だから彼女の家族のことも知らなかった。 住所も連絡先もいっさい不明。 だからこそ思うように再会を果たせないわけで。 手がかりは彼女の名前と、この展望台だけなわけで……。 でさ、キミはよくここに来るのか? そうね。星が見える夜にはここにいると思う じゃあさ、キミのほかにこの展望台を訪れる人って見たことないか? あるわ ビンゴだ! その人の名前は知ってるか!? 知ってるわ 頼む教えてくれ! 小河坂洋 俺じゃん!! ……いや、俺とキミ以外で誰か知らないか? 知らないわ 糸口はあっさり潰えた。 ということは、彼女はこの場所に来ていないのか……。 考えてみれば再会の約束を交わしたからといって、毎日展望台を覗きに来れるわけがない。 むしろ長い時間の中ですっかり忘れてしまっているほうがありえる。 ……あまり考えたくはないけど。 だって俺は覚えていた。 だから彼女だって覚えていると信じたい。 ……くそ。 どうして俺は彼女の連絡先を知らないんだ? あの頃はいつだって聞くチャンスはあったはずだ。なのに俺はなぜそれをしていない? これもまた俺の怠慢……? いや、一度は聞いた気がする。 たとえ引っ越しが決まって離れ離れになっても、電話や手紙で連絡を取りあうくらいはできるのだから。 だが俺たちはそれをしなかった。 なぜだろう、なにか理由があったはずだ。 その記憶はちょうど曇りガラスの曇った部分に位置していて、いくら拭おうとも晴れてくれない。 俺と彼女は結局、引っ越したあとは一度として連絡を取りあっていなかった。 今日のあなたはダメダメね よくわからないがダメ出しされる。 昨日のほうがチャンスだったのに……。でも、星が見えなくなってしまったから ……なんの話? こっちの話 キミって結局何者なんだ? 死神よ 人の悪夢を刈る、死神 命の代わりに? そう 悪夢ってなんなんだ? それくらい辞書で引いて 悪夢を刈るってなんなんだ? わたしは悪夢を刈ったことはあるけど、刈られたことはないから知らないわ なんて死神だ。 ……いや、死神だからこうなのか? それじゃあ…… なぜキミは、俺と遊んでいたあの子と、同じ姿をしている? それともキミは、やはり、あの子本人なのか? 俺に、友達と遊ぶ楽しさを教えてくれたあの子なのか? 一瞬、口に出すのを躊躇する。 聞くべきかどうか迷ったときは、聞かないべきよ メアは淡々とそう言った。 聞くべきか迷うような質問は、少なからず相手の心のうちを覗き見てしまう恐れがある もし軽い気持ちで覗いてしまった場合、その責任を負うなんて考えもつかない…… 見られたほうは、責任を取って欲しいのに 一緒に悩んで、一緒に怒って、一緒に泣いて、一緒に笑って欲しいのに…… だから、軽い気持ちだったら、聞かないべきよ そのほうが、おたがいのためだから 警告とでも言うように、その手のカマが銀に煌いた。 ……じゃあ 肺に溜まった空気を押し出す。 じゃあ、聞くべきだと確信したときは、聞いていいんだな? メアの表情が変わった。 それは初めて見る大きな感情の揺れだった。 ……そうね その表情も、感情を遠くに押しやるようにすぐにいつものむっつりに戻って。 そういうときは、黙っていても相手のほうから切り出してくるんじゃないの? 一瞬、空の光が雲によってさえぎられたとき、彼女の姿はかき消えた。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……うるさい。何時だと思ってる、近所迷惑だぞ だってねだってねっ、千波今から寝ようとしたのにお部屋が大惨事になっててねっ、特にベッド周りがひどくてこれじゃ安心して眠れないんだよ! オネショか? 千波は子供じゃないよ!? オネショでちゅか? ……見たいんでちゅか? 見たくねえよ そうじゃなくてねっ、千波のお部屋が片付け終わったにもかかわらずひどいことになってるんだよ! ……もしかして梱包の残材捨ててなかったのか? 難しいことはよくわからないけど、ダンボールや古新聞やプチプチでお部屋が占拠されてるんだよっ、これって新手の侵略者かなっ、宇宙人との異文化交流かなっ 早くUFOからお迎えが来るといいな? それが冗談だって思いたいけどお兄ちゃんの目が本気だから千波どうすればいいのかわからないよ!? わかったら立ち直れないぞ? そんなに千波のこと嫌いなの!? 俺は千波の頭をぽんとたたく。 バカなことやってないで片付けるぞ。ふたりでやれば一瞬だ あっ……うんっ なんだかんだで俺も甘いよなあ……。 これじゃあ詩乃さんを責められない。 ふたりで梱包残材を始末して、お休みと言って千波の部屋をあとにした。 さてそれじゃあ俺もそろそろ寝ようかと思うのだが、まだ俺の部屋はベッドすら組み立て終わっていない。 ……今夜はリビングで寝るしかないか。 部屋は今日運んだダンボールでいっぱいなので、昨日と違って布団を敷くスペースもないのだ。 明日は早めに起きて部屋の片付けを終わらせないと。 願わくば千波が手伝うなどと言い出しませんように。 ソファで寝るのは生まれて初めてだったが、寝心地はそんなに悪くなかった。 寝過ごした寝過ごした寝過ごした────っ!! ばたばたと階段を降りてくる足音が聞こえてくる。 ごめんお兄ちゃん今すぐ朝ご飯の支度するから……って、なんで昨日と同じでもう食べてるの!? 千波がダイニングに飛び込んできた。 おはよう 優雅に口元ナプキンで拭っておはようじゃないよっ、なんでもう朝ご飯食べてるのかって聞いてるの! 朝食抜かしたら脳が活発に働かないじゃないか そうじゃなくてっ、朝ご飯は千波の係りでしょ! そうなのか? そうなのっ、冷蔵庫のとこに当番表が貼ってあったでしょっ、昨日寝る前にまた作ったんだから! ああ、あれか あれだよ! 誤字脱字が多かったため再提出を要請する 採点されてる!? まったく毎回シュレッダーにかけるこっちの身にもなってくれ そこまでして当番表を隠滅したいお兄ちゃんの心を案じたくなるよ!? 言っただろ、おまえ朝弱いんだから無理に作らなくていいって だからそれじゃ誰も作らないじゃない! 俺が作ってる どうして千波を差し置いてそんな行為がのうのうと許されてるの!? いったい俺にどうしろと。 この卵焼き、なんで色が黄色いの? 普通黄色いだろ 千波が作ると黒いよ? 焦げてるからだろ ティラミスみたいでキレイだよ? ……おまえは二度と料理をするな でもでもっ、今度からお兄ちゃんに千波自慢の卵料理を毎朝披露するって天国のお母さんに誓ったんだから! そして二回続けて破ったと 三度目の正直に期待してお母さん! とにかく顔洗ってこい。それからちゃきちゃき朝飯食べろ うー…… ふて腐れて席に座る。 まず顔洗ってこいって ……洗ったもん 千波は卵焼きにマヨネーズをたっぷりかけてぱくつく(千波はマヨラーだ)。 うまくジューシーに焼けてると思うんだけど ………… うまくないか? ……おいしい よかったよ 千波のティラミス風卵焼きには到底及ばないけど はいはい 千波は終始不機嫌だったが、残さずに食べてくれた。 朝飯を食べ終え、本日の仕事に取りかかることにする。 引っ越しの片付けの続きである。 昨日は結構な重労働だったが、筋肉痛にはなっていなかった。 雲雀ヶ崎の健康的な環境のおかげだろうか。感謝。 それじゃ、まずはベッドか 大きなものから組み立てるのが基本である。千波と同じ轍を踏むわけにはいかない。 千波は……来ないな 千波が片付けを手伝いたいと言い出すかと冷や冷やしていたのだが、今のところそんな気配はない。 平和である。 この平和が末永く続いてくれますように…… 切実な願いだった。 ……………。 ………。 …。 こんなものか ベッドの組み立てを完了する。 パーツが合わないこともネジが足りなくなることもなかった。オールグリーンだ。 小休憩ということで寝転がってみたり。 次はどこから片すかな…… 部屋に積み重なったダンボールの数々は、見ているだけで辟易する。 苦労して千波の部屋を片付けたこともあって、重労働を二日連続というのが体力よりも精神的に堪える。 だけどやらないことには終わらない。 さて、次はこのダンボールの数々を開けて……いや、その前に整理ダンスのテープを剥がしてしまおうか。 それから衣装ケースに詰まっている服を整理して……。 と、ここで衣装ケースの上に載っているバッグに目が留まった。 それは俺が以前の学校で使っていたスクールバッグだった。 中身は教科書ではなく、お別れになるクラスメイトから餞別と言われて渡された品である。 男子一同と女子一同からそれぞれもらったのだ。 といってもどんなものか詳しくは知らなかった。 引っ越しの際、向こうについてからバッグを開けてくれと念を押されていたからだ。 その場で見られると恥ずかしかったからか、それともあとで俺を驚かせたかったからか。 どちらにしろ彼ら彼女らには感謝すべきだった。 もう少しここでの生活が落ち着いたら、メールで礼でも言っておこう。 それじゃあ拝見させてもらうかな 級友たちの顔を思い浮かべながら、うきうきしてバッグを開ける。 そこは肌色でいっぱいだった。 ……エロ本だった。 思い浮かべていた級友たちを殴りたくなった。 あ、でも女子のほうはまともだな…… 色紙が一枚入っていた。 それぞれ一言、思い思いの言葉を連ねている。 うあ……実は好きでしたとかあるけど、まあ冗談で書いたんだろうな その子はクラスの委員長で、彼女との会話といったらガミガミ文句を言われたときに俺が苦しまぎれの言い訳をするくらいだった。 調理実習でクッキーをもらったこともあったけど、作りすぎちゃって捨てるのもったいないだけだからねと強く釘を刺されていた。 バレンタインでチョコをもらったこともあったけど、これクラス全員に配ってるただの義理チョコだからねとこれまた強く釘を刺されていた。 もしもこの告白が本気だったら彼女はツンデレだと思う。 ……なんか懐かしいな まだ別れてからそんなに日にちは経っていないのに。 時間は離れていなくても距離が離れているからそう感じるのだろうか。 エロ本はそこらに投げ捨て、色紙を読みふける。 お兄ちゃんっ、千波参上だよっ、顔も洗ったし歯磨きも終わったし準備万端だよ手伝ってあげるよまずなにしようかっ、あれなんだろこれ床にたくさん肌色の本が…… それにさわるんじゃねええええぇぇぇぇっ!!!! 極道のように叫びながらダイビングキャッチ。 なっ、なになになんなのっ!? 千波はとても怯えていた。 ……部屋に入ってくるときはノックしなきゃダメだろ エロ本を背中に隠しながら何事もなかったように立ち上がる。 なにか用か? うんっ、昨日のお礼にねっ、千波がお兄ちゃんの ありがとういらない 言い終わる前に断られてる!? 千波、兄ちゃんは今いそがしいからちょっと部屋出ててくれないかな いそがしいんだったら千波が手伝ってあげるねっ お小遣いあげるから出ててくれないかな 千波は子供じゃないよ!? おしゃぶりあげるから出ててくれないかな 赤ん坊でもないよ!? まだ生まれてこないでくれるかな ついに胎児までさかのぼった!? 手伝いはいらないから。気持ちだけで充分だから でもでもっ、お兄ちゃんに対するこの熱い気持ちを心にしまうだけじゃなく行動にも表さないともう千波どうにかなっちゃいそうなんだよお兄ちゃん! ……わかったよ。じゃあおまえに重要な任務を言い渡す 了解だよイエッサーだよお兄ちゃん! 一刻も早く部屋から出てくれ あまりにも予想どおりで涙がちょちょ切れそうになったよ!? もうらちが明かないので千波を抱えあげる。 わっ、わわっ…… 問答無用で廊下に連れていく。 こ、これって……お姫さま抱っこ…… いい子だから、もう部屋に入ってくるなよ? う、うん…… 俺の腕の中で千波はおとなしくなってくれた。 さてようやくこの手で平和を取り戻したわけだが。 まずは整理ダンスのテープを剥がすか 塗装まで剥がさないようにしなきゃいけないので、集中力と丁寧な仕事が必須の作業だ。 まずは一段目の引き出しのテープをゆっくり優しくあたかもペットを愛撫するかのように慎重に……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、だーれだ! 突然視界がシャットアウトして手元が狂った。 べりっ! 回復した視界には塗装ごと剥がれたテープがあった。 えへへ答えは千波でしたーって、どうしたのお兄ちゃんっ、目が怖いよ顔が無表情だよやだよやめてよ拳が千波のこめかみめがけて迫ってくるよホラーのごとく!? とりあえずお仕置き。 ひどいよこの人信じられないよっ、笑って許されるかわいいイタズラだったのに! そのイタズラが引き起こした結果は笑って許されるものじゃない。 というか、部屋に入ってくるなって言っただろっ でもでもっ、千波昨日のお礼にお兄ちゃんの片付け手伝ってあげるって天国のお母さん誓ったんだもん! ……そっか うんっ それはうれしいんだけどさ それじゃテープ剥がすね べりべりべりっ!! ほら見て千波にかかればたかがテープごとき躊躇なく一息でタンスの塗装すら一顧だにせずって、痛いよぐりぐりしてるよ恩を仇で返されてるよお兄ちゃん!? お仕置きしてから千波を抱えあげる。 わわっ……ま、またっ……お姫さま抱っこ…… もう絶対に部屋に入ってくるなよ う、うん…… 約束だからな。俺とおまえ、ふたりの約束だ うん……ふたりだけの、約束…… おとなしくなった千波を廊下に連れていった。 塗装が剥げまくった整理ダンスは、ペイントでうまく修復し終わった。 ……案の定よけいな作業が増えてるな おそるべし、災いを呼ぶ千波の悪魔の手。 気づけばもう正午になろうとしている。 こんな調子では終わるまでに陽が暮れてしまいそう。 急いで次の仕事に取りかかる。 整理ダンスの次は……サイドボードか 色紙を飾るためにも組み立てなければ。 ツンデレ委員長のほかにもメガネ図書委員の子にも好きでしたと書かれていて、なんだか飾り辛くもあるのだが。 ……メガネ図書委員の子は冗談なんて言う子じゃなかったんだけどなあ。 サイドボードのガラス戸を包んでいた毛布を取り外す。 それから壁に据え置いたサイドボードにこのガラス戸をはめ直す。 これもまた集中力が必要な作業なので、ゆっくり優しくあたかも一輪の花を植え替えるかのように慎重に……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、ふーっ…… ぞくぞくっ! 突然耳元に息がかかり、狂った手元からガラス戸が落ちた。 がしゃん! 無残に砕け散った。 あのねあのねっ、お昼ご飯千波が作ろうと思うんだけどなにがいいって聞いてるうちに千波のこめかみに拳がセットされてるよお兄ちゃん!? 本日三度目のお仕置き。 おまえな、ふたりだけの約束はどこいったんだよっ だってねだってねっ、そろそろお昼の時間だしお兄ちゃんお腹ぺこぺこだと思ったしっ、ちゃんと食べないと片付けもはかどらないと思ったしっ 千波の腹がきゅるきゅる鳴った。 腹減ったのか? ……うん じゃあ俺がなにか作るから ダメだよっ、千波が作るんだよ! なんでそんなことすんの? なにその絶望的な表情!? 俺がメニュー決めていいのか? うんっ、なんでもいいよっ、なんでも作ってあげるから! じゃあカップラーメン そんなの料理じゃないよ!? しかし千波に果たしてお湯を沸かせるのか…… どれだけ信用ないの千波って!? 元栓締めたままだとガスは出ないんだぞ? それくらい知ってるよ!? グリルとコンロのつまみを間違えるなよ? それくらい知ってるってば! お兄ちゃんのバカ!! 千波は怒って部屋を出ていった。 再び訪れた平和に安堵する。 ……割れたガラスを片付けないと ホウキとチリトリを手にため息をついた。 ガラス戸買ってこないとな…… このままだと飾った色紙がホコリで汚れるじゃないか。 ちなみにエロ本はベッドの下に隠しておいた。 割れたガラスを始末して、お次はと。 これだな 組み立て式のAVラックだ。 これの組み立て作業で最も気をつけなきゃいけないのは、アルミ支柱の扱いだろう。 床や壁にぶつけて傷つけないようにするのはもちろんのこと。 さらに自分の指まで切らないように、慎重に過ぎるほど慎重に、あたかもボトルシップを製作するかのように……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、えいっ ふにゅんと背中にやわらかい感触。 えっとねお昼ご飯はトマトソースパスタにしようと思ったんだけどトマトが見当たらないって、お兄ちゃんの指がトマトになってるっ、つまみ食いはダメだよもうっ ……とにかくおまえは俺から離れろ 血がにじむ指を口に入れる。 千波はまだ俺の首にぶら下がっている。 ふにゅんふにゅん。 の、ノーブラ……? お兄ちゃんが指についたトマト舐めてるっ、そんなにトマトが好きだったなんて千波知らなかったなっ ……いいから早く離れろ ふにゅんふにゅん。 あれお兄ちゃん、指だけじゃなくて耳も真っ赤だよ? 離れろっ くるくる回転する。 わあーメリーゴーランドみたい~ まったく堪えていない。 そんなわけで千波を抱っこ。 あ…… 部屋に入ってきちゃダメって言ったろ だ、だって…… 千波、頼むから う、うん…… あと、トマトソースパスタなんてひとりで作れるのか? うん……がんばる…… 包丁でケガだけはするなよ うん…… なにかあったらすぐ呼べよ うん……ありがと…… おとなしい千波はかわいいんだけどなあ。 おまえ、家の中だからって、面倒くさがらないでブラくらいつけろよ ………… ほんのり赤かった千波の頬がさらに赤くなる。 ……いいんだもん よくないだろ いいの! なぜか怒られた。 切ってしまった指を応急処置して、AVラックも組み立て終えて。 やっとここまで来たか…… 次は本棚である。 これさえ組み立ててしまえば、あとはダンボールに入っている本や小物を整理して、片付け作業は終了だ。 時間は……三時か そういえば千波のパスタはどうなったんだろう。 まさかケガとかしてないだろうな…… 心配だったが、キッチンに顔を出したら出したで面倒なことに巻き込まれそうな予感がする。 ここは千波を無理やりにでも信用して、俺も自分の作業に集中しよう。 外していた棚板をひとつずつ本棚にはめていく。 ……あれ そのうちのひとつがうまくはまらない。 運び出すときに本棚が微妙に歪曲してしまったせいか、幅が合わないのだ。 棚板のほうをヤスリで削るしかないか……。 ほんの少し削れば幅も合いそうだ。 シュッシュッシュッ。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、ちゅっ 首筋に濡れた感触。 えへへ千波のキスマークつけちゃったーって、言ってるそばからヤスリで削られてるっ、皮膚ごと削ってるっ、そこまで千波の痕跡残したくないのお兄ちゃん!? 泣きつかれた。 で、今度はなんだよ…… あのねあのねっ、お昼ご飯ができたからお兄ちゃん呼びに来たんだよっ お、やけに時間かかってたけど、うまくできたのか? うんっ、パスタ作るの初めてだったから苦労したよっ それじゃ、冷めないうちに食べてみようか うんっ 千波と一緒にリビングに向かう。 トマトソースパスタ作ったはずなのになぜかイカ墨パスタが完成しちゃったけどねっ さて次はどこを片そうかな 一歩歩いただけで回れ右!? あー食べた食べた残りの作業もがんばるぞー 一口も食べてないどころか現物を見てもいないよお兄ちゃん!? 見ても味が変わるわけじゃないから おいしいかもしれないでしょ!? どんな味だった? ちゃんとイカ墨の味だったよっ 千波が好き嫌いのない子に育って兄ちゃんうれしいな その目は哀れみの目だよ!? さてどこを片そうかな そんなにトマトじゃないと嫌なのお兄ちゃん!? ……じゃなくて、それトマトが焦げすぎて黒くなっただけだろ でもねでもね味も苦いんだよっ、トマトなのに酸っぱくなくて苦いんだよっ、これってトマトがイカ墨に変わったとしか思えない化学変化なんだよお兄ちゃんっ へーそうなんだー なにそのテキトーな返事!? 料理中、ケガはしなかったか? あっ……うん よかったよ 千波の腹がきゅるきゅる鳴る。 俺が代わりになにか作るよ リビングに降りることにする。 ……ごめんなさい、お兄ちゃん 気にするなよ。おまえらしくない 千波は悔しそうに唇を噛んでいた。 千波が作ったトマトソースパスタは、パスタだけはまともに茹でられていた。 なので戸棚にあったパスタソースの素を使ってソースを作り直すだけですんだ。 ……ごちそうさま 千波は俺が作ったミートソースパスタにマヨネーズをたっぷりかけて食べ終えると、すぐに自分の部屋に戻っていった。 できればキッチンの惨状をなんとかしてから戻って欲しかったのだが、どうにも声をかけ辛かった。 食べている間、千波はずっと暗かった。 ……パスタソース、一から作ろうとしてたのか 軽量カップやフライパンは赤と黒で汚れている。 床には乱雑に捨てられた料理本。 ……不器用なんだから、無理するなよな。 それらをすべて片付けた頃、詩乃さんが起きてきた。 おはよう、洋ちゃん おはようございます すぐに朝ご飯作るわね ふらふらしながら、さっき洗い物を終えたばかりのキッチンに立つ。 今朝はパスタでいいかしら? 詩乃さんの目が線になっている。 ……寝ぼけてる? 遠慮なんかしなくていいからね? ふたりの引っ越し祝いに腕を振るっちゃうから ……いやそれは夕べにたくさん味わいましたから 今朝はパスタでいいかしら? ……それさっき聞きましたし、詩乃さんが今持ってるの包丁じゃなくてハタキです、ついでに朝ご飯じゃなくて時間的にはそろそろ夕飯です 詩乃さんはまな板をハタキでぱたぱたしていた。 あら、千波ちゃんはどこかしら? 部屋にいると思いますけど 千波ちゃん、今日は朝ご飯なにがいい? ……そこは千波の部屋じゃなくて冷蔵庫です 詩乃さんは冷蔵庫の中をハタキでぱたぱたしていた。 あら……千波ちゃんのお部屋、エアコンがよく効いてるのね。温度低くしすぎて風邪ひかないようにね? ……詩乃さん、まだ寝てていいですから 千波が朝に弱いルーツを見た気がした。 そろそろ外が暗くなり始めた頃。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! さっきまで元気がなかったと思いきや、すぐこれである。 あのねあのねっ、詩乃さんが千波にお料理教えてくれるってっ、今日の晩ご飯は千波に作らせてくれるって! なにしてくれてんのおまえ? 柄悪く舌打ちされてる!? 今日の夕飯は出前かあ 一目散に受話器取ってる!? あらあらダメよ洋ちゃん 詩乃さんの目は陽が落ちると線じゃなくなった。今はまともな詩乃さんだ。 今日は千波ちゃんが晩ご飯を作るんだから ……なんでまたそんな事態に お昼のリベンジを果たすためだよ! 俺、なにか千波に恨まれるようなことしたか……? なんで千波の料理がお兄ちゃんに対する報復みたいになってるの!? だってリベンジなんだろ それリベンジ違いだよ!? お兄ちゃんに千波の愛情たっぷりご飯を味わってもらいたいっていうこのいじらしい心意気がわからないの!? 充分わかってるよ じゃあなんで現在進行形で出前三人前頼んでるの!? 身の毛がよだつほど充分わかってるから そんなに千波は恐ろしい子なのお兄ちゃん!? すがりつかれる。 洋ちゃん 詩乃さんに額をコツンとされる。 千波ちゃんをいじめない。お兄ちゃんでしょう? ……いえ、兄だからこそ責任を持って大惨事を未然に防がなければならないというか またコツンとされる。 洋ちゃんは、千波ちゃんをいじめすぎ そういうつもりじゃまったくないのに。 それじゃ千波ちゃん、悪いお兄ちゃんをぎゃふんと言わせるお料理を作りましょうか はーい! ふたりは仲よさげにキッチンに入っていった。 なんだか俺ひとりが悪者みたいになっている。 俺は世界平和のために言っただけなのに…… 正義のヒーローはいつだって孤独である。 外に出る。 夕飯までにはまだ時間があるので、引っ越しの片付けの続きをしようかとも思ったのだが。 今夜の空は、こんなにも光にあふれている。 だから彼女はいるだろう。 寂れた展望台にひとりで立ち、こんなふうにこの星空を見上げているだろう。 そこに理由があるのかは知らないけれど。 彼女が何者なのかはわからないけれど。 わからないことだらけだけれど。 だからこそ俺は彼女に会いにいく。 こんにちは、洋くん もう時間的にはこんばんはだよ 細かいね、洋くん そうかな うん。細かくて、頭でっかち ……そうなのかな うん だからきっと、あたしと洋くんを足して2で割ると、この街一番の優等生になるんだよ 僕、学校ではもう優等生って呼ばれてるよ それはウソだよ。騙されちゃダメだよ ……べつに騙してないと思うけど 洋くん、誰に優等生だなんて言われてるの? 担任の先生とか その人がしょあくの根源なんだね ……そんなことないよ。先生、すごくいい人だよ そう思わせるのがその人のねらいなんだよ ……違うと思うけど ダメだよ洋くん、その人のかんげんに耳を貸さないように注意しないと ……どうしてそこまで悪く言うの 彼女は夜空に浮かぶあげパンをどこか物欲しそうに見つめていた。 ……先生なんてそういうものだよ あげパンに見える天の川をつかみ取るみたいに、その小さくて短い腕を伸ばしていた。 学校なんて、そういうものだよ…… 学校、嫌いなの? ………… その、給食では大人気だったあげパンから、視線がついと僕に移って。 洋くん なに? 洋くんはね、優等生なんかじゃないんだよ まるでそうであって欲しいみたいに。 だからね、あたしが教えてあげる 洋くんが優等生になれるように、お姉さんのあたしがいろいろ教えてあげる 彼女の瞳はなにかにすがっているようだった。 なに教えてくれるの? 洋くんが知らないこと どんなこと? それは洋くんが本当の優等生になったらわかるよ 彼女の、どこか寂しげな微笑。 だから、まだ秘密 洋くんが本当の優等生になって、もっと大人になるまでは、秘密だよ そして僕はたしかに、彼女から教えてもらったのかもしれない。 ふたりで見上げたこの夏の星座の下。 彼女と一緒にいるという行為が、年月が過ぎても覚えているくらい楽しいものなのだと。 僕は、教えてもらったのかもしれない。 だけど、そんな楽しかった想い出も今やもうところどころが霞んだ記憶に変わっている。 それはつまり、せっかく彼女からもらったその大切だったはずの記憶を、俺が忘れ始めているということか。 彼女と遊ぶのが好き──その感情が、俺の中で風化を始めているということか。 それとも、もうすでに風化したあとなのか。 これじゃあ俺は優等生とは言えない。 テストで合格点をもらえない。 学校では赤点など取ったことがない俺も、彼女の授業では落ちこぼれているらしい。 だから、せっかく教えたのに優等生になれない俺に、彼女は怒っているのかもしれない。 怒って、俺の前に現れようとしないのかもしれない。 ……いるかな、あいつ 俺にとって遊びの先生だった彼女とうりふたつの姿をしている奇妙な少女。 彼女と出会うためにはこのフェンスを乗り越えなければならない。 展望台に至るためのそれは障害だった。 幼い頃は夢見坂を登ること自体が障害だった。 子供の体力で坂を登りきることは難しい(千波が途中で諦めてタクシー呼んで帰ったこと然り)。 今考えると、展望台の彼女はよく毎日のようにこの坂を登れていたと思う。 俺がひいひい言って頂上にたどり着くと、いつも彼女は涼しい顔で迎えてくれた。 汗ひとつかいていなかった。 まあ、彼女は元気っ子だったし、当時の俺よりよっぽど体力があったのだろう。 頭でっかちと言われていただけあって、当時の俺は勉強以外には特に取り得のない生徒だったのだから。 ……今は、少しは違うと思うんだけどな。 頭でっかちなんて、もう言わせない。 彼女と出会うために夢見坂を毎日登っていた俺は、おかげで体力もついたのだから。 林の中に入り、フェンスを迂回する。 四度目ともなれば慣れたもので、枝に引っかかったり足場を踏み外したりすることはなかった。 小道に出て、不思議な期待に導かれてそこを目指す。 そして両脇の木立が途切れると。 俺の視界に大小の光があふれ、広がった。 こんにちは、洋くん 彼女の第一声はそれだった。 ……時間的にはこんばんはだぞ 細かいのね、洋くん ……そうかな うん。細かくて、頭でっかち ……そう思うのか? うん 俺とキミを足して2で割ると、この街一番の優等生になると思うのか? ううん 彼女は否定した。 死神は優等生なんかにならないから ……あ、そう。 俺は、幼い頃は優等生って呼ばれてたよ そうなんだ といってもそれは成績のほうだけで、それ以外はあまり優等生じゃなかったかもしれない ふうん 友達と遊ぶこともなかったからな 展望台の彼女は別にして。 ただ、転校してからは打って変わって友達とふざけたりバカやったり、また違う意味で優等生じゃなくなったと思う べつに生活態度が悪かったとは思わないけど、ツンデレ委員長にはよくガミガミ言われてたよ ツンデレ委員長って誰 俺のことが好きだったかもしれない子 ………… 俺、その子の気持ちにぜんぜん気づかなかったよ ……そう メガネ図書委員の子の気持ちにも気づいてあげられなかったよ そう 俺は、恋に関しても優等生じゃなかったんだ そう だから…… だから、そんな俺だったから、展望台の彼女は俺に恋というものも教えようとしてくれたのかもしれない。 ファーストキス(おでこに)はそういう意味だったのかもしれない。 あの頃の俺たちは、先生と生徒の関係だったのだ。 師弟のつながりみたいなものか。 時が経ち、今となっては俺と彼女のつながりは、この展望台と彼女の名前だけとなってしまった。 そのどちらかひとつでも失ってしまったら、俺はもう二度と彼女とは会えないんじゃないだろうか。 そんな気がしてならない。 だから忘れてはならない。 たとえどんなに霞んでしまっても。 せめて彼女の名前だけは、絶対に忘れてはならない。 だから、なに? ……いや 口に出して言うようなことじゃなかった。 そもそも目の前の彼女はあの彼女ではない。 想い出と重なるところは多々あっても、現実的に考えて同一人物であるはずがないのだ。 だからこそ、この彼女──メアがいったいどんな子なのかが気になるわけで。 キミってさ、日本人か? いきなりなに 気に障ったんなら謝るけど。ちょっと気になってさ どうして気になるの キミの名前、めずらしいからさ ……そう? そう まあわたしは日本人なんかじゃないから じゃあやっぱり外人さんか ううん。死神 ……ええと 誤魔化してるんだろうか。 国籍はどこなんだ? 死神に国籍なんてないわ どこに住んでるんだ? 死神に住所なんてないわ ……ホームレス? 悪いの? 悪くないけど。 ……いや、なにか事情があって言いたくないならいいんだけどさ 事情なんてないし、ちゃんと言ったじゃない 家はこの近くか? 死神に家なんてないわ なにがなんでも死神で通すらしい。 その衣装さ、独創的だよな ……そう? そう だから死神に見えるわけで。 まあわたしは死神だからね まさか街中でもその格好ってことはないよな 死神は街中なんて歩かないわ そのカマさ、重くない? べつに なんでそんなの持ってるんだ? 知らない 死神だから持ってるんだろ? そうかもしれないし、違うかもしれない。気がついたら持っていたから そのカマで悪夢を刈るのか そう なにからなにまでおもしろい設定だよなあ ……ずっと感じてたんだけど、わたしが死神だって信じてないわね そんなことない あなたが言ったくせに…… だから、そんなことないって ……にやにやしてるその顔が気に食わない 掲げたカマが、星明りを鈍く反射した。 夜空には雲が棚引くように天の川が広がっている。 その大きな壁に隔たれて、織姫と彦星が青く白く輝いている。 まるで、別れた相手に自分の存在を主張するかのように。 明日がなんの日か、知ってるか? 知ってるわ そっか うん 国民の祝日ってわけじゃないし、意外と誰も気にしてないと思ってたけど 気にするほど大切な日でもないし 普通の人はそうなんだろうな うん 小学生くらいまでは、学校で短冊とか飾ったりするんだろうけど 短冊? ケーキじゃなくて? ……キミんちって七夕をケーキで祝うのか? たなばた? 明日は七夕だろ? 七月七日、織姫と彦星が年に一度だけ会える機会を設けられた日。 天気予報では、明日は晴れだった。 天の川が洪水を起こすことはない。 ふたりは待ち焦がれた再会を果たすのだ。 ……そう。明日は、七夕だったんだ なんの日だと思ってたんだ? ……べつに 怒ったようにそっぽを向いた。 なにスネてんだ? す、スネてなんかないっ なにムキになってんだ? む、ムキになんかっ ははっ ……なに笑ってるの ちょっ、カマの切っ先を向けるなよ!? あわてて距離を置く。 ……そういうの、人に向けたら危ないだろ? 子供扱いしているその口調が気に食わない キミって大人びてるみたいだけど、さっきのキミは見た目どおりの子供だったよ だからホッとして、笑ってしまった。 ……わたしは子供なんかじゃない わかってるよ。死神だもんな そのバカにした態度が気に食わない だからカマをこっちに向けるなよ!? さっさと悪夢を刈っておけばよかったかな…… ぶつぶつ言っている。 それで、なんの日と間違ったんだ? いいでしょべつに 気になるんだけどな 知らない 機嫌を損ねてしまったようだ。 木立を渡る風を感じる。 気温的に寒いということはないが、風の冷たさが夜の更け具合を教えていた。 詩乃さんと千波が夕飯の支度を終えて待っているかもしれない。そろそろ家に戻らないと。 キミはまだ帰らないのか? 死神は帰ったりしないわ なんかもう日本語も変だ。 俺、帰るけど ……そう 明日もまた会えるかな? 知らない ……そっか 帰る前にカマで刺していい? いいわけないだろ!? やっぱり無警戒のところを背中からざっくりいくしかないか…… ……怖いことを言っているような。 あのさ、メア メアの深遠な瞳が俺に向く。 俺と一緒に帰らないか? その瞳がかすかに見開く。 家まで送っていくよ ………… もう遅い時間だし。ひとり歩きは危険だろ ……男の子ね ………… どうしていちいち想い出と重なるようなことを言うのか。 まさかこの次に「キスってしたことある?」と続くわけでもないのに。 さよなら、洋くん ほら、続かない。 あなたが背中を見せたらざっくりいこうと思ってたけど、チャンスを逃したみたい あなたの悪夢は、なかなか手ごわいのね そうして、俺の見ている目の前で、メアの姿は星明りとともに消えていた。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、おかえりなさ──い! リビングに上がると、千波がキッチンから転がるように飛び出してきた。 お風呂にしますかっ、お背中お流ししましょうかっ、それとも先に千波をお食べになりますかっ それどんな罰ゲーム? 千波の愛情は罰ゲームじゃないよ!? あらあら洋ちゃん、ベストタイミングね それではお兄ちゃんをダイニングにごあんなーい! ちょうど夕飯の支度が整ったところらしく、千波に腕をひっぱられていく。 ほらほらお兄ちゃんっ、見てよ見て見てっ、これ千波が作ったんだよ! おお、うまそうじゃないか そうでしょそうでしょっ、千波だってやればできるんだからね! うまそうに皿が並べられてるじゃないか お皿並べただけじゃなくてちゃんと千波も作ったんだよ!? このサバの味噌煮は違うだろうし、大根おろしも普通だし、ひじき豆もまともに見えるし、もしやこのなめこの味噌汁に世にも奇妙な物体が沈んでいるんじゃ…… お味噌汁をお箸でかき回すのはお行儀悪いんだよ!? あらあらダメよ洋ちゃん、ちゃんと手を洗ってからいただきましょうね 詩乃さん、千波が作ったのってどれですか? これよ 詩乃さんが持っているのはひじき豆だった。 嘘だッッッ!!! お兄ちゃんの目がとても怖いよ!? ウソじゃないわよ。ね、千波ちゃん もちろんですっ、これが千波の実力ですから! 俺が知ってる、悪魔の手を持つ少女・小河坂千波はいったいどこにいってしまったんだ……? なにその失礼極まりない二つ名!? そうよね、千波ちゃんはすごいんだから。レシピも見ずにひじき豆が作れるんだものね はいっ、千波はお兄ちゃんごときとは比べ物にならないくらいすごいんです! た、たしかに日ごろ家事手伝いをしていた俺でさえ、これを作るにはレシピが必要だ。 ひじき豆を作るにはしょう油のほかにも、酒にみりんに塩に砂糖の絶妙なさじ加減が必要なのだから……。 どうっ、お兄ちゃんっ、これでもまだ千波を足手まといだなんて抜かすのかなっ くっ…… 俺は負け犬のごとくひざまずく。 これまでの千波に対する数々の〈狼藉〉《ろうぜき》、どう落とし前つけてくれるのかなお兄ちゃんっ そ、それは……でも…… でももへちまもへったくれもないんだよっ、たとえお天道さまが許してもこの千波さまが黒と言ったら目玉焼きでも黒いんだよっ 言いたい放題だ。 千波ちゃんカッコいい…… そして詩乃さんが陶酔している。 さあさあお兄ちゃんっ、この世にも美しい料理人の千波さまに対してなにか言うことがあるんじゃないかなっ あ、ああ……千波、見直したよ もう一声だよお兄ちゃん! 千波、惚れ直したよ お兄ちゃん……!! がばっと抱きあう。 ふたりともお幸せにね…… 詩乃さんが目元をハンカチでぬぐっている。 それにしても、本当に千波ちゃんはすごいわねえ えへへっ、それほどでもないですよ詩乃さんっ 謙遜することない。明日からは千波にこのキッチンを任せることにしようかな えへへっ、これでようやく天国のお母さんを安心させてあげられるよっ あの千波がって言うと失礼か。妹の成長っていうのは早いものなんだな、もうびっくりだよ 私もびっくりしちゃった。卵焼きを作ってたはずなのにひじき豆になっちゃうんだもの えへへそこまで誉められると照れちゃうなーって、どうしたのなにしてるのっ、千波が作ったひじき風卵焼きをなぜゴミ箱に放り込んでるのお兄ちゃん!? さて長々とバカなことやってるとご飯冷めるし、いいかげん食べようか 我が家の食卓からきれいさっぱり千波のひじき豆が消え失せてるよお兄ちゃん!? あの物体をひじき豆として味わえるのは味オンチのおまえだけだ マヨネーズであえるとあの苦味がやみつきになるんだよ!? ……食事前にやめてくれ頼むから 本当、不思議ねえ。分量も火加減も間違っていなかったのに、どうして黒くなるのかしら これが、ゲテモノ作りに適した悪魔の手を持つ少女、小河坂千波の実力なのだ。 今日は七夕、織姫と彦星が再会を約束した特別な日。 この地域は北国ということもあって、七夕を一ヶ月遅れの八月七日に祝ったりもするのだけど。 どちらにしろ街をあげて祝うことはなく、例に漏れず俺たち小河坂家でも特に行事を行うこともない。 短冊に願いを記して笹の葉に飾るのは、子供たちだけのイベントだった。 いい歳をした大人が短冊なんか飾るのは、デパートの催しで子供連れの親がやるくらいなものだろう。 俺もまた、短冊に願いを込めて祈ったのは、子供の頃にたしか一度きりだった。 しかも笹に飾った記憶もない。 ただ短冊に願いを書き込んだだけだったと思う。 笹に吊るすのが面倒くさかったのか、それともほかの理由があったのか。 なんにしろその想い出も、曇ってしまって今は晴れない。 この空とは違って。 寝過ごした寝過ごした寝過ごした────っ!! 早くも定番になりつつある我が妹の起床風景だ。 ごめんお兄ちゃん今すぐ朝ご飯の支度…… ごちそうさまでした もう食べ終わってるよこの人!? 千波の分はちゃんと残してあるから それ昨日お兄ちゃんが捨てたひじき風卵焼き!? 俺は引っ越しの片付けをすませてくるから ちょっと待ってよっ、いいかげんそろそろ千波に朝ご飯作らせてよっ、毎朝毎朝千波の邪魔して楽しいのお兄ちゃん!? おまえが起きるの遅いのが悪いんだろ 千波は悪くないもんっ、目覚ましが勝手に止まってるのが悪いんだもんっ、あの目覚ましが壊れてるのがいけないんだもん! じりじり鳴ってたの聞こえてたぞ でもでもっ、千波には聞こえなかったもん! バカには聞こえないんだとさ どうでもいいように答えられてる!? 壊れてるのは目覚ましじゃなくておまえの耳だったわけだ そんなわけないよっ、千波はこの生涯で一日だって耳掃除を欠かしたことないんだから! おまえ、前に耳掃除しすぎて外耳炎になったことまだ懲りてないのな だって気持ちいいんだもん! それでついに鼓膜まで取り除いたせいで目覚ましも聞こえなかったんじゃないか? もしそうだったらこうしてお兄ちゃんと会話を交わすこともできてないでしょ!? 千波だしもうなんでもアリだろ お兄ちゃんの中の千波像ってどうなってるの!? とにかく三日連続で寝坊したおまえはまず天国の母さんに謝れ ごめんなさいお母さん! そしておまえの朝食のためにひじき風じゃない正真正銘のひじき豆を作った俺に謝れ ごめんなさいお兄ちゃん! その上そんなおまえを快く住まわせてくれている詩乃さんに謝れ ごめんなさい詩乃さん! 最後に全国の皆さんに謝れ ごめんなさい生まれてきてごめんなさいって、どれだけ千波のこと卑屈にさせるのお兄ちゃん!? 昨日俺をひざまずかせた罰だ お兄ちゃんが勝手にひざまずいただけでしょ!? じゃあ俺は部屋行ってるから、勝手に入ってくるんじゃないぞ お兄ちゃんのバカ──────っ!!! 朝っぱらでも変わらぬ元気のよさが、少しだけうらやましい。 この雲雀ヶ崎に引っ越してきて今日で四日目。 本来だったらすでに終わっていて然るべきの引っ越しの片付けだが、悪魔の手の妨害によりまだ小物の整理が残っている。 ダンボールのこまごました中身を、組み立てたAVラックや本棚にひょいひょいと入れていく。 ガラス戸が割れてしまったサイドボードはどうするか。 片付けが終わったら、商店街のほうに出向いて店を見てこようかな。 運がよければ同じ型のものが見つかるかもしれない。そうしたらガラス戸だけ売ってもらおう。 無理だったら新しく買い換えるしかないか……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、千波参上だよ手伝ってあげる……あ、あれっ がちゃがちゃとドアノブが揺れる。 なんでなんでっ、いくらやってもドアノブが回らないよっ、どうやってもドアが開けられないよっ、どうしたのなにがあったの返事してよお兄ちゃんっ! よし、ドアが開かないようにこちら側のドアノブをロープでがんじがらめにした甲斐があった。 これで昨日のように千波に邪魔されることはないだろう。 ……難点は俺も部屋から出られないことだけど。 トイレを催したらアウトだが、まあ千波がいなければ一時間もかからずに残りの作業は終わるだろう。 俺は心置きなく仕事に戻る。 さて次は、本類を本棚に並べて……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! どんどんどんっ!!! 一番上に文庫本、真ん中に新書本と単行本、一番下に雑誌を入れて……。 どうして返事してくれないのお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! どんどんどんっ!!! 参考書は勉強机の棚に……。 いるんでしょ生きてるんでしょ千波のこと待ってたんでしょお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! どんどんどんっ!!! ……うるさくて作業がはかどらねえ。 もしかしてこれって一大事なのっ、返事したくてもできないのお兄ちゃんっ、待っててすぐ助けるからこんなときを想定して千波チェーンソー持ってきてるから! どんなときを想定してたんだよおまえは!? 悪い子は居ねがああああああ!!! きゅいーんっ、がりがりがりがりがり!!! 貫通だよお兄ちゃんっ、行くよすぐ行くよ千波が来たからにはマウスツーマウスの人工呼吸でって、お兄ちゃんがなまはげの形相で仁王立ちしてる!? 念を入れてお仕置きした。 ……とりあえずだな、ドアの修理は業者に頼んでおいたから 千波は悪くないよっ、お兄ちゃんが居留守使うのが悪いんだよっ 代金は千波の小遣いからって言いたいところだけど それは難しいよお兄ちゃんっ、千波はあぶく銭を持たないその日暮らしの風来坊だからコブタの貯金箱はいついかなるときも空っ風が吹いて涼しそうにしてるからねっ そう思って来年の千波のお年玉を差し押さえることに決定した ごめんなさいもう二度としませんそれだけは許してくださいお兄さまぁ! 足元にすがりつかれる。 本当に二度とするなよ? 修理代は母さんの貯金を使うんだからな あ……うん しかしこれだけの騒ぎでも詩乃さんは起きてこない。ものすごい寝つきのよさだ。 おかげで惨状を知られることなくドアを元通りにできそうだけど。 業者が来たら教えてくれよ。俺、片付けに戻るから 千波はしょんぼりとうなずいた。 こんなふうに非常識に手のかかる妹だが、それはそれで助かっているところもある。 千波の突き抜けた明るさが、両親がいなくなっても寂しくない所以なのだから。 やっと終わった…… めでたく引っ越しの片付けは完了した。 感涙である。 なんで四日もかかってるんだろうな…… 原因など言わずもがなでも、言わずにはいられない。 おめでとうお兄ちゃん感謝してねお兄ちゃんっ、千波が廊下でおとなしく応援してたおかげだねっ 皮肉ではなく真実なのが泣けるところだ。 ドアの修理もすっかりすんだし(出費は痛かったけど)、これで午後の時間はまるまる空いたわけだ。 ねえねえお兄ちゃんっ 却下 まだなにも言ってないよ!? そっかそっかそろそろ昼だしご飯作りたいのか、却下 そうじゃないよっ、それもあるけど千波ちょっとお買い物してきたいの なに買いたいんだ? 千波愛用サイドボードを買うんだよっ そういえば壊れたんだっけか 俺と同じでガラス戸が割れたのだ。 これから買いにいくのか? そうだよっ、善は急げだよっ でも、おまえのコブタ貯金箱って空っ風が吹いてるんじゃなかったか? そこでお兄ちゃんの登場だよ! 千波は俺の腕をひっぱる。 お兄ちゃんが千波のコブタにお慈悲の餌を 却下 まだ言い終わってないよ!? 金貸して欲しいんだろ そんなみみっちいこと言わないよっ、千波はお兄ちゃんのお金で千波愛用サイドボードを買いたいの! なお悪いわ。 ねえねえいいでしょ買ってよ買ってー千波のためにサイドボード買って買ってーパパ買ってー 誰がパパだ。 悪いけどそんな余裕ないから。俺だって自分のサイドボード買わなきゃいけないんだよ 千波のサイドボードとお兄ちゃんのサイドボード、どっちが大切だと思ってるの! 俺のサイドボード 眉ひとつ動かさなかったよこの人!? べつに新しく買わなくたっていいだろ。ガラス戸が割れただけなんだし、まだまだ使える お兄ちゃんだってそうじゃない! ガラス戸がなかったらせっかく飾った物がホコリまみれになるじゃないか 千波のだってそうなっちゃうんだよ! それくらい我慢しなきゃダメだろ それおかしいよ!? お兄ちゃんの発言にはとても大きな矛盾が見られるよ! え、どこに? お兄ちゃんと千波のサイドボードはまったく同じ状態なのに、どうしてお兄ちゃんは自分のサイドボードだけ買おうとするの!? 俺の金だから うわーん!! ついに泣き出した。 ……わかったよ。手持ち調べてみるから、ちょっと待ってろ わーい! なんとか買えそうだ お兄ちゃん大好き! 百二十円未満なら買えそうだ 缶ジュースより安いサイドボードってなに!? 缶ジュースひとつくらいは収納できるんじゃないか? それもはや棚として機能してないよ!? よかったな、これで千波の缶ジュースはホコリまみれにならないぞ そもそも缶ジュースなんか飾らないから!? いや千波なら飾るはずだ お兄ちゃんは千波のなにを知ってるの!? 小学校あがる寸前までオネショしてたことを知ってる うわーん!! また泣いた。 ……とにかくだな、買えないものは買えないんだからしょうがないだろ 千波はすでに泣き止んでいて、サイドボードに飾ってあった俺の色紙を見ていた(立ち直りが早いやつ)。 あっ、これって…… さわるなって 色紙をぱたんと伏せる。 ……好きでしたとか書かれてたような 見間違いだ うー それより買い物いくんだろ 誤魔化すような言葉になった。 金、貸してもいいぞ。その代わり絶対返せよ わっ、ほんと? 貸すのは俺じゃなくて母さんだけどな あ…… 引っ越しをする際にまとまった金は下ろしてある。引っ越し代もドアの修理代もそこから使ったのだ。 俺と千波のサイドボードを買ったら、残りは銀行にある貯金だけになるかもしれない。 そうなったら、貯金はもう学費と必要最低限の生活費以外には使えないだろう。 俺たちの食費を詩乃さんの全負担にさせないためにも、バイトは必須だった。 昼飯くらいは俺がおごってやるさ ……ありがと その言葉は俺に対するものか、それとも母さんに対するものか。 千波、バイト探してみようかな 俺の腕にくっついてくる。 バイトなんてしなくていい 食費を稼ぐくらい俺ひとりでも充分だろう。 学校もあるんだし、宿題やってる暇なくなるぞ ううんっ、もう決めたから 俺をひっぱって千波は階下に降りていった。 千波ね、商店街のある場所まだ覚えてるよ 俺もなんとなく覚えてるな どちらが言い出さなくても、俺と千波の足は駅の方角へと向かっている。 この街出てからずいぶん経っちゃったけど、意外と忘れないものなんだね 実際、暮らしてた時間はこの雲雀ヶ崎と都会でちょうど同じくらいだからな でもでもっ、千波は学校入ったらすぐ引っ越したってイメージだったよ 千波は俺のひとつ下だからそんなに歳の差はないが、俺よりも幼い頃にここを出たことは確かなのだ。 引っ越し、嫌だったか? 引っ越しが好きな人なんかいるのかな たしかに。 ただ一度目の引っ越しよりも、二度目の引っ越しのほうが嫌じゃなかったかな それは俺もそうだった。 一度も足を踏み入れたことのない都会への引っ越しに比べれば、今回の引っ越しは安堵感があった。 生まれた土地への憧憬もあったんだろう。 それは、都会の友人たちとの別れは寂しくても、それを埋めてくれる出会いがあるという期待でもあった。 その最たる存在が、展望台の彼女。 それだけじゃない、この雲雀ヶ崎で通っていた小学校の級友たちとも再会できるかもしれない。 相手の顔はもうほとんど覚えていないし(展望台の彼女だけはちゃんと覚えていた)、向こうも俺のことなんか忘れているかもしれないけれど。 それに懐かしむ再会はなにも人ばかりではなく、こうして千波と歩いて目にする街並みも含まれるのだった。 それじゃ、懐かしの雲雀ヶ崎探検にしゅっぱーつ! 千波の声を合図に、ふたりの歩調が速くなった。 五分ほど歩くと雲雀ヶ崎駅が見えてくる。 商店街はこの最寄駅の周りに集中していたはずなので、詩乃さんの家に暮らしている限り自転車いらずで買い物できるのだ。 この駅、ぜんぜん変わってないね 徐々に記憶がよみがえる。 雲雀ヶ崎へようこそ、と銘打った面白みもなにもないのぼりも健在だ。 わ。駅から団体さんが出てきたよ 観光客だろうな。今日は土曜で休日だし 団体客さーんっ、たくさんお土産買って雲雀ヶ崎にお金落として地元民の千波たちが払う税金安くしてねー 情緒のカケラもないのな、おまえ 観光バスに乗り込むお年寄りたちを横目に、俺たちは店が連なるほうに足を向ける。 このあたりもぱっと見、昔と同じ感じがするね スーパーや雑貨店、土産店なんかの個人経営店が並んでいる、昔ながらといった商店街。 高いビルやデパートなんかはなく、代わりに古ぼけた民宿やシャッターが閉まったままの店がちらほら見える。 あまり景気はよくなさそうだが、寂れているというよりはのんびりしているこの雰囲気が、数年経っても変わっていないのがうれしかった。 ほんと古めかしいっていうか、ノスタルジックって言葉がぴったりの街だよね この雲雀ヶ崎自体、古い歴史があるのかもしれないが、俺はそんなによく知らない。 小学校の社会科の授業で自分の街の歴史くらいは勉強するのだろうが、習う前に俺は街を出てしまっている。 だから知識といったら観光地としての雲雀ヶ崎の情報くらいなものだった。 過去は貿易港として栄え、今では商業港湾都市となっている雲雀ヶ崎は、運河を始めとする数多くの歴史的建造物に囲まれている街である。 運河のほかにも公園や温泉、神社、ロープウェイ、ビーチの広がる海もあったりする。 ハイキングに海水浴に紅葉にスキーと春夏秋冬楽しめる、まさしく観光地の見本みたいな土地だった。 その雲雀ヶ崎を含む市の人口は、約四十万人。 数字だけ見ると立派な中核市だが、実際に歩いてみると都市というよりは古都といった感じだ。 しかも年々、人口は減り続けていると聞いたことがある。 四季を通じて楽しめる観光地とはいってもいまいち地味なので、あまり人気はないのかもしれない。 さらに冬になれば雪が積もって交通の便が悪いし、暮らすにはいささか苦労が多いのも難点だ。 たしか雲雀ヶ崎には博物館だったか資料館だったかがあったし、これ以上の詳しいことは気が向いたときにでもそこに行って調べてみよう。 俺はけっこう勤勉である。 だいいち、俺はこの街が好きなのだ。 お兄ちゃんお兄ちゃんあれ見てあれっ! 却下 なんでいつも千波の言葉を最後まで聞こうとしないんだよ!? おおかた千波愛用サイドボードがショーウィンドウに飾ってあったんだろ。俺が値段見るまで却下だ そうじゃないよっ、あそこに千波の知らないお店があるのっ、たぶん千波たちが引っ越したあとにオープンしたお店じゃないかなっ 千波の指差した先を目で追う。 そこはたしかに記憶にはない店だった。 喫茶店だろうか? 新しくオープンしたのかもしれないが、俺がこの街を出てすぐに店が開いたのなら、新しいという形容は似合わない。 今ではこの雲雀ヶ崎商店街の一部として、すっかり馴染んでいるのかもしれない。 そういった変化は少し寂しかったりもする。 なんかこじゃれた感じで、雰囲気よさそうだよね 千波が言ったとおり、シックな外観の喫茶店。 窓ガラスから覗ける内装も落ち着いたレトロモダンといった風情で、つい入ってみたくなる。 サイドボード見てくる前に、ここで昼飯食べようか うんっ、ナイスアイデア! 千波と並んで店に入る。 来店を知らせるドアベルを聞きながら店内を見回す。 外観で感じたイメージどおり、なかなかよさそうな雰囲気だ。 飾ってある絵画や器、家具、流れている音楽が、引っ越しの片付けて疲労した身体を癒してくれる。 お客はぽつりぽつりと座っているので、ほどほど繁盛しているといったところか。 お兄ちゃんっ、あそこ座ろ 千波を追って、窓際の席に移動する。 このお店、思ったより新しいって感じじゃないね 色調のせいもあるけど、俺たちが引っ越したあとにすぐ開店したんだろうな だとしたら七年くらい経ってるし、オープンセールやってるわけじゃないのかな まあ、まずはなにか頼もうか 千波にメニューを渡して、俺も開く。 うむむ……? 一見して、どれがどんな料理なのかわからなかった。 ねえお兄ちゃん……ここってほんとに喫茶店? だと思うんだけどな…… メニューには見慣れない単語ばかりが並んでいた。 いらっしゃいませ~。ご注文はお決まりでしょうか? あ、いや……あのですね メニューの内容を尋ねようとした口が途中で止まった。 どうかされましたか? そのウェイトレスは白いフリフリのエプロンドレスに同色のカチューシャを装備していた。 わあっ、メイドさんだ。千波初めて見たよっ なんだここは、シックな外観とレトロモダンな内装に騙されたけど、その実態はメイド喫茶? ……初めて入ってしまった。 そんなの都会向けのマニア店とばかり思いきや、こんな北の観光地にまで普及していたなんて。 まじまじと視線を送る俺と千波の態度もなんのその、ウェイトレスはにこにこと営業スマイルをくずさない。 自分の格好を見て驚く客には慣れているようだ。ウェイトレス歴が長いのかもしれない。 見たところ俺と同年代くらいにしか見えないのだが。 あれ? お客さま…… あっ と、同時に口を丸くする俺とメイドさん。 以前、展望台のほうに行かれてましたよね。今日も観光ですか? しっかりした接客の言葉遣いでほほえんだ。 なになにっ、お兄ちゃんこの人と知りあいなのっ、引っ越してまだ間もないのにもう唾つけたのっ、お兄ちゃんがそんな節操なしだったなんて千波超ショックだなっ そうじゃないからとりあえず黙れ テーブルに備えてあったサラダ用のマヨネーズソースを千波の口に放り込む。 千波は目をエビスのように垂らしてチューチュー吸った(千波はマヨラーだ)。 今日も彼女さんとご一緒に雲雀ヶ崎の観光ですか? 千波の奇行を見てもスマイルをくずさない彼女はプロのメイドさんだ。 彼女はヒバリ校の前で何度か見かけた子だった。相手も俺を覚えていたらしい。 あの学校に通っているのなら、俺と同年代くらいに見えるのもうなずける。 俺も、来週の月曜からはヒバリ校の二年生なのだ。 この時期だと海水浴にはまだ早いですけど、運河でのボート乗りは風情があって最高ですよ 特にアベックには大人気で…… あ、いや。こいつは彼女じゃなくて妹なんです それと、俺たち観光じゃなくて、つい最近に引っ越してきたんですよ あ、そうだったんですか 来週からヒバリ校に通うんで、今後ともよろしくお願いします 社交辞令をすませておく。 えと、ヒバリ校の何年生ですか? 二年です わ、じゃああたしとおんなじだ 同学年と知ったせいか、くだけた口調に早変わりした。 あたし、〈南星明日歩〉《みなほしあすほ》。ヒバリ校の二年。キミは? 小河坂洋です こがさか……よう…… 口の中で俺の名を繰り返す。 小河坂くん、どのあたりに引っ越してきたの? ええと……夢見坂ってあるだろ? 気さくに話しかけてくるので、こっちも自然に敬語じゃなくなる。 そのふもとの住宅街なんだけど ああ、あそこなんだ。いいなあ、ヒバリ校のすぐ近くじゃない。朝遅くまで寝てられそう それでもあの坂は毎朝登らなきゃいけないし、けっこう憂鬱だったりするよ だよねえ、なんであの坂が通学路なんだろ、ていうか誰があんな場所に学校建てようなんて言い出したんだろ まあ、小学校じゃなかっただけマシかな そうだね、小学校は山のほうじゃなくて、駅向こうの海の近くにあったし そうそう、通う途中に踏み切り渡るのが面倒っていうのはあったけど…… ……って、彼女が通ってたその小学校って、俺が通ってた小学校と一緒か? キミって……この前引っ越してきたばかりじゃないの? あ、ええと ああっ、お兄ちゃんがメイドさんと親睦深めてるっ、お昼ご飯の代わりにメイドさん食べようとしてるっ、いくら初恋の彼女にフラれたからって手当たり次第になんてっ いい子だから黙れ 二本目のマヨネーズソースを口に放る。 千波は二秒で吸い終わる。 こいつは小河坂千波。俺の妹で、来週からヒバリ校の一年になる予定 あの、この子、マヨネーズソース早くも三本目吸ってるんだけど…… 千波、行儀悪いからそのへんでやめとけ もっと早く止めてよっ、もう少しで千波のお昼がマヨネーズだけになるところだったじゃないっ エビス顔で幸せそうに吸ってたくせに。 明日歩、話し込むのはいいけど、お客さんのオーダー取るのを忘れないようにね あ、はーい。お客さま、ご注文はお決まりですか? マスターらしき人の注意で営業モードに戻ってしまい、さっきの小学校の話はうやむやに終わってしまった。 あのあのっ、このメニューに書いてあるアストライアーってなんですか? それはね、てんびん座の天秤の持ち主である、正義の女神アストライアーのことなの アストライアーは羽ペンと人間の心臓を天秤にかけて、その人間の善悪を判決したと言われてるんだ アストライアーのアストロはもともと星を意味していて、ライアーは女性語尾で乙女を意味するから、アストライアーは星乙女とも呼ばれてるんだよ うっとりと話すメイドさんだが、肝心のメニューの内容はさっぱりだった。 ……あの、じゃあこの、本日のオススメって書いてあるヘルメスの竪琴って? ヘルメスっていうのは泥棒の神さまなの ヘルメスは生まれてすぐに太陽神アポロンの牛を盗んだんだけど、そのとき見つけた海亀も一緒に食べちゃって、その甲羅に穴を空けて竪琴を作ったんだ じゃあこのヘルメスの竪琴ってすっぽん料理? ううん、ハニートースト 関連性ゼロだった。 ……いやまあ、メイド喫茶ですっぽん料理が出てきても困るけどさ。 それでね、ヘルメスは盗んだ牛を取り返しに来たアポロンに見つかっちゃって、慌てたヘルメスは謝罪の意味で甲羅で作った竪琴をアポロンに差し出したの その竪琴はアポロンの手を経て〈吟遊詩人〉《ぎんゆうしじん》オルペウスに渡るんだけど、オルペウスが奏でる竪琴の音色は人間だけじゃなくて動物や草木さえも虜にするんだ そしてあるときオルペウスは妻である〈精女〉《せいじょ》エウリュディケーを助けるために冥界に降りて、この竪琴は大活躍するんだけど、結局オルペウスは妻を助けられずに…… 明日歩、お客さんが困ってるよ えーっとうーんと、じゃあヘルメスの竪琴はすっぽん料理じゃないから妻を助けるためにオルペウスの竪琴がハニートーストになって…… 千波の目がぐるぐるだ。 ご、ごめんなさいっ、あたしってばつい……。ご注文はヘルメスの竪琴ふたつでよろしいですか? ……あ、いや、それはいいんだけど 勝手に俺たちの注文をハニートーストに決められたのはべつにいい。 最初、ヘルメスの竪琴と言われても気づかなかった。 だけどオルペウスの竪琴と言われてハッとした。 今の話って、もしかしてこと座の……? 俺の言葉で、メイドさんはぱっと顔を輝かせた。 うん、だって今日は七夕だからね! メイドさんは軽やかなステップでマスターの元に戻っていった。 オルペウスの竪琴とは、こと座の星座絵で描かれている竪琴のことだ。 だからこそオルペウスの竪琴──ヘルメスの竪琴は、本日のオススメメニューだったのだ。 こと座の星のひとつであるベガは、七夕の織姫だ。 えーっとうーんと、じゃあヘルメスの竪琴はすっぽん料理じゃないからオルペウスの竪琴がハニートーストになって七夕だからメニューを勝手に決められて…… 千波はまだぐるぐるだ。 お待たせしました~、こちら当店自慢のヘルメスの竪琴になりま~す! テーブルに並んだハニートーストには、アイスクリームの上に笹の葉が載せられていた。 おいしかったねっ、お兄ちゃん ああ。これからは行きつけの店になるかもな メイド喫茶っぽいのでひとりでは入りづらいけど。 メニューの名前はどうやら星座の神話にちなんだものだったらしい。 入るときは気づかなかったが、店の名前も英字でミルキーウェイとある。納得だ。 味は申し分なかったし、新しいクラスで友達ができたら放課後に寄ることもあるだろう。 お父さーん、あたしちょっと出かけてくるね 学校に大事な用があるんだ。お手伝いサボる埋め合わせは今度するから、あとよろしくね! あのメイドさんの声は、千波みたいな耳を裂く大声というわけじゃないのによく通る。 学校というのはヒバリ校のことだろう。 土曜なので授業は休みだと思うけど、部活か補習でもあるのかもしれない。 お兄ちゃん見て見てっ、このお店バイト募集してるよ 却下 お兄ちゃんの返答は否定が多すぎるよ!? バイトしたいって言うんだろ。しなくていいから でもでもっ、このままだと千波のコブタ貯金箱がかわいそうなんだもんっ、空っ風にさらされて風邪でもひいたら困るんだもん! 飼い主と一緒でバカは風邪ひかないから バカって言うほうがバカなんだよ!? 喫茶店の窓にはバイト募集の貼り紙がされている。 スタッフ急募らしいが、さすがにメイド喫茶で俺がバイトするわけにもいかない。 悪魔の手を持つ千波にウェイトレスをさせたら割った皿の請求が怖いので、こっちも却下だ。 時給900円からってあるよっ、夕方のバイトとしては高給だよっ、しかも都会と違って客足もそんなになさそうだしサボっててもバレなさそうだよっ それよりサイドボード買うんだろ。行くぞ うー 俺が歩き出すと、千波も不機嫌ながらついてくる。 おまえにバイトなんてさせられるわけないだろ。 そんなことしたら、天国の母さんだって心配するに決まっている。 えへへ、お兄ちゃんありがとっ どういたしまして 商店街を出る頃にはあたりはオレンジ色に変わっていた。 結局のところガラス戸だけ買えるなんて都合のいい話はなく、俺と千波の二人分のサイドボードを新しく買い換えることになった。 しかも個人経営店だったからか、都会に比べて思ったよりも値段が高く、早くも財布の中身は空っぽだ。 月曜になったら銀行から下ろしてこないとかな……。 いや、その貯金はなるべく学費にしか使わないと決めたのだ。 バイトを早急に探さなければ。 さっき買った千波愛用サイドボード2号、お店の人がおうちまで運んでくれるって言ってたね ああ。しかも今日中にだってさ 値段は高くても、こんな行き届いたサービスは個人経営店ならではのものだ。 じゃあすぐに帰らなきゃだねっ、夕飯前にはサイドボード組み立てちゃおっと ひとりでできるか? できるよっ、千波はもう子供じゃないからねっ 千波に急かされながら駅舎の前を通って、住宅街へと向かう。 この駅を中心とすると住宅街は南に位置していて、ここから北の方角、線路を越えれば海に出る。 俺と展望台の彼女が通っていた小学校は、海の近くに建っていたのだ。 そして線路沿いを東に進めば運河に出て、さらにその向こうは隣町となる。 雲雀ヶ崎ではなくなるのだ。 だから地理的にこのあたりは市の境に当たるわけだ。 雲雀ヶ崎が古都だとすれば、隣町はまぎれもなく都市だった。 俺の引っ越し先だった都会に肩を並べる大都市なのだ。 とはいえ、都会よりずっと北に位置するこの土地は、市の面積が広いせいか、あわただしい空気も騒音も感じない。 まるで時代をさかのぼったみたいに、雲雀ヶ崎の時間はゆるやかに進んでいる。 俺、ちょっとこのままひとりでぶらついてくるよ 家の門に着いてそう言うと、千波はきょとんとした。 どうしてどうしてっ、お店の人がサイドボード運んでくるのに? 悪いけど俺の代わりに受け取っておいてくれるか。詩乃さんが起きてたら、詩乃さんにも話しておいてくれ これからどこ行くの? どこだっていいだろ 懲りずに展望台なんて言わないよね ………… ……図星っぽいなあ ち、ちち違うぞ? お兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカぁ!!! ぽかぽかたたかれる。 過去は美しいから過去なんだよっ、夢から覚めるには現実を見つめることだよっ、まずは目の前の女の子を見つめることから始めるべきだと千波は思うなっ でも目の前には千波しかいないし それでいいんだよ千波で正解なんだよお兄ちゃん!? それじゃサイドボードよろしくな お兄ちゃんのバカ──────っ!!! ……バカって言うほうがバカなんじゃなかったのか 最近バカバカ言われる比率が高い気がする(俺も千波に言ってるけど)。 けどな、わかってるんだよ、そんなこと。 いくら彼女が展望台の彼女とそっくりだからって、それにすがっている俺は、バカだって。 展望台の彼女に会いたいなら、名前を頼りに調べるとか、もっと現実的な方法だってあるだろうに。 それよりも彼女に会うほうを優先する俺は、大バカだ。 展望台の彼女が怒って俺の前に姿を現さないのも、うなずける。 この夢見坂はなだらかだけど、異様に長い。 元は展望台と並ぶ(寂れた)観光名所のはずが、今ではなぜか展望台が閉鎖されている。 だからこの坂は、もはやヒバリ校の通学路としてしか機能していないんだろう。 ヒバリ校に通う生徒は一様に持久力がつくわけだ。 だから何度も同じ言葉を言わせないで。生徒の屋上の使用は禁止されてるって言ってるじゃない そしてそのヒバリ校の前を通りかかったときだった。 それじゃ天クルの意味がないってこっちだって何度も何度も口すっぱくして言ってるでしょ! ふたりの女子生徒が校門の近くで何事か言い争っていた。 片方は見知らぬ女子だったが、もう片方はさっきまでメイドに扮していた南星明日歩という子だ。 もし俺以外にも通行人がいたら、その人だって俺と同じくこうして立ち止まっていただろう。 それくらいふたりは声を荒げて、一触即発の雰囲気でおたがいをにらみつけていた。 天クルの意味って言われても、たかが同好会じゃない。視聴覚室を使わせてあげてるだけありがたく思ってよ 視聴覚室だけじゃスクリーンに天体図映すくらいしかできないんだよ~! いつまでもにやにや眺めてればいいじゃない それじゃ健全な天体観測とは言えないんだよ~! あなたたち同好会にはそれで充分でしょう ぜんぜん充分じゃないんだよ~! 最近なんかみんな飽きちゃってトランプ三昧になってるんだよ!? これで視聴覚室も取り上げる理由ができたわけね どうしてそこまで天クルを目のカタキにするんだよっ、こももちゃんは! わたしのこと名前で呼ばないで!? 今日は七夕なんだよ! 七月七日は雨の確率が統計で70%以上もあるのに今年はなんと晴れなんだよ!? 蝦夷梅雨なんだから雨でいいのに 織姫と彦星があたしを待ってるんだよ! 天帝に引き裂かれたふたりは今年ようやく〈洒涙雨〉《さいるいう》を枯らすことができたんだよ! ……さいるいう? 洒涙雨というのは、織姫と彦星が流す涙のことですよ。七夕の日の雨をよくそんなふうに呼ぶんです 気がつくと近くにまたひとり女子生徒が立っていた。気配がなくて驚いた。 以前にもお見かけしましたね。彼女さんとは仲直りされましたか? 誤解されたままだ。 今日はなにかヒバリ校にご用ですか、観光客さん? ああ、いや、俺は観光客じゃなくて 本日二度目の自己紹介だ。 来週からこのヒバリ校の二年のクラスに転入する、小河坂洋です。よろしくお願いします 丁寧にあいさつする。 引っ越しも二度目となれば、初対面の相手には第一印象が大切だというのが身に染みてわかっている。 これはご丁寧にありがとうございます。わたしはヒバリ校の二年生、〈姫榊〉《ひさかき》こさめと申します 俺以上に丁寧な自己紹介を返してきた。 今日は、転入手続きに来られたんですか? 向こうではいまだにらみあいが続いていたが、なんだかこっちはほのぼのだ。 手続きのほうはもうすませてあるんですけど、その 敬語じゃなくてもよろしいですよ。わたしたち、同学年じゃないですか じゃあそっちも敬語をやめて欲しいのだが。 以前もこの近くを歩いていましたよね ちょっと展望台に用があって。今日もなんだけど 展望台? やんわりと小首をかしげる。 でもあそこは立ち入り禁止なのに、どんなご用で…… 早く屋上のカギ貸してってば! もう一番星見えちゃってるし、急いで望遠鏡運ばないとなんだよ~! そんなに天体観測したいなら、自分の家の屋根でやればいいじゃない あたしんち喫茶店だからそんなことできないんだよっ、以前やろうとしたら外から見えるし集客に関わるって言ってお父さんがダメ出ししたんだよ~! じゃあ潔く諦めることね 諦めきれないからこんなに頼んでるんじゃないっ、どうしてわかってくれないのこももちゃんは! わたしのこと名前で呼ばないでって言ってるでしょ!? 相変わらず平行線ですね。明日歩さんと姉さんは 姉さん? 言われてみると、あのメイドさんと言い争っている女子生徒は目の前の彼女と顔が似ている。 いや、似ていると言うより合わせ鏡のようにそっくりだ。 七夕だったら天体観測じゃなくて、笹の葉に短冊結んで願い事でもやってたらいいじゃない そんなバレンタインさんを祝わないでチョコだけ贈るような真似するなんて天クルの名折れなんだよ~! たかが同好会にはピッタリね そもそも天クルを部として認めてくれないのもこももちゃんのせいじゃない! 名前で呼ばないでって何度言ったらわかるのっ、それと天体観測愛好サークルを部として認めないのは部員数が少ないからであってわたしのせいじゃないでしょ! そんなことないっ、部員が集まらないのもきっとこももちゃんの差し金なんだ! 自分の非を他人に転嫁するのはやめてくれる!? 絶対こももちゃんのせいなんだ絶対こももちゃんのせいなんだ~! こももちゃんのこももちゃんのこももちゃんのこももちゃんの~! 名前を連呼するの今すぐやめないと部だけじゃなくて同好会もつぶすわよ!? どうもキリがないようですので、わたし、行きますね どうするんだ? 姉さんの怒りを静めてから、明日歩さんをなだめます ぺこりとお辞儀して、俺の前から立ち去った。 激化する一方のふたりの争いをどのように止めるのかは非常に気になったが、俺のほうもいつまでも野次馬しているわけにいかない。 メイドさんの言葉を借りるわけじゃないが、今日はなんといっても七夕なのだ。 彼女と再会の約束を交わした、特別な日なのだから。 この先に続く展望台に立ち入った形跡など、ここ一年はとんと見つからなかったというのに。 そもそもヒバリ校に在籍する『彼女』は展望台を嫌悪することこそあれ、自らその場所に身を置こうなど考えもしないはずだ。 展望台は『彼女』にとって鬼門であり、忘れることが難しい特別な地であり、運命を狂わされた分岐路でもある。 そんな『彼女』が再びこの場に現れるとは考えにくい。 もしも都合よく現れてくれるのなら、自分の仕事は格段に容易くなるのだが。 とすると、これは別人か 少女はフェンスの周囲に散らばる足跡を冷めた瞳で睥睨する。 足跡の大きさからいって二種類、おそらく男女ふたり。 男のほうが数が多いのは、訪れる回数が女よりも多いということだろう。 その足跡は横一面に広がる林へと続いていて、フェンスを迂回して展望台を目指したことを窺わせる。 物好きもいるものだな どこかの観光客が立ち入り禁止を無視して強引に観光したのかもしれないが、複数に渡って同一の男が訪れているのならそのセンは消える。 その男は、なにかしらの目的を持って展望台を目指していることになる。 なにが目的かは知らないが、私の邪魔だけはしないでくれよ ヒバリ校に在籍してはならないのに、今もって在籍している『彼女』。 その『彼女』をあるべき場所に送り還すのが自分の仕事。 それを達成するための、ここは言わばゴールラインだ。 ゴール手前で石につまずくことだけは避けたいからな 男の目的が観光といった取るに足らないものなら問題はない、それなら展望台に訪れる回数もたかが知れている。 少女にとって最も忌むべき事態は、その男の目的がたとえば登校するのと同レベルで、連日に及び展望台を訪れる必要がある場合だ。 だとしたら、少女は男を排除するしかない。 少女の仕事とは要するにそういう類であり、人目につくのはできうる限り避けたいのだった。 どうしたものかな…… なんにしろこの男の情報は点在する足跡以外なにもないので、男に対して出るべき行動はすぐには決められない。 やるべきは男の目的を早急に知ること。 目的を知ったのち、排除か否かを決断することだ。 少女は差し当たってこの足跡を辿って展望台に向かうかどうか悩んでみた。 だがその思考は答えが出る前に遮られた。 坂の向こうから足音が聞こえてきたのだ。 ……これはまた 悩むまでもなく男のほうからやって来たわけだ。 石のほうから現れてくれたわけだ。 その石が足を取られて転ぶほど大きいのか、それとも裸足で踏んでも気にならないほど小さいのか。 ゴールテープを切る前に取り除くべきなのか……。 少女は、つまらなそうにその艶やかな髪を後ろに流した。 展望台までの道を遮るフェンスが見えてくると、その近くに誰かが立っているのに気づいた。 これまでここを訪れて人と出くわしたことなどなかったので、新鮮というよりは驚いた。 ………… 相手のほうはこれといって驚いた様子はなく、ともすれば俺を待っていたようにも見て取れる。 ……彼女は観光客かな。 初めて見る顔だからというわけじゃない。 俺はこの街を一度出ているし、地元民でも知らない顔なんてごまんといる。 そうではなく、ヒバリ校の生徒の話からしても、この展望台が立ち入り禁止になっているのは地元民では知っていて普通のようだったからだ。 展望台に立ち入れないと知っていれば、こんな場所にわざわざおもむく理由はない。 知らないのなら観光客のようなよそ者、ということだ。 俺のように目的があるなら別として……。 この先は立ち入り禁止だ。観光なら、立ち去ることをオススメするが 相手は淡々とそう言った。 外見はどう見ても女なのだが、口調が男に近いせいで中性的な印象を受ける。 いえ、俺は観光客じゃないんで このセリフ、今日だけで何度言っただろう。 先日この街に引っ越してきた小河坂洋です。よろしくお願いします 社交辞令も定番になりつつある。 とすると、やはりこの展望台が立ち入り禁止なのは知らなかったのか これまで出会った人たちと違って、自己紹介をしても相手は名乗ってくれない。 いえ、知ってましたけど じゃあキミはなぜここを訪れている? ちょっと用があって キミがここを訪れるのはこれが初めてじゃないということか はあ。用があるんで なんの用だ? ……なんだこの人は。 なんで職務質問みたいに突っ込んで聞いてくるんだ。 もしかして……このフェンスを建てた関係者ですか? だとしたら非があるのは俺のほうだ。 そういうわけじゃないが 彼女は気だるそうに肩にかかる髪を後ろに流して、 ただ、最近この展望台に勝手に立ち入っている輩がいたようなので、気になったんだ 冷たい視線を俺の顔によこす。 ……どうして俺が勝手に立ち入ってるって知ってるんだ? なにか検分されているみたいでひどく居心地が悪かった。 それで、キミはこの先の展望台にどんな用がある? ……ええと、フェンスを建てた関係者じゃないなら、俺がどうしようとそっちには関係ないですよね? この街の住民としていちおう注意はできると思うが この人は観光客ではない、地元民なのだ。 立ち入るなって注意してるんですか? まあ、そうだ すいませんけど見逃してください できれば今すぐ立ち去って欲しいんだがな それはちょっと難しいんで どうしても行くのか? はい 大事な用なのか? はい どんな用なんだ? ……それはちょっと 言えないのか? やましい事情があるわけじゃないが、初対面の人に言うのははばかられる。 言えないというのは、やましい事情があるということか それは違いますけど なら答えてくれ 注意を受けるのは仕方ないですけど、目的まで俺が答える必要はないですよね 残念だがそうなるな じゃあ俺、急ぐんで これ以上は相手にしないで林に向かう。 ……やましい事情なんかないのに、あるような気がしてきたじゃないか。 もうひとつだけ聞かせてくれ 彼女はこれまでと同様、淡々と口にする。 キミは、これからもこの展望台を訪れるのか? ……はい。たぶん おそらく、きっと。 少なくとも、展望台の彼女と再会できるまでは。 そうか 短く言い捨て、立ち去った。 よけいな時間を食ったことが焦りを呼び、俺は早足で展望台に向かった。 だけどそこは無人だった。 死神ルックのメアという少女は見当たらなかった。 俺は脱力して手近な草むらに腰を落とす。 どうもメアとは夜にしか会えない。夕方に訪れてもハズレを引いてばかりいる。 たしかメアは、星が見える夜にはここにいると言っていた。 じゃあ晴れた夜にしか展望台に来ないのか。 まだ子供だっていうのに夜遊びが盛んとは、親御さんも気が気じゃないだろうに。 一望できる街並みの頭上には、迷子になったみたいにひとつだけ光っている星が見える。 夏の一番星。 木星だ。 金星なんかもよく宵の明星として一番星に挙げられるが、あの星は中天高く輝いているので木星だろう。 木星よりももっと低い位置の西の空に輝くのが金星なのだ。 俺がこんなふうに、それなりに星に詳しくなったのは、展望台の彼女の影響だった。 昔にこの街に住んでいた頃は理科の授業で習った程度でしかなかったのに。 彼女と別れたあとは、その寂しさをまぎらわすためか、俺は天文図鑑とにらめっこすることが多くなった。 星座を覚え、それにまつわる神話もよく読んだ。 特に何度も読み返したのが七夕伝説だった。 昔の俺はたぶん、自分らふたりの境遇を織姫と彦星に照らしあわせていたのだと思う。 織姫と彦星がおでこにキスを交わしたなんてのはどの本にも載っていなかったし、そもそも彼女は織姫と違って機織りなんてしたこともないだろう。 だけどそんなことは些細であり、ただ俺はいつか訪れる再会を願って七夕の夜には空を見上げていた。 七月七日はまだ梅雨の時期であり雨模様が多く、たとえ晴れても都会の夜空はネオンの光やスモッグのせいで織姫と彦星はぼやけていた。 だから、満足に七夕の星空を見上げられなかったからこそ、彼女に会いたい気持ちは募っていくばかりだったように思う。 時が経つにつれ彼女との想い出は曇りガラスに徐々に遮られていき、それは七夕でいうところの天の川だったのだけれど。 今のように、こうして彼女との再会を願う気持ちだけは曇らなかったのは、ひとえに七夕の日のおかげ。 雲雀ヶ崎で見上げた降るような星空が恋しかったから、俺は彼女のことだけは忘れなかった。 忘れることなどできなかった。 ほら、こんなふうに──── 遠くに見える水平線へと太陽が沈み、街を飲み込んでいたオレンジ光がようやく消えると、次に現れるのは待望していたその景色。 きっとすべて合わせれば太陽に負けないくらいの光になる、星たちの競演だ。 都会の星空なんて比べ物にならない。どんな天文図鑑にだって引けを取らない。 もう、星のほうが黒い部分よりも面積が広くて。 本当に、星の中におぼれてしまいそうになる。 これが、七夕の星空なのね いつからいたんだろう、メアの姿が近くにある。 そろそろ見慣れてきた手持ちのカマは、多すぎる星の光を反射しきれずパンクしているように見えた。 なんだか、星が多すぎて怖い そうだな。ずっと見てると俺も怖いよ キレイなものも多すぎるとグロテスクになるのね それはちょっとうれしくない表現だな 織姫と彦星って、どれかわかる? 雲みたいに見える光の帯があるだろ、あれが天の川で、その上下に明るく光ってるのが織姫と彦星 上にあるのが? 織姫 下が彦星? そう よくできました ……メアも知ってるんじゃないか。 じゃあ彦星は…… メアはささやくように。 彦星は、織姫のお尻に敷かれてるのかな じゃあ、約束ね あたしたちは必ず再会すること! この展望台で必ず再会すること! 織姫と彦星みたいに離れ離れになっても、最後にはちゃんとふたりは再会すること! そして、再会したらケッコンすること! ケッコンして、あたしのお尻に敷かれること! どうしたの、間抜けな顔して ……いや 本当に、この子はわざとやっているんじゃないかと勘ぐるくらい俺の想い出を刺激する。 俺が自意識過剰なだけかもしれないけど。 キミはじゃあ、七夕伝説も知ってるのか? メアは答えなかった。 知らないなら、教えてやろうか? べつにいい そんなこと言わずに聞いてくれ ……あなたが話したいだけじゃない その昔、天の川のほとりには、天帝の娘で織姫と呼ばれる美しい天女が住んでいたんだ 織姫は天帝の言いつけをよく守り、毎日毎日機織りに精を出し、光り輝く見事な織物を織り続けた 天帝は織姫の働きぶりに感心していたが、年頃の娘なのに恋をする暇もない娘を不憫に思い、ある日牽牛という牛飼いの青年と結婚させることにした そうして織姫と牽牛のふたりは生活を共にし、仲睦まじく暮らした めでたしめでたし 勝手に締められる。 いや、まだ続きがあるんだけど 彦星がまだ出てきてないものね 牽牛っていうのが彦星のことだよ そうなんだ ああ メアは伝説の内容を知っているのか知らないのか、曖昧に答えていた。 とにかく織姫と牽牛は結婚し、幸せに暮らしていた だけど織姫は牽牛との新婚生活に夢中になり、天職だったはずの機織りをすっかりやめてしまったんだ だから初めは新婚だからと大目に見ていた天帝も、次第に腹を立てるようになり、最後には牽牛のもとから織姫を連れ戻してしまった 天帝は織姫をもう一度天の川のほとりに住まわせ、機織りを命じたんだ これから心を入れ替えて仕事をするなら、年に一度だけ、七月七日の夜には牽牛に会うことを許してやろうと言って…… めでたしめでたし ……ここで終わったらめでたくないだろ 年に一度会えるならいいじゃない わたしなんて、何年も待ち続けていたのに 誰を? あなたを どうして? 知らない 俺は首をすくめる。 続き、聞くか? ……うん 牽牛と離れ離れとなった織姫は、年に一度の牽牛との再会を励みに機織りを続けるようになった 牽牛もまた織姫との再会の約束を胸に仕事に励み、ふたりは七月七日を待ち焦がれた だが七月七日に雨が降ると天の川の水かさが増して、織姫は牽牛のいる向こう岸に渡ることができなくなってしまう ふたりは天の川を隔てて佇み、再会を果たせないことに心を痛め、川面を眺めて涙を流すしかなくて──── 引っ越しで離れ離れとなり、俺は彼女との再会の約束を胸に、たしかに仕事に励んでいた。 俺は星に詳しくなった。 そりゃあ天文学者に比べれば大人と子供以上の差はあるだろうが、今みたいに七夕伝説をそらんじることくらいは簡単にできるようになった。 これだったら星が大好きだった彼女にも七夕伝説を語ることができる。 それだけじゃない、ほかの星座の神話だって有名なものだったらロマンチックに語ることができる。 彼女に教えることができる。 俺に友達と遊ぶ楽しさを教えてくれたお礼に、俺は彼女に星を教える。 俺はもっと、別れてしまう前に、彼女に星を教えたかった。 雨が降ったら、織姫は彦星に会えないのね ……いや 俺は無理やりにでも明るい声を作る。 雨が降って天の川の水かさが増すと、悲しむふたりを見かねたかささぎが飛んでくるんだ かささぎ? スズメ目カラス科の鳥 小さそうな鳥ね そう。だからかささぎは群れをなして飛んでくる そして一羽一羽が翼を広げてつながり、架け橋となって、織姫を牽牛のもとへ渡す助けになってくれるんだ めでたしめでたし? そう。めでたしめでたし ふうと息をつく。 おもしろかったか? 普通だった キミは、星が好きなのか? どうして 晴れた夜に展望台にいるからさ ………… それとも、俺を待っているから、展望台に来るのか? メアは口を開かず、ただ俺に眼差しを向けていた。 その眼差しにはなにかしらの思いが込められていたのかもしれないが、俺には見当もつかなかった。 星降る空に、雲は今のところどこにも見当たらない。 七夕の星をさえぎるものは、なにもない。 ……あなたにとってのかささぎが 織姫と彦星は、俺たちの頭上で再会を果たしている。 いつか、現れますように メアはゆっくりと俺に近づいて。 ちょっと目、つむって ……なんで なんでも ……なんか怖いな 怖くないから あやしいな 早くしてったら。お姉さんの言うことが聞けないの? この言葉で、俺が従わないわけがない。 俺が目を閉じても、なかなかそれは起こらなかった。 まだ……目、開けないでね その言葉がいやに近くから聞こえてきて、相手は子供だというのにどぎまぎする。 開けたら、絶交だからね…… なぜだろう。 ひとかけらのピースすら外れずに想い出と重なる。 それはただの幻想であるはずなのに、幻想であるわけがないともうひとりの俺が言っている。 それは過去の俺だった。 俺が自分のことを僕と呼んでいた小河坂洋だった。 成長した俺はメアと展望台の彼女は別人だと思っているのに、想い出の中の僕はメアと展望台の彼女をダブらせているようだ。 それは想い出の中の僕もまたメアと同じで、あの頃の姿をしているからかもしれない。 僕は彼女のことが好きだった。 恋かどうかは知らない、だけどあの頃の自分はたしかに彼女が好きだった。 だったらなぜその気持ちを、せめて引っ越す間際くらいには言葉にしてあげられなかったのだろう。 もしも過去の再現で、彼女からおでこにキスをされたなら、僕はこの言葉を語るかもしれない。 彼女が60を数えるまで目を開けちゃダメだと言っても、僕は目を開けて彼女に告白するかもしれない。 僕はキミが好きだから、離れたくないと。 僕は、キミに感謝しているから。 友達を作ろうとしなかった僕の、キミが初めての友達だったから──── ───ありがとう、洋くん そこに、ちょこんとなにかが触れた。 だけどその感触はおでこではなく胸だった。 なにか、それは、ありえない感触だった。 たとえばおでこに誰かの唇が当てられた感触をそっくりそのまま胸に当てはめることってできるだろうか。 できるわけがない。 なぜなら俺は服を着ている、それを突き抜けて直接肌にそんなぬくもりを感じるってどういうことだ。 俺は目を開ける。 彼女は想い出と違って60を数えろなどとは言わなかったので、そんな罪悪感も感じずに目を開ける。 まるで水あめの中に棒をうずめるように。 メアの手にある大きなカマが、俺の胸に沈んでいた。 できれば、あなたが悪夢を思い出している間には、したくなかったけど…… そもそも罪悪感なんてものを感じる余裕もないくらい、それは純粋な驚愕。 でも、そんなことも言ってられなかったから…… この驚愕が数字で数えられるのなら、夜空に広がる星の数より多かったに違いない。 あなたの悪夢はふくらむ一方だったから ず、と切っ先が深く沈む。 あれだけあった驚愕がすべて恐怖にすげ替わる。 眼下にある光景はどう見ても非現実的なのに妙な生々しさがあって俺は叫び出したくなる。 だけど声は出ない、この視覚情報が自律神経を狂わせて舌と喉を麻痺させる。 痛みを感じないのも、そのせいなのか。 この生々しい感触が痛覚ではなくあたたかい光のように感じるのは俺が狂ったせいなのか。 これで、あなたの悪夢は、ひとつ刈られた このあたたかい光のような感触が、想い出の中のファーストキスに酷似しているなんて思うのは。 展望台の彼女とおでこにキスを交わしたように感じてしまうのは。 ***に、キスを……。 え──── おかしな感覚だった。 俺の中に、得体の知れない不安がそのとき生じた。 初めて入ったデパートで迷子になり、外に出たらそこはいつの間にかに知らない街に変わっていて、途方に暮れてしまうような。 そんな、知っていたはずの地理を突然奪い取られた感覚。 なんだ? 今、俺の身になにが起こった? 俺は今、なにを思い出そうとした? 頭の中でなにかをつかもうとするが、そもそもなにをつかめばいいのかがわからない。 もう、何度も言ったじゃない…… メアの頬に、ゆっくりと涙が伝い。 わたしは、悪夢を刈る死神だって…… その涙は夜空のどんな星よりも綺麗だと感じたとき、俺の中でつかみ取ろうとしていたなにかが消えた。 そのために、わたしはあなたを待っていたって…… 完全に、掻き消えた。 それは大切なものだったはずなのに。 この***は大切なものだったはずなのに。 これでは俺はいつまでたっても***と出会えない。 ***は怒ったままで俺に会いにきてくれない。 大切な***を失ったから、だから俺は、***との再会を果たせずに……。 あ、あれ……? なんだ、これ……。 うっ……く…… 俺は***が好きだった。 ***は俺の初めての友達だ。 だから俺は***と離れても***を忘れなくて***のために***が大好きな星に詳しくなって***と再会したら***に語って聞かせて***と一緒に……。 やめて……もう思い出さないで…… なんだよ、これは。 どうして、こんな……。 辛いのは、やだよ…… 理解した。 俺は忘れた。 俺は***の名前を忘れてしまった。 突然、ついさっきまでは確実に覚えていたはずなのに。 その情報だけがぽっかりと空いた穴のように俺の記憶から消え失せていた。 なんなんだよこれは……! これじゃあ会えない。 彼女に会えない。 一番の手がかりだった***の名前を忘れてしまってはもう会えない。 た、頼むよ…… やめてくれよ……。 俺は彼女と再会するって約束した。 その約束を果たすために俺は彼女を忘れなかった。 ずっと、忘れないよう大切に守ってきたのに。 おまえ、なのか……? この不可思議な結果の原因など眼下に広がる不可思議な光景が雄弁に物語っている。 返せよ…… 曇りガラスの向こうに隠れないよう、いつでもいかなるときでさえ、それが天職であるかのように拭ってきた大切な想い出だったのに。 なのに、こいつがそれを犯した。 返してくれよ……! こいつが鮮やかだった***を曇らせた。 あいつの名前、俺に返せよ……! いや…… 涙でくしゃくしゃになりながら、嗚咽の合間に言葉を綴る。 だってわたしは死神だもの…… 悪夢を刈り取る死神だもの…… あいつの名前が悪夢だって言うのかよ……! そうよ…… あなたが忘れたんだったら、そうよ…… その止め処ない涙は引き裂かれたふたりが流す洒涙雨のようでもあり。 よかったね…… 泣きべその表情で、それでも強気な言葉を吐いていた。 これで、悪夢に悩まされずにすむんだものね…… 満天に広がる七夕の星。 多すぎて怖いくらいの光に囲まれながら、織姫と彦星は天の川に隔たれたまま。 本当に、よかったね…… 洋くん…… 天のふたりは、雲に消えた。 千波、まだか! さっさと降りてこい! 俺は玄関から二階に向かって声を荒げていた。 なにやってんだっ、このままだと初日から遅刻になるぞ! だってだってっ、この制服着るの初めてだからリボンとかボタンとかうまく留められないんだもん! 千波は支度に手間取っているようで、いまだ部屋にこもったままだ。 俺は糊のきいた制服に違和感と一緒に感慨も抱きながら、千波の登場を今か今かと待っている。 俺たちは今日から晴れてヒバリ校の生徒になる。 そのためホームルームが始まる前に教務室に寄って担任の先生にあいさつしなければならず、できれば早めに家を出たかったのだが。 ケータイの時計を見ると、あと十分で予鈴が鳴る。 展望台に向かうのに何度か夢見坂を登った感じからすると、時間的に今すぐ家を出てぎりぎり間に合うかどうかといったところだろう。 ヒバリ校での授業初日だというのに、新しい門出に浸っている余裕もない。 お待たせお兄ちゃんっ、制服も着終わったし髪もセットしたし準備万端いざヒバリ校へレッツゴー! その前に名札はちゃんとつけたか? 千波は幼稚園児じゃないよ!? ハンカチはちゃんと持ったか? それだったらスクバに入ってるよっ そのスクールバッグが見当たらないけど そんなわけないよっ、千波の右手がしっかりくっきり力いっぱい千波愛用スクバをつかんでるよっ おまえが今掲げてるのはコブタの貯金箱だ なんてこと!? さっさとバッグ取ってこいっ これはまさか餌を与えなかったコブタの呪いが…… おまえが間違って持ってきただけだろっ、もう置いていくからな! そんなのやだやだっ、すぐ戻ってくるから絶対待っててねお兄ちゃん! 階段を駆け登っていく千波の背中を見ながら、俺はため息をつくしかなかった。 都会の学校に通っていたときも、千波はいつも遅刻ぎりぎりに家を出ていた。 そしてそんな千波を俺が待っている確率は、五分五分だった。 以前と違ってバスを使わなくても通えるほど学校が近くなったというのに、状況はまったく変わっていなかった。 痺れを切らして玄関を出ると、ちょうど目の前を通り過ぎようとする女子生徒と出くわした。 あ…… 目が合うと、彼女は立ち止まった。 その顔には覚えがある。お隣さんにあいさつに行ったときに応対してくれた子だ。 制服を見るに、ヒバリ校の生徒だったようだ。 おはようございます 無難に敬語であいさつする。 ヒバリ校は制服が二種類あり、彼女の制服はおそらく一年生のものなので、年下だとは思うのだが。 それに、見た目的にも年上ということはなさそうだ。 ………… 彼女は目礼だけすると、夢見坂のほうへ歩き去ろうとする。 あ、ちょっと ……? 呼び止めると、彼女は小首をかしげて俺を見た。 これから学校ですよね? よかったら一緒に登校しませんか? お隣さんとは早めに仲良くなっておきたかった。 都会とは違って慌しさのない雲雀ヶ崎の雰囲気が影響していたのかもしれない。心に余裕ができるというか。 ともあれ、ご近所付きあいは大切だ。 俺、今日からヒバリ校に通うんです。なんで、よかったらヒバリ校のこといろいろ教えてもらえると…… ああっ、お兄ちゃんがお隣さんと親睦深めてるっ、この前メイドさん食べたばかりなのにまた食べようとしてるっ、そんなに我慢できないなら千波もデザートにっ あなたはどちらさまですか? 他人のフリされてる!? ……いつかの変な人 千波は変な人じゃないよっ、以前のあれはこの人の陰謀であって千波は悪くないんだよっ、だから仲良くしてね蒼ちゃんっ いきなりちゃん付けはやめろって。すいません、こいつ礼儀知らずなもんで ……いつかの変な人の変な保護者 俺まで千波と同類になってる!? 千波の第一印象と引き換えに、俺の第一印象はカンペキだったはずなのに……。 お隣さんはひとりで坂を登っていった。 おまえのせいでお隣さんに変な人扱いされただろっ 自業自得でしょ! 家のカギは閉めたか? ばっちりだよっ 詩乃さん寝てるし、戸締りには気をつけないとな うんっ それじゃ、行くか その前に見て見てお兄ちゃんっ、千波のおニューの制服だよっ、かわいいでしょ美しいでしょお兄ちゃんが望むならこの姿でお料理だってお掃除だってっ 待ってくださいお隣さーん 逃げないでよお兄ちゃんのバカ──────っ!!! 走って坂を登っていく。 遅刻ぎりぎりのせいか、登校途中の生徒の姿はほとんど見られない。 だからお隣さんの背中は簡単に見つかった。 急がなきゃならない時間のわりに、お隣さんの歩調は遅かった。 おかげであっという間に追いついた。 お隣さん 隣に並ぶと、お隣さんは緩慢にこっちを向いた。 ……また出た お化けが出たみたいに言われる。 よかったら一緒に登校しませんか? なるべくにこやかに誘ってみる。 相手は無表情。肯定も否定もしない。 そのまま一秒経過、二秒経過。 気まずい空気が俺たちの間に流れ始める。 ……なんというか、いきなり出足につまずいたというか。 以前の悪徳キャッチのこと、まだ怒っているのかもしれない。 追いついたーっと 千波が後ろからひょこっと現れる。 ……また出た ねえねえ蒼ちゃんって何年生? 下の名前はなんていうの? このときばかりは気まずい空気を吹き飛ばす千波の傍若無人ぶりがありがたかった。 俺は小河坂洋、ヒバリ校の二年です。こっちは妹の千波で、一年です 相手が答えやすいように、先に名乗っておく。 ……一年。蒼〈衣鈴〉《いすず》 無感情に短く答えた。 それじゃ、千波と同じ学年か 思ったとおり一年生だった。 蒼さん、ゆっくり歩いてるけど急がなくて大丈夫か? もうそろそろ予鈴鳴ると思うけど ……なんか馴れ馴れしくなった あ、気に障ったなら謝るけど 蒼さんは無表情のまま無言になる。 や、やりにくいなあ。 蒼ちゃんって一年の何組なの? ………… 蒼ちゃんと同じクラスになれるといいなっ ………… 部活はなに入ってるの? ………… 蒼ちゃんと同じ部活に入りたいなっ ………… でもでも千波は文科系よりも運動系が得意だから蒼ちゃんが文科系の部活だったら残念だけど離れ離れになっちゃうかなっ、それでも遊びに顔出すからねっ ことごとく無視する蒼さんの態度もなんのその、千波は持ち前のマシンガントークで話しかけまくる。 都会の学校で友達百人作った実績は伊達じゃない。 あの、もしかしてこの前の引っ越しのあいさつのこと、怒ってる? ……そんなことないです やっと答えてくれた。 ほんと、ごめんな。また今度スフレ持っていくよ ……お構いなく それにしても蒼ちゃんって純真純情少女だねっ、新聞の集金だって言ったらあっさりひっかかっちゃうしっ 黙れ下郎 げ、げろう? ……失礼 よ、よくわからない子だなあ。 あははっ、蒼ちゃんっておもしろーい そして千波は相変わらずめげない性格だ。 そんなこんなでヒバリ校の校門前までやって来る。 時計を見ると、予鈴までもう三分もない。 ………… それでもマイペースに校門をくぐっていく蒼さんだ。 それじゃ俺たち、教務室寄らなきゃいけないんで。千波、急ぐぞ 蒼ちゃん、また今度お話ししようねー! 蒼さんは無言で校舎に入っていった。 えへへっ、初日なのにもう友達ができちゃったよっ 蒼さんとはほとんど会話できなかったが、千波は満足だったようだ。 蒼さんと一緒のクラスになれるといいな うん! 雲雀ヶ崎に引っ越してすぐ転入手続きをすませた際、校舎には一度足を踏み入れている。 だからどこがどの昇降口かは覚えているが、俺たちの下駄箱はまだ用意されていなかった。 俺たちはチャイムが鳴らないことを祈りながら、来客用の昇降口を目指して駆けていった。 教務室は校舎の一階に構えている。 俺と千波は学年が違うため、あいさつする担任の先生も違う。よってここで別れることになる。 簡単なあいさつをすませるとすでに予鈴は鳴り終えていて、俺は担任の先生に連れられて教務室を出て、三階に登りついた。 しばらく廊下を歩くと教師は立ち止まった。 プレートには2‐Aとある。 俺が転入したクラスである。 教師はここで待っていなさいと一言残して、教室に入っていった。 これから始まる朝のホームルームで、転入生の俺のことをみんなに紹介するんだろう。 そこで俺は自己紹介をしなければならない。 どくん、どくん。 以前の引っ越しと重なる光景。 まったく同じ緊張感。 果たして俺はクラスに馴染めるのか、クラスメイトに受け入れてもらえるのかという、いたたまれない不安。 ……はあ。 二度目とはいえ、慣れそうにない。 慣れるやつなんかきっといない。 ……千波はしっかりやってるかな。 あいつのことだから自己紹介で空回っていそうだが、持ち前の元気と明るさを武器にして、すぐにクラスの輪に解け込むだろう。 俺は、どうだろうか。 千波のようにクラスに解け込めるだろうか。 以前のように最初は苦労して、次第に解け込むようになるんだろうか……。 ……あー、なんか思考が暗いな こんなことでは笑われる。 展望台の彼女に笑われる。 彼女は俺に友達と遊ぶ楽しさを教えてくれた。 その楽しさを知った今の俺なら、クラスメイトの遊びの誘いを無視する子供の頃の「僕」にはならない。 都会の学校に転入したときだって、最初は苦労しても、最後にはたくさんの仲間を作ることができたのだから。 ……まあ、千波の百人には負けるけどな。 あら 顔を上げると、ちょうど廊下を歩いている女子生徒と目が合った。 どこかで見た顔……というか、もうホームルームは始まっているのに、なんでこんなところにいるんだろう。 そこの生徒、もうホームルームが始まってるのになんで教室の外に出てるのよ 俺と同じことを考えている。 早く教室に戻りなさい そうしたいのはやまやまだけど……。というか、そっちこそ外に出てるじゃないか 生徒会のミーティングが長引いただけだから。とにかく早く教室に戻りなさい 俺、今日転入してきたばかりなんだよ この説明だけでわかってくれると助かるのだが。 ああ、そういうこと わかってくれたようだ。 あなたが小河坂洋くんなんだ ……名前までわかられるとは思わなかった。 早くヒバリ校に馴染みなさいね。そうしたら、また会いにくるから ……どういうことだ。 相手は俺の前から立ち去った。このクラスの生徒じゃないようだ。 首をひねっていると、教室から俺を呼ぶ教師の声が聞こえた。 それじゃあ、いっちょ気合入れて行ってくるか。 もう名前も忘れてしまったあの子に笑われないために。 ドアを開くと、思ったよりも音が響く。 教室の中がしんと静まっているためだ。 張りつめた空気。身の周りの温度が下がった気がした。 俺は教壇に立つ教師の隣に並ぶ。 それから視線を正面に押し向ける。 クラスメイトと対面する。 数十本の好奇の視線が押し寄せていた。 どれもこれもが知らない顔……当たり前だが。 さすがに圧倒される。思わずしりぞきそうになる。 隣の席同士でささやきあう生徒もちらほら見かける。 七月という時期外れの転入だ、なにかわけありかと勘ぐられてもおかしくない。 ……べつにそんなおもしろおかしい理由なんてないのにな。 わかっている。相手は悪意があって俺にそんな目を向けているわけじゃない。 ただ、わかってはいても、簡単には耐えられるものじゃない。 教師が何事か軽く話すと、次に黒板に俺の名前を書いて自己紹介を促してきた。 ……ああ、そうだった。 俺は自己紹介をしなきゃいけない。教室に入る前まで覚えていたのに、頭からすっかり抜け落ちていた。 ……さっき妙な女子生徒に話しかけられたせいか。 さて、それじゃあ俺は、これからいったいどんな自己紹介をしようか? ……なにも考えていなかった。 用意周到が信条の俺らしくもない。 まあそれどころじゃなかったからな……あのメアって子のせいで。 展望台での一件から、心が落ち着きを取り戻すのに結構な時間を要したのだ。 落ち着いたというのは展望台の彼女の名前を諦めた意味ではなく、必ず思い出してやるという決意の表れだ。 ……と、今はそれよりも自己紹介だ。 内容をなにも考えていなくても、俺はこれが初めての自己紹介というわけじゃない。だから焦る必要はない。 これまで雲雀ヶ崎に出会った人たちに、俺はつつがなく自分を紹介していたのだ。 それでなくとも、俺はこれが初めての転入ではない。 昔はどんな自己紹介をしたのだったか。 愛想良くは話せなかった記憶がある。 自己紹介なのだからなにかしらを話しただろうに、内容はいまいち思い出せなかった。 そもそも内容なんてなかったのかもしれない。 ただ逃げ出したいという気持ちばかりが強くて、俺はなにも話さなかったのかもしれない。 この時間が早く過ぎるのをひたすらに待っていただけかもしれない。 だけど、今の俺は違う。 俺は成長した。 成長したのはなにも身長だけじゃない。 心も身体も成長を果たした俺は、大勢の前で堂々と自己紹介だってできるはず。 ……しかし、やっぱり内容を考えてこなかったのは痛い。 何度も言うが初対面相手に第一印象は重要だ、ならば親しみやすさをアピールしてウケでも狙うのが一番か。 でも外したらどうしよう。 寒いギャグを連発して痛いやつというレッテルを貼られたら、それを剥がすことは並大抵の努力では叶わない。 俺は千波のような厚顔無恥じゃない。そんなことになったら俺は登校拒否を選択する。 だったらそんなリスクは負わず、無難によろしくお願いしますとだけあいさつするのが妥当だろうか。 それはそれで、つまらないやつというレッテルを貼られるような気も……。 いつまでも無言の俺に、クラスメイトがざわめき出した。 ……うあ、やばい。 ごちゃごちゃ考える前に場つなぎでなんでもいいから話しておくんだった。 これじゃあ考えすぎの頭でっかちというレッテルを貼られてしまう。 またかよ! ああ、俺って本当はなにも成長してなかったんだなあ……。 小河坂くーん、がんばれ~! ざわついた教室で、ひときわよく通る声が耳を打った。 みんなも静かにしようよ~! 小河坂くん困ってるし、ちゃんと自己紹介聞いてあげようよ~! どれもこれもが知らない顔、ではなかった。 席から立ち上がって声を張り上げる女子生徒は、いつか出会ったメイドさんだった。 クラス委員の明日歩さんがこう言っているんですから、皆さんも落ち着いて小河坂さんの言葉を待ちましょう そしてその前の席には、ヒバリ校の校門で見かけた姫榊こさめという女子生徒も座っていた。 ふたりとも俺にほほえみかけていた。 それは、異分子の俺を受け入れてくれるという証だった。 そう思った瞬間、俺の頭に彼女らと交わした自己紹介が浮かび上がった。 今日からこのクラスで一緒に勉強することになりました、小河坂洋です まだ引っ越してきたばかりなんで、いろいろ教えてもらえると助かります。よろしくお願いします その自己紹介は結局のところ無難に落ち着いているわけだけど。 その後に沸いた拍手で、俺の心は軽くなった。 俺の席は窓際だった。 チャイムと同時にホームルームが終わると、一時間目の授業が始まるまで十分の休み時間がある。 新品の教科書をバッグから出していると、隣の席の女子生徒が早速話しかけてきた。 びっくりしたよ、小河坂くん 隣の席の女子生徒は、かのメイドさんである南星明日歩なのだった。 転入するって聞いてたけど、あたしのクラスに来るんだもん 俺も驚いたよ 世間って狭いんだね そのおかげで助かったよ なにが? いや、こっちの話 また今度、あたしの店に食べに来てね 今は金欠だから、すぐはちょっと難しいかな サイドボードを買って財布の中身は空っぽなのだ。 金欠だったらうちの店でバイトすればいいよ さすがにメイド喫茶でバイトは辛いな あはは、べつにメイド喫茶ってわけじゃないんだよ。あれはマスターの趣味でそうなってるだけだから 趣味って……よくそんな店でバイトしてるな そのマスター、危ない人なんじゃなかろうか。 バイトじゃなくてお手伝いね。その店、あたしの家なんだ。My自宅 その英語、意味かぶってるぞ。 で、あたしのお父さんがそのマスターなの 危ないマスターは父親らしい。 ……ますます危ないというか、娘にメイド服を着せてる父親ってどうなんだ。 あ、そうそう。それで気になってたんだけど、うちの店に来たときに小学校の話したよね? ああ、そういえば 俺も気になっていたのだ。 彼女はずいっと身を乗り出して、真剣な顔をして俺をまじまじと見つめた。 な、なんだ? 小河坂くんってさ、もしかして…… それはとんでもない至近距離。 息遣いまで感じられる、ありえない距離。 俺は慌てて身を反らして距離を離す。 ……彼女、近眼か? あの……南星さん? 明日歩でいいよ にこっと笑ってそう言った。 じゃあ……明日歩さん もう。呼び捨てでいいってば。あたしたち、クラスメイトでしょ? 俺は照れ隠しで首の後ろをかく。 じゃあ、明日歩 うん、洋ちゃん 名前でちゃん付け!? そ、それはちょっとどうかなと じゃあ洋くん? そっちも呼び捨てでいいよ それはさすがに恥ずかしいよ ……ちゃん付けのほうが恥ずかしいと思うけどな でも昔は洋ちゃんって呼んでたよね? 明日歩はもう一度、ぐいっと俺に近づいた。 俺はえび反りになりながら彼女の言葉を反芻した。 昔? 昔って、いつだ? 洋ちゃんって、あの洋ちゃんだよね? ……どの洋ちゃん? あたしもあとで思い出したんだけど、あたしたちって小学校一緒だったよね? クラスもずっと一緒だったじゃない。ね、頭でっかちの洋ちゃん? ………… こうしないと相手が見えないとでも言うように、至近距離で俺を見つめる南星明日歩という名の女子生徒。 そんな女の子が、たしかに過去の記憶に引っかかる。 当時の俺は彼女が言ったとおり頭でっかちで、本人はそんなつもりじゃなかったのだが、どこか周囲を見下した雰囲気があったのだと思う。 俺は誰からの遊びの誘いも乗ったことはなかったし、俺のほうから誘うなんてのは思いつきもしなかった。 だから俺には友達がいなかった。 俺が作らなかったのだ。 俺はそのことを気にしたことはなかったし、周囲だってそんな俺を放っておくのが常だった。 なのにいつもひとりでいた俺を心配からか怖いもの見たさからか、みんなの輪の中にやたらと入れたがる女の子がいた。 その子はそう、クラスの委員長をやっていて……。 あたしのこと覚えてない? あの頃もクラス委員やってたんだけどな その子はクラスをまとめていたしっかり者、というよりはムードメーカー的な女の子だった。 都会の学校ではツンデレ委員長がいたが、それとはタイプがちょうど真逆だろう。 南星明日歩はクラス委員としてなのか元来の性格からなのか、男子女子を分け隔てなくちゃん付けで呼んでいた。 頭ごなしに注意してクラスをまとめる委員長ではなく、あくまで友達のノリでみんなを自然と仲間の輪に組み込む委員長なのだった。 どう、思い出した? 思い出すもなにも、明日歩は目立ってたし忘れるわけないって あはは、ほんとかなあ。喫茶店で会ったときは他人行儀だったくせに 俺は雲雀ヶ崎出身だ。小学校時代の級友に出会うのはめずらしくもなんともない。 だけど相手も自分もすっかり忘れているものだと思っていたので、改めてこんな出会いがあるとくすぐったい。 そしてどこかうれしかった。 都会に引っ越したって聞いて驚いたんだよ。急な話だったからさ まあ、俺だって驚いたくらいだから 洋ちゃん、頭よかったよね。前と同じでこの学校でも学年トップを維持したりするのかな いや、都会ではそうでもなかったし やっぱり向こうの学校ってレベル高いの? いや、俺が勉強サボってただけ 洋ちゃん、昔もそんなふうに自分はさも努力してないって感じだったのに、いつもトップだったからなあ ほんとだって。もう頭でっかちはやめたんだよ じゃあ転入のとき、試験とかなかった? あったよ 結果どうだった? 点数は聞いてないから知らないけど ウソっぽいなあ ほんとだって さっきから楽しそうに話してるけど、おまえらって知りあいなのか? 俺の前の席に座っていた男子生徒が、興味津々で俺たちふたりを交互に見ていた。 洋ちゃんとはね、小学校が同じだったんだ あれ、小河坂って都会から引っ越してきたんだろ? 俺、もともとこの街出身なんだ。一度引っ越して出たんだけど、また戻ってきたんだよ ああ、なるほど 〈飛鳥〉《あすか》くんはあたしと小学校違うから、洋ちゃんとは初めてだよね 飛鳥〈未来〉《みらい》だ。まあよろしく頼むわ よろしく 変わった名だと思ったが、口にするのは失礼なので言わないでおく。 にしてもずいぶん中途半端な時期に転入してくるんだな。もう一ヶ月もしないで夏休みだってのに なんかワケありか? 相手は俺と違ってずけずけと口にした。 飛鳥さん、詮索は悪趣味だと思いますよ。それでも詮索したいのなら、もっと仲を深めてからにするべきかと と、今度は明日歩の前の席に座っていた女子生徒が参加してきた。 彼女の名前はもう知っている。 またお会いしましたね、転入生さん。今後ともよしなにお願いしますね こっちこそよろしく なんだよ、そっちももう知りあいなのか 少しばかりご縁があったんです あのときのケンカはどうなったのか、そのうち聞いてみることにしよう。 それにしても、姫榊さんともクラスメイトとは思わなかったな わたしは明日歩さんと同級生ですからね。ですのでわたしも明日歩さんと同じで、名前で呼んで構いませんよ 了解、こさめさん 呼び捨てにはしてくれないんですか? ……ええと 冗談です。わたしは飛鳥さんと同じで、小河坂さんと小学校が同じだったわけじゃありませんから あたしだけの特権だねっ おまえと同じ学校通ってたやつならほかにもいるだろうがよ でも洋ちゃんのこと真っ先に思い出したのはあたしだからね 明日歩さんだけが思い出すわけじゃないと思いますよ いや、俺がこの街を出たのってだいぶ昔だし、ほかに誰も思い出さなくても不思議じゃないよ ほらほら、あたしだけの特権だねっ ここは小河坂さんの名誉のために否定すべきところだと思いますよ 小河坂、教科書とかはあんのか? ちゃんと買ってあるよ わあ、新品。いいなあ 誰もが最初は新品だったんですよね 七月の今になってまだ新品のままだったら、そいつの学習態度がわかるってわけだ なんであたしの教科書と洋ちゃんの教科書を隣りあわせで比べるんだよ~! 装丁が新しいのはむしろ誉めるべきところですよ。それだけ大切に扱っているということですから 南星の場合は外がキレイで中が汚いけどな、イタズラ書きが満載で 勝手に人の教科書見ないでよ~! これでは救いがありませんね、くわばらくわばら 友達だったら少しはフォローしようよ~!! 俺は苦笑して目の前の光景を眺めていた。 このクラスに入る前は緊張と不安が多かったのに、今ではそんな気持ちはキレイさっぱり消え失せていた。 俺は、このクラスでうまくやっていけそうだ。 俺が覚えていた相手はなにも展望台の彼女だけじゃない、もうひとりいたんだから。 洋ちゃん、あたしの教科書と交換しない? 見た目は同じだしべつにいいよね? ……いや、夏目漱石の額に肉って書いてある教科書なんか使いたくないから ヒバリ校の授業内容はちょうど以前の学校と同程度に進んでいたため、特に慌てることなくスムーズに入っていけた。 もしも授業に置いていかれるようなら成績のほうを覚悟するしかなかったわけだけど。 その危険はないようだった。またひとつ心配が消えた。 そんな安心からか、俺は隣席の明日歩をぼんやりと眺めていた。 俺たちが隣になったのは、明日歩がクラス委員だからのようだ。転入生に対する先生の配慮なんだろう。 久方ぶりに再会した彼女は昔と変わらず、授業中に当てられると至極真剣にはきはきと答えていた。 その答えは間違っていることが多いのだけど、気持ちよく答えるので先生も特に怒ることはない。 教科書の落書きを見るに、不真面目な授業態度なのかと思ったのだが、そうでもないようだ。 ただ、彼女はたぶん集中力がないようで……。 また船を漕ぎ出した。 完全に眠ってしまったら、隣の席のよしみで起こしてあげることにしよう。 ほかにも明日歩は、休み時間になれば友達からの頼みごとに笑って応じたりと、嫌な顔なんか一度も見ていない。 さっきの休み時間には、俺にヒバリ校の校舎の構成を丁寧に教えてくれた。 このヒバリ校は、一階に一年生のクラス、二階に特別教室、三階にあたしたち二年生のクラスが並んでるんだよ で、最上階の四階は三年生のクラス、さらにその上は屋上になってて、そこは基本的に一般生徒は立ち入り禁止になってるの 都会の学校では屋上は自由に出入りできたし、昼休みはそこでよく弁当を食べていたものだが、ヒバリ校では無理のようだ。 その代わりヒバリ校は中庭が開放されてるんだよ。天気がいい日だと、昼休みは生徒であふれ返ってるんだ お弁当持ってきてる生徒だけじゃなくて、学食のメニューを中庭に運んで食べる生徒も多いの 学費と一緒に学食の食費も最初に払うシステムとなっているヒバリ校なので、弁当持参の生徒は少ないと思ったが、たしかにそれなら中庭は賑わいそうだ。 洋ちゃんがいた都会に比べたら、雲雀ヶ崎の空気はおいしいと思うし 食事中でも建物の中にこもってる手なんてないよ 学校の敷地が狭い都会では中庭のないところもあるくらいだったので、感動もひとしおだ。 でもまあ、あたしは学食で食べるほうが多いんだけどね 中庭だと、スカート汚れちゃうからね 最後に明日歩はぺろっと舌を出していた。 そんな明日歩はみんなのムードメーカー。クラスの人気者。 昔と、そして今も改めて感じる彼女の印象だ。 ……また船を漕ぎ出したな。 午前の授業がすべて終わる。 転入初日の昼休みは憂鬱だったりする。 まだ親しい友人もできていない俺は、場所もよくわからない学食を探して、ひとり歩き回ることになりそうだ。 学食の食費は授業料と一緒に払ってあるので、財布がサイドボードのせいで空っぽでもなんとかなるのはありがたいのだが。 問題は朝食代と夕食代なんだよな……。 今は詩乃さんに甘えていても、いずれバイトをして自分と千波の分くらいはなんとかしたい。 ね、洋ちゃん てっきり今ごろクラスメイトと学食に向かったと思っていた明日歩が、妙にうずうずした感じで声をかけてきた。 お昼は学食だよね? ああ、そうだよ 明日歩は待ってましたとばかりに身を乗り出した。 ……顔が近くてのけぞった。 どうも彼女は相手と話すときの距離がやけに近い。 いつもそうというわけじゃなく、ふとした拍子なのだろうし、それはもちろん俺限定というわけでもないのだが。 あたしもお昼はたいてい学食。ていっても、この学校の生徒はほとんど学食だと思うんだけど まあ、もう食費払ってるし、弁当とか購買だともったいないからな いちおう食費払うのは希望制みたいなんだけどね。でもいつのまにか払うのが普通になっちゃったんだって 弁当用意する親は大変だろうし、購買で買うのは金かかるし、学校の圧力じゃないか? そうなのかも、と明日歩は笑って肯定した。 あ、じゃあ学食って、券売機で食券買うわけじゃないのか うん、そうだよ。お昼になると、カウンターのトレーにもう料理が載ってるんだ。ちゃんとメニュー別にね 好きなメニューを各人が勝手に持っていくと うん だったら希望制をやめたのは、食費払ってない生徒が内緒に食べるのを阻止するって意味もあるんだろうな そんな心配があるんなら、最初からお金入れる券売機にすればいいのにね その食堂、あまり広くないんじゃないか? あ、うん。全員入りきれないから、中庭で食べる生徒も多いくらいだし 食券を購入するシステムにすると券売機の前に列ができて、ただでさえ狭い食堂がすぐ混雑する。だから今のシステムになってるんだよ 料理をあらかじめ作っておくと残って無駄になる場合もあるけど、多人数分だったら一食の材料費なんてたかが知れてるし レストランの普通盛りと大盛りの値段が大して変わらないのだって、材料費じゃなくて技術料として値段を算定しているからで…… 洋ちゃん、やっぱり洋ちゃんだね ……なんだそれ 昔と同じで頭でっかちの洋ちゃんだった 何気にショックなんですが。 学食の場所、知らないよね? ああ。これから探し回ろうと思ってたとこ あたしが案内してあげるよ そう言って明日歩は席から立ち上がる。 こさめちゃん、今日は洋ちゃんも一緒でいいよね? 構いませんよ。お昼を一緒して親睦を深めたのちに行う明日歩さんの作戦も黙認しておきますね なんだろう作戦って。 南星、おまえまさか…… そうじゃないってば! あたしは洋ちゃんと過去の思い出を語りあいたいから誘っただけだもん! じゃあオレが一緒でも問題ないよな ……えー 露骨に嫌そうな顔すんなよっ だって飛鳥くん、あたしのこと邪魔しそうだし…… いいカモが向こうから飛び込んできたんだ、放し飼いにしておくのはもったいないだろうが やっぱり邪魔するんだ~! 洋ちゃん捕らえるのはあたしだからね! 弱い犬ほどよく吠えるんだよ、それはカモ狩りの犬も同じってことだ あの……さっきから話が見えないんだけど…… 焦らなくても、カモさんにもいずれ理解できますよ 焼いて食われたあとじゃ遅いんじゃなかろうか。 なにはともあれ、転入初日の孤独な昼休みは免れたようだった。 ヒバリ校の学食は、以前の学校に比べるとだいぶ狭くて席数もあまりない。 それでも混雑しているように見えないのは、メニューが置かれたカウンターが広くて列ができないのと、あとは食堂以外でも食事できるシステムのおかげだろう。 いちおう先に席取っておいたほうがいいかな わたし、座って待っていますね 了解、メニューはいつもの? はい、サンドイッチセットで 洋ちゃんも座って待ってていいよ。なにがいい? あ……ええと メニューは和洋中なんでもござれだ。嫌いなものは? マヨネーズ以外ならなんでも 洋ちゃん、マヨネーズ嫌いなんだ ……家庭の事情でな 適当でいいなら、運びやすいどんぶり物にするけど いや、俺も自分で取りにいくよ 小河坂さんはある意味ゲストなんですから、席に座ってのんびり構えていて結構ですよ ……それはつまり、その後に焼いて食われるから? こさめちゃんひとりで四人分も席取ってるとほかの生徒ににらまれちゃうし、洋ちゃんも残って欲しいな 小河坂、メニューは? ……じゃあ親子丼で ラジャ 小河坂さん、わたしたちはお茶を持ってきましょう。席取りをするときは、その席にお茶を置いておくのがこの学食のルールなんですよ ふたりがカウンターに向かったのを横目に、俺とこさめさんは四人分のお茶を入れてから席に座った。 なんだか慣れてらっしゃいますね まったりとお茶をすすっていると、こさめさんが不意に言った。 なにが? ヒバリ校の生徒として、雲雀ヶ崎の住民として、もう馴染んでいるという意味です そうかな はい。都会からの転入生と聞いていたので、わたしたちとはどこか雰囲気が違うんじゃないかと思っていたんです 雲雀ヶ崎は、小河坂さんの住んでいた街に比べるとずっと田舎でしょう? たしかに。あ、悪い意味じゃなくて いいんですよ。住民の皆さんだって思っていることなんですから こさめさんは頬に手を当てて苦笑いする。 この街は、観光客の方々は物珍しがって喜ぶのでしょうけど、小河坂さんのように引っ越してきた方には不便な街だと思いますから 雲雀ヶ崎は電車もバスも本数が少ないし、デパートも100均も見当たらず、カラオケやゲーセンなんかの娯楽施設も少ない街なのだ。 だから、わたしたちとはなかなか打ち解けてくれないんじゃないかと心配だったんです それは、転入生が雲雀ヶ崎を嫌いになるから? こさめさんは控えめにうなずいた。 なら、その心配はいらないな 小河坂さんは、もともと雲雀ヶ崎出身ですものね それだけじゃない、俺はこの街が好きなんだ こさめさんは驚いたようだった。 あ、そうそう。俺も聞きたかったんだけど なぜ好きなのか理由を尋ねられる前に、話題を変える。 前に、この学校の校門でケンカしてたよな。ほら、明日歩ともうひとり…… 姉さんですね。名前は姫榊こもも。わたしの双子の姉なんです そっくりだったわけだ。 あれ、あのあとどうなった? 一時的な停戦には成功しましたよ じゃあまだケンカ中なのか 明日歩さんと姉さんは会うたびになにかといがみ合いますから。同じクラスじゃなくてホッとしているんです なんでそんなにケンカしてるんだ? 主に天クルが原因ですね ……天クルって? おそらく食事中にその謎は解けますよ お待たせ~! こちらサンドイッチセットと親子丼になりま~す! 明日歩が、いつかのメイドさん風にトレーを持って帰ってきた。 それじゃ、冷めないうちに食べちまうか こさめさんの横に明日歩が座り、俺の横に飛鳥が座って四人でいただきますをした。 食べ終わったら、どっちがこの無垢なカモを生け捕るか正々堂々と勝負…… 洋ちゃん、天体観測に興味ない? おまえ早えよ!? わあっ、汚い~! ご飯粒飛ばさないで! 抜け駆けすんなっ、まずは順序ってもんがあるだろ! 順序もなにもそっちが勝手について来ただけじゃな~い! 転入生にはどの部活にも平等に権利があるだろうが! あたしたちの天クルはそんなこと言ってられない状況なんだよ~! 勧誘となると、今度は明日歩さんと飛鳥さんがいがみ合うことになるんですね 騒々しいふたりを前に、こさめさんはのんびりとサンドイッチを食べていた。 なあ小河坂、おまえ趣味は? 飛鳥が突然、俺の肩に馴れ馴れしく腕を置いた。 特技はなんだ? よく読む雑誌は? よく聞く音楽は? 好きなテレビ番組は? は、はあ? 徹夜は平気か? 夜目は利くほうか? フー・ファイター事件をどう思う? アブダクションされたことは? ……どれから答えればいいんだ。 その質問嵐のどこが順序を守ってるんだよ~! 生誕137億年と呼ばれるこの広大な宇宙には地球人以外の知的生命体が息づいているとは思わないか? 137億年がなんだよっ、こっちは137億光年の先にある星座のロマンに想いを馳せられるんだよ! そんな宇宙の果てにまで星座はなさそうだが。 星座なんか所詮人が作った遊びだろ、なあ小河坂、こっちは人類の〈叡智〉《えいち》も及ばない神秘をこの目にできるかもしれないんだぜ? 洋ちゃんはあたしが先に唾つけたんだよ~! 飛鳥くんはひとりでUFO追いかけてたらいいじゃない! うちのオカ研は常に有能な人材を探してるんでね そのオカ研って部室もないし天クルよりも弱小のくせに~! オレがいる場所、そこがオカ研なのさ 要するに部員は飛鳥くんしかいないってことじゃない~! 俺はわけもわからず、黙々とサンドイッチをついばんでいるこさめさんに聞く。 ……さっきからなんの話? 部活勧誘の話ですよ 洋ちゃん、あたしたちの天クルに入るよね!? いーや、オレのオカ研だよな? ……なるほど。とりあえず合点はいった。 俺は転入生でまだどこの部活にも所属していない。それを狙っているんだろう。 昼食を誘われた理由も判明したわけだ。 オカ研はオカルト研究部ってわかるけど……天クルって? 天体観測愛好サークル、略して天クルだよ 要するに天文部ということか。 部員が少なくて部活として認知されない弱小サークルってことな もっと弱小のオカ研に言われたくないよ~! 小河坂さんは、どこか入りたい部活はもう決めているんですか? その前に、部活って必ず入らなきゃいけないのか? 部活に入るつもりなんて毛頭なかったというのに。 放課後はバイトがあるし……と、こっちも許可されているのかあとで確認しておかないと。 それに、放課後にはもうひとつ予定がある。 展望台の彼女の名前を思い出すためにも、なるべく早めにしておかなければならない用事だった。 部活の所属は必ずというわけじゃないですけど、ほとんどの生徒は入っていますよ この街、田舎だろ? 帰宅部になったって遊ぶ場所なんかねえから、暇するよりは部活するんだよ 塾に通うために帰宅部になる人もいるけど、それも少数派なんだよね ヒバリ校は進学校というわけじゃありませんからね だから小河坂、オレと一緒にUFOシグナルを受信して宇宙人とコンタクトを計ろうぜ そんな危ない人になっちゃダメだよ洋ちゃん~! 天クルなんか入ったら日がなトランプ三昧になるのがオチだ、こっちのほうがずっと健康的だぜ オカルトに比べたらトランプのほうがずっと健康的だよ~! わたしには五十歩百歩に聞こえますよ スクリーンに天体図映して眺めるの飽きたって言ってトランプ持ってきたのこさめちゃんなのに~! 今度は花札にしますか? それこそ五十歩百歩だよ~! それよりもすっかり冷めた昼食はどうしたものか。 なんにしろ俺は部活に入るつもりはないので、親子丼の具をくずしながらどうやって断ろうか思案中だった。 お願い洋ちゃんっ、天クル入ってくれたら正真正銘の部活として発足する野望に一歩近づくんだよ~! オレのオカ研にそんな姑息な意図はねえぞ、ただ純粋に宇宙人と人差し指を突きあわせて自転車で空を飛ぶために活動するんだからな だから危ない人だよそれ~! オレが見たところ小河坂はアブダクションされトランスミッションを埋め込まれた過去を持っている。すでにオカ研に入ることを運命付けられているのさ そんなバカな運命あるわけないよっ、だって洋ちゃんは天クルにぴったりな転入生だもん! いや、悪いんだけど俺は…… 洋ちゃんはうちの店に来たときに言ったもん! 矢継ぎ早の大声に、食堂で歓談しながら食事中だったほかの生徒が何人か振り向いた。 洋ちゃんはヘルメスの竪琴がこと座の神話だってわかってくれたもん! にぎやかな場所でもよく通る明日歩の声。 その言葉は、俺の胸にも通ったようだ。 ……天クルって、具体的にどんな活動するんだ? 少し興味が湧いた。 一度でいい、天体観測をやってみたくなった。 俺はもともと、星が好きというわけじゃなかった。展望台の彼女のために星に詳しくなっただけだ。 ただ知識を得るために天文図鑑を読みあさっていただけだった。 だから俺は、天体望遠鏡を使ってまともな天体観測をしたことなどなかったのだ。 明日歩の驚いた表情が、歓喜の色に変わっていった。 天クルはね、望遠鏡で夜空の星を眺めるんだよ。それで写真を撮るんだよ ほかには? それだけだよ。それだけでも、すごいんだよ 星ってね、すっごいんだから! どう表現していいかわからないのか、明日歩は天体観測の素晴らしさというものを身振り手振りで説明しようとしていた。 その必死な姿が、どこかかわいらしくもあった。 ……なんだよ小河坂、オレを裏切るのか? いや、最初からオカ研に入るつもりはないし オレと一緒にヘブンズドアを開く儀式で宇宙意思とチャネリングと洒落込もうぜ! それ危ない人だから ひでっ! では、天クルに入っていただけるんですか? こさめちゃんも部員なんだよ。洋ちゃんが入ってくれたらこれで五人目! それなんだけど、今はまだ保留でいいか? 明日歩とこさめさんは目をぱちくりする。 俺、放課後はバイト探さないとだし、ほかにもちょっと用事があってさ 前も言ってたよね、金欠だって ああ。この学校、バイトって平気か? 先生に理由を話して許可をもらえば平気ですよ。明日歩さんもそうしていますし あたしのは家事手伝い扱いだけどね なんでまたバイトなんかするんだ? ちょっとな カメラ買いたいんならデジタルカメラはやめとけ。UFOや心霊写真を撮るなら、やっぱりフィルム式をオススメするぜ そんなのより断然望遠鏡のほうがいいよ! 値段が高いと思ったら天体観測用の双眼鏡も安くてオススメだよ! ……買いたいのがあるからバイトするわけじゃないからさ 天クルはバイトしながらでも活動できるよ、だって天体観測は夜になってからが本番だからね! 明日歩さん、これ以上は小河坂さんを困らせるだけだと思いますよ あっ……うん こさめさんはにっこり笑って俺に向き直る。 小河坂さん、もしバイトの時間に余裕があったら、一度天クルの見学に来てくださいね いつでも待ってるよ、洋ちゃん! 俺は苦笑して了解と答えた。 それから俺たちはようやく昼食にありついた。 冷めていたけど、味は悪くなかった。 放課後となって、スクールバッグに教科書類を詰め込んでから席を立つ。 洋ちゃん、これからバイトの許可もらいにいくの? そのつもりだ。どの先生に言えばいいかな 担任の先生で大丈夫だよ。教務室の場所、わかる? そこはもう何度か行ってるから そっか。バイト、どんなの探すの? まだぜんぜん決めてないよ よかったらうちの喫茶店でやらない? スタッフがお父さんとあたしだけだからいそがしくてさ メイド喫茶じゃないから、男性スタッフも募集中だよ それはまあ、考えとくよ うん、天クルの見学と一緒に待ってるね 軽く手を振りあって、廊下に向かう。 ちなみにオカ研も男性スタッフ募集中だぜ ……バイト代が地球通貨じゃなさそうだからやめとくよ バイト許可は滞りなく下りた。 先生は俺の家庭事情を知っているので、生活費のためと言ったら一発だった。 とりあえず感謝。 最後にがんばりなさいと励まされたが、そっちのほうはむず痒いというか、よけいなお世話というか。 俺はべつに、自分の境遇が不幸だとは思っていない。 次に俺は階段を登り、三年生のクラスが並ぶ四階にやって来た。 今日、放課後にこのヒバリ校でやらなければならない用事はみっつある。 ひとつ目はバイトの許可をもらうこと。 これはもうすんだので、ふたつ目の用事のために俺はこの階に出向いたわけだ。 俺はこれから、名前を忘れてしまった展望台の彼女を訪ねて回ることになる。 廊下ですれ違う上級生の顔を確認する。 三年生の教室をこっそり覗いては、放課後の解放感を満喫している女子生徒の顔を眺め回す。 俺は、展望台の彼女の名前を忘れてしまった。 だけど彼女の顔まで忘れてしまったわけじゃない。 記憶の中の彼女は幼い女の子のままだけど、たとえ成長したってどこかに面影は残っているだろう。 その面影があれば見逃さないはずだ。 だからこうしてヒバリ校三年の女子生徒を訪ね回る。 彼女は雲雀ヶ崎出身だ。展望台で遊んでいたことから、これは間違いない。 そして彼女は俺よりも年上。実際の歳を教えてもらったことはないが、あの頃の態度からして間違いない。 とすれば彼女はヒバリ校の生徒である可能性があり、今も在校しているなら三年生でしかありえない。 ヒバリ校の生徒じゃないなら無駄足だし、生徒だとしても卒業していたらこれもまた無駄足になるのだが。 それでも俺は確率が低いからといって無下にはしない。 諦めたら後悔が待っている。 過去の「僕」が、ふくれっ面でそう言っている。 奇異の視線が俺に多数刺さっていた。 見知らぬ生徒がうろついていて、しかもクラスを覗き見しては立ち去っているのだからしょうがない。 居心地が悪く、早く彼女を見つけたい気持ちに拍車がかかる。 だけども彼女の姿は見当たらない。 三年の全クラスを覗いてみたが、結局展望台の彼女らしき生徒は見つけられなかった。 ……もう帰ったのかもな 放課後なのでその可能性もあった。 次は放課後じゃなくて昼休みに探すことにしようか? しかしそれでも、三年の全女子生徒と確実に出会えるわけじゃない。 たとえば授業中にでも全クラスを覗けば、全女子生徒を確認できるだろうけど。 それを実行したら、俺は不審生徒のレッテルを貼られる。その後に生徒指導室に軟禁だろう。 ……明日、また改めて探すことにするか。 それに彼女を探す方法はまだあるのだ。 今日のところは引き下がるとして、俺は次に図書室に向かうことにする。 特別教室が並んでいるのは二階だったはずだ。 ………… 階段に向かって歩いていると、また新しい女子生徒を見かける。 さっき探したときは見なかった顔だ。ちょうど今、この階に戻ってきたのかもしれない。 たぶん彼女も三年の生徒だろう。 だけど彼女は、展望台の彼女じゃない。 俺の想い出がそう告げている。 三年のクラスになにか用か すれ違う途中で声をかけられた。 キミは二年の転入生だろう。キミのクラスがある階は三階だ。迷子にでもなったのか ……あ、いえ、そういうわけじゃ と、この中性的な口調が記憶にひっかかる。 では、なんの用だ 人の事情を突っ込んで聞いてくるその態度にも覚えがあった。 ……この学校の生徒だったんですね そうだ。やっと思い出してくれたのか 向こうは最初から思い出していたようだ。 名前は知らないが、彼女は展望台に行く途中のフェンスの前で出会った人だ。 それで、キミはどうして三年のクラスを見て回っていたんだ? ……見られてたのか? 俺がクラスを見て回っている間、彼女の姿はなかったと思うのに。 私の質問に答えてくれないのか? ……その前に 誤魔化すように返す。 なんで俺が転入生って知ってるんですか? キミがこの前自分で言っていたじゃないか。この雲雀ヶ崎に引っ越してきたばかりだと 転入生が今日ふたりヒバリ校にやって来ることも、教師から事前に連絡があったんだ ……そうですか 次は、そろそろ私の質問に答えてもらおうか べつに答える必要はないですよね? あると思うが ギブアンドテイクって流行らないですよね? むしろ日本人としての礼節じゃないのか ……なんか俺に突っかかってません? それはキミのほうだと思うが それじゃあ俺、急ぐんで どうもこの人は苦手だった。俺を検分しているような目つきが特に。 まあ、急用があるのであれば仕方がないか 妙に物わかりよくつぶやく彼女に背中を向けて、俺は階段を下りていった。 扉の上にかかっているプレートに注意して探していると、図書室はすぐに見つかった。 内装は、前の学校の図書室と大差ない。どこの学校も図書室というのは変わらないのかもしれない。 貸し出しのシステムだって変わらないのだろう。 ……と思ったら、手書きの貸し出しカードだ 都会ではバーコードで貸し出しの本をチェックしていたが、手書きのほうが雲雀ヶ崎らしいかもしれない。 あれ、小河坂さん 受付に座っていた女子生徒が顔を上げると、その子はこさめさんだった。 こさめさん、図書委員だったのか そうですよ。今日は当番の日だったんです こさめさんは整理していたらしい貸し出しカードをカウンターの脇に置いた。 あ、ごめん。仕事してていいから 気にしないでください。図書室で本を借りる生徒はあまりいませんから、いつも暇を持て余しているんです 図書室には生徒の姿がほとんど見えない。前の学校と違って勉強に勤しむ生徒も少ないようだ。 委員会は部活と違って所属したがる生徒はあまりいませんので、ある意味こちらも勧誘の危険がありますよ ……委員会の勧誘なんてあるのか? 特に生徒会が行っていますね。生徒会役員の方は立候補だけじゃなく、推薦で選ばれることも多いですから まさか転入生をいきなり推薦はないと思うけどな 小河坂さんは前の学校では、委員会に所属していたんですか? いや、してないよ 部活は? してないかな やっぱり ……なんで? 小河坂さんは塾に通っていたんじゃないですか? いや、通ってないけど こさめさんは小首をかしげる。 てっきり、そうだと思っていたんですけど なぜだろう。 わたし、小河坂さんの転入試験の点数を知っているんですよ ……え 生徒会役員の姉さんから聞いたんですけどね。生徒会には生徒の成績を把握する義務があるそうですから ヒバリ校の生徒会はけっこう幅を利かせているようだ。 ……あまり関わりあいにはなりたくないな。 こさめさん、俺の点数って誰かに言ったか? 言ってませんよ。生徒会役員の方も公表することはありませんから、一般生徒には知られていないと思います 小河坂さんの成績は、とても優秀だって だから委員会や部活じゃなくて、塾と結びつけたわけか。 それ、誰にも言わないでくれるか? それはいいですけど、テストが実施されれば皆さん知ることになると思いますよ ……もしかして、テストの上位者は掲示板に名前が貼られたり? 中間と期末のテストは各教科ごとにトップ10の方まで並びますよ 俺は天を仰いだ。 ……どうしたんですか? いや……ちょっとトラウマが…… ……そうなんですか? テストの成績が優秀なのは誇るべきことだと思いますよ 子供の頃に雲雀ヶ崎を出て、都会の学校に転入したときのことだ。 頭でっかちの俺は、クラスに馴染むより先に行われたテストで、全教科学年トップをたたき出してしまった。 ……そうしたら、クラスで浮いた。 小河坂さんの転入試験の結果は、学年総代に選ばれてもおかしくない成績だったそうですよ ですから、姉さんは小河坂さんを生徒会にスカウトする気満々みたいです。気をつけてくださいね 勘弁してくれ……トラウマがうずくから 困ったことになったらいつでもご相談くださいね。わたしは姉さんの味方ですけど、小河坂さんの味方でもありますから こさめさんのような生徒ばかりだったら、昔の俺も苦労せずにクラスの一員になれたのかもしれない。 小河坂さん、今日はどんなご用で図書室にいらしたんですか? ああ、そうそう。探したい本があって どんな本ですか? 二冊あるんだけど。しかもちょっと特殊な 図書委員のわたしにかかれば、学校が所蔵している本ならどんなものでもお見せすることができますよ それじゃ、そんなこさめさんにあやかって 俺は本日みっつ目の用事をこさめさんに話した。 ヒバリ校の卒業アルバムと、記憶喪失に関する本を、俺に見せてくれないか? ヒバリ校の卒業アルバムは、展望台の彼女がここの卒業生かどうかを確認するために。 記憶喪失に関する本は、展望台の彼女の名前を取り戻すために。 彼女と再会を果たすために、やれるだけのことはやっておきたかった。 ヒバリ校は今年で創立五十五年目となります。そのため卒業アルバムは全部で五十二冊となっています 数字が合わないのは、一期生が卒業するまでは卒業生がいなかったためですね ヒバリ校は開校した当時、木造校舎だったそうです。体育館もプールも学食もなく、この図書室を始めとする特別教室もありませんでした また、通学路の夢見坂もほとんど整備されておらず、通いやすい学校とはお世辞にも言えなかったようです それでもこの場所にヒバリ校が建てられたのは、様々な理由があったそうなのですが…… 理由のひとつに、高台であることが挙げられます ヒバリ校は創立一年目にして、なんと天文部が存在していたんですよ そこまで言って、こさめさんは恥ずかしそうにほほえんだ。 そんな伝統的な部が、今では天クルと名を変えて、しかも部ではなくサークルになっていますけどね このように天文部は衰退したのかもしれませんが、ほかのところは市と学校が協力し、工事を重ねて今のヒバリ校と夢見坂に変えていったそうです 偉大な〈先人〉《せんじん》に感謝ですが、後代の天文部のためにせめて天体望遠鏡くらいは残して欲しかったですね こさめさんはそんなふうにヒバリ校の歴史講座を終えた。 天クルって、天体観測のサークルだろ? なのに望遠鏡がないのか? はい。どうも古くなって廃棄処分されたそうです。わたしが入学したときにはもうありませんでしたよ じゃあどうやって天クルは活動しているんだろう。 いちおう一台はあるんです。ですけどそれは、明日歩さんの私物なんですよ 二十万円もする天体望遠鏡を、喫茶店のお手伝い代をためて買ったって言ってました ……それはすごいな それでも安いほうなんだそうですよ。明日歩さんはもっといい天体望遠鏡が欲しいみたいです 明日歩はよほど天体観測が好きなんだな。 それより、この卒業アルバムをどうするんですか? もちろん見るんだよ 長机にずらりと並べられた卒業アルバムは壮観で、ヒバリ校の歴史の深さを物語っていた。 どうして卒業アルバムを見たいのか、理由を尋ねてもよろしいですか? できれば尋ねないで欲しいかな わかりました。それではわたし、小河坂さんがお探しのもうひとつの本を探してきますね こさめさんの心遣いがありがたい。 記憶喪失関連の書籍なんて置いてあるのかわからなかったのだが、こさめさんは奥の棚へと歩いていった。 そっちはこさめさんに任せて、俺は五十二冊の卒業アルバムに向き直る。 一冊を開くと、ちゃんと卒業生の顔写真も載っていた。 これなら調べられる。 この中から、俺は彼女の顔写真を探し出す。 そうすればそこには名前も載っている。俺は彼女の名前を取り戻すことができる。 さらにアルバムには住所だって載っているから、俺は彼女に会いにいくこともできるのだ。 ……よし 気合を入れる。 卒業アルバムはなにも全冊調べる必要はない。 展望台の彼女は俺より年上と言っても、十歳も離れていることはないだろう。 つまり年代的にありえない卒業アルバムを除くと、調べるのは十冊未満に抑えられる。 ……全部の年代の卒業アルバムを出してもらう必要なかったな こさめさんに心でお詫びする。 俺は椅子に深く腰を下ろし、近い年代から順にアルバムを開いていった。 ……………。 ………。 …。 小河坂さん、どうですか? ………… もう夕方になってしまいましたけど……まだ終わりませんか? ………… そろそろ図書室を閉める時間ですけど…… 俺は眺め終えたラストの卒業アルバムを閉じ、屍のように顔を突っ伏した。 いくら探しても展望台の彼女の顔写真は見つからず、気がつけば五十二冊まるまる目を通すはめになっていた。 白黒写真に載っているのを見つけたら、嬉しさよりも恐怖のほうが大きいと思う。 ……ごめん、こさめさん。長々と居座って そんなの気にしないでください。それより、調べ物のほうはうまくいきましたか? 残念だけど、うまくいかなかったよ こさめさんも残念そうな顔をする。 貸し出しもできますけど、どうします? いや、いいよ。卒業アルバムはハズレだったから 展望台の彼女はヒバリ校の卒業生ではない。 在校生か、もしくはほかの学校の生徒なのだ。 雲雀ヶ崎に建つ学校はヒバリ校だけじゃない。 全部でいくつあるかは知らないが、ヒバリ校の生徒じゃないとしたらその他の学校も調べるしかなさそうだ。 ……でも、どうやって調べればいいんだろう。 では、こちらの本はどうしますか? こさめさんは一冊のハードカバー本と、二冊の新書本を抱えていた。 記憶喪失ということで医療関係の棚を探してみたんですけど、この三冊くらいしか見つからなくて…… 充分だよ。ありがとう こさめさんは応えるようににこっとほほえんで、俺の貸し出しカードを作る準備を始めた。 ほんと、こさめさんがいてくれて助かった お礼には及びません。図書委員としてお役に立てて、わたしも嬉しかったですから こさめさんがカードに書いた小河坂洋の名前は、綺麗で優しい文字だった。 図書室で借りた本が入ったスクールバッグを手に、帰り道に展望台に寄ってみる。 そこで俺は彼女の登場を待つことになるだろう。 展望台の彼女の登場、そしてもうひとり。 メアという名の死神少女──── 俺にはメアに尋ねたいことが山ほどある。 本当にキミが、展望台の彼女の名前を奪ったのか? キミが悪夢と言った展望台の彼女の名前を、その大きなカマで刈ったのか? あのカマはなんなんだ? なぜ俺の胸に刺したのに、傷ひとつつかないんだ? 刺されたときのあの感触はなんなんだ? あの優しくて切ない感覚はなんなんだ? どうしてキミは、そのときに、泣いたんだ……? メアには不可解なところが多かった。 まずその衣服。死神を名乗るからには、死神装束と呼ぶべき衣装なんだろうけど。 そして手に持つ大きなカマ。これもまた死神だからこそ持っていて、刈るのは命ではなく悪夢らしい。 ほかにも、彼女はどうも俺のことを昔から知っているらしく、俺の悪夢を刈るために展望台で待っていたようだ。 だが俺は子供の頃、あんなけったいなカマを持った少女になんて出会ったことがない。 そもそも当時の年齢を考えると、メアは赤ん坊か幼稚園児ということになる。メアはそれを否定してはいるけれど。 メアの素性は謎に満ちている。親もいなければ家もない、歳を取らなくて生まれたときから死神らしい。 ……なんだその人外設定は。 死神なんだから人じゃなくて神なのかもしれないが。 飛鳥あたりに話したら喜びそうな話だが、俺にはメアが体よくウソをついているとしか思えない。 そして、これは些細かもしれないが、もうひとつ人外な謎がある。 それは彼女が俺の前からいなくなる光景。 あの夜……。 俺がメアから悪夢を刈られたあと、彼女は姿を消した。 あっという間の出来事だった。 俺が混乱していたせいかもしれない、メアが俺に背を向けて普通に歩いて坂を下りていくのを見逃していただけなのかもしれない。 あのときの俺は興奮状態にあった。正常な思考になく、視覚情報を脳でまともに処理できていなかった。 だが冷静になってから思い返すと、俺はメアと何度か展望台で会っているのに、メアが展望台から帰っていく姿を目撃したことがない。 なのに彼女は気がつくといつもいなくなっている。 不思議には思っていた。 空の星明りが雲に隠れ、視界が一瞬靄がかったように暗くなると、メアの姿は忽然と消えるのだ。 だがそれは一種の錯視だと思っていた。 人の視覚は明暗に対して弱い。急な視界の変化に対応できず、情報の処理が遅くなる。 メアが俺の横を通り過ぎて帰っていく際、急に視界が暗くなったため、消えたと誤認しただけなのだと考えていた。 あの夜も、メアは俺の胸にカマを刺したまま、そのカマごと俺の目の前から姿をかき消したように見えた……。 それが、俺の興奮状態による錯覚なのか、明確な事実なのかを探るためにも、俺はメアに会わなければならない。 メアが自然の摂理じゃない、超常現象的に俺の目の前から消えるのかを確認しなければならない。 たとえ信じるのが難しくても、彼女が人でなく本当に死神なのだとしたら、展望台の彼女の名前を刈り取ったのも彼女なのだと信じられるから。 でなければ──メアが原因でないのなら、展望台の彼女の名前を忘れたのは俺自身のせいになる。 俺自身が、大切な彼女の想い出を曇らせたことになる。 想い出、美化しすぎかな…… 俺はどうも、展望台の彼女という存在を、宝物のように扱いたがっているようだ。 陽が落ちる頃、晴天だったはずの空は曇り出していた。 今夜は星が見えない。どんよりと重そうな雲がその奥の光を完全にさえぎっていた。 ……メアは、星が見える夜に展望台に来るんだよな。 今日は来ないのだろうか。 たぶん来ないのだろう。 メアの連絡先も、展望台の彼女同様、俺は知らない。 聞いておくべきだったかな……これもまた怠慢ってやつなんだろうか。 なんか聞いても「死神に連絡先なんてないわ」と一蹴されそうな気もするが。 俺は夜が更けるまで、冷たくなった芝生に腰を下ろして憂鬱な曇り夜空を見上げていた。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 結局メアに会えずじまいで帰宅すると、千波が債務者を追いかける借金取りもあわやの速度で走ってきた。 どうしたのなにがあったのなんでこんな遅い時間に帰宅なのっ、もしかして学校でイジメられたのクラスに馴染めず傷心だったのっ、そんなときこそ千波の愛情がっ うるさいので千波の額に冷えきった手を当てた。 お兄ちゃん手が冷たいよっ、いくら千波の愛情があたたかいからってカイロ代わりはどうかと思うよっ、千波寒くて凍死しちゃいそうだよこのままじゃ! 人の死のうちで一番美しいのは凍死なんだぞ? なにその満足そうなとびきり笑顔!? あらあら洋ちゃん、今日は遅かったわね ちょっと用事があって。夕飯、もう食べましたか? まだよ。ダイニングに用意してあるから、早く食べましょう すみません。今度から俺が遅くなるときは先に食べてていいですから そんなのダメだよお兄ちゃんっ、家族はみんなそろって晩ご飯が基本なんだから! 俺は千波の頭にぽんと手を載せる。 そうだな。今日は悪かったな、千波 ぜんぜんへっちゃらだよっ、だって今日の千波は超ご機嫌だからねっ 千波ちゃん、新しいクラスで早速お友達ができたんですって そうなんだよお兄ちゃんっ、千波新しいクラスで蒼ちゃんとまた会えたんだよっ、蒼ちゃんとクラスメイトになれたんだよ! 蒼さん、かわいそうだな なんで千波が期待した反応と真逆なの!? まあ友達になれてよかったじゃないか うんっ、蒼ちゃんは千波の親友第一号に認定したよっ、蒼ちゃんも笑顔で喜んでくれたんだよ! 蒼さんの笑顔は想像もつかないが……。 千波のことだから勝手にそう思い込んでいるだけだろうが、いつの間にか相手もそれに引きずられているのがバカにできないところなのだ。 兄としては、そんな妹が危なっかしくもあるし、安心できる点でもある。 今夜は洋ちゃんと千波ちゃんの転入お祝いで、私も腕を振るっちゃったから ではではっ、お兄ちゃんを詩乃さんお手製ディナーまでごあんなーい! 俺はダイニングまで、千波に腕をひっぱられていく。 で、詩乃さん。食べる前に、千波が料理を手伝ったか教えてくれますか? 今日は私ひとりで作ったのよ よーし今日は食いまくるぞー! なんだよそれっ、お兄ちゃんのバカ────っ!!! 詩乃さんのご馳走をたらふく堪能し、リビングで一息ついてから自室に戻ってきた。 俺は机に、展望台からの帰りに商店街で買ったバイトの求人誌を置いた。 これはあとで読むとして、次に俺はスクールバッグに入っている記憶喪失関連の本を置く。 本のタイトルは「記憶の謎」や「脳のすべて」といった感じだ。 この中に少しでも記憶喪失について触れられていればそれでいい。 こうして本を見つけてくれたこさめさんには感謝だった。 ……さて 本を手に勉強机に座る。 俺は展望台の彼女の名前を突然忘れた。それは、俺の知識では記憶喪失と位置づけるしかなかった。 だからこうして調べるわけだ。 展望台の彼女の名前を取り戻すには、記憶喪失について調べて対処法を見つけなくても、彼女の名前をもう一度見聞きすればいい話なのだけど。 その、彼女の名前をもう一度見聞きするという行為が、思ったよりも難しいのだ。 俺はすでに、千波と詩乃さんに展望台の彼女について尋ねている。 昔、俺が展望台で一緒に遊んでいた女の子の名前を知っていたら教えてくれと。 だが千波は彼女の存在を知っていても名前までは知らず、詩乃さんに至ってはその存在すら知らなかった。 思えば俺が彼女と遊んでいたことを知っているのは、千波のほかには母さんしかいない。ふたりにしか話していなかったからだ。 だけど母さんはもういない。尋ねることはできない。 八方ふさがりなのだった。 ……まあ、焦るなよ、俺 感情を乱しては思考も働かない。その例が、メアにカマを刺されたときの俺だった。 俺は、メアのその行為に対して瞠目するだけで、あとはなにもできなかった。 もしかしたら抵抗できたかもしれないのに。 彼女の名前を忘れずにすんだのかもしれないのだ。 ……ふう 一度深呼吸をして、本に目を向ける。 まずは目次を見て、記憶喪失に関連していそうなトピックを確認する。 そこを重点的に読み進めていった。 ……………。 ………。 …。 一通り目を通し終わると、もう日付が変わる時間だった。 俺は本で得た知識を頭の中で整理する。 いわゆる記憶喪失を含む健忘と呼ばれるもののうち、俺のこの症状は部分健忘というものらしい。 記憶には大きく分けてエピソード記憶と技能記憶の二種類があり、簡単に言うと前者は言葉で表せる記憶、後者は言葉で表せない記憶だ。 言葉で表せない記憶というのは、主に技術やノウハウのこと。楽器を演奏したりスポーツしたり、そういった技能的行動の記憶だ。 俺が忘れた記憶は言葉で表せるエピソード記憶であり、そこに障害を負うことを一般に健忘と呼ぶのだ。 健忘にも全健忘と部分健忘の二種類に分かれ、ある期間内の記憶すべてを忘れることが前者、期間内の記憶の一部分を忘れることが後者である。 よって俺は、部分健忘の障害を負ったと考えられる。 部分健忘となる原因は多様のようだ。 ストレス等の心因性のものから、ケガをした等の外傷性のもの、病気や薬剤が原因となることもある。 俺のケースは……どれになるのかはまだ判断できない。 そして最も重要な、部分健忘を治す方法はというと、これは拍子抜けするほど簡単だった。 一般に健忘というのは、通常は数日から一、二ヶ月経てば、自然と回復するらしいのだ。 催眠療法や電撃療法といった治療方法もあるそうだが、この本ではあまりオススメはしていない。 記憶喪失は、なにもしなくても自然に治る。 忘れたことを気にしすぎず、深く考えないこと。これが一番の治療方法だというのだ。 そうすれば、ふとしたキッカケに、忘れていたことを思い出せるようになるらしい……。 ……なんだ、それ じゃあ俺は、彼女の名前を思い出すまでただ指をくわえて待っていろってことか? 本当にそんなことで思い出せるのか? それってただの怠慢なんじゃなかろうか。 ……ううむ いや、むしろこれは感謝すべき展開かもしれない。 手がかりが八方ふさがりに近い今、待つという行為が名前を思い出すことにつながるのなら、俺は率先して待つべきなのだ。 俺は待つという行為に努力すればいいのだ。 なんか都合のいいように解釈してるだけな気もするな…… とりあえず、待つのはやれることを全部やってからだ。 この三冊の本が絶対的に正しいとは限らないし、これからも暇があれば記憶喪失について調べてみよう。 あとはヒバリ校の在校生に彼女がいるのかを確認する。 名簿にでも顔写真が載っていればいいのだが。 卒業アルバムと違って、現役生の名簿の閲覧が許可されているのかも疑問だ。 このあたりは明日、誰かに聞いてみるしかない。 あとは三年のクラスを回って女子生徒の顔を確認だ。見落としがあるかもしれないし、何度か行う必要があるだろう。 住宅街や商店街も時間を見つけて歩いてみよう。彼女がこの近くに住んでいるなら、すれ違うかもしれない。 そして、展望台。 夜になったらメアに会いにいく。 もう一度メアと会い、話さなければならない。 尋ねたいことは、それこそ数えきれないほどにある。 やれるだけはやらないとな…… ……あと、バイト探すのも忘れないようにしないと。 雲雀ヶ崎で暮らし始めて間もないのに、いきなり多忙な気がするな…… まだ開いていない求人誌を横目に、ベッドに寝転がった。 寝過ごした寝過ごした寝過ごした────っ!! ダイニングキッチンで静かな一時を過ごしていると、騒々しい声と足音が耳をつんざく。 ……昨夜は今後の方針についてまとめたつもりだが、まずはこのパターンをなんとかしたいものだ。 ごめんお兄ちゃん今すぐ朝ご飯の支度…… いってきます もう食べ終わってるどころか登校する寸前!? ほら千波、おまえも登校の準備しろ 千波まだ起きてきたとこなんだけど!? 寝坊したおまえが悪い。パジャマのままでいいから学校行くぞ 行けるわけないよお兄ちゃんっ、髪だってぼさぼさのまんまなんだよ!? 学校で着替えて髪セットすればいいだろ クラスメイトに変な目で見られるよ!? え、今さらなに言ってんの? すっごい意外そうに答えられてる!? ほら早く制服をバッグに入れて準備してこい できるわけないでしょ!? できるわけあるだろう? なんでそんなマジメに諭されなきゃいけないの!? じゃ、いってきます ちょっと待ってよっ、大体なんでいつも千波に朝ご飯作らせてくれないのっ、千波になにか今生の恨みつらみでもあるの!? だから、おまえが寝坊したのが悪いんだって 千波は悪くないもん! この千波愛用コブタ目覚ましが勝手に止まってたのがいけないんだもん! どうせおまえが寝ぼけて自分で止めたんだろ そんなわけないよっ、ほら見てよ見て見てっ、ちゃんと六時半にセットしてるのに止めた形跡どころか鳴ってる形跡すら見当たらないんだよ! それAMとPMが逆にセットされてるから なんてこと!? あとおまえ朝っぱらから大声出すな、詩乃さんが起きたらどうするんだよ 大丈夫だよ、詩乃さん寝付きいいし 近所の人が起きたらどうするんだよ 大丈夫だよ、この時間ならみんな起きてるし 俺が不機嫌になったらどうするんだよ 大丈夫だよ、お兄ちゃんいつも不機嫌だし 天国の母さんが不機嫌になったらどうするんだよ 大丈夫だよ、お母さんいつも優しかったし 雲雀ヶ崎の皆さんが不機嫌になったらどうするんだよ 大丈夫だよ、千波はいい子だから とにかくおまえは地球人の皆さんに謝れ なにがなんでも千波を悪者にしたそう!? じゃ、いってきます お兄ちゃんのバカ──────っ!!! 待機限界時間を突破したので、千波を置いて家を出た。 あ…… 玄関を出ると、ちょうど蒼さんが前を通りかかるところだった。 おはよう、蒼さん 蒼さんはぺこっと軽くお辞儀すると、あとはもう前を向いて坂を登り始めてしまった。 俺は駆け足で蒼さんを追う。 蒼さん ……また出た 今朝もぎりぎりなんだな。実は朝弱いほうか? ……それほどでも うちの妹も朝弱くてさ。さっき起きてきたばかりだから、今日は遅刻確定だろうなあ ……そうですか そういえば、千波とクラスメイトになったんだって? ……遺憾です 仲良くしてもらえるとありがたいかな。言動とか変なやつだけど、ああ見えて根はいいやつだからさ ……善処します 言葉は少ないがちゃんと受け答えてくれてホッとする。 お隣さんに加え千波のクラスメイトということで、今後も顔を合わせる機会が多いだろうし。 蒼さんと一緒に校門に着くと、そこではなにやら人だかりができていた。 なんだ……? ……まさか 蒼さんはスクールバッグを胸にぎゅっと抱いた。 ……やられた なにがやられたんだ? たぶん、これ、持ち物検査です 行列の先を見ると、『生徒会』と書かれた腕章をつけた生徒が何人か立っている。 近くには長机がいくつか置いてあり、その上に生徒がそれぞれバッグを載せて相手に中を見せていた。 生徒会の持ち物検査……か? 一学期に一度くらいの頻度であるって、以前にホームルームで聞きました ほとんど抜き打ちなのか…… 今時抜き打ちの持ち物検査を敢行している学校があるとは。 ヒバリ校って、実は荒れてるとか? ……知りません 校則に厳しかったり? ……知りません 蒼さんもこう見えて不良だったり? ……死ねばいいのに い、今とてつもなくひどいことを言われたような? 俺と蒼さんは列の最後尾についた。 生徒たちは皆、嫌そうにバッグの中身を見せているが、特にお咎めを受けることなくスムーズに校舎へと抜けていく。 おかげですぐに自分らの番になりそうだ。これで時間がかかって遅刻扱いにされたら適わない。 ………… 蒼さんはスクールバッグを強く抱いている。 顔は無表情だが、どこか不安そうに感じた。 蒼さん、どうした? ……どうもしません もしかしてさ、バッグの中、見られたくない? ……見られたい人なんて誰もいません そのとおりだ。 俺なんかは転入したてということで、持ち物と言えば教科書と筆記用具くらいなものだが、通い慣れてくれば私物のひとつも持ち込んでしまうだろう。 前の学校でも雑誌の類なんかは俺もよく持ってきた。携帯電話はもちろん、携帯ゲーム機を持ち込むやつもいた。 この学校って、ケータイは平気か? ……持ってきてるんですか? いや、持ってきてないけど。転入したばかりだし、使うこともなさそうだったから ケータイは大丈夫です。ただ放課後以外は使用禁止だったと思います 蒼さんは持ってきてるのか ……持ってきてますけど、教えません なにが? メアドとか? なにかやばい私物、持ってきてるのか? ……なんでですか そんな感じがしたから ……迷惑です な、なにが? 詮索が? 女子なんかは男子とはまた違う理由で、私物を見られたくなかったり教えたくなかったりするのかもしれない。 はい次の人、バッグを開けて机に載せて 俺たちの番が来た。 蒼さんが動かなかったので、俺が先にバッグを載せた。 問題なし。はい、次の人 あれ。キミって、こさめさんのお姉さん? こさめさんの双子の姉は生徒会役員と聞いていた。 そうだけど……。あなた、小河坂くんよね ああ。一度会ってるよな こさめのクラスメイトだそうね。あとで知ったんだけど こさめさんにはいきなり世話になりっぱなしだよ。いろいろ助かってる あの子は人当たりがいいからね。言葉遣いも丁寧だし、南星さんと違って礼儀をわきまえてるし これで天クルにさえ所属してなきゃ自慢の妹なのに…… 肩がぷるぷる震えていた。 天クル、嫌いなんだな そうね。あなたも南星さんから勧誘されるかもしれないけど、相手にしないことを祈ってるから もう勧誘されたし、興味も湧いているんだが。 それと、こんな遅刻ぎりぎりの時間に登校は感心しないわね。家は坂のふもとで近いんでしょう よく知ってるな ちょっと調べればわかるわよ。生徒会役員は生徒の個々の情報を把握する義務だってあるし 生徒会はもしかしたら風紀委員会の役目も果たしているのかもしれない。 そもそもあなた、転入試験で目立ってたからね やめてくれ……トラウマが ……なんだかよくわからないけど でも成績が優秀でも生活態度が悪ければ生徒会には入れないわよ。今後は気をつけることね いや、誰も生徒会に入りたいなんて言ってないし 我が生徒会は常に有能な人材を探しているの。頭ごなしに否定しないで一考してくれると助かるわね なんか明日歩や飛鳥の部活勧誘に似てるぞ。 まだヒバリ校に転入したばかりだし、すぐに夏休みも挟むから、詳しい話は二学期になってからお願いするわ 無理矢理じゃないならいいけど。ええと……姫榊さん? ええ。まあよろしくということで ああ。よろしく それじゃ、わたしは持ち物検査があるから 仕事の邪魔して悪かったな そう言ってもらえるとありがたいわね。こういう検査って生徒から目のカタキにされやすいし だろうなあ 勘違いはしないでね。好きでやってるわけじゃないし、あくまで生徒会は良識をもって行動してるつもりだから それを聞いて安心する。 蒼さん、役員のお姉さんは良識的な人だし、もし引っかかってもお目こぼしを……って、あれ 姫榊さんと会話している間に蒼さんは生徒会の検閲を素通りしていた。 ちょっとちょっとっ、そこの生徒! まだ検査が終わってないわよ! ……ちっ い、今舌打ちが聞こえたような? それじゃ、バッグを開けて机に載せて ……どうぞ それ小河坂くんのスクバでしょ!? あなたのを見せなさいって言ってるの! ……ちっ どうも蒼さんは困っているようだ。予想どおり、運悪くなにか持ち込んでしまったらしい。 蒼さんをかばう 蒼さんをかばう 成り行きを見守る なあ、姫榊さん。やっぱり持ち物検査は行き過ぎじゃないか? ……あなた、さっきのわたしの言葉聞いてなかったの。こっちだって好きでやってるんじゃないんだから だとしても、無理やりはどうかと思うぞ そういう規則なんだから諦めなさい でもな…… ダメ元で食ってかかる。 蒼さんは、俺の言葉を意外そうに聞いていた。 仕事熱心なのは認めるけどさ ならそれを態度で示してよ 生徒ひとりくらい見逃したって罰は当たらないだろ? つまりこの生徒はなにか持ち込んでいるわけね そのうちに勘ぐられてしまう。 ……最悪 い、いやいや違うって! 俺だって蒼さんのバッグの中なんて知らないし! ……気化すればいいのに 俺って揮発性!? ……感謝は、いちおうします 小さくつけ足していた。 蒼さんっていうのね。どちらにしろ、あなたのバッグの中身を見ればすむことよ あなた、名前は? ……小河坂洋 いや蒼さん、それ俺の名前だから 見守るはずが口をはさんでいた。 蒼さんっていうのね。なにか隠しているみたいだし、よけいバッグの中身は見せてもらうわよ 姫榊さんはずいっと蒼さんに迫る。 蒼さんはバッグを抱きしめてうつむいている。 ……姫榊さん、もういいだろ? よくない。小河坂くんは知らないだろうけど、この雲雀ヶ崎は娯楽施設が乏しいから風紀も乱れやすいのよ それって普通、逆じゃないか? 娯楽が少ないなら風紀を乱す物だって買いづらいだろうし そう考えていた過去があったから、ヒバリ校はどんどん風紀が乱れていったの 今はネット通販で簡単に買い物できるし、むしろ外で遊ぶ場所が少ないから生徒は学校で遊ぶようになる それがエスカレートしていったのよ。要するにみんな遊びに飢えてたんでしょうね ま、暴力沙汰なんかの問題じゃなくて、落書きやらのかわいいイタズラばかりだったみたいだけど 進学校だったら勉強に精を出す生徒も多くなるんでしょうけど、このヒバリ校はどっちつかずの標準な学校だし もともと雲雀ヶ崎自体、田舎だしね なんか雲雀ヶ崎が嫌いみたいな言い方だな 嫌いじゃないわよ。好きでもないけど ヒバリ校って荒れてるのか? 一時期はさっき言ったみたいに遊びがエスカレートしたらしいけど、今は落ち着いてるわ。先生や、生徒会の先輩方の働きによってね だから、ヒバリ校を守った先輩方のためにも、現生徒会だって風紀を乱す生徒を許してはいけないの ……私たち生徒のためにお疲れさまです そう言ってもらえると嬉しいわ これからもお務めがんばってください ありがとう ではごきげんよう ごきげんよう……って、こらこらこらっ! ちゃっかり逃げようとするなそこの一年! ……一年ってバレた ヒバリ校は一年生だけ制服が違うし、それでなくたってあなた童顔で背が低いから ……なにか屈辱 それじゃ、バッグを開けて机に載せて ……どうぞ だからそれ小河坂くんのスクバでしょ!? ……ちっ なんかループしてるなあ。 早く自分のバッグ見せなさいってば! チャイム鳴ったらふたりとも遅刻扱いにするからね! 俺までか……? 元はといえばあなたが無駄話始めたからでしょう。責任くらい取りなさい 濡れ衣だと思う。 気がつけば校門の辺りに生徒の姿はほとんどない。というか生徒会の腕章をつけた生徒しかいない。 俺たちがもたついている間に持ち物検査は終了したらしく、長机の片付け作業も始まっていた。 蒼さん、そろそろ潮時じゃないか? 遅刻扱いになったら結局このお姉さんに怒られるし ……とても遺憾 蒼さんは渋々とバッグを載せ、中を開いた。 ようやく観念したわけね はい終わり チャック締めるなっ、こんな一瞬で調べられるか! この人仕事遅い ……舐めた口利くのもそこまでにしなさいね。なにが出てくるのかとても楽しみだわ 姫榊さんがどんどん三流悪役になっていく。 スクールバッグの中を覗き込みながら手を突っ込んだ姫榊さんは、してやったりといった感じで笑みを浮かべた。 蒼さん、これはなにかしら? 姫榊さんが手にしているのは一見するとトランプだった。 答えてくれる? これはなにかしら? 筆箱です どう見ても違うでしょっ、カードゲームの類なんじゃないの!? カードゲームに似た筆箱です 中は普通にカードが入ってるんだけど!? カードに似たシャーペンです じゃあこれどこ押せば芯が出るのかしら!? そこです どこよ! あそこです ここのこと!? バカが見るー ……ちょっと生徒指導室まで来てくれるかしら 待った待ったっ、それってタロットカードだよな? 姫榊さんが持っているカードには見たような絵柄が描かれている。たぶん間違いない。 タロットカードって、占星術で使うカードのことよね ……占いますか? 占いません あなたは将来金髪になるでしょう それどういう意味!? あなたはツンデレという星占いの結果 勝手に決めないでくれる!? 早くデレを希望 むしろツンにしかなれないわよ!? ……いや、というかそれ星占いじゃないよな? ツンデレ占いです そんな占いないよな? ……ウザい う、ウザ? ごきげんよう 蒼さんはタロットカードを素早く姫榊さんから奪い返し、さっさと校舎に向けて歩いていく。 だから待ちなさいってば! まだ話は終わって…… タイミングよくチャイムが鳴った。 チャイム鳴っちゃったじゃない! これから生徒会室で検査に引っかかった生徒のリスト作らなきゃなのに! お疲れさま 授業に遅れたらどうしてくれるのよ!? 俺に当たるなよ!? さっきの子の名前、蒼さんだったわよね ああ。蒼千波 あおいちなみ……と。よし、あとでクラス調べて早急に呼び出しね 遅刻遅刻遅刻────っ!!! 遅れた遅れた遅れた────っ!!! ちょっ、そこの生徒っ、止まりなさい! 急ぐぞ、千波 あっ、お兄ちゃんっ、待って待って置いていかないで────っ!!! 姫榊さんの怒号を背中に受けながら、千波と一緒に校舎に駆け込んだ。 洋ちゃん、今朝は登校遅かったよね まあな。身内に朝が苦手なやつがいてな 午前の授業が終わり、昼休みというところで明日歩が話しかけてきた。 身内って、前にうちの喫茶店に来てくれた妹さん? そう、マヨネーズソース吸ってた妹 小河坂さんは、妹さんと一緒に転入してきたって姉さんからは聞いていますけど 一個下だからな。学校も同じなんだよ 妹と一緒に登校してんのか? 朝は限界の時間まで待って、突破したら置いていくことにしてるよ 洋ちゃん、妹さん思いだね ……今の言葉でそんな感想は出ないだろ そんなことないよ。だって限界まで待ってるんでしょ? しょうがなくな 洋ちゃん、やっぱり優しいよ そうか? その妹さん、名前はなんていうんだ? 小河坂千波だけど クラスは? たしか1‐Cだったかな なるほど なぜかメモっている。 ダメだよ飛鳥くん~! 洋ちゃんの善良な妹さんを怪しげな研究部に入れようとしてるでしょ! 怪しげ言うなっ、おまえ全国のオカルトファンを敵に回したぞ! 全国の天文ファンがあたしの味方だもん! 小河坂、放課後にでもその妹さんに会わせてくれるか? 飛鳥くんの毒牙にかけちゃダメだよ洋ちゃん~! 千波ちゃんは天クルに入れるんだから! やっぱそっちが本音かよ!? 洋ちゃん、兄妹で星降る夜空を観測しようよ! やっぱ兄妹で人魂漂う墓場だろ! 危ない上に不吉だよそれ~! ……悪いんだけどさ、うちの妹は文化系が苦手だから、どっちも無理だと思う 運動が得意なの? だったら荷物持ちお願いしたいな~、天体望遠鏡ってけっこう重いから カメラ機材を運ぶのに役立ちそうだな どうあろうと勧誘するつもりなのか……。 そういえば姉さんが、蒼千波さんという方を探していたみたいですよ。苗字が違いますから、小河坂さんの妹さんとは別人のようですけど うまく誤魔化せたようだ。 そろそろ学食に行きませんか? 勧誘でしたら食事のあとでも遅くないと思いますよ そうだね。席いっぱいになると困るし 小河坂、食べ終わったら仲介頼むぜ ……飛鳥くんも一緒に来るんだ 露骨に嫌そうな顔されると傷つくんだけど!? だって飛鳥くん、あたしの邪魔ばっかりするんだもんっ ケッ、じゃあカメラに命を賭ける者同士、どっちが先に小河坂に仲介頼むか勝負するか? いいよ、勉強以外なら じゃあUFOを撮影できたほうが勝ち UFOじゃなくて新星にしてよ~! なんにしろ千波の意志は無関係なんだな…… それだけふたりは熱意を持っていて、似た者同士ということですよ こさめさんがキレイにまとめてくれた。 でもさ、千波って俺と違って星には興味ないから、やっぱダメだと思うぞ 四人そろって箸をつけたところで、先手を打ってみた。 UFOには? ……なんか星より興味持ちそうだけど、兄としてはあまり勧めたくないな オレと一緒に人類社会に解け込み世界平和を脅かす宇宙人エージェントを見破ろうぜ! それ危ない人だから ひでっ! そっかあ。無理強いするつもりはないけど、でも洋ちゃんは星に興味あるんだよね? まあそれなりにって程度だけど 小河坂さんはなぜ星がお好きなんですか? なんていうか、過去にいろいろあってさ 過去? どんなこと? 明日歩がいきなり身を乗り出して顔を近づけてきたもんで、どんぶりを落としそうになった。 うちの喫茶店来たときも思ったけど。洋ちゃん、それなりにって程度じゃなくて、ほんとはすっごく詳しいんじゃない? そんなことない。俺、天体観測だってしたことないし では、星に関する知識が優れているってことですか? たぶん、それなりに それなりばっかだな 子供の頃に見たプラネタリウムに感動して、それで調べたくなったとか? いや……そうだな 説明するのは照れるんだが。 正確に言うと、子供の頃は天体観測してたのかもしれない。肉眼だけど 雲雀ヶ崎に暮らしてた頃か ああ。都会と違って、ここって望遠鏡とか使わなくても星がよく見えるから 雲雀ヶ崎の星空に感動して、星に詳しくなったのかもな 都会で望遠鏡を覗くよりも、それはもしかしたら満天の星空だったかもしれない。 それほどに雲雀ヶ崎と都会の空には違いがある。 その頃って、あたしとおんなじ小学校通ってた頃だよね 明日歩は腕を組んでうーんとうなる。 あの頃の洋ちゃんって、何事にもあまり興味なさそうって感じだったけど……。そのくせ勉強はいつも一番で 明日歩さん、それ以上は失礼ですよ あ、ううん、悪い意味で言ったんじゃなくて いや、べつにそのとおりだったし そのとおりじゃないよ。だって洋ちゃん、クールで孤高なところが女子にすごく人気あったんだよ 頭でっかちっていうのだって、洋ちゃんをやっかんだ男子が勝手に言い出しただけだったし フォロー、ありがとうな ……洋ちゃん、信じてない。ほんとの話なのに あの頃の「僕」は、家族や展望台の彼女以外の人の前ではいけ好かない子供だったのだ。 じゃあ小河坂さんの子供時代は、隠れ天文ファンだったということでしょうか? 洋ちゃん、どうなの? 明日歩のきらきら笑顔が眼前に迫ってきて、俺は仰け反りながら答える。 ……天文ファンとは違うな。友達の影響っていうか あの頃の洋ちゃんの友達……。誰だろ…… 顔を近づけたまま悩まないで欲しい。 たぶん、明日歩は知らないと思うぞ。彼女、上級生だったし おまえ小学生のガキでもう連れ持ちだったのかよ そうじゃなくて。友達って言ったろ 子供の頃にさ、よく遊んでた女の子がいたんだよ。その子の影響で星空を眺めてたんだ 展望台が、その頃の俺と彼女の遊び場だったんだよ 明日歩はようやく俺から顔を離すと、どこか悔しそうに言った。 ……あの頃の洋ちゃんと友達になれた人がいたなんて 明日歩さん、それは失礼を通り越して罪ですよ 悪い意味じゃないんだってば! わかってるから ……洋ちゃんはわかってないと思う なにを? じゃあその初恋の彼女が星好きだったわけか 勝手に初恋にするな。後半は正解 その人ってあたしと洋ちゃんの小学校に通ってたんだよね。あたしたちの先輩ってこと? そうなるな このヒバリ校でも先輩ってこと? ……それはわからない わかりたくてもわからない。 今日も授業の合間の休み時間に三年のクラスを見て回ったが、成果はなかったのだ。 ねえねえ、その人が星好きでヒバリ校の生徒だったら、天クルに入ってくれるんじゃないかな? 先輩ってことは、三年の可能性があるわけか そうですね。三年生だとしたら卒業まではもう一年もありませんけど、部を立ち上げるのなら勧誘の価値はあると思いますよ 洋ちゃん、その人の名前教えてくれない? 俺は苦笑気味に答える。 それがさ、忘れたんだよな つい数日前までは覚えていたのに。 なんだよ、初恋の相手を普通忘れるか? だから初恋じゃないって そうだよね。洋ちゃん、恋愛にも興味なさそうだったもんね 嬉しそうに言うのは失礼ですよ 悪い意味じゃないの! こさめちゃんの言葉ってフォローみたいに聞こえるけど、ほんとはおとしめてるんじゃなかってたまに勘ぐっちゃうよ~! くわばらくわばら 意味わかんないよ~! なんか話がズレてきた。 明日歩。ちょっといいか? なに? 顔はドアップにしなくていいから!? 冷や汗ものだ。 昔よく遊んでた子──展望台の彼女は、名前は忘れたけどこの近くに住んでたのは確実なんだ そしてヒバリ校の生徒かもしれなくて、星が好き…… 明日歩はきょとんとしている。 だからさ、もしかしたらもう天クルに入ってるんじゃないかとも思うんだけど みんなの話を聞いていて思いついた可能性だった。 明日歩とこさめさんはまったく同じタイミングで顔を向かいあわせた。 天クルに所属する三年生の女子といったら、ひとりしかいませんね うん。〈諏訪雪菜〉《すわせつな》先輩だね 諏訪……雪菜。 頭の中で反芻する。検索をかけてみる。 展望台の彼女はこの名前だっただろうか? ……なにも思い浮かばない。引っかからない。 それほどキレイさっぱり忘れているのか、俺は? めちゃくちゃショックだ。 雪菜先輩が、洋ちゃんが言う展望台の彼女さんなの? それを知るためにも、その諏訪って人に会わせてくれないか? なんだよ、実はずっと好きでしたつきあってください? だから違うんだって! 洋ちゃん、雪菜先輩に会いたいの? ああ。お願いできるか? 明日歩はにんまりと笑った。なにか企んでいる笑みだった。 どうしよっかな~。そんなに会いたいの? ……まあ、会いたいといえば会いたいというか そんなには会いたくないんだ い、いや…… どうしよっかな~ 明日歩さん、小河坂さんが困っていますよ あ、困らせるつもりはなかったんだけど 楽しそうに言われても、つもりがあったとしか思えん。 洋ちゃん。会わせるのだったら簡単だよ 雪菜先輩は天クルの部員ですからね でもタダで会わせてあげるのは考えちゃうかなあ 何度も言いますが、雪菜先輩は天クルの部員ですからね ……つまり? 洋ちゃんが天クルに入ってくれればすぐ会えるんだよ! ……そう来たか。 いや……入りたくないわけじゃないんだけどさ。バイト探さなきゃだし、時間的にちょっと…… あたしのお店でバイトすればいいよ。部活の時間は外せるようにしてあげるから それは魅力的な話かもしれないが。 ……でも、メイド喫茶でか? メイド喫茶じゃないってば。お父さんがメイド好きなだけ 男の俺でも雇ってくれるのか? うん。ぜんぜん大丈夫! 小河坂さんのメイド姿は興味ありますね やっぱり考えさせてくれ よけいなこと言わないでよこさめちゃん~! オレも新しいカメラ欲しいしバイトしようかな がんばってね なんか態度冷たくね!? バイトは考えてみるからさ、先に諏訪って人に会わせてくれると助かるかなあと 名前は忘れてしまっても、彼女の顔は覚えている。 本人にさえ会えれば、忘れていた想い出だってよみがえる。そう思えるのだ。 じゃあ前向きに考えてね、絶対だよっ ああ。約束する 明日歩は満足げにほほえんだ。 こさめちゃん、食べ終わったら雪菜先輩のクラスに寄ってみよっか そうですね。雪菜先輩は天クルにはあまり顔を出しませんから、放課後まで待たないほうがいいかもしれません よくサボる人なのか? うん。ほとんど幽霊部員だから ……その人、ほんとに星が好きなのか? 展望台の彼女だったら毎日のように天クルで活動してそうなイメージなのだが。 天クルは実質的には活動停止の状態なんです。生徒会が屋上の使用を禁止していますから 主にこももちゃんがね。なんで天クルを目のカタキにしてるんだろ…… まあ実際、まともに活動してるとこなんか見たことねえな そんなわけで、いくら星好きといっても、天クルに顔を出さないのは仕方ないのかもしれません なるほど でもいつか絶対こももちゃんから許可勝ち取るからね。七夕の日はあたしが〈洒涙雨〉《さいるいう》流しちゃったんだから 一学期中には勝ち取りたいところですね そのためにも部員を集めて正式な部として立ち上げる! あたしたち天クルの目標だよ! オレの目標は部も個も超えたオカ研の存続だぜ がんばってね だからおまえ冷たすぎだろ!? いくら星と小河坂にしか興味ないからって! え、よ、洋ちゃん? 見ていて思いますけど、明日歩さんは星と同じくらい小河坂さんが好きですよね なっ、なんでそうなるのっ、洋ちゃんは関係ないでしょ! おまえアレか、実は小河坂の初恋相手にヤキモチ焼いてるってオチか。だから会わせるの渋ったり交換条件持ち出したりしてたのか だから違うの! あたしが洋ちゃん好きだったのは子供の頃の話で…… 時間が止まった気がした。 一瞬遅れて明日歩の顔がぽんっとトーストが焼き上がったみたいに赤くなる。 ……ご、ごちそうさま 明日歩は抱きかかえるようにトレーを持ち上げると、そそくさと立ち去った。 三人でぽかんとして明日歩の行方を追っていると、返却口で食器を返したあとに目が合った。 うっ……うわーん! ダッシュで逃げていった。 いやあの……これから雪菜先輩とやらに会わせてくれるんじゃ? わたしでよろしければ、ご案内しますよ あー、地雷踏んだな、こりゃ なんというか、複雑な気分だった。 校舎の四階に到着した。 すでに俺のクラスが位置する三階と、昇降口と学食がある一階に次いでよく来ている階となっている。 三年生にも見知られている気がして居心地はかなり悪い。 このクラスです。少々お待ちくださいね 先導していたこさめさんはクラスの入り口で立ち止まると、手近な上級生を捕まえる。 物腰が丁寧なのもあってか、こさめさんの頼みを相手は快く承諾してクラスに消えていく。 こさめさんって同級生でも上級生でも同じ言葉遣いなんだなあ。 小河坂さん、お待たせしました 尋ね人が現れたようだ。俺はこさめさんのところに近寄っていく。 姫榊妹か。なんの用だ? 雪菜先輩に会いたいという人がいまして ……会ったことがある人だった。 ああ、キミか 長い前髪の合間に覗く瞳が俺を捉える。 話すのは三度目になるか あれ……お知りあいですか? 少しばかり縁があったんだ ……こさめさん こさめさんに首を振って合図する。 あ……そうですか。残念です なにが残念なんだ? ええと…… こさめさんは頬に手を当て、困ったように俺を見る。 事情を話していいのか聞いているのだ。 ……あの、雪菜先輩 ああ、私に用があるんだったな 三年生に星を見るのが好きな女子生徒っていますか? 雪菜先輩は目をすがめる。 心当たりはないな あれ、雪菜先輩自身は好きじゃないんだろうか。だから天クルに入っているんじゃ? その質問になにか意味が? ……ちょっと人捜しをしてるんです だからキミはよくこの階に足を運んでいたわけか そうです キミが展望台におもむくのもそれが理由か この言葉には度肝を抜かれた。 違うのか? ………… 雪菜先輩……詮索はあまり 失礼か。そうだな、私にはキミに踏み込む権利がない 今はまだな なんでこの人はこう陰謀の匂いがぷんぷんなんだろう。 小河坂さん、すみません。雪菜先輩は悪気があるわけじゃないんです。ただ疑問に感じただけだと思うんです ……フォローされてしまったな 雪菜先輩はバツが悪そうだった。 事情を詮索するつもりはないが、人捜しであればもう少し詳しい情報が欲しいな。役に立てるかもしれない 情報は、今言ったのがすべてなんです 三年で星を見るのが好きな女子生徒? はい 顔と名前は? 顔は、会えばきっとわかります。名前はわかりません ……それはまた難儀だな 雪菜先輩は肩にかかった髪を後ろに流す。 私が思いつくのは、三年の名簿でも調べることくらいか。顔写真でも載っていればたどり着くかもしれない それは俺も昨日に考えていた方法だった。 三年生の名簿って、生徒も閲覧できるんですか? 私は知らないな。どうだ、姫榊妹? 名簿の閲覧は、理由があれば可能ですけど……。たぶん、意味がないと思います わたし、以前に図書委員の仕事で見たことがあるんですけど、顔写真までは載っていませんでしたから とすると、なんだ。 手がかりは途絶えたのか? ……いや、そうじゃない。 効率の良い方法がなくなっただけだ。展望台の彼女がヒバリ校の生徒であれば、俺はまだ見つけ出せるのだから。 俺が諦めさえしなければ。 履歴書の類なら顔写真も載っていそうですけど……。こちらはさすがに閲覧できないと思います 個人情報だからな。プライバシーやらの問題か ………… あの……小河坂さん こさめさんの声が本当に心配そうだったので、俺は吹っ切るつもりで言った。 すみません、雪菜先輩。お手数かけて いや、こちらこそ役に立てなくて悪かった それじゃあ、失礼します 雪菜先輩、たまには天クルに顔を出してくださいね ああ、わかった いつもそう言いますけど、来ないんですから 最近、どうも仕事が増えそうな気配があってな。だが善処はしよう 俺はこさめさんと一緒に来た道を戻る。 第一印象とは違って、雪菜先輩も感じがよさそうな人だったので安心した。 仕事が増えないことを、祈っているがな 気分は重かった。 そういう意味では授業というのはありがたい。黒板の文字を書き写すのに集中すれば頭を空にできるのだから。 目線を前方と手元だけに往復させる。 視覚情報を文字情報に転写する。 それだけを繰り返す。 そうしていると、ときおり視線を感じることがあった。 どこからだろうと思ってその方向を探すと、隣の明日歩と目が合うことが多かった。 だけど明日歩はすぐに視線を逸らして黒板に向き直ってしまうので、気のせいかと俺も授業に集中する。 時間が経つとまた視線を感じ、隣を見ると明日歩とまたまたばっちり目が合った。 そしてまた逸らされる。 俺は首をかしげて黒板を見る。 明日歩は授業の集中力がないとは思っていたが、こんな頻繁によそ見をするのは初めてだ。 なあ、明日歩…… 明日歩は逃げるように顔を背ける。 俺は黒板に目を戻す。 そんなふうに、午後の授業を過ごしていた。 あ、あの……洋ちゃん ホームルームが終わって放課後になると、明日歩がそわそわしながら声をかけた。 ようやく。 昼休みの一件以来、俺たちは会話を交わしていなかった。 ち、ちょっと……話があるんだけど うつむき気味に俺を見て、なにかに耐えるようにスカートをぎゅっと握っている。 ここじゃアレだし……外、いこ…… 声が震えている。唇も震えている。 瞬きすると長いまつげがふさふさ揺れる。 その奥、瞳が濡れている。 あのさ、明日歩…… な、なにっ 昼休みの件だったら、気にしないでいいからさ え…… 明日歩は信じられないといった顔をした。 き、気にしないでいいって…… ……ああ。誰だって知られたくない過去ってあるし、俺だってそうだから だから聞かなかったことにする。忘れるから ………… これじゃあ……ダメか? 明日歩はこそっとため息をついた。 スカートを握っていた手が、ゆるんだ。 ……やっぱり洋ちゃん、頭でっかちだね 明日歩は、今度は盛大にため息をついた。 まあ、いいけど。洋ちゃんの言葉にも一理あるし あははっ…… よくわからない笑顔。 想い出は、想い出だよね 洋ちゃんだって、そうなんでしょ? なんのことか一瞬、わからなかった。 ごめんね それはなんに対しての謝罪なのか。 ただ、少なくとも、明日歩はなにも悪くない。 だとすると、悪いのはきっと俺だ。 ……俺のほうこそ、悪い もう。なんで謝るんだよ なんでだろうな。本当に。 それで、どうするの? ……なにが? あたし、話があるって言ったと思うんだけど ……今のが話だったのでは? 帰りながら話したいし、一緒に教室出ない? 天クルはいいのか? うん。今日は休みにする そんな勝手に休みにしていいのか? いいんだよ。あたしは副部長なんだから それは新しい情報だ。 じゃあ俺も特に用ないし、つきあうよ 本音を言えば、展望台の彼女を捜しに街でもうろつくつもりだった。 だけど明日歩に対する、このよくわからない罪悪感がそうさせたのかもしれない。 ごめんね、こさめちゃん。今日はあたし、ちょっと用があるから先帰るね はい。ごゆるりと なんだ南星、小河坂と一緒に帰るのか? うん、悪いの? 悪くはねえけど。これから告白か? っ! ……こわ 悪趣味ですよ。ワザとやってるでしょう、飛鳥さん こりゃ本格的に地雷か…… 詮索も悪趣味ですよ 洋ちゃん、いこっ! 明日歩に腕をつかまれ、ドキッとした。 ぐいぐいとひっぱられる。ほとんど腕に抱きつかれている格好だ。 おい、明日歩…… なにっ! 怒られた。 明日歩は人と話すときの距離が近い。転入したばかりでも、嫌というほど知っている。 だが触れられたのはさすがに初めてだ。 想い出は、想い出だよ…… だけど……大切だから、大事にしすぎて、忘れられない想い出だってあるんだよ…… 洋ちゃんだって、そうなんだよね…… 校門に向かう途中、そんな声が聞こえた気がした。 なあ、明日歩…… なにっ! ……いや、そんな怒らなくても 怒ってないっ! 校門に着いた。 ヒバリ校は街に娯楽施設が乏しい代わりに部活動が盛んなのだと聞いている。だから帰宅途中の生徒は見かけない。 遠くのグラウンドからは、初夏の風に乗って運動部の喧噪が届いていた。 それでさ、明日歩…… だからなにっ! いいかげん、腕、離してくれると助かる ………… ひやあっ 間の抜けた声をあげて飛びすさった。 あ、あははっ…… 後ろ頭に手を当てて照れ笑い。 俺はどっと疲れを感じる。べつだん異性に慣れているわけじゃないのだ。 それで、話ってなんだ? あ、え、えと…… 明日歩らしからぬもじもじっぷりだ。 ……まあ、明日歩らしいと言っても、つきあいが長いわけじゃないし俺が知らなかった一面ってことなんだろう。 えと……そ、その…… あ、あのね、あたしね…… 明日歩は上目遣いに俺を見る。 洋ちゃんのこと…… ………… ……あれ、話って、本気で告白? そんなわけないよな。 よ、洋ちゃんのこと…… そんなわけ……。 洋ちゃんのこと、わかる気がするから……。展望台の彼女さんに会いたいって気持ち ……ほら、違った。 だから、考えてみたんだけど 明日歩は照れ笑いを浮かべながら。 これから、あたしと一緒に小学校いってみない? そう、言った。 こさめちゃんから昼休みのこと聞いたんだけど。展望台の彼女さん、まだ見つかってないんだよね? まだ、出会えてないんだよね? 顔……まだ、見てないんだよね? だから…… ……そうか 俺はようやく納得した。 うん。小学校の卒業アルバムなら、展望台の彼女さんが載ってるんじゃないかな? 展望台の彼女は俺たちと同じ小学校に通っていた。 学年はわからない。年上としか知らない。 だがヒバリ校と同じで、全年度の卒業アルバムは保管しているだろう。 だから、それを調べれば今度こそ連絡先を手に入れることができる。 もしも俺ひとりだったら難しかったかもしれない。 俺は雲雀ヶ崎の小学校を卒業していない。OBじゃないし、アルバム閲覧の許可を取るのも厳しそうだ。 だけど明日歩はれっきとした卒業生。 俺は感謝しなければならない。 明日歩のおかげで、俺はこうして小学校に足を運べる。 俺、小学校の卒業アルバムって持ってないんだよな 洋ちゃん、転校しちゃったもんね 明日歩は俺の隣を歩いている。 その距離はちょうど教室の席の間隔くらいに見える。 位置もまた、教室と同じで右隣だ。 明日歩はアルバム持ってるんだよな もちろん。今度見せてあげようか? べつにいいよ そうなんだ ああ クラスメイトだった人も思い出せるかもしれないのに 名前だって思い出せるかもしれないのに 展望台の彼女さんだって…… 言葉尻が、少し沈んで聞こえた。 夢見坂を下って直進すれば駅前のロータリーが出迎える。 洋ちゃん、小学校までの道覚えてる? なんとなくなら こっちだよ。いこ 右に折れると駅向こうに出られる踏切があったはずだ。 想い出どおり、明日歩の足は右に向かった。 山側──線路を挟んでヒバリ校が建つ側は坂が多いが、俺たちが向かっている海側は比較的平野となっている。 風情あふれる商店街を横目に、潮風に誘われるように歩いていく。 記憶はおぼろであっても身体は覚えているようだった。 それとも明日歩の案内のおかげだろうか。 俺の足は、小学校に近づいているという実感を文字どおり踏みしめているのだった。 そして、目的地に到着した。 うーん、やっぱり変わってないね。あたしたちの小学校って感じ 明日歩もひさしぶりだったのか? 洋ちゃんほどじゃないけどね。卒業したら、来る機会なんてほとんどないし 同窓会とか、そのうちやりたいなって思うよ そっか うん そのときは、洋ちゃんも呼ぶからね べつにいい ……素っ気ないなあ、頭でっかち その呼び名はやめてくれ。まだ怒ってるんだろうか。 洋ちゃん、ひさしぶりに来た感想は? 感慨深くもあり、それほどでもなかったり どっちなんだよ、もう 実際、あまり覚えてないんだよな 身体は覚えていても、頭がついていかない感覚。 ここが俺の小学校って言われればなるほどって思うし、ここは違いますって言われれば同じようになるほどって思う気がする ……洋ちゃんは、学校が嫌いだったの? なんで 嫌いだったから思い出したくないのかなって それは違う。勉強は嫌いじゃなかったし クラスは嫌いだったの? それも違うと思う 洋ちゃんは…… その寂しそうな声が印象的だった。 洋ちゃんは、学校に興味がなかったんだね 俺は学校が嫌いじゃなかった。 だが好きかと問われるとそれも違うように思えた。 俺は、学校は好きでも嫌いでもなかった。 明日歩のいるクラスは好きでも嫌いでもなかったのだ。 洋ちゃんは、展望台のほうが、大切だったんだね 明日歩は校舎に向かって歩いていく。 俺もあとに続く。 その途中だった。 どこからか視線を感じ、俺は振り返った。 ………… 俺たちがここに着いたあとに通りかかったのだろう。 彼女は校門の近くに立っていた。 そして視線を注いでいる。 俺、あるいはその後ろに建つ小学校に。 ……誰だろう。 ここの卒業生とか? 怪訝に思うのも仕方がない。 彼女はおよそ街中を歩く格好じゃなかった。 夏なのにカーディガンを着ている。 しかも靴はスリッパだ。 ………… 彼女は立ち去った。 ……洋ちゃん? 明日歩が心配そうに戻ってきた。 どうしたの? ……いや 俺はもう誰の姿もなくなった校門から、後ろ髪引かれる気分で顔を背け、歩き出した。 来客用の昇降口には窓口が設けられている。 卒業生だと明日歩が告げると、事務員が用件を尋ねてくる。 明日歩は丁寧に説明する。若干ウソも混じっているようだ。 尋ね人がいるなんて理由は、ともすると不審者扱いされかねないからだ。 明日歩の説明は続いている。 それを後ろでぼんやりと聞いている俺がいる。 なあ、小河坂洋。 おまえは小学校が好きでもなんでもなかったくせに、なぜ雲雀ヶ崎が好きだなんて言えるんだ? やっぱりそれは、展望台の彼女の影響か? すべては、会えばわかる気がした。 ……………。 ………。 …。 今日は、ありがとうな ううん……そんなの…… 明日歩の家、商店街だよな。じゃあここでお別れか ………… また学校で。それじゃあ きびすを返す前に明日歩が言った。 ごめんなさい…… 肩から膝まで力が抜けた。 ……なんで明日歩が謝るんだよ ………… 気にするなよ。頼むから 明日歩は俺を手伝ってくれただけなんだ。 だから、頼むからそんな顔するな。 じゃないと俺まで保たなくなる 諦めたら後悔が待っていると、過去の「僕」がふくれっ面で言ってはいても。 なにか、もう、手遅れなのだと思ってしまう。 展望台の彼女は、小学校の卒業アルバムには載っていなかった──── 俺たちは事務員に案内されて、図書室で卒業アルバムを見せてもらった。 年代からして十冊未満に抑えられたため、それほど時間はかからずに調べ終えることができた。 一冊ずつ慎重に調べたつもりだった。 だけど展望台の彼女らしき卒業生は見当たらない。 俺はさすがに狼狽した。 雲雀ヶ崎の小学校は学区制だ。ヒバリ校とは違い、この近くに住んでいれば必ずこの小学校に入学する。 そして彼女は俺と一緒で展望台まで歩いて訪れていた。 子供の足では、夢見坂の勾配を考えても、この近くに住んでいなければとてもじゃないが出向けない距離だ。 彼女の住所は俺と近所だったはずなのだ。 だから展望台の彼女はこの小学校出身で間違いない。 なのに、卒業アルバムには載っていない……。 なぜだ? 可能性はひとつしかないように思う。 展望台の彼女は、おそらく、俺と同じで転校したのだ。 卒業前に違う街に引っ越したから、俺と同じで卒業アルバムに載っていないのだ。 だとしたら……。 だとしたら、出会える確率はほとんどゼロだ。 名前を覚えていようが忘れていようが、関係ない。 連絡先をつかめなければ、この世界のどこに住んでいるのかわからない人間を捜すのは、不可能だ。 ……はは 力が抜けた。 明日歩と別れ、保っていた最後の緊張がこのとき崩れた。 俺は惰性で歩いていた。 橙色に染まる夢見坂の急勾配がひどくだるかった。 ……キミか フェンスの前では雪菜先輩が立っていた。 今日もまたここを訪れるのか ………… 理由は尋ねても答えないのだったな ………… 展望台の彼女とやらは捜せたか? ……いえ そうか 雪菜先輩はフェンスを越えた先を流し見る。 キミは、もしかしたら、その子を待つためにこの展望台を訪れるのか? 答える気力はなかった。 独り言だ。忘れてくれ 雪菜先輩は立ち去った。 俺は横手の林に立ち入った。 正直、逃避のようなものだったのかもしれない。 俺がこの展望台を訪れるのは彼女を待つためだ。 だが実際はメアに会って禅問答みたいな会話をするくらいでなんの成果もなかった。 いいかげん悟ったはずだ。 なのに懲りずに足を向けるのは、この現実から目を背けたいからなのか。 彼女に出会えないという現実から逃げ、想い出に浸っていたいだけなのか……。 陽が落ちていた。 眼下に散在する街の灯火が、頭上の星空に負けないくらい輝いている。 とはいえ今日が晴天だったら星空の光のほうが勝っていたに違いない。 今日は一日、うっすらと雲がかかっていた。 曇り夜空。 星が見えないわけじゃない。 見えないわけじゃないけど、その光は頼りない。 元気、ないのね 星々と同じく、メアの姿もどこか頼りなく映った。 具合でも悪いの? いや じゃあなんなの? さあな 今日のあなたはダメダメね そうだな メアには尋ねたいことが山ほどあったはずなのに。 なにかあったの? まあな わたしのせい? いや わたしがカマで刺したせい? いや あなたの悪夢を刈ったせい? いや わたしを恨んでるんじゃないの? 恨んでいるかもしれない。そうじゃないかもしれない どっちなの? どっちもなんだ ……どういうことなの? 大切な人が、いたんだ ………… べつに恋をしていたわけじゃない。俺は初恋なんて経験したことはない だけどその子は俺のかけがえのない人だった その人を、失ったかもしれないんだ 一瞬の沈黙が落ち。 そう ああ だからあなたは悲しいの? ああ だからあなたは──── そんなにも、悪夢に苦しむの? そう聞こえた気がした。 だけどメアの姿は消えていた。 頼りない星の輝きはまだ雲に隠れていないのに。 足音が聞こえたからだろうか。 うわあ…… 振り向くと、そこには別れたはずの明日歩の姿。 星が、こんなに近くに見える! 雲に覆われていたはずの夜空。 いつからだろう、そこはもう幕が開け、星たちの競演が始まっている。 手を伸ばせばつかみ取れそう 背伸びをすればもぐれそう 見てるだけで、もう、溺れそう いつかその星がこの手につかめると思っていた、想い出の展望台。 こんな場所、雲雀ヶ崎にあったんだ…… 明日歩は両手を広げて感嘆する。 その姿は、空から降る星の欠片を待ち受けているようにも見える。 どうして…… だって洋ちゃん、坂を登っていくんだもん。てっきり家に帰るのかと思ってたのに だから、洋ちゃんのあと、つけてきちゃった それは俺に話しかけるようでもあり、星に語りかけているようでもあった。 知ってる、洋ちゃん? 星がよく見える場所の条件って、意外と難しいんだよ 都会だと人工の明かりが多くて夜空が見えづらい。そこに比べれば雲雀ヶ崎のほうがたしかにずっと見えやすい でも雲雀ヶ崎だって人工の明かりがないわけじゃないし、問題になるのは〈光害〉《こうがい》ばかりじゃない 近くに水場があったりすると、霧やもやが出て星の光をさえぎることもあるんだよ だから、ここは、ステキな場所 だってこんなにも見渡せる。360度、全部! 全部、両手につかみきれないくらい、たくさん! 明日歩の声が澄み渡った夜空に響く。 あたし、この場所、大好きだよ! 東の空高く、雄大な夏の大三角がゆっくりと回転する。 はくちょう座の十字がまるで天の川を分断するように泳いでいる。 そして南の空にはさそり座が地平線近くに姿を見せ始め、赤色の一等星、アンタレスを浮かばせていた。 あたしはね、星が大好きなんだから! 湾曲する港の黒々したシルエット、街の灯火を映す運河の水面、夜空一面には目がくらむような星の輝き。 だから俺は無性に自慢したくなる──どうだ、ここは夢のようにステキな場所だろう! 双眼鏡、持ってくればよかったな…… 望遠鏡じゃなくてか? あたしの望遠鏡は部室に置いてあるから。それにけっこう重いんだよ、望遠鏡って。言ったと思うけど だから、外に持ち運ぶのはたいてい双眼鏡。観測するときブレないように、三脚も一緒にね あとは星図に、懐中電灯、方位磁石、今の時期だと飲み物とタオルと…… 明日歩は「あははっ」と笑った。 だけどね。いいんだ 今夜は必要ないって思うんだ 宇宙には、肉眼で見える星が八千個あるって言われてる そのうち、一晩に見える星はその約半分の三千五百個 あたし、たぶん、その星全部をこの目に映してるよ 明日歩の大きな瞳は数えきれない光をたたえている。 洋ちゃんの言葉、信じられる 肉眼でも天体観測してたんだって、信じられる 展望台の彼女さんのこと大事にしてるんだって、信じられる そうか うん なあ明日歩 うん? 俺、天クルに入ろうって思うんだ そっか ああ 展望台の彼女さんを待つために? ああ このステキな展望台で待つために? ああ こうしてあの日見た星空を見上げながら。 じゃあ、待てばいいよ 雲雀ヶ崎の星空を眺めながら待てばいいよ 焦らなくてもきっと出会える。その人もあたしたちと同じで星が好きなんだったら、絶対出会える 洋ちゃんは、あたしたちと一緒に天体観測すればいいんだよ そうすれば、想い出の人と、出会うことができるんだよ そんな明日歩の言葉が心に響いた初夏の日のこと。 俺のことを思い出してくれた彼女の近くで、俺が忘れてしまった彼女と出会えることを願って。 ようこそ我が天クルに、新入部員さん お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……朝っぱらから大声出すな、聞こえてるから だってねだってねっ、今日は七度目の正直でようやく早起きできたのに洗顔用の千波専用子ウサギタオルがどこにも見当たらないんだよ! それだったらおまえ、夕べアイス食べ過ぎて腹痛いって言って、タオルを腹巻き代わりにして寝てたじゃないか あ、そういえば 千波はパジャマの上着をぺろんとめくった。 へそと下乳が見えた。 あれ、ないよ? つーかおまえ、場所を選べ ……えっち いや萌えないし お兄ちゃん顔赤いもんっ そんなことない 真摯ではなく紳士に言う。 でもお兄ちゃん観察日記によると、お兄ちゃんが顔赤くして目を逸らすときは照れてるか後ろめたいことがあるときか、もしくはエッチな想像にハァハァして…… 破り捨てる。 三冊目もお亡くなりに!? じゃあ朝食作るかな 待ってよっ、いいよもうっ、どうせその日記は保管用だもんっ、妄想用はべつにあるもんっ ……なんだよ妄想用って。 お兄ちゃんっ、今朝は千波も早起きしたよっ、ついに今この時この瞬間から千波にご飯作らせてくれるんだよね! お、この卵双子だ こっちを見もせず目玉焼き作ってる!? 千波は半熟でいいんだよな。食感がマヨネーズに合うって言ってたもんな それはそうだけどそうじゃなくてっ、今日は千波が朝ご飯作るんだよ! ほら千波が好きなマヨネーズだぞ~ いったいどんなあやし方!? それ吸って静かにしてろ これだけじゃ千波の朝ご飯がマヨネーズオンリーになっちゃうじゃない! ちょっと油入れすぎたかな いくらマヨラーだからってマヨネーズだけを好むのはマヨラーとは言わないんだよ! 完熟だけどまあいいか マヨラーの道はマヨネーズだけにあらずなんだよっ、ほかの食材と組み合わせてこそマヨネーズの真髄なんだよ! 盛りつけ完了、いただきます ことごとくスルーされた上にもう作り終えてる!? ちょうどトーストもできたな。千波はコーヒー、砂糖三杯でいいんだよな せめてコーヒーくらい千波に煎れさせて! わかったから落ち着け わかってないっ、お兄ちゃんはぜんぜんまったくこれっぽっちもわかってないよ! そんなことない ほんとに千波の気持ちわかってくれたの!? 子ウサギタオルがなくなって悲しいんだろ? それいつの千波の気持ち!? 引っ越しして悲しいんだろ? べつにさかのぼらなくていいから!? 生まれてきて悲しいんだろ? なにがあろうと千波を悪者にしたがるお兄ちゃんの意志が固すぎて千波もう耐えられそうにないよ!? ほら、これ 千波の頭にタオルをかぶせた。 トイレに落ちてた。おまえ、夜中にトイレで起きたんじゃないか? そのとき落としたんだろ あ…… もっと早く言えばよかったな、悪かったよ ……ううんっ 千波は子ウサギタオルを抱きしめて席に着いた。 顔、洗わなくていいのか? いいの、食べたら洗うから いただきまーす! 完熟になってしまった目玉焼きに、千波は元気よくフォークを突き刺した。 あっ、蒼ちゃんだ。おはよーっ! ………… 玄関のカギを閉めていると、千波と蒼さんが門の前であいさつを交わしていた。 といっても声を出しているのは千波だけで、蒼さんは黙礼だけするとそのまま通り過ぎてしまう。 待ってよ蒼ちゃーんっ、一緒に登校しよー! 千波はその後ろを追いかけていく。 これで蒼さんとばったり出会ったのは三度目か。 千波と同程度に朝が弱いということらしい。 追いついたーっと ……また出た 蒼さん、おはよう ……おはようございます 蒼ちゃんってぎりぎりの時間に登校するんだねっ、これって千波と同レベルで早寝遅起きってことだよねっ ……とても屈辱 目覚まし鳴っても無意識に止めてて起きたあとに止まってるのにびっくりして誰かのせいにするんだよねっ ……とても恥辱 次はぜったい早起きするって誓ってもまた破ってその次に誓ってもまた破ってそのうちそれが自分のアイデンティティーに昇華するんだよねっ ……とても国辱 だから千波と蒼ちゃんは似た者同士なんだよねっ ……死ねばいいのに 息がぴったり合ってはいるがまったく友達関係に見えない。 蒼さんって、よく寝坊するのか? ……そんなことないです 早く起きても朝は優雅にゆっくりしたい派? ……優雅は好きですがそんなことないです 優雅は好きなのか。 それも千波とおんなじだねっ ……ありえない 蒼ちゃんは千波の親友第一号だからねっ ……頼んでない 蒼ちゃんも千波のこと大好きだもんねっ ……死ねばいいのに あははっ、蒼ちゃんって照れ屋さんっ ……誰か助けてください おお、鉄仮面のようだった蒼さんの顔が困惑モードだ。 まあ、こんなふうに大変なやつだけど、これからもよろしく頼むな ……保護者の責任放棄 見守ってるよ。ふたりの仲を ……最悪です そろそろチャイム鳴っちゃうよっ、蒼ちゃん急ごっ! わ、きゃっ、ひ、ひっぱらな……っ 千波に手を引かれて危なっかしげに走る、蒼さんの小さな背中を追いながら、俺も校舎に向けて駆けだした。 さてさてやって参りました、放課後の時間だよ~! 帰りのホームルームが終わると、明日歩はそう高らかに宣言した。 ここで問題です。放課後といえばなんでしょ~! なにやら明日歩がハイテンションだ。 洋ちゃん、わかる? 明日歩の期待してる答えはわかるぞ。部活だろ? ヒバリ校の放課後といえば、部活動ですからね 洋ちゃんとこさめちゃん大正解! 今日はトランプ部の活動すんのか そんな部どこにあるんだよっ、あたしたちはヒバリ校で代々受け継がれてる伝統ある天クルの部員なんだからっ 天ぷら愛好サークル、略して天クル 天体観測愛好サークルだよ~! 将来は天文部、もしくは天体観測部と名前を変えたいところですね となると、天クルじゃなくて〈天部〉《てんぶ》になるな 天界に住む神々を指す言葉と一緒ですね 天文ファンには光栄な名前だね 星座には神話がつきものだからな 明日歩さんから聞いていますよ。小河坂さん、天クルに入部するんですよね ああ。今日からよろしく なんだとぉ!? いきなり叫ぶなよ!? おまえバイトはどうしたんだよ それはまあ、うまく両立するよ だったらオレと一緒に廃屋に突入して幽霊探知機を胸に摩訶不思議アドベンチャーへと旅立とうぜ! それ危ない人だから ひでっ! それじゃあ部室いこっか 飛鳥さん。それではまた明日、学校で なんだったら今度、妹を紹介するからさ 言ったな、約束だぞ。忘れねえからな ……早まったかな。 憮然とする飛鳥を置いて、いざ天クルの部室へ。 天クルの部室ってどこにあるんだ? 校舎の二階だよ。特別教室が並んでる階 部室棟とかじゃなくて? 校舎とはべつに、部活で使うような建物が体育館の近くに建っていた気がするのだが。 部室棟が使えるのは運動部だけなんです。文化部は基本的に、特別教室を借りることになっているんですよ 文芸部は図書室、料理部は調理実習室って感じでね じゃあ、天クルは? 明日歩とこさめさんは顔を見合わせ、苦笑する。 本来、同好会レベルの部活は部室を持つことを許されていないんですけど…… そこはそれ、天クルはヒバリ校の伝統ある天文部が前身だからね! 部員数が足りなくなって今は同好会となっていますが、部室はまだ健在なんですよ つまり、ほかの同好会に比べて優遇されてるわけか そう言われると微妙なところなんですよね。先生の間では、天クル擁護派と否定派に分かれているみたいですし 生徒会はこももちゃんのせいで否定派になってるしね ぷんぷんと怒っている。 気になってたんだけど。明日歩って、姫榊さんのこと嫌いなのか? 洋ちゃん、こももちゃんのこと知ってるんだ 昨日、持ち物検査あっただろ? そのとき知りあった 正確には、転入初日に話しかけられたのだ。 向こうは俺を生徒会に入れたいせいなのか知らないが、すでに俺を見知っていたようだった。 こももちゃんは嫌いっていうか、天クルを目のカタキにしてる感じがするから…… 姉さん、星が嫌いなんです。だから天クルも嫌いなんだと思います なんでまた嫌いなんだ? 小河坂さん、詮索は悪趣味ですよ 聞かれたくない事情があるってことか。 あたしも理由は気になるけど、こさめちゃんもこももちゃんも教えてくれないんだもん 実を言うと、わたしも知らないんです あ、そうなんだ 姉さん、わたしにも教えてくれませんから。だから、申し訳ないんですけど…… いや、人の好みにまで文句はつけられないからな。明日歩だって星が好きっていうこと、誰かに非難されたくないと思うし そりゃあね だったら俺たちが姫榊さんを非難することもできないさ ……洋ちゃん、天クルの部員になったのにこももちゃんの肩待つの? そうじゃないって あたしたちが活動できないのってこももちゃんのせいなのに~! だから、そうじゃない。姫榊さんを説得させるなら、星が嫌いなりの方法があるってことだ どんな方法? ……それは知らないけど むー 明日歩さんを説得するには最後の詰めが足りませんでしたね 新入部員に求めるのは酷だと思う。 いつかこももちゃんをぎゃふんって言わせてやるんだから~! ぎゃふんと言う姫榊さんは見てみたいかもしれない。 はい、到着~。ここが天クルの部室だよ 頭上のプレートには「視聴覚室」と書いてあった。 昔からここを部室に使ってるわけか うん。部から同好会にランクダウンしたとき、この視聴覚室を使いたいっていうほかの部がたくさん出てきたらしいんだけどね 特に映画研究部が熱心だったと聞いていますよ。視聴覚室には大型スクリーンがありますからね 実際、映研に取られてもおかしくない状況だったんだって。伝統ある部っていっても、時代の流れには勝てないって感じで でも、部室は生き残ったんだな うん。その頃は部長の〈岡泉〉《おかいずみ》先輩が一年生のときで、部員も岡泉先輩だけだったらしいんだけど…… その岡泉先輩が、がんばってくれたんですよ。部室を守ってくれたんです 天クルの武勇伝になってるよね はい。功労賞です あたしならノーベル天文学賞をあげちゃうな 話を聞いている限り、その部長は明日歩に負けないくらいの天文ファンなんだろう。 覗き窓から明かりが見えますから、もう岡泉先輩が来ているようですね 洋ちゃん、岡泉先輩に失礼のないようにね。天クルの命の恩人なんだから わかったよ そんなふうに言われると緊張するが。 それじゃ、ちゃんとあたしについてくるんだよ お姉さんぶった言葉とともに明日歩は部室の扉を開けた。 おはようございま~す! おはようございます 明日歩の元気よいあいさつに続いて、こさめさんもぺこりとお辞儀する。 俺はふたりの後ろから初めて入った視聴覚室の内装をざっと見回した。 一番目に付くのはやはり大型のスクリーンだ。右手一面に真っ白な壁を作っているようにも見える。 その近くには小型のホワイトボード、手前の壇にはマイクや機材が設置されており、左に向かって長机と椅子がキレイに整列していた。 やあ、おふたりさん。今日は部活に参加かい? 壇上の椅子に座っていた線の細い男子生徒が、俺たちに気づいて立ち上がった。 はい。昨日は休んでしまってすみません いや、天クルは実質活動していないようなものだからね。謝ることはないよ 先輩、暇じゃなかったかなあって こさめクンとまったりお茶を飲んで過ごしていたよ まったりし過ぎてとろけそうでした 前に借りたDVDも見終わってしまったからね。また新しいのを借りてこないとなあ 先輩っ、映画鑑賞もいいけどあたしたちは伝統ある天クル部員なんですよ! な、なんだい突然。明日歩クンだって夏の新作見たい~って息巻いてたじゃないか そんな過去のあたしはゴミ箱にポイしてください。今のあたしはひと味もふた味も違うんです! そう言って明日歩は横に移動し、後ろに控えていた俺を両手を広げて指し示した。 じゃーん! 見てください! この人に注目してください! 穴が空くまで見つめてください! ……やめてくれ、恥ずかしすぎる。 小河坂さん、回れ右をしないでください もっと普通に紹介してくれ…… ええと……キミは誰だい? あ、小河坂洋っていいます。月曜に転入してきたばかりです。よろしくお願いします 丁寧に自己紹介。 こっちは天クルの部長、岡泉〈温土〉《はると》先輩だよ 岡泉先輩は胡乱な顔をしていた。 転入生クンがいったい天クルになんの用だい? そこまで言って岡泉先輩はハッとする。 ま、まさかこの部室を映研のやつらに売り渡そうと画策する生徒会の差し金……? いえ、洋ちゃんは転入生ですって。自分でも転入生クンって呼んでたじゃないですか 転入生の皮をかぶったスパイなのかも…… 生徒会の皆さんは、そんな回りくどい方法を取るくらいなら正面から攻撃してくると思いますよ 生徒会の方針が変わったのかも…… 姉さんはそんな姑息な手は使いませんよ 姫榊クンの性格が変わったのかも…… もうっ、先輩。この部室を守ったのは他ならぬ先輩なんですから。もっと自信を持ってください いや……あの頃の僕はおかしかったんだ。口を開けばシュプレヒコール、道を歩けばデモ行進、スローガンの最後には漢字で夜露死苦と書いてあった ……それ書いたの自分ですよね? 僕であって僕じゃない。あの頃の僕には死兆星が見えていたが今の僕には夜空を探しても見つけられないのだから よくわからないが、とりあえず、自己紹介のあとほったらかしにされている俺の立場は? たまに弱気になっちゃうそんな先輩のために朗報です。じゃーん! その紹介はもういい。 名前は小河坂洋。学年は二年生。性別は男 そしてなんと、本日より天クルの新しい部員となりま~す! 岡泉先輩はカッと目を見開いた。 イィィィィヤッッッッッホオオオゥゥゥゥゥ!!!! 机に飛び乗ってグ○コのようにバンザイした。 なんだこの人!? 先輩が躁になってしまいました 刺激が強すぎたかなあ みんな俺と違って驚いていない。 部長として歓迎するよ、新入部員の小河坂洋クン ……は、はあ びくびくしながら握手する。 うへへへぇぇ……コンゴトモヨロシクゥゥ…… 肉食獣の瞳で見つめられる。 ……この人には金輪際、近寄らないようにしよう。 先輩、洋ちゃんが怖がってますよ。はいコレ 明日歩は知恵の輪を岡泉先輩に渡す。 ハァハァ……ハァハァ…… 岡泉先輩は血走った目で知恵の輪に没頭する。 これでおとなしくなってくれるから 知恵の輪以外の餌は与えないでくださいね ……ここの部長が人間扱いされてないのはよくわかった あはは。こう見えて岡泉先輩、とっても優秀なんだよ このヒバリ校に入学してから、テストでは首位の座をキープし続けてるって聞いてるから 学年総代でもありますし、そんな岡泉先輩だからこそ天クルを守ることができたとも言えるんです 天才と狂気は紙一重という生きた見本だった。 じゃあ、部長が使いものにならなくなっちゃったし、代わりに副部長のあたしが天クルについて説明するね 岡泉先輩は部屋の隅っこで丸くなりながら知恵の輪を解いては元に戻し、解いては元に戻しを繰り返していた。 部員は全部で四人。部長の岡泉先輩、副部長のあたし、あとはこさめちゃんと、雪菜先輩 雪菜先輩の姿はない。幽霊部員らしいし、今日は来ないんだろう。 洋ちゃんが入ってくれたから五人だね。ほかの部活に比べたら少ないけど、天体観測に人数は関係ないからね 人数よりも場所と機材のほうが重要ですよね 天体望遠鏡はあたしのがあるからいいとして、あとは学校の屋上が使えればなあ 望遠鏡って、明日歩の私物なんだよな そうだよ。隣の資料室に置かせてもらってるんだけど。あそこの扉から入れるよ ホワイトボードの近くにそれらしき扉が見えた。 あと、けっこう値段するって聞いたぞ まあね。口径が15センチの赤道儀式の反射望遠鏡なんだけど オートサーチが付いて、デジカメとの相性もいいから気に入ってはいるんだけどね 赤道儀式ってなんだろう。オートサーチって? でもやっぱりいつかは大口径30センチの望遠鏡が欲しいな~ ちなみにそれ、いくらするんだ? ピンキリだけど、100万は超えるかなあ ……そんなにするのか。 明日歩の天文熱には感嘆するばかりだ。 望遠鏡って、レンズと反射鏡が大きいほどよく見えるんだよ。その分値段は高くなるし、重くもなるから持ち運びにくくなるんだけど それに大きいと場所を取りますからね 昔はね、校舎の屋上におっきな天体望遠鏡が置いてあったんだって。先代の天文部の所有物だったんだよ 古くなって廃棄処分されたんですよね 捨てられる前に見てみたかったなあ……。きっと天文台みたいでステキだったんだろうなあ 明日歩の瞳がきらきらする。 屋上って立ち入り禁止なんだよな。やっぱり天文部が衰退したのが理由か? 衰退って、洋ちゃんもれっきとした天クル部員なんだから言葉は慎んで欲しいな ……悪かった 小河坂さんは事実を述べただけで悪意はなかったと思いますよ わかってるけど~ 屋上の立ち入りが禁止されているのは、天体望遠鏡を廃棄処分したのがキッカケだったと聞いていますから、小河坂さんの言葉は当たっているかもしれませんね 禁止にしたのは生徒会なんだよね。風紀がどうとかの理由で先生方に申請して、許可されちゃったみたいなんだ それで明日歩は生徒会を敵視してるのか そうだよ。ラスボスはこももちゃん 天クル反対派の先頭に立ってますからね 姫榊さんと話したとき、自分らも好きで取り締まってるわけじゃないって言ってたぞ だとしても、屋上の使用許可くれないんじゃ一緒だよ。あたしはべつに風紀乱すつもりないのに 姉さんは、天クルに対しては私情を挟んでいるきらいがありますから。明日歩さんが怒るのももっともかもしれません そう思うならこさめちゃんもこももちゃんのこと説得してよ~ わたしは姉さんの味方でもありますから いっつもそれなんだから~! 姉妹愛のひとつの形だろうか。 だからね、天クルの部員が増えて部活として認可されれば、また屋上の使用許可がもらえるはずなんだよ サークルと部活では、説得力が違いますからね 許可されたら、屋上で活動再開するわけか うん 思うんだけど、べつに屋上じゃなくたっていいんじゃないか? たとえば中庭を使うとかさ 中庭じゃ、校舎が邪魔でうまく夜空が見えないもん だったらほかに見晴らしよさそうな…… と、ここまで口にしてうってつけの場所を思いついた。 雲雀ヶ崎の展望台があるじゃないか。あそこだったら遮蔽物もないし、思う存分天体観測できるんじゃないか? ですけど、あそこも屋上と同じで立ち入り禁止ですよ ……そうだった。いつも無視して出入りしているせいか、忘れそうになる。 あそこ、けっこう簡単に入れるぞ。内緒で使ってもいいんじゃないか? 生徒会に見つかったら、それを理由に天クルを廃部にすると思いますよ こさめさんは反対のようだ。理由ももっともだ。 小河坂さん、子供の頃に展望台で遊んでたって言っていましたよね ああ。その頃は自由に入れたのにな ………… なんでまた立ち入り禁止になってるんだ? こさめさんは眉尻を下げる。 昔、あそこで人身事故が起こったそうです。それが原因と聞いていますよ 事故って? こさめさんは首を横に振る。詳しくは知らないようだ。 明日歩は無反応。というか、さっきから会話に参加していない。 明日歩、どうした? ……洋ちゃんは、いいのかなって なにが? 天クルが展望台使うことだよ。大切な想い出の場所なんでしょ? そんなこと考えてたのか。 想い出の場所だからって、べつに誰にも立ち入って欲しくないわけじゃないぞ メアだってよく訪れるのだ。 俺はむしろ、訪れた人に展望台の彼女を見なかったか聞いて回りたいくらいだ。 ……思えば、展望台の彼女が見えないのは、そこが立ち入り禁止になったのも原因なんだろうな。 そういうものかな…… なに気にしてるんだ? う、ううん。なんでも ぱたぱたと手を振っている。 洋ちゃんがいいんだったら、展望台使わせてもらおっかな。フェンスも簡単に越えられたし 肉眼であんななんだから、望遠鏡で覗いちゃったらあたしそのまま甘い一夜を過ごしちゃうかも…… ……そんな言葉をうっとり言われると妙な気分になるな。 これでやっとトランプ部から卒業できるよ~ できません。あそこは立ち入り禁止だって明日歩さんも知っているじゃないですか 夜だったら誰にもバレないよ 夜だからこそ危険なんじゃないですか。あそこはあまり整備されていませんから、足を踏み外したら街まで転がり落ちてしまいますよ こさめちゃん、心配性なんだから 明日歩さんが楽天的すぎるんです じゃあこの三人で多数決取る? 天クルが展望台使うかどうか ……それは卑怯です 卑怯じゃないよ、民主的だもん。ね、洋ちゃん こさめさんが反対なら俺も反対かな なんで裏切ってるんだよ~!? 僕も反対だね いつのまに復活してるんですか~! 明日歩、自分で言ったじゃないか。部員を集めて正式に部として認めてもらって、堂々と屋上の使用許可をもらうんだろ? それはそうだけど~ 今日の天クルの活動予定はトランプだったね。明日はDVD鑑賞で明後日はまたトランプで…… 一刻も早くこの不毛な環境から脱却したいんだよ~! では花札にしますか? この現状に満足できるこさめちゃんがある意味うらやましいよ~! 俺には明日歩をからかっているふうにしか見えない。 明日歩さん。せっかく小河坂さんが入部してくれたんですから、がんばってあと一人、部員を集めたらいいじゃないですか ……うん 明日歩はふくれっ面だったが、最後にはうなずいた。 こさめちゃんもちゃんと協力してね? もちろんです なあ。あと一人で天クルは部になるのか? そうだよ。だからほんと洋ちゃんには感謝だよ~ だけど一学期も終わる今、ほとんどの生徒はすでに部活に所属しているし、帰宅部の生徒だって趣味や勉強でいそがしいだろうし…… もう~、さっきはちょっと引くほどよろこんでたのに、先輩ってばすぐ弱気になっちゃうんですから そうは言うけどね、明日歩クン…… 失礼します ノックと声が聞こえたと同時に、部屋の扉がスライドした。 こんにちは。天クルの皆さん 姫榊さんが不機嫌そうに立っていた。 ……誰かと思ったら 明日歩の表情がたちまち険しくなる。 今日も仲良くじめじめトランプでもしてたのかしら なんの用だよっ、勝手に入ってこないでよっ ちゃんとノックをしたし声もかけたわよ 同時に扉開けてたら意味ないじゃないっ 明日歩さん、どうどう こさめ。あなたもいつまでトランプ愛好サークル、略してトラクルに所属してるの 変な名前つけないでよ~! 姉さん。何度反対されようと、わたしはこのトラクルが大好きなんです トラクルがうつっちゃってるよこさめちゃん~! では花クルにしますか? あたしにはこさめちゃんの本心がいつまで経ってもわからないよ~! なんだか楽しそうだなあ。 というか、姫榊さん。なにか用があるんじゃないのか? ……その前に、なぜあなたがここにいるのよ にらまれた。 まさかこの天クルに入ったわけじゃないでしょうね、小河坂洋 ……フルネームで呼ぶなよ 答えてくれる、コガヨウ? 四文字で略すなよっ 昨日はよくもわたしをハメてくれたわね。蒼千波なんて生徒はこの学校にいないじゃない ……それで怒ってるのか。 それが用件なのか? ……そうじゃないけど つ、ついに生徒会からの廃部通告ががが…… 先輩、気を確かに持ってください そうですよ、部になるまであと一息なんだから。洋ちゃんが入部してくれたおかげで! 後半部分を強く告げる明日歩。 姫榊さんの額にびしっと青筋が立った。 ちょっとそこのコガヨウ だから四文字で呼ぶなっ、つーかおまえ昨日と態度変えすぎだろっ わたしを騙して天クルなんかに入ったあなたが悪い 腕を組んでそっぽを向く。 こももちゃん、活動の邪魔だから用がないなら出ていって欲しいな うるさい。それとわたしのこと名前で呼ばないで あのう……いくらお支払いすればお引き取り願えますでしょうか? 先輩、それは下手に出すぎです 小河坂くん、正直に答えて。本当の本気で入部したの? ああ ふざけないで ……いや、ふざけてないし そもそもなんでこんなサークルくずれになんか入るのよ 天体観測してみようかなあと そんな生活態度じゃ生徒会には推薦できないわね 誰も入りたいとは言ってないけど ふざけないで 理不尽だ。 だいたい天体観測は風紀を乱す行為じゃないでしょっ 深夜に外出するのは誉められた行為じゃないでしょう 夜遊びくらい自己責任の範疇じゃないか? ふざけないで もう~! あたしたちが好きで活動するんだから、こももちゃんには関係ないじゃない~! あるわよ。わたしは今日、あなたたちに最後の通告をしに来たんだから 姫榊さんはふんと鼻を鳴らす。 二学期になったらあなたたちの天クルは廃部にします シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 先輩、どうぞ こさめさんが知恵の輪を渡すと岡泉先輩はおとなしくなる。 た、食べられるかと思ったわ…… だよなあ…… とにかく。天クルは廃部にするから えー…… ……イライラする声出さないで 廃部って言われてハイそうですかなんて言えるわけないでしょっ それを決めるのはあなたじゃなくてわたしたち生徒会だから 横暴反対! イジメかっこ悪い! 正当な処置だから 姉さん、いくらなんでも急すぎませんか? これじゃあ納得できないのも無理がありません 急じゃないわ。定員の六人に達しなければ、天クルは部にできないって何度も言っていたじゃない でもサークルだったら許されるんでしょっ 許されない なんでっ わたしが許さないから 横暴反対! こももちゃんカッコ悪い! うるさいっ、あなたたちがサークルのくせに視聴覚室を陣取ってるからほかのサークルからクレームが山ほど届くのよっ、自分らにも部室をよこせって! そんなのあるの? あるわよっ あたしは聞いたことないよ? 生徒会に届いてるのっ いったいどこのサークルが騒いでいるんでしょう? 主にオカ研ね 飛鳥くんのバカバカバカ~! 元凶が発覚したようだ。 ほんとヒバリ校は部活動が盛んなんだな 他人事みたいに言わないでよ洋ちゃん~! そういうつもりじゃないんだが。 なあ姫榊 ……ちょっと、さん付けじゃなくなってるんだけど ツンツンしてるからいいかなあと 誰のせいだと思ってるのっ というより、ツンと呼び捨てに因果関係はありませんよね でさ、部員数が一学期中に六人になれば、生徒会的には天クルを存続させてもいいってことなのか? そうね。正式な部だったら部室をあげても問題ないし、クレームもなくなると思うから だったら明日歩、部員をもう一人確保すれば万事解決じゃないか それができれば苦労しないよ~! 今年の新入部員はまだ小河坂さん一人ですから。明日歩さんが焦る気持ちもわかってあげてください そこまで大変なのか。 今日家に帰ったら千波でも勧誘してみるか……いや、先に飛鳥に紹介する約束があったような。 それでなくても一学期はもう二週間もありませんから わずかな余命を最後の晩餐の用意で過ごすことね 悪役が似合うよなあ なに感心してるのよっ 姉さん。せめてもう少し期間を延ばせませんか? 延ばせない なんでだよ~! わたしが決めたから かわいい名前のくせになんでそんな横暴なんだよ~! 名前のこと触れないでっ、今すぐ廃部にされたいの!? 姉さん…… 突然こさめさんが姫榊にしなだれかかった。 あまりそんなふうに怒ってばかりいないでください…… こ、こさめ…… 姉さんの美貌がこれ以上醜く歪むのは、わたし耐えられません…… か、顔近い……近いっ…… わたしは姉さんの笑顔が好きなんです…… り、リボン、ほどかないでっ…… それ以上に、わたしは姉さんの困った顔が好きなんです…… 手、がっ……やあっ……当たってっ…… さらにそれ以上に、わたしは姉さんのせつない顔が大好きなんです…… む、胸っ……ふあっ……さわらなっ…… ……なんだこの展開は。 やめっ……てえ…… かわいい……姉さん…… はああっ……こ、こさめぇ…… もっと……もっと見せて…… やめ……なさいって言ってるでしょ!! 姫榊はこさめさんからしりぞくと、真っ赤になりながら急いで乱れた制服を整える。 ……はしたないところをお見せしました そう言いながらこさめさんは幸せそうだった。 なんだったんだ今のは…… ……鼻の下伸びてるよ そんなことない 紳士に言う。 むー じと目だ。 くっ……わたしとしたことが油断したわ…… そういう問題か? 今日のところはこれで勘弁してやるわ! 姫榊はありきたりな捨て台詞を吐いて去ろうとする。 うへへへぇぇ……生徒会の弱みゲットだぜぇぇ……このあられもない写真をネタに天クルの存続をぉぉ…… 姫榊はUターンして岡泉先輩のケータイをはたき落として踏みつぶした。 今日のところはこれで勘弁してやるわ!! 二回言った。 こさめっ、家に帰ったら覚えておきなさいよ! はい……うっとり なぜに? 姫榊は今度こそ去っていった。 ぼ、僕のケータイが…… 真ん中からぽっきり折れていた。 今のはさすがに先輩が悪い 悪いな 悪いです 僕はただ天クルのためを思ってしただけなのに…… それでも先輩が悪い 悪いな 悪いです ……僕の味方はこの子だけさ 知恵の輪に戻った。 結局、姫榊はなにしに来たんだろうな…… 姉さん本人が言っていたじゃないですか。一学期中に部員を集めないと廃部にするって 要するに嫌がらせでしょっ 明日歩はおかんむりだ。 こさめちゃんが撃退してくれなかったら、もっとねちねち言ってたに違いないもん あれは撃退だったのか。 校門前で今回同様、明日歩と姫榊がケンカしていたときも、こさめさんがこうやって収めたのかもしれない。 姉さん、次にやって来るのはいつでしょう…… 目がキラキラしている。明日歩が星について語っている目と同じだ。 ……なんとなくだけど、こさめさんが天クルに所属してる理由がわかった気がする 星が好きだからだよね? もちろんです 違うと思う。 部員、あと一人集めなきゃかあ 俺の妹に聞いてみようか? ありがと洋ちゃん~! ダメでも文句言うんじゃないぞ。あと先約で飛鳥にも紹介しないとだし ……洋ちゃん、律儀だね まあ、約束は約束だし 頭でっかち やめろと言うのに。 明日歩さん、今日の活動はどうしましょう? そうだね。洋ちゃん、資料室見てみる? 天体望遠鏡のほかにも、天文図鑑とか天球儀とかも置いてあるんだよ 今日の活動はトランプの代わりに、小河坂さんの歓迎会ですね じゃ、それにあやかって 洋ちゃん星座の神話とか詳しそうだし、いろいろお話ししたいな~ どうせ僕は弱気だしネクラだし情緒不安定だし部長のわりに頼りないし…… 岡泉先輩だけ、隅っこで知恵の輪に勤しんでいた。 初参加となった天クルの活動を終え、帰りに展望台に寄ってみた。 今は陽が暮れているが、着いたのは夕方だった。 天文図鑑や天球儀を使った明日歩のひとり星語りを聞いていたら下校の時刻となり、俺たちは解散した。 天クルは明日も活動するらしかった。 天体観測ができない現状では、天文談義に花を咲かすくらいなものなんだろうけど。 帰ったら、千波に入部を持ちかけてみるか…… 家だけじゃなく部活でもあのヒートっぷりを相手しなきゃいけないと思うと気が滅入るのだが。 ともあれ、手頃の草むらに座ってこんなふうに考え事をしていたらこんな時間になっていた。 メアの姿が見えないのは、空にうっすらと雲がかかっているせいだろうか。 まだ梅雨だもんな…… 本来なら雨が降っていてもおかしくない季節。 俺が雲雀ヶ崎で暮らし始めてから一度も降っていないところを見ると、今年は空梅雨だろうか。 七夕だって、途中で曇りはしたけど晴れだった。 ………… ……七夕、か。 俺はまだあの日の出来事に決着をつけていない。 メアには聞きたいことを聞けずにいる。 むしろ聞きたいことが多すぎて、どう聞いていいかも迷っている。 それでも、だからこそ、俺はこうしてメアを待っている。 メアは、星明かりの少ない夜空は無価値だとでも言うように、姿を見せることはなかった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、おかえりなさ──い! いってきます 千波が出迎えた瞬間にどこ行くのお兄ちゃん!? 自分の部屋だよ。着替えてくるから なんだてっきりウザがられたのかと思ったよっ、そんなわけないのに千波ったらなに勘違いしてんだろうねっ 自覚があって兄ちゃんもうれしいな その自覚ってウザいのと勘違いとどっちのこと!? あらあら洋ちゃん、おかえりなさい ただいま、詩乃さん 千波にもただいまって言って欲しかったよお兄ちゃん! じゃじゃ馬、千波 最後の『ま』しか合ってないよお兄ちゃん!? わかったから騒ぐな、バカなことやってないで早く夕飯食べよう 千波の頭にぽんと手を載せる。 今日も遅くなって悪かったな ううんっ、ぜんぜんへっちゃらだよっ 千波ちゃん、お兄ちゃんのために一生懸命ごちそう作って待ってたんだものね ありがとうな、千波 感謝の言葉と裏腹に頭に載ってた手がいつものぐりぐりに変わってるよお兄ちゃん!? こら、洋ちゃん。千波ちゃんをいじめない ……いえ、これは食材を無駄にした罰ですから 無駄なんかじゃないわよね、千波ちゃん はい! 詩乃さんも味見したときおいしいって絶賛してくれたし! うん。絶賛しちゃった ほらねお兄ちゃん! 詩乃さん、無理に口裏合わせなくていいですから なんで信じてくれないの!? とってもおいしいクッキーだったものね? はい! 千波自慢の卵焼きですから! 料理名がすでに噛みあってないだろっ おいしいって部分は合ってるわよ? ……正気ですか? 正気で絶賛しちゃった ……この家には味オンチがふたりいた。 ふたりの違いを挙げるとすれば、詩乃さんは味オンチでも料理がうまくて、千波は魔術的に下手ということだった。 夕飯後、俺は千波をリビングに呼んだ。 ……てんくる? 天体観測愛好サークル、略して天クルだ 天体観測するの? そうだ ヒバリ校ってそんなサークルがあるんだ そうだ お兄ちゃん、そのサークルに入ったんだ? おまえも明日入ったから なにその断定的な未来観測!? じゃ、頼むな 頼むもなにも千波には意味不明だよ!? おまえをサークルに誘ってるんだよ。天クルと、あとオカ研も候補に挙がってたんだけど オカ研ってオカルト研究部のことだよね? 千波こう見えて宇宙人の存在信じてるから天体観測よりはUFO観測のほうが好み…… 千波に聞いたら天クルのほうがいいって言ったから その千波ってどこの千波!? どの千波だっていいだろ この千波じゃない千波は千波じゃないよっ、お兄ちゃんの目の前にいる千波が本物の千波だよ! 自我を持った千波はいらないな…… 失敗作扱いされてる!? バカなことは置いといてだな、おまえ天体観測に興味ないか? ないよ ちょっとは考えろよっ だってだって千波は文化系よりも運動系が得意なんだもんっ、これは天から授かったギフトだからたとえお兄ちゃんに誘われても神さまが許してくれないんだもんっ じゃあ文化系が得意な千波を誘ってみるよ だからその千波ってどこの千波!? おまえまだ部活入ってないんだろ? うん、蒼ちゃんも入ってないみたいだから一緒に部活探そうって誘ってるんだよっ 蒼さん、かわいそうだな そんなわけないよっ、蒼ちゃんって無口だしたまに話しても毒舌だけど根は絶対いい子なんだよっ その点は同意するけどさ じゃあ蒼ちゃんと一緒にオカ研入るね なんでそうつながるんだよ!? だってだって蒼ちゃんって占いとか好きみたいだからオカルトにも興味あると思うんだもんっ 学校にタロットカードを持ち込んでいるくらいなので、占いが好きなのは確かだろうけど。 でもおまえは文化系が苦手だろ? それ以上に千波は宇宙人にお願いしてUFOに乗ってみたいんだよ! この千波はそろそろ寿命か…… 廃品扱いされてる!? おまえが星よりオカルトに興味があるのはわかった。でもな、天クルにものっぴきならない事情があるんだよ どんな事情? 早急にあとひとり部員を集めないと廃部になるんだ そうなの? ああ ほかに入部希望者とかいないの? 時期的に厳しいらしくてさ。生徒はほとんどほかの部に入ってるみたいで それでまだ帰宅部の千波にお願いしてたんだね わかってくれたか? もちろんだよっ、千波はお兄ちゃんのためなら一肌だって二肌だって脱ぐのをためらわないんだから! さすがは俺の自慢の妹だ 任せてお兄ちゃんっ、一刻も早くオカ研に入って捕まえた宇宙人を天クルに入部させてあげるから! さすがは俺の自慢の愚妹だ。 もういいからおまえ天クル入部決定な、明日みんなに紹介してやるから やだやだ千波はオカ研に入るんだから! なんでだよっ、オカ研って部員ひとりしかいないんだぞ? 天クルよりも弱小なんだぞ? サークルは楽しんでこそサークルなんだよっ、そこには弱小なんて些細な事情は介在しないんだよ! おまえなんでこういうときだけ正論なんだよ!? 千波はいつだって完全燃焼で生きてるだけだよ! 単に後先考えてないだけだろ!? たとえそうでもそれが千波の千波たる〈所以〉《ゆえん》なんだよ! ……すまん明日歩、どうやら我が妹は飛鳥に取られそうだ。 俺の誘い方が悪かった気がしなくもないが。 だいたいお兄ちゃん、なんで廃部になりそうなサークルになんて入ったの? ……よんどころない事情があるんだ 千波には言えないの? 天クルに入らない千波には言えないな 千波はふくれたが、追求はしなかった。 なあ千波、冗談じゃなくオカ研に入りたいのか? そうだよ、千波はいつだって本気だよっ 考え直す気は? ないよ、千波に二言はないんだから どの千波だったら二言があるんだ? そのネタもうやめようよ何気にショックだから!? わかったよ。だったら明日にでも、オカ研の部長に話しておくから 部長さん、お兄ちゃんの知りあいなんだ? たまたまクラスメイトだったんだよ 運命的な出会いって感じだねっ、千波がオカ研に入るのもきっと宿命だったんだねっ ……本当にすまない、明日歩。 明日、放課後になったらクラスに迎えにいくから うん、お願いねっ オカ研入るのはいいけど、UFO探して帰るのが遅くなったりするなよ うん、気をつける 宇宙人からお菓子もらってもついていくなよ うん、気をつける 危険なことだけは絶対するなよ お兄ちゃん、千波のこと心配なの? ……そんなことない えへへ 笑われた。 明日、蒼ちゃんも誘ってみよっと 蒼さんも帰宅部なんだったら、俺も天クルに誘ってみようかな ダメだよお兄ちゃんっ、蒼ちゃんは千波と一緒に宇宙意思のチャネリングと洒落込むんだから! ……なんか飛鳥とウマが合いそうだから困る。 ふたりとも、部活に入るの? 詩乃さんが食後のお茶を持ってきた。 あ、はい。俺は天体観測愛好サークルで、千波はオカルト研究部です よかった なにがだろう。 部活でよかった。もし洋ちゃんと千波ちゃんが私に気を遣ってバイトするなんて言ったら、止めるつもりだったから 詩乃さんの笑顔はこれまで見た中でも格段に優しかった。 姉さんだって、きっとそうすると思うから 姉さんというのは、俺たちの母さんのこと。 忘れないでね。あなたたちは、姉さんにとっても私にとっても、愛しい息子と娘なんだから 千波はなにも言えずにいた。 俺も同じだった。なぜなら俺は当たり前のようにバイトをするつもりだった。 ごめんなさいね、しんみりさせちゃって 詩乃さんはテーブルにお茶を置くと、洗い物の途中だったのかキッチンに戻っていく。 バイト……しないほうがいいのかな ……そうだな 千波はいい。俺も詩乃さんと同意見だ。 だが俺くらいはバイトをしても、母さんだって許してくれるはずだ。 俺たちは詩乃さんに感謝しているのだ。それを言葉じゃなく形としても贈りたいと思うから。 ……でもまあ、バイトをするにしろ、詩乃さんには内緒だな。 よけいな心配はかけたくない。 しかしこれで食費を入れ辛くなった。どうしようか。 お兄ちゃん、考え事? ……いや ある程度バイトをして金をためて、時期を見てまとめて渡すのがいいかもしれない。 それまでに受け取ってくれる口実を考えておこう。 ……その前に、バイト自体を探さないとなんだけどな。 展望台に行ったりサークル活動したりと、平日は時間が取れないようだ。今度の土日に行動しよう。 明日歩の喫茶店は候補のひとつだった。 お兄ちゃんっ、今朝はなに作るの? 今日も千波は平常の時間に起きてきた。奇跡は二度続いたようだ。 最近卵料理が多かったから、違う食材を使おうかなと だったら千波にいいアイデアがあるよっ たまには和風にしてみるか キッチンに立つお兄ちゃんはスルーが多すぎるよ!? おまえに構ってたら時間なくなって遅刻になるだろ 時間ないならふたりで協力して朝食を作るべきだよっ おまえが協力するから時間がなくなるんだろっ それは早計に過ぎるよお兄ちゃんっ、なぜならお兄ちゃんはまだこのキッチンを使って千波と一緒に朝食を作ったことが一度としてないんだから! 過去の俺グッジョブ 千波にとってはバッジョブだよ!? ……そんなに料理したいのか? うんっ なんで料理したいんだ? お兄ちゃんのお世話したいから 俺って千波に嫌われてるんだな…… なんで果てしなく落ち込んでるの!? 俺を困らせて内心でほくそ笑みたいんだろ…… するわけないよ!? なにがお兄ちゃんをそこまでネガティブに変えちゃったの! 千波っていう俺の妹 そんな偽物の千波はお兄ちゃんの妹じゃないよっ、この千波が正真正銘のお兄ちゃんの妹だよ! この千波は料理が得意なのか? うん! 偽物じゃないか 本物だよ!? 残念だったな、本物の千波は悪魔の手を持つ少女なんだ それお兄ちゃんが勝手に言ってるだけでしょ!? 時計を見たらもう七時を過ぎていた。 バカなことやってたから時間なくなっただろっ お兄ちゃんが千波を除け者にしようとするのがいけないんだよっ いいから作るぞ。たしか冷蔵庫に豚肉のパックがあったし、それ使って豚汁にするか フライパンで野菜と一緒に炒めてから煮込めば、うま味は少々飛ぶが時間短縮になるだろう。 待ってお兄ちゃんっ、豚肉なら千波が取ってくるから 千波は冷蔵庫の裏から肉を取り出した。 なぜに中じゃなくて裏!? 寝る前にここに置き換えておいて正解だったよお兄ちゃんっ、いい具合に腐ってる! 腐ってたら食べられないだろ!? そんなことないよっ、お肉は腐る直前が一番おいしいってお母さんが言ってたもん! そりゃ死後硬直で硬くなった肉を柔らかくするって意味で、店で売ってる肉には当てはまらないんだよ!? そんなの千波は肉博士じゃないんだからわかるわけないよ! とにかくおまえは食材を無駄にした罪により謹慎を命ずる、代わりに魚焼くからそこでおとなしく座っていろ お兄ちゃん、フライパンの油はこれでいいかな 座ってろって言ったろっ、つーか魚焼くのになんでグリルじゃなくてフライパンなんだよ!? そんなの千波は魚博士じゃないんだからわかるわけないよ! じゃあしょうがないから無難に目玉焼きに…… 了解だよお兄ちゃんっ、卵入れるね 油を敷いたフライパンに殻がついたままの卵を炒めている。 どうお兄ちゃん、こんな感じかな? 俺にどんな返答を期待してるんだおまえは…… 悪魔の手の効能により刻々と黒く変色する卵が不気味だった。 とりあえず火を止める。 あ、もう完成? ……そういうことにしといてくれ じゃあ盛りつけるねっ 大皿にぽつんと載った二個の卵が哀愁を誘っていた。 お兄ちゃん、このゆで卵おいしいねっ 正確には炒め卵だけどな…… 黒い殻を剥くと中はまともなゆで卵だったのが、最大の謎だった。 蒼ちゃーんっ、おはよー! ……また会った 家の前で蒼さんと合流するのはこれで四日目。 むしろ合流しなかった日は一度もなかった。 おはよう、蒼さん ……遺憾ですがおはようございます 蒼さんは俺たちと合流するのをどう思っているんだろう。言葉を聞くと迷惑そうだが。 毎日蒼ちゃんと登校できて千波うれしいなっ ……うれしくない 明日からも毎日蒼ちゃんと登校したいなっ 蒼さんは昨日にも見せた困惑顔を作る。 ……どうしてあなたたちは私に構うんですか 俺よりも、千波のほうだろうな どうして? なにが? 私に構う理由 え、友達だからでしょ? ………… 迷惑だったらそう言ってもいいんだぞ ……何度も言ったと思いますけど え、なんで迷惑なの? 蒼さんはため息をついた。 ……もう好きにしてください 蒼さんが坂を登り始めたので、俺たちも同行する。 ねえねえ蒼ちゃんって兄妹とかいないの? ……いきなりなに 千波はねっ、お兄ちゃんがひとりいるよっ、ぶっきらぼうなのが取り得のこの人だけどねっ 元気だけが取り得のおまえに言われたくない ……ふたりが兄妹なのはもう知ってる 蒼さんはどうなんだ? 兄妹とかいるのか? ……黙秘します 今度蒼ちゃんのおうちに遊びにいきたいなっ いかないでいい じゃあ今度の土日にお邪魔するねっ いかないでいいって言った じゃあ千波のうちに遊びに来る? 来ない でもでも千波はお昼過ぎまで寝てるから午前中はダメだからねっ 来ないって言った なにか用事でもあるとか? ……ありませんけど じゃあじゃあ外出でもいいよっ、千波と一緒にUFOを探す冒険の旅にレッツゴー! ……なんでUFO 蒼さん、天体観測に興味ないか? 千波が自然な流れでオカ研誘おうとしたのに割り込まないで!? 千波は意外と策士である。 ……オカ研? オカルト研究部、略してオカ研だよっ。蒼ちゃんも千波と一緒に入らない? 入らない 蒼さんはオカルトには興味ないってさ お兄ちゃんが勝手に決めないでっ、蒼ちゃんも宇宙人に頼んでUFO乗ってみたいよね? UFOは乗ってみたいけど入らない 乗ってみたいのか……。 じゃあじゃあ決まりだねっ、今日の放課後は千波と一緒にオカ研にレッツゴー! ありえない 千波、あんまり無理強いするなよ。蒼さんは天クルに入るんだから お兄ちゃんは無理強いよりたち悪い断定じゃない!? ……天クルってなに 天体観測愛好サークル、略して天クルだ 雲雀ヶ崎の星空ってキレイだし、天体観測には絶好だと思うんだけど、どうだ? ………… 蒼ちゃんは天体観測なんかに興味ないって おまえには聞いてない お兄ちゃんだって千波の邪魔したくせにっ ……その前に、なんで私を誘うんですか? ダメか? 蒼さんはどう応えるべきかわからないようだった。 ……ヒバリ校はもう、天文部がなくなったって聞いていましたけど そんな応えが来た。 天文部は以前に比べて部員数が少なくなったらしいけど、廃部にはなってない。サークルとして生き残ってるんだ ………… 蒼さん、星占いとかするんだよな。天体観測もやったことあるんじゃないか? ………… 無理強いするつもりはないけど、天クルって今、部員の勧誘してるんだ。よかったら入ってみないか? 蒼さんはしばらく無言でいたあと、ぽつりと言った。 ……校門です 蒼さんは立ち止まり、俺を横目でちらりと見た。 ……それでは それから校舎へと目を転じて歩いていく。マイペースに。 お兄ちゃん、放課後はクラスで待ってるからね。忘れちゃやだよ ああ、わかってるよ それまでに蒼ちゃんもオカ研に誘っとくからねっ、待ってよ蒼ちゃーん! 千波も慌ただしく駆けていった。 結局、蒼さんの天クル勧誘はうやむやに終わってしまった。 ……どうしたもんかな 蒼さんが千波の毒牙にかからないことを祈って、また折りを見て誘ってみるか。 じゃないと明日歩に合わせる顔がない。 なにより俺自身、天クルを廃部にしたくはなかった。 一時間目の授業が終わってすぐ、まずは報告をすませることにした。 飛鳥、約束は守ったぞ なんだよやぶからぼうに 明日歩、約束守れなくてごめん どしたのいきなり 報告終わり 小河坂さん、簡潔すぎて意味が通じていませんけど、もしかして言いづらい報告だったんですか? こさめさんにあっさり看破される。 洋ちゃん、あたしと飛鳥くんに約束なんかあった? いや、忘れてるんならいいけど オレが思い当たるのは、オカ研に妹さんを紹介してくれるってやつくらいだな そんなの飛鳥くんが勝手に約束にしただけでしょ。妹さんは、洋ちゃんが天クルに誘ってくれるんだから 明日歩、そのことなんだけど…… 洋ちゃん、今度妹さんに会わせてね。副部長として、天体観測の素晴らしさを説いてあげるから あ、いや、千波は夕べにもう誘ってみたんだけど…… わ、ほんと? じゃあ今日の活動は妹さんも来てくれるの? ありがと洋ちゃん~! い、いや、だから…… 小河坂さんの最初の報告と今の態度で、結果がわかってしまいました 小河坂、オレはおまえを信じてたぜ え、え? なにが? 明日歩、大切な話があるんだ。落ち着いて聞いて欲しい 紳士に言う。 ……はい なぜか明日歩の頬が朱に染まる。 実はな、うちの妹は愚妹なんだ ……身内を悪く言っちゃダメだよ洋ちゃん 天クルに誘ってみたんだけどさ、どうしてもほかに入りたい部があるって言われたんだよ その部がオカ研だったわけですね え、な、なんで? UFOに乗ってみたいらしい それはあたしも乗ってみたいけど 明日歩も乗ってみたいのか……。 だがここで重要なのは、千波は冗談じゃなく本気で乗るつもりらしいってことなんだ そいつは見込みがありそうだな 俺には逆にしか思えない。 そんなわけで、軍配は飛鳥に上がってしまったんだ そ、そうなの? 悪いな南星、小河坂の妹さんはいただいていくぜ そんなあ…… がっくりと肩を落とした。 残念ですけど、本人の意思は尊重しないといけませんね ぐすん…… この学校って、兼部は認められてないのか? 認められてたら、飛鳥くんと取りあってないよう…… もっともだ。 明日歩、報告にはまだ続きがあるんだ。落ち込むのはまだ早い 明日歩のためにも急いで付け足す。 千波以外にもさ、勧誘できそうな子がいるんだ。うちのお隣さんで、今のところ帰宅部なんだよ え、なになに? どんな子? 名前は? 何年生? ……そんな迫らなくていいから このドアップは癖なんだろうが、一向に慣れそうもない。 名前は蒼衣鈴、一年生の女子。もしかしたら天体観測に興味あるかもしれない わ、ほんと? 星がお好きなんですか? たぶん。星占いとかやるみたいだから それは期待できそうだね! 明日歩の機嫌は瞬く間に直っていた。 でもその子が帰宅部なら、オレにもチャンスがあるな UFOに乗りたいとは言っていたな……。 飛鳥には千波を紹介するし、蒼さんの先約は明日歩だろうな ありがと洋ちゃん~! その子、千波のクラスメイトだからさ、放課後に一緒に勧誘するか? うん! 明日歩は晴れやかな笑みを満面にたたえる。 昔からだったと思う。明日歩はこんな笑顔がよく似合う。 それは夜空に浮かぶ星よりももっと強い、青空に浮かぶ太陽の光ようだと感じた。 放課後となって、俺たち四人は帰り支度もそこそこに教室を出た。 1‐Cだったよね ああ。早めに行けば、蒼さんが帰る前に捕まえられるんじゃないか わたしもご一緒したいんですけど、今日は図書委員の仕事がありまして…… そっか。じゃあ二階でお別れかあ 一年生のクラスは一階、特別教室は二階なのだ。 千波ちゃんはクラスで待ってるんだよな 会ってもいないのにちゃん付けになってる。 創部二年目にしてようやく部員ゲットだぜ 飛鳥くんが入学してから作って、ずっとひとりだったんだよね ちなみにクラス替えは三年生に上がってからですので、わたしたちは一年生のときもクラスメイトだったんですよ 二年生に上がるとき、制服だけ新しく替わったんだよね 替わったのは一年生のほうですけどね 今年から、女子だけな。新入生確保のためか知らんけど だから一年と、二年、三年の女子では制服が違うのだ。 飛鳥、去年は勧誘しなかったのか? ああ。最初はひとりでもいいと思ってたんだよ。そっちのほうが身軽だしな まあ、カメラ持って走り回るなら都合がいいような けど途中で気づいたんだ。そもそもひとりで活動するなら、サークルを作る必要がなかったって いや、作る前に気づけよ だから今年から勧誘始めたんだけどさ、天クルと同じ理由で部員が集まらなかったわけだ 新入生でもダメだったのか? みんな、どうしてもサークルより部活入るのを選んじゃうんだよね。そっちのほうが人数多いし、友達作りにもなるから その気持ちはわかる気がする。 話聞いてるとさ、サークルって誰でもほいほい作れそうだな 部活は一定数の部員を集めなければいけませんけど、サークルは申請して審査が通れば許可されますから その分、サークルは部活と違って部室も部費ももらえないけどね じゃあ、わざわざサークル作る意味ってないんじゃないか? 実際そうなのかもしれません。ですけど、ここは雲雀ヶ崎ですから 娯楽が少ない街だからこその遊び場みたいなもんだな 他校はどうか知らないけど、ヒバリ校の放課後は部活やサークルにみんな集まって活動っていうのが基本なんだよ たしかに趣味が同じ者同士が、学年もクラスも超えて集まるというのは、サークルでもなければ難しそうだ。 ただ、どうせならやっぱり部活のほうがいいよね。部費がもらえれば活動の幅も広がるし 天クルは例外的に部室はありますけど、部費はもらえていないんです だから明日歩の望遠鏡が部室に置いてあるのか うん。いずれは部費もらって、部員全員分の双眼鏡を買いたいなって思うよ うちのオカ研も全員分のカメラが欲しいところだぜ 妹さんを入れてもまだふたりだけどね 部員数では、わたしたち天クルのほうが一歩リードしていますよね それどころかリーチかかってるし。これから洋ちゃんが紹介してくれる生徒が入ってくれればめでたく達成! ケッ、油断して足下すくわれねえようにな。まだその生徒が入部してくれるって決まったわけじゃねえんだろ それは飛鳥さんも同じですよ あたしは洋ちゃんを信じてるから! ……いや、むしろあまり期待はして欲しくないというか その蒼さんって子、星占いが趣味ならきっとおとなしくて引っ込み思案でとっても素直で大和撫子って感じのかわいらしい子なんだろうな~ 明日歩はすでに俺の話を聞いていなかった。 もしそんな性格でしたら、明日歩さんの押しの強さでなしくずし的に部員にできるかもしれませんね こさめさんは柔らかい物腰のわりにしたたかだ。 二階でこさめさんと別れたあと、俺たちはそのまま階段を下りて一階の千波のクラスに向かう。 あっ、お兄ちゃーん! 千波のクラスは階段のそばだったようで、下りた途端に大声が聞こえた。 ベストタイミングだねお兄ちゃんっ、千波のクラスちょうどホームルーム終わったところだから! わかったから大声出すな、恥ずかしすぎる ただでさえ見慣れない上級生が三人も訪ねているので、下級生から注目を浴びつつあった。 ……これは早めに切り上げたほうがよさそうだな。 彼女が千波ちゃんか? 元気な子だな それに雰囲気とか洋ちゃんに似てるよね いやそれは絶対にない 俺はこんなはた迷惑なヒートじゃない。 蒼ちゃーんっ、約束どおりサークルの人たち来たよー! 千波がクラスに向かって呼びかけると、蒼さんが恥ずかしそうに顔を出した。 ……お願いだから叫ばないで 蒼さんの気持ちがよくわかる。 ……それでは 待った待ったっ、まだ帰ろうとしないでくれ 彼女が蒼さん? 思ったとおりおとなしそうでかわいらしい子だね~ ……なにか屈辱 あっ、いつかのメイドさんだ おひさしぶり、千波ちゃん。早速だけど天体観測に興味ない? おまえまだ諦めてねえのかよ!? 聞いて聞いてお兄ちゃんっ、千波がんばって蒼ちゃんをオカ研に誘うとしたんだけどねっ、なかなかうんってうなずいてくれなくてねっ ……帰ります いきなり収拾がつかなくなってきた。 千波、こっちがオカ研部長の飛鳥未来だ。詳しい話はふたりでしてくれ おう、よろしく千波ちゃん で、蒼さん。ちょっと話があるんだけど、いいか? ……手短かになら とりあえず二組に分けるところから始める。 はじめまして飛鳥先輩、名前からしてオカルトですねっ 宿命ってやつだな、オレも気に入ってるんだ。呼ぶときは部長でいいぜ わかりましたオカルト部長! そっちじゃなくて名前に部長つけようぜ!? 千波のお守りは飛鳥に任せて、俺たちは注目のるつぼとなっているこの場から離れる。 ここ……視聴覚室 うん、そして天クルの部室だよ 落ち着いて話をするためには絶好の場所だろう。 岡泉先輩、いないな まだホームルーム終わってないのかもね 蒼さんは入り口の近くに立ったままだ。 あ、よかったら座って ……いえ 蒼さんはなにも言わずについて来てくれた。途中で帰ると言い出さなくてよかった。 ごめんね、部室まで連れて来ちゃって ……それより、用件を そうだね。洋ちゃんからはもう天クルに誘われてるんだよね? ……ようかん? いや、俺の名前 小河坂〈羊羹〉《ようかん》 ……和菓子にしないでくれ あはは。蒼さんっておもしろいね 俺の名前はもう知ってるよな。こっちは南星明日歩、天クルの副部長だ よろしくね 蒼さんは無反応だった。 それでね、洋ちゃんから聞いたんだけど。蒼さんって星占いが好きなんだって? ……そんなことないです あのタロットカードって、占星術に使うやつだよな? ……そんなことないです 学校に持ち込んでるってことは、そういう類に興味あるんじゃないか? そんなことないです もし星が好きなら、天クルに入ってあたしたちと一緒に天体観測…… そんなことないって言いました 明日歩の言葉が遮られた。 わかったら、二度と私を誘わないでください 明日歩はぽかんとしていた。 それをはっきりさせるために、私はここまでついて来たんですから 明日歩は口をぱくぱくさせた。 ……失礼します 蒼さんは一礼して部室を出ていった。 明日歩の勧誘はものの一分で撃沈した。 うっ……うわーん! そして泣いた。 ……正直言うと、断られる気がしたんだよなあ したんだよなあ、じゃないよ~! なんか取りつく島もなかったよ~! 実に蒼さんらしかったなあ なんだよそれ~! 洋ちゃんを信じたあたしがバカだったんだ~! い、いや、蒼さんってなに考えてるかわからないところがあるから、一筋縄ではいかないっていう意味で…… ぜんぜん大和撫子っぽくなかったよ~! それは明日歩が勝手に想像してただけだろ…… きっと天クルはこれをキッカケに廃部へと追い込まれちゃうんだ~! 悪い方向に飛躍しすぎだろ…… 洋ちゃんはこの危機的状況をなんとも思わないの~! 思ってるから、まだ勧誘を諦めてないんだよ この言葉で、明日歩の泣き言が収まった。 俺、蒼さんとは家が隣同士なんだ。朝は一緒になることが多いし、諦めずに誘ってみるよ 洋ちゃん…… だから明日歩も諦めるな。帰宅部の生徒はほかにもいるかもしれないし、これからも勧誘続けよう ……うん 明日歩は控えめにうなずいた。 うなずいたあとは、いつもの明日歩に戻っていた。 じゃあ気を取り直して、天クルの活動始めよっか 隣の資料室か? うん。天文資料は全部そこに置いてあるからね 視聴覚室に比べればこの部屋は格段に狭い。 ただどちらが部室らしいかと言えばこの部屋だ。 明日歩の天体望遠鏡を始めとして、ごちゃごちゃした空間のところどころに天クルらしさが窺える。 これから昨日みたいに天文談義か? 星図に囲まれながら、明日歩が話す星座の神話を延々聞かされそう。 嫌いじゃないので、俺としては構わなかった。 ううん。今日は、洋ちゃんのお話が聞きたいな ……俺が知ってる神話か? 明日歩ほど詳しくないし、たぶん聞いたことあるのばかりだぞ あは、それでもいいんだけどね 明日歩は手近のダンボールに腰を落とす。俺もならって座った。 洋ちゃん、昨日あれから展望台に行ったでしょ 唐突に尋ねた。 ……見てたのか? ううん。でもあたしたち帰り道一緒なのに、洋ちゃんいつまで経っても坂下りてこないんだもん 昨日、俺たちは部室で解散した。 明日歩は喫茶店の手伝いがあるとのことで、俺やこさめさんよりも早く学校を出たはずだった。 俺のこと待ってたのか? うん 喫茶店のほうはどうしたんだ? 手伝い始める時間は遅くなっちゃったよ なんで俺を待ってたんだ? 明日歩はどう答えようか迷ってから、 ちょっとね、気になったんだ なにが? 展望台の彼女さんが、だよ ………… 展望台、行ったんだよね? ああ、と俺はうなずいた。 会えた? いや 彼女にも、メアにも会えずじまいだった。 そっか。次は会えるといいね 明日歩、勘違いしてるぞ ……え? 一緒に調べたじゃないか。展望台の彼女は、もうこの街にはいないんだ それは自分にも言い聞かせる言葉。 だから、俺は会えると思って展望台に行ってるわけじゃないんだよ 明日歩の視線が足下に下がった。 ……ウソつき ウソじゃない じゃあなんで展望台に行くの? 浮かんだ答えは、メアに会いたいからというもの。 だが言葉にはできない。 教えられないわけじゃない、現に千波にはたやすく話せた。 明日歩の雰囲気が俺の口を封じているのかもしれない。 あたしね、ほんとは引き返して洋ちゃんを追いかけようと思ったんだよ 明日歩は、今度は手を後ろについて顎を上向け、天井を見上げた。 だけどね、空がうっすら曇ってたから。星空を見上げることができないと思ったから それで、やめることにしたんだよ よく、意味がわからない。 洋ちゃんのお話、聞きたいな 明日歩は俺に強い視線を注ぐ。 ……さっき言ったろ? 俺は明日歩ほど神話に詳しくないって あたしが詳しくない話もあるでしょ? なんのことだろう。 天文談義もいいけど、それ以外の洋ちゃんのお話が聞きたいな 洋ちゃんが転校したあとのお話が聞きたいな ……それって それは、天クルの活動と言うのだろうか。 話してくれたら、あたしの中学校時代も話してあげてもいいよ もしかしたら、展望台の彼女さんが登場するかもしれないよ? ………… だから、よかったら聞かせて欲しいな…… 話す 話す 話さない ……わかった。つまらなくても文句言うんじゃないぞ うん。言わないよ 明日歩は笑顔でうなずいた。 俺はかいつまんで転校先の話をした。 都会の学校とはいっても、敷地が狭いくらいで雲雀ヶ崎の学校と大して変わらなかったと感じたこと。 最初は友達作りに苦労したが、卒業する頃には仲の良いクラスメイトができたこと。 中学に上がるとまた仲間が増え、部活も委員会も所属はしなかったが、学校行事では一丸となって取り組んだこと。 男子とふざけあって女子から怒られるときもあったが、それはそれで楽しかったこと。 以上で終わり。 自分で話した内容とはいえ、人が聞いておもしろいところはどこにもない。 至って普通。どうということはない学校生活。 俺の小学校時代には手に入れられなかったものばかり。 ちなみにツンデレ委員長とメガネ図書委員の話は伏せておいた。 聞いてると、あたしが知ってる洋ちゃんとは別人みたい そうかもな 洋ちゃん、親の仕事の都合で引っ越ししたんだよね。先生からそう聞いたんだけど ああ、そうだよ じゃあさ、洋ちゃんは…… 明日歩はそれが本題だと言わんばかりに。 洋ちゃんは、どうして雲雀ヶ崎に戻ってきたの? まるでなにかを期待するみたいにそう聞いた。 じゃ、次は明日歩の番な ……誤魔化された 理由はそれこそ人が聞いて楽しくなる内容じゃない。 あたしの中学校時代は、普通だったよ そうなのか うん、そうなの ………… ………… ……もう終わりか? うん、終わり 待ってくれ。 いや、なんていうか、まだあるだろ? ないよ ……展望台の彼女は? そんな名前の女子は知らないなあ 意地悪く言った。 洋ちゃん、今日も展望台いくの? 俺と同じで誤魔化したってことなんだろうか。 ……あはは 明日歩は急に笑った。 ごめんね、今のは忘れて 俺の顔に出ていたのか、明日歩は自分から取り下げた。 洋ちゃん、今日も展望台いくの? そうだな。暗くなってきたら行くつもり 夜じゃなきゃいけないの? ああ 昼間に来てるのかもしれないよ? だから、展望台の彼女は関係ないんだ 明日歩は納得できないようだ。 よかったら、一緒に来るか? えっ この前みたいに天体観測しないか。天クルの活動だと問題あるだろうけど、ふたりでやる分にはいいだろ 今夜が晴れれば、そこにはメアもいるかもしれない。 一度、メアを誰かと会わせてみたいとも思っていた。 メアの正体を知る手がかりにもなるだろう。 ……いいの? この場合は俺が誘ってるんだから、明日歩がいいかどうかを答えないとだろ ……うるさい、頭でっかち なんでだよ…… あたし、平日の夜はたいてい喫茶店の手伝いがあるから外出できないんだよっ それで不機嫌なんだろうか。 誰かさんがバイトしてくれたらもっと楽になるのにな~ 俺は苦笑する。 それなら次の土日にでも、明日歩の喫茶店いっていいか? バイトの詳しい話聞かせてくれ わ、ほんと? ああ。ほかにも探してみるつもりだけど、候補のひとつってことで ありがと洋ちゃん~! 貼り紙してもぜんぜんバイト希望者来なくて、お父さんも困ってたから ヒバリ校の生徒が部活動に取られてたら、なかなか集まらないだろうな バイト自体も基本的に禁止だからね。洋ちゃんは許可されたんだよね? ああ。家庭の事情で一発だった 家庭の事情? 俺と千波って親戚の家に居候中だからさ。急に家族が増えると家の食費もバカにならないからって事情 そっか……。だから急いでバイト探してたんだ まあな 天クルに誘ったの、迷惑だったかな いや。家計が苦しいわけじゃないしな 実際、詩乃さんからそういう話は一度も聞いたことがない。逆にバイトを反対されているくらいだ。 じゃあ、その土日に天体観測っていうのはどうだ? うん! 即座に返事が返ってきた。 でも、天体観測じゃなくて星見ね。天クルの活動じゃないんだから こだわるんだな 同じような意味だろうに。 洋ちゃんの初めての天体観測は、天クルがいいって思うから…… 初めての星見は、あたしがもらうけどね それはどんな意味のこだわりなんだろう。 せっかくだし、展望台まで洋ちゃんに望遠鏡運んでもらおっかな~ いいけど、代わりに天体観測……じゃない、星見についていろいろ教えてくれると助かるな。初めてだからさ もちろん。用意する物とかもあとで教えてあげるね がらがらと扉の開く音がした。 誰か来たみたいだな 岡泉先輩かな。今日は遅かったなあ 明日歩が立ち上がったので、いったん話は打ち切りとなった。 ああ、資料室にいたんだね。無人だったから今日は僕ひとりなのかと思ったよ 岡泉先輩は俺と明日歩の顔を見ると、あからさまにホッとした。 てっきり天クルに愛想を尽かして僕ひとり除け者にして退部したんじゃないかって…… ホッとしたのも束の間、すぐに落ち込んだ。 退部なんかしませんよ。逆に今は勧誘に燃えてるんですから! それは助かるけどね……。ただ小河坂クンが入ったばかりだし、統計学的にあと一年間は誰も入らないんじゃ…… もう~! 自信を持ってくださいってば! 先輩は、誰か入部してくれそうな人の心当たりはないんですか? あるわけないじゃないか ……断言されてもな。 小河坂クンはいないのかい? ひとりですけど、います ありがとう。僕を慰めてくれてるんだね ……いやそうじゃなくてですね 今日の先輩は鬱に寄ってるなあ。こういうときの先輩ってなに言ってもネガティブに捉えられちゃうから 鬱になったり躁になったり大変な人だな……。 そういえば、こさめクンの姿が見えないね 図書委員の仕事でお休みです。先輩こそ今日は遅かったですけど、委員会の仕事とか? 僕なんかに委員会の仕事が務まるわけないじゃないか ……いえ、先輩はいちおう学年総代なんですし 難儀な人だと思う。 僕が遅くなったのは、天文部時代の元顧問からこれを受け取っていたからさ 岡泉先輩は、近くの机に置いてあったものを手に取った。 それは一見すると望遠鏡の置物のようにも見えた。 ……なんですか、これ? オルゴールだよ 岡泉先輩は円筒の部分を指で撫でる。 天文部がなくなる折りに修理に出していたそうで、業者から受け取った元顧問が今まで渡すのを忘れていたらしい じゃあ天クルの備品ってことですか? そう取ってもらって構わないかな。当時は天文部のシンボルみたいなものだったそうだよ へえー。めずらしい形のオルゴールですよね、なんか望遠鏡みたい カレイドオルゴールという名前だそうだよ ……カレイド? 万華鏡ですか? ああ。ネジを巻いてレンズを覗けば、色とりどりの光の競演を眺めることができる ビーズの部分が回転する仕組みになっているんだ。万華鏡は手動で回すのが普通だけど、このカレイドオルゴールは自動で回るわけだね 岡泉先輩は底についているネジを巻く。 だから、明日歩クンが言った望遠鏡というのはあながち間違いじゃないかもしれない 夜空に向けて望遠鏡を覗き込めば、この万華鏡に引けを取らない色とりどりの星の競演を観測できるのだから ……って、オルゴール鳴ってないですよ? あれ 岡泉先輩は底を覗き込んでもう一度ネジを回す。 ネジは回転するが、肝心のメロディは聞こえない。 おかしいな……。修理は終わったと聞いているんだけど もともと壊れてたんですか? そのようだね。長い間壊れたままだったらしいけど、天文部が天クルに変わるのをキッカケに誰かが修理に出したんじゃないかな でも、直ってないですよね? おかしいなあ……。元顧問に聞いてこようかな 岡泉先輩はカレイドオルゴールを持って、首をひねりながら部室を出ていった。 ……またふたりになっちゃったね 気になったんだけど、岡泉先輩が言ってた元顧問って天文部時代の顧問なんだよな そうみたいだね。あたしはどの先生か知らないけど 岡泉先輩から聞いた話だと、授業してるときはずっと黒板向いてて絶対に生徒のほうに振り向かないっていうおもしろい先生なんだって ……それで授業が成り立つんだろうか。 天クルの顧問っていないのか? 部活ならまだしも、サークルにまで顧問がいたら先生が何人いても足りないよ それほどサークル数は多いということか。 それに、文化部は顧問がいないほうが多いんじゃないかな。天クルだって必要ないって思うし わからないことは明日歩に聞けるもんな 岡泉先輩も天体観測に詳しいからね これからどうする? うーん、どうしよっか。岡泉先輩、いつ戻ってくるかわからないし…… 天クルの勧誘でもするか? この時間だと部活やってる生徒しか捕まらないよ。やるんだったら朝のほうがいいかも ……それは辛いな 洋ちゃん、いつも遅刻ぎりぎりに登校だもんね 俺の役目は蒼さんの勧誘だな。その他の勧誘は任せた むー 明日歩は不機嫌そうにしていたかと思うと、急に笑みを浮かべた。 あたしもまだ家の手伝いまで時間あるし、展望台いってみよっか? ……今からか? うん。今から さすがにまだ星は見えないだろ むー ……さっきから犬化してるな。 散歩がてらってことで、どう? ……ええと 断る理由はない気がする。 ただこの時間に展望台を訪れても、メアはいない。 とすると俺は夜にもまた出向かなければならないわけで、それが尻込みする原因かもしれない。 また今度にしないか? 俺もほかに行きたいとこあるからさ 体よく断ったわけではなく、これは本当のことだ。 ……べつにいいけど。用事でもあるの? ちょっとな、調べ物っていうか。時間があるときにやっておきたかったんだ なに調べるの? 死神少女の生態についてだ 明日歩は、とても間抜けな顔をしていた。 あ、小河坂さん。それに明日歩さんも カウンターに座っていたこさめさんが、俺たちに気づいて立ち上がる。 こさめちゃん、お疲れさま 蒼さんの勧誘は成功しましたか? むー わかりやすい返答、ありがとうございます 阿吽の呼吸だ。 天クルの活動はどうしたんですか? 洋ちゃんがね、図書室に用事があるんだって 小河坂さん、また調べ物ですか? そんなところだ またって……洋ちゃん、死神に興味あるの? ……死神? ああ、いや、それは言葉のあやっていうか メアについて説明するのは難しすぎる。 新入生には多いですよね、死神好きな子 こさめさんはのんびりとそんなことを言った。 入学したら、みんな一度は耳にするだろうしね。なくならないよね、この都市伝説 誰が流した噂なのか気になるところですよね いつから流れてたのかっていうのもね 飛鳥さんも去年は調べてましたよね。結局なにもわからなかったみたいですけど 熱しやすく冷めやすいんだよね、飛鳥くんって。オカルトファンのわりに オカルトファンだからこそじゃないですか? 天文に比べれば、オカルトの類は新しい情報が生まれやすいでしょうから 洋ちゃん、どこで死神の噂聞いたのか知らないけど、調べてもなにも出てこないと思うよ? い、いや、ちょっと待ってくれ あまりの急展開に面食らった。 あのさ、みんなメアのこと知ってるのか? ……めあ? 人の名前ですか? 死神の名前だよ 死神に名前なんかあったっけ? 死神は死神ですよね 誰かが噂に尾ひれつけちゃったとか? そういった変化も多いですよね。せっかくの都市伝説ですから、いつまでも変わらず後代に伝わって欲しいものです。伝統みたいに 洋ちゃん、ダメだよ。勝手に尾ひれつけちゃ ……いや、だから待ってくれ なんで俺が非難されなきゃならないんだ。 そのヒバリ校の都市伝説ってなんなんだ? 死神の噂だよ。出会うとカップルの仲を引き裂くって内容だったと思うけど ですからその死神は、生徒の間では恋の死神とも呼ばれているんですよ カップルの恋を死に追いやるって意味なんだろうね そんな都市伝説があるのか、この学校。 でも、クラスで誰も話してなかったぞ? 都市伝説に興味を持つのは一年生までで、二年生に上がる頃にはすっかり忘れているのが普通ですからね ていうか洋ちゃん、誰かから聞いたんじゃないの? もう知ってるんだから いや、初耳だけど 小河坂さんは死神の都市伝説を調べたいんじゃないんですか? たぶん違うと思う ……なんだよたぶんって なにか俺までこんがらがってきた。 その死神の噂、もう少し詳しく話してくれないか? 詳しくって言われても、いっぱいあってあたしも把握しきれてないよ 噂は様々ですが、共通しているのは先ほど明日歩さんが話した内容ですよ カップルの恋を引き裂くって? はい その死神の姿格好とかは? 死神だからカマとか持ってるんじゃない? 姿に限らず、歳も性別も千差万別ですよ 現れる場所とかは? ヒバリ校の都市伝説だし、ヒバリ校じゃない? 普通に考えればそうですよね 展望台に現れるって話は? こさめちゃん、聞いたことある? どうでしょう。そういった話もあるかもしれませんね メアかどうかは判断しようがなかった。 あくまで噂レベルの話のようだし、鵜呑みにするつもりじゃないのだが。 もしその死神がメアだったとしたら、メアに出会った人は誰かとの恋を引き裂かれるということだろうか。 俺はメアに出会っているので、すでに誰かとの恋を引き裂かれたということだろうか。 ……俺が展望台の彼女の名前をメアによって忘れたのだとしたら、それは恋を引き裂かれたということだろうか。 洋ちゃんが思案モードに入っちゃった 昔もよくあったんですか? 小学生の頃の洋ちゃんはいつも思案モードだったかな。あはは だが俺が展望台の彼女と再会できないのは、なにもメアのせいというわけじゃない。 メアと出会っていなくても、俺は彼女と再会できていないはずなのだ。 展望台の彼女が雲雀ヶ崎から出ているのなら、名前を覚えていたとしても捜せないのだから。 それになにより、俺は彼女に恋をしていない。 ……まあ、それはひとまず置いておくか おかえり、洋ちゃん なにが? 小河坂さん、図書室に来たということは、なにか本をお探しなんですよね? ああ。またこさめさんに協力してもらえると助かるかな 記憶喪失に関する本ですか? いや、今回は違う本 どんな本ですか? そして俺は今回の目的を説明した。 幻覚について、知りたいんだ たとえば幽霊や宇宙人なんかの類を目撃した場合、まず疑うのは自分の目になるだろう。 自分は幻を見たんじゃないか。今日は疲れてるのかな。そんな思考が普通だと思う。 例に漏れず俺もメアという存在を、一種の幻覚かもしれないと疑っている。 目の前で消えたり、人の胸にカマを刺したり、およそ日常とはかけ離れた光景を俺は幾度も確認しているのだ。 それをすんなり現実と受け止められるほど、俺は頭が柔らかくない。 メアは本当に実在するのか。 幻覚だった場合、なぜ俺は幻覚を見ていたのか。 重要なのはその二点。 用意してもらったこさめさんに感謝しながら本を開く。 記憶喪失を調べたときと同様、とりあえず気になるトピックだけに目を通す。 人はどんな場合に幻覚を見るのか──主な原因は薬物、ストレス、アルコール、心の病、病気の発熱、重度の失血、そして頭を強打することによる脳機能障害。 一見すると多種多様だが、共通項はちゃんとある。 いずれもドーパミンとエンドルフィンの異常分泌が原因という点だ。 そうなると人は眠っているときに近い状態──夢幻状態に陥るらしい。 夢はしばしば人が通常知覚できないメッセージを示し、不思議な体験をさせる。 知覚のタガが外れ、周囲から飛び込んでくる情報や脳内の記憶を制御できなくなるからだ。 そのため、現在の気持ちや過去の想い出が幻覚のかたちでよみがえることもあるらしい。 だからメアが幻覚だとするなら、俺は夢を見ていたのと同じなのだ。 俺はもしかしたら、展望台の想い出を通して、彼女の存在をメアとして見ていたのかもしれない。 メアは、俺の過去が作り出した死神なのかもしれない。 洋ちゃん、なにかわかった? ……あまりうれしくないことがわかったよ 防衛機制という言葉がある。 人は欲求が満たされない場合、無意識のうちに自己を守ろうとして、ある種の方法を取る。 そのときの心の仕組みのことを、防衛機制という。 たとえば、勉強したのにテストで良い結果が出せなかったときにもっともらしい理屈をつけてしまうこと。これを合理化という。 また、自分の学校が他校との部活試合で勝ったときに自分自身が勝ったように自慢してしまうこと。これを同一視という。 あとは、好きな子に意地悪してしまうのもこれに当たる。これを反動形成という。 要するに、さっきの考えが正しいのなら、俺は欲求を満たすために想い出に浸っていたということになる。 展望台の彼女に会えないためにストレスが溜まったので、幻覚を生み出して発散するという、なんとも情けない結論になってしまうのだ。 ……しかも、メアと展望台の彼女がうりふたつであることの説明までついてしまうじゃないか。 うれしくないことって、どんな? 俺が調べ物をしている間、明日歩は暇だったろうに最後まで待っていてくれた。 まあ、納得できる収穫がなかったっていうか どんな収穫? ……ええと 洋ちゃん、なんで幻覚なんか調べたの? ……黙秘権は? ない。待っててあげたんだから 明日歩さん、小河坂さんが困っていますよ だって気になるじゃない~! 図書室ではお静かにお願いしますね ……ごめんなさい 時間的にはほとんど夕方だった。夏だけあって、外はまだ昼間のように明るいが。 俺は開いていた本を閉じた。 ありがとう、こさめさん。助かったよ どういたしまして。お役に立ててなによりです 明日歩、家の手伝いのほうはいいのか? あっ、そういえば。そろそろ帰らないと 図書室ももう少しで閉める時間ですし、今日はこれでお開きですね 洋ちゃん、一緒に帰る? 展望台に寄るつもりなので、断ろうとも思ったのだが。 そうだな。帰るか 明日歩がまた不機嫌になる気がしたので、こう答えていた。 いったん家に帰ってから展望台まで引き返しても、問題はなかった。 手伝いがなかったら、帰る前に展望台寄りたかったんだけどね 明日歩は俺の右隣を歩いている。 クラスでも右隣の席なので、そこが明日歩の指定席になったかのようだ。 ほんと残念だなあ。洋ちゃんと星見したかったのに 土日はもうすぐだし、慌てることはないだろ その日が晴れって保証はないもん。今日は晴れだけどさ 晴れか? ちょっと曇ってる感じだけど でも雨は降らないよ。絶対 天気予報でそう言ってたのか うん、あたしの天気予報が言ってたの ……明日歩が勝手に言ってるだけじゃないか そうじゃないよ 明日歩は先を歩いてから、くるんと振り返った。 あたしの雨警報は、天気予報よりも当たるんだから えへんと胸を張っている。 ……なんだ、雨警報って 雨足がね、聞こえるんだよ。雨が近いとね ……雨足? 雨が降る前にか? うん ざーざーって? ううん、きーんきーん ……どんな雨だよ だから、警報なんだってば。きーんきーんって 飛行機みたいだな そうだね。そんな音なのかもしれない 飛行機なんて乗ったことないけどね 明日歩はまた俺の右隣に移動する。 雲雀ヶ崎って北にあるからもともと梅雨の時期が短いけど、今年はそれが顕著みたい あたしの雨警報もずっとお休みしてるんだ その雨警報、当たるのか? うん。的中率100%! またまた胸を張っている。 ……強調されるから、やめて欲しいんだが。 七月入ってから、一度も鳴ってないんだよね だったら、土日も晴れるさ。明日歩の警報が休んでいるんなら そうだね。楽しみだなあ 話していると長い坂も短く感じる。俺たちはふもとに降り立った。 あたし、明日は早めに学校いって天クルの勧誘ポスター作ってみるよ。掲示板に貼れば少しは効果があるかも じゃあ俺も家で勧誘のチラシ作ってくるかな ……勧誘、手伝ってくれるの? 当たり前だろ でも、蒼さんのほうだけやるって言ってたから…… あれは冗談。ほかの勧誘だってやる 明日歩は屈託なく笑う。 チラシ作って配るの? ああ。早朝は辛いから、帰りのホームルーム終わってからすぐ校門に立って、帰宅する生徒に配ってみようかなと そうすれば帰宅部の生徒をピンポイントで狙えるしな さすが洋ちゃん、ナイスアイデア! あたしも手伝うよ それじゃ、また明日 ばいばい 明日歩は手を振って商店街のほうへ走っていく。手伝いの時間が間近なんだろう。 道を曲がって背中が見えなくなったところで、俺は家の門をくぐった。 バッグを置いたら、展望台に出向いてみよう。 メアは幻覚なのか、はたまた実在するのか。 幻覚だとしたら、これまでのメアとの会話もまた幻聴ということになる。 本当に、うれしくない結論だ。 明日歩の言葉どおり今夜は晴れのようだった。 だからほら、目を凝らさずとも見えている。 俺の瞳は、はっきりと夜空の光とその下で待つ死神少女を捉えている。 また来たのね ああ。悪いか? 悪いというか、不気味 ……なんだよ不気味って 間違った。疑問 疑問って、なにが どうしてここを訪れるのかなって 訪れたかったからだよ どうして? メアに会いたかったからだよ メアのむっつり顔がますますムスっとなった。 ……やっぱり不気味 なんでだよ あなた、わたしを恨んでるんじゃないの? 前回と同じ質問だ。 なんでそう思う? わたしがあなたの悪夢を刈ったから 俺がキミに会いたかった理由のひとつだな ……? どうしてもキミに確認したかったことがあるんだ ……なに? 展望台の彼女の名前は、キミが奪ったのか? 展望台の彼女? 俺が昔ここで遊んでいた女の子。その子の名前を忘れたのはキミのせいなのか? 忘れたのなら、わたしが原因だと思う キミが、俺から記憶を奪ったのか? うん それが悪夢を刈るってことなのか? うん なぜそんなことができるんだ? できるからとしか答えようがない 理屈は知らないが結果はわかるってことか? そうなんだと思う たとえば、だ。 名前を忘れたのは俺自身が原因で、だが俺はその事実を幻覚のせいにしたがっているというふうにも解釈できる。 俺の弱さが、メアを生んでいるということだ。 ちょっと目、つむってくれるか? ……え? 目、つむってくれ どうして? どうしても いや 拒否られる。 メアってさ、俺に目をつむれって言ったよな。それからカマを刺したよな うん じゃあギブアンドテイクってことで、今度はメアが目をつむってくれ いや このやろう。 わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが命令されることなの。だからいや 俺の幻覚だったとしたらやけに反抗的だ。 じゃあどうすれば目をつむってくれるんだ? そもそもなんでわたしが目をつむらなきゃなの 実験したいんだ なにそれ 実験も知らないのか? 刺していい? カマを構えるなよ!? 今日のあなたはバカバカね なんだよバカバカって…… ダメダメとどっちがマシなんだろう。 メアってさ、死神なんだよな? あなたがそう言うなら、そうだと思う 命令されるのが嫌いなわりに受動的な答えだが、まあいい。 俺さ、死神なんて人外設定は信じてないんだ ……あなたが言ったくせに でも、これからする実験を行えば、信じられると思う ……そうなの? そうなんだ メアは迷っているようだ。 頼むよ。これは命令じゃなくてお願いだ。俺はメアを死神として扱いたいんだ わたしは死神じゃなくてもいいけど 根本を覆す発言を食らう。 でも死神じゃないとすると、俺はメアを幻覚として扱うことになってしまうんだ ……幻覚って 残念なことにこのままだとメアは俺が見ている幻覚になるかもしれないんだ な、なんでそうなるのっ 慌てている。 メアって幻覚じゃないのか? 当たり前じゃないっ。わたしはこうしてここに存在してるんだから こうは言っているが、自己主張の強い幻覚というのも症例にあるらしいので、鵜呑みにはできない。 じゃあ幻覚じゃないってことを証明するためにも、目をつむってくれないか? ………… 警戒しているのがありありだ。 すぐすむんだ。三十秒もかからない ……本当? 本当 ウソだったらカマで刺していい? ああ。だから頼むよ ……うん メアはおっかなびっくりに目を閉じた。 俺はメアに近づき、正面に立った。 足音が聞こえたせいかメアはびくっとした。 だけど約束どおり目は閉じたままだ。 メアは肩を強ばらせて不安そうに立っている。 改めて思った。小さな身体。小学生並みの身長。 顔だってあどけない。 展望台の彼女にそっくりだから、とても幼い。 だから、普段の大人びた口調が、無理をした背伸びを思わせていた。 俺はメアを抱きしめた。 大きな震えが伝わった。 そこにはちゃんと感触がある。 幻覚とは思えないぬくもり。 あたたかく柔らかい。 それともこの感触も幻なのか。 幻覚は視覚や聴覚だけじゃない、触覚にだって当てはまる。 幻味や幻嗅なんて言葉もあるくらいだ。 ……よくよく考えてみると、それじゃあ実験の意味がないじゃないか。 それでもこのぬくもりを現実じゃない、ただの夢として扱うのは、いたく寂しく感じられた。 い…… 胸の中でメアのつぶやきが聞こえる。 い、い、い、い…… ……い? いつまでこうしてるのっ!! がこんっ!! いてえ!? 脳天に衝撃が襲い、尻餅をついた。 なにすんだっ! そっ、それはこっちのセリフでしょ! メアは自分の身体を守るようにぎゅっとカマを抱きしめていた。 ついでに耳まで赤くなっていた。 カマで殴ったのか…… 刃のほうじゃなかっただけありがたく思いなさいっ 火が出る勢いで怒っている。顔からも火を噴いている。 な、なんなの今のはっ…… 実験だけど そんなの聞いてないっ ……いや、実験するって言ったじゃないか だ、抱きしめるなんて聞いてないっ メアはいいって言ったじゃないか そんなの知らないっ 俺が頭をさすりながら立ち上がると、メアはびくっとしてあとずさった。 ……そんな警戒されると傷つくんだけど あ、あなたが悪いんでしょっ 実験の内容話さなかったのは謝るよ 謝っても許さないっ まさかここまで怒るとは思わなかった。 に、二度とやったらっ、絶対許さないからっ びくびくしながら凄まれても怖くはないが、代わりに罪悪感が湧く。 本当、悪かった。ごめん 紳士ではなく真摯に謝る。 ………… メアの頬はまだ赤いままだ。 ……わたしが幻覚じゃないってわかったならいいけど いや、わからなかった ……なんですって 待った待ったっ、カマを振りかぶるなよ! だって話が違うじゃないっ 俺もわかると思ったんだけど、よく考えるとわかるわけがなかったんだ ……つまりあなたはわたしを怒らせたいわけね カマが喉元に当たってるんだけど!? 今度やったら首ちょん切るからねっ わかった誓うっ、誓うから! カマが離れたので安堵する。 ほんと……びっくりしたんだから…… そんな顔をされると俺が全面的に悪い気になってくる。いや、俺が悪いんだろうけど。 それじゃ、次の実験してみるか ……わたしの話を聞いてなかったの カマがまた戻ってきた。 違う違うっ、抱きしめる実験じゃなくて! じゃあなにがしたいの変態くん ついに変態呼ばわりだ。 メアさ、これから予定あるか? メアはちょこんと首をかしげる。 もし時間あるなら、俺の家に来ないか? ……え? ちょっと遊びにさ。夕食もごちそうするぞ メアは驚いていた。 親御さんには俺の家から電話で連絡すればいいし 死神に親なんていないわ ……そうだった。 あなたの家に、遊びに? ああ。どうだ? いや ……なんで わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが馴れあいなの。だからいや ……なんか嫌いなの多くないか? よけいなお世話 少しの間でいいから。遅くなるのが嫌だったら、お茶だけでもいいからさ ……もしかして、それが次の実験なの? メアが本当に幻覚なのかどうか。 それを証明するためには俺ひとりでは限界があるようだ。 だったら俺以外の人に証明してもらえばいい。 メアを誰かと会わせて、メアの姿を見ることができるのなら、俺の幻覚ではないことがわかるはずだ。 俺だけの幻覚なら他人が幻視できるとは思えない。 あなた、わたしを実験動物かなにかと勘違いしてるんじゃないの 実験というのもある。だけど純粋にメアを招待したいっていうのもある もっとメアのこと知りたいんだよ ……わたしを? ああ どうして? メアと友達になりたいから これは本当の気持ちだった。 展望台の彼女の名前を忘れたことに関して、今となっては俺はメアを恨んでいない。 なにより、俺はもう過去の「僕」にはなりたくない。 メアは、かあっと頬を染め上げた。 ど、どうしてっ ……なんで怒るんだ 怒ってなんかないっ 怒ってるようにしか見えないけど わたしは理由を聞いてるのっ だから、友達になりたいからだよ ……許さない なんでそこでカマを構えるんだよ!? う、うるさいっ、とにかく許さないからね! なにかよくわからないが……他人の家に上がるのが嫌なんだろうか。 それか、俺を嫌っているとか。 メアって俺のこと、嫌いか? え? なにかと俺をカマで刺そうとするし、実際に一度刺してるし、嫌われてるのかなと ………… どうなんだ? 嫌いなら、はっきり言ってくれたほうがありがたい メアは小さな腕でカマをぎゅっと抱きしめる。 し、知らない…… 強く、強く抱きしめる。 わたしが知るわけ、ないじゃない…… この言葉もよく意味がわからなかった。 俺の家、遊びに来るの嫌か? ………… 無理強いするつもりはないんだ。今日じゃなくてもいいし、気が向いたら遊びに来てくれないか? ……いつでもいいの? ああ じゃあ……いってもいい 了解 で、でも、いかないかもしれないからね わかったよ 拒絶されていないことがわかったので一安心だ。 それは、メアが俺の家を訪れなくても、誰かほかの友達をここに呼べるということだから。 ……帰る メアは不機嫌に告げた。 もう帰るのか? 今日のあなたはバカバカだから ダメダメとどっちがマシなんだ? どっちも最低 そうですか。 ……もうあんな真似しないでね 誓うって言ったろ もししたら、もうここに来なくなるかも それは非常に困る。 家まで送ろうか? 死神に家なんてないわ じゃあどこに帰るんだ? メアは答えず、きびすを返した。 ……バカバカ 一瞬、辺りに影が落ちると、そのときにはもうメアの姿はなくなっていた。 ……これってやっぱり、不思議体験だよな 天クルではなくオカ研に入るべきだったかもしれない。 冗談だけど。 待機限界時間を突破するまで、あと五分。 今朝の千波は俺が朝飯を食べ終わる頃に起きてきた。 そして毎度のごとく俺に文句をぶつけたあとに食べ出して、今は自室で支度をしているはずだった。 次から待機時間を五分短くしてみるかな…… そうすればほぼ十割の確率で俺は千波を待たなくてすむだろう。 嘆息しながら玄関の扉を見つめていると、ふと近くに人の気配を感じた。 ………… そこはお隣さんの家の門だった。 背丈がちょうどメアくらいの女の子。小学生だろうか。 俺と同じように玄関の扉を見つめている。誰かを待っているようだ。 蒼さん宅に用でもあるんだろうか。 なあ っ!? そばに寄って声をかけると、女の子はこっちが驚くほど激しく飛び上がった。 ど、どうかしたか? ………… 怯えた瞳で俺を見上げる。 その姿は抱きしめたあとの昨夜のメアとそっくりだ。 ……俺、そんなに不審者に見えるか? ええと、この家に用があるのか? ………… 呼び鈴、押してあげようか? ………… 女の子はなにも答えない。 というか、今にも逃げていってしまいそうだ。 ……ああ、子供に怖がられるってこんな気持ちになるんだな。ショックだ。 な、なあ。お兄さんは怪しい者じゃないぞ? この家のお隣に住んでるんだ 最大限にこやかに笑ってみせる。 ……た、助けて 困ってるのか? ならお兄さんが助けてあげるぞ? このお兄さんから誰か助けて…… 落ち込まざるを得ない。 お姉ちゃんが、知らない人に声かけられたら助けを呼べって…… い、いや、だから俺は不審者じゃないし善良なお隣さんで先日引っ越してきた小河坂洋ですよろしくお願いします 無理やり自己紹介をすませる。 ……た、助けてえ 俺が誰かに助けを呼びたくなる。 あ、あのさ、お名前は? お姉ちゃんが、知らない人には個人情報を漏らしちゃダメって…… そのお姉さんは素晴らしい教育者だ。 でもな、考えてもみてくれ。俺は不審者じゃないんだ 知らない人はみんなそう言うって…… 知らない人でも不審者とは限らないんだぞ? 女の子は目をぱちくりする。 知らない人が不審者だったら、地球人の99%以上が不審者になってしまう。それはおかしな話だと思わないか? ……ぐす なんか泣いてる!? ああっ、お兄ちゃんが女の子泣かせてる! 最悪のタイミングで不審者登場。 お兄ちゃんが無理やり女の子お持ち帰りしようとしてるっ、メイドさんに飽きたらず幼女まで食べようとしてるっ、千波そろそろお兄ちゃんの将来が心配になってきたなっ ……ま、また出た お化けが出たみたいに言ってる。 ……あれ、この既視感を伴う言葉って。 〈鈴葉〉《すずは》…… 蒼さんが玄関から駆け足でやって来た。 あっ、蒼ちゃんおはよーっ ………… 蒼さんは、まずったという顔をした。 お、お姉ちゃん…… 女の子は蒼さんを見つけたとたんにしがみついた。 鈴葉。どうして外に出てるの? え、えと、お姉ちゃんのお見送り…… そんなのいいから。風邪なんだし、休んでないと その子、もしかして蒼さんの妹か? 違います え…… 女の子の顔がさっと青ざめる。 え、あ、ううん。今のはナシ 蒼さんはすぐに女の子の頭を撫でる。 ……蒼さんの笑顔は初めて見た。 鈴葉、ほら早くおうちに戻って ねえねえその子、鈴葉ちゃんっていうの? 違う え…… 女の子の顔がさっと青ざめる。 う、ううん。今のもナシ 笑顔で頭を撫でている。 鈴葉、一緒におうち戻ろ 蒼さんは女の子(鈴葉ちゃんというようだ)の手を取って、自宅に消えていった。 ふたりとも戻っちゃったね そうだな 今の子、蒼ちゃんの妹さんかな? だろうな。一緒に家に戻ったし 鈴葉ちゃんともお友達になりたいなっ これ以上蒼さんに迷惑かけたらダメだろ? 千波の肩に優しく手を置いても言葉の内容は非情だよお兄ちゃん!? ……まだいた 蒼さんが出てきた。鈴葉ちゃんの姿はなかった。 さっきの子、かわいい妹さんだったな ……そんなことないです ちっちゃかったし小学生だよねっ、千波たちも通ってた小学校の生徒なのかなっ 蒼さんは無言で通り過ぎていった。 待ってよ蒼ちゃーんっ 千波はめげずに追いかけていった。 蒼さん宅に振り返ると、ドアの隙間からさっきの子が覗いていた。 俺に気づくと慌てて顔を引っ込める。 ……人見知りなのかな。 不審者扱いされていないことを祈りたい。 妹さん、蒼さんが大好きなんだな ……なんでですか あの子、風邪ひいて学校休んだんだろ? なのに見送りって言ってたから ………… ねえねえ蒼ちゃんっ、鈴葉ちゃんとお友達になってもいいかなっ ……ちっ ほらお兄ちゃん、蒼ちゃんも賛成してくれたよ! どこがだ 同意 明日から土日でお休みだし、蒼ちゃんの家で鈴葉ちゃんとも遊びたいなっ ……やめて 明日はお昼過ぎにそっち訪ねるからねっ ……助けて がんばれ 千波の猛進を止めるのは多大な体力を浪費する。 ……薄情 千波の相手してくれる人が増えて助かるなあ ……死ねばいいのに 交換条件でどうだ? 蒼さんは怪訝な顔をする。 蒼さんが天クルに入ってくれたら、千波の猛進を全力で食い止めてもいい ……卑怯 ダメだよお兄ちゃんっ、蒼ちゃんは千波と一緒に今日からオカ研の活動に勤しむんだから! おまえまだ諦めてないのかよっ お兄ちゃんが勝手に割り込んでるだけでしょっ ……不毛な争い 蒼さんは淡々と言った。 私はどこの部にも入るつもりないのに それじゃあ明日から千波のお守りよろしくな ……とても卑怯 蒼ちゃんっ、オカルト部長に蒼ちゃんのこと話したらスカウトしたいって! 占い好きは素養充分だって! べつに占いは好きじゃない でも星占い、するんだろ? 千波も占って欲しいなっ あなたの頭は将来お月様になるでしょう それハゲるってこと!? ……というかそれ星占いじゃないよな? 月占いです そんな占いないよな? ……ウザい 蒼さんの言葉は人の心をぐさぐさ突き刺す。 蒼さん。天クルの件、マジメに考えてくれると助かる ……マジメに考えた結果、断ります 千波の猛進はいいのか? ……くっ 無理やりは感心しないよお兄ちゃんっ、蒼ちゃんはオカ研に入りたがってるんだから! 入りたがってない 千波、今日は部活するのか? それは愚問だよお兄ちゃんっ、千波この日のためにUFO激写用のカメラも用意したんだから! その使い捨てカメラ、フィルム使い切ってるだろ そんなわけないよっ、これは千波が中学校の修学旅行でほとんど使わなかった使い捨てカメラなんだから! もったいないから俺が使ってやった なんてこと!? 中身は全部千波の寝顔だ ……待ち受けにしてたり? してねえよ なんで千波のカメラ勝手に使うんだよ! おまえいつも寝坊するからフラッシュたけば起きると思ったけど起きなかっただけだ お兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカぁ!!! ……平穏な生活が恋しい 蒼さん、それは千波が生まれたときに俺が捨てた宝物だ。 お待たせしました~。こちらサンドイッチセットとラーメンセットになりま~す! ていうか、運んでるのはオレなんだけどな お疲れさまです、飛鳥さん 次は俺も運ぶの手伝うよ 学食では四人で食べるのが常となっている。 転入生の俺を気遣っているためなのかもしれないが、文句などはもちろんなかった。 しっかし千波ちゃんってとんでもなくパワフルだな。相手するだけでへとへとだったぜ 元気な子だよね、千波ちゃん。結局オカ研入ったの? むしろもう入ってるつもりになってたぜ。宇宙人を捕まえたいって息巻いてたからな 迷惑かけて悪いな いや目からウロコが落ちたぜ マジですか。 オレ、ミステリーとの遭遇なんて夢物語だって心のどこかで思ってたんだよ。だけどそんな弱気なオレを千波ちゃんが改心させてくれたんだ 千波さんに感謝ですね オレの命の恩人だぜ 千波の株が妙な方向に急上昇している。 千波ちゃんはもはやオカ研の部員じゃねえ、オレの生涯のパートナーだぜ じゃあよかったら持って帰ってくれ お、いいのか? いいわけないでしょ、もう。洋ちゃんの大事な妹さんなんだから むしろ俺のほうから持ち帰りをお願いしたいんだけど ダメだよ洋ちゃん。冗談でも本人の前では言わないようにね 似たようなことは何度も本人の前で言ってるが。 飛鳥さん、今日の放課後は千波さんと活動ですか? おうよ。手始めにヒバリ校の都市伝説を調べるつもりだ それ、死神が出てくるやつだよな 小河坂も知ってんのか。耳が早いな 飛鳥くん、まだ都市伝説調べてたの? 一度は諦めた。図書室の資料を調べても生徒に聞き込みしても、有力な情報が手に入らなくてな だけど改心した今のオレは違う。諦めたらすべてがそこで終わりだって千波ちゃんに教えてもらったんだよ 千波の言動からどうやったらそんな結論を得られるのかがミステリーだ。 それに、新人の初仕事としては打ってつけだと思うしな あまり無茶はさせないでくれよ なんだかんだ言っても妹が心配なんだな あたしが言ったとおりでしょ そんなんじゃない わかってるよ その顔はわかっていない顔だ。 わたしたち天クルもオカ研に負けないよう、勧誘を諦めるわけにはいきませんね うん、もちろん 蒼さんのほうはまだ待ってくれ。難航気味なんだ わたしたちに手助けできることがあれば、いつでも言ってくださいね オレも蒼さんには興味あるな 飛鳥くんは千波ちゃんをもらったんだから蒼さんはあたしのだよ~! 物扱いされてる。 べつに横取りしようってわけじゃねえよ、そっちが失敗したらもらうってだけで だといいんですけど 食べ終わったら打ち合わせするか。ポスター貼りと、ビラ配りの手順を確認しないと 勧誘争いはひとまず終わったし、オレも応援だけはしてやるよ よーし、絶対あとひとり部員集めてこももちゃんをぎゃふんと言わせるぞ~! 明日歩はガッツポーズを取って、意気揚々と食べ始めた。 やあ、お待たせ 遅いですよ、先輩。