俺は彼女が好きだった。 それは恋とは違う好きだった。 今となってはその想い出は、曇ったガラス越しに見ているみたいにところどころが薄ぼんやりとしているのだけれど。 恋でもなんでもない想い出なのだけど、俺はたしかに彼女のことが好きだった。 証拠を挙げるのなら、俺たちはまだ幼かったのに~ファーストキスまで交わしていた。 その感触はいまだはっきりと覚えているので~それは確実にキスだった。 きっと俺たちはマセていた。 キスというのはおたがいのおでこに交わすものだと~勘違いする程度には、マセていた。 そんなふうに勘違いのキスを交わしたとはいえ~それはやっぱり恋ではなく。 だから俺は初恋を経験したことがいまだかつてない。 ただ俺は単純に彼女が好きだった。 この数年間、その想いだけは曇らずに胸の底あたりに残っていたように思う。 だから一度は離れたこの街に数年ぶりに戻ってきて、~なにを置いてもまずやっておきたいことは。 彼女との再会だった。 できれば感動的な再会だった。 ちゃんと目薬も用意した。 俺はけっこう用意周到な性分だ。 おそらくポイントになるのは彼女に見つからないように目薬を差せるかどうかだった。 ただ、もしも、彼女の前で俺が正真正銘に泣いて~しまったとしたら……。 「これ実は目薬の演出なんだ」と現物を見せながらドモらずに言えるかのほうが、はるかに重要なポイントになるのだった。 ……まあ、本気で泣くわけないんだけどな。 俺たちはキス(おでこに)まで交わした仲だけど。 再会の暁には、本当の意味でのファーストキスを交わすのかもしれないというのは、さすがにちょっと出来すぎだと感じていた。 ……したいわけじゃないからな? 期待と不安が交互に湧く。 俺は彼女の名前は知っていても連絡先は知らなかったので、再会するには少し情報不足だったりする。 だから彼女に電話なりなんなりで連絡を取ることはせず、こうして街を歩いているわけだった。 この坂相変わらず長いなあ、でも幼かった頃に比べれば短く感じる気もするなあ、なんて過去のおぼろげな記憶と照らしあわせて驚いたり寂しくなったりしながら。 彼女の成長した姿を思い浮かべながら。 あの性格も少しは落ち着いていることを~期待しながら。 俺は、彼女と再会できる予感がひしひしとしている。 相手の連絡先も、それだけではなく相手の住所すら~知らなくても。 俺が持つ唯一の情報は彼女の名前だけだったとしても。 俺たちは再会できる。 きっとできるのだ。 なぜなら、俺が今向かっているそこは……。 ふたりの約束の場所だから──── それは、俺がまだ自分のことを僕と呼んでいた頃のこと。 僕たちには、特別な場所があった。 着いたよ、〈洋〉《よう》くん 彼女に連れてこられたその場所には光があった。 たくさんの明かりがあった。 街の灯火と空の灯火。本当にたくさん。 ここが、雲雀ヶ崎の展望台だよ 陽がすっかり暮れた空は深い紺色に染まっていて、そのせいかやたらと高く感じられた。 ここってね、この雲雀ヶ崎で景色が一番キレイに見える場所なんだよ へえー だから夜空の星もキレイに見えるでしょ? うん 手を伸ばせばつかみ取れるみたいでしょ? うん 高い夜空に、その散りばめられた光の群だけが、まるで僕たちの小さな背丈まで降りてきたように見えていた。 背伸びをし、両手をいっぱいに伸ばしても、決してあの星たちには触れられないのに。 指先はただ宙をさまよい続けるだけなのに。 僕たちはその光をつかみ取るため、何度も何度もバンザイしていたのだった。 洋くんはどの星が欲しい? あの星がいいな。青くて白くてとても明るい星 それはこと座のベガ。 七夕でいうところの織姫だ。 あたしはあの白くて長いのがいいな どうして? だってあの白いの、あげパンに見えない? 