ホームルーム終わったらすぐ集合って昼休みに伝えたのに ごめんごめん。所用で遅くなってしまって なにかあったんですか? カレイドオルゴールの再修理をお願いしてきたんだ。昨日は元顧問を捕まえられなくてね しかも部室に戻ってきたら明日歩クンも小河坂クンもいなくなってるし…… これから天クルの仕事があるというのに、しょっぱなから岡泉先輩は意気消沈だ。 これ、先輩の分です。よろしくお願いします 勧誘のビラの束を渡す。 これは昨夜に俺が作ってみたものだ。そして昼休みに可能な限り多くの枚数をコピーした。 デザインは素人なので凡百だが、活動内容など明日歩が補足で加えたところもあるし、必要事項はすべて記してあるはずだった。 新人の洋ちゃんがこんなにがんばってるんですから、先輩ももっと部長の威厳を見せてくださいっ ビラ配りなんて恥ずかしいなあ…… いきなり萎える発言しないでくださいよ~! あ、生徒が校舎から出てきましたよ。そろそろ始めたほうがいいかもしれません それじゃ各自配置について、かけ声は元気よくね。よろしくお願いしま~す! 明日歩にひっぱられるかたちで、俺たちの勧誘活動が始まった。 帰宅する生徒はまばらだった。ほとんどの生徒は部活や委員会でいそがしいからだ。 だが逆を言うとこの時間に帰る生徒はどこの部活にも所属していないわけで、やみくもに声をかけるよりはよっぽど効率がいい。 一学期が終わるまでの日数は少ないので、勧誘も計画的に進めなければならなかった。 なにしてるの、あなたたち そして数人の生徒にビラを半ば押しつけるかたちで渡し終えた頃、姫榊が現れた。 ……なんでこももちゃんが来るんだよ 姉さん、今日はもうお帰りですか? ええ、生徒会の仕事もないし。それよりあなたたち…… 姉さん、どうぞ 姫榊の文句が飛んでくる前にビラを渡した。 こももちゃんに配ったら火に油を注ぐだけな気も…… なんなの、これ。天クルの勧誘活動? はい。姉さんもよかったらどうですか? 雲雀ヶ崎の星降る夜空をわたしたちと一緒に見上げませんか? するわけないでしょ 姫榊はぺいっとビラを投げ捨てた。 シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 先輩、どうぞ こさめさんが知恵の輪を渡すと岡泉先輩はおとなしくなる。 た、頼むからこの人首輪でつないでてくれない……? だよなあ…… 自業自得だね なぜか明日歩が勝ち誇っている。 まったく、こんなの配って部員が集まるとでも思ってるの? こももちゃんには関係ないじゃないっ 帰宅部の生徒を狙ってるんでしょうけど、この時期で帰宅部だったらそもそもどこの部活にも入る意思がないってことじゃない そんなのやってみなきゃわからないじゃないっ 明日歩の言うとおりだな ちょっと、そこのコガヨウ ……いいかげんその呼び名やめろ 小河坂くん、少し時間いいかしら 時間って、なにか用か? ええ。あなた、生徒会に入りなさい いきなり命令口調だ。 ……それに関しては二学期に話すんじゃなかったのか? 見るに耐えなくなったから。天クルなんかの活動で無駄に時間をつぶすこともないでしょう ちょっとちょっとっ、ツッコみどころが多すぎてどこからツッコめばいいのかわかんないよっ ならまず自分の行動にツッコみなさい どういう意味だよっ 小河坂くん、わたしについて来て。生徒会室で詳しく説明してあげるから いや……そんなこと言われてもな 洋ちゃん、こももちゃんの言うことなんか聞くことないよ。勧誘の続きしよ 無駄な努力に汗水流すこともないじゃない こももちゃん、邪魔だからあっちいってくれる? 邪魔なのはそっちでしょう、ここは校門なんだから。それといいかげんわたしのこと名前で呼ぶのやめなさい こももちゃんこももちゃんこももちゃんこももちゃん ……よっぽど天クルを廃部にさせて欲しいようね 一触即発だった。 小河坂くん。あなたの優秀な力は天クルじゃなくて、生徒のための生徒会に発揮されるべきじゃない? 優秀と言われてもな。 成績を指しているのなら、それは過去に友達を作らなかった代償のオマケとしてついて来ただけの代物だ。 展望台の彼女に言われていたとおり、俺は優等生じゃなかったのだ。 姉さん、今日はここまでにしましょう。小河坂さんも明日歩さんも困っています なんで小河坂くんが困るのよ。それに南星さんが困るのはわたしとしては本望…… 姉さん わたし、これ以上そんな姉さんを見たくありません…… ち、ちょっ、やめ…… ほら、姉さん。わたしに笑顔を見せてください…… こ、こんな状態でどうやって笑えとっ…… それではもっと困ってください……わたしをゾクゾクさせてください…… や、やあっ……さわらなっ…… もっと、もっとせつなくなってください…… はああっ……だ、だめえっ…… 姉さん……ああ、わたしのかわいい姉さん…… だめっ……だって言ってるでしょ!! 帰宅途中の生徒がギャラリー化してきた中、姫榊は顔を燃え上がらせながら乱れた制服を直した。 ……はしたないところをお見せしました 絶対確信犯だよなあ。 鼻の下伸びてる あるわけがない 紳士に言う。 むー 犬化する。 き、今日のところはこれで勘弁してやるわ! うへへへぇぇ……今度こそこのあられもない写真をネタに天クルの存続をぉぉ…… 姫榊はケータイをはたき落として踏みつぶした。 こさめっ、家に帰ったら覚えておきなさいよ! はい……うっとり 姫榊は悔しそうに逃げ帰っていった。 ぼ、僕の二台目のケータイが…… 誰も同情はしなかった。 気を取り直して勧誘始めるよ。皆さーん、天クルをよろしくお願いしま~す! 今の突発イベントを天クルのショーとでも思ったのか、主に男子生徒が次々とビラを持ち帰っていった。 ………… しかも一般人のギャラリーまで集まっている。 ……って、あのときの彼女? 一度、小学校を訪れた際に見かけている。 間違えたくても間違えられない。 夏にカーディガンの出で立ちが、少女の姿を風景から切り離している。 目立っているのだが、ほかの皆は勧誘にそれどころではなく気づいていない。 ………… 俺を見ている……というよりは、俺たちの勧誘活動を眺めているんだろう。 楽しんで、というようには見えない。 どこか、思い詰めたように、彼女はそこに立っている。 ………… そのうちに彼女は歩き去っていく。 俺は後ろ姿を目で追っている。 ……いったい誰なんだ? 洋ちゃん、サボってる。疲れちゃった? ……あ、いや 男の子なんですから、しっかりしてくださいね わかったと手で示してから振り向くが、もう彼女の姿は完全に消えていた。 俺は、勧誘に意識を戻した。 ……………。 ………。 …。 ビラ、全部は配れなかったね 全校生徒じゃなくて帰宅部を対象にしてたわけだし、こんなもんじゃないか 俺たちは夕方になったところでビラ配りを終了した。学校に残っているのは部活動中の生徒だけだと踏んだからだ。 週が明けたら入部希望の生徒、来ないかな~ ポストに入れるビラの効果は、千通に一回反応がある程度らしいぞ ……洋ちゃんに突き落とされた たとえすぐ反応がなくても、継続して行えば確率も上がると思いますよ まさかまたビラ配りするのかい……? 当然じゃないですか。なんなら明日もやりましょう! 明日は土曜だろ。学校、休みじゃないか でも土曜スクールがあるじゃない ……なんだそれ 先生から説明がありませんでしたか? ヒバリ校は土曜日でも希望者のみ、教室で自習ができるんです 初耳だ。 午前中だけだけどね。今みたいに週休二日制になる前は、半ドンと呼ばれていたらしいよ その頃は強制で、しかも普通の授業だったそうだ うえー、そんなのあたしだったら耐えられない 塾のようなイメージがありますね 小河坂クンは都会から転校してきたんだよね。向こうではどうだったんだい? 土曜は普通に休みですよ。ただ全国模試でつぶれることはありましたし、塾に行ってる生徒も多かったですけど せっかくの休みなのになんで勉強したがるんだろ 明日歩さんが天体観測したがるのと同じ理由じゃないですか? ……やっぱり想像できないなあ 岡泉先輩は受験ですよね。塾とか行ってないんですか? ああ。自宅学習ですませているよ それで学年総代って、すごいですね それは僕をおとしめているんだね いやなんでそうなるんですか 僕はそれに足りうる人種だからさ そんなセリフをさわやかに言える先輩は大物なのか小物なのかいまいち不明だ。 洋ちゃん、土曜スクールはどうするの? ……うーん、今聞いたばかりだしな 洋ちゃんが行くなら、あたしも行こっかな あなたは誰ですか? なんだよその職務質問!? それほど意外だったんです ……傷つくなあ 明日歩クンもついに勉学に目覚めたのかい? そういうわけじゃないんですけど 明日歩はあははと照れ笑い。 洋ちゃん、約束覚えてるよね? なんだろうと考え、すぐに思い当たる。 バイトの話だよな。覚えてるぞ 洋ちゃんが土曜スクールいくんなら、終わってからそのまま一緒にあたしんち来ない? デートですか? なっ、なんでそうなるんだよ! 挙式はいつだい? 先輩までなに言ってるんですか~! で、相手は誰なんだ? えいっ こさめさんにチョップされた。 小河坂さん、ボケるときの言葉は選びましょうね ……俺だけ悪者なのか? はい やり直す やり直す やり直さない こさめさん、挙式はいつだ? えいっ チョップされる。 わたしにボケてどうするんですか こさめさん、相手は誰なんだ? えいっ チョップされる。 こさめさん、好きな人とかいないのか? えいっ チョップ。 いないなら俺とつきあってくれ えっ…… チョップが来ない。 えいっえいっえいっ と思ったら三倍になって来た。 ……びっくりしてツッコミが遅くなりました 胸に手を当てていた。 ……ふたりとも楽しそうだね 明日歩が犬化していた。 明日歩は複雑な顔をしていた。 僕たちは電車通学だから、ここでお別れかな それでは小河坂さん、明日歩さん。よい週末を 月曜も海の日で祝日だから、次に会うのは火曜だね ふたりは駅の方向に歩いていった。 残されたのは俺と明日歩のふたりだけ。 明日歩の住所も駅近くの商店街なのだが、皆と一緒には帰らなかった。 ……それで、どうするの? その声は少し不機嫌だ。 土曜スクールだよな うん 行くよ。終わったら明日歩の家、お邪魔させてくれ それだけじゃないよ ほかにあっただろうか。 ……忘れてそうな気がしたけど、本気で忘れてる 犬化しそうな明日歩を見て閃いた。 午前は土曜スクール、午後はバイトの説明、夜になったら星見しようか? うん! 一転、笑顔に立ち戻った。 明日は一日中、明日歩につきあうことになりそうだ。 勧誘はするのか? ううん、あれは冗談。土曜スクールって、参加する生徒のほうがずっと少ないから それだとビラ配りの効果も出ないか。 蒼さんのほうは難しそう? そうだな。本人、迷惑がってるから 無理やりになりそうなら、やめていいよ。楽しんで活動できなきゃ意味ないもん それでも天クルの廃部だけは避けたいと考えている。明日歩だけじゃなく、部員のみんなが。 いっそのこと蒼さんから名前だけ借りて、幽霊部員として参加してもらう手もある。雪菜先輩の例だってあるし。 ただ、そんな方法では明日歩の笑顔が曇るに違いない。 なあ、明日歩 なに? たとえばだけど、ヒバリ校の生徒じゃない人が天クルに入部することは可能か? 明日歩はきょとんとした。 それは……普通に考えて、ダメじゃない? そういう規則はあるか? あたしは知らないけど……。こももちゃんなら知ってるんだろうけど 生徒じゃなくても年齢が俺らに近ければOKってことはないか? うーん、やっぱり聞いてみないとわからない 俺も明日歩も姫榊とは連絡取りづらいし、こさめさんから聞いてもらえるとありがたいな ケータイで頼んでみようか? 助かるよ でも、なんでそんなこと聞くの? 俺は、星空に移行中の夕焼けを見上げて言った。 もうひとり、星が好きそうなやつに心当たりがあるんだ 明日歩と別れ、自宅にバッグを置いて展望台で待っていると、すぐにあたりは闇に溶けた。 ただ、闇といっても星明かりにあふれているのでそれほど暗くは感じない。薄闇だ。 今日もまた、夜空には光の群が走っている。 こんばんは こんにちは 今夜のあなたもバカバカね バカバカって言うほうがバカバカなんだぞ 帰っていい? いきなりかよっ メアは軽く吐息をついた。 ふざけたのは謝るけどさ そうじゃない。でも帰りたい ……だって今日は胸が苦しいの 恋する乙女みたいなことを言う。 風邪でもひいたのか? 蒼さんの妹さんも風邪らしいし、流行っているのかもしれない。 死神は風邪なんてひかないわ 否定されたか。 じゃあどうしたんだ? あなたを刺したくて刺したくてたまらないの…… 殺人衝動ですか。 帰る前に刺していい? ……ダメだ 痛くしないから 痛くないのは知ってるけどダメだ ……あなたがいけないのに メアはふいっと横を向く。 それから、手持ちのカマを抱きしめた。 あなたが、まだ悪夢を見ようとするから 諦めようとしないから…… ………… さすがに気づいている。 メアが言う悪夢とは、展望台の彼女との想い出を指している。 メアは、理由は知らないが、俺の想い出を手に持つカマで奪おうとしている。 メアの素性も正体も知らないし、幻覚かどうかも判断つかなくても、それはおそらく正解だった。 ……本当に、体調悪いのか? ………… もしメアが悪夢を刈れなくて辛い思いをしてるのなら、なんとかしてやりたいって思う 俺ができることがあれば、してやりたいって思う 実際、できることはあるんだと思う ………… だけど俺の想い出は俺のものだ。誰かに奪われるわけにはいかない メアに奪われるわけにはいかないんだよ ………… だから、メアに悪夢を刈られることは助力の範疇を超えているから、助けてやることはできない ………… ごめんな メアの表情が普段のむっつりに戻る。 ……べつにいいけど いいのか。 ほんとごめんな べつにいいったら 許してくれてよかった。 どうせ背後からざっくり刺すし ぜんぜんよくない。 ……そこまで体調悪いのか? そういうわけじゃない。あなたがぜんぜん諦めてくれないからイライラして、それで胸が苦しくなってたの ……それ、八つ当たりっていうんだぞ うるさい変態くん 今度は俺の胸が苦しくなりそうだ。 今日のあなたはチャンスだったけど、ダメダメに戻ったみたい たしか、俺が悪夢を思い出していないときがチャンスなんだったか? うん 俺が思い出していれば刈れないってことか? そうじゃない。でも、思い出していないとうれしい 以前に刈られたのは七夕だ。俺は展望台の彼女を確かに思い出していた。 俺に思い出していて欲しくないのか? うん なんで? なんでも 想い出を刈られた日、メアは涙を流していた。 なにかを必死に堪え忍びながら、泣いていたのだ。 その仕事は苦労しそうだな 誰のせいだと思ってるの 俺のせいだよな うん 残念だったな、死神さん 絶対刺してやる、変態くん メア っ! 俺が一歩近づくと、メアは一歩あとずさった。 ……いや、なにもしないから だ、だったらいいけど 昨日の抱きしめが尾を引いているようだ。 ちょっとさ、聞きたいことがあったんだ なにっ ……頼むから警戒しないでくれ 警戒なんかしてないっ 怒るなよ 怒ってないっ ははっ ……なんでそこで笑うの なにかにつけてカマ振りかざすのやめようぜ!? バカにされた気がしたから そうじゃない。子供らしくていいなと思っただけで ……やっぱりバカにした そうじゃなくて、安心しただけなのに。 メアを見ているとどうも背伸びをしているように見えて、こんな気持ちが湧くことがある。 で、聞きたいんだけど なに。早くして メアって星が好きなんだよな? そうかもしれない じゃあさ、俺と一緒に天体観測しないか? いや そっこー拒否られる。 ……なんでだよ わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが馴れあいなの。だからいや そういえば前にも言っていた。 じゃあメアひとりで天体観測しないか? ……日本語が変に聞こえるんだけど メアの近くに俺もいるかもしれないけど、望遠鏡覗くのはメアひとりだ。これでどうだ? いや なんでっ わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが変態なの。だからいや それは俺に対する当てつけか。 天体観測をしたことは? ないけど やってみたいと思わないか? ……わからないけど でも、星なんて望遠鏡がなくたって、こんなによく見えるじゃない これ以上に見えるんだよ これ以上……と、メアは繰り返してから夜空を見上げた。 それって……どんなの? 実は俺も見たことがない なのに見たいの? だからこそ見てみたい たぶんそれは、万華鏡みたいじゃないかって思うんだ 筒から覗ける光の絵は、きっと万華鏡にも劣らない。 万華鏡は見たことあるの? 子供の頃に、誰だって一度は見てるんじゃないか ………… メアはないのか? 悪いの? 悪くない。だけどもったいない 天体観測をしないのと同じくらい、もったいないことだと思う そんなにキレイなの? ああ。今度持ってくるよ ちょうど天クルにカレイドオルゴールなる万華鏡があるし、修理が終わったら借りてこよう。 わたしでも、天体観測できるの? メアは、念を押すように尋ねた。 ああ わたしでも、キレイって思う? ああ 星が好きなメアだったら、絶対だ メアは、こくんとうなずいた。 キレイじゃなかったら、刺させてね 了解だ 俺は内心ホッとする。 これでメアの意思は確認できたから。 規則で問題がなければ、俺はメアを天クルに誘うことができるのだ。 それは同時にメアをほかの部員に会わせるということでもある。 メアの存在が幻覚かどうかもはっきりするだろう。 ……実はなにか企んでる? あるわけがない 紳士に言ったらカマが迫った。 なんでだよ!? あくどい顔したから ……紳士だと思っていたのは俺だけ? そうだ。メアのフルネーム、教えてくれるか? メアは怪訝そうにする。 ……どうして? ちょっと必要なんだ 部員の名簿を作るときに必要になるし、なにより俺も知っておきたかった。 フルネーム、教えてくれるか? いや ……だと思った。 名前教えるのも嫌いなもののひとつなのか? そうじゃないけど ならいいだろ? 死神に名前なんてないわ あるだろっ、メアっていうのは名前じゃないか ……そうだけど なら苗字は? 死神に苗字なんてないわ ……言うと思ったけどさ。 急ぎじゃないからいいけど、そのうち教えてくれよな ないって言ってるのに 教えてくれよな? 念を押す。 今日のあなたはパカパカね なぜか馬扱いになる。 そろそろ帰る 約束したからな 教えないって言ってるのに そっちじゃなくて。天体観測のほう ………… よかったら、明日にでも ……考えておく メアの姿はなくなった。 明日は、明日歩と一緒に星見をする予定がある。場所はこの展望台だ。 メアは、明日歩の前にも現れることになる。 その結果いかんによって、俺の今後の行動も変わるだろう。 いや……どうだろうな メアが幻覚だったとして、俺の行動がどう変わるのか、想像は難しかった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 夕食後、千波が毎度のごとく騒ぎ出した。 はいチーズ! パシャッ。 カメラのフラッシュをもろに浴びた。 ……なにする 今日ね今日ねっ、オカルト部長からカメラもらったんだよっ、使わなくなった古いデジカメなんだってっ、これで千波愛用カメラ2号の誕生だよっ デジカメを手に小躍りしている。 へえ、よかったじゃないか オカ研の活動ってやつだろう。 飛鳥に感謝しないとな うんっ、もちろんだよっ、だってこれ使えば寝静まったお兄ちゃんを狙ってあられもない姿を激写してネタにして脅して千波の下僕に…… デジカメをはたき落として踏みつぶす。 千波愛用カメラ2号が!? バカなことやってないで宿題でもしてろ バカなことしたのはお兄ちゃんだよっ、液晶が粉々になったじゃないっ、これじゃ写真写せないよ! 念写すればいいんじゃないか? オカ研新人の千波にはスキル的に荷が重いよ!? 飛鳥に謝らないとな そうだよっ、せっかくオカルト部長が千波を信頼して預けてくれたのにこれじゃ千波の株が大暴落だよ!? マイナスがマイナスになっても足し算だからマイナスなんだぞ? 失礼極まりないよこの人!? 俺も一緒に謝ってやるから 当然だよ! 千波を紹介してごめんなさいって謝るから 謝る方向が間違ってるよお兄ちゃん!? あらあら、お部屋がすごいことになってるわね デジカメの残骸に目を留めた詩乃さんが、ホウキとチリトリを持ってきた。 ……すみません、詩乃さん いいの。だけど、あんまりはしゃぎすぎないでね? まったくだよっ はしゃいでるのはいつもおまえひとりだろっ そんなわけないよ! そうね。そんなわけないわよね 私から見たら、洋ちゃんも千波ちゃんに負けないくらい楽しそうにはしゃいでるものね ……今、聞き捨てならないセリフを聞いた気がする。 洋ちゃんは千波ちゃんが好きだからいじめちゃうのよね。でもやり過ぎはダメよ? い、いや、俺たちってそんなふうに見えるんですか? うん 奈落の底に落ちた気分。 お掃除終わり。もう散らかしたらダメよ? 詩乃さんはほほえみながら去っていった。 どしたの、お兄ちゃん。どんよりオーラが出てるよ? 穴があったら入りたい気分だ…… だったら千波が用意してあげるねっ ゴミ箱を持ってきた。 遠慮なく入っていいよっ 千波の頭にかぶせた。 お兄ちゃん前が見えないよっ、いくら千波の頭にベストフィットするからってヘルメット代わりはどうかと思うよっ、千波暗闇恐怖症になっちゃうよこのままじゃ! これで地震の備えはカンペキだな 前が見えなきゃ逃げられないよ!? あらあら、お部屋がゴミだらけになってるわね ゴミ箱から散乱したゴミを見た詩乃さんが、ホウキとチリトリを持って再登場した。 本当、洋ちゃんと千波ちゃんは仲良しねえ 泣いて走り去りたい気分だった。 今日は土曜日。 世間では休日だが、ヒバリ校には土曜スクールなるものがあるそうだ。 そのため平日と同じ時間に起きている。 千波の寝坊にはらはらさせられることがないというのが平日とは違う点か。 土曜スクール万歳だな そうしてダイニングキッチンでひとり優雅なモーニングタイムを楽しんでいると、家の呼び鈴が鳴った。 千波も詩乃さんもまだ寝ているので、俺が出るしかない。 おはよ、洋ちゃん 来客は明日歩だった。 ……どうしたんだ? 洋ちゃんと何度か一緒に帰ったからね。住所くらいさすがに覚えてるよ あ、いや、そっちじゃなくて 洋ちゃん、もう制服着てるね。えらいえらい 明日歩は俺の言葉をさえぎって続けた。 あたしと一緒に、登校しよっ もしかして、俺が土曜スクール忘れてると思ってたか? それで確認のために訪れたとか。 あはは。それが半分、違う理由が半分 違う理由って? 一度ね、やってみたかったの。男子の家に迎えにいくっていうの 〈初体験〉《しょたいけん》ってやつだね 卑猥に聞こえるけどツッコまない。 明日歩がご機嫌だったから。 次の〈初体験〉《しょたいけん》目標は、洋ちゃんの家にあがることだよ 明日歩は玄関で俺の支度を待っていた。家にはあがっていないのだ。 そんな目標だったら、いつでも叶えられるさ そうかな ああ いつでも遊びにいっていいってこと? ああ。なんなら今日でも 明日歩は首を振った。 そんな一度に叶ってたら、ありがたみがないからね うーんと伸びをした。 こさめちゃんは土曜スクール来られないって。家のお手伝いがあるみたいで 家事ということだろうか。 飛鳥は? どうだろ。来ないんじゃないかな、あたしと一緒で勉強嫌いだと思うし なのに明日歩は来るんだな そうだね。まだ二回目だけどね ちなみに初めて土曜スクールいったときに、二回目は絶対ないなあって思ってたんだけどね なのに明日歩は二回目を迎えたわけだ。 理由を尋ねるのは野暮なんだろうか。バイトの話だけなら土曜スクールに参加しなくてもできるのだ。 まあ俺の自意識が過剰なだけという説もある。 こさめちゃん、こももちゃんに聞いてくれるって。部活の規則の件 助かるよ 勧誘できそうなもうひとりって、誰なの? そうだな。あとで詳しく話すよ 夜になったら、星見のついでに本人と会ってもらうつもりだ。 土曜スクール、早く終わらないかなあ 自主的に参加する生徒の発言じゃないな あはは、ほんとだね 聞きそびれてたんだけど、自習ってなんの教科でもいいのか? 学校側でプリントとか用意してくれるけど、いちおう生徒の自由だよ 机を固めてみんなで勉強会っていうのも許されるし 明日歩はちらっと俺を窺う。 だから洋ちゃん、あたしに勉強教えてね? 俺、転入生なのに。 ただ前の学校とヒバリ校とで授業の進度はほとんど変わっていないので、問題ないと言えば問題ない。 言っとくけど、俺は教えるのあまり得意じゃないぞ あ、そうなんだ 妹にせがまれて教えたときも、不評だったからな どんなふうに不評だったの? 優しくないらしい 明日歩はくすくす笑った。 なんとなく想像つくかなあ だから自分で勉強するのをオススメする 大丈夫だよ 明日歩はきっぱりと言った。 あたしだったら、絶対大丈夫だと思うんだ そして、ぜんぜん大丈夫じゃなかった。 ……くー 自習が始まって五分も経つ頃には、明日歩は夢の世界に旅立っていた。 ……まあ、いいけどさ 自習用に用意されていた数学のプリントを解いていく。 明日歩の解答欄はヨダレで埋まっていた。 土曜スクール、あっという間に終わったね~ そりゃそうだろうな。まさか午前いっぱい寝続けるとは思わなかった あ、あはは…… 寝不足だったのか? ……内緒 恥ずかしがっている。 しっかり寝たのに昼寝したのが恥ずかしいのか、それとも寝不足の理由が恥ずかしいのか。 これからあたしんちだね その前に昼飯食べないと あたしの喫茶店で食べればいいよ 俺、今月ピンチでさ いまだに財布の中身は空なのだ。バイトするまでこの状態が続きそうだ。 お金なんか取らないよ。洋ちゃんは大事なバイト要員だからね すでに俺が喫茶店でバイトをすると決めてかかっている。 それに、お客さまでもあるんだから お言葉に甘えたいのはやまやまなのだが。 家にいる千波は大丈夫だろうか。ひもじい思いをしてないだろうか。 詩乃さんはまだ寝てるだろうし。 洋ちゃん、迷ってる そりゃあな そういえば、千波は昼過ぎから蒼さんの家に遊びにいくと話していた。 そっちでご相伴にあずかる可能性もあるか。迷惑はかけてしまうだろうけど。 それじゃ、ご馳走になろうかな そうこなくっちゃ! 明日歩の元気にひっぱられて坂を下っていく。 あっ 駅前に着いたとき、明日歩が急に立ち止まった。 洋ちゃん…… しょんぼりした声。 きーんきーんって鳴ってる…… それ、雨警報か? この世の終わりみたいな顔でうなずいた。 今夜の星見、楽しみにしてたのに~! ……本当に雨なんか降るのか? 空は快晴、雲もまばらにしか見えない。 遠くに入道雲あるし、そんなのなくたって降っちゃうんだよ~! 今日中に降るのか? 降るんだよ~! 天気予報はどうだっただろうか。思い出せない。 夕べから準備だってしてたのに…… 星見の? うん…… それで寝不足だったのか? あ、えと…… 恥じらってからうなずく。 実は、寝てない…… 俺は言葉を失う。 楽しみで眠れなかった…… まるで遠足前の子供だ。 星見──天体観測は、明日歩の中でそれほど大きな位置を占めている。 雨って大降りか? 小降りじゃないのか? ……そこまではわかんないけど 天気雨の可能性は? 明日歩はわからないと首を振る。 雨が降ったって、星さえ見えれば星見できるんじゃないか? 望遠鏡が濡れちゃうよ…… ……それもそうか。 夕方になったら部室いって、洋ちゃんに運ぶの手伝ってもらおうと思ったのにな…… 明日歩は恨めしげに空を見上げる。 神さまの、バカ 明日歩の喫茶店は名前をミルキーウェイと言う。 いかにも女性向けスイーツ店という名前だし、メニューにもかわいらしいカタカナばかりが並んでいる。 そしてどれを頼むとどんな料理が出てくるのかさっぱりわからない。 お待たせ、洋ちゃん 明日歩がウェイトレスのユニフォーム(メイド服)を着込んで登場だ。 大きな声じゃ言えないけど、お代はいらないからね ほかの客の手前、小声で言う。 ほんとにいいのか? いいんだよ。バイトしてくれるなら毎日好きなの食べていいってお父さんも言ってるし なにか、バイトとして働く状況が着々と出来つつある。 洋ちゃんが食べ終わったらお父さん紹介するね。バイトの詳しい説明もお父さんが話してくれるから 明日歩はメニューを俺に渡す。 洋ちゃん、なにがいい? マヨネーズ以外ならなんでもいいよ むー 不機嫌になる。 ……いや、好きなの頼みたいのはやまやまだけど、どれがなんだかさっぱりでさ 頼めばわかるよ そりゃそうだが。 じゃあ前に頼んだヘルメスの竪琴で むー また不機嫌だ。 安全パイだと思ってるでしょ そりゃ、これしかわからないし ほかのお客さまはだいたい直感で選んでるよ。ロシアンルーレットみたいで楽しいって好評だし ……雲雀ヶ崎の住民は心が広いなあ。 メニューも店の名前も、あたしがつけたんだけどね。お父さんの反対を押し切って 星好きの明日歩らしい。 洋ちゃん、まだメニュー決まらない? ……決めようがないんだって 洋ちゃんは星座の神話に詳しいんだから、ほかのお客さまより選びやすいと思うんだけどな 神話を知ってても、ヘルメスの竪琴を頼んでハニートーストが出るとは思わないだろ…… 好きな神話とかないの? 好きっていうか、一番知ってるのは七夕伝説だな 七夕は終わっちゃったけど、メニューはちゃんとあるよ 明日歩が指さしたメニューは『かささぎの架け橋』とある。 ……カラスの丸焼きとか出てこないよな さてどうでしょう~ 楽しんでるなあ。 じゃあこれで頼むよ 焼き加減はレアですか? それともウェルダン? 本気で丸焼きかよっ ウェルダンですね。承りました~ 明日歩はメニューを下げてカウンターに戻っていく。 食事前なのに胸焼けがしてきた。 お待たせしました~。こちら、かささぎの架け橋になりま~す! 明日歩が運んできたのはピザだった。 ……ていうか、ピザのレアってなんだ もんじゃ焼きみたいな感じ? 疑問系で言われても。 マヨネーズ抜きにしといたけど、それでよかった? ああ。ありがとうな 具材はツナとチーズがたっぷりで、かぶりつくと口とピザの間にチーズの架け橋がかかった。 明日歩は俺の正面に腰かけて、にこにこと見入っている。 ……仕事はいいのか? お客さまに呼ばれたらいくよ マスターもなにも言わないところを見ると、けっこう自由な職場なのかもしれない。 さ、食べて食べて ああ しかし見られていると落ち着かない。 あ、タバスコ使う? いや、いいよ 辛いの苦手? そうじゃないけど 外、ちょっと曇ってきたみたい まだ雨は降ってないな ピザ、おいしい? おいしいよ よかった だが見られている上に話しかけられまくって食べづらい。 さ、もっと食べて食べて 明日歩は食べないのか? あたしはあとで。今ランチタイムだから、お客さまがいるしね。もうちょっと経てばがらがらになるから だから洋ちゃんは気にせず食べて…… 明日歩。ちょっと手伝ってくれるかい マスターから声がかかった。 なにするの? コーヒー煎れてくれるかな オーダー? 僕が飲みたい えー えー、じゃない。早くしないとお手伝い賃から差っ引くからね もう……。自分で煎れればいいのに 明日歩は渋々と立ち上がった。 ごめんね、洋ちゃん いや、それより仕事がんばれ うん 明日歩と入れ替わりにマスターがやって来た。 すまないね。ゆっくり食べていていいから 俺に気を遣ってくれたんだろうか。 明日歩から話は聞いてるよ。小河坂くんだよね はい。よろしくお願いします 礼儀正しいね。合格 はやっ! お味はどうだい? 明日歩が作ったものなんだけど その言葉にも驚いた。 ……いつも明日歩さんが作るんですか? いや、明日歩はフロア担当なんだけどね。今日は友達が来るからってことで、そのピザだけ特別にね そのわりにめちゃくちゃうまいですよ? 店のメニューとして出されたものだと思って、納得して食べていたのだ。 その言葉、明日歩に言ってあげるとよろこぶだろうね。夕べは徹夜で練習していたから ……おいおい。 星見が楽しみだっただけじゃなく、俺が食べるかどうかわからない食事にまで時間を割いたのか。 種をバラすと、キミがどのメニューを頼もうがそのピザが出てきたわけだけど マスターは楽しげに笑っていた。 食べ終わったら、食器はそのままでいいから僕のところに来てくれるかな は、はあ…… マスターは持ち場に戻っていった。明日歩が砂糖の量を聞いてきて、ブラックと答えていた。 俺はピザをまた一口食べた。 最初の一口よりもそれはおいしく感じられた。 お父さん、洋ちゃん食べ終わったって すみません、ごちそうになってしまって いやいや。それじゃあ小河坂くん、こっちの席にかけてくれるかな 店内は少数だが客がいる。邪魔にならないよう隅のテーブルに三人で腰かけた。 明日歩はいなくていいから えー まだ食事中のお客もいるし、レジにでも立っていて お会計だったらお客さまがレジ来たらでいいじゃない 差っ引くよ? ……横暴だなあ 明日歩は渋々レジに向かった。 小河坂くん、明日歩に料理の感想は言ったかい? あ、はい。おいしいって言いましたけど よろこんでいただろう? というより、終始にこにこしてましたよ 感想を言う前も言ったあとも、変わらず笑顔だった。 そうか。キミは明日歩のお気に入りのようだからね 意味深な発言に聞こえる。 それじゃあバイトの説明だけど はい 今から入ってくれるかい? はやっ! ああ、自己紹介がまだだったね そんな理由で驚いたわけじゃない。 僕は南星〈総一朗〉《そういちろう》。知ってのとおり明日歩の父親で、この喫茶店ミルキーウェイの店長を務めている 僕のことはマスターでいいから。明日歩とは仲良くやってくれそうだし、これからもよろしく頼むよ あくまでここはバイトの一候補として考えていただけなのに、本決まりのように話が進んでいく。 なにか質問はあるかい? とりあえず、たくさんあります 最近の若者にしては積極的でいいね。合格だ いや、合格でなく。 ユニフォームは僕と同じエプロンだ。裏にあるから取ってくるよ 俺の質問が飛ばされているんですが。 まずはテーブル拭きと椅子の整理をお願いしようかな。それが終わったら食器洗い 細かいやり方は明日歩に聞いて。それじゃあよろしく マスターは席を立って俺のエプロンを取りにいった。 俺は明日歩に声をかけられるまで、呆然と座っていた。 ……………。 ………。 …。 雨、降ってきたね…… 明日歩の指導を受けながら食器洗いを終えてフロアに出ると、窓に水滴がついていた。 星見、無理かなあ…… まだ昼だし、夜には晴れるかもしれないぞ ……うん 明日歩の表情は天気と同じく曇っている。 お疲れさま。コーヒー煎れたよ マスターがマグカップを持って俺たちを出迎えた。 店内に客がいないのは雨のせいだろうか。 明日歩にそれを聞いたら笑われた。 うちはお昼時と夕方過ぎにしかお客さま来ないから。そんなに流行ってるわけじゃないんだよね なのにバイトが必要なのか? 混み時はあるし、お父さんひとりじゃ大変だから その言葉はうれしいけど、放課後に早く帰ってきて手伝ってくれるともっとうれしいかな それは無理だって言ってるじゃない。天クルがあるし 明日歩の星好きも困ったものだね マスターは苦笑して裏に戻っていった。 お仕事は一段落かな。洋ちゃん、お疲れさま マグカップで乾杯する。 洗い物、慣れてるんだね 昔から家事手伝いはよくやってたから 優秀なバイトくんが入ってくれて助かるな~ それなんだけど、俺まだ入るなんて言ってないぞ 明日歩は今初めて聞いたように目を見開く。 え、そうなの? そうだ ドッキリ? 違う 今さら辞めますなんて言わないよね? 今さらもなにも入ったつもりないし 言い逃れなんて男らしくないよ? 言い逃れじゃなくて正論だし もう二時間も手伝ってくれたのに? おかげで参考になった じゃあ入る? わからない あたしのこと騙したの! なんで俺が悪者になってるんだよ…… 洋ちゃん、ピザ食べたよね? ……それは食べたけど タダで食べたよね? 脅迫にかかってる? 代金なら払うよ 80万円になります ゼロ増やしすぎだろ!? バイトくんになってくれたらタダになります 完全なる脅迫だ。 ええとだな、俺さ、マスターからバイトの詳しい話聞いてないんだよ あれ、最初に話してなかった? いきなり仕事頼まれて終わったんだよ 明日歩はため息をついた。 お父さん、大ざっぱだからなあ。あたしのお手伝い賃に関してだけ細かいけど そんなわけでさ、マスターの代わりに教えてくれるとありがたい それも参考? ああ そんなこと言わないで、ぱぱっと決めて入ってくれたらいいのに 用意周到が性分なんだ 帰ってからバイトの求人誌と比べてみるつもりだ。 具体的になに教えて欲しいの? 時給と就業時間かな 時給は900円で、就業時間は適当だよ ……適当なのか うん 好きなときに仕事して好きなときに休めるのか? うん。いいでしょ、いわゆるフレックスタイム制! フレックスタイム制は始業と終業時間が自由だけど、コアタイムは設定するのが普通だぞ ……たてついたので不合格 理不尽だ。 明日歩も適当な時間に手伝いしてるのか? そうだね。でも喫茶店が混みそうな時間はなるべく手伝うようにしてるよ だから平日の夕方からはたいてい手伝ってるかなあ 俺は、手伝いが理由で明日歩が平日の夜の外出が難しいことを聞いている。 手伝いで天クルを休むこともあったんじゃないか? そういうときもあるけど。なんでそんなこと聞くの? いや…… 明日歩は休もうと思えばいつでも休めるのに、いそがしいマスターを思って仕事を手伝っているのだ。 好きな天体観測を犠牲にしても。 明日歩はえらいな なに、いきなり 俺さ、ここでのバイトは前向きに考えるって言ったよな。それはウソじゃないから うんっ そっちが迷惑じゃなかったら、今日は夜まで手伝うよ わ、ほんと? 予定はもう、夜からの星見だけだからな 晴れてくれたらいいね ふたりで窓の外を眺める。 雨足は強くなるばかりだった。 雨が降るとね、雨警報は鳴らないんだよ。きーんきーんがなくなるの もう降ってたら、警報の意味ないもんな 晴れ警報のほうが欲しかったな。あたし そうすれば、こんな不安はなくなるから 雨は嫌いか? 天文ファンにとっては天敵だよ 今日が雨でも、明日は晴れるかもしれない だから、明日は星見できるかもしれない ……明日でもいいの? むしろいつでもいいぞ その明日歩の笑顔が太陽のように見えた。 だから、なんとなく、今夜は晴れるんじゃないかと感じた。 次の仕事はなにしたらいい? なんにもないよ ……ないのか 強いて言えば、お客さまが来るまで暇なあたしをおもてなしすること? そんなんでいいのか…… 重要な仕事だよっ 明日歩が顔を近づけてきたので反射で逃げる。 ……拒絶された。不合格 俺をバイトに雇いたいのか雇いたくないのかどっちなんだ。 ふたりとも、手伝いはもういいから。勉強でもしてたらどうだい マスターが裏から出てきた。 えー えー、じゃない。テストも近いだろう ……そうだけどさ テストがあるのか? 来週から期末テストだよ。忘れてたの? というか、初耳なんだけど…… あれ、先生から連絡は? なかったと思う 担任の先生もおおざっぱだからね。お父さんみたいに よくよく考えてみると、一学期も終わる今は期末テストの時期だった。 明日歩たちにとっては当たり前だから、今まで話題にもしなかったんだろう。 ……おかげで俺はなにも準備ができていない。 すまん、明日歩。予定ができた テスト勉強? ああ。そろそろ帰るよ お代は80万円になります それはバイトから逃げるなって意味か。 約束は守るから。夜にまた来るからさ 90万円になります なぜに増やす? あたしをおもてなしして欲しいな~ 一緒に遊べという意味だろうか。 明日歩もテスト勉強があるだろう。お客も当分来ないだろうし、仕事は僕ひとりで大丈夫だから べつにお父さんはどうでもいいけど ……娘の反抗期はいつ終わるのかなあ お父さん、明日歩はよくできた娘だと思いますよ。 小河坂くん、よければ明日歩の勉強見てあげてくれないかな。明日歩ひとりだと心配でね ……信用ゼロだなあ とても成績優秀なんだろう、小河坂くん。明日歩から聞いてるよ あ、いえ、それは昔の話なんで 今でも優秀だよ。洋ちゃん、先生に当てられて間違ったことないもん だから、一緒に勉強しよ? そういう流れになるのか。 嫌なんじゃなかったのか? 勉強はやだけど、どうせするなら洋ちゃんに教えてもらいたいかなって 俺の教え方は不評だぞ? あたしなら大丈夫って言わなかった? 土曜スクールの結果を思い返すと、寝るから大丈夫という意味にしか聞こえない。 僕からも頼むよ。明日歩の家庭教師をしてくれる間もバイト代は出すから、どうだい? バイト代という言葉が意外だった。 いえ、今日はバイトじゃなくて手伝いなので。給料はいりません なにを言ってるんだ。キミはもうバイトだろう? ……誤解してると思ってたけど、どうしたものか。 洋ちゃん、もらっときなよ。お父さんが払うって言ってるんだから そういうわけにはいかない ……勉強教えてくれないんだ 勉強は教える。でもバイト代はいらない 合格だ よくわからないが肩をたたかれる。 家庭教師の時間は就業時間外だけど、僕の気持ちとして払うよ。近いうちに口座番号を教えるように マスターは満足げに裏に戻っていった。 よかったね、洋ちゃん ……というか、このままだと俺は確実にここでバイトするしかなくなると思うんだ やったね 明日歩もまた満足そうだった。 喫茶店と住居はつながっており、明日歩の部屋は二階にあった。 そして明日歩はテスト勉強を始めて五分も経たないうちに寝息を立てていた。 ……くー 徹夜らしいし、眠いのはわかるのだが。 さすがに無防備すぎるだろ…… 男を部屋にあげて、しかもふたりきりだというのに。 なにが起きるわけでもないのだが、妙に緊張する。 同年代の女子の部屋に入るのなんて初めてなのだ(千波は除く)。 ……集中しよ テスト範囲は明日歩が昼寝に入る前に聞いたし、教科書と未使用のルーズリーフも借りている。 俺は黙々と問題を解いていく。 ん……洋ちゃん…… 寝言でいきなり名を呼ばれてびくっとする。 洋ちゃん……ごめんね…… それはなんに対しての謝罪なのだろう。 とりあえず、明日歩のルーズリーフはヨダレで埋まっていた。 わあ……見て見て、洋ちゃん! 雨、あがってるよ! 俺たちの願いが届いたのか、陽が落ちる頃には空に星明かりが灯っていた。 それは明日歩が目覚めた時間でもあった。 夕飯も食べたし、支度もすんだし、あとは部室から望遠鏡を運ぶだけだね 明日歩はバッグを肩に提げている。中に観測のための道具が入っているんだろう。 夕飯はマスターが明日歩の部屋まで運んでくれた。断る間もなかったので、そのままいただいてしまった。 自宅にはあとから連絡した。詩乃さんに今夜の夕飯はいらないと話した。 悪いことをしたと思うのに、詩乃さんの答えは「よかったわね」だった。 俺がこの雲雀ヶ崎に馴染んでいることに安心しているようだった。 それじゃあ、出発しよっか ご機嫌の明日歩に俺も続いた。 星見するの、ひさしぶりだなあ。あたし、今夜もまた眠れなくなっちゃいそう…… 違う意味に聞こえるからやめて欲しい。 俺は夜空を見上げる。 商店街は人工の明かりが多いので星の光はほのかに感じられる程度だが、展望台に登れば違って見えるだろう。 あたしの望遠鏡も、きっと今ごろよろこんでるよ 明日歩は相変わらず俺の右隣で歩いていた。 坂道には水たまりが点在している。雨はまだやんだばかりなのだ。 すべるから気をつけてね 明日歩こそな あたし、勉強は不得意だけど運動は得意だから 千波と似た感じか。 だけどか弱い女の子だから、望遠鏡はよろしくね はいはい、と返しておく。 これから学校いくんだよな そうだよ 思うんだけど、こんな時間だと校門閉まってないか? 校門って閉まるものなの? ……いや、閉まらなかったら不用心だろ 洋ちゃん、たぶんそれ都会の学校だからだよ。雲雀ヶ崎は田舎だからね 都会でも田舎でも、不用心は不用心だと思う。 それでも警備員はいると思うから、あたしたちも気をつけなきゃね 気をつけるのは学校を守る警備員のほうだろ あたしたちが警備員に見つからないように気をつけるの とても嫌な予感がする。 夜の立ち入りは禁止されてるからね。捕まったら天クル廃部にされちゃうかも 夕方だったら堂々と取りにいけたんだけど……あはは 笑い事じゃない気がする。 だったらさ、明日に回してもいいんじゃないか? 無理に危険な橋を渡ることはない。 ダメだよ、明日が晴れる保証はないもん。あたしは今を大切に生きたいの 大切に生きるなら、逆に危険は回避すべきだろ むー 犬になってもダメだ 頭でっかち やめてください。 警備員に捕まりそうになったら逃げればいいじゃない 簡単に言うなよ…… 洋ちゃんを見捨てることはしないから そうじゃなくてだな あたしの星見を邪魔する存在は雨だろうと警備員だろうと許されないんだよ 胸を張るような言葉じゃない。 だから、一緒にいこ? それでいいのか……? いいんだよ。でもこさめちゃんには内緒ね、絶対怒ると思うから 呆れるしかなくなる。 ……というかさ、もし侵入者の俺たちが警備員に見つからなかったら、それこそヒバリ校のセキュリティはザルってことにならないか? ヒバリ校ばんざいだね 本当にそれでいいんだろうか。 校門に着いた。 校舎はほぼ消灯しており、警備員しか残っていないのが察せられる。 校庭の時計は午後七時半を指している。 ドキドキするね たしかに不安でドキドキするな あたしはわくわくのドキドキだよ クラス委員がそれでいいのか……? 洋ちゃんしつこいよ。あたしは今を大切に生きるクラス委員なんだから 明日歩はどうやら千波側の人間だ。 一直線に部室向かって、電気はつけないで望遠鏡持って、一直線に帰ってくる。オーケー? 不満はあるけどオーケー それじゃ、ミッションスタート! いきなり大声をあげて冷や冷やさせる明日歩だった。 わあ……夜の校舎って初めて 初めてって、常習犯なのかと思ってたよ こんな危ない橋、何度も渡れるわけないよ 危ないという自覚はあるのか。 外が晴れてくれたおかげか、窓から薄ぼんやりと光が差しており、俺たちはそれを頼りに廊下を進んでいく。 足音が響くね…… なるべく音出さないようにな。声のトーンも落としたほうがいい うん…… 早く部室に着きたいが、ゆっくりと移動するしかない。それがもどかしい。 なんか肝試しみたいだね この場合、お化けより警備員のほうが怖いけどな そうかな……。あたしたち以外の足音とかピアノの音とか聞こえたほうが怖いかも 音楽室の肖像画の目が動いたりな 学校の七不思議って感じだね。ヒバリ校だと死神の都市伝説になってるけど 怪談の一種みたいなものか そう考えると面白半分で広まっているのも納得できる。 あたし、ホラー映画とか苦手なんだよね。でもテレビでやってると、怖いもの見たさでつい見ちゃうの 引き返してもいいんだぞ? むー なんで今夜はそう意固地なんだろう。 俺たちは静かに階段を登っていく。 部室は二階に位置している。 二階に着いたところで、なにか音がした。 明日歩、ストップ えっ……きゃっ 廊下に出ようとした明日歩の腕をひっぱり、踊り場に引き戻した。 ちょっと静かにしてろ 耳をすますと、やはり音が聞こえる。 おそらく足音。この先に、誰かいる。 俺は陰からそっと顔を出す。 ………… 遠目に人影が見える。 闇のせいでよくは見通せず、誰かは判然としない。 ……警備員の見回りか? だが懐中電灯の光は見えない。警備員だったら持っていてもよさそうなものだが。 一瞬、ある可能性を思いつく。 ヒバリ校の都市伝説に登場する死神だ。 ……まさかな。 目を凝らすが、人の形の輪郭くらいしかわからない。 ………… そのうちに人影は消えた。 足音が遠ざかっていく。上か下の階に移動したんだろう。 肺に溜まっていた空気を吐き出した。 なあ、今の人影見たか? 明日歩に振り返る。 ………… 明日歩は無言で縮こまっている。 接している箇所から震えが伝わる。 今さらながら気づく。距離がとんでもなく近い。 ……というか、俺の手が明日歩の肩を抱いている。 明日歩の顔が俺の胸にある。 うあっ 素っ頓狂な声をあげて飛びすさる。 明日歩はうつむいている。前髪と暗闇のせいで表情は見て取れない。 わ、悪い…… それしか言えない。 ………… なにかつぶやいたようだが、聞き取れない。 びっくり……した…… 今度は聞き取れた。 普段の明日歩とは正反対の、蚊の鳴くような声。 ほ、ほんと悪い 明日歩は無言でいたが、しばらくしてからゆっくりと俺のほうへ寄ってくる。 ……誰かいたの? 不安そうな上目遣い。 ああ。警備員かどうかはわからないけど、急いで部室向かったほうがよさそうだ 明日歩は、こく、とうなずく。 頼りになるね、洋ちゃん どこか、照れくさそうな声だった。 さっきは悪かったな 三度目の謝罪。 ……ううん その声も照れくさそうだった。 俺たちは無事、部室にたどり着き、校舎の外まで望遠鏡を運び出すことに成功した。 キャリングケースに入れた望遠鏡は想像以上に重く、帰りの歩みはさらに鈍くなってしまった。 とはいえ、明日歩が周囲に気を配りながら先導してくれたおかげで誰かに見咎められることはなかった。 あの人影に出会うこともなかった。 校門を抜けたあとは坂を登り、途中のフェンスを迂回するのに獣道とも言えない道を越える。 雨にぬかるみ気を抜けばすぐにでも転びそうな俺を、明日歩が必死に支えている。 あたしだって、少しは洋ちゃんの役に立たなきゃね 俺の腕をつかんで進む。その姿はすがりついているようでもある。 キャリングケースの中身──望遠鏡の鏡筒を木にぶつけないようにするのが大変だった。 明日歩いわく、強い衝撃があると光軸が狂ってしまって調整が大変なんだそうだ(意味はなんとなくピンときた)。 とにかく俺は望遠鏡を必死に守る。 そんな俺を明日歩が必死に守っているように見えた。 もうちょっとだよ、洋ちゃん。ファイトっ お互いがお互いを支え、前を目指して。 木々が開けると、そこには数え切れない光が待っている。 うわあ……! 雨上がりの夜空はいつになく澄み渡って、一面を信じられないほどの星の輝きで満たしていた。 まるで星の洪水だった。 星たちの渦巻きに俺たちまで巻き込まれ、目が回る。 来たかいがあったね、洋ちゃん……! 俺は肩からベルトを外し、ケースを傍らに置いた。 望遠鏡のレンズで覗いたこの空はどのように映るのか。 楽しみでもあり怖くもある。 メアが言っていた。キレイなものも多すぎるとグロテスクになると。 それはつまり恐怖だった。 その気持ちが、今、半分くらいは理解できた。 洋ちゃん、お疲れさま。座って休んでいいよ 明日歩は提げていたバッグからレジャーシートを取り出し、雨露に濡れた地面に敷いた。 あと、これ 続いてバッグから取り出したものを俺に渡す。 ……双眼鏡も持ってきてたのか うん。あたしこれから望遠鏡の準備するから、それで星空眺めてていいよ 望遠鏡と同様、使うのは初めてだった。 どうやって使えばいいんだ? えっとね、まずは接眼レンズの幅を合わせて……そうそう、折り曲げて調節するの それで、ここにピントと視度の調整リングがあるから、見たい星を見ながら回せばいいんだよ 俺はシートに座って双眼鏡を構え、適当に夜空を見上げてみる。 月もそんなに明るくないから、見やすいんじゃないかな ピント調節、視度調節のふたつのリングを回していく。 オススメはね、天の川だよ。はくちょう座からいて座にかけての付近が一番見えやすいから合わせてみて 肉眼とは違った狭い視野を、その方角へと向けていく。 どうかな? 雲っぽかった光の帯が、違ったように見えないかな? 徐々にピントが合わさっていく。 きっと、肉眼で見えなかったたくさんの星が、洋ちゃんに会いに来るよ 視野が鮮明になった瞬間、まばゆい光が瞳の奥まで差し込んだ。 これは、そうだ。 万華鏡だ。 天の川に沿って、双眼鏡の視野を少しずつ移動させると、星が様々な角度で飛び込んでくる。 メアに話したとおりだった。 それは当てずっぽうだったのに、これは確かに万華鏡。 人が童心に返るための魔法の道具だった。 明日歩はしゃがみ込んでケースを開けていた。 望遠鏡を組み立てるようだ。 俺が手伝っても邪魔になりそうなので、もう一度双眼鏡で天の川を仰いだ。 天の川は、ギリシャ神話では大神ゼウスの妻であるヘラの母乳が天に流れたものだとされている。 英語でミルキーウェイと呼ばれるのはそのためだ。 そして科学的には、天の川は銀河系を横から見ている光景だと言われている。 俺たちが住む太陽系──それを飲み込む銀河系の姿が、この天の川なのだ。 この万華鏡の光の中に、俺たちは生きているのだ。 洋ちゃん 顔を上げると、明日歩が正面に立っていた。 そのまま隣に腰かける。 準備は終わったんだろうか。 どう? 双眼鏡で覗いた感想は なんていうか、圧巻だ 明日歩は満足そうだった。 その双眼鏡持ってていいよ。望遠鏡もまだ使えないしね 準備、終わってないのか? うん。あとは待つだけだけどね ……待つ? 反射式の望遠鏡はね、外に持ち出すときは三十分くらい外気に慣らさないとなんだよ じゃないと、温度差とかの関係で〈鏡筒〉《きょうとう》の中の空気が乱れちゃって、うまく見えないんだ さすがに詳しいな お昼は洋ちゃんが家庭教師だったけど、夜はあたしが星見の先生だね 昼の明日歩は赤点もいいところだけどな 夜の洋ちゃんが赤点取らないことを祈ってるよ 明日歩は体育座りで星空を見上げている。 やっぱりいいなあ、ここ。どうしてもっと早く来なかったんだろ…… 立ち入り禁止は昔からなんだよな うん。あたしが展望台の存在知ったときには、もうフェンスが立ってたから だから、洋ちゃんがうらやましい 子供のときにもこの星空を眺めた洋ちゃんが、うらやましいよ 今も昔もこの展望台は変わらない。 フェンスが立とうがここの風景は変わらない。 明日歩が好きだと言ったこの星空は、過去には展望台の彼女も好きだった。 昔の僕も今の俺も好きだった。 だからこの空は変わらない。 変わらずに在り続けた。 ただ、それを見上げる俺たちが変わっている。 みんながみんな、成長したから。 まるで俺たちの周りだけ時間が流れているような錯覚すら受けている。 ……そういえば、メアもそんな感じだな。 歳なんてないと言っていたし、この星空や展望台と同様、今も昔も同じ姿なんだろうか。 俺は立ち上がって周囲を見渡した。 ……どうしたの? 明日歩も俺に合わせて立ち上がった。 ちょっとな、人捜し 俺は歩き出す。 メアの姿は見えない。まだ来ていないんだろうか? 暗がりのところも目を凝らしてみる。 やはりメアは見つけられない。 洋ちゃん…… 戻ってみると、明日歩が困ったような顔で立っていた。 もしかして、展望台の彼女さん? あ、いや 隠さなくたっていいよ。気持ち、わかるから ……そうか うん 捜しているのは別人だとは言えない雰囲気。 大丈夫だよ。いつか絶対、出会えるよ にこっとほほえみかけた。 俺はバツが悪くて視線を逸らしてしまう。 そろそろかな 明日歩はしゃがんで、傍らのバッグを持った。 中から道具を取り出しては、シートの上に並べていく。 それは? 星図と、方位磁石と、あとは明るくなりすぎないようにセロファンをかぶせた懐中電灯 明日歩は満天の星空に向かって高く声を上げた。 始めよっか、望遠鏡を使ったあたしたちの星見! 俺も、明日歩にうなずいた。 明日歩と共に星見をしながら、メアの登場を待とうと、俺は思った。 おかえりなさい。お友達の家は楽しかった? はい。すみません、こんな時間になって もう夜の十時を回っているのだ。 連絡もらってたし、謝らなくたっていいのよ 靴を脱いで上がったところで気づいた。 あれ、千波は? いつもなら今ごろ騒がしく登場しているはずなのだが。 洋ちゃんに報告があるって言って、さっきまで起きてたんだけど 詩乃さんは優しい笑みを浮かべる。 リビングで寝ちゃったの。お部屋に運んだから、今はベッドの中よ 今日は休日だし、遊び疲れたんだろう。 今日、お隣さんの家で遊んでたんですって。それを洋ちゃんに話したかったみたい 迷惑かけてなきゃいいんですけど 千波ちゃんなら大丈夫よ その自信はどこから湧いてくるんだろう。 シャワーを浴びて自室に戻った。 俺はベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を見つめる。 初めての星見は興味深かった。 俺は飽きずに星々を追いかけた。 明日歩は俺の横で星座の解説をしてくれた。 どちらかと言えば俺より明日歩のほうが楽しんでいただろう、十時を越えても明日歩は帰ろうとしなかった。 説得するのは骨が折れたのだ。 おかげで望遠鏡を明日歩の家まで運ぶ道すがら、明日も星見の約束をするハメになっていた。 明日歩って、展望台の彼女よりも星が好きかもな…… 結局メアは現れなかった。 望遠鏡から目を離した際にはそれとなく周囲を見渡していたのだが、それらしき人影は見つけられなかった。 晴れた夜に訪れないのは初めてかもしれない。 なぜだろう。 明日歩がいたから? 他人が自分の近くにいる場合、幻覚を見ないなんてことはありうるだろうか。 メアという存在が俺の想い出──展望台の彼女の記憶から作られているのだとしたら。 明日歩がそばにいるときは、展望台の彼女のことを忘れているから、幻にすがらなくても良いということ? ……やばい、なんか説得力あるぞ。 ただ、メアは俺が想い出に浸っていないときに記憶を奪いたいと言っていた。 俺が想い出に浸らなければメアが現れないのだとしたら、メアは記憶を刈ること自体できなくなる。 それは矛盾だ。 メア幻覚説の穴である。 だから、メアはただの幻なんかじゃない。 メアは実在するのだ。 今はその矛盾を頼りに、そう思うことにした。 ……おはようございまふ 昼になろうというところで千波が起きてきた。 休日はいつも昼過ぎまで寝てるのに、めずらしいな ……ん 千波はふらふらとテーブルにつく。目が線になっている。 平日は朝から騒がしいのが常なのだが、本来朝の弱い千波は休日だとこんな感じである。 夕べは早く寝たみたいだし、それで早く目が覚めたのかもな ……ん コーヒーを煎れて千波の前に置く。 なにか食べるか? 俺もちょうど昼飯作ろうと思ってたところなんだ ……ん なにかリクエストあるか? ……お兄ちゃん 俺を食べたいのか。 お兄ちゃんと一緒に作る…… テーブルから離れ、ふらふらとキッチンに立つ。 はい、お兄ちゃん…… 包丁を、刃のほうを向けて渡してくる。 いいから座ってろ、ケガするから 平気…… 俺が刺されてケガしそうだ。 パスタとコーンスープでいいか? お兄ちゃんがいい…… そんなに俺を包丁でさばきたいのか。 お兄ちゃんと一緒に作るのがいい…… パスタを鍋で茹でている間、千波は包丁を持ってうろうろしていた。 ……おはようございまふ そしてハタキを持ってうろうろする詩乃さんも加わったキッチンはとてもカオスだった。 ふたりが対面するとチャンバラが始まったが、見なかったことにした。 いただきまーす! いただきます 昼食ができあがった頃には、ふたりは正常に戻っていた。 詩乃さんも今日は早起きですね 仕事のほうが落ち着いてきたから。本当はもっと早く起きてご飯を用意したかったんだけど…… 詩乃さん朝弱いんですから無理しなくていいですよっ おまえも人のこと言えないけどな 千波が寝坊するのはコブタ目覚ましが反抗期に入ったからだよっ、真の千波は早寝早起きのはずだからねっ 真の千波を拝める日は永遠に来ないだろう。 それより聞いてお兄ちゃんっ、千波昨日は蒼ちゃんと遊んでたんだよっ そうだってな 蒼ちゃんだけじゃないんだよっ、なんと蒼ちゃんの妹の鈴葉ちゃんとも仲良くなったんだよ! そうなのか そうなんだよ! 蒼さんに同情するよ お兄ちゃんの発言はなんでいつもネガティブなの!? おまえがポジティブすぎるんだよ それでねそれでねっ、今日はこの家に蒼ちゃんと鈴葉ちゃんを招待するんだよ! 誘拐は犯罪だぞ? 招待って言ったでしょ!? それじゃあ、おやつにスコーン焼いてあげるわね わーい! さすが詩乃さん、わかってるな うん! 眠り薬を仕込んで千波を眠らせようなんて お兄ちゃんは千波をなんだと思ってるの!? 核弾頭だろ どういう意味なの!? 千波ちゃんがいると、みんな仲良しになるって意味よね 詩乃さんが俺とは違う解釈をした。 冷戦って言うと言葉は悪いけど。だけど千波ちゃんにはそれくらいの力があるの そうでしょう、洋ちゃん? 詩乃さんに見つめられ、俺はうなずくしかなくなった。 えへへ、誉められちゃった 千波はパスタにマヨネーズをたっぷりかけて食べ始めた。 まあそれでもいいかと、俺も食事を進めた。 天気は快晴、このまま崩れなければ昨日に続いて夜に星見ができるだろう。 その予定のオマケというかなんというか、昼からもまた明日歩の喫茶店で手伝いの約束もさせられている。 休日の予定といえば前々から考えていたバイト探しだけだったので、問題ないと言えば問題ない。 ただ、いつか買った求人誌は一度も開いていない。 明日歩にはほかのバイトと待遇を比較すると話していたのに、星見が楽しかったせいかすっかり忘れていた。 このままだと俺はなしくずし的にミルキーウェイのバイト店員だ。 それもまた、問題ないと言えば問題なかった。 いらっしゃいませ~って、洋ちゃんだ 約束どおり来たぞ えらいえらい。どうぞ座って、すぐお昼作るから いや、今日はいいよ そんな遠慮しなくたって、お代は取らないからさ もう食べてきたから、と返そうとして思い留まる。 昨日に出されたピザは明日歩の手料理という話だった。 今日もそうだとしたら、断るのは悪い気がする。 ほらほら、座って座って 席に座らされると、明日歩は間髪入れずメニューを渡す。 何になさいますか、お客さま? ヘルメスの竪琴を頼むとなにが出るんだ? それは出てからのお楽しみだよ かささぎの架け橋を頼むとなにが出るんだ? それも出てからのお楽しみだよ どれも同じメニューなんだろ? うん……う、ううん、そんなわけないよ~ 今日も徹夜か? うん……う、ううん、さすがのあたしも星見が楽しみなだけで二日連続は辛いよ~ 俺は気づかれないようにため息をつく。 そこまでしてくれるのは、俺を是が非でもバイト要員にしたいからか? この先の思考は打ち消した。 ……無理するなよな なにか言った? なんでも。じゃあこのケイロンの弓にしようかな いて座の神話を選ぶなんて、洋ちゃんわかってるね! 夏の星座の代表格であるいて座は、夜になれば俺たちにその勇ましい姿を見せてくれるだろう。 ものの十分もすると、明日歩がメニューを持ってくる。 こちらケイロンの弓になりま~す! 明日歩が持ってきたメニューはボンゴレビアンコだった。 二食連続でパスタはさすがにきつかった。 冷めないうちに食べて食べて 正面に腰かけて、にこにこと見入っている。 俺は完食を果たすしかなかった。 いらっしゃいませ、当店へようこそ~って、あれ 食べ過ぎの腹痛に耐えながらテーブル拭きをこなしていると、見知った客が来店した。 こんにちは、明日歩さん 客はこさめさんだった。 めずらしいね、休日にあたしの店来るなんて。なにか用事? 喫茶店に入る用事はひとつしかないと思いますよ あは、そうだね。それでは一名様ご案内~ あ、一名ではありませんよ こさめさんの後ろに、もうひとりの客が憮然として立っていた。 初めて入ったけど、店の名前のわりに落ち着いた雰囲気なのね 明日歩は目を瞬かせる。 今日は姉さんも一緒なんです ……えー お客に対してなによその態度は はいはい、じゃあ適当に座ってよ 明日歩、お客さまに失礼だろう。ちゃんとご案内しなさい まったくね、メイドの自覚が足りないんじゃないの? メイドじゃなくてウェイトレスだよ! 明日歩、ご案内 ……こ、こちらの席でよろしいでしょうか~ 明日歩の営業スマイルが引きつっている。 明日歩、やりにくいなら俺が応対するけど あ、ううん、洋ちゃんはまだ接客やったことないし。大丈夫だから 小河坂さんもこんにちは ああ こさめさんが俺のエプロンに目を留めた。 ひょっとして、明日歩さんのお店でバイトですか? そうだよ。昨日から入ってくれたの 本決まりってわけじゃないけど、いちおうな 姫榊がぴくっと反応した。 ちょっとコガヨウ ……なんだよこももちゃん に、二度とその呼び方しないでくれる!? そのセリフ、そっくりそのまま返したい。 なんであなたがここにいるのよ さっき言ったろ、バイト見習いみたいな感じなんだ ふざけないで ふざけてないのに。 あなたは転入生で知らないでしょうけど、ヒバリ校は原則バイト禁止なのよ それならもう許可は取ったよ ……そうなの? ああ なんでわたしの耳に届いてないのよ ……知らないけど 小河坂さん、バイト先が決まったら先生に報告しないといけませんよ。その後に生徒会にも連絡がいくと思います そういうことか。 正式に決まったら週明けに報告するよ あたし的にはもう正式決定なのにな~ ちょっと南星さん、どういうつもりか知らないけど、ところ構わず小河坂くんを巻き込むのはやめてくれる? 巻き込んでないよ。天クルもバイトも洋ちゃんの意思だもん いや、半分くらいは明日歩の意思だった。 だいたいこももちゃんには関係ないし あるわよ。転入生が学校に馴染めるよう計らうのも生徒会の仕事なんだから やけに俺に構うと思ったら、生徒会に入れたいだけじゃなくほかに理由があったのか。 姫榊は、言葉はきついが生徒思いだ。持ち物検査のときにもそれは窺えた。 小河坂くんがなにも知らないからって、自分の好きなように扱うのはどうかと思うけど そんなつもりないよ。それに洋ちゃん、学校にはもう立派に馴染んでるじゃない わたしには、南星さんに振り回されてるようにしか見えない 姫榊は俺に向き直る。 小河坂くん、来週から期末テストだけどバイトしてる暇なんてあるの? まあ、少し仕事手伝ったら勉強するつもりだから あたしの家庭教師もよろしくね ……今日もか? うん。今日も ちょっと南星さんっ ご来店ありがとうございました あからさまに帰そうとしないでくれる!? またのご来店をお待ちしておりません ……よほど天クルの寿命を縮ませたいようね クラスでは嫌な顔ひとつ見せない明日歩も、姫榊に対してだけはいつも敵意剥き出しだ。 姉さん、まずは座りませんか? 明日歩さん、ご案内の続きをお願いします あ、うん。一名様ご案内~ ……本気でわたしを怒らせたいようね 明日歩。いいかげんにしないと差っ引くよ に、二名様ご案内で~す 明日歩はぎこちなくふたりを席まで先導する。 姫榊とこさめさんは向かいあって座った。 そこのメイド、早くメニュー渡しなさいよ なんだよその態度っ、水があれば充分でしょっ 明日歩 こ、こちらがメニューになりま~す ……これ、なにがどの料理なんだかさっぱりなんだけど 文句あるなら帰ってよっ 明日歩 ご、ご注文はお決まりでしょうか~? ああっ、明日歩の笑顔がおもしろいくらい引きつりまくってる。 明日歩、あと俺やるから。この伝票に品目書けばいいんだよな う、うん…… お客さま、ご注文はいかがいたしますか? 姉さん、以前にわたしこのメニューを頼んだんですけど、とてもおいしかったですよ そうなんだ。じゃあそれふたつお願い カルヴァリの十字架ふたつですね。かしこまりました 板についてますね、小河坂さん 誰かさんと違って礼儀正しいし 今後は明日歩の給料を小河坂くんに回そうかな うっ……うわーん! 泣いた。 カルヴァリっていうのはキリストが〈磔〉《はりつけ》にされた丘の名前ではくちょう座の別名にもなってるんだよ~! 解説しながら厨房に走っていった。 で、具体的にどんな料理なの? ……さあ 以前に頼んだときはお子さまランチでしたよ 旗の代わりに十字架が立っていそうだ。 ……そんなもの、なんで頼むのよ おいしいからです こさめさんはどんな料理でもそう答えそうだ。詩乃さんみたいに。 明日歩のお友達だよね。すまないね、いつもはあんな接客じゃないんだけど マスターがアイスティーを運んできた。 今日も暑いからね。これは僕からのサービス そんな、悪いです ありがとうございます 姫榊が受け取ったので、こさめさんも礼を言ってそれに倣った。 小河坂くん、店も空いてきたし、仕事はしばらくないから休んでいていいよ マスターも明日歩に続いて厨房に入っていった。 アイスティーは三人分用意されていた。 マスターって、南星さんのお父さん? ああ。この店、ふたりでやってるみたいだ 最初はマスターおひとりだったんですよ。いそがしそうにしているのを見かねた明日歩さんが、自分から手伝うようになったそうです ふーん…… 思案げにストローをかき回している。 小河坂さん、座りませんか? 仕事もないようなので、お言葉に甘える。 今日はですね、お昼を食べるのもそうですけど、小河坂さんにも用事があったんです 小河坂くんの家に電話したら、南星さんの家に遊びにいったって答えられたから 応対したのは詩乃さんだろう。 わざわざ会いに来てあげたのよ。感謝してよね 小河坂さんのケータイの番号を知らなかったので、姉さんを説得して連れてきてしまいました もしかして、部活の規則の件か? ええ 生徒以外を部員にしてもオッケーってことか? ダメに決まってるでしょう 一蹴。 ……規則でそう決まってるのか? そんな規則はないけど。常識的に考えて不許可 それを決めるのは生徒会か? そうよ。部活は生徒会の管轄だから じゃあ生徒会から許可をもらえばいいわけか 姫榊は怪訝な顔をする。 ……わたしの話を聞いてなかったの? 姫榊は不許可でも、それを決めるのは生徒会なんだろ? わたしは生徒会役員だけど 役員ひとりの独断じゃなくて、生徒会の会議の場で審議してくれないか? ……まさか、わたしに発案しろってこと? 察しがよくて助かる。 ああ。部活およびサークルの部員は、ヒバリ校の生徒でなくても入部できる。それを規則に加えて欲しい 事前に用意していた作戦なのだ。 姫榊は呆れ返っていた。 姉さん、わたしからもお願いします。部外者でも、わたしたちと歳が近ければ活動に弊害はないと思いますし こさめさんが即座に味方する。 あのね……。ふたりとも、本気で言ってるの? ああ はい わたしは天クルを廃部にしたいと思ってるのに、なんで敵に塩を送るような真似をしないといけないのよ 姫榊は仕事に私情を持ち込むのか? 生徒の意見を反映するのが生徒会の責任じゃないのか? いきなり正論を持ち出さないで なにか間違ってるか? 非常識な議論をしてる暇は生徒会にはないってことよ どこらへんが非常識なんだ? ヒバリ校の生徒じゃなければ部活の公式大会には出られない。なのに部外者を出場させたら失格になるでしょう なにもすべての部活やサークルに適用しなくてもいいんだ。問題が起こらないサークルだけでいい 要するに天クルの部員確保なんでしょ? 今さら隠すつもりはないので、そこはうなずく。 生徒会に持ちかけるだけでいい。お願いできないか? 結果は決まりきってるじゃない やってみなきゃわからないだろ ヒバリ校のサークルに部外者を入れたら市民クラブとなにが違うのよ。その方法で天クルを存続させたいならヒバリ校じゃなくて市役所にでも持ちかけることね くっ、論破できない。発案くらいはこぎつけられると思っていたのに。 わかったら、あなたも南星さんに振り回されてばかりいないで、自分の優秀な学力をほかに役立て…… 姉さん 姉さんが小河坂さんを欲しがる気持ちもわかります…… ち、ちょっ、こんなところでも!? ですが小河坂さんは天クルにとっても必要な人材なんです…… やあっ、待ってっ、人いるから……! 姉さんにはわたしがいるじゃないですか…… ふああっ、だめっ、見られるっ、だめえっ……! 姉さんは誰にも渡しません…… 途中から言いたいこと変わってるでしょ……!? 姉さんはわたしだけの姉さんなんですから…… わ、わかったからっ、わかったからあ……! こさめさんが離れると、姫榊は大慌てで乱れた服を直す。 ……お騒がせいたしました 仲のいい姉妹だね マスター、なぜちょうどよくカウンターにいるんですか。 ……小河坂くん 真っ赤な顔でにらみつけられる。 な、なんだよ 今の出来事は記憶から抹消しなさい。ううん、これまでの同じ出来事もすべて そんな簡単に…… 抹消しなさいね! 否定するとショック療法の流れなので高速で首肯。 それとこさめっ、帰ったらお仕置きだからね! はい……わくわく いったいどんなお仕置きなんだろう。 姉さん、小河坂さんの言ったこと、よろしくお願いしますね 天クルの命運は姫榊にかかってるんだからな ……まったく、なんでそんな展開に 姫榊はうなずいた、というよりうなだれた。 期待はしないことね。わたしが天クルを廃部にしたいことには変わりないんだから ほんと、天クルを目のカタキにしてるんだな それは今さら 星が嫌いなんだって? それも今さら 小河坂さん わかってる、詮索するつもりはない。 ただ思うのは、こさめさんは誰かが他人に踏み入るという行為を嫌っているんだな、ということ。 それこそ姫榊が星を嫌うのと同レベルで。 こちらカルヴァリの十字架になりま~す! 明日歩がメニューを持って登場だ。 で、洋ちゃん。鼻の下伸びてない? あるわけないじゃないか 紳士に言った。 お子さまランチ、おいしかったですよ まずまずだったわね それではまた学校で 何度も言うけど、発案の件は期待しないでね 誰もこももちゃんに期待なんか……むぐっ 姫榊の機嫌を損ねるのはマイナスなので、明日歩の口をふさいでおく。 天クル一同、頼りにしてるからな ……ふん こさめさんはご機嫌に、姫榊は不機嫌そうに帰っていった。 明日歩、一学期が終わるまで時間ないんだし、打てる手は全部打っておこう 諭してみる。 明日歩は借りてきたネコのようにおとなしくなっていた。 俺に後ろから抱かれたまま。 うあっ そっこー離れる。 明日歩は熟れたリンゴになった顔をうつむかせている。 最近このパターン多いな……。 ……そうだね。天クルのためだもんね あ、ああ テストが終わったら夏休み。タイムリミットは終業式の二十三日。それまでに部員集めるぞ~! 明日歩が笑顔で元気よく言ったので、俺は安堵する。 二十三日っていうと、次の次の月曜か うん。テストが火曜日から金曜日まであって、土日挟んだ月曜日が終業式。テストもその日返ってくるよ 赤点取った生徒は、補習があるからまだ夏休みに入れないけどね 夏休みに遊ぶためにもテスト勉強しないとな それが終わったら星見だねっ 明日歩は手をかざしながら空を仰ぎ見る。 いい天気。こんなに澄んだ青空! シーイングもよさそう! シーイングというのは、大気中のチリや水蒸気のことで、これが悪いと天体の像も乱れるらしい。 昨夜に明日歩から教えてもらった知識だった。 まだ三時かあ。早く夜にならないかな…… 勉強する時間はたっぷりあるな ふえーん…… 客もいなかったので、マスターに断ってふたりで明日歩の部屋に向かう。 テーブルに向かいあって五分もすると、明日歩の寝息が聞こえてきた。 ……くー 今日も徹夜のようなので、起こすことはしなかった。 ごめんね、荷物持ちさせちゃって 気にするな。それに嫌だって言ってもさせるんだろ あはは、そうなんだけどね 今夜は学校からではなく、明日歩の家から展望台まで望遠鏡を運ばなければならない。 昨夜の帰りは下り坂だったのでまだ楽だったが、行きは上り坂なのだ。 俺は心で気合いを入れてキャリングケースを担ぎ上げる。 疲れたら言ってね、交代するから たぶん大丈夫だ 重量は10キロもないし、日頃の運動不足を解消するにはちょうどいいかもしれない。 それじゃ、今夜も星見にしゅっぱーつ! 明日歩の号令で俺たちは歩き出す。 展望台にメアは現れるだろうか。 星見ももちろん目的だが、メアを明日歩に会わせてみたいという気持ちも大きかった。 いいかげんはっきりさせたい。メアは幻なのか、実在するのか。 でないとなにも始まらない気がした。 なにが始まるのかも知らないのだが。 洋ちゃん、もう疲れちゃった? 黙っていた俺に明日歩が声をかける。 いや、まだまだいける 肩に食い込むベルトにも慣れてきた。 さすが男の子、天クルの有望株だね 荷物持ちだったら俺じゃなくて、岡泉先輩でもいいんじゃないか? 先輩、体力ないから。一度資料室の掃除のときに運んでもらおうとしたら、持った瞬間に下敷きになってたよ ……それは器用だな 望遠鏡に傷がつかなくてホッとしたよ そっちの心配なんだな…… だから洋ちゃんは天クルにとってなくてはならない部員なの。こももちゃんの誘惑に乗っちゃダメだよ 誘惑って、生徒会の勧誘か? うん。委員会活動なんかしてる暇ないんだから こさめさんは図書委員の仕事もこなしてるじゃないか 明日歩自身もクラス委員と両立している。 ……洋ちゃん、こももちゃんの肩持つんだ なんでそうなる 生徒会役員って図書委員とかクラス委員よりもいそがしそうだよ? それはそうかもな だからダメ。いい? まあ、入るか入らないかは姫榊から詳しい話を聞いてからだな ……裏切り者 天クルを辞めることはないから むー 星見、こさめさんを誘ってもよかったかもな 強引に話題を変える。 反対しそうだけどね。危険だって言って いつか展望台の立ち入り禁止が解けて、天クルのみんなで天体観測したいな そうだね。それか、こももちゃんから屋上の使用権を勝ち取るか 天クルが部活として認められれば、その交渉もしやすくなるだろう。 それで初めて、天クルの活動がスタートするんだよ 雲雀ヶ崎の展望台か、ヒバリ校の屋上か。 どちらも手に入れられれば、それに勝るものはない。 校門を通りかかったところで、人の気配を感じた。 俺は立ち止まってその方向に目をやる。 ……洋ちゃん? 人影が見える。校舎に向かっているようだ。 昇降口に消えていく。 誰かはわからなかった。 どしたの、やっぱり疲れちゃった? いや、まだまだ平気 さすが男の子。えらいえらい ……俺のこと子供扱いしてないか? あたし、四月生まれ 俺より年上だと言いたいのか。 疲れたらいつでもお姉さんに言ってね、お手々つないであげるから~ 無言で歩き出す。 あっ……気に障った? そうじゃない、だけどそんな態度を取られると俺の想い出がうずくのだ。 展望台の彼女もよくお姉さんぶっていた。 ご、ごめんねっ 慌てる明日歩に苦笑を返した。 やっぱり少し疲れたかな。早く登って展望台で休もうか うんっ 展望台は無人だった。 俺はケースを置いて一息つく。 お疲れさま。シート敷いたよ 明日歩は望遠鏡の準備を始める。 その間に俺は展望台を回ってみる。 ……いないな 隅に隠れているのかと慎重に捜してみたが、メアの姿は見当たらない。 戻ってみると、明日歩が満天の星空に瞳を細めていた。 あとは待つだけか? うん シートに腰を落とすと、明日歩も右隣に座った。 いつまでも…… どこかぼんやりした声だった。 いつまでも、こんなふうに星空を見上げられたらいいね 三十分経ってから、俺は昨夜に明日歩から教わったとおりに望遠鏡を操作する。 明日歩の望遠鏡は赤道儀式なので、レンズを覗く前に極軸合わせをしなければならない。 天体は日周運動しているため、望遠鏡の回転軸を地球の自転軸方向に合わせるのだ。 俺はファインダーに北極星を入れてから、ハンドルを使って緯度調整し、架台を固定する。 あとは天体オートサーチの機能があるので、好きな星を自動で探して追尾するらしい(さすが二十万の望遠鏡だ)。 洋ちゃん、飲み込み早いね。一度教えただけなのに 望遠鏡が優秀だからな ……教える先生が優秀って言って欲しかったなあ そうして望遠鏡を覗くと、肉眼や双眼鏡では点でしか捉えられなかった星が違った姿を見せてくる。 〈二重星〉《ダブルスター》や〈連星〉《れんせい》として俺たちの前に現れる。 夜空を見上げただけでは知りえなかった光の風景。 きっと誰もが感動する。 〈二重星〉《ダブルスター》って言えば、やっぱりはくちょう座のアルビレオだね ああ、黄金の主星とエメラルドの伴星の、恋人みたいに寄り添う姿がとってもステキ…… 明日歩の瞳もアルビレオに負けないくらいキラキラだ。 天頂付近に輝くこと座にわし座にはくちょう座。 そして天の川を南下すれば、いて座とさそり座が顔を出す。 いて座で描かれるケンタウロス族のケイロンは、〈大神〉《たいしん》ゼウスの命令で、さそり座の毒サソリが暴れ出さないように心臓のアンタレスに狙いを定めてるんだって ケイロンは不死身の身体と優れた頭脳を持っていたんだけど、ヘルクレスとケンタウルス族の戦争が起こったときに重傷を負ってしまうの 不死身のケイロンは死ぬことはなかったけど、ケガの苦しみから不死の力を〈巨人神〉《きょじんしん》プロメテウスに譲って、そして〈大神〉《たいしん》ゼウスの手によって天に上げられたんだって…… 傍らで話す明日歩の神話を聞きながら、物語に浸りながら、ひとつひとつの星座を追っていく。 それだけで時間はあっという間に過ぎていった。 俺、明日歩の店でバイトすることにするよ 星見が一段落してから俺は言った。 ……どしたの、急に なんかさ、俺も望遠鏡買おうかなと思って 詩乃さんに渡す食費もある。だから急ぎというわけじゃない。 それでもこの感動をもっと身近なものにしたいから、俺はバイトしようと決意する。 明日歩、ダメか? 明日歩は首をぶんぶん振った。 喫茶店ミルキーウェイのウェイトレスとして、洋ちゃんのバイトを歓迎するよ うれしそうな声と笑顔だった。 バイトに天クルに、これからもよろしくな あはは。改めて言われるとくすぐったいね~ 俺も照れくさくなる。 こちらこそ、よろしくお願いします ぺこりとお辞儀。 天体望遠鏡って一口に言ってもたくさん種類があるから。洋ちゃんが買いにいくとき、一緒に選んであげるね ああ、頼むよ それから、俺は周囲を見渡す。 星見の合間にメアを捜すのは常となっている。 ………… 明日歩も俺の真似をして視線をあちこちに振る。 ……展望台の彼女さん、いないね そうだな 洋ちゃんさ ん? 明日歩は次の言葉を飲み込む。 ……なんでもない そう言って歩き出した。ぶらぶらと。 俺が首をかしげると、がさりと物音がした。 明日歩の足音じゃない。今の音で明日歩も足を止めていた。 なんだろ。動物かな 物音は明日歩の進行方向から聞こえた。 明日歩は俺に振り返る。 山の中だし、キツネとかいそうだもんね 明日歩の背後で小さな人影が一瞬よぎり、すぐに木々の陰に隠れた。 俺は走ってそこの林に突っ込む。 よ、洋ちゃん? 明日歩に答える余裕はない。 林を抜け、フェンスの前に出たところでやっと追いついた。 メア…… ………… 星明かりの下、メアの姿がぼうっと浮かび上がっている。 来てるなら、声かけてくれてもいいだろ ……べつに 素っ気ない。怒っているんだろうか。 今、明日歩から逃げただろ 明日歩って誰 さっきの女子。近づいてきたから、逃げたんじゃないのか? べつに 展望台、戻らないか? メアは手持ちのカマを抱きしめる。 ……いや どうして もう帰るから その前に、明日歩に会ってくれないか? メアはむっつりをくずさない。 どうして 俺の友達なんだ。紹介したい 紹介…… メアは口の中で反芻する。 ……べつにいい そんなこと言わないでさ。頼むよ いや 俺の友達と、メアも友達になってくれないか? メアはさらに強くカマを抱きしめる。 ……今、せつなくなった なんでまた きっとあなたのせい そこカマを向けないように!? 胸がきゅんきゅんするのはあなたがいるから それはたぶん恋だ 今夜のあなたもバカバカね カマが首筋に当たってるから!? ……帰る メアは俺に背中を見せる。 ちょ、待てって 肩をつかんだ。 っ!? メアは振り返ってカマを横薙ぎして俺の髪を数本舞わせた。 俺は尻餅をついた。 ついに本性を現したわね変態くん…… ぷるぷると震えている。 ……カマが今にも俺の顔面に突き刺さりそうだ。 二度としないって約束したのにっ 肩つかんだだけだろっ 万死に値するっ はは ……その笑いは死を覚悟したという意味ね 刺さる刺さるマジで刺さる!? よかったね、痛みはないから だが刺されると痛みを伴う代償がある。 メア 立ち上がると、メアはびくっと後ろに下がる。 続きは展望台でやらないか? ……あの子と友達になれって? ああ いや 一生のお願いだ ……せつなくなるからいや それを乗り越えた先に得るものがあるんだ ……適当ばかり言って 洋ちゃーん、どこ~? っ!? 明日歩の声が林から聞こえてくると、メアは飛び上がった。 ぎこちなく回れ右をして駆け去っていく。 追いかけようとしたときには、メアの姿はかき消えていた。 あっ、やっと見つけたよ~ 明日歩が俺の元に走り寄ってくる。 急にどこかいっちゃうんだもん、びっくりしたよ 明日歩、今ここにいた女の子、見たか? ……誰かいたの? ああ。さっきまで展望台にいて、ここまで追いかけてきたんだけど、どうだ? 明日歩は首を振る。 知りあいだったの? ああ…… 明日歩はメアを見ていない。 ……見えていない? メアは俺の幻だから、明日歩は見ることが適わない? それとも単に目撃する前にメアが消えたのか。 ただ、どちらにしろ、明日歩はメアが発した物音だけは聞いていた。 女の子なんだ? ああ、小学生くらいの小さな女の子 そんな子が夜遅くに展望台来てたの? そうなるな 洋ちゃん、それで心配になったから追いかけたんだね そういうわけじゃないが、そういうことにしておいた。 その子、メアっていうんだ 変わった名前だね 明日歩は首をひねる。 ……あれ、前にその名前、聞いたような? 死神疑惑がかかってるからな ……神出鬼没な小学生ってこと? そんな感じだな 俺は言葉を続ける。 今度、紹介したい。友達になって欲しいんだ うん、いいよ 明日歩はなんの躊躇もなくそう言った。 メアとは違って。 展望台に来てたってことは、星が好きなのかな。一緒に星見できたら楽しそう! 明日歩の言葉に、俺も賛同した。 星見を終え、明日歩の家に望遠鏡を運び、自宅に戻ってくると蒼さんが門の前に立っていた。 ……どうした? 蒼さんは俺に横目を向ける。 俺の家に用か? ……はい 千波関連か? ……ご明察です 今日、蒼さんを招待するって言ってたからな しかしその蒼さんがこうして家の前にいるのはなぜだろう。 招待は、断ったんですが…… 蒼さんはため息をつく。 私が出かけている間に、鈴葉がお邪魔してしまったみたいで…… 事態は飲み込めた。 家、あがるか? ……とても遺憾ですが、お願いします 千波のやつ、誘拐は犯罪だと言っておいたというのに。 あら、お客さま? はい。お隣の…… 蒼衣鈴ちゃんよね。何度か道で会って、あいさつしたことはあるから 蒼さんは軽く会釈する。 家が隣同士なのだ、顔見知りなのもうなずける。 いらっしゃい。遅い時間だけど、明日も休日だしね。ゆっくりしていって ……いえ、すぐ帰りますので 詩乃さん、千波のやついます? 千波ちゃんなら、そこでお休み中よ 俺と蒼さんは詩乃さんの視線を追った。 鈴葉ちゃんと、一緒にね 無防備に眠る千波に、鈴葉ちゃんが同じく無防備に寄り添っていた。 お昼からずっとふたりで遊んでたから。疲れて眠っちゃったのね ふたりは仲が良さそうに手をつないでいる。 千波はいつの間に、鈴葉ちゃんとこんなにも打ち解けあえるようになったのだろう。 だけどそれは、特に驚くべきことじゃない。 ……千波さんは、すごいですね それは感嘆にも似た蒼さんの言葉。 鈴葉がこんなに人に懐くのは、初めてです 昨日も、そうでした。鈴葉は人見知りが激しいのに、千波さんとはすぐに仲良くなってしまって…… いえ、すぐに、というわけでもありません 鈴葉も最初は怖がっていました。遊びに来た千波さんを見て、鈴葉は私の背中に隠れていました 私は千波さんを追い返そうとしました。だけど千波さんは帰ろうとはしませんでした 千波さんは、一緒に食べようと言って、スフレの包みを取り出しました そして私たちの目の前で食べ始めました 鈴葉は驚きました。私はウザいと思いました それでも千波さんは、おいしい、おいしいって言いながら、本当においしそうに食べていました だから、鈴葉は興味を持ったんだと思います 千波さんにおそるおそる近づいて、千波さんはなにも考えていないような笑顔でスフレを手渡して…… 鈴葉も、おいしいって言って…… 気づけば、鈴葉も笑顔になっていて そこには感嘆と、それ以上の呆れが見える。 どうして千波さんは、鈴葉の好きなおやつがスフレだって知っていたのか…… 偶然だとは思いますけど…… 偶然じゃないさ ……え? 千波が蒼さんたちと仲良くなりたくて、ちゃんと自分で調べたからなんだ ………… そうね。千波ちゃんが私に聞いてきたの 引っ越しの手みやげとして、私がスフレを渡したことがあったから、千波ちゃんは気づいたんでしょうね 私はご両親から、衣鈴ちゃんや鈴葉ちゃんのことを伺っていたから スフレが好きなんだって聞いていたから 千波は友達作りの天才だ。 努力に裏打ちされた天才なのだ。 だからな、次はきっと、蒼さんの番だ ……? 蒼さんも、気がついたら千波の友達になってるよ ……ありえません それはどうかな 絶対にありえません 蒼さんはめずらしく語気を荒くしていた。 私は、友達なんていりませんから 蒼さんのその言葉は、メアと友達になることを抵抗なく受け入れた明日歩とは正反対だ。 そして、明日歩と友達になることに逡巡していたメアとも違う。 蒼さんのそれは、明確な拒絶。 昔の「僕」にダブって見えた。 今日は祝日、海の日だ。 昼にもなると気温はだいぶ上がってきて、海の日とあるとおり海水浴にでも行きたくなる。 ミルキーウェイでのバイトがあるから無理なのだが。 その分、夜には三度目の明日歩との星見が待っている。 お兄ちゃん、どこ行くの? ちょっとな。商店街まで お買い物? いや、喫茶店に行くんだ 前に千波と行ったメイドさんのお店? まあな じゃあ千波も行くね ……なんでだよ お兄ちゃんのおごりでジェラートを食べるためだよ! 棒アイスをくわえながら理不尽な力説をする我が妹だ。 つーかおまえ、蒼さんたちと遊ぶんじゃないのか? 今日は予定してないよ ほかの友達と遊ぶんじゃないのか? みんなテスト勉強でいそがしいんだって おまえは勉強しないのか? しないよ 赤点取っても知らないぞ 千波も知らないよ 頼むから知ってくれ でもでも千波の辞書に勉強の文字は一画たりとも見当たらないんだよ! だったらおまえは地球人の皆さんに謝れ つながってるようでつながってないよお兄ちゃん!? じゃあいってきます いってきまーす! なにがあろうとついて来るつもりのようだ。 洋ちゃんいらっしゃい~。今日は正式なバイトくんになってからの栄えある一日目だね! 入店すると、いの一番に明日歩が出迎えてくれる。 さ、座って座って。すぐご飯持ってくるから そう思って昼飯はまだ食べていない。まさか明日歩は今日まで徹夜ということはないと思うが。 明日歩、その前にちょっとかくまってくれるか? かくまう? なにから? 宇宙人よりも恐ろしい生命体からだ な、なにそれ? お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! くっ、遅かったか。 この人ひどいよ悪魔だよっ、忘れ物があるって言って家戻ったままいなくなるんだもんっ、詩乃さんが裏口から出たって教えてくれなかったら千波途方に暮れてたよ! あ、千波ちゃん。こんにちは~ 明日歩に気づいた千波もすぐにあいさつを返す。 こんにちはです、メイドさん メイドさんじゃない、失礼だろ。おまえの場合は明日歩先輩だ いいんだよ、ちゃんと自己紹介してなかったもん そうだよ千波は悪くないよっ ここが店じゃなかったら今すぐぐりぐりしたい。 洋ちゃんのクラスメイトの南星明日歩だよ。よろしくね 千波は小河坂千波です、兄がいつもお世話になってます 今日はお兄ちゃんと一緒にお昼食べに来たの? はいっ、主にジェラートが食べたいです! あはは、今日も暑いもんね~。それじゃ二名様ご案内~ 明日歩に冷房近くの席まで先導される。 お客さま、メニューはいかがいたしますか? じゃあ明日歩の手料理で かしこまりました…… 言ってから明日歩は顔を赤らめた。 あ、あれ? なんであたしが作るって知って…… お兄ちゃんっ、今のやり取りはまるで恋仲っ マヨネーズソースを口に突っ込んで黙らせる。 し、しばらくお待ちくださいませ~ 明日歩はそそくさと厨房に入っていった。 千波、それ吸ったら帰れよ 千波はマヨネーズ吸いに来たわけじゃないよっ じゃあなにしに来たんだよ お兄ちゃんがおごってくれるって言ったんじゃない! 改ざんするなっ、俺だって財布の中身空なんだから 千波とおんなじだね ……待ってくれ。 もし明日歩がジェラート持ってきたら、その金誰が払うんだ……? お兄ちゃんでしょ? だから俺も無一文なんだよっ でもでもさっきお兄ちゃんもメニュー頼んでたじゃない あれは明日歩の厚意で無料なんだよっ なんでなんでっ、お兄ちゃんだけなんで無料なのっ、やっぱりメイドさんはお兄ちゃんのメイドさんだったの! 誤解招くこと言うなっ、おまえだってマヨネーズ無料で吸ってるだろっ これは最初から無料だもんっ、千波のジェラートはお兄ちゃんが無料にしてくれるんだもん! だから勝手に決めるなよ! 勝手じゃないもんっ、千波が無一文なのはお兄ちゃんが千波愛用サイドボード壊したせいなんだから! その改ざんはさすがに厚かましすぎるだろ!? お待たせしました~、こちら煮込みハンバーグのライスセットとマンゴージェラートになりま~す! ほらメニュー来ただろ、どうすんだよ! 千波は悪くないよっ、夏が暑いのが悪いんだよ! 季節のせいにまでするなよ! だって千波はジェラート食べたいんだもん! 俺はべつに食べたくないんだよっ、明日歩の持ってきた料理に金なんか払わないからな! あ…… 明日歩の声で我に返った。 そ、そっか……食べたくないんだ…… なにやら涙声だった。 あ、あはは……あたしが料理作るの、迷惑だった? お父さんに比べたらぜんぜん上手じゃないし…… ご、ごめんね…… いやいやいやっ、そうじゃなくて! いけないんだー、お兄ちゃんがメイドさん泣かせたー おまえいいかげんにしないと目と鼻と耳にマヨネーズ突っ込むぞ!? お兄ちゃんが逆ギレしてるっ、千波はジェラート食べたいだけなのに! だから俺は食べたくないって言ってるだろ! ……っ 気づいたときには遅かった。 明日歩はメニューを持ったまま厨房に戻っていった。 お兄ちゃんのバカっ、早く追いかけなきゃ! さも自分は無関係みたいに言うなよ!? いいから早くっ、じゃないと千波のジェラートが! おまえの心配はそっちかよ!? とにもかくにも明日歩を追った。 明日歩の誤解を解くのに、ゆうに三十分は費やした。 席に戻ってみると、マスターが別に用意したらしいジェラートを千波が幸せそうに食べていたのでマヨネーズをかけてやった。 千波がさらに幸せそうになってムカついた。 あ、お代はいいよ。千波ちゃんのジェラートはあたしのおごりってことで そういうわけにいかない。俺のバイト代から引いてくれていいから ……もう。頭でっかちなんだから お兄ちゃん、バイト代って? 俺、ここでバイトすることにしたんだよ じゃあ千波もここでバイトするね 待て待て待て。 わ、千波ちゃんほんと? はい、千波これでも料理は得意ですから! どの口がほざいてんだ、ああ? ガンつけられたあとのぐりぐりは格別に痛いよお兄ちゃん!? 詩乃さんの言葉、忘れたのか? バイトはするなって言ってただろ でもお兄ちゃんはバイトしてるんでしょ? 俺のは必要悪なんだよ 千波も必要悪だよ バカ、おまえは絶対悪だろ? そんな励ますように言われたって内容がひどいから台無しだよお兄ちゃん!? 洋ちゃん、ダメだよ千波ちゃんいじめちゃ 明日歩は腰に手を当て、お姉さんぶって注意する。 それから千波に優しく言った。 千波ちゃん、じゃあちょっとだけ手伝ってみる? ありがとうございます! 待った待ったっ、それはこの喫茶店に核弾頭を放り込むのと同じなんだよっ そんなわけないでしょ。千波ちゃん、ユニフォーム着せてあげるからこっち来てね はーい! ああ、無知というのはこうも罪なものなのか。 俺はミルキーウェイの冥福を祈った。 お待たせ、洋ちゃん。あたしの換えのユニフォーム貸してみたんだけど、どうかな? 明日歩の後ろからメイド服姿の千波が登場する。 見て見てお兄ちゃんっ、千波のメイドコスプレだよっ、かわいいでしょ甲斐甲斐しいでしょお兄ちゃんが望むならこの姿でご奉仕だっていけないご奉仕だってっ ひざまずいてこの靴舐めてキレイにしな そういうプレイは新米メイドの千波には荷が重すぎるよお兄ちゃん!? お父さん、洋ちゃんの妹さんがお仕事手伝ってくれるってー 合格だ なにもしてないのにさすがに早くないですか!? 心配ないよ。お父さん、人を見る目はあるから 俺には千波のメイド姿に萌えたからとしか思えない。 千波ちゃん、まずはテーブル拭きやろっか? はーい! 元気がいいね、合格だ こんな適当でこの店は儲けが出るんだろうか。不安だ。 千波の失敗をフォローするため、俺も手伝うことにした。 千波ちゃん、お疲れさま。ちゃんとうまくできたね~ はい! 千波にかかればテーブル拭きぐらい朝飯前ですから! 花瓶に手をぶつけては水がこぼれる前に俺が拾い、椅子を蹴飛ばしては倒れる前に俺が直していたんだが。 千波ちゃんだったね。料理が得意ならコーヒー煎れてくれるかな? 待て待て待て待て。 それじゃついでにスフレも焼いてあげます! 待ってくださいお願いします。 明日歩、そろそろテスト勉強の時間じゃないか? 千波だって勉強しなきゃいけないだろ? そんなことより千波がスフレ焼いてあげるね あたしも千波ちゃんのスフレが食べたいな ふたりとも勉強したくないのが見え見えだ。 そうだね。期末テストは明日からだし、三人ともあがっていいよ えー えー おまえ馴染みすぎだから ぐりぐりの折檻は新米メイドの千波には重すぎるよ!? コーヒーとスフレは僕が用意しようか。あとで部屋まで運んであげるよ ほら行くぞ二人とも。マスター、俺が責任持って家庭教師しますんで 小河坂くんがいてくれると、仕事に勉強にほんと助かるなあ 文句ありげのふたりを明日歩の部屋まで連行した。 正答率70%、合格ラインぎりぎり突破。お疲れさん ふえーん……やっと終わったよ…… 答案を返した途端、明日歩は机に顔を突っ伏した。 マスターの手前、居眠りを許すわけにはいかなかったのだ。 あとで間違ったところ復習しておくんだぞ ……むー ふくれている。 赤点は30点未満なのに、なんで合格ラインがそんなに高いんだよう…… なに言ってる。赤点取らなきゃいいっていう考え方がそもそも間違ってるんだ 洋ちゃん、優しくない…… 俺の教え方は厳しいって前に話しただろ サインがコサインでタンジェントだから三平方の定理が因数分解で命題が真または偽の場合に指数関数が1192作ろうスイヘーリーベー…… 千波の目がぐるぐるだ。 明日歩が一年のときに使っていた教科書で勉強していた千波だが、終始こんな調子だった。 普段の授業態度がどんなものか容易に想像がつく。 そろそろ夕飯の時間だけど、食べるかい? 部屋の外からマスターの声がかかる。 はーい! 食べまーす! 手のひらを返したように正気に戻る。 千波、問題解き終わったのか? 終わったよっ 見え透いたウソつくな、つーかなんで数学の解答欄に元素記号書いてるんだよっ 70点? 0点だ やっと終わったー 終わってない。おまえは全教科赤点ぎりぎりラインなんだからせめて時間のかからない暗記科目以外を今のうちに集中的に…… 洋ちゃんはご飯いらないって。千波ちゃん、いこっか はい! お兄ちゃんの分も千波が食べますから! 反テスト同盟が組まれていた。 さてさてやって参りました、待望の星見の時間で~す! テスト前日だし、ほどほどにな それはわかんないよ 明日歩は伸びをしながら空を仰ぐ。 だって今夜もこんなに晴れてるんだよ。星だって誰かに見上げて欲しいって思ってるよ それは同意だった。だから反対はしなかった。 俺にはほかに目的もあったから。 星見ってなに? 星占いのこと? それも星見っていうけどな 天体観測のことだよ 千波も行っていいですか? うん、あたしがやり方教えてあげるね わーい! それじゃあ先に千波を家まで送ってくるよ これまでの流れを平然と無視するお兄ちゃんが怖くてたまらないよ!? もう夜遅いし、詩乃さんが心配するだろ でもお兄ちゃんは行くんでしょ? まあな じゃあ千波も行くね ダメだ なんでお兄ちゃんはよくて千波はダメなの! 千波は天クルのメンバーじゃないだろ? 入るなら連れていってもいいけど お兄ちゃんそれで牽制してるつもり? 千波は天クルに入らなくても勝手にお兄ちゃんについていくんだから! 望遠鏡の重さにも慣れてきたなあ いつもの完全スルー!? 洋ちゃんてば、そんなイジワルしなくたっていいじゃない。千波ちゃんはオカ研があるんだからしょうがないよ 明日歩が甘やかしたことを言う。 千波ちゃんは星見したいんだよね? はい! それじゃいこっか わーい! もしもし詩乃さん? 今から千波を送りますんで なにがなんでも千波を仲間外れにしたそう!? もう……。夜だし、千波ちゃんが心配なのはわかるけど 明日歩が拡大解釈する。 お兄ちゃん、千波のこと心配してくれたの? あるわけがない そこは紳士に言う場面じゃないでしょ! 洋ちゃん、照れ隠しが下手だなあ また拡大解釈される。 テスト前日だからほどほどにって言ったの、洋ちゃんじゃない。急いで展望台向かわなきゃ 千波も道具持つの手伝いますねっ ありがと~。じゃあ双眼鏡お願いね お兄ちゃんお兄ちゃん、双眼鏡ってどうやって使うの? まずは地球人の皆さんに謝れ どんなチャンスも逃さず千波を悪者にしようとするお兄ちゃんの意志が固すぎて千波もうめげそうだよ!? だが千波はめげずに俺たちについて来るのだった。 わあ……。夜の展望台ってこんななんだ どうだ、壮観だろ? 都会じゃ絶対に見られない星空だ あは、洋ちゃん自慢してる 千波は夜空に見入っている。明日歩はうれしそうに望遠鏡の準備を始める。 俺はといえば、メアを捜していた。 周囲を見渡す。そこらに隠れているかもしれないので、歩きながら耳を澄ます。 どんな些細な音も逃さない。 昨夜はメアを見つけたはいいが、逃げられてしまった。 明日歩に会わせる前に消えてしまったのだ。 だから、もしメアを見つけたら、なるべく長く残ってもらうようにしないといけない。 ……捕まえられれば簡単なんだけどな。 だが捕まえてもメアなら簡単に逃げ出せそうだ。 なんと言っても文字どおり消えることができるのだ。 なによりメアは犬や猫の動物とは違う。捕まえるという表現は妥当じゃない。 そして、人間かどうかすらあやしくても。 メアは、俺の友達だ。 友達でいいんじゃないかと思っている。 カマで刺されようが想い出を奪われようが、メアに会いたいと思うこの気持ちは本物だから。 だから、向こうはどう思っていようが、メアは俺の友達なのだ。 じゃあ……。 じゃあ、友達に自分のそばにいてもらうためには、どうすればいいだろう? 俺はその答えを、展望台の彼女から教わっている。 見つけたぞ、メア ……見つかった 今夜はここじゃなくて、俺たちのところに来ないか? いや もう帰るのか? うん 俺たちと一緒に天体観測しないか? いや 俺たちのこと見てたんじゃないのか? ………… 一昨日も、昨日も、今日だって陰で俺たちのこと見てたんじゃないのか? ………… 俺たちのところに来ないか? ……いや まあ、そうだよな ……え? 逆の立場だったら俺だってそう言うよ 俺がこの世で最も嫌いなもののひとつが、押しつけなんだ。だから俺だってメアと同じ答えを返す だからさ…… 俺は後ろ頭をかく。 天体観測してみたくなったら、いつでも来てくれ 望遠鏡で星を覗きたくなったら、いつでも言ってくれ 俺は、メアと一緒にいるのが、好きだから あたしと遊びたくなったら、いつでも言ってね あたしは、キミと一緒にいるのが、好きだから 今…… カマを握るメアの手に力がこもる。 今、きゅんってした せつないのか? ……うん どうしてだろうな きっとあなたのせい それはたぶん違う どうして 俺も過去に似たようなことがあったから その気持ちは誰のせいでもない、自分自身の問題だった。 ……そろそろ戻るよ 俺は来た道を引き返す。 ただ、過去の「僕」とメアとの違いを挙げるなら、メアは友達という関係を否定しているようには見えないこと。 どちらかと言うと蒼さんのほうが過去の「僕」に近い気がする。 だから、こんな二番煎じのやり方でうまくいくのか、自信はなかった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 戻ってくると、千波がロケットのごとく突っ込んでくる。 明日歩先輩が星見の準備終わったってっ、望遠鏡ってどうやって使えばいいのかなっ 使い方はまず地球人の皆さんに謝ることだ その言葉に愛着でもあるのお兄ちゃん!? 洋ちゃん…… 明日歩もまた歩み寄る。 だけどその視線は俺には向けられていなかった。 後ろにいる子、誰? その言葉に、俺は救われた気持ちになる。 勘違いしないでね…… 振り向くと、そこにスネた顔のメアがいる。 わたしは、べつにあなたと遊びたいわけじゃない…… 死神は、誰かと遊ぶなんてことはしない…… ただ、あなたにカマを刺したから……悪かったかなあって、ミジンコくらいは思ってたから だから、ミジンコくらいの時間だったら、遊んであげるって言ってるの…… ……充分だよ 明日歩と千波はよくわかっていない感じ。 俺はメアの正面に立つ。 メアは目を合わせようとしない。 メア だから俺は言う。 メア、目をつむってくれるか ………… ミジンコの時間でいいから目をつむってくれないか ……いや また、変態なことするんでしょ そうだな ……開き直るとは思わなかった ダメか? 決まってるでしょっ 俺はやりたい。ダメか? メアはかあっと顔を赤くし、肩をいからせる。 だ、ダメに決まって…… 俺は手を伸ばした。 メアはびくっとして、固く目をつむった。 俺は、メアの頭を撫でた。 ………… あ…… メアの身体から、力が抜けていく。 ……どうして メアの髪を梳くように、撫で続ける。 どうして、こんなにせつないの…… 抱きしめたときに感じたぬくもりがそこにある。 嫌なのに、嫌じゃない…… よく、わからない…… わからないよ…… あの……あたしたちのほうがもっとわからないんだけど…… お兄ちゃん、その子っていつだったか言ってた死神のカッコした子? っ!? ふたりの声が聞こえると、メアは飛び上がって俺の背中に隠れてしまう。 明日歩、千波にもメアが見えている。 俺は、だから安堵する。 メアは俺の幻覚じゃない、ちゃんと実在するのだ。 死神……。言われてみるとそんな感じかも…… ていうか、おっきなカマ…… 名前はメア。俺の友達なんだ あ、昨日来てたっていう女の子? そうそう メアがぎゅっと俺の背中をつかむ。 わかってるよ ………… 明日歩、望遠鏡使わせてもらっていいか? それはいいけど…… メア。こっちだ そっと手を取る。 メアは震えたが、逃げなかった。 ふたりで望遠鏡の前に立つ。 ちょっと待ってろ 極軸合わせと緯度調整を始める。 メアはどの星が見たい? ……あれがいい メアは空を指さす。 どれだ? あなたが聞かせてくれた星 七夕か? うん ファインダーを合わせてから、メアと場所を交代する。 ……どうすればいいの? ここを覗くだけでいい メアは接眼レンズに顔を近づける。 そうして望遠鏡を覗く。 メアから言葉はなにもなかった。 ただ、長い時間をそうしていた。 天の川に隔たれた七夕の織姫と彦星を、一心に見つめ続けていた。 おはよう、洋ちゃん。今朝はぎりぎりじゃないんだね さすがにテスト当日だからな 千波は今ごろ慌ただしく支度をしているはずだ。 あれからちゃんと勉強したか? できるわけないよ。夕べはほんとびっくりしたんだから なにかあったんですか? うん。人が消えたの なんだそりゃ 目の前で女の子が消えたんだよ。こう、すうーって、空気に溶けるみたいに 過程をすっ飛ばした明日歩の説明を聞いても、ほかのふたりは首をかしげるだけだった。 おかげであのあと、テスト勉強にぜんぜん手がつかなかったよ~ そのわりに残念そうじゃないのはどういうわけだ。 あたしが赤点取ったら、洋ちゃんのせいだからね ……俺は関係ないだろ 責任取ってね そんな楽しそうに言われても。 よく話が飲み込めませんけど……。明日歩さんは昨日、透明人間に出会ったんですか? 透明じゃカメラに撮れねえし、つまらんな 違うよ。洋ちゃんが言うには、死神だよね? 本人がよくそう主張してるからな 死神って、ヒバリ校の都市伝説のアレか? 飛鳥が食いついてくる。 どうなのかな? 本人に確認を取ったことはないな おっきなカマ持ってたし、きっと間違いないよ~ それにしても、明日歩は非常識な存在を目撃したわりには呑気だと思う。 千波にいたってはメア宇宙人説を持ち出して、友達になりたいと息巻いていた。 ふたりともその死神を見たってことか? そうなるな どこで見たんだ? 展望台だよ。ほら、立ち入り禁止になってるところ 勝手に入ったのかよ 誰にも言わないでね 迷惑はかけてないよな。星見してただけだし 死神のメアちゃんも夢中になってたよね~ 死神の名前はメア、と メモっている。 ……小河坂さんも明日歩さんも、本当に見たんですか? こさめさんが困惑気味に確認した。 そうだよ。お話はあんまりできなかったけど 星見を終えたらすぐいなくなったからな 死神は星に興味あり、と またメモっている。 夢でも見ていた、というツッコミはなしですか? 洋ちゃんも千波ちゃんだって見てるんだから、絶対夢じゃないよ 皆さんで同じ夢を見ていた、という可能性もありますよ こさめさんの言葉がひっかかる。 ……そうか、集団幻覚っていうセンも考えられるのか。 だがメアは、そんなモノではないと感じる。 俺の勝手な希望かもしれないが、メアは確かにあの展望台に存在するのだ。 おまえらだけじゃなくて、千波ちゃんも見たのか ああ。三人で星見してたから もしその話が事実なら、オレも近いうち展望台に張り込んでみるか。オカ研としては見過ごせねえしな えー なんで嫌そうなんだよっ だってせっかくロマンチックな場所なのに、張り込みとかオカルトとか…… つまり南星は小河坂とふたりきりがいいわけか なっ、そ、そうじゃなくて! ……今夜も展望台に行くんですか? 明日歩、行くのか? あ、う、うん。もちろん! だそうだ。こさめさんも、よかったら一緒にどうだ? こさめさんは首を振る。 立ち入り禁止ですし、危険じゃないでしょうか…… そんなことなかったよ。足場も悪くなかったし 明日歩さん、まずは勉強が先じゃないですか? テストは今週いっぱいあるんですから こさめさんは反対のようだ。 テストは午前で終わりだし、お昼から夕方まで勉強して、夜に休憩がてら星見すれば万事オッケー! お昼から夕方までは、天クルの勧誘活動じゃないんですか? ああっ、そうだった! ……副部長が忘れてどうする まあおとなしくテスト勉強してるこった。死神にはオレがあいさつしといてやるからよ 誰も行かないなんて言ってないでしょっ、勉強なら三連休にみっちりやったんだから そのうち二日は寝ていたと思うけど。 洋ちゃんはあたしの味方だよね? 赤点を俺のせいにしないなら、つきあうよ なによりメアにも会いたかった。 ……わたしひとりが反対しても意味がありませんね こさめさんも観念したようだ。 こさめちゃんもつきあってくれる? すみません、それは難しそうです 勉強あるもんね。じゃあテストが終わったらだね それも、難しいかもしれません え、どうして? こさめさんはすまなそうにする。 やっぱり展望台が危険だから? わたしは、姉さんの味方でもあるからです 姫榊が反対するからってことか? そんなところです こさめちゃんは天クルの一員なのになあ すみません…… あ、ううん。こさめちゃんのおかげで、こももちゃんを撃退できてる部分もあるもんね チャイムが鳴った。 まずは天クルよりもオカ研よりも、期末テストか 皆さんのご武運を祈ってますよ テスト終わったら、一緒にお昼食べようね~ 三者三様、黒板を向いてテストに備える。 テスト開始前は、都会の学校では最後の悪あがきで誰かと会話する余裕なんてない生徒が多かったが、ヒバリ校では違うようだ。 そののんびりとした空間が心地よくて好きだった。 明日歩クン……またやるのかい? 当たり前ですっ、天クルの命運がかかってるんですから! 千通に一回反応ある程度でもビラ配りはやらないと! まだ入部希望者は現れませんけど、根気よく続けるしかありませんよね テストが終わり、学食で昼を食べたあと、天クルの部室に集合してから俺たちはビラを持って校門前にやって来た。 テスト期間中は、部活ってどうなんだ? 普通にやってるところが多いよ 進学校ではありませんからね その分、文化部も運動部も活気があるというわけさ であれば帰宅部をピンポイントで狙う作戦は続行だ。 ちょうど生徒も下校してきたね 俺たちは校門の両脇にそれぞれつく。 あいさつは元気よくね! それじゃ勧誘開始っ、よろしくお願いしま~す! 明日歩の営業スマイルを先頭に、俺たちも続いた。 ……………。 ………。 …。 ……どこ行ったかと思えば ビラ配りの途中で、姫榊が下校してきた。 ちょっとコガヨウ だからそれやめろよっ うるさい。ちゃんとクラスにいなさいよ、おかげで捜し回ったじゃない 姉さん、小河坂さんにご用ですか? そうね 冷やかしならあっちいってよっ 用があるって言ったでしょっ、ちょっと小河坂くん借りるわよ 用と言われて思い当たるのは一件だけだ。 でも、僕たちは勧誘中なんだけど…… そうだよ。洋ちゃんもいそがしいんだから 姉さんも一枚いかがですか? いらないって言ったでしょ ぺいっとビラを投げ捨てた。 シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 岡泉先輩、そのまま食べちゃってください! 姉さんを食べるのはわたしです…… あっという間に場がカオスだ。 姫榊、ちょっと 歩き出すと、姫榊は察しよくついてくる。 ……どこ行くの? 姫榊に話があるんだ。すぐ戻るから 姫榊の名前を出したからか、明日歩は渋い柿を食べたような顔をしていた。 小河坂くん、本気で生徒会に入らない? 立ち止まったところで、姫榊が言った。 ……天クルの活動はそんなに無駄に見えるか? ええ 人員が必要なら、俺以外を誘えばいいじゃないか たとえば誰よ たとえば……学年総代の岡泉先輩とか だが岡泉先輩も天クルの一員なので、ヘッドハンティングされるのは困る。 ……あの人、性格というか挙動に問題あるから 納得だけど。 それでも俺よりふさわしい生徒はいるだろ いないから誘ってるんだけど 買いかぶりすぎじゃないか? それを判断するのはあなたじゃなくて、わたしを始めとする生徒会だから どうも平行線だ。 それより、俺に用ってあの件だろ? ええ 姫榊はうなずいて、 テストが終わってから役員のみんなに集まってもらって、さっきまでミーティングしてたんだけど おかげでなにも食べてないわよ ありがとうな ……ふん 姫榊は腕を組む。 で、どうだった? とりあえず、地域の交流を目的に、文化部を限定として部外者の参加を認めるための案を提出してみたわ 雲雀ヶ崎は観光地として有名だけあって、市の行政や町内会の活動も活発なのよ だからヒバリ校の生徒が部活動を通して、住民と一緒にボランティア活動をするのは社会勉強になる それを理由に、ヒバリ校の生徒の枠に捕らわれない、地域住民の部活およびサークル参加の認可を申請 まあ、概要はこんな感じ 俺はあっけに取られていた。 ……まさか、そこまでしてくれるとは思わなかった 頼まれたからやっただけよ。この案が通るかもわからないんだし なんだかんだで仕事をこなす姫榊は生真面目だ。 そして、いいやつだ。 からかう ねぎらう ねぎらう ありがとうな。大感謝だ ……ふん 照れていた。 今は審議中なのか? 姫榊っていいやつだな バカなこと言わないで 文句ばかりでもやることはやってくれるし バカなこと言わないで 嫌よ嫌よも好きのうちなんだな バカなこと言わないで だからこさめさんに迫られても内心よろこ…… どがっ!! 忘れなさいって言ったでしょ!! ……顔面に蹴りが飛んでくるとは。 ……で、今は審議中なんだよな そうね。明日またミーティングを行うけど、テスト期間中だからあまり時間は割けないわよ 充分だよ ……充分じゃないでしょう 苛立たしげに言う。 こんな進度じゃ、規則を作って許可が下りるまでに一学期なんてとっくに過ぎてるでしょうね 姫榊はそっぽを向く。 ……そうなのか? そうなの。生徒会長がもっと即断できる人なら違ったんでしょうけど、基本的に日和見だからね 新しい規則を作って問題でも起こしたら、内申に響くとでも思ってるんじゃないかしら もしかして、天クルのこと心配してるのか? ……バカじゃないの。わたしは天クルを廃部にしたいって言ってるでしょう 一学期中に部員確保っていうの、もっと延ばすわけにはいかないか? 甘えないで 鋭い視線が突き刺さる。 二学期が始まったらすぐに部活会議が行われる。そこで生徒会が各部の状況を確認する 部員数が六人に達していない部活があれば廃部にする 夏休み中の入部は認めていないから、実際は一学期中の部員数で判断することになる そして天クルは数年前から部員数を割ってるのに、部室を使用しているから、ほかのサークルから反発を受けている 姫榊はひとつ間を置いて。 たとえ過去の天文部が伝統ある部だったからって、天クルだけ特別扱いするわけにはいかないの これ以上はヒバリ校にとって害でしかないのよ なのに、ただでさえ今の状態が不正なのに、期間を延ばすなんてことができるわけないじゃない 不正を不正で上塗りしてもしょうがないじゃない そんな行為で得られた結果に、いったいなんの意味があるっていうのよ 俺は黙って聞いていた。 反論できるわけがない。 さっき姫榊が話したとおり、部外者の入部許可が間に合わなければ──メアの入部が間に合わないとしたら。 その上、ビラの勧誘も失敗に終わったとしたら。 残る希望は、蒼さんしかいない。 あの蒼さんを説得なんてできるだろうか? 最悪、蒼さんから名前を借りて、幽霊部員としてでもいいから入部を……。 ………… ……いや、以前にも考えたとおり、そんな結果じゃあ明日歩は納得しない。 姫榊だって納得しない。 勝ち取るしかないのだ。誰もが納得するかたちで。 あとひとりの部員を。 ありがとうな ……そこは感謝するところじゃないでしょう いや、姫榊のおかげで覚悟ができた 今の俺の目的が、星見をすることでもバイトをすることでもテスト勉強をすることでもなくなった。 天クルの存続。 初めて、そのひとつだけとなった。 ……むー 姫榊と一緒に戻ってくると、明日歩が犬化していた。 姉さん、これからお帰りですか? 用事はすんだしね。こさめもテスト勉強があるでしょ、一緒に帰るわよ こさめちゃんまで巻き込もうとしないでよっ 巻き込んでるのはそっちでしょっ、南星さんもこれで赤点取ったらクラス委員の立つ瀬がなくなるんじゃないの あたしは洋ちゃんに家庭教師してもらったから大丈夫だもん ちょっとコガヨウ ……不機嫌になると呼び方変えるのやめてくれ 喫茶店にお邪魔したときも言ってたけど、家庭教師ってなによ 休みの日に一緒に勉強しただけだ。クラスメイトならべつに普通だろ? 姫榊は腕を組んでため息をつく。 そんな調子で、南星さんに足下をすくわれないようにね 手をひらひら振って去っていった。 ほんと、感じ悪いなあ 明日歩が言うほど悪くないと思うぞ ……洋ちゃんが寝返った 違うのに。 小河坂クン、さっきはなんの用事だったんだい? 天クルの存続に関して話してたんです。あまり芳しくなかったですけど ……うまくいかなかったんですね。残念です でもさ、こさめさん はい? こさめさんが姫榊の味方をするのは、わかる気がする こさめさんは驚いてから、とびきりの笑みを浮かべる。 はい。姉さんは、わたしの自慢の姉さんですから ……ふたりして寝返るんだ 違うというのに。 姫榊クンに協力を持ちかけたということかい? そんな感じです 生徒会にとって天クルは目の上のたんこぶみたいなものだし、それは難しいさ 岡泉先輩は遠い目をする。 廃部まで、あと六日かあ…… 来週の月曜には一学期の終業式。タイムリミットまでは一週間を切っている。 弱気になったらできることもできなくなりますよ! みんな、勧誘続けるよ! 明日歩は下校する生徒に元気よくビラを配っていく。 俺もまた明日歩に負けじと勧誘を続けた。 夕方になり、帰宅部の生徒は残っていないだろうと踏んで勧誘活動を終えた。 俺たちは疲労を背負いながら、夢見坂を下っていく。 ビラ配りも二回目ですから、あまり配れませんでしたね 一回目のときにもらった生徒はいらないだろうしな 逆を言えば、今回で帰宅部の生徒にはほぼ行き渡ったかもしれないね ……反応あるといいんだけど 明日歩は浮かない顔だ。 明日はどうしますか? ……洋ちゃん、どうする? 回答権が回ってくる。 岡泉先輩が言ったとおり、めぼしい生徒には行き渡ってると思うから、正直これ以上は意味がないかもしれないな 人事は尽くした。あとは天命を待つのみだね ………… 明日歩さん、元気がないみたいですけど…… まあね。なんていうか、あんまり手応えがない感じで ビラを受け取った生徒は、こちらが強引に手渡しただけで、読んでいるかも疑わしいのだ。 あまり気に病まないほうがいいですよ。やるだけはやったんですから ……ほんとにそうかな ビラ配りだけじゃない、ポスターだって貼ったじゃないか。これで廃部になっても悔いはないさ…… 目尻に涙が光っている。 もう、これで全部なのかな。あたしたち、まだやれることがあるんじゃないかな…… こさめさんは困ったように俺を見る。励ましてください、といった感じで。 やれることは、まだあるさ 明日歩が横目をよこす。 文武両道って言うだろ? テストで赤点取らないように勉強しないとな 明日歩は苦笑いを浮かべた。 ……洋ちゃん、お母さんみたい 俺は、明日歩の母親とは一度も会っていない。 バイトをしているときも、夕食をごちそうになったときでさえ見なかった。 単身赴任だろうか。 それとも片親なのだろうか。 さすがに詮索はできない。 文武両道と言っても、天クルは文化系ですから、どちらも文ですけどね 武が苦手な僕としては、明日歩クンにも文をがんばって欲しいかな ……なんであたしだけ赤点の心配されなきゃいけないんだよ それは、この中で赤点を取ったことがあるのが明日歩さんだけだからですよ やっぱり取ったことあるのか、明日歩。 そんなわけで、帰ってからちゃんとやるんだぞ ……星見もダメ? ダメだな 今夜もつきあうって言ったのに…… 家庭教師をした身としては、赤点常習犯になって欲しくないからな 優しくないんだから 明日歩はふくれたが、俺を含むその他三人からは笑い声が聞こえていた。 バイトに関しては、テスト期間中は来なくていいという話だった。テストに集中して欲しいそうだ。 そんなやり取りをして明日歩たちと別れたあと、俺は自宅に戻る前に蒼さんの家に寄ってみた。 ビラ配りの間、蒼さんは下校してこなかった。 前回のビラ配りでもそうだった。俺たちは蒼さんにビラを渡していない。 勧誘が始まるよりも先に帰ってしまったんだろう。 ホームルームが終われば急いで校門前に集まるようにはしていたが、それでもビラの準備で時間にロスはできる。 特に一年生はクラスが一階だし、昇降口が近いので、先に帰られてしまう可能性がある。 蒼さんはそのうちのひとりだったわけだ。 俺は、ドアフォンを押した。 ……しつこいって言われそうだけどな 一度はっきりと断られている。それでも俺は蒼さんを勧誘しようとしている。 下手をすると嫌われるだろう。 ……もう嫌われている気もするけど。 俺は、もう一度ドアフォンを押す。 ……出ないな 留守のようだ。 蒼さんは帰っているはずなのだが。 どこかに出かけたのかもしれない。 あっ、お兄ちゃん。おかえりなさーい! リビングに上がると、千波がテーブルを使ってなにやらカードゲームに興じていた。 その向かいに座っていた相手は、俺に驚いたのか、千波の隣に逃げてしまう。 大丈夫だよ、この人は千波のお兄ちゃんだよ、ぶっきらぼうだけど無害だから安心していいよっ ね、鈴葉ちゃん ………… 鈴葉ちゃんはおずおずと俺を見上げる。 こんにちは 怖がられるのを覚悟して、あいさつした。 鈴葉ちゃんは口を開けたり閉じたりしてから、 こ、こんにちは……です 小さな声であいさつを返した。 あ、あの……この前は、失礼しましたっ そしてかわいらしくお辞儀した。 わ、わたし……すごく失礼なこと言って…… ああ、いや、気にしてないから そう答えると、安心したのか鈴葉ちゃんはほほえんだ。 人見知りが激しいとのことだったが、千波のおかげだろう、警戒が解けたようだった。 今日も鈴葉ちゃんと遊んでたのか? うんっ、鈴葉ちゃんの家に遊びにいったらちょうど蒼ちゃんが出かけたあとだったみたいでねっ、ひとりでお留守番してたから連れてきちゃったよっ 留守番なのにいいのか? は、はい……ちゃんとカギかけましたから うちの千波と交代しないか? それはつまり千波より鈴葉ちゃんのほうがしっかりしてるからお兄ちゃんの妹にしたいってことなの!? よくわかってるじゃないか 千波的にはよくわかりたくなかったよ! ち、千波さんは……しっかりしてると思います いったいいくらもらったんだ? 買収容疑かけられてる!? ち、千波さんはとても優しいし、楽しいし、素敵な方だと思いますっ…… 女神のようなことを言う。 鈴葉ちゃん、小学生だよな? は、はい。三年生です まだそんななのに礼儀正しいんだな そ、そんなこと……ないです…… 恥じらうようなところが、やはり大人びて見える。 お兄ちゃんも一緒に遊ぶ? いや、ちょっと用事があるんだ。ていうかおまえはテスト勉強いいのか? 千波は勉強よりも鈴葉ちゃんと遊ぶことに価値を見出してるんだよ! いつもなら一蹴するところだが、今回ばかりは反対するわけにもいかない。 あのっ、ご迷惑だったら、帰りますけど…… 迷惑なんかじゃないよっ、千波は鈴葉ちゃんが大好きなんだから! あ、ありがとうございます…… 恐縮している。 ストレートすぎる千波の言葉は、ウザいことも多いが、人の心を動かすことだってある。 お兄ちゃんの用事ってなんなの? 天クル関係だ 展望台関係じゃなくて? それも含めてだな 千波もね、学校帰りにオカルト部長と一緒に展望台寄ってみたよ オカ研の活動か? そうだよっ、ふたりで雲雀ヶ崎のミステリーに挑んでるんだよっ ビラ配りの最中、蒼さんと同じく千波と飛鳥も見なかった。 昼飯も食べずに展望台に向かったのかもしれない。 メアちゃんには会えなくて残念だったけどね みんなはメアが夜にだけ現れることを知らないのだ。 まあ、内緒にしておこう。 もし教えたら、飛鳥が夜中に千波を連れ出すなんてことにもなりそうだ。 兄としてはちょっといただけない。 明日は放課後に聞き込みだよっ、千波たちが都市伝説の死神の謎を解き明かしてみせるんだよっ 聞き込みって、ヒバリ校の生徒にか うんっ そのついでにさ、相手が帰宅部の生徒だったら天クルに誘ってみてくれないか? いくらくれるの? これでどうだ? ぐりぐりに金銭価値はないよお兄ちゃん!? ち、千波さんをいじめないでくださいっ 鈴葉ちゃんに止められた。 あ、あの、天クルって、天体観測のサークルですか? ああ。鈴葉ちゃんも知ってるのか? は、はい。ヒバリ校にそういうサークルがあるって、お姉ちゃんが話してましたから…… 蒼さんは興味を持ってくれているということだろうか。 鈴葉ちゃん、蒼さんがどこに出かけたか知らないか? ……お姉ちゃんですか? 鈴葉ちゃんは小首をかしげる。 お姉ちゃんはよく夕方や夜にお出かけするんですけど……すみません、知らないです なになにお兄ちゃんっ、蒼ちゃんと遊びたいの? おまえと一緒にするなって スクールバッグを置きに、自室に向かう。 鈴葉ちゃん、ゆっくりしていってくれ あ、ありがとうございますっ ぺこっとお辞儀。 蒼さんとは正反対で、とても素直な子だと思った。 そうして俺は展望台で夜を待った。 明日歩から雨警報は聞かなかったし、必ず晴れると思っていた。 梅雨はもう明けたのかもしれない。 こんにちは こんにちは 刺していい? そっちがこんにちはって言ったんだろ!? 今夜のあなたもバカバカね そのセリフは早くも聞き飽きている。 ……ねえ メアはきょろきょろと周囲を見回す。 昨日の子たちは? 今日は来ないんじゃないかな じゃあ、望遠鏡は? 持ってきてないよ ………… むすっとした。 星見、したかったか? ……べつに ごめんな べつにって言ったじゃない 代わりといってはなんだけど、これを持ってきた 俺は一枚の用紙を手渡す。 ……なにこれ 天クルの入部届 てんくる? 天体観測愛好サークル、略して天クルだ 天体観測…… そうだ。このサークルに入れば、好きなだけ天体観測できるんだ 大仰に手を広げて強調した。 どうだ、メア。俺たち天クルと一緒に広大な宇宙に浮かぶ星々に想いを馳せたいと思わないか? 思わない 拒否られる。 なんでだよっ なんでって言われても 昨日はあんなに望遠鏡覗いてたじゃないかよっ 死神は望遠鏡なんて覗かないわ 思いっきり覗いてただろっ 間違った。死神は広大な宇宙に浮かぶ星々に想いなんて馳せないわ ……星見、楽しかったんじゃないのか? 普通だった だったらなぜ、昨夜はあんなに七夕の星を見つめ続けていたんだろう。 それこそ一時間を超える時間だったのに。 メア。そこに署名してくれないか? いや 名前を書くだけでいい。それだけでいい。あとは俺にすべて任せれば万事オッケー、ふたりはハッピー うさんくさいからいや ……天クル、入ってくれないか? いや くっ、このあまのじゃくっ子め。 今夜の目的が早くも滞りそうだった。 だいたいなんでわたしが、その天クルっていうのに入らなきゃいけないの 入って欲しいからだよ 今日のあなたはパカパカね それ意味わからないから わたしが入らなきゃいけない理由を聞いてるんだけど メアと一緒に星見したいからだよ 星見だったら、昨日だってできたじゃない。わたしが天クルに入らなくてもできたじゃない それでも頼む いやだったら 天クルでも、メアと一緒にいたいんだよ ………… メアと、もっと一緒にいたいんだ ………… 赤くなった。 ……今、きゅんってなった それはきっと天クルに入りたいって意思表示だ あなたを刺したいって意思表示だと思う その振り上げているカマを俺が白刃取りできたら天クルに入ってくれないか? わかった。じゃあいくよ すみません冗談です。 ……実はな、どうしても天クルに入って欲しい理由があるんだよ それをさっきから聞いてたのに 天クルって、ヒバリ校のサークルなんだけどさ 坂を下りる途中にある学校のことね 知ってるんだな すぐそこにあるし でな、そのヒバリ校の天クルは、廃部の危機にあるんだ ふーん どうでもいいように答えられる。 それでな、廃部にならないためには、あとひとり部員が必要なんだ ふーん そんなわけでな、ここでもしメアが入ってくれれば廃部にならなくてすむんだよ ふーん だからお願いだ、俺を助けると思って天クルに入部してくれ! いや このあまのじゃくっ子め! じゃあどうすればいいんだよ!? 廃部になればいいんじゃないの 廃部にしたくないから頼んでるんだろ!? 命あるものはいつか死ぬ。形あるものはいつか朽ちる。あなたが言う天クルだって同じでしょう そんなポエムはどうでもいいんだ ……腹立つんだけど ここにペンがある。残りはメアのサインだけだ。その入部届に名前を書けばすべては丸く収まるんだよ! それこそどうでもいいわ メアはぺいっと入部届を投げ捨てた。 シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 岡泉先輩の真似をしたらメアは飛び上がって林の向こうへ逃げていった。 ……おーい、メアー。もうしないから出てきてくれー メアは木の陰からおずおずと顔だけ出す。 か、噛みつかない……? 狂犬扱いだ。 ま、またやったら、刺すからね……? 見るからに怯えている。 も、もしやったら、今度から犬の変態くんって呼ぶからね……? 人として最底辺のあだ名だ。 わ、わかった……? ……了解 びくびくしながら戻ってくる。 それで、どうだ? ……なにがよ 俺の熱意、わかってくれたか? ……変態な熱意はわかった 天クル、入ってくれるか? よりいっそう入りたくなくなった いったいメアは俺にどうして欲しいんだ? なんか当てつけがましい言い方ね…… どうしたら天クルに入ってくれるんだ? お手上げな気分で聞く。 そもそも、わたしはヒバリ校の生徒じゃないんだけど。天クルに入れるの? ああ、それに関してはなんとかなると思う。というか今なんとかしてる最中だ ……そこまでしてわたしに入って欲しいの? ああ そんなに天クルが廃部になるのがいや? それもある。だけどそれだけじゃない なに? 言ったろ、メアと一緒にいたいからだ メアは、カマをぎゅっと抱きしめる。 俺は続ける。 俺はさ、メア。もしメアが入ってくれなくても、天クルを廃部にさせる気はないんだ 天クルは必ず存続させるんだ だから、天クルの活動が本格的に始まれば、俺は夜に天クルのみんなで天体観測することが多くなると思う そうなれば俺はここに来ることが難しくなる。メアも知ってると思うけど、この展望台は立ち入り禁止なんだ 部活動としては、この場所は使えないんだ 俺は、メアに会いに来ることができないんだ ………… 俺は、天クルが好きだ。だから天クルの活動に参加する だけどそこにメアがいないのは寂しいって思う だからさ、メア。天クルに入ってくれないか? 天クルに入って、そして今度は、ヒバリ校の屋上で俺たちと一緒に望遠鏡を覗かないか? メアは、答えなかった。 答えに悩んでいるようだった。 実際には、展望台を訪れる回数はゼロにはならないだろう。俺は展望台の彼女を諦めたわけじゃない。 明日歩は言っていた。このステキな展望台で星空を見上げながら彼女を待てばいいと。 俺もそのつもりだった。 それでも、頻度は必ず少なくなる。 メアに会える回数は減ってしまう。 俺は投げ捨てられたままだった入部届を拾って、メアに再度手渡した。 ごめんな、なんか押しつける感じになって メアは吐息をつく。 ほんとに、そう。押しつけは嫌いって言ってたくせに だから今すぐじゃなくていい。まずは考えてみてくれ できたらタイムリミットである来週の月曜までに返事は欲しいが、求めすぎるとやはりそれは押しつけだ。 ……名前、書かないかもしれないからね ああ そうなっても恨まないでね ああ。わかってるよ ………… メアは背中を向ける。帰るのだろう。 消える前に、肩越しに俺を見た。 ……さよなら、変態くん メアはいなくなった。 また明日、と最後に聞こえた気がした。 展望台からの帰り道、ヒバリ校の校門に差しかかったときだった。 あれは…… 前方に人影が見えた。 小さな背丈、見覚えのある背中。坂を下っている。 俺は駆け足で追いかける。 蒼さん っ! 後ろから声をかけると、蒼さんはびくっとした。 立ち止まって、ゆっくりと振り返る。 悪い、驚かせるつもりは…… ……俺のほうが驚いた。 ……お化けかと思いました 蒼さんは、俺にとってはもう見慣れている長い筒を胸に抱いていた。 それ……望遠鏡だよな 暗くて見え辛くても間違いようがない。 ………… 蒼さんは隠すように正面を向いて、歩き出す。 俺は慌てて隣に並ぶ。 それ、どうしたんだ? ……どういう意味ですか 天体観測してたのかなと 意識せずとも声が弾む。 星占いに望遠鏡に、これで星に興味がないなんて言われても信じられない。 蒼さんは黙って歩いている。 もしかして、さっきまで展望台にいたのか? ……展望台? 坂を登ったところの展望台。そこにいたんじゃないか? 方向的には展望台かヒバリ校しか考えられない。 俺は蒼さんを見なかったが、展望台はある程度広いので、気がつかなかったのかもしれない。 蒼さんは難しい顔をしていた。 ……あそこって、入れないんじゃないんですか? 立ち入り禁止になってるけど、フェンスは簡単に迂回できるんだ ……入ったことあるんですか? ああ……って、蒼さんは? 首を左右に振った。 展望台に行ってたんじゃないのか? ……違いますけど あれ。 じゃあ、その望遠鏡は? ……私のです それはわかるが。 今まで天体観測してたんじゃないのか? ………… 蒼さんは答えてくれない。 しつこいって思われるだろうけど、言っていいか? ……なんですか? 天クル、入ってくれないか? 蒼さんは顔つきを厳しくする。 それはもう、断ったはずです 蒼さん、天体観測に興味あるんだろ? ……そんなことないです じゃあその望遠鏡は? これは望遠鏡じゃないです ……じゃあなんだ? チョコです ……いや、タバコを隠す言い訳じゃないんだから でも私のだから、食べさせません 食べられるのか? 無理をすればたぶん ちゃんと消化できるのか? 無理をすればたぶん それより先に歯が欠けるよな? ……ウザい ……グサっとくるなあ。 実はな、ここに入部届がもう一枚あるんだ ……もう一枚の意味がわかりませんけど、入らないって言いました 天クルはな、廃部の危機にあるんだ ……いきなり話が飛んだような それでな、廃部にならないためには、あとひとり部員が必要なんだ そうですか そんなわけでな、ここでもし蒼さんが入ってくれれば廃部にならなくてすむんだよ そうですか だからお願いだ、俺を助けると思って天クルに入部してくれ! お断りです 俺は天クルが好きなんだ ……また話が飛んだような だから俺は天クルの活動に参加する。だけどそこに蒼さんがいないのは寂しいって思う だからさ、蒼さん。天クルに入ってくれないか? 天クルに入って、そしてヒバリ校の屋上で俺たちと一緒に望遠鏡を覗かないか? 覗きません 蒼さんは答えに悩んでいるようだった ……なんでいきなり状況描写なんですか、それに悩んでませんし ごめんな、なんか押しつける感じになって まったくです だから今すぐじゃなくていい。まずは考えてみてくれ 考えた結果お断りです メアのときのようにうまくいかない。 ……どうしてもダメなのか? そう言ってます 俺はいったいどうすればいいんだ? ……私に聞かれても 蒼さんはいったいどうして欲しいんだ? 関わらないで欲しいです 取りつく島がない。 俺は諦めないからな ……諦めて欲しいです 蒼さんが天クルに入ってくれなきゃ、毎日千波を家にけしかけるからな くっ……卑怯です さあどうする? ……殺るしかないか 想定外の結論に!? いや、今のはナシの方向で 賢明な判断です 望遠鏡持って、どこ行ってたんだ? ……あなたには関係ありません 俺と関係を作ってくれないか? ……セクハラで訴えますよ 俺は諦めないからな ……千波さんといい、あなたといい 蒼さんはため息をついた。 どうして、私なんかと関わりあいになりたいのか…… 蒼さんと友達になりたいからだよ 蒼さんの表情に呆れが混じる。 ……なんのメリットもありませんよ それを決めるのは蒼さんじゃないからな あなたたちだとでも言うんですか いや 俺は期待を込めて言う。 決めるのは、今の俺たちじゃないってことだ 過去の「僕」ではなく、今の俺が展望台の彼女を想っているように。 未来の俺たちが、友達になって良かったと、そう想ってくれればいい。 千波、蒼さんが望遠鏡持ってること知ってたか? めずらしく早起きして、これまためずらしくすでに制服まで着込んでいる千波に聞いてみた。 蒼ちゃんが持ってるのは望遠鏡じゃなくてタロットカードだよ? いや、望遠鏡も持ってるんだよ。昨日知ったんだけど そうなんだ。UFO観測用かな? 普通は天体観測用だろ お兄ちゃん、まだ蒼ちゃんに天クルの勧誘してるの? まあな ダメだよお兄ちゃんっ、しつこい男は嫌われるんだよっ、蒼ちゃんは地球外生命体との接触を願って日々その運命の時を占ってるんだから! 毎度の千波の妄想だろう。 蒼さんって、教室で星占いやったりしてるのか? 休み時間のときとか、たまにやってるよ なに占ってるんだ? 占いっていうか、お願い事してるんだって。おまじないみたいなものって言ってた タロットカードにはそんな使い道もあるのか。 どんなお願い事だ? わかんない。蒼ちゃん、教えてくれないから 千波でも聞き出せないのだったら、俺が聞いても無駄かもしれない。 千波から見て、蒼さんは星が好きだと思うか? 蒼ちゃんは宇宙人が好きだと思うよっ 冗談は置いといて、どうだ? 千波はいつでも本気の千波だよっ 千波は置いといて、どうだ? 千波を置いたら千波がいなくなっちゃうよお兄ちゃん!? まったくもって話が進まない。 そろそろ出る時間か わっ、待って待ってっ、今支度してくるから! 席を立つ千波に、さりげなく聞く。 千波はさ、どうして蒼さんと友達になりたいんだ? そんなの決まってるじゃない そしてなんでもないことのように言った。 蒼ちゃんが好きだからだよっ おはよっ、蒼ちゃーん! おはよう ………… 蒼さんはちらりと俺たちを見ただけで、そのまま坂を登っていく。 待ってよ蒼ちゃーん! それを千波が追っていく。 そんな朝の風景が、気づけば定番になっている。 蒼さん、テストのほうはどうだ? ……いつもどおりです 蒼ちゃんって頭よさそうだよねっ ……そんなことない 今度千波にカンニングさせて欲しいなっ ……勉強教えるんじゃなくてカンニングなんだ 普通に勉強教えてくれると兄としては助かるな それは難しいよお兄ちゃんっ、千波は文より武の申し子だからどうせ頭を使うなら中身じゃなくて外側なんだよ! ヘッドバットでもする気かおまえは ……そういえば、授業中はよく居眠りして机に頭ぶつけてる よく見てるんだな ……見たくなくても見えるんです。千波さんの後ろの席ですから じゃあテスト中に千波が親指立てたらそれを合図に蒼ちゃんが答案を誤って落として千波がそれを拾ってあげると同時にその答案を千波のと交換する手はずでよろしくね! ……やるわけない 千波がカンニングしてそうだったら、遠慮なく先生に知らせてやってくれ ……承知です 蒼さんは以前よりもずっと俺たちに言葉を返してくれるようになった。 だから、できればもっと、蒼さんに踏み込んでみたかった。 なあ、蒼さん 校門で別れてしまう前に、呼び止めた。 ……なんですか? 願い事、叶うといいな ………… なんで千波が蒼ちゃんににらまれてるの!? ……誰にも話さないで欲しかった まだお兄ちゃん以外には言ってないよっ、蒼ちゃんが望むなら他の人には話さないよっ、千波は友達との約束だけは絶対忘れないからねっ それは本当だから、安心していい ………… 俺も、誰にも話さないよ 蒼さんはもうなにも言わずに校舎へ向かう。 ……蒼ちゃん、怒ったのかな 悪いことしたな まったくだよっ、このせいで蒼ちゃんが千波に答案見せてくれなかったらお兄ちゃんを恨むからね! 千波は頭の外側を使うんだったな ぐりぐりには使って欲しくないよお兄ちゃん!? 蒼さんを天クルに勧誘したい。 そのためにはどうすればいいだろう。 答えはどこかにある気がした。 テストが終わり、学食で昼を食べているところで明日歩が言った。 あたし、やっぱりビラ配りやるよ ……これからですか? うん。このまま家に帰っても、どうせ勉強に集中できないと思うし 最後まで、やるだけはやりたいからね 俺とこさめさんは顔を見合わせる。 飛鳥はここにいない。早々に食べ終わり、都市伝説の聞き込みとやらに出かけていった。 あ、ふたりに手伝ってもらうつもりで言ったんじゃないからね。テストもまだ中盤戦だし ただあたしがやりたいだけだし…… 俺もやるよ わたしも混ぜてくださいね だ、だから無理に手伝ってもらわなくても…… やりたいからやるんだよ 明日歩さんと一緒です 洋ちゃん、こさめちゃん…… 明日歩は感動していた。 あたしは良い部下を持って幸せ者だよう…… 我らの副部長は涙もろかった。 お、今日もやってんのか。精が出るな 二時間ほど配ったところで、飛鳥が下校してきた。 聞いて聞いてお兄ちゃんっ、千波たちさっきまで生徒を捕まえまくって都市伝説の謎に迫ってたんだよっ 飛鳥の横には千波もいた。 小河坂さんの妹さんの、千波さんですよね あ、はいっ、はじめましてです! 姫榊こさめと申します。よろしくお願いしますね 自己紹介を交わすふたりの横で、俺たちは飛鳥から話を聞いている。 オカ研もがんばってるよね 千波はどうだ、使えるか? 聞き込みにはかなりの戦力だぜ。なんせ物怖じせずに誰彼構わず突っ込んでいってたからな まあ納得だ。 聞き込みの中心は千波ちゃんと同じ一年だってのもあったしな 二年生と三年生は都市伝説に興味失せてるもんね それで、知ってる都市伝説についてなんでもいいから教えてくれって感じで聞いて回ってたんだが…… なにかわかった? たいていはどこかで聞いたような噂ばかりだったな そう言って飛鳥は手帳を開く。 ただ、気になった点がひとつだけあった なになに? 明日歩も興味津々だ。UFOに乗りたいだけはある。 なんと、死神を見たっていう生徒がいた 目撃者か? めずらしいね。ていうか初めて? 都市伝説の死神については誰かから聞いたことがある、それ以上は知らないってのが普通なんだけどな なのにこの目で見たっていう生徒がいるんですね しかもひとりじゃなくて何人も見つかったんですよっ ふたりも参加してきた。 へえー。なんか信憑性ありそうだね ……それ、メアってオチじゃないよな? おまえらが展望台で見たっていう死神だな。そうかもしれねえし、違うかもしれねえ 今回はどうも現場がここらしいからな 飛鳥は親指で後ろの校舎を指す。 ……このヒバリ校で死神を見たって? らしいな 飛鳥は鷹揚にうなずいて、 目撃者は四人、全員女子。おたがいクラスメイトでテニス部の仲間、まあ友達グループってやつだ で、部活が終わってコートで夜までだべってたらしいんだが、そのうちのひとりが校舎に忘れ物をしたんだそうだ うちの学校って夜でも昇降口が開いてるからな。警備も結構ずさんだし、四人でそのまま教室に向かったわけだ そうしたら、見てしまったんだよ 飛鳥は演技がかった低い声で続ける。 大きなカマを持った子供が、廊下をひたひた歩いてるのをな…… ぱたん、と手帳を閉じた。 ……子供だったの? 証言によると、暗くてよくは見えなかったが、背はずいぶん低かったらしい。だから子供で間違いないだろうな 大きなカマは暗くても見えたんですか? こっちも詳細にはわからなかったみたいだな。それでも長い棒みたいなのを担いでたらしいから、カマで間違いないんじゃないか 死神って言ったらやっぱりカマだもんね その話だけを聞くと、ますますメアだと思えてしまう。 顔や性別はわからないのか? ああ。背が低くて長い棒を担いでいた。確実なのはそのふたつだけだな メアちゃんがヒバリ校に遊びに来てたのかなっ、千波たちに会いに来てくれたのかなっ メアの性格からしてそれはなさそうだが。 そんなわけで、オカ研創部以来のでかい収穫があったんだ。次は夜を待ってヒバリ校で張り込みだぜ オカルト部長と一緒に、今夜にも校舎を探検だよっ ……いや、マジでか? うんっ、メアちゃんに会えたら友達になってくるねっ 却下 なんで!? おまえはテスト勉強があるだろ でもでも宇宙人と友達になってUFOに乗せてもらうっていう千波の壮大な野望が叶うかもしれないんだよ! それは前に聞いたから知ってるけどさ じゃあ許してくれるんだねっ ここにサインしたら許してやる それくらいお安いご用だよっ 飛鳥、これ千波の退部届な クーリングオフを熱烈希望するよお兄ちゃん!? ……まあ小河坂が心配するのはわかるけどさ 洋ちゃん、千波ちゃん思いだもんね なぜそんなふうに捉えるんだ。 でもでも千波は宇宙人を捕まえられる日を待ち望んで事前に虫取り網も用意してたんだよ! おまえ昆虫採集とごっちゃになってるから わたしも夜に張り込みなんて危険だと思いますよ。警備員の方に見つかったら大変です やるんだったら夏休み入ってからのほうがいいんじゃない? 肝試しも兼ねてって感じで なんにしろ俺は反対だからな 飛鳥はため息をつく。 テストもあるし、しゃあねえか。夏休みからでも遅くねえしな 千波ちゃん、それでいいか? はいっ、ぜんぜんオッケーですっ、千波はオカルト部長に一生ついていきますから! なんかそれプロポーズみたいじゃね? げしっ! お兄ちゃんが千波のお尻蹴った!? 気のせいだろ ……小河坂、おまえもたいがいシスコンだな なぜそんな解釈になる。 オレら、これから展望台寄るから。まあそっちも勧誘がんばってくれ それじゃ失礼しまーす! 飛鳥と千波は坂を登っていった。 なんかふたり、いいコンビだね 傍目からだと恋人に見えるかもしれませんね ………… 洋ちゃん、大切な妹にまとわりつく虫を駆除したがるお兄ちゃんの顔になってる そんなことはまったくもってない。 ビラ配りを終え、明日歩たちと別れてから蒼さん宅を訪ねた。 だが前回同様、留守のようだ。 俺はいったん自宅に戻る。 お姉ちゃん、今日も出かけたみたいです 遊びにきていた鈴葉ちゃんに聞いてみた。 すみません、行き先はわからないです……。わたしが聞いても教えてくれないんです 遊んであげられなくてごめんねって言って、制服のまま出かけていって…… 望遠鏡を持って出かけるときもあります……。そのときはだいたい夜になってからですけど 望遠鏡ですから、たぶんどこかで天体観測をしてるんだとは思うんですけど…… ありがとうな。それだけわかれば充分だ お兄ちゃん、蒼ちゃん捜しにいくの? ああ。帰りは遅くなると思うから、詩乃さんにそう言っておいてくれ あ、あの、お姉ちゃんに用でしたら、ケータイの番号教えますけど いや、いきなり知らない番号からかかってきても、蒼さんの場合は出なそうだしな 千波がかけても一度も出ないくらいだからねっ 自慢げに言っている。 お姉ちゃん、あんまり人の番号登録してないみたいだから…… 鈴葉ちゃんが気に病むことじゃないさ そして蒼さんが悪いわけでもない。 俺はリビングを出る。 蒼さんが本当に天体観測をしているのなら、行き先はふたつしか思い当たらなかった。 待ちくたびれたぞ、メア ……いつもどおりの時間だと思うけど それだけメアに会いたかったんだ メアはぴくりと肩を震わせる。 ……最近、せつなくなるのが多い でさ、聞きたいことがあるんだ ……どうでもいいように流された むすっとしてしまう。 メアは、今夜この展望台で誰かに会ったか? あなたに会った 俺以外では? 会ってない。さっき来たばかりだし 俺も、メアとしか会っていない。 展望台を捜してもほかには誰もいなかった。 メアは、ヒバリ校に行ったことあるか? 坂の途中にある学校よね ああ 行ったことはないけど メアの答えで、確信を得る。 メア、入部の件は考えてくれたか? まだだけど そうか。できたら早めに答えくれよな じゃあな、と声をかける。 ……帰るの? メアは戸惑っていた。 まあな ……もう? ああ どうして? 急用があるんだ ………… 悪いな ……べつに悪くないけど むっつりした顔。 俺は帰ろうとしていた足を戻し、メアの前に立つ。 ……帰るんじゃないの 俺は、メアに向かって手を伸ばす。 同時にカマが俺の喉元に当たる。 なんでだよ!? 殺気を感じたから 頭撫でようとしただけだって! 万死に値する 俺が固まっていると、メアはカマを下げてしりぞいた。 ……二度とやらないで、じゃないとちょん切るから メアはきびすを返すと、そのまま消えてしまった。 ……怒らせたかな。 だが今はほかにやるべきことがある。 俺は展望台をあとにした。 ビラ配りの最中から、もしかしたらとは思っていた。 明日歩と一緒に夜の校舎を訪れたときに見た、あの人影。 校門前で見かけた、望遠鏡を抱いていた蒼さん。 飛鳥と千波が聞いたという死神の噂。 その死神は大きなカマを持っていた。 いや──正確には、長い棒のようなものを持っていたのだ。 夜であっても校門は開いている。 遅くまで部活をしている生徒に配慮しているのかもしれないが、おかげで不審者だって簡単に中に踏み込める。 俺は不審者じゃないけどな。 細心の注意を払って階段を登る。 ここで警備員に見つかったら笑い話だ。 これはチャンスだと思うから。 天クルを存続させるための、逃してはならない好機なのだ。 屋上に続いているだろう、金属製の重い扉を、俺は力を込めて押し開けた。 足を踏み入れた途端、向かい風が髪を揺らした。 地上に比べて涼しいと感じた。 満天の星々が淡い光を降ろしている。 薄闇のヴェールに包まれている。 どこか幻想的な風景。 展望台に勝るとも劣らない見晴らし。 ここで天体観測ができたらどんなに素晴らしいだろう。 その中を歩き進んだ。 足音に気づいたのだろう、彼女は俺に振り向いた。 遠目でもわかるくらい驚いている。 俺が捜していた人だった。 俺はゆっくりと近づいた。 蒼さんが、夜空から降る星明かりを身体いっぱいに浴びている。 自分のものだと言った望遠鏡の前で、どうしていいかわからないように立ち尽くしている。 そんな姿が綺麗でもあり儚くもある。 どうして…… 今日、夕方に家を訪ねたんだけど、留守だったから ………… 夜になって、家に戻ってきたんだな それで望遠鏡を持って、また出かけた…… 飛鳥と千波が聞いた死神は、カマを持っていたんじゃない。 望遠鏡を持っていたのだ。 蒼さんの望遠鏡は、明日歩のものよりも鏡筒が細くて小さい。だから蒼さんの細腕でも簡単に持ち運べるんだろう。 鈴葉は…… 俺の家にいたよ。千波と一緒だった たぶんもう自宅に戻ってるんじゃないか ………… どうして、鈴葉ちゃんにも言わないんだ? ……なにがですか 天体観測してること。鈴葉ちゃん、ちょっと心配してる感じだったぞ 蒼さんは俺から視線を外し、望遠鏡を見つめる。 いつも、ここで天体観測してるのか? ………… 今日が初めて、じゃないよな ………… 蒼さんが朝ぎりぎりに登校するのは、このせいなんだよな? いつも夜遅くまで、ここで星を見上げてるから…… 蒼さんは答えを返さない。 明確な拒絶を感じる。 夏の星空って、好きなんだよな 俺だけが一方的に語っている。 俺は、七夕の星が一番好きなんだ ………… 蒼さんは、どの星が好きだ? ……ありません ようやく答えが届いても、そこにも拒絶が込められている。 私の好きな星なんて、ありません ……天体観測してるのにか? していても、見えませんから 私の好きな星空は見えないんです どういう意味だろう。 今はもう、あの星空は見えない…… 望遠鏡を覗けば過去の星空が見えるって、教えてもらったのに 想い出の星空が見えるって聞いたのに なのに、決して見えることはない 私の好きな星空だけは、見ることができないんです ……もしかしてさ 蒼さんは物憂げな瞳を向けている。 キミは、過去を見たいのか? ………… 想い出をよみがえらせたいってことなのか? それが蒼さんの願いなのだったら、なんて俺に似ているんだと笑ってしまいそうだ。 ……私になんの用だったんですか? もうわかってるんじゃないか 天クルには入りませんよ 交換条件でどうだ? ……千波さんを家にけしかけるんだったら、私にも考えがありますよ 今回はもっと平和的な交換条件だ なんですか? 俺が蒼さんの願いを叶えるから、蒼さんも俺の願いを叶えてくれ 蒼さんは胡乱な顔をする。 俺の願いは蒼さんが天クルに入ってくれることだ 私の願いは天クルに入らないことです 了解だ、じゃあ俺が蒼さんを天クルに入れなかったら、蒼さんは天クルに入ってくれ ……自分で言ってておかしいと思わないんですか 思ったさ。 ……蒼さんの願いは別にあるだろ 思いつきませんけど 星占いの願い事だよ ………… どうだ。この交換条件、乗るか? その前に聞かせてください なんだ? 私は、自分の願いを誰かに話したことはありません。鈴葉にだって話していません だからあなたが知ってるはずがありません そのとおりだな なのにどうやって叶えるんですか 俺は不可能を可能にする男なんだ ……ダサ 俺もそう思った。 まあ叶えられなかったら蒼さんは天クルに入らなくていいんだから、乗っても損はないだろ? ………… それでも嫌ならそう言ってくれ。無理に天クルには入れなくていいって、副部長のお達しなんだ すでに無理やりになってる気もしますけど だから、蒼さんが嫌ならこの交換条件はなしだ 聞かせてください どうぞ 私が交換条件を断ったとして、あなたは天クルの勧誘をやめてくれるんですか? それは確実にないな 蒼さんは大きく息をついた。 ……だったら、乗ったほうが賢明です わかってるじゃないか 交換条件の期限はいつですか 来週の月曜。あと五日だな ……短いですね その日までに部員が集まらないと廃部になるからな たった五日じゃ、たとえ私の願いを知ったとしても叶えられないと思います 言ったろ、俺は不可能を可能にする男なんだ ………… 答え、聞かせてくれるか? 答えを引き延ばして、天クルの自然消滅を待つ手もありますね そうなったら、また新しく天クルを発足させるまでだ。俺の勧誘は終わらないな ……わかりました。乗ります 了解 心の中で安堵する。 その代わり約束してください。来週の月曜までに私の願いを叶えられなかったら、二度と勧誘に来ないでください そっちも約束してくれ。願いが叶ってもウソをついて叶わなかったなんて言わないでくれよ ……わかりました それじゃ、交換条件は成立だな きっと後悔しますよ それはどうかな 本当に、千波さんのお兄さんなんですね ……なんだそれ いくら私が拒絶しても、千波さんは寄ってきます。友達になるのが当たり前のような顔をして あなたも、同じです 私が天クルに入るのが当たり前だっていうような顔をしています そう見えるなら、光栄だな 蒼さんの願いを叶えられる自信はない。 なのに自信があるように見えたなら、少なくとも俺はダサくはないだろう。 俺は、不可能を可能にする男だからな ……三回も言って、ダサ 台無しだった。 お兄ちゃん、千波もう寝るね あ、待った。その前に、ちょっと頼みがあるんだ ……千波と一緒に寝たいんでちゅか? 寝たくねえよ でもでも千波のベッドはセミダブルだから狭くないよ! そりゃおまえの寝相を考慮して母さんが買ったんだよ 千波ねむねむだから寝るねー テンションが上がったり下がったりいそがしいやつ。 おまえに聞きたいことがあるんだ。蒼さんについてなんだけど それだったら蒼ちゃん本人に聞けばいいんじゃない? 残念なことに俺よりおまえのほうが蒼さんに近い位置にいるんだよ。だから間接的に聞いてるんだ 嫉妬でちゅか? おしゃぶり欲しいでちゅか? さすがの千波もお兄ちゃんの拳は口に入らないよ!? 毎度のことながら話がちっとも進まない。 おまえ、蒼さんについてどこまで知ってる? 蒼ちゃんは星占いが好きで鈴葉ちゃんが好きでスフレが好きで今日は生理だったよ ……最後のだけ初耳だが、知らないほうがよかったかもしれない。 そんな俺では絶対聞き出せない情報を聞き出せるおまえを見込んで、頼みがある 千波と一緒に寝るの? 戻らなくていいからな? 拳を口に入れようとするお兄ちゃんも戻ってるよ!? 蒼さんの過去について、なんでもいいから知ってることを教えてくれないか 千波の頭にハテナが浮かぶ。 蒼さんから直接はおまえでも聞けないかもしれない。だけど鈴葉ちゃんからは聞いてないか? 蒼さんと友達になるために努力する千波は、必ず聞いているはずなんだ。 蒼さんをもっと知りたいから、俺よりも前から奔走していたはずなんだ。 俺に、蒼さんの過去を教えてくれないか? いくらくれるの? 千波愛用デジカメを買ってやる ……え? オカ研で使うだろ。欲しいんじゃないのか? え、え? 本気で? ああ。テストが終わったらまたバイト始めるし、夏休み中に買ってやる 千波は唖然としていた。 おまえを見習って、俺も本気になったんだよ ………… 頼む。俺に協力してくれないか ……えへ 笑われた。 デジカメはいいよ。ケータイの使ってるし それに、そんなの買ってもらわなくても、うれしいもん 蒼ちゃんと友達になろうとしてくれるお兄ちゃんが、好きだもん 千波…… 感謝する 感謝する 内心で感謝する ……俺もだ なにが? 俺も、そんなおまえが好…… す? すき焼きだ 夜食にしては重いメニューだねお兄ちゃんっ お礼に作ってやろう お兄ちゃんらしからぬ優しい言葉だねっ つい誤魔化してしまった。 うれしいけど今日も暑いから冷たいメニューだともっとうれしいよお兄ちゃんっ もう作ってやんねー、ぺっ 唾吐くほど冷たい態度を望んだわけじゃないよお兄ちゃん!? 蒼さんの過去について、千波は知っている範囲で語ってくれた。 俺は、自慢の妹に感謝する。 それを言葉にするのも態度に出すのも難しくても、こんな妹が俺も好きなのかもしれない。 千波は知っている範囲で語ってくれた。 俺は、自慢の妹に感謝する。 一緒には寝てやらなかったけど。 おはよう、明日歩 あ、洋ちゃん。今朝も早いんだね それだけ明日歩に会いたかったんだ 昨夜にメアに言ったのと同じ言葉をかけたら、明日歩の顔が沸騰した。 え、えっ、今の…… でさ、聞きたいことがあるんだ ……流された そして犬化した。 明日歩は、雲雀ヶ崎の宇宙科学館って知ってるか? 明日歩は首をひねる。 千波から聞いた情報がこれだった。 雲雀ヶ崎にはプラネタリウムや天文台を擁し、夜間観測会なんかも実施している科学館がある。 それが雲雀ヶ崎宇宙科学館である。 蒼さんは過去によくそこへ通っていたらしいと千波は教えてくれたのだ。 宇宙科学館かあ。懐かしいな~ 明日歩も行ったことあると思ってたよ 天文ファンとしては当然でしょう だからきっと蒼さんだって天文ファンだった。 そして今は通っておらず、代わりに屋上で天体観測をしているのだ。 俺はこれから明日歩に宇宙科学館の場所を教えてもらって、そこにおもむいてみる。 きっとそこに蒼さんの願いを叶える手がかりが……。 今はもうなくなっちゃって寂しいんだけどね 明日歩の言葉で思考が止まった。 ……なんだって? だから、今はもう科学館が閉館になってるから、寂しいなって へ、閉館? あ、そっか。洋ちゃん、その頃はもう引っ越しちゃってたから知らないんだ 引っ越す前も宇宙科学館なんて知らなかったけど……それはともかく、マジで閉館? そうだよ。四年くらい前かなあ。プラネタリウムの最終公演は見にいったけど、感動的だったよ~ 俺は頭を抱える。 ……ということは、蒼さんが宇宙科学館に通わなくなった理由はそれか。 考えてみれば、そんな場所が現存していたら、明日歩たちだって部室でトランプよりはそこに足を運んでいるだろう。 科学館の建物も、もうないのか? 建物は残ってるみたいだよ。中は誰もいないと思うけど 訪ねても無駄足のようだ。 どうして閉館になったんだ? 大人の事情じゃないかな、採算取れなくなったとか。今時の子供は星空よりもゲームだからなあ せっかくつかんだ手がかりなのに、いきなりつまずきそうな流れだった。 なあ明日歩、科学館について、なんでもいいから知ってることを教えてくれないか ……洋ちゃん、なにかあったの? 蒼さんがな、昔よくそこに通ってたらしいんだ。だから気になってさ 勧誘に関係ある? ある あたしも手伝ったほうがいい? ああ、明日歩なら大助かりだ 明日歩の顔に笑みが咲いた。 科学館のこと調べたいなら、岡泉先輩に聞いたほうがいいかな。先輩のほうがあたしより詳しいし なんたって、科学館の天文クラブにも入ってたって言ってたからね 宇宙科学館か。懐かしいなあ 放課後を待って、部室で岡泉先輩を捕まえた。 閉館するという話を聞いたとき、僕の瞳には死兆星が映ったんだ そこから先の記憶はおぼろげだけど、きっと最終公演日には惜しみない拍手と花束を贈ったに違いないんだよ…… 俺にはシュプレヒコールを贈っていたとしか思えない。 岡泉先輩、天文クラブに所属してたんですよね 科学館が閉館した理由は聞いていませんか? 科学館を調べるにあたって、事情を話した明日歩とこさめさんは俺に協力すると言ってくれた。 蒼さんを勧誘するために。 そして天クルを存続させるために。 閉館した理由は聞いてないよ。僕も寝耳に水だったくらいだからね 噂では、館長が辞職したことに関係があったらしいけど。そう考えると人材不足が理由かもしれないね 館長はとても人望があったそうで、仕事を辞めるにあたって職員たちも科学館から離れたのかもしれない 館長って誰なんですか? 僕は知らないかな。天文学の分野では名前の知れた方だったそうだけど、当時の僕は学問よりもロマンチックな星座の神話に夢中な年頃だったものでね 先輩が所属していた天文クラブでは、神話のお勉強をしていたんですか? そうだね、神話をなぞりながら天体観測をしていたよ。メンバーの大半が子供だったし、妥当なところだろうね いいなあ、あたしも天文クラブ入りたかった なんで入らなかったんだ? お父さんに猛反対されちゃって。子供に理解がない親はダメだよね 俺の印象では理解がある親という感じなのだが。 それで、なぜこんなことを聞くんだい? 実はですね、天クルに勧誘してる生徒がいるんですよ。その子が昔、科学館に通ってたみたいで 蒼衣鈴っていう一年生なんですけど ……蒼衣鈴? 岡泉先輩は目を丸くする。 あれ、知ってるんですか? 天文クラブの仲間で、同姓同名の子がいたよ。めずらしい名前だと思っていたけど、案外多いんだなあ ……いやそれ、本人なんじゃないですか? 先輩が知っている蒼さんは、いくつでしたか? 僕より年下だったね。出席率が高かったから、よく覚えているよ 本人で間違いないだろう。 潰えたと思った手がかりが、思わぬところで再び舞い込んだ。 科学館の閉館で天文クラブもなくなったんですか? そうだね、集まる場がなくなったからね。しょうがないとは思うけど、やっぱり寂しかったよ 遠い目をしている。その目に死兆星が映っていないことを切に願う。 キミらの言う蒼さんがその彼女だったら、天クルに入ってくれるかもしれないね ……だとよかったんですけど、なかなかうまくいかないんですよ じゃあ、彼女はもう天体観測に飽きたのかな それはないと信じたい。そうだとしたら屋上に望遠鏡を持って訪れる理由がわからなくなる。 先輩は、過去の星空を見るという意味がなんだかわかりますか? ……過去の星空? はい。蒼さんが言ってたんです、過去の星空を見たいって 岡泉先輩は思案する。 ……明日歩クン、わかるかい? ぜんぜんです 明日歩は肩をすくめる。 だって星空に過去なんてないんですから ……過去がない? そうだよ。この宇宙ができてからおよそ137億年、その間に消えた星もあれば生まれた星もたくさんある なにより星座を形作る恒星は固有運動によって動いている だから正確には星空に過去はある。長い時の中で夜空の風景は変遷を繰り返す だけど僕たちの住むこの地球が生まれたのは46億年前、僕たち人類が誕生したのがたった400万年前…… じゃあ、蒼さんが生まれたのは何年前になる? ……二十年も前じゃないですね 宇宙の歴史に比べたら一瞬もいいところのその時間に、星空がどれだけ変わると思う? ほとんどゼロに近いですよね 少なくとも星座に影響が出るような変化はない。だから僕たち人の一生にとっては、星空に過去なんてないんだよ 僕たちの過去も未来も、この雲雀ヶ崎の星空は、そのままの姿で在り続けるんだよ 岡泉先輩の言葉はどこか陶酔しているようにも聞こえる。 星が好きなのはそういう理由からだろうか。 星座も神話も、未来永劫そこにあるからこそ、俺たち天クルを惹きつけてやまないのだろうか。 ……と、それはともかくとして。 でも、それだと蒼さんの願いがですね…… こうは考えられませんか? こさめさんが意見する。 わたしたちが見上げる夜空の星々は、とても遠くにありますよね。百光年、百万光年、百億光年離れた星だってあると思います そしてその光がわたしたちに届くまでには、百年、百万年、百億年かかっています だから、わたしたちが目にしている星空の光は、過去の光ということになります わたしたちは、すでに過去の星空を眺めているんです ……なるほど。たしかにそうだね ただ、それだと僕たちは望む望まないに関わらず、過去の星空だけを見上げていることになるんじゃないかな そうなると、蒼さんの願いはすでに叶っているということになってしまう。 蒼さんは過去の星空を見たくても、見ることができないと言っていた。 見たくても見えないのだ。蒼さんが望む星空は。 それはつまり、どういうことだ……? それでは、逆というのは考えられませんか? 逆って? 逆転の発想です。星空に過去がないのであれば、蒼さんの願いは叶えられません 星空が過去であったとしても、蒼さんの願いは叶えられません ということは、つまり こさめさんは人差し指を立てて、 蒼さんの望む星空は、そもそもわたしたちの頭上に広がっている星空ではないんです ……どういうこと? そういうことか それしか考えられないね なんでみんなしてわかったように答えてるの!? 明日歩だってわかるはずだ。なんたって俺より天文に詳しいんだから 天文ファンならもちろん、星にある程度関心がある人なら気づくんじゃないだろうか。 そして蒼さんが望む星空を再現する方法は、現実的にはひとつしかない。 あ……もしかして 明日歩も気づいたようだった。 だから蒼さんは、科学館に通ってたってことなの……? たぶんな 科学館の設備だったら、蒼さんの望む星空も見ることが可能だからね だから、おそらく蒼さんの言う過去というのは、過去の星空という意味じゃない。 単純に自分の過去を指していた。 きっと、自分自身の想い出を指していた。 蒼さん、過去に自分の目でその星空を見たってことだよね? いいないいなっ、うらやましすぎるよ~! ですけど、蒼さんはなぜそんな星空を見上げることができたんでしょう? そればかりは本人に聞かないとわからないだろうね だけど、蒼さんの望む星空はわかったし、その再現方法もちゃんとあるんだ そうだね。じゃあ蒼さんを勧誘するために、あたしたちで作ろっか 自作のプラネタリウムを! 盛り上がる明日歩を、俺は慌てて制した。 待った待った、プラネタリウムってそんな簡単に作れるのか? 簡単なわけないよ。去年の学園祭に天クルの出し物で作ったけど、二週間くらいはかかったかなあ 初めてだったので勝手がわからずに苦労しましたよね まあ二度目だから二週間はかからないだろうけど、さすがに一日二日じゃ難しいかもしれないね 期限は来週の月曜だ。時間はない。 予想よりも早く蒼さんの願いに目星がついたのはありがたいが、叶えるための方法が予想よりもずっと大がかりで時間がかかるのだ。 じゃあ来週の月曜まで徹夜で作ればいいよ ……いや、まだ期末テスト終わってないんだぞ? あたしは天クルのためなら赤点も覚悟できるよ! 問題はそれだけじゃない。プラネタリウムを作るとして、場所はどうするんだい? ここでいいんじゃないですか? 机とか全部どかせばスペースも作れるし それは難しいんじゃないでしょうか。準備は夜までやらないと間に合わないでしょうから 学園祭のときとは違って、教室の夜の使用は許可されないと思いますし…… それでなくても机や椅子を勝手にどかしていたら、先生や生徒会に大目玉を食らうだろうね じゃあ、どかす必要のない体育館とかグラウンドとか 昼は部活動で生徒が使用していますし、夜だと警備員に見つかってやっぱり大目玉だと思いますよ こっそり作ってればバレなくない? 警備員だって見回りくらいはするだろうし、誰にも見つからずに作るのは不可能だよ それならヒバリ校の外でやれば解決なんじゃ? そうなると今度は必要な資材を部室から運び出すのが大変だね。ただでさえ時間がないのに じゃあどうすればいいんですか~! まとめると、ヒバリ校の中で、ある程度スペースがあり、なおかつ誰にも見つからない場所が必要ということになりますけど…… そんな場所、都合よくあるわけないよ~! ……あのさ、ちょっとみんなに質問 議論しあっていた三人の視線が俺に向く。 テストあるのに、プラネタリウム作るの、手伝ってくれるのか? 三人は、なにを今さら、という顔をした。 言ったじゃない、あたしは赤点取る覚悟があるって わたしは赤点を取るつもりはありませんが、楽しそうですので参加させてくださいね 僕は赤点を取るつもりでも自動書記のように腕が勝手に動いて取らせてくれないから問題ないよ それ別の意味で問題ありますから。 それに、天クルのためだからね プラネタリウムを作っても、蒼さんが入部してくれる保証はないですよ? 俺の勘違いかもしれない。蒼さんの願いはまったく違うところにあるのかもしれない。 それでも可能性はあるんだろう? だったらやるしかないじゃないか できることはすべてやる。やらないで後悔するよりやって後悔したほうが、ずっと建設的ですね あたしは最初から後悔するつもりなんてないよ だって、きっとこのプラネタリウム作りは、大切な想い出になるからね 明日歩の迷いない言葉。 俺も腹を決めることにした。 蒼さんが大切にする想い出にも勝る想い出を、俺たちが新しく作ればいい。 そうすれば、たとえ蒼さんの願いが叶わなかったとしても、俺たちが後悔することはない。 ひとつ、いい場所を思いついた え、どこどこ? 校舎の屋上だ。そこだったらスペースもあるし、誰にも見つからなそうじゃないか? それはそうだね。警備員だって見回りには来ない そりゃ出入り口の扉にカギが掛かってるんだから、誰も来ないとは思うけど…… ただ、わたしたちも入れませんよね ……屋上って立ち入り禁止なだけじゃなくて、カギまでかかってるのか? そうだよ。こももちゃんがカギ貸してくれないから、七夕の日も屋上で天体観測できなかったんだから そういえば、そんなやり取りを聞いていた。 でも俺、屋上に入ったぞ 三人は一様にきょとんとする。 夕べ、そこで蒼さんと会ってたから ……え、どうやって? 普通に扉開けてだよ。カギなんてかかってなかったぞ もしかして、今は解除されてるのかい? それはないと思います……。姉さんが許すはずがありませんから じゃあ、どういうこと? 可能性はひとつしかなかった。 蒼さんが、屋上のカギを持ってるってことか…… ど、どうして? 蒼さん、生徒会役員なんじゃないですか? それでしたら先生から借りられるはずですから それはないと思う。持ち物検査のときに姫榊と話してたけど、初対面って感じだった 蒼さん、勝手にカギを持ち出してるってこと? それは判断しようがないけど、僕たちにとっては僥倖かもしれないね そのとおりだ。 屋上は普段カギがかかっている。だから誰も訪れない。 警備員だって来ない。見回る必要がないからだ。 そして蒼さんがカギを持っているのなら、俺たちはそれにうまく便乗することができる。 ひとつ問題があるとすれば、屋上を使用する場合は夜に限定されるということだね ……そうなんですか? だって日中にプラネタリウムを組み上げたら、外から見えてしまうじゃないか プラネタリウムの高さから考えて、校庭やグラウンドからは丸見えになってしまいますよね 土日だって運動部に見つかる可能性がある。顧問の先生に見咎められたらアウトだろうね じゃあ夜に一気に組み上げるしかないってことだね ……いや、それだと、たった一夜の勝負ってことにならないか? 洋ちゃん、わかってるじゃない なぜそんな軽く言えるんだろう。 あたしたちは、今日の夜から始めて、明日の朝までにプラネタリウムを完成させるからね! なぜそんな笑顔で言えるんだろう。 これは大博打なのに。 今後すべての時間をこの行動に費やすことになる。 ビラ配りもテスト勉強もできなくなる。 間に合わないかもしれないという不安もある。 それでも、たぶん、それだけの価値があると思えるから。 あたしたち天クルなら、絶対にできるから! 我らが天クルの副部長は、恐れも不安も吹き飛ばす太陽の笑顔で、俺たち部員をひっぱってくれるのだ。 屋上のカギはかかっている。 だから昨夜に蒼さんが屋上を訪れていた時間を見計らって、俺は扉の前に立つ。 カギは、開いている。 この奥で蒼さんは、望まない夜空を見上げている。 ……また来たんですね ああ 今夜はなんの用ですか? 伝えたいことがあったんだ ………… 明日の朝、よかったらまたここに来て欲しい ……どういうことですか? キミに見せたいものがあるんだ なんですか? それは当日のお楽しみだ ………… 来てくれないか? もしかして、昨日の交換条件ですか? ああ 私の願いを叶えてくれるんですか? そのつもりだ 昨日の今日で早くないですか? 運がよかったんだ 俺は、仲間に恵まれていたから。 朝なのに、私の願いを叶えられると思うんですか? たぶん 夜じゃなくていいんですか? たぶん 弱気ですね 自信があるわけじゃないからな 明日の朝、何時ですか? 学校に一番乗りの時間で 誰にも見つからないためには、そうするしかない。 ……私が朝に弱いのを知って? ああ きっと、私は寝坊しますよ そのときは諦めるしかないな 諦められるんですか? 簡単じゃないけど、努力してみる ………… 蒼さんの瞳が、望遠鏡に向く。 今夜は、どの星を見ていたんだ? ……わかりません ただ、適当に見上げていただけですから 蒼さんは望遠鏡を抱きかかえた。 ……帰るのか? はい 早いんだな 天体観測の気分じゃなくなりましたから 適当に見上げてただけなんだろ? ……ウザい 蒼さんは俺の横を素通りする。 屋上の出入り口の前で振り返った。 ……なにしてるんですか なにって? 早く屋上から出てください 俺は、蒼さんに歩み寄る。 カギ、かけなきゃいけないんですから 望遠鏡、持とうか? ……結構です 家まで送ろうか? ……どうせ帰り道は一緒だと思いますけど、結構です 屋上のカギ、なんで持ってるんだ? あなたには関係ありません そのまま坂を下りていく。 校舎に引き返そうかとも思ったが、俺は蒼さんのあとを追った。 夜道にひとりにはさせられない。 ……結局ついて来た 迷惑か? 迷惑です ……あんまりはっきり言われるとめげそうになるな 遠慮せずにめげてください したくてもできないんだよな ……なぜですか 千波だって諦めていないのに、兄の俺が諦めるわけにはいかないだろ ………… 明日、忘れずに屋上に来てくれるとうれしい ……行きませんから 蒼さんは門をくぐって自宅に消えていった。 ……さて。 急いで学校戻らないとな 蒼さんは屋上のカギを閉めていた。 だが今は開いているはずだった。 カギを持っていない俺たちは、校舎側からだとどうしようもできない。 だけど、屋上側からなら、扉についているつまみをひねるだけで開けることができる。 待ってたよ、洋ちゃん 悪いな、遅くなった ううん。蒼さんを送ってたんだよね まあな うん、えらいえらい 蒼さんが天体観測をしている最中、俺が屋上に出たときに、明日歩も同行していたのだ。 そして明日歩はすぐに物陰に隠れた。俺は何食わぬ顔で蒼さんに声をかけた。 俺と蒼さんが屋上をあとにしても、明日歩はそのまま残っていた。 だから蒼さんがカギを閉めても、明日歩の手でもう一度開けることができたのだ。 蒼さんの持ってた望遠鏡、屈折式だったね。口径は6センチくらいかな。ちょっと年季入ってる感じだった 長く使ってるってことか たぶんね。でも〈鏡筒〉《きょうとう》はキレイだったし、丁寧に扱ってるんだと思う 蒼さん、望遠鏡を大切にしてるんだと思う それは、ますます天クルに入って欲しくなるな そうだね。もし入ってくれたら、キャリングケースをプレゼントしようかな 蒼さん、望遠鏡を剥き出しのまま運んでたから。間違って傷つけちゃうといけないし 正式な部になれば、部費がもらえる。それで買ってあげられるかもな うん。そのためにも、気合い入れてプラネタリウム作るぞ~! 明日歩の高い声が、澄んだ夜空に吸い込まれる。 ほかのみんなはどうだ? さっきケータイで連絡したよ。こさめちゃんも岡泉先輩も、すぐ来るって 俺たちは下校の時刻になるまで、できうる限りの準備を部室で行い、いったん解散した。 そして夜を待って屋上に集まる手はずだった。 これから俺たちは、まずは部室に用意しておいた資材を運び込まなければならない。 プラネタリウムのドームを形作るダンボールは、昼間のうちに商店街のスーパーからかき集めていた。 それじゃ、明日歩。念のため、あれ頼む うん 明日歩は手のひらを耳の後ろに当て、目を閉じた。 ……聞こえない。きーんきーんは聞こえないよ 雨は絶対、降らないよ! 蒼衣鈴は自室の机に向かっている。 机上には数枚のカードが見える。衣鈴はそれに重ねるように更なるカードを置いていく。 十二星座を用いた、タロット式の星占い。 だが衣鈴が占うのは恋愛運でも勉強運でも健康運でも別段なく。 衣鈴は〈自〉《・》〈己〉《・》を占っている。 この星占いは〈自〉《・》〈己〉《・》〈成〉《・》〈就〉《・》の運気を計る。 占いの結果を聞いた者が、自らその結果を成就するかのごとく占いどおりに振舞ってしまうこと。 それが自己成就。 衣鈴はそれを期待する。 要するに自己暗示の類であり、衣鈴は望む結果が出るまで占いを繰り返し、望む結果が出た時点で占いを終了する。 そして満足感を得る。 この占いにそれ以上の意味など端から求めていなかった。 ………… この願いが、いつか叶うと信じて。 いつか自己成就できますようにと。 衣鈴は、諦観に似た希望を胸に秘めて。 ………… 衣鈴はタロットカードをしまう。 星占いをしていても、どうにもあの兄妹が頭にちらついて仕方なかった。 小河坂洋と小河坂千波。 隣に引っ越してきた上級生と同級生。 ……また、明日も話しかけてくるのかな。 千波はなんの悩みもなさそうな顔で近寄ってきて、嫌味なくらいの元気を振りまいてくるのだろう。 洋はそんな千波に苦笑しながら、平穏を象徴したようなたわいない会話を振ってくるのだろう。 おとなしく無口な自分に、あんなにしつこく寄ってくる人なんてこれまでいなかったのに。 周囲の人たちはそんな自分を放っておくのが常だったのに。 いったいなにが楽しくて自分に構うんだろう。 なにが楽しくて、私と友達になりたいなんて言うんだろう……。 ………… 衣鈴は部屋の傍らに置かれた望遠鏡を見る。 洋は明日の早朝、屋上に来いと言った。 もしも自分の願いを叶えるためなのだったら、洋は星空を見せてくるはずだ。 ……朝に見える星ってなに? 衣鈴はそれほど天文に詳しくない。 望遠鏡を覗くのは天文に興味があるからではなく、ある特定の星空が好きなだけだからだ。 それは過去の記憶を象徴しているから。 衣鈴は、想い出に浸っていたかったから。 だから科学館が閉館してその想い出の星空をもうこの目にできないと知ったとき、衣鈴は失意に落ちた。 それは誰かのせいではないし、衣鈴自身のせいでもないからよけいに性質が悪かった。 衣鈴はすべてを拒絶した。 あの星空と一緒に想い出を形成する家族以外のすべてを拒絶した。 もともと人付き合いが得意なほうではなかったので傍目には変化がなかったかもしれないが、会話を交わせばそれは顕著に現れた。 衣鈴は毒舌になっていた。 死ねとかウザいとか言った。 大抵の者はそこで撃沈した。 だが洋と千波はそれでもそばにいようとする。 その図太さは賞賛に値する。 嘆息せざるを得ない。 ……まったく 衣鈴の手には屋上のカギが握られていた。 科学館の閉館日に、望遠鏡と一緒に館長からもらったもの。 衣鈴はこのカギと望遠鏡を大切にしている。 このふたつを使えば想い出の星空が見えると言われたから。 見えるはずがないのに。 あの星空は雲雀ヶ崎の星空とは違うから、見上げられるはずがないというのに。 なのに、なぜ館長は衣鈴にそう話したのか。 その答えを、衣鈴はまだ見つけられないでいる。 空が白み始めてからどのくらい経っただろう。 屋上の扉が開く音がした。 俺たち全員がそちらを向いた。 注目にさらされたためか、彼女は立ち止まる。 その表情には不安が濃く出ている。 今にも帰ってしまいそう。 俺はすぐに駆け寄った。 蒼さん、おはよう ……おはようございます 来てくれたんだな ……来なかったら、恨まれて今後もつきまとわれそうな気がしましたので 早起き、できたんだな ……実はあと十五分で予鈴が鳴ります マジですか。 まだ見咎められていないのは、運がいいということか。 私は、朝が弱いですから それでも、遅刻ぎりぎりじゃない。ありがとうな ………… 蒼さんは俺の横手に視線を送る。 そこでは明日歩たちがへとへとになって座っている。 ……あなた方も、屋上に出られるんですね まあな あそこにあるの、なんですか? カッコいいだろ? ……どちらかというとカッコ悪いですよね 誰が見てもそれは不格好なドームだろう。 なんなんですか? 自作のプラネタリウムだよ 蒼さんの目が見開く。 ……プラネタリウムって、作れるんですか? ああ 簡単に作れるんですか? 簡単じゃなかったな。というか間に合わないかと思った 蒼さんが早起きしていたら、作業中の格好悪い姿を見られていたかもしれない。 プラネタリウムは、たったさっき完成したばかりだった。 ……夕べはプラネタリウムなんてなかったですよね そうだな まさか、夜の間に作ってたんですか? そうなるな 寝てないんですか……? そうなるな わ、私ひとりのために……? それよりさ 急がなければ、テストが始まってしまう。 蒼さんを遅刻させるわけにはいかない。 あのプラネタリウムはな、タイムマシンなんだ 蒼さんは、なにを言われたかわかっていない顔をした。 あのプラネタリウムは、過去から未来まで、好きな時代の星空を映すことができるんだ どんな時代の、どんな場所の星空だって、生み出すことができるんだ ………… だから、あれは、星のタイムマシンなんだ 蒼さんは呆れていた。 ……自作のプラネタリウムに、そんな機能があるとは思えませんけど 何度言わせるんだ? 俺は、不可能を可能にする男なんだ ダサいです ああ、これで失敗したら俺はダサいな ………… 騙されたと思って、見ていってくれないか 俺は振り返った。 明日歩、こさめさん、岡泉先輩が手を振った。 こっちはいつでも準備オッケーだよ 明日歩が入り口の暗幕を広げた。 コンビニで買った氷を入れておいたので、涼しいんじゃないかと思います こさめさんが優しくほほえみかけた。 小河坂クン、あとは任せたよ 岡泉先輩がぱたりと倒れた(限界らしい)。 俺は再度、蒼さんに振り向いた。 天クルのプラネタリウム観望会に、ようこそ ドームは高くても入り口は低いので、腰をかがめて入らないといけない。 まずは俺が中に入り、あとから蒼さんを迎え入れた。 ……真っ暗 まだ上映前だからな ……息苦しい 換気はしてたんだけど、今は密閉されてるからな ……襲われそう するわけないだろ…… 変なことしたら大声上げますから 冗談で言ってるんじゃなかったら相当ショックだ。 それじゃあ、蒼さん 俺はタイムマシンの装置を手探りで見つけてから。 蒼さんが見たいと望む星空を、教えてくれ 蒼さんはためらわずに言った。 南天の星空を見せてください 俺もまた、ためらわずに答えた。 その願い、叶えるよ ドームの中心から光があふれた。 天に向かってそれは昇り、広がり、闇と混在を始めた。 するとそこに宇宙が生まれる。 世界が変わる。 頭上いっぱいに星の群れが輝いていた。 散らばった大小のきらめきは乱雑のようでいて無限の調和を奏でていた。 これは…… 雲雀ヶ崎からは決して見えない、南半球の星空を生み出した、ピンホール式の自作プラネタリウム──── 本日は、天クルプラネタリウムへのご来場、誠にありがとうございます 北半球に位置する日本では、南半球の星座や星雲を見上げることはできない。 それでは、南天の星々を順に追ってみることにいたしましょう 俺はポインターを使って星空を巡回する。 南十字星から始まり、孔雀座、風鳥座、一角獣座、巨嘴鳥座と幻想的な動物の星座が並ぶ。 羅針盤座、定規座、時計座、望遠鏡座、顕微鏡座など、変わった名前の星座も多い。 そして大小マゼラン雲やエータカリーナ星雲などの美麗な天体も多数ある。 それらすべてが自作の恒星投影機から映し出されている。 調理用のアルミボウルを用いて、より半球に近づけるためにゴム製ハンマーでひたすらたたき続けた。 座標を計算し、南天の星の数だけ穴を開けるポンチング作業を気が滅入るほど繰り返した。 こさめさんと岡泉先輩が昼のうちから取りかかっても、一晩中かかっていた。 俺と明日歩はドームを作った。 設計図を用意したあと、そのとおりにダンボールをカッターで切り取った。 ダンボールの内側を白く塗装した。 それからガムテープでつなぎ合わせた。 遮光のために隙間という隙間はすべて塞いだ。 夜の屋上で、懐中電灯を駆使しながら、そうしてドームを組み上げた。 私の想い出にある、星空…… 私の大好きな、星空…… もう、見ることはないと思ってたのに…… 望むことの叶わない星空に想いを馳せ。 想い出の望遠鏡で過去を覗く。 だから今度は、天クルの仲間と一緒に、今の星空も好きになって欲しかった。 雲雀ヶ崎の星空も好きになって欲しかった。 蒼さんは、声も上げずに、静かに泣き続けていた。 体育館の壇上での校長の長い話がようやく終わる。 七月二十三日の月曜日。 一学期の終業式。 その日は、天クルの命運を分ける日でもあった。 ロングホームルームも終わって、ついに念願の夏休みだね~! ………… かき氷食べてスイカ食べて海水浴に夏祭りにもちろん天体観測もやりまくるぞ~! ………… 洋ちゃんは夏休み、なにか予定ある? お父さんがお昼だけでもバイト出てくれると助かるって言ってたよ ………… あたしも遊んでる以外はお手伝いしてるし、課題はまあラスト一週間で適当に片付けるし…… ………… だから、よかったら一緒にバイトして、時間あったら一緒に遊んだりしたいなって…… ………… ……洋ちゃん、聞いてる? 俺は机にぱたっと突っ伏す。 ど、どうしたの? 俺の手には、先ほど返ってきた期末テストの答案が握られている。 金曜日のラストの教科、数学。 点数にして二十九点。 赤点である。 プラネタリウムを自作するのに徹夜したため、最後の最後で寝落ちした結果だった。 あ、洋ちゃん赤点取っちゃったんだ うああああ言わないでくれー! 生まれて初めての補習の烙印だった。 落ち込まなくたっていいよ。あたしも金曜日のテストは全部寝ちゃって赤点だったし ……それに関しては謝るしかないな そんな必要ないってば 明日歩がかがんで顔を近づけてきたので、俺は上体を起こすしかなかった。 だって、一緒にプラネタリウム作ったの、楽しかったもんね わたしは大丈夫でしたよ。いったん解散して家に帰ったとき、仮眠を取っていましたから 僕も大丈夫だったよ。眠っていたはずなのにすべての解答欄が埋まっていたから それ大丈夫じゃないですから。 あたしと洋ちゃんだけ補習かあ 補習は今週いっぱいで終わりですよね。八月に入ったらみんなでどこか遊びにいきたいですね まずは海水浴がいいな~。その次に夏祭りでかき氷とたこ焼きと焼きそばとリンゴ飴! はあ…… ……洋ちゃん、まだ落ち込んでる プラネタリウムの後片付けが残っているから、正気に戻って欲しいところだけどね 屋上のプラネタリウムは、金曜日の放課後に解体して隣の資料室に詰め込んである。 その間、誰にも見つからなかったのは、期末テストが終わった直後で皆が浮かれていたからかもしれない。 それはともかく、資料室はこれから整理しないと足場もない状態だ。 ダンボールに関しては廃棄するしかないかもしれない。 ドームを組み上げるのは苦労したし、躊躇してしまうが、こればかりはしょうがなかった。 天クルの皆さん、ごきげんよう 姫榊がノックもせずに入ってきた。 なんの用だよっ あら、忘れたのかしら。今日は天クルの廃部が決定する運命の日だっていうのに 勝手に廃部って決めつけないでよっ じゃあ聞くけど、部員は六人集まったの? 明日歩はうっとうめいてあとずさる。 部員は五人のままだった。 ポスターの効果もビラ配りの反応も結局なかった。 そして蒼さんからは、まだ入部の意思を聞いていないのだ。 だからプラネタリウムが成功したのかはわからない。 蒼さんの願いが叶ったのかはわからない。 気になってはいても、誰もそのことには触れていない。 俺たちのやるべきことは、蒼さんの答えを待つこと、それだけだったから。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 今度は我が妹が慌ただしく登場だ。 蒼ちゃんが天クル入ってあげるってっ、その代わりまたプラネタリウム見せて欲しいってっ、入部届渡してくれって頼まれたから持ってきたよ! おおーっ! と歓声が上がった。 千波としてはオカ研に入って欲しかったんだけどお兄ちゃんに譲ってあげるよっ、なんたって今日の千波は超ご機嫌だからねっ そう言って千波はテストの答案を掲げて小躍りした。 ほらほら見て見てお兄ちゃんっ、きれいに全部30点だよっ、全教科赤点じゃないんだよっ、せっかくの夏休みに補習受ける人がほんと哀れで仕方ないね! よくやったな、千波 言葉は激励なのに手がぐりぐりしてるよお兄ちゃんっ、しかもいつにも増して強烈に!? ……なんなのよ、まったく 喜びあう天クルのみんなを横目に、姫榊は毒づいていた。 せっかく、部外者も部活に参加できる案を通してあげたっていうのに みんなを驚かせてやろうと思ったのに。そのあとに恩でも着せてやろうと考えてたのに これじゃ、わたしひとりバカみたいじゃない…… その声は小さかったが、ちゃんと耳には届いていた。 ありがとうな、姫榊。 この借りは、いつか必ず返すから。 ふーん。そんなことがあったんだ まあな。いろいろ大変だったよ それで木曜日と金曜日は展望台に来なかったんだ ああ 土日は来れたのに来なかったんだ ……蒼さんが気になって、忘れてた ………… 悪かったよ ……なんで謝るの まあ、なんとなく ……今日のあなたはバカバカね なあ、メア 一歩近づくと、メアはびくっとして一歩しりぞく。 ……なんで逃げるんだよ ま、また変態なことするんでしょっ なにもしないって どうだか…… 答え、聞きたいと思っただけだよ ………… 俺たちの天クルに、入ってくれないか? 俺は手を差し出した。 俺と一緒に、また望遠鏡を覗かないか? メアは迷っていた。 手を伸ばそうか悩んでいるようだった。 その手には、以前に渡した入部届がある。 ……わたしは、死神なのに ああ 死神は、人間と馴れあうことなんてしないのに ああ 死神は…… そしてメアの入部届が、ためらいがちに、ゆっくりと俺の手に伸びてきた。 死神は、雲雀ヶ崎の星空が、好きだから…… 真っ赤になって、ぼそぼそと言った。 俺は、メアの名前が書かれた入部届を受け取った。 それから、もう片方の手を伸ばした。 だから……ちょっとくらいなら、あなたたちのそばにいても、いいかなって…… あなたのそばに、いてもいいかなって…… 一緒に望遠鏡、覗いてあげてもいいかなって…… 万華鏡の光を、眺めるのも、いいかなって だってわたし、まだ万華鏡、見たことないんだから 補習一日目、やっと終わったね~ はあ…… ……まだ落ち込んでる。いいかげん現実を見つめなきゃダメだよ 見つめたからさらに落ち込んでるというのに。 補習は午前で終わるので、空には太陽が真南に昇っている。 気温も真夏日といった感じで、俺たちは手をうちわ代わりにしながら長い坂を下っていた。 洋ちゃん、今日はバイト出られそう? そうだな。午後からは予定ないし、そっち行くよ やった なぜだかVサイン。 テスト前にやってたみたいに、バイト終わったらそのまま星見したいね~ 天クルの活動したいのはやまやまなんだけどな しかし俺たちはまだ屋上のカギをもらっていない。 屋上の使用許可が下りないのだ。 部員はめでたく確保でき、廃部を免れるのは決定的なのだが、じゃあ天クルは部として認められたかと言えばそうでもない。 決定を下すのは二学期の部活会議の場だと、姫榊に釘を刺されているのだった。 だから俺たち天クルは今もってサークルであり、せっかくの夏休みなのに満足な活動ができるかどうか怪しかった。 あたしはふたりで星見でもぜんぜんいいよ それじゃ部員集めた意味がないだろ そんなことないよ。今度からは堂々と胸張って部室に望遠鏡置いとけるし 実際に胸は張らないで欲しい。 それにこももちゃんから嫌味言われなくなるし、飛鳥くんにも自慢できるし どうでもいい理由ばかりな気がする。 でも、どうせならみんなで天体観測したいじゃないか ……それはそうかもだけど 明日歩はどこか歯切れが悪い。 あんなに勧誘がんばってたのに、うれしくないのか? うれしいに決まってるよ。だって天クルがちゃんと残ってくれるんだもん あたしの代で終わらなくてすんだんだもん でもね、と明日歩は続けて。 あたしはね、結局、星を見上げられるんだったらそれでいいのかもしれない 誰かと一緒に星を好きでいられたら、それでいいのかもしれない 明日歩は空へと瞳を細める。まだ見えない星を探すように。 自分勝手な副部長だな そうだね。だから内緒にしといてね あたしと洋ちゃんのふたりだけの秘密ってことで ふざけた調子でそう言った。 今度、星見するか ……今度なんだ。今夜じゃなくて 俺、姫榊にかけ合ってみるから。部になるのが二学期でも、屋上のカギくらい早めに貸してくれるかもしれない むー お手 犬扱いしないでっ あと、登校日ってあったよな。八月十日だったと思うけど うん、たしか金曜日だよね その日に部活会議できないか交渉してみるよ ……洋ちゃん、熱心だね なんで不機嫌なんだよ そんなことないもん 犬化しているのが証拠だが。 とにかく、夏休み中に天クルが活動できるようにしたいんだよ ……なんでそこまで熱心なんだろ それなら理由はひとつだ なに? 俺も、星が好きだからだよ 明日歩とだけじゃない、蒼さんともメアとも、天体観測をしたいからだ。 俺からしたら、天クルの存続が決まってからの明日歩のほうが変に見えるけどな ……あはは よくわからない笑い。 だってさ……なんていうかさ、洋ちゃん…… 明日歩は言いよどんでから、 あたしとふたりじゃ、嫌なのかなって…… 俺がなにか返答する前に明日歩は続けた。 あはっ、気にしないで。そういう意味じゃないから 明日歩は手をぱたぱた振っていた。 夏休み中にも天クルの活動できるなら、あたしもやりたいって思うよ 強引に話題を戻された感じ。 ただ、そんな簡単じゃないと思うよ。相手はこももちゃんだし まあ、いざとなったら蒼さんからカギ借りるよ 蒼さん、なんでカギ持ってるんだろうね 今度聞いてみるけど、たぶん学校から借りたのとは違う気がするな だよね。一般生徒に貸したままなんて、許可されるはずないし だから蒼さんからカギを借りて屋上に出たとしても、それは天クルの活動とは言えないかもしれない。 誰かに見咎められたら、せっかく勝ち取った正式な部の座も取り消されそうだ。 展望台を内緒で使うのと状況は変わらなかった。 最終的には、姫榊を頼ることになるんだろうな 借りを返す前にまた借りを作るのは心苦しいのだが。 生徒会には入らないでね それは保留ってことで むー 自宅に着いたところで、明日歩が言った。 お昼、うちで食べない? いいのか? うん、もちろん また明日歩の手料理だろうか。 ごちそうになりたいんだけどな…… 断るのは悪いと思うが、前回と違って今日は補習もあったし、明日歩は徹夜で料理の準備をしていたなんてことはないだろう。 むしろそう願う。 なにか用事? 家で千波が腹空かせて待ってるんだ 千波ちゃんもうちで食べればいいよ そうなると千波がバイトを手伝うというコンボが決まる。 なので却下だ えー わがまま言うんじゃない ……あたしの厚意がわがまま扱い 次はごちそうになるから 絶対だからね ああ それじゃ、お店で待ってるね 最後には機嫌を直して、明日歩は帰途についた。 何度も断るのは悪いので、次からは事前に昼飯を用意してから補習に行こう。 そうすれば千波が飢えることもない。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、おかえりなさ──い! 飢えた千波のお出迎えだ。 千波お腹空いたからこれからご飯作ろうと思うんだけどなにが食べたいかなお兄ちゃんっ 飢えた千波はこのように惨事を起こす確率を飛躍的にアップさせる。 なんでもいいのか? うんっ、千波が作れる料理ならねっ 地球上の料理じゃ無理だしな…… 考えのスタート地点がおかしいよお兄ちゃん!? まずはヒントをくれ そこまで思いつくのが難しいの!? じゃあ千波の作らない料理で頼む 千波が作れる料理が千波の作らない料理って意味不明だよお兄ちゃん!? つまりおまえはキッチンに立たなくていい いつもいつも着地地点が同じ気がするんだけど!? 今作るから待ってろよ 待つのはお兄ちゃんだよっ、千波がご飯作るんだから! 人が下手に出てりゃなにつけ上がってんだ? 千波の厚意がとんでもない扱いに!? 詩乃さんも起きてくるだろうし、すぐ作るか だったらふたりで作ったほうが早く終わるよっ プラスにマイナスを足してもかけてもプラスにはならないぞ? ほんと失礼極まりないよこの人!? さて作るかな お兄ちゃんのバカ──────っ!!! 洋ちゃん、千波ちゃん 昼飯を食べ終えたあと、家を出る前に詩乃さんに呼び止められた。 夏休みに入ったし、ふたりにお小遣いあげるわね そう言って封筒を渡してくる。 いや、小遣いなんて…… ありがとうございまーす! 千波は素早く受け取って中身を開けた。 わっ……こんなにいいんですか? 三万円も出てきた。 洋ちゃんはお兄ちゃんだから、五万円ね ……いや、お年玉じゃないんですから そんなに受け取れるわけがない。 姉さんがどのくらいあげてたか聞いてなかったから。少なかったら言ってね? これだけあれば充分ですっ というか気持ちだけで充分ですから いらないんだったら千波がもらうねっ 千波の手元に八万円が行き渡る。 お兄ちゃんっ、千波これまで生きてきてこんな大金一度に手にするの初めてだよっ、夢みたいな気分だよ! 取り上げて詩乃さんに返す。 一瞬にして夢が散ったよお兄ちゃん!? おまえにはあとで俺が小遣いやるから 遠慮なんてしなくていいのよ? いえ、母さんの貯金がありますから。詩乃さんこそ気にしないでください 詩乃さんは残念そうにしていた。 じゃあお兄ちゃんっ、千波にお小遣いちょうだいっ それくらい我慢しなきゃダメだろ さっそく約束反故にしようとしてる!? 千波ちゃん、はい また八万円が千波に渡る。 夏祭りもあるし、お兄ちゃんと一緒に使ってね? はーい! いや、だからこんなにはさすがに…… 洋ちゃん 詩乃さんが言葉をさえぎる。 これはね、いつも食事を作ってくれてるお礼も兼ねてるの それこそ受け取る理由にならない。食材は詩乃さんが買ってきてくれているのだ。 多いと思ったら、貯金してね。返しに来てもまた千波ちゃんにあげちゃうからね 詩乃さんは俺に言い返す暇を与えず、仕事部屋に戻っていった。 お兄ちゃんっ、千波これからお買い物いってくるねっ 没収 鬼だよこの人!? これで足りるか? 福沢諭吉八人のうち、二人を渡す。 わっ、お兄ちゃんにしては太っ腹 おまえの生涯賃金だからな それだと少なすぎるよ!? 一般人の生涯賃金が二億円だし妥当だろ なのに千波は二万円なの!? 一万分の一だな それが千波の生涯なの!? 太く短く生きるんだぞ それどころか千波もうゾンビだよ!? それくらい我慢しなきゃダメだろ 我慢の限度もいいところだよ!? 残りの金は貯金することにしよう。 今後は、毎月小遣いやるようにするから。詩乃さんにねだって迷惑かけないように はーい! 無駄遣いはするなよ わかってるよっ、今どうしても必要なのは探偵グッズくらいだからねっ ……なんだよ探偵グッズって 都市伝説の謎を暴くための張り込み用のグッズだよっ 没収 千波の生涯賃金が!? 張り込みって、前に言ってたヒバリ校の張り込みだよな そうだよっ、夏休みに入ったから今度オカルト部長と深夜の校舎を探検だよっ 却下 なんでなんでっ、夏休みならいいって言ったのに! それよりおまえは夏休みの宿題があるだろ 補習の人に心配される筋合いはないよっ 誰のせいだと思ってんだ? 千波のせいじゃないのになんでぐりぐりされてるの!? とにかく、夜の校舎に死神は出ないんだよ なんでお兄ちゃんが断言できるのっ 正体は蒼さんだったと話していいものか迷う。言いふらして欲しくないだろうし。 蒼さんが学校側に内緒で屋上を使っていたのだとしたら、なおさらだ。 死神を調べたいんだったら、メアに直接聞けばいいんじゃないか? 最有力候補なんだし でもでもっ、オカルト部長と一緒に展望台いってもメアちゃんに会えないんだもん! 俺が聞いておいてやるから どうやってメアちゃんに会うの? ……方法は、できれば話したくなかったんだけどな。 メアはな、夜にしか展望台に来ないんだよ あ、そうなの? ああ。それも晴れた夜限定だ。メアって星が好きみたいでさ、いつも星見に来てるんだよ メアちゃん、熱心に望遠鏡覗いてたもんね 納得したようだ。 でも、夜にひとりでメアと会いにいこうとか考えるな。会いたいなら、絶対に俺を誘え なんで? なんでもだ 展望台は立ち入り禁止区域だし、それでなくとも夜道をひとりでは行かせられない。 オカルト部長とふたりだったら? ダメだ なんでなんでっ とにかくダメだ ……べつに虫を駆除したいわけじゃないからな。 ふくれる千波に二万を返す。 じゃあ今夜展望台いこうねっ わかったよ。その代わり、校舎の張り込みはするなよ それはわからないよお兄ちゃんっ、千波の宇宙人捕獲大作戦は時にどんな犠牲を払うことも厭わないんだから! ならまずおまえが犠牲になれ その前にこのぐりぐりの犠牲の対価が不明だよお兄ちゃん!? なにはともあれ、今夜も展望台行きは確定のようだった。 バイトのため、明日歩の喫茶店に向かっている途中のことだった。 たく……いいかげんこのポンコツにもうんざりね 炎天下の中、汗だくになってスクーターを押している人がいる。 近くにバイク屋もないし、最悪だわ…… エンストなのかタイヤのパンクか、スクーターに乗れなくなったようだ。 もともと人通りは多くない小さな駅だが、時間帯が悪いのかちょうど誰の姿も見かけない。 ………… ……と思ったら、ひとり発見。 というか、カーディガンの彼女じゃないか。 見かけるのは三度目だった。 ………… 彼女は距離が離れたところから俺を見ている。 俺は辺りをきょろきょろする。近くに人はいない。 バイクの人とは場所が外れている。 だから間違いない、彼女は俺だけを見ている。 ………… 彼女は不意に腕を持ち上げる。 弾みでカーディガンの前が開くと、私服が覗く。 それはパジャマにしか見えなかった。 ………… 彼女は指で自分を指し示した。 それから、人差し指を交差させてバッテンを作る。 ……な、なんだ? ジェスチャーだろうか。 ………… 彼女はさっきの仕草をもう一度繰り返す。 ええと、なんだ。 自分は? ダメ? 彼女は続けて、俺を指で指し示す。 それからバイクの人を指差してから、右手でOKサインを出した。 ……今度はなんだ。 彼女は謎の仕草をもう一度繰り返す。 俺が? 彼女を? 助けろ? えらいね。うん、えらい 風に乗ってそんなつぶやきが耳に届いた。 そして立ち去っていく。 誰なんだろう、彼女は。 なぜ俺は気にしているんだろう。 ひどく落ち着かない。 なんだろう、これは。 うずく。 そしてなにかがわめいている。 まさか…… 少女の姿はもう見えない。 どこに消えたのかはわからない。 視界の隅で捉えていたバイクの人も遠ざかっている。 ……わかったよ、助ければいいんだろ。 必然的に俺が声をかけることになる。 あの、手伝いましょうか? ハンドルを握ったまま、その人は首だけでこちらを向く。 歳は詩乃さんと同じくらいだろうか。 ただ詩乃さんとは違って気の強そうな印象だ。 助かるわ。じゃあ後ろから押してくれる? はい 荷台に手をかけて、バランスを取りながら押し進める。 座席の下に荷物が入っているのか、思ったよりも重い。 商店街で買い物した帰りだから。重くて悪いわね いえ、困ったときはおたがいさまですから あはは、あんたいい子ね。見ない顔だけど、雲雀ヶ崎に住んでるの? はい。先日引っ越してきたばかりですけど なるほどね 小河坂洋って言います。よろしくお願いします 礼儀正しいわね。私の若い頃とは正反対だわ 今でも若く見えますよ うれしいこと言うわね。だけどあんたくらいの歳の子から社交辞令もらうと嫌味にも聞こえるわ ……そんなつもりじゃ あはは、変に大人ぶらなくたって、ガキはガキらしくしてるのが一番よ 諭されてしまった。 この街、どう? 外から来たんじゃ住みにくいんじゃない? 不便なところもありますけど、前にも住んでたんで 出戻りなんだ。めずらしいわね そうなんですか? 引っ越す連中は不便な環境に嫌気が差して出ていくのが普通だからね。戻ってくることはないでしょ なんていうか、寂しいですね あんたはこの街が好きみたいね はい 素直な返事ね。あんたみたいな子がいるんなら、この街もまだまだ捨てたもんじゃないのかもね こんなふうに会話を交わしている途中で、聞くのを忘れていたことを思い出す。 そういえば、どこまで押していけばいいんですか? 悪いんだけど、私の家までお願い どこらへんですか? 隣町よ てっきり雲雀ヶ崎の住民かと思いきや、そうじゃなかった。 隣町は運河を越えた先にある。 雲雀ヶ崎よりもずっと都会のその街は距離的には近いが、街の面積もまた広いのだ。 彼女がスクーターで来ているというのが不安を誘う。 私より若いんだから、頼りにしてるわよ その言葉がすべてを物語っている気がした。 そして、目的地に着くまでに一時間かかった。 気候がよければ大した時間じゃないのだろうが、なにぶん夏真っ盛りなので体力をかなり消耗した。 車庫にバイク入れてくるから、ちょっと待ってて。お礼もしたいから 結局俺よりも元気だった彼女は、手伝いなんてなしでもノンストップで帰宅できたのだろう。 俺は石段に座って息を整える。 しかし、自宅というのが神社だったのには驚いた。 俺はこの辺の地理には雲雀ヶ崎以上に詳しくない。隣町に神社が建っていたこと自体、知らなかった。 鳥居を見上げると「〈星天宮〉《せいてんぐう》」とある。 初めて聞く名だし、有名じゃない地方神を祀っているんだろう。 にしても、暑いな…… 日陰を探して境内を散策する。 緑が多いためだろう、セミの大合唱が耳に痛い。 片耳をふさぎながら、俺はバイトに出るのが遅くなると明日歩にケータイで連絡した。 こういうとき、労働時間が適当というのはありがたい。 ちなみに終業式の日に連絡網を作ったので、天クルメンバー全員の番号もアドレスも登録済みだ。 電話越しの明日歩は不満そうだったが、事情を話したら納得してくれた。 しかも、えらいえらいと誉められた。 バイトの先輩風からか、明日歩は時折こんなふうにお姉さんぶるようになっている。 展望台の彼女を思い出し、ドキッとすることもある。 そしてケータイを切ってポケットに入れたとき、俺は我が目を疑った。 電話をしていたために気づくのが遅くなった。 境内は無人じゃなかった。 巫女さんがひとりいた。 燦々と照る太陽の下で、手にあるひしゃくを使って水を撒いている。 打ち水というやつだろう。 彼女の一帯だけは、真夏の暑さから逃れていた。 冷気を求めて自然に足が誘われる。 ……なっ 向こうも気づいたようだった。 あいさつ代わりに手を上げると、姫榊は嫌な姿を見られたと言わんばかりにそっぽを向いた。 ……なんで小河坂くんがいるのよ ちょっと参拝に 本気? ウソ でしょうね、誰が好きこのんでこんな真夏日にお参りなんかするのよ 夏祭りもまだ先だっていうのに ぱしゃぱしゃと水を撒く。 巫女に打ち水に、夏の風物詩といった感じ。 姫榊って、巫女だったんだな 家がたまたま神社だっただけよ。おかげでこんな面倒な仕事まで手伝わされてるわよ 明日歩と対抗できるな メイドなんかと一緒にしないで 職業に貴賎なしだろ うるさい って、足に水かかりそうだったぞっ 近くに立ってるからよ。というか、さっきも聞いたけどなんでここにいるのよ スクーター押すの手伝ったら、ここに着いたんだよ ……スクーターって、お母さんの? やっぱり姫榊の母親か 気の強そうなところがそっくりだ。 とすると、こさめさんの母親でもあるわけで、こさめさんの性格は父親寄りなのかもしれない。 あのスクーター、古くてね。いつか壊れるとは思ってたんだけど タイヤのパンクじゃなかったから、やっぱエンジンのほうか お母さんは? 車庫にいる。なんかお礼してくれるらしくてさ、戻ってくるの待ってるんだよ お礼なら、わたしの代わりに打ち水やってよ ……べつに手伝うくらいならいいけどさ あ、ほんとに? ああ。どのくらい撒くんだ? 境内全域にまんべんなく ……そろそろ帰るかな 冗談よ。石畳の周辺だけでいいから、よろしく 待った待ったっ、ひしゃくあずけてどこ行くんだよっ 手伝ってくれるんでしょ? 俺に全部押しつけないで自分もやれよっ 押しつけてなんかないわよ。水が足りなくなってきたから、予備の桶に汲んでくるだけ 姫榊はなんだかんだで生真面目なんだった。 水なら俺が汲んでくる。力仕事だしな じゃ、お言葉に甘えて 場所は? 鳥居の近くに清めの水があるから ……いや、打ち水に使うもんじゃないだろ その近くの蛇口から水道水も出るから 了解 姫榊は空いていた手桶を俺に渡すと、打ち水を再開する。 小河坂くん、南星さんのところでバイトしてるのよね そうだけど。それが? うちでもバイトしてよ。わたしが手伝いの当番のときだけでいいから ……なんか明日歩と違ってこき使われそうだから、やめとく 打ち水と掃除を押しつけるだけよ 夏祭りってこの神社でやるんだよな そうだけど 屋台のバイトだったらおもしろそうだな それはこっちじゃなくて、町内会の管轄だから じゃあ姫榊は夏祭り、なんの仕事するんだ? ………… 姫榊は答えなかった。 代わりに水が飛んできた。 なんでだよっ いいから、さっさと水汲んできてよ 行こうとしたらそっちが話しかけたんだろっ ……ふん すぐ汲んでくるから 当たり前 俺は桶を手に歩き出す。 あーあ、早く家に入って涼みたーい 文句の多い巫女だった。 打ち水が終わってから、神社の近くに構える姫榊の自宅にお邪魔した。 悪かったわね、こももの手伝いまでさせちゃって 彼女は姫榊〈万夜花〉《まやか》さんというらしい。さっき名前を教えてもらった。 暑かったでしょ。今麦茶持ってくるから 万夜花さんが台所に消えると、入れ替わりで姫榊が居間に入ってきた。 まだ帰ってなかったのね なんかさ、お茶でもどうぞって言われて お礼って言ってたものね 姫榊は私服に着替えている。本日のお務めは終了らしい。 部屋の冷房が利くまで、わたしもここで涼んでるわ 正面の座布団に腰を降ろした。 姫榊って雲雀ヶ崎に住んでるんじゃなかったんだな そうよ。だから電車で通学してるんじゃない といっても、このあたりは雲雀ヶ崎の延長線上みたいなところだけどね。風景もあんまり変わらないし この隣町は都市と評して差し支えないが、神社の周辺は中心部から外れているためか、とてものどかだ。 雲雀ヶ崎から離れてないし、万夜花さんみたいにバイク使ってもいいんじゃないか ヒバリ校はバイク通学も自転車通学も禁止。夢見坂の勾配を考えれば妥当でしょうね まあ自転車じゃ、あの坂はかなりきついか 俺は原付免許を持っているので、バイク通学は魅力的だったのだが。 校門前にバス停でもあればよかったんだけどね バスが走っても、利用者はヒバリ校の生徒くらいになりそうだけどな 観光地のはずの展望台は立ち入り禁止だしね ただ、涼しかったらまだしも、この暑さであの坂を歩くのはね…… 気持ちはわかる。登校日が今から憂鬱だよなあ と、思い出した。 登校日にさ、生徒会のミーティングって開けないか? ……なによ、やぶからぼうに 可能か不可能か。どっちだ? どっちって聞かれたら可能になるけど……ていうか、なんか嫌な予感がするんだけど さすが姫榊、話が早い それはどうも。だから却下 話が早すぎて困る。 どうせ天クルの関係なんでしょ? ご名答 念を押すけど、わたしは天クルが嫌いだからね 俺は姫榊が公私混同しないことを知ってるから 盛大にため息をつかれる。 はぁ……天クルはめでたくサークルから部に変わった。これ以上、生徒会になにを求めるっていうのよ 屋上の使用許可を求めたい 二学期になったら許可してあげるわよ。制限はつけるつもりだけど 二学期じゃ遅いんだ。夏休み中にお願いしたい ふざけないで 至ってマジメだ 夏休みは生徒会だって休みなのよ だから登校日にお願いしたいんだ 天クルは部活会議を経てから正式に部として認められる。その部活会議は二学期に行われる。わかるでしょう 暫定的に屋上の使用許可だけもらえればいいんだ そんな例外は認められない 部外者の部活参加は認めてくれたじゃないか 誰のおかげだと思ってるの 姫榊のおかげだ。だからまた姫榊にお願いしたい 図々しいと思わないの 思う。だからこの借りは必ず返す じゃあ境内の打ち水と掃除よろしく 打ち水はもうやったし、あとは掃除だな 夏休み中ずっとよろしく 理不尽だ。 もしくは、生徒会に入りなさい わかった 姫榊は目を丸くした。 ちょっとっ、今まで断ってたのはなんだったのよっ 正直、俺に委員会は向いてない。だから断ってた だけど、姫榊が条件を飲んでくれるなら、生徒会に全力を尽くしてもいいと思った ……そこまで天クルが大事なの? 大事だ 二学期まで待てないの? 待てない どうして? 理由はいろいろあるけど、あまり言いたくないな 言いなさい 不遜に追求してくる。 理由を話すとなると、メアについて説明することになる。 そして最も大きな理由を話すとなると、展望台の彼女まで説明することになってしまう。 からかわれるのが目に見えていた。 やましい理由だったら、なおさら許可するわけにはいかないわね ……やましくはないんだけどさ なら話せるわよね どうしたものか。 姉さん、詮索は悪趣味ですよ ……フォロー役がいいタイミングで登場したわね こさめさんがやって来て、姫榊の隣に腰を落とした。 小河坂さん、こんにちは ああ。お邪魔してるよ 姉さんも隅に置けませんね ……なにをどう勘ぐったのか知らないけど、小河坂くんを招待したのはわたしじゃないわよ お、みんな勢揃いしてるわね 万夜花さんが麦茶を俺たちに配って回る。 ていうか、こさめの分も配ったら私のがないじゃない その分は、わたしが持ってきますね こさめさんが台所に消えると、その席に万夜花さんが座った。 あんたらの話し声、聞こえてたけど。やけに懐かしい話してたわね ……懐かしい? ああ、こももには話してなかったか 万夜花さんは麦茶を一口飲んでから、 私、ヒバリ校のOGなんだけどさ。その頃、天文部に入ってたのよね 姫榊が持っていたコップを落としそうになった。 そ、そうなの? ええ。うちの神社は〈天津甕星〉《あまつみかぼし》を〈祀〉《まつ》ってるわけだし、跡取りだった私が天体観測に興味持ってたとしても驚くことじゃないでしょ 天津甕星というのは地方神の名前だろうか。 むしろ星嫌いのあんたのほうが異端だと思うけどね ……ふん 小河坂くんだったわよね。今の天文部って、天クルなんて名前に変わったの? あ、はい。部員数が足りなくて、部じゃなくてサークルになってたんです でも、また部として認められたんですよ こさめさんが戻ってきた。 小河坂さんが部員を勧誘してくれたおかげですね こさめさんだって協力してくれたじゃないか ふたりとも天クルに入ってるわけね。どう、部活は楽しい? 今までも楽しかったですけど、今後はもっと楽しくなりそうです 本格的な活動はこれからだしな 青春の謳歌って感じね ………… そんなふて腐れた顔してないで、あんたも入ったらいいじゃないの ……冗談。巫女してるだけでうんざりなのに 姫榊は立ち上がって居間を出ようとする。 姉さん、お部屋に戻るんですか? ええ。課題でもやってるわ そんなの昼間っからやらなくてもいいじゃないの わたしは計画的に進めてるだけ 勉強なんか社会に出てからなんの役にも立たないのに お母さんと一緒にしないで あんた、いちおうこの神社の跡取り候補なんだけど 継ぐつもりないから つきあい悪いわね 長女だからってそこまでつきあう義理はないから そっちじゃなくて、客人の相手のほう 小河坂くんを連れてきたのはお母さんなんだから、わたしは関係ないでしょ 小河坂くん、こももの赤裸々アルバム見る? なによそれは!? ただの家族のアルバムよ なんでそんなの持ち出すのよ! こももの話題で盛り上がろうかなと だからわたしは関係ないでしょ!? 小河坂さん、これが姉さんの去年の夏祭りのときの写真で…… やめんかっ! 写真を拝む前に取り上げられる。 じゃあこももの幼い頃の赤裸々秘話で我慢しとくか 小河坂さんは何歳の頃の姉さんを聞きたいですか? ……なにがどうあろうとわたしをここから出さないわけね 賑やかな家族だった。 お茶を一杯いただいたあと、姫榊の家を出た。 明日歩が待っているし、長居はできないのだ。 小河坂くん、詩乃って知ってる? 最寄りの駅まで送ってくれる万夜花さんが、そう聞いた。 ……詩乃さんですか? やっぱり知ってるんだ 叔母にあたる人ですけど…… 詩乃が結婚したって話は聞いてないしね。苗字を聞いたときはまさかって思ったけど 俺もまた、違う意味でまさかと思った。 詩乃さんもヒバリ校出身なんですか? ヒバリ校で卒業アルバムを調べていたときに、同姓同名の生徒は見つけていたのだが。 そうよ。知らなかったんだ 詩乃さんは話す素振りもなかったし、俺からも聞いたことはなかった。 ただ、少し考えれば道理だ。 母さんはヒバリ校に通っていたのだから。 じゃあ、詩乃さんと同級生だったんですか? ううん、詩乃は私よりふたつ年下だから。学年が違うから、クラスも違った でも、と万夜花さんは続けて。 天文部では、一緒だったけどね バイト始めが遅くなった分、終わりも遅くなってしまった。 マスターは夕方には上がっていいと言ってくれたのだが、昼時の混雑を手伝えなかった分、夕方時の混雑くらいは仕事をしたかった。 給料は月末に振り込まれるし、そのくらいは働かないと申し訳が立たない。 あっ、お兄ちゃん。お帰りなさーい リビングに入ると、声をかけてきたのは千波ひとりじゃなかった。 こ、こんばんはです。お邪魔してます ……どうも お、三人で遊んでたのか ……千波さんに、鈴葉を拉致られました そ、そうじゃないよお姉ちゃんっ。千波さんが誘ってくれただけだよっ ふたりで遊んでたら蒼ちゃんが迎えに来たんだよっ ……迎えじゃなくて助けに来た な、なんでそんなこと言うのお姉ちゃんっ 天クルに入部してくれた蒼さんなのだが、これまでと違って態度を軟化する、ということはないようだ。 蒼さんらしいとも言えるので、特に不満があるわけじゃなかった。 洋ちゃん、おかえり 詩乃さんがキッチンから顔を出す。 お夕飯の用意できたけど、衣鈴ちゃんと鈴葉ちゃんもよかったら食べていってね ……あ、いえ 詩乃さんっ、千波も運ぶの手伝いますっ 蒼さんが断る間もなく、千波はすっ飛んでいった。 千波の手によりダイニングのテーブルに夕食が並んでいく。 ……あの、誰も食べるとは お、お姉ちゃん 鈴葉ちゃんが蒼さんの服の袖をひっぱる。 ……鈴葉は、食べたいの? 鈴葉ちゃんはおずおずとうなずく。 親御さんはいいのか? え、えと、うちの両親は、どちらも仕事で帰りが遅いですから。お姉ちゃんがいつも夕食作ってくれてるんです じゃあ蒼さん次第ってことか。 ……鈴葉が食べたいなら、つきあいます 蒼さんは妹に甘いようだ。 両親が留守がちだと、家事とか大変そうだな ……親に関しては諦めてますから。バカップルですし バカップル? お父さんとお母さん、とても仲がいいんです。仕事もおんなじで、家でも外でもいつも一緒にいる感じで だから、悪く言うと子供には放任主義で、良く言うと自由にさせてくれるんです だったら毎晩うちでご飯食べていけるねっ ……それはさすがに 私は大歓迎よ 千波も大歓迎だよっ ……待ってください 急な話だし、蒼さんが困惑するのもわかる。 鈴葉ちゃんがまた蒼さんの袖をひっぱった。 ……食べたいの? こくんとうなずく。 みんな優しくて、楽しいから…… 鈴葉…… で、でも、迷惑だったら我慢する 迷惑なんかじゃないわ。鈴葉ちゃんが言ったとおり、大人数で食べたほうが楽しいものね じゃあ決まりだねっ ………… 蒼さんを歓迎する 蒼さんを歓迎する 黙認する 蒼さんだけだぞ、渋ってるの ……渋りもします 夕飯を一緒するだけじゃないか ……先輩も賛成なんですか 当たり前だろ ……なぜ当たり前なんでしょう 蒼さんと鈴葉ちゃんを歓迎したいからだ ……答えになってません どう感じたのか、蒼さんは複雑な顔だった。 俺も賛成はするのだが。 ……食費の心配をしてしまう俺は、心が狭いのだろうか。 あの、詩乃さん なに? 両親に言って、食費は払うようにしますから、鈴葉だけでもお邪魔させてもらって構いませんか 食費なんていらないわ でしたら、遠慮させてもらいます 詩乃さんは軽く吐息をついた。 衣鈴ちゃん、誰かさんに似てるわね 俺を見ないでください詩乃さん。 じゃあ、お金に関してはご両親に私から話しておく その代わり、鈴葉ちゃんだけじゃなくて、衣鈴ちゃんも一緒だからね ……それは お姉ちゃんも一緒がいい…… 鈴葉ちゃんがすがるような目で見ていた。 一緒じゃなかったら、わたしも我慢する…… ……わかった 蒼さんが折れた。これで決まりのようだった。 ご迷惑おかけしますが、今後もよろしくお願いします これで蒼ちゃんと鈴葉ちゃんは親友からさらにランクアップで千波の家族も同然だねっ ……死ねばいいのに お、お姉ちゃんっ、そんなこと言っちゃダメだよっ いいんだよ鈴葉ちゃんっ、千波の耳にはしっかりくっきり蒼ちゃんの心の声が聞こえてたからねっ ……ありえない 蒼ちゃんは千波も鈴葉ちゃんも大好きだからねっ ありえないって言った え…… あ、ううん、鈴葉は大好き 千波のことも大好きなんだよっ 死ねばいいのに そ、そんなこと言っちゃダメだよっ 会話がループしている。 賑やかな食卓になってうれしいわ 先行きが不安なところもあったりするが、それも含めて詩乃さんに同意だった。 お兄ちゃん、約束忘れてないよね? 賑やかな夕食後、リビングでくつろぎながら千波が言った。 展望台に行きたいんだろ うんっ。蒼ちゃんと鈴葉ちゃんも誘いたいなっ 千波はこう言ってるけど、どうする? ……それって、夢見坂の頂上にある展望台ですか? ああ。立ち入り禁止だから、無理には誘えないけどな なにしに行くんですか? 夜になるとそこに死神さんが出るんだよっ、これからお話ししてこようかなって 死神……? 都市伝説の、アレ? 千波がそれを確認したいらしくてさ お姉ちゃん、都市伝説って? あ、うん。ヒバリ校に、恋人の仲を裂くっていう死神の噂が広まってるの あら。その噂、まだ残ってるのね 詩乃さんがお茶を持ってきた。 詩乃さんも知ってるんですか? ええ。懐かしいわね ヒバリ校出身なんですよね? そうよ。話したかしら? 今日、たまたま知ったんです。駅前で万夜花さんって人に会って 詩乃さんは「そう」とうなずいて、近くに座った。 万夜花さん、元気だった? 駅から自宅までスクーターを押して帰るくらい元気でしたよ ねえねえお兄ちゃん、万夜花さんって誰? こさめさんの母親だよ 千波は姫榊とはまともに会ったことがないと思うので、こさめさんの名だけ出しておいた。 それと、私の先輩でもあるのよ 天文部で一緒だったんですよね ええ 詩乃さんは懐かしむように相好をくずした。 天文部って……お姉ちゃんが入った天クルのこと? 話から察するに、その前身だと思う 洋ちゃんと千波ちゃんが話していたのを聞いたんだけど、衣鈴ちゃんも天クルに入ったんだって? ……とても遺憾ですが、そうです これからも、ふたりと仲良くしてね? 蒼さんはどう答えようか悩んでいた。 悩んで、結局なにも言わなかった。 詩乃さんが知ってる死神の都市伝説って、どんなのですか? これを機に尋ねてみた。 恋人の仲を邪魔するんじゃなかったかしら ほかには? ……どうかしら。私よりも万夜花さんのほうが知っているかもね そうなんですか? ええ。万夜花さんは神社の神主だし、オカルトには詳しいと思うから 折りを見て、万夜花さんから話を聞くのもよさそうだ。 お兄ちゃん、そろそろ準備して行かない? そうだな。あまり遅くなっても困るしな 展望台に行くのは、天クルの活動というわけじゃないみたいね あ、はい。もしかして、止めます? 私たちが活動していた頃は、展望台には入れたんだけど……。よくそこで天体観測していたから だけど、今は立ち入りが禁止されているからね たとえ詩乃さんが反対しても千波の宇宙人捕獲熱が冷めることはないんだよっ 詩乃さんは頬に手を当てて眉尻を下げる。 千波さんが行くなら、わたしも行ってみたいです…… す、鈴葉? もちろん鈴葉ちゃんも一緒だよっ させるわけない もちろん蒼ちゃんも一緒だよっ 鈴葉、もう遅い時間だし、そろそろ帰らないと え……で、でも 夏休みだし平気だよっ、展望台ってすっごく星がきれいで圧巻だから鈴葉ちゃんもきっと気に入るよっ は、はい。楽しみですっ 鈴葉、この女の甘言に耳を貸しちゃダメ この女扱いだ。 蒼ちゃんもきっと気に入るよっ あなたは黙ってて ふたりとも展望台が大好きになるよっ は、はい。楽しみですっ 鈴葉、お姉ちゃんの言うことが聞けないの? あ、あう…… 大丈夫だよ鈴葉ちゃんっ、千波の耳にはしっかりくっきり蒼ちゃんの心の大賛成が聞こえてたからねっ 適当言わないで は、はい。千波さんを信じますっ ……ちょっと待って じゃあ満場一致で決まりだねっ、これからみんなで展望台にレッツゴー! ……こいつだけは殺るしかない みんな落ち着けって。詩乃さん、俺が責任持って引率しますから、許してもらうわけにいきませんか? 展望台、入ったことあるの? はい。危険な場所じゃありません。立ち入り禁止になってるわりに簡単に入れますし でもあそこはね、昔、人身事故があったのよ それは、いつかにこさめさんからも聞いている。 どんな事故だったかは私も詳しく知らないけど、フェンスが建ったのはそれがキッカケなのよ 俺は、絶対にそんな事故は起こしません 私は仕事があるからついていけないけど、なにかあったらすべて私の責任にする。それが条件 ……それは、とても重い条件だ。 約束できる? できます 詩乃さんはため息をひとつついた。 ……星がきれいな場所というのは、同意だから あ、じゃあ 実はね、あそこを立ち入り禁止にしていることに抗議が集まっているって話もあるの。せっかくの観光地だしね だから、禁止が解かれて、整備が整うのを待って欲しかったんだけどね 詩乃さんは立ち上がった。 きっと、姉さんなら反対する。だけど私は、天文部員だったから…… 子供たちにも、もっと雲雀ヶ崎の星空を眺めて欲しいからね 詩乃さんは最後にほほえんで、仕事部屋に戻っていった。 ……メアちゃんに会いたいだけなのに、なんか大事っぽくなったね それはしょうがない あそこ、立ち入り禁止になってるのが不思議なくらいなのに? まあ認識の差っていうか、子供と大人の温度差だろうな いくら安全といっても、俺だってさすがに鈴葉ちゃんを連れていくことには迷いがある。 わたし、迷惑はかけません。お姉ちゃんのそばから離れません 絶対だぞ? は、はい。だから連れていってくださいっ ぺこっとお辞儀。 了解だ。じゃあみんなで夜遊びといくか わーい! ありがとうございますっ ……なんでこんなことに 蒼さんだけは終始不満げだった。 四人で家を出る。 展望台行きに明日歩も誘おうかと思ったが、星見というわけじゃないのでやめておいた。 私、望遠鏡取ってきます 蒼ちゃん、天体観測するの? わからないけど、いちおう 千波にも使わせてくれるとうれしいなっ 絶対ありえない 蒼さんは自宅に戻っていく。 窓からは明かりが漏れていない。まだ両親は帰ってきていないようだ。 お姉ちゃん、望遠鏡はわたしにもさわらせてくれないんです。とても大切なものみたいで 蒼さんが買ったものなのか? えと、わかりません。教えてくれないんです ……お待たせしました 蒼ちゃん蒼ちゃんっ、その望遠鏡って蒼ちゃんが買ったものなの? あなたには関係ない なんでなんでっ、千波たちもう家族なのにっ 黙れ下郎 お、お姉ちゃんっ、そんなこと言っちゃダメだよっ 蒼さんは誤魔化すように鈴葉ちゃんの頭を撫でていた。 屋上のカギについては聞いていいか? よくないです どうして持ってるんだ? よくないって言いました 望遠鏡、俺が持とうか? 結構です 明日歩がさ、望遠鏡を入れるキャリングケースを買ってあげるって言ってたぞ お気遣いなく 部費で買うから、遠慮しなくていいんだ 部費の支給は二学期に入ってからになりそうだけど。 それでも、お気遣いなく 蒼さん、もう天クル部員なんだぞ? それとこれとは話が別です 同じだと思うのだが。 それより、行くなら行きましょう あまり遅くなって、両親が帰ってきたときに私たちがいないと、捜索願でも出されそうです お父さんとお母さん、心配性だから…… そのわりに自分勝手なところが納得いかないんですけど だからこそ蒼さんは妹の鈴葉ちゃんに対して、しっかりしているんだろう。 鈴葉ちゃん、坂はきつくないか? は、はい。平気です 転ぶといけないし千波と手、つなごっ やめてさわらないで鈴葉が怖がってる こ、怖がってないよお姉ちゃんっ 蒼ちゃんも千波と手、つなごっ ありえない じゃあ蒼ちゃんはお兄ちゃんに譲ってあげるねっ、千波は鈴葉ちゃんとつなぐからっ 蒼さんと目が合った。 ……つないできたら大声上げますから やらないって 警戒され過ぎるのもショックだが。 望遠鏡くらいは持ってあげたいんだけどな べつに重くないですから 展望台に向かう途中でさ、林に入らないといけないんだ。そのときは手伝うから ……ウザい 蒼さんの毒舌にはいつまで経っても慣れそうにない。 ここから迂回するんですか? うん。千波が案内してあげるねっ ………… 怖くないよっ、大丈夫だよっ、そんなに暗くないから 木々は天井までは覆っていないので、晴れた夜であれば見通しも悪くない。 千波の手、離さないでね 千波が手を引き、ふたりで歩いていく。 それを心配そうに眺める蒼さん。 本当にひとりで大丈夫か? さっきからそう言ってます 望遠鏡抱えたままだと、前が見づらいだろ。俺も経験あるからわかるんだ しつこいです 蒼さんは聞く耳を持たず、千波たちを追った。 途端、根っこに足をつまずかせてバランスをくずした。 きゃっ…… 転ぶすんでのところで後ろから支えた。 ほら、言わんこっちゃな…… いやあっ! 突き飛ばされた。 というか、望遠鏡で突きを食らった。 ……なにするんですか 支えただけだろっ さわられました しょうがないだろっ 痴漢はやめてください 親切心だろっ ここに天クルの退部届があります すみません軽率でした ……なぜ弱みを握られたみたいになってるんだ? 次またやったら退部しますから 憤まんやる方ないご様子の蒼さんを追い、そのまま追い越した。 ………… 飛び出している枝を脇にどけてやったりと、進みやすいように道を作る。 ………… 蒼さんは憮然としてあとについて来た。 わあ……。星がとても近くに見えます 雲雀ヶ崎の星空ってキレイだよねっ、都会とぜんぜん違うもんっ 先に着いていた千波と鈴葉ちゃんは満天の星空に見惚れていた。 ……屋上よりも、ずっと明るい 校舎の屋上も星空に関しては申し分ないが、展望台の風景はそれに加えて地上に見える街や運河の灯火が格別だ。 望遠鏡を抱きかかえたまま、蒼さんは天地の明かりを見比べながら観賞を続けていた。 その間に、俺はメアを探してみる。 一見して見当たらないが、またどこかに隠れているのかもしれない。 ……もう隠れる理由はない気もするのだが。 とりあえず一周してみよう。 昼間と違ってセミの鳴き声もやんでいる静かな展望台を、俺は歩き始めた。 見つけたぞ ……見つかった なんで木の上にいたんだ? 見つけられたのは運がよかった。 葉がひらひら落ちてきて、なにかと思って見上げたらメアが木の枝に座っていたのだ。 その葉っぱはメアがわざと落としたのかもしれない。 隠れてたのか? べつに 向こうに友達が来てるんだ。一緒に行こう いや ……なんで なんでも 前は一緒に天体観測しただろ? 俺たちと友達になってくれたんじゃないのか? あれは気の迷いだった ……また振り出しに戻ってる? そんなどんより落ち込まなくても 誰のせいだよ…… 今日は望遠鏡、あるの? ああ。蒼さんが持ってきてるよ ………… なぜかムスッとする。 どうした? わたしの知らない子 蒼さんは初めて来たからな ほかにもいた 鈴葉ちゃんのことだろう。 やっぱり俺たちのこと見てたんだな ……帰る なんでっ みんなバカバカだから 俺にわかる言語で説明してくれ とにかく帰る もしかして、と思う。 メアってさ なに 人見知りなのか? ………… 無言でカマを振りかざすなよっ ……あなたがバカバカなのが悪い その言語を訳すと? 死神は人見知りなんてしないわ じゃあみんなのところに行こう ………… 死神に二言はないよな? ………… 一緒に星見しよう それが目的じゃなかったのだが、蒼さんに頼めば望遠鏡を貸してくれるかもしれない。 メアはスネた感じでうなずいた。 あっ、メアちゃんだ! 戻ってくると、千波が我先にと駆け寄った。 はいチーズ! ケータイを掲げたので蹴り上げた。 なにするの!? そりゃこっちのセリフだ 落ちてきたケータイを拾い上げる。 メアは俺の背中に隠れながら、なにが起こったのかわからない顔をしていた。 おまえ今、メアの写真撮ろうとしただろ うんっ、メアちゃんの記念撮影だよっ このケータイは没収する なんでなんでっ、メアちゃんの写真をみんなに自慢しようと思ったのに! はいチーズ 突然のフラッシュは目に毒だよお兄ちゃん!? これで自分の写真を自慢できるな 千波きっと目つぶっちゃったから撮り直しを要求するよお兄ちゃん!? 咄嗟のことだったとはいえ、なぜ俺は千波の撮影を止めたんだろう。 なにかわかるかもしれないのに。 メアが幻覚じゃないという証拠にもなるだろうに。 だけどもし写らなかったら、逆にメア幻覚説に根拠を与えることになってしまう。 それが怖かったのかもしれない。 俺の中で、メアは実在している──そうであって欲しいと願う気持ちはそれほど大きくなっている。 ……ねえ メアが俺の背中をつかんでくる。 それ、なに? 携帯電話だ。知ってるか? バカにしないで。見たのは初めてだけど メアちゃんっ、こんばんは メアはさっと俺の背中に隠れる。 ねえねえメアちゃんっ、写真撮ってもいいかなっ メアは顔を半分だけ出して千波を見る。 お兄ちゃんっ、千波とメアちゃんが並んでるとこ撮って欲しいなっ ダメって言っただろ メアちゃんはいいかもしれないでしょっ メアだって嫌に決まってる べつにいやじゃない なにゆえ!? なにゆえとか言われても いつものメアらしくないだろ!? どういう意味よ いつものあまのじゃくっ子はどうしたんだよっ 誰があまのじゃくっ子よ もしかして俺が嫌に決まってるって言ったからか? いいに決まってるって言えばあまのじゃく的に断ってくれたのか? なに言ってるのかさっぱりだわ 千波、さっきのやり取りを逆パターンでもう一回だ お兄ちゃんっ、千波とメアちゃんが並んでるとこ撮って欲しくないなっ いいって言っただろ メアちゃんはダメかもしれないでしょっ メアだっていいに決まってる べつにいやじゃない そこは『べつにいやじゃなくない』だろ!? なに怒ってるのかさっぱりだわ ……あの、その子は? 蒼さんが歩み寄ってくる。 その背中には鈴葉ちゃんが隠れていて、メアをおずおずと窺っている。 メアもまた俺の背中に隠れて、鈴葉ちゃんを窺っている。 おもしろい構図ができあがっていた。 奇抜な服装…… メアって言って、自称死神だ ……だから、死神って言い出したのはいちおうあなたが先なんだけど その衣装とカマは? 死神装束と死神のカマだ わたしは悪夢を刈る死神だから ぷっ、ダサ ……この子、刺していい? お、お姉ちゃんっ、そんなこと言っちゃ失礼だよっ 蒼ちゃんは鈴葉ちゃんの頭を撫でていた。 俺も真似してメアの頭を撫でようとしたら首筋にカマが当たったのでやめた。 あ、あの……こんばんはです 鈴葉ちゃんがメアとコミュニケーションを計ろうとする。 ……こんばんは コミュニケーションに成功する。 ふたりとも背中に隠れたままだけど。 わ、わたし、鈴葉っていいます そう 洋さんのお友達ですか? 違う ……肯定してくれよ、メア。 死神は友達なんて作らないわ 自分で自分を死神……ダサ ……この子、刺していい? メアさん、歳はいくつ? 子供扱いしないでっ 鈴葉と同じくらいかな そんな小学生と一緒にしないで。言っておくけど、あなたよりずっと年上よ この年頃で背伸びはよくあること ……わたし、この子嫌い 千波は大好きなんだよねっ あなたはうるさいから嫌い お膳立てした友好関係が早くもくずれようとしている。 わ、わたしはメアさんとお友達になりたいですっ 鈴葉ちゃんは意を決したように蒼さんの背中から飛び出して、せいいっぱい声を張り上げた。 わたし、昔から身体が弱くて、学校よく休んでて、そしたら人付き合いが苦手になって…… だ、だけど、わたしも、千波さんみたいになれたらって…… 千波さんみたいに、明るく元気になれたらって…… だ、だから……ぐす…… ……鈴葉 蒼さんが鈴葉ちゃんの頭を撫でて落ち着かせた。 鈴葉ちゃんは人見知りだ、これは勇気を振り絞った結果の言葉なんだろう。 泣き虫ね そんな言い方はないだろ べつに悪い意味で言ったんじゃないわ じゃあどういう意味だったんだろう。 鈴葉ちゃんは自信持っていいんだよっ、千波を手本にしてればすぐ千波みたいになれるからねっ 子供は無垢だからって洗脳もほどほどにな? いかにも真実っぽく言うから蒼ちゃんにものすごい勢いでにらまれてるよお兄ちゃん!? ……メアさん 鈴葉ちゃんに寄り添いながら、蒼さんがこちらを向く。 私のことは嫌いでいい。だけど、鈴葉とは友達になってくれると助かる ………… お願いします 頭を下げると、メアはたじろいだ。 ……まあ、べつにいいけど あ、ありがとうございますっ……ぐす ……お礼はいいから、泣きやみなさい は、はい 鈴葉ちゃんは目元をごしごしとこする。 ……子供は、苦手なんだけどね 俺にしか聞こえない小さな声でつぶやいた。 俺から見たら、メアのほうが子供に見えるけどな ……眼科に行ったほうがいいんじゃないの 蒼さんや千波とも、仲良くしてくれるとうれしいかな そんなの知らない そういうところが鈴葉ちゃんより子供に見える。 じゃあお友達記念ってことで千波がメアちゃんと鈴葉ちゃんのツーショット撮ってあげるねっ あ、ありがとうございます…… 鈴葉ちゃんの気持ちを思うと、俺も反対できなくなった。 ……メア、いいか? いいんじゃないの 素っ気なく答えてから、メアは渋々と俺の背中から出てきた。 俺は千波にケータイを返してから、メアと鈴葉ちゃんを隣に並ばせる。 よ、よろしくお願いしますっ ……べつにそんな固くならなくても 照れくさそうにしているふたりは、同じ学校の先輩後輩にも見える(メアの服装とカマはアレだが)。 ……どうかしましたか 蒼さんが俺に横目を送っている。 心配そうな顔をしてますけど 実際、メアが写真に写るのかドキドキものだ。 あのメアって子、洋先輩の親戚かなにかですか? あ、今、名前で呼んでくれたな ……さっき鈴葉も呼んでいたので。それより、どうなんですか メアは親戚じゃない、友達だよ さっき本人が否定してたと思いますけど ……メアはひねくれ者なんだ。たぶん 蒼さんは無表情にメアを観察している。 めずらしいですね メアの格好か? いえ、先輩とメアさんが友達だとしたら、その関係が 歳の差が結構あるのに そうかもな メアの歳は聞いていない(教えてくれない)ので、実際どのくらい離れているかはわからない。 あ、あの、メアさんは何年生ですか? 死神は何年生でもないわ 学年がない学校なんですか? 死神は学校なんて通わないわ 通信教育ですか? 死神は通信教育なんて受けないわ す、すごいですっ ……そう? はいっ、義務教育を免除されるくらい優秀ってことですからっ ………… あ、メアがうれしそうだ。 まあわたしは死神だからね しかも自慢した。 ……アレ、なんのキャラクターになりきってるんでしょう メアをコスプレイヤーとして見ていた。 それじゃ撮るよっ、笑って笑ってっ、はいチーズ! カシャ。 千波さん、メアさん、ありがとうございましたっ どういたしましてだよ ………… メアは複雑そうだ。慣れていないといった感じ。 俺の元にとことこと寄ってきて、また背中に隠れてしまう。 ……まぶしかった 夜だからフラッシュはしょうがない なんだか疲れた お疲れさま、と言ってやった。 鈴葉ちゃん、ケータイに写メ送るねっ は、はい 千波、俺にも送ってくれ 了解だよっ 送られてきた画像を固唾を呑んで開いてみる。 メアは、写っていた。 照れ笑いを浮かべる鈴葉ちゃんの隣で、ぶすっとして立っている。 ……これはもう、確定でいいんじゃないか? メアは夢でも幻でもない、実在する。 ここにいる。 俺のそばにいるメアは、確かにいてくれるのだ。 ……ちょっと、頭を撫でる意味がわからないんだけど その感触を確かめようと勝手に手が動いていた。 鈴葉ちゃんのために写真に写ってくれたことの感謝も含まれていたかもしれない。 払いのけようとしないメアにも感謝する。 十回撫でたら一回串刺しプレゼント…… ポイント制みたくなってる!? 蒼ちゃんにも画像送るねっ、あとメアちゃんは…… メアってケータイ……持ってるわけないよな 悪かったね ぷっ、遅れてる ……この子だけは洋くんの次に刺す あくまで俺が最優先なんだな……。 メアちゃんにはあとでプリントした写真あげるねっ なら俺がやっとくよ お願いねっ ………… ねえねえメアちゃんって死神なんだよね? 千波が、俺の背中から顔を半分だけ覗かせているメアに聞いた。 ……そうだけど ヒバリ校の都市伝説の死神なんだよね? ……え、なに? ヒバリ校で、恋人の仲を引き裂く死神が現れるっていう噂が立ってるんだ そうなんだよっ、千波はオカ研メンバーのひとりとしてその謎に取り組んでる最中なんだよっ メアは、その謎の死神が自分だって思うか? メアの眉間にしわが寄る。 ……恋人の仲を引き裂くなんてのは知らない。わたしは、悪夢を刈る死神だから 隠している素振りはない。本当に知らないようだ。 悪夢を刈るって、なんなんですか? お兄ちゃんも前に言ってたよね ここで、千波は「あっ」と口に手を当てた。 そういえば、メアちゃんってお兄ちゃんの初恋の人にそっくりって…… げしっ! お兄ちゃんに蹴飛ばされた!? よけいなこと言うからだ ……歳の差を無視したこの関係はそういうわけですか くっ、変に邪推された! 初恋の人? なんでもないんだ 紳士に言う。 ……うさんくさい顔 この技はいずれ封印しよう。 あの……わたしの質問…… 悪夢は悪夢。人の記憶や想い出に起因する夢よ 遅れたが、メアが説明してくれた。 ……もしかして、それでメアなんて名乗ってるの? 一同はきょとんとする。俺も含めて。 めずらしい名前だと思ってたけど、ニックネームの類だったんだ え、そうなの? メアは答えない。むっつりのままだ。 蒼さん、なんでそう思うんだ? メアは、ナイトメアから取ってる。悪夢の英訳です あっ、それ千波も知ってる。夢を食べる馬だよね 夢を食べるのはバク。ナイトメアは悪夢を象徴するって言われてる黒い馬──夢魔のこと わあっ、蒼ちゃんオカルトに詳しいね ……星占いの過程で知っただけ 来年になったらオカ研に入れるねっ ありえない メアは俺の背中をぎゅっと握っていた。 メア…… なによ この名前、偽名なのか? 死神に名前なんてないわ メアのフルネームはすでに知っている。 天クルの入部届に署名してくれたからだ。 そこには『メア=S=エフェメラル』とあった。 メアちゃん、ほんとの名前教えたくないの? 死神に名前なんてない。ただ、それだと不便だから他人にはメアと呼ばせている。なにか問題あるかしら この年頃で変身願望はよくあること ……後ろからざっくりいっていい? よくないからな 俺はポケットから入部届を取り出す。 ここに書いてくれた名前はなんだったんだ? あなたがあんまりしつこいから書いただけ この名前もウソなのか? ……それよりも メアの表情が険しくなる。 それ、なんでまだ持ってるの なんでって? 天クルに出したんじゃないの。早いほうがよかったんじゃなかったの ……そういえば、まだメアには説明していなかった。 わたし、部員になったのよね いや、まだだ ……なんですって 待った待ったっ、鼻先に刃が当たってるから!? あなたが入って欲しいって言ったから書いたのにっ やんごとない理由があったんだよ! 一生懸命、名前考えたのにっ 一生懸命の方向が間違ってないか!? 入部届持って待ってたのに来ないしっ 土日はそれどころじゃなかったんだって! うるさい変態! カマの柄でどつかれた。 ……いくら初恋の人に似てるからって、こんな小さな子にまで手を出して 今のやり取りのどのあたりからそう解釈できるんだよ! きっと目がエロかったんだよお兄ちゃんっ はいチーズ 千波の目はつぶらだからフラッシュでつぶす必要はないよお兄ちゃん!? よ、洋さんっ、千波さんをいじめるのはいけないと思いますっ なんだか俺ひとりが悪者だ。 ……疲れた。もう帰る 待ってくれ、俺に弁解くらいさせてくれ このままだと俺が変態で終わってしまう。 あのな、夏休み中の入部って認められないんだ。部活を管理してる生徒会が休みになるらしくて メアから入部届を受け取った昨夜に、すぐにこさめさんに電話をして姫榊にかけ合ってもらったのだが、あえなく一蹴されたのだった。 今、夏休みなんだ ああ。今日から入ったんだよ 今日って火曜日よね そうだな あなたが土日に取りに来れば間に合ったのよね まさしくそのとおりです。 ……やっぱり帰る すぐに入部できるようにするから。機嫌直してくれ 屋上の使用についてもうやむやになっているので、姫榊とはもう一度はっきり話をつけないと。 その際に、メアの入部も頼み込もう。 じゃないと屋上が使用できても、メアを連れていくことができない。 なにはともあれ、姫榊には借りばかりが積もっていく。 わたし、入部できるの? ああ。必ずそうなる。そうなるようにする ………… メアちゃんも天クルに入るんだ? ……べつに 小学生が入れるとは思わないけど ……小学生じゃない。それにあなたは洋くんに対しては敬語なのに、なんでわたしに対してはタメ口なの これでも年上への礼儀をわきまえているから だったらわたしにも礼儀をわきまえなさい この年頃で背伸びはよくあること ……洋くん、わたしもう我慢の限界かも そ、そうだメア、蒼さんが望遠鏡貸してくれるってさ 全員にウインクして合図を送る。 (友達なんだしみんな仲良くしてやってくれ!) (……なにやってるんでしょう、ウザ) (ゴミでも入ったのかな) 通じやしねえ。 お、お姉ちゃん、メアさんと一緒に望遠鏡使わせてもらっていい? 鈴葉ちゃんが女神のような提案をしてくれた。 望遠鏡は三脚で固定されて置いてある。蒼さんが組み立てたのだろう。 お姉ちゃん、いいかな? ………… 蒼さんは見るからに困っている。 嫌なら、無理する必要ないわ ……誰もそうは言ってない わたしには、その子供にどうやって断ろうか考えているようにしか見えなかった ………… お姉ちゃん…… ……ごめんね、鈴葉 そうつぶやいて頭を撫でた。 鈴葉ちゃんの頼みも断るほど、あの望遠鏡は蒼さんにとっては特別なのだ。 ……悪い、メア あなたが謝ることないわ。謝るとしたらあの失礼な子のほう ……謝る。鈴葉の友達になってくれたのに、ごめん 本当に謝るとは思っていなかったのか、メアはうめいて後ずさった。 ……本当に、みんなバカバカね 千波はバカじゃないよねっ あなたはバカうるさいからバカ あははっ、メアちゃんっておもしろーい めげない千波に対しても後ずさるメアだった。 ……洋くん 帰るのか? うん なんか、悪かったな べつにいいったら あ、あの、また会えますか? ……会おうと思えば、会えるんじゃないの 素っ気ない答えでも鈴葉ちゃんは満足のようだった。 次は、一緒に星見しような 期待しないで待ってる そうしてメアはきびすを返し、計ったように夜空の星が瞬くと、そのまま消えた。 俺には見慣れた光景、千波は二度目の目撃だろう。 ……え? あ、あれ? だが蒼さんと鈴葉ちゃんは初めての体験だ。 今、消えたような…… 蒼さんは目をこすって、メアの姿があった空間を凝視する。 そこにはもう星明かりだけが満ちている。 メアさん、足速いんですね ………… 鈴葉ちゃんは現実的に解釈したようだが、蒼さんは難しい顔をしていた。 ねえねえ、結局メアちゃんって都市伝説の死神じゃないの? 本人は否定してたな じゃあ新種の死神かなっ、それとも宇宙人かなっ 蒼さんはどう思う? ……マスコミに売れば金になるかも そういう答えじゃなくて!? いったい、彼女は何者ですか? 俺も知らない。誰も知らないんじゃないか 千波的には宇宙人がベストだよっ め、メアさん、宇宙人なんですか? 実は千波も宇宙人なんだ そうだったの!? おまえが信じてどうする。 蒼さん、さっき言ったのって本気か? マスコミに売る? ああ やめておきます。そんなことをしたら、先輩に恨まれそうですから 千波は、メアが宇宙人だったら捕まえるのか? ううんっ、親睦深めてお友達になって果ては家族になったのちにお願いしてUFOに乗せてもらいたいなっ 鈴葉ちゃんは? え、えと、メアさんはお友達ですから…… 鈴葉ちゃんは、ケータイの液晶に映った画像を大事そうに見つめていた。 改めて思う。死神だろうと宇宙人だろうと関係ない。 メアが夢でも幻でもなく、そこにいてくれるのであれば。 俺は、これからも友達であり続けることができる。 補習二日目、無事終了だね~ はあ…… ……また落ち込んでるし。あんまりそういう態度取ってると、嫌味に思われちゃうよ 自分は本来補習なんて受ける人間じゃないー、みたいな ああ、いや、そういうわけじゃなくて ほんとかなあ 補習はいいんだ。ひとりだったら泣けるけど、明日歩もいるしな どうせあたしも補習だよっ おかげで助かってる なんだよそれ~! 明日歩と一緒だと、嫌なこともそんなに嫌じゃなくなるからな ムードメーカーの効能だ。 俺の言葉をどう取ったのか、明日歩は赤くなっていた。 それにさっきは落ち込んでたんじゃなくて、考え事してたんだ な、なに考えてたの? どうやって姫榊を説得するか むー あっさり不機嫌になる。 千波とはまた違うかたちでころころ変わる表情は、見ていて飽きない。やっぱりムードメーカーだ。 俺さ、昨日姫榊に会って話したんだよ。屋上の使用許可を求めたんだけど ダメだったんだ? ああ。難航しそうな気配だった そりゃあね。こももちゃんだし ただ、姫榊ってマジメだからさ、こっちが真剣に頼めばいつかうなずいてくれると思うんだよ そうかなあ ああ なんで断言できるんだろ 姫榊を見てればわかる むー でもな、困ったことに、その何度も頼み込むっていうのが案外難しいんだ 夏休み中だし、こももちゃんに会う機会ないもんね 直接家を訪ねるのも気が引けるんだよな 姫榊だって予定があるだろうし、あまり迷惑はかけられない。 電話は? 番号がわからない。こさめさんも教えてくれないし こももちゃんがストップかけてるんだろうね。こさめちゃん、こももちゃんの味方だから こさめさんが姫榊を説得してくれるかもしれないけど、やっぱりこっちからも働きかけないとな 登校日にはこももちゃんに会えるんじゃない? できればそれまでに話をつけておきたいんだ 登校日には生徒会にミーティングを開いてもらって、正式な許可をもらいたいのだ。 そういえば洋ちゃん、こさめちゃんとこももちゃんの住所知ってるんだね ああ。神社ってのは予想外だった 行ってきたんだ? 姫榊の母親と偶然会ってさ。そのまま成り行きでな 万夜花さんだね。豪快な人だよね~、昔はレディースだったって聞いたことあるよ 元ヤンですか。 万夜花さん、ヒバリ校の天文部員だったんだってな あ、そうなの? ああ。天クルの話したら、懐かしいって言ってたぞ へえー、天文部ってどんな感じだったのか、あたしもいろいろ聞いてみたいな 夏祭りのときにでも聞けるかもな そうだね。神社が夏祭りの会場だもんね。楽しみだな~ 夏祭りっていつ頃なんだ? えっと、来週の土曜からだから…… 八月四日か うん。四日から七日までの四日間だよ その日なら、祭りついでに姫榊に会えそうだな 登校日前だし、時期的にも問題ない。 会えるとは思うけど、あんまり長くは話してる暇ないんじゃないかな。いろいろ仕事あるだろうし それもそうか。なんと言っても姫榊は巫女なのだ。 洋ちゃん、変なこと考えてない? 考えてない あやしいなあ 姫榊の神社は夏祭りのバイト募集してるのか考えてただけだよ そうすれば姫榊と話せる機会が増える。出店はほかの管轄らしいが、手伝える仕事はあるだろう。 やっぱり~! それじゃお祭り一緒に回れないじゃないっ、ただでさえこさめちゃんもいないのに~! こさめさんも巫女するのか そうだよ~! 姉妹なのだから、当然と言えば当然だ。 だからこさめちゃんはしょうがないけど、お祭りは天クルのみんなで回るんだからね 副部長のお達しとあっては従うしかないか。 まだ蒼さんを部員のみんなに紹介してないし、一度くらいみんなで集まりたいじゃない 部として認められた終業式の日は、連絡網を作りはしたが、蒼さん本人は部室に来ていない。 蒼さんの代わりに、千波がケータイの番号とアドレスを教えてくれたのだ。 お祭りが終わったら、こさめちゃんも入れてあたしの喫茶店で打ち上げしたいね~ 明日歩が楽しそうに話すので、俺も自然とうなずいていた。 こんにちは、小河坂さん ミルキーウェイでバイト中、こさめさんが来店した。 いらっしゃい。今日は一名様? はい。姉さんも誘ったんですけど、あえなく断られてしまいました こさめさんを席に案内すると、明日歩が水を運んでくる。 こさめちゃん、おひさしぶり~ まだ二日ぶりですけどね ご注文はいかがいたしますか? いつものメニューでお願いします カルヴァリの十字架ですね。かしこまりました~ オーダーを取ると、明日歩は厨房に入っていく。 実は、こっそり十字架を集めているんです お子さまランチの旗を集める感覚らしい。 女の子だな それは女性蔑視と取ってよろしいんですね いや取らないでくれ はい、小河坂さんはそんな人じゃないですものね 調理の仕事はマスターと明日歩に任せている。俺が担当する皿洗いと席の片付けは今のところなさそうだった。 座りませんか? 今日も小河坂さんに用があって来たんです じゃあ、少しだけ 明日歩が厨房にいる間は俺が接客担当だ。新しく客が来るまで、こさめさんのお相手が俺の仕事になった。 小河坂さん、今週末はなにかご予定がありますか? 特にないな。補習は金曜で終わるし、バイトも基本平日だけだし では、わたしたちと一緒に海水浴に行きませんか? 突然の申し出だった。 お母さんがですね、ひさしぶりに詩乃さんにお会いしたいそうなんです なるほど、納得だ。 ふたり、同じ天文部員って言ってたもんな はい。ですから詩乃さんと、よければ千波さんも一緒に、雲雀ヶ崎のビーチで羽を伸ばしてみませんか? わかった、聞いてみるよ 土曜日と日曜日、どちらがいいか確認を取ってもらえると助かります それも聞いてみるよ ありがとうございます そっちも家族で? はい。お父さんは、病院の仕事がいそがしいので無理ですけど へえ。父親は医者なのか はい。変わってますよね、母は神主ですし 俺はカッコいいと思うけどな 男の子ですね それは男性蔑視と取っていいと 小河坂さんはわたしをそんな目で見ていたんですね、しょんぼりです ……どうもこさめさんには敵わないな。 じゃあこさめさんと万夜花さん、あとは姫榊が来るのか はい。よろしくお願いします 思わぬところで機会ができた。 詩乃さんの予定が立てば、みんなで海水浴。姫榊とも天クルについて話せるだろう。 お待たせしました~、こちらカルヴァリの十字架になりま~す! 明日歩が料理を運んできた。 明日歩さん、お話があるんですけど、いいですか? うん。あたしもちょっと休憩~ トレーを抱いて席に座った。 明日歩さん、今週末はなにかご予定がありますか? 明日歩も誘うようだった。 店のお手伝いくらいかな。昼間と夕方だけ では、お母さんの言葉をそのままお伝えしますね 万夜花さんから? はい。明日歩さんと、明日歩さんのお父さんへの言づてです こさめさんはコホンと咳をしてから、 土曜か日曜、どちらかを休業日にして私に付き合え、だそうです ……休業日って やけに強引だな…… なにかあるの? はい。海水浴のお誘いです。小河坂さんもお誘いしてるんですよ わ、ほんと? いくいく! 即決だ。俺もそうだったけど。 明日歩さんだけじゃありませんよ。明日歩さんのお父さんもお誘いしているんです ……なんでお父さんまで お母さんからのお誘いなんですよ あ、万夜花さんってお父さんと知りあいなんだよね。たまに喫茶店に来てお茶はしてたけど 俺は初耳だった。 その口ぶりからすると、小河坂さんだけじゃなく、明日歩さんも知らなかったみたいですね なにが? こさめさんは楽しそうにくすっと笑った。 実はですね、明日歩さんのお父さん──総一朗さんは、お母さんと詩乃さんが天文部に入っていた頃の部長さんだったそうなんです 俺と明日歩はぽかんとする。 ですからこのお誘いは、天文部のOB会を兼ねているんです。わたしたち子供はオマケみたいなものですね ……それは、なんていうか 世間って狭いんだね…… まったくだ。 お父さん、やっぱり昔から天文に興味あったんじゃない…… 明日歩が独りごちる。 あ、じゃあマスターも天体観測とかするのか ……えっと いらっしゃい、明日歩のお友達のこさめさんだね 明日歩が答えづらそうにしていると、マスターがアイスティーを持って登場した。 あれ、まだ食べていないんだね はい、用事があったもので。マスターにも なんだい? お母さんからの伝言があるんです ああ、急に胃の調子が ……あの、わざとらしく帰ろうとしないでください どうせロクでもない伝言だと思うとね マスターと万夜花さん、ふたりの関係を垣間見た気がする。 マスターは今週末、ご予定はありますか? この喫茶店でのんびりしてるよ どちらかを休業日にできますか? ……いきなりだね。さすがに難しいかな しないとお母さんが直接説得に来る手はずになってます 明日歩、土日は休業だから手伝いも休みだ やった~! それでは小河坂さんも、詩乃さんのほうをよろしくお願いしますね 天文部の部長だったわりに、万夜花さんのほうが力は上のようだった。 ……天文部のOB会? はい。万夜花さんのお誘いなんです 夕食後、詩乃さんに喫茶店でのことを説明した。 それでですね、土日のどちらかにみんなで海水浴に行かないかってことなんですけど 誰が参加するかは聞いてる? ええと、姫榊一家と南星一家と、あと俺たち小河坂一家と…… 今日も夕飯を一緒していた蒼さんと鈴葉ちゃんに視線を振る。 ほかにも友達を誘っていいって ……わたしたちもですか? ああ。多いほうが賑やかになってうれしいそうだ 蒼さんは特に答えず、行儀よくお茶を飲んでいる。 急にOB会なんて言うから、雲雀ヶ崎を出た人たちまで集まるのかと思ってびっくりしちゃった 天文部員が詩乃さんたち三人だけとは思えないし、OB会というのは語弊があるか。 万夜花さんのことだから、本音は夏祭りの準備でいそがしくなる前に、ぱーっと遊びたくなったのかもね 詩乃さん、土日は平気ですか? そうね、仕事にもまだ余裕があるし 承諾を得られた。 先方の都合を考えると、土曜日のほうがいいかもしれないわね。日曜日にゆっくり休んでもらって、月曜日から夏祭りの準備に取りかかれるでしょうし じゃあそういうことで、あとで連絡しておきますね ねえねえお兄ちゃん、千波も行っていいの? ああ、むしろせっかくのお誘いだし来てくれ わーい! それで、よかったら蒼さんたちも…… 遠慮します え…… あ、ううん、鈴葉は行っていいから 蒼ちゃんも一緒がいいなっ 遠慮するって言った お姉ちゃんも一緒がいい…… 蒼さんは辛そうにする。 じゃあ明日はみんなで一緒に水着見てこようねっ 死ねばいいのに そ、そんなこと言っちゃダメだよっ 蒼さんは鈴葉ちゃんの頭を撫でて誤魔化した。 蒼さん、土日はなにか予定あるのか? ……特にないですけど じゃあさ、天クルのみんなも呼ぶつもりだし、顔合わせってことで来てくれないか? 夏祭りよりも一足先に、蒼さんを紹介できそうだ。 蒼さんは沈黙を守っている。 衣鈴ちゃん、一緒に来ない? ……詩乃さんがそう言うのなら。日頃ご迷惑をかけてますし そんなのは関係なしに、みんなで楽しみましょう 蒼さんは渋々とうなずいた。 これで蒼さん、鈴葉ちゃんの参加も決まった。 岡泉先輩は明日歩が連絡する手はずになっているし、雪菜先輩はこさめさんが担当している。 こさめさんいわく、雪菜先輩を誘うのは難しいかもしれないとのことだったが。 雪菜先輩とは、ここ最近会っていない。 テスト期間中も部室には一度として顔を出していなかった。 もともと幽霊部員の彼女は、去年の学園祭ですら出し物を手伝わなかったらしい。 協調性がないというよりは、ほかにやるべきことがあって一緒にいられないとはこさめさん談だ。 じゃあなぜ天クルに所属しているのか。 理由は知らなかった。 お兄ちゃん、千波のお友達も呼んでいい? 物思いに耽っていたせいで、反応が一瞬遅れる。 ……いいけど、誰か呼びたい人でもいるのか? うんっ、オカルト部長 却下 なんで!? 脊髄がそう答えたから それ脊髄反射だよっ、お兄ちゃんオカルト部長のこと嫌いなの!? そんなことない、飛鳥は友達だし なら反対する理由ないでしょっ たしかにそうだ。というかなぜ断ったのか自分でもわからない。 千波はなんで飛鳥を誘いたいんだ? 雲雀ヶ崎のミステリーを解くっていう志を共に抱く同士だからだよっ 却下 志まで否定されたくないよ!? ……要するに洋先輩はシスコンなんですね なぜそんな解釈になるのかはなはだ疑問だ。 洋ちゃん、意地悪しないで誘ったらいいんじゃない? ……詩乃さんがそう言うなら わーい! 詩乃さんありがとー! ……詩乃さんには誰も敵わないんですね 女王さまみたいでカッコいいですっ あらあら それが小河坂家の家主であるということなのだ。 今日も今日とて展望台におもむく途中、飛鳥に電話した。 『海水浴はいいけどよ、近いうち夜に千波ちゃん借してもらうからな』 いつか来る話題が、やぶ蛇となって訪れた。 ……本気でヒバリ校の張り込みするのか? 『ああ。校舎に現れた死神は蒼さんだって話だけどよ』 飛鳥には蒼さんの事情を話している。 調べていればいずれ行き当たるだろうし、千波と違って飛鳥なら分別をわきまえてくれると思ったからだ。 飛鳥は、蒼さんについてはとやかく調べないと約束してくれた。 『でも、都市伝説のほうの死神の噂は、蒼さんが入学する前からあったんだ』 『それに、展望台に現れるメアって子が都市伝説と無関係を主張してるなら、展望台はシロになる。となれば現場はヒバリ校が最有力だろ』 噂の広まりようから考えても、飛鳥の意見には同意せざるを得ない。 ヒバリ校だったら、夜じゃなくてもいいじゃないか 『死神が昼間に現れるんなら目撃情報のひとつもあるだろ。ゼロってことは、人気のない時間帯ってことなんだよ』 目撃情報がゼロだったら、そもそも噂なんか立たないんじゃないか? 『現に立ってるってことは、在校生じゃなくて卒業生にいたんだよ。夜に見たってやつが』 ………… 『なんだよ、不満そうだな』 ……まあな 『千波ちゃんを借りるからな』 ダメだ 『べつに千波ちゃんを取って食うつもりなんてねえよ。おまえ、妹に対して過保護すぎるんじゃねえか?』 そんなことはない 『頭ごなしに否定するだけじゃ説得力ねえけどな』 とにかく、夜の校舎なんて危険だろ? 警備員に見つかったらどうするんだ? 『そんなの百も承知だろーが、今さら議論する気はねー』 千波ってあんな感じでうるさいだろ、騒ぎ立ててソッコー捕まるぞ 『なあ小河坂、むしろそうやって抑えつけてると、千波ちゃんひとりで校舎の探検に乗り出すんじゃねえか?』 その可能性は否定できなかった。 『心配ならおまえも付いてくればいいだろ』 ……わかったよ 『やっとお許しが出たか。面倒な兄貴を持った千波ちゃんに同情するぜ』 そのセリフはむしろ俺にかけてくれ 『海水浴は土曜だったな』 ああ 『夜の張り込みはそのあとだな。それまでオレは、夏休み中でも部活来てる連中に地道に聞き込みでもやってるさ』 なにかわかったら教えてくれよ 『なんだよ、結局おまえも興味あるんじゃねえか』 そういうわけじゃないんだけどな 気にならないと言えばウソになるだけだ。 メアと都市伝説の死神が本当に無関係なのか、それを示すのは今のところメア本人の言葉しかないのだから。 ……海水浴? ああ。今度の土曜にみんなで行くんだけど そして俺は、昨夜撮った鈴葉ちゃんとのツーショット写真を手渡したあと、メアも誘ってみることにしたのだった。 メアも一緒にどうだ? いや そんなすぐ断らないで、考えてみてくれないか ………… 行くかどうかを悩んでいるのか、それとも断り文句に悩んでいるのか。 メアは、海って見たことあるか? ここから見えるじゃない。真っ暗だけど 入ったことは? ……ないけど きっと驚くぞ。海の水がしょっぱいことに仰天するぞ それくらい知識として知ってるから 友達みんなで海水浴に行くんだけどさ ふうん メアも行くんだけどさ 勝手に断定しないで 明日、千波たちが水着を見にいくらしいんだ。よかったらメアもどうだ? いや メアの水着姿、見てみたいんだけどな ……変態 お子さま相手に欲情なんかしないって 刺していい? 欲情して欲しいのか? そ、そんなわけないでしょっ おマセさんだな うるさい変態くんっ 振り下ろされたカマをさっとかわす。 甘いな、そろそろおまえの技は見切ったぞ? 見切ったはずのメアの姿が消えていた。 ……あれ? まさか帰ったのか? がこんっ!! いてえ!? 脳天に衝撃が来た。 今夜のあなたもバカバカね 背後に振り向くと、そこにメアが立っている。 な、なんだ今の? 後ろに回ってカマの〈柄〉《つか》でたたいただけよ じゃなくて、瞬間移動でもしたのか? ううん、消えてすぐ現れただけ そんな芸当までできるのか。 今夜は星明かりが不安定だから 夜空を見上げてつぶやいた。 気になってたんだけど、いつも星明かりが少なくなるとメアって消えるよな うん どういう原理なんだ? そんなの知らない 知らないのにできるのか? そんなものでしょ。あなただって二足歩行の仕組みを知らなくてもできるんじゃない? そのとおりだ。 メア、泳ぎはできるか? そんなの知らない 知らなくても、メアならきっとできるんだろうな ……そうかな ああ。できなくても、俺が教えるぞ ………… 海水浴、考えてみてくれよな ……しょうがないから、考えてみてあげる その言葉だけでも充分だった。 晴れて補習は終了した。 するとようやく夏休みに入ったのだと実感する。 天気もまた絶好の海水浴日和であり、羽を伸ばせと言わんばかりに強い潮風が俺たちを出迎えてくれる。 洋ちゃん、お待たせ~ パラソルの日陰で待っていると、海の家で水着に着替えた明日歩が一番乗りでやって来た。 ありがとね、荷物番してもらって こういうのは準備が簡単な男の役目だろうしな 向こうではマスターがシートに寝そべって、詩乃さんと万夜花さんの到着を待っている。 といっても大人たちは水着に着替えるわけではなく、詩乃さんと万夜花さんは単にドリンクを買いにいっただけだ。 お父さんたち、今日は泳がないんだって。なにしに来たんだろうね 積もる話があるんだろうし、海水浴ってのはそのための口実なんだろうな そんなんじゃ、エメラルドグリーンの海が泣いちゃうね。海水がさらに塩っぽくなっちゃうよ このビーチは、雲雀ヶ崎から隣町にかけて広がっている。 俺たち雲雀ヶ崎の住民にとっては、車や自転車を使えばあっという間の距離だ。 俺たちは時間を決めて、現地集合したわけだった。 ほかのみんなは? こさめちゃんたちは着替え中だよ。まだ来てないのは岡泉先輩と、飛鳥くんと、あとは蒼さん姉妹かな 雪菜先輩は? 来られないって。こさめちゃんが言ってた 明日歩の言葉は残念というよりは、予想どおりといった感じ。 俺は周囲を見回す。夏の定番ということで、ビーチはそれなりに客が見受けられる。 その中に、メアの姿は見つけられなかった。 結局メアは海水浴に来ると確約してくれたわけじゃない。考えておくと言われたきりだ。 まあ集合場所は教えたので、気が向いたら姿を見せるんじゃないだろうか。 ひとつ心配なのは、俺は一度も昼間にメアと出会ったことがないということ。 幽霊の類ではよくあるように、夜にしか現れないなんてことはないと思うのだが。 これまで夜の展望台でしか出会わなかったのは、メアが星見に来ていたからだと思うし、そんなオカルトな理由じゃないと信じたい。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 情緒ある潮騒など完膚無きまでに消しつぶしてくれる我が妹の登場だ。 見て見てお兄ちゃんっ、千波のおニューの水着だよっ、かわいいでしょセクシーでしょお兄ちゃんが望むならこの姿でエプロン着けたってお風呂入ってあげたってっ わかったから静かにしてくれ貧乳 うわーん!!! 会心の一撃がヒットした。 ……よし、勝ってる 自分の胸を持ち上げる明日歩には悪いが、千波と大差ないと思う。 あと、近くに俺がいることを忘れないで欲しい。 ふたりとも、雲雀ヶ崎の海はひさしぶり? はいっ、小学生のとき以来です あたしもひさしぶりなんだよ~。小学生の頃は友達とよく遊びに来てたんだけどね 俺は初めてだな ……え? そうなの? ああ。めずらしいとは思うけど 俺は、明日歩や千波が言ったように、友達と海へ遊びにいくなんてことはなかった。 遊びの誘いはすべて断り帰途を急ぐ。 夏休みも家から出ることは少なかった。 それが俺の小学校生活だった。 洋ちゃん、雲雀ヶ崎の海はどう? 俺の気持ちを察してなのか、明日歩はそう聞いた。 俺は自信を持って答えられる。 最高に、ステキな場所だ 陽光を乱反射する広大な海面は、あたかも展望台で見上げる満天の星空のよう。 だから、この場所は最高なのだ。 皆さん、お待たせしました 今日も暑いわね……。冷房の利いた部屋でのんびり過ごしたかったわ 姫榊姉妹も集まった。 四人もそろうと色とりどりの水着で囲まれてしまい、なんというか落ち着かない。 洋ちゃん、鼻の下 言いがかりはよしてくれないかな 紳士を装うつもりが無実を装う犯罪者風になる。 わたし、姉さんの水着姿が間近で見られて感無量です 冗談でも誤解されるようなこと言わないでっ ……このふたりに負けてるのは知ってたけど、悔しい 胸を持ち上げないでください。 小河坂くん、もう少しそっちにどけて 場所を空けると、姫榊がパラソルの日陰でうつ伏せに寝そべった。 暑いの苦手か? 暑いのも寒いのも苦手、だから飲み物取って わがままお姫さまだ。 姉さん、その体勢だと小河坂さんにオイルを塗って欲しいみたいに取られますよ そんなハレンチなことやっちゃダメだよ洋ちゃん~! ……ハレンチって。 南星さんに言われなくてもさせないわよ 俺だってしたくない なんでよコガヨウ ……怒る理由がわからん ふん 女のプライドではないでしょうか? いちいち解説しないでっ、お仕置きするわよっ はいっ、わくわく お兄ちゃんお兄ちゃんっ、なんなら千波の背中に これでいいか? ラムネは塗るものでも浴びせるものでもないよお兄ちゃん!? ……彼女が小河坂くんの妹の千波さんね。ふたり、あまり似てないわね そっかな。昔の洋ちゃんだったら千波ちゃんと正反対だけど、今はそっくりだと思うよ 見た目と性格は似てませんけど、雰囲気は似てますね ……あまり千波とバカやってると同類に見られてしまう。気をつけよう。 おはよう、みんな…… 続いて岡泉先輩がふらふらと歩いてきた。 ああ……この日差しは僕には強すぎる 先輩、ひ弱ですからね 水……水をくれぇぇ…… 瞳孔が開いてきたので、千波にかけて遊んでいたラムネを急いで渡す。 姉さん、ひとりでシートを独占していると岡泉先輩が干上がっちゃいます ……この人を怒らせるのだけは回避したいわね 姫榊がパラソルから出ると、岡泉先輩がそこに倒れ込んだ。 そんな無理するくらいなら、海水浴断ればいいような気もするけど なに言ってるんだよ。洋ちゃんが悪いんだからね なんでそうなる 洋ちゃんが言ったんじゃない。今日は、天クル新メンバーの顔合わせも兼ねてるんでしょ? そう言ってから、明日歩は天クルが部になったことを威張るみたいに姫榊を見た。 無い胸反らせてなに言ってるんだか まだ発展途上だもん~! 身長止まれば胸も止まるんじゃないの 身長だって伸びてるもん~! 1ミリ未満ね なんで知ってるんだよ~! ああごめん、それは胸の成長のほうだったかしら だからなんで知ってるんだよ~! 姉さん、生徒会役員ですから あー肩凝って仕方ないわ どうせあたしは肩凝るほど大きくないし中学から一度もブラのサイズ変わってないよ~! そのスレンダーな体つきもステキです…… こさめちゃんの百合相手はこももちゃんでしょ!? まったくもって男の肩身が狭くなる会話だ。 お兄ちゃんお兄ちゃんっ、千波のバストも発展途上っ これでいいか? ラムネかける意味がわからないし冷たいしベタベタして気持ち悪いよお兄ちゃん!? お、みんな集まって賑やかだな 飛鳥も到着し、これで残すは蒼さん姉妹のみだ。 もう集合時間だけど、来ないな 千波ケータイにかけてみるねっ 千波が連絡を取ったところ、今向かっている途中とのことだった。 蒼ちゃんが寝坊して遅れてるみたい もう昼過ぎなのに、よく寝てたんだな 千波も朝弱いけど今朝はちゃんと早起きできたよっ 千波は遠足の日に限って早起きする性質なのだ。 蒼さんたち、待ってたほうがいいかな? 明日歩はうずうずと海に入りたそうにしている。 蒼ちゃん、自分たちは気にせずどうぞって言ってたよ 大人たち三人はすでにパラソルの下で談笑中だ。俺たちは俺たちで楽しめということだろう。 それじゃ、お言葉に甘えるか ではでは、これより天クルの海水浴を開始しま~す! 宣言するや否や、明日歩は海に向かってすっ飛んでいった。 ていうか、わたしは天クルの部員じゃないんだけど オレも違うな 岡泉先輩、体調はどうですか? 日陰のおかげでだいぶ持ち直したよ 千波、泳ぐ前に準備運動しとけよ 抜かりはないよお兄ちゃんっ って、なんで誰もついて来ないんだよ~! 肩をいからせて戻ってきた。 明日歩、まずは準備運動が先だろ? えー えーじゃない 千波ちゃん、泳ぎは得意? はい、これでも体育は万年5ですから! それじゃあたしと沖まで競争しよっ 先輩だからって手加減しませんよっ ふたりは連れ立って走っていった。 ……おーい、準備運動ー 聞く耳持たずに海に飛び込んでしまった。 子供ね、まったく わたしたちはどうしましょう? ナンパでもすっか? しないって ガールハントは? 同じ意味だろ わたしたち、ビーチボールを持ってきてますよ それ、枕代わりじゃなかったんだ それでもいいですけど、せっかくですし わたしはトロピカルなジュースでも飲んでるわ 姫榊って運動苦手か? ……失礼ね、これでもわたしは文武両道よ 全員が海に入っていると蒼さんたちが来ても気づかないかもしれませんし、皆さんでビーチバレーでもどうですか? 海に入る前の準備運動にもなるし、俺は賛成 あんまり日に焼けたくないんだけどね バレーは対戦形式にしましょう。それならきっと盛り上がりますよ 飛鳥、やるか? これからウォッチングに行くつもりだったけど、しゃあねえな その首にぶら下げているカメラはなんだ。 岡泉先輩は……無理そうですね 僕は観戦しているよ そんなわけで、蒼さん姉妹を待ちがてら軽くビーチバレーをやることになった。 四人ですから、チームは分けやすいですね 誰と誰が組むんだ? この配置でいいんじゃない とすると俺&飛鳥VS姫榊姉妹の構図になる。 それだとオレらのほうが有利じゃねえか? 男女の体力差を考えるとな 小河坂くんは知らないけど、飛鳥くんの運動能力は並みじゃない。問題ないわ オレのこと知ってるのかよ、ほとんど面識ねえのに 生徒会役員だから こももちゃんって呼べばいいのか? それだけは絶対やめて! 試合前ですし落ち着いてください、こもも姉さん その呼ばれ方初めてなんだけど!? 姫榊、叫んで無駄に体力使ってると負けるぞ? ふん、ビーチバレーは体力よりも俊敏性と反射神経が重要じゃない この際、腕力も関係ありませんよね まあ競技用のビーチボールってわけじゃないし、スパイクしてもスピードはたかが知れてるからな だから男女の体力差も腕力差も、特に有利にはならない。 頼りにしてます、姉さん ま、適当にがんばるわ 負けたら相手チームから好き放題オイルを塗られる罰ゲームもありますし 聞いてないんだけど!? 小河坂、狙うのはこさめさんだ。話を聞くに運動神経は姉よりもずっと劣る 目の色変えて容赦なく勝ちに向かうおまえが夏の日差しよりまぶしいよ ルールは三点取ったほうの勝ち。それでは、サーブしますね ち、ちょっ、罰ゲームなんかやらないからね! 勝てばいいんです、姉さん 勝ってもメリットないじゃない! 若い男子の瑞々しい肉体を好き放題さわれますよ わたしそんな趣味ないから!? なんだ姫榊、あれだけタンカ切っといて自信ないのか? ……好き放題さわられたいんだ いやいやいやっ、そうじゃないだろ!? ほかの二人もさり気なく離れていくなよ!? 姉さん、ふたりであの変態を退治しましょう そうね、風紀を乱して問題起こされる前に これで全員やる気になったな、さすがはこさめさん 払った代償がとてつもなく大きいんだけど!? 勝ったらおまえにオイル券を譲ってやっから さも俺がさわりたいように言って傷口広げるなよ!? 姫榊姉妹が悶える姿をオレが写真に撮って売りさばくからよ、分け前は半々だ この変態どもには絶対負けない……! 怒りの形相を作る姫榊の後ろで、こさめさんの手からボールが上がった。 オレらも本気になるぞ! 俺は早く誤解のほうを解きたいんだけど! 小河坂、オレがレシーブすっからトスだ! くっ! 飛鳥のレシーブから俺のトス、そしてボールは飛鳥の頭上へと上がる。 恨みはねえが覚悟! 飛鳥のスパイクがこさめさんを襲う。 見え見えなのよっ! 姫榊がこさめさんをかばってダイビングボレーした。 ステキです姉さんっ いいから早くトス上げて! こさめさんがボールを上げると、姫榊は素早く立ち上がって助走する。 いけえ! 高いジャンプから、身をめいっぱい反り返す。 ……胸が突き出されてふくらみが半端ない。 充分にしなった姫榊の腕が振り下ろされる。 やあっ! カシャ。 なに撮ってるのよ!? 姫榊は空振った。 ああっ、一点向こうに入ってしまいました カメラのフラッシュで目くらましなんて卑怯でしょ!? 作戦どおり姫榊の胸揺れ写真をゲットだぜ、小河坂 俺が首謀者みたいに言うなよ!? さあ次もビーチバレーという名のウォッチングに勤しむぜ! 姫榊はカメラをはたき落として踏みつぶした。 相棒おおおおぉぉぉぉ────っ!!!! 無惨な死骸に泣きながら取りすがった。 さすがにキレそうだわ……。生きて帰れるとは思わないことね、コガヨウ さっきのあれは飛鳥の独断なんだって! こさめ、サーブして! 聞く耳持たず、こさめさんからボールが飛んでくる。 飛鳥っ、来たぞ! おまえのことは生涯忘れねえよ相棒…… カメラの墓作ってる場合じゃないだろ!? 飛鳥が役立たずになったので、一回で向こうにボールを返すしかない。 敵がひとりしかいない今がチャンス! 姫榊のレシーブからこさめさんのトスが上がり、それを目で追いながら姫榊が空を舞う。 これで同点! そんな反り返って水着が外れないか冷や冷やしながら、俺はレシーブの構えを取る。 穴になった飛鳥のスペースを狙うつもりだろう、撃ってきたらすぐにその方向へダイビングだ! もらったあ! 勝ったらわたしは男子の代わりに姉さんのお肌にオイル塗らせてもらいますね! 手ワキワキさせてなに言ってんの!? 姫榊は空振った。 ああっ、さらに一点向こうに入ってしまいました あなたのせいでしょっ!? しょんぼりです 帰ったらお仕置きだからね! はいっ、わくわく ちなみに俺のダイビングボレーは勢い余って飛鳥が作った墓の砂山に突っ込むだけで終わった。 相棒おおおおぉぉぉぉ────っ!!!! またも泣きながら取りすがった。 くっ、向こうにリーチかかっちゃったじゃない! ですが姉さん、飛鳥さんが戦力外となった今、敵は小河坂さんひとりです わたしには背後にも敵がいるような気がするけど…… 姉さんの背後霊さんは反抗期ですね あなたのことよ!? こさめさんのサーブで、ボールが俺の元に落ちてくる。 依然飛鳥が役立たずなので、普通に打ち返すしかない。 こさめっ、レシーブ! はいっ、姉さんトスをお願いします! 食らえ小河坂くんっ! わたしのスパイクが飛ばされています姉さん! あなた、わたしに比べると運痴だし空振りそうだから しょんぼりです…… ……仲が良いのか悪いのかよくわからん姉妹だよな。 なんとか姫榊のスパイクに食らいつき、ボールを上げる。 こさめっ、レシーブ! つーん スネてないでボール上げてお願いだから!? 勝ったらおさわりしていいですか? オイルでもおさわりでもなんでもいいから早くしてよボール落ちちゃう!? 小河坂さんっ、覚悟してください! こさめさんの瞳に炎が燃え上がり、絶妙なところにボールを浮かせた。 これでまず一点! させるか! 予想どおりスパイクは泣きくずれる飛鳥のスペースに飛んできて、すれすれでボールを拾うことに成功した。 こさめっ、もう一回レシーブ! つーん なんでまだスネてるの!? あ、あの……大切なお話があるんです。はしたないと思われるかもしれませんが、聞いていただけますか? こんな余裕のないときにどういう嫌がらせ!? できましたら、わたしがおさわりする際は、水着を脱いでいただけると大変うれしく…… できるわけないでしょ!? ……しょんぼりです こさめさんのやる気のないレシーブが、姫榊を越えて俺のところまで飛んできた。 チャンス! こさめっ、あとで覚えておきなさいよ!? ボールはちょうどスパイクできそうな軌道を描いて落ちてくる。 これで勝ちだ! させない! こさめさんを狙うのは読まれていたのか、俺のボールは姫榊に難なく拾われた。 こさめっ、トス上げて! 姉さんが水着を脱いでくれないんです…… わ、わかったからっ、人気のないところで三秒だけ脱いであげるから! その三秒のためならわたしは火にも飛び込めます……! こさめさんの瞳に再び炎が燃え上がった。 もうチャンスボールは飛んで来ないとなると、俺は満足にスパイクも打てなくなる。 勝っているとはいえこの現状ではジリ貧だ、なにかいい手はないものか。 なぜ勝ちにこだわるのかと言えば、姫榊をさわりたいのではなく逆にさわられたくないからだ。そんなのは恥ずかしすぎる。 現状打破を模索していると、トスを上げていたこさめさんと目が合った。 アイコンタクトを送ってみる。 (姫榊のオイル券あげるから俺に勝たせてくれっ、三秒と言わず無制限にさわっていいから!) スパイクの前に姉さんのビキニをこっそりほどけばいいんですね、オッケーです小河坂さん! とんでもない形で伝わる。 コガヨウ…… そこまで詳細に方法は考えてなかったから!? それじゃ大筋は当たってるってことじゃない! 今のうちに…… きゃああっ、本気でやろうとしないで! 姉さん、このままではボールが落ちてしまいます! 誰のせいよ!? 姫榊にスパイクする暇がなかったため、山なりのボールが返ってきた。 続けてチャンス! くっ! こさめさんを狙ったわけでもないのに食らいついた。姫榊の運動神経は想像以上に優秀だ。 こさめっ、ボールお願い! ああ、姉さん、ダイビングボレーの連続で珠のお肌がこんなに汚れて…… なんでしなだれかかってくるの!? 汚れた姉さんも垂涎ものです…… いいから早くボール拾ってよ!? 夏の熱気にあてられたんでしょうか……わたしもう我慢できません…… やああっ、水着脱がさなっ、だめっ、さわらなっ、はああっ、直接はだめえ……! ボールは無情に転がった。 ああっ、ついに三点取られてしまいました 俺たちチームの完封勝ちだった。 俺がガッツポーズを取っている間、姫榊は羞恥に涙ぐみながら乱れた水着を直していた。 こさめっ、いったいどういうつもりなの!? くわばらくわばら ちゃんと説明して!! 小河坂さんに……勝たせないと身体の隅々までオイル塗ってやるって脅されて…… コガヨウ…… 頼むから信じるなよ濡れ衣だから!? 脅迫は犯罪、よって罰ゲームは無効だからね! ……それが言いたかっただけ? 相棒……成仏しろよな…… 落ち込む飛鳥と、怒り狂う姫榊と、責められる俺を前に、こさめさんが満面の笑顔で言った。 海水浴って楽しいですねっ 結局、こさめさんだけが満足したビーチバレーだった。 フッ、こういうのを眼福と言うんだろうね ……もうひとり満足した人がいたか。 ……遅れました 小休止を取っていると、蒼さん姉妹がやっと到着した。 す、すみません、遅刻してしまって…… 鈴葉ちゃんが謝ることないさ うん。鈴葉は悪くない 鈴葉ちゃんの頭を撫でる蒼さんが悪いわけだが。 彼女が蒼クンだね。昔の面影が残っていたから、すぐにわかったよ 岡泉先輩がパラソルの陰から出てきた。 お久しぶりでいいよね ……よくありません。初対面ですし 覚えてないかな、科学館の天文クラブで一緒だった岡泉温土だよ ……岡泉 思い出してくれたかな たしか、科学館が閉館になるときにテロ未遂で捕まった人がそんな名前だったような それはきっと同姓同名の別人だね、僕がそんな過激な行為を働くわけがない いや、やりますから先輩なら。 昔のキミは無口だったけど、今はそうでもないように見えるね ……そんな変わってないと思いますけど あの頃にあったような拒絶の雰囲気が和らいだように感じるよ ……ウザい キミと普通に話せてうれしいよ 死んだらいいと思います ふふふ……ゾクゾクするよ 蒼さんは怯えていた。とりあえず普通に話せてはいないと思った。 入部届の名前を確認したときにも気づいたけど、あなた校内にタロットカードを持ち込んだ一年よね どちらさまでしょう ……シラを切るつもりね、来学期の持ち物検査は覚えておきなさいよ わかりましたこもも先輩 名前はべつに覚えなくていいから!? お、お姉ちゃんっ、失礼なことばかり言っちゃダメだよ…… 心配いりませんよ、ケンカじゃありませんから あ、はい…… こさめさんのフォローはこういうときこそ役に立つ。 ふたりはああ見えて仲良しなんですよ あ、は、はい だからその珠のお肌にオイル塗ってもよろしいですか? いやいやいやっ、それ全然つながってないから 誤解される前に言っておきますが、小河坂さんにオイルを塗るのもやぶさかではありませんよ? こさめさんの守備範囲は縦にも横にも広いんだな……。 明日歩と千波はどこまで泳ぎにいったのか、まだ戻ってこない。 飛鳥も二台目のカメラ片手にウォッチングと称してどこぞへと消えていた。 蒼さん、鈴葉ちゃん連れて泳いできていいぞ ……先輩は? ちょっと休んでる。さっきまでやってたビーチバレーが激しすぎてさ おかげで身体が火照ってたまりません…… ……あなたが言うと卑猥な意味に聞こえるわね 泳いでれば千波にも会うと思うし、一緒に遊んできたらいい は、はい。お姉ちゃん、いこっ ……願わくば会いませんように 鈴葉ちゃんと手をつないで、蒼さんは渋々と歩いていった。 ドリンクでも買ってこようか。みんなの分も一緒に あ、じゃあ お代は結構。バレーではおもしろいものを見せてもらったからね、お礼におごるよ 姫榊の顔が目に見えて赤くなる。 それじゃあ行ってくるよ 岡泉先輩の背中が遠ざかる。 うへへへぇぇ……このあられもない写真をネタに天クルの部費を大幅ゲットだぁぁ…… 姫榊がジェット機のごとく岡泉先輩を追いかけてケータイをはたき落として踏みつぶした。 ぼ、僕の三台目のケータイが…… 今度やったら先輩を踏みつぶしますからね! うな垂れて知恵の輪を始めてしまった岡泉先輩に、姫榊はフンと鼻を鳴らして戻ってきた。 ……おまえ、どれだけクラッシャーなんだよ どれもこれも正当防衛でしょ! 戦歴は岡泉先輩のケータイを三台、飛鳥のカメラを一台、千波のカメラを一台か…… 千波さんのカメラなんか知らないわよ ……あれは俺が踏みつぶしたんだった。 やっぱり天クルなんかを部にするんじゃなかったわね、風紀を乱すのが目に見えてるじゃない そんな目くじら立てないでください、クラッシャーこもも姉さん 呼び名が長くなってるんだけど!? 岡泉先輩のあれは天クルを想っての行動なんだよ、クラッシャー姫榊 リングネームみたいだからやめてくれる!? そこで、だ ぽんと手を打つ。 岡泉先輩を見習って、俺も天クルのために行動を起こしてみようと思うんだ ……嫌な予感がするわね ご名答だ。 屋上の使用許可、お願いできないか? 姫榊は嘆息する。 二学期まで待ちなさいって話さなかったかしら それじゃあ遅いって言ったと思うぞ あなた、ここまでくると天クル中毒者ね 天クル自体、天体中毒者の集まりみたいなもんだしな ジャンキー小河坂さんですね リングネームを付けられる。 登校日にさ、生徒会でちゃちゃっとミーティング開いてぱぱっと許可もらうだけでいいんだ そんな簡単に言わないで 姫榊なら簡単だ。俺が保証する 勝手に保証しないで お願いだ、この借りは必ず返すから すでに貸しがひとつあると思うんだけど それも含めて返すから その言葉に偽りは? あるわけがない 紳士に言う。 ふーん……貸し借りという名の取引ってわけね 姫榊はいやらしく笑んだ。 生徒会に入ってもらうくらいじゃ、借りを返したことにならないからね? ……理不尽な要求をされそうだ。 天クルを辞めろっていうのはナシだぞ 言っても辞めないんでしょ、そんな不毛なことしないわ 常識の範囲内で頼むぞ 愚問ね。それじゃあ…… わたしが用意しますね きゃああっ、なんで水着脱がそうとするのよ!? オイルを塗ってもらうんですよね? それでよろこぶのはあなただけでしょ!? 小河坂さん、やっちゃってください いやあっ、羽交い締めにしないで! ふたりして楽しそうだな…… やああっ、肩ヒモ外すなっ、み、見えちゃうっ、見ないでよ小河坂くんっ!! 誰も見ようとなんてしてな…… どがっ!! ぐあっ……顔面蹴るなよ!? 目がエロかった 見ないって言ってただろ俺!? ふん 微妙な女心というやつですね いいから放しなさいっ、暑苦しいっ ふー ふああっ、耳に息吹きかけないでえっ…… 小河坂さん、その気になりましたか? べつに…… どがっ!! ぐあっ……なにすんだ!? 見ないでよ! 見てないから!? 目がエロかった! 濡れ衣だ! こさめっ、いいかげん離さないとあとでひどいわよ! どんと来いですっ や、やあっ、ビキニずらすなっ、やだあっ、ほ、ほんとに見えちゃうからあ……! くくっ姫榊、見られたくなかったら屋上の使用許可を どがっ!! ぐあっ……ただの冗談だろ!? 〈性質〉《たち》が悪いにもほどがあるわよ!! 俺の性質より姫榊の足癖のほうが悪い。 わたしをこれ以上怒らせると取引自体やめるからね! ……こさめさん、放してやってくれ しょんぼりです なんだよ、もう終わりか? こさめさんの手から解放された姫榊は飛鳥が構えていたカメラをはたき落として踏みつぶした。 相棒おおおおぉぉぉぉ────っ!!!! また戦歴が増えた。 ……話を戻すけど、なに要求するんだ? 落ち込んでる岡泉先輩と飛鳥を慰めればいいのか? 自業自得のふたりよりこのわたしを慰めて欲しいわよ 大胆です姉さん…… そっちの意味じゃないでしょ! 頭でも撫でればいいのか? わたしは子供かっ 大人の女として扱った上で慰めて欲しいそうです あなたもうしゃべらなくていいから!? いきなり誘われても萎えるだけなんだけど どがっ!! ぐあっ……なんで踵で蹴りなんだよ!? ふん そろそろ鼻血でも垂れそうだ。 姉さん、結局なにを要求するんですか? わたしの仕事を手伝ってもらうわ ……ぽ 照れる意味がわからないのよ!? もしかして、生徒会の仕事か? いいえ 姫榊はいっそういやらしく笑う。 神社の仕事。わたしの代わりに境内の打ち水と掃除、よろしく わかった、やる ……やけに即決ね 登校日が来るまででいいんだろ? まあね わたしたちは夏祭りの準備がありますから、打ち水と掃除まではなかなか手が回らないんですよね それに夏は暑くてたまらないから だから打ち水するんだろ そうよ、お願いね 天クルが活動できるようになるなら、安いもんだ 取引成立? ああ あとでやめましたなんてのはナシよ そっちこそな 理不尽な要求じゃなくてホッとする。 屋上の使用許可、頼むぞ。打ち水と掃除の代わりに 誰もそれだけが要求とは言ってないけどね ……は? 要求はまだあるから ……じゃあもうひとつの要求ってなんだよ もうひとつ、とも言ってないけどね ここに来て姫榊にハメられたことを知る。 さっきのが一つめの要求でしょ。二つめ三つめ四つめ以降の要求は、まあ思いついたら教えるわ ちなみに登校日が来るまでめいっぱい働いてもらうから、そのつもりで これ以上ない理不尽な要求だった。 それと、これから先、わたしの命令を一度でも聞かなかったらこの話はなかったことになるから 要求から命令に変わってるぞっ じゃあ屋上の使用は諦める? そう言われては受け入れざるを得なかった。 洋ちゃん、こさめちゃん~。みんなも泳ごうよ~ 明日歩さんのご帰還ですね あれ、なんか洋ちゃん落ち込んでる。ていうかあっちで岡泉先輩、こっちで飛鳥くんも落ち込んでる ほんと、近頃の男子はだらしないわね 姉さんが言うと説得力がありますね 姫榊は明日歩と入れ代わりでパラソルの外に出る。 泳ぐのか? せっかくだしね。小河坂くんとの話もついたようだし、騒がしいのも来たことだし 誰のことだよっ 自分のことだってわかってるじゃない 姉さん、わたしもご一緒します ……海の中でまで妙なことしたらただじゃおかないわよ はいっ、わくわく なんだかんだで仲良さそうにふたりは歩いていった。 洋ちゃんも行こうよ~ 明日歩は休まなくていいのか? うん、まだまだ平気。夜までだって泳いでられるよ 元気だな 洋ちゃんも元気になろうよ~ 千波はどうした? さっき蒼さんと合流してたよ 蒼さんの願いは叶わなかったわけだ。 蒼さんの妹さん、鈴葉ちゃんっていうんだよね。かわいいね~ それに礼儀正しいし、千波と交換したいくらいだ 千波ちゃんだってかわいくて優しいじゃない。鈴葉ちゃんに泳ぎ教えてたし、あたしもあんな妹欲しかったなあ のしを付けて差し上げたい。 洋ちゃん、まだ休んでたいんだったらいいもの貸してあげよっか なんだ? ゴムボート。空気入れるから待っててね 片隅に畳まれてあったボートを広げ、ポンプをつなげて手で押していく。 これ使えば、休みながらでも一緒に海に入れるもんね でもさ、男の俺がボート乗って、女の明日歩が押すっていうのはちょっと…… いいのいいの。それ~ なんとも情けない配置で海上を進んでいく。 波が打ち寄せると飛沫が降りかかり、太陽に焦がされた肌に心地よい。 それ~それ~ そろそろ深くなってきたのか、明日歩は歩きから泳ぎに転向、そのままバタ足で押していく。 もうだいぶ進んだようで、周囲に人気がなくなってきた。 ……どこまで行くんだ? ん……このあたりでいいかな 基準でもあったのか、明日歩は泳ぎを止めて腕全体でボートにつかまる。 足、下につくか? うーん、つかないみたい ……大丈夫か? それ~それ~ 水をかけられた。 やめろっ、水がたまって沈むだろっ あははっ、洋ちゃん泳げないの? そうじゃないけど、転覆したら乗り直すのが大変だろ それ~それ~ 聞いちゃいない。 しばらく水かけにつきあっていると、明日歩は不意に周囲をぐるっと見渡した。 もう、完全に人影はなくなっている。 静かだね…… 銀にきらめく海面。宝石をまぶしたよう。 星空に浮かんでいる──俺たちふたりだけが独占している、そんな錯覚すら覚える。 それほどに、明日歩は俺を遠くまで連れてきた。 あたしもさすがに疲れちゃったかな…… 交代するか? ううん、と明日歩は首を振った。 ……そこ、乗っていい? やっぱり交代か 一緒に乗っていい? これ、ひとり用じゃないのか? そう答えるよりも先に明日歩は身を乗り上げた。 てっきり向こう側に背を向けて座るのかと思っていた。 だが明日歩の背中は俺の目の前にある。 俺の膝の間に身体がある。 ボートは狭く、そのため俺が腕を回せば簡単に明日歩を抱きしめられる格好だった。 ちょ、明日歩…… ………… 明日歩はなにも答えない。 明日歩の顔は見えない。 だから明日歩がどんな気持ちかわからない。 ボートが揺れる。 重心が偏っているせいで不安定に波打つ。 そのたびに明日歩と触れあった。 おたがい水着で露出が多いから、肌と肌が重なった。 明日歩…… ………… 波が打ち寄せる。 なのに潮騒は聞こえない。 心臓の音がうるさすぎて聞こえない。 あ、あはは…… 鼓動のみの世界で明日歩の声だけははっきりと届く。 あたしには、ちょっと早すぎたかな…… 段階、飛ばし過ぎたかな…… なんだろう、段階って。 一度ね、やってみたかったんだよ…… 男子と一緒にボート乗るの、やってみたかったの…… 男の家に迎えに来て、男の家に上がるのはまだ早くて。 だから、それを飛ばして男と一緒にボートに乗る。 その男とは、今のところすべて俺だ。 心臓、すごいドキドキだよ…… 段階とは、そのドキドキ具合なのだろうか。 い、嫌なら、言ってね……。すぐ降りるから…… 俺は乾いた唇からどうにか声を押し出す。 嫌ってわけじゃないけど…… そ、そう……? じ、じゃあ、このまま…… このままがいい…… ひときわ高い波が来た。 バランスを取らないと裏返りそうなほど揺れた。 ボートがかたむく。 落ちないためにはどこかにしがみつくしかない。 ないのだが。 しがみつく しがみつく できない 俺は必死にしがみつく。 その場所がまずかった、というか一ヶ所しかなかった。 目の前の小さな背中を抱きしめた。 ……ぁ 明日歩はぴくりと肩を揺らした。 だがそれだけだった。 姫榊だったら激怒するだろう、蒼さんなら死ねと罵倒するだろう、メアだったらカマで刺してくるだろう。 だが明日歩はなにもしない。 逃げようとも離れようともしない。 いい……から…… い、いいのか? だ、ダメ、だけど…………いいの…… よくわからない。 いや──なにもわからない、というわけでもない。 答えはひとつしかないのかもしれない。 波は、すでに過ぎていた。 なのにまだやわらかくあたたかい感触はこの腕の中にあり、だからこそ俺はどうすることもできず、いっそもう一度波が来てボートを転覆させてくれと祈っていた。 そして。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、見つけた──っ!! 突然の大声にふたりして飛び上がり、そのまま海にどぼんと落ちた。 ……この波はさすがに想定外だったぞ、千波。 できるわけない。 だってしがみつくとしたら、目の前の……。 きゃっ…… 波が過ぎた頃、ふたりして海に落ちていた。 その後に俺たちを探していた千波が来るまで、明日歩と一緒に転覆したボートにつかまっていた。 明日歩は赤くなったまま、ずっと無言だった。 詩乃さんがねっ、スイカ買ってきたからスイカ割りしようだってっ、だからお兄ちゃんのこと捜してたんだよっ ……あー、そうか ………… 陸に上がってボートを片付けると、明日歩はそそくさとパラソルの下に入っていってしまった。 その間、明日歩はうつむくばかりで会話もなかったが、少し時間が経てば普段の笑顔が見えるだろう。 似たようなことがあっても、明日歩はいつもそうだった。 明日歩先輩、顔真っ赤だけどどうかしたの? べつになんでもない お兄ちゃんも顔赤いけど日焼け? それよりスイカ割りするんだろ スイカ掲げて今にも千波の頭に振り下ろしそうだよお兄ちゃんっ、それスイカ割りって言わないよ!? ……なにやってるんですか、いったい えと、準備できましたけど 蒼さん姉妹も海から戻っていたようで、詩乃さんから受け取ったらしい棒とハチマキを持ってきた。 じゃあスイカは向こうに置いてくるか ねえねえ誰がスイカ割る? やりたい人いる? あなたが一番割りたそうに見える わたしたちは指示係ですね じゃあじゃあみんなの力を合わせて一発でスイカ割りを成功させようね! 千波、こんな感じでいいか スイカが砂に埋まって見えなくなってるよお兄ちゃんっ、早速チームワークを乱そうとするお兄ちゃんの頭をかち割りたくなったよ!? がんばれみんなー、とパラソルから声が飛んできた。 明日歩の応援だった。 その様子はいつものとおりで、俺は胸を撫で下ろした。 明日歩の近くには岡泉先輩も座っていて、興味深げにこちらを眺めている。 向こうのパラソルでは、詩乃さんら年長組も観戦していた。 それじゃ始めるよー、蒼ちゃん目隠しお願い! これでいい? 蒼ちゃん息が苦しいよっ、スイカ割りのハチマキは首じゃなくて目に巻くのが正しいんだよっ、千波窒息死しちゃうよこのままじゃ! 本当にありがとうございました お礼の意味を深く考えたくないよ蒼ちゃん!? そ、そんなことしちゃダメだよお姉ちゃんっ 鈴葉、私があなたの目を覚まさせてあげるからね 千波さんをいじめるお姉ちゃんなんかだいっ嫌い! ………… 蒼さんは顔を真っ青にしてくずおれた。 わ、私は……ただ鈴葉のためを思って…… 親の気持ちは子に理解されないものなんだよ、蒼さん……。 鈴葉ちゃん、ハチマキの後ろ結んでくれる? は、はいっ 千波の準備が整ったところで、海水浴では定番であるスイカ割りがスタートした。 千波さん、そのままです、そのまままっすぐです えと、こっち? ……まっすぐって言ってるのに、なんで左右にふらふらするの だって前が見えないからまっすぐがどっちかわからなくなってるんだよ! 足を前に出すだけでしょ…… えと、こっち? バックしてますっ、戻ってきてます千波さんっ ……前後不覚にもほどがある 前が見えないから前がどっちかわからないよっ、これはもうみんなの協力が不可欠だよっ、このままだと千波のスイカが暗闇の彼方に逃げていっちゃうよ! 千波、よく聞け 待ってたよお兄ちゃん! 箸を持つほうが前だ よけいわからなくなったよお兄ちゃん!? お、落ち着いてください千波さんっ ……鈴葉の言うとおり、落ち着いて聞いて 千波を助けて蒼ちゃん! 〈右舷〉《うげん》船首十五度二十メートル主砲〈旋廻〉《せんかい》ゼロ度〈仰角〉《ぎょうかく》三十五度発射撃沈目標沈黙オーケイ? 新米スイカ割り〈人〉《にん》の千波には荷が重すぎる暗号だよ!? 千波さん、それで合ってますっ、目標にちゃんと近づいてますっ 千波はやればできる子だったよ! ……ちっ ままならないものだな、蒼さん 早急に次の手を考えなければ…… スイカを持って逃げれば簡単なんだけどな ですがそれはエレガントではありません 嫌がらせの風上にもおけない最終手段だからな な、なんでふたりとも千波さんを助けるどころか足をひっぱろうとするんですか!? ふたりして鈴葉ちゃんの頭を撫でてごまかした。 みんなっ、指示がないよっ、千波そろそろ不安になってきたよ! このままあえて指示を出さずにいかにもみんな飽きて違うことやってますという状況を作り出すのはどうでしょう ただでさえ視覚を奪われて不安な千波の聴覚さえも奪うのか、蒼さんの容赦のなさに感涙だ では私は飲み物でも買ってきます そんなことするお姉ちゃんなんかだいっ嫌い! ち、千波さん、がんばって~ 妹のために慣れない笑顔で応援を始める蒼さんに感涙だ。 千波、バカなことやってないでそろそろ終わらせるぞ バカなことやってたのはお兄ちゃんたちでしょ!? 目標にはあと数歩ってところだ、ちょっと右にずれてるから左に修正かけろ こう? そっちじゃねえっ、茶碗持つほうが左だろっ そんなの千波は茶碗博士じゃないんだからわかるわけないよ! ち、千波さん、バックしてます戻ってきてます! が、がんばって~ 蒼さんの顔に大量の冷や汗が流れている。そろそろ無理な笑顔も限界のようだ。 もう聴覚に頼るな千波、逆効果にしかならないから それじゃみんなの協力を仰げないよ! 大丈夫、俺たちは信じてるから え…… 俺たちはいつでもおまえのそばにいる、だからおまえはたとえ視覚と聴覚がなくともなんの心配もいらないんだ お、お兄ちゃん…… おまえは自分の嗅覚だけを信じるんだ うんわかったありがとうお兄ちゃんって、千波は犬じゃないんだからできるわけないじゃないうわーん! それで合ってます千波さんっ、今目標に到達しましたっ えー、マジで…… 残念そうな声が聞こえるよお兄ちゃん!? 千波さん、棒を振り下ろしてください! が、がんばって~ 今こそみんなの力を結集するときだった。 やあっ! 千波はスイカをゴルフの要領でかっ飛ばした。 うわあ…… 千波さん…… なんでだよ…… 非難ごうごうだった。 手応えばっちりだよっ、みんなのおかげで千波は友情と努力と勝利をつかむことができたんだよ! その三原則をドブに捨ててくれた千波には、海まで飛んでいったスイカを回収してもらうことにした。 夕方になると俺たちは海の家で夕食を取る。 こんな大所帯での団らんは初めてなので、楽しくもあったが、落ち着かない気分にもなる。 俺は食べ終わると、一足先に海の家を出た。 ビーチの客はまばらになっている。 気温も下がってきたため、昼間は火傷するほどだった砂浜もぬるくて歩きやすかった。 これならシートの上に座る必要もない。 俺はそのまま腰を落とした。 橙色の海原を眺めていた。 水平線に沈む夕陽を、ただ黙々と見つめながら。 ………… ……なっ。 一瞬、視界に入った。 だがすぐに消えてしまった。 俺は立ち上がった。驚いたせいでそうするまでに時間を要してしまった。 彼女はビーチを出ようとしている。 俺は砂を蹴る。 走った。 そうするしかなかった。 うずくんだ。 だって、わめいているんだ。 過去の「僕」が急かすんだ。 同じ轍は踏むなと。 二度と手放すなと。 次に手放したら、もう取り戻すことはできないと。 ビーチを飛び出すと駐車場が迎える。 海水浴を終えた客が自家用車に乗り込んでいる。 車は列をなして通りに消えていく。 人も車も多かった。彼女の姿は見つけられない。 ……手放したのか? 俺はまた? いや、そうじゃない。 俺は彼女を忘れていない。 名前を忘れても存在は忘れていない。 覚えている。 だから大丈夫。 まだ猶予はある。 俺は、この想い出を手放す気などさらさらない。 そうしてビーチに戻ってきて。 座るとさっきよりも砂浜は冷たくて。 水平線に沈む夕陽も、半分以上が姿を消すと。 俺は一番星を探し当てた。 これが、海…… 雲雀ヶ崎の海…… 真っ暗じゃないのは、初めて見る…… そうして、今、太陽は完全に沈みきる。 だけど、陽は沈んでいるのに水平線は明るかった。 空も海も残らず夜に彩られても、そこだけは淡い光を宿していた。 それは世界を二分する残光。 境界線。 天上も地上も同じ色をしているけれど、それは決して同じ場所ではないという証。 これが…… どこか、そう、その光景はもしかしたら俺とメアの境界線を表しているのではないのかと、そんなふざけた考えまで浮かんでしまう。 それくらい、日没の風景というのは印象的だった。 これが、夜空に変わる前の、世界の色…… メア ……なに? 水平線までの距離って、どのくらいあると思う? ……すごく遠いんじゃないの どのくらいだと思う? ……百キロくらい? いや、五キロだよ 円とピタゴラスの定理を使って計算するとそんなもの。 ……頭でっかち 水平線は意外と近くにある。 こんなにも近くにある。 なのに、だっていうのに。 たった五キロなのに、俺たちは、あそこまではきっとたどり着けないんだろうな 俺はこれまで日没をまともに見たことなんてなかった。 都会に住んでいた頃も。 過去に、雲雀ヶ崎に住んでいた頃も。 はは…… ……なに突然笑い出してるの いや、なんかさ、もったいなかったなって なにが 都会はさ、海が近くになかったから、こうしてみんなで泳ぎに来ることはなかったんだ プールはあったけど、人が多くて満足に泳ぐことはできなかったんだ だけどさ、雲雀ヶ崎は違う 違ったんだ しかもこんなオマケまで見られるんなら、ほんと、子供の頃にも遊びに来るんだったなって…… ………… メアが口を開きかけたとき。 後ろから、たくさんの声が聞こえてきた。 わあっ、なにこれっ、こんなの見たことないよ! すっごくキレイ…… 日没なんて初めて見るかもね こんな風景があったんですね…… 写真に撮るのもためらっちまうな 冒涜のような気さえするね ずっと見てると、怖くなる…… うん…… 残光は徐々に弱まっている。 境界線が上下の闇に溶け始めた。 この光が消えてしまうのが惜しい。 憧憬にも似た小さな苦しみを受けながら、俺たちは最後までそこから目を離さずに見届けた。 それから詩乃さんの声が聞こえ、万夜花さん、マスターの声も続いた。 花火を持ってきたらしい。 メアの姿はいつしかなくなっていたけれど。 俺たちは、瞳に焼きついた水平線の残光に負けない光を、この砂浜に灯していた。 おはようございます、雪菜先輩 ああ。おはよう 海水浴、楽しかったですよ よかったじゃないか 雪菜先輩にも来て欲しかったです キミも知っているだろう、私はあまり雲雀ヶ崎の住民と関わりあいを持ちたくないんだ お仕事柄ですか ああ。今の仕事が終われば、私はここを去るからな 情が移ると、離れたくなくなるからですか? 美化すればそういうことだ 美化しないと? どうせ去る土地なのだから、私にとっては価値がない ………… 不満そうだな はい、とても不満です なら謝っておくさ お仕事は、いつ頃終わりそうですか? 可能ならすぐにも終わらせたいが、遅くともキミたちがヒバリ校を卒業するまでには終わらせたいものだ あと一年半といったところですね そうだな その前に雪菜先輩は卒業してしまいますね 私としてはそちらのほうがありがたいな それも、さきほど話した情が理由ですか? ああ 雪菜先輩のお仕事はとても暇そうですので、授業はいい暇つぶしになるんじゃないですか? そうかもしれないな 暇でしたら、天クルの活動に参加しませんか? 仕事でいそがしいから遠慮しよう ……矛盾してますよね 要するに口実ということだな 本人が肯定しないでください 私は、ヒバリ校に通うつもりはなかった。万夜花さんに言われなければ、ただ陰で機会を待つだけでよかったんだ 機会を待って、仕事を完遂できればそれでよかったんだ 母はそれをよしとしなかったわけですね いい迷惑だよ わたしは、母に感謝しています なぜ 雪菜先輩とこうして知りあいになれたからですよ 友達になれたからですよ ……私を無理やり天クルに所属させたのも、それが理由なのか はい 本当に、いい迷惑だな はい ……それで、私をここに呼び出した用件はなんだ? 雪菜先輩のご機嫌伺いですよ それだけではないだろう はい。雪菜先輩はもう知っていると思いますが、最近この展望台を訪れる人が多くなっています そのようだな。やっかいな展開になったものだ 雪菜先輩はその理由を知っていますか? いや。小河坂洋に関係していることはわかるが 彼を中心に、皆さんで星見をしているからですよ ………… でも、それはあまり問題ではないんです。天クルの活動が本格的に始まれば、皆さんはヒバリ校の屋上にその場を移すはずですから それよりも、もっと大きな問題があるんです なんだ? ここには、死神が出るそうですよ ……死神? はい。大きなカマを持った、死神の少女です 小河坂さんは、どうも彼女に会いにこの展望台を訪れているようです ですから、天クルの活動が始まっても、小河坂さんだけはここを訪れることをやめないかもしれません ……死神というのは、ヒバリ校で噂されている都市伝説の死神か? それはわかりません 私も何度か展望台に入ったことはあるが、そんなモノに一度も出会ったことはないぞ 死神は夜にしか出ないそうですよ キミは、会ったことがあるのか? はい。海水浴の日に、短い時間ですが見かけました ですから、展望台だけに現れる、ということではないようです ………… この死神は、雪菜先輩のお仕事に関係ありますか? ……どうだろうな。だが可能性はある なんと言っても、この地にはキミらの星天宮がある はい 私も少し調べてみようか お役に立てたようでなによりです キミは、なぜこの話を私にしたんだ? 何度も言わせないでください。わたしは、雪菜先輩を友達だと思っているからですよ 役立てそうな情報なら、役立てて欲しかったんです ……変わっているな、キミは そうでしょうか ああ おかげで、仕事がやりにくくてたまらない それは、誉め言葉ですか? ああ。そのとおりだ 今はまだ、な やっと来たわね、遅いじゃない 昼下がり、神社の境内に足を踏み入れると、セミの鳴き声に乗って不機嫌そうな言葉が聞こえてきた。 これ以上怒らせてしまう前に、俺は彼女の元に駆けていく。 手伝いは二時からって約束してたと思うんだけど 初日だし、少しの遅刻くらい大目に見てくれ 巫女装束をまとった姫榊が、ひしゃくを片手に水を撒いていた。 海水浴で約束したとおり、俺は今日から登校日までの間、姫榊の手伝いをしなければならない。 打ち水始めちゃったじゃない。全部押しつけるつもりだったのに 待っててくれてよかったのに 小河坂くんが忘れてるかもしれないと思ったから、やってあげてたんでしょ 生真面目だな ……うるさい。それより、遅れた理由を話しなさい 明日歩の喫茶店に寄ってたんだよ なんでよ バイトをしばらく夕方からにして欲しいって交渉しにな 明日歩を説得するのは骨が折れた。理由が姫榊の手伝いなので、なおさらだった。 ……今日、夕方からバイトなの? ああ。それまでに打ち水と掃除は終わらせるから それが終わってからの仕事プランも考えていたんだけど、残念ね ……ああ、バイト入れててよかったなあ。 まあ、そのぶん毎日働いてもらえば問題ないか 明日も来なきゃなのかよっ 当たり前じゃない 俺は姫榊の代わりに手伝いするだけでいいんだよな? 明日の手伝い当番も姫榊なのか? ううん、こさめだけど じゃあ俺は関係ないだろっ 二つめの要求は、こさめの当番も手伝うこと。あの子も夏祭りの準備でいそがしいのよ まあ基本的に手伝いはわたしとこさめが交互にやってたから、小河坂くんは毎日になるわけだ 得意げに説明していた。 ……わかったよ。約束だしな 小河坂くんも生真面目っていうか、律儀よね 毎日でも、手伝うのは夕方までだからな? わかってる 桶に水汲んでこようか お願い。わたしは撒いてるから 俺が来ても仕事をすべて押しつけようとはしない。やはり姫榊はいいやつだ。 水場を往復する。汲み終われば、俺の仕事は姫榊の話し相手になることくらいだ。 今日、最高気温が何度か知ってる? 知らないけど、あまり知りたいと思わないな 賢明ね。あー、早く終わらせて涼みたいわ 終わったら夏祭りの準備があるんじゃないのか? こさめやお母さんと違って、わたしの仕事は夜からでもできるから。そっちのほうが涼しいしね だったら昼間は時間あるんじゃないか。俺に手伝わせなくたっていいだろ 時間があったって外に出たくないのよ、日に焼けたくないし 姫榊の肌は新雪のように白い。 巫女してるのも苦労が多いのよ たしかに日焼けした巫女というのは体裁が悪そうだ。 日焼け厳禁の一番の理由は、夏祭りの仕事だけど…… ぶつぶつ言っている。 海水浴行ったわりに、焼けてないよな 日焼け止め使ってたから オイル塗りからは逃げてたじゃないか ……嫌なこと思い出させないで。日焼け止めは海に着く前に塗ってたのよ なるほど。 まあこさめさんがそれでもあえてオイル塗りたくなるのはわかるな、姫榊の肌って白くてキレイ……って、なんで水かけてくるんだよ!? 目がエロかった こさめさんと一緒にしないでくれ そっちこそこさめと一緒にしないで。あの子のあれはただの冗談だと思うし 俺だって冗談だ……って、水かけるなよ!? ふん ちなみにこさめさんの姫榊に対する迫りようは本気だと思う。 こさめさんもぜんぜん日焼けしないよな あの子は日焼けしない体質なのよ そんな体質あるんだろうか。 わたしはあの子と違うから、今だって木陰に入りたいの。明日は遅刻しないで来なさいよ、もう手伝わないからね わかったよ 家はここから一駅よね。近いんだし、十分前行動を心がけること まるで先生だ。 小河坂くんが働いてる間、わたしは部屋で課題でもやってるから 理不尽な先生だ。 それで夜から夏祭りの準備か。たしかにいそがしいな 夏祭りが終わるまではしょうがないわ どんな仕事なんだ? なにが 夏祭りの準備だよ。どんなことするのかなと 絵馬作ったり、〈櫓〉《やぐら》組んだり、〈提灯〉《ちょうちん》下げたり、あとそろそろ町内会の人たちと出店の配置も決めないとだし。いろいろよ それが姫榊の仕事か? ……だいたいはお母さんの仕事だけど こさめさんはなにやるんだ? あの子は事務関係ね。お母さんと一緒に祭事会場の設計してるわ で、姫榊は? ………… なぜか恥ずかしそうにする。 万夜花さんやこさめさんとは別なのか? か、関係ないでしょ なんで姫榊だけ別なんだ? な、なんでもいいでしょ 人に言えない仕事なのか? そ、そんなわけないでしょ 恥ずかしがるようなことなのか? だ、誰も恥ずかしがってないっ エロいこととか? どがっ!! ぐあっ……踵で蹴るなよ!? あなたがふざけたこと言うからよ 冗談に決まってるだろ! 〈性質〉《たち》が悪かった 草履だったからいいけど靴だったら鼻折れてたぞ! 折れてないからいいじゃない あと袴だからいいけどスカートで足振り上げると中身がモロ見え…… どがっ!! は、袴だからやってるに決まってるでしょ! 姫榊の足癖を考えるとスカートでもやるだろう。 あと、鼻頭がとても痛い。 夏祭りの仕事については聞かないで。これ、三つめの要求だから。破ったら取引は無効だから なにがなんでも隠すつもりのようだ。 わたしも小河坂くんに聞きたいんだけど なんだ? この前はこさめにうやむやにされたけど、どうしてそこまで天クルが大事なの? ……星が好きだからだよ なんで好きなの? じゃあ逆に聞くけど、姫榊はなんで嫌いなんだ? この質問、こさめさんに釘を刺されているのだが。 姫榊の質問をかわすにはこれしかなかった。 ……聞いてるのはわたしなんだけど よかったらさ、今度展望台に来ないか? 展望台? ああ。夢見坂の頂上にある展望台 ……あそこって、立ち入り禁止でしょ 簡単に入れるんだ まさか、入ったことあるの? ああ 怒るだろうか。生徒会役員として注意するだろうか。 それでも、姫榊には話してもいいように感じていた。 あそこで見上げる星空は絶景だ。自慢の場所なんだ ………… だから、よかったら星見してみないか そして姫榊が少しでも星を好きになってくれたら、言うことはない。 天クルのためにも、おそらく俺のためにも。 姫榊とはこれからもつきあいがあるのだから。 姫榊、星見ってしたことあるか? ……ないけど じゃあなおさらだ。どうだ? ……行くわけないでしょう 立ち入り禁止だからか? それもある 生徒会役員として、ルールは破れないからか? それもある。だけど個人的な理由もある 星が嫌いだからか それだけじゃない わたしは、あの場所が大嫌いなの この言葉は意外だった。 ……入ったことあるのか? いや、意外でもないだろう。俺たちが子供の頃は、展望台は立ち入り禁止じゃなかったのだ。 だが、姫榊はそれも否定した。 展望台に入ったことなんて、一度もないわ ……じゃあ、なんで大嫌いだなんて言えるんだ? 姫榊は軽く嘆息した。 もういいでしょ、この話は。最初に聞いたわたしも悪かった あなたは星が好きで、わたしは嫌い。それで充分よね 充分じゃないから展望台に誘ったというのに。 打ち水、終わらせるわよ。まだ境内の掃除も残ってるんだから 姫榊は水を撒き始める。それでこの話は打ち切られた。 これ以上なにを言っても、場の雰囲気を悪くするだけだ。 打ち水を終え、涼しくなったところで掃除をする。 それでお務めは終了だ。 仕事の時間は一時間半といったところ。姫榊と話しながらだったので、仕事に集中すれば一時間かからない量だろう。 姫榊は最後まで俺と一緒に手伝いを続けてくれた。 話し相手がいるおかげか、打ち水も掃除も苦痛ではなかった。 今日はお疲れさま ああ。そっちもな 家、上がっていってもいいわよ。お茶くらい出すけど いや、バイトもあるしな。遠慮する そう。ま、いいけど それじゃ、行くよ 明日は遅刻しないで来なさいね わかってるって 姫榊との会話は簡潔だ。だから別れも簡潔で味気ない。 まあでも、テンポがよくて心地よくもあるのだった。 むー バイトに入っての明日歩の第一声がこれだった。 明日歩、接客業なんだからスマイルスマイル ドアベルが鳴る。ちょうど客が来たようだ。 いらっしゃいませ…… 呪詛のような声だった。 それが客に対する態度かよ…… お、飛鳥でよかったな 飛鳥くんじゃなかったら店のイメージダウンだったね おまえらケンカ売ってんのかっ あはは、売り上げ貢献ありがとうございます。一名様ご案内~ 明日歩が席まで先導する。 なぜか飛鳥は制服姿だった。 学校行ってたのか? おうよ、オカ研の活動だ 夏休み中もやってるんだ。どんな活動してるの? 小河坂には話したけどな、夏休み中に部活来てる生徒に都市伝説について聞き込んでる 学校で泊まり込んで練習してる部員もいるし、夜の情報も手に入りそうだからな 夏休みって言ったら合宿だもんね。天クルでも合宿できたらしたいね~ 命運は登校日にかかっているわけだ。 南星、コーラ頼むわ はいはい。オーダー入りま~す 明日歩は厨房に消えていく。 それで、なにかわかったのか? 今のところめぼしい収穫はねえな 千波も一緒だったのか? いや、借りていいなら借りるけど ……まあ、聞き込みくらいなら おまえが心配してる張り込みはまだやらねえよ。聞き込みでなにかしら情報が手に入ってからだな こんにちは、いらっしゃい マスターがコーラを持ってきた。 マスター、ちょうどよかった なにか用かい? 小耳に挟んだんすけど、ヒバリ校のOBなんすよね そうだよ 飛鳥も知ってたのか 海水浴のときに千波ちゃんから聞いたんだ。万夜花さんや詩乃さんもそうなんだってな 天文部の同期だからね。万夜花にはよく振り回されていたものだよ……詩乃はにこにこ見ているだけだったし 苦労が忍ばれる言い方だ。 じゃあヒバリ校の都市伝説って知ってますよね? ああ、死神か。それも懐かしいね 俺も興味があったので、マスターの言葉に耳をそばだてる。 男女ふたりが死神によって引き裂かれる、童話みたいな噂だったと記憶してるよ ……男女ふたり? 小河坂、知らねえのか? それで恋の死神なんて名前がついてんだよ 男女っていうのだけ初耳だったんだよ 恋を引き裂くんだから、同姓じゃねえだろ そりゃそうだが。 マスター、その男女が誰かっていうのは知ってるんですか? 聞き込みでは特定できなかったけどな。というかパターンが多すぎる 噂には尾ひれがつくからね。僕も正しくは知らないよ マスターが知ってる噂って、どんなものっすか? 飛鳥はメモの用意をする。 マスターは思い出しているのか、時間を置いてからゆっくりと語り出した。 僕が知っている噂では、その男は病で余命幾ばくもなかったそうだ だから男は、恋人だった女に自分のことを忘れて欲しいと願うようになった すると死神が現れて、女から男の記憶を奪っていった 死神だから、恋の記憶を刈ったという表現が妥当なのかな。そのまま男女は別れることになったそうだよ 飛鳥は簡単にメモを取ると、ぱたんと閉じた。 ……そういう内容だったんですね あくまで噂のひとつというだけだよ 記憶を刈るという部分がメアを彷彿とさせる。 それって、ヒバリ校の校舎で起こったことなんですか? ヒバリ校で広がっているんだから、おそらくそうだろうね。この喫茶店でもたまに耳にするけど、ヒバリ校の生徒以外では話している人を見たことがないよ だがメアは、自分はヒバリ校に行ったことはないと言っていた。ウソをついている素振りはなかった。 やはりメアとは別の死神だと思える。 似たような話はほかにもあるぞ。マスターが話した噂は男が病気ってなってるけど、逆のパターンもあるしな 都市伝説だからね。どれが正しいかは、当事者にしかわからないさ 本当に当事者がいればいいんすけどね この伝説、信じてないのかい? 信じたいのはやまやまなんすけど、有力な情報が集まらないんでなんともっす 小河坂くんはどうだい? ……飛鳥と同じですかね その死神がメアでないのなら、興味はあっても、それは学校の七不思議レベルでしかない。 万夜花さんや詩乃さんもなにか知ってそうっすか? 詩乃はわからないけど、万夜花は神社の跡取りだったこともあって、当時からオカルトには詳しかったよ 俺が聞いた限りじゃ、詩乃さんはあまり知らないみたいだったぞ じゃあ近いうちにこさめさんに頼んで、万夜花さんに聞き出してもらうかな マスターは、都市伝説を信じてたんですか? ……そうだね マスターは顎を揉みながら、 僕は、どちらかというと信じていたほうかな。だけど解明したいとは思わなかったよ なんでですか? 時代の差かな どういう意味だろう。 都市伝説の謎は、きっと僕たちの世代よりも、キミたちの世代で挑むのが正しいんだ でないと、都市伝説の意味がない。そういうことだよ やはり、よく意味がわからなかった。 お父さん、またお客さまからオーダー入ったよ~ 明日歩の声に、マスターは手を上げて応じる。 僕が教えられるのはここまで。あとはキミたちでがんばりなさい マスターは厨房に戻っていった。 三人してなに話してたの? ヒバリ校の都市伝説についてだよ 飛鳥はコーラを一気飲みした。 なにかわかったの? まだなんにも。だけど、必ず解明してやる 熱心だな おまえだって星見に熱心だろ 飛鳥は伝票を持って席から立った。 もう帰るのか ああ。次は図書館でも行ってみようかと思ってな お昼寝に? ちげーよ、ヒバリ校の歴史について調べてみるんだ 都市伝説に精を出すのもいいけど、夏休みの課題も忘れるなよ なにかわかったら情報提供してやるから、いざとなったら写させてくれ 死神について教えてくれなんて一言も言ってないぞ そうか? オレには興味津々に見えるけどな だとしたら、俺はまだ無意識にメアと恋の死神を結びつけているということだ。 メアって自称死神にも、今度会わせてくれよな ……海水浴のときに見なかったか? 日没のとき、おまえの隣に立ってた子供だよな。いつのまにかいなくなってたじゃねえか 話もできなかったし、次はちゃんと紹介してくれ ……考えておく べつに捕って食おうなんて考えてねえよ。千波ちゃんに対してもそうだけど、おまえって過保護だよな 心外だ。 飛鳥は会計をすませて店を出た。 それを見送ったあと、明日歩がつぶやいた。 あたし、最初はメアちゃんが恋の死神だと思ってたけど…… やっぱり、違うよね どうしてそう思う? だってさ、都市伝説で聞く死神ってどこか悲しくない? 恋人の仲を裂いちゃうし でも、メアちゃんは悲しい感じがしないから 無愛想なんだけど、悲しいっていうよりは、怯えてる感じがする 明日歩はお姉さんぶって言ったのだ。 メアちゃん、人見知りするみたいだしね 夕飯を食べたあと、俺は出かける準備をする。 海水浴ではメアとほとんど話ができなかったし、これから展望台を覗いてみるつもりだった。 ……出かけるんですか? リビングにいると思っていた蒼さんが、気がつくと後ろに立っていた。 ああ。ちょっと展望台までな ………… 一緒に来るか? 断られそうだけど。 ……はい うなずいたあと、蒼さんはリビングをちらりと見る。 鈴葉は千波さんにかどわかされていますし…… じゃなくて、一緒に遊んでるだけだろ 夏休みに入ってからは毎日のようにかどわかされています…… 黄昏れていた。 私が最も恐れていた事態です…… 鈴葉ちゃんが楽しいならいいじゃないか 私の知る鈴葉はいなくなってしまいました…… 蒼さんも一緒に遊んだらいいじゃないか ふ……同情はよしてください…… ……蒼さん、千波と遊びたくないのか? はい きっぱり言われる。 千波は蒼さんと遊びたそうだぞ ……死ねばいいのに そう邪険にしなくていいんじゃないか 私は、千波さんの友達じゃありませんから 友達じゃなくて家族だったか 死んだらいいと思います 俺にはもう友達同士にしか見えないけどな 先輩の目は節穴ですね あくまで認めないようだ。 とすると、蒼さんにとっては俺もまだ友達じゃないんだろうなあ。 ……少し待ってください 望遠鏡、持っていくのか? はい 蒼さんはお隣の自宅に入っていく。 展望台まで俺と同行するのは、星見が目当てなんだろう。 だから俺がいてもいなくても、蒼さんの行動は変わらない。 蒼さんは天クルの部員になっても、屋上で過去の星空を見上げていた頃とあまり変わっていないのかもしれない。 展望台に着いた。 メアの姿は今のところ見当たらない。 それでも空はこんなにも晴れている。どこかに隠れているに違いない。 俺、ちょっとメアを探してくるよ ……来てるんですか? たぶん 俺が歩き出すと、蒼さんは望遠鏡を組み立て始めた。 メアを見つけたら使わせて欲しいが、以前と同じく蒼さんは断るだろうか。 というか、ふたりがまた険悪にならないことを祈る。 ……………。 ………。 …。 展望台を二周ほどして戻ってくる。 蒼さんは覗いていた望遠鏡から目を離してこちらを向いた。 遅かったですね そんなに時間経ってたか? はい。一時間くらいです ……そんなにかかっていたとは。 メアさんはどうでした? 見つからなかったよ 藪の中や木の上まで、探せる場所はすべて探したつもりだったが、メアがいる気配はなかった。 晴れた夜に姿が見えないのはめずらしい。 今夜はなにか用事でもあったんだろうか。死神に用事なんてあるのか知らないが。 俺が知っているメアの用事と言えば、ここに来て星を見ているか、もしくは。 俺の記憶を刈ることくらい。 ……疲れたんですか? ちょっとな 俺は手近の草むらに腰を落とす。 蒼さんは望遠鏡を片付けるようだった。 もう星見はいいのか? はい じゃあ蒼さん、片付ける前に ダメです 望遠鏡、使わせてもらっていいか? ダメって言いました ……ケチだな ケチで結構です 死んだらいいと思います ……ウザ 蒼さんのセリフなのに……。 俺も早く望遠鏡買わないとな 部費で買えるんじゃないんですか いや、どうせなら自分の望遠鏡が欲しいからな ………… 片付け終わったようで、蒼さんは望遠鏡を胸に抱える。 持とうか? 結構です 帰るか? 結構です ……帰り道は一緒だぞ 私が林の中を歩くとき、わざわざ先頭に立って枝をどけなくてもいいという意味です それくらいさせてくれ 結構ですから させてくれないと千波をけしかけて鈴葉ちゃんを朝食と昼食にも招待するぞ くっ……卑怯です さあどうする? ……殺るしかないか またその結論に!? というわけで、今のはナシ 賢明です 帰ろうか ……先頭に立ってるし 蒼さんは、渋々とあとに続くのだった。 空は快晴、天気の週間予報もすべて晴れ。 上がる一方の熱気に辟易しつつも俺は神社に到着した。 ……遅いわよ、コガヨウ コガヨウって言うな あなたが遅かったのが悪い 今日は時間どおりだろ 三十秒の遅刻 細かいよ。 それに十分前行動って言ってあったじゃない。おかげで先に打ち水始めちゃったわよ なんというか、文句は多いがとことんいいやつだ。 境内も賑やかになってきたな そうね。午前中に、町内会の役員とボランティアの人が祭りの設営をやってたから 今はやってないんだな この時間は一番暑いからね。今は休んで、夕方になったらまた始まるんじゃないかしら 俺たちはその一番暑い時間に仕事をしているわけだ 涼しくするための打ち水だからね 桶に水汲んでくるよ よろしく 蛇口をひねりながら姫榊の様子を眺める。 撒いた水が石畳に光って、まばゆい絨毯のようにも見える。 その上を歩く姫榊は衣装も相まってどこか神々しい。 しかもその巫女は精巧な彫刻みたいな美人と来た。 ……なによ、じろじろ見て 戻ってくると、俺の視線に気づいていたらしく姫榊は不機嫌に言った。 そのツンケンしたしゃべりがなきゃ、カンペキなんだよなあ いったいなんの話よっ 言ってみる 言ってみる やめておく 姫榊って美人だなと思って ………… 驚いていた。 実は結構モテるんじゃないか? ……な、なによいきなり たぶんさ、都会も含めて俺が出会った人たちの中で、姫榊が一番美人だぞ 姫榊は不機嫌そうに照れている。 ……本気で言ってるの? 本気というか、感じたままというか ………… 告白とかされたことあるんじゃないか? か、関係ないでしょ 彼氏は……いないか。いたら俺じゃなくてそっちに仕事手伝わせるだろうし う、うるさいわね なんで彼氏作らないんだ? だ、だから関係ないでしょ 巫女だからとか? ……いつの時代の巫女よ。そりゃ、基本的には未婚じゃないとダメだけど 神職資格を取ってる巫女だったら交際だって気にするかもしれないけど、うちはマイナー神社だし。そんな堅苦しくないわ だったらなんで彼氏作らないんだ? ………… 無言で水かけるなよっ これ以上聞いてきたら蹴るわよ。これ、四つめの要求。破ったら取引は無効の上、蹴るから 蹴るの好きだな…… 誰のせいよ だいたい、小河坂くん間違ってない? なにが? わたしは一番の美人じゃないでしょう。双子の妹のこさめもいるんだから そっくりなので、同率首位はあっても単独首位はないか。 でもこさめさんは美人というか、かわいらしい感じじゃないか? わたしに聞かれたって知らないわよ 内面の差かもな、こさめさんと違って姫榊の性格はどう考えたってかわいくな…… どがっ!! ぐあっ……結局蹴ってるじゃねえか! ……ふん くだらないことばかり言ってないで、ちゃんと仕事しなさいよね なんでもない ……なんなのよ うちがマイナー神社だからって、ちゃんと仕事はこなしなさいよ。これ、四つめの要求 桶に水汲んだらやることないんだよ なんでわたしに水撒きさせてるのよ そっちが勝手に始めてたんだろ 代わってあげようって慈愛の精神はないの 代わってやるよ もうすぐ終わるしべつにいいわよ じゃあ慈愛とか言うな うちわで扇ぐくらいしなさいよ そんなのないし 暑いんだけど 天気に言ってくれ セミがうるさいんだけど セミに言ってくれ 家からうちわと麦茶持ってきて パシリに使うな これ五つめの要求 暴君だ。 あー、早く涼みたーい 本当、文句の多い巫女である。 お疲れさまです、おふたりとも 掃除中、こさめさんが境内に入ってきた。 手に持ったトレーにはコップが並んでいる。 差し入れですよ ありがと。さっき小河坂くんをパシらせたばかりだったけど、悪いわね よって二杯目の麦茶である。 いえ、これくらいしないと申し訳がなくて こさめさんから差し入れを受け取る。手のひらから伝わる冷気が暑さを和らげてくれた。 こさめさんも巫女装束なんだな はい。これは作業着みたいなものですから こさめも手伝ってくれるんだ はい。だいいち、今日はわたしがお手伝いの当番ですし。ですからふたりとも、上がってもよろしいですよ いや、どうせなら最後までやるよ そうね。こさめこそ、祭りの準備はいいの? 設計のほうはすべて終わりましたから。あとは町内会の皆さんに残りの設営をお任せするだけです じゃあ設営が再開する前に、終わらせてしまいましょう こさめさんが加わり、俺たち三人は竹箒を使って境内を掃いていく。 打ち水をした場所にゴミを付着させないよう注意しないといけない。 秋になれば落ち葉を集めて焼き芋でもできそうだが、夏だと虫の死骸なんかが多くて食欲は湧かない。 強い陽射しとの相乗効果で夏バテを促進するだけだ。 姉さんこそ、お祭りの準備はよろしいんですか? こさめさんが掃除の手を休めずに話しかける。 わたしは夜に練習するから。そっちのほうが涼しいし 練習って? あ、ううん、なんでもない 姉さんはですね、お祭りの最終日に…… 言ったら蹴るわよっ ……そういうお仕置きはしょんぼりです どういうお仕置きならいいんだろう。 明日歩から聞いたんだけど、ふたりとも祭りの最中も仕事があるんだって? そりゃあね 社務所に詰めていないといけないんです。皆さんと一緒に回れなくて残念ですけど 休憩時間くらいないのか? あるけど、たかが知れてるわよ。雲雀ヶ崎では一番大きな祭りだから、人出が多くなるし どうしても問題や苦情が多くなるんですよね。その対処だけで一日が過ぎていく感じです あれ、ここの祭りって雲雀ヶ崎の祭りなのか? そうよ。神社の住所は、隣町ではあるけど 集客効果を狙っているんでしょうね。ネズミさんがたくさん住まう遊園地みたいなものですね 雲雀ヶ崎は田舎でも、都会の隣町より観光地としては有名ということか。 なのにこの神社はマイナーなのか? 悪かったわねマイナーで 姫榊も自分で言ってただろっ 小河坂くんだって子供の頃に雲雀ヶ崎に住んでいたみたいだけど、神社の存在は知らなかったんでしょう たしかにそうだ。 お祭りの存在はどうですか? ……知ってた気もするな。来たことはなかったけど 思い返してみると、母さんと千波が浴衣を着ていたときが何回かあった気がする。 雲雀ヶ崎の住民でも、普段は参拝に来ないのに、楽しい祭りにだけ参加する人たちが多いのよ お墓もないので、墓参にいらっしゃる方もいません。ですから神社の名前はあまり知られていませんよね 名前は星天宮だ。天津甕星を祀っていると以前に聞いた。 あと賑わうと言ったら、正月の初詣くらいなものね。それだけじゃ賽銭で儲けることもできないのよね 不謹慎な巫女だった。 その分、仕事が夏祭りに偏ってるわけか 休憩時間がまとまって取れるようでしたら、一緒に回れるかもしれませんね わたしはパスだけど、こさめだけでも行ってきたら でしたらお祭りの最終日は皆さんと特等席で姉さんの…… 蹴るわよっ ……痛いお仕置きはしょんぼりです 痛くないお仕置きってなんだろう。 もう夏祭りの話題はやめましょう。ただでさえ多忙でうんざりしてるのに 最終日っていつだっけか どがっ!! ぐあっ……今の蹴りの理由を説明願いたいんだけど!? 夏祭りの話題はやめてって言ったでしょ 日取りぐらいいいだろ! 三つめの要求は夏祭りの仕事に関して聞かないこと。忘れたとは言わせないわ それはべつに聞いてなかっただろ! 聞きそうな雰囲気だったから事前に制裁した なんて暴君だ。 くだらないことばかり言ってないで、さっさと仕事終わらせるわよ。じゃないとお仕置きするから なあこさめさん、お仕置きってなんだ? どがっ!! 二度と聞かないで。六つめの要求だから 暴君、ここに極まれり。 よ、おふたりさん。景気はどうだ? 昨日に続いて飛鳥が景気よさげに姿を見せた。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、待ちに待った千波が来たよ──っ!! しかも万年好景気の千波まで来店だ。 そっちこそおふたりさんじゃない。ご機嫌みたいだけど、なにかあったの? 聞き込みの成果でも出たのか? そうだよお兄ちゃんっ、さっきまでオカルト部長とヒバリ校で都市伝説の聞き込みしてたんだけどねっ 焦るなって千波ちゃん、まずは座ろうぜ はーい! お兄ちゃん案内よろしくー! こちらの席でよろしいですか? そこは玄関だよお兄ちゃんっ、もしかして帰そうとしてるの!? お会計、二万円になります まだ飲み食いしてない上にそれ千波のお小遣いのぴったり全額だよ!? おまえの生涯賃金だからな 洋ちゃん、千波ちゃんと騒いでるときが一番輝いてるね ……俺の人格を全否定された気分だ。 とぼとぼとふたりを席に案内して、ドリンクふたつのオーダーを取ると明日歩は厨房へと伝達に向かう。 それで、なにがわかったんだ? うんうん、教えて教えて 気になるのか、明日歩もすぐに戻ってきた。 今週からな、野球部の連中が合宿してるんだよ。体育館を寝泊まりの場所にしてな それで、そいつらから聞いた情報なんだが…… 飛鳥は俺たちふたりを見回す。 夕べのことなんだが、消灯時間の前に部員数人がトイレに向かうため廊下を歩いていたんだよ 体育館から出たから階は一階だ。廊下には当然明かりは点いていない だが星明かりのおかげで完全な闇というわけでもない そんな薄闇の中で、そいつらは見たんだよ…… ……なにを? 死神か? いや、それがな…… 飛鳥はもったいぶってから、声を低くして言った。 ……UFOなんだよ 俺と明日歩は同時に白い目を向けた。 あからさまに信じてませんよオカルト部長! ケッ、これだからゆとり世代は いやおまえも同世代だから いいか、そいつらは淡い光が天井を漂っていたと言っていた。最初は窓から差した星明かりだと思ったが、角度的に違ったらしい そして警備員の懐中電灯の光でもなかった。光は線になって届いていたんじゃなく、球のかたちで浮いていたからだ それ、蛍じゃないの? 季節的に 球は球でも、楕円に近かったらしい 円盤を横から見たら楕円になるだろ? だからUFO説を振りかざすわけか。 聞く限り、大きさは小動物並だそうだ だとしたらえらく小さなUFOってことになるな そんなんじゃ乗れないね そのときは宇宙人がマイクロ波で人を小さくしてくれるから大丈夫です! マイクロ波は電波の一種ってだけで人をマイクロサイズにする効果はない ケッ、これだから頭でっかちは 飛鳥の真似して楽しそうだが覚悟はできてんだろうな、ああ? ぐりぐりじゃなくてオカルト部長のときみたいな軽いツッコミだけで許して欲しかったよお兄ちゃん!? じゃあ人魂とか? お盆も近いし その可能性は否定できねえな ただの見間違いじゃないのか? なんだよ、信じねえのか? UFOの誤認って世間にあふれてるしな たしかに、公式での世界最初のUFO目撃報告が入ってから今年でおよそ六十年、その間UFOの目撃証言も証拠写真も山のように届いてる その情報が玉石混交なのはオレも否定しねえけど、だからってUFOが存在しない証明にはならねえだろ? 玉石混交じゃなくて、石しかないんじゃないかって言いたかったんだけどな オレはな、石が大多数の情報から宝石を見つけ出すのがオレたちオカ研の使命だって思うんだよ オカルト部長最高です! げしっ! なんで千波のお尻蹴るの!? なんとなく ……なんか飛鳥と明日歩の視線が痛いな。 飛鳥くん、ほんとにUFOだって思うの? 正直言えば、だったらいいなって希望だけだ。だから今夜に決行しようと思うんだ ……まさか ああ。UFOかどうかをこの目で見届けるために、千波ちゃんと一緒に夜のヒバリ校を張り込みだ オカルト部長と一夜を共に過ごします! げしっ! なんでまた蹴るの!? 言い方がイラっときた 千波もう決めたんだから反対しても無駄だからね! 反対はしない。そういう約束だしな 本音を言えば一蹴したいところだが。 その代わり、俺も同行するからな え、お兄ちゃんも? ああ。いいんだよな、飛鳥 オレたちの邪魔さえしなけりゃ問題なしだ なになに、それって前にも言ってた肝試し? メインはあくまで張り込みだけどな おもしろそうだからあたしも参加する! 反対はしねえけどよ、UFOが出ても追いかけたりするなよ。オレが写真に撮るまでは フラッシュ焚いちゃったら警備員に見つからない? ちょうど野球部が合宿してるし、警備員に見咎められても野球部ですって言えば誤魔化せる ……あたしと千波ちゃんは無理なんだけど マネジって言えば平気だろ じゃあ張り込みの最中はオカルト部長のこと野球部長って呼びますねっ ……いや普通に飛鳥部長でいいから 何時から決行なんだ? 目撃情報によると夜十時前後ってことだったし、一時間前の九時でいいだろ で、何時まで張り込むの? もちろんUFOを見つけるまでです! 却下 なんで!? それじゃ朝まで張り込むことになるだろ、さすがに一泊なんかさせられるか 目撃しねえのを前提にしてるんだな…… あたしも泊まりは無理かなあ。お父さんが怒りながら〈街中〉《まちじゅう》を捜し回りそう 穏和なマスターからは想像できないな あれでけっこう心配性なんだよ? 昔はぜんぜん違ったけど お待たせ マスターが注文したドリンクを運んできた。 明日歩、泊まりは認めないからね。みんなもあまり無茶しないように しっかり釘を刺してマスターは戻っていった。 怒らせると怖いんだよね、お父さん じゃあどうすっかな 張り込みは十一時くらいが限度じゃないか? それ以上になるとうちも詩乃さんが心配しそうだ 学校に一泊くらい平気だよっ、詩乃さんは千波のこと信用してるもん そうだな、十一時で解散するか オカルト部長にまで見限られた!? 千波ちゃんのせいじゃねえよ。オレの帰りが電車だから、終電を考えて念のためだ 十一時になって、残りたいやつは残る。それでどうだ? じゃあ千波は残りますっ もしもし詩乃さん? 今夜千波と出かけますけど十一時にはふたりとも戻りますんで さっそく逃げ道塞ごうとしてる!? 千波ちゃん、洋ちゃんの気持ちもわかってあげないと。千波ちゃんがかわいいから心配してるんだよ その言葉は納得いかないが、千波のほうは納得したようだった。 話はついたな。集合場所は校門前だ、遅れるなよ 飛鳥の一言に、一同は思い思いにうなずいてからグラスを手に取った。 千波、虫取り網持っていきますね! あたしは天体双眼鏡持っていこうかな~ 俺は暇つぶしのモバゲー探しとくか ……おまえらなにしに来るんだよ ……肝試し、ですか? ああ、これから千波を連れてヒバリ校に行くんだ それで制服を着てたんですね 蒼ちゃんと鈴葉ちゃんも一緒に行こうよっ、大人数のほうがUFO探しやすいと思うしっ ……UFOって、どんな肝試しなの わ、わたしも行っていいんですか? もちろんだよっ 鈴葉ちゃんはうれしそうだ。 これで鈴葉ちゃんも同行決定っ 死ねばいいのに 蒼ちゃんも来るんだよっ 死んでください みんなでUFOに乗るんだよっ 死になさい 期待から希望に変わって最後に命令になったよ!? 蒼さんはいいと思うんだけど、鈴葉ちゃんはな…… さすがに野球部のマネジには装えない。 だ、ダメですか……? あ、いや ご迷惑……おかけしませんから…… そんな目で見つめられると、とても断れない。 ……警備員に見つかったら、野球部の夜食を差し入れに来た家族の人って設定にしておくか しておくか、じゃないです。私は大反対です 蒼さんも私服だし、ふたりで差し入れに来たってことにすれば違和感ないだろうし そういう問題じゃありません あ、でも飛鳥の話だと野球部は十時に消灯らしいし、差し入れは難しいかもしれないな 消灯してるの知らなかったってことにすればいいんじゃない? よくない そうだな、それでいこう いかないでください ちょうどサブレ焼いてたから、包んであげるわね。持っていくといいわ 詩乃さんまで賛成しないでください 洋さん、千波さん、なにか持っていくものありますか? ケータイがあれば充分だよっ、UFOか宇宙人見つけたらそれで激写するんだよっ わかりましたっ お願いだからわからないで はい、サブレ。お腹が空いたら食べてね ありがとうございます。十一時には戻りますから それじゃいってきまーす! いってきますっ ……誰か、私の話を聞いて 鈴葉ちゃんに手を引かれ、蒼さんは渋々と従った。 みんな集まったな……つーか、集まりすぎてるぞ 蒼ちゃんと鈴葉ちゃんは助っ人ですっ 野球部の差し入れに来たという設定上、蒼さんは鈴葉ちゃんと一緒で私服姿のままだ。 よ、よろしくお願いします うん、よろしく。参加者は多いほうが楽しいもんね~ UFOに見つからなきゃいいんだけどな UFOのところを警備員に言い換えたい。 ……というか、UFOというのは人に見られると逃げるんでしょうか 宇宙人は人見知りなんだよ、メアちゃんもそうだし 大人数のほうが見つけられる確率も上がると思うし、蒼さんと鈴葉ちゃんも参加でいいか? そうだな、宇宙人に襲われたら仲間は多いに限るしな ……飛鳥が千波に感化されてきた気がする。 それじゃ、満場一致で肝試し始めよっか ……ここに不満者がひとり とりあえず目撃現場の校舎一階を散策だな ……これが数の暴力 意見を封殺された蒼さんがいじけていた。 薄闇の中を、星明かりを頼りに歩く。 足音が静謐な空間に響いている。 合宿中らしい野球部は体育館に集まっているんだろう、人の気配は俺たち以外まったくない。 鈴葉ちゃん、千波から離れないでね は、はい…… 手をつなぐふたりのあとを、蒼さんが黙ってついていく。 教室も一部屋ずつ調べていくからな 飛鳥が大きな音を立てないように教室の扉をスライドする。 カギかかってないんだな そりゃ、校門にカギかけないくらいだもん 胸を張らないで欲しい。 飛鳥は教室を覗くが、変わったところはないようで俺たちに進むよう促した。 先頭を飛鳥、続いて千波と鈴葉ちゃんが寄り添って歩いている。 そしてしんがりは俺と明日歩と蒼さんの三人だ。 夜の校舎に入ったの、これで二度目かあ 話すのはいいけど、あまりでかい声出すなよ。勘づかれたら困る 飛鳥が振り返って注意した。 警備員には見つかりたくないからな オレが心配してんのはUFOのほうだ 俺はおまえが心配になってきたよ……。 明日歩先輩、前にも肝試ししたんですか? あ、ううん。星見するのに、洋ちゃんに部室から望遠鏡運び出してもらったんだけど…… 言って明日歩はうつむいた。 ……どうかしましたか う、ううん、あはは…… 明日歩の照れ笑いに、千波と蒼さんは首をかしげる。 そのときは警備員と勘違いした蒼さんから隠れるため、明日歩の肩を抱いたのだ。 俺まで意識しそうになって、かぶりを振った。 お兄ちゃん、顔赤いよ? 暗いのにわかるわけないだろ でもお兄ちゃん観察日記によると、お兄ちゃんが猛烈に頭振るときはピンクの妄想に顔を赤くして…… 破り捨てる。 四冊目もお亡くなりに!? 千波ちゃん、大声は厳禁だって そうだぞ千波 踏みにじってるっ、最後の一冊だったお兄ちゃん観察日記のカケラがお兄ちゃん本人の土足によって踏みにじられてる! 四冊すべてを破り捨てた達成感は格別だった。 さあ肝試しを続けようじゃないか、千波 いいもんべつにっ、お兄ちゃん観察日記がなくなっても千波にはまだお兄ちゃん生態記録が残ってるもんっ 達成感は長く続かなかった。 ほんとふたりって見てて飽きないよね 恥ずかしくなるくらい仲良し うらやましいです そして敗北感が加わった。 とぼとぼと教室を見て回り、曲がり角で飛鳥が足を止めた。 一階は収穫なしか あれ、この先は? 左に曲がると体育館、右に曲がると教務室と警備員の宿直室。どっちもパスしたほうが無難だろ 野球部にはこの肝試し、教えてないのか? ああ、顧問の耳に入ったら面倒だし。だから野球部の連中にも見つからないようにな とすると、右に曲がっても左に曲がっても、下手をするとそこで肝試しが終わってしまう。 じゃあ、残るは階段しかないね そうだな。一階だけに現れるとは限らねえし、続いて二階の探索をするぞ 鈴葉ちゃん、怖くない? は、はい。皆さんと一緒ですし、平気です ………… 蒼さん、顔色悪くないか? ……暗いのにわかるわけないです さっきの俺と一緒のセリフだ。つまり図星ということだ。 気分、悪いのか? 疲れたとか? わかるわけないって言いました 先行する飛鳥たちを追って、蒼さんも階段を登る。 蒼さん、鈴葉ちゃんを千波ちゃんに取られて機嫌悪いのかな いや、蒼さんはいつもあんな感じだ もっと仲良くなりたいな。天クルの仲間だしね 俺たちもみんなに続いた。 二階も、今のところ収穫なしか…… 二階に並ぶ特別教室を半ばまで見回ったが、野球部が見たという光の玉は現れない。 ぜってー見つけてやるからな…… 飛鳥は目を光らせて先に進んでいく。 なあ明日歩、飛鳥って昔からあんななのか? そうだね。あたし、飛鳥くんとはヒバリ校で知りあったけど、一年生のときからオカルトファンだったよ 見てると、明日歩の星好きにも匹敵するよな あたしの趣味はあんな不健全じゃないよっ 明日歩先輩それは間違ってますっ、宇宙人は常に人類との友好関係を築こうと狙ってるんですっ、それを後押しする部長の趣味は超健全ですっ 友好関係築きたいんなら、飛鳥が探さなくても向こうから現れるだろ…… 宇宙人は恥ずかしがり屋さんだからねっ ……まあ、地球の侵略を狙ってるって考えないだけ健全なのかな どこもかしこも変人ばかり そ、そんなこと言っちゃダメだよっ そうこうしていると、視聴覚室の前に着く。 天クルの部室である。 お邪魔させてもらうぜ それはいいけど、大事な天文資料とかにさわらないでね 夜の視聴覚室は、化学実験室の次に不気味かもしれない。 大型スクリーンに人影でも映ったら、飛鳥と千波以外の全員が逃げ出すだろう。 ………… 蒼さん、入って来ないのか? ……今、入るところです そわそわしながら遅れて入室した。 ここも入らせてもらうぜ 飛鳥は隣の資料室に足を向ける。 何度も言うけど、よけいなものにさわらないでね へいへい わあっ、す、スクリーンに! 出たのか!? っ! ほら見て見て星明かりで影絵ができるよっ スクリーンに千波が手で犬を作っていた。 人騒がせなことするなっ ……心の底からまったくです 蒼ちゃんにぐりぐりされるのは初めてだよ!? 結局、資料室にも目新しいところはなく、俺たちは部室をあとにする。 洋ちゃん、神社のお仕事はどう? 肝試しとはいえ団体行動のせいか、自然と口数も多くなってくる。 姫榊にこき使われて大変だよ 大変ならやめればいいのに でも約束してくれたからな、要求をこなせば登校日にちゃんと屋上の使用許可くれるって こももちゃん、反故にするかもしれないよ? 姫榊はそういうやつじゃない むー そういえば、境内が華やかになってきたぞ。祭りの飾り付けで 今週の土曜からだもんね。楽しみだな~ お兄ちゃん、お祭り行くの? そのつもりだ 昔はぜんぜん来なかったのに。お母さんが誘っても まあな、だから今年が初参加だ 海水浴のときみたいにみんなで集まりたいね~ そうだな、声かけてみるか ま、オレは特に異論ねえけど 千波ももちろん参加します! ………… お姉ちゃん、お祭りは毎年家族で回ってたけど…… うん。だから今年も家族で ……お姉ちゃん、天クルに入ったんだし、お友達と一緒でもいいよ ううん 家族で回る予定があるなら、蒼さんを誘っても困らせるだけかもしれない。 こさめさんは仕事があるけど、休憩時間が取れたら一緒に回るってさ 姫榊にはパスを言い渡されてしまったが。 じゃああとは岡泉先輩と雪菜先輩に連絡だね ………… 蒼さん、もし都合がつくようなら つきませんから ……反応早いな。 お姉ちゃん…… お祭りの会場で合流できるかもしれないし、きっと千波たちと一緒に回れるよっ は、はい ……そうならないことを祈る 話しているうちに廊下の端まで行き着いた。 次に俺たちは三階に向かう。 ずっと疑問に思ってたんだけどさ なに? 雪菜先輩って、なんで天クルに入ってるんだ? もともとはこさめちゃんの紹介だよ 雪菜先輩、洋ちゃんと同じで転入生なんだって。雲雀ヶ崎に引っ越してきたの ただ、あたしたちが入学したのと同時期だったから、あたしもあとで知ったんだけどね だから、転入したばかりの雪菜先輩を思って、こさめちゃんが誘ったんじゃないかな じゃあ、こさめさんと仲良いんだな 親戚みたいだよ そうだったのか。 引っ越してきたってことは、一緒に住んでるとか? こさめちゃんの家族は居候してもいいって言ったみたいだけど、雪菜先輩は断って一人暮らしって聞いてるよ この歳で一人暮らしというのは大変そうだ。 雪菜先輩、去年は部室に何度か顔出してくれたけど、今年はまだゼロなんだよね。天体観測に興味ないのかな ヒバリ校に馴染むために天クルに入ったんなら、クラスで友達ができたら幽霊部員になるのもしょうがないか そうだね、寂しいけどね 三階でも、UFOらしき影も形も見つけられなかった。 ……ここでも発見できなかったら、いったん一階に戻ってみるか この四階は最上階だ。 さらに上の屋上は立ち入り禁止でカギがかかっている。探索したくてもできないのだ。 カギを持っている蒼さんはなにも発言しなかった。 一階に戻って、またここまで登るの? いや、あとは長期戦覚悟で張り込みだ。目撃情報があった地点でな ケータイを覗くと、時間は十時に差しかかるところだった。 残り時間は一時間だ。 お、お姉ちゃん…… 鈴葉ちゃんが蒼さんの袖を引いた。 ……どうしたの? あ、あの……おトイレ…… 鈴葉ちゃんはもじもじする。 ……すみません。ちょっといってきます うん。場所は一年生の階と同じだから んじゃ、鈴葉ちゃんが帰ってくるまで待機か ご、ごめんなさい、迷惑かけて…… 謝ることないって 夜の校舎は小学生の鈴葉ちゃんにとっては不気味だろうし、緊張しっぱなしだったんだろう。 あ、あの…… 今度は蒼さんがおずおずと言った。 いちおう……ほかにも誰かついてきて欲しいと言いますか…… 言いづらそうにつぶやいていた。 ふたりだけじゃ宇宙人見つけても捕まえるの難しいもんね、千波もついてくよっ あなたは丁重にお断り なんで!? 送り狼になるから 蒼ちゃんは千波をなんだと思ってるの!? じゃあ俺がついてくか 蒼さんはめずらしく反対しなかった。 えらいえらい。男の子だね 男として覗かざるを得ないのか お兄ちゃんって真性のロリコンなんだねっ、千波知らなかったなっ ……よ、洋ちゃんって 信じるなよ!? ほらっ、蒼さんからは軽蔑の眼差しと鈴葉ちゃんからは怯えた眼差しが飛んできてる! だから小学女子の展望台の彼女さんとの想い出をそんなに大切に…… それ人の想い出を汚してるから!? ……もう誰もついて来なくて結構です 鈴葉ちゃんの手を引く蒼さんを慌てて追った。 トイレに入った鈴葉ちゃんを、蒼さんと共に廊下で待つ。 肝試しって言っても、特になにも起こらなそうだよな 暇つぶしに話しかけてみる。 警備員や野球部の部員がいるってわかってるから、ホラーな雰囲気もあまりないし ………… それにやっぱり星明かりで暗闇じゃないのが難点だな。不気味っていうより幻想的な感じだ ………… 蒼さんはいつにも増して口数が少ない。 やっぱりどこか調子悪いんじゃないか? ……どうしてですか ずっと難しい顔してたからさ ……ほっといてください それとも明日歩が言ったとおり、千波に鈴葉ちゃんを取られて機嫌を損ねているんだろうか。 ……早く帰りたい あと一時間の辛抱だ ……もう帰ります 鈴葉ちゃんが反対しそうだけどな ……千波さんに関わったばかりに 鈴葉ちゃんにとってはよかったんじゃないか ……そんなことは 学校休みがちって聞いたし、友達少なかったんだろ? だったら…… 言葉が中途で止まった。 俺は視線を上向けて話していた。だから気づいた。 なにかが天井を横切った。 俺は素早く周囲を見渡す。警備員が発した懐中電灯の光とも限らない。 だが人影はなかった。 飛鳥たちが待っている場所からも離れているので、誰一人見当たらない。 ……気のせいか? 蒼さん、今…… 視界の隅になにか捉えた。 俺は視線をもう一度上向ける。 今度こそ見つけた。 あれって…… 淡く光った白色の玉がふよふよと浮いている。 マジか…… もしかしなくても、飛鳥が言っていたUFO? ケータイを掲げてシャッターを切ろうとした矢先、二の腕に感触が走った。 誰かがそこを強く握っている。 抱きしめられていると言ったほうが正しい。 鈴葉ちゃんか? いや、鈴葉ちゃんはトイレだ。 じゃあ……。 ………… 蒼さんだった。 両目をぎゅっとつむって、まつげを震わせて、頭上の物体から隠れるように必死にしがみついていた。 ……そういうことか。 蒼さんは体調をくずしていたんじゃなく、幽霊の類が苦手だったわけだ。 なのにこれまで夜の屋上でひとり天体観測をしていたのだから、過去の星空にはよほど思い入れがあるんだろう。 再度、頭上の物体に視線を移すと、そこは見慣れた天井しか見えなかった。 ……逃げられた? 撮影するチャンスを失ってしまった。 聞いていたとおり、円盤の形をした小さな光。この大きさでは人どころか犬や猫だって乗れないだろう。 蒼さんはまだ目をつむって震えている。 蒼さん ………… 蒼さん、もういなくなったから ………… 蒼さんはゆっくりと瞳を開ける。 ………… そうすると俺の腕が目の前にあるわけで、薄目だった蒼さんの両目がみるみる大きく開いていった。 いっ、いやあっ! そして突き飛ばされた。 ……なにするんですか そっちから抱きついてきたんだろっ ウソつかないでください 真実だっ 私がそんなはしたない真似するはずありません 現にしてたんだけどっ 言いがかりはやめてください そりゃこっちのセリフだっ ここに天クルの退部届があります すみません俺がやりました 反射的に認めていた。 次またやったら退部しますから 冤罪なのに…… 蒼さんの悲鳴を聞きつけたのか、みんなも駆けつけた。 な、なにがあったの? さっき、すごい声がしましたけど…… お兄ちゃんっ、まさかまさかっ 違うからその先は言うな 本気で覗くとは思わなかったぜ だから違うんだよ! きゃっ わっ っ! 突然のフラッシュにびくっとなる。 飛鳥くんっ、いきなり写真撮らないでよっ オレじゃねえよっ 千波でもないですよ? 俺の腕に捕まっていた蒼さんが、すぐに気づいて慌てて離れた。 さっきの光だな…… なんか見かけたのか? ああ。飛鳥、もしかしたら大発見かもしれないぞ え、じゃあ今の光って UFOが出たんだ! 飛鳥はすぐにデジカメを構える。 ファインダーを覗いてレンズをあちこちに巡らせるが、円盤の光は影を潜めている。 小河坂、本当に見たのか? ああ、おまえの言ったとおりだった。円盤みたいな光が天井に浮いてたよ UFOだと信じたわけじゃないが、謎の物体であることは確かだ。 さっきのフラッシュはなんなの? 移動したときの残光かもな。かなりのスピードで飛行してるのかも よっしゃ、そうと決まればここで張り込むか。女子と男子に分かれてトイレの陰に隠れるぞ お姉ちゃん…… ……だ、大丈夫、怖くないから ううん、すごくドキドキするねっ ……そ、そう 怖がっているのは蒼さんだけかもしれない。 俺たちは男女に分かれてトイレの手洗い場に待機する。 次に現れたらすぐにシャッターを切れるよう、それぞれカメラやケータイを手にしている。 まさか本当に出るとはな…… おまえが信じないでどうするんだよ ちげーよ、自分の幸運に打ち震えてるだけだ と、ケータイが震えた。 明日歩からのメールだった。 『張り込みってつまんない、動きたいよ~(ノ◇≦。)』 ……飽きるの早いな。 我慢しろと返信する。 またケータイが震えた。 今度は千波からだ。 『サブレ食べていい?(*^ー゚)ノ』 まだ我慢しろと返信する。 次に蒼さんからメールが届く。 『(゚Д゚)』 ……なにに怒ってるんだ? わからないが我慢しろと返信。 今度は鈴葉ちゃんからだ。 『( ゚Д゚)凸』 鈴葉ちゃんって俺のこと嫌い!? すぐにまたメールが届き、今のはお姉ちゃんが勝手に送ったんですごめんなさいとあった。 ……なにやってるんだあっちは。 そしてまた明日歩からメールが来た。 『|-゚)』 向こうを見たら明日歩が壁から半分だけ顔を出していた。 こわっ!! うおっ、びっくりさせんな! やった成功~ 女子トイレが盛り上がっていた。 なにしてんだよおまえ…… いや俺じゃなくて向こうがさ…… またメールが来た。 『オレサマ オマエ マルカジリデス』 ……蒼さんからだった。 どうも女子軍は暇らしい。気持ちはわかるけど。 みんな、肝試しの自覚が足りないんじゃねえか? 肝試しに張り込みはしないと思うが、もともと張り込みが目的なので文句は言えない。 ため息をついて視線を廊下に戻すと、そこになにかいた。 飛鳥っ なんだよ、オレはメールなんか送ってねえぞ じゃなくてあそこっ 白い光が円を描くように飛行している。 飛鳥は目を剥いてからカメラを構え、素早くシャッターを切る。 カシャ。 フラッシュに驚きでもしたのか、光は瞬く間に飛び去っていった。 女子トイレのほうでもキャーやらウソーやら騒いでいる。 飛鳥以外のフラッシュは見えなかったので、向こうは撮り損なったか、撮るのを忘れたんだろう。 ……これって 飛鳥が撮った画像を覗き込んでいた。 どうだ、UFOだったか? 見てみろ 液晶を向けてきた。 そこには白い円盤──いや、目視よりも輪郭がはっきりと映ったそれは、正確には円盤の形をしていない。 生き物……か? たぶんな。鳥にも見えるけど…… 翼のようなものが左右に生えているし、鳥類ではあるようだが。 光ってて見えづらいな…… 発光する鳥なんていまだかつて聞いたことがない。 UFOじゃなかったか……。けど、〈UMA〉《ユーマ》かもしれねえ なんだ、そのユーマって 科学的に存在が確認されてない未知の動物のことだよ 誰かがイタズラでそこらへんの鳩を蛍光色にペイントしたんじゃなくてか? 夢がないこと言うなよ……って、また出たぞ 謎の生物が飛来してくる。そのまま天井で旋回を始めた。 メールが来た。 『お兄ちゃん、千波これから捕まえるね(*^ー゚)ノ』 写真だけじゃいまいち判断つかねえし、いっそ捕まえてみるか…… オカ研メンバーは捕獲する気満々だ。 だが千波は虫取り網を持ってきていない。俺が却下してしまったからだ。 こんなことなら許せばよかったかも。 千波ちゃんからメール来たな。……同時に飛びかかりましょう、か。その作戦、乗ったぜ 飛鳥、待った。なにか聞こえる 足音のようだ。速度からして走っている。 警備員かもしれない。さっきから大声で騒いでいたし、気づかれてもおかしくない。 千波にメールを送り、まだ飛び出すなと忠告する。 やべえな。トイレの奥に隠れるか そうするしかないな けどその間にあの生命体に逃げられたら…… 苦悩している。 女子トイレは静まっている。向こうはもう隠れたのかもしれない。 ……何者か、確認だけでもしておくか。 足音はすぐそこだ。息を潜めてその人物を待つ。 ……もう。やっと見つけた 聞き覚えのある声だった。 捜し回ったじゃない。勝手に離れるんだから 見つからないよう、そっと顔を出してみる。 その人物は大きなカマを持っていた。 こら、天井にいないで降りてきなさい メアが、旋回する生命体においでおいでしていた。 ……なんでヒバリ校にいるんだ? あのけったいな格好の子……海水浴でも見た子だな ああ。メアだ 噂の宇宙人エージェントか そんな噂は誰もしていない。 早く降りてきなさいったら。ご主人さまの言うことが聞けないの? 謎の生命体は一向に降りてくる様子がない。 メアはそのうちにぴょこんぴょこんと手を伸ばして飛び跳ねた。 降りてっ、来なさいっ、てば! こら! 手はまったく届かなかったが願いは届いたようで、謎の生命体は翼をはためかせてメアの頭に着地した。 ここはあなたの巣じゃないのっ、何度言ったらわかるの 頭に乗った生命体を両手で抱き下ろす。 メアが喉を撫でると、翼をへたっと垂らした。 生命体の身体から光が徐々に薄くなっていく。 全体像が露わになった。 ………… ………… ふたりで息を呑んだ。 メールが来た。 『お兄ちゃん、あれって新種のドラゴン?(*^ー゚)ノ』 ドラゴンだったらすべてが新種だと思うが。 次に蒼さんからメールが来た。 『明日も晴れるといいですね』 見なかったことにしたようだ。 もう離れないでね。ご主人さまを置いていっちゃダメなんだからね わかった? ドラゴン(?)は返事の代わりにメアの頬を舐めた。 きゃ、や、やだ……くすぐった…… めっ かわいらしく躾け始めた。 ……あれはほんとにメアか? またっ……だ、ダメだったら、もう…… めっ 明日歩からメールが来た。 『メアちゃんがかわいいよ!(≧∇≦)/』 蒼さんからもメールが来た。 『(゚Д゚)』 ……なにがしたいんだ? いい? ご主人さまの言うことは聞かなきゃダメなの。じゃないと、めっするからね ……やば、笑ってしまいそう。 きゃ、やんっ、な、舐めないでったら…… めっ ぶはははははは! 限界を突破した。 メアはドラゴン(?)を抱いたまま飛び上がった。 俺の笑い声を合図に、隠れていた面々が姿を出す。 メアちゃんかわいかったよ~! あ、あの、こんばんはです その子ってメアちゃんのドラゴン? サブレ食べるかなっ、あげてもいいかなっ ……本物なの? 作り物じゃなく? さわってもいいか? いや、その前にツーショット撮らせてくれ! え、え……? なに……? メアは状況を把握できていないようだ。そんなメアを飛鳥がカメラに何度も収めている。 メア 遅れて俺もそばに寄る。 奇遇だな、こんなとこで会うなんて 俺の姿を認めたメアは一目散に寄ってきて、俺の背中に隠れてしまった。 なんで、洋くんが……ここに…… 隠れたまま、ぼそぼそとくぐもった声で言う。 肝試ししてたんだよ。そっちこそ、ヒバリ校には入ったことなかったんじゃないのか? ……昨日、入ってみたの。初めて 昨夜に展望台でメアを見つけられなかったのは、ヒバリ校に来ていたからか。 野球部が見たという光る円盤も、メアの頭に乗っているこのドラゴン(?)だったわけだ。 小河坂、独り占めしないで紹介してくれよ 飛鳥の声に、メアは完全に背中に隠れてしまう。 この面子でメアがまともに話したことがないのは、飛鳥だけだ。 メア、あいつは飛鳥未来。俺の友達だ ………… よろしくな、メアちゃん。でさ、いくつか質問してもいいか? 飛鳥くん、やめなよ。メアちゃん怖がってるよ ひとつだけでいいんだ。おまえらからメアちゃんの話聞いたときから、どうしても確認したいことがあったんだ メア、いいか? ……べつに 飛鳥は了承と取って、一言一句を丁寧に言った。 メアちゃんは、〈人〉《・》〈間〉《・》〈な〉《・》〈の〉《・》〈か〉《・》? ………… その質問は、俺がメアに対して悩んでいたものを集約しているように思えた。 メアは迷わず答えた。 わたしは、死神よ ……人間じゃないってことか? それは知らない。だけどわたしは死神。悪夢を刈る死神 それで充分でしょう ……いや、充分か? あたしは充分だよ め、メアさんは、メアさんだと思いますから 千波的には宇宙人のほうがうれしいよっ この年頃で変身願望はよくあること ……前半ふたりはいいとして、後半ふたりはわたしにケンカ売ってるってこと? 俺に聞かれても困る。 ヒバリ校の都市伝説の死神とは違うのか? よく知らないけど、違うんじゃないの 人類社会に解け込み隙あらば友好もしくは地球侵略に打って出る宇宙人エージェントじゃないのか? なに言ってるのかさっぱりだわ 近くにUFOを着陸させてるんだよな? そんなの見たことも聞いたこともないわ 飛鳥は落胆した。期待には添えなかったようだ。 メアの頭を巣にしていたドラゴン(?)が、翼をはためかせて浮遊した。 あっ、こらっ 天井で旋回を始める。メアが呼びかけても降りてこない。 で、あれはなんなんだ? わたしの〈僕〉《しもべ》 ……ペットじゃなくて? 〈僕〉《しもべ》 以前メアちゃんに会ったときは見なかったよ? つい最近、展望台で見かけて〈僕〉《しもべ》にした 展望台って人外魔境なんだねっ 俺にケンカ売ってんのか? 想い出を汚すつもりはなかったからぐりぐりは許して欲しいよお兄ちゃん!? ……本当に本気で本物? 作り物じゃないでしょう、元気に飛び回ってるし ありえない 現にありえてるでしょう 予想するに、クリスマスプレゼントのラジコン ……なにがなんでもわたしを子供扱いしたいわけね 子供は子供らしく生きるのが一番 ……この子はいつか絶対後ろから刺す 目を離すとすぐ険悪になるふたり組みだ。 これ食べるかな、あのドラちゃん 千波は包みからサブレを一枚取った。 ドラちゃん? ドラゴンだからドラちゃんだよっ そういえば、名前ってあるのか? べつにないけど ドラちゃん(?)は千波の手のひらに載ったサブレを飛びながらくわえると、メアの頭に着陸して食べ始めた。 こらっ、食べかすがわたしの顔にかかるでしょっ めっ ぶはははははは! ……そんなに刺されたいんだ うそうそ冗談だからカマ振り上げるなっ メアちゃんもドラゴンの子もかわいい~! きゃあっ、だ、抱きつかないで! ふたりで押しあいへしあいしている。 しっかし、ドラゴンなあ。龍って鳥類か? ほ乳類か? は虫類でもよさそうだけどな……。ただ、新種のほ乳類ってほかに比べると格段にめずらしいらしいぞ ほほう、そいつは勉強になった。展望台を捜せばほかにも見つかるかもな 飛鳥、言っとくけど マスコミに売るなんてしねえよ、オレが興味あるのはオカルトだからな。ドラゴンじゃファンタジーだ あ、あの、撫でてみていいですか……? いいけど 鈴葉ちゃんはおっかなびっくりにドラゴンの頭を撫でる。 ドラゴンが気持ちよさそうに瞳をつむると、鈴葉ちゃんは笑顔を浮かべる。 ドラちゃん、はいあーん 夜食のはずだったサブレはドラゴンの餌にされたようだ。 メアちゃん、この子の名前ドラちゃんでいいの? べつに せっかくだしメアが決めるべきじゃないか? 名前なんているの? ……いや、メアだって自分で自分の名前つけたんだろ? 名前がないと不便って理由でさ メアという名は偽名だ。本当の名前は知らない。 今はまあ、それはそれとして。 今まではどう呼んでたんだ? 〈僕〉《しもべ》 ……それはあんまりだろ そう? そうだ じゃあ〈下僕〉《げぼく》 変わってねえ。 ちゃんと名前つけてあげないと、かわいそうじゃないかな…… 鈴葉ちゃんがドラゴンの頭を撫でながら言う。 ……あなたが言うなら考えてみてもいい メアの中で鈴葉ちゃんのランクは上位のようだ。 ドラちゃんでいいんじゃないかなっ いや なんでなんでっ、かわいいのにっ あなたがうるさいからいや 千波のランクは下位なんだなあ。 メアは頭に乗っていたドラゴンを抱きかかえると、面と向かいあう。 こうしてみると不細工ね おまえな…… あれにしようかな なんだ? あなたが聞かせてくれた七夕伝説の鳥 ……かささぎか? うん なに、かささぎって? 織姫と彦星が再会できるように、天の川の架け橋になってくれる鳥だよ へえー、じゃあ呼び名はかーくんだねっ かー坊でもいいな ちゃんと名前もらえてよかったな、かー坊 ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! わあっ、かーくんが炎吐いてお兄ちゃんの頭が燃えた! かーくんもよろこんだみたいね どこが!? 攻撃してきたんだけど!? ドラゴンだけあって炎まで吐けるのか…… ファンタジーだね カッコいいですっ ……明日も晴れるといいですね 蒼さんだけ見なかったことにしていた。 十一時が近くなって、俺たちは校門前に帰還した。 そんなわけで、今夜のミッションは無事終了だ またやろうなんて言い出すなよ それはわからねえな。今回は外れだったがまた有力な情報があればいつでも張り込むぜ そのときは千波もお供しますねっ 結構おもしろかったし、あたしも参加しようかな~ 私は二度とご免 お姉ちゃん……わたしも肝試し…… ……考えておく 数の暴力で決行されそうだ。 蒼さんがいると驚き役で盛り上がりそうだな ……よけいなお世話です、アサルト部長 その間違いワザとじゃなきゃありえねえよな!? 飛鳥とオカルトを足したからアサルトなのかな 一石二鳥な呼び名ですっ、次からはそう呼びますねアサルト部長っ ……いいかげん名前で呼んでくれ メア なに どうして、ヒバリ校に来てみようって思ったんだ? ………… メアは視線を背けてから、 ……あなたのせい なんでまた あなたが、天クルの話したり、天体観測に誘ったり、海水浴に誘ったり…… 友達、連れてきたりするから…… だから、ヒバリ校がどんなところか気になった それだけ…… そうか ……うん 頭を撫でようとしたが、そこにはかー坊が乗っている。 代わりにかー坊の頭を撫でた。 ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! 正当防衛ね ……鈴葉ちゃんには素直に撫でられていたのに。 メアはくすくすと笑っていた。 洋くん、そろそろ 帰るのか? うん かー坊も、またな ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! ばいばいだって そんな和やかなあいさつじゃないだろこれ!? じゃあね メアは身をひるがえす。 坂を登っていき、すると途中で闇に溶け込む。 かささぎと名付けられたドラゴンも同時に消えた。 マジで消えたな……。さすが、死神なだけはある しきりに感心していた。 都市伝説の死神も、あんな感じに神出鬼没なのかもな その言葉に答えられる者は、今のところ誰一人いない。 オレ的には、都市伝説の死神は宇宙人エージェントでお願いしたいところだぜ それだけはないと思った。 夏休みはそれなりに有意義に過ごしていた。 喫茶店でのバイトに始まり、海水浴、肝試し、展望台での星見、そして姫榊の仕事の手伝い。 毎日のように神社を訪れ、打ち水と掃除をこなす。 姫榊は言葉はきついが生真面目なので、なんだかんだで俺と一緒に仕事をする。 たわいない談笑で暑さをまぎらわせながら。 姫榊の理不尽な要求により夏祭りの話題は厳禁ではあったけれど。 日々の設営で彩られていく境内を見ていくうちに、祭りの日が楽しみになっていた。 祭りの期間は四日間。 八月四日が初日で、七日が最終日。 境内は賑わっていた。 老若男女が石畳の道を行き交う。うちわを片手に浴衣姿で歩く人も多く、彩りに花を咲かせる。 連日、俺たちは通っていた。 太鼓のお囃子を聞きながら、立ち並ぶ露店を覗きながら、俺は都会の祭りはどうだったかと思い返す。 こぢんまりしていた印象が拭えない。 雲雀ヶ崎ほど大規模ではなかっただろう。 由緒正しき伝統があるわけでもない、言ってしまえば屋台を楽しむためだけの行事だった。 だからだろう、俺は祭りの最終日である今日を一番の楽しみにしていた。 祭りの締めとして、最後に伝統神事が行われるらしいのだ。 雲雀ヶ崎のお祭りの本番がなんで今日かって言うとね、八月七日だからなんだよ 俺は明日歩と金魚すくいに興じながら、神事にまつわる話を聞いていた。 このお祭りはもともと、七夕祭りって呼ばれてるの。旧暦だと七夕は八月七日頃になるからね それにね、織姫や彦星が最も輝くのは旧暦の七夕なんだって。だからお祭りが終わったら星見しようねっ 七月七日は洒涙雨流したんだもんな 今夜はそのリベンジだよ。展望台で一夏のアバンチュールに溺れるんだから…… 明日歩の瞳が恋する乙女のそれになる。 じゃあ神事っていうのも、七夕に関係あるのか うん。境内の奥に建ってる社殿でやるんだけど、人だかりがすごくて見るの大変なんだよね クラスメイトのよしみで、こさめクンに特等席を取ってもらえばいいじゃないか それか、姫榊とかな 岡泉先輩と飛鳥が歩いてくる。 ふたりはこれまで面識がなかったそうだが、海水浴やこの祭りを経て仲良くなったようだ。 こさめちゃんいそがしいから、あんまり無理言えないし。こももちゃんは頼んでもどうせ断るだろうし そういえば、姫榊ってあまり祭りの仕事に触れて欲しくないみたいだったな あはは、恥ずかしかったんじゃないかな 神事の主役だからね 前はずっと万夜花さんが主役だったけど、ヒバリ校に入学した去年からこももちゃんに変わったんだよ 姫榊がヘマしたら、今度はこさめさんに変わるのかもな どんなことやるんだ? 焦らなくても、そのうち始まるよ。せっかくだし見てきたらいいんじゃないかな 明日歩は見ないのか? 人が多いから、あたしの背だと見えづらくて。洋ちゃんの背だったら後ろからでも大丈夫だと思うよ お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 祭りの喧噪もなんのその、我が妹の大声はよく届く。 あのねあのねっ、千波お兄ちゃんにとっても切実なお願いがあるんだよっ 両手にりんご飴とあんず飴とチョコバナナと綿菓子と焼きとうもろこしを持った千波がのたまった。 お小遣いなくなっちゃったから貸して欲しいなっ ……おまえ、詩乃さんからもらった二万はどうした 千波の血と肉になって今も生き続けてるよっ 全部食い物かよっ これからカキ氷とベビーカステラとたこ焼きと安っぽいソース焼きそば食べたいから貸して欲しいなっ どのくらい欲しいんだ? 誰もぐりぐりが欲しいなんて言ってないよ!? 千波ちゃん、一緒に射的やらない? お姉さんがおごってあげる ほんとですかっ ほんとほんと。最終日なんだし、どうせなら最後まで楽しみたいもんね わーい! ……あまり愚妹を甘やかさないでくれ、つけ上がるから 洋ちゃん、今日は無礼講だよ その無礼講が四日も続いてるから言ってるのに。 明日歩は初日から金魚すくいや射的、ヨーヨー風船つり、輪投げなんかの露店を回っている。 千波と違って食べるより遊び倒したいようだ。 わっ。千波ちゃん、ちょっと待って 射的の露店に向かっている途中で、明日歩のケータイが鳴り出した。 こさめちゃんからだ こさめさんは初日から今日まで仕事を抜け出せなかったようで、俺たちと一度も合流していなかった。 うん、みんなで射的のお店にいるから。待ってるね~ こさめさん、来るのか? うん。やっと時間取れたって つっても、ほとんど祭りも終わってるけどなあ 一緒に神事を見ることくらいできるかもしれないね みんなが見るんだったら、あたしも見ようかな あっ 千波は両手のりんご飴と(以下略)を一気に食べ終わると、急に走り出した。 蒼ちゃん発見ー! その声にびくっとした蒼さんが、構えていた射的の銃を走り寄ってくる千波に向けた。 ……フリーズ 抱きついてプリーズ? これ以上近づいてあまつさえ抱きついたら撃つ ち、千波さんは景品じゃないよお姉ちゃんっ 蒼さん姉妹が射的の真っ最中だった。 蒼さんたちともやっと合流か 毎晩探してたんだけどぜんぜん見つからなかったよっ す、すみません…… 謝ることないよっ、こうして千波たちは運命的に出会えたんだからねっ ……最後の最後で気を抜いた。うかつ 蒼さんが出会わせないように注意してたんだろうなあ。 家族は一緒じゃないのか? ……今日は平日ですから。親はどちらも仕事です こんな日にまで大変だ。 詩乃さんも土日は祭りに足を運んでいたが、平日の昨日今日は自宅で仕事をしているのだ。 鈴葉ちゃん、欲しいのあったら取ってあげよっか? 明日歩が代金を払って銃を受け取っていた。 あ、え、お姉ちゃん…… 鈴葉ちゃんはどうしていいかわからないのか、蒼さんに助けを求める。 蒼さん、今日は無礼講だよ その言葉が蒼さんを説得したようだ。 ……よかったね。鈴葉 う、うんっ じゃあじゃあ千波も鈴葉ちゃんに景品取ってあげるねっ あなたはいい なんでなんでっ 借りを作りたくない 蒼さん、無礼講だよ ……取れるものなら取っていい 鈴葉ちゃん、帰りはきっと大荷物だよっ た、楽しみですっ 蒼さん、明日歩、千波が並んで銃を撃つ中、こさめさんが到着した。 皆さん、ちょうどおそろいですね 雪菜先輩を除けば、これで当初の予定メンバーは勢揃いだ。 雪菜先輩にはこさめさんが連絡を取っていたのだが、あえなく断られたそうだ。 そして、メアの姿もない。 誘ってはみたのだが、海水浴と同じく考えてみるということだった。 今年も多くの方が参加されたみたいですね 終わりが近いからか、こさめさんは感慨深げだ。 仕事、言ってたとおり多忙みたいだな これでもわたしは楽なほうなんですよ。電話の応対だけですから 大変なのは、電話の依頼で現地に飛び回るお母さんと姉さんなんです 万夜花さんはさっき本部で酒飲んでた気がするけどな 町内会の方々と騒いでいたね ……なかなか帰ってこないと思ったら、やっぱりサボってましたか 姫榊は仕事中か? はい。神事の準備中です 結局、姫榊は俺たちと回れないようだ。 あたし景品三個ゲット~ 千波は二個ゲットー ……屈辱。一個 それらすべてが鈴葉ちゃんの小さな胸に抱かれた。 た、たくさんで歩けません…… そう言った鈴葉ちゃんはうれしそうだった。 それでは皆さん、一段落ついたようですし、わたしについて来ていただけますか? どこか行くの? はい どこだ? 社殿です こさめさんはぴんと指を立てて言った。 神事が始まるにはまだ時間がありますが、早めに皆さんをお連れしたいんです 特等席を取っておいてありますから こさめさんが俺たちを先導してくれる。 最後尾を歩いていたところで、俺は足を止めた。 視線を感じる。 この雑踏の中、気づけたのは奇跡的。 奇跡が起こった理由はなんだろう。 ……ひとつしかないよな。 奇跡でもなんでもないからだ。 この祭りは雲雀ヶ崎では有名なのだ。 だったら彼女も足を運んでいておかしくない。 そう考えていたから。 祭りの期間中、それとなくキミの姿を探していたから……。 ………… はっきりと目に留めた瞬間。 人混みが映らなくなる。雑踏が聞こえなくなる。 俺の目にも耳にも届かなくなる。 彼女だけに意識が向く。 だから世界に、ふたりだけ。 なあ…… 向こうも俺に気づいている。 その距離は遠くもないが近くもない。 キミは…… いいの? 俺の言葉に割り込んだ。 みんな、歩いていっちゃうよ 友達、なんでしょう? キミの友達……なんでしょう? 俺は言葉を失う。 えらいね。うん、えらい たくさん友達、作れるようになったんだね…… もはや疑いようがない。 優等生に、なれたんだね…… 彼女は、やっぱり。 俺が捜し求めていた……。 少女は身をひるがえした。 人混みの奥へと消えていく。 我に返った。するとこれまで届かなかった祭りの雑踏が目と耳を打つ。 声が聞こえる。 過去の「僕」が叫んでいる。 なにをしている、追いかけろ。 また後悔したいのか? 足が、弾かれたように前へ出る。 なあっ……おい! 待ってくれ! 人通りをかき分ける。 客は皆、社殿に向かっているのか、逆走する俺の壁となって立ちはだかる。 すいませんっ、急いでるんですっ、すいませんっ…… ぶつかっては謝りながら突き進んだ。 すでに彼女の姿は視界にない。 見失っている。 届かない。 今はまだ、届かないのか。 キミが言う優等生になれたのかは知らないけれど。 今もって俺は、キミと再会する資格がないのかと。 だから。 捕まえたなら逃げる理由をなんとしても問いただす。 祭り会場の始点まで戻ったが彼女の姿はなかった。 流れに沿って戻ってみたが、やはり見当たらない。 彼女は帰ったのだろうか。 帰り先さえわかっていたら、こんな気持ちにはならないのに。 彼女を見かけた場所で立ち尽くしていると、明日歩たちが心配そうにやって来た。 はぐれたと思っていたようだ。 俺は当たり障りなく誤魔化しておいた。 ……まだ、チャンスはあるよな。 次に見つけたときは、覚悟しろよ。 俺は成長したからな。 昔の「僕」と違い、どうしようもない別れが待っていたとしても諦めない。 最後まで、決して諦めることはない。 軒に吊るされた淡い明かりが、古びた木造建築を夜闇に浮かび上がらせている。 俺たち一行は社殿の真ん前に通された。 この舞台らしきところで神事が行われるようだった。 厳格な雰囲気がそうさせるのか、夏の熱気は健在のはずなのにこのあたりはどこか寒い。 加えて最前列に座っているので落ち着かない。 こさめさんが用意してくれたお茶を飲んで気を静めていると、後ろにぞくぞくと人が集まってくる。 喧噪が最高潮に達し、すると次第に波が引くようにそれら一切の音は霧散する。 澄んだ静寂に包まれると、タイミングを見計らったように大太鼓が打ち鳴らされた。 それは厳かに始まった。 腹を震わせる大太鼓から、軽快な小太鼓、澄んだ鉦の音、かすれる響きの笛の音色が加わり、そして重なる。 この舞台──神楽殿の中央に、姫榊の姿がある。 厳格な冷気に満ちる空間を、音色に合わせて渡っていく。 舞っている。 見慣れた巫女装束ではない、清く煌びやかな舞衣を纏いながら。 身の丈もある刀──薙刀を振るいながら、姫榊は神座に神楽を奉納する。 こももにとってはまだ二度目の舞台だけど、なかなか様になってきたわね その舞台を台無しにしかねないアルコール臭が漂ってきたと思ったら、それは万夜花さんだった。 どう、雲雀ヶ崎の祭りを過ごした感想は? 伝統ある祭りは違うなって感じでした あはは、伝統って言っても要はお盆の一環よ。七夕ってのはもともと祖先を〈祀〉《まつ》る行事だからね この巫女神楽だってそう、選ばれた巫女が機織りをしながら神の〈来臨〉《らいりん》を待つ〈棚機女〉《たなばたつめ》の行事が元になってるのよ 機織りっていうよりは、剣舞に近い感じがしますね そうね、だけど〈採物〉《とりもの》である〈布帛〉《ふはく》を織るのが機織りなんだし、その〈採物〉《とりもの》がこの星天宮では薙刀になっているってだけの話よ ……採物? 神楽っていうのはね、霊魂の動きを身体で表現する〈祈祷〉《きとう》のことなの。そして神霊が〈依〉《よ》りつく〈呪具〉《じゅぐ》が〈採物〉《とりもの》よ こももはね、その〈採物〉《とりもの》を使って霊魂を自身の身体に取り込み、鎮め、そして送り還しているの 鎮魂や〈魂〉《たま》送りって呼ばれてるけど、聞いたことくらいはあるんじゃないかしら 姫榊の手にある薙刀が、時に激しく薙がれ、時に静かに凪いでいく。 その動きは川面の流れのようでもある。 昔は天の川に見立てた川に笹を流して願い事をする行事なんかもあったけど、あの子の動きはそれを思い起こさせるわね 姫榊の流動的な舞は、感嘆の息がもれるくらい淀みがない。 見る者にとっては冷たくも映る美貌に、身を包む衣装も合わさり、まさに清冽だ。 まあ私から見たらパンチっていうか、攻撃力が不足してる感じだけど ……なんだ攻撃力って、というか雰囲気をぶち壊さないで欲しい。酒も飲んでるし。 〈採物〉《とりもの》にはさっき言った〈布帛〉《ふはく》やこの薙刀のほかにも、様々な種類があるわ。そしてそれぞれ役割も決まっている 鈴や扇は神霊を招き請うものとして、笹や〈布帛〉《ふはく》は浄化と再生を祈るものとして そして剣や弓、薙刀なんかは武力の象徴として、鬼を追い払う役目を持つ だから、攻撃力? 雰囲気ぶち壊さないで欲しいわね いやそっちが先ですから 武器を使った舞は〈山伏〉《やまぶし》の武術に〈祖型〉《そけい》があって、多くは鬼退治のためのものだったと言われているわ ただ鬼を追い払うだけじゃなくて、まつろわぬものとして元の居場所に還してあげるという意味も持つんだけどね そこまで説明すると、万夜花さんはやおら神楽殿の奥を指差した。 あそこに見えるのがなにか、わかる? それは壇上に飾られており、一見すると石だった。 神社の御神体ですか? そうよ。正体はなんだかわかる? ……水晶? 惜しい。鉱石という点では正解だけど 表面はざらざらしているようなのに光沢も見え、全体的にほのかな光を発している。 姫榊が薙刀を振るうたび、室内灯を反射してか、さながら万華鏡のように色合いが変化していた。 私たちはあれを〈天津甕星〉《あまつみかぼし》が宿った〈依代〉《よりしろ》として、この神社に〈祀〉《まつ》っている 星天宮の名はそこから来ているし、祭りを旧暦の七夕に合わせて催すのもそのためってわけ 天津甕星が宿る石を御前に、姫榊の舞は続いている。 少なくない観客が見守る中、姫榊は臆することなく祭りのとりを飾っていた。 あの子は気が強くても度胸があるわけじゃない、だけど欠点があればしっかりと努力で補ってくる うちの舞姫も、そろそろ一人前になったのかしらね 娘の晴れ舞台を前にしているためか、万夜花さんの口調はなめらかで楽しげだった。 俺も、明日歩も、ほかの皆も似たような気持ちだったのかもしれない。 姫榊の繊細で流れるような神楽に心が高揚し、いつしか時間も忘れて愉しんでいる。 ……姫榊も、隠すことなかったのにな。 こんなにも魅力的な神楽を舞えるのだから、逆に自慢したっていい。 生真面目なところも合わせて、姫榊は本当に損な性格をしている。 だから明日歩にだって誤解される。 だけどまあ、それも姫榊の魅力のひとつなのかと、そう思えるくらいには姫榊とのつきあいも長くなっていた。 俺の雲雀ヶ崎生活は、気がつけば一ヶ月を過ぎていた。 待ってください、雪菜先輩 誰かと思えば、姫榊妹か 帰られるんですか? ああ 姉さんの神楽も見ずに? 彼女が今までどれだけ練習に励んできたか、私はキミの口から聞かされている キミが嘘をつく理由はないし、話にあった練習量で生まれる技術力を考えれば、失敗など万に一つもないだろうさ だから見る必要がない? ああ ……でしたら、姉さんが毎晩遅くまで練習していたことは、教えないほうがよかったですね そんなことはない。どちらにしろ私は見物しなかった ………… 祭りの仕事はちゃんとこなしたつもりだが ……はい、ありがとうございます。今年も手伝っていただいて それくらいはしないとな。私はキミら姫榊家に生活費を出してもらっている身分だ 皆さんと一緒にお祭りを楽しんでもよかったんですよ? わかっていて言わないでくれ。私は、雲雀ヶ崎の者たちとあまり関わりたくないんだ ………… そうだ。いちおう報告しておこうか ……なんですか? 夜を待って展望台に足を運んでみたが、キミが言った死神には会えなかったよ それはきっと、雪菜先輩が怖くて隠れていたからですよ ……私はそんなにいかつく見えるか? いえ、小河坂さんの話から察するに、死神は人見知りするそうなんです 人間くさい死神もいたものだな ですから次は天クルの皆さんと一緒に訪れてみてはどうですか? 皆さんそれぞれ死神とお知りあいになったようですし、雪菜先輩にも紹介してくれると思いますよ 私が急にそんな申し出をしても、天クルの皆は面食らうだけだろう 幽霊部員が仇になりましたね。日頃から交流を深めていれば、こんなことにはなりませんでしたのに わかっていて言っているだろう? はい どうもキミは私にお節介が過ぎるな 雲雀ヶ崎の皆さんと仲良くなるのは、デメリットでしかありませんか? ああ、そうだ ………… 話は終わったようだな ……あの ん? わたしが、死神と話してみましょうか? それとなく、探りを入れてみましょうか? ……いいのか? 展望台は、キミにとってはあまりに辛い場所だろう 心配には及びません 雪菜先輩の仕事の手助けだと思えば…… 姉さんのためだと思えば、どうということはありませんから ……そうか はい 雪菜先輩。死神の正体が、あなたの想像どおりでしたら、そのときは…… ああ そのときは、消すさ アレは、私たち人にとっては〈夢幻〉《ゆめまぼろし》にすぎない だから、これ以上は、人の目に映らないようにしてやるさ…… それじゃ、みんな。四日間のお祭りは無事終了と相成りました。これまで大変ご苦労さまでした~! かんぱーい! ……露店で遊んでただけの人が、無事もご苦労もないでしょう そんな姫榊の文句は誰にも届かなかったようだ。 さっきまで祭りを回っていたメンバーでミルキーウェイを貸し切って、まるで二次会の様相を呈している。 ちなみにマスターは神社のほうで万夜花さんと飲んでいるらしかった。 こっちは疲れてるのに、無理やり連れ出して…… 姫榊の祝賀会ってことにしといてくれよ わたしのなにを祝うのよ 神楽、よかったぞ ……神楽殿に入ったとき、あなたたちが目の前にいたから驚いて声上げそうになったわよ こさめさん、特等席のこと内緒にしてたのか。 問い詰めようにもこさめはいないし…… こさめさんは祭りの後片付けがあるとかで、遅れて参加とのことだった(なのに万夜花さんは飲んでいるらしい)。 一方、神楽を披露した姫榊はねぎらいの意味で後片付けを免除されていたので、無理やり連れてきたわけだ。 そういうことだから、祝わせてくれ べつにあなたたちに祝ってもらう筋合いないから。むしろ気色悪いんだけど ほんとしゃべらなきゃカンペキなんだけどなあ なんの話よっ 来年も見に来るからな 来ないで。これ、七つめの要求だから ……いや、待ってくれ 冗談よ 姫榊はあさってのほうを向く。 ……でも、あまり人には言わないでね 都会の友達に写メ送りたいんだけど 絶対やめてっ なにを恥ずかしがっているんだか。 ……小河坂くんだって、学力のこと人に教えたくないんでしょ。たぶんそれと一緒だから わかったような、わからないような。 姫榊は頬杖をついて、コップ(中身はアルコールではない)片手に騒いでいる面々を眺めていた。 祭りでも騒いで、祭りが終わっても騒いで、元気なことね…… 一休みしたら展望台に行くつもりなんだ ……星見? ああ よく体力が続くわね 明日歩がさ、どうしてもって言って。今日って旧暦の七夕じゃないか ……ふん そっぽを向いてしまう。 七夕の日は、姫榊が屋上のカギを貸してくれなかった。だから明日歩は天体観測できなかったのだ。 屋上の使用許可、打診してみるつもりだから ぽつりと言った。 ありがとうな その代わり登校日まで境内の打ち水と掃除、きっちり手伝いなさいね わかってる 明日、神楽殿の大掃除もやるから。それもよろしく ……わかったよ あと神楽衣装をクリーニングに出しておいて ……わかった 薙刀も研いでおいて ……わ、わかった わたしが指鳴らしたらうちわで仰いで、二回指鳴らしたら麦茶持ってきて 暴君だ。 登校日まであと三日、思いつく限りの要求叶えてもらわないとね お手柔らかにお願いしたかった。 ……………。 ………。 …。 お兄ちゃーん、千波ねむねむだから寝るねー テーブルで寝るな、家に帰るまで我慢しろ 夜も更け、そろそろ我が妹の就寝時間が近かった。 さすがに眠くなってきたな…… みんな、だらしないなあ ……あふ 鈴葉も眠くなった? うん…… 明日歩クン、そろそろお開きにしようか。特に鈴葉ちゃんは家に帰してあげないと ……残念ですけど、了解です。こさめちゃんにも連絡しておきますね こさめさんはまだ訪れていなかった。後片付けが長引いているようだ。 ほんとは三次会も予定してたんだけどなあ どれだけ体力バカなのよ だって今日は七夕のリベンジなんだよ~! 三次会というのが星見だったわけだ。 明日歩、三次会は行けそうな人だけ参加でいいんじゃないか? 洋ちゃんは? 俺は行くよ うんっ、ならオッケー! 現金なやつだな 僕も行きたいところだけど、電車の時間がちょっとね もう終電ですか? 都会と違って、ここは電車の本数が少ないからね 電車組は、不参加はやむを得ないでしょうね。わたしは元から不参加だけど とすると、参加できそうなのは小河坂兄妹と蒼さん姉妹になるのか ……私は鈴葉を連れて帰ります あ、えと……お姉ちゃん…… いいから 鈴葉ちゃんの眠気を汲んでか、蒼さんは有無を言わせなかった。 くー 千波、まだ寝るなっ 千波ねむねむじゃないから参加するねー 目が線になっている。 三次会は、千波をいったん帰してからになりそうだ。 すみません、皆さん。遅くなってしまいました と、こさめさんがようやく登場だ。 よかった~、もう少しでお開きの連絡するところだったよ だからすぐにお開きよ ……それはしょんぼりです 三次会があるよ。展望台で一緒に星見しない? バカ言わないで。わたしたちは電車組なんだから はい、ぜひ参加させてください ちょっと、こさめっ たった一駅ですし、徒歩でも帰宅できますから わたしが許さない。夜道を一人歩きで帰るなんて 俺が送ってもいいぞ あたしも送るよ ありがとうございます、おふたりとも ……なんなのよ、まったく 額を押さえていた。 姉さん、先に帰ってお母さんをよろしくお願いします。飲み過ぎると明日の片付けに差し支えますし ……わかった。あまり遅くならないようにね はい それじゃあ、今日は解散。みんなお疲れさまでした~ お疲れさま、と声をかけ合った。 俺たちは駅で電車組と別れ、蒼さんの自宅前まで着いた。 蒼さん、今日はどうだった? ……疲れました つまらなかったと答えられるよりはずっといい。 それじゃ、お休み ……お休みなさい 寝ぼけ眼の鈴葉ちゃんを連れ、蒼さんは自宅に入っていく。 両親には事前に連絡していたようで、玄関の扉が開いた際に出迎えの姿が見えた。 さて。 俺も千波を置いてくるか あたしたちはここで待ってるね いってらっしゃいませ すでに夢の世界へ旅立っている千波を背負い直し、隣の我が家に向かう。 千波の分だけ荷物が多く、そのため今夜は望遠鏡を明日歩とこさめさんのふたりが運んでいる。 早めに戻って、今度は俺が担ぐことにしよう。 すいませんけど、千波をお願いします 部屋に運んでおくわね。洋ちゃんの帰りはいつ頃になりそう? たぶん二時間後くらいだと思います じゃあその頃になったら、連絡ちょうだい。車を出してあげるから ……展望台って、車入れるんですか? 軽自動車ならフェンスのところまで入れるわ。車で迎えにいくくらいは簡単よ いえ、歩いて帰りますから 遠慮しないの。お友達も一緒なんでしょう? それも女の子ふたり はあ…… ふふ、両手に花ね なにが言いたいんでしょう。 みんなも車で送ってあげるから。そのほうが安全でしょう。わかった? 明日歩とこさめさんを考えれば、そのとおりだ。 すみません、よろしくお願いします うん。それで、洋ちゃん なんですか? どちらが彼女さん? ……いや、どっちも普通の友達ですから 詩乃さんは意外とそういう話が好きらしい。 そうして俺たち三人は坂道を登っていく。 右隣には明日歩、左隣にはこさめさん。 友達でも、両手に花と言うんだろうか。 てっきりさ、こさめさんは展望台行きを断ると思ってたよ なぜですか? 前は危険だって言って反対してたからさ そうだよね。あたしもダメかなーって思ってた 危険ではないんですよね? うん、足場もしっかりしてるし でしたら、わたしの杞憂だったということですよね。参加しない理由はありません 手のひらを返したこさめさんの物言いに、明日歩とふたりで首をかしげていた。 展望台に着いた。 俺は望遠鏡を置いて一息つく。 明日歩の話では、八月七日は織姫と彦星が最も輝く日なのだという。 夜空を見上げると、それは本当だと思えるくらい、一面に強い光が瞬いていた。 星が、とても近いですね…… 初めて来訪したこさめさんが感嘆の息をつく。 こさめちゃん、はいこれ。望遠鏡の準備ができるまで、その双眼鏡で星見してるといいよ 明日歩はこさめさんに双眼鏡を渡すと、ケースから望遠鏡を取り出し、組み立てを始める。 その間にメアを探すのが俺の日課みたいなものだ。 明日歩とこさめさんを尻目に、歩き出す。 小河坂さん 展望台を半周すると、こさめさんが歩いてきた。 メアさんをお捜しですか? ああ。そっちはどうしたんだ? わたしもご一緒したいと思いまして そう言って俺の隣に並ぶ。 星見はもういいのか? はい。織姫も彦星も、とても大きく輝いていました。きっと再会してよろこんでいるんですね 明日歩は? 望遠鏡の準備中だったんですが、双眼鏡を返したらわたしの言葉も届かないほど星見に没頭してしまいました 明日歩らしいな そうですね メアを見つけたらすぐ戻ろう はい 次に捜してみるのは、残りの半周分だ。 ふたりがかりなら簡単に見つかるかもしれない。 姫榊もいれば、捜すの手伝ってもらうんだけどな ですが、姉さんは断るでしょうね そもそも姫榊は星見について来ることがない。 今夜は疲れていたのが理由だろうし、そうじゃなくても断っていただろう。 小河坂さんは…… こさめさんの声のトーンが低くなった。 小河坂さんは、霊感というものを信じますか? ……いきなりだな 霊能力や神通力と言い換えてもいいかもしれません。どうですか、信じますか? こさめさん、巫女だもんな そういう力を持っていてもおかしくないのかも。 小河坂さんは信じますか? こさめさんは執拗に繰り返す。 その瞳はまっすぐに俺を射ている。 なにかを見てしまう力 なにかを感じてしまう力 その対象は〈神仏〉《しんぶつ》や霊魂だけではなく、死神にだって当てはまるのかもしれません そんな力を、小河坂さんは信じますか? 俺は苦笑しながら答える。 昔の俺だったら信じないけど、今の俺だったら信じるかもな 今の俺は、何度も不思議体験をしているから メアを幻覚と疑ったり、記憶喪失について調べていた最近の俺さえも、過去のものになっている。 こさめさんの視線が俺から外れ、正面に移る。 姉さんがこの場所を嫌うのは、それが理由なのかもしれません…… この展望台になにかを感じているから、嫌いなのかもしれません だから、姉さんは星が嫌いなのではなく、この場所が嫌いなだけなのかもしれません 過去に姫榊も似たようなことを言っていた。 展望台には入ったことがないが、大嫌いだと。 小河坂さん 姉さんを、展望台に誘うことだけは、しないでください 姉さんが、自らの意志で訪れようとするまでは お願いします…… 姫榊は霊感を持っている。 こさめさんの話はつまり、そういうことだ。 あの神楽を見たあとに言われたせいか、俺自身の不思議体験云々を除外しても、普通に信じてしまいそうだ。 見つけたぞ、メア ……見つかった 欄干に座っていたメアは、俺が呼びかけると正面に降り立った。 祭り、来なかったな 近くまで行ったけど、明るすぎて 明るいのは嫌いか? ……べつに 言葉のニュアンスから、苦手と見た。 メアはあまのじゃく気質なので、言葉の内容より声色で判断したほうがいい。 それに……神社は少し遠くて、疲れる だから海水浴のときも長居できなかった なんだそれ べつに 遅れてかー坊が降下してきて、メアの頭に着地した。 こらっ、そこはあなたの巣じゃないのっ めっ ぶはははははは! ……かーくん、あれやって ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! よくできました 危険な芸仕込むなよ!? 笑ったあなたが悪い あ、あの…… 俺の横にいたこさめさんが目を丸くしていた。 生き物……ですか? 注目されたためか、メアは俺の背中に隠れた。 かー坊も一緒についてきたので、後ろから炎で焼かれないかと気が気じゃない。 龍みたいに見えますけど…… メアのペットなんだ。つい最近、飼い始めたらしくて は、はあ…… メアが背中をぎゅっと握ってくる。 ……誰? 海水浴で会っただろ 知らない 海水浴のときは大勢だったし、会話したわけでもないのでしょうがないか。 こさめさんって言って、天クルの仲間だよ 紹介すると、呆然としていたこさめさんは背筋を伸ばして気を取り直した。 姫榊こさめと申します。よろしくお願いしますね ………… メア、あいさつは? ……子供扱いしないで 子供じゃないか かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! よくできました これ下手したら死ぬと思うんだけど!? 命あるものはいつか死ぬ。そこに善悪はなく早いか遅いかの違いしかないわ 善悪がなくてもこんな間抜けな死に方は嫌だ。 メアさんは、とても達観してらっしゃるんですね ……べつに わたしたちよりずっと大人だって思います ……そう? はい まあわたしは死神だからね なんかうれしそうだ。 メアさんは、よく展望台を訪れているようですね わたしは死神だからね 星がお好きなんですか? べつに お昼にはいらっしゃらないんですか? べつに 今度、ほかのお友達を連れてきてもよろしいですか? ほかの友達って誰だろう。 べつに メアの答えは普段と同様、素っ気ない。 こさめさんは気を悪くした様子もなく言葉を続ける。 不躾なのを承知で、いくつか質問に答えていただいてもよろしいですか? こさめさんは、肝試しのときの飛鳥と同じことを言った。 あなたは、人ではないんですか? わたしは死神だから 死神とはなんですか? 死神は死神よ あなたはなぜ、自分を死神だなんて言うんですか? ………… メアが初めて言葉を詰まらせた。 それは…… 俺の背中を握る力が強くなる。 それは、洋くんが言ったから…… こさめさんの瞳が俺に向いた。 ……俺? メアはこくんとうなずく。 洋くんが、わたしを死神って呼んだから メアが自分を死神だって言うからだろ わたしが言うより、洋くんのほうが早く言った ……そうだったか? わ、忘れたの? 慌てている。 いや……そんな気もするけど、でも俺が死神って呼んだからメアが死神になったわけじゃないだろ? べつにわたしは死神じゃなくてもよかった 根本を覆す発言を食らう。 ……前にも一度あったな。 メアを幻覚だと疑い、それが嫌だったから、俺の中でメアを死神として扱いたいという気持ちが大きくなったのだ。 メア なに? メアって俺の幻覚じゃないよな 当たり前 死神でいいんだよな かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! 今日のあなたはダメダメね なんで炎なのか理由がわからないんだけど!? 今日のあなたはバカバカね なにがバカバカなのかわからないんだけど!? ………… メアはそっと俺から離れる。 ……洋くん なんだよ? このバカバカ! カマで頭をどつかれた。 ……帰る 身をひるがえし、そして消えた。 あとを追ってかー坊もいなくなった。 消えた…… こさめさんは確認するようにつぶやく。 ……なんだったんだ、いったい このままではいずれ俺の頭はパーマか真っ二つのどちらかだろう。 メアさんが怒った理由、わからないんですか? こさめさんは苦笑いを浮かべていた。 ……さっぱりだな たぶんですけど、小河坂さんに否定して欲しくなかったんですよ。自分が死神だということを 最終的に肯定したと思うんだけどな 言葉が悪かったんでしょうね。『死神でいいんだよな』なんて言ったら、自信がないみたいじゃないですか メアさんは、あなたに、心から自分のことを死神だと思っていて欲しいんですよ いまいちピンと来ない。 たとえば小河坂さんと明日歩さんがつきあったとして、小河坂さんが『彼女でいいんだよな』なんて確認したら…… 明日歩さんは、とても悲しむでしょうね ……変な例えを使わないでくれ ピンと来ませんか? 想像しそうになって、かぶりを振る。 ……それよりさ 誤魔化したように思われただろうか。 こさめさん、メアになにか感じたのか? ……どういう意味でしょう? 姫榊が霊感を持っているなら、妹のこさめさんだって持っているんじゃないかと思って それで、あんな質問をしたんじゃないか? ……いえ こさめさんは否定する。 メアさんが不思議な方だというのは、皆さんから聞いていましたから。純粋な好奇心ですよ 本当か? なぜ疑うんですか? こさめさんは他人の詮索を嫌うのに、したからさ。だったら、なにか理由があるって思うのは自然じゃないか ………… ……これも、詮索か? はい こさめさんは柔らかく笑む。 詮索は、悪趣味です。それでも詮索をしたいのなら、もっと仲を深めてからのほうがよろしいかと こさめさんとの仲を? はい これ以上に? はい。これ以上に、です 友達以上に? はい。友達以上に、です その関係とは、つまり。 ………… ……恋人か? ……恋人か? ……恋人か? えいっ こさめさんからチョップを食らう。 思っても口に出してはいけませんよ、小河坂さん 言葉には〈霊威〉《れいい》が宿ると言いますから…… 言霊のことか はい 巫女らしいと言うべきか。 万が一、叶ってしまったら……それはとても困ったことになります とても困るのか はい。とても、とっても困ります 俺、こさめさんに嫌われてたのか そんなことを言う小河坂さんは、嫌いです そんなふうに怒るこさめさんが好きだぞ えいっ またチョップだ。 女泣かせの小河坂さんも、嫌いです…… だって、わたしには、恋をする資格がありませんから ……冗談です。これも悪趣味でしたね こさめさんは、笑顔をくずさず言ったのだ。 わたしには、恋をする資格がありませんのに あ、やっと戻ってきた 望遠鏡を覗いていた明日歩が、戻ってきた俺たちに気づいて手を振った。 あたしをひとりにするなんてひどいよ~ 明日歩が星見に没頭してたからだろ。こさめさんが言ってたぞ 離れるなら声かけてくれればいいのに~ かけたんですけどね こんな夜更けに女の子をひとりにして許されると思ってるの~ 七夕の星空を観測できた気分はどうだ? もちろん最高だったよ、それからひとりだったことに気づいて落ち込んだけど その集中力を授業にも生かせればいいんだけどな むー ひとりにしたのは悪かったよ しょうがないなあ 明日歩さん、こういうときは簡単に許すのではなく、なにか見返りを求めるのが上策ですよ 特に、現状よりも進展を計りたい場合には ………… 明日歩は頬を赤らめる。 というわけですので、また最初からどうぞ ……あ、あたしをひとりにするなんてひどいよ 明日歩は会話をたどたどしく巻き戻す。 ……つきあうしかないのか。 悪かったよ ……うん ………… ………… ………… そ、それだけ? とても悪かったよ えいっ こさめさんからチョップを食らう。 また最初からどうぞ ……ダメ出し? ひ、ひとりにするなんてひどいよ 悪かったよ ……それだけ? 代わりに金魚すくいで取った金魚あげるから うんっ ……明日歩さん、そこで満足しないでください え、そ、そう? そうです。また最初からどうぞ えと、あたしをひとりにするなんてひどいよ…… 悪かったよ うん 代わりに風船つりで取った風船あげるから えいっ チョップを食らう。 また最初からどうぞ ひとりにするなんてひどいよ…… 悪かったよ いつまで続ければいいんだろう。 それだけ……? ええと、代わりに…… どうすればいいんだろう。 ……どうして欲しいんだ? えいっ チョップを食らう。 明日歩はなんだか複雑な顔をしていた。 あ、うっかりです。わたしがお邪魔なんですね。だからふたりとも照れてしまうんですよね そ、そんなことないからっ そろそろ帰りますね 帰らなくていいからっ 帰るんだったら送るよ あ…… こさめさんはため息をついた。 小河坂さん。わたしは途中でタクシーを拾いますから、結構ですよ そういうわけにいかない 小河坂さん こさめさんは語気を強める。 無知は罪ではありませんが、無知のフリは罪ですよ 言葉を失う。 それでは 制止する間もなく、歩いていってしまう。 追いかけることはできなかった。 明日歩をひとりにはさせられない。 ……ごめんね それはなんに対しての謝罪だろう。 頭上で、再会を果たした織姫と彦星が瞬いている。 洋ちゃん メアが消え、こさめさんが去り、この舞台にはふたりの影しかない。 あたしに、どうして欲しいかって聞いたよね…… 明日歩の声が震えている。 じゃあさ…… 明日歩は意を決して。 腕……組んでみていい? 一歩、俺に近づいた。 ちょっとね、やってみたかったんだ…… 一度ね、やってみたかったんだよ…… 男子と腕組むの、やってみたかったの…… ………… 銅像のように凍りついていると、明日歩の腕が上がる。 その手が俺の手に触れて。 ……ウソだよ、もう 明日歩は俺と握手した。 これは、仲直りの握手 ケンカをしたわけじゃなかったのに。 あたしの願いは、ひとつだよ 多くは望まない、やってみたいことはいろいろあるけど、一番欲しいのはひとつだけ 明日歩は俺から離れると、星空を振り仰ぐ。 そこに、俺と明日歩は流れ星を見つけた。 あたしは、こうして好きな人と一緒に、星空を見上げていられれば…… 織姫と彦星の近くに、一筋の星が流れて消えた。 洋ちゃんと一緒に星見ができれば、それで充分だよ それが明日歩の願い事。 流れ星に託した願い事。 俺はホッとする。 ……なぜ? わかっていても、俺は、わからないフリをしているんだろうか。 その子…… 帰ったものだとばかり思っていた。 メアが俺の背後にいる。 明日歩は気づいていない。メアは俺の背中に隠れている。 メアは俺にしか届かない小声で言う。 その子、あなたのことが、好きなのね 知っている。 あなたは、どうするの? ……わからない 俺は、優等生ではないから。 そう メアは、今度こそ姿を消した。 帰り際、詩乃さんに電話をして車を出してもらった。 途中でこさめさんを見つけたそうで、後部座席で一緒になった。 ひとりで帰らせたことに詩乃さんから一言あるかと覚悟したのだが、こさめさんのフォローがあったようでお咎めはなかった。 明日歩は助手席に座って詩乃さんと談笑している。 その表情、声色はいつもの明日歩と変わりない。 俺だけじゃない、ほかの皆だってそう思っている。 だから明日歩の願いは本物で、たとえ俺が好きでも恋人になりたいわけじゃない。 明日歩は俺を初恋の相手だと言った。 その気持ちはもう風化しているということ? じゃあなぜ俺にあんな行為を働く? よくわからない。 なんて複雑な方程式。 俺には、解くのが難しすぎる。 千波、まだか! さっさと降りてこい! 俺は玄関から二階に向かって声を荒げていた。 今日は登校日だろっ、このままだと遅刻になるぞ! だってだってっ、この制服着るのひさしぶりだからリボンとかボタンとかうまく留められないんだもん! それはまだヒバリ校の制服に慣れていなかったためなのか、単に千波が忘れっぽいだけなのか。 俺は普通に装着できているので後者だろうけど。 根気よく待っていると、どたどたと千波が階段を降りてきた。 お待たせお兄ちゃんっ、制服も着終わったし髪もセットしたし準備万端いざヒバリ校へレッツゴー! その前に黄色の帽子はどうした? 千波は幼稚園児じゃないよ!? バカなことやってる時間ないから急ぐぞ 待って待って千波まだ靴履いてないよ! 早くしろっ 早くしようと思ったら靴下も履いてないことに気づいたよ! じゃ、いってきます やだやだすぐ履いてくるから絶対待っててねお兄ちゃん! 階段を駆け登っていく千波の背中を見ながら、俺は大きくため息をつくしかなかった。 あ…… 千波と一緒に家を出ると、蒼さんとばったり出くわす。 おはよう 蒼ちゃんおはよーっ ……おはようございます 登校日でも遅刻ぎりぎりなんだな ……そっちもです カエルの子はカエルなんだよねっ ……意味が不明 ふたりは同類って言いたかったんじゃないか? そのとおりだよっ ……これまでに類を見ない屈辱 坂を登っていく蒼さんを、俺たちも追っていく。 一学期を再現しているこんな登校風景が、未来に訪れる二学期も示唆しているように思えた。 登校日の目的は、長い夏休みで生徒がだらけていないか先生がチェックすることにあるんだろう。 よってそんなに時間はかからずに、午前中で俺たちは開放となる。 それも、昼にはまだ一時間も余裕があった。 小河坂さん、姉さんから伝言です お、待ってたよ お昼を食べてもまだ帰るな、だそうです 了解。クラスで待ってたほうがいいのか? 部室でも大丈夫だと思いますよ なになに、なんの話? 姫榊がこれから屋上の使用許可取ってくれるんだ まだもらってなかったのか。天クルって部員確保したんだろ? 二学期の部活会議で正式な部になるらしくてさ。その前に許可くれって交渉してたんだ 許可取れそうなの? 姉さんは夏休み中も生徒会の皆さんと連絡を取りあっていたようですから。会議はスムーズに開かれているんじゃないでしょうか そうすると、あとは姫榊がいかにうまく説得するかだけど、姫榊の力なら心配ない なんでそこまで信じられるんだろ 姫榊を見てればわかる こももちゃんを見てるから信じられないんだけど…… 姉さんは小河坂さんと会っているときだけ乙女ですから それ恋ってこと!? ありえないだろっ 洋ちゃんの浮気者~! 浮気ってなんだよ!? 展望台の彼女さんという人がありながら~! なんでそこでその名が出るんだよ! 初恋の相手なんだろ 違うって言ってるだろ! モテモテですね、小河坂さん むー 暑い暑い くわばらくわばら とても疲れる展開だった。 入るわよ 学食で昼を食べてから部室で待機していると、姫榊が姿を見せた。 入る前にノックしてってば 小河坂くん、これ ……無視された 約束の屋上使用許可証よ ぶっきらぼうに言って、渡してくる。 仮使用って扱いだけどね。これ持って職員室行けば、屋上のカギを貸してもらえるから さすが姫榊、大感謝だ 感謝してるなら、今後も要求に応えてもらおうかしらね ……勘弁してくれ 夏祭りの翌日の大掃除では筋肉痛になったのだ。 こき使わせてもらったし、今は勘弁してあげるわ。次は生徒会で覚悟しておくことね 洋ちゃんが生徒会になんか入るわけないよっ それを決めるのは南星さんじゃなくてわたしだから こももちゃんじゃなくて洋ちゃんでしょっ 同じようなものじゃない ぜんぜん違うよ~! 小河坂クン、生徒会に入るのかい? 考え中です あたしは反対だからね! 僕は賛成するよ なんでですか~! 小河坂クンを通して天クルのために便宜を図ってもらえそうじゃないか 不正は許しませんからね 言うまでもないじゃないか ……なにか信用できないのよね、この人 あられもない写真を撮られ続けてるからな……。 小河坂さんが生徒会に取られると、天クルとしては寂しくなりますね あたしは大反対だからね! 姉さんの乙女度もアップしてしまいますしね なによそれは…… 姫榊、もうカギ借りてきても平気なんだよな それはいいけど。これから活動? 活動というか、屋上の下見だな 天体観測って言ったら夜だもんね 最初の活動なら夜間から入るのが無難だろうね せっかくの夏休みだし、合宿とかしたいよね~ 申請すればできるけど、今からじゃもう無理よ 一学期に申請できればよかったんだけどね。まあ二学期まで持ち越しかな 学校始まってからでも遅くないか。九月は連休あるし、楽しみだなあ~ 姫榊、もうひとつ確認だけど。新入部員の所属も、二学期からじゃないと認められないんだよな そうよ とすると、メアは天クルに呼べないわけだが。 でもさ、見学ってかたちで、入部希望者と一緒に活動するくらいはいいよな? ……まあ、見学だったら誰でも自由だけど となれば、話は決まった。 これ、渡しておく。希望者の入部届だ 天クルの皆にはもう話している。 誰ひとり反対する者はいなかった。 今日から、メア=S=エフェメラルは、天クルの入部希望者として俺たちと一緒に活動する ……誰なのよ、それ 友達だ どこの国の人よ…… 聞いても、死神に国なんてないって答えられるだろうな 姫榊はキツネにつままれた顔をしていた。 二学期になったら、正式な処理よろしくな ……天クルの活動? ああ、これからヒバリ校の屋上で天体観測やるんだ。天クルの初活動みたいなもんだよ 屋上は夜八時から十一時までの使用許可をもらっている。カギも部長の岡泉先輩があずかっているのだ。 ……私も行ったほうがいいんですか? そりゃあ、蒼さんは部員だからな ………… 都合よかったら、参加してくれないか 蒼さんは言う。 いつか、もう一度、私にプラネタリウムを見せてくれますか? ああ。約束だもんな 蒼さんは瞳を伏せた。 でしたら、参加してもいいです じゃあ千波も行くねっ おまえは天クルの部員じゃないだろ もちろんオカ研として参加するんだよっ そんなことできるか 校舎の張り込みのついでだよっ ……今夜、張り込みの予定だったのか? そうだよっ、前回は失敗だったけど今度こそ宇宙人を捕獲するんだよっ 飛鳥も来るのか? ううん、千波ひとりだよ。千波が自発的に思いついた活動だからねっ ひとり暴走させるより、まだ俺たちと一緒のほうが安心だ。 今夜の張り込みは屋上だけにしとけ。俺も手伝ってやるから わっ、ほんと? ああ なにをどう手伝えばいいのかもわからないが。 宇宙人見つけたら千波にすぐ報告してねっ 任せろ ……体よく監視下に置いたわけですね 監視下? なんでもない では、鈴葉が眠っている間に出かけましょう 鈴葉ちゃんは夕飯を食べたあと、ソファで休んでいるうちに居眠りしてしまっている。 蒼さんとしては、鈴葉ちゃんが起きて一緒に行きたいと言い出して欲しくないんだろう。 肝試しでも思ったが、鈴葉ちゃんを夜中に外へ連れ出すのは俺でもためらう。 詩乃さん、鈴葉ちゃんをお願いします うん。みんな、あまり遅くならないようにね 詩乃さんから夜食のマドレーヌを受け取り、俺たちは出かける準備を始めた。 校門前に着く。 集合場所は屋上だ。時間的に、ほとんどの部員が集まっているだろう。 明日歩の望遠鏡は、昼に屋上の下見をしたあとに運び込んである。 蒼さんもまた望遠鏡を抱えている。 先に屋上行っててくれるか? 警備員にも連絡が伝わっているはずだし、堂々と屋上へ出られるのがありがたい。 ……先輩は? ちょっとな 用事ですか? まあな。天体観測始める前に、寄るところがあるんだ 目的地は展望台だ。 じゃあ蒼ちゃん、千波たちで先に張り込みやろっか ……ひとりでしてればいい 蒼さん、千波のお守りは任せた ……厄介者を押しつけないでください これ以上の文句が飛んでくる前に、俺は坂を登り始めた。 メアの姿は一見しただけでは見当たらない。 マイブームなのか知らないが、最近のメアはかくれんぼを好むようだ。 普通に待っていて欲しいものだ。 ……………。 ………。 …。 ……今夜の隠れ場所は難度が高かったな でも、見つかった メアが座っていた木の枝は、展望台に続く小道をさえぎるフェンスの近くだった。 要するに展望台から少し外れた場所だ。 隠れるのは展望台の範囲でお願いできないか? いや ……範囲が広くなると辛いんだけど わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが命令されることなの。だからいや メア、次も展望台の外に隠れていてくれ いや よし、これで次は展望台の中にいるだろう。 約束だからな いや これで展望台の中か外かわからなくなった。 ……なにやってるんだ俺たちは。 今夜の用件は? メアに会いに来たんだ バカバカね かー坊はどうした? さっきまで一緒だったけど、どこかに飛んでいった 俺のせいか? ううん、あの子も気ままだから。そのうち戻ってくると思う かー坊が戻ってきたら、ヒバリ校に来ないか? ……これから? ああ、これから なにするの? 屋上で天体観測するんだ だったら展望台でいいじゃない 今回は天クルの活動なんだ。だから、展望台ではできないんだ ………… 天クルの活動が、今夜から始まるんだよ ……わたし メアは、大きなカマを抱きしめる。 わたし、部員になったの? まだだ。だけど、見学は大丈夫だってさ ………… 俺たちと一緒に、今度は屋上で望遠鏡を覗かないか? メアは、ぽつっと言った。 ……いや それはいつものメアの返答。 気が向いたら、来てくれよな これもいつものやり取りだ。 先に行って待ってるから ……行かないかもしれない それでもいいよ ………… またな ……うん メアがうなずくのを確認して、俺はヒバリ校に引き返す。 待ってたよ、洋ちゃん これで残るはひとりだね メアさんはどうでしたか? 気が向いたら来るって。だから、先に始めてよう ほらほら蒼ちゃん、ケータイからでも星がすっごくキレイに見えるよっ ……ひとりで見てればいい 蒼さんはちょうど望遠鏡を組み立て終わったところだった。 こっちもいつでも始められるよ 三十分前には、明日歩クンとふたりで準備を進めていたからね 夏休み中は夜も寒くないし、天体観測に打ってつけだよね~ 許可を取ってくれた姉さんに感謝ですね それじゃあ、明日歩 うん 明日歩は、屋上に集まった面々をぐるりと見回した。 これより天クルの第一回天体観測会を始めま~す! 八月って言ったらなんといっても、ペルセウス座流星群だよね 流星群というのは、決まった日時にまとまって飛ぶ流星のことだよ ペルセウス座流星群はほかの流星群と比べても流星の数が多いから、流星を初めて眺めるにはお勧めだね ちょうど新月で月明かりもありませんし、屋上だけあって視界も開けていて好条件かもしれませんね うまくいけば今夜だけで何十、何百個も見えるかも! ペルセウス座流星群が最も活発になる時期もここ数日ということで、明日歩の言葉は本当になるかもしれない。 今思うと、展望台で明日歩と一緒に見つけた流れ星は、この流星群だったんだろう。 明日歩の態度はその後も変わらず、俺たちに明るい笑顔を振りまいている。 みんな、お願い事考えてきた? 流星が現れてから消えるまではほんの一秒程度だし、願い事は難しいんじゃないかな 一秒程度で伝えられる内容ならお願いできそうですね じゃあ…… その流れは自然だった。 人の名前くらいなら、伝えられるかもしれないね 一瞬の空白ができた気がした。 会話が途切れていた。 皆、それぞれ頭に誰かを思い浮かべたのだろうか。 誰かの名前を思い浮かべたのだろうか。 忘れてしまった俺には、それはまだ叶わない。 雲雀ヶ崎だからこそ、流れ星を見ることは少なくない。 いつか、過去の「僕」もまた、展望台の彼女を想って流れ星に願いを込めたことがあった。 迷信なんて信じない、かわいくない子供だった過去の「僕」でも、いったいなにを願ったのか。 今の俺と、そんなに大差はなかったかもしれない。 ……明日歩、望遠鏡は使わないのか? 会話を振ってみた。 うん。ペルセウス座流星群はね、望遠鏡や双眼鏡はいらないんだ 視界が狭くなるから、かえって見つけるのが大変になるんだよ。肉眼でも充分見えるからね 肉眼でも見ることができるからこそ、ペルセウス座流星群は八月最大の天体イベントと言われてるんだよ でも、流星探すのに飽きちゃったら言ってね。望遠鏡、使っていいから 蒼ちゃん蒼ちゃん、千波流星をカメラに撮ろうと思って待ってるのにぜんぜん見つからないよっ ……ケータイ覗いてるせいでしょ 蒼ちゃんだって望遠鏡覗いてたじゃないっ 私は流星に興味ないから なんでなんでっ なんでもいいでしょ……あ、発見 なんでなんで蒼ちゃんだけずるいよっ ……うるさいからあっちいって 向こうは向こうで楽しくやっているようだ。 流星群の流星は、基本的に放射点を中心にして放射状に出現するんだ ペルセウス座流星群の放射点はペルセウス座にあるから、その方向を注意して見ていれば…… 蒼ちゃん、ペルセウス座ってどれ? ……知らない あ、今流れた! わたしも見つけました 俺もだ 僕も ……発見 なんでなんでっ、千波だけまだ一個も見つけてないよ! 千波ちゃん、カシオペヤ座はわかる? M字に見える星座だけど その右下に広がっている人の字みたいに見える星座が、ペルセウス座ですよね ペルセウス座の方向を注意してと言ったけど、その方向だけに出現するわけでもないから、できるだけ広い範囲に注意を向けることが大切なんだよ えっと、えーっと 千波の目がぐるぐるだ。 つーかおまえ、ケータイ覗くのまずやめろって それじゃ流れUFOが撮れないじゃない! あくまでオカ研の矜持を忘れないようだ。 お、あそこに流れた どこどこ? 今度はあそこだ あそこってどこ? 次はあっちだ どっちなの! この調子なら百個は超えそうだ うわーん! ……仲がよろしいことで 蒼さんだけが淡々と自分の望遠鏡を覗いている。 蒼さん、流れ星はいいのか? ……興味ないって言いました 俺は後ろ頭をかく。 想い出の星空が、好きなんだよな ……はい ほかの星空は好きになれないか? ………… 先輩は、勘違いしてるんだと思います 私は星空が好きなんじゃないんです 星が好きだから、想い出の星空が好きになったわけじゃないんです だから…… だから、無駄なのだろうか。 天クル、辞めろと言われれば、辞めますから そんなこと言わない 先輩はそれでいいかもしれません、だけどほかの皆さんまでそうとは限りません あたしはぜんぜんオッケーだよ、天クルに入ってから星が好きになってもアリだもん 蒼クンが入ってくれなければ、天クルは廃部になっていたしね。僕らは感謝してるんだよ 蒼さん、これからもよろしくお願いしますね ………… ほかのみんなも、辞めて欲しくないってさ ……バカがつくお人好しばかり 千波は蒼ちゃんに天クル辞めてオカ研に入って欲しいと思ってるからバカじゃないよっ あなたはバカがつくバカ それどのくらいバカなの!? メアがよく口にするバカバカくらいバカなんだろう。 ……聞いてもいいですか? なんだ? あの星……南十字に似てますよね ああ、あれははくちょう座の北十字だな 南半球からしか見えない南十字とは、よく対比されて語られるね はくちょう座の白鳥はね、ギリシャ神話では〈大神〉《たいしん》ゼウスの化身って言われてるんだよ でねでね、白鳥の尾のところで光ってるのがデネブで、くちばしのところの星がアルビレオ アルビレオはね、天上の宝石って言われるほど、全天で最も美しい〈二重星〉《ダブルスター》なんだよ! 熱心に語る明日歩を前に、蒼さんは少し面食らっているようだった。 天文クラブでも説明があったと思うけど、覚えてなかったかい? ……興味ありませんでしたから じゃあさ、蒼さん。せっかくだし、その望遠鏡で覗いてみるのもいいんじゃないか ………… ……流れ星、発見 蒼さんは望遠鏡から離れた。 肉眼のほうが、いいんですよね 結局、蒼さんは〈二重星〉《ダブルスター》を観測することはしなかった。 代わりに流れ星を眺める蒼さんは、雲雀ヶ崎の星空に興味を持ってくれたのか、ちょっとわからない。 でもまあ、天クルの天体観測は成功と言えるのかもしれない。 ……来てみた メアが背後に立っている。 頭にはかー坊も乗っていた。 待ってたぞ ……帰る ウソだウソ、待ってなかった やっぱり帰る ……待てって、改めてみんなに紹介するから 絶対いや メアの素振りを見て、転入日にクラスで自己紹介を求められた自分を思い出した。 じゃあ、自由に見ていってくれ そのつもり メアに気づいたほかの面々も、話しかけたり話しかけなかったりと自由だった。 だからまあ、これはこれで成功なのだ。 夜空に流れる星々は、広大な海を気ままに泳ぐ魚のようにも見えた。 姫榊こももは苛立っていた。 こさめの帰りが遅い。 いつまで夜遊びしているつもりだろう。 天クルの活動は聞いていたし、屋上の使用許可を勝ち取ったのは他ならぬ自分なので文句は言えないのかもしれないけれど。 だからこそよけいに腹立たしい。 星嫌いの自分がなぜ天クルの片棒を担ぐハメになっているのかと、こももは疑問でたまらなかった。 原因は、小河坂くんか…… 彼が転入してからというもの、予定が狂ってたまらない。 二学期には天クルを廃部にし、ヒバリ校を卒業したあとはこの家──星天宮を出るつもりだった。 そうすれば、こももの環境は一新する。 星に関する一切の事柄からオサラバできる。 それはとても住みよい居場所に違いなかった。 なのに、こももが描いていたそんな未来像は、もはや虫に食われた有様だ。 ……まあ、家を出れば問題ないんだろうけど 天クルが存続し、在学中は我慢することになっても、卒業すれば解放されるのだから。 家を出るのも難しいんだけどね…… 自分は長女で神社の跡取り筆頭だし、去年からは七夕祭りの舞姫も受け持っている。 それら重荷を放り投げれば、妹のこさめにすべてがのしかかってしまう。 来年、進路相談の時期になれば家族会議はしきりに開催されるだろう。 考えただけでも憂鬱になる。 どうしたのよ、眉間にしわ寄せて。美人が台無しよ ……お母さんに美人とか言われてもうれしくないわよ そりゃあ私のほうが美人だからね 万夜花はそう言って笑ってから、居間を見回した。 こさめは部屋? 学校よ。聞いてないの? なにが 天クルの活動。屋上で天体観測やるんだって なるほどねえ。だからあんたは不機嫌なのね 母のこういういやらしい笑みがこももは星と同列で大嫌いだったりする。 この時期はペルセウス座流星群が見えるものね。私も境内で見てこようかしら 勝手に見てくれば あんたは? 行かないわよ 境内じゃなくて、学校のほうよ ……それこそ行くわけないじゃない。わたしは天クルの部員じゃないし 部員とか部員じゃないとか、関係ないでしょう。流星群の美景に比べれば〈些末〉《さまつ》な問題よ お母さんはそうでも、わたしには大問題なの 一緒に楽しんでくればいいじゃない 冗談 こももはフンと鼻を鳴らす。 わたしが星嫌いだって知ってるでしょ ねえ、こもも わたしのこと名前で呼ばないで ……とんでもない親不孝者ね、この子は で、なによ こももはさ、この神社が嫌いだから、星が嫌いなの? こももは言葉に窮した。 星の名を冠した神社──星天宮。 代々祀っているのもそれ関係。 星嫌いのこももなのだから、神社が好きということはない。 だけど、なぜ星が嫌いなのかと問われれば、それは。 ……べつに、神社は嫌いじゃないけど そっか でも、好きでもないからね わかってる 万夜花は居間を出ていった。 言ったとおり、外に出て夜空を見上げるのだろう。 神社の周囲は住宅が乏しいので、街の明かりで星見を阻害されることはない。 ……なにが楽しいんだか こももはふて腐れて座布団に寝転がった。 弾みで裾がめくれ返って下着が見えていそうだったが誰もいないのでよしとする。 なぜ、自分は星が嫌いなのか? 屋上で天体観測なんて考えられないし、展望台で星見なんてもっと考えられないだろう。 それはいったいなぜなのか。 答えはない。 自分でもわからないのだから答えようがない。 だからこももは誰かに尋ねられても答えられない。 こさめにも洋にも理由を話せない。 それでも星嫌いの理由をあえて言葉に当てはめるなら、生理的嫌悪が最も妥当だろうか。 好き嫌いなんて、そういうものだと思うしね…… たとえば食べ物の好き嫌い。 こももはカボチャが大嫌い。 さつまいもは普通に食べられるし、スープやスイーツにしたカボチャもおいしく食せるのだが、煮物や天ぷらのカボチャはちょっといただけない。 そこに理由はない。嫌いだから嫌いなのだ。 好き嫌いってそういうものでしょう? だから、気にしてもしょうがないのかもしれない。 いくらこさめが残念そうだからって、南星さんに恨まれるようなことになったって。 小河坂くんに勧められたからって、わたしが天体観測することはありえないのよ…… あんた、そんな格好だとパンツ見えるわよ 外出たんじゃなかったの!? こももは上体を跳ね上げた弾みで膝を机にぶつけた。 あうう…… なにやってるんだか ……なんでお母さんがいるのよ なんかね、曇ってきたみたいでさ。すぐ戻ってきたわ ……あ、そう したたかに打った膝頭をさすりながら座り直す。 流星群は数日見えるだろうし、明日に持ち越すわ 明日も晴れとは限らないじゃない 今年がダメでも来年がある。明けない夜がないように、晴れない空もないわ あんただって同じかもよ なにがよ 空模様が移ろうのと同様、あんたの心模様だって移ろってるんじゃないかってこと ……なにを根拠に 今年の神楽、去年よりも楽しそうに舞ってたわよ その原因がなにかなど、こももは考えもしないうちに言葉で打ち消した。 もしそう見えたんなら、老眼でも始まったか、アルコールの過剰摂取で視界が歪んでいたかのどっちかね ……本当に親不孝者ね、この子は そりゃ、元ヤンキーのお母さんの子だからね 流れ星、見えなくなってきたね…… 夜空が陰ってきたようだ。 雲の流れを見るに、近いうちに空全体を覆いそうな雰囲気だ。 雨警報は鳴ってないから、雨の心配はないけど…… 明日歩は耳を澄ます仕草をしながらそう言った。 曇りまでは、さすがにわからないんだよね 時間も遅くなってきたし、そろそろお開きにしたほうがいいかもな えー 不満げだ。 ペルセウス座流星群の本番は夜半からなのに~ 零時を過ぎると放射点の高度が高くなって流星が見やすくなるからね。だけど屋上の使用は十一時までだよ 展望台で二次会って手もありますよ! ……洋くん メアに袖を引かれる。 わたし、そろそろ 帰る時間か? こくんとうなずく。 いくよ、かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! じゃあね あいさつされるたびに炎に焼かれるのなんとかして欲しいんだけど!? 好かれてる証拠じゃないの メアはどこ吹く風で去っていった。 星明かりは徐々に薄くなっている。 メアちゃん、天体観測楽しんでくれたかな どうだろうな。顔に出さない性質だし、言葉も素っ気ないからなあ 蒼ちゃんと同じだねっ ……死ねばいいのに 毒舌度は蒼さんが上だろう。 それにメアは、無理に感情を抑えている感じがある。 自分は子供ではないと背伸びをしている。そう思う。 あの、展望台の彼女のように。 メアクンの気持ちがどうあれ、来てくれないよりはずっといいさ そのとおりだ。 メアは好きなことは好きと言わなくても、嫌だったら嫌だとはっきり言うはずだから。 それじゃあ、帰る準備を始めようか ……もうお開きなんですか? そろそろ十一時だ。時間も押しているしね 明日歩、夏休みはまだ半分残ってるじゃないか。これで終わりじゃないんだからさ 次の活動は、お盆が終わったあとでしょうか そうなるだろうね 明日歩、それでいいだろ? ……うん 小河坂さんの言葉には素直ですよね 意味深に言わないでよ~! 蒼ちゃん、なにが意味深なの? ……私に聞かないで とりあえず、居心地が悪いので望遠鏡の片付けを始めた。 帰り道。 望遠鏡を運ぶのも今や手慣れたもので、坂の上り下りでも特にふらつくことはなくなっている。 部室に置く案もあったのだが、明日歩がお盆中に手入れをしたいと言ったので運ぶことにしたのだ。 蒼ちゃん、千波も望遠鏡持つの手伝うよっ ……近寄らないでさわらないで平気だから 遠慮することないのになっ 蒼さんも慣れたもので、遅れることもなく俺たちのあとを歩いていた。 洋ちゃん なんだ? 覚えてる? 今夜は、初めての天体観測だったんだよ 初めてって感じはなかったけどな 展望台でやってたのは、星見だよ そうだったな 明日歩がこだわる理由は、わかりそうでわからない。 明日歩の家に望遠鏡を置いて、駅前に着く。 次の活動日が決まったら、連絡網で伝えあおうか そうですね。みんな、お盆はゆっくりしてね そっちも課題ちゃんとしろよ あはは、ほんと洋ちゃんってお母さんみたい 一瞬、母さんの姿が頭をよぎった。 ……お盆と言えば墓参りか。 それでは、失礼しますね 今日は楽しかったよ またね、みんな 三人はそれぞれ帰途についた。 鈴葉を連れて、私も帰ります ああ。今日はお疲れさま ……まったくです。明日歩先輩の家までつきあってしまいました 遅くまで悪かったな ……まったくです 鈴葉ちゃんまだ寝てると思うし、千波が蒼ちゃんの家までおぶってあげるねっ てっきり蒼さんは断るのかと思いきや。 ……まあ、そのほうが鈴葉もよろこぶかもしれないし 蒼さんは少しずつでも千波を受け入れているのだとわかって、うれしくなった。 それに、今生の別れになるかもしれないし…… それどういう意味なの蒼ちゃん!? お盆はそっちの夕飯にお邪魔しないから お盆終わったらまた一緒に食べようねっ そうならないために全力で鈴葉を調教する……! こんな燃えてる蒼ちゃんは初めて見るよ!? 蒼さんは千波を受け入れているのかどうか、またわからなくなった。 八月十三日は、墓参りの日。 雲雀ヶ崎の墓参りもこの日に行われることが多いようだ。 といっても夏祭りが催された星天宮に墓参客が集まることはない。 星天宮には墓地がないからだ。 街外れの霊園は賑わっているのだろうが、それを横目に姫榊こももは毎年お盆をのんびりと過ごしていた。 こももは夢見坂を登っている。 お盆だけあってしんと静まりかえった黄昏時、田舎である雲雀ヶ崎だから輪をかけて人気がない。 散歩をするにはいささか寂しいかもしれない。 とはいえ目的は気晴らしというわけではなかった。 ヒバリ校を越え、展望台に至る遊歩道に踏み入っていく。 ……ここに来たのは、どのくらいぶりかしらね 展望台を訪れたことのないこももでも、フェンスの前までは歩いたことがあった。 ヒバリ校の近くに立ち入り禁止区域があると知り、生徒会役員として念のため確認しておこうと思ったからだ。 なにも変わってないわね…… それはなにもこの周辺の風景だけではない。 頭痛がする。気分が悪い。 以前もそうだった。 このフェンスの、網の目になった隙間から押し寄せる空気を、こももはどうしても好きになれない。 入ってもいない場所が嫌い。 だが入らなくてもわかるのだ。 食べ物の好き嫌いは食べた際の味で嫌いになる以外に、食べる前の匂いで嫌いになることだってある。 こももはフェンスの前に立つことで、この奥の展望台が苦手であると判断することができたのだ。 だからこの展望台嫌いは、星嫌いに関係しているとは限らない。 ただそうなると自分はなぜ星が嫌いなのか、その起因がどこにあるかという謎が残る。 その謎は今日に至っても解明できていない。 だから結局星嫌いに関しては生理的嫌悪としか表現できないため、こももはこの好き嫌いの理由を誰にも話せないのだった。 ……もしかしたら、平気になってるんじゃないかって、期待したんだけどね 依然、自分は展望台が苦手のようだ。今日はそれを確認するのに訪れたのだ。 急に思い立った理由は、お盆で暇だったということもあるが、先日の万夜花との会話も影響しているだろう。 天クルの部員じゃなくても関係ない、皆と一緒に天体観測を楽しめばいいじゃない、と。 べつに楽しむつもりは毛頭ないが、こももは生徒会役員として一度くらいは監視目的で活動を見学しようかと、そんなふうにも思っていた。 夜遅くに大切な妹を天クルにあずけるのだ、姉の立場としてもそれは必須だった。 ……この分じゃ、無理そうだけどね 天クルの活動の場は展望台ではなく校舎の屋上だ。 屋上は平気のこももだが、天体観測が始まればどうしてもこの展望台を考えてしまうだろう。 だから、自分に天体観測は無理なのだ。 そろそろ帰ろう。 頭痛がひどくなっている。額には脂汗もかいている。 あまり長居をすると、家に帰ってから夏休みの課題をこなす気力まで削がれてしまいそう。 規則や計画をなによりも重視し、それに沿うための努力は決して怠らないこももだからこそ、苦手なものがあれば克服したいと考えてはいるのだけど。 悩むだけで進展が見込めないのなら、無理なものは無理と諦めるのも肝心かと、こももは自嘲気味にきびすを返す。 するとそこに見知った人影があった。 姫榊妹かと思ったら、姉のほうか 諏訪雪菜が歩いてきた。 こももは驚いた。 こんなところで会うとは思いもしなかったというのもあるが、それ以上に雪菜の服装に驚いたのだ。 ……その格好、どうしたんですか? いやなに 雪菜は低く笑う。 仕事があってな ……神社のですか? この姿でほかの仕事はないだろう 墓参の仕事……じゃないですよね そうだな なんの仕事ですか? キミには関係のない仕事さ 雪菜は親戚ということもあって顔見知りだ。 とはいえ会話はあまり交わしたことはない。 幼い時分からの知りあいではないし、それどころか去年に母からいきなり親戚と言われて紹介されただけなのだ。 ヒバリ校に転入することになったからよろしく、と。 姫榊家に居候するという話もあったようだが雪菜のほうから断ったそうで、それ以来会う機会もほとんどなかった。 夏祭りなどの行事のとき以外は、学校でたまにすれ違うくらいしか接点がない。 それほど親しくない間柄。 こさめは誰に対しても愛想がいいので雪菜と会話する場面を多々見ているが、それだってどれもこさめのほうから話しかけているといった印象だ。 彼女は、どこか人と距離を置いている節がある。 キミは、どうしてここに? ……ただの散歩です こんな寂れた場所でか そうなりますね 展望台が気になるのか? こももは言葉をなくす。 顔色が悪いのはそのせいか? ……なんのことですか キミも、私や姫榊妹と同じだということさ 気分が悪いのは、巫女としての霊能力や神通力のせいかもしれないぞ ……バカバカしい その言葉、万夜花さんが聞いたらどう思うかな あんたらしいって笑うでしょうね 目に浮かぶな 雪菜は笑った。ただ形として笑っているだけに見えた。 私はこれから展望台に行くつもりだが そこで仕事ですか ああ なんの仕事かは教えられないんですよね そうでもない。私について来るのなら知ることができる こももは肩をすくめた。 どうせ反対するんでしょう いや、キミであれば反対する理由はない お母さんの娘だからですか そうだ 帰ります こももは言い捨てた。 それから、忌々しく言うのだった。 これ以上ここにいたら、頭が割れると思いますから 母さんの墓はまだ建てられていなかった。 詩乃さんの話では、一周忌に建てるとのことだ。 だから母さんをなくしたばかりの俺たちに墓参りはまだ早いのかと言われれば、そうでもない。 墓参りに限らず、こういった法要時には迷ってしまう。 千波にどのように接したらいいのかと、悩んでしまう。 じゃあ、千波ちゃんはまだお父さんのお墓参りには…… はい。あれ以来、一度も行ってないと思います 俺たちは母親だけじゃない、父親もなくしている。 まだ赤ん坊の頃の話だ。雲雀ヶ崎の霊園にその墓はある。 俺たち兄妹が物心つく前は、場所が離れていることもあって母さんひとりで墓参に行っていたようだ。 物心ついた頃には母さんに連れられて俺たちも参っていた。 千波も一緒だった。だから千波は父親の墓参りをしたことがないわけじゃない。 だが成長し、小学校に入学してから何年か経つと、千波は頑なに墓参を拒否するようになった。 その頃からだろう、千波が母さんに対して反発することが多くなったのは。 そしてそれは、兄の俺にも同様だった。 その反動なのかなんなのか、今では俺にべったりになっている気もするが。 そんな千波の反抗期は雲雀ヶ崎を出る前後──小学校中学年の頃には弱まってきて、引っ越しをしたあとはさらに弱まった。 都会の学校に馴染む頃には元気あふれる千波に戻った。 俺や母さんとの仲も改善した。家事を手伝おうとして大失敗し、だけどめげない千波に戻った。 母さんも千波も幸せそうに笑っていた。 だけどもそれは、都会に引っ越すことで父親の墓参りをしなくてよくなったという、千波の考えから生まれた笑顔だったのかもしれない。 それについて千波と話したことはない。母さんと話したこともなかった。 雲雀ヶ崎に戻ることになって、千波がなにを思い、どう考えたか。 むやみに聞き出すつもりはなかった。 もしお墓参りが難しいなら、無理にすることはないわよ ……はい。詩乃さんは行くんですか? ええ。これから親戚の皆さんと出かけてくるわ ………… 洋ちゃんは…… 俺は、やめておきます ……無理にすることはないわ。だけど、姉さんのことは気にしなくてもいいのよ? 母さんは一度、家を離れている。それは親類と縁を切ったということだ。 その子供である俺たちに、この実家で暮らさないかと誘われたことからも、親戚の人たちは誰も母さんに対して負の感情を抱いていないのはわかる。 母さんも言っていたのだ。 家を飛び出したのは自分のわがままだった。ほかの皆は悪くない、悪いのは自分だったのだと。 もし私たちに対して気を遣っているのなら、やめてね。みんな姉さんの子供に会いたいって言ってるんだから 洋ちゃんや千波ちゃんに会いたいと思ってるんだから ……すみません だから、洋ちゃんが謝ることはないのよ 今年は遠慮します。だから、すみません 詩乃さんは小さく吐息をついた。 ……千波ちゃんのため? たぶん、そんな感じです 母さんが死んでまだ間もないのに、千波をあまり刺激したくないというのが本音だった。 千波は、なんだかんだで母さんっ子だった。 今ごろ千波も部屋で落ち込んでいるかもしれないのだ。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……おまえ、人の心配を簡単にぶち壊すのな ふふ。文句を言ってるわりにホッとした顔してるわよ ……そんなことはありません なになになんでホッとしたの? なんでもない。それよりなんだ なんだじゃないよっ、今日は十三日だからお墓参りの日なんだよっ、それは千波たちも含めた地球人には平等に当てはまる行事なんだよっ 地球人じゃなくて日本人の間違いだろ 千波ちゃん、お墓参りしたいの? はい! 当然じゃないですか! だって天国のお母さんに千波の近況報告しないと心配かけちゃいますから! 正直、驚いた。 父親の名前は出なかったが、それでも千波は母さんの墓参りはしたいと言う。 そうね。じゃあ三人で、姉さんのお墓参りしようか 詩乃さんはそう言ってリビングの席を外した。 お母さんきっと千波たちのこと待ってるよっ、早くお参りしないと化けて出てやるって言ってるよっ ショックを受けていないわけがない、だけど千波はちゃんと心の整理を進めている。 母さんの死を受け入れようと努力しているのだ。 待ってね。今、準備するからね 詩乃さんが戻ってきた。 リビングのテーブルに母さんの写真が立てられた。 千波ちゃん、これを そして詩乃さんから千波へ、花が渡される。 これから出かけると言った墓参りのために用意していた花だろうか。 それとも、母さんのために、最初から用意してくれていたのだろうか。 ……千波 うん 千波の手から花が供えられる。 俺たちは、母さんの写真立てに花をたむけて線香をあげる。 お母さん。天国で元気にしてる? 千波はね、とっても元気にしてるよ お兄ちゃんはイジワルだけど、とっても仲良しにしてるよ 詩乃さんは優しいから、いつも笑顔でいられるよ 都会の学校の友達とは別れちゃったけど、今でもメールで連絡取りあってるよ それでね、お母さん 千波ね、ヒバリ校でも友達ができたんだよ みんないい人たちばかりだよ みんな楽しい人たちばかりだよ お母さんが通ったヒバリ校で、たくさんの友達と一緒に、千波は元気にしてるんだよ だから、なにも心配いらないからね お母さんは、天国でいっぱい笑っててね 千波と一緒に、いつまでも、笑顔でいてね 俺たちは手を合わせる。 瞳を閉じる。 そして想う。 母さん。 家を飛び出す覚悟で、あなたがどうしてもと産んだ千波は、さっきの報告どおり元気でやっています。 手がつけられないくらい元気でやっています。 むしろ元気が減って欲しいくらい元気でやっています。 だから安心してください。 たまにぐりぐりするのは兄なりの愛情のつもりですから安心してください。 笑顔でいてください。 そうして見守っていてください。 千波を見守っていてやってください。 俺も、守るから。 あなたの愛娘である千波は、あなたの息子である俺が必ず守るから。 だから、絶対に、二度と千波を泣かせはしない──── 黄昏に沈んでいたこの地も今は薄闇に支配されている。 諏訪雪菜は展望台に立っていた。 眼下に広がる街の灯火が以前に訪れたときよりも望めないのが、法要時を印象づける。 遠く、ここからは到底見通せないが、各地の墓地は年に何度もない雑踏にあふれているのだろう。 ……さて、どうしたものかな 展望台には少なくない回数を訪れている。 それなりに地理は詳しくなったので、捜し人を見つけるのは難しくないと考えていたのだが。 どこに隠れているんだか…… それとも今夜もハズレなのだろうか。 死神とやらは来ていないのかもしれない。 そのメアという名の自称死神は、こさめの話によれば少なくとも人ではないという。 その根拠はメア自身もそうだが、メアが連れているペットがより顕著のようだ。 こさめいわく、炎を吐く龍らしい。 ……なんだそれは。 もちろんメア自身にも疑う点はあり、瞬間的に姿を消すことができるようだ。 この話を聞いてから、雪菜は半信半疑ながらも本腰を入れることに決めた。 やはり、一度この目で確かめるしかない。 ただでさえここは『彼女』を還すためには必須の場所となっている。 いざというときの弊害を避けるためにも、確認は必要だ。 難儀なことだな…… そう決めたはいいが、肝心の死神に会えなければどうしようもない。 どうも天クルの活動に混じっているようだが、そこに自分も混じるわけにもいかない。 雪菜の仕事は極力人目を避けなければならないから。 雪菜は、噂の死神が人でないと判断したなら、即刻消すつもりでいるのだった。 そうならないことを祈っているがな メアの姿はまだ見えない。 雪菜は探索を諦める。 腕を組み、こさめの言葉を思い返す。 話を聞く限りでは、メアは小河坂洋に懐いているようだ。 で、あるならば。 ダメ元で、やってみるか 雪菜は肺に空気を溜め、一息に吐き出した。 展望台の死神クン、聞こえているか 凛とした声が木々を渡る。 空間を裂くような鋭い声。 聞こえているのなら出てきてくれないか 雪菜は展望台の中心に立っている。 波紋のように広がるその声は隈なくこの場を網羅する。それだけの強さがある。 小河坂洋クンからの伝言があるんだ 雪菜は、こちらからは捜さずに、相手からのコンタクトを期待している。 彼は今日、墓参りでここを訪れることができない だから私が代わりに来た お願いだ、姿を見せてくれないか 雪菜はいったん言葉を止める。 耳を澄ます。 音はない。 視界は変わらない。誰の影も見えない。 ときおり吹く風がうざったく、雪菜は乱暴に髪を後ろに流す。 もう一度声を張り上げようとしたとき、それは起こった。 これは…… なにかが生まれていた。 欄干の隙間から、夜露に濡れた草むらから、ふわりと飛び立つなにか。 風にそよぐ梢とともに揺れ動く。 光の乱舞。 それは、蛍の舞だった。 ……驚いたな ひとつが生まれる頃にはふたつが生まれ、それが連鎖し息をつく間もなくここは光に充ち満ちた。 まるで星空の中に立っているようだ。 不安になって夜空を見上げる。 そこにも光の乱舞がある。 天と地の境がない。 私は、溺れるのか。 目眩がする。 自分が溶かされていくようだ。 こももとは違う意味で気分が悪くなっていた。 死神を釣るはずだったんだがな…… 応えたのは蛍のほう。 それともこれは死神からのメッセージだろうか。 死神を騙そうとした罰というわけか。 雪菜は苦笑し、退散を決め込んだ。 展望台を出ようとした──その方向に。 誰かがいた。 ……洋くんからの、伝言? 雪菜はこの目でしかと見る。 その姿は少女のもので、誇示したように持つカマよりも背丈が小さい。 彼女が死神だろうか。 いや──これはむしろ、彼女から自分が死神だと伝えたがっている格好だ。 彼女には記号的意味が多すぎる。 不自然なほど。 養殖の神話、あるいは仕組まれた都市伝説を語られるのに似た不快感を持つほどに。 これまで出遭った同類以上に、作為を感じる。 ……キミが、メアという名の死神か? そうだけど 私はキミを探していた。だが初めましてと言うべきか そうね。わたしはあなたなんて知らない 雪菜はにやりと笑う。 キミは龍を飼っているそうだな それがなに 姿が見えないようだが どこかを飛び回ってると思うけど 紹介してくれないか いや キミは本当に死神なのか メアの表情は動かない。 人ではないのか なんなの、あなた 私の前で消えてみせてくれないか なんなのかって聞いてるんだけど 言うなれば死神のファンだ 変な人 キミに言われたくはないな サインでも欲しいの いただけるのならもらおう 洋くんの友達なのよね 友達ではないな。面識がある程度だ 洋くんの伝言って、なに 悪いな 雪菜は腰を低く落とす。 その手を静かに得物にかける。 それは、方便だ ………… メアの表情に警戒の色が浮かぶ。 その姿が陰る。 徐々に薄らいでいく。 ……当たりか。 確信に至る。 コレは『彼女』の同類だ。 雪菜は得物を抜いた。 瞬間、星よりも蛍よりもまばゆい閃光が奔流となって放たれる。 ……え? それは瞬きよりも短い刹那の出来事。 メアは、そこにいる。 消えてはいない。 消えることができない。 なにが起こったかわからないように。 ただ呆然とそこにいる。 私は、キミに用があるんだ まだ、帰られては困るんだ 雪菜は、静かに得物を構えた。 この仕事──── その薙刀は、鋭利な光彩を宿してメアの命を狙っている。 死神退治に、悪いがつきあってもらおうか お兄ちゃん、千波ちょっと出かけてくるね 詩乃さんが墓参りに出かけたあと、ふたりでのんびりしていると千波が不意に言った。 どこ行くんだ? 決めてないよっ ……散歩ってことか? そうとも言うよっ 急にどうしたんだ? ちょっとね 千波は窓のそばに寄る。 夜空は今日も満天に星をたたえていた。 外の空気が吸いたくなっちゃった お兄ちゃんもついて来るんだね べつについて来たわけじゃない じゃあなんで千波と一緒にいるの? たまたまだ お兄ちゃんも散歩したかったの? そうだ 千波が言わなくても散歩するつもりだったの? そうだ 千波を夜道でひとりにさせられるわけがない。 えへへ 千波は上機嫌だった。 腕を組んできたので振り払おうとしたが、考え直した。 今日だけは好きにさせようと思った。 お兄ちゃん、千波にくっつかれて顔赤らめてる 死んだらいいと思います 蒼さん風毒舌対応。 でもお兄ちゃん生態記録によると、お兄ちゃんが不自然に毒舌になるときはエッチな感触に期待して…… 破り捨てる。 千波のライフワークの結晶2号が!? くくくっ、まだ隠し持ってるなら早めに出したほうが身のためだぞ? お兄ちゃんが千波の身体まさぐってるっ、闇夜を幸いに無理やり服脱がして押し倒そうとしてるっ、あたかも凌辱主人公のように! 世間体があるのでこれ以上はよしておく。 バカなことやってないで行くぞ 待ってよっ、いいよもうっ、どうせその記録は布教用だもんっ、観賞用はべつにあるもんっ 何冊破けば終わるんだろうな……。 千波はまたくっついてくる。 詩乃さん、何時に帰ってくるのかな さあな。遅くならないようにするとは言ってたけど そっか 千波さ うん? あやうく父親の墓参りに触れそうになり、すぐに変更した。 次の天クルの活動日だけどさ うん 今週の金曜になりそうだ 天クルの部員じゃない千波なので、俺と違って連絡は受けていないだろう。 お盆が終わってすぐだね 千波は参加できそうか? ……千波も行っていいの? 当たり前だろ 千波は強く腕を回してくる。 もちろん参加するよっ 了解 今日のお兄ちゃんは優しいねっ さっきは人を凌辱主人公扱いしていたようだが。 天クルのこと、蒼ちゃんにも教えてあげよっと 蒼さんにもすでに連絡があっただろうが、言わないでおいた。 天クルの活動日に遊びにいってみるよっ、千波たちの夕食にも招待してみるよっ ああ、頼むぞ 蒼ちゃん、了解してくれるといいなっ おまえなら大丈夫だ そうかなっ そうだ 蒼さんに調教されたかもしれない鈴葉ちゃんだって、きっと千波が好きなままだ。 千波いつもこんなふうに優しいお兄ちゃんがいいなっ よりいっそう腕を回してくる。 なあ、千波 なになに? おまえって胸ないよな 日頃から思ってたけどお兄ちゃんはデリカシーが千波だけにピンポイントで欠如してるよ!? 言い換えれば、それはほかの誰よりも千波とのつきあいが長い証拠なのだった。 なにも考えないで歩いてたら、展望台に着きそうだね 散歩にはちょうどいいだろ そうだねっ、今夜も星見にレッツゴー! ここから先は離れて歩けよ なんでなんでっ 横に並んでると歩きづらいだろ、道が狭いし。縦列だ 名残惜しいけどわかったよっ、それじゃ千波が先頭いくねっ 千波は一足先に走っていく。 あまり急ぐと転ぶぞー 聞こえていないようだ。 俺は嘆息して、あっという間に闇にまぎれてしまった背中をゆっくりと追っていく。 フェンスを迂回する道は、最初は獣道ですらなかったが、これまで何度も往復したおかげか足跡で舗装されている。 そこを歩いていく。 千波とふたりだけでここを訪れるのは二度目になる。 一度目は、まだヒバリ校に転入する前だった。 バカなやり取りをしていたことしか覚えていない。 今回もそうなるだろう。 俺たち周囲の環境が変わっても、俺たちふたりの関係はこんなふうに続いていく。 これから先も変わらない。 その安定が心地よい。 心地よいから、それを壊すことはしたくない。 林を抜けた先に光がある。 それは期待よりもずっと淡くて大きな光だった。 一粒が小さくても、夜空の星に劣らない数が集まっているから大きく見えるのだと遅れて知った。 蛍だろうか? 音がした。 ほのかな音だった。 気づいたのは運がよかった。そうとしか言いようがないくらいのかすかな草の葉の揺れだ。 俺はその方向に視線を向ける。 そして見る。 天上から降り注ぐ星彩、地上から浮かび上がる蛍火、間に挟まれ強く照らされた千波の身体がゆっくりと、ゆっくりと前のめりに倒れていった。 人が立っていた。 緋色の人影だった。 人影は倒れ伏す千波を見下ろしていた。 光が強すぎるためか顔が見えない。 上半身は影となり、反対に下半身が明るかった。 だからいやでも目についた。 その手に煌く刀──この形状はどこかで見たことがある。 そうだ、夏祭りの際、姫榊が手にして舞った薙刀だ。 刀身が鮮やかに、美麗に、生々しく天地の光を反射する。 洋くん! どこからか呼び声がかかった。 人影が動いた。 瞬く間にその姿は木々の闇に隠れ、視界から消えてなくなる。 入れ代わりでメアが横手から飛び出してきた。 倒れた千波に気づいたのか、息を呑んだ。 風が吹いている。 冷たく乾いている。 その夜風は千波の背に集まっていた蛍を洗い流していく。 俺は、千波の元に、ふらふらとたどり着いた。 おい…… しゃがみ込む。 肩に手をやる。 仰向けにする。 千波は瞳を閉じている。 まるで眠っているようだ。 千波……? 千波は応えない。 俺は身体を揺さぶる。 反応はない。 頭がぼんやりとして、自分がなにをやっているのか、なにを話しているのか、判断ができなくなる。 支えている千波の身体の重さも、熱も、だんだんと希薄に感じられていく。 頼むよ、おい…… 応えない。 千波…… 手先が冷たくなり、逆に頭の芯が熱くたぎる。 千波っ……起きろよ、千波! まぶたを開けてくれない。 いくら呼んでも応えてくれない。 なんだよ、これ……。 なんなんだよ、これは……! よ、洋くん…… なんだっていうんだ、いったい。 なにがどうなっているんだよ。 わけがわからない。 この場すべての光が俺たちを嘲笑っているようで。 千波を呼ぶ俺の声は空しく、静かな夜の空気に消える。 俺たち周囲の環境が変わっても、俺たちふたりの関係は変わらない。 これから先も変わらない。 その安定が心地よい。 心地よいから、それを壊す者は許さない──── お姉ちゃん、ちょっといい? ……どうしたの。もう寝る時間でしょ えと、聞きたいことがあって なに? 千波さんのことだけど ………… ……すごく不満そう それで、千波さんがなに? うん。あのね、わたし、お盆が終わったらまた遊びにいきたいなって…… ………… い、いいかな……? ………… ……めちゃくちゃ不満そうだよう 遊ぶ前に、夏休みの宿題は終わったの? う、うん。お盆入る前に終わらせたよ 自由研究とかは? 読書感想文にしたからすぐ終わったよ ほかに提出するものは? 全部終わらせたよ 鈴葉はえらいね ……お姉ちゃんの笑顔がひきつってて怖いよう そんなに遊びにいきたいの? う、うん。お夕飯もまた一緒したいなって…… ……はあ だ、ダメかな? ダメって言ったら諦める? ………… ……ごめん。そんな顔しないで あ、じゃあ…… その代わりお姉ちゃんも一緒だからね うんっ。お姉ちゃんも千波さんの友達だもんね ……そうじゃなくて、監視目的だけど 洋さんも入れて、また四人で展望台に遊びにいきたいね メアさんにも会いにいきたいね ……そうね メアさんも、鈴葉の友達なんだものね うんっ 俺は、目覚めない千波をおぶって帰宅した。 家には詩乃さんがすでに帰っていて、俺たちの姿を見るなりなにがあったのかと聞いた。 俺は状況を説明した。うまく説明できたかは覚えていない。 だが詩乃さんは察したようで、ただちに受話器を取ってどこかに連絡を入れていた。 ここで救急車の存在に思い至り、冷静さを欠いていた自分を蹴り飛ばしたくなった。 俺は千波を部屋に運んでベッドに寝かせた。 千波に呼吸はある。規則正しく胸が上下している。 外傷は見当たらなかった。 だが目立つ箇所にないだけかもしれない。 千波の身になにも起こっていないのなら、あんなふうに倒れたりするはずがない。 ………… 千波の手を取る。 頭や頬を撫でる。 あたたかい。 起きろよ、千波。 元気だけが取り得のおまえらしくない。 このままだと母さんが心配するぞ? 報告したのに、ウソついたことになるんだぞ……。 ……洋ちゃん 詩乃さんが様子を見に来たようだ。 さっき、お医者さまに連絡したから。私の知人だから、すぐに来てくれるわ ……ありがとうございます 千波ちゃんはどう? ぱっと見、眠ってるようにしか見えません 詩乃さんは俺の横に立ち、千波を窺う。 そうね……。大事はないと思うけど だけど、目を開けてくれません ………… 俺、なにやってるんでしょうね…… 洋ちゃんのせいじゃないんでしょう だとしても、俺は千波を守れなかった。 俺も詩乃さんも、これ以上はなにも言わなかった。 詩乃さんが呼んでくれた医者は、万夜花さんの夫──姫榊姉妹の父親だった。 千波を検診したあと、詩乃さんが話したとおり大事はないと伝えた。 首の後ろに目立たないがアザがあって、ここに急な衝撃を受けて意識を失ったのではないかということだ。 今は眠っているだけだという。 念のため、明日になって千波が目覚めたら、彼が勤める隣町の病院で精密検査をしてくれるそうだ。 それから、千波がアザを作った状況で思い当たることはないかと聞かれ、俺はないと答えた。 あると答えれば警察沙汰になる。 状況を考えると、千波は襲われた可能性がある。 そうなると展望台の立ち入りができなくなる恐れがある。警察が封鎖するかもしれない。 こんな事故が起こったのにメアや展望台の彼女にまで考えが及ぶのは、千波が無事だったからにほかならない。 千波が無事でなかったら、それこそ俺はなによりも優先して犯人を追い詰める。 俺は、展望台で見たあの人影に心当たりがあったから。 その人影は薙刀を持っていた。 そして巫女装束を着ていたのだ。 とすると性別は女。 これら条件に当てはまる人物は、雲雀ヶ崎を限定とすればそうはいない。 もしも彼女が千波を襲ったのだとしたら。 俺は、理由を問いたださなければならなかった。 千波は起きていなかった。 これが普段であれば、休日ということもあってどうせ昼過ぎまで寝ているんだろうと軽く流すだけなのだが。 どうにも朝食作りの手が動かない。 キッチンをうろうろと歩き回っては千波の部屋がある二階を見上げ、ため息をついていた。 洋ちゃん、千波ちゃんが気になるなら部屋を覗いてくればいいじゃない べつに気にしてませんから 心配なんでしょう? いえこれっぽっちも ……一晩過ぎたら、洋ちゃんのあまのじゃくが戻っちゃったわね メアと一緒にしないで欲しい。 それじゃあ私からお願いするわ。病院に連れていかないとだから、千波ちゃんを起こしてくれる? 詩乃さんの頼みならしょうがないですね 朝の弱い詩乃さんがこの時間に起きているのも、病院の検査があるからなのだ。 それじゃ、起こしてきます お願いね はい、あくまで詩乃さんのお願いがあったからですから はいはい 詩乃さんは困ったように笑った。 千波の部屋の前まで来る。 まだ寝ているだろうか。それとも起きて身支度でも整えているだろうか。 起きたなら支度よりもまず騒がしく階段を駆け下りているはずだし、やはり寝ているんだろう。 いちおうノックをしてから耳を澄ます。 反応はない。 眠っている。 次はドアノブを回す番だ。 カギなんてないから難なく開くだろう。 なにもためらう必要はない。 呼びかけても起きなかったらどうしようなんて、不安がることはない。 千波は無事だったのだから。 足を踏み入れた。 中は静まっている。 そして、引っ越しからまだ一ヶ月だというのにちらかっている。 整理整頓の行き届いていない部屋の奥に千波のベッドは置かれている。 俺は毛布のふくらみに近寄る。 千波の様子は昨夜から変わっていないように見えた。 起き出した気配はない。それどころか、寝相の悪い千波なのに毛布が乱れた様子もない。 その、あまりの静けさにゾッとする。 千波…… 頬にそっと手を当てた。 あたたかい。たしかなぬくもり。 赤みも差しているし、寝息だって聞こえる。 それだけでホッとする。千波は間違いなく生きている。 ……なにを考えているんだ、俺は。 千波、起きろ。千波 肩を揺さぶった。 細い身体が俺の手にあわせて動く。 千波のまぶたが痙攣する。 ん…… 声がする。久しく聞いた気がした。 おにい……ちゃん…… 起きたのかと思ったが、まだ千波の瞳は開いていない。 千波の唇が震えていた。 助けて……苦しい…… ………… くるし……よう…… そのたどたどしい言葉が心臓を鷲づかみにした。 千波? おい、千波……! あ……う…… しっかりしろ、千波……! 苦しい……もう……だめっ…… どこが苦しいんだ、兄ちゃんに言ってみろ、すぐ助けてやるから! お、お兄ちゃぁん……! 千波っ、千波……! もう食べられないよう……! 間髪入れずデコピンした。 なっ、なになになんなのっ!? 千波は額を押さえて飛び起きた。 詩乃さんお手製ディナーをお兄ちゃんと一緒に食べてたら千波のおでこが痛くなったよ!? 食べ過ぎたからだろ そんなわけないよっ、食べ過ぎで痛くなるのはお腹だけだよ! 千波……今まで隠していてすまない まるで千波の胃が額にあるの黙っててごめんみたいな言い方だよお兄ちゃん!? 元気になったみたいだな 千波の頭にぽんと手を置く。 千波はいつでも元気だよっ そうだったな 千波は目をきょろきょろさせる。 ……あれ? 朝のあいさつはおはようだぞ 朝? そうだ ここって…… 千波の部屋だな お兄ちゃんっ、一大事だよ! どうした? 千波展望台にいたはずなのに部屋に戻ってるってことはこれって神隠しかなっ、それともタイムトラベルかなっ、あるいは宇宙人がUFOに乗せて連れ帰ったのかなっ いつもの千波で兄ちゃん一安心だよ そのわりに痛い子を見る眼差しなのはどういうわけなのお兄ちゃん!? ようやく肩の荷が下りた。軽くなった心がそう言っていた。 千波、展望台で気を失ったの? ああ。覚えてないのか? 千波の記憶では展望台に一番乗りしてメアちゃんを捜そうとしたら部屋にワープしたことになってるよっ とすると、千波は人影を見ていないようだ。 千波ちゃん、顔色いいし、食欲もあるみたいね はいっ、寝覚めすっきりで近年まれに見る爽快な気分です! 詩乃さんが俺の代わりに作ってくれた朝食をもりもりと食べている。 首は痛くないか? べつに寝違えてないから平気だよっ じゃなくて、首の後ろだ。アザになってるだろ? えっ、どこどこ? 千波ちゃん、じっとして。むやみにさわっちゃダメよ 詩乃さんが千波の髪をかき上げて確認する。 腫れもないし、キレイに消えてるわね 凝りまで消えて肩が軽くなった気がします! どうやら謎の人影は千波に危害を加えるどころか健康促進に一役買ったようだ。 それでも、ちゃんと病院には行きましょうね お兄ちゃん病気なの? 俺じゃなくておまえだ なんでなんでっ、千波は健康で〈絢爛〉《けんらん》だよっ、こう見えて一度も歯医者さんにかかったこともないからねっ 千波……今まで隠していてすまない まるで千波の余命は残り幾ばくかしかないんだごめんみたいな言い方だよお兄ちゃん!? 健康診断みたいなものだから心配しなくていい。それより早く食べてしまえ 食べ終わったら、みんなで出ましょうね なんだかわからないけど千波は注射が大の苦手だから拒否権を発動させてもらうつもりだよっ 注射はしないと思うわよ。検査が終わったら、千波ちゃんお疲れさま会を開いてごちそう作ってあげるわね わーい! 詩乃さんはほほえんで、車の準備に向かった。 千波が駄々をこねる前に丸め込むその手腕は見事だった。 病院での千波の検査は滞りなく終了し、どこにも異常なしとの結果だった。 担当した姫榊医師は柔和な雰囲気の人で、まさしくこさめさんの父親という感じだ。 対する姫榊は母親似だ。バランスの良い家族なんじゃないかと思う。 俺たちは昨夜の件も含めて礼を言って帰途につく。 千波は結局この検査の意味を理解していなかったようだが、なにはともあれ一安心だ。 千波、ちょっと 千波お疲れさま会が終わってから、俺はご満悦の愚妹に声をかける。 なになにお兄ちゃんっ、千波これから雲雀ヶ崎ミステリーツアーに出かけなきゃいけないから手短にお願いねっ ……なんだよそのミステリーツアーって ケータイ片手に雲雀ヶ崎を徘徊して隙あらばUFOや宇宙人を激写するんだよっ 要するに暇になったから街をぶらつきたいんだろう。 お兄ちゃんが望むならお供に加えてあげてもいいよっ、きびだんごはあげないけどねっ それよりおまえ、病人なんだから休んでろ 千波こんなにぴんぴんしてるし病人のわけないよっ さっき病院行ったばかりだろ 検査結果はぴんぴんしてますだったよっ そういう病気なんだよ どういう病気なの!? ぴんぴん病でいいだろもう テキトーに片付けられてる!? それでな、ぴんぴん病患者のおまえのお見舞いしたいって、さっきメールが来たんだよ 送り主はこさめさんで、父親から今回の件を聞いたらしかった。 天クルの連絡網で皆に伝えたので、都合がつく部員は見舞いに来るという話だ。 こういったイベントがあると、また違ったかたちで部活に入ったんだという実感が湧く。 お盆の真っ最中なので、何人来られるかは不明だが。 ちなみにこさめさんは姫榊をひっぱって夕方頃に訪ねるそうだ。 ……聞いてみるチャンスだろうな。 友達を疑いたいわけじゃない。 これは確認。それだけのことだ。 それじゃ千波いってきまーす! すでに千波は俺の前から消えていた。 慌てて玄関に向かう。 待て待てっ、見舞いがあるって言っただろっ お兄ちゃん病気なの? 病気なのはおまえだっ、見舞いもおまえ宛なんだよっ なんでなんで千波ぴんぴんしてるのにっ ぴんぴん病が進行してるし今日は一日寝てろ やだやだ千波はミステリーを解きたいんだもん! ……頼むよ、千波 懇願する気分で言う。 昨日の今日だし、ひとりで出かけてまたなにかあったら、母さんにどう申し開きすればいいんだよ 千波は驚いているようだった。 お盆の間くらい、おとなしくしててくれないか その間、俺は安心できる材料を可能な限り集めよう。 千波にもう危険がないとわかるまで、努力しよう。 ……ごめんなさい 千波はしゅんとしていた。今度は俺が驚く。 謝ることない。どうしても出かけたいんだったら、俺もついていくから ううん、千波おとなしくしてるね 千波はぱたぱたと部屋に戻っていった。 千波は自室でパジャマに着替えてきた。 千波、病人なんだよね ああ お兄ちゃんが看病してくれるの? そうだな 取り立ててすることはなさそうだが。 えへへ なぜか笑っている。 家のチャイムが鳴った。 あ、お兄ちゃん。お見舞いかな 思ったより早かったな 詩乃さんは仕事中なので、俺が出よう。 こんにちは 一番乗りは明日歩だった。 こさめちゃんから聞いたんだけど……。千波ちゃん、夏風邪なんだって? そういう話になっているようだ。 たいしたことないんだけどな。今もリビングにいるし 寝てなくていいんだ ああ。せっかく来てくれたのに悪かったな ううん、ちょうど暇してたしね。お盆は客足もほとんどないから 上がっていくか? うん、最初からそのつもりだよ 明日歩は緊張した面持ちで靴を脱ぐ。 洋ちゃんの家に上がるの、叶っちゃったな…… 明日歩は照れくさそうに靴をそろえていた。 その後は岡泉先輩が来て、仕事を一休みした詩乃さんがアップルパイを焼いてくれた。 蒼さん姉妹は親戚のあいさつ回りに出ているそうで、訪問する代わりに見舞いメールが届いた。 蒼さんは簡素な短文、鈴葉ちゃんは二画面分もある長文。 内容も対照的だったが、千波を心配しているところは共通していた(蒼さんのメールをそう読み解くのは難関だった)。 ふたりにはお礼のメールを返しておいた。 お兄ちゃんお兄ちゃん、千波ふたりからプレゼントもらっちゃったよっ 明日歩と岡泉先輩は帰り際、千波に見舞いの品を渡していた。 箱からして、どっちもケーキみたいだな 岡泉先輩のものは買った商品で、明日歩のものはミルキーウェイで作った商品のようだ。 もしかしたら明日歩の自作かもしれない。 千波さっそく開けるねっ 詩乃さんのアップルパイ食べたばかりだし、夕飯のあとでもいいだろ それは難しいよお兄ちゃんっ、全世界のスイーツは千波の生命の源だから手にしたらなにを置いても優先して口に入れることがDNAレベルで決まってるんだよ! じゃあこれ握りつぶせば寿命が縮まるんだな 目が本気だよお兄ちゃん!? あらあらダメよ洋ちゃん。今お皿とフォーク用意するから待っててね 詩乃さんの慈悲により千波の前にケーキが次々と並ぶ。 全部食うのかおまえは…… お兄ちゃんお兄ちゃんっ 俺はべつにいらないから そうじゃないよっ、このケーキはお見舞い品だからすべからく千波のものであってお兄ちゃんにあげるなんて想定の範囲外もいいところだよっ ぐりぐりしたくてたまらねえ。 あのねあのねっ、今日の千波は病人だからお兄ちゃんが看病してくれるんだよねっ そうだったな その必要性はまったく見当たらないが。 お兄ちゃん、はい 千波にフォークを渡される。 千波にあーんしてっ はい、あーん フォークを口に突っ込もうとしないでお兄ちゃん!? 違うのか? 違うに決まってるよっ、千波があーんって口開けたらお兄ちゃんはあーんって優しく言って千波にケーキを食べさせてくれるんだよ! なんだその恥ずかし設定は。 ケーキくらいひとりで食べられるだろ…… やだやだ千波は病人なんだもんっ、お兄ちゃんは千波のお世話する看護師さんなんだもん! くっ、あれだけ自分は元気だと言い張っていたのに。 お兄ちゃんあーんしてっ はい、あーん ほっへひっはらはいへー! ひっぱっていた頬から手を離す。 この人ひどいよ悪魔だよっ、今の千波はか弱い重病人なのに! あくまで病人で通すようだ。 洋ちゃん、今日くらい千波ちゃんのお願い聞いてあげたらいいじゃない 詩乃さんが千波の味方をする。 ……いや、しかしですね 夕べはあんなに千波ちゃんのこと心配してたのに そんなことは断じてありません 紳士に言う。 どんなふうに心配してたんですか詩乃さん? 無視される。 えっとね、お医者さまが帰っても一晩中千波ちゃんのそばにいて洋ちゃんは実は寝てない…… わかったわかりましたからそれ以上言わないでください! 覚悟を決めることにする。 千波、あーんだ あーん ケーキをまるごとフォークでぶっ刺し、口に突っ込む。 千波は一秒かからず丸呑みする。 えへへ、おいしい 蛇かこいつは……。 萌えるどころか恐ろしくなる。 お兄ちゃん、次 あ、ああ。千波、あーん あーん 二個目のケーキも丸呑みする。 えへへ、すっごくおいしい いずれ俺も丸呑みされるんじゃないかと気が気じゃない。 お兄ちゃん、次 あ、ああ…… あーん ふふ。よかったわね、千波ちゃん ケーキがなくなるまでこの魔術的な儀式は続いていた。 そして、夕方になると姫榊姉妹が訪ねてきた。 満腹になった千波はすでに昼寝に入っていたが、ふたりを帰したりはしない。 どうしても確認したいことがあったのだ。 まったく……。わたしは小河坂くんの妹とほとんど面識ないのに、なんでお見舞いしてるのよ とすると、このお見舞いの目的は小河坂さんともっと親しくなることですか? あなたが強引に連れ出したからでしょっ 悪かったな、お詫びにどうぞ アップルパイをふたりの前に出す。 ほかの皆さんは見えられましたか? ああ。明日歩と岡泉先輩が来たよ お盆なのにみんな暇なのね お盆だからこそ時間があるとも言えますけどね ふたりは用事とかなかったのか? お昼に親戚のごあいさつに行ったくらいですね 夕方から課題やる予定だったのに…… ぶつぶつ言いながらアップルパイを頬張っている。 姫榊ってマジメだよな あなたたちが呑気なだけでしょう。小河坂くんは課題終わったの? 夏休みが終わる頃には終わってる まだ日にちがあるからってなにも手をつけてないなんて言わないでしょうね 明日歩と一緒にしないでくれ 当たってるのでしょうけど、明日歩さんが聞いたら怒りますね 南星さんのことだから、勉強なんてそっちのけで今夜も星見してるんじゃないの 天クルの活動はお盆明けからですけど、自主的に夜空を見上げているかもしれませんね この時期って流星が見えるらしいしね 姫榊はさ うまく会話の流れに乗れそうだ。 展望台、入ったことないんだよな そうよ じゃあ夕べに展望台に行ったなんてこともないよな ……入ってはいないけど 微妙な間があったが、入っていないのなら問題ない。 なんでそんなこと聞くのよ それに答える前に、こさめさんはどうだ? わたしも夕べは家にいましたから…… ふたりともウソをついているようには見えない。俺はホッとする。 そもそも俺は最初からふたりを疑ってはいない。 友達なのだから当然だ。 どうしてもしたかった確認とは、この雲雀ヶ崎にはふたりのほかに巫女がいるのか、その一点なのだ。 ちょっとコガヨウ、ひとりで変に納得してないで説明しなさいよ ……今話すからその呼び名はやめろ 俺はかいつまんで昨夜の出来事を話す。 ……千波さんは夏風邪じゃなかったのね 姫榊父が気を利かせてそう話したんだろう。 警察に連絡は? いや、その人影に本当に襲われたかもわからないんだ。もしかしたら俺と一緒でただの目撃者かもしれない その可能性は薄いだろう。ほかに人はいなかったのだ。 ……いや、メアがいたか。 だがメアは俺と同じ目撃者のほうだろう。 でも、その人影が犯人にしろ目撃者にしろ、巫女の格好をして薙刀を持っていたのは事実なんだ 姫榊は眉根を寄せる。 教えて欲しいんだ。この近くで姫榊の家のほかに、神社ってあるのか? ……近くにはないわね。展望台で見たなら、わたしたちの神社の巫女を疑うのが妥当でしょうね 巫女以外で巫女の格好して歩く人って見たことあるか? ……そんな変態知らないわよ 姫榊が神楽で使った薙刀って、自由に持ち出せるのか? 神社の関係者以外は無理よ 神社の関係者ならいいんだな? ひとつ質問だけど、あなたは誰を疑ってるの? 姫榊とこさめさん以外の誰かだ ………… 最後の確認だ 俺は一言一言を丁寧に言う。 星天宮には、姫榊とこさめさん以外に、巫女はいるのか? それを知ってどうするんですか? こさめさんが強い調子で割り込んだ。 わたしたちの神社には母を神主として、巫女が現在三人います 小河坂さんは、そのもうひとりの名前を知ったとして、どうするんですか? 千波が襲われたときになぜそこにいたかを聞きたい 聞いてどうするんですか? 犯人なのか目撃者なのか、それを知りたい 犯人だったらどうするんですか? 理由を尋ねる 千波さんを襲った理由ですか? ああ 理由を聞いてどうするんですか? それは聞いてから決める もしもそこにやむを得ない事情があったとしたら、小河坂さんは許せますか? 許せない ………… 許せないけど、やむを得ないのなら、責めたりはしない 俺は、許せるように努力し続ける こさめさんはため息をついた。 ……くさいセリフ 姫榊は呆れていた。 ……雪菜先輩です ぽつりと言った。 諏訪雪菜先輩です。小河坂さんの言う条件に当てはまる人は、彼女以外に思いつきません ……諏訪雪菜。 何度か会ったことはある。 最初は取っつきにくい印象だった。人を検分するような目つきが苦手だった。 だが会話を交わすと優しい一面もあった。 ……雪菜先輩に連絡を取るべきか。 なぜ夕べは展望台にいたのか。 ただ、犯人が本当に雪菜先輩だとしたら、理由を正直に話すとも思えない。 展望台では、彼女はすぐに逃げた。 俺は彼女の顔を見ていないが、彼女は俺の顔を見たかもしれない。 雪菜先輩は俺を警戒していると考えるべきで……。 ……先輩は、友達です また、ぽつりと言った。 友達なんです…… そうね 姫榊は腕を組む。 雪菜先輩はね、わたしたちの親戚なのよ。わたしはそうでもないけど、こさめとは親しい間柄なの こさめの気持ちも少しは汲んであげて欲しいものね ………… それでも疑いたいなら警察に任せればいい。問いただす云々はあなたの領分じゃないでしょう あなたのやるべきことはほかにあるでしょう ……そうかもしれない。 俺はこさめさんとは違って雪菜先輩と親しいわけじゃない。 だけど天クルの仲間だ。 先走っていたのかもしれない。 大切なのは犯人を問い詰めることではなく、千波を二度と危険にさらさないようにすることだ。 姫榊 なによ 目からウロコが落ちた ……バカにしてるように聞こえるんだけど 正直な気持ちなのに。 当面、雪菜先輩にはなにも聞かないことにするよ 当面、ね ………… こさめ、このあたりが妥協点でしょう。小河坂くんの気持ちを汲むならね ……はい こさめさんはお辞儀した。 すみません、いろいろと いや、謝るのはこっちだから ふたりしてなに頭下げあってるんだか 姫榊も悪かったな ……ふん 姫榊は憮然としてアップルパイを頬張るのだった。 俺は夜を待って、展望台を訪れた。 メア、いるか? 声をかけてみる。 いつもみたいに捜さないのは、心に余裕がないせいだ。 メア、俺だ。いるんだろ ……洋くん? 声がした。だが姿は見えない。 そうだ、俺だよ俺 オレオレ詐欺? 違うって……というかよく知ってるな 一般常識は一通りそろえてるから そろえるってなんだ。 ほんとに洋くんなの? なんで疑うんだよ…… それから沈黙が続いた。 ……まさか、なにかあったのか? ………… 俺は小河坂洋だ。ヒバリ校の二年で、一ヶ月前に雲雀ヶ崎に引っ越してきた そして展望台の彼女そっくりのメアと出会ったんだ ………… メアは姿を現した。信じてくれたようだ。 なにがあったんだ? ……夕べ、騙された。洋くんの名前を出されて、姿を見せたの 相手は千波を襲った犯人か? 千波って誰だっけ ……俺の妹だよ。夕べ、ここにいた巫女に襲われただろ メアはきゅっと唇を引き結んだ。 その巫女を仮に犯人って呼ぶけど、その犯人は俺の名前を言ったのか? ……うん その話が本当なら、相手は俺を知っていることになる。 ますます雪菜先輩のセンが濃厚だ。 ……あの子、どうだった? 千波か? 今はぴんぴんしてるよ ……そう 夕べは悪かったな。取り乱したりして ……べつに 千波を家に連れ帰るので手一杯で、メアをほったらかしにしていたのだ。 メアにも心配をかけたに違いない。 頭を撫でようと手を伸ばしたらまったく同時にカマが伸びた。 反応早いなおい!? 練習したから なんの練習だよ……。 メアはさ、犯人と話したのか? ……まあ、少し なにを話したんだ? サインをねだられた ……なんだよそれ 死神ファンって言ってた 雪菜先輩のイメージがよくわからなくなる。 と、質問の順番間違えた。メアは犯人の顔を見たんだよな? 会話を交わしたくらいだ、俺と違って目撃しているだろう。 と思ったら、メアは首を横に振った。 蛍が邪魔で、よく見えなかった 展望台には、夕べに比べれば格段に少ないが、今夜も蛍火が舞っている。 こんな事件が起こらなかったら風流に感じるのに。 犯人が誰かはわからなかったのか? うん 声を聞いた限りはどうだ? 知らない人 話し方とか、口ぶりとかは? 知らない人 メアがこれまで出会った人じゃないってことか? 洋くん以外の人だからそうだと思う ……いや、メアは俺以外の人にも会ってるだろ そうだとしても、声も顔も名前もいちいち覚えないから 薄情なやつだ。 洋くんのことしか、覚えないから…… ………… ……今、きゅんってした なんか俺もした これってなに? 恋でいいだろ パカパカね ……メアって馬に乗りたいのか? UFOには乗ってみたい メアも乗りたいのか……。 もしかしたら、ナイトメアだけにパカパカなのかもしれない。 それはともかく、メアは声で相手を判断できなかったんだな? メアはこくんとうなずく。 メアと雪菜先輩は面識がないはずだ。 その人、最初はわたしを襲おうとしたの 長い刀を向けてきて、わたしは帰ろうとしたんだけど、帰ることができなかった なぜかはわからない。こんなこと初めてだった どうしようって思ってたら、誰かが来た あなたの妹が現れたの 犯人は矛先をわたしからあなたの妹に変えた 犯人が駆け寄ってもあなたの妹は立っているだけだった。たぶん展望台の明るさに目がくらんだんでしょうね 夕べは星明かりだけじゃなくて、蛍の光もあったから そして、次にあなたが現れた その頃には、あなたの妹は倒れ伏していた…… 実はね、今日もあなたが来る前に来てたの ……犯人が? うん。またあなたの名前を出したけど、さすがに同じ手にはひっかからなかったわ 顔は見てないのか? うん。隠れてたから 同じ声っていうのはわかったから、あなたが言う犯人なんだと思う 犯人はメアに気づかなかったんだな? うん。なに言われてもずっと隠れてたから それで正解だ 話を聞くに、犯人の目的は千波じゃない。 メアのほうなのだ。 今後も誰か来ても、絶対に姿を出すな 誰かって? その犯人とか、ほかにも不審者とか 洋くんも? 俺は不審者じゃないだろっ 命令されるのはいや 命令じゃない。お願いだ これ以上、メアも千波も傷ついて欲しくない。 ……お願いなら、聞いてもいい ありがとうな ……結局、撫でてる いやか? ………… ……変な気持ちになるから、いや 俺のために我慢してくれ ……バカバカ そうだな 俺は得られた情報を整理する。 犯人は俺を知っていて、死神ファン(?)で、メアを狙っている。 千波を気絶させたのは、状況から考えると目撃されたくなかったからだろう。 気になった点がみっつある。 なぜ犯人はメアを狙う必要があるのか。 なぜ犯人はメアが展望台にいることを知っているのか。 なぜ犯人はメアが死神だと知っているのか。 最初の一点は雪菜先輩本人しか知らないかもしれない。 だがあとの二点は、逆に、雪菜先輩には知りえない。 このふたつの情報はもともと俺とメアしか知らなかったものだから。 その後、俺が天クルの仲間に教えたのだ。 だから、天クルの仲間が教えない限り、雪菜先輩だけでは知りえないのだ。 ……どうしたの? 俺が離れると、メアはそう聞いた。 疲れた顔してる それが本当なら、犯人を雪菜先輩と決めてかかっている自分にうんざりしたからだろう。 姫榊に釘を刺されたのにな……。 心の平穏を取り戻すために、また撫でていいか? ………… ……絶対にいや 今、迷ったな ま、迷ってないっ ははっ ……そろそろ刺す頃合だと思ってたしちょうどいいわ 冗談だからそのカマしまってくれ! ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! これまで姿がなかったかー坊が背後から俺の頭を焼いた。 練習どおりね、よくできました おまえペットにどんな教育してるんだよ!? かーくん、帰ろう そして一人と一匹は闇夜に消えていった。 とりあえず、俺も帰って自分の頭を鏡で確認したほうがよさそうだった。 ねえ、こさめ はい 今日のお見舞いのことだけど…… なんですか? あなた、隠し事したでしょう ………… 小河坂くんならいざ知らず、わたしにまで隠し通せるなんて思ってないわよね わたしたちは双子。それも一卵性の 普通の姉妹じゃ感じ取れない些細な変化だってわかってしまう…… 千波さんが襲われたっていう小河坂くんの話を聞いたあとのあなたは、明らかにおかしかったわ ………… あなた、なにを隠したの? 雪菜先輩のこと? 自分のこと? それとも、展望台になにかあるの? ………… 話したくないならいいけど ………… 自分で調べるから ……姉さんは、展望台が苦手ですよね そうね なのに調べられるんですか? 当たり前じゃない ………… 展望台が苦手だからなんだっていうのよ あなたになにかあるんなら…… あなたが悩んでいるくらいなら 苦手意識くらい、簡単に蹴飛ばしてやるわ 千波、もう寝るのか? うん……。ねむねむだから 今朝は千波にしては早起きしたせいだろう、昼寝をしたとはいえ、夕飯を食べた直後からまぶたが重そうだった。 その前に、兄ちゃんのお願い聞いてくれるか なに? 当分、展望台には近づかないでくれ なんで? なんでもだ 理由がわからないとなんとも言えないよっ お願いだ 強く言った。 ………… また駄々をこねるだろうか。 じゃあ…… 眠気のためか、千波はしおらしかった。 千波のお願いも、聞いてくれる? ああ。今日の俺は千波の看護師だからな うん それで、なんだ? 一緒に寝たい…… ………… お兄ちゃんと一緒に寝たい…… いつもなら一蹴するところなのに。 あのときみたいに…… それは都会に引っ越したばかりの頃の話。 雲雀ヶ崎を出て不安がっていた千波をあやす意味合いだった。 千波は反抗期の最中だったが、それよりも引っ越しの不安が勝っていたんだろう。 あのときみたいに、お兄ちゃんに守って欲しい…… 千波は腕の中で丸まっている。 静かに瞳を閉じている。 騒いだりしない。それどころか一言も話さない。 眠ったのかもしれない。 だけど寝息は聞こえない。 まだ夜も早い時間。 それでも今日の俺は徹夜で疲れているはずなのに、眠気は訪れない。 千波の体温は高かった。 子供の体温は高いと言うが、千波にも当てはまるようだ。 体つきは成長しているというのに。 おうとつある柔らかさは、子供の頃には感じなかった。 お母さん…… そのつぶやきは寝言だろうか。 寝言じゃなくても、無意識に違いない。 お母さん…… 千波はそう繰り返していた。 手が、俺の服を握っている。 お母さん…… 胸の中で何度も、何度も。 じっとしている 抱きしめる 抱きしめる 俺はそっと抱きしめた。 ん…… 千波も、抱き返した。 あくまで無意識。 そう思う。 お母さん…… お兄ちゃん…… そして、少し間を空けて。 お父さん…… 千波はその名も呼ぶ。 家族の名前を呼んでいた。 今は失われた家族のぬくもり。 千波は欲しているんだろう。 だから、長い夜を、俺たちはこうすることで過ごしていた。 長い夜を、そうやって過ごしていた。 一昨日も昨日も、そして今日も千波は家から一歩も出ていない。 パジャマ姿でぐうたらしている。 ごろごろ、だらだらしてばかりいる。 お盆の間はおとなしくしていろとは言ったが、食っちゃ寝よりは宿題でもやっていて欲しいものだ。 夕方になって、家のチャイムが鳴った。 お兄ちゃーん、誰か来たよー みたいだなー 出なくていいのー おまえ出てくれー やだー、めんどくさーい 俺もめんどくせー じゃあどうするのー どうするかなー 無視かなー 無視だなー 千波の食っちゃ寝が俺にも移っていた。 洋ちゃん、千波ちゃん。お客さまよ 詩乃さんが応対してくれたようだ。 お邪魔します…… ……ます 客は蒼さん姉妹だった。 いらっしゃーい いらっしゃーい ……なんなんですかその体たらくは リビングで寝転がる俺たちを見た蒼さんの感想だ。 具合、悪いんですか……? べつにー べつにー ……イライラします 洋ちゃんはね、千波ちゃんが心配だからってお盆の間中ずっとそばにいたのよ なぜみんなして拡大解釈しようとするのか。 風邪、まだ治らないんですか? そうでもないよー、だけどお見舞いちょうだーい ……無性に踏みつぶしたくなる ふたりに妙な心配をかけるのも忍びないので、そろそろ復活することにする。 まだお盆だと思うけど、どうしたんだ? ……晩ご飯を一緒に食べるって、鈴葉が聞かなかったんです 蒼ちゃんがあーんしてくれたら一緒に食べてもいいー はい、あーん 千波の口に足突っ込もうとしないで蒼ちゃん!? 千波も復活した。 あ、あの、事前に電話したら、詩乃さんが大丈夫って言ってくれたんです…… 反対したわけじゃない。そうだろ、千波 当たり前だよっ、千波もふたりのこと〈一日千秋〉《いちじつせんしゅう》の思いで待ってたからねっ えへ…… 調教が間に合わなかった…… 鈴葉ちゃんと蒼さんの反応は対照的だ。 親御さんはいいのか? ……仕事ですから。お気になさらずに みんな、お夕飯はなに食べたい? 先に言っておくけど、遠慮なんかしないでね じゃあ冷やし餃子で! ひ、冷やし中華で 冷やしおでんで 冷やしビーフンをお願いします あらあら。みんな、お腹壊さないようにね 暑い夏はまだまだ続きそうだった。 ───舞台を整えなければいけない。 諏訪雪菜は悩んでいた。 一昨日、昨日と展望台に足を運んでもメアは姿を現さない。 一度取り逃がしたのが痛かった。 警戒されたのだろう。 だがあのときは諦めるほかなかった。目撃者があっては仕事を達することはできない。 なによりも恐れるのは警察の介入だ。薙刀を振り回す巫女など不審者以外の何者でもない。 ただでさえ展望台は立ち入り禁止だというのに、さらに問題が起こればフェンスを建てるくらいではすまなくなる。 今、あの場所を閉ざされるわけにはいかないのだ。 あの場所は自分にとって、そして『彼女』にとってもゴールラインなのだから。 公然の仕事なら、こんな苦労もないんだがな…… だがこのような仕事を公然に扱うことは、少なくとも現代の常識では不可能だろう。 だからそれについて愚痴を垂れても意味がない。雪菜は思考を切り替える。 必要なのはメアという名の死神と一対一で相対できる舞台を整えること。 メアは展望台に出没する。それは先日、証明された。 だが今は出会うことすら難しい。 メアは人間に比べれば格段に身軽だ。がむしゃらに捜して見つかるものではない。 一度相対すればこの薙刀──採物が逃さないのだから、それが可能となる状況を作らなければならない。 小河坂洋の名を出す方法はもう使えない。 だが小河坂洋を使わずにメアと出会うのは難しい。 ……となれば、やむを得ないか 考えうる手段はひとつしかない。 小河坂洋を使ってメアをおびき出す。 その上で、小河坂洋に現場を見られる恐れがあれば、排除するまでだ。 ………… メアと初めて対峙した十三日は失敗に終わった。 だが十六日の今日は成功させてみせる。 盆行事は、十三日に先祖の御魂を家に向かえ、十六日に送り還すのだという。 であれば、やはり今夜にこそふさわしい。 私の手で、死神を送り還してやるさ……。 雪菜先輩 雪菜の思考が中断した。 そんな姿で、どうしたんですか? 深く考えに浸っていたせいか、反応を返すまでに結構な時間を要した。 ……そんな姿とは? その巫女装束です。なにかあったんですか こももは見るからに疑心を抱いている。 敵意と表現しても妥当かもしれない。 仕事があってな どこかに行くんですか ああ どこですか ついて来るのか? そうは言っていません。聞いているだけです 雲雀ヶ崎に向かうのさ そこで用事ですか? そんなところだ そんな姿で街を歩いたら目立ちますよね 神社の裏手から通じている裏道を歩くさ。林道だから人気もない そこを二十分歩くと展望台に出ますよね ………… 正確には展望台に続く遊歩道に出ます だから、展望台には、なにも夢見坂からしか行けないわけじゃない どちらにしろあのフェンスは越えなければならないがな 雪菜は肩をすくめる。 こももの相手をするのは気苦労が絶えない。 なんと言っても、彼女は星天宮きっての優秀な巫女なのだ。歴代と比べてもその力は秀でている。 本人は知る由もないのだろうが。 キミは私の仕事が知りたいのか? そうは言ってません 私は姫榊妹と違って隠す真似はしないぞ つまりこさめは知っているんですね 黙秘だな。本人に聞くべきだ そうさせてもらいます これから私について来ても知ることができるぞ あなたはわたしを展望台に行かせたいんですね それも黙秘だ ご自由に ついて来るのか? 遠慮します やはり展望台は苦手なままか そうですけど、そうじゃありません わたしはあなたの仕事に興味があるわけじゃない ただ、あなたの仕事とやらで、誰かが迷惑をこうむっていないかどうかを知りたいだけなんです その誰かの筆頭が姫榊妹か そうです であれば、妹のそばについていることだ 最初からそのつもりです では、私は行く あなたは、こさめをどう思っているんですか ……どうとは? 友達だって思っているんですか キミには関係ないな そんなセリフは自立してから吐いてください、わたしたちの家から生活費を出してもらっている身分で 手厳しいな、キミは なんとでも 私はな、友達なんてものは作りたくない だが姫榊妹はこの雲雀ヶ崎で私の最も親しい相手に当たるだろうな ………… これでいいか? はい こももはきびすを返した。 一度も振り向かずに自宅へと消えていく。 ……やれやれ 万夜花さん、あなたは私に難儀な仕事を押しつけてくれたものだ……。 冷やし三昧の夕飯を食べている最中だった。 俺のケータイにメールが届いた。 ………… お兄ちゃん、誰から? ……ああ 生返事になる。 差出人も、その内容も虚をつくものだった。 俺はダイニングの席を立つ。 送られたメールにはこうあった。 『今夜九時、展望台に来い』 『メアと千波を襲ったのは、私だ』 『キミに話したいことがある』 ……こういう展開は予想しなかったな まさか犯人から招待状が届くとは。 時計を見る。九時にはまだ一時間以上ある。 俺は一度ダイニングに戻った。 すみません、詩乃さん。食事中で悪いんですけど、ちょっと急用ができてしまって ……出かけるの? はい どこに? 蒼さん、鈴葉ちゃん なんで無視するのお兄ちゃんっ ふたりとも、千波を頼むぞ ……え? ……なにがですか? 言ってみたかったんだ ……死んだらいいと思います 洋ちゃん、出かけるなら気をつけてね 詩乃さんの言葉は何気ないものだった。 だが俺は心に留め置いた。 はい、気をつけて行ってきます 俺はメールの差出人を確認する。 天クルの連絡網のおかげで、俺は部員であれば全員のアドレスを知っている。 ケータイにも登録してあった。 だからわかる。 メールの相手は、あの……。 ………… 本気とは考えたくない、しかし冗談としてもこのメール文は悪趣味すぎる。 疑いたくはない。 そう考えていた。 聞き出すことも今はしない。 姫榊にも言われたのだ。 だが、向こうが教えたいのであれば、話はべつだ。 話したいことがあるなら、聞いてやるさ…… なにを話したいのかは知らない──弁明でもしたいのか、口封じでもしたいのか、それはわからない。 弁明したとして、やむを得ない事情なら一考する。許すかどうかの猶予を与えよう。 彼女とはつきあいが深いとは言えないだろうが、やはりなんといっても同じ天クル部員。 仲間なのだ。 だから、なぜ千波を襲ったのか、メアを狙うのか、そこに大した理由もないのであれば。 そんな彼女を、俺は責められるか? 責められるさ。 俺は彼女を許さない。 今はまだ許せない。 ……口封じだったら、もってのほかだな その際は全力で逃げ出したのちに警察と共に反撃に出てやろう。 もちろん、ケータイでそっちの顔は写してやる。 展望台は無人だった。 約束の時間にはまだ早い。相手は到着していない。 俺が早めに到着したのには理由がある。 メア! いるなら出てきてくれ! ……誰? 思ったよりも応答が早かった。だが姿は見せない。 今夜は逆にそのほうがありがたい。 洋くん? そうだ、俺だよ俺! あなたは洋くんじゃない なんで!? オレオレ詐欺を二回もやるほど洋くんは愚かじゃない 愚かで悪かったなほんと!? ……俺は小河坂洋だ。頼むから信じてくれ ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! 本物みたい どんな判断だよ!? 今そっち行くから かー坊は林の中に飛び去っていく。その奥にメアがいるんだろう。 いや、今日は出てくるな。そのままでいい ……え? 隠れたままでいいんだ どうして 今夜、メアを狙っていた犯人が来る 沈黙の間ができた。 さっき俺にメールが来た。話したいことがあるらしくて、ここを待ち合わせ場所にしてる ………… だから、絶対に出てくるな 犯人の目的はひとつじゃないかもしれない。 俺と話したいだけじゃないかもしれないから。 なにがあっても出てくるな。わかったな? いや このあまのじゃくっ子め! そんなの聞いたら出てこないわけにいかないじゃない なんでだよ! あなたの言う犯人がわたしを狙っているなら…… メアは、姿を現した。 頭にはかー坊が乗っていた。 犯人がわたしを狙っているなら、あなたにメールを出したのは、わたしを誘い出すためかもしれないから 俺は天を仰ぎたくなる。 そこまでわかってるなら、なおさら隠れてろっ いや なんでだよっ! わたしが出てこなかったら、犯人はあなたを脅すかもしれない わたしを呼ぶようにあの長い刀で迫るかもしれない あなたがケガをするかもしれない だから、いや 俺は言葉を失っていた。 ……罪悪感があるから、いやなだけ 言い訳がましく言っていた。 俺はメアの頭を撫でようとした。 そうするしかなかった、そうするべきだった。 だがそれは叶わなかった。 背後から足音が聞こえた。 ……来たのか。 約束の時間にはなっていない。 だが相手は近づいている。 そういうことか。 最初からそういう手はずだったわけか。 なあ──── ───こさめさん。 お早いお着きですね、小河坂さん それはおたがいさまだ 夜空には煌めく星々、展望台からは蛍が一斉に舞い上がる。 なんて幻想的で非現実な光景だろう。 こさめさんのこんな姿は、俺の現実にはどこにも存在していなかった。 お早いお着きなのは、むしろそっちだろう 先に着いて、俺を待っていたんだな そしてメアが姿を見せる機会を狙っていた はい だからきっとキミは、メアが姿を見せなければ約束の時間になっても現れなかった はい 約束の時間をだいぶ過ぎれば俺は気が抜けてメアを呼んだかもしれない はい だから結局のところキミの狙いはメアだけだった はい 多すぎる光のただ中で、薙刀の刃部は一際まばゆく輝いている。 わざわざメール、ありがとうな お礼には及びません。むしろ急に呼び出してしまって、申し訳なく思っています そのわりに楽しそうだな そちらもそう見えますよ それは買いかぶりだ、俺にそんな余裕はない メアは俺の後ろに立っている。 背中に隠れている。 こさめさんが少しでも近づいたら、すぐに逃げさせる。 キミの狙いがメアだけでも、呼び出したんだから、俺に話のひとつくらいはあるんだろ? ありません。それは手段でしかありませんから メアを襲うための? そうです なぜ襲う? こさめさんは軽く吐息をつく。 嘲笑のような仕草。 なんであれ、話してくれる気になったのならそれでいい。 襲う理由は、必要があるからです 会話の分、俺にもメアにも余裕が生まれる。 動き出す準備を整えられる。 千波はどうなんだ? 困るんですよ、人に見られると。だからご退場願ったまでです 俺はいいのか? 小河坂さんは警察沙汰にはしません。展望台が封鎖されるのは困るのでしょう この場所には思い入れがあるようですからね こさめさんは一歩を踏み出した。 メア! 正面を向いたまま後ろに叫んだ。 消えて逃げろ! 無駄ですよ メアの気配は消えない。 メアの手は俺の背中をつかんだまま。 どうしたんだよ、メア! いつものように消えて帰ればいいんだよ! 振り向くことはできない、今こさめさんから目を離すわけにはいかない。 視界から外せば、すぐにも躍りかかる圧迫感がある。 できない…… 頼りない声が届く。 背中をつかむ手からは震えが伝わってくる。 わからないけど、できないの…… そうでしょうね こさめさんはまた一歩を踏み出す。 メアと名乗る死神──ソレは、ある特定の電磁波量が一定以下になって初めて、人の目には映らなくなります 逆を言えば、一定以上の電磁波量が照射されている限り、幻視することができるんです わたしたち人と同じ存在として扱うことが可能なんですよ…… それを、この薙刀──『〈隕鉄〉《いんてつ》』から作られた〈採物〉《とりもの》が補完しているんです 刃部は輝きに満ちている。 飽和している。 この場にある光──星光と蛍光すべてを内包でもしているかのようだ。 ですから、ソレは、逃げることは不可能です メアの震えは徐々に強くなる。 こさめさんは俺の身体を射通して、背中に隠れたメアを見ている。 今からこの〈採物〉《とりもの》でソレを送り還します ソレはわたしたち人にとっては不必要な存在ですから ……なあ 吐き捨てるように言う。 こさめさんがなにを言っているのかわからない、だけどメアは不必要なんかじゃない。取り消してくれ ですがソレはあなたが思う有機体ではありません 頼むから一般人に理解できる言語を使ってくれ わかりやすく言えばソレは幻覚に過ぎません 夢と同じ存在です ソレは、わたしたちにとっては悪夢と同じなんですよ 悪夢からは、一刻も早く覚めるべきでしょう? ……バカバカしい おそらく今の話を姉さんが聞けば同じ答えを返すでしょう、ですが小河坂さんまでそんな態度を取るとは思いもよりませんでした あなたはソレの存在を疑っていたからこそ、学校の図書室で調べ物をしていたんじゃないんですか? 俺の出した結論は、こさめさんとは逆だ 悪夢を刈ると言ったソレの言葉は信用し、ソレが悪夢そのものだというわたしの言葉をなぜ受け入れられないんですか? じゃあ聞くが、メアが悪夢だとしたらなぜ不特定多数の人に姿が見えている? その不特定多数の全員が同じ悪夢を見ていたからですよ それだけじゃない、写真にだって写ったんだぞ! 語気が荒くなる。気づけば肩で息をしている。 その答えも簡単です 俺は、こさめさんの意志に呑み込まれまいと必死に抵抗を続けている。 ソレを写し取った、そのカメラも、わたしたちと同じ悪夢を見たんです なんだそれは。 ソレは人だけじゃない、万物にとっての悪夢ですからね 馬鹿げている。 メアの姿は幾人にも見えていた。 写真にも写っていた。 なによりぬくもりがある。 その息づかいも体温も、たしかにある。 今、この瞬間も、メアの小さな手からは偽りのない存在が感じられる。 なのに、幻覚だっていうのか? 悪夢だっていうのか? 害ある夢だっていうのか……? そんなことが…… ありうるんですよ。この地では この雲雀ヶ崎の土地では、わたしたち住民が悪夢を見せられた例がほかにもあるくらいですからね 俺はかぶりを振りたくなる。 それこそ、オカルトの世界だろ…… オカルト? 非科学的だと言いたいんですか? 笑わせないでください 単に科学のほうが追いついていないだけでしょう。原理を解明できないのは人の怠慢ゆえでしょう 現にソレも、ソレを送り還すこの〈採物〉《とりもの》も、ここに存在しているのですから こさめさんは嘲笑う。 もっとも、そう言うわたしも、原理なんてものは知りませんけどね…… ……こさめさんは未来人かなにかなのか 俺まで笑い出したくなる。 れっきとした現代人ですよ。ですが、あなたの言うオカルトや非科学とやらには幾分詳しいつもりです そしてソレがオカルトや非科学の産物というのも、微々たるものですが感覚でわかります これもまた霊感という不思議現象なのかもしれませんね ……メア 助けを求める気分でその名を呼ぶ。 違うよな…… メアは、そんなものじゃないんだよな? 俺が抱きしめたときさ、自分で言ってたもんな 自分は、幻覚のわけがないって…… ……わからない それが、メアの答えだった。 わたし、自分が何者かなんてわからない…… わかるのは、洋くんと交わした約束と…… 『彼女』と交わした約束だけ…… だから、あなたがわたしを死神だって言ってくれて…… うれしかったんだと思う…… べつに死神じゃなくてもよかったけど…… なんでもよかったの…… わたしという存在を認めてくれるなら、なんでも…… メアの言葉尻は小さかった。 だがそこには意志が宿っている、そう感じる、こさめさんの意志に真っ向から反発する想いが。 俺に助けを求める願いが。 これで、わかったでしょう? ……ああ、これ以上ないくらいにわかったよ それではそこをどいていただけませんか? そしてこさめさんは再度、一歩を踏み出した。 そこにいると、あなたまで斬ってしまうかもしれません そいつは結構 俺は力の限り叫んだ。 メア、走って逃げろ! 消えられないなら走って林に隠れろ! させません こさめさんは地を蹴り──── 俺は、メアのカマを使ってそれを防いだ。 重い衝撃に両腕が痺れた。取り落としそうになる。 全身から一気に冷や汗が噴き出した。 思ったよりも運動神経がいいんですね ……こさめさんは想像以上に俊敏だな こさめさんの力はそれほど強いわけじゃない。 だが簡単に弾き返せるほど弱いわけでもない。 なにより俺は刃物で襲われるなんて初めてだ。 刃物を刃物で防ぐなんてのも初めてだから、勝手がわからず思うように身体が動いてくれない。 ……メア! 恐怖や焦心その他諸々の感情が渦巻く中、それでも歯を食いしばって唇くらいは動かした。 今のうちに逃げろ! メアの手は俺の背中から離れている、だがこんな体勢では首を後ろに回すことができない、確認はできない。 逃げた足音は聞こえない、聞き逃していることを願うしかない。 その鎌は、この薙刀と同質のモノですね 〈御魂〉《みたま》を送り還す〈採物〉《とりもの》──言うなれば、悪夢を刈るための〈呪具〉《じゅぐ》です とはいえ、決定的に違うところもあります 圧力が増す。 こさめさんの不敵な表情が近づく。 その向こう、夜空は天地の様々な光輝に彩られ、ほとんど白に近かった。 その鎌は、わたしの薙刀とは違い、持ち主同様所詮は〈夢幻だ〉《ゆめまぼろし》ということです だから…… こさめさんは柄から片方の手を外す。 その分重圧が減る、だが押し返せるほどの隙はなく、すぐに新たな力が加わった。 信じられない──── だから、こんなこともできるんです こさめさんはカマの刃部を素手で握っていた。 痛みを感じずにつかむことができるんです 手のひらに刃が食い込んでいる。 食い込んでいるのに血は流れない。 その表情に苦悶の様子は見て取れない。 痛みはない、ケガをしない、そう思い込むだけで可能になるんです 俺はただただ瞠目するしかない。 あなたも、もしかすれば経験があるんじゃないですか? この鎌で刺され、痛みを感じなかった経験をしているんじゃないですか? もしそうであれば、あなたは痛みを感じないと思い込んでいたんです ソレが自分を鎌で刺すわけがない、だから痛みが生じるわけがない、そう思い込んでいたんです 意識的にしろ、無意識的にしろ…… こさめさんの口元が歪む。 ですがそちらの鎌と違って、わたしの薙刀は、〈夢幻〉《ゆめまぼろし》などではありません 痛くないと思い込んでも、痛いですからね? こさめさんは腕を引く。 つかんだ手でカマを脇に流した。 加重が変化し、均衡がくずれ、俺は前のめりになってバランスを失った。 こさめさんはすぐに動いた、カマを握ったまま一度斜めに退く、俺がたたらを踏むと身を反転して踏み込んだ。 薙刀を手の内で回し、柄の先で俺の腹を突く。 っ……! たまらずくの字に曲がると続いて脳天に打撃が襲う。 地べたに叩きつけられた。 柄で殴ったのだろう、こさめさんの言葉どおり、たしかにこれは痛かった。 視界が歪んでいる。脳しんとうでも起こしたのか。 頭痛と腹痛が同時に襲う。 気持ち悪さに吐き気がする。 だが刀身で斬りつけられたらこんなものではすまされない。 もっと痛い。 わかっている。痛い。 きっとそれは想像を絶する苦痛。 だから恐ろしい。 震える。立ち上がれない。 それは圧倒的な恐怖。 心で打ち消そうにも身体が打ち消してくれない。 痛みを覚えた心身が硬直する。 動けない。 痛くないと思い込んでも痛いと知っているから戦慄する。 さて…… あなたは、そこでおとなしくしていてください こさめさんは放り出されていたカマを踏みつけ、後ろに蹴り飛ばす。 そうすれば、これ以上の危害を加えるつもりはありません こさめさんの視線が外れる。 ついと横に移り、俺の隣を見つめる。 俺は重い首を回し、その方向を追って、愕然とする。 メアが立ちすくんでいる。 なぜ逃げていないのか。 姿を消すこともできず、自分の身を守るようにいつも離さず抱いていたカマもなく。 脆弱な少女でしかないおまえが。 どうして、そんなふうに敵を睨みつけられるのか。 逃げない…… 逃げても、意味がない…… 青ざめ、膝が笑い、怯えた声音でも、メアは必死にあらがっている。 くじけそうな自身を懸命に鼓舞している。 わたしが逃げたせいで、洋くんがケガしたら、意味ないもの……! それは勘違いですが、わたしとしては好都合ですね 刃先がメアに向く。 腕を伸ばせばそのまま貫ける距離。 メアは退かない、微塵も下がらない。 逃げろと叫ぶ代わりに俺は咳き込み、血を散らした。 よ、洋くん……! 口の中を切っていただけです。あなたもたいがい、このような事態に慣れていないのですね おかげでこのわたしでも容易く事を進められる…… 横手から白い影が飛びすさった。 かー坊だ。 主人を守るように翼を広げてメアの正面で旋回した。 ……どきなさい 薙刀を横に一閃、鈍い音と共にかー坊は宙を舞った。 ひっ、とメアは息を呑む。 かー坊はメアの足下に転がりぐったりと横になる。 あ……やだ…… メアは蒼白になってしゃがみ込む。 やだっ、やだあ! すがりつく。抱きかかえる。 動かないかー坊に何度も呼びかける。 その姿がいつかの俺と千波を想起させる。 わたしの友達っ……わたしの友達なのに……! 初めて自分で作れた、友達なのに……! ……そう こさめさんは薙刀を構え直す。 友達……そう、友達…… 両腕で薙刀を振り上げる。 あなたを見ていると、苛立ちます…… 俺は膝に余力をかき集める。 いたる箇所に痛みがある。 耐える。 難しくても耐えねばならない。 軽々しく友達だなんて言って…… だって、どんなに痛くても、それでも。 この先の結果のほうがもっと痛いのならば。 友達を作れたなんて言って…… 自分が何者かも知らないくせに……! 俺は飛び出し、うずくまるメアに覆い被さった。 風を切る音を聞いた気がした。 その後は静寂が続いていた。 どのくらいの時間が経ったのか。 ぼんやりとした頭でメアの無事を確認し、次いで自分の身まで無事なことに疑問を抱く。 俺は、振り向いた。 痛いわね…… まるで場面が巻き戻されたようだった。 ほんと、泣きたくなるくらい痛い…… こさめさんがカマを握りしめたのと同様に。 痛くないって思い込んでも、痛いわよ…… 姫榊が、薙刀を素手でつかんでいる。 あ、当たり前じゃないですか…… これは、本物なんですよ…… 知ってるわよ…… 姫榊の手から鮮血が滴り落ちる。 それは刃と柄をゆるく伝ってこさめさんの手をも汚す。 祭りのときに、それ持って舞ったばかりなんだから…… わかってるならっ……離してください、姉さん……! できないわね…… できるできないじゃないっ、早く離さないと姉さんの手が……! それよりも 手のひらの傷など大したことじゃないと言わんばかりに。 なにをやっていたのよ、こさめ 凛とした声、苦悶の色などどこにもない。 こんなもの振り回して。運痴のあなたが そ、それは…… 傷ついているのは姫榊なのに、こさめさんのほうがずっと傷ついた子供のようで。 それは、姉さんと比較しているからです……。わたしの運動神経は一般に比べればいいほうです…… そんなことを聞いてるんじゃないのよバカ 姉さん、展望台に入れたんですね…… そうみたいね 苦手だったんじゃないんですか…… べつに今でも苦手よ じゃあ、今、辛いんじゃないですか……? そうかもね 身体、震えてるんじゃないですか……? そうかもね 早くここから離れたほうがいいんじゃないですか……? できればそうしたいわね さっきから鳥肌は立つし頭痛はひどいしで、最悪よ さらに手まで熱くて痛くて、もっと最悪よ ならっ……ここから出てください……! できないって言ったでしょう いいからっ、辛いなら早くここから出てください! 何度言わせるのよあなたは わたしができないって言ったらできないの、あなたはそれに従っていればいいの じゃないと、悪い子には、お仕置きするからね 姫榊は腕を引く。 反動で刃が深く食い込み、さらなる鮮血が散った。 それでも姫榊の顔が苦痛に満ちることはない。 姫榊にひっぱられ、こさめさんは体勢をくずした。 や、やめてくださいっ…… あなたがやめるなら、やめてあげる バカなこと、言わないでください…… バカはそっちでしょう。子供相手にムキになって 相手はただの子供ではないんです……! これ以上、この地に留まるべき存在ではないんです……! だとしても、わたしはあなたを止めるでしょうね なぜですか! あなたは、本当は、こんな行為に及びたくないからよ ………… なぜ……そう思うんですか…… あなたが泣いているからよ な、涙なんて……流れていませんよ…… 流れているのよ。わたしには見えるの それはきっと……〈夢幻〉《ゆめまぼろし》ですよ…… ええ、そうね だけど、たとえ〈夢幻〉《ゆめまぼろし》でも、わかるのよ 〈夢幻〉《ゆめまぼろし》でもそこにあるのよ ちゃんとそこにあるのよ 隠そうとしたって、この薙刀から伝わってくるのよ…… あなたの身体が、わたし以上に震えているんだって 姫榊はもう一度、手を引いた。 流れる血がさらに増す。 肘から下は完全に朱に染まる。 こさめさんの身体が揺らぐ。 姫榊はそれを受け止め、血の朱に染まった手で顎を持ち。 唇を押しつけた。 こさめさんの目が見開く。 姫榊は瞳を閉じている。 長いキスだった。 その間、ふたりの息継ぎの合間に言葉がもれていた。 わたしがわからないはず、ないでしょう あなたの双子の姉であるわたしに、隠し通せるわけがないって言ったでしょう なにを、悩んでいるのよ なにが、あなたを苦しめているのよ お願いだから、話してよ べつに今すぐじゃなくていいから だけど、いつか必ず話しなさい じゃないと、もう、こういうこともしてあげないわよ…… そこに性的な意味は感じられない。 神聖な儀式のよう。 穢らわしさなどどこにもない。 姉さんは、残酷です…… とても、残酷です…… もう、姉さんのこと、嫌いになりそうです…… それもいいかもしれないわね ケンカするほど仲がいいとも言うんだから キスが終わり、姫榊が唇を離すと、こさめさんはそのまま寄りかかった。 糸が切れたように身体が弛緩する。 こさめさんの瞳がようやく閉じる。 気を失ったようだった。 ……やっと泣きやんだわね こさめさんの目尻に涙は見えない。 だが、たしかに泣いていたのかもしれない。 昔から、こさめは甘えん坊でね。わたしが構ってあげないとすぐに泣き出したの そういうときは、さっきみたいにあやしてたってわけ まあ、いつもは頬やおでこだったんだけど 口にしたのは、初めてね…… こさめさんを抱きながら懐かしむようにつぶやく。 成長した今のこさめだって、昔と変わったようでいて、なにも変わっていない わたしが構ってあげないと、こさめはわたしを怒らせるようなことをして、お仕置きされるのを待ってるのよ 小河坂くん わかったら、誰にも言わないでね…… 姫榊はこさめさんを慎重に横たえたあと、傷を負った手を押さえていた。 苦悶の仕草が初めて現れる。 姫榊っ ……平気。出血は多いけど、傷は見た目ほどひどくないから ハンカチを取り出し、手のひらに当てる。瞬く間に赤に染まった。 でも……痛くて痛くてたまらないわ…… ……当たり前だ、無茶しやがって 恩人になんて口利いてるのよ…… この借りは必ず返すから 貸してばっかりでいつ返ってくるんだか…… そうだな、俺はもう、おまえに頭が上がらない。 姫榊、傷の上から縛るぞ。止血だ ん…… 真っ赤になっているハンカチの上にさらに俺のハンカチをあてがい、裂傷を負った手のひらごと結んだ。 詩乃さんに連絡して迎えに来てもらう。それからすぐ病院だ これくらいで……返したなんて思わないでね…… 姫榊が満足するまで、一生かけても返してやるさ。 こさめさんは…… 気を失ったのは、気が抜けたせいでしょうね…… 心配はいらないようだ。 あっ…… 詩乃さんへの電話が終わった頃、メアの胸に抱えられていたかー坊が突然、飛び立った。 え……どうして…… こっちも気絶していただけみたいだな 今はもう何事もなかったように、メアの頭上を元気よく飛び回っていた。 あ……かーくん…… よ、よかった…… よかったよう…… 俺はメアの頭を撫でる。 メアは人目をはばからず泣き出した。 震えている。 それがわかる。 こんな小さな身体でがんばっていた。 夢幻がなんだっていうんだろう。 死神でも宇宙人でも、たとえ夢幻だったとしても関係ない。 姫榊が教えてくれた。 メアがそこにいて、メアのぬくもりを感じることができて、メアの心がたしかにあるのなら。 メアは、まぎれもなく俺の友達だ。 展望台でのそんな顛末を、諏訪雪菜は物陰から見守っていた。 今夜、雪菜は自分がメアを送り還すつもりだった。 雪菜はケータイを持っておらず、天クルの連絡網には自宅のアパートの電話番号しか載せていない。 当然、洋のケータイにメールも送れないため、こさめに協力を仰いだのだ。 展望台に洋を呼び出してもらい、メアをおびき寄せる。 そこを狙ってメアを刈る。 その際、洋からこさめに疑惑が向くようなことがあれば払拭するつもりだった。 こさめは自分が脅して従わせた。あくまで加害者は雪菜であり、こさめは被害者とするつもりだった。 どうせ自分はこの地を去る身だ。周囲からどう思われようとも問題にならない。 だから、展望台で洋とメアを待ちかまえていたのは本来なら雪菜だったはずなのだ。 その計画が頓挫した発端は、社殿に置かれていた採物──薙刀がいつの間にか消えていたことによる。 雪菜は境内でこももと会話を交わしたのち、社殿に入ってそれを知った。 そこには薙刀の代わりに書き置きがあり、「お借りします」と簡単な一文と、最後にこさめの名が連ねてあった。 その後、雪菜は迷ってから展望台におもむいた。 そこではこさめと洋が対峙していた。 雪菜が今のように物陰で成り行きを見守っていると、こももがあとから現れた。 おそらくこももは自宅にこさめがいないことに気づき、追ってきたに違いない。 こももは頭の回転が速い。境内での雪菜との会話から、こさめの行き先が展望台だと予想したのだろう。 ……行くか 洋が迎えを呼んだとの言葉が聞こえて、ここが騒々しくなる前に雪菜は退散することにした。 なぜ、こさめはこんな真似をしたのだろう。 理由などわからない。 わからないが、もしかしたらと頭をよぎったものがある。 もしも雪菜がメアを送り還していたら、洋に恨まれるのは雪菜だっただろう。 しかも洋にその現場を目撃されないために、雪菜は千波にやったように気絶させるつもりだった。 メアだけじゃない、雪菜は洋も襲うことになる。 そうなれば雪菜は洋──ひいては天クルの部員との間でいさかいを生む。 天クルの部員は今後、間違っても雪菜を仲間として扱うことなどしないだろう。 退部勧告だって普通にあるだろう。 もしも、こさめはそれを恐れていたのだとしたら? こさめは、雪菜を天クルに入部させた張本人。 雪菜にはこれまで同様、天クルに所属していて欲しい──友達でいて欲しいと望んでいたのだとしたら? とすると、今回の行為は雪菜のために行ったことになる。 ……まさかな それが本当だとすれば、こさめはとんだお人好しだ。 私などにはもったいない友人だ……。 おはよう、洋ちゃん おはよう……って言っても昼だけどな 部活始めのあいさつはおはようだよ。バイトだって同じでしょ? 俺は苦笑してうなずいた。 お盆が明け、天クルの活動は今日より再開する。 俺は昼食後に登校し、部室を覗くと明日歩がすでにやって来ていたのだった。 活動は夕方からと聞いていたのに、なぜこんなに早く顔を出しているんだろう。 理由を聞いたら、明日歩は恥ずかしそうに答えたのだ。 ……少しでも早く洋ちゃんに会いたかったから ………… ぷっ……あはは 俺の顔がよほどおかしかったのか、明日歩は吹き出した。 冗談だよ。前に洋ちゃんに似たようなこと言われてからかわれたから、そのお返し ……似たようなこと、言ったか? 洋ちゃん、今日から活動だってちゃんと覚えてたんだね。えらいえらい お姉さんぶっている。なぜか胸も張っている。 この調子ではいずれ俺の頭を撫でてくるんじゃないかと不安になる。 俺がメアにやるように。 洋ちゃんは、なんで早く来たの? ……ええと それはこさめさんに話があったからだ。 向こうも汲んでくれて待っているんじゃないかという淡い期待は破られてしまったわけだが。 昨夜はあれから姫榊を病院に連れていき、ちょうど当直だった姫榊の父親に手当てをしてもらった。 親御さんだけあって心配は相当なものだった。なにがあったのかと何度もしつこく聞いていた。 姫榊はといえば、なんでもないの一点張りだった。 尋ねるたびに不機嫌になっていき、最後にはふんと鼻を鳴らすだけになってしまった。 こんな娘の調子は慣れたものらしく、姫榊父はそれ以上の追求を諦めた。 傷の手当てを終えてから、全治二週間と診断された。 傷痕は残らないとの話で、俺はホッとした。姫榊は特に表情を変えなかった。 俺のほうの傷はといえば、どれも大したことはなく、簡単な薬をもらうだけですんだ。 そして、俺たちの診療が終わってもまだこさめさんは目覚めていなかった。 姫榊は病室を使って、こさめさんと一緒に泊まることにしたようだった。 それから一夜が明け、今日に至り、その間に姉妹でなにかしら会話は交わされたのだと思う。 俺はまだ、ふたりに連絡を取っていない。 ほかのみんなが集まるまで時間あるし、あたしと先に天体観測やっちゃう? 明日歩は陽気にそんな提案をした。 夜じゃないのにできるのか? 昼の天体観測はね、太陽黒点なんかを観測するんだよ。太陽を直視しないよう気をつけながらね それは魅力的な話なのだが。 悪い。俺、こさめさんを待たなきゃなんだ ……こさめちゃん? ああ こさめちゃんも早く来るの? 早いかはわからないけど、絶対に来る 展望台で姫榊が言った言葉が真実なら、こさめさんは俺の前に姿を現す。 逃げることはしないはずだ。 こさめさんは、望んでメアを襲ったわけではないのだから。 失礼 部室のドアが開いた。 こさめさんかと思いきや、来訪は姫榊だった。 もう来てるとは思わなかったわ ちょっと、なんでこももちゃんが部室に…… 明日歩は肩をいからせてから一転、動揺した。 ど、どうしたの、その手…… べつにどうもしないわ 姫榊の指の付け根から手首にかけては、痛々しく包帯が巻かれている。 全治二週間なので二学期が始まる頃には取れているだろうが、それまで片手しか使えないのは不便極まりない。 俺に要求という名の命令が来るのは確実だった。 わたしの手になりなさい、と。 こももちゃん! 明日歩の大声にふたりしてぎょっとした。 どうもしないわけないじゃないっ、どう見ても大ケガだよそれ! ……なんであなたが怒ってるのよ 怒ってないっ、心配しただけ! 明日歩は言ってからハッとした。 ……まあ、腐ってもこさめちゃんのお姉さんだしね バツ悪く付け足した。 ……まあ、腐ってもクラス委員だから、心配してるんでしょうけど こっちはこっちで照れている。 ……南星さんとはクラス違うけどね ……クラス違っても心配するのも、天文学的確率であるかもね このふたり、実は仲いいんじゃないのか。 って、南星さんはどうでもいいのよ どうでもいいってなんだよ~! 小河坂くん、あなたと話がしたいって人がいるんだけど 俺はうなずく。 俺も、そのつもりだったから そして姫榊の後ろから、厳しい顔つきのこさめさんが前に出た。 今さら許してもらおうとは、思っていません…… ただ、わたしはもう、二度とメアさんに手をかけることはいたしません それだけ、伝えたかったんです 無駄口は挟まず、簡潔に要点だけを伝え、こさめさんは最後に深く頭を下げた。 明日歩さん う、うん? 会話についていけない明日歩はぽかんとしている。 こんな時間に明日歩さんまでいるとは思わなかったんですが…… なんか扱いがぞんざいだよ~! ですが、ちょうど良かったです こさめさんがなにを言おうとしているのかがわかる。 わたしは、部員に迷惑をかけてしまいました。ですから、今日限りで天クルを…… 待った こさめさんの気持ちがわかったからにはこの選択しかないじゃないか。 俺は、やっぱりこさめさんを許せない ちょっ…… いいんです、姉さん 退部くらいじゃ許せないんだよ ……コガヨウ 姫榊から殺気が送られたので急いで続ける。 俺はこさめさんを許せない。だけど責めることはしない そして俺は、こさめさんを許すために、その努力をしたいんだ くさいセリフ 外野うるさい。 そのためにもさ…… 面と向かって言うのは恥ずかしい。 これからも、天クルの部員で…… 友達で、いてくれないか? 友達に改まって友達と言うほど照れくさいことはない。 こさめさんの驚いた表情が、みるみる笑顔に変わっていく。 ……はいっ こさめさんは泣いていなかったけれど、泣いているように俺は感じた。 昨夜とはまたべつの意味の涙が見えた。 だったら、これはもう必要ないのね こさめさんが後ろ手に隠していた退部届を、姫榊はひったくって破り捨てた。 あのう……ここに置いてけぼりの人がひとり…… 情けない顔をする我らが副部長だった。 南星さん、お詫びにこれあげるわ 姫榊がぞんざいに一枚のプリントを渡す。 一見すると、さっきまでこさめさんが持っていた退部届だ。 だが内容は決定的に違っていた。 わたし、今日から天クルに入るから それは姫榊の入部届だった。 明日歩の驚愕が最高点に達した。 正式には二学期からだけど。それまでは仮入部扱いでお願いするわ え、え……? こさめは大丈夫としても、また夕べみたいな事故が起こるとも限らないからね 天クルが展望台に勝手に入って問題を起こす恐れだってあることだし だから、これはあなたたちを監督するって意味よ そう締めくくり、姫榊は不機嫌そうにそっぽを向いた。 ……そういうわけで、よろしく 明日歩は口をぱくぱくさせてから。 こももちゃんが天クルに入る? 監督……? それから渋い顔になった。 そんなの誰も頼んでな…… 明日歩 明日歩の口をふさぐ。 部員は多いほうがいい。それだけ廃部から遠ざかるんだからさ 明日歩は聞いているのかいないのか、無反応。 不気味なほどおとなしい。 ちなみに俺は明日歩を後ろから抱いている。 明日歩の顔がぼんっと赤くなる。 ……俺は何度同じ轍を踏む気なんだ。 わ、悪いっ う、ううん…… くさい展開 平和ですね こさめさんの言葉どおり、これは平穏な日常が戻った合図なのだと俺は思った。 少女はベッドに座りながら、窓から外を眺めていた。 波に揺らめく海面は陽光をきらきらと照り返し、ずっと見ていると目眩がするほどまぶしかった。 少女は視線を少しずらし、横に細く長く続いた砂浜を見下ろした。 人……少なくなったなあ 八月は海水浴の客でごった返していたビーチも、九月に入った今ではほとんど無人に近かった。 喧噪の代わりに海の潮騒だけが耳に届いている。 ……また、海行きたいな あの砂浜を独り占めして足跡をつけまくってみたい。 さぞかし爽快に違いない。 だが、それが簡単には叶わないから言葉が口をついて出てしまう。 外……出たいな…… 最近は勝手にここを飛び出して外出していたため、ついに禁止令が降りたのだ。 もともと禁止されていたわけだけど。 少女はそんなの聞く耳持たず破りまくって、見つかっては医師や看護師にこっぴどく怒られていた。 おかげで今はこの病院に軟禁状態。 病室にカギはかかっていないけれど、玄関から病院の外に出ることができなくなった。 廊下を歩いているだけで目ざとく見つけた関係者に捕縛されてしまうのだ。 ……お務めご苦労さま、だね 病院というのは退屈な場所である。 夜の九時にはいたるところが消灯する。どこもかしこも明かりが消えてしまう。 それ以降はテレビもラジオもつけられない。 暗いせいで本だって読めない。 暇で暇で仕方ない。 だからこんなにも明るく、天気の良い日にまで暇を持て余しているのはとてもじゃないけど耐えられない。 ……屋上にでも行こうかな ひなたぼっこくらいは許してくれる気がする。 この病院は海が近いので、潮風が強いと髪がべたべたしてしまう。 だけど、景色は素晴らしい。 蒼い海原だけじゃない、一望できる雲雀ヶ崎の街並みは絶景だ。 そんな風景に囲まれながら、太陽の下で読書をするのも乙かもしれない。 ロビーから本を取ってこよう。 少女はベッドから出していた足を床につける。 それから立ち上がろうとして、急に膝から力が抜けた。 あれ、と不思議に思う間もなく浮かせていたお尻がベッドに沈む。 それを合図に熱と倦怠感が身体をくまなく覆っていった。 体調……いいと思ったんだけどな…… ……運、悪いなあ。 九月三日の今日は、世間一般では学校の始業式。 そして、少女の誕生日。 祝ってくれる人は自分以外には特にいない。 だったらと、自分へのプレゼントとして、少しでも楽しい一日を過ごしたいとも思っていたのに。 しょうがないよね……うん、しょうがない こうして、ちゃんと誕生日を迎えることができた。 それだけでも意味がある。 だからベッドで横になっているしかできないのだとしてもそれはそれで意義がある。 少女は熱っぽい身体をベッドに横たえ、ゆっくりとまぶたを閉じる。 次にまた、まぶたを開けることはきっとできる。 そう祈りながら。 少女は、眠りの中で十九歳に成長した。 じゃあ姫榊は、これから病院に行くのか はい。部活会議に出てから向かうと言っていました 始業式とロングホームルームが終わると、俺たちは天クルが正式な部になる報告を待っていた。 その報告は姫榊からもたらされると思っていたのだが。 こももちゃん、まだケガ治ってないの? はい……。姉さん、神社のお仕事を手伝っているときに間違ってケガした手を使うことも多くて…… 負傷しても手伝いをやめないのは姫榊らしいと言うべきか。 ですけど、今日にも包帯が取れるんじゃないかってお父さんは言っていましたから だったら安心か はい。心配はご無用です あたしは最初から心配なんかしてなかったけどね そんな明日歩さんがわたしは大好きです…… こさめちゃんの百合相手がいないからってなんであたしに迫ってくるの!? 本当は明日歩も心配していたのがバレバレだからだろう。 じゃあ姫榊クンは部室に来ないのかい? どうでしょう……。病院の診察時間に間に合うようなら、報告に来ると思うんですけど まだお昼だし、時間はたっぷりあるんじゃない? 明日歩の声に応えるように、こさめさんのケータイが鳴った。 姉さんからのメールです なんだって? 天クルは部になったから、それじゃ。だそうです ……とても淡泊だね 姫榊クンらしいけど、よろこぶタイミングがなくなった感じだなあ 部にならないよりはいいんじゃないでしょうか じゃ、おめでとうということで ぱちぱちぱち、とまったりと拍手した。 ……ほんとはこももちゃんの目の前で歓声とか上げたかったんだけどな そうされたくなかったから、メールで報告したのかもしれませんよ 部になったということは、姫榊クンも正式に部員になったと思うんだけどね 姫榊だけじゃない、メアも部員登録されたんだろう。 じゃあ姫榊、もう帰ったのか だと思います。早く包帯を取りたいって姉さんも言っていましたし 部活会議が終わってすぐ、病院に向かったわけだ。 じゃ、俺もそろそろ 席を立つと、明日歩が目を丸くする。 洋ちゃん、帰るの? ああ。ちょっと用事ができた せっかく部になったんだし、これから活動スケジュール立てようと思ったんだけど…… 用事というのは姉さんですか? ……まあ、なんというか 姫榊クンになんの用だい? ……まあ、いろいろ責任というか 姫榊のケガは俺にも原因があるのだ。 病院まで同行するんですね 姫榊クンが心配というわけだね むー ……責めてるのか? ……新学期の初日からサボりですか 遅れてきた蒼さんにまで責められる。 ……明日はちゃんと最後まで部活するから 期待しないで待っていますね、裏切り者さん ヒバリ祭も控えているしね、裏切り者クン ……やれやれですね、裏切り者 勝手に部活サボればいいじゃない裏切り者~! すぐ人を裏切り者扱いする我が部活仲間たちだった。 姫榊っ ……え? 校門前で姫榊に追いついた。 ここで見つからなかったらケータイに連絡するつもりだったのだが、手間がはぶけてよかった。 小河坂くん……部活してたんじゃないの? そうなんだけど、用事ができてな ……わたしに用なの? ああ。これから病院だよな 却下 ……早すぎるだろ どうせついてくるって言うんでしょ さすが姫榊、話が早い それはどうも。だから却下 ……なんでだよ 変に責任感じなくていいから。これはわたしが勝手に負ったケガなの。何度も言わせないで あれはどう考えても俺のせいだ 違う、わたしのせい 俺のせいだ わたしのせい ……なんで責任を取りあってるんだよ なすりつけあうならまだしも。 天クル、部になったわよ。こさめから聞かなかった? それはばっちり聞いたよ だったら部活に戻るべきでしょう。活動予定とか立てなくていいの? そこらへんは明日歩たちに任せてるから このまま天クルを辞めるんだったら生徒会に入ってもらうわよ 辞めるわけない。あと、生徒会は…… 無理やり誘うことはしないから。嫌々仕事されても困るだけだし ……悪いな そう思うんなら病院についてこないで ……そうつながるのか。 わかった。じゃあついていかない 最初からそうしてよね、まったく 姫榊は坂を下りていく。 俺はその後ろを追っていく。 ……ちょっとそこのコガヨウ コガヨウ言うな ついてこないって言ったじゃない 帰り道が一緒だからそう見えるだけだ 部活はいいの? もう休むって言った手前な ……ふん 姫榊の歩みが速くなったので、俺もペースを上げる。 ……コガヨウ だからコガヨウ言うな 駅までついてきてるじゃないっ そう見えるだけだ 小河坂くんの家、通り過ぎてるでしょっ そう見えるだけだ 姫榊は額を押さえていた。 ……そうやって偶然を装って病院まで来るわけね 装うもなにも偶然そのものだからな 来てもつまらないわよ? そんなの期待してない やることないわよ? 姫榊のケガが治ったのがわかるだけでいい ……明日にでもこさめから聞けばいいじゃない 俺がこの世で最も嫌いなものはふたつある。押しつけることと、諦めることだ ……なによそれ 要するにじっとしていたくないんだ。姫榊は診察に行ってるのに、俺ひとりだけ部活をやってるなんてありえない 姫榊のケガは、そういうケガなんだよ 姫榊は深いため息をついていた。 ……わかったわよ。勝手にしたら 最初からそう言って欲しかったな でも、ついてきてもいいけど、条件がある なんだ? わたしの前で今後一切くさいセリフ言わないで、かゆくなるから ………… 条件破ったら蹴るからね ふん、と鼻を鳴らして駅に向かう。 ……俺もくさいと思ったけどさ。 頭をかきながら姫榊のあとに従った。 姫榊は受付の人に呼ばれると、診察室に入っていく。 わかっていたことだが、そうなると途端に暇になる。 しばらく待合室で座っていたが、俺はそのあたりを歩いてみることにした。 ここは最寄りの総合病院だし、今後もなにかと世話になるかもしれない。 どんな診療をしているのか確認するのも悪くない。 ……どうかされましたか? うろうろしていたら看護師に呼び止められた。 受診の方ですか? でしたら受付はあちらになりますよ あ、いえ、俺は姫榊の付き添いに来ただけです 咄嗟だったので名前を出してしまった。 姫榊……。ひょっとして、先生の娘さん? 先生というのは姫榊の父親のことだろうか。 キミ、姫榊こももさんのお友達? はい、いちおう 彼女、とてもしっかりしてるわよね。先生は手を焼いてるみたいだけど 姫榊は気が強いですから 先生も怒ると怖いから、やっぱり親子なのよね 俺は、姫榊の父親とはちょっとしか会ったことないんでよくわかりませんけど 仕事熱心な方よ 姫榊を見ていると、それは納得。 ちなみに私、ファンなの ……はあそうですか、としか言えない。 病院、あまりうろうろしないようにね しっかり注意をしてから去っていった。 ちょうど壁にかかった案内板を見つけ、ざっと目を通していると後ろから声がした。 ……なにしてるの、そこの不審者 思ったよりも早く姫榊は戻ってきた。 なんで不審者になる 病院の見取り図を頭にたたき込んで犯行の下準備してたじゃない なんの犯行だ……病院の案内見てただけだろ ちゃんと待合室にいなさいよ、おかげで捜したじゃない 暇だったんだよ わかっててついてきたんでしょ 包帯、取れたんだな ええ。完治ってわけじゃないけど、邪魔な包帯は巻かなくてすむようになったわ あとは薬をもらうだけか そうよ。薬局のほうに行かないと 向かいがてら姫榊に聞いてみる。 ここって中央病棟と西病棟に分かれてるんだな そうよ。渡り廊下でつながってるけど この病院、三階建てで病棟がふたつか そうね。こぢんまりしてると思うけど このあたりでは一番でかいんじゃないか? 知らないわよ。ほかの病院なんて行ったことないし 姫榊の場合、無料で診療してくれそうだもんな ……べつにお父さんが院長してるわけじゃないし、普通にお金かかるわよ。さっき会計すませたし 俺たちは中央病棟の廊下を歩いている。 玄関ホールや受付窓口、姫榊の診療もここだった。 一般的な受診はこの中央病棟で行うんだろう。 姫榊。西病棟ってなにがあるんだ? 案内板に書いてあったでしょ 見てる途中で姫榊が戻ってきたんだよ 正面玄関が見えてくる。 病院を出れば、すぐ隣に薬局が建っている。 ……小河坂くんには、縁がない病棟よ 姫榊はつぶやくように言った。 西病棟は、長期の入院患者みたいな重い病気の人がいるの。だから気になるからって入らないでね もし勝手に入ったら、蹴るだけじゃすまさないから 見つけたぞ、メア ……見つかった 毎度のかくれんぼを終える。メアがいてくれて安堵する。 こさめさんの一件があり、探しても見つからない覚悟もしていた。 今ではこさめさんはいつもの調子に戻ったし、姫榊のケガもほぼ回復した。 だけどメアがあの件をどう考えているのか、許してくれたのか、俺にはまだ自信がない。 こさめさんのことは、悪かったな こまめって誰 ……こさめだ。この前、メアを襲おうとした人だ メアはぎゅっとカマを抱く。 まだ怒ってるよな、やっぱり ……べつに こさめさんはもう二度とメアを襲わないって誓ってくれたよ ………… だからもう安心だ ………… 俺が保証するぞ メアはぶすっとしたままだ。 俺が言うだけじゃ安心できないか? ……そうじゃなくて メアはますますぶすっとする。 洋くんはいいの? なにが? あの子のこと、怒ってないの? こさめさんのことか こまめのこと ……こさめだ。俺は怒ってないよ ……不可思議 なんで 洋くんもケガしたのに どうってことない傷だったしな もう痛くないの? ああ まだぶすっとしている。 ……なにか不満か? バカバカ 心配してくれてたのか 誰もそんなこと言ってないわ ありがとうな な、なにして…… 撫でてる ………… ごめんな ……なんで、謝るの メアのこと、ちゃんと守れなかった ………… もう二度とないと思うけど…… だけど、似たようなことがまたあれば、守るからな メアはうつむいている。 ぼそぼそと、小さく言った。 ……わたしは、死神なのに そうだな 死神は、誰かに守られたりしないのに…… 俺の勝手な行為だしな 死神は…… 死神は、洋くんと違うのに…… そんなの関係ないだろ ………… ……本当に、バカバカ そしてメアの持つカマが上がる。 だから、バカバカなあなたに免じて、これで許してあげる がこんっ!! いてえ!? 脳天に衝撃が襲う。 なにすんだっ カマでたたいた なんでっ ……人の頭撫でるから うれしくないのか? うれしいはずないわ でもうれしそうにしてたじゃないか し、してないっ、困ってただけっ ははっ ……一回たたいただけじゃ足りないようね 悪かったからカマ振り上げるなっ かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! よくできました このオチ使うのやめろよな!? かー坊は旋回しながらメアの頭に着地する。 その顔は満足そうに見えた。 ……かー坊、元気みたいだな べつに、いつもこんな感じだけど 一度は薙刀で気絶させられたが、そんな後遺症はどこにも見当たらない。 同じく薙刀でやられた俺とは違い、無傷だった。 ……それは生き物じゃなく、夢幻だから? 悪夢そのものだと、こさめさんは言っていた。 だからどうした。 なにも変わらない。 変わらないんだ。 俺は、いつまでもメアやかー坊とこうしていられるんだ。 かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! よくできました なんでそうなるんだよ!? して欲しそうな顔してたから ……帰ったら鏡で頭を確認しよう。 そうだ、メア。朗報があるぞ なに? 今夜はこのために寄ったんだけどな 俺は大仰に両手を広げて言った。 よろこべ、今日をもってメアはめでたく天クルの部員になったんだ いや 拒否られる。 なんでだよ!? 死神は天クルの部員になんてならないわ なるって言ってただろっ、そのために入部届出したんだろっ あれは気の迷いだった ……わかった、じゃあ部員じゃなくていい いや 好きなときに部員になったりならなかったりしてくれ しょうがないからそれでいい 今日も今日とてメアはあまのじゃくだった。 これから星見、するか? そんなの言われなくたって メアはかー坊を頭に載せたまま視線を上げる。 好きなときに、いつだってできるじゃない メアとふたり、夏の雄大な星座を見上げていた。 メアが言ったとおり、俺たちは好きなときに展望台でふたりきりになり。 こうして、雲雀ヶ崎の星空を望むことができるのだ。 今日は最後まで部活出てくれるんだよね? ああ、そのつもりだ よしよし、えらいえらい お姉さんぶっている。 明日歩さん、小河坂さんの初恋の人──展望台の彼女さんに対抗心めらめらですね えっ、な、なんでそうなるんだよっ 展望台の彼女さんは小河坂さんより年上だと聞いていますので、明日歩さんも対抗してお姉さんぶっているのかと そういうわけじゃないよ~! 小河坂さん、真相はどうなんでしょう? なんで洋ちゃんに聞くんだよ~! ……やっぱり途中で帰りたくなってきた。 おや、今日は普段に増して賑やかだね 岡泉先輩が遅れて部室に顔を出す。いつも先輩は俺たちより早くいるのにめずらしい。 岡泉先輩っ、遅いですよ~! ……なんで怒ってるんだい 先輩が遅刻したからです 僕のせいなのかい? ある意味ではそうです どうせ僕は自覚がない部長だし影はうすいし活躍の場はないし…… 活躍しなくても影はうすくない気がする。 先輩、今日は用事で遅れたんですか? ハァハァ……ハァハァ…… 肉食獣の様相で手に持つなにかをいじっている。 あ、先輩が持ってるのって ……なんですか? 岡泉先輩よりさらに遅れてきた蒼さんも加わる。 カレイドオルゴールだよな、たしか ……天クルのシンボルと言われているものですか? 岡泉先輩が修理に出すって言ってたんだよね じゃあ直したやつをもらってきたのか それで先輩、遅かったんですね カレイドオルゴール…… 万華鏡にもなるオルゴールのことだ ……望遠鏡みたいに見えます 蒼さん、覗いたことあるか? ……ないです じゃ、はい。蒼さん 明日歩がオルゴールを岡泉先輩から奪い、蒼さんに渡す。 空手になって血走った目をぎょろつかせる岡泉先輩にはこさめさんが知恵の輪を与えていた。 ……これ、見ていいんですか? もちろん。直ってるかどうか試してみて ……どうすればいいんでしょう 底にネジがついてますから、それを回してください 蒼さんは言われたとおりにネジを回した。 ダメ人間……クスクス…… 曲の代わりに呪いの声が流れた。 ……無性に腹立たしくなるメロディです い、今のがオルゴールの曲なの? どうなんでしょう……わたしは聞いたことがありませんから ダメ人間……クスクス…… ……どう聞いても人の声だぞ 岡泉先輩、これって呪いのオルゴールだったんですか? ハァハァ……ハァハァ…… むしろこの人が呪いに侵されている。 これ……なにか、感じますね こさめさんが厳しい目をオルゴールに向けていた。 蒼さん、万華鏡のほうはどうですか? 筒から覗いてみてくれ ……カラフルに移り変わる星空が見えます 万華鏡のほうは無事らしい。 ……回転が止まりました 蒼さんは再度ネジを巻く。 ダメ人間……クスクス…… ……イライラします ……霊でも憑いているんでしょうか ……それが理由でシンボルになってたらやだなあ このオルゴール、部室に置いておくんだよな 呪われてなかったらそのつもりだったんだけど…… お母さんに頼んでお祓いしてもらいましょうか? その前に、俺が借りていいか? 蒼さんからカレイドオルゴールを受け取る。 ……どうするの? ちょっとな。万華鏡を見せたいやつがいて 誰でしょう? メアだ。前に約束しててさ ……子供のおもちゃには妥当です 岡泉先輩、洋ちゃんがオルゴール借りたいそうですよ ハァハァ……ハァハァ…… 先輩はエサに夢中ですので、事後承諾でもいいんじゃないでしょうか じゃ、お言葉に甘えて ……でも、先輩が正気に戻らないと天クルの活動ができないんだけど わたしたちだけでスケジュールを組みましょうか。あとで先輩に確認してもらいましょう 活動予定って昨日立てたんじゃなかったのか せっかくだし、みんなで立てたいじゃない といっても、姉さんと雪菜先輩はお休みですけど 姫榊は生徒会の仕事、雪菜先輩はいつものサボりだ。 ……メアさんもいませんが メアは夜専門のところがあるからな 昼間には一度も見かけたことがない。 それに、学校の生徒じゃないと部室に来づらいよね 姉さんが部外者も活動に参加できる許可は取りましたけど、校舎を自由に行き来するときは連絡が必須とも言っていましたから だったら、この四人が主要メンバーってことになるね 岡泉先輩が抜けているのが悲しい。 有意義な活動にするために、あたしたちでしっかり予定立てなきゃね! おー! と声をかけ合う。 ダメ人間……クスクス…… ……もうそのオルゴール止めようよ ……たたき割りたい衝動に駆られます ダメ人間……クスクス…… ハァハァ……ハァハァ…… ダメ人間……クスクス…… ハァハァ……ハァハァ…… ……気になって活動できないよ 上がった士気がみるみる下がっていく。 小河坂さん、オルゴールを持っていくのはいいですけど、自分まで呪われないように気をつけてくださいね いざというときは頼むぞ ひと思いにばっさり斬ればいいんですね ……俺ごと斬るのはかんべんな こさめさんは笑うだけで答えてくれないのだった。 メア、今日は天クルの活動予定を立てたんだ ふーん それでな、よければメアも…… いや ……金曜が天体観測の日だから ふーん よければメアも…… いや ……気が向いたらヒバリ校の屋上に来てくれ 最初からそのつもり まあ、わかっていたことである。 あと、今夜はメアにおみやげがあるんだ 死神はおみやげなんて受け取らないわ そんなこと言わずに、ほら カレイドオルゴールを差し出す。 ……なにそれ 万華鏡だ。オルゴールにもなってるんだけど。前に見たいって言ってたろ? ……べつに と言いつつ、すすっと寄ってくる。 底にネジがついてるから、それを回してここの筒を覗き込むんだ ……これを回すのね メアは言われたとおりネジを巻く。 ダメ宇宙人……クスクス…… ……なんかバカにされたんだけど 呪いの声は無視してくれ 性格悪そうな女の子が見えた気もしたけど…… メアはおっかなびっくりにレンズを覗く。 そうして、くるくると変化する多彩な模様を観測する。 これが……万華鏡…… メアはぼうっとつぶやいていた。 なんだろう…… 懐かしい…… 初めて見たのに…… なにか……そう…… 七夕みたい…… 洋くんが聞かせてくれた、七夕伝説みたい…… 夏が終わる夜空には、今もなお織姫と彦星が輝いている。 わたし……七夕伝説なんて、ほんとは知らなかった…… だけど、洋くんから聞いてたら、懐かしい気持ちになった…… 知ってるはずがないのに、思い出した…… 七夕のこと、思い出したの…… これが、七夕の星空なのね なんだか、星が多すぎて怖い そうだな。ずっと見てると俺も怖いよ キレイなものも多すぎるとグロテスクになるのね それはちょっとうれしくない表現だな 織姫と彦星って、どれかわかる? 雲みたいに見える光の帯があるだろ、あれが天の川で、その上下に明るく光ってるのが織姫と彦星 上にあるのが? 織姫 下が彦星? そう よくできました そのときのメアは、たしかにそんな素振りだった。 知っているのか知らないのか判然としない口振りだった。 万華鏡は回転を終えていた。 メアは俺を見上げていた。 どこか、そう、メアが万華鏡を懐かしいと言ったように。 この俺を、郷愁の対象として見ているような。 そんな眼差しを一心に向けている。 ……頭、撫でようか? ………… ……ぜ、絶対いや 迷ったな 迷ってないっ メアは、なにかを忘れてるのか? 思いついて、言ってみた。 俺と同じように…… 俺が展望台の彼女の名前を忘れたように、メアもなにかを忘れてるのか? ……どうして そう見えたからさ ……バカバカ 見当違いなら悪かったよ メアの素性。 メアの本当の名前。 知らないと、メアは言った。 忘れたという意味なのか、最初から知り得ないという意味なのか。 それはかけがえのないものなのに。 展望台の彼女の名前だってそう。 俺が忘れてしまった、かけがえのない名前。 記憶喪失は時が経てば治ると、俺は図書室で調べた本で知らされた。 その後は暇ができたら、それ以外にも関連の書籍を何冊か読んでいた。 ある本では、テレビドラマに出てくる記憶喪失なんてものは稀で、ましてや記憶が戻るなんてことはもっと稀だと書かれていた。 そのとおり、俺はまだ思い出していない。 人の一生をビデオに録画し続け、テレビで見られる程度にデータを圧縮すると、50テラバイトの容量で事足りるという。 そのうちのひとかけらの記憶なんて、本当は取るに足らないものかもしれない。 だけど、だとしても。 ダメ人間……クスクス…… ……オルゴールを鳴らすなよ 洋くんがダメダメだったから ダメ人間にダメダメに、ダメづくしだ。 俺は、待つことで彼女の名前を思い出せるんだろうか。 待つという行為はやはり怠慢でしかないのだろうか。 彼女の連絡先を聞かなかった「僕」の怠慢。 それと同じことだろうか。 ダメ宇宙人……クスクス…… ……バカバカオルゴール メアが台座をぽかぽか殴っている。 それを見て笑っている俺がいる。 えらいね。うん、えらい たくさん友達、作れるようになったんだね…… 優等生に、なれたんだね…… ……そうだな。 信じて待とう。 俺は、必ず思い出せる。 そして出会えるのだ。 もう一度。 展望台の彼女は、今でも俺の大切な人だから。 その気持ちさえ風化しなければ、きっと。 ……なんか台からバネが飛び出した おまえ壊すなよ…… このオルゴールが悪い 俺の笑いはひきつっていた。 じゃあ、俺はいつまで待てば、かけがえのない名前を取り戻せるのだろう。 その答えは、意外なところからもたらされた。 ヒバリ祭が終わり、十月ともなると風が肌寒くなっていた。 衣替えを迎え、制服が冬仕様になったといっても、さらしたままの耳や手は冷たくなる一方だ。 ……来ないな 待ち人はまだ来ない。 俺は校舎の屋上でその人を待っている。 放課後となり、机の中身をスクールバッグに入れていたところ、それを見つけたのだ。 犬の足跡で装飾されたかわいらしい便せん。 内容はこう。 『今日の放課後、屋上で待っています』 この一文だけだ。 差出人の名前はない。 時間の指定もない。 だから放課後の何時に来るのかわからない。 だけど俺がここにいなかったら、相手はいつまでも待ち続けるかもしれない。 すべて仮定の話だけど。 宛先が俺であるということだけは、はっきりしていた。 そして、相手が誰であるかもはっきりしていた。 いつも俺の右隣にいる彼女は、放課後になるとすぐにその席を立っていた。 屋上の扉が開く気配。 俺は、そこに意識を向けた。 ねえ、洋ちゃん…… 明日歩は俺の前で立ち止まると、口を開いた。 あたしの想いは、再会したばかりの頃は、風化しかけてたのかもしれないけど…… ゆっくりと、なにかを噛みしめるように語っていた。 また、洋ちゃんの近くにいられるようになって こうして、そばにいられるようになって…… そしたらね、風化していた記憶が、戻っていったんだ 色が戻っていったんだ わかるんだ。欠けたパズルが埋まっていくみたいに ひとつひとつ、ピースが埋まっていったんだよ それはね、きっと、完成するとやっぱり恋って読めるんだ だからね…… これが、最後のピース 埋めてくれるかは、あなたに任せます 明日歩は最初から決めていたに違いない。 ヒバリ祭が終わったら告白すると決意していたに違いない。 だって、準備の間、明日歩は俺に近づいていた。 いつにも増してその距離は近かった。 洋ちゃん…… 続きを聞くのが怖い、どう反応すればいいのかわからない。 どう答えればいいのか思いつかない。 明日歩の前から逃げ出したい。 だけど。 ───ここで逃げたら、俺は一生後悔する。 あたしは、洋ちゃんのことが…… ……ごめん それは無意識に出た言葉だった。 明日歩は驚いていた。 言った俺も驚いている。 そして──なんだろう、これは。 明日歩がこの告白を決意したように。 俺にも、ある決心が生まれる。 そうか。 理解した。 俺は、おそらく、明日歩よりも。 ほかの誰よりも。 展望台の彼女を選んで……。 ……うん 明日歩はそして、寂しげに笑んだ。 フられると、思ってたんだ…… あたしが洋ちゃんに告白したのはね、想い出に決着をつけたかったからで…… そのために、ひとつひとつ、段階を踏んで…… ステップアップして…… 洋ちゃんの家に迎えにいって、一緒に登校して、一緒に勉強して、一緒にボートにまで乗って…… そして、これが最後だったんだ この告白を最後に、決着をつけようと思ってたんだ 忘れられなかった想い出を……忘れようって思ってたんだ…… 俺のこの決心。 明日歩がそれを作ってくれた。 明日歩が俺の背中を押してくれた。 洋ちゃん……これ…… 短冊…… 洋ちゃんが、作ったものだよ…… 都会に引っ越す前日……クラスで七夕の行事をやったときに、洋ちゃんが書いたものなんだよ…… 笹に吊るしてたのが、床に落ちたのかもしれない…… あたしはそれを掃除当番のときに見つけて…… こっそり、取っちゃったんだ…… それからずっと、待ってたんだよ…… 洋ちゃんに返せるのを、待ってたの…… だから、洋ちゃんと再会して……あたしは、返そうって思って…… だけど、なかなかできなくて…… 明日歩はこぼれる涙を拭いもせずに。 ここにね、洋ちゃんの願いが書いてある…… 展望台の彼女さんの名前が書いてある…… だから……ずっと、返そうって思ってたのに…… 返せなかった…… 子供の頃のあたしは、この短冊の意味がなんなのか、わからなかったけど…… だけど今のあたしは、洋ちゃんから展望台の彼女さんの話を聞いたから、気づけたの…… 気づけたのに、すぐには返せなかった…… あたしは、洋ちゃんに待ってもらうことにした…… 小学校で調べた卒業アルバムに、展望台の彼女さんが載ってなかったことで、さらにその気持ちが高まった…… あたしが、この気持ちに決着をつけるまで…… 洋ちゃんに、無理やり待ってもらうことにしたんだよ…… 記憶喪失の治療法は、待つことだ。 俺はたしかに待っていた。 待っていたのだ。 ごめんね、洋ちゃん…… 今まで、ごめんなさい…… あたしなんかにつきあってもらって、ごめんなさい…… 俺は明日歩の肩を抱く。 抱き寄せた。 胸の中で明日歩が息を呑むのを聞いた。 だ、ダメ……だよ…… 洋ちゃんがこうする相手は……展望台の彼女さんなんだから…… ……ごめん ダメ、だよ…… 謝らなくて、いいんだから…… あたし……知ってるんだから…… 洋ちゃんが……ずっと展望台の彼女さんのこと、忘れられなかったこと…… あたしも同じだから…… あたしも忘れられなかったから…… この初恋を忘れられなかったから…… だから……洋ちゃんの気持ちも、わかるからあ…… 明日歩は泣きじゃくっていた。 明日歩が泣きやむまでこうしているつもりだった。 陽がかたむき、真っ赤な夕焼けが見え始めても明日歩の涙は止まらなかった。 枯れるまで泣いて、俺から離れた明日歩は、改めて短冊を俺に押しつけるように渡した。 そこには展望台の彼女の名前が記してある。 明日歩が贈った想い出のピース。 幼かった「僕」の文字が、星明かりに照らされて、『夢』という名を淡く幻想的に映し出していた。 おはよ、洋ちゃん 翌日の朝。 登校すると、明日歩が笑顔で俺にあいさつをかけてきた。 ……ああ もう。なんでそんな暗い返事なんだよ 明日歩はムッとして顔を近づける。 会話するときの、いつもと変わらぬ明日歩の癖。 朝のあいさつは笑っておはようでしょ? ……そうだな そうだよ おはよう、明日歩 うん。よくできました 明日歩はいつもどおりの明日歩だった。 昨日のことは吹っ切ったのかもしれない。それとも無理をしているだけかもしれない。 目元にはまだかすかに涙の跡がある。 小河坂さん、わたしにあいさつはないんですか? こさめさんも笑顔で寄ってくる。 おはよう、こさめさん さようなら、小河坂さん こさめさんは笑顔のまま薙刀を突き出して俺の首筋に当てた。 って、なんでだよ!? あ、いけません。うっかり本音が出てしまいました なんでばっさり斬る気満々なんだよ!? ……こさめちゃん、どうしたのその薙刀 スクバと間違って持ってきてしまいました ありえないと思います。 まあこさめさんが怒る気持ちもわかるけどな。てっきりふたり、くっつくもんだと思ってたし ……こさめさんと飛鳥も俺たちのことを知ってるのか。 あ、あたし、なにも言ってないんだけど…… わたしと飛鳥さんはつきあいが長いですから。それでなくとも明日歩さんは態度でバレバレですから どうせあたしは隠し事が下手だよ~! 小河坂、なんで南星のことフッたんだ? ……本当に看破されてるのか。 いや……あのな わたしたちが納得できる理由でお願いします 薙刀が食い込んできてるんだけど!? ……洋ちゃん、言いづらいならあたしが話そうか? い、いや、むしろなにも言わなくても…… 洋ちゃんはね、小学生の彼女さんに恋してるの…… なんで展望台じゃなくて小学生を強調するんだよ!? 展望台の幼女さんに恋してるの…… 展望台の彼女から変わってるんだけど!? 要するにロリコンなのか ……穢らわしい 目が本気になってるんだけどっていうか縦にも横にも広いこさめさんに言われたくないんだけど!? わたしは幼女だけがストライクではありませんから 俺はそもそもストライクでもないから!? 小河坂さん、真剣に答えてください。あなたは本当に展望台の幼女さんが好きなんですか? なんだよその強調の仕方!? 幼女について話してるからだろ だからなんでそこを強調するんだよ!? ロリコンだからだろ 違うって言ってるだろ!? 小河坂さん、どうなんですか? 刺さる刺さるっていうかもう刺さってる!? あたしは洋ちゃんのこと応援するよ……たとえ世間の風が厳しくても もともと身に覚えのない風当たりなんだけど!? ほんとは好きなんだろ幼女 その強調の仕方ムカつくからやめてくれるか!? らちが明かなくなってきた。 ……あのな、俺は恋なんてよくわからないんだ。だから展望台の彼女が好きなのかもわからない だけど、俺は彼女を捜したい。そういうことなんだよ 小学生の幼女を捜したい、そういうことなんですね 首から血が流れ始めてるんだけど!? ……こさめちゃん、ありがと 明日歩は困ったような笑顔だった。 でもこれ以上洋ちゃんを困らせると、あたしも怒っちゃうよ? 明日歩さん…… 怒らせた発端は幼女発言をした明日歩なんだけどな……。 あたしは大丈夫だから。ううん、満足してるんだ 子供の頃の夢が叶ったから…… 洋ちゃんと、友達になれたんだから ………… こさめさんはなにか言おうと迷っていたが、結局無言で引き下がった。 命拾いしたみてえだな ……楽しそうに言うなよ 火事と恋路は昔から野次馬の的だろうが 不謹慎な発言はやめて欲しい。 展望台の彼女って、小河坂の初恋の相手なんだよな 違う。昔、一ヶ月だけ遊んでたんだ 意外と短いんですね もっとたくさん一緒だったのかと思ってた…… 引っ越すちょっと前に初めて出会ったんだよ 運命の出会いってやつか ……だからすぐ恋愛に結びつけるのやめろ その展望台の彼女さん、捜せそうなんですか? わからないけど、明日歩から手がかりをもらったから 手がかり? ああ。名前、思い出せたんだ 名前は『夢』。 フルネームではない。 名字なのか下の名前なのかもわからない。 ここに至ってもまだ俺は完全には思い出せずにいる。 夢という名をきっかけにフルネームを取り戻せるなんてうまい話はなかった。 歯がゆく、そして情けなくもあるのだけど。 洋ちゃん。あたしも捜すの、手伝っていい? その言葉は予想していなかった。 特に、明日歩からなんて。 また、小学校まで調べにいかなきゃだろうし……。洋ちゃんひとりだと難しいでしょ? ……そうかもしれないけど それに、大勢のほうがきっと早く捜せるよ 明日歩はほほえんでいる。 屈託なく見えたから、俺は受け入れることにした。 悪いな。助かる 明日歩さんが協力するなら、わたしもご一緒させてくださいね オレはまあ、なにかするつもりはねえけど、応援くらいはしてやるよ ……野次馬根性で写真撮ったりするなよ 展望台の彼女とやらがオカルトじゃねえ限りはな 洋ちゃん、早速今日から行動開始? ……そうだな。どうするか、放課後までに考えとく じゃあ放課後の天クルの活動は、みんなで展望台の彼女さんの捜索だね 今日は夜からの天体観測がメインですし、時間は充分ありますね こんな展開になるとは思わなかったが、断る理由はない。 悪い気分でもないのだった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! そして休み時間になると、なぜか我が愚妹が俺たちの階に突撃してきた。 お、千波ちゃんだ 相変わらず元気だね~ ……おまえ、なにか用か 夕べ言ってた展望台の彼女さんのことだけどっ、お兄ちゃんが恋い焦がれてる幼女のことだけど! わざわざそこを強調して叫ぶなっ 朗報持ってきたのにぐりぐりはひどい仕打ちだよお兄ちゃん!? 千波さんの声は大きいですからね ……注目浴びるとさすがに恥ずかしいかな 昨夜のことだ。 俺は明日歩から夢という名前を教えてもらってから、帰宅後に千波と詩乃さんに尋ねたのだ。 夢という名の少女に覚えがないか。 以前に聞いたとき、俺は彼女の名前を出せなかった。だからふたりは知らないと答えていた。 だから、ひょっとしたら違った答えが聞けるんじゃないかと期待した。 だが、結局は収穫なし。 幼い頃の「僕」が一ヶ月間だけ遊んでいた彼女のことを、千波は存在だけは知っていて、詩乃さんは存在すら知らない。 名前を出してもそれは同じだったのだが。 千波ちゃん、朗報って言ってたよね 展望台の彼女さんについて、なにかわかったんでしょうか 千波、朗報ってなんだ? 朗報は朗報だよっ、お兄ちゃんにとって最もよろこぶべき事態が発生したんだよっ それは、まさか。 彼女の居場所がわかったのか!? そうじゃないよっ、千波も捜すの協力することにしたから大船に乗った気持ちでいてねって言いたかったんだよっ でかした千波 なのにぐりぐりするのは予定調和なのお兄ちゃん!? べつにおまえにまで手伝ってもらわなくていいから それは間違いだよお兄ちゃんっ、お兄ちゃんをかどわかしたその悪女はたとえ千波のライバルであっても千波はスポーツマンシップにのっとる心を忘れてないんだから! バカ、スポーツマンに失礼だろ? 千波にフェア精神はないって言いたいのお兄ちゃん!? 洋ちゃん、いいじゃない。千波ちゃんは厚意で言ってくれてるんだから そうだよまったくだよっ、千波の尊い自己犠牲をお涙頂戴でありがたがらないなんて兄失格どころか人間失格だよっ こんな言葉をのたまうやつの厚意ほど疑わしいものはない。 千波さんも放課後、部室にいらっしゃいますか? はい! お兄ちゃんのためにいらっしゃってあげます! あたしおやつ持ってきてるから一緒に食べようね~ わーい! もしもし詩乃さん? 千波が早退するんで今から帰らせます 毎度ながらなにがなんでも千波を除け者にしたそう!? それと、放課後じゃないとケータイは使用禁止ですよ ……洋ちゃん、捜すのに人数は多いほうがいいって納得したんじゃないの? 千波の場合はネコの手にもならなそうだから言ってるのに。 千波ちゃん、オカ研の聞き込みのときは大活躍だったぞ 優秀な探偵さんになれそうですよね あたしたちは賛成だよ ……まあ、千波が勝手についてくるよりはマシか。 わかった。千波、手伝ってくれるのか? もちろんだよっ、千波は正々堂々お兄ちゃんをかどわかした悪女と対決したいからねっ じゃあそんなおまえに頼み事だ 了解だよイエッサーだよお兄ちゃん! さっさと早退の支度しろ ここに至ってもまだ邪魔者扱いするのお兄ちゃん!? 冗談だ。すぐ部活サボろうとする蒼さんを部室まで連れてくるように それくらいお安いご用だよっ、命に代えても連れてくる所存だよお兄ちゃん! これで蒼さんも参戦だね 今夜の天体観測を休まないように釘を打つというのが目的なのだが。 それでも、蒼さんが手伝ってくれるならこれもまた断る理由はなかった。 お兄ちゃんっ、約束どおり蒼ちゃん連れてきたよっ あの、私……夕方から見たいドラマが…… いらっしゃい、ふたりとも。おやつ用意してあるよ~ ありがとうございまーす! 部活は夜からだったのでは…… 天体観測もちゃんとしますよ というか蒼さん、ちゃんと出る予定だったんだな ……サボると家まで押しかけられそうですから 二学期に入ってから、そういったことも何度かあった。 岡泉先輩、今日のミーティングは? 特にないよ。ヒバリ祭は終わったし、天クルも新しい目標が欲しいところだけどね それじゃ、夜まで部活はお休みってことで ……ではなぜ私は連れられてきたんでしょう これから皆さんにちょっとお仕事をお願いしたいんです 洋ちゃん、どうぞ ……俺が言わなきゃなのか。 無理に手伝ってもらわなくてもいいんだけどな…… どうせあたしたち暇なんだし、遠慮することないよ わたしは楽しそうですから参加させてくださいね ……よくわかりませんけど、私はいちおう用事が 小河坂クン、なにか頼み事でもあるのかい? そうですっ、お兄ちゃんは初恋の幼女を捜しっ げしっ! お兄ちゃんが千波のお尻蹴った!? ……初恋? なんでもないんだ 以前、先輩にはメアさんとそっくりな初恋の人がいると聞いていますけど ……よく覚えてるじゃないか。 メアちゃんとそっくりなの? それは新しい情報ですね ……いったいなんの話だい? お兄ちゃんっ、ここまで来たら隠すことこそ罪じゃないかなっ、いくら好きな相手が犯罪的に年下…… げしげしげしげしげしっ! 千波のお尻を五段蹴りに!? 年下じゃない、誤解を招くこと言うな。相手は普通に成長してれば俺より年上のはずなんだ そして、俺は皆を見回して告げるしかないのだった。 時間があったらでいい。夢って子を捜すのを、手伝ってくれないか? 展望台の彼女──夢を捜すにあたって、俺はまずなにをすればいいのか。 必要なのは、住所を特定することだ。 手がかりは夢という名前だけ。これは俺が雲雀ヶ崎に引っ越してきた当時の状況と同じだった。 要するにスタートラインに戻ったのだ。 そのときの俺は夢を本格的に捜す前に、メアによって名前を忘れてしまった。 それから思いつく限りの方法で捜してみたが、たどり着けなかった。 俺は、その七月にやった方法をもう一度なぞってみる。 名前を手に入れた今、新しい発見があるかもしれない。 なにか糸口が見つかるかもしれない。 ヒバリ校の卒業アルバムをお見せするのは、これで二度目ですね こさめさんが図書委員でほんと助かるよ 七月のときは、小河坂さんがなぜアルバムを調べるのかわかりませんでしたけど…… 今度は、見つかることを祈っていますよ 面影を頼りに調べたときは見つからなかった。 だが今回は名前がある。より正確に探すことができるのだ。 あたしはこれから小学校行ってアルバム調べてくるね。なにかわかったらケータイで連絡するから 千波は三年生の階に行って手当たり次第聞いてきますっ 聞き込みは千波ちゃんの〈十八番〉《おはこ》だもんね はいっ、たとえ相手が上級生でも夢って幼女を知らないか尋ねるくらいわけないですから! 幼女じゃないって何度言えばわかるんだ、ああ? お茶目な冗談だからぐりぐりは許して欲しいよお兄ちゃん!? ふたりとも、図書室ではうるさくしないでくださいね 僕は先生から在校生の名簿を借りてくるよ。借りる理由は適当にでっちあげるしかないけど 学年総代の先輩ならきっと簡単に貸してくれますよ ……私はすることがなさそうなので、そろそろ 蒼さんはカウンターのパソコンで調べてみてくれませんか? 名前でネットの検索をかければなにかわかるかもしれません ……どうして私が 蒼さん、スフレ食べる? これでは従わざるを得ません……んぐんぐ ……図書室の飲食は禁止なんですけどね こさめさん、ヒバリ校の卒業アルバムのほう頼めるか? わかりました。小河坂さんはどうするんですか? 住民基本台帳が閲覧できるなら、それをあたってみようと思ってたんだけどな 個人情報に関しては、なんだかんだで厳しいからね。役所関係はほとんど無理じゃないかな 興信所に頼むのも、学生の身分では現実的じゃない。 民間のデータバンクだって、フルネームや電話番号がわからなければ使えない。 だとすれば、取るべき行動はひとつだった。 住宅街に出て、かたっぱしから表札を見て回るさ 夢という名はわかった。だが名字なのか下の名前なのかを俺は思い出せていない。 だから表札を調べるにしろ、夢が名字でなければアウトだった。 それでもやるしかない。 俺がなにより許せないのは、たとえ結果が伴わなくても努力もせず怠慢に甘んじることだ。 その結果が、この状態。 夢と離れ離れになった現状なのだから。 俺たちは、夕方になったら駅前に集合すると決めて、各々の役割に乗り出した。 ……………。 ………。 …。 五十二冊の卒業アルバムをすべて調べてみたんですけど…… どうやら展望台の彼女さんは、ヒバリ校の卒業生ではないようです 千波は三年生に手当たり次第聞いてみたけど、夢って人を知ってる先輩はいないみたいだったよ? 在校生ではないようだね。名字も下の名前も、夢という女子生徒は名簿に載っていなかったから ネットで検索をかけてみましたが……夢占いやら夢診断やらで163万件もひっかかって特定は不可能です ……モニタで文字を追いすぎて目がしょぼしょぼします はあっ、はあっ……お待たせ! さっきやっと調べ終わったよ~ 展望台の彼女さんだけど、小学校の卒業アルバムには載ってなかったよ。卒業生じゃないみたい みんなはどうだった? 全員がそれぞれ首を横に振る。 俺も可能な限り住宅街で表札を見て回ったが、該当する家はどこにもなかった。 洋ちゃん、すごい汗……。走って捜してたの? まあな。でも、全部の家は回れなかった ……一日じゃ無理だよ。雲雀ヶ崎って都会と違って、家と家の間が離れてると思うし 結局、成果はゼロだった。 ヒバリ校の卒業アルバムには該当なし。 名簿にも該当なし。 小学校の卒業アルバムも該当なし。 とすると、展望台の彼女はヒバリ校には通っておらず、小学校も転校した可能性が高い。 今はもう雲雀ヶ崎を出ているかもしれない。 焦る。 名前だけを手がかりに、俺は雲雀ヶ崎にいない彼女を探し当てることができるのか? いや──── えらいね。うん、えらい 彼女は、雲雀ヶ崎にいる。 必ずいるのだ。 だから俺たちはもう一度出会えるだろう。 諦めなければ出会えるはずだ。 みんな、お疲れさま。今日は悪かったな 悪くなんかないってば 千波もそんな言葉を聞くために手伝ったんじゃないんだよっ、代わりにお小遣いアップしてくれたらとってもよろこぶよっ ……私は、毎晩ごちそうになってるお礼とでも思ってください 気にする必要なんてありません。わたしたちは友達なんですから それに、天クルの仲間だからね ……その部活仲間にわたしは入ってないのかしら ちょうど下校時間だったのか、姫榊が歩いてきた。 生徒会の仕事帰りか? そうよ。それより小河坂くん、こさめから聞いたわよ わたしに内緒で人捜ししてるそうじゃない ……いや、内緒もなにもないんだけどな こさめちゃん、展望台の彼女さんを捜してること話したんだ? はい。時間があったらお手伝いをお願いしますと 小河坂くん、わたしもいちおう部員なんだけど。なんで除け者にするのよ そうじゃないけど、秋は生徒会の仕事でいそがしいんじゃないのか? 普通にいそがしいわよ、ヒバリ祭が終わっても ……じゃあどっちにしろ手伝えないような だから、わたしが動けない代わりに暇そうな人に声かけておいたのよ ……なるほど。そういう〈経緯〉《いきさつ》だったわけか 雪菜先輩が、姫榊とは逆に駅舎のほうから歩いてきた。 雪菜先輩にお願いしてね、夢って人を捜してもらってたのよ ……学費と生活費の援助を盾に取られては、従うしかないのでな 俺はふと思っていた。 初めてではないだろうか。 メアを除けば、こうして天クルの部員みんなが一堂に集ったのは。 それで、だ 幽霊部員だった雪菜先輩が、ほかの部員を見回してから、最後に姫榊に向かってにやりと笑いかけた。 キミの勘のよさは、霊能力の一環かもしれないぞ キミに言われたとおり、隣町の病院におもむいて、事情を話してキミの父親に調べてもらったが ひとり、入院患者にいるそうだ 〈乙津〉《おとつ》夢という、十九歳の少女がな 瞬間、かちりとはまった気がした。 今その名前を聞いて、パズルのどこが欠けていたのかを知って。 明日歩から渡された最後のピースを、埋めることができた。 想い出のパズルは完成した。 そこには、たしかに乙津夢と書いてあった。 俺は帰宅前にここに来た。 駅で皆と別れ、千波は一緒に帰ろうと言ったのだが、陽が沈む前に少し寄りたかったのだ。 寄ったのは初めてだろう。 場所は知っていても、子供の頃に訪れたことはなかった。 夢と来たこともなかった。 わずかに波打つ運河の水面が、夕陽の赤を鮮やかに映している。 それは境界線だった。 ここが、境界線だった。 雲雀ヶ崎と隣町を別つ場所。 橋を渡ったこの先に、夢がいる。 夢は今、隣町の病院に入院している。 姫榊姉妹が面会のアポを取ってくれると言った。 日時は今夜の天体観測のときにも聞けるかもしれない。 再会できる。展望台の彼女と。 夢と。 成長した俺が、成長した夢に会える。 そのとき俺はどうなるだろう。 夢はどうするだろう。 約束は覚えているだろうか。 ふたりは必ず再会し、そして。 ケッコンをして、俺を自分のお尻に敷くと。 夢は、覚えているだろうか。 天クルの天体観測を終え、展望台に寄ってみた。 メアは部活に顔を見せなかった。 俺は、伝えるつもりだったのに。 展望台の彼女のこと。 乙津夢のこと。 メアに、聞きたいことがあったのだ。 ……見つけたぞ、メア 見つかった そうは言っても、特に捜したわけじゃなかった。 メアは、俺とメアが初めて出会った場所にいた。 俺と夢がいつもふたりで星空を望んでいた場所にいたから。 なにか用? そうだな なんの用? さっきまで、天クルのみんなで天体観測してたんだ ふうん 来てくれなかったな うん 来て欲しかったな ふうん 次は来てくれよな いや 一緒に天体観測しような いや メアと一緒に天体観測したいな ……バカバカ メアはさ 踏み込む手前でためらった。 メアは、展望台の彼女を知っているのだろうか。 乙津夢という少女を知っているのだろうか。 メアは──── なぜ、幼かった乙津夢と、そっくりな顔立ちをしているんだ────? 聞くべきかどうか迷ったときは、聞かないべきよ 聞くべきか迷うような質問は、少なからず相手の心のうちを覗き見てしまう恐れがある もし軽い気持ちで覗いてしまった場合、その責任を負うなんて考えもつかない…… 見られたほうは、責任を取って欲しいのに 一緒に悩んで、一緒に怒って、一緒に泣いて、一緒に笑って欲しいのに…… だから、軽い気持ちだったら、聞かないべきよ そのほうが、おたがいのためだから どうしたの? ……いや、なんでもない 今夜のあなたはダメダメね そうだな それに、バカバカ そうかもな わたしに用があるんじゃないの? 俺は夢に会いにいく。 明日、会いにいくのだ。 姫榊姉妹がそう取りつけてくれた。 だからその前に、メアに尋ねてみたかった。 メアがなにかしら夢とつながりがあるのなら、聞いてみたかったのだ。 だけど。 聞かないほうがおたがいのため、か ……なに? 聞くべきだと確信したときは、覚悟しろよ なんのこと? そういうときは、黙っていても相手のほうから切り出してくるって言ったのはメアだからな ……なんのことなの 首を洗って待ってろよ ……人の話を聞いて メアが刈った想い出、俺は思い出したよ ………… 展望台の彼女の名前を、思い出したんだ ……そう ああ ……洋くんは、よかった? ああ ……そう じゃあ、わたしが、また…… また、刈るって言ったら、怒る? ……どうだろうな 怒るんじゃないの? なってみないとわからないな なってみてもいいの? あまりよくないな 刈ってみていい? ダメだな また、彼女の名前、刈っていい? ダメだな ……そう じゃあ、よかったね 思い出せて、よかったね…… 電車に乗って二駅、それから徒歩で十分程度。 俺は目的の場所に到着した。 この病院に来たのは何回目? 千波の件で一回、姫榊の件で二回だから、今日で四回目になるな 小河坂さん自身の用件では初めてですか? そうなるな ついでに診察も受けていったら あいにく夏風邪もひかなかったからな 姫榊父が勤めるこの病院は三階建てで、病棟は二種類に分かれている。 主に外来診察は中央病棟で受け付けており、救急や入院手続きもそこで行っているそうだ。 これから俺たちが向かう西病棟は、その中でも長期の治療が必要と判断された患者の診察室や手術室があり、二階と三階に病室が連なっているという。 先方には伝えてありますから、参りましょうか 小河坂くん、病院では静かにね 言われなくてもわかってる お見舞いも、静かにね 俺は即答できなかった。 夢と再会した際の自分がどうなるか想像はできなかった。 ちなみに演出の目薬は自重しておいた。 この病院の入院患者はそんなに多くないから、お父さんは患者の名前を把握してたみたい それでなくても、お父さんは夢さんの担当医みたいだけど 夢さんは患者とは思えないくらいお転婆だって言っていましたよね 想い出と照らし合わせれば納得だ。 ほかの患者に比べれば若いものね、病室でじっとしていたくないって気持ちは想像つくわ 患者はほとんどがお年寄りで、若い方でも三十代だそうですから なのに、夢さんはまだ十代で病院暮らしをしているんだそうよ ……病院暮らしって長いのか? 詳しくは聞いてないわ。七月に道外の病院から転院してきたそうだけど…… やはり、彼女は雲雀ヶ崎の外にいたのか。 彼女……ケガでもしたのか? それとも病気か? 姫榊とこさめさんは顔を見合わせる。 西病棟って、重い患者が使うんだよな。そこに入院ってことは、けっこう悪いのか……? ……わからないわ そういった情報は、家族ならまだしも、無関係な人には知らされませんから…… お父さんに聞いたって答えてくれないでしょうね 医者や看護師を問いただしても無駄なんだろう。 本人に直接尋ねるなんてことも、簡単にはできない。 ただ、ケガにしろ病気にしろ、そこまで重い症状ではないんじゃないかと俺は思っていた。 俺は、たぶん、夢と何度か外で出会っている。 それはほとんど確信に近かった。 だから正確に言えば、これからの面会は俺たちの再会じゃない。もう再会は果たしているから。 夢は、外を出歩くくらいはできるのだ。 入院の理由は知らない。だけど寝たきりになるような病状じゃない。 子供の頃はあんなに元気だったのだから。 すぐにまた元気になると信じている。 渡り廊下から西病棟に着く。 途中に通った場所と違い、そこはとても静かだった。 受付やロビーがあって騒がしかった中央病棟に比べたら別世界のよう。 俺たちは三階の一室で立ち止まった。 ネームプレートには『乙津夢』。そう書いてある。 姫榊姉妹は、相手には面会を伝えてあるからと告げて、この場を離れた。 ふたりきりにしてくれるらしい。 その心遣いがありがたいようで、くすぐったいようで。 高くなる心拍を感じながら、俺は病室を訪れる。 病室は個室だった。 それほど広くはない。 一番奥に大きな窓が見える。 手前にはテーブルに椅子にテレビ、入ってすぐの横に洗面台があった。 鏡の前に種類のわからない花が飾ってある。 全体的に白かった。 真っ白いカーテン、真っ白い壁、真っ白いベッド。 ひときわ真っ白なシーツの上に、彼女はいた。 彼女はベッドから上体だけを起こしている。 パジャマの襟から覗く肌は新雪のように白く、部屋のどの白よりも綺麗だと感じた。 ほっそりとした身体。 包帯やギプスは見えない。ケガをしている様子はない。 だけど、その白い細さが儚く映る。 あたしと遊びたくなったら、いつでも言ってね あたしは、キミと一緒にいるのが、好きだから え…… 瞳は俺を捉えている。 印象は儚いのに、その大きな瞳だけは生き生きしている。 そのアンバランスさが奇妙な魅力をかもしている。 じゃあ、約束ね あたしたちは必ず再会すること! この展望台で必ず再会すること! 織姫と彦星みたいに離れ離れになっても、最後にはちゃんとふたりは再会すること! そして、再会したらケッコンすること! ケッコンして、あたしのお尻に敷かれること! キミは…… 間違いない、やっぱり彼女だ。 戻ってきた雲雀ヶ崎でも何度か遭遇した。 彼女は、想い出にある、展望台の彼女。 過去の「僕」がそう告げているから、完全に納得する。 びっくりしたな……。うん、びっくりした いきなり入ってくるんだもの…… 俺はようやく過失に気づく。 ……緊張して、ノックを失念していた。 キミが……小河坂洋くん? 尋ねられ、俺は慌てて口を開く。 あ、ああ もっとほかにも言おうとしたのだが、乾いた喉はうまく動いてくれなかった。 姫榊先生から聞いてるよ。あ、姫榊先生っていうのは私の主治医なんだけど 今日はお客が来るからって…… キミ、お見舞いに来てくれたんだよね? 俺はこくこくうなずく。 やっぱり。ありがとね いやいや、と手を左右に振ったり。 座っていいよ。そこの椅子、使っていいから ロボットのようにぎくしゃく動いて座る。 ……いつまで緊張してるんだ俺は。 夢は俺と違って平常なのに。 普通すぎるくらい普通なのに。 正直、それが悔しくもあるのだが。 私、この病院に来て初めてだよ。お見舞いされるの だから、ちょっとうれしいっていうか、恥ずかしいかな。変な感じがするかも その口調も特に滞りがなくなめらかだ。 本当に彼女は普通。日常の延長線上に立ったままだった。 驚くとか懐かしむとか、もっと大きな反応があってもおかしくないと思うのだが。 ……というか、俺のことを忘れてるんじゃないか? キミ、さ うん? 夢、だよな そうだよ。乙津夢っていうの じゃあ、俺のこと覚えてないか? え? 小河坂洋。覚えてないか? ……えっと ほら、小学生のときに一ヶ月だけ遊んでた…… ……遊んでた? ああ。俺と、展望台でさ 展望台って? 坂の上にあったじゃないか 坂って、学校の通学路になってるところ? そうそう あそこの上って展望台があるんだ ……いや、忘れたのか? 忘れたって? 会話が思うように進まない。 俺は最悪の想定をしてしまって気が気じゃない。 そういえば、まだ聞いてなかったよね キミは、なんで私のお見舞いしてくれるの? あるわけがない、忘れているわけがないと言い聞かせる。 だって俺は覚えていた。 想い出を曇らせずに守っていた。 ずっと、いつだって守っていたんだ。 私、キミとは今日が初めて…… ……今から七年前だ 彼女の言葉の続き。それを聞くのが怖くて口をはさんだ。 相手は目を瞬かせていた。 七年前の話だ。俺、この雲雀ヶ崎に住んでたんだ そうなんだ だけど親の都合で都会に引っ越したんだ ふうん そしてこの七月に、雲雀ヶ崎に戻ってきた ふうん 戻ってきてまず真っ先にしたことは、キミに会いにいくことだった ………… だけどキミには会えなかった。だから捜した、今までずっと捜してた 一度は諦めかけた。だけど俺の背中を押してくれる友達がいた。ほかの友達も俺に協力してくれた みんなには感謝してる こうして、キミの居場所を突き止められたから…… キミのお見舞いができたから ………… ……本当に、覚えてないのか? 俺は、潰えそうになる望みに必死にすがりついている。 あの日、展望台で約束したじゃないか…… 七夕の日に、誓ったじゃないか 俺たちは、再会するって 再会して、そして…… そこから先は呑み込んだ。 なあ、夢…… ……たぶん、それ、人違いだよ 夢は、すまなそうに俺を見て。 だって私、この病院に転院してきたばかりなんだよ 雲雀ヶ崎には、初めて来たんだよ そう、はっきりと口にした。 あら。意外と早かったわね てっきり面会時間ぎりぎりの夜八時までかかるものだとばかり思っていましたのに ……ふたりとも、待っててくれたのか まあわたしたちも気になってたし 夜になるようなら帰ろうって、姉さんと話していたんですけどね 感動の再会だったんでしょ。小河坂くんのことだし、目薬の演出も抜かりなかったんじゃない 夢さんとはどうでしたか? 積もる話がたくさんあったんじゃないですか? 俺は病院を振り返る。 海側に構える西病棟は、ここからではよく見えない。 ……ふたりに、ちょっと聞きたいことがあるんだ なんでしょう? 夢はこの病院に転院してきたんだよな そう聞いてるけど 今年の七月からだとお父さんは話していましたよ 小河坂くんが引っ越してきた時期とちょうど同じね じゃあ、夢が前に入院してた病院ってどこかわかるか? ……お父さんに聞けばわかると思うけど 悪いんだけど、聞けるようならお願いできるか? なにか……あったんですか? ……ちょっとな ちょっとなんて顔してないわよ ………… なにがあったの? ……姉さん、むやみな詮索は 悪趣味だって言うんでしょ。べつに無理に聞き出すつもりはないけど でも、相談に乗るくらいはいいんじゃない 友達として、ですか? 部活仲間としてよ わたしたちは仲間であり、友達ですからね ……ありがとうな 礼なんかいらないからひと思いに相談しなさいよ それはまた今度でいいか? 姫榊は肩をすくめる。 夢さんがどこの病院から転院してきたのか。昔、夢さんはどこに住んでいたのか とりあえず、それを知りたいのね 話が早いな。助かるよ 夢は幼い頃、俺と一緒に遊んでいた時期がある。 そのときは雲雀ヶ崎に暮らしていたはずだった。 できればそれを確認したかった。 俺と夢がちゃんと出会っていたという証が欲しかった。 でないと俺は、不安に押しつぶされそうだ。 彼女が夢であると確信したはずなのに、不安に思う自分に腹が立ってたまらない。 忘れられていることくらい、予想の範囲だったろうに……。 ほかにも手助けが必要でしたら、いつでもご相談くださいね 好きだ、こさめさん えいっ チョップされる。 変なお礼はいりませんから、ご相談くださいね ……こさめよりわたしがびっくりしたじゃない 姫榊 どがっ!! そっ、そそそそんなお礼なんかいらないわよ! なにも言ってなかっただろ…… 話が早すぎて困る。 大の字に倒れた俺の目に、夕焼けにひっそり輝く一番星が映っていた。 子供の頃に夢と一緒に捜したそれは、成長した夢と同じでどこか儚く見えていた。 なあ、メア なに、パカパカ ……馬の足音を呼び名にするなよ じゃあ、バカバカ なんで不機嫌なんだよ べつに不機嫌じゃないわ そのわりに顔が普段の三割増しでむっつりだ。 ……俺のこと怒ってるんじゃないのか? どうして 俺が展望台の彼女のこと、思い出したからだよ 展望台の彼女って誰だっけ 夢のことだ ………… 乙津夢っていうんだ。その人 ……そう 実はな、今日会ってきたんだ 俺、夢と会ってきたんだよ ……そのわりに、うれしそうじゃないのね メアは気持ち、俺に近づいた。 ずっと、会いたかったんじゃないの? ………… 洋くん……その子を、大切に想ってたんじゃないの? 黙っていたら、さらに近づいてきた。 近い距離から俺を見上げていた。 抱きしめてみた。 ………… ………… ……いっ メアの顔がぽんっと沸騰した。 いやあっ!! がこんっ!! いてえ!? な、なにやってるの!! 抱きしめてみた がこんっ!! その柄とがってるから痛いんだけど!? うるさい変態くん!! 今度は刃のほうを向けてきたので俺は逃げた。 ……情緒不安定になってるな、俺。 それほどショックだったわけか。 夢は俺を忘れていたから。 それどころか夢は雲雀ヶ崎に初めて来たと言った。 つまりそれは雲雀ヶ崎に住んでいたこと自体、忘れてしまったのか。 あるいは、今日出会った夢は、俺の知っている夢ではなかったのか。 ……今夜のあなたは、バカバカバカバカね 四つに増えた。 背中を見せたらざっくり刺そうかな…… やめていただきたい。 洋くん、その子と出会えて舞い上がってるの? 出会う直前の俺はそうだったかもしれない。 ……今は、むしろ逆だな 悲しいの? たぶんそうだ わたしのせい? 違うよ じゃあ……その子のせい? それも違う 舞い上がったり落ち込んだり、それらすべては俺自身の問題だ。 夢はさ、俺のことを覚えてなかったんだよ ………… バカみたいだな、俺…… ひとりで勝手に期待してさ ………… ひとりで空回ってさ…… ……うん 言ってなかったけど、その人、メアに似てるんだ ………… 子供の頃の夢と、メアは、そっくりなんだ メアはなにも答えなかった。 まあ外見の話で、性格は違うけどな ……それで、期待してたの? メアの口振りに不安の色が覗く。 わたしがその子に似てるから、洋くんはそんなわたしと出会ったから…… だから、諦めなかったの? 彼女とも、また出会えるって…… その子も、洋くんのことを覚えてるって…… そうだな。そういうことにしておくか ………… なんで不機嫌になるんだ? ……べつに 俺、悪いことしたか? ……うん なにしたんだ? ……バカバカ 誤魔化したんだろうか。 わたしも、悪いことしたかもしれないけど…… 彼女のことを諦めなかったのは、洋くんのせいだから よくわからないな わからなくていいわ これはあなたとの約束の話じゃない…… わたしと彼女の約束の話だから 今日も来ると思ってたけど、やっぱり来たわね 面会時間が始まる午後一時の五分前ですね 計算どおりだ ……神社の手伝いのときもそのくらい正確に来なさいよ こんにちは、洋ちゃん ……いや、なんでいるんだ 姫榊姉妹のほかに明日歩の姿もある。 それはもちろんみんなで悪女と対決しにいくためだよっ 勝手についてきてふざけたこと抜かすんじゃない 千波は至ってマジメだよお兄ちゃんっ、想い出の美化を利用されさらにかどわかされる前に千波はお兄ちゃんを守ろうと今ここに馳せ参じた所存なんだから! レディーファイッ べつにお兄ちゃんと対決したいわけじゃないからぐりぐりに早くも千波ギブアップだよ!? 洋ちゃんがよかったら、一緒にお見舞いしたいなって思ったんだけど…… お兄ちゃん、夢さんと再会したときのこと千波に教えてくれないしっ あたしもちょっと気になるかなって あははと照れ笑いしている。 小河坂くん、困ってるじゃない。相手は病人なんだし、大勢で押しかけるのは賛同しかねるわね そのわりにこももちゃんたちも来てるじゃない わたしたちは、小河坂さんに頼まれていたから待っていたんですよ 夢さんがどこの病院から転院してきたか。お父さんに聞いたから、伝えにきたわよ ありがとうな ふん 早速お聞きになりますか? ぜひに ……なんの話? 小河坂くん、ここで話すと南星さんにも聞かれるけど ………… 明日歩なら、なんの問題もない ……洋ちゃん なんの話か知らないけど千波も一緒に聞くねっ もしもし詩乃さん? 千波の迎えお願いします いくら千波だけ天クルに入ってないからって毎度の仲間外れにそろそろめげそうだよお兄ちゃん!? わかったって。その代わり言いふらしたりするなよ それは愚問だよお兄ちゃんっ、千波成分は友達思いだけじゃなくお兄ちゃん思いも含まれてるからねっ そして、俺たちは姫榊姉妹の話に耳をかたむける。 いわく、夢は都会の病院からここに転院してきたということだった。 住所を聞くと、俺と千波が前に住んでいたところとは区が違うが、電車で三十分ほどしか離れていない。 ……そんな近くに夢がいたなんて。 俺はてっきり、遠く離れ離れになったと考えていたのに。 夢が都会の病院にいつから入院するようになったのか。そこまではわからなかったそうだ。 入院前はどこに住んでいたか。これも同様に不明だ。 病名と入院期間も、ダメ元で父親に尋ねたそうだが、逆に怒られてしまったそうだ。 面白半分で聞くようなことではないと。 俺は面白半分のつもりじゃないが、姫榊父には全面的に賛成だし、姫榊姉妹にはこの場で謝っておいた。 ……どうでしょう、お役に立ちますか? ああ。これから立つと思う なんとも言えないってわけね。まあ、わからなかった部分は本人に聞く以外もう手はないと思うけど 姫榊の言うとおりだ。 プライベートとはいえ、直接聞けるところはあるだろう。 あとは俺と、夢次第ということだ。 ……込み入ったお話するんなら、あたしは洋ちゃんについていくのやめておくよ? 千波もほんとはついていきたいけどお兄ちゃんが困るなら引き下がるよっ、お兄ちゃん思いの成分がうずくからねっ 夢を捜してくれて、みんなには感謝している。 その気持ちに偽りはない。 ……もうちょっと、待ってくれ 必ず、みんなにも紹介するから 俺も夢に、この新しい仲間たちと友達になって欲しいから。 そのために、夢とふたりで話をさせてくれ 本音を言えば焦っている。 病室の夢は、過去の「僕」が知っている夢とは違うのか。 違うのなら、じゃあ展望台の彼女は本当に実在するのか、そんな不安さえ生まれる。 彼女は幼かった「僕」が見た幻じゃないのかと、そんなバカな考えも浮かぶ。 俺は、そんな思考を強引にねじ伏せる。 あ……洋くん ノックのあとに病室に入ると、夢はベッドに横になっておらず、窓際に立っていた。 また、来たんだね ……ダメだったか? ううん。ずっと暇してたし。海の景色を眺めるくらいしかすることなかったし だから、来てくれてうれしいよ その言葉だけで、報われた気持ちになる。 座って。私もベッドに戻るから 夢に促され、俺は昨日と同じ椅子に座った。 なんとなく、今日も来るんじゃないかって思ってたんだ ……そうなのか? うん。そうなの ……どうしてだ? 昨日のキミ、話し足りなそうな感じだったから だけどなにをどう話せばいいかわからなくて、早めに席を立ったように見えたから で、今日はそのリベンジ。違う? ………… 病室の前の廊下を、医療用のカートを動かしているごろごろという音がする。 その音が遠ざかって聞こえなくなると、夢は再び口を開いた。 洋くん、私に遠慮してる? 急に問われてドキッとする。 ……そう見えるか? そう見えるよ どうして だって洋くん、言葉を返すまでに間が空くから。なにか迷った感じで ………… リベンジ、するんじゃないの? 俺は息を吐き出した。 俺のこと……覚えてないんだよな 展望台で一緒に星見をした想い出。 覚えてないよ。うん、覚えてない 過去に俺と出会ってる可能性は否定しないんだな あ、間違った 出会ってないよ。うん、出会ってない ……なんかいきなり怪しいな 怪しくないよ。うん、怪しくない 実は昨日俺が帰ったあとに思い出してくれたとか そんなわけないよ。うん、そんなわけない やっぱり怪しいな すると夢はムッとして。 キミ、お姉さんの言うことが信じられないの? なんでお姉さんってわかるんだ? えっ 俺、昨日も今日もキミに歳は教えてないよな なのに、俺より年上だってわかるっていうのは、やっぱり…… ……そうじゃないよ しょうがないなあといったふうに吐息をついた。 キミのことは、姫榊先生に聞いてたから。坂の途中にあるヒバリ校に通ってて、二年生だって だから、私はキミよりお姉さん。わかった? ………… 私とキミは、昨日が初対面。お姉さんの言うことが聞けない? ……聞けないな なんでそんなに意固地なんだろ 想い出が大切だからに決まっている。 