天の川をそんなふうに言う人初めて見たよ あれ、天の川って言うんだ 知らないの? 悪いの? ……悪くないけど 洋くん、詳しいんだね うん 将来は望遠鏡になれるね ……なりたくないよ 今思えば、彼女は星座に関する知識はなかったけれど、そのくせ星が大好きだったようだ。 僕はといえば特に星が好きということはなかったものの、理科の授業で知識だけは仕入れていたので、有名な星座を教えることくらいは簡単だった。 洋くんが言った、青くて白くてとても明るい星ってどれ? あれ どこどこ? あげパンの上に載ってる星 あれ? たぶんそれ なんであたしが選んだのの上にあるのっ ……なんで怒るの 洋くん、あれにしなよ。あたしが選んだのの下にある星。あれも青くて白くてとても明るいよ それはわし座のアルタイル。 七夕の彦星だ。 それか、百歩ゆずって左側にある明るい星。あげパンの中に隠れてる星 それ、デネブだね ……でぶ? はくちょう座のデネブ 変な名前 で、さっき言ってたふたつの星を今の星と結ぶと、ほら。三角形になる あ、ほんとだ 夏の大三角って呼ばれてるんだ 洋くん、物知りなんだね 教科書に書いてあったから。習わなかったの? 悪いの? ……悪くないけど 洋くん、頭いいんだね 学年でいつも成績トップだよ 何様のつもり? ……ごめんなさい 洋くん、頭でっかちだね ……怒ったんなら謝るよ 怒ってないよ。うん、怒ってない ただ、悔しかっただけ だって、あたしのほうがお姉さんなのに…… 彼女は僕よりも年上だった。 きっとクラスのある階が違うから、学校に通っている間は彼女を見かけないのだと、僕は子供心に納得していた。 僕たちが出会うのは決まって放課後だった。 授業が終わり、下校の時間になると僕は家にも帰らず彼女に会いにいっていた。 どこに会いにいっていたのかは覚えていない。 ついでに言えば、彼女とどのように知りあったのかも覚えていない。 今、何時かな わかんない もう暗いし、帰らなくていいの? ………… 送ってあげようか? 男の子だね ……? キスってしたことある? なにそれ 洋くん、学校の勉強はできるのに、それ以外はうといんだね ……そうなのかな ちょっと目、つむって なんで? なんでも ……なんか怖いなあ 怖くないよ。うん、怖くない あやしいなあ 彼女はちょっとムッとして。 早くしてったら。お姉さんの言うことが聞けないの? 今思えば、彼女だって恋の類に詳しいわけじゃなかっただろうに。 僕に恋をしていたわけでもないだろうに。 あ、あたしの、ファーストキス……あげようって言ってるんだからっ ただ、頭でっかちな僕に、どうにかしてお姉さん風を吹かせたかっただけなのだ。 ……恥ずかしいから、目、つむって欲しいな いぶかりながら僕が目を閉じても、なかなかそれは起こらなかった。 まだ……目、開けないでね その言葉がいやに近くから聞こえてきたので、僕はどぎまぎしていたと思う。 開けたら、絶交だからね…… そのときの彼女の声は普段と違っていたのだけど、どのように違っていたのか当時の僕には説明できない。 たぶん、今でも説明できない。 おでこにちょこんとなにかが触れた。 ……えへへ 照れたような、勝ち誇ったような、そんな笑い声。 あと一分したら、目、開けていいよ 僕はきっかり60を数えてから、目を開けた。 彼女はいなくなっていた。 忽然と消えていた。 驚いた。 彼女の名前を呼んでも出てきてくれない。 ちなみに僕はここまで彼女によって連れてこられたため、帰り道がわからない。 僕は夜が明けて犬の散歩をする人に発見されるまで、泣いていた。 僕は、彼女とどのように知りあったのか覚えていない。 ただ、この展望台の存在を知ってからは、僕たちはよくここに集まるようになった。 