キミ、今年の七月にここに転院してきたんだよな そうだよ その七月に、俺たちもう出会ってるだろ? ……え? 七月だけじゃない。八月の海水浴と夏祭りのときにも出会ってる ………… それも、覚えてないのか? ……うん 本当に? ほんとに覚えてないよ 信じられないな お姉さんの言うことが聞けないの? 聞けないな ……私の前でだけは素直だったのに、昔は 昔? 今、昔って言ったか? 言ってないよ。うん、言ってない あやしさ爆発である。 キミ、入院してるんだよな そうだよ。見ればわかるじゃない でも、病院の外にも出られるんだよな ……今は出られないんだけどね ………… バカな質問をしたと後悔した。 ……もう。そうじゃないよ 彼女は小さく笑っていた。 勘違いだよ、それは べつに病気が悪くなったとか、そういう意味じゃなくて。私が勝手に外出してたら怒られちゃって それで、目をつけられちゃったの。姫榊先生って普段は仏さまみたいだけど怒るとすっごく怖いんだ だから、洋くんが気に病む必要はない。わかった? ……本当か? ほんとだよ 姫榊先生には娘さんがいるんだけど。その子、俺と同じ学年で友達なんだ 彼女たちが言ってたよ。キミは病人のくせにお転婆だって その娘さんって、私は会ったことないけど。お父さんから聞いたんだろうね じゃあ、転院したばかりなのに外に出歩いてたのか ちょっと雲雀ヶ崎を歩いてみたくなって ひさしぶりだもんな うん、あの坂も相変わらず長くて…… あっ、じゃなくて、初めて登ったんだけどね パジャマのままだったから目立ってたぞ 私の場合、私服で病院歩いてるほうが目立つから。見つからないように外に出るには仕方ない…… あっ、じゃなくて、いくら私でもパジャマのまま外になんて出られるわけないよ でも、俺たち街で会ったじゃないか 会ってないよ。うん、会ってない 天の川って知ってるだろ ……なに、突然 知らないのか? それくらい知ってるよ。常識だよ 天の川って、英語でミルキーウェイって言うよな それも知ってるよ でも実際、牛乳に見えるか? ……牛乳って。なんか子供みたい くすくすと笑っている。 子供みたいなのか うん。だって給食みたいだから 給食はなにが一番好きだった? 私は、あげパンかなあ 天の川って、なにに見える? 私は…… 洋くんはどの星が欲しい? あの星がいいな。青くて白くてとても明るい星 あたしはあの白くて長いのがいいな どうして? だってあの白いの、あげパンに見えない? ……洋くん 彼女はムッとしていた。 洋くんがそんな汚い子に育って、お姉さんショックだな ……なんだよそれ 誘導尋問染みてたから ……そんなつもりはなかった じゃあどういうつもりだったの? 好意的な好奇心。仲良くなるための第一歩。相手のことを知りたいって思うのは当然だろ? それでなんで天の川になるんだろ 俺、雲雀ヶ崎の星空が好きなんだ ………… キミが教えてくれた雲雀ヶ崎の星空が、好きなんだよ ………… ……それも、誘導尋問? 正直な気持ちだ キミ、都会から引っ越してきたって言ったよね ああ その頃に、私とキミが出会ってたの? ああ 一緒に遊んでたの? そうだよ 夢はほほえんでいる。 だけど、そこに楽しいやうれしいといった感じはない。 代わりに、なにかこう、冷たく乾いた感情が見えた。 それは単語に当てはめると諦観だった。 ……天の川って、二千億個の星の集まりなんだよ 私たちが住む地球──その星を育んでくれた太陽を含む、たくさんの恒星の集団 その銀河を横に見ている姿が、天の川なの そのことを人が知ることができたのは、天の川銀河の中心から届く、私たちの目には見えない光…… 不思議な電磁波のおかげなんだって 夢はにこっと笑って俺を見る。 そういった電磁波を調べることを、電波天文学っていうの。洋くん、知ってた? いや…… やった Vサインしている。 私ね、昔、一緒に遊んでた男の子がいたんだ その子に負けないように勉強したの その子は私より年下のくせに、私より星に詳しくて…… ううん、星だけじゃない。いろんなことに詳しかった だから、私がその子に教えてあげられたのは、キスのことくらいだった…… まだ……目、開けないでね 開けたら、絶交だからね…… それで、悔しくて、一生懸命勉強したんだよ その子に逆に星を教えてあげられるように、詳しくなったんだよ ……それって キミじゃないよ。うん、キミじゃない だって、想い出の男の子は、キミと違って素直でかわいかったからね 今のキミみたいに、イジワルじゃなかったからね このときの彼女の笑みは、諦観などでは決してなく、とても楽しそうに見えた。 だから、再会のキスなんて、絶対にしてあげないからね ……今日も、夢って子と会ってきたの? ああ。お見舞いしてきたよ お見舞い? 彼女、隣町の病院に入院してるんだ ………… 入院ってわかるか? バカにしないで。病院で暮らすことでしょう そうだな。治療のためにな その子……どこか悪いの? みたいだ わからないの? ああ。どこが悪いのかまではわからない その子から聞いてないんだ まあな 知りたくないんだ 正直、知りたいな じゃあ聞けばいいじゃない 聞くべきかどうか迷ったときは、聞かないべき。前にメアが言った言葉じゃないか 聞くべきだと確信したときは、相手が話す? そうだ それはいつ? わからない わからないことばっかり そうだな。そのとおりだ メア っ! 俺が一歩近づくと、メアは一歩あとずさった。 ……いや、なにもしないから だ、だったらいいけど 前の抱きしめが尾を引いている。過去にもあった気がする。 メアは、天の川って知ってるよな 知ってるわ。夜空に見えるじゃない 秋の天の川は、夏の雄大さに比べるととても繊細で、静かに空を流れている。 じゃあメアは、天の川ってなんだと思う? 天の川は、天の川でしょう その正体はなんだと思う ……正体? ああ。さて、天の川の正体はなんでしょう メアはちょこんと小首をかしげて。 ……織姫と彦星を離れ離れにした、境界線? お子さまだな ……かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! ひさしぶりによくできました ひさしぶりに死ぬかと思った。 かー坊は旋回してからメアの頭に着地する。 かーくんが架け橋になって織姫と彦星を再会させるのよね ……このドラゴンじゃなくて、かささぎっていう鳥がな ほかに答えがあるの? 大人はもっと科学的に捉えるんだ わたしは洋くんより大人よ え、どこが? ……かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! わたしは大人よ どこをどう見ても子供の振る舞いである。 わたしは大人の死神だから 死神は大人になんてならないぞ ……真似された で、天の川っていうのはな、銀河を横から見た姿なんだ ふーん 興味なさげだ。 そしてそれを知ることができたのは、宇宙から届いた、目に見えない光のおかげなんだ つまらない答えね 一刀両断した。 目に見えないものなんて気にしたってしょうがないのに 人は、人が見えるものでさえ、よく見ようとしないのに ……そうかもな うん 俺は、メアがちゃんと見えてるぞ 当たり前 見えなくなったりするなよ ………… 約束だぞ ……いや メアはぷいっと横を向いていた。 約束は、もうしない もう約束があるのに、これ以上は大変だから これ以上は、抱えきれなくなるから…… じゃあ、捜してた初恋の相手は見つかったのか 初恋じゃない。だけどまあ、見つかった 再会できたんだよね わたしたちもお手伝いしたかいがありました オレはなんにもしてねえけど、よかったじゃねえか ……相手は俺のことなんて知らぬ存ぜぬを繰り返してるんだけどな。 小河坂が再会したんだ。オレも、がんばらねえとな…… 嘆息混じりにそう言った。 飛鳥くんにも離れ離れになった幼女がいるの? 当時は幼女だったけど、小河坂と一緒にすんな 心外極まりないんだけど 昔一緒に遊んでいた女の子なんですか? そうとも言えるけど、小河坂と違ってべつに初恋の相手じゃねえからな 俺も違うって言ってるだろっ 飛鳥くんも誰か捜してたんだ まあな どういう子なの? 飛鳥は答えなかった。 ……オレのことより、南星が気になるのは夢って人のほうじゃねえのかよ べつにもう、あたしは…… 無理すんなよ、おまえらしくねえだろ ……そっちこそ。お節介なんて、飛鳥くんらしくないと思うけど 飛鳥さんも、必要でしたら一緒にお捜ししますよ? いや、もう協力してもらってるしな 誰だ? 千波ちゃんだ ……オカ研の活動で人捜しか? もともとが、人捜しのためのオカ研だったんだよ 飛鳥は席を立った。 もう追求するなと言わんばかりに教室を出る。 ……これ以上は聞かないほうがいいのかな 小河坂さん、今日もお見舞いに行くんですか? ああ。学校終わったら行ってくるよ それじゃ、洋ちゃん。はい 明日歩はスクバから包みを取り出す。 お見舞いの品。夢さんと一緒に食べて 明日歩の手作りスイーツのようだ。 いいのか? うん。もちろん そして明日歩はなんでもないことのように言うのだ。 夢さんが洋ちゃんの友達なら、あたしたちの友達でもあるんだから 病室にお邪魔すると、夢は窓際に立っていた。 寝てなくていいのか? うん。私、元気だから 元気だったら入院なんかしないぞ そうだね。ほんとそう くすくすと笑って。 みんな大げさなんだよ。もともとそんなに悪くないのに 外を出歩けるくらいだもんな 早く軟禁から解放されたいよ。洋くんも姫榊先生に頼んでくれない? 入院しなくてすむくらい回復したらな ……ほんとに元気なのにな ベッド、戻らないのか 洋くんが座ったら戻るよ 俺が椅子に座るのを見て、夢も窓際から離れた。 またお見舞い来たんだね 来ちゃ悪いか? 悪いよ。うん、悪い ……嫌なら来ないようにする 冗談だよ。うん、冗談 だからそんなに落ち込まないで欲しいな 話すのが疲れるようなら、ほんとに来ないから ………… 夢の視線が手元に落ちる。 ……若い入院患者って、めずらしいんだって 私以外の患者さんは、おじいちゃんおばあちゃんがほとんどなの。知ってた? 友達から聞いたよ 姫榊先生の娘さん? ああ 私ね、中央病棟に行くとよくおじいちゃんおばあちゃんに話しかけられるの。みんな、世間話が好きなんだね それもね、嫌いじゃないんだけど…… でも、洋くんとお話しするのも、楽しいからね 俺はどう返していいかわからなくなる。 洋くんに、お見舞いに来て欲しいってことだよ ……ほんとか? ほんとだよ 昔のこと思い出してくれたのか? それとこれとは別だよ。この洋くんはイジワルだからね ……誘導尋問は悪かったから ほんとに悪いと思ってるのかな その証拠におみやげがあるんだ 明日歩からあずかった包みを見せる。 私に? ああ。夢に ……呼び捨て 昔はお姉ちゃんって呼んでたな そうだよ、昔は夢お姉ちゃんって…… 今、昔って言ったな 言ってないよ。うん、言ってない ていうか、誘導尋問…… 今のは偶然だ ほんとかな…… これ、明日歩っていうクラスメイトが作ってくれたんだ。夢に渡してくれってさ お友達が作ってくれたんだ ああ 女の子なんだ そうだけど 洋くん、優等生になれたんだね 夢の言う優等生には、どんな意味があるんだろう。 少なくとも今の俺が一般的な優等生とはとても思えない。 洋くん、食べたかったらどうぞ 夢は? 私は、今はお腹いっぱいだから なら、あとで食べてくれ テーブルに包みを置く。 気にしなくても食べていいのに これは夢にあげるものだからな でも、彼女さんが作ってくれたんでしょ? ……いや、明日歩は友達だって 我慢しなくてもいいのに どういう意味だ。 洋くん、まだ優等生じゃなかったみたい。私の思い違いだったのかな 思い違いだとどうなるんだ? 洋くんは私のお見舞いに来られなくなるの なんだよそれ…… 洋くん、彼女とか作らないの? 俺は面食らう。 好きな子とかいないの? ……いたらどうなるんだ? 私のお見舞いに来られるようになるの ひとつ質問 どうぞ、許しましょう 俺の好きな子が夢の場合はどうなるんだ? なにやら沈んだ顔をする。 ……それはね、とっても残念なことになるよ どんなことになるんだ? 洋くんにとって人生初の赤点になるんだよ 俺、もう赤点取ったことあるけど えっ、そうなの? そうなんだ 洋くん、勉強得意だったのに 今の俺は成長したからな 頭でっかちじゃなくなったの? そのとおりだ 夏の夜の女王と言えばなんでしょう 七夕の織姫星だな ぜんぜん変わってないじゃない ……いや、七夕だけはそれなりに詳しいんだ どうして? 夢のためだ 人のせいにするんだ ……いや、ためって言っただろ 俺は、夢に星を語って聞かせたいから七夕を始めとする星について詳しくなった。 だが夢もまた詳しくなったようだった。 それは、夢も俺と同じように思っていたということだろうか。 織姫ってね、ちょっとずつ動いてて、一万二千年後には北極星の代わりに輝く星になるんだって 星空の中心になるのは素敵なことだと思うけど…… そうなったら、彦星との距離も離れちゃうから、会うのが大変になるんだろうね 織姫のお尻に敷かれてた彦星は、最後には捨てられちゃうのかもしれないね そう言って、少し寂しそうにほほえんだ。 俺は胸が痛くなった。 ……星については、もう俺より詳しいんだな それが悔しくもあり、うれしくもあり。 病院暮らしでも、勉強くらいはできるからね。学校の勉強はからっきしだけど ……学校、通ってなかったのか? そうだよ。通ったって言えるのは、小学校の途中まで とすると、病院暮らしは相当長いことになる。 それはそっくり、夢の病状を物語っているのかもしれない。 それに、通っていたのが小学校の途中までとすると、俺と出会っていた頃の夢はどうなるんだろう。 あの頃の夢は元気に見えていたのに。 ひとりで展望台まで登れるくらいだったのに。 でもね、学校に通えなくてもぜんぜんよかったんだ。私には家庭教師がふたりもいたから ……そっか うん。私が星のこと知りたいって言ったら、ふたりとも教えてくれたんだ 夢の病気のことを知りたかった。尋ねたかった。 だけど、尋ねられない。 簡単に踏み込める領域じゃない。 ……家庭教師って、どんな人なんだ? ひとりは私の祖母だよ。すごく礼儀正しくて物知りで、そんな人だったから私はおばあさまって呼んでたの 今年の春に亡くなってるんだけどね 俺が気にすると思ったのか、夢はすぐに言葉を継いだ。 だからね、ロマンチックな星座の神話はおばあさまから教わって…… 科学的な知識は、妖精さんから教わったんだ ……妖精さん? うん。すごくキレイな妖精さん 男性なのか女性なのかわからないくらいなんだよ 妖精さんというのはあだ名だろうか。 妖精さんとは雲雀ヶ崎で知りあったから、今でもよく病室に来るよ。おばあさまとはまた違って物知りなんだ あれ、お見舞いは俺が初めてじゃなかったのか? 妖精さんのはお見舞いじゃなくて家庭教師だから その人と星の勉強してるのか うん 俺も一度、会ってみたいな 妖精さんは選ばれた人間じゃないと会えないから、難しいかもしれないよ 俺は首をかしげるしかなかった。 帰り際、俺は夢に言った。 また……来ていいか? うん、いいよ あっさりと。 洋くんは優等生になれるって信じてるから 拒まれずにすむなら優等生でもなんでもなってやろう。 明日も今日と同じ時間でいいか? 私、軟禁中だからね。いつでもいいよ あ、でも、外で検査があるときは留守になっちゃうけど 外というのは、病室の外のことだろう。 そのときはここで待っててもいいし。そんなに長くかかるものじゃないしね わかった。そのときはそうする うん。昔みたいに素直でよろしい 夢さ、もう確実に思い出してるだろ 思い出してないよ。うん、思い出してない ……それじゃ、また ばいばい 夢に見送られ、病室をあとにする。 夢は俺の知っている夢だ。間違いない。 安堵して、同時になぜ隠すのかと疑問になる。 なぜ想い出を忘れたふりをするのかと不安になる。 病院の外に出ると、夕焼けの赤が目に痛かった。 ……先輩 夕食後、めずらしく蒼さんから話しかけてきた。 どうした? 今日、天クルを休みましたよね ……そういえば 夢の見舞いに頭を取られて忘れていた。 だけど明日歩もこさめさんも、部活についてはなにも触れなかった。 あえて触れなかったんだろう。 お兄ちゃん、天クル休んでお見舞い行ってたの? そうなるな ……私にはサボるなとしつこいくせに いや、俺はサボったわけじゃないだろ。ちゃんと理由があるし 夢さんという人のお見舞いは連日しなきゃいけないほど重要な仕事なんでしょうか ダメだよお兄ちゃんっ、気をしっかり持たないとまた子供の頃みたいにかどわかされちゃうからねっ やはり初恋の人だからでしょうか 初恋は叶わないから初恋なんだよっ、そんな無駄な努力にあがくよりもっと身近でお手頃な恋に目を向けるべきだと千波は思うなっ それで初恋の人にそっくりなメアさんに流れたら目も当てられないロリコンです ダメだよお兄ちゃんっ、いくら夢さんにかどわかされたからってお兄ちゃんまでメアちゃんをかどわかしちゃっ こいつら言いたい放題だ。 ……天クルは、しばらく休むと思う。ちゃんと説明してなかったのは悪かった 明日もお見舞いですか? その予定だ 私に部活の出席を無理強いしないなら、許してあげます 無理強いしたことはないぞ。なのにそう思うのは、蒼さんもサボりに負い目を感じるってことじゃないか? ……ありえません 俺、ちょっと出てくるよ メアちゃんをかどわかしに行くの? ……違う。星見だ 暗くなってからメアとふたりで会うのは、夢の見舞いよりも前から行っている恒例行事なのだった。 なあ、メア なに メアって何歳だ? 死神に歳なんてないわ そんなこと言わずに教えてくれ 歳なんてないって教えてるじゃない どうしても知りたいんだけどな だから、ないって教えてる じゃあメアは、いつからこの展望台にいるんだ? ずっと昔から 何年の何月だ? そんなの覚えてない たとえばだけど、俺とメアがつきあったら がこんっ!! なにすんだ!? メアは俺の頭をたたいたカマをぎゅっと抱きしめていた。 ……変なこと聞くから たとえばって言ったろ…… ……でも、無性にたたきたくなった メアはちらっと上目遣いをする。 これってなに? 恋でいいだろ わたしは殺人衝動だと思う 冗談だからカマ振り上げるなっ 今夜のあなたもバカバカね バカバカと言われない日はほとんどない。 で、たとえばの話なんだけど ……結局続けるんだ もし俺とメアがつきあったとしたら、俺ってロリコンになると思うか? ならないわ メアはきっぱりと否定した。 それがうれしかった。 洋くんなんかとつきあったら、わたしがショタコンになるじゃない ……まったくうれしくなかった。 なんでだよ…… わたしのほうがずっと大人だから 世間的には逆にしか見えないだろ…… 人の目には限界があるみたいだからしょうがないわ。本質を捉えきれないの メアの本質って? 大人のお姉さん ぶはははははは! がこんっ!! ……そうだな。そうかもしれないな で、洋くんは子供でかわいくない男の子 もうなんでもいいけどな…… 本当のことだから メアは人の本質を捉えられるんだな わたしは死神だから 死神の目は高性能なんだな 洋くんよりはいいと思う 人の寿命も見えるのか? そんなの見えないわ。わたしは悪夢を刈る死神だから 人の悪夢が見えるのか 見えないわ ……ダメじゃないか 悪夢は見えないけど、目星ならつけられる それは相手が辛そうにしているから。 そしてその悪夢を刈ったとき、メアは涙を流すのかもしれない。 人知れず泣くのかもしれない。 俺のときは、目の前で泣いていたけれど。 メアには、悪夢ってないのか? ……え? メアは、俺たちみたいに悪夢を持ってないのかなと 知らないわ メアは、細く儚く流れる秋の天の川を見上げる。 天の川の周りにはひっそりと輝く無数の星。 メアが刈った悪夢は、人の夢は、いったいどの星に送り還されていくのだろう。 死神は、人の悪夢は刈るけど…… 死神の悪夢なんて、刈らないわ 死神は、そんな夢よりももっと大事なものを持ってるから 誰かと交わす約束のほうが大切だから…… 洋ちゃん、今日もこれからお見舞い? 放課後になって、明日歩が尋ねてきた。 ああ。昨日はおみやげ、ありがとうな それはいいけど……。あと、今日は用意してないよ 当たり前だ。毎日もらってたら明日歩に頭が上がらなくなるぞ そうなの? そりゃそうだろ じゃあやってみようかな ……いや、本気で悪いから 明日歩さんの手作りスイーツで小河坂さんを餌付けすれば天クルを欠席しなくなるかもしれませんね そういうつもりじゃないよ~! ……なあ、明日歩 わかってるよ。当分、お見舞いで天クル休むんだよね? 我らが副部長はすでにお見通しだ。 辞めることはしないし、金曜の天体観測はちゃんと出席するから うん。なら、許可します このときの明日歩がさびしそうに見えたから。 ……よかったら、今度一緒にお見舞いしてくれよな あれ、ふたりのほうがいいんじゃなかった? いつになるかわからないけど、明日歩に夢を紹介したいんだ 夢にも、明日歩を紹介したいんだ ……友達になれるかな 明日歩なら絶対だ うん。じゃあその日を待ってるよ 明日歩は屈託ない笑顔で受け入れてくれた。 あのう、わたしは仲間外れですか? こさめさんもよかったらお見舞いしてくれ 明日歩さんのオマケですか? ……そんなつもりじゃないって それでは、その際は姉さんも連れていきますね ああ。よろしく 千波を誘えば、今度は千波が蒼さんを誘うだろう。 いつか天クルのみんなで夢に会いにいってみよう。 そして、可能だったらメアも連れていってみよう。 夢はメアを見てどう思うだろうか。 メアは夢を見てどう思うだろうか。 それとも、もうふたりは知りあいだろうか。 確認するのは、勇気がいる。 外見るの、好きなんだな 病室を訪れると、今日も夢は窓際に立って外を眺めていた。 外は好きだよ。空がよく見えるからね 星空、好きなんだよな 星空だけじゃないよ。青空も好き もし鳥になれるなら、昼も夜も、ずっと空を飛んでると思うよ もし星になれるなら、昼も夜も、ずっと空に浮かんでると思うよ 夢らしいな そうかな そうだ 自由にあこがれる深窓の令嬢みたいに見える? 性格がおしとやかだったらな 夢は笑ってベッドに戻っていった。 ねえ、洋くん なんだ いつでも来ていいとは言ったけど、毎日は大変なんじゃない? そんなことない ほかに用事とかないの? ……ああ ほんとはあるんじゃない? ないよ 私のために我慢してない? してないよ もししてたら、お見舞い禁止にするからね ……なんで なんでも 俺はうなずくしかない。 夢はさ、雲雀ヶ崎に来てからは俺が初めてのお見舞いになるんだよな そうだよ。私、こっちに入院するようになってまだ三ヶ月しか経ってないから 知りあいはみんな都会か? そんなところかな どうして雲雀ヶ崎に戻ってきたんだ? 戻ってきたんじゃないよ。初めて来たの ……まだ言うか 何度でも言うよ ……じゃあ、今はそれでいい これから先もずっとそうだよ 意地っ張りなところは今も昔も変わっていない。 夢は、なんで雲雀ヶ崎に来たんだ? ここがおばあさまのふるさとだったからだよ 夢の家庭教師をしてくれてたんだよな うん。院内学級みたいなのはつまらなかったから、代わりにおばあさまが勉強見てくれたの ほかにもね、いろいろ教えてくれたの そのおばあさまが春に亡くなって、ごたごたしてたのが落ち着いてから雲雀ヶ崎に戻ることにしたんだよ 今、戻るって言ったな 洋くん、私のお見舞いしたくないんだね ……悪かった。もう茶々入れないから 私、都会で暮らしてたの、長かったから 雲雀ヶ崎にも友達はいたかもしれないけど、私のことはみんな忘れちゃったんじゃないかな それは絶対にない なんで断言できるんだろ それは…… 俺が忘れていないから。 名前は一時忘れても、取り戻したから。 夢という女の子の存在は片時も忘れたことがなかったから。 言ったら、お見舞い禁止にされるんだろうか。 ……妖精さんは、会いにきてくれるんだろ? そうだね。でも、妖精さんは雲雀ヶ崎で知りあった人だから。昔からの知りあいってわけじゃないよ その人も家庭教師なんだよな うん。歳はそんなに離れてないように見えるし、友達とも呼べるかも 昨日も洋くんが帰ってから、遊びに来たよ その人、星に詳しいんだよな うん どんなこと教えてくれるんだ? 人はね、星から生まれたんだって。いつだったかそんなこと言ってたかな 俺は首をかしげる。 地球で生まれたってことか? というか、当たり前だと思うんだけど えっとね、私たち人間の身体を構成する物質は、かつては宇宙の星々の一部だったんだって だから、地球が誕生したての頃に隕石がたくさん落ちたことで、私たちも生まれることができたの 人はみんな、宇宙に浮かぶ星のどれかがふるさとになってるんだよ ……ファンタジーだな 科学的にも説明がつくらしいよ。天文学者の人たちががんばって解明したんだね 私たちは、宇宙の星に触れることができない。観測することでしか星のことがわからない だけど、星のほうは私たちに光をくれる。私たちはそれをメッセージとして受け取れる 科学的に言うと、電磁波だね 私たちはそれを調べることで、いつか自分たちのふるさとを知ることができるんだよ SFだな 宇宙物理学の範囲みたいだよ もし俺たちのふるさとの星が見つかったとして、今はもうなくなってるんじゃないか? そうだね。星の光は長い年月をかけて私たちに届くから。受け取ったメッセージは何億年も前のものかもしれない その間に、ふるさとはなくなっているかもしれない だけどね、私たちのふるさとはなくなっても、ほかのふるさとは残っているかもしれない 私たち人間とは違う存在のふるさとは残っているかもしれない だって、隕石はまだこの星に落ちているから その隕石の中には、地球上では見つかっていない種類の物質で構成されているものもある 私たちを生んでくれた大昔の隕石とは、また違った新しい隕石…… そのふるさとのかけらが、新しい命を届けているかもしれないからね あのねあのねお兄ちゃんっ、聞いて聞いてお兄ちゃんっ 夕飯後の食休みではたいてい千波が騒ぎ出す。 夕べ千波のところに妖精さんが来たんだよっ、それで宿題見てくれたんだよっ、おかげで雲雀ヶ崎に引っ越してから宿題の提出率が飛躍的にアップしてるんだよっ ……妖精さん? 夢の家庭教師の? 千波さんのお友達ですか? そうだよそのとおりだよっ、雲雀ヶ崎で知りあったんだけど私は千波を見守る者って言ってたよっ ……意味が不明 夕べに千波のところに来たのか? そうだよっ そんな人、うちに来てたか? わたしは知りませんけど…… ……同意 妖精さんはいつも夜遅くに現れるからみんなとは会ってないんじゃないかなっ、別れるときもいつも最後にどうせ夢ですからって言って忽然と消えちゃうからねっ ……要するに毎度の千波さんの妄想じゃないでしょうか そ、そんなこと言っちゃダメだよお姉ちゃんっ 千波の勉強見てくれるんなら妄想でもいいけどな たとえ夢でも妄想でも妖精さんは千波の友達であり家庭教師だからねっ ……代わりに宿題をしてくれる妖精さんなら私も一台欲しいです 一家に一台あると便利な妖精さんだよっ 家電扱いだ。 千波さん、妖精さんのおかげで宿題忘れずにすんでるんですね 妖精さんに教えてもらってちゃんと提出してるから先生に怒られないんだよっ、正解率はいつも一桁だけどねっ それはむしろ怒られろ ………… 蒼さんはどうなんだ? 千波と同じクラスだし、夕べは宿題あったんだろ? ……べつにどうもしません お姉ちゃんが勉強してるの見たことないけど…… お姉ちゃんは陰で努力するタイプだから 千波と一緒に誉められて追加の宿題もらってたよねっ 確実に誉められてない。 じゃあふたりは早く部屋に戻って勉強するように 追加の宿題はこのさい妖精さんの管轄にするつもりだから千波には関係ないよっ 私も妖精さんに頼みますから朝起きたらすべての問題が解かれているはずです 一家に一台あるとダメ人間へと堕落させる妖精さんだった。 メアってさ、人間じゃないよな わたしは死神よ それって人間とは違うよな 死神は死神よ 妖精とも違うよな ……妖精? 仙女みたいなものだ 仙女? 仙人みたいなものだ 仙人? 不思議な力を持つ人だ わたしは死神よ。それ以上でも以下でもないわ それは、俺がメアに言ったからだ。 俺がメアに初めて出会ったとき、妖精と言っていたら、メアは自分を妖精と呼ぶようになったのかもしれない。 メアは、本当は自分の正体がわからない。 わからない自分を、死神という言葉に当てはめているのだ。 そう考えると俺たち人間も似たようなものだろうか。 俺たちだって、自分のことをよく知らない。 判明している部分の自分なんてたかが知れている。 メアがなぜ人とは違って消えたり悪夢を刈れるのかわからないように、俺たちもなぜほかの動物とは違って笑ったり泣いたりできるのかわからない。 俺とメアの差は、人間と死神の差。 その差は案外、小さいのかもしれない。 メアは正真正銘、死神なんだな なに今さら言ってるの 言いたかったから言ったんだ 変なの…… ……って、なんで頭撫でるの 撫でたかったから撫でたんだ ……変なの でも、好きだろ ………… ……す、好きじゃない 今、迷ったな 迷ってないっ 抱きしめたいときは抱きしめるからな ………… ……や、やったら刺す 今、迷ったな 迷ってないっ 満天の星空の下、そんなふうに長くメアの頭を撫でていた。 ほんと、変なの…… 洋くんは、変な人…… それが文句なのかなんなのかはわからなかった。 だけど、メアは俺から離れることはしなかった。 今日は、夢は窓際に立っていなかった。 ベッドに横になっており、俺に気づくとゆっくり上体だけを起こす。 ……どうしたんだ? どうって? ベッドに寝てるからさ 病人がベッドに寝てちゃおかしい? おかしくない。むしろ普通だ。 だけどこれまでの夢は、入院するのが不思議なくらい元気に見えていた。 具合……悪いのか? そんなことないよ。いつもどおりの具合だよ 夏は終わりを迎え、だというのに夢は日焼けした跡がまったくない。 外にほとんど出ていない肌は白く、それは綺麗なのにこのときばかりは痛々しく感じた。 辛いなら、帰るぞ 普通だって言ってるのに 話してても平気なのか? それも、いつもどおりだよ 無理は絶対にするなよ そっちこそね 俺は関係ない 関係あるよ。うん、関係ある 無理にお見舞いしてるって私が感じたら、すぐに禁止するからね 楽しそうにほほえむ夢は、たしかに普段どおりに見える。 だけど人と会話するのは負担になる。これまでも俺は長居をしないように気をつけてきた。 もっと長く話したくても我慢しなければならない。 洋くん、我慢してそうな顔してる ……そんなことない 我慢してお見舞いしてるんだったら来なくていいからね それは確実にない 見舞いができるのなら時間は関係ない。 夢に会えなかったこれまでに比べれば些細な問題だった。 洋くん、この雲雀ヶ崎で星見ってしてる? 夢は思いついたように言った。 雲雀ヶ崎の星空ってすごいんだよ。私も病室の窓からよく見上げてるんだ 海にも鏡みたいに映って、天の川みたいにゆらゆら揺れて、とってもキレイなんだよ 洋くん、雲雀ヶ崎の星空を見上げてる? それだったら展望台でしてるぞ 展望台…… 覚えてるだろ? 覚えてないよ。うん、覚えてない ……それでもいいけど、夢見坂の上にあるのは知ってるだろ? そうだね 今は立ち入り禁止だけどさ ……そうだね 夢の声が残念そうに聞こえた。 だけどな、あそこって簡単に入れるんだ ……入れるの? ああ。俺、勝手に立ち入って星見してるからな そんなことしていいの? 見つかったら怒られるかもな 洋くん、ワルだね ……表現が古いぞ 私はワル、嫌いじゃないよ そうなのか うん。優等生になれる素質を持ってるからね 逆じゃなかろうか。 展望台、今はどんな感じ? 昔のまま、なにも変わってないよ 風のそよぎも草木の香りも。 頭上に広がる降るような星空も。 すべてが懐かしいまま、夢と作った想い出のまま。 だったら、手を伸ばせばつかみ取れるくらい星が近いのも、変わってないんだね どこよりも星とたくさん会話ができる場所なんだね 会話というか、観測な ううん、会話。星の光はメッセージ、私たちは望遠鏡を通して星と会話してるんだよ 会話だったら、俺たちも星に語りかけないとじゃないか ちゃんと語りかけられるよ 私たちは、星にメッセージを届けられるんだよ どうやって? ファンタジックな話の予感。 1970年代にNASAがビンに詰めた手紙を宇宙に向けて打ち上げてるの ……そういう答えなのか 〈OSETI〉《オセチ》が電波望遠鏡から暗号文を送受信してるって話もあるよ ……なんだよオセチって 光学的地球外知的生命探査のことだよ 飛鳥が聞いたらよろこびそうな話になっている。 それにね、そういう難しいことしなくたって、人間は自分で宇宙にメッセージを送ることができるんだよ 光を、届けることができるんだよ ううん、人だけじゃない、万物はみんな不思議な光を持ってるの あたたかい光をまとってるの…… 夜空の星と同じように ………… 赤外線写真なら深夜でも風景を撮影できるのがその証拠。全部、妖精さんの受け売りだけどね ………… うさんくさいって思ってる? 思ってるな あと三十年くらい経てば、望遠鏡の発達で第二の地球が発見できるって言われてる。宇宙人を見つけるのはそう遠くない未来かもしれないよ? ……夢は、星とじゃなくて宇宙人と会話したいのか 星とだって会話したいよ どうやって? 今日も一段と輝いてますねって ……いや、会話の内容でなくて 今後も変わらぬご愛顧をよろしくお願いしますって なんで営業のあいさつなんだよ…… もしかしたら洋くんは、もうお星さまと会話してるのかもしれないよ? 夢は悪戯っぽく笑っていた。 私たち人間は星から生まれてきた。宇宙人だって星から生まれてくるんだと思う じゃあ、星からこぼれ落ちた隕石──そこから生まれる命だってあるんだと思う ねえ、洋くん 有史以来、地球に落ちた100グラム以上の隕石は二万個なんだって そのうち、世界で正式に確認されたものは二千個くらい ほとんどの隕石は彗星の塵。だけど稀に、宇宙を長く旅した星のかけらもやって来る そこには光が宿っている…… 未知の命が宿っている 洋くんは、その誰かともう会ってるのかもしれないね 結局、夢はなにを言いたかったのか。 楽しそうに笑うだけで、夢は答えてくれなかった。 あのねあのねお兄ちゃんっ、聞いて聞いてお兄ちゃんっ なんだ、また妖精さんと会ったのか? そうだよそのとおりだよっ、でも妖精さん引っ越しちゃって今後は気軽に会えないって言われちゃったんだよっ 昨日言ってた追加の宿題はどうなったんだ? 妖精さんのお持てなしでいそがしかったからどうもしてないよっ どうもしてくれ頼むから えと、お姉ちゃんは宿題どうだったの? ……妖精さんは来なかったけどこびとさんが終わらせてくれた 蒼さんも妄想するようになったんだな……。 おかげで今日は先生から追加の追加の宿題をもらっちゃったよっ、妖精さんの引っ越しの餞別にできそうだよっ ……そのときはぜひ私の宿題も餞別に 着実にダメ人間の道を歩んでいる。 あの、じゃあわたしもなにかプレゼント用意しますね。妖精さんにも会ってみたいし…… 了解だよっ、次に妖精さんに出会ったらみんなのこと伝えておくから待っててねっ は、はい、楽しみですっ ……それまでに宿題をためておくことにする 千波もそのつもりだよっ、きっと妖精さんはクスクス笑ってよろこんでくれるんじゃないかなっ ダメ人間ふたりが鈴葉ちゃんまで巻き込んで堕落させないことを祈るのみだった。 メアは、雲雀ヶ崎の星空が好きだよな べつに 星と会話ってしたことあるか? ……ないけど してみたいって思うか? 洋くん、できるの? 俺はできない。だけどできるなら、してみたいか? ………… ……べつに 今、迷ったな 迷ってないっ できるとしたら、どの星と会話してみたい? ………… メアはゆっくりと秋の星空を見上げる。 ……あれがいい どれだ? 洋くんが聞かせてくれた星 七夕か うん 秋の織姫と彦星はすでに舞台から降りていて、その輝きは低く小さくなっている。 今は、来年の再会に向けて天職に務めているんだろう。 織姫と彦星、どっちと会話したいんだ? どっちもしたい ふたりに言いたいことがあるのか べつに なにを話したいんだ? どうしてわたしをひとりにしたのか…… ……え? ……え? ふたりで首をひねっていた。 わたし、今なんて言った? ……どうしてわたしをひとりにしたのか わたし、なんでそんなこと言うの? 俺に聞くな メアは視線を落とした。 自分でも理解できなかった今の言葉。 頭で反芻しているんだろうか。 今のって、さ ………… メアの、忘れてしまった記憶のかけらなのかもな ……そうかな きっとそうだ わたし、どうして自分のことがわからないの? 忘れてしまったのか、それとも最初から知らないのか 最初から知らないなんてこと、あるの? 赤ん坊の頃の記憶を持っている人はいないぞ それは、忘れたってことじゃないの? そうだな。そうかもな わたし、どうして自分のことを忘れてるの? 俺と同じで、誰かが刈ったのかもしれないな ………… だけど俺は思い出した。だからメアも思い出せる 絶対に ……そうかな 絶対そうだ 記憶を忘れるっていうのは、消えてなくなるってことじゃないからな そうなの? 質量保存の法則に照らし合わせるとな なにそれ 化学反応の前後で元素の種類と量は変わらないって法則だ なにそれ ゼロっていう概念は物理的にはありえないんだ。真空だって粒子が存在してるから なに言ってるのかさっぱりだわ すべては変わったように見えて、なにも変わってないってことだよ ………… だからメアは忘れていても、思い出せる。その記憶はどこかにちゃんとあるからな ……そう そうだ さっきからなんで頭撫でてるの? 撫でたかったからだよ ……バカバカ そうだな じゃあ、この気持ちも…… 洋くんに撫でられる、気持ちも…… この気持ちも……途中で生まれたように感じて、最初から持っていたってことなの……? どうだろうな どうなの? わからないな ……ウソつき そうだな 星空が移り変わるように人の心も移り変わる。 だけど本質は変わらないのかもしれない。 夢が過去に背伸びをしていたように、メアが自分を大人のお姉さんと言うように。 今の夢も、昔と同じでどこか無理をしているのかと。 メアも無理をしているのかと、そんなことを思っていた。 授業が終わり、夢の見舞いに向かうため昇降口を目指していると、見知った相手とばったり会った。 やあ、これから帰りかい? はい。今日もすみませんけど 明日歩クンから聞いてるよ。先方にお大事にと伝えておいてくれるかい わかりました。ありがとうございます 天クルを休んでも岡泉先輩は文句を言わない。 たまに挙動がおかしくなるくらいで、先輩は穏和な人だ。 名前の温土はぴったりだと思う。 先輩はこれから部室ですか? そうだよ。教務室でこれを受け取って、今から持っていくところさ 岡泉先輩の手には天クルのシンボルとなっているカレイドオルゴールがあった。 直ったんですか? ああ。おかげさまでね ……すみません、前は壊してしまって 皮肉のつもりじゃないよ。バネが飛び出たのを見たときは驚いたけど、故意じゃないと聞いていたし それに、今はこうして直ったからね メアがポカポカ殴って壊した部分も修復できたようだった。 オルゴールもちゃんと鳴るんですか? 元顧問からはそう聞いてるよ 試してみました? まだだけど ……実は鳴らないってオチじゃないですよね? もしくは呪いの声が流れるか。 そんなことは……いや、あの先生はどうも修理に乗り気じゃなかったようだったし…… 不穏な空気が漂う。 これでもし鳴らずにシンボルが潰えたら天クルはまた廃部の危機に陥って…… ……目が血走ってきた。 ハァハァ……ハァハァ…… あの……今、試してみたらいいんじゃないですか? そ、そうだね…… 岡泉先輩は底のネジを巻く。 回転皿が回り出し、オルゴールの曲が響き始めた。 あれ、このメロディって……。 イィィィィヤッッッッッホオオオゥゥゥゥゥ!!!! なんですかいきなり!? うへへへぇぇ……ひさしぶりのシャバの空気だぜぇぇ…… 野獣の目つきに変わっていた。 そうか……夕べは死兆星がちらついたからな……そこに過剰な興奮で……うへへへぇぇ…… 今にもヨダレが垂れそうだ。 ……知恵の輪は部室に置いてあるので、エサを与えることができない。 岡泉〈凍土〉《とうど》……参上だぜぇぇ…… なにやらぶつぶつ言っている。 あの……岡泉先輩? あぁ? 肉食獣の瞳がぎょろりと向く。 ……回れ右しようかな。 このオレサマはあんたの言う岡泉じゃねえ。温土じゃなくて凍土だ は、はい? めんどくせえな……オレサマが説明すんのか…… 首をコキコキ鳴らしてから、 この身体はある特定の電磁波に過敏に反応するのさ。アレルギーみたいなもんだ 温土のやつが死兆星と呼んでる星の光のことだがな。そいつを浴びてなにかしらキッカケがあると、ご覧のとおりってわけさ 俺は今の説明を頭で反芻する。 つまり……二重人格? そんなところだな。同じ岡泉でも、この凍土サマは温土とは違うってわかればいい 驚愕の事実だった。 岡泉先輩にはこれまでも兆候があったが、できれば対面したくなかった気がする。 あんた、小河坂洋だろ。オレサマと温土は記憶の共有に限度があるが、それは知ってるぜ は、はぁ…… あんた、最近部活を休んでるらしいな。温土のやつが気にしてたみたいだぜ 岡泉先輩が? ああ。あんたが休むのは、部長の自分が頼りないせいかってな ……それは違います。個人的な理由ですから 温土も捜すのを手伝った、夢ってやつの見舞いだな そうです。俺、岡泉先輩には感謝してるんです 夢と再会できたのは天クルのおかげですから…… その天クルを守ったのは、他ならぬ岡泉先輩なんですから 本人に面と向かって言うと照れることも、人格が違うせいかすんなりと口にできた。 天クルは、温土が入学した当時は廃部を検討されていたからな それを撤回させるのに、デモにシュプレヒコールにがんばってやがったよ。オレサマも一役買ったがな 俺、岡泉先輩を尊敬してるんです。頼りない部長だなんて考えたこともないですから だから気にするなって? はい その言葉、温土に届けばいいけどよ 凍土と名乗った先輩は、かったるそうにそう言った。 行けよ。見舞いがあるんだろ 金曜の天体観測は出ますから 温土もあんたも、わざわざ夜の屋上に出向いてまでよくやるぜ。なにが楽しいのか理解に苦しむね ……天体観測、嫌いなんですか? オレサマは温土とは違うって言ったろうが わしわしと後ろ頭をかいた。 ……だけどまあ、オレサマと温土は、結局のところ本質は同じなんだ 認めたくはねえけど、変わったようでいて変わってねえってことなんだ だから、天体観測なんぞは理解に苦しむが、雲雀ヶ崎の星空は嫌いじゃねえよ ここは死兆星もよく見えるからな 岡泉先輩は去っていった。 手にはしっかりとオルゴール。あの人格のまま部室に行くんだろうか。 そして部活をするんだろうか。 だとしたら、凍土も温土も、やっぱり岡泉先輩だということだ。 ……あの先輩を見て、明日歩たちがどう反応するのか気になるけど。 お、今日は体調よさそうだな べつにいつもどおりだよ 元気に外見てたじゃないか なにそれ。変な洋くん 夢は窓に手をついて俺に振り向いている。 洋くんこそ、今日はいつもより遅かったじゃない ちょっと驚愕の出会いを体験しててさ 洋くんの初恋の相手にでも出会ったの? ……違うから 俺の初恋の相手は目の前にいるのかもしれないのに。 周りからもよく冷やかされているのだ。 とはいえ俺は、夢が初恋だと断言できるわけでもない。 ただ、初恋が夢でないとすると、そんな人とは俺はまだ出会っていない。 なに? 私のことじっと見て ……いや。さっき言ってた人が、夢にお大事にだってさ ありがと。洋くんのお友達なんだ まあな ………… なんだ、じっと見て そっちこそ、女の子のパジャマ姿をまじまじ見てたのはどうかと思うよ ……夢はいつもパジャマだろ それでも、だよ 夢はくすくす笑ってベッドに戻る。 俺は嘆息して椅子に座った。 洋くん、この雲雀ヶ崎で星見をしてるって言ったよね ああ。天クルに入ってるからな てんくる? 天体観測愛好サークル、略して天クルだ この前、部活に昇格したんだけどな 洋くん、天文部に入ってるんだ ヒバリ校のな 星、好きなんだね 夢の影響でな そうなんだ 展望台でよく一緒に遊んでたからさ 私じゃなくて、想い出の女の子ね あくまで認めないんだな 認めないよ。うん、認めない これ以上は不毛な争いになるのでやめておく。 部活動、楽しい? 楽しいよ 学校、楽しい? 楽しいよ そっか。よかった にこっとほほえむ。 その態度は想い出にある夢とは反対のようでいて、同質のものにも見える。 洋くん、誰に優等生だなんて言われてるの? 担任の先生とか その人がしょあくの根源なんだね ……そんなことないよ。先生、すごくいい人だよ そう思わせるのがその人のねらいなんだよ ……違うと思うけど ダメだよ洋くん、その人のかんげんに耳を貸さないように注意しないと ……どうしてそこまで悪く言うの 先生なんてそういうものだよ 学校なんて、そういうものだよ…… 学校、嫌いなの? ………… 洋くん 名を呼ばれ、離れていた意識が戻る。 都会ではどうだったの? ……え? 都会の学校でも、天文部に入ってたのかなって いや、入ってないよ じゃあ最初にしようとした質問に戻るね。洋くんは、雲雀ヶ崎で星見をしてるみたいだけど 都会でも、してた? ……そうだな 過去の「僕」を思い返す。 都会でも、たまに夜空を見上げてたよ どうだった? あまりよろしくなかったな そう言うと思った 夢はうなずいた。 私ね、おばあさまに教わって天体写真を撮ってみたことがあるんだよ 病院の屋上でね。おばあさまから望遠鏡とカメラを借りて、使い方を教わって…… だけど、写真に写った星はたったの二個だったの 織姫と彦星だけ。ほかの星も輝いているはずなのに、撮れなかった 街の明かりが邪魔してね、撮れなかったんだ 都会の夜空は晴れていても、ネオンの光やスモッグのせいで星がぼやけてしまう。 織姫や彦星くらい輝いていないと捉えられない。 雲雀ヶ崎では見えていても、都会では見えない星はたくさんある。 あとね、写真は夜空のはずなのに真っ青に映ったんだよ おばあさまは、これもやっぱり〈光害〉《こうがい》のせいって言ってたけど…… 私はそのときね、都会の夜空は、雲雀ヶ崎の青空に似てるって思ったんだ だから、私は都会の星空も好きになれたんだよ ものは考えようだな うん。ただ、都会だと流れ星が見えないから、それだけは残念だったかな 願い事でもしたかったのか? ……そうだね 夢は困ったような、辛そうな顔をする。 だけど、私は、もう願い事をしちゃってたから 星の神さまだっていくつも願い事されたら大変だと思うし、一度で充分だって思うことにしたよ なあ、夢 夢はいつもの表情に戻って俺の言葉を待つ。 流れ星に願い事って、いつしたんだ? えっと、内緒だよ なにを願ったんだ? それも、内緒 洋くんに話してご利益がなくなって叶わなくなったら、嫌だからね 流れ星に祈りを捧げると、願いが叶う。 夢は信じているのだろうか。 過去の「僕」は、信じていただろうか。 彗星なんかは、昔から〈妖星〉《ようせい》って呼ばれてて、凶兆の〈標〉《しるし》みたいに言われてるみたいだけど…… 流れ星には、願いを叶えてくれる希望みたいなのが宿ってるのかもしれない そういう光が宿ってるのかもしれないね メアは、流れ星に願い事とかしたことあるか? 願い事? ああ。流れ星に願い事をすると叶うって言われてるんだ ふうん したことないんだな 悪いの? 悪くない。でも、してみたいと思わないか 思わない なんで そんなの迷信に決まってるから 俺は苦笑する。 過去の「僕」も同じように考えていたはずだった。 だけど、俺はたしかに願い事をしていたのだ。 叶うわけがない、だけど叶うかもしれない。 わずかな可能性にすがる心境で。 夜空──いや、あれは夕空だっただろうか。 あの日、俺は強く輝いた一番星に祈っていた。 とても長い間、空を流れていたその星に願いを込めていた。 ……メア メアにはなにか、叶えたい願いってないのか? ………… メア? ……最近、よく撫でられてる気がする そうかもな どうして…… 撫でたいからな ……バカバカ メアの願いは頭を撫でてもらうことか? ………… ……ちがう 迷ったな 迷ってないっ 触れられてると、ひとりじゃないってわかるもんな ………… メアはひとりじゃないからな なぜひとりにしたのかと、七夕の星につぶやくそれは、自分の正体に対する不安なのかもしれない。 俺も、天クルのみんなだっているんだからな ……バカバカ 言われなくたって、知ってる だいたいわたしは、最初からひとりじゃない 約束があるんだから 約束は、ひとりでは交わせないから…… だから、わたしはひとりじゃない だからわたしは決して約束を破ることはしない──── 夢と再会を果たしてから、一ヶ月が過ぎた。 俺は連日、夢の見舞いに行っていた。 夢が病室で検温や採血をしていたときは、不安を覚えながら廊下にいた。 検査で病室を留守にしていたときも、戻ってくるのを待ちながら同様の気持ちを抱えていた。 そんなとき、決まって夢はこんなふうに言うのだった。 私がいない間、ちゃんとおとなしくしてた? お行儀よく椅子に座ってた? ……俺は子供か 夢は昔も今も、こんなふうにお姉さんぶっている。 まあ実際にお姉さんなのだから文句を言う筋合いはないんだろうけど。 で、どうだったの? おとなしく待ってたよ ほんとに? なんで疑うんだ ベッドの下とかあさってたらやだなって なにか隠してるのか うん なに隠してるんだ? エッチな本 ………… ……女の子の口から言わせないでよね、もう いや……本気で? ウソに決まってるよ 夢はくすくす笑いながらベッドに戻っていく。 俺はため息をつくしかない。 こんなやり取りは嫌いじゃないのでいいのだけど。 いや、むしろ俺は好きだった。 夢の見舞いが好きだった。 夢と話すのが好きだった。 夢のそばにいるのが好きだった。 洋くん、今日でお見舞い何回目かな 夢と出会って一ヶ月だから、三十回くらいになるな 毎日来てるよね そうだな 大変じゃない? 大変じゃないな ほんとかなあ 本当だ。だからお見舞い禁止にするなよ 洋くん、もう妖精さんを凌ぐペースになってるよ その家庭教師、どのくらいの頻度で来るんだ? 三日に一度くらいだよ そのわりに俺、会ったことないぞ いつも洋くんが帰ったあとだからね 俺は陽がかたむく頃には病室を出ている。 この病院の面会時間は夜八時までなので、勉強は夕方からその時間までやっているんだろう。 今はなんの勉強してるんだ? 宇宙について ……天文に関するものばっかりなんだな うん。妖精さん、昔は天文部に入ってたみたいで。得意科目みたいだよ 夢は天文学者になりたいのか? 考えたことなかったけど。なれるならなってもいいかな 学者になるには、天文学だけじゃなくてほかの教科も勉強しないとな 天文学者にならなくていいや ……そんなあっさりと 妖精さんから聞いたんだけど。洋くん、知ってる? 夢は天文について話すとき、まるで自分が先生になったような態度になることがある。 そのときの夢はとてもうれしそうだ。 俺に星を教えることを楽しんでいる感じ。 同時に、今のうちに教えたいという性急さも感じる。 それが俺を不安にさせることもある。 天文学者や宇宙物理学者はね、たったひとつの数式で宇宙の神秘を表わそうとしてるんだって でも、数式を発見しても宇宙技術が発達するとすぐに矛盾が生じちゃう。だから日々研究を続けてるんだって 宇宙って、すっごく広いのに 数千億あると言われている銀河のひとつが、私たちの天の川銀河で…… 天の川銀河にある二千億の星のひとつが、私たちの太陽で その太陽の周囲を回る惑星のひとつが、私たちの地球 そして、そんな地球に住む私と洋くんは、六十六億人のうちのふたりでしかない そんなちっぽけな私たち だけど宇宙を語ろうとする私たち それってなにか、身の程知らずにも思えるけど…… 私たちは、宇宙で暮らしているのと同じなんだから 我が家がどんなところか知るくらい、べつに悪いことじゃないよね? まったくだな だけど、宇宙を知る前に地球を知ったほうがよさそうな気もするな そうかな 宇宙が家なら、地球は部屋だろ。地球の内部がどうなってるか俺たちはまだ把握しきれてないんだから そうなの? 地球内部を構成する岩石は未知の種類のものだって、本で読んだことあるぞ ………… なんか不機嫌だ。 ……洋くんに教えられた 昔はよくあったじゃないか ……だからやだったのにな 俺たちが昔一緒に遊んでたって、認めてくれるのか? 認めないよ。うん、認めない ネタはあがってるんだけどな あがってないよ。うん、あがってない 俺、夢を忘れることは二度とないから ………… 俺、夢のことが…… 口にして初めて気づくこともある。 そうか。 俺は、夢のことが。 意外でもなんでもない、だけど自信があるわけじゃなかった。 今も自信があるわけじゃない。 過去の「僕」が抱いていた気持ちが初恋だったかなんてわからない。 だけど不意に出そうになった言葉が、告げようとした俺の心が、すべての証じゃないだろうか。 夢に、告白しよう。 それでどんな結果になるにせよ、ひとつの区切りになるだろう。 俺と夢、ふたりきりのお見舞いの区切り。 俺は夢につきあって欲しいと告白し、それから仲間をここに連れてこよう。 友達に夢を紹介しよう。 夢に友達を紹介しよう。 みんなにはここまで待ってもらったんだ、俺の心の整理を待ってもらったんだ。 だから、これ以上甘えるのは許されない。 私のことが……なに? 俺は席から立った。 また明日、来るよ ……話の途中だったよ? それも含めて、また明日 話しづらいことだったの? ちょっと勇気がいることなんだ そして宇宙の神秘を解くより難しいことだ。 洋くん 夢は、俺をじっと見つめてくる。 変な話だったら、お見舞い禁止にするからね わかったよ、と俺は応じた。 結果がどうなるか、それは知らない。 いくら宇宙が広くとも、未来を知っているものなど居はしないのだから。 もうすぐここに彼が来る。 夜になるといつも訪れる洋だから、だいたいの時間は感覚でわかるようになっている。 メアはかささぎを膝に載せ、頭や喉を撫でながら彼の到来を待っている。 洋くん…… こうしていると決まってメアは考えてしまう。 洋と夢のこと。 なにがキッカケかは知らないけれど、洋は夢の名前を思い出した。 メアが奪ったはずの想い出を取り戻した。 それどころか夢と再会を果たしたようだった。 夢は病院暮らしをしているらしく、洋は毎日のようにお見舞いに行っている。 展望台で星見をしながら洋と話していると、節々からそれは簡単に察せられた。 これで、よかったのかな…… メアは夢と約束を交わしている。 だから洋の悪夢を刈ったのだ。 だというのに、洋は夢と会っている。 洋は夢のそばにいる。 そばにいようとする。 その状態は、夢との約束を反故にしていることにはならないだろうか。 誰かとの約束をなによりも重視するメアだから、ことさら気にかけているのだった。 また、やるしかないのかな…… 洋くんから……悪夢を刈るしかないのかな…… 正直、メアは人の悪夢を刈ることが好きじゃない。 そうすると決まってメアは辛くなるから。 胸が苦しく、せつなくなって涙がこぼれてしまうのだ。 まるでその人が苦しんでいた悪夢が、メアに転移でもしたかのように。 その人の代わりにメアが泣く。 それは長く続くような感情ではなく、一時の感傷みたいなものなのだけど。 望んで辛くなりたいとは思わない。 泣きたくなんかない。 だから、メアは洋の悪夢を刈りたくない。 本音ではそう思っている。 それに……洋くんも、辛そうにするから…… 彼女のこと忘れると……悲しむから…… メアは、かささぎの頭を撫でている。 誰かの傷を癒すみたいに撫で続ける。 わからない…… わたし……どうしたら…… どうすれば……いいのかな…… ……そうですね ………… キミはまず、隠れるべきだと思います…… 今のままでは、不用心ですから…… 突然聞こえたその声に、思考に沈んでいたメアは顔を上げる。 いくらここが立ち入り禁止でも……そんなふうに姿をさらすのは感心しません…… ぼんやりしているなんて……考えられません…… この地はまだ……安全ではありません…… 以前のように隠れているべきです…… せめて洋さんが来るまでは……姿を隠していることをオススメします…… ……誰? メアが立ち上がるとかささぎも起き出して、翼をはためかせて飛び立った。 メアと、そしてもうひとりの頭上を、星空を泳ぐように旋回する。 いちおう、初めましてではありません…… メアにとっては見知らぬ少女が、正面に立っている。 オルゴールをポカポカ殴られた恨みは覚えています…… わたし、あなたなんか知らないわ そうですか…… メアは鎌をぐっと握る。 この夏に、巫女装束を着た者に襲われたことは覚えている。 そのせいで洋がケガをしたことも鮮明に覚えている。 思い出すと、胸がムカムカする。 自分が危険にさらされたからというよりも、洋に守られたということにムカムカを覚える。 そのムカムカは、本当はドキドキなのかもしれないけれど、胸が苦しいことには変わりないのでメアは一緒くたに考えている。 本当に、私を知らないんですか…… この姿を見ても、わからないと言うんですか…… あなたみたいな子供、知らないわ 子供ではありません……。失礼です…… 子供にしか見えないんだけど キミよりも大人です…… わたしのほうが大人よ クスクス……ちゃんちゃらおかしー…… ……腹立つんだけど キミは目覚めてから七年ぽっちしか経っていませんから……二十年以上経っている私のほうがずっとずっとお姉さんですから…… あなた、なんなの キミと同類のものです…… あなたなんか知らないわ この〈死鎌〉《しれん》……ギリシャ神話ではタナトスと名を変えて伝えられる、〈天津甕星〉《あまつみかぼし》の宝具を見ても……? なに言ってるのかさっぱりだわ キミも持っているじゃないですか…… これは死神のカマよ クスクス……ちゃんちゃらおかしー…… ……腹立つんだけど かささぎが降下してくる。 飛び回るのに疲れたのか、メアの頭に着地して翼を休めた。 キミは、まだなにも思い出せていないんですね…… 思い出していたら……私だけじゃない……その子がなぜ生まれたのか、その正体も思い当たるでしょうに…… ……かーくんのこと? 名前は知りませんが……その幻獣のことです…… かーくんはわたしの〈僕〉《しもべ》よ クスクス……ちゃんちゃらおかしー…… ……腹立つんだけど しょうがありませんね……キミはまだまだ子供ですから…… わたしはあなたよりお姉さんよ 違います……私のほうがお姉さんです…… わたしのほうよ 私です…… わたしよ キミ、負けず嫌いですね…… それはそっちだと思うんだけど いいですよー……子供になに言われたって痛くありませんよー…… 負けず嫌いのセリフなんだけど いずれ後悔させてあげますから…… 負け惜しみのセリフなんだけど 今夜はひとまず退散します……。また、会う機会もあるでしょう…… 結局なにしに来たの、あなた いけない巫女を見かけたので……びっくりさせて追い払ったんです…… キミを、守ってあげたんですよ…… 子供に守られるほど落ちぶれてないんだけど 失礼です……ムカムカです…… バカバカの間違いじゃないの キミなんか洋さんに頭を撫でられていればいいんです…… ………… そこで赤くなるんですね…… な、なってないっ クスクス……ちゃんちゃらおかしー…… ……いいかげん我慢の限界なんだけど それでは……連れが待っていますので…… 少女は立ち去った。 メアの持つ鎌と似たような鎌を揺らしながら、展望台を出る。 メアは追いかけて自前の鎌を刺してやろうかと思ったが、洋と入れ違いになったら困るのでやめておいた。 かささぎが、ばさばさと翼を広げてまた飛び立った。 ……なんなの、この気持ち 自分は洋を待っている。 彼を待ち望んでいる。 それは彼に会いたいということ? 頭を撫でられる自分を想像する。 そうすると胸が苦しい。 せつない。 変な気持ちになる。 違った意味で泣いてしまいそう。 これを洋に聞いたら、恋とでも答えるのだろうか。 ……バカバカ そう言い残し、メアも立ち去った。 今夜はもう、洋に会うことができなくなったから。 ぼー 置いていかれたかささぎが、言葉の代わりに炎を残し、主人を追って星影に消えた。 いないな…… かれこれ三十分ほどメアを捜しているのだが、まだ見つけ出せずにいる。 最近はかくれんぼもご無沙汰だったというのに。 久々ということでメアは気合いを入れて隠れてしまったんだろうか。 それとも今夜は来ていないのだろうか。 ……話したいこと、あったんだけどな 俺は明日、夢に告白するつもりだ。 そうすることで俺は夢に対する気持ちに整理をつけられる。 想い出に決着をつけられる。 明日歩が俺にしたように。 俺も決意するときが来た。 ……俺も、がんばらないとな そして、そのあとには友達を夢に紹介したかった。 そこにメアも誘うつもりだったのだ。 一度、夢に会って欲しかったから。 その頃には、俺は知ることができているかもしれない。 メアが、なぜこの展望台で俺を待ち、そして悪夢を刈ったのか。 夢の想い出を奪おうとしたのか……。 ……ちゃんとした理由、聞かせてもらうからな ずっと疑問に感じていた、だけどこれまで尋ねることはしなかった。 俺が聞くべきだと確信したときには、メアが自分から話してくれるから。 俺は、確信できるだろう。 夢に告白したあとの俺なら、その勇気を得ているだろう。 知る覚悟を得ているだろう。 もう三十分捜してみたが、結局メアとは会えなかった。 やっほー、待ってたわ ……その格好でそんな軽いあいさつはいいのか 星天宮について話があるって聞いたから、面倒だけど正装にしただけよ。こっちは晩酌してたってのに 急だったのは悪かったよ ………… ひさしぶりね、レン。三嶋先生と一緒に元気してた? おかげさまで……お守りは大変ですけど…… 誰が誰のお守りなんだか 私が大河くんのお守りに決まっています…… あはは、相変わらずみたいで安心したわ レンは夜にしか姿を出さないし、そっちは気軽に会えないからな 総一朗と詩乃も会いたがってると思うわよ そうですか……総一朗くんはいいですけど…… 詩乃には会いづらいの? ………… 気にするなとは言ってるんだがな 先生が言ってもしょうがないでしょ、一番気にしてるのは先生なんだから ……手厳しいな レン、機会があったら詩乃と会ってあげて。詩乃は必ずよろこぶから そうは思えませんけど……わかりました…… あいさつはこのくらいにしてだ。本題があるんだが 星天宮についてってことは、レンに関してね そうとも言える べつに、レンを星天宮に売ろうなんて考えてないわよ。昔からそれは変わってないわ 当時の私は星天宮の巫女であるより先に天文部が好きだったし、神主となった今でも部員は仲間だと思っている そこには先生もレンも含まれてるのよ わかってるさ。実際、レンを討伐にやって来る巫女なんてこれまで一度も見かけなかった ……これまで? ああ、これまではな 正確には、私が目的ではないようですが……その者は、展望台を窺っていましたから ……星天宮の巫女に会ったの? レンが展望台で見つけたそうだ そのときは、姿を見られないように足音を立てて、追い払いましたけど…… 星天宮が生業とする、まつろわぬものの討伐──〈鎮悪神〉《ちんあくじん》は、一般人に目撃されたくない類の仕事だからね。レンの判断は正解だわ 状況を聞くに、その巫女は展望台の死神を狙っているかもしれないんだ 展望台の死神は雪菜からも報告を受けてるけど。それってレンのことでしょ 私はレンのことを星天宮に報告していない。昔も今もするつもりはない だからその事件は私のあずかり知らぬものよ 待った。おまえ、勘違いしてるぞ なにがよ 展望台の死神はレンじゃない。メアって名前の少女だ ……誰それ 千波さんから聞いた話では、天クルで一緒に天体観測をしている宇宙人だそうです…… 私も実際に会ってみましたが……とてもムカムカな子供でした…… レンと同類って考えるのが妥当だろうな 私は宇宙人ではありませんが、そう考えます…… ……展望台の死神というのはメアって少女のことで、その正体は〈星神〉《せいしん》だって言いたいの? 私も大河くんも、そう考えています…… じゃあなに、この雲雀ヶ崎にはいつのまにやら三人もの〈星神〉《ほしがみ》様が集っているってわけ? レンにメアに、おまえの娘のこさめで三人だな レンの〈依代〉《よりしろ》は先生の隕石、こさめの〈依代〉《よりしろ》は雲雀ヶ崎隕石、じゃあ展望台の死神の〈依代〉《よりしろ》は…… 俺たちの知らない隕石がまだこの地にあるってことだろうな ……なんて土地の神主になったのよ、私は その悲運に対しては同情してやるさ 善良な私たちを勝手に厄介者扱いする星天宮には同情しませんが…… ……私に用ってのは、その嫌味のことかしら 展望台の死神を討ちたがってる巫女について聞きにきただけだ レンにも被害が及ぶとも限らないからな 私は……大河くんに守ってもらわなくてもなにも問題ありませんけど…… そう言うな、ほら あ、頭……撫でないでください…… 私は、展望台の死神をレンだと考えていた。雪菜から報告を受けても捨て置けと命じている だからその巫女については私も知らないわ だがどう考えても星天宮の巫女だぞ おそらく雪菜と同じで総本社の巫女でしょうね。だから雪菜が私に背いて、展望台の死神のことを総本社に連絡したか…… あるいは、ほかの目的で巫女が派遣されてきたか 私や、展望台の死神を討伐するほかに、心当たりでもあるんですか……? ひとつだけあるわね なんだ? うちの娘のこさめよ ………… こさめはね、星天宮でも問題になってるのよ。〈星神〉《せいしん》の力を借りた〈星霊〉《せいれい》なんて例は、これまでになかったから それでも今までは静観を決め込んでいた。こさめの扱いは私に一任してたのよ 私がこさめを送り還すために雪菜の派遣を依頼してからも、その態度は変わらなかった。むしろより顕著になったかもしれない だけど、ここにきて気が変わったのかもね。そうなったのもうなずけるわ 雪菜は、仕事を降りてしまったから こさめを送り還すことができなかったから ……たしかに、理屈は通るな 総本社の巫女でも送り還せないまつろわぬものでしたら……危険視するのも無理はないかもしれません…… こさめはそのくらい荒ぶってるとか思われたのかもね。その逆だってのに、連中は頭が硬いから 私に通達なく巫女を送り込んできたのも、問答無用ってことなんでしょうね 諏訪は、態度はでかいが根は真面目な生徒だ。彼女は今、そっちでどうしている? 星天宮に処分を請うとか言ってたけど、ここに留まらせてるわ。帰ったらもう戻って来れないでしょうし 本当にこさめが狙われてるんなら、今後も留めておこうかしらね。もともとボディガードをお願いするつもりだったし そのあたりは俺が口出す領分じゃないが、助けが必要なときは言ってくれ 荒事には先生よりレンのほうが役立ちそうだけどね ご希望でしたら、いけない巫女をカマでざっくり刺してあげます…… 相手のまつろわぬものを送り還しても撃退にはならなそうだけどな 〈柄〉《つか》でポカポカたたいてあげます…… あはは、そのときはよろしく頼むわ できれば荒事にならないよう、その巫女にお帰り願いたいところなんだがな 派遣された巫女が誰なのかまだわからないし、今はなんとも言えないわね それでは……ひとまず用事は終わりでしょうか…… とりあえずは警戒を怠るなってところか こっちのごたごただから、なるべく迷惑かけないようにはするわ そうしてくれと言いたいが、協力できるところはするさ。なんだかんだでおまえはかわいい教え子だからな この歳にもなってそんなこと言われるとくすぐったいわね 夜分遅くに悪かったな、万夜花 帰るの? 晩酌くらいつきあいなさいよ 私は……お酒は苦手です…… 神さまのくせにだらしないわねえ 失礼です……ムカムカです…… あはは、今さらだけど不思議な存在よねえ、あんたって 星天宮の神主が、本当に今さらだな 私はもともと現実主義者なのよ。娘のこももだってそうだしね それでも神社を継いだんだな 摩訶不思議大冒険は大好きなのよね 矛盾してるし、そのうちバチが当たるぞ…… レンは自分のことって説明できないのよね はい……この星に伝えられる神話から、おおまかには知ることができましたが、その程度です…… キミたち人間が自分の生体を完全に説明できないことと同義です…… 先生はレンのこと、どれだけ理解してるの? そうだな。俺たち人間がモノを見るには光が要るのは知ってるよな? まあ、暗闇じゃなにも見えないからね それに、私たち星天宮は〈採物〉《とりもの》の光を借りて、まつろわぬ神を目視することもあるし じゃあ最たる闇である宇宙の観測には電磁波を利用してるのは知ってるか? 電波天文学や重力波天文学の分野なんだが ……そんなの知らないわよ 俺たちがなにかを見る、なにかを知覚するには光を始めとする電磁波が必要なんだ だが現代の宇宙観測はな、電磁波の全波長域を使っているわけじゃない 理由は簡単だ。使いたくても使えないからだ 俺たちは電磁波の全貌を知らない。まだ研究途中の領域が残されているんだよ だから宇宙にはいまだ多くの謎が残されている それはレンにも当てはまる。俺たちにレンが見えたり見えなかったりするのは、そういうことだ 科学に限界があるように、俺たちの視覚にも限界がある 宇宙を観測するのに限界があるように、レンを知覚するにも限界がある そもそもレンをまともに知覚するための光は三次元情報だけでは足りないからな ……待って。もっとわかりやすく説明して いいか、要するにレンは俺たちよりも高次元の存在なんだ 次元というのは解釈は多様だが、簡単に言えば物理量の座標のことだ。次元の差というのは座標軸の違いのことだ とすると、それは物理法則の種別と呼べる レンは俺たちと違い、三次元の物理法則には縛られない 低次元の存在は高次元に干渉できないが、高次元の存在は低次元に干渉できるからだ たとえば、二次方程式を知っていれば一次方程式は解ける。だが一次方程式を知っているだけでは、二次方程式を解くことはできない それと同じことなんだよ ……やっぱり意味不明。なにそのSF 普通に現代物理学の範疇だ 学者ってのはこれだから嫌いよ べつに俺は物理学者じゃないがな。数学教師だ 私から見たら同じようなものよ、引きこもって一生自己満足な空論さえずってなさい ……相変わらずクラッシャーだな、足だけじゃなく口も 大河くんの言う電磁波というのはよくわかりませんけど……宇宙には、たくさんのエネルギーが満ちています…… 大河くんの持つ隕石にも……それが満ちているんだと思います…… そうだな。電波や可視光線、赤外線、紫外線、エックス線、ガンマ線といった様々な波長の電磁波…… 宇宙では、それらを含む高エネルギーの宇宙線が絶えず飛び交っている その中には俺たちの知らない光も含まれている そんな宇宙を長い時間旅した隕石が、それらを乗せて地球へと落ちてくるとしたら…… 俺たちは、こいつのおかげでレンを知覚できている 俺たちはこの隕石の持つ宇宙線によって影響を受けている。普通じゃ見えない存在を見ることができている この隕石に宿っていたレンが、隕石が放つ未知の光によって、俺たちの前に映し出されているんだよ まあ、オカルトじゃなく科学的見地に立った俺の主張だ まるでプラネタリウムね 星の投影機ってやつさ なのに見るだけじゃなくてさわることもできるなんて、ほんとレンって不思議ねえ あ、頭……撫でないでください…… 私たちがさわれるだけじゃなくて、レンが私たちをさわることもできるんだものね 未知の光が俺たちの視覚に限らず、ほかの五感、果ては万物のすべてに影響を与えている証拠だろうな 星天宮の見地に立った私は、レンをまつろわぬ神として鎮める役目を負ってしまうけど だけど天文部の部員としてなら、大切な仲間だからね どんなに不可解だろうが、不思議だろうが、あんたは私の友達よ ………… いい感じに照れてるな て、照れてません…… あはは、ひさしぶりにみんなで天体観測でもやりたくなったわね あの頃の天文部を全員集めることは、難しいけど 〈千尋〉《ちひろ》のやつは、もういないけど…… だけど、私たちには見えないだけで、どこかにいるのかもしれないから 私たちと一緒に、雲雀ヶ崎の星空を見上げてくれるかもしれないからね 覚悟は固めていた。 今日、俺は夢に告白する。 そのために面会時間の開始を待って、病院を訪れている。 平日の見舞いよりもずっと早い時間だった。 夢の病室がある西病棟に向かいながら、どんなふうに告白しようかと思いめぐらせている。 昨夜からずっと悩んでいるのだが、思考は回るばかりで結論に達しない。 おかげで覚悟を決めたはいいが、あとは行き当たりばったりになりそうだ。 どんなタイミングで告白を持ち出すか、それも会話の流れによるだろう。 不安はあった。だが、そこに焦りはなかった。 なるようになるのだ。きっと告白文句に正解などないのだから、勇気を出せるかが一番重要なところなのだ。 寸前で怖じ気づき、結局口にできなかったというほうが問題だ。 俺は、大丈夫だろう。 どんな結果も納得して受け入れる覚悟があるだろう。 夢の病室に着く。 これから、過去の「僕」が言えなかった言葉を告げる。 そのために俺は夢の想い出を忘れなかった。 そして病室は、もぬけの殻だった。 ……はあ ひどく脱力する。 ベッドは無人だ。夢の姿はない。 検査に行っているんだろう、これまでの見舞いでも何度か遭遇している場面だ。 帰ってくるのをおとなしく待っていよう。 俺はベッド近くの椅子に腰かける。 視線は窓の外に向ける。 夢はよく窓際に立って海の景色を眺めていた。 引いては打ち寄せる波を見つめていた。 俺が病室を訪れるとそうした夢といつも出会っていた。 俺が帰ってから、その後に家庭教師が来るまでの時間も、夢はそうしているのかもしれない。 寄せては還す波──ただ延々と繰り返されるリズム。 終わらない日常。 向けられる夢の眼差しには、羨望が混じっていると感じていた。 ………… 窓から目を背け、正面に移した。 白一面の枕やシーツは真新しい。 クリーニングのあとだろうか。しわひとつ見つからない。 夢の検査の間に取り替えたのだろうか。 夢は、検査はいつも短時間だと言っていた。 夢はまだ帰ってこない。 今日は長引いているのだろうか。 だから、枕やシーツを取り替える時間もできたのだろうか。 病院のベッドのシーツというのはどのくらいの間隔で洗濯するものなんだろう。 毎日? 週一回? 夢は、病院に軟禁状態だと嘆いていた。だから病室にこもっていることが多い。 ベッドに横になっている時間も多いだろう。 なのに洗濯する暇なんてあるんだろうか。 患者が退院したときには確実にするだろうけど。 患者がいなくなれば真新しくなるだろうけど。 患者がいなくなれば……。 ………… 俺は立ち上がった。 勢いがつきすぎて、椅子ががたんと大きく揺れた。 俺は出口に振り向いた。 病室を出て夢を捜したくなった。 それとほとんど同時だった。 あ、洋くん 夢が病室に入ってきた。 今日もお見舞い来たんだね。タイミング悪いなあ、結構待ったんじゃない? 夢は俺のところに歩み寄る。 シーツを代えてもらってたから、検査が終わったあともロビーで暇つぶしてたんだけど…… 夢は近い距離で俺を見上げていた。 幼い頃は同じくらいの背丈だった。 今は、こんなに差ができた。 俺は夢を守れるくらいに成長できただろうか。 俺が腕を伸ばすと簡単に届いた。 だから抱きしめた。 っ…… 俺の胸で夢が息を呑んだ。 な……えっ…… 細い肩だった。華奢な身体だった。 その命があまりにも小さく感じて、たまらなくなった。 洋……くん…… ………… どうし、て…… ………… 痛い……よ…… 我に返った。 わ、悪い…… すぐに離れて謝罪した。 夢は答えずにうつむいていた。 髪の間から覗く耳が赤かった。 ごめん……ほんと…… もう一度謝った。 ……うん 夢はやっと顔を上げた。 びっくりしたな……もう…… それから照れ笑いのような顔をした。 血圧、あがっちゃったよ…… 身体がすっごく熱っぽいよ…… 今、検査受けたら、面会謝絶になっちゃうかもね…… ……夢 このタイミングしかないと思った。 俺…… 洋くん 夢がいきなり俺の額をこつんとたたいた。 俺は目を白黒させる。 なんのイジワルか知らないけど、もう二度としないでね 夢はずいっと迫ってくる。 いい? ……あ、いや 今のは忘れてあげるから。いい? いや、あのな…… どちらかと言うと忘れて欲しくないというか。 返事は? だからな…… お姉さんの言うことが聞けないの? だから俺の話を…… 口答えするとお見舞い禁止にするよ ……わかった。もうしない 首肯するしかない。 よろしい 夢はにこっとほほえむと、 わあ、新しいシーツ。一番乗り~ ご機嫌でベッドに入っていった。 夢しか使わないんだから一番乗りもなにもあったもんじゃないというか、告白できなかったじゃないか。 ……はあ 俺は疲れて椅子に座り直した。 それじゃ、今日も天文談義に花を咲かせよっか 咲かすのは嫌いじゃないが、このまま夢のペースだと確実にただのお見舞いになる。 なあ、夢 強引に方向転換を試みる。 なに? たまには違う話しないか? 違う話って? 天文談義ばかりだと飽きるだろ? そんなことないけど ほかにしたい話もあるだろ? ないけど ……ないのか ないよ 何気にショックである。 ……いや、でもさ、なにかあるだろ? 洋くんはあるの? ……そうだな 告白に結びつけられそうな話題を模索する。 恋バナとか ……キミは洋くんじゃない よくわからないが存在を否定される。 私の知ってる洋くんが恋バナなんてするはずない い、いや、なんでだよ 洋くんは恋に疎いでしょ? 勝手に決めるなよ…… 違うの? ……昔はそうだったけどさ 今は違うの? 違わないかもしれないけど じゃあ恋バナはゴミ箱にポイだね 捨てられた。 そうなると、あとは天文談義しかないよね 夢の初恋って誰だ? ゴミ箱にポイ また捨てられる。 夢ってどんなタイプが好きだ? ポイ 夢って誰かとつきあったことあるか? ポイ 夢って今はフリーか? ポイ ことごとく捨てられる。 やっぱり天文談義しか思いつかないなあ ……頼むから待ってくれ 洋くん、幸せってなんだと思う? 哲バナが来た。 ……いきなりだな 違う話したいって言ったの洋くんじゃない。で、どうなの? 幸せなんて人それぞれだし、答えなんてないと思うぞ そんなことないよ。答えはあるよ どんな? 幸せっていうのは、しつこく相手にわかってもらうまで迫ることだよ ……な、なに? 『し』つこく、『あ』いてに、『わ』かってもらうまで、『せ』まることだよ なぞなぞだった。 洋くん、普通ってなんだと思う? またなぞなぞだろうか。 ……フナを釣る海坊主? なにその怪談 『ふ』なを、『つ』る、『う』みぼうずだ つまらない冗談をマジメに解説すると寒いよね ひどい仕打ちだった。 ……じゃあ答えはなんだよ 並の日を通ることだよ ……なんだそれ 普通って漢字を分解するとそうなるの たしかにそうなった。 だからね、私は…… 夢の悪戯っぽい笑みが、このとき優しい笑顔に変わる。 私は、洋くんが並の日を通ることを、しつこくわかってもらうまで迫りたいんだよ ………… わかった? ……わからん そっか。洋くんにはちょっと難しかったかな ……ああ、かなり難しかったよ 納得するのが難しいから理解したくなかった。 今の話が本当だとすれば。 夢は、俺に普通を望んでいる。 夢は、俺に普通の生活に戻って欲しいと願っている。 自分の見舞いに来ないで欲しいと望んでいる……。 それが、俺の幸せだと考えているのかもしれない。 夢 俺は、言わずにはいられなかった。 夢にとっての幸せは、なんだ? 夢は病院暮らしを続けている。 それはかなり長い期間に違いなかった。 病気による長期入院に違いなかった。 だって、夢は一日パジャマのまま。 病室にほかの私服なんて見当たらない。 夢はもうずっと服を買ったことなんてないに違いない。 化粧だってしていない。 爪だって短いまま。 髪も無造作に切っているだけで。 だから、夢はそういったものを持っていない。 同年代の女の子が持つ普通のものを持っていない。 病気によって奪われている。 夢が望んだ、俺の普通。 その普通を、夢自身は持っていない。 持っていないのだ。 私の幸せ……かあ 夢は、俺に見舞いをやめて欲しいと思っている。 すぐには、思いつかないかなあ 夢は、俺と離れたがっている。 俺と距離を置きたがっている。 だけど夢は言ったんだ。 俺の見舞いはうれしいと言ったんだ。 だから、それが夢の本心なのだと信じている。 離れたがってなんて、ない。 俺はその希望にすがって口にする。 好きだ、夢 夢は、瞳を瞬かせた。 長いまつげがふさふさ揺れた。 子供の頃の約束、覚えてないか 再会したら、結婚する。そう約束を交わしたこと、覚えてないか 俺は、忘れたことはなかった 俺の気持ちが変わることはなかった 長い時間を経ても曇ることはなかった 俺の中の織姫と彦星はいつだって輝いていた。 だから言うんだ 好きだ、夢 俺と、つきあってくれ 俺の恋人になってくれ ………… ……ダメ、だよ 夢の答えは、拒絶。 私、洋くんとはつきあえない…… 洋くんの恋人にはなれない それは、明確な拒絶。 だって洋くん、子供なんだもの その恋は、子供の幻想なんだもの 過去の洋くんが見ている夢…… 悪夢 色褪せた想い出なんだもの…… ……色褪せてなんか、ない 俺はまだ抵抗を続けている。 これは幻想なんかじゃない 子供の夢なんかじゃない そんなものであってたまるか 俺はもう、子供なんかじゃないから 俺は成長したんだから ……ううん 成長してないよ。うん、成長してない 洋くんは昔とちっとも変わってないよ 洋くんはまだ優等生になれてないよ 惜しいところまでいってるのに。あともうちょっとってところだと思うのに なのに、私に告白するなんて…… ぜんぜん、ダメダメ 赤点だよ ……それは、俺をフッたってことか? そうだよ その返答は平坦であっけなく。 キミは私の友達。大切な友達 今だから言うけど、私の初めての友達だったんだよ それは俺も同じだった。 夢は俺の初めての友達だった。 だからこそこの気持ちが生まれたんだと、そう思うことだってできる。 なのに、夢は違っていて……。 キミは、私の友達…… 私はそう思ってる だけど、キミがそうじゃないのなら お見舞い、禁止にする キミが、友達とは違う関係を望んだから 恋人の関係を望んだから…… だからもう、ここには来ないで お願い…… これ以上、ここにいることはできなかった。 夢のそばにいることはできなかった。 病室を出る際、俺は夢のほうを見ないで言った。 ……友達が、いるんだ 俺は、そいつらのおかげで、長い間離れていた雲雀ヶ崎に馴染むことができた 夢のお見舞いをしたいって言ってくれてるんだ 俺は、来ないようにする だけど、そいつらは…… うん……。いいよ その言葉で、最後に振り向くことができた。 ……ありがとう それは私のセリフだよ 夢は、あたたかい笑顔をたたえていた。 雲雀ヶ崎に戻ってきて、私はひとりの時間が多かった それはとても退屈で、苦痛だった すごく不安だったんだよ…… だけど洋くんのおかげで、そんな不安はなくなった 洋くんのお見舞いが私を助けてくれた 友達まで紹介するって言ってくれた だから、ありがとう キミはやっぱり、私の一番の友達だよ 恋人ではなく、友達。 本当は、俺はそれだけで満足すべきだったのかもしれない。 初恋だったかもしれない、これが初恋じゃなかったら俺という人間は恋ができないに違いない。 長年守っていた恋は破れ。 俺は今日、失恋した。 自宅で夕食をすませ、展望台に向かう道すがら、過去の「僕」を思い返していた。 夢が初めての友達と言ってくれた、子供の頃の小河坂洋。 初夏の一ヶ月、俺は夢と一緒に展望台で遊んでいた。 夢との初めての出会いはもっとさかのぼることになる。 思い出した。 いや、忘れていたわけじゃなかった。その想い出はまだ鮮明に息づいていた。 ただ、夢と初めて出会ったときの俺は、思い出すのが恥ずかしいくらい子供だったから。 夢と仲良くなったあとの俺のほうがまだマシだったから。 その出会いは、桜散る春のことだった。 俺は──── 僕は、友達なんてものは要らなかった。 それが小学生の小河坂洋。 授業が終わればまっすぐ帰宅するのが常だった。 クラスメイトからの遊びの誘いなど歯牙にもかけない。 しつこく話しかける相手も無下にしていた。 クラスの委員長だった明日歩にも無愛想に対応していただろう。 僕にはそれよりも優先すべきものがあったから。 友達よりも家族が大切だったから。 こんなふうに過去の「僕」が友達を作らなかったのにはそれなりに理由がある。 仕事でいそがしい母さんをできる限り助けたかった。 家族三人の生活をひとりで支えるのは大変だから。 僕はせめて家事を手伝いたかったのだ。 帰宅できるのは僕のほうが早い。夕飯の下ごしらえくらいは先に用意することができる。 掃除や洗濯なんかも必要そうなら終わらせておける。 千波が学校から帰ってきたら相手をする。宿題があるのなら見てやれる。 友達と遊ぶ代わりに家事を手伝えば、母さんの負担が減る。 そうすることで母さんはよろこぶ。 母さんが仕事を終えて帰宅するまでに時間が残っているのなら、自分の宿題もやっていた。 そのおかげで成績は優秀だった。 テストで満点を取ればやはり母さんはよろこぶ。 いいことずくめだったのだ。 だからこの生活を変えようとは考えない。 僕は、今のままで充分幸せだと思っていた。 彼女と出会ったのは、そんな日常の延長。 春風に背を押され、いつものとおり家路を急いでいたときのことだった。 女の子がひとり、校門の近くに立っていた。 彼女は校舎を見つめていた。 小さな背丈で大きな学校を見上げていた。 周囲には誰もいなかった。 授業が終わって放課後になれば、生徒は皆、教室に残って友達と騒ぎ出す。 だから、代わりに校舎の外は閑散とする。 ここには僕と彼女のふたりと、そして。 風に乗って舞い散る、雪のような花びらだった。 これは、お別れ…… 学校との、お別れ…… 彼女は手のひらを前に差し出している。 降り出した雪を確認するみたいに桜の花びらを受け止めている。 小さな手のひらからその花びらがぽろぽろぽろぽろ、こぼれ落ちていく。 涙のように僕には見えた。 最後に、お別れを言いに来たかったの…… 学校の桜は満開だった。 すごい勢いで散っている。 今は四月の下旬。北の街は桜が遅い。 新学期の季節でもある。僕も学年がひとつ上がったばかりだった。 そこに感慨を抱いた覚えはない。 キミは学校……好き? 彼女はもう、手のひらだけじゃない、身体ぜんぶで降る花びらを浴びている。 ……好きじゃない 学校、嫌い? 嫌いでもない そう 彼女は、髪や肩に積もる桜を払おうともせずに。 キミは、学校にかんしんがないんだね 納得したように、そう告げた。 関心がない、なんて子供には難しい言葉を、彼女は無理に使っているようだった。 子供の背伸びに感じた。 なぜ僕は足を止めているのだろう。 なぜ知らない相手と言葉を交わしてしまったのか。 キミ、この学校の生徒だよね ……うん 何年生? ……四年生 なぜ答えてしまっているのか。 たぶん、桜まみれの少女はとてもきれいだったから。 魅入ってしまって、動けなかったのかもしれない。 名前は? ……関係ないから 声が刺々しくなった。 あたしはね、乙津夢っていうの。キミが四年生なら、歳はキミよりお姉さんだよ おそらくこの学校の生徒だろう彼女は、僕よりも学年が上のようだった。 名前、なんていうの? 関係ないから 桜って、好き? 関係ないから あたしのこと、邪魔だって思う? だから、関係ない そう キミは、あたしにもかんしんがないんだね そうなのだろうか。 違うような気がしてならない。 関心がないのならとっくに通り過ぎてしまっているのに。 すごい量の桜だよね、ここ。花びらが、雪みたいに降り積もって 吹雪みたいに舞い散って…… もう、うっとうしいくらいで だったらそんな場所に立っていなくてもいいだろうに。 学校に戻るか、家に帰ればいいだろうに。 だからキミは、桜も、あたしのことも、うっとうしいと思うのかもしれないね 学校に戻るか、家に帰ればいいというのは僕も同じだった。 だけど僕たちはどちらも動かない。 同じように桜を浴びながら、ふたりは会話を続けている。 ……桜、好きなの? 好きだよ 咲き始める桜は、好きだよ だけど、散ってしまう桜は、嫌い…… 桜は咲き始めて一週間で満開になって、それからまた一週間ですべて散る。 それが、スプリングエフェメラル。 春の儚い命。 はかない命なんて、嫌い…… はかない美しさなんて、わからない…… 桜は散るから美しい。 誰が言い出したのかは知らないけれど。 ……僕も、好きじゃない 僕も、満開のほうがいい ずっと満開のままでいい 散った桜は掃除が大変だから ………… ……うん くすりと笑った。 彼女は満開の笑顔を咲かせていた。 そうだね。ほんとに、そう だからね、スプリングエフェメラルが終わっても…… 夏になったら、サマーエフェメラルが始まるんだよ それが、僕が彼女に抱けた共感。 終わったようで、終わらないんだよ。変わったようでいて、変わりはしないんだよ ずっと、いつまでも、永遠に…… あたしたちは、ここにある 僕が彼女に感じた、同じ想い。 最初のつながりだったのかもしれない。 名前、教えてくれるとうれしいな ……小河坂洋 ありがとう。洋くん キミと出会えて、うれしかった また出会えると、もっとうれしい あたしと遊びたくなったら、いつでも言ってね あたしは、キミと一緒にいるのが、好きだから きっと、いつまでも、永遠に あたしは、キミが好きだから そして彼女は立ち去った。 学年やクラスを僕に教えないまま。 だから僕のほうから会いにいくことはできない。 彼女が僕を訪ねてくれなければ、また出会うことはできないのだ。 それからの僕は、ひとりで帰宅する途中で周囲を気にするようになった。 夢がどこかにいるんじゃないか。 またどこかで桜を浴びて立っているんじゃないか。 僕は夢に学年を教えたのに、学校のクラスを訪ねてくるということはなかった。 だから僕が会いたいと思ったら、当てもなく捜すしかない。 桜が散り、梅雨が到来しても僕は彼女を捜していた。 努力は実ったようだった。 校門や街で運良く見つけたときは、だけど決まって話しかけようか迷ってしまう。 そうしてぐずぐずしていると彼女のほうから寄ってくる。 お姉さんぶって、一緒に遊んであげようかと誘ってくる。 最初は断っていた。クラスメイトに対するのと同様、すげない態度を取っていた。 だけど、いったん別れてしまっても、僕はまた夢を捜すことを続けていた。 そして偶然夢を見つけ出し、ぐずぐずして、向こうから寄ってくると、僕は逃げるように離れていった。 どう言えばいいかわからなかった。 どんな態度を取ればいいかわからなかった。 そうして出会いと別れを繰り返し。 それでも交わす言葉は徐々に多くなっていった。 僕の態度は徐々に軟化していった。 夢と一緒にいる時間が長くなっていった。 そんなことがしばらく続いてから、ある日、僕は彼女に展望台まで案内された。 おでこにキスをされたのはそのときだ。 僕は学校が終わって帰宅し、ある程度家事を片付けたあと、展望台を目指すようになった。 気が急いて、帰宅せずにそのまま向かうこともあった。 そこではいつも夢が待っていた。 展望台で僕たちは陽が落ちるまで一緒だった。 その一ヶ月間だけ、僕は友達と遊ぶということを経験した。 そう。 だから過去の「僕」は彼女が好きだった。 僕は──俺は、彼女が好きだった。 俺はいつしか夢の前では素直な自分になれていた。 家族の前でしか見せなかった自分を夢にも見せていた。 夢との出会い。 夢にひっぱり回された日々。 それが終わりを告げ、急な引っ越しで夢と別れたあとは、俺は変に肩肘張らずに人づきあいをこなしていた。 他人を拒絶することはなくなった。 クラスメイトに誘われれば遊び、逆に俺から誘うことも多くなった。 家事手伝いをやめるようなことはしなかったけれど。 俺は、家族以外にも関心を持てるようになった。 俺は、家族以外の相手も好きになれるようになった。 夢のおかげで俺の視界は広がった。 俺の世界は広がった。 なんせ、広大な宇宙の見上げ方を教えてもらったのだから。 夢と望んだ雲雀ヶ崎の星空は、今夜も変わらず俺たちに光を分け与えている──── 今夜も、星見に来たのね メアが、そんな広大な光を背に、展望台で俺を待っていてくれた。 昨日も来たんだぞ。メアとは会えなかったけど ……そう 昨日はどうしたんだ? ……べつに 用事でもあったのか? ……べつに そうか ……うん 俺はメアの横で、欄干に肘を載せる。 しばらく空と地上の光を瞳に入れていた。 ……どうかしたの? なにが 今夜のあなたはダメダメね ……なにがだ ダメダメでバカバカな顔してるから そんな顔、してるか うん 人って孤独だと思うか? ……え? 人に限らないけど。メアの場合だと死神か 死神って孤独だと思うか? 死神は孤独になんてならないわ そうか。メアには誰かとの約束があるんだもんな ……うん 広がる明かり、星と月、街の灯火。 ひしめき合ったそれらの光は、見た目には寄り添っていても、実際には遠く離れている。 家と家の間には距離がある。 星と星の間には、冷たく暗い空間が広がっている。 人は……孤独なの? いや、違うよ 近くに見えて、実際には遠く離れていても、やっぱりひとりじゃないってことなんだ ……どういうこと? 俺が夢と離れ離れになっても、再会できたってことだ ……ノロケなの そうだ、ノロケだ 失恋ってオチがつくのが残念だけどな ………… 俺は夢が好きだった。初めての友達だし、世界を広げてくれたことに感謝してるから だから夢に告白した。だけど、フラれたんだ そしてな、これが初恋なのか、夢に恋をしていたってことなのか、俺はまだ判断がついていない 告白までしたのにな…… だってさ 俺は、夢にフラれて、辛かったけど…… 恋人と言われなくても、うれしかったんだ 一番の友達って言われて、うれしかったんだ メアは黙って俺の言葉を聞いている。 なあ、メア…… これって、なんだ? 恋じゃないのか? それとも、違う感情なのか……? ……知らないわ 俺はうなずいた。 変なこと言って悪かったな ……うん だけど、夢って子があなたをフッたことは、理解できる ………… わたしは、夢って子と、約束を交わしていたから あなたに、自分のことを忘れてもらいたいって、彼女は言ったから…… だからわたしはあなたを待っていた 長い間、展望台で待っていた 洋くんの悪夢が彼女との想い出なのか、それは自信を持っていたわけじゃない たとえそうだとして、洋くんが彼女のなにを忘れるのか、知っていたわけじゃない だけどわたしができるのは、悪夢を刈ることだけだから だからわたしは、あなたにカマを突き刺した ……そうなのか うん メアは、もうすでに夢と出会っていたのか。 それも、俺が引っ越したあとすぐに会っていたようだ。 俺たちが離れ離れになってから、夢は俺に忘れて欲しいと願ったのだ。 俺たちは再会すると約束したのに。 だけど夢は、本当はそれを望んでいなかった。 そう……なのか うん 俺は、最初からフラれてたのか…… 七年間守っていたこの想いは、七年前には破れていた。 夢が事あるごとにお見舞い禁止と言っていたのも、俺との想い出を忘れたように振舞っていたのも。 そう考えると、すべて納得できる。 また……悪夢、刈ろうか? その気持ち、取ろうか? 失恋の痛み……なくそうか? ……いや 俺は脱力して首を振る。 いいの? ああ どうして どうしてもだ 辛そうなのに それでもだ 悲しそうなのに…… 悲しくても、手放したいわけじゃないんだ ……よくわからない 俺だって、よくわかっているわけじゃない。 じゃあ……どうすればいいの わたしは、洋くんに、どうすればいいの…… なにかしてくれるのか? ……べつに 俺のこと慰めてくれるのか べつに 頭、撫でていいか? ……なんでそうなるの メアの頭を撫でると元気が出るんだ ……なにそれ そういうものなんだ ほんとに…… ほんとに、元気になるの ああ 洋くん、いつもの洋くんに戻るの ああ ………… じゃあ……いい して、いい…… 撫でても……いい…… メアの頭を撫でる。 もう何度目か知れない。なのにメアはまだ慣れないのか、緊張しているようだった。 頬がほんのり赤かった。 元気……出た? そうだな いつもの洋くんになった……? そうだな じゃあ、もう…… 今度は抱きしめていいか? ………… ……どうして もっと元気が出るかもしれない いや…… ダメか うん…… 抱きしめたいんだけどな 絶対いや…… 頭、撫でられるよりも……変な気持ちになるから…… わたし……変になるから…… だから、いや…… 残念だな 洋くんも……経験してみればわかる…… どんな気持ちなんだ? 変な気持ち…… 俺の知らない気持ちだったら、経験してみたいな ……だったら メアはなにかを思いめぐらせて。 変な気持ちになれば……洋くん、辛くなくなる? わたしみたいに……変な気持ちになって、悲しいのもなくなる? なってみないとわからないな だけど、もしかしたら。 洋くんが、バカバカだから…… 洋くんが、わたしまで、バカバカにしたから…… メアは俺から離れると、欄干の上に立った。 体重を感じさせない軽やかさ。 小さな身体を、俺にかたむけてささやいた。 死神は、本当は、こんなことしないのに──── 俺のおでこに、キスをした。 ちょこんと唇を触れさせて。 想い出に重なる瞬間。 だけどあのときとは明らかに異なっている。 俺はもう、幼くない。 子供じゃない。 失恋を経験した今の俺なら、恋に疎い子供じゃない。 目の前のメアが夢とは違うように。 今の俺と過去の「僕」も、同じだけれど違うのだ。 変わったようで変わらない。 だけど確かに変わるものだってある。 だから、想い出は想い出のまま。 俺はそろそろ、今の俺の恋を探してみようかと、そんなことを思っていた。 夢さんって、ほんと天文に詳しいよね 岡泉先輩に匹敵しますよね。星座の神話に関しても、明日歩さんと肩を並べるんじゃないでしょうか 洋ちゃんをこっちの世界にひっぱり込んだだけあるね~ キッカケは夢だけど、天文の世界にひっぱり込んだのは明日歩だと思うぞ 天クルに勧誘したのは南星だしな あはは……。そうだったらうれしいかな 部活に恋に熱烈アタックでしたからね 恋のことはもう触れないでよ~! 俺が夢にお見舞い禁止を言い渡されてから、十日が過ぎた。 その間に明日歩たち天クルの仲間は夢のお見舞いに何度か足を運んでいる。 姫榊父が担当医のおかげか、俺が仲介する必要もなく打ち解けてくれたようだった。 安心するとともに、さびしいという気持ちもやっぱりある。 ……洋ちゃんは、一緒にお見舞い来ないの? ああ。そう言ったろ よろしければ、今日の放課後にでも…… やめとくよ 明日歩とこさめさんは困ったように顔を見合わせる。 なんだよ小河坂、前は毎日お見舞いしてたじゃねえか ちょっとな 夢って人とケンカでもしたのか? そんなんじゃない ……急にどうしちゃったんだろ、洋ちゃん これまでは天クルを休んでまで見舞いを続けていたのだ、明日歩が不思議に思うのはわかる。 洋ちゃんのこと、夢さんに聞いても教えてくれないし…… 小河坂さん、わたしたちが踏み込むべきことじゃないと思いますけど ああ、ほんとに困ったら相談するから ……ケンカだったら、早く仲直りしてね? ケンカじゃないけど、了解だ チャイムが鳴ったところで、各々は席に戻る。 俺は窓の向こうを見やりながら、今ごろは夢も外の風景を眺めているのかとぼんやりと考えていた。 思うんだけどさ なに? メアっていつもその格好だよな 悪いの? 悪いというか、寒くないか? 死神は寒くなんてないわ そういうものなのか そういうものなの 便利だな 洋くんは寒いの? そうだな。もう冬だからな 十一月下旬ともなれば、雲雀ヶ崎ではいつ雪が降ってもおかしくない。 もうすぐ初雪が見えるかもしれないのだ。 寒いのは嫌い? そうだな。だけど、冬は嫌いじゃない どうして? 星がよく見えるからだ 冷たい空気は透明で、澄んだ夜空は星見には絶好だ。 オリオン座を筆頭とする冬の星座が、一段と輝いている。 物静かだった秋と比べて、明るい星が多いのね そうだな。ほかの四季と比べても、冬は一等星の数が多い季節なんだ あの星なんて、すごく明るい。真っ白に光ってる おおいぬ座のシリウスだ。全天で一番明るい星って言われてる その星と、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオンを結ぶと、冬の大三角になるんだ こいぬ座ってどこ? オリオン座の下に、お供みたいに控えてるのがこいぬ座とおおいぬ座だ お供…… 主人と従者だな わたしとかーくんみたいに? かー坊はよくメアの頭に載ってるから逆かもな ほかにも雄大な五角形を描くぎょしゃ座に、兄弟星として知られるカストルとポルックスのふたご座も浮かんでいる。 あそこの星、ふたつともオレンジに見える ぎょしゃ座のカペラと、おうし座のアルデバランだな どっちも一等星で、全部で七つの一等星を結ぶと今度は冬のダイヤモンドになるんだ 本当に、冬の星空は明るいのね 感嘆ともつかない声。寒くないと言っていたが、吐く息は白い。 メアは夜空をまぶしそうに見上げている。 俺はそんな横顔を見つめていた。 夢の見舞いは終わっても、メアとの星見は続いている。 あの日、メアは俺のおでこにキスをした。 俺もメアもそれについて触れようとはしない。 そんなことが起こっても、ふたりの星見に変化はないのだ。 いや、ふたりじゃなかったか ……なに? ちょうどかー坊がばさばさと飛んできて、メアの頭に着陸した。 へたっと首を垂らして翼を休ませる。 今、なにか言った? かー坊も、俺たちと一緒に星見してたなって ………… メアは無言で、かー坊を胸に抱き直す 座れそうな場所を探し、そこで膝枕をした。 ……かーくんも、星見が好きなのかな メアは優しく頭を撫でる。 好きだから、展望台にいるんじゃないか ………… もちろんメアのことも好きだと思うぞ ……そうかな 当たり前だ ………… メアはどこか不安そうに、翼を休めるかー坊を見つめていた。 どうしたんだ。いつもは僕だなんて言ってるくせに ……わたしのせいなのかな 弱々しくつぶやく。 わたしが……〈僕〉《しもべ》だなんて言ったから、かーくん…… ……なにかあったのか? かーくん、元気がない…… 何度も何度も、メアはかー坊の頭を撫でる。 最近、ほとんど飛ばなくなって……。飛んでも、すぐに戻ってきて…… 疲れたみたいに、目を閉じて……。眠いみたいに、動くのを嫌がって…… わたしの……せいなのかな…… わたしが……〈僕〉《しもべ》だなんて言ってたから…… 友達って意味だったんだろ ………… 元気がないのは、寒いからじゃないか。春まで眠る動物もいるからな ……そうなの? ああ。かー坊、冬眠したいのかもな かーくん、眠りたいの? そうかもしれない わたし……どうすればいいの? ……そうだな 小動物には冬眠をさせるとそのまま死んでしまうものもいる。体力が保たない場合が多いのだ。 眠らせるより、あたためたほうがいいな ……そうすると、かーくん元に戻る? ああ。メアがそうやって撫でたり抱いたりしてれば、春になる頃には元気になるよ ……うん 俺も、ちょくちょく様子見に来るから 洋くん、いつも来てるけど もっと来るようにする。夜以外、メアとかー坊って展望台にいないのか? 昼間は、ちょっと難しい そうか。だったら、夜になるべく長くいるようにする ………… メアは俺をじっと見る。 どうした? 彼女は、いいの? 誰だ? 夢って子。お見舞い、いいの? ……ああ。そっちはお休みだ そう そうだ バカバカ なんで なんでも メアは、俺に夢と会って欲しくないんだろ。そう約束したって言ってたじゃないか それでも、バカバカ 洋くん、辛そうだから…… 死神の目もたいしたことないな ……どういう意味 俺は、辛くないからだ ウソつき ウソじゃない 悲しいくせに そう思うなら、また元気をくれ あのときみたいにさ ………… メアはかー坊を慎重に横たえると、俺の前に立った。 真剣な顔で俺を見上げる。 ちょっと目、つむって ……まさか。 早くしてったら。お姉さんの言うことが聞けないの? 俺は、半信半疑で目をつむることにした。 まだ……目、開けないでね その言葉がいやに近くから聞こえてきて、相手は子供だというのにどぎまぎする。 もしかすれば、俺は、メアだから緊張する。 これから俺の悪夢を刈るつもりだろうか。 それとも……。 がこんっ!! いてえ!? 脳天に衝撃が襲い、尻餅をついた。 元気、出た? メアはカマを握ってそっぽを向いていた。 なんでそうなるんだよ…… 知らない てっきりキスかと…… がこんっ!! ……そんなわけないよな。うん、そんなわけない なんで二回言ってるの 俺は疲労を抱えて立ち上がる。 メアはかー坊のところに戻っていく。 その顔が赤らんでいたのは、指摘しないことにした。 放課後になって部室に寄ると、岡泉先輩ひとりだった。 おや、部活に来たのかい はい。今月は休みっぱなしだったので、なるべく顔出そうかと そう言ってもう一週間以上になるじゃないか 俺は岡泉先輩の前の席に座る。 明日歩クンたちはお見舞いに向かったと思うよ みたいですね キミは行かないのかい? はい 立ち入るつもりはないけど、早く仲直りすることだね ……いや、夢とはケンカってわけじゃないので 明日歩クンたちはそう思ってるみたいだよ。いろいろ企んでるみたいだし 企んでるってなんだ。 岡泉先輩は机に広げていたノートパソコンに向き直る。 受験勉強ですか? いや、卒論だよ ……この学校ってそんなのあるんですか? 僕が自主的にやってるんだ。これでも部長だからね 部長と卒論にどんな関係が? これはね、天クルの卒論なんだ。この三年間、活動していた集大成ってやつさ 俺はあっけに取られる。 暇な部長だって思うかい? 思うわけありません ありがとう。僕を慰めてくれるんだね ……いやほんとに思ってませんから 謙遜しなくていいさ 遠い目をしている。 だけどね、この僕がどんなに情けない部長だったとしても、部員のみんなは天クルに誇りを持っていて欲しいんだ 僕が卒業したあと、後代の部員が天クルに入部してよかったと思ってくれるなら、それに越す喜びはないんだ だから、少しでもその役に立つならと考えて、天体観測の魅力をかたちにして残しておきたかったんだ これはね、そういう意味の卒論なんだよ 目尻に涙が光っていた。 女々しい部長だって思うかい? 思うわけありません ありがとう。僕を慰めてくれるんだね ……いや、だからですね それでも僕は、このヒバリ校で天クルの部長を務められたことを誇りに思っているんだよ…… 俺も岡泉先輩が部長で誇りに思いますよ イィィィィヤッッッッッホオオオゥゥゥゥゥ!!!! 心臓に悪すぎるんですけど!? うへへへぇぇ……岡泉凍土、参上だぜぇぇ…… ……またですか。 やっぱたまんねえなあ、シャバの空気は。一ヶ月ぶりに満喫しねえとなあ ……卒論がんばるって意味ですよね オレサマはそんな殊勝じゃねえよ。温土に任せるさ、天文学の意義なんてテーマは ……え? ちょうど今、温土が必死にまとめてたのがそれなんだよ。卒論に感動したならあんたも手伝ってやることだな 天文学の意義……。 天文学とは、なんのためにあるのか。 星見に天体観測に、俺はこれまで仲間と一緒に星空を見上げてきたが、天文学そのものについて正面から考えたことはなかった。 ……岡泉先輩は、天文学の意義がなんだと考えてるんですか? 意義なんてねえよ きっぱり言われる。 宇宙を研究して明日の生活に役立つか? オレサマは時間と労力の無駄遣いとしか思えねえな それって建前ですか? あぁ? 肉食獣の瞳に本能が警鐘を鳴らす。 べつに捕って食わねえよ、文句があるなら言いな ……信じよう。 天文学が無意味だなんて、岡泉先輩が考えてるとは思えませんから オレサマと温土は違うんだがな 本質は一緒だって言ったじゃないですか だから建前かよ 俺、岡泉先輩を誇りに思ってます。それは建前じゃないですから よくもまあそんなセリフを恥ずかしげもなく言えるぜ ……姫榊にもよく言われましたよ たとえばだ、物理学ってのは世界にどれだけわからないことがあるかを学ぶ学問だろ 面倒くさそうに切り出した。 じゃあ、天文学はどうだと思う? ……そういう観点だと、人のちっぽけさを再確認するための学問ですかね オレサマも温土も、そうは考えてねえのさ 宇宙を研究するのはな、人が生きるためなんだよ それは、簡単には理解できない言葉だった。 人に限った話じゃねえか。天文学は、この星に住むすべての命が生きていくための学問なんだ ……それは、地球を守るって意味ですか? たとえば巨大な隕石が落ちないようにするとか そうじゃねえ。六千五百万年前に落ちた隕石はたしかに恐竜を絶滅させた、次にその規模の隕石が落ちたら地球上のあらゆる命は死滅するかもしれねえ だがな、いくら地球を隕石から守ったって、地球そのものの寿命はどうにもならねえ 人類がほかの惑星に移民できたとして、宇宙そのものの寿命が終わってしまえばどうしようもできねえ 宇宙というのは時間と空間およびそこに含まれる物質とエネルギーのことだ 物質とエネルギーは有限だ。そのすべてに寿命はある 時間や空間だって観測者である命がなければその形を成し得ねえ だから宇宙も無限じゃねえ、有限だ 人類が滅ぶのはどうしたって避けようのねえ運命なのさ 岡泉先輩の話す内容は途方もなく大きくて、圧倒される。 ……それじゃあ、天文学の意義って 天文学はな、すべての命はいずれ必ず滅ぶと教えてくれたんだよ 俺はもう言葉もなく。 それでも岡泉先輩は、なんてことないように言うのだった。 当たり前のことに、なに驚いてるんだよ 人が死ぬのも動物が死ぬのも、草木が死ぬのも決まってるんだ。そりゃ星だって宇宙だって、いずれ死ぬのは決まったことになるだろうが それでもみんな、生きてるじゃねえか。死ぬってわかってても生きるしかねえじゃねえか だから、宇宙を研究するのは、人が生きるためなんだ オレサマたちは、生きる意味を知るために生きているんだからよ メアはかささぎの頭を撫でている。 洋が言ってくれたとおり、早くあたたまって元気になって欲しいと祈りながら撫でている。 寒い冬が終わって欲しい、あたたかい春が来て欲しいと願っている。 四季の中で最もまばゆい冬の星明かりがメアとかささぎを照らしている。 天の川は夏と違ってかすんでいても清冽で、冬の大三角を横切って地平線へと流れ落ちている。 雲雀ヶ崎からはその先が見えなくても、川の流れはこの星を一周する。 天の川は、メアとかささぎを守護するように囲んでいる。 かーくん…… 名前を呼んでも眠っているのか、反応はほとんどない。 膝の上に載ったその身体はとても冷たく、冬の寒気など意に介さないメアにもそれは寒々しく感じられた。 かーくん……お願い…… かささぎは瞳を閉じている。 眠いからじゃない、頭を撫でられて気持ちいいからだとメアは思うようにする。 メア自身も洋に頭を撫でられると、気持ちいいから。 だからメアもかささぎにやってあげる。 春が来るまで、やってあげる。 早く、元気になって…… かささぎはぴくっと翼を動かして、元気になったのかとメアは期待したが、反応はそれだけだった。 体重はぐったりとメアの膝に乗ったまま。 衰えているのだと知る。 急速に。一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、かささぎは衰弱している。 果てに待つのが抗えない死なのだと、知りたくないのに知ってしまう。 春までは体温を保てないのだと、失われつつあるかささぎのぬくもりが教えている。 ……キミにとってのかささぎが 聞こえた声に、不安に捕らわれていたメアはひどく怯えた。 いつか、現れますように…… キミは、いつの日か、そのことを願ったんじゃないですか……? メアと似た鎌を持つ少女が、気づけば近くに立っている。 だから、その子が生まれたんだと思います…… 呆然とするメアと、膝で眠るかささぎに、少女は視線を落としている。 その子の正体は、私たちと同じです…… 誰かと約束を結び、絆をつないで……それをたぐり寄せることで、初めて世界に発現できる…… 人とは違ったかたちで目覚めることができる…… 人が、光で目覚めるように…… 私たち神と呼ばれる存在は、願いや祈り、契約といった光で目覚めることができる…… ふるさとから、生まれ落ちるんです…… メアがなにも言わずとも、少女は淡々と説明する。 私が……どこかの星をふるさととするように…… キミが……娘星をふるさととするように…… だから、その子にも、ふるさとがあった…… 地球というふるさとがあったんです…… ……あなたにとってのかささぎが いつか、現れますように あ…… ウソ…… あのとき、メアが洋の悪夢を刈ったとき。 洋から聞かされた七夕伝説を懐かしんだとき。 織姫と彦星に郷愁を向けたとき。 メアは、なにも洋にとってのかささぎを望んだわけではなかった。 だって洋は、〈夢〉《・》〈と〉《・》〈再〉《・》〈会〉《・》〈し〉《・》〈て〉《・》〈は〉《・》〈い〉《・》〈け〉《・》〈な〉《・》〈い〉《・》。 そうメアと夢は約束を交わしていたから。 だからあのときの言葉は、洋に向けられたものではなく。 メア自身に向けられたものだった。 だから、そう…… キミは約束を交わしていた…… 大河くんが、姉のペンダントと約束を交わしたように…… 洋さんと夢さんが、娘星と約束を交わしたように…… キミも、この星と約束を交わしていた…… メアは悟り、思い出す。 長年ふるさとに置き忘れていた想い出を、このときようやくたぐり寄せることができた。 メアは羨ましかったのだ。 洋に、夢という友達がいるように。 自分にも、友達が欲しかった。 だってわたしはひとりだった。 お父さんとお母さん、生意気な弟と離れ離れになった自分。 この星からでは見上げることしかできない家族の光。 そうか、だからわたしは。 洋くんを待っていた。 洋くんとの約束を頼りに待っていた。 その人がわたしを暗い孤独から救う人。 七年間、ずっと待っていた。 再会できると信じていた。 なのに、再会は果たしたのに、彼には夢という想い人がいて。 ほかにもう絆があって。 わたしは彼との約束だけが救いだったのに。 彼だけがわたしの絆だったのに。 だから欲した。 友達を欲した。 新たなつながりを欲した。 洋くんがいなくてもひとりじゃないという証を欲した。 私たちは、星が見ている夢のような存在です…… 星は命を内包するから、その命にも私たちの姿が見える場合があるんです…… そんな夢は、約束が果たされれば還ります…… 私たちは、消えてしまいます…… 正確には消えませんが、人の目の届かないところで眠りにつきます…… その子も、同じなんですよ…… その子は、もう、キミとの約束を果たしたから…… だから、キミの前から消えようとしているんですよ…… ……ウソ ウソではありません…… ウソ……だって…… わたしは、まだ…… 友達が、欲しい…… 友達に、いなくなって欲しくない…… かーくんに、いなくなって欲しくない……! それでも、ですよ…… その子は、たしかに約束を果たしたんです…… その子は立派に役目を果たしたんです…… キミと洋さん、ふたりをつなぐ、かささぎの架け橋を果たしたんですよ…… メアが、かささぎを欲したこと。 意識していたわけじゃない。 無意識にこぼれ出た想いに違いない。 だけどそれが、約束のかたちを取って、メアのもとに架け橋を飛来させた。 メアは友達を望んでいた。 夢との再会を望む洋に感化され。 洋の想いがメアの心も揺り動かし。 メアもまた、友達との出会いを望んだ。 約束を越えた絆を望んだ。 だから、かささぎはメアと友達になったあと、架け橋となった。 メアと洋がつながる、ふたりの架け橋と。 キミたちは、大丈夫…… キミたちふたりは、約束を頼りに絆を得た…… その子はそれを知ったから、還ろうとしているんです…… だからもう、眠らせてあげてください…… いや…… お願いです……これ以上、その子を困らせないでください…… いやっ……絶対いや! かーくんはわたしの友達だもの! 洋くんと同じでわたしの友達だもの! 違うんですよ……キミは、まだわかっていません…… キミはもう、洋さんを友達とは思っていないんです…… だからその子は還ろうとするんです…… 架け橋というのは、そういうことなんです…… キミが望んだ、約束を越えた絆というのは、そういうことなんですよ…… わからないっ……わからないよう! わかってください……お願いします…… 絶対いや! わからないっ、わかりたくない! かーくんはわたしが助けるの! あたためれば元気になるんだから! かーくん気持ちよさそうなんだから! キミの今の言葉、ほかの言葉に置き換えます…… それは、残酷な優しさと言うんです…… かささぎが飛び立った。 いつ目覚めたのか、これまでメアの膝の上で翼を休めるしかなかったかささぎは、最後の力とでも言うように星空高く舞い上がり。 冬の白い星明かりを背に、レンの前に舞い降りた。 そう……いい子ですね…… 還るんですね…… 私は……一緒には、行けませんけど…… 私も……メアさんと同じですから…… 絆を得た人が……いますから…… それでも、自分勝手な私を許してくれるなら……案内をさせてください…… 私に……キミを、送り還させてください…… レンは鎌を高く掲げる。 やめて、とメアは叫んだ。 かささぎは最期に、メアを見る。 鳴く。 メアが初めて聞いたその鳴き声は、ありがとうと言ったように聞こえた。 友達になってくれてありがとう、と。 ……お疲れ、レン あ……大河くん…… ここに……来てたんですね…… ああ。万夜花からの報告が終わったからな 星天宮の巫女は……どうでしたか……? とりあえずは諏訪が追い払ったらしい。だがこれで万夜花と諏訪は星天宮を追われるかもしれない やばいようなら、俺も全力で助けるさ。俺の力なんてたかが知れてるがな 大河くんには、私がいます…… 大河くんが助けるということは……私も手助けするということ…… それはとっても強力です…… ああ、期待してるぞ お任せください……カマでポカポカたたきます…… 頼んだからな あ、頭は……撫でなくていいです…… そっちもいろいろあったんだろ ………… おまえが気にすることはないからな 気には……していません…… あの子は……どのみち、還るつもりのようでしたから…… 私は……その手助けをしただけ…… よかったのか悪かったのかは……わかりませんけど…… ……そうだな。万夜花の娘──姫榊こさめのような例もある ………… 悪役、辛かったろ そんなことはありません……娘星の子にしてやったりで、せいせいしました…… そうか あ、頭……撫でなくていいですから…… おまえ、さっきあのメアって子に、娘星がふるさとだと言っていたな はい…… 本当に、それがあの子のふるさとなのか たぶんですけど……。私の想い出に、あの子の家族が映っていますから…… ですから……もしかしたら、私のふるさとは…… ……銀河くらいは特定できるのかもしれない。だが、それでも星は無数にある わかっています……今のは、忘れてください…… 銀河の半径は約一万光年から五万光年……。その広さで、私がほかの〈星神〉《せいしん》を知っているほうが奇跡的なんです…… 私は……娘星の子と違って、家族の想い出もないくらいですし…… 俺たちはもう家族だろ 大河くんとは、ふるさとが違います…… 同じだ。レンの星がどこかはわからない、だがこの星と同じ天の川銀河の生まれかもしれない 天の川銀河じゃなくても、天の川銀河のふるさとであるおとめ座超銀河団かもしれない おとめ座超銀河団じゃなくても、そのふるさとが宇宙であることは変わらない だから俺とレンは同じふるさとなんだよ それだと、すべての命が家族になってしまいます…… びっくりだな びっくりじゃないです……それじゃただの気休めです……ムカムカです…… うまい言葉が見つからないんだよ あ、頭……撫でないでください……大河くん、嫌いです…… 人は全知全能じゃない。おまえと比べても、俺はちっぽけな存在だ だけど少しはわかることもある 俺が生きている間は、おまえのそばにいてやれることだ ………… ダメです…… 死んでも、私のそばにいてください…… できるならな できてください…… わかったよ はい…… 新しい、約束ですから…… それは相当な覚悟がいる約束だな はい……だって…… 宇宙が終わっても一緒っていう、約束ですから…… 展望台に入り、メアが待ついつもの場所に向かう途中。 その前に、メアを見つけた。 呆然と、なにもない手元に目を落としたまま地面にぺたんと座っていた。 メア……? メアは俺に気づいていないのだろうか。 視線を向けない。答えがない。 もう一度、声をかけた。 どうしたんだ、メア…… ……洋くん 答えを返しても、視線は俺を捉えない。 わたし…… その声もどこか虚ろで。 わたし、寒い…… 寒くなかったのに…… 死神は……寒くなんてないはずなのに…… とても、寒い…… 寒いよ…… ひとりは、寒いよ…… 寒くて、耐えられないよ…… メアが瞳をつむると涙が千切れ、頬を伝う。 かーくんがいなくなった…… わたしを置いていなくなった…… わたし、ひとりになった…… また、ひとりに戻った…… いやなのに…… ひとりは、いやだったのに…… かー坊の姿はない。 メアの頭上も、膝の上も空のまま。 そこにぬくもりはひとかけらもない。 ずっと……ひとりだったから…… 家族と離れて……ひとりだったから…… だから、ひとりじゃなくなって……最初は戸惑って、だけど少しずつ慣れてきて…… やっと、友達になれたのに…… 友達を作れたのに…… ひとりだったわたしでも、友達を作れたのに…… かー坊はメアの拠り所だったのかもしれない。 メアが死神と自称するのと同じで。 偽名を使うのと同じで。 メアの大切な拠り所のひとつだったのだ。 なのに……友達に、なれたのに…… かーくん、いなくなって…… 友達……いなくなって…… わたし……ひとりになった…… ひとりに戻った…… 寒いよ…… 寒くて……もう…… わたし……もう…… ……違うだろ 俺はメアの前にしゃがみ込み、頭を撫でる。 メアは、ひとりじゃないだろ 俺がいるだろ 俺は、メアの友達だろ だから、ほら。頭撫でてるだろ まだ寒いか? あたたかくならないか? 元気、出ないか? 出ない…… 元気……出ないよ…… そうか じゃあ、これならどうだ? メアの身体を抱きしめる。 小さな肩は震えていた。 どうだ、あたたかいだろ? 元気になるだろ? ………… まだ、ダメか? うん…… まだ、ダメ…… まだ、足りない…… 変な気持ちになっても……まだ、悲しいって気持ちのほうが大きい…… しょうがないな じゃあ、奥の手だ とっておきの手だ メアが俺にしてくれた、最終手段だ これならきっと、元気になるさ──── 寒そうに震えていたメアの唇。 そこにキス。 唇を重ねた。 その最中、俺はメアのことを想っていた。 かー坊と同じで、拠り所のひとつだったメアの名前。 メア=S=エフェメラルに思い当たった。 S=エフェメラルは、スプリングエフェメラル。 それともサマーエフェメラルだろうか。 初夏の儚い命。 七夕の儚い命。 だとしても、終わらせない。 守っていこう。 俺は、メアを守っていく。 たとえかー坊がいなくなっても。 メアは、いなくならない。 手放さない。 手放したくないんだ。 洋……くん…… 唇を離すと、メアは瞳をぱちくりさせていた。 瞬きのたびに涙が散った。 今の…… キスだ おでこじゃ……なかった…… そうだな これも……キス……? ああ これが、本当のキスだ ………… あたたかくなったか? わからない…… 元気、出たか? よく……わからない…… この気持ち……よくわからない…… だから、洋くん…… お願い、洋くん…… もう一回…… もう一回、して…… 舞台から降りた織姫と彦星。 代わりに、おおいぬ座のシリウスとこいぬ座のプロキオンが仲むつまじく揺れている。 二度目のキスは、一度目よりも深かった。 長く俺たちは感じていた。 おたがいの体温、ぬくもりを感じていた。 愛しさを理解していた。 つながっているから。 それがわかるから。 星明かりでできたふたりの影は、ひとつになっていたから──── あの青白い星が、全天一の輝きを持つシリウス。おおいぬ座の一等星だよ そして、その右上にある四辺形の星座がオリオン座 オリオンは頑強な肉体と、たぐい稀な美しさを持っててね、優れた狩人として有名だったんだけど…… 最期は悲劇の死を遂げてしまう。殺した相手は神が遣わせた毒サソリとも言われているけど…… オリオンの想い人だった、月の処女神アルテミスっていう伝説も残されている 弓の名手だったアルテミスが、太陽神アポロンに騙されちゃって、オリオンの頭を射抜いちゃうんだよ 嘆き悲しんだアルテミスは、自分が天に還るときにまた出会えるようにと、オリオンを夜空の星にしたんだって…… 金曜日の今日、天クルの天体観測で俺たちは明日歩の話す神話に耳をかたむけていた。 陽が落ちるのが早いので集まる時間も早くなっている。 それでも寒さが厳しいため、屋上にあまり長居はできない。 冬の美しい星空をいつまでも眺めていたいと思っても、俺たちには難しい。 メアには可能なのかもしれないけれど。 ここに、メアの姿はない。 展望台で俺が来るのを待っていることのほうが多いのだ。 おたがい天クルの部員になっても、出会った当初から続いているふたりきりの星見は終わっていない。 洋ちゃん 片付けの最中、明日歩が声をかけた。 夢さんに……会いたいって思わない? 聞きづらそうに言った。 ……会いたいとは思うけどさ 夢さんのほうも、小河坂さんに会いたいみたいですよ 夢が言ったのか? 言ってませんよ ……だと思った だけどね、夢さん、あたしたちがお見舞いしてるときに窓の外を見ることがあるんだよ 沈んだ感じで、外を眺めることがあるんだよ…… 疲れたのかなって思って、そういうときは病室を出るようにしてたんだけど…… ちょっと、違う感じもしますよね 夢は外に出たがってるから。それでじゃないか それともちょっと違う気がしますよ ………… ……お節介 蒼さんが言うとおり、これは明日歩とこさめさんのお節介なんだろう。 ただ、いつまでもこのままでいいと俺も考えているわけじゃない。 夢と離れたままでいいわけがない。 それでも、俺から夢に会いにいくことはできない。お見舞い禁止は撤回されていない。 夢が俺に会ってもいいという意志が必要だ。 夢が許してくれるなら、俺はすぐにも会いにいく。 こさめちゃんが言ったけど、あたしも言うよ。夢さんは洋ちゃんに会いたいって思ってるよ だけど、夢が言ったんじゃないんだろ ……そうだけど だったら、会いにはいけない ……夢さんの性格的に、自分からはなかなか言い出せないんじゃないかな 俺のほうから会いたいって言うこともないから ……どちらも頑固者 こうなる予感はしていましたけど…… それぞれがため息をついている。 だったら、答えは簡単じゃないか 成り行きを見守っていた岡泉先輩が言った。 言葉が無理なら行動で示すしかない。やっぱりアレしかないんじゃないかな そうですね、アレしかありません ……恐るべきアレですか ついにアレの封印を解くときが来てしまったようですね なんだよアレって…… 明日歩クンたちが企んでいた作戦だよ そして俺は知ることになる。 もちろん、夢クンの体調が第一だけどね 明日歩たちが夢の見舞いをしながら考えていたその無茶な企てを、この夜俺は聞かされた。 天体観測の帰り道に、展望台に顔を出す。 待ったか、メア メアはいつもの場所で待っている。 べつに、待ってない 待ってたなら屋上に来てもよかったんだぞ 待ってないって言ったじゃない 屋上、来て欲しかったな いや メアと一緒に天体観測、したかったんだけどな ここでもできるじゃない 俺とふたりきりのほうがいいのか からかってみる。 こういうとき、メアは必ず怒って否定する。 ……べつに 否定しなかった。肯定でもないが。 昨夜にした、メアとのキスを思い出した。 ……わざわざなんで思い返すんだ。 ……洋くん メアは俺に近づいてくる。 頭を撫でてみる。 そ、そうじゃなくて…… ……して欲しいのかと思って ………… せつなそうにしている。 そうじゃ……なくて…… なんだ? お見舞いのこと…… ………… 洋くん、迷ってるのかなって…… ときおりメアは勘が鋭い。 それとも、俺が顔に出やすいときがあるのかもしれない。 夢って子……大切な子なんでしょ…… わたしがかーくんを大切にしてたように……洋くんも、その子が大切なんでしょ…… だったら、迷う必要なんかない…… 友達とか、恋人とか…… そんなのに縛られること、ない…… わたしも…… わたしも、死神に縛られることはもうないから…… 洋くんと同じで……想い出を、取り戻すことができたから…… 俺は思っていた。 これは、背を押されたということだろうか。 だったら、乗ってみようか。 明日歩たちの企みに乗ってみようか。 俺は、それについて答えを出していなかった。 みんなにはまだ待ってもらっている。 ……ありがとうな べつに…… メアも、夢のお見舞いしてみないか? ………… してみたくなったら、いつでも言ってくれ ……バカバカ 否定でも肯定でもない。 メアは夢とすでに出会っている、だがどのような知りあいなのかは聞いていない。 それも、いずれ知るときが来るだろうと思っていた。 帰宅すると、すでに蒼さんと鈴葉ちゃんは帰ったあとのようだった。 代わりにお客が見えていた。 こんばんは…… ……誰だ? お兄ちゃんお兄ちゃんっ、さっき千波の部屋に妖精さんが遊びにきたからここに連れてきたんだよっ 連れてこられてしまいました…… みんなに紹介するって言ってたからねっ、こちらが一家に一台あると便利な妖精さんだよっ レンと申します…… 蒼ちゃんたちは帰っちゃったから残念だけどまた今度だねっ、でもすぐ妖精さんに紹介してあげるからねっ いえ……お構いなく…… 詩乃さん呼んでくるから妖精さん帰らないでねっ、いつもみたいに消えていなくなったりしないでねっ 千波はぴゅーっと詩乃さんの仕事部屋に向かっていく。 取り残される俺と妖精さん。 ええと……キミ、千波の友達? そのようなものです…… 学校の友達……じゃないよな はい……私はダメ人間フェチですから…… 意味がわからない。 それでは、私はそろそろ…… ……帰るのか? はい…… 千波が待ってろって言ってたじゃないか 私は……あまり人に姿を見られたくないんです…… 人見知りか? 娘星の子と一緒にしないでください…… 誰のことだろう。 もう遅いし、帰るなら送っていくけど いえ……平気ですから…… 一人歩きは危険だし、送っていくよ お優しいんですね…… 普通のことだろ そんなふうに言えるキミだから……私は、千波さんを見守る必要がなくなったのかもしれませんね…… ……なんのことだ クスクス……キミが立ち入るにはまだ早い物語のことですよ…… 謎の少女である。 それでは、帰ります……急がないと、あの人が…… 妖精さーんっ、詩乃さん呼んできたよーっ! ……レンちゃん 千波と一緒に詩乃さんがリビングに姿を見せた。 レンという少女が、目に見えて動揺する。 さ、さよなら…… 待って、お願い。少しお話しさせて レンちゃん、私となかなか会ってくれないから ………… 千波ちゃんから妖精さんの話を聞いて、もしかしたらとは思っていたけど…… ………… あれ? ふたりってもう知りあい? ……みたいだな わけありのように見えるが。 まだ……気にしてるの? あれからもう、二十年近く経ってるのに…… ……時間は関係ありません レンちゃんのせいじゃないのよ ……私のせいです 違うわ 違いません…… レンちゃんは先輩に頼まれただけじゃない キッカケはそうでした……。だけど、キミの姉の記憶を刈ったのは、なにもそれだけが理由じゃない…… 私は、キミの姉に、大河くんのことを見てもらいたかった…… 絆はひとつじゃない、もうひとつあるということを知ってもらいたかった…… だから、彼の頼みを聞き入れた…… 大河くんに内緒で……ふたりが別れる手助けをした…… 卒業式の間近に……キミの姉に、私はカマを振るった…… ヒバリ校を卒業したふたりは、別れることになった…… そうしたら……あとで知った大河くんは、とても辛そうにして…… それだけじゃない……私のしたことは、キミの家族まで…… 私たちは、幸せよ 小河坂家は、このかたちで幸せなのよ だから、レンちゃんとこうしてまた会えて、よかった ………… 今度、総一朗先輩の喫茶店で、お茶でも飲みましょう 天文部のみんなも呼んで…… ………… レンの姿が薄らいだ。 最後に詩乃さんに向かってぺこりとお辞儀すると、完全にかき消える。 その様子はメアが去るときに酷似していた。 ……妖精さん、帰っちゃった ………… 詩乃さん、今の話って…… 詩乃さんは小さく息をつく。 そうね……いい機会かもしれないわね 優しいほほえみを作り、俺と千波に向き直った。 洋ちゃんと千波ちゃんには、いつか話そうと思ってた。だけど、なかなか切り出せなかった…… 私も、逃げていたのかしらね 詩乃さんは語り始めた。 それは俺たちの世代が知ることのなかった物語。 姉さんと、〈世良〉《せら》先輩のお話を、してあげるわね ヒバリ校に今なお語り継がれる都市伝説は、ひとつの恋が元となっている。 ある男女──小河坂歌澄というちょっと強引で小悪魔なところがあった少女と、その恋人がつむいだ物語。 千波の父親である世良千尋が、歌澄の恋の相手だった。 夏休みに大河と出会ったその翌々年に歌澄は中学を卒業した。 クラスメイトだった千尋も同じく卒業し、式が終わったあとに歌澄は彼から第二ボタンを受け取った。 これからふたりが入学するヒバリ校で、恋人としてつきあって欲しい。歌澄からそう告白したのだ。 彼の第二ボタンはその証。 千尋が歌澄の告白を受け入れたという答えだった。 世良千尋は女みたいな名前だと周囲からはよく言われていたが、本人の容姿も違わず女性のように線が細くて綺麗だった。 歌澄はそんな千尋の進学先を知っていて同じ学校を選んでいた。だからヒバリ校でもふたりはクラスメイトとなった。 だけど部活は違った。 千尋は天文部に入った。一方、歌澄は吹奏楽部。 歌澄は中学生でやっとプラネタリウムを観たくらいでしかない。星に興味は特にない。 千尋のピアノの腕前を知っていた歌澄はてっきり吹奏楽部に入るとばかり思っていたので、尋ねもせずに決めてしまったのが運の尽き。 当てが外れてしまったわけだ。 だから歌澄は吹奏楽部を辞めて天文部に入り直そうとも考えたのだが、千尋には反対された。 歌澄が吹奏楽部に入っていれば気軽に顔を出せる。音楽も好きだった千尋にとってそれはなによりありがたい。 だったらなぜ天文部に入部したのか尋ねた歌澄に、千尋はただ星空も好きだからと答えるだけだった。 千尋は雲雀ヶ崎の変わらない星空に羨望を抱いていた。 永遠に近い星空に憧れていた。 その理由は彼自身の薄命にあるのだが、それを歌澄や詩乃が知るのはずっとあとのことだった。 歌澄が千尋のことを忘れ、数奇な運命を経て再会したあとのことだった。 歌澄と千尋が二年生に上がった春、教師がひとりヒバリ校に赴任した。 それが、三嶋大河先生だった。 彼は学歴を買われて天文部の顧問となったのだが、そのわりに吹奏楽部の歌澄のことをよく気にかけていた。 歌澄もまた大河を気にかけていた。詩乃は、あがり症のおもしろい先生がいると歌澄からよく聞かされていた。 授業中では頼りない先生だけれど、気がつくとそばには不思議な少女がついていて、彼を助けているのだという。 詩乃がその少女──レンと出会ったのは、歌澄と千尋が三年生に上がった年。 詩乃がヒバリ校に入学し、初めて天文部の天体観測に参加したときだった。 少女は一見すると死神で、手持ちの大きな鎌で人にとってのまつろわぬものを刈ることができるらしい。 まつろわぬものとはなにか、部活の先輩だった万夜花に教わった詩乃だったが、当時はよく意味を理解できなかった。 レンの正体についてもよくわからなかった。だけどそれは些細な問題で、部員は誰もがレンを仲間だと思っていた。 レンのことは、天文部しか知らない秘密。例外は千尋の恋人だった歌澄くらい。 だから当然、レンの不思議な力を千尋は知っていた。 いつからだろう、千尋がその決意を胸に秘めるようになったのは。 なぜ仲間の誰もが気づけなかったのだろう。 仲が良かったふたりを近くで見ていて、お似合いだったふたりを羨ましく思うくらいで、詩乃もまたそんなことを思いつきもしなかった。 雪がちらつき始めた初冬、千尋は歌澄に別れを切り出した。 そして、歌澄の想い出から自分の姿を完全に消し去った。 ちょうどこの時期だったわね。世良先輩に別れを告げられたって、姉さんは私に話したの 姉さんは平然としてた。無理してるのが見え見えだったから、よけい辛そうに見えたわ 嫌われてもまた振り向かせてやるだけだって、辛そうに笑って話していたの 姉さんはいつだって前向きだった。先輩のことを諦めるなんて考えは姉さんの中にはなかった だからかもしれないわね 先輩はレンちゃんに頼んで、姉さんの記憶を奪った 姉さんが諦めてくれるよう、姉さんが守ろうとした恋をなかったことにしてしまった…… そうやって、先輩は姉さんと別れようとしたのよ どうして…… 千波が呆然とつぶやいた。 どうして、そんなことするの…… お父さん、どうしてそんなことしたの…… 詩乃さんは優しく答える。 世良先輩は、もうすぐ姉さんの前からいなくなるって知っていたからよ いなくなりたくないのに、いなくなってしまう…… だから、その前に、自分から姉さんに別れを告げた 姉さんから想い出を奪ってしまった 姉さんが悲しまないように 悲しい別れにならないように 幸せのまま恋を終わらせられるように 先輩は、病気だったの お医者さまからは、ヒバリ校を卒業できればいいほうだって言われていたくらい、重い病気だったのよ だから、千波の父親は。 母さんに、自分のことを忘れて欲しいと願って……。 わたしは、夢って子と、約束を交わしていたから あなたに、自分のことを忘れてもらいたいって、彼女は言ったから…… だからわたしはあなたを待っていた 長い間、展望台で待っていた 洋くんの悪夢が彼女との想い出なのか、それは自信を持っていたわけじゃない たとえそうだとして、洋くんが彼女のなにを忘れるのか、知っていたわけじゃない だけどわたしができるのは、悪夢を刈ることだけだから だからわたしは、あなたにカマを突き刺した 先輩の願いどおり、姉さんは先輩のことを忘れてしまった…… だけどね、姉さんは思い出した 三嶋先生のおかげで想い出を取り戻した 三嶋先生がふたりの架け橋になってくれた 姉さんは、先輩との恋を守ることができたのよ 千波は言葉を失っている。 この話をどう受け止めたのだろう。 俺は、どう受け止めたのだろう。 詩乃さんは、俺たちになにを伝えたかったのだろう。 姉さんと世良先輩、そして三嶋先生……。それぞれしたことがいいか悪いかなんて、私もわからない だけどね、洋ちゃんも千波ちゃんも、これだけはわかって欲しいの このお話に出てきた三人は、みんな自分の想いに正直だった 迷っても後悔しても、たとえその行為が間違いだったとしても…… みんな、懸命に恋をした 幸せな恋を、決して諦めなかったのよ 病室の電気は消えている。病院はもう消灯時間。 乙津夢はベッドに座りながら窓の外を眺めていた。 夜の闇に沈んだ海。 寄せては還す波の音。 星の瞬きのように繰り返す。 それは永遠の象徴だったから夢は羨望を抱いている。 一度眠ってしまうとそこで終わりかもしれない、まぶたは開かないかもしれない、そんな恐怖を抱えているから夢は就寝前にこうして海を見下ろすのだ。 そして、翌日に目覚めることができたなら、朝陽に輝く海を感謝を込めてまた見下ろす。 寄せては還す波を聞きながら、おはようと声をかけるのだ。 だから……今は、おやすみなさい 夜の海から視線を逸らし、ベッドに横たわる。 まぶたを閉じるのは怖いから、自然と眠りに落ちるまでは天井を眺めている。 カーテンを閉めていない窓から差す星明かりが、白い天井を淡い光で濡らしている。 サイドテーブルや点滴台も同じような色に染まっている。 代わり映えのしない見飽きた視界に、最近の夢は想い出という彩りを添えている。 洋くんと再会したから、こうして思い返すことが多くなっている──── 私は学年が上がった春、小学校には通えなくなった。 これまでも学校は休みがちだった。それは物心ついた頃から続いていた。 体調不良の早退は日常茶飯事、クラスのみんなと一緒に授業を受ける日はあまりに少なく、周囲と打ち解けるのは難しかった。 私は友達を作ることができなかった。 だから学校を辞めるのも時間の問題だったのかもしれない。 それでも私は学校に通いたかった。 学校が好きだった。 給食のあげパンが大好きだった。 クラスメイトと話したり笑いあったりするのは難しくても、一緒にいるというだけで意味があった。 私は学校を辞めたくなかった。 人より身体が弱いからって、ほかのみんなと違うからって、ひとりになんかなりたくない。 日常と離れたくない。普通がいい。 普通に勉強して普通に遊んでいられればそれだけでよかったのに。 だけど家族には通学を反対された。 共働きの両親だから、私が熱を出して学校で倒れても簡単には迎えにいけない。 だったら自宅で、私の世話をおばあさまに任せたい。 学校にはもうその旨を伝えてある。 大丈夫、勉強だったら通信教育だって家庭教師を頼むことだってできる。 遊び相手だっておばあさまがいる。 だからあなたは、大丈夫。 その春、私は自宅で療養することが決まった。 だからその日、私は最後に小学校を訪れた。 そんなときに出会ったのが彼だった。 小河坂洋。年下だから、洋くんと呼んだ。 彼は笑わなくてぶっきらぼうで人と距離を置いていて、クラスで見ていたほかの子とは違っていた。 私とも違っているように見えた。 彼は孤独を嫌っておらず、自分からひとりでいることを選んでいるように感じたのだ。 桜って、好き? 関係ないから あたしのこと、邪魔だって思う? だから、関係ない そう キミは、あたしにもかんしんがないんだね 何事にも無関心だった彼。 それが子供の背伸びだったとしても私は悔しかった。 私は羨ましかった。 私も彼のようだったらこんなふうになることはなかった。 無関心でいられれば──学校に関心がなければこんな気持ちになることはなかった。 だから、そう。 私は学校を嫌いになろう。 学校に関心を持つことはもうやめよう。 辛いのも悲しいのも後悔するのもみんなやめて。 そして代わりに興味を持つのは彼にしよう。 ありがとう。洋くん キミと出会えて、うれしかった また出会えると、もっとうれしい あたしと遊びたくなったら、いつでも言ってね あたしは、キミと一緒にいるのが、好きだから 私はもう学校に通うことはできなくなったけれど。 代わりに彼と友達になれるのなら、私はまだ大丈夫。 私は笑うことができるだろう。 私はひとりではないだろう。 私はここにいられるだろう。 私は、ひとりでいなくなったりしないだろう。 きっと、いつまでも、永遠に あたしは、キミが好きだから それからの私は、自宅でおとなしくしているようなことはなく、親に黙ってたびたび外出していた。 帰ってくると家で待っていたおばあさまは心配そうにしていたし、注意もしたけれど、決して怒ることはなく両親にも内緒にしてくれていた。 私は街に出て、洋くんを捜していた。 見つけ出すのはそんなに大変ではなかった。 小学校が終わる時間を見計らって校門で待ちかまえていれば、彼はひとりで下校してくることが多い。 彼の下校のタイミングを逃しても、道ばたでばったり出会うこともできた。 小学生の足では移動範囲が限られているし、なにより彼もまた私を捜しているようだったから。 彼が私を捜している──それは私の心を躍らせた。 何事も無関心だった彼が、私には興味を抱いてくれている。 私は彼の特別だ。 だったら友達になれる。必ずなれる。 私たちが出会っても、彼のほうから声をかけることはない。 人付き合いに慣れていない感じ。友達のいない自分もそれは同じだったから、話しかけるのは勇気がいる。 それでも、私は彼と話すことができた。 私にとっての特別も彼だったからだろう。 彼はやけに大人びていて、私がお姉さんぶると背伸びしないでいいからなんて言うときもあったけれど、私から言わせてもらえば彼のほうが背伸びをしていた。 私は彼より年上なのだからいろいろ教えてあげようとしても、たいてい彼のほうが物事を知っていて悔しい思いもしていたが、そこはお姉さんなのでぐっとこらえていた。 たまに怒ると、彼は怒られるのに慣れていないのか急に素直になって謝るので、私は彼を憎めずにいた。 そんなふうにふたりの距離は少しずつ縮まって、そして展望台まで彼をひっぱっていったのもお姉さんの私だった。 学校に関心がなかった彼は、街にも関心がなかったようで、展望台は初めてだと言っていた。 だから私はうれしくなって、坂を走って案内してしまった。 星見のあと、洋くんのおでこにキスしてしまった。 恥ずかしくなって、彼を置いて帰ってしまった。そのときも走ってしまった。 おかげで家に着いた頃には熱が出て、しばらく寝込んでしまった。 それからの私たちはおたがいを捜さずとも簡単に出会えるようになっていた。 展望台がふたりの遊び場となった。 洋くんが学校を終える時間を待って、私はおばあさまに車を出してもらっていた。 展望台までは、軽自動車くらいの大きさなら乗り入れることができるのだ。 洋くんと星見をして、別れるまで、おばあさまは車で待っていてくれた。 彼は私が車で来ていることに気づいていないようだった。 明かりが少ない上に木々が連なる展望台は、陽がかたむくと車の姿が見えにくくなるためだろう。 私は彼にウソをついて、歩いてきていると言った。 彼は信じてくれたようだった。 私は彼に自分の身体のことを教えたくなかった。彼には私を普通の女の子として扱って欲しかった。 だって私たちは、友達なのだから。 友達というのは、変わらない日常を普通に過ごせる関係なのだから──── その普通が彼の引っ越しによって終わりを遂げると、私の日常もまた変化をきたした。 洋くんと遊んでいたことが原因とは思わない。だけどその後の私は体調を悪化させる頻度が高くなっていた。 心配に思った両親は、隣街の病院で大きな検査を私に受けさせた。 結果が出ると、両親は、今度は私に入院を勧めた。 自宅で療養するだけでは身体はよくならない、もっと専門的で集中的な治療が必要だ。 夢も、早く元気になりたいだろう? 大丈夫、病院でだって勉強はできるし、おばあさまもお見舞いに来てくれる。 自分たちは、仕事があるからついていてやれないけれど。 夢は、都会の大きな病院に入院しよう。 それが、夢のためなんだから。 両親の言葉を聞いて私は漠然と悟っていた。 ああ、やっぱりか。 私の身体が人と違うのは、そういうことなのか。 普通ではいられないということなのか。 普通には生きられないということなのか。 なんとなくわかっていた。 だからこそ私は洋くんに一度も連絡先を教えなかった。 再会できる保証はないから。 洋くんと再会できるまでに、普通じゃない自分が生きている保証はないから。 だから、彼が連絡先を尋ねてきても頑なに断った。 拒否するしかなかったのだ。 生まれ育った雲雀ヶ崎を離れるときに涙は出なかった。 別離の涙はすでに洋くんを相手に流しきっていた。 私が入院する道外の大病院というのが、彼の引っ越し先だった都会というのは皮肉なものだ。 調べようと思えば、洋くんの住所を調べられたかもしれない。会おうと思えば会えたかもしれない。 だけどそれはしなかった。 今、たとえ会っても、洋くんを困らせるだけ。 近いうちに別れるかもしれないのに会ったって、おたがいに辛くなるだけだ。 再会するのは、この身体が丈夫になってから。 私が普通になってから。 彼と別れなくてすむようになってから。 そうならない限り、私が洋くんに会うことはない。 長い入院暮らしの間、私は勉強を続けていた。 両親が勧めた院内学級は受ける気にならず、毎日お見舞いに来てくれたおばあさまから物事を教わっていた。 身体が治って、洋くんと再会できたとき、今度こそ年上のお姉さんとして恥ずかしくないように。 洋くんに星を教えてあげられるように。 私は、洋くんと再会できる日を願っていた。 夜空の星に祈っていた。 七年間、この身体が治る見込みもないまま──── おばあさまが亡くなると、私は雲雀ヶ崎に戻ってきた。 洋くんと再会するためではない。 私の命は長くないと告げられたから戻ってきた。 死ぬのなら、この命がもうすぐ空に還るのなら。 それは、洋くんと見上げた雲雀ヶ崎の星空以外に思いつかなかったから。 ひとりでいなくなりたくなかった私は、だから洋くんと友達になった。 なのに今、私はひとりでいなくなろうとしている。 なんだろう、これは。 どうしてこんなふうになっているんだろう。 洋くんのそばにいたいと思っているのに、私は洋くんのそばにいてはいけないと考えている……。 ……お見舞い、禁止にしたからね これでよかったのだろうか。 夢は、洋と再会するつもりはなかった。 それでも偶然この雲雀ヶ崎で見かけたとき──成長した彼を一目見たときは、泣きそうになるくらいうれしかった。 声をかけるようなことはしなかった。相手が話しかけてくる前に立ち去った。 洋につかまりそうになったときは、必死に逃げた。 夢が再会するつもりがなくても洋にはあったのだ。 お見舞いに来てくれたときにも涙が出そうになった。必死に我慢した。そんな姿を見せるわけにはいかなかった。 お姉さんは、年下の男の子に慰められるわけにはいかないのだ。 再会をよろこぶようなことがあってはいけないのだ。 困らせたくないからね…… 想い出は想い出のまま。 再会したら結婚するという、過去の幼い約束で洋を縛るつもりはない。 幻想を抱く時間は──夢を見ている時間は、もう終わりを迎える。 終わりを迎えれば悪夢となる。 彼が考えているよりも、その刻は近いのだ。 どうせなら……さくっといなくなりたいなあ…… 私が……思い直す間もないくらいに…… なら、試してあげましょうか ………… 思い直す間もないくらい、さくっと刈ってあげましょうか なぜ気がつかなかったのだろう、いったいいつからいたのだろう。 ベッドの横に、窓から差す星明かりを浴びた少女がひとり、立っている。 だ、誰……? メア。名前を言うのは、初めてね え……? あなたとは初めてじゃないけど、この姿で会うのは初めてだから え、なに……? わからないなら、それでいい 夢は混乱の中で思考する。 彼女は何者なのだろう、こんな時間にお見舞いというのもおかしな話。 登場の仕方は、明らかに普通じゃない。 もしかして……死神さん、とか? 星影を反射する大きな鎌から、そう思った。 メアと名乗った少女が幼少期の自分に似ていると感じたのは、そのあとだ。 そうよ。わたしは、死神よ 肯定されたことで、夢の心臓が激しくなる。 私の命……刈りにきたの? わたしは悪夢を刈る死神よ。だから、あなたの悪夢が命でない限りは、刈ることはできない だけど、試してみる価値はあるかもしれない 試す、の……? 死神少女のむすっとしていた顔が、ゆがんだ。 ……やったら、洋くんに怒られるから 親に叱られる子供のような口調だった。 キミ……洋くんのお友達? ……それよりも 彼女は病室の扉をちらりと見る。 あなたが寝ていたら、起こそうと思ったんだけど。もう起きてるなら問題ない あの、キミは…… ここは遠いから、長居はできない だから、一言だけ 洋くんを悲しませたら、カマでざっくり刺すからね…… 彼女の姿が星明かりに薄らいでいた。 驚いたと同時に、完全に消え去った。 なんなの……これ…… 現れ方も、消え方も。 そう、まるで。 家庭教師の妖精さんみたいな……。 病室の扉からノックが聞こえて我に返るまで、夢は呆然としていた。 夜の病院には人気がない。 門から覗ける駐車場にも、夜間スタッフのものだろう車が数台とまっているだけだ。 正面玄関にはカギがかかっていますから、そこから忍び込むことはできないんです 建物の裏側に通用口があるんだよね? はい。この時間に唯一、病院に入ることができる扉です 夢がいる西病棟には、夜間に使用できる出入り口はない。 外来用の玄関も閉ざされている。 だから夢を外に連れ出すには、中央病棟の夜間通用口からになる。 この病院に詳しい姫榊とこさめさんからの情報だった。 看護師の巡回時間も、お父さんから聞き出したりしてチェック済みですよ その巡回が一番手薄になるのが、この時間なんだよね 日曜の夜。消灯時間はとっくに過ぎている。 俺たちはこの時間を待って、計画に乗り出した。 俺は、明日歩たちが考えた無茶な計画に乗ったのだ。 万夜花さんからバイクも借りてきたし、あとは夢さんが来るのを待つだけだね 手はずは整っている。 天クルの皆の協力もあって、計画は順調に進んでいる。 だが、成功するかどうかは夢次第。 夢が、俺に会いたくなければそこでこの企ては終わるのだ。 来るよ。絶対 明日歩が、俺の顔を間近で覗き込んでいた。 久々のドアップにのけぞった。 夢さんは、洋ちゃんに会いたいって思ってるんだから 洋ちゃんと離れたくないって、思ってるんだから…… ……ああ。信じるよ 夢がここに来てくれるなら、意志があるということだ。 言葉じゃなくても行動で示してくれたということだ。 そのときは、俺も応えられるだろう。 願いを叶えたかった。 この七年間、夢と再会できたなら真っ先にしようと考えていたこと。 それを今夜、果たしたかった。 気温が下がってきましたね…… こさめさんが夜空を見上げてつぶやいた。 夢が俺に会いたいと思っていたとしても、夢の体調が悪ければやはりこの計画は成り立たない。 あとは信じるしかないのだ。 仲間が夢を連れてきてくれることを。 ……やってられないわね、なんでわたしが一番危険な橋を渡ってるのよ 病院に忍び込んでいた姫榊が文句たらたら戻ってきた。 わたしはこの計画に反対してたっていうのに…… 非常識だって言ってたもんね なのになんでわたしがこの役なのよ…… そこはそれ、適材適所ですから こももちゃん、病院の地理に詳しいもんね それだったらこさめだって同じでしょ…… いざというときの運動神経を考えてのことですから 看護師と鉢合わせたら退治でもしろっていうの、まったく…… 姫榊 終わりそうにない姫榊の文句を止める。 それで、夢は…… 連れてきたわよ、ほら ………… 少し離れたところに夢が立っていた。 私服姿は初めてだ。外出用だろうか。 計画は順調に進んだのだと知る。 ホッとしている。いや、へたり込みそうになるくらい安堵している。 あとは、俺が仕事を果たすだけだ。 夢さんが眠っていたら、引き返すつもりだったんだけど。起きていてくれて助かったわ ……うん。おかげで、死神さんにも会えたしね 死神? メアって名乗った女の子だよ 俺たちは一様に驚く。 ……メアさんも、いらしてたんですね そうか。 メアには昨夜、計画を話していた。心配して見にきたのだろうか。 夢のお見舞いをしてくれたということだろうか。 洋くん…… 夢は前に出て、俺と向かいあう。 どうかな、この服…… 変じゃないかな…… この時間だとパジャマは寒いし、私服に着替えてきちゃったよ…… ……急で、悪かった たった一着の私服なんだけどね。着るのもひさしぶり だから、おかしいところないかなって…… ……おかしくないよ 普通の女の子に見えるぞ 女の子扱い…… 誉めたつもりが怒らせている。 子供扱い…… ……そうじゃないって 普通っていうのは、うれしいけどね 笑っている。見る限り、体調も悪くなさそうだ。 私を、どうするの? 連れていく どこに? 連れていきたい場所があるんだ 誰かに見つかったら、怒られるよ そのときは俺が怒られる お願いね 任せてくれ 夜に抜け出すの、初めて。ドキドキしちゃった 特にナースステーションの前を見つからないように駆け抜けるときが一番楽しかったよ~ ……まあわかっていたことだったが、夢は明日歩や千波側の人間だ。 それに、あとで抜け出したのがバレても、洋くんが代わりに怒られてくれるし フォローくらいは頼むぞ この人にさらわれましたって言うね それは突き落としている。 洋ちゃん、バイクのエンジンかけたよ どうぞ、ヘルメットですよ 二人乗りは大目に見るけど、スピード出し過ぎないようにね。ただでさえポンコツバイクなんだから 二人乗りをするには少し狭い、年季の入ったスクーター。 夢 ヘルメットをつけてから、夢の分も手渡す。 夢はぽかんと受け取った。 バイク……乗るの? ああ 電車を使う手もあるが、なるべく夢を歩かせたくなかった。 私、乗ったことないよ…… 運転は俺だ。原付の免許は持ってるから ………… 荷台で悪いけど。つかまってれば怖くないから 不安そうな夢に言った。 途端、ぷくっとほおをふくらます。 私のほうがお姉さんなのに…… 昔の言い方に笑いがこみ上げる。 あと、これも 俺が着ていたジャケットも渡した。 ……これ、なに? バイクだと風が当たって寒いから。着てくれ ……いいよ、洋くんも寒いでしょ 平気だ ダメだよ いいから着てくれ ダメだよ。私は、お姉さんなんだから 俺は、男だ。だから着ろ 強めに言った。 ……今、きゅんってなった 効果があった。 ……勝ったなんて思わないでね なんの勝負だよ…… 俺はバイクのシートにまたがって、エンジンの鼓動を感じながら夢がジャケットを羽織るのを待つ。 戻ってきたら連絡ちょうだい。わたしたちは近くの喫茶店で時間つぶしてるから また夢さんを病室に連れていかないといけませんからね 気をつけていってきてね ああ がんばってね、洋ちゃん ああ。ありがとうな お節介な仲間たちに感謝。 後ろに加重がかかったのを感じる。夢が乗ろうとしているのだ。 ……って、ジャケット着てないじゃないか 洋くんには負けないから なんだよそれ…… お姉さんが着せてあげるね ジャケットを着せられてしまう。 それから夢は荷台に腰を落とす。嘆息するしかない。 ちょっと、せまい…… すぐ着くから。それまでの辛抱だ ……落っこちそう 俺がなるべく前に出る。シートの後ろ、空くだろ。そこも使っていいから ………… どうした? ……それだと洋くんにくっついちゃう ……それは我慢してくれ 嫌って意味じゃ……ないけど…… もぞもぞと近づいてくる。 背中に触れるやわらかい感触。 まだ……落ちちゃいそう…… どこでもいいからつかまってくれ そんなこと……言われても 夢の腕が、おそるおそる俺の身体に回される。 つかまるとこ……ここしかないよ…… 背中に、夢の体温を大きく感じる。 あたたかい。熱いくらいだ。 熱……あるのか? そうだよ…… ぎゅうっとしがみついた。 やわらかい感触が増した。 洋くんのせいだよ…… ドキドキ……してるんだよ…… 悔しいけど…… 俺は、なにも言えなくなってバイクを発進させた。 アクセルを回し、ゆっくりと走り出す。 やっぱり……ジャケットいらなかったな…… すごく……暑くなったから…… 目的地まではそれほど離れていない。二駅分だ。 車の少ないこの時間なら、スピードを抑えても電車とさほど変わらない時間で着くだろう。 信号にもひっかからなかったおかげで、ここまでノンストップで走ることができた。 街の境界線だった運河の橋を、夢を連れて渡った。 さすがに風が冷たかった。ヘルメットはフルフェイスじゃないのだ。 俺が風よけになっているから夢のほうは平気だろう。 走行中、夢と会話はできない。だけど夢の腕はしっかりと俺の身体をつかんでいて、安心できる。 心臓の鼓動も上がっている。 密着している。背中に、夢の胸が当たっている。 押しつけられている。ぐにゃりとつぶれているのがわかる。 ……成長したんだよな。 おたがい、もう子供じゃない。 だから、無垢な願いを忘れてたっておかしくない。 約束を忘れてたっておかしくない。 おかしくなくても、忘れたくなかったから、成長しても覚えていた。 忘れたとしても、思い出したのだ。 踏切を越え、夢見坂を走っていく。 電車を選ばなかったのはこの坂が大きな理由だ。 夢に負担をかけたくない。外出するだけでも疲れさせてしまうのだ。 それを言ったら夢は怒るだろうか。 子供扱いするなと怒るだろうか。 メアのように頭を撫でたら激怒するんだろうなと、背中のやわらかい体温を感じながら思っていた。 フェンスの前に着くと、俺はスロットルをゆるめてバイクを止めた。 エンジンを切ると、辺りがしんと静寂に満ちる。 夢、降りてくれ 後ろを向いて、まだしがみついている夢に言う。 離れてくれ。俺も降りるから ………… 夢……? あ……なに? やっと顔を上げてくれる。 ……どうした、具合悪いのか? う、ううん……目、つむってたから 体調不良じゃないようでよかった。 着いたの……? もうちょっとだ。ここから先はバイクじゃ無理なんだ バイク、降りるの? ああ ………… まだしがみついている。 夢? ………… やっぱり具合…… ……そうじゃないよ。うん、そうじゃない 背中の体温が離れる。夢が降りたのだ。 勝ったなんて思わないでね…… だからなんなんだ…… 脱いだヘルメットを夢から受け取り、自分の分も合わせて片付ける。 寒くないか? うん。涼しくて、気持ちいい 夢はぐるりと首をめぐらせる。 ……そっか。うん、そうだと思った ここに向かってるんだって、目をつむってても、感じてたよ このフェンスの先が、展望台だ 立ち入り禁止だけど、入れるんだよね? ああ。迂回するんだ 俺は手を差し出す。 着くまで、ちょっと道が危ないから 手……つなぐの? 嫌ならいいんだけどな ………… 夢はうつむいて寄り添ってくる。 ……今だけ、だよ お姉さん的に……譲歩してあげてるんだよ 洋くんに、案内をゆずってあげてるんだよ…… 俺の手をそっと握って、はにかみながら言っていた。 邪魔になりそうな枝を払いのける。 闇の中、獣道とも言えない林の中を掻き分けて進む。 俺たちは手をつないで、展望台までの道を登る。 細くなだらかな道のりをひた登る。 ああ、そうだ。 そうなんだ。 葉を落とした寂しげな枯れ木。 寒風に揺れる梢。 冷たく濡れた足下の土。 それでもここは変わっていない。 たとえ季節は変わっても、俺たちは成長しても、夢と一緒に遊んだこの場所だけは変わっていない。 想い出の中のまま。 記憶と現実が重なる。 だから彼女はそばにいる。 俺と手をつないでいる。 幼かった昔も、今このときも、これから先も。 時が移り、俺たちは変わっても。 俺たちは一緒なんだと思う。 そのかたちが恋人じゃなかったとしても……。 俺たちは一緒なんだと、そう思えるんだ。 変わらない…… 変わってないよ、洋くん…… 夏の星空も……この、冬の星空も…… 変わらないくらい、きれい…… 幼い頃のまま……想い出の中のまま…… 私は、変わったのに…… おかしいね…… うらやましいね…… 雲雀ヶ崎の星空が、うらやましいよ…… ありがとう、洋くん…… 私……今日を、忘れないよ 絶対に、忘れない…… 過去の想い出と一緒に…… 洋くんとふたりで遊んでいた想い出と一緒に、今日という日を大切にする だから、ありがとう 想い出を、ありがとう…… ……まだだよ 変わらない星空の下、それでも俺たちは変わったのだから。 まだ、ありがとうは早いぞ 俺はまだ、夢に星を教えてない 夢に星を語りたい。夢によろこんでもらいたい。そのために俺は星を覚えた 成長したこの手は過去よりも星に近くなったから。 俺は、変わったんだよ 今の俺は想い出の僕よりも、夢を笑顔にできる 夢と、もっと星見ができる それが俺の願いだったんだよ 俺は夢と再会したかった。 過去の「僕」はその願いを短冊に書いた。 あの日夕空に流れた、流れ星にも祈った。 それらすべてはこの場につながる道しるべだった。 俺は、夢に星を語りたい その願いを叶えるためにここに来た 夢を、この展望台に連れてきたんだよ 洋……くん…… だからさ、もうちょっとだけ俺につきあってくれ 俺が語る七夕伝説に、耳をかたむけてくれないか 南の空にはオリオン座、東の空にはふたご座、そして天頂にはカペラのぎょしゃ座が輝いている。 天の川は流れていても、織姫と彦星は舞台から降りている。 だけどたしかにそこにある。 ふたりは再会を夢に見て、両岸で天職に務めている。 その昔、天の川のほとりには、天帝の娘で織姫と呼ばれる美しい天女が住んでいた…… 織姫は天帝の言いつけをよく守り、毎日毎日機織りに精を出し、光り輝く見事な織物を織り続けた 天帝は織姫の働きぶりに感心していたけれど、年頃の娘なのに恋をする暇もない娘を不憫に思い、ある日牽牛という牛飼いの青年と結婚させることにした そうして織姫と牽牛のふたりは生活を共にして、仲睦まじく暮らした…… めでたしめでたし 勝手に締められる。 ……いや、待ってくれ 私、七夕伝説くらい知ってるよ 私だって洋くんに教えようと思って覚えたんだよ ……それでも聞いてくれ。頼むから 洋くんの願いだから? そうだ 迷惑って言ったら? 迷惑ついでに毎日見舞いのたびに語り続けてやる ………… お見舞い……来るの? ああ 俺はそれでも、夢のそばにいたいんだ 夢は、もう禁止とは言わなかった。 男の子だね、洋くん 強引だね、洋くん…… 俺は、七夕伝説の続きを語る。 織姫と牽牛は結婚し、幸せに暮らしていた…… けれども織姫は牽牛との新婚生活に夢中になり、天職だったはずの機織りをすっかりやめてしまった だから初めは新婚だからと大目に見ていた天帝も、次第に腹を立てるようになり、最後には牽牛のもとから織姫を連れ戻してしまった 天帝は織姫をもう一度天の川のほとりに住まわせ、機織りを命じた これから心を入れ替えて仕事をするなら、年に一度だけ、七月七日の夜には牽牛に会うことを許してやろうと言って…… めでたしめでたし ……だから待ってくれ 年に一度だけでも会えるなら、いいじゃない 私なんて、何年も待ち続けてたのに…… 誰を? 洋くんじゃないよ。うん、洋くんじゃない まだ言うのか 何度でも言うよ。洋くんが負けるまで いつから勝負になったんだよ…… 洋くんは男の子だけど、私はお姉さんだからだよ ……続き、いいか? うん…… 牽牛と離れ離れとなった織姫は、年に一度の牽牛との再会を励みに機織りを続けるようになった 牽牛もまた織姫との再会の約束を胸に仕事に励み、ふたりは七月七日を待ち焦がれた けれど七月七日に雨が降ると天の川の水かさが増して、織姫は牽牛のいる向こう岸に渡ることができなくなってしまう ふたりは天の川を隔てて佇み、再会を果たせないことに心を痛め、川面を眺めて涙を流すしかなくて…… 引っ越しで離れ離れとなり、俺は夢との再会の約束を胸に、たしかに仕事に励んでいた。 俺は星に詳しくなった。 夢に、七夕伝説を教えたかった。 俺と友達になり、俺と約束を交わしてくれた夢だから、この七夕伝説を語りたかった。 雨が降って天の川の水かさが増すと、悲しむふたりを見かねたかささぎが飛んでくるんだよね そうだ。かささぎは群れをなして飛んでくる そして一羽一羽が翼を広げてつながり、架け橋となって、織姫を牽牛のもとへ渡す助けになってくれるんだ 今度こそ、めでたしめでたし、だね いや 俺は首を振る。 ……終わりじゃないの? ああ でも、七夕伝説は…… 続きがあるんだ え……? 七夕伝説は、まだ終わりじゃない 一般に伝わっている七夕伝説は、ここで終わってしまう。だけど本当は続きがあったんだ 織姫と彦星には、子供がいたんだよ 夫婦となったふたりは、一男一女の子供に恵まれた…… だけど天帝によって織姫は、彦星のもとから引き離されてしまった。だから子供たちとも別れてしまった 子供たちは、彦星と一緒に織姫との再会を待ちわびているんだ 七夕は、織姫と彦星の再会が約束された日というだけじゃなかったんだよ 家族になれる日だったんだ 家族と一緒に、幸せな日常を送れる時間だったんだ…… 夏の夜空に輝く織姫──こと座のベガは、ふたつの四等星と小さな三角形を描いている。 そのふたつの四等星は、彦星──わし座のアルタイルのかたわらに寄り添うように光っている。 それらは七夕の子供、織女の子星、または牽牛の娘星と息子星と呼ばれている。 そう…… そうなんだね…… 織姫と彦星には、子供がいたんだね…… 家族が、いたんだね…… 結婚して……そして…… 家族に、なっていたんだね…… 夢は星空に向かって語りかける。 慈しむ瞳に星の光をたたえている。 私……洋くんと離れ離れになってから、考えたんだ…… 洋くんが引っ越す前日……七夕の日…… 織姫と彦星のように、キミとまた再会したいと言ったのは、本当だけど…… 約束したとおり、洋くんと結婚して…… 洋くんが話した七夕伝説のように、子供を作って、家族になれたらなって…… 子供心に思ったのは、本当だったけど…… だけどね、私の願いは、そうじゃなかったんだよ…… 私の身体がよくなったら、洋くんと結婚したい…… だけど、よくならなかったら、それはできない…… 洋くんには、私のことを忘れて欲しい…… 忘れて、ほかの人と一緒になって欲しい…… そのほうが、洋くんは困らないから…… そのほうが、洋くんはきっと幸せだから…… それが……私の願いだったんだよ…… 流れ星に祈った、本当の願いだったんだよ…… 夢は笑顔でいられている。 儚い姿に俺には見える。 私は、治療を諦めているわけじゃなかった…… だから都会の大きな病院に入院した…… まるで、洋くんを追いかけるように…… 私は都会に移り住んだ…… だけど洋くんと会うことはしなかった…… 私の身体は、治るかわからなかったから…… そして、それは今でも続いている…… だからね もうすぐいなくなるかもしれない私と、洋くんは再会するべきじゃなかったんだよ…… 洋くんは、私を忘れるべきだったんだよ…… ……違う 違わないよ…… 絶対に違う 洋くん、まだ優等生じゃないんだね…… 洋くん、まだ無理しようとするんだね…… 背伸び、しようとするんだね…… 過去の『あたし』は、洋くんに、お姉ちゃんって慕って欲しかった…… 甘えて欲しいと思ってた…… 甘えて、頼ってくれる洋くんが、私にとっての優等生だった…… 幼いわがまま…… お姉さん風を吹かせたかった、過去の『あたし』…… 今考えても、子供だなって思う…… だけど私は、そんな幼かった想いでも、大切に守ることにした…… 私は、洋くんに星を教えてあげられるように勉強した…… もしもこの身体が治るなら、今度は私が星を教えてあげようって…… 本当のお姉さんになろうって…… ……違うんだ 関係ないんだ お姉さんとか、年上とか、関係ない 友達とか、恋人とか、そんなのも関係ない 夢の病気だって関係ない…… ………… ただ、俺は、夢のそばにいたいだけなんだ 俺は、想い出は想い出のまま、今の恋を探したいって思う。 探した結果、それはやっぱり夢かもしれない。 わからない。 わからないから、これが正直な気持ちなんだ。 無理、しなくていいんだよ…… 無理するのは、私の役目なんだから…… 私のほうが、お姉さんなんだから…… 俺、今日が誕生日なんだ 十二月二日。今日が誕生日なんだよ これまでよりも、歳が夢に近づいたんだ なのにまだ俺のこと、子供だなんて言うのか? お姉さん風を吹かせるのか? なあ、夢 背伸びしなくたっていいんだ お姉さんになんてならなくていいんだ 俺はそんなこと望んでいない 夢には、無理して欲しくないんだよ…… ………… 洋くん…… やっぱりキミは、変わってない…… 優等生じゃないんだね…… 変わらなきゃいけないのに……。変わらない星空の下で、私たちは変わらないではいられないのに…… 私たちは変わるからこそ、変わらない星空が好きになれるのに…… なのに、キミは……キミだけは…… そうやって、変わろうとしないんだね…… 優等生のふりをし続けてしまうんだね…… ちがうんだよ…… それ、ちがうんだよ…… 洋くんは、変わってない…… 間違ったまま、変わってない…… だから、最初から間違っているんだよ…… 間違っているから、こんなふうに、すれ違っちゃうんだよ…… 無理をしてるのは私じゃない……。いつも、洋くんのほうだったんだよ…… 昔から……今だって…… 私も無理をしてたかもしれない……。だけど洋くんのほうが、ずっと無理をしてたから…… 初めて出会ったときから、そうだったから…… 無理をしてる……強がってるんだって…… わかったんだよ…… ふたりで一緒に遊びながら、洋くんから家族の話も聞いたから、わかったんだよ…… 洋くんは、がんばってるんだって…… 全部ひとりでがんばるだけなんだって…… 誰にも頼らないで…… 頼ろうともしないで…… 頼っても、いいのに…… 頼っても、いいんだよ…… 私は、お姉さんだから…… 子供の頃は、背伸びだったかもしれないけど…… 今は、あの頃よりは、お姉さんをできると思うから…… だからね…… キミは、私に、甘えてもいいんだよ…… ……どうなっているんだろう。 なんだろう、これは。 なぜ、逆になっているんだろう。 夢のほうが辛いはずなのに。 病気で辛いはずなのに。 キミが言ったんだよ…… 病気なんか、関係ない…… 相手が大変だからって、そんなの関係ない…… お母さんが大変だからって、関係ない…… 妹さんが心配だからって、関係ない…… 自分がしっかりしなくちゃとか、関係ない…… 辛いときは、辛いって言うの…… 甘えたいときは、めいっぱい甘えるの…… それが、家族なんだから…… 友達なんだから…… そばにいるってことなんだから…… 優しい抱擁に満ちている。 夢のぬくもりに包まれている。 あたたかい胸に抱かれている。 ほんと言うとね、私、今夜もやっぱり会わないようにしようかなって思ってた…… 洋くんは、もう友達がたくさんいるみたいだったから…… 無理してばかりいた昔の洋くんは、人と壁を作っていたけど…… もう、そんなことないんだって安心してたのに…… ダメだぞ…… 我慢ばかりしてたら、ダメなんだぞ…… そんなことすると、お姉さんが怒っちゃうぞ…… 俺は翻弄されている。 俺は、なにか、どこから生まれたのかもわからない、どうしようもない感情を抑えられないでいる。 なあ、夢…… 俺、なんかおかしいんだ…… なにか、こみ上げてくるっていうか…… 全部……おかしくなりそうっていうか…… ……うん いいんだよ それで、いいんだよ…… 怖がらないで……変わっても、いいんだよ…… 洋くんは、ずっと、がんばって優等生になろうとしてたから…… お母さんを助けて、家族を助けて…… 友達を作ろうとしないで…… 頼れる人を作ろうとしないで…… 自分ひとりでみんなを助けようとして…… それは、今でも続いていて…… 明日歩さんを助けようとして…… 姫榊さんを助けようとして…… こさめさんを助けようとして…… 蒼さんを助けようとして…… 千波さんを助けようとして…… 背伸びして、私まで助けようとして…… だからね、それはやっぱり優等生じゃないんだよ…… だって、その優等生は、我慢ばっかりだったから…… 優等生のふりをしてるだけだったから…… 洋くんは、無理してばっかりだったから…… これまでずっと、泣かなかったんだから…… 泣きたくても、泣かなかったんだから…… 我慢して、泣くことができなかったんだから…… はらはらと。 なにかが舞い落ちている。 星空から降る白いかけら。 ひとかけらが頬に載って、瞬く間に涙で溶ける──── 知らなかった。 人ってこれほど泣けるのかと思った。 満タンのダムが決壊するように。 押し留めていた感情が音を立てて砕ける。 肩を震わせて、子供がしゃくりをあげるように声をあげて。 それはこれまで溜め込んでいた分の量。 がんばったね、洋くん…… 大変だったね、洋くん…… 辛かったよね、洋くん…… もう、泣いてもいいからね…… 我慢しなくていいからね…… 私が許すから…… 我慢しなくていいって、私が許すから…… 頼らず、甘えず、強がって我慢して。 そうしたら、いつしか泣き方を忘れていた。 夢と離れ離れになったときも泣かなかった。 母さんが死んだときも泣かなかった。 もしかしたら泣いたと思ったかもしれない。それで悲しみは消えたと思い込んでいたかもしれない。 もう自分は平気だと信じたのかもしれない。 だけど、涙は流れていなかった。 悲しみはなくならない。 なくならないんだ。 質量保存の法則。すべてはフタをして隠し、見ないようにしただけで。 俺は、優等生という仮面をつけて、逃げていた。 私は、洋くんの恋人じゃないから…… 唇にはできないけど…… だけど、ここにはできるんだよ…… 夢は、俺のおでこにキスをする。 三度目だ。 幼かった夢にされ、幼かった夢にそっくりなメアにされ。 そして今夜、成長した夢にされる。 すべてが共通している。 そうか、俺は。 見ようとしていなかった。 差し伸べられた手を払っていた。 つかもうとしなかった。 頼るべき機会をみずから失していた。 だから俺は、誰かのそばにいるようで、いなかった。 向こう岸から誰かが呼んでも、ひとりで待つばかりで。 かささぎの橋はちゃんとかかっていたのに。 俺はずっと、天の川を渡ることが、できずにいた──── こんにちは、夢さん 学校帰りにお見舞いに来ましたよ 病院だから静かにお邪魔しまーす! ……あいさつがすでにうるさい 大所帯で押しかけてごめんなさいね だけど病室にはなんとか入りきれそうだね そんなわけで、夢 天クルのみんなでお見舞いに来たぞ まあ、愚妹だけ違うけどな それと、連絡がつかなかったメアと雪菜先輩の風来坊ふたりも見逃してくれよ ……うん。ありがとう みんな、いらっしゃい 夢は仲間たちを迎え入れる。 昨夜はあれから病院前でほかの皆と合流し、また姫榊に頼んで夢を病室に連れていってもらったのだ。 誰にも見つかってないとは思うけど、もう二度とごめんだからね こももちゃん、冷たいね ……危険な橋を渡らないならいいって意味よ なにはともあれ、夕べはお疲れさまでした お兄ちゃんと夢さん、展望台に行ったんだよね ……そう聞いてるけど そこでなにをしたのかまでは、現地にいなかった僕らは聞いていないね あたしたちも聞いてないよね 小河坂さんが教えてくれないんです で、小河坂くん。展望台でなにしたの? 夢、体調はどうだ? ……言いたくないみたいね 昨夜の記憶は誰にも告げずに俺が墓まで持っていく。 洋くん。体調は、いつもどおりだよ にこっとほほえみかけてくる。 ……どうしても照れくさくなるな。 あんな姿を見られたんだから無理はない。 だけど後悔はない。夢の前ではもう強がらない。無理はしない、我慢しない。 甘えるときは甘えたい。 ……そう簡単にはいかないけどな。 この性格が簡単に変わるなら苦労しないのだ。 それは変わる努力をしないという意味じゃないけれど。 要するに、もっと成長しろということだ。 私の身体のこと、そんなに心配しなくていいからね でも、昨日は外出させたからさ もう。甘えるのは私じゃなくて、洋くんのほうなの。そう言ったでしょ? 気遣うくらいいいだろ…… 夕べの洋くん、素直でかわいかったのに やめろっ、早く忘れてくれっ 忘れないよ。うん、絶対に忘れない これからも大切に守っていく、私の宝物だからね 人の痴態が宝箱に入れられてしまった。 なにがあったのか、ますます気になるなあ…… 洋くん、みんなに言ってないんだ 言えるわけないだろ…… 言いづらいなら私が代弁してあげる。洋くん、夕べは私の胸で子供みたいに泣き…… やめろおおおおおおおおおおおお!!!! ……小河坂くん、病院では静かにね 洋くん。恥ずかしがらなくても、いつでもお姉さんに甘えていいんだからね? ……しばらくはこのネタでいじられそうな予感。 お姉さんの胸、いつでも貸してあげるからね? 胸…… お姉さんの胸に甘えていいからね? 胸に甘える…… お姉さんの胸に抱きついていいからね? 胸に抱きつく? お姉さんの胸に顔をうずめていい…… なんで胸ばっか強調してるんだよ!? こさめさんが俺に寄ってきて耳打ちする。 小河坂さん、お外でなんて大胆ですね ほら! 盛大な誤解が生まれてる!! 胸……あたし、負けてる…… 明日歩はほかのところで誤解している。 コガヨウ…… なんだその穢らわしいものを見る目はっ、やましいことなんかなにもやってないから! ……ではなにをしてたんでしょう 普通に星見しただけだ そうだよ、洋くんは普通に私の胸に甘えて抱きついて顔をうずめて泣いて…… べつに詳細は教えなくていいから!? 大人数だけあって騒がしくなるのはしょうがないのかな ……これ以上は病院に迷惑になるから控えよう。 夢、その後はどうだった? その後? 夕べ、無事に病室に戻ったんだよな そうだよ ならいいんだ。誰かに怒られたとか、そういうのがなかったなら 怒られはしなかったけど、今朝、姫榊先生に言われたよ お父さんに、なにをでしょう? ……まさか 仏の顔も三度まで、だって 姫榊が額に手を当てた。こさめさんは苦笑した。 夏に抜け出してたので一回、今回抜け出したので二回。次またやったら、鬼になるって…… ……思いっきりバレてるじゃないか。 行き帰りにナースステーションの前を通らないといけないのがネックだったのよね…… そっと通り抜けたつもりだったんだけど…… 宿直の看護師に見られたのかもしれないね お父さんの内に眠る鬼が目覚めたら、わたしたちが束になっても鎮められないと思いますよ なんだその伝奇設定は。 洋くん、私の身代わりになってくれるんだよね? 代わりに鬼を退治しろと? ……次に抜け出すときは、必ず見つからない作戦が必要だな ううん、いいの。外出するのは、もうおしまい 最後に展望台で星見ができたから、満足だよ 夢は笑顔だった。俺は胸が痛くなった。 夢が最後だなんて言ったから。 みんな、ありがとうね。これからもよろしくね 洋くんを、よろしくお願いします 改まった夢の態度に皆は面食らっていた。 ますます胸が痛くなる……。 ……そんなこと、言うな ………… ……そんなこと、言うな 夢が元気になれば、いつだって星見はできるんだから だから、もうすぐいなくなるような、そんな言葉は受け取れるわけがなかった。 夢に甘えていいのなら、いつでも胸を貸してくれるというのなら、いつだって夢は近くにいなくちゃいけない。 それは、そばにいてくれるという約束なのだから。 ……うん。そうだね そうなれたら、いいね…… 夢の小さな笑顔。 夢に甘えるだけじゃない、俺はこの笑顔を守りたかった。 それでまた、無理をするなと夢に怒られたとしても……。 そんなことは言わないで欲しかった。 そんな言葉は受け取れない。 それでも俺はなにも返せずにいた。 夢の病気の詳細を知らない俺は、軽々しく口にできない。 夢からそれを聞かされない限り、どんな励ましも気休めにしかならない。 だけど、そばにいることはできる。 夢の見舞いを続けることができる。 たとえまた禁止を言い渡されても諦めない。 それがなにより重要な、俺の天職なのだ。 ねえ、洋くん…… あの星、十字架に見える…… はくちょう座の北十字だな ちょうどこの時期は、はくちょう座のくちばしが地平線に刺さって、十字架が立ってるように見えるんだ はくちょう座って、三角形を作るのよね はくちょう座のデネブのことだな。織姫や彦星と一緒に、夏の大三角って呼ばれるんだ ……じゃあ、そのデネブって星は、織姫と彦星のご近所さんになるのね ご近所って、なんか知りあいみたいだな 知りあいかもしれない。バカバカな子だったけど ……よくわからないけど、誰のことだ? かーくんのカタキ。とってもバカバカ なにやら怒っている。 ちなみにな、地球の反対側からだと南十字って星座も見られるんだ 地球の反対…… バイトで金ためて、旅行でいくのもいいかもしれないな ……わたしは、無理。ここから遠出はできないから そっか。残念だな 残念でも、しょうがないから 近場の旅行なら平気か? ……ある程度なら 隣町は? それくらいなら、なんとか 夢の見舞いにいってみるか? ………… 今日、天クルのみんなでお見舞いしたんだ。今度、メアもよかったらどうだ ………… 夢から聞いたけど。メアもひとりで、お見舞いしてくれたんだよな ……様子を見にいっただけ それをお見舞いっていうんだ ……そう そうだ メアとふたり、澄み渡った星空を見上げる。 冬の北十字は、俺たちにクリスマスが近いことを教えてくれる。 メアは、クリスマスって知ってるか それくらい知ってるわ。一般常識じゃない そうだな。みんな、ケーキで祝ったりするからな 誕生日みたいに、よね そういえば俺、昨日が誕生日だったんだよ ……そうなの? ああ、家で簡単にお祝いされたけどな。千波がごちそう作りたがって止めるのに大変だった わたし……洋くんの誕生日、知らなかった…… 雲雀ヶ崎に戻ってきてからは、誰にも言ってなかったからな だから、言ったのはメアが初めてだ ……夢って子は? そうだな。まあ夢は、昔からの知りあいだからな 言ってないんだ 昨日、言ったよ ……じゃあ、わたしが初めてじゃない こっちに戻ってから知りあった人の中では、初めてって意味だ それも……ちがうのに…… 不機嫌になっている。 ……夢って子から、お祝いしてもらったの? メアは不機嫌のまま言った。 してもらった感じではあるな プレゼント、もらった? ある意味、もらったな 夢に甘える券とでも言えそうなものを。 ここで、ふと思い出す。 明日がなんの日か、知ってるか? 知ってるわ そっか うん 祝日ってわけじゃないし、意外と誰も気にしてないと思ってたけど 気にするほど大切な日でもないし 普通の人はそうなんだろうな うん 小学生くらいまでは、学校で短冊とか飾ったりするんだろうけど 短冊? ケーキじゃなくて? ……キミんちって七夕をケーキで祝うのか? たなばた? 明日は七夕だろ? 俺はメアと、いつかこんなやり取りをした。 メアは、七夕をケーキで祝うと言ったのだ。 ひょっとして、メアの誕生日って七月七日なのか ……え? 七夕がメアの誕生日なんじゃないか? ………… 前に、ケーキで祝うって言ってたしさ ……そうなのかもしれない わたしのふるさとは、七夕だから メアは、織姫と彦星の輝きがない夜空を見上げる。 ……メア、おまえ なに 記憶……取り戻したのか? ………… メアは視線を俺に降ろし、そっと近づいてくる。 そ、そうじゃなくて…… ……して欲しいのかと思って 誕生日プレゼント……なにがいいかなって…… 一日遅れだけど…… お祝い……してあげようかなって…… なにかくれるのか? ……しょうがないから、くれてあげる じゃ、頭撫でさせてくれ 洋くん……もうしてる…… このまま撫でさせてくれ それ……おかしい…… わたしが……変な気持ちになるだけだし…… 俺はそれで充分だ わたしが……充分じゃない…… わたしも……洋くんを変な気持ちにさせたい…… そうは言われても。 どうするんだ? メアは一度、ためらってから。 こう……する…… 洋くんに……これあげる…… メアは背伸びして、キスをする。 唇が離れると、メアは深くうつむいていた。 どう……? ちらりと不安そうに上目遣い。 ……たしかに変な気持ちになった 背徳感めいた気持ちなのだが。 メアの容姿が幼いためか、恋人じゃないのにしたからか。 ただ、メアとキスをしたのはこれが初めてじゃない。 お祝い、ありがとうな ……まだ メアは顔を上げ、俺を見つめる。 赤らんだ頬。 それでも視線はわずかにも外れず。 まっすぐで、真剣な雰囲気を醸す。 まだ……終わりじゃない…… キスは、前にもしたし…… だから……もっと…… 洋くんに……もっとしてあげたい…… メアは、着ていた服をぱさりと落とした。 一瞬、なにが起こったのかわからない。 この視界に、頭がついていかない。 もっと……してあげたいから…… 俺は遅れて現状を認識する。 ちょっ…… ………… なにやって…… ………… 星明かりに浮かび上がるメアの肢体は幻想的で、そのせいか幼いくせに魅惑的に見えた。 心臓がバカみたいに激しくなる。 服……着ろ…… ……いや しぼり出すように言う。 メアは必死になって羞恥に耐えている。 おまえ……寒いだろ…… 死神は寒くなんてないわ…… 死神に縛られないんじゃなかったのか…… 間違った……わたしは、寒くなんてないわ…… どっちでもいいから、服着てくれ…… いや…… 頼むから…… いや…… 恥ずかしいだろ……? 恥ずかしくない…… ウソつくな…… ウソじゃない…… 顔、赤いぞ…… 赤くない…… 声、震えてるぞ…… 震えてない…… いいから服着てくれ…… いや…… あまのじゃくだからそう言うのか……? なに言ってるのかさっぱりだわ…… じゃあ、服着ないでくれ…… うん…… 違うだろ…… ちがくない…… そこは否定だろ…… いや…… もう一回するぞ……いいか、よく聞けよ…… 知らない…… 服、着てくれ…… いや…… 服、着ないでくれ…… うん…… だから違うだろ…… ちがくない…… 洋くん……バカバカ…… わたしは……したいから、したの…… 洋くんに……裸を見せたいから、見せたの…… かぶりを振りたくなる。 いきなり……どうしたんだよ…… だって…… いっぱいの星明かりの下、メアの幻想的な肌は羞恥でふんわり朱をまとっている。 男の子は……こうされると、変な気持ちになるんでしょ…… うれしく……なるんでしょ…… 女性の裸を見ると…… 女性というには幼すぎる身体。 ふくらみだってほとんどない。 メアは手で隠して恥じらいながら、その他の肌をさらしている。 夢幻のように透き通ったその肌は淡くて美しい光のようで、相手は子供だというのに瞳を惹きつけてやまない。 変な気持ち……なる……? 見惚れていて、反応が遅くなる。 い、いや、だからな…… 洋くん……うれしくなる……? 気持ちよくなる……? わたしが……頭撫でられるみたいに…… 洋くんに……気持ちよくされるみたいに…… わたし……洋くんを、気持ちよくしてる……? 非現実な視界で、メアのその言葉が的外れなのか、的を射ているのか、俺は判断がつかなくなる。 まだ……ならない……? まだ……足りない……? ………… メアに応える メアに応える 応えられない 俺はどう応えていいか判然としない。 それでも、拒絶はできない、したくないという気持ちもあった。 足りなかったら……次もある…… 次も……してあげる…… もっと……してあげる…… 洋くんが……気持ちよくなれるように…… ……やっぱり、やめさせよう。 俺はメアに応えることができない。 この行為が恋人のするそれとは違うという理由もある。 だがなによりも、これ以上を進むのは、メアの優しさにつけ込んだかたちになる。 メアからもらうだけで、俺から与えるものがなにもない。 ……メア それでも、こうして俺のために必死になるメアの気持ちがうれしいことに変わりない。 寒いだろ、ほら 裸をさらしたままのメアを抱擁する。 メアは、よくわかっていない顔で見上げてくる。 寒くなんか……ないのに…… でも、震えてる 震えてない…… 感じるぞ。メアの鼓動 俺の鼓動も、届くだろうか。 メアと同じように心震わせていることが伝わるだろうか。 洋……くん…… メアは、おそるおそると、俺の背中に腕を回す。 きゅうっと、抱きつく。 俺の胸に額をくっつける。 わたし……洋くんに、もらってばかりだから…… だから……わたしも、なにかあげたいって…… 俺は、メアになにもあげてない そんなことない…… もらってる……たくさん…… じゃないと……説明できない…… この気持ちがどこから来たのか……わからないよ…… 長い時間をこうしていた。 離れるとき、メアは口には出さないがどこか寂しそうにしていた。 またな、と声をかけるとメアも同じ言葉を返した。 俺の帰宅は、もう日付が替わりそうな時間だった。 そして、リビングで俺の帰りを待っていた詩乃さんから聞かされた。 夢が入院する病院から連絡があったことを、告げられた。 俺は学校を終えてから、隣町の病院に足を運んだ。 昨夜、病院の看護師から連絡があったと詩乃さんから聞かされた。 時間があるときに訪ねて欲しい。ただ簡潔に、それだけだったそうだ。 だから俺は放課後を待ってここに来た。 もともと夢の見舞いにいく予定だったので、手間になることはない。 気になるところがあるとすれば、俺を呼び出す用件だ。 看護師の名前くらいは聞いていたが、誰なのかわからないので判断しようがなかった。 受付カウンターで、その看護師の名を告げた。 ロビーで待つように言われたが、椅子に腰かける前に相手はやって来た。 俺が来る時間をあらかじめ予想していたようだ。 それもうなずけた。 俺がヒバリ校の生徒だと知っていれば、放課後に訪れると予想するのは簡単だ。 ……小河坂洋くんね 相手は一度、俺と会話を交わした看護師だった。 ごめんなさいね。急に呼び出してしまって いえ、どうせ病院は寄る予定でしたから ……乙津夢さんのお見舞いよね そのことも知っていたから、今日訪ねることも予想できたんだろう。 あの……俺に用事って、夢を外出させたことですか? 呼び出しまでくらう用事といえば、これくらいしか思い当たらない。 夢は俺を身代わりにすると言っていたし。 看護師は答えない。ただ、表情は険しい。 図星ということだろうか。 ……説教が長くなるのは辛いな。 謝りますから、手短かにお願いできると助かります。夢の見舞いもあるので…… 夢さんのお見舞いは、できないわ そう、看護師は言った。 今は、家族の方以外は遠慮してもらっているの…… 夢さんは、眠っているから 俺は眉根を寄せる。 ……体調が悪いってことですか? そうよ。昨夜から、悪くなったの じゃあ、また明日伺います。あ、説教は今日でもいいんですけど……ほんと、すみませんでした 明日も、お見舞いはできないわ 言いづらそうに言った。 今日だけじゃないの。夢さんは、面会謝絶にしてもらっているの だから、謝るのはキミじゃなくて、私たちのほう ……力が足りなくて、ごめんなさい 頭を下げられる。 生まれた不安が、爆発的にふくらんだ。 それと、夢さんのお見舞いに来てもらって、ありがとう 夢さんの様子を見にいくと、いつもキミの名前が出てきたわ。転院してきたばかりの頃に比べて、彼女は笑顔が多くなっていたわ ……なのに、面会謝絶なんですか? ………… 用件って、なんなんですか? 彼女は、手に持っていた封筒を前に出した。 昨日、夢さんからあずかったの。キミやほかのお友達がお見舞いに来ていた前よ キミにこれを渡したかったから、来てもらったのよ 俺は手紙らしきそれを受け取る。 きちんと封がしてある。すぐに切った。 気が急いて、家に持ち帰ってから開けるなんて、そんな余裕はなかった。 私も内容は知らない。夢さんが、キミだけに読んで欲しくて書いたものみたいだから…… だから、私は仕事に戻るわ 遠ざかっていく足音もすぐに耳に入らなくなる。 取り出した便せんを、俺は読み進めた。 『洋くんへ』 『この手紙は、展望台で洋くんが初めて私に甘えてくれた夜に記しています』 『さっき病室に戻ってきて、机の上で書いています』 『実はまだ、ドキドキしてたりします』 『興奮して、今夜は眠れないかもしれません』 『手紙を書くにはちょうどいいと思うので、こうしてペンを取りました』 『病室の電気はつけられないけど、星明かりがあるしね。ちゃんと書けそうです』 『まずは、お誕生日おめでとう』 『言いそびれちゃったから、ここでお祝いするね』 『プレゼントもなにか用意したかったんだけど、私って病院からは出られないから、ちょっと難しくて』 『ごめんね』 『だからこの手紙が、プレゼント代わりだったりします』 『キミに伝えたいことがあります』 『私はもうすぐ眠りに落ちると思います』 『いつかはわからないけど、そんなに遠い未来じゃないから、今のうちに伝えたい言葉を残しておこうと思います』 『この手紙は、私が眠りに落ちてしまったらキミに渡して欲しいって、誰かに託すつもりです』 『だから、キミがこれを読んでいる今は、私はもう眠っているんだと思います』 『もう、目覚めないんだと思います』 『だからもう、洋くんはお見舞いに来ないでください』 『お見舞いを、禁止にします』 『もう一度、禁止にします』 『これが、伝えたかったことです』 『それは、洋くんが嫌いになったからとか、そういうことじゃありません』 『眠りに落ちたら、私は二度と目を覚まさないからです』 『星空が、それを許さないから……』 『星の光が、私に影響を与えるから……』 『影響といっても段階があるみたいで、軽いものなら頭痛やめまいくらいですむみたいなんだけど……』 『私のは、その中でも特に重いものなんだって』 『私のは、命に関わるんだって』 『SAR値とかホットスポット現象とか、説明は受けたけど私はあんまり理解できなかった』 『私は、生まれつきそんな病気にかかっていました』 『病気の原因が星なんだったら、その光をよければいいって思うかもしれないけど』 『夜じゃなくても、たとえ建物の中に隠れても、星の光は届くから……』 『星の光は、機械で作る光よりもずっと強いから……』 『だから、この病気は、治らないんです』 『お医者さんががんばって治療しても、天文学者さんががんばって研究しても……』 『この病気からは、逃れる手だてがないんです』 『だから、洋くん』 『キミがこの手紙を読み終わったら、もう私の病室には来ないでください』 『お見舞いは、しないでください』 『私は、眠っていると思うから』 『もう目覚めないと思うから』 『キミのそばには、もういられないから』 『私の命は、もうなくなるから』 『ごめんね』 『頼っていいって言ったのに、ごめんね』 『甘えていいって言ったのに、ごめんね』 『そばにいてあげられなくて、ごめんね』 『だけど、星を嫌いにならないでね』 『私が星のせいでいなくなるからって、星を嫌いにならないでね』 『約束だからね』 『私とキミの、最後の約束』 『だから最期に、キミに伝えます』 『私は、それでも星が大好きです』 『キミと一緒に見上げた、雲雀ヶ崎の星空が大好きです────』 俺は手紙を握りしめ、夢の病室まで駆けた。 病室の前にたどり着いたとき、打ちのめされた。 ドアには面会謝絶の札がかかっていた。 俺は、面会時間が終わるまで、そこで立ち尽くしていた。 自室に戻ってきた。 階下のダイニングでは夕飯の支度ができていたが、断った。 具合が悪いのかと心配する詩乃さんと千波には、まともに取り合えなかった。 感情が理性を押しつぶす。 精神を摩耗させ、正常な思考をはぎ取っていく。 頭の奥底では冷えた部分もある。 その領域だけが冷静なのではなく、冷たく暗い感情が沈んでいるところだから。 これまで生きてきて経験した、幾度かの悲しみを押し隠したところだから。 くそっ……! ベッドをたたく。椅子を蹴り上げる。 都会への引っ越しもそうだった。 母さんの死もそうだった。 いつだって突然だ。 悪夢のような現実はいつだって唐突に攻めてくる。 予測なんかできない。 もてあそばれるだけ。 もてあそばれて、辛さや憎しみ、悲しみといった感情に翻弄されるだけ。 そうして日常は浸食される。 安寧は死ぬ。 対策を講じる余裕も蝕まれる。 俺はこの理不尽な現状を打破できなくなる……。 ……本当に、そうか? 唐突に訪れる悪夢、それを俺は幾度も経験し、だというのになにも学んでいなかったのか? 今回も予測できなかったのか? 俺は、気づいていたんじゃないのか? 夢の病気のこと。 その病気が進行していること。 ゆっくりと、しかし着実に進み続け、いつか死を連れてくるということ。 理解できなかったというのか? 夢が自分から話さなかったという理由だけで? 俺は、それに対してなにかできたんじゃないのか? なぜ今、俺はなにもできていない? なぜこれまで、夢を救う手だてを考えなかった? なぜ俺は、行動を起こしていなかった……? 夢の見舞いにいって、夢を見つめ、眺め、だけどその死からは目を背けていたのかもしれない。 都会への引っ越しで、夢と離れ離れになることがわかっていながら、それに甘んじた過去の「僕」。 同じなのか。 俺は、昔と同じで、怠慢に甘んじたのか……。 夢が、それでも好きだと言った星空。 星によって死をもたらされても、星によってどこかに連れていかれても。 俺から引き離されたとしても。 残酷だな、夢…… この理不尽に対する怒りは、星にはぶつけられないのだ。 夢が、好きだと言ったんだから。 嫌いになんかなれない。 だからそう。 昔も今も、変わらない。 俺たちは変わっても、星空は変わらないように。 星が好きだというこの気持ちは変わらない。 キミが好きだというこの気持ちは変わらない。 なあ、夢。 だからさ、夢。 俺はまた、キミと一緒に星見がしたかった。 昔も今も、これから先も変わらずに、キミと一緒に雲雀ヶ崎の星空を見上げたかったんだよ……。 洋くん…… どうしたの、洋くん…… ずっとぼんやりして……星空を見上げて…… 星見をしてたんだよ ちがう…… 洋くん、星を見てなかった…… 星じゃない、なにかを見てた…… なんだろうな、それ 聞いてるのはわたし…… そうだな ………… 洋くん……元気ない…… ……そうかな どうすれば……元気出る……? ………… 洋くん…… キス……する……? それとも…… もっと……する……? そ、そうじゃない…… ………… わたしが……されるんじゃなくて…… ……ありがとうな 心配してくれて、うれしいよ ………… それ、おかしい…… わたしが……洋くんにしてあげたいのに…… いいんだよ 俺は、なんでもないから なんでもないんだから…… ………… いや…… そんなの……いや…… 甘えて欲しい…… わたしが……洋くんに甘えてばかりじゃなくて…… 洋くんも……わたしに、甘えて欲しい…… その言葉が、夢の言葉に重なった。 だから胸が一段と苦しくなる。 頭の奥底に眠らせた、冷たく暗い感情が積まれていく。 この感情が、俺に泣くことを許さない。 だけど、いつかそんなこともなくなるのだと思っていた。 夢が、そうしてくれるんだと思っていた。 俺から涙を奪うこの感情は、なくなりはしない。 だから自分じゃない、もうひとりの誰かがその身に受け止め、送り還すのだ。 頼り、頼られ、甘え、甘えられ。 相手と気持ちを共有し、ほかの感情に昇華するのだ。 質量保存の法則はなにも自分ひとりに当てはめなくたっていい。 自分ひとりでため込まなくていい。 ふたりで背負っていくこともできる。 ふたりで変えていくことができる。 その誰かに出会うため、勇気を持って天の川を渡ればいい。 それを、俺は夢から教わったのだ。 ……洋ちゃん 放課後になって、帰り支度を進める俺に明日歩が声をかけた。 えっと、今日は…… ……悪い。今日は部活、休ませてくれ うん……わかった 明日歩はすぐに引き下がった。 見舞いのことも尋ねない。夢が面会謝絶になったことはもう知っているんだろう。 小河坂さん、これから病院ですか……? ……そうだな。そういうことにしてくれ なんだよそのお茶の濁し方 飛鳥は夢のことを知らないのだろうか。俺は言っていないし、そもそも飛鳥は夢と会ったことがない。 それじゃ、お先 詮索される前に帰宅することにした。 あたしたちに……できること、ないのかな…… 夢さんのことは、お父さんが診ています。わたしたちの役目は、小河坂さんを見ていることだと思います 仲間として、小河坂さんのそばにいることなんだと思います…… ……たく 教室を出る間際、飛鳥が席を立ったのが見えた。 待てよ、小河坂 校門を通り抜けたところで飛鳥につかまった。 オレも帰るから、途中まで一緒させてくれ 断る理由はなかった。 心に余裕がないからと言って、友達によけいな心配をかけるほど子供ではないつもりだった。 無理をしたいわけじゃない。 甘える時が、今じゃないだけだ。 これから見舞いってわけじゃねえんだよな ……まあな 警戒すんな。野次馬で詮索してるんじゃねえよ それなら、悪かった 肩の力を抜く。 なあ、小河坂 飛鳥は気持ちの間隙を縫うように。 死ぬと決まったわけじゃねえんだろ 歩みが、鈍くなる。 ……飛鳥も知ってたのか いや、カマかけただけだ。言いふらすような話じゃねえからな。南星たちだってそれくらいわかってるだろ おまえって案外、勘がいいよな 自分ではわからねえな。まあ日ごろからファインダー覗いてりゃ、人の動作だけじゃなく感情の動きにも鋭くなるのかもしれねえな 千波に貸してくれたデジカメ壊して、悪かったな ……あまりにも遅すぎる謝罪で、思い出すのに数秒かかったぞ オカ研、今はどうなんだ 話題逸らそうとするんじゃねえ ほんと、鋭いな 小河坂。死ぬと決まったわけじゃねえんだろ ……決まってる。夢はそう言った バカ。そうじゃねえよ おまえ自身は、彼女が死ぬなんて信じてねえだろってことだ ………… ……オレの妹も、そうなんだよ 舌打ちして、続けた。 ある日、いきなり行方不明になりやがった 小学校からの帰り道、なんの前触れもなく…… オレの前から、あいつは消えやがったんだ そうなってからもう五年以上経ってやがる どこかで事故にでもあったのか。事件にでも巻き込まれたのか 今のところ、なにもわかってねえ あまりにもわからねえから、理不尽だったからさ…… これは宇宙人の仕業だって、当時のオレは思い込んだよ 宇宙人があいつを連れ去ったんだって、ガキだったオレは思い込んだ 今でも、そう思い込んでやがるよ…… もう妹は死んでたっておかしくねえのにな…… だけどな、オレは生きてるって信じてる あいつは生きてるって信じてる だから、小河坂 おまえも信じろよ 生きている。死なない いなくならないんだ そう信じろよ 信じる力が奇跡を生む、なんて陳腐なことは言わねえよ だけどな、信じなきゃなにも始まらねえんだ スタートラインにも立てねえんだよ…… 俺は、飛鳥に答えたのだ。 ……ああ。そうだな わかってるさ 俺は、そこに立ったから、今日を動けるんだからな…… ………… ぁ…… 私…… そっか……眠ってたんだ…… まだ……生きてるんだ…… まぶしい…… 夕陽の……赤…… きれい…… 外……見たいな…… 水平線に沈む……夕陽…… 境界線の……光…… 見たい……けど…… 眠い…… 眠くてたまらない…… もう一度……まぶたを閉じたら…… 私……きっと…… ……そうだな ………… 妖精……さん…… 世良……千尋さん…… 家庭教師の時間になったから、覗きにきた だけどキミは、眠りについていた 帰ろうと思ったら、目が覚めて、驚いた その目覚めは、奇跡に近い…… ……うん 知ってるよ…… 自分の身体のことだから……知ってる…… また眠ったら……もう目覚めないって…… ………… ……外は、雪だよ そう…… 今年、二度目の雪だ 夕陽の鮮烈な赤に、綿のような白が混じり始めている 夜になれば雪雲が空を覆うだろう 今夜、星は見えないかもしれない そう…… 辛ければ口を開かなくていい 問いかけるかもしれないが、無理に答える必要はない ………… オレの姿を知覚できる人間はほとんどいない。三次元より上から見下ろし、それより下を〈統覚〉《とうかく》できる存在でなければ難しい だから、三次元に縛られる人間が、上の存在であるオレを知覚するには、条件が必要になる 〈夢幻〉《むげん》状態になるより方法はない 要するに幻覚を見るような状態を作るしかない たとえば薬物、ストレス、アルコール、脳機能障害、重度の失血…… キミのような、病気による異常 ………… それらはいずれもドーパミンとエンドルフィンの過剰分泌が原因とされている そうなると知覚のタガが外れ、周囲から飛び込む情報量を制御できなくなる 普通では知覚できない三次元より上の情報もまともに浴びてしまう 調律の狂ったピアノが、楽譜に囚われない旋律を奏でるように…… 雲雀ヶ崎に転院してきたキミは、だからこのオレの姿を認め、会話を交わすことも可能にした ………… 乙津夢…… キミに、後悔はないか? ………… ……うん 後悔なんて、なにもない…… ……そうか うん…… オレの最後の授業、受けてみるか? うん…… 人に忘れさせるということは、どういうことか 相手に忘れてもらうということは、どういうことか…… それは、残酷な優しさだ 残酷な優しさというのは、要するに押しつけだ 優しさであるがゆえに誰からも責められないから、よけいに〈性質〉《たち》が悪い だからな…… 忘れることに、意味なんてなかったんだよ 存在というのは破壊し得ないんだ 自分がここに生きていること、存在したということは、誰にも否定できない 神ですら否定できない 存在というのは破壊し得ないもの それは過去、現在、未来という時間概念さえも超越した絶対の定理だ どの次元の情報も統括する法則だ 変わらない星空よりも尊い、永遠の真理なんだ ………… だから、キミのことは忘れない オレは、キミのことを忘れない…… ……妖精さん あなたが……今みたいに、教えてくれるのは…… これまでも……私にいろいろ教えてくれたのは…… 理由はふたつある キミの祖母の旧姓が、オレと同じ世良であること…… そのため、キミが生まれながらオレと同じ病気──いや、体質を持っていたからだ 現代医学で治療できないのなら、体質として受け入れるしかないからな オレは学校には通えたから、程度のほうはキミよりも軽かったようだが…… そしてもうひとつの理由は、体質ばかりでなく、思考までキミはオレと似ていたからだ だから放っておけなかった キミと同じだったオレの……バカな先輩からの、後輩への授業だったんだよ キミにとっては、オレの存在なんてはた迷惑なだけだったかもしれないけどな…… 妖精……さん…… うん……そうだね…… よけいなお世話……だったかもね…… だって……そんなこと、知ってるんだよ…… 妖精さんに……教わるまでもなかったの…… 忘れることに意味なんてないって、もう知ってたの…… 残酷な優しさだって、最初から知ってたの…… そうじゃないんだよ…… 洋くんに、私のことを忘れて欲しいと願ったのは、そうじゃない…… あの日、流れ星に願ったのは、そうじゃない…… これは、相手に向けた優しさじゃない…… これは、自分に向けた覚悟なの…… 私の覚悟…… 強くあるための、覚悟…… 洋くんに、弱いところを見せないための…… 洋くんに、心配かけさせないための…… 洋くんの、お姉さんになるための…… 洋くんの孤独な強がりを……冷たく固まった感情を、抱きしめてあげられるように…… あたためあえるように…… ふたりで…… ひとりじゃなくて……ふたりで…… これが……私の、願い事…… 洋くんには、私のことを忘れて欲しい…… だけど、病気が治ったら…… 身体がよくなったら…… 私が強くなったら、洋くんと結婚したい…… この願い事は、洋くんと一緒に笑っていられるための、おまじないだったんだよ…… ……そうか うん…… ねえ、妖精さん…… 私も……死んだら、妖精さんみたいになれるかな…… そんなふうに……なれるかな…… ……わからない オレのように猶予を与えられるモノもいれば、そのまま星に還ってしまうモノもいる たとえ猶予をもらっても、誰かに気づいてもらえるとは限らない…… 気づいて欲しい相手には、気づいてもらえないかもしれない だから、死とたいして変わらない そっか…… 死んでも……洋くんのそばにいられるなら、いいかなって思ったんだけど…… まあ、しょうがないか…… 死んじゃっても……しょうがないか…… いなくなっても……しょうがないか…… ………… ねえ、妖精さん…… 私、どうだった……? 私、洋くんを困らせなかった……? 私、洋くんに心配かけなかった……? 私……洋くんを、助けることができたかな……? 支えることができたかな……? 洋くんの……お姉さんになれたかな……? お姉さんらしいところ……少しは見せることができたかなあ……? ……ああ キミは、強かった オレよりも、よっぽど 歌澄に自分の弱さを押しつけたオレよりも、よっぽど キミは、彼の前では、いつだって強かったよ…… ……うん よかった…… ほんと……よかったなあ…… ………… 妖精……さん…… 帰ったんだね…… ありがとう…… 今まで……ありがとう…… じゃあ……いいよね…… もう……いいよね…… 弱くなって……いいよね…… うっ……く…… 嫌だ…… 死ぬのは、いや…… 死にたくない…… いなくなりたくないっ…… 生きたいっ…… 洋くんと離れたくないっ…… 洋くんのそばにいたいっ…… 洋くんと一緒にっ……生きたかったよう……! 気温は昼より格段に下がっていた。 頭上の闇から白いかけらが舞い降りる。 雪がちらついていた。 天はわずかな隙間も許さず重い雲をまとっている。 その奥の星空を隠し、俺たちに光を与えずにいる。 人通りは皆無だった。 静寂は雪の降り積もる音を響かせる。 桜の花びらのようにしきりに視界を横切っているそれは、夢との出会いを彷彿とさせる。 今問われたならどう答えるだろう。 俺は、散りゆく桜を好きだと答えるだろうか。 春の儚い命を美しいと感じるだろうか。 きっとこう思うに違いない。 夢と同じ答えを持つに違いない。 散りゆく桜よりも、咲き始める桜のほうが好きだ、と。 俺は飛鳥と別れてから、自宅に戻り準備をして、病院に向かい、夢の状態は眠ったままということを確認した。 その後に夢を眠りにいざなった病気について、図書館の書籍やネットで可能な限り調べた。 夢の手紙にあった星の光による病気──天体電磁波過敏症というのは世界ではまだ仮説的症状だ。 そもそも天体からのものに限らず、電磁波による人体への影響自体、医学的にはまだ確立していない。 研究者が提唱しているだけで、疫学的な根拠はない。 電磁波対策先進国がかろうじて公的保険の対象にしているくらいで、治療法などありはしないのだ。 だから、俺ができることは決まった。 夢のためにできることは決まっていた。 桜のように舞い散る雪。 視界にあるのは白と黒。 そこに光はない。 モノクロの雪景色。 星空の見えない展望台で、俺は彼女と出会うことができた。 出会えないと思っていた。 今夜は星が見えないから。 だけど彼女は立っていた。 無理をして、強がって、メアは俺を待っていた。 メア…… 小さな背丈とは不釣り合いな大きなカマを後ろ手に持ち、そんなふうに背伸びをして。 メアは俺の言葉を待っていた。 おまえを……頼っていいか? おまえに……甘えていいか……? ……うん 洋くんは、わたしに頼っていい 洋くんは、わたしに甘えていい…… それは洋くんが弱いってことじゃない。洋くんが逃げているってことじゃない 洋くんだから、わたしに頼っていいの 洋くんだから、わたしに甘えていいの…… そうしてくれると、わたしもうれしいから…… わたしも、洋くんを助けたいから…… わたしたちは、もう、おたがいを助けあえる…… そういう関係になったから…… ……メア うん…… メア、頼む…… 夢の病気を、刈ってくれ…… そのカマで、刈ってくれ…… 夢は生まれつき病気を患っていた……。夢は、ずっとそれに苦しんできた…… なのに俺には、これまで一言も話さなかった…… 一度たりとも弱音を吐かなかった…… 弱いところを見せなかった…… いつでも楽しそうに笑っていた…… 幸せそうにほほえみかけていた…… ずっと、夢は強かった…… 強がっていたんだよ…… 俺の前では、お姉さんぶって…… 甘えてもいいなんて言って…… 辛くないわけがないのに…… 辛くないわけがないのに、平気そうにして…… そんなふりをして…… 背伸びして…… 無理をして…… 我慢してたんだよ…… 俺には、強がるなって言ったくせに…… 無理するな……我慢するなって言ったくせに…… バカだ……夢は、大バカだ…… 夢の言葉を鵜呑みにした……俺はもっと大バカだ…… しんしんと降り積もる雪の中。 俺は、初めてメアと出会ったときのように。 雲雀ヶ崎に戻ってきてからじゃない。 あの日、あの瞬間。 幼かったとき。 うん……いいよ…… 洋くんのお願い……聞いてあげるよ…… 夕空の流れ星に願ったように、俺はまた、メアに願いを込めている──── お願いだ……メア…… 病気は……夢にとっての悪夢だと思うから…… 刈ってくれ…… 送り還してくれ…… 夢を、助けてくれ…… ……病気だけを刈ることは、できない 彼女の病気が生まれつきのものだったら……それだけを刈ることはできない…… 病気を送り還したら……たぶん、彼女自身も送り還すことになる…… 治すのと還すのは、必ずしも同じじゃないから…… 病気がなくなったら……彼女もいなくなってしまう…… 生まれつきというのは、そういうことなの…… ………… そんな…… じゃあ、夢は……。 だから、洋くん 代わりに、わたしを刈って わたしを、これで送り還して…… わたしを、このカマで送り還して…… そうすれば、きっと彼女は助かるから…… わたしを送り還すということは……わたしがまとっている光も送り還すことになる…… わたしの光──流れ星に込めた願いも、あるべき場所に還ることになる…… わたしは……雲雀ヶ崎のどこかに眠る、隕石に還り…… わたしがまとう光は……ふたりのところに還る…… 洋くんと、洋くんが助けたい彼女に還る…… わたしは、ふたりの願いを聞いたから…… わたしは、ふたりの願いで目覚めたから…… ふたりの願いが光となって、わたしは生まれたから…… 七年前、七夕の翌日、俺が都会に引っ越す当日。 俺は、雲雀ヶ崎を離れる前に目撃した。 夕空に流れる一番星。 まばゆく輝いた流れ星。 洋くんは、彼女と再会したいと願った…… 俺は、雲雀ヶ崎の駅前で流れ星を見つけた。 夢が見送りに来るんじゃないか、引き留めてくれるんじゃないか、そのときには自分もこの理不尽な現実に少しは抵抗できるかもしれない。 そんな他人任せな希望を抱いていた。 だけど、夢は来なかった。 だから俺は代わりに願いを捧げていた。 かわいげのなかった「僕」が、子供染みたおまじないに初めて本気になれた。 俺は、夢と再会したいと願った。 今だからわかる。 夢は見送りに来たくても来られなかった。 夢は、簡単に外出できる身体じゃなかったから……。 そしてもうひとり、自宅で熱に寝込みながら、羨望の眼差しで空を眺めていた彼女もまた願っていた…… 洋くんに、自分のことを忘れて欲しいと願っていた…… だからわたしは、この姿で目覚めた…… カマを持ち、彼女の願いを叶えるために、ここで洋くんを待ちながら…… 同時に、洋くんの願いを叶えるために、彼女の姿とそっくりな光をまとっていた…… メアは、洋くん、と名を呼んだ。 わたしのこの姿は……ふたりの願いの証…… わたしのこの光は……ふたりの約束の証…… だから、わたしをこのカマで刈って…… あなたたちに、還すから…… それはきっと、力になるから…… 幼かったふたりの願いは……成長したふたりの力になるから…… 洋くんは……彼女を助ける力を得る…… 彼女は……洋くんに応えようって力を得る…… それは目には見えない不思議な力…… 不思議な光…… だけど、ちゃんとあるから…… 必ずあるから…… 星が持つ光……人が持つ光…… 人が願って生まれる光…… どれも、同じくらい強いから…… メアは、そのカマを俺が受け取ることを待っている。 送り還されることを、待っている……。 これで、もう、思い悩むことはない…… 洋くんが、悲しむことはない…… わたしの役目は終わる…… わたしも還ることになる…… わたしが結んだ絆は途切れる…… 洋くんと……さよならする…… そんなの……できるか…… できるよ…… できるわけないだろっ…… ううん……できる…… それで夢が助かってもっ……これじゃあメアがいなくなるじゃないかっ…… 言ったでしょう…… 洋くんは、わたしに頼っていい…… わたしに甘えていい…… 洋くんだから、甘えていいんだよ…… 洋くんだから、甘えられるとうれしいんだよ…… 洋くんになら、この命だってあげられるんだよ…… なぜだろう。 どうしてメアは笑っているんだろう。 どうしてメアは幸せそうなんだろう……。 だって……大丈夫なんだよ…… わたしは……大丈夫なの…… それが……約束を越えたところにあるものなの…… わたしたちの……絆なの…… 絆って…… そう……絆…… そんなのっ……メアがいなくなったら意味ないだろっ…… 絆なんかなくなるだろっ…… わたしはいなくなるんじゃない…… ちゃんと、いるんだよ…… 目に見えないだけで、ちゃんとそばにいるんだよ…… 洋くんのそばにいるんだよ…… 彼女も……夢も、きっと同じだったと思う…… 夢は……自分はいなくなるんじゃない、きっとあなたのそばにいられるって…… そう、信じてたから…… だから、弱音を吐かなかった…… 最後まで、強くあってみせた…… 諦めずに…… あなたと一緒にいられることを、決して諦めずに…… わたしも、そうでありたい…… わたしと夢は、同じように見えて、違うけど…… わたしも……夢のようになりたい…… わたしは……夢に負けたくない…… 洋くんを好きって気持ち……夢に負けたくないっ…… 俺は、泣いているだろうか。 泣くことを忘れて凍っていた、冷たく暗い心は、あの夜に夢が溶かし。 そして今、俺は泣くことができているだろうか。 メアは……負けず嫌いだな…… うん…… それに……あまのじゃくだ…… うん…… 七年前に俺たちが願った、流れ星…… それがどこに落ちたか、わかるか……? わからない……。だけど、雲雀ヶ崎に必ずある…… わたしは……この展望台が、一番姿を出しやすいから…… そうか…… うん…… メア……約束だ…… 雲雀ヶ崎に眠る、メアの隕石…… 俺は、それを必ず見つけ出す…… 見つけ出して、おまえを俺たちのところに連れ帰る…… おまえが眠っているなら、また目覚めさせる…… 俺は、おまえを取り戻す…… ────あなたは、がむしゃらになっていい。 ────あなたは欲張っていい。 ────あなたの力はひとつじゃないから。 ────あなたの幸せはひとりのものじゃないから。 洋くん…… こんなときでも……バカバカね…… わたしは、いなくなっても、あなたのそばにいるって言ってるのに…… それじゃあ足りないんだ…… 心の中で生き続けるなんてのはご免なんだ…… そんなのじゃあ、メアに触れられない…… メアの頭を撫でられない…… 洋くん、欲張り…… ああそうだ……俺は、欲張りだ…… だからな……見えるだけでもだめなんだ…… 聞こえるだけでもだめなんだ…… すべての感覚でわからなきゃ、だめなんだ…… 全部のおまえを感じられなきゃ、だめなんだよ…… 洋くん…… とっても……バカバカ…… 本当に、そうだな…… 俺はバカバカだ…… こんなふうにしか夢を救えない俺は、バカバカだ…… 洋くん…… それじゃあ、洋くん…… お願いね…… 考え直す間もないくらい……一気にやってね…… メア…… 俺はおまえを、必ず取り戻す…… 夢とふたりで取り戻す…… それまで待ってろ…… うん…… 少しのお別れだ…… うん…… すぐ会いにいくから…… うん…… 待ってるね…… ふたりで見つけてくれること……待ってるね…… 約束だ…… うん、約束…… 必ず果たす、俺たちの約束。 そして約束を越えたところにあるものを得る。 約束の先にある地にたどり着く。 俺たちは、もう一度、絆をつかむことができるんだ。 洋くんのこと、大好きだよ…… 夢のことも、大好きだよ…… だって、ふたりのおかげでわたしは目覚めた…… この星に生まれ落ちることができた…… だからね…… ふたりは、わたしのお父さんとお母さん…… わたしの家族なんだよ──── 夢を見ているようだった。 母の胎内にいるようだった。 そんな心地で眠っていた。 わたしは深いところで眠っていた。 ここは原始の底だった。 命が生まれる原初だった。 送られ、戻って、眠りに落ちて。 生と死が混在し、有と無が対を成さない混沌に沈んでゆく。 重力に引かれて沈んでゆく。 くるくると廻りながら。 ゆっくりと、本当にゆっくりと、この胎内を廻りながら。 ここはあたたかくて、あたたかすぎて、だからこうして廻っていると忘れそうになる。 抱えている想い出を腕からこぼしそうになる。 あの人との想い出を手放しそうになる。 わたしという個がこれだった。 一年にも満たない期間、それでいてかけがえのなかった記憶が、このわたしを形作っている。 もしもこれがなかったならば、わたしという個は周回の途中で母胎──ふるさとに還っていただろう。 わたしはまだここにいる。 維持できている。 守れている。 どのくらい守ることができるだろう。 何百年か先すら保つのか、何年か先までは保つのか、何日か先までも保たないのか。 すでに保てていないのか。 それでもいつかわたしが生まれ直す未来がある。 信じている。 祈りや願いじゃない。 確信できるんだ。 約束してくれたから。 約束の光をもらったから。 あたたかいまどろみの中でだってあたたかみを感じられる特別な光だから。 だから。 この光の差す方向を見れば、ほら。 そこに、想い出の続きが待っている──── YUME_e08a_parts 私たちの太陽系はね、秒速19kmくらいの速度で、ヘルクレス座に向かって移動してるんだって…… その方向ってね、こと座に近いんだよ 地球は、こと座のベガに向かって移動してるの この星はね、七夕の織姫に会いにいってるんだよ…… だからね、〈芽愛〉《めあ》…… うん。いつかこの星は、織姫に会えるのね 織姫のところには、天の川を渡った彦星と息子星もきっといるから…… みんなにも、会えるのね うん、そうだよ だから、この星から見上げる七夕の星は、少しずつ輝きを増していく…… 近づくほど、光を強くしていく 私たちを大きく照らしてくれるんだよ あとどのくらい? え? あとどのくらいで、この星は織姫に出会うの? えっとね、だいたい三十二万五千年後だよ ……すごく遠い そうだね そんなに遠いと、みんないなくなってるかもしれない 七夕の星も、この星も、わたしたちも…… みんな、いなくなってるかもしれない…… ……ううん、なくならない たとえ星がなくなっても、光はなくならない 光は、ずっとそこにあるから 何十億年も、何百億年もそこにあるから 私たちの光は、いつまでもいなくならないんだよ ……じゃあ、会えるの? うん。会える 私たちは、七夕の星たちに出会えるよ だから、それまでにどんなあいさつをしたらいいか、考えておかないとね お母さんはなんて言うの? 今日も一段と輝いてますねって ほかには? 今後も変わらぬご愛顧をよろしくお願いしますって ……だから、なんで営業のあいさつなんだよ あ、洋くん。遅かったね もうふたりで星見、始めちゃったよ 科学館が開館の作業でいそがしくてさ……。今日もサービス残業だった 洋くん、若き館長さんなのに まだ候補ってだけで、従業員と変わらないんだ 残業代も役員報酬ももらえないなら、横領とか脱税とかしとけばいいよ ……冗談でもそういう発言はやめてくれ ………… どうした、芽愛。家族で星見、あんまり楽しくないか 家族で祝う七夕、あんまりうれしくないか ……そうじゃない ちょっと、考えてたの なにを考えてたんだ? 宇宙について 壮大な思索だな 宇宙には、たくさんの神々、たくさんの人々、たくさんの星々が住んでいる…… ここから見上げる空だけでも、いろんな星が浮かんでる 青白い星、白い星、黄色い星、赤い星…… それこそ星の数だけあるたくさんの中で、どうやって選んだのか…… たくさんの中で、どうしてあなただったのか…… わたしは、洋くんを選んだのか こら、ちゃんとお父さんって呼ばないと いや。お母さんだって洋くんって呼んでるし ……なんで対抗されてるんだろ 芽愛、お父さんって呼んでごらん いや ……拒否られると思ったけどな わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが洋くんをお父さんって呼ぶことなの。だからいや ……なんかおもしろい子に育っちゃったね それでこそ芽愛だ 俺たちの子供だよ ……バカバカ そうだな あ、頭撫でちゃだめ…… そろそろ家に戻ろうか そろそろって、洋くん来たばっかりだよ 夢も、長く外に出てると身体が冷えるだろ 平気だよ。ラジオ体操だって第二まで通してできるよ ダメダメね 娘からダメ出しされた…… お母さん、調子に乗ってるとすぐ体調くずすし。そうなると洋くんが仕事ほっぽって看病するし 洋くん、明日も平日だから仕事なのに しっかり者だな べつに おまえのおかげで、無理して平気なふりする夢にも気づけるんだ ……べつに 無理なんかしてないのにな ダメダメね またダメ出しされた…… 洋くんが無理してるときも、わたしが言ってあげるから ああ、頼むよ しょうがないから頼まれてあげる そして、俺と夢がおまえを守るよ おまえを支えていくよ ……バカバカ 照れてるね て、照れてないっ じゃあ、続きは次の土日だ。七夕を祝日にしてくれたらありがたいんだけどな ちょっと残念だけど、星見はこれからもできるからね ああ、いつだってできる 夏は始まったばかりだものね あっ…… どうしたの? 今……流れ星…… 見つけたのか うん……でも、消えちゃった…… 願い事、できたか? ……べつに なんて願ったの? べつに なんて願ったの? あ、頭撫でちゃだめ…… 聞き出すのは、帰ってからにしようか そうだね。ご飯、もう作っておいたよ ……わたしも手伝った ありがとうな ううん、だって普通のことだもの 我が家で洋くんの帰りを、ご飯を作って待っている 食べる前に、おかえりなさいって言ってあげられる…… わたしも言う 洋くんに、おかえりなさいって言う…… じゃあ、ふたりで先に帰って、洋くんを出迎えよっか うん YUME_e08b_parts 俺は、手をつないで先を歩くふたりのあとを、少し遅れて追っていった。 手を添えた、首に下がったペンダントのぬくもりを感じながら。 学校が終わり、俺は部活を早く切り上げた。 夢の見舞いにいくためだ。 いったん帰宅してバッグを置き、私服に着替えて病院に向かうつもりだった。 だが坂を降りる前に、俺は登ることにした。 このまま進むと展望台だ。 用は特になかった。 なによりメアはいないだろう。これまで、昼間に出会ったことは一度もない。 俺は、メアに会いにいっているわけじゃない。 会いたくないという意味ではないし、どうせ会えないだろうという意味でもない。 気分晴らしみたいなものだ。頭を整理したかった。 メアとは今後、どんな顔をして会えばいいのかわからない。 昨夜に抱いたメアの肌は幻想的でも鮮烈で、まだこの手にぬくもりの名残がある。 それを意識すると心臓が早鐘を打つし、顔も熱くなる。 メアと会ってもまともに会話を交わせるかどうか。 ……まさか、こんなふうになるなんてな。 後悔などはもちろんないし、むしろキス(おでこではない)を交わしたのは俺が始まりだった。 俺はきっとメアと結ばれたいと思っていた。 ただ、戸惑っているだけなのだ。 なにせ相手は、夢の幼少期とそっくりな容姿をしている。 それが理由で結ばれたわけじゃない、当たり前だ、仕草も性格だってふたりは似ても似つかない。 俺は、メアが好きになった。 メアだから好きになった。 好きになった子がたまたま夢の幼少期とそっくりだっただけだ。 好きになった子がたまたま少女だっただけだ! うあああああ生まれてきてごめんなさい!!! 悶え苦しんだ。 いや、メアは年齢不詳だからな 免罪符を得て立ち直る。 フェンスの前に着くと、俺は慣れた足取りで迂回を始める。 その向こうにメアはいない。 メアは昼間には姿を現さない。 会うことはない。 だから、俺の気は楽だ。 ………… ………… ………… ……あれ 予想に反してメアがいた。 俺に気づいているはずなのに目を合わせようとはせず、恥じらっているのかなんなのか、とにかくメアが立っている。 おまえ、なんで…… がこんっ!! いてえ!? いきなりカマでどつかれた。 なんでだよ!? ……素振り 意味わからないんだけど!? ……ひとりで素振り 俺がいただろ!? ……洋くん、いたんだ おまえ思いっきり俺に近寄ってきてカマ振り下ろしただろ!? ……洋くんなんか知らない どう考えても俺を対象にしてただろ!? ……素振りだから 違うだろ!? 素振りなのっ! がこんっ!! 俺は大の字に倒れて沈黙する。 ……帰る 頼むから待て…… 頭を振って立ち上がると、メアはびくっとなってしりぞく。 ……警戒するな し、してないっ 気持ち、わかるけどさ…… ここに来る前、俺も似た心境だった。 わたしの、気持ち……わかるの……? メアはなぜか怯えていた。 そりゃあな わ、わかっちゃダメ! ……なんで こ、こんな気持ち……ダメ…… 知られるの……ダメ…… ぜ、絶対……やだ…… 知られたら……洋くん還してわたしも還る…… それは俺を殺して自分も死ぬの振り替えか。 ……まあ、その気持ちもなんとなくわかる えっ…… 俺はメアの心が手に取るようにわかるんだ! ダメえ! 剣道よろしく面を食らう。 メアは一目散に林の中へ逃げていった。 ……おーい、メアー。冗談だから出てきてくれー おかしな挙動のメアのおかげで、俺のほうは逆に冷静だ。 冗談……? 木々の間から顔だけ覗かせる。 ああ。さすがの俺も相手の心は読めない ほ、ほんと……? ……今日のメアは、たしかにおかしい。 そもそもなぜ昼間に姿を見せているんだろう。 ほんとに……わたしの気持ち、覗いてない……? ああ。変なこと言ったのは謝るから バカバカ…… 警戒しまくりで寄ってくる。 で、どんなこと思ってたんだ? 洋くんとまた…… メアの顔が沸騰する。 ダメえ! また面を食らう。 そしてメアは逃げていく。 振り出しに戻すなよ…… メアは木の向こうから顔を出す。 よ、洋くんが……聞いてくるから…… ……悪かった。だからこっち来い おいでおいでする。 もう……聞いてこない……? ああ。メアが嫌がることはしない もしやったら……犬の変態くんって呼ぶからね……? ……わかったって メアは迷ったあと、怯えながら寄ってくる。 ちらちらと俺に上目遣いをする。 俺は息を吐いて、手を伸ばす。 っ! メアはぎゅっと目をつむる。 昨夜にはたくさん感じた体温。 それをなぞるように髪を梳く。 ぁ…… メアの瞳がようやく開く。 ま、また……こんな…… 嫌がることはしてないだろ ば、バカバカ…… 嫌か? ………… わから……ない…… いつもと……ちがうから…… 夕べから……ちがうの…… わたし……ずっと、こんな気持ち…… 洋くんがいなくても……変な気持ちになってた…… 変な気持ち……なくならなかった…… 夕べから……ずっと…… だから……もともとこうなのに……今は、もっと変になる…… わたし……も、もう…… 俺はしゃがみ、メアと同じ目線になる。 小さく震えるその唇に、自分の唇をそっと重ねた。 ン……んっ…… キスの間に、メアの警戒が解かれ、力が抜けていくのがわかった。 離れると、メアはうつむいてぼそぼそ言う。 キス……された…… して欲しいのかと思って ち、ちがうっ…… 間違ってたら、俺が勝手にやったことになるな う、うん……洋くんが勝手にやった…… それでもいいけどな それしかない……バカバカ…… メア、俺のこと待っててくれたのか? ………… 昼間にここに来るのは、難しいって言ってたから。驚いたぞ ………… ……うん わたしも、驚いた…… 今までは……無理だったから…… でも……がんばってみた…… がんばったら……無理じゃなかった…… 無理じゃなくなったの…… また、キスしようか? ………… ……だ、ダメ 迷ったな 迷ってないっ もう一度しゃがむ。 メアのぽうっとなった顔に唇を寄せた。 メアは逃げなかった。 逆に、メアからも俺のほうに唇を寄こした。 ンっ…… キス。 ん……ちゅっ…… はあっ…… ま、また……された…… そうだな 洋くんに……勝手にされた…… それでいいけどな。 メア、今日はいつ頃帰るんだ? ……知らない 星見にはさすがに早いな ……うん 時間あるなら、俺とつきあわないか えっ…… 俺とつきあってくれ ダメえ! なぜか面を食らう。 よ、洋くんとつきあったら……わたしがショタコンになる…… 俺と似たような苦悩をしている。 ……じゃなくてだな、俺、これから出かけるんだ メアは首をかしげる。 ……どこに? 隣町の病院に 以前、メアは遠出ができないが、隣町くらいなら平気と言っていた。 洋くん……帰るの? 不安そうな声。 もう……帰るの…… メアは、決して口には出さない。 だけど気持ちは伝わってくる。 帰るわけじゃない。隣町に行くだけだ でも…… 俺もメアと一緒にいたいしな わ、わたしはべつに…… だから、一緒に来ないか 前はひとりでいってくれたみたいだけど…… 今度は、ふたりで夢のお見舞いにいかないか ………… メアはびっくりしてから、迷う素振りを見せる。 ……お見舞いって、どのくらいの時間? そんなに長くない。一時間くらい 一時間…… どうだ? ……うん メアはうなずく。 しょうがないから、お見舞いしてもいい じゃ、行くか うん 早速、俺たちは連れ立って展望台を出た。 メアは俺の隣を歩いている。 その歩幅は子供のそれなのに、俺のペースに急ぐこともなくついてきている。 メアも大変そうではない。むしろ気を抜くと俺のほうが置いていかれる。 スケート靴のような足取りだ。 なんか、おかしな感じだな なにが? 俺たちが一緒に歩いてるのがさ ……そう? ああ。一緒にいるのは、いつも展望台だったから ほかの場所で顔を合わせたこともあるが、それだってこうして歩いていたわけじゃない。 メアって足、速いんだな そう? そう まあわたしは死神だからね 自慢した。 ……間違った。わたしはわたしだから 死神にこだわらないという意思表示だろう。 べつに死神のままでいいんじゃないか ……そうなの? ああ、無理に変える必要ない。死神だろうとなんだろうと、メアはメアだからな ……そうなのかな たぶんな たぶん…… 絶対だ ……うん メアは確認するようにつぶやく。 わたしは、死神…… 洋くんを刈る死神…… 俺を刈る必要はないのだが。 まあ、それでいいか うん 素直になってきたな ……死神は素直なんかじゃないわ メアらしくなってきたな 死神はわたしらしくなんてないわ よくわからなくなった。 ま、いいか 死神はよくなんてないわ 校門が近くなると、下校途中の生徒をちらほら見かける。 それら全員の目が、坂の上から現れたメアに注がれる。 メアの持つ大きなカマに注目していた。 ……そういえば これまでメアを連れて外を歩いたことがなかったせいだろう、失念していた。 このままだと銃刀法違反で逮捕だ。 ……人がいる 注目されたメアは、俺の背中に隠れてしまう。 だがカマは隠しきれず、俺の頭の上から飛び出ている。 なあ、メア メアに振り向く。 なに そのカマ、置いていこう ……置く? ああ。それ持って歩くのは難しいから べつに難しくなんてないわ メアはそうでも、物騒だろ? べつに安全よ でも、ほかの人はそうじゃないんだ そんなの知らない でもな、それ持ってると、今みたいに注目されるぞ メアは俺の身体を壁にしてそっと向こうを窺い、生徒のひとりと目が合うとさっと隠れた。 ……なんか見られてる こんなふうに目立つの嫌だろ? ……うん そのカマ、展望台に置いていこう ……いや メアはカマをぎゅっと抱く。 大切なものなんだろう、頑なな意志を感じる。 しかし、このままだと電車にすら乗れない。 ……洋くん、困ってる 顔に出てしまったようだ。 持って歩かなきゃいいのよね メアはカマの柄から手を離した。 それは重力に反して宙に浮かぶと、徐々に透明になった。 生徒の何人かが驚きの声をあげる間に、完全にかき消えた。 メアはいつも気づくとカマを手にしていたり、隠していたりした。 その瞬間をまともに目撃したのは初めてだ。 今の、どうやったんだ? 人に干渉されないようにした ……見えなくしたってことか? それだけじゃなくて、さわることもできない。わたしはできるけど メアは手を握って腕を上げたり下げたりするが、俺の目では体操にしか映らない。 まるで手品だ。 手品と違うのは、行使している本人にもタネがわからないところなんだろう。 わたし、カマは持って歩かないから メアは両手を後ろに組む。 俺には見えないが、カマはそこらへんに浮かんでいるのかもしれない。 これで物騒じゃない? ああ。悪いな これくらいべつにいい ギャラリーだった生徒たちは徐々に散っていく。 その中に俺を見知った生徒がいたら、声でもかけられたかもしれない。 人気がなくなって、メアはやっと俺の隣に並ぶ。 手はまだ後ろに組んでいる。 代わりに手、つなぐか ……え? カマの代わりに、俺の手でも握ってていいぞ 手を降ろすが、メアは顔を背ける。 ……べつにいい 手つなぐの、照れてるのか 照れてないっ だったら、ほら ……洋くんは、つなぎたいの? まあな せっかくふたりで出かけるのだ、デートっぽく演出してもバチは当たらない。 じ、じゃあ…… メアはおずおずと手をあげる。 つないでも、いい…… 寄り添い、俺の手に触れる。 小さな手が重なる。 わたしは……したくないけど…… しょうがなく……手、つないであげる…… ぼそぼそと、下を向いてつぶやいていた。 駅に着くまでメアは無言だった。俺がなにか話してもバカバカとしか答えなかった。 電車に乗ると俺が告げると、ようやく反応を返した。 人間は不便だと、そんなふうに言った。 そのとおりだと俺も思った。 メアならきっと、瞬間移動のように病院までひとっ飛びなのだろうから。 いらっしゃい、洋くん。今日も来たんだね ノックをして病室に入ると、待ちかまえていたように夢が迎える。 俺とあいさつを交わし、それからもうひとりの来客にも気づいたようだ。 後ろに隠れてる子は、新しいお友達? メアは病院に足を踏み入れてからずっと、俺の背中に隠れていた。 病院内は人が多かったためだろう。 ほら、メア 促すが、なかなか前に出ようとしない。 夢とは初対面じゃないんだろ? ……そうだけど メアって……死神さんのこと? メアは窺うように、顔だけ出して夢を見る。 あ、ほんとだ。メアちゃんだ 顔を確認した夢がほほえむ。 こんにちは メアは顔を引っ込めた。 こら、あいさつは? 子供扱いしないでっ 子供でもあいさつくらいちゃんとするぞ そんなの知らない メアちゃん、お見舞いに来てくれたの? うれしいな ……うれしいの? メアはまた、顔だけ出す。 うん、キミとはまたお話ししたかったから ……どうして キミとお友達になりたかったの ……変なの メアちゃん、こんにちは ……こんにちは えらいね。うん、えらい ちゃんとあいさつできたね 子供扱いしないでっ あはは、かわいいね~ 死神はかわいくなんてないわ ツンデレさんだね~ 死神はツンデレじゃないわ あ、子供だから、ちゅんでれ? 死神はちゅんでれじゃないわ なんだちゅんでれって。 夢、今日の体調は? いつもどおりだよ、心配性くん ………… メアちゃん、どうかした? あなた……病気、なのよね そうだね。でも、そんな大したことないから メアは一度、ためらって。 だったら、早く…… 早く、元気になって ………… 元気になって、洋くんを安心させてあげて…… 夢はこの言葉をどう捉えたのだろう。 寂しそうに笑って……いや、この笑顔は違う。 よく見かけていた、耐えるような笑みじゃない。 ……うん 元気に、なるよ 私は、元気になる 私は諦めていないから 絶対に、諦めたくないから…… ……無理は、しなくていいけど 無理じゃないよ。うん、無理じゃない 無理してるのは、キミのほうだよ えっ…… メアは虚をつかれていた。俺もそうだった。 私、入院生活が長いからね。いろんな患者さんと出会ってきた。だから人の体調だって見ただけでわかるんだよ 平気そうにしてたって、わかるんだよ だからね、メア…… それは優しさで包み込むような口調。 辛いときは、辛いって言うの 甘えたいときは、甘えるの 強がってばかりいないで…… そうやって無理をして…… 我慢ばかりしちゃ、めっするよ メアは言葉を失っていた。 そのメアの姿が揺らいでいた。 維持できないとでも言うように、身体が消えかかる。 メアがハッとすると、元に戻る。 ……今のは、なんだ? ごめんね、つい呼び捨てにしちゃった メアちゃん、だよね ……呼び捨てでいい そう? そう じゃあ、お言葉に甘えて 夢は居住まいを正す。 メアに、話したかったことがあるの…… 伝えたかったことがあるの ……なに? 洋くんを、よろしくね ………… ……終わり? うん、終わり メアは複雑な顔だった。 俺はもっと複雑な顔だった。 ……なに、今の 言ってみたかったんだよ よくわからない うん、わからなくていいんだよ 今じゃなくても、いつかわかってくれればいいんだから ……変なの 変じゃないよ。うん、変じゃない ……なあ、夢 洋くん。その先は受け付けないよ 俺の言葉をさえぎる。 不吉なこと言うなって諫めるつもりなら、怒っちゃうよ だって、私は諦めていない 諦めていない上で、言ったんだから だからこれは、洋くんが思ってるのと違うんだよ ただ単純に、洋くんとメアが仲良くしてたらいいなって、考えただけなんだから そうなったらうれしいなって、思っただけ…… そうなったら私も幸せかなって、思っただけなんだから 彼女……元気そうだった そうだな。夢はいつもあんな感じだ なのに、病気なの……? ……ああ、そうみたいだ 見舞いを終えて戻ってくると、空には夕焼けが広がっている。陽はすっかり短くなっている。 病気……いつ治るの? わからない いつになったら病気じゃなくなるの……? わからない 彼女……ちゃんと治るの……? わからない。なにもかも。 俺は夢に聞いていないし、夢も話さない。 夢が病状について自分から話すことはあるのだろうか。 話さないということは、俺が話すに値しないということだろうか。 俺では夢の力になれないのだろうか。 夢が自分から助けを求めなければ、俺はなにもできないのだろうか……。 洋くん…… メアが不安そうに俺を見ている。 洋くん、元気じゃない…… 彼女が病気だから……元気じゃない…… ふたりとも……元気に見えて、元気じゃない…… そう言ったメアも、元気には見えない。 よけいな心配をかけたのかもしれない。 ……そうだな。俺は、なにもできないわけじゃない。 俺ひとりの力には限りがある、だけどゼロじゃない。 この世に無が存在しないように、俺にだってやれることが必ずある。 俺はメアの頭に手を載せて、撫でる。 今日は、見舞いに来てくれてありがとうな ……べつに 夢もよろこんでくれたし ……そうかな 絶対そうだ ……わたしは、どっちでもいい 帰ろうか ……うん 手、つなぐか ……バカバカ と言いつつ、俺の手に触れてくる。 みんな、バカバカなくらい、バカバカ…… 小さな手を、俺はしっかりと握りかえした。 電車を降り、展望台に向かう途中で俺は立ち止まる。 そこは俺の自宅前。 メア、覚えてるか? ……なにを? メアは俺と手をつないだまま見上げてくる。 いつか言ったよな。メアを俺の家に招待したいって 遊びに来て欲しいって 俺は我が家に視線を振る。 星見ができる時間になるまで、寄っていかないか ……ここが、洋くんの家? ああ。中に、俺の家族がいる 洋くんの家族…… メアも知ってる妹の千波と、あとは詩乃さんだ ……それって、洋くんのお母さん? 俺は、メアの言葉にうなずくことができた。 そうだ。詩乃さんは、俺のふたりめの母さんだ あっ、お兄ちゃん。おかえりなさーい! ただいま もうちょっとで夕ご飯できるって詩乃さん言ってたよっ、そろそろ蒼ちゃんたちも食べに来るんじゃないかなっ ……蒼って、あの失礼な子のことね あっ 俺の後ろからおずおずと姿を見せるメア。 千波の目がまん丸くなる。 大変だよ大事件だよっ、あろうことかお兄ちゃんがメアちゃんかどわかしてさらってきてる! おまえだって鈴葉ちゃんをさらってるだろ? 開き直るどころか千波にまで罪を着せてぐりぐりするお兄ちゃんには脱帽だよ!? ……相変わらずうるさい メアも友達のこと、ちゃんと気にかけるようになったな ……気にかけてないし、べつに友達じゃない 蒼さんのことも千波のことも、覚えてるじゃないか 少し前まで、メアは名前どころか顔も忘れるくらいだった。 ……そうだとしたら、全部洋くんのせい 洋くんが、わたしを感化したせい それは光栄だな ……バカバカ メアちゃんがうちに遊びに来るの初めてだねっ、千波とってもうれしいなっ ストレートな千波の言葉に、メアは照れくさそうにぷいっと顔を背ける。 ……なんでうれしいの だって千波はメアちゃんの大ファンだからねっ、いずれオカ研主催でファンクラブも結成するからねっ ……べつにいい なんだったらメアちゃんを教祖にしたカルト教団でもいいよっ、そのときは千波は裏の大幹部だからねっ この先の未来、まかり間違って千波がオカ研の部長になった日には、メアを部に勧誘するのかもしれない。 あの、お邪魔します…… ……ます 蒼さん姉妹が顔を出す。 ……なんか増えた あっ……メアさん 鈴葉ちゃんに驚かれ、メアは居心地悪そうにする。 ……なんで子供がここに 蒼さんも驚いている。 子供じゃない。わたしはあなたよりお姉さんよ 変身願望はいつ終わるんでしょうか 死神は変身願望なんて持たないわ いずれこの家は保育園になるんじゃないでしょうか ……この子だけは好きになれそうにない 保育園だとすると、詩乃さんが園長で、俺が保父さんで、あとのみんなは園児になるな ……私は保母さんですから 千波だって保母さんだよっ わたしは小学生ですけど…… わたしは死神よ ぷっ、オチがついた ……はなはだしく腹立つんだけど あ、あの、メアさん。こんばんは ……こんばんは 今日は、わたしたちと一緒にお夕飯ですか? メアはどう答えていいのかわからずに俺を見る。 食べていっていいぞ ……いいの? ああ。詩乃さんにも聞かなきゃだけど 千波が聞いてきてあげるねっ ぴゅーっとキッチンに消える。 死神は、ご飯なんて…… 食べなくても平気なのか? ……平気だけど、食べること自体はできる。たぶん なら、決まりだな 迷っているのか、メアは難しい顔だ。 わ、わたしは、メアさんと一緒に食べたいです 蒼さんもいいよな? いいですが、箸の使い方は先輩が教えてあげてください ……本当に失礼な子ね 無言で無視しないだけ、蒼さんはメアのこと気に入ってるんだぞ か、勝手なこと言わないでください…… メアちゃーんっ、詩乃さん連れてきたよーっ 千波のあとから、詩乃さんがリビングに入ってきた。 彼女が、メアちゃんね メアはすぐに俺の背中に隠れる。 はじめまして。よく展望台に遊びに来てるって、千波ちゃんから聞いてたわ メアは、そうっと顔だけ出して詩乃さんを覗く。 あそこは立ち入り禁止だけど……メアちゃんは、星が好きなのね ………… ほら、メア ま、前に押し出さないでっ 雲雀ヶ崎の星空、好き? ……嫌い ぷいっと横を向く。 そう。好きなのね き、嫌いって言った でも、あなたの顔に書いてある。好きだって そ、そんなこと…… 雲雀ヶ崎の星空、好き? メアは沈黙のあと、ぶすっとしたまま言った。 嫌い……だけど…… しょうがないから、好き…… そう。よかった ……いいの? うん。私も大好きだからね ……星、好きなの? 星も好きだし、メアちゃんも好きよ ……バカバカ 夕飯、食べていってね ……べつに、食べてあげてもいい それから詩乃さんは俺を見る。 洋ちゃんは、お父さんにそっくりね 三嶋先生にそっくりね…… 俺の父親は、三嶋大河という。ヒバリ校の教師をしていると知ったのは秋のことだ。 ……そっくりって? うん。メアちゃんとそうやって並ぶとね 俺とメアはそろって首をかしげる。 洋ちゃんが、こんなかわいい子を手籠めにしちゃったってことよ 社会的な問題発言を食らう。 ……死神は手籠めになんてされないわ あらあら ……俺、夕飯前に制服着替えてきます ふたりして照れちゃって。あらあら お兄ちゃんお兄ちゃんっ どうした千波 すでにぐりぐりしてるお兄ちゃんの過剰反応に千波もう脱帽だよ!? あの、洋さんとメアさんって…… 鈴葉、目を合わせたらダメ 蒼さんが鈴葉ちゃんの前に立ちはだかる。 先輩の主食が子供であることは感づいていましたが いや盛大な誤解だから ですがもし鈴葉を夕飯にしたら…… するかっ ……みんな、バカバカばっかり ますます賑やかになって、うれしいわ そうして詩乃さんが評したとおり、小河坂家の賑やかな夕飯が始まったのだった。 夕飯、どうだった ……うるさかった 千波がすぐ騒ぐからな。じゃなくて、味のほうを聞いたんだけど よくわからなかった 緊張してたのか? そうじゃない。ご飯、初めて食べたから ……初めてって? そのまま、初めて。食事なんて機会、これまでなかったから さっきまで囲んでいたダイニングテーブルで、メアは食事を進める俺たちを不思議そうに眺めていた。 見よう見まねで箸を使っては口に運ぶが、表情にあまり変化はなかった。 おいしいかと俺が聞いても、べつにと素っ気なかったのだ。 メアって、空腹と無縁なんだな そうだと思う それは便利なことだろうか。それとも不便なことだろうか。 でも、味を感じることはできるんだな? そうだと思う もっと体験してみたいって思うか? ………… もっといろんなもの、食べてみないか。そうすれば、なにがおいしくてまずいのか、わかるようになる ……わかって、なにかいいことあるの? 食事中、みんな楽しそうじゃなかったか? ……知らないけど、ひとりを除いて笑ってた 蒼さんを指しているんだろうが、メアを入れるとふたりだ。 まあ、蒼さんは鉄仮面を被ってるからな。内心はよろこんでるはずだ そうなの? 俺の希望が大半だけどな 洋くん、ご飯でよろこんで欲しいの? ああ。楽しく食べたほうがおいしいからな ……やっぱり、よくわからない メアだって、そのうちわかるようになる ……そうかな たぶんな たぶん…… 絶対だ ……うん だからさ、よかったらまた食べに来てくれ ………… どうだ? ……来て欲しいの? ああ。俺は、メアと一緒にいたいからな ……バカバカ それは肯定か? ……知らない メアは言葉少なだった。 もともと口数は多くないメアだったが、食卓ではそれが顕著に表れていた。 いや、もしかしたら、もっと前に兆候があったかもしれない。 メア、疲れたか? 適当なところ座っていいぞ ……ここ、洋くんの部屋よね ああ。椅子でもベッドでも、好きなところ使ってくれ ……洋くんは、座らないの メアのあとに座るよ メアは動こうとしない。遠慮しているんだろうか。 俺は、カーテンを引いて窓の向こうを見やる。 今夜も、晴れだな…… 夜空には満天の星が輝いている。 雲雀ヶ崎の星空は変わらぬ光を俺たちに降らせている。 少し休んだら、星見にいくか カーテンを戻し、メアに振り返る。 ………… 俺の声が届いていなかったのか、メアはうつむいたままで反応しない。 なあ、メア。今日はありがとうな、いろいろつきあってもらって ………… お礼に、今度は俺がつきあうぞ。行きたいところがあれば…… ………… ……メア? そばに寄ろうとしたときだった。 一瞬、メアの姿が揺らぐ。 俺は驚いて硬直する。 ……っ メアの辛そうな表情が、かたむいた。 硬直していた俺の手足が弾けたように前に出る。 倒れる寸前に、腕で抱えた。 メアっ どうした? という言葉を飲み込む。 どうもこうもなかった。抱えたメアの身体はぐったりしていて、苦しげな呼吸が聞こえる。 その姿が徐々に薄らいでいる。 俺は思い出していた。 見舞いの最中、無理をするな、我慢するなと叱った夢が脳裏に描かれた。 だ、だいじょうぶ…… メアは、これまで昼間に姿を現していなかった。そうするのは難しいと言っていた。 だが今日は陽が沈むまでの長い時間、俺と一緒だった。 メアはずっとそばにいた。視覚でも聴覚でも、触覚でも感じていた。 だいじょうぶ……だから…… メアは俺から離れようとする。 姿は濃くなったり薄らいだりと、おぼつかない。 消耗しているようだった。 なのにメアは耐えていた。姿形を維持しようと健気にがんばっていた。 ちょっと……疲れただけだから…… 俺は、まだメアの体温を感じられる。 どんなにか細くなろうとも、俺は手放さない。 絶対に失わない。 ……メア、待ってろ 頼りないメアの身体を抱き上げる。 え……やっ…… 普段のメアなら暴れるのだろうが、力が出ないのか抗議の声すら弱々しい。 俺はそのまま部屋の電気を落とす。 暗闇の中、ベッドに登って窓のカーテンを全開に開け放った。 そして、直射する満開の星明かりに、目がくらんだ。 どうだ、メア…… 背後の窓から降り注ぐいっぱいの光が、メアを鮮やかに照らし上げる。 そんなメアの感触を確かめるように、俺は強くかき抱く。 少しは、元気になったか…… ………… ……べつに べつにってなんだ…… べつに、大丈夫だから ずっと、大丈夫だったから…… 俺は、ふつふつと怒りが湧く。 無理、するなよ…… ………… 我慢、するなよ…… 気づけなかった俺も、悪いけどさ…… 辛いなら……辛いって、言ってくれ…… 怒りというのも生ぬるいこの気持ち。 残酷なまでの優しさを突きつけられ、反論したいのに方法はなく、納得などできないのに受け入れるしかなくて。 はけ口も見つからず、やり場のないトゲだらけの感情を持て余すしかないやるせなさ。 そしてなにもできないまま最悪の事態に堕ちたならば、到底耐えて生きていけるものじゃない。 頼むから……メア…… ………… もう二度と……ひとりで我慢なんかしないでくれ…… 俺は初めて理解できたかもしれない。 夢がどんな気持ちでこの言葉を使ったのか、やっと実感できたのかもしれない。 ……うん 叱られたあとの子供のような声だった。 ごめん、なさい…… 謝られると、渦巻いていた感情は瞬く間に霧散し、今度は罪悪感に打ちのめされる。 いや……俺のほうこそ、ごめん 当たるようなこと言って、ごめんな…… メアは沈黙を保っている。 身じろぎもせず、俺の腕の中でおとなしかった。 どこか、落ち込んでいるように感じた。 ……なあ、メア 重くなった空気を振り払おうと、明るく言った。 さっきも聞いたけどさ。メアはどこか行きたいところ、ないか? 今日、つきあってくれたお礼にさ。メアの好きなところ、どこだってつきあうぞ ……ほんと? ああ いいの? いいに決まってる でも……わたし、怒られた…… 洋くんに、悪いことした…… そうだとしても、俺はメアを許した。だからもう気にしなくていい ……そうなの? ああ。でも同じことしたら、また怒るからな ……うん 素直なメアがかわいらしい。 い、痛い、洋くん…… ……悪い。なんか思いきり抱きしめたくなった バカバカ…… で、どうだ。行きたい場所あるなら、つきあうぞ ……どこでも? ああ。どこでも じゃあ…… メアは降りしきる星明かりをすくうように、重ねた手のひらを前に出す。 七夕がいい…… わたし、七夕の星に会いたい…… 会って、そしたら、紹介する…… わたしの家族を、あなたに紹介してあげる 今度はわたしが、我が家に招待してあげる この地球は、今も七夕の星に向かって移動している。 俺たちを織姫と彦星のもとへと運んでいる。 さながら方舟。 架け橋となるかささぎだ。 そして橋を渡り、向こう岸までの到着時刻は、三十万年を越えた先。 それは……とんでもない長生きが必要だな うん メアは長生きできるのか? うん 死神だからか うん でも、俺は人間だからな…… 洋くん、さっきどこでもって答えた そうだけどな……でも、どうすればいいんだろうな なにが? 俺が長生きする方法だ メアとずっと一緒にいるためには、ちっぽけな俺はどうすればいい? ……たぶん たぶん? 洋くんが、忘れないこと 彼女のことを、忘れないこと…… 夢のことか? うん メアは、夢のことを忘れて欲しいんじゃないのか? ……そうじゃない ただ、約束があっただけ 約束という名の契約…… 願い事という名の、光 それが、わたしの絆だっただけ よくわからないな それでいいと思う 俺は、夢のことは忘れない だから俺は、夢のそばにいる もちろん、メアもだ 俺は、いつまでもメアのそばにいるよ ……さっきできないみたいに言ってた できる。覚悟は決めた 約束する? いいぞ。新しい約束だ いつまでも、わたしと一緒? ああ それは、変わらないってこと? ああ なにもかもが変わっても、それだけは変わらない。 光となって、永遠にそこに在る。 ……うん メアは俺の手に、そっと自分の手を触れる。 このぬくもりと共にありたい。 守りたい。 洋くんと、一緒…… ケッコンして……一緒…… ……結婚、か。 洋くんの……お嫁さんになる…… そうすれば……家族になれる…… 結婚以外にも、家族になる方法はあると思うけどな そう……? たぶんな たぶん…… 絶対だ ……ううん たぶんがいい…… お嫁さんがいい…… 家族としてそばにいることができたなら、それは雲雀ヶ崎の星空に勝るとも劣らない、光に満ちた未来だろう。 そのためにはメアのご両親にもお目通り願わないと。 俺は、いったいどんなあいさつが妥当なのかと、やわらかい星明かりの下で悩んでいた。 約束、だよ…… ずっと、一緒だよ──── 雲雀ヶ崎──── 昔ながらの坂や小道の多い、北の港街。 夜空は澄み、満天の星々は都会では決して見ることが叶わない。 それは星の神話に彩られた、幻想的な舞台。 そんな街で、死神の少女がその大きな鎌で刈るのは命ではなく、人の夢。 彼ら彼女らの悩みを共有し、一緒に涙を流して、~それから笑って、最後に困難を乗り越える。 時には、恋を育むこともある。 死神の少女は、そんなふうに人々の背中を押してくれる。 共に歩んでくれる。 大切な想い出を作ってくれる。 いつか星に還ってしまうときも、その想い出があるから寂しくない。 ひとりじゃない。 あたたかい光を抱いて眠りにつける。 だから、雲雀ヶ崎の空にはたくさんの光が瞬いている。 想い出の光が生きる人々を照らしている。 星空のメモリアの下。 今夜もどこかで、死神の少女は鎌を手に、誰かの近くに寄り添っている。 窓の外は陽が落ちている。 その頃にはほかの皆は帰途についていた。 俺だけが夢の病室に残っている。 ……洋くんは、帰らないの? 夢、疲れたか? 聞いてるのは私だよ 夢が答えたら俺も答える 疲れてはないけど…… なら、もうちょっとだけここにいていいか 面会時間が終わるまで? ああ 面会時間の終了は八時。 まだ猶予はあるが、残り時間は少ない。 洋くん、私に用でもあるのかな そうだな。そんな感じだ 私、もうご飯の時間だよ さっき配膳係の人が食事を運んできた。トレーはサイドテーブルに置かれている。 俺のことは気にせず食べてくれ 洋くんはどうするの? 夢が食べるのを見てる ……それ、落ち着かないよ じゃあ、見ない。後ろ向いてる それも落ち着かないよ…… 夢は困った顔をする。 洋くんの家も夕飯の時間じゃないの? 今夜は遅くなるって連絡入れたから いつ? トイレで席外したとき ケータイじゃないよね? 病院は使用禁止だからな。廊下の公衆電話使ったよ なんでケータイが使用禁止か知ってる? ……たしか、ケータイの電磁波が精密機器に影響を与えるせいだったと思うけど うん。それに、人の身体にも 科学的根拠はまだ確立してないみたいだけど、現に体調を悪くする人もいるからね 俺は見たことはないが、夢はあるのだろうか。 洋くんがここでケータイ使ったら、私の寿命が縮んじゃうかも 冗談なのだろうが、とても笑えない。 命に関わる話題に乗れるほど、俺の心に余裕はない。 夢はトレーを膝の上に載せる。 洋くん、病院食って食べたことある? いや、ないな 食べてみる? 夢はトレーを持って、俺に差し出す。 たぶん想像よりもまずくないよ。都会の病院に比べると、ずっとおいしい 雲雀ヶ崎は、もともとご飯がおいしいからね 港町だけあって、海の幸が特に有名だろう。 メニューは海鮮ピラフにサラダ、スープ、フルーツと、量は少ないが色彩豊かだった。 洋くん、お腹空いてるんじゃない? まあ、少しな それじゃあ、どうぞ いや、それは夢の食事だろ 食べていいって言ってるのに 夢は食べないのか? 私はフルーツだけでいいよ ダメだ ……なんでだろ ちゃんと食べないと元気になれないぞ 洋くんが食べてくれたら元気になるよ ダメだ お姉さんの言うことが聞けないの? 聞けないな 昔は素直だったのにな 成長したからな 昨夜は素直だったのにな やめろっ、忘れてくれっ 夢は笑って、スープをスプーンですくう。 はい、あーん 突き出してくる。 ……いや、俺はいいから お姉さんのご飯が食べられないの? 俺は、夢にちゃんと食べて欲しいんだ ……あんまり食欲なくて ………… もう、そうじゃないってば。体調が悪いせいじゃないの 夢は突き出していたスプーンを、スープの皿に戻した。 洋くん、心配性だね 夢はトレーをサイドテーブルに載せ直した。 雲雀ヶ崎の病院食って、おいしいから。つい食べ過ぎちゃって、体重が気になるんだ。だから今夜はいらないの そんなに細い身体で言われたって、信じられない。 俺が抱きしめたときも、夢に抱きしめられたときも、その身体は折れそうなほどだった。 きっとそれは病気のせいだった。 なあ、夢…… 夢は一体、どんな病気を患っているのか。 なに? 聞きたいのに、俺は続きを口にできない。 聞いてどうなるものでもない、なにより聞くのが恐ろしい。 夢が、自分から話してくれるのを待つしかない。 ……家庭教師の人は、来ないのか? どうだろ。日時を決めてるわけじゃないから 洋くんがいるから、今夜は来ないかも 来ても、洋くんが会えるかはわからないけどね 時刻はそろそろ八時を迎える。 面会時間が終わりを告げる。 九時になれば消灯時間だと、夢からは聞いている。 夢、これから寝る準備か? そうだね。歯をみがいて、窓のカギかけてカーテン閉めて、今日はお風呂の日じゃないからいいとして…… 風呂って毎日じゃないのか うん、二日に一回だよ。お風呂の日以外は、タオルで身体を拭くの 今日はタオルの日か うん いつ拭くんだ? これからすぐだよ ……俺、帰ったほうがいいか それと関係なしに、面会時間ぎりぎりだよ ………… どうかした? ……夢 ……拭きたいの? なにがだっ 私の身体拭きたいなんて言ったら、またお見舞い禁止にするからね ……なあ、夢 慣れていないため、言葉にするのは勇気がいる。 甘えて、いいんだよな…… 夢は首をかしげる。 俺、夢に甘えて、いいんだよな ……うん 夢はうなずく。 私、そう言ったからね じゃあ…… また、抱きしめて欲しいの? 俺は首を振る。 ほかのこと、していいか? ……洋くんが、私に? ああ 拭くのはダメだよ 違うことだ 見るのもダメだよ ………… ……なんで無言なんだろ 夢はムッとする。 洋くんが私になにかするのは、ダメだよ なんで 私が、洋くんにしてあげないと 俺が夢に甘えないとだからか? うん じゃあ、それでもいい なにして欲しいの? キス ………… キス、してくれるか 夢はうつむく。 ……して欲しいの? ああ 務めて冷静になる。 照れてしまっては元も子もない。 夢は、ぽんっとベッドに手を置く。 隣……座ってくれる? 夢の隣に座ると、ベッドのスプリングがきしむ。 肩と肩が触れあった。 洋くん、ちゃんと甘えられるようになったんだね…… 夢が俺のほうを向くと、吐息を感じた。 それほどに近い距離。 それじゃあ、私は…… 夢の顔が、さらに近づく。 私は、洋くんのお姉さんに、なれたのかな…… 夢の唇が、俺の額に向かう。 それは、おでこにキス。 幼い口づけ。 だから俺は、夢の肩をつかんだ。 えっ…… 夢が下を向いた瞬間に奪う。 夢の唇を奪う。 軽く触れるだけのキス。 それでも、おでこにキスよりは深かった。 つながりは深まったと感じた。 洋……くん…… ………… ……謝らないの? ああ どうして…… 夢が怒ったなら謝る ……怒ったよ。うん、怒った もう一回、していいか? ……謝ってない。ウソつき 謝る。だから、していいか? それ、おかしいよ…… 引き寄せる。 綿のように軽くて容易い。 だから心が締めつけられる。 っ…… 腕の中に包み込むと、夢はぴくんと震える。 ダメ……だよ…… ………… これじゃあ……逆だよ…… 洋くんの、お姉さんに……なれないよ…… 抱きしめながら、ベッドにそっと押し倒した。 目を覚ますと腕にぬくもりが消えていた。 手探りでは届く範囲にいないことを知ってから、俺は身体を起こした。 首をめぐらせると発見する。 夢は窓際に立っていた。 外を眺めているようだった。 見舞いのたびにそんな姿を目撃していた。日課なのかもしれなかった。 窓は西側なので陽光は差し込まないが、奥に広がる海面はきらきらと光っている。 夕方になれば、赤い光が病室を満たすのだ。 あっ…… 振り返った夢と目が合う。 窓越しで影になった表情は見えづらいが、照れ笑いを浮かべているようだった。 あぶなかったな……。うん、あぶなかった 危機一髪、だね ……なにがだ? さっきね、タオルで身体拭いてたの 恥ずかしそうに言った。 洋くんが寝てる間にすませようかなって ……すぐ近くでパジャマを脱いでいたわけだ。 昨夜は洋くんのせいでできなかったからね ……俺のせいか? なにか違う? 違わない。 でも、今さら恥ずかしがらなくても 夢の頬が染まる。 ……デリカシーの欠如だね 冗談で言ったんだ 洋くん、子供の頃と同じで女の子に疎いままだね だから冗談だ 昔の想い出、またなかったことにしようかな ……悪かった 夢は満足そうにうなずいた。 あ、そうだ。あいさつ忘れちゃった 洋くん、おはよう おはよう ちょっと変な感じだね。こんなふうにあいさつするのも、想像してなかったから…… そう言った夢はうれしそうだった。 今、何時だ? 七時半だよ ……もうそんなか 普段では考えられない寝坊だ。 いつも何時に起きてるの? 六時だ けっこう早起きなんだね 朝食の用意があるからな 洋くんが作ってるの? ほかに作る人がいないからな 千波さんは? あいつが料理するとどんな食材も暗黒物質に化学変化するんだ 相変わらずなんだね お母さんの家事、今でも手伝ってるんだね…… 夢は俺の家庭事情を知っている。子供の頃に話したのだ。 だが、母さんの死は話していない。 ちなみにね、六時に検温があったんだよ ……看護師、ここに来たのか? ううん。洋くん寝てたし、私から測りにいったから 俺の存在はバレていないようだ。 コンコン、とノックが聞こえる。 あ、たぶん朝ご飯だ。そろそろだと思ってたから 俺、隠れたほうがいいな うん。ごめんね いや、自業自得だしな 俺はすぐにベッドの下にもぐり込む。 二言、三言の会話が聞こえたあと、扉が閉まる音がした。 洋くん、もういいよ 這い出ると、夢がサイドテーブルに朝食のトレーを置いているところだった。 わ……洋くん、埃まみれ 夕べもそうなったしな 落としてあげるね 肩や背中をぱんぱんとはたかれる。 俺は昨日の学校帰りにここに寄ったので、制服のYシャツ姿だ。寝るときもこの格好だった。 洋くん、お風呂入ってないよね そりゃあな ばっちいね ……仕方ないだろ ばっちいまま私を抱いたんだね ……悪かった ううん、キレイだったよ どっちなんだ。 洋くんの身体、私が拭いてあげようか? そんなことを言う。 新しいタオル、あるから。お湯もあるしね 俺が答える前に夢は洗面台へと向かい、手際よく準備する。 洗面器にお湯を張り、タオルと一緒に持ってきた。 はい、ベッドに座って ……いや、待ってくれ あ、座る前に裸になってね できるわけない。 べつに拭かなくていいから でも、ばっちいよ 仕方ないし ばっちいのに私を抱いたんだね ……悪かった ううん、キレイだったよ なにをしたいんだろう。 でも、今はキレイじゃないからね。病室では清潔にね ……だったら、自分で拭くから 私がしてあげる いいって 責任取ってくれるんじゃないの? なんでそうなる 拭かせてくれなかったら私の病室に侵入者がいるって悲鳴上げながら廊下を駆け抜けるよ 脅迫に出た。 恥ずかしがらなくてもいいんだよ? デリカシーの欠如だな 私にもしたんだから、おあいこだね ……わかった。じゃあ頼む うん。素直な洋くんは好きだよ 好き、という言葉にドキッとする。 思い返してみると、俺は夢に好きと何度も言っているが、夢からまともに言われたことはない。 というか、そもそも俺は夢を抱いたというのに、正式に恋人になったわけじゃない。 一度フラれたまま、それっきり。 俺は順序を間違ったのかもしれない。 もう一度、告白するべきなのかもしれない。 それじゃ、洋くん。脱いでね ……上半身だけでいいか? 恥ずかしいなら、それでいいよ ごそごそと脱ぐ。 夢はタオルをお湯でしぼると、ベッドに登る。 俺は上だけ裸になったあと、夢に背を向けて座った。 背中……大きいね 指でそっと触れてくる。 病室は空調が利いているが、冬だけあって肌寒い。夢の手の感触をよりあたたかく感じる。 成長したんだね…… 夢は、俺の首から肩にかけてをタオルで拭いていく。 もう一枚のタオルで俺は顔を拭く。 ぬるま湯の温度が寒さも一緒に拭ってくれる。 はい、腕上げて 腕を横に伸ばすと、二の腕から手首までを綺麗にする。 何度かタオルをしぼって繰り返すと、上半身の後ろはすべて終了する。 うん……おとなしくしてたね。えらいね…… また、背中を指で触れてくる。 指だけじゃない、夢の髪、額の感触も伝わる。 次第に腕が、俺の胸に回される。 夢…… ……かぷ 首筋に噛みつかれた。 なんでだっ ぺろ…… 今度は舐められた。 ……なにしてるんだ ン……食べたくなったの ……朝ご飯があるだろ ちゅ…… そしてキス。 うん、キレイになったよ…… 耳元でささやく。 背中に、夢のふくらみが当たっている。 昨夜に触れた熱い肌を思い起こさせる。 それじゃ、次は前だね ……いや、前は自分でやる かぷっ 痛い痛い痛いっ、噛むなっ かぷかぷ うあっ、耳まで噛むなっ! れろ…… 舐めるなっ! 夕べ、イジワルされたから いっぱい、さわられたから……お返しだよ そう言って、俺から離れた。 はい、前拭いてあげるから。こっち向いて 俺は振り向いて、夢を抱き寄せた。 っ…… 唇を奪った。 俺たちは正面で抱きあう格好になっている。 間近で見つめあっている。 ……不意打ち お返しだ 生意気だぞ…… ふたり、唇を寄せる。 ン……ちゅ……ちゅ、ちゅぅ…… ついばむようなキスを繰り返す。 洋くん……ワルだね…… そうか? うん……朝から、こんな…… このまま押し倒していいか? ……調子に乗りすぎ、だぞ 夢はこつんと額をぶつと、俺から離れた。 朝ご飯が終わったら、薬飲まなきゃだから…… 看護師さんが食事を片付けに来るときに、持ってきてくれるの。洋くん、そのときはまたベッドの下だね ……そっか 拭いてもらっても、また汚れるわけだ。 洋くんが泊まったなんてバレたら、姫榊先生になんて言われるだろ 三度目ってことで、鬼が解放されるんじゃないか そのときはお願いね そんな事態は全力で避けるけど、遭遇したら全力で守る 洋くんの貞操を? ……なんでだ、夢をだよ どうやって? 背後に隠して盾になる 私に背を向けたら噛みついちゃうかも なんで敵に回るんだよ…… 俺は立ち上がってYシャツを手に取る。 制服を着直した。 まだ全部拭いてなかったのに 充分だ。それより、早くご飯食べてしまおう そうだね。半分こしよっか 俺はいいから、食べてくれ ダメ、洋くんも食べるの べつにいいから お姉さんの言うことが聞けないの? 聞けないな 素直じゃない洋くんはゴミ箱にポイするよ どうぞしてくれ かぷっ 耳に噛みつくなっ かぷかぷ 耳たぶを噛むなっ 一緒に食べよ? 食べない かぷー 噛むなっ れろれろ 舐めるなっ ぺろぺろ 耳も首も舐めるなっ ちゅ…… 首筋に口づけ。 ……夢 キスしようとするが、その前に夢は離れた。 洋くん。食べるのは、私じゃないぞ ……そっちがその気にさせるんだろ 私を朝ご飯にしたら食べられましたって悲鳴上げながら廊下を駆け抜けるよ 生殺しである。 洋くん、男の子なんだから。たくさん食べないと ……わかった。でも、夢のほうが多く食べてくれ 妥協点? そうだ 頭でっかちなんだから そうして朝食を終え、薬の時間になったら俺はベッドの下に隠れる。 それもすますと、夢は歯みがきセットを持っていた。 洋くん、どうぞ なんだ? 歯みがきしてないでしょ。使っていいよ 夢は朝食後にみがいていたのだ。 ていうか、さ うん? それ、夢の歯ブラシじゃないか うん。使っていいよ ……いいのか あ、汚いから嫌かな それは絶対にない よかった 夢ははい、と押しつける。 ……同棲でもしている気分だ。いや、それでも同じ歯ブラシなんて使わないだろう。 洗面台に立って、夢の歯ブラシを持つ。 夢は窓際から外を眺めていた。 ある程度時間を置いて、夢のところに戻る。 歯みがき終わった? ああ。ありがとうな どういたしまして 結局、歯ブラシは使わなかった。 使いたくなかったわけじゃない、それでも使えなかった。 勝手に泊まって、食事までもらって、これ以上はさすがに厚かましい。 夢の優しさに甘えてばかりでは、夢にふさわしい男にはなれない気がしていた。 それを言ったら、夢はやっぱり我慢するなと叱るのだろう。 洋くん、朝ご飯少なかったんじゃない? 育ち盛りだし、足りなかったら買ってきていいよ 買うって? 中央病棟の一階に売店あるから、行ってきていいよ ……この時間に俺が歩いてたら、捕まらないか? もう診察時間始まってるし、外来の患者だって思われるだけだよ 時刻は八時を回っている。 通学路の夢見坂は閑散としているだろう。生徒は皆、一時間目の授業を受けているはずだ。 本来なら、そこに俺も含まれていた。 お金ないなら、貸してあげるよ? 金はある。でも、売店は行かない いいの? ああ。だいたい、面会時間がまだ始まってないだろ そうだけど じゃあ、一階に降りたらここに戻って来れないじゃないか 夢は答えてくれなかった。 ……俺、ここにいるから 無理してない? してない ほんとかな 夢が疲れたんなら、帰るよ 私は関係ないよ 俺にとってはすべてが夢につながっているというのに。 横になってなくていいのか? うん。ベッドに座ってるだけで、充分 夢は、ぽんっと隣をたたく。 座る? ああ 肩を寄せあい、窓から外を眺めていた。 天気は快晴、それでも都会に比べると乾燥しておらず、湿気を感じる。 ときおり思い出したような会話を交わすだけで、ふたり、いつまでも外の風景を見つめていた。 夢の眼差しには羨望が込められている。そう感じていた。 外、出ようか? 俺の言葉に、夢は「えっ」と振り向いた。 病院、抜け出さないか? この前やったみたいにさ ……夜になったら? いや、今回は昼だ 昼って…… 天気、いいしな。体調よければ、散歩でもしないか 夢は困った顔をする。 ……できないよ できる 私が廊下歩いてると、看護師さんが声かけるし。玄関出ようとすると、ガードマンが飛んでくるし 俺に考えがあるんだ ……私をさらう考え? ああ。夢を病院から奪い取る、俺の秘策だ ………… どうだ、夢。乗るか乗らないか キミをさらうこの手を、つかむかどうか…… 夢の前に手を差し出した。 ……もう 夢は呆れたように。 ほんとに、男の子なんだから 俺の手を握る。 生意気な、男の子なんだから…… 俺はいったん、ひとりで夢の病室を出ることにした。 夢を連れ出すための準備が必要なのだ。 時間はまだ昼前だ。面会時間が始まる一時にはまだ早い。 制服姿の俺なので、病院を歩いていると見咎められる恐れもあったが、杞憂に終わった。 西病棟の廊下はもともと人通りが少ないため、誰ともすれ違わなかったのだ。 俺は中央病棟には向かわずに、そのまま西病棟の出入り口から外に出る。 そして最寄りの駅前のショップで買い物をし、下準備を終えてから病院に舞い戻る。 その頃には面会時間も始まっていた。 俺は悠々と夢の病室に向かう。 あ……洋くん 夢は昼食を取っている最中だった。 おかえりなさい ただいま 戻ってこないかもって思ってたよ 遅くなって悪いな ……あれ? 夢はやっと気づいたようだ。 洋くん、私服に着替えたんだ まあな 家に帰ったの? いや、駅前の店で買ったんだ 病院の売店では必要なものがそろえられそうもなかったので、駅の商店街まで出向いたのだ。 店の試着室で着替えたあと、制服は駅のロッカーに突っ込んできた。 平日なので、制服のままでは外を出歩きにくいからだ。 あと、これもな 手提げのバッグを持ち上げる。 ほかに買ったものはすべてこの中に入れてある。 ……それが、洋くんが言ってた秘策? ああ。夢をさらう道具だ そのバッグに私を入れて持ち運ぶとか? ……さすがに入らないだろ 洋くん、ご飯は? まだだけど 洋くんの分、残しておいたよ 夢ははい、とトレーを差し出す。 それは、半分だけ食べた昼食。 ……食べなきゃ噛むのか? うん 夢はそばに立ち、俺の首に腕を回す。 そのまま身体を寄せてくる。 こうやって、いろんなとこ噛んじゃうぞ…… 耳元でささやくと、吐息を感じる。 俺は夢の背中に腕を回す。 んっ…… 夢の胸が、俺の胸でつぶれる。 キス。 ン……はぁ…… こら……食べるのは私じゃないぞ…… ……押し倒すのは? ダメ…… 夢は、そっと離れる。 私のこと……さらうんでしょ? 俺はうなずく。 体調はどうだ? うん……大丈夫 服、着替えてくれるか うん。この前の服しかないけど 外に出るんだし、これから買いにいってもいいぞ 夢は答えなかった。 俺がプレゼントしてもいいぞ やはり答えない。 寂しそうな笑みを浮かべるだけだった。 俺はバッグを開けて言った。 着替えたら、これもつけてくれ つば広の帽子とジャケットを取り出し、夢に渡した。 作戦は単純だ。 夢に帽子を目深に被ってもらって顔を隠し、ジャケットをはおって服装を一新し、病院を抜け出すのだ。 俺はもらった昼飯を食べてから、廊下で夢が着替え終わるのを待った。 準備が整うと俺たちは連れ立って歩いていく。 出入り口を目指す間、何人かとすれ違ったが、なるべく堂々としていた。 咎める声をかけられることはなく、俺たちは外に出た。 わ……無事に出られたね 帽子とジャケットをバッグにしまって、一息つく。 変装作戦、成功だね 思ったより簡単だったな 玄関通るとき、ガードマンに声かけられるんじゃないかってドキドキしちゃった 視線は向けられたが、呼び止められることはなかった。 この病院、セキュリティ甘いのかな そういえばヒバリ校もそんな感じだぞ 雲雀ヶ崎の特色なのかな 改革が必要だと思うけどな でも、私は好きだよ。都会に比べてのんびりしてる、この街が それは俺も同じだった。 時間の流れがゆるやかな土地。 いっそ止まってくれてもいい。 夢とこうしていられる瞬間を永遠にしてくれたっていい。 それじゃ、夢 俺は手を差し出した。 好きなところ、連れていくぞ ……うん 夢の手のひらが重なる。 お姫さまを救出した王子さま、だね 夢が希望した先は展望台だった。 それならとタクシーを進言したのだが、夢は断った。 夢見坂を通ることを考えたら、あまり疲れさせたくなかった。それでも夢はゆずらなかった。 俺たちは駅から電車を使い、目的地を目指した。 本当に、歩くのか? ……うん 電車を降り、ロータリーに出た。 この先から坂はもう始まっている。 俺の自宅前を通り、ヒバリ校の校門を通りすぎ、さらに登ると展望台に到着する。 その長い道を夢は見上げている。 病室の窓から外を見つめるのと同じ眼差しを向けている。 歩きたい…… 子供の頃みたいに、夢見坂を登りたい 洋くんを初めて案内したときみたいに、ドキドキしながらこの坂を登りたいの 今度は夢が俺の前に手を差し出した。 だから、今日はお姉さんが連れていってあげるんだよ 俺が手のひらを重ねると、夢は握りかえしてほほえんだ。 手をつないでしばらく歩くと、自宅を通りかかる。 夢 わっ。どうしたの、急に止まって 体調、どうだ。疲れないか? ……もう、平気だってば。心配性なんだから 休んでいってもいいんだぞ どこで? ここで 横の家を示す。 ここ、俺の家なんだ 過去に夢と会っていたときはアパート暮らしだった。 だけどここが、俺が生まれた家だった。 そう……。ここが、洋くんの家…… 夢は見上げる。 目に焼きつけるように長く見つめていた。 休んでいくか? ……家族の人とか、いないの? たぶんいる じゃあ、洋くん怒られちゃうよ。ほんとは学校いってる時間なのに それでも許してくれるくらい優しい人なんだ。夢のことも歓迎してくれるぞ ……ううん 夢は首を振る。 洋くんの家族には、会えない まだ……会えないよ 俺の手を握る力が強くなる。 ……いつなら会える? わからない 近いうちに会えるかもしれないし、ずっと会えないかもしれない…… 未来を知るのは、宇宙を知るより難しいからね 夢が歩き出したので、俺も続くしかなかった。 夢の歩調は遅かったが、しっかりしている。疲れた様子はまだ見えない。 それでも、なにかあればタクシーでも救急車でもすぐに呼ぶつもりだった。 ヒバリ校の校門が見えてくる。 夢は立ち止まると、俺の家を見上げたときと同様、校舎に眼差しを送る。 学校が嫌いと言った夢は、本当は好きだった。 子供心にそれくらいは勘づいていた。 みんな、授業中かな…… 昼休みは終わってるし、そうだろうな 人影は見えない。このあたりはしんと静まっている。 ここにサボってる不良がいますって大声出したらどうなるかな 俺は逃げる 私を置いて? もちろん連れて 手をひっぱって? いや、抱き上げて お姫さまを誘拐するワルの王子さまだね あまり長くここにいると誰かに見咎められるかもしれない。 展望台まで、あとちょっとだぞ うん。向かわないとだね 休日だったら、中に入ってもバレないかもしれない ……え? 次の機会にでも、ヒバリ校を案内するぞ うなずいて欲しかった。 しかし夢はほほえむだけ。 未来を確約することを、そうして避け続けていた。 ヒバリ校を越えると勾配はさらにきつくなる。 夢の足取りも重くなってきた。 平気な素振りをしていても、格段に落ちたペースは隠しようもなかった。 ……休むか? ううん……もうちょっとなんだから 荒い息は白く、吹き抜ける寒風に流される。 風は冷たくても触れた箇所はあたたかい。 つないだ手のひらに汗を感じる。 このときばかりは、その体温が安心よりも不安を煽る。 あ……見えてきたね…… 時間をかけ、フェンスに到着する。 俺たちは道をふさぐ障害を前にする。 迂回……するんだよね…… ……夢 横の林に入ろうとする夢を、腕を引いて止める。 どうしたの……? ちょっと、じっとしてろ 夢の身体を抱きしめる。 えっ…… 高い体温。動悸が激しい。 洋……くん……? 俺は意を決し、慎重に抱き上げる。 きゃっ…… 羽毛のように軽い。昨夜、抱いたときにも感じていた。 展望台に着いたら、ゆっくり休もう よ、洋くん…… じっとしてろよ これ……お姫さま抱っこ…… 姫をさらう王子だからな 降ろして…… ダメだ お姉さんの言うこと…… 聞けない 生意気、だぞ…… 成長したからな 抱きかかえたまま歩き出した。 夢は俺の服をきゅっとつかむ。 強く……なったんだね…… 私のこと……簡単に抱えられるくらい…… こんなつもり……なかったのにな…… 情けないな……私…… これじゃあ……失格だね…… 洋くんに……甘えてもらえなくなっちゃうね…… 木の枝が夢に当たらないよう、注意して進んでいく。 夢はおとなしくしていた。 視線を落として黙っていた。 少しでも夢が休まればいい、俺はそれだけを思っていた。 木々を抜けると視界が開ける。 俺たちは目指した地に到達した。 草木のそよぎを感じる。澄んだ空気に満ちている。 そして空には抜けたように高い青。 陽が落ちれば無数に輝く星が浮かぶだろう。 想い出の場所は、いつもそうして俺たちを迎えていた。 昼の展望台も、変わってないね…… 想い出の中のまま、なにも変わってない 俺の腕から降りた夢は、少し歩いて俺に振り返る。 変わったのは、私たちと…… 私たちの関係、かな 関係……変わったのか? うん どんなふうに? さあ……。どんなふうにだろうね 寒風で乱れる髪を夢は手で押さえていた。 その風はふたりの間を吹き抜けていた。 夢は瞳を細め、俺とはつかず離れずの距離を保っていた。 その関係…… 夢が変わったと言うふたりの関係、俺が決めていいか? ……それは、どんな関係? 恋人の関係だ ………… 初恋はやぶれたけど 夢には一度、フラれたけど…… 俺はそれでも、夢が好きだった。 いや、違う。 俺の恋は増したんだ。 俺は知ったんだ。 幼かった頃の「僕」よりも、今の俺のほうが夢が好き。 愛している。 そう、確信することができたんだ。 夢…… 俺の、恋人になってくれ 俺と、つきあってくれ 俺はやっぱり、夢のことが…… ───ごめんね 吹きすさんだ冬の風が、俺たちの髪を乱していた。 いくら洋くんが、私を好きだと言ってくれても…… 私は、洋くんを好きだと言えない 洋くんとは、つきあえない 恋人には、なれない 揺れた前髪が視界を横切っていた。 夢の姿を隠しては映していた。 まるでつかみきれない雲だった。 乙津夢とは、そんな少女だった。 手折る前の花のように、束の間に許された夢幻だった。 洋くんはもう、優等生になれたから…… 私の仕事は、もうおしまい 次は、私じゃない誰かに、甘えるんだよ 洋くんなら、それができるから 手を伸ばしても届かない。 寄り添ってもすり抜けられる。 俺はまた、逃すのか。 手放したくない相手を、手放してしまうのか……。 私、帰るね 病院に帰るね 追ってこないでね お姫さま抱っこなんてしたら、噛むからね ひとりで帰ることくらい、できるから 私も、強くなりたいから…… 夢は俺の横を素通りする。 俺は振り返る。 その歩調はゆっくりでもしっかりしている。 そばに寄りたくてもできない。 夢を止められない。 夢の足取りがそうさせる。 助けはいらない。 俺の力は必要ない。 そうはっきりと告げているのだ。 ……そうか 俺は、夢が必要だと思っていた。 だが、夢が俺を必要としないのなら。 それはたしかに片思いだ。 結ばれることはない。 ふたりが交わることはない。 隔たる境界線は潰えない。 ならば、失恋して正解だ。 手放して当然だ──── そうして洋が立ち尽くすのを、メアは陰から見守っていた。 夢の姿はもうなくなっている。 立ち去った夢を目で追っていたメアの姿もまた見えない。 だがそこにいる。昼間に姿を象る──この次元に事象を確立させるのは条件が厳しいためにしていないだけだ。 メアは、洋の告白に耳をそばだて、結果を知って。 恋が散ったことを知って。 ある決意を胸に秘める。 しなければならないとは思っていた。 夢との約束がまだ有効なのだとしたら完遂すべきだと考えていた。 行使にためらいがあったのは洋と接することで生まれた感情に由来する。 波長域に限度のないその値を変数としたことで式が導く解答はいつも乱れていた。 メアの心はムカムカしたりドキドキしたりした。弾き出す結論は洋の頭をカマでたたくことが大半だった。 それでも、そろそろ違う答えを出してもいいのかと。 洋と夢、交差しないふたりの想いを認めたメアは、いいかげん決意するしかなかったのだ。 ……洋くんの、バカバカ その言葉は洋の耳には届かなかった。 目視できないメアの姿は、今度こそ消え去った。 乙津夢はベッドに座ってじっとしている。 膝の上で手を組み、うつむいて唇を噛み、こみ上げるなにかを堪え忍ぶように動かない。 本当だったら立ち上がって窓際から外を眺めたかった。 就寝前の日課、夜空との境界線をなくした海を見下ろしたかった。 星空の海原に想いを馳せたかった。 だけどできない、立ち上がる体力がない。 身体の不調は展望台から病院に戻ってきてすぐに現れた。 時間をかけてでも夢見坂を自力で降り、ある種の達成感を胸にして、あとはタクシーを使って帰途についた。 午後の時間はベッドで寝ていた。 熱っぽく、頭痛がし、夕飯も喉を通らず、様子を見にきた看護師から追加の薬ももらったけれど治まらない。 無理がたたったのだろうか。 医者の言うことを聞かなかったツケだろうか。 これが三度目を犯した罰だろうか。 洋くんのせいじゃ……ないからね…… 意識をつなぎ止めるのも一苦労だった。苦痛よりも眠気のほうがひどかった。 ひと思いに眠ってしまうことはできなかった。 怖い。まぶたを閉じたらそのまま目覚めないのではないかという恐怖がある。 額に冷や汗が浮かぶ。 足が震えている。 立ち上がれない、地を踏みしめることができない。 だけれど、睡魔にゆだねて横になることもできない。 はあ……はあっ…… 情けない……なあ…… 夢はだから、こうして耐えるしかできない。 誰にも助けを求めずに。 意識を保とうと、命の灯を守ろうと、ひとり静かに戦っている。 あの日祈った願い事だけを頼りに、この病魔と戦っている。 辛いの……? ………… 苦しいの……? 夢が顔を上げると、一度出会った少女がいる。 その登場は以前と同様、無から生じたとしか思えない。 死神……さん…… 夢はすがるように声をかける。 私の命……刈りにきたの……? ……わたしが刈るのは悪夢よ。前にも言ったと思うけど 悪夢って、なに……? その人にとって、従えたいのに従わないもの 好きなのに、好きになってくれないもの 叶えられない夢のこと…… ……片想いの相手みたいだね 間違ってはいないと思う キミは……私の悪夢を刈りにきたの……? そうじゃない。あなたの悪夢を刈ることは約束にない あの日祈ったあなたの願い事は、洋くんの悪夢を刈ることだった 夢には理解しようがない。 メアの言葉は間違いではないが比喩にすぎない。 しかし他に妥当な表現もない。 だからメアは思うままに言葉にする。 わたしは、あなたが嫌い…… 洋くんを悲しませる、あなたが嫌い ……そっか キミは、洋くんが好きなんだね ……そんなことない お願い、死神さん 洋くんの力になってあげて 私は、もう洋くんの力にはなれないから 足手まといにしかならないから…… 洋くんが私を頼っても、応えてあげる力がないから…… だから、代わりにキミが…… ……バカバカ 洋くんに頼って欲しいなら、強くなればいいのに 甘えて欲しいなら、もっと成長すればいいのに ……できないんだよ もう、時間がないんだよ…… このままじゃ……中途半端にしかならないんだよ…… 途中までは支えても……けっきょく松葉杖が折れたら、患者さんは倒れてしまう…… その松葉杖は、とても脆いから…… 患者さんがひとりで立てるようになるまでは、ぜんぜん保たない…… 助けてあげることはできないの…… ………… だから……お願い…… 洋くんのことを好きなキミだから……託せるんだよ…… ……あなたはまだ、願っているの 洋くんに、自分のことを忘れて欲しいって、願っているの…… うん…… 願ってるよ…… 昔も今も、変わらずに…… この願い事は、どんなことがあっても、変わることがないんだよ…… 変わってしまうなにもかもの中で、唯一変わらない、私の永遠なんだよ──── 洋くん、ついに明日だね 引っ越し、明日だね…… ……うん あたし、見送りにいくね うん 夕方に、駅から電車に乗るんだよね? うん 明日、駅に見送りにいくからね うん 絶対に、いくからね…… ……お姉ちゃん なに? お姉ちゃんの連絡先、教えてくれる? ………… 連絡先がわかれば、都会に引っ越したって、電話もできるし手紙も送れる だから…… ………… だから、連絡先、教えて欲しい ……ごめんね それはね、できないの どうして? 洋くんにはまだ早いからだよ それに、あたしにも…… ……なにが早いの? まだ、教えてあげられない いつ教えてくれるの? 洋くんが、大人になったら 大人になって、成長したら 成長して、強くなったら…… あたしも、強くなるから あたしは、そうなりたいから だから、あたしたちがそうなったら、教えてあげるよ 約束? うん、再会の約束 そのときは、僕たちは大人になってる? 強くなってる? それは、約束できない それだけは、かくやくできない だってそれは、お願い事だから 星の神さまに聞いてもらって…… 織姫と彦星に、お願いして そして そして、あたしが叶える、夢だから 静かだった。 なにか音が欲しいくらいだった。 寂しさからか不安からか、俺はポケットのケータイを握りしめている。 ケータイの電源は、昨日の見舞いからずっと落としたままだった。 今日は学校をサボったのだ、着信があるかもしれないが、確認する気はない。 ともあれ、人気がなくて静かだった。 誰かの声が欲しかった。 でないとさっきのように物思いに沈んでしまう。 あの日──七夕の日に夢と再会を誓った、あの感触を思い起こしては癒されて、現実を知っては傷ついている。 結局、引っ越し当日に夢は見送りに来なかった。 駅前で俺は待ち続けていた。 今のようにケータイは持っていなかったから、周囲をきょろきょろしながら夢の姿を探していた。 だが、出発の時間になっても夢は現れず。 過去の「僕」はひどく落胆したものだった。 空が輝いたのはそのときだ。 過去の「僕」は夢の代わりに流れ星を見つけたのだ。 七年前の流れ星。 それはたしかに光を分け与えてくれた。 夢のことを忘れずにいよう、必ず再会しようと決意を促してくれた。 ……洋くん メアが正面に立っている。 いつやって来たのか、冷たい地面にへたり込んでいた俺を、いつもの仏頂面で見下ろしている。 ……メア。遅かったな ………… 待ってたんだぞ ……ウソつき なんで 洋くん、ひとりでいたいからここにいたんじゃないの 家に帰らないで、ずっとここにいたんじゃないの ……見てたのか うん 見事なフラれっぷりだったろ ………… 情けなかっただろ、俺…… 俺は深いため息をついて立ち上がる。 メアは見上げず、伏し目のままだった。 もう、どんな顔して夢に会えばいいんだか…… 見舞い、どうやって行けばいいのかわからないよ それなら、簡単 メアはようやく俺を見る。 まっすぐに見上げる。 行かなければいい お見舞い、行かなければいい 二度と、会わなければいい メアは頭上に手持ちのカマを掲げる。 切っ先が、明るすぎる星明かりを生々しく反射する。 それをぼんやりと眺める俺がいる。 洋くんは、彼女のことを忘れればいい 銀光が閃くと、軌跡を描いて迫り来る。 やはり、それをぼんやりと眺める俺がいる。 そして、また最初から、やり直せばいい──── 俺の胸に、あたたかい光の感触が生まれた。 これで、もう、思い悩むことはない…… 洋くんが、悲しむことはない…… 光はじわじわと広がっていく。 俺の中に巣くっていた光とそれは溶け込み同化して、ひとつのかたちを成していた。 解放の渦。 魂。 さながら夜空に浮かぶ星だった。 その星は俺の大切な想い出を内包する。 メアは、それを自身の身体に取り込み、鎮め、そして送り還すのだ。 メアの頬に、ゆっくりと涙が伝う。 これで、彼女との約束は果たした…… 洋くんとの約束は、もう果たしてある…… だから、約束は、おしまい…… わたしの役目は終わる…… わたしも還ることになる…… わたしが結んだ絆は途切れる…… 洋くんと……さよならする…… ありがとう…… わたしと友達になってくれて、ありがとう…… あなたのおかげで、わたしは…… わたしは、ひとりでいなくなることはない…… あなたに見送られて、いなくなることができる…… こうして……ばいばいできるんだよ…… 展望台に吹き渡る風は思いのほか、強かった。 春一番だろうか。 冬とは違ってあたたかいため、そんなに気にはならない。 むしろ座りっぱなしで凝り固まった身体にはちょうどいいかもしれなかった。 ヒバリ校の卒業式が終わってから、俺はここに寄ってみた。 無人。草木の揺れる音だけが渡っている。 メアとはあれ以来、会っていない。 あの日、メアは還ると言った。 悪夢を刈り、俺に別れを告げたのだ。 なぜそんな必要があったのか、そもそも俺はなぜメアにカマを刺されたのか。 メアが刈った俺の悪夢とは、なんだったのか。 俺は思い出せずにいる。 それは大切なものだったかもしれない。かけがえのないものだったかもしれない。 今となっては自分で答えは得られない。俺に教えてくれる者もいない。 ただ、ぽっかりと空いた心に春一番が通り抜けていくだけだった。 ……帰るか これで展望台も見納めだろうか。 立ち入り禁止は解かれていないし、ヒバリ校も卒業した俺は、夢見坂を登る用事がなくなるのだ。 校門ではまだ仲間たちが集まっているはずだ。記念撮影に興じているはずだ。 ちょっと用事があるからと抜け出してきたが、俺もその輪に加わろう。 空いた心を満たすなにかを求め、ここを訪れても。 いつか誰かが言ったように、俺にはまだ早いのかもしれなかった。 だったらその日はいつだろう。 俺はいつになったらつかめるだろう。 かけがえのない誰かを手放さずにすむだろう──── ───ごめんね、待った? 少女が立っていた。 少女は今、この展望台を訪れたようだった。 洋くん…… 少女は俺の名を呼んだ。 だとすると俺の知りあいなのかもしれなかった。 だけど俺は、彼女を知らない。 この場所に、桜はないね…… スプリングエフェメラルは、ないんだね 終わったようで、終わらないんだね。変わったようでいて、変わりはしないんだね 変わってしまうなにもかもの中で、変わらないものだって確かにある…… ずっと、いつまでも、そこに在る…… 目の前の少女は誰だろう。 怪訝にする俺に気づいたのかそうでないのか、彼女は寂しげに笑んでいた。 私はね、乙津夢っていうの…… なぜだろう。 その名前を聞くと胸が痛む。 空いた心がうずく。 この感情がなんなのかはわからない。 わからないが、とても強い想いだった。 過去の「僕」がふくれっ面でわめき散らすくらいに激しかった。 ありがとう、洋くん ありがとう、死神さん…… キミと再会できて、うれしかった また出会えると、もっとうれしい 私と遊びたくなったら、いつでも言ってね 私は、キミと一緒にいるのが、好きだから きっと、いつまでも、変わらずに…… 私は、キミが好きだから 少女は立ち去った。 俺は追うことができなかった。 予感があったからかもしれない。 俺はまた、彼女と出会える。 再会できる。 それはきっと幸福なことだった。 だからこそ、もうひとりの彼女には出会えない。 俺たちを助けてくれた彼女とは二度と会えない。 それは不幸なことだった。 代償だ。 なにかを生むにはなにかを失う。 質量保存の法則。 俺はその理を突きつけられた。 吐き気がする。 この完成した不条理に目眩を覚える──── ────これで、いいの? わからない。 ────あなたは、納得できる? ────あなたは、幸せ? わからない。 だけどひとつだけなら、わかっている。 足りない。 手放した人がいる。 守るべきだったのに守れなかった彼女がいる。 夢がそこにいる。 だけど、メアがここにいない。 ────守りたい? ああ。 ────守れるの? ああ。 ────だけどあなたは守れていない。 そうだ。 俺の力では及ばなかった。 ────それは、あなたの罪じゃない。 ────それは、あなたが弱いってことじゃない。 だとしても、俺は諦めない。 諦めたくはない。 俺はどちらかを選びたいわけじゃない。 どちらかを切り捨てたいわけじゃない。 ────だけどそれは、とても欲張りなこと。 そうかもしれない。 だけど、それでも、諦めることが最善だとは思えない。 立ち止まることでたどり着くとは思えない。 ────じゃあ、どうするの? 俺の力では及ばなかった。 俺ひとりの力では届かなかった。 それを認められなかった俺に弱さがあった。 だから。 力を貸して欲しい。 助けて欲しい。 俺は、母さんに助けて欲しい。 うん あなたのことを、助けてあげる あなたの力になってあげる あなたが私を頼ってくれるのなら 初めて、甘えてくれたから だからあなたは、がむしゃらになっていい 後ろを振り返るにはまだ早い あなたは欲張っていい あなたの力はひとつじゃないから あなたの幸せはひとりのものじゃないから あなたの笑顔が、私の幸せ あなたの幸せが、みんなの幸せ たとえ前だけを見つめていたって 後ろを支えてくれる人に気づかなくたって 私たちは、満ち足りる それが家族だから 私の、叶えたかった夢だから あなたを、家族の光が届く地へ、運んであげる これは…… どうした? 今……大きな光を感じました…… とても……あたたかい…… まるで……家族みたいな…… ………… 家族なんて……忘れていますけど…… 俺が家族だ。そう言ったろ どうせ気休めです…… ずっと一緒だ。誓っただろ あ、頭撫でる大河くんは……嫌いです…… だいたい、大河くんにはもう家族がいるじゃないですか…… そうかもな 歌澄にも、子供たちにも、なにもしてやれなかった俺だけどな…… それなら、私が代わりに見守っていたじゃないですか…… ああ だからおまえも、家族の一員だ ………… あっ…… 今度はなんだ 流れ星…… どこだ? 消えてしまいました…… そうか お願い事…… 言うの、忘れました…… なにを願いたかったんだ? 内緒です…… そうか お願い事……残念です…… また、見えるさ 流れ星は、もう一度、流れるさ ────そう。 だからまた、小河坂歌澄も願っていた。 私の願い事は、家族だった。 大河さんとの子供と、千尋くんとの子供。 小河坂洋と、小河坂千波。 私の愛する息子と娘。 元気でやっているかしら。 笑顔でいてくれるかしら。 ごめんね。 そばにいてあげられなくて、ごめんね。 今も、今までも……。 寂しい思いをたくさんさせた。 悲しい想い出ばかりを残してしまった。 私のせいで。 私のわがままのせいで……。 姉さん……? そこに、いるんですか、姉さん……? ………… ……ずっと、気がかりだった ずっと、心残りだった 私は、あの子に嫌われているんじゃないかって あの子…… 洋ちゃんのこと……? 家事をよく手伝ってくれた 幼かった千波の面倒をよく見てくれた 嫌な顔ひとつしなかった わがままを言わなかった 私を困らせることはなにひとつしなかった そうやって、いつも 我慢ばかりさせていた 洋ちゃんは、昔から我慢をする子だったから…… 洋にはいつだって無理をさせてきた だからかもしれない 洋は、私たちの前では笑顔を見せても 家族の前では笑っていても 外では、笑わなくなった 海水浴に誘っても、ついてくることはなかった 夏祭りに誘っても、ついてくることはなかった だから、思った わかったの 私が見ている洋の笑顔は、本当の笑顔じゃないんだって ただ、無理をしていただけだって 笑顔の仮面だったって…… いいえ 姉さんが見ていた笑顔は、本当の笑顔だったと思います だって…… 洋ちゃんは、あなたが好きだった あなたの息子は、あなたが母親で幸せだった 当たり前なのに…… そんなの、当たり前のことなのに 私も、何度も言っていると思いますよ 洋ちゃんが、姉さんを頼らなかったこと…… それは、姉さんひとりのせいにはならないこと 一方だけじゃない、両方が歩み寄らないといけないから…… それが、家族だと思いますから なのに姉さんは、いつも自分だけを責めてばかり 子供を叱らないで…… 自分が悪いんだって、そう考えてばかり 本当に、姉さんは 親バカなんだから──── がんばったね、洋くん…… 俺は、泣いていた。 止め処ない涙に溺れるくらい、泣いていた。 大変だったね、洋くん…… 辛かったよね、洋くん…… もう、泣いてもいいからね…… 我慢しなくていいからね…… 私が許すから…… 我慢しなくていいって、私が許すから…… 頼らず、甘えず、強がって我慢して。 そうしたら、いつしか泣き方を忘れていた。 俺は知った。 時には頼るべきだと初めて悟った。 だからこそ俺は今、ここにいる。 たどり着いている。 私は、洋くんの恋人じゃないから…… 唇にはできないけど…… だけど、ここにはできるんだよ…… 夢は、俺のおでこにキスをする。 幼かった夢にされ、幼かった夢にそっくりなメアにされ。 そして今夜、成長した夢にされる。 じゃあ、このキスは……。 これは、何度目のキスになるのだろう。 俺は相手を見ようとしていなかった。 差し伸べられていた手を払っていた。 つかもうとしなかった。 頼るべき機会をみずから失していた。 ならばつかめ。 失するな。 もう二度と、手放すな──── 今日、九月三日の月曜日から新学期は始まる。 南星明日歩は登校の準備を終え、部屋を出る前に、机の引き出しを開けた。 普段はカギをかけているその引き出しには、二枚の短冊が入っている。 どちらも古ぼけて見える。鉛筆で書かれた文字もところどころがかすんでいる。 だが読めないほどではない。 明日歩は一枚を手に取り、読んでみる。 ……友達になりたい、か そう、書かれている。 小学校時代、七夕行事としてクラスのホームルームで明日歩が作ったものだった。 友達……か その頃の明日歩は洋と友達になりたかった。 誰とも仲良くしようとせず、大きな壁を作って近寄りがたい雰囲気をまとっていた洋を、明日歩はいつも気にかけていた。 遠くから見ているだけじゃない、洋と普通におしゃべりしたり遊んだりしたかった。 そんな願いがこの短冊には込められている。 洋の名前は書かれていない。 恥ずかしくてどうしても書けなかった幼い日の明日歩は、だから文を読んだだけでは誰と友達になりたいかわからないようにした。 なぜ恥ずかしいなんて思ったんだろう? クラスメイトにからかわれるのが嫌だった。なぜ洋を気にかけるのか勘ぐられるのが嫌だった。 そんな、胸が痛くなる恥じらい。 その気持ちを当時の明日歩はよく理解できなかった。 子供だったんだよね…… まだ恋というものを知らなかった子供の明日歩は、その感情をうまく表現できなかった。 だから、友達になりたいとだけ思っていた。 この願い事は時を経て、ヒバリ校で叶ったけれど。 本当の意味では叶っていない。 当時の気持ちを、成長した明日歩ならばしっかりと理解できるから、そう思える。 友達になりたかった。 だけど、それだけじゃなかった。 きっと子供の明日歩もそれ以上を望んでいた。 そして、だからこそ、この初恋の想い出が今になって辛く自分にのしかかっている。 幼かった自分の初恋を理解できるから、同時に、洋の気持ちだって理解できるのだ。 想い出を大切にする気持ち──展望台の彼女に想いを寄せる洋の気持ちを、自分のこの気持ちに照らし合わせて考えることが明日歩にはできるから。 洋に対するこの気持ちが重くなればなるほど、大きくなればなるほど。 切なくなればなるほど。 洋もまた、自分と同じくらい展望台の彼女を想っているのだと知って、明日歩の胸は苦しくなる。 どうすることもできなくなる……。 ……わかってたことじゃない だから明日歩は多くを望まない。 洋の友達になれただけで満足だ。 一緒に星見ができるなら幸せ者だ。 恋人にならなくたって充分だ。 自分が洋とつきあうということは、洋が大切な想い出を捨ててしまうのと同じだから。 展望台の彼女を諦めることと同じだから。 それはきっと悲しいことだから。 自分に照らし合わせると、それがわかるから。 洋ちゃんが、今のあたしみたいな気持ちになるから……。 ………… 引き出しの短冊は二枚ある。 一枚は幼かった頃の明日歩のもの。 そしてもう一枚は、幼かった頃の洋のもの。 ……行こう 明日歩は引き出しを閉める。 引き出しにカギをかけ、スクールバッグを取り、部屋を出る。 自宅をあとにし、夢見坂を歩きながら、明日歩は道すがら普段どおりの笑顔を作る。 青空に浮かぶ太陽にも負けない笑顔を作る。 変に自分が落ち込んでいたら、クラスの皆の笑顔だって曇ってしまう。 洋ちゃんにだって心配かけてしまう……。 だから明日歩の顔は晴れやかだ。 それが、雲雀ヶ崎で洋と再会してからの、南星明日歩のスタンスなのだ。 朝の夢見坂はヒバリ校の制服で彩られている。 長い夏休みが明け、今日より二学期が始まるのだ。 心機一転、一学期とは違って遅刻ぎりぎりじゃない時刻に家を出ると、見知った背中を発見した。 よ、明日歩 声をかけると相手はびくっとして立ち止まる。 あ、洋ちゃん…… おはよう 明日歩はあいさつを返さずに固まっている。 どうした、そんな驚いたか? ……あはは なんか笑われた。 そりゃあね、こんな時間に洋ちゃんと会うとは思わないもん せっかくの新学期だしな。一学期の俺とは違う 千波ちゃんは? 起きないから置いてきた ……それで早いんだね 心機一転だ もう。千波ちゃんがかわいそうだよ 夏休みボケしてるあいつが悪い。待ってたら俺まで遅刻になる 帰宅したら千波に逆ギレされそうだけど。 だから、当分はこの時間に登校だ ……そっか 明日歩は妙にそわそわして、 じゃあ、しばらくはあたしと一緒に登校になるのかな 明日歩はいつもこのくらいの時間か? うん なら、一緒だろうな ……うん うれしそうに、だけどどこか困ったふうにうなずいて。 ……あたしと一緒でもいいの? 耳を疑う。 いいに決まってるだろ? なぜそんなことを聞くんだろう。 ……うん 今朝の明日歩は様子が変だ。 そういえば、明日歩と一緒に登校するの初めてだな むー あっという間に犬化した。 ……俺、間違ったか? うん、間違った 前にも一緒に登校したか? うん、した ……したか? 忘れてると思ったけど どうにも思い出せない。 土曜スクールのときに一緒だったじゃない ……そういえば 学校というイメージじゃなかったので、失念していた。 洋ちゃんってさ、やっぱり 明日歩は俺を窺うように。 小学生のときから、あんまり変わってないのかもね 洋ちゃんが大切なのは、展望台だけなのかもね…… 俺は軽く笑う。 そんなことないって ……ほんとかなあ ああ 自信を持って言えるのだ。 小学生の頃の俺は友達と呼べるやつがいなかったけど、今の俺にはいるからな 展望台が大切なのは、そこに友達になってくれた彼女がいたからだ。 それ以上でも以下でもない。 だから、今の俺は学校だって大切だ ……そっか そうだ 展望台は大切なままなんだよね そりゃあな ……うん 明日歩の声は寂しそうだったのに。 その表情は普段どおりの笑顔だった。 それでこそ、洋ちゃんだね 長ったらしい始業式が終わると、二学期初日ということもあって学校は午前で開放となった。 登校日と似たようなスケジュール。平常の授業が始まるのは明日からだ。 明日歩さん、今日は天クルの活動どうしますか? そうだね。お昼食べてから決めよっか んじゃオレも一緒するかな 飛鳥さんもお昼を食べたらオカ研の活動ですか? おうよ、図書室で調べ物だ ちょうど当番はわたしですから、開けるまで待っていてくださいね こさめさんとは夏休みにいろいろあった。 それでもお盆後の天クルの活動に参加するうちに、こさめさんはこれまでと同様のつきあいに戻ってくれた。 こさめさん、こんな日にも図書委員の仕事あるのか はい。といっても、受付はほかの方ですから部活には出られますよ 図書室自体も、三時くらいには閉まりますから じゃあ調べ物のあとは聞き込みだな 青春ですね、飛鳥さん 不健全な青春だなあ 部活に貴賎はありませんよ、明日歩さん 飛鳥のとこはまだサークルだけどな ケッ、違いって言ったら部室と部員数くらいなもんじゃねえか ほかにもあるよ。念願の部費がもらえるんだから! 明日歩の瞳がきらきらする。 二学期になったから天クルも部になったんだよな はい。今ごろ姉さんが部活会議に出席しているはずですから、そこで正式に認められると思います あとで部費もらいにいこっと 部の名前も決めないとかもな 天体観測愛好サークルが、ついに天体観測愛好部になるんですね 略して天部か なんか、いまいちな感じするな そうだよね、馴染めないっていうか わたしたちはずっと天クルでしたからね そのまま変えないって手もあるんじゃねえか 名前に部をつけなきゃいけない規則はないと思いますし、可能かもしれませんね それじゃ、天クルのままでいこっか 明日歩はあっさりと言う。 ……それでいいのか 洋ちゃんは反対? 反対かと問われると、べつにいい気もする。 明日歩はいいのか? うん。むしろうれしいかなって 天文部はあたしたちの代で天クルと呼ばれるようになった。いい想い出になると思わない? ヒバリ校の歴史にも名前が残りますね どう、洋ちゃん? 最高だな だよねっ つーか、勝手に決めていいのかよ。部長は岡泉先輩だろ 先輩も絶対賛成してくれるよ ポジティブな先輩なら感激しそうだな ネガティブな先輩なら嘆きそうですけどね でも、どっちにしろ反対はしないんじゃないかな 話は決まったようだった。 天クルは、今後も天クルとして活動していくことをここに誓いま~す! 明日歩は選手宣誓のように宣言するのだった。 いいんじゃないかな。天クルのままで 念のため岡泉先輩に確認を取ったところ、簡単にOKサインが出る。 僕としても天クルの名前は愛着があるからね。これでも名付け親だから 廃部寸前の天文部を天クルというかたちで残したのは、ほかならぬ岡泉先輩ですもんね 天クルの命の恩人ですね その岡泉先輩が反対しないのなら、文句を言う部員は誰もいない。 入るわよ ノックしてってばっ ……あのね、わたしはいちおう天クルの部員になってるんだけど 姫榊は夏休み中に仮入部のかたちで活動に参加するようになったのだ。 展望台で負った手の傷も完治したようで、包帯はもう巻かれていない。 天クルの部員だからこそ、仲間に礼儀は尽くしてね。特にあたしは副部長なんだから 得意げに言っている。 入室の際にはノックすること。扉を開けたら中に入る前に四十五度の礼をしながらおはようございますと丁寧にあいさつしてね そんな入室をする部員は見たことない。 そしてあたしがよろしいと言ったら初めて入室が許可されるんだよ そんな戯れ言はどうでもいいのよ どうでもいいってなんだよ~! 姉さん、部活会議はどうでしたか? 滞りなくすんだわよ お、じゃあ 天クルは本日をもって正式に部活として認められました おおーっ! と歓声が上がる。 ついでに報告だけど、わたしとメアって自称死神も部員として登録されたわ じゃあ、これで総勢八人か 大所帯になってきましたね ほかの文化部に比べても遜色ない部員数だね まあ運動部に比べれば弱小もいいところだけど 向こうは向こう、あたしたちはあたしたちだよ。今後もはりきって天体観測するよ~! わたしは二度としないけど さっそくチームワーク乱さないでよ~! それを言うなら蒼さんでしょう。あの子が部室にいるの見たことないんだけど 蒼さんは野球で言うところのピンチヒッターみたいなものだからな 大一番で出てくる抑えもしくは代打だね ……野球はよく知らないけど 姉さん、どうして活動に参加しないんですか? 夏休み中に何度か活動を見学した結果、特に問題なさそうだったから。監督のお役ご免ってわけ ……一緒についてきてぶつくさ文句言ってただけなのにどこが監督なんだよ なんにしろ、これ以上ここに顔を出すつもりはないわ 幽霊部員まっしぐらだ。 それじゃこれから天クルの活動予定立てよっか せいぜい生徒会に迷惑をかけないことね こももちゃん、なんでまだいるの? ……わたしが幽霊部員になったとたん手のひらを返すあなたがある意味清々しいわ 姫榊、また天体観測したくなったら言ってくれ。俺たちはいつでも歓迎するから 姫榊は肩をすくめる。 ないと思うけど、小河坂くんの機嫌を損ねたくないから了解しておくわ 俺は関係ない。姫榊の気持ち次第だ むしろあなたの気持ちに関係あるのよ 姫榊以外の皆が首をかしげる。 今日、ここを訪ねたのはさっきの報告もそうだけど、もうひとつ用があったの なんだろう。 小河坂くん、あなたを生徒会に誘いたい 最も驚いたのは明日歩だった。 な、なんだよ急に! 急じゃないでしょう。二学期になったら勧誘するって言ってたと思うけど 明日歩の視線が俺に向く。 洋ちゃん、生徒会になんか入らないよね! 南星さんは黙ってて 小河坂くん、生徒会は今後とてもいそがしくなるの。二学期は学園祭なんかの生徒主導の行事が多いから なのに生徒会は人出が足りない 三年生の役員は受験勉強で時間をあまり割けなくなるから、特にね だからわたしはあなたの力を借りたいと思ってる。わたしだけじゃない、ほかの仲間もそう思ってる 小河坂くん、生徒会に入らない? ……姫榊 なに それは、要求か? 本音を言えば無理強いしたいところだけどね。でも貸し借りの話をするつもりはないわ 本人のやる気がなければ意味ないから。天クルだって同じでしょう? ……そう言われると、ますます断りづらくなるな 洋ちゃん…… 明日歩が固唾を飲む中、俺は言った。 だけど、悪い。断るよ 洋ちゃん……! 明日歩が抱きつかんばかりに迫ってきたので同じだけ後ろに下がった。 ……逃げられた 犬化する。 姫榊は吐息をついた。 なんとなく、断られる気がしたのよね 姉さん、あまり残念そうではありませんね 同情のほうが大きいから。小河坂くんは今後も天クルで無駄な時間を費やすわけだし 天クルの部員とは思えない言葉だよ~! これでも幽霊部員だから 小河坂クン、これで本当によかったのかい? はい。俺は無駄な時間が好きなんです 洋ちゃんの言葉も天文ファンに失礼だよ~! 断る理由は、天クルのためってわけね そうなるな 生徒会に入っていたら、天クルに顔を出す余裕もなくなっていた。そういう意味では賢い選択だったわね 姫榊が幽霊部員と自ら呼ぶのは、生徒会が今後多忙になるからなんだろう。 洋ちゃん、あたしは信じてたよ にこにこ顔のドアップがあったのでしりぞく。 ……また逃げられた おふたりが抱きあってもわたしたちは気にしませんのに 俺が気にするから。 明日歩クンは距離オンチだからね。僕も初めの頃は苦労させられたよ ……距離オンチ? 明日歩さんは人と話す距離が普通より近いんです 距離感がポンコツなのよ 人を不良品みたいに言わないでよっ たとえば通路を歩いている途中に、ガラス張りで透明な扉にぶつかったり。自動ドアにぶつかったり 適当なこと言わないでよ~! 前方不注意ってことか? 年中不注意なのよね そんなことないよ~! この場合の距離は、精神的な意味合いだと思いますよ 明日歩さんは人と親密になるのが早いですから、自然と距離も近くなるんじゃないでしょうか それでなくても、女性は男性よりも人に触れたがる傾向があるからね ある機関が行ったボディランゲージの調査では、男性同士の会話よりも女性同士の会話のほうが相手の身体に触れる回数が六倍も多かったそうだよ そういえば、母親によくさわられている子供は健康に育つと聞いたことがありますよ 健康促進だけじゃなく、触れあいというのはおたがいの好意が生まれやすいと言われている ペットセラピーでもそうだけど、ペットを撫でると気分が落ち着くし、ペットのほうも懐いてくるからね 思い返してみると、明日歩さんは小河坂さんと話すときは極めて距離が近いですね 小河坂クンが相手だとより顕著に距離オンチだね 要するに南星さんが小河坂くんにアタックしてるわけね みんなしてさっきからなに言ってるんだよ~! 明日歩は顔を真っ赤にしてわめいている。 明日歩はすごいな どういう意味だよ~! 距離が近いってことは、みんなが言ったみたいな面もあるけど、それだけ自分が傷つきやすい距離でもあるだろ なのに相手に近づける明日歩は、勇気がある すごいって思うよ ……そ、そうかな ああ 俺には真似できない。子供の頃の「僕」ならなおさらだ。 だいたい距離が近いのは悪いことじゃないだろ でも洋ちゃんに逃げられた ……逃げないように努力はする ならよし 明日歩はまんざらでもない顔になった。 小河坂さんのナイスフォローですね とりあえず明日歩クンには、誰彼構わず距離を近くしないように気をつけて欲しいかな 接客のときには気をつけてるんですけどね いきなりメイドに近づかれたら客も気が気じゃないだろう。 馬鹿話で遅くなったわ。まだお昼食べてないのに お帰りですか? ええ、用はすんだし。じゃあね 姫榊はあっさりと去っていった。 邪魔者がいなくなったところで、天クルの活動予定立てないとね 部員仲間を邪魔者扱いする我が副部長だった。 明日歩クンはそのうち小河坂クン以外の全部員を邪魔者扱いしそうで怖いね…… 天クルはふたりの愛の巣になるわけですね 変なことばかり言ってると退部勧告しちゃうよ~! 今日は明日歩がいじられる日のようだった。 俺たち四人の話しあいにより、天クルの活動日──天体観測の日は毎週土曜日の夜に決まった。 翌日は日曜で休みだし、妥当だろう。 岡泉先輩も土曜スクールという名の受験勉強で根を詰めたあとの、ちょうど良い気晴らしになるんじゃないだろうか。 と思っていたのだが。 僕は土曜スクールには出ないよ。レベルの高い大学を受験するわけじゃないからね どこに進学なんですか? 〈National Aeronautics and Space Administration〉《ナショナル・エアロノウティクス・アンド・スペース・アドミニストレイション》だよ ……なんですかそれ 略してNASA、アメリカ航空宇宙局のことですね ……というかそれ大学じゃないし、そっちのほうがよっぽどレベル高いような なんにしろまだ先の話だよ 冗談なのか本気なのか判断つかないところが岡泉先輩のミステリーだ。 洋ちゃんは土曜スクール出るの? 天クルの活動でどうせ学校行くなら、出てもいいな 洋ちゃんが出るならあたしも出ようかな あなたはどこのどいつですか? なにその柄悪い職務質問!? それほど意外だったんです ……傷つくなあ 小河坂クン、バイトのほうはいいのかい? そうですね。土曜スクール出て、明日歩のとこでバイトして、夜に天体観測って流れにしようかと とすると小河坂さんは毎週土曜日が明日歩さん三昧になるんですね 人をなにかの食材みたいに言わないでよ~! 態度は怒っていても、うれしそうに見える。 ……明日歩三昧は決定になりそうだな。 平日の夕方は主に明日歩の喫茶店でバイトをする。 夏休みから継続してのスケジュールだ。 洋ちゃん 客足が一段落したところで、明日歩が寄ってくる。 これ新作メニューなんだけど、味見してみてくれる? トレーにはスイーツが載っている。 プリンか? クレームブリュレだよ。甘いものは平気だよね? ああ、マヨネーズ以外ならなんでもいける じゃ、どうぞ スプーンですくって一口いただく。 どうかな? パリッとした表面の下からトロリとしたクリームが滲み湧き混じりあい舌の上で絶妙なハーモニーを…… ……おいしいかおいしくないかだけでいいから おいしいよ ほんと? ああ。全部食べたいくらいだ ……えへ 明日歩の照れ笑い。 じゃ、全部食べて食べて トレーをテーブルに置いたので、向かいあって座る。 もしかして、と思う。 これ作ったの、明日歩か? 内緒だよ 明日歩はにこにこ顔で俺が食べるのを待っている。 ……十中八九、明日歩の手作りだろうな。 これまでも何度か手料理をいただいたが、明日歩の腕はプロ並だ。 それもスイーツに限らず、料理ならまんべんなくだ。 明日歩を彼女にできる男は相当な幸せ者だろう。 ……って、なに考えてるんだ。 早く食べて食べて あ、ああ がつがつ貪る。 ……そんな急いで食べなくても 完食する。 まあ、うまいからな ……えへ 甘い展開である。口の中も、場の空気も。 洋ちゃん、口元にクリームついてる ん、どこだ? 急いで食べたせいだろう。 取ってあげるね 腕を差し出して俺に迫る。 ……なんで逃げるの いや、自分でできるし いいから よくない。 ナプキンを取って自分で拭う。 ……やってみたかったのにな。指で拭ってあげてパク、とか 残念そうだった。 次のチャンスを待たないと ……待たなくていい。恥ずかしすぎる そうかな 俺が明日歩の口元についたクリーム取ってパクってやったらどうだ? ……たしかに恥ずかしいね 恋人になればアリなんだろうが。 俺たちはそういう関係じゃないのだ。 洋ちゃん、頭でっかちだもんね ……なんでそうなる そんな洋ちゃんだから、きっとこういうかたちのほうがいいんだよね そう言った明日歩は、封筒をテーブルに置いた。 なんだ? 洋ちゃんのバイト代 はて? バイト代だったら先月に振り込まれてたぞ 月末に口座を確認したのだ。 それはお父さんからのバイト代 これはね、あたしからのバイト代だよ ……待ってくれ。 受け取れるわけないだろ ううん、受け取って 封筒を押し出した。 いらないって 押し返す。 むー 犬化するな頼むから。 気にすることないのに 気にする。だいたいこんなの変だろ? 変じゃないよ 俺はちゃんと仕事分の報酬を受け取ってる お父さんからは受け取れてあたしからは受け取れないって言うの? ……だから、それって変だろ 変じゃないよ 明日歩の気持ちはうれしいけどさ うれしいなら受け取って 有無を言わさない強引さ。 洋ちゃん、勘違いしてる。これはね、今までの仕事に対する報酬じゃないんだよ これからの仕事に対する報酬なの 明日歩はかしこまって言葉を続ける。 中には二時間分の時給が入ってる…… これで、洋ちゃんの二時間をあたしにちょうだい 意味がよくつかめない。 頭でっかちの洋ちゃんだから…… こういうかたちのほうが、いいかなって 今夜、洋ちゃんの二時間をあたしが買う。その二時間で一緒に星見したいんだ あっけに取られる。 嘆息せざるを得ない。 ……このバカバカ バカバカってなんだよ~! そんなことしなくたって、星見くらい一緒する。当たり前のことだろ? 明日歩はたじろいでから、 ……そうかな そうだ でも…… なあ、明日歩 思い余って聞いた。 なに遠慮してるんだ? ……え? 今回だけじゃない。今朝だってそうだ 思い返してみると、明日歩はときおりこんなふうに遠慮がちなところを見せていた。 仲間をひっぱるムードメーカーの明日歩だから、普段はその陰に隠れているけれど。 一緒に登校してみたかった、家に上がってみたかった、腕を組んでみたかった……そんな言い回しも、遠慮しているからこその言葉だったんじゃないだろうか。 あたし……そんなふうに見えてた? ああ。明日歩らしくない ……そうかな そうだ なんでそう思うの? 明日歩は他人に積極的に近づける。そういう勇気を持ってる。部室でも言ったじゃないか ………… 俺、間違ってるか? うん きっぱり否定。 ま、間違ってるのか? うん ひどく落ち込む。 あ、ううん。洋ちゃんが悪いんじゃないし だけど、そっか。そういうふうに見えちゃうのか それもしょうがないかあ…… 明日歩の笑みは諦めが混じっていた。 ……よくわからないけど、悪かった 洋ちゃんが悪いんじゃないんだってば。ただ、あたしはそういう意味で人に近づいてるんじゃないの だからあたしは積極的じゃないの。勇気もないの。どっちかって言うと深窓の令嬢みたいな感じ? ………… 今、どこがだ、って思ったでしょ というか、からかってるのかなと うん 脱力する。 バイト代、いらないの? 言うまでもない 星見は? つきあうよ。これも言うまでもないんだけどな 展望台の彼女さんを捜したいから? 違う メアちゃんに会いたいから? 明日歩と星見をしたいからだ 優しいね 今日の明日歩は変だな そんなことないよ いや、絶対変だ あはは、じゃあそれでいいよ なにか、うやむやにされたような心地だった。 積極的な明日歩と、遠慮がちな明日歩。どちらが本当の明日歩なのか。 それとも、どちらも本当の明日歩なんだろうか。 展望台、無事到着だね もう何度目になるだろうな わかんないけど、秋の星見は初めてだね 北に位置する雲雀ヶ崎では、九月ともなると夜の気温が下がるため、俺たちの服装は早くも秋仕様に変わっている。 空気が冷えているためか、夜空は澄んだ星彩でいっぱいだった。 うん、雨警報もお休みしてる。絶好の星見日和だよっ 明日歩は颯爽と望遠鏡を組み立て始める。 いつもだったら俺はメアを捜すところなのだけど。 俺も手伝うよ 明日歩の隣にしゃがみ込んだ。 ……いいの? 遠慮するなって。明日歩らしくないんだから ……だって メアは、星見したくなったら出てくるよ たとえ姿を現さなくても、どこかの木の枝に座って俺たちを見ているだろう。 きっとそれでも、一緒に星見をしていることになる。 じゃあ、あたし架台やるから、赤道儀お願いしていい? ああ 明日歩が組み立てた三脚の上に赤道儀を固定する。 それから鏡筒を設置し、ファインダーとレンズを取りつけ、オートサーチのリモコンを差し込む。 あとは三十分待つだけだ。 一緒に準備したの、初めてだね 天クルの活動ではやってたじゃないか 星見では、初めてだよ 屋上とは違い、展望台ではいつも俺はメアを捜していた。 もしかしたらそれは展望台の彼女を捜すのと同義だったかもしれない。 一度、聞いてみたかったんだ 静謐な展望台。 ふたりで草むらに腰かけながら。 明日歩は、なんで星が好きなんだ? 夜空を見上げながら、星が大好きな彼女と会話する。 洋ちゃんは展望台の彼女さんの影響だよね ああ あたしは、お父さんなんだ 明日歩はゆっくり語り出す。 子供の頃……きっと物心つく前からも、あたしはお父さんから、星座にまつわるおとぎ話を聞かされてたの 子守歌代わりだったのかもしれない。あたしをあやす意味合いだったのかもしれない だけど、そんなのはどうでもよくて、あたしはお父さんの語る星座の神話が好きだった だから天体観測も好きになった 星が、大好きになったんだよ おしまい、と明日歩は最後につけ足した。 マスターって、ヒバリ校で天文部の部長だったんだよな それだけじゃないよ お父さんは、天文学者だったんだよ 天文部員から、天文学者へ。 それは夢を叶えたということだろう。 でも、辞めちゃったんだ…… 天文学者を辞めて、喫茶店を始めたの 洋ちゃんが引っ越してから、結構すぐだったかな…… だから俺が雲雀ヶ崎に帰ってきたときには、ミルキーウェイに見覚えがなかったのだ。 どうして、天文学者辞めたんだ? わかんない お父さん、なにも話してくれないから…… それから俺たちは、しばらく無言で光鮮やかな夜空を望んでいた。 八月と違い、そこに流星は見えなかった。 授業が本格的に始まった今日。 一学期と同様の時間割をこなし、すると帰りのホームルームに先生からヒバリ校の学園祭──ヒバリ祭の連絡があった。 開催日は十月七日と八日の二日間ということで、まだ一ヶ月先だからか日取りの話だけで終わっていた。 こういう話聞くと、いよいよ秋って感じがするね~ でも学園祭って、文化の日にやるんじゃないんだな 十月八日は体育の日だったりする。 文化の日って十一月だし、それだと寒いから早めにやるんじゃないかな 雲雀ヶ崎は北の街ですからね 納得だ。 ヒバリ祭、今から楽しみだな~ 夏祭りと同じ反応だな 射的や金魚すくいの模擬店が出るのかはわからないが、明日歩は遊び倒す予定なんだろう。 出し物とかってあるのか? もちろんだよ、なかったら学園祭じゃないもん 出し物の準備はまだなんだよな 二週間前くらいから本格的に始まると思うよ といっても、姉さんのような生徒会役員の方々は、実行委員として早くから動いているんじゃないでしょうか いそがしくなるって言ってたもんな 南星もクラス委員だし、オレたち一般生徒よりはいそがしいんじゃねえか 仕事は生徒会の連絡をクラスに伝えるくらいだし、そうでもないよ 明日歩って去年もクラス委員だったのか? ていうか、小学校のときからだよ ……毎年なってるのか 立候補してるわけじゃないんだけどね いつも推薦で選ばれていますよね それが明日歩の人柄なんだろう。 ヒバリ祭ってどんな感じなんだ? うーん、普通の学園祭だと思うよ。クラスでお店出したり、部活でもお店出したり 部活は出し物のほうが多いですよ。演劇部では演劇を、映研では映画を上映するのが常ですし ヒバリ祭大賞ってのもあるな。クラスや部活の企画の中で一番優れてたのが選ばれるんだ そして二日目の夜にはフィナーレとして、ファイアーストームがありますね 後夜祭ってやつだな フォークダンス踊るんだよね。自由参加だからやる人あんまりいないみたいだけど そりゃ、男女ペアじゃなあ フォークダンスを踊るふたりは、恋人を宣言しているみたいなものですからね あたしたちも去年は不参加だったもんね 聞いた限り、都会の学校の学園祭とそんなには変わらないかもしれない。 ラストの後夜祭を除いて。 ファイアーストームはちょっと見てみたいな 都会の学校ではなかったんだ? ああ。話が上がったこともあったけど、グラウンドが狭いって理由で許可されなかったんだ まあ狭いと危険だろうからな でしたら小河坂さん、せっかくですし参加してみたらどうですか? ……踊ってくれる相手がいればな 遠くから見ているだけでも充分なのだが。 洋ちゃん、踊る相手いないの? いるわけないだろ。俺、転入してまだ二ヶ月だぞ? そ、そうだね。あはは…… 明日歩はこういった釈然としない笑みをよく浮かべる。 明日歩さん、チャンスなんじゃないですか? な、なにがだよっ 皆まで言わなければいけませんか? う、ううんっ、絶対言わないで! 小河坂、もし誰かに誘われたら踊るんだろ? 飛鳥くんもなに聞いてるんだよ~! まあ……誘われたら断る理由ないし そうなの! アップになるなって! 椅子から落ちそうになる。 断らないのでしたら、小河坂さんの身柄は早い者勝ちになりますね バーゲンセールみたいに言うなよ…… 早い者勝ち…… 明日歩さん、迷っている暇はありませんよ なんであたしを名指しなんだよ~! ……こういう態度を取るから、俺にもほかのみんなにもバレバレなんだよな。 だからこそ、俺はどう反応していいのかわからないわけで。 ……フォークダンスはいいとして、天クルの出し物はどうするんだ? こんなふうに話を逸らすしかなくなる。 天クルの出し物はいいとして、小河坂さんはフォークダンスを踊りたい相手はいないんですか? そしてこさめさんが小悪魔的に話を戻す。 そ、そうだねっ、天クルの出し物は近いうちに考えよっか! ……明日歩さんはなぜ恋路にだけ消極的なんでしょう こさめさんは不満そうだ。 オカ研はなにかやるのか? オレか? サークルは部活と違って部屋を借りられないから出し物はむずいんだよ 人数も少ないもんね サークルの方は校庭で模擬店というのが多いですよね どうせなら都市伝説について展示でもしたいところなんだけどな また新しい情報でも手に入ったのか? いいや、ぜんぜん。だから今年は客として楽しませてもらうつもりだ これでヒバリ祭大賞の敵がひとつ減ったね なんだよ、ねらってるのか? だって大賞取れば賞品として部費がアップするんだから。ねらうしかないじゃない! 去年の自作プラネタリウムは好評でしたけど、大賞には届かなかったんですよね だから今年こそは受賞して部費ゲットだからね! 明日歩の瞳が燃えている。 そうなると、クラスの出し物はどうするんだ? ヒバリ校は部活が盛んだからね。部活に所属してない生徒がクラスの出し物やることになるんだけど、人数少ないからサークルレベルだよ クラスが大賞を取っても部活と違って賞状をもらえるくらいですし、賞を狙うクラスはいないのが普通なんです あたしたち天クルの敵じゃないよね~ ケッ、出し物は結局のところ人数勝負だろうが。運動部に勝てるとは思えねえな そんなことないよ。アイデア勝負でだって充分太刀打ちできるんだから! こういった対抗意識を見ていると、都会の学園祭でも一丸となって取り組んでいたことを思い出す。 ヒバリ校とは違って部活ではなくクラス対抗だったが、本質的には同じことだ。 明日歩、絶対勝とうな 洋ちゃんもやる気になった? 俺は最初からやる気だぞ あはは、洋ちゃんってクールだから行事にも冷めてるのかと思ってた ……俺、クールか? うん。昔はそうだったし、今も変わったところはあるけど、やっぱり同じところのほうが多いかなって ま、冷めてるほうだとは思うな 冷静沈着ですよね。あのときだって…… こさめさんは言いよどむ。 展望台で、メアの前で対峙したときのことだろうか。 ……小河坂さんは、わたしに対して、冷静に対処していたと思いますよ 俺から言わせてもらうと、こさめさんのほうが怖いくらい冷静だったけどな いえ。わたしは姉さんに言われたとおり、泣いていただけです。子供みたいに ……なんの話? いずれ小河坂さんが教えてくれると思いますよ なぜ俺が。 明日歩さんとつきあうことになれば、隠し事は避けるべきだと思いますから なんですぐそっちの話になるんだよ~! まったくだ。 明日歩、学園祭の前に合宿もあるんじゃないか あ、そ、そうだね。九月の連休入る前にこももちゃんに申請しないと! 敬老の日の連休だよな うん。合宿にヒバリ祭に、行事の秋って感じだね~ ……小河坂さんも明日歩さんも、先が思いやられますね 見てるこっちがイライラするぜ ふたりがこんなふうに焚きつけるのは、明日歩を想ってのことなんだろう。 俺の気持ちは二の次なのかもしれない。 じゃあ、俺が明日歩を好きかどうかは関係なし? それとも、傍から見ると俺が明日歩を好きなようにも見えるんだろうか。 ………… 俺は、どうなんだろう。 俺は、明日歩を好きなのだろうか。 ……小河坂さんが思案モードに入ってしまいました 洋ちゃん、今日はバイトどうする? 明日歩が顔を近づけて聞いてくる。 ……ええと、部活はいいのか? 土曜日に天体観測できるようになったし、平日はなるべく店のお手伝いしようかなって それに、ヒバリ祭の準備が始まってもお手伝いできなくなるから。今のうちにやってお父さんの機嫌取っておかないとね そういうことなら俺も出るよ 小河坂さん、明日歩さんと距離が近くなっても逃げませんでしたね 逃げないように努力するって言ったからな ……嫌々に聞こえて複雑だけど そんなことはありませんよ こさめさんは得意げに言った。 小河坂さん、頬がほんのり赤いですからね 顔を背ける。 恋に関してだけはクールじゃないのかもしれませんね ……詮索は悪趣味。こさめさんの常套句だぞ わたしのこれは、ただのお節介ですから ものは言いようだ。 ちなみに明日歩も顔が赤かった。 たぶん、俺よりも。 洋ちゃん、今日も新しいメニュー作ってみたんだけど 明日歩が仕事の合間を見計らって、トレーを持ってやって来る。 さ、食べて食べて ……いや、新作ってそんなに必要なのか? そうでもないよ じゃあなんで いいからいいから 実は料理が趣味? 料理は好きだよ。三番目くらいに 一番は星だよな 星は二番だよ じゃあ一番は…… ………… そこで顔を赤くするな……。 ……ええと、これってモンブランか? ……うん。さつまいもを使って仕立ててみたの そ、そうか ……うん 沈黙が落ちると気まずくなる。 ……いただきます 一口食べると、やっと明日歩の表情に笑顔が咲く。 どうかな? 栗の風味豊かな甘みとさつまいもの素朴な甘みがクリーミーに混じりあい舌の上で絶妙なハーモニーを…… ……おいしいかおいしくないかだけでいいから おいしいよ ほんと? ああ。全部食べていいか? うんっ 席に座って残りを食す。 明日歩はにこにこ顔で見入っている。 主に俺の口元を。 ……ねらってるのか? なんのこと? 絶対ねらってるよな……。 フォークを駆使して行儀良く完食する。 洋ちゃん、口元…… 明日歩より先にナプキンで拭う。 むー 不満げだ。 おいしかったよ うんっ すぐに笑顔になる。現金だ。 食器片付けてくるねっ うれしそうに言って、ぱたぱたと立ち去った。 明日歩にしっぽがついていたら、それもぱたぱたしていたと思う。 今、娘が子犬に見えたような…… 錯覚です 悪いね、小河坂くん。味見係までさせてしまって いえ、めちゃくちゃうまいんで 上達はしてるだろうね。夜遅くまで練習してるから ……なんとなく、予想していた。 明日歩は接客もあるから、厨房を任せるつもりはないんだけどね 新作と言ってるのも、僕の仕事を手伝うためじゃないんだろうし あの……なんかすみません なぜ謝るんだい? 聞き返されるとますます辛いんですが。 なにを気にしてるのか知らないけど、僕は口うるさくするつもりはないから 勉強だって、部活だって、恋愛だって 店の手伝いだって、明日歩に無理強いしてるつもりはないんだよ 店の手伝いは、マスターがいそがしそうにしているのを見かねた明日歩が自発的に始めた。 そう過去に聞いている。 ただ、親として手伝ってくれるのはうれしいから、続けてもらってるけどね だから、明日歩が辞めたいと言えば、反対するつもりはないんだ もしかして、バイトを募集してたのって 明日歩のためだったんだけどね。けどキミが来てから逆に手伝ってくれる時間が増えたなあ すみません…… だから、キミが謝る必要はないんだ。むしろ感謝しているくらいだよ キミと一緒だと、明日歩は楽しそうだからね 俺は相づちを打つくらいしかできない。 特に最近は楽しそうにしてるね。天クルが部になったそうじゃないか あ、はい 天文部のOBとして気にかけていたのかもしれない。 マスター、天文学者だったって聞きましたよ ……明日歩から聞いたのかい? はい。辞めたこと残念がってた感じでしたよ マスターは微苦笑する。 今度、話聞かせてください。天クルの部員として興味あるっていうか 天文学に関してなら、ヒバリ校には天文部の顧問だった先生がまだ勤めているはずだ。彼に聞くといい マスターも教えてくださいよ もう、過去のことだからね マスターは言葉を濁していた。 星座の神話も、忘れてしまったよ お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……聞こえてるから騒ぐな、何時だと思ってる だってねだってねっ、千波さっき詩乃さんに呼ばれてお話ししてたんだけどねっ、お兄ちゃんなんで今日は帰りが遅かったのか聞かなきゃいけなくなったんだよっ 遅くなったのはバイトが長引いたからだけど…… 客足が多かっただけじゃなく、明日歩の新作メニューをいろいろごちそうになっていたのも理由だ。 今の、詩乃さんが聞けって言ったのか? それは千波の口からは言えないよっ、詩乃さんとの約束はお兄ちゃんとの兄妹の絆くらい強固だからねっ あー、おまえの兄貴やるのも疲れたわ 強固な絆が糸電話の糸より簡単に千切れそうだよお兄ちゃん!? 今さらお兄ちゃんなんて呼ばないでくれるかな やだやだお兄ちゃんはお兄ちゃんだもんっ、千波にお兄ちゃんって呼ばれないお兄ちゃんはお兄ちゃんの風上にも置けないお兄ちゃんなんだもん! 早口言葉みたいだ。 詩乃さん、まさか俺がバイトしてるの気づいてるのか? わからないけど、千波は言ってないよ? 俺はバイトで帰りが遅くなったときは、たいてい部活で遅くなったと誤魔化している。 今後も言わないでくれよ 口止め料は? これでいいか? 拳握って迫ってくるのは高確率でぐりぐりだから口止め料は辞退するよお兄ちゃん!? なんにしろ、詩乃さんは俺がバイトをしていることに気づき始めているわけだ。 お兄ちゃんがバイトしてるのって、詩乃さんに食費渡すためだよね? まあな もしそういうこと考えてバイトしてるなら、すぐ辞めて欲しいって詩乃さん言ってたよ。お兄ちゃんにそれとなく聞いてみてくれないかって ぜんぜんそれとなくじゃない。 つーか、俺に言わないって約束したんじゃないのか? ほんとはね、言うかどうかは千波に任せるって話だったの。それが約束だったんだよ ……千波は言うほうを選んだんだな どうせお兄ちゃん、千波がなに言ってもバイト辞めないと思うし よくわかってるな これでも長年のつきあいだからねっ 次また詩乃さんが聞いてきたら、俺がバイトしてるって言っていいから え、そうなの? これ以上隠しても、心配かけるだけみたいだしな でも詩乃さんバイト反対すると思うよ? そのときは、食費のためじゃないって答えるから 実際、もうひとつ理由があるのだ。 なんて答えるの? 天クルで使う望遠鏡を買うためだ お兄ちゃん、天体望遠鏡欲しいんだ まあな。おまえには言わなかったか? ……聞いたような、聞いてないような 望遠鏡を買うのは、今月に予定している合宿には間に合わないのだが。 それでも天クルの活動はこれから先も続くのだ。だから、いつか自分の望遠鏡を手に入れたい。 明日歩と星見をするたびに、その思いは強くなっていた。 お兄ちゃんっ、千波もUFO観測用の望遠鏡買うためにまたメイドさんになっていいかなっ バイトするなら小遣いいらないよな 千波の将来の夢はお兄ちゃんからお小遣いもらいながら生涯を送ることだからメイドさんはパスするねっ 身近にニート予備軍がいることを知った初秋の夜だった。 おはよ、洋ちゃん 朝から誰が訪ねてきたのかと思ったら、明日歩だった。 今日は土曜スクールだよ。覚えてた? 覚えてたよ 今後、土曜日は明日歩三昧の日になるのだから。 一緒に登校するのが三度目だってのも、覚えてるからな ……うん 明日歩は照れ笑いを浮かべていた。 うーん、いい天気。これなら夜の活動もいけるかなっ このまま晴れれば、二学期最初の天体観測になるな そして来週には天クル初の合宿だねっ 合宿の申請書は姫榊に渡している。 生徒会で検討したのち、役員が先生方と交渉して、そこで許可が下りれば合宿を行える。 結果は来週には出るそうだ。 こももちゃん、天クルに合宿させないようにわざと不許可に持ち込んだりしないかなあ 姫榊だって天クルの仲間じゃないか。信用しろって 信用したいのはやまやまだけど、長年培ったこももちゃんへの恨みつらみが邪魔するんだよ…… 条件反射の域らしい。 姫榊とは一年のときからぶつかってたのか? うん。天クルに入部したての頃かなあ。こももちゃん、いきなり部室に乗り込んできて宣戦布告したんだよ サークルなのに部室使うな、即刻立ち去れ、さもなくば廃部にする、これは生徒会からの勧告よって で、突っぱねたと うん。これ、こももちゃんとの出会いでもあるんだよね だから、考えてみると、こももちゃんとは出会ってからずっとケンカばかりな気がする 良きライバルだな 犬猿の仲ってよく言われてたよ 犬が明日歩で、猿が姫榊か ……なんであたしが犬のほうなのか知らないけど 猿がよかったか? むー ほら、犬だ。 明日歩はさ、姫榊が嫌いってわけじゃないんだろ ……どうだろ。好きじゃないけど、嫌いでもないかも 姫榊もたぶんそうだ。明日歩が嫌いってわけじゃない いつだってふたりのケンカは険悪になることはなく、逆にほほえましくすらある。 だからこさめさんだって天クルに入部した。 明日歩のそばにいれば、そんな姫榊が見られるから。 天クルは安泰かもな どしたの、いきなり 今の天クルは、前身の天文部に負けてないんじゃないかと思ってさ ……うん。そうだね 一度はつぶれかけた天クルを、岡泉先輩が守って、洋ちゃんが部に戻してくれたんだもんね 部に戻したのは俺じゃなくてみんなだ 洋ちゃんが入部してくれなかったら、天クルは廃部になってたと思うな それだって俺だけじゃない、蒼さんのおかげだ 素直に誉められとけばいいのに 明日歩はおかしそうに笑う。 俺たち天クルをまとめているのは、こんな明日歩だ。 明るく前向きな明日歩がいるから、きっと、今の天クルがある。 土曜スクールが始まると明日歩は机に頭を突っ伏す。 勉強なんて最初からする気がないと言わんばかりに。 実際、寝に来ているだけなのだ。 寝入った明日歩の隣で俺はプリントの問題を解いていく。 休憩時間に入っても明日歩が起きる気配はない。 また、料理の練習で徹夜でもしたんだろうか。 新作メニューを作るために。 ……出してくれたら、ちゃんと食べるさ。 明日歩がよろこんでくれるなら、毎日だって食べてやる。 だから今は、起こすことはしなかった。 土曜スクール、あっという間に終わったね~ きっと明日歩の中ではまぶたを閉じて開けたら終わっていたんだろう。 これから店の手伝いだよな。俺もバイト入るよ あ、それがね。お父さん、夕方から入ってくれればいいって言ってた いつもはすぐ手伝って欲しそうなこと言うのに、どんな風の吹き回しなんだろ マスターは、明日歩に手伝いの無理強いはしたくないと話していた。その表れなんだろう。 だからさ、夕方まで時間あるし。それまで遊ぼっ ……なにするんだ? なんでもいいよ。したいことある? 急に言われても思いつかない。 洋ちゃん、雲雀ヶ崎の街は歩いてみた? ……そういえば、こっち戻ってからはまだゆっくり見てないな あたしと一緒に観光する? それもいいかもしれない。 俺が足を運んでいる観光地は、展望台と駅前の商店街くらいなものだ。 それじゃ、案内してもらうかな うん。まずは、あたしの店でお昼食べてからね それを見越して、自宅には千波と詩乃さんの昼食を作り置いてある。 俺たちは坂を歩いていく。 明日歩ってさ なに? 思うんだけど、いつも右隣歩いてるよな ……そう? そう 偶然じゃないかな 席も右隣だしさ それは先生がそうしたんだよ。あたし、クラス委員だから。転入生の面倒見てくれって頼まれて それについては、俺もそう考えていた。 あたし、クラス委員やっててよかったかも。そう思ったの、二度目だけどね なぜよかったと思うのかは聞かなかった。 聞けなかったというほうが正しい。 代わりに、こう尋ねた。 一度目にクラス委員やっててよかったって思ったのは、どんなときなんだ? ………… なぜか赤くなる。 ……ああ、これを恐れていたから聞かなかったのに、こっちも地雷だったのか。 なんとも気まずい下校となる。 明日歩のことだから、すぐ元通りになるとは思うのだが。 洋ちゃん、今日のお昼はなに食べたい? 商店街に着く頃には、いつもの明日歩に戻っていた。 俺が選んでいいのか? うん。お店のメニューからね ……どれ選んでも同じ料理なんだろ あはは でも、たとえ同じだとしても、連続して同じメニューが出されたことはない。 それどころか毎回違うメニューだ。 あたし、もっと料理の腕上げたいな どんな料理作っても、おいしいって言われるようになりたいな…… 優しい声、とても優しい表情。 そうなったら、なに頼んでもいいからね そのあたたかい気持ちをまっすぐに投げかける明日歩に、鼓動が早くなる。 ……無理はするなよ 動揺は声に出さない。 べつに無理してるわけじゃないのに 料理、好きなんだな 三番目にね 作るのもそうだけど、おいしいって言われるとやっぱりうれしいからね 俺たちはミルキーウェイの前に着いた。 食べて一休みしたら観光だね ああ どこか行きたいとこあれば言ってね 考えてみる。 ひとつ思いついた。 観光地とは違うが、天体望遠鏡を売っている店があるなら覗いてみたい。 じゃあ…… あっ 言いかけたところで、明日歩が声を上げる。 うそ…… 明日歩は耳を澄ます仕草をする。 なんで……午前中はなかったのに…… どうした? ……降っちゃうの 雨警報だろうか。 俺は頭上を見上げる。 一部の空が厚い雲に覆われているが、ほとんど青く澄み渡っている。 たぶん、この感じ、天気雨だ…… 頬になにか当たった。 それも、けっこう強い…… ぽつ、ぽつとアスファルトに斑点模様ができる。 雨が降り始めたようだ。 ふえーん! 夜から天クルの活動あるのに~! いや、天気雨だったらすぐやむんじゃないか? 言った途端。 ごろごろと、遠くで雷が鳴った。 天気雨の次は夕立が来そうだよ~! い、いや、夕立だったらやっぱりすぐやむだろ? 風が強くなったと思ったら、厚い雲が質量を増し、晴れていたはずの空がどんよりと曇ってきた。 夕立の次は秋雨が来そうだよ~! わめいている間に土砂降りになった。 明日歩っ、とにかく中に避難だっ ふえーん! 明日歩の手を引いて、急いで店内に転がり込んだ。 昼飯を食べ終えても、雨はやむ気配を見せなかった。 夏から秋に季節が移り変わる際は、長い雨の時期が訪れるというけれど。 北の街でもそれは変わらないようだ。 秋の長雨かあ…… 明日歩は窓の外をぼんやりと眺めやる。 土砂降りの勢いは過ぎていても、雨はしとしとと一定のリズムを刻んでいる。 星見の舞台を隔てる暗幕のように。 神さまの、バカ…… 明日歩は店の制服に着替えている。午後に予定していた雲雀ヶ崎観光もお流れになったのだ。 明日歩、気を取り直して店の手伝いしよう ………… ぶすっとしてないでさ。かわいい顔が台無しだぞ ………… ……なんか赤くなったな。 ……あたし、かわいいの? あ、ああ 本人から聞かれると答えづらいのだが。 こももちゃんより、かわいい? ……ええと。 姫榊は美人だけど、かわいさで言ったら明日歩が上なんじゃないか むー なぜに。 ねえ、洋ちゃん 明日歩は窓に当てていた手を離し、気持ち俺に近づいた。 もし、あたしが…… すぐに言いよどむ。 ……なんだ? ………… 明日歩はうつむいている。 ……なんでもなかった 俺の横を通り過ぎ、厨房へと消えてしまう。 ……なんなんだ? 言いたくても言えなかった。そう感じた。 もどかしくて、だけど、聞きたくはない気もした。 ……俺は、ダメだな。 優等生には程遠い。 明日歩の気持ちが、知っているのにわからない……。 結局、雨がやむことはなかった。 今なお降り続いている。夜空に光はなく、闇と同色の雲が星たちを隠している。 天クルの活動は中止となった。 部員への連絡を終え、ケータイをぱたんと閉じ、南星明日歩は机に手をかけ体重をあずける。 そして思いに沈む。 浮かぶのは小河坂洋。 バイトでの洋の反応。 明日歩の言葉にときおり困ったような態度を取る。 その言葉とは決まって胸に秘めた想いがあふれ出しこぼれ落ちたものであり、きっと洋だってそれに気づいているから答えに窮してしまうのだ。 そう。 洋は、困っている。 自分に言い寄られて困っているのだ。 ……そろそろ、やめにしないと これ以上続けたって洋にとっては重荷になるだけ。 もう充分のはずなのだ。 洋ちゃん…… 洋がヒバリ校に転入してきてからの日々。 明日歩は洋にべったりだったかもしれない。 登校の迎えにいった。 家に上がらせてもらった。 海水浴を楽しんだ。 夏祭りも楽しんだ。 なにより星見を一緒にできた。 小学校時代では考えられなかったことばかり。 あたしは、洋ちゃんの友達になれたんだから…… 小学校時代の洋とは言葉すらまともに交わせなかった。 クラス委員として洋に接し、それを機に仲良くなろうにも相手は遠のいていくばかりだった。 話しかけても一言二言の答えが返ってくるだけ。 無理に話を続けると怪訝な視線を送ってくる。 休み時間はひとりで本を読んでいる。 授業が終わればすぐに教室を出る。 笑っているところなんて見たことがない。 遠い。 追いかけてもつかまらない。 見失う。 小河坂洋は自分にとって遠すぎる。 その終着点は洋の引っ越しだった。 本人のあいさつはなく、朝のホームルームで先生からの急な連絡によって知ったその現実を明日歩はぼんやりと受け入れた。 いや、受け入れていなかったのかもしれない。ぼんやりしていたのはすぐには浸透しなかったせいかもしれない。 どこかふわふわと浮きながら学校から帰宅した明日歩は、父ともろくに話さず夕飯を食べ、自室に戻り。 今もしているように机に手を置いて。 いつまでも、いつまでも。 ぼんやりと。 そのうちに、ふと思い立ち。 あたしは引き出しを開けたんだ。 ………… 明日歩は机の引き出しを開ける。 そこには二枚の短冊。明日歩のものと洋のもの。 洋の短冊──返しそびれてしまったこの短冊を、子供の明日歩はここに入れて。 引き出しを閉めると、カタン、と音がして。 それからようやく涙があふれたんだ。 う……くっ…… その想い出を再現するように明日歩は泣く。 明日歩は思い知ったのだ。 子供の頃に──洋の短冊をこの引き出しにしまったときに。 あたしの気持ちは、想い出になったのだと。 この気持ちが実は恋だったと知ったのは、きっとこれがキッカケだ。 だから、これが自分の初恋だったと知ったのは、想い出に変わってしまったあとなのだ。 初恋は叶わない。 恋を知った直後に散った。 知っていたはずなのに。 なのに雲雀ヶ崎で再会し、あたしは想い出の恋を懐かしんでしまった。 そう、未練がましく洋ちゃんに言い寄るのは、想い出の恋を懐かしんでいるだけなんだ。 なんて自分勝手。 押しづけがましい行為。 だから、もう。 懐かしむのはおしまい。 次を最後に、胸にしまおう。 想い出の恋を、胸の引き出しにしまおう。 ずっと奥にしまうんだ。 こんなふうに、カギをかけて──── 岡泉先輩。これが、屋上と視聴覚室のカギになります 拝借するよ 姫榊の手から岡泉先輩の手へと、活動のためのカギが渡される。 天クルの合宿初日。許可は今週にちゃんと下りた。 午前の土曜スクールが終わると俺はこの合宿のために、昼間のうちにバイトをすませていた。 天気は良好っ、雨警報もお休み中。ついに来たよこのときが! 今日がどんなに待ち遠しかったか…… 明日歩の目がすわっている。 今週はずっと雨で一度も星見できなくて、放課後は店の手伝いしかすることなかったんだから…… わたしと岡泉先輩は部室でトランプしてましたよ 見たかったDVDも消化して有意義な活動だったね 部長にあるまじき体たらくですよ先輩っ、せっかく天クルは部になったんですから! サークルでも部活でもどうせ雨の時期なんだし、じめじめ引きこもってればいいじゃない こももちゃん、なんでまだいるの? ……だからわたしも部員なんだけど もう顔は出さないって言ってたのに そのつもりだったけど、あなたたちが合宿やるなんて言い出すからしょうがなくよ 姫榊も合宿に参加か わたしが部員になったのは監督のためだしね。合宿なんてあなたたちだけに任せられないわ だから、問題が起きないように嫌々つきあってあげてるだけよ ……よけいな一言がなければ歓迎してあげるのに 誰も頼んでないから 幽霊部員のくせに よけいな一言が多いのはそっちも同じね ああ、姉さんとお泊まり会なんて初めてです…… ……一緒に住んでるのに今さらでしょ そんなことはありませんっ、銭湯で姉さんとお風呂を一緒できるんですから! 自宅と同じで一緒に入るつもりないから それではわたしが参加する意味がありません! ……こさめちゃんって実は天体観測に興味ないのかな 俺は前から気づいていたけど。 姉さんがわたしに裸を見せてくれないんです……子供の頃はすべてを見せてくれたのに そういうこと言うから嫌なのよっ、普通にしてるなら姉妹なんだし一緒してもいいけど 誓ってなにもいたしません! 誓い破ったらお仕置きだからね はい……うっとり ……天クルの合宿がこのままだと百合合宿に 明日歩は疲れていた。 まあ願い叶って週末の天気予報は晴れマークだったし、俺たちは俺たちで楽しめばいいんじゃないか あ、あたしたちも一緒にお風呂? そうじゃないだろ! コガヨウ…… 大胆です…… いつのまにそんな仲に? 違うんだって! 天体観測を楽しむって意味だろ普通に考えて! 明日歩は赤い銅像になっていた。 風紀を乱したら即刻廃部にするからそのつもりで 俺だけ見て言うなよ頼むからっ ほかにも、生徒会からの連絡事項だけど くっ、マイペースなやつ。 さっきから話題になってるお風呂は、商店街の銭湯を利用するか、家が近い人はいったん帰って入ってきてもいいから 小河坂クンは簡単に家に帰れるね それを言うなら明日歩もですよ では小河坂さんは明日歩さんを自宅に招いてお風呂をご一緒するんですね どんなつながりなんだよそれ!? ……あたしの家で入ってもいいよ 明日歩!? か、貸すって意味でね? い、一緒じゃなくて…… あ、そ、そうか 小河坂さんの心の舌打ちが聞こえました してないから! 蒼クンも家が近いし、帰れるね そういえば蒼さんの姿が見えないけど 彼女は朝が弱いそうですから、遅刻かもしれません ……もう夕方なんだけどね よ、洋ちゃん、うちで入る? い、いや、それはさすがに体裁が悪いというか いつまでやってるのよ。まだ連絡が残ってるんだけど ……続けてくれ 助け船に乗ると、明日歩もおとなしくなる。 ………… おとなしいというよりも、なんだろう、どこか思い詰めた感すらある。 じゃあ連絡を続けるわね 合宿は今日からの三日間。二泊だから、明後日には解散するように 食事と就寝の場所はここ。外食もオーケーだからそのあたりは自由にしていいわ ただ、調理実習室で自炊はできないからね。生徒だけで火を扱うのは危険だから 布団や寝袋なんかの寝具は各自用意。保健室のベッドを使うのは衛生上許可できないからね それと、屋上の使用に時間制限はないけど、あまり遅くまで立ち入ってるのは感心しない 活動で使用しない部屋にもむやみに入らないこと 宿直の警備員にも連絡が入ってるから、もし巡回で会ったらあいさつくらいしなさいね 以上、連絡終わり。質問は? わたしと姉さんのお布団は一組でよろしいでしょうか? 却下却下っ、ちゃんと二組持ってきてるしっ、ていうかどんな質問よ! 俺たちが持ち寄った寝具や着替え、その他の生活用品は隣の資料室に片付けてある。 ここまで運び込む際は、俺は詩乃さんに車を出してもらったし、ほかの皆も似たような感じだった。 ほかに質問は? 僕の代わりに部長をやらないかい? ……その質問もどうなんですか うまく仕切っているからさ 普段は明日歩さんがひっぱってくれるんですけどね 当の明日歩はさっきから一言も口を挟まない。 ……遅くなりました そうこうしているうちに蒼さんの到着だ。 蒼さん、遅刻だぞ 任せてください ……そんな頼りになるみたいに言われても チームワークを乱すことには自信があります それは心強いな ……ウザ ノッてあげたのに。 蒼さん、合宿中に風紀を乱す真似は慎みなさいね ……誰? いちおう部員仲間なんだけど!? 落ち着いてください、姫榊こもも姉さん 思い出しました、こもも先輩 名前は忘れたままでいいから! 姫榊はわがままである。 なにはともあれこれで参加者はそろったわけだ。 ちなみにメアは不参加だ。連絡自体できなかったのだ。 雨が続いたせいか、最近メアには出会えていなかった。 部員がこれだけ集うと、ここも華やかになるね 岡泉先輩が感心したように言う。 存亡の危機にあった天クルが今では合宿を行うまでに……それだけでこの人生に悔いなしだよ…… 合宿を始める前から満足してしまった。 明日歩、みんなそろったけど、これからどうする? ………… 無反応。 連絡も伝え終わってやることやったし、わたしは宿題でもすませようかしら 岡泉先輩、トランプと花札どちらがいいですか? 僕は新しいDVDを借りてきたいところだね ……そろそろ帰ります せっかくの合宿なのにまとまりがない。 明日歩、どうした? ……え? さっきからぼーっとして ……なんでもないよ なんでもある顔なのだが。 言及はしなかった。天体観測が始まれば、明日歩は普段の調子を取り戻してくれると思ったから。 明日歩 ………… 明日歩がまとめてくれないと、俺たち部員は好き勝手なままだぞ? 注目が明日歩に集まった。皆もそれに期待している証拠だった。 いっせいに向けられた視線に明日歩はたじろいだが、 ……うん 我らが副部長は俺たち部員にうなずいた。 それでは、これより天クルの合宿を開始しま~す! 明日歩の合図がないとなにも始まらない。 今では、部員の誰もがそう思っているのだった。 洋ちゃん、赤道儀お願い ああ。載せるぞ うん。固定したら、次は〈鏡筒〉《きょうとう》だね 明日歩とふたりで望遠鏡を組み立てていく。 準備が整い終わる頃には、屋上は闇にすっぽりと覆われていた。 ついさっきまでは夕方だったのに。急速に暗くなった。 陽が短くなっている。 遠くに広がる街のでこぼこの地平線に夕陽が沈むと、次に姿を現すのは星々だ。 俺たちの合宿は始まったのだと実感する。 そして、この活動は忘れられない想い出になってくれると、そう思う。 そう思えるほどの星空がここにはある。 秋の星座って、夏に比べると明るい星も少ないし、寂しい星座が多いんだよ だから、ちょっともの悲しく感じるかもしれないけど…… 七夕の頃にはあげパンのようだった天の川も、今では細く儚く空を流れている。 織姫と彦星もまた西の空へと押しやられ、天上の舞台からは降りてしまっていた。 だけどね。あたしは秋の星空が好きなんだ 四季の星座の中で一番好きなんだよ だって、秋の星座の神話は、とてもロマンチックだから…… 東の空高くにはペガスス座。秋の四辺形を作っている。 その下には、ペガスス座と共に四辺形を担うアンドロメダ座も浮かんでいた。 アンドロメダ座の中には、有名なアンドロメダ大星雲があるんだよ。肉眼でも見えるから探してみてね このアンドロメダ座にカシオペヤ座、ケフェウス座、夏に流星群を観測したペルセウス座の四つは、古代エチオピア王家の四星座って呼ばれてるんだ どんな神話か聞きたかったら言ってね。アンドロメダ姫の恋物語を一晩中語って聞かせちゃうから! きっと誰も聞きたくないといっても明日歩はひとりで語り続けるだろう。それくらいの勢いがある。 元気になって、ホッと安堵。 今夜の天体観測は、南星さんのディナーショーなの? でしたら夕飯は屋上で食べることになりますね それでもいいけど、今夜のディナーはお父さんが用意してくれてるよ 時間になったら、みんなで明日歩クンの喫茶店に移動の予定だよ お代はいらないからたくさん食べてね そういうわけにいかないでしょう ごちそうにならないと退部勧告するからね ……どんな脅迫よ、まったく 俺も反対したら退部させられるんだろうか。 洋ちゃんも、遠慮なんかしたらお父さんがバイトクビにするかもしれないよ ……わかったって 素直に厚意にあずかろう。 ……では、ごちそうになった帰りにシャワーでも浴びてきます うん、それがいいかも 移動ってことは、天体観測は早めに切り上げるのか? そんなわけないじゃない。夜が明けるまで続けるつもりだよっ 生徒会役員として賛同しかねるわね こももちゃん、まだいたんだ? ……あくまでわたしを退部させたいわけね 姉さんがお堅いことばかり言うからですよ。合宿の間くらい天体観測を楽しみましょう まだ星は苦手なんだけどね……。というか、不純な動機で入部したあなたに言われたくないわ 洋ちゃん、心配しなくたってね、あたしたちは夕食の時間も天体観測を続けられるんだよ ……どうやって? こうやって、だよ 明日歩はかわいらしいフォルムのカメラを俺に見せた。 今日はね、みんなで天体写真を撮ってみようと思うんだ これなら、ご飯食べてる間もオート撮影できるからねっ 撮影の種類は静止撮影とか追尾撮影とかいろいろあるけど、まずは適当にやってみよっか ……適当でいいんだ 天体写真は慣れることがなにより大切だからね 明日歩と岡泉先輩は、三脚、雲台、レリーズやフィルムといった撮影機材を用意する。 先に言っていただければ、わたしたちもカメラを用意したんですけど…… あはは、思いついたの今日だったから。合宿はまだ続くし、やってみて気に入ったら明日持ってきてね ケータイのカメラじゃ難しいか? 望遠鏡とか三脚に取り付けるのは無理だけど、うまく固定できれば撮れるんじゃないかな たいていは真っ暗にしか写らないんだけどね。ただ雲雀ヶ崎の星空は明るいから、うまくいくかもしれない ……千波さんがいたらUFO撮影に燃える展開ですね 明日歩クン、カメラとヒーターはセットしたよ それじゃ、クランプ閉まってるか確認してからピント合わせましょう 本格的な天体写真撮影は明日歩と岡泉先輩のふたりに任せ、俺たちは思い思いにケータイを掲げ、夜空を見上げる。 狭いファインダーを覗いて秋の四辺形を捜す。 シャッターを切る前に、明日歩が教えてくれた古代エチオピア王家の四星座を順に追ってみた。 こうして見ると、神話をなぞっている感覚になる。 頭に物語が浮かぶようならロマンチックなのだろうが、あいにくアンドロメダ姫に関する知識は持ちあわせていない。 七夕伝説だったらそらんじることもできるのだが、織姫と彦星はすでに舞台の外だ。 ……展望台の彼女とも、会えないままだな。 洋ちゃん どう、うまく撮れた? 明日歩が右隣に立ち、俺を窺っていた。 いや、これから撮るところ 撮影の準備終わったんだけど、よかったらこっちで撮ってみる? お、いいのか? もちろん。部員みんなに順番に撮ってもらおうと思ってたしね だから、まずは洋ちゃんからだよ 明日歩に教わりながらカメラのファインダーを覗き、長時間露出のシャッターを切った。 星空は昼間の風景と比べればずっと暗いため、数分間はシャッターを開けっ放しにして星の光をCCDに当て続けなければいけないらしい。 ケータイのカメラで星空をうまく写せないのはその差なんだろう。 ほかの部員は俺が撮り終わるのを待っている合間にケータイで悪戦苦闘しながら撮影したり、双眼鏡で星空を見上げたりと、それぞれ楽しんでいるようだった。 写真って、天体写真に限らず、今のこの瞬間を留め置くってことだよね 星空は人の一生のうちにほとんど変わらなくても、やっぱり撮る人によっては違ったかたちで写真に残る 想い出みたいに 大切な過去の記憶みたいに…… 明日歩のつぶやきを聞きながら、視野に次々と飛び込んでくる微光星の煌めきを、俺は記憶し続けた。 お待たせ、洋ちゃん ああ、待ってたぞ お迎えありがとうね ミルキーウェイでごちそうになったあと、俺たちはいったん解散してバスタイムを取った。 家が近い俺や明日歩、蒼さんはそれぞれ帰宅し、ほかのメンバーは銭湯に出向いている。 ちなみに夜道ということで、俺と岡泉先輩で分担して女子を送迎していた。 次は蒼さんだね 俺の担当は明日歩と蒼さんだ。 冷えないうちに歩こっか 明日歩の髪は風呂上がりで艶やかに湿っていて、街頭の明かりを淡く反射していた。 それが、吐息を漏らすくらい幻想的だった。 ……洋ちゃん、早く来ないと置いてっちゃうよ? ぐずぐずしていると送迎の役目を失してしまう。 俺が歩を進めると、明日歩はさりげなく右隣に移動するのだった。 ……待ちました 蒼さんはすでに自宅前で待機していた。 待ったか? すでにそう言いました 社交辞令だったのかなと しっかりと待ちました そうですか。 蒼さん、私服に着替えたの? はい 学校だと寝るとき以外は制服じゃないと、警備員に部外者と間違われるよ? 問題はありません 蒼さんはそうかもしれないけど、岡泉先輩と姫榊に迷惑かかるぞ? 部長の岡泉先輩は天クルの責任者で、姫榊は風紀を保つ生徒会役員だ。 ……それがですね 蒼さんは申し訳なさそうに言葉を継ぐ。 ……学校には戻れなくなりました 俺と明日歩は首をひねる。 両親が今になって猛反対しました。学校に泊まるなんて不良だとかで ……蒼さんの親御さんって過保護なんだっけか そのくせ仕事で子供を放置する自分勝手な親です 今回も、一度は認めたくせにすぐ撤回する勝手ぶりには辟易です ……ご両親を悪く言っちゃダメだよ まだ親御さんとは交渉中なのか? ……はい じゃあ蒼さん、今夜はここで解散しよう ………… 明日、また参加すればいい。もし親御さんが許せば、今度は一泊できるぞ 蒼さんはちょこんとお辞儀した。 ……武運を祈っていてください ああ、一刻も早い復帰を願ってる また明日。お休みなさい ……お休みなさい 蒼さんは自宅に入っていった。 洋ちゃんのほうは平気? 詩乃さんはいつも笑って許してくれるから それどころか夜食のマフィンまでもらっている。 千波ちゃんは? お兄ちゃんがいなくて寂しがってるんじゃない? 自分も参加したいとか言ってたけど、却下した 今の洋ちゃん、きっと蒼さんのご両親と同じ顔になってるよ ……そんなことない あはは 笑って先を行く明日歩を、頭をかきながら追った。 今、屋上で撮影続けてるんだよな そうだよ。長い時間シャッター開けっ放しにして写すと、円を描いた星の写真が撮れるの ほうき星みたいで味わい深いんだよ~ 俺たちが撮った星は点に写ってたな うん。今やってる静止撮影じゃなくて、追尾撮影だったからね 望遠鏡についてる赤道儀を使って、動いてる星を追いながら撮影してたんだよ だから、あたしたちが見たままの星空が写るんだ なかなかキレイに写ってくれなかったけどな 赤道儀をうまく扱わないとブレちゃうからね。でも、慣れてくればきっと成功するよ 星座だけじゃない、星雲や星団なんかも撮影できるようになる 洋ちゃんにだって、雲雀ヶ崎の星空を手に入れられるんだよ そのときは、自分の望遠鏡とカメラで手に入れるのもいいかもしれない。 その写真が、洋ちゃんの大切な想い出になってくれると、うれしいな…… 明日歩は小さくそうささやいていた。 屋上には誰もいなかった。 岡泉先輩組はまだ到着していないようだ。 みんなが戻るまで待ってるか ………… カメラはまだこのままでいいのか? ………… どんなふうに写ってるのか楽しみだな ………… いつの間にやら応答不能に陥っている。 ……明日歩? ………… 明日歩は切羽詰まった感じで黙っている。 息が詰まるような空気、雰囲気。 予感をはらんだ緊張感……。 ……そ、そうだ 声まで上擦る。 時間あるし、秋の神話でも聞かせてくれないか? こう言えば普段の明日歩に戻るはず。 ……ううん 戻らない。 ほかに、話、あるの…… 心臓が鳴った。 人、いないし……。ちょうどいいかなって…… 明日歩は下を向いている。俺を見ていない。 視線は俺の膝あたりに落ちている。 あ、あのね…… ………… あたしね…… なぜだろう。 聞きたくない。 明日歩のこの続きの言葉から耳を塞ぎたくなる。 洋ちゃんのこと、ね…… もはや己の鼓動のほうが大きいのにその声を防いでくれない。俺の鼓膜を突き抜ける。 え、えと…… これ以上は耐えられない。 あ、あのっ…… 逃げ出したい。 あたしっ…… だけども明日歩の眼差しがついと上がり、まっすぐに俺を捉えると、鎖となって足をがんじがらめにした。 あ、あたし…… 心臓すらも捕縛されて。 あたし…… だから俺は、明日歩の言葉を待つしかなくて……。 ……な、なんでもない その一言で脱力した。 うわーん! 恥ずかしくて言えないよ~! さっきまでの雰囲気とのあまりのギャップにへたり込みそうになる。 ……なんなんだ、いったい。 お、ふたりとも戻ってるね お待たせしてすみません ほんと、銭湯でのぼせそうになったわよ…… 岡泉先輩組の到着だった。 こさめが甘えるせいで出るに出られなくて…… ……甘えるってなんだ 聞きたいですか? 聞いたら蹴るわよっ おや、蒼さんだけ見えないね 家の事情で泊まりができなくなったんで、また明日改めて来るそうです はあぁ…… 明日歩は俺たちから少し離れて落ち込んでいた。 チャンス……だったのに…… あたしの、バカ…… 天体写真撮影会は十一時には切り上げた。 やはり夏に比べて冷え込むため、名残惜しそうな明日歩を説き伏せて合宿初日を終えたのだ。 部室に戻り、俺たちは寝間着代わりの私服を用意する。 俺と岡泉先輩は外に押し出され、まずは女子が着替える。 次に入れ替わって俺たちが着替える。 最後に、視聴覚室の机を動かして就寝スペースを作る。 女子と男子の寝床はうまく机を並べて区切っている。 まあ、当然だ。 廊下に出る扉は女子側と男子側でふたつあるし、トイレに行きたくなってもおたがいのスペースを浸食しなくてすむ。 そうして消灯時間となる。 しんと静まり返った部室。 俺は眠れずにいた。 寝返りを打って枕元に置いたソレを手に取る。 着替えの際、バッグを開けたときに見つけたのだ。 シンプルでかわいらしい便せん。 内容はこう。 『深夜、みんなが寝静まった頃に屋上で待っています』 この一文だけだ。 差出人の名前はない。 日時の指定もない。 だから深夜というのが今夜なのかはわからない。 だけど俺が訪れなかったら相手は屋上でいつまでも待ち続けるかもしれない。 すべて仮定の話だけど。 宛先が俺であるということだけは、はっきりしていた。 部室の扉が開く気配。 誰かが外に出たのだ。 俺も動くことにした。 ケータイを覗き、就寝してから充分に時間が経っているのを確認する。 ほかの皆は寝ているだろう。 起こしてしまわないようこっそりと制服に着替え、俺は部室をあとにする。 針路は屋上。 俺は勘づいているのだろう、この手紙の差出人に。 バッグに手紙を入れる機会は一度しかない。 就寝前、私服に着替えているときだ。 それ以外の時間、バスタイムを除けば俺は彼女と供にいた。 だからわかる。 この流れは屋上で彼女が言いたくても言えなかった言葉につながっているのだと。 緊張する。 喉の奥が乾く。 尻込みする。 だけど、俺も彼女に話があった。 彼女の気持ちを確認したかった。 もどかしくてやるせないこの現状を打破したかった。 じゃあ、打破したあとに、俺はどうなっているんだろう。 それは、つまり、俺自身の気持ちを確認するということでもある。 そしてその答えはこれから訪れるのだ。 屋上に出た。 望遠鏡は片付けたため、だだっ広く感じる。 星明かりは健在だ。むしろ観測中よりも光量が増えている気がした。 俺は淡彩の中を歩いた。 歩いた先に彼女が待っている。 彼女は俺を待っている──── ねえ、洋ちゃん…… 明日歩は俺が立ち止まるのを見計らって、口を開いた。 あたしね、洋ちゃんと雲雀ヶ崎で再会したとき、最初はわからなかった 洋ちゃんがあたしの店に来て。千波ちゃんと一緒にメニューで悪戦苦闘して 洋ちゃんの名前を聞いて…… それでも、確信が持てなかった あたしは、洋ちゃんが、洋ちゃんだってわからなかったんだ 洋ちゃんが成長していたせいかもしれない それでも大切だった想い出を面影と照らし合わせて、あたしは思い出したかった 正直、ショックだったんだよ すぐに思い出せなかったのがショックだった あたしの初恋は、風化しかけてたんだなって…… 雲雀ヶ崎の星空の下、その光を象徴したかのような少女が明日歩だった。 星空だけじゃない、太陽の浮かぶ澄んだ青空だって明日歩にはよく似合っていた。 きっと、明日歩は雲雀ヶ崎の空そのものだった。 だけどね、再会したばかりの頃は、風化してたのかもしれないけど…… また、洋ちゃんの近くにいられるようになって こうして、そばにいられるようになって…… そしたらね、風化していた記憶が、戻っていったんだ 色が戻っていったんだ わかるんだ。欠けたピースが埋まっていくみたいに 朝、一緒に登校して 昼、一緒にご飯食べて 夕方、一緒に店のお手伝いして そして夜、一緒に星見をして ひとつひとつ、ピースが埋まっていったんだよ そのパズルはね、きっと、完成するとやっぱり恋って読めるんだ だからね…… これが、最後のピース 埋めてくれるかは、あなたに任せます 今日一日、様子がおかしかったのはこのためなんだろう。 明日歩はこの合宿で決意していたに違いない。 洋ちゃん…… 続きを聞くのが怖い、どう反応すればいいのかわからない。 どう答えればいいのか思いつかない。 明日歩の前から逃げ出したい。 だけど。 ───ここで逃げたら、俺は一生後悔する。 好きです あたしと、つきあってください あたしを、彼女にしてください 南星明日歩を、小河坂洋の恋人にしてください 俺は、答えたんだ。 ……ああ。いいよ それは思いのほかスムーズに出た言葉だった。 明日歩は驚いていた。 言った俺も驚いている。 そして──なんだろう、これは。 すっと身体が軽くなる。 心が満たされる。 そのピースは明日歩のピースであるが故に俺のピース。 そうか。 理解した。 俺は、たしかに明日歩を恐れていた。 同時に俺は、明日歩を待っていたのかもしれない。 もどかしくてやるせないと考えていた今までの状態は、この言葉が欲しかったからかもしれない。 早く聞きたかったからなのかもしれない。 明日歩の告白をこんなにも待ち望んでいて、一方では自分がそれに応えられるか自信がなかった。 俺は恋を恐れていた。 つくづく優等生じゃない。 それどころか落第だな……。 俺が、自分から明日歩に告白することだってできたはずなのに……。 え……あ、あれ…… 明日歩は首を横に振る。 ウソ…… だ、だめだよ…… 何度も何度も、首を振る。 今のは、ナシだよ…… 明日歩は肩を震わせおののいている。 だ、だって…… 俺はもう恋を恐れない。 だけど、俺が恐れなくなった代わりに、今度は明日歩が恐れている。 洋ちゃんは、あたしをフらなきゃいけないんだよ…… そうすれば、やっとあたしはこの恋を忘れられる…… この想い出の恋を忘れることができる…… そのはずだったのに…… ど、どうして…… 明日歩 声をかけると、明日歩はびくっと後ろに下がる。 あ、そ、そっか…… 洋ちゃんは優しいから……あたしを心配して、そんなふうに受け入れてくれて…… ダメ、だよ…… そんなことしたら、ダメなんだよ…… 明日歩…… 断らなきゃ、ダメなんだよ…… あたしと恋人になっちゃ、ダメなんだよ…… 明日歩っ だって洋ちゃん、展望台の彼女さんのことが……! 違うんだよ…… 彼女は、違うんだよ 彼女は、そうじゃないんだよ 抱いた肩は細く儚く、秋の天の川のようだった。 周りが勝手にはやし立ててたけどさ…… 俺は、彼女に恋をしていたわけじゃない 触れた箇所から震えを感じる。 雛鳥のように弱々しい。 明日歩の恐怖がより伝わる。 初恋じゃないんだよ…… 彼女は俺の大切な友達だ かけがえのない友人だ だけど、恋人になりたいわけじゃない 明日歩が考えているものとは、違うんだよ 明日歩がなんに対して恐れているのか。 ときおり見せていた遠慮の正体がなんなのか。 そんな誤解は、もう、一抹も残さず消してしまいたい。 ほ、本当に……? ああ あたしの……勘違いなの……? ああ で、でも……あたしがそばにいると、洋ちゃんはいつも困ってて…… 顔背けたり、視線逸らしたり…… ……それも違う 困ってたわけじゃないんだ どう対応していいのかわからなかっただけなんだ 俺は、恋に疎いから ………… この雲雀ヶ崎でさ…… 明日歩と再会できて、よかった 明日歩がそばにいてくれて、よかった 明日歩のおかげでこの気持ちが生まれたんだ 恋が、生まれたんだよ ………… 信じて……いいの……? ああ 俺は、展望台の彼女じゃない 明日歩に恋をしたんだよ ………… ふ、ふえっ…… 明日歩の口から嗚咽があふれる。 う……ぐす…… なんだろ……これ…… 涙……止まらない…… 止まらないよう…… ひっく……ひっ…… うれしくて……泣くなんてえ…… あたし……初めてだよう…… 身を寄せあい、唇を重ねた。 軽く触れあうだけのキス。 だけどとても長いキス。 その間も明日歩の目尻からは涙が浮かんでは伝い落ちた。 ぽろぽろ、ぽろぽろと。 泣きやむまでこうしていたっていい。 キスが終わってまた泣いたらもう一度キスしたっていい。 明日歩の涙を悲しみに染めることだけはしない。 決して。 なにがあろうと、決して。 一夜が明け、天クルの合宿は二日目を迎える。 起床してからまずやることはというと、女子と男子で入れ代わりでの着替えタイムだ。 小河坂クン、眠そうだね 実際あまり眠れていなかった。 理由は言わずもがなだろう。 明日歩と恋仲になったという事実が、緊張となって俺を襲っているわけだ。 実は枕が変わると眠れない〈性質〉《たち》かい? 俺が深夜に抜け出したことは気づかれていないようだ。 ……まあ、そんなところです 小河坂クンは意外と繊細なんだなあ ……意外でもなんでもなく俺は繊細ですよ 自分で言うあたりが図太いと思うんだけどね。それに、繊細というのは僕みたいな人間を言うんだよ 慣れない環境のせいか寝返りを打つたびに目が覚めていたから ……それは難儀ですね だから深夜にキミがこっそり部室を出たことも知ってるんだけど トイレに行っただけですから 即座に言い訳。 明日歩クンも同じ時間に出たようだけど 明日歩もトイレです なぜ小河坂クンが知ってるんだい? 偶然一緒になったからです なぜ制服に着替えたんだい? 警備員に部外者と誤解されないためです 遅いお帰りだったね 道に迷いました 最後だけ苦しかったね 脊髄反射の限界だった。 無理に聞き出すつもりはないけど、おめでたいことであれば隠されるのは悲しいかな 僕たちは部活仲間なんだから ………… 遅くなると女子に悪いし、外に出ようか 岡泉先輩は笑って部室を出るのだった。 俺たちは水場に向かう。 顔を洗い、歯みがきする。 その際、寝ぼけ眼の明日歩を見かけたが、声をかけることはできなかった。 ……どうあいさつすればいいんだろう? あ…… ………… 明日歩も俺と同じ気持ちなのか、目が合うとそそくさと立ち去ってしまう。 ……ううむ。 気まずくなってどうする。俺たちは恋人の関係になったというのに。 落ち着くために深呼吸。 明日歩と接する機会はたくさんある。なんといっても合宿はまだ続くのだ。 焦らずにゆっくりと。 恋人らしくなっていこう。 支度を整えたら次はみんなで朝食だ。 場所は明日歩の喫茶店。 ぞろぞろと昇降口に向かう途中でふと気づく。 財布を忘れてしまった。 昨晩はごちそうになったが、今後の食事は会計をすませないといけない。 皆には先に行ってもらい、俺は部室に引き返した。 あっ…… 中には明日歩がひとり残っていた。 ……なんでまだいるんだ? それも気になるが、まずは今朝にできなかったあいさつをこなさないと。 どうあいさつしたものか。 ……普通でいいのか? むしろ普通にするべきだ。意識するから気まずくなっているのだから。 思い出せ、朝にする普通のあいさつとはなんだ、登校したあと教室の席に着いて隣の明日歩にまずかける言葉はなんだった? 俺は言った。 おおおおおおおはよう とてもドモっていた。 う、うん、おやすみ…… ……また寝るのか? それとも朝にかける普通のあいさつとはおやすみだったのか……? 苦悩する。 あ、あたし、ケータイ忘れて戻っただけで……。そろそろ行かないとっ 明日歩は俺の脇をすり抜ける。 ちょ、明日歩っ はいっ 呼び止めると明日歩は気をつけする。 あ、あのさ、俺のこと避けてないか? 言葉を選ぶ余裕もなく直球で聞いた。 明日歩は油を差し忘れたブリキのおもちゃみたく振り返った。 そ、そんなこと……ないよ…… 明日歩の顔は湯気が立ちそうなほどだ。 ちょっと……頭、ふわふわしてて…… よく、わかんなくて…… ……そっか 俺も似たようなものなのだ。 夢のせいかな…… ……夢? 俺とはちょっと事情が違うようだ。 なんだ、夢って え、えっとね、夕べすごい夢見ちゃって…… どんな夢だ? え、えと…… 明日歩はもじもじして、 わ、笑わないで聞いてね……? うなずいておく。 明日歩は口を開き、すぐに閉じ、また開いてすぐに閉じた。 ……それで? う、うん…… よほど言いづらいのか、明日歩は俺を見ずに床に向かってぼそぼそと伝えた。 洋ちゃんと、つきあう夢だった…… ………… こ、恋人になる……夢でね…… ………… あ、あはは……。そんなの、あるわけないのにね…… 洋ちゃんがあたしの恋人になるわけないのにね…… ……天を仰ぎたくなる。 いや……それ、夢じゃないから えっ…… 明日歩は驚愕する。 じ、じゃあ、エイプリルフール? ……違う あたしのこと騙そうだなんて~! だから違うんだって…… ……まさか夢だと思われているとは夢にも思わなかった。表現がわかりづらいのは混乱しているせいだ。 あ、あの……もしかして…… ……そうだよ。夢じゃなくて現実だ ほ、本当に……? ああ 俺たちは、恋人になったんだよ ………… ………… う、ウソ…… ウソじゃない エイプリルフール? 今は九月だって 明日歩の目を覚ますしかなかった。 ……好きだ、明日歩 ………… 明日歩が告白しなくても、いつかきっと俺のほうから告白してた だから、好きだ。明日歩 ………… ふ、ふえっ…… 泣き出してしまう。 ちょ、なんでっ ぐすっ……ひっくっ…… 明日歩の涙は止まらない。 昨夜の告白と同じだ。 そして今、この部室には俺たち以外誰もいない。 だったらと、俺は明日歩に寄り添って。 キス。 あ…… 明日歩は自分の唇を指で数回なぞってから。 ………… 顔を赤くして泣きやんだ。 ……行こう、明日歩 そっと手を取る。 喫茶店でみんなが待ってるから 歩き出すと、明日歩は小さく握りかえしてついてきた。 洋ちゃん…… ここまで沈黙していた明日歩から、ようやく声が聞こえた。 なんか、取り乱しちゃって……。ごめんね…… 外気に当たったおかげか、明日歩は徐々にでも調子を取り戻しているようだ。 謝らなくていい。ちょっと驚いただけだから そ、そっか…… ああ 恋人に……なったんだ…… そうだ 信じられない…… 信じてくれ 難しいけどがんばる…… 明日歩は恋人、恋人と小声で繰り返す。 繰り返すたびに頬の赤みが増している。 明日歩って照れ屋なんだな ……洋ちゃんだって それに、泣き虫だ ……あたしも知らなかった そういえば千波もよく泣くし(主に駄々をこねるときに)、感情が豊かってことかもしれない。 でも……泣き虫でよかったかな…… 泣いてると……洋ちゃんがキスしてくれるし…… ………… ………… ………… な、なんか言ってよ~! 恥ずかしいじゃない~! 恥ずかしいからなにも言えなかったというのに。 まあ……泣いてるよりも、笑ってる明日歩のほうが俺は好きだ ………… ………… ………… なにか言ってくれ…… だ、だってえ…… 恥ずかしいだろ…… あたしも恥ずかしかったんだよう…… 恋人というのは難しい関係だ。 明日歩はこれが初恋と言ったし、俺だって似たようなものなのだ。 若葉マークの俺たちには、なにを置いても経験値が必要なのかもしれない。 ……そうだ、明日歩 みんなに会う前に確認があった。 岡泉先輩、俺たちのこと勘づいてるかもしれない え、それって…… 俺たちがつきあったこと、知ってそうな感じだった 明日歩はふらっとよろけた。 な、なんでっ 俺たちが深夜に抜け出したの気づいたらしくてさ ……むー い、いや、俺のせいかもしれないけどさ どうしよう~! 絶対なにか言われるよ~! 明日歩、お手 なんで犬扱いなの~! 俺はさ、明日歩 頬をかく。 俺たちのこと、みんなに隠す必要はないって思う 部活仲間とは一緒にいることが多いし、隠し通すのは難しいだろう。 なにより隠してやましいことじゃない。 朝食の前にさ、俺が言うよ 明日歩は泣きそうな顔をする。 そ、そんなの……恥ずかしいよ…… 俺だって恥ずかしい じ、じゃあ…… あんまり隠し事、したくないんだ みんな、友達だしな ………… あと、もちろん明日歩にだって隠し事しないからな だから展望台の彼女のことだって隠さない。 どんな子だったか聞いてきたらちゃんと話す。 変に隠しても不安がらせるだけだ。 俺は明日歩を悲しませたくない。 じゃあ……あたしも、隠し事できないね みんなに教えていいか? うん 明日歩は、はにかんで俺の手を握ってくる。 俺も握りかえした。 手をつないで商店街に向かった。 そして、俺は皆の前で恋人宣言をした。 そう やっぱり おめでとうございます なにこの軽い反応。 恋人になるの、遅いくらいなんじゃないの ふたりとも奥手でしたので、そう考えると早いのかもしれませんけど どちらにしろ驚くことじゃないね ど、どうして…… ふたりはお似合いだとずっと思っていたんだよ、僕らは 明日歩は信じられない様子だった。 いつもは、からかってばかりだったのに…… からかっていたんじゃなくて、本心だったのになあ 小河坂さんを射止めたこと、明日歩さんはもっと自信を持っていいと思いますよ まあでも、あまりわたしたちの前で手をつないだりはやめて欲しいわね。こっちは独り身なんだから つないでいた手を慌てて離す俺たちだ。 皆が喫茶店に入ったあと、明日歩がぽつりと言った。 次は、お父さんにも報告しなきゃ ………… 洋ちゃん、顔が青いよ? 青くもなる。 マスターにも話すのか? うん。これから言ってくる そ、それはまだ待ってもいいんじゃないか? どうして? どうしてだろう。 隠し事、ダメなんだよね? そのとおりだ じゃあお父さんにも言わなきゃダメだよね? それはどうだろう ……洋ちゃん、目が泳いでるよ なにを恐れているんだ、俺は。 あの温和なマスターなら歓迎してくれるはずだ。そう思う。そんな気がする。そうだといいな。 あたし、行ってくるね 悩んでいる間に明日歩は店に入ってしまった。 ……いつかは話さなきゃいけない。それが思ったよりも早かっただけだ。 観念することにした。 小河坂クン、ちょっと モーニングをいただく前にマスターから声がかかる。 なんですか、お〈義父〉《とう》さん キミにお〈義父〉《とう》さん呼ばわりされる筋合いはない 死亡フラグ!? 明日歩から聞いたよ。なので、ちょっと来てくれるかな ……お手柔らかにお願いします 下手人のごとく付き従う。 皆が着いているテーブルから離れた席に座った。 それで、なんの話? ちゃっかり明日歩もいる。 明日歩はいなくていいから ……存在を否定された 小河坂くんとふたりだけで話したいんだ。なあに、悪いようにはしないさ 洋ちゃんをいじめたら許さないからね わかってる。僕の一人娘に手を出してくれた男だからね、それ相応のもてなしはするつもりだ フラグが着々と積まれていく。 明日歩が渋々と立ち去ると、マスターの視線が俺に戻る。 と、娘を取られた父親を演出してみたけど、どうかな? ……いや、身がすくむ思いでしたが とすると、僕も父親らしいことがひとつくらいはできたということかな マスターは寂しそうに笑った。 僕が昔、天文学者だったのは知っていたよね。その頃の僕は仕事で家庭を顧みない、典型的なダメ親だったんだよ だから妻にも逃げられた。明日歩には寂しい思いをさせてきたんだ 後悔した僕は、天文学から身を引いて喫茶店を始めた。べつに喫茶店じゃなくてもよかったんだけどね 明日歩が学校から帰ってもひとりにならない環境を作れるなら、なんでもよかったんだ それでもあえて喫茶店にした理由を挙げるならメイドが好きだからかな マスター、その言葉はよけいでした。せっかく感動してたのに。 そしてね、最初は客集めに苦労した喫茶店も少しずついそがしくなってくると、明日歩が手伝いをしたいと言い始めたんだ 素直にうれしかったよ。こんな僕でも、まだ明日歩は見捨てないでいてくれるんだってね だから、そんな好意に甘えて、僕も明日歩に店の手伝いをお願いしてきたけど…… それも、もう終わりかもしれないね 明日歩のそばにはキミがいてくれるからね これからも明日歩を頼むよ。ダメな父親からのお願いだ 僕からの話は、以上だ マスターは席を立つ。 あの…… どう返せばいいかわからず、二の句が継げない。 堅い話じゃないんだ。まとめると、ふたりで仲良くしていなさいというだけだよ ……はい。ありがとうございます キミがバイトに来てくれて、本当によかったなあ 俺は、マスターの背中に向かって頭を下げた。 朝ご飯も食べたし、夕方までは自由行動だね いったん帰宅して、着替えを持ってきます 学校の課題がある人は、今のうちにやっておいたほうがいいね 午後から部室で天文談義っていうのもいいね~。夕べ撮った写真もあるし それは遠慮しておく。ふたりの邪魔になりそうだし えっ、え…… それじゃあわたしたちは帰るけど う、うん、またあとで あなたたちはこれからデートなんでしょうけど なっ、な…… ま、風紀は乱さないように 夕方になって帰ってこなくても捜しませんからね あとは若い者に任せるとしようかな 三人は好き勝手言いながら駅に歩いていった。 明日歩は真っ赤な顔をぽかんとさせてから、 ふえーん! なんなんだよ~! ……しばらくはいじられそうだなあ 洋ちゃんなにか言い返してよ~! 明日歩、こういうのはスルーしたほうが無難だ。ムキになったらますますからかわれるぞ あ、そ、そうだね…… あと明日歩、顔赤くしすぎ 勝手に赤くなるんだよ~! なにか言われたら赤くしないで青くしよう 無理だよ~! 俺も努力するから 恋人ふたりして顔青くしてたらむしろ変に気遣われそうだよ~! それはそれで嫌すぎる。 明日歩、俺たちも行くか ……どこに? 雲雀ヶ崎観光。この前できなかったし、どうだ? ……うんっ 元気になったようだ。 あ、じ、じゃあ、洋ちゃん…… 明日歩は視線を上げたり下げたりして、 う、腕……組んでみていい? ……バカ バカってなんだよ~! 遠慮しなくたっていいんだ。恋人なんだから ………… ……うん 明日歩は、おずおずと俺の右腕に手を伸ばす。 ……えへ 遠慮がちに腕を組んだ。 明日歩のやわらかい感触が直接伝わってくる。 落ち着かない。 だけど、嫌じゃない。 あたたかいぬくもりが心地よい。 まずは、歩こうか うんっ ふたりの足はぎこちないけれど。 それもきっと、時間が経てば初々しい想い出になる。 雲雀ヶ崎は観光スポットが多くある。 その中でも観光客が真っ先に向かうのが運河なのだそうだ。 線路を越えて広がる商店街を抜け、その先の交差点を俺たちは腕を組みながら渡った。 すると風情あふれる光景が目に飛び込む。 ここが、雲雀ヶ崎の運河。洋ちゃんは子供の頃に来たことあった? 存在は知ってたんだけどな ここは雲雀ヶ崎の境だ。中央にかかる橋の先は隣町に続いている。 でも、来たことはたぶんなかったな このような独特の雰囲気を醸す場所であれば、一度訪れたらなかなか忘れないだろうから。 もともとは船で荷物を運ぶために作られたものらしいけど、今では誰もそんなことしてないんだよね だから埋め立てて道路にする話もあったんだけど、住民が大反対したんだ。それで市が断念したみたい あたしも、残ってくれてよかったなって思うよ 今では観光地として価値を変えた場所。 運河を渡る風は水分をはらんで涼しく、明日歩の前髪をしめやかに揺らせていた。 夕暮れになると、ガス燈に明かりが灯ってすごくキレイなんだよ。石造りの倉庫もライトアップされて、光を反射した水面が星空みたいに輝くの でも、あたしは昼間の運河のほうが好きかな。星空だったら展望台からも見上げられるし なんといっても、この時間はボートに乗れるからね 俺に回している腕がきゅっと強くなる。 ボート、乗ろうか。ふたりで ……うん 明日歩は恥ずかしそうに、うれしそうにうなずいた。 午前中はボート乗りを楽しんで、昼時になったら俺たちは運河沿いに構えるレトロなレストランに入る。 この近くにはほかにも工芸館や美術館、オルゴール堂なんかも並んでいる。 午後いっぱいを費やしても回りきれないだろうと、明日歩は楽しそうに話していた。 明日歩の言うとおり、順番に見て回っていたらきりがないくらいの店の数。 品物をふたりで眺めてはたわいない会話を交わしていた。 けっこう歩き回ったけど、疲れてないか? うん 休みたくなったら言えよ。どこか座れる店入るから ううん 遠慮なんかするな 違うの。休みたくないなって思って ずっと歩いてたいなって 洋ちゃんとずっとこうしてたいなって…… ……明日歩がかわいい。 恋人になるとこうも違うものなのか。 ほんと、雲雀ヶ崎は観光地って感じだな 照れ隠しっぽくなる。 洋ちゃんだって地元なのに 外で遊ぶことってなかったからさ ……展望台の彼女さんとは? 彼女はべつだな ………… ……いや、そういう意味じゃないからな ………… 元に戻ってくれない。 俺が好きなのは、明日歩だよ ……えへ 現金である。 今日だけじゃ、全部は回れないけど……。でも、洋ちゃんがよかったらまた案内してあげるよ ああ、頼むよ うん だからね……えっとね、洋ちゃんとのデートはね…… これで、終わりじゃないんだよ…… 明日歩は、そんなことを口にしては毎度のように照れている。 俺は頭を撫でる。 ……ペット扱い スネた。 集合時間、大丈夫かな むー ……帰りたくないのか? 帰る前に、寄りたいところがあるんだ うんっ かわいいな ……撫でられた この近くにさ、望遠鏡を扱ってる店ってあるか? ……天体望遠鏡のこと? ああ。俺、バイト代がたまったら買いたいんだ だったら部費で買えばいいよ いや、自分の望遠鏡が欲しいんだよ じゃないと、雲雀ヶ崎の空を手に入れられないだろ? ………… だから、明日歩も一緒に選んで欲しいんだ ……うん! 望遠鏡ショップは運河沿いに建っていた。 観光客も相手にしているようで、隕石の標本や天然石のアクセサリーなんかも置いてある。 ショールームは広くゆったりしており、加えて客が少ないおかげで落ち着いて眺めることができた。 天体望遠鏡と一口に言っても様々な種類がある。 明日歩は望遠鏡それぞれの鏡筒や架台、ファインダーなどの違いをひとつひとつ丁寧に解説してくれる。 まあ、値札を見る限り資金不足もいいところなのだけど。 明日歩と一緒なら、何度でも足を運べる気がした。 集合時間が近づき、俺たちはショップを出る。 空はまだ青いが、学校まで歩いているうちに夕陽で橙色に染まるだろう。 洋ちゃん、観測だけじゃなくて天体写真も撮りたいんだよね どうせならな カメラは持ってる? 持ってないんだよな それじゃ、カメラも買わなきゃだね 望遠鏡買っても、うちの店でバイトしてまたお金ためなきゃだねっ 弾んだ声で言う。 俺は、望遠鏡とカメラ両方を買っても、バイトを辞めることはないだろう。 学校の間も、放課後になっても、俺は明日歩のそばにいるだろう。 校門が見えてくると、見知った三人組を発見した。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! しばしの別れを告げていた我が愚妹が突進してきた。 しばらくぶりだねお兄ちゃんっ、千波を思って枕を濡らしてないか心配で会いに来ちゃったよっ、健気でしょいじらしいでしょお兄ちゃんが望むなら今夜は添い寝を…… どこのどなたさまですか? すっかり忘れられてる!? よ、洋ちゃん、いつも千波ちゃんに添い寝を…… 違う違うっ、千波の言葉の大半は妄想でできてるからっ ……あたしも、添い寝したい 爆弾発言が飛び出す。 ……なにやらおふたりの距離が近いと思いましたが、そういうことですか おかげで看破される。腕は組んでいなかったのに。 お、おめでたいですっ、祝福ですっ 鈴葉ちゃんにまでバレバレか……。 えっ、なにが祝福なの? そして千波は俺の妹だけあって疎い。 千波さんに教えてもいいですか? 面倒が増えそうだからやめてくれ 隠し事、いいの? 何事も例外はつきものだ ……洋ちゃん、千波ちゃんにはほんと優しいんだから 嫉妬ですか ちがうよ~! お兄ちゃん、なにが嫉妬なの? おまえはわからなくていい 鈴葉ちゃん、なにが嫉妬なの? え、えと……千波さんにはまだ早いですっ 小学生に早いとか言われる千波って……。 蒼さん、千波ちゃんと鈴葉ちゃんも連れてきてくれたんだね ……勝手について来たんです。反対したのに ふたりとも、天体観測したいのか? それはついでにすぎないよっ、めくるめくUFOミステリーツアーのねっ わたしは、あの、お邪魔でなければぜひ…… 鈴葉ちゃんは学校の生徒じゃないが、姫榊のおかげで部活の見学も入部も可能になっている。 明日歩、いいか? もちろん。人数は多いほうが楽しいから 明日歩はそして小声でつけ足すのだ。 ……ふたりきりになれないのは、辛いけど だから俺も小声で返した。 深夜にまたこっそり抜け出そうか 明日歩は、赤らんだ顔をほころばせた。 雨警報も、お休みしてるから 深夜になっても、雨は降らないから…… あら。帰ってきたんだ 今夜はてっきり会えないものだとばかり 僕たちのことは気にしなくてよかったのに みんなしてなんでそういうこと言うんだよ~! ……明日歩、スルーだ あ、そ、そっか…… 明日歩さん、小河坂さんとのデートはどうでした? ………… 腕は組みましたか? ………… キスはしましたか? ………… まさかもうその先までも? ………… 明日歩さんは大切な純潔を小河坂さんに捧げたんですね 明日歩は脳天から蒸気を噴き出して後ろに倒れた。 反論しないところを見るとすべて本当のようですね ぜんぜんちがうよ~! 明日歩、スルーだ スルーしてたらもっとひどいことになってたよ~! 小河坂さんのおかげでおもしろい明日歩さんを見ることができました、感謝です 全部洋ちゃんが仕組んだことだったんだ~! いやいやいやっ、それも含めて全部こさめさんが仕組んでるからっ 洋ちゃんなんか大嫌い~! だから違うんだって! 本当、人をフォローするのは楽しいですねえ ……さっきからフォローに見えないし、フォローだとしたら回りくどいし、そもそもあなたのフォローは火に油の場合も多いからね こさめクンに知られたのが運の尽きだったようだね 鈴葉ちゃん、お兄ちゃんと明日歩先輩、なにかあったのかな? え、えと……千波さんにはまだ早いですっ ……どこもかしこも平和です 蒼さんの言葉がすべてを物語っていると思えた。 天体観測の準備を終えると、夜の帳が降りていた。 天体写真撮影は昨晩に実践した。 今夜は明日歩と岡泉先輩がうまく撮るための注意点なんかを教えてくれるそうだ。 赤道儀の極軸はちゃんと合わせてね。ずれてると星が点に写ってくれないから あと、ピントも忘れないで〈∞〉《無限遠》に合わせるんだよ カメラはちゃんと固定しないとブレちゃうから。クランプはしっかり閉めてね 最後に、意外と気をつけなきゃいけないのが〈夜露〉《よつゆ》だよ レンズが曇るとぼけちゃうからね。〈夜露〉《よつゆ》がつかないようにカイロやヒーターであたためることが大切 わかった、洋ちゃん? 小河坂さんだけをあえて名指しなんですね そういうわけじゃないよ~! カメラを持ってきた人は早速チャレンジしてみようか 望遠鏡の数は限られているが、三脚などの簡単な撮影機材は部室に多く置いてあった。 それらを使って俺たちは各々撮影を開始する。 なんでなんでっ、ケータイで写しても夜空が真っ暗にしか写らないよっ それは昨日説明があったでしょ 千波は知らないよっ、昨日はいなかったからねっ この千波さんはいなかったけど どの千波さんがいたの!? あの千波さんがいた あの千波さんってどちらさまの千波さんっていうかそのネタもうお兄ちゃんがやったんだよ蒼ちゃん!? えと、まずは三脚を…… 鈴葉、お姉ちゃんが組み立てるから ううん、自分でやってみる。やってみたいの ……それじゃ、一緒にやろう うんっ 姉さん、天クルの合宿はどうですか? いいんじゃないの、特に問題は起こってないし じめじめ引きこもるしかなかった一学期に比べると、感動もひとしおです ……なによ、わたしを責めてるの? いいえ、逆です。姉さんは生徒会の仕事をしただけですから 姉さんが誠実に仕事をしてくれた中で正式な部活になって、感動がひとしおだと言ったんです ……ふん それぞれが様々な想いを抱いて合宿は進んでいく。 洋ちゃん この合宿で、抱いていた想いにもっとも変化があったのは、明日歩に対するものだろう。 調子はどう? 簡単にはうまくいかないな 失敗したっていいんだよ。何度も撮ってればだんだんコツがわかってくるから どのくらいの露出時間で、どんなフィルムを使えばいいか。空の状態や自分の使ってる機材によって変わるしね 諦めずに試せってことか 天文雑誌とかネットの情報見るのも勉強になるよ 今夜は明日歩に聞くしかないな うん、洋ちゃんの家庭教師になってあげる 俺ばかり明日歩を占有してるわけにもいかないだろうが。 こっちはこっちで楽しくやってるし、明日歩クンはキミに任せるよ それおかしいですよ~! あたしが教えるほうなのに! 小河坂クン、あとはよろしく あたしが教えるほうなんですってば~! 二度目の天体写真撮影会は、こんなふうに騒々しく過ぎていった。 今日は月曜、敬老の日。 三連休の最終日は天クルの合宿最終日でもあった。 さてさて本日もやって参りました、天クルのお時間で~す! 合宿は最後になるけどはりきって活動しようね~! 明日歩クン、今日は一段と元気だね なにかいいことでもあったんですか? あ、え、えと…… 明日歩から流し目が送られてくる。 明日歩さんの視線が小河坂さんに向きました 小河坂クン、明日歩クンになにかしたのかい? なにもしてません 誤魔化さざるを得ない。 え…… 明日歩さんがひどくショックを受けています やっぱり……あれって夢だったんだ…… 違う違う現実だから! 現実になにをしたんだい? なにもしてません やっぱり夢…… 板挟みだった。 なんだか知らないけど、要はバカップルなんでしょ 変なまとめ方するな ここ……まだ痛いから……現実なんだよね…… 明日歩はそうつぶやいて下腹部を撫でる。 昨夜は行為が終わったあと、歩くのが辛そうだった明日歩を抱きかかえて部室に戻った。 お姫様抱っこは初めてだと、明日歩は胸の中で縮こまりながら、まんざらでもなさそうに話していた。 小河坂さん こさめさんがそばに寄ってきて耳打ちする。 つきあい始めて二日目、しかも初めてが学校でなんて、お盛んですね 明日歩の仕草でバレバレか……。 明日歩さんの友人として忠告です。もし明日歩さんを悲しませたら…… 絶対にしないけど、もしそうなったら薙刀でばっさり斬ってくれていい そうならないことを祈っていますね こさめさんはうれしそうだった。 ……ふたりで内緒話 明日歩が犬化している。 明日歩、今日の活動はどうするんだ? ……誤魔化された はいはい、バカップルバカップル 心外だ。 今日は夕方には解散しないといけないし、夜の天体観測ができないから、昼の活動だけになってしまうね 昨日と違って自由時間にはしないで部室に集まっているのはそういうわけだ。 それではトランプでもしますか? トラクルに改名したいんだったらそれでもいいけど トラクルはもう卒業したでしょっ、せっかくなんだし天クルらしい活動しなくちゃ 合宿で撮った天体写真でも見るか? それもいいけど、その前に 明日歩は机に両手を置いて身を乗り出し、これから合流予定の蒼さんを除く俺たち天クルメンバーを見回した。 蒼さんが到着したら、決めようと思うんだ 来月にやるヒバリ祭の出し物をねっ 蒼さんが部室に顔を出すと、俺たちはミーティング形式で出し物の案を出しあった。 結論から言うと、内容は天体写真展に決まった。 出し物をなんにするかでも結構揉めたが、決まったら決まったでどんな写真展にするかも悩むところだった。 そして皆で意見を出しあい、白熱し、決着がついた頃には夕方になっていた。 解散の時間となり、俺たちは持ち込んでいた荷物を運び出し、掃除をしてから部室をあとにする。 洋ちゃん、合宿お疲れさま 明日歩もな 校門には俺と明日歩のふたりだけ。 ほかの皆はもういない。荷物と一緒に親の車で帰ったのだ。 合宿、楽しかった? 楽しかったよ なにが一番楽しかった? 言っていいのか? え、あ、う…… 昨日の夜に屋上で…… わ~! わ~! 屋上でやった天体写真撮影が楽しかったな なんだよそれ~! なんだと思ったんだ? ………… ううむ、明日歩をからかうこさめさんの気持ちがわかるな。 あのときの明日歩、かわいかったなあ ば、バカあっ 天体観測のときの明日歩な 調子に乗ってみる。 ……まだ、痛いんだからね ………… その一言で黙るしかなくなる。 歩くの、辛いんだからね ……腕、組もうか うん 機嫌が直って安堵する。 俺たちは腕を組んで歩き出す。 今日決めた写真展、早めに準備しないとな そうだね。ヒバリ祭まであと三週間、ぐずぐずしてたらあっという間に過ぎちゃうもんね 今回の合宿で撮った写真、過去に明日歩や岡泉先輩が撮った写真、そしてこれからもみんなで撮る写真を説明を添えて展示する。 それがヒバリ祭で出展する天クルの写真展だ。 明日から毎晩、天体観測したいくらいだよ 屋上で洋ちゃんと星空を眺めて、そして…… ………… そして? わ、わかってるくせに~! ……いや、もしかしてとは思ったが、本気でそうなのか。 明日歩は外が好きなのか…… そ、そういう意味じゃないよ~! じゃあどういう意味なんだ? え、あ、う…… 明日歩ってエロいんだな…… ふえーん! 違うんだってば~! ちょっとバカップルな感じがする。 まあ、それは置いといてだ ……置いとかれた 天体写真撮るとして、今までみたいに週一回の活動だと辛いよな。練習もしたいし うん。だから毎晩やるんだよ 屋上のカギ、そんな頻繁に貸してくれればいいんだけどな 使用が認められていても、常時カギが開いているわけじゃないのだ。 ヒバリ祭の出し物っていう名目あるし、大丈夫じゃないかな 姫榊に申請だな この際、天クルにカギ渡してくれればいいのにね。わざわざ返しにいくの大変…… と、明日歩が急に立ち止まった。 どうした? ……屋上のカギ、持ってきちゃった 明日歩はポケットからカギを取り出す。 合宿終わったから返さなきゃなんだよね 明日歩が持ってたのか? うん。岡泉先輩から借りてたの なんでまた むー なぜに。 夕べ、洋ちゃんとふたりっきりになるの邪魔されたくなかったから……。屋上のカギかけたかったから ………… 屋上側から施錠するならカギは必要ないが、明日歩がカギを持っていれば万が一にも解錠されなくなる。 あ、あんなとこ……誰かに見られたら死んじゃうもん 俺も同意だ。 明日歩、ナイスだ ……ごほうび 周囲を見回し、誰もいないのを確認して。 軽くキス。 ……おでこだった ダメか? ……ダメじゃない なんだかんだでうれしいようだ。 カギ、返してこないとな うん。学校戻らないと 俺も行くよ ごめんね いいって 回れ右をして来た道を戻る。 そしてふと、違和感のようなものを感じた。 ……なんだろう? 何歩か歩いて、その正体を知った。 いつも俺の右隣を歩く明日歩が、今は左隣にいる。 引き返したために並びが逆になったのだ。 こんなこと初めてかもしれないと思い、そんなバカなと一蹴しようとするができなかった。 信じられないことに、明日歩と再会してからのこの二ヶ月、俺の左側に明日歩がいたという記憶がなかったのだ。 なあ、明日歩 ………… 明日歩? ………… 応えがない。この驚愕(?)の新事実を教えようと思ったのに。 明日歩、明日歩ー 顔の前で手を振ると、明日歩はびくっとして俺を見る。 な、なにするの急にっ いや、さっきから呼んでたんだけどさ あ、そ、そうなの? どうした、ぼーっとして あ、え、えと…… 夕べの出来事を思い出してたとか ば、バカあっ 天体観測のことな 明日歩は赤かった顔をさらに紅潮させる。 洋ちゃんのエッチ~! 走っていってしまった。 ……エッチなのはそっちじゃないのか? い、いたっ…… 途中で立ち止まる。 バカ、無理するな だ、だってえ…… 腕組んで、ゆっくり歩こう ……うん そして明日歩は、俺の右腕を取るのだった。 それじゃ、俺も帰るよ うん。ありがとね、送ってくれて それくらい、むしろさせて欲しいくらいだ えらいえらい エロいエロい 洋ちゃんなんか嫌い~! 調子に乗りすぎだった。 明日からはまた学校だな うん。あ、あの…… 一緒に登校しようか? ……えへ 千波には自立してもらわないとだな 洋ちゃん、お兄ちゃんの顔になってる そんなことない 放課後、バイトは出られそう? ああ。天体観測するにしても夜だし、出るよ ほんとはデートもしたいんだけどね 明日歩はマスター思いだからな そんなことないよ 愛娘の顔になってるぞ ……真似された 明日歩 ……ん 寄り添い、触れるだけのキスを交わす。 それじゃあ ばいばい こんなふうに、俺たちはこれからもうまくやっていけるだろう。 障害なんてどこにも見当たらなかった。 明日歩。店の手伝いは、今日限りでやめなさい 連休が明けた日の放課後、明日歩と一緒に喫茶店の仕事を始めようというときだった。 ……どしたの、いきなり おまえはお払い箱だと言ったんだ じゃああたしはお父さんをお払い箱にする マジメな話なんだ あたしもマジメだよ ……母さん、娘が不良に育ってしまったよ そのお母さんに逃げられたくせに 小河坂くん 矛先が俺に向いた。 キミも、もうバイトには入らなくていいから いや……ちょっと待ってください バイトなんかしなくても、ふたりで遊んできたらいいじゃないか そんな流れになる予感はしたのだが。 すみません。俺、バイトは続けたいんです キミは明日歩よりもお金が大事なのか い、いや、なんでそうなるんですか 明日歩だって店の仕事よりも遊びにいきたいだろう? ううん、あたしもお手伝い続けるつもりだし 小河坂くんとつきあうことにしたんだろう。だったらその時間を大切にしなさい お父さんに言われなくたって大切にしてるよ。夜は星見する約束してるし 夜だと星見くらいしかできないだろう。この時間だったらほかに遊ぶ場所もたくさんある ……お父さん、どうしちゃったの とにかく、ふたりとも店の仕事はしなくていいんだ 洋ちゃん、テーブルの片付けから始めよっか 明日歩 もう……なんなんだよさっきからっ 親子喧嘩が勃発しそうな気配。 ……マスター、俺たちは大丈夫ですから そうだよ。お父さんに気遣われると逆に気持ち悪くなるんだから ……母さん、娘は立派な不良に育ったよ 逃げられたくせに 小河坂くん また俺に矛先が来る。 実はね、詩乃からも相談されていたんだよ 思いもしない名前が出る。 家の食費を気にかけてバイトをしているようなら、もしそれが自分のためなら、思い違いだからやめて欲しいとね 俺は、詩乃さんのためにバイトをしているんじゃありません 本当かい? 正直言うと、最初は詩乃さんのためでした。だけど今は違います 俺は天体望遠鏡を買いたいんです だったらそれを詩乃に話しなさい 資金が足りないのなら詩乃に相談しなさい できません お金の貸し借りを気にするのなら、キミが社会に出てから返せばいい キミの悪いところはね、ひとりでなんでも決めすぎてしまうことだ 詩乃は、そんなに頼りないかい? その言葉は辛かった。 ……それは、ありません なら、もっと詩乃を頼りなさい 詩乃もそれを望んでいるから ぐうの音も出なくなる。 ……洋ちゃん、バイト辞めちゃうの? 明日歩にも言葉を返せない。 明日歩、おまえもだ。僕のために店の手伝いをしているのなら、やめなさい 僕はもう、それを望んでいないんだ おまえの時間を奪うことのほうが辛いんだよ 明日歩は唇をわななかせる。 ちがう…… どこが違うんだ あたしはお父さんのために手伝ってる。でもお父さんはそれをわかってない! 僕のためだと言うなら、手伝わなくていいと言っているんだ ちがうんだよ! やっぱりわかってない! お父さんはあたしのことぜんぜんわかってないよ! 明日歩は裏に駆けていった。従業員室を兼ねている自宅の一室だ。 ……怒らせたみたいだね マスターは乾いた笑い声を立てる。 娘の気持ちがわからないのは、僕がまだ父親として不十分だということかな 子供の気持ちがわからないのが普通の親だって言ったら、生意気ですよね いや、素直にうれしいよ 俺にも、なぜ明日歩が怒ったのかわからない。 洋ちゃんっ 裏から出てきた明日歩は学校の制服に着替えていた。 気晴らしにどこかいこっ 俺の手をひっぱる。 ……手伝いはいいのか? こんな気分じゃまともに接客できないもん 遊びにいくのかい? お父さんには関係ない 小河坂くんも、明日歩と楽しんできたらいい お父さんには関係ないってば! 俺の腕をぐいぐいひっぱり、外に連れ出そうとする。 ちょ、待てって。マスター、じゃあすみませんけど 着ていたエプロンを脱ぐ。 バイト代は、月末にちゃんと振り込んでおくよ しかしそれも今月が最後だ。わかったね ……考えさせてください これは店長からの通告だ。キミは、今日をもってミルキーウェイのバイトをクビにする 息を呑む。 勝手に決めないでったら! 仕事上の判断だ 洋ちゃんが辞めるんならあたしも辞めるから! そうしなさいと言ってるだろう お、お父さんの…… 明日歩は俺が脱いだエプロンを手にすると。 メイド好きの変態~~~~~~っ!!! マスターの顔に投げつけた。 明日歩に連れていかれる際、マスターを見ると、頭にエプロンを載せたまま床に膝をついて黄昏れていた。 明日歩は外に出ると、つかんでいた俺の腕に自分の腕をからめてくる。 からめる力は強かった。痛いくらいに。 さっきのことが原因だろう。 明日歩 ………… マスターの態度は俺も驚いたけどさ……でも、気持ちはわかってあげないと ………… 明日歩 ……お父さんの気持ちくらいわかってる わかってるから怒ってるんじゃない あたしの時間を奪いたくないって言うなら、手伝いするのだってあたしの自由のはずなのに なのに、勝手ばかり言って…… マスターの手伝い、好きなんだな 好きじゃなきゃやってないよ 手伝ったキッカケはお父さんのためって気持ちだったけど、今まで続けられたのは接客も料理も楽しかったからなんだから だったらさ、それをちゃんと話せばいいんじゃないか? ………… 今から戻ってもいいぞ ……今はやめとく。顔見たらたぶん怒鳴っちゃうし それに、せっかく洋ちゃんとこうして歩いてるわけだし デート、するか うん ぎゅうっと抱きついた。 でも今日って平日だし、この時間に外歩いてるとクラスメイトに見つかるかもな ………… 嫌なら離れて歩くけど…… 俺たちのことはまだ天クルのみんなにしか話していない。 恥ずかしがりの明日歩だから、クラスメイトにからかわれたくないと思っているはずだ。 それじゃ、腕を…… ……いや さらに強く腕をからめる。 離れたくない…… ………… 見つかっても、がんばる…… そっか うん…… だったら俺から言えるのはひとつだけだ。 雲雀ヶ崎観光の続き、しようか うんっ 明日歩との間近な距離。 ヒバリ校に転入したばかりの頃でさえ、俺に顔を近づけて会話する明日歩だったから、最初はどぎまぎしたけれど。 今でもどぎまぎしているのだけれど。 その距離は、ふたりのかけがえのない距離になっている。 観光の続きということで、スタート地点である運河に出向いた。 この近辺に密集している観光地や観光ショップにはまだ半分も足を運んでいない。 運河のこっち側はだいたい見たから、今度は向こう側にいってみよっか 隣町になるんだよな 住所ではね。でも神社と同じで、店の名前は雲雀ヶ崎ってついてるのが多いんだよ 腕を組み直して歩き出そうとしたとき、見知った顔が橋を渡って俺たちの前に現れた。 よう、おふたりさん。仲良さそうにしてるんだな 相手は飛鳥だった。 腕を組んでいるのを見られたせいで、明日歩の顔の熱が急上昇する。 ひょっとしておまえら、つきあうことにしたのか まあな そっか、やっとか ほかの皆と同様、反応は淡泊だ。 時間の問題だと思ってたんだよな。今日は学校でも妙な雰囲気だったしよ ……明日歩は態度に出やすいからなあ どうせあたしは隠し事が下手だよ~! 南星だけじゃねえ、小河坂だってそうだ ……そう見えたのか? 南星ほどわかりやすくねえけどな。まあ南星よりわかりやすいやつなんかいねえけど どうせあたしは単純だよ~! 今日はバイトよりもデートを選んだわけか バイトは辞めたんだ なんでまた いろいろあってな まあバイトしてたら南星と遊べねえか そういう理由じゃないのだが、そういうことにしておいた。 ……飛鳥くんこそ、こんなとこでなにしてたの 新製品のカメラ見にちょっとな。来たるべき運命の日に備えて UFOの噂でも聞いたのか? いや、なんも 飛鳥は肩をすくめる。 メアちゃんにも会えないしな。夜の展望台に行ってもさっぱりだ 俺も、最近はメアと会っていない。 メアちゃん、合宿にも来なかったよね まさかもう雲雀ヶ崎にいないなんてことはないと思うのだが。 今夜の星見で会えたらいいね そうだな 天体観測か あと、写真も撮りたいんだ 天クルの出し物は写真展にするんだったか だから、本来なら天クルのみんなと屋上で天体写真撮影をするべきなのだが、屋上のカギが借りられなかった。 天クルの活動日は土曜日だ。姫榊いわく、その日以外の屋上の使用は、常時開放も視野に入れて検討するから待てということだった。 んじゃ、夜もデートってことか そうなるな だったらメアちゃんはいないほうがよくねえか? なんで ふたりきりのほうがいいだろ 大きなお世話っ でもせっかくの暗がりだろ せっかくってなんだよ~! 反応してるのはわかってる証拠じゃねえか 飛鳥くん用ないならあっちいってよ~! へいへい。写真撮るならオススメのカメラでも教えてやろうと思ったけど、やめとくか。南星も詳しいだろうし そりゃあ天文ファンとして、オカルトファンには負けられないから オレも、ヒバリ祭では無理でもいずれUFO写真展開きたいもんだ 応援くらいはするぞ 千波ちゃんは借りるからな ほどほどにしてくれよ そういや千波ちゃんから、電話あったぞ なんだろう。 おまえのこと聞かれたよ。お兄ちゃんが最近妙にうかれてるとか、恋かもしれないとかなんとか ……千波に勘づかれるほど俺はうかれてたのか。 まさか……つきあってるの、教えたのか? いや。つーかオレも知ったのは今だしな。千波ちゃんには、本人に聞くのが一番だろって答えたけど ……呆れた なんでだよ 千波ちゃん、洋ちゃんに直接聞けないから飛鳥くんに聞いたんじゃない ……言われてみるとそうか 飛鳥は嘆息する。 なあ、小河坂 飛鳥は一度、明日歩を見て、それからまた俺に視線を戻す。 千波ちゃん、おまえのこと好きなんだな 知っている。 それって兄妹愛か? ……わからない まさか血のつながらない兄妹か? ノーコメント 南星とつきあってること、ちゃんと話せよ 言われなくても ほんとかよ。話したくないって感じだったじゃねえか ……今夜、千波に話すよ そうしてくれ。じゃねえとまたオレに電話かけてきそうだしな 相談に乗ってあげたらいいじゃない。そのうちに恋が芽生えるかも ………… ……隣から殺気が 安心しろよ、小河坂。年下は対象外だ ……オレも、妹がいるんでね じゃあな、と声をかけて飛鳥は歩いていった。 洋ちゃん、千波ちゃんに話すの? ああ。だから、明日歩もマスターとちゃんと話すんだぞ ……そう切り返されるとは 俺は千波と。明日歩はマスターと。 向かいあって話さなければならないんだろう。 お兄ちゃん、今日は帰るの遅かったんだね ちょっとな 今夜は明日歩に夕食を作ってもらった。明日歩の喫茶店で食べたのだ。 その間、明日歩とマスターの間で会話はなかった。 それから俺たちは展望台で星見をした。 帰りが遅くなるのは事前に詩乃さんに連絡はしたのだが、理由までは言っていない。 なんで遅くなったの? 星見してたんだよ 天クルの活動? いや、デートだ 甲斐性なしのお兄ちゃんからありえない言葉が!? 誰が甲斐性なしだ。 千波 気を引き締めて向かいあう。 ……ん 目を閉じてあごを上向けたのでデコピンする。 痛いよ痺れるよっ、千波自慢のぴかぴかおでこが今ごろ真っ赤に腫れ上がってるよきっと! 梅干しみたいでうまそうだぞ 謝罪どころか物欲しそうにしてる!? あのさ、千波 面と向かいあう。 千波ねむねむだから寝るねー ……大切な話なんだよ 明日歩先輩とつきあってるんだよね 虚をつかれる。 今日ね、蒼ちゃんに聞いたんだ。蒼ちゃんは話したくないみたいだったけど、千波が強引に聞き出したんだ おそらく飛鳥に電話したあとだろう。 千波、お兄ちゃんを祝福するねっ 千波はラッキーだよねっ、お兄ちゃんが彼女作ったって一緒にいられるんだもん 兄妹だから一緒にいられるんだもん お兄ちゃんと、これからも、ずっと一緒に…… ……千波 だからね、千波はね、お兄ちゃんにおめでとうって言うんだよ…… 千波は笑顔だった。 ありったけの笑顔でぽろぽろ泣いていた。 おめでとう…… お兄ちゃん、おめでとう…… 千波は、ずっと、お兄ちゃんの味方だよ…… ……ありがとう ありがとう、千波。 腕を回して包み込んだ。 抱きしめる。 ありがとう、千波。 俺はいつだっておまえの明るさに救われてきた。 子供の頃も、そして今も。 おまえは俺の最高の愚妹だ。 愚妹の意味は、愚かな妹なんかじゃないから。 愚かな自分の大切な妹って意味なんだから……。 明日歩、まだマスターと仲直りしてないのか? ……うん 自分の気持ち、ちゃんと話してないのか? 話そうとしても、手伝いはいらないの一点張りなんだもん。あたしも頭来ちゃって…… それで、ケンカは継続中らしい。 俺はミルキーウェイのバイトを辞め、明日歩もまた手伝いを辞めた。 その状態が今日まで続いている。 放課後の時間は丸々空くようになったため、俺たちは連日こうしてデートしている。 楽しくないわけがない。だけど素直に楽しめないのは俺も明日歩も同じだった。 マスターと二人で話すのがうまくいかないなら、俺が間に立とうか? ……ううん。家族の問題で洋ちゃんに迷惑かけたくないから そんなの気にするな いいの。洋ちゃんに頼ってばかりは嫌だもん 俺たちは商店街を歩いている。 秋もそこそこ深くなると街路樹には早くも紅葉が見え始め、落ち葉もちらほらと舞い落ちている。 半袖だと、もう寒いね…… 冷たい風から隠れるように俺の腕にしがみつく。 制服の衣替えって来週からだよな うん。一週間、移行期間があって、来月になったら完全に冬服で登校だよ 楽しみだな そうなの? 明日歩の冬服、見たことないし べつに普通だよ それでも、な ……えへ きっと明日歩は冬服で歩くときも俺の右隣にいるんだろう。 明日歩って、腕組むのも俺の右隣だよな そうかな ああ 偶然だよ こんなふうに連日デートし、明日歩と間近で接する機会が多くなったから、気づいたことがある。 最初は気のせいかと思った。 だが次第に疑念はふくらんでいった。 偶然なんかじゃないのだ。 明日歩は、故意に、俺の右隣にいる。 今夜も展望台で星見しようか そうだね。こももちゃんも、屋上のカギぱぱっと渡してくれたらいいのに 来週には渡してくれるんじゃないか ヒバリ祭まで時間ないから早くして欲しいのに~ 展望台でも写真は撮れるが、機材を運ぶのが大変なのでみんなが集まるのは厳しいのだ。 とはいえ明日の土曜は活動日。そして、うまくいけば来週からはずっと活動日になるだろう。 そう考えると、洋ちゃんとふたりで星見するのも難しくなるのかな…… まだ土日もあるし、ヒバリ祭が終わればまたできるようになるって えへ……そうだね それじゃあ明日歩、いつものやつ頼むよ うん 明日歩は耳を澄まし、言うのだった。 ……聞こえない。きーんきーんは聞こえないよ 雨は絶対、降らないよ! 明日歩は、故意に、俺の右隣にいる。 それはなぜか? 思い浮かぶ可能性は、ひとつしかなかった。 明日歩と展望台で星見をするのは何度目だろう。 もしかしたら、展望台の彼女と訪れた回数よりも、明日歩との回数のほうが多くなったかもしれない。 望遠鏡の準備、終わったね もう目をつむっても組み立てられそうだな あたしはできるけど、洋ちゃんはどうかな~ 今は無理でも、いつかできるようになる それは楽しみ 明日歩より早く組み立ててやる それはどうかな~ 明日歩に追いついてやる 待ってるよ 明日歩 呼ぶと、明日歩は恥ずかしそうに寄ってくる。 洋ちゃん…… 望遠鏡を組み立てたあとの三十分の待ち時間。 その間、俺たちはこうして寄り添うことが多かった。 ん…… 唇を重ねる。 浅いキスに、深いキス。 おたがいに頬をすりあわせ、髪を撫で、肩を抱き、背中に回した腕に力を込める。 そんなふうに触れあっている。 もしもメアがどこかに隠れていて、今の俺たちを見ていたらどう思うだろう。 バカップルとからかうだろうか。 バカバカとののしるだろうか。 それとも。 三十分が経てば俺たちは名残惜しんで身を離す。 織姫と彦星の気持ちがわかる。 織姫が機を織るように、彦星が牛飼いをするように、俺たちは星見を始める。 明日歩は望遠鏡を覗いている。 秋の星座に想いを馳せ、恋の神話を脳裏に描いている。 俺はひとつ試したいことがあった。 明日歩の左側に立って、名前を呼びかけてみる。 最初は小さく。徐々に大きく。 三度目に呼んだ時点で、明日歩は気づいた。 ……なに、洋ちゃん? 今日の夜空はどうかなと思って 月はそんなに明るくないし、シーイングもよくて見えやすいよ。みなみうお座のフォーマルハウトがとっても輝いてる それ、秋の一等星だったよな うん。秋の星空ではたったひとつの一等星 だからこそほかの季節と比べて秋の星座は物寂しい。 洋ちゃんも望遠鏡使う? いや、双眼鏡で写真の構図考えてるから そっか。使いたくなったらいつでも呼んでね 明日歩は星見に戻る。 俺は、今度は逆に明日歩の右側に立った。 俺から見ると左側。 これまで明日歩は、故意に俺の右隣にいた。 〈明〉《・》〈日〉《・》〈歩〉《・》〈は〉《・》〈故〉《・》〈意〉《・》〈に〉《・》、〈俺〉《・》〈の〉《・》〈左〉《・》〈隣〉《・》〈に〉《・》〈い〉《・》〈な〉《・》〈か〉《・》〈っ〉《・》〈た〉《・》。 ………… ……俺は、なぜこんなことをしている? 明日歩が好きだから、明日歩のことをもっと知りたくなったというのは言い訳だろうか。 ……明日歩 小さく名を呼ぶ。 明日歩は反応しない。 さっきよりも強めに、もう一度呼ぶ。 反応はない。 音量レベルを五段階とすると、次が三段階目。 明日歩が俺の右隣にいたときには気づいた音量。 ……明日歩 反応はない。 星見に没頭しているから? だがさっきは気づいてくれた。 なら、今はなぜ気づかない? これ以上はやめろ、相手の領域に踏み込むことになると、理性ではなく感情が警鐘を鳴らす。 それを理性で押し鎮めた。 だって俺は、たとえこの仮定が正しくても、明日歩に対してなんら負の感情を抱かない。 結果がどうあれ俺の気持ちは変わらないのだ。 じゃあなぜ確認するのかと言えば、明日歩がこの仮定について隠したがっている素振りをするからだ。 偶然と言って俺の右隣にいるからだ。 だから明日歩は、気にしているのかもしれない。 その事実に限りなく近い仮定について、気にしているのかもしれない。 そんな必要はないのに。 俺たちふたりの間に障害なんてないから。 それをわかって欲しいから、俺は。 明日歩 ………… 明日歩っ ………… 俺は、どんな結果が待っていようと、明日歩を好きであることに変わりはないから──── 明日歩! それは大声と表していい音量だった。 レベルなんかはとうに五段階を越えている。 ……洋ちゃん? 明日歩は緩慢に振り向いた。 突然の大声で驚く様子もなく。 今、呼んだ? 明日歩は、何気ない会話の延長として、震えて上擦っていた俺の大声を捉えている。 ……明日歩、おまえ なに? 俺は、深刻にならないよう軽い調子で言ったつもりだった。 右耳、悪いんだな ………… だが明日歩の顔色は目に見えて変わった。 薄闇に浮かぶ明日歩の表情が強張った。 人に顔を近づけて会話するのも…… 古傷がうずくみたいに、雨が近いと、きーんって耳鳴りがするのも…… いつでも、俺の右隣にいたのも 亀裂ではない、障害ではない、俺たちの間にそんなものが生じるわけがないと自分に言い聞かせていても。 なにか、取り返しのつかない過ちを犯したという罪悪感がすべてを塗り替えていた。 明日歩は、右耳が悪いんだな…… ………… 俺が口を閉ざすと、明日歩はすっと顔を伏せる。 ……そんなこと、ないよ 明日歩、隠さなくてもいいんだ そんなこと、ないから なんで隠そうとするんだ? 俺はべつに…… ……嫌いになった? 低く、沈んだ声。 嫌いになったよね…… かぶりを振りたくなる。 そんなことで嫌いになるわけないだろっ 洋ちゃんは……優しいから…… 優しいとかは関係ない、俺は明日歩が好きなんだよ! あ……そっか…… 涙は流れていないのに。 あたし……洋ちゃんに、隠し事しちゃったから…… その顔は泣いているようにしか見えない。 最初から、嫌われるしかなかったのかな…… だからっ、嫌いになんかなってないんだ! 洋ちゃん……優しすぎるから…… そんなのは関係ないって言ったろ! ごめんね…… ……なんだこれは。 右耳が悪い云々の問題じゃない、俺の言葉が明日歩に届かなくなっている。 そうだよ……。あたし、生まれたときから右耳がよく聞こえないんだ…… 先天性の聴覚障害なんだって…… なにも聞こえないわけじゃないし、左耳は普通だしで、日常生活に支障は出ないから…… 今まで、誰にも話してなかったけど…… ごめんね…… 隠し事、よくないもんね…… 洋ちゃん、言ってたもんね…… 俺はもう叫び出したくなる。 それとこれとは別だっ、明日歩が耳のこと言わなかったのは当然なんだっ、明日歩は悪くないんだよ! 洋ちゃんのこと騙してて、ごめん…… あ、明日歩…… 届かない。遠い。 ウソついて、ごめん…… 明日歩の心が彼方にある。 こんなんじゃ、彼女、失格だよね…… あんなに身近に感じていた明日歩との距離が、こんな些細な問題で開いてしまっている。 なぜ、どうして。 なにが原因でこうなった? 明日歩は望遠鏡を片付け始める。 その間、俺は明日歩に何度も話した。なにがあろうと俺は明日歩が好きなのだと説明した。 明日歩は決まってこう答えた。 洋ちゃんは悪くないんだよ、と。 全部あたしが悪いんだよ、と。 なぜだろう。 なぜ俺の言葉が明日歩に届かなくなった? 俺たちの間に生じた亀裂はなんだ? なにがいったい、俺たちの障害になっている……? ……送ってくれなくても、よかったのに そんなわけにいかない。俺たち、恋人なんだから ………… なあ明日歩、もう聞き飽きてるかもしれないけど…… ……いいんだよ。変に気を遣わなくても 聞き飽きていても、何度でも言うしかない。 優しいとか、気を遣ってるとか、そんなのは関係ない。俺は明日歩が好きなんだ ………… ……明日歩 寄り添い、キスをしようとして。 いや…… 拒絶する。 顔を背け、俺を手で押しやる。 充分、だから…… これ以上は、もう…… 明日歩は俺に背を向ける。 彼女にしてくれて、ありがとね…… 明日歩はそう言い残して家に入った。 ……くそ ありがとうなんていらない。 そんな言葉はいらない。感謝なんていらない。 すべては当たり前のこととして、俺たちが育むべきものじゃないか。 それが恋人ってやつじゃないのか? なあ、明日歩……。 最近の登校は明日歩と一緒だった。 毎朝、俺の家に迎えにきてくれた。 以前は教室で交わしていたおはようは、ここで交わすようになっていた。 今日は土曜スクールがある。秋分の日で祝日でもそれは変わらないそうだ。 だからいつもどおりに迎えに来ると思っていた。 明日歩は来ない。 ケータイに電話をかけてもつながらない。 俺は遅刻ぎりぎりの時間に家を出た。 明日歩は土曜スクールを欠席した。 一緒に出ても明日歩は寝ているだけだから、ひとりで勉強するのは同じなのだけど。 右隣の席が空いているというだけで、俺の心も空虚になっていた。 下校の時間になると俺は自宅にも寄らずミルキーウェイを訪れる。 ケータイは不通のまま。だから家にいるのかはわからない。 俺は早く明日歩の顔が見たかった。 怒っているのなら謝りたい、悲しんでいるのなら慰めたい。 早く明日歩の笑顔が見たかった。 明日歩なら、自分の部屋にいると思うよ 昼時だけあっていそがしそうにしていたマスターを、悪いと思いながらも捕まえた。 確認はしていないけど、外出した様子もないからね ありがとうございます いやいや、ははは ……やつれましたね、マスター この数日、明日歩がまともに口をきいてくれなくてね。困ったものだよ マスターは、はははと笑っていた。 家に上がらせてもらい、明日歩の部屋をノックする。 声もかけてみるが、返事はない。 間隔を空けてノックと呼びかけを繰り返すが、物音ひとつ聞こえてこない。 留守なのか、それとも拒絶か。 扉を開けてしまいたかったが、そんなことをしたらますます明日歩は俺から離れていきそうだ。 俺はいったんフロアに戻ることにした。 テーブルに着き、昼食を注文する。 昼時の混雑が落ち着くまで待って、マスターと話すつもりだった。 明日歩が急に俺を拒絶した理由、それは今のところ明日歩の右耳の事情くらいしか思いつかなかった。 明日歩はどうしたんだい? 食べているとマスターがドリンクを持ってきてくれる。 デートに誘いに来たんだろう? ……そういうわけじゃ はは。さては、痴話喧嘩でもしたのかな マスターは向かいの席に腰かける。 ケンカじゃないと思うんですが……呼んでも部屋から出てきてくれませんでした 早く仲直りするんだよ マスターも、早く仲直りしてください 男二人でなんだか妙な会話だなあ マスターは笑っているが、俺はとてもそんな気分にはなれない。 話は変わるけど、小河坂くん ……なんでしょう 天体望遠鏡を買いたいこと、詩乃には話したかい? 返事に詰まる。 まだのようだね ……はい 僕が言える立場じゃないが、早く話してみなさい 詩乃を頼ってみなさい。きっとよろこぶから ……よろこぶんですか? ああ。親というのはそういうものだろう ………… 詩乃は、キミを本当の息子だと思ってくれているんじゃないかな 似たような言葉は、詩乃さん本人からも聞いている。 ……いずれ、詩乃さんに話してみようと思います それがいい 食べ終わったので手を合わせる。 マスター、仕事は? キミが最後のお客だからね。休憩だよ ちょっと話、いいですか。明日歩もそうですけど、マスターにも用があったんです なんだい? 明日歩の右耳についてなんですが…… マスターは背もたれに深く背中をあずけた。 そうか、明日歩から聞いたのか 先天性の聴覚障害だそうですね ああ。医者に聞かされたときは慌てもしたけど…… ご覧のとおり、元気に育ってくれたからね。むしろ偏見の目で見がちな周囲のほうを気にしてしまうくらいだよ 俺は、絶対にそんなことはしません わかってるよ だけど、明日歩は気にしているのかもしれない。俺がそんな目で見てしまうことを。 先天性の聴覚障害者というのはね、発話障害も伴う場合が多いそうなんだ だけど明日歩は普通に話すことができた。それどころか左耳は正常で、日常生活を送るには困らなかった それで安心したのかもしれない。僕は、そんな明日歩を知っても家庭より仕事を選んだ 以前にも話したとおり、保護者の務めを放棄してしまったんだよ 本当なら家で明日歩を守るべきだったのにね マスターは力なく笑う。 明日歩は昔からあんな感じに元気でね。目を離すとすぐにどこかに行ってしまうような子供だったんだ だから、小学生の頃には一歩間違えたら大ケガという事故も起きた 僕は、今でも責任を感じている 明日歩のそばについてやらずに、星ばかり追っていた自分に嫌気が差してる 天文学とは宇宙を研究する巨大科学だ。莫大な資金をかけるくせに直接僕らの生活には役立ちはしない 僕が目を向けるべきはそんな遠くにある存在ではなく、すぐ近くにある存在だったというわけさ マスターは自嘲気味に言って、また言葉を続ける。 僕はね、小河坂くん。キミと明日歩がどんな理由でケンカしたかは知らないけど、これだけは言える 明日歩の聴覚障害は、今話したように、僕と明日歩の間に横たわる障害でしかない キミと明日歩の障害にはなりえない こんな些細な問題をキミは気にしないし、明日歩だってそれを知ってる だからこそ明日歩はキミを好きになった キミが本当に明日歩と仲直りしたいのなら、ほかの原因を考えてみたほうがいいんじゃないかな それで話は終わりのようだった。マスターは席を立つ。 食べた分は、しっかりお代を取るからね キミはもう、ミルキーウェイのバイトじゃないんだから マスターのその笑いは、これまでの自嘲的なものではなく、俺に対する励ましの意味に見えた。 外に出て、店を見上げる。 その二階の部屋に明日歩はいる。 俺はケータイからメールを送る。 今夜は天クルの活動があるぞ、と。 みんなと天体写真撮影をする日だぞ、と。 見てくれることを祈り、きびすを返す。 夜を待って、明日歩を待とう。 この障害を乗り越えるために。 メールの返信が来たのは、天クルの活動が始まって一時間が経過してからだった。 ……メールですか? ああ 明日歩さんからですか? みたいだ 遅刻してる言い訳なんじゃないの 姫榊、なんでいるんだ? あなたたちが写真撮るのに人出が欲しいって言って無理やり連れてきたんでしょ!? 姉さん、どうどう 明日歩クンはなんだって? メールを読んでみる。 『洋ちゃんが大切にしている場所で待っています』 ……すみません。急用ができました なにかあったのかい? はい。でも心配いりませんから おふたりの恋の問題ということですね はいはい、バカップルバカップル ……部内恋愛、ウザい 言いたい放題だ。 じゃ、行ってくる 明日歩さんのためにも帰ってこなくてもよろしいですよ こっちも心配いらないから 勝手にバカップルしてなさい ……部内恋愛、カッコ悪い この屈辱、みんなも誰かとつきあったら倍にして返すことにしよう。 俺は屋上をあとにする。 俺が大切にしている場所というのは、ふたつある。 ひとつは屋上。 明日歩の告白を受け、そして初めて結ばれた場所。 だが明日歩は屋上にはいない。姿を見せていない。 であれば、もうひとつの場所しかない。 俺は夢見坂を走って登っていった。 なぜ、明日歩はそこを指定するのだろう。 俺と二人きりで話したいから? 一緒に星見をしたいから? それとも、俺たちの間に生まれた障害になにか関係があるのだろうか。 展望台に入ってすぐ、明日歩を見つけた。 明日歩はこちらに背を向けて座っている。 望遠鏡は持ってきていない。 だけどその視線は頭上の夜空に向いている。 秋の寂しい星空。 それを明日歩は好きと言った。 秋の星座──恋の神話を好きと言った。 エチオピアの王、ケフェウスには、美しい妻のカシオペヤと美しい娘のアンドロメダがいたんだよ 俺に気づいた明日歩が、立ち上がって語り出す。 それはアンドロメダ座の恋物語。 カシオペヤは娘のアンドロメダの美しさが誇らしく、事あるごとに自慢した。〈海神〉《かいしん》ポセイドンの孫娘であるネレイドよりも美しいと自慢した そのせいで、ポセイドンの怒りを買った。ポセイドンは大くじらのティアマトを使ってエチオピアに大津波を起こしたの それを憂いたアンドロメダは、みずからティアマトの生け贄になって、怒りを鎮めてもらおうとした…… そのときに、ペガサスに乗った英雄ペルセウスが、アンドロメダを助けてくれるんだよ ティアマトをやっつけて、アンドロメダを抱いて一緒にお城に戻るんだよ で、ふたりは結ばれるのか うん 白馬の王子さまだな うん。女の子の憧れの的だね 明日歩も好きなんだよな 前はそうでもなかった。だけど、最近好きになった 洋ちゃんと再会できて好きになったんだよ 明日歩にとっての白馬の王子さま。 それに選ばれた男は幸福だ。 俺は、だから明日歩と再会できてよかったと、自信を持って言えるんだ。 ───なのに、なぜだろう。 洋ちゃんにとってのアンドロメダ姫は、展望台の彼女さんなんだろうけど…… なぜ明日歩はそんなことを言うんだろう。 あたし、洋ちゃんに言ったよね。この展望台でやった初めての星見は、あたしがもらうって 展望台の彼女さんに負けたくなかったから…… ………… そんなふうに言って、この場所を、展望台の彼女さんから奪いたかったのかもしれない ……そうか。 明日歩はずっとそれを恐れていた。 展望台の彼女を恐れていた。 俺が明日歩の聴覚障害を知ったのはキッカケに過ぎない。 明日歩の恐れを表面化させたキッカケに過ぎない。 あたし、洋ちゃんの恋人になって、すごくうれしかったけど…… だけど、同じくらい不安だった 不安でたまらなかった あたしの涙はうれしいのが半分で、怖いのが半分だった 洋ちゃんは、ぜったい、展望台の彼女さんを忘れられないと思ってたから 時間が経って風化することはあっても、ぜったいになくならないと思ってたから あたしが、洋ちゃんをずっと好きだったように…… 洋ちゃんも、展望台の彼女さんがずっと好きだと思うから だからね、と明日歩は続けて。 洋ちゃんは、それでいいんだよ 洋ちゃんは悪くない 悪いのはあたしなんだから…… ……明日歩、聞いてくれ いいんだよ、洋ちゃん なにがいいって言うんだ。 洋ちゃんは優しいから…… 明日歩はわかっていない。 洋ちゃんは、展望台の彼女さんが好きじゃないって言ってくれると思うけど…… 明日歩はわかっていない。わかってくれない。 あたしのことが好きだって、あたしのために言ってくれると思うけど…… 俺の言葉が明日歩の心に届かない。 今日、洋ちゃんをここに呼んだのは、わけがあるんだ 言わなきゃならないことがあったんだ あたし、洋ちゃんと別れることにする それを言いたかったんだよ ありがとう、洋ちゃん 想い出をありがとう 明日歩は一方的に告げ、展望台を去っていく。 俺は追えなかった。 なぜ追えない? 展望台の彼女に恋をしていないのなら、追うべきだろう? くそ…… ……追っても無駄なのだ。 俺と明日歩、ふたりの間に障害なんてないと思っていた。 だけど、最初からあったのだ。 展望台の彼女。 彼女が、そうなのか。 俺がなにを言っても明日歩は信じない。 俺の中で展望台の彼女が息づいている限り。 俺の行為は恋人のそれではなく、ただの優しさ、あるいは同情として明日歩に捉えられてしまうのだ。 くそ……! 手近の欄干を蹴った。がんっと揺れる。 蹴った足が痺れ、同時に頭のてっぺんが熱くなる。 火傷する勢いで。 ……血が昇ったにしては熱すぎる。 ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! ひさしぶりに見たドラゴンが俺の頭上で旋回していた。 なにしけた顔してるの その声も久しく聞いた。 ……見てたのか、メア うん 最近、会いたくても会えなかった死神少女が、俺の前にようやく姿を現した。 洋くん。なにしけた顔してるの メアは繰り返して言う。 おかげで、出てきたくないのに出てきちゃったじゃない ……声かけづらかったとは思うけどさ 第三者なら関わりたくない修羅場だろうし。 もう、会わないつもりだったのに…… 急にそんな言葉を投げてくる。 ……会わないって? あなたとはお別れってこと ちょ……なんで お別れしなきゃならないから ……引っ越しか? そんな感じ いつだ? 近いうちに 餞別として頭撫でていいか? ……撫でたら刺す ああ、頼む メアはきょとんとする。 今夜、メアに出会えてよかった。運命すら感じた ……きゅんってなること言わないで メア 俺はすがる思いで言った。 そのカマで、俺の悪夢を刈ってくれ ……え? 前にやったみたいに、俺の想い出を刈ってくれ 展望台の彼女に関する記憶を刈って欲しいんだ メアは怪訝な顔をする。 あんなに嫌がってたのに、どうしたの 事情が変わったんだよ 勘違いしてるみたいだけど。わたしは記憶を刈る死神じゃない、悪夢を刈る死神よ 俺にとっての悪夢が展望台の彼女に関する記憶なら、同じことだろ? 展望台の彼女って誰だっけ 俺の悪夢だ ………… 頼む。メアに、その悪夢を刈って欲しいんだ ……いいの? ああ あなたにとって大切な想い出じゃなかったの? 大切だ。それは今でも変わらない だけど、明日歩と結ばれるための障害になるのなら、乗り越える そう決めたんだよ。俺は ……今日のあなたはダメダメね そうかもな それに、バカバカ だろうな 後悔は? したとしても、乗り越える メアはうなずいた。 バカバカなあなたに免じて、考え直す間もなくやってあげる その言葉は本当だった。 メアは俺から一歩距離を取り、カマを横薙ぎした。 それは正確に俺の胸を貫き、通過する。 恐れの感情を抱く暇もない、一瞬の出来事。 俺の悪夢は刈られたのだ。 俺は、展望台の彼女を忘れたのだ……。 ……って、ちょっと待て なに? 俺、忘れてないぞ 展望台の彼女を忘れたのなら、展望台の彼女という単語すら思い浮かばないはずなのに。 メア、マジメにやってくれ マジメにやったけど 失敗しないでくれ してないけど メアの腕もたかが知れてるな ……犬の変態くんのくせに生意気 おかんむりだった。 わたしは今、あなたの悪夢を刈った。だけどあなたは展望台の彼女って子の記憶を忘れなかった じゃあ、答えはひとつしかないわ メアが失敗したんだろ そうじゃないっ。あなたの悪夢は、なかったの 刈る前からなかったのよ。手応えもなかったし だから、メアが失敗したせいだろ ……かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! これ以上バカバカなこと言うと帰るからね ……悪かった。それで? あなたは悪夢を持っていない だから、展望台の彼女は、すでにあなたの悪夢じゃなくなっていた おめでとう、洋くん 俺は今、相当間抜けな顔をしているに違いない。 展望台の彼女との想い出は、もう、あなたにとって悪夢じゃない その想い出は、あなたの糧となった あなたの力の一部となった だから、大丈夫 あなたの恋は、大丈夫 きっと、うまくいくから 俺は言葉を失っている。 展望台の彼女との想い出は、時を経てようやく、俺の中で昇華した。 俺は展望台の彼女に頼らずとも、前に進める。 たぶん、きっと、そういうことなのだ。 じゃあね、洋くん そうしてメアが姿を消したあと。 ───卒業おめでとう。 メアが、展望台の彼女が、どこかでそう言った気がした。 あら。帰ってきたんだ それにしては、明日歩さんの姿が見えませんけど…… 会いにいったんじゃないのかい? ……まあ、会ったは会ったんですが なにかあったのかい? ……まあ、いろいろと 痴話喧嘩でもしたのかしらね ………… 図星でしょうか はいはい、バカップルバカップル そのセリフはもういい。 明日歩はこっちに来てないよな そうね。部員に写真撮影任せっきりで、副部長としての自覚が足りないみたいね 明日歩だって本当はみんなと一緒に活動したいんだよ でも来てないじゃない 俺がいるからだろうな とすると、小河坂くんがいたらずっと来ないんじゃない ………… そろそろ解散って話になってたんだけど、明日歩クンが来るなら待つよ ……いえ、来ないと思います 本当に、明日歩クンは今後も来ないのかい? それは大丈夫です 片付けを始める前に、ひとり離れてこちらを窺っていた蒼さんに振り向いた。 蒼さん ……なんでしょう お願いがあるんだ 二股ですか? ……死んだらいいと思います 違う違うっ、軽蔑の目で見るなよ!? 二号になるつもりはありません 違うんだって! では本妻ですか 明日歩さんを二号にすると? それだけは絶対にない バカップルバカップル ……いいから話を進めさせてくれ 蒼クンになんのお願いなんだい? 屋上のカギを貸して欲しいんだ ………… 蒼さんにとって大切なものなんだと思う。だけど頼む。明日には必ず返すから ……理由はなんですか 明日歩を天クルに復帰させるためだ この言い方は卑怯だろうか。 俺の本音は違うから。 ……それで痴話喧嘩が終わるなら、貸してもいいです 蒼さんは俺の本音を汲んで言ったのだ。 これ以上、バカップルな先輩方を見たくはありませんから 洋からメールが届いたのは空が茜色に染まった頃だった。 南星明日歩はずいぶんとためらったが、最後にはケータイを開いて読むことにした。 メールにはこうあった。 『明日歩が大切にしている場所で待っている』 明日歩は液晶を眺めながら眉をひそめる。 あたしの大切な場所? それってどこだろう? 真っ先に思いついたのはヒバリ校の屋上だ。 それからほかの場所を考えてみたが、結局ここ以外には思いつかなかった。 洋の恋人になれた場所。洋と結ばれた場所。 洋も自分と同じく大切な場所だと考えてくれるなら、こんなにもうれしいことはない。 でも、洋ちゃんには、展望台があるから…… 展望台の彼女との想い出の場所がある限り、屋上が一番になることはない。少なくとも明日歩はそう考える。 そもそも洋は今さら自分になんの用があるんだろう。 昨夜、明日歩は洋に別れを切り出した。 自分から告白しておいてフッたのだ。洋は呆れ果てているに違いない。 洋に嫌われたに違いない。 その考えは明日歩の胸を締めつけ、息もつけなくなるほど悲しませるのだけど、これはみずから望んだ結果なのだから甘んじて受けるしかない。 洋にかけた迷惑を思えばどうということはない。 どうってこと、ないんだから…… 明日歩は瞳をつむって涙をこらえる。 洋ちゃんだって、屋上でなんか待ってるわけないし…… 屋上はまだ開放されていない。カギがかかっているのだ。 あたしの大切な場所は、この引き出しと同じで、簡単には開けられない……。 ………… 明日歩は机の引き出しのカギをゆっくりと開け、中を見る。 七夕の短冊が二枚。それを手に取る。 幼い日の明日歩は短冊にこんな願いを込めた。 『友達になりたい』 明日歩は、洋と友達になりたかった。 そして、洋が込めた願いは。 『夢に会いたい』 明日歩は泣く。 こらえていた涙があふれる。 この短冊の意味を当時の明日歩は知る由もなかった。 雲雀ヶ崎で洋と再会してもわからなかった。 洋が展望台の彼女を捜している間も思いつかなかった。 もしかしてと思ったのは、自分の初恋が洋だったのだと知られてしまったとき。 その後に洋を連れて小学校へおもむき、卒業アルバムを探したのは、明日歩も気になったからなのだ。 展望台の彼女の名前が、本当に夢なのか。 洋は、本当に夢のことが好きなのか。 そして、結果としてそれは判明しなくても、明日歩の中ではもう確信に至っている。 この短冊を見るたびに、洋の想いは自分と同じ恋なのだと思い知らされてしまうのだ。 もし、ほんとに洋ちゃんが屋上で待ってるなら…… この短冊を返さないと。 そうすれば、きっと洋ちゃんは展望台の彼女さんの名前を思い出す。 それを手がかりに再会できる。 洋ちゃんは展望台の彼女さんと結ばれる。 あたしは、この初恋を忘れられる。 これ以上、洋ちゃんへの恋に未練がましくしがみついていてもしょうがないんだから。 やっぱり、叶わなかったね…… 初恋は、叶わなかった。 それどころかあたしは洋ちゃんに嫌われた。 もう、友達としてもいられないかもしれない。 友達になりたいという、幼かった願いも叶わない。 だけど、いいよね…… 充分だよね…… デート、できたんだから…… キス、してもらったんだから…… あたしの初めて、あげられたんだから…… だから、もう、充分。 さようなら。 ごめんね。 ごめんね、あたしの初恋……。 ───屋上の扉が、開いた。 俺はフェンスにかけていた手を離す。 暮れ始めていた夕空から目を外し、屋上に向けた。 洋ちゃん そこに明日歩がいる。 俺が待っていた人。 必ず来てくれると信じていた人。 洋ちゃん、学校にいるのに私服なんだね 先に口を開いたのは明日歩だった。 明日歩だってそうじゃないか すぐ帰るつもりだったの。洋ちゃんがいるとは思わなかったから だけど、いただろ? 洋ちゃんは? 私服の理由か うん 私服で学校にいると、小学生の頃に戻った気分にならないか? ……ここはヒバリ校だよ 感慨に耽りたかったんだ 誰かに見つかったら追い出されるよ 今日は屋上の使用が禁止されてるし、制服だろうと私服だろうと見つかったら追い出されるさ 屋上、よく入れたね 蒼さんからカギを借りたんだ ………… 嫉妬か? そんな必要、もうないから そうか うん 嫉妬してくれるとうれしいんだけどな 洋ちゃん 明日歩は俺から距離を取っている。 恋人としての距離とは比べものにならないくらい、遠い。 もう一度、言うよ この距離で聞く明日歩の声は、友達と対話するよりも淡々としている。 あたしと、別れてください あたしはもう、洋ちゃんとはつきあえない だから、別れてください お願いします 俺は黙って、明日歩の形式めいた言葉を聞いている。 なにも反応しない俺に明日歩は迷いを見せたが、そのうちに手にしていたものを胸の前に持つ。 それは封筒のようだった。 ……これはね、今までのお礼だよ 短い間でも恋人にしてくれたお礼だよ それはまるで、俺の時間を買うと言ったバイト代。 中はお金じゃないんだよ 洋ちゃんの想い出だよ それを、あたしが払います 明日歩は封筒を開け、中身を取り出した。 これ、洋ちゃんの短冊なんだ…… 洋ちゃんが引っ越した前日、七夕の行事としてクラスで作った短冊なんだ あたしね、洋ちゃんの短冊を拾ったの 教室に落ちてて。飾ってた笹から落ちたのかもしれない 風で飛んだのかもしれない わからないけど、あたしが偶然拾ったんだ 返そうとしたんだけど、洋ちゃん、次の日に引っ越しちゃったから…… これまでずっと、返せなかった それを今、返します 今までつきあってくれたお礼に、返します 本当ならもっと早く返すべきだったけど…… 洋ちゃんが展望台の彼女さんを捜しているときに、返すべきだったけど これも、あたしのわがままだね ごめんね 本当にごめんなさい ここにね、展望台の彼女さんの名前が…… 違うよ 明日歩は言葉を遮られ、目を瞬かせる。 それは、落としたんじゃない 捨てたんだよ 俺は笹に短冊を飾ることはしなかった 俺はそんな迷信なんか信じていなかった かわいくない子供だったんだよ、俺は ………… そんな俺を、どうして明日歩は好きになったんだ? ………… 知りたいんだ。教えてくれないか? ………… 明日歩は、今でも俺が好きか? 好きだよ その答えには一片の曇りもないのに。 だけどね、きっと、あたしには洋ちゃんを好きになる資格なんてなかったの 子供の頃のあたしは、洋ちゃんの友達になりたかった だけどそれは先生に言われたからなんだ あたしはクラス委員だったから。いつもひとりでいる洋ちゃんを心配した先生が、あたしに声をかけたの 洋ちゃんの友達になってくれないかって 洋ちゃんは母子家庭っていうのもそのときに聞いたんだ だからあたしは、はいと返事した。あたしは父子家庭だったから、親近感が湧いたんだと思う 仲間意識があったんだと思う あたしが一方的に洋ちゃんをちゃん付けで呼ぶようになったのは、それが理由 あたしは寂しかったのかもしれない その頃のお父さんは仕事で家にいなかったし、お母さんもいなくなっちゃったから…… あたしは、洋ちゃんと傷を舐めあいたかったのかもしれない これが、洋ちゃんを好きになったキッカケ 初恋っていうにはちょっと寂しい理由だよ そうか うん 俺は、生まれて初めて母子家庭でよかったと思ったよ ………… なあ、明日歩 俺はそのとき、明日歩の後ろに広がる空に、一番星を見つけて。 どうして、俺の短冊を持っていてくれたんだ? わずかな逡巡ののち。 それは…… それは、洋ちゃんのことを、 忘れたくなかったから──── ───メア メアが明日歩の背後に現れ、カマを振るい、明日歩の胸を背中から貫いた。 明日歩の手にある短冊が霧散する。 塵となり、舞うその姿はまるで鱗粉。 それが、あなたにとっての悪夢だった わたしが、今、それを刈った 明日歩の悪夢は、光を残して消滅した。 呆然とする明日歩の横、消えてしまう刹那の間、メアは俺に笑ってみせた。 これでいい? その瞳が語っていた。 昨夜、天クルの活動を終えたあと、もう一度展望台に足を運んでメアに頼んだことだった。 俺の悪夢はもうなくなったから。 だから。 残るは、明日歩の悪夢。 ど、どうして…… それが障害。 俺が乗り越えるだけじゃない。 俺たちがふたりで共に乗り越えるために。 どうしてっ、洋ちゃんの短冊が……! それくらい、いいんだ ぜんぜんよくないっ、ここには展望台の彼女さんの名前があったのに……! 洋ちゃんと展望台の彼女さんが再会する手がかりだったのに……! いいんだよ、明日歩 俺は、展望台の彼女と再会できなくたっていい どうしてっ……どうしてぇ……! 俺はもう、それで平気なんだよ 明日歩が苦しむ必要なんかないんだよ 大きな嗚咽が耳を突く。 混乱、不安、恐怖──これまで明日歩が必死に押し隠していた感情が決壊する。 あたし……あたしっ…… 洋ちゃんのこと、忘れたくなかった……! だから洋ちゃんの短冊をずっと持ってた……! だけど……だけどぉ…… ここには、展望台の彼女さんの名前もあって…… 洋ちゃんが彼女を好きだってことを思い知らされて…… だからっ……あたしぃ……! 明日歩、好きだよ 聞こえているだろうか。 俺の言葉は明日歩の心に届くだろうか。 もしもよく聞こえないんだったらさ 右耳じゃない、左耳で聞き取れるように 俺の気持ちが届くように これまでみたいに、俺の右隣にいてくれないか 俺の右隣を指定席にしてくれないか その席は、誰にもゆずらない 誰だろうと、そこは明け渡さない 明日歩だけの席だ 俺の右隣の席は、明日歩だけのものだ ………… だからさ、今度は俺から言わせてくれ 俺から告白させてくれ 明日歩、好きだ 俺と、つきあって欲しい 俺の恋人になって欲しい──── 明日歩の肩を抱く。 引き寄せる。 明日歩は俺の胸に顔を押しつける。 そうして嗚咽を噛みしめながら。 ……はい 明日歩は、そう返事をした。 おはよう、洋ちゃん ああ、おはよう 週が明け、登校の迎えに来た明日歩の制服は冬仕様に変わっている。 今日から衣替えの移行期間が始まる。 そしてヒバリ祭のある十月からは、完全に冬服での登校となるのだ。 ……この冬服、どうかな? なんか新鮮だ むー 似合ってるよ えへ…… 明日歩は今日も変わらず現金だ。 洋ちゃんも、冬服似合ってるよ ……それはどうも あは、照れてる デートの待ち合わせでもしていたみたいな会話を交わしてから、靴を履き出す。 行き先は学校なので、腕を組むことはないのだが。 あのね……洋ちゃん 家を出たところで明日歩は言った。 実はね、痛いの なにが? とあやうく聞き返そうになった。 洋ちゃんと……してるときは、痛くなかったのに…… 誰にも聞こえないよう、小さくささやく。 洋ちゃんが帰ってから、すごく痛くなったの…… ……そんな都合よく だってほんとなんだもん~! 歩くの辛いのか? う、うん…… こくこくうなずく。 あれから、洋ちゃんが帰っちゃって、すごく寂しくなって……そしたらじんじんしてきて…… だ、だから…… 期待のこもった上目遣い。 腕組んで、登校したいなって…… ……ほかの生徒に見られまくるぞ? う、うん……がんばる…… 顔赤くするなよ? そ、それは無理…… 了解 俺は自分から明日歩の左隣に移動する。 腕組んで、いこう うんっ 明日歩は飛びついてきた。きっとしっぽがあったら左右にぱたぱた振れていた。 そんな動くと、痛みが増すぞ ううん。もう、痛くなくなった 洋ちゃんにくっついたら、平気になった…… ………… ………… ………… な、なんか言ってよ~! 恥ずかしいじゃない~! 俺も恥ずかしいからなにも言えないんだって…… フォローが欲しかったよ~! 俺を照れ殺すのはやめてくれないか? 事務的に言われるとへこんじゃうよ~! ぎこちないのも俺たちらしいと言うべきか。 俺と明日歩は、夏冬の制服に彩られた通学路を赤くなりながら歩き進んでいった。 今日はやけに校舎が騒がしいな そりゃあね。ヒバリ祭が近いから 帰りのホームルームで準備期間の開始連絡があると、放課後のヒバリ校はどこもかしこも工事現場のような有様に早代わりした。 廊下を歩けば正体不明のオブジェが見受けられ、ほかにも巨大なハリボテやポスター、ダンボールとガムテープの山、工作用具や塗料の缶なんかが散乱している。 そんな中を走り回る生徒たち、指示を飛ばす実行委員、さらには教師陣までが浮き足立って展示物製作を手伝っていた。 熱気に満ちたその様子は、さながら学園祭の前夜祭だ。 ヒバリ祭まではあと二週間。どこの部活も放課後は遅くまで居残っていると思いますよ あたしたちもはりきって準備始めないとねっ まずは、部室で姫榊を待たないとな 土曜日以外の屋上の使用許可を期待ですね 今日まで我慢してあげたんだから、これでダメって言われたらあたし噛みついちゃうかも 明日歩さんのしっぽが逆立ってますね まあ姫榊なら大丈夫だろ むー ますます逆立ちましたね 夜は天体観測として、それまでデートでもするか? うんっ あっという間にぱたぱたしてしまいました ……あ、でもこれから写真展の準備しないと へなへなと垂れてしまいました さっきからなんの例えなんだよ~! くわばらくわばら 意味わかんないよ~! おふたりが仲直りしたようで、わたしも一安心ということですよ ……ケンカなんかしてないもん 明日歩が頬をふくらませると、ますますこさめさんは笑うのだった。 やあ、おそろいで 部室にはすでに岡泉先輩の姿があった。 机に向かい、大きな用紙に定規を使って線引きしている。 先輩、それって写真展の? ああ、設計図だよ この視聴覚室を元に、ボードやパネルをどのように配置するか。その準備は岡泉先輩に任せてある。 先輩の設計図が完成したら、あたしたちも本格的に準備だね 明日には完成すると思うから、そうしたらみんなで必要な資材を買いにいこう とすると、デートするなら今日がねらい目ですね あたしの肩たたいてなに言ってるんだよ~! 展示自体はヒバリ祭の前日にやるわけだし、写真撮影と作品のセレクションさえしっかりこなせばデートくらい朝飯前だよ 先輩も変な気回さなくて結構ですから~! 写真展の準備は日頃の活動がものを言うだけで、とりわけ大変ということはない。 夜はいそがしくても、この時間はまだ余裕があるのだ。 明日歩、どうする? ……デートしたいけど、岡泉先輩は仕事してるわけだし それこそ変な気は回さなくていいんだけどね 岡泉先輩のサポートならわたしにお任せください。煮詰まって暴れそうになったら知恵の輪を渡します 僕に限ってそんな粗暴はないけどね ……不安ですから残ります シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 明日歩っ、ここは任せて逃げろ! いやあっ、洋ちゃんが食べられちゃう! 先輩、どうぞ ハァハァ……ハァハァ…… こさめさんが知恵の輪を渡すと岡泉先輩はおとなしくなる。 小河坂さん、ちゃんと明日歩さんのナイトを務めているようですね ……条件反射でな 明日歩さん、もう行っても大丈夫ですよ あはは…… 明日歩は照れ笑いを浮かべて。 やっぱり、残るよ。これでも副部長だからね 明日歩ならそう言うだろうと思っていた。 天体観測の時間になるまで、これまで撮った写真の選別でもしてるか うんっ ふたりがいいのでしたら、止めませんけど こさめさんは頬に手を当ててため息をつく。 部室が愛の巣にならないことを、祈っていますね ……………。 ………。 …。 入るわよ……うっ いらっしゃいませ、姉さん 部室がピンクのオーラに支配されている…… 天クルはすでにふたりの愛の巣になってしまいました 洋ちゃん……このフィナンシェ、どうかな? おいしいよ えへ…… 作ってきたのか? うん……。早起きして ありがとうな えへ…… こっちはなんだ? ミルクレープだよ。食べて食べて お、これもうまいな えへ……。あ、洋ちゃん なんだ? 口元にクリームついてる どこだ? 取ってあげるね 自分で取るから ダメだよ、取ってあげる いいって ダメだよ 指でパクってするんだろ う、うん……。ダメ? ……まあいいか えへ……はい、取れた ンっ…… ……うまいか? うん……。洋ちゃんの味がする そ、そうか うん…… ………… ………… うがああああああああああ!!!! 姫榊が壊れた。 学校にスイーツは持ち込み禁止! 部室での飲食は原則禁止! イチャラブは全面禁止! 即刻やめないと廃部にした上で蹴るわよ!? あっ、こ、こももちゃん、待ってたんだよ? その恥じらった顔がなおさらムカつくのよ!? 姉さん、どうどう 姫榊、どうぞ 知恵の輪渡して岡泉先輩扱いしないでくれる!? ……まあ、姫榊クンが怒るのもわかるけどね 明日歩が家からおやつを持ってきたと言い出したのが始まりだったわけだが。 姫榊、屋上のカギは? これから返しにいくところ いやいやいやっ、じゃあ借りるの成功したんだな? 窓の外に投げ捨てるところ 本気でやりそうだから怖い。 これで今夜からヒバリ祭まで、天体観測ができるようになったんですね 正確にはヒバリ祭の前日までだろうね。展示はいざとなったら徹夜かな 納得いく写真が撮れるまで、寝る間も惜しんで撮影しまくるよ~! おー!! というかけ声に、姫榊も渋々と参加した。 ……おー 遅刻常習犯の蒼さんも、陰で手を上げていた。 明日歩が私服に着替え終わると、いい時間になったようで空腹を訴えてくる。 ご飯、ここで食べよっか。ふたりで マスターと一緒じゃなくていいのか? ……まだケンカ中だしね 今日は家に上がる途中、マスターとはあいさつを交わしたが、ますますやつれていた。 ケンカ、長いな うん……。もう一生このままって気もしてきた ふたりの溝は思ったよりもずっと深いのかもしれない。 ちゃんとマスターと話そう。俺も手伝うから ……ううん、いいの 明日歩は俺の胸にぽふっと額をあずける。 洋ちゃんがいればいいの…… おいおい…… えへ…… ……俺はうれしいけどさ 冗談だよ お父さんのこと、嫌いになったわけじゃないから 明日歩は俺の頬にキスすると、部屋を出ていった。 夕飯を作ってくれるんだろう。 手持ちぶさたになり、部屋を見回していると、片隅に置かれた望遠鏡が目に入った。 部活で使っている天体望遠鏡ではない。それよりもずっと小さく、軽そうだった。 かたちも整っておらず、不格好に見える。 洋ちゃーん 明日歩が戻ってくる。 リクエスト聞くの忘れちゃった。なにが食べたい? 望遠鏡 ……食べたいの? じゃなくて、あそこにあるのって望遠鏡だよな 指差した方向にあるものを見つけて、明日歩はあははと笑った。 自作の望遠鏡だよ。虫眼鏡と老眼鏡を組み合わせて、ダンボールにはめ込んだだけの簡単なものだけどね へえ。望遠鏡って作れるんだな すごいでしょ えへんと胸を張っている。 ……やったばかりなのにまたさわりたくなるからやめて欲しい。 作り方はね、お父さんに教わったんだよ 明日歩は懐かしんだ顔をする。 小学生の頃に教えてくれたの。そのときのあたし、ちょっと落ち込んでて。たぶん気晴らしのつもりだったんじゃないかな なにかあったのか? うん。洋ちゃんが引っ越しちゃったの 俺は言葉を詰まらせる。 洋ちゃんの引っ越しだけじゃないんだ。その日にあたし、交通事故も起こしちゃって…… 明日歩は自作の望遠鏡を取り、そっと撫でつける。 洋ちゃんが引っ越したって先生から聞いて……。あたしは驚くとか悲しむとか、そういう感情もすっぽり抜けちゃって、一日ずっとぼんやりしてたの それでね、ふわふわって浮いた気持ちで下校してたとき、見つけたんだ 大きくて明るい流れ星を見つけたんだ その流れ星はとても長い時間、空にあった 今だからわかるけど、それってただの流れ星じゃなくて、隕石だったんだよね 隕石は見つかってないみたいだけど、雲雀ヶ崎に落ちたんじゃないかって一時期話題にもなったんだよ だけど当時のあたしはそんなことは知らないで、大きな流れ星だなあってぼんやり見上げてた でね、見続けてるうちに、あたしはその流れ星を追いかけてたんだ その途中で事故に遭ったの 道路に飛び出して、あたしを避けた車がガードレールにぶつかった 怪我人は出なかったけど、警察が来て騒ぎになって…… 仕事中だったお父さんも駆けつけて、車の人にずっと謝ってたんだ あたしはそのときもまだぼんやりしてた。もう頭がぐちゃぐちゃで、放心してたんだと思う 家に帰ってもお父さんとはろくに話さないで、そのまま部屋に戻ってきて…… 洋ちゃんの短冊を机の引き出しにしまって、初めて泣いたんだ 明日歩はくすっとほほえむ。 あたしはそれから、しばらく元気がなくてね。そんなときにお父さんがこの望遠鏡の作り方を教えてくれたんだ だから、あたしが天体観測に興味を持ったのはちょうどこの頃だったんじゃないかな お父さんが話す神話に耳をかたむけるだけじゃなくて、この目でもっと星座を見たくなった 展望台は立ち入り禁止になってたから、科学館の天文クラブに入ろうとしたんだよ でも、お父さんが猛反対しちゃって…… おかしいよね。星座の神話を話してくれたり、望遠鏡の作り方も教えてくれたくせに なのにお父さん、天文学者を辞めて、急に喫茶店を始めるなんて言い出して…… 話に間ができて、逃さずに聞いた。 明日歩は、流れ星を追いかけたせいで事故に遭ったってこと、マスターには話したのか? ううん 明日歩は苦笑して首を振る。 さっきも言ったけど、そのときのあたしってすごく落ち込んでたから。お父さんになに聞かれても答えなかったの 今考えると悪いことしたなって思うよ。お父さんも気にしてたみたいだったし 俺はある可能性を思いついていた。 明日歩とマスターの間に横たわる障害。 それをマスターは、明日歩の聴覚障害だと言った。 でも……お父さんもなんで天文学者辞めたのか話してくれないし、おあいこだよね 理解した。 そういうことだったのだ。 明日歩が語ったその言葉こそ、明日歩とマスターの障害──すれ違いだ。 なあ、明日歩。事故の理由、今からでもマスターに話さないか? ……できないよ。ケンカ中だし マスターが天文学者を辞めたのは、明日歩のためなんだ ………… 明日歩はさ、マスターと仲直りしたいよな? そ、そりゃあ…… そのための方法、見つかったぞ 明日歩は目をぱちぱちさせる。 舞台はヒバリ祭だ 天クルの写真展で、マスターの悪夢は、刈られるよ 南星総一朗はカウンターに立ち、物思いに耽りながらグラスを磨いている。 体育の日はヒバリ祭の開催二日目だ。 一日目は生徒が主体となった催しのため一般客は参加できないが、今日は違う。 時間はすでに昼過ぎなので、ヒバリ校は来場した人々で大いに活気づいているだろう。 総一朗はグラスに映った自分の顔を悄然と見つめる。 ……ひどい顔だなあ ヒバリ祭の誘いは洋から受けていた。 ぜひ参加して欲しい、天クルの写真展を見に来て欲しいと。 だが、明日歩からはなんの言葉ももらっていない。 ケンカはいまだに継続中なのである。 食事も喉を通らない総一朗はそのため体重が一割減った。 明日歩との仲の改善を計ったことは一度ではない。 だがこれまで娘を放任していた総一朗は親子喧嘩に慣れておらず、どう切り出していいかわからない。 だからいつもつまずいた。どうしてもきつい口調で接してしまい、明日歩から三倍返しの雑言をいただいた。 ため息をつくとグラスが曇る。 そこに総一朗は幼い日の明日歩との想い出を見る。 それはいつの記憶だったろうか。 明日歩が小学校に上がる前だったかもしれない。 よく晴れた日のことだった。 ひさしぶりに仕事のほうで余裕ができ、明日歩と街を散歩していたときだった。 お日さまって、いっつも写真撮ってるの? 幼い明日歩はまぶしい青空を見上げてそう言った。 総一朗は、ははと笑ってそうだと答えた。 じゃあ、あたしたち、胸を張って歩かないとだね お日さまに、変なところ撮られたくないもん ちゃんとしたところ、撮って欲しいもん 今の僕は、胸を張って歩けるようになったかな…… 父親として、胸を張れるようになっただろうか。 明日歩は元気に育ってくれた。 いつだって元気よく胸を張って歩ける子供に育ってくれた。 総一朗はそんな明日歩をそばで見守っていたかった。 天文学者を辞めてから、科学館の天文クラブに明日歩が入りたいと言い出すと、だから総一朗は反対した。 どうしてもあの事故が脳裏に浮かび、明日歩をひとりで外に出したくないと考える。 自分と過ごす時間が減ってしまうし、なにより総一朗自身、星が嫌いになっていた。 本音を言えば明日歩が天クルに入ったことさえ反対したかった。 洋と一緒に星見をするより、ほかのデートを楽しんで欲しかった。 明日歩は自分を恨んでいるだろう。 今さら父親面をしても遅いと思っているだろう。 だけど明日歩は優しい子だから、そんな気持ちはおくびにも出さない。 ……まあ、今はケンカ中だけど。 どちらにしろ、自分にはできすぎの娘だった。 このまま仲直りができずとも、洋と一緒に幸せになってくれるのならそれで本望なのかもしれなかった。 ああ、今の僕はできた父親かもしれないなあ…… 総一朗の目尻に涙が光りそうになったとき、カランカランと来客を知らせるドアベルが鳴る。 やっほー ……客かと思ったら、キミか 客じゃないけど飲み物でも出してくれる? お代は取るからね 万夜花はカウンターに片肘をつくと、コーヒーを煎れ始める総一朗に不機嫌を隠さず言った。 あんたさ、なんでここにいるのよ ……いきなりだね。ここは僕の店なんだけど 私がコーヒー飲んだら、今日は店じまいよ 総一朗の眉間にしわが寄る。 ……ヒバリ祭に行くのかい? そうよ。あんたもちゃっちゃと支度して出るわよ 僕は仕事中なんだけどね 客なんか誰もいないじゃない そこに置いてあるグラスが見えないのかい? なにしてたの? 磨いていた そんなの今じゃなくてもできるでしょ バカ言っちゃいけない、そのグラスは店で一番高い…… 万夜花はグラスをはたき落とした。 なにする!? 総一朗がスライディングキャッチする。 あやうく割れるところだったぞ!? 割れなかったからいいじゃない ……いつまで経ってもクラッシャーだね、キミは 私がコーヒー飲んでる間に支度しなさい。これ以上ぐだぐだ言ってると今度はあんたを蹴り飛ばすわよ 総一朗がそろそろ我慢の限界に達したとき、タイミングよく緩衝材が姿を現す。 総一朗先輩 万夜花と同行していたのだろう、詩乃が控えめに歩み寄っていた。 ヒバリ祭を見て回りませんか? 天クルの写真展を見てきませんか? そこで、私たちの子供が、待っていますよ お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! お、一日目にも来たけど、また来たな お兄ちゃんがちゃんと受付の仕事やってるか心配だったからねっ 千波に心配されるほど落ちぶれてはいないのだが。 あ、あの……こんにちはです 鈴葉ちゃんが千波の後ろからおずおずと顔を出した。 一般客も参加できる二日目には、鈴葉ちゃんと同じく私服の人も校舎に多数見かけている。 いらっしゃい。ゆっくりしていってくれ は、はい…… 鈴葉ちゃんは千波の背中をつかんだままだ。 どうした、メアみたいに隠れて え、えと……人が多くて…… ……なんだかんだで、お客が入ってるから 蒼さんも鈴葉ちゃんの出向かいに寄ってくる。 壁やボードにかけられたパネルの前には、大盛況とまではいかないまでもぼちぼちと客が立ち寄ってくれている。 素人の写真展なんか見てなにがおもしろいのか理解に苦しみますけど こらこら、主催者側にあるまじき発言だぞ お、お姉ちゃんが撮った写真って、どれ? ……ええと これだよ や、やめてくださいっ…… 鈴葉ちゃんをパネルの一枚に案内する。 天クルの天体写真展は、春夏秋冬の星座の神話をテーマに構成されている。 写真の下にその星座の神話と、作者の名前も一緒に添えているのだ。 それらの中で、俺、姫榊、蒼さんの初心者組が担当したのが主に秋の星座だった。 俺たちが写真を撮り始めたのが初秋だったからと言えばそれまでなのだけど。 お姉ちゃんの写真、きれいな十字架だね ……はくちょう座の北十字。ほんとは夏の星座だから、撮りづらかったけど こっちはなに? ……顕微鏡座。南天の星空と違って、地平線に下の方が隠れてたけど わたしは、南天の星空ってほとんど覚えてないけど…… お姉ちゃんの写真みたいに、ステキだったんだろうね ………… 蒼さんがこの上なく照れている。レアものだ。 ほかに、お姉ちゃんが撮ったのは? ……まだ見たいの? うん。全部見たい ………… 鈴葉ちゃんにひっぱられ、蒼さんは真っ赤になりながら案内を始める。 鈴葉ちゃんは蒼さんに任せてよさそうだ。 お兄ちゃんお兄ちゃんっ 却下 まだなんにも言ってないよ!? 俺に案内してくれって言うんだろ。却下だ なんでなんでっ、昨日もそんなふうに言って千波のこと追い出そうとしてたし! 人に見せるのは恥ずかしい。蒼さんの気持ちがわかる。 どうせ写真に名前載ってるからバレバレなのになっ ……だったら案内もいらないだろ 千波はお兄ちゃんと一緒に見たいんだもん! 俺は受付があるんだよ。来場者にアンケート書いてもらったり やだやだお兄ちゃんは千波の案内係なんだもんっ、それが主催者のお客に対するマナーと責任なんだもん! えー、下に参りまーす それエレベーターの案内だから千波の頭アイアンクローしながら床に押しつけようとしないでお兄ちゃん!? お、ここね。相変わらず部室は視聴覚室のままなのねー 続いて万夜花さんの来場だ。 ちゃんと写真展になってるじゃない。去年のプラネタリウムもそうだけど、私たちの天文部よりある意味がんばってるわねー お母さん、いらっしゃいませ べつに来なくてよかったのに あんたたちが撮った写真はどれ? ……べつに見なくていいから 写真の下に作者の名前が載ってますよ これがこさめのね。へえ、ソツのない写真ね あんたに似て、一見すると非の打ち所がないけど、よく見ると粗かったりして最後の詰めが足りないって感じね お母さんらしい感想、ありがとうございます というか、評論家でもないくせになんでそんなに偉そうなのよ…… それに引き替えこっちは一見しただけでも下手くそねえ 悪かったわね! こももが撮ったやつなんだ そうよ! 下手くそねえ しょうがないでしょ初心者なんだから! こんなんじゃ、ヒバリ祭大賞ねらうのなんて百万光年早いんじゃないの 冷やかしだったらもう帰ってくれる!? ちなみに光年は時間ではなく距離の単位ですよ でもまあ、こももだったらたくさん努力して、うまく撮れるようになるんでしょうね 来年には大賞ねらえるようになるんでしょうね ……ふん 万夜花さんの案内は姫榊姉妹で決まりのようだ。 万夜花さん、先に行かないでください……。ここだとは思いましたけど 今度は詩乃さんがやって来る。 こんにちは、詩乃さん こんにちはー! こんにちは、ふたりとも。って、家族のあいさつとしては変かしら それじゃ、お帰りなさーい! ふふ。それも変かしらね 詩乃さんも見に来てくれたんですね ええ。毎年楽しみにしてるのよ。ヒバリ校は部活動が盛んだから、出し物も本格的でおもしろくって 今年は特に楽しみにしてたしね なにか目当ての出し物でもあったんですか? うん。洋ちゃんの写真展 ……俺ひとりでやってるわけじゃないですけどね ほかはもう回った? 午前中に回ってみました。どこも賑わってましたよ 午前中の受付は岡泉先輩に任せ、今は交代で俺がここにいるのだ。 姫榊姉妹や蒼さんも交代で休憩していたが、なんだかんだで写真展が気になるのか、今のようにみんながそろっていることが多かった。 今日はもうずっと写真展に? はい。最後に、後夜祭に出てみようと思ってます 踊る相手はいるものね ……まあ 洋ちゃんが撮った写真はどれ? ……これです。不格好にしか映ってませんけど ううん、とても綺麗 お世辞でもうれしいですね 写真は撮る対象もそうだけど、撮った本人の気持ちも大切なのよ だからこの写真は、とても綺麗で、あたたかい ……ええと 私が所属していた天文部の部長の言葉よ ということは、マスターの言葉なのか。 詩乃さんは写真を順に見て回る。 鈴葉ちゃんには蒼さんがついている、万夜花さんには姫榊姉妹がついている。 詩乃さんが来ちゃったら、お兄ちゃんを独り占めするのは諦めるしかないねっ 千波は俺の腕をひっぱり、詩乃さんのあとを追う。 受付の仕事があるので戻ろうとしたのだが、 こっちはいいよ。案内してあげたらいい 休憩に出ていた岡泉先輩がいつの間にか戻っていた。 すみませんと頭を下げると、岡泉先輩は手を上げて応えた。 あの……詩乃さん 詩乃さんは写真から視線を外し、俺を見る。 よかったら、写真の星座とか、説明しますよ 詩乃さんは天文部のOGだから必要ないかもしれないし、神話の説明だったらちゃんと写真に添えてある。 それでも詩乃さんはほほえんで受け入れてくれる。 ありがとう。お願いしようかしら 秋の神話は恋物語から冒険譚までそろっている。この日のために俺もいくつか覚えてきた。 それら神話を丁寧に語って聞かせる。 チャンスは今しかないかもしれない。 ずっと、言いたくても言えなかったこと。 ……詩乃さん ひとつの神話を語り終えたところで、切り出した。 俺、もっと天体写真、撮りたくて…… 声がたどたどしくなる。 もっとうまく、撮りたくて……それで こういうとき、俺はどんな顔をすればいいんだろう。 母さんに対してはどうだったかと考えたが、覚えていないせいか、なにも思い浮かばない。 詩乃さんが言う。 姉さんがね、言っていたの 洋ちゃんは、甘えない子供だって…… だから、俺は思い浮かばなかったのだろうか。 お小遣いをねだったこともない わがままを言って困らせることもない 親子喧嘩をしたことだってない だから…… 俺の隣にいる千波も神妙に聞いている。 姉さんも、きっと、今みたいな洋ちゃんを望んでいたんじゃないかしら ………… お兄ちゃん…… ……ああ、わかっている。 あの、ですね…… 俺…… 俺は、勇気を持って踏み出してみる。 ……天体望遠鏡が、欲しいんです うん だから……その…… うん 俺、詩乃さんに…… わがまま言っちゃダメよ 詩乃さんはマジメな顔でそう言った。 買いたいなら、自分で貯めて買いなさい ………… ……あれ。 一度ね、やってみたかったの 姉さんもやってみたかったと思うの あなたのわがままを、叱ること バイトは、続けてもいいから…… そして、詩乃さんの表情にほほえみが戻った。 欲しいものは、自分の力で手に入れなさい あなたは、明日歩ちゃんだって、そうやって手に入れたんでしょう? ………… はは……。 なんというか、力が抜けた。 ……えっと、結局どうなったの? 変わったところはあっても、なにも変わらないのよ 千波は首をかしげるばかり。 俺はといえば、マスターにまたバイトをお願いしなければと、そう考えていた。 もう、やましく思うこともなく、堂々とバイトできるのだ。 洋ちゃん、明日歩ちゃんは? 詩乃さんは首をめぐらせる。写真展に明日歩の姿はない。 裏にいますよ。呼んできましょうか? ちょっと待ってね。総一朗さんに聞いてみるから マスターも来場していたようだ。 俺たちから少し離れた場所で、秋以外──春、夏、冬の神話に沿った写真を眺めていた。 それは明日歩、こさめさん、岡泉先輩の担当した写真。 俺たちが所属する前から撮っていた天体写真の数々。 それだけじゃない、マスターが語って聞かせた星座の神話を思い描いて、明日歩は部活以外にも写真を撮っていた。 雲雀ヶ崎の星空は、まさに神話の宝庫だから。 明日歩はいつだって星空を眺めていた。 マスターを想って。 いつかのように、また語って聞かせて欲しいと祈りながら。 小河坂くん 詩乃さんが教えたのだろう、マスターが俺に気づいて声をかけた。 このパネルには、なにも飾らないのかい? マスターは夏の星座が飾られた区画に立っている。 ほかと違い、その一枚のパネルだけは空のままボードにかかっている。 タイトルは、雲雀ヶ崎の流れ星となっているけど…… お父さん その声に、マスターの言葉が止まる。 間に合って、よかった 明日歩がそこに立っている。 たった今、完成したの 歩み寄り、マスターの前で立ち止まり。 これが、天クルの写真展、最後の一枚だよ 明日歩は、一枚の絵画を胸に掲げた。 どうかな…… うまく描けてるかな 慣れてなくて、時間かかっちゃったけど…… 当日になっても終わらなくて、焦りもしたけど…… だけど、みんなが写真展の仕事を引き受けてくれたから あたしのために、がんばってくれたから だから、間に合った どうかな、お父さん 想い出の中の夕焼け空、うまく描けてるかな 雲雀ヶ崎の流れ星、うまく描けてるかな…… それは、俺が雲雀ヶ崎から都会へと引っ越し、明日歩が学校帰りに事故に遭った年にしか見られなかった流れ星。 陽が暮れる前でも大きく輝いた一番星。 写真として飾ることはできないから、明日歩の記憶だけを頼りにキャンバスの上に描くしかなかった。 それでも明日歩は見事に再現した。 明日歩はその想い出を曇らせずに守っていた。 あたしはね、お父さんが仕事ばかりで家にいなくても、平気だったんだよ お父さんは──星を追いかけていたお父さんは、あたしの好きなお父さんだったから だから、あたしも星を追いかけた 小学生のときに事故に遭ったのは、そのせいなの あたしの耳が悪かったせいじゃないんだよ 耳が悪かったあたしをひとりにしたせいじゃないんだよ お父さんのせいじゃないんだよ 全部、お父さんの勘違いだったんだよ ………… ……そうか そうだよ 僕は、明日歩が車の音をよく聞き取れなくて、事故を起こしたものだとばかり…… もう。ぜんぜん違うよ ……そうなのか そうだよ 僕は、こんなにも長い間、勘違いをしていたのか そうだよ お父さん、そそっかしいんだから ……そうだね それで、天文学者まで辞めちゃって あたしは辞めて欲しくなかったのに お父さんに天文学者、続けて欲しかったのに 星を追いかけてるお父さんが好きだったのに だから、お父さんが天文学者を辞めたって、あたしのためなんかにならないのに そそっかしいにもほどがあるんだから ……そうだね あたしが、お父さんの喫茶店を手伝ってたのだって…… お父さんが、喫茶店をやりながらでも、天文学者の仕事に戻れる余裕ができればって思って…… それで、手伝ってたのに…… お父さん、ぜんぜん気づいてくれなくて…… あたしも怒って、今日まで仲直りできなかった ……そうだね ごめんなさい、お父さん…… ……いや 僕のほうこそ、ごめん 気づいてあげられなくて、ごめん ああ、本当に 僕は、そそっかしい そそっかしかったんだなあ──── ヒバリ校のグラウンドでそれは始まる。 こんな間近で炎を見上げるのは初めてかもしれない。 後夜祭のファイアーストーム。 秋の夜風に舞い昇る火の粉が、満天の星空に溶けていく。 猛々しい〈櫓〉《やぐら》の赤と、穏やかな星々の白の照り返しの中を、俺は彼女と共に踏み出した。 ふたりで踊る、フォークダンスの曲に身を投じた。 ヒバリ祭大賞、残念だったね 俺たち初心者組が足ひっぱったかもな ううん、参加することに意義があるんだから 部費もらうって燃えてた明日歩とはひと味違うな あはは、でも来年は期待してるよ 岡泉先輩は卒業になるな 卒業しても部室に顔出すって言ってたよ OBでも堂々と校舎入っていいかどうか、こももちゃんに聞いてみるって ダメでも姫榊ならうまく生徒会を説得してくれるだろうし、一安心だな むー ヤキモチか? 洋ちゃん嫌い~! ステップを踏み、腕を引くと、明日歩との距離が近くなる。 明日歩は恥じらいながら俺の胸に手を添える。 それが、ふたりのかけがえのない距離。 右隣に寄り添うその位置は指定席。 だから、おたがいの言葉がたしかに届く。 ヒバリ祭も、もう終わりだね…… あっという間だったな うん。あっという間に終わっちゃった びっくりするくらいに 洋ちゃんが転入してからの、この三ヶ月…… いろんなことがあったよね 三ヶ月じゃなくて、三年くらい経ったみたいに感じる なのに、あっという間に過ぎちゃった…… 変わらないってことなのかもな 時間が経っても、変わらないから、あっという間? ああ ファイアーストームの炎に照らされた雲雀ヶ崎の空だって、変わらない。 星明かりが火の粉に隠れたとしても、そこにはやはり俺たちが望む星座が瞬いている。 あたしも…… あたしのこの恋も、変わらないでいられたらって、そう思う 変わらないさ だって、明日歩はずっと俺を好きでいてくれた 俺も、これから先、ずっと明日歩を好きなんだから 周囲で見ていた生徒たちも徐々に加わり、フォークダンスの輪はますます大きくなっていく。 歌って踊って、この熱気を炎に載せて夜空に還す。 みんなが輪になって、広がって…… こういうのを、大団円って言うのかな…… まだ終わりじゃないけどな ……うん。そうだね 明日はヒバリ祭の後片付けだ 明後日が振り替え休日になるんだよね 俺、またバイト始めるよ あたしもお手伝い、再開だよ 明日歩と共に、こうして日常を紡いでいく。 変わらずに、この距離で。 色褪せないふたりの記憶を手に入れて。 洋ちゃんと一緒に、想い出たくさん作るんだから! 春の星座って言ったら、北斗七星を上げる人が多いけど あたしは、おとめ座が一番好きかな おとめ座の一等星、スピカはラテン語で穀物の意味なんだって だからおとめ座の神話では、農業の女神デメテルが語られることが多いんだ デメテルは〈大神〉《たいしん》ゼウスの姉で、娘のペルセポネーをすごくかわいがってたの だけどある日、冥府の神ハデスにさらわれちゃって、そこでペルセポネーはハデスの〈妃〉《きさき》にされるんだけど…… 嘆き悲しんだデメテルは、〈洞穴〉《ほらあな》に閉じこもるようになって、そのせいで地上の草花が芽吹かなくなっちゃうの だからゼウスはペルセポネーを母の元に返すよう、ハデスに命じた ペルセポネーは、一年のうち四ヶ月間だけは夫のところ、残りの八ヶ月を母のところで暮らすようになった…… それが、草花がお休みする四ヶ月の冬の始まりだって言われてるんだ そうして寒かった冬が過ぎ、あたたかい春を迎えると俺たちは三年生になった。 クラス替えも行われ、俺と明日歩はクラスメイトにはなれなかったが、天クルの活動ではいつも一緒だった。 活動以外にもふたりで屋上をこっそり使い、星見をすることも多かった。 屋上のカギは部長となった明日歩の手に今はある。 だからこうして、俺の隣で春の星空を見上げている。 秋ほどひっそりとはしておらず、冬よりは華やかではない、可憐な夜空。 かわいらしく輝いた星々。 明日歩に一番似合う星空だった。 あと、春の星空って言ったら、やっぱりアレだね 北の空に昇る北斗七星、うしかい座のアークトゥルス、そしておとめ座のスピカ…… それらを結ぶと、ほら 大きなカーブになるな 春の大曲線だ。 それだけじゃないんだよ。純白のスピカと、オレンジ色のアークトゥルスは、春の夫婦〈星〉《ぼし》とも呼ばれてるんだ 織姫と彦星みたいな感じだな そうだね。そうなのかもしれない おとめ座のスピカは織姫、うしかい座のアークトゥルスは彦星なのかもしれないね だから俺は忘れないだろう。 明日歩と眺めたこの春の七夕を決して忘れないだろう。 そして、これからもふたりで眺めていくだろう。 たまにね、考えることがあるんだ…… 洋ちゃんは怒るかもしれないけど、まだ考えちゃうことがあるんだよ…… もしも洋ちゃんが子供の頃に引っ越さなかったら…… 離れ離れになることがなかったら 洋ちゃんは、どんな彦星になったのか 彦星は、やっぱり織姫を選んだのかな それとも、スピカを選んでくれたのかな…… 俺は、明日歩の肩を抱き寄せる。 間違ってるぞ、明日歩 え…… 俺は、そもそも彦星じゃないからな 小河坂洋は、南星明日歩が好きだからな ……キザだね 泣いたらダメだぞ 泣いてないもん…… もし泣いたら、キスするからな うん…… 泣いてないけど、してもらおうかな…… されたら、泣いちゃうかもしれないけどね…… その涙を悲しみには染めない。何度も思ってきたこと。 俺の天職となったのだから。 洋ちゃん…… 好きだよ、洋ちゃん ずっと、そばにいるからね 洋ちゃんの右隣にいて、笑ってるからね 明日歩は笑顔で、瞳には涙がたまって。 唇を重ねると、頬をすべる雫は流れ星のようだった。 天上の夫婦星が瞬いて、俺たちふたりに光を降らせていた。 夕焼けの中を落ちていく。 それは赤い闇だった。 すべてが赤い。 そんなただ中を落ちている。 どこもかしこも赤くて赤すぎて、だからどちらに落ちているのかわからない。 地面に落ちているのか、ひょっとしたら空に向かって落ちているのか……。 わかるのは、これが夢だということだ。 夢を見ていることを自覚している夢。 〈明晰夢〉《めいせきむ》。 この類の夢はうまくやれば自分の思い通りに内容をコントロールできるそうだ。 怖い夢を楽しい夢に変えることだって可能。 だからこれ以上は見たくない、一刻も早く夢から覚めたいと願うことができるのなら。 今すぐ覚醒することだってできそうなものなのに。 それはできない。 ある場面に行き着くまでは逃れられない。 頭が下か足が下かも判断つかない赤い闇を、一定の速度で落ちながら、ようやくそこに到達したとき。 地面、あるいは空にたたきつけられたとき。 初めてわたしは目覚めることができる。 その刻は差し迫っていた。 悲鳴を上げる準備をして待ち構える。 姫榊こももは、悪夢の中を、そうやって死んでいく。 ……最悪ね ベッドから起きるとパジャマは汗でぐっしょりだった。 こももは額を押さえて鈍い頭痛と激しい動悸に耐えながら、脳裏に残る今の夢を払拭しようと努める。 ……もうずっと見ていなかったのに。 十年近くは見ていなかったはずなのに、ここ最近はよくうなされるようになった。 夕焼けの中を落ちる夢。 それは赤い悪夢。 子供の頃にこの悪夢を見たわたしはどうだっただろう? 今のように不快な気分でムカムカしていたのか、それとももっと殊勝に怯えて涙でもしていたのか。 思い出すことはできなかった。 ……はあっ 肺に溜まっていた空気を吐き出す。 額に当てている手がうずく。 その手は展望台で裂傷を負い、二週間が経った今もまだ包帯が取れていない。 完治は二週間と診断されていたし、もう痛みはほとんどないのだが、まだ傷は消えていなかった。 日常生活の上でついこの手を使ってしまい、通常より治りが遅くなっているのかもしれない。 もっと小河坂くんをパシらせるんだったか…… 貸しを返してもらうという名目で神社の仕事は手伝ってもらっていたが、それ以外では特に要求をしなかった自分の慈悲深さが恨めしい。 ……今日も、昼から来るのよね 昼過ぎから洋と境内で落ちあい、打ち水と掃除をするのはすでに日課みたいなものだ。 夏祭りが終わり、夏休みの課題も終わらせたので特にいそがしくはない。そのため本当は自分ひとりでも充分こなせるのだけれど。 洋は手のケガをことさら気にしていて、ほとんど自分から手伝いに来ているようなものだった。 打ち水も掃除も片手では効率が悪いので、助かっている。 だからこももは洋の手伝いを反対せず、むしろ命令口調で押しつけている。 夏休みが終わるまでそれは続くだろう。 ……新学期まで、あと三日か 動悸は治まっていた。 気分が落ち着いてくると、ふと気づく。 こももは包帯の手を眼前に持ってくる。 なぜ、この悪夢が再発したのか。 なにがキッカケだったのか。 そうか。 じわり、と治りかけの傷がうずく。 あのとき、展望台に、初めて踏み入ったせいか……。 夏休みも残すところ三日となると、夏の終わりが近いのだと実感する。 お盆の前後はあれほどうるさかったセミの鳴き声も、今は途絶えがちだった。 まあ、おかげで相手の声は遠くからでもよく聞こえるようになったのだが。 遅いわよ、コガヨウ コガヨウって言うな あなたが遅かったのが悪い 時間どおりじゃなかったか? 二十秒の遅刻 細かいよ。 それに、十分前行動って何度言わせれば気がすむのよ。おかげで先に打ち水始めちゃったじゃない 今日も変わらず姫榊はいいやつだ。 その手じゃやりづらいだろ。俺がやるよ べつに水撒くくらいできるわよ そんなこと言ってるから治りが遅いんだよ 姫榊の手には痛々しい包帯が巻かれたままだ。 なのに打ち水をやっている。 姫榊は人に完全に押しつけることはしない。あくまで自分も仕事に加わるのだ。 神社の仕事だけじゃない、きっと家事の手伝いなんかでもそうなのだろう。 傷の治りが遅いのもうなずける。 傷は、もうほとんど治ってるから でもまだ包帯取れてないじゃないか お父さんがうるさくてね、しょうがなくよ。わたしは平気だって言ってるのに 医者の親御さんが言うなら、治ってない証拠だろ 大げさなのよ。たかが切り傷で あれは、たかがなんてレベルじゃない出血だったぞ みんな大げさなんだから いいからひしゃく貸せって ………… 無言で水かけるなよっ こっちはいいから、早く桶に水汲んできてよ 汲むからひしゃく貸してくれ しつこいったら なにムキになってんだ? ムキになってるのはそっちでしょっ 姫榊は俺から視線を外している。 わたしに借りがあるからって、よく毎日通えるわね…… 打ち水と掃除の手伝いか? ……そうよ。わたしだけじゃなくて、こさめの当番の日まで まあ、どうせならって感じでな 理解に苦しむんだけど 俺からすれば、これくらいで許してくれる姫榊のほうが信じられないな なんでそうなるのよ なんでそうならないんだ? 仕事を手伝えって言ったのはわたしだけど。でも、そもそも手の傷はあなたと関係ないじゃない そんなわけがない。 わたしが勝手にケガしただけじゃない…… 姫榊はこさめさんを制するのに薙刀を握った。 刃部を握ったのだ。 普通だったらそんなところはさわらない。薙刀は柄が長いし、そこをつかめばすむ話だ。 だが姫榊はそうしなかった。 それだけ姫榊に余裕がなかった証拠なのだ。 メアを襲った──俺を襲ったあの薙刀を、急いで止める必要があったのだ。 自分の身も顧みず。 ……まあ、手伝ってくれるなら止めないけど 実際、止められてないな もっといろいろ要求してやるから 最初からそのつもりだ 姫榊の手になれと言われたらなってやる。 じゃ、一つめの要求 どんと来い さっさと桶に水汲んできて その前にひしゃくを貸せ 水を撒くのはわたし。これ、二つめの要求。逆らったら蹴るから 暴君だ。 早く行きなさいったら わかったよ…… 観念するしかなさそうだ。 水場で水を汲んでいると、こさめさんの姿が見えた。 こんにちは、小河坂さん お邪魔してるよ 今日も精が出ますね こさめさんこそ、手伝ってくれるのか? こさめさんも姫榊と同じく巫女装束を着込んでいる。 ……ダメでしょうか? そんなことない お邪魔でしたら、控えますけど…… 逆にお願いしたいくらいだって ……ほんとですか? 当たり前だ あの展望台の一件以来、こさめさんは俺たちになにかと遠慮するようになっている。 責任を感じているんだと思う。 俺がこさめさんの当番の日も仕事を手伝っているのは、そういう理由もある。 遠慮なんかしなくていいんだからな ですけど、小河坂さんとしては姉さんと二人きりのほうがよろしいかと…… そっちの遠慮かよ!? どんな遠慮だと思ったんですか? いや……まあいいけど 今ではもう以前と同じこさめさんに戻ったということで、よしとする。 お手伝いしてもよろしいですか? もちろんだ。三人のほうが仕事も早くすむし ありがとうございます 感謝なんかいらない 受け取ってください。これは、姉さんの感謝も含まれているんです 姉さん、前よりも神社の仕事が好きになったみたいですから 向こうの姫榊を見ると、ぶつぶつ言いながら水を撒いている。好きになったようには見えない。 双子の妹のわたしが言うんだから、絶対ですよ こさめさんは楽しそうにほほえんでいた。 境内の打ち水と掃除を終えたあと、姫榊の家にお邪魔させてもらった。 どうぞ、小河坂さん。麦茶です お、どうも それ飲んだら帰ってね 和訳するとゆっくりしていってね、です わたしも日本語で言ったんだけど!? まあ長居するつもりはないから。夕方からバイトだし ……ふん それに、夜からは天クルの活動もありますしね 姫榊、今夜は出られそうか? 姫榊は天クルに入部している。監督するという理由で。 だが手の傷に響くということで、これまで参加できなかったのだ。 そうね。そろそろ廃部の理由探しに出てみようかしら どういう意味だよ…… 言葉どおりの意味よ 姉さんは天クルが大好きですから 言葉どおりの意味って言ったでしょ!? じゃあ天クルの天体観測、初参加か? しょうがなくね 今夜が姉さんの〈初体験〉《しょたいけん》になるんですね ……わざわざ卑猥に言い直さないでいいから 姫榊は机に肘を載せる。 ちょっと疲れたふうに。 仕事で疲れたか? ……そうね 姉さん、今日は朝から体調が悪そうでしたけど…… よけいなこと言わないでっ、お仕置きするわよっ はい……うっとり 姫榊、夏風邪か? そういうのじゃないから 姫榊は小さくため息をつく。 なにかあったのか? しつこい 気になるだろ なんでよ 友達として ……誰と誰が友達なのよ 仲間として 誰と誰が仲間なのよ 言う必要あるのか? ……絶対言わないで。かゆくなるから 和訳すると恋人と言って欲しい、です 誤訳にもほどがあるでしょ!? なんだ、元気じゃないか ……よけい疲労が増したわよ 姫榊は立ち上がる。 部屋に戻るのか? そうよ。そろそろ冷房が利いてると思うし 俺も帰るかな 勝手にすれば 帰らないで だから誤訳しないでくれる!? 姫榊はリビングから出る際、ちらりと俺を見る。 ……小河坂くん。最後に要求があった なんだ? くさい言葉禁止。わたしに向かって言ったら蹴るから ……肝に銘じておく ふん 姫榊は終始、眉間にしわが寄りっぱなしだ。 体調悪いなら天クルの活動、無理に出なくていいぞ ……出るわよ。本当になんでもないから 姫榊は居間を出ていった。 姉さん、機嫌がよかったですね ……俺には不機嫌にしか見えなかったぞ 不機嫌の姉さんはあんなものじゃないですよ。ずっと無言ですから で、こさめさんはがんばって姫榊を怒らせてしゃべらせるわけだ よくわかってらっしゃいますね 姫榊のこと、好きなんだな 姉さんはわたしのライフラインですから 言い得て妙なのかは、判断つかなかった。 ……こんばんは 望遠鏡の準備が整った頃、姫榊が不機嫌にやって来た。 来てあげたわよ ああ、よくやった ……意味もなく偉そうね そのセリフ、そっくりそのまま返したい。 洋ちゃんから聞いてたけど、ほんとに来たね 来て欲しくなかったみたいな言葉ね そんなことないよ。天体観測を楽しんでくれるなら わたしは顧問みたいなものだから ……そういうこと言わなきゃ歓迎してあげるのに べつに頼んでないから ……というか、誰? 夏祭りのときにも会ってるでしょっ、ワザとやってるでしょあなたっ 思い出しました、こもも先輩 名前は忘れたままでいいから! 姫榊は自分の名前が嫌いなんだなあと思う。 なにはともあれ、今日より姫榊クンは実質的にも僕らの仲間になるわけだ 仲間じゃありません。問題が起こらないよう監督するだけです 問題を起こしたらどうするんだい? 廃部にします シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 先輩、どうぞ 知恵の輪を渡すと岡泉先輩はおとなしくなる。 ……部長の挙動に問題あり。減点一、と チェックされていた。 こももちゃん、こさめちゃんは? 急用だとかでキャンセルだって。おかげでひとりで来るハメになったわよ ……こさめちゃんらしくないね。ドタキャンなんて なんの用か聞いてないのか? 詳しくは知らないけど、雪菜先輩に用だったみたいよ 雪菜先輩って風来坊みたいな人だから。夜にやっと連絡ついたらしくて ……雪菜先輩も、活動に来てくれないね 天クルでも風来坊みたいな人だからね ……私が目指す立ち位置です いや、頼むから幽霊部員にならないでくれ それじゃ、気を取り直して。明日歩クン はい。これより天クルの天体観測会を始めま~す! 明日歩の明るい声は瞬く間に俺たちの気分を晴らしてくれる。さすがは副部長。 で、なにするの? 夜空を見るんだよ それは知ってるけど こももちゃんは初心者だし、ほんとは望遠鏡の組み立てからやって欲しかったんだけどね 姫榊を待っている間に組み立ては終わっているのだ。 ……十分前行動したつもりなんだけど 俺ら、準備を考えていつも一時間前に集まるんだよ だったら神社の仕事ももっと早く来なさいよ ……そう来るか 私はこっちで星を見てますから 蒼さんが早速、別行動を取ろうとする。 蒼さん、たまには星じゃなくて違うのも見てみない? ……夜空を見るんじゃないんですか? そうだよ。でも、夜空はなにも星だけじゃないからね 今回は、惑星を観測してみようと思うんだ 姫榊は小首をかしげる。 べつに星でいいじゃない でも、初心者もいることだしね ……どういう意味よ 今夜は月が明るいからね。月明かりが多いと星の観測は難しいんだ よく見えないってこももちゃん文句言いそうだし 文句なんて言わないわよ。減点するだけで もっと〈性質〉《たち》悪いだろ…… そんなわけで、まずは月観測からやってみよっか 姫榊はやっぱり不機嫌そうだ。 姫榊。星嫌いなんだし、天体観測の入りとしてはいいんじゃないか? ……星でも月でも同じようなものよ 少しでも姫榊が興味を持ってくれるようにするのが、天クル部員としての務めだろう。 望遠鏡のピントを合わせ、姫榊に席をゆずる。 静かに浮かんだ月が俺たちを見下ろしている。 その視線が、レンズ越しの姫榊の眼差しと結ばれる。 これ……クレーターね ため息をつくような言葉。 それに、山と、谷と…… これは、海……? 望遠鏡で星を覗くよりも、月を覗いたほうが肉眼との違いははっきりと出る。 清冽な月の輝きを観賞し、次に俺たちは木星を見上げる。 淡い縞模様と大赤斑に染まった本体、その周囲に四つの衛星が寄り添っている。 木星はね、太陽になり損ねた星と言われる、太陽系最大の惑星だよ 衛星のひとつであるエウロパには、生物がいるともささやかれている。木星が太陽なら、さながらエウロパは地球だろうね 姫榊は無言でそれらを眺めていた。 月、木星と続き、最後に夏の星座も観測した。 月明かりが邪魔をしても、明るい星なら見えやすい。 はくちょう座の一部であるアルビレオは、黄金とエメラルドの〈二重星〉《ダブルスター》だ。 肉眼では決してわからない、望遠鏡を覗くことで初めて望める光だった。 姫榊は、嫌っていた星の正体を、初めて知ったことになる。 姫榊 時間となり、皆が望遠鏡を片付ける中、姫榊に聞いてみた。 天クルの活動はどうだった? ……今のところ健全ね いつだって健全だけどな それを決めるのはわたしだから 天体観測をしてみた感想は? まあまあだった まだ星は嫌いか? まあまあって言ったでしょう 嫌いじゃないってことだな まあまあ嫌い ……あ、そう 姫榊は後片付けの最中の部員を、物憂げに眺めている。 夏休み中の活動は、もう終わりよね そうなるな 週が明けたら、学校だものね 姫榊は続けようとした言葉を、躊躇した。 どうした? ……小河坂くん なんだ わたし、言ってたわよね。二学期になったら正式にお願いするって 姫榊の声は真剣味を帯びている。 生徒会には…… 入るよ 姫榊は目を見開く。 ……断ると思ってた 姫榊には借りがあるからな そんな理由なら、入らなくていいわ そっぽを向く。 嫌々で務まるような、無責任な仕事じゃないから あなたのやる気が問題なんだから そっか そうよ じゃあ、責任持って務めてみるか ……あっさり言われても説得力ないんだけど これでも悩んだんだけどな 天クルはいいの? もちろん両立する そう簡単にいくかしらね。秋は生徒主導の行事が多いから、生徒会はいそがしいわよ それでも両立するから ……ふん 姫榊はいつも変わらず不機嫌だ。 機嫌がいいのなんか見たことがない。 だけど、こさめさんなら言うんだろうか。 それでも姫榊は、機嫌がいいのだと。 二学期になったら、正式に入ってもらうわ ああ ほんと、どんな風の吹き回しなんだか 姫榊のせいだろうな 責任転嫁? 事実だよ 仕事に対して誠実な姫榊を見て、生徒のために働くのも悪くないと思ったのだ。 俺は、ヒバリ校が好きだからな 今夜は、月がキレイだな そうですね。姉さんも、きっとこの月を観測しているんだと思います 星を観測するよりは気が楽なのだろうな ………… 姉の様子はどうだった ………… 私を呼んだのは、姉についてなんだろう ……はい。ここ最近、姉さんの様子が変なんです 過去と同じく、悪夢にうなされているんだと思います 雪菜先輩に、それを伝えたかったんです そうか はい 悪夢の再発は、展望台に入ったためだろうな 姫榊こももは、ようやくその場所に足を踏み入れることができた もはや、ゴールテープは切られたんだ ならば展望台の死神に構っていることもない ……お仕事を始めるんですか? 言っただろう、ゴールテープは切られたんだ。仕事はもう終わったようなものだ 残っているのはクールダウンくらいなものさ ………… 目的はほぼ達せられたと言って過言じゃない なのに…… はは、やってくれたよ。本当に クールダウンのほうが辛いマラソンなど、初めてだな ………… これがキミの目的だったのか? 私に近づいたのは、このためか? なあ、こさめ ……初めて名前で呼んでくれましたね キミの目的はなんだ? ……考えすぎですよ。目的なんて、ありません 雪菜先輩のお仕事が成功することを、祈っていますね 長い夏休みが明け、今日より二学期が始まった。 といっても始業式とホームルームで本日は終了、学校は午前で開放となった。 登校日と似たようなスケジュール。平常の授業が始まるのは明日からだ。 二学期になったから、天クルも部になったんだよな そのはずですよ こももちゃんが部活会議に出てるから、普通ならそこで認められるんだろうけど…… 姫榊ならしっかり仕事するだろ むー ……姫榊はもう天クルの仲間だろ? 信用しろって そうしたいのはやまやまだけど、長年培ったこももちゃんへの恨みつらみが邪魔するんだよ…… 一年生の頃から犬猿の仲でしたからね 原因はこの天クルだろうけど。 部として認められたら、部費をもらいにいかないとね 天クルの名前はどうします? 変えます? 天体観測愛好サークルのままですと、サークルと間違われそうですからね あたしはべつにこのままでもいいって思うよ。愛着湧いちゃってるし 俺も同感かもしれない。 蒼さんが来たら、多数決でも取って決めようか ついでに天クルの活動予定も立てないといけませんね ちょうどよく部室の扉が開いた。 入るわよ 蒼さんかと思ったら、姫榊だった。 なんだ、こももちゃんか ……朗報持ってきてあげたのにずいぶんな態度ね 朗報ってことは、じゃあ 天クルは本日をもって正式に部活として認められました おおーっ! と歓声が上がる。 それと、わたしとメアって自称死神の子も部員として登録されたから じゃあ、これで総勢八人か 大所帯になってきたね~ 廃部の危機にあった一学期には考えられなかったなあ 岡泉先輩が遠い目をする。 よろこぶ皆を、姫榊は複雑な顔で見やっていた。 姉さん、座ってください。部の名前と、活動予定を立てようってみんなで話していたところだったんです ……遠慮しておく。それより 姫榊の視線が俺に移動する。 小河坂くん、行くわよ ……行く? どこに? 生徒会室に もしかして、そこで俺をほかの役員に紹介? そうよ 驚いたのは明日歩だった。 なんだよ急にっ べつに急じゃないわ 洋ちゃん、生徒会になんか入らないよね! 南星さんは黙ってて 岡泉先輩とこさめさんは成り行きを見守っている。 小河坂くん、言ったと思うけど、生徒会は今後とてもいそがしくなるの なのに生徒会は今、人出が足りない 三年生の役員は受験勉強で時間をあまり割けなくなるから、特にね だからわたしはあなたの力を借りたいと思ってる。わたしだけじゃない、ほかの役員もそう思ってる 小河坂くん、生徒会に入ってくれる? だから入るわけないじゃないっ 明日歩 ちゃんと話せばわかってくれるだろう。 俺、生徒会に…… むー! 威嚇される。 ……天クルを辞めるわけじゃないからさ 洋ちゃん、入るの? そのつもりだ 裏切り者~! い、いや、だから天クルは辞めないからっ 裏切り者だね 裏切り者さんですね 非難が集中する。 ……岡泉先輩は賛成してたんじゃなかったか? 明日歩クンとこさめクンが反対するのならそれに同意するよ。僕は長いものに巻かれたいからね そんなセリフをさわやかに言える先輩はただ者じゃない。 多数決の結果洋ちゃんは生徒会に入らないことに決定だからねっ い、いや、ちゃんと両立するからっ、部活にも顔出すからっ 今から活動予定立てるって言ってたのに~! すぐ戻ってくるからっ 夕方までミーティングあるから戻ってこれないわよ 裏切り者~! 裏切り者だね 裏切り者さんですね ……人を入部させておいて、これですか 非難が+1する。 小河坂くん、遅くなると嫌だし行くわよ い、いや、もうちょっと弁解させてくれっ いいかげん観念しなさいよ裏切り者 おまえに言われる筋合いないんだけど!? さっさと行けばいいじゃない裏切り者~! 先方を待たせるのも悪いからね、裏切り者 今生の別れにならないことを祈っていますね、裏切り者さん ……裏切り者、カッコ悪い だから俺は裏切り者じゃないんだって! 諦めなさい、あなたの居場所はもうここにはないの 元凶がしたり顔でなに言ってんだ!? それじゃ、行くわよ 洋ちゃんなんか大嫌い──────っ!!! 先が思いやられる展開だった。 そんなこんなで、生徒会室で紹介されたあと、ミーティングをこなしたらこんな時間になっていた。 どんな顔して部室に戻ればいいんだ…… もうみんな帰ったんじゃない? 戻らなくていいと思うけど あのな。姫榊だって部員なんだぞ わたしは監督。部員として馴れあうつもりないから 嘆息せざるを得ない。 俺は姫榊の推薦というかたちで生徒会に入会となり、ほかの面々と簡単なあいさつを交わしてからミーティングに参加した。 といっても新参者の俺は見ているだけだったが。 来月から学園祭……か ここではヒバリ祭って言うほうがしっくりくるけどね ミーティングの内容は来月に控える学園祭──ヒバリ祭についてだった。 まだ一ヶ月先とはいえ、生徒会役員は実行委員として一般生徒よりも早くから動かなければならないそうだ。 今日は、去年まで催されてきたヒバリ祭のイベントプログラムを確認しながら、改善すべき部分の意見を出しあっていた。 体育館を使用する演劇部や軽音部から上演時間の要望が届いている等、すでに出し物の準備を進めている部活のサポートも始めなければならないという。 生徒会は、すでにヒバリ祭の渦中にある。 クラスの展示なんかは、開催日の二週間前から準備を始めるのが普通なんだけどね ヒバリ校は部活動が盛んだし、どちらかというと部活の出し物のほうが盛り上がるのよ 天クルも、通常の二週間前より早く準備が始まるってことか わたしたちはあまり手伝えないでしょうけどね 俺は両立するけどな できればいいけどね 生徒会は今後ますますいそがしくなる。役員たちにはどの仕事も手を抜くような気配はない。 皆、ヒバリ校が好きなのだ。その気持ちが伝わってきた。 生徒会というとどうも悪の組織めいた印象があったのだが、杞憂に終わったわけだ。 そのぶん、俺も必死に仕事をこなさなければならないんだろう。 ヒバリ祭が終わるまで、ミーティングはほとんど毎日あると思うから。覚悟しなさいね 出席はするけど、右も左もわからない新米だからな。そんな役立てそうにない 力仕事もあるから大丈夫よ ……お手柔らかにな ヒバリ祭はそれでいいから、慣れてきたら今後は事務のほうも役立ってもらわないとね わかったよ 来年度にはもっと役立ってもらわないとね 待ってくれ。 来年度もやるとは言ってないぞ 生徒会役員の任期は基本二年だけど 聞いてないから 言ってないし そういうことは先に言ってくれ 駄々こねられそうだったから そりゃそうだろ 言わないでおいてよかったわ ……そうじゃないだろ 小河坂くんは一度引き受けた仕事を放り出すような無責任な人じゃないって知ってるから 頭が痛かった。 ……まあ、どうせ天クルと両立するしな 来期もやってくれるんでしょ? しょうがなくな 結果的にそう答えてくれるんだから、駄々こねられる無駄な時間がはぶかれてよかったわ あまりにも腑に落ちなかった。 わたし、これから病院寄っていくから 手のケガの診察か 定期検診なのよね。そんなの必要ないのに、お父さんがうるさくて 時間あるし、俺もついていくかな ……来てもおもしろくもなんともないわよ そんなの期待してない じゃあなんで来るのよ なんでだろう。 ……責任感じてるなら、間違いだからね それを決めるのは姫榊じゃなくて俺だからな ……ふん 病院までは電車か? そうね。ここからだと二駅 近いし、俺も行くよ バイトはいいの? そっちはかなり自由きくから ついてきてもいいけど、おとなしくしてなさいね 俺は子供か…… キセルは許さないからね するかっ 生徒会役員として恥ずかしくない振る舞いでお願いね ……姫榊ってやっぱり委員長体質だよな べつに好きでそうなってるんじゃないわよ なにかやむを得ない事情でもあるのか? ……そんなのないけど 性格なんだな 悪かったわね 悪くはないけど 文句ありげじゃない もっと肩の力を抜いてもいいんじゃないかと思っただけだよ ………… 眉間にしわばかり寄せてると、美人が台無しだぞ ……こさめみたいなこと言わないで 姫榊は不機嫌MAXで坂を下りていく。 美人を否定しないところが、姫榊らしいと言うべきか。 隣町の病院で診察を受けた姫榊は、ついに手から包帯を解くことを許された。 肩の荷が下りた心地だった。 ただ、胸のもやもやが消えたとは言い難い。 俺は姫榊の手になってもよかった。姫榊が要求をしてくるなら応えようと思っていた。 だが実際は、神社の仕事の手伝いくらいなものだった。 だから、もっと借りは大きいと思っていた俺だから。 ……神社の仕事、まだ手伝ってくれるの? 病院から家まで送りがてら、言ってみた。 夏休み中は日課みたいになってたからな もう新学期なんだけど 言ってみただけだ。嫌ならいいんだ ……嫌とは言ってないけど 考え込むような仕草。 なにか企んでるの? ……純粋な厚意だ まあ貸しはまだ返してもらってないからね そう言うと思ってた じゃあ土日の仕事だけ手伝ってくれる? 了解 一時間前行動を心がけなさいね ……十分じゃなくてか 天クルではそうだったんでしょう いや、あれは望遠鏡の準備があるからで 一時間かけて打ち水の準備お願い 暴君だ。 ……わかったよ。それじゃ、また明日 帰ろうとしたところで。 わたしもひとつ、厚意があるんだけど なんだろう。 小河坂くんに対してじゃないんだけどね 姫榊は言いづらそうにして、 ……今夜、メアさんに会わせてくれる? 顔を背けている。 いいけど、なにか用か? ……こさめが妙なことしたからね。姉として、まだ謝罪してなかったから 恥ずかしそうにしている。 姫榊っていいやつだな う、うるさいっ、はいかイエスで答えなさいっ もちろん、そのどちらかしか答えようがない。 じゃあ夕飯食べたら、俺の家寄ってくれるか? ……何時に行けばいいの 星が見えてれば、いつでもいい 今夜も、きっと晴れるからな こんばんは ああ。待ってた 姫榊が来たのは夜の八時だった。 時間も遅いし、行きましょう そうだな 余分な会話は挟まない。姫榊はいつだってそう。 そうだ。メアさん、甘いもの平気かしら ……手みやげまであるのか 謝罪の意味でね そして、いつだって生真面目だ。 メアの好みは知らないけど、こういうのって気持ちの問題だからな そう言ってもらえると助かるわ 俺たちはそろって家を出る。 この時間だと、けっこう寒いな もう九月だからね。それに、雲雀ヶ崎は都会に比べると気温が下がるのも早いんじゃないかしら 秋物の服、出さないとだな 体調には気をつけなさいね。いそがしいときに倒れられると困るから 天クルの出し物の準備があるだろうしな 実行委員の仕事が最優先よ 俺の中では同率なんだけどな まだ役員としての自覚が足りないようね 先立って歩く姫榊を、ため息混じりに追っていく。 今だから聞くけど、メアさんってあなたとどういう関係なの? ただの友達だよ そのわりに歳が離れすぎてない? 友達に年差も性差も関係ないだろ どちらも異議ありね。特に後者 男女の関係に友情はないなんて言わないよな 言おうと思ったんだけど 俺と姫榊の関係は恋人じゃないだろ 当たり前でしょ!? じゃあ友達だろ 友達でもないわ ……じゃあなんなんだ 知りあいでしょ 淡泊な関係である。 もしくは同僚ね。上司と部下でもいいけど ……もう知りあいでいい メアさんとはどこで知りあったの? 展望台だよ 夜によく星見してるって聞いてたけど。メアさんひとりで来てるの? そうだよ ……家庭に問題があるのかしら メアいわく、家族はいないらしいけど ………… 姫榊はさ 聞くなら今しかないだろう。 メアが、〈夢幻〉《ゆめまぼろし》だって思うか? ………… 人間じゃない、ただの幻覚だって思うか? 悪夢だって思うか? ……こさめがそんなこと言ってたわね ああ バカバカしいと一蹴するだろうか。 小河坂くんは、メアさんを小さな女の子だって思ってるわよね そんなことを尋ねてくる。 そうよね? そうだな。小さな死神少女だ あの衣装とカマだものね、わたしも一目見て死神のコスプレかと思ったわ それがなんだ? もしメアさんが本当に幻覚だとしたら、わたしたちはまったく同じ幻覚を見ているってことになる 集団幻覚ってやつだな これで、わたしたちが見ているメアさんの容姿がバラバラだったら、幻覚の原因は個々人にあるから病院にいきましょうって結論なんでしょうけど 現実にはそうじゃないから、違うところに原因があるんだろう。 幻覚の原因は、場所にあるのかもしれないわね ……展望台か? たとえば、その展望台から幻覚ガスが漏れている。誰かが怪しい薬品を不法投棄したとかね メアは展望台だけに現れるわけじゃないぞ たとえばビーチやヒバリ校の屋上にも同じ薬品が投棄されていた メアはカメラにも映ったんだぞ? 量子論では観測して初めて存在が確定するなんて解釈があるけど、それをこじつければどうにかなるんじゃない 量子論はミクロの話じゃなかったか? じゃあ相対性理論と合体した量子重力理論でも持ってくればいいんじゃない んな投げやりな わたしが言いたいのは、メアさんが何者かなんて原理はいくらでも後付けできるってことよ ここで議論したって時間の無駄。幻覚だろうが悪夢だろうがわたしたちにとっては問題にならない この手みやげ渡して謝罪するほうがよっぽど大事なんだから その返答で、姫榊の手の傷が癒えたことと同じくらい、肩の荷が下りた気がした。 ……俺はやっぱり、頭でっかちなんだろうな。 記憶喪失やら幻覚やらを調べたのも、なにか明確な根拠がないと不安だったせいだろうから。 ……それに、メアさんはあなたの友達なんでしょう そうだな ふん 姫榊も友達だ ……くさい言葉禁止だってば 姫榊の歩くペースが速くなり、俺は頭をかいてついていく。 姫榊はフェンスの前で立ち止まる。 横手の林に入ろうとはせず、編み目の奥をじっと見据えていた。 どうした? ……頭痛い 額に手を当てる。 なんに呆れたんだ? ……じゃなくて 体調悪いのか? ……そうみたい 姫榊はなにかに耐えている感じ。 展望台は苦手だと聞いていたが、それに関係しているんだろうか。 ……後日にするか? ううん うつむかせていた顔を上げた。 行くわよ 言うが早いか林に入っていく。 姫榊と行動を共にすると、どうも後ろを歩くことが多い。 たしかに、友達というよりは上司と部下の関係だ。 一見して、メアはいない。 だがどこかにいるだろう。 展望台の一件以来、天クルの活動には混ざっていなかったメアだったが、ここで俺と星見は何度かしていたのだ。 こさめさんに対してメアはどう考えているのか。尋ねるとむすっとするが、それだけだ。 こさめさんは、メアには二度と手を出さないと俺に誓ってくれた。それをメアには話している。 メアはやはりむすっとするだけで、答えなかった。 姫榊の謝罪もそんなふうに受け入れるんだろうか。 こさめは、ひとりでメアさんに会ったなんてことはないわよね ああ。あれ以来、一度も会ってないと思う わたしが言える立場じゃないけど、もしメアさんが許してくれたら…… こさめさんを責めることはしない。俺も、たぶんメアも ………… というか、今までだって一度もしてないと思うんだけどな ……それについては感謝するわ こさめさんは、姫榊が今夜メアに会うこと知ってるのか? 知らないわ。言ってないから いいのか? なにがよ こさめさん、知ったら気にするだろ 知らなければいい。だから、絶対言わないでね 妹想いだな ……ふん 姫榊は俺から顔を背け、展望台をざっと見回す。 メアさん、まだ来てないようね いや、たぶんもういる 見えないけど 隠れてるんだろ ……なんでよ 人見知りするんだ わたし、メアさんとはいちおう面識あるわよ メアって忘れっぽいんだ ……じゃあどうするのよ 捜して見つける 歩き出そうとしたところで、 待ちなさいっ、ちょっと疑問なんだけど なんだ? メアさんに、事前に連絡取ってくれたのよね いや、してないけど なんでよっ メアはケータイ持ってないしな 連絡先は? なにも知らない ……本当に会えるんでしょうね それは間違いない ……どこからその自信が来るんだか 経験則だ 今度こそ歩き出す。 姫榊は疲れた顔でついてくる。 まだ頭痛いのか? あなたのせいでね なんでだよ…… メアさんに会わせてくれるのは感謝するけど、これで借りを返したなんて思わないでね ……わかってるって 行くわよ 姫榊は先頭に立とうとする。 俺は逆方向に向かう。 待ちなさいよコガヨウっ コガヨウ言うなっ なんで逆に歩くのよっ いや、こっちかなーと ……わかった。じゃあ行くわよ 歩いていくので反対に向かう。 待ちなさいって言ってるでしょ!? そっちが勝手に先に行くんだろ…… ちゃんとついてきなさいよっ いや、やっぱりこっちかなーと ……ワザとやってるんじゃないでしょうね 姫榊っていつも先頭に立とうとするよな ……そんなつもりないけど 展望台に入ったの、まだ二度目だよな。詳しくないんだから、俺についてくればいいだろ 人の後ろ歩くのってイライラするのよ。背中を蹴りたくなるっていうか 物騒なことこの上ない。 とりあえずこっちだ、クラッシャー姫榊 二度言ったら両足で蹴るわよ!? 背後から敵意っぽい視線を受けながら展望台を散策する。 ……………。 ………。 …。 ……見つからないな コガヨウ…… 背中の敵意が殺意に変わる。 い、いやっ、もしかしたらヒバリ校かもしれない 以前に見つからなかったときは、そこにいたのだ。 ヒバリ校って……この時間に? たぶん。いや、絶対だ なんでわかるの? 前にそこで会ったんだ あなた、なんで夜間のヒバリ校に入ってるの? ……やば。 夜間は校舎に入れない。入るには許可が必要 わたし、あなたが許可を取ったなんて知らせは受けてないんだけど 連絡ミスだな 調べればすぐわかるんだけど、弁解は? ……肝試しをしてました 生徒会役員としての自覚が足りないようね まだ役員じゃなかった頃の話だが。 今回は厳重注意で終わらせるけど、次やったら査問にかけるからね 犯罪者扱いかよっ 校則違反は犯罪よ 姫榊が法の番人に見えてきた。 メアさん、本当に校舎に入ってるの? 俺はそう思う ……会ったら注意しなくちゃ これからヒバリ校か? 行くわけないでしょう。わたしだって許可なく入れないんだから メアに謝罪は? 出直すしかないようね 今回は骨折り損に終わったわけだ。 ……今日は悪かったな その謝罪は、肝試しなんかで迷惑かけた警備員に向けるべきね べつに迷惑はかけてないぞ 結果じゃなくて過程が重要なの 言葉の使いどころが違う気もするが。 役員として先が思いやられるわね 姫榊さ なによ そんな言動ばかりだと美人が台無しだぞ ……減点一、と なんで天クルの減点になるんだよ!? う、うるさいっ、唐突に妙なこと言うからでしょっ 照れているのかもしれない。 さっさと帰るわよっ、頭痛いんだからっ そして帰りも先頭に立つ姫榊だった。 べつに送ってくれなくてもよかったのに そんなわけにいかない わたしはこさめと違って文武両道よ それでもだ。というか、こさめさんは運動神経いいと思うぞ わたしに比べればまだまだね 姉としての虚勢か 虚勢じゃないっ、威厳って言いなさいっ 出来のいい妹を持つと苦労するな そんなこと生まれてこの方考えたこともないわよ 姫榊も出来がいいからか よくわかってるじゃない メアに会いたかったらいつでも連絡くれ そうする。ありがと 頭痛は? 心配ないから。それじゃ、また明日 無理はするなよ。おやすみ おやすみなさい 姫榊は駅に消えていった。 姫榊の会話はテンポが早い。それだけ頭の回転も速いってことなんだろう。 ……優秀だな、ほんと そんな彼女が上司なら、部下のやりがいもあるのかもしれなかった。 授業が本格的に始まった今日。 一学期と同様の時間割をこなして、帰りのホームルームには先生からヒバリ祭の連絡があった。 開催日は十月。生徒会のミーティングでも聞いている。 まだ一ヶ月先だからか、先生からは日取りの話だけで終わっていた。 洋ちゃん、今日はちゃんと部活するよね? 昨日はあれだけ怒っていた明日歩だったが、普段と同様に接してくれるのがありがたかった。 部室、顔出してくれるよね? ああ。両立するって言ったからにはな 生徒会のほうは平気なんですか? 姫榊はなにも言ってないしな ミーティングはほぼ毎日と聞いてはいるが、今日行うとは聞いていない。 なんだよ小河坂、生徒会に入ったのか? 成り行きでな そんなんでよく入れたな 姉さんの推薦ですから、ほかの役員の方々も反対しなかったんじゃないでしょうか 気になってたんだけど、なんでこももちゃん、洋ちゃんを推薦したんだろ 小河坂さんが優秀だからですよ 成績の話か? 赤点取ってたじゃねーか それは忘れてくれ 小河坂さんの初めての汚点ですね ……そういう意味じゃなくて。千波に示しがつかないからさ 兄としてテスト勉強しろと強く言えなくなってしまう。 洋ちゃん、小学生の頃も学年トップだったもんね なぜか明日歩は誇らしげだ。 明日歩さん、小河坂さんが生徒会役員になったこと、認めたんですか? それはもちろん別問題! 昨日は悪かったな 生徒会よりも顔出してくれるなら許してあげる 肝に銘じとくよ 天クルに居場所があってホッと安堵。 失礼 姫榊が俺たちのクラスに登場する。 ちょっとそこのコガヨウ いいかげんそれやめろ 人のクラス勝手に入らないでっ 生徒会役員として用があるのよ、クラス委員さん ……もしかして 小河坂くん。なんで生徒会室に来ないのよ ……今日もミーティングあるのか? ほぼ毎日あるって言ったでしょ ………… 明日歩の眼差しが痛い。 ……姫榊、今日やるとは聞いてないぞ 聞いてなかったら、自分から聞きに来なさい。もしくは生徒会室に貼ってある連絡票を確認しなさい そんなの知らないし 自覚が足りないようね 美人が台無しだぞ 関係ないからっ 小河坂さん、これから生徒会室ですか? ……ええと ………… 明日歩…… むー! なにも言わないうちから威嚇される。 天クルだって毎日活動するんだよっ、昨日そう決めたんだからっ 屋上のカギを毎日なんて貸せないわよ なんでだよ~! わたしが決めたから 横暴反対! こももちゃんカッコ悪い! うるさいっ、これまで使用禁止だったんだから常時開放なんてすぐには無理なのよっ、なんのためにわたしが監督やってると思ってるの! 姫榊、屋上を毎日使えるようにするために部員になってくれたのか 姫榊はうっとうめいた。 天クルは問題を起こさない部活だって生徒会の皆さんに知らせるためだったんですね まあ生徒会役員が部員になってりゃ、先生だって説得しやすいだろうしな ほんと、姫榊っていいやつだよな 生真面目っつーか ステキです…… う、うるさいっ、たまたまそうなってるだけよっ ……あたしの中のこももちゃん像が 変革が起きつつあるようだ。 姫榊は真っ赤になりながらコホンと咳をする。 ……とにかく、活動は週一回にしておきなさい。その日くらい小河坂くんを貸してあげるから それじゃ洋ちゃん参加するの週一だけじゃない~! ミーティングのない日も貸してあげるから 天体観測は週一でも天クルのミーティングは毎日あるんだよ~! なんのミーティングよいったいっ ヒバリ祭の出し物決めなきゃいけないんだよ~! 不参加でいいじゃない やだよそんなの~! じゃあ去年やった自作プラネタリウムでいいじゃない。勝手がわかってるから準備もスムーズだろうし こももちゃんが決めないでよ~! 小河坂くん、生徒会室に行くわよ ……いや、こんな状態で行けないって わたしたちのことは気にせずいってらっしゃいませ、裏切り者さん 勝手にしたらいいじゃない裏切り者~! 天クルでの居場所が本気でなくなりそうだ。 姫榊、悪いけど 小河坂くんは一度引き受けた仕事を放り出すような無責任な人じゃないって知ってるから その言い方は卑怯だろっ なにか間違ってる? ……明日歩、悪いけど 裏切り者裏切り者裏切り者~! ……誰か助けてくれ。 姉さん こさめさんが俺にウインクし、姫榊に向き直った。 今日のところは、ひとまずお引き取り願えませんか……? ち、ちょっ、教室でも!? 姉さんと明日歩さんがいがみ合うのは、耐えられませんから…… ま、待ってっ、見てるっ、みんな見てる……! これ以上、姉さんの怒った顔を見たくありませんから…… や、やだっ、ほどくのダメっ、脱がすのダメっ……! なにより姉さんの困った顔を見たいから…… ふあっ、やっ、さ、さわらなっ……! 見せて……もっと姉さんのせつないところを見せて…… やめっ……てえ……はああっ……! かわいい……食べてしまいたい…… だめえっ……こさめぇ……! もっと……もっと…… やめ……なさいって言ってるでしょ!! 姫榊はこさめさんを押しやると、涙ぐみながら急いで乱れた制服を整える。 ……はしたないところをお見せしました 仲裁してくれるのはありがたいが、そのたびに衆目を浴びる姫榊に同情を禁じ得ない。 き、今日のところはこれで勘弁してやるわ! ごめんね、こももちゃん…… 同情されるとムカつくんだけど!? くくっ、作戦どおり姫榊のあられもない写真をゲットだぜ、小河坂 俺が首謀者みたいに言うなよ!? これをヒバリ祭で売りさばけばオカ研の活動費用も…… 姫榊は飛鳥のカメラをはたき落として踏みつぶした。 相棒おおおおぉぉぉぉ────っ!!!! 今日のところはこれで勘弁してやるわ!! 二回言った。 こさめっ、家に帰ったら覚えておきなさいよ! はい……うっとり 小河坂くん! ……なんでしょう ゲンメツしたから 俺は首謀者じゃないんだって!? 姫榊は怒り心頭で帰っていった。 ……こさめちゃん、こももちゃんのこと好きだよね SはMに愛情を与え、MはSから幸福を得るものですから なんの話だ。 オレの……三台目のカメラまで…… ……俺は悪くないけど、悪かった 悪いと思うなら、生徒会役員の権限使ってヒバリ祭のためにどこか教室押さえてくれ オカ研の出し物ですか? ああ。写真売りまくって資金集めねえとな。最新モデルのカメラ買うために 買い換え時ならちょうどよかったね ……よくねえよ。これで予備のカメラも全部なくなっちまったんだぞ 姫榊の戦歴は順調に伸びている。 どこかからカメラ調達するしかねえか……。行きつけの店でモニターでもすっかな いかがわしい写真は売るなよ オレの本業はオカルトだ。写真っつったらUFOしかねえだろ そんなの売れるんだろうか。 そろそろ部室行こっか。岡泉先輩と蒼さんが待ってると思うし 明日歩、俺さ、途中で抜けるよ むー ……悪い。このとおり 生徒会のミーティング、出るんですね 姫榊にも悪いことしたから 多忙だな。両立できんのか? やるからにはな ……天体観測はずっと出てね? 約束する あと、役員の権限で天クルのために融通利かせてね ……善処する 期待してるからね お許しは出たようだ。 では、ぐずぐずしていられませんね 洋ちゃん時間ないし、急いで部室向かわなきゃだねっ 生徒会と天クル、どちらとも迷惑だけはかけないようにしよう。 これじゃあ所属していても、恨みを買うだけだ。 まさか出席するとは思わなかった 両立するからな ふたつの仕事を半分ずつやるのは両立とは言わないわよ 時間的にそうでも、仕事自体はちゃんとやる 信じていいのね お手柔らかに信じてくれ 信じるからには全幅の信頼をあずけてあげる ……逃げたくなるようなこと言わないでくれ 逃げるのなら早めにね。そのほうが傷が浅いから だが、ここで抜けたら最も迷惑を被るのが姫榊だろう。 俺を推薦したのは他ならぬ姫榊なのだから。 全幅の信頼、もらっておく そのほうが身のためね 逃げたら蹴られそうだ。 天クルのほうはどうだったの? 出し物なににするかで揉めてたよ。今のところ、天体写真展と天文資料展が候補に挙がってるけど 去年に比べると地味ね まあ、プラネタリウムは今年も作ったしな 今年じゃなくて去年でしょう いや……そうだな 屋上で作ったことは言わないほうがよさそうだ。 姫榊は先に立って廊下を歩いていく。 姫榊、ほかの役員たちと一緒には帰らないのか? なんでよ 俺と帰ってるからさ 前はほかのみんなと一緒に帰ることも多かったけど。べつに誰と帰っても同じじゃない 新参者の俺に気を遣ってくれている、というのは考えすぎだろうか。 ……いや、姫榊ならありうるか。 一緒に帰ってくれるお礼に、教室でのことはなるべく忘れるから なるべくじゃなくて絶対忘れなさいね! 今夜はどうする? メアさんのこと? ああ。会いたいなら、展望台までついていくけど 確実に会えるようならお願いするわ ……確実になるよう、メアに言っておく よろしく。日時がわかったら教えて 了解 ありがと こうやってこまめに借りを返していくわけだ ……そういうことは心に秘めておきなさいよ 姫榊は額に手を当てる。 最近、その仕草をよく目の当たりにしている。 呆れてるんじゃないよな ……呆れてるのよ 夕べもそうだったけど。体調、悪いんじゃないか? ………… やっぱり風邪か? ……そういうのじゃないんだけど 展望台に関係あるのか? そういうのとも……たぶん違うけど…… 姫榊らしくなく、言葉を濁している。 無理だけはするなよ 体調管理も仕事のうちだからね そういう意味で言ったんじゃないのだが。 ……小河坂くん おぶっていけばいいんだな 違うっ、恥ずかしすぎるでしょっ 俺の家、近いし。休んでいくか? 姫榊は迷ってから、 ……ううん、いい。小河坂くん、家事があるんでしょう。邪魔になるから 家庭の事情を知っているのは、役員だからだろう。 家事はほとんど詩乃さんがやってくれてるから。そんなの気にするな ……いいから。そうじゃなくてね 姫榊の声には疲労が見え隠れしている。 覚醒夢とか、〈明晰夢〉《めいせきむ》って、見たことある? 俺は目をすがめる。 夢とわかる夢、だよな 姫榊はうなずく。 俺、あまり夢って覚えてないんだ ……そう 姫榊は見るのか? ……まあね。最近、よく見るのよ 昔も一時期、よく見ててね。それで、自分なりに調べてみたことがあったの 〈明晰夢〉《めいせきむ》っていうのは訓練すれば、自分の思い通りに内容をコントロールできるらしいのよ 人は一日の約三分の一を睡眠に費やす。その中で夢を見る時間は二時間くらいと言われている…… それは絶対で、夢を見ないって思っている人はただそれを忘れているだけなんだって だから、平均寿命の八十歳まで生きるとすると、人は二十六年間を眠って過ごす計算になるの そうすると、夢を見ている時間は、七年間 七年……。 それは、俺が都会で過ごしていた期間にも及ぶ。 その七年間を、自分の思い通りにコントロールすることができれば、きっと幸せよね 姫榊は自嘲気味に笑った。 だけど、うまくいかないのよね。何度見ても、同じ結末を迎えてしまう わたしは、落ちるだけ落ちて、終わってしまう…… それが、姫榊が見ている夢なのだろうか。 体調をくずしている原因なのだろうか。 ……どんな夢なんだ? なんでもないわ。たかが夢よ 夢を見ている時間は一生で七年間。姫榊が自分で言ったじゃないか たかが、なんてレベルじゃない 心配してくれてるの? ……いや、なんていうかな 真正面から聞かれると誤魔化したくなるわよね ………… 悪夢がうまくコントロールできなくてね。それでちょっと寝不足だった。それだけよ 悪夢なのか ……そこをツッコむのね 内容、言いたいなら聞くぞ べつに言いたくないわよ。なんでよ 姫榊ってさ、自分だけでなんでも解決しようとする性質じゃないか? ……知らないわよ 姫榊は優秀だよ。昔の俺と違って社交性もあるし、間違いなく優等生だ ……なにが言いたいの? 頼りたいときでも、誰にも頼ろうとしないんじゃないかと思ってさ ……くさいセリフ 真正面から言われたから誤魔化すんだな ……無性に蹴りたくなったわ 無理強いするつもりはないけどさ 無理強いしてもしなくても話さないから 俺、借りは返したいと思ってる 当たり前 場を提供してくれれば、必ず返してやる ………… 姫榊は立ち止まった。 ……小河坂くん その声に、なにかの感情がこもった気がした。 要求……していい? ああ どんな要求でも応えるつもりだった。 姫榊は、言った。 二度とくさいセリフ言わないで ………… 言ったら天クルを廃部にした上で、蹴るからね 姫榊はふんと鼻を鳴らして歩き出した。 あと、悪夢のことも二度と聞いてこないで ……悪夢の話をしたのはそっちが先だぞ 言い訳のようにつぶやくのが精一杯だった。 夜になって展望台に出向いたが、メアの姿はない。 俺ひとりのときくらいは、普通に出てきて欲しいものだ。 昨夜のように留守の可能性もあるだろうけど。 ……捜索開始だな 骨折り損にならないことを願って。 ……………。 ………。 …。 見つけたぞ、メア ……見つかった ある地点を通ったら上から葉っぱが落ちてきて、見上げるとメアが枝に座っていたのだ。 そろそろかくれんぼはやめにしないか? いや ……捜すほうの身にもなってくれ メアを襲う輩はもういないし、展望台を訪れる人でメアが知らない相手もいないだろうしで、隠れる必要もないと思うのだが。 わたしのこと、ちゃんと見つけたからいいじゃない 夕べは見つからなかったぞ 見つからないようにしてたから ……展望台にいたのか? うん てっきりヒバリ校だと思いきや。 出てきて欲しかったな いや 今日は出てきてくれたじゃないか ……だって だって、なんだ? メアはぷいっと横を向く。 ……昨日は、あの子がいた 姫榊のことだろうか。 人見知りか? ……ちがう メア、忘れてるみたいだけど、姫榊には会ったことあるんだぞ だから、人見知りじゃないの ……あの人、洋くんをケガさせた人 ぶすっとしてそう言った。 俺は首をひねる。 それ、展望台巫女薙刀事件だよな ……事件の名前なんか知らないけど、そう 薙刀持ってたのはこさめさんだろ。姫榊じゃなくて 名前なんか知らない メア、勘違いしてるぞ。ふたりって双子だから、見分けるの難しいと思うけど ……人違いってこと? ああ。昨日来てたのは、姫榊こももっていうんだ 誰それ こさめさんの姉で、メアを助けてくれた人だよ。覚えてないか? ……ちがう メアは俺を見上げる。 わたしを助けてくれたのは…… それから、むすっとした。 ……なんでもない あさってのほうを向いてしまった。 で、姫榊もここって誰 ……こももだ。さっきも言ったけど、こさめさんの双子の姉だよ ふーん 興味なさげだ。 そういえば、かー坊は元気か? 元気よ。今夜もそのあたりを飛び回ってると思う 薙刀でたたかれても特にケガはなかったようで、一安心だ。 かーくん、ここに呼ぶ? ……いや、あいさつ代わりに頭焼かれそうだしな メアはくすくすと笑った。 機嫌がよくなったところで、聞いてみる。 こさめさんのこと、まだ怒ってるか? こさめって誰? ……すぐ名前忘れられると話が進まないんだけど そんなの知らない メアを襲った人、メアはどう思ってるかなって ……べつに 許すのは難しいと思うけど、責めないで欲しいんだ ………… ダメか? ……べつに このやり取りは、すでに何度かやっている。 メアから明確な答えをもらえたことはない。 ……洋くんは怒ってないの? メアを襲ったことは、やっぱり怒りたいって思うよ そ、そうじゃなくてっ……きゅんってすること言わないでっ 慌てている。 ……洋くんだって、ケガさせられたじゃない そんなのどうってことない ………… メアが気にすることない ……べつに気にしてなんか ありがとうな、心配してくれて ち、ちがうったらっ 地団駄を踏んでいる。 こさめさんも、もうメアを襲わないって言ってる。信用できるって思う。だから、安心していい ………… メアの地団駄が止まった。 こさめって子は、いいけど。でももうひとりいるし ……え? もうひとり、いるじゃない。襲おうとしてる人。その人も信用できるの? 頭が混乱する。 も、もうひとりって? そのまま、もうひとりよ。洋くんの名前を出してわたしをおびき出そうとしてた人 それってこさめさんだろ? メアは首を振った。 洋くんにケガをさせた子とは別人。声も言葉遣いもぜんぜん違う 言わなかった? 言ってない! ……なんで怒るの 本当に別人なんだな? 間違いないな? せ、迫らないでっ カマを盾にして逃げた。 ……あのときは、蛍のせいで顔は見てないけど。別人だっていうのはわかる どっちも巫女装束を着てたから、洋くんが勘違いするのもしょうがなかったのかも ……なんてこった。これじゃあメアが安全だとは言い切れない。 早合点をしていた自分が情けない。 その人、展望台には来たか? 最近は来てないけど 来ても、絶対に姿を出すなよ 言われなくてもそうするわ かくれんぼはまだ続くようだ。 こさめさんがなぜメアをねらったのか、真意は詳しく聞いていない。 事情がありそうだし、なによりこさめさん自身が後悔していたため、問いただすような真似はしていなかった。 だが、こうなると事情が違う。 この雲雀ヶ崎で、巫女といえば三人いる。 こさめさん、姫榊、そして雪菜先輩だ。 ……どうも、振り出しに戻ったみたいだな。 近いうち、三人から話を聞かなければならないだろう。 ……そうだ 話を聞くいい機会があるじゃないか。 メア、明日の予定は? ……予定って言われても 明日の夜、展望台に来てくれないか? わたしは星が見える夜には、たいていいるから 姫榊がさ、事件のことでメアに謝罪したいって言ってるんだ もここって子ね こももだから べつに今さら謝罪なんかいらないけど 姫榊って生真面目だからさ だいたい、謝るべきはもここじゃなくて妹でしょう ……こももな。こさめさんも謝りたいって思ってる。でもたぶん面と向かっては言いづらいんだよ ………… 代わりに姫榊が謝ってくれる。ダメか? ……べつに、謝罪を受けるくらいいいけど じゃ、約束だ。今日と同じ時間に来るから しょうがないから待っててあげる そのときに、姫榊を交えてもうひとりの犯人についての話もしよう。 姫榊は、事件に関するこさめさんの事情を聞いていると思うから。 少なくとも、俺よりは知っているはずだ。 じゃあ、天体観測は毎週土曜に決まったのか うん。次の日が休みのほうが、遅くまでできるしね 放課後になって、俺は昨日の天クルのミーティングで決まったことをみんなから聞いていた。 金曜日か土曜日かで迷ったんですけどね 小河坂クンを考えると、土曜のほうが無難ということで落ち着いたのさ たしかに、土曜日なら生徒会のミーティングとかぶることはないはずだ。 いろいろすみません いや、そのぶん生徒会で便宜を計ってもらうからね ……期待しないで待っててください 今日は生徒会のミーティングは? あるよ むー 出し物の準備はちゃんとやる。信じてくれ わたしは信じますよ、裏切り者さん ……信じるならその呼び方はやめてくれ でも、準備が本格的に始まったら実行委員の仕事だっていそがしいと思うよ いそがしいのは放課後だけだろうしな ……準備するのは放課後だよ 朝とか夜とか、違う時間使って放課後の分を埋め合わせるから 洋ちゃん…… 小河坂さんにそこまで言われると、わたしたちのほうが悪い気がしてきますね ヒバリ祭が近くなると夜も部室が使用できるようになるから、期待してるよ ありがと洋ちゃん~! ドアップにはならなくていいから! あとは、蒼さんが手伝ってくれれば言うことはありませんね 部室に蒼さんはいない。何事にも遅刻魔なので、いつものことだったりする。 蒼さんだってちゃんと仕事してくれるさ その根拠は? 不真面目だったら千波を使って脅迫するから あはは……蒼さんと千波ちゃんって、友達なのかよくわからなくなるときあるよね 蒼クンは、根は真面目だと思うよ。天文クラブで一緒だった頃を考えると こももちゃんはどうなんだろうね。部員だし、手伝ってくれるのかな あとで聞いてみるよ 姫榊クンは小河坂クンに任せるとして、残るはあとひとりだね 雪菜先輩ですね ああ。彼女が一番やっかいそうだけどね ………… こさめちゃん、雪菜先輩に聞いてみてくれる? 出し物の準備手伝えないかって ……あまり、期待はしないでくださいね こさめさんは困った笑みを浮かべる。 ちなみに俺は、雪菜先輩が部活に参加しているところを一度も見たことがない。 俺も、雪菜先輩とは話してみたいな 洋ちゃんも説得してくれる? こさめさんがよければな ……わたしは関係ありませんよ。小河坂さんだって雪菜先輩とは部活仲間なんですから 雪菜先輩と話したいのは出し物の準備だけじゃない、メアに関してもある。 機会を作るとしたら、こさめさんに頼むのが妥当だろう。 その前に、まずは今夜、姫榊と展望台に向かわなければならない。 で、ここまでひっぱったけど。肝心の出し物はなにに決まったんだ? そうだね。副部長、発表してくれるかい お任せください 明日歩は胸を張って意気揚々と言った。 今年の天クルの出し物は、雲雀ヶ崎の隕石資料展に決まりました~! ぱちぱちぱち、と拍手が鳴る。明日歩も自分で拍手する。 ……雲雀ヶ崎に隕石なんてあるのか うん。記録ではね、昔にひとつ落ちたらしいんだ。それを調べてみようかなって それに、こちらは本当かどうかわからないけど、最近にも隕石が落ちたって話題になったこともあるんだ 同じ土地にふたつも落ちるなんてめずらしいですよね~ ローカルニュースでも取り上げられていたね 調べる価値はあるんじゃないかってことで決まったんだけど、洋ちゃんはどうかな? なんかおもしろそうだし、異論なしだ そう言ってくれると思ったよ 雲雀ヶ崎に隕石が落ちたというのは初耳だった。 最近にも話題になったらしいが、おそらく俺が都会にいた頃の話なんだろう。 こさめちゃんもオッケーなんだよね? ………… ……こさめちゃん? あ、はい。わたしも賛成ですよ こさめさんは物思いに耽っていた感じだった。 出し物は隕石資料展だけど、活動として天体観測もちゃんとやるからね 了解。隕石についてはいつ調べるんだ? 基本的に平日は各自で調べて、土日のどちらかにみんなで集まって資料をまとめようかなって そのあたりのスケジュールは、詳しく決まったら教えるよ ありがとうございます そろそろ時間だろうか。俺は席を立った。 入るわよ ドンピシャで姫榊が現れる。 いらっしゃいませ、姉さん ええ。といっても、長居はしないけど 生徒会のお務めご苦労さまです ありがと お礼に見せてもらっていいですか? なにをよっ。あ、ううん、いいっ、言わないでいい! 姉さんがせつなくあえぐ…… 言わないでいいって言ったでしょ!? 迫ろうとしたこさめさんから姫榊は全力でしりぞく。 ……で、小河坂くん。生徒会室に行くわよ ああ。今向かうところだった ……洋ちゃんが連れ去られちゃう 明日歩さん、よしよし ……頭撫でないで それじゃ、すみませんけど 小河坂クン、まずは部費アップをよろしく ……長い目で見てやってください そのうち不正の手伝いをさせられそうだ。 実行委員になったはいいけど、まだ力仕事はないんだな 当分は、要望をまとめて検討する、の繰り返しよ 俺の仕事も当分先か 謙遜しなくていいから。部活が出し物で使う特別予算の計算、短時間で終わらせた上にノーミスだったし じゃなくて、ヒバリ祭までは力仕事だけって言ったの姫榊だろ? わたしは柔軟に仕事を割り振っただけよ 会計みたいな重要な仕事、新参者の俺にいきなりやらせないでくれ ちゃんとこなせたんだしいいじゃない ため息をつくしかない。 わたしの目に狂いはなかったってことね 俺と違って、姫榊はご機嫌だ。不機嫌じゃない姫榊はめずらしいかもしれない。 今後もこの調子で頼むわね 全幅の信頼をもらったからにはな 来年度の小河坂くんの役職は会計にしようかしら そこまでの信頼は丁重にお断りする まさか生徒会長になるつもり? なるかっ。姫榊がやればいいだろ いやよ、面倒だし 俺だってそうだ せっかくの優秀な力が泣いてるわよ そのセリフそっくりそのまま返してやる あーあ、生徒会役員の期限、早く切れないかしら 嫌々やってるのか? 好きこのんでできるほどの正義感は持ってないから 自分で立候補したわけじゃないのか 当たり前 だというのに、姫榊はマジメすぎるくらい仕事に取り組んでいる。嫌というほど知っている。 正義感なんてなくても、責任感が人並み以上にあるのだ。 役員の期限、いつ切れるんだ? わたしは一年生からやってるから、今年度で終わりね ……ちょっと待ってくれ なにか問題ある? ありまくる わたし、来年度は抜けるけど。そっちは会計としてがんばってね だからちょっと待て 待たない 俺を推薦しておいて無責任だろ? わたしがサポートするまでもなく小河坂くんは仕事ができる。無責任じゃないわ 俺、たった数日ミーティング出ただけだぞ それで充分わかった。小河坂くんは優秀よ わたしのこと、優等生なんて言ってたけど。小河坂くんのほうこそ優等生だって知ったのよ それは間違ってる 謙遜しなくていいから 俺は優等生じゃない。それだけは絶対にないんだよ 過去の「僕」がそう言っているから。 ……なにかコンプレックスでもあるの? そうかもな 聞いていい? 詮索は悪趣味だな ……こさめの影響受けてるわね 話、変えるけどさ この話題を続けたくなくなった。 姫榊は天クルの出し物、手伝ってくれるか? ……なんでわたしが 姫榊も部員だろ わたしは監督よ それは姫榊が言ってるだけ。形式上は部員だし、俺たちも部員だって思ってる ……わかったわよ。じゃあ暇があればね 準備のスケジュール決まったら、教えるから 出し物はなににしたの? 隕石資料展だ 隕石…… 雲雀ヶ崎に二回落ちてるらしいじゃないか。俺は今日、初めて知ったんだけどさ ……嫌な予感がするわね なにがだろう。 こさめも賛成したの? そうだと思うけど その隕石、どうやって調べるの? 詳しいことはあとで聞くことになってるけど ………… 心配事でもあるのか? ……心配事というか、厄介事というか なにが厄介なんだ? いずれわかるわ 話しているうちに、駅が見えてきた。 小河坂くんも電車乗るの? ……家、いつのまにか通り過ぎてたな なにやってるんだか 呆れていた。 姫榊、帰る前にちょっといいか 話しておくことがあるのだ。 メアの謝罪、今夜に可能だぞ 連絡取ってくれたんだ? ああ。この前と同じ時間に約束しておいた ありがと。じゃあ時間になったらそっち行くわ もうひとつ、展望台巫女薙刀事件なんだけど ……なにその長ったらしいタイトル 姫榊は、メアを襲おうとした犯人を知ってるか? こさめでしょ。だから謝りにいくんじゃない もうひとりの犯人は知ってるか? 姫榊は眉をひそめる。 ……こさめだけじゃないの? ああ。被害者の証言では、ほかにも容疑者がいる メアさんが話したわけね こさめさんと同じく、巫女装束を着てたらしい ……わたしを疑ってるの? 疑うわけないだろ よく言い切れるわね 姫榊が犯人だったら、俺を助けてくれるはずがない 姫榊はそっぽを向いた。 ……助けたんじゃない。たまたまよ、たまたま たまたまで、全治二週間のケガなんか負えない。 姫榊、頼みがあるんだ ……言いたいことはわかった ほんとか? わたしが真相を知ってたら、教えてくれって言うんでしょう 話が早いな だけど残念、なにも知らないわ 肩をすくめた。 ……こさめさんから聞いてないのか? こさめはあなたにしたように、わたしにも誓ってくれたの。二度とメアさんを襲わない、迷惑をかけないって それだけよ ……そうか もうひとりの犯人もメアさんをねらってるのなら、こさめとつながってると考えるのが自然なんでしょうけどね ………… あなたの考え、わかるわよ お願いできるか? あなたよりもわたしのほうが相手に近いしね 恩に着る 直接と間接、どっちがいいの 可能だったら直接だな また貸しが増えるわけね あとでまとめて返すよ 期待しないで待ってるわ 姫榊は不機嫌に言ったのだ。 こさめに、間接的に聞くんじゃなくて…… なぜメアさんを襲うのか、雪菜先輩に直接聞いてみるから、待ってなさい ……この時間になると寒いな。去年もそうだが、こんなに早く長袖が必要になるとは 雲雀ヶ崎は北の街ですからね こんな時間になってしまって、悪かったな まったくです。夕方からずっと電話して、ついさっきやっとつながったんですから 私は風来坊だからな ……自分で言うのはどうなんですか キミが私に連絡を取るのは、初めてかもしれないな そうですね 私になんの用だ? 尋ねたいことがあったんです なんだ? 単刀直入に聞きます。あなたはなぜ、メアさんをねらうんですか? ………… こさめと同じく黙秘ですか? ……彼女にも尋ねたんだな はい。答えてはくれませんでしたが 展望台に出るアレはな、私たち人にとっては悪夢なんだ。だから刈らなければならない そのくらいはこさめも話してくれました。わたしが欲しい答えはそうじゃないんです メアさんが悪夢だとして、なぜあなたとこさめが刈る必要があるのかということです ………… わたしは星天宮の巫女です。巫女神楽を舞うからこそ、多少の知識は得ています あなたとこさめが言う悪夢を刈るというのは、まつろわぬものを送り還すという意味なんだと思います バカバカしいと一蹴したいところではありますけど キミはそれを信じるのか? 信じる信じないはこの際関係ありません。重要なのは、こさめに危険があるかどうかです キミは勘違いしているようだが、こさめに関しては、私が巻き込んだわけじゃない こさめが自分から薙刀を持ち出してメアさんを襲ったとでも言うんですか そのとおりだ ………… それが真実だからな ……そうですか こさめを危険にさらしたくないのであれば、私を牽制するよりも本人を説得したほうが早いさ ………… 話は終わりか? ……あなたはどうなんですか あなたはなぜメアさんをねらう必要があるんですか 仕事上だ。だが、今は必要がなくなった アレの身を案じているのなら、杞憂だ ……本当ですか? ああ あなたの仕事ってなんなんですか 自分で言っていたじゃないか。まつろわぬものを送り還すこと 私は、そのために雲雀ヶ崎に来たんだからな この雲雀ヶ崎には、メアさんのほかにも、まつろわぬものがいるということですか そのとおりだ 雪菜先輩は、母に下宿を勧められていましたよね ……それが? あなたの仕事は母も関わっているんですね それに関してだけは答えられない メアさんとは違う、まつろわぬものを送り還して欲しいと、母から依頼があったんですね 答えられない まつろわぬものは、ヒバリ校の都市伝説の死神ですか? それに関しては、私も判断がついていない 母に関してだけ、答えられないんですね 答えられない 母が口止めしているんですか? 答えられない ……直接問いただすしかないわけですね あの万夜花さんが簡単に話すと思うか? まったく思いませんね であれば、時期を待ったほうがいい。時が満ちれば万夜花さんも自分から口を開くさ その時期というのはいつですか キミは、悪夢を見るようになったそうだな ……なんですか、いきなり 満ちる時は、キミ次第というわけさ なにを言っているのかわかりません わかったときが、すべてを知るときだということだ ………… ではな ………… ……帰った、か なんなのよ、いったい 混乱させるようなことばかり言って、もったいぶって というか、なんでわたしの悪夢まで知ってるのよ…… ………… ……あとで、こさめをお仕置きね ……と、いうわけよ 姫榊と一緒に展望台に向かいがてら、雪菜先輩との問答を聞かせてもらった。 この話、信じる? 信じないと、メアが安全だとは言えなくなるな 雪菜先輩の話を鵜呑みにしろとは言わないけど、わたしが感じた限りでは、メアさんはもう安全だと思うわよ メアのほかにも死神がいるからか 死神かは知らないけど、人間ではないんでしょうね オカルトだな 非科学的よね こさめさんが言ってたけど、非科学的っていうのは単に人が原理を解明できてないだけらしいぞ そりゃ、原理が不明なのが非科学的ってことなんだから 昔の人から見たらケータイだってオカルトか 要するに、人ってみんな頭が固いのよ。自分の目で確認したって信じられなかったりする 信じようが信じまいが結果は変わらないんだから、過程はどうあれ受け止めるしかないのにね 姫榊って割り切ってるよな 無駄なところで悩みたくないだけよ。ほかにもっと悩まなきゃいけないことがあるんだから たとえばなんだ? どうやって家の神社を継がないようにするかとか 神社、嫌いなのか 嫌いじゃないけど、好きでもない 継ぐのが嫌なわけじゃないのか それは嫌 なんで 星が嫌いだからよ 神社の名前は星天宮だ。 神社は嫌いじゃないけど、星天宮は嫌いだから 姫榊の神社は天津甕星を祀っているから、星という名を冠している。 社殿にさ、水晶みたいな石が飾ってあるよな。あれも星に関係してるのか? ……いずれわかるわ 姫榊はため息混じりに言う。 天クルの活動をしていれば、嫌でも知ることになるから ……メアさん、いないけど 隠れてるんだ 約束取りつけたって言わなかった? メアが安全かどうかわからなかったから。人前に出ないように言っておいたんだ ……わたしたちの前にまで出ないのはどうなのよ 文句垂れてないで、捜すぞ 面倒ね…… ぶつぶつ言ってるわりに先頭に立って捜す姫榊だった。 ……………。 ………。 …。 見つけたぞ ……見つかってあげた 今夜は簡単に発見できた。メアが言ったとおり、自分から出てきた感じだ。 メア、約束どおり姫榊を連れてきた 仲介しようとすると、その前にメアは俺の背中に隠れてしまった。 ……嫌われてるみたいね そういうんじゃないんだ。メア、あいさつは? 子供扱いしないでっ メアは顔だけ出して姫榊を見る。 こんばんは、メアさん こんばんは、もここ それ誰のことよ!? この子、謝罪どころか怒ってるんだけど ……姫榊、謝るんだろ? そ、そうね。メアさん、先日は申し訳ありませんでした。妹に代わって謝罪します 姫榊もこもこ だからそれ誰のことよ!? この子、怒ってるんだけど ……姫榊、渡すものもあるんだろ? そ、そうね。メアさん、つまらないものだけど、よかったらどうぞ つまらないものなんかいらないわ ……だんだん腹立ってきた 最初から怒ってると思うんだけど かわいくない子供ね…… それはそっちでしょう ……似たような展開になるとは思っていたが。 メア、甘いものダメか? べつに 姫榊、もらってくれるってさ ……ほんとでしょうね 姫榊は手みやげをメアに差し出す。 メアは受け取らない。 洋くん なんだ? 毒味して ……なにがなんでもわたしを怒らせたいようね 最初から怒ってると思うんだけど と、とにかくだ、メアは姫榊を許してくれるんだな? べつに というわけだ どういうわけよ…… 額を押さえていた。 ほら、メア 姫榊の手みやげを渡す。 かーくん かー坊が頭上から降りてきて、手みやげをくわえた。 かー坊にやるのかよっ あとで一緒に食べるから かー坊を毒味係にするようだ。 ち、ちょっと待って……。その生き物、なに? メアの頭に載ったかー坊を凝視している。 ど、ドラゴン……? あれ、初めてか? 一度、見た気もするけど……。でも、あのときは手が痛くて ……そんな余裕はなかったもんな。 じゃあ、改めてだな。メアのペットで、かささぎっていうんだ かーくん、あいさつ ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! よくできました 俺にあいさつしてどうすんだ!? もうなんでもアリなのね…… 姫榊の頭痛がひどそうだった。 もう、用はすんだ? ……メアさんが許してくれたのなら、わたしの用はあとひとつだけね なに メアさん、夜のヒバリ校に勝手に入ったそうね それがなに ヒバリ校は夜間の立ち入りは禁止よ ふーん それでなくてもあなたは部外者なんだから。たとえ天クルの部員だとしても ふーん 二度と勝手に入らないように いや ……ここまできっぱり反抗されたのは初めてね ま、まあメアも反省してることだしさ ほんとでしょうね…… わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつは反省よ ……反省の色ゼロね い、いや、今日の目的はあくまで謝罪だろ? このへんで許してやってくれ 姫榊は不満そうだったが、謝罪の一言が効いたのかうなずいてくれた。 ……仲介役は疲れるな。 それじゃあ メア、待った。俺の用がすんでない なに? メアを襲ったもうひとりの犯人だけど、彼女も二度とメアを襲わないらしい ……信じられるの? 正直、判断つかない。だから警戒はしてくれ わかった 俺も注意しておくから 注意しなくていい ……いや、なんで ケガするから 心配してくれるのか? そ、そうじゃないっ、ケガされると落ち着かないだけっ ………… 姫榊がさっきからおとなしかった。 顔色が悪いけど、もこもこ 誰よそれっ ……姫榊、夕べと同じか? そうよ、呆れてるの じゃなくて、体調悪いんだろ ………… 展望台のせいか? ……なんでもないから それとも、今朝も悪夢見たのか? ……なんでもないったら なんでもなくないだろ 心配しなくても平気だから 体調悪いのが悪夢のせいなら、メアに刈ってもらうか? ……え? 俺はメアに振り向く。 メア、姫榊の悪夢って刈れるか? 姫榊って誰 今おまえの目の前にいるだろっ、おまえも姫榊もこもことか言ってただろっ そうだった。姫榊もこもこ さっきから名前間違ってるのワザとでしょあなた!? 姫榊は叫んでから、頭痛が増したのかしゃがみ込んだ。 ……無理するなって 誰のせいよ…… 姫榊はふらふらと立つ。 ……悪夢を刈るって、まさかそのカマで刈るなんて言わないわよね 言うんだけどな わたしはまつろわぬものじゃないわよ それは、夏祭りの日に万夜花さんからも聞いた単語だ。 じゃなくて、メアが言う悪夢っていうのは、記憶のことだよ それも違う。洋くんの悪夢を刈ったら、たまたま記憶だっただけ ……そうなのか? そうよ。わたしは記憶を刈る死神じゃない、悪夢を刈る死神なんだから どうも勘違いしていたようだ。 ……なんか話についていけないんだけど 希望するならあなたの悪夢、刈ってあげる カマ振り上げて殺す気!? 姫榊は叫んでからまたしゃがみ込んだ。 だから、無理するな あなたたちのせいでしょっ 怒りながら立ち上がった。 ………… メアがカマを振り上げた体勢のまま、いぶかしげに姫榊を見ていた。 どうした? ……こんなこと、前にもあった気がする メアは首をひねりながら、 あなた、わたしと会ったことある? 初めて会ったのは、海水浴の日ね それよりも、ずっと昔 ……昔? あなたがもっと小さかった頃 会ったことなんてないわよ ウソ ……なんでよ もしかして、こさめさんのほうじゃないか? ……双子の妹だっけ メアにしてはよく覚えてたな バカにしないで こさめも、メアさんと会ったのは海水浴の日が初めてだと思うわよ そんなはずないわ 断言した。 わたしは過去、あなたのうちのどちらかに会ってる。わたしが初めて悪夢を刈った日だから、覚えてる ふたりが子供の頃、わたしはどちらかの悪夢を刈ったことがある ……ほんとか? ほんと 子供の頃の姫榊かこさめさん、どちらかに会ったことがあって、悪夢まで刈ってるって? そう言ってるじゃない ほんとか? ……なんで疑うの メアって忘れっぽいからさ 興味あることしか覚えたくないだけ ……なんだかよく知らないけど。メアさんが言ってるのは、少なくともわたしじゃないわよ むしろ、もこもこが忘れっぽいのかもしれない もこもこじゃないっ、それに忘れっぽくなんてないわよっ 叫んだあとにまたしゃがみ込んだ。 ……なんにしろさ、問題なのは今の姫榊の体調だろ メアの話は興味深かったが、姫榊のほうが気にかかる。 まったくよ……頭痛くて割れそうだわ…… 肩、貸そうか? ……平気だから ひとりで立ち上がる。 頭が割れそうだと言っていたのに、心配した途端に強がっている。 メア、そろそろ帰るよ。姫榊を送っていく 悪夢は刈らなくていいの? 姫榊、どうする? ……あのね。そんなカマで刈られたら大ケガどころじゃすまないでしょ まあ、そうね メアは口端を吊り上げる。 わたしも刈るんだったら、あなたが悪夢を思い出していないときにやってしまいたい それに、洋くんの悪夢以外は、約束にないからね 最後にそう言い残し、メアは姿をかき消した。 俺たちも帰ろう ん…… 歩くの辛いようなら、詩乃さんに車で迎えに来てもらうぞ? ……いいから。迷惑かけられないわ ふらついているというのに、俺の前を歩いていく。 待てって、姫榊 平気だから…… ぜんぜん平気そうに見えない いいから…… 詩乃さんに電話するからな したら蹴るわよ…… こんなふうに押し問答をしていてもらちが明かない。 歩くくらい、わけないから…… ふらふらの足でも弱音を吐かず、前に進む。 もう見ていられなくなり、姫榊の腕をつかんだ。 きゃっ……な、なにするのよっ ほんとは背負いたいところなんだけどな したら蹴るわよっ わかってる 背負うには相手の協力が必要だ。 だから、こうするしかないだろ 反論される前に、素早く姫榊を抱え上げた。 えっ……? 姫榊は目をぱちくりさせる。 長いまつ毛がふさふさ揺れた。 な、なに……? 突然のことに頭がついていかないのか、呆然と俺を見上げている。 腕にかかるやわらかい感触。 あたたかい体温。 姫榊の体重は想像よりずっと軽い。このまま走ることだってできそうだ。 走ったら振動で姫榊に負担がいくので、しないけれど。 俺は夢見坂を歩いてくだる。 あ、あれ……わたし…… 現状に気づき始めた。 暴れ出される前に、駅に着いてしまおう。 歩く速度を速める。 姫榊に振動がいかないよう、気をつけながら。 なん……で…… う、ウソ…… ぎゅうっと、俺の服をつかむ。 わたし……小河坂くんに……? まだ駅までは遠い。 あと五分はかかりそう。 ……願わくば、蹴られませんように。 こ、小河坂……くん…… ……なんだ なんで……わたし…… なんでもない 小河坂くんに……こんな…… だ、抱かれて…… 背負われたくなかったんだろ う、うん…… 意外におとなしい。 暴れないことに感謝。 この機を逃さず駅に着きたい。 で、でも……あれ……? こっちのほうが……なんか…… は、恥ずかし……ような…… この時間なら誰も見てない う、うん…… 服をつかむ手が、さらに強くなる。 で、でも…… なにも問題ない う、うん…… ………… あれ……? 疑問に思う必要ない う、うん…… ………… あれ……? 俺たちは間違ってない う、うん…… ………… あれ……? 思考が回っている。 姫榊は突発的なアクシデントに弱いようだ。 こ、小河坂……くん…… これはな、なんでもないことなんだ う、うん…… 駅がようやく見えてくる。 何事もなく着きそうだ。 小河坂……くん…… なんでもないんだ う、ウソ…… ウソじゃないんだ ウソぉ…… ウソじゃないんだ。信じろ あ…… 信じろ う、うん…… 信じ……る…… ………… あれ……? 信じてくれ 小河坂……くん…… ……なんだ これ……抱っこ…… ……そうだな お姫さま……抱っこ…… そうだな な、なんで…… なんでもないんだ どうして……小河坂くんが…… 姫榊が辛そうだったから そ、そんなこと…… そんなことある へ、平気…… 平気じゃない な、なんで…… なんでもない こ、こんなの、おかし…… おかしくない 姫榊が心配だった。だから送る。なにも問題ない う、うん…… ………… あれ……? そう……なの……? そうなんだよ 駅に着いた。 姫榊を足から慎重に降ろした。 ひとりで立てるか? ………… まだ呆然としている。 ……家まで送ろうか? ………… 送ってもいいぞ? 辛抱強く答えを待つ。 姫榊が我に返ったら怒り狂うかもしれないが、そのときはそのときだ。 小河坂……くん…… うつむいて、ぼそぼそとつぶやいた。 なんだ、送るか? ………… ……蹴られる? に、二度と…… 二度と……しないで…… さっきまでは夜道でわからなかった。 だが明かりが多い駅のロータリーでは隠れようがない。 これ……要求だから…… 姫榊の顔が、かわいそうなくらい赤い。 破ったら……許さないからね…… ……ええと 許さない……からあ…… 姫榊は悔しそうにそう言うと、身をひるがえし、駅の建物に駆け込んだ。 足はもうふらついていなかった。 ……次に会ったら、確実に蹴られるな 憂鬱になった。 ……はあっ 姫榊こももはベッドから飛び起きた。 今朝も見た。夕焼けの中を落ちる夢。 落ちたあとに待っている結果は嫌というほど知っているのに、どうしても避けられない。 いくら落ちるなと願おうとも。 もがいても。 こももは宵闇のただ中で息絶える。 なんなのよ…… 赤い夢。夕焼けの悪夢。 だがそれは今までの悪夢とは少し違っていた。 三日くらい前から、悪夢に変化が現れた。 すべてが赤く、夕闇に染まる中で、初めてほかの色がついていた。 赤以外の風景があったのだ。 緑と黒だった気がする。 緑は草木だろうか。 黒は地面か空のどちらか、あるいは両方だろう。 風もなにも感じなかったが、そこは外だったように思う。 はっきりとは思い返せない。 視界が回っていたせいか、落ちていく方向もまた天地のどちらなのか判断しようがない。 ただひとつ、確信したことがある。 あの赤は、やはり夕焼けだ。 夢の中、わたしは夕焼けと共に死んだのだ……。 ……はあっ 再度、大きく息をつく。 汗でパジャマに張り付く感触が気持ち悪い。 シャワーでも浴びたかったが、激しい動悸が動くことをためらわせる。 落ち着くまではじっとする。 ……どうして なぜ急に、悪夢に赤以外の色がついたんだろう? 考える。 キッカケがある気がする。 自分の身に重大ななにかが起こったからこそ、悪夢にも変化が生じた。 夢と現実は密接に結びついているとは、これまで読んだ本のいたるところで見つけている。 こももは考える。 もしかしたら、この悪夢を打破する方法にもつながるかもしれない。 いいかげん、悪夢にうなされるのもうんざりなのだ。 見なくなるに越したことはない。見たにしても、内容をコントロールしてもっと安らげる夢にしたい。 頭も痛いし…… 頭痛のもともとの原因は展望台に入ったことだろうが、悪夢がそれを増長させている感じ。 おかげでこのところ体調が悪くて小河坂くんにも心配かけてついにはあんな……。 ~~~~~~~~っ!!! 思い出しそうになって、こももは毛布に顔を突っ伏した。 ……違う違う、今考えるべきはあのことじゃなくて、悪夢についてなんだから。 毛布から顔を上げる。 熱くなった頬に手を当て、静まれと命じる。 とにかくキッカケを探し当てろ。 悪夢に変化があったのは、三日前だ。 今日が土曜日なので、三日前は水曜日だ。 水曜日って、なにがあった日? 洋にお姫さま抱っこをされた日だ。 ~~~~~~~~っ!!! 完全に思い出してしまい、こももはまた毛布に顔を突っ伏した。 ぐるぐるになった思考でその可能性を思いついた。 ま、まさか……。 まさかまさかまさかまさか。 まさか、そのせいなの……? あんなことをされたせいかもしれない。 三日前、展望台からの帰り道。 突然のことに驚いて、わけがわからなくなって、我に返ったら心臓が痛くて、電車の中で忘れようと思ってもできなくて、家に帰って思い返しただけで顔が熱くなって……。 それで、夢にまで影響が出てしまったのかもしれない。 なんで、こんな…… 頭痛の代わりに、今は胸が痛い。 木曜、金曜とこももは洋に会っていない。 生徒会のミーティングがなかったこともある。 だけどなにより、どんな顔をして会えばいいのか見当もつかなかった。 洋の記憶を蹴り飛ばしたあとに自分の記憶も蹴り飛ばせたらどんなにいいだろうと考えたのは一度じゃない。 ほんと、最悪…… 抱きかかえられてもすぐ降ろしてもらえばよかったものを。 あのときの自分はどうかしていたとしか思えない。 なにかの間違いだと信じたい。 抱かれたらあっという間に頭痛が治ったなんて、口が裂けても洋に言えない。 ……驚いたせいで、痛みが飛んだだけでしょうけど 今も頭痛が治まっているのは、お姫さま抱っこを思い出してしまって、胸がムカムカしているためなのだ。 それ以外の理由なんてない。 あるわけがない。 ため息。 あ…… ケータイが点滅している。 眠っている間にメールが来ていたようだ。 液晶の時計を見ると、午前十時を回ったところ。 休日とはいえ、いつものこももにしては遅い起床時間だ。 疲れでもたまってるのかな…… こももはメールを開く。 送り主は洋だった。 沈んでいた気分が、このとき浮かび上がった気がした。 それを自覚した自分が、なんだか許せなかった。 土曜日の今日は、姫榊と神社の仕事を手伝う約束をしている。 とはいえ姫榊とはここ三日、会っていない。 生徒会のミーティングがなかったのもさることながら、姫榊は天クルの部室にも顔を出さなかった。 ……怒ってるのか? そりゃ、いきなりあんなふうに抱きかかえればなあ。 この分だと、向こうは今日の約束を忘れているかもしれない。 覚えていても待っていないかもしれない。 いちおうケータイにメールは送ったが、返信は来ていない。 だから、境内が無人であることも覚悟していたのだが。 遅いわよ、コガヨウ コガヨウ言うな 姫榊は普段と変わらず、先に打ち水をやっていた。 いいかげん、十分前行動くらい守りなさいよ 電車来るのが思ったより遅かったんだよ ダイヤくらい調べなさいよ。都会に比べたら、雲雀ヶ崎は電車の本数が限られてるんだから それでも遅刻じゃないだろ? 十秒の遅刻 細かいよ。 姫榊は不機嫌だったが、怒っている様子はない。 境内にいないか、いたとしても第一声が罵声だと考えていたので拍子抜けだ。 まあ、蹴られなくてよかった。 それじゃ、桶に水汲んできて その前に姫榊、あのことなんだけど どがっ!! ぐあっ……結局蹴ってるじゃねえか!? 結局ってなんのことよっ いや、それはいいとして、あのこと…… どがっ!! あのことには触れないで!! ……いや、まだあのことがなんなのか言ってないし 鼻頭がとても痛い。 あのことって……あ、あれでしょ…… お……お姫、さま…… だ、だだ抱っ…… ~~~~~~~~っ!!! ひとりで勝手に悶え苦しんでいる。 はあっ、はあっ、はあっ…… お姫さま抱っこのことか? どがっ!! ……触れたら蹴り倒す すでに蹴られて倒れてますが。 いいから早く水汲んできなさいよっ ……あのな、そのことじゃなくてだな 鼻を押さえながら起き上がる。 悪夢のことだよ。姫榊がよく見てるっていう ……それがなによ 今朝も見たんだろ? な、なんでわかるのよっ 顔色、悪いから ………… 大分マシだとは思うけどさ。あのときより どがっ!! ぐあっ……今日は一段と攻撃的だなおいっ 触れないでって言ってるのに触れるからでしょ! ……まあ、それだけ元気なら心配ないか 誰のせいだと思ってるのっ 俺のせいなのか? どがっ!! だっ、だだだ誰もあなたのおかげで治ったなんて言ってないわよ!! ……いや、そもそも俺も言ってないし。 元気になったなら、なんでもいいけどさ ……ふん 今日会ってみて、辛そうなら本格的にメアに頼んでみようと思ってたんだけどな この分なら平気だろうか。 それ……メアさんが悪夢を刈るっていう? ああ ……悪夢の前に命が刈られそうなんだけど メアのカマは悪夢専用だ。ケガはしない 姫榊は胡乱な顔をしている。 誰にも言ってなかったんだけど、俺も一度、メアに悪夢を刈られたことがあるんだ そのときは、痛みもなくてキレイさっぱり特定の記憶だけなくなったよ ……小河坂くんも、悪夢を見てたの? いや。俺のはなんていうか、想い出だった 展望台の彼女の名前。 大切にしていた想い出を、今はもう思い出せなくなった。 想い出がなくなってさ、一時はメアを恨んだりもしたけど…… 姫榊の悪夢は、俺のと違ってなくなったほうがうれしいんだろ? ……そりゃあ、見ないに越したことはないけど メアに頼んでみるか? ………… この話、姫榊は信じないだろうか。 だがたとえ信じなくても、姫榊は結果を割り切って受け入れることができるだろう。 半信半疑で試してみて、悪夢がなくなれば儲けものだ。 ……ただ、悪夢のつもりが俺のように想い出のほうが刈られないよう、注意はしないと。 このあたりもメアに聞くしかないんだろう。 ほんとに、わたしの悪夢をなくしてくれるの? 詳しいことはメアに聞かないとだろうけどな でも、メアは悪夢を刈る死神だから ………… 姫榊はためらってから、 もし、本当に悪夢がなくなるのなら…… ………… ……やっぱり、いい そっぽを向いた。 人に頼るようなことじゃないしね…… 無理するなって 無理じゃない 強がるなって 強がってない 頼ってもいいんだぞ? 頼りたくないから 今度辛そうなところ発見したら、無理やりにでもメアのところに連れていくからな そんなことしたら蹴るからね 蹴られる前にお姫さま抱っこで…… どがっ!! やっ、ややややったら蹴るからね!? もう蹴ってるだろ…… そろそろ鼻が折れたかもしれない。 この話はもう終わりっ、早く水汲んできてよっ わかったから俺に向かって水撒くなっ ふんっ 疲労を抱えながら水場に向かった。 小河坂さん、こんにちは 水場にはいつからいたのか、こさめさんが立っていた。 姉さんと騒いでいる声が聞こえたので、つい覗きに来てしまいました ……あの暴れ馬にくつわと手綱でもつけといてくれ わたしが乗りこなすには荷が重そうです こさめさんが無理なら誰にも乗りこなせないだろうな そんなことはありませんよ ああ、万夜花さんがいたか いえ、小河坂さんです ……見てたならわかるだろ。振り落とされてばっかりだ 相手は喜び勇んで暴れているだけですよ 俺には真逆にしか見えないな わたしにはわかるんですよ 双子の妹だから? はい こさめさんはほほえむと、姫榊の元に歩いていった。 俺は嘆息しながら蛇口をひねった。 どうぞ、麦茶ですよ ありがとう 仕事のあとは、毎度のように姫榊の家に上がらせてもらっている。 って、熱いなこのお茶 もう秋ですからね。そろそろ木枯らしが辛い季節です 都会の木枯らし1号はまだまだ先だろうに。 涼しくなってきたし、打ち水もそろそろ終わりにしていいかもね そうなったら掃除だけになりますね 今後は落ち葉を集めるだけでも大変になるし 焼き芋とかできそうだな いいですね。秋が深まったら買っておきます ま、なにはともあれお疲れさまということで 三人で熱い麦茶をずずずとすする。 そういえば姫榊、ひとつ連絡だ なに? 天クルの隕石資料展についてなんだけどさ それをヒバリ祭の出し物にするのよね わたしたち、一昨日、昨日と学校の図書室で隕石について調べたんですよ そう。ちゃんと活動してるのね それでな、明日の日曜も資料を集めるために活動しようって話になってるんだ いいんじゃないの 姫榊も一緒だからな ……なんでよ 俺たちと同じ天クル部員だろ わたしの都合も考えてよ 日曜、なにか用事あるのか? ………… あるわよ ないって言おうとしてあるって答えたな ほんとにあるのよっ どんな用事なんだ? 境内の掃除 今日やったばかりだろっ 落ち葉で汚れやすいのよ 落ち葉の季節はもう少し先だろっ とにかくわたしはいそがしいのよ ……明日は姫榊の当番なのか? そうよ 違いますよ 口裏くらい合わせてよ! でも、わたしの当番ですから じゃあ手伝ってあげる ありがとうございます こさめさん、明日の活動は俺たちと一緒だよな? はい。掃除くらい短時間で終わりますから なら掃除が終わってから姫榊も参加できるな 姉さんも連れてきますね 明日は一日がかりで石畳にワックスでもかけましょうか ありえないだろ!? ……姉さん、ご一緒しませんか? こさめ、当番は代わってあげる。ひとりで行ってきたらいいじゃない こさめさんは眉尻を下げる。 姫榊、俺たちを監督するんじゃなかったのか? 活動に参加しないとなにが起こるかわからないぞ? 天体観測の活動で屋上使うならいざ知らず、ただの調べものなんだから問題ないでしょ 来てみないとわからないぞ? 小河坂くんが一緒なら大丈夫でしょ 俺が率先して問題起こすかもしれないぞ? できるものならどうぞ。そっちも生徒会役員の一員ってことを忘れないように じゃあ忘れてやる そうしたらあなたを推薦したわたしがほかの役員から責められるだけね ………… 小河坂くんは無責任な人じゃないって知ってるから ……勘違いかもしれないぞ だとしたらわたしに人を見る目がなかっただけの話ね 折れてくれそうにない。 軍配は姉さんに上がってしまったようですね 姫榊、本当に来ないのか? くどい ……白旗を上げるしかないか。 もう部屋に戻るわ。宿題もあるし 止める間もなく居間を出ていった。 小河坂さん、明日の集合場所はどうしますか? 現地集合でいいんじゃないか でしたら神社の境内になりますね そうだな、みんなでここの神社に集合だ 待ちなさいよ!? 戻ってきた。 お帰り お帰りなさいませ、姉さん ふたりともどういうつもり!? なにが? なんで天クルがここに集まるのよ!? みんなが見てる中、姫榊は掃除しててくれ 姉さんは気にせずお仕事がんばってくださいね なんでここに集まるのかって聞いてるの! 姉さんなら見当がつくんじゃないですか? こさめさんはぴんと人差し指を立てた。 わたしたちのこの神社は、雲雀ヶ崎の隕石を〈祀〉《まつ》っているじゃないですか あそこの社殿に隕石があるんだよな はい、そうですよ ………… 図書室の資料を調べていた際にそんな記述を発見し、こさめさんに確認を取ったところ、本当だということだった。 もっと早く教えてくれてもよかったのにと明日歩が言うと、こさめさんは困ったようにしていた。 夏祭りや神楽は有名でも、隕石が祀られているというのはあまり知られていなかったようだ。 ……社殿って、普段はカギがかかってるから、部外者は入れないけどね 今確認することは叶わないようだ。 夏祭りの日、姫榊が神楽を舞った壇上に、その石はあった。 俺は最初それを水晶と称し、万夜花さんは鉱石という点で正解と答えた。 明日、俺たちは万夜花さんから隕石の詳しい話を聞くために、ここを訪れるのだ。 昨日の部活で決まったんだ。姫榊、部室に顔出さないから知らないと思ってたけど ……まあ、隕石を調べてればいずれこうなるって予想してたわ お母さんにはもう話してありますので、明日はお待ちしてますね ああ、姫榊と一緒に待っててくれ ………… 姫榊も参加するだろ? ……わたしがいないと、お母さんがなに話すかわかったものじゃないからね 家族のアルバムで盛り上がるのも楽しそうですね 絶対させないからっ それじゃ俺、帰るけど はい ……また明日ね 違うだろ、姫榊 姫榊は眉根を寄せる。 また明日じゃない。また今夜だ 今夜は天クルの天体観測の日だぞ。忘れてたのか? ……忘れてたわよ 参加するんですよね? ただの調べものと違って、屋上使う天体観測は問題起こすかもしれないって言ってたもんな ……あなたたち、あとで覚えておきなさいよ 俺にもお仕置きするのか? しないわよ!! ほほえむこさめさんの傍ら、姫榊は最後まで怒っていた。 姫榊、今夜の活動はどうだった? 二度目の天体観測となる姫榊に、感想を求めてみた。 今のところ健全ね いつだって健全だぞ それを決めるのはわたしだから 俺も生徒会役員だぞ 生徒会内ではわたしのほうが発言力は上よ そりゃそうだろうけど 俺は新参者なのだ。 天体観測をしてみた感想は? まあまあだった 星はまあまあ嫌いなのか? そうね。望遠鏡で覗いた星は新鮮だったけど、好きになるかは別問題だから 手強いな わざわざ夜に外出してまでやりたいとは思わないし 手厳しいな 望遠鏡の片付けを、姫榊も慣れないなりに手伝っている。 初参加のときは手伝わなかったが、それはやり方を見て覚えようとしたからだろう。 文句は多くても仕事はきっちりこなしてくれるのだ。 制服の衣替えはまだだけど、この気温だと冬服着たくなっちゃうね…… 明日歩が自分の肩を抱いてぶるっと震えた。 夜風は、強くはないが冷えている。 今度から、天体観測のときだけ冬服で活動するか うんっ、賛成~ 却下 なんでだよっ 衣替えの移行期間は九月下旬から。規則で決まってるんだから 部活動の時間くらいいいじゃない~! そんな例外は認められない 小河坂クン、早速出番のようだね ……規則を変えろってことですか? キミは天クルのために生徒会に入ったんだからね 違うんですが。 理由と言ったら、姫榊の手のケガの借りと、もうひとつ。 生徒のためにマジメに働く姫榊に触発されたからだ。 ……裏切り者扱いされないためにがんばってください 蒼さん、寒いの苦手か? 気分を害するものはすべて嫌いです とてもわかりやすい返答だ。 じゃあがんばってみるかな 言っておくけど、小河坂くんが生徒会で打診しても、わたしが立ちはだかるわよ あたしは洋ちゃんを応援するよ わたしはどちらも応援しますね 僕は最終的に部費をアップしてくれるほうを応援するよ ……私はどうでもいいです みんなそれぞれ好き勝手言っている間に片付けは終了した。 屋上を出る間際、姫榊に言った。 これから展望台寄ってみるか? ……どうして メアに会いにさ 前回同様、今回もメアは天体観測に参加していない。気まぐれなのだ。 ……メアさんに悪夢を刈るのをお願いするんなら、よけいなお世話 そうか そうよ 姫榊の悪夢って、どんな内容なんだ? 尋ねても、姫榊は答えない。 ……小河坂くん 代わりにこんなことを言った。 どうして、星には色がないのかしらね…… 見上げても、すべて同じ色に見えてしまう。肉眼だって、望遠鏡を覗いたってそれは変わらない わずかな違いはあるんでしょうけど…… わたしには、わからないわ 人間の目は、光を蓄積しないんだ。だから星には色がないように見えてしまう 光を蓄積できるカメラを使えば、鮮やかな色彩の天体が映るんだけどね 俺たちの話が聞こえていたのか、岡泉先輩は説明を残して屋上を出ていった。 姫榊は、星にどんな色がついていて欲しいんだ? 姫榊は答えた。 夕焼けと違う色がいいわ 迷いのない答えだった。 赤が嫌いってことか? うるさい ……怒るのは、体調悪いせいか? ふん 悪夢のこと、メアに頼むか? 頼まないってば 無理だけはするなよ してないってば 俺が無理って判断したらメアのところに連れていくからな いかないで 姫榊が反抗しても無理やりお姫さま抱っ…… どがっ!! だっ、だだだ誰もまたやって欲しいなんて言ってないわよ!! ……そもそも俺も言ってないからな。 ふたりとも、早く出てくれないと屋上のカギしめられないよ~ ……ふんっ 倒れた俺から顔を背け、乱暴に立ち去っていった。 ……集合時間は三時じゃなかったの? 姫榊が神社の仕事するって言ってたからさ 境内には約束の時間の一時間前に着いた。 べつに手伝わなくていいわよ 土日は手伝えって言ったのそっちだろ 小河坂くんって律儀よね 姫榊の生真面目さには負ける じゃ、水汲んできて 姫榊は手桶を押しつけてくる。 今後は掃除だけじゃなかったのか? 気温がまた高くなったから。ちょうどこの時期って気候が安定しないじゃない 体調くずしやすい時期でもあるな 気をつけなさいね そっちこそな 言われなくても 悪夢は見たのか? ……べつに毎回聞かなくていいから 毎回見てるってことか ………… 体調、気をつけろよ ……気をつけてどうにかなるものじゃないわよ だったら 却下 ……否定するの早い上に淡泊だな 何度も同じやり取りさせるからよ メアに頼みたくなくても辛そうならお姫さま抱っ…… どがっ!! なっ、ななな何度も同じやり取りさせないでよ!! こっちも反応は早いが淡泊じゃない。 早く水汲んできてよっ、戻ってこなくていいからっ 戻ってこないと渡せないだろ…… ふんっ 洋ちゃーん、おはよ~ 明日歩が境内に入ってきた。 わ。こももちゃん、巫女さんやってる ちょ、なんで南星さんまで来るのよっ 現地集合って言ってたじゃないか まだ時間じゃないでしょっ やあ、おそろいで お待ちしてましたよ なんで続々やって来るのよ!? 天体観測の日はいつも一時間前集合だったから、クセになってるのかも 蒼クンは遅刻だろうけどね こももちゃん、なにやってるの? なんでもいいでしょっ 打ち水だね。巫女の格好だと絵になるなあ あたしもやってみたいな~ では水場からひしゃくを持ってきますね みんなでやれば一瞬で終わりそうだな なら僕も手伝おうか 人数分のひしゃくを持ってきますね ……なんでこんなことに しかし姫榊ひとりだけ巫女姿で浮いてるな わかってるから嫌がってるんでしょ!? こうしてなぜか天クルの打ち水が始まった。 結果、境内は水浸しになった。 雨が降ったあとみたいになってるんだけど!? 撒きすぎましたね あまり風流じゃなくなったなあ このあとの掃除が大変そうだな あなたたち仕事の邪魔しに来たの!? それ~それ~ やめんかっ! 明日歩からひしゃくを取り上げる。 あ、もう万夜花さんから話聞く時間? ちょうど一時間経ったみたいだね お話は家のリビングで聞きましょうか ……到着しました 蒼さんも来て、これで全員そろったな それじゃ、これより雲雀ヶ崎の隕石講演を始めま~す! ほら姫榊、行くぞ その前にこの惨状どうにかしなさいよ!? 乾くのを待つしかないだろ 掃除はどうするのよ!? 今日のお仕事は雨のため中止ですね 姫榊、行くぞ ……あとで覚えておきなさいよ お仕置きか? しないわよ!! 家のほうにぞろぞろと向かうと、姫榊も怒りながらついてきた。 いらっしゃい。適当に座っていいわよ 居間では万夜花さんが待っていた。 俺たちは結構な大所帯だったが、部屋も畳も広いので全員が座ることができた。 わたし、お茶を持ってきますね こさめさんが台所に消えると、岡泉先輩が身を乗り出した。 今日はありがとうございます。部長の岡泉です ああ、堅苦しいあいさつなんかいらないから。名前くらいはこさめから聞いてるし それに、もともと知ってる子も多いから 海水浴のときはお招きありがとうございました~ いえいえ。ま、そのときに全員の顔見てるしね 自己紹介の必要はいらないわけだ。 ……さすがに大所帯になってるわね 私服に着替えた姫榊も合流だ。 姉さん、お茶運ぶの手伝ってもらえますか? はいはい。お母さん、適当に話進めてていいから。わたしたちはもう知ってる話だし それじゃみんな、こももの赤裸々アルバム見る? そうじゃないでしょ!? 万夜花さんからアルバムを奪い取る。 つれないわねえ ……岡泉先輩、隕石資料展はボツにしてください 姫榊クンの赤裸々資料展にするのかい? そんなことしたら天クル廃部にしますから! わめいてないで、早くこさめのところに行ってあげなさいよ ……変な話が聞こえてきたらすぐ戻ってくるからね 憤然として台所に入っていった。 ……賑やかな家族 うちと同レベルだよな ……千波さんを考えると納得です 万夜花さん、じゃあ早速ですけど隕石のお話聞かせてもらっていいですか? 社殿に〈祀〉《まつ》ってる御神体のことよね。いいわよ、暇つぶしになるし 神社の神主というのは仕事が少ないのかもしれない。 ただ、どこから話していいのか悩むところではあるわね 万夜花さんは腕を組む。 俺たちはそろって耳をかたむける。 あの隕石はね、今からだいたい六十年くらい前に雲雀ヶ崎に落ちたのよ 日中、西の空からいきなり細長い雲が現れたと思ったら、次に大きな音が轟いたそうでね その頃の雲雀ヶ崎は今と違って畑が多かったから、ちょうど畑仕事に出ていた人たちがたくさん目撃したそうよ 今は廃館になってる宇宙科学館には、天文台があったんだけど。そこの研究員も見ていたらしくて…… 空から飛んできた隕石が〈雲雀山〉《ひばりやま》に落ちたんじゃないかと計測したの ……雲雀山? ヒバリ校の近くに展望台があるわよね。あの一帯の山のことよ そして、その研究員の知らせから、山に隕石が落ちたと街でも噂になって…… 雲雀ヶ崎の住民がボランティアの捜索団を結成したのよ 当時はお祭りみたいに賑わったそうでね。みんなで雲雀山に踏み込んで、整備されてない林や谷までくまなく捜し回ったんだって そしてめでたく、隕石は翌年に発見された それが、ちょうどヒバリ校が開校した年だったのよ ……ということは、隕石が落ちたのが五十六年前、発見されたのが五十五年前になりますね 詳しい年は覚えてないけど、そのくらいでしょうね 先輩、よくわかりましたね ヒバリ校は今年で創立五十五年目だからね 俺も転入当初、図書室で卒業アルバムを探していたとき、こさめさんから聞いていた。 ヒバリ校は今年で創立五十五年目となります。そのため卒業アルバムは全部で五十二冊となっています 数字が合わないのは、一期生が卒業するまでは卒業生がいなかったためですね ヒバリ校は開校した当時、木造校舎だったそうです。体育館もプールも学食もなく、この図書室を始めとする特別教室もありませんでした また、通学路の夢見坂もほとんど整備されておらず、通いやすい学校とはお世辞にも言えなかったようです それでもこの場所にヒバリ校が建てられたのは、様々な理由があったそうなのですが…… 理由のひとつに、高台であることが挙げられます ヒバリ校は創立一年目にして、なんと天文部が存在していたんですよ あ……じゃあもしかして、創立一年目に天文部が存在してたのって そうよ、隕石捜索団の影響で、みんなの天文熱が高かったおかげでしょうね ……伝統的な部活っていうのは聞いてたけど、そういういきさつがあったんだね 今は廃棄されたけど、ヒバリ校には立派な天体望遠鏡もあったんだ。街からの寄付だったのかもしれないね そのあたりの詳しい話は、私たちが所属してた天文部の元顧問に聞いてみたらいいんじゃない まだヒバリ校に勤めてたはずよ ………… 蒼さんはその先生を知っているのか、どこか緊張した面持ちに変わった。 それは機会があったら、ぜひ聞いてみたいと思います。ですけど今日は隕石についてですから そうだったわね お待たせしました、麦茶です 今日は暑いから、冷たいのにしたわよ 姫榊姉妹がお茶を配ってくれる。 よけいなことは話してないでしょうね そっちも聞こえてたでしょうが ふん せっかくですので、わたしたちも同席しますね ふたりが座ると、万夜花さんはまた口を開く。 どこまで話したんだったかしら 姉さんが小学校に上がった頃までです そうそう、こももったら小学一年にして六年の男の子からラブレターもらってね、そのときのこももの反応がこれまた無垢で傑作で…… そんな話は一言もしてなかったでしょ!? それでそれで? メモ取ろうとしないでいいから!? ……本気で赤裸々資料展かい? やったら廃部にしますからね! ……とてものどかです 蒼さんだけのどかに麦茶を飲んでいた。 万夜花さん、話は捜索団が隕石を見つけたってところからです ああ、そうだった気もするわね まったく…… 姫榊の怒りが収まったところで、隕石講演が再開する。 見つけた隕石は、天文台を経由して、すぐに都会の研究機関に送られた。本当に隕石かどうか調べるためにね それで、めでたく本物の隕石だと判明して、雲雀ヶ崎隕石と名付けられたの 隕石っていうのは、落ちた土地の名前をつけるのが慣習だそうでね。それから住民たちの要望もあって、隕石はすぐ雲雀ヶ崎に返してもらったわ それからいろいろな経緯があって、今はこの神社に安置されているってわけ そのいろいろな経緯を聞かせてもらっていいですか? 万夜花さんはここで難しい顔をした。 ……そうね。教えてあげられる範囲になるけど なにか機密でもあるんだろうか。 この神社の名前は知ってるわよね 星天宮ですね そう。名前のとおり、星を〈祀〉《まつ》っている。もっと詳しく言うと、〈天津甕星〉《あまつみかぼし》を神として崇めている神社なの 天津甕星ってなんなんですか? 日本神話に出てきそうな名前だね 言ったとおり、日本神話における星の神のことよ そして、星天宮にとっての『まつろわぬもの』でもある ……まつろわぬものってなんですか? これまでも何度か聞いた言葉。 お祭りする者じゃなくて? ……それだとただのお祭りの参加者になりそうです まつろわぬもの、よ。従わないって意味でね、要するに人間に服従させるべき存在を神として扱っているわけよ ……神さまなのに、服従させるんですか? 違うわ。私たちにとっては、服従させなければいけないからこそ神なのよ ……えっと? 神社というのは、もともとまつろわぬものを〈鎮守〉《ちんじゅ》の神として〈祀〉《まつ》るという役目を持つんだよ 人間に危害を加えることのないよう、逆にその土地を守ってもらえるように祈るという仕事だね あんた、若いのによく知ってるじゃない これでも僕の〈存在意義〉《レゾンデートル》ですからね そんなセリフをさわやかに言える先輩は大物なのか小物なのかやっぱり不明だ。 じゃあ、〈天津甕星〉《あまつみかぼし》っていうのは人に危害を加える悪い神さまってこと? そうよ。そして私たち星天宮に連なる者は、大昔から〈天津甕星〉《あまつみかぼし》を鎮める役目を担っていた 隕石が落ちた土地に神社を〈建立〉《こんりゅう》し、その隕石を〈天津甕星〉《あまつみかぼし》が宿る〈依代〉《よりしろ》として崇め、安置する だから、この神社が建ったのも、隕石が発見された年になるのよ とするなら、もともと姫榊家は雲雀ヶ崎の外から移り住んできたことになる。 