彼女と遊びたいときは、街で一番星空がキレイに見えるこの場所を目指すようになった。 夕方に落ちあい、陽が落ちて星が姿を現すまで。 手を伸ばせばつかみ取れそうなその光を望んでいた。 今日はサークルのほう、いいんですか? いいもなにも屋上の使用許可が下りないんだもん。こっちはいいかげんまともに活動したいのに~! 騒々しい声に、想い出に浸っていた思考がすくい上げられた。 生徒会の方々、天クルを目のカタキにしてますからね 方々っていうか、こももちゃんだけね 姉さん、昔から星が大嫌いですから あたしは大好きだよ それはもう耳にタコができすぎて焼いて食べてしまいたいほど聞きました なんにしても、七夕まであと三日だよ? せめてそれまでに屋上使わせてくれないと…… 天体観測愛好サークル、略して天クルの名折れですね 織姫と彦星があたしを待ってるんだよ~! 天気予報も七夕にしてはめずらしく晴れでしたからね このチャンスを逃さずにかささぎの橋を見届けたいんだよ~! かささぎというのは、天の川で翼と翼を広げて架け橋となる七夕伝説の鳥ですね もう部室で延々トランプしてるの飽きちゃったよ~! 今度は花札にしますか? そういう問題じゃないんだよ~! 俺は気づけば学校の前を通りかかっていた。 展望台に続くこの坂の途中に建つ、雲雀ヶ崎学園──通称ヒバリ校。 子供の頃はいずれ自分もこの学校に通うのかもしれないと、展望台に向かう道すがらに漠然と考えていた。 自分よりもずっと大人に見える生徒たちを、羨望が混じった眼差しで見つめていたんだろう。 だけど急な引っ越しが決まり、この街を離れることになって、それは叶わないのだとばかり思っていたのに。 こさめちゃん、こももちゃんのことお願いっ。姉妹のよしみで許可取れるよう頼んでみてくれない? わたしは天クルの一員ですけど、姉さんの味方でもありますよ こさめちゃんの裏切り者~! 裏切り者ではありません。わたしは明日歩さんの味方でもありますから だったらこももちゃんのこと説得してよ~! わたしは姉さんの味方でもありますから じゃあどうすればいいんだよ~! どうすればいいんでしょう? こさめちゃんも少しは考えてよ~!! ………… と、女子生徒と目が合ってしまった。 いつまでも見ていたら不審者扱いされかねないので、俺は道を急ぐことにする。 どしたの? 急に黙って あの人、〈夢見坂〉《ゆめみざか》を登っていくみたいです ほんとだ、めずらしいね この先って行き止まりなのに…… ……え? 観光の人でしょうか。道を間違ったとか 行き止まり? 道を間違った? そんなはずはない。 俺の記憶では、この先には展望台があるはずだ。 彼女に教えてもらった雲雀ヶ崎の展望台。 間違うわけがないのだ。 霞んでしまった想い出の中で、その場所だけはまだ俺の中で鮮明に息づいているのだから。 わっ、もうこんな時間。急がないと 喫茶店のお手伝いですか? うん。お父さんに悪いし、先帰るね はい。また明日、学校で ばいばいっ 坂を走って下りていく彼女とは逆方向に、俺もまた走って頂上に向かった。 ……マジか そこはたしかに行き止まりだった。 展望台へと続く道はフェンスで仕切られており、そこに立ち入り禁止の看板がかかっている。 記憶とは違っている。 こんなフェンスは初めて見た。 だが、そのほかは覚えていた。 フェンスの向こうに見える細長い道は、彼女と一緒に歩いた道だ。 俺が間違ったわけじゃない。 つまり俺が引っ越したあとにこのフェンスが建ったのだ。 どうして…… この奥にある展望台は、雲雀ヶ崎の観光地のひとつだったはずだ。 特に有名じゃないし地元民でも知らない人がいるくらいだが、雲雀ヶ崎を一望できる夜景は格別だった。 彼女と一緒に眺める夜空は心打つ風景だった。 夏の夜空は俺の中で彼女の代名詞とも言えるくらいに。 