姫榊姉妹は知っていたんだろう、ただうなずくだけだ。 〈依代〉《よりしろ》っていうのは、神や霊が乗り移ったもののことよ。樹木や岩石、人形なんかが多いけど、それらを神霊そのものの代わりに神社で〈祀〉《まつ》るの 隕石はあくまで雲雀ヶ崎のものだけど、私たち星天宮の人間が交渉して、この神社に〈祀〉《まつ》らせてもらっているの 伝統的な夏祭りも、この頃から始まったわ。雲雀ヶ崎としては集客にもなってちょうどよかったんじゃないかしら ここまで話して、万夜花さんは麦茶を一口飲んだ。 ……〈天津甕星〉《あまつみかぼし》って、隕石の霊みたいな感じですね 人に危害を加えるなら、悪霊です そう取ってもらっても構わないわよ ………… 小河坂クン、なにか気になることでもあるのかい? ……あ、いえ 展望台でこさめさんと対峙したときのこと。 こさめさんが話した言葉と今の万夜花さんの言葉に、なにかしらのつながりが見えた気がした。 神さまが降臨するってよく言うけど、隕石には星の神さまが降臨するんだって考えられるよね ……とはいえ邪悪な神、略して邪神ですが せっかくロマンチックにしようとしてるのに~! ……私は邪悪なほうをプッシュしていきたいと思います 資料展をどんなアプローチにするのかで議論を呼びそうだ。 降霊っていう解釈もできそうだね。星天宮の人たちは口寄せを生業にするんじゃないですか? 鋭いわね。星天宮の巫女は代々、神託や口寄せを得意にしていたという記録もあるわ 自身の身体に神を招き、あるいは死別した先祖の霊を憑かせ、その言葉やメッセージを皆に伝える…… そんな神託や口寄せに似た儀式を、私たちは『〈星霊〉《せいれい》の儀』と呼んでいるのよ ……精霊? 星の霊と書いて〈星霊〉《せいれい》よ 精霊とは違うのかな ……口で言うだけだとこんがらがりそうです 実体は似たようなものなんだけどね ……お母さん こさめさんが割り込んだ。 みんな、こさめとこももの友達でしょう。教えたって問題ないわ ………… わたし、その〈星霊〉《せいれい》の儀って知らないわよ こももにも昔に教えたわよ。忘れたんじゃない ……記憶力はいいと思ってたんだけど 差し支えなければ、教えてもらっていいですか? ええ 万夜花さんは鷹揚にうなずく。 星天宮に伝わる〈星霊〉《せいれい》の儀っていうのは、〈星砂〉《ほしずな》に、死んだ者の魂を降ろす儀式のことよ ……星砂? 星のかたちをした砂? 海の生き物の殻の総称よ。正体はアメーバに近い単細胞生物で、貝と同じカルシウムでできている それらが死ぬと、柔らかい部分が硬くなって、そのまま砂浜に残るのよ ちょうど星のかたちに見えるんですね 海は生命の源と考えられているし、その生命の抜け殻に新たな命を吹き込むというのは、ちょっと説得力があると思わない? 言い得て妙な感じですね 来たよ来たよっ、ロマンチックなお話が! ……意思を持つアメーバ、いわゆるスライムみたいなものですか なんで蒼さんはすぐ邪悪なほうに向かうんだよ~! 善良なスライムもいそうですが 〈星霊〉《せいれい》の儀で生まれた存在は、ちゃんと人のかたちをしているそうよ。そう伝わっているわ ……聞いてると、幽霊みたいですね 恒久的な存在なんですか? 神託や口寄せと違うのは、その点ね。メッセージを伝えたらお役ご免とばかりにすぐいなくなるわけじゃない 信じられないかもしれないけど、見た目は普通の人間として日常生活に解け込むこともできたって話もあるわよ それぞれ、ため息とも感嘆ともつかない息を吐く。 それに関連したおとぎ話もいくつか伝わっているんだけど、聞きたい? ぜひ聞きたいです! ……スライムを倒して経験値を稼ぐ勇者の話 どこのゲームだよそれ~! 誰もが知っているゲームだろう。 それじゃ明日歩ちゃんのために、ロマンチックなものをチョイスして話してあげようかしらね 明日歩が瞳をキラキラさせると、周囲からは笑い声や呆れ声が聞こえていた。 今日はありがとうございました。勉強になりました いえいえ、若い子と話す機会ってあまりないからねー、娘を相手にするくらいで。だから私も楽しかったわ 万夜花さんの話が終わった頃には、陽も沈みかけていた。 ……これじゃ、お母さんを満足させただけで一日が終わったみたいなものじゃない そんなことないよ、あたしも楽しかったし 星霊のおとぎ話を一番熱心に聞いていたのは明日歩だった。 ときおり蒼さんが現実的な見解で茶々を入れていたけど。 ……そろそろおいとまですか? 時間的にそうだな 万夜花さん、今度またお邪魔していいですか? よかったら隕石の写真撮りたいんですけど…… いいわよ。次来たときは、社殿のカギを開けてあげるわ ありがとうございます~ 隕石についてたくさん収穫あったでしょうし、今日のところはこれで充分なんじゃない そして収穫があったのは隕石だけじゃない。 もしもまたメアが襲われるようなことがあれば──それに関連するなにかが起こったならば。 俺はもう躊躇せずに問いただすだろう。 メアを悪夢と呼んだ、こさめさんの真意を。 最後にひとつ、いいですか 解散の流れになる中、岡泉先輩が言った。 雲雀ヶ崎には五十六年前のほかに、七年前にも隕石が落ちているというのは知っていますか? そんな話もあったわね。同じ土地に再びなんてめずらしいってことで、住民が騒いでたから でも、結局見つからなかったのよね 二つめの隕石に関しては、なにかわかりませんか? 知らないわね。一つめと違って目撃者がほとんどいないって話だし、見間違いなのかもしれないわよ 岡泉先輩は納得できないようだったが、これ以上はなにも聞かなかった。 二つめの隕石についても調べたいけど、こっちは資料がぜんぜん見つからないんだよね そりゃ、現物がないんじゃね 捜索団も一年間探したそうですけど、見つからなかったんですよね あたしは目撃したのにな…… 明日歩が見たんなら、見つかってないだけできっとどこかにあるんじゃないか 気休めかもしれないが、言ってみた。 ……うん。そうだよね 落ちたのに見つからない隕石っていうのも、ロマンチックだもんね~! 元気になってよかった。 ……ただの石だと思って誰かがコンクリートの材料にでもしたんじゃないでしょうか 今日は蒼さんに夢を壊されてばかりだよ~! 私の立ち位置としてプッシュしていきたいと思います かたちはどうあれ、蒼さんも天クルの一員として自覚が出てきたようだった。 そして、俺たちは駅で別れ、各自帰途についた。 といっても、俺の向かう先は自宅ではないのだが。 えっ…… ただいま 夕焼けに染まった星天宮の境内。 鮮烈な赤に立ち、巫女装束を身にまとった姫榊は掃除を始めていた。 昼間は水浸しになったここも、陽がかたむく頃にはすっかり乾いていた。 ……どうしたの? ちょっとな ほかのみんなは? 帰ったよ 小河坂くんはなんで帰らないのよ 手伝おうかと思って ………… ホウキ、貸してくれ ……今日の掃除は休みってことにしたじゃない じゃあ姫榊はなんでやってるんだ ……べつに、気になったからやってるだけよ 俺も、気になったから戻ってきた ………… それに、土日は手伝うって約束だからな ……バカね 小さく笑った。 掃除、やっぱりやめようかって思ってたのに そうなのか そうなの 途中で体調が悪くなったとか? ある意味そうね わたしは、展望台と同じくらい、夕焼けが嫌いだからね 境内を覆う赤は、姫榊の巫女装束の緋色よりも強い。 だから…… 姫榊はふいっと横を向いて。 ……ありがと なんだって? 小さくて聞き取れなかった。 ホウキ、向こうにもう一本あるって言ったの 了解。取ってくるよ バカね その言葉も小さくて、よく聞き取れなかった。 ただ、姫榊がほほえんでいることだけはわかった。 ……姉さん、姉さん ん……んん…… あ……こさめ? 居間で寝ると風邪をひきますよ。最近は気温が上がったり下がったりなんですから そうね……ありがと、起こしてくれて 姉さん、お疲れですか? ……そうみたい。天クルのみんなの相手するの、大変だったからね それだけですか? ……なにが? 悪夢にうなされて、寝不足なんじゃないですか? ………… もしも辛いようでしたら、わたしが添い寝を…… 却下却下っ、よけい眠れなくなるわよ! ……ぽ そこで照れるのは誤解を生むからやめてくれる!? 姉さん、マジメに大丈夫ですか? ……大丈夫だってば。それよりこさめ はい? 雪菜先輩に悪夢のこと話したの、あなたでしょう ………… あまり人に話さないで。変に気遣われたくないし ……小河坂さんにも? 当たり前 小河坂さんは、姉さんの悪夢のことを知らないんですか? 知ってるけど、これ以上よけいな心配かけたってしょうがないじゃない 話さないほうが心配をかけるんじゃないですか? そんなことないわ。そういう仲ってわけじゃあるまいし 恋人の仲のことですか? 友達の仲のことよ!? おふたりは友達じゃないんですか? ……委員会仲間と部活仲間よ わたしと小河坂さんは友達ですよ ……よかったわね 小河坂さんのほうは、姉さんを友達だと思っているんじゃないでしょうか ………… 小河坂さん本人もそう言ってましたよね? ……そうね 友達の仲くらい、わたしも無理に否定する気はないわ ただ、今までは、男子の友達なんて必要ないって思ってたから…… 男女の間に友情はありませんか? そう割り切ったほうが気が楽なのよね 小河坂さんと恋人になってもよろしいですよ? そんな感じで冷やかされそうだから男子の友達は嫌なのよっ 姉さん、昔は性格も丸かったですよね 今の性格がとんがってるみたいに言わないでよっ だから小学と中学の頃の姉さんは、男子と友達になるとたいてい告白されていましたよね 今は性格に問題あるみたいに言わないでよっ 告白を断った相手と友達を続けるのは、難しいですよね ……だったらってことで、最初から男子の友達なんかいらなかったのよ おかげでこんなツンな性格に育ったんですね 人を実験動物みたいに語らないでくれる!? 姉さんは…… もっと、誰かに頼るべきだと思います…… ………… 悪夢のことだけじゃない、どんなことでも、そうやってひとりで解決しようとして…… ………… 恋人を作れとまでは言いません…… だけど、頼れることのできる相手くらいは…… ………… じゃないと、わたしは…… ……はい、ストップ わたしにだって、頼りになる相手くらいいるわ ……誰ですか? あなたよ ………… わかったら、あなたも寝なさい。もう日付変わりそうじゃない ………… 明日は学校よ。寝坊しないようにね おやすみ、こさめ ………… 姉さん…… 違うんです……わたしじゃ、ダメなんです…… だって、姉さん…… あなたは──── ……はあっ 姫榊こももはベッドから飛び起きた。 毎度の悪夢。 夕焼けの中を落ちる夢。 ほんと……なんなの…… 起きたあとに頭痛と動悸をこらえるのはもはや日課となっている。 もう嫌なのに。 落ちたくないのに落ちてしまう。 落ちるだけ落ちて、終わってしまう。 隕石の気持ちはこんな感じなのかもしれない。 あらがえずに。なすがままに。 空、あるいは地面に落ちる。 その後は、この星に落下する途中で熱せられた表面が、徐々に冷めていくだけ。 凍えて終わるだけ。 夢の中の自分もそう。 落ちたあとにはこの身体が冷たくなった。 寒くて寒くて凍えそうで。 だからそう、自分は横たわっていた。 わたしは、横たわっていた……? え……? おかしい。 悪夢はどこかにたたきつけられた瞬間に終わるはずだ。 なのに今、自分はたたきつけられたあとの状況も思い出している。 悪夢は終わっていなかった。 落ちるところまで落ちたのに、まだ続きがあった。 わたしはどこに横たわっていた? 慎重に思い返す。 夕焼けの赤の中、緑と黒だけがほかの色。 緑は草木、黒は空、もしくは地面。 夕焼けだったら空は赤い。 じゃあ黒は地面? 草木の多い地面にわたしは落ちていた? そして、終わる。 身体が凍えて終わるのだ。 悪夢は必ず死で終わる。 だから、わたしは、落ちて死ぬ。 う……くっ…… 無理に思い出そうとしたせいか、頭痛がひどくなる。 そうなるともう、なにも考えられなくなる。 痛みが引くのを待つしかなくなる。 だけど、それでも、感じることくらいはできる。 あのぬくもり。 安心感。 洋に抱きかかえられたこと。 この痛みを和らげたいと祈る際、いつしかそれを感じている自分がいた。 あの記憶はとても恥ずかしいのだけど、だからこそなのか、痛みが頭から胸に移動してくれるのだ。 ズキズキが、ドキドキに代わるのだ。 こももは思う。 ……こさめが言っていた。わたしはもっと人に頼るべきだって。 これが、人に頼るってことなんだろうか。 わたしは頼りになる相手をこさめだと言った。 だけど、心ではそう思っていても。 甘えん坊だったこさめから頼りにされることはあっても、自分がこさめに頼ったことは一度もなかった気がする。 そのせいかもしれない。 誰にも頼らなかった自分が、やっと頼れる人を見つけたのかもしれないから。 このあたたかい気持ちは、そのせいかもしれない。 ……なに考えてるんだか こももは顔を上げた。 その顔は赤かったけれど、頭痛なんかはもうすっかり消え失せていた。 動悸はまだ激しくても、それはどこか心地よさを伴う鼓動に代わっていた。 だから、最近のこももの一日は、いつもこの胸のドキドキから始まるのだ。 さてさてやって参りました、昼休みの時間だよ~! 午前ラストの授業が終わった瞬間寝ていた明日歩が、がばっと起き上がった。 ……チャイムが目覚まし代わりなのか お腹の虫のほうかもしれませんよ なんにしろわかりやすいやつだな 早く学食行かないと席なくなっちゃうし、急いで向かわなきゃねっ 寒くなってくると中庭で食事ができなくなりますから、ますます混むんですよね まあ、この時期ならまだ平気だろ ほらほら、しゃべるのは学食着いてからだよ~ そうだな。席よりも明日歩の空腹が心配だし あんまりのんびりしていると、わたしたちを昼食代わりにしそうですからね あたしは岡泉先輩じゃないよ~! これ食べるか? 知恵の輪なんかいらないよ~! いつものメンバーで騒ぎながら教室を出た。 小河坂くん そしてなぜか、廊下で姫榊が待っていた。 遅いじゃない。行くわよ 俺に目配せしてくる。 ……なにか用か? ええ なんだ? 生徒会の仕事 マジですか。 あたしたち、これからお昼食べるんだけど…… 悪いんだけど、小河坂くんは借りるからね ヒバリ祭のお仕事ですか? そんな感じね オカ研のために写真展の場所を確保してくれんのか? そんなの議題にも上ってないわよ 小河坂、話が違うじゃねえか いやそんな話してないから 小河坂くん、行くわよ 仕事と言われたら従うしかない。 みんな悪い、先に食べててくれ うん。学食で待ってるね 待ってなくていいわ。いつ終わるかわからないし ……そんな時間かかるのか? ええ なんの仕事なんだ? 詳しくはあとで話すから 食事する時間くらいあるんだろ? 仕事しながら食べてもらうかも 洋ちゃん…… まあ、しょうがないか ……裏切り者 いやここでもかよ!? お仕事がんばってくださいね、裏切り者さん 武運を祈ってやるぜ、裏切り者 しょうがないだろ仕事なんだから!? 昼休みの居場所もなくなったようね、裏切り者 だからおまえに言われる筋合いないんだけど!? それじゃ、行くわよ ふたりで仲良くご飯食べればいいじゃない裏切り者~! せっかくの昼休みなのに憂鬱な展開だった。 姫榊についていったら、中庭に出た。 ……おい なによ 生徒会室じゃなかったのか 誰もそことは言ってないけど うららかな日和の下、このあたりはベンチや芝生に座った生徒で賑わっている。 姫榊は空いているスペースを見つけると、俺に手招きする。 ここでいい? というか、状況が不明なんだけど べつにいいじゃない よくないだろ あなたは中庭で昼休みを過ごせばいいの ……生徒会の仕事は? これが仕事よ どんな仕事だ。 それとも要求にしたほうがいい? ……よくわからんけど、そこに座ればいいんだな? そうよ 姫榊が腰を落とすと、俺もならって隣に座った。 ……ついてきてもらって、悪かったわね 仕事っていうの、ウソなのか まあね ほんとはなんの用なんだ? ………… 沈黙の間があって。 ……一緒に、どうかなと 視線を逸らしてそう言った。 なにがだ? 姫榊は答える代わりに、なにか取り出す。 ……あげる 小さな包みだった。 姫榊は視線を上げたり下げたり落ち着きがない。 俺たちの周囲では、これと似たような包みを持った生徒をたくさん見かける。 と、いうことは。 弁当か? 姫榊は、こく、とうなずく。 これ、どうしたんだ? ……だから、あげるの 姫榊の弁当を? こく、とうなずく。 俺に? こく。 毒見? こく……ぶんぶんっ。 毒なんか入ってないわよ! ……いや、それにしたってなあ 急展開にもほどがある。 俺がもらっていいのか? ……そう言ってるじゃない ますます不可思議だ。 ……べつに深い意味なんかないわ 立てた膝を、ぎゅうっと腕で抱え込む。 作りすぎたのよ。それだけ 捨てるのもったいないし、食べてよね ふん、とそっぽを向いた。 断る理由はなかった。どんな魂胆があるのか知らないが、まずは厚意にあずかることにした。 俺は包みを開けていく。 姫榊、自分で弁当作ってるのか ……たまにね。晩ご飯が余ったときとか 学食のメニューって種類は多いけど、そのぶん代わり映えもしないから。ずっと食べてると飽きるのよ こさめさんはいつも学食だけど あの子は好き嫌いないから 姫榊はあるのか そうね。カボチャが特にダメ じゃあ、この弁当にカボチャは入ってないわけだ ……見たらわかるわよ フタを外すと、色とりどりのおかずが広がる。カボチャは入っていない。 うまそうだな ……ふん 作りすぎたってわりに、量は少ないんじゃないか ……いいから早く食べなさいってば 姫榊が普段食べる量と同じなのかもしれない。 一口いただいてみる。 うまいな ……ふん 二口、三口といただく。 小河坂くんは、いつも学食? ああ。たいてい、こさめさんたちと食べてるよ そう 姫榊もクラスの友達と食べてるんだろ まあね 今日は俺とでいいのか? ……いいのよ 手作りなんだから、男子に食べてもらったほうがありがたみがありそうじゃない ……手作りって、晩ご飯の残りなんだろ 晩ご飯は家族で交代制にしてるの。ちょうど昨日はわたしの当番だったのよ そっか そうよ 俺は食事を進める。 だが隣の姫榊は食べる様子がない。 そっちは食べないのか? うん。あまり食欲なくてね ……作りすぎたっていうの、ウソか? ほんとよ それ全部は食べられないから ……待ってくれ。 じゃあこれ、姫榊の弁当なんじゃないか そうよ。でも、今は小河坂くんのだから ……姫榊のぶんはどうするんだ 実はね、さっきの時間、わたしたちのクラスは調理実習だったの。そこで食べ過ぎてね ウソだな ほんとよ ヒバリ校では、家庭科は一年だけの選択科目だ。転入生でもそれくらいは知ってる ………… 返すよ ……いいから 全部食べられないなら、せめて半分食べろ いいから よくない 箸、それ一膳しかないし ………… 小河坂くんがもう使ったしね ……購買で割り箸買ってくる そこまでしなくていいから ほんとに全部食べていいのか? さっきからそう言ってるじゃない 観念するしかないんだろうか。 ……具合、悪いんだな ………… それで食欲ないんだろ ………… また悪夢か? ……そういうわけじゃ 誤魔化さないほうが身のためだぞ。俺にはお姫さま抱っこという奥の手…… どがっ!! やっ、ややややったら蹴るからね!? たった今、ほぼゼロ距離の膝蹴りを食らいましたが。 ……で、どうなんだ ………… 仕事って言ったのは、口実だろ 弁当を渡したのだって、口実だ ………… 話、聞いて欲しかったんじゃないのか? 姫榊も観念したのか、抱えた膝を胸に寄せた。 ……わたし、落ちる夢を見るの ぽつりと言う。 目覚めたらベッドから落ちていた、なんて単純なものじゃないんだよな ……そりゃあね。そんな夢だったら悩んだりしない わたしはね、いつも夢の中で、夕焼けを見ながら落ちているの 空と地面がどっちかもわからない状態で、落ちるところまで落ちて、最後にどこかにたたきつけられて…… そして、死んでしまうの ………… いつもはそこで目が覚めていた。だけど、今朝はちょっとだけ違っていて…… ううん、今朝だけじゃない。最近、夢が少しずつ変化しているみたいで…… でも、それは少しなんだけど、わたしにとっては大きな変化で…… 全部、あなたのせいだからね ……なんでそこで俺なんだよ ふんっ それで、続きは? ………… 人がどうして夢を見るのか、知ってる? ……脳のリフレッシュのためって聞いたことあるな そういう説もある。ほかには、その日に起こった出来事を整理するとか、無意識の願望充足だったりとか…… あとは、過去の経験をもう一度体験しているとか 姫榊の表情に怯えが走る。 ……授業中、この悪夢について考えてたのよ。それで、ちょっと思いついたの わたしの悪夢には、夕焼けだけじゃない、草木も見えていた気がするから わたしは、草木が多い場所で落ちていたから 落ちて、死んでしまうから そして、メアさんが、過去のわたしに会ったことがあるっていう言葉──── わたしは過去、あなたのうちのどちらかに会ってる。わたしが初めて悪夢を刈った日だから、覚えてる ふたりが子供の頃、わたしはどちらかの悪夢を刈ったことがある だから、わたしは、もしかしたら…… 過去に、展望台に入ったことが…… 俺は言葉を失っている。 対照的に、姫榊は吹っ切れた顔をしていた。 まあ、こんなふうにおもしろい仮定が成り立つわけよ ……姫榊 聞いてもらってすっきりしたわ こさめが言ったとおり、あなたに話してよかったのかもしれないわね 話が終わりそうな流れだったので、あわてて口を開く。 その仮定はおもしろくもなんともないだろっ そう? そうだっ。だっておまえ、それって…… メアはよく展望台に現れる。だから姫榊が過去にメアと会っているとしたら、場所はそこになるだろう。 そして姫榊は草木が多い場所で、落ちていく夢を見ている。 夢というのが過去を追体験しているものであり、姫榊が本当に子供の頃に展望台を訪れているのだとしたら。 わたしが、もう過去に死んでるって? ……そうなると目の前の姫榊が何者だって話になるし、そうは言わない だけど、姫榊は展望台が苦手だろ ……それがなによ。だいたいわたし、過去に展望台に入った記憶なんてないわよ もうわかってるんだろ。だから相談したんだろ 姫榊は、過去に展望台に入って、人身事故を起こした 記憶が飛ぶくらいの大ケガをしたんだって…… この仮定が正しければ、展望台が立ち入り禁止になったのはそれが原因かもしれないのだ。 姫榊はなんで展望台が苦手なんだ? ……知らないわよ 無意識に苦手ってことなんだろ 忘れているわたしの過去が原因ってわけ? バカバカしいか? ……そうは言わないけど。死神やら〈星霊〉《せいれい》やらよりはよっぽど現実的だし このこと、親御さんに確認は? さっき思いついたばかりなのよ。話したのはあなただけ なあ姫榊。悪夢の原因を突き止められれば、見なくなる方法もわかるかもしれない 姫榊の悪夢が治るかもしれない ………… 姫榊のこと、助けていいか それとも俺は、なにもしないほうがいいか? ただの勘違いかもしれない。偶然の一致かもしれない。 行動を起こせば、姫榊にとっては寝ている間だけじゃない、起きている間も悪夢と関わることになる。 それはとても苦痛のはずだ。 ……小河坂くん あなたはね、わたしの鎮痛剤なのよ ……なんだって? わからないならいいわ 楽しげに言った。 悪夢の原因を調べるとして。それ、手伝ってくれるの? ああ。借りがあるからな ………… ここは借りを返す場だ。だから絶対にやり遂げる ……納得いかない上に、くさいセリフね なぜか不機嫌になる姫榊だ。 悪夢の原因、調べるからな? まあいいんじゃない 他人事みたいな言葉だが、了承と取る。 ごちそうさま 弁当を姫榊に返す。 ……ちょっと、残ってるわよ 半分は食べた 全部あげるってば 姫榊も少しは食べろ 食欲ないんだってば 一口くらい食べろ。じゃないと、治るものも治らない 悪夢を治すって言ったからな。遂行するぞ ………… ……じゃあ、一口だけ 姫榊は箸を持つ。 あ、待った。その前に購買で割り箸…… ぱく。 はい、食べた。終わり 弁当のフタを閉めた。 ……これは、違うんだからね ただ面倒くさかっただけなんだからね 割り箸買うの面倒くさいからって間接キス…… どがっ!! ちっ、ちちち違うって言ってるでしょ!? ……まあ、元気になったのならなんでもいいんだけどさ。 姫榊とは廊下で別れ、クラスに戻ってくる。 席にこさめさんが座っている。明日歩と飛鳥の姿はない。 近づくと、向こうも俺に気づいたようだ。 小河坂さん、案外お早いお帰りでしたね 明日歩と飛鳥は? 明日歩さんは部室です。昨日聞いた隕石についてのおとぎ話をまとめるとかで 飛鳥さんは、たぶん都市伝説の聞き込みじゃないでしょうか なら、ちょうどよかった 昼休みの残り時間を使って、早速こさめさんに聞いてみる。 姫榊って、子供の頃に展望台に入ったことがあるか? 詮索は悪趣味ですよ いきなりつまずいた。 姉さん、小河坂さんに悪夢のことを話したんですね ……そうだけど。こさめさんも知ってたのか なにがでしょう 姫榊の悪夢は、展望台で起こった現実の出来事だって 詮索は悪趣味ですよ ……いや、なにか知ってたら教えて欲しいんだ 詮索は、悪趣味です。それでも詮索をしたいのなら、もっと仲を深めてからのほうがよろしいかと こさめさん、俺とつきあってくれ えいっ チョップを食らう。 その言葉、かけるべき相手を間違えていませんか? ……べつにかける相手なんかいないんだけどな 仲を深めるべきは、なにもわたしとは限りませんよ 俺がほかの誰かと恋人になっても、こさめさんは話してくれるのか ほかの誰でも良いわけじゃありませんよ それって誰だ? えいっ ……なんでチョップ わかっているのに聞いてくるからです こさめさんのほほえみが、このときは特に意地悪く見えた。 こさめさん、姫榊の悪夢についてなにか隠してるのか なぜでしょう? 展望台にフェンスが立った理由を教えてくれたのは、こさめさんだ。過去に人身事故が起こったからだって ………… なにか知ってるのなら教えてくれないか? ……詮索は 悪趣味だから隠すのか? 隠したくて隠しているわけじゃありません。小河坂さんに話しても今はまだ意味がありませんからね そんなに俺は信用ないか? たとえば姉さんがわたしに尋ねたとしたら、わたしは答えたくなくても答えるかもしれません ……じゃあ姫榊にお願いするしかないか ですが、姉さんはわたしになにも尋ねないと思います そう言ったこさめさんは寂しそうだった。 わたしと姉さんは、双子のせいなのでしょうが、普通の姉妹以上に通じあってしまうんですよ 姉さんが、わたしに聞いても答えてくれなかったと誰かに言った場合、それは最初からなにもわたしに聞いていないことを示すんです 姉さんが質問しようとするだけで、わたしはなんとなくその内容を察してしまいます そしてわたしが少しでも答えづらい素振りを見せてしまうと、姉さんは質問をする前にやめてしまうんです これを聞くのはわたしにとって辛いことなのだと、姉さんは納得して、それ以上は決して踏み込んで来ない…… 姉さんは、わたしに対して、残酷なほど優しいから…… だから、こういった類の話は、わたしが自分から言い出すしかないんだと思います わたしがわからないはず、ないでしょう あなたの双子の姉であるわたしに、隠し通せるわけがないって言ったでしょう なにを、悩んでいるのよ なにが、あなたを苦しめているのよ お願いだから、話してよ べつに今すぐじゃなくていいから だけど、いつか必ず話しなさい だからもし、小河坂さんがわたしから話を聞き出したいのでしたら、方法はひとつしかありません 小河坂さんと恋人になる相手が、わたしも大好きな人でしたら、わたしと小河坂さんの距離だって近くなる…… そうなったら、話しづらいことであっても、話してしまうかもしれないと思ったんです ………… 小河坂さん、どうしますか? ……それは、俺だけで決めることじゃないだろ いいえ、小河坂さんだけですよ 恋人云々は、おたがいの気持ちの問題だろ ですから、あとは小河坂さん次第だと言ったんです こさめさんは指をぴんと立てて、得意げに言うのだった。 姉さんは、脈ありですよ 双子の妹のわたしが言うんですから、絶対です 放課後になると、俺たちは昨日に万夜花さんから聞いた雲雀ヶ崎隕石についてのまとめを行う。 明日歩は昼休みに、自分の好きなおとぎ話の部分だけ進めていたようだった。 五十六年前に落ちた隕石は、雲雀ヶ崎の住民の目には流れ星のように見えたんだろうね 願い事をした人もいそうですよね そんな暇はなかったかもしれませんよ。明るすぎて、皆さん驚いていたんじゃないでしょうか 流れ星っていうか、〈火球〉《かきゅう》だもんね ……火の玉ですか あ、ううん。普通の流れ星よりずっと明るいものを、〈火球〉《かきゅう》って呼んで区別するんだよ そういった流れ星や〈火球〉《かきゅう》の正体は、太陽系を飛び回っている小さな塵のかたまりだ 一秒間に数十キロメートルという猛スピードで地球の大気圏に飛び込んできて、そこで激しく摩擦したあと、燃え上がって光るんだ 流れ星は地上からの高さ百キロメートルくらいのところまで光ってるんだけど、〈火球〉《かきゅう》は五十キロメートル付近でもまだ光っている こんなふうに、普通は大気中で燃え尽きてしまうんだけど、中には燃え尽きずに地上まで落ちてくるものもある それが、隕石と呼ばれるものなんだ じゃあ隕石の元は宇宙にある塵なんですね その塵はどこからやって来るんでしょう 普通の流れ星は、ハレー彗星なんかが落としていった塵みたいだよ 〈火球〉《かきゅう》とか隕石みたいな大きなものは、火星や木星の近くで回ってる小惑星がふるさとって考えられてるよ。星のかけらみたいなものじゃないかな もしかしたら、太陽系よりもずっと遠くにある星を起源とする隕石もあるかもしれないよ ロマンチックなお話ですね 隕石って、月の石以外だと、あたしたちが直接触れることができるたったひとつの天体だもんね 望遠鏡を覗けば星を見ることはできても、触れることはできない。 あたしたちと星が会話できる、唯一の方法なんだよ ……〈天津甕星〉《あまつみかぼし》のメッセージですか そうだね~ 邪神の呪いですか 邪悪から離れようよ蒼さん~! あくまでプッシュしていきたいと思います なんにしろ、隕石は天体を知る手がかりになるわけだ だけど、隕石と会話を交わせる人はとても限られると言える 日本国内で発見された隕石の総数は、今のところ五十個程度しかないんだよ 見つかってないのも合わせるともっと多いと思いますけど、それでもすごい稀ですよね 隕石だと思って鑑定しても、千個中に一個くらいの当たりしかないとも言われるからね だとすると、二度も隕石が落ちた雲雀ヶ崎は特別な土地と呼べるだろう。 そんなふうにめずらしい隕石だけど、さらに〈希有〉《けう》なものもある それは〈隕鉄〉《いんてつ》と呼ばれるもので、隕石と違って石ばかりじゃなくて、鉄も混じったかたまりだそうだよ 隕石よりめずらしかったら、簡単にはお目にかかれないんでしょうね ……一度は見てみたい気もします メアと名乗る死神──ソレは、ある特定の電磁波量が一定以下になって初めて、人の目には映らなくなります 逆を言えば、一定以上の電磁波量が照射されている限り、幻視することができるんです わたしたち人と同じ存在として扱うことが可能なんですよ…… それを、この薙刀──『〈隕鉄〉《いんてつ》』から作られた〈採物〉《とりもの》が補完しているんです ………… 俺の視線に気づいたのか、こさめさんはバツが悪そうにしていた。 隕石に天津甕星が宿っているのだとしたら、隕鉄にもなにかが宿っているのかもしれない。 ……小河坂さん、時間はいいんですか? こさめさんが壁の時計を見上げて言った。 ……そろそろ生徒会のミーティングに出ないとか。 すみません、俺ちょっと抜けます 席を立つ。 姫榊は先にミーティングに出ている。俺は遅れて出席すると前もって伝えてある。 裏切り者…… ……いや、あのな明日歩 冗談だよ。残念だけど、しょうがないもんね ……がんばってください 天クルのためにもね 部室を出る際、こさめさんを見ると、申し訳なさそうなほほえみを返された。 天クルのほうは順調に進んでるわけね ああ。万夜花さんから話聞けたのが大きかったな。助かったよ お礼なら、また今度来るときに直接言ったほうがいいんじゃない そうだな。次は写真も撮らせてもらうしな ミーティングを終えてから、生徒会の仕事で部活に出られない姫榊のために報告する。 時間できたら、姫榊も天クルに出てくれよ うちの神社に来たときくらいは参加してあげるわよ 夕暮れの中をふたりで帰るのは、もう日課になっている。 夕焼け、嫌いなんだよな そうね 悪夢に出てくるからか? ……まあね 展望台が嫌いなのも、悪夢と関係があるかもしれないんだよな そうね。悪夢で見る場所が展望台かもしれないって思ったのは、今日が初めてだけど 姫榊さ、展望台に入ると特に体調が悪くなるよな ……なんでよ 見てればわかる ………… 霊感って信じるか? ……なによ、いきなり こさめさんから聞かれたことがあったんだ。霊感や神通力を信じるかって 昨日の万夜花さんの話から考えても、星天宮の人たちはそういう力を持ってるんじゃないか? ……ただのおとぎ話よ べつに霊感や神通力って言葉に当てはめなくてもいい。俺たちの知識だけじゃ計れない力を持ってるんじゃないかってことさ わたしがそういった力を持っているせいで、無意識に展望台が嫌いになってるってこと? そう考えるとつじつまは合うだろ 展望台は心霊スポットってことになるわね メアの正体は幽霊になるな つじつまは合っても、実証する方法がないわね 俺たちの手には余るだろうな もしかして、わたしの悪夢も不思議現象のせいだって言いたいの? いや、そっちは、個人的には違うほうがうれしいな どうして? 原因が俺の手に余るものだったら、姫榊を助けてやれないからな ………… くさいセリフ禁止って言わないんだな ……ふん 不機嫌になるところは変わらないようだった。 ……なんで駅までついてくるのよ ついでみたいなもんだ 家までついてくるなんて言わないわよね 言わないけど ………… なぜだかますます不機嫌になる。 姫榊、今夜は空いてるか? ……メアさんに会いにいくの? ああ。悪夢刈るの、頼んでみないか? それで本当に治るんなら頼みたいけどね 頼まないにしろ、メアが昔に姫榊と会ってるかもしれないって話も、詳しく聞いてみたい わかった。それはわたしも確認したいから 悪いな。展望台、嫌いなのに まったくね。この前みたいに無駄話して長居するのはやめてよね もしそうなっても責任持ってお姫さま抱っ…… どがっ!! なんでわざわざ触れようとするのよ!? 俺もよくわからない。 ……こさめもそうだけど、わたしを怒らせてなにが楽しいんだか こさめさんは愛情の裏返しだな じゃあ小河坂くんはなんなのよ こさめさんと同じかもな どがっ!! そっ、そそそそれじゃ小河坂くんもわたしが好きみたいじゃない!! 冗談に決まってるだろ…… なんで決まってるのよ!? なんで怒るんだよ…… 知らないわよ! ……もうなんでもいいけど、今夜は約束したからな 知らないわよ! バカ!! 姫榊は怒り狂いながら駅の建物に駆けていった。 鼻をさすりながら、そんな姫榊を見送った。 ……来てあげたわよ すっぽかされるかと思っていたが、姫榊はちゃんと約束を守ってくれた。 ありがとうな ……ふん お礼に…… どがっ!! おっ、おおおお姫さま抱っこなんかいらないわよ!! ……いや、詩乃さんがラスク焼いてくれたからやるって言おうとしたんだけど まぎらわしいことしないでよ!? 誰かこの暴れ馬をなんとかして欲しかった。 見つけたぞ、メア ……見つかった 今夜の捜索時間は十分と言ったところだ。 いいかげん、捜すほうの身になって欲しいわね…… 姫榊は展望台に入ると顔色が悪くなっていた。 メア、今度俺たちが来たときはすぐ出てきてくれ いや すぐ出てこないでくれ いや 交渉成立だ、姫榊 意味わからないわよっ また来たのね、もこもこ そろそろそれやめないと怒るわよ!? もう怒ってると思うんだけど あなたがそうさせてるんでしょ! 愛情の裏返しだな 愛情の反対は無関心だと思うけど ……ツッコむのも辛くなってきた 無駄話はこれくらいにして、メア。まずはこれ 姫榊にもあげたラスクをメアに渡す。 ……くれるの? ああ。甘いもの、平気なんだよな おずおずと受け取った。 ……かーくん かー坊が飛んできて、ラスクをくわえてメアの頭に着地した。 あとでかー坊と一緒に食べてくれ ……うん なんかわたしが手みやげ渡したときと態度が違うわね…… 用はこれだけ? いや。今夜はメアに頼みがあって来たんだ なに? メアは、姫榊の悪夢を刈れるんだよな 姫榊って誰 もこもこのことだ そっちを正式みたいにしないでくれる!? わたしは悪夢を刈る死神よ。この子が悪夢を持っているのなら、刈れるわ 俺のときみたいに間違って想い出を刈るなんてことはないか? 間違って刈ったんじゃない。洋くんにとっての想い出が悪夢だったから、刈っただけ だからこの子の悪夢が洋くんと同じで想い出なんだとしたら、それを刈るだけよ 姫榊にとっての悪夢、メアはなんだかわかるか? 知らないわ。刈ってみないと 刈らないとわからないのか? うん 姫榊はよく悪夢にうなされるんだ。それを刈ることはできないか? それ、寝ているときに見ている夢ってこと? ああ 刈ってみないとわからない。わたしの刈る悪夢は、寝ているときに見る夢に限定されないみたいだから ……聞いてると、違うものが刈られそうで怖いわね たとえば姫榊が、この悪夢を刈ってくれと願っていたら、メアはそれを刈ることになるっていうのは? 逆に聞くけど、洋くんは想い出を刈って欲しいと願ったから、刈られたの? ……それだけはないな じゃあ違うってことでしょうね ここまでの話を聞く限り、メアに頼むとすると危険な橋を渡ることになりそうだ。 小河坂くん、もういいわ。メアさんの手を借りることは諦めましょう ……いや、でもな メアさんに助けてもらわなくても、わたしのことは小河坂くんが助けてくれるんでしょ 言ってからぷいっと横を向く姫榊だ。 ……この子の今の態度見たら、胸がムカムカした なんでまた よくわからない ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! わたしの気持ちをかーくんが表現した なんで矛先が俺なんだよ!? 知らない メアもそっぽを向いた。 ……それでだな。まだメアに聞きたいことがあるんだ 気を取り直す。 メアは、過去に俺以外の悪夢を刈ってるんだよな うん。もこもこの悪夢 ……もういいわよ、もこもこで その相手、姫榊じゃなくて、こさめさんかもしれないんだよな ふたり、双子なのよね。刈ったときに名前を聞いたわけじゃないから、どっちかってことしかわからない この展望台で刈ったのか? うん なんで刈ったんだ? 試し斬り ……な、なに? 間違った。試し刈り 辻斬りみたいな子ね…… 姫榊は自分が刈られた記憶はないと言っていた。怒らないで他人事みたいに呆れているのはそのためだろう。 なんで試し刈りなんかしたんだ? その頃のわたしは、悪夢を刈る約束はしてたけど、実際に刈ったことはなかったの だから、一度試してみたかった。いざってときに失敗したくなかったから そんなとき、展望台で泣いている子供を見つけた きっと悪夢を持ってるんだと思った。その子はとても辛そうだったから そして、わたしはその子の悪夢を刈ってみた…… そうしたら、なぜかわたしも辛くなった メアはむすっとする。 ……それ以来、悪夢を思い出している人の悪夢は、刈らないって決めたのよ あんな辛いのは、もういやだから ふて腐れて、そう言葉を終えた。 俺の悪夢を刈ったときのメアは、涙を流していた。 展望台の彼女の名を忘れて辛かった俺と同様、メアもまた辛かったのだ。 それからは、誰かの悪夢を刈ったことは? 洋くんが二度目だった それで全部か うん ……思うんだけど、メアさんは相手が悪夢を思い出していないと、悪夢を持っているかどうか判断がつかないってことよね 確信じゃなくて、目星をつけてるだけだけど いちおう誰彼構わずじゃないみたいだけど、それでも物騒極まりないわね もこもこのくせに生意気 なによそれはっ 悪夢を刈ったあと、その子はどうなったんだ? 泣きやんだ それで、悪夢を刈ったのは成功したってわかったわけね もこもこのくせに生意気 ケンカ売ってるのっ その子のどんな悪夢を刈ったのかは? そこまでわからない。会話を交わしたわけじゃないから 最後の確認だ。メアがその子の悪夢を刈ったとき、展望台はすでに立ち入り禁止になってたか? メアはきょとんとする。 ……小河坂くん あくまで仮定だ、姫榊 姫榊にとってはあまりおもしろくない仮定だろうが。 俺は、展望台で起こった人身事故の当事者が、姫榊ではないかと疑っている。 メア、どうだ? その頃、展望台にフェンスは建ってなかったか? ……知らないわ メアは首を横に振る。 気にしたこともなかったから 俺は思案する。 ……最大の問題点は、姫榊自身、子供の頃に展望台に入った記憶がないことか。 姫榊が本当に事故の当事者だった場合、記憶がない原因として考えられるのは、ふたつくらいなものだろう。 姫榊が頭を強く打つ等のショックで、記憶を失ったか。 もしくは、メアにその記憶を刈られたか。 メア、ありがとうな ……終わり? ああ。そろそろ帰るよ 長居はできない。姫榊の体調も心配だ。 それに、収穫だってあったのだ。今後の指針にもつながるだろう。 この子の悪夢は刈らなくていいのね 今のところは保留にしておいてくれ ……いまいち信用ならないし、わたしから頼むことは確実にないわね もこもこのくせに生意気 さっきから生意気なのはそっちでしょ!? 姫榊は叫んでから、ふらふらとしゃがみ込む。 ……そんな大声出すから 誰のせいよっ 歩けるか? 歩けるわよ もし無理そう…… どがっ!! ぐあっ……蹴られるようなことまだ言ってないだろ!? う、うるさいっ、どうせ言うに決まってるんだから!! べつにお姫さま抱っこ…… どがっ!! やっ、ややややったら許さないからね!? ……勘違いしてるんだと思うけど、詩乃さんに迎え頼もうかって聞こうとしただけだからな いつもいつもまぎらわしいのよ!? そっちが自意識過剰なだけだと思ったが、言ったら言ったでまた蹴られそうなのでやめておいた。 すでに日付が変わろうかという時刻。 諏訪雪菜は皆が寝静まるのを待って、定期的にこの星天宮を訪れるようにしている。 遂行中の仕事に関する報告会のようなものだった。 雪菜は『彼女』を送り還さなければならない。 そのゴールラインが、姫榊こももが展望台に足を踏み入れることだった。 それは姫榊こももが自分と向き合った証となるから。 そうなって初めて雪菜は『彼女』を送り還す許可が与えられる。 つまりそのゴールラインとは仕事開始のスタートラインと同義であり、雪菜の考えるクールダウンこそ『彼女』を送り還す行為そのものであるのだった。 それだけ『彼女』を送り還すという行為は雪菜にとって容易かった。 このような仕事に雪菜が長けているという理由もあるし、『彼女』はほかの同類と違って容易く送り還すことが可能だからだ。 『彼女』はそういった性質のまつろわぬものなのだ。 仕事遂行の許可は、今夜にももらえるだろう。 雪菜にこの仕事を依頼した、星天宮の神主である姫榊万夜花の言葉から。 やっほー、待ってたわ ……万夜花さん、その格好でそんな軽いあいさつはやめてください そんなこと言われてもね。神事でもないんだから、変に堅苦しくしたって疲れるだけだわ しかも飲んでますね。顔が赤いですよ 晩酌くらい主婦のたしなみでしょ あなたは主婦である前に星天宮の神主です。それ相応の振る舞いというものがあるでしょう べつに総本社の神主ってわけでなし。この神社なんかたかだか分社なんだから たとえ〈分霊〉《ぶんれい》だからとて、神霊の神威は損なわれません。本社も分社もその役目は同じです 総本社から遣わされた巫女は言うことが違うわねえ ……いいかげん、この不毛な問答にも飽きますね 不毛だと思うんなら、最初から振るなって言いたいわ 雪菜はこの北の地より遠く離れた星天宮の総本社から、万夜花の依頼を受けて派遣された巫女である。 依頼の内容は、雲雀ヶ崎で発見されたまつろわぬものを送り還すこと。 雪菜にとっては数こそ少ないが経験したことのある仕事。すぐに片付けて総本社に戻るつもりだった。 だがこの地に着いた雪菜に万夜花が説明した詳しい仕事内容は、そう簡単なものではなかった。 姫榊こももが展望台に足を踏み入れるのを待って、『彼女』を送り還せというものだったのだ。 しかも、こももが自分から展望台に入るのを待てと言う。 そして極めつけに、どのくらい時間がかかるかわからないから、それまでヒバリ校にでも通っていろと指示されてしまったのだ。 今まではどんな任務の遂行にも忠実な雪菜だったが、さすがにこれには反抗した。 こんな依頼を引き受けた総本社を問い詰めた。 総本社の答えは、あくまで万夜花に従えの一点張りだった。 なぜ総本社が万夜花に肩入れするのか、その理由は万夜花本人ではなく、娘である姫榊こももの類い希なる素質にあるためというのは、後に知ったことだった。 そんなこんなで、雪菜は不良神主の名を欲しいままにする万夜花との苦難のつきあいを、かれこれ一年半も続けているわけだった。 それじゃあ、定例の報告をお願いしようかしらね ……わかりました これまでの恨みつらみを飲み込んで、雪菜は淡々と業務をこなす。 まずは展望台の死神についてです 死神の格好をしてる少女だったわね 先日報告したとおり、『彼女』の同類かと思われます それに関しては、手を出さないんじゃなかったの? 『彼女』を送り還すことに支障をきたさないのであれば、その必要はないというだけです 『彼女』に関係ないなら、あなたの業務外になるからね はい もしかして、実は関係あったの? 今のところありません じゃ、無視でいいんじゃないの これから総本社にも判断を仰ぐつもりです。それをあなたの耳にも入れようと思い、こうして…… ああ、総本社も無視でいいって ……そ、そうなのですか? ええ。私のほうから聞いておいたから ……本当ですか なんで疑うのよ 信用しろというほうが無理があります 信用しなさい ………… 今のところ害はないみたいだしね ……害があってからでは遅いのですがね なんにしろ、展望台の死神とやらは私があずかるわ。あなたは自分の仕事だけに専念しなさい これは、上司から部下への命令よ ……承知しました ただ、『彼女』のほかにもまつろわぬものが発見されたのですから、私に命令が下らないにしろ、討伐のためにほかの巫女が派遣されるのは必定でしょう あなたは自分の仕事に専念しなさい。何度も言わせないで 雪菜はこうべを垂れるしかなくなる。 じゃ、次の報告お願い ……はい。もうご存知だとは思いますが、姫榊こももが悪夢を見始めたようです そのようね。こももとこさめが話しているのを何度か聞いているわ 悪夢が再発したのは、姫榊こももが展望台に足を踏み入れたことによるかと思われます そうでしょうね ですから…… あなたは、『彼女』を送り還す許可が欲しいのね ………… どうかした? ……いえ こももはいずれすべてを思い出すでしょう。過去の悪夢を見るに、それはそう遠いことじゃない よってあなたに命じます。『彼女』を送り還しなさい 私の娘は、もう、その現実に向かいあう時期に来たのだと思うから 雪菜は、はいと重く返事をした。 夕焼けの中を落ちていく。 それは赤い闇だった。 すべてが赤い。 そんなただ中を落ちている。 落ちるだけ落ち、その先には人影があった。 顔がある。 目がふたつあり、鼻があり、口もある。 耳は見えない。 髪の奥に隠れているようだ。 その人影は髪が長かった。 だからそれは少女なのだと判断できる。 空か地面かもわからない、緑と黒が覆う場所で、その少女は鮮やかな赤に染まっていた。 夕焼けよりも鮮烈な赤に彩られていた。 だからその赤は夕焼けだけではなくその少女からも流れているのかもしれなかった。 それを知った瞬間に冷たくなった。 この光景を見下ろしている自分、あるいはその少女自身である自分の身体が冷たくなっていった。 寒い。 寒くて寒くて凍えそう。 そのうちにその感覚すらも薄らいで。 無に堕ちる。 よって知る。 それが死ということ。 決定的な死ということ。 姫榊こももは、悪夢の中を、そうやって死んでいく。 姫榊こももは起きてすぐ、自分の身体をかき抱いた。 寒かった。 凍えそうだった。 まだ悪夢の延長にあるのかと疑った。 かちかちと鳴る奥歯がそれを否定した。 これは現実。 なのに悪夢の中にいるように寒い。 凍えている。 限界を超えた感覚が麻痺していく。 その先に待つのは無。 落ちるだけ落ち、その後に待ち受けるのが死だと知った。 決定的な死だと、本当の意味で初めて悟った。 う……そ…… 死んでいる。 このわたしは死んでいる。 悪夢の中だけではなく。 〈今〉《・》〈も〉《・》〈な〉《・》〈お〉《・》〈死〉《・》〈ん〉《・》〈で〉《・》〈い〉《・》〈る〉《・》。 理性としてではなく感情が理解する。 かき抱くこの身体の冷たさが証明する。 助けて…… 着ているパジャマを握る。 爪が、腕にぎりりと立つ。 痛くない。 感覚がないことに狂乱しそうになる。 さらに強く爪を立て、寒さに混じったわずかな痛みを感じると、こももの目尻に涙が浮かんだ。 助けて……誰か…… こももは長く震えていた。 泣いていたかもしれない。 死んだから。 このわたしは、死んだから。 展望台で事故を起こして死んだから。 誰か……誰かあっ…… 助けてよ、小河坂くん──── さてさて、洋ちゃんが待ちに待ってたお昼の時間だよ~ 待ちに待ってたのは明日歩のほうだろ 席埋まっちまう前に急ぎたいって気持ちは同じだけどな それでは、早速向かいましょうか あ、待った 昼休みになって、学食に向かうみんなを引き留めた。 俺、ちょっと姫榊に用があるんだ ……もしかして、また生徒会のお仕事? まあな 違うのだが、断り文句としては有効だ。 昼休みはちょっと調べたいことがあったので、先に姫榊の耳に入れておこうと思ったのだ。 姫榊って、どこのクラスだっけ 隣のクラスだよ。呼びにいくの? ああ いつもは姫榊のほうからなのにめずらしいな たまにはな 女冥利に尽きますね ……誤解を生むようなこと言わないでくれ そんな小河坂さんに残念なお知らせです 生徒会が滅亡したの? なんだよ滅亡って…… 南星の願いを垣間見たな 冗談に決まってるでしょっ 実はですね、姉さんは今日、学校を欠席しているんです ……そうなのか? はい。今朝の姉さん、とても具合が悪そうで……。わたしが無理に休ませたんです 登校するって聞かない姉さんを説得するの、大変だったんですよ ……風邪かな? 最近、気温が不安定だからな 心配だね…… 明日歩さんも心配していたと、帰ったら伝えますね し、しなくていいからっ ……こさめさん 姫榊が休んだのは、悪夢のせいかもしれない。 ちょっと話があるんだ ……ふたりきりで、ですか? ああ。そんなわけで悪い、明日歩、飛鳥 こさめさんの手を取って、廊下に向かう。 えっ……ちょっと、洋ちゃんっ ……なんなんだよ あ、あのっ……どこまで行くんですか? ……このあたりでいいか 人気が少ない、特別教室が並ぶ二階に着いた。 ごめんな、急に連れ出して それは……いいんですけど…… それでな、聞きたいことがあるんだ そ、その前に……手を離していただけますか? ……そういえば、まだ手をつないだままだ。 わ、悪い すぐに離した。 ……びっくりしてしまいました 胸に手を当て、吐息をつく。 女泣かせですね、小河坂さん 意地悪く言うこさめさんの頬は、ほんのり赤かった。 男子と手をつないだのは、初めてですよ ……それはさすがにないだろ いえ、本当に初めてなんです 子供の頃にはあるだろ。小学生の男子とか わたしは、小学校にはほとんど通っていませんから ……え? 詮索は悪趣味ですからね 先手を打たれてしまった。 ふたりきりでお話があるんですよね ……そうだな 告白ではありませんよね 残念ながら違うな 本当に残念です そういう冗談はやめて欲しいものだ。 姉さんのことですか? そうだよ でしたら、お話しできることはあまりないと思います わかってる。ただ姫榊に、今日の放課後お見舞いに行きたいって伝えて欲しかったんだ ………… ダメか? ……そんなこと、ありません こさめさんは笑顔になる。 姉さんもきっとよろこぶと思います それじゃ、よろしくな 用はこれだけなんですか? いや、これだけならふたりきりになる理由はないしな そうですよね。ですけど、姉さんのことは…… ああ、姫榊の悪夢については、なにも聞かない 展望台の事故に関しても答えませんよ つまりその人身事故は姫榊に関係するんだな こさめさんの表情が険しくなる。 俺は、これから図書室で調べものをしないとなんだ 俺が姫榊を助けるために必要になる情報がふたつある。 展望台の人身事故について。 そして姫榊の過去について。 昨夜にメアの話を聞いて、今後の指針をそう決めたのだ。 俺は、展望台の人身事故について調べないといけない だから図書委員のこさめさんに助けてもらいたい。その記事みたいなのが図書室にあったら教えて欲しいんだ ……わたしが教えると思うんですか? こさめさんに助けてもらわなくても、時間はかかるだろうけど、俺は突き止められると思う だからたとえこさめさんが断っても、俺は事故の全貌を知ってしまうだろうな ……それは脅しですか? そうじゃない。ただ俺は、一刻も早く姫榊を助けたい だから単純に、時間短縮のために図書委員に助けを借りようとしているだけだ ものは言いようですね こさめさんはため息をつく。 それでは、姉さんの妹としてではなく、ヒバリ校の図書委員としてあなたに教えます 助かるよ 図書室に、展望台の事故の記事はありません ……待ってくれ 事実ですから 新聞のバックナンバーは? 新聞の記事にはなっていません。小さな事故でしたからね インターネットで検索すれば…… 引っかかったとして、何年前の何月何日の事故かわからなければ特定できないと思います 何年前の何月何日の事故なんだ? 詮索は悪趣味です こさめさんは知ってるんだよな 詮索は悪趣味です ありがとう。助かったよ ……皮肉ですか? いや、図書室で無駄な時間をつぶさずにすんだからな ほとんど負け惜しみではあるが。 ただ、わかったこともある なんでしょう この事故の詳細は、公にはなっていない。誰かがもみ消した事故なんだ だとしたら、展望台にフェンスは建たないと思います そんなのどうとでもなるさ。たとえば万夜花さんが、うちの子が展望台でケガしたから立ち入れないようにしてくれって市役所にかけあうとかさ で、万夜花さんに頼まれた親類や友人が似たようなクレームを送り続ければ、役人も重い腰を上げるって寸法だ だから、展望台で人身事故が起こってフェンスが建ったという話だけが街に広まった。住民の誰もが、それ以上の詳細は知らないんだ 素晴らしい想像力ですね そういえば、万夜花さんは星天宮の神主だ。雲雀ヶ崎隕石を御神体として祀ってるし、夏祭りでは取締役みたいなもんだ 雲雀ヶ崎の行政にも、影響力がありそうだな? ………… お見舞いの件、よろしくな ……まさか、小河坂さん 姫榊と同じで、こさめさんも察しがいいな 俺はにやりと笑う。 お見舞いがてら、万夜花さんからもいろいろ話を聞けそうだ 姫榊こももは自宅を出て、境内に歩いてきた。 午前中はこさめの言葉に甘えて部屋で休んでいたおかげか、気分はだいぶ落ち着いた。 休んだといっても、眠ることはしなかった。 また赤い悪夢を見てしまうかもしれない。そう考えるとまぶたを閉じることさえ怖かった。 自分の死を自覚させる夢なんて、もう二度と見たくない。 なに……考えてるのよ…… バカバカしい。この身がすでに死んでいるなんて。 洋だって言っていた。もし自分が死んでいるとしたら、この姫榊こももは何者なのかと。 幽霊なんてオチは……願い下げだからね…… こももは額に手を当てて息を吐き、この思考を払拭してから社殿へと足を向けた。 カギを開けて中に入る。 この社殿は、神楽殿としても使用されている。 夏祭りの際にここで神楽を奉納するのだ。 そのときには煌びやかだったこの場所も、今は冷たく厳かな空気に満ちている。 いつまでも無言でいると、凍えてしまう。 寒い…… 自分の身体をかき抱く。手先と腕に感触があることを知り、大きく安堵する。 こももは目的のものが安置された神座の前に立つ。 そこには雲雀ヶ崎隕石が祀られている。 今週末にも、天クルの皆はこれの写真を撮るためにここを訪れるだろう。 小河坂洋も、自分の前に顔を見せるだろう。 本音を言えば、今日は登校したかった。 頭痛と寒気がひどい中、無理をしてでも学校に行きたかった。 理由は明白だった。 さすがに自分でもわかっている。否定したくても理解するしかない。 わたしは、小河坂くんに会いたかった。 会えば気分が落ち着くと知っているから。 安心をもらえるから。 だから今も、小河坂くんに会えない代わりに、彼を思い出せるこの隕石の前に立っている。 相談……しようかな…… 自分は死んでいるかもしれないと相談する? 小河坂くんはどんな反応をするだろう。 呆れるだろうか。バカにするだろうか。 それとも親身になってくれるだろうか。 わたしを助けてくれるだろうか。 小河坂くん……律儀だしね…… 明日、冗談交じりに話してみよう。 この姫榊こももは昔、展望台の人身事故で死んだのかもしれないと。 前にも似たようなことは言ったけれど、もう一度だけ。 深刻にならないよう、あくまで軽く。 迷惑だけはかけないように。 これはもともと自分の問題。洋が思い悩む必要はない。 ただ、愚痴を聞いてもらうだけで充分だ。 それだけで自分は助かっているのだから。 部屋にいないから、どこに行ったのかと思えば ……お母さん 物思いに耽っていたせいか、そばに万夜花が立っていることに気づかなかった。 身体の具合はどう? ……最初から、大したことなかったから そう ほんと、みんな大げさなんだから 今はどうして社殿に? ……暇だったから 御神体が気になるの? ………… 天クルのみんな、来月のヒバリ祭で隕石資料展をするのよね。ちょっと楽しみだわ ……ふん この日本に落ちた隕石の総数は、五十くらいと言われている。だけど、そのすべてがこんなふうに安置されているわけじゃない 私たち星天宮の人間が、〈天津甕星〉《あまつみかぼし》に連なるまつろわぬもの──〈星神〉《せいしん》を、すべて鎮めているわけじゃない だから、ひょっとしたら、この社会にはそんな存在が解け込んでいるかもしれない 何食わぬ顔で、生活しているかもしれない ……そして、人に危害を加える? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない だけど、危害を加える可能性がある限り、私たちはそれらに対処しないといけない たとえ今は平穏に過ごしているのかもしれなくても、見つけたら在るべき場所に送り還さなければならない 問題が起こってからじゃ遅い。星天宮の総意だからね ……相手の都合を考えない、身勝手な言い分ね しょうがないわ 私たち人間は、神さまに比べれば、ずっとちっぽけな存在なんだから ……ふん こももが社殿を出ると、万夜花ひとりが残される。 万夜花は御神体を眺めながら、隠すように嘆息する。 ……なにも聞いてこない、か 隠し事ばかりする私を問い詰めようともしないか こももは今、不安でたまらないでしょうに 本当、あの子は、私には出来すぎの娘ね…… ……小河坂さん 帰りのホームルームが終わると、こさめさんがそばに寄ってきた。 昼休みに、お母さんにお見舞いの件を伝えました。いつでもどうぞだそうです ありがとうな ………… ……こさめさん。べつに、万夜花さんを脅そうってわけじゃない。話してくれるなら聞きたいってだけなんだよ そうではありません わたしが怒っているのは、小河坂さんが姉さんのお見舞いをただの口実にしていることです 違うよ。姫榊の見舞いが一番の目的だ 本当ですか? 当たり前だろ ……あとで姉さんに聞いてみます 姫榊のことだから、俺がちゃんとお見舞いしてもしていないと答えそうな気がする。 そんなわけで、明日歩 どんなわけかさっぱりだけど、なに? 今日、部活休ませてくれ ……こももちゃんのお見舞い? ああ。悪いな いいよ。こももちゃんにお大事にって伝えてね 裏切り者って言わねえんだな お見舞いだったら反対する理由ないじゃない そんな明日歩さんだから、わたしは大好きなんです…… せ、迫らないでっ、こさめちゃんの百合相手はこももちゃんでしょ!? それじゃ、お先 わいわい騒ぐみんなに背を向けた。 帰り際、生徒会室にも顔を出した。 急用と言って、悪いとは思いつつミーティングに出られない旨を伝えた。 明日歩と一緒で、咎められることはなかった。 姫榊さんをよろしくと言われたことは、深く考えないようにしよう。 来たな そして校門に着くと、雪菜先輩が立っていた。 ……お久しぶりです そうだな。キミと話すのは、二ヶ月ぶりくらいか 俺を待ってたんですか? そうだ ……なにか嫌な予感がしますね おそらく的中だな 先輩、天クルに出ましょうよ それは嫌がらせか 俺もこれから嫌がらせされそうですからね ここで立っていると生徒の邪魔になる。歩きながら話さないか ……どうせ下校は一緒ですからね 生徒なら誰でも夢見坂を通学路に登下校するのだ。 俺が移動するのを見て、雪菜先輩も歩き出す。 昼休みに、こさめから相談を持ちかけられてな なんとなく、そんな気がしました それで、私も理解した。キミは小石ではなかった 目的を達する前に、足を取られて転ぶほど大きな障害だったわけさ ……なんの話ですか? こっちの話だ 雪菜先輩は気だるそうに髪を後ろに流す。 少し前の私だったら、障害が転がっていたところで、排除するだけなのだがな だが、キミはこさめの友人だ。忠告に留めておく こさめに感謝することだな ……なんか偉そうですね キミは私の敵だ。だがこさめはキミを敵とは思っていない。このもどかしい心境をわかって欲しいものだな とりあえず、雪菜先輩がこさめさんを大事に思っていることだけはわかりました ……本当に、難儀なものさ 雪菜先輩の笑みは自嘲的だ。 キミは、展望台の人身事故について調べているようだな はい 事故を知ってどうするつもりだ? 姫榊の助けになります 姫榊姉のために調べるのか 雪菜先輩も、なにか知ってたら教えて欲しいですね それはできない こさめさんも雪菜先輩も、どうしてそう隠そうとするんですか? 頼まれているからさ ……万夜花さんから? まさか言い当てられるとは思わなかったな つながりが見えてきた。 事故と悪夢、そしてそれを隠す万夜花さん。 なぜ万夜花さんは隠そうとするんですか 私の口からは言えない。こさめだって同じだろう 万夜花さんが、雪菜先輩とこさめさんの口を封じている。 事故に関しては、姫榊姉が自分自身でその意味に気づくまでは、待って欲しいんだ そう万夜花さんから頼まれているんですか? ああ。だから、キミにも頼みたい 姫榊が事故の意味に気づくっていうのは、悪夢の意味に気づくってことですよね これ以上は、深入りするな なぜですか 姫榊姉が自分で気づかないと意味がないからだ 俺の助けは邪魔ってことですか そうだ 姫榊は悪夢に苦しんでる。それを助けたいって思うのはそんなにおかしいことですか おかしいとは思わない。だが、万夜花さんにだって考えがあるはずだ たぶん ……たぶんとか言わないでください 私も少なからず彼女には恨みがあるから、どうしてもな 要するに万夜花さんが悪の親玉なんですね 悪とは限らないさ。万夜花さんには考えがある、だがキミがそれを踏みにじっているかもしれないんだ 納得できませんね 万夜花さんは、娘ふたりを愛している。それだけは疑う余地がない ……俺には疑いしか持てませんよ 万夜花さんが姫榊の悪夢の原因を知っているなら、なぜ隠すばかりで対処しないのか。 これから、万夜花さんに会いにいくのか 姫榊の見舞いのついでに、会ってみるつもりです ここで見舞いのほうがついでと答えたら、こさめから薙刀でばっさり斬ってくれと頼まれていたんだがな ……星天宮の巫女っていうのは物騒ですね 姫榊姉のそばにいるキミにとっては、今さらだろう じゃあ、俺の家、ここですから 私の忠告、従ってくれれば言うことはないが、せめて心に留めて置くくらいはしてくれよ 参考にはさせてもらいます ではな あ、待ってください なんだ 俺のほうも用がありました。メアのことです 展望台の死神には、これ以上手は出さないさ 信じていいんですね ああ 雪菜先輩は、メアの正体を知っているんですね 聞きたいのか? 聞いても聞かなくても俺の態度は変わりませんけど、気にはなります 回りくどい男だな 先輩に言われたくないですが こさめも言ったと思うが、アレは幻覚だ といっても人が生み出した幻覚じゃない、違うモノが生み出している幻覚──〈夢幻〉《ゆめまぼろし》だ 違うモノが見ている夢だから、私たちにも見えてしまう その違うモノは、人を内包する存在だから、人が見ている夢じゃなくとも見えてしまうんだよ ………… ……いまいち、理解ができない。 そして、『彼女』もそれと同質の存在だ ……彼女? キミの身近にいる彼女だよ だから、たとえ彼女が死んでいても、彼女は〈夢幻〉《ゆめまぼろし》として私たちの前に現れる 生きている存在として扱えるというわけだ ……その彼女って、誰ですか? 姫榊姉が自分で気づけば、キミにも話してくれるだろうさ 雪菜先輩は去っていった。 わたしの悪夢には、夕焼けだけじゃない、草木も見えていた気がするから わたしは、草木が多い場所で落ちていたから 落ちて、死んでしまうから じゃあ、彼女っていうのは…… ……バカな。ありえない。 姫榊の家に急ぐため、鞄を置きに自宅に向かう。 背中に冷たい汗が流れていた。 コンコン。 ……誰、お母さん? コンコン。 ノックなんかしなくても起きてるわよ……。ベッドに横になってたけど べつに体調悪いわけじゃないからね。寝ることしかやることないから、しょうがなくで…… コンコン。 なにか用なの? 入ってきていいから いつもはノックなんかしないで勝手にドア開けるくせに どんな風の吹き回しなんだか…… 変に気を遣ってるんなら、やめてよね。そういうの、かゆくなるんだから ほんと、小河坂くんにしたって…… 呼んだか ………… ノックしなくてよかったのか。万夜花さんも勝手に入っていいなんて言ってたけど ………… それだけ元気ってことか。まあ起きてるもんな ………… にしても、姫榊の部屋って案外かわいらしいんだな ………… そのパジャマもかわいらしいしさ い、い、い、い…… い? いやあああああぁぁぁぁぁ──────っ!!!! どがっ!! そんなわけで、姫榊が私服に着替えるまで廊下に締め出されてしまった。 な、な、な、なんなのよいったい……! そりゃこっちのセリフだろ…… 見舞い相手に蹴りをもらうとは思わなかった。 なんで小河坂くんがわたしの部屋に来るのよ! ……見舞いに来たんだよ。万夜花さんから聞いてなかったのか? 一言も聞いてないわよ! ……わざと知らせなかったみたいだな 万夜花さんにはあとでたっぷり追求しよう。いろいろと。 姫榊はベッドに腰かけてそわそわしている。 ……お見舞いって、わたしの? ああ。ほかに誰がいるんだ う、うん…… 立ってると話しづらいし、座っていいか? う、うん…… 適当な場所に腰を落とす。 ど、どうして……お見舞いなんか…… 心配だったんだよ。急に学校休むからさ ………… これ、お見舞いの果物。商店街で買ってきた ……あ、ありがと 具合はどうだ? ……べつに、大したことないわ 体調くずしたの、悪夢のせいなんだよな? ……大したこと、ないから 姫榊はさっきからそっぽを向きっぱなしだ。 俺が来るの、迷惑だったか? ………… だったらすぐ帰るよ。悪かったな あ…… 悪夢や事故に関して詳しく尋ねるのは、万夜花さんであって姫榊じゃない。 それに、長居をするつもりは最初からなかった。姫榊を疲れさせたくない。 か、帰るの……? ああ。姫榊の顔も見たしな 俺は立ち上がる。 やっ…… 姫榊も立ち上がる。 こ、小河坂くん…… 寝てろって。無理するな 無理……するわよ…… 俺に伸ばした手が、宙をさまよう。 もうちょっと……い、いなさいよ…… さまよっていた手を、自分の胸に当ててぎゅっと握る。 なにかに耐えるみたいに。 話……あるんだから…… ………… お願い……だから…… 俺は驚く。 ……こんな弱々しい姫榊は、初めて見た。 なにか、あったのか? ………… 話、聞くよ。むしろ聞かせてくれ 姫榊を助けたいんだよ。俺は あ…… う……くっ…… 姫榊の瞳にじわりと涙が浮かんだと思ったら、すぐに頬を伝った。 超絶に驚いた。 お、おい、なんで泣いて…… 泣いてなんかないわよ!! 蹴られるかと思ったが、姫榊は目元を乱暴にこすっただけだった。 ちょっと……情緒不安定になってるだけよ…… 病人なんだから、しょうがないでしょ…… それから、乱暴にベッドに座った。 小河坂くんも、座ってよ…… ……わかったよ そこじゃない…… 隣……座ってよ…… ここ……ベッド…… 手を置いた場所を見て、目を疑う。 病人なんだから、気が弱くなるのも、しょうがないでしょ…… ……そうか そうよ…… ……座った瞬間に蹴るなんてのは しないわよっ いちおう用心しながら、隣に座る。 ふたり分の体重に、ベッドのスプリングがきしむ。 姫榊との距離が近い。 こんなに近いのは、お姫さま抱っこのときと、学校の中庭で弁当をもらったとき以来だろう。 わ、わたし……ね…… どこか緊張した声で、姫榊は話し始める。 今朝もね、見たの……悪夢…… ああ。そうだと思った でね……内容っていうのが…… 時間はたぶん、夕方で…… 場所はたぶん、展望台で…… そこで、わたしは、落ちて…… これまで聞いていた悪夢と同じ。 落ちて……たたきつけられて……横たわって…… わたしは、冷たくなって…… この部分は初耳だ。 寒くて……凍えそうで…… そして、死ぬ…… わたしは、死ぬ…… 決定的な死だったの…… ……姫榊。それは死んだわけじゃない。気絶だ 頭を強く打って、気を失っただけだ そうじゃないっ…… 姫榊の声が上擦る。 真っ赤に染まってたのっ……夕焼けよりも真っ赤な身体だったの! 真っ赤な身体が少しずつ冷たくなっていくの! 少しずつ意識がなくなっていくの! 寒くて、凍えそうで、なのに痛みもなにもなくてっ…… 赤い闇が、真っ暗な闇に変わって…… 本当の闇に変わってえ……! 姫榊っ、落ち着け わたし、死んでる……もう死んでるの! いやっ……死にたくないっ……死にたくないのにぃ! 姫榊っ 肩をつかんだ。両脇から支えるように。 その細い肩は驚くほど震えている。 姫榊の顔を覗き込み、間近で見つめた。 全部、夢だ。姫榊は生きてる でもっ……でもぉ……! 俺とこうして話すことができる。こうして姫榊にさわることもできる おまえの身体は冷たくない。あたたかいよ だから、生きてる。信じろ あ……小河坂くん…… 俺の言うこと、信じられないか? 姫榊の首が小さく左右に振られる。 その瞳に焦点が戻る。 俺の瞳に注がれる。 あ、あれ……? 我に返ったようだ。 お、おかしいな……冗談のつもりだったのにな…… 軽く言うつもりだったのにな…… 深刻にならないように……軽く…… ど、どうして……わたし…… あ、あはは…… ……深刻な話なんだろ。無理に軽くしなくていい ご、ごめ…… なんで謝る だ、だって……迷惑…… 迷惑じゃない。冗談で片付けられるほうがずっと迷惑だ 姫榊が頼ってくれないほうが、辛いんだよ ………… くさい……言葉…… ……悪かったな ほんと……よ…… おかげで……また泣きそうになってるわよ…… いいだろ。泣いても 絶対いや…… あなたの前でなんか、泣いてやらない…… 泣いてなんか、あげない…… 悔しいじゃない…… この……気持ち…… 認めたみたいで……悔しっ…… 姫榊は嗚咽を噛み締めて泣いていた。 泣き顔を見られないよう、俺に背を向けて。 姫榊が泣き疲れて眠るのを見届け、階下に降りた。 やっと戻ってきたわね 居間では万夜花さんが待っていた。 姫榊が落ち着くまでにかなり時間が経っていたようで、外は赤銅色に変わっている。 姫榊の恐れる夕焼けだ。 こももはどうだった? 姫榊……じゃない、こももさんは、今は眠ってます 私の前だからって、無理にさん付けしなくていいわよ。呼び捨てで ……じゃあ、苗字で呼び捨てにします 私も姫榊だからまぎらわしいけど、まあいいか 万夜花さんは正面の席を指し示す。俺はそこに座る。 私に話、あるんでしょ こさめさんから聞いてたんですね ええ。ちなみに小河坂くんがこももの見舞いより先に私に話を始めたら、薙刀でばっさり斬る予定だったのよね ……こさめさん、そんなに俺は信用ないか? 陽も沈みそうだし、急ぎましょうか はい。じゃあ単刀直入に聞きます 息を吸って、吐く。 姫榊が過去に展望台で起こした事故は、どんなものだったんですか? 本当に、単刀直入ね 答えてもらえますか? いいわよ あっさり。 ……適当にウソ答えて誤魔化そうとしてます? なんでよ 万夜花さんは、事故のことを隠したがってると思ってましたから それは確かね 姫榊にも隠してますよね そうなるわね。あの子もなにも聞いてこないけど ……万夜花さんが教えないだけじゃなくて? そうよ ………… 納得いかないようね ……そりゃあ、一番不安なのは姫榊のはずですから あの子は事故の記憶がないからね。知ってるはずの物事を知らないっていうのは、想像以上に怖いでしょうね 俺も経験があるから知っている。 展望台の彼女の名前を失ったときは、ほとんど錯乱に近かった。 なのに、姫榊は万夜花さんに尋ねないんですか? そうよ。一度たりともね どうしてっ たぶん、みえみえなんでしょうね。私が話したくないっていうのが だから、あの子はなにも聞いてこない…… 私に迷惑がかかると思ってね 俺は絶句する。 姫榊……おまえ。 強いよ、おまえ。 心底、尊敬するぞ……。 ……万夜花さん なにかしら 俺は、姫榊と違って強くないですよ だからこうして私を問い詰めてるって言いたいの? はい だったら、あんたも強いわよ。他人のために本気になれるんだから 姫榊はただの他人じゃないですから まさかつきあってるの? い、いや、友達って意味ですよっ 結婚のときは婿でお願いね 飛躍しすぎですから!? ペースが乱されたので、心を落ち着ける。 話を戻します 立ち直り早いわね 事故の全貌、教えてもらえますか? もし私が話さないと言ったら、どうするつもり? 代わりに市役所に押しかけます。フェンスを建てた日付くらいはわかるでしょうし それを頼りにまた調べるわけね はい わかった。最初に言ったとおり、話してあげる。嗅ぎ回られるのも気分悪いしね 万夜花さんの語りに、注意をかたむける。 事故があったのは今から七年前。夏に入りかけの頃だったわ それは、俺が都会へ引っ越した年だ。 あの子はね、展望台で木登りをしてたのよ。夕方だったから辺りは真っ赤だったでしょうね 姫榊の悪夢と一致する。 そして、木の上から落っこちたのよ。足でもすべらせたんでしょうね 結構な高さからだったみたいだけど、不幸中の幸いでケガはなくてね ……ケガはなかったんですか? ええ。私が急いで迎えに行ったときもケロっとしてたわ 姫榊の悪夢と一致しない。 万夜花さんの言葉がウソなのか、それとも。 それでまあ、今後のことを考えて市のほうに申し出たの。子供が簡単に立ち入れないようにして欲しいって それで、フェンスが建ったのよ 本当ですか? なんで疑うのよ そんな事故だったら、姫榊の悪夢に説明がつきません こももの悪夢に関しては、私も知ってるわ。あの子、事故の直後はそれに悩まされてたからね 私が思うに、トラウマになったんでしょうね。ケガはなかったし、本人はケロッとしてても、意識の底では事故を恐怖した 無意識に展望台を恐れるようになった…… だけどね、あるときから、あの子は事故のことをころっと忘れてしまったの それで、悪夢も見なくなったのよ なぜ事故を忘れたのかは? わからないわ。本人に聞いても、事故自体を忘れてるから答えようがないみたいだし で、幸いこの事故の詳細は住民の耳にもほとんど入らなかったから、誰かがこももに話すことはなかった こももが思い出すことも、なくなったのよ いつ事故を忘れたのかは覚えてますか? 事故が起こってから一ヶ月も経ってなかったと思うわよ 事故の詳細は、万夜花さんがもみ消したんじゃないんですか? なによそれは。ただ警察に届けなかっただけよ 大騒ぎするような事故でもなかったからね でも、万夜花さんが市役所にかけあってフェンスを建てたんですよね? 正確には私じゃないわ 本音を言うと、私は展望台を立ち入り禁止にはしたくなかったの 私は、天文部員だったから 雲雀ヶ崎の星空が好きだから 先生にも合わせる顔がなくなるしね 天文部に所属していた頃の顧問だろうか。 じゃあ、誰が? うちの旦那よ これまで頭に入れていなかった人物が浮上した。 事故のあと、旦那と話しあってね 一歩間違えば大ケガだったわけだし、旦那は展望台の取り壊しも視野に入れていたみたいだけど 娘の安全を考えたら当たり前よね。そう考えると私は薄情かもしれない だけど旦那は、私の主張も聞き入れてくれて、フェンスを建てるだけに留めてくれたのよ 旦那さんは、医者をやってますよね そうよ。だからあの子の診察も旦那に任せたの。ああ見えて外科も内科もできるから それで、姫榊にケガはなかった? そうよ 姫榊の悪夢、医学的な対処はできないんですか? 言ったでしょう、こももは私を頼らない。だから旦那にだって頼らない 悪夢のような精神的な問題は、患者からのアプローチも大切なの。治療を押しつけても逆効果になるみたいで 旦那の受け売りだけどね それで、旦那さんも放っている? 見守っていると言って欲しいわね 千波のときはお世話になりました いえいえ 旦那さん、とても温和な人ですよね まあ怒ると怖いんだけどね。無茶ばかりやってた私を叱るときも、いつもえらい剣幕だったし 万夜花さんは元ヤンなのだと聞いている。 ヒバリ校って、荒れてた時期があったのよ。今はぜんぜんそんなことないみたいだけど 遊びがエスカレートしていた時期があったって、姫榊も言ってました そうよ。ま、当時の私もそれに一役買ってたってわけ その頃の旦那は、近くに住んでた医大生でね。近所のお兄さんって感じで 彼はね、夏休みの間だけ雲雀ヶ崎に帰郷してたの で、無茶やってケガした私を見かけると、やけに親身になって叱ったあとに、無理やり手当てしようとするのよ そのたびに蹴り返してやってたんだけど ……鬼ですね だって、そういう趣味の変態かと思うじゃない。お医者さんごっこみたいな もし聴診器持ち出してたら確実に蹴り殺してたわね 旦那さんのイメージがよからぬ方向にかたむいていく。 でもまあ、それは私の勘違いだったんだけど 叱られてばかりじゃ癪だし、手当てされてあげてたら、いつのまにかこんなふうに一緒になってたってわけよ それじゃあ話を戻します ……人のなれそめを簡単にどけてくれるわね 事故の全貌、それですべてですか? そうなるわね 信じていいんですね じゃんじゃん信じなさい ……疑わしくなる一方なんですけど でも、ウソは言ってないからね つまり真実はほかにもあるってことですね そんなことは言ってないでしょうが 姫榊が今になってまた悪夢を見始めたのは? あの子、最近になって展望台に入ったそうじゃない。それがキッカケでしょうね 事故を思い出すことはなくても、無意識に記憶が呼び起こされているんじゃないかしら 万夜花さんは、姫榊が自分で真実に気づいて欲しいって思ってるみたいですけど だからこさめさんや雪菜先輩にも口止めしてるみたいですけど 俺は、姫榊を助けます 結納はうちの神社でいいわよね だから飛躍しないでくださいよ!? あの子は、幸せ者ね 万夜花さんは息をひとつ吐いた。 だけど、これだけは言わせて あの子を助けるのはいい。だけど、あの子の逃げ道にはならないでね 姫榊は強いですよ。俺を逃げ道になんかしません いつも俺を蹴り飛ばしてるくらいですから ……ああ、そっか 万夜花さんは、初めて気づいたみたいにうなずいた。 そういうことか 私と旦那みたいなものか こももにとって、あんたは逃げ道じゃなくて、道しるべになってるわけか そして、慈しんだ笑みを浮かべる。 母として、お礼を言わせて ありがとう ついでに、薄情な母として、お願いするわ なにがあっても、あの子のそばについていてあげて ふわ……おはよ 長いお昼寝でしたね、姉さん いつのまにか寝ちゃってたみたいで…… 寝不足だったんですから、ちょうどよかったじゃないですか ……そうね。めずらしく悪夢も見なかったし こさめは思う。 それはきっと、小河坂さんのおかげ。 どうせ、夜に寝たらまた見るんでしょうけど…… でもまあ、わたしの夢なんだし、目を背けたってしょうがないわよね 姉さんが現実を見つめる強さを持てたのも、小河坂さんのおかげ。 ……小河坂くん、さすがに帰ったわよね はい。お母さんが見送ったそうです。今は夕飯を作ってますよ 寝顔……小河坂くんに見られたかな…… 無防備な姿をさらしてしまったんですね 卑猥に言わないでっ 唇の貞操くらい奪われたかもしれませんね なっ…… いえ、間違えました。姉さんのファーストキスはすでにわたしのものでした あのときのはさすがにノーカウントでしょ! 姉さん 小河坂さんは、ちゃんとお見舞いしましたか? ……そうね 頼んでもいないのに、いきなり来て。おかげでパジャマのまま出迎えちゃったわよ いつかショック療法で記憶を飛ばさなきゃ…… 文句ばかりの姉さん。 顔も不機嫌、だけどわかる。 わたしだからわかる。 姉さん、上機嫌ですね ……ふん もう、大丈夫。 姉さんは大丈夫。 だからこさめも、笑うことができた。 ……また来たんだ まあな 今夜はひとりなのね もこもこは昼寝してたからな 今夜のあなたはダメダメね ……なんだよいきなり 夕べと違って、頼りなく見える ……そうなのか? うん 洋くん、もこもこを助けたいのよね 責めるような言葉。 ……そうだな。でも、ちょっと迷っててな 事故の全貌が、万夜花さんが話したものですべてだとしたら、俺が姫榊にしてやれることはもうほとんどない。 大した事故ではなかったと言って、姫榊を元気づけるくらいなものだろう。 悪夢自体を取り除くのは、俺の力だけでは無理なのだ。 メアのようにカマで刈れるわけじゃない、万夜花さんの旦那さんのように医学的な処置ができるわけでもない。 力不足の俺は、これから、姫榊をどのように助けていけばいいだろう。 姫榊を助けると断言したわりに、行き当たりばったりだ。 わたしが初めて悪夢を刈った相手──その子供は、そのとき泣いていたって言ったと思うけど メアが急に語り出す。 その子、夜空に向かって石を投げてたわ ……石を? まるで夜空に恨みがあるみたいに その子の涙は、悲しかっただけじゃない、悔し涙でもあったんでしょうね わたしが当時のことで話せるのは、これで全部 あなたは、この話を聞きに来たんでしょう ……まあな もこもこの悪夢を刈って欲しいなら、刈ってあげる それに関しては、姫榊の気持ちが優先だな もし断ったら、どうするの? それを悩んでる 悩む必要あるの? ……あるだろ 夕べのあの子の態度を見る限り、答えは決まってる気がするんだけど むすっとして言った。 あの子、展望台に入ると辛そうにするけど、洋くんと話してるときだけは元気になってたから…… 言いたくない言葉を無理に吐き出すような口振りだった。 だから、洋くんは、助けてあげられるんじゃないの わたしに頼らなくたって…… メアはくるっと後ろを向いた。 ……バカバカ そして消えてしまった。 ……これは、なんだ。元気づけられたのか? ありがとうな 俺は愚痴を聞いて欲しかったんだろう、結局。 苦しんでいる姫榊を早く助けてやりたい。 焦っていても現状は変わらない。 展望台の人身事故には、まだ疑わしい点がある。 だったら、やはり、行動を起こすしかないのだ。 よう、待ってたぞ ……小河坂くん 昼休みになってすぐ、昼食を取るのに教室を出る姫榊を廊下で待っていた。 今日は登校できたんだな。こさめさんから聞いてたけど 昨日の欠席は、あの子が無理やりそうしただけ。本当は登校できたのに そのわりに見舞いのときは病人だから気が弱いとか言っ…… どがっ!! ……今ので忘れた? 忘れるかっ、ほんとに病み上がりかおまえ!? 最初から病人じゃないって言ってるじゃないっ 昨日とは別人のようだ。まあこっちの姫榊のほうが、姫榊らしいのだが。 姫榊、これから昼飯食べるよな そうだけど 友達と約束してたりするか? ……ふん よくわからない返事。 一緒に食べてる友達には、もう断ったわよ なんでまた そっちこそ、わたしに用なの? ああ。姫榊と一緒に食べようと思って ………… 話もあるし。ダメか? ……ちょうどよかったかも 悔しそうに言っていた。 わたしも、小河坂くんを誘おうと思ってたから ……で、なんで学食じゃなくて中庭なんだ? いいでしょ、なんでも ここで食べるんなら、先に学食いってメニュー持ってこないとだぞ ……しなくていいわよ 俺、食べるものなにもないぞ 姫榊は俺を無視して空いているスペースに座ると、隣の芝生をぽんぽんとたたいた。 ……芝生を食えと? そうじゃないでしょっ 姫榊はぷいっと横を向く。 隣……座ればいいじゃない でもな、食べるものが…… だ、だからっ…… 姫榊はぷるぷる震えながら、持っていた包みを乱暴に差し出した。 ……あ、あげる それは弁当のようだった。 これ、食べればいいじゃない…… 姫榊の隣に座った。 いつかと同じように、姫榊の弁当が俺の手に渡っている。 俺が食べていいのか? ……そう言ったじゃない 昨日の夕食の残りか? ……うん 姫榊が作ったのか? ……今日のは違う。わたしじゃなくてお母さんの手作り 昨日は万夜花さんが当番か ……うん さっきからなんでそっぽ向いてんだ? な、なんでもいいでしょっ、早く食べなさいったらっ 姫榊はこんなふうにすぐ怒る。 包みをほどくと、以前と同じ弁当箱が出てくる。 もしかしてさ ……なによ これってまた、姫榊の分じゃないのか ………… 食欲、ないのか? こく、と小さくうなずく。 今朝も悪夢見たのか ……日課みたいなものよ。気にしなくていいから 気にするに決まってるだろ な、なんでよ 忘れたのか? 俺は姫榊を助け…… どがっ!! ぐあっ……今膝蹴り食らった理由を懇切丁寧に説明願いたいんだけど!? ……なんとなく なんとなくで人のみぞおち攻撃するなよ!? う、うるさいっ、小河坂くんがぐだぐだ言ってるから悪いんでしょっ 今日の姫榊はいつにも増して暴君だ。 ……とにかくだな、姫榊もちゃんと食べろ ………… 半分残しておくからな ……う、うん 今度は素直だった。 ぱくぱくと食べていく。 以前に食べたのと同じ味だな ……わたし、料理はお母さんから習ったから 万夜花さん、料理得意なんだな 結婚してから、お父さんのために勉強したって言ってた。なんだかんだで仲良いのよ、うちの両親 おかげで姫榊も料理がうまくなったと ……お、おいしかった? ああ。及第点 ………… 不機嫌になった。 あ、いや、俺もよく家事手伝いしてたからさ。料理に関してはちょっとだけうるさいんだ 料理に関する俺的ランキング。 一位、明日歩とマスター。 二位、詩乃さんと母さん。 三位、姫榊と俺。 そして越えられない壁の向こうに千波がいる。 弁当もらっておいて、失礼だったよな ……ふん ごちそうさま ……もう食べたの? 半分だけな。やっぱりうまかったしな ………… ほら、姫榊も食べろ う、うん…… おずおずと受け取る。 じゃあ俺、割り箸買って…… どがっ!! ぐあっ……なんでだよ!? ……な、なんとなく 気まぐれなお姫さまだなおい!? う、うるさいっ、わたしのお弁当なのに勝手なことするからでしょっ 弁当も箸もそっちがくれたのに。 姫榊は俺から箸も奪い取って、半分だけ残った弁当と向かいあう。 そ、それじゃ…… それって間接…… どがっ!! い、いただきます 暴君なお姫さまの食事を、みぞおちの痛みに耐えながら見守るしかなかった。 ご、ごちそうさまでした そっぽを向きながら言っている。 今回は一口だけじゃなく、全部食べていた。 姫榊の顔は真っ赤だった。 姫榊さ な、なによっ ……もうよけいなこと言わないから警戒するな け、警戒なんかしてないっ 姫榊、今日は生徒会のミーティング出るのか? ……出るけど 体調悪いなら、無理するな 無理なんかしてない。昨日は休んじゃったし、仕事たまってるんだから それが無理してるってことなのに。 責任感の強い姫榊だから、俺がなにを言っても出席するんだろう。 じゃあさ、ミーティング終わったら、一緒に帰ろう ……いつもそうしてるじゃない 夜になったら、一緒に展望台に行こう ……わたしの悪夢を刈るの? それもあるし、違う用事もある ………… 体調悪いのに、ごめん ……悪くないってば 展望台入って姫榊が辛そうなら、すぐ帰るから 今夜だけでいいんだ。お願いできないか? ……大事な用件なの? ああ わたし、メアさんに悪夢を刈ってもらうつもりないわよ それでもいいから 嫌って言ったら? 諦める ……無理やり連れていかないんだ ご希望とあらばお姫さまとして丁重に抱っこして連れていく 蹴りが飛んでこない。 ……い、いいわよ、べつに おまえは誰だ? どがっ!! どういう意味よ!? ……意味わかったから蹴ったんだろ どうせわたしはかわいくないわよ! いや、名前はかわい…… どがっ!! 名前には触れないで!! じゃあ、昨日の姫榊はかわい…… どがっ!! 今すぐ忘れなさい!! いいわね!? 無理でも了解せざるを得ない。 ……まあ、とにかく、展望台に行こう ちょっと、俺に考えがあるんだ ……こんばんは 呼び鈴の音に来てみたら、思ったとおり姫榊だった。 来てくれて、ありがとうな ……大事な用って言ってたからね 遅くなると悪いし、すぐ展望台向かおう もう準備は整っている。 俺が玄関を出ると、姫榊も渋々と従った。 小河坂くん…… 隣に歩いている姫榊が、遠慮がちに言った。 展望台で、なにするの? ちょっとな 小河坂くん、なに考えてるの? ちょっとな ……小河坂くんも、お母さんやこさめと一緒で、わたしに隠し事するの? 聞かれてハッとした。 そうじゃない。姫榊が不安なら、全部言う ……ほんと? ああ ………… 俺は姫榊の味方だ。信じられないか? ……ううん 展望台でなにするか、話すよ ううん 信じるから 小河坂くんを、信じるから…… 姫榊は結局、なにも聞いてこない。 俺が少しでも答えづらい素振りを見せたから。 そんな自分が情けない。 展望台で行うことは、一種の賭けだから。 俺もまだ、うまくいくのか自信がなかった。 過去最短記録で見つけたぞ、メア ……見つかった 見つけやすいところに隠れていたのは、今夜も訪れると思っていてくれたからだろうか。 姫榊、体調は? ……大丈夫。以前に比べてずっと楽になった 展望台に慣れたってことか? ……たぶん、違う理由 もこもこのくせに生意気 なんでそうなるのよっ だって、洋くんのおかげなんでしょう なっ…… 洋くんを頼りにしてるからでしょう ち、ちが…… ……帰る 待て待てっ、メアに頼みがあるんだよ もう話せることはないけど 今夜はな、メアに悪夢を刈って欲しいから来たんだ 姫榊が息を呑む。 これから、姫榊の悪夢を刈って欲しいんだよ ち、ちょっとっ。話が違う…… 姫榊 ………… 今だけでいい。俺を信じてくれないか? 姫榊はあっけに取られる。 ……バカね 小さくほほえんだ。 いつも、信じてるわよ 小河坂くんを、信じてたわよ これでまた、借りができたのかもしれない。 メア、頼む ……この子の気持ちが優先じゃなかったの? メアさん。わたしからもお願いする 姫榊の言葉で、メアはカマの柄を握り直した。 みんな、バカバカね メアの手が持ち上がる。 その手には銀に煌めく大きなカマ。 姫榊は身を強張らせる。 あなたの気が変わらないうちに、一息でやってあげる どんなに不安で怖くても、姫榊は目を閉じない。 メアのカマを一心ににらむ。 姫榊から全幅の信頼が伝わる。いやでも感じる。 生徒会役員に推薦したときの比ではない、まっすぐな信頼。 だから、俺は、全力でそれに応えたい。 カマの鋭利な先端が、姫榊の胸に向き──── ───待て 横手から声が飛んだ。 作戦がうまくいったことに、遅れて冷や汗をかいた。 メア、もういい。中止だ ……刈らなくていいの? ああ。悪かったな 姫榊も、大きく息を吐き出した。 人影が歩いてくる。 まつろわぬものを送り還すつもりなら、やめておけ 人影は、雪菜先輩だった。 まつろわぬものは、なにも神とは限らない…… その者にとって従えたいのに従わないもの、それがまつろわぬものだ 悪夢と呼べるものだ 今、悪夢を刈れば、取り返しのつかないことになるぞ 巫女装束ではない。私服姿の雪菜先輩。 急いで来たのか、息が上がっている。 たぶん、来ると思ってました 雪菜先輩かこさめさん、ふたりのどちらかが。 姫榊と一緒に展望台に向かう前に、こさめさんにメールを送っておいたのだ。 今夜メアに頼んで、姫榊の悪夢を刈ってもらうと。 その後にこさめさんから、雪菜先輩に連絡がいったのだ。 そして今、展望台には雪菜先輩の姿がある。 こさめさんではなく、雪菜先輩の姿が。 キミは、なにを考えている? 姫榊の助けになりたいと考えています 私が止めなかったら、そのまま悪夢を刈ったのか? 先輩が止めるか見過ごすかは、賭けではありました どうせ止めると踏んでいたんだろう 先輩の気持ちに偽りがなければ 偽りなどないさ 雪菜先輩は口端をゆがめる。 こさめは、私の友人だ こさめが悲しむと知っていて、見過ごすわけにはいかないさ このメアのカマが、〈採物〉《とりもの》だからですよね そうだ。厳密には違うのだろうともな 〈採物〉《とりもの》で悪夢を刈れば、送り還されてしまうからですよね そうだ ここじゃない、違う場所へ送り還されてしまう…… 俺たちの前から、消えてしまうんですよね そうだ。だから、キミの行為を許すわけにはいかなかった 姫榊の悪夢と、展望台の人身事故。 そのつながりと、万夜花さんが隠す真実。 信じたくはなかった真相。 ……やきが回ったな、私も これで、仕事は失敗だ 『彼女』を送り還すという任務は失敗だ 雪菜先輩は、楽しげに笑った。 自嘲ではない、こんなふうに笑う彼女は初めてだった。 これはもう、下手をしたら免職だな ……雪菜先輩 言わなくてもわかっている。キミは『彼女』を送り還したくないんだろう そして、今では私もそれを望んでいる 私の敵はキミではなく、万夜花さんに変わった ならば、これ以上キミたちに口を出す理由もない 帰るなら、送ります うぬぼれるな。私はキミより遥かに強い キミの力では、ひとりを守るだけで精一杯だろうさ 言い捨て、雪菜先輩は去っていった。 小河坂くん…… 姫榊の声は弱々しい。 い、今の、話…… それって…… 姫榊 目を見て、強く言う。 俺は、姫榊を助ける 絶対に ………… ……うん これで、今夜の用事は終わったのだ。 ……わたしを利用したわけね 悪かったって言ったろ かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! もう一回 ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! これでおあいこ べつに一回でいいだろ!? パカパカね ……もうかー坊に乗って乗馬ごっこでもしててくれ 今夜のあなたは特にバカバカだったわ そうしてメアも、かー坊と一緒に去った。 姫榊、俺たちも帰ろう 歩き出すが、姫榊は動かない。 ……どうした、やっぱり体調悪いか? ………… さっき雪菜先輩とした話は、気にしなくていいからな なんて安っぽい励ましだろう。 ……詩乃さんに、迎えに来てもらうから ケータイを取り出した腕を、姫榊がつかんだ。 小河坂くん…… 触れた手から震えが伝わる。 わたしを、助けてくれる……? ああ。信じられないなら、何度だって言ってやる 俺は、絶対に姫榊を助ける ………… じゃあ、また…… 駅まで、連れてって欲しい…… だ、ダメ……かな…… 断るはずがない。 それで姫榊の不安がなくなるのなら。 小河坂くん…… なんだ、そろそろ自分で歩くか? そ、そうじゃなくて…… このままで…… 了解 姫榊の手が、しわになるくらい強く俺の服を握っている。 わたし…… わたし、受け入れられるかな…… 悩んだって、結果は変わらない……。だったら、割り切って受け入れるしかない…… わかってるのに……なのに…… 姫榊の言葉に、どう応えてあげればいいのか。 小河坂くん…… さっきの話が本当だったら、どうする……? どう応えてあげればいいのか。 どう姫榊の助けになればいいのか。 メアが言ったとおり、答えは決まっていたんだ。 もう、死んでるとしたら…… なにも変わらない 人じゃない存在だったら…… なにも変わらない 俺たちは変わらない ………… 姫榊には、借りもあるからな ………… 小河坂くん…… 服を握る手が、さらに強くなり。 ……わたしと、つきあってみない? そう、姫榊は言った。 あっ……ち、違うの……そうじゃなくてね…… そういう意味じゃなくてね…… ただ、もう、貸し借りとか…… そういうの……嫌なだけで…… いいよ ………… 今後は、貸し借りなんて関係なしで、姫榊を助けるよ 姫榊を守っていくよ ………… ……いいの? わたしなんかで、いいの? なに言ってる。姫榊は優等生だろ ……違う わたしは優等生なんかじゃない 強がってばかりの、かわいくない女よ…… 俺も昔は、かわいくない子供だった ………… だからってわけじゃないと思うけど…… そんな強がってばかりの姫榊だから、放っておけない 助けてあげたくなった 守ってあげたくなった 好きになったんだよ ………… ……頼っても、いいの? ああ 恋人として頼っても、いいの? ああ ………… じゃ、今から恋人だ ……うん ………… ………… ……恋人になっても、なにが変わるってわけでもないな そ、そうね…… 姫榊は優等生なんだからさ、正しい恋人のあり方、俺に教えてくれよ ……優等生じゃないってば わたしだって……は、初めてなんだから こういうこと、初めてなんだから──── 姫榊は、俺の首に腕を回して。 ぎこちないキスをした。 よ、姫榊 おはよう 駅前で待っていると、姫榊は時間どおりにやって来た。 夕べ、寝る前にメールで約束していたのだ。 ちゃんと十分前行動だったな 基本じゃない 姫榊らしいな ……誉め言葉なのか判断しづらいわね 誉めてるに決まってるだろ ……ふん 姫榊が歩き出したので、俺もそれに並んだ。 小河坂くん、待ってないかと思ってた なんでだよ だって、いつも遅刻ぎりぎりに登校なんでしょ? こさめがそう話してたし、わたしも何度か見てるし それは俺じゃなくて千波の寝坊が原因だからな 今朝は、千波さんは? 家に置いてきた ……いいの? そりゃ、姫榊のほうが優先だからな ……な、なんで? 今さら言わなきゃなのか? う、ううんっ、言わなくていいっ 姫榊は俺の恋…… どがっ!! 言わなくていいって言ったでしょ!! ……今日も足癖悪いな だが加減しているのか、蹴りは痛くなかった。 そういうことあんまり人に言わないでねっ ……なに照れてるんだか て、照れてないっ まあ俺も照れるけどさ ……そうなの? 俺だって慣れてないからな だからこそ、恋人という関係に慣れる必要があるわけで。 どうせなら名前で呼びあってみるか? ぜ、絶対いやっ こもも…… どがっ!! わたしが名前嫌いなの知ってて言ってるでしょ!? ……かわいい名前だと思うけどな だから嫌なんだってばっ じゃあ、名前で呼ぶのは保留で 姫榊はふんっと横を向いて。 ……わたしも、小河坂くんを名前で呼ぶのは保留で 慌てずに、少しずつでも恋人らしくなっていこう。 そういえば、今日は生徒会のミーティングあるのか? 普通にあるわよ そっか 放課後、なにかあるの? 時間あったら、どこか遊びにでも出かけたいと思って ……わたしと? そりゃあな そ、それって ああ、デー…… どがっ!! じ、じゃあね、小河坂くん クラスが違う姫榊は、先に校舎に駆けていった。 校門前で倒れる俺を、登校した生徒たちが奇異の視線を向けながら通り過ぎていった。 ……前途多難にもほどがあるな。 それじゃ、そろそろ時間だから うん。生徒会のミーティング、がんばってね 隕石の写真撮影は、来週の月曜日だからね。忘れないように 敬老の日の祝日ですよね。わかりました 明日の金曜から日曜にかけては、各自で隕石の資料をまとめるということで、部員のみんなと顔を合わせるのは今日で最後となる。 土曜に予定していた天体観測についても、岡泉先輩が全国模試ということで中止になっていた。 天体観測ができないのは残念だけど、次は月曜日に星天宮に集合だね 万夜花さんが許せば、そのまま境内で天体観測やるのもいいな それ、ナイスアイデア! こさめちゃん、どうかな? お母さんに聞いてみますね 了承がもらえたら、教えてくれるかい。みんなで望遠鏡を運ばないとだからね お母さんは反対しないと思います。逆に、一緒に天体観測をしたがるんじゃないかと こももちゃんは反対しそうだけどね そこはそれ、天クルの一員っていう自覚を持ってもらわないとな 姉さんの説得は小河坂さんにお願いしますね 任せてくれ その調子で、今後とも姉さんをよろしくお願いしますね ……こさめさん、俺たちがつきあったこと知ってるんだろうか。 ……先輩、時間はいいんですか? そうだな。いってくるよ ……いってらっしゃいです、裏切り者 ひとりだけ裏切り者扱いをやめない蒼さんだった。 ……遅いじゃない 生徒会室の前では、姫榊が不機嫌そうに立っていた。 あれ、ミーティングは? もう終わった マジで。 ……早くないか? 早くすんだから いつも夕方までやってるのにか? 早く終わらせたから 仕事、がんばって終わらせたから…… もしかして、と思う。 今日の昼休み、一緒に食べようと思ってクラスを訪れたとき、姫榊はいなかった。 おそらくそのときも、姫榊はひとりで仕事をこなしていたのだ。 ……まだ時間、あるわよ 陽はかたむいていない。 姫榊が嫌いな夕焼けはまだ来ない。 遊ぼうと思えば、遊べるわよ…… 俺のほうを見ずに、文句でも垂れるようにそう言っていた。 姫榊、どこ行きたい? ……決めてないの? ミーティングで時間ないと思ってたからな ……ふん 雲雀ヶ崎で遊ぶとしたら、どこになるんだ? この街は娯楽施設が乏しいから。電車で隣町の中心部まで出ないとになるわね 中心部って、電車でどのくらいだ? 特急使ってだいたい三十分ってところね ……不便だな だからヒバリ校は部活動が盛んなんじゃない ……じゃあどうするかな 往復だけで一時間だから、夕飯前に戻ってくることを考えるとあまり遊べない。 べつに、遠くまで出なくたっていいじゃない ほかに行きたいとこあるのか? ……ま、まあ なに照れてんだ? 照れてないからっ どこ行きたいんだ? ………… 姫榊は無言で指差す。 そこは、通学路の途中にある俺の家。 ま、まあ、行きたいと言えば行きたいような気がするだけで…… 俺は笑ってうなずいた。 お茶くらい出すから、ゆっくりしていってくれ お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、おかえりなさ──い! どこのどなたさまですか? 近頃ぜんぜん登場しなかったからってひどい仕打ちだよお兄ちゃん!? 私服に着替えてるけど、これから出かけるのか? そうだよっ、鈴葉ちゃんと約束してるからねっ、だから名残惜しいけどお兄ちゃんとはすぐお別れだよっ それが千波の最期の言葉となるのだった べつに今生の別れって意味じゃないよお兄ちゃん!? ……相変わらず元気な妹さんね 核弾頭だからな あっ、この人って こんにちは。何度か会ってると思うけど ご無沙汰してますっ、こもも先輩! なんでみんな名前で覚えようとするのよ!? 覚えやすいからだろう。 お兄ちゃん、こもも先輩となにするの? ああ、いちおうこれはデー…… どがっ!! 千波さん、鈴葉ちゃんが待ってるんじゃない? あっ、そうでしたっ、それじゃ千波いってきまーす! 千波は核弾頭のごとく飛び出していった。 わたしも、お邪魔します 倒れる俺を放って勝手に上がる姫榊だった。 玄関が賑やかだと思ったら、お客さまだったのね 姫榊をリビングに通すと、詩乃さんが顔を出した。 いらっしゃい、こももちゃん お邪魔してます 洋ちゃん はい? 両手に花だったのが、抱えきれなくなっちゃったわね い、いやっ、両手に花って誰のことですかっ 明日歩ちゃんとこさめちゃん ………… ……姫榊の視線が痛い。 それで、三人のうちの誰が本命? 姫榊です なっ…… ……なんでおまえが驚くんだよ こ、心の準備がっ 明日歩ちゃんとこさめちゃんは? 友達です こももちゃんは? 恋人です あらあら 姫榊の頬が上気している。 こういうときは、祝賀会を上げたほうがいいのかしら ……いえ、なにもしなくて結構ですから すぐにお赤飯炊かなくちゃ お、お気遣いなくっ ふたりとも、いつからおつきあいしてるの? あ、あの…… こももちゃん、洋ちゃんのどこが好きになったの? そ、その…… 洋ちゃんと、いつまでも仲良くね? は、はい…… 姫榊は恐縮しっぱなしだった。 結局、詩乃さんの質問責めに姫榊があたふたと答えているだけで夕方になってしまった。 ……なんか、悪かったな う、ううん……。さすがにこういう展開は予想してなかったけど 夕飯、食べていってもいいんだぞ ……やめておく 詩乃さんの誘いを、姫榊は丁寧に断っていた。 ……まあ、これ以上さらし者になるのもな それもだし、今日はわたしが夕食当番だから 引き留めることはできないようだ。 駅まで送っていくよ ……うん 家を出ると、夕焼けの赤が目に痛かった。 ほんとは…… 夕陽から目を背けながら、ぽつりと言った。 ほんとは、小河坂くんの部屋、見てみたかった…… ふたりで、お話ししたかった…… そんなの、いつでもできる ……じゃあ、明日 ああ 生徒会の仕事、早く終わらせるから…… 俺も昼休みに手伝うよ うん、と姫榊はしおらしくうなずいていた。 じゃあ、また ……うん、また 明日の朝も、待ってるから ……十分前に着くから 一緒に登校だな 姫榊の顔が赤いのは、夕陽のせいだけじゃない。 それじゃあ 俺はきびすを返す。 こ、小河坂くん 呼ばれて、振り向いた瞬間。 唇にキス。 ……ばいばい 姫榊は駅の建物に駆けていった。 遅れて、心臓が暴れ出す。 前途多難なんかじゃない。 俺たちは、恋人としてつきあっていける。 姫榊の身になにがあっても、こうしてつきあっていける。 お、来たな うん。お待たせ 昼休みになってすぐ、姫榊のクラスの前で待ち合わせた。 南星さんたちは? 姫榊と食べるって言って断ったよ し、正直に言ったの? ああ。そっちは? ……ほかの友達と食べるって言った 俺たちがつきあってるの、隠したほうがいいか? し、知らない こさめさんには言ったんだろ? い、言ってない ……知ってそうな感じだったけどな ついさっきも、姉さんとお幸せにと茶化されていた。 ……あの子は、勘がいいから。特にわたしに対しては わたしもこさめに対して勘がいいけどね 双子だからだろう。こさめさんも似たようなことを言っていた。 でも、わざわざこさめに教えなくていいからね わかったよ ……いずれ、ちゃんと話すから わかってるよ 仕事の前に、昼飯だな うん。ゆっくりはできないけど 早速食べるか うん 俺、購買で買わなくてよかったのか? ……うん。小河坂くんの分、持ってきたから もしかして手作りか? う、うん 昨日の夕食、姫榊が当番だって言ってたもんな そ、そうじゃない 姫榊はぷるぷる震えながら弁当を差し出す。 夕飯の残りじゃないの…… わたし……いつも早起きだから…… ちゃんと、作ってみたの…… 俺は、その弁当を受け取る。 わ、わかったら、感謝して食べなさいよね ああ。ありがとうな ……ふん 弁当のフタを開けると、中はこれまでもらっていたものよりもずっと華やかだった。 これ、けっこう時間かかったんじゃないか? ……大したことないわ ありがとうな ……お礼はもういいから、早く食べなさいってば あれ、そっちの弁当は? ……それ 俺の手にある弁当を指す。 半分、食べるから 了解 間接キスに触れると蹴られそうなので、やめておく。 ぱくぱくと食べる。 ……おいしい? おいしいよ そ、そう 毎日食べたいくらいだ そ、そう でも、毎日頼むと迷惑になるか そ、そうでもないけど もしよかったら、作ってくれ し、しょうがないわね ごちそうさま も、もう食べたの? ああ。おいしいからな ………… じゃ、残りは姫榊の分だ ……うん 姫榊は、中身が半分に減った弁当箱を見つめながら。 わたしね…… 初めて、悪夢に感謝したかも…… 悪夢を見てるおかげで、簡単に早起きできるから…… だから…… ……姫榊 ご、ごめんっ……。今の、忘れて…… 姫榊、キスしていいか? えっ…… 軽く唇を重ねた。 あ……う…… 姫榊は目を白黒させる。 な、なにするの…… キスした み、みんな……いるのに…… 見られないように、素早くやったんだ ………… ほら、食べろ ………… 姫榊はゆっくりと箸を動かし、口に運ぶ。 味……わからなくなっちゃった…… 小河坂くんのせいで…… アクシデントに弱い姫榊だから、食べ終えるのに時間がかかっていた。 昼休みは生徒会の仕事が満足にできず、姫榊に文句を言われた。 だったら、放課後にがんばろう。 今日の天クルは自由行動だから、俺も最初からミーティングに出席できるのだ。 なんとか早く終わったわね ほかの役員も急いでくれたからな 姫榊が必死になっているのを見て察したのか、無駄口も挟まず仕事をこなしてくれたのだ。 天クルのほうはどうなの? 今日は各自で資料まとめなんだ 各自ってことは、小河坂くんも仕事あるんじゃないの? 休みの日にでもやっとくから。今日は姫榊が先約だしな ……ど、どうも あ、それに関して一件連絡だ。次の月曜、隕石の写真撮らせてもらうのにそっち行くよ だそうね。こさめから聞いてる それでな、夜になったら神社の境内で天体観測やろうって話にもなってるんだ ……それは初耳ね 姫榊も参加しないか? ……わたしも天クルの一員だから? ああ。それに、姫榊も一緒のほうがうれしいしな そ、そうなの? 当たり前だろ だ、誰がうれしいの? みんなだけど、特に俺が ………… 姫榊も参加するよな? し、しょうがないわね じゃあ決まりだな し、しょうがなくね 姫榊は結構扱いやすいのだと知った。 そして、約束どおり姫榊を家に連れてきたわけだが。 お兄ちゃん、今日はこもも先輩と家にいるの? まあな じゃあ千波もいるねっ ……いや、遊びに行くんじゃないのか? 特に予定してないから千波もお兄ちゃんたちと遊ぶねっ 運悪く千波に捕まっていた。 こ、小河坂くん…… ……わかってる。千波、悪いんだけど俺たちは部屋に行くから あらあら、いらっしゃい。今、お茶出してあげるわね あ、いえ、俺たち部屋に…… 詩乃さん、千波ブッセが食べたいですっ あらあら。じゃあ三人分焼いてあげようかしら い、いや、だから…… みんな、そのままリビングで待っててね 詩乃さんはキッチンに消えていった。 ………… 姫榊の視線がとても痛かった。 ……千波、俺たちのブッセはおまえにやる わっ、いいの? ああ。その代わり詩乃さんに、俺たち部屋にいるからお構いなくって言っておいてくれ ブッセがもらえるならなんでもいいよっ 買収成功。 姫榊、行こう 手を取って立たせる。 ぁ……手…… そのまま部屋に向かった。 どうぞ 姫榊を招き入れる。 部屋、見たかったんだよな う、うん…… そわそわしながら入ってくる。 まあ普通の部屋だと思うけどな う、うん…… べつにおもしろみもないし う、うん…… 心ここにあらずといった感じ。 あ…… 姫榊の目がサイドボードに向く。 あれって…… 俺は、飾られている色紙をぱたんと伏せる。 ……今、隠した? なんのことだ? その色紙、なに? 転校前の学校でもらったやつ。クラスメイトからの餞別 見せてもらっていい? ……見てもおもしろくないから なに隠してるの? 断じて隠してない 紳士に言う。 ……明らかに隠してる顔ね この技はやはり封印すべきだった。 姫榊さ、喉乾かないか? いいから貸して 色紙を奪われてしまう。 ふーん……女子一同なんだ ……べつに普通の寄せ書きだろ この好きでしたって書いてあるのは? じゃあ飲み物取ってくるから 待ちなさいっ 襟首をつかまれる。 この人、小河坂くんのこと好きだったの? ……冗談で書いたんだろ ふたりから好きでしたってあるんだけど? ……冗談が重なったんだろ 小河坂くん 詰め寄ってくる。 べつに責めてるわけじゃないから。隠されるほうが腹立つってだけで ……それなら、悪かった で、つきあってたの? どっちにしろ追求するのか。 ……まさか、今でもつきあってるとか ないないないっ、ありえないだろっ 小河坂くん、モテそうだし…… それはそっちだと思うが。 言っておくけど、俺の初恋は姫榊になるからな な、なによ急にっ 誰かを好きになったのは姫榊が初めてってことだ 姫榊はかあっと赤くなる。 ……わ、わたしも ぼそぼそと言った。 わたしも、小河坂くんが初めてだから…… ……こういうとき、なんて答えればいいんだろうな。 姫榊さ、なんで急に部屋見たいなんて言ったんだ? 悩んだ末、話題を変えることにした。 小河坂くん、わたしの部屋、見たから…… お返し…… ……また答えに窮することを。 ……座るか? こく、とうなずく。 適当に座ってくれ 俺がベッドに座ると、姫榊は隣に来た。 ……そこに座るのか。 姫榊は膝の上で組んだ手に視線を落としている。 無言。 息が詰まる時間。 この、緊張感。 おたがいの肩が触れると、姫榊はぴくんと揺れる。 ご、ごめっ…… 離れていかないよう、その肩に手を置いた。 抱き寄せた。 ぁ……う…… 姫榊は俺の胸に手を当て、上目遣いをする。 小河坂……くん…… ……姫榊 待たせたな ……いえ。こちらこそ、いつも呼び出してしまってすみません 私のアパートは狭いからな。話すには、ここのほうが都合がいいさ といっても、もっと気温が下がったらそれも辛くなるだろうが その心配はないと思います。雪菜先輩とこうして内緒話をするのも、そろそろ終わりでしょうから 私を友人だと言ったわりに冷たい言葉だな ……そのような意味ではありません。わたしも、できるならいつまでも雪菜先輩のお友達でいたかった 私の仕事が理由か はい。母から、指示が下ったのではありませんか? 相変わらず勘がいいな。万夜花さんが話したわけではあるまいに お仕事を終えたら、先輩は総本社に戻ってしまうのですよね ああ。私はもともと総本社に仕える巫女だ そうなると、ここも寂しくなりますね ………… 雪菜先輩。お仕事、よろしくお願いいたします きっと、もう、充分だから 姉さんには、小河坂さんがいますから ふたりがおつきあいしていることは、姉さんから聞いたわけではありませんけど…… だけど、わたしにはわかる わたしがわかっていることを、姉さんもわかっている だから、大丈夫だと思うんです すべては、うまくいくと思うんです ……キミは、私の仕事に賛成なのか? それは今さらではありませんか? 先輩にお仕事を頼んだのは、母ではなくこのわたしなんですから 母がわたしの頼みを聞き入れて、総本社に連絡し、そしてあなたが派遣されてきたんですから ………… ……なぜですか? なぜとは? なぜ、迷っているのですか? ………… わたしがこの頼みを母に話したとき、母もまた迷っていたと思います 迷ったからこそ、母はこのお仕事に条件を付けたんです 姉さんが展望台に入ることができて初めて、『彼女』を送り還すことを認めると…… それは、姉さんが死と対面する勇気を持ったことと同義だから…… 発現した悪夢が、それを示しているから 悪夢に打ち勝つ強さを、姉さんは必ず得ることができるから それだけじゃない、小河坂さんが、姉さんを守ってくれるから だから、お願いします 迷わないでください 『彼女』を送り還してください 悪夢を刈って、眠らせてあげてください…… 『彼女』も、それを望んでいますから ……はあっ 姫榊こももはベッドから飛び起きた。 今朝も見た。夕焼けの中を落ちる夢。 赤い悪夢。 赤いだけじゃなく、最近は落ちたあとに凍えている。 寒くて寒すぎて、次第にその感覚までも薄らいで、視界が赤から黒に塗り変わっていく。 果てに待つのは死。 暗闇の中に残る虚無。 圧倒的な喪失感と、絶望感。 上げたくても上げられない悲鳴を喉の奥に飼ったまま。 わたしは、冷たい死体を見下ろしている。 う……くっ…… こももは悪寒で震える肩をみずから抱く。 ……だいじょうぶ。 こんな悪夢に負けはしない。 なにがあっても屈しない。 変わらないから。 わたしたちは変わらない。 小河坂くんが言ってくれたから。 肩を抱いていた手を、下腹部に降ろしていく。 そこにはまだ痛みが残っている。 昨日の行為でもらったぬくもりが残っている。 ここに、小河坂くんがいてくれる。 こんなにも近くにいてくれる。 こんなにもあなたを感じることができるのなら。 わたしは、どんな結果だって受け入れてみせる。 おはよう おはようございます、姉さん 朝ご飯、もうできてる? 今、お母さんが作ってますよ そう 姉さん、めずらしいですね なにが? パジャマのままここに来ることが、です。いつもは顔を洗ってすぐに着替えますのに ……うっかりしてた 体調、優れませんか? そうじゃないわ。寒気はあるけど、本当にうっかりしてただけ 小河坂さんのことを考えてぼーっとしてたんですね な、なんでそうなるのよっ 姉さん、今夜はお時間、ありますか? ……用事でもあるの? はい。展望台で用事があるんです ………… 展望台が苦手な姉さんには、心苦しいお願いではあるんですけど…… わかった こももは、このお願いがこさめにとって大切なものなのだと感じ取る。 だから即決できたのだ。 今夜、展望台に行ってあげるわ ……ありがとうございます そして、それがおたがいにとって深刻な用事であることも、こももは知ることができた。 今日からは三連休。学校は休みである。 だからこの恒例の務めも三日連続になるのだろう。 それは、秋の陽気以上に俺の気分を昂ぶらせる。 遅いわよ、コガヨウ コガヨウ言うな 先に打ち水をやっている姫榊も、すっかり見慣れた光景となっている。 十分前行動くらい守れって、何度言わせるつもりなのよ 今日はぴったり十分前に着いたと思ったんだけどな 五秒の遅刻 細かいよ。 朝は風が冷たかったけど、昼になったら一気にあたたかくなったな そう? 結構寒いから、打ち水は軽くにしておこうと思ってたんだけど よく見ると、姫榊の顔は少し青ざめている。 姫榊、身体の調子は? どがっ!! なっ、ななななんてこと聞いてるのよ!! ……いや、待ってくれ マジメな話、なんで蹴られたのかわからん。 まだ痛いに決まってるでしょっ、は、初めてだったんだから!! この言葉で理解した。 痛いならやめるって言ったのに、あんな無理して自分から…… どがっ!! じ、自分からじゃないっ、動いてたのは小河坂くんでしょ!? でも最後は姫榊も感じて…… どがっ!! だっ、だだだ誰も気持ちよくなんかなってないわよ!? これだけ元気があれば、そっちの問題は平気そうだ。 で、悪夢のほうはどうなんだ? ……どうって? 寒がってるの、悪夢のせいだろ ……大したことないから 姫榊。頼むから無理だけはするな ………… 無理されるほうが辛いんだ。そんなに俺は頼りにならないか? そ、そんなこと…… 姫榊はくぐもった声で言う。 絶対……ない…… 悪夢のせいで、寒いんだろ? ためらいがちに、こくっとうなずく。 姫榊 寄り添い、抱きしめる。 やっ……ちょっと…… 姫榊の身体は冷たかった。 もっと強く抱き寄せる。 んんっ……こ、小河坂くん…… まだ寒いか? ぁ……う…… 誰か……来たら…… ああ 見られる……よ…… ああ そんなのより、姫榊のほうが心配だ ………… 姫榊の手からひしゃくが落ちる。 そして、姫榊の腕も俺の背中に回されて。 おふたりとも、お仕事はもう終わりですか? !!?? どがっ!! あ、あら、こさめじゃない。どうしたの? お仕事を手伝おうと思って来たんですけど…… そ、そう。じゃあ桶に水汲んできてくれる? それより、小河坂さんがキレイに大の字で倒れているんですけど…… ひ、日向ぼっこしたいんだって。だからこさめ、早く行ってきてくれる? ……小河坂さんも苦労が絶えませんね こさめさんは俺にすまなそうに一礼して、水場に歩いていった。 コガヨウ…… 俺のせいかよ!? ああいうこと急にやらないでっ じゃあいつやればいいんだ そ、それは……ふたりきりのときとか…… ……わかったよ ため息。 お、怒った? まあ、釈然としないっていうか 心配してくれるのは、うれしいから…… わかったって ふたりきりのときは……わ、わたしも、してあげても……いいから…… ……姫榊からこんな言葉が聞けるなんて。 抱きしめてくれるのか? う、ううん……いろいろ…… たとえば? え、えと……キス、とか…… それだけか? 姫榊はかあっと顔を赤らめて肩をいからせる。 あなたの好きなことしてあげるって言ってるの! ああ、天体観測か ち、違うでしょ!? じゃあなんだ? エッチなこと……って、ぜ、全部言わすなあ!! どがっ!! 俺を蹴り倒したあと、真っ赤になって立ち去ってしまった。 ……ううむ、姫榊をからかうのはおもしろいが、代償が蹴りというのがネックだな。 本当、苦労が絶えませんね 見ていたらしいこさめさんが、水が入った手桶を置きながらくすくすと笑っていた。 ……あの暴れ馬を乗りこなすコツ、教えてくれ 姉さんは扱いやすいって思ったことはありませんか? そういうときもあるな 小河坂さんだから、そういうときがあるんですよ 俺はいつでも乗りこなしたいんだけどな 本当にそんな関係を望んでいるんですか? いや、冗談だ 本気と言ったら薙刀でばっさり斬っていたところです 話していると、姫榊がバツ悪そうに歩み寄ってきた。 ……仕事、やるわよ そうだな すぐに終わらせてしまいましょう 姫榊とふたりだけじゃない。 こんなふうに、これからも三人で過ごしていけたらいい。 姫榊の着替えを待って、部屋に上がらせてもらった。 もっと厚着してもいいんじゃないか? ……なんでよ 寒いんだろ? 打ち水も掃除も、姫榊は合間によく自分の肩を抱いていた。 もう何度も言ってるけど、無理だけはするなよ ………… 姫榊は無言でベッドに座り、ぽんぽんと隣をたたく。 お姫さまのご所望によりそこに座ることにする。 ……寒い あたためようか? ……うん 抱きしめる。 子ウサギのように震えていた。 少しは楽になるか? うん…… 厚着もしたらどうだ? うん…… この際シャワーも浴びたらどうだ? うん…… だったら、ほら。準備してこい ………… 動こうとしない。 小河坂くん…… なんだ? 今夜、わたし、展望台に行くの ……用でもあるのか? うん……。だから、ついて来てもらっていい? ああ わたしのそばにいてくれる? ああ ずっと? ああ 姫榊は俺から離れ、立ち上がる。 シャワーか? ……お風呂にする そっか 姫榊はうつむいている。 ……一緒、なのよね ずっと一緒、なのよね ああ。当たり前だろ 一緒に……入ってくれるのよね お風呂…… まさか、こんな展開になるとは思いも寄らなかったわけで。 やっほー、待った? ……万夜花さん、また飲んでますね 酒に関してどうこう言われる筋合いは、今回ばかりはないわね 急にお呼び立てしてしまったことは、謝ります あなたから私を呼ぶだなんて、初めてね。しかもこんな早い時間に とはいえ、もう夜ですがね なにかあったの? はい。大切ななにかが それはなに? 私がこの仕事を降りることです ………… 今夜はその報告がしたかったのですよ そう ……驚かないのですね なんとなく、予想がついたからね。前回の報告会で仕事の遂行を命じたとき、あなたに迷いが見えたから ………… いちおう上司として聞くけど。なぜ仕事を降りるの? 情けない理由ですが、情が移ったからですね 『彼女』に? はい それはさすがに驚きね 私もですよ あなたは『彼女』を送り還したくないわけね はい 代わりに私が送り還すとしたら? あなたは私の敵となります 総本社はどう考えるかしらね どんな処分も甘んじて受けるつもりです 意思は固いようね だからこそ報告しているのです あなたは、私を恨んでいる? ……恨んでいるとは? あなたをヒバリ校に入学させたことについてよ ……まさか、これを見越してのことですか なんのことかしら あなたが私をヒバリ校に通わせたのは、そうすることで私が『彼女』と日常的に接触し、情が移るだろうと見越してのことですか 今のように、仕事を降ろさせるためですか さすがに考えすぎよ。私は、雲雀ヶ崎に興味がないあなたに、少しでも雲雀ヶ崎を好きになってもらいたかった ただそれだけよ ………… 報告は終わり? ……はい これからあなたはどうするの? ……そうですね まずは、展望台に向かってみましょうか どうも私の友人が、先走っていそうな気がしますから 姫榊の部屋で夜を待って、家を出た。 電車に乗り、雲雀ヶ崎駅で降り、俺たちは歩いている。 途中、自宅に寄って厚着をしてきた。姫榊も昼間よりも多く上に羽織っている。 雲雀ヶ崎の夜は、すっかり秋の気温となっている。 まだ詳しく聞いてなかったけど。展望台でなんの用なんだ? 大切な用よ わたしにとっても、こさめにとっても ………… それ以上、わたしも知らないの。でも、行けばわかるわ ……そうか ええ 姫榊らしいな ……バカにしてる? 尊敬してるんだ ふん 俺もついていっていいのか? ……わたしが頼んだんだから たぶんこさめも、あなたが来るって思ってるから 展望台は思いのほか暗かった。 今夜の星空は明るくない。ところどころが曇っている。 夏と違って蛍もいない。 光が少ない。漆黒に近い闇。 だから、すぐには気づかなかった。 お待ちしておりました メアはいない。 代わりに、彼女が待っていた。 ご足労いただき、ありがとうございます 逃げずに来ていただき、ありがとうございます──── これで、わたしも、心置きなく送り還すことができるでしょう こさめさんが立っている。 手には薙刀、それは夏休みに対峙した姿を思い出させる。 あのときのこさめさんは、メアを送り還すため、こうして敵意を剥き出しにしていた。 こさめ…… 姉さん、不用意に近づいてよろしいんですか? 姉さんならもう感づいていると思います わたしの薙刀があなたを狙っていることに気づいていると思います 姫榊の足がびくりと止まる。 俺はその一歩前に踏み出す。 ……姫榊を、刈るのか? はい 姫榊を送り還すのか? はい なぜ今になって? 姉さんが死に対面する準備を整えたと判断したからです 小河坂さんには感謝しています。あなたがいたからこそ、姉さんは毎夜の悪夢に屈しなかった 目を背けずに、悪夢を受け入れることができた 過去の記憶を受け止めることができた その死を理解できたんです 姫榊は言葉を失っている。 過去に起こった展望台の事故。 姫榊はもうすべてを思い出したのだろうか。 その様子ですと、小河坂さんも理解しているようですね ……みんなで思わせぶりに忠告していたからな こさめさんに雪菜先輩、万夜花さん。 みんながみんな、触れたくはない真実を遠回しに教えてくれた。 それでは、そこをどいてください できないな メアさんのときと同じで、わたしの邪魔をするんですね そうなるな なぜですか? 理由なんて今さらだろ。メアのときと同じだからな お願いです。わたしは姉さんを送り還したいんです これ以上、ここに留まっていてはいけないから…… 還るべき場所がほかにあるから だから、送り還すしかないんです なにからなにまで同じ。再現されている。 だから今のこさめさんの気持ちだってわかる。 ……こさめさん、その言葉は正確じゃない どういう意味でしょう 混乱させる言い回しなのは、俺たちを勘違いさせて罪悪感を感じさせないためか? 言っている意味がわかりません その薙刀で、メアがカマでやるように、悪夢だけを刈れるのか? ………… 答えてくれ ……星天宮には、その方法も伝わっています 〈魂〉《たま》送りと呼ばれる祈祷──〈採物〉《とりもの》を使って相手に憑いたまつろわぬものを自身の身体に取り込み、鎮め、そして送り還すんです その際、祈祷者は相手のまつろわぬものを共有するため、〈一時〉《いっとき》ではありますが同じ辛さや悲しみを感じてしまう…… わたしはまだ実践したことがありませんが、あなたが今考えているような心配は無用です 失敗したとしても、姉さんがケガをすることはありません。薙刀でばっさり斬るわけではありませんからね メアにはばっさり斬ろうとしてたよな? メアさんは悪夢そのものですから。場合が違います わたしが今やろうとしていることは、人の身に潜む悪夢だけを刈り取ること まつろわぬものを送り還すこと 姉さんにとってのまつろわぬものを送り還すことなんです 最も欲しかった答えだった。 俺は肩から力を抜いた。 ……もう、やめよう わたしの話を聞いていなかったんですか? わたしは姉さんを送り還す…… こんなのは、茶番だ ………… こさめさんは、本気で姫榊を襲おうとは考えていない ……なぜそう言い切れるんですか わかりきったことじゃないか。同じだからだよ、メアのときと こさめさんは、泣いているんだ ………… なのにこれ以上続けるって言うんなら、姫榊に頼んでお仕置きしてもらうからな こさめさんは、薙刀を収める。 ……本当は、ここに雪菜先輩も来る手はずだったんです だけど、断られたみたいです わたしは、フラれたみたいです ………… 姉さん 姫榊は俺の後ろで、どこか呆然と立ち尽くしている。 ……姉さんは、頼りにできる人を見つけたんです だから、大丈夫です 姉さんは、ひとりではないんですから こさめさんは歩いていく。 展望台を出るんだろう。 こさめさんが送り還したいと言った、姫榊の悪夢。 もはや決定的。 疑う余地がない。 俺がメアに頼んで姫榊の悪夢を刈ろうとしたとき、雪菜先輩が止めに入った。 こさめさんは止めなかった。 雪菜先輩の気持ちと、こさめさんの気持ち。 その似て非なる想い。 『彼女』を送り還したくない雪菜先輩と。 『彼女』を送り還したくないのに、送り還すべきだと考えるこさめさん──── こさめ 雪菜先輩…… これから展望台に向かうのか? ……いえ、用事はもうすみました そうか。一足遅かったのか だが、間に合ったようでもあるな キミはまだ、私の前にいるのだから ………… こさめ。もうよけいなことはするな 私の仕事は、失敗したんだ ……失敗? そうだ ……お仕事を降りるんですか? そうだ なぜですかっ キミのせいさ キミが、私の友人になったからさ ………… だから私は、悪夢を刈ることはしない キミの姉の悪夢を刈ることはしない キミを送り還すことは、しないんだよ こさめは、わたしを送り還そうとしたわけじゃなかったのね…… わたしの悪夢だけを、送り還そうとしたのね…… 姫榊は自分の肩をかき抱く。 寒さに震えている。凍えそうな現実に耐えている。 こさめさんは姫榊を刈ろうとしたわけじゃない。 姫榊の悪夢を刈ろうとしただけだ。 姫榊は、メアとは違う。 姫榊は、悪夢そのものではない。 ただ、悪夢を抱えていただけで。 たぶん、『彼女』が、悪夢なんだ…… たぶん、『彼女』は、幻なんだ…… 現実にはいないんだ…… ……やっぱり、そうなのね 死んでいるのね こさめは、もう死んでいるのね──── ……ありがとうございます、雪菜先輩 わたしを送り還したくないと言っていただいて、ありがとうございます わたしはホッとしたかもしれません いつだったか、雪菜先輩はわたしに聞きましたよね あなたに近づいたのは、これが目的だったのかと わたしに情を移して、送り還すのをためらわせるためだったのかと そうなのかもしれません わたしは仕事に協力するふりをして、あなたに近づきたかった 友達の関係を結んで、わたしを送り還すという仕事を諦めて欲しかった 還りたくないから 死ぬのが怖いんです すでに死んでいる身でも、死にたくなかったんですよ すべては、わたしの弱さが生んだんですよ ……キミは案外、嘘が下手だな この仕事はそもそもキミが依頼したんだろう 万夜花さんに頼んで、自分を送り還して欲しいと頼んだんだろう そして私が総本社から呼ばれた。キミ自身が言った言葉じゃないか 気が変わったんです いざとなったら怖くなったんですよ そんなふうに話して、また私をたきつけるのか 未練がましさを演出して、ひと思いに断ち切って欲しいと私を促し、自分を送り還すよう仕向けるのか ………… もう手遅れなのさ。キミの思惑は外れたんだ キミが私に近づいたのは、自分のためじゃない。私のためだったんだ 万夜花さんと同じで、私に雲雀ヶ崎を好きになって欲しかったんだ そして、その雲雀ヶ崎で害をなすかもしれないキミを、私の手で送り還して欲しかった そのような理由を作れば、私はキミを送り還したとしても罪悪感を感じないだろう 私は、皆からも恨まれないだろう キミが描いたシナリオだ ………… キミと展望台の死神のやり取りで、私も悟ったんだよ 私が死神を送り還せば、私は皆から恨まれる だから代わりにキミが還すことにした そしてキミ自身は、皆から非難されようが問題にならなかった 送り還されてもいい存在だと皆から思われたかったから いずれ自分がいなくなっても、誰も悲しまないように 私が非難されないように ………… キミは結局、自分のために行動していたんじゃない 友達のために行動していたんだよ ………… キミを送り還すことは、最初は容易いと考えていたよ クールダウンと呼べるほど容易いと。なぜならほかの同類と違って、キミは抵抗する素振りがないから いつでもその身を捧げる覚悟があったから なのに、今では容易いどころか、難しい 最も難解な仕事に変わったのさ ……どうして、そんなふうに思うんですか キミが、この諏訪雪菜の初めての友人だからさ ………… 雪菜先輩は、間違っています…… わたしには、そんな覚悟はない…… 死にたくないというのは、本当なんです…… 死にたい人間など居はしない わたしは弱い人間です…… 違う。それは人として当然の感情だ 姉さんと一緒に暮らしたい…… わかっている みんなのそばにいたい…… わかっている いなくなりたく、ない…… わかっている だから、私はこの仕事を降りると言っている キミを送り還す輩がほかに現れたとしても、私が必ず守ってみせる でもっ……それではだめなんです! わたしは〈星神〉《せいしん》でも〈星霊〉《せいれい》でもありませんっ……中途半端な存在です…… 姉さんが見ている、うたかたの夢です…… そんなわたしが、いつまでこんなふうに留まっていられるのか…… 突然いなくなってもおかしくない…… こんな不確かな身で、みんなのそばにいていいなんて、思えない…… 思えないんです…… それでも私は、キミを友人だと思っている かけがえのない親友だと 自分の手で親友と別れるほど、私もまた強くない 残酷……ですっ…… 姉さんと一緒で……とても残酷です…… ……わかっているんだ。 雪菜はこうなることをわかっていた。 この決断はこさめを楽にしない。 この優しさはこさめを苦しめる。 どう言おうと、結論づけようと、こさめがこれからも苦しむことに変わりはない。 だから友達なんていらなかった。 だから雪菜は、自分の弱さに吐き気がする。 こさめ! こさめさんを追って姫榊とふたりで展望台を出ると、フェンスの付近で人影を見つけた。 人影はひとつではなかった。こさめさんの近くに雪菜先輩もいる。 あなた、なに考えてるの…… 自分からいなくなろうだなんて、思ってないわよね…… 雪菜先輩は黙って後ろに下がる。自分がかけるべき言葉はもうないとでも言うように。 さっきは、わたしの悪夢を刈るって、本気で言ってたの……? 姉さん…… こさめ、答えて…… ………… 答えてよ…… じゃないと……お仕置きしてやるからあっ…… わたし、もう、思い出してたのよ…… 忘れたはずの記憶…… 展望台の事故の全貌…… 少しずつでも、思い出せていたの…… 悪夢は鮮明になっていたから…… 落ちて、たたきつけられて、凍えて…… 死を、経験して…… なのに、まだその先も、あったから…… 信じたくなかった…… わたしは目を背けていた…… あなたが死んだ事故のこと、信じたくなかったの…… ……姉さん そうですよ。わたしはもう、この世の者ではないんです 展望台で木登りをして、姉さんを困らせようとしていたわたしは、手をすべらせて落ちてしまった…… 助けようとしてくれた姉さんの手は届かず、そのままわたしは地面にたたきつけられて…… わたしは、姉さんの目の前で、死んでしまったんです 姉さんはショックだったと思います。悪夢にうなされ、その果てに事故の記憶を忘れてしまったんだと思います 現実から逃げてしまったんだと思います だけど今、姉さんはやっと思い出してくれた 現実から逃げずに、悪夢から覚めようとしている わたしの死を受け入れる強さを、持ったんですよね 違うっ…… 違いませんよ 思い出したのなら、わかるでしょう? 姉さんを苦しめていた悪夢は、姉さんが生んでいるものでした そしてこのわたしの存在も、姉さんが生んだんです わたしは、姉さんの悪夢なんです わたしは必要ないんです 姉さんにとって…… 違うっ……! 違いません 違うのは、姉さんのほうです だって姉さんは、不正が大嫌いでしょう? わたしの存在は間違っているんです 間違いは、正さなければなりません だからっ……そうじゃないの……! わたしはこさめと離れたくないっ……離れられるわけないじゃない! わたしたちはずっと一緒だった、生まれたときからずっと一緒だったのに! だからこそ、大丈夫なんですよ わたしはこれまでに、姉さんからたくさんのぬくもりをもらいましたから キスまでもらってしまいましたから だからもう、充分です わたしは充分じゃないっ、もっとこさめのそばにいたいの! これからもこさめのそばにいたいの! 残りは、小河坂さんからもらってください いやっ、いやあ! 姉さんは、小河坂さんが嫌いですか? そ、そんなわけ…… 小河坂さんのそばにいたくないんですか? そんなわけっ、ないじゃない……! じゃあ、大丈夫 姉さんは大丈夫 そしてわたしも、大丈夫だと思うんです 小河坂さんが姉さんを悲しませて、わたしが化けて出なくちゃいけない事態は、ないと思いますからね 姫榊は泣いていた。 長い時間、泣きじゃくった。 その間、こさめさんは子供をあやすように、ずっと姫榊を抱きしめていた。 そんなふたりを、俺と雪菜先輩も、最後まで見守っていた。 あ……小河坂さん こんにちは ……はい。こんにちは 今日は、こさめさんが当番か ……いえ、本当は姉さんです 姉さん、土日は自分が打ち水と掃除をやるって、わたしとお母さんに言ってたんですよ きっと、小河坂さんと一緒にお仕事をしたかったからだと思いますけど ……そっか ですから、小河坂さん。姉さんを悲しませたら こさめさんが薙刀を持って化けて出てくるんだな よくわかってらっしゃいますね ……なあ、こさめさん 小河坂さん こさめさんは、ぴんと指を立てる。 その仕草はこれまで俺が見てきたこさめさんの日常、そのものである気がした。 それ以上は、言わなくて結構です これはどうしようもないことですから わたしがいなくなることは、どうしようもないことなんですよ こさめさんとふたりで仕事を終えて、家に上がる。 どうぞ、麦茶ですよ 私服に着替えたこさめさんは、俺にお茶を運んでくれる。 今日は冷たいお茶だな 気温が高かったですからね こさめさんも薄着だもんな エッチな目で見ていますか? 露出が高いって意味じゃないからっ とてもしょんぼりです ……誘ってるのか? 小河坂さんがわたしにエッチなことをしたら、心置きなく薙刀でばっさり斬れましたのに ……前々から思ってたんだけど、こさめさんは俺を亡き者にしたいのか? 愛情表現の範囲ですよ こさめさん、Sだな 姉さんがMですから ……姫榊は今、どうなんだ? 姫榊は結局、境内に顔を出さなかった。 姉さんは、今朝から部屋に閉じこもりっきりです。まだ眠っているのかもしれません 姉さん、ずっと泣いていましたから ……そうか 夕べは、家に帰ってからも姉さんをなだめるのに苦労したんですよ 俺も一緒にいればよかったか? いえ、それを断ったのはわたしですから この問題は、まずはわたしと姉さんのふたりで解決しなければならないんです 小河坂さんの役目は、わたしがいなくなったあとに、姉さんのそばにいてあげることですよ ………… 昨日はお風呂でお盛んでしたね なんだよいきなり!? 声が漏れていましたから。今後は気をつけたほうがいいと、お別れする前に忠告したかったんです 俺は、こさめさんと別れるつもりはないからな ……エッチなのはいけませんよ? 意味不明なんだけど!? わたしと姉さんとで3Pをしたいのかと…… そんなわけないだろ!? わたしのこと、嫌いですか? それも違うだろ!? ……わたしの初めては、姉さんと小河坂さんのどちらに捧げればいいんでしょう? 聞かれても困るだけだから!? くわばらくわばら、ですね こさめさんは楽しそうにほほえんでいる。 もう死んでいる身だなんて、とても思えない。 ……くわばらくわばらって、落雷を避ける呪文だよな よくご存知ですね 由来はいろいろあるようですけど、〈菅原道真〉《すがわらのみちざね》の領地だった〈桑原〉《くわばら》には一度も雷が落ちなかったため、それにあやかっている、というのが一般的のようですよ こさめさんは雷が苦手なのか? いえ、わたしが苦手なのは人から詮索をされることです わたしは小学校にほとんど通っていないと言いましたよね? それは、人の身じゃないことを誰かに知られたくなかったからなんです 今は、その頃よりはこの身を受け入れていますから、ヒバリ校にも普通に通っていますけど…… それでもやっぱり、自分の正体を詮索されたくなくて、くわばらくわばらが口癖になってしまったみたいです 人の注意を、雷に例えているわけですね こさめさんも、姫榊と同じで強いんだな ……そんなふうに言われるとは思いもよりませんでした 冷静に話しているからさ 強がっているだけですよ そんなところも、姫榊とそっくりだ それは、わたしにとって最高の誉め言葉ですね 実際、誉めてるからな ……エッチなのはいけませんよ? べつに口説いてるわけじゃないから!? いつまで経ってもこさめさんには敵いそうもない。 小河坂さんは、展望台の事故をどこまで把握していますか? そんなことを持ち出す。 ……まだ、詳しくは知らないな だから、こさめさんが命を落としたって言うなら、どうして俺の目の前にいるのかも、わからない それでは、お話しいたします こさめさんは居住まいを正す。 あなたには、知る権利がありますから 母ももう、あなたには隠さずともよいと考えているでしょうから 姉さんを託すという意味合いで、すべてをお話ししようと思います それは、今から七年前の初夏のこと わたしは、御神体である雲雀ヶ崎隕石を星天宮から持ち出して、展望台を目指しました それは姉さんを困らせたいという目的があったからです 夏祭りが近く、御神体の前で神楽の練習に打ち込んでいた姉さんが、わたしにぜんぜん構ってくれなかったから わたしは甘えん坊な子供でした。夏休みに入れば毎日のように姉さんにくっついているのが常でした 夏祭りに海水浴に肝試し。わたしは姉さんと遊ぶのを楽しみにしていました なのにその年からは、母に言われ、姉さんは巫女神楽の練習をすることになりました 夏祭りに舞姫として神楽を舞うのはまだ何年か先でも、早くから練習は必要ということで…… そのため夏休みはわたしと遊べないと言われてしまったんです その〈前月〉《ぜんげつ》の七月からも、わたしと遊ぶ時間がほとんどなくなってしまったんです わたしがいくら誘っても、生真面目な姉さんは一日たりとも練習を休もうとはしません わたしに構ってくれません それどころか、神楽がうまく舞えないときはわたしと遊ぶ約束を破ってまで練習に励むようになりました わたしは寂しさに泣いて、それでも姉さんは困った顔をするだけで、練習を続けようとして…… わたしはついに、姉さんが見ている前で御神体を盗み出し、家を飛び出してしまったんです もう陽が暮れかけた時間でした 神社の裏手に伸びる林道を走って、ときおり後ろを振り返って姉さんが怒りながら追いかけているのを見て、わたしはうれしくなってまた走って…… 展望台に着いたところで追いつかれそうになって、わたしは御神体を投げ捨てて逃げるように木に登ったんです 姉さんは、危ないから降りてこいと、必死に下から呼びかけていました わたしは得意になって、ますます上に登りました 途中で疲れたので、頑丈そうな枝に腰を下ろして、姉さんを見下ろしました 姉さんがとても小さく見えました 怖かったですけど、姉さんのわたしを呼ぶ声がまだ聞こえていたので、安心したのかもしれません わたしは、眼下に広がる景色を眺めました 夕焼けの赤に沈む雲雀ヶ崎の街並みは、恐ろしいくらい鮮烈で、魅入るほどに綺麗でした 顔を上げると、夕闇と闇夜──赤と黒の境目がくっきりと見えました そして、そのとき見つけたんです その境目を、裂くように横切る星 夕焼けの赤に負けず光り輝く一番星 流れ星でした 流れ星がめずらしくない雲雀ヶ崎でも、あんなに大きなものは初めてでした その流れ星は長い時間、空を流れていました わたしは下にいる姉さんに教えようとしました。流れ星が見える、あそこに見えるって 空を指差しながら、下を覗き込んで…… その体勢が悪かったんでしょうね わたしはバランスをくずし、枝をつかんでいたもう片方の手をすべらせて、落ちてしまったんです そこから先の記憶は、少し飛んでしまいます 気がついたとき、わたしは姉さんの前に立っていました 姉さんはわたしが持ち出した雲雀ヶ崎隕石を抱いて、眠っていました 顔にはたくさんの涙の跡……。衣服や手には、血の名残がありました わたしはわけもわからず、そんな姉さんをただぼんやりと見下ろしていました そしてわたしたちを探しに来た母に見つかり、こっぴどく叱られながら家に連れ帰されて…… 数日後、わたしは自分の身体の変化に気づきました わたしは、食事を取らなくても空腹にならない体質になっていました わたしは、太陽の光に当たっても日焼けをしない体質になっていました この身に血は通っていても、およそ人間とは思えない体質がほかにもたくさん見つかりました わたしは両親に相談し、ちょうどこの頃から悪夢にうなされていた姉さんも同じように相談していて…… 父の病院で、ふたりで内密に検査を受け、わたしがすでに展望台で死んでいたことがわかりました この結果を、父は〈隠蔽〉《いんぺい》したのだと思います でなければ、今ごろわたしは医療機関に身体の隅々までいじられていたかもしれません エッチなこともされていたかもしれませんね ………… 笑えませんか? 笑えないな しょんぼりですね もし医療機関やら研究機関やらがこさめさんになにかしようとしても、絶対に手出しさせない わたしを守ってくれるんですか? ああ その言葉、かけるべき相手を間違えていませんか? 間違えてない ……雪菜先輩も、わたしを守ると言ってくださいました だから、小河坂さんは、姉さんをよろしくお願いします 雪菜先輩にも言われたことがある。 俺の力では、ひとりを守るだけで精一杯だろうと。 わたしがすでに死んでいる……。そう聞かされたとき、すぐには信じられませんでした ですが、現実にわたしの身体はほかと異なっていましたから、信じるしかなかったんです わたしは絶望し、泣き明かすようになりました 両親はずっと謝っていました。父も母も悪くない、悪いのはわたしなのに、ずっと謝っていました わたしは誰の顔も見たくなくなって、なにより自分の身体を人に知られたくなくて、学校に通えなくなりました そんなふうに、めそめそと部屋に引きこもっている間…… 姉さんが、いつもわたしを慰めてくれたんです 姉さんはわたしがなぜ登校拒否をするのか知らなかったようです。いえ、忘れたといったほうが正しいでしょう 姉さんはわたしの前で決して事故のことに触れようとしませんでした 最初はわたしに気を遣っていたためでしたが、いつからか本当に忘れたような素振りを見せ始めました だからかもしれません 両親はわたしとどのように接するべきか迷っていたのに、姉さんだけは分け隔てなく接してくれた…… 普段となにも変わらず、わたしのそばにいてくれたんです わたしはまた、姉さんに甘えられるようになりました 昔以上に甘えるようになりました 姉さんのぬくもりを感じたい 姉さんの吐息を感じたい 姉さんの存在を感じたい 姉さんを感じている自分を感じたい 姉さんに触れたら、ほら こんなにも感じられる 生きてるって感じられる わたしは、生きてるんだって…… ……こさめさん 思い余って、言葉がついて出る。 もう、どうしようもできないのか? はい こさめさんはこれまで普通に俺たちと過ごしていた。なのに、別れなきゃならないのか? はい。わたしは、間違った存在ですから そんなことは誰も思っていない 思っていますよ 思っているやつがいたら俺が容赦しない それでは、お願いします このわたしを、お願いします ………… 小河坂さんは、わたしをどう容赦しませんか? ………… わたしを、襲いますか? わたしと……エッチなこと、しますか? ……したら、薙刀でばっさりだろ 姉さんがすると思いますよ ……本当に、どうしようもできないのか? 雪菜先輩は、お仕事を降りてしまいましたけど わたしは今夜、メアさんに頼むつもりです わたしを送り還して欲しいと 悪夢そのものであるわたしを、刈って欲しいと メアさんは、わたしに少なからず恨みを抱いていると思いますから…… きっと、ひと思いに刈ってくれると思うんです 俺は姫榊の部屋にも寄ってみた。 ためらいながらノックをし、答えがなかったため引き返そうかと迷ったとき。 誰…… かすかな声が扉越しに届いた。 俺だ、姫榊 小河坂くん…… 顔が見たい。入っていいか? ごめんなさい…… 涙で枯れた声。 姫榊は眠っていない。きっと一睡もしていない。 少しでいいの…… 少しでいいから、整理させて…… 心の準備をさせて…… 俺は、言葉を返せない。 こさめさんと別れる準備か。 それとも。 姫榊、ひとつだけ 今夜、こさめさんが展望台に向かう ………… ……俺は、姫榊を信じるよ うん…… それでこそ、わたしの彼氏よ…… 俺は、姫榊を信じている。 姫榊は、強い。 強がりの奥に、本物の強さも持っている。 だから、この先にどんな結果が待っていようとも。 俺たちはそれを受け入れることができる。 それだけじゃない。 俺たちは、俺たちが望む結果に変えることができる。 まぶたを開けると視界は赤い。 部屋に差し込んでいるのは夕焼けの赤。 こももは気だるい身を起こしてそれを直視する。 目が痛い。 涙で腫れた目が痛い。 泣き疲れて霞んだ瞳の奥で、今ではもう鮮烈によみがえった記憶をその赤に見る。 幼い日のわたしが小さな背丈と不釣り合いな薙刀を持ち、危なっかしく舞っている。 本人は必死なのだろうけど傍から見たらケガをしないかと冷や汗をかく光景だ。 遠くで見守るこさめも冷や冷やしている。 練習用の模造刀もあるのだが、わたしは母に内緒で真剣を使うことが多かった。 わたしはうまく舞えていなかった。 子供心に悔しいのか、同じ所作でつまずいてはまた最初からを苛立ちながら繰り返している。 そんなわたしを遠巻きに見ていたこさめは、なんとかしてあげたいと思ったのかもしれない。 自分も一緒に練習したいと言い出した。 だけどもわたしはうまくいかないのが悔しいから、冷たい態度しか取れない。 近寄らないで、あなたには関係ない、神楽を舞うのはあなたじゃなくてわたしなんだから。 だから、あなたと遊んでる暇はないの。 こさめではなくわたしが将来の舞姫に選ばれたのは、長女という理由に加え、星天宮の血筋による霊能力が優れているらしいという事情があった。 そんな力なんて信じてはいなかったけれど、もしかしたら奢りみたいなものもあったのかもしれない。 わたしはこさめの気持ちを無下にした。 心配するこさめの優しさを足蹴にした。 こさめは寂しそうにして、そしてある日、社殿に安置されていた御神体を練習中に持ち出した。 こさめは、わたしに練習をやめて欲しかったんだろう。 御神体がなければ、わたしが練習する意味もないと思ったのかもしれない。 わたしはあっけに取られ、ひとり社殿に残されて。 静かになった社殿で練習を続けようとして。 自分を悔いた。 御神体なんかじゃない、こさめがいないことのほうがよっぽど問題だったことに気づいた。 思い知ったのだ。 こさめがこれまでわたしを見守っていてくれたから。 わたしは、辛い練習を続けられていたのだと。 こさめっ、危ないから降りてきてよ! 危なくないよ、わたしお姉ちゃんと同じで運動神経いいんだから いいから降りてきてったら! もう暗くなってきたし、早く帰るわよ! わたし、帰らないから こ、こさめ、怒ってるの? ………… 悪かったから! 明日から一緒に遊んであげるから! ……え、なに? よく聞こえないよ? こさめはもうあんな上まで登っている。 わたしの声もあまり届かないくらい。 視線はわたしに向いておらず、遠くの街並みに注がれているようだった。 わたしはこさめを呼ぶのを諦めて、もう自分も木に登ってこさめを引きずり下ろすしかないと考えて。 幹に手をかけたとき。 一瞬、空が光った気がした。 まぶしくて手をかざす。 それから、おそるおそる瞳を向ける。 流れ星。 あんな大きな流れ星は初めてだった。 長く長く流れていた。 消えてしまう前にこさめに教えようと思い、わたしは見上げた。 そこにこさめはいなかった。 ほとんど同時に黒い影が視界の隅に引っかかり、反射的に手を伸ばした。 その指の先を、こさめが落ちていった。 どさり、と音がした。 突如襲った喪失感。 半身をもがれたような絶望感。 視界が回る。 風景が単色化する。 立っているのが空か地面かもわからなくなる。 そんな中、緑と黒が覆う場所で、こさめは鮮やかな赤に染まっている。 夕焼けよりも鮮烈な赤に彩られている。 だからその赤は夕焼けだけではなくこさめからも流れているのだと知る。 冷たくなった。 この現実に凍えそうになった。 この光景を見下ろしている自分もまたこさめの身体と共に冷たくなっていった。 寒い。 寒くて寒くて凍えそう。 そのうちにその感覚すらも薄らいで。 無に堕ちる。 よって知る。 それが死ということ。 決定的な死ということ。 決定的な死でさえも、自分の力をもってすれば覆せるということ。 こさめの身体から流れる血が捨て置かれていた隕石を底から染め上げていた。 魂のない器から漏れ出す朱が生命の源を濡らしていた。 いつか母から教わった降霊術。 うろ覚えの星霊の儀。 星砂を集めている余裕なんかない。 代わりにここには隕石がある。 だから、きっと。 海から誕生した尊い命は、海よりも広い宇宙を源とするのだから。 儀式を終えるともうひとりのこさめが目の前に立っていた。 薄らぐ意識の中でそれを認識したあとに、横たわるこさめは星影となって霧散した。 わたしは星天宮が祀る雲雀ヶ崎隕石を依代に、こさめを降霊することに成功した。 だけどそのときのわたしは意識が朦朧としていたせいか、事故も儀式も現実の出来事とは思えなかった。 あれは悪い夢だった。 悪夢だった。 だってこさめはわたしの腕の中にいる。 こんなにもぬくもりを感じられる。 だからこさめは生きている。 死んでなんか、ない。 そう、いつまでも思い込んでいたかった。 これを境に毎夜見るようになった悪夢は、真っ赤な景色の中を落ちていく夢だった。 この悪夢を両親に相談し、病院でこさめと一緒に検査を受けたあと、父と母から告げられた。 こさめはもう死んだのだと聞かされた。 今のこさめは、幽霊のような存在なのだと。 このままにしてはおけない。 いつか、在るべき場所に送り還さないといけない。 わたしは反対した。 幽霊だっていいじゃない。 わたしはこさめと離れたくない。 両親は困っていた。 困るだけでなにも答えてくれなかった。 それからもわたしは悪夢に悩まされた。 こさめの死を何度も夢に見た。 こさめは幽霊じゃないと思い込んでも、夢の中でこさめの死を突きつけられた。 そのたびに、こさめを死に追いやった流れ星を呪った。 流れ星に目を奪われていなかったら、わたしはこさめを受け止められたはずだから。 下敷きになっていい。クッション代わりになれればいい。 こさめの代わりに死んでもよかった。 展望台で、夜空一面の星に向かって石を投げる。 こさめを返せと石を投げる。 何度も何度も投げつける。 手を伸ばしても届かない忌々しい星たちに向かって石を投げ続ける。 そのときだったのだろう。 メアさんと出会ったのは。 悪夢を刈られた影響が残っているのか、メアさんと出会った当時のことはまだ思い出せていない。 ただその夜から、わたしは展望台で起こった事故の記憶を失った。 残ったのは、星が嫌いという感情だけ。 展望台が苦手という事実だけ。 事故の記憶を失ってからの自分は、その状態を維持し続けたかったのかもしれない。 無意識にそう願っていたのだろう。 こさめの死と向き合いたくない。 こさめは生きていると信じていたい。 だから展望台に立ち入ることができなかった。 そうすることで、せっかく忘れた記憶が呼び起こされるかもしれない。 それを恐れていたから、展望台に入ろうとすると身体が拒絶した。 記憶にはなくても、星に向かって石を投げつけた身体は覚えていたから、頭でわからなくても拒絶できた。 ………… こももはベッドから足を出し、地に着ける。 窓から夕陽の光が差している。 嫌いだった夕焼け。 この赤からも、自分はこれまで逃げてきた。 だけど、もう思い出したからね…… 夏休みに展望台に入ったことで、忘れていた記憶が喚起され、幼い頃に見ていた悪夢というかたちで発現した。 こももはパジャマを脱ぎ、支度を始める。 逃げるわけには、いかないのよ…… 下着姿になる。 汗っぽかったので、この際下着も脱ぐ。 全裸になって、着替える前にそこに触れる。 その肌に触れる。 ここにまだ、残っている。 あの人がいる。 待たせるわけにも、いかないのよ…… こももは、赤の衣装を手に取った。 来たな、姫榊 赤の衣装をまとった姫榊が、境内を歩いてくる。 小河坂くん…… どうした、驚いた顔して まさか……ずっと、そこにいたの? ああ お昼から……? そうだな ずっと……待っててくれたの? まあな 家に帰ったと思ってたのに…… ここのほうが、姫榊に近い ………… 言ったろ。姫榊を信じてるって ……うん こさめさんは、もう展望台に向かったよ 引き留めたかったんだけどな。できなかった 悪い ……ううん わたしのほうこそ、遅くなってごめん いや、まだ間に合うさ 陽はまだ沈んだばかり。 こさめさんが境内の裏の林道から展望台に向かってからも、それほど時間は経っていない。 あのね、小河坂くん…… わたしは、こさめが好き…… 今さらなに言ってる だけどね、同じくらい嫌い…… 姫榊はきゅっと唇を噛む。 わたしに隠してきて…… 悩みを隠してきて ずっとひとりで悩んでいて わたしが忘れていたからって、相談もしないで 大嫌い だけど、好き…… 大好き こさめがいなくなったら、この好きも嫌いも、伝えられなくなるのよね…… だから、と姫榊は歩き出す。 急ぐか ええ メアのことだから、問答無用でやってしまいそうだしな ……行ったみたいね そのようです 今夜、決着はつくのかしらね ここまで長くかかったのはひとえにあなたが元凶です きっぱり言うわね 疑問だったのです。あなたはなぜ姫榊こももに私たちの生業を伏せていたのか 姫榊こももが持つ霊能力を教えなかったのか 忘れたままにしておくのか おかげで、ここまで長くかかった? はい こももは〈星霊〉《せいれい》の儀をとんでもないかたちで成功させた力の持ち主よ。おっかなくて教えられるわけないでしょうが 理由はそれだけですか 逆に聞くけど、こももがなぜ忘れたのか、あなたは予想がつく? こさめの死による心理的なショックか、あるいは…… 誰かが記憶を送り還したか 我らの故郷である星に還したわけですね だとすると、当時の姫榊こももにとっての悪夢は、展望台の事故ではなく星天宮の生業ということになりますが ええ。こさめを降霊したという記憶──〈星霊〉《せいれい》の儀でしょうね だからこももは、今も〈星霊〉《せいれい》の儀の方法を忘れたままなんでしょうね そうなると、事故の記憶のほうは心理的ショックで忘れたと考えられる こももの心は、こさめの死を受け入れる余裕がなかったのよ。旦那の受け売りだけどね だから、待ちたかった こももが受け入れられるようになるまで待ちたかった それまでは、霊能力や星天宮の生業なんかでこももを変に刺激したくなかったのよ だから私とこさめに口止めしていたわけですか そうよ 姫榊こももがこさめの死を受け入れた、その結果が、今夜わかるわけですか たぶんね 止めなくてよかったのですか? こももとこさめ、どっちを? 万夜花さんがこさめを送り還したいと思っているのなら、前者ですね 私だって明確な答えを持ってるわけじゃないわ それに、娘同士が真剣に向きあっているところに、親が口出すわけにもいかないでしょう 卑怯な大人の言い分ですね あなただってなにもしてないじゃない 私は信じているのですよ 私だってそうよ 卑怯な大人ですね ……あなた、私に恨みでもあるの 今さらですね まあ私たちが介入しなくても、仲裁役はほかにいるじゃない 彼ですか そう。小河坂くん 彼も見ていて危なっかしいところがありますがね 若者はそれくらいでちょうどいいんじゃない すっかり枯れた大人の言い分ですね あなたも若者のくせに枯れすぎだわ 分別をわきまえていると言って欲しいですね その分別をわきまえたあなたは、すべてが終わってから総本社に戻るの? はい。処分を請うつもりです やめておきなさい なぜですか 私が困るから なんですかそれは 不正がバレるじゃない ……なんですか不正とは これまでいろいろ誤魔化して、あなたを雲雀ヶ崎に引き留めてたってのに たった今あなたは私の敵となりました 頭固いわねえ あなたが柔らかすぎるんです じゃああなたが納得するかたちで引き留めようかしら もはやどんなかたちでも納得できないと思いますが あなた、ヒバリ校を卒業していきなさい ………… あなたは天クルの部員なんでしょう 卒業まで、仲間と一緒に天体観測を楽しみなさい こさめの友達になれたあなたなら、できるはずよ ………… これは、あなたの上司としての命令よ ……その上司の威厳は地に落ちていますがね だったら言い換えるわ これは、こさめの母からのお願いよ ……そう言われては、断れませんね あなたは、信じていると言ったものね 結果はなにもひとつじゃない…… こももに、悪夢を克服する強さがあるのなら もうひとつの結末が生まれると思うのよ メアさん、いらっしゃいませんか? 聞こえていたら、出てきていただけませんか? 小河坂さんと一緒じゃないと、ダメですか? お願いします。わたしの前に姿を見せていただけませんか? ……もこもこ? メアさん……。ありがとうございます あなた、もこもこよね ……誰のことでしょう 姫榊もこもこだと思ったから、出てきたんだけど もしかして、姉さんのことでしょうか わたしは妹のこさめですよ ………… ……懲りずにわたしを襲いに来たの いえ、逆ですよ 今夜は、メアさんがわたしを襲うんです ………… 遅くなりましたけど。その節は、申し訳ございませんでした ………… お詫びに、そのカマでわたしをたたきのめしてください わたしを、送り還してください ………… ……あなた、人じゃないのね はい だけどわたしとも違うみたい わたしは〈星神〉《せいしん》でも〈星霊〉《せいれい》でもありませんから 姉さんが行った〈星霊〉《せいれい》の儀は、過去に例を見ない方法だったそうですから…… 生まれたわたしも、星天宮にとって過去に例を見ない存在だそうですから 人と神の間にたゆたう、半端者なんですよ ……よくわからないけど だけど、あなたがわたしを襲った理由、わかった気がするわ 筋違いかもしれませんが、ありがとうございます わたしはあなたに同情しない はい、それで正しいと思います 怖くないの? ありませんよ わたし、あなたが嫌い はい そんなふうに強がってばかりのあなたが嫌い ………… あなたの姉のほうがまだマシだったわ 自分の弱さを諦めず、もがいている分だけ ………… それじゃあ、バカバカなあなたに免じて、考え直す間もなくやってあげる ……はい、お願いします そんなメアさんだから、わたしは大好きですよ ……その口、すぐに塞いであげるわ 振り上げたメアのカマが、夜空の星明かりを反射する。 こさめさんは、その星々のどれに還ろうと言うのだろう。 別離の距離は途方もなく。 雲雀ヶ崎から都会へと引っ越すよりも、遥か遠い。 メア! メアはびくっとして、カマを止めた。 よ、洋くん…… いい子だから、ストップだ こ、子供扱いしないでっ ………… ……姉さん 姫榊が歩み寄っていく。 メアとこさめさん、ふたりの間に割り込んだ。 こさめ…… あなたひとりが、怖い思いすることないじゃない だから、メアさん やるなら、わたしを刈って わたしにカマを振るって、悪夢を刈って それでも、こさめは送り還されるんでしょう? ね、姉さん…… あなたひとりが我慢することないんだから あなたとわたしは一心同体 喜びも悲しみも、楽しいことも苦しいことも 笑顔も涙も、すべてを分かちあう それが、わたしとあなたの関係 姫榊こももと姫榊こさめ 姉妹よりも、恋人よりも強固な絆 ……そんなことを言うと、小河坂さんが嫉妬しますよ 小河坂くんならわかってくれるわ 俺は寛大だからな ヘタレだからね ……別れようかな 小河坂さん 何度でも言います。姉さんを、よろしくお願いします ああ、約束する 姉さん わかってる。小河坂くんと仲良くしなさいって言いたいんでしょ はい 約束してくれるなら、わたしが思い残すことはありません ………… 姉さん 約束、するわ ありがとう、姉さん ありがとう…… こさめさんの涙。 それは、いくら泣いても決して見せようとしなかった、こさめさんの涙。 わたし、辛かった…… とても、苦しかった…… ずっと、怖かった…… 姉さんと、離れたくない…… 姉さんと、ずっと一緒にいたい…… だけど、できない…… 自信がない…… 姉さんと一緒にいられる自信がない…… 一緒にいていいって思えない…… だから……辛くて苦しかった…… わたし……いついなくなるかわからないからあ…… わたし……いつまで姉さんの妹でいられるかわからないからあ…… ……うん 怖かったの……ずっと…… ……うん 怖かったよう…… ……うん 怖かったよう……お姉ちゃん……! そして、メアのカマが、姫榊の胸を貫いた。 僕らの住むこの地球は、隕石の衝突によって成長していったという説がある 隕石による衝突エネルギーがマグマの海を創り、炭素化合物が蒸発することで大気を形成していった それから数億年が過ぎ、マグマが冷えて固まると、大気中の水蒸気が雨となって降り注ぎ、今度は原始の海を創る そしてその海にはね、生体関連物質であるアミノ酸がたくさん含まれていたんだ 隕石が宇宙を旅して運んできた、生命の源さ 隕石飛来説ですよね、それ 私たちは隕石によって生まれたんですか? ひとつの説としてね。現代科学では、生命誕生についてはまだ充分な証拠をそろえられていないんだ だけど、太古に落ちた流れ星が僕たちを生んだというのは、ロマンチックだと思わないかい? 思います! マグマの海から生まれた生命、いわゆるスライムですか スライムから離れようよ蒼さん~! あくまで邪悪なほうをプッシュしていきたいと思います 三連休の最終日。 外は陽が落ちている。 俺たち天クルは昼間に隕石の写真を撮らせてもらい、これから境内で天体観測の予定だった。 その太古に落ちた流れ星っていうのは、めちゃくちゃでかかったんだろうな だと思うよ。この雲雀ヶ崎隕石よりもずっと大きかったんじゃないかな もし隕石が落ちなかったら、僕たちは生まれずに、天クルで星を見上げることもできなかったわけだね じゃあ、この雲雀ヶ崎隕石が落ちたことで生まれた生命だって、あるのかもしれませんね そう考えるともっとロマンチックだね! ……その命が私たちの身近にいたら、私たちと一緒に星を見上げているかもしれないんですね 蒼さんにしてはめずらしくロマンチックだな 私はスライムが大好きですから。かわいいので あくまでスライムなんだね…… 邪悪でかわいいスライムをプッシュしていきたいと思います 蒼さん、邪悪なのが好きなわりに肝試しが苦手だったのはそういう理由か ……かわいい幽霊なら好きになれると思います そろそろ境内に出ようか。万夜花さんたちが待ってる そうですね ひさしぶりの天体観測ということでご機嫌だった万夜花さんが、望遠鏡の準備を進めてくれているのだ。 ううっ……外に出るとやっぱり寒いね もっと厚着してくればよかったかな ……昼間はあたたかかったのに 若者がなにだらしないこと言ってるの。夜はまだまだこれからだってのに ………… 万夜花さんの隣で、居心地悪そうに立っている人物がひとり。 あ、雪菜先輩。もしかして参加してくれるんですか? ……まあ、な 先輩が天クルに顔出すの、初めて見ますね ……たまにはな 幽霊部員は卒業ですか? うぬぼれるな ……どんな答えですか 照れているのさ、雪菜クンは おまえは誰だ ……どうせ僕は影が薄い部長さ いじけた岡泉先輩が知恵の輪を始める。 ……あの人が幽霊部員として名高い雪菜先輩ですか キミは新入部員だったか ……先輩は、私の目指す立ち位置です キミとは仲良くできそうな気がする 私もです よくわからないが、親近感というやつだろうか。 ……で、いつまで無駄話してるのよ そして、遠くから声がかかった。 望遠鏡の準備、もう終わってるんだけど 姫榊が文句たらたらで望遠鏡の前に立っている。 天体観測するならするで、早くしなさいよね 風冷たいから、さっさと終わらせて家戻りたいんだから 寒いのか? 寒いわよ あたためてやろうか? こっ、ここでやったら蹴り倒すっ こさめさんに迫られても蹴らないくせにな ……焼きもち? 違う 寒いのは、嫌いよ 冬も、大嫌い 雲雀ヶ崎の冬は、特に寒いから だから…… きっと、わたし、冬の天体観測なんて耐えられない 誰かのぬくもりがないと耐えられない 小河坂くんがいないと耐えられないし…… こさめがいなくても、耐えられないのよ ……小河坂さん、姉さん こさめさんも、俺たちのもとにやって来る。 なぜ、わたしは送り還されていないのか…… あのとき、姉さんの悪夢は、たしかに刈られたはずなのに…… 答えはひとつしかないじゃない あなたは、わたしにとって、もう悪夢ではなくなっていたのよ わたしは、あなたをあなたとして受け入れることができたのよ 姫榊にとって、こさめさんは悪夢ではなくなった。 たとえこさめさんが何者だったとしても。 姫榊こさめは、姫榊こももの妹だから。 それが、きっとこさめさんが切望していたこと。 ここにいてもいいという証。 一緒にいてもいいという証。 姉さん…… 小河坂さん わたしは、いつまでこうしていられるか、わかりません いついなくなってもおかしくない…… なのに…… そうだな でも、それは人間だったら誰でも同じことじゃないか 俺たちの命は、夜空の星たちに比べたらずっとちっぽけなんだから 雲雀ヶ崎の星空。 長い時を経て変遷を繰り返す。 生まれる星もあれば消えゆく星もある。 だけど俺たちの一生に比べたら、よほど永遠に近い存在だ。 だから、わたしたちとあなたは、なにも変わらないのよ ………… ……はい 夏が終われば秋が来る。 秋が終われば冬が来る。 この秋の星空は、冬の星空に移り変わる。 姫榊、知ってるか? こさめさん、知ってるか? ふたご座は、冬に最も輝く星座なんだ 冬が到来し、いくら雲雀ヶ崎の寒さが厳しくても。 俺たちはこうしてあたため合えるから。 雲雀ヶ崎で見るふたご座流星群は、きっと最高だ 冬が、楽しみですね そうね みんなで流れ星を見上げる日が、とても楽しみね cut_e25_10 cut_e25_10 姫榊こさめは姿見の前に立っている。 朝起きて、自室でパジャマから私服や制服に着替える際には必ず行う日課だった。 今日も……変わりませんね…… 穢れなき白い肌。水のように透き通った身体。 氷の彫刻のようだとこさめは思う。 今日も……綺麗すぎるくらい、綺麗ですね…… 氷の彫刻。比喩ではなく、実際に作られているのだ。 人よりも精緻に。この世ならざる美しさで。 神社の社殿に安置された雲雀ヶ崎隕石──そこに宿ったまつろわぬ神。 〈星神〉《ほしがみ》様…… 鎮守の神として、星天宮は祀っている。 彼なのか彼女なのかもわからないその存在から光を分け与えられ、こさめはこうしてここにいる。 一度は死んだ身でも、生を許されている。 割れた鏡が複数の像を映すように、理を歪めて魂の残像を現世に浮かべている。 それを星神様にお願いしたのは、双子の姉である姫榊こももだった。 姉さんには……感謝しています…… こさめは幾度も確認する。 美しく完成されたこの身を確認する。 人に、詮索されるようなところはないか。 人じゃないこの身を知られるようなところはないか。 おかしいところはないか。 普通と違うところはないか。 人であるみんなと一緒か……。 こさめは、大好きな姉に感謝しながら、大嫌いな自分の裸を見つめている。 二学期は始まっている。天クルは部になった。 姉のこももも正式な部員となった。 今は、来月の学園祭──ヒバリ祭に向けて準備に取り組みつつ、週一回の天体観測にも熱を入れている。 部活動は盛んになった。一学期よりももっと楽しくなる学校生活。 だから、これまで以上に気をつけないと。 自分の身体のことを隠さないと。 みんなと同じ生活を送らないと。 お腹が空かなくてもお弁当を食べないと。 トイレにいく必要がなくてもいかないと。 身体は汚れなくてもシャワーを浴びないと。 眠くなくても、眠らないと……。 そして、毎朝の務めをこうして欠かさない。 食事もトイレもシャワーも睡眠も、必要はなくてもできないわけではないので苦にはならない。 なにが苦なのかといえば、みんなを騙していることだ。 友達にウソをついていることだ。 間違いを犯していることなのだ。 間違いは……正さなければならないんです だからこさめは、いつかこの身を還すことを決めている。 それはそう遠くない未来だと、姉が悪夢を見始めたことでこさめはすでに知っていた。 午後の暑い時間になって神社を訪れる。 九月に入り、涼しくなったとはいえ今日のように陽射しが強いとすぐに気温は夏に戻る。 まぶしい太陽の下、こさめさんは巫女の格好で仕事に励んでいた。 お疲れさん。暑いのに大変だな ……小河坂さん こさめさんは掃いていた竹箒の手を休める。 落ち葉はまだ少ない境内だが、広さもあってひとりでの掃除は大変そうだ。 どうしたんですか。なにかご用ですか? 仕事、手伝いに来たんだ ……今日の当番は、姉さんではありませんよ 驚いたような呆れたような、そんな声。 姫榊、ケガがまだ治ってないからな はい。姉さん、手をケガしてもお手伝いをやめようとしなくて…… そのせいで悪化していつまで経っても治りませんから みたいだな この頃、調子も悪いみたいですから…… 本人は風邪だって言ってたな ……はい。たぶん、長引くと思います 含んだような物言い。 姫榊のことだから、こじらせそうだよな 姉さんは何事も無理をしがちですから。わたしが強く言って休ませているんです それも姫榊から聞いてるよ わたしからも何度かお話ししましたよね? そうだな なのに、お仕事を手伝ってくれるんですか? そのつもりだ 薙刀でばっさり斬ってもよろしいですか? なんでそうなるんだよ!? ……わたしの口から言わせるんですか? そこで照れる理由が不明なんだけどっ 姉さんだけでは飽きたらず、わたしまで手籠めにしようだなんて…… 姫榊を手籠めになんかしようとしてないし全面的にこさめさんの勘違いだからっ 3Pですか? 勘違いに拍車がかかってるから!? 今日はなにかご用ですか、いけない狼さん 呼び名を変えてまた聞いてくる。 だから、手伝いに来たんだよ 今日は姉さんの当番ではありませんよ 知ってる なのになぜお手伝いなんですか? こさめさんを手伝いたいからだ ……エッチなのはいけませんよ? 飛躍しすぎだから!? 巫女装束のまま〈禊〉《みそ》ぎが必要ですか? 望んでないから!? スケスケ巫女の双子姉妹丼ですか? だから望んでないから!? ……穢らわしい 勝手に自己完結して人をおとしめないでくれるか!? 今日はなにかご用ですか、エッチな狼さん 呼び名が変わるばかりでまったく話が進まない。 ……こさめさんの仕事を手伝っちゃダメなのか? とってもダメです ……なんで 小河坂さんが、わたしに気を遣っているからです こさめさんはぴんと人差し指を立てる。 メアさんにひどいことをしたわたしが、気にしているんじゃないかって、必要以上に心配しているからですよ ……そんなことはない 違うんですか? 違うな ……わたしのこと、心配じゃないんですか? 瞳がうるうるした。 心配に決まってるだろ 真摯に言う。 ほら、やっぱりです すぐ笑顔になった。 お気遣い、ありがとうございます。だからこそお手伝いはいりません これ以上、小河坂さんに迷惑をかけると未練が残って成仏できそうにありませんから 成仏というのはこさめさん特有の比喩だろうか。 俺は迷惑だなんて思ってない。俺たち、友達だろ? 友達だからお気遣いは無用なんです こさめさんを手伝いたいから手伝う。気遣いとかそういうのは二の次だ それに俺、こさめさんを許すように努力するって言ったろ。これはその一環なんだよ ………… 俺は、こさめさんといつもどおりの関係でいたいんだ ……穢らわしい どんな解釈でそうなったんだよ!? エッチな関係を望まないならお手伝いを許可します べつに俺たちのいつもどおりはそういう関係じゃないだろ!? ……女の子として魅力がありませんか? こさめさんは俺にどうして欲しいんだよ!? お手伝いをしないでください それはできない 親切の押し売りですか? 俺は自分のためにこさめさんを手伝うんだ 詭弁ですね どうとでも まだわたしが断ったら? 最終手段に出る 無理やりエッチ…… 違うから!? どんな手を使うんでしょう お仕置きする 無理やりエッチなお仕置き…… いいかげんそこから離れようぜ!? ではどんなお仕置きでしょう 姫榊に頼んでお仕置きしてもらう ふたりでわたしを…… 3Pでも姉妹丼でもないから!? ……まだ言っていなかったのに、やっぱりそういうことを望んでいたんですね 流れ的にツッコんだだけだろ!? くわばらくわばら、ですね こさめさんはそう言ってオチをつける。 お話ししていると、いつまで経ってもお仕事が終わりませんね 俺、ホウキ取ってくるから わたしもお掃除を再開です ふたりでやればすぐ終わるさ はい 最後にはほほえんで受け入れてくれるこさめさんだった。 どうぞ、冷たい麦茶ですよ 仕事が終わってから家に上がらせてもらう。 いつもありがとうな いつも手伝っていただいてますから。毎日は大変じゃないですか? いや、もう慣れたからな 姉さんも呆れていましたよ。天クルは部になって取引は終わったのに、なんでまだ手伝うのかって 手伝いたいから手伝うって言ったろ こさめさんは困ったように頬に手を当てる。 当分はこさめさんが仕事してるのか? はい、姉さんのケガと体調がよくなるまで、当番はわたしです。ですから…… 明日もまた来るよ どうぞ、ぶぶ漬けですよ 帰れって意味かよ!? 冷たい麦茶のぶぶ漬けですよ ……いただきます おやつ代わりに食べた。 明日は平日ですし、時間的にお手伝いは大変だと思いますから 部活終わってからすぐ寄れば問題ない 天クルの活動はもともとそんなに長く部室に居残らない。ヒバリ祭の準備が本格的に始まるのももう少し先だ。 天体観測会の日以外は、雑談が主なのだ。 明日歩さんの喫茶店でバイトはいいんですか? 当分は休ませてもらうよ ぶぶ漬けのおかわりはいかがですか? 笑顔で勧められるとへこむんだけど!? 明日歩さんと姉さんを天秤にかけたら、小河坂さんはどちらにかたむきますか? なんだよその選択…… 明日歩さんを選んだらバイト、姉さんを選んだら病院の診察についていってあげてください ……選択肢がひとつ足りないぞ どんな選択肢でしょう? こさめさんの手伝いがない どうぞ、おかわりですよ ぶぶ漬けを薙刀に載せて突き出さないでくれるか!? 小河坂さんがわたしのそばにいるのは、見張りですか? わたしが、メアさんをまた襲わないようにと…… ……違う こさめさんが俺たちに気を遣って離れていかないように、見張りをするんだ ………… もう、気にしなくていいんだからな ……わたしは、なにも気にしていませんよ だったら手伝いさせてくれ なぜそうつながるんでしょう? 俺、境内の掃除が好きなんだ。掃除がしたくてたまらないんだ。そんな俺を友達だと思うなら手伝わせてくれ 俺を助けると思ってさ こさめさんはとても呆れていた。 こさめさんがなにも気にしていないなら、以前みたいに俺を友達だと思うなら、手伝わせてくれるはずだ ……小河坂さん、卑怯ですね そうかもな エッチですね それは違うだろ!? わたしはどんな格好で小河坂さんの前で掃除をすればいいんでしょう…… 普通に巫女の格好でいいだろ!? 下着をつけちゃダメなんですね…… 巫女装束と着物は違うだろ!? いえ、どちらも和装ですから同じですよ ……今までつけてなかったのか? だとしたら、どうしますか? ……どうしよう。 小河坂さんの脳内でいったいわたしはどんなことになっているんでしょう…… どうもなってないから!? ……エッチなのはいけませんよ? フォローで人をおとしめるのやめてくれるか!? ……わたしの裸に魅力はありませんか? そうやってもてあそばないでくれるか!? いちおう巫女装束には〈裾除〉《すそよ》けと呼ばれる下着があるんです。わたしと姉さんは横着をして、普通の下着のままですけど ……だとは思ったけど。 小河坂さんの心の舌打ちが聞こえました してないからっ 小河坂さん、手伝うのはよろしいですけど、今週までで結構ですよ ……来週からは、ヒバリ祭の準備が本格的に始まるからか? はい。天クルもいそがしくなると思いますから わかった。押しつけみたいになるのも嫌だからな 小河坂さんのそういうところが大好きですよ けど、落ち葉で大変なときは言ってくれ。手伝うから サツマイモを買ってきてもらうのもいいかもしれませんね そのときはみんなで焼き芋だ。 とりあえず、こさめさんの選択肢を選べてよかったよ 小河坂さん こさめさんは俺をじっと見る。 顔つきが真剣になっている。 覚えておいてください。わたしは本来、友達を作る資格がなかったんです そう考えていたんです それでも、姉さんがわたしを普通に扱ってくれたおかげで、学校に通えて天クルにも入部することができました わたしは、友達を作ってもいいと思うことができました ですけど…… 表情をふっとゆるめる。 ですけど、そこまでです それ以上の関係を得る資格は、わたしにはない…… わたしには、恋をする資格まではないんですよ いつか俺に告げた言葉を、こさめさんは繰り返した。 この場でもう一度口に出したのは、忠告の意味だろうか。 俺への牽制なのだろうか。 理由……聞いてもいいか? こさめさんはぴんと人差し指を立てて言うのだった。 詮索は、悪趣味ですよ やっほー、待ってたわ ……その軽いあいさつはやめてください、力が抜けます あなたに力が入りすぎている証拠ね 私の振る舞いはいかなるときも変わりません それじゃあ普段から力が入ってるのね、そのうち眉間のしわが消えなくなるわよ 心遣い感謝しますが、あなたもその不抜けた体たらくが癖にならないようお気をつけて 心配ご無用、私の振る舞いだっていかなるときも変わらないから ……だからこそ心配しているという意味なのですが それじゃあ、定例の報告をお願いしようかしらね ……わかりました まずは展望台の死神についてです。先日報告したとおり、姫榊こさめの同類かと思われます それに関しては、手を出さないんじゃなかったの? 姫榊こさめを送り還すことに支障をきたさないのであれば、その必要はないというだけです こさめに関係ないなら、あなたの業務外になるからね はい もしかして、実は関係あったの? 今のところありません じゃ、無視でいいんじゃないの これから総本社にも判断を仰ぐつもりです。それをあなたの耳にも入れようと思い、こうして…… ああ、総本社も無視でいいって ……そ、そうなのですか? ええ。私のほうから聞いておいたから ……本当ですか なんで疑うのよ 信用しろというほうが無理があります 姫榊こさめのほかにもまつろわぬ神が発見されたのですから、私に命令が下らないにしろ、討伐のためにほかの巫女が派遣されるのが必定でしょう こさめは、正確にはまつろわぬ神ではないんだけどね 〈星神〉《せいしん》から光を分け与えられている〈星霊〉《せいれい》であれば、神と称して差し支えないでしょう 降霊によって生まれる〈星霊〉《せいれい》は本来、私たちのような者ならまだしも、一般人の目には映りません 映ったとしても、星明かりのある夜に限定されます 伝承に残る、人間社会に溶け込んであれこれやってた星霊っていう事例も夜に限られているものね だというのにこさめは、周囲の人間となんら変わらぬ生活を送っている…… 人間が生きる上での食や睡眠を取らずとも、なんら変わらぬ生活を可能とするんです ……そうね。だから、神と呼んでもいいのでしょうね 少なくとも総本社はそう考えているでしょう で、展望台の死神だっけ? その子が本当にまつろわぬ神だとしたら、どこかに依代があるはずよね だけどそんなものは見つかっていない。星天宮の御神体は、こさめの依代だからね あなたが展望台の死神を送り還したとしても、依代を見つけて安置しなきゃ意味がないじゃないの じゃないと〈一時〉《いっとき》は鎮められたとして、何百年も経ったらまたのほほんと起きてくるわよ 永久的な封印など星天宮の力でも土台無理な話です。だからといって見逃すべきとも思えません 見逃すべきとは言っていない。だけど、今のところ害はないみたいだしね ……害があってからでは遅いのですがね なんにしろ、展望台の死神は私があずかるわ。あなたは自分の仕事だけに専念しなさい これは、上司から部下への命令よ ……承知しました じゃ、次の報告お願い はい。もうご存知だとは思いますが、姫榊こももが悪夢を見始めたようです そのようね。こももとこさめが話しているのを何度か聞いているわ 悪夢が再発したのは、姫榊こももが展望台に足を踏み入れたことによるかと思われます そうでしょうね ですから…… あなたは、こさめを送り還す許可が欲しいのね ………… どうかした? ……いえ こももはいずれすべてを思い出すでしょう。過去の悪夢を見るに、それはもう目の前に迫っている よってあなたに命じます。こさめを送り還しなさい こさめが自ら望んだように、眠らせてあげなさい こももは、その現実から目を背けずに、受け止めることができるでしょう こさめが還ることによって、すべての決着がつくでしょう ………… 文句がありそうね ……いえ あなたのその態度に感化されたってわけじゃないけど、ひとつだけ付け加えさせてもらうわ もし娘たちがほかの答えを見つけたなら、お願い こさめが還る──それだけが結果ではないとあの子たちが気づいたなら、お願い 星天宮の神主としてじゃない、あの子たちの母としてあなたにお願いするわ 娘たちを、見守ってあげて そばについて助けてあげて あなたになら、頼めると思うから こさめの友達になった、あなたになら ………… ……はい 今夜の私の用件も、それだったのですよ こさめは、一度は星に還ることを選択した…… 姉を想って選択した ですが、今やもうそれをよしとしない者も多くいる 過去よりもずっと多く…… こさめ自身が考えるよりずっと、こさめを想う仲間は、多くなっているのですから ねえみんな、あともうちょっとで十五夜じゃない? ヒバリ祭の出し物を決めているミーティングの最中、明日歩が言った。 集まっているのは、生徒会の仕事でいそがしい姫榊、幽霊部員の雪菜先輩、それとメアを除いた部員である。 ……言われてみると、もうすぐお月見です 九月と言ったら中秋の名月だからね まさかヒバリ祭の出し物を月見にするのか? そんなわけないよ。それに、ヒバリ祭は来月じゃない じゃなくて、次の天体観測のときに一緒にお月見やるのもいいかなって 活動のメインである天体観測は、毎週土曜日に行うと決めている。 次の土曜って、ちょうど九月十五日なんだよね。あたし手作りのお団子持っていくよ~ 十五夜っていうのは旧暦の八月十五日じゃなかったか? あれ、今のカレンダーに直すと九月十五日になるんだよね? 旧暦と新暦は一致するわけじゃないよ。だから毎年十五夜の日付は変わるんだ ……じゃあ今年の十五夜はいつなんでしょう 調べないとわからないけど、満月はちょうど週末じゃなかったかな あれ、満月の日が十五夜なんですよね? いや、十五夜だからと言って満月とは限らない。数日ずれる年もあるんだ ……なんかややこしいなあ、そんなんだと気づいたら十五夜終わってそう ………… こさめさんがさっきから会話に参加していない。 こさめさんの家は月見とかしないのか? ……あ、はい ワンテンポ遅れて反応する。 お月見をしたことはありませんね。うちの神社は月ではなくて星を祀っていますから もともと月信仰の神社は少ないと聞くし、一般の家庭でもお月見をするところは少ないだろうしね うちも満月を見上げながら盃で一杯なんて行事はしたことがない。 うちもお月見はしないけど、喫茶店で十五夜にちなんだ特別メニューは毎年出してるよ どんなやつなんだ? ヘテカの魔術だよ ……どんな料理なんだ? もちろん月見団子だよ 相変わらずわかりづらい。 満月の女神であるヘテカは、夜の支配者でもあるんだよ。とても賢くて魔術に長けていて、中世ではたくさんの魔女に礼拝されてたんだって 月見のイメージにあまりそぐわない気もする。 ……月の神話と言えば、アルテミスだと思いますけど アルテミスはね、三日月を象徴するんだ。満月の女神って言ったらヘテカになるの ちなみにアルテミスは突然死をもたらす女神としても有名なんだよ ……私のイメージと違うんですが 俺のイメージだと、アルテミスって言ったら弓だな 狩猟と純潔の女神って呼ばれるほうが多いからね だけど、そういった月の神々は死や闇も象徴しているんだよ。夜というのは、昔の人々にとっては恐怖の対象だったってことなんだろうね ………… こさめさんがまたぼんやりしている。 こさめさん、さっきからどうした? ……あ、はい またワンテンポ遅れる。 もしかして、そろそろ時間か? ……時間? 神社の仕事。今日も当番って言ってたじゃないか あ、いえ…… こさめちゃん、お仕事あるんだったらそろそろ解散にするよ。あたしも店のお手伝いあるし ……私も夕方からドラマの時間です お月見をするかどうかは、また後日決めようか それじゃみんな、お疲れさまでした お疲れさま、とまったり声をかけあった。 こさめさんはまだぼんやりしている感じだった。 今日も手伝っていただいて、ありがとうございました 境内を掃き終わる頃には陽がかたむいていた。 掃除の最中、こさめさんは会話もほとんどなく、心あらずの様子だった。 今日のこさめさんは変だな えっ…… 肩をびくっと揺らせた。 わたし……どこか、変ですか? 部活のときからぼーっとしてるからさ あ……そういうことですか 胸に手を当てて安堵している。 ……なんだと思ったんだ? いえ……わたしの身体が…… 身体? あのう……あまりまじまじ見ないでください…… 恥ずかしそうに身をよじる。 いや、悪い ……エッチな目で見ていますか? 違うからっ べつに、おかしいところはありませんよね? その場でくるんと回転した。 こさめさんの流れるような長髪がふわりと浮かんだあと、静かに降りていった。 いつもどおりのこさめさんだな よかったです ほほえむこさめさんの頬は夕陽で赤くなっている。 こさめさん、体重でも気にしてるのか? ……体重? 食べ過ぎて太ったのかと デリカシーに欠ける質問ですけど…… 太ってるどころか抜群のスタイルだから言ったんだ ……エッチな目で見ていますか? だから違うっ わたしは、食べても太らない体質ですから それはうらやましいな そうなんですか? 女の人は特にそう思うんじゃないか そう……かもしれませんね 太らないことに加え、日焼けしないと聞いている肌は新雪のようにまっさら、そしてスレンダーなわりに胸も大きい。 カンペキである。 ……エッチな目で見ていますか? 違うからそれやめてくれるかっ なにか考えていたようでしたから こさめさんって姫榊と同じで美人だし、プロポーションいいし、姫榊と違って性格もいいし、カンペキじゃないかってさ ……食べ頃だから食べちゃうんですか? そういう切り返しやめて欲しいんだけどっ 小河坂さんがひどいことばかり言うからですよ ……誉めてるつもりなんだけどな ほら、やっぱりひどいです なぜだ。 あまり誉められるとその気になりそうですから…… こさめさんは俺から視線を外す。 それは……とても残酷なことですから…… こさめさんの眼差しの先には、夕空に輝く一番星。 月も、うっすらとその影を映している。 こさめさん、月見あんまり乗り気じゃないのか? ……どうしてでしょう こさめさんがぼんやりしたのって、月見の話題になってからだからさ ………… こさめさんの眼差しが俺に戻る。 そうですね……。月は、人を狂わせると言いますから 月の光には魔力がある。月を眺めると気が狂う。だから英語のルナティックには狂人の意味があるんですよ 満月を見て狼に変身するという西洋の伝説は、特に有名だと思います…… 月は、東洋では竹取物語を始めとして神秘的に捉えているが、西洋では不吉なものとして忌避されている。 人によって月の光は善にも悪にもなる。 神話ばかりではありません。満月の日は殺人事件や交通事故が多いという統計だってあるそうです 月は、人をおかしくさせる…… 人だけじゃない、この星にある命、すべてに影響を与えてしまう だから…… こさめさんは途中で口をつぐんだ。 ……だから、こさめさんは月が嫌いなのか? こさめさんは寂しそうに笑う。 ……はい だって、月は人をおかしくさせて、変えてしまう…… 満月は、わたしを変えてしまう 小河坂さんだって、変わってしまうんです 一緒にお月見なんかしたら、小河坂さんがエッチな狼男さんに変身してしまうかもしれませんからね こさめさんはほほえんだまま、そんなふうに言う。 俺は言葉を失うしかないのだった。 姫榊こさめは今朝も姿見の前に立っている。 制服に着替えて居間に降りる前に、こうして自らの裸を確認する。 身なりを整えることの一環。 人前に立てるための心構え。 今日も……変わりありませんよね…… 白い肌、細い腕、くびれた腰、形の整った乳房、すらりと伸びた太もも。 小河坂さんが言っていましたね…… 彼が完璧だと言った、この容姿。 こさめはそうは感じない。 氷の彫刻めいたこの裸をどうしても好きになれない。 どんなに穢れがなく美しくても。 完成された姿なんていらなかった。 姫榊こさめという存在は人であって神じゃない、だから完璧なんていらなかった。 だけど自分はどうあがいても人じゃないと突きつけてくるのが夜空に浮かぶ月だった。 金色の満月だった。 誤魔化しうる体質だけではなく、一目見ただけで誰もが納得するかたちで突きつけられてしまうのだ。 だから……お月見は、だめなんです…… 十五夜が近い。 満月になったら外には出られない。昔からそうしてきた。 人前にも立たないようにしてきた。 姉はもちろん、自分の秘密を知っている両親や雪菜の前にだって立ちたくない。 友達にだって会えない。 小河坂さんにだって……。 知られたく……ないから…… 普段よりも長く姿見の前に立っていた。 大丈夫。わたしは、最後まで大丈夫。 最期の日まで、隠し通す。 この愛おしい日常を、壊すことはしたくない。 みんなの日常を、壊したくない……。 それがきっと、二度目の生を得た自分の、果たさなければならない最低限の義務なのだ。 昨日言ってた、お月見のことなんだけど 放課後となり、部活のミーティングが始まって間もなく、明日歩が進み出た。 天クルもせっかく部になったんだし、おめでとうパーティーを兼ねたらどうかなって思うんだけど パーティー…… 祝賀会というわけだね ヒバリ祭の準備に向けて気合いを入れるって意味でもいいかなって 夜の屋上でやるなら、騒がしくはできないけどね ……騒がしいのはあまり好きじゃないので、むしろそのほうが あたし、ススキと月見団子持っていくからね~ なら天体観測も星じゃなくて月で決まりかな ……私はいつもどおり適当に観測してます お酒は飲めないけど盃でお茶を一杯くらいいいよね~ あとで先生から屋上のカギを借りておくよ ……これでミーティングが終わりなら、帰ります 俺やこさめさんがなにか言う暇もなく月見は決行となっていた。 ……こさめさん、いいのか? こさめさんはにこっとほほえむ。 皆さんで集まるお月見、楽しみですね 月が嫌いと言ったこさめさんは、そう答えていた。 俺は明日歩に告げる。 明日歩、月見をやるのは天体観測のあとか? あ、うん。そうだね、そっちのほうがゆっくりお月見できると思うし じゃあさ、月見だけ自由参加にしてもらっていいか? ……洋ちゃん、もしかして都合悪かった? 月見やってる分いつもより帰りが遅くなるなら、詩乃さんが心配するかもしれない。だから、念のためな とはいえ、これまで詩乃さんに天クルの活動を止められたことはない。 ……私も過保護な親が反対する可能性がありますので、そのほうが助かります あまりハメを外さないよう気をつけるという意味でも、自由参加が妥当かな うん、じゃあそうしよっか。参加するかどうかは、当日までに教えてね 参加人数が決まったら、その分だけお団子作るから こさめさんは一連の流れを黙って眺めていた。 どこか、すまなそうな表情で。 小河坂さん 境内を掃き終わったところで、こさめさんは改まった。 今日の部活のことですけど…… じゃあホウキ片付けてくるから ……なぜ逃げようとするんですか 問い詰めるような雰囲気だったからな そうじゃありません。確認をしたかっただけです こさめさんはまっすぐに俺を見つめている。 お月見を自由参加にしたのは、わたしのせいですか? 違うよ わたしのせいで、すみません ……いや、だから違うって わたしだけが反対したら、盛り上がっていた皆さんに水を差すことになる。小河坂さんは天クルのために、間を取って自由参加を進言した だから、ありがとうございます こんなふうになりそうだったから、この話題を避けたかったというのに。 こさめさん、何度も言わせないでくれ。気を遣う必要なんかないんだ 気を遣ったのは小河坂さんだと思いますけど…… 月見が嫌ならはっきり言っていいんだ。みんな、そんなことで目くじらなんか立てないから ………… それに、もうひとつ間違ってる。俺は天クルのためにああ言ったんじゃない ……じゃあなんのためでしょう? こさめさんのためだ ……やっぱりわたしのせいなんですね ためって言ったろっ 同じではないでしょうか 違う。いい意味で言ってるんだ どういうことでしょう? 俺はこさめさんが嫌いじゃなくて好き…… えいっ ……なんでチョップ 気を遣っていただかなくて結構です。小河坂さんも、わたしに何度も言わせないでください 気を遣ったんじゃない。したいからしただけだ どういうことでしょう? 俺はこさめさんが好き…… えいっ ……またチョップなのか 冗談でも、そういう言葉は口にしないでくださいね 言霊か はい。間違って叶ってしまったら大変なことになってしまいます 資格がないから、と続くのだろう。 でも、友達として好きっていうのはいいんだろ その場合は、まぎらわしくならないようちゃんとそう言ってください こさめさん はい 好き…… えいっ ……またチョップ 友達、が抜けていますよ小河坂さん こさめさん えいっ ……いや待ってくれ 小河坂さんが紳士な態度を取るときは、なにもかもが信じられませんから 信用ゼロである。 月見、やっぱり不参加か? ……はい。そのつもりです 天体観測も、休みか? ………… 答えづらそうだ。 満月を見ると、こさめさんは変わってしまうからか ……はい こくっと首肯して。 天体観測をしている間でも、きっとわたしは変わってしまうから…… 満月の下に立つだけで、とっても困った変身をしてしまいますから どんなふうに変わるのか見てみたい気もするな 見たら、小河坂さんも変身してしまいますよ 俺が、変わったこさめさんを見たら? はい どんなふうに? エッチな狼男さんに変身です なんなんだよそれ…… わたしにとって非常に困った態度を取ってしまうという意味ですよ たとえば? エッチな狼男さんがすることです なにをするんだよ…… ……わたしに言わせるんですか? いつも自分から言ってるだろ…… では聞いてこないでください ……こさめさんが言う狼男はほかにすることないのか ありません 盛ってるんだな…… それとはちょっと違います 狼男さんに変身すると、普通ではいられず、おかしくなってしまうんです そうか はい 俺が、こさめさんを見たらおかしくなるって? はい 満月を見て狼男になるように? はい ありえないな なぜ断言できるのでしょう 俺は紳士だからな わたしのどんな姿を見ても、紳士でいられるんですか? そのとおりだ えいっ なんでだよ…… 意味もなく自信満々だからです 意味はある。だって、自信を持って言えるからな なにをでしょう 俺はこさめさんが好き…… えいっ またかよ…… こさめさんは視線を外し、夕空を見上げた。 小河坂さん…… そこにはまだ輝くには至らない、欠けた月がうっすらと浮かんでいる。 狼男に変身するということは、満月の下では普通でいられなくなるということです 人ではいられなくなるんです 鬼に、なってしまうんです そんなことを言った。 鬼って、昔話なんかでよく退治される鬼か? はい。鬼とは人に討たれる存在。まつろわぬものとして鎮められ、送り還される存在です 地域によっては神格化され、まつろわぬ神と呼ぶところもあるでしょう ただ、鬼といっても、頭に角が生えているとか鋭い牙が生えているとか、そういった特徴で呼んでいるのではありません 鬼とは本来、姿形のない不可視の霊魂を指すんです まつろわぬ神は、人の目には映らないんです わたしたち星天宮の者は、そんな人の目には映らない存在を相手に戦っていた歴史があります 今は社殿に飾られている薙刀──それを始めとする様々な〈採物〉《とりもの》は、その過程で作られました 不可視の相手を可視にすることで、人の身でも干渉できるようになる…… 退治することができる だって、姿形を想像するしかない相手では、対処のしようがありませんから 想像上の神や鬼を、神話や伝承に残すだけでは、歯が立ちませんから 神格化ではなく、視覚化が大切なんですよ まつろわぬもの──従えたいのに従わないものがなんなのかわかったほうが、立ち向かうことができますから 人は、光が差さない闇を恐れますからね そこまで語り、こさめさんは竹箒を手に歩いていく。 まつろわぬものとは、人にとって従えたいのに従わないもの…… だから、それはなにも神や鬼だけではありません 人によっては勉強だったりお金だったり、自分の性格だったりするのかもしれません 過去の記憶だったりするのかもしれません 好きな相手だったりするのかもしれません…… 恋そのものの場合も、あるのかもしれません…… そんな恋に憧れる自分そのものの場合も、あるのかもしれませんね 俺は隣を歩きながら言ってみた。 じゃあ、こさめさんは満月を見るとまつろわぬものになってしまうのか? はい、そうですよ 従えたいのに従わない存在になってしまうのか? はい、そうですよ それはどんなこさめさんなんだ? エッチな狼男さんに変身した小河坂さんでも従えない、悪い鬼さんになってしまうんです だから、小河坂さんが襲ってきても、返り討ちにしてあげますよ エッチなことをしようとしても、薙刀でばっさり斬ってあげますからね こさめさんには敵わない。 一筋縄では、こさめさんの本心を覗くことはできないのだ。 あ、姉さん ……こさめ 階段から二階に下りようとしたところで、登ってきた姫榊と出会った。 小河坂くんと南星さんも一緒ってことは、これから部活に行くわけね こももちゃんも部活、出る? 出ない。これから生徒会の仕事なのよ 生徒会室も二階だろ。戻ってきてるじゃないか ……教室に忘れ物があるだけよ 姫榊は額に手を当てた。 なんに呆れてるの? ……違うわよ 顔色が悪い。汗もかいているようだ。 忘れ物って……薬か? ……なんでもいいでしょ 手のケガ……じゃないよね。包帯、取れてるし…… 風邪ひいたって言ってたよな そうよ。たいしたことないから 取ってくるのは頭痛薬ですよね、姉さん ………… 姉さん こさめさんが強く言った。 今朝もそうでしたよね。体調が悪いくせに、わたしの反対を押し切って登校して…… あなたが大げさなだけよ 今日は生徒会のお仕事を休んで、帰らせてもらってもいいんじゃないですか? そういうわけにいかないわ。今はヒバリ祭の運営準備で大変なんだから わたし、生徒会室に行って伝えてきます やめなさいっ 姫榊はこさめさんの腕をつかむ。 本当に、たいしたことないから お願いします。無理はしないでください ……無理をしているのは、あなたじゃないの? こさめさんの両目が見開く。 姫榊は瞳を逸らした。 ……ごめん。変な夢見て、現実と混同してるのかも 姫榊はこさめさんから離れる。 とにかく、わたしは平気だから。勝手な真似したらお仕置きするからね 最後にフンと鼻を鳴らして去っていく。 こさめさんは呆然と立っていた。 こさめちゃん……? ……なんでもありません 穏やかな笑みをかたどる。それが無理やりに見えた。 姫榊を休ませたいなら、俺も手伝うぞ 姉さん、意地っ張りですから。あまりしつこくすると逆効果になりそうです 放っておいていいのか? はい。神社のお仕事をわたしに任せているだけ、姉さんも譲歩していますから こももちゃんのこと……心配だね そんな明日歩さんがわたしは大好きです…… こももちゃんの百合相手が体調不良だからってなんであたしに迫ってくるの!? 俺は、姫榊の体調不良がただの風邪ではないことに気づき始めていた。 神社の境内はまだ明るい。 今日の部活は早く終わったのだ。 明日歩が、姫榊を心配するこさめさんに気を遣ったのかもしれない。 とはいえ、当の姫榊はまだ下校していない。 こさめさんがそばについていることはまだできない。 今日もお手伝い、よろしくお願いします ああ。ぱぱっと終わらせよう こさめさんから竹箒を受け取った。 いつもありがとうございます お礼なんかいらない いえ、言わせてください。小河坂さんのお手伝いがあるから、姉さんも安心しているんです 安心して、わたしにお仕事を任せているんです だが姫榊は代わりに生徒会の仕事をこなしている。 休みたくても休むと言えない。本当に不器用なやつだ、あいつは。 なあ、こさめさん。聞いていいか? よくありませんよ 姫榊が体調くずしてるのって、風邪じゃないんだろ ……よくありませんと言いましたのに 詮索は悪趣味か? 詮索はエッチなんです ……すぐそっちの話に向かうのやめてくれ 節操がない女の子だって思いますか? 思わないけどさ 下ネタが大好きなわけではありませんよ? 知ってる。こさめさんは俺が恋に疎いって踏んでるから、そっちの話でからかってるんだ さすが小河坂さん、洞察力が優れていますね 俺を看破したこさめさんも優れてると思うけどな おたがいさまということで、お掃除を始めましょうか ……待った。誤魔化そうとするな 姉さんには、変化が訪れているんです。これ以上はお教えできませんよ ですけど、小河坂さんだから、これだけはお話ししたんですよ これで満足して欲しい、そう言っている。 姫榊に変化って、こさめさんが悪い鬼に変わるように? 小河坂さんがエッチな狼さんに変わるように、です こさめさん えいっ ……待ってくれ よからぬことを言いそうな気配でしたから こさめさん、好きだ えいっ 痛くないチョップが続く。 俺もこさめさんを看破したぞ ……どういうことでしょう こさめさんがそれを知るには俺が狼になるしかない ……エッチなのはいけませんよ? こさめさんも、本当は恋に疎い。だからわざとそういった返答に困るようなことを言う。 相手に先立って武装して、自分を守っている。 からかわれる前にからかうわけだ。 小河坂さん。わたしのなにを看破したんですか? 言ったらばっさり斬られそうだし、秘密にしておく 実はカマをかけただけですか? そう思っているがいい 小河坂さんが知った秘密というのは…… 冗談のつもりだった。 だけど意に反してこさめさんは真剣だった。 それは、わたしの身体のことについてですか? 俺は怪訝になる。 そうじゃない 本当ですか? こさめさんは、俺と同じで恋をよく知らないんじゃないかって感じた。それだけだ ………… こさめさんの身体、なにか秘密があるのか? えいっえいっえいっ 三連撃。 ……まぎらわしいことを言わないでください 安堵している。 恋のこと、勘違いなら悪かったよ ……はい。わたしは、恋に疎くなんかありません。とっても手練れですから ウソっぽいが。 で、こさめさんの身体の秘密って? ……知りたいんですか? こさめさんがよければ ……聴診器は必要ですか? なんでだよっ お医者さんごっこがしたいんですよね? 違うだろっ 女の子の身体の秘密を知りたいんですよね? ……もういい。こさめさんが言いたくないのはわかった 察しのいい小河坂さんは大好きですよ 光栄だ ですけど、鈍感なふりをする小河坂さんは大嫌いです エッチな小河坂さんは、もっと大嫌いですからね 俺は閉口して掃除を始めるしかなくなった。 ……………。 ………。 …。 境内を掃き終わった。 今日は風が強いためか落ち葉や枯れ枝が多く、時間がかかって結局夕方になっていた。 落ち葉の山の前で一息吐いていると、こさめさんが寄ってきた。 小河坂さん、今日はこれなんていかがですか? こさめさんはサツマイモの入ったカゴを抱いている。 ついさっき、こさめさんは自宅に戻っていた。なにをしていたのかと思えば。 焼き芋か はい。マッチとスコップも持ってきましたよ 季節はまだ秋の入り始めだが、雲雀ヶ崎は涼しくなるのが早い。 夕方になれば陽射しは弱まり風も冷たくなるため、体感温度も下がる。 焼き芋にはちょうどよさそうだ。 こさめさん、あらかじめ準備してたんだな いつでもできるように、お母さんに頼んで買ってきてもらったんです 落ち葉はたんまりあるし、早速焼こうか はいっ、楽しみです こさめさんが子供のようにはしゃぐのはめずらしかった。 さすが、食べても太らないだけあるな エッチなのは…… そう勘違いするこさめさんはエロいな ……やり返されてしまいました 悔しそうだった。 俺はまず、スコップで土の地面に穴を掘っていく。 姫榊もそろそろ帰ってくる頃かもな はい。姉さんも焼き芋は大好物ですから 姫榊の場合は体重を気にしそうだな 秋はいつも体重計の上で苦悩してますよ それは、なにがなんでも食べてもらわないとな はい。姉さん、元気になると思いますから 少しでも、楽になって欲しいから…… 俺が穴を掘っている間、こさめさんはサツマイモをアルミ箔に包んでいる。 焼き芋は、姉さんのためだけじゃありませんよ こさめさんも好きだからだろ それだけじゃありません…… これは、小河坂さんへのお礼も含まれているんです お礼なんかいらないというのに。 ある程度掘ったところで、穴に枯れ枝を敷いた。 サツマイモ、載せますね サツマイモを置き終わると、ふたりで落ち葉をかぶせていった。 準備完了だな それでは、いきます こさめさんはマッチをこする。 一本、また一本と小さな火が手作りオーブンに落ちていく。 数カ所が着火すると、弾ける音を立てて炎が全体に広がっていく。 昇った煙は夕焼けの赤に溶けていった。 あとは待つだけだな はい 俺たちは隣に立って、手のひらを炎にかざしている。 手をあたためるほど、寒くはありませんね まだ九月の中旬だからな 焼き上がるまで、なにかお話でもしていましょうか 恋バナやら下ネタはやめてくれよ では、どんなお話がいいですか? そうだな。じゃあ…… じゃあ? 姫榊こさめについて えいっ ……だめなのか 小河坂さんが言ったんじゃないですか。エッチな話題はやめようって べつにそっちについて聞いたりしないから ではなにを聞くんでしょう こさめさんって誰かとつきあったこと…… えいっ ……冗談だ。ちょっと気になることがあって なんでしょう もし本当にこさめさんが満月の夜に変身するとしたら、それは霊能力のせいか? ………… こさめさん、そういう力を持ってるって言ってたから ……こさめさんは未来人かなにかなのか れっきとした現代人ですよ。ですが、あなたの言うオカルトや非科学とやらには幾分詳しいつもりです そしてソレがオカルトや非科学の産物というのも、微々たるものですが感覚でわかります これもまた霊感という不思議現象なのかもしれませんね 触れないほうがよかっただろうか。 こさめさんはメアとの一件を気にしている。浅はかだっただろうか。 だが俺は早くあの一件と決着をつけるべきだと思っていた。 あのときはバカだったねと、この話題に触れても笑ってすますことができるように。 でないと、俺もこさめさんも、いつまでも引きずったままになる。 ……小河坂さんは、霊を見たことがありますか? 答えを待っていると、こさめさんはそう言った。 幽霊ってことか? はい 俺はないな。そういった不思議体験とは無縁だった メアさんが初めてですか? そうなるんだろうな この質問にどんな意味があるんだろう。 こさめさんは見たことあるのか? ……わたしも、メアさんのような方とお会いしたのは初めてです ただ、過去にはこの雲雀ヶ崎で、同じようなことがあったというお話を聞いたことはあります 似たことを、こさめさんはメアと対峙したときに言っている。 メアのような存在が、過去にもいたって? はい。そう聞いています 誰が言ったんだ? お母さんです ……万夜花さんが? はい。ですがお母さんは逆に、メアさんのことを噂で聞いているくらいで、よくは知らないと思います ですから、わたしが勝手に判断して、おそらく同じ存在ではないかと推測したんです 万夜花さんは過去に、メアとは別人だが同じ存在に出会っているということだろうか。 メアさんは、幽霊さんとは違うと思いますけどね それは俺もそう思う。 じゃあ、幽霊はどうなんだ? 見たことあるのか? 見たことがない、と言えばウソになります。わたしはいつでも見える位置にいますから どういう意味だろう。 霊能力があるから簡単に見えるってことか? そうとも言えますし、違うとも言えます…… こさめさんは思案して。 世の中には、霊が見える人と見えない人がいます。理由を霊能力の差とするのも間違いではないと思います 星天宮の巫女はその血筋から霊能力を先天的に秘めていますが、自由に使いこなすには修練が必要です その修練は時代とともに方法が変わってきて、今は精神論的なものから科学的なものに移行しつつあります このあたりはスポーツなんかと同じですね そうしてわかったんですが、人は霊能力がなくても条件さえそろえば霊を見ることが可能なんです 人間の脳には電気が走っています。脳の神経細胞は電気を使って情報を伝達します そこに特定の電磁波を当てると、精密機械と同様、電気がおかしな働きをします 情報伝達がうまくいかなくなり、見えなかったはずのものが見えるようになるんです 人は、電磁波によって霊を目撃します 特定の電磁波──特別な光で、神の降臨だってその目にできるんです 俺は首をかしげる。 理解というより納得ができない。 ものが見えるというのは、物質から放たれる電磁波が瞳を通り、脳が処理して実行される機能です その電磁波が視覚の誤動作を起こす場合もあるというのは、説得力がありませんか? ……それって、幽霊というよりは幻覚だろ。幽霊の正体は電磁波が生み出す幻覚ってやつ オカルトを否定するときはプラズマか、この結論が採用される。 どうなんだ? さすが小河坂さん、大正解です 力が抜ける。 ……じゃあ、複数の人が同じ幽霊を見るのも、集団幻覚ってオチか? そのとおりです ……容姿や言動がまったく同じ幻覚を多人数が同時に目撃する例っていうのは、かなりめずらしいみたいだぞ だと思います。幻覚というのは個人の内因によるところがほとんどですから 電磁波みたいな外因だったら可能だって? そのとおりです ………… ちなみにお母さんはこういった科学は嫌いみたいです。というより、学校の勉強みたいなのが苦手なんです 俺は嫌いじゃないけど、信じるのはちょっとな 眉唾だって思いますか? そりゃあな なにより、これではメアも幻覚だと言っているようなものだ。 わたしはあの夜に、メアさんを〈夢幻〉《ゆめまぼろし》だと言いましたけど…… 俺の考えを察したのか、そう前置きしてから続けた。 なにも、外因というのを電磁波だけに限定しているわけではありません 霊だって、ちゃんといると思いますから 神さまや鬼さんだって、ちゃんと存在しますから でないと、そもそも星天宮の意味がありませんから わたしは、本当はメアさんを〈夢幻〉《ゆめまぼろし》とは思っていませんから ただ、〈夢幻〉《ゆめまぼろし》だと思わないと、命を送り還すことにためらいが生まれてしまう…… 星天宮で教わる心構えのひとつなんです だから、あの夜は、怒らせてしまって申し訳ありませんでした ぺこりとお辞儀。 謝って欲しくてこんな話をしたのではなかった。 それに、どうせ謝るならメアのほうにお願いしたい。 あの夜から、こさめさんはメアには会っていない。 ……俺のほうこそ、悪かった なぜ小河坂さんが謝るんでしょう? 俺は、こさめさんを責めたかったわけじゃないんだ 霊能力について聞きたかったんですよね ああ。こさめさんの変身について知りたかったんだ いけない狼さんですね こさめさんがエロい狼女に変わるのを期待してるくらいだからな ………… こさめさんは、いつものようには切り返さなかった。 顔がみるみる赤くなる。 夕陽の中でも、それはわかるくらいだった。 こさめさん、からかうのは得意なのにからかわれるのはあまり免疫ないよな ……ちょっと、不意打ちにやられただけです すーはーと深呼吸して、にっこり笑う。 はい、もう大丈夫です。わたしの守りは鉄壁です 顔、まだ赤いぞ え、う、ウソ…… なんてな。夕陽で赤いだけだ あ、えっ…… こさめさん、好きだ なっ…… たたみかけると今度は耳まで赤くなった。 お、夕陽より赤くなったな あ……う…… こさめさんは逃げるように顔を背ける。俺は笑った。 やっぱり、免疫ないんだな お、覚えておいて……くださいね…… ぼそぼそ言ったあとに焚き火に近づき、視線を落とした。 焼き芋……小河坂さんにはあげませんから…… こさめさん、あんまり火に近づくと危ないぞ 熱い……です…… 当たり前だ。離れろって わたしの顔が、赤いのは……熱いせいです…… 小河坂さんにやられたわけじゃ……ありませんから…… こさめさんの意外な一面だったな し、知りませんっ…… かわいいと思うけどな えっ…… 赤くなったな そ、そんなこと…… かわいいこさめさんも好きだな あ……あぅ…… どのこさめさんも好きだけどな や……やめっ…… かわいいな あ……ぅ…… 焚き火よりも赤くなったな ひっ……ひどいです…… 最近いじられていたので、仕返しだ。 怒ります……よ…… 怒ったこさめさんもかわいいな ほ、ほんとに……怒りますからあ…… これ以上は恨まれそうなので謝ろうとした、そのときだった。 炎からぱちんと音が弾け、なにかが飛んだ。 きゃっ…… こさめさんが咄嗟にかかげた手の甲に当たり、地面に落ちて風で転がる。 それは燃えた枯れ枝だった。 こさめさんっ 俺はそばに寄り添い、こさめさんを炎から遠ざける。 っ…… こさめさんはうずくまった。 枯れ枝が当たった箇所が真っ赤に腫れていた。 驚き……ました…… こさめさんはヤケドした手の甲には触れず、その下の手首を握って痛みに耐えている。 こさめさん、歩けるか? 肩を抱いて尋ねる。急ぎ手当てが必要だ。 難しいなら桶に水汲んでくるから あ、歩けます……。たいしたヤケドでは、ありませんから…… そうは見えなかった。枯れ枝がぶつかったのは一本だけじゃないのだろう、広範囲に腫れている。 こさめさんはゆっくりと歩き始める。 か、肩……離して、いいですから…… ……バカ。こんなときまで気を遣うな で、でも…… 資格がないって言ったら怒るからな ………… 水場で冷やすぞ。その間に俺、家に行って救急箱取ってくるから すみません…… 謝るのもなしだ。怒るからな じ、じゃあ……どうすれば…… おとなしく治療を受ければいいんだ。簡単だろ ………… わたしには……簡単では、ありません…… だったら、がんばって治療を受けてくれ。しみても我慢するんだぞ そういう意味じゃ……ないです…… 同じなんだよ ………… 俺から見たら、同じになってしまうんだよ こさめさんが必要以上に遠慮する理由。 それがなんであろうと、寂しくなるこの気持ちは変わらなかった。 ……ありがとうございました、小河坂さん お礼よりも、痛みはどうだ? はい。小河坂さんのおかげでもう痛くありません 水で冷やしてガーゼで応急手当をしただけだ。痛みは和らいでもなくなるわけじゃない。 手当てはさっき終わったところだった。 ご迷惑をおかけして、すみませんでした ぺこりとお辞儀。 応急手当、慣れてらっしゃるんですね 大惨事を起こしてケガした千波を相手にしてたからな 立派なお兄さんですね それよりも、すぐ病院に行ったほうがいい もう夕方ですし、それに本当に痛くありませんから ちゃんと治療しないと跡が残るかもしれない。今日が無理なら明日行こう いいんです。もう治りましたから ……こさめさん、肌は大切にしてくれ なぜでしょう? そんなに綺麗なんだから ……襲っちゃうんですか? マジメに言ってるんだ こさめさんは瞳を伏せた。 ……小河坂さん。わたしは、ケガをしても傷痕が残らない体質なんですよ だから冗談は…… マジメです。痛みがなくなったのは本当ですし、ヤケドもしばらくすれば治るでしょう たとえば、もし目の前で焚き火をしていなくて、燃えた枯れ枝がどこから飛んできたのかわたしが知らなかったとしたら…… ヤケド自体、しなかったと思います それは理解を超えた言葉だった。 わたしがこうしてヤケドをしたのは、火が熱いと予想できるからです。そして火にさわったと知ったからです ですから、火にさわったことを知らなければ、熱いと感じることもありません 熱いと感じてしまっても、痛みはない、ヤケドをしない、そう思い込めば傷になることはありません 理解するのが難しくても、これと似た言葉は以前に俺は聞いていた。 その鎌は、わたしの薙刀とは違い、持ち主同様所詮は〈夢幻〉《ゆめまぼろし》だということです だから…… だから、こんなこともできるんです 痛みを感じずにつかむことができるんです 痛みはない、ケガをしない、そう思い込むだけで可能になるんです 量子は観測して初めて存在が確定するという解釈がありますが、それに当てはまるのかもしれません これは量子論のひとつの解釈でしかありませんが、人を縛る物理法則とはおよそかけ離れた考えです これは、普通の人間には適用できない物理法則です わたしの身体は、おそらく、小河坂さんが住む世界の物理法則とは違った法則に縛られているんです ………… と、オカルトを科学的に捉えてみたんですが、どうでしょう? 俺は大きく息を吐き出した。 ……今の話のどこまでがこさめさんの本気なんだ? どこまでも本気ですよ こさめさん、好きだ えいっ こらっ、ヤケドした手でチョップするなっ あ、うっかりです こさめさんは顔をしかめる。 ……小河坂さんが指摘したせいで、痛くなりました 本当、どこまでが本気なのか。 心頭滅却すれば火もまた涼し ……いったいなんでしょう こさめさんは痛いのを我慢してるだけだ。巫女の修練で我慢強くなってるだけだ ………… 頼むから、綺麗な肌に傷を残すような真似はしないでくれ こさめさんはあっけに取られると、 ……ありがとうございます その笑みは穏やかだった。 わたしの肌を綺麗と言っていただいて、ありがとうございます 穏やかに、悲しげだった。 心配していただいたお礼に、焼き芋を食べていいですよ 机の上にはできたての焼き芋の山。こさめさんの手当てをしている間、万夜花さんが代わりに持ってきてくれた。 アルミ箔の熱も下がり、食べ頃だ。 ……こさめさん、その手で食べられるか? はいっ、ヤケドなんかに負けてられません 一転、元気いっぱいになる。 ほんと、好きなんだな わたしが空腹を感じられる、数少ない食べ物ですから おもしろい言い回しをしてから手を合わせる。 それでは、いただきます いただきます ふたりではふはふ口に運ぶ。 おいしいな はいっ、ヤケドしてまで作ったかいがありました はふはふ、もぐもぐ。 こさめっ! 食べている途中で姫榊が飛び込んでくる。 さっき玄関でお母さんから聞いたんだけどっ、あなたケガしたって…… 姉さんも食べますか? ………… 焼き芋を差し出された姫榊は、へなへなと座り込んだ。 いらないなら小河坂さんとふたりで食べてしまいますよ ……いるわよ 不機嫌にぶんどった。 帰り、遅かったな いつもどおりよ。それよりこさめ、ヤケドは平気なの? はい。もう治りましたから そんなわけないんだから、ちゃんと病院行きなさいよ 俺と同じことを言っている。 姉さんこそ、体調はどうですか? もう治ったわ そんなわけないんですから、ゆっくり休んでくださいね 似た者姉妹である。 ……小河坂くん 姫榊は部屋で休もうとはせず、こさめさんの隣、俺の正面に座り直す。 なんだ、べつに姫榊の分まで取ろうとしてないぞ 焼き芋のことじゃなくて 好きなんだろ? 好きだけどそうじゃなくて 食べ過ぎるとまた太るぞ まだ猶予はあるから……って、なんで知ってるのよ!? こさめさんが言ってたから 小河坂さんはエッチですから ……つまりこさめを卑猥に脅して聞き出したのね ありえないつなげ方だろ!? それで、姉さんはなにを言おうとしたんでしょう? ……お母さんも言ってたけど、小河坂くんがこさめの手当てしてくれたのかって聞こうとしたのよ 手当てはした。だけど、応急処置くらいだ 的確な処置でしたよ。すぐ痛みが引きましたから ……小河坂くん、ありがとう そっぽを向いている。 お礼に焼き芋食べていいから いや、もう食べてるし あまり食べ過ぎるとご飯が入らなくなりそうですね いいんじゃないの、これが夕飯で。お母さんも料理の手間がはぶけたとか言ってたわよ 今夜はお母さんが当番でしたからね じゃあ気にせず食べるか そうね、冷めないうちに たくさん焼きましたから、夜食にもできそうですね まあ、俺は帰ってから我が家の夕飯が待っているのだが。 外に出る頃には夜になっていた。 帰りを待っている千波が飢えて暴れているかもしれない。 おみやげの焼き芋を渡せば機嫌は直るだろう。 今夜も、満天の星空ですね…… 神社まで送ってくれたこさめさんが、秋の夜空を見上げながら吐息をついた。 こんなに綺麗だと、幽霊さんもよろこんでいるかもしれませんね つながりがよくわからないな 霊とは、過去に存在した人の魂です 言わば、過去の想い出です…… だからそれは、星の光と同じなんです 何億年も前の光が、今この星に届くように 幽霊さんも、過去の想い出を秘めて見上げているかもしれません 雲雀ヶ崎の星空を、見上げているかもしれません…… おはよう、洋ちゃん ああ、おはよう おはようございます。今日も遅刻ぎりぎりなんですね 愚妹のせいでな 立派なお兄さんですね それはない 洋ちゃん、千波ちゃんを待ってて遅くなってるんだから しょうがなくな 照れてらっしゃるんですね こさめさん、それより 俺はこさめさんに迫る。 ……こんなところでですか? なにがだっ、ヤケドのことだよ ヤケド? 昨日ちょっとな。こさめさん、具合はどうだ? もう治りましたよ マジメに答えてくれ わたしはいつだってマジメですよ こさめさんは手の甲を差し出す。 そこは昨日、たしかにヤケドを負った箇所。 俺は瞠目する。 ほら、治っているでしょう? ガーゼや包帯といった治療の形跡はない。 それどころか傷痕もない。 白くすべらかな肌。 あまりに綺麗で氷のようだと感じる。 これも、小河坂さんの的確な治療のおかげですよ ……そんなバカな。 こさめさんがヤケドを負ってから、まだ半日程度しか経っていない。 なのに、完治した。 普通では考えられない速度で。 ……こさめちゃん、ヤケドしたの? はい。ですけど、大したことはありませんでしたから 〈痕〉《あと》にならないならよかった~ はい、小河坂さんは大げさに捉えていたみたいですけど 俺は口を挟めない。 この不可解な現状についていけない。 でも、気をつけてね。こさめちゃんってびっくりするくらいお肌すべすべなんだし 明日歩さんこそ、健康的なお肌でうらやましいです こさめちゃんのほうがうらやましいよ。身体測定とかやっても非の打ち所がないって感じで わたしは明日歩さんのスレンダーでかわいらしい体型のほうが好みです…… だからこさめちゃんの百合相手はこももちゃんでしょ!? ………… 洋ちゃん、どうかした? ……いや こさめさんのヤケドは、俺が思っているよりもずっと軽傷だった。それだけのことだ。 疑問に感じることはない。寒気を覚えることはない。 完治によろこぶべきなのだ。 こさめさんは、そんな俺をなにも言わずに見つめていた。 部活も終わって、今日もこさめさんの手伝いだ。 こさめさんはヤケドを負っていたはずの手を難なく使って境内を掃いている。 昨日の出来事は夢でしたと言わんばかりに。 ……気になりますか? 俺の視線に気づいたこさめさんが、苦笑いする。 ケガが治ったこと、不思議だって思いますか? 返答に窮する。 おかしい、変だって思いますか? こんなわたしを……恐れますか? ……それはない 俺はなるべく軽い口調で言う。 ケガが治ってよかった。それに勝るものはないだろ 小河坂さんは、優しいですね そんなふうに受け答える。 ただ、わたしは慣れていますから。そんなに多くはありませんが、たまにやってしまうんです 気をつけてはいるんですけど……。誤って、このようなところを人に見せてしまうんです やっぱり、限界があるのかもしれませんね 諦観したような言葉に苛立つ。 小河坂さん、わたしの体質のことは誰にも言わないでくださいね? 言わないし、俺はべつにこさめさんを恐れてない 人は未知のものを忌み嫌います。闇を避けるように、理解を超えた対象に恐怖を覚えます だから、人はそこに信仰を当てはめます。自然災害は神の怒り、病気は呪い、精神疾患は狐憑き…… 〈夢幻〉《ゆめまぼろし》は、幽霊 そんな言葉を用い、未知のものを恐怖、または崇拝の対象として理解しようとするんです そしてそれは普通のことなんです。大昔から続いている基本的で原始的な行動なんです だから小河坂さんがわたしを恐れたって…… 恐れないって言ったろ ………… 俺は、メアとだって友達だからな ……そうでしたね こさめさんはうなずいた。納得したのかはわからない。 メアさんも、不思議な方ですからね 幻覚とか言わないでくれよ はい。小河坂さんとメアさんの前では二度と言いません 言わないだけで、撤回はしていない。 襲わないと誓っただけで、こさめさんのメアに対する考えは変わっていないのかもしれない。 星天宮の先人たちは、鬼を討つために心の目を養ったそうです 〈夢幻〉《ゆめまぼろし》に惑わされないよう、強い意志を持って相手に挑むんです 強い心で立ち向かわないと、退治するどころか、姿を追うことすら適わなかったんですよ メアとこさめさんの一件は、まだ解決したとは言い難い。 なぜこさめさんはメアを襲ったのか、俺はその理由すら知らない。 なぜあのとき、こさめさんは……。 あなたを見ていると、苛立ちます…… 軽々しく友達だなんて言って…… 友達を作れたなんて言って…… 自分が何者かも知らないくせに……! 自分は恋をする資格がないと言ったこさめさん。 友達を作る資格も持つことが難しかったこさめさん。 お仕事、続けましょう。暗くなると落ち葉が見えなくなってしまいます 心眼を使ってお掃除ができるほど、わたしは歴戦の巫女ではありませんからね 俺は、こさめさんのためになにができるだろう。 ここ数日、こさめさんと長く接しているこの時間。 俺は次第にそう考えるようになっていた。 洋ちゃん、こさめちゃん。あたし、今日は部活休ませてもらうね なにか用事か? うん。ちょっとお店の手伝い、がんばろうかなって ヒバリ祭の準備がいそがしくなると手伝いできなくなるから、その前にね 来週から本格的に始まりますからね 岡泉先輩にもさっきメール送ったから。ごめんね いや、出し物についてはもう決めたしな。マスターの手伝いがんばれ うん。明日の天体観測はちゃんと出るからね その日は一緒に月見もする予定なのだ。 月見団子たくさん作っていくから、楽しみにしててね 明日歩は教室を出ていった。 こさめさんが明日歩の背中が見えなくなるまで、姿を追っていた。 こさめさんは明日の欠席をまだ伝えていないのだろうか。 こさめさん ……あ、はい。わたしたちは部室に行きましょうか いや、今日は俺たちも休まないか? ……小河坂さんもなにかご用ですか? ああ。こさめさんと一緒に すぐに神社のお仕事ですか? 仕事する前に、遊びにいこう こさめさんは目をぱちくりする。 遊びに、ですか? ああ 誰が? 俺が 誰と? こさめさんと いつ? 今 どこで? 雲雀ヶ崎で 雲雀ヶ崎のホテルで? 違うからな なぜ? こさめさんと遊びたいから ……エッチなことですか? ホテルじゃないからな お外でなんて…… 遊ぶだけだからな 誰が? 巻き戻さなくていいからな こさめさんは眉尻を下げる。 ……わたしと遊ぶんですか? ああ ふたりだけで? ああ デート、ですか? ああ えいっ 甘い チョップを受け止める。 ……タイミングを見切られました もう何度もやられてるからな 小河坂さん。わたしは…… 資格はあるぞ えっ…… こさめさんは、俺とデートする資格がある 焼き芋、ごちそうになったから。だからそのお礼 こさめさんの行きたいところに連れていくし、食べたいものを食べさせてやるぞ こさめさんはぽかんとしていた。 こさめさんは、焼き芋の分だけ、俺と恋する資格があるんだよ 恋をする資格がないと言うこさめさん。 だったら俺がその相手になるだとか、分不相応なことを考えているわけじゃない。 ただ、恋というものを否定して欲しくない。こさめさんだって必ず恋ができるのだから。 恋に疎い俺ですら恋を肯定しているのだから。 俺も、過去には展望台の彼女に恋をしていたかもしれないのだから。 今、岡泉先輩に休むってメール送ったよ ……わたしも送ってしまいました 部活、出たかったか? というより、遊ぶために休んでしまったことに罪悪感がありますね ヒバリ祭の準備の前に羽根を伸ばすってことで、いいんじゃないか どうせ休むなら楽しまないといけませんものね じゃ、思いっきり遊ぶか 公然とデートですか? 公然ってなると、俺たち公然の恋人ってことになるぞ ……それはとっても困った問題です じゃ、内緒でデートだな ……そうなると内緒の恋人になって、やっぱり困った問題です じゃ、公然だけど今日限定のデートだ 一日限定の恋人ですか? とりあえずはな 実は今日以外も期待しているんですか? ノーコメントだな 焼き芋の分だけですよね? それだけで一生分ってオチもあるけどな 小河坂さん、女たらしですね こさめさん限定でな それでは、わたしたらしですね とりあえずは今日だけの恋人ごっこ。いいか? ……はい こさめさんは気持ち、俺に寄り添った。 一日限定でしたら、困ったことにはなりませんから…… そう、照れくさそうに。 小河坂さんの恋人になるのも、悪くないと思いますから 腕を組むことはしない。 それでも俺たちは、普段よりも近い距離で歩き始めた。 いらっしゃいませ~って、あれ こんにちは、明日歩さん こさめさんが選んだ行き先は明日歩の喫茶店だった。 なんだ、おまえらも来たのか なぜか飛鳥もいた。 ……これじゃ学校と変わらんじゃないか ふたりきりのデートだというのに。 飛鳥さん、学校が終わったらすぐ教室を出ていましたよね マスターに都市伝説のこと聞きにな。学校で聞き込みしてもさっぱり情報集まらねえから ふたりはどうしたの? 部活は? 岡泉先輩に悪いとは思ったんですけど、欠席させてもらいました 用事でもあったのか はい。小河坂さんがご用を作ってしまったんです ……まあ俺が原因だろうけどさ 喫茶店に用事なの? そうとも言えますし、違うとも言えます やけにもったいぶるな なんの用事なのか気になるよ~ お茶をしに来たと答えるだけでいいのに、いらぬ注目を浴びている。 まあデートと正直に言うのはさすがに……。 実は小河坂さんとデート中なんです 正直に答えなくていいだろ!? ですけど、わたしたちは公然の恋仲ですし…… 一日限定の、とこさめさんが続ける前に明日歩がひっくり返っていた。 ……おまえ驚きすぎだろ 驚かずにはいられない新事実だったんだよ~! い、いや、俺たちは単に一日限りの…… ……一日限りで捨てちゃうんですか? 誤解招く言い方しないでくれるか!? 一日だけのお遊びですか……? 最初からそう言ってただろ!? こさめさんとは遊びだったわけかよ 遊びだけどおまえが考えてる遊びと違うからな!? 身体だけが目当てだったんですか……? だから違うだろ!? 前は、身体の秘密を知りたいって言ったくせに…… そういう意味じゃなかっただろ!? 洋ちゃんのケダモノ~! 簡単に信じないでくれるか!? 説明してなんとか誤解を解く。 ……もう。びっくりさせないでよ そんなことだろうと思ったけどな 残念です、もっと楽しめると思いましたのに ……充分楽しんでただろ 小河坂さん、目的は達しました。次のデートスポットに向かいましょう からかうために寄ったのかよっ 明日歩さん、お邪魔しました う、うん 明日歩は困惑気味だったが、 こさめちゃん、どうせならめいっぱい楽しんでね そう言って、こさめさんと笑いあう。 はい。一日だけ、小河坂さんをお借りしますね ううん、一日なんて言わないよ。こさめちゃんだったら、洋ちゃんとほんとの恋人になっても驚かないよ さっき驚いてたじゃねえか 驚くかもしれないけど、納得できると思うんだ ………… だから、がんばってね。こさめちゃん ……明日歩さん 今度は、こさめさんが困惑する番だった。 ……最後に、してやられました 喫茶店を出てそうつぶやいた。 恋人になってもいいだなんて……明日歩さんに、逆にからかわれてしまいました 明日歩は冗談で言ったんだろうか。 というか、明日歩は俺が誰を好きになるかという点を無視していた気がしないでもない。 それとも、さっきのはそれすら含まれていたんだろうか。 なんだか悔しいです…… こさめさん、なんていうかSだよな Mの姉さんがいますから 今度はどこ行きたい? 姉さんをからかいに行きたいです ……姫榊は生徒会の仕事だろ。学校戻ることになるぞ ついでに部活に出られそうですね ……それじゃデートにならないだろ そうでした。うっかりです じゃなくてワザとだろ 明日歩さんにしてやられた分、小河坂さんを困らせて発散です Sだな はい。ですから、わたしとつきあう方はMじゃないと務まりませんよ そうとも言えない なぜでしょう Sを屈服させるのが楽しいSなら務まりそうだ 小河坂さん、ケダモノですね そうかもな ……ケダモノじゃないって否定すると思いましたのに どうせ狼男だからな エッチな狼さんですものね そして、こさめさんの恋人だ 今日限定、が抜けていますよ 次はどこ行きたい? 小河坂さんは行きたい場所、ないんですか? こさめさんとだったらどこでもいいぞ 理解のある彼氏さんですね 心に紳士を飼ってるからな 足をひっぱってばかりだが。 わたしも、小河坂さんとだったらどこでもいいですよ 理解のある彼女だな ただ、ふたりしてそれだとどこにも行けませんね じゃあ適当に歩いてみるか はい こさめさんは俺と距離を近くする。 少しだけ。 友達よりも近く、だが恋人と言うには離れている。 腕、組んでみるか? えっ…… さすがに調子に乗り過ぎか 頬をかく。照れ隠し。 こさめさんは、もう一歩、俺に近づいた。 ……今日だけ、ですからね 腕をそっと持ち上げて。 わたしも……したくないわけじゃありませんから 恋に憧れていないわけじゃありませんから…… 恥ずかしそうに、俺に腕をからませた。 こんなふうに、誰かに恋をしても…… 俺の腕を、ためらいながらも抱き寄せる。 一日だけなら、許されると思いますから…… きゅっと力を込める。 こさめさんの体温を感じる。 やわらかくあたたかい。 大きな胸、だと思う。 腕を組むとより顕著にわかる。 肘に、豊かなふくらみがふわりと当たっている。 どうですか……? 俺を上目遣いでうかがう。 わたしと……恋人になった気に、なりますか……? ……ああ。これ以上ないくらいに こんなやわらかい感触は初めてだ。 本当ですか……? ああ。どこから見ても恋する乙女だ からかっていますか……? 正直な感想だ わたし…… こさめさんの口調は、頼りなかった。 わたし、小河坂さんの彼女に、なっていますか……? 俺のほうこそ、こさめさんの彼氏になれているだろうか。 誰かが見たら、どう思うでしょうか…… 恋人だって思うんじゃないか そうでしょうか…… 絶対そうだ 信じますよ……? 信じてくれ 恋人に見えないって言われたらどうしますか……? そいつの目に問題があるな そうでしょうか…… 俺じゃこさめさんに釣り合わないか? ……いえ こさめさんは首を振る。 そうではなくて、わたしのほうが…… 他人の目なんか関係ない。俺がこさめさんを好きで、こさめさんが俺を好きなら、恋人だろ ………… 俺たち、だからデートするんだろ? こさめさんにあげた俺とのデート券は、こさめさんからもらった焼き芋と釣り合いが取れているのかは知らないが。 緊張していたこさめさんの肩から力が抜ける。 そう言っていただけて、うれしいです…… わたしでも、恋人ごっこくらいなら可能なんですね…… ごっこじゃなくてもできるだろうに。 こさめさんだったら相手に事欠かない。こさめさんを彼女にできる男は幸せだ。 そう言っても、こさめさんの耳にはからかいにしか聞こえないのだろうか。 歩こうか ……はい 足をゆっくりと前に出す。 わたし……誰かと腕を組むのは、初めてです…… 俺もだよ ……本当ですか? ウソついてどうする ……はい こさめさんはどこかうれしそうにうなずいた。 ふたり、ゆるい歩調で共に歩く。 しばらく進むと、風情あふれる光景が目に飛び込んだ。 ここ……運河か はい。来たのは初めてですか? そうだな。存在くらいは知ってたけど 雲雀ヶ崎の観光名所。それでも、子供の頃に来たことはなかった。 この橋の先は隣町になるんです。ずっと進むと、お父さんが務めてる病院に着きますよ ケガをした姫榊と気を失ったこさめさんを病院に運んだときは、詩乃さんの車だった。 この橋を通ったのかもしれない。だが俺は姫榊とこさめさんの容態を気にしていて、外に目を向けていなかった。 風が、気持ちいいですね…… 水路をすべる涼風でこさめさんの長髪は揺られ、俺の肩を撫でている。 数少ない観光客が通り過ぎざま、腕を組む俺とこさめさんに視線を送る。 そのたび、こさめさんはきゅっと腕に力を込める。 俺たち、制服だからな。カップルの旅行者には見えないだろうな ……はい だけど、ヒバリ校生徒のカップルには見えるだろ ………… 触れあった腕から、かすかな震えが届いている。 ……幽霊さんの、恋 ぽつりと。 え? よくあるじゃないですか。幽霊さんとの恋物語 恋人が事故かなにかで幽霊さんになって……もしくは、好きになった相手がたまたま幽霊さんで…… そんな設定で描かれる恋愛は、たいてい幽霊さんが成仏して終わります そして残された人はその悲しみを乗り越えて、また新たな人生を歩む…… 幽霊さんじゃない、ちゃんとした人との恋を育む 悲恋ものにはなるんでしょうけど……これが一番、ハッピーエンドですよね みんなが幸せになれる結末ですよね ……こさめさん はい? たとえば、成仏した幽霊が転生して再会するとか、来世では一緒になるとか、そういうのは無しか? はい、なしです きっとそれは天文学的確率なので、なしです 奇跡的な幸運に頼るのは宝くじを買うだけの怠慢ですので、なしです 手厳しいな 小河坂さんが望みそうな答えを言ったつもりですよ 俺は口を閉ざすしかない。 幽霊さんに残された時間は、わずかしかありません…… 恋人と一緒にいられる時間は残り少なくなっています そんなとき、幽霊さんはいったいどうするでしょう できるだけ豊かに多彩にこの時間を使うでしょうか それとも、心残りにならないよう、周囲の人たちに迷惑をかけないよう、ひっそりと過ごすでしょうか みんなの日常を壊さないよう……別れの際、大切な人の心に影を落とさないよう…… 恋をしないよう、過ごすでしょうか 俺は口をつぐんだまま。 小河坂さん そんな幽霊さんには、恋をする資格があるんでしょうか わたしは、ないと思います あると思える自信を持てることは、ないと思います…… その考えは、幽霊が後者を選んでいる場合。 大切な人を想い、だからこそ自分を想わないから、人知れず去ろうという気持ち。 だけどこさめさんの言うそれは、確たる信念と言うよりは。 助けを求める悲鳴に聞こえた。 こさめさんは組んでいた腕をほどき、静かに俺から離れる。 帰りましょうか、小河坂さん そう言ってきびすを返す。 俺は動けずにいる。 ……もう帰るのか? はい 俺、まだこさめさんになにもおごってないぞ いいんです。わたしは空腹を感じない体質ですから まだなにも遊んでないぞ 運河を見たじゃないですか それだけじゃないか それで充分です デート、続けよう これで終わりにしましょう ……つまらなかったか? そんなことはありません。喫茶店で明日歩さんをからかえましたし、満足です わずかな時間でも、恋愛というものを経験できましたし 小河坂さんの……恋人にしてもらえましたし 照れたように笑って。 わたしを彼女さんにしてくれて、ありがとうございました ぺこりとお辞儀。 ……こさめさん、だったら 彼女さんが帰りたいって言っているんですから、理解のある彼氏さんならきっと許してくれるはずですよ なら、神社の仕事手伝うよ いいえ、それも結構です それでもなにか言おうとすると、こさめさんは人差し指で俺の唇を押さえた。 彼氏さんなら、彼女さんのことを想うべきですよ 彼女さんがひとりになりたいと考えていることを、察するべきですよ これで、こさめさんとの恋人ごっこは終わり。 あっけない結末だ。 駅で別れるまでこさめさんはほほえんでいた。 俺に気を遣う笑顔だった。 それが俺の心になにかを生む。 こさめさんが話した幽霊は別れの際、相手に影を落とさないよう願っているようだけれど。 もう落としているようだった。 俺の心に落としているようだった。 生まれた気持ちは、メアに出会っている俺だから常識外の方向にも考えを及ばせる。 確信めいた最悪な予想が頭から離れない。 この日から、俺はきっと悲恋ものが嫌いになった。 この時間になると、さすがに冷えるな はい。わたしも秋物の服を着てしまいました この身は寒さを感じずにすませられるのに……わたしの過去の経験が、錯覚を生んでしまいます 幽霊さんが過去の想い出に縛られる証かもしれませんね ……想い出がすべてではないさ。キミの身体は、命を落とした当時からちゃんと成長していると聞く そうですね。この姿は、人は成長するというわたしの知識が生んだ、〈夢幻〉《ゆめまぼろし》なのだと思います 身近に姉さんがいたおかげで……姉さんの成長に合わせて、わたしも成長できたのだと思います ………… 雪菜先輩。今夜はどんなご用ですか? 満月が近いですので、夜に出歩くのはなるべく避けたいのですけど…… 相手が雪菜先輩でなければ、断っていたところでした それについては、悪かった 大切な用件ですか? ああ、そうだ わたしを送り還すこと……決心がついたんですか? ………… もう、母からは許可を得ているんですよね? ………… なにを、迷っているんですか? 姉さんのことですか? 今の姉さんでしたらすでにある程度、予想していると思います わたしはこの世を去るべき存在だと ……キミの姉は、記憶を取り戻したのか? そこまではわかりません。ですが、わたし、手の甲にヤケドをしたんですよ そして、すぐに治ったのを姉さんに見せたんです 姉さんは、驚きはしませんでした 信じられないような、でも納得したような、そんな複雑な顔をしていました だから、大丈夫です 姉さんはもう、すべてを受け入れられると思います ですから、迷わないでください 雪菜先輩が、姉さんを心配しているのはうれしいですけど…… ……キミは、いつもそうなんだな 自分ではない、他人のことばかり考えるんだな ………… キミは、もっと自分を大切にしたほうがいい 私の用件は、それだよ 私はキミを送り還さない…… キミが、自分のために還るのならば、話は別だった だが、キミはそうじゃない キミが、他人のために還ろうとする限り、送り還さない 悩んだ末の、私の答えだ ………… 残酷……ですね…… そうだな 私は、キミが自殺したいと言い出さない限り手を貸さないと言っているも同じだからな ……雪菜先輩は、わたしに、自分を大切にしろと言いました ですが、自殺というのはそれに反する行為です そうなるな でしたら、雪菜先輩は、わたしに還るなと言っているも同じです そうだ どうしてっ…… キミが、私の初めての友人だからだ ………… キミは自分のためではなく、あくまで私だけを想って、これまで私に近づいていた キミが自分を想わず、他人ばかりを想った結果、私はキミに手出しができなくなった だから、わかるだろう キミが自分を想わないせいで、私が代わりにキミを想うようになってしまったんだ この責任は、重いのさ キミが還るくらいでは、果たされないくらいにな…… 昼を待って神社を訪れる。 学校が休みなので平日よりも早い時間だ。 昨日は手伝いを断られた。だが、約束は今週いっぱいだ。 紅葉はまだ始まったばかりだが、周囲に木が多く風も強いためか落ち葉は見かける。 短時間でも境内の掃除は必要だ。 打ち水のほうは、今年はもう終わりかもしれない。 ……小河坂くん 奥まで歩くと姫榊を見つける。 こんにちは ああ、仕事お疲れさん ほんと、お疲れよ。せっかくの休日なのに 姫榊は竹箒を杖代わりにしてぶつぶつ言う。 でも、そんな時間かからないだろ 夏に比べればね、打ち水をやらなくていい分 だから、ひとりでは大変でもふたりなら簡単なのだ。 落ち葉だってまだ少ないしな なのに焼き芋やってたあなたたちは気が早いっていうか 境内、結構広いからな。かき集めれば焚き火くらいはできる こさめも張り切ってたんでしょうね めずらしくはしゃいでたぞ。焼き芋、好きみたいで 嫌いな人なんていないでしょ それは偏見だろう。 こさめから聞いてたけど、毎日手伝ってるのよね。今日もなの? まあな さっきから首をめぐらせているのだが、こさめさんの姿は見えない。 今日って姫榊の当番か? ええ。こさめに言って、そうしたの。最近任せっきりだったし、休日くらいはね そのわりに文句を言っていたのも姫榊らしい。 こさめさん、家か? そうよ。こさめに用? こさめさんが当番じゃないのなら、用はなくなる。 まあ、ちょっとな。話したいことがあるというか 俺はそう答えていた。 こさめの了解は? 取ってないな じゃあ、たぶん無駄足ね。あの子、今日は誰とも会わないと思うわよ ……なにか用事か? そう言っていいのかもね。あの子、たまにあるのよ。部屋に閉じこもって出てこない日が たいてい夕方から翌朝まで姿を見せないんだけど、今日は朝から見てないわ 部屋で用事なのか みたいね なにしてるんだ? ……わからない 姫榊の口調は諦めている感じ。 理由を聞いても、寝ていたやら勉強していたやら、そんなふうにしか答えないから わたしにはウソなんて通じないのに、ウソしか話さないから 食事時にも顔を見せないし……まあ、部屋に持ち込んでるんだとは思うんだけど ……心配だな 今となっては、もう慣れてるけどね そうは見えなかった。 慣れていると言った姫榊は辛そうだった。 ……なあ、姫榊 なに、わたしの代わりに掃除してくれるの? 手伝いはする。そうじゃなくてな なによ こさめさんが部屋から出てこないのって、満月の日なんじゃないか? 今日は十五夜。こさめさんが嫌う満月の夜。 今夜行う天体観測も、月見にも出ないと言った。 ……どうかしら。月なんて、今まで気にしたことなかったから 姫榊は星嫌いだ、夜空を見上げることはほとんどないだろう。気づかなくてもおかしくない。 なら、万夜花さんはどうだろう。尋ねてみようか? ……いや、できるわけがない。 そもそも言いふらせる話じゃない。 周囲に迷惑をかけたくないと言ったこさめさんの気持ちを踏みにじることになる。 姫榊、今夜は十五夜だぞ そうなんだ。知らなかったわ ウソつくな、天クルから連絡がいってただろ まあメールは来たし、こさめも言ってたけど。屋上でお月見やるって 参加は? しない 月も嫌いか? 星よりはマシね じゃあたまには部活出てくれ やめておくわ。こさめも不参加だし 体調、悪いのか? ……べつにいいでしょ 風邪じゃないんだよな? なんだっていいでしょ ホウキ、借りるぞ ちょっ、わたしから奪わないでっ 代わりにやるから やらなくていい。わたしの当番なんだから さっき代わりにしてくれって言ったじゃないか あれは冗談。だから返して まずは社殿のあたりから掃くかな ……体調のこと心配してくれるのはうれしいけど、同じくらいムカつくのよ 竹箒を奪い返された。 向こうにもう一本あるから。手伝うなら早くして かわいくないな そうかもね 本当にそうだ。 妹のこさめさんだって同じなのだ。 辛くても辛いと言わない。自分ひとりで抱え込む。 その強さが無理をしているように見えるから、俺は放っておけなくなる。 こさめさん。 キミはもう、俺に迷惑をかけてるぞ……。 わあ…… 月が、あんなに大きく見える! 明日歩の高い声がその輝きに吸い込まれていく。 天頂に浮かんだ、お盆のように丸い月。 満天の星を観客にし、今夜は自分が主役とばかりに堂々と舞台の中央に立っていた。 さすが、秋の満月は見事だね ……ずっと見てると、押しつぶされそうです あたし、月見団子作ってきたよ。ついでにおはぎと柏餅も! 俺はススキ、用意したぞ 供えると、ススキは夜風に揺れ始める。 明日歩もすでにレジャーシートを敷いて重箱を置いていた。 ……それではいただきます 蒼さんがちゃっかり座っている。 蒼さん、予定では天体観測が先だぞ ……夜は寒いので、早く食べて早く帰りたいです あたしたち、半袖だからね。でもあたしは耐えられないほどじゃないよ 制服の衣替えはもうちょっと先だから、我慢しないとね こさめさんの姿はない。欠席すると、昨夜のうちに明日歩に連絡があったそうだ。 俺も昼間、神社の手伝いが終わってから家にお邪魔させてもらったが、こさめさんは姿を現さなかった。 姫榊に呼んでもらっても、部屋からは返事すらなかったそうだ。 ケータイもつながらない。メールも返信が来なかった。 こさめちゃんは休みで残念だけど、あたしたちだけでも楽しまないとね 四人も集まれば充分さ。昨日の部活は誰も来なくて僕ひとりだったからね…… 知恵の輪を始めてしまった。昨日は俺たちだけじゃなく蒼さんも休んだ(サボった)ようだ。 望遠鏡も準備したし、それではこれより天クルの天体観測会を始めま~す! ……待ちなさい、ひとり忘れてるわよ あれ、まだ誰かいた? いるじゃないっ、ここに 姫榊が屋上に姿を見せていた。 来たのか、姫榊 あなたが部活に出ろって言ったんじゃない 断っていたくせに。 無理させたか? 体調じゃなくて、気持ちのほうでね こももちゃん、こさめちゃんは…… あの子は休み。連れて来られなくて悪かったわね ううん。ただ、休みの理由を聞いてなかったから こさめさんは部屋に閉じこもっている。それは、満月が苦手だから。 ……ちょっと用事ができたのよ。本人もすまなそうにしてたわ ウソでも、姫榊はそんなふうに伝える。 こももちゃん。月見団子たくさん作ったから、おみやげに持って帰ってね わかった。こさめに渡しておく いっぱいあげるから、家族みんなで食べてね 参加人数分だけ作ったんじゃなかったんだな うん。人数分って言っても、みんなどれくらい食べるかわからなかったしね どうせだから、作れるだけ作っちゃった ……どのくらい作ったんですか? ひとり十個がノルマだよ ……わたしたちを太らせる気なの おはぎと柏餅を合わせるとひとり三十個だよ 胸焼けがしてきた。 明日歩クン、改めて始めようか はい。みんな、今夜は満月を観測するからね 明日歩は望遠鏡のピントを合わせると、俺たちに場所をゆずる。 表面に見える無数のクレーター。 それは、隕石が月に衝突してできたとされている。 流れ星になって降ってくる小さな隕石なら、かわいげがあるんだけどね 数万年前に地球に落ちたアリゾナの隕石〈孔〉《こう》なんかは、直径が1.2キロメートル、深さが180メートルもある。都市に落ちたら大惨事だね ……クレーターなんか、見えますか? めずらしく蒼さんが、明日歩の望遠鏡を使っている。 蒼さん、自分の望遠鏡は? ……持ってきてません。今夜は月見のお団子がメインでしたので 食欲の秋である。 あと、部になった祝賀会も兼ねてるからね その副産物がノルマ三十個の団子である。 クレーター探してたら目がちかちかしてきたわ…… 望遠鏡で見る満月はすっごくまぶしくてにぎやかだけど、クレーターとかは見えづらいんだ 欠けてるほうが見えやすくて迫力があるんだよ。だから、月の観測って満月を避けるのが普通なの じゃあなんでわざわざ満月を観測するのよ それはね、満月だとその他の星も見づらいからさ ……じゃあ、今夜は天体観測する意味そのものがないじゃない そんなことないよ。あたしは星の光もそうだけど、月の光を観測するだけで楽しいもん 中毒患者の言い分ね 全国の天文ファンを敵に回してるよ~! うへへへぇぇ……最高の満月だぜぇぇ…… ……今にも狼男に変身しそうです こさめさんは今ごろどうしているだろうか。 まぶしすぎる満月の光を避け、カーテンを閉じた部屋にひとりでいるのだろうか。 月の観測が終わった人は、お団子食べていいからね ……いただきます 蒼さんが一番乗りしている。 明日歩、おみやげに何個かもらっていいか? うん。洋ちゃん、お月見は出られないんだよね 俺も、こさめさんと同じく事前連絡をしておいたのだ。 ……待ちなさい。わたしを誘った本人がなんで途中で帰るのよ 悪い。用事があってな はい洋ちゃん、おみやげ 重箱を渡してくる。 ……三十個以上入ってるぞ 千波ちゃんと詩乃さんの分だよ 悪いな ……もうお腹いっぱいです 蒼さんが一個を食べてもうお茶で一息ついている。 うへへへぇぇ……満月に心が洗われるようだぜぇぇ…… ……この人、見張ってないと事件でも起こしそうね 姫榊、月見楽しんでいけよ むしろ心労が増えそうよ…… 明日歩、それじゃ ばいばい、裏切り者 やっぱりかよ!? ……帰りの夜道には気をつけてください、裏切り者 よい週末を、裏切り者 うへへへぇぇ……裏切り者に乾杯ぃぃ…… 重箱よりも疲労のほうが重かった。 俺は自宅に戻り、明日歩からのお裾分けを千波と詩乃さんに配った。 それから私服に着替える時間ももったいなく、すぐに出かける。 残りの月見団子も持っていく。 それは俺と彼女が食べる分。 こさめさんには、まだケータイがつながらないのだけど。 電車に乗って到着する。 夜の境内は月影に満ちていた。 その清冽な光は静寂を際立たせ、にぎやかな夜空と比べたら別世界のようだった。 俺は、こさめさんの自宅に向かうつもりだった。 だけどここに足を踏み入れた。 ここはひとつの舞台だった。 スポットライトのように降り注ぐ月光、その下に人影がひとり孤独に立っていた。 小河坂さん…… その人影は俺が会いたかった人。 なにか……ご用ですか……? 月明かりがまぶしくてその姿は薄ぼんやりとしか望めない。 わたしを……誘いに来たんですか……? 俺は瞳を凝らして近づく。声だけでなくはっきりとこさめさんを捉えたい。 お月見は……しないって言いましたのに…… 俺は、こさめさんを捉えたい。 なのに。 満月は……嫌いだって言いましたのに…… 夜空の月とは真逆に見えた。 雄々しく輝き、存在を誇示する満月。 なのに、こさめさんの姿は淡く在る。 月明かりで見えづらい、そんな現実的な話じゃない。 俺の目がくらんでいる、そんな次元の話じゃない。 接近し、注視してもこの光景は変わらない。 なん、だ……? ………… これって……? その姿は瞳だけでは捉えきれず、だから俺は手を伸ばす。 ちゃんと服を着ろ、じゃないと風邪をひくぞ、こさめさんに触れることができたなら続く言葉はそれだろう。 だが、できない。 つかもうとしてもすり抜ける。 俺の指先は空を切る。 悪い夢を見ているよう。 満月の夜は……だから、嫌いだったのに…… 猛る満月、その下に立ち、儚げな肌をさらしたまま。 今日は、一日部屋にいるつもりだったんです…… 月明かりは素通りする。 スポットライトはこさめさんではなく、まとう衣装だけが空しく浴びている。 主役は、舞台に立っているようで降りている。 今日は、外出しないつもりだったのに…… 誰とも会わないつもりだったのに…… なのに…… 小河坂さんのせいですよ…… 小河坂さんが……期待を持たせるようなことをして…… あなたが……わたしを、デートに誘って…… 腕を、組んで…… 一日だけでも、恋人になって…… だから…… 瞳でも腕でも捉えられない、白く儚い肢体。 満月よりも美しいのに、その存在を許されない。 もしかしたらって思って、外に出たんです…… ずっと……満月の下に立っていなかったから…… この身を知って以来……立っていなかったから…… だから……その間に、わたしの身体……普通になってたらいいなって…… ほかのみんなと、一緒だったらいいなって思って…… そうすれば……堂々と、デートできるかもしれない…… 恋……できるかもしれない…… また……小河坂さんと、腕が組めるかもしれない…… 小河坂さんを……好きになれるかもしれない…… 資格を……持てるかもしれない…… 口調は悲しみと諦めに彩られ。 だけど……代わりませんね…… やっぱり……ダメみたいです…… 幽霊さんには……恋は難しいみたいです…… 満ち欠けを繰り返す月…… 晴れた夜は、満月を避けるように、部屋ではカーテンを閉めていました…… それでもその光は明るすぎて、完全には遮断できず…… そのためか、どうしても頭から離れない…… 月の満ち欠けに想いを馳せてしまう…… 明けない夜がないように、いくら欠けていたとしても、満ちない月はないから…… 時間が経てば満ち、また欠けても、時間が経てば何度でも満ちるから…… だから、わたしは、思ったのかもしれません…… 時間が経てば、わたしの身体も、満ちるんだって…… 満月のように、誰の目にもはっきりと映るんだって…… 今はこの身体が欠けていても、いつか…… 満たされないこの心も、いつか…… その日を、信じて…… 満ちることを信じて…… 叶わない夢を信じて…… こさめさんは寂しげに笑った。 その表情は、涙は決して見せなくても泣いていた、あの夜のこさめさんと同じだった。 わたしのこの身体は、〈夢幻〉《ゆめまぼろし》なんです…… 一見するだけでは、わたしと皆さんは同じに見えるかもしれません…… ですが、実際は違うんです…… 現実の風景と写真の風景が同じに見えてしまうように…… わずかな解像度の違いなんて、人は識別できないから…… 人の視覚には、限度があるから…… 人の感覚には、限界があるから…… だけど、やっぱり違いはあるんです…… 満月の夜には、それが現れてしまうんです…… 突きつけられてしまうんです…… 俺は言葉を口にできない。 代わりに伸ばした腕も、やはりこさめさんを素通りする。 つかまえられない。 すり抜ける。 それが夢幻ということ。 だからそこにはいないということ? こさめさんはいないということ? ……そうか そういうことなのか。 こさめさんという少女は、そういうことなのか。 わかっていただけましたか……? ……ああ。わかったよ でしたら……もう、帰っていただけますか…… 神社の手伝いも……やめていただけますか…… わたしに……優しくしないでいただけますか…… わたしを……迷わせないでいただけますか…… こんなわたしを見たら……人は普通でいられなくなる…… 変わってしまうんです…… 満月で変わったわたしを見て……人は変わってしまうんです…… それは大切な日常が壊れてしまうということ…… だからわたしに、資格はない…… わたしには、恋をする資格がないんです…… 俺は、目を閉じる。 思い出せ。 俺は経験を積んでいる。メアと接することで得られている。 ならばそれを生かせ。 死神でも宇宙人でも、幽霊でも。 たとえ夢幻だったとしても関係ない。 惑わされるな。 視覚は誤魔化せても、感覚は誤魔化せても。 その気持ちだけは誤魔化されることはない。 そこにこさめさんがいる。 こさめさんがいるんだ。 それだけでいい。 それだけを感じることができるのなら。 それだけを信じることができるのなら。 ほら──── つかまえたぞ、こさめさん 満月の光を透過する儚く美しかった身体。 腕に包み込むことができたなら、たしかなぬくもりをもって明確に姿を現す。 こさめさんの姿は満ちる。 それが、夢幻ということ。 叶えられる夢ということ。 ウソ…… こんな……ことって…… こさめさん、メアのカマをケガもなく握ったときがあっただろ それを参考にさせてもらったんだ だから、心だけは惑わされずにすんだ。心眼ってやつだ こさめさんのおかげで、こうしてつかまえることができたんだよ こさめさんの唇が震えている。 瞳はまだ驚きに見開いている。 それが本当なら……それは、小河坂さんの力です…… わたしたち星天宮の巫女は、訓練を受けていますから、〈夢幻〉《ゆめまぼろし》に惑わされることはない…… 視覚を始めとする感覚に騙されて、本質を見誤ることはない…… だけど……それでも、限度があるのに…… お母さんや、雪菜先輩だって……満月の日は難しかったのに…… わたしの姿を捉えられなかったのに…… こさめさん、好きだ ………… 言霊って、あるのかもな 俺、何度も言ったよな 冗談だって思われたかもしれないけど 俺自身、冗談だって思っていたかもしれないけど…… なんかさ、もう、本気になったみたいだ ………… 誰よりも、こさめさんを好きになったみたいなんだ それがこさめさんを捕まえることのできた、なによりの理由。 う……ひくっ…… こさめさんの涙。 それは、いくら泣いても決して見せようとしなかった、こさめさんの涙。 小河坂さんが……抱きしめてくれたから…… だから……わたしも、身体を保つことができる…… 心を、強く持てる…… わたしは、ここにいるんだって…… ちゃんと……いるんだって…… いても……いいんだって…… ありがとう…… お礼なんかいらない じゃあ……どうすれば…… キスしていいか? ………… ダメか? 小河坂さんが……エッチな狼男さんに、変身してしまいました…… そうなるように、誘われたからな 誘ってなんか……ないです…… 半裸で立ってたじゃないか 小河坂さんが……勝手に覗いただけです…… キス、するからな ………… 唇、奪うからな 顔を寄せていく。 こさめさんは離れようとはしなかった。 その唇は人としての体温に満ちていた。 ぁ……はぁ…… 奪われて……しまいました…… そうだな 無理やりされてしまいました…… 了承と取ったんだけどな 無理やりエッチなことをされました…… ……キスだけだぞ 充分……エッチです…… だって……わたし…… こさめさんの声も表情も、今はもう穏やかだった。 キス……初めてですから…… 男の人とは……初めてですから…… 姫榊とやってたもんな はい……ですけど姉さんに、ファーストキスにはならないって言われてしまいましたから…… これが……ファーストキスです…… 小河坂さんに……奪われました…… 無理やり奪われてしまいました…… あんまり無理やりを強調して欲しくないけどな 言わせてください……この身に刻ませてください…… 小河坂さんに、わたしの初めてをあげたんだって…… Sのこさめさんらしくないな 小河坂さんがもっとSだっただけです…… それも語弊があるけどな 小河坂さんに……初めてを、無理やり奪われてしまいました…… そう、何度も何度も繰り返す。 あなたに……あげてしまいました…… 身体にも、心にも刻みつける。 なくならないよう、消えてしまわないよう。 あなたに……初めてを…… もっともらっていいか? ………… わたしには……恋をする資格は…… ある。資格、あげたじゃないか ………… 俺が言うだけじゃ、説得力ないか? ………… はい…… 言うだけじゃ……わかりません…… 言葉だけじゃ……まだ、わかりません…… だから…… こんにちは、小河坂さん ああ。こんにちは 待ちましたか? いや、今来たところだ 彼氏さんの模範的な回答ですね これで本当は三十分くらい待ってたらそうなんだろうな 違うんですか? 違うな それはしょんぼりですね 三十分前に着いたら、もうこさめさんが来たのだった。 今日もいい天気ですね そうだな。出かけ日和だ 昨夜、月見のあとに約束したのだ。 以前にやった恋人ごっこは中途半端に終わったから、続きをしようと。 そして、もうごっこではないと俺は思っている。 デートにお誘いいただき、ありがとうございます それは彼女の模範的な回答じゃないな では、どう答えたらいいんでしょう? デートしてあげるんだからありがたく思いなさい、とか デートして差し上げるんですから、ありがたく思ってくださいね わたしのクツをお舐め、とか わたしのクツをお舐めになってくださいね ……なにか違うな 物腰が柔らかいせいだろう。 小河坂さん、わたしを女王様にしたいんですか? こさめさんの模範的な回答を考えたんだけど ……わたしをいじめて楽しんでいるんですか? そんなことない 小河坂さんのキスマーク、まだ残っていますよ そう言って髪をかき上げ、首周りを見せる。 小河坂さんがわたしをいじめた証ですよ ……違うだろ 違いませんよ。これをほかの人に見せたらきっとわたしの主張が通りますよ いつものこさめさんの冗談だって思うだろ ……まだ、痛いんですよ ………… 初めてだったんですから…… 黙るしかなくなった。 ヤケドの痛みはすぐなくなったのに、小河坂さんからもらった痛みはなくならないんですよ…… ……いじめているのはむしろこさめさんのほうだ。 歩くのは平気か? 辛いかもしれません…… ……無理することないからな 今日じゃなくても、デートはいつだってできる。 家で休むか? 帰るなら送って…… ……それは、模範的な回答じゃありませんよ こさめさんは俺のほうへ寄ってくる。 彼氏さんなら、わたしが歩くのを手伝うべきですよ…… 寄り添い、腕をそっとからめてくる。 こうやって、デートを楽しむべきですよ はにかんで、そう言った。 まずはどうする? 小河坂さんの行きたいところでいいですよ 俺もこさめさんの行きたいところでいいぞ それだと、いつまでも決まりませんね 前もこんな調子だった。明日歩の喫茶店を出て、商店街をこんなふうに散歩していた。 ミルキーウェイ、行くか? そこなら休めるぞ ……いえ。こうしていれば、歩くのは平気ですから それに、こうしているのを明日歩さんに見られるのは、とても勇気がいることです 恋人ごっことは違うと、こさめさんも思っている。 隠したいわけではありません……。親友の明日歩さんだからこそ、隠すことはいたしません ですけど、わたしは明日歩さんの前でどう振る舞えばいいのかわかりません もし明日歩さんが悲しんだら、わたしも悲しくなりますし…… もし明日歩さんが笑顔でいたら、やっぱり悲しくなると思うんです 俺も、どうするべきかわからない。 この問題に答えなんかない。 そして、最も危惧するのは、明日歩さんがからかってきた場合です そのときは、わたし、なにも言い返せないと思います からかわれるだけ、からかわれるしかないと思います…… それが一番、悲しいです 要するにSなんだな 小河坂さんほどではないですけどね 学校が始まったら、どっちにしろ隠せない。こさめさんだってわかっている。 だから、今はデートを楽しむことを優先しよう。 この前の続き、しようか ……続きですか? ああ。前のデートは、運河のところで終わったから。そこから始めよう 本当の恋人同士で、デートを楽しもう。 涼しい風が吹いている。 とはいえ寒いということはない。快晴の天気もそうだが、休日だけあって人が多いためだ。 人いきれが気温を上げている。 腕を組んで運河を見下ろす俺たちに、通り過ぎざまに視線を振る観光客もいる。 こさめさんは美人なのだ、男ならつい振り返ってもおかしくない。 隣にいる俺は釣り合っているのかどうか、不安にはなるがおくびにも出さない。 俺がそんな態度だと、こさめさんまで不安がる。 わたしたち…… カップルに見えると思うぞ ……そうでしょうか 俺が釣り合ってればな ……わたしのほうが釣り合わないと思いますよ それだけは絶対ない なぜでしょう? こさめさん、かわいいからな ……わたしたらしですね だから、こさめさんが何者でも問題にならない。 満月の下でも触れることができたのだから。 抱くことができたのだから。 鼻の下、伸びてませんか? 言いがかりはよしてくれないか 紳士さんを装う狼さんですね 腕に、よりいっそうふくよかな胸が押しつけられる。 鼻の下、伸びますか? チョップする。 ……なぜかツッコミをいただきました 俺を変身させようとした罰だ ……こんなところでもですか? こさめさんのせいでな 夜じゃないと満月は見えませんよ? 俺にとっての満月はこさめさんだ 口説き文句ですね デートだしな えいっ ふにゅんと押しつけてくる。 チョップする。 ……またいただきました 自制のためだ ……自制でしたら自分をツッコむべきです こさめさんも自制するように えいっ ふにゅん。 チョップ。 ……ほとんど同時でした 必死な自制だからな えいっえいっ ふにゅんふにゅん。 チョップチョップ。 ……二回もいただきました 二回されたからな えいっ ふにゅん、チョップ。 ……してもこさめさんは離れない。 肘が谷間に埋まってしまっている。 ……それは俺にずっとチョップをし続けろと? 本物の紳士さんはそんなことはいたしませんよ 本物の紳士を目指しているので埋まったままにしておく。 デートの間は、ずっとこのままですよ ……俺は自制できるだろうか。 紳士さんならこれくらいなんでもありませんよ 努力することにする。 俺、雲雀ヶ崎ってまだそんなに歩いてないんだよな 引っ越してきて、まだ二ヶ月ですものね こさめさんは首をちょこんとかしげる。 ですけど、小河坂さんは子供の頃にも住んでいたんですよね? あまり外に出ない子供だったからな。実際、このあたりは初めてみたいなものなんだ それでは、観光客さんと同じですね せっかくの観光地だしな。ガイド、してくれるか? はい、とこさめさんは控えめにうなずいた。 運河の近くの商店街は、オルゴール堂や〈硝子〉《がらす》館が多く並んでいるんですよ 硝子館って、ガラス細工の店か? はい。ガラスの食器やインテリア、アクセサリーなどを扱っているんです 道路をはさんだ両脇には、めずらしい形の店が立ち並んでいる。 日本のガラスの歴史では、大正時代に最も優れた作品が残されたそうなんです 古めかしい店が多いのは、その頃の様式を受け継いでいるからなんですよ 透き通るようでいて、部屋明かりに輝くガラス細工は、雲雀ヶ崎が誇るお土産のひとつにもなっているんです 聞いてると、こさめさんの肌みたいだな 昨夜に抱いた透き通るような肌は、月明かりを浴びて美麗に輝いていた。 わたしの肌……ですか? ああ。さわって曇らせるのがもったいないくらいだった ……変身ですか? しないから えいっ ふにゅん。 堪え忍ぶ。 えいっえいっ ふにゅんふにゅん。 ……心頭滅却する。 小河坂さん。わたしの身体は、どうでしたか? 今度は、からかいの口調とは違っていた。 小河坂さんが抱いたわたしの身体は、どうでしたか…… わたしはこれまで、自分の身体を氷の彫刻のようだと考えていました 冷たく精緻で、作り物めいた、まるであたたかみの感じられない肌だと思っていました ですから、小河坂さんも…… あたたかかったぞ ………… 氷どころか、日だまりだった 月の光というよりも、陽の光だった。 満月よりも、太陽だったのかもしれない。 こさめさんの身体は冷たくなんかない 氷みたいに透き通って、雪みたいに真っ白くて、誰よりも綺麗で美しくて…… でも、人と同じぬくもりがあって だから、俺は好きだぞ ………… 今も、すごい感じてるしな 埋まるほど触れた箇所から、強く感じ取れる。 こんなカンペキな彼女ができて、俺は最高に幸せ者だ ……だからこんなところでも抱いちゃうんですか? からかいの口調に戻った。 だから答えた。 そうだな 往来も気にせず抱きしめた。 こさめさんはびくっとした。 強張った肩。息づかいが胸に伝わる。 やっぱり、それはとてもあたたかい。 離れて、腕を組み直す。 こさめさんの顔は真っ赤だった。 びっくり……しました…… ぎゅうっと、強く腕にしがみつく。 押し当てられる胸から、心臓の鼓動が届いた気がした。 なに……するんですか…… こさめさんがしろって言ったんじゃないか 言ってません……聞いただけです…… して欲しいのかと思った ち、違います……恥ずかしいです…… 自制が切れたみたいだ 紳士さんじゃ……ないです…… こさめさんが誘うからだぞ 誘ってなんか……ないです…… それでも、腕にやわらかい感触は健在だ。 人に見られたかもな 見られました……絶対…… いいんじゃないか よくありません…… 俺はよかった どうして…… ほかの男にうらやましがられるからな ………… 俺さ、ちゃんと聞いてなかったかもしれない なにをですか……? こさめさん、俺とつきあってくれないか ………… 俺の恋人になってくれないか 昨夜も言ったは言ったが、こさめさんからはっきりと答えをもらったわけじゃない。 ごめんな。順番、逆になったな 本当です……先に抱かれてしまいました…… 俺のほうは、もう恋人になったと思ってたんだけどな ………… 返事……聞いていいか? こさめさんは返事をする代わりに、こう言った。 小河坂さんに……お話があります あなたに、大切なお話があります…… 神社に、来ていただけますか 返事は、そのあとでもよろしいですか…… デートは、またしても途中で終わった。 俺たちは駅に戻り、電車に乗って神社に向かう。 もともと神社の手伝いをするつもりもあった。思ったよりもそれは早くなってしまったようだ。 境内を掃き終わる頃には夕陽の光が差し込んでいた。 陽は短くなっている。夕風も冷たくなる一方だ。 あと少し日々が過ぎれば、日中も半袖では辛くなるだろう。 掃除の間、こさめさんは静かだった。 なにかしら決意をした顔で、竹箒を使って落ち葉を集めていた。 こさめさん、終わったぞ ……はい。今日も、ありがとうございました 今週は手伝うって言ってただろ ……そうでしたね こさめさんがよかったら、来週からも…… 小河坂さん 俺の言葉に割り込む。 それも含めて、先に話しておきたいことがあるんです こさめさんは移動する。 社殿のほうに来ていただけますか。そこならふたりきりでお話しできます 誰にも……特に姉さんには、聞かれたくない話ですから 社殿の中を見るのは二度目だった。 初めては、姫榊が神楽を舞った祭りの日。 二度目の今日、俺は正座をしてかしこまるこさめさんから、昔話を聞かされた。 七年前の展望台で起こった人身事故。 そこで、こさめさんは命を落としたこと。 姫榊の降霊によって仮初めの命を与えられたこと。 こさめさんは、社殿に飾られた御神体を依代として、この世に留まることが許されていること……。 この話は、誰にも言わないようにお願いします 特に、姉さんには絶対に話さないでください 姉さんは、降霊のショックからか当時のことを忘れているんです もし話してしまったら、薙刀でばっさり斬ります。冗談ではなく本気です 姉さんには、自分で気づいて欲しいから…… 俺はどう受け止めていいか、すぐには判断できなかった。 にわかには信じがたい話だと思います。だから小河坂さんが困惑するのも無理はありません ……だけど、本当のことなんだな? はい こさめさんは立ち上がり、神座に飾られた御神体を手に取った。 これは星天宮に安置された御神体……。その正体は、過去に雲雀ヶ崎に落ちた隕石です わたしたち星天宮の者は、古来より隕石には〈星神〉《ほしがみ》様が宿っていると言い伝え、神社を建てて祀ってきました 〈星神〉《ほしがみ》様が現世に姿を現し、悪さをしないよう、その依代を安置して鎮める役目を担っていたんです だから、ひとたび〈星神〉《ほしがみ》様が目覚めたら、わたしたちはそれに対処しなくてはなりません 〈星神〉《ほしがみ》様を鬼として扱い、討たねばなりません まつろわぬ神として、送り還さねばなりません…… それが、星天宮の生業なんです そして、それはこのわたしにも当てはまります わたしは〈星神〉《ほしがみ》様の力を借りて、現世に留まっていますから…… いずれ、星天宮に討たれてもおかしくない わたしは、安息に暮らす人々にとって邪魔な存在なんですから 俺が口をはさむ隙を与えず、こさめさんは言葉を継ぐ。 わたしが借りているその力は、満月の日には弱まるようではありますけれど 雲雀ヶ崎隕石に宿る〈星神〉《ほしがみ》様の特性なのかもしれません わたしの身体は、月の干渉を受けやすいんです 月の輝きとは、太陽の光を反射しているものです 逆を言えば、満月は、月本来の光が最も弱くなるんです だって、昼には姿を出すことが容易なわたしですから 昼の月は見えなくても、ちゃんとそこにあるから…… たとえ地平線に沈んでしまっても、光は届くから…… 地球から最も近い天体である月は、遠く離れた星よりもその光が強いから…… 月そのものは、満月よりも強く輝くから だから、もしかしたら、雲雀ヶ崎隕石とは月の石なのかもしれません…… わたしは、月の光を分け与えられて、ここに存在しているのかもしれません 月光のようだったこさめさんの肌。 美しくも儚く見えている。 こうしたオカルトの見地ではなく、医学的な見地からもわたしは人とは違うようです 医師である父が行った検査でも、そのような結果が出たんです 父は、現代医学の限界を嘆いていたようです たとえばそれは、末期のがん患者と同じかもしれません 現代では治せなくても、未来には治るかもしれない。ですが患者にとっては、それでは遅い 命が尽きてからでは遅いんです わたしだって同じです この身体が人と違うのなら、同じになりたい。それが無理なら、諦めるしかない この身を受け入れ、死を待つしかない…… その死が幸せな死であるよう、わたしは努力するべきだと思うんです お別れする相手も幸せでいられるよう、努力するべきなんです…… ……こさめさん 俺は初めて口をはさむ。 今の話だと、こさめさんはもうすぐいなくなってしまうみたいじゃないか はい こさめさんが人と違うのはわかった、だけどそれは病気と違う。なんでいなくなるようなことを言うんだ? 幽霊さんは、成仏するのが常だからですよ それが一番、ハッピーエンドだからですよ わたしにとっても、皆さんにとっても…… その言葉で、こさめさんがこれまで何に苦しんでいたか、理解できた気がした。 ……こさめさんは、辛いのか? ………… 幽霊のままというのは、辛いのか? ……はい なにが辛い? どこか痛いのか? はい どこだ? ここです こさめさんは胸に手を当てる。 心が、痛いです いつ星天宮がわたしを送り還すかわからない。いつ〈星神〉《ほしがみ》様から力を借りられなくなるかわからない いつまでもこうしていたら、突然皆さんのもとを離れることになるかもしれない…… 突然あなたのもとを去るかもしれない…… それがいつなのかわからない それが、辛いです 氷が水となり、いずれは蒸発してしまうように…… いつなのかわからないのに、それが摂理のように消えてしまうと定められているのが、なによりも辛いです だったら 答えは最初から決まっている。 こさめさんがいつ消えてもいいくらい、いついなくなっても後悔がないくらい…… こさめさんを、幸せにする 俺が幸せにする 不安に思う暇もなく、俺が幸せにしてみせる ……できるんですか? ああ それで、あなたも幸せでいられるんですか? いられる わたしは、人ではないんです わたしの身体は、人の身ではないんです 小河坂さんは、それでもわたしの身体を好きだと言えますか? 言える わたしを好きだと言えますか? 言える 気が変わったらどうしますか? そのときは薙刀でばっさり斬ってくれ ………… ……嫌です それでは、意味がありません…… わたしは、小河坂さんと離れたくない…… なのに、ばっさり斬れるわけがありません…… わたしより先にあなたがいなくなるなんて、それはとっても残酷です…… なら、こさめさんのそばにいるさ ずっとな ……ずっと、ですか? ああ 登校するときも一緒ですか? ああ ご飯を食べるときも一緒ですか? ああ お風呂に入るときも一緒ですか? ああ ……エッチです 寝るときも一緒でいいぞ ……とってもエッチです こさめさんたらしだからな いつでも一緒にいてくれますか? ああ いつまでも一緒にいてくれますか? ああ 望むのだったら登校のときも腕を組んで、昼休みにも寄り添って、帰宅してからだって隣にいる。 できるのなら、死んでからだってそばにいる。 わたしは……所詮、〈夢幻〉《ゆめまぼろし》なのに…… たとえ誰かにとってそうでも、俺にとっては違う 俺にとって、こさめさんはこさめさんだ かけがえのない女の子だ ………… 証明……できますか? できる どうやって…… こさめさん、好きだ 俺と、つきあってくれ 俺の恋人になってくれ こさめさんは、そして初めて返事した。 ……はい その気配を感じたのは偶然ではなかった。 諏訪雪菜は陽が落ち夜を迎えるとこうして星天宮に足を運ぶことが多い。 それは万夜花への仕事の報告が主な理由だったのだが、ここ数日は違っていた。 今、こさめが社殿を出ていった。 普段はカギをかけているのになぜそこにいたのかは知らないが、こさめがこちらに気づかずにそのまま裏手の林道に消えると、入れ代わりに気配を感じたのだ。 こさめを狙う、剣呑な意志を。 ……こさめを追うのか? ………… 隠れているのはわかっている。姿を見せろ ………… この私から逃れられると思っているのか 相手は姿を現さない。無反応。 雪菜は声に力を込める。 私が丸腰ではなかったことが運の尽きだな。本来なら社殿に置かれている薙刀は、ここにある こさめを送り還す許可を得た、私の手に今はある だから、キミのような輩を追い払うことも簡単だ 落ち葉を踏みしめるがさりという音。 横手の林から姿を見せたのは巫女だった。 星天宮の巫女。 それは想像どおりだったが、雪菜は驚いた。 ……ほう、キミか 飛鳥〈伊麻〉《いま》か ………… 年端もいかないキミが派遣されてくるとはな。まさかキミから志願したわけでもあるまい 雪菜は矢継ぎ早に言葉を投げる。 キミは、この雲雀ヶ崎の出身だと聞いている。だがキミ自身は記憶を失っているとも聞いた 事故なのか、それともほかの原因か 何者かが送り還したのか…… まあ、知りはしないがな ………… 飛鳥伊麻と呼ばれた少女は黙したまま、感情のない瞳を雪菜に向けている。 キミは、総本社から派遣されてきたのだろう? 伊麻は、やはり答えない。 今夜だけではないな。数日前から気配を感じていた 狙いはこさめ、そうだな? ………… 私が任務を遂行できないため、総本社がついに痺れを切らしたのか それとも、最初から私だけに頼らず、ほかの者にも命じる予定だったのか…… 星天宮は、星神から光を与えられて現世に留まるこさめに対し、これまで黙認を貫いていた。 だがそれは、こさめの存在を許したという意味ではない。 機会を窺っていただけなのだろう。 それが、万夜花からの依頼によっていったんは雪菜に託され、その目処が立たないと見るや刺客を送り込んできた。 こさめの討伐に、総本社は本腰を入れたのだ。 どうなんだ。私の言葉は当たっているか? ………… 教えられないか。キミの判断かは知らないが、正解だ 私は、今やキミらの敵だからな ………… 話すのは初めてだったが、キミは無口なんだな ………… ……そちらは、案外おしゃべりなのですね そうだな。総本社にいた頃よりも、そうかもしれない 影響を受けた、ひとつの証かもしれないな ……あなたには、失望しています 気が合うな。私もなんだ 私も、こんな自分に失望している ………… キミは一見、普通の少女にしか見えないが。霊能者としての資質には秀でていると聞いている ………… さて、それでは武芸のほうはどうかな 邪魔が入らないよう場所を変え、キミの力を見せてもらおうか そのときには、私の力も見せてやろう 雪菜は実に楽しげに、口端を歪めた。 雲雀ヶ崎に来て一年と半年、それだけの期間を私はあの奇天烈な上司と過ごしてきた ストレスがたまっているんだ。わかるだろう? よって、私は加減できんぞ──── 目覚めると、腕に抱えていたはずのぬくもりが消えていた。 こさめさんの姿がない。 寝ぼけた頭で声は聞いていた。きっとそれはこさめさんの声だったのだが、内容はすぐには思い出せなかった。 身体が冷えている。 陽は落ちているようだ。 俺は衣服を整え、社殿を出ることにした。 境内も無人だった。 半袖では肌寒かった。上に羽織るものが欲しくなる。 夜空には満月が猛々しく輝き、眼下の石畳を淡彩の絨毯に変えている。 こさめさんは自宅に戻ったのだろうか。 一言くらい声をかけて欲しかったと考え、俺が聞き逃しただけだったなと苦笑いする。 こさめさんを抱いたぬくもりは夜風がさらっても、記憶には鮮明に残っている。 だったら、別れ際の言葉も思い出せる。 ……別れ際? 俺たちは恋人になったのだから、なぜ別れる必要があるんだろう。 いつでもそばにいると俺は言った。 こさめさんだって受け入れてくれたのだと思っていた。 なのになぜ、今は違う? こさめさんはいなくなっている……? ……小河坂くん 足音が聞こえたと思ったら、姫榊が境内に入ってきた。 なに間抜けな顔で突っ立ってるのよ ……誰が間抜けな顔だ こんな時間まで仕事してたの? いや、夕方には終わったんだけどな。今、何時だ? 七時半 ……もうそんなか 今までなにしてたのよ そっちこそ、なにしてるんだ? ここはうちの神社なんだからわたしの勝手でしょう なんでそんなにツンデレなんだよ どこもデレてないでしょっ、むしろこさめのほうじゃないの あの子、あなたのことが好きみたいだから 不機嫌そうに言っていた。 ……こさめさんから聞いたのか? 聞いてない。だけど、態度や雰囲気だけでわかるのよ 双子だからか そうよ。それより、なんであなたがここにいるのか質問に答えなさい なんでそんなにツンデレ委員長なんだよ ツンデレじゃないし委員長でもないわよっ ツンデレ委員長は前の学校のクラスメイトである。 って、そんなのはどうでもいいんだ ……わたしを怒らせて楽しんでるわけね Sだからな SはSでもヘタレSでしょ ……違うから で、こさめはどこ行ったのよ 姫榊はさっきから境内を見回している。 一緒に仕事してたんでしょ? 夕方までな。こさめさん、家にいるんじゃないのか? いないのよ。ケータイもつながらないし 夕飯の時間になっても帰ってこないから、捜しに来たんだけど…… 姫榊は顔を曇らせる。 頭痛がするのか、額に手を当てる。 ……どうした? どうもしないわ。最近、寝不足なだけよ 夢見でも悪いのか ……そうよ 姫榊はそっぽを向いて。 あの子が、わたしに隠し事ばかりしてるから、気になって夢にまで見るようになったのよ…… 一瞬、こさめさんの過去が口に出そうになった。 だが姫榊には話せない。こさめさんからそうきつく言われている。 こさめさんは、姫榊に自分で気づいて欲しいと願っている……。 ……胸騒ぎが、するのよ 早くこさめを見つけなきゃって、急かされるの だからこうして捜しに来たの わかるのよ。わかりたくなくても、わかってしまうの 喪失感みたいなのを、感じるのよ…… うさぎは寂しいと死ぬんじゃない…… 抱きしめられると、死ぬんです…… ……なぜだ? こさめさんは、わかってくれたんじゃないのか? ここにいてもいいんだって、思えたんじゃないのか……? 小河坂くん、夕方まではこさめと一緒だったの? ……そうだ。だけど、いなくなった 俺も、こさめさんを捜してたんだ どこか心当たりは? あるかもしれない。だけど、絶対じゃない そう、と姫榊はうなずいた。 わたしは一度、家に戻るわ。こさめが連絡を入れてくるかもしれないから 居場所がわかったら、俺にも連絡くれ 小河坂くんも、見つけたらわたしに教えて 俺はうなずき、きびすを返す。 心当たりって、どこなの? 立ち去る前に答えた。 メアのところだ ………… こさめさん、あれから一度もメアと会ってなかったから 決着をつけてなかったから…… メアさん、いらっしゃいませんか? 聞こえていたら、出てきていただけませんか? 小河坂さんと一緒じゃないと、ダメですか? お願いします。わたしの前に姿を見せていただけませんか? ………… メアさん……。ありがとうございます ……なんなの、あなた わたしをお忘れですか? メアさんを襲った、いけない狼女さんですよ ……そうじゃない。あなたのことは、覚えてる 忘れられるわけがない。洋くんをケガさせたあなたを、許せるわけがない なのに、わたしはあなたに怒っているのに、なぜのこのこやって来たのか疑問に思っただけ ………… 懲りずにわたしを襲いに来たの ……いえ、逆ですよ 今夜は、メアさんがわたしを襲うんです ………… 遅くなりましたけど。その節は、申し訳ございませんでした お詫びに、そのカマでわたしをたたきのめしてください わたしを、送り還してください ……そう あなた、人じゃないのね はい だけどわたしとも違うみたい わたしは〈星神〉《せいしん》でも〈星霊〉《せいれい》でもありませんから ふうん ここに留まるべき存在ではありませんから ………… お願いします。わたしを、送り還していただけませんか いや ……なぜですか わたしはあなたが嫌いだから 嫌いであれば、カマでたたきのめしていただけませんか いや ……噂には聞いていましたけど、あまのじゃくなんですね 還ること、怖くないの? ありませんよ なぜ強がるの 強がってなどいませんよ 小河坂さんが好きだと言ってくれたわたしは、もう強がる必要がなくなったんです 強がらなくても、還るべきだと思うことができるんです 還りたいから、還るの? そうですよ どうして 小河坂さんが好きだからですよ ……なにそれ メアさんも恋をすれば、きっとわかりますよ 小河坂さんを好きになればなるほど、好きになってはいけないと思ってしまう…… 小河坂さんがそばにいてもいいと言うほど、そばにいてはいけないと思ってしまう…… 小河坂さんのそばにいたいと思うほど、還らなければと思ってしまう 変ですよね。矛盾しています メアさんがわからないのも、無理はないと思います ………… 恋をすると、こんなふうにおかしくなるんですね…… ……べつにおかしくなんてないわ そうでしょうか うん なぜそう思うんですか? あなたは、強がっていない。そう言ったけど それは、自分が強くなったから、という意味じゃない あなたは単に弱くなっただけ もっと弱くなっただけ あなたは自信がなくなっただけ 洋くんを幸せにできる自信が持てないだけ あなたは他人のために還ろうとするんじゃなく、今は自分のために還りたがっているだけ 恋というものから、逃げているだけ ………… ねえ、こまめ ……いえ、こさめです 自信がないからって、なんで還ろうとするの せっかく生まれてきたのに ……え? 〈星神〉《せいしん》だか〈星霊〉《せいれい》だか知らないけど、そうして生まれてきたのに、なんでわざわざ還りたがるの わたしは……生まれてきた? 死んだのではなく…… あなたが何者かなんて知らないけど、あなたは生きてる だからわたしを襲うことができた。だから洋くんをケガさせてしまった あなたが死んでたら、わたしはあなたを嫌いになることはなかった あなたが洋くんを好きになることもなかった…… その逆も、なかった ………… ……自分で言ってて、腹が立った そんなメアさんが、大好きですよ ……バカバカ あなた、泣いてるくせに、バカバカ ……涙なんて、流れていませんよ べつにそれでもいいけど だけど、洋くんを悲しませようとするあなたは、やっぱりバカバカ ………… 小河坂さんは……わたしがいなくなったとして、悲しんでくれるのでしょうか…… 今さらそう考える時点で、あなたはおかしい ……それはやっぱり、恋のせいですよ この恋が、わたしが背負うには大きすぎるせいですよ 恋に大小なんてない。あなたが弱いだけ ……そうかもしれませんね まだ、還りたいなんて言うの ………… どうしても洋くんを信じられないって言うなら、悲しませてみればいい 試しに一度、洋くんを悲しませてみればいい 試しに…… それで自信がつくのなら、やってみればいい ……そんなことをして、メアさんは許してくれるんですか? わたしは関係ない 試しでもなんでも、小河坂さんを悲しませたら、メアさんは怒るんじゃないですか? ……洋くんなんてどうでもいい あまのじゃくですね ……やっぱり送り還してあげる メアさん。送り還すのではなく、〈柄〉《つか》でわたしをたたいてください 二度、たたいてください ひとつは、あなたを襲ってしまったお詫び…… もうひとつは、恋をする資格は持っても、自信を持てないわたしが、小河坂さんに迷惑をかけてしまうお詫び…… 力いっぱい、えいってたたいて結構ですから ……わかった それじゃあ、やってあげる バカバカなあなたに免じて、思いっきりたたいてあげる──── 展望台に入ってすぐ、メアを捜すつもりだった。 だが捜すまでもなくメアはいた。 まるで俺の訪れを待っていたかのように。 ……もう来た メアがカマを握り直すと、刃が月光を反射し、銀に煌めく。 メア 俺はメアに駆け寄る。 ここにこさめさんが来たか? 誰? 前にメアを襲った人だ それなら来た だが、姿は見えない。 首をめぐらすが、影も形も見つけられない。 こさめさんが来たんだな? そう言った 来て、どうなった? 不安はあった。 こさめさんが俺のもとからいなくなろうとしているのだとしたら、それは送り還されることと同義だった。 だからこそ俺の心当たりはここだった。 こさめさんは、どうなったんだ……? あの子は、いなくなった 不安が一気にふくらんだ。 それは……展望台を出たってことか? 違う。いなくなったの それは…… 口に出すのは勇気がいる。 それは、還ったということか……? うん ………… あれが、証拠 メアはカマで木立を示した。 長い樹の一本に、朱色の布が見える。 巫女装束だ。 枝にかけられたそれは、天女の羽衣のよう。 あの子の着ていた服 わたしと違って、服も一緒に消えるわけじゃないみたいだから ……消える? 還ったんじゃなくて? 間違った。あの子は還った ………… 洋くん……悲しい? 不意に聞いた。 あの子がいなくなって、悲しい? ……いや こさめさんは俺になにも告げずに還った。 それが本当なら、悲しみよりも、なによりも。 悲しくないの……? メアは驚いていた。 ああ ど、どうして…… ……どうしてって言われてもな それだと、困る…… なぜか慌てている。 一回、よけいにたたいたことになる…… 意味がわからない。 メア、それ貸してくれ ……え? カマ、貸してくれ。お願いだ どうして…… こさめさんに会うためだ 勝手にいなくなったこさめさんを、連れ帰るためだ 悲しみよりもなによりも、悔しさが勝っていた。 こさめさんにとって、俺はそばにいる価値のない男だと告げられたようで。 ふがいない自分が、悔しくてたまらなかった。 洋くん…… メアは瞳を見開いている。 まさか、あの子を追って、自分も還るつもり……? 無理だって言いたいんだろ。俺はこさめさんとは違うから、悪夢が刈られるだけなんだろ う、うん…… だけど、メアのカマは本来の用途にも使えるだろ 本来って…… カマは、刃物だ。刃物はものを切るために使う だから、命だってばっさり斬れるさ ……ウソ 本気だ 自分を斬るつもり……? そうだ む、無理……だって…… そのカマが夢幻だったとしても、できるさ 夢幻のようだったこさめさんも、抱きしめられた。 もし……できたら…… 俺は死ぬのかもな だ、ダメっ! なんで だ、だって、あの子はまだ…… ……そうか。 やっと確信を得た。 メアの素振りから、そんな気はしていた。 こさめさんは、まだ還っていないんだな? う、うん…… ここにいるんだな? うん…… だが、こさめさんの姿は依然見えない。 見つけることは、できないと思う…… あの子は、わたしと同じやり方で、消えたから…… 出てくるつもり、なさそうだから…… 洋くんから、逃げているから こさめさんは還っていない、それでもなにも変わらない。 こさめさんの気持ちは同じなのだ。 いなくなろうとする意志はなんら変わっていないのだ。 だから、俺はまだ、こさめさんをつかまえることができていない。 カマ、貸してくれるか? ……え、でも 言ったろ。こさめさんを、連れ帰るんだ そのためには、それが必要なんだよ 俺は夜空を見上げる。 今夜もまだ、満月だ。 十五夜の翌日は正確には満月ではないのだろうが、真円に近い曲線を描いている。 こさめさんの言葉どおり、こさめさんの身体が月に干渉されるのなら。 こさめさんは夢幻だと言うのなら。 こさめさんをつかまえる方法は、ひとつしかない。 昨夜、こさめさんをつかまえた方法とは違う。 そのときはこさめさんがどんなに薄らいでいても、まだ瞳には映っていた。 今は、見えない。 完全に消えている。 それでも俺はあの日、図書室でこさめさんに探してもらった本で知ったのだ。 幻覚に関する知識。 自ら夢幻状態になる方法を、知ったのだ。 俺はメアに、そして見えなくてもきっとそこにいるこさめさんに向かって言った。 逃げるのなら、つかまえる 俺が諦めることはない こさめさんをつかまえるには、これしか思い浮かばない だから、そいつを貸してくれ──── そう、か…… 今夜は、満月だったのだな…… こさめから聞いていたのにな…… 夜に出歩くことが多い私も、頭上の月を気にしたことはなかった…… 星空を気にしたことはなかった…… 星天宮の巫女だというのにな…… いや……星天宮の巫女だからこそ、か…… 私の関心は、力だけだったから…… 力だけを求めて生きてきたから…… 独りで生きる、力を…… 諏訪雪菜に身寄りはいなかった。 そもそも星天宮に集う巫女は出自不明の者が多い。 ある者は家族に捨てられ、ある者は家族を事故でなくし、ある者は家族と自ら縁を切る。 そんなふうに家族を忘れ、居場所を失い、社会からあぶれた者ばかりが集っている。 それが星天宮という名の一種の孤児院だった。 だから、過去に雲雀ヶ崎へと移り住んだ、当時の姫榊家もまた変わらない。 雲雀ヶ崎隕石を祀る役目を担った万夜花の母は、独りこの地で暮らしていたはずだ。 そんな中で添い遂げる相手を見つけ、彼女は万夜花という娘を生んだ。 のちに万夜花もまたふたりの娘を生み、今では家族として平穏な暮らしを営んでいる。 それは異例と言っていい。 修練を積んで手に入れた霊能力は、血筋で受け継がれやすいため、子供を作る者はいる。 だがそれは、家族として暮らす意味を持たない。 星天宮には男もいるので、あくまで血を受け継がせるためだけに同業者の間で子孫を残す。 雪菜を始めとする星天宮の巫女は、他人との馴れあいを極力嫌っている。 友達を作る、恋人を作る、家族を作るなんて行為は唾棄すべき愚行だった。 家族なんてものは信用に値しない。なぜなら自分らはその家族に裏切られた。 そのために独りを余儀なくされた。 望む望まないにかかわらず、独りだった。 それが自己の常であり体現だった。 