だからこそもう一度、彼女と一緒に夏の星座を眺めたい。 彼女があげパンと言った天の川に向かってふたりで手を伸ばしてみたかった。 幼い頃よりも、きっとその手は星に近い。 ……くそ それなのに、展望台は今は立ち入り禁止だ。 ……工事中とか? 改装のため一時的に立ち入れないようにしている? だがそんな文句は見当たらない。 看板には立ち入り禁止と簡素に書かれているだけだ。 どうするかな…… フェンスに手をかける。がしゃりと揺れる。 もうほんの目と鼻の先に、彼女と約束を交わした展望台があるというのに。 再会の約束を交わした想い出の場所なのに。 俺がこの街に帰ってきた暁には、そこで彼女が怒ったように待ちわびているのだと思っていたのに。 まあ、彼女がまだ俺のことを覚えているのか、断言できるわけじゃないけど……。 ……洋くん、引っ越ししちゃうの? うん この街から出ちゃうの? うん どうしてっ お母さん、転勤になったんだって てんきん? 仕事する場所が代わること どこでお仕事するの? 都会のほうだって それ、遠いの? うん どのくらい遠いの? とても遠いんだって たぶん、手をいくら伸ばしても届かないあの星々と同じくらいに。 あたしたち、お別れなの? ……うん そんなの許さないっ ……そんなこと言われても 転勤するのは親なのにどうして洋くんまでいなくなっちゃうのっ しょうがないよ……。僕、まだ子供だもん 子供だからってなんでも許されると思ったら大間違いだよ! そ、それなんかおかしいよ 洋くんはなんとも思わないの! そりゃ僕だって嫌だけど…… だったら洋くんだけ残りなよ 残れないよ。アパートも解約するって言ってたもん かいやく? 家がなくなること だから洋くんもいなくなっちゃうの? うん そんなの許さないっ そんなこと言われても…… 洋くん、ここに住みなよ ……え おうちがなくなっちゃうなら、この展望台に住めばいいんだよ。そしたらここで一日じゅう遊んで暮らせるよ む、無理だよ やらないうちからそんなふうに決めつけちゃダメだよ! で、でも、食べるものもないし…… 男の子なんだから我慢しなくちゃダメだよ! 背に腹は代えられないよ…… このキノコ食べられないかな きっと笑いが止まらなくなるよ…… それなら一日じゅうハッピーでいられるよ! 失うものが大きすぎるよ…… 洋くん、文句ばっかり 言いたくもなるよ…… 洋くん、悲しくないんだ ………… もう、会えなくなるのに あたしたち、お別れなのに…… 彼女のこんな沈んだ声は初めてだった。 彼女はいつでも明るかったし、楽しそうだし、笑っていたしで、こんな気弱な姿を見るのは初めてだった。 だからだろうか。 このとき僕は彼女を元気付けるためにこう言った。 絶対、戻ってくるよ 彼女の瞳が僕を射る。 絶対、お別れなんかじゃない 涙が盛り上がったその大きな瞳が僕を見つめる。 僕、戻ってくるよ この街に戻ってくる だから、お別れなんかじゃない 本当? 消費税くらいの確率で本当 うわーん! 大泣き。 だ、大丈夫だよ。きっと数年後には消費税も200%になってるから…… ……じゃああたし、消費税が早く上がりますようにって祈ってるね きっと彼女は将来有望な政治家になる。 それで、消費税ってなに? ……前言撤回。 あたしたち、また会えるの? うん 絶対、ぜーったい、再会できるの? うん あのお星さまに誓って? うん 織姫と彦星に誓って? 七夕伝説ではふたりが待ち焦がれた七月七日は雨模様が多くそのため天の川の水かさが増して織姫は向こう岸に渡れず彦星との再会も叶わず川面を眺めて涙を流し うわーん! 大泣き。 だ、大丈夫だよ。織姫と彦星は、最後にはちゃんと再会を果たしたから…… 本当? うん 本当に本当? うん じゃあ、約束ね うん、約束 あたしたちは必ず再会すること! この展望台で必ず再会すること! 織姫と彦星みたいに離れ離れになっても、最後にはちゃんとふたりは再会すること! そして、再会したらケッコンすること! 僕は、うんと答えた。 結婚なんて急に言われて驚いたけど、僕は自然とうなずくことができたんだ。 だって、彼女は笑っていたから。 それが僕の一番好きな彼女だったから。 ケッコンして、あたしのお尻に敷かれること! ……それはやだな 僕たちは再会できる。 再会して結婚できる。 きっとできるんだ。 きっと。 ……たぶん彼女は、結婚の意味も知らなかった気がするけどな それともママゴト感覚で言ったのかもしれない。 彼女は見た目以上に幼かったと思うから。 ……っと 服に引っかかった枝を払いのける。 辺りは暗くなっていた。方向感覚が狂いそうになる。 忌々しいフェンスを横目に、山側へと回り、獣道とも言えない林の中を掻き分けて進んでいた。 それからようやくフェンスの迂回に成功して。 俺は、展望台までの道を登る。 細くなだらかなこの小道をひた登る。 ああ、そうか。 そうなんだ。 ここは変わっていない。 ここまでの道程はいささか変わっていたけれど、ここは寸分たがわず変わっていない。 むせ返る草木の匂い。 薫風にそよぐ梢。 高く澄んだ虫の鳴き声。 想い出の中のまま。 記憶と現実が重なる。 だから彼女はいると思う。 この先で俺を待っていると思う。 そう、思えるんだ。 引っ越しの前夜、僕たちが展望台に集まった最後の日。 七月七日の七夕の日。 この場所で僕たちは必ず再会するという約束を交わし。 おでこにキスを交わして。 彼女は笑っていた。 織姫と彦星の下で笑っていた。 笑いながら泣いていた。 僕は彼女に笑い返していた。 彼女はなんだか変な顔になっていたから。 だけども僕もまた唇の端のところがひくひくってなって、うまく笑えなくなっていたから、たぶん彼女と同じくらい変な顔だったんだと思う。 YUME_e01a_parts 泣いていたんだと思う。 そのとき初めて、本当の意味で知ったんだと思う。 僕は、彼女に感謝していた。 俺は、彼女が好きだった──── だから、彼女はそんな俺を待っていてくれた。 おかえりなさい、洋くん 彼女は俺を待っていた。 約束どおり、そこにいた。 ちょっと、待ちくたびれちゃった 夏の星座に彩られた夜空。 七夕が近いその星空。 月影と星明りに照らされた彼女は成長を果たしていた。 背丈も変わらず顔もあどけないままなのに、衣装と持ち物がべらぼうに変わっているのがその証拠。 記憶と重なるその風貌。 重なるどころかうりふたつのその姿。 なのに彼女のその身にまとう衣装は奇抜であり。 用途不明の大きなカマを持っているのはきっと愛嬌。 俺の想像など及びもしない方向で、彼女は成長を果たしたのだ。 おひさしぶり、洋くん その声すらも記憶とうりふたつで。 約束を守ってくれて、ありがとう だけど、それは感動の再会とは違っていた。 俺の手から目薬がぽとりと落ちた。 わたしのこと覚えていてくれて、ありがとう──── これで、わたしもやっと務めが果たせるわ フライパンから昇る朝食の芳ばしい香りを嗅ぎながら、キッチンの小窓に覗ける四角い空を眺めていた。 天気は快晴、差し込む陽光が目に痛い。 初夏ともなればこんなふうに料理をしていると暑くてたまらず、キッチンに扇風機は必須だったりするのだけど。 この雲雀ヶ崎はこれまで住んでいた都会とは違って、気温はだいぶ下だった。 空気もきりりと澄んでいて、もっと太陽が高くなれば暑くなるのだろうけど、じめっとした暑さの都会に比べれば過ごしやすそうだ。 ありがとう北の街、ただいま我が故郷(しみじみ)。 学校もまだ始まらないし、ひさしぶりに落ち着いて朝食をいただけそうだ。 