孤独こそが安息の地となった。 なのになぜ、今さら家族を作ろうだなんて思えるだろう。 誰かのそばにいようだなんて望めるだろう。 誰かを好きになろうだなんて願えるだろう……。 私は、独りでよかったんだ…… それでなにも不都合はなかった……。疑問を抱くことすらなかった…… 恨むからな…… 私の友人になりたいなどと、惑わせて…… あげく、今の私は、この様か…… なあ、こさめ…… 境内からは離れた人気のない林の中。 雪菜は、もう見ぬ敵を追うのは諦め、身体を休ませている。 背後の幹はざらっとしていて負傷した背中をうずかせるが、立ち上がって帰途につく気力は失せていた。 相手にも痛手は負わせていた。 そのまま総本社に帰ってくれれば言うことはないが、再戦を挑んでくるにしろ向こうも傷が癒えるまで時間はかかるだろう。 飛鳥伊麻と再びまみえるのは、また次の未来の話。 ……そういうことか こさめの身は当分は安泰だと、安堵している自分に気づき、雪菜は自嘲の笑みを浮かべる。 雪菜は思い至ったのだ。 万夜花がなぜ、任務が失敗に終わって帰還しようとする自分を、雲雀ヶ崎に留めたのか。 この地を好きになって欲しい。そして、普通の学校生活を送って欲しい。 そういった思いもたしかにあったのだろう。 雪菜はこさめを送り還すためにこの地を訪れた。 それはこさめの希望らしいが、実際に総本社に申し入れたのは万夜花なのだ。 こさめを送り還すだけなのだったら、雪菜の助けを借りずとも、万夜花ひとりだけで事足りるというのに。 なのになぜ、雪菜はこの地でこうしているのか。 はめられたよ、まったく…… 万夜花はきっと、こさめを守護できる巫女が欲しかった。 腕の立つ戦巫女が欲しかった。 この先、総本社がいつこさめの討伐に乗り出すか、わかったものではないから。 だから私を、呼び寄せた……。 ……やってくれるよ、本当に あなたはやはり、私にとって、最悪の上司ですよ……。 ……くしゅっ あー……誰か、私の噂でもしてるのかしら それとも風邪かしら……。雲雀ヶ崎の寒さはこれからだってのに ……お母さん あら、こもも。部屋にいたんじゃないの? ……そうしてたけど、やめた。こさめからも小河坂くんからも、ぜんぜん連絡が来ないから こさめなら大丈夫よ。あの子には優秀なボディガードがついてるから ……誰よ、それ それより、先にご飯食べる? ……いい こさめを待つの? ……それもあるけど 体調……悪いの? ………… ……お母さん なに、改まって もう、隠さなくていいから ………… なにも、隠さなくていいから…… わたし、思い出したから ………… 毎夜の悪夢を見て……こさめのヤケドの治りを見て もう、全部思い出してたのよ こさめのことも、自分のことも…… ……そう うん それであなたは、どうするの? あなたは、こさめを還したい? それとも…… わたしは、力が欲しい ………… こさめは還りたがっている。だから、それを引き留められるだけの力が欲しい こさめを守れる力が欲しい こさめが、ここにいてもいいって思えるくらい…… こさめが頼れるくらい、わたしは強くなりたいの ……そう うん あなたは、悪夢を克服したのね うん あなたが秘める霊能力は、あなたが思っているよりずっと大きくて危険だわ それは、その力の使い方が赤ん坊と一緒だから だから、あなたは努力なさい 努力家のあなたなら、いつかきっと星天宮一の巫女になれるでしょう 星天宮の誰よりも強くなれるでしょう 星天宮の誰が来ても、負けることはないでしょう こさめを守れる力を、得るでしょう その日まで、私もこさめを守るから…… 雪菜と一緒に守るから 私はあの子の親だから 大切な、娘だから あなたと一緒で、私もこさめと離れたくない いなくなって欲しくないから…… 俺は冷たくなった草むらに横たわっていた。 メアから借りたカマは近くの木に立てかけてある。 メアは姿を消していた。 俺が頼んだのだ。しばらくひとりにして欲しいと。 あまり無様な格好は見られたくない。 そう、俺はあまり人には見せられない格好になっている。 こんなふうに鮮血にまみれている。 こさめさんがケガもなく握ったカマ、それを使って俺は自分の手首を切り裂いた。 こさめさんは、ケガをしないと思い込んだから、傷を負わなかった。 俺は逆に、傷を負いたかったから、こうなっている。 あふれる血を流れるままに任せている。 傷の程度は知らない。加減がわからなかったのだ。 ただ手っ取り早く出血したかった。ある程度の量が必要だと思われるので動脈を断ちたかった。 動脈は皮膚の奥のほうにあるらしいので深く切ったつもりではあった。 達したかは知らない。静脈で留まっているかもしれない。 だとしたら湯に漬けるなどしなければ出血はいずれ止まる。失血死には至らない。 どれも可能性の話でしかないので楽観はできない。 なにはともあれ、とんでもなく痛かった。 今でも痛い。痛い、痛くてたまらない。 だが耐えられるレベルだった。 下手をすれば死ぬかもしれない。 それでも耐えられるレベルだった。 こさめさんを手放すことに比べれば、どれもこれもが些細な問題でしかなかった。 ほかの方法も、あったかもしれないけどな…… だが手持ちの材料ではこれが最速だった。 最善ではないかもしれない、だけど最速でこさめさんをつかまえられる方法がこれだった。 自らを傷つけ、出血し。 夢幻状態になり、知覚のタガを外す。 そうすれば、ほら。 たとえ意識が薄らいでも。 たとえ瞳は霞んでも。 この視界にはたしかに映る。 俺の瞳は、求めた彼女を捕捉する──── なに……やってるんですか…… なんで……こんなことするんですか…… 信じ……られません…… も、もう……ほんとに…… こさめさんの涙が伝い落ち、俺の頬を濡らしていた。 ゆらいだ視界と意識の中、すべての感覚は遠くても、その肌のあたたかみだけは感じていた。 こさめさんは、いつからこうしていたのだろう。 初めからこうしていてくれたのだろうか。 こんなふうにして、初めから涙を流していたのだろうか。 お願い……します…… 無茶なこと……しないでください…… こんなこと……二度としないでください…… 恋は、人をおかしくさせるからな…… 月の光よりも、ずっと…… そうだとしても……やりすぎです…… ほ、ほんとにっ……信じられません…… あなたがこれじゃあっ、わたし…… 安心して、成仏できないじゃないですかあっ…… ……はは なに……笑ってるんですかあ…… 安心しただけだよ…… なあ、こさめさん…… 隠れたって、無駄だからな…… 逃げたって、意味ないからな…… 俺は、必ず見つけるから…… キミを、捜し出すから…… 会いにいくから…… そばにいるから…… 約束だ…… これは誓いだ…… キミがどこにいようとも、その隣に俺はいる…… 振り向けば視界に入る距離にいる…… 手を伸ばせば触れられる距離にいる…… そうやって、俺は…… キミを守ることにしたんだよ──── 夢を見ているようだった。 それは夢とわかる夢だった。 自覚がある夢。明晰夢。 だがおそらく一度目覚めたら忘れてしまうだろう、俺はあまり夢を覚えている性質じゃない。 忘れたと思っても記憶の奥底には保存されるのかもしれないが、じゃあ取り出す術を見つけるのはいつだろう。 俺は、できればこの夢を覚えておきたかった。 忘れたとしてもいつか取り戻したかった。 少女が立っている。 母さんだ。 母さんは若かった。 セーラー服を着ている。ヒバリ校の制服ではない。 中学校のものだろうか。 目の前の母さんは幽霊だろうか。 幽霊になると人は若返るんだろうか。 俺よりも年下に見える母さん。 なのに母さんだとわかったのはなぜだろう。夢だからだろうか。 なにか、言った気がした。 母さんは俺になにかを告げていた。 耳を澄ますと聞き取れた。 早く起きなさい。 そう聞こえた。 朝寝坊に怒るような、そんなたわいない日常の延長にいるみたいに。 早く起きなさい、と。 目覚めたら、おはようと言ってあげなさい、と。 あなたを待っている彼女に。 あなたが選んだ彼女に。 俺は、わかったと答えた。 母さんはほほえんでいた。 もう、心配ないかしら。 心配ないよ。 じゃあ、そろそろいくわ。 俺は返事に迷った。 いかないでくれと伝えたかった。 だけどもそれは俺が選んだ彼女に望んだのとは違った意味に思えたから言えなかった。 代わりにこう答えた。 今まで見守っていてくれて、ありがとう。 どういたしまして。 母さんは、からかうように言っていた。 あ…… 小河坂……さん…… 目が……覚めたんですね…… よかった…… よかった……です…… まぶたを開けるとこさめさんの顔がある。 涙で濡れている。なにをそんなに泣いているのかとぼんやりした頭で思考する。 拭ってあげたくなって手を持ち上げようとしたら痛みが走り、それでたやすく覚醒できた。 忘れかけていた夢の内容、そのかけらを取り戻した。 ……おはよう おはよう、こさめさん はい…… おはよう……ございます…… 手首に痛みを感じている。 そこは手当てのあとがあった。 記憶をたどった。 すぐに途絶える。 こさめさんの膝枕から暗転、ぷっつり途切れていた。 ここは……? お父さんが勤める病院です…… 病室……か? そうです…… 俺……やばかったのか……? こさめさんは首を振る。 拍子に涙が散った。 我慢ばかりしていた涙。最近はよく見かけていた。 いえ……命に別状はないそうです…… でも……なかなか起きなくて…… ……そんなに眠ってたのか はい…… 今日は、いつだ? 九月十七日です…… ……一日しか経ってないじゃないか 俺はハッとする。 まさか……実は、丸一年経ってるとか……? いえ……小河坂さんは一晩眠っていただけです…… 軽傷だったようだ。手首の出血もそれほどひどくなかったのだろう。 でも……ぜんぜん起きてくれなくて…… 今、何時だ? 朝の五時です…… ……早いな 小河坂さん……ぐすっ……起きてくれなくて…… ……いや、普通に寝てただけだ でも……起きなくてえ…… なんでもないから。もう全快だ でも……でもぉ…… こさめさんは寝ていないのかもしれない。 付きっきりでいてくれたのかもしれない。一晩中そばにいてくれたのかもしれない。 瞳が赤いのはそのせいもあるし、泣いているせいでもある。 そんな、心配しなくていいから 心配……しますよう…… だって……わたし…… 離れたくない…… 小河坂さんを……手放したくない…… わたしも……知ったんです…… 勝手にいなくなられて、残される人の気持ち…… やっと……知ることが、できたんです…… それなら、俺の行為も意味があったかもしれない。 不格好なところを見せた意義もあったかもしれない。 こさめさん その名を強く呼んだ。 言ったろ。俺は、そばにいるんだ 生きている間も、死んだあとだって…… これは奇跡に頼るわけじゃない、幸運にすがっているわけじゃない…… 俺は、俺の力でこさめさんのそばにいる だから、こさめさんも俺のそばにいて欲しい ……はい いつだって、あなたと一緒…… ずっと、一緒にいたい…… ふたりじゃないと抱えきれないくらい、この恋はとっても重くて、大きいんですから 蒼衣鈴は制服に着替えたあと、脱いだパジャマをハンガーにかける。 一学期ではそんな時間の余裕はなく、ベッドに脱ぎ捨てたままのほうが多かったのだけれど。 二学期が始まる今日、衣鈴は奇跡的に普通の時間に起きることができた。 原因は不明である。 もしかしたら終わっていない夏休みの課題を早々に諦めて就寝したのが功を奏したのかもしれない。 ……ふ 得意げに笑う。 衣鈴は見た目と雰囲気から勉強ができると思われがちだが、実はからっきしである。 一学期のテストでは赤点は免れたが、いずれ千波と一緒に補習を受けることもあるかもしれない。 ウザいことこの上ない。 ……この国って、窮屈 登校の支度は終えた。 あとはスクールバッグを肩に提げて部屋を出るだけだ。 コンコン。 ノックのあと、がちゃりとドアが開く。 朝だよ、お姉ちゃん。早く起きないと…… おはよう お姉ちゃん!? 驚愕した。 お姉ちゃんがこんな早く起きてるなんて…… 衣鈴とは反対に、鈴葉はいつも早起きだ。 早いって言っても、朝ご飯食べる余裕はないけど 急げばまだ食べられるよ? 食欲ないし、いい 朝が弱い衣鈴なので、朝食抜きはいつものこと。 鈴葉は急がなくていいの? そろそろ家出ないと遅刻するよ ヒバリ校に比べると小学校までは距離があるのだ。 今から出るところだよ。その前に、お姉ちゃん起こそうと思ったんだけど…… 毎朝、ありがとうね ううん。今日はお姉ちゃん、ひとりで起きてたし これが毎日続くとうれしいなっ 鈴葉はいってきますと告げて、部屋を出ていった。 今朝の早起きはあくまでイレギュラー。鈴葉の願いが叶わないのは、衣鈴が一番よく知っている。 衣鈴はスクールバッグからタロットカードを取り出した。 占っても、きっと寝坊という結果が出るだろう。 適当に一枚めくると、それは『〈恋人〉《The Lovers》』のカードだった。 友情や恋愛などが主な意味。 しかも正位置だ。 とすると、衣鈴は近いうちに誰かと友達になったり、誰かと交際を始めたりする。 ……ありえない 衣鈴は机にタロットカードをばらまいた。 その中に『〈恋人〉《The Lovers》』のカードも混ぜて、ぐしゃぐしゃとかき混ぜた。 それからもう一度、カードを引いた。 『〈恋人〉《The Lovers》』のカードだった。 またまた正位置だ。 ……死ねばいいのに 衣鈴は『〈死神〉《Death》』のカードを引くまでこの適当なタロット占いに没頭した。 『〈死神〉《Death》』の主な意味は、崩壊と終末。 そして、新たな始まり。 占いをしていたら、結局いつもの遅刻ぎりぎりの時間になっていた。 ……いってきます そうして衣鈴は、タロットカードをそろえてからバッグに入れ直し、急がず騒がずのんびりと部屋をあとにした。 あっ、蒼ちゃんだ。おはよーっ! ………… ちょうど家の前を通りかかった蒼さんが、千波のあいさつを憂鬱そうにスルーした。 蒼さん、新学期になってもこの時間なんだな ……先輩こそ、遅いんですね 蒼ちゃん蒼ちゃんっ、おはよーっおはよーっ! ……ちゃんと聞こえてるから でもでも朝のあいさつはおはようなんだよっ、蒼ちゃんが言ってくれるまで千波は何度でもあいさつする覚悟があるんだよっ ……ウザ 蒼ちゃん蒼ちゃんっ、おはよーっおはよーっ! ……ウザいの極み 諦めてあいさつしないとずっと続きそうだぞ 蒼ちゃん蒼ちゃん蒼ちゃんっ、おはよーっおはよーっおはよーっ! ……おはよう じゃあ俺も。蒼さん、おはよう ……おはようございます 二学期になっても三人一緒に登校だねっ 蒼さんはため息ひとつ残して坂を歩いていく。 ……洋先輩 なんだ? 彼女って、いますか? ……なんだ、急に いえ……単に気になっただけです 目線を下に落としている。 蒼さんは人と会話するとき、あまり目を合わせない。 彼女なんているわけないだろ。雲雀ヶ崎に引っ越してきたばかりなんだし ……じゃあ、前の学校ではどうだったんですか? いなかったよ ……そうですか それっきり口を閉ざした。 この質問はなんだったんだろう。 蒼ちゃん蒼ちゃんっ、千波にも聞いてみてっ 千波さん、彼女はいる? 千波は男じゃないから彼女はいらないよっ、花も恥じらう千波はどっちかっていうと彼氏のほうが欲しいかなっ 千波さん、彼女はいる? 早く彼氏はいるって聞いて欲しいよ蒼ちゃん!? 千波さん、彼氏はいる? 千波の彼氏はお兄ちゃんだよっ オニ・イチャン? 人の名前じゃないよ蒼ちゃん!? アオ・イチャン 死んだらいいと思います ……蒼さんが先にやったんだろ それより千波のさりげない告白がスルーされてるよ!? 千波さんは洋先輩が好きなんだ ……う、うん、誰にも言わないでね? もうすぐ予鈴鳴りそうだな のんびりと急ぎましょう 花も恥じらう千波が見事にスルーされてるよ!? こんな騒々しいやり取りも、一学期から続いている登校風景のひとつなのだった。 というわけで、天クルは正式に部として認められました 姫榊の言葉に、部員の間でおおーっ! と歓声が上がる。 始業式がつつがなく終了し、その後の部活会議に出席していた姫榊からの報告だった。 姫榊とメアも部員として登録されたんだよな? まあね。わたしは活動に参加しないけど 入部したのにか? 秋は生徒主導の行事が多くて、生徒会がいそがしいのよ それに、夏休みに何度か活動見たところ、特に問題ないみたいだし。監督のお役ご免ってところね ちなみにその際、姫榊から生徒会の誘いを受けてもいたが、俺はすでに正式に断っている。 なにはともあれ、今日は部員の皆さんで発足おめでとうパーティーですね ちょうど昼時だしね じゃあうちのお店来る? お昼食べながらぱーっと騒ごっか! ……私はもう食べてしまいました 蒼さん、なかなか部室来ないと思ってたら、学食いってたのか 朝食抜きの身でしたので。我慢できませんでした でも、おめでとうパーティーには来るんだぞ ……考えさせてください 考える時間、ほとんどないと思うけどな 下校しながら考えます 蒼さんを見張っていないと自宅に帰ってしまいそうだ。 パーティーはいいけど、その前に部費が支給されることになってるわよ 早速パーティー代で使えそうだね 部費、いるの? いるに決まってるでしょっ 一年分もらえるのかい? いえ、二学期と三学期分だけです。来年度になってもまだ部が生き残っていれば、四月に今度は一年分出ます ケチだなあ 規則に〈則〉《のっと》った処置だから 姉さん、ありがとうございました ふん 今から取りにいけばいいのか? そうよ。生徒会室までお願い 岡泉先輩、よろしくお願いします 部長として責任持ってあずかってくるよ 姫榊に先導されて、岡泉先輩は部室を出ていった。 これで新しい望遠鏡が買えるかもな 今までは明日歩さんものと蒼さんのもの、合わせてふたつだけでしたからね 蒼さんの望遠鏡は自分専用となっているので、実質はひとつみたいなものなのだ。 部費がいくら出るかによるけど、できたら全員分の双眼鏡も欲しいな~ 蒼さんにも望遠鏡用のキャリングケース、買ってあげられるな ……お気遣いなく 剥き出しのまま運ぶと傷ついちゃうし、一番に買ってあげるね お気遣いなくって言いました 蒼さん、遠慮しすぎるのも問題だぞ 遠慮してるわけじゃありません。必要ないから言ってるんです つまり照れ隠しか 冗談はよし子さんです ……何年生まれ? とにかく、私は結構ですから そう言われてもな あまり私に構わないでください 蒼さん、部員なんだぞ ……ウザ 無理強いするつもりはないけどさ だったらなおさら、私に構わないでください 明日歩とこさめさんは困った顔を見合わせている。 そろそろ帰ります ……いや、パーティーは? 考えた結果、不参加にしましたから 蒼さんは有無を言わせず去っていった。 ……蒼さん、天クルに参加してもらってるの、まだ迷惑だって思ってるのかな もともと部には入らないつもりだったんですよね 蒼さんは天体観測が好きというわけじゃない。 想い出の星空が好きだから、望遠鏡を持って夜の屋上を訪れているだけだ。 ……天体観測、好きになってくれるとうれしいな 今はそうじゃなくても、少しずつでも興味持ってくれるようにしないとな 勧誘をしたわたしたちの責任ですね その結果、蒼さんが退部すると言ったとしても、俺たちに止める権利はない。 そうならないよう、努力しなければならないのだ。 蒼さん、ちょっといいか リビングで夕飯後の食休みをしている蒼さんを呼んだ。 ……おめでとうパーティーについてですか? ああ、いや。蒼さんの不参加は残念だったけど、べつに誰も責めてないから ……そうですか でも、よかったら次は参加してくれよな ……次もあるんですか 機会はいくらでもあるからな 祝い事なんかなくても、いつだってできるのだ。 で、昼のパーティーで話しあったんだけど。天クルは毎週金曜を天体観測の日ってことで、どうだ? ……部活動の予定ですか? ああ 天体観測の日の翌日を土曜にすれば、土曜スクールはあっても基本休日だから遅くまで活動できるのだ。 ……屋上で天体観測するんですか? ああ。夏休みにやったみたいにさ ………… 蒼さんはオッケーか? ……もう決まったんじゃないんですか? まだ蒼さんの都合を聞いてないからな 蒼さんはぼんやりした瞳を俺に向けている。 ……私が反対したら、やめるんですか? そりゃ、部員の全員が賛成しないと意味ないからな じゃ、反対してみます わかった ……そんなあっさり 言ったろ。蒼さんも賛成じゃないと意味ないんだ ちなみに姫榊と、幽霊部員である雪菜先輩へは、こさめさんが尋ねることになっている。 こさめさんいわく、どちらも反対はしないけど参加もしないだろうということだった。 ……冗談です ぼそっと言った。 なにがだ? べつに天体観測は反対しないという意味です その代わり参加もしないなんて言わないでくれよ それはわかりません できたら参加してくれよな わかりませんって言いました これ以上は無理やりになりそうなので、引いておく。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……うるさいのが来た 千波これから鈴葉ちゃんと一緒にお風呂入ってくるねっ 了解、つーかべつに俺に断らなくていいだろ 千波たちが入ってるのにお兄ちゃんまで間違って入ってこないようにするためだよっ それ気遣うどころかおとしめてるからっ ねえねえ蒼ちゃんも一緒に入ろっ 死ねばいいのに お、お姉ちゃんも一緒がいい…… ……鈴葉、お風呂まで借りるなんて迷惑になるでしょ 遠慮なんかしなくていいのよ。四人で入ってきたらいいじゃない いや待ってくださいっ、ひとり多くないですか!? 誰も洋ちゃんのことだなんて言ってないわよ? 千波と鈴葉ちゃんと蒼ちゃんと詩乃さんの四人だよっ 洋ちゃんも一緒に入りたいの? そんなわけありませんから! ……先輩は死んだらいいと思います 今のは俺じゃなくても誤解する流れだっただろ!? ……お兄ちゃんが望むなら、千波はいいよ? じゃあ望みを叶えさせてくれ このぐりぐりは話の流れを無視してるよお兄ちゃん!? お風呂、見てくるわね。お湯が沸いたら呼ぶからね 詩乃さんはほほえみながらリビングを出ていく。 今夜はみんなでお風呂だねっ ありえない ありえない わ、わたしは、みんな一緒がいいです…… 鈴葉は私が必ず守る 俺をにらみながら言うなよ!? お姉ちゃんも一緒じゃないと、ブラジャーうまく外せないし…… 鈴葉ちゃん、もうブラつけてるの? は、はい。つい最近からなので、まだ自分で上手につけたり外したりできなくて…… 小学三年なのに早いんだな ……訴えますよ べつにセクハラ発言じゃないだろ!? ロリコン発言なんだよねっ 貧乳がなにつけ上がってんだ? それはまぎれもないセクハラ発言だよお兄ちゃん!? ……よし、勝ってる すまん蒼さん、その胸は千波にも負けてると思う。 あ、あの……。やっぱりブラジャーって、わたしには早いんでしょうか…… 千波は中学に上がってからだったよっ ……同じく 鈴葉ちゃんが自分からつけたいって言ったのか? ……お母さんに言われたんです。ふくらみ始めはデリケートだから、保護するって意味でつけなさいって 鈴葉ちゃんって進んでるねっ そ、そうなんでしょうか…… それに比べて蒼ちゃんは中学からだったんだねっ 黙れつるぺた 同志からは言われたくなかったよ蒼ちゃん!? 窮屈だし、わたしはいらないって言ったんですけど…… ブラの目安は初潮からって聞いたことあるぞ ……なんで知ってるんですか 千波のときに親からちらっと聞いただけだからっ 千波の初潮は小学六年だったよっ、蒼ちゃんは? ……言うわけない 鈴葉ちゃんは? よ、よくわかりませんけど、まだだと思います なのにもう胸ふくらんでるんだねっ 初潮の前後一年くらいでふくらみ始めるらしいからな ……だからなんで知ってるんですか 親から聞いてただけだっ じゃあ鈴葉ちゃんの初潮はもうすぐなんだねっ よ、よくわかりませんけど、がんばります ……私は中学だったのに 蒼ちゃんは発育が遅いんだねっ 黙れ幼児体型 同志から言われるとショックが二重だよ蒼ちゃん!? 蒼さんとは反対に鈴葉ちゃんは発育がいいってことか いいかげんオヤジ発言はやめてください ……もうしゃべらないことにしようかな。 わたし……身体弱いのに…… そんなの関係ないよっ、鈴葉ちゃんは将来きっと巨乳だねっ よかったね、鈴葉 ……お姉ちゃんの笑顔がひきつってて怖いよう みんな、お湯沸いたから入っていいわよ はーい! 鈴葉ちゃん、いこっ お、お姉ちゃんは…… 私はいいから。詩乃さん、すみませんが鈴葉をお願いします うん。ブラジャーは私が外してあげるわね 三人は連れ立ってバスルームに向かっていった。 蒼さんも入ってくればいいじゃないか ……私は用事がありますから 蒼さんは立ち上がる。 出かけるのか? ……はい 屋上で星見か? ……先輩には関係ありません 俺もついていったらダメか? ……ダメです なんで ……先輩こそ、なんでついてくるんですか? 夜の校舎は怖いぞ? ……なんですかそれは 蒼さん、幽霊とか苦手だろ ………… だから俺が守ってあげよう ……死んだらいいと思います それは冗談として、俺も星が見たくなったんだ ……星が見たいのなら、勝手にすればいいと思います じゃあ勝手についていくかな ……私、自宅で制服に着替えてきますから 蒼さんがリビングを出たあと、俺も制服に着替えるため自室に向かった。 蒼さんと一緒に無事屋上までやって来た。 相変わらずヒバリ校のセキュリティはあってないようなものだ。 蒼さん、これから望遠鏡の組み立てだよな ……そうですけど 手伝うよ 結構です 俺が鏡筒載せるから、架台のほう頼むな 結構ですって言いました ふたりでやったほうが早いだろ? 私のは明日歩先輩の望遠鏡と違って複雑じゃないから大して変わりません やってみないとわからないぞ わかります ものは試しで手伝わせてくれ ……先輩は勝手に星見するんじゃなかったんですか 実は蒼さんと一緒に星見したかったんだ ……そろそろ帰ります 冗談だ冗談っ、もう干渉しないからっ ……最初からそうして欲しかったです 蒼さんは黙々と望遠鏡を組み立てる。 明日歩の望遠鏡に比べればずっと小型の屈折式望遠鏡。 俺はこれまで一度もこの望遠鏡にさわったことがない。 組み立てだけじゃなく、持ち運びの手伝いも蒼さんに断られっぱなしなのだ。 ………… 準備が終わったのか、蒼さんはレンズを覗き込む仕草をする。 それはわずかな時間で、せっかく組み立てた望遠鏡を前に、蒼さんはぼんやりと肉眼で夜空を見上げていた。 望遠鏡、使わないのか? ………… 蒼さんの視線がゆっくりと俺に移る。 ……望遠鏡は、さっき使いました ちょっと覗いただけじゃないか それで充分ですから 星見するんだろ? してますから 今夜も織姫と彦星が輝いてるぞ そうですか 夏の大三角はまだ健在だ 興味ありませんから 秋になると、今度は秋の大四辺形が見えるんだ 興味ないって言いました 興味あるのは南天の星空だけか? ……先輩には関係ありません 望遠鏡使わないんだったら、俺が使ってみていいか? ……干渉しないんじゃなかったんですか? 干渉じゃなくてお願いだ ……腑に落ちませんが で、どうだ? ……ダメです そんなこと言わずにさ ……しつこいです 大切にしてるから人にさわらせたくないのか? ……関係ありませんから 俺、ウザいか? ………… ……千波さんよりは、マシかもしれません それはよろこんでいいのか? ……知りません 南天のプラネタリム、また作るよ ………… それで天クルに入ってくれたんだもんな ……無理はしなくていいですから そのせいでまた先輩が赤点取ったら、私が悪いみたいで迷惑ですから テスト期間中はやめとくよ そうしてください 作るときは、一緒だからな ……そうなんですか そうなんですよ 真似しないでください 蒼さんも、作ろうな ………… 私でも…… 蒼さんは望遠鏡に語りかけるように。 私でも、作れるんでしょうか…… 南天の星空を、作れるんでしょうか 作れるよ ………… 天クルの部員でいれば、蒼さんだって不可能を可能にできるんだ ……それでうまいこと言ったつもりでしょうか、ウザ 手厳しかった。 ですけど…… 退部する気は、今のところありませんから 積極的に参加するつもりも、ありませんけど 蒼さんの小さな笑顔。 それを見せてくれるだけで、今は充分かもしれなかった。 お、蒼さん。おはよう ……おはようございます 玄関を出ると、蒼さんと家の前で遭遇した。 いつもは通り過ぎて坂を登っていくのに、今朝は誰かを待つように立っている。 俺たちと一緒に登校したくて待ってたのか? ……違います だと思ったけど 千波さんは? 千波に用なのか はい。あのヤロウはどこですか あのヤロウ扱いだ。 急いで支度してたから、もうすぐ来ると思うけど。あいつ、なにかしでかしたのか? しでかしてくれました 怒ってるのか? 怒ってます 蒼さん、夕べは怒ってなかったよな? 考えてみると夕べに怒るべきでした 千波のやつ、なにしでかしたんだ? 鈴葉と一緒にお風呂に入りました ……それでなんで怒るんだ? お風呂から上がったあと、鈴葉は千波さんと遊んでいたようなんです 俺たちが星見から帰宅すると、ふたりはリビングで寝こけていた。 ふたりとも寝顔はかわいらしいものだった。 詩乃さんは仕事してたから、ふたりでずっと遊んでたんだろうな だと思います 遊び疲れたのか、ふたりが起きる気配はなかった。 蒼さんはそんな鈴葉ちゃんをおぶって帰っていった。 俺も千波を部屋に運んだのだ。 それのなにが悪かったんだ? 鈴葉は湯冷めしやすいのに、リビングで上になにもかけずに寝ていたことが問題なんです あっ、蒼ちゃんだっ、おはよーっ! 千波さん、おはよう あいさつ返してくれたのはうれしいけどなんでぐりぐりまでされてるの!? 千波さん、夕べは鈴葉となにして遊んでた? 体力の限界を突破する勢いで鬼ごっことかくれんぼやってたよっ 本当にありがとうございました ぐりぐりが強くなったよ蒼ちゃん!? ……もしかして鈴葉ちゃん、風邪でもひいたのか? はい。熱を出して、今も部屋で休んでます 蒼さんは千波を解放すると、あとはもう憮然として坂を登っていった。 千波はぽかんとしていた。 ……鈴葉ちゃん、病気なの? みたいだな 今日は学校を休むんだろう。 だから蒼さん、怒ってたんだな ……千波のせいで? おまえだけのせいじゃない 詩乃さんは仕事があるから、鈴葉ちゃんから目を離してしまう。それを知っていて俺も蒼さんも出かけてしまった。 責任があるとしたら、俺たち全員だ。 蒼さんを追いかけないとな ……うん。謝らなきゃ しょんぼりする千波を見ると、鈴葉ちゃんを案じているのがよくわかった。 蒼ちゃんっ ………… 鈴葉ちゃん風邪なんだよねっ、千波のせいなんだよねっ、だから謝るねっ、ごめんね蒼ちゃんっ ………… 蒼ちゃんが許してくれるまで謝るよっ、ごめんねごめんねごめんねごめんねっ ……ウザい 千波も心配してるんだし、許してやってくれないか ……誰も許さないとは言ってません ありがとうな ……お礼もいりませんから あと、俺も謝るよ ……先輩が謝ったら、一緒に星見してた私も謝らなきゃならないじゃないですか 昨日の星見は俺と一緒って認めるんだな ……死んだらいいと思います 蒼ちゃん蒼ちゃんっ、千波学校終わったら鈴葉ちゃんのお見舞いにいくねっ 来なくていい なんでなんでっ、鈴葉ちゃんのこと心配なのにっ 心配しなくていい なんでなんでっ、千波たち友達なのにっ 友達じゃなくていい 具合、けっこう悪いのか? ……熱を出すのはよくあることなので、大事はないです 安静にしたほうがいいなら、遠慮するけどな ……先輩もお見舞い、来るんですか ダメか? ……そういうわけでは 詩乃さんにスフレ焼いてもらって持っていくねっ 千波さんは来なくていい なんでなんでっ、お兄ちゃんはいいのになんで千波はダメなのっ 騒がしくなるから 千波はこう見えて友達の家では借りてきたネコのようにおとなしくなるんだよっ 私の家に遊びに来ておとなしかったことは一度としてなかった お見舞いのときはおとなしくしてるよっ 信じられないし想像できない なら、チャンスかもな 蒼さんは首をかしげて俺を見る。 おとなしい千波を見られるチャンスだぞ 千波はなんだかんだで、友達が本気で困るようなことはしないのだ。 それに、千波の見舞いは鈴葉ちゃんが一番よろこぶんじゃないか ………… 放課後、千波と一緒に寄らせてもらっていいか? ……もう勝手にしてください 押し切るかたちで了承を得た。 鈴葉がよろこぶのは、否定できませんから…… 蒼さんは最後まで憮然としていた。 放課後になって、今日は用事があるからと部活を休むことにした。 まあ天体観測をする金曜以外は雑談が主なので、特にとがめられることはない。 校門前で待ち合わせ、千波を伴って蒼さん宅を訪れた。 ……今、カギを開けますから 親御さんは仕事か はい。どちらも夜まで帰ってきません じゃあ家に鈴葉ちゃんひとりだったのか? いえ、昼休みに両親ふたりとも帰ってきて、鈴葉にご飯を食べさせてるはずです 親バカって言ってたもんねっ 黙れつるぺた つるぺたは一片たりとも関係ないよ蒼ちゃん!? うるさくするなら帰ってもらうから 家に入った瞬間に千波はおとなしくなるよっ ……先輩、信じていいんですね ああ、保証する うさんくさそうな顔で蒼さんはカギを開けた。 ……それでは、どうぞ お邪魔しまーす! うるさいから帰ってくれる? あいさつくらい大目に見て欲しいよ蒼ちゃん!? 保証したのは早まったかもしれない。 鈴葉ちゃんの部屋は二階ということだった。 しんとした階段を三人で登っていく。 蒼さん宅に入ったのは初めてなので、ちょっとした緊張もあったりする。 俺たちの家に比べると、床も壁も天井も新しく見える。 ……鈴葉 ノックをして、声をかける。 洋先輩と千波さんがお見舞いに来てくれたよ それから三人で部屋にお邪魔する。 ……寝てるみたいです そうだな 静かにお願いします わかってる。顔が見たかっただけだから 大声は出さないように わかってるって 息をひそめるように わかってるって 息をしないように 俺たちに死ねというのか。 ……千波さんのうるさいツッコミが来ない 試したらしい。 ……鈴葉ちゃん 鈴葉ちゃんは眠っている。千波が、毛布から出ていたその小さな手を握った。 蒼さんはなにも言わなかった。 千波もなにも言わない。 宣言どおりおとなしくしているのだ。 んん…… 手を握られたせいか、鈴葉ちゃんのまぶたがうっすら開く。 ん……ぁ……わたし…… ゆっくり寝てた? 鈴葉ちゃんの視線が、顔を覗き込んだ蒼さんに注がれる。 お姉ちゃん…… ごめんね、起こしちゃって ……ううん。今、何時? 四時くらい ……いっぱいお昼寝しちゃった お薬は飲んだ? ……うん。お昼ご飯食べたあとに飲んだ また寝ててもいいよ ん…… とろんとしていた鈴葉ちゃんの瞳が、蒼さんの後ろに立っていた俺に移る。 洋さん…… 俺だけじゃなくて、千波もいるぞ 千波は騒がないどころか、一言もしゃべらないでいる。 あ……手…… ずっと鈴葉の手を握っている。 千波さん…… ………… お見舞いですか……? ………… ありがと……ございます…… ………… わたし、平気ですから…… ………… いつものことだし…… ………… ち、千波さん……? ……さっきから彫像みたいで不気味 おとなしいだろ? ……極端すぎます 千波、鈴葉ちゃんと話すくらいいいんじゃないか ……いいの? は、はい。わたしも千波さんとお話ししたいです えへへ あっ、で、でも、わたしの風邪がうつったら…… 大丈夫だよっ、千波は風邪ひかない子だからねっ バカは風邪ひかない? 言うと思ったよ蒼ちゃん!? 千波、声の音量は落とそうな ……ごめんなさい ……しょげる千波さんもめずらしい こんな千波は、俺はときおり見ることがある。 千波、もう帰ったほうがいいかな? い、いえ、そんなことないです わたし、千波さんと一緒にいると、元気になれますから…… わたしも、千波さんみたいに、元気になりたいって思うから…… 鈴葉ちゃんならすぐ元気になれるよっ はい…… 詩乃さんのスフレ持ってきたから、元気になったら食べてねっ あ、ありがとうございます…… あまり大人数でいると鈴葉ちゃんを疲れさせてしまう。あとは千波ひとりに任せてよさそうだった。 蒼さんはまだ気遣わしげだったが、部屋に戻っていると言って俺と一緒に中座した。 具合、そんなに悪くはなさそうだったな ……はい。それでも二、三日は学校を休むことになると思います 無理をすると体調をくずすのは、いつものことなんですけど 鈴葉ちゃんもそう言ってたな なので、今後は気をつけてもらえると助かります 千波にも言っとくよ お願いします 今日、うちでの夕飯はやめたほうがいいか ……そうさせてもらいます あとで詩乃さんに言っておくから すみません 夕飯、蒼さんが作ることになるのか? ……親の帰りが遅ければ、そうなります もしよかったら よくありません ……返答早いな 食事を持ってくると言いそうな雰囲気でしたから まあな、おかゆでも作って…… それくらい私も作れますから 迷惑かけるって思ってるなら間違いだからな むしろ私が迷惑です あとで夕飯…… 結構です 最後まで聞けって 聞いても答えは変わりませんから それはどうかな なんて言おうとしたんですか? あとで夕飯のこと鈴葉ちゃんに聞いてみるかな、と ……それは卑怯です 冗談だ。無理させたくないし、今日は遠慮しておく ……それが身のためです 身のためってなんだ。 ……先輩、帰らないんですか? 千波が戻ってきたら帰るよ ……私は宿題でもしてます ああ いつもならしないんですけど 意外と不良だ。 というか、俺を追い出しにかかってるのか ……単に暇だからです。あと、そこに立たれてると落ち着かないんですけど 座ったほうがいいか? ……できれば帰って欲しいです やっぱり追い出しにかかっている。 でも、座ってもらったほうが立たれてるよりはマシです 俺が適当に座ると、蒼さんも勉強机に腰かける。 蒼さんの部屋、千波と違って片付いてるな ……そうですか 望遠鏡、そのままで置いてあるんだな ……そうですね なにかに入れないと汚れないか? ……たまに拭いてますから そのうち部費でケース買うから ……お構いなく 鈴葉ちゃん、早くよくなるといいな 蒼さんはすぐには答えず、机に問題集とノートを広げる。 ……鈴葉は身体が弱いですけど、以前よりは丈夫になりましたから 雲雀ヶ崎に引っ越してから、ずいぶん元気になりましたから 蒼さん、この街に引っ越してきたのか 蒼さんは黙ってうなずく。 この家はどこか新しい。引っ越してきたというのもうなずける。 じゃあ、俺たちと同じなんだな ………… どこから引っ越してきたんだ? 蒼さんは問題集のページをめくる。 いつ引っ越してきたんだ? 目線を落としたまま、シャーペンを持った。 宿題の邪魔になりそうなので、これ以上話しかけるのはやめておいた。 俺は、子供の頃に雲雀ヶ崎で暮らしていたときはアパートに住んでいた。 そのアパートは商店街の外れにあった。だからこのあたりの住宅街はよく知らなかった。 蒼さんの家が建っていたかはわからない。 俺は家と学校を往復するだけの子供だったから、地理に詳しくなかったのだ。 引っ越す前、初夏の一ヶ月間だけは、展望台で遊んでいた想い出もあるのだが。 ……先輩 ぼんやりしていると、蒼さんが机から振り返った。 千波さんから聞いたんですけど、勉強得意なんですよね 千波よりは確実に得意だな ここ、わかりますか? 問題集を見せてくる。 因数分解か。数?だな この問題の答えなんですけど……なんだか式が唐突に飛んでる感じで…… 変数が多くてごちゃごちゃしてたのを、まとめてるだけだ。これって対称式だから、慣れれば簡単に解けるよ ……対称式ってなんでしょう 変数を入れ替えられる式のことだ ……どうやって解くんですか? 基本は最低次で整理して、たすきがけでこうやって…… こんな具合に、千波の見舞いが終わるまで、蒼さんに勉強を教えていた。 千波さん、洋さん。ご心配おかけしました 金曜になると、鈴葉ちゃんの風邪も完治した。 あの、毎日お見舞いに来ていただいて、ありがとうございました それくらいおやすいご用だよっ、鈴葉ちゃんが元気になってうれしいなっ えへ…… いちおう、感謝します 友達として当然のことだよっ 千波さんじゃなくて、洋先輩にです なんでなんでっ、お兄ちゃんばっかりなんで蒼ちゃんに感謝されるのっ 見舞いがてら蒼さんの勉強を見ていたからだろう。 なんにしろ、今日からみんな一緒の夕食も再開だな は、はい。またよろしくお願いします ぺこりとお辞儀。 ……調教が間に合わなかった 蒼さんは悔しそうだった。 蒼さん、また宿題でわからないところあれば、夕飯のあとにでも教えるけど ……この際、私の代わりに全部解いてください それじゃ意味ないだろ 千波の宿題もやって欲しいなっ 蒼さん、千波みたいになってもいいのか? 千波みたいに元気はつらつになれるんだよっ ……ある意味幸せかも わ、わたしは、早く千波さんみたいになりたいです 意図していない方向で千波の株が上がっている。 鈴葉、そろそろ うん。学校いってきます いってらっしゃい いってらっしゃーい! 小学校は駅向こうの海の近くだ。ヒバリ校とは逆方向なので、ここで別れることになる。 俺たちも行くか ぐずぐずしてると遅刻だからねっ のんびりと急ぎましょう 三人で坂を登っていく。 校門に着くと、なにやら生徒たちの列ができている。 あれ、なんだろ? 行列の先を見ると、生徒会と書かれた腕章をつけた生徒が何人か立っている。 近くには長机がいくつか置いてあり、その上に生徒がそれぞれバッグを載せて相手に中を見せていた。 前にもあったような光景だ。 これ、生徒会の持ち物検査だな 俺たちは最後尾に並ぶ。 ……ヒバリ校ってそんなのあるの? 一学期にもやってただろ 千波は知らないよっ そういえば千波は遅刻ぎりぎりに登校し、生徒会の関門を走って突破していた気がする。 今時抜き打ちの持ち物検査なんてはやらないのにねっ 一学期に一度の頻度であるって、たしか蒼さんから聞いたんだよな ………… 蒼さんはスクールバッグを胸にぎゅっと抱いている。 まさか、また持ってきてるのか? ……いつも持ってきてますから なになにっ、ケータイとか? ……ケータイは放課後以外は使用禁止で、電源を入れなければ持ち込んでもいいって聞いてる 蒼さんはバッグから、予想どおりのものを取り出す。 それ、タロットカードだね 千波さん なに? 今日だけこれ、あずかっておいて おやすいご用だよっ タロットカードが千波の手に渡る。 ……おやすくないだろ、それ持ってたらおまえが生徒会にしょっ引かれるぞ 千波さんは不要物を持ち込んでそうだから、ひとつくらい増えても問題ないかと それは早計に過ぎるよ蒼ちゃんっ、千波は不要物どころか必要物すら持ち込んでないんだから! 千波のバッグは空だった。 おまえ授業の道具はどうしたんだよっ 全部教室に置いたままだよっ ……そのスクバはなんのためにあるんだ スクバなんて飾りだよっ、だからこのタロットカードはお兄ちゃんにあずかってもらうねっ ブツが俺の手に渡る。 それだと俺がしょっ引かれるだろっ 先輩か千波さん、どちらかを斬り捨てなければこの場は切り抜けられません 持ち主の蒼さんが選択肢に入ってないんだけどっ こういうときは最年長の人が監督不行届の責任を負うべきだよっ 千波……今まで隠していてすまない まるで千波は妹じゃなくて実は姉なんですみたいな言い方だよお兄ちゃん!? 責任をなすりつけあう醜い兄妹愛ですね 元凶が他人事みたいに言うなっ タロットカードが三人の手を行き来する。 はい次の人、バッグを開けて机に載せて そのうちに番が来てしまった。 ……やっぱり姫榊なんだな なにがよ お務めご苦労って言いたかったんだ そう思うなら、予鈴鳴っちゃう前に急いでバッグの中見せなさいね 俺は危険物なんて持っていないので、簡単にクリアできる。 ……これはなにかしら 中からタロットカードが出てくる。 いつのまに俺のバッグに忍ばせてたんだよ!? それでは失礼します 千波たち先に行ってるねー! 蒼さんと千波はほかの列からすでに関門をクリアしていた。 おまえら汚すぎだろ!? 汚いのは小河坂くんでしょ、生徒会室で詳しく話を聞かせてもらうから ……実はそれ、筆箱なんだ カードがシャーペン? そのとおりだ ……つまり蒼さんの私物なのね さすが姫榊、話が早い。 小河坂くんは運び屋として蒼さんに頼まれたから共犯ってわけね 話が早すぎて困る。 それじゃあ生徒会室に来てもらおうかしら ……従うから、没収だけはしないでくれよ 小河坂くんって律儀よね 蒼さんも勘弁してやってくれ 人が良すぎると苦労するだけで報われないわよ 姫榊も実は人がいいって知ってるから ……バカ言わないで。仕事は公正にやるからね お手柔らかにな ……ふん 結局、タロットカードは取り上げられたが、放課後には返すと姫榊は約束してくれた。 昼休みになって。 ……学食、人いっぱいだね 空いている席はなさそうです 授業長引いたのがネックだったな スタートダッシュの遅れは、席数に限りがある学食では致命的なのだ。 でもまあ、今日は天気いいし そうですね。中庭に出てみましょうか ヒバリ校では、学食のメニューを中庭に持ち出してもいい決まりになっている。 それじゃ、各自メニュー持ったらここにまた集合ね 俺たちは希望の料理が並ぶ棚に各々向かった。 四人で中庭にやって来る。 ベンチや芝生に座る生徒を多数見かける。広々しているので、学食のように場所がないということはなさそうだ。 洋ちゃん、中庭で食べるの何度目? まだ数えるくらいだな。転入してまだ一ヶ月だし あれ、まだそんな? 夏休みを挟みましたから、学校生活だけを数えるとそのくらいですよね そのわりにすっかり馴染んでるよな それはもしかしたら天クルのおかげかもしれない。 なんかね、もう入学から洋ちゃんと一緒みたいな気になってたよ そりゃさすがに南星だけだ 小河坂さんが初恋の相手だからでしょうか ち、違うからっ あそこ空いてるし、座るか ……簡単に流された ……流して欲しいと思ってやったんだが。 歩いていくと、ちょうど見知った生徒と鉢合わせた。 ………… 俺を見た瞬間、相手はまずったという顔をした。 お、蒼さんだ こんにちは~ これからお昼ですか? 歩いてきたところを見るに、俺たちが狙っていた場所に座ろうとしていたようだ。 蒼さん、ここで会ったが百年目だ ……なんのことでしょう 詳しい話は食べながらだな ……それでは こらこら逃げるなっ、こっちはタロットカードを人質に取ってるんだぞ ……くっ、卑怯です 卑怯だったのはそっちだろっ なんの話? 持ち物検査の話だ 立ち話もなんですから、みんなで座りませんか? ……不覚です 俺たちが座り出すと、蒼さんも渋々と従った。 そういえば小河坂さん、朝のホームルームを欠席していましたよね 姫榊につかまったおかげでな そっか、今朝の持ち物検査のせいだったんだ おまえ、なんか持ち込んだのか 俺じゃなくて蒼さんがな 蒼さんは敷いたレジャーシートにちょこんと座っている。俺たちは芝生に直だ。 そのシート、持参か? ……そうですけど じゃあ蒼さん、いつも中庭で食べてるんだね ……それほどでも シートがあると便利ですよね。トレーやお弁当を置きやすいですから とはいえ、蒼さんが持っているのは菓子パンがひとつだけだった。 それが蒼さんの昼飯か? ……あげませんよ べつに取らないから 蒼さん、食べるのそれだけか? ……はい。ですから、これを取られると私は午後から飢えてしまいます だから取らないって 蒼さん、少食なんだね ……そうでしょうか よかったら、わたしのを少しあげますよ こさめさんが空いていた小皿にサンドイッチを一切れ載せて差し出した。 ……いえ、いりませんから たくさん食べないと大きくなれませんよ ……自分が大きいからって ひがんでも大きくなれないぞ ……訴えますよ 胸じゃなくて背の話だからっ ……よし、勝ってる ……年の差を考えればまだわかりません どちらにしろこさめさんに比べると不毛な争いでしかないだろう。 サンドイッチ、食べてくださいね 勝者の余裕ですか……んぐんぐ 文句を言いつつ食べていた。 それじゃ、あたしもあげるね サンドイッチがなくなると、今度は明日歩のおかずが渡った。 いずれ追い越しますから……んぐんぐ また食べている。 それじゃ、オレも 送られた塩は受け取ります……んぐんぐ はい、俺も 施されるのは今だけです……んぐんぐ ではまたわたしの番ですね きっと後悔する日がくるでしょう……んぐんぐ あたしの番だね あの、そろそろお腹いっぱいなんですが……んぐんぐ 次はオレの番か もういいですから……んぐんぐ 最後にどうぞ 餌付けされてる気分になってきました……んぐんぐ こんなにあげたんだから今夜の天体観測には出るんだぞ 今日は金曜なので、天クルの活動は夜の天体観測だ。 ……本気で餌付けだったんですね 蒼さん、お腹いっぱいになりましたか? ……はい。ごちそうさまでした 自分の菓子パンを食べる前に昼食を終えた蒼さんだった。 天体観測、サボったりしないでね ……考えさせてください もしサボったら、あげたご飯は返してもらいますよ ……不覚です それと、タロットカードも俺が没収だ ……ちゃんと出ますから 俺たちの勝利だった。 タロットカード、どうなりましたか? 放課後に姫榊から返してもらう予定だ ……ありがとうございます 二度と俺に罪を着せないように ……それはわかりません つーか、なんで蒼さんの代わりに小河坂が捕まったんだ 罠にはめられたからだ はめられるほうが悪いんです 蒼さん、黒いですね ……こさめ先輩に言われると釈然としません 同類なのかもしれない。 天クル、放課後はなにか活動するのか? 天体観測が始まる夜までは自由行動でいいよ 集合時間は七時ですよね 遅れないで部室に集まってね 蒼さん、気をつけろよ ……全力は尽くします 蒼さんの全力ほど期待できないものはない。 俺たちみんな、蒼さんの遅刻は予想済みなのだ。 だから誰も怒ったりはしないのだ。 ……到着しました 蒼さん、遅刻だぞ ……全力は尽くしました 予想していたので問題ない。 蒼さんは剥き出しの望遠鏡を胸に抱えている。 運ぶの手伝えばよかったな ……よくありません 手伝って欲しいときは言ってくれ ……言いませんから。何度も同じやり取りをさせないでください 今度ケース、買ってあげるね ……いりません。これも、何度も同じやり取りをさせないでください 明日歩は残念そうだった。 明日歩クン、そろそろ始めようか 全員そろいましたからね メアは、参加するときはふらっとやって来てふらっと帰っていく。こさめさんとの諍いに関しても、今はもう落ち着いている。 姫榊は生徒会が多忙とのことで当分は不参加、雪菜先輩は毎度の幽霊部員を貫いている。 だからこれで全員なのだ。 ……天体観測、まだ始めてなかったんですか? うん。蒼さんのこと待ってたから ……待ってなくていいですから そういうわけにはいかないよ。蒼さんも部員なんだから ……メアさんは待ってないじゃないですか メアさんに関しては小河坂さんに一任しているんです あいつは気まぐれだしあまのじゃくだしで、待ってたりすると逆に来なくなるからな ……私が目指す立ち位置です そんなこと言うとタロットカード返さないぞ ……くっ、卑怯です 遅刻はいいけど、毎週ちゃんと参加するように 放課後に姫榊から返してもらったタロットーカードを、蒼さんに手渡した。 蒼さんは望遠鏡を置くと、カードの枚数を確認する。 べつになにもいじってないぞ ……みたいです 蒼さん、星占いが趣味なんだよね。あたしもなにか占って欲しいな~ あなたは将来、赤点を取るでしょう カード使ってないのにどうやって占ったんだよ~! それではカードを一枚引いてください 明日歩が引いたカードは『〈世界〉《The World》』の逆位置だった。 あなたは赤点を取るでしょう 結局変わってないの!? すごいです、百発百中ですね どういう意味だよ~! わたしも占ってもらってよろしいですか? こさめさんが引いたカードは『〈女教皇〉《The High Priestess》』の正位置だった。 あなたは将来、つるぺたになるでしょう ……そんな占いあるんでしょうか つるぺた占いです 自己犠牲が旺盛な占いですね ……いずれ目にもの見せてあげます 僕も占ってくれるかい? 岡泉先輩が引いたカードは『〈魔術師〉《The Magician》』の逆位置だった。 あなたの本体は知恵の輪でしょう 比喩としては正解だね ……それでいいんですか じゃ、俺は? 俺が引いたカードは『〈恋人〉《The Lovers》』の正位置だった。 ……訴えますよ なんだよそれは…… 蒼さん、自分も占ってみたらいかがですか? 蒼さんが返答するより先にこさめさんはカードをひょいと取り上げ、手で広げる。 ……返してください カードを引いたらお返ししますよ 蒼さんは渋々と引く。 引いたカードは『〈星〉《The Star》』の正位置だった。 あなたは将来、天クルの部長になるでしょう ……変な占い、勝手に創作しないでください 蒼さん占いです ……著作権侵害です でも、蒼さんが将来の部長候補なのは確かだよね 蒼クンは唯一の一年生部員だからね ……それがなにか 蒼さんが三年生になったとき、わたしたちはみんな卒業してしまっているんですよ だから、俺たちのあとを継ぐのが蒼さんなのだ。 来年度になったら新入生を勧誘して、蒼さんに率いてもらわないとな ………… 蒼さんは優秀な部長になります。このタロット占いは、百発百中なんですから こさめさんからカードを返してもらうと、蒼さんは置いていた望遠鏡を抱え上げた。 ……帰ります みんなで驚く。 いや、まだ来たばっかりだろ? ……興が削がれました なんだ興って。 怒ったんなら謝るから ………… 天体観測、やっていかないか? 蒼さんはしばし無言でいたが、 ……ウザい 辛辣な一言を残し、立ち去った。 ……蒼さん、やっぱり怒ったのかな 調子に乗りすぎてしまったかもしれません 蒼クンは干渉されるのを嫌う〈性質〉《たち》のようだからね 追いかければ逃げていく。そういう意味では、蒼さんはメアに似ている。 だが、メアとは決定的に違うところもある。 蒼さんは、追いかけなければ寄ってくる、という部分が一切ない。 俺たちが天クルに誘わなければ、蒼さんは入部しなかった。 俺たちが天体観測に誘わなければ、蒼さんは参加しなかった。 俺たちがなにもしなければ、蒼さんは俺たちから離れたまま、二度と戻ってこないのだ。 ……洋くん 入れ代わりでメアが参加する。 ……来てみた 待ってたぞ ……帰ってみる 冗談だ冗談、今夜も好きに参加していっていいから じゃあ、いてみる 蒼さんのあとだからメアちゃんがよけいかわいく見えるよ~! きゃあっ、だ、抱きついてこないでっ 蒼さんを天クルにどのようにつなぎ止めるか、ふたりの押しあいへしあいを眺めながら考えていた。 ……またですか ああ。蒼さん、いつもここで食べるんだな 昼休み、学食のメニューを持って中庭に出てみると、スペースを探して歩く蒼さんを見つけた。 こんにちは、蒼さん よろしかったらご一緒しませんか? 金曜と同じ面子になるな 五人で座れる場所、探さないとな ……あの、誰も一緒するとは ここだったら座れそうだよ 傾斜もなくてよさそうですね 天気もいいし、食べ終わったら昼寝でもするかな 蒼さん、ぐずぐずしてるとシート敷く場所なくなるぞ ……これが数の暴力 なしくずし的に蒼さんを引きずり込んでいた。 蒼さん、また菓子パン一個なのか ……私の勝手です 大きくなれませんよ ……一番言われたくない人に 蒼さん、あたしのおかずあげるね はいよ、空いてる小皿 また餌付けしてやるぞ ……私は小動物ですか あらゆる意味でわかってらっしゃいますね ……いずれその余裕を打ち砕いてあげます それは楽しみですね ……笑っていられるのも今のうちです 主に大きさの面で対抗心が芽生えたようだったが、口にすると訴えられそうなので断じて言わない。 蒼さん、おいしい? おいしいです……んぐんぐ はい、次はこれ わたしはこれを んじゃオレも どんどん食べてくれ ……先輩方、自分の分はいいんですか 蒼さん見てるとあげたくなっちゃって ……実はなにか企んでいるとか 純粋な厚意ですよ かわいい後輩の成長のためにな 死んだらいいと思います……んぐんぐ そのわりにしっかり食べる蒼さんだ。 ……もうお腹いっぱいです そして菓子パンを残していた。 いらないんだったらもらってやるぜ ……後輩にたかる先輩の図 食べ物を粗末にしないっていう厚意だろうが 蒼さん、やっぱり少食なんだな ……セクハラはやめてください 今のはセーフだろっ 蒼さんはいつも中庭で食べているんですよね ……それがなにか 学食では食べないんですか? ……一学期は学食だったんですけど なにかあったのか? ……千波さんがついて来ようとするので、二学期からはここに変えました じゃあ千波は今ごろ学食で食べているんだろう。 兄としては、一緒に食べてやってくれるとありがたいな 千波ちゃんも転入してきたばかりだもんね 友達作りは大変ですよね オカ研での千波ちゃんを見る限り、〈杞憂〉《きゆう》だと思うけどな ……アサルト部長が正解です 一瞬誰のことかわからなかったんだけどっ 千波、クラスで友達作ってるか? ……はい。ああいう性格ですから、本人にその気がなかったとしても人が集まるんじゃないでしょうか 千波はその気があるので、ますます友達が増えるんだろう。 じゃあ今も友達と食べてるのか お昼になると、いつも誰かに誘われています。放課後もたいてい遊びに誘われています 前の学校と同様、友達作りの天才は健在のようだ。 ……なのに、なんで私に構うのかいつも疑問です 千波のやつ、家で友達の話するときは蒼さんのことばかりだぞ。ほかの友達いないんじゃないかってくらいの勢いで ……考えられません 千波ちゃん、蒼さんのこと大好きだよね ……死ねばいいのに 内心よろこんでいる蒼さんでした ……ちょっと大きいからっていい気にならないでください 蒼さん、男子もいるのにエッチですね ……もうこの話題はやめることにします ……あたしもそうして欲しい 小河坂は続けて欲しいってよ 自分の本心を他人にすげ替えるな 皆さん、エッチなのはいけませんよ? フォローかもしれないがおとしめているようにしか聞こえない。 蒼さん。今日は放課後、大丈夫? ……部活ですか? うん。用事がなかったらでいいから、部室寄って欲しいなって なにするんですか? 蒼さんがうれしくなることだ 辞退させてもらいます 蒼さんが悲しくなることだ なおさら辞退させてもらいます どうすれば辞退しないんだ? 自分で考えてください 千波を人質に取った、命が惜しくば部室に来てくれ よろこんで辞退させてもらいます 来てくれないと千波を天クルに入部させるぞ 退部届を渡しに部室に寄ろうと思います 明日歩、目的は達したぞ 洋ちゃんのバカ~! 肉を切らせて骨を断っていませんね 要するにお手上げだった。 なので、私が部室に行くことはないと思われます 蒼さん、あたしたちのおかず食べたよね? もしサボるなら、今すぐ返してもらいますよ ……卑怯です おまえら結構あくどいのな 蒼さん、さあどうする? ……殺るしかないか 誰を? ……先輩を どの先輩を? ……大きい人から順に いつでも受けて立ちますよ こさめさんは薙刀持たせたら強いぞ 蒼さんの武器はタロットカードですか? ……くっ、こんなことならもっと練習するんでした 手裏剣代わりに投げる練習だろうか。 それじゃ蒼さん、放課後は待ってるからね 来なかったらわたしと勝負ですよ そうならないことを祈ってるぞ ……結局、部室でなにするんですか それは、来てからのお楽しみだ 蒼さんは中庭にいる間、ずっと憮然としていた。 ……おはようございます 来たな、蒼さん ……来なかったら、クラスや自宅にまで乗り込んできそうな気配でしたから 賢明な判断だ 放課後、蒼さんは部活に顔を出してくれた。 蒼さん、まずは座って座って 明日歩は蒼さんの後ろに回り込んで背中を押す。 ……なにするんですか いいからいいから 手近な椅子に座らせる。 部室の扉、閉めますね こさめさんが閉めたあとにカギをかける。 ……なんでカギまで ちょっと失礼 岡泉先輩が蒼さんが座っている席の机をキレイに拭く。 ……いったいなにが始まるんですか なにも心配いらない。楽にしててくれ ……そう言われても、捕って食われそうな雰囲気なんですが 肩でも揉もうか? ……したら悲鳴上げますから それじゃ、あたしたちも座ろっか 蒼さんを中心に俺たちも腰かける。 ……囲まれました そういうふうに座ったからな ……これでは逃げられません そのつもりだったからな ……大声で助けを呼んでもいいですか その前に口をふさぎますね いやこさめさん、その冗談は本気で怯えさせるから ……すでに怯えているんですが はいみんな、どうぞ そして明日歩がバッグから包みを取り出した。 今日はベーグルだよ。食べて食べて 机に置いて、包みを開けた。 お茶もありますよ こさめさんが紙コップを配り、水筒からお茶を注いで回る。 机を拭いたのはこのためなのだ。 ……いったいなんなんですか お茶会みたいなものだな ……部室でそんなことしていいんですか? 原則として禁止だね でもまあ、せっかく部費も下りたことだし 部活ライフを楽しまなきゃね ……これ、部費で買ったものなんですか 材料だけ買って、明日歩さんに作ってもらっているんですよ ……いつもやってるんですか 部費が下りるようになってからね ……誰かに見つかったらどうするんですか あはは、怒られるんじゃないかな ……それだけですめばいいですけど 扉閉めてるし、見つかることはないだろ ……じゃあ、カギをかけたのもこのためですか いや、それは蒼さんが逃げないようにするため ……そろそろ大声で助けを呼ぼうと思います その前に蒼さんも食べてみて。自信作なんだよ~ 明日歩はベーグルの入った包みを蒼さんに向ける。 ……もらっていいんですか? もちろん。蒼さんのために焼いたんだから ……なんで私 いいからいいから 蒼さんはおそるおそるベーグルをつまみ、口に運ぶ。 どう? おいしいです……んぐんぐ よかった~ 餌付け成功ですね 帰らせてもらいます……んぐんぐ しっかりと残って食べている。 それじゃあみんな、食べながら聞いてもらおうかな。来月にある学園祭のことなんだけど ……学園祭? クラスで連絡なかったか? ヒバリ祭っていう名前の学園祭が十月にあるって ホームルームの連絡で、俺も初めて知ったのだが。 ……ホームルームはあまり聞いていませんから 先生の話はちゃんと聞かないとダメだよ ……赤点のくせに 赤点でもクラス委員だもん~! それで、僕たち天クルもなにか出し物をしようと思うんだ。近いうちに決めるから、各自考えておいて欲しい 以上、部活のミーティング終わり ……もう終わりなんですか 雑談のほうが主だからね ……じゃあそろそろ まだ帰るなって 部活、終わったんですよね 蒼さん、ベーグルどうぞ いただきます……んぐんぐ 小動物のように食べている。 ……もうお腹いっぱいです 少食である。 お昼にたくさん食べたもんね その分を合わせても、少ないほうだと思いますけど 蒼さん、甘いものは別腹じゃないのか? ……迷信だと思います 胃は感情の臓器と言われるんだ。辛いことがあれば食欲がなくなるし、楽しければ普段よりたくさん食べられる 気分に左右されやすいということですね 蒼さん、甘いものはあんまり? ……好きなほうではあります スフレが一番好きなんだよな じゃあ次はスフレ作ってきてあげるね ……お構いなく。それより、そろそろ お茶をどうぞ ……いただきます 一口飲んで眉をひそめた。 ……熱いです 熱いのは苦手ですか? ……意外と猫舌です 意外というよりは納得だね 小動物体質なんだな ……屈辱です 蒼さん、もう食べない? ……お腹いっぱいですから じゃあ明日歩クン、そろそろいいんじゃないかな そうですね。あたし、持ってきます 明日歩は隣の資料室に入っていく。 ……今度はなんですか メインディッシュを持ってくるんだ ……もう一口も食べられないと思います 食べようとしても歯が欠けるだけだろうな 消化も難しそうですね 蒼さんが小首をかしげていると、明日歩は目的物を胸に抱えて戻ってくる。 はい、蒼さん。天クルからのプレゼントだよ それはキャリングケースだった。 土日に、蒼さんの望遠鏡に合うサイズのものをみんなで探してきたのだ。 ……私に、ですか? そうだよ。蒼さん、望遠鏡をそのままで持ち運んでるから。傷つくといけないもん 大切な望遠鏡のようだからね 天体観測のときはこのケースを使ってくださいね 部費で買った蒼さん専用のケースが、明日歩の手から渡される。 ぽいっ 早速捨てるなよ!? いらないって言ったと思います ……そんなこと言わないで、使ってくれないか? 結構ですから せっかくのケースが無駄になるだろ? ほかの部員が望遠鏡を買ったときにプレゼントすればいいと思います これは蒼さんへのプレゼントなんだ じゃあ私が洋先輩にプレゼントします 餌付けは失敗だった。 ……用事は終わりですか? 終わりだけど……でも それでは、失礼します 明日歩がなにか言うより先に、蒼さんは立ち上がる。 ……囲まれていて出れない どいて欲しかったらプレゼントを受け取るしかないな 蒼さんは机の下をしゃがんで通り抜けた。 想定外に小さいな…… ……今に大きくなってぎゃふんと言わせます 蒼さんは扉に手をかける。 ……開かない 扉にはカギをかけましたからね 早く開けてください 開けて欲しかったらプレゼントを受け取るしかないな ……くっ、卑怯です さあどうする? 今日までお世話になりました なんでいつも殺るか退部するかしかないんだよ!? 退部して欲しくなかったらカギを開けてください 立場逆転だった。 ……こさめさん、頼む しょんぼりですね こさめさんがカギを開けると、蒼さんは最後に一言。 ……先輩方は死んだらいいと思います そして帰っていった。 作戦はことごとく失敗に終わっていた。 ……ちょっと強引すぎたかな 少しくらい強引なほうがいいと思ったんですけど…… ……今回は怒らせただけだったか 蒼クンはなかなかの難敵だね。攻略は難しそうだ ……これは、あとで謝っておいたほうがいいだろうな。 蒼さん、部活のときはごめんな 夕飯後に早速謝っておく。 ……ほんとに悪いと思ってるんですか ああ。ちょっと強引過ぎたって、みんな反省したよ ……わかれば、もういいです 優しいな ……そんなことは 蒼ちゃんは優しいよっ、千波が授業中に寝てるときはいつも起こしてくれるからねっ ……千波さんが寝てばかりいるから先生に頼まれてるだけ。私としては迷惑 お姉ちゃん、わたしにもいつも優しいですよ 蒼さんは照れたように鈴葉ちゃんの頭を撫でる。 その優しさは鈴葉ちゃん限定なのだ。 ……それで、結局ケースはどうなりましたか 資料室にしまってあるよ ……そうですか 使いたくなったらいつでも言ってくれ ……ないと思いますから、ほかの人が使ってください じゃあ千波が使ってあげるねっ おまえは部員じゃないし望遠鏡も持ってないだろ 望遠鏡を持ってるのは、明日歩先輩だけですか? ああ。それと、蒼さん ……明日歩先輩はケースを持っていましたから、新しく望遠鏡を買った人にあげてください できれば蒼さんに使って欲しいんだけどな ……もういいですから そう簡単には諦められないしな ……諦めて欲しいです みんな、お風呂沸いたわよ はーい! 鈴葉ちゃん、一緒に入ろっ は、はい 千波は鈴葉ちゃんの手を取る。 ……待って 蒼さんが制する。 千波さんと入るのは反対する なんでなんでっ 鈴葉がまた風邪ひくから だ、大丈夫だよお姉ちゃん 鈴葉ちゃん、風邪はもう治ったのよね? は、はい。全快してます 鈴葉、まだ病み上がりでしょう? そ、そんなことないよ、金曜日に治ってもう三日も経ってるから平気だよ それじゃ鈴葉ちゃん、行こっ は、はい 反対だって言ってる 心配だったら衣鈴ちゃんも一緒に入ったらいいんじゃない? ……いえ、それは なんなら洋ちゃんもつけちゃうから いやつけないでください ……先輩は死んだらいいと思います 俺に非はないだろっ ち、千波はいいよ? 蒼さん、一緒に入ったらいいじゃないか いつもいつも恥じらう千波がスルーされてるよ!? ……私は、用事がありますから 逃げるようにリビングを出てしまった。 これからヒバリ校で星見だろうか。 詩乃さん、鈴葉ちゃんをお願いします 出かけるの? はい。蒼さんは俺に任せてください 夜道は危険だから、よろしくね うまく役割分担ができたようだった。 蒼さん ………… 制服に着替えて出ると、ちょうど家の前で合流できた。 屋上、行くんだよな ……はい 俺もついていくから ……結構です 詩乃さんにも頼まれたんだ。夜道は危険だからって ………… それでも反対するか? ……卑怯です 誉め言葉だな 悪役のセリフですね 蒼さんの影響だな ……心外です 歩き出したので、あとを追う。 望遠鏡を抱えた蒼さんの歩くペースは遅い。 いつか、運ぶのを手伝えたらいい。 ……また、聞いていいですか? 望遠鏡を組み終えるのを待っていると、めずらしく蒼さんから話しかけてきた。 ……どうして、私にかまおうとするんですか? 部活仲間だからだよ ………… それに、友達だから ………… もう聞き飽きてるんじゃないか? ……そうですね お返しに、俺もまた聞いていいか ……なんでしょう 俺たちのこと、どう思う? ……どうって 俺と千波のこと、友達だって思うか? 蒼さんは答えなかった。 ぼー 代わりに炎を吐かれた。 あぢぢぢぢって、なんでだよ!? こらっ、待ちなさいったらっ 続いてメアの登場だ。 なんで言うこと聞かないのっ、ご主人さまには絶対服従だって教えたでしょっ 夜空を旋回するかー坊をメアが必死に追いかけている。 早くっ、降りてきなさいっ、てば! かーくん! 捕まえようと飛び跳ねるが、手はかすりもしていない。 ……よし、勝った 背丈かほかの部分かは知らないが、その勝負は悲しすぎるんじゃなかろうか。 言うこと聞かないと、めっするからね! わかってるのっ、めっだからねっ! メア、なにやってるんだ ……あ、洋くん やっと気づいてくれた。 ……それに、失礼な子 蒼さんを見ると、俺の背中に隠れてしまう。 今夜はかー坊と鬼ごっこか? ……べつに なにかくわえてますね、あのラジコン ラジコンじゃない、ドラゴン 見ると、たしかに紙のようなものをくえわえて飛んでいる。 あれ、なんだ? ……写真 メア、そんなの持ってたのか あなたがくれたんだけど 鈴葉との写真じゃないかと ……そういえば あなたが一緒に映れって言ったのに忘れないで 悪かったから首元にカマ当てるなよっ それで、なぜ写真を奪われてるんでしょう ……見てたら取られた 鈴葉ちゃんとのツーショット写真、眺めてたのか わ、悪いのっ 慌てている。 あのラジコン、さっき炎吐いてましたよね ラジコンじゃないってば それがなんだ? 写真、無事でしょうか ……焼けてるかもな かー坊がやっと降下してきて、メアの頭に着地した。 こらっ、ここはあなたの巣じゃないのっ メアが捕らえようとすると再び飛び立った。 そんなふうに怒ってるから逃げるんじゃないか? あの子がわたしを怒らせるのが悪い 堂々巡りのような。 今、写真をちらっと見ましたけど、半分焦げてました だろうな…… ……もう許さない メアは怒って、カマの切っ先を飛び回るかー坊に向ける。 わたしの写真、粗末にして…… 写真、大事にしてくれてたんだな そ、そうじゃないっ、あの子が〈僕〉《しもべ》のくせにわたしに刃向かってばかりいるから怒っただけっ 写真だけど、まだケータイに画像残ってるし、すぐプリントできるぞ ……そうなの? ああ。安心したか? ……べつに メアさん、もう追いかけないんだ い、今追いかけるところっ メアはカマを振り上げて走っていく。 早く降りてきなさいっ、これ以上わたしを怒らせたらめった刺しにするからねっ めっ ぶはははははは! ……かーくんより先にめった刺しにされたいようね カマを振り上げて戻ってくる。 い、いや、悪かったって。俺も捕まえるの手伝うから かー坊は手を伸ばせば触れられそうな位置にいる。俺の背だったら届くだろう。 メアも蒼さんも背が低いし、ここは俺に任せろ よけいなことしないで。わたしの〈僕〉《しもべ》なんだから 背が低いというのは聞き捨てなりません 三人でかー坊を追いかける。 かーくんっ、降りてきなさいっ めっ めっ めーん 蒼さんが望遠鏡を持って振り下ろす。 ぽかっ。 ひゅるるるる……ぽて。 かーくん!? 目を回して落ちてきたかー坊にすがりついた。 捕まえられてよかったな、メア よくないっ、わたしの〈僕〉《しもべ》になにするのっ つまらないものをたたいてしまいました 蒼さんは望遠鏡を磨いていた。 ……この子、めった刺しにしていい? よくないからな 遅くなるのも嫌なので、そろそろ星見を始めます マイペースに望遠鏡を覗く蒼さんだった。 ……今がチャンスね やめろって。蒼さんも反省してるから 望遠鏡が傷つかなくてよかったです ……反省の色ゼロなんだけど そろそろ帰ろうと思います あっという間に星見を終えて、望遠鏡を片付け始めた。 メア。次会ったときに、新しい写真渡すから ……誰も欲しいなんて 俺があげたいから渡すんだ ……じゃあ、もらってもいい 目を覚ましたかー坊がメアの頭に飛び乗った。 ……帰る ああ。かー坊、悪かったな ぼー あぢぢぢぢって、やっぱりかよ!? バカバカなあなたに免じて、その子の無礼は忘れてあげる 蒼さんを一瞥してから、不機嫌そうに消え去った。 俺たちも帰るか ……はい。鈴葉が待っています ふたりで無人の屋上を出た。 ……先輩。すみませんでした 帰り道、いきなり蒼さんに謝られた。 かー坊をたたいたことか? ケガはなかったし、大丈夫だろ ……いえ、そうではなく なにやら言い辛そうにしている。 ……メアさんを、鈴葉の友達にしてくれたことです だから、すみませんで、ありがとうございました 感謝の意味だったのか。 そんなことでお礼なんかいらない ……友達って言葉を簡単に使う先輩には、そんなこと程度かもしれませんけど 鈴葉も、私と一緒で……でも私とは違う理由で、友達が少なかったから そんな鈴葉が、メアさんと同じで、写真を大事にしてるから…… そこまで言って、口を閉ざした。 鈴葉ちゃんは幸せ者だな。メアや千波だけじゃない、蒼さんだって鈴葉ちゃんを大事に思ってるし ………… もしかして、その望遠鏡って鈴葉ちゃんからのプレゼントか? 鈴葉ちゃんの素振りを見る限りは違うようだが、そう思えるくらい蒼さんは大切に扱っている。 ……いえ、これはほかの方からもらったんです 蒼さんは胸にある望遠鏡をぎゅっと抱く。 ほかの方って、誰なんだ? 教えてくれないだろうか。 ……館長です 反して、蒼さんは答えた。 今はもう閉館された、宇宙科学館の館長です 蒼さんは、昔にその科学館の天文クラブに入っていたと聞いている。 閉館した前日──プラネタリウムの最終上映が終わったあとに、渡されたんです 古くて使わなくなった望遠鏡があるから、よかったらもらって欲しいって言われて…… もう、四年も前の話です 蒼さんが天文クラブに入ってたから、最後にプレゼントしてくれたってことか ……そうかもしれません。私は、クラブの出席率が一番高かったみたいですから 私は、友達と遊ぶ代わりに、よくプラネタリウムを眺めていましたから だから、館長はこの望遠鏡と、もうひとつ…… ヒバリ校の屋上のカギを、私に渡したのかもしれません そのカギがあるからこそ、蒼さんは毎夜のように屋上に足を運ぶことができる。 カギも館長からもらったのか ……はい なんで館長がカギなんて持ってたんだ? ……わかりません ヒバリ校の関係者だったということだろうか。 そもそも、私にカギを渡した意味もよくわかりませんから…… でも、蒼さんは受け取ったんだな ……そうですね カギをもらっていなければ、蒼さんが屋上を訪れることもなかったのだろう。 そう考えると、私は館長のせいで、南天の星空が忘れられないのかもしれません 想い出の星空を探すことを、やめられないのかもしれません…… その声は明るくも暗くもない。 だけど淡々としているわけでもなかった。 それは、蒼さんの複雑な心境を物語っているように聞こえた。 蒼さんをもっと天クルに巻き込みたい。 そんなふうに仲間と一緒に画策してみたりもしたが、そう簡単に事が運ぶわけもなく。 相手はあの蒼さんだ、追いかければ逃げていき、追いかけなくても離れていく。 毎度のように部活には遅刻したり。 活動に参加しても途中で帰ってしまったり。 金曜日の天体観測も出たり出なかったり。 俺たちがどうアプローチしようが蒼さんのそんなスタンスは微塵も動かず、時だけが過ぎていった。 まあ退部はしていないし、無理強いもしたくないので、それで充分なのかもしれないけれど。 ただひとつ気がかりなのは、蒼さんは天クルに入ったことをどう思っているのかということ。 少しでも楽しんでくれなければ、勧誘をした俺たちの責任は果たされないのだから。 蒼ちゃんっ、おはよーっ! おはよう ……おはようございます 九月が終わり、十月に突入した。 秋もいよいよ本格的に始まって、ヒバリ校は今日より衣替えとなる。 冬服に変わった制服は気分も一新させてくれる。 ほらほら見て見て蒼ちゃんっ、千波のおニューの制服だよっ、かわいいでしょ大人っぽいでしょ蒼ちゃんが望むならこの姿で一緒にご飯食べたり一緒に遊んだり…… 一緒に死んだり それ心中だけど悔いはないの蒼ちゃん!? 蒼さんもその制服、新しく見えるな ……クリーニングに出してましたから。先輩は転入生だから初めてですよね そうなるな みんなでおニューの制服だねっ ……そして急がないとみんなで遅刻 じゃ、そろそろ行くか いつもぎりぎりの俺たちだが、遅刻をしたことはまだないのだ。 校門に着くと、なにやら騒がしかった。 生徒がいっぱい集まってるね また持ち物検査か? 一学期に一度しか行わないはずですけど 列ができていたので、とりあえず最後尾につく。 問題なし。はい、次の人 姫榊を始めとする生徒会役員が、生徒の身の回りをひとりひとりチェックしていた。 制服のチェックかな? とすると、衣替えだからだろうな ……面倒 そのうちに俺たちの番がやって来る。 はい次の人、そこに立ってじっとして……って、小河坂くんじゃない お務めご苦労さん どういたしまして。それよりまた遅刻ぎりぎりなのね 身内にお荷物がいるせいでな 蒼ちゃんは朝弱いもんねっ ……身内なんだからそっちのことでしょ 問題なし。それじゃ、次の人 はーい! 問題ないわね スカートの丈に規定でもあるのか? というよりも、間違って夏服で登校してないかチェックするのが主かしら ……わざわざひとりずつ調べなくてもいいと思いますけど あなたみたいな生徒を捕まえるのも目的よ、蒼さん。これから生徒会室に来てもらうから ……制服に問題はないと思いますけど その前の持ち物検査で問題あったでしょ。小河坂くんに持たせたタロットカード、あなたのものじゃない ……先輩、裏切りましたね いや、俺は事実を話しただけだから そういうわけで、生徒会室で厳重注意するから やめてください、千波さんがかわいそうです あなたが来るのよっ 蒼ちゃんのためなら千波が身代わりになってあげるよっ ……ちょっと待って そういうわけで、失礼します 蒼さんはひとりで歩いていってしまう。 姫榊はあっけに取られていた。 先輩よろしくお願いしますっ、千波が蒼ちゃんに代わって注意されますからっ ……千波さん、それでいいの? ぜんぜんいいですよっ 友達思いだな えへへっ、それほどでもないよっ ……というか、蒼さんに注意しないと意味ないんだけど 千波が受けた注意を蒼ちゃんにそのまま教えますよっ、でも千波はこれでも記憶容量が限られてるからなるべく簡潔にお願いしますねっ、できれば二桁未満の文字数でっ 姫榊は疲れた顔でため息をついていた。 ……この子が甘やかすせいで、蒼さんがますますつけ上がったらどうするのよ 千波、蒼さんの友達だったらたまには厳しくな それはわからないよお兄ちゃんっ、千波はそもそも楽しければなんでもいいからねっ 蒼さんの代わりに注意を受けるのも楽しいの? はいっ、千波はこれでもどんな苦労も快楽に脳内変換できる機能を備えてますから! 仙人レベルの快楽主義者だった。 お、いたいた。蒼さん ……最近、昼休みによく会いますね 天気がいい日には、中庭で食べるようにしているのだ。 寒くなってくると、外で食べるの辛くなっちゃうから 今のうちに、ということですね あと二週間もすれば、ここも人気が少なくなるだろうな 雲雀ヶ崎は気温の下がりも早いのだ。 ご飯冷めちゃうし、食べよ食べよ 俺たちは輪になって、冷たくなり始めた芝生の上に腰を落とした。 蒼さん、今日も部室で出し物の準備だぞ ……知ってます あと一週間でヒバリ祭だからね。気合い入れてがんばるぞ~ そういや天クルはなにやるんだ? 自作のプラネタリウムですよ 部活のミーティングで話しあって決め、先月の終わりから準備を進めているのだ。 それ、去年もやってなかったか? そうだけど、ちゃんと去年と違うところもあるよ 今年は皆さんに、南天の星空を眺めてもらうつもりなんです これも、部員のみんなで決めたことだった。 蒼さんも反対しなかった。むしろよろこんでくれることを俺たちは期待していた。 蒼さん、今日は部活出られそうか? ……全力は尽くします 蒼さんの全力って波が激しいからわからないよ~ みんなで力を合わせてポンチングをがんばりましょう ……穴開け作業は目が疲れるので辞退したいところです じゃあドーム作りのほうやってみるか? ……力仕事は腕が疲れるので遠慮します 蒼さんは俺たちの期待に反して、プラネタリウム作りをよろこんでいるようには見えなかった。 準備の取り組みに積極的とは言い難い。 いつもの蒼さんとなんら変わらないのだった。 それじゃ、すぐ疲れちゃう蒼さんのために、はい わたしたちのおかずをどうぞ はいよ、オレも まあ食べてくれ 餌付けが始まりました……んぐんぐ そう言いつつも食べる蒼さんだ。 大きくなるためにはほどこしも甘んじて受けます……んぐんぐ はい、これもどうぞ こっちもどうぞ もうお腹いっぱいです……んぐんぐ 相変わらず少食の蒼さんだ。 菓子パンはオレがもらうぜ ……飛鳥くんはそれが目的なんだね 蒼さん、少しは大きくなったか? ……セクハラはやめてください そう簡単には大きくならないようだ。 人の体型は食事もそうですけど、遺伝も重要だと聞いたことがありますよ 蒼さんの親御さんはどうなんだ? ……たぶん標準だと思います 鈴葉ちゃんはどうなの? ……鈴葉は身体が弱いですから でも発育はいいって、前に話してたよな でしたら、いずれ蒼さんを追い越してしまうかもしれませんね ……姉として、とても困ります 蒼さんが小さいのは、鈴葉ちゃんが成長の遺伝子を全部取ったせいかもな ……そ、そんなことはありません 動揺している。 あたしは小さい蒼さんのほうが好きだな~。小動物みたいでかわいいもん ……先輩と一緒にしないでください、迷惑です あたしはどっちかっていうと標準だよ~! 私はいずれ標準を越えますから。その遺伝子が眠っているはずですから。言うなれば羽化を待つ蝶ですから この場にいる誰もが羽化を果たした蒼さんを想像できないのは言うまでもなかった。 夢は心の栄養ですから、きっと大きくなりますよ ……はい 心が大きくなりますよ ……私は身体を大きくしたいんです 夢を見ることは大切ですよ そうやって見下ろしているのも今のうちです……んぐんぐ 蒼さんは残っていた菓子パンをちまちまと食べ始める。 なんだ、食べるのか ……お腹いっぱいです もらってやるぜ ……放課後にまた食べますから、アサルト部長 オカルト部長のほうがまだマシなんだけどっ ちなみにアサルトというのは突撃や急襲を意味する言葉で、武器の名前などに使われているんですよ まあアサルト部長でもいいか 飛鳥さんも男の子ですね というか、こさめさんがそういう言葉に詳しいことに誰も違和感を持たないんだな それはとてもしょんぼりですね だからこさめさんには誰も敵わないんだろうと思った。 世界で初めてプラネタリウム投影機を作ったのはドイツの会社で、1923年のことだ それまでは、僕たちが今作っているようなドーム型のプラネタリウムは存在していなかったんだ 惑星の模型を作って、人や機械が動かして見せるくらいしかできなかったんだよ 日本でプラネタリウムが見られるようになったのはいつからなんですか? たしかそれも古くからですよね 1937年だね。歴史としてはテレビより古いから、当時の人々は感動して盛り上がったそうだよ 日本って結構プラネタリウムで有名ですもんね 大きさで言えば、世界のベスト5は日本が独占しているんだ。数だと圧倒的にアメリカが多いんだけどね プラネタリウムは市販のものもありますよね 今だと室内用のプラネタリウム投影機も安く手に入るからね。四畳半程度の広さがあれば、天井に満天の星空を映し出すことだってできる ……だったら、わざわざこうして作らなくても部費で買ったらいいと思います 放課後のヒバリ祭準備では、俺たち天クルはプラネタリウム制作に精を出している。 星座のとおりにアルミボウルに穴を開けたりと繰り返し作業が多いので、連日となると気が滅入る。 一学期にはこれをたった一夜で完成させたというのは、自分たちでやっておいてなんだが無茶だったと思う。 蒼クンこそ、南天の星空が好きなのなら、家庭用のものを買って観賞してもいいんじゃないかな ……実はもう持ってます あれ、そうなのか? はい。部屋にあります ……じゃあ、あたしたちが作った南天のプラネタリウムはなんだったんだろ そのプラネタリウム、今も使ってるのか? ……いえ。押し入れの奥に眠っています 使っていないんですか? ……はい。微妙でしたから その気持ちはわかるかな。ドームを広げないと、星空の像はどうしてもゆがんでしまうからね 部屋の天井に映すだけじゃ、南天の星空はきれいに見えないってことか ……そうみたいです だから蒼さんは俺たちの自作プラネタリウムを見たことで、天クルに入ってくれた。 あたしたちのやったこと、無駄じゃないならうれしいな ヒバリ祭に向けても、蒼さんのためにしっかり作らないといけませんね ……私のためなんですか? みんなのためだけど、その中に蒼さんも含まれてるんだよ 俺たちももう一度南天の星空を見上げたくなったから、出し物はこれで決まったのだ。 それじゃあ休憩は終わりにしよう 蒼さん、作業に戻ろうか ぽいっ 工具を捨てるなよ!? ……なんか飽きました とても萎える発言をする。 すみませんが、そろそろ帰ります 蒼さん、なにか用事? はい なんの用事でしょう? 見たいテレビがあるんです おい 月曜のこの時間だと、人気の海外ドラマかな。僕もDVDを借りてきたばかりだよ これから皆さんで観賞会ですか? それは名案だね ぜんぜん名案じゃないですよ~! 観るのはヒバリ祭が終わってからにしてくださいっ それでは、失礼します ……いや、待ってくれ 帰り支度をする蒼さんを止める。 蒼さん、プラネタリウム作るの楽しくないか? ……楽しくもあり辛くもあります まさしく部活動って感じだね そういうわけで、俺たち天クルと一緒に星のタイムマシンを作らないか? ……ダサ 姉さん風に言うとくさいですね 蒼さん、これ食べる? スフレ作ってきたんだよ~ そう簡単に餌付けされる私ではありません……んぐんぐ ちゃっかり食べていた。 食べたんだから、最後まで手伝ってね ……くっ、卑怯です テレビだったら鈴葉ちゃんに録画頼めばいいんじゃないか。メール送ってさ よかったら僕のDVDも貸してあげるよ ……そう簡単に買収される私ではありません でもちゃっかり借りていた。 準備再開だね 疲れたら、お茶も入れてあげますよ 遺憾ですが手伝わざるを得ません……んぐんぐ こんな具合に蒼さんも準備に参加してはくれている。 だけど、欲を言えばもっと俺たちに近づいて欲しい。 初めて出会ったときよりも距離が縮まったように感じてはいても。 蒼さんは、天クルとはまだまだ距離を置いている。 ……今夜もついてきましたね 夜道の送迎を任せられてるからな 天クルの活動には消極的な蒼さんだが、屋上での星見は積極的だ。 警備員に見つかる恐れもあるというのに夜の校舎に忍び込み、屋上のカギを開けては南天の星空を探すのだ。 ……送迎なんていりません でも、ひとり歩きは危険だ 一度もお咎めがないことをかんがみるに、ヒバリ校のセキュリティは相当ザルだ。 そうすると、校舎の中だって危険がないとは言えない。 先輩は暇人ですね そうでもない ほかにやることないんですか 星見がしたいからここにいるんだけどな 雲雀ヶ崎の星空が好きだから? ああ だったら展望台に行ったらいいと思います それだと蒼さんがいないじゃないか ……いなくて不都合があるんですか あるな ……どんな 蒼さんと一緒のほうが楽しいからな ……ありえない ありえるんだけどな ……セクハラはやめてください セーフだろっ 蒼さんは望遠鏡を組み上げて、レンズを覗く。 天体観測をするのは、毎度ながらわずかな時間。 望遠鏡を少し覗いたら、あとはぼんやりと星空を眺めている。 南天の星空を探してるのか? ……そう見えますか ああ。ずっとそうだと思ってた 雲雀ヶ崎でも、南天の星空がなにも見えないわけじゃない。南の空低くにわずかに見える星座もある。 だけど、頭上に輝くことはない。 夜空の主役になることは決してない。 私は、もしかしたら…… もしかしたら、雲雀ヶ崎で見えるような、こんな南天の星空で満足しているのかもしれません 主役じゃない、脇役の星空で満足なのかもしれません この望遠鏡では、南天の星空が輝くのを眺めることはできなくても…… 私は、満足なのかもしれません だから、天クルに入っても入らなくても、なにも変わらないのかもしれません…… ……それで、部活には乗り気じゃない? そういうことにしておいてください プラネタリウム作り、嫌になったか? ………… 天クル、嫌になったか? ……嫌ではありません だけど、好きでもありません 退部したいなら、止めないぞ ……いいんですか? 嫌々参加しても、おたがい意味がないからな 問題があるとすれば、天クルのほうだ。 蒼さんを引き留められない俺たちが原因だ。 ……言ったと思います 今はまだ、退部するつもりはありません 期待してもいいのか? ……しても、おたがい辛いだけだと思います 現状維持ってことか ……そうだと思います 蒼さんはそれで充分なのかもしれない。天クルとしても充分なのかもしれない。 俺だけが、満足していないのかもしれない。 ……ちょっと席、外します 蒼さんは校舎の出入り口に歩いていく。 帰るのかと思ったが、望遠鏡は置いたままだ。 どうしたんだ? ……聞かないでください 花摘みか ……セクハラ 言い換えてただろっ ……嫌がらせかと思いました 俺もついていくよ ……やっぱりセクハラ 覗くって意味じゃないだろっ 送迎だったら結構です 蒼さん、恐がりだろ ……ついてきたら悲鳴上げますから なんでだよ…… 私は幽霊以上に痴漢が嫌いです 痴漢に遭ったことあるのか? ……どうせ幼児体型です ないようだ。 でも、先輩にはさわられました どれも事故だろっ 今度やったら朝のあいさつを悲鳴にしますから なんて嫌がらせだ。 蒼さんは結局ひとりでトイレに向かっていった。 蒼さんのことだから、警備員に見つかるようなヘマはしないだろうけど。 扉が閉まる音が止むと静かになる。 暇になる。 会話相手は星空と、もうひとつ。 ……さすがに望遠鏡は持っていけないか こんな状況は初めてだった。 蒼さんはこの望遠鏡を決して人にさわらせようとしなかった。 決して人に使わせようとしなかった。 蒼さんだけに許された望遠鏡。 それが今、俺の目の前にある。 大切にしてるんだよな…… 剥き出しで運んでいるのに、汚れはほとんど見つからない。 古かったものをもらったと言っていたので、いくつか見える傷も最初からついていたものなんだろう。 そっと、指先で触れてみる。 冷たく固い。 レンズは星空に向いている。ピントは合っているだろう。 蒼さんは、どの星を眺めていたんだろう。 南天の星座だろうか。 気になった。 軽い気持ちだった。 少し覗いてすぐやめるつもりだった。 タイミング悪く蒼さんに見咎められても、謝れば許してくれると思っていた。 蒼さんは毒舌でも、優しいから。 鈴葉ちゃん限定というわけじゃない。 態度に出すのが鈴葉ちゃんなだけであり。 蒼さんは、友達作りの天才──人を見る目に長けた千波が好きになった女の子。 それがキッカケ。 だから俺も、蒼さんとは友達になれると考えた。 接する時間が増えるに従い、友達になりたいと思う気持ちも強まった。 接眼レンズに顔を寄せる。 ……友達だと思うなら、やめるべきか? 蒼さんは許してくれると言い聞かせる。 なぜだろう。 この罪悪感はなんだろう。 触れてはいけないものに触れる、この罪の意識はなんだろう──── 俺は、望遠鏡を覗いた。 そこに期待した星空はなかった。 光がない。 なにもない。 完全な暗闇。 ここにあるのは黒、それだけ。 無、それだけ。 ……え? ピントが合っていないのかと思った。もしくはほかに原因があるのかと勘ぐった。 俺は望遠鏡を操作した。 ひととおり点検したが、どこにも異常は見当たらない。 改めてレンズを覗く。 見えない。 光など一片も通らない。 星空は映らない。 闇。 ───この望遠鏡は、闇しか映し出さない。 ……洋先輩 近づいているのは感じていた。 扉が開く音が聞こえた。足音も聞こえていた。 それでも俺は、望遠鏡から離れられないでいた。 ……ごめんな、蒼さん 謝ってから振り向いた。 白々しく見えたかもしれない。 俺のこと、怒るか? 蒼さんの表情に特に変化はない。 そのまま、望遠鏡に歩み寄る。 ……見たんですね ああ 望遠鏡、覗いたんですね ……それは、たぶん違う なにが違うんですか だってその望遠鏡は…… 一度躊躇し、言葉を押し出す。 その望遠鏡は、望遠鏡じゃない ………… 壊れてるんだよ。どこが壊れてるかはわからない、俺も望遠鏡には詳しくないから でも、それで星空を眺めることができないっていうのはわかる ………… ……どうしてだ? なにがですか 星空が見えないのに、なんで望遠鏡を持ってくるんだ? なんで星空が見えない望遠鏡を覗くんだ? なんで……それで、満足だなんて言うんだ? ………… 暗闇だけで、満足だなんて言うんだ? ……言いませんでしたか 私は、天体観測が好きなんじゃないんです 想い出の星空が好きなだけなんです だから、暗闇でも問題ない…… どうせ、雲雀ヶ崎からは見えない星空なんですから ……それで、いいのか? はい 本当にそれでいいのかよっ はい 蒼さん! ……しつこい 蒼さんは望遠鏡を片付ける。 後悔ばかりが募っていた。 大きな過ちを犯した。これを機に蒼さんは離れていくかもしれない。 天クルを退部するかもしれない。 私……怒っていませんから いずれこうなることは知っていたから 先輩に怒ってもしょうがないことだから だから、現状維持です 私たちの関係は、なにも変わっていないんです…… 蒼さんは望遠鏡を抱え上げ、帰途につく。 なにも変わっていなかった。 俺たちの関係はなにも変わっていなかった。 南天のプラネタリウムを作って見せても。 蒼さんが天クルに入部しても。 登校中、朝のあいさつを返してくれるようになっても。 俺を名前で呼んでくれるようになっても。 蒼さんの笑顔を見かけるようになっても。 初めて出会ったときよりも、距離が縮んだように見えたとしても。 ……先輩。早く、屋上から出てください カギ、閉めなきゃならないんですから なにも変わっていないということが、蒼さんにとっての俺は最初から他人のままという事実が。 怒って離れていくよりも、ずっと俺を打ちのめした。 ヒバリ祭は無事全日程を終えた。 その翌日の後片付けも終わった今日、学校は休みとなる。 生徒の疲れを癒すための振り替え休日である。 宿題も出されていないため、蒼衣鈴は一日のんびり過ごすつもりだった。 といっても昼過ぎまで寝ていたため、もう半日しか残っていないのだが、特に予定もないので問題ない。 なにがなんでも遊んでやるという気負いもない。 のんびり。 ……そういえば、部活があったような ヒバリ祭も終わったということで、今後の部活動の方針を決めるとかなんとか。 ……まあいいか サボることにした。 こんな具合に衣鈴はなにも変わらなかった。 望遠鏡の秘密を知られたって普段どおり。 部活動をサボったりサボらなかったり、学園祭の準備もしたりしなかったり。 そして迎えたヒバリ祭では、衣鈴は南天の自作プラネタリウムを観賞しなかった。 受付の仕事も案内の仕事もすべて放って完全なる不参加を決め込んだ。 ……あれ。 これは普段どおりなのだろうか。 べつに出し物の仕事くらい手伝ってもよかったのに。 それくらいしてもバチは当たらないだろうに。 なのに衣鈴はしなかった。 できなかった。 気分が乗らなかったのだ。 もしかしたら、会いたくなかったのかもしれない。 あのお節介な先輩に。 参加したら南天のプラネタリウムを見せようとする。そうに決まっている。 餌付けされてきっと自分も見てしまう。 それが気に入らなかったのかもしれない。 これ以上、関わらないで欲しいから。 友達なんていらないから。 たとえ友達になっても、自分はどう接していいのかよくわからないから。 困るだけだから。 だから、今日の部活も参加しない。 たぶんそういうことなのだ。 ……憂鬱 せっかくの休日だというのに、なにを自分は気落ちしているんだろう。 気分転換に星占いでもやってみる。 タロットカードをシャッフルし、最後にカットして一番上のカードを引いてみた。 『〈恋人〉《The Lovers》』のカードだった。 ……最近よく引く だが今回は逆位置だった。 基本的に逆位置の場合は、カードの持つ意味を悪く捉えることになる。 だからこれは、失恋や仲違いを意味する。 ………… 衣鈴はカードを戻し、ぐしゃぐしゃとかき混ぜる。 そして『〈恋人〉《The Lovers》』の正位置が出るまで占いを続けた。 目的を達してから、なぜ自分は『〈恋人〉《The Lovers》』の正位置にこだわったのかと疑問になる。 べつにほかのカードの正位置でもよかったのに。 ……望遠鏡のこと、知られたくなかったのかな あのときの先輩の顔。 なにも変わらないと言ったときの辛そうな表情。 思い出すと、ほんのちょっぴり胸に痛い。 そんなふうに感じる自分が、どうしても許せなかった。 ぴんぽーん。 蒼さん宅の呼び鈴を押した。 どちらさま…… 玄関から出てきた蒼さんに、よっと陽気に手を上げる。 ……セールス? いやいや、なんでだよ なにか用ですか? 部活、行かないか ……呼びに来たんですか? ああ。そろそろ時間だからさ ……すみません 出られないのか? はい。用事がありまして それじゃあしょうがないな はい ちなみにどんな用なんだ? のんびりする用事です ……サボりじゃなくて? そうかもしれません 用がないなら部活、出ないか そういう気分じゃないので、やめておきます 無理強いはできないか ……はい その一線を越えたら蒼さんは退部してしまうのだろう。 望遠鏡を覗いてしまっても、離れていかなかった蒼さん。 なにも変わらなかった蒼さん。 それでも俺が近づけば、離れていく。 押しつけは、俺も嫌いだ。 でも、あえて押しつけてみていいか? 現状維持も、嫌いなのだ。 ……なにをするんでしょう 蒼さんを無理やり担いでいくとか 全力で悲鳴を上げると思います 部活、どうしても出られないか? ……もう、いいじゃないですか 突き放すように言う。 私は、退部するつもりはありません ですけど、積極的に参加するつもりもありません この際、幽霊部員でもいいんだと思います それで天クルが廃部になるわけじゃないんですから 私が参加してもしなくても、なにが変わるわけでもないんですから ……そうか そうです 本当にそう思うか? ………… わずかの間。 ……思います じゃあさ 責めるつもりはなかった。 ヒバリ祭をサボったのも、それが理由か? これはただの押しつけなのだ。 ……違います 押しつけることでなにかが変わるかもしれないと、望みをつないでいるだけだ。 その日は、用事があったんです そっか はい ウソだよな? ……ご想像にお任せします 俺、部活に行くよ ……はい。どうぞ それじゃ、また夕飯のときに 蒼さんから返事はなかった。 今日、蒼さん休みなんだ 気分が優れないみたいでな ヒバリ祭を欠席したのも、体調をくずしていたせいでしょうか…… 風邪ってわけじゃないから、大丈夫だ 大事がないなら、一安心だね 蒼さんがサボりだというのは皆もうすうす感じているはずだが、責める者はひとりもいない。 天クルのそういう雰囲気が俺も好きだ。 ……そうなると、蒼さんに参加を無理強いするのはどう考えても愚策になるわけだが。 姫榊クンと雪菜クンも休みだろうから、これで全員になるかな ミーティング始めよっか。おやつ持ってきてあるから、食べながらね お茶も入れますね ヒバリ祭の疲れもあるので、まったりした進行だ。 たしか、今後の方針を決めるんだよな うん。週一回の天体観測のほかにも、なにかやりたいなって。ヒバリ祭が終わって時間あるからね といっても、中間テストがもうすぐですよ 思い出させないでよ~、あえて考えてなかったのに 今月末から始まるけど、それまでは時間があるし、十一月に入ればまた活動の時間が充分取れるさ 運動部みたいに大会でもあれば、それに向けて活動できそうですけどね コンテストみたいなものはありそうですね。雲雀ヶ崎になくても、ほかの市で参加できるかもしれません だったら天体写真コンクールが最も妥当だろうね。オーロラ写真の有名なコンクールが年末にあったはずだよ へえー、オーロラっていうと北欧のイメージがありますけど 寒いところで見ることができるんですよね 寒いところだけ、というわけでもない。北極に近くないとダメと思ってる人が多いようだけど、日本でだってちゃんと見ることは可能だよ たまにニュースでも見かけますよね 最近は高感度フィルムが簡単に手に入るから、撮影もしやすくなってるんだ。だから観測家の間で活動が盛んになって、話題に上りやすくなったのかもしれない あたし、オーロラって見たことないなあ めずらしく明日歩も詳しくないのか あたしって星座専門のとこがあるから。天文には神話から入ったしね 日本でもオーロラを見るのは簡単なんですか? 北欧と違って弱いオーロラになるけどね。昔は十年に一回程度だったのが、技術の発達で年に二、三回は撮影が可能になってるよ 雲雀ヶ崎でも見えますか? それはわからないけど、調べてみる価値はあるだろうね 写真撮れるなら撮ってみたいな~ 時期が合うなら、コンクールにも応募できるんじゃないか? うまくいけば、雲雀ヶ崎のオーロラというタイトルで参加できそうですね それナイスアイデア! 今後の方針には打ってつけだろうね じゃあ、まずはオーロラ調べてみようか? 俺は賛成 わたしも異議なしですよ 満場一致だね それでは、あたしたち天クルは今後オーロラについて調査し、あわよくば写真を撮ってコンクールに応募してみたいと思いま~す! ぱちぱちぱち、と拍手が鳴った。 なんだか燃えてきましたね うん。あたし、オーロラについてもっとチェックしとけばよかったなって思ったよ 明日歩クンも天文クラブに入っていれば、見る機会もあったと思うんだけどね 科学館のプラネタリウムは、オーロラを上映することもあったから プラネタリウムって星座だけじゃないんですね そうだよ。北欧のオーロラ上映もよかったけど、南半球オーストラリアのオーロラも趣があって感動したなあ 南半球というと、真っ先に思い浮かべる人物がひとり。 蒼さんも、感動してたんでしょうね だと思うよ。出席率が高かったのだって、南天の星空に加えてこのオーロラがあったおかげかもしれない 南天のオーロラって、きっと実際に観賞するにも最高ですよね。だって寒さに我慢しなくていいから オーロラを見るには長い時間、外で待たないとだからね。あたたかいというのは魅力的だろうね 一度、本場にも行ってみたいですね 修学旅行はオーストラリアがいいな~ それって三年になってからか? うん。ですよね、岡泉先輩 この春に僕が行った修学旅行先は、沖縄だったけどね えー、国内なんて今時はやらないのに ……沖縄もあたたかくてよかったけどね こさめちゃん、こももちゃんに生徒会権限で海外に変更するよう持ちかけられない? こさめさんがいつものように迫れば押し切れるかもな してもいいですけど、姉さんは不正が大嫌いですので、相当の覚悟が必要になりそうです 相当の覚悟で迫るとどんなことになるんだろう。 それはそうと、オーロラ写真撮影が可能だったら、天体観測の時間をもっと増やしたいところだね 屋上の使用は金曜日だけになっていますからね やっぱり展望台は使えないかなあ 立ち入り禁止だし、難しいだろうね 内緒で使っても、姉さんにバレたらまた廃部の危機に陥りますよ 自分は監督だって言ってたくらいだからな 蒼さんに屋上のカギ借りるのは? たぶん、貸してくれないと思うぞ 貸してくれたとしても、姉さんにバレたらやっぱり廃部の危機になりそうです ……じゃあ、いつでも屋上を使用できるようにするしかないのかな 姫榊クンに働きかけることになるだろうね こさめさんに迫ってもらうか 純潔を奪う覚悟で迫れば確実だと思いますよ ……それ、脅迫ってことなんじゃ 姫榊クンが監督なら、天クルはマジメに活動していると納得さえすれば、屋上の常時開放を生徒会で打診してくれるかもしれないね 姫榊は夏休み中の活動を見て、ある程度は納得しているはずだ。あと一押しといったところだろう。 わたし、姉さんに聞いてみますね。もしかしたらすんなり許可してくれるかもしれません ……そうかなあ。いろいろいちゃもんつけられそうな気がするけど どちらにしろ、姫榊を納得させることは必須だな 今後の方針がひとつ増えたようだね ヒバリ祭が終わっても天クルは活気づいている。 この輪に蒼さんの姿がないのが寂しかった。 みんな、また明日 はい。明日からは通常授業ですよね 集まるのは放課後だね 電車組のこさめさん、岡泉先輩と駅前で別れる。 それじゃ、あたしも帰るけど…… ああ。店の手伝いがあるんだよな ……なかったら、洋ちゃんについていくんだけどな 俺が自宅を通り過ぎてここまで来たのは、これから寄りたい場所があるからだ。 行ったことないんだよね? まあな 住所、大丈夫? みんなから聞いてるし、建物も目立つだろうしな。なんとかなるだろ やっぱりあたしも…… 手伝いサボると小遣い差っ引かれるんじゃないか? ……そうだけど 迷ったらケータイで連絡していいか? あ、うん。もちろん それじゃ、手伝いがんばれ。俺も時間あるときはバイト出るからさ うん。絶対だよ また明日な ばいばい そうして名残惜しそうだった明日歩とも別れた。 俺は宇宙科学館へと足を向ける。 科学館は駅向こうに建っているという。 海の近くという話だが、小学校までの道のりとはいささか違うようだ。 雲雀ヶ崎は過去に貿易港として栄えた商業港湾都市だ。港町なのである。 その港の近くに、プラネタリウムを有する科学館は建っているのだった。 ……ここか 来る途中、科学館までの道順の看板などはなかった。閉館しているためだろう。 それでも迷わなかったのは、港までの道順どおりに歩いたからだ。 広い敷地を低くなだらかに覆っている建物。 その中心に突き出た塔は、天文台だろうか。 円状の屋根が見える部分はプラネタリウムだろう。 そんな立派な外観が寂れて見えるのは、庭の手入れがされていないのと、入り口にチェーンがかけられているせいだ。 コンクリートの壁も寒々しく見える。 ……でも、廃墟って感じじゃないな この科学館は市の所有物らしいが、取り壊しの話はまだ聞かないと、天クルの皆は話していた。 いずれ開館させるつもりなのかもしれない。 そうなったら、蒼さんはよろこぶだろうか。 それとも、なにも変わらないのだろうか。 ……さて、と ここを訪れたのは特に目的があったからじゃない。 一度、見てみたかったのだ。蒼さんが望遠鏡を贈られたという場所を。 中に入れるのなら入ろうとも考えていたが、チェーンを乗り越えるには度胸がいる。 展望台と違ってこのあたりは往来になっている。信号待ちの車から丸見えなのだ。 下手をしたら通報されて捕まるかもしれない。 ……もっと暗くなれば見つからないかもな とはいえ建物の入り口はカギがかかっているだろう。敷地に入ったとしても中庭を歩くくらいしかできそうにない。 しばらく外周をうろうろしていると、遠くに人影を発見した。 立ち止まって目を凝らす。 その人影は、科学館の敷地内にある。 ……誰だろう。関係者だろうか? 人影は、建物の陰に消えてしまった。 外周を回り込んで探してみるが、見失ったようだ。 中に入ったのだろうか。だが正面玄関からは離れていた。 建物のエントランスはひとつじゃないのかもしれない。 カギが開いている入り口があるのなら、忍び込んでみるのも手なんだろうけど……。 ……不審者、発見 !? 突然の声に飛び上がった。 その反応……本気で忍び込むつもりですか 蒼さんだった。呆れた顔で俺を見ている。 せめて、私服に着替えたほうがいいと思います。でないと見つかったらヒバリ校の生徒だって特定されますよ ……蒼さんは、忍び込んだことあるのか? 一度だけ、夜に 恐がりなのにがんばるんだな ……通報しますよ 俺は未遂だからな。それより 単に通りかかっただけです 先回りで答えられた。 これから忍び込むところか? 忍び込んでも意味ないです。入り口はすべてカギがかかってましたから とすると、あの人影はどこに消えたんだろう。 科学館に用事だったんじゃないのか? ……違います じゃ、どこ行くんだ? ……先輩には関係ありません 蒼さんは歩いていく。 その後ろを俺も歩いていく。 ……なんでついて来るんですか べつについていってないぞ 私の後ろを歩いてました 偶然だな そうは思えませんでした 自意識過剰だな ……先輩もどこかに用事ですか そうだな どこですか 蒼さんには関係ないな ……真似しないでください 自意識過剰だな ……死んだらいいと思います 蒼さんはふいっと前を向き、また歩き出す。 俺もその方向へ歩き出した。 着いた場所は、港だった。 ……ついて来てるじゃないですか ほんと奇遇だな ……まだ言いますか 蒼さん、よくここに来るのか? ……関係ないです ちなみに俺は初めてだ ……誰も聞いてませんから 科学館に負けず劣らず、このあたりも寂しかった。 倉庫にも停泊している船にも人気はない。務めている人がいないんじゃないかとさえ思う。 この港……初めて、なんですか? ああ、そうだよ ……昔に住んでたんですよね? 俺、外に出ない子供だったから だから存在くらいしか知らなかった。 しかし、怖いくらい誰も見当たらないな ……釣りをしてる人を見かけるときもあったんですけど 最近、一段と寒くなったからな。この時間に釣りはきついのかもな 海から吹く強い潮風に、蒼さんは髪を押さえている。 で、図らずもふたりきりになったわけだけど ……なにかしようとしたら大声上げますから 果たして助けは届くかな? もしもし、警察ですか? 通報早すぎだろ!? 冗談です 蒼さんの視線は陽が沈みかけた水平線に向いている。 先輩はきっと、千波さんと同じで、人が本気で嫌がることはしないと思いますから その夕陽は、海水浴で見た風景を思い起こさせる。 俺がついてきたの、迷惑じゃなかったのか? ……やっぱりついてきたんですね 邪魔なら帰るけどな 蒼さんは答えない。 代わりに違う言葉を口にする。 私は、以前からここによく来ていましたけど…… 海水浴以来、もっと来るようになりました 夕方を待って、港を訪れて 光る水平線を見ることが、多くなりました…… 印象的な日没の風景。 空も海も残らず夜に彩られたとしても、水平線は淡い光を宿すだろう。 それが、世界を二分する残光。 ふたりを別つ境界線。 この風景は、どこか南天の星空に似ているから 私が好きな星空に似ているから オーロラに似ているから…… それは、俺に気を許してくれたというよりは。 教える代わりに、これ以上は干渉しないで欲しいと頼まれている感じ。 蒼さんは無言で海を眺めている。 光る水平線──別つ境界線の向こうに思いを馳せている。 南天の星空が見える土地。 雲雀ヶ崎ではないところ。 それは、自作のプラネタリウムでは──天クルの力だけでは作り上げることのできない、オーロラが輝く星空だった。 お姉ちゃん、そろそろ時間だね ……先輩の家? うん。洋さんと千波さんの家で夕ご飯 ………… どうかした、お姉ちゃん? ……ううん。今から支度するから うん、下で待ってるね 鈴葉が部屋を出たあとも衣鈴の顔は晴れなかった。 さっきもちょうど洋から似たような言葉を受けている。 港からの帰り道。家の前で別れた際。 これから夕ご飯だな、と。 日常の延長であるかのように。 部活に誘いに来たときにも言っていた。 それが普通となっている。小河坂家の団らんに自分らが混じるのが当然となっている。 ……そろそろ、いいよね もう潮時じゃないだろうか。 これまでは鈴葉がひとりだと不安そうだったので自分もつきあっていた。 だが今では、鈴葉はすっかり小河坂家に溶け込んでいる。鈴葉ひとりでも心配ない。 なによりも、これ以上は危険な気がする。 鈴葉だけじゃない、衣鈴自身も変わってしまう。 洋や千波と一緒にいるのが普通になってしまう。 なにも疑問に思わなくなる。 みんな一緒が、日常となる。 それが怖い。 ───思い入れが強くなり、それが壊れたときのショックは、この身が思い知っている。 距離、置かないと…… ふたりから距離を取らなければ。 洋のそばから離れなければ。 傷を負ってしまう前に、必ず。 もう、嫌だから…… 日常が壊れても、なにも変わらないと思えるように。 いつもと変わらず過ごせるように。 涙を流さずにすむように。 だから衣鈴は、近づくわけにはいかないのだ。 ここで食べる夕飯は、今夜限りにしたいと思います それは夕飯後にかけられた突然の言葉だった。 そういうわけで、今日までお世話になりました ぺこりとお辞儀する。 じゃあ明日からは蒼ちゃんの家でみんなでご飯? ……そうじゃない。みんなと一緒に食べるのはおしまいってこと お、お姉ちゃん、どうして? 鈴葉はこれまでと同じでいいから 蒼ちゃんもこれまでと同じなんだよねっ ……違う。私はもう来ないから なんでなんでっ、蒼ちゃんが来なかったら千波いつまで経っても夕ご飯が食べられないよっ 私が来なくても食べてればいい それは難しいよ蒼ちゃんっ、今となっては千波は蒼ちゃんの顔を見ないとご飯が喉を通らないからねっ よし、これで餓死 その笑顔はまぶしすぎるよ蒼ちゃん!? ……蒼さん、今の話は 聞いたとおりです。明日から、先輩方の団らんにはお邪魔しませんから お、お姉ちゃん…… 鈴葉はもうひとりでも大丈夫だよね? 鈴葉ちゃんは言葉を失っている。 ……蒼さん、どうしたんだ? そんな急に もともと、私はお邪魔する気はなかったんです。だから急じゃありません もしかして怒ったのか? なんのことですか 俺が蒼さんにつきまとったからさ 天クルの勧誘から始まり、屋上での星見、そして今日は港までついていった。 ……自覚あるのに、やめませんよね まあな、でも怒ったんなら謝るから。だからさ もう決めたことなんです。それに、先輩のせいってわけじゃありません そもそもが、変だったんです。お隣だからって団らんに加わっていたのがおかしかったんです だから、それを普通に直しただけ…… 普段どおりに戻しただけ なにも変わりません なにも、変わっていないんです 蒼さんはそう繰り返す。言い聞かせるみたいに。 たしかにそうだった。 俺が近づけば、蒼さんは同じだけ離れていく。 俺が蒼さんの望遠鏡を覗いたら、蒼さんはヒバリ祭に参加しなかった。 俺が蒼さんの想い出を聞いたら、蒼さんは夕飯を一緒しないと言った。 プラマイゼロ。 だから変わらない。 俺たちの距離は変わらない。 なにも変わらないことがなにより辛い。 それはどうしようもないことだろうか。 蒼さんに近づくことは、無理なのだろうか。 ……衣鈴ちゃん 詩乃さんが洗い物を終えて姿を見せる。 もし気が変わったら、いつでも言ってね。小河坂家一同、待ってるからね ……待ってなくて結構です ううん、待ってるわ 迷惑になりますから ならないわ。それで、衣鈴ちゃんが迷惑に感じることだってないのよ 見返りを求めてるわけじゃない。そうしたいから、そうするのよ だから、たとえ衣鈴ちゃんが二度と私たちの団らんに加わらなくたって、誰も衣鈴ちゃんを責めはしない 蒼さんは息を呑む。 それが家族というものでしょう それが友達というものでしょう それが、好きになるってことでしょう 俺は、蒼さんに近づきたい。 近づくことで蒼さんになにかを求めるわけじゃない。 自己満足とは紙一重のこの感情。 認めてもいいのかもしれない。 俺は、蒼さんを好きになりかけている。 今日からはまた通常授業が始まり、俺たちは放課後を待って部室に集まっていた。 こさめから聞いたわ。屋上の常時開放を頼みたいんだって? ああ。生徒会で認めてくれるか? 却下 なんでだよっ わたしが決めたから 横暴反対! こももちゃんカッコ悪い! うるさいっ、週一回は使わせてあげてるんだからそれで満足しなさいよっ あたしたちは毎日使いたいんだよ~! わがまま反対、南星さんカッコ悪い わがままじゃなくて当然の権利だよ~! とにかく常時開放を認めるわけにはいかないから 認めてくれないとこさめさんをけしかけるぞ すみません姉さん、こんなかたちで奪うことになってしまって いったいなにを奪うのよっ。あ、ううん、いいっ、言わないでいい! 姉さんが大切に守っている処…… 言わないでいいって言ったでしょ!? ごめんね、こももちゃん…… 誰もあげるなんて言ってないし同情されるとムカつくのよ!? 部員の女子比率が高いせいか、男の僕たちには肩身が狭い話題がよく出るなあ 昼休みにもよく出てますけどね それでは姉さん、覚悟はよろしいですね 待ちなさいっ、だいたい女のあなたがどうやって……って、ううん、いいっ、言わなくていいから! 破瓜は難しいですが気持ちよくして最後に絶…… 頼むから男子もいること忘れないでくれる!? 男ふたりでまったりお茶をすすっていた。 ああ、ついに姉さんとあらゆる一線を越える日が…… だから待ちなさいってばっ、屋上の件はべつにイジワルで言ってたんじゃないんだから! そんな事情はもはやどうでもいいんです…… すぐ手段と目的入れ替えるのやめてくれる!? じゃあこももちゃん、屋上の使用認めてくれるの? 姫榊は盛大にため息をつく。 いい、一学期は立ち入り禁止だったのが、二学期からは週一回の開放を許可してあげたでしょう それ以上を求めるのもあなたたちにとっては当然なんでしょうけど、そんな急には無理なのよ 部になったばかりなんだし、誰も納得しないわ。先生方も、わたしたち生徒会役員も そこをこももちゃんが非合法に押し通すんでしょ? わたしが不正担当みたいに言わないでくれる!? 姫榊、どうすれば納得してくれるんだ? ……納得できる材料をそろえるしかないでしょうね それはなんだい? 天クルが部活動としてヒバリ校に貢献してるかどうか。少なくともマジメに活動してるところくらいは見せないといけないでしょうね 夏休みに見せたじゃないか 充分とは言えないわね それ以上となると、どうすればいいんでしょう? 手っ取り早いのは大会やコンクールで優秀な成績を残すことでしょうね そのコンクールに出るために屋上使いたいんだけどな あなたたち、そういうの出るんだ ヒバリ祭も終わったし、次の目標が欲しかったからね 姉さん、先行投資という意味で、コンクールのために屋上の常時開放を求めることはできませんか? 姫榊は腕を組む。 ……説得の材料にはなるかもしれないけど、信用性がないから無理じゃないかしら なんで信用性がないんだよっ ヒバリ祭ではプラネタリウム作ったぞ? それでヒバリ祭大賞を取ってたら文句なかったけどね ヒバリ祭大賞というのは、優秀だった出し物に贈られる賞のことだ。副賞として部費アップなんかがあるらしい。 演劇部や軽音部の出し物と違って地味ですから、賞を取るのは難しいんですよね それでもあと一歩ってところだったのにな…… 姫榊は天クルの活動見て、問題ないマジメな部活っていう結論だったんだよな? そうね。それが? だったら先行投資くらいできるだろ? 活動自体に問題はないけど、ほかに問題があるから どこにあるんだよ~! 部活の出席率ね。あなたたちは違うとしても、不真面目な部員もいるじゃない それを言ってしまうと、姉さんに責任がありますよ わたしの欠席はちゃんと理由があるじゃない 生徒会の仕事がいそがしいからだよね メアについては許してくれよ メアさんはヒバリ校の生徒じゃないし、出席率をうるさく言うつもりはないわ じゃあ、あとは雪菜先輩と…… 雪菜先輩は三年生ですし、受験や就活のためにいそがしいということにしていただけませんか? ……そうは見えないんだけどね。まあ理由としては正当かしら とすると、残った不良部員は。 蒼さんをサボらせないようにすれば、屋上を使わせてくれるのか? 説得材料にはなるって話よ 蒼さんを更正したら、常時開放をお願いしますね 確約はできないってば 確約しないとこさめさんをけしかけるぞ ひとりでお風呂に入る際は気をつけてくださいね なにに気をつけるのよっ。あ、ううん、いいっ、言わないでいい! 背後からそっと胸を愛…… だから男子の前でやめてくれる!? ごめんね、こももちゃん…… あなたたちわたしを怒らせるたびに不利になることいいかげん気づきなさいよ!? 今日も今日とて姫榊はいじられ役だ。 それじゃあ、蒼さんは任せてくれ。そっちもよろしくな 廃部にさせればいいのね こさめちゃん 姉さん、お覚悟を…… わかったからっ、全力は尽くすから! 姫榊の全力は蒼さんと違って信用できる。一安心だ。 ……そろそろ生徒会に戻るわ 姉さん、お疲れさまでした あとでお仕置きだからねっ はい……うっとり 姫榊は頭痛をこらえて退出した。 となると、当面の問題は蒼クンの出席率だね 今日も来てないけど…… 俺、ちょうど家が隣だしあとで聞いてみるよ。屋上の件も話してみる まずは小河坂さんにお任せですね 手伝えることがあったらなんでも言ってね しかし、蒼さんをどう説得したものか。 無理強いしてもますます離れていくのが目に見えている。 それでも、傍観するだけではなにも始まらない。 アプローチの方法が問題なのだ。 蒼クンは難敵だし、よく考えて行動すべきだろうね ……先輩、オーロラのプラネタリウムって自作できますか? オーロラを再現するのかい? はい。蒼さん、南天のオーロラが好きみたいで 南天の星空を見ているのなら、オーロラだって目にしているんでしょうね いいないいな、うらやましすぎるよ~ 勧誘と同様、プラネタリウムで吊る作戦ですね 表現はアレだが、そのとおりだ。 ……でも、科学館のプラネタリウムだったら可能だろうけど、自作でオーロラって見せられるのかな 俺も不安に思っていたことだ。 できないこともない。オーロラに似た光を映すインテリアライトと組み合わせるとかね ただ、はっきり言って出来は期待できないね。ただの星と違って、オーロラの色彩は自然だからこそのものだ それなりの設備を用意して初めて本物に近づける。自作のものじゃ蒼クンも納得しないんじゃないかな もしかして洋ちゃん、それで科学館を見にいったの? そういうわけじゃないんだけどな。そのときに蒼さんに会って、オーロラのこと聞いたんだ 閉館しているのに訪れるくらいだ、よほど科学館のプラネタリウムに思い入れがあるんだろうね それだけ蒼さんは、遠く離れた南天の星空に思いを馳せている。 いっそのこと、科学館でプラネタリウム観望会ができたらいいのにね 閉館していても、設備が生きているなら使わせてもらいたいところだね 天クルで準備できれば、蒼さんにとってはこの上ないプレゼントになりますね ケースも受け取ってくれるとうれしいな そもそも科学館って、なんで閉館したんだろうな 公式ではなにも知らされていないね。市の判断だったことくらいかな 建物が残っているということは、まだ開館の可能性も残されているんでしょうか 一度、市役所にかけ合ってみてもいいかもしれない。 ……いや、一刻も早くそうするべきだ。ここで議論をしているだけじゃ始まらない。 俺が本当に蒼さんに近づきたいと思っているのなら、足踏みをしているときじゃない。 じゃあさ、これからみんなで聞きにいこっか そうだな。市役所に行ってみよう じゃなくて、あたしの喫茶店に来ない? ……いや、べつに腹は減ってないから そういうことじゃなくて そして明日歩はこう口にした。 うちのお父さん、昔は科学館に勤めてたから お父さん、喫茶店始める前は天文学者だったんだよ ……そうなのか 喫茶店の名前やメニューがあんなだったのは、それも理由のひとつなんだろう。 それで、科学館に勤めてた時期もあったんだよ。洋ちゃんには言ってなかったと思うけどね わたしも初耳ですよ ……あれ、そうだっけ 僕は知ってたよ。クラブに所属していたときに何度か会っているから 明日歩さん、自分からは誰にも話してなかったんじゃないですか? あはは……普通に知ってるものだと思ってた なんにしろこんな身近に関係者がいたのは心強い。 昨日科学館で見た人影も、マスターだったのかもしれない。 この時間だとお客少ないし、お父さんも暇だからいろいろ話聞けるんじゃないかな 明日歩を先頭に、ミルキーウェイに来店する。 ……科学館が閉館した理由? カウンターで新聞を読んでいたマスターに早速尋ねてみた。 はい。マスター、昔そこに勤めてたって聞いたんで、知ってるかなと 閉館の理由は、維持費がかさんで採算が取れなくなったからだよ あっさりと判明。 ……夢も希望もない理由だね 子供に夢を与えるにもお金がないと難しいんですね 館長が辞職したからという理由も聞いたことがありますが…… そっちはただの噂だね。人前に出たがらない館長だったから、辞職しているんじゃないかと住民が勘ぐったんじゃないかな マスターは苦笑していた。 雲雀ヶ崎には昔から天文台が建っていてね、〈光害〉《こうがい》がなく空気がキレイという理由からなんだけど それから隕石が落ちたという経緯もあって、住民の天文熱が高まったんだ それを契機に、市は天文台を宇宙科学館に建て替えた…… 昔って天文台だったの? あそこ、高台じゃないよね? あのあたりは今では市街地の一部だけど、昔は〈光害〉《こうがい》のない暗い場所だったんだ。だから平地でも問題なかった そして宇宙科学館が開館すると、プラネタリウム観望会を筆頭に、当時は大いに盛り上がったそうなんだけどね 今の子供たちは天体観測よりもほかの遊びに夢中ですからね。天クルの部長としては悲しいですが それで、ついに四年前に閉館したのかあ また開館するって話はないんですか? 今のところはないね。採算が見込めない限り、市は動こうとしないんじゃないかな 民間の企業に任せることも難しいんでしょうか どうだろうね。不景気と言われ続けてそれがもう普通になってる社会だからね じゃあ建物が残ってるのは? 取り壊すのにもお金がかかるから放置してるんじゃないかな なんとも世知辛い会話である。 建物の中に、機材は残ってるんですか? 一部は企業に買い取ってもらったり、ほかの自治体に譲渡したそうだよ。残っている機材と言えば…… マスターは思いめぐらすように、 投影機くらいのものだろうね ……投影機? プラネタリウムのですか? そうだよ。古いものだったせいか、どこにも引き取り手がなくてね 投影機の仕組みは複雑だから、あまり古いものだと整備できる技術者が限られてしまうんだ どこも適任の技術者がいなかったため、科学館に残されているんだろう。 俺たちにとっては僥倖の話だ。 博物館に寄贈の話も上がったんだけど、科学館の職員の反対もあってね。まだ使えるのに展示には早いって だから今は、館長がひとりで整備を続けてるんだ 定期的に科学館に足を運んでは、ね あ……じゃあ 明日歩の表情がみるみる輝く。 お父さん、科学館のプラネタリウムってまだ使えるの? 投影機が生きているなら、ドームスクリーンに星空を映し出すことは可能だろうね そして科学館の館長が、その投影機を今もなお守っている。 これは案外、うまくいくかもしれないね その方に頼めば、プラネタリウムを使わせてもらえるかもしれません お父さん、館長さんに連絡って取れる? ……みんな、プラネタリウムを使いたいのかい? いいから。連絡取れるの? 取れないの? ……最近会ってないけど、連絡くらい簡単だよ チャンスが到来した。 もう一度、蒼さんに踏み込む好機が。 プラネタリウムの使用が可能だとしても、僕は賛成しかねるけどね え、なんで? マスターは明日歩をじっと見ている。 ……お父さん、あたしが天文クラブに所属するの、反対したけど。またそういうことするの? マスターは苦笑いを浮かべる。 雲雀ヶ崎の宇宙科学館は閉館した。それでも閉館セレモニーでは住民だけじゃなく、ほかの市からも天文ファンが詰めかけた 最後のプラネタリウム観望会は全客席が埋まる盛況ぶりだったんだ それを一番よろこんでいたのは、他ならぬ館長だったはずだからね だから、と続けて。 キミらの話をすれば、あの人はたぶんよろこぶ。だったら止めることはできないのかもしれないね 皆と別れたあと、蒼さん宅に寄ってみる。 先ほどの話を聞かせるためだ。 もしかしたら、科学館のプラネタリウムをもう一度見られるかもしれないこと。 マスターには、頭を下げて館長に頼んで欲しいと伝えていた。 ……蒼さん、出ないな 呼び鈴を押すが、返事はない。留守のようだ。 俺の家にいるんだろうか? 蒼さんは、もう夕食を一緒しないと言っていたけれど。 お姉ちゃん、家にいないんですか? みたいだ。どこ行ったかわかるか? ……すみません、知らないです 蒼ちゃん、夕飯に来ないのかな わたし、何度も誘ったんですけど…… 俺は廊下に足を向ける。 お兄ちゃん、出かけるの? まあな もうすぐご飯だよ? 先に食べてていいって、詩乃さんに伝えといてくれ 詩乃さんはキッチンで夕飯を作っている。千波が言ったとおり、時間的にもうでき上がる頃だ。 もしかして……お姉ちゃん、探すんですか? ああ。ちょっと心当たりがあるからな 見つけたら絶対連れてきてねっ、今日は千波も料理手伝ったんだからっ 詩乃さんにいらないって伝えといてくれ そろそろ千波の腕を信用して欲しいよお兄ちゃん!? わ、わたしは楽しみですっ、千波さんのお料理初めてですから 鈴葉ちゃん、俺と一緒に蒼さん探しにいこうか それは難しいよお兄ちゃんっ、鈴葉ちゃんは千波主催のめくるめくディナーツアーに招待されてるからねっ それどんな片道キップ? 行き先は天国じゃないよ!? 地獄だもんな ちゃんと現世に戻ってくるんだよ! 鈴葉ちゃん、幽体離脱って経験したことあるか? そういう意味じゃないよお兄ちゃん!? あらあらダメよ洋ちゃん、千波ちゃんだってお料理上達してるんだから 特に今日のは自信作ですから! とってもおいしいカフェゼリーだったものね? はい! 千波自慢の卵焼きですから! 料理名が違うどころか食感まで変貌してるだろっ ご飯の用意、できてるわよ はーい! と、とっても楽しみです 千波も詩乃さんも味覚がおかしいので、被害が出るとしたら鈴葉ちゃんだ。 ……詩乃さん、鈴葉ちゃんのことくれぐれもよろしくお願いします 大丈夫よ。料理は愛情なんだから 千波の料理はそんな精神論で覆らない気もするが、今の俺は武運を祈るしかなかった。 ヒバリ校の校門はまだ開いている。 蒼さんは屋上にいるかもしれないと頭をよぎったが、すぐに打ち消す。 星はまだ見えない。 だから蒼さんは、ここじゃない。 駅を超え、科学館の前を通りかかったとき、遠くに人影を見つけた。 蒼さんではない。その人影は科学館の敷地にある。 しばらく目で追っていたが、いなくなった。 誰かはわからなかった。 マスターなのか、はたまた違う人物か。 思いつく最たる人物は、館長だ。 そして、俺がその場所を目指す最中。 空は、橙色から紺色へと移行した。 ……一足、遅かったですね 蒼さんが、潮風に揺れる髪を押さえながら、暗い海原を眺めていた。 ちょうど、水平線が見えなくなったところです それは、残念だ 惜しかったですね でもまあ、いつだって見られるさ ……そうですね 南天の星空だって、いつかまた見られる ………… それで、だ 芝居がかって言う。 俺がそれを見せると言ったら、どうする? ……どうもしません そんなこと言わずに考えてみてくれ 考えてみました 結果は? よけいなことしないでいいです やっぱ、よけいか はい 蒼さんは、光がなくなった水平線をまだ見つめている。 ……南天のプラネタリウムは、もう作らなくて結構ですから そうじゃないんだ ……? 俺が見せると言った南天の星空は、それよりもっと本物に近いんだ ……よく意味がわかりません 蒼さん、科学館のプラネタリウムが好きなんだよな 蒼さんは眉をひそめる。 ……まさか、科学館のプラネタリウムで見せてくれるんですか? だとしたら、どうする? 沈黙が落ち。 ……どうもしません そんなこと言わずに考えてみてくれ 考えてみました 結果は? よけいなことしないでいいです ……手厳しいな はい 科学館のプラネタリウムって、どんな感じなんだ? 冷たい潮風が俺たちの熱をさらっては過ぎていく。 俺に教えてくれないか ……べつに、普通のプラネタリウムだと思います 俺、実は本格的なプラネタリウムって見たことないんだ ……そうなんですか? ああ。意外か? ……はい。だって先輩は、星が好きみたいですから 星が好きになったのは最近なんだ。天クルに参加するうちに好きになったんだよ だから、今までは違ったんだ 蒼さんと同じだったのかもしれない。 蒼さんは、星が好きだから天体観測をするわけじゃない。 俺も、星が好きだから天クルに入ったわけじゃない。 プラネタリウムの投影機は、俺たちが作ったものよりずっとカッコいいんだろうな ……そうですね どんな感じなんだ? 宇宙です 蒼さんは、はっきりとそう言った。 あの中には、宇宙が入っているんです 科学館の閉館セレモニーが行われた、あの日…… 私は、プラネタリウムの最終上映が終わってもまだ帰りませんでした 周囲の闇が照明で晴れても、観客が列をなしてドームの外に出ていっても…… ずっと、動けなかったんです 名残惜しかったからだと思います。これで終わりだなんて考えたくなかったんです 私は、立ち尽くすしかなかった 私は、泣くしかできなかった…… 泣くしかできない自分が悔しくて、涙が止まることはなかった だからかもしれません そんな私を見かねて、声をかけてくる人がいたんです その人は科学館の館長だと名乗りました 私は天文クラブに入っていても、これまで館長の顔を知りませんでした 私だけじゃなかったと思います。館長は人前に出るのが苦手だそうで、閉館セレモニーでさえみんなの前に姿を出さなかったんです なのにそのとき、館長は私に声をかけてきた…… いいものを見せてあげるって、言ってきたんです 最後のとっておきだって 泣いていた私をあやす意味だったんだと思います 館長は、私をプラネタリウム投影機の台座の前まで連れていきました 上映中は、投影機の姿は暗いからわかりません 上映が終わっても、席からは離れている場所にあったから、遠目でしか見ることができませんでした ドームの中心に置かれたその黒い機械は、天井の照明を受けて鈍く輝いていました まるで星空を仰ぎ見るかのようにそこにありました 投影機を見たことのない人に、それがどんな形かを説明するのは難しいと思います 一番近いのは地球儀かもしれませんが、間近で見るともっとごつごつしてるんです これがどうやって星空を映すんだろうって、私は不思議でたまらなかった…… そんなふうに思いながら、機械をぺたぺたさわっていたら、館長は言ったんです この穴から中を覗き込めるって 投影機の中には、宇宙が広がってるって 私は、そこに顔を近づけました そして、たしかに見たんです 宇宙を見たんです それは恒星投影球と呼ばれるもので、レンズを通してスクリーンに星座を映す元になるものなんだそうです 私はいつしか泣きやんでいました 私は、宇宙を見たから その宇宙に、南天の星空を見たから 私は長い時間、覗き込んでいたみたいです その間に館長は、どこからか望遠鏡を持ってきていたんです 私はその望遠鏡を受け取りました 屋上のカギと一緒に受け取りました これで、好きなときに宇宙が見えるって言われて 科学館がなくなっても、いつでも会いにいけるって キミの好きな星空に会えるって…… 館長は、知らなかったんです 私が会いたい星空は、雲雀ヶ崎からは見えないのに ヒバリ校の屋上からは、見えないのに…… 展望台は立ち入り禁止だったから、その次に星空がよく見える屋上のカギを、館長は蒼さんに渡した。 だけど結局、蒼さんが望む星空は見えないのだ。 ……なんで、話してくれたんだ? ………… 気まぐれか? ……たぶん、そうです 話したあと、その分だけ俺から離れていくのか? ………… 天クル……辞めようって、考えてるのか? 蒼さんは黙したまま。 また、賭けをしようか? この言葉に、瞬きする。 俺が、蒼さんに科学館のプラネタリウムを見せる その代わり…… ……天クルを辞めないでくれ? 部活にもっと出てくれ? 違う。 館長から贈られた望遠鏡を、俺に修理させてくれ 考えた末のアプローチ。 蒼さんに近づくための俺の行動。 天クルよりもなによりも。 蒼さんが最も大切にしているのが、その望遠鏡だから。 賭けというより、今回は取引だけどな ……どうして 乗るか乗らないか。さあどうする? その前にどうしてって聞きました たぶん、館長と同じ気持ちだからだな ………… 蒼さんが好きな星空が雲雀ヶ崎からは見えないって、館長は知らなかったんだろうけど…… でも、望遠鏡をあげたのは、それだけじゃないだろ 館長は、雲雀ヶ崎の星空を好きになって欲しかった だから蒼さんに望遠鏡を贈ったんだ ………… 望遠鏡が壊れたのは、いつからだ? ……もらってから、一ヶ月もちませんでした 相当古かったんだな…… なんというか、詰めが甘いぞ、名も知らぬ館長。 俺も、館長と同じなんだ。蒼さんに雲雀ヶ崎の星空を好きになって欲しい だから、お節介をしてみたい。ダメか? ……押しつけですか あえて俺が嫌いな押しつけをしてみたんだ 嫌いならしないでください でも、もっと嫌いなことがあったんだ。蒼さんのせいで気づいたんだ ……私のせいですか ああ。なにも変わらないことが嫌いになったんだよ ………… 蒼さん限定で、だけどな ……また私のせいですか この歯がゆい想いは、相手が蒼さんだからこそ生まれている。 取引に乗るか乗らないか。さあどうする? ……その前に、もうひとつ聞かせてください なんだ? どうしてそこまでしてくれるんですか? 蒼さんだからだろうな ……答えになってません こんなにもわかりやすい答えなのに。 ……もういいです。わかりました 蒼さんは諦めたように言ったのだ。 先輩がしつこいのは、今に始まったことじゃないですから…… だから、できるなら、私に科学館のプラネタリウムを見せてください もう一度、見せてください 俺は、約束すると答えた。 どうなるかは館長次第になるのだが。 蒼さんに望遠鏡を贈った気持ちが本当に俺と同じなのだったら、この取引はうまくいく。 必ず、うまくいくのだ。 ちょうど今、お父さんが館長さんと電話で話してるよ 放課後を待ち、昨日と同様みんなでここに来た。 科学館のプラネタリウムが使えるかどうか、聞いてるんじゃないかな わたしも一度見てみたいと思っていたので、楽しみです こさめちゃん、見たことなかったんだ はい。明日歩さんはあるんですよね? 何度かね。閉館セレモニーのプラネタリウムが特によかったな~ 天文クラブの会員も全員参加したから、僕も感動したと思うんだけど、どういうわけかよく覚えてないんだよね 閉館反対デモをしていたせいじゃなかろうか。 明日歩、プラネタリウムの最終上映ってどんな感じだったんだ? 最後だけあって、すっごく盛り上がってたよ。上映が終わったあとの拍手なんてドーム全体に鳴り響いてたし ドームが明るくなったら職員の人が投影機の周りに並んでね、ひとりずつあいさつしたんだ その中に館長さんもいたのかもしれないね 館長は人前に出るのを嫌う人だって聞いていたから、どうだろうね。僕も顔を見たことすらないよ 奥ゆかしい方だったんですね というより、彼は目立つのが苦手だったんだ マスターがカウンターの奥から顔を出す。 僕が学生だった頃からそうだったよ へえ。長いつきあいなんですね 館長さんとはクラスメイトだったんですか? 先生と教え子の関係だよ。僕がヒバリ校に通っていたときに赴任してきた先生だった とすると、年上なんですね 実際には十も離れてないから、今では友人感覚でつきあっているけどね もとは教師から、科学館の館長になったんですか? そうだよ。僕が卒業して十年くらい経ってからかな。当時の館長が高齢になって引き継ぎが必要ということで、市の推薦で選ばれたんだ 総責任者としては歳が若かったし、大抜擢だった それでも彼は天文学──特に望遠鏡やプラネタリウムに造詣が深かったからね。反対する人はほとんどいなかったという話だよ ヒバリ校に天文学の授業はありませんし、科学や物理の教師だったんでしょうね そうだね。大学ではもともと天文学を専攻していたそうだけど…… それがなぜ教員の道に進路を変えたのかは、僕も詳しくないんだ で、連絡取ってどうだったの? 元気そうだったよ。話し込んで長電話になってしまった プラネタリウムは? ……え? だから、プラネタリウムの使用許可。聞いてくれたんでしょ? ……昔話に花が咲いて、忘れてた お父さんのバカ~! ……すみませんけど、次は聞いてもらえますか? マスターは即答しなかった。 あまり乗り気じゃないみたいですけど…… そうだね。どちらかというと、僕は反対だから なんでだよ~、館長さんはよろこぶって言ってたくせに 彼じゃなくて僕の問題だからね。それより、キミたちにまだ聞いてなかったけど マスターは改まって俺たちを見回す。 キミたちは、なぜプラネタリウムを見たいんだい? 誰も答えなかった。 答えられないのではなく、今回の言い出しっぺである俺に答えを譲ってくれるようだ。 だから、俺は答える。 蒼さんに、もう一度科学館のプラネタリウムを見せたいからです ……蒼さん? 蒼衣鈴さんです。天クルの仲間なんです お父さんも一度会ってるよ。海水浴のときに そうか、とマスターはうなずいた。 写真でしか見ていなかったけど、彼女が衣鈴ちゃんか。大きくなった……と言うよりは、昔のまま小さくてかわいらしい子だなあ ……昔って? 衣鈴ちゃんの家族が、七年前に雲雀ヶ崎に引っ越してきたというのは知ってたかい え、そうなの? わたしは初めて聞きました 彼女は自分のことをあまり話さないからね 俺は本人から聞いていたが、ほかの皆は知らないようだ。 ただ、七年前というのは俺も知らなかった。 ということは、蒼さんは俺が都会に引っ越したのと入れ代わりで、雲雀ヶ崎にやって来たのだ。 衣鈴ちゃんのご両親はね、僕の同僚だったんだよ。元同僚と言ったほうが正しいけど この部分も初耳だ。 じゃあ、蒼さんの親御さんって…… どちらも天文学の研究員だよ、現役のね。仕事で知りあって結婚したと聞いている マスターは懐かしむように瞳を細める。 僕の同僚とは言ったけど、一緒に仕事をした期間は短かった。彼らはオーストラリアに海外赴任したんだよ 南十字星で有名なオーストラリアは、南半球の星空を研究できる数少ない天文施設があるからね。日本からの派遣研究員もあとを断たなかった 仕事は多忙だったそうだけど、それでもふたりは結婚後に子供をもうけたんだ 衣鈴ちゃんはね、南天の星空が見える土地で生まれ育ったんだよ これは、俺たちには納得できる話だった。 蒼さんが切望する南天の星空は、いわば故郷のようなものだったのだ。 彼らの勤め先は新しく建設された天文台だった。衣鈴ちゃんはそこを保育園代わりに育てられたそうだ といっても、星にはあまり興味を持ってくれなかったようでね。彼らはちょっと残念そうだった それでも衣鈴ちゃんは、天文台に勤める研究員たちにはとても懐いていたんだ だから日本に戻ることが決まったときの落ち込みようは、相当なものだったそうだよ やっと理解した。 なぜ、蒼さんが他人と距離を置こうとするのか。 集団行動を嫌うのか。 友達を作ろうとしないのか。 その先に待つかもしれない別れを恐れるのか──── ……日本に戻ったのは、仕事の関係ですか? いや、衣鈴ちゃんの妹のためなんだ 鈴葉ちゃんの? ああ。鈴葉ちゃんは生まれつき身体が弱かったそうでね、オーストラリアの環境で生活するには辛かったんだ 天文台の近くに住んでいたとしたら、厳しいでしょうね どうしても高地になるからね。昼は暑くて、夜は寒い。乾燥地帯でもあるから、雨量が少なく断水も多かった 鈴葉ちゃんも体調をくずすことが多かったんだ。だから、日本に戻ることを決めたそうだ 医療の面から見ても、日本のほうが住みやすいからね。僕も仕事仲間として相談を受けていたから、戻ってくることを勧めたよ それで、雲雀ヶ崎に引っ越してきたんですね 今は隣町の研究所に勤めているよ。オーストラリアから持ち帰った研究資料を役立てているはずだ 思ったんだけど、蒼さんが引っ越してきたのって小学生のときになるよね そうだね。鈴葉ちゃんは二歳くらいだったかな でも、あたしの小学校に転入生なんて来なかったよ? 衣鈴ちゃんは海外育ちの帰国子女だから、まずは日本語学校に通ったんだよ。そこで勉強したあとに中学校に上がったんだ 蒼クンが天文クラブで無口だったのは、日本語がうまく話せないせいだったんですね 逆に言うと、日本語が不得手でも科学館に通いたかったということだ。 蒼さんは、別れの寂しさをまぎらわせるために、科学館のプラネタリウムを眺めていた。 俺が、展望台の彼女と別れたあと、都会の夜空を眺めていたのと同様に。 七年前に引っ越して。 だけど四年前、宇宙科学館は閉館した。 三年間、見ることが許されたふるさとの夢。 その夢が潰えると、蒼さんの手元には望遠鏡が残された。 だから蒼さんは手放せない。 望遠鏡もまた、すでに潰えているのに、手放せない。 衣鈴ちゃんのためなら、僕も協力するしかないんだろうね マスターは自嘲するように笑った。 また、明日にでも来てくれるかい。今度はちゃんと館長に伝えるから 彼が整備を続けているなら、プラネタリウムはまだ生きているはずだから それは、蒼さんの夢も生き返らせることになる。 今はそれを信じている。 夜になって、金曜恒例の天体観測に、蒼さんは姿を見せなかった。 帰りに港にも寄ってみたが、蒼さんはいなかった。 今日は一日、会えなかった。 距離がある。 離れていく。 離れても、近づいてみせる。 捕まえ、そして振り向かせてみせる。 お父さん、ただいま~ お帰り。天体観測は楽しかったかい うん。みなみうお座のフォーマルハウトがすっごくキレイだったよ~ ………… ……もう。自分で聞いといて、すぐそういう顔するんだから はは、根が正直なものでね ほんと、自分は天文学者だったくせに、あたしが天文に興味持つといい顔しないんだから 娘の言いぐさに、南星総一朗は苦笑するしかない。 そっちもお仕事終わり? ああ。店じまいもすんだしね 館長さんに電話は? ……仕事は終わったけど、もう遅い時間だからね なんかズルズル引き延ばしそうなんだよなあ 総一朗は、はははと笑う。 そんな父に明日歩はじと目を送っている。 プラネタリウムの件、お父さんが邪魔するならあたしも容赦しないからね どう容赦しないんだい お父さんにメイド服着せられて無理やり労働されられてるって相談所に駆け込むとか ……本気で抹殺にかかってるね 総一朗は無理やり手伝いをさせているつもりは毛頭ないが、メイド服の分だけ明日歩の主張が勝ちそうだ。 それが嫌なら、マジメによろしくね 総一朗は答えなかったが、明日歩はこれ以上なにも言わず家に上がっていった。 カウンターに肘をつくと、知らずため息がもれる。 過去、総一朗は明日歩の天文クラブ所属に反対した。 ある理由で、明日歩にはあまり天文に関わらせたくなかったのだ。 だから、乗り気にならない。 天クルに入ったことも反対したかった総一朗だから、今日のような天体観測にもいい顔ができない。 天クルがプラネタリウムを使いたいことを、館長に伝えるべきか迷いが生じる。 あの感動をもう一度、か 閉館セレモニーでの最終上映は総一朗も出席した。 すでに職を辞していた身であったので、観客として参加したのだ。 天文を嫌ってしまった総一朗でも、その上映は心を揺さぶるものだった。 どこか懐かしい気持ちになったのだ。 それは天文学者だった頃の自分に対する想いか、あるいはもっと人としての根源の部分に働きかけるなにかか。 プラネタリウムには郷愁を誘う力がある。 館長も言っていた。 それは、星のタイムマシンであるのだと。 プラネタリウムというのは、過去から未来まで、好きな時代の星空を映すことができる ギアとモーターを駆使して、〈歳差〉《さいさ》運動と年周運動を調整し、再現する 機械仕掛けの宇宙が、時を駆けることさえ可能にする だから、誰もが懐かしく感じるのさ 閉館日の翌日、最後のあいさつに訪れた総一朗に、そう言って彼は投影機の中を開けて見せた。 そこには宇宙の営みを凝縮し、構築した世界があった。 言葉を失った。 これが、彼が創り出す世界。 天文学者が解明する宇宙。 天クルが観測する雲雀ヶ崎の星空。 彼の仕事は、天文に携わる者なら誰もが到達したいと望む神秘を、人の手で生み出すこと。 そして、それを雲雀ヶ崎の子供たちに提供することだった。 ……まさしく、神の所業だね 神が宇宙を創ったのなら、その神は宇宙の恩師。 現実に総一朗にとっての恩師だった彼の意志は、天文部を経て、天クルに受け継がれている。 それを僕ごときに止める権利はない。 だから、そろそろ、総一朗も一肌脱ぐ気になったのだ。 それじゃあ、その人影は科学館に入っていったのかい? たぶんそうだと思います 午前中にも科学館で見かけたのだ。 その帰りに、ここで昼を食べているわけだ。 確実に館長だろうね。立ち入ってるのは彼しかいないんだから ……やっぱり 相手の顔は見なかったみたいだね はい……って、よくわかりますね もし見ていたら、キミの反応はこんなものじゃないだろうしね ……どういう意味ですか? さて、なんだろうね なぜか誤魔化された。 投影機を整備してるなら、科学館の近くに張り込んでれば会えそうですね そうだね、彼は暇さえあれば訪れてるから。整備なんて連日するようなものじゃないだろうに プラネタリウム、好きなんですね 星に魅せられた人だからね。程度の違いこそあれ、キミや衣鈴ちゃんと同じだということさ 星に関してなら、明日歩には負けますよ あの子にも困ったものだね なぜ困るんだろう。 館長には、いずれちゃんとしたかたちで会えるよ。急がなくてもね プラネタリウム上映のときに、ですか 今は彼にかけあっているところだけど、上映の際に会うのは難しいんじゃないかな 彼は大人数の前に出るのをひどく嫌うんだ。天クルの前には姿を見せないだろうね 目立つのが苦手って言ってましたね あがり症なんだよ。一対一で話すぶんには普通というか、不遜ですらあるんだけど ……それでよく教師が務まってましたね 苦労してたみたいだよ。僕にとっては彼が教師になろうと思ったことが、最大の謎だけどね 洋ちゃん、どうぞ 明日歩がデザートを運んできてくれた。 お仕事、一段落したし。あたしも参加させて それじゃあ、僕は持ち場に戻ろうかな マスターと入れ代わりで、明日歩が正面に座る。 洋ちゃん、今日はバイトは? プラネタリウムでマスターに世話になってるし、やっていくよ そう言ってくれると思ってたよ 食べたらすぐ入るよ うん。お昼時過ぎたし、仕事は少ないけどね さしあたっては? テーブルの片付けと皿洗い、あとは新作メニューの味見係くらいかな 全部終わったら、暇な明日歩をもてなせばいいんだな さすが洋ちゃん、わかってるね 中間テストのために勉強だな ……ぜんぜんわかってなかった 夕方の混雑時まで手伝ったら、帰宅しよう。 蒼さん宅にも寄ってみるつもりだった。 どちらさま…… 俺だ、俺 ……オレオレ詐欺 そのネタ、メアも使ったぞ ……屈辱です 訪問したのは、小河坂家の食卓がもうにぎわっていておかしくない時間だった。 ……私になにか用ですか? そうだな なんですか 蒼さんと遊びたくて ……死んだらいいと思います 夕飯、一緒しないか? ………… 俺の家、来ないか ……すでに断ってると思います 気が変わってないかな、と 変わってませんから これからひとりで食べるのか? ……みんなで食べたほうがおいしいなんて言わないでくださいね 言ったらウザいか ウザいです 蒼さんと一緒に食べたいんだけどな ……訴えますよ これがアウトだとなにもできないだろ…… なにもしなくて結構ですから いつもどおりに手厳しい。 じゃあ俺、帰るけど はい。どうぞ 勝ったなんて思わないことだ ……思ってないですけど、負けたとも思いませんから 負けず嫌いだな ……なにかおかしい気がします それじゃあ、また ……はい。また またって言ったな ……死んだらいいと思います というわけで、また一緒に食べような ……またなんてありませんから それはどうかな 絶対に、ありませんから とりあえず、この場は引くことにした。 陽が落ちたようだ。窓の外が暗がりに包まれた。 蒼衣鈴は机に座ってぼんやりしていた。 今ごろ、みんなは夕食の時間。 そう思うと食欲が湧かなかった。 キッチンに立って料理をしようとか、出前を取ろうとか、外食に出かけようとか、そういう気が起きなかった。 ひとりきりの食事くらいどうってことはないと思っていたのに。 ヒバリ校でのお昼はいつもそうだったから。 ヒバリ校だけじゃない、日本に移り住んでからの学校の食事はたいていがひとりだった。 故郷と違い、この地に友達はいなかった。 最初は悲しくても、今はもう慣れた。 孤独に慣れたから孤独ではなくなった。 周囲に人がいないことが普通になった。 だから、寂しがる必要なんてない。 ………… なのに、いつからだろう。 隣にあの兄妹が引っ越してきてからだ。 静かだったはずの周囲に音が生まれた。 静寂に慣れていたからその音はとてもうるさかった。 気分を害した。ウザかった。 騒音。 それが三ヶ月続いたから、今度は騒音が普通になる。 三年続いた静寂に慣れた心が、たった三ヶ月の騒音に覆されたのだ。 だから訪れた孤独に、寂しいと感じている。 ……どうして ありえない。おかしい。 詐欺にでも遭った気分。 自分はそんなに弱かったのだろうか。 情けない。 泣きたくなる。 心を狂わせたあのふたりが許せなくなる。 私を惑わせたあのふたりが大嫌い。 寂しくなんてない。 寂しくなんてないんだから……。 ……お姉ちゃん そして、聞こえるはずのない声が聞こえる。 夕ご飯、持ってきたよ いるはずのない姿が現れる。 みんなでご飯、一緒に食べよう そうして音が生まれると、それは瞬く間に賑わいとなって衣鈴の心を揺り動かした。 お邪魔します お邪魔しまーす! 鈴葉ちゃんのあとに続いて、俺と千波も部屋に入った。 ごめんね、お姉ちゃん……。押しかけるみたいになって 蒼さんは状況をつかめていないようだった。 蒼さん、また会ったな ………… 蒼ちゃんっ、待ちに待った千波が来たよーっ! ………… え、えと、ここで食べていいかな…… ………… 反応がない蒼さん。 立っているわけにもいかず、俺たちは各々手に持った料理の置き場所を探す。 詩乃さんが作ってくれた夕飯をタッパーに詰めて運んできたのだ。 蒼さん、レジャーシート持ってたよな ちょうど見つけたよっ、机の横に折りたたまれて置いてあったよお兄ちゃんっ 蒼さん、ちょっと借りるな ど、どうぞです 反応がない蒼さんの代わりに鈴葉ちゃんが答えてくれた。 早速広げて、タッパーを置く。 シートを囲んで俺たちは座る。 この人数だとさすがに狭いが、食事できないことはない。 それじゃ、いただきます いただきまーす! い、いただきます…… ……待ってください 勝手に団らんを作っていると、ついに蒼さんが割り込んだ。 なに、やってるんですか…… 蒼ちゃんと一緒にご飯を食べるんだよっ 最初はダイニングで食べるつもりだったんだけど、蒼さんがいなかったからさ それで、わたしがここまで案内して…… どうせならってことでここで食べることにしたんだよっ ……したんだよ、じゃない その声には明らかな苛立ちがある。 いきなり人の部屋、乗り込んで…… 私がなにも言わないうちに、用意して…… ご飯、食べようとして…… 勝手に、食べようとして…… 出ていけと言われれば出ていくつもりだった。 だけど蒼さんは。 ……私も、お腹減ってるのに 食欲、なかったはずなのに なのに、いい匂いがしてくるから…… しょうがない、ことだから…… だから、自分たちだけで、食べようとしないでください 俺たちは一様にうなずいた。 蒼さんの分もちゃんとあるから、安心していいぞ 蒼さんは、なんだか悔しそうに俺たちの輪に加わった。 これは、気の迷い…… ただの、気の迷い…… 食事中、蒼さんはそんなことをつぶやいていた。 惑わされたせいなんだから……んぐんぐ 食べる姿はかわいかった。 『今ね、館長さんがプラネタリウムの準備してくれてるって。お父さんがさっき教えてくれたの』 そっか。使用許可、もらえたんだな 『うん。お父さんもやる気になったみたいで。館長さんの準備、手伝いにいったよ』 俺たちも手伝ったほうがいいかな 『あたしもそう思ったんだけど、いらないって。むしろ邪魔になるって言われちゃった』 素人が手を出しても迷惑になるだけか 『それもだけど、大人数で押しかけると館長さんが逃げるかもしれないって』 人前に出るの、ほんと苦手なんだな 『お礼とか言いたいんだけどね』 じゃあ実際にプラネタリウム見るときも、館長には会えないか 『そうなるかもね。でも、アナウンスは館長さんがやってくれるんだって』 『神話とか、ロマンチックに語ってくれるとうれしいな』 明日歩、プログラムは…… 『伝えておいたよ。蒼さんの想い出にある星空をお願いしますって』 なにからなにまで、ありがとうな 『あたしにお礼言わないで。仲間なんだから』 『あたしだって、洋ちゃんと一緒に館長さんにお礼を言う側なんだから』 ……そうだったな 『うん』 それで、日時はいつになりそうなんだ? 明日歩の言葉を聞いたとき、俺は館長に感謝した。 どちらさま…… 俺だ、俺 ……また詐欺セールスですか 二重の意味で違うんだけど セールスマン撃退のコツはすべての言葉に間に合ってますと答えること…… ぶつぶつ言っている。 これ以上は惑わされないようにしないと…… ……大丈夫か、蒼さん 間に合ってます 今日は休みなのに、昼前に起きてるんだな 間に合ってます おかげで助かった 間に合ってます 今ちょっと時間あるか? 間に合ってます 蒼さん、プラネタリウム好きだよな 間に合ってます プラネタリウムマニアだよな マニアってます 会話成立 ……ウザ これからプラネタリウムを見にいかないか? 私をかどわかそうと言うんですね ……どんな誤解でそうなってるのか知らないけど、取引のこと覚えてるだろ? 俺に不審の目を向ける。 科学館のプラネタリウム……見られるんですか? ああ いつ? 今からだ ……急ですね 館長とマスターがやけに乗り気だそうで、急に決まってしまった 明日歩から電話で聞かされたとき、準備の早さに俺も驚いた。 驚いて、感謝したのだ。 天クルのみんなにも、明日歩が連絡してるんだ。だから蒼さんも来ないか 断ったら? 取引が無効になって、蒼さんの望遠鏡を修理できなくなるな じゃ、断ってみます わかった ……そんなあっさり 蒼さんが望遠鏡を修理したくないと考えるなら、取引してもしょうがないからな 私がどう思ってるかわからないのに、取引を持ちかけたんですね 今さらだけど、そうなるな ……なのに、プラネタリウムの準備をしたんですね そうなるな おかしい、です…… 蒼さんはうつむいた。 私にそこまでしてくれるのは、おかしいです…… どこもおかしくない 友達だから、ですか…… そうだな どうして、私と友達になりたいなんて…… 千波さんだけじゃなく、先輩まで…… 千波と同じなら、わかるだろ 俺も、蒼さんが好きなんだ 蒼さんはなにかに耐えるように唇を震わせて。 そ、そうやって…… 肩も小刻みに震わせて。 そうやって、私を惑わして……だから、変な気持ちになって…… 弱く、なって…… 蒼さん ここで手を差し伸べたら、逃げられるだろうか。 一緒に、南天の星空を見上げにいかないか 差し伸べた手に、蒼さんは手を重ねない。 それでも、離れることもない。 怯えた子供のように。 その顔は泣いてしまいそうに見えた。 あっ、来た来た。洋ちゃーん 科学館の前では、明日歩が手を振って待っていた。 案外早く、全員が集まりましたね 住所はみんな近いし、なにより楽しみだからね こさめさんと岡泉先輩の姿もある。 これで全員ということは、姫榊や雪菜先輩は欠席なんだろう。メアとも連絡が取れていない。 プラネタリウム観望会としては、少ない観客数。 まあ、主役が来てくれたしな 蒼さん、いらっしゃい ……惑わされませんから な、なにが? かどわかされませんから なんだか警戒されてるね 小動物みたいでかわいいです ……いずれ先輩より大きくなりますから とても楽しみですね ……くっ、余裕 今、手を差し出したらかじられそうな気がする。 こんにちは。みんな集まったかな マスターが建物から歩いてきた。 今回はありがとうございました いやいや、天クルは僕の後輩みたいなものだし、これくらいなんでもないさ 最初は渋ってたくせに 衣鈴ちゃん、お久しぶり 明日歩を無視して蒼さんに向き直った。 本日はご来場、ありがとうね ……何者? い、いや、海水浴のときに会ってるだろう? この人も私をかどわかそうとしてるんですね ……僕、なにか怒らせるようなことしたかな 蒼さん、無理に連れ出したことに怒ってるのか? 怒ってません そのわりにトゲトゲしてるぞ 先輩のせいですから ……無理やりになったのは謝るよ それだけじゃないですから どれのことだ? 全部ですから ……どこから全部だ? 先輩が隣に引っ越してきたときから全部ですから それは俺の存在を否定してるんだろうか。 なるほど。ハリネズミのジレンマかな ……なんですか、それ ええとね やめてください、火に油ですから 意味を言ったら帰ってしまいそうだ。 今、チェーンを外すよ。建物の中には職員用の玄関から入れるから 館長も、もうアナウンスの用意をしているところだよ そうしてマスターに先導され、科学館に足を進ませた。 蒼さんは憮然として俺の隣を歩いていた。 薄暗い廊下を抜けていく。 もとは展示コーナーだったらしき区画にはもはやなにも飾られておらず、空のパネルが無造作にかかっていた。 横に並んだショウケースにも埃しか入っていない。 剥がれかけた壁の塗装が過ぎた年月を思わせる。 撤去作業がとうにすんだ館内は、人気がなくて空洞のよう。 ホールに通りかかると、エレベーターも動いていなかった。電源が落ちている。 とはいえ、電気は通っているとの話だ。 そもそも電源が確保されていなければ、プラネタリウムは稼働しない。 館長だって整備が難しいだろう。 ………… 行く途中、蒼さんは不意に立ち止まっては、パネルやケースに手を伸ばした。 その手は触れる前に下ろされ、小さな拳を作る。 想い出が、その手のひらに握られている。 案内されたドームは、電気が制限されているのか上映前から暗闇に覆われていた。 俺たちは手探りで席に着いた。 蒼さんは隣に座ったようだった。 椅子は固くて軋みも激しかったが、壊れているということはなかった。 前方から「痛っ」とか「ここどこ~」とか情けない声が聞こえてくる。明日歩が最前列を目指しているようだ。 その声はドームの中でもさほど響かない。 防音フィルターが外音を遮断し、中の音すら拡散させるのだ。 ドームの入り口はさっきマスターが閉めていたので、なおさらだ。 明日歩の声が途絶えると、次に大きな静寂が降りてくる。 浮いているような沈んでいるような、そんな心地になる。 周囲の闇と相まって。 中心に据えられた投影機が、神秘な威厳を放って俺たちを宇宙にいざなう。 その刻は、間もなく始まる。 先輩は…… その声は小さく、俺だけに届いている。 先輩は、見せてくれるんですか…… 先輩は、連れていってくれるんですか…… 想い出の地に…… 遠いふるさとに、私を──── ────本日は、星のタイムマシンにご搭乗いただき、誠にありがとうございます ふたりで息を呑む。 天井から届いたアナウンス。 ぶっきらぼうに──どこか不遜にロマンチックな言葉を語る、男の声。 洋先輩の声…… ううん、違う…… これは、あの人の…… これが、館長の声……? ドームの底から光が溢れる。 幻想的なBGMが満ちていく。 徐々に天が明るくなる。 投影機が静かに回転する。 ドームスクリーンに星が瞬き始める。 声は続いている。 南天の星座を解説していく。 淡々と、正確に、ぶっきらぼうなロマンを混ぜて俺たちに語り聞かせていた。 館長を、恨みます…… 先輩を、恨みます…… 天クルのプラネタリウムに、そして今度は、科学館のプラネタリウム…… せっかく我慢してたのに…… 私の、想い出の地…… 南天の土地…… 遠く離れた、ふるさと…… 友達がたくさんいた、私のふるさと…… 天にはオーロラが淡く輝き、舞い踊る。 引っ越したくなかった…… 友達と別れたくなかった…… 学校と別れたくなかった…… 研究員の人たちと別れたくなかった…… 天文台と別れたくなかった…… 南天の星空と別れたくなかった…… このオーロラと別れたくなかった…… だって……だってえ…… 私は、私が育ったふるさとが、好きだったからあ…… 引っ越しの辛さは俺も知っているつもりだった。 だけど蒼さんの引っ越しは、俺が都会へ引っ越したよりも遥か遠い別離だった。 その辛さもきっと深い。 悲しみは絶望にひどく近い。 行きたい…… 行きたいよう…… また、みんなに会いたいよう…… 連れていくよ 俺が、連れていくよ 次に見せるのは、本物だ 南天の星空を見せた。南天のオーロラを見せた だから今度は、南天のふるさとだ ………… 約束するよ 蒼さんを連れていくって、約束する ……どうして 蒼さんのこと、好きだからな 友達として、好きだから。 もう、それだけじゃないのかもしれない。 もしかしたら、友達以上に好きだからかもしれないな ………… また、そんなこと言って…… 惑わして…… 私を、かどわかして…… もう、詐欺の被害を訴える会に入りたいくらいです…… 騙されるほうが悪いんだけどな 嫌です…… そうだな 悪いのは、先輩です…… そうなんだろうな 責任、取って欲しいです…… 私をこんなふうにした責任、取って欲しいです…… なら、して欲しいことを話せばいい 望むことを話せばいい 俺は、それに全力で応えてやれる ………… 蒼さんは、したいようにすればいいんだよ ……じゃあ、先輩 私を、連れていってください…… 必ず、連れていってください…… オーロラが舞うプラネタリウムの星空の下。 先輩…… ウソついたら、大嫌いになりますから…… 大好きでも、大嫌いになりますから──── 唇にあたたかい感触が触れる。 暗闇でも、ゆらめくオーロラの光がその姿を照らし出す。 幻想的。 幻のような触れあい。 これはどういう意味のキスだろう。 友達同士で、こんなことはしないから。 だから俺もこの気持ちを自覚できる。 ン……ふ…… 長い口づけの間に、投影機が静かに回転を続けている。 空が白み始めている。 東から太陽が姿を見せる。 プログラムの終わりが近い。 陽が昇ってしまったら、この幻も終わってしまう。 科学館の館長が創った、幻のような世界。 儚い夢。 引き継ごう、俺が。 あんたが託した、壊れた望遠鏡と一緒に。 なあ、父さん──── 今朝はやけにあたたかかった。 台風が通り過ぎたあとのように晴れ渡っている。 雲雀ヶ崎には台風の到来がほとんどない。近づいてきても途中で海に逸れていくのが普通だ。 だから夏日に近いこの気候は、冬に入る前に太陽から贈られたプレゼントみたいなものだろう。 祝福でもされているようで、気恥ずかしい。 蒼さん、おはよう 登校してきた蒼さんが、俺の家の前を通りかかる。 ………… 蒼さんはうつむきながら立ち止まる。 ひとりで先にいったりしない。 ……おはよう……ございます…… もろに意識されたあいさつが返ってくる。 ……おかげで俺も言葉に詰まる。 だがなにか言わなければと声を押し出す。 蒼さん…… 嫌です…… よくわからないが拒否される。 昨日は観望会が終わるとすぐに別れ、夕食にも蒼さんは顔を出さなかった。 蒼さんの部屋に乗り込むこともしなかった。俺も顔を合わせづらかったのだ。 そして一夜が明け、今のこの気まずい状況。 ……こんなことなら先にメールでも送っておくんだった。 蒼さんの気持ちを確認しておくべきだった。 俺は、ちゃんと告白したわけじゃない。 まだ恋人になったわけじゃない。 唇を重ねたとしても。 はっきり言わなければならない。 じゃないと、中途半端のまま。 すぐ目の前に蒼さんはいるのだから。 近づこうと思ってもなかなか近づけなかった距離。 蒼さんとの距離はこんなにも縮まったのだから。 ……蒼さん 呼ぶと、蒼さんの顔がほんの少し上がる。 ええとな、ちょっと大事な話というか…… い、嫌です…… 聞いて欲しい話が…… 嫌って言いました…… ……それは、俺なんかお断りという そ、そうじゃなくて…… じゃあ、聞いてくれ 蒼さんはびくっとする。 い、嫌…… 深くうつむいてしまう。 よく……わからないから…… こういうの……わからないから…… 言葉は否定に近くても。 蒼さんは逃げていない。 ぜんぜん……わからないから…… 気まずくても、怖がっていても、離れずにいてくれる。 だったらたぶん、わかっている。 蒼さん、俺…… 蒼ちゃーんっ、おはよーっ! そして愚妹に邪魔される。 急がないと遅刻だよっ、ふたりともぼやぼやしてると置いてっちゃうよっ、ちなみに今朝は暑かったから夏の制服にしてみたんだけど問題あるかなお兄ちゃん? ですよねー 明らかに人の話を聞いてない相づちだよお兄ちゃん!? ………… 一瞬、蒼さんと目が合ったがすぐに逸らされる。 赤い顔。泣きそうな表情。 無言で歩いていった。 待って待って蒼ちゃんっ、蒼ちゃんは千波が夏の制服着てるの見てどんな感想持ったかなっ 死ねばいいのに この陽気が吹き飛ぶくらいの冷たさだよ蒼ちゃん!? とりあえずおまえは生徒会に捕まりたくなかったら着替えてこい。俺たちは先いってるから やだやだ置いてかれるくらいなら千波は生徒会室でカツ丼食べることを選択するんだから! 今朝の陽気は千波の頭も陽気にしたようだ。 結局ひとりで行ってしまった蒼さんをふたりで追った。 ねえねえ蒼ちゃんっ ………… 今朝の蒼ちゃんはいつにも増して無口だねっ ………… それになんか元気ないねっ ………… だから千波が蒼ちゃんを元気づけるために一段と四六時中寝る間を惜しんで話しかけてあげるねっ 蒼さんは助けてという顔をしている。 蒼ちゃん、千波に『カレシはいる?』って聞いてみてっ 千波さん、カカシはいる? 千波は農家の人じゃないからカカシはいらないよっ、どっちかっていうと欲しいのはカレシだよっ 千波さん、カンザシはいる? 千波は芸者じゃないからカンザシはいらないしだんだん離れていってるよ蒼ちゃん!? 千波さん、介錯はいる? もう跡形もないし蒼ちゃんの本音を垣間見たようで怖くてたまらないよ!? 垣間見るどころかあからさまに何度も見ていると思うが。 で、千波はカレシなんか欲しいのか 欲しいというかもういるんだよっ それはどこの馬の骨だ お兄ちゃんっていう馬の骨だよっ 今朝はほんといい陽気だな 千波の頭をぐりぐりする因果関係がさっぱりわからないよお兄ちゃん!? ……ダメです 蒼さんがぽつりと言った。 先輩を……カレシにするのは、ダメです…… 千波はきょとんとする。 なんでなんでっ ふたりは……兄妹だし…… 千波の愛はそんな防壁に屈しないんだよっ 核弾頭の愛は想い人さえ粉砕するんだろう。 それでも……ダメです…… なんでなんでっ だ、ダメだから…… なんでダメなのか教えて欲しいよ蒼ちゃんっ 蒼さんの顔は赤くなる一方で。 だ、だって…… 今にも泣き出しそうな声で、顔が見えなくなるくらいうつむいて。 こわごわと、俺の服をつかんだ。 コレは、私のものです…… コレ扱いだった。 ……恋人扱いと同じ意味だと信じたい。 蒼ちゃん、コレってなんのこと? おかげで千波に勘ぐられずにすんだけど。 蒼さんの手は、すぐに俺から離れてしまう。 なに……やってるの、私…… 変になってる…… おかしくなってる…… 離れたいのに……離れたくない…… 近づきたいのに……近づけない…… わけ、わからなくなってる…… 弱々しくつぶやいている。 全部……先輩が、悪いんです…… 先輩の……せいなんです…… だから、ちゃんとしなければならない。 一刻も早く。 校門をくぐれば、学年が違う俺たちは昇降口で別れることになる。 その前に、蒼さんに言った。 蒼さん、好きだぞ 一刻も早く言った。 蒼さんは驚いていた。当然だが。 千波も蒼ちゃんのこと好きだよっ そして愚妹が俺の告白を無に帰した。 ……蒼さん、またあとで 千波がいないところでうまくやろう。 ………… 蒼さんは口を開きかけ、すぐに閉じた。 うつむきながら校舎に歩いていった。 待ってよ蒼ちゃーん! 千波も駆けていく。 放課後になれば、千波はオカ研の活動で蒼さんのそばから離れるだろう。 昼休みにも蒼さんとは会えるだろうが、明日歩たちがいるのでふたりきりになるのが難しい。 やはり放課後しかない。 天クルを休むことにはなるだろうけど。 蒼さん ………… 放課後、蒼さんのクラスの前で待ち伏せた。 一緒に帰らないか? 蒼さんはびくっとする。 顔を赤くし、うつむいた。 ……部活は、いいんですか? さっき休むって伝えたんだ コンクールもあるので、休むのは今日限りにしたいところだ。 屋上の使用許可を勝ち取るため、蒼さんの出席率も上げなければならない。 蒼さんは、部活に出るつもりだったか? ……先輩は、休むんですよね まあな じゃあ…… じゃあ、の続きはなかった。 部活、今日だけ休んでくれないか? 俺と一緒に帰らないか? たっぷり時間が経ったあと、蒼さんはこくんと小さくうなずいた。 蒼さんは俺の隣でうつむきながら歩いている。 会話はない。 昼休みでも一緒だったが、ほとんど口を利かなかった。蒼さんはうつむいて菓子パンをかじっていた。 餌付けも試みてみたのだが、口をつけてくれなかった。 それでも、蒼さんは俺から逃げることだけはしなかった。 蒼さん ………… これから時間あるか? ………… よかったら、一緒に遊んだりしないか ………… デートでもしてみないか ぴく、と肩が揺れた。 行きたいところあったら、連れていくぞ ………… オーストラリアは、もうちょっと待って欲しいけどな 蒼さんは違うだろうが、俺はパスポートを持っていない。 というか、旅費もない。 海…… 一言、ぽつりと。 海……見たいです…… 口の中で、もごもごと言った。 科学館の近くの港か? ふるふると首を振る。 もっとよく……見えるところ…… 今日は、あたたかいから…… 潮風も、冷たくないと思うから…… 了解、と答えた。 それじゃあ、電車に乗ってビーチまで行ってみるか 時季外れだが、こんなにあたたかければ日光浴くらい可能かもしれない。 過去、春にこの街でも30度もあった気象を思わせるほどだ。 水着を持参するのにいったん別れ、家の前で合流してから俺たちは海を目指した。 あ……先輩…… 家を出ると、道路に衣鈴が立っていた。 ……おはよう……ございます…… 俺を見ると小さくぺこっとあいさつする。 おはよう、衣鈴 あ……名前…… 呼ぶって言ったしな 衣鈴は頬を赤くしてうつむいた。 今朝は待っててくれたのか? いつもの……ことです…… いつもは先にすたすた歩いていってたと思うけどな そ、そんなこと……ないです…… 一緒に行くか。学校 衣鈴はこくっとうなずき、控えめに近づいてくる。 手、つなぐか? だ、ダメ……です…… つなぎたいんだけどな 人に……見られます…… やっぱ恥ずかしいか 恥ずかしい……です…… 身体のほうはどうだ? き、聞かないでください…… 心配だからさ お気遣い……なく…… そんなふうに言われるとショックなんだけどな ショック……? ああ。好きな子だから心配したいんだし ………… 歩くの辛いなら、手、つなぐぞ ………… 衣鈴は視線を下に落としている。 髪の間から真っ赤な耳が覗いている。 実は……まだ……痛いです…… 先輩の……せいです…… そうだな。ごめんな 謝らないで……ください…… じゃあどうすればいい? ………… 衣鈴の手が、おそるおそると上がる。 俺は、その手を取ろうとする。 手……つないで……一緒に…… 蒼ちゃーんっ、おはよーっ! 千波が登場すると衣鈴は飛び上がって俺から離れた。 昨日は夏服で登校したらこもも先輩に怒られちゃったから冬服に戻してみたよっ、代わりにスクバを海で使うスイムバッグにしてみたんだけどどうかなお兄ちゃん? ほらとってこーい 千波愛用スイムバッグ投げないでお兄ちゃん!? ………… 衣鈴は真っ赤な顔で俺をにらんでいる。 ……いや、今のは俺のせいか? 死んだらいいと思います ひとりで歩いていった。 待って待って蒼ちゃんっ、蒼ちゃんは千波のスイムバッグ見てどんな感想持ったかなっ ほらとってこーい ふたりして千波を邪魔者扱いしてる気がしてならないよ!? とりあえずおまえは生徒会に捕まりたくなかったらバッグ代えてこい。俺たちは先いってるから やだやだ置いてかれるくらいなら千波はこもも先輩にカツ丼あーんしてもらうことを選択するんだから! 姫榊の性格的にありえない。 結局ひとりで行ってしまった衣鈴をふたりで追った。 ねえねえ蒼ちゃんっ ………… 千波ちょっと気づいたことがあるんだけどっ ………… あのねあのねっ、もしかしたら見間違いかもしれないんだけどねっ オールスルーの衣鈴をさらにスルーして千波は言う。 蒼ちゃんの首にキスマークがついてるよっ !!?? 衣鈴は普段のゆったりペースからは考えられない速度で首周りを手で隠した。 あ、やっぱりキスマークなの蒼ちゃん? ……そ、そうじゃない じゃあなんの跡なのかなっ し、知らない…… 知らないなら千波がよく見てあげるねっ、アザになってたら大変だもんねっ み、見なくていい…… ダメだよ蒼ちゃんっ、女の子はお肌を大切にする義務があるんだからねっ や、やめ……さわらなっ…… ダメだよ蒼ちゃんっ、下手に手で押さえてるとかぶれたりしちゃうからねっ た、助け……先輩っ…… 助け船を求められる。 千波。俺と衣鈴のことで大切な話があるんだ がすっ。 ぐあっ……スネ蹴るなよ衣鈴っ よ、よけいなこと言わなくていいですっ お兄ちゃん、今蒼ちゃんのこと名前で呼んだ? !!?? がすっ。 ぐあっ……なんで俺が矛先なんだよっ し、知りませんっ…… 衣鈴はすたすたと道を急ぐ。 よくわからないけど待ってよ蒼ちゃーんっ! 千波が陽気に追いかけていく。 ひとり残されてから、ため息をつく。 ……千波には、近いうちバレるだろうな 言おうが言うまいが、俺たちのことは知ってしまうだろう。 鈴葉ちゃんも、詩乃さんだってそうだ。 俺たちは夕食を共にまでしている。接し方や雰囲気で看破されるのも時間の問題だ。 隠したがる衣鈴には悪いが、腹を決めてもらうしかない。 なによりこれは、後ろめたいことじゃない。 そうだろ、衣鈴 やるべきことをしたあとに、みんなに話そう。 今夜、衣鈴に望遠鏡の修理を持ちかけてみるつもりだった。 ……すみません。今日は部活、休んでしまって いや、それはいいけど。なにか用事あったのか? 衣鈴は頬をほんのり朱に染めて、首周りを隠す。 ……なるほど、明日歩たちにキスマークを見られたくなかったからか。 そんな長く残らないだろうし、心配しなくても明日には消えてるんじゃないか ………… それはそれで曇った顔をする衣鈴だった。 蒼ちゃんっ、今日はひさしぶりにみんな一緒の晩ご飯だったねっ ……そうでもないと思うけど でも一昨日と昨日は蒼ちゃんと一緒じゃなかったよっ ……そ、そうだったかな そうだったんだよっ、千波とっても寂しかったんだよっ、なんで蒼ちゃん来てくれなかったのかなっ ………… なんで俺をにらむんだよ…… 知りません 一昨日は衣鈴とキスを交わした日で、昨日は衣鈴と結ばれた日なのだった。 お姉ちゃん、顔が赤いけど…… ……そ、そんなことないよ もしかして風邪とか…… ……そうじゃないから、安心して 衣鈴は優しく鈴葉ちゃんの頭を撫でる。 お姉ちゃん、今度からはお夕飯一緒なんだよね? うん この前は、急に部屋に押しかけてごめんね ううん。私のほうこそごめん でもまた蒼ちゃんのお部屋で食べるのもいいねっ 死ねばいいのに そ、そんなこと言っちゃダメだよお姉ちゃんっ 死んじゃえばいいのに あ、あんまり変わってないよお姉ちゃんっ 俺と衣鈴の関係が変わっても、みんなのこのやり取りはずっと変わらないんだろう。 衣鈴、今夜はどうする? ……星見ですか? ああ。屋上いくならつきあうぞ 衣鈴は言葉に迷っていた。 ……もう、その必要はないって、頭ではわかっているんです 南天の星空を探す必要はないって、わかっているはずなんです 先輩が、約束してくれたから……。想い出の星空を見せてくれるって言ってくれたから だけど…… 俺は、衣鈴と一緒に雲雀ヶ崎の星空も見上げたいんだ ………… だから、衣鈴にその気があるならつきあう。そういうことなんだよ ……はい 鈴葉ちゃん、今のってなんの話? え、えとえと……もしかしたら、ふたりはつきあっ !!?? 衣鈴が高速で鈴葉ちゃんの口をふさいだ。 す、鈴葉も星見、いく? 鈴葉ちゃんを離して、念を押すように聞いた。 お姉ちゃんが誘ってくれるの、初めて…… うん。どうする? い、行きたい。お姉ちゃんと一緒に行きたいっ 先輩 ああ。責任持って引率するぞ 主に校舎に忍び込むほうで。 それじゃ千波もいくねっ ほらとってこーい 千波を投げたら千波は誰が取りにいってくれるのお兄ちゃん!? そんなの必要なのか? そこまで千波を仲間外れにしたいのお兄ちゃん!? あらあらダメよ洋ちゃん、いくら衣鈴ちゃんとの馴れ初めを邪魔され…… !!?? 衣鈴が詩乃さんに飛びつく。 や、やめてくださいっ、というかなんで知ってるんですか…… お夕飯食べてるときに、なんとなく。気づいてないの千波ちゃんだけみたいよ 千波はこういう話にめっぽう疎い。 ……さっきからなんのこと? なんでもない。それより千波も行くなら、早く制服に着替えてこい うんっ、じゃあ準備して家の前で集合だねっ 洋ちゃん。あまり遅くならないようにね はい。すみません、いつも見逃してもらって 私は天文部のOGだから。天体観測が目的なら、反対できなくなっちゃうのよ 詩乃さんの優しさに感謝して、いざ夜のヒバリ校へ。 俺と衣鈴の前を、千波と鈴葉ちゃんが手をつないで歩いている。 俺たちも手をつなぎたいところだが、衣鈴は望遠鏡を抱えている。 だから代わりにこう言った。 望遠鏡、俺が持つよ ………… 嫌か? 衣鈴はふるふると首を振った。 そんなこと……ないです 持たせてあげます…… 俺は苦笑する。 俺がお願いしてるみたいだな ……持ちたくないなら、持たせません ウソだウソ、持たせてくれるとうれしい ……先輩は、変な人です 自分から荷物持ちがしたいなんて 衣鈴から望遠鏡を受け取った。 明日歩のものに比べればずっと軽い、だけど衣鈴の細腕を考えたら充分重い。 今夜からは俺が運搬係になろう。 今は壊れた望遠鏡、それでも。 衣鈴、取引のこと覚えてるだろ? ………… この望遠鏡、俺に修理させてくれないか? 衣鈴は浮かない顔だった。 ……嫌なのか? ふるふると首を振る。 嫌というわけじゃ、ないと思います…… ですけど、その望遠鏡は直らないんです 以前に店に持っていったときにそう言われたんです 寿命だから、修理は難しいだろうって…… ……そうだったのか。 俺も業者に頼む予定だったので、どうしたものか。 ですから、望遠鏡の修理はべつに…… そんなこと言わずに、俺に任せてみてくれないか? ……直すあてがあるんですか? ない ……断言されました でも、なにも努力しないで諦めるっていうのが我慢ならないっていうか 先輩の性格的にそんな気がします そんなわけで、ちょっとだけ借りていいか? ………… 無理強いはしないけどな あてがあるわけじゃないので、強くは言えない。 ……やっぱり、ダメです それが衣鈴の答えだった。 で、でも……先輩を信頼してないわけじゃないです…… もごもごと、そうつけ足した。 そんなふうに言ってくれるだけで報われた気持ちになる。 修理したくなったらいつでも言ってくれよ ……あてがないくせに自信満々なのが疑問ですけど、わかりました 今夜も望遠鏡、組み立てるのか? ……いちおう 手伝っていいか? 衣鈴は、こくんと控えめにうなずいた。 警備員の人に見つからないでちゃんと来れたねっ よかったです……ドキドキしました 千波と鈴葉ちゃんは頭上高くに広がる星空を眺め回す。 衣鈴、架台頼んでいいか? はい。用意しますから、望遠鏡を載せてください 俺と衣鈴は望遠鏡の組み立てを進める。 暗闇しか覗けなくても、雰囲気作りには一役買う。 星見の準備が整った頃、もうひとり来客があった。 ……帰る 今来たところだろっ どこから現れたのか、メアがぶすっとして立っている。 わっ、メアちゃんだっ、お久しぶりー! ……相変わらずうるさい こ、こんばんはです、メアさん ……こんばんは いちおうこんばんは いちおうだったらいらないわ 最近見なかったから心配したぞ メアはぶすっとしたままだ。 かー坊と遊ぶのにいそがしかったか? ……べつに かー坊の姿は見えない。そこらを飛んでいるのかもしれないが。 星見、していくんだろ ………… どうした、そんなぶすっとして ……べつに かわいい顔が台無しだぞ ……バカバカなこと言わないで まったくです 衣鈴が俺に白い目を向ける。 あなたが怒る意味がわからないんだけど ……怒ってないし、わからなくていい 洋くんのこと好きなんだ !!?? 洋くんも、この子のこと好きなんだ ……いきなりだな 看破されまくりなのはなぜだろう。 千波も蒼ちゃんのこと好きだしお兄ちゃんのことも好きだよっ 千波はいつまで経っても疎かった。 そういうことだったんだ なんのことだ? そういうことだったんだなって思って それを聞いているんだが。 お別れ……してもいいのかなって もう帰るのか? そうじゃなくて、お別れ 洋くんと会うのはやめるかもしれない 突然の言葉だった。 なんでなんでっ、メアちゃんなんでお別れしちゃうのっ ……べつに もう俺たちと遊びたくなくなったのか? ……遊んでたつもりはないけど。でも、そんな感じ 俺たち、なにか気に障るようなことしたか? そうじゃない メアの声は沈んで聞こえる。 約束、果たしたみたいだから 洋くんの悪夢、なくなったみたいだから わたしが刈ったわけじゃないけど…… 俺、展望台の彼女のことは忘れてないぞ 忘れることだけが、悪夢を刈ったことにはならないから どういう意味だろう。 め、メアさん……いなくなっちゃうんですか? ………… そんなの……嫌です……ぐすっ…… ……泣き虫ね メア、これ 渡そうと思って、メアと会えずに今日まで渡せなかった。 約束してた、鈴葉ちゃんとのツーショット写真。前にかー坊が焼いたからな ……べつに 変に意地張ってもらわなかったら、鈴葉ちゃんが泣き出すぞ ……鈴葉を泣かせたら許さない 鈴葉ちゃんのケータイ、メアちゃんが待ち受けになってるんだよっ め、メアさんは……友達ですから…… メアは観念したようだった。 ……わかった。もらうから 俺の手からメアの手へ、写真が渡る。 メアはそれをじっと眺める。 あの……メアさん…… ……今すぐいなくなるなんて、言ってないわ あなたの泣き虫が治るまで、いてあげてもいい ほ、ほんとですか…… ……しょうがないから、ほんと え、えへ……ぐすっ…… ……笑うか泣くかどっちかにして じ、じゃあ笑います…… ……バカバカ えへ…… なんだかんだでいいコンビだ。 メアと鈴葉ちゃんが成長したらどんな友達づきあいをするのか、見てみたくなる。 できればずっと雲雀ヶ崎にいてくれよ、メア 嫌って言いたいけど、この子の前だからやめてあげる あまのじゃく あなたに言われたくない。洋くんが好きなくせに そ、そんなことっ…… 蒼ちゃんがお兄ちゃんのこと好きなのはうれしいけどお兄ちゃんは千波のものだからあげないよっ ……だ、ダメ、コレは私のもの またコレ扱いだ。 でもでもコレは千波のお兄ちゃんなんだよっ ……そ、その前に私の恋人 初めて人前で認めてくれた。 そんなこと言って千波を担ごうとしても騙されないよっ、恋人なんてウソだよねお兄ちゃん? 好きだ、衣鈴 公然と愛の告白!? ごめんな、千波 公然と千波を捨てに入ってるよお兄ちゃん!? やめてしつこくしないで先輩が嫌がってる 嫌がってないよねお兄ちゃん!? 近寄らないでくれるか、千波菌がうつるから うわーん!! ち、千波さんをいじめないでくださいっ、そんな洋さんとお姉ちゃんは嫌いですっ…… 鈴葉ちゃんににらまれる。 ……とりあえず今のは冗談として、星見でもしようか 場の収拾にかかる。 今のは冗談…… 衣鈴からもにらまれる。 みんなバカバカだけど、洋くんは特にバカバカ 最後にメアにもにらまれる。 それじゃ星見始めるよーっ! 千波のなにも考えていない明るさだけが俺の味方だった。 ねえねえ蒼ちゃんっ、この望遠鏡使わせてもらっていいかなっ 死ねばいいのに 使うのダメだったらさわらせてもらうだけでもいいよっ 死ねばいいのに 衣鈴、さわらせるくらいいいんじゃないか ………… わ、わたしも、一回さわってみたいです…… その一言が決め手になったようだ。 ……絶対に、傷つけないでね はーい! だ、だからっ、そんな乱暴に持たないでっ…… 千波が望遠鏡を両腕で抱え上げる。 それを鈴葉ちゃんが指でつつくようにしてさわる。 望遠鏡って結構重いんだねっ それに固いです……ノックするといい音がしそうです き、傷つけたら怒るからね、落としたりしたら怒るからねっ…… 衣鈴がはらはらと見つめている。 鈴葉ちゃんもさわるだけじゃなくて持ってみる? い、いえ、わたしだと落としそうだから…… 大丈夫だよっ、落としても蒼ちゃんなら笑顔で許してくれるからねっ さ、さっき怒るって言ったでしょっ…… ……楽しそうね メアも混ざってきていいんだぞ パカパカね ……それってやっぱり馬なのか? 間違った。バカバカね 間違ってただけなのか…… パカパカね どっちなんだよ…… ほら鈴葉ちゃんっ、千波が持たせてあげるねっ え、えとっ、待ってくださいっ、抱えきれなくてっ も、もういいでしょ、早く返して…… 俺は笑って、メアはぶすっとして、そんな三人を見つめている。 気がかりではあった。 衣鈴は俺に望遠鏡の修理を任せることがあるのだろうか。 南天のプラネタリウムを見てもなお、衣鈴は壊れた望遠鏡を使い続けている。 それが終わることはあるんだろうか。 オーストラリアで想い出の星空を見てもなお、使い続けるんじゃないだろうか。 俺が衣鈴に想い出の星空を見せたとして、また雲雀ヶ崎に戻ってくるなら、結局は同じなんじゃないだろうか。 同じことを繰り返すだけじゃないだろうか。 衣鈴が雲雀ヶ崎の星空を好きになることは、これから先もないんじゃないだろうか。 だって、衣鈴の望遠鏡は、壊れているからこそ雲雀ヶ崎の星空を映さず……。 暗闇を通して、想い出にある南天の星空だけを映し続けるのだ。 望遠鏡の修理が可能かはわからない。 だけどひとつ言えるのは、衣鈴が修理を拒み続けるなら、望遠鏡が雲雀ヶ崎の星空を映すことはないということ。 衣鈴は南天の星空だけを想い続けるということ。 想い出だけを見続けるということ。 衣鈴は、潰えた望遠鏡を覗き、終わった夢を見続ける。 新たな夢を見ようとせずに──── ───それが、あなたの悪夢なのね メアの言葉は衣鈴に向けられたものだった。 なぜ、手放そうとしないの ……え? なぜ、今もなおすがりついているの ほかに、すがれるものができたはずなのに 頼れる相手ができたのに 頼るだけじゃない、共に歩める相手ができたのに 衣鈴は言葉を失っている。 メアがいったいなにを追求しているのか。 洋くんは悪夢を克服できたのに…… あなたは、いつまで悪夢を見続けるの それは、俺が歯がゆく思っていたことと同じだったのかもしれない。 なに……言って…… 本当に、バカバカ 向こうでは、ふたりのやり取りに気づかない千波と鈴葉ちゃんが、まだ望遠鏡ではしゃいでいる。 メアは手持ちのカマを高く掲げる。 あなたの悪夢は約束にないけど…… 雲雀ヶ崎の星明かりを受けて、それは妖しく輝いている。 バカバカなあなたに免じて、大サービスでやってあげる 止める間もなく振り下ろす。 銀に煌めくメアのカマが、衣鈴の胸を貫いた。 それは一瞬の出来事。 衣鈴はなにが起こったのかわからなかったに違いない。 なにかが弾けていた。 光を伴ったそれは衣鈴からではなかった。 千波と鈴葉ちゃんの方向。 呆然と立ち尽くす千波と、驚いて声も出ない鈴葉ちゃん。 抱えていたはずの望遠鏡が消えていた。 砕け落ち、霧散した。 え…… 衣鈴も気づいて振り返る。 望遠鏡を抱えていたのは千波だったようだ。 千波は友達が本当に嫌がることはしない。だから鈴葉ちゃんに無理に持たせて、望遠鏡を落とすような真似はしない。 千波が大切に抱えていた。 なのに今、千波の両腕は望遠鏡を抱くかたちのまま固まっている。 その手から、ぽろぽろとこぼれている。 望遠鏡のかけらがこぼれている。 なに……してるの…… 胸を貫かれた衣鈴に異常はない。 俺のときと違って衣鈴自身のなにかが欠落したわけじゃない。 カマを振るったメアの姿はなくなっている。 帰ったのかもしれない。 帰っていなかったとしても、衣鈴の瞳はメアではなく千波にだけ向けられただろう。 千波さん……なにしたの…… 私の望遠鏡に……なにしたの…… あ……え……? 呆然としていた千波の視線が、空になった自分の腕と、蒼白になった衣鈴の顔を往復する。 千波が……やったの……? ほかに、誰がいるの…… メアのカマが衣鈴の望遠鏡を破壊した。 衣鈴の悪夢──望遠鏡を刈ったのだ。 だが、果たして衣鈴は信じるだろうか。 この状況で信じてくれるだろうか。 どうして、くれるの…… お、お姉ちゃん…… どうしてくれるのっ……千波さん……! 感情を隠そうともしない。こんな衣鈴は初めて見る。 鈴葉ちゃんも声を失う。 返してよっ……私の望遠鏡……! 早く返してっ……直してよ……! 千波はただ責められるがまま。 その手にかけらをつかんだまま。 まだ望遠鏡……使えてたのに……! 暗闇しか見えなくてもよかったのに……! 暗闇だから意味があったのに……! なのに壊したっ……千波さんが壊した……! 私の想い出を壊した……! 千波さんのせいで壊れた……! 反論もなにもせず、千波はひとりで受け続ける。 千波さんなんて、友達じゃない…… もう友達じゃない…… 最初から、友達なんかじゃない…… 友達なんかじゃなかったんだから────! 衣鈴は屋上を出ていった。 残された俺たちはしばらく口を利けなかった。 千波の手から、望遠鏡の最後のかけらがこぼれ落ちた。 それを見た千波の瞳からも、遅れて涙が一滴こぼれた。 だけど千波は声を上げなかった。 耐えながら。 静かに泣きながら、周囲に散った光だけを見つめていた。 衣鈴 ………… 衣鈴が出てくるのを、家の前で待っていた。 今朝は俺たちより先にいってしまうんじゃないかと思ったから。 案の定、衣鈴の登校時間はこれまでよりずっと早い。 お、おはようございます…… 鈴葉ちゃんも登校のようで、衣鈴の後ろから顔を出した。 ……待ってたんですか? ああ。千波はまだ自宅だけどな ………… 謝るだけじゃ足りないだろうけど。夕べはごめん ……やめてください 衣鈴は視線を逸らす。 先輩が、謝らないでください…… 悪いのは、千波さんなんですから 千波も謝りたいって言ってたよ ………… 許してやってくれないか? 衣鈴は答えなかった。 お姉ちゃん……。千波さんは、悪くないよ あんなふうに壊れるなんて、絶対おかしいし…… ……鈴葉 衣鈴の声が低かったからか、鈴葉ちゃんはびくっとする。 もう時間でしょう。早く行きなさい お、お姉ちゃん…… 私も登校するから。いってらっしゃい お姉ちゃん…… 衣鈴、鈴葉ちゃんが怖がってるぞ ……どうして怖がる必要があるんですか 私はいつもどおりですから。べつに怒ってませんから 千波さんが悪いなんて思ってませんから 千波さんのことを考えても仕方ありませんから…… 友達じゃ、ないんですから そう言い残して衣鈴は坂を登っていく。 う……ぐすっ…… 俺は鈴葉ちゃんの頭を撫でる。 大丈夫だ。すぐ元通りになる 衣鈴と千波は、すぐ友達に戻るよ ほんと……ですか…… 本当だ。俺が保証するぞ 根拠があるわけじゃないのだが。 鈴葉ちゃんを元気づける効果くらいはあったようだ。 洋さんを信じます…… お姉ちゃんと千波さんを、信じます ああ。だから元気に学校、行ってこい はい、いってきます 鈴葉ちゃんを見送って、俺は衣鈴を追っていく。 待てって、衣鈴 ………… いつもどおりって言ってたけど。傍から見たら怒ってるようにしか見えないぞ 先輩の目は節穴ですね 声もトゲトゲしい。初対面の頃に戻ったようだ。 千波のこと、許せないか? だから、千波さんなんてどうでもいいんです 俺のことも許せないか? な、なんで先輩が出てくるんですか…… 距離を置こうとしてるように見えるからさ 恋人になるくらい縮まった距離がまた離れてしまいそうで、俺も不安なのかもしれない。 違います……先輩は、悪くないです…… 先輩は……わ、私の恋人です…… 今朝は、俺が待ってなかったら先に登校するつもりだったんじゃないか? ………… 俺から離れるのは、千波がいるからか? 俺が、千波の兄だからか? そ、そんなこと…… 俺と一緒にいると、千波とも出会うことになる 千波を避けることは絶対にできない ………… 俺は、衣鈴に頼まれても、千波を遠ざけるようなことはしないからな 衣鈴は立ち止まった。 い、イジワル……です…… 悪い。責めるような言い方になった じ、じゃあ…… だけど、自分と千波、どっちが大事なんて聞かれても答えられないからな 衣鈴の肩が震え出す。 先輩……私のこと…… 好きだ。だけど、それとこれとは話が別だ 先輩は……私の恋人なのにっ…… だけどな、千波は俺の妹なんだ 比べられるようなことじゃないんだよ っ…… 衣鈴は俺を置いて走っていった。 ……バカか、俺は 千波を許してもらうつもりが、逆効果になっている。 俺も苛立っていたんだろう。 望遠鏡を壊したのはメアだ。千波じゃない。 そう話しても衣鈴は信じない。 なにより俺は、望遠鏡が壊れたことに安堵している。 想い出の星空だけじゃない、雲雀ヶ崎の星空を見上げるキッカケになるかもしれないから。 衣鈴が辛い思いをしているのに、それに少しでも安心した自分に対し、どうしようもなく苛立っていた。 蒼さん、今日は部活出てくれるかな 今週はまだ一度も出席していませんよね 科学館のプラネタリウム、意味なかったのかな…… そんなことない。近いうち、出るようになるから 一昨日も昨日も、衣鈴が欠席したのは俺のせいだ。 昼休みに蒼さんと一緒になったら、今日の部活誘ってみようと思ったんだけどな だが衣鈴は中庭に来なかった。 これもまた俺のせいかもしれない。 コンクールの準備、みんなで進めたいもんね 蒼さんの欠席が少なくなれば、姉さんが生徒会を説得して屋上の常時開放を勝ち取ってくれると思いますし オーロラの写真もみんなで撮りたいな~ 続きは部活にして、そろそろ教室を出ませんか? そうだね。部室で岡泉先輩が待ってるかも 三人で教室をあとにする。 ……先輩 廊下には衣鈴の姿があった。 一年の衣鈴がこの階に来たのは初めてじゃないだろうか。 あ、あの……先輩…… 蒼さん、ちょうどよかった~。これから部活だけど、一緒に行かない? もしかして、迎えに来てくれたんですか? い、いえ……その…… 誰かに用だったのか? は、はい…… あたしたちじゃなくて? 衣鈴は手を伸ばし、俺の制服をちょんとつまんだ。 こ、コレに…… コレ扱いが終わらない。 先輩……一緒に、帰りませんか…… よかったら、これから…… 衣鈴は視線を上げたり下げたり、口をぱくぱくさせたりして。 で、で、で、デートとか…… デート!? 明日歩が一番驚いた。 明日歩が驚いたせいで衣鈴も驚いていた。 い、い、い、いえっ、そ、そ、そ、その…… おめでとうございます、おふたりとも こさめさんが早くも祝福する。 ……衣鈴 あ……だ、ダメでしょうか…… すがったような、頼りない瞳。 ……その前に、千波はどうした? ち、千波さんは関係ないじゃないですか…… ここで待ってたのは、千波から逃げてきたからじゃないのか? ……そ、そんなこと だからってわけじゃないけど、ごめん。デートはできない 衣鈴の顔が目に見えて青くなる。 それより、衣鈴は部活…… っ…… 部活に出ないか、と言い終える前に走っていってしまう。 ……洋ちゃんが蒼さんをサボらせた い、いやっ、なんでそうなるんだよっ 違うんですか? ……合ってるかもしれないけど それと小河坂さん、蒼さんを名前で呼ぶようになったんですね デートって言ってたけど、どういうこと? 質問攻めを食らう。 部活に出たら、かわし続けるのに多大な労力を払いそう。 明日歩、すまん。俺も帰る え、な、なんで? 部活は? 今日は休む。大事な用があるんだ 口実ではなく本当のことだ。 蒼さんを追いかけるんですか? 追いかけたいところだけど、違う用だ 追いかけたいとは思っているんですね ……勘ぐるのはやめてくれ むー…… 犬化した明日歩に今にも噛みつかれそう。 というわけで、さらば ダッシュする。 洋ちゃんが逃げた~!! 明日歩さん、わたしたちはこっちですよ リボンをリードみたいにひっぱらないでこさめちゃん~!? あとはこさめさんに任せて、俺は用事に向かっていった。 あ、あの、洋さん…… 詩乃さんの作る夕飯を待っていると、鈴葉ちゃんがそわそわと話しかけてきた。 今日は、ずっと千波さんを見てませんけど…… いつもどおりに学校いって、いつもどおりに帰ってきてるぞ。鈴葉ちゃんが来る前にも一回、ここに来たし 今はどこにいるんですか……? 自分の部屋だ。夕飯ができたら、呼んでくるよ お部屋で落ち込んでるとか…… そうじゃないんだ。ただ、やることがあってな あ、宿題やってるんですね 生まれてこの方、千波のそんな現場に出くわしたことはないが。 まあ、そんなところだ 変に心配をかけたくなかった。 千波さん、お姉ちゃんのこと怒ってますか……? 怒ってないさ。望遠鏡が壊れたときだって、怒ってなかっただろ? はい……。でも、ずっと黙ったままでした…… 昨夜は、屋上からの帰り道では誰も一言も話さなかった。 心配しなくても、すぐ元通りになる。朝にも言ったろ? ……はい 鈴葉ちゃんの顔は晴れていない。 洋さんも、さっきまで部屋にいたんですか? まあな。夕飯食べたら、またすぐ部屋に戻るつもりだ それは千波も同じだろう。 ごめんな、あまり相手できなくて い、いえ、それはぜんぜん……詩乃さんもいますし…… それより、お姉ちゃんが…… 衣鈴、今夜は来ないのか? はい……。誘ったんですけど、行かないって…… そのとき俺のケータイが鳴った。 衣鈴からのメールだった。 『これから私の部屋に来ませんか?』 『ふたりで夕飯を食べませんか?』 『今、作ってる途中なんです』 『詩乃さんほど上手じゃありませんけど、よかったら食べてみてくれませんか?』 『マヨネーズは使ってませんから、安心してください』 『それに、今日はあんまりお話ししてないから』 『先輩と、お話ししたいです』 ………… 俺は、メールを返信した。 悪いけど行けない、と衣鈴に返した。 ……もしかして、お姉ちゃんですか? まあな お姉ちゃん、気が変わって一緒に食べるとか…… いや、向こうは向こうで作ってるみたいだ そう……ですか 衣鈴からのメールは、もう来なかった。 先輩っ…… 家を出ると、衣鈴がぱたぱたと寄ってきた。 お、のんびり屋の衣鈴が走ってる。レアものだ ち、茶化さないでください…… 衣鈴は俺の前で立ち止まり、うつむいてしまう。 あいさつ、まだだったな。おはよう おはよう……ございます…… さっき、俺を見かけて走ってきたのか? ……い、いえ、偶然です タイミング的に待ちかまえていたとしか思えない。 千波と一緒だったら、姿を見せなかったのかもしれない。 あの……ゆ、夕べは…… ごめんな。ちょっと用事があってさ あ……用事だったんですね…… だったら……仕方ないですね…… 衣鈴の弱々しい笑み。 傷つけてしまったことをいやが上にも知る。 じゃあ、今夜は私の部屋…… 今夜は、うちで食べないか? ………… 来てくれるとうれしいんだけどな 衣鈴は答えづらそうにしている。 ……私の部屋じゃ、ダメですか? それなら、千波も連れていっていいか? ………… 夕べは鈴葉ちゃんも寂しそうだったぞ 衣鈴のその姿は本当に辛そうで。 そろそろ学校……いきませんか? いや 突き放した自分の態度に反吐が出る。 もうすぐ、千波が来ると思うから ………… 昨日は置いていって悪いことしたし、ちゃんと待ってやらないとな ……わ、私は 衣鈴は唇を噛んでから。 私は……先にいきます…… そうか せ、先輩は…… 俺は待つって言ったろ わ、私と…… ごめんな かたちだけの謝罪。 わかり……ました…… ああ 先に……いきます…… ああ 俺はなにも態度に出さないよう、衣鈴を見送った。 拒絶に映ったかもしれない。 俺みずからが距離を取っている。 そう思われても仕方なかった。 衣鈴……? ………… 校門を抜けようとすると、近くに衣鈴が立っているのに気づいた。 衣鈴は俺を認めると顔を上げたが、すぐに深くうつむいてしまう。 どうしたんだ、こんなところで 先輩を……待ってたから…… ぼそぼそと、そうつぶやく。 昼休みは、中庭でも待ってたのに……来ないから…… 昼はちょっと用事があってさ 夕べと……同じ用事ですか……? そんなところだ ………… 衣鈴、今日は部活は? 休みます…… 出てくれると、みんなよろこぶんだけどな ………… じゃあ俺、帰るけど わ、私も…… 衣鈴は怯えている。 また拒絶されるんじゃないかと恐れている。 一緒に……帰っても…… ああ、帰ろう 拒む理由はない。 それくらい簡単なことなのに。 あ、ありがと……です…… 衣鈴の笑顔はほとんど泣き顔に見えた。 今夜、来れるようなら来てくれよ 自宅前に着いて、衣鈴にそう言ってみた。 それじゃあ、またな ま、待って…… 家に入ろうとすると、衣鈴が引き留めてくる。 もう……帰るんですか…… ああ。次は夕飯のときだぞ ………… じゃあな 待って……くださいっ…… 震えた声は、悲鳴にも聞こえる。 帰らないで……ください…… まだ……そばにいてください…… 一緒が……いいです…… 帰っちゃ……やです…… あまりに弱々しい姿に、抱きしめてやりたくなる。 すんででこらえる。 またすぐ一緒になるだろ、夕飯のときにさ やです…… 先輩とふたりが、いいです…… ふたりきりが……いいです…… 千波がいるから、ふたりがいいのか? ………… 衣鈴。何度も言うけど…… な、なにしてもっ……いいですから……! 俺の言葉を打ち消した。 なにしても……いいですから…… 私に……なにしても…… え、エッチな……ことも…… 絶句する。 エッチなこと、しても……いいですから…… ………… ふ、ふたりじゃないと……できませんから…… だ、だから…… ……バカ こつんと頭をたたく。 無理しなくたっていいから む、無理じゃ、ないです…… 先輩だから……しても、いいんです…… 私に……な、なにしたって…… エッチなこと……したって…… ………… だ、だから……今夜は…… 私の……部屋…… ……ダメだ 衣鈴はひくっと息を呑む。 できないんだ。用事があるから 衣鈴の震えが大きくなる。 ……そ、その用事って 大切な用事なんだ わ、私より…… 比べられないんだよ だってそれは。 千波と一緒に、やり遂げなきゃならないことだから 衣鈴の瞳が見開いた。 目尻にじわりと涙がたまった。 千波さん…… 先輩の大切な妹が、千波さん…… そんな千波さんを、私は傷つけた…… 先輩が大切だって思う千波さんを、傷つけた…… だ、だから……私…… 先輩に、嫌われっ…… 言葉の最後は嗚咽で消える。 俺は自分の浅はかさに気づく。 衣鈴っ、そうじゃなくて…… 衣鈴はきびすを返した。 止めようがなかった。すぐに玄関に入られ、カギをかける音がした。 呼び鈴を押そうか迷った。 ケータイに連絡すべきか考えた。 どれも選択しなかった。 ……くそ 情けない。 ほかにやりようもあっただろうに。 うまく振る舞えない自分が腹立たしくてたまらなかった。 今ごろ皆は洋の家で食卓を囲んでいる。 なのに自分はここにひとりぼっち。 蒼衣鈴は涙が出そうになるのを必死にこらえた。 泣かない、だって自分はこれまでもひとりだった。 孤独に慣れたはずだった。 それが普通になったはずだ。 今も、なにも変わらないはずだった。 なのになぜ、こんなにも。 うっ……ひっく…… こんなにも、寂しいと感じている? 理由はもう知っている。 小河坂洋。 彼のせい。 彼が、そばにいないから。 先輩が、私のそばにいてくれないから…… 辛くて悲しくて寂しくて、そんなふうに感じる自分が許せなくて悔しくて。 惨めになる。 千波に暴言を吐いた自分は、洋に嫌われたに違いない。 そう考えると絶望する。 耐えられない。死んだほうがマシ。 どうしてっ…… 一昔前の自分では考えられないこの気持ち。 まるで人が変わったよう。 これが恋というもの。 気がつけば、望遠鏡よりも。 想い出の星空よりも、洋が大切になっている。 だから望遠鏡が壊れてしまったことよりも、今が辛いと感じている。 洋と離れ離れになることが耐えられないと感じている。 そっか……私…… 同じなんだ、あのときと。 雲雀ヶ崎に引っ越してきたときと。 ふるさとを離れたときと。 別離に打ちのめされるこの感情。 もしかしたらあのとき以上かもしれない。 でも……だったら…… それでもあのときと違うのは、この問題には解決法があるということ。 親の転勤は子供の自分にはどうしようもなかった、だけど今回は違うのだ。 自分の力で解決できる。 千波に謝ればいい。 そうすれば解決する。 きっと洋は戻ってきてくれる。 謝ってしまえばいい。 そうすれば元通り。 わかっている。 わかっているのに。 できないよう…… 千波に謝ろうといくら思っても。 わからないんだよう…… 謝り方がわからない。 ずっと友達を否定してきた自分だからわからない。 友達がたくさんいた頃の自分が今ではあまりに遠くてなにも思い出せない。 どんな言葉を千波にかければいいのか自信がない。 クラスで衣鈴は千波に近寄ろうとしない。 千波も同じく近寄ってこない。 あれ以来、一度も会話を交わしていない。 きっと千波は怒っている。 望遠鏡は千波が壊したんじゃない、理解している、抱えているだけであんなふうに砕け散りはしない。 だけど、自分は千波を責めてしまった。 一方的に責めてしまった。 千波は怒っているに違いない。 恨んでいるに違いない。 洋は、千波は謝りたいと言っていた。とてもそうは思えない、洋が優しさでかけた言葉としか思えない。 千波はもう自分を友達だとは思っていない。 それを招いたのは衣鈴。 千波は悪くない。 悪いのはすべて自分。 なのに、いったいどんな顔をして、友達に戻りたいなんて言えばいいのか。 教えてよう……誰かあ…… こらえきれない涙があふれる。 痛切に思う。 こんなことなら、千波さんと友達になるんじゃなかった。 先輩を好きになるんじゃなかった。 同じ轍を踏んでいる。 私はまた、傷ついている。 やだよう……先輩…… 同じ傷をえぐられたからさらに深く傷ついている。 離れたくないようっ……先輩っ……! だから、もう、こんな気持ちに耐えられるわけがない。 家を出ると、ぱたぱたと足音がした。 昨日と同じ朝の風景。 衣鈴が俺を見つけて駆け寄ってきた。 おはよう……ございます…… 立ち止まり、小さくあいさつした。 俺の顔色をうかがう調子で。 おはよう、衣鈴 あいさつを返すと、衣鈴の顔に笑顔が咲く。 今日は、いい天気ですね…… 衣鈴から会話を振ってくる。 昨日のこともある。避けられる覚悟をしていたのに。 そうだな。いい天気だ 夜は、きっと星がきれいですよね…… ああ、きっとそうだ 今日は、天クルの天体観測の日ですよね…… とても、楽しみですね…… 普段の衣鈴ならそんな言葉は決して出さない。 笑顔はくずれない。 無理に明るく振る舞っている。 先輩は、部活、出ますよね…… 天体観測、出ますよね…… どう見ても空元気。 嫌われたくない、離れていって欲しくない。 俺に、そばにいて欲しい。 そんな想い。 切実に伝わる。 身に余る光栄、それに尽きる。 俺を好きになってくれてありがとうと、衣鈴を抱きしめ自分だけのものにしたくなる。 だけど、それはまだできない。 衣鈴を想っているのは俺だけじゃない。 衣鈴を好きなのは俺だけじゃない。 先輩が天体観測するなら、私も…… ……悪い 衣鈴の顔に緊張が走る。 部活、出られないんだ 放課後も夜も、用事があって…… 強張った表情に怯えの色が浮かぶ。 わ、私……やっぱり…… 吹いて飛ぶような細い声。 先輩に……嫌われたんですか……? もう、恋人じゃないんですか……? 違う。そうじゃない 自信を持って言えるのに。 じ、じゃあ、なんで…… ……ごめん どうしても白々しい言葉になる。 衣鈴はぎゅっと目をつむる。 やです…… 涙が伝う。 嫌っちゃ……ひっく……やです…… ぐしぐしと泣く。 その姿はあまりに弱い。 衣鈴を小動物みたいだと最初に言ったのは誰だろう。 今の衣鈴はまさにそれだ。 衣鈴はこれまで他人との間に頑なに壁を作ってきた。 それが一度くずれると、自分を守るすべがない。 無防備な心を守ることができない。 もう一度築く余裕がないのだ。 だから、傷つくだけ傷ついていく。 す、すみません…… 衣鈴は涙でくしゃくしゃになった顔を背ける。 今朝の私は……変みたいです…… 今までも変でしたけど……もっと変みたいです…… 私……先、いきます…… 学校……いきます…… ひとりでも……大丈夫ですから…… ひとりは……慣れてますから…… 衣鈴はもう振り返らずに坂を登っていく。 追いかけられない俺は、衣鈴の恋人を名乗る資格があるんだろうか? なあ、千波……。 こんなの、俺のほうが参りそうだぞ…… 俺たちは本当にこれで合っていると思うか? なあ、千波。 合ってなかったら、ぐりぐりだけじゃすまされないぞ……。 あの、洋さん。千波さんは…… 部屋から戻ってくると、リビングにいた鈴葉ちゃんが真っ先に尋ねてくる。 部屋にいるよ。あと少ししたら降りてくるから 用事……なんですよね そうだよ なんの用事なんですか……? 鈴葉ちゃんは心配そうにしている。 学校と夕飯時を除けば、俺たちは部屋に詰めっぱなしなのだ。 洋さんと千波さんの用事って、なんなんですか……? 鈴葉ちゃんも手伝ってくれたじゃないか 鈴葉ちゃんは小首をかしげる。 あの日、屋上で拾い集めただろ? それですぐに気づいたようだ。 あれって……お掃除したんじゃ…… それだけじゃなかったんだ じゃあ……お部屋に持ち帰って…… 千波とふたりで、ちょっとな ちょっとじゃ……ないと思います…… 言われたとおり、自由時間をすべて費やしてもすでに三日かかっている。 やっぱり……お姉ちゃんのために…… 衣鈴には言わないでくれよ ど、どうしてですか……? お姉ちゃん、すごく元気なくて……。わたしの前では普通に振る舞おうとしてるけど…… 衣鈴が無理をしているのは知っている。 それほど俺たちを想っていてくれた。俺と千波が考えていたよりも、ずっと。 そのことにもっと早く気づいていたら、今とは違う方法もあったかもしれない。 だけど、もう後戻りはできないから。 あと少しだけ、待って欲しいんだ…… 鈴葉ちゃんと、そして天井に向かって祈る気持ちで答えた。 二階の部屋で、寝る間を惜しんで作業を進める千波を見上げながら。 また、みんなで食卓を囲みたいからな 明日は学校が休みだから、千波の寝坊の心配もない。 徹夜でがんばれる。 終わるまで寝る必要はない。 一刻も早く、俺たちの日常を取り戻したい。 眠って……しまったみたいですね…… 連日……空が白むまでがんばっていたから…… 疲れているんですね…… いくら、好きな子のためと言っても、身体は大切にしてください…… そのままで寝ると……風邪をひきますよ…… おやすみなさい…… 起こすことは、しません…… 私は……見守る者ですから…… それが……あの人との約束だから…… ……………。 ………。 …。 ハッと気づいて顔を上げて、まず確認したのは現在時刻だった。 時計は午前四時を指している。 外はまだ暗いが、日付は変わっている。 作業中に眠ってしまったようだ。 ここ三日の睡眠時間はゼロに近かった。疲労もあるが、翌日が休日なので気が抜けたのかもしれない。 まだ終わってないってのにな…… 机に広がる工程はゴールまで先があることを教えている。 続きに入ろうと手を伸ばしたとき、肩からなにかが落ちた。 それは上着だった。外出のときに羽織るジャケット。 千波の部屋に来たとき、俺はこれを着ていただろうか? 千波ねむねむじゃないからがんばるねー 目が線になった千波が作業をしているつもりでなにもない空中に手を泳がせている。 ……いつも十時間は寝てるもんな なのに、俺とほとんど変わらない睡眠時間でこの作業を終わらせようとしていた。 千波を抱え上げ、ベッドに横にさせる。 まだ空中に手を伸ばしていたので毛布に押し込む。 さて、と 作業再開といったところで、人影を見つけた。 優しいんですね…… 驚いた。幽霊に出会ったくらいに。 千波さんは、キミのような兄に守られて、幸せなんでしょうね…… 誰だろう、そしていつからだろう。 少女がそばに立っている。 小さな背丈に不釣り合いな大きなカマを持ち、すました顔で俺を見ている。 いつも千波さんを助けていただき、ありがとうございます…… 幼い容姿とは裏腹の落ち着いた声、言葉遣い。 何者かはわからない、だが頭に浮かんだ人物はメアだった。 大人ぶった態度も似ているし、なにより手持ちのカマが主張している。 自分は死神なのだと教えている。 まだ寝ていても、いいんですよ…… 少しでも休んだほうが、作業もはかどると思いますから…… 俺がなにか言葉をかけようとしたとき、視界の隅で動く気配がした。 千波ねむねむじゃないからがんばるねー 千波がゾンビのようにベッドから這い出てきた。 やっ…… 謎の少女がカマの柄で千波のデコを突いた。 千波はベッドにぱたりと倒れた。 ……なにしてる お休みさせました…… 今は……千波さんには、あまり姿を見られたくありませんから…… 千波に動く様子はない。完全に落ちたようだ。 キミ、誰だ……? 少女は微笑を保っている。 死神か……? キミの言う死神というのは、娘星の子のことですね…… むすめぼし……。 深く考える必要はありません……。これは、夢ですから…… 夢……? キミがもう一度眠れば、私との出会いは夢だと思うだろうということです…… ……つまりこれは夢じゃないってことじゃないか だから、深く考える必要はないんです…… 誤魔化しにかかってるんだろうか。 それで、キミは誰なんだ? 名前を聞いているんですか……? その他も聞きたいけど、まずはそれで レン、です…… レン──── ちなみに偽名です…… メアと一緒だった。 名前は……ふるさとに置いてきましたから…… ……キミ、さ。メアの姉妹とか? あの子には弟がいますけど、あの子自身は忘れていると思います…… 長旅で……途方もなく長い旅の中で、記憶は星に還りますから…… 私も、名前だけじゃない、ふるさとにいた頃をよく覚えていませんから…… なにやらわからなくなってきた。 記憶がないから、拠り所を求めるんです…… 私たちは『約束』を求めるんです…… ですから、今の私は、見守る者なんです…… 千波さんを、見守る者なんです…… あの人と、そういう約束を交わしたから…… ますますわけがわからない。 考えないでください……どうせ夢ですから…… そんなこと言われてもな…… 納得できないなら、守護霊とでも思ってください…… これまでも陰ながら見守っていましたから…… 千波さんが一学期のテストで赤点をぎりぎりで回避したのは私が手を加えたためですから…… 深夜の教務室にこっそりと忍び込んで答案をちょちょいっと…… ……それ、見守るっていうか千波をダメにするだろ ダメ人間……クスクス…… なんだこの笑い。 私……ダメ人間フェチなんです…… 趣味悪いなおい…… ダメかわいい人が好きなんです…… 言い方変えても趣味悪いだろ…… 特に恋に溺れる人間のダメさ加減は〈垂涎〉《すいぜん》ものです…… むしろそっちがダメ人間だろ…… そのためこれまでも様々なダメ人間を見てきましたが千波さんは逸材だと思います…… 俺にケンカ売ってんのか…… 千波さんが好きなキミだから、これ以上は控えます…… その好きが恋じゃないのが残念ですけど…… ……言っとくけど、俺が好きなのは衣鈴だぞ はい……わかっています…… 微笑は変わらないのに、笑みが深くなった気がした。 キミと、衣鈴さんのこと、応援しますよ…… ダメなところ……たくさんあるから…… ダメなところ……たくさんあっても…… なにより千波さんも、キミたちのこと、応援すると思いますから…… 私は千波さんと一緒に、キミたちの恋も、見守りたいって思うんです──── 一瞬、カーテンの隙間から射す星明かりが陰ると、レンという名の死神少女は俺の視界から消失した。 ……なんだこの不思議体験は 退場までメアを彷彿とさせる。 部屋を見回すが、やはりレンの姿かたちもない。 俺は諦めて作業を再開する。 空が白み始めても睡魔に負けなかったのは、レンとの出会いを夢にしたくなかったからじゃない。 一刻も早く、衣鈴の笑顔を取り戻したかったからだ。 お兄ちゃんお兄ちゃんっ、見て見てお兄ちゃんっ! 目覚めた千波が途端に騒ぎ出している。 千波いつのまにか眠ってたのに作業が進んでるよっ、これってきっと妖精さんが手伝ってくれたんだよねっ じゃなくて現在進行で俺が手伝ってるだろうがっ 寝起きにぐりぐりはきつすぎるよお兄ちゃん!? まあ、妖精はいたけどな え、ほんとに? ウソだ 背伸びをし、腕を回して凝り固まった肩をほぐす。 千波、顔洗ってこい。朝飯にするから 食べたらすぐ作業開始だねっ なんとしても今日中に方をつけたい。 作業は、ようやく終わりが見えてきていた。 机に放り出していたケータイが鳴っている。 気だるげに椅子に座り、星占いをしていた蒼衣鈴は、すぐに手を伸ばして確認する。 待ち望んでいた相手だった。 洋からの電話だった。 だけど衣鈴は出ることができなかった。 待っていたはずなのに、声が聞きたくてたまらなかった人なのに、衣鈴はコールが鳴るままに任せるしかできなかった。 ケータイを持つ手は震えている。 やがて鳴りやんだ。 途端に後悔が押し寄せ、初めてケータイを開いた。 かけ直そう、そうすれば相手はすぐに出てくれる、そう思って指がボタンの上に載る。 だけど押せない。 泣きたくなる。 実際に泣いていると感じる。 先輩……えぐっ…… 昨日も昼休みは中庭で待っていた。だけど洋が来ることはなかった。 部活にも出てくれなかった。 夜の天体観測にも顔を見せてくれなかった。 家を訪ねようとも考えた。 今ごろ皆で食卓を囲んでいると思い、自分も混ざろうかと悩んだ。 でも、結局どれもできなかった。 また拒絶されたらと思うとできなかった。 これ以上嫌われたらと思うと怖くて身体が動かなかった。 会いにいけない。 電話もできない。 だからこうして部屋にひとりぼっち。 夕方が近い今、鈴葉はもう洋と千波のもとにいるだろう。 三人で楽しく過ごしているだろう。 私も……一緒がいい…… みんなと一緒にいたいよう…… 衣鈴はひとりぼっちで、『〈恋人〉《The Lovers》』の正位置を引くまでやめない星占いを続けていた。 もう一度ケータイが鳴った。 衣鈴はぼやけた視界を手でぬぐい、液晶を見つめる。 今度はメール。 洋からのメールだった。 『これから、みんなで星見をしないか?』 『よかったらヒバリ校に来て欲しい』 『屋上のカギを開けて欲しい』 『待ってるから』 衣鈴はケータイをぱたんと閉じる。 これからということは、夕飯前になる。 最近は陽が短いし、気温も低い。夕方から準備をして、暗くなったらすぐ行うほうがやりやすい。 あと三十分もすれば夕焼けが見える時間。 皆はもう学校にいるんだろうか。 先輩が……待ってる…… だけど。 行けない…… 心は望んでも身体が動かない。 行けないんだよう…… どうしても思ってしまうんだ。 もしかしたら屋上で私を責めるのかもしれない。 星見と言いつつ、千波さんを傷つけたことを責めるために呼び出したのかもしれない。 もう友達じゃないと突きつけるのかもしれない。 怖い。 傷つくのが怖い。 恐ろしくてたまらない。 同じ轍を踏んでしまった自分だから、これ以上は耐えられない。 誰かと関わることで傷つく可能性があるのなら、今後はずっとひとりでいい。 孤独はたしかに嫌だけど、孤独でいるしかできないのなら。 孤独はとても寂しいけれど、傷つくことも辛いから。 私は二度と友達を作らない。 恋人を作ることはない。 誰かを好きになることは、もう……。 ……お姉ちゃん 鈴葉の声が聞こえ、衣鈴は涙で濡れた顔を上げた。 ごめんなさい……ノックしても返事がなかったから…… 鈴葉が部屋に入ってきていた。 星見をするとメールにあった。鈴葉は家にいないと思っていたのに。 お姉ちゃん、洋さんから連絡あった……? 衣鈴は顔を向けることができない。 答えることもできない。 泣き顔を見られたくない。 口を開くと嗚咽になりそうで声が出せない。 今日ね、これからみんなで星見するんだよ…… お姉ちゃんにも来て欲しいって、みんな思ってるんだよ お姉ちゃんは、来ないの? 衣鈴はやはり答えられない。 雲雀ヶ崎からじゃ、南天の星空は見えないから、来ないの……? そうじゃない。 南天の星空なんかもう関係ない。 もっと大切なものができたから。 大切な人ができたから。 わたしは、南天の星空って覚えてない…… わたしも向こうに住んでたけど、赤ん坊のときだからほとんど覚えてない…… だから、お姉ちゃんの気持ちがわからない だけどね、わかるの…… わかることもあるの…… 家族が雲雀ヶ崎に引っ越してきたのは、わたしのせいってこと…… わたしのせいで、お姉ちゃんは、南天の星空を見上げることができなくなったってこと…… 南天の星空が、想い出になったんだってこと 衣鈴は声をかけようとした。かけなければならなかった。 だけど漏れそうになる涙声が邪魔をしてなかなか言葉が形作れない。 ごめんなさい…… ごめんなさい、お姉ちゃん…… す、鈴葉…… やっと出た声はかすれていて、その先を続けられない。 鈴葉は両目をごしごしとこすっていた。 いこう、お姉ちゃん 衣鈴に、せいいっぱいの笑顔を向けて言った。 みんなで雲雀ヶ崎の星空を見上げよう お姉ちゃんに、新しい想い出、作って欲しいから 鈴葉ちゃんに連れられた衣鈴が学校に姿を見せたのは、ちょうど陽がかたむいた頃だった。 衣鈴のカギがその道を開ける。 ヒバリ校の屋上は燃え上がるように赤かった。 俺たちの目が赤いからよけいそう感じていた。 俺と千波は寝不足から。 衣鈴の目は、きっと。 ………… 衣鈴の泣き腫らした目は俺たちの罪。 衣鈴 少しでも償うことができればと、そんな想いも込めながら。 今まで、ごめんな そばにいてあげられなくて、ごめんな 衣鈴は一言も話さない。 離れていって欲しくない。 俺のもとから離れて欲しくない。 手放そうなど一度も思った試しはない。 星見の望遠鏡を用意するのに、手間取ったんだ 衣鈴に、一番に使って欲しかったから 不格好だから、使いたくないって思うかもしれないけど それでも俺たちは、この望遠鏡で、雲雀ヶ崎の星空を見上げて欲しかったから 衣鈴に、俺たちが好きな星空を見上げて欲しかったから…… ……蒼ちゃん 俺の後ろにいた千波が前に出る。 修繕が終わった衣鈴の望遠鏡を抱きながら。 蒼ちゃんが千波に貸してくれた望遠鏡、返すね ちょっと形が変わっちゃったかもしれないけど…… 望遠鏡が壊れた日。 衣鈴が帰ってしまったあと、俺たちは屋上に散らばった望遠鏡のかけらを拾い集めた。 そして千波の部屋に持ち帰った。 つぎはぎだらけで、不格好かもしれないけど…… 俺たちは今日まで修繕作業を続けていた。 学校から帰ったあと、朝になるまで行っていた。 学校の昼休みにも家に戻って作業を進めた。 レンズだけは、難しくて……。すごく細かく粉々になっちゃってて…… ほかの部分と違って、くっつけられなくて…… つぎはぎだらけの望遠鏡は、レンズだけがはまっていない。 だけど、あとで買うからね 千波のコブタ貯金箱は空っぽだけど、お小遣いためて必ずレンズ買うからね それまで待っててくれると、うれしいな 千波はほほえんで、望遠鏡を衣鈴に差し出す。 衣鈴は受け取れずにいる。 呆然として立ち尽くすしかできないでいる。 望遠鏡の修繕作業。 千波が決意したことだった。 俺も最初は反対した。 その苦労がどれほどのものか想像がつくから反対した。 粉々になった望遠鏡のカケラをすべて拾い集めるのに、どれだけの労力がかかるのか。 それらをすべてつなぎ合わせるのに、どれだけの根気が必要か。 しかもつないだだけでは直らない。 望遠鏡はすでに根本的な部分が壊れている。星空が見上げられるようにはならない。 それを承知で、なのにやめようとしなかった千波の強さ。 自分のせいで壊れたわけじゃない、なのに一言も文句を言わなかった千波の優しさ。 つなぎ合わせた望遠鏡を渡しても、衣鈴が許してくれるかわからない、その不安と恐怖。 千波は、一度だってくじけなかった。 最後まで、衣鈴のことを信じていた。 言ってくれても……よかったのに…… 衣鈴から初めて声が届く。 直してるんだったら……私に言ってくれても…… 違うんだよ、蒼ちゃん これは直したんじゃないんだよ ただくっつけただけなんだよ くっつけるだけでも、千波は自信がなかったんだよ 千波はとっても不器用だから、うまくできるかわからなかったんだよ お兄ちゃんが手伝ってくれても、千波は足ひっぱるの得意だから、どうなるかわからなかったんだよ なのに、先に蒼ちゃんに教えちゃって、もしできなかったとしたら…… 蒼ちゃんを落胆させるだけだから 蒼ちゃんをまた傷つけるだけだから もう、傷つけたくないから 傷ついて欲しくないから…… どうしてっ…… どうして、そんなことが言えるの…… 傷つけたのは、私なのに…… 傷ついたのは千波さんなのに…… 千波さんは悪くないのに…… 悪いのは私なのに…… 良いとか悪いとか、千波にはよくわからないんだよ 考えてもよくわからないんだよ 千波は、考えるの苦手だから 難しいことわからないから 千波はやりたかったからやっただけなんだよ だってね、千波は蒼ちゃんのことが好きだから 好きだから、やっただけだったんだよ だからあ……どうして、そんなことが言えるの…… 蒼ちゃんが不思議がるの、千波にはわからないんだよ 蒼ちゃんは、鈴葉ちゃんのために雲雀ヶ崎に引っ越してきたんだよね だけど、蒼ちゃんは鈴葉ちゃんを恨んでないんだよね あ、当たり前じゃない…… 鈴葉を恨むわけ、ないじゃない…… だから、不思議なんだよ おんなじなのに 蒼ちゃんが鈴葉ちゃんを好きなように…… 千波も、蒼ちゃんが好きなんだよ 蒼ちゃんは、千波の友達だから それだけじゃないよ 蒼ちゃんは……お兄ちゃんの、恋人だから…… 千波もね、お兄ちゃんのこと好きだけど…… 蒼ちゃんも、お兄ちゃんのことが好きだから おんなじだから おんなじみたいで、ちょっと違うから 千波は、恋ってよくわからないけど 蒼ちゃんは、恋なんだって思うから だから、お兄ちゃんのこと、お願いね よろしくお願いします ふたりのこと、千波は見守っているからね いつまでも、見守っているからね 千波さん…… 私も、千波さんのこと、好き…… 千波さんと、友達でいたい…… ずっと友達だよ 最初から友達だよ 千波たちは、今だって友達なんだよ ありがとう…… 千波さんと友達になれて、よかった…… 千波も、よかったって思ってるよ 千波と友達になってくれてありがとう お兄ちゃんを好きになってくれてありがとう お兄ちゃんと恋人になってくれてありがとう だって、ふたりのおかげで、千波たちは友達だけじゃない…… 家族にだって、なれるんだから つぎはぎだらけの望遠鏡を覗くと、そこはもう暗闇ではなくなっていた。 寿命だったレンズを通さなくなった望遠鏡は、雲雀ヶ崎の星空をはっきりと映し出していた。 寝不足もあったので、このままふたりで眠ってしまいたかった。 それを話すと、衣鈴は泊まってもいいと答えた。 明日はまだ休日だ。鈴葉ちゃんもリビングで寝ていたので、ついでとのことだ。 シャワーを浴び、また部屋に戻ってきて。 パジャマ代わりになるような服がなかった衣鈴は、裸でベッドにもぐりこんだ。 絶対に見ないでくださいと釘は刺されていた。 ふたりでベッドに横になる。 衣鈴はきゅうっと抱きついてきた。 だから俺も抱き返した。 寒くないか? はい……あったかいから…… そうだな。あたたかい おたがいの肌を全身で感じている。 重なるふたりに距離はない。 親に連絡は? さっきしておきました……急だったので、怒られました なんか、悪いことしたな いえ……詩乃さんからも話してもらいましたし…… それに…… すりすりと頬ずりしてくる。 あったかいから……いいんです…… そっか はい…… 小動物だな き、嫌いです…… 来週からは、部活だぞ ……私は、昨日はちゃんと出ました。サボったのは先輩のほうです ……それは悪かったけど また、すりすりと頬ずり。 あったかいから……許します…… 小動物 き、嫌いですぅ…… 今度からは、毎日部活に出て欲しいんだ ………… 気が向かないとダメか? 衣鈴は伏し目がちにつぶやいた。 館長からもらった、屋上のカギ…… 私、ヒバリ校に返そうと思うんです そのためだったんじゃないかって、思うんです…… 私が、カギを手にした理由 私の手から、ヒバリ校に渡って…… 最後に、天クルに託される 天クルが、いつでも屋上を使用できるようになる たくさん活動ができるようになる 私自身も、決別するために 悪夢に捕らわれるんじゃない…… 私の道しるべとなる夢として そうなるように、天クルに出ようって思うんです 屋上の常時開放を目指そうって思うんです 雲雀ヶ崎の星空を見上げようって思うんです──── ガイドの人にランドクルーザーで連れられること小一時間。 俺たちは360度見渡す限りの地平線と荒野の土地に降り立った。 雄大な景色に目を見張る。 白茶けた平原と、赤茶けた大地。 乾いた空気。 想像以上に荒涼としている。 木々はどれも葉を落とし、灰色の樹皮はしわだらけ。 大きな鳥が鳴き声も上げず空高く舞っている。 俺たちは鎖伝いに登り始める。 鎖が途切れてしまっても勾配は激しかった。 俺は彼女の手を放さない。 やっとたどり着いた頂上は広々としていた。 見下ろす景色は砂漠と若干の群生、そして岩山。 遠くに原住民の集落が伸びている。 汗をかいたところでの山上の風は冷たく、彼女は俺に寄り添ってくる。 やがて陽が沈み始めると、頂きから徐々に橙色へと染まり、ついには山全体が燃え上がるように輝き出した。 けれどもそれはほとんど一瞬のうちに潰え、すぐに宵闇に飲み込まれる。 広大な単色が遠近感を狂わせる。 非現実的な光景、感覚。 遠くにあるものが近く、近くにあるものが遠くに。 まるで星の海。 俺たちはその海底に立ち、祝福の光を浴びている──── ───これが、エアーズロックの星空。 地球のヘソとも呼ばれる世界の中心。 朝焼けが絶景らしいのだが、俺たちは迷わず星空を眺められる時間帯を選んでいた。 これが、南天の星空…… オーロラが見える、想い出の星空…… 子供の頃は、いくら手を伸ばしても、決して届かなかったけど…… 今は、たとえ届かなくても、あの頃よりは近くなったと思います…… また、こうして見上げることができたんですから 俺はヒバリ校の三年生、衣鈴は二年生に上がっている。 俺にとってはヒバリ校最後の冬休みを利用して、ふたりでオーストラリア旅行にやって来た。 雲雀ヶ崎では今ごろホワイトクリスマスだろうが、こっちは夏まっただ中。 旅費はミルキーウェイのバイトで貯めた。 衣鈴が世話になっていた天文台にあいさつに行く前に、俺たちはここに寄ってみたのだった。 ちょうどオーロラを見ることができた俺たちは、運がいいんだろうな 日本ほどじゃなくても、とてもめずらしいですから 天文台じゃなくて、世界の中心で見たのは、私も初めてですから…… せっかくだから愛を叫んでみるか? ……死んだらいいと思います 俺が死んだら遺灰を撒いてくれるのか? ……そんな質問、嫌いです 衣鈴は俺の手を強く握る。 イジワルな先輩は、大嫌いです…… 雲雀ヶ崎では望めない星々と光の帯。 傍らには、つぎはぎだらけの望遠鏡。 天クルからプレゼントされたケースが守っている。 天体写真を撮れば、天クルのみんなも喜びそうだな コンクールにだって出られそうだ 去年は、結局出られませんでしたよね 屋上の常時開放は勝ち取ったんだけどな 日本でのオーロラも稀なのだ、雲雀ヶ崎でオーロラを観測できる日は一体いつになるだろう。 それは後代の天クルに任せることになりそうだ。 写真は、先輩に任せます…… 私は、望遠鏡で覗くだけで充分です そうするだけで、私は決して忘れません 天クルの後輩たちに、南天の星空を語って聞かせることができます 次期部長として、語り継がせることができます 南天の星空と、雲雀ヶ崎の星空の、両方とも だって私は、大好きな星空の下に、立っている…… これからも 先輩と、一緒に 好きだよ、衣鈴 はい…… 私も、先輩のことが好き…… だから、ぜったい、大丈夫 大好きな人と一緒に、大好きな星空を、これからも見上げることができるんですから 小河坂千波は乙女である。 兄の洋が聞いたら一笑に付しそうではあるが乙女でない女の子など世にいないというのが世間の考えるところである(たぶん)。 問題になるとすれば程度の差。 千波が世間と相対的にどの程度乙女なのかは本人にとってはあまり知ったことではないのだけれど。 乙女たる証明として、千波には宝物があった。 それはオルゴールだった。 オルゴールは千波愛用サイドボード2号に飾られている。 サイドボードを洋に無理を言ってでも買ってもらいたかった理由はこの宝物にあったのだ。 ……おはようございまふ 目が線になった千波は寝癖でぼさぼさの頭をそのままに、ペーパーオルゴールと呼ばれるそれを手に取った。 ハンドルを回し、ペーパータイプのオルゴールが唄い出すと、次第に千波の頭は覚醒に向かっていく。 平日は時間がないので無理なのだが、目覚ましをかける必要がない休日の寝起きにはよく聞いていた。 寝る前に聞くことも多かった。 この旋律は千波の心を落ち着かせる。 大きな安心に包んでくれる。 ぬくもりにたゆたう中で元気を育んでいける。 今日という一日を核弾頭のごとく前傾姿勢で過ごせるのは、このオルゴールによるところが大きかった。 一歩間違えたら自己嫌悪に負け、枯れ木が折れるようにくじけてしまいそうなこの心と境遇でも。 明るく元気にいつだって前向きに。 笑って生きていける。 大好きな兄に笑顔を見せることができる。 千波は、決して意識的ではないにしろ、そんな危ういバランスの下に自己を確立しているのだ。 千波ねむねむじゃないから起きるねー そうして千波は半分覚醒した頭をふらふらさせながら。 兄のために今日こそ朝食を作るため、階下のキッチンに降りていった。 ……って、なんでもう朝ご飯食べてるのお兄ちゃん!? 雲雀ヶ崎に引っ越してからすでに定番になっている我が愚妹の朝のあいさつだった。 これは朝ご飯じゃなくて昼ご飯だ。おまえ、休日だからって寝過ぎなんだよ 寝過ぎだからってなんでお兄ちゃんがご飯作ってるの! 作らないと飢えるだろ だからこそ千波が作ってあげるんだよ! それも飢えるだろ 飢えないよ!? 真っ当な舌を持つ俺を愚弄してるのか? 千波の厚意がいつもぐりぐりで打ち消されてるんだけど!? 相変わらず寝起きからテンションが高いやつ。 千波は朝に弱いので、寝ぼけた頭を切り替えるのに部屋で準備してから降りてくるのかもしれない。 ほとんど眠っている状態でキッチンに入ってくることもあるのだが。 そんなときはおとなしいが、料理を手伝おうとするところだけは変わらない。 そういうわけで、おまえは金輪際キッチンに立たなくていい どういうわけか千波にはさっぱりなんだけど!? そもそもなんで料理なんかしたいんだよ 何度も言ってるじゃないっ、千波はお兄ちゃんのお世話したいの! ……保険金目当てか? 冗談だとしても深刻な表情で言って欲しくなかったよお兄ちゃん!? おまえはまず自分を世話するところから始めるべきだろ それをクリアしたからステップアップしたんだよっ ぜんぜんクリアしてないだろ したんだよっ、千波はもう子供じゃないからねっ バカ、子供に失礼だろ? どれだけ千波のこと下に見てるのお兄ちゃん!? ほら千波が好きなマヨネーズだぞ~ お兄ちゃんほど失礼な人を千波はいまだかつて見たことないよ!? あらあらダメよ洋ちゃん、千波ちゃんいじめちゃ 詩乃さんも起きてきた。 今すぐご飯作るからね 目が線の詩乃さんがハタキでまな板をぱたぱたする。 詩乃さんっ、だったら千波も手伝いますねっ 千波も一緒にぱたぱたする。 俺が食べ終える頃にはまな板はぴかぴかになっていた。 正常に戻った詩乃さんと千波が遅い昼食を取っている間に、俺は出かける準備をする。 お兄ちゃん、出かけるの? ああ……って、おまえ食べてたんじゃなかったのか もう食べ終わったよっ、千波はたいてい三口で食事を終えることが可能だからねっ おかず一品につき一口という計算だ。 明日は三口以上食べられる朝食を千波が作ってあげるからねっ おまえはもっと早起きしろ、料理云々はそれからだ じゃあ千波が早起きしたら作らせてくれるんだねっ そうだな 千波はきょとんとする。 お兄ちゃんが許してくれるなんてめずらしいねっ まあ、おまえも母さんと約束したって言ったもんな。早寝早起きするって だから早起きについてとやかく言うつもりはない。 料理の約束をすれば早起きしてくれるなら、それもやぶさかではない。 ぜったい明日はお兄ちゃんより早く起きるからねっ そして本当に早起きされたら覚悟が必要になるわけだ。 期待しないで待ってるから うんっ じゃ、出かけてくる どこ行くの? ミルキーウェイだ もしかしてバイト? まあな 明日歩と約束しているのだ。 夕飯前には戻るから じゃあ千波も行くね ……なんでだよ 千波もバイトしたいから 夏休みの宿題はどうしたんだ? どうもしてないよっ どうもしてくれ頼むから でもでも千波はヒバリ校に転入してから宿題忘れて先生に怒られたことないんだよっ そりゃ早々に先生が諦めたからだろ そんなことないよっ、いつも提出日によくできましたって誉められてるよっ 誰の写してたんだ? 写してないよっ、妖精さんが手伝ってくれてたんだよっ この指何本に見える? 千波は正常だよお兄ちゃん!? 妖精さんというあだ名の新しい友達だろうか。 千波が宿題やってると妖精さんが現れることがあるんだよっ、たいてい夜遅い時間だけどねっ つーかおまえ、部屋で宿題やってたことあるのか 千波はこれでも陰で努力してるんだよっ、確率的には低いけどねっ 気が向いたら努力するようだ。 そんな千波だからきっと妖精さんが手伝ってくれるんだよっ、妖精さんはどうせ夢ですからって言って千波が寝てる間に消えちゃうけどねっ 要するに妖精さんは夢の産物なんだろう。 まあ努力ゼロじゃないだけマシか 料理もそろそろ努力すべきだって気づいたんだよっ、だから千波にも朝ご飯作らせてねっ 勉強と違いその努力は周囲に被害が出るのが難点だった。 ケータイの時計を見る。そろそろ時間だ。 じゃ、バイトいってくるから うん。いってきまーす! ……じゃなくて、いってらっしゃいだろ 千波は靴を履こうとする。 千波も一緒にバイトするねっ しなくていい 明日歩先輩と一緒にお兄ちゃんにご奉仕するねっ 妙な言い方するな でもでも千波は新米メイドだから上級プレイは許してねっ 家でおとなしくしてろっていう放置プレイは上級か? 最上級すぎて千波には耐えられないよっ 自信を持て、おまえならできるさ 千波の靴ひも傘立てに縛らないでお兄ちゃん!? じゃあ俺はバイトいってくるから 洋ちゃん、お出かけ? ドキッとする。 ……今の会話、詩乃さんに聞かれた? ごめんなさいね。お出かけの前に、ちょっといいかしら 聞かれていないようでホッとする。 俺は詩乃さんに内緒でバイトをしている。知ったら止められそうだからだ。 それでもバイトを続けているのは、食費のため。 日頃世話になっている詩乃さんに感謝するという意味で、かたちとして渡したいからだ。 俺に用なんですか? うん。それと、千波ちゃんに そう言って詩乃さんは封筒を差し出す。 ……この展開には覚えがある。 夏祭りも終わったし、またお小遣いあげるわね わーい! ……いや待ってください お兄ちゃん見て見てっ、千波の封筒から福沢諭吉さんが三人も出てきたよっ 没収 毎度ながら鬼だよこの人!? 詩乃さん、返します 千波ちゃん、どうぞ お兄ちゃんのと合わせて福沢諭吉さんが八人に増殖したよっ 没収 鬼だよ!? 詩乃さん、返します 千波ちゃん、どうぞ わーい! 没収 落ち込んだりよろこんだり千波とても大変だよ!? 詩乃さん。前にもらったばかりですから 詩乃さんに封筒を押しつける。 私があげたいから渡すのよ。それに、洋ちゃんは無駄遣いしないって知ってるから 詩乃さんはまた封筒を千波に渡す。 千波ちゃんも無駄遣いしないわよね? はい! 大切に使いますから! 多いと思ったら貯金してね 詩乃さんは俺に反論の隙を与えず、戻っていった。 千波の生涯賃金の二万がお祭りでなくなったところだからちょうどよかったよお兄ちゃんっ、これで第二の人生設計を立てることも可能だよっ 没収 千波の人生設計が!? ゾンビなんだから我慢しなきゃダメだろ それは差別だよお兄ちゃんっ、人間だってゾンビだって宇宙人だってお金の下で平等に生きる権利があるんだよっ 黙れポンコツゾンビ いったいどんなゾンビなの!? 祭りで二万も使うのがそもそも悪いんだ。詩乃さんに無駄遣いするなって言われたろ だってすぐなくなっちゃうんだもんっ、千波の消費エネルギーは二万ぽっちじゃすぐ空になるんだもん! 黙れポンコツ核弾頭 燃費が悪いって言いたいのお兄ちゃん!? とにかく今月の小遣いはもう渡したんだ。来月になるまでこの金は俺があずかっておく それじゃ千波はどうやって生きればいいの! 自分の尾を食べるウロボロスの輪というのがあってだな 無限の存在になるのは千波にはまだ荷が重いよ!? じゃあ俺はバイトいってくるから 千波は「あっ」と口を丸くする。 とてつもない名案を思いついたよお兄ちゃん! 黙れポンコツメイド 千波の案を見通すお兄ちゃんがとてつもなく恐ろしくてたまらないよ!? 金がないからってバイトしなくていいから それじゃ千波はどうやって生きればいいの! 展望台に霞でも生えてるだろ 仙人になるのも千波には荷が重いよ!? じゃあいってきます いってきまーす! あくまでついてこようとする千波だった。 先輩っ、千波ひとりでユニフォーム着られましたっ よくできました~。千波ちゃん、似合ってるよ 合格だ そしてバイトをしたいと言い出す千波を、従業員の皆様方はなんの疑問も持たず了承していた。 ……最悪だ 見て見てお兄ちゃんっ、おひさしぶりの千波のメイドさんルックだよっ、萌えるでしょ悶えるでしょお兄ちゃんが望むならこの姿でお子さまご遠慮のご奉仕だってっ もう冥土に旅立ってくれ ベタすぎてぐりぐりされなくても痛いよお兄ちゃん!? 洋ちゃん、かわいい千波ちゃん見たから照れ隠ししてるんだね ……そんなことない でもお兄ちゃん生態記録によると、お兄ちゃんがベタな冗談言うときは萌えコスに興奮して…… 破り捨てる。 二冊目もお亡くなりに!? 三冊目はどこだ、ああ? お兄ちゃんが千波の身体まさぐってるっ、衆人環視の中で無理やりメイド服はぎ取ろうとしてるっ、あたかも鬼畜主人公のように! 仲の良い兄妹だね 洋ちゃんが千波ちゃんのバイトに一番喜んでるみたい ……なぜそんなふうに映るんだ? 千波、バカなことやってないで仕事するんならするぞ バカなのはお兄ちゃんだよっ、いいよもうっ、どうせその記録は観賞用だもんっ、保管用はべつにあるもんっ おそらく残っている保管用と妄想用を破り捨てるまで俺の戦いは終わらない。 あ、お客さま来たよ。あたしが接客するから、千波ちゃんはテーブルの準備…… いらっしゃいませー! 千波はお客に向かってすっ飛んでいく。 ちょ、千波…… いいよ、あたしも行くから。洋ちゃん、代わりにテーブルよろしくね 早くも騒動の予感がする。 本日はご来店ありがとうございまーす! 来店したお客に千波が元気よくあいさつする。 お客さまは何名様ですか、だよ 後ろで明日歩がこっそり教えている。 お客さまは何名様ですかー! 大声の応酬にお客は面食らったようだったが、相手が笑顔だったからかすぐ態度をやわらかくして答えてくれた。 何名かわかったら空いてるテーブルにご案内してね 何名かわかったら空いてるテーブルにご案内してねー! そのまま復唱するなバカっ そのまま復唱するなバカー! ……おまえちょっと来い おまえちょっと来いーって、千波の髪ひっぱらないでお兄ちゃん!? あ、あはは……。すみませんお客さま、テーブルまでご案内いたします 明日歩が引き継いでくれたおかげで何事もなくすんだ。 なにするんだよっ、千波が接客してたのにっ あれのどこが接客だっ、ただ俺たちの言葉繰り返してただけだろっ それだけじゃないよっ、ちゃんとスマイルしてたんだからっ いいからおまえは後ろで待機してろ、あとは俺たちがやっとくから 新しいお客さまだっ、いらっしゃいませー! 止める間もなく千波はぴゅーっと飛んでいく。 本日はご来店ありがとうございまーす! 明日歩はさっきのお客の対応中だ。憂鬱だが俺がフォローするしかない。 お客さまは何名様ですか、だ お客さまは何名様ですか、だー! おまえはどこぞのレスラーかっ おまえはどこぞのレスラーかー! ……マスター、ちょっとここお願いします 了解。それにしても元気があっていいね、合格だ その採点はあまりに甘すぎます。 千波を奥にひっぱっていく。 お兄ちゃんお兄ちゃんっ、マスターが千波のこと合格だってっ、接客も満点だってっ ……だったらもう充分だろ、今日のバイトは終わりにしとけ やだやだ千波はお金ためなきゃなんだもんっ、じゃないと今月生きていけないんだもん! なら俺が新しいバイト先に送ってやる ぐりぐりして冥土に送ろうとしないでお兄ちゃん!? ここでバイト代もらえるにしろ、早くても来月なんだ。即金じゃないんだよ ……そうなの? そういうもんなんだ。だからもうやめとけ これ以上店に迷惑はかけられない。なにより千波のバイトは詩乃さんも許しはしない。 千波はしょんぼりしていた。 小遣いは、今日帰ったら渡すから これで機嫌も直るだろう。 ……ううん だが千波は首を振った。 お兄ちゃんが働いてるのに、千波だけなにもしないなんて…… 迷惑だけかけてるなんて…… ……らしくないことを言っている。 俺がバイトしてるのは、べつにおまえが気にすることじゃないだろ 千波は唇を噛む。 どこか悔しそうに。 俺の言葉に反論したくてもできない、そんな感じ。 いつも脊髄反射で言葉を返す千波にしてはめずらしい。 だけど、初めてというわけでもない。 この雲雀ヶ崎に引っ越して、こんな千波を見かける回数も多くなっている。 それがなにを意味するかはわからなかった。 千波ちゃん お客の応対が終わったらしい明日歩が寄ってくる。 接客は、今度ちゃんと教えるから。それから一緒にがんばろ? あ……でも…… だから、今日はメニューを運んでくれるかな? 千波は目をぱちぱちさせる。 今からあたしが、テーブルのお客さまのとこに運んでいくから。よく見てるんだよ 厨房に向かう明日歩に促され、千波はついていく。 千波の表情には笑顔が戻っていた。 ……助かったよ、明日歩 惨事の心配は尽きないわけだが。 お待たせしましたー! こちらアストライアーの天秤になりまーす! 明日歩を参考にした千波が配膳係に精を出す。 オーダーを取ることもまだできない、だからマスターが用意した料理を運ぶだけ。 千波は笑顔で務めていた。 空いている時間は俺と一緒にテーブルを拭いたり、椅子を整えたり。 仕事は多くないのにちょこちょことよく動いていた。 エプロンもひらひらと動いていた。 短めのフレアスカートもひらひらと動いていた。 笑顔がいいね、合格だ マスター、あなたが見ていたのは本当に笑顔だけですか。 そのとき千波が、運んでいたトレーからおしぼりを落っことした。 あっ…… 千波は腰をかがめて床に手を伸ばす。 っと 持っていたトレーがかたむいたので慌てて支える。 あ、お兄ちゃん 気をつけろ。トレーに料理載ってるんだから うんっ、ありがとねっ 俺が新しいおしぼり持ってくるから、おまえは先に運んどけ うんっ 惨事を未然に防げてホッとする。 うるわしい兄妹愛だね ……マスター、暇ならおしぼり持ってきてくださいよ おっと、次のメニューを作らないと メイド萌えのマスターはにこにこと戻っていく。 お待たせしましたー! こちらファエトンの馬車になりまーす! メニューを一品ずつテーブルに置いていく。 こぼすんじゃないかと冷や冷やしていたが、無事に終えたようだ。 ご注文は以上でよろしかったでしょうかー! 若い男性客ふたりがうなずくと、千波は一礼して回れ右する。 その際にユニフォームがテーブルに触れたのか、載っていた伝票が床に落ちた。 あっ 千波はかがんで拾おうとする。 短めのフレアスカートがふわりと上がる。 見えそうになる。 客の頭が下に下がる。 げしっ! 申し訳ございませんお客さま、伝票はここに置いておきますので 素早く拾ってテーブルに載せ直した。 って、なんで千波を蹴っ飛ばすのお兄ちゃん!? それではごゆっくり 千波を奥にひっぱっていく。 男性客ふたりはぽかんとしていた。 ……洋ちゃん。千波ちゃんを助けたんだと思うけど、お客さまがびっくりしてたよ 明日歩が苦笑いしていた。 客を蹴るわけにはいかないからな それで代わりに千波を蹴るのはどういうわけなの!? うるさい。おまえは早く厨房に戻って次のメニューもらってこい ……お兄ちゃんのバカ 千波は不満そうに歩いていった。 明日歩。こういうこと、よくあるのか? ううん。この制服目当てのお客さまもいるみたいだけど、ぜんぜん少ないから 明日歩は大丈夫なのか? 気をつけてるけど、変なお客さまが来たら助けてね? ……それよりも、マスターに言って制服変えてもらったほうがいいんじゃないか? もうトレードマークみたいになっちゃってるし、だから洋ちゃんが助けてね? そんなうれしそうに言われても。 あたしも千波ちゃんに負けないようにがんばらなきゃ ……客に見られそうになることにがんばるんじゃないよな。 俺はため息をついて、新しいおしぼりを届けにいく。 お待たせしましたー! こちらオリオンのこん棒になりまーす! 向こうでは千波が元気はつらつで仕事を再開している。 俺は冷や冷やしながら見守っている。 もっと千波ちゃんを信用してもいいんじゃないかい? マスターは日頃の千波を見ていないからそんなことが言えるんです 僕にはキミが過保護に見えるけどね それもマスターが千波をよく知らないからです マスターは肩をすくめる。 千波ちゃんはずっとここで働いてくれるのかい? ……できれば今日限りにしたいんですけど 千波ちゃん次第か 千波がやりたいって言ったら採用するんですか? そりゃあね マスターは満足そうに、 だって彼女は合格だからね その基準が不純な気がするのは気のせいじゃないだろう。 彼女の笑顔は作り物じゃないから、合格と言ったのさ ………… そういう意味でキミも合格だったんだよ ……俺のは営業スマイルですよ 仕事に対する誠実さが本物だったんだよ そう言ってマスターは厨房に戻っていった。 ご注文は以上でよろしかったでしょうかー! 元気のよすぎる声が店内に響き渡る。 千波の笑顔は作り物じゃない。 無理やりの笑顔ではないとマスターは言った。 ……本当に? なんで疑うんだ、俺は 危なっかしく仕事を進める千波を横目に、俺も自分の仕事をこなしていった。 そうして夕方が近くなった頃、見知った客が来店した。 いらっしゃいませ……って、なんだ飛鳥くんじゃない なんだはねえだろ、れっきとした客だぜ めずらしいな。学校にでも用だったのか? いや、だったら制服になるだろ。今日は商店街に買い物にな カメラ見に来たんだ? まあな、つーか早く座らせてくれ。歩き疲れて寄ったんだから はいはい。それじゃ、一名様ご案内~ 明日歩がテーブルに案内すると、千波が水をトレーに載せて運んでくる。 あっ、オカルト部長だっ ……あれ、千波ちゃんもバイト始めたのか? はいっ、お客さまにご奉仕中ですっ、オカルト部長もお客さまならご奉仕しますっ げしっ! お兄ちゃんが千波のお尻蹴った!? 妙なこと言うからだ ……嫉妬でちゅか? げしげしげしっ! 千波のお尻を三段蹴りに!? 洋ちゃん、ダメだよ暴力は 相変わらず過保護なんだな 躾けてると言ってくれ 明日歩、話し込むのは仕事が終わってから。オーダー取るの忘れないように ……なんであたしだけ注意されるんだろ 飛鳥が注文すると、明日歩は渋々と伝えに向かう。 千波、おまえも配膳係 言われなくてもわかってるよっ 千波もぱたぱたと立ち去った。 小河坂は仕事いいのかよ おまえが帰ったらテーブルの後片付けだ ほかにちょうど客はいない。小休憩ということで俺も座る。 新しいカメラでも買うのか? 海水浴で散々壊されたからな。まあ買い換え時ってのもあったし、まずは最新モデルを見にな UFO写真を撮るためか UFOだけじゃねえぜ。都市伝説の死神が現れたらそいつも激写だ 都市伝説はなにか進展あったか? な~んも。来週からまた学校で聞き込む予定だ 千波も連れていくのか? 千波ちゃんがいいって言うならな バイトをさせるよりは、オカ研の活動に参加させたほうがいろいろと都合がいいかもしれない。 なにかわかったら教えてくれよ べつにいいけど、おまえもなんだかんだで都市伝説が気になってんだな 否定はしない 都市伝説の資料が集まったら、そのうち資料展でも開くから見に来てくれ そんなのどこでできるんだ 秋になれば学園祭があるからな。オカ研の出し物ってやつだ そのときは天クルもなにか出し物をするんだろうか。 サークルでも出し物ってできるのか 正式な部と違って場所取りが難しいけどな。まあ今年が無理でも来年があるし 学園祭でも千波ちゃんを借りるからな まあ、ほどほどにな お待たせしましたー! こちらアイスコーヒーでーす! お、サンキュ 千波のトレーには四人分が載っていた。 洋ちゃん、お仕事サボってる やることあるなら手伝うぞ ううん、あたしも休憩するから。千波ちゃんもお疲れさま~ お疲れさまでーす! 仕事も落ち着いたようで、みんなでテーブルを囲む。四人分のアイスコーヒーは休憩用らしい。 マスターもカウンターで新聞を読み出していた。 飛鳥くん、今度の肝試しはいつになるの? 肝試しじゃなくて夜の張り込みな。今さらどっちでもいいけどよ で、いつやるの? まだなんも収穫ねえし、わからねえよ 次こそは虫取り網で宇宙人を捕まえます! もしやるとしたら千波より先に俺に言えよ わかったって。なんにしろ、情報がないことにはな 学校で聞き込みとかやってたの? いや、お盆の間はどこも部活やってなかったからな。でも来週から再開だ 千波も応援してますねっ 千波ちゃん、聞き込みは来られないのか? すみませんっ、昼間の千波はミルキーウェイのウェイトレスなんで難しそうですっ バイトする気満々だった。 だけど夜の千波はオカ研の一員ですからっ、お声がかかれば虫取り網と一緒に馳せ参じますっ オッケ、んじゃ張り込みのときはよろしく頼むぜ 任せてください! 洋ちゃん、複雑な顔してる ……昼のバイトと夜の張り込みを考えるとな 千波が無茶をしないように、やっぱり俺が監視するしかないのか。 千波のバイト、明日歩はいいのか? もちろん。ていうか反対してるの洋ちゃんだけだよ ……核弾頭が爆発しても知らないからな 大丈夫だよ。千波ちゃんが失敗しても、洋ちゃんがフォローしてくれるから それは大丈夫と言っていいのか。 それに、千波ちゃんって接客業に向いてると思うしね ……そうか? うん。千波ちゃんがいるとみんな笑顔になるから いつだったか、詩乃さんが言っていた。 核弾頭の千波は、冷戦というと言葉は悪いが、みんなを仲良くさせる力を持っていると。 ま、異論はねえな。聞き込みのときも、千波ちゃんが相手だと向こうは警戒しねえし 人見知りだった鈴葉ちゃんも千波には簡単に懐いている。 蒼さんだって当初に比べたら態度が軟化している。 明日歩先輩っ、期待に応えられるようがんばりますから今後ともよろしくお願いしますっ あはは、こちらこそよろしくね~ こいつは本当、友達作りの天才だ。 それは努力に裏付けられた長所だと知っているから、俺も認めるしかないんだろう。 お兄ちゃんっ、忘れてそうだから今のうちに言っておくけど帰ったらお小遣いよろしくねっ おまえいらないって言っただろ 事情が変わったんだよっ、肝試しのために宇宙人捕獲グッズをそろえないといけないからねっ、虫取り網だけじゃ心許ないからこれは決定事項で変更不可なんだよっ その前に夏休みの宿題を終わらせろ、そうしたらあげてもいい そっちは妖精さんに任せるつもりだから千波の管轄外だよっ、だからお小遣いちょうだいねっ せっかくの長所も余りある短所に埋没しているのが我が愚妹なのだった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 千波が騒々しくダイニングに飛び込んでくる。 今朝は早起きできたよお兄ちゃんっ、約束どおり千波に朝食…… おそよう もう食後のコーヒー飲んでる!? さて食器でも洗うかな ちょっと待ってよっ、昨日千波と約束したじゃないっ、早起きできたら千波に朝食作らせてくれるって! 千波にしては早起きだったけどな、それでも平日だったら遅刻ぎりぎりの時間だ 今日は日曜なんだからまけて欲しいよお兄ちゃん! ダメだ、早起きっていうからには俺より早起きしてみせろ お兄ちゃん、いつも何時に起きてるの? 六時 千波には未知の時間だよお兄ちゃん!? 世間一般の学生なら普通の起床時間だ。電車組だったらもっと早いんだからな まだ夏休みなんだからまけて欲しいよお兄ちゃん! ダメだ、そんなこと言ってたら学校が始まったとたんに寝坊するに決まってる もっと千波を信用して欲しいよお兄ちゃん! 信用して欲しかったら一度でいいから俺より早く起きてみせろ じゃあお兄ちゃんより早く起きたら千波に作らせてくれるんだねっ 言っとくけど徹夜して早く起きたように見せかけてもバレバレだからな、おまえ目が線になるから そんなことしないよっ、千波は一日十時間は寝ないと正常に稼働しないからねっ バカ、おまえは十時間寝ても異常だろ? 励ますようにけなされるとショックが二倍なんだけど!? とりあえずおまえはさくっと朝飯食べろ、テーブルが片付かないから ぜったいお兄ちゃんより早起きしてみせるからね! わかったわかった 憤然と席に着く千波を尻目に、食器を流しに運んでいった。 お待たせしましたー! こちらプレアデスの七人姉妹になりまーす! 今日も今日とて千波のバイトが始まった。 また胃が痛い思いをしそうで憂鬱である。 洋ちゃん、どんよりオーラが出てるよ。千波ちゃんを見習ってスマイルスマイル 千波の笑顔がまぶしすぎてぐりぐりしたい衝動にかられる。 ……今度はどす黒いオーラが出てるよ まあ、千波が配膳係に徹してるだけマシか 慣れてきたら、接客のほうもお願いする予定だよ ……どうしてそう核弾頭に着火したがるんだ そんなこと思ってるの洋ちゃんだけだよ。もっと千波ちゃんを信用してあげればいいのに これまでの経験が俺にささやきかけるんだよ。あいつは悪魔の手を持つ少女だって もう。お兄ちゃんなんだから ……ずっと気になってたんだけど、なんでいつも俺の言動を拡大解釈するんだ 誰が見たって洋ちゃんは過保護だよ あるわけがない あはは、無理に誤魔化してる 紳士に言ってももはや信じてくれない。 あ、お客さま来ちゃった。洋ちゃん、またあとでね ……わかった。仕事がんばれ 洋ちゃんもね。いつまでも千波ちゃんばかり見てちゃダメだよ 明日歩は接客に向かっていく。 千波は満面の笑顔をくずさず、ちょこまかとフロアを行き来している。 一生懸命なのは認めないといけない。 ……信用しろ、か 俺も自分の仕事に専念しよう。千波から目を離して。 耳は離さないようにして。 千波ちゃん、ウェイトレスも板についてきたね~ しばらくすると自分の接客は終わったのか、明日歩が話しかけていた。 はいっ、もうカンペキです! 一番大切な笑顔は、千波ちゃんなら心配ないし。そろそろ接客もお願いしてみようかな~ 耳を離さないでいたらとんでもない会話が飛び込む。 待った待ったっ、慣れてきたらお願いするって言ってただろっ だから、千波ちゃんもう慣れたかなって 慣れるどころかとっくにマスターレベルです! なにのどこをマスターしたのか言ってみろ、ああ? 〈ほっへひっはられへはらひへはいほー!〉《ほっぺひっぱられてたら言えないよー》 明日歩、またお客さんだよ あ、はーい! 千波ちゃん、ランチタイムが終わったら接客のやり方教えてあげるね~ ありがとうございまーす! ……耳だけじゃない、やっぱり目も離せない。 千波はマスターと一緒に厨房に戻っていく。 俺も持ち場に戻ろうとしたとき、聞いた声が響いてくる。 やあ。お務めご苦労さま わ、岡泉先輩 昨日は飛鳥で、今日は岡泉先輩の来店だ。 商店街でお買い物ですか? いや、我に返ったらここにいたんだ ……なんですかそれ たまにあるんだよ。夜眠って目が覚めると往来を歩いていることが ただの夢遊病の類だから心配はしていないんだけどね いや、激しく心配なんですが パジャマのままだったら僕も困るけど、ちゃんと着替えてるし問題ないよ 問題点はそこじゃないだろう。 夕べは死兆星がちらついたからね、ある程度予期していた。〈初体験〉《はつたいけん》のときは僕も驚いたけど今では慣れたものさ さわやかに笑える先輩は尊敬に値する人物である。 と、とりあえず案内しますね。一名様で~す ちゃんと財布も所持しているし、散歩のあとの腹ごしらえに僕も満足さ 俺たちの気持ちをよそに岡泉先輩はテーブルに着く。 いらっしゃいませー! お水でーす! 早速千波が水を運んでくる。 おや、キミは小河坂クンの妹クンだったね はいっ、天クルでお兄ちゃんがお世話になってますっ お兄さんと一緒にバイトを始めたんだね。笑顔がいいし元気もいいし、接客業にぴったりだと思うよ はいっ、千波も常々そう思ってたところです! みんなで持ち上げるせいでバイトを反対できない状況に陥っている。 明日歩が注文を取ると、ウェイトレスふたり組はマスターのところに戻っていく。 小河坂クンもバイトを続けているみたいだね はい。当分はやってると思います キミは先生の許可を得ているんだよね。妹クンは許可はもらったのかい? ……もらってないですね ここはヒバリ校に近いから、バレやすいよ。怒られる前に申告することを勧めるけど むしろバレて辞めさせて欲しいくらいですよ なるほど。キミはバイトに反対なんだね 言ってから、岡泉先輩はバッグから荷物を出した。 バイトの許可をもらいたいなら、ヒバリ校に寄るついでに僕が言っておいてもよかったんだけど 岡泉先輩が取り出したのは、いつか部室で見たカレイドオルゴールだった。 これ、たしか壊れてるって言ってたやつですよね そうだよ。天文部の元顧問に再度修理を頼んでいたものが、登校日に返ってきたんだけど なにか問題あったんですか? まあね。やっぱり音が鳴らないんだ 底のネジを巻いてみるが、ビーズの載った円盤が回転するだけでメロディは聞こえてこない。 修理が難しいってことですか? そうみたいだね。元顧問がどこの業者に修理をお願いしたのかはわからないけど 古いものなんですよね 先代の天文部が所持していたものだからね。聞いた話だと十五年は経っているみたいだよ それは結構な古さだ。 だからこそ、修理できるものならしてやりたい 屋上の天体望遠鏡が破棄された今、数少ない天文部の伝統のひとつだからね どうやって直すんですか? 僕が直接、店に頼んでみようと思ってね。雲雀ヶ崎にはオルゴール堂も建っているから カレイドオルゴールは、有名とは言い難いけど土産品のひとつになっているんだよ ……オルゴール堂なんて、この商店街にはないですよね 運河沿いに建っているよ。このあたりだって探せばあるんじゃないかな ただ、カレイドオルゴールを扱っているかはわからないけどね 俺が部室で初めてカレイドオルゴールを見たとき、一緒にいた明日歩も同じく初めてだった。 有名じゃない土産品というのは本当なんだろう。 まあ、修理の報告にこれから学校に寄ってみるつもりなんだ 円盤の回転が止む。 僕は今日、我に返ったらこのオルゴールも手にしていた。僕の手で修理を頼むのはおそらく神の啓示だと思ってね 死兆星の啓示じゃなかろうか。 岡泉先輩はもう一度、ネジを巻いた。 壊れているとは言っても、万華鏡の部分は生きている。また覗いてみるかい? 回転皿に散りばめられたビーズを、円筒のレンズから覗くことで、このオルゴールは万華鏡としても機能する。 だからカレイドオルゴールと名付けられている。 完全に壊れているわけじゃないし、直せる店があるかもしれない。見つかるまで回ってみるつもりだよ 先輩、これからすぐに持っていくんですか? 許可がもらえたらね。どうしてだい? 万華鏡を見せたいやつがいるんです 俺は約束しているのだ。 メアに、万華鏡を見せること。 メアは見たことがないと言っていた。見てみたいとも言っていた。 向こうは覚えているか不明だが。 少しだけ借りることはできないですか? 明日には返しますから 今夜メアに会えるのなら、そのときに見せてやることができるだろう。 問題ないよ。これから許可だけはもらってくるけど、修理自体は急ぎというわけじゃないからね ありがとうございます 明日急いで返す必要もないから 岡泉先輩からオルゴールを受け取る。 見せたい相手っていうのは誰なんだい? メアです。前に約束してたんですよ 彼女、カレイドオルゴールに興味があるのかい? いえ、万華鏡自体、見たことがないみたいで 岡泉先輩は楽しげに笑んだ。 だったら、不可思議な模様に驚くんじゃないかな よろこんでくれるといいんですけど そういうのをよろこぶ年頃というには、メアクンはもう大人だろうけど 子供の部分も多いですけどね 背伸びをしたい年頃なのかな。彼女が何才かは知らないけど、ときおり無理に達観したようなことを言うよね それがなんていうか、危うく見えることもある 俺と似たような感想だ。 小河坂クン、仕事はいいのかい? 明日歩クンたちは働いてるみたいだけど 話し込んでいる間に客が増えたようで、ふたりは応対に追われていた。 お待たせしましたー! こちらカシオペヤの椅子になりまーす! 千波の元気あり余る声も響いている。 千波ちゃん、それは岡泉先輩のメニューだよ あっ……そうでした ほかのテーブルに間違って配っていた。 申し訳ございません、お客さま すみませんでしたー! あろうことか笑顔で謝っている。 奥にひっぱっていこうとしたが、客のほうも笑って許してくれていた。 彼女の笑顔は周囲を穏やかにする力があるね だがそれ以外の振る舞いが世界平和に貢献した試しはない。 千波がこちらに向かってきたので、俺は席を立つ。 すれ違いざま、千波の頭をぽんとたたいてやった。 あれっ、お兄ちゃん…… 俺はオルゴールを置きに従業員室に向かう。 そのオルゴールって…… 千波ちゃん、岡泉先輩が待ってるよ あっ、はいっ、先輩お待たせしましたー! ありがとう。キミは優秀なウェイトレスだと思うよ ありがとうございまーす! ランチタイムが終わると明日歩が千波に接客を教え出した。 その頃には客足が少なかったため、千波が大惨事を起こすことはなかった。 小惨事は多々あっても気持ちよく謝る千波を前に、被害が広がることもなかった。 一安心といえば一安心。 明日からもまだ続くことを思うと気分は重くなるにしろ。 バイトの社会経験が千波の役に立つのなら、兄としてはよろこぶべきかもしれない。 見つけたぞ、メア ……見つかった 夜を待って展望台を訪れ、毎度のかくれんぼを終える。 メアがいてくれてホッと安堵。 こさめさんの一件があり、探しても見つからない覚悟もしていた。 こさめさんのことは、悪かったな ……べつに こさめさん、もう二度とメアを襲わないって誓ってくれたよ メアはぶすっとしている。 俺もそう簡単に許してくれるとは思っていない。 かー坊はどうだ? ……元気。そのあたりを飛び回ってるし 薙刀でたたかれてもケガはなかったようで、こちらも安堵する。 ほんと、悪かったな メアはぶすっとしたままだ。 それでな、今夜はメアにお詫びしたいと思って来たんだ ……べつに、洋くんが悪いわけじゃ いいから、これ受け取ってくれ 俺は持参したものを差し出す。 ……それ、なに? カレイドオルゴール マーメイドール? ……人魚の人形じゃないぞ。カレイドオルゴールって言って、要するに万華鏡だ オルゴールの部分は壊れているのでこれで合っている。 万華鏡…… ああ。約束したもんな、見せるって 星空みたいにキレイなのよね そうだ。早速見てみるか? ……べつに と言いつつ、すすっと寄ってくる。 今、ネジを巻くから ……なにか回り出した この回転してる宝石みたいな部分を、上についてる長い筒から覗くんだ メアに持たせる。 ……覗けばいいの? ああ。望遠鏡を覗くみたいに メアはおっかなびっくりに顔を近づける。 片目を閉じ、もう片方の瞳で覗き込んだ。 模様が……ある…… 赤……青……緑……たくさん…… たくさんの色…… たくさんの形…… 動いてる…… 移り変わる…… 星空より……ずっと多い…… 色も……形も……早さも…… それからメアは無言になった。 一心に見つめている。生まれくる宝石の空を眺めている。 俺はその場に座る。 寝転んだ。 そこにも万華鏡に負けない光が瞬いている。 夏の星空。 季節が変わればその季節の星空に移り変わる。 万華鏡よりもずっとゆるやかに。 メアの万華鏡観測が終わるまで、こうして待っていることにした。 ……………。 ………。 …。 ……洋くん メアの声が聞こえて、俺は上体を起こした。 初めての万華鏡はどうだった? ……それはいいんだけど メアはぶすっとしている。 それはいつものことだし、初めての天体観測だってそうだったので落胆することじゃない。 天体観測と同じで、普通だったか? ……そうじゃなくて ぶすっとしているだけじゃなく、なにかそわそわしている。 万華鏡、見えなくなったんだけど ああ。ネジが止まったのか ……ネジ? そう。底にネジがついてるんだ。それを回さないと模様が動かないんだよ ………… ……なんで逃げるように後ろに下がるんだ べ、べつに メア、オルゴールは? べ、べつに 後ろ手に、隠すようにオルゴールを持っていた。 見えなくなったんだろ? じゃあネジ回すだけで元通りだ ……そうなの? ああ 元通りになるの? ああ。だから貸してくれ わかった メアが持つオルゴールは三つに分裂していた。 はい、まずは一つめ 円筒を受け取る。 二つめ 回転皿を受け取る。 最後に三つめ 台座からはバネが飛び出ていた。 洋くん、早くネジ回して って、なんでだよ!? ネジ回して元通りにして できるかっ、これ完全に壊れてるだろ!? だから早く直してったら そういう意味じゃなかったんだよ!? ……ウソつき 激しい頭痛に襲われる。 あのさ……おまえ、いったいなにやったんだ 模様が動かなくなったからがちゃがちゃやってたらこうなった 頭痛が増していく。 音が鳴らないというのもあったし、もの自体が古くて脆くなっていたのかもしれない。 ……ネジ回せば元通りって言ったのに だからそういう意味じゃなくてな…… 底にネジがあるのよね 俺から台座だけを奪い取る。 これのこと? それはバネだ…… じゃあこれ? それは…… ……なんだろう。鎖のようなものが飛び出ている。 なにか、ひっかかってる感じ 鎖をぐいぐいひっぱっていた。 ちょ、乱暴にするなって。さらに壊れたらどうすんだ 岡泉先輩にどう弁明すればいいんだろう。 あ、取れたみたい だからこれ以上壊すなっ 台座を取り返す。 メアの手にはペンダントが握られている。 なんだ、それ 鎖をひっぱったら出てきた 鎖に下がっているのは、装飾の施された石。 ざらざらしている感じだが、表面をコーティングしているためか、星明かりを淡く照り返している。 メアの手のひらに載るくらいの大きさだ。 なにこれ ペンダントだろうけど……。これが出てきたのか? うん。バネと一緒に ……頼むから被害を広げないでくれ ネジはどこ? ……回してもなにもならないから むしろよけいなことをすると壊れる一方だろう。 それ、あずかるぞ メアからペンダントを受け取る。 どうするの? オルゴールの一部かもしれないし、全部一緒に直してもらうしかないだろうな 直るの? どうだろうな。聞いてみないことには ………… ぶすっとしたメアを見て、俺は嘆息する。 実はこれ、もともと壊れてたんだ。だから責任感じなくていい ……べつに 俺も怒って悪かった ……責任なんか感じてないったら 直ったら、また持ってくるよ メアはむっつりのまま俺を見上げる。 ……また、万華鏡見られる? ああ。それは絶対だ このカレイドオルゴールが無理でも、ほかの万華鏡だってある。 岡泉先輩も言っていた。雲雀ヶ崎にはカレイドオルゴールの店が建っていると。 今度は、オルゴールも聴かせてやるぞ オルゴール…… 聴いたことあるか? ……ないけど じゃ、楽しみにしてろ 楽しみにしてないけど、聴いてみてもいい 約束だ メアはちょっとためらって。 ……うん。約束 忘れるなよ 忘れることはないわ 強い口調だったので、少し驚いた。 約束を忘れることは、しない…… それだけは、必ずしない いい子だな こ、子供扱いしないでっ メアが怒ると、俺は笑った。 壊れたカレイドオルゴールを抱きながら、そうしてメアと残り時間を星見で過ごした。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 千波が騒々しくダイニングに飛び込んでくる。 今朝はもっと早起きできたよお兄ちゃんっ、約束どおり千波に朝食…… おそ☆よう 変なタメ作って答えられてる!? さてコーヒーでも煎れるかな ちょっと待ってよっ、千波今までで一番早く起きてきたのになんでもう食べ終わってるの!? おまえが俺より遅く起きたからだ 何時に起きたの? 六時 なんでいつもどおりに起きてるの!? 起きちゃ悪いのか 悪いに決まってるよっ、夕べお兄ちゃんの目覚まし時計隠しておいたのにこれじゃ千波の苦労損じゃない! 自供ご苦労さま 誘導尋問ご苦労さまだからぐりぐりは許して欲しいよお兄ちゃん!? 俺は習慣で起きてるんだ。目覚ましなんか飾りなんだよ それをどうしてもっと早く言ってくれないの! 言ったら今度は睡眠薬か? 犯罪まがいは自重するからぐりぐりもやめて欲しいよお兄ちゃん!? おまえ、俺より早く起きたいからって俺を落とし入れるな、自分が努力しないと意味ないだろ だってお兄ちゃんと同じで千波の寝坊も習慣になってるんだもん! そんな悪習は努力でくつがえせ それは難しいよお兄ちゃんっ、千波は基本的になにも考えないで動いてるから習慣イコール本能になってもはや寝坊をしない千波は千波じゃないんだから! 千波じゃなくていいじゃないか 千波にもっと愛着を持って欲しいよお兄ちゃん!? たとえば一時間早めに寝てみろ、そうすれば一時間早く起きられるかもしれない ……うー 立ってないで座れ、ぱぱっと朝飯食べてしまえ 次はぜったいぜったいぜーったいお兄ちゃんより早起きしてみせるからね! はいはい、と適当に返事しておいた。 ……これはまた、派手に壊したものだね すみません……。ほんと、すみません 昨夜、岡泉先輩にケータイでこの旨を告げ、ミルキーウェイで待ち合わせたのだ。 岡泉先輩はカレイドオルゴールの見事な壊れっぷりに薄ら笑いを浮かべていた。 きっとこれを機に天クルは没落を始め〈斜陽〉《しゃよう》に染まり堕ちる先には廃部と運命を共にして…… 天を仰ぎながらぶつぶつとつぶやき出した。 その目に死兆星が映ったときが俺の最期かもしれない。 先輩、落ち着いてください。どうせ元から壊れてたんですからプラマイゼロです いや……これはどう見てもマイナスに寄って…… 知恵の輪をどうぞ ハァハァ……ハァハァ…… 岡泉部長は血走った目で知恵の輪を始める。 メアちゃんが間違って壊しちゃったんだよね ……まあな。俺が見張ってなかったのも悪いけど 部品、これで全部? テーブルに広がる円筒、回転皿、台座とその他諸々のネジやバネ。 ここに載ってるのと、あとはこれだ ペンダントを明日歩に見せる。 ……オルゴールの飾り? だと思ったんだけど、中から出てきたからな。違うのかもしれない 中って、箱の中? ああ ……部品には見えないけどな 明日歩はペンダントを透かし見るように持ち上げる。 やっぱり飾りだよね。箱の内装なんじゃない? 開閉式ならその可能性もあるか。 岡泉先輩、このオルゴールって開けたりできるタイプですか? ハァハァ……ハァハァ…… 餌をむさぼり食う獣のごとく没頭している。 そういえば洋ちゃん、千波ちゃんは? 友達と遊ぶ約束してたらしくて。バイト出れなくてごめんなさいだとさ 俺としては肩の荷が下りた心地だ。 予定があるならしょうがないね。バイトだって急に決まったことなんだし それに、もともとここは好きな時間に働いて好きな時間に休めるところだから それでいいのかと不安になるが、俺も恩恵にあずかっているのでとやかく言えない。 ふたりとも、休憩かい? ランチタイムは終わったし、なんなら遊びに出かけてもいいんだよ マスターはそう言ってアイスティーを運んでくれる。 途中、テーブルに広がる変わり果てたブツを目に留めた。 ……これは? カレイドオルゴールだよ。お父さん、知ってる? 知ってるけど、組み立て式は初めて見たなあ ……いえ、単に壊れて分解されてるだけです お父さん、オルゴールを直せる店って知らない? 運河沿いにあるオルゴール堂くらいだろうね。あそこはカレイドオルゴールも扱っていたはずだ ずいぶんと古そうだけど、直すのかい? まあね、天文部の持ち物だったんだって。だから直そうって話になってたんだけど ……え その言葉でマスターはトレーを落としそうになった。 こ、これ、天文部のオルゴールなのかい? アイスティーをテーブルに置いて、おそるおそる聞いた。 そうだよ 天文部のシンボルみたいなものって聞いてますけど 言われてみると、見覚えがあるような…… あ、お父さんって部長やってたんだよね。じゃあ知ってて当たり前かあ このオルゴールは、僕が卒業したあとに作られたものだけど……。いや、それよりなんでこんな無惨な姿に…… ……すみません。本気ですみません 洋ちゃんは悪くないよ。最初から壊れてたんだから ……最初から? そうだよ。あたしたち天クルに渡ったときはもう音が鳴らなくなってたから ………… なにやら考え込んでいる。 ……ヒバリ校には、天文部の顧問だった先生がまだ務めているだろう? 彼には言ったのかい? 岡泉先輩が修理を頼んでたみたいですけど、直らないって言われたみたいで マスターは眉根を寄せる。 それはおかしな話だね なんで? いや…… 言葉を濁してしまう。 洋ちゃん、どうする? オルゴール堂いってみる? そうだな。岡泉先輩が正常に戻ったら話してみるよ これ、返すね ペンダントを受け取る。マスターがそれに気づく。 ……それは? オルゴールに入ってたんです。内装じゃないかって話してたんですけど それはないだろう。誰にも見えないところを飾りつけてもしょうがないしね 箱、開けたりできないの? できるなんて話は聞いたことがないよ じゃあこのペンダントはなんだろう。 ちょっと見せてくれるかい? マスターに手渡した。 指でたたいたり撫でつけたりと検分する。 ……メテオライトかな 宝石の名前ですか? 隕石のことだよ。アクセサリーなんかに使われることもあるんだけど レプリカかもしれないし、本物かは断定できないけどね 埋め込まれた石が蛍光灯の光を鈍く反射している。 メテオライトって、霊験あらたかなんだよね 霊能力や神通力を高めると言われて、大昔から崇められてきたという説もあるそうだ。万夜花あたりに聞くと詳しいんだけどね 天文部のオルゴールの中にメテオライトが入っていたという話は? 初耳だったよ とすると、隠されていたという話になるのだが。 おみやげ屋さんなんかに行くと売ってるよね、メテオライトのペンダントみたいな隕石アクセサリー 隕石は貴重な鉱物なんだ。だからショップやオークションに出されるものは、言葉は悪いけど偽物も多いんだよ これも偽物の可能性が高いってこと? 判断が難しいということさ。僕も鑑定士じゃないからね 聞いてると、隕石って値段高そうですね 種類によるけど、安いものだと1グラム400円くらいだよ 金の相場が1グラム2500円なので、それに比べればかわいいものだ。 でも、月の隕石って1グラム百万円以上したよね? 火星の隕石をまるまる売って一億円稼いだ人もいるらしいよ 金どころの話じゃなかった。 メテオハンターなんて職業もあるくらいだ。世界で見ると隕石は年間二万個以上落ちていると言われているから そのわりに発見されるのは少ないんだよね 国土の狭い日本なんかだと、これまでに五十個程度しか発見されていないからね マスターはペンダントを俺に返そうとする。 その前に聞いた。 それを本物か調べるにはどうすればいいですか? 気になるのかい? どちらかと言うと、なぜオルゴールの中に入っていたのかのほうが気になるんですけど お父さんは知らないんだよね 僕だけじゃなく、OBは誰も知らないと思うよ これ、天文部のシンボルなんですよね ああ、いつのまにかそうなったという感じみたいだよ。ただ、このペンダントとは関係なくね マスターは見越したのか、そう答える。 そもそもなんでシンボルなの? いつのまにかでも理由くらいはあるんじゃない? マスターは、今度は答えなかった。 ……気になるのなら、聞いてあげようか そんなことを言った。 隕石が本物かどうか。オルゴールを直すついでにね ……お父さん、直せるの? もちろん僕じゃない。オルゴール堂よりも打ってつけの相手が知りあいにいるから 僕も、天文部のオルゴールがこんな姿になっているのは忍びないからね ……知りあいって誰なの? 明日歩も知っている人だと思うんだけどね そしてマスターは言ったのだ。 僕が天文部に入っていた頃の顧問…… キミらの言う、元顧問さ 結局、壊れたカレイドオルゴールはマスターにあずけることになった。 隕石のペンダントと一緒に。 ……マスターがそう言ったのかい? はい。元顧問がオルゴールを直してくれるって バイトが終わる頃には岡泉先輩も復活していた。 おかしな話だね。僕はこれまで元顧問から直らないと聞いていたのに 洋ちゃん。そっちのほうがおかしいって、お父さん言ってたよね ああ。天文部のオルゴールは、その元顧問が作ったものらしいからな 岡泉先輩も知らなかったようで、ひどく怪訝な顔をした。 ……本当かい? お父さんがウソついてなければ、ですけど 本当だとすると、元顧問は業者に修理を頼んでいたんじゃなくて、自分で判断して僕に突き返していたということになるじゃないか なりますね なりますよね 制作者が直らないと言っているんだから、どうやっても直らないことになるじゃないか なりますね なりますよね きっとこれを機に天クルは廃部の運命を…… 先輩、どうぞ ハァハァ……ハァハァ…… 洋ちゃん、お父さんにあずけちゃってよかったの? 知恵の輪に没頭する岡泉先輩を無視して明日歩が聞く。 岡泉先輩も反対じゃないみたいだし。それに、気になってな ペンダントのこと? ああ。それと、元顧問がオルゴールを直さないで岡泉先輩に突き返したこと ……直さない? ああ 直せないじゃなくて? ああ。普通に考えて、直せないってことはないだろ? どうして? オルゴールってけっこう単純な作りなんだよ。小学校の夏休みの自由研究で、オルゴールを自作したやつがいたくらいだからな 誰? 愚妹だ ……千波ちゃんなんだね 苦労してたから、俺も手伝ったんだ 単純な作りって言わなかった? 当時の俺たちにとっては大変だったけど、要するに小学生にも作れるってことだ だから元顧問がオルゴールの技術者であれば、修理が不可能というのは考えにくい。 好きな曲を鳴らせるならあたしも作りたいな~ そこまでするとしたら、自作だとペーパータイプになるな。楽譜代わりのカードに穴開けて、箱に差し込むんだ さすがに市販のようなオルゴールを作るとしたら、曲目は選べない。シリンダーの加工が必要になるからだ。 千波と一緒に作ったのもペーパータイプで、音符を考えながら穴を開けていく作業に苦労させられた。 そのオルゴールは、千波のサイドボードに今も飾られているはずだ。 でも、天文部のオルゴールってカレイドオルゴールだよ? 作るのも直すのも難しそうじゃない? 万華鏡の部分は壊れてなかった。オルゴールの部分だけだったしな そううまく構造って分かれてるのかな だから、いちおう確認もしておきたい そっか 明日歩は納得したようだ。 だから洋ちゃん、オルゴール堂に行きたいって言ったんだね ぶつぶつ言っている岡泉先輩をひっぱりながら、俺たちは運河へと歩を進めていった。 レトロな外観の店に入ると、中もこれまたレトロだった。 古風な机や棚、ずらりと並べられたオルゴールも相まって、売り場というより博物館のような様相を呈している。 そして、どこか懐かしい空気に満ちている。 なんていうか、心にじんってくる感じ 天体観測やプラネタリウムを眺めているときもそうだけど、ノスタルジックな気分にさせられるね 岡泉先輩も復活した。 小河坂クンは初めてだよね はい。運河のあたりはまだ歩いてなかったので 店内に客は少なく、流れるBGMも穏やかだからか、声も自然と抑えめになる。 洋ちゃん、小学生の頃は? 来たことなかったよ 俺はあまり外に出ない子供だった。 初夏の一ヶ月、展望台の彼女と遊んでいたのを除けば。 明日歩クンはどうなんだい? 小さい頃に来たことありましたけど……カレイドオルゴールが置いてあるのは気づきませんでした 見た目だけじゃ、そうと知ってないとわからないだろうからね この店は商品説明の札をかけていなかった。 時計がついているものや人形が回っているものなど、外観によって分けて並べられているくらいだ。 手に取ってもいいって書いてあるね 明日歩がオルゴールのひとつを持ち、ネジを巻く。 あ、この曲知ってる。中学の合唱で歌ったよ ほかの客も曲を確認するためか、思い思いにオルゴールを鳴らしている。 店内BGMのほかに、絶えずどこからともなく懐かしい旋律が流れてくる。 オルゴールにノスタルジーを感じるのは、見た目もそうだけど曲の力も大きいね 二階は自作のコーナーみたいだよ 店の人に頼めば、そこで好きなオルゴールを作ってもいいんだ。観光客にはいい思い出になるだろうね それから俺たちはカウンターで、オルゴールの修理を受け付けているか聞いた。 簡単な修理ならその場で、難しければ業者に配送になるらしい。 ただ、壊れたのなら買ったほうが早いとのことだ。 ものにもよるが、オルゴールの値段はそれほど高くないというのが大きいようだ。 元顧問はそういう意味で直さずにいたのだろうか。 納得はできない。 なぜなら天文部のオルゴールはシンボルと言われている。代用が利かないと考えるのが普通だ。 なら、修理代くらいは目をつむるだろう。 あの、カレイドオルゴールの修理はどうですか? 店員いわく、それも変わらないらしい。 たとえば出費を考えず部品を総取り替えしてもいいのなら、修理ができないことはないだろうとも答えてくれた。 台座に施された装飾なんかは、取り扱っていない種類の場合、原型を留めていないと直しようがないとのことだった。 だが天文部のオルゴールは台座が壊れているわけじゃない。音が鳴らないだけだ。 ……メアがバネを飛び出させてしまったが。 洋ちゃん、これからどうする? 修理が可能っていうのはわかったし、用はもうないぞ 僕は今度、元顧問に直接聞いてみるよ あたし、どの先生が元顧問なのか知らないんですけど。先輩の担任とか? いや、元顧問の先生は三年の数学教師なんだ。科学や物理を教えることもできるみたいだけどね 今、夏休みですけど。学校に来てるんですか? 先生はもう部活の顧問をしていないから、毎日いるわけじゃないけどね ただ三年は受験対策で、お盆が終わってからは希望者のみ補習を行ってるから、数学の授業があるときは来てるよ 先輩は出てるんですね 僕は塾に通ってないし、時間もあるからね 修理のこと、なにかわかったら教えてくださいね そうだね。明日にちょうど授業があるし、聞いておくよ。次に天クルで天体観測をするときにでも教えるから 次の天体観測はいつにする? 先輩、受験の補習なんですよね。いつがいいですか? 金曜か土曜の夜だとありがたいかな。翌日が休みで補習がないから じゃ、そういうことで学校から屋上のカギ借りておきますね そっちは明日歩に任せるよ。日時を決めたら連絡くれよ うん。こさめちゃんたちにも言っておかなくちゃ その後は三人で、陽が暮れるまで店内を眺めて回った。 天文部のオルゴールと同じかたちの品物は、この店では見つからなかった。 元顧問の自作なのは本当なんだろう。 そのオルゴールがどんな音色を奏でるのか聴いてみたい。 ノスタルジーを感じるのなら、天クルのシンボルとして部室に飾るのも悪くない気がした。 帰り際、岡泉先輩の言葉が印象的だった。 僕は昨日、元顧問にカレイドオルゴールの修理の許可をもらいにいったと言ったよね あえなく反対されてしまったよ。その理由は教えてくれなかった 元顧問が僕らになにか隠しているのは、確実だろうね それがなにを意味するのかは、今はまだわからなかった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 千波が騒々しくダイニングに飛び込んでくる。 今朝はもっともっと早起きできたよお兄ちゃんっ、約束どおり千波に朝食…… O☆SO☆YO☆U なんかアメリカンになってる!? さてアメリカンコーヒーでも煎れるかな ちょっと待ってよっ、千波今までで一番早く起きてきたのになんでもう食べ終わってるの!? おまえが俺より遅く起きたからだ 千波お兄ちゃんの助言どおりいつもより早く寝ていつもより早く起きたのにどういうこと!? どのくらい早く寝たんだ? 二時間だよっ どのくらい早く起きたんだ? 二分だよっ おまえは二十時間早く寝ろ それぐるっと回って四時間遅く寝ることになるんだけど!? 一昨日の夜、千波は一時間早く寝て、一分早く起きていた。 この作戦は失敗だな お兄ちゃんを信じた千波がバカだったよっ 一般常識に当てはまらないおまえのせいだ じゃあやっぱり見当違いの作戦指示したお兄ちゃんが全責任を負うべきだよっ ごめんなさいでした ぐりぐりしながら謝るより千波に朝食作らせることで責任取って欲しいよお兄ちゃん!? もういいから座って朝飯食べてしまえ 次こそぜったいぜったいぜったいぜーったいお兄ちゃんより早起きしてみせるからね! はいはい、と返事する。 少しずつでも起床時間が早くなっているのは事実だった。 いずれ千波が朝食を作る日が来るかもしれない。 回避する方法を練ったほうがよさそうだった。 あ、そうそう。メテオライトのペンダントだけど ランチタイムが過ぎて休憩に入ると、マスターがアイスティーを運びながら話した。 聞いてみたら、本物だそうだよ。言い切れる理由とか、ペンダントとオルゴールの関係は話してくれなかったけど ちゃんと会ってきたんだ? ヒバリ校で補習をしていると聞いてね。昨日、出勤の途中に僕のところに寄ってもらったんだ オルゴールの修理もしっかり頼んでおいたよ 相手、なんて言ってた? 直してくれそうですか? 僕も強く言っておいたからね。とりあえずあずかって、状態を見てみるそうだよ 状態だったら何度も見てると思うんだけどな でも、彼も驚いてたよ。バラバラになってることに あ、さらに壊れたんだもんね ……すみません。心の底からすみません きっと大丈夫だよ。原型を留めてないわけじゃないし なんにしろ、あとは彼次第だろうね 元顧問がどうして修理を渋るのかってわかります? ……彼はわざと修理をしていなかったのかい? たぶんそうじゃないかと思うんです マスターは思案してしまう。 いそがしくて直す暇がないのかなあ ……それはないだろうね。今はどこの部活の顧問もしていないし なにより、昔と違って教師に専念できるからね 教師に専念、という言葉に引っかかりを覚える。 あのっ、さっきからなんの話? 会話に入れなかった千波がうずうずして尋ねた。 天クルにオルゴールが置いてあったんだけど、壊れてるから直そうって話だよ オルゴールなら千波も持ってますよっ 洋ちゃんから聞いたよ。小学生のときに洋ちゃんと一緒に作ったんだよね はいっ、千波愛用サイドボード2号に飾ってありますっ 雲雀ヶ崎にいる頃に作ったの? いえっ、都会に引っ越したあとですっ そっか。夏休みの課題にオルゴール作るなんて、都会の学校は違うね~ 自由研究なので都会も田舎も関係ないのだが。 あの頃の千波はなぜオルゴールを作ろうと考えたのか。 理由は、母さんから教わっていた。 よう、今日も勤労してるな 飛鳥が来店してきた。 いらっしゃい。今日は制服なんだね 学校寄ってたからな。そっちこそ、仕事してないみたいだけど 今は休憩中ですからっ 飛鳥のおかげで休憩が終わるわけだ んじゃ、なにか飲み物よろしく 飛鳥がテーブルに着くと、注文を取ったマスターと明日歩がカウンターに戻っていく。 配膳係の千波もいきますっ ううん、ドリンクだけだし。洋ちゃんと一緒にまだ休憩してていいよ 明日歩の言葉に甘えて、三人でテーブルを囲んだ。 ヒバリ校で聞き込みしてたんだよな ああ。文化部はまだほとんど見ねえから、運動部をメインにな なにか成果ありましたかっ 成果と言っていいか判断に迷うんだけどな なにか情報を仕入れたようだ。 夕べ、野球部が遅くまで部活やってたらしいんだ また野球部か…… 今回はUFOの偽情報じゃねえよ。どっちかっていうと怪談だな お化けが出たんですか? かもしれねえし、都市伝説の死神ってセンもあるぜ 蒼さんじゃなくてか? ……そのセンも捨てきれねえけど 蒼ちゃんって死神なの? 前に一度、間違われたんだ。言っておくけど、詳しく知りたくても蒼さんに聞こうとしないように 蒼ちゃんが嫌がるならやらないよっ、こう見えて千波成分は友達思いで占められてるからねっ 千波ちゃん、いい子だよな だからって夜に連れ出そうとするなよ うんとは言えねえな なになに、また肝試しするの? 明日歩がドリンクを持って話に加わる。 その予定だ。新しい情報が手に入ったからな で、千波を誘いに来たのか そんなところだ 宇宙人がからむなら千波成分は100%賛成になりますよっ 飛鳥、まずは詳しく聞かせてくれ いいぜ、と飛鳥はにやっとする。 夕べ、野球部は遅くまで練習をやっていた。その何人かが部活が終わってから校舎に入ったんだよ トイレを借りたかったみたいでな。部室棟にもあるけど、野球部って人数多いから列ができちまうわけだ それで、そいつらは空いているトイレに向かうため、校舎の廊下を歩いていた その途中で聞いたんだよ…… 飛鳥は声のトーンを落として言った。 ……音楽室のピアノがひとりでに鳴るのを 凡百だな ありきたりだよね あからさまにがっかりしてますよオカルト部長! ケッ、これだからしらけ世代は おまえその世代が何年生まれか知らないで使ってるだろ いいか、野球部の連中は一階のトイレ近くで、上から曲が響いてくるのを聞いたんだ 気になった連中は階段から二階に上がった。曲はたしかにその階から聞こえていた 二階は特別教室が並んでいる階だ。だから音楽室だと目星をつけたんだ そして、そいつらは実際にそのあたりから部屋明かりが漏れているのを見つけて、静かに歩き寄っていき…… ……お化けを見たの? その前に明かりが消えて、曲も途切れたそうだ 終わりとばかりに飛鳥はグラスに口をつける。 きっと逃げられたんですねっ、宇宙人は恥ずかしがり屋さんだからっ お化けなのか死神なのか宇宙人なのか、目撃してねえからわからんけどな 音楽室には入らなかったのか? 入ったけど、変わったところはなかったらしいぜ なんとも判断しようがない情報だ。 時間は夜七時半くらいだって話だ。だからその時間からヒバリ校で張り込みだ あたしも行こっかな~ 千波はもちろん同行します! じゃあ今日は七時半から夕飯だな 毎度ながら千波を行かせたくなさそう!? 千波ちゃん、夕飯作ってるの詩乃さんなんだろ? バイト終わったらすぐ作ってもらえばいいさ はいっ、道草しないでまっすぐ帰って詩乃さんにお願いします! もしもし詩乃さん? 今夜はビーフシチューが食べたいです 煮込むのに時間かかるメニューにしてなにがなんでも行かせたくなさそう!? ……もう。洋ちゃん、過保護すぎるのも考えものだよ? 俺は断じて過保護じゃない 過保護なやつはみんなそう言うんだよ そんな説は聞いたこともない。 今回もおまえがついてくればいいだろ。それとも前回みたいな不毛な論議してえのか? ……わかったよ。その代わり、今回も泊まりはなしだからな 最初からそのつもりだ。今回は、前回より早い時間に集まるしな 蒼さんと鈴葉ちゃんも誘う? いちおう聞いてみるよ 話はついたな。集合場所は校門前だ、遅れるなよ 飛鳥の一言に一同はうなずいた。 千波、今度こそ虫取り網持っていきますね! あたしはやっぱり天体双眼鏡持っていきたいな~ 暇つぶしのモバゲー探さないとな ……おまえらほんと、なにしに来るんだよ 集まるのはこれで全員か? はいっ、蒼ちゃんと鈴葉ちゃんは不参加ですっ なにか用事? 鈴葉ちゃんが風邪気味だったみたいでな。それで蒼さんが反対したんだ 夏風邪? ちょっと心配だな 鈴葉ちゃんは来たがってましたし、元気でしたよっ 蒼さんも鈴葉ちゃんに過保護だもんね ……なんで俺を見ながら言うんだ そういえば千波ちゃん、虫取り網はやめたのか はいっ、持ってきたかったんですけど諦めましたっ ちゃんと片付けてなかったから虫に食われてでかい穴が空いてたんだよ 虫の逆襲だね でもでも次までには新しいの買っておきますっ、今月中にお兄ちゃんからお小遣いもらう予定ですからっ ちゃんと夏休みの宿題終わらせるならな。できるのか? それは愚問だよお兄ちゃんっ、千波予報ではそろそろ妖精さんが現れて手伝ってくれるからねっ 最終日にテンパる姿が目に浮かぶようだ。 もう時間だな。みんな心の準備はいいか? 千波はいつでも万端ですっ さくっと行ってさくっと諦めて帰ってくるか 校舎の窓から眺める星空も格別なんだよ~ ……もう張り込みの邪魔しなけりゃなんでもいい 話すときは声落とすようにしろよ 言われなくてもわかってるよ 何度も忍び込んでるし、慣れたもんだよな 肝試し以外にも、部室まで明日歩の望遠鏡を取りにいったり、蒼さんと屋上で星見をしたり。 一度として警備員に見つからないのがむしろ不安を誘う。 千波たち、どこで張り込むの? 普通に考えたら一箇所しかないだろ 飛鳥くん、行き先は音楽室? いや、まずは四階まで歩いてみて、なにもなかったら最後に音楽室で張り込みだな 前回と似たようなルートか 野球部は合宿してねえから、体育館も覗けるな 足音にも気をつけながら、薄暗い廊下を歩いていく。 教務室と警備室を除いた一階を踏破したが、異常は見当たらない。 続いて、特別教室が並ぶ二階に足を進める。 その階が問題のスポットである。 ……って、おい。明かりが見えるぞ 奥の教室から漏れてるみたいだな あそこって音楽室ですか? 位置的にそんな気がするけど…… いきなりビンゴだった。 でも、ピアノの音は聞こえないぞ 弾き疲れてお休みしてるとか? 練習熱心な宇宙人ですねっ ……それにしてもおまえら怖がらねえのな その役目である蒼さんがいないので、肝試しの雰囲気が出なかった。 まあ普通に考えたら、吹奏楽部の部員が忘れ物でも取りにきてるんだろ ……ますます肝試しっぽくないね 話してねえで向かうぞ、現場を押さえれば判明するんだ 急ぎましょうオカルト部長っ、宇宙人はもしかしたら帰り支度してるから弾いてないのかもっ 俺たちは音を立てないように急ぎ足で向かう。 警備員の可能性もあるし、気をつけろよ ……中に入って鉢合わせたら捕まっちゃうね そっと覗くしかねえだろうな。部屋から誰か出てきそうだったら、すぐ逃げるぞ 逃げ足の早さは自信ありますから任せてくださいっ そして明かりが漏れ出す部屋に近づいたとき、全員の勘違いが判明した。 ……音楽室じゃなかったのか そこは視聴覚室──天クルの部室だった。 その隣の最も奥まった教室が音楽室。 遠目だったし、間違うのも無理はなかった。 なんで部室の明かりがついてるの? 岡泉先輩が忘れ物を取りに来たとか? 宇宙人がDVD観てるのかもっ とすると、ピアノの音は映画のBGMか…… 想像すると笑える絵だ。 なんにしろ覗いてみるしかないか スライド式のドアに手をかける。 小河坂、慎重にな 音立てて逃がしたらお兄ちゃんのせいだからねっ 洋ちゃん、早く早く みんながドアにへばりついたところで、俺はそっとスライドした。 瞬間、部屋明かりが落ちた。 さすがにこれには驚いた。 続いて扉が開く音がした。 俺たちの側じゃない、おそらく反対側のドア。 横目で確認、廊下に人影を発見。 それきり音は聞こえず動く様子もない。 ……向こうは俺たちに気づいていない? 誰も声を上げなかったのは賞賛に値する。相手が警備員だった場合、鬼ごっこが始まってしまう。 相手の顔は見えない、離れていることに加え、今夜は窓からの星明かりが少なく見通せはしない。 ………… 俺たちは息を潜めている。 宇宙人もしくは死神と判断したオカ研ふたりが躍りかかるのではと冷や冷やしたが、俺と同じく動かない。 明日歩もどうすべきか迷っているようだった。 ………… かつ、と足音が立つ。 ようやく届いた音。 固まって動かない俺たちに気づいたのかそうでないのか、人影が歩き出した。 すぐ脇の階段を下りるようだ。 ………… そして、その人影を追うように、もうひとりが部室から姿を見せる。 ……ふたりいたのか? 同じく顔は見えない。 こちらの影は背が高かった。一方は低く、並ぶと親子のようにも見える。 扉を閉める音が聞こえたあと、ふたつの人影は消えた。 階段を下りたのを見届け、俺たちは脱力する。 お兄ちゃんお兄ちゃんっ、今の見た見たっ、宇宙人が二匹もいたよっ なんで匹なんだよ 虫取り網で捕まえるからだよっ、そのあとにお友達になるんだよっ むしろ怒らせて戦争が勃発しそうだが。 あたしは普通の人に見えたけど……先生と生徒とか 少なくとも警備員じゃないな。忍び込んだ生徒を連行してるようには見えなかったし だったら話は早い。千波ちゃん追うぞ はいっ、さっき下に降りていきましたよねっ ふたりは人影が降りていった階段に走っていった。 走ると足音でおまえたちが捕まるぞと忠告する間もなく見えなくなる。 ……洋ちゃん、あたしたちはどうする? 部室を確認してみるか。泥棒の可能性もあるし それだとあたしの望遠鏡がっ ふたりで部室に入る。 電気は点けられない。見咎められたくはない。 星明かりは弱いが、完全な暗闇ではないのでどうにか見渡せる。 明日歩は脇見も振らず隣の準備室に駆け込む。 ……荒らされた形跡はないな オールグリーンと踏んで、俺も明日歩を追う。 どうだった? 望遠鏡は無事だったよ。よかった~ ほかはどうだ? ……暗くて確認しづらいけど、大丈夫っぽいよ 泥棒ではないようだ。 さっきの人影だけど、逆にあたしたちを警備員だと間違えて逃げていったとか? そんなふうには見えなかったぞ。慌てた感じじゃなかったし でも、タイミングよすぎない? あたしたちがドア開けてすぐに電気が消えるなんて それはそのとおりだ。 偶然か、はたまた明日歩が言ったように故意の行動なのか。 ただ、俺はドアを開ける際、極力音を立てなかった。 立てたにしろ、音に気づいて明かりを消したにしてはタイミングが早すぎる。 明日歩が言ったとおりだとすれば、相手は俺たちが部屋を覗こうとする前に気づいていたということになる。 案外、メアちゃんだったりして メアだったら、たとえば姿を消しながら廊下を歩く俺たちを監視することも可能だったかもしれない。 まあ、片方の人影はメアに似てたかもな ひとりは背が低かった。だがメアほど低いのかは確信が持てない。 ただ、ひとりじゃなかったからな メアちゃんのお兄さんとか 本人は家族なんていないって言ってるぞ ……そうなの? 本当かどうかはわからないけどな メアという名も偽名なのだ。 戻るか。千波たちが心配だ そうだね。警備員に見つかってなきゃいいけど そうして俺たちは部室をあとにする。 ……結局見失っちまったぜ UFOに乗って自分の星に帰っちゃったのかな…… ふたりとは昇降口で合流し、ここまで戻ってきた。 まあ、お縄になってなくてよかったよ あまり無茶しちゃダメだよ、ふたりとも それは難しいです先輩っ、千波は宇宙人捕獲のためならどんな山も谷も海も越える覚悟がありますから! 明日歩が心配してるのになんだその態度は このぐりぐりだけは乗り越えられそうにないよお兄ちゃん!? オレは千波ちゃんに一票だな。ノーリスクじゃリターンは望めねえよ とすると、今後もこの活動が続いて、そのたびに俺も千波のお守りをするハメになる。 はあ…… 洋ちゃん、疲れたため息ついてる 情けない体たらくだよお兄ちゃんっ、千波はまだ山も谷も海も越える体力が残ってるのにっ ならおまえの元気を分けてくれ ぐりぐりにそんな効果はないよお兄ちゃん!? みんな、まだ肝試し続ける? もう一度張り込むのも手だけどな やるなら日を置いたほうがいいんじゃないか。ほかにも目撃者がいるかもしれないし、また聞き込んでからでも遅くないだろ 終わらせたい気満々だな バレバレか。 まあ一理あるし、ちょっと早いけどお開きにするか 結局あの人影ってなんだったのかな それを知るためにも、また聞き込んでみるつもりだ それじゃ、解散だな お疲れさん お疲れさま~ 帰って蒼ちゃんと鈴葉ちゃんに報告しなくちゃっ 三人は坂を下っていく。 俺はひとり、坂を登っていった。 見つけたぞ、メア ………… どうした? ……遅いから、今夜は来ないかと思ってた たしかに普段と比べると遅い時間だ。 待たせて悪かったな ……べつに待ってないけど さっきまでヒバリ校で肝試ししてたんだ ふうん 肝試しって知ってるか? バカにしないで。前にもしてたじゃない 前と違ってメアとは会わなかったな そうね。わたしはここにいたし 本当か? ……どうして疑うの メアがヒバリ校に行っていないのなら、あの人影は別人だ。 今日はメアに聞きたいことがあるんだ ……わたしの質問が流された メアって姿を消せるよな そうね 原理は知らないんだったな そうね たとえばだ、姿を消しながら行動することは可能か? ……どういうこと? 前にさ、いきなり消えて俺の後ろに回り込んだよな その後カマでたたかれたのだ。 それが? あれって瞬間移動か? それとも消えながら歩いて俺の後ろに回ったのか? 歩いて回ったけど つまり消えながら俺の姿を確認できるんだな? そうなるけど いかにも非常識だし原理が気になるところだが。 それを解明できないのは現代科学の怠慢。こさめさんが言っていた。 だったらいずれ知れるときも来る。今は考えても仕方がないんだろう。 ……こういうところが頭でっかちなんだろうな。 また頭たたかれたいの? それはない 今夜は星明かりが不安定だし、やってあげてもいいけど だからたたかなくていい じゃあどうしてそんなこと聞いたの 肝試しでちょっとな ちょっと、なに メアの親戚に会ったかもしれない 死神に親戚なんていないわ そう言うと思った ……結局なんなの 俺もよくわからない ……わからない話なんかしないで もっともだ。 ……洋くん メアはそわそわし出す。 トイレか? 死神はトイレなんて行かないわ 便利だな ……そうじゃなくて メアはぶすっとして言葉を続ける。 オルゴール、どうなったの 気になっていたようだ。 それなら修理中だよ 直るの? まだちょっとわからない ………… そんな怒った顔するな ……誰も怒ってない 心配しなくても直すから 誰も心配してないっ はは ……その顔が気に食わない わかったからカマ振り上げるなっ もう帰る ぷいっと回れ右する。 ああ。おやすみ かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! おやすみだって かー坊じゃなくて自分で言えばいいだろ!? 今夜のあなたはバカバカバカだったわ 三つに増えた。 メアはかー坊を頭に載せながら歩いていく。 途中で闇に消えた。 ……カレイドオルゴール、また見せてやらないとな じゃないとメアは不機嫌なままだろう。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、見つけた──っ!! と、この騒々しい呼び声は。 やっぱりここだったよお兄ちゃんっ、いつのまにかいなくなってたから心配になっちゃったよっ 探しに来てくれたのか そうだよそのとおりだよっ、オカルト部長と明日歩先輩もフェンスのところで待ってるよっ 悪いことしたな まったくだよっ、このせいで寝るの遅くなって朝寝坊して朝ご飯作れなくなったらお兄ちゃんのせいだからねっ、だから明日は千波モーニングを堪能してねっ もう殺るしかないのか…… 思考が蒼ちゃん風味だよお兄ちゃん!? 寝るの遅くなるのは俺も一緒だし、同じ条件なんだから俺より早く起きてみせろ それは難しいよお兄ちゃんっ、千波は生まれてこの方お兄ちゃんより睡眠時間が短かったことがないんだから! そのわりに育ってないよな 会心の一撃が痛すぎるよお兄ちゃん!? 千波の頭をぽんとたたく。 帰るか。みんなを待たせると悪いし うんっ 千波は俺の腕にくっついてくる。 ……くっつくなって いいんだよっ、千波たちは兄妹だからねっ 明日歩たちに見られるだろ 見られてもいいんだよっ、先輩たちはすでに千波たちが大の仲良しだって嫌というほど知って……って、千波をアイアンクローで引きはがそうとしないでお兄ちゃん!? 毎度のように騒ぎながら俺たちは帰途についた。 よう。また来てやったぜ ランチタイムが過ぎた頃に飛鳥が来店した。 またヒバリ校行ってたの? まあな。昨日はグラウンド組の部活が中心だったけど、今日は体育館組に聞き込んできたぜ なにかわかりましたかっ、人影の正体判明しましたかっ ばっちりだ。座ってから話そうぜ まさかこんなに早く新たな情報が来ようとは。 ……今夜も肝試しにならないことを祈る。 さて、それじゃあ聞いてもらおうか 各々が席に座ると、飛鳥はかしこまって語り出す。 バスケ部の女子部員から得た情報なんだが、その子は昨日部活が終わってから校舎の二階を歩いていたそうなんだ 美術部に友達がいるそうでな。夏休み中は文化部のほとんどが休んでるけど、自主的に活動してる生徒も少数だがいるんだ その子は美術部の友達と一緒に帰るため、二階の美術室に向かったわけだ ……まさか、その子と友達が昨日の人影? 人数は合ってるな だが幸いなことにそうじゃねえ、ふたりが帰ったのは夕方って話だ。オレたちの肝試しよりずっと前だ それに千波たちが人影見たのは美術室じゃなくて視聴覚室ですよねっ ああ、だから正体はその子らじゃねえ。ふたりは目撃した側だ 人影をか? 飛鳥はうなずく。 女バスが終わったのが夕方前…… それから美術部の友達を迎えにいって、その友達が後片付けを終えてふたりが部屋を出た頃にはすっかり陽がかたむいていたそうだ その帰り際にすれ違ったそうなんだ 人影と? その候補者だな 宇宙人ですか? 候補者だな で、誰なんだ 先生だ 宇宙人候補もなにもあったものじゃない。 怪談にもならなかったな そろそろ肝試し飽きてきちゃった ……おまえら言いたい放題だな オカルト部長が言いたいことはわかりますっ、その先生が宇宙人エージェントだってにらんでるんですねっ おうよ、そのとおりだ このふたりがとても遠い存在に思えてきた。 あからさまに哀れまれてますよオカルト部長! ケッ、これだからイチゴ世代は もう適当に使ってるだろおまえ いいか、目撃したふたりはどちらも一年なんだ。そしてその先生とは面識がなかったんだ じゃあどの先生かわからないの? そうだ 一年担当の先生じゃないってこと? そうかもしれねえし、もしかしたら部外者だったセンもある じゃあなんで先生だって思ったんだ? 相手がスーツを着ていたからだ。そんな姿で校舎を歩いてるのは普通先生くらいなもんだろ 正体は礼節を重んじる宇宙人だったんですねっ その可能性は否定できねえな だったら友好関係も築けそうだね ……明日歩まで向こう側の人間に どういう意味だよ~ スーツを着た人物は男だったそうだ。先生だと思ったふたりがさようならとあいさつしたら、気をつけて帰りなさいとぶっきらぼうに答えたって話だ ぶっきらぼうが気になるけど、先生っぽい対応だね 先生の振る舞いをよく研究してたんですねっ それから男は、視聴覚室に入っていった…… ひとりでな そこで話は終わりらしい。 昨夜見た人影の片方は背が高かった。おそらく男だろう。 その先生がなにかしらの用事で、天クルの部室である視聴覚室に居残っていたのかもしれない。 その先生、ひとりだったの? オレが聞いた限りじゃそうだな とすると、もうひとつの人影はどうなるんだろうな その先生が宇宙人エージェントだとしたら、視聴覚室で仲間を呼んで秘密談義をしてたのかもしれねえ それからUFOに乗って帰っていったんですねっ ふたりが遠い、限りなく遠いよ。 ……飛鳥くん、ほんとにそう思うの? 明日歩はまだ俺の立つ世界に留まってくれている。 あくまで希望だ。オレとしては宇宙人でも、恋の死神でも変わらねえからな 不思議体験ができればいいってことか 写真に収めてそういった存在を証明できればいいって話だよ 一度聞いてみたかったんだけどさ、飛鳥ってなんでオカルトが好きなんだ? 好き嫌いに理由なんていらねえだろ でもキッカケとかあるんじゃない? あたしが天文ファンになったのはお父さんの影響だし 俺は、展望台の彼女になるんだろう。 飛鳥はどうなんだ? オカルトファンになったキッカケか ああ 妹が宇宙人にさらわれたからだ ぼそりとつぶやく低い声に言葉をなくす。 冗談に決まってるだろ、そんな顔するな そう言ったときの飛鳥はへらへら笑っていた。 ……軽い気持ちで聞くべきじゃなかった。自分の浅慮を愚かしく思う。 え……飛鳥くんの妹さんって…… 冗談って言っただろうが オカルト部長っ、きっと妹さんは宇宙人と遊んでて帰りが遅くなってるだけですよっ、だから絶対戻ってきますっ、千波もオカ研の一員として探すの協力しますからっ おう、期待してるぜ 千波の明るさがこの空気を洗い流してくれる。 俺もそうだし、飛鳥も感謝しているのかもしれない。 飛鳥の部活仲間として千波は役立っているのかもしれない。 話を戻すぜ。その男が先生かどうかはわからねえ、だけどオレたちが見た人影のひとつにほぼ間違いねえ そして、もしなんらかの必要性があって視聴覚室に訪れていたなら、また訪れる可能性は高い ……ということは、また? ああ。今夜も肝試しを決行するぜ わーい! もしもし詩乃さん? 今夜はみんなで外食でもしませんか、車で二時間くらい離れた店まで いいかげん一発で許して欲しいよお兄ちゃん!? 冗談だよ。肝試しするぞ ぽんと頭をたたく。 ……わ、簡単に許してくれた 俺もついていくけどな うんっ! ケッ、やっと物わかりがいい兄貴になったか ……飛鳥くんのおかげかもね 明日歩が、飛鳥に聞こえないように言った。 飛鳥くん、いらっしゃい マスターがアイスティーを運んできてくれた。 ……あ、そういえば注文取ってなかった 今日は僕のおごりだけど、次から忘れないように はあーい グラスは俺たちの分もある。 すいません、いただきます いただきまーす! 俺たちの分は給料から引いてください おごりだと言ったろう。お客もまだ来ないだろうし、ゆっくりしていていいから ていっても、だいたい話終わったよね 早いところ都市伝説の謎を解き明かしたいんだがな ヒバリ校の都市伝説かい? はいっ、恋の死神が宇宙人かどうか日々検証してるんですっ ……ついに宇宙人になってしまったのか いや、千波が勝手に言ってるだけです マスター、客から都市伝説のことなにか聞いてたりはしてないっすか? ヒバリ校の生徒がたまに噂してるけど、具体的な話は聞いてないよ マスターが在学してた頃にも都市伝説ってあったんですよね そうだね。内容は以前に話したと思うけど 僕が知っている噂では、その男は病で余命幾ばくもなかったそうだ だから男は、恋人だった女に自分のことを忘れて欲しいと願うようになった すると死神が現れて、女から男の記憶を奪っていった 死神だから、恋の記憶を刈ったという表現が妥当なのかな。そのまま男女は別れることになったそうだよ そして、マスターはこうも話していた。 万夜花さんや詩乃さんもなにか知ってそうっすか? 詩乃はわからないけど、万夜花は神社の跡取りだったこともあって、当時からオカルトには詳しかったよ 飛鳥、一度万夜花さんに聞くのも手じゃないか? 神主ってくらいだからオカルトは専門だろうし 飛鳥は片方だけ眉を上げる。 なんだ、ますます乗り気になってきやがったな 早く肝試しが終わって欲しいだけだ こさめちゃんにアポ取ってもらおっか。バイトが終わってから聞きにいくとか 情報は多いに越したことはねえ。オレもそのうち聞きにいく予定だったしな 話は決まったようだ。 南星、頼めるか? オカ研としてヒバリ校の都市伝説について教えて欲しいって用件で こさめちゃんにメール送ってみるよ。すぐ返ってくるんじゃないかな 千波もお話聞きにいきたいです! 千波ちゃんはオカ研の仲間だ。断る理由はねえな 向こうが大丈夫なら、俺もついていくかな もちろんあたしも同行だよ~ おまえらは部外者だけど、まあいいか そんな俺たちを、マスターはどこか懐かしむように眺めていた。 ふと、マスターのこんな言葉がよぎる。 マスターは、都市伝説を信じてたんですか? ……そうだね 僕は、どちらかというと信じていたほうかな。だけど解明したいとは思わなかったよ なんでですか? 時代の差かな 都市伝説の謎は、きっと僕たちの世代よりも、キミたちの世代で挑むのが正しいんだ でないと、都市伝説の意味がない。そういうことだよ メール返ってきたよ。こさめちゃんが万夜花さんに聞いたら、いつでもいらっしゃいだって よっしゃ、決まりだな バイトは上がっていいよ。お疲れさま いや、それは…… お疲れさま~ お疲れさまでーす! おまえも少しは遠慮ってもんを覚えろ 最近ぐりぐりの頻度が飛躍的にアップしてるよお兄ちゃん!? 万夜花はずぼらだからね。すっぽかされる前に、早く神社に向かったほうがいい 都市伝説の謎を解く気があるのなら、ね マスターの厚意で、俺たちはバイトを早く切り上げることになった。 今から向かえば、夕方の時間をまるまる使って話を聞くことができそうだった。 いらっしゃい…… 明日歩たちが出かけていき、客もまだいない静かな店内。 南星総一朗はベルの音で新聞から顔を上げ、ほとんど条件反射で接客の態度を取る。 ……総一朗先輩 しかしその相手が客というより茶飲み友達だったため、総一朗は肩から力を抜いて新聞を脇に置いた。 詩乃か。仕事はどうしたんだい ちょうど原稿を編集者に送ったところなんです そうか、新作を描き終えたんだね 詩乃がカウンターに座ったので、総一朗はねぎらいを込めてコーヒーを煎れる。 詩乃の表情は固かった。 普段は微笑を浮かべてあたたかい雰囲気をまとっているのに、このときは違っていた。 めずらしいことではあった。 だがつきあいの長い総一朗にとっては初めてではなかった。 なにかあったのかい そう見えますか? 見えるから聞いたんだよ 詩乃は苦笑を浮かべる。こういった力ない笑みというのもめずらしかった。 キミは根を詰めやすいからね。一仕事終えて、疲れが出たんじゃないかな ……そうですね。そうなのかもしれません 天文部にいた頃、キミは夢見がちでぼんやりした子だと思っていた。だけど努力家なんだとあとで気づいた どちらの意味でも、絵本作家というのはまさしく夢を叶えたと言っていいんだろうけどね だけどがんばり過ぎはよくない、ですか? ああ。キミのお姉さんだって…… ………… ……悪かったね。こんなことを言うつもりはなかった いえ、そのとおりだと思いますから 総一朗は煎れたコーヒーを詩乃の前に出す。 詩乃は礼を言って、両手でカップを包むように持った。 ……夢を叶えたと言うなら、総一朗先輩のほうですよ 僕はもう天文学から身を引いているからね 夢は、人にとって必要なものですよね この言葉は総一朗への答えのようでいて、問いかけのようでもあった。 あの子たちは、どうなんでしょうか…… 夢があるから、ここに来ているんでしょうか…… ようやく総一朗は合点がいった。 詩乃がなぜここを訪れたのか。 なぜそんなふうに疲れたようなのか。 寂しいようなのか。 それとも、あの子たちがバイトをしているのは、自分の夢のためではなく…… 私のため、なんでしょうか 私のせい、なんでしょうか それは、夢のためどころか、夢の妨げになるんじゃないでしょうか…… 私のせいで、姉さんの子供たちが、時間を犠牲にするのなら…… やりたいことをできず、犠牲になるのなら…… コーヒーの水面にほのかに波が立っている。 詩乃の手が震えている。 バイトのこと、小河坂くんと千波ちゃんはキミに話していなかったんだね ……隠していたようです 隠し通せるはずがないのにね ……そうでしょうか 家族に隠し事はとても難しい。一緒にいる時間が長いんだから 現にキミは気づいている ……あの子たちは 一度ためらい、その言葉を口にした。 あの子たちは、私を家族と思っていないから、隠し通せると思ったのかもしれませんね 言えば自分が傷つくと知ってあえて詩乃は口にした。 その傷をふさぐのは総一朗にはできない。 総一朗の役目は、先輩として傷ついた後輩を保健室に連れていくことだ。 話しあってみなさい。キミの想いを伝えてみなさい そして相手の想いも汲み取りなさい きっとそれで解決する。それだけで解決するんだよ 家族だからこそ難しいこの行為は、今の小河坂家にはまだ当てはまらない。 詩乃とその子供たちはスタートラインにも立っていない。 キミが思っているよりも、その傷の治療薬はずっと簡単に手に入るからね いらっしゃい。よく来たわね 居間に通されると、机の前で万夜花さんが座っていた。 どうぞ、麦茶ですよ 事前に用意していたようで、こさめさんが台所から飲み物を運んでくれる。 急に訪ねてすみませんでした いえいえ。それより、天クルの部員と面子が違うわね はい。今日は天クルじゃなくて、オカ研として来たんです お母さん、わたしもそう話したと思いますよ ああ、そうだったかしら。あんたたち兼部してるの? いえ。俺たちは手伝いみたいなものです あはは、勝手についてきたって感じです 千波はれっきとしたオカ研メンバーですっ で、オレが部長っす。海水浴のとき以来っすね こさめのお友達の飛鳥くんね。おひさしぶり ……なんかやけに集まってるわね 姫榊も登場だ。 姉さんもご一緒しますか? 飲み物もらいに来ただけなんだけど……。いったいなんの騒ぎなのよ この子たちが都市伝説について聞きたいらしくてね ……それって、ヒバリ校の? ああ。そっちもなにか知ってたら教えてくれ ふーん、オカ研の活動ってわけ 話が早いな、こももちゃん その呼び方やめてくれる!? あたしだけの特権だもんね ……許した覚えはないし、何度言ってもやめないから諦めてるだけよ 飛鳥、姫榊に聞く前にまずは万夜花さんだろ わかってるって、それが目的だからな なんでか知らないけど、期待されてるみたいね マスターが言ったんですよ。都市伝説なら万夜花さんが詳しいだろうって 万夜花さんは軽く吐息をつく。 大方、オカルトに詳しいからってだけでしょ。その見地からでいいなら教えてあげられるけど だけど、と続けて。 たぶん、あんたたちが欲しい解答はあげられない。それでもいいかしら ……あたしたちが欲しい解答? 宇宙人は実在するか? 恋の死神が実在するかだろ 万夜花さんにもわからないってことっすか? そうよ。ヒバリ校で噂が立った恋の死神が誰を指すのか、それは知らない。存在するのかもわからない だけど星天宮の人間としてなら、それは〈星神〉《ほしがみ》様かもしれないって思うわけ ……ほしがみさま? なんすかそれ オカルトファンのおまえもわからないのか 神話の類は管轄外なんだよ 神さまの名前かな? うちが〈祀〉《まつ》ってる神さまのことよ。〈天津甕星〉《あまつみかぼし》に連なる神の総称みたいなものね 古来より信心深い民が〈星神〉《ほしがみ》様と呼んでいましたが、今では〈星神〉《せいしん》と簡単に呼ぶことも多いんですよ そっちは主に〈星霊〉《せいれい》と区別するために使ってるって感じだけどね えっと、えーっと 千波の目がぐるぐるになる。 飛鳥は口を挟まず、しきりにメモっている。 天津甕星というのは、夏祭りのときに聞いた名前ですね あの御神体を〈天津甕星〉《あまつみかぼし》の〈依代〉《よりしろ》として、こももが神楽を奉納したの。そのときに言ったかもしれないわね そのときの姉さん、素敵でしたよ ……やめて、思い出させないで 姫榊は照れていた。 星天宮は、天津甕星と、その神に関係するほかの神も一緒に祀っているってことですか? まとめるとそうなるわね 〈天津甕星〉《あまつみかぼし》ってどんな神さまなんですか? 日本神話における星の神よ。荒々しい神でね、ほかの神が服従させようとしてもなかなかできなかったんだって そんなふうにまつろわぬ神だったから、日本神話における唯一の邪神とされているわ そう伝えられているんですよね おとぎ話みたいなものね。これが西洋だったら死神にでもされてたんじゃない ……悪い神さまなんですか? 星天宮としては、そうだと言ってもいいんだけどね 私個人としては難しい質問になるわ。神々の争いは人間の戦争と同じよ、善悪では計れない 解釈によるって感じですか そうよ。歴史というのは戦争の勝利国の記録って言われるけど、神話というのも案外そうなのかもよ 説得力があったのでうなずいておく。 メモを取り終わった飛鳥が顔を上げた。 その〈星神〉《ほしがみ》様が、恋の死神なんすか? 私の立場では宇宙人も恋の死神も〈星神〉《ほしがみ》様になるのよ、オカ研の部長くん 飛鳥は複雑な顔だ。 ……万夜花さんは、〈星神〉《ほしがみ》様が実在するって考えているわけですよね 実在しないなんて言ったらこの神社を追われるわね わたしたちも同じですよね、姉さん 一緒にしないで、わたしは信じてないから じゃあ現実主義者の巫女である姫榊としては、都市伝説はどう考える? 誰かが悪ふざけで流したんでしょ。よくある学校の七不思議と同じよ そして雲雀ヶ崎は娯楽が少ないから生徒が飛びつき、長く語り継がれていると締めるわけですね ……なんかあてつけがましいわね 私から話せるのは、こういった神話の類くらいよ。まだ聞きたいかしら? 天文ファンのあたしとしては聞きたいです! 千波も神さまの部分を宇宙人に脳内変換しますから聞きたいです! 飛鳥、どうする? 情報は多いに越したことはねえって言ったろ。聞ける話は全部聞くぜ それじゃ、眠くならないようなおもしろいおとぎ話でも聞かせてあげようかしらね 俺たちは陽が落ちるまで万夜花さんの語りに耳をかたむけていた。 姫榊はつまらなそうにしながら、こさめさんはそんな姫榊に苦笑いを浮かべながら最後までつきあっていた。 お礼を言って家から出ると、境内までつきあってくれた万夜花さんが尋ねてきた。 最近、詩乃はどう? 元気ですよ。今朝はいつもより早く起きてきて、仕事も一段落したって言ってましたし 本当にそう思ってる? 本当とは? ……詩乃さん、まだ仕事が残ってるんですか? そっちじゃなくて。元気かってところ 普通に元気だと思いますけど…… 彼女は夢見がちで純粋だからね。だから、家族というものに対しても夢を抱いていた 得てしてそういう女は、現実を知って深く傷ついてしまうわけよ ……なんの話ですか? わかってて聞かないで欲しいわね。詩乃とあんたたちの話じゃない 俺と千波が、詩乃さんを失望させてるってことですか? そうじゃない。そう言ってもいいのかもしれないけど、この場合の現実を知って傷ついたっていうのは過去の話 その傷が今でも残っているっていう話よ 俺は、責められているのだろうか。 わからない。 万夜花さんの口調は淡々としていて感情が読めない。 あんたの名前を初めて聞いたとき、詩乃は結婚したのかと思ったって言ったわよね だけどそれは詩乃が子供を産んだって意味じゃない。あんたの歳になるまで結婚を知らされないほど私たちは浅い間柄じゃない 私はね、相手の男の連れ子かと思ったのよ そして万夜花さんは言ったのだ。 だって詩乃は、子供を産めない身体だから 詩乃さん、ちょっといいですか 夕食後、リビングで休んでいた蒼さんが洗い物を終えた詩乃さんを呼んだ。 なにかしら? これ、今までごちそうになった分の食費です 封筒を差し出した。 いらないって言っても無駄なのよね もう私の親からも話がいってると思います そうね。それじゃあいただくわ 詩乃さんは困った顔で封筒を受け取る。 あ、あの、ご迷惑かもしれませんけど、これからもよろしくお願いします 迷惑なんてなにもないのよ。鈴葉ちゃんが嫌になるまで食べに来ていいんだから 千波も鈴葉ちゃんとずっと一緒に食べたいよっ だから、こちらこそよろしくね は、はい、ありがとうございます 蒼ちゃんもずっと一緒だからねっ 死ねばいいのに そ、そんなこと言っちゃダメだよお姉ちゃんっ 衣鈴ちゃんも、嫌になるまで来ていいのよ ……鈴葉がお邪魔してる限り、私も同行しますから 千波たちはもう家族になったってことだねっ 死ねばいいのに そ、そんなこと言っちゃダメだよお姉ちゃんっ 俺はチャンスだと思っていた。 これから肝試しのためヒバリ校に行かなければならない。その前にこの流れを利用すべきじゃないだろうか。 蒼さんが食費を渡したことに便乗して、俺も食費を渡すべきじゃないだろうか。 先月分のバイト代は銀行から下ろして手元にある。 金額は少ないが、足りない分はまたためて渡せばいい。 まずは金額云々よりも詩乃さんが受け取ってくれることが重要なのだ。 俺のバイトを反対しているくらいだ、普通に渡したのでは詩乃さんは受け取らない。 だけど蒼さんが流れを作ってくれた。それに乗って俺も切り出せば、詩乃さんだって簡単に拒否はできない。 今しかない。 一度受け取ってくれれば、二度目や三度目も渡しやすくなるのだから。 詩乃さんへの感謝をかたちで表すチャンスは、今しかない。 詩乃さん 声をかける。 詩乃さんは俺を見る。 ゆったりと。あたたかい笑顔を向けて。 優しさをまとって。 瞬間、よぎる。 唐突に。 それは痛み。 痛切な後悔──── だって詩乃は、子供を産めない身体だから なに、洋ちゃん? あ…… ためらい、遅れて踏み込む。 流れに乗った気持ちは前に進むしかできない。 俺も、詩乃さんに…… 言ったら傷つける。 気づいた。 今になってようやく。 なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう。 食費を、渡したくて…… ………… それで…… それで、バイトをしていたのね 詩乃さんは静かな眼差しを送っている。 穏やかに見える。 そう振る舞っている。 誰も口を挟まない、だからおそらく皆が気づいている。 俺の言葉がなにかを壊したこと。 私のために、バイトをしていたのね 詩乃さんのなにかを壊したこと。 私のせいで、負担をかけてしまったのね こうなってしまうと、なぜ考えが至らなかったのか。 俺は自分のことしか見えていなかったのかもしれない。 詩乃さんのことが見えていなかったのかもしれない。 私は、頼りにならないかしら 家族として、あなたの頼りにはならないのかしら…… 俺たち家族は三人だった。 俺が物心ついた頃には三人だった。 小河坂千波。俺のひとつ下の妹と。 小河坂〈歌澄〉《かすみ》。 それが俺と千波の母の名だ。 俺が産まれた当時は母さんもこの家に暮らしていた。 俺にとっての祖父母、母さん、詩乃さんの四人暮らしだったそうだ。 今では祖父が病気で亡くなり、老いた祖母は親戚のほうで暮らしている。 詩乃さんは仕事がいそがしく、介護にまで時間が割けない。 詩乃さんはそれでもと言い募ったそうだが、祖母はみずから家を出たそうだ。 母さんと同じように、だけど違う理由で。 母さんはお腹に千波を宿すとすぐに家を出た。 赤ん坊の俺を抱いてアパート暮らしを始めたのだ。 その苦労は想像に難くない。 妊婦というだけでも負担だろうに、赤ん坊の俺の世話まで加わるのだ。 仕事は当たり前のようにできなかった。 当面の生活費はどうにかなったようだが、出産が間近になれば俺の世話まで手が回らなくなる。 そんな母さんを助けたのが、詩乃さんだと聞いている。 祖父母や親戚一同の反対を押し切って実家を出た母さんなので、詩乃さんは内緒で手助けしていたようだ。 そう。 孤立無援となってしまった母さんの唯一の味方だったのが、詩乃さんなのだ。 姉さんから、聞いていたの…… あなたは、甘えない子供だって お小遣いをねだったこともない わがままを言って困らせることもない 親子喧嘩をしたことすらない それはたぶん、自分が頼りないからかもしれないって、姉さんから聞いたことがあったの…… 私はそのとき、こう答えたわ 洋ちゃんは、優しい子だから、仕事や家事でいそがしい姉さんを助けたいだけだって 姉さんの負担を軽くしてあげたいだけだって…… そう、私は軽い気持ちで言ってしまった…… 子供を持たない私だから、理屈だけでそう答えてしまった…… だけど…… 詩乃さんの瞳は俺から外れない。 慈愛に満ちている。 大きすぎる。飲まれるほど。 だからこそ直視できない。 今なら、わかるの 姉さんの気持ちがわかるの 理屈じゃない、親としての気持ちというものが、私も少しはわかるようになったの…… だから詩乃さんは傷ついた。 不出来な子供が親を傷つけた。 ……違うのよ。責めているんじゃないのよ だってあなたは悪くない なにも悪くないのよ 詩乃さんはほほえんでいる。 その笑顔がまるで謝っているように見える。 だって洋ちゃんは、とっても優秀なんだから その言葉が物語っているように聞こえる。 俺の過ちを、突きつける。 あなたは、姉さんの自慢の息子なんだから 俺は食費を渡せなかった。 渡さないと決めたわけではなく、出かける予定の時間を過ぎてしまったからだった。 蒼さんは肝試しに参加しないと告げた。鈴葉ちゃんもそれに従った。 詩乃さんのそばに残るべきだと思ったんだろう。それで正解だ。 蒼さんたちが残らなければ千波が残っただろう。 俺は、どちらにしろ残ることができなかっただろう。 気分が落ち着かない。 焦心が湧く。 詩乃さんともっと話すべきだとわかっているのに、足は学校に向かっている。 俺はきっと逃げている。 お兄ちゃん…… 千波が、普段の大声からは考えられない神妙な声で話しかけた。 詩乃さんが言ったとおり、お兄ちゃんは悪くないよ…… 俺は答えなかった。 千波が神妙だったのはそこまでだった。 だから元気出しなよっ、お兄ちゃんの代わりに千波がバイトするからねっ、千波はあくまで誰のためでもなく自分のためだけにお金稼ぐからねっ いい心がけだ、千波 なのにぐりぐりするのはデフォルトなのお兄ちゃん!? 急ぐか。肝試しに遅刻する うんっ 千波は笑顔で返事した。 それきり、無言だった。 話しかけてはこない。 ただほほえんだまま、千波は俺にくっついていた。 約束の時間を過ぎたからか、校門には誰もいない。 明日歩たちは先に肝試しを始めてしまったんだろうか。 静かだね…… そうだな いかにも宇宙人が出そうな雰囲気だね…… それを言うならお化けだろ オカルト部長と明日歩先輩、もう校舎の中かな かもな。追いかけるか うんっ 先にメールでも送るべきだろうが、俺はしなかった。 なによりじっとしていたくなかったのだ。戻るからここで待っていろと言われたくなかった。 俺は千波を連れて校舎を目指した。 足音が木霊しないよう、注意深く歩を進める。 人の気配はない。 といっても先までは見通せないので、一階に明日歩たちがいないと決まったわけじゃない。 言うまでもないけど、静かにな わかってるよっ、千波はすっかりベテラン肝試し〈人〉《にん》になったからねっ 千波はどう考えていたんだろう。 俺のバイトをどう考えていただろう。 詩乃さんを傷つけてしまうと知っていただろうか。 だったら千波も一緒にバイトなんてしなかった。だから俺と同じかもしれない。 ……いや、そもそもの前提が違う。 俺と千波は同じじゃない。目的からして違っていた。 千波は自分のためにバイトをした。 俺は詩乃さんのためにバイトをした。 その決定的な相違が、すべての答えかもしれない。 ……誰もいないみたいだね 廊下の突き当たりまで行き着いた。 噂の場所は二階の視聴覚室だし、そっちかもな 天クルの部室が心霊スポットというのは、部員として納得いかないが。 謎の人影の正体をつかめば解決する。 万夜花さんの言う〈星神〉《ほしがみ》様なら、天クル的には宇宙人やら幽霊よりは絵になると思った。 それじゃ、二階にレッツゴー! 肝試しのベテランだったら声は控えて欲しかった。 二階に着いたとき、マナーモードのケータイが震える。 明日歩からのメールだ。 遅刻した俺たちを待っていたふたりは、校門で警備員らしき人影を見つけて展望台のほうに逃げたらしい。 今は校門前で待っているようだ。 だってさ、千波。戻るか ………… 千波? 千波は廊下の奥を見つめていた。 突き当たりまで進めば音楽室。 その手前に天クルの部室がある。 千波はふらふらと歩いていく。 おい、千波…… ……お父さん ぼんやりとしたつぶやきだった。 すぐに千波は歩みを止めた。 あ……あれ…… きょろきょろとあたりを見渡す。 ……どうしたんだ? 千波はうつむいて言った。 今、聞こえたの…… 聞こえた気がしたの…… オルゴールの音…… お兄ちゃんと一緒に作った、オルゴールの音色…… 千波はもう一度、周囲を見回す。 窓から差す星明かりが静寂の中を横切っている。 ……なにも聞こえないぞ? 千波は首を振る。 ちゃんと聞こえた……さっき聞こえたの…… 間違えるはずない…… だって、千波は毎日聞いてるから…… 千波がしおらしくなっている。 核弾頭の元気が消えている。 俺は目を細めて薄闇の奥を見やる。 オルゴールの音が聞こえたのか? うん…… 千波の部屋にあるオルゴールの曲なのか? うん…… あの曲のタイトルを俺たちは知らない。 元にした楽譜に載っていなかったのだ。 その曲は一般的なものじゃないから。 今はもういない、千波の父親が作曲したものだから。 間違いないんだな? うん…… なら、行こう 千波は瞳をぱちぱちする。 部室に行ってみよう。確認するだけならすぐだしな 明日歩たちを待たせることにはならないだろう。 千波の好きな幽霊とご対面できるかもしれないぞ 千波が好きなのは宇宙人だよっ そうだったな 千波の頭をぽんとたたく。 唯一無二の曲をほかのオルゴールが奏でたとしたら。 そのオルゴールは、千波の父親の幽霊が作ったのかもしれない。 少し歩くと、部室から漏れた明かりをはっきりと見て取ることができた。 大変です……大変です…… 大変そうに聞こえないが、どうした なんと……人がこちらに向かっています…… ……またか。一昨日と昨日もそうだったが オルゴールを鳴らしたのが間違いだったのでは…… 確認しないと直せないだろうが 修理は終わったんですか……? あと少しだ。曲はもう鳴るけどな 残りの作業は中断したほうがよさそうです…… ……またあいつらなのか? なんとなんと……そうです…… すぐ片付けに入る やっぱり会いたくないんですね…… そうだ あの子たちがこの学校に通っているなら時間の問題なのに…… ……それでもだ。悪いか 悪くないです……クスクス…… ……その笑いはやめろ ダメ人間……クスクス…… ……言ってろ。とにかくすぐ逃げるぞ 逃げるくらいなら最初から部室で作業なんてしなければいいのに…… 知ってるだろ、俺の家は散らかってるんだ。スペースがないんだよ ダメ人間……クスクス…… ……いいから、俺が見つからないようにサポート頼むぞ わかりました……相手をびっくりさせますから、その間に逃げてください…… 片付け終わったから、電気消すぞ あ……待ってください…… その前に……そのオルゴールを貸してください…… ……どうするんだ? 相手をびっくりさせるのに……使うんです…… それだけじゃない…… キミとの約束を果たすために、使いたいんです…… あ……また…… 千波の言葉どおりだった。 懐かしい曲が流れてくる。 千波のオルゴール。 雲雀ヶ崎から都会へと引っ越したその年に、夏休みの自由研究として一緒に作った。 この音色。 この旋律……。 間違いない。 千波の父親が、自分の娘に唯一遺した贈り物。 ……っ 千波は駆け出した。 引き留めず、俺も続いた。 部室の明かりはもう落ちている。 オルゴールの旋律は続いている。 いるのだ。誰かが。 もしくは、なにかが。 お父さんっ…… 千波が叫んだ。 教えてよ、お父さんっ…… 千波は扉に手をかけた。 千波はっ、千波は…… そして扉を開け放つ。 千波は、いらない子供だったの────? それが、キミの枷ですね…… 立っていたのは少女だった。 それが、キミの悪夢ですね…… 明かりのない部屋の中。 聞こえるのは物悲しいオルゴールの調べと。 それが、キミの『まつろわぬもの』ですね…… 背丈とは不釣り合いのカマを持つ少女の、透き通る声。 それ、私が、送り還してあげます…… 千波は動けずにいた。 それは俺も同じだった。 キミを苦しめているのなら、私が送り還してあげます…… 固まった千波がついた言葉は。 妖精……さん……? その一言だけだった。 私が、〈キ〉《・》〈ミ〉《・》〈を〉《・》〈苦〉《・》〈し〉《・》〈め〉《・》〈る〉《・》〈キ〉《・》〈ミ〉《・》〈を〉《・》、送り還してあげます…… カマが大振りに降ろされる。 刃先は千波の胸を通り抜け、そして弾ける。 千波の中のなにかが。 俺がメアにされたように。 今、俺の目にはたしかにそのように映った。 千波の身体が後ろにかたむいていく。 倒れる前に俺は支える。 千波は瞳を閉じている。 意識がないようだった。 眠っているかのよう。 そんな千波を目の前の少女が見つめている。 星明かりが、その幼い容姿を薄ぼんやりと照らしている。 私は、見守る者…… ですが、必要な場合には、助けになって欲しい…… そう言われていますから…… そう約束を交わしていますから…… いつか、こうなることは知っていましたから…… ですから、約束を果たしました 少女は帰ろうとしている。そう感じる。 メアがするように消えてしまう。 混乱をきたしている場合じゃない。そう思考できた、徐々に冷静を取り戻している。 喉が正常に働いてくれる。 ……まだ帰るな ………… 今……なにをした? 千波さんの枷を断ちました…… 答えが返る。 姿はまだ視認できる。 展望台の死神の言葉を借りるなら、悪夢を刈ったということ…… 星天宮の言葉を借りるなら、まつろわぬものを送り還したということ…… 私自身の言葉を使うなら、恋を裂いたということ 一言たりとも聞き逃さない。 飛びかかって千波に害をなしたこいつを取り押さえても価値はない。 キミにとっての悪夢が、想い出だったのと同様…… キミにとってのまつろわぬものが、展望台の彼女だったのと同様…… 千波さんにとっての、自分の枷となる存在が──── ───千波さん自身だった、それだけのことです 少女の姿は星明かりに溶けた。 ……そうか、今の少女は。 彼女は千波を刈ったのか。 俺は千波の容態を見る。 声をかける。 肩を揺らす。 反応はない。目覚めない。 呼吸は確認できる。 だけど意識を取り戻さない。 展望台での再現。 あのときと同じ、眠っているだけ。 そう思う。 ───千波はまだここにいる。 そう信じるしかできなかった。 千波をおぶって校舎を出る。 校門前で明日歩と飛鳥に出会った。 ふたりは背中の千波に驚いていた。 眠かったみたいでな、とだけ返した。 肝試しは中止となった。 思考が淡泊になっている。 時間がコマ送りに進んでいる感覚。 ふたりとは、自宅の前で別れた。 帰宅したあと、目覚めない千波を部屋に運んだ。 ベッドに横たわる千波はやはり眠っているようにしか見えない。 洋ちゃん、今お医者さまに連絡したわ ……すみません 謝らなくていいのよ。それに、お礼もいらない 今度だって、洋ちゃんのせいじゃないんでしょう? 返事はできない。 直接の原因はあの少女だ。 だけど、もしかしたら。 少女が言ったように、千波の悪夢が、千波自身だったのだとしたら。 千波ちゃんの様子はどう? 詩乃さんが千波の顔を覗き込む。 ……眠っているだけだと思います そう言い聞かせる。 だったら、心配いらないわ 明日になれば、元気な千波ちゃんに会えるから 詩乃さんの呼んだ医者──姫榊父が訪れると、俺たちは千波の容態を診てもらった。 今回は首の後ろにアザがあるわけではなかった。 なので断定はできないが、おそらく眠っているだけだろうとのことだった。 明日、病院で精密検査をしてくれるらしい。 前回と似たような展開。 だが決定的に違うのだ。 千波は眠っているだけと信じたくても心の奥では否定する。 目覚めないかもしれない。 千波はここにいる。 だけどいないのかもしれないのだ。 ……洋ちゃん 深夜になって、千波に付き添っていると詩乃さんが様子を見に訪れた。 洋ちゃんはまだ寝ないの? 視線は千波に向けたままうなずく。 千波ちゃんは大丈夫よ。明日になれば…… ……保証できませんから 詩乃さんに当たるような口振りになった。 後悔。 保証ならできるわ 詩乃さんはそう答えた。 ……え? 保証できると言ったのよ。千波ちゃんは大丈夫 私が保証するわ どうして、という言葉を飲み込む。 だから、あなたは安心していいのよ…… 今なら、わかるの 姉さんの気持ちがわかるの 理屈じゃない、親としての気持ちというものが、私も少しはわかるようになったの…… 保証なんてものは、子供じゃない、親がすることだと思うから…… 家族がすることだと思うから…… その、寂しそうな笑顔。 私は、夜中まで仕事をしていることが多いから 朝に寝ることも多いから だからね、徹夜にだって慣れているのよ ……詩乃さん 俺は詩乃さんと向かいあう。 だけど視線はわずかに逸れている。 詩乃さん。俺、詩乃さんを家族だと思ってます だけど、甘えるとか、そういうのはちょっとよくわからなくて…… いいのよ 言ったでしょう。あなたは悪くないのよ それに、私たちにはまだたくさん時間があるじゃない もっと一緒にお話しできる、もっと一緒にご飯が食べられる、悲しむことも笑うことも一緒にできる 一緒にお風呂だって入れるのよ いやそれは家族としても間違ってます あらあら 笑われる。 そんなたくさんの時間の中で、一緒に家族を作っていきたいって思うのよ あなたと、千波ちゃんと、みんなで 私は、昔からよく夢見がちって言われていたけれど…… これも、ちょっとキレイすぎるかしら? ……そうですね 詩乃さんはほほえんでいる。 俺も笑うことができただろうか。 だけど、そのくらいでちょうどいいかもしれません 家族の初心者の俺たちには、もってこいかもしれません 千波ちゃんの看病、代わってくれる? はい 立ち上がって、視線を逸らさずに言った。 詩乃さんじゃなければ、代わらなかったと思いますから そうして俺は夢を見た。 自室の明かりを消し、ベッドに入ると、思ったよりも疲労が大きかったのかすぐに眠りについた。 詩乃さんになら千波を任せられる。その安心も大きかったかもしれない。 夢は、家族の夢だった。 幼少時、都会に引っ越したのは七月だった。 この雲雀ヶ崎に戻ってきたのも七月。同じく夏休みを控えて慌ただしかったのを覚えている。 新しい学校に慣れないままあっという間に休みに入り、当時は交友に疎かった俺なので友達なんかはまだいない。 それは千波も同じだった。 今では友達作りの天才(本人はどう思っているのか知らないが)の千波だが、子供の頃はまだその片鱗もなかった。 鈴葉ちゃん似で引っ込み思案だったのだ。 千波がよく鈴葉ちゃんを気にかけるのは昔の自分に照らし合わせているのかもしれない。 とはいえ、家事を手伝おうとしては大惨事を起こすところは今も昔も代わらないのだけれど。 そんな千波が反抗期に入って家事を手伝わなくなったのはある意味平和な時間だった。 その平和的反抗期が終わりを告げたのは、都会の学校での夏休みの出来事がキッカケだったのだと思う。 千波は、自由研究のオルゴール制作に乗り出した。 まだ友達がいない千波には打ち込むなにかが必要だった。 母さんはそう思ったのかもしれない。 ひとりでいる千波に、母さんは楽譜を渡した。 この曲でオルゴールを作ってみないか、と。 母さんも手伝うつもりだったのだが、反抗期真っ盛りの千波はひとりでできると言って聞かない。 それでもオルゴールの制作自体に反抗しなかったのは、その曲が千波の父が作曲したものだと教えられたからだろう。 千波は楽譜と一緒にオルゴールの自作キットを受け取ると、あとは自室にこもり、夢中になって作業した。 難航していたようだった。 千波はもともと手先が器用じゃない。家事では失敗ばかりを繰り返しているくらいだ。 千波は部屋にこもりっきりでいつまで経っても出てこない。 顔を見せるのは食事の時間くらい。 いったいオルゴール制作はいつ終わるのか。 見かねた俺は、千波の部屋に勝手に入った。 俺の登場に千波は驚いていた。 驚いて、怒っていた。 出ていって、と言われた。 出ていかない、と答えた。 なんで、と聞かれた。 うるさい、と答えた。 お兄ちゃんなんか大嫌い、と言われた。 俺も嫌いと答えそうになって、好きだと答えた。 千波はなにも言わなくなった。 あとはおたがい口も利かなかった。 ただ黙々と作業する千波を俺も手伝っていた。 千波の父が遺した曲を奏でる、ペーパータイプのオルゴールは、こうして完成を見た。 なぜ千波は自作のオルゴールに夢中になったのか。 父親を想って? それだけが正解とは思えない。 千波の父は学生時代から作曲が趣味だったそうだ。 幼少の頃からピアノを習っていた影響らしい。 そんな彼と、母さんはつきあっていた。 ヒバリ校でつきあっていた。 そして卒業前に別れた。 俺の父親──〈三嶋大河〉《みしまたいが》と母さんが結ばれたのはその後だと聞いている。 俺を産み、母さんはそれから今度は父さんと別れ、また千波の父とつきあうことになる。 その詳しい経緯は俺も知らない。 ふたりの娘となる千波が誕生したのは、俺が産まれてからまだ二年と経っていなかった。 俺と千波は異父兄妹となった。 世間的にはあまり誉められた行為じゃない。事実、母さんは両親や親戚からもいろいろと言われたそうだ。 だから母さんは家を飛び出した。 俺と千波を抱えて、自分ひとりで育てることを決めた。 その頃には、千波の父は他界していた。 その死は予定されていたことだった。 ヒバリ校でふたりが恋人として過ごしていた頃から、宣告されていた運命だった。 千波は父親の墓参に行っていない。 千波はおそらく父親を快く思っていない。 だけどそれは同時に、母さんの気持ちを踏みにじることにもつながる。 母さんは千波の父を愛していた。 楽譜を大切に持っていたことがなによりの証明だ。 だから、千波は母さんと同じように父親を好きになろうとしたんじゃないだろうか。 オルゴールの自作はその努力の表れじゃないだろうか。 夏休みが終わり、千波はオルゴールを学校に提出し。 先生にたくさん誉められ、千波は変わった。 反抗期が終わったのだ。 友達を百人作ることのできる千波が生まれたのだ。 それは、千波が成長したということだろうか。 反抗期が終わったから、友達を作るようになったということだろうか。 そもそも千波はなぜ反抗期になったのだろう。 反抗期が終わったのに、なぜ父親の墓参を今でも頑なに拒むのだろう。 母さんが死んで、雲雀ヶ崎に戻ってくると、千波は今度は俺の世話をやりたがるようになった。 なぜだろう。 そして。 千波は、いらない子供だったの────? つながっている気がする。 すべてはからまる一縷。 たどれば答えに到達する。 見えた。 そうか、千波。 だけどな、千波。 たとえおまえの本当の気持ちを知らないままでいたとしても、俺はうれしかったよ。 いつでも俺のそばにいてくれた千波。 純粋にうれしかったんだ。 俺は、おまえの元気に何度も救われてきたから。 だから誓ったんだ。 ふたりでオルゴールを作り、完成すると、千波は泣いた。 その涙はうれし涙じゃなかった。 子供心にわかったんだよ。 だから誓ったんだ。 泣かせないと誓った。 おまえを二度と泣かせないと誓ったんだ──── 千波さん……千波さん…… 聞こえますか……千波さん…… 意識を……こちらに…… そう……その調子です…… 眠りから覚めるように…… 赤ん坊が産声をあげるように…… キミを待つ世界を感じてください…… その先にある私を知覚してください…… おはようございます……千波さん…… ………… え……? 気分はいかがですか…… え、えっ……? 妖精……さん……? はい……妖精さんです…… ここって…… 超銀河団領域…… 幾千億の星を抱える銀河……幾千の銀河を抱える銀河団…… さらに幾ばくの銀河団を抱える領域……超銀河団…… キミは……そんな高次元の世界にいるんです…… ……? 限りなく全知全能に近い……十二次元の領域です…… ……?? 人のふるさとである天の川銀河……さらにそのふるさととも言えるでしょう…… ……??? 考えないでください……どうせ夢ですから…… 千波、夢にいるの? はい…… 私が……キミをここに送り還したんです…… ふたりきりで……お話ししたかったから…… お部屋ではいつもふたりだったよ? それはただそう見えていただけです……三次元領域では知覚に限界がありますから…… 妖精さんのほかに誰かいたの? はい…… 誰? 高次元の〈星霊〉《せいれい》をときおり見かけました…… ……? 幽霊みたいなものです…… 幽霊が千波のそばにいたの? はい…… 宇宙人じゃなくて? 残念ながら違います…… 千波、幽霊なんて見たことないよ? 考えないでください……どうせ夢ですから…… 今気づいたけど、千波なんで裸なの? 深く考えないでください……どうせ夢ですから…… 妖精さんはナイトメアなの? 悪夢を体現させる夢魔ですか……六次元の存在ですが……よくご存知ですね…… 蒼ちゃんから教えてもらったんだよっ だけどぶっぶー……ハズレです…… そうなの? そうです…… じゃあなんなの? 星の神さまです…… そうなの? そうです…… といっても、そんなたいそうなものではなく、単にそういう類の存在というだけです…… キミとはふるさとが違うだけの存在です…… 妖精さんのふるさとってどこ? 忘れました…… キミたち人間がよく忘れてしまうように……私も忘れました…… ですが……零次元あたりに籍があればいいなあなんて思ったりしてます…… どうして? 全知全能の神さまのふるさとだからです…… それってすごいの? わかりません……ですが妖精さんとしては勝ちかなーと思います…… ……? 考えないでください……どうせ夢ですから…… えっと……妖精さんは 名前はレンです…… 天文部の皆さんは、そう呼んでいました…… 今は、恋の死神なんて呼ばれているみたいですけど…… ……都市伝説の死神のこと? たぶんそうだと思います……いくら私がダメ人間フェチだからって…… ……? ダメかわいい人が好きってことです…… それだと、どうして恋の死神になるの? 恋に溺れる人間ほどダメな存在はないからです……それで私が干渉したせいだと思います…… そうなの? そうなんです……たぶんですけど…… レンさんって呼んだほうがいいの? それとも恋の死神さん? 妖精さんで結構です……どうせ夢ですから…… あの、妖精さんのお話って…… そうですね……話が脱線してしまいました…… キミに言わなければならないことがあるんです…… 大河くんとの約束で…… え…… 大河……それって…… 私は彼との約束で、キミを見守っていたんです…… 助けが必要なときは、助けて欲しいって言われていたんです…… だから……教えます…… キミのそばにいた……〈星霊〉《せいれい》からも聞いていたこと…… キミの両親のことを教えます──── ───小河坂千波は自分の出生を知っていた。 それを知ったのは墓参りの日だった。 まだ都会へと引っ越す前、雲雀ヶ崎に住んでいた頃、小学生だった千波は偶然聞いてしまったのだ。 自宅のアパートの玄関先で、母の歌澄が祖父母らしき人と話している会話。 洋は墓参に出かける準備でそばにいなかった。だから千波はひとりで耳をそばだてていた。 話の内容は千波の父親、そして洋の父親についてだった。 歌澄はてっきり洋の父親と結婚するものだと考えていた周囲の家族。 なのに歌澄は洋を出産後すぐに別れ、ほかの男と結ばれた。 そして千波を産んでしまった。 当時はそんな歌澄を責めてしまった。結果、勘当のかたちとなった。 だけど時間が経った今、また実家に戻ってきて欲しい。 洋と千波を連れて一緒に暮らさないか。 家族みんなで暮らさないか。 自分たちはそれを望んでいる。 詩乃もそれを望んでいる。 だから、千波の父の墓参にも同行させて欲しい。 今なら、すべてを受け入れられると思うから。 歌澄はその申し出を断った。 今は戻れない。私はまだ義務を果たしていない。 子供たちを育てる責任を果たしていない。 それは、私が背負った夢だから。 これまで漠然と父親の墓参りをしていた千波は、この日を境に行かなくなった。 千波の父は、歌澄と恋に落ちてしまった。 子供心にそれが許されない行為であることは知っていた。 千波は歌澄に反抗するようになった。 歌澄の味方をする兄にも反抗するようになった。 父の墓参りなんてもってのほか。 夏休みに作ったオルゴールをキッカケに、母と兄に対する気持ちは和らいでいくのだけれど。 父だけはどうしても許せない。 だって、彼のせいで母と兄は苦労している。 母は仕事、兄は家事に追われている。 誰かに助けを請うこともできず。 母と兄だけに負担がかかっている。 千波は足手まといにしかならないから。 母と兄だけが犠牲となっている。 その果てに、母は倒れてしまった。 苦労を重ね、過労で倒れてしまった。 千波の前からいなくなった。 だから今度は兄の番。 面倒ばかりかける千波を、今度は兄ひとりで世話しなければならない。 兄だけに負担がかかってしまう。 兄が犠牲になってしまう。 その果てにいなくなってしまう。 千波の前からいなくなってしまう……。 嫌だ。 千波の世話をすることでお兄ちゃんがいなくなるのなら、その逆のほうがずっとマシ。 千波がお兄ちゃんの世話をして、千波がいなくなったほうがずっとマシ。 だって千波はいらないから。 足手まといにしかならない千波はいらないから。 ねえ、お父さん。 どうしてお母さんと子供なんか作ったの? ねえ、お母さん。 どうして千波を産んじゃったの? そんなことしなければ、苦労なんかなかったのに。 犠牲にならずにすんだのに。 お母さんと大河さん、お兄ちゃんの三人で幸せに暮らしていけたのに。 どうして、ねえどうして。 教えてよ、お父さん。 教えてよ、お母さん……。 お兄ちゃんと一緒にオルゴールを作ったとき…… 千波はたくさん泣いたんだよ…… とってもいい曲だったから、泣いたんだよ…… よくない曲だったらよかったのに…… そうしたら、お父さんのこと、もっと嫌いになれたのに…… 千波は、悔しくて泣いたんだよ…… ……はい 悔しくて……それから心の中で、ごめんなさいって謝ったんだよ…… 千波のせいで……迷惑かけて…… お母さんとお兄ちゃんに……迷惑ばかりかけて…… ……はい お母さんとお兄ちゃんばかり……犠牲になって…… そのうちに……お母さん死んじゃって…… ……はい 千波のせいで……死んじゃって…… ………… だから……お兄ちゃんまで…… ……それは、わかりません 私がわかるのは、ひとつだけ キミが気に病む必要はなかったこと…… キミにとっては悪夢だったそれも…… みんなにとっては、夢だった…… キミの母の幸せは、キミが幸せであること…… キミの父の幸せも、キミが幸せであることだった…… ウソ…… ウソじゃありません…… 私は本人から聞いていますから…… 〈星霊〉《せいれい》となってもキミを見守っていた、キミの両親から聞いていましたから…… そうなの……? そうです…… じゃあ……お兄ちゃんの幸せは……? それはわかりません…… キミが自分で聞いてください…… どうやって聞けばいいの……? わかりません……自分で考えてください…… 千波は、考えるの苦手だよ…… わかっているじゃないですか…… 最初から、それでよかったんですよ…… キミは家族について考えなくてよかった……責任を感じる必要なんてなかった…… 無理に父親を嫌いになることはなかった…… 母親に反抗することはなかった…… 兄を世話しようなんて気負わなくてよかった…… ただ、感じるままでよかったんですよ…… 感じる……まま…… お父さん…… お母さん…… お兄ちゃぁん…… それで……いいんですよ…… キミの父が作曲し…… キミの母が楽譜を守り…… そしてキミの兄が、キミと一緒にオルゴールとして再現した…… この旋律が家族の象徴…… だから…… 送り還したキミの夢、私がまた還してあげます…… キミの家族に還してあげます…… キミを、家族のもとに還してあげます──── やっほー やっほー、じゃない。こんな時間にいきなり電話して、今から行くと一方的に告げて切るとはどういう了見…… コーヒーお願いねー ……キミはいつまで経っても傍若無人だね うちの旦那がさ、詩乃のところに診察にいったのよ。大事はないらしいんだけど、ちょっと気になってね ……待ってくれ。話がつかめない 例の都市伝説が気になっただけよ。昨日、あんたの娘たちも聞きにきたんだけど そうなのか なにとぼけてるのよ。あんたの差し金でしょうが どうして差し金になる。知りたがっていたからキミを紹介しただけだよ べつに怒ってるわけじゃないわ。私も若い子と話せて楽しいっちゃ楽しかったし 結局、僕になんの用なんだい 天文部の部長だったあんたは、都市伝説をどう考えていたのか。聞きたくなってね 僕は信じていたよ どの部分を? 僕が知っている都市伝説では、余命幾ばくもない男が、恋人だった女に自分のことを忘れて欲しいと願った…… すると死神が現れて、女から男の記憶を奪っていった そしてそのまま男女は別れることになった…… その中のどの部分を信じるのよ すべてだよ 恋の死神がふたりの恋を裂いたって? ああ レンがあのふたりの恋を引き裂いたって? ああ 本当なら酷な話ね そうかな。僕はそうは思わない なんでよ。これだと死神のせいでふたりは別れたってことになるじゃない レンのせいで歌澄が恋を忘れたってことになるじゃない やったのはレンじゃないさ。実際に手をくだしたのは彼女だろうけど…… だけど、彼の気持ちを考えるとね 私にはわからないわ。好きになった相手に自分のことを忘れて欲しいだなんて そうだね。僕も、都市伝説がそこで完結していたら納得できなかったかな どういうことよ この都市伝説には、続きがあるじゃないか 男のことを忘れてしまった女は、時を経て再び男と巡り会い…… そしてもう一度、恋に落ちた ……私は、やっぱりわからないわ だって女にはもうほかの男がいたんだから そうだね。これはキレイな純愛物語じゃないからね あと、もうひとつわからないことがあるのよね なんだい? なんでこの話がヒバリ校の都市伝説になったのか、よ 僕たち天文部はよく天体観測をしていた。夜に、展望台や校舎の屋上を使ってね そこにはレンも一緒だったことが多かった…… そんなレンをたまたま見かけた誰かが、死神だと思ったんじゃないかな あの大きなカマを見て? ああ それで、生徒の誰かが噂を広めた? ああ じゃあ男女の仲を裂いたってのはどうするのよ どうしたものかな なによ、結局あんたもわからないんじゃない それを解くのは、僕らの世代じゃないだろう 都市伝説の男女──その子供たちの世代だろうさ 噂を流した誰かも、たぶんそれを望んでいるからね 小河坂詩乃がそれに気づいたのは、カーテンの隙間からやわらかな陽射しが差し込んできたときだった。 千波の瞳がうっすらと開く。 一度、ゆっくりと瞬きして、それから二度三度と続けてぱちくりする。 ……千波ちゃん 詩乃は声をかけた。 大きな安堵に徹夜の疲労が重なり、その声はかすれていた。 それでも届いたようで、千波の視線がこちらに向いた。 ぁ…… 毛布から千波の手が伸びる。 詩乃は握ろうとした。 手を握って、ほほえんで、おはようと声をかけたかった。 だけど、できなかった。 なにかが邪魔をした。 自分の内にあるなにか。 逡巡する詩乃の横で千波が上体を起こす。 宙ぶらりんの千波の手はまだ伸びている。 詩乃から、それは違う場所へと向きが変わる。 オルゴール…… すがるような声だった。 オルゴール……家族の…… 家族、という言葉が痛かった。 締めつけられる痛みに詩乃は突き動かされた。 オルゴール、取って欲しいの? うん…… 詩乃はサイドボードに歩み寄り、飾られていた自作のペーパーオルゴールを手に取った。 都会の小学校で作ったと聞いているが、よほど使っているのか過ぎた年月のわりに古ぼけている。 なのに汚れて見えないのは、千波が丁寧に手入れしているためだろう。 詩乃は、千波が家族と言ったそのオルゴールを手渡した。 千波はハンドルを回す。 旋律が部屋を満たした。 この曲は知っている。 オルゴールとしてではなく。 天文部に所属していた学生時代、あの人が音楽室のピアノで弾いていた。 詩乃がヒバリ校に入学し、どの部活に入ろうか悩んでいたときのこと。 まずは姉の歌澄が入部している吹奏楽部の見学をしようと音楽室を訪れると、彼がこの曲を弾いていた。 詩乃は魅せられたのかもしれない。 彼が吹奏楽部の部員ではなく天文部に入っているのだと知り、だから詩乃は追いかけた。 詩乃は天文部に入部した。 彼が姉さんとつきあっていると知ったのはそのあとのこと。 姉さんは吹奏楽部の部員、彼は天文部の部員。 彼は、姉さんとつきあっていたから吹奏楽部によく顔を出していた。 詩乃は気になって彼に聞いたのだ。 なぜ姉さんと同じ吹奏楽部に入らなかったのかと。 そんなにピアノが上手なのに。 作曲までできるのに。 彼はこう答えたのだ。 オレは、雲雀ヶ崎の星空が好きだから、と。 お父さん…… 想い出の旋律が流れている。 あたたかい音色、千波の涙に詩乃の心も震える。 お母さん…… 詩乃は手を伸ばそうとした。 千波の肩を抱こうとした。 だけどできない。 ためらいが生まれる。 ……なぜ? 私は、この子たちと一緒に暮らすと決めたときに誓ったのに。 姉さんに、あの人に誓ったのに。 約束したのに。 ふたりが叶えられなかった夢を私が叶えると。 ふたりの子供たちを私が引き継ぐと。 私が、この子たちの還る場所に。 この子たちの我が家に。 家族に。 家族──── ───家族を作れない身体の私に、その資格があるというの? 『あるわ、私たちが保証する』 背中を押された気がした。 優しく、そっと。 詩乃は千波を抱きしめる。 抱きしめることができた。 初めて。 一緒に暮らすようになってから、初めて。 声が、聞こえたんだ。 がんばって、と。 勇気を出して、と。 あ…… 詩乃さん…… お母さんと……同じ匂い…… 同じくらい……あったかい…… 詩乃さん……ううん…… お母さん…… 大好き──── 家族の愛というのはどうしてこう重いのだろう。 それを背負って歩くのは並大抵の苦労じゃない。 本当に、息切れするくらいに。 なあ父さん、あんたもそう思うだろう。 そのうち、あんたにも味わってもらうからな。 この、窒息するほどの幸せってやつを……。 おはよう、お兄ちゃん 目を覚ますとそこに千波がいた。 驚くよりも、千波の意識が戻ったことに安堵するよりも先に苦しかった。 千波はあろうことか安眠中だった俺の上に乗っかっていた。 やっと、お兄ちゃんより早く起きられたよ 全体重を俺に押しつけ、千波は小さくほほえんでいた。 約束どおり、千波に朝食作らせてね 俺は反論しようとした。 だけど肺が圧迫されて息をするのも困難だった。 だってね、だって…… お兄ちゃんは、がんばってたから…… 昔から、友達と遊ぶこともしないで、お母さんの家事の手伝いばかりやってたから…… ひとりでがんばってたから…… 千波も手伝うって言っても、断って…… それどころか、面倒かける千波の世話までして…… 千波はいろいろ下手っぴだから、なにもできなくて…… だから千波、やり方を変えてたの…… お兄ちゃんに面倒かけないように、友達をたくさん作ろうって思ってたの…… そうすれば、お兄ちゃんは安心する…… 友達がたくさんいる千波だったら、お兄ちゃんが世話することもない…… 千波のそばにいなくても大丈夫って思える…… お兄ちゃんの負担がなくなる…… お兄ちゃんは犠牲にならないですむ…… なのに、なのにね…… 千波が友達たくさん作っても、お兄ちゃんはあんまり変わってなくて…… やっぱり千波は面倒かけて…… やっぱりお兄ちゃんは千波のそばにいなくちゃで…… だからね、今日こそはね、千波が家事するんだよ…… お兄ちゃんより早く起きたから、千波がお兄ちゃんの世話するんだよ…… 千波はもう、子供じゃないから…… 子供の千波は、嫌いだから…… なにもできない千波は、嫌いだから…… お兄ちゃんに頼ってばかりじゃダメだから…… だから、千波は…… 俺は、千波の頭をぽんとたたく。 ……バカ やっと声が出せた。 やっぱり、そんなこと考えてたのか 普段は考えなしのくせに、変なところばかり考えて 違うんだよ…… 俺は、おまえを負担に思ったことなんてない 子供の頃は、母さんの手伝いだけで手一杯になって、ほかのことに目を向ける余裕がなかったけど…… だけど、もう大丈夫なんだ おまえが子供じゃなくなったように、俺も子供じゃないんだよ 今の俺は、なにも犠牲になんかしていない だからさ…… おまえは、おまえのままでいい 俺は、おまえのままのおまえが好きだ 好きなんだよ、千波 俺は、千波が好きなんだ そのままの千波が好きなんだ だから、おまえも好きになれ おまえも、おまえを好きになれ 俺が好きになったおまえを、おまえも好きになってくれ おまえが幸せになれるなら、俺も幸せなんだから…… ………… ……妖精さんの、言ったとおりだった 千波は、幸せ者だよ お父さんとお母さんがいて…… 詩乃さんがいて…… お兄ちゃんも、いるんだから 大好きなお兄ちゃんが、いるんだから そんなお兄ちゃんが、千波のことを好きって言ってくれるなら…… お兄ちゃんが好きな千波を、千波も好きになれるんだよ…… 千波の顔が降りてきて。 唇が、俺の唇に触れた。 窒息しそう。 頭が真っ白になり、本当に窒息しそう。 このキスは、それほどの重みがあった。 お兄ちゃんっ、千波こんなに早く起きたの生まれて初めてかもしれないよっ そりゃ、まだ五時だもんな 私服に着替え、千波とキッチンで合流した。 詩乃さんは自室で仮眠を取っている。病院が開く頃には起きると言っていたそうだ。 千波の検査のためなのだが、千波自身は詩乃さんが病院に用があると思っているようだ。 まあ駄々をこねられたらうまく丸め込むしかない。 お兄ちゃんっ、朝ご飯作らせてくれるって約束守ってくれるよねっ ああ。わかったよ 今さら邪魔なんかしないでねっ しないけど、無理にすることないからな。べつに俺は世話されようなんて思ってないから そうじゃないよっ、千波は難しいこと考えるのやめたんだよっ、今はただお兄ちゃんと一緒に家事がしたいだけなんだよっ 結果的に同じことじゃなかろうか。 それにしても、と思う。 あのキスはなんだったんだろう。 千波が寝ぼけてやってしまった、というには無理がある。 俺の夢だった、というのも無理がある。 冷静に考察してみる。 ううむ。 まさか、と思う。 あのときの俺は、千波に好きだと言った。 そして千波も好きだと返した。 そうか。 そういうことなのか。 ……そういうことでいいのか? じゃあ早速作るねお兄ちゃんっ 我に返ると千波がフライパンを握っていた。 なに作るんだ? シュトーレンだよっ クリスマスに食べるドイツのパンか そのとおりだよっ 生地にドライフルーツを練りこみ発酵させて焼いたのちにラム酒を染みこませバターでコーティングしてからさらにアプリコットジャムを塗る焼き菓子か そのとおりだよっ 難易度が高すぎないか……? そんなことないよっ、千波は卵を焼くだけでティラミスが作れる凄腕料理人だからねっ その凄腕料理人は生地も作らずオーブンも使わず単に卵をフライパンに落としていた。 ……もはやどこからツッコんでいいかわからない。 やめさせたくなったが、楽しそうにフライパンを操る千波を見て思い留まる。 そうだ、ここで俺が無下にしては元の木阿弥だ。 千波は自分のことが嫌いだった。俺はそれを思い知った。 俺は千波を叱るんじゃない、見守るべきだったのだ。 そして誉めてあげよう。 千波が千波を好きであるために。 千波が笑顔でいられるために。 卵が絶妙な案配にどす黒く変色してきたよっ、これでいいかなお兄ちゃんっ 千波最高ー! サイッコー! お兄ちゃんが壊れてる!? もうできたのか? うんっ、見てみてっ フライパンにはびんちょうたんができていた。 千波最高ー! サイッコー! いったいどうしちゃったのお兄ちゃん!? じゃあ盛りつけようか うんっ、テーブルにお皿並べるねっ 大皿に丸太級のびんちょうたんが載る。 フォークで刺すと歯が欠けた。 千波最高ー! サイッコー! それなにかの合い言葉なのお兄ちゃん!? フォークじゃ刺せないみたいだな じゃあ千波があーんしてあげるねっ 千波がびんちょうたんを鷲づかみして突き出してくる。 はい、あーん 千波最高ー! サイッコー! よくわからないけど逃げないでお兄ちゃん!? 恐怖心をねじ伏せてかぶりつく。 どうかなどうかなおいしいかなお兄ちゃんっ 千波最高ー! サイッコー! 口に入れたのすべて吐き出してるよお兄ちゃん!? 千波、兄ちゃんはもうお腹いっぱ…… まだまだあるからいっぱい食べてねお兄ちゃんっ 大皿に丸太級のびんちょうたんがうずたかく積まれる。 千波最高ー! サイッコー! あくまで執拗に繰り返すお兄ちゃんが恐ろしくてたまらないよ!? 今後の朝食作りは徹底的な指導が必要だと思った。 そんなこんなで騒いでいると詩乃さんが起きてきた。 笑顔でいる千波を見て詩乃さんもほほえんでいた。 俺に対しては照れ笑いのようなほほえみを向けた。 俺は、こそばゆくなった。 そして詩乃さんの車で向かった病院で千波が検査を受けたところ、結果はぴんぴんしてますだった。 そっか。千波ちゃんが元気になってよかった~ 千波はいつでも元気ですっ、だからこれからもバイトよろしくお願いしますっ うん。こちらこそよろしくね~ 明日歩も心配していたようで、いつもどおりの千波を見て安心していた。 小河坂くんも、バイトを続けるのかい あ、はい。俺も、今後ともよろしくお願いします 詩乃はなにも言ってなかったのかい ……マスターは知ってたんだろうか。 詩乃さんとは、ちゃんと話しましたから 病院に向かう車の中でも話したのだ。 考えてみれば、俺も千波と同じ間違いを犯していた。 千波が俺の世話をする必要がないのと同様、俺が詩乃さんの世話をする必要はなかった。 家族だから、必要がなかったのだ。 俺、バイトして買いたいものがあるんですよ そうなのかい? はい それはなんだい? あたしは知ってるよ そうだな。天クルのみんなには言ってたからな 以前までは、詩乃さんに食費を渡したあとだと考えていたもの。 俺、天体望遠鏡を買おうと思ってるんです この答えに、マスターは笑ってうなずいた。 それは、詩乃もよろこぶだろうね。もちろん僕もね 僕たちは、雲雀ヶ崎の星空に魅せられた、ヒバリ校の天文部だからね ランチタイムが過ぎた頃、最近よく顔を見せていた飛鳥が今日も来店した。 千波ちゃん、大事はなかったんだな。よかったぜ はいっ、ですから肝試し出動とあらば千波はいつでも馳せ参じますっ おまえ、まだ都市伝説調べたいのか 当たり前だよっ、夕べは妖精さんに会った気がしたけどあれは夢だって言われてるしねっ、恋の死神の正体はまだ暴かれてないんだよっ それでこそオカ研の一員だぜ、また情報仕入れてくるからそのときはよろしく頼むな はいっ、それまでにバイトでお金ためて新しい虫取り網を買っておきますっ あたしも天体双眼鏡磨いておくよ~ 新しいモバゲー探さないとな ……おまえらはもうついてこなくていいから 俺たち四人のそんな会話を、マスターが遠くで満足そうに眺めていた。 夜になって、予定していた天クルの天体観測が始まった。 ……来てあげたわよ 今夜は姫榊の天クル初参加でもあった。 渋っていたんですけど、無理を言って連れてきてしまいました まあ、遅かれ早かれ来なきゃいけなかったし。監督するって言った手前はね ……誰も監督なんか頼んでないのに 明日歩先輩っ、千波も望遠鏡の準備手伝いますねっ うん、ありがと~ 明日歩の天体望遠鏡が組み上げられていく。 千波が惨事を起こさないよう見守っていると、少し離れたところで蒼さんも準備を始めていた。 お姉ちゃん、手伝おうか? ………… ……望遠鏡、さわっちゃダメかな? 蒼さんは鈴葉ちゃんの頭を撫でる。 じゃあ三脚の用意だけお願いできる? うんっ 蒼さんが誰にも触れさせようとしない望遠鏡も、いずれ天クルの皆で用意できる日がくればいい。 ……なんだか部員以外もいるようだけど 見学者ってやつだ ヒバリ校の部外者もいるようだけど…… 規則でOKになっただろ? ふん 姫榊は不機嫌に腕を組む。 まがりなりにも天クルは伝統ある部活なんだから、ヒバリ校に恥じない活動をするようにね 説教が始まった。 ……その伝統ある部活をつぶそうとしてたくせに それと、雲雀ヶ崎の星空にも恥じないようにね そんなのもちろんだよ 僕たちはこの夜空が好きだからこそ、天体観測をするんだからね それはメアも同じだろうか。 展望台でよく星空を見上げているメアは、屋上にはまだ姿を現さない。 だけどもう、いるのかもしれない。 見えなくても、そばにいるのかもしれない。 問題だけは起こさないでくださいね 起こしたらどうするんだい? 廃部にします シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 先輩、どうぞ 知恵の輪を渡すと岡泉先輩はおとなしくなる。 ……はい減点一、と こさめさんが苦笑を漏らしていた。 望遠鏡の準備が整う間、俺は岡泉先輩と話していた。 話題は修理中のカレイドオルゴールについて。 明日、元顧問がマスターにオルゴールを渡しておくそうだよ 直ったんですか? 今日中には直るそうだよ。制作者が言うんだから間違いないんじゃないかな やっぱり、その先生が作ったものだったんですね しつこく尋ねたら教えてくれたよ。隠すつもりはなかったとか言い訳してたけどね その先生、何者なんですか? 何者って? 数学の先生っていうのは聞きましたけど、カレイドオルゴールを作れるっていうのは…… 先生はプラネタリウムの投影技師なんだ 岡泉先輩は楽しそうに言った。 宇宙科学館の館長だった頃もあったそうでね。一時的に教師を退職……いや、異動と言ったほうが正しいのかな 館長をやりながら、臨時講師のかたちで授業をすることもあったそうだから ……学校の一教師からいきなり館長っていうのは、めずらしいんじゃないですか? 先生は伝統あるヒバリ校の天文部の顧問を務めていたし、自身も優れた技術士ということもあって、市の推薦で選ばれたという話だよ ちょうど僕や蒼クンが天文クラブに入っていた頃に、館長を務めていたそうなんだ それから科学館が廃館になると、またヒバリ校に戻ってきた…… これらの話も、しつこく聞いたら渋々と教えてくれたんだけどね ……今の、本当ですか? 話を聞いていたのか、蒼さんが割り込んだ。 本当だと思うよ。本人がそう言っていたんだから ………… 蒼さん、どうかしたか? ……その先生とは、学校の廊下で何度かすれ違って、まさかとは思っていたんです 館長がヒバリ校の先生なら、納得です だから先生は、このカギを私に…… 蒼さんの手のひらに載ったもの。 それはヒバリ校の屋上のカギ。 蒼さんは静かに見つめている。 そこにどんな感情がこもっているのか、今の俺にはまだわからない。 でも、それでなんでオルゴールになるんですか? 先生は複雑な投影機を作れるくらいだ、趣味でオルゴールを作っていても不思議はないかもしれないよ もしかしたら、どうしてもオルゴールを作りたかった理由があったのかもしれないけど…… 言ってから肩をすくめる。 こっちは、いくら聞いても教えてくれなかったよ ……ますます正体が計りかねるんですが キミは転入生だし、まだ会ったことがないんだね。だったら直接会いにいってみればいい まあ、三嶋先生はぶっきらぼうだけど…… ……みしま? 態度はぶっきらぼうだけど、生徒には誠実だから、いろいろと話も聞けるんじゃないかな その先生、三嶋っていうんですか? そうだよ。三嶋大河先生 伝統ある天文部の顧問を長年勤めてきた、僕ら天クルにとっても恩師にあたる先生さ ……修理完了、やっと終わった おめでとうございます……ぱちぱちぱち…… あのバラバラだった惨状から見事カンペキに復元した。俺はやっぱり天才だな おめでとうございます……クスクス…… ……その笑いはやめろ 私は大河くんが大好きです……クスクス…… ……もうとっとと片付けて出るぞ 天クルが天体観測を終えて部室に戻ってくる前でよかったですね…… そうならないように急いだんだ 望遠鏡を置きにきた部員と鉢合わせになったら大変ですからね…… おかげで部員たちが屋上に出るまでここを使えなかったが、終わった今となってはどうでもいい 最初から部室を使わなければいい気もしましたけど…… なんだかんだで、ここが一番落ち着くんだよな 部員からは逃げてるくせに…… 正確には部員じゃない、歌澄の子供たちだ そんなに見つかりたくないんですね…… ああそうだ こそこそと逃げ続けるんですね…… ……さっきからうるさいぞ。歌澄の娘を助けろって言ったの根に持ってるのか それは違います……私は千波さんが大好きですから…… おまえの大好きは相手にとって失礼なんだよ ダメ人間……クスクス…… 片付けたし、行くぞ あ……待ってください……その手にあるのは…… これか? おまえも知ってるだろ、ペンダントだ オルゴールに忍ばせなかったんですか……? ああ。というか、これを入れていたから音が鳴らなかったんだ。スペースを食われてな ペンダントのせいで、大元になるシリンダーを入れられなかったからな では、本当に直したんですね…… そう言ったろ どうして…… キミが言ったんじゃないですか…… 千波さんを見守って欲しいって…… このペンダントを天クルのシンボルに忍ばせておくことで、私は千波さんのそばにいられる…… 千波さんの家はヒバリ校に近いから…… だから、私は千波さんを助けてあげられる…… そう、キミと約束したのに…… なのに、キミが持っていってしまったら、私は…… いいんだ、もう いいんだよ あ、頭……撫でないでください…… 俺は、歌澄の子供たちがヒバリ校に転入すると知って、おまえに頼むことにしたんだ 歌澄が死んで間もない子供たちは元気に暮らしていけるのか。心配だったからな それで、ちょうど修理であずかっていた天クルのオルゴールに、このペンダントを忍ばせた 学校の中でほかにいい隠し場所がなかったからな。確実に安全が保証される場所が欲しかった 天クルのオルゴールは打ってつけだったんだ。シンボルとして大切に扱われていたものだったから 安心しておまえをあずけられる場所だったから だ、だったら…… だけど、おまえの報告を聞いて、もう大丈夫だと思った 俺の出る幕はないと悟った 千波には洋がいる。洋には詩乃がいる 詩乃には、歌澄とあいつがついている ………… だから、もういいんだよ じゃあ……約束は…… この約束は、もう終わりだ ………… そ、そうです……千波さんがダメなら、洋さんはどうですか……? 洋さんは見守らなくていいんですか……? ああ。俺の息子にはもったいない おまえを渡すのはもったいないからな え…… だから、レン 新しい約束だ 俺を助けろ これまでも助けてもらっていたけど、また助けてくれ 俺があがり症なの、知ってるだろ。授業中はずっと黒板向いてないとまともにしゃべれないくらいに おまえが授業を受ける生徒たちを見守っていないと、成り立たないくらいに ………… このペンダントは、俺の首にぶら下げておくからさ…… ………… 約束…… ああ 大河くんと……約束…… そうだ。俺とおまえの約束だ ダメ人間の大河くんと……クスクス…… おまえだって似たようなものだろ。ダメ宇宙人だ 違います……ダメじゃないです……失礼です…… そもそも私は……宇宙人でもありません…… 人間でもないですけど…… ふるさとが……違いますから…… この隕石が……どこから来たのか…… どの星から旅してきたのか…… まだ思い出せないか? はい…… 隕石を形作る鉱物というのは、地球上では確認されていない種類のものだ 宇宙を旅して蓄えられたエネルギー──鉱物が発する微細な電磁波もまだ解明できていない このあたりは携帯電話の電磁波も一緒だな。人体に無害かどうか明確に打ち出せない。現代科学の限界だ だから、おまえがいったい何者なのか、今の俺たちには計りようもない ………… 思い出したいよな、自分のふるさと ………… ダメ元でも研究所で調べてもらうって手もあるんだがな…… ……キミが、それを望むなら いや、望まないさ 未知の隕石なんて言われてぶんどられたらたまったもんじゃない 私とお別れするのは名残惜しいですか……? ……そんなんじゃない おまえを託してくれた姉貴に申し訳が立たないだけだ ………… 長居になったな。行くぞ、レン ……ダメ人間 大河くんは……ダメ人間です…… とっても…… 天体観測を終え、自宅に戻ってきた。 パジャマに着替えた千波は、そろそろ寝る時間だろうにまだリビングにいる。 俺の隣で一緒にテレビを眺めている。 千波、寝なくていいのか? お兄ちゃんは? もうちょっと経ったら寝るよ じゃあ千波ももうちょっと経ったら寝るね ときおり目が線になりつつも起きている。 俺のそばから離れようとしない。 詩乃さんは仕事部屋だ。 このリビングにふたりきり。 静寂の中、テレビの音だけが聞こえている。 ……千波ねむねむじゃないから起きてるよー 静かなのは千波がうとうとしているためだ。 ……くー そのうちに俺に寄りかかって眠ってしまう。 ……こうなると思ったけどな 千波を抱え上げる。 軽い身体。昔よりも成長していると言っても、まだ子供だ。 ……あのキスは、なにかの間違いだったんだよな。 それについて千波はなにも言ってこない。 俺もなにも聞いていない。 抱いた千波を二階に連れていく。 千波の部屋に入り、ベッドに横たえた。 ……千波ねむねむじゃないから起きるねー ゾンビのように這い起きた。 遅い時間だし、寝てていいんだぞ ………… 線だった千波の目が開く。 あれ……ここって…… おまえの部屋だ お兄ちゃんっ、一大事だよ! どうした? 千波リビングにいたはずなのに部屋に戻ってるってことはこれって神隠しかなっ、それともタイムトラベルかなっ、あるいは宇宙人がUFOに乗せて連れ帰ったのかなっ じゃあ兄ちゃん部屋に戻るから 平然とスルーされると傷つくんだけど!? おやすみ、千波 行こうとすると、千波は俺の袖をひっぱる。 ベッドのそばから離れさせようとしない。 お兄ちゃん、どこいくの? 自分の部屋って言ったろ もう寝るんじゃないの? 寝るから部屋に戻るんだ それはおかしいよお兄ちゃんっ、こんな近くに安眠できそうなふかふかベッドがあるんだからわざわざ戻る必要はないんじゃないかなっ 明日も千波より早く起きるぞー だからスルーされると傷つくんだけど!? ……もしかして、一緒に寝たいのか? 千波はこくこくっとうなずいて。 そのとおりだよっ 少し照れた感じで、でも元気よく言った。 お盆のときみたいにか そのとおりだよっ なんでまた 千波たちはもう恋人同士だからだよっ なんだとぉ!! そんな驚愕しないでお兄ちゃん!? 俺と千波は恋人になったのか そうなんだよっ いったいいつのまに? 今朝の間にだよっ なぜこんなことに…… 落ち込まないでお兄ちゃん!? なあ、千波。俺たちは兄妹だぞ そうだねっ 兄妹は一般的に恋愛できないんだぞ 千波はそんな科学的根拠もない悪しき因習に屈する〈付和雷同〉《ふわらいどう》的マジョリティじゃないよお兄ちゃんっ なぜこんなことに…… だから落ち込まないでお兄ちゃん!? 俺は今朝にどんな根拠をもってして千波の恋人になったんだ? 千波とキスしたからだよっ なぜこんなことに…… 軽い気持ちで連帯保証人引き受けて借金の取り立て食らったみたいに落ち込まないでお兄ちゃん!? ……なあ、千波 なになにっ おまえ、恋人の意味わかってるのか? わかってるよっ じゃあ言ってみろ 兄妹よりもずっと一緒にいられる関係だよっ ほかには? キスができる関係だよっ、ちょっと恥ずかしいけどねっ ほかには? 働かないでお小遣いもらえる関係だよっ ……ほかには? キャベツ畑で男の子を授かってコウノトリから女の子を授かる関係だよっ ……ほかには? これで全部だよっ、この四つがあれば千波は末永く幸せだからねっ なんて性の知識に疎い我が妹だ。 なあ、千波 なになにっ 恋人っていうのは、それだけじゃないんだ ……そうなの? そうなんだ ほかになにかあるの? なにかあるんだ なにがあるの? ……教えていいんだろうか。 千波は教えて欲しいのか? 遠慮しないで教えて欲しいよお兄ちゃんっ、じゃないと千波はお兄ちゃんの恋人失格になっちゃうからねっ ……そうか そうだよっ 後悔しないか? 千波はすべきことをする前に根拠なき恐れに屈して後悔するほど落ちぶれてないよお兄ちゃんっ なぜこんなことに…… このシーンでその態度は恋人として失格だと思うよお兄ちゃん!? 千波は後悔しないと言った。 だがむしろ俺は後悔しないのか? 俺は、千波に恋をしてるのか? 俺は、千波が好きだ。 だがそれは妹としてだ。 そう思っていた。 そう思う以外、俺には手がなかった。 兄としての俺には術がなかった。 お兄ちゃん 千波は俺をまっすぐに見上げている。 千波、妖精さんに教えてもらったことがあるんだよ 感じたままでいいってこと 考えないで、感じたままでいいってこと 千波は、恋っていうのがどういうものか、考えてもわからないけど…… でも、感じることはできるって思うから ……そうか そうだよ 俺も、考えないで、感じたままでいいのかもな うんっ 頭でっかちだったかもな うんっ 千波は、俺が好きか? 大好きだよっ なぜこんなことに…… いいムードになりかけてたのにぶち壊さないでお兄ちゃん!? 千波は俺が好きだと言ってくれる。 感じたまま。 屈託ない笑顔で。 だから俺も。 俺の好きな千波。 俺のす……すす…… ……す? 俺のすっぱい千波…… 意味不明な上に無性に嫌な表現だよお兄ちゃん!? 今朝はちゃんと言えたのに。 ただあれは恋人としての好きじゃなかった。 今は、照れて言えなくなった。 千波がぽふっと抱きついてくる。 お兄ちゃん、照れてる ……そんなことない でもお兄ちゃん生態記録によると、お兄ちゃんが意味不明なことをのたまうときは本心を誤魔化して…… 破り捨てる。 三冊目もお亡くなりに!? 最後の一冊はどこだ、ああ? お兄ちゃんが千波の身体まさぐってるっ、恋人としてじゃなくてあくまで鬼畜主人公としておさわりしてる! そうなのだ。 兄としてなら言えた言葉が、今は言えなくなった。 ……恋をすると人は変わるというのはこういうことか? お兄ちゃん、悪い癖が出てるよ 千波がまた抱きついてくる。 俺は、頭でっかちの思考を押しやる。 感じたままでいいんだよ…… 千波の腕が俺の首にからみつく。 今朝は少し寝坊した。 千波との行為のせいか、詩乃さんへの説明に頭を悩ませていたせいか。 早く朝食を作らないと千波が飢えてしまう。 それどころか先に朝食を作られていたら大変だ。 千波に作らせることはもう反対しないが、俺がいないところではやって欲しくない。 さしずめ俺は核弾頭に対する地下シェルター。 被害は最小限に抑えねばならない。 俺は手際よく私服に着替え、階下に降りていく。 あ……お兄ちゃん リビングに入ると千波の声が聞こえる。 千波はキッチンにいるようだ。 おはよう…… あいさつに元気がなかった。 ……夕べのことが尾を引いている? 痛みが残っているのかもしれない。どんな痛みか俺には想像つかないが、きっと辛いに違いない。 なのに朝食の準備をしているのなら止めないと。 俺はキッチンに入っていく。 千波は朝食を作っていた。 予感は的中した。 的中したが、核弾頭が着弾した先は俺の予想からはるかに外れていた。 おはよう、お兄ちゃん…… 俺はテーブルに額を打ちつけた。 朝っぱらからなんつー格好してるんだおまえは…… う、うん…… 千波はもじもじする。 でもね、千波、不安になって…… 恋人としてすること、ほかにもあるんじゃないかって考えて…… それでね、夕べ、教えてもらったの…… 蒼ちゃんに電話してね、恋人としてすることってなにがあるか聞いたの…… そしたらね…… ……蒼さんは千波に裸エプロンを教えたのか。 なにを教えてるんだ蒼さんは…… ま、間違ってるの……? 間違ってると言えば間違ってるが……合ってると言えば合ってる場合もあるような…… じゃあ、いいんだね…… 千波は恥じらいながらフライパンを持っている。台には卵のパックが見える。 これから卵焼き(らしきもの)を作るんだろう。 こんな姿、起きてきた詩乃さんに見られたらなんて言われるか。 ……寝ぼけてスルーしそうな気がしなくもないが。 千波、中止だ えっ…… そんな姿じゃケガするかもしれない。早く着替えてこい で、でも…… おまえの気持ちはわかったから 俺のために懸命になってくれるだけで充分だ。 お兄ちゃん……着替えて欲しいの? ……当たり前だろ でもお兄ちゃん生態記録によると、お兄ちゃんがぶっきらぼうなときは実は照れ隠しで内心では鬼畜主人公の本能と葛藤して…… 破り捨てる。 千波のライフワークの最後の結晶が!? お兄ちゃん観察日記×4とお兄ちゃん生態記録×4の計八冊をすべて破棄した達成感に目がうるんだ。 そ、そんなあ……千波の千波による千波のための生き甲斐があ…… 千波もまたさめざめと泣いていた。 千波、そんなに気を落とすな あ……お兄ちゃぁん…… おまえにはもうこんな生き甲斐は必要ない。大切なものはこれからふたりで築いていけばいいんだから お兄ちゃん…… 強引に美談にする。 わかったよお兄ちゃんっ、今度からはふたりのふたりによるふたりのためのお兄ちゃん開発報告書を記すからねっ 俺はまだ歩き始めたばかりだった。この果てしない戦いの道を。 千波を着替えに向かわせ、その間に俺は手早く朝食を作っておいた。 千波はちょっと不満げだった。 だから昼食は自分が作ると豪語する千波に俺も簡単に了承した。 もとより文句なんかはない。 昔とは違って。 今の俺たちは、そういう関係になったのだ。 今日のバイトは昼からだ。 午前中は時間があるので、千波と一緒に街をぶらつくことになった。 今日はいつにも増してくっついてくるんだな 当然だよお兄ちゃんっ、もはや千波たちは自他共に認める恋人同士なんだからねっ 他のほうはまだ認めてないけどな 自のほうは認めてくれるんだよねっ おまえ痔なのか 甘々トークを踏みつぶさないでお兄ちゃん!? ……そんなトークしたいのか 千波はこくこくっとうなずく。 恋人としてすることって蒼ちゃんから聞いたんだよ 千波は俺の腕にきゅっとしがみつく。 このデートも、恋人としてすることなんだよ 裸エプロンに比べれば、ずっと真っ当な行為だ。 千波、どこ行きたい? 恋人として行くべきところに行きたいよっ 甘々トークができるところか うんっ どこの冥土がいいだろうな…… 考えのスタート地点がおかしいよお兄ちゃん!? オルゴール堂って行ったことあるか? オルゴール屋さん? ああ。カレイドオルゴールが売ってるんだ オルゴール屋さんは昔に行ったことあったけど…… カレイドオルゴールは見たか? 千波はぷるぷると首を振る。 それ、どんなオルゴールなの? 万華鏡と合体してるんだ 万華鏡が見られるの? ああ。音楽を聴きながらな 千波はまたきゅうっと抱きついてくる。 万華鏡なんて、小学生以来だよっ じゃ、決まりだな 甘々トークができるかは別として。 恋人としても、それだけじゃなく家族としても申し分ないスポットだろう。 あれっ、お兄ちゃん…… 千波が急に空を振り仰いだ。 今、なにか当たったよ? 冷たかったから、もしかして…… 雨だろうか? そう思った瞬間に俺の頬にも水滴が当たった。 まだ晴れてはいるようだが、重たそうな雲も浮かんでいた。 雨、強くなってきたよ…… みたいだな せっかくのデートなのに…… 千波らしくなく落ち込んでいる。 家に戻るしかないのかな…… 俺は、千波の頭にぽんと手を載せる。 たぶん通り雨だ。すぐ止むだろ あっ……じゃあ 濡れるのは嫌だし、急いでオルゴール堂向かうか うんっ 千波はよりいっそう俺の腕にしがみつく。 ……あんまりくっつくと急げないだろ 大丈夫だよっ、千波とお兄ちゃんはベストカップルのごとく息ぴったりだからねっ 二人三脚のようにふたりで腕を組みながら走ってみる。 普通に早かった。 ほらねほらね息ぴったりだねお兄ちゃんっ 傍から見たら間抜け以外の何者でもなかった。 デートって楽しいねお兄ちゃんっ なぜこんなことに…… 走りながらでも落ち込めるお兄ちゃんの器用さに千波もう感服だよ!? それでも走りをやめない千波にも感服だった。 これで千波たちもバカップルの仲間入りだねお兄ちゃんっ バカなカップルなのは間違いなかった。 俺たちは雨が本降りになる前に、店の中に駆け込めた。 千波、冷たくないか? へっちゃらだよっ、逆に涼しくて気持ちいいくらいだからねっ だが髪や肩のあたりが濡れている。 ほら、ハンカチ ……使っていいの? ああ。おまえ持ってきてないだろうし お兄ちゃんらしからぬ優しさだねっ 彼氏を自負するなら、これくらいは当たり前だ。 でも、お兄ちゃんが先だよ 千波はハンカチを押し返す。 お兄ちゃんが風邪ひいたら心配だしねっ、千波はあとでも平気だよっ 千波らしからぬ遠慮だな お兄ちゃんの彼女なんだからこんなの当たり前だよっ 俺と同じことを考えている。 それがうれしいというか、照れくさいというか。 でもな、おまえだって風邪ひくと悪いだろ 千波はそんなのひかないよっ、なんたってお兄ちゃんも認めるバカだからねっ ……バカ。俺はそんなの認めてない でも今バカって言ったよ? これはそんな意味の言葉じゃない。 千波、じっとしてろ 千波がきょとんとしている間に、濡れた箇所を拭いてやる。 終わってから、適当に自分も拭く。 えへへ 千波は笑っていた。俺は目を合わさなかった。 お兄ちゃんありがとっ ……それより、ほら。オルゴール見るんだろ うんっ 千波をお目当ての場所に連れていく。 これが、カレイドオルゴール…… 手に取り、千波に渡す。 千波は両手で丁寧に持つと、俺を見上げる。 俺がうなずくと、千波は中を覗き込む。 いつかメアが夢中になったように。 千波もまた一心にそれを見つめる。 光の競演、色の乱舞。 様々なかたちで視野に飛び込む。 全部を視認できないくらい、だけどたしかに俺たちの瞳に映っていて。 それが、雲雀ヶ崎の星空にひけを取らない美なのだった。 千波が満足するまで店にいて、そろそろ雨はやんだかと外に出てみると。 わあ…… 雨上がりの空。 鮮やかに色づいた雲から明かりが差す。 見上げた千波が感嘆の息をつく。 カレイドオルゴールの光だけじゃなく、こんなオマケまでついてくるなんて。 お兄ちゃん…… 千波、また、天体観測やりたいな みんなと一緒に……お兄ちゃんと一緒に、たくさんの光を見上げたいな でも、千波はオカ研メンバーだから 天クルには入ってあげないけどねっ 光を追って、追いかけて、その途中で宇宙人に出会うこともあるのかもしれない。 兄として、恋人としてそれを見守るのも悪い気はしなかった。 昨日で俺の授業の補習は終わったし、面倒な雑務も今日で終わり。仕事納めだな 明日からお休みですか……? ああ。新学期が始まるまで、一週間の夏休みだ お盆休みと合わせて二回目ですね…… 生徒に比べれば少ないもんさ 部活に精を出す生徒もいるようですが…… そうだな。おかげで子供らに正体がバレそうになった ダメ人間……クスクス…… ……だからそれやめろ。というか、なんでおまえ姿見せてるんだ おかしいでしょうか…… おかしいだろ ………… 昼なのに姿を出すの、めずらしいじゃないか はい……。この時間は、星明かりが弱いですから…… 太陽も星だけどな 陽光だけが強くてはバランスが悪いんです…… 億を数える星々が高次元領域を広げ、それで初めて私の姿が人の目にも映りますから…… さしずめ星明かりがドームスクリーンで、隕石が投影機と言ったところか そうかもしれません…… 周囲が暗くなければプラネタリウムは上映できない。だが明るいからと言ってスクリーンに映せないわけじゃない 見るのが、難しいだけだ 人が視認できる電磁波──可視光には限界があるからな この4000から7000オングストロームの領域にある光は、地球上のすべての生命を育む電磁波エネルギーとなりうるが…… 地球外の生命には、また違った波長域のエネルギーが必要なのかもしれない おまえが夜を好む原理は、そういうことだろ ………… 俺には霊能力や神通力なんてものはない。だからおまえのような高次元の存在も、普通じゃ知覚できないんだと思う それなのに、昼間から自分の姿を俺に見せるのは大変なんじゃないか? ……がんばってますから 疲れるんじゃないか? 疲れても……がんばりますから…… なんでまた。ダメ宇宙人のおまえが 違います……宇宙人じゃないです……ダメなのは大河くんです……失礼です…… 今出てこられると、人に見られる恐れもあるんだけどな そんなヘマはしません…… 昼間はいつも声だけで俺に話しかけてるじゃないか ………… どんな風の吹き回しだ? ………… 約束……交わしたから…… 今は授業中じゃないし、べつに声だけで充分だぞ ………… なにスネてんだ す、スネてません…… まあ姿を出してたいなら止めないが あ、頭……撫でないでください…… 代わりにこっちを撫でてもいいけどな ペンダントのほう……ですか…… なにスネてんだ す、スネてません…… このペンダント──隕石は、俺の家に代々伝わっていた家宝みたいなものだ。たまに磨いてやらないとな イジワル……です…… そういう意味で言ったんじゃない。ほら あ、頭……撫でないでください…… これは江戸時代の中期、農民だった俺の祖先が空から田んぼに落ちてきたのを見つけて拾ったらしい 当時のことは、おまえは覚えてないんだろうが ……はい。私が目覚めたのは、キミが家を出たあとですから 俺の家族は、俺が天文の道に進むのに反対していた。俺は長男だからな、家業の農家を継ぐのが当たり前だと皆が思っていた おかげで俺が大学で天文学を専攻したいと話してからは、親とはケンカが絶えなかった だから俺は、バイトでためた金、奨学金、入試成績の優秀者だけに与えられる学費控除の枠…… それらを使って、国立大学進学のキップを手に入れた 親とは最後までわかりあえなかったけどな…… そして俺が上京する際、姉貴が隕石の一部を切り取ってペンダントを作り、俺に渡したんだ 寂しがりやのあんたのことだからホームシックになるだろう。だけど意地っ張りのあんたのことだから帰省したりはしないだろう だから、これを家族と思って大切にしろ…… 俺に、ぞんざいに放り投げてな 姉貴らしくなく、寂しそうに笑ってやがったよ…… ………… そのあと、ペンダントからおまえがにょきっと現れたときは、心臓が止まるかと思ったがな ……私は、キミの姉と約束しましたから 眠りの中で、聞こえたんです キミの姉が、ペンダントに向かってつぶやいていたんだと思います…… キミを、守ってくれって 一人前になるまで、見守っていてくれって…… その約束は、俺が一人前になって成就されたわけだ ……一人前では、ありません そう言うな。今のおまえには、俺との約束がある ………… 俺は、ダメ人間だからな そのとおりです…… おまえはダメ宇宙人だしな 違います……失礼です…… 俺は、人前に出るのが苦手なのに教師にまでなったからな…… ………… そうまでして、あいつから歌澄を奪ったんだからな…… ………… だから、俺はダメ人間だ ……違います キミは、結局は身を引きました……。あのふたりを再会させたのはキミなんですから…… 彼の命があとわずかと知って……歌澄さんに会わせようって決意したんですから…… だから……私がふたりの恋を引き裂いたのに、最後にはふたりは再び恋に落ちた…… 彼が亡くなると、キミは歌澄さんを案じたのに、歌澄さんは一緒にはなれないと頑なに拒んだ…… 俺に愛想を尽かしたんだろうな 違います……。歌澄さんは、たしかにキミを愛していました…… 私は残酷なことをしました……。彼の頼みとはいえ、出過ぎた真似をしたんだと思います…… 恋は、出会いから始まりますから…… 歌澄さんが、キミと彼、どちらと先に出会ったか……どちらの選択肢を先に選んだか…… それだけの違いでしかなかったんです…… 歌澄さんは彼と最初に出会ったから、彼と恋に落ち…… 歌澄さんが彼を忘れ、キミのそばにいるようになると、今度はキミと恋に落ちていた…… だからすべてが終わってから、歌澄さんは両方の選択肢を選ばないことに決めた…… 自分だけで子供たちを育てることに決めた…… それが、歌澄さんの選んだ生き方だった…… だとしても、俺は後悔してるよ 女手ひとつでふたりの子供を育てるのがどれだけ大変か知っていながら、俺は手助けできなかった 結果、歌澄はいなくなった だから…… だから、キミは私を遣わせたんじゃないですか…… キミは、千波さんと同じです…… 自分だけを責めすぎです…… オルゴールまで作って……彼の死を悼んで…… 歌澄さんの死にも……責任を感じて…… 私を遣わせて……残された家族を案じて…… いろいろとありがとうな だ、だから……頭撫でないでください…… けど、言っておくが、そのカマで刈るんじゃないぞ この罪は、俺が背負っていくんだからな ………… ……やっぱり 大河くんは、ダメ人間です──── 三嶋大河は晴れて理学部の天文学科に入ると、大学の休みを使って旅行をするようになった。 夏期休暇や冬期休暇、これまでには考えられないほど長い春期休暇を利用して。 大河は全国の各地に建つプラネタリウムを回っていた。 貧乏学生だった大河はそのために生活費を切り詰め、バイトにも精を出した。 プラネタリウム大国のこの日本。 大河の故郷──南に位置する田舎の星空も美しかった。 そして実家には代々伝わる隕石が神棚に飾ってある。 大河が天文に興味を持つのは必然だったのかもしれない。 有名どころのプラネタリウムを一通り見て回ってもまだ物足りない。 そのうちにたどり着いたのが、雲雀ヶ崎のプラネタリウムだった。 大河はそこで、当時中学生だった歌澄と出会う。 大河がプラネタリウムのチケット売り場に並んでいると、少女がひとり、きょろきょろしながらやって来て。 チケットはここで買うんですか、と大河に尋ねた。 歌澄は妹の詩乃と違いちょっと強引なところがあった。 大河の後ろに並んだ歌澄は、暇を持て余していたのか大河に何度も話しかけてきた。 自分は夏休みの課題として、映画や本の感想文を書かないといけない。 雲雀ヶ崎に映画館はない。隣町まで出るのはお金がかかる。 とはいえ読書にもあまり縁がなかったので、近くにあるからという理由だけでプラネタリウムを観ることにした。 その感想文を書いてみようと思った。 聞いてもいないのにぺらぺらとしゃべっていた。 それからおたがいの名前、どこに住んでいるのかなどの当たり障りない会話を交わしたあと。 プラネタリウムってどんな感じですか、と歌澄は聞いた。 大河は、初めてなのかと逆に尋ねた。 元来あがり症で初対面の相手も苦手だった大河は、ぶっきらぼうに受け答えていた。 そうよ、と歌澄は笑顔で答えた。 歌澄は地元民だったが、特に星には興味がなかったようだ。 だったらプラネタリウムなんて観てもおもしろくないだろう。大河はやっぱりぶっきらぼうにそう言った。 すると歌澄はこう答えた。 星に興味はないけど、雲雀ヶ崎の星空は好きだから お兄さん、旅行で来たんだったら、プラネタリウムよりも展望台に行ったほうがいいわよ そっちのほうがきっと素敵だから 一生忘れられない、素敵な想い出が作れるから この瞬間、大河にとってはたしかに忘れられない想いが心に生まれた。 一言で言えばそれは一目惚れだった。 自分とは違い、初対面の相手に対しても屈託ない笑顔を向けることのできる歌澄に、羨望に近い恋をしたのだった。 プラネタリウムの上映が終わり、外に出ると今度は大河から歌澄に話しかけた。 話しかけたが、ドモって失態を演じた。 連絡先を知りたかった。なのに緊張で口が動かなかった。 そんな大河に、歌澄はほほえんでいた。 ばいばい、変なお兄さん ありがとう、おもしろいお兄さん お兄さんのおかげで、楽しい感想文が書けそうだわ そうしてふたりは別れた。 連絡先も知らぬまま。 自分は変でおもしろい人扱いされたまま。 大河はひどく落ち込んだ。 肩を落として彼女が教えてくれた展望台に向かった。 長い坂を登りながら思った。 このあがり症が恨めしい。 一念発起、治そうと決意した。 恋は人生を潤す。時に潤滑油として歯車の回転を速くする。 大河は短絡的に考えたのだ。 このままでは終われない、俺はもう一度彼女と出会う。 彼女はこの雲雀ヶ崎の住民、中学校もここだろう。 お、坂の途中に学校があるじゃないか。 雲雀ヶ崎学園とある。 きっと彼女は中学を卒業すれば、ここに進学するだろう。 その頃、俺は社会人だ。 教師になろう。 そうだ、先生になろう! 大勢の生徒の前で教鞭を振るっていればこのあがり症だってあっという間に治るだろう。 そして、彼女とも再会できるのだ。 一石二鳥。 俺って天才じゃね? 俺は、歌澄とケッコンするぞ────っ!!! 若き日の大河は、そうして雲雀ヶ崎の星空を相手に誓ったのだった。 その恋は、歌澄と再会してすぐ破れたんだけどな まさかすでに彼氏がいるとは思わなかった。俺の計画の唯一の誤算だ 誤算以前の問題だと思いますけど…… まあ、ここで教師をやってたから俺は科学館の館長になれたんだ 好きなプラネタリウムを好きなときに見上げられた。ある意味、大成功だ キミが、科学館は閉館したのに、プラネタリウム投影機だけは整備を続けているのは…… 俺は未練がましいからな いつか役立つときもあるさ。俺みたいに、雲雀ヶ崎のプラネタリウムで運命が変わるやつもいるかもしれない 私は……ひとり心当たりがあります…… 誰だ? キミも……会ったことがある子です…… 誰だろうな いずれ知るときがくると思います…… 楽しみだな はい…… 学校が始まる前に、一度実家に帰ってみるか お盆休みのときにも思ったんだけどな…… ……急に、どうしたんですか おまえも、姉貴にちゃんと会ってみないか? おまえが、初めて約束を交わした相手だ ………… 遠く離れたふるさと…… 帰省すれば、親と、農家を継いでくれた姉夫婦が罵倒とともに迎えてくれるさ ………… 俺も、姉貴に礼を言ってなかったしな ……もっと早く、帰ればよかったのに ふるさとがあるんですから……一度くらい帰ればよかったのに…… 姉貴と電話くらいはしてたんだけどな キミが一人前になったのなら……堂々と成長した姿を見せるべきです…… どうも勇気が出なくてな ……私のせいですか? 私がふるさとを忘れているから……気を遣って…… 考えすぎだ ダメ人間…… ダメ宇宙人 失礼です……ムカムカです…… 帰ろうか、レン ……はい まずは直したオルゴールを、南星にあずけるとして 自宅に帰ったら旅支度。飛行機のチケットがうまく取れればいいんだが そして、実家に着いたら、レン 俺を助けてくれよ 姉貴は口より先に手が出る乱暴者だからな はい……クスクス…… 約束……しましたから…… ダメ人間の大河くんを、助けるって…… 大河くんと、ずっと……一緒にいるって…… やあ、いらっしゃい こんにちは、総一朗先輩 小河坂くんたちは、今ちょっとお使いを頼んでいてね。外に出てるよ そうですか。お仕事、がんばっているみたいですね キミはいつもにこにこしているけど、今日は一段と笑顔だね。いいことでもあったのかい? はい。とても、いいことが 千波ちゃんが元気に回復したことかな はい。それもありますけど…… ほかにも、幸せなことが起こりました なんだい。家族の絆が深まったのかな 総一朗先輩が考えている以上に深まってしまいそうです なにがあったんだい 私、孫ができるかもしれません ……な、なんだって? この年でおばあちゃんは早い気もしますけど、今は幸せでいっぱいです ……よく意味がわからないけど。教えてくれるかい ふふ……。内緒です ……妄想が暴走してるんじゃないかい。昔からキミはそうだった 天文部の副部長をしていた彼のあとを追いかけては先輩先輩って目をキラキラさせていたしね や、やめてください。昔の話です…… その彼に関してだけど。万夜花が気にしていたよ ……先輩を、ですか? 正確には、ヒバリ校の都市伝説。男女の恋物語さ 最近、子供たちもよく肝試しをしていますけど…… キミは、なぜこの都市伝説がヒバリ校に広まっているのか、その理由を知っているかい? ……想像は、つきます 教えてくれるかい たぶん、広めたのは先輩だと思います もうすぐいなくなってしまう自分の、生きていた証が欲しかった…… ヒバリ校の都市伝説というかたちとしてでも、残っていて欲しかった 私は、そんなふうに思います そうか 総一朗先輩は、どう考えていたんですか? その前に、万夜花の意見だけど 万夜花は、本当は彼がキミのお姉さんに自分のことを忘れて欲しくなかったから、都市伝説を噂して…… そして、キミのお姉さんに忘れた自分を思い出して欲しかった。その表れだって言っていたよ 万夜花さんらしいですね 万夜花は、好きな相手に忘れられたいなんて考えられないって言っていたからね 次は、総一朗先輩の番ですよ 僕もまた、彼が噂を流したと思っている だけど、理由はもっと単純なんじゃないかな 彼は、雲雀ヶ崎の星空が好きだった…… だから、ヒバリ校の生徒たちに、肝試しとしてでもいいから夜に校舎の屋上に登って欲しかったんだ そして、星空を見上げて欲しかったんだ ……だとしたら、素敵な理由ですね ロマンチックだろう 本当の理由を知っている人は、いるんでしょうか それとも……先輩にしか、わからないんでしょうか 姉さんも、知らなかったんでしょうか それは僕にもわからない 今度、三嶋先生にも聞いてみようか。レンに出会うことができるなら、彼女にも そのふたりが知らなくても、もしかしたら誰かが探し当てるかもしれない 知ることができるのは、誰になるのか…… もしも、その誰かがこの都市伝説を解いたとき そのときには、雲雀ヶ崎の星空を好きになっていたら、彼もキミのお姉さんも…… もちろん僕たちも、本望なんだろうね お兄ちゃん、いよいよだね ああ、そうだな 俺たちはヒバリ校の校門前に立っていた。 なぜかと言えば、ついさっきミルキーウェイのバイトに出たときのこと。 マスターが、修理が直ったらしいカレイドオルゴールをよければ取りにいってくれないかと話したからだ。 彼はもともとオルゴールの修理に乗り気じゃなかった。 だから修理を終えてもなんだかんだと理由をつけて渡しに来ないかもしれない。 だから、逃げられる前に捕まえて欲しい。 そう言われたのだ。 今日は土曜日。受験対策の補習はない。 だが彼は出勤しているそうだ。 彼は明日から始業式まで休みに入るそうで、二学期の授業の準備として仕事をしているとのこと。 なるほど、逃げるというのも納得できる。仕事が終わって帰られたら、次に会えるのは学校が始まる一週間後だ。 俺も、できれば早めに会っておきたかった。 会って、話してみたかった。 もう一度、声を聞いてみたかった。 学校にいるんだよね、大河さん そうだな。そのはずだ 俺は、父さんと直接会ったことはない。 千波も俺と同じだろう。 幼い頃に会ったかもしれないが、物心ついたあとは写真でしか顔を見ていないのだ。 それでも声だけはおぼろげに覚えている。 それはいつの記憶だろう。赤ん坊の頃だろうか。 それとも、母さんのお腹に向かって話しかけていたんだろうか。 千波、ドキドキしてきちゃった…… 俺もだよ 緊張する。 喉が渇き、手のひらが汗ばむ。 なにを話せばいいのかわからない。 相手は俺を見て、息子だとわかってくれるだろうか。 わかったとして、快く応じてくれるだろうか。 不安は尽きない。 だけど、いつかは通る道だから。 お兄ちゃん…… 千波が俺の手を握ってくる。 千波も、一緒にいるからね 俺は、千波のあたたかい手を握り返した。 そのとき人影が見えた。 校舎から誰かが出てきたようだ。 その人影は一つのようにも二つのようにも見える。 行こうか、千波 うんっ 俺たちは、ふたりで前へ。 千波とともに、その一歩を踏み出した。 千波、まだか! さっさと降りてこい! 俺は玄関から二階に向かって声を荒げていた。 今日から新学期だろっ、このままだと遅刻になるぞ! だってだってっ、この制服着るのひさしぶりだからリボンとかボタンとかうまく留められないんだもん! ……登校日のときにも言ってたよな。 まあ予想はしていたが、二学期になったからといって一学期となにが変わるわけでもなく。 たとえ恋人になったとしても。 まったく、朝ご飯を作ると息巻いていた夏休み中の気概はどこへいってしまったのやら。 学校が始まれば千波は相変わらず千波であり、俺の愚妹なのだった。 長い夏休みが明けたのだから、心機一転する余裕くらいは欲しかったのだが、それも叶わぬ夢らしい。 俺はため息を残して家を出る。 あ…… お、蒼さん。おはよう あの、おはようございます 鈴葉ちゃんも、おはよう やっぱり遅刻ぎりぎりなんですね そのセリフ、そっくり返してやるぞ お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、待って待って待って──っ!! ……うるさいのが来た 千波さん、おはようございます 蒼ちゃんと鈴葉ちゃん、おはよーっ! 遅いぞ、千波 今朝は寝坊しちゃってねっ、夕べ寝る前に妖精さんが来てお話ししてたからっ 妖精さん、引っ越ししちゃって今までみたいに気軽に来られないって言ってたから千波がそのぶんお持てなししてて寝るのが遅くなったんだよっ 毎度の千波の妄想だろう。 結局、夏休みの宿題はどうなったんだ? お持てなしにいそがしかったからどうもなってないよっ どうもしてくれ頼むから そういえば今朝は鈴葉ちゃんも遅いんだねっ は、はい。夏休みの気分が抜けてなかったみたいで…… 千波とおんなじだねっ おまえは年中寝坊だろうが ……まったくもって お姉ちゃんも人のこと言えないと思うけど…… みんなっ、もう急がないと遅刻だよっ 自分のことを棚に上げて千波は元気よく言った。 俺の腕に抱きつきながら。 おまえ、くっつくなって いいんだよっ、千波たちは恋人同士なんだからねっ ……仲がよろしいことで ふたりはお似合いの兄妹だと思いますっ 千波の普段の言動からか、恋人と言っていたのに誰も信じていない。 変にはやし立てられるよりは気が楽かもしれないが。 蒼さん、今日の放課後は部活だぞ ……いきなりなんですか サボられる前に釘を刺そうと思って 天クル、晴れて部活になったんだよね? 今日そうなる予定だ。姫榊が部活会議に出て、承認取ってきてくれるからな ……そううまくいけばいいですけど それでな、正真正銘の部活になった暁には、顧問が必要になると思うんだよ まあ絶対じゃないみたいなんだけどな それでも、俺はちょうどいい人材を見つけたから。 顧問って、もしかして大河さん? まあな。学校では、三嶋先生な ダメだよお兄ちゃんっ、大河さんは千波たちオカ研の顧問になってもらうんだからっ おまえらは同好会なんだからいらないだろ それは間違ってるよお兄ちゃんっ、千波の宇宙人捕獲大作戦はたとえ肉親だろうと恋人だろうと千波のために働くことが前提で成り立ってるんだから! 恋人って誰だよ 素で聞いてるならひどい仕打ちだよお兄ちゃん!? ……私も、三嶋先生が天クルの顧問なら賛成です 蒼さんが乗ってくるとは思わなかったな ……恩が、ありますから あ……もしかして ……言わなくていいから 鈴葉ちゃんの口をふさいでしまう。 鈴葉ちゃん、学校は大丈夫か あっ……もう走らないと遅刻ですっ 千波たちも走って向かわなきゃねっ のんびりと急ぎましょう 千波、この体勢で走るのか? それは愚問だよお兄ちゃんっ 屈託のない笑顔。 母さんの面影を強く残したそのほほえみ。 誰もに元気を分け与え。 そして、まるで家族の象徴のように、俺には見えたんだ。 千波は、いつだってお兄ちゃんのそばにいるからね! わたしが……してあげる…… メアは俺にしなだれかかると、それをそっと取り出した。 冬の外気にさらされ、ひやりとする。 だけどメアの手はあたたかい。 優しく、小鳥を抱くように包み込んでいる。 お、おい…… 動かないで…… じっと……してて…… こうされると……気持ちいいんでしょ…… 視線の先にあるものを見つめるメアの瞳は大きく揺らぎ、濡れている。 ここ……こうすると、気持ちいいんでしょ…… メアは一度、頬にかかる髪を手で後ろに流すと、顔をゆっくりと降ろしていった。 ん……ちゅ 先端に、軽く唇で触れてくる。 ンん……はあ…… キス……しちゃった…… 口だけじゃない……洋くんのにも……キス…… ぽうっとなってつぶやいている。 おまえ……なんで…… 気持ちよく……なって欲しいから…… そんなのどこで知ったんだよ…… 初めて……洋くんに、キスされて…… キスって……あのときは、わからなかったから…… だから、いろいろ調べた…… そしたら……こういうのもあるって…… こういうのも……男の子は、よろこぶって…… 洋くん……よろこぶって…… ……いったいなにで調べたんだ。 深く追求するとカマでたたかれる気もする。 なあ、メア…… メアは俺に上目遣いを送っている。 もう、いいから…… え…… ひどくショックを受けた。 気持ちよく……ない……? い、いや……気持ちいいんだけどさ…… あ……よかった…… とても安堵した。 じゃあ……続き…… いや、いいんだ え…… またショックを受ける。 ……そうじゃない。無理してやらなくていいって意味だ よかった…… なんだか安堵している。 わたし……無理じゃないから……よかった…… ……い、いや、我慢しなくていいから ぜんぜん……我慢じゃないから…… したいから……してるんだから…… ……なんて健気。 こんなメアは初めてだった。 でもな……やっぱり問題があるというか…… 問題……? そうだ どこに……? どこだろう。 俺とメアは、恋人じゃないだろ? うん…… だからダメなんだ どうして……? どうしてだろう。 ……ええと、メアの気持ちはわかったから じゃあ、続き…… い、いや、気持ちだけでうれしいから 気持ちだけじゃだめ…… それだけじゃ、足りない…… 約束だけじゃ……足りないときもある…… 約束を越えたところにあるもの…… それが欲しい…… かーくんと別れて……洋くんにキスされて…… わたしは、そう思うようになったの…… 約束を越えたなにか。 俺は夢と約束をした。 その約束は、越えられたのだろうか。 そして、俺とメアの約束。 俺はメアと、いつの日に約束を交わしたのだろうか。 今は知らなくても、知るときはきっと来る。 洋くん……? ああ、いや 思考を切り替える。 切り替えたら切り替えたで、とんでもない現実が進行中なのだが。 わたしが……してあげるから…… いつも……してもらうばかりだったから…… 今夜は……わたしの番…… メアはかわいらしく舌を出し、先端に持っていく。 ン……ちゅ…… おっかなびっくりに、唇を小さく押し当てる。 んちゅ……ちゅ、ちゅっ……ぴちゅ…… 舌先でつつくように舐める。 ちゅ……ちゅぴ……ンちゅ……はあっ…… 吐く息は白く、ふわりとモノを覆った。 はぁ……ン……。なんだろ……これ…… わたしが……洋くんに、してるのに…… わたしも……変な気持ちになる…… 気持ちよく……なる…… これじゃ……だめ…… 洋くんが……気持ちよくならなきゃなのに…… 再度、愛撫が始まる。 様子を見るようだった先ほどよりも大胆に、舌を動かす。 んちゅ……ちゅ、ちゅぅ……ンっ……ふう……ん、ちゅ……ぴちゅ……ぺろ……んちゅ、ちゅうっ……れろ…… 当てた舌でなぞり上げたり、舐め回したり。 みるみると唾液がまぶされ、竿を伝ってメアの手元を濡らしていく。 普段は素っ気ないし何事も否定してばかりのメアが、今はこんなにも献身的。 健気に奉仕をしてくれる。 俺に尽くしてくれている。 ちゅ……ンちゅう……ふっ……ん、はあっ……あっ…… 奉仕の合間につくメアの吐息も甘くなる。 はあぁ……だめぇ……わたしも、変になる…… 舐めてると……おかしくなる…… ドキドキする……きゅんってなる…… 洋くんの、舐めると……気持ちよく、なる…… ど、どうして…… ……いいんだ。それで 俺はもう、メアを止める機会を逸している。 そう……なの……? ああ。たぶん たぶん…… 絶対だ ……うん メアは陶然と、手で包んでいるものを見る。 そこはすっかり濡れ光っている。 なんか……キレイ…… ……あんまり見ないで欲しいけどな ううん、見る…… もっと、舐める…… 洋くんを、気持ちよくする…… わたしも……気持ちよくなるけど…… そうなったら、もっと洋くんを気持ちよくする…… だから……いっぱいしなくちゃなの…… いっぱい……してあげるの…… 洋くんに……してあげたいの…… とろんとした顔を寄せていく。 ン……ちゅ、ちゅっ……ちゅぴっ…… ついばむようなキスをしたあと、唇を大きく割り、舌をあてがった。 ぺろっ……ンん……れろっ……ぺろ…… 丹念に先端を舐めてから、口内へとくわえこんだ。 ンむっ……じゅ……ンんんっ……んふっ…… 奥まで飲み込んでいった。 苦しくないか心配になる。 大丈夫か……? はいひょうふ…… もごもごしゃべると、刺激がくる。 メアはいっぱいに頬張りながら、顔を上下し出す。 んちゅっ……じゅ……ちゅうぅ……ふっ……はむっ……ちゅっ……ちゅぱっ……ンふっ……ちゅ、んちゅうっ…… 淫靡な水音がリズムを刻む。 メアは小さな身体を一生懸命動かして、俺を気持ちよくしようとがんばっている。 愛撫がたどたどしくても、それだけで満足できる。 止めようと考えていたのに、逆にそれをするとメアを悲しませる。そんな気になっている。 俺の興奮も、限界が近づいている。 ちゅうっ……んちゅう……ふっ……ちゅ、ちゅう……ちゅぱっ……じゅ……んはあっ……ンんっ、はむっ……ちゅうっ……ちゅうぅ、んちゅううぅ……! 激しく吸い込んできたところで、こらえきれなくなった。 メア……! んむっ……ぷはあっ……え……? きゃあっ……! メアが吐き出したところで、達した。 白濁液が舞い飛び、メアの顔や胸元、手元を白く濡らしていった。 な……えっ……え……? メアは髪にまでかかったソレに、目をぱちくりさせていた。 こ、これ……なに……? どろどろになった手のひらを驚いて見つめている。 とっても……あったかくて…… なんだか……安心して…… これ……なに……? ……ええとな、気持ちよかったって証だ そうなの……? ああ 洋くん……気持ちよかったの……? そうだよ ほんと……? ほんとだ。ありがとうな メアの頭を優しく撫でた。 あ……洋くん…… 洋くんに……よろこんでもらえた…… 頭……撫でてもらえた…… きゅんって……なる…… せつなく……なる…… だ、だめ……なんか…… すごく……変な気持ち…… ドキドキ……終わらない…… もっと……したい…… 洋くんに……もっと、よろこんで欲しい…… 気持ちよくなってもらいたい…… 止まらない……もう…… おかしくなる…… 洋くんに……してあげたくて…… 洋くんに……してもらいたくて…… あなたと……一緒になりたくて…… もう……おかしくなりそうだよ…… これは流れに身を任せた結果なのか、それともふたりが望んだ結果なのか。 俺たちは、雲雀ヶ崎の星空の下でひとつにつながった。 あっ……くうっ……あああっ……! メアのそこは未発達できつくて狭く、それでも迎え入れる準備をして濡れていた。 俺のモノを強く締めつけてくる。 純潔の朱が接合部を染め上げ、熱をさらに高めていた。 はあっ、あっ……ああっ……んああっ…… メアは苦悶の表情で痛みに耐えている。 し、死神は……痛くなんてないからあ…… その強がりが聞いていて辛かった。 メア……平気か……? あ……はあっ……洋くん…… 平気……だよ…… 無理はするなよ…… 無理なんかじゃない…… 我慢なんか……してない…… したいから……するの…… 洋くんと一緒がいいから……一緒になるの…… あまりに健気で胸が苦しくなる。 今夜のメアは……らしくないな…… うん……自分でも、そう思う…… おかしくなってるって……思う…… 変な気持ちがいっぱいで……おかしくなってるの…… 全部……洋くんのせいだよ…… ああ……そうだな バカバカな……洋くんのせい…… そうだな…… わたしをこんなふうにした、責任……取ってもらうから…… わかったよ 笑って、頭を撫でる。 あ……う…… だめ……だよう…… 撫でられると……きゅんってなるよう…… 気持ちよく……なるよう…… なら、ずっと撫でてやる それで痛みが消えてくれるなら。 ああ……だめぇ…… してあげたく……なるからあ…… 洋くんにも……してあげたくなるんだよう…… メアはゆっくりと動き出す。 俺の上に載りながら、たどたどしく腰を上下させる。 あっ……ああっ……んあっ…… もう……痛くない…… 洋くんが、撫でてくれたから……痛くなくなった…… 洋くんに、なにされても……よくなったの…… 洋くんになら……もう、なんでもあげられるの…… 俺に体重をあずけ、信頼も好意もあずけ、メアは言う。 そんなこと言うと、ほんとにもらうからな うん……あげる…… わたしの全部……洋くんにあげる…… メアは間近でぽうっと俺を見つめている。 濡れた瞳に吸い込まれそうになる。 ……ほんと、らしくないな うん…… あとで返せなんて言っても返せないぞ うん……言わない…… 言われそうな気がすごいするんだけどな 言わない……わたし、洋くんのものだから…… 洋くんのものになったから…… 洋くんと……ずっと一緒だから…… メアを抱擁した。 肌は熱かった。こんなにも透き通るようなのに、たしかなやわらかさとあたたかさがあった。 ドキドキする……もう、ずっと止まらない…… 辛いのに……苦しいのに……気持ちいい…… 好き……洋くん…… 大好き…… 抱きあいながらふたりでつながりを求めた。 より深くつながるためにおたがいに動いた。 あっ……ああっ……! あっ……はあっ……洋、くんっ……! んあっ、あっ……! あぁんっ……! メアの中は依然締めつけが強く、きつかったが、それがよけいに摩擦を生んで熱を高めた。 ふたりの気持ちを昂ぶらせた。 動きは徐々に激しくなった。 ああっ……! ああっ、あっ……! はあっ、あっ……! あんっ、あぁんっ! ああぁっ……! メアは高い声であえいでいた。 愛液はあとからあとからあふれ湧き、俺たちのつながりに拍車をかける。 洋くんっ……! んあっ、ああぁっ……洋くんっ……! 俺の名を呼ぶ必死な声が、夜空に木霊する。 すごくっ、感じるようっ……! ああぁっ……! 洋くんを、感じるのっ……! あぁんっ……! 奥まで感じるのっ、いっぱいになるのっ……! 小さくて細い裸身は汗まみれになっていて、ふたりで生む熱を受けてはびくんびくんと跳ねている。 んああっ、だめぇ……! わ、わたしっ……ふあぁん! だめなのぉっ、だめになってるのぉ……! 星影に濡れる展望台で、俺たちは限りなくひとつになっている。 ふあぁぁっ……! 全部っ……あぁぁん! ぜんぶっ、洋くんでいっぱいになってるのぉっ……! 応じて、俺も必死に声を投げかける。 メア……メアっ……! 洋くんっ……好きっ、好きなのっ……! 洋くんだからっ……こんな気持ちになるのっ……! 洋くんだからっ……わたしをおかしくさせるのっ……! 洋くんだけなのっ……わたしをこんなふうにできるのっ、洋くんだけなのっ……! この世界で……この宇宙でっ……! 洋くんだけがっ……わたしの人っ……! わたしをあげられる人っ……! わたしのぜんぶをあげられる人なんだようっ……! そして、昂ぶる心が頂きに達した。 あああああぁぁぁぁ────っっっ!!! メアの声が星空に爆ぜた。 昇り詰め、メアの中に思いの丈を吐き出した。 メアは歓喜に震えながら享受した。 んああっ! ああっ、あっ、ああっ……! ふあっ、あっ……! んっ、ふっ……あはあっ……! メアは何度も何度も震えていた。 受け止め、受けきれなかった白濁液がとろとろとこぼれていた。 はあ……あっ……ぁ……ああぁ……ふっ…… 次第に呼吸が落ち着いてきて。 あぁ……はあ……あったかい……よう…… いっぱい……だよう……ああぁ……洋くんのが……いっぱい…… いっぱい……もらえたよう…… 陶酔した声。冷めやらぬ熱。 俺を、惹かれたように見つめ続ける。 しばらくこうして抱きあっていた。 冬の風が、高かった熱を少しずつさらっていく。 はあ……ン……はあ…… ねえ……洋くん…… なんだ? わたし……バカバカになった…… バカバカなこと……たくさん言ってた…… そうかもな すごく……恥ずかしい気がする…… いいんじゃないか よくない……恥ずかしい…… 手遅れだな 悔しい…… いいんじゃないか よくない…… 諦めるしかないな いや…… 俺たちはまだつながったままだ。 メアの中は依然熱くて、心地よい。 洋くんに、誕生日プレゼント……あげすぎた…… ……まあ、そうかもな 返して欲しい…… ……返さないって言っただろ いや…… メアも、返さなくていいって言っただろ いや…… いやでも、自分で言ったことだからな 洋くん……卑怯…… 違うだろ 許せない…… それも違うだろ ううん、ちがくない…… わたしに……あんなこと言わせた、洋くんが…… 俺が? あ、頭……撫でちゃだめ…… また……おかしくなる…… バカバカに……なるからあ…… 愛液は終わりを知らず、湧いてくる。 あっ……はあっ……卑怯、だよう…… 俺が、なんだって? あぁ……洋くん、なんか…… 下が、きゅうっと締まる。 よ、洋くんなんか……洋くん、なんかあ…… そうしてメアは瞳をうるませながら。 好き……なの…… 大好き……なんだよう…… 長い時間をこうしていた。 離れるとき、メアは口には出さないがどこか寂しそうにしていた。 またな、と声をかけるとメアも同じ言葉を返した。 一時離れても、またすぐに会える。 俺たちはそういう関係なのだから。 蒼さんはやはり泊まりが難しいようで、千波と鈴葉ちゃんを連れて家路についた。 俺たちは部室に就寝スペースを作り、床につく。 そして皆が寝静まった頃。 夕方に打ち合わせていたとおり、俺と明日歩はもう一度ここに出向いていた。 洋ちゃん…… 深夜の屋上でふたりきり。 星空の明かりがまるでスポットライトのよう。 しばらくふたりで談笑し、次第に会話が途切れがちになると、言葉の代わりにおたがいの距離が縮まっていった。 ん…… 明日歩の髪を撫で、ついばむようなキスを交わす。 ン……ちゅ、ちゅ……ん、ちゅ…… それから唇を深く重ね、舌を入れた。 んふっ 明日歩は身体をぴくんと揺らす。 俺の胸に当たっている手が服をつかむ。 だけど逃げない。受け入れてくれる。 そのまま明日歩の舌を探した。 ンんっ……んっ……んん…… 熱く濡れた感触。 奥に潜んでいるそれを見つける。 からめ取り、こちらに誘導する。 んっ……ちゅ……ちゅぅ…… おずおずと出てきた舌を優しくねぶり、愛撫する。 ふっ……ちゅ、ちゅぅ……んっ……ちゅぅ、ちゅ…… 明日歩の強張っていた肩から力が抜けていく。 安心し、なすがままになってくれる。 口内を、強弱をつけてなぞっていった。 ンん……ちゅっ、ちゅ……ちゅぅ……ん、はあぁ…… 長い時間を経て、唇が離れる。 今の、キス……すごい…… 明日歩の瞳はとろんとしている。 すごかった……よう…… 明日歩…… 再度、唇を重ねる。 んちゅ……んっ……ちゅ……んふっ、ちゅ……ン、ちゅう、ちゅうぅ…… 今度は明日歩からも積極的に舌を動かしてくる。 おたがいの口内を行き来する。 からめ合いながら唾液を交換した。 んっ……こくっ……はあっ…… ふたりの唇の間には、銀線が通っている。 洋ちゃんの……飲んじゃったあ…… 唾液の架け橋が星明かりを反射し、煌めく。 口周りが淫靡に濡れ光っている。 明日歩は気づいていないのだろうか。 俺の手が、そのふくらみに当たっていること。 ね……洋ちゃん…… あたし……まだ、夢なんじゃないかって思ってる…… 夢みたいに……ずっとふわふわ浮いてるの…… 陶然として言葉を紡ぐ。 だから……教えて欲しいなって…… 夢じゃないこと……あたしに…… 吐息が熱い。 手のひらに届く明日歩の鼓動はとても早い。 ……いいのか? ………… 明日歩は、胸に置いていた俺の手に、自分の手を重ねる。 重さが加わり、ふくらみをより感じる。 その高い鼓動も、震えた身体も。 ちがうよ…… 洋ちゃんだから……いいんだよ…… 俺は、明日歩の身体を軽く抱きしめる。 あたし……は、初めてだから…… 優しくする。絶対 絶対に傷つけることはしない。 好き……洋ちゃん…… 大好きだよ…… 俺もだよ、明日歩 明日歩の制服に指を忍ばせた。 ボタンをひとつずつ外していく。 明日歩は動かず、健気に見守っている。 ぁ…… ボタンを外し終わると、白い肌が露わになる。 よ、洋ちゃん…… 怖くないから 頬とまぶたにキスをする。 目尻に涙が光っていて、そこにも口づけた。 優しくするから うん…… ブラ越しに手をあてがう。 その奥に潜む柔肌を感じる。 そっと、つかむ。 んあっ…… 甘美な感触。なんてやわらかいんだろう。 脳髄が痺れてくる。 撫でるように揉んでいった。 ふあっ……はぁ……ン……はあっ…… 俺の手のひらの中でかたちを変える。 それに合わせて明日歩はぴくぴくと反応する。 あんっ……あっ……あ……ああっ…… リズミカルにあえぐ。 背中に腕を回し、ブラのホックを探した。 あ……洋ちゃん…… 明日歩の瞳に恐れが見える。 なだめるようにキスをする。 ンっ……ちゅ、ちゅぅ……ちゅ……んはあっ 熱い吐息を鼻先に感じながら、ホックを外した。 双丘が揺れ、露わになる。 白く透き通った肌。丸く整った胸。 ただ素直に綺麗だと感じた。 は……はずかし……よう…… 綺麗だよ あ……洋ちゃん…… さわるぞ 明日歩の瞳は羞恥でうるんでいる。 うん…… 控えめにうなずくと、涙がこぼれそうになる。 目元にキスをして、直に触れる。 ふわっ…… ブラ越しとは比べものにならない。すべらかで、ぬくもりがあって、どこまでも沈みそうなほどにやわらかい。 その感触に加えて、明日歩のふくらみをさわっている、直接感じているという事実が理性を狂わせる。 はぁ……はあぁ…… とくとくと心臓の音。 明日歩の緊張が俺にも伝わる。俺の緊張も明日歩にきっと伝わっている。 鼓動は加速するばかり。 指先に力を込める。 ふあぁっ…… 明日歩は恍惚に声をあげる。 甘い声色に我慢がきかなくなっていく。 俺は愛撫を続けていった。 はあっ……あっ……ンっ、あっ、あ……んああっ…… 浮かんだ汗が夜空の灯火を受け、肌は淡い光を帯びている。 中央の突起は存在を誇示して天を向いている。 そこを優しくつまんだ。 あんっ……! 硬い。感じている証拠だ。 俺の愛撫で明日歩が悦んでいる。うれしかった。 胸を揉み上げ、弾力ある突起をこねていく。 ふはっ、はあっ、あっ、ああっ……んっ、あっ、ふあっ、はああっ……! 声があでやかに早く、強くなる。吐息の熱が増していく。 そのあえぎが俺の耳を刺激し、惹きつけてやまない。 求めたい、もっと。 明日歩が欲しい。 明日歩…… 涙を浮かばせる明日歩の瞳は、俺と、そして万華鏡の夜空を映していた。 明日歩の初めて、もらうからな ……うん 明日歩が笑むと、涙がこぼれた。 洋ちゃんに、全部あげるよ…… その涙はどんな星々よりも尊く、美しかった。 ふあっ───あああぁぁ……!! 狭い中を押し進めた。 明日歩のそこは充分に濡れていた。 熱くきつく締めつけ、淫らにまとわりついてくる。 あふっ、あっ、ああっ……! あああっ……! 奥までは届かない。抵抗が激しくて先に進めない。 はあっ、はっ、はあっ……くうっ……! 明日歩は苦悶の声をあげ、目の前のフェンスを強くつかんでいる。 俺は動きを中断する。 明日歩…… はあっ……んっ……はっ、はあ…… 大丈夫か……? バカか俺は。大丈夫のわけがない。 つながった箇所は純潔の朱で彩られている。 だ……だいじょう……ぶ…… 呼吸の合間に辛そうな声をもらす。 ……無理するな。痛かったらやめるから ダメ……やめちゃダメだよ…… 大丈夫、だから…… 痛くない、から…… うれしいってほうが……ずっと大きいから…… だから…… 明日歩の声は弱々しくても、そこには強い意志がある。 痛くても……痛くないんだよ…… 明日歩…… お願い……続けて…… じゃないと、洋ちゃんに初めてあげたことも……夢にしちゃうからね…… 明日歩が愛しくなって背中を撫でた。 そこは痛みのために強張り、汗がたくさん浮かんでいた。 辛かったら言えよ……? あは……たぶん、言わないかなあ…… 俺ができるのは、明日歩になるべく負担をかけないこと。痛みを和らげることだ。 背中を撫でつつ、腕を伸ばして胸を愛撫した。 あっ……ン……ふあ……あん…… 明日歩の腰がくねる。角度が変わり、中途まで埋まっている俺のモノを刺激する。 んんっ……あ……洋ちゃんの、ぴくってした…… あたしの中で、ぴくって…… ……恥ずかしいから言うなって えへ…… 明日歩は肩越しに眼差しを送る。 いいんだよ……動いて…… ……ああ。何度も言うけど あたしは、絶対にやめてなんて言わないからね…… 愛しくてたまらなくなる。呆れるくらいに。 細い腰をそっとつかみ、前に押し出した。 んああっ……! 明日歩は首を反らせて大きくあえぐ。 傷つけないよう慎重に、激しい圧力の中を潜っていく。 ふあっ、あっ……ああっ……! 熱を感じながら進んでいった。 そして、先端がこつんとぶつかる。 あくっ……! 奥まで届いた。すべて埋没した。 はあっ……はあ……ン……はあぁ…… ああぁ……わかる、よ……わかる…… あたしの……洋ちゃんので……いっぱいだよう…… うくっ……ひっ……ひっく…… あ、明日歩…… 痛いからじゃ……ひくっ……ないんだよ…… うれしくて……ひっく……夢みたいでえ…… ……夢じゃないよ わからないなら、これからわからせる。明日歩が望んでいたことでもある。 俺はゆっくりと前後する。 あっ……くっ……うくっ…… きゅうきゅうと締めつける。 感じている熱が増す。 抜き、再度埋めると、また奥にぶつかる。 ふはあっ……! 締めつけが一段と増し、愛液があふれた。 はあ……はあぁ…… 接合部から滲み湧く蜜液は俺の下腹部を溶かし、明日歩の太ももを伝っていく。 痛く、ないよ……大丈夫だよ…… ……わかってる。続けるぞ うん…… 抽送を再開する。ゆるやかなストローク。 あっ……んあっ……ああっ……あっ……はああっ…… 続けるうちにすべりがよくなり、少しずつでも速度を上げていく。 あっ、あっ……あ、あんっ! はっ、ああっ……あ、はあっ! ああっ、あんんっ……! 摩擦が激しくなり、締めつけもきつくなる。 それでもすべりはよかった。 声にも艶が増していた。 あ、あっ、あっ! んっ、はっ、はあっ、はああっ! 昂ぶる熱に押され、抽送はますます加速する。 ああっ、んああっ……! よ、洋ちゃんっ、な、なんかっ、熱くてっ、あふっ、ああんっ、あぁあんっ! その嬌声も高くなる一方で。 い、痛くないっ、あっ、あぁぁっ、ほんとだよっ、痛くないようっ、あぁぁんっ、洋ちゃん……! 手をかけているフェンスががしゃがしゃと揺れる。 跳ねる明日歩の背中から汗が散る。 中は千切らんばかりに挟んでくる。 あぁぁっ、あふぅ! だ、だめっ、ふあぁんっ! ああっ、だめじゃないけどぉっ! あぁぁん! だめなのぉ! 明日歩っ、明日歩……! あぁぁぁっ、洋ちゃぁん……! 明日歩の背がびくんと反り、声を夜空に爆ぜさせた。 あああぁぁぁぁぁ────っっ!!! 大きな嬌声の中、吐き出した。 明日歩の背中に白濁液が散る。 汗と混じって伝い落ち、線を引いて屋上に斑点を作る。 ふは……ふわぁ……ああぁ…… ぴくんぴくんと震えながら、明日歩は熱に酔ったように冷めやらぬ吐息をついている。 せ、背中……あたたかい……洋ちゃんの…… 中も……まだ、感じてる…… 痛いのも……あたたかいのも…… 全部……洋ちゃんのだ…… 明日歩…… ああ……洋ちゃぁん…… あたし……あたしぃ…… う……ぐす…… 明日歩…… ひくっ……か、勝手に……泣いちゃうんだよ…… 泣き虫だから……しょうがないんだよ…… 秋の星座には恋の神話が宿っている。 それはきっと夢のように素敵な恋なのだろう。 明日歩…… 俺たちは、その恋に負けない恋を紡いでみたい。 この恋が、夢じゃないってわかったか? ……わかんない 明日歩はめいっぱい照れて言ったのだ。 だからね……また今度、抱いて欲しいんだよ…… ふたりで肩を寄せあい、長い間、夜空のアンドロメダ座を眺めていた。 俺たちは並んでベッドに腰を落としている。 ミルキーウェイの二階に構える明日歩の部屋。 涙はもう見えない。屋上にいた頃よりはだいぶ落ち着いたようだった。 家、上がってもよかったのか? ………… 遅い時間になったし、帰ったほうがいいなら…… や、やだ…… 明日歩は俺の袖をつかんで離さない。 今、洋ちゃんと離れちゃったら…… あたし……また、夢だって思っちゃう…… ぜったい……そう思っちゃうよう…… ぐすっ…… 止まった涙がまたあふれ出す。 ……泣き虫だな うん…… 今夜は、ずっと泣いてると思う…… うれしくて……ずっと…… ……明日歩 優しく髪を撫でる。 肩を抱く。 そうすると明日歩は俺に体重を寄せてくる。 震えはまだ残っている。 止まってくれるよう、小さな身体を腕で包み込んだ。 長く口づけ、そのまま明日歩に覆い被さった。 洋……ちゃん…… ……ダメかな ううん……ちがうの…… なんでだろ……おかしいね…… あたし、初めてのときより、緊張してるよ…… 布地越しに手を胸に当てた。 ぬくもりの中に鼓動が聞こえる。 とくんとくん、と。 また……洋ちゃんが抱いてくれるなんて、夢みたいだから…… それで、緊張するのかな…… 現実だよ うん…… あと、抱いてくれる、なんて言うな。当たり前のことなんだから 明日歩を抱きたい。だから抱く。そういうことなんだからな ぐすっ…… また泣いてる!? 泣いちゃったよう……バカあ…… ……かわいいな 目尻にキス。何度も味わった涙の味。 落ち着いた頃、上着をはだけていく。 あ……ぅ…… 明日歩の頬が朱に染まる。 み、見ちゃ……ダメ…… 初めてのときとは違い、部屋が明るいからか、明日歩は胸を隠そうとする。 明日歩 隠そうとする手を制する。 よ、洋ちゃん…… 隠すことない は、恥ずかしい……よう…… キス、するから ………… ン……ちゅ……んんっ……ちゅぅ…… ふはぁ…… 明日歩の瞳がとろんとなる。 腕は脱力している。胸が大きく上下している。 俺はスカートに手をかける。 あ……洋ちゃん…… 脱がせるぞ ……うん 明日歩は俺に任せてくれる。 好き……洋ちゃん…… 大好きだよう…… 俺も好きだよ ベルトを外し、するりと抜く。 清楚な下着、そして緊張のためか白い肌は上気していた。 はぁ……はぁ…… 見られてる……よう…… もぞもぞと動く。 肌に浮かんだ汗が部屋明かりをなまめかしく反射する。 あ、あんまり……見ちゃ…… 綺麗だぞ ふ、ふえっ…… 明日歩が泣けば、俺はそこにキスをする。 次は、小振りなブラを外した。 ふくらみが眼下にさらされる。 ン……はぁ……見ない、でえ…… 桜色の突起がつんと上向き、とがっている。 ……見られて感じてる? 明日歩はいやらしいな ば、バカあっ…… いやらしいとこ、もっと見たいな ショーツの端に指をかける。 あ……あぅ…… 明日歩はふるふると首を振る。 で、電気っ……消して…… それじゃ見えない み、見ちゃやだあ…… 見たいんだけどな バカあっ…… 抵抗される前にキス。 んふっ……ちゅ……ン……んちゅぅ…… ふはあっ…… 脱がすからな バカあ……嫌いぃ…… そんなふうに言っても明日歩はおとなしくなっていた。 するするとショーツを降ろしていく。 露わになる。 そこは乳首と同じく綺麗なピンクをしていて、恥ずかしがりの明日歩と一緒でかわいいと思ってしまった。 そしてそこは、淫らな輝きにも満ちている。 濡れてるぞ 言っちゃ……やあ…… ぴっちりと閉じたヒダから、ますます蜜が滲み湧く。 洋ちゃんに……見られた…… 全部……見られちゃったよう…… 溢れる蜜は止め処ない。 あぁ……恥ずかし、すぎて……もう…… わけ、わかんなくなってきたあ…… 明日歩の言葉は熱に浮かされ、たどたどしい。 はぁ……ン……はぁ…… 見られた、から……もう…… だから、もう…… あたしも……洋ちゃんの…… 急に明日歩は俺に抱きつく。 羞恥が限界に達したんだろうか。明日歩は裸を隠すようにして俺にしがみついている。 洋ちゃん…… ぞくっとした。 下半身に明日歩の手が当たっている。 わ……おっきい…… ちょ、明日歩…… いいから…… あたし……エッチなのかな…… 明日歩は俺のモノをそっと取り出す。 洋ちゃんに見られて……すごく、恥ずかしくて…… どきどきして……ふわふわして…… たまらなくなってえ…… 明日歩…… だから、洋ちゃんにも、お返し…… 明日歩の唇が降りていく。 ……ちゅ 先端に触れた。 あたたかく濡れた感触。 キス……しちゃった…… 洋ちゃんの、ここに…… 明日歩はぽうっと見つめている。 ……いいのか? うん…… 明日歩は上目遣いで俺を見る。 初めてだから……うまくできないかもだけど…… 明日歩がしてくれるんなら、それで充分だ ……ううん。がんばる 洋ちゃんに気持ちよくなって欲しいもん…… 唇から小さく舌を出す。 ンっ……ぺろ…… なぞり上げられる。 その刺激に頭の奥まで痺れた。 はあっ……洋ちゃんの、舐めちゃった…… 明日歩はまた、俺を上目で見る。 き、気持ちいい……? ああ えへ…… 明日歩の瞳がみるみる潤み、涙が頬を伝っていく。 ち、ちがうんだよ……これは、うれしくて…… わかってるから うん…… それから、慈しむように俺のそれを両手で包む。 再びキス。 くすぐるように、ついばむようにそこを愛でる。 んちゅ……ン……ちゅぅ……ん、ふっ、ンんっ……ちゅう……ちゅ……ちゅぴ…… 初めてでたどたどしくても、一生懸命さが伝わるあたたかい愛撫だった。 ちゅ……んちゅっ……はあっ…… 唇を離すと、熱い吐息がかかる。 いっぱい……舐めちゃった…… エッチなこと……いっぱいしちゃったあ…… 気持ちよかったぞ あ……えへ…… 無邪気に笑う。 それでいて、唇周りの唾液が淫らだった。 もっと、キスするね…… 洋ちゃんのここ……全部、キスしてあげるね…… 舌を当て、舐め上げる。 先端から徐々に下へと降りていく。 ちゅ……んちゅ……れろっ……ン、ちゅぅ……ぺろっ……んちゅぅ……ふっ、んむ……ちゅ、ちゅ……ちゅう…… 竿に、丹念に唾液をまぶしていく。 ちゅうぅ……ちゅぱっ……ん、ンんっ……はあぁっ 遠ざかる唇と先端との間に銀糸がいくつも通り、ぷつんと途切れて明日歩の胸を濡らした。 わあ……洋ちゃんの、あたしの唾液で光ってる…… 唾液だけじゃなく先走りの液も混じって濡れそぼったモノを、明日歩の手がきゅっと握る。 すごく、ぬるぬるする…… 上下にしごき始める。 口の中でされていたのとはまた違った快感。 気持ち……いい……? あ、ああ 気持ちよくて声が上擦る。 えへ…… 明日歩はほほえむ。手の速度が増していった。 もっと……もっと、気持ちよくなって…… 竿を手でしごきつつ、亀頭を口に含んだ。 先端から竿までをぬくもりで包んでいく。 んちゅ……じゅ……ちゅうぅ……ン、んふっ……ちゅう、ちゅ……ンんっ……んちゅう、ちゅう……じゅちゅぅ…… 口の中で舌を当て、ねぶり、時に吸い、時に舐め上げる。 んちゅう……ンっ……はむっ、ちゅ……ちゅぴっ……じゅ……んはあっ……ん、ンむっ……ちゅうぅ……ちゅ…… 濃厚な愛撫。こすられ、舐められ、またこすられる。 二重の責めに限界が近くなる。 ちゅうっ……ちゅううっ……! 続いて襲った激しい吸引。腰が浮きそうになる。 手の動きも激しくて。 ちゅうっ、ちゅうぅ……! ん、ふうっ、ちゅぱっ……んちゅうっ、んちゅうぅっ……! その強烈な摩擦に、突破した。 明日歩っ……! ぷはあっ……えっ……? きゃ……っ! 明日歩の驚いた顔に向かって白濁液が飛んだ。 ンんっ……けほっ、けほっ! はあっ、はあっ…… あ、あはっ……口の中、入っちゃった…… ちょっと……飲んじゃった…… わ、悪い ううん……洋ちゃんのだから 明日歩は鼻頭についた精液を人差し指ですくい、それもパクっと口に入れた。 ちょ…… ンんっ……料理には使えないかなあ 当たり前だっ でも、おいしいよ ……そうなのか? 恋人補正がかかってるけど 明日歩はぺろっと舌を出す。 かわいいな えへ…… 今度は、俺の番だ ………… 明日歩…… 抱きしめる前に、明日歩は言葉を投げた。 ね……洋ちゃん 展望台の彼女さんの名前はね、〈夢〉《ゆめ》っていうの…… ………… フルネームはわからない……。だけど、洋ちゃんならきっと思い出せる…… だから…… もしも再会したときは、明日歩に紹介するよ ………… そして、夢にも明日歩を紹介する 俺の恋人だって紹介するよ ………… 洋ちゃん……ぐすっ…… もう何度目かわからないその涙。 抱きしめ、あやしてから、俺は明日歩とつながった。 明日歩のそこはすでに濡れていて、中に入るのに抵抗は少なかった。 はああっ……あああぁっ! 明日歩は背を突っ張っている。 唇を震わせ、大きくあえぐ。 痛みは平気だろうか? 躊躇し、動きを止めていると、明日歩は俺に笑ってみせた。 痛く、ないよ……ほんとだよ…… 二回目だから……慣れたのかな…… 明日歩の声に苦悶の色は見えない。 動くぞ? うん…… ず、と深く刺しこみ、引いた。 んあっ……! それをゆるやかに継続する。 あっ……! んっ……ああっ、あっ……! 初めてのときに比べれば、痛みを我慢する素振りはない。 それでも痛いはずだった。 明日歩は我慢をする性質だから。 ああっ……あんっ……よ、洋ちゃんっ…… も、もっと……早く動いて、いいんだよ…… 洋ちゃんは……遠慮する〈性質〉《たち》なんだから…… 明日歩に先に諭されてしまった。 痛かったら言えよ 言わないよ……ぜったい…… 観念するしかないんだろう。 ぐっと強く押し込むと、明日歩の背が反り返る。 ああっ……! 抜き差しすると、髪を振り乱して声を上げる。 ふあっ! あっ、ああっ! ああぁっ……! ああっ、あふっ……! 切羽詰まった声に、不安になる。 あ、明日歩、平気か? はっ……んはっ……はあっ…… も、もうっ……心配性なんだから…… 声、出ちゃうのは……気持ちいいからだよ…… 明日歩は羞恥に焦げた顔を背けた。 ほんとか? な、何度も言わせないでえ…… 横目で俺を見て、物怖じしたように言う。 まだ、二回目なのに……気持ちよくなっちゃ、ダメかな…… ダメなわけないだろ。うれしいよ エッチな子だって、思われないかなって…… 大丈夫だよ 洋ちゃん…… 前からそんな兆候あったし ふえーん! 泣いた。 俺はエッチな明日歩も好きだ ば、バカあっ…… 続き、するぞ う、うん…… より深く突き、より早く抜いた。 それを繰り返す。 んああっ! あっ、ああっ、んっ、あんっ……! 明日歩は身をよじらせ、ぴくんぴくんと太ももを震わせながら、強い刺激を受け止める。 あっ、ああっ、ふあっ、あんっ……! あ、あっ、んっ、あふっ、ああぁっ、あんんっ、あふぅ……! あえぎは高く大きくなる。 ぐっと刺し込むと、ピンクのヒダはめくれ返り、奥から蜜を溢れさせた。 ふあっ、ああっ! すごっ、いっ、あぁん! ああっ、あっ、んああっ……! 部屋に愛液の匂いが満ちる。 それは麻薬のように頭をくらくらさせ、俺を駆り立てようとする。 奥へ、奥へと導こうとする。 はあっ、あっ、ああぁ……! あぁんっ……! も、もうっ、熱くてえっ……! 引くと、ぴっちりとくわえ込んでいた膣壁がこすられ、明日歩はまた大きくあえいだ。 もっともっと、愛液が枯れるほどに求めたい。 ふああっ、あああぁっ……! だ、だめっ、あはあっ……! き、気持ちよくてっ、気持ちよすぎてえっ……! 明日歩が感極まって身をくねらせるたび、肌をぬめり光らせる汗が散り、周囲を潤した。 い、いいようっ……気持ちいいようっ……! 明日歩のほうからも激しく腰を動かしていた。 俺のモノを離さんばかりにぎゅうぎゅう締めつけ、より奥へと誘おうとする。 あんん! ああっ、あぁん! あぁぁんっ……! あ、あたしっ……あたしぃ! ああぁっ、なんでえっ、こんなあっ……! 自分から快楽を貪る姿が信じられないのか、明日歩の顔には怯えが走っている。 明日歩は本当に気持ちよくなっているのだと、俺は逆に安堵していた。 明日歩、気持ちいいんだろ? 動きを休め、尋ねてみた。 う、うん……もう、おかしくなるくらい…… もっと気持ちよくなりたいんだろ? ………… 俺も、すごく気持ちいい 身も心も壊れるくらいに。 一緒に気持ちよくなろう よ、洋ちゃん…… おかしくなっていいから あ……ぅ…… 一緒におかしくなろう 俺は再度動き出す。 明日歩も怖ず怖ずと動いてくる。 その動きに合わせて突くと、接合が強まり、明日歩はすぐに嬌声を上げ始めた。 ふあっ! あっ、あんっ……あっ! あああっ! おたがい、動きはあっという間に最高速度へ。 ああっ、あぁぁぁ! だ、だめっ、だようっ……! お、おかしくなるっ……おかしくなるようっ……! 淫らな水音がこだまする。 ベッドのシーツは、明日歩の蜜で水たまりのよう。 混じりあうふたりの体液が流れ、伝い落ちては淫靡に吸い込まれていった。 あはあっ……! あぁぁぁ! だ、めぇ! 洋ちゃんっ、洋ちゃぁんっ……! 明日歩っ、明日歩……! あぁぁぁ洋ちゃぁんっ! イ、く──── ぎりぎりとしなる明日歩の身体を、どこにも逃げないよう、固く強く抱きしめた。 ああああぁぁぁぁぁ────っ!!! ああっ……! あっ、ん! んっ、ンんっ……! 中で受け止めた明日歩は余韻を受けて、ぴくぴくと身体を震わせていた。 ンっ……んはっ! はあっ、はっ……ン……はあぁ…… 次第に呼吸が落ち着いてくると、明日歩は陶然とした瞳で俺を見上げる。 洋ちゃんの……もらっちゃった…… お腹……いっぱいに、なっちゃった…… ……ごめん。中で出して ううん……いいんだよ…… あったかくて……安心できて…… 洋ちゃんをいっぱい感じられて…… だから……ぜんぜんいいんだよ…… 明日歩の肌を撫でる。そこはまだ高い熱を保っている。 洋ちゃんと……離れたくないな…… ずっと……こうしてたいな…… 明日は学校だぞ? 休みたいな…… それはダメだ ……そう言うと思った 洋ちゃんは、あたしのお母さんみたいで…… あたしを支えてくれる、恋人だから そしてそれは俺だけじゃない。 明日歩だって俺を支えてくれる。 だから俺は明日歩の左隣に立つことができる。明日歩は俺の右隣を歩いてくれる。 そうしてふたりで前に進む。 夢。 キミのおかげで、俺は恋をすることができたよ──── 陽がかたむいた頃、部活はいったん解散となった。 夜の天体写真撮影が始まるまでの一時、俺は明日歩の部屋にお邪魔している。 夕飯をごちそうになる名目もあったりする。 えへー、洋ちゃぁん ふたりきりになるや否や、明日歩は抱きついてくる。 俺の首に腕を回して、ごろごろと頬をこすりつけたり。 しっぽもぱたぱたしている。 甘えん坊だな えへー 明日歩 ン…… 軽いキスと深いキスを繰り返す。 唇を離すと、明日歩はぽーっとなっている。 好き……洋ちゃん…… 頭を撫でるとくすぐったそうにする。 ペットみたいだな 茶化してみる。 ペットでもいい…… 明日歩!? 洋ちゃんが……望むなら…… いやいやいやっ、そんなの望まないから! ご主人さまあ…… 身悶えざるを得ない。 あたしのこと……かわいがってください…… 明日歩が迫ると胸がぐいぐい当たって、さらに悶え苦しむ。 なにしても……いいから…… ……はい、終わり 明日歩の肩を押して離れる。 今日は、ここまで え…… 泣きそうな顔になる。 ……明日歩、まだ痛いんだろ? そう……だけど…… 無理しないでいいから ……洋ちゃんに飽きられた 違う違うっ、明日歩が心配なんだよ! 洋ちゃんと……エッチしたい…… 萌え転がりそうになる。 いっぱい……エッチなこと、されたい…… 洋ちゃんにも……してあげたい…… ……で、でも、ダメだ 煩悩に打ち勝つ。 ふえっ…… 泣かせてる!? 明日歩…… 抱きしめてささやく。 俺、明日歩のこと、大事にしたいんだよ…… よ、洋ちゃん…… だから、代わりにいちゃいちゃしよう うんっ バカップル全開である。 撫であったりさわりあったりしていると、明日歩はまたぽーっとなった。 洋ちゃぁん…… なんだ? したい……よう…… ………… エッチなこと……我慢できないよう…… いちゃいちゃは発情に拍車をかけただけだった。 洋ちゃんがしたいこと……恥ずかしいこと……なにしてもいいから…… い、いや、だからな…… あたしのこと……かわいがってください…… きゅうっと抱きつき、間近で見つめてくる。 洋ちゃん…… 明日歩の吐息を鼻先で感じる。 ご主人さまあ…… 大きくうるんだ瞳に吸い込まれそうになる。 そのまま押し倒したい衝動を留める。 ……今日の明日歩、メイドみたいだな 我慢し、誤魔化す。 メイドさんがいいの……? 明日歩は俺からそっと離れる。 ちょっと……待ってて…… 真っ赤な顔のまま明日歩は部屋を出る。 解放された俺はうなだれる。 ……解放? いや、明日歩が離れたとき、俺は寂しくなっていた。 なぜ俺は我慢していたのかよくわからなくなってきた。 洋ちゃん…… 明日歩が戻ってきたようだ。 俺は顔を上げて応じた。 視線の先には明日歩がいる。 正真正銘のメイドになった明日歩がいる。 洋……ちゃん…… ミルキーウェイの制服に着替えた明日歩。 恥じらい、フレアスカートをつかんでいる。 ゆっくりと、みずからの手でそれを持ち上げていく。 俺は言葉を失っている。 ご、ご主人……さま…… 羞恥に震えた唇からたどたどしく声を出す。 たくし上げたスカートの裾の下、潜んでいた生地が見えている。 お……お願い…… ご主人……さまあ…… あたしの……ことぉ…… 俺はハッと我に返る。 それからどうしたものかと考え、考えるまでもないことに気づき、明日歩に近づく。 明日歩はびくっとする。 あ……えと…… 俺が近づいた分、明日歩は後ろに下がる。 怯えているのがありありだった。 ……恥ずかしいんだろ? ………… 恥ずかしがりのくせに、無理するな ち、ちがう…… 違くないだろ ちがう……もん…… 足、震えてるぞ ふ、ふるえてないもん…… 明日歩は視線を斜め下に落としている。 ……痛みはいいのか? スカートを握っている手がきゅっと強くなる。 そんなの……平気だもん…… 洋ちゃんが……してくれないほうが、辛いもん…… ……明日歩 洋ちゃんのこと……好きなんだもん…… だから……こ、こんなことだって…… 明日歩 一歩近づくと、明日歩は一歩しりぞく。 ……逃げてるんだけど に、逃げてないもん…… 見るからに怖がっている。 それだけ明日歩は恥ずかしがっている。 な、なにしても……いいんだもん…… 洋ちゃんに……なにされたって…… 洋ちゃんだから……恥ずかしいことだって…… こんなことだって……できるんだもん…… 羞恥で涙声になっている。 ……だから、明日歩 頬をかく。 無理はしなくたっていいんだ 俺だって無理やりは嫌なんだ そんなことしなくたってさ…… もう一度、明日歩に近づく。 今度は逃げなかった。 俺も明日歩を抱きたいんだ 俺が明日歩を抱きたくないわけ、ないんだから やっぱりバカップル全開である。 限界だったのか、明日歩はへたり込む。 ふえっ…… そして泣いてる。 そんな明日歩を抱きしめる。 ん……洋ちゃぁん…… 明日歩も抱きついてくる。 ほんとにいいんだな? 何回も、いいって言ってるよ…… 心配性なんだから…… 頭を撫でる。 明日歩はくすぐったそうにほほえんだ。 今日は……あたしからしてあげるね…… せっかく、洋ちゃんのメイドさんになったんだから…… あたしが、ご奉仕してあげるね…… 明日歩は俺を押し倒す。 俺を下にして、自分からつながりを求めてくる。 ふあっ────ああぁぁぁ……!! 明日歩のそこはすんなり俺を受け入れる。 前戯もまだだったのに。 俺を誘うように濡れている。 止め処なく愛液は伝い落ちている。 はあっ、はあ……! ん、あっ、はあっ…… 濡れそぼるそこに包まれたから、奥底まで溶かされそうになっている。 はあ……ンっ……あっ、はあぁ…… 明日歩、痛みはどうだ? だ、大丈夫だってば……もう…… それより……動く、ね…… にこっと笑う。 明日歩の腰が浮く。包まれていたモノが外気にさらされる。 んっ、あっ……はあっ、ああっ……! 離れても、そこは明日歩のぬくもりにとろとろとまみれている。 こぼれ出す愛液は果てがなく、俺の下腹部を濡らし、その下のベッドまでも濡らしていた。 明日歩、感じてるんだな んあっ……い、言わないで…… すごい濡れてるからさ み、見ないでえ…… キレイだな ば、バカあっ…… 周囲はもう明日歩の匂いに充ち満ちて、媚薬として俺の脳に浸透する。 あっ……はあっ……んっ……! 上げられていた明日歩の腰が、降ろされる。 んあっ、ああっ……あっ、はぁぁ! 奥深くまで埋まると、淫猥な水音を立てて接合部からまた愛液が散った。 あっ……はあっ……ま、また、動くね…… 明日歩は少し休んでから、腰の浮き沈みを繰り返す。 あっ、はっ、あんっ……! ああっ……あっ、あっ……! はあっ……ンっ……あっ……! ふあっ、ああっ……! ゆっくりだったペースが次第に早くなっていく。 あっ、あっ、んっ、あんっ! あふっ、あっ……! んあっ、あっ、あぁあっ! あんっ、あぁんっ……! リズミカルな水音と、明日歩のあえぎ声。 ぎしぎしと軋むベッドのスプリング。 あふっ、あっ、ああっ! んっ、あっ、ああっ……! はあっ、はあっ……! んあっ、あっ、あふっ……! 動きに合わせ、胸もぷるぷると縦に揺れている。 あっ、んっ、よ、洋ちゃんっ、んあっ、ど、どうかなっ、気持ちいいかなっ…… ああ、気持ちいいよ あ、あはっ、よ、よかったっ……うれしっ……あっ、んっ、あっ、あんっ……! 明日歩のあえぎは歓喜の声。 俺は腕を伸ばし、揺れ動くふくらみに触れる。 あっ、ンんっ、む、胸えっ…… さわられてるっ……ああっ、揉まれてるようっ……! 明日歩の動きに加速がかかる。 あんっ、あっ、ああっ! はあっ、ああっ、ふああっ! だめっ、ああっ、あふっ、だめなのっ、あっ、あんっ、止まらないのっ……! そして動きはそろそろ最高速度に。 あっ、ああっ! あっ! あぁん! ンんっ! あんっ! あんんっ! 洋ちゃんっ、洋ちゃぁん……! 水音にあえぎにスプリングに、様々な音が一体となって俺たちふたりの気を昂ぶらせる。 明日歩の動きにあわせて俺も腰を跳ねさせ、さらに高みへ押しあげる。 んああっ……! 奥まで届き、こつんとぶつかる。 はぁぁん! 明日歩は背を反り上げ、どくっと愛液を噴いた。 ふわっ、は……ぁ……す、すごぉ…… 動いていると奥まで届く衝撃はこつんからごつごつと大きく激しいものに変わっていった。 あはぁ! あぁぅっ! ンっ、んふぅ! んあぁぁ!! 奥を突かれるたび、明日歩は高い嬌声をあげ、歓喜に身を打ち震わせた。 お、奥にっ、あぁぁっ! あぁぁんっ! 洋ちゃんのがあっ、奥にぃっ……!! 明日歩の膣圧が増す。 はやく、はやくとねだっている。 い、いいよっ……中でっ、いいのっ、洋ちゃんっ……! 明日歩は腰を押し下げ、さらに奥まで飲み込もうとする。 一緒にっ、ああっ、好きだからあっ、一緒にぃ……!! ふたりの隙間を埋め尽くすように。 俺は明日歩の奥を押しあげ、 ふあっ──── 明日歩はびくりと震え、俺はまだ押しあげた。 ───ああぁあぁぁぁっっっ!!! 注ぎ込む。 明日歩は献身的にすべてを受け止める。 んあっ……あっ……! あっ、ああっ、ふあっ……! んっ……ふうっ……ン……はあっ……はああ…… 荒く息をつきながら、顔が恍惚に彩られる。 あ……あぁ……洋ちゃんの……いっぱい…… あったかくて……じんってなって…… ふ、ふえっ…… ……泣き虫だな いいんだもん…… 中でよかったのか? うん……いいんだよ…… 今日は、大丈夫の日だったし…… それに……大丈夫じゃなくたって…… おいおい…… えへ…… 明日歩の顔が降りてくる。 キスをする。 全身で肌を重ねている。 俺たちは長くつながっていた。 明日歩とならいつでも、いつまでもこうしていられるのだと俺は思った。 そのままキスした。 姫榊はどうかわからない。だけど俺は、期待していたんだろう。 唇を重ねたまま、覆い被さった。 キスを終えると、姫榊は俺の眼下で無防備になっている。 熱に浮かされた瞳。 おたがいの緊張が空気を伝って刺激しあう。 ……嫌なら、言えよ 言わない…… 最初から用意していたのか、答えは早い。 もし、小河坂くんが、求めたら…… 応えようって、思ってた…… だから、ここに来た…… ここに来たの…… 顔を寄せて、もう一度キスをした。 ついばむような軽い口づけを繰り返す。 んふっ……ンん……ちゅ……ンっ……はあっ 離れると、姫榊はぽうっと俺を見上げてくる。 服……脱がすぞ い、いちいち、言わなくていいから…… ……断らないと蹴られるかと思って し、しないわよっ 制服をはだけていく。 姫榊はときおり不安げな眼差しを送るだけで、抵抗しない。 必死に羞恥をこらえているようだった。 ぁ…… 上着を脱がし終える。 豊かなふくらみ。ブラが窮屈そうに見えた。 姫榊の腕が一時、胸を隠そうと持ち上がるが、すぐに降ろした。 俺の手がそこに向かっていたから。 ンっ…… あてがった。 はあっ……あ…… 小河坂くんの手、が……胸に…… 覆いきれないくらい大きい。 弾力もすごい。ブラの上とは思えない。 指がどこまでも沈みそうだ。 ドキドキ、する…… す、すごい、緊張して…… 隣に座る、よりも……キス、よりも…… もう、これだけで、おかしくなりそう…… 当てていただけの手に、ほんのわずか力を込める。 んあっ…… ふくらみのかたちが変わり、指が埋まる。 あっ……ンっ……あんっ…… 心臓が痛かった。 姫榊の胸を愛撫するたび、俺の胸も苦しくなる。 ふあっ……あ……はああっ…… そして姫榊のほんのり熱い吐息に包まれ、くらくらし、緊張も相まって呼吸がうまくできなくなる。 もう酸欠になりそうで、愛撫を止めた。 代わりに手を下に持っていく。 こ、小河坂くん……? スカートの端をつかんだ。 あ……や…… まくり上げていく。 清楚なショーツが覗いた。 や、やだ…… 姫榊はもじもじと太ももをこすりあわせる。 そこを軽く撫でつける。 んふっ……く、くすぐった…… きめ細かい肌。なめらかな感触が心地よい。 はあ……ン……はあぁ…… だ、だめ……くすぐったいからあ…… 姫榊の肌、白くてキレイだな あ……そ、そう……? ああ。ずっとさわってたいくらいだ 姫榊はふいっと横を向く。 じ、じゃあ……さわれば…… さわるだけじゃなくて、もっと見たい ブラのホックに手を伸ばす。 やっ、やあぁ! どがっ!! 膝蹴りがみぞおちにクリーンヒットする。 ぐあっ……おまえ最初に蹴らないって言わなかったか!? い、いきなり脱がそうとするからでしょ! いちいち断らなくていいって言ってたろ!? そ、そんなの知らない! 暴君である。 ……じゃあ先に断るけど、脱がすぞ? こ、断らないでいいってば…… もはやなにも言うまい。 背中に腕を回し、ホックを外した。 豊満なふくらみがこぼれ、目の前にさらされる。 あ……ぅ…… 姫榊 両腕で隠そうとしたので、名を呼んだ。 さわりたい。いいか? こ、断らないでよう…… 姫榊はほとんど涙声だった。 嫌って……言えなくなるからあ…… ブラの上からじゃない、直接そこに手をあてがった。 ふあぁ……っ ふわりとした感触。 姫榊にしか作れない素材のやわらかさ。 なめらかで、溶けてなくなってしまいそう。 姫榊の胸も、俺の手も。 ンんっ……ふっ……は……ああっ…… 愛撫は胸だけじゃなく、片方の手は脇腹にすべらせていく。 はあっ……あっ……ふう……ンっ…… 姫榊の肌はどこもかしこも俺の手のひらに心地よさを与えてくる。 脇腹を通って、くびれた腰を過ぎる。 丸みを帯びた部分に着く。 完璧としか言いようのない身体のライン。 白い太ももの内側に触れると、姫榊はぴくんと震えた。 そうっと、撫でさする。 ふあぁ…… 姫榊の吐息がさらに大きく、熱くなる。 もっと撫でさする。 柔肌が、徐々に汗でしっとりする。 色も次第に、白からピンクへと変化する。 ふっ………んっ……く、ンんっ…… 姫榊は俺の愛撫ひとつひとつに、かわいらしく震えたり甘い吐息をついたりする。 姫榊が感じている。 気持ちよくなっている。 それがたまらなくうれしい。 もっと感じて欲しくなる。 太ももに当てていた手を、もっと上へ。 ふっ……あっ……。こ、小河坂くん…… 姫榊の足に力がこもる。 開かれていた膝がぴたりと閉じ、俺の手をはさみ込んだ。 姫榊の肩は強張っている。俺以上に緊張している。 それは最初から、ずっと変わらない。 唇も少し青ざめている。まずはそれをどうにかしたくなる。 ンっ…… まだおたがいにぎこちない、不器用なキス。 それでも俺は舌を前に出す。 んふっ! 姫榊は一瞬、ひどく怯えたように震えたけれど。 んっ……む……ンちゅっ…… 髪を優しく梳くと、姫榊の抵抗はなくなっていた。 舌をもっと奥へと進ませる。 姫榊のほうからも、こわごわと舌を押し出してきた。 重なる。 ちゅっ……ン……んちゅ……ちゅ…… からみあう。 むさぼるように。 どうしようもなく欲しくなる。 もっと、もっと。 ちゅぅ……ちゅ……ンふっ……む……ちゅ、ちゅぅ……んっ……ちゅ、ちゅうっ…… 姫榊の表情は穏やかだった。 俺に全幅の信頼をあずけている。 俺を頼ってくれる、だから俺も姫榊に応えてやれる。 とろとろ、とろとろと唾液を交わしあった。 ちゅうぅっ……んふっ……ン……はああっ ふたりの唇が離れると銀糸の橋がいくつもかかる。 口周りがきらめく。 姫榊は恍惚な瞳を俺に向ける。 俺の手は再びそこを求める。 太ももから、上へ。 姫榊はもう固くならず、俺にすべてを任せてくれた。 到達し、手を添える。 ふわあっ 姫榊は大きく声を上げた。 それが恥ずかしかったのか、姫榊の顔はますます真っ赤になった。 そこは吸いつくような湿り気があり、ついさっき味わった姫榊の濡れた舌を彷彿とさせる。 姫榊は、俺を間近で見上げている。 瞳に灯る光は頼りなげで弱々しくもあり、だけど姫榊こももという女の子が持つ芯のある強さも窺える。 弱くもあり強くもある姫榊となら、俺はいつまでも共にいられるんじゃないかと、そう思えた。 ここも、脱がすぞ? だ、だからあっ…… 蹴られたくないからな ショーツの端に指をかけ、下に降ろした。 姫榊の最も大切な部分が露わになる。 下着越しでも感じたとおり、充分に濡れている。 う……あ…… 口をぱくぱくさせて、言葉にならない声を上げる。 恥ずかしっ……からあ…… ぎゅうっと瞳をつむる。 み、見ないでようっ…… なんで な、なんでじゃないぃ…… こんなにキレイなのに 触れると、くちゅ、と水音が鳴る。 ふくっ……! 指が溶かされそうなほどに熱い。 くちゅ、くちゅと愛撫する。 ふあっ、あっ、ンっ、ああっ……! 触れるたびに蜜が湧き、あふれ出る。 や、やあっ……だめえっ……! 動かしていた指を止める。 最初に言ったとおり、嫌ならやめる。どうする? 姫榊は呆然としたあと、涙目でにらんでくる。 こ、小河坂くん……イジワル…… さっき蹴られたからな 別れようかな…… 待った待ったっ、さすがに早まりすぎだろ!? だって……優しくない…… ……優しくするから 髪を撫でながら口づけを交わす。 ン……はあっ…… 姫榊。冗談じゃなく言うけど…… 姫榊が嫌なら、俺もこれ以上続けたくない 抱きたくてたまらなくても、無理強いしたら意味がない。 姫榊はそっぽを向く。 嫌じゃ……ない…… そんなわけ、ない…… けど……は、恥ずかしくて…… 見られるの……恥ずかしくて…… だから…… 姫榊は起き上がり、抱きついてくる。 俺は驚きながら受け止める。 これなら、見られないから…… 見られない代わりに、これ以上なく密着する。 ……このまま、いいか? 姫榊は耳まで羞恥に焦げながら。 ……うん 姫榊の細い腰を持ち上げ、慎重に沈ませた。 んくっ────ああぁぁぁ!! 挿れた途端に、姫榊は大きく背中を反り上げた。 体重が乗り、充分濡れていたこともあって、ほとんど一気に埋まった。 あっ、はあっ……! い、痛っ…… 俺を抱く姫榊の腕に力がこもる。 上も下も、痛いくらいの締めつけ。 姫榊は表情を苦痛にゆがませて荒く息をつく。 愛液に朱色が混じり、その熱が俺の下腹部に落ちる。 姫榊の痛みが俺にも伝わってくるようだ。 う……くっ……痛い……はあっ…… 俺は、破瓜の痛みに耐える姫榊にかける言葉が見つからない。 ち、ちょっと……。小河坂くんまで辛そうな顔して、どうするのよ…… わたしの中……き、気持ちよくない……? ……そんなわけないだろ むしろ逆だ。あたたかくてからみついてきて、締めつけがきついのだってうれしいくらいだ。 だったら……うれしそうな顔、しなさいよ…… わたしだって、うれしいんだから…… わたしの初めて、もらってくれて…… たまらなくなって、姫榊の身体を抱きすくめた。 あうっ……い、痛いっ、動くと痛いっ…… わ、悪い…… ちょっとで、いいから……。このままで…… 姫榊は呼吸を落ち着ける。 押しつけられた胸──やわらかい感触の奥から鼓動が聞こえる。 俺の鼓動もきっと届いている。 痛い、けどね……まだ……。目の前、真っ赤になるくらい…… でも……嫌じゃないかな…… 悪夢の赤より……夕焼けの赤より、ずっと好き…… だから……か、感謝してよね…… 動いて、いいから…… ……姫榊 ほら、また……。次また辛そうな顔したら、蹴るからね…… この体勢だと、逃げられないな だったら、諦めて動きなさいよ…… でもな、動いたらもっと痛いぞ? それくらい、なんだっていうのよ…… 恋は盲目って言うじゃない……。わたしは、あなたが相手だとなにも見えなくなるの…… どんなに痛くても、痛くなくなるのよ…… その強がりに、俺は感服する。 やっと、笑ってくれたわね…… おかげさまでな 小河坂くん……もう一度、聞かせて…… 小河坂くんは、気持ちいい……? ああ わたしのこと、好き……? ああ ちゃんと、言って…… 姫榊のことが、好きだ ……うん 姫榊も、俺と同じくほほえんだ。 なら、大丈夫…… わたしは、大丈夫 あなたがわたしを好きでいてくれるなら…… あなたが気持ちよければ、どんなに痛くたって、わたしも気持ちいいんだから…… 姫榊はふんっとそっぽを向いた。 ……優しい彼女を持って幸せ者ね、小河坂くんは 俺は姫榊の頭を撫でる。 俺も優しくするから 当たり前っ 姫榊の頬と唇にキスをしてから、腰を進めた。 ふくっ……! 姫榊の背が伸び上がる。 汗まみれの双乳が俺の胸でぐにゃりとつぶれる。 う……だ、だいじょうぶ…… 俺に密着する、ピンクに火照った肌は吸いつくように気持ちいいのに、痛々しい。 痛くない……気持ちいいんだからあっ…… 俺の背中にぎりっと爪が立つ。 この痛みなんて、姫榊の痛みに比べれば取るに足らないんだろう。 姫榊も気持ちよくなってくれと願う。 ゆっくりと抽送する。 んあっ……! んっ、ああっ……! ああぁっ……! 身体を持ち上げ、乱暴にならないように降ろしていく。 あふっ……! 奥で小さな衝撃を感じる。 強く締まる中に根本まで包まれ、俺を芯まで痺れさせる。 もっと、動くぞ? うん……いいから…… 動いて生まれる熱を、姫榊の中で感じたくてたまらない。 んっ、あっ、あっ……! んふっ、あっ、あくっ……! 姫榊は歯を食いしばり、涙をにじませる。 あっ、んっ、くっ、あっ! ああっ、あはあっ……! そんなふうに懸命に痛みに耐えながら。 んああっ……! こ、小河坂くんっ……! 姫榊は俺に唇を押しつける。 荒い呼吸を交わしながら、激しく舌をからませあう。 離れると、おたがいの口周りは汗と唾液でべとべとだった。 小河坂くん…… わたし、もう少しで……気持ちよくなれそうだから…… ほ、ほんとだから…… ああ。途中でやめるなんて言わない うん…… 姫榊の腰を抱え直し、動きを再開した。 あっ、んっ、あっ……! はあっ、はっ……! 姫榊の上げる声、その合間に下から水音が聞こえている。 抽送が徐々にスムーズになっていく。 んあっ、あっ……! ま、まだねっ……痛みも、あるんだけど……ンんっ……! な、なんかっ、熱いっていうか……あんっ! へ、変な感じも、あってね…… 俺を安心させるためか、姫榊はおぼつかない説明をする。 それを信じて最後まで求めたい。 押し込み、引く。幾度も繰り返す。 俺の腕の中で姫榊は裸身を跳ねさせ、汗を散らす。 ああっ、あっ! あっ、あっ、ンっ、あんっ! はあっ、あっ、あんんっ……! それは確かな嬌声。 姫榊が身悶えると、胸が大きく揺れる。 そこにむしゃぶりついた。 乳首はとがりきっていた。 姫榊の味がした。 あふっ、んっ……! な、舐められてるっ……ああっ……小河坂くんにぃっ……! 接合部からはあとからあとから愛液が湧いていた。 呼応し、抽送の速度も上がっていく。 ああっ、ふああっ! あっ、あんっ! あああっ……! 嬌声が大きくなる。 俺とのつながりを、身をよじってより深く求めている。そんなふうに見える。 姫榊も気持ちよくなっている。 それが今までのどんな行為よりも、俺を気持ちよくさせた。 はあっ、んっ、ふあっ! あっ、あっ、んあっ、あっ! 動きはすでに最高速度、熱さと激しさも最高潮。 姫榊の身体はもはや熱の固まりだった。 抱きしめると、同じくらい強く抱き返してくる。 このままひとつになってもいい。 ああっ、んああっ! ああぁぁっ! だ、だめえっ! やあっ、こ、これっ、ふあぁんっ! 待ってえ……! 姫榊は淫らに暴れる。 もっともっと気持ちよくなろうと声も身体も叫んでいる。 あはあぁ……! だめっ……も、もうっ、わけわかんないっ……ああぁん! だめだったらあ! 強く突くと、びくんと震える。締めつけがひときわ増す。 限界が近かった。 おたがいの熱が抱えきれなくなっていた。 はあっ、あっ、はああっ……! す、すごっ、あふうっ! おっ、おかしくなるっ……ああぁぁ! おかしくなっちゃうようっ……! 腰の奥から猛ったものが這い上がってくる。 抗えない、出ると思う間もなかった。 ああっ、ふあっ、あ────あああぁぁぁっっっ!!! 中に散らすと、姫榊は俺にいっそうしがみつき、びくびくと痙攣した。 んあっ! んっ! あっ……! んっ、ンんっ……! はああっ……! ふはっ、はあ……はっ……はあぁ…… な、中……熱い……。な、なに……? 目を丸くして、注がれた自分の下腹部を見下ろす。 これ……小河坂くんの…… ふたりの重なりあった部分から、愛液混じりの精液がとろとろとこぼれ出していた。 すごい……たくさん…… ……悪い。外にしようと思ってたんだけど 抜きにくい体勢だったし、なにより気持ちよすぎて抵抗できなかった。 そっか……小河坂くん…… すぐにも蹴り殺されるんじゃないかと冷や冷やする。 わたしの中で……気持ちよくなってくれたんだ…… 姫榊は背中に回していた腕にそっと力をこめ、俺の身体を引き寄せた。 ……よかった 余韻に浸る穏やかな声。 守るはずが、逆に守られている心地。 恋人として頼られるだけじゃない、俺も姫榊を頼ることができる。 だからこんなにも安心する。 それが、これからもふたりで作り上げていく、俺たちの関係なのだ。 せ、狭いかな…… いや…… ただ、姫榊と密着しないとお湯が肩まで浸からない。 なのに姫榊は緊張しているのか、俺からなるべく距離を取ろうとしている。 ……緊張するなと言うほうが無理なんだろうけど。 どうしたんだ、急に。一緒に入ろうなんて ……嫌だった? そんなことない。驚いただけで い、言っておくけど……めちゃくちゃ恥ずかしいんだからね…… 俺だってそうだ ウソ…… なんで 小河坂くん……慣れてる感じ…… ……いや、女子と一緒に入るなんて初めてだから わたしと違って、平気そうだし…… そう見えるように、いろいろ耐えてるんだよ 背中からそっと抱き寄せてみる。 姫榊はびくっとする。 な、なにっ…… 寒いだろ。もっと浸かれ ………… 反応なし。 それに、と続ける。 もうな、姫榊を抱きたくてたまらない。まだ痛いって言ってたのにな この我慢の苦労もわかってくれ ………… 姫榊はやっと、おっかなびっくりに、俺に体重をあずけてくる。 そっか…… 強張っていた姫榊の身体から、力がゆるんでいく。 小河坂くん、我慢してるんだ…… 安堵したような、勝ち誇ったような声。 しばらくこうしていた。 姫榊の重さが心地よかった。 お湯の中にいても触れあう体温がわかる。 肌と肌が重なり、密着して、おたがいのぬくもりをじかに感じあうことができる。 あのね……お風呂誘ったの、なんでかって言うとね…… その声もどこか熱に浮いている。 消えそうなの…… 今朝はまだ痛かったのに…… あんなに感じてたのに…… ここに、あなたがいてくれたのに…… だから…… 手のひらを使ってふくらみを撫でる。 ンんっ…… さ、さわるの……? もう我慢できなくなった だらしない……わね…… 誘ったのは姫榊だからな ち、ちがっ……んんっ 静かに揉んでいく。 あっ……んあっ……だ、だめえ…… ボリュームのある胸を、両手を使って愛撫する。 ふっ……んっ……ああっ……だめ、だったらあっ…… ほんとにダメなのか? ぅ……あう…… して欲しいから、風呂に誘ったんだろ? んっ、んあっ……ああっ、ちが……っ 手のひらの中で豊かなふくらみがかたちを変える。 あてがう箇所から、とくんとくんと鼓動。 それは激しさを増すばかり。 はあっ、はあ……ンっ……はああっ…… どうなんだ、姫榊? あ……うう…… イジワルなの……嫌いぃ…… 姫榊ってMっぽいからさ ンんっ……はあっ……ちが…… こさめさんに迫られてるときもそんな感じだったし ああ……ちがうぅ…… 中心の突起がとがっているのを感じる。 そこをつまむ。 んふっ! そこはもうがちがちに硬い。 ほら、硬くなってる や、やだ……言わな、ンんっ! つまんだり転がしたり、そのたびに姫榊は反応する。 やあっ、んっ、ち、乳首っ、そんなにっ……あふぅ! ほら、感じてる ち、ちがっ、あっ、んっ、ふっ、んふうっ……! 責めるたびにびくびくと跳ねる。 湯船のお湯が波打っていく。 も、やめっ、あっ、長いっ、ああっ、長いようっ……! 姫榊が暴れると水面がばしゃばしゃ鳴って、バスタブからお湯がこぼれる。 乳首だけじゃない、ふくよかな胸も一緒に揉みしだく。 あふうっ! あっ、あんっ、んっ、んくっ、ふううっ! 口からは甘い吐息が漏れ続ける。 ふああっ……乳首、ばっかりっ……ふくっ……胸、ばっかりぃっ……あはあっ! 感じてるみたいだな ちがっ……ふわあっ! い、イジワルっ、ばっかりぃ……ん、あふっ……やだあっ…… イジワルされてるから感じるんだろ? ……別れようかな ウソだウソっ、もうしないから! 小河坂くん、ヘタレSね…… 沽券に関わる称号をもらう。 もうイジワル、しない……? まあ、姫榊が素直になるなら ………… して欲しいんだろ? ……ふん 素直じゃないが、肯定と取る。 胸の愛撫を優しく再開。 あっ、んあっ……あっ……ふっ、んうっ、ンっ…… 手のひらにある胸は、揉みしだくほどに張り詰める。 ね、ねえ……わたしの、胸……好き……? 好きだよ 大きいから……? 姫榊の胸だから好きなんだ んんっ……く、くさいセリフ…… うれしくないか? ふっ、ンんっ……うれしく、ないわようっ…… 視界が霧がかってきた。湯気もそうだし、長くお湯に浸かりすぎたせいかもしれない。 のぼせる前に上がるべきだろうが、姫榊から離れたいとは思わなかった。 わ、わたし……んふっ……素直じゃない、かな…… とりあえず真逆の位置にいるな そ、そうなの……? 自覚ないことにびっくりだ ヘタレのくせに…… それ違うし関係ないからっ ………… 姫榊は急に黙る。 姫榊? ひゃんっ! く、くすぐらないで! のぼせたか? だったら風呂、上がろう 名残惜しくもあるのだが。 ……その前に、してあげる 不機嫌そうに言った。 して……あげるから……感謝してね…… なんのことだか、最初はわからなかった。 わたしだって……素直なとこ、あるんだから…… ふっ……ンっ…… 姫榊はふくよかな胸をみずから持ち上げ、屹立した俺のモノに押しつけた。 こ、これで、いいの……かな…… ふわりと竿をはさみ込む。 う…… 圧倒的なぬくもり、絶妙な圧迫感。 あまりのやわらかさに、腰が浮きそうになる。 ど、どう……? 気持ちいい……? あ、ああ うなずくしかない。 人肌にすべてを覆われるというのは、こんなにも心地よいものなのか。 そ、そう……。気持ちいいんだ…… ホッとしている。 じゃあ、次は…… 俺の上に体重を載せながら、身を上下に動かした。 包まれながら、こすられる。 きめ細かい肌が緻密なヤスリとなって、俺に甘美な刺激を与えてくる。 んっ、ン……こんな感じ、かな…… はさみ込む強さが徐々に増し、密着度が上がる。 走る快感に、脳が温水に浸かったような状態になる。 なんか……ぴくぴくしてるわね…… い、いや、解説するな でも、気になって…… ちょ、指でつつくな! うわ……先っぽから変なの出てきた…… 解説するなよ死にたくなるから! ………… 姫榊は、はさんでいるモノをじっと見つめてから。 ……ちゅ 先端にキスをした。 濡れた感触に、腰が浮き立つ。 きゃっ……う、動かないでっ 不可抗力だっ い、いいから……じっとしてて…… 姫榊は唇を縦に割り、舌を出してそろそろと降ろしていく。 ン……ちゅう…… あてがい、周囲を舐め回す。 んちゅ……れろ……ちゅ……んっ……ちゅぱっ…… ふはあっ…… 唇から糸を引く唾液が、谷間にぽとりと落ちる。 な、舐めちゃった……つい…… ついかよ…… ど、どうだった? ……かなり気持ちよかった そ、そう…… またホッとしている。 確認しなくたって、姫榊がしてくれるならなんでも気持ちいいから ……くさいセリフやめてってば 素直じゃない姫榊と合わせれば、ちょうどいいだろ ふん…… 姫榊は再度動き出す。 双乳で包まれ、こすられながら、先端を舌で触れてくる。 んっ……ちゅ……ちゅ、ちゅっ……ふっ、ちゅ…… 最初は舌先でつつくだけの小さな刺激だったのが、徐々に大胆になっていく。 ちゅ、ちゅうっ……んっ、れろ……ぺろっ……ふっ……じゅ……ちゅう……ン、ちゅ、ちゅぱっ……ちゅうぅ…… 先端に大きく舌を当て、ディープキスに移行。 それに加えて、竿にかかる甘美な弾力。 頭の中が端のほうから霞みがかる。 ちゅう……れろ……ン、ちゅうっ……ぺろ……ちゅ、ちゅう……んふっ……ちゅうぅ……ンちゅう……ぷはあっ 姫榊はべとべとになった口周りを舌でぬぐう。 あ……すご……。先っぽから出てるので、すごいぬるぬるして…… 気持ちいいって証拠だ うん…… 先走りの液が潤滑油となり、姫榊の動きが加速する。 はあっ……ンっ……はあっ……。小河坂くん……んっ……もっと、もっと気持ちよくなって…… 献身的な奉仕に、そろそろ放出欲に逆らえなくなってくる。 んっ……ンんっ……んくっ、ン、ちゅううっ…… 先端を丸ごと飲み込まれた。 ちゅ、ちゅうぅっ……じゅう……ちゅううぅっ……! そして吸われる。促される。 ちゅうっ、んちゅううぅ……! ンふっ、ふはあっ! はあっ、は……ン、んちゅっ……じゅ、ちゅうっ、ちゅうぅっ、んちゅううぅ……! 強烈な吸引、合わせてぎゅうぎゅうと乳房を根本から押しつけてきて、もうすぐそこまで迫らされる。 んふっ……く……ぷはあっ! はあっ、はあっ…… 唇が遠ざかり、姫榊の熱い吐息が先端にかかり。 ン……ちゅ 潤んだ瞳でそこを見つめたあと、愛しそうにキスをした。 それが引き金になった。 くっ……! きゃっ……! 姫榊の胸元や顔に白濁液が散る。 あ、え……これっ…… 姫榊は目をまん丸くする。 こ、こんなに、たくさん……すごい…… 呆然としながら、頬や鼻の頭、艶やかな髪にまでかかった精液を指ですくい取っていた。 取っても取っても、なくならない…… いっぱい、かけられちゃった…… どろどろになっちゃった…… 白く淫らな姿は恍惚にも見える。 そ、それに……なんか…… まだ、硬い……小河坂くんの、おっきい…… こんなに、出したのに……まだ…… 姫榊 ま、待ってっ 起き上がって抱こうとすると、姫榊に押しやられた。 ちょっと……待って…… ……やっぱり、まだ痛いか? そ、そうじゃなくて……ちがくて…… してあげるって……言ったでしょ…… わたしが、あなたにしてあげるって…… だから……最後まで、任せなさいよ…… 姫榊は俺を下にして、またがった。 やあっ……こ、この体勢、恥ずかしすぎ…… 丸見えだな どがっ!! ぐあっ……踏みつけるなよ!? こ、今度言ったら、そのとんがってるモノ踏みつぶすからね! 服従せざるを得ない。 あ、あと……見ないで…… なるべくそうする ぜ、絶対見ないでえ…… ……あのな、自分からやるって言ったんだろ そ、そうだけど…… それともやめるか? や、やめないっ…… 姫榊はおそるおそる秘部に指を持っていき、挿れやすいよう左右に開く。 奥の部分が覗いた。 淫らで、妖しい。淫靡に濡れ光っている。 開いた太ももに、つうっと銀の糸が伝う。 う……あぅ…… 自分のいやらしい姿に口をぱくぱくさせる。今にも泣きそうに見える。 見ないでえ……お願い…… ……見てないから う、ウソぉ…… じゃあやめるか? い、いやっ…… 姫榊はもう俺と目を合わせようとはせず、これからやる行為だけに意識を向けようとする。 腰を落とすと、先端が当たる。 ひやっ…… 怯えたように、すぐ腰が上がる。 ぁ……う…… ……姫榊 だ、だいじょうぶ、だから…… 長く広げているせいか、奥に溜め込まれていた蜜がまた、とろりと落ちる。 あ……や、やだあ…… それを見た姫榊は、かわいそうなくらい顔を赤らめさせる。 う……くう……っ 羞恥を押し殺し、再び腰を落としていく。 おたがいの箇所に触れる。 だが位置が悪いのか、なかなか入らない。 あ、あれ……なんで…… ……無理しなくていいから 無理じゃ、ないぃ…… そこに指を添えたまま位置を探る。 羞恥と焦りで膝が揺れているせいか、入らない。 な、なんでよう…… ……姫榊 す、すぐだからあ……待ってえ…… もういいから よくないっ……わたしがしてあげるんだからあっ 自分からなんて初めてだから、うまくいかないのは当たり前だろうに。 姫榊はなんでも無理をしようとする。 う……は、入らない……やだあ…… 俺は、姫榊の腰を手で支える。 んっ……な、なによう…… 揺れをなくし、固定する。 ほら、降ろせ あ……う、うん…… 姫榊がまっすぐ体重をかけると、ようやく先端が沈んだ。 んはあっ……あっ……! そこから先は早かった。ヒダがいっぱいに開くと、奥深くまで一気に沈む。 ふわあっ! あっ、ああぁぁっ!! たぎったモノが飲み込まれると、ぐいぐいと締めつけてくる。 心地よい重さを感じる。 ンんっ……! ふうっ……はあ……ン……ふあっ…… 姫榊は俺の胸に両手をついて、安堵の混じった性感に身を打ち震わせていた。 汗と愛液が伝い、接合部が濡れていく。 か、勝ったなんて、思わないでね…… なんの勝負だよ…… ふ、ふんっ…… 痛みはどうだ? へ、平気……みたい……ンんっ…… 無理するなよ う、うるさいっ……あんっ……聞き飽きたわようっ お姫さまはご立腹だ。 じ、じゃあ、動くわね…… そんな急がなくても いいからっ ふるふると胸を震わせ、腰を浮かす。 んっ……くうっ……んふっ! くちゅりと音がして、遠ざかる。 はあ、はあ……ンんっ そしてまた沈ませる。 んあっ……! あっ……ふわあっ、ああっ……! 最後まで降りると、双乳がふるんと跳ねる。 谷間を、汗の雫が幾筋もすべっていた。 はあ……はぁ……ンっ……じ、じゃあ、次…… そんなふうに行為を続ける。 ふうっ……ンっ、んあっ……ああっ! はあっ、は……んっ、んふっ! あっ、ああっ……あっ、あふうっ……! 最初はたどたどしかった上下運動も、慣れてくると次第に加速していった。 あっ、あっ……んっ、ああっ! んあっ、あっ……ああっ! あっ、あぁっ……ふああっ! ああっ! あぁん! ね、ねえっ、小河坂くんっ……ああっ、んあっ! き、気持ちいいっ……? ああ、気持ちいいよ よ、よかったっ……あっ、ああっ、んっ! あんんっ! 髪を乱して上下する。ピンクに火照る肌から汗が散る。 気持ちよくっ、なってえっ……! ああぁっ! わ、わたしの中でっ、あぁん! いっぱいぃ……! 双乳が淫らに激しく揺れ動く。 あふっ、ふはっ、ああっ! はああっ……! あっ、ああっ……! んあっ、あはあっ! ふあぁんっ! 姫榊は突き上がる快感に翻弄される。あえぎも激しくなる一方だった。 つながる箇所はもうマグマのように熱くぬめり、俺もまた燃え上がる。 こちらからも動いた。 ふわあっ!? こ、小河坂くんっ……ああぁん! 姫榊も俺に合わせてますます腰を振り、大きく乱れた姿をさらけ出す。 あっ、ああっ、ふあぁん! い、いいようっ……あふぅ! 気持ちいいようっ! んああっ、ああぁん! ふたりで無我夢中に動いていた。 重なり、離れてはぶつかり、果てには身も心も溶けあってしまいそう。 ああぁぁっ! いっ、いくっ、ふああっ、イっちゃうようっ……あぁぁぁっ! だめになっちゃうようっ……! 姫榊っ……! ふああぁっ、ああぁぁんっ! 小河坂くんっ……! 姫榊の絶頂とともに、俺も高みに飛んだ。 あああああぁぁぁぁぁ────っ!!! 寸前で抜き、どうにか外に吐き出した。 ふああぁっ、ああっ……! んっ、ンああっ……! ああっ、あっ! んはあっ……! イった余波に揉まれているのか、びくびくと断続的に震えている。 あっ、ふあっ……! はあっ、は……! はあっ、はああっ……あっ……はあっ…… はっ……はあ……ふわっ……あっ……あつっ……ああぁ……熱い…… はあ……ン……ふっ……ぁ……はあ…… こ、小河坂……くん…… なんだ…… ふたりで脱力しきっている。 中でも……よかったのに…… ……そういうわけにいかないだろ ど、どうしてよう…… 俺、姫榊のことは大切に思ってるから ………… ……ふんっ そっぽを向いた。 おたがい肌はどこもかしこも、湯気が出るくらいになっている。 行為を終えても、姫榊は俺の上からどこうとしない。 それでよかった。 姫榊の重さ、体温が愛おしいからそれでいい。 まどろむ意識に、姫榊の声が差し込む。 小河坂くん…… ありがとう…… わたしは……もう、大丈夫だと思う…… 強くなれると思う…… だから…… なにがあっても、受け入れる…… 難しくても、受け入れる…… 時間はかかったとしても…… 最初はきっと、取り乱すだろうけど…… あなたにも、こさめにも、迷惑かけるだろうけど…… だけど、絶対、大丈夫 わたしは、悪夢を、克服する──── こさめさんを後ろから抱擁する。 透き通るような肌。触れることのできる肌。 月影を浴び、きらきらとまばゆいくらい光っている。 わたしの身体……ちゃんと、なっています…… ああ。綺麗だな これまでは……その言葉は、うれしくありませんでしたけど…… でも……今なら…… 肌を撫でると手のひらに甘美に吸いつく。 ンっ…… くすぐったそうに身をよじる。 な、なにか……緊張します…… ドキドキ……します…… ああ、俺もだ 手を、ふくらみにそっとあてがう。 ンんっ…… ぴくんと反応する。 小河坂、さん……エッチですね…… 変身したからな 豊かな胸を揉み上げる。 はあっ……あっ……ンっ…… 綿のようにやわらかい。指がどこまでも沈みそうだ。 ああっ……んっ……ン、あんっ…… こさめさんはかわいらしくあえぐ。 吐息が甘くなっていく。 や、やっぱり……んふっ……恥ずかしい、ですね…… ……外だしな。家、入るか? こさめさんは首を振る。 せっかく……満月の下でも、こうしていられるんですから…… わたしの身体……触れられるんですから…… 資格……持てたかもしれないんですから…… 強く抱き寄せ、首筋にキスをした。 ンんっ…… キスマークもちゃんとつくぞ あ……小河坂さん…… よかった……です…… 愛しそうにつぶやく。 小河坂さん……だけなんです…… 満月の下で……わたしを抱けるのは…… 世界できっと……あなただけ…… 愛撫を続けていく。 キスマークを残しながらふくらみを揉みしだく。 ふあっ……ぁ……ん、あっ……ふうっ……ンんっ……んあっ……ああっ…… 白い双丘が手の中で大きくかたちを変えている。 あんっ……む、胸……好きですか……? 好きだぞ 大きいからですか……? こさめさんの胸だから好きなんだ んあっ、あっ……女たらし、ですね…… こさめさん限定でな わたしたらし、ですね…… そうだな ふくらみの頂きに、つんと上向いた突起。 そこに触れる。 ふくっ…… 指でつまみ、転がしていく。 あっ、ふわっ……そ、そこっ…… 硬くなってるぞ い、言わないでください……はあっ…… 転がしながら、舌先は首筋をなぞり上げ、耳をはむ。 んふっ! く、くすぐったい、です…… ここ、さらに硬くなったぞ や、やだっ…… 感じてるんだな こ、小河坂さん……Sです…… こさめさん限定でな 舌先で耳穴を突く。 ふああ! こさめさんは激しく身震いする。 ……反応が大きくて、俺も驚いた。 へ、変なとこっ……舐めないでください…… 感じるかと思って か、感じません…… もう一度やってみる。 やぁんっ! 電気が走ったようにびくっとなる。 や、やだっ……だめ…… こさめさん、かわいいな ま、またっ……ひゃんっ! だめっ……ですぅ! ぞくぞくしますからあっ……! 耳をはみつつ、指で乳首をきゅうっとしぼる。 はああっ……! 大きくあえぎ、身悶える。 はあ……はあぁ……っ 瞳がとろんとなっている。 休ませず、耳、首筋、うなじに唇をすべらせていった。 ふあっ、あっ……! ま、待って……はああっ! くすぐるの、だめえっ……! 逃げようとするが離さない。 胸も優しく揉みしだく。口と両手で同時に愛していく。 ああっ、あふっ……! い、一緒になんてっ……あんっ! だ、だめですからあっ……! 感じてるじゃないか 違い、ますっ……はぁん! だ、だから、変なとこ舐めるのはっ……あぁん! こさめさん、かわいいな んふっ……! ち、調子に乗らなっ……あふぅ! 耳、弱いんだな ひあっ、あっ……! な、舐めないでえっ……! この弱点は使えるな んふっ……! み、耳元でささやかないでえっ…… 耳たぶを噛んでみたり、裏側をなぞったり。 ひんっ……! あ、ふぁぁ! あ、あとで……ひあっ! か、覚悟してくださいね……ンんっ! ふうっ! ばっさり斬るのはかんべんな き、斬りますっ……ふあっ、あっ! わ、わたしも……んくっ……Sですからあっ 耳に息を吹きかける。 やぁんっ……! かわいいな し、知りませんっ……! 唇を下に降ろし、首や肩を強く吸う。 キスマークを無数に刻む。 んっ、ふっ! ンふうっ……! たくさんつけたぞ はあ……あっ……はあぁ…… 愛撫を終えると、こさめさんは脱力する。 月光のように白かった肌はすっかり上気し、浮かんだ汗が輝きを帯びていた。 ぽかぽか……します…… 身体、熱いです……。こんなに熱いの、初めてです…… わたし……知りませんでした…… こんな感覚……初めて知りました…… Mの感覚か? それではばっさり斬りますね…… ……冗談だって ひどいです……。ひどいこと、ばっかり…… ……いや、本気で悪かった 言われたとおり調子に乗りすぎた。 ごめんな 今さらの謝罪です…… こさめさんがかわいくて、ついな かわいい……ですか……? ああ、めちゃくちゃかわいい だからいじめるんですか……? ……いや、かわいがったつもりなんだけど それなら優しくしてください…… この続きは、優しくする 続き…… こさめさんのこと、好きだぞ ………… こさめさんは呆れたようにほほえむ。 わたしたらしですね…… 正直な気持ちだ はい……。小河坂さん、キスマーク……たくさんつけてくれましたし…… あなたが、わたしに触れることができた証…… わたしを……抱くことのできる証…… こさめさんを包む腕の力を強める。 小河坂、さん…… 俺の手にこさめさんの手が重なる。 わたしは、恋の資格を得たんじゃなくて…… あなたとなら恋ができる、その資格をもらったのかもしれませんね…… 足を抱え上げ、こさめさんの中に潜っていく。 ふあっ────あっ、あぁぁぁっ!! そこは十二分に濡れていてもきつかった。 痛いくらい締めつける。狭い中で溶かされる。 はあっ、あっ……! んっ……! あっ、はあっ…… こさめさんは何度か激しく震えたあと、ゆっくりと視線を降ろした。 あ……血…… 純潔の朱が一筋、太ももを伝っていく。 滲み湧く愛液と混じったそれは、月明かりを照り返す。 最後、まで……奪われてしまいました…… ああ。もらったぞ 無理やり奪われてしまいました…… ……合意だと思ってたけどな 後悔は……ありませんか……? あるわけないだろ こんなにもあたたかいぬくもりに包まれているのだから。 こさめさんこそ、俺でよかったのか? 小河坂さんだけって……言いましたよ…… わたしを抱けるのは……あなただけ…… あなただけなんです…… 間近で俺を見つめている。 濡れた瞳が俺だけを映している。 痛みはどうだ? 痛いです……とても…… ですけど……幸せな、痛みですから…… 感じていたい……痛みですから…… 動いて平気か? はい…… 陶然とした声。ぽうっとした眼差しに色気を感じる。 誘われるように動き出す。 んあっ、あっ……! あっ、はあっ……あぁっ……! ゆるやかに前後する。 熱い蜜液がからまり、とろとろとまとわりつく。 突くたび、こさめさんは肩を震わす。 か、感じっ、ます……あんっ! わたし、でも…… わたしでも、なんて言わなくていい。こさめさん、俺の彼女なんだから あ……彼女…… 恋人になってくれたんだよな。それとも俺の勘違いか? 間近にあるこさめさんの瞳が揺れ動く。 小河坂さんと……恋人…… なにか……おかしな感じですね…… ……それは否定か? いいえ……そうじゃありませんよ…… わたしはうれしいんだと思います……。夢が叶ったと言っていいと思います…… だから……信じられなくて、実感が湧かないんだと思います…… 実感なら、今からいくらでもあげられるぞ 今から…… ああ とってもエッチですね…… こさめさんのおかげでな 変身したのは満月のせいではないんですか……? 俺を変えたのはこさめさんだ 月の光などでは決してなく。 姫榊こさめっていう光なんだ また、動き出す。 ゆるやかだったのを一転、強めに突き上げる。 あくっ……! 奥まで届くとこさめさんは背を反らせる。 朱に彩られた接合部に愛液が増した。 そのまま加速し、抜き差しする。 あふっ、あっ、ああっ! んあっ、あっ! ふあっ、ああぁっ……! 淫靡な水音に乗ってこさめさんは激しくあえいだ。 あんっ、あっ! あんっ! ふあっ、あっ、あぁっ! は、激しっ……ああっ! あふっ、あぁっ、あぁんっ! ふくよかな胸が卑猥に揺れ、俺の興奮も高まった。 はああっ! こ、小河坂さんっ……! あぁぁっ! 小河坂さんっ……! 昂ぶった吐息の合間に言葉を紡ぐ。 がくがくと、こさめさんの膝がくずれかける。腕を回して支えた。 あっ、はあっ、あっ……! あんっ……! 足を抱えながら、肩を抱きながら、こさめさんの熱を求めていく。 感じっ、ます……! はぁんっ! 小河坂さんをっ、ふああっ! いっぱいぃ……! 蜜の源泉に熱く包み込まれ、しぼりあげられ、甘美なぬくもりで刺激してくる。 欲して動くと、こさめさんの膝はすぐにくずおれそうになる。 ああっ、んあっ! あっ、はあっ! あんんっ……! よりいっそう抱きしめる。 ふたり、夢見心地で感じあう。 き、きますっ……ああっ、あふうっ! くるっ、きてますぅっ、あぁぁんっ! 小河坂さぁん……! こさめさんっ……! 呼びあい、呼応して熱が凌駕し、突破した。 あふっ! ぁ……あ、ああぁぁぁぁ────っっ!!! たぎった熱を吐き出した。 桃色に火照った肌に白濁液が散る。 こさめさんは激しく震えながら浴びていた。 ふああっ、ああっ……! あっ、んあっ、ああっ……! はあっ……あっ……! あっ……ぁ……ふう……っ 虚空を見つめていた瞳が、そろそろと降りていく。 あぁ……ン……たくさん、かかってます…… あたたかい、です…… 肌が夜気にさらされても、高かった熱は冷めやらない。 なあ、こさめさん 愛しい体温を腕に抱いたまま。 これからふたりで、月見しないか 月見団子も持ってきたんだ。どうだ? ………… 満月、まだ嫌いか? ……はい 小河坂さんがエッチな狼男さんに変身してしまうので、嫌いです わたしをいじめるので、嫌いです…… 優しくほほえみながら、そんなふうに言っていた。 衣服を整え、肩を並べて輝く月夜を見上げていた。 余韻に浸るように俺たちは寄り添っていた。 あ…… 月にうさぎがいるって、本当なんですね…… 今まで……ちゃんと向き合えなかったから、知りませんでした…… 小河坂さんに抱かれて……わたしは、知ることができたんですね…… つないだ手に力がこもる。俺も握りかえした。 いろんなこと……知ることができた気がします…… これも、そのひとつ…… お団子、おいしいって思えます 焼き芋と同じくらい、おいしいって…… かわいらしく月見団子をついばみながら、照れたように笑っていた。 どちらからともなく寄り添った。 押し倒そうとしたのだが、こさめさんに抵抗された。 ……やられてばかりなのは、性に合いませんから そんなことを言って、逆に押し倒してきた。 俺に覆い被さるようにすると、こさめさんは胸元をはだけさせる。 こさめさん…… お願いします……じっとしていてください…… 露わになった豊かな双丘。社殿の薄い明かりにぼんやりと照り輝く。 下着……つけてなかったのか? ……はい 前はつけてるって…… 上だけ、外しているんです……。ストラップが見えてしまうかもしれませんから…… ……仕事中、いつもか? はい……いつも…… こさめさんの赤らんだ顔が、さらに朱に染まる。 へ、変なこと……聞かないでください…… ……気になってさ いじめて楽しんでいるんですね…… ……そうじゃないから 今日は……わたしがいじめる番ですからね…… こさめさんは一度、横にかかる髪を後ろに流す。 両手を使い、ふわりと左右から包み込んできた。 ンっ……こう、でしょうか…… 甘美な弾力、あまりに柔らかく心地よくて、腰が浮きそうになる。 初めてですので……うまくできるかわかりませんが…… ふくよかな胸をあてがいながら、こさめさんは上体を動かしていく。 ンっ……はあ……ん……っ すべらかな肌がこすり上げる。 あたたかいぬくもりが安心を、緻密な摩擦が快感を高めていた。 溶かされ、生まれた熱にくらくらする。 ん……ンっ……はあっ…… どう……でしょう……? 動きを休め、上目遣いで聞いてくる。 ……なんか、すごくいい 気持ちいい……ですか……? ああ。ありがとうな お礼なんて、いりません…… こさめさんはにこっとほほえむ。 小河坂さんをいじめたくて、してるだけですから…… そんな言葉を残し、再開する。 はあっ……はあ……ンっ……はあっ…… こさめさんは奉仕を続けながら、谷間に埋もれたモノに陶然と眼差しを向けている。 すごく……おっきくなってます…… ……そういうのは言わないでいいから だめです……わたしに責められてください…… こさめさんはぽうっとした口調で言って、ゆっくりと顔を降ろしていった。 一心に見つめていた先にあるものを、唇で触れる。 ン……ちゅ 先端に濡れた感触が走る。 ちゅ、ちゅっ……ちゅぅ……はあっ…… 幾度か口づけしたあと唇が離れると、熱くなった吐息がかかる。 キス……してしまいました…… 吐息だけじゃない、声そのものも熱がこもっている。 小河坂さんのここ……舐めてしまいました…… 言葉にして、強く確認した。 もっと……してあげたくなりました…… 再度、唇が降りていく。 ン……んちゅ、ちゅっ……ちゅ、ちゅぴ…… ついばむようなキスを繰り返す。 それから、かわいらしく出した舌で小さく触れる。 ぴちゅ……ンっ……ちゅ……ぺろ…… 周囲をなぞるように舐め上げる。 ちゅ……ぺろ……れろっ……ちゅう……ぺろ…… はさみ込んだものを愛しげに舐めている。 最初は軽くだった奉仕は、大胆に舌を当てて激しさを増していく。 ちゅうっ……ちゅ、ちゅぴっ……れろっ……ンふっ、んっ、ちゅうぅ……ぺろっ……んちゅ、ちゅ……ンっ、ちゅうっ……んちゅうっ…… 舐め回すうち、唾液や先走りの汁がたらたらと伝い落ち、白い谷間にたまっていく。 ンんっ……んはあっ……はあ…… たくさん……舐めてしまいました…… 唇周りはすっかりどろどろで、その淫らな表情が背徳めいた性感を生む。 小河坂さんのここ……びしょびしょで、ぬるぬるになりました…… ……言わなくていいから だめです……わたしにいじめられてください…… 必死にも、せつなそうにも見える表情。 次は……動きながら、です…… ふたりの体液で濡れ光ったふくらみを押しつけ、小刻みに上下する。 そうやって竿をこすりながら、先端も唇で責めていく。 ちゅ、ちゅう……! んふっ、ン、ちゅっ、はあっ……ん、ンちゅう……! ちゅぱ、ちゅっ、ちゅうぅ……! 唾液、先走りの汁、そして汗の混じった谷間はすべりがよく、奉仕はますます加速する。 んちゅっ、ちゅうっ……! はあっ、あっ……ン、ちゅうっ、じゅっ、んちゅうっ……! んはあっ、あっ、はあっ……! ンっ、んふっ、ちゅぱっ、ちゅううぅ……っ! 激しくなる口づけと吸引、摩擦と弾力と熱に、抗えずに昇り詰めた。 こさめさんっ……! ちゅうっ、ちゅっ……ンっ、ふはあっ……! こさめさんが吐き出すのと同時だった。 きゃっ……! こさめさんはまともに浴びる。 顔や髪に舞い飛び、胸元にも降りかかる。 上半身のどこもかしこも白に染まった。 あぁ……ぅ…… びっくり……しました…… こさめさんは瞳を白黒させていた。 顔も……髪も……胸も…… 全部……びしょびしょです…… ……悪い 悪く……ないです…… 小河坂さんの……ですから…… 恍惚に見上げてくる。 どろどろに濡れた顔は卑猥なのに綺麗に感じる。 あ…… こさめさんの眼差しが真下に向く。 小河坂さんの……まだ、ぴくぴくしてます…… ……だから言わないでくれ だめです……もっといじめます…… 真っ白になった顔を再び寄せ、そこに口づける。 ちゅ……ぴちゅ…… 舌を使って精液を舐め取る。 ちょ、いいから だめです……お掃除です…… それくらい自分で…… だめです……今日は、わたしがいじめるんです…… 小河坂さんは、されるがままなんです…… 口づけ、舌をあてがい、少しずつ丁寧に舐めていく。 ちゅぴ……ンっ……ちゅる……んくっ……れろ…… 舐め取りながら、こさめさんの喉が動いている。 んふっ……ぺろ、れろ……こくっ……ちゅぅ、ちゅる……ンくっ……ぺろっ……ちゅるっ……こくっ……はあっ 口周りは白く淫靡に光っている。 綺麗に……なりました…… たくさん……飲みました…… の、飲んだのか……? はい…… いじめると言ったこさめさんは健気だった。 小河坂さん、まだがんばれますか……? ……いや、なにを がんばれますよね……まだ、こんなにおっきいんですから…… こさめさんの濡れた唇が、再び降りていく。 もっと……舐めてあげますね…… いっぱい……出させてあげますね…… そしたら……お掃除です…… 全部、飲んであげますから…… ……待った 肩をつかんで止める。 もういいから だめです…… いいんだよ 気持ちよく……なかったですか……? 気持ちよかったよ じゃあ…… 俺にもさせてくれ ………… 俺にもこさめさんを抱かせてくれ ……襲っちゃうんですか? そうだ 肯定されてしまいました…… 俺もこさめさんを気持ちよくしたい だめ……わたしが…… こさめさんを抱き寄せる。 だ、だめ…… だめでも無理やり抱くからな あ……ぅ…… 無理やり、優しく抱くからな 優しく…… こさめさんのこと、大切にしたいからな わたしを…… 彼女だからな ………… はい…… 小河坂さんは、わたしの彼氏さんです…… 無理やりわたしを奪っていく、悪い狼さんです…… エッチでいけない狼男さんです…… こさめさんの身体を抱え、腰を浮かせる。 抱っこの格好を取って、傷つけないようゆっくりと挿入していった。 んあっ、あっ……あぁっ! あふっ……! つかんでいるこさめさんの腰を降ろし、深くもぐり込んでいくにつれ、その震えは大きくなる。 とろとろと愛液が伝ってくる。 ふあっ、ああっ……! お、奥にっ、はあっ! く、くるっ……んあっ! 二度目だからか抵抗は少ない。こさめさんはどんどん飲み込んでいく。 だが急にならないよう、慎重に進めていく。 ああっ、あんっ……! ま、まだっ、来ないっ……んくうっ! はああっ、き、きそうなのにっ……あふっ! ゆ、ゆっくりでえっ……! そして、やっとお尻が下につくと最奥にぶつかった。 あふうっ……! びくんと激しく腰を跳ねさせる。 あっ……はあっ……はっ……はああっ…… びく、びくと震えるたびに強く締まる。 ンっ……あっ……こ、小河坂さん…… ……痛かったか? ふるふると首を振る。 ち、違いますけど……ひどいです…… ……優しく入れたんだけど ゆっくりすぎて……すごく、焦らされました…… ……そういうつもりじゃ いじめられました……悪い狼さんです…… 要するに気持ちよかったんだな ち、違いますっ…… きゅうっと締まった。 今、締まったぞ い、言わないでください…… さっきはさんざん言われたからな そ、それは…… そういえば俺、まだなにもしてなかったのに濡れてたんだな えっ……ぁ…… 早く襲って欲しかったとか? ち、ちが…… 中、めちゃくちゃ熱い や、やだ…… また締まった や、だぁ…… どんどん締まるな あ……ぅ…… いじめられると感じるんだな 違い……ますぅ…… さっきから、きゅうきゅうと締まっている。 ひどい、です……。優しくないです…… これで五分五分だな わたしのほうが……いじめられてます…… もうしないから ふわっ、あっ……胸、揉まなっ……ふうっ…… すごい締まるな い、いじめてます……ふあっ……ウソつきですぅ…… こさめさんがとてもかわいい。 さきほどの名残で濡れているふくらみを、塗り直すように手のひらで揉みしだく。 はあっ……あっ……小河坂、さん……あんっ……エッチな狼さんすぎです…… それはそっちだろ 違います……んはあっ……小河坂さんのほうです…… 乳首、硬いぞ ふくっ! そ、そこっ……あふっ! 敏感にっ……あはあっ! 胸で奉仕した影響か、感じやすくなっている。 やめっ……あくうっ! だ、だめっ、だめですぅ……! ほら、こさめさんのほうがエロい あふっ、ふうっ……! ちがい、ますぅ……! あんっ、ああっ……! いじめられてるっ、だけですぅ……! そのわりに締めつけがとんでもないぞ う、ウソっ、ですぅ……! ウソじゃない 接合部に手を添える。 ひやっ……! こさめさんの声が裏返る。 い、今、変なとこっ…… ここか? クリトリスをつまむ。 ふううっ! 電気が走ったみたいに背中が反り返る。 あ、う……あぅ…… 口をぱくぱくさせてそこを見る。 敏感な芽は皮をかぶったまま窮屈そうにしている。 さ、さわらな……そこぉ…… きゅっとつまむ。 ひんっ……! びくっとなる。 だ、だめ、ですぅ……感じすぎですぅ…… じゃあ、こっちで あくうっ! ち、乳首も、だめなんですぅ……! だったら 耳に息を吹きかけ、舐め上げる。 ひああっ! そ、そこもっ、だめですぅ……! だめなところばっかりだ。 こさめさんって感じやすい体質なんじゃないか? はあっ……あはあっ……知りませんからあ…… 月光にも勝る優美な肌は朱を帯びるとより秀麗で、浮かぶ汗は宝石のように煌めいている。 本当、最高の彼女だな はあ……はあぁ…… くてっとしている。 優しくするからな そんなこと、言ってえ……ずっと、いじめてますぅ……ウソつき、ですぅ…… そんなこと言うと、もっとするぞ 腰を抱え、持ち上げる。 あぁ……イジワル、ですぅ…… 中途までずるりと抜くと、からみつく愛液はすさまじい量になっている。 ふあっ、あっ……襲われ、ますぅ…… 襲って欲しいってことだよな ちがい、ますぅ…… ゆっくりと降ろす。 あっ、ふあっ、ま、またっ、ゆっくり、ですぅ……! あふぅ! ふうぅ! ゆ、ゆっくりっ、すぎですぅ……! 時間をかけ、最奥に到達する。 んああっ! あくうっ……! 高くあえぐと、背後の俺に寄りかかり、脱力する。 ふあっ……あっ……はあっ……はあ…… や、やっと……終わりぃ…… ……いや、まだなんだけどな ここで終えたら生殺しだ。 ま、まだ……やっちゃうんですか……? ああ。まだまだだ ………… 無自覚なのか、こさめさんの中はますますきつく狭まる。 わたしの、身体……抱き上げて、えいって降ろしちゃうんですか……? そうだな わたし……重くないですか……? ぜんぜん軽い 男の子ですね…… こさめさんは女の子だな その女の子に薙刀で倒されてましたね…… ……展望台でのことか ふふっ……あのときの小河坂さん、とても必死でかわいかったです…… ……いじめるなって イジワルばかりするから、お返しです…… なら俺はその仕返しだ 手を接合部に持っていく。 えっ……や、そこっ…… クリトリスにかぶった皮をこする。 んふうっ……! 脱力していた身体がびくりと跳ね上がる。 や、あっ……やめっ…… 皮を剥く。 あひっ……! 腰をがくがくさせ、愛液を飛ばす。 顔を覗かせたそこは真っ赤にふくらんでいる。 直接さわるぞ あふっ、あっ、待っ、てえっ…… 直につまむ。 ああああっ……!! 背を弓なりにしてひときわ高い嬌声を上げた。 あっ、はああっ……はあっ……! これくらいじゃ、仕返しにならないか か、返しすぎ、ですぅ……はふっ……え、エッチなこと、しすぎですぅ…… もっとして欲しいってことだよな ち、ちがい、ますぅ……死んじゃい、ますぅ…… ほんと、感じやすいんだな ち、ちが…… 俺よりよっぽどエッチだな あぁ……ちが…… 違うならこれくらい平気だな 赤々と実った芽をきゅっとつまむ。 ひあああっ……!! びくんと震える。 あくっ、あっ、あふうっ……! 息も絶え絶えになる。 はああっ……はあっ……はあぁ……っ やっぱりエッチだな ち、ちが……はあっ……ちがうぅ…… 違うなら、まだ平気だな 優しく転がす。 ふあっ! ああっ! あひっ! 俺の手首を取って止めようとするが、力が入らないようで抵抗になっていない。 だめっ、ですぅ! だめっ、だめえっ……! 平気なんだろ? 平気じゃない、ですぅ……! 感じやすくないんだろ? あはあっ! 感じ、ますぅ! 感じすぎてますぅ! こさめさんはエッチってことか? ち、ちがっ 強めに転がす。 ひいっ! ひああっ! だめですからあっ……! こさめさんはエッチってことか? こさめさんは涙目でこくこくうなずく。 エッチ、ですぅ……! わ、わたしっ、とってもエッチですぅ……! エッチならこれくらい平気だな ころころ転がす。 ふあぁんっ! ウソつきですぅ! やめるなんて言ってないしな ひどいですぅ! 泥棒さんですぅ! 外道さんですぅ! そんなこと言うともっとするぞ 耳を舐め、片方の手で胸を揉みながら乳首を弾き、もう片方の手はクリトリス責めを続行する。 やはあっ! あふうっ! い、一緒っ、んああっ! 全部一緒にされてますぅ……! がくがくと激しく震え出した。中はもうとんでもない締めつけだった。 ああぁっ! あうぅっ! だめえっ! だめですぅ! 変になりますぅっ、おかしくなりますぅ! こさめさんは髪を振り乱して同時責めを享受する。 ひあぁんっ! ああぁんっ! ほ、ほんとにっ、も……だめえっ! だめですぅ! イクっ、ふあああっ、イクうっ! イきそうですぅ! イッていいぞ あぁぁんっ! お、覚えておいてくだっ……あっ、ああああぁぁっ……!! がくんと首を大きく仰け反らせ、こさめさんは達した。 ああっ、ひあっ……! ひっ、あっ……ふあっ……! 絶頂の余韻に幾度も震える。 中は断続的に締めつけ、愛液は止め処なくあふれ、失禁でもしたかのようだ。 あ……ふっ……あふっ……ふうぅ…… ぐったりと弛緩する。俺は背後から支える。 あぁ……はあっ……小河坂、さぁん…… とろけた声。とろんとした瞳。 あ、あと、でえ……覚えて、おいてえ……ばっさり、斬ってえ…… なら斬られる前に、もっとやるしかないな や、やあ……だめえ…… じゃあ斬らないでくれよ ぜったい……斬りますぅ…… 斬られる前にやるしかないな そ、そんなのだめえ…… 度重なる締めつけで、俺はもう我慢ならなくなっている。 まだぴくぴくと余韻に浸る熱い身体を、持ち上げる。 熱のるつぼとなった中をこすりながら抜いていく。 ふわあっ……ああっ……ま、また……ですぅ…… 最後まで抜くと、どろどろになったそこと俺の先端に、愛液の淫靡な橋がかかる。 またぁ……されてしまいますぅ…… 際限なく愛液を湧かせるそこは、物欲しそうにヒクついている。 こさめさんのここ、やらしいな だ、めえ……見ないでえ…… だったら、降ろすぞ 腰を沈ませ、先端を埋める。 あふっ、あっ……! ま、待ってえっ…… こさめさんは口をぱくぱくさせる。 はあっ……あっ……え、エッチなこと……終わらないですぅ…… ああ、まだ続くぞ わ、わたし……イッたばかりですぅ…… そうだな だ、だからあ…… もっとイキたいんだよな あぁ……ちがうぅ…… こさめさんのここ、物欲しそうにしてるぞ や、だあ……見ちゃやだあ…… もうお漏らしみたいだな やだあ、やだあ…… 俺なんかよりずっとエッチだもんな ああぁ……ちがうのぉ…… 自分でも言ってたじゃないか だ、だってえ……それはあ…… エッチなんだよな ちがうのぉ……エッチじゃないのぉ…… こさめさん、かわいいな あっ……はあっ、あはあっ! は、入ってきてますぅ、ずぶずぶって入ってますぅ……! エッチなこさめさんも好きだからな ふはあっ、ふあっ……! こ、小河坂さんにっ、いじめられてばっかりですぅ……! 奥にぶつかると、こさめさんは激しくあえぐ。 あはああっ……! あっ、ああっ、う、動いてますっ、あああっ、ぐちゅぐちゅ動いてますぅ……! 腰を動かしながら、ほかの性感帯も愛していく。 み、耳っ、あふうっ! 胸、もっ……ひああっ! 乳首もぉっ、ふあぁん! みんなだめなんですぅ……! 歓喜にふくらむクリトリスも優しく撫でる。 ふくうっ! びくんと跳ねる。 そっ、そこぉ! 一番だめですぅっ! つまんでひねる。 ふはあっ、あああ────っ!! 二度目の絶頂。 ふはっ、んはっ、はああっ……! 転がしていると、びくびくとまだ跳ねる。 ふうっ、んふうっ……! イって、ますぅ……! あふうぅ! 終わらない、ですぅ……! こさめさんはどこまでも昇り詰める。 やだっ、ああっ、あああっ! エッチなことっ、されすぎてえっ! おかしくっ、なってえっ……! 腰を上下し、俺もまだまだ求めていく。 ふわあっ、ふはあっ……! だめえっ、だめえっ……! 張り詰めた双乳、がちがちになった頂きの突起、クリトリスも痛々しいくらいふくらみきっている。 いたわるように、すべてを愛撫する。 ふうっ、んふうっ……! み、みんなあっ! だめでえっ! ひああっ! よすぎてえっ! ふあああっ! 気持ちよすぎてえっ……! こさめさんのどこもかしこも熱く震えている。 わ、わたしの身体っ……気持ち、よすぎてえっ! 終わらなくてえっ、ずっと気持ちよくなっててえっ……! そんな身体が、好きだぞ こさめさんの身体、好きだぞ 穢れなき光の肌。均整の取れた抜群のスタイル。 それだけじゃなく、驚くほどに官能的。 作り物だったらこうは感じない。 こさめさんが生きているからこその感触。 これほどあたたかみに満ち、そして美しく淫らな裸体はきっとこの世の誰にも真似できない。 あふっ、あああっ! いいっ、ですぅ! よすぎっ、ですぅ! うれしっ、ですぅ! あぁぁん! 吹っ切れたようなあえぎ声。 小河坂さんだからっ、いいんですぅ! エッチなことっ、許せるんですぅ! こさめさんの瞳から涙がぽろぽろこぼれている。 いっぱいっ、抱いていいですからあっ! 好きなときにっ、いじめていいですからあっ! わたしの身体っ、好きって言ってくれるだけでっ、どんなことしてもいいですからあっ! そんなこと言うと本気にするぞっ いいですっ、好きだからあっ! あなたが好きっ、好きなんですっ、大好きなんですぅ! こさめさんっ……! あああっ、好きっ、あはああっ、好きですぅ! 小河坂さんっ、小河坂さぁんっ……! ふたりともに感極まり、高みを目指した。 ふわっ、あっ、あ────ああああぁぁぁっっっ!!! 吐き出し、注ぎ込んだ。 こさめさんは絶頂の波に呑まれながら受け止めた。 ふわあっ! ンあっ! はああっ……! んはあっ、ンはっ……! ああっ、あふっ、ああぁっ……! 中は瞬く間に満たされて、愛液と一緒にとろとろとあふれさす。 はあっ、はっ……! ふあっ……あっ、はああっ……。はあ……んあっ……ンっ……ふ……あふ…… 熱かった吐息は時間をかけて徐々に落ち着きを取り戻していった。 あ……ぅ……小河坂、さん…… ごめんな 先に……謝られました…… なんか激しくなった ほんと……激しすぎです…… おかげで……言うつもりのなかったことまで、言ってしまった気がします…… 俺はうれしかったぞ わたしはしょんぼりです…… 激しくするつもりはなかったんだ ウソです……絶対ウソつきです…… こさめさんに誘われたせいなんだ さ、誘ってません…… こさめさん、かわいかったからな 知りませんっ…… 抱擁する。 身体はまだ熱の固まりだ。 それでも陽が落ちればすぐにここも寒くなる。 風邪ひくと悪いし、服、整えないとな ………… こさめさん、降りてくれるか ………… こさめさん? ……できないです ぽつっと言った。 腰……立たないです…… つながったまま、こさめさんの体重は俺にかかったまま。 激しすぎて……気持ち、よすぎて…… もう……小河坂さんから、離れられないです…… 恥ずかしそうに言っていた。 ……そっか はい…… じゃあ、このままでいいか はい…… このままでも、あたたかいですから…… 寒く……ありませんから…… だから、このままでいることにした。 こさめさんのぬくもりを抱いたまま、目を閉じた。 ふたりでしばらく横になっていた。 愛しい体温を抱え、その心地よさから気がつけば眠りに落ちていた。 それからどれだけ時間が経ったのか、まどろみの中で、そのぬくもりが遠ざかった。 無意識に手を伸ばすと、声がした。 天頂に輝く月…… 今夜も……満月が、きれいですね…… うさぎが……お餅をついていますね…… 小河坂さん……知っていましたか……? うさぎは寂しいと死ぬんじゃない…… 抱きしめられると、死ぬんです…… うさぎは、ほかの動物に噛みつかれたら、苦しまないで絶命できる体質を持っているから…… うさぎは弱い生き物だから…… だからうさぎは、誰かに強く抱きしめられても、死ぬんです…… 苦しまずに、いなくなってしまうんですよ…… お、来たな ………… 水着に着替えた蒼さんが浜辺に歩いてくる。 恥ずかしいのか肌を手で隠していた。 顔が赤いのは、下校の最中からだ。 蒼さん、寒くないか? ………… 寒いようなら、海の家で…… ふるふる、と首を振る。 浜辺のほうがいいか? こく、とうなずく。 客は俺たちだけじゃない。ほとんどがサーファーだが、浜辺を歩いたりシートに寝そべる人をちらほら見かける。 海水浴目的の人はさすがにいない。 今日があたたかいと言っても、水着で潮風に当たるとちょっと肌寒い。 泳ぐのはやめたほうがいいな。海水は冷たいだろうし こく、とうなずく。 適当に歩いてみるか こく、とうなずく。 歩き出すと、とことことついてくる。 蒼さんの歩調は遅いので、ゆっくり歩く。 波打ち際に着いた。 海水に足を浸すと、やはり泳げる水温じゃない。 カップルがやるように水をかけあったら風邪をひくこと必至だ。 ……蒼さん、戻ろうか こく、とうなずく。 歩き出すと、とことことついてくる。 ……なにもしゃべってくれないので不安になる。 なにか飲み物でも買ってこようか? ………… 反応なし。 なにが飲みたい? 反応なし。 俺が選んでいいのか? こく、とうなずく。 じゃあ、ちょっと行ってくるから 歩き出すと、とことことついてくる。 ……いや、ここで待ってていいぞ ふるふると首を振る。 一緒に……行きます…… やっと声が聞けた。 でも、どうせすぐ戻ってくるしな 嫌です…… 一緒が……いいです…… 言ったあと、蒼さんはこれ以上ないくらいうつむいた。 私……変です…… 変になりました…… 先輩の……せいですから…… 先輩が……悪いんですから…… 俺は、蒼さんの手を取った。 大きな震えが伝わった。 じゃあ、一緒に行こう 蒼さんはうつむいたまま、さらにこくっとうなずいた。 あたたかい飲み物を手の中で転がしながら、ふたりで砂浜に腰を下ろした。 砂は夏と違って熱くはない。思ったよりあたたかくもなかった。 身体が徐々に冷えてくる。 隣に座る蒼さんとの距離が、歩いているよりも近くなる。 会話はなく、打ち寄せる波の音に耳をかたむけていただけで時間が過ぎていた。 陽は短くなっている。 気温が下がるのも早かった。 わずかな客もひとりふたりと帰っていく。 人気がなくなると寒さを実感する。 だから、肩を寄せあう。 茫洋とした赤い海原を前に。 光る水平線を眺めながら。 それは、遥か遠い土地を別つ境界線。 世界を別つ境界線。 蒼さん…… それでも、陽が落ち夜に境界線が溶けたなら、ひとつの世界となるだろう。 俺と、つきあってくれないか こくっと控えめにうなずく蒼さんを、抱きしめた。 俺の腕にすっぽり収まる小さな身体。 そのまま覆い被さる格好を取る。 ゆっくりと顔を寄せていった。 ン…… 唇に軽く触れる。 んっ……ン……んふっ…… ついばむようなキスをして、そっと離れる。 蒼さんは瞳を開けると、ぼんやりと俺を見上げた。 まだ、変になってるか? 俺のせいで、変になってるか? はい…… もっと、変になりました…… ドキドキして……おかしくなりました…… 俺のせいか? はい…… どうすればいい? 蒼さんの瞳が揺らぐ。 蒼さんは、俺にどうして欲しい? イジワル……です…… そうか? そうです…… じゃあ、俺がしたいようにするぞ ………… もう一回、キスするぞ ………… ……はい 浅いキスから始まり、次第に深いキスへと移っていく。 舌を入れると蒼さんはぴくんと震えた。 俺の胸に手を当てる。 押しやろうとはしなかった。 ただ不安そうに当てている。 その手を握り、さらに奥を求めた。 んふっ……ン……ちゅ……んっ……ちゅぅ…… 蒼さんの舌を探し当て、重ね合わせてからませる。 ちゅ……むっ……ふ、ンちゅ……ちゅ、ちゅう…… ……ふはあっ 離れると、唾液の銀糸が夕陽に煌めき、ぷつりと落ちた。 なに……するんですか…… キスだよ 舌……入ってきました…… 入れたからな いっぱい……舐められました…… 舐めたからな 先輩の唾……飲んじゃいました…… ……それは知らなかった なんで……こんなこと…… 好きだからな ………… 蒼さんが好きなんだ。だからしたんだ ………… もっと違うこともしたいんだ。いいか? ………… ……こく。 注意しないとわからないほどの小さなうなずき。 手を、剥き出しの肌に当てる。 ん…… 肩から二の腕にかけて撫でる。 そこは冷たくなっている。 寒いか? すこし…… あたためようか? ………… こく。 軽く抱きしめたあと、なだらかな丘に手のひらを寄せる。 っ…… 蒼さんは肩を強ばらせる。 ……嫌か? ………… 胸……小さいから…… そんなの気にしなくていい 気に……します…… 小さくても俺は好きだぞ ……ロリコン い、いや、かわいいって意味でさ 私は……おっきいほうがいいです…… なんでまた そっちのほうがカッコいいです…… 蒼さんの感性はたまにわからない。 でもな、やっぱり大きさなんて関係ない どうせ、先輩には他人事です…… そうじゃない。大きさどうこうよりも、蒼さんの胸だから俺はさわりたくなるんだ ………… というわけで、さわるぞ? ……こく。 照れた感じにうなずいた。 そこに、生地越しに触れる。 ふっ…… 蒼さんは吐息を漏らす。 ちゃんとわかる。そこには、たしかなふくらみがある。 少女のやわらかさがある。 惹かれないはずがない。 誘われるように手を動かす。 ぁ……あっ…… ぴく、ぴくと反応する。 せ、先輩の、手……ンっ……やらし、です…… やらしいのか? ……こく。 でも、もっとやらしくなるぞ ………… 次は、直接さわるぞ 意味が通じたのか、蒼さんの顔が強張る。 不安の色が濃く出る。 水着、ずらすぞ ふるふる、と首を振る。 ダメか? ………… ずらすからな や、やあっ…… 手をかけると、身をよじって嫌がる。 は、恥ずかし……です…… そんなことない せ、先輩が決めることじゃ、ないです…… そのとおりだ。 ほんとに嫌なら、やめるしかないんだけどな ………… 蒼さん、やめて欲しいか? ……い、イジワル……です 続けて欲しいか? イジワル……です…… 好きな子相手にはそうなるんだ いじめっ子です…… 蒼さん、さあどうする? 嫌い……です…… 瞳も唇も揺れている。 よく、わからないのに……。こういうの、わからないのに…… なのに、イジワルばっかり言って…… そんな先輩……嫌いです…… 俺は、蒼さんが好きだけどな ………… なにがあっても、ずっと好きだからな 蒼さんの瞳がうるみ、ひときわ揺らめく。 卑怯……です…… そんなこと言って……私を変にさせて…… おかしく……させて…… 俺は水着に手をかける。 これ、取るからな ………… 蒼さんのこと好きだから、見たいんだ さわりたくなるんだよ 蒼さんは、なすがままうなずいた。 水着をずらしていく。 見える肌の範囲が広くなる。 蒼さんは一心に俺を見つめている。 そうして不安と戦っている。 蒼さん…… 名を呼んでから、直に触れてみた。 ふぁ……っ びく、と大きく震えた。 あたたかい感触。 肩は冷えていても、ここは熱かった。 心臓の音が激しかった。 せん……ぱい…… 蒼さんの声もどこか熱っぽい。 かわいらしいふくらみを、撫でるように揉んでいく。 あ……あっ……ン…… 愛撫に合わせ、控えめな声が聞こえてくる。 頂きの突起が手のひらに当たる。 そこは硬くとがっていた。 指で軽くつまんだ。 ふわっ…… 今までで一番大きな声だった。 や……先輩っ…… 指の腹で転がしてみる。 ふっ、んっ……あふっ! つついたり、つまんだり。 ふあっ……や、ですっ……んふっ……せ、先輩っ……! 桜色の突起はつんと上向き、ふくらんでいる。 もっと硬くなったな い、言っちゃ……んくっ……ダメ、です……はあっ…… 蒼さん、かわいいな 乳首や胸をいじりながら、片方の手で髪を撫でる。 やあっ……ご、誤魔化して……ンんっ……嫌い、です……あっ……だ、だいっ嫌い……んあっ…… キス、するぞ ああっ……先輩、なんかっ……嫌いっ…… 言葉の途中で唇をふさぐ。 ンっ……ちゅ……ちゅうっ……ふ……ちゅっ…… 舌を入れると、蒼さんのほうからも出してくる。 積極的にからめてくる。 ちゅっ、ちゅうっ……んふっ……ンっ……ちゅ、ちゅぱっ……んむっ……じゅ……んちゅう……ちゅううっ……! んはあっ……! はあっ……はあ……ぁ…… せん……ぱいぃ…… おとなしくなったな ひ、卑怯……です…… 餌付けしてる気分になった だ、だいっ嫌いです…… 冗談だって ンんっ……ま、また、胸……あんっ……さわって…… 蒼さんのこと好きだからな ふあっ……誤魔化して、ばっかりぃ…… 正直な気持ちなんだけどな ダメ、です……ああぁ……嫌い、ですぅ…… 蒼さん、そろそろいいか? 蒼さんはびくっとする。 俺はそっと包むように抱きしめた。 蒼さんのこと、抱いていいか? 蒼さんの身体は緊張に固くなっている。 ダメ……です…… 抱きたいんだけどな 嫌……です…… 本気で嫌がらない限り、抱くからな ………… 蒼さんの身体から、静かに力が抜けていく。 やっぱり……よく、わからないです…… ずっと友達を作らなかった私だから……好きになるっていうのが、わからないです…… 忘れてしまったから…… 昔の私はわかっていたかもしれないけど、今の私はわからないんです…… わからない、はずなんです…… でも、たぶん、嫌じゃないんです…… 先輩以外だったら、絶対嫌なのに……先輩が相手だと、嫌じゃない…… 誰かのそばにいたいなんて思わないのに……先輩が相手だと、思ってしまう…… 誰かが離れていったってなにも思わないのに……先輩が相手だと、離れて欲しくないって思う…… これくらいしか……わからないんです…… こんな答えじゃ、ダメですか……? いや、充分だ 一度強く抱きしめ、キスをして。 俺たちは交わっていく。 冷たくなった砂浜から逃がすように抱え上げる。 後ろから支え、ゆっくりと沈ませていく。 んくっ────あああっ……! 蒼さんのそこは想像よりもずっと狭かった。 迎え入れる準備はできていた。なのに、なかなか進めない。 未発達で幼い身体。 最後まで入るのかと不安になる。 はあっ、はっ……! ン、くうぅ……っ 苦しげな呼吸が耳を打つ。 細い腰を支えたまま、いったん動きを止めた。 ど、どうしたんですか…… 動かないんですか…… その前に、痛みは? 痛いに、決まってます…… だ、だって……初めて…… そこは純潔の赤に彩られている。 夕陽の光よりも鮮烈に染まっている。 ……悪い。痛いの、当たり前なのに 悪いと、思ったら……動いてください…… 最後まで……もらってください…… 深くつながるには強引に押し込むしかない。 だけどこうして抱えている蒼さんの身体があまりにも小さくて、これ以上の行為をためらわせる。 ここまできて……迷わないでください…… 先輩は……失礼な人です…… ……最後までがんばれるか? や、やっぱり……失礼な人です…… 私は……子供じゃないです…… 大人の……女です…… その言い方に笑ってしまう。 わ、笑わないでください……失礼すぎです…… わかってる。蒼さんは千波よりもメアよりも、大人だもんな 比較対象が……あまりにも納得いきませんけど…… 誰なら納得する? こさめ先輩とか…… それは高望みが過ぎるような。 じゃあ、いくぞ? き、来てください…… 腰を抱き直し、ぐっと上に力を加える。 蒼さんの汗に光る肌を感じながら。 窮屈な道を、無理やり広げながら進んでいった。 ふあっ、あっ……! んああっ……! 進むにつれ、蒼さんの背が伸び上がる。 んっ……ふくっ……うっ……! 口に手を当て、漏れそうになる悲鳴を必死に閉じ込める。 痛みに耐える姿に俺の胸もえぐられる。 大丈夫か……? あ、侮らないでください…… ……いや、侮るって こ、これくらい……平気ですからあ…… そのとき、中で突き破る感触。 蒼さんの背筋がくんっと反る。 うくうっ……! やっと奥まで到達した。 蒼さんは破瓜の痛みに耐えている。 四肢の先まで硬直させている。 涙がぽろぽろこぼれていた。 耐え難い痛みだろうに、蒼さんはそれ以上の声は上げなかった。 ふ……うっ……く……っ 必死に、口の中で押し殺している。 蒼さん……痛かったら、痛いって言っていいから や……です…… 無理して欲しくないんだよ 絶対……やです…… 先輩……やめそうだから…… 私のせいで……やめそうだから…… それ……やだから…… 最後まで……して欲しいから…… 私を……おかしくさせた、責任…… 好きにさせた、責任……取って欲しいからあ…… 蒼さん…… 私の、初めて……ちゃんともらって欲しいからあ…… 感極まって抱きすくめる。 ここまで言われてやめたら、それはもう男じゃない。 腰を上下させた。 純潔の血がとろりとこぼれ、俺の下腹部に伝い落ちた。 んっ……! くっ……んあっ……ふっ……うあっ……! 幼いヒダがめくれるのはやはり痛々しく、声も辛そうだ。 少しでも楽になるよう、気持ちよくなれるよう、小さな胸を愛撫する。 ふうっ……あっ……せ、先輩…… 乳首は勃っている。まったく感じていないわけじゃないようで、安堵する。 お腹や太ももなんかも撫でながら、抽送を続けていく。 あっ、あ……ンっ……ふあっ、あっ……ああっ…… 長い時間をかけて奥まで達し、また長い時間をかけて抜く。 ンんっ……痛く、ないです……あっ……慣れて、きましたから…… 慣れたといっても痛みがなくなるとは思えない。 たくさん我慢をして、汗まみれになった肌。 労るように撫でる。 はあ……あっ……先輩の、手……大きい…… 蒼さんが小さいからよけいにな し、死んだらいいと思います…… 首筋にも幾筋も汗が伝っている。 そこに口付けする。 ンっ…… 強く吸うと、跡が残る。 な、なにを…… キスマークつけてみた 蒼さんはかあっと赤くなる。 く、屈辱です…… ……なんで だって……先輩のものに……なっちゃいました…… 悶え狂わせることを言う。 じゃあ、もう一回 ンふっ…… またついたぞ や、やあ…… 蒼さんはもう俺のものだからな く、屈辱ですっ…… 蒼さんがとてもかわいい。 あ、頭っ、撫でないでくださいっ…… もう一回 ふうっ……き、キスマークつけないでくださいぃ…… もっと俺のものになった く、屈辱ですぅ…… とてつもなくかわいい。 おかげで抽送の速度も上がっていく。 ふあっ、あっ……! んあっ……は、早くっ……あふっ……なって、ますぅ……ふああっ……! ときおり淫靡な水音が混じる。 狭い道程なのは変わらなくても、動きやすくなっている。 間違いじゃない。蒼さんも感じている。 痛いばかりじゃなく、悦んでくれている。 はああっ、あっ、ああっ……! な、なにかっ……変わってっ……あっ、ふあっ……変わってっ、きてえっ……! 声に艶が増す。 締まりが強くなる。だから俺も強く抱きしめる。 蒼さんはあえぎながら、俺の手に自分の手を重ねて応える。 んあっ、あっ、熱いっ、ですぅ……! すごくっ、ああっ、あっ、熱くてっ、ああっ、おかしくてえっ……! 蒼さんの身体が熱い、どこまで上昇するのか恐くなるくらい熱くなる。 ああっ、あっ、んっ、ふあっ、ああっ、ふああっ……! あえぎも動きも加速度的に早くなり、熱を増す。 そんな熱の固まりを抱く。 夢心地の気持ちよさだった。 だから俺の身体も熱の塊。 ふたりで至上の悦びを得る。 おかしくっ、なりますっ……ああっ! 先輩がっ、おかしくさせるんですっ……ああっ、ふああっ! 私をっ、あはあっ、変にさせるんですっ……! 俺もだった。俺も、蒼さんにおかしくさせられる。 蒼さんに溺れさせられる。 ダメっ、ですっ……あふぅ! ああっ、あっ、お、おかしくてえっ、ああぁぁ! ダメになるんですうっ……! 身をよじらせ、くねらせて汗を散らせる。 胸がほほえましくも揺れ動く。 夕陽をきらきらと反射し、富みにきれい。 幼いながらもそれは淫らな姿だった。 見惚れ、釘付けになる。 蒼さん、好きだ あああっ、ああっ、先輩っ、わ、私もっ……はああっ、私も、きっと、好きっ……! 身体も感情も一緒に高まる。 限界も間近になる。 先輩の、こと……好きっ、なんですっ……! そしてふたりで突破した。 ふああああぁぁぁ────っっ!!! 白濁液を散らせる。 蒼さんの肌や水着を染め、汗と混じって伝い落ちる。 んはあっ、あっ、はあっ……! はあっ、はあっ…… ン……はあ……あ……ふ…… 蒼さんの呼吸が落ち着いてくると、瞳が白くなった自分の身体に向いた。 あった、かい……これ…… おっかなびっくりに指ですくった。 白くて……とろとろしてます…… ……そんなまじまじ見ないでくれ 先輩の……ですか……? そうだとしか答えようがない。 そう……なんですね…… 先輩に……かけられた…… いっぱい……かけられちゃった…… いっぱい……あったかくなっちゃった…… 屈辱……です…… キスマークより……屈辱です…… 蒼さんの半裸を抱えている。 あたたかい。ずっとこうしていたい。 夕陽が海の向こうに沈み、境界線がなくなってからも、ずっと。 こうして触れあっていたい。 ふたり、蒼さんと。 蒼さんと……。 さん付け、やめようかな ……なにがですか? 蒼さんのこと、名前で呼んでみていいか? ………… 衣鈴 ………… ……はい 先輩にだけ……許します 私を、自分のものにした……先輩にだけ…… 私をもらった……先輩にだけ…… そうして、衣鈴とふたり。 光る水平線を最後まで見つめていた。 久方ぶりのみんなそろっての夕飯。 食べ終えてしばらく千波と鈴葉ちゃんの相手をしてから、衣鈴を部屋に招き入れた。 落ち着いてふたりきりになるのもひさしぶりだった。 望遠鏡……なんですけど つぎはぎだらけの望遠鏡は、下のリビングに置いてある。 どうして、直そうなんて思ったんですか……? 衣鈴のことが好きだからだよ そ、そういう答えじゃなくて…… 恥じらってうつむいてしまう。 もともと……壊れてた望遠鏡なのに…… 千波は、自分のせいで壊したと思ったから、直そうと思ったんだろうな ……それだったら 千波のせいじゃなかったとしても、そうしたかったんだよ。千波にとって衣鈴は友達だったから ………… なのに、私……千波さんにひどいこと…… そんなに気にするな。衣鈴の気持ち、千波もわかってるから だから千波は鈴葉ちゃんと一緒に笑顔でいられている。 じゃあ……先輩は…… 俺? ……はい。先輩は、どうして千波さんを手伝ったんですか? 千波さんと一緒に、望遠鏡を直してくれたんですか? 引き継ぎたかったからだよ そう決めたから。 父さんから託された願いを引き継ぐと。 衣鈴が、南天の星空だけじゃない、雲雀ヶ崎の星空も見上げてくれるように。 衣鈴に渡した望遠鏡と屋上のカギが、それを物語っている。 よく……わかりませんけど…… 要約すると、衣鈴が好きってことだ ま、また……そんなこと言って…… 恥じらう衣鈴はかわいいと思う。普段がアレなだけに。 つぎはぎの望遠鏡は……あのままで、いいと思います 話を逸らすように言う。 レンズは、買わなくていいですから…… 千波さんにもそう伝えて欲しいです…… ほんとにいいのか? ……はい 雲雀ヶ崎の星空が見えたから、充分です そうか はい なら次は、天クルで買ったケースも使って欲しいかな ……いいんですか? 当たり前だ。衣鈴のために買ったものなんだから ベッドの上に腰かけると、衣鈴も隣に座った。 そのまま肩を抱き寄せる。 せん……ぱい…… 衣鈴に顔を寄せていく。 唇を重ねる。 久しく感じていなかったぬくもり。 もう二度と手放したりはしない。 先輩……私…… 唇を離しても、ふたりの距離は離れない。 寂しかった……です…… すごく……寂しかった……です…… だ、だから…… 衣鈴の身体は小さく震えている。 いっぱい……し、して…… ……ああ より強く抱き寄せる。 先輩に……いっぱい、されたいです…… いっぱい……して欲しいです…… じゃないと……ダメです…… 先輩のこと、もう、嫌いになりそうです…… キスを交わしながら求めていく。 手をなだらかな胸に当てる。 ンっ…… 衣鈴はぴくんと反応する。 生地越しに撫で、揉んでいく。 ふっ……ンん……はあっ…… 愛撫しながら、首筋にキス。 んふっ…… キスマーク、つけたぞ は、はい…… いっぱい……つけてください…… つけて……欲しいです…… 首筋に印を刻み続ける。 ンっ……わ、私……ふうっ……ンっ……先輩の、ものに……はあっ……なりますからあ…… もっと刻みたくなって、制服のボタンを外していった。 覗いた肌に口づける。 ンっ……んふっ…… 鎖骨、肩、腕、ささやかな胸の谷間に刻んでいった。 はあっ、は……んあっ、はあぁ…… い、いっぱい……つけられました…… 私……先輩のものに、なりましたあ…… 屈辱か? は、はい……屈辱、ですぅ…… 陶然とそうつぶやく。 こんなに……先輩に、されて…… 先輩を……好きにさせられて…… 制服の隙間に手を忍ばせ、ふくらみに触れる。 んあっ……はあっ……屈辱……ああっ……ですぅ…… ブラ越しに揉むと、衣鈴の吐息が耳にかかる。 あっ……んっ……ああっ……んあっ…… 小さいながらも心地よい弾力が手のひらに伝わる。 その奥に潜むたしかなやわらかさ。 直接感じてしまいたい。 ブラ、外すぞ ………… うつむき加減の赤い顔で、こく、と小さくうなずいた。 ホックを外し、するりと抜いた。 ささやかな胸が露わになる。 そっと優しく手で覆った。 ふあっ…… ぴくんと震える。 あたたかく柔らかい。とくとくと緊張の鼓動が聞こえる。 ぬくもりとともに感じながら愛撫する。 あっ……あふっ……ンっ……んはっ……ああっ…… 頂点の突起はすっかり上向いている。 揉みながら軽くつまむ。 ふくっ……はあっ、あっ…… つ、つまんじゃ……やです…… 嫌なのか? い、嫌……ンっ……です……。ぴりぴり、して…… 優しくするから 乳首だけじゃなく、全体の愛撫も続ける。 ふっ……んっ……。イジワル、です…… こうやって揉んでたら、大きくなるかもな や、やっぱり……ふうっ……イジワル、ですぅ…… いつも死ね死ね言われてるしな 先輩が……ふあっ……悪いんですぅ…… 頬にキスをし、唇にも。 ン……ちゅ、ちゅ……んちゅ……ちゅう…… はあっ…… ま、まだ……もっと…… ちゅ、ちゅう……ンっ……ふっ……んちゅっ、ちゅ……ちゅ、むっ……ちゅぅ、んちゅ……ちゅっ、ちゅ…… んはあっ、はあっ…… 口……べとべと、です……先輩のせいで…… そうだな。俺のせいだ 抱きしめると、衣鈴もきゅうっと抱きしめ返す。 私……先輩のものになってます…… キスマークもつけたからな なにか……癪です…… つけて欲しいって言ってなかったか? だ、だから……癪なんです…… 私に、こんなこと言わせる……先輩が…… 嫌なのか? 嫌です…… どうすればいいんだ? なにもしないでください…… ……それはかなり辛いな 先輩は、なにもしなくて……私が、します…… 私が……してあげます…… そうすれば……先輩も、私のものです…… 俺は衣鈴の頭を撫でる。 それはちょっと癪だな ダメです……先輩は、私のものになるんです…… 衣鈴がしてくれても、俺もするからな? だ、ダメです…… じゃあ俺だけするからな 胸を愛撫したり。 ふくっ……も、もっとダメです…… だったら一緒にやろう 衣鈴はちょっと泣きそうになりながら、こくっと小さくうなずいた。 んっ……は、恥ずかし…… 目の前に衣鈴のショーツが迫っている。 うっすらと湿って見える。 あ、あんまり……見ないで…… 生地に指をあてがい、そっと横にずらしてみる。 ふっ…… 外気にさらされたせいか、腰が震える。 きれいに閉じ合わさったピンクの秘部。 わずかに愛液が滲んでいる。 や、やだあ…… 腰を引こうとするので、腕で固める。 見ちゃ……ダメですぅ…… 一緒にやるって言ったろ? で、でもぉ…… 衣鈴もやるんだろ? そうです……けどぉ…… 衣鈴がしないなら、俺だけやってるからな そこに舌を貼りつける。 んふっ……! びくっとする。 少しさわっただけで、愛液がこんこんと湧いてくる。 すごい濡れてるぞ い、言わないでくださいぃ…… 離れそうになった腰を引き寄せる。 舌先でねぶっていった。 ふあっ、あっ……! な、舐められっ……ああっ……! 身をよじらせてあえぐ。 わ、わたしっ……もっ……あふっ……し、しますっ…… 先端に触れてくる。濡れた感触が当たる。 ちゅ……ちゅっ、ちゅ……ンっ…… せ、先輩の……舐めちゃった…… 感慨深くつぶやく。 もっと……はあっ……もっと、ご奉仕…… 先輩に……ご奉仕、しますぅ…… んちゅ……ンっ……ちゅう……ちゅぱっ…… 軽く触れるだけだったのが、舌を這わす速度が増す。 より深く呑み込もうとする。 んちゅう……ちゅうっ……ふっ……ちゅ……ちゅぱっ……じゅ、ちゅうぅ……ちゅう、んちゅうぅ…… 俺のほうも愛撫を続ける。 ヒダをより分け、その奥へと舌先をすべり込ませる。 んむっ! ンんんっ……! 温かい蜜をからめ取っていく。 うふっ……! ふうっ……んふっ! あはあっ……! あえぎで奉仕の口が外れる。 んはっ、ああっ……! だ、だめっ……ン、ちゅっ……ちゅる……ちゅ、ちゅうぅ……! すぐに口づけ、再開する。 その懸命さが愛しかった。 もっと感じさせてやるから んむっ、ふはあっ……! も、もうっ、充分ですぅ…… だんだんと芽吹いてきた赤い核。 衣鈴の最も敏感な箇所に触れる。 ひっ……! 大きく腰が跳ねた。 逃がさない。 そこは窮屈そうに皮に守られている。 舌先でめくり上げた。 ふわあっ……! ちょこんと顔を覗かせる。 せ、先輩……っ 不安そうな視線を投げかける。 かわいがってやるから え、遠慮しまっ……あああっ! 舌先で弾くと、電気が走ったみたいに背が反った。 クリトリスが歓喜に震える。 ころころと丹念に転がしていく。 や、はあっ! あふっ! だめっ、ですっ……あぁん! ときおり軽く噛んでみる。 んああっ! だめっ、だめぇ……! 衣鈴、口が止まってるぞ だって、だってえ……! 俺だけやってるからな 甘噛みを続ける。 んふっ! あっ、うああっ! あふうっ……! や、やだっ、私もぉっ……! ん、ちゅうっ、ちゅうぅ! んちゅうぅ……! 必死の奉仕が始まった。 ちゅぱっ……ちゅっ……んふぅ! はああっ! せ、先輩っ、そこばっかりぃ……! 口、止まってるぞ い、イジワルっ、嫌いぃ……んちゅ、ちゅうっ……ふうっ! んはあっ! ちゅ、ちゅう……ん、ふはあっ! 口づけたり、離れたり。繰り返される。 おっ、同じとこばかりっ、いじらな……あぁぁん! 先端に衣鈴の熱い吐息を感じる。 それでも衣鈴は奉仕を続けてくれている。 ちゅっ……ちゅるっ……じゅ、ちゅうっ……んむっ……ふ、はああっ! せ、先輩っ、わたっ、私ぃ……! 同じく限界が近かった。 ンっ、ちゅぱっ、ふっ……んちゅ、ちゅううっ……! 飲み込み、吸い込んでくる。 俺もまた唾液と愛液でどろどろになった花芯を、口に含んでちゅーっと吸った。 んむうっ!? んふうっ……!! 腰がびくびくと震え出し。 ンっ────んんんんん……っっ!!! 頬張ったまま絶頂を迎えたあと。 くっ……! 俺も衣鈴を追った。 ぷはあっ……! 衣鈴が吐き出したのとほぼ同時。 白濁液が顔面に散った。 はあっ……はっ……! あぁっ……はああっ…… せ、先輩……の……はあっ……いっぱい……はあっ…… かけられ、て……ああぁ……どろどろぉ…… 前のめりに倒れ、俺の上に覆いかぶさる。 衣鈴の肌は驚くほど熱かった。 衣鈴……大丈夫か? は、はいぃ…… へろへろの返事。 続き、しようと思うんだけど…… ………… 沈黙。 いいか……? だ、ダメ……ですぅ…… そう言われる気がした。 すごく、て……もう…… 寂しいとか……そういうの、考えられなくなってえ…… へ、変に……なりますからあ…… 変になる衣鈴、見たいな き、嫌いですぅ…… 上等だ し、死んだらいいと思いますぅ…… ふあああっ……! そこはもう充分すぎるほど濡れていて、俺のモノをすんなりと受け入れる。 初めて結ばれたとき同様、狭いのは変わらずとも、それ以上に潤滑油が役目を果たしていた。 痛みはどうだ? あふっ、ふうっ……よ、よく……わからないですぅ…… 頭も……身体も……ふわふわ浮いてえ…… イッたばかりのせいだろうか。 動いて大丈夫か? だいじょうぶじゃ、ないぃ……。先輩、嫌いぃ…… 細い肢体は熱の固まり。 つながる箇所も熱のるつぼで、押し進めると蜜が果てなくこぼれ出る。 ふあっ……だ、ダメえっ……! 動きを止めるしかない。 衣鈴…… あっ、はあっ……だ、だってえ…… 荒い息の合間に話す。 ま、また、すぐ……イキそう…… 締めつけは食いちぎらんばかり。 我慢しなくても、イッていいぞ い、嫌です…… 動くからな だ、ダメですぅ……おかしくなるからあ…… 衣鈴が感じれば感じるほど、俺もうれしくなるんだ ………… 動くからな? ………… 先輩は……どうしようもない人です…… そんな先輩の恋人になった私は……とっても不幸です…… それは、肯定と取っていいんだな 先輩に……任せます…… 俺は抽送を開始する。 ふくっ……! ふあっ、あっ、ああっ……! すぐに衣鈴は乱れていった。 前後するたび、体重の軽い衣鈴の身体ごと揺り動く。 あっ、あっ、はあっ、あっ……! だめっ、もっ、もうダメになってますぅ……! 動きを早くしたら止まらないくらい軽い。 せ、先輩のがっ……あぁぁっ! 奥までえっ! 早いっ、よう……! 激しいようっ……あはあぁっ! も、もっとゆっくりぃ……! だめっ、だめえっ! くる、ようっ……きちゃうようっ……! 我慢しなくたっていいんだからな 内股に手を這わす。 そこは枯れることない愛液でぬめっている。 そ、そこっ……あふっ! 敏感にふくらんだ芽を摘む。 あはあっ! そ、そこぉ! すごく感じるとこっ……あああっ! だめえっ、もっとダメなるっ……ああぁぁ! クリトリスを愛撫しながら、抽送も続けていった。 やああっ! い、いくっ! ああっ、いっちゃうっ……いっちゃうよおっ! あふうっ! だめっ、だめええ! なぜ我慢するんだろう。 だめっ、だようっ……! あひっ、ああっ! あああっ……! い、いくのっ、やあっ、いくのやなのぉっ……! まさか本気で嫌がっているのかと不安になる。 だめ、なんですぅ……! だってっ、だってえっ……! 一緒がっ……ああぁぁ! 一緒がいいようっ……! 先輩と一緒にいきたいようっ……! 衣鈴…… 好きっ……先輩好きっ! 好きですぅ! たぶん、とかじゃないっ……きっと、とかじゃないっ……! たくさん好きっ……いっぱい好きっ……! すっごく好きっ……大好きっ……! 先輩のことっ……あああっ! 大好きなんですぅ……! そんな衣鈴に感化され、俺の気持ちも一気に昂ぶる。 ふあっ、あっ、あああぁぁぁぁ────っっっ!!!! 衣鈴の絶頂を受け、それに応えることができた。 ふはっ、はあっ……! あっ、んあっ、ああっ……! 動きを止めても締めつけてくる。 開いた両足が痙攣して、がくがくと揺れている。 あふっ……あっ……んあっ……! あっ、あっ……んはあっ、はあっ……はっ…… 一緒……あぁぁ……一緒、です…… 大きな安堵に包まれた声。 いっぱい……もらってますぅ…… 抱擁する。衣鈴の髪が俺の鼻先に当たる。 濡れた肌、熱い体温をこの身に刻む。 あったかい……です……お腹…… ……中に出したな。ごめん まったく……です…… 私が……先輩のこと好きじゃなかったら……許されないことです…… 衣鈴のこと、好きだぞ 好きじゃなくなったら…… ずっと好きだ ………… なら……問題ないです…… 静かな時間が訪れる。 優しい安心がここにある。 誘われるまま顔を寄せ、キスをした。 唇が離れると、俺は覆いかぶさった。 ……千波 千波は状況がわかっているのかいないのか、ただ俺に眼差しを送っている。 俺、教えるって言ったよな 恋人ってなんなのか…… ………… 最後に聞くぞ いいよ…… 聞く前に答えられる。 教えて欲しいって、千波はもう言ってたよ…… ……そうだったな うんっ なぜこんなことに…… ここに至ってもまだ言うのお兄ちゃん!? ……照れ隠しだ こわごわと、千波に触れる。 髪を梳き、頬を撫でる。 お兄ちゃん…… パジャマ越しから肩、そしてささやかにふくらむ箇所へ。 千波……恋人同士がどういうことするのか、よくわかってないけど…… でも、わかるんだよ…… 感じてるから、たぶん、わかってるんだよ…… 手のひらで、胸をそっと包む。 んっ…… 小ぶりでもたしかなやわらかさを感じる。 子供と言っても、身体つきは違う。 お盆のとき、同じベッドで眠ったときにも知ったこと。 いつのまにか、成長してたんだな 千波はもう子供じゃないよ…… 兄としてはうれしいような寂しいような、そんな心地。 じゃあ恋人としてならどうだろう。 ふくらみを愛撫していく。 んっ……ンんっ…… 千波はくすぐったそうに身をよじる。 痛くはなさそうだ。先に進んでもいいだろうか。 恋人だったら進むべきだ。 千波。パジャマ、脱がすぞ お風呂……? そうじゃない。脱がさないと次にいけないんだ うん…… 素直にうなずく。 罪悪感はある。兄妹で一線を越えていいのか。 俺は千波ほど突き抜けていない。 だけど難しいことは考えないと決めた。 この感覚を頼りに動くと決めたのだ。 パジャマをはだけさせていく。 素肌が覗くとドキッとする。 ……おまえ、ブラつけてないのか う、うん…… 寝る前だったし、当たり前といえば当たり前か。 千波の顔は紅潮している。これまでよりも顕著に。 ……さわるぞ? こく、とうなずく。 否定はない。全幅の信頼を寄せている。 それが重いときもあれば、今のように心地よいときもある。 手を伸ばし、触れる。 んくっ…… ぴくんと震える。 直接だったからか、思ったよりも大きな反応だった。 乱暴にならないよう注意しながら、優しく揉む。 ふっ……ん……ン、んんっ……はぁ…… お、お兄ちゃん…… なんだ? なんかね、すっごくドキドキする…… そっか お兄ちゃんは……? ドクドクする 血が出てるみたいで嫌だよお兄ちゃん!? 俺もおまえと同じだ ほ、ほんと……? ああ。当たり前だろ 口に出したくはないのだが。 俺も、緊張してるからな ……えへ 笑われた。 ……キス、してやろうか うん…… 千波は瞳を閉じる。 唇を重ねた。 ンっ……んっ…… 緊張のせいだろう、千波の肩が固くなっている。 舌を入れてみる。 んむっ……! もぞもぞ動くので、肩を強く抱いておとなしくさせる。 ちゅ……ン、ちゅ、ちゅぅ……ん、ふっ……ちゅぅ…… 固くなっていた身体が弛緩する。 千波も、おっかなびっくりに舌を出してくる。 それに応え、からみあう。 んちゅ……ん、むっ……ちゅっ、ちゅ……ふっ……ちゅ、ちゅぅ……ンんっ……んちゅぅ…… ふはあっ…… 唇を離す。 唾液の銀糸がつうっと伸び、途中で千切れた。 頭……くらくらして…… それに……ぽかぽか…… 千波の瞳がうるんでいる。 次、いこうか 次……? ああ。恋人としてすることの ショーツに指をかける。 ここも脱がすぞ ………… 千波はきゅっと太ももを閉じる。 嫌か? う、ううん…… でも……ち、ちょっと、怖い…… 怖くない で、でも…… 信用しろ。おまえを怖がらせることはしない お兄ちゃん…… 俺、おまえのこと好きだぞ 勢いに任せ、ちゃんと口にしておく。 あ……千波も…… 千波も、好き…… 相思相愛だな うんっ なぜこんなことに…… いいかげんしつこいよお兄ちゃん!? まだ、怖いか? 千波は小さく首を振る。 怖く……ない…… お兄ちゃん……変なこと言って千波の緊張をほぐしてくれたんだね…… そのとおりだ そういうことにしておく。 俺に全部、任せられるか? うん…… お兄ちゃんに……全部、任せる…… いい子だな うんっ 悪いようにはしないさ、くく とんでもなくよけいな一言だよお兄ちゃん!? 緊張もすっかりなくなったようなので、次に進む。 ショーツを膝まで降ろしていく。 そこは濡れていた。いくぶん驚いた。 感じていた証拠。 子供じゃない証明。 あ……う…… 千波はもじもじして、俺の視線から逃れようとする。 動くなって で、でもぉ…… 俺に任せるんだろ? う、うん…… 俺のこと好きなんだろ、ああ? さっきからここぞとばかり鬼畜主人公になってるよお兄ちゃん!? 千波。優しくするから そこに指を持っていく。 千波はおそるおそる見つめている。 くちゅ、と水音。 ンんっ……! びくっとする。 熱かった。やはり濡れていた。 強く押せば指が飲み込まれそう。 幼くても、準備はできている。そう教えている。 はぁ……ン……は…… 恥ずかし……お兄ちゃん…… そうか そうだよ…… おまえだから、裸見られたって気にしないと思ってたよ 気にするよ…… そうか 当たり前だよ…… これ以上は無理か? 千波は不安そうな瞳を向けている。 それとも、いいか? え……なにが…… 最後のステップだ ……恋人としての? そうだよ なに……するの……? ……ええと。 挿れるんだ なにを……? 野菜とか 鬼畜主人公から離れて欲しいよお兄ちゃん!? ……おまえ、わかってるじゃないか わからないけど、身体がすさまじく拒絶したんだよ…… 感覚だけで生きている。 だからこそ千波は大きく感じていたんだろうか。 あふれる愛液が俺を誘い、からめ捕ろうとする。 ……千波 いいよ…… 即決の返事。 お兄ちゃんも、いいんだよ…… お兄ちゃんがそう感じたなら、いいんだよ…… なにも、間違ってないんだよ その言葉には迷いがないから。まっすぐだから。 俺の背中を押してくれる。 ンっ……あっ、ああぁぁ……!! そこは熱くたぎっていて、指で感じたときとは比べ物にならなかった。 そして、せまかった。 強い力で反発する。俺を押しやろうとする。 準備は整っていても簡単には受け入れられないでいる。 千波…… はあっ、あ……な、なに……? 痛いよな……やっぱり い、痛いよ……それが……? やめてもいいんだぞ 千波は瞳をぱちくりする。 ……もう、恋人がすること全部、終わったの? いや、全部じゃない。だけど、無理にすることもない ………… 時間を置いてもできることだ 千波は首を横にする。 お兄ちゃんは、続けたくないの……? 言葉に詰まる。 千波は、続けて欲しいって思ってるよ…… でも……お兄ちゃんが違うんだったら…… 俺は吐息をつく。 それから髪を撫でた。 ……いいのか? そう言ってるよ…… 痛いのに、無理しなくていいんだぞ 痛いけど……無理じゃないよ…… そう感じてるんだよ…… 千波はまだまだへっちゃらだって、わかるんだよ…… 観念するしかない。 そもそも俺も続けたくないわけじゃない。 兄妹で、なんて罪悪感を抱く暇もないほど俺も感じている。 進みたいと、どうしようもなく突き動かされる。 んくっ……! 腰を押すとひときわ激しく締められる。 せまい道の少しでも先を行く。 ああっ、あっ、んあっ……! なじんできたのか、抵抗がゆるくなったと感じた瞬間、一気に最後まで貫いた。 あああぁっ……! 千波はシーツを握りしめて大きくあえいだ。 純潔の朱が接合部の彩りを強めていた。 はあっ……あっ……はあっ…… ……大丈夫か? うん……へっちゃら、だったよ…… 浮かんだたくさんの汗が我慢をした証。 労るように肌を撫でる。 ン……お兄ちゃん、優しいね…… 変か? ううん……いつもこんなお兄ちゃんがいい…… ……まあ、努力する えへ…… ダメだったとしても文句言わないように ううん、だってお兄ちゃんの努力は信頼できるもん 安請け合いしたかもしれない。 千波、動くぞ うん……。恋人としてすること、全部したい お兄ちゃんと一緒にしたい 抽送を始める。 愛液が散り、俺たちの下腹部を焦がしていく。 あっ、あっ……ンんっ……ああっ…… ゆっくりと押しては、引いていった。 それだけでも甘い匂いが立ち込め、脳髄が溶かされる。 あっ、ああっ、ふあ……あっ 浮いた汗が肌をすべり、シーツに落ちる。 ああっ、あっ……お、お兄ちゃぁん……っ 痛みはあるだろうに、なにも言わない。 千波はあくまで俺の動きに任せている。 胸が上下にささやかに揺れていた。 俺は抽送を休め、その色づいたふくらみを手で包んだ。 あ……はあ……んっ…… そこは桜色に染まっていて、中心の突起も硬く天を向いている。 ふっ……ンんっ…… くすぐったそうに身をよじる。 優しく愛撫すると、千波は深呼吸するように吐息をつく。 はあ……あっ……はあ……お兄ちゃん…… 千波の手も俺の胸に伸びた。 そっと手のひらをあてがった。 ドキドキ……してる…… 千波とおんなじで……お兄ちゃんも…… 陶然とした視線を向けている。 まだだ。まだ、こんなもんじゃないぞ うん……一緒に、ドキドキ…… 再度、動き出す。 んあっ、あっ、あっ……ふ、んっ、あんっ…… 最初よりもすべりがいい。 それだけ千波はがんばった。 がんばって俺を迎え入れようとしていた。 あっ、あ……ん、あっ、ああっ……ふあっ、あっ…… 徐々に速度も増していく。 んあっ、ああっ……! お、おにいちゃ……ああっ! あっ、あんっ、お兄ちゃんっ……! 火がついた身体は止めようもない。 一突きごとに燃え上がる。 あんっ、ああぁ……! す、すごいっ、あぁん! 熱い、よう……! ドキドキ、するようっ……! 千波が身をくねらせるたび、汗に濡れた素肌が部屋明かりを様々な角度で反射した。 はあっ、ああっ、んはあぁ……! も、もうっ、熱く、てえっ……! たまらなくてえっ……! 俺も同じだ、たまらなくなって止まらない。 動く、動く。 ああっ、あっ、あんっ! あんんっ……! 一心に突く。奥を突く。 ふあっ、あぁぁ! だ、だめっ、あ、ああっ……! 千波……千波っ お兄ちゃぁんっ……! 押し出し、そしてそのぬくもりを奥深くまで求めた。 あふ、あっ……あああぁぁぁぁ────っ!!! 寸前で抜き、吐き出した。 白濁液が千波の火照った肌に散る。 んあっ、あっ、ああっ……! びく、びくと震えながら千波は受け止めた。 それから、くてっとベッドに沈む。 はあ……あっ……はあぁ…… 千波はしばらくぽーっと浮いた表情で余韻に浸っていた。 おにい……ちゃぁん…… なんだ? まだ……ドキドキ、してるよ…… 止まらない……よ…… 汗と精液に濡れた胸が呼吸に合わせて上下している。 ちょっと、激しすぎたか ううん……へっちゃらだよ…… 今夜の千波はひと味違うから…… そうなのか? そうなんだよ……だって…… 千波の腕が俺の首にからまった。 千波は、お兄ちゃんの恋人になったんだから…… 千波はぎゅっと抱きついてくる。 恋人としてすること、全部やったんだから…… おまえが抱きついたから俺まで汚れたじゃないか それは恋人として絶対かけるべき言葉じゃないよお兄ちゃん!? 焦ることはないだろう。 俺たちらしく、ゆっくり恋人になれたらいい。 詩乃さんにどう説明したものか悩むところではあるのだが。 ふたりの肌が重なる場所は、いつまでもあたたかいから。 だから、まあ、なんとかなるんじゃないかと感じていた。 自宅に着くと正午になっていた。 俺たちは昼食を取るのにダイニングを目指す。 そして、公約どおり料理は千波に任せることにしたのだが。 お兄ちゃん、待っててね……。すぐご飯できるから 今朝とまったく同じ状況に頭を抱えるしかなかった。 詩乃さんがまだ寝ているのが唯一の救いだ。 作ったら、千波があーんするんだからね…… いや、だからな…… 料理も格好もどちらも止めたくてたまらない。 だが、ふと思う。 この好意を無下にすると、千波はまた自分が嫌いになるだろうか。 それだけはさせない。大切なものをふたりで築いていきたいというのは嘘じゃない。 だから、俺はたとえその好意が的外れでも受け入れるべきかもしれない。 ……なんか、言い訳がましいよな。 千波 やっぱり、料理はいい。ケガさせたくないから あ……お、お兄ちゃん…… ンっ……む、胸に……手が…… 料理はいいから。わかったな で、でも、約束…… おまえ、その格好にどんな意味があるか、知ってるか? えっ…… ……あー、俺も男なんだな。今さらだが。 ンふっ……んっ……おにい、ちゃん…… こういうこと、されるって思わなかったか? ふあっ、あっ……お兄ちゃんの手、動いてっ…… もう引き返せないからな 千波はぷるぷる震えながら、小さく首肯した。 お、お兄ちゃん……ンんっ……千波、知ってるよ…… 蒼ちゃんから……ちゃんと教わってるんだよ…… この格好はね……あんっ……お料理の千波を食べてって意味もあるんだよ…… ……蒼さん、冗談で教えたんだろうけど千波は本気にしてしまったよ。 ほとんど裸に近い格好の千波が、俺の手に翻弄されて身悶える。 持っているフライパンがコンロとぶつかってカタカタ鳴る。 フライパン、離していいぞ で、でも……んふっ、ンっ…… 昼飯、あとで一緒に作ってやるから ふわっ、あっ……絶対、だよ……? ああ。おまえが一人前になるまで教えてやる うん……大好き…… 抱きしめると、エプロン越しに千波の熱を感じる。 子供の体温のように熱い。 伝わり、俺も熱くなる。 あふっ……ン、んっ……はあっ……あっ…… 硬くなったな え……なにが? ここが 中心をきゅっとつまむ。 んふっ! ……か、硬いの……? ああ。感じてるって証拠だ 千波……感じてるの……? 自分でわからないのか? ふうっ……んっ……よく、わかんない…… ドキドキ……してるってことしか…… それでいいんだ 揉みしだいていると、肌が汗で湿ってきた。 あっ、んあっ……お兄ちゃん、エッチだね…… そうかもな 昼間っからこんなことをして、否定できない。 ああっ、ふあっ……ンっ……おにい、ちゃん…… 千波も……エッチになるね…… お兄ちゃんと、一緒に…… 千波は身を返して俺と正面を向かいあう。 それからしゃがんで、信じられないことをする。 蒼ちゃんから、教えてもらったんだよ…… 男の人は、こうするとよろこぶって…… ……蒼さん、意外とそういうの知ってるんだな。 これも……恋人としてすることだって…… 間違ってはいない。 いないが、千波には早い気もする。 お兄ちゃんの……昔のより、ずっとおっきい…… ……昔って、子供の頃だろ うん……一緒にお風呂入ってた頃…… おたがい、まだ小学校低学年だった頃だ。 お兄ちゃん、子供じゃないんだね…… おまえに言われるとムカつく ここに至ってまでぐりぐりするお兄ちゃんには頭が下がる思いだよ!? 千波、ちゃんとできるのか? う、うん。がんばる…… やったこと……あるわけないよな 実はあったら、俺はどうなるだろう。 実は……ってお兄ちゃんがなまはげの形相になってる!? ……実は、なんだって? う、うん……。昨日、寝る前に棒アイスで練習してみた 蒼さんに電話したあとか。 それでよく早起きできたな 二秒で練習終わったからねっ、途中で棒アイスなくなっちゃって それは丸呑みしただけじゃなかろうか。 ……とすると、俺は今とてつもなく危険な状況にいるんじゃないか? お兄ちゃん……それじゃ ちょっ、待て…… かぷっ。 痛い痛い痛いっ!! 見て見てお兄ちゃんっ、見事にきれいなキスマークがついたよっ そりゃ歯形だろ!? ぽかっ! ぶたれたっ!? お母さんにだってぶたれたことなかったのに! 俺だってない。ていうかそのネタ前に使ったぞ 今回のお母さんは詩乃さんのことだよっ ……そっか うんっ 俺もいずれ、詩乃さんを母さんと呼べる日が来るだろうか。 詩乃さん、俺たちのこと知ったらなんて言うだろうな 早く孫の顔が見たいって言うよっ それは先走りすぎだろう。 千波。蒼さんが教えたのは噛むことじゃないだろ? えっと……蒼ちゃんは某アイスを食べるようにって言ってたよ ……それは間違ってないが間違ってる。正確には舐めるように、だ そうなの? そうなんだ じゃあ舐めてみるね かぷっ。 痛い痛い痛い変わってないだろ!? ……どう、お兄ちゃん? 痛いって言ってただろっ、思いっきり歯が立ってるし! 立てちゃダメなの? ダメだっ キスマークつけたいのに…… ……おまえはいろいろ勘違いしてる。キスマークなら、あとで俺がおまえにつけてやるからそれ参考にしろ うんっ……絶対だよ? ああ、体中につけてやる えへ……お兄ちゃん、エッチだね 頭をぽんとたたく。 千波ははにかんでほほえんだ。 歯、立てないように、だよね…… ああ 舐めるように、だよね…… 信頼してるからな うんっ……うれし…… 本当にうれしそうな笑顔。 千波は舌先をわずかに突き出し、ゆっくりと顔を寄せる。 両手で竿を包み込み、ちろっと舐める。 ンっ……こ、こうかな…… そうだな、そんな感じだ うんっ…… 先端をくすぐるように、舌でつつく。 ちゅっ……ちゅ、ちゅっ……んちゅ…… 今度は大きく舌を出すと、あてがって這わせる。 ん……ぺろっ……れろ……ン、ちゅ……ちゅぅ…… 初めはおそるおそるだったのが、少しずつ大胆になっていった。 れろ……ん、ちゅっ……じゅ……んちゅ……ぺろ…… はあっ……はあ…… 唇を離すと、熱い吐息がふわりとかかった。 どう……かな……? 気持ちよかったぞ ほんと……? ああ。兄ちゃんがウソついたことあるか? いっぱいありすぎて例もあげられないほどだよ…… 今は、ほんとに気持ちよかった ……うん。信じるね にこりと笑う。 千波の口周りは唾液と先走りの液でどろどろだ。 また、するね…… 両手で竿の位置を整え、顔を降ろしていく。 ……ちゅっ まずは、先端にキス。 ンっ……んむっ……ちゅ、ちゅぅ……じゅ、ちゅぅ…… 舌を這わしながら、そのまま飲み込んでいく。 また噛まれるんじゃないかと冷や冷やしたが、そんなことはなかった。 あくまで優しい舌遣い。 ちゅ、ちゅう……ン、ふっ……ちゅっ……んむっ、む……ふちゅっ……じゅ……れろっ、ぺろ……ちゅうぅ…… あたたかくやわらかい千波の舌が、口内でからんでいる。 ねぶったり、なぞり上げたり。 たどたどしくも丹念に。 健気に奉仕する姿にたまらなくなる。 限界も近かった。 千波っ……そろそろだ ふちゅ、ちゅぅ……んむ? 頬張ったまま、よくわかっていない顔で上目遣い。 もういいから、口から出していいからっ んちゅ? ちゅううぅ…… 舌をつけながらゆっくり吐き出す、その刺激で突破した。 わぷっ 唇が離れるのとほぼ同時。 白濁液がほぼゼロ距離から千波の顔を濡らす。 んくっ……んっ、ンん……口に、入っちゃった…… 飲んじゃったみたい…… ……悪い ううん……おいしかったから ……そうなのか? うん……マヨネーズの味がした 味オンチのせい、と思う。ほんとにそうならショックだ。 今のって…… 男は気持ちよくなるとマヨネーズを出したくなるんだ 母乳みたいなものだねっ ……冗談だから 料理に使えるかなっ 本気でやめてくれ。 とりあえず、ありがとうな お礼なんかいらないよっ、千波はお兄ちゃんを食べたいから食べたんだよっ じゃあ次は俺がおまえを食べる番だな 今の会話って甘々トークだねっ そうかもな まさしく恋人同士だねっ むしろバカップルだな 望むところだねっ 俺も、きっと同じだった。 はうっ……あっ……ああぁぁぁっ!! 千波をテーブルに伏せさせ、後ろから入っていく。 初めてのときよりも容易く、だけどそれでも狭くてきつい。 千波はぴくっぴくっと震えている。 ……どうだ、やっぱり痛いか? う、ううんっ……へっちゃら、だよっ…… 昨日に比べたらっ……ぜんぜん痛くないよっ…… 動いても平気か? どんと来いだよっ…… 信じるからな? うんっ……いっぱい、信じて欲しいよっ…… はあっ……あっ……お兄ちゃんを、いっぱい感じられてっ……ああっ……千波はとっても幸せなんだよっ…… やせ我慢じゃない。本当に望んでいる。そう信じられる。 愛しくて、露わな背中に口づける。 ンっ……な、なに……? キスマーク、つけたぞ そ、そうなの? ああ 千波、見えなかったよ…… じゃあ、次は近くで 寄りかかり、首筋にキス。 ンふっ…… 見えたか? 近すぎて見えないよ…… 胸にすれば見えそうだが、この体勢だと難しい。 教えるのは次の機会だな えっ…… これが最後じゃない。いつでもできる。だろ? あっ……うんっ また、背中にキス。 ンっ……お兄ちゃんの、キスマーク…… 千波の身体に……いっぱい…… 愛液の量が増す。 接合部に留まらず、とろとろと太ももを伝い落ちていく。 これで……お兄ちゃんと……ずっと一緒…… これからも、消える間もなくキスマークをつけることになりそうだ。 動きを開始する。 せまくても、愛液のおかげですべりがいい。 んあっ、あっ……! お、お兄ちゃんのっ、来るっ…… 千波に痛みがないわけじゃない。 慣れるまではゆるい抽送を続ける。 ふあっ、あっ……ああっ! あっ、ふっ、んふっ……ああっ、あっ! ああっ……あぁんっ! まだ激しくしていないのに、千波は大きくあえいでいる。 声に気づいた詩乃さんが起きてきても、糸目でまな板をぱたぱたするだけだと信じている。 あっ、あっ……お、お兄ちゃんっ……早く、してもいいよっ……んあっ……千波はっ、へっちゃらだよっ…… 千波もっ……そうして欲しいって感じてるんだよっ…… ぎゅうぎゅうと締めつける。 千波が感じているのは痛みだけじゃない、快楽だってある。 それなら俺は応えてやれる。 ああぁっ……! あっ、はあっ、んっ、すごいっ、よ……! お兄ちゃんがっ、いっぱいっ、来てるよおっ……! 速度は加速する、立ち響く水音も激しくなる。 高みの果てだけを目指している。 ああっ、あっ、んああっ……! なにかっ……ふあっ、あはあっ……! 来てる、ようっ……! お兄ちゃんがっ、来てっ……あぁぁ! 千波も来てるんだようっ……! 視界と意識が白濁していく。 周囲が遠く離れる、そんな感覚に浮かされる。 すがりつきたくなって、千波を抱きしめ背に口づけた。 ふわあっ、あっ、ふあああっ────っ その歓喜に千波の背が伸び上がった。 ああああぁぁぁぁ────っっっ!!! 千波を抱きしめながら吐き出した。 どくどくと注いでいった。 ふあっ、あっ! あっ、んっ、ンんっ! んはあっ! 千波は昂ぶった熱を受け止めてくれる。 受けきれなかった精液があふれてこぼれ、愛液と混じって太ももを伝った。 はあっ、あっ……! んっ……はああっ……はあっ…… 荒かった呼吸が徐々に落ち着いてくる。 い、いっぱい……ンんっ……もらっちゃった…… 熱くて……あったかくて……一緒にいるみたいで…… そばに……いてくれるみたいで…… そばにいてやるさ、おまえが飽きるまで 飽きないよ……ぜったい…… だって千波は……ずっとお兄ちゃんの妹だったんだから…… ずっと一緒だったんだから…… だから、恋人としてのこれからだって、ずっと一緒にいられるんだよ…… そんなふうにほほえむ千波をもう一度、俺は抱きしめて。 その小さな背中にキスをした。 洋……くん…… 見上げる夢の瞳が揺れている。 ダメだよ……洋くん…… ……それでも、したかったんだ 言うこと、聞いてくれないの……? ……ああ、そうだな ワル、だね…… そうだな ただ、夢が嫌がることは絶対にしない 私……嫌がってるように見えない……? ああ どう見える……? お姉さんぶってるように見える ………… そんな必要、ないから 夢は、俺に甘えて欲しいって言ったけど…… 俺がそうしたいときは、そうするけど 俺も、夢を守りたいんだ ………… ……キス、するぞ 顔を寄せていく。 生意気、だね…… 間近で小さくほほえむ。 洋くんは、ワルな男の子だね…… 夢は静かに瞳を閉じる。 唇を重ねる。 ンっ…… 触れあうだけのキス。 より結ばれるため、舌を入れた。 夢の肩がぴくんと揺れる。 んむっ……ちゅ、ちゅぅ……ふっ……んちゅ…… 舌をからめていると、次第に夢のほうからも動いてくれる。 ちゅっ……ちゅう……んふっ……ちゅ、ぴちゅ…… はあっ…… 唇を離す。 ふたりの間に通った唾液の銀線が、ゆっくりと途切れていった。 はあ……ぁ……はあ…… すごい……キスだね…… 疲れたか? ていうか、浮いちゃった感じ…… 体調は? ドキドキするけど……平気…… もう一回、いいか? ……ダメ ……嫌だったか? そうじゃなくて……面会時間…… 時計を見上げると、もう八時を越えている。 時間切れ、だよ…… 少しくらい破っても平気だ ワルワルだね…… 続き、するぞ 人……来るかもしれないよ…… 医者とか看護師って、ノックしないのか? するけど…… 誰か来たら、ベッドの下に隠れるから 浮気の相手みたいだね…… いっそ夢を横取りしたいくらいだ 誰から……? 病院から ワルワルだね…… バカバカとどっちがマシなんだろう。 きっとどちらも最低なのだ。 俺は腕を伸ばし、夢のパジャマに手をかける。 え、えっ…… 夢はびっくりする。 な、なに……? ボタンを外そうとする俺の指を不安そうに見下ろす。 続き、するって言ったじゃないか キスだよね……? ああ なんで……脱がそうとするの…… キスするから ど、どこに…… 夢に 私のどこに…… 全部に 夢はかあっと赤くなる。 よ、洋くん……エロエロだね…… 続き、していいんだよな? ボタンを外す。 だ、ダメっ…… はだけそうになったパジャマを、夢は腕で押さえる。 ……いいんじゃないのか? そんなこと……言ってない…… 嫌か? ………… 夢は真っ赤な顔を伏せている。 私……身体、拭いてない…… 問題ない 汗っぽいよ…… 関係ない 私……普通じゃないよ…… ほかの女の子と、違うんだよ…… 関係ないんだよ 俺は、夢だから好きになれるんだから…… この気持ちは、目の前にいる少女にしか向いていない。 この想いは夢にしか受け止められない。 夢の生は俺の生であり。 だから、この恋は俺を急かせる。 恋することを懸命にさせる。 バカだね、洋くん…… よく言われてたよ メアには何度も言われていた。 きっと後悔するよ…… 俺は、ここで引くほうが後悔する エロエロだね…… ……そういう意味じゃない でも、そういうことしたいんでしょ? それはそうだけど。 私を抱いたら、洋くんは後悔する…… たとえ洋くんが否定しても、わかるんだ。洋くんは絶対に後悔するんだよ それでも、いいの……? ああ 俺はうなずくことができる。 ほんとに……? 当たり前だろ 万が一後悔したとしても、夢を抱けるなら、それより勝るものはないんだよ ……エロエロだね 夢だから抱きたいって意味だからな 夢は、パジャマを押さえていた腕を降ろす。 これも……甘えてくれてるって、ことなのかな…… 俺はボタンを外していく。 だったら……私も、うれしいかな…… パジャマのズボンも降ろしていった。 雪のように白い肌が覗く。 太もも、ふくらみが露わになる。 夢は、ブラジャーはしていなかった。 いつもそうなのだろうか。それとも、たまたまだろうか。 恥ずかしい……ね…… 所在なさげに太ももをすり合わせる。 動くと、胸がわずかに揺れる。 じろじろ見ちゃ……ダメだぞ…… 強がったような言葉。 夢はちらりと上目遣いをする。 私……変じゃない……? すごく綺麗だ 生意気だね…… 恥じらう夢は、かわいいな 勝ったなんて思わないでね…… ふくらみに触れる。 手のひらに包むとあたたかく、驚くほどやわらかい。 ンっ……あっ…… 愛撫すると、夢はかわいらしく声を上げる。 よ、洋くん…… なんだ? 痛かったか? う、ううん…… 体調悪いなら、すぐにやめる そうじゃ……ない…… 平気なのか? 長い無言のあと、小さくうなずいた。 優しくするから ……生意気 強くならないよう、労るように揉んでいく。 はあっ……ンっ……よ、洋くん…… 言いたかったこと……そうじゃ、なくて…… なんだ? その……こういうの、気持ちいい……? 夢こそ、どうだ? 洋くんが答えたら答えるよ…… すごく気持ちいい そっか……よかった…… 夢は? もっと甘えていいからね…… なんか無視された。 洋くんが気持ちいいなら……お姉さんの胸で、甘えていいからね…… 夢も甘えたっていいんだぞ ううん、それはダメ…… ……どうして そうするには、まだ早いからね…… ……じゃあ、いつならいいんだ? 夢はほほえんで。 生意気な洋くんには、教えてあげないよ…… 俺はなにも言えなくなって、代わりに行動に移した。 口を、ふくらみに寄せる。 あっ……え…… 乳房にキス。 ンんっ……やだ…… キスするって言ったろ あと……ついちゃったよ…… 全部につけるからな ふくらみの頂点には桜色の突起。 そこにもキス。 ふくっ……! 夢の身体が跳ね、双乳が揺れる。 そ、そこには……あと、つかないよ…… 舌先で転がし、吸う。 ふあっ、あっ……! な、なにもっ、ンん! 出ないようっ……! 唇を離すと、乳首は小さく震えていた。 かわいいな はあっ……あっ……生意気、だぞ…… 上気した頬。ムッとなっている。 ひどいことすると……怒っちゃうぞ…… 優しくする。絶対だ 再度、覆い被さる。 首周り、胸、おへそ、脇腹と口づけながら、舌を当てながら肌をなぞっていく。 やっ、あっ……ンんっ! 洋、くんっ……! 唾液の線が通るたび、ぴくぴくと肌は震える。 だ、めえっ! あんっ! くすぐったいようっ……! 身を離すと、今度は涙目でにらんでいた。 はあっ……ン……ほ、ほんとに、怒るよ…… いや……気持ちいいかと…… くすぐったかった…… それを越えた先に快楽が待つんだ 口先三寸だね…… それ、舌先三寸の誤用だぞ 頭でっかちだね…… 舌先を肌に寄せていく。 ンっ……やっ、またっ…… 太ももに舌を当て、キスマークをつけ、撫でるように舐めていった。 あっ、んあっ……! ぞ、ぞくぞくする、ようっ…… ももの内側を舐め上げ、さらに上に向かっていく。 あふっ、あっ……! えっ、そ、そこっ…… 到達しそうになったところで、夢は俺の頭を押し下げる。 ま、待ってっ! 俺は顔を上げて離れる。 だ、ダメ……なんだぞ…… 全部にキスするって言ったじゃないか よ、洋くんが言ってるだけだもん…… 怒っている夢に寄り添う。 髪を撫でる。 なに……するの…… 優しくしてる 生意気だぞ…… 文句ばかりの口をふさぐ。 ンっ……ちゅ……ちゅうっ…… 深いキスは、最初のときよりも激しかった。 夢のほうからも求めてくれた。 んちゅ……ちゅっ、ちゅう……ふっ……ンんっ……ちゅ、ちゅぴ……んふっ……ちゅっ、ちゅ……ちゅうっ…… 積極的に舌をからめあい、ふたりで唾液を交換する。 ふはあっ…… おたがいの口周りはどろどろだ。 洋くんの唾……飲んじゃったよ…… 俺も夢の、飲んだぞ 外道だね…… ……そこまでか? ワルワルな外道だね…… ……もうそれでいい 私も、してあげる…… 夢は呼吸を落ち着けると、ゆっくりと上体を起こした。 洋くん、イジワルだから…… 私も、洋くんを困らせてあげる…… 妖しく笑んで、逆に俺に覆い被さった。 うわ……こんなにおっきい…… 取り出したモノを、おっかなびっくりに触れている。 ……ちょ、夢 ダメ…… 両手できゅうっと包み込む。 動いたらダメなんだぞ…… 俺に向けていた視線を降ろし、それを見つめる。 洋くんのここ……初めて見たよ…… かわいいね……。うん、かわいい…… ……その表現、傷つくんだけど たくましいなんて、言ってあげないからね…… 夢は顔を下げ、そっと口づける。 ちゅ……ン 唇を離しても、まだ見つめている。 瞳がぽうっとなっている。 うん……最初から、こうすればよかった…… だって……洋くんが、甘えるほうなんだから…… 私が……甘えさせてあげるんだから…… 小さく舌を出すと、先で軽く舐める。 ンっ……ぺろ…… ひと舐めすると、夢の瞳の潤みが増す。 洋くんの……舐めちゃった…… 次は、大きく舌を当てた。 ぺろ……ンっ……れろ……ぺろっ…… 夢の唾液で、先端が妖しい輝きをまとっていく。 ンんっ……洋くんのここ……きらきら光ってる…… きれいだね……うっとりだね…… 究極の美だね…… ……その表現はどうなんだ わ、こら……動かないで…… おとなしくしてるんだぞ…… 上目で注意して、また舐め出す。 ぺろっ……ン、ちゅ……ちゅうぅ…… 舐め上げたり、濡れた唇を押し当てたり。 んちゅ……ちゅぴっ……ちゅ、ちゅっ……ぺろ、れろっ……ンふっ……はあ……ン、ちゅうっ……ぺろっ…… 休憩をはさみながら、丹念に奉仕する。 甘美な刺激。湯に浸かったようなまどろみに溶かされる。 ンんっ……はあっ ふわりとかかる吐息は甘くて熱い。 洋くんの顔……かわいい 夢に見つめられていて、目を逸らした。 ふふ……やった よろこんでいる。 夢が口を休めている間は、手が竿をしごいている。 それだけでも射精感を増させている。 好きなときに、出していいんだよ……? ………… 洋くん、耳まで赤くなってる 顔を背けているしかできない。 子供の頃の立場に戻ったかのようだ。 かわいいなあ……。うん、かわいい 洋くんも、洋くんのここも…… もう、食べちゃおっと…… はむ、とくわえる。 ンむっ……んくっ……ちゅ……ちゅうぅ…… そのまま深く飲み込んでいく。 んちゅぅ……ちゅう……じゅ…… 頭を上下し、口腔をくまなく使って奉仕する。 気持ちよさはもちろんだが、その懸命さ、健気さが愛しくて頭を撫でた。 ……かぷっ 痛い痛い痛いなんで!? ぷはあっ……洋くん、変なことするから 頭撫でただけだろっ 万死に値するよ メアみたいなことを言う。 ……私が甘えるわけには、いかないんだから 意志は固いようだった。 なあ、俺は…… それ以上言ったら、また噛んじゃうよ ……夢 まだ、早いの。今の私が洋くんに甘えても、押しつけになるだけなの…… だから、いい? 夢が言いたいこと。 夢は、自分の病気の負担を俺にかけたくないと考えている。 だから、俺はより今の夢を大切にしたくなる。 だけど、そうは言えない。 言っても、夢に我慢するなと諭されるだけ。 夢の負担を増やすだけ。 昨夜の展望台でそれは知っている。 ……わかったよ うん……えらいね。いい子だね…… 夢はまた奉仕を始める。 ちゅっ……ぺろ……んふっ、ちゅ……ちゅぴ…… 先端に舌を這わせてから、奥まで飲み込んでいく。 ちゅう、ちゅっ……ぴちゅ……ンっ……んちゅう…… 口内でも舌を使い、上から下まで唾液をまぶす。 んちゅ……れろっ……ン、ちゅぅ……ちゅぱっ……ちゅうぅ……ふっ……んむ、ちゅう……ちゅ、ちゅうぅ…… 濃厚な責めに限界が近くなる。 夢っ…… 夢は上目遣いで、出していいよと俺を促す。 くっ……! んくっ……ンっ、ぷはっ……! 口の中で受けきれなかった白濁液が、夢の顔や髪にも降りかかった。 ンっ……あ、はあっ……はあ…… どろどろ、だね…… 淫らに濡れた唇で話している。 すごく、いっぱいで……無理だった…… 全部は……飲みきれなかったよ…… ……そんなの、しなくていいから 抱擁し、引き寄せる。 わっ……よ、洋くん、汚れちゃうよ…… べつにいい そうだね。もともと洋くんのだもんね ……そういうことじゃない 洋くん……気持ちよかった? ああ よかった……。ほんと、よかった ありがとうな 私の勝ち、だね なにやら勝ち誇った。 だから、お礼なんかいらないよ ……まだだぞ え? 最後まで……いいか? ………… ……うん 夢はこくっとうなずいた。 私が拒む理由はない…… 甘えてくれる洋くんには、私は弱いからね…… んあっ──あっ、あぁぁぁ! 夢の中に入っていく。 熱い源泉をもぐり進んでいく。 狭くてきつくて進みはゆるやかで、それでもその間、夢は痛いだろうに抵抗すらしなかった。 はあっ、ああっ! ふあっ、あっ、ああっ……! 奥を目指し、ようやく到達すると夢はひときわ大きく跳ねた。 あふっ……! 先端に感じている。夢の最も深いところ。 結ばれ、ひとつになった証。 はっ……あはあっ……はあっ…… 夢が吐息をつくたびに中が締まる。接合部から愛液があふれ湧く。 純潔の血がつうっと伝い、まっさらなシーツに落ちた。 あ……染みになっちゃう…… 俺も気づいて拭くものを探すが、手の届く範囲にない。 看護師さんに……見られちゃうかな…… ……悪い ううん、どうとでも言えるし。洋くんが鼻血出したとか ……それですむならそうしてくれ 私を裸にして観賞して鼻血噴いたって言うね 鬼に食い殺されそうだ。 私の初めて……奪われちゃったな…… 夢はつながった箇所を見下ろし、はにかんだ。 おでこにキスも、普通のキスも……全部…… 私があげられるもの、全部洋くんにあげちゃった…… 夢のほほえみに、俺はどう声をかけていいか迷う。 もう、洋くんに責任取ってもらわなくっちゃ…… ……ああ、取るよ。責任 ううん、冗談だよ 私は、そんなので洋くんを縛りたくないからね だからね…… その笑顔があまりにも穏やかで。 洋くんは、私のこと好きじゃなくてもいいんだよ…… 俺は、胸が詰まる想いになる。 ……そんなこと、言うな 冗談でも、そんなこと言うな 俺は、夢が好きなんだから…… ……うん。じゃあ、それでもいいよ だけど、気負わなくたっていいんだよ 我慢しなくたっていいんだよ…… 私のこと嫌になったら、ちゃんと嫌だって言うんだよ…… 絶対言わない。そんなことは絶対にない もう……だから、気負わなくたっていいのに この気持ちだけはゆずれないからな 意地っ張りだね…… 夢には負けるけどな きゅうきゅうと締まっている。湧く愛液は止め処ない。 痛みはどうだ? うん……話してたら、楽になった…… 動いて平気か? うん…… 傷つけないよう、慎重に進み出す。 ンっ……はあっ、あっ……! 半ばまで引き、静かに押す。 ゆるやかなストロークを繰り返す。 あっ、んっ……! あっ、んあっ、ああっ……! きつくてもすべりはよかった。少しずつでもペースを上げていった。 あっ、ああっ、んっ、あっ……! はあっ、あっ、ああっ、んああっ……! 水音が響いていた。ふたりで生み出す熱の音。 朱の混じる蜜が散ってはシーツに吸い込まれていった。 ふああっ……! ああっ、あんっ、あぁん! あふっ、あっ、あはあっ……! 白かった肌はピンクに火照り、汗が浮かんでは伝っていた。 前後に合わせてふくらみが揺り動いて淫らだった。 興奮はますます高まり、動きが加速する。 よ、洋くんっ……! あぁん! 洋くんっ……! 夢は腕を伸ばして抱きついてくる。 そうして包まれる。上も下も、すべてを。 大きくて広い優しさに守られている。 夢……夢っ……! う、うんっ……だいじょうぶ、だよっ…… 我慢、しなくてもっ……いいからっ…… 受け止めるからっ…… 洋くんのっ……全部っ……! ふたり、頂きを目指して呼びあって。 あっ、ふあっ、あ────あああぁぁぁぁっっ!!! 俺は夢の中で果てた。 思いの丈を吐き出して満たしていった。 赤と白に彩られた蜜が接合部を淫靡に潤した。 そしていっぱいになったあとにこぼれ湧いた。 はあっ……あっ、はあっ……あっ…… 最後まで搾り取るように夢の中はまだ締めつけていた。 吐息の熱も高かった。 抱きあったまま、つながったまま俺たちは上気したおたがいの肌を感じていた。 あっ……はあ……洋、くん…… あたたかい、よ……いっぱい、だよ…… すごく……満たされてるよ…… ……夢 中で出して、よかったのか? うん……。これも、宝物だから…… 宝箱に入れる、大切な宝物…… 昨夜が最後だと思ってたのに……また、想い出をもらっちゃった…… ……なあ、夢 想い出だったら、たくさん作れる。これからだって作れるんだぞ ………… だからさ…… あまり、最後なんて言葉は使って欲しくない。 うん……ごめんね…… そういうつもりじゃ、なかったんだよ…… 洋くんを困らせるつもりじゃ、なかったの…… それからまた夢は笑った。 素直じゃない洋くんは、その限りじゃないけどね…… 面会時間は終わっている。 俺たちは服を着直し、ベッドを整えると、しばらく無言で肩を寄せあっていた。 それから空腹を思い出し、病院食をふたりで食べた。 夢が話したとおり味はよかった。 夢の食事なのだから本当は遠慮したかったのだが、無理やり口に入れられたのだ。 食べ終わったところで配膳係の人が食器を片付けに来て、その間だけ俺はベッドの下に隠れていた。 おかげで埃まみれになったが、夢はそんな俺を見て笑っていた。 本当に、楽しそうに笑っていた。 この笑顔を守りたかった。 その気持ちだけは当初からなんら変わっていなかった。 消灯時間の九時。 部屋明かりを落として、俺たちは同じベッドに入っていた。 窓からは冬のまばゆい星空が望め、肌を重ねあって俺たちは星見ができた。 これで……よかったの? 夢が迷惑じゃなければ、泊まりくらいどうってことない 家には……? 公衆電話から連絡したとき、今夜は友達のところに泊まるかもって伝えてる 用意周到だね 俺の信条だからな 明日の学校は? サボる ワルワルだね 俺、優等生になれたか? ぜんぜん、ダメダメ そして、夢の小さな笑い声。 赤点、だよ 俺はかけがえのないぬくもりを感じていたくて、目の前にある夢の髪を梳いていた。 こら……イタズラするの、ダメだぞ 嫌ならやめる 嫌じゃないけど……生意気だぞ…… 指の間を水のように流れる髪が心地よかった。 なんだか、おかしいね…… こんなこと、想像もできなかった…… 病室のベッドで、洋くんと一緒だなんて…… ほんとは……もっと…… 一度、空白ができて。 もっと……しっかりしなきゃなのに…… 洋くんを……もっと、受け止めてあげられたらよかったのに…… あたためあえたらよかったのに…… 凍った心を……溶かしてあげられたらよかったのに…… ……あたたかいよ、充分 俺たちはこうしているから。 冬の寒気も逃げ出すくらいにあたたまっているのだから。 夢から言葉はもうなかった。 星空から分けてもらった光の中で、俺たちは眠りに落ちた。