寝過ごした寝過ごした寝過ごした────っ!! と、水を差すようにばたばたと階段を降りてくる足音が聞こえてくる。 ごめんお兄ちゃん今すぐ朝ご飯の支度するから……って、なんでもう食べてるの!? 妹の〈千波〉《ちなみ》が勢いよくダイニングに飛び込んできた。 おはよう 優雅にコーヒーカップ掲げておはようじゃないよっ、なんでもう朝ご飯食べてるのかって聞いてるの! 朝食抜かしたら一日の元気が足りなくなるじゃないか そうじゃなくてっ、朝ご飯は千波の係りでしょ! そうなのか? そうなのっ、冷蔵庫のとこに当番表が貼ってあったでしょっ、今日から毎日千波が朝ご飯作るって! ああ、あれか あれだよ! 字が下手すぎて読めなかった ひどっ!? なのでシュレッダーにかけて隠滅した ひどすぎだよっ!? だいたいおまえ朝弱いんだから無理に自分で作らなくたっていいだろ それじゃ誰も作らないじゃない! 俺が作ってる なんてこと!? ……どこのお嬢? お兄ちゃん、お料理できたの? 今さらなに言ってる。俺、よく母さんが作るの手伝ってただろ この人悪魔だよ!? ……どういう意味だよ この目玉焼きなんで色が白いの? 普通白いだろ 千波が作ると黒いよ? 焦げてるからだろ ぱりぱりしておいしいよ? ……おまえは二度とキッチンに立つな でもでもっ、今度から心入れ替えて早寝早起きして毎朝ちゃんと千波がご飯用意するって天国のお母さんに誓ったんだから! そして早速破ったと ごめんなさいお母さん! 天井に拝んでいる。 とにかくまず顔洗ってこい。髪はぼさぼさのままでいいから、さっさと朝飯食べろ うー…… 寝起きの髪を手で押さえながら不満顔。 ……朝ご飯、ほんとにお兄ちゃんが作ったの? ああ なんで作るの! ……怒る理由がわからん 目玉焼きとトーストとコーヒー、全部? ああ せめてお皿くらい千波に並べさせて! ……我が妹ながら怒るポイントがほんとわからん。 いいから顔洗って千波も食べろ。それとも今日はいらないのか? ……いる じゃあ食べろ ……ん 席に座る。 まず顔洗ってこいって ……洗ったもん さっき思いっきり二階から直で来てたじゃないか とにかく洗ったのっ ふて腐れている。 千波は目玉焼きにマヨネーズをたっぷりかけてぱくつく。 うまく半熟で焼けてると思うんだけど ………… うまくないか? ……おいしい よかったよ おいしいからよけい腹立たしい なんだよそれ…… 朝っぱらから千波は不機嫌だった。 つつがなく朝食を終え、俺と千波は本日の仕事に取りかかる。 昨日に配送業者から受け取った引っ越しの荷物を片付けなきゃならないのだ。 転入予定の学校が始まるのは、来週の月曜日から。それまでまだまだ時間はある。 その頃には片付けも終わっているだろう。 都会に暮らしていた頃となんら変わらぬ環境、とまではいかないだろうが、自分の部屋くらいは同程度の環境に整えられるはずだった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! うるさい あうっ 額にチョップ。 ぶたれたっ!? お母さんにだってぶたれたことなかったのに! 俺だってない。 で、なんだ? あのねあのねっ、ダンボールお部屋に運ぼうとしたんだけど重くてねそれでね千波もがんばったんだけどねっ 落ち着け あうっ デコピンする。 痛いよ痺れるよっ、千波自慢のぴかぴかおでこが今ごろ真っ赤に腫れ上がってるよきっと! 夕陽みたいでキレイだぞ 謝罪どころか拝み出した!? あのさ、おまえ、なんでもかんでもひとつのダンボールに詰め込みすぎなんだよ。だから重いんだよ リビングの隅に積まれたダンボールの山は、誰の物か見分けがつくように俺たちの名前が書いてある。 その中で、千波のダンボールは俺のものより一回りも二回りも大きかった。 引っ越し業者の人も運ぶの苦労してたじゃないか お金もらってるくせに態度でかくて困ったものだよね そのせいで底が抜けて中の荷物が散らばって大変だったじゃないか 文句垂れてる暇があったら早く拾えって感じだよね だから俺がもういいですからそこらへんに捨てといてくださいって頼んだんじゃないか 聞き捨てならない事実が発覚!? まったくおまえのフォローも大変だよ フォローじゃないよね? 突き落としてるよね? ほんとに捨てるわけないだろ。俺のダンボールに小分けにして入れたんだよ お兄ちゃん大好き! しかしおまえってけっこう下着持ってるのな いやああああああああっ!!! 俺のダンボールを片っ端から開ける我が妹だった。 俺と千波は荷物を引っ越し業者にあずけたその日のうちに、この雲雀ヶ崎に着いていた。 引っ越し先は母さんの実家。 つまりここ。 今は母さんの妹である〈詩乃〉《しの》さんの家だった。 故あって母さんが急死し、もともと父親もいなくて二人きりになった俺と千波を助けてくれたのが彼女なのだ。 詩乃さんには感謝している。 クラスの仲間と離れるのは寂しくもあったし、母さんの死でナーバスになっていた千波も、友達との別れを惜しんで泣いたりしていたけれど。 それでも、引っ越すとしたらここ以外にないだろうというのがこの雲雀ヶ崎だったのだ。 俺と千波が生まれた土地。 そして、この家。 俺が産まれたばかりの頃は家族で暮らしていたというこの家も、千波の誕生と同時期には出ていたらしい。 母さんはお腹に千波を抱えたまま、赤ん坊の俺を抱いて家を飛び出し、アパート暮らしを始めたのだ。 そのあたりの事情はごちゃごちゃしていて説明するのは難しい。 そもそも当時のことを赤ん坊の俺は覚えていないので、すべて人づてに聞いた話でしかない。 それは想い出を作るにも至れない過去の話でしかない。 だから俺は誰にもその事情を話したことはない。 まあそういう理由に加えて、雲雀ヶ崎でも都会でもアパート暮らしだった俺は、一戸建ての家に暮らすというのはどこか奇妙な感慨があった。 アパート暮らしに文句があったわけじゃないけれど。 不自由なんかはなにもなかったし。 朝の弱い千波を苦労して起こし、母さんが作った朝食を残さず食べ、ふたりで遅刻ぎりぎりの時間に登校する。 授業はつまらなくなかった。 俺は勉強が嫌いな子供じゃなかった(千波は嫌いのようだったが)。 そして、放課後になれば彼女に会いにいく。 展望台で待ちあわせ、ふたりで夜空を見上げていた。 それは自由で、楽しい時間だったのだ。 だからこの雲雀ヶ崎に戻ってきて、まずやりたかったのは彼女との再会だった。 再会だったはずなのだが……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! うるさい あうっ 喉に手刀。 最愛の妹に対する所業とは思えないよ!? 最愛じゃなくて愚妹だし 本人の目の前で言っちゃったよこの人!? 愚妹はただの妹の謙称だけど愚かな妹でまあいいのだ。 で、なんだって? あのねそのねっ、千波の整理ダンスの引き出しにテープがいっぱい貼ってあってねっ 運ぶときに引き出しが出ないようにしたんだよな そうなんだけど、なんかテープが固くてがんばってもなかなか取れなくてねっ 簡単に取れたら意味ないからな それはそうなんだけどあまりにも固すぎて、でも強くひっぱると塗装剥げちゃいそうだしで、どうしたほうがいいのかなお兄ちゃんっ 諦めれば? なんて清々しい一言!? おまえ、べたべたテープ貼りすぎなんだよ。だから取るのに苦労するんだ でもたくさん貼らないと服いっぱい詰め込んでるから飛び出ちゃいそうだったし だから業者の人がひいひい言って運んでたのか……。 どうしたほうがいいかなお兄ちゃんっ 服着なきゃいいじゃないか なにがなんでも手伝いたくなさそう!? こっちだって片付けがあるんだよ 千波のが終わったら手伝ってあげるから! ありがとういらない なんて冷たい無表情!? テープを剥がすくらいひとりでやれ だって困ったことに千波だけじゃ手に負えないんだもんっ、神さまがイジワルなんだもん! 大丈夫。おまえならひとりでもできるよ え…… 自信を持て。おまえは必ず成し遂げられる。おまえは俺の自慢の妹なんだ お、お兄ちゃん…… だから服を着なくても胸を張って生きていける うんわかったありがとうお兄ちゃんって、そんなのできるわけないじゃないエッチ! こいつの相手はとても疲れる。 そのタンス、おまえの部屋にあるんだよな 千波の頭をぽんとたたいて、二階へ向かう。 あっ……うんっ 千波は俺の腕をひっぱって先導した。 何重にも巻かれたテープを塗装まで剥がさないよう慎重に剥ぎ取り、終わった頃には一時間が経過していた。 ……疲れた だが俺のほうの片付けはまだなんにも終わっていない。 さっさと終わらせよ…… 片付けが終わったら、また展望台に足を運んでみるつもりなのだ。 昨日に出会ったあの彼女。 もしかしたら、また会えるかもしれない……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! うるさい あうっ 目つぶし。 このつぶらな瞳を傷物にする気!? 見えればいいだろ 血も涙もないよこの人!? で、今度はなんだ あのねそのねっ、千波愛用のサイドボードにガラス戸がはまってなくてねっ 運び出すときに外してたじゃないか でねでねっ、はめ直そうと思ったんだけど肝心のガラス戸が見つからなくってねっ それならおまえが今踏んでる えっ 毛布に包まっていたガラス戸がバキバキと音を立ててくずれていた。 ああっ!? 飛びのいた拍子にもうひとつの毛布に乗る。 バキッ。 あああっ!? 飛びのいた拍子にさらにもうひとつの毛布に乗る。 バキッ。 ああああっ!? ……きれいに三つ全部割れたな そ、そんなあ……千波愛用サイドボードがあ…… さめざめと泣いている。 ……千波、そんなに気を落とすな あ……お兄ちゃぁん…… 気を落とす暇があったら割れたガラスを掃除してくれ お兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカぁ!!! ぽこぽこたたかれた。 わかったからマジメにどいてろ。ケガするぞ あ……うん 飛び散った破片を毛布ごと外に出す。 ……ごめんなさい、お兄ちゃん これくらいいつものことだろ 千波は複雑な顔だった。 最後に掃除機をかけて細かい破片をすべて吸い取り、ようやく片付けを再開する。 ……ぜんぜんはかどらねえ 俺は一つ目のダンボールを手に取る。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! うるさい あうっ ダンボールを千波の頭に載せる。 重いよ辛いよ首が折れそうだよお兄ちゃん! 折れたらウケるな それでいいのお兄ちゃん!? なにか問題あるのか? 真顔で聞き返されてる!? で、今度はなんだよ…… あのねうんとねっ、本棚に仕切りの板がなくなっててねっ 棚板のことか。運び出すとき外してたじゃないか それでねそれでねっ、その板を外して別にしてヒモでちゃんと結んでたんだけどねっ 千波にしては上出来だ ここで困ったことにその結んだヒモっていうのが実は千波愛用リボンだからねっ、結び目がきつくてほどけなくてもゆっくり優しく慎重に…… 切ればいいじゃないか 言うと思ったよ!? よし早速兄ちゃんが切ってやろう 今まではなかなか手伝ってくれなかったのに今回はなぜそんなやる気に!? 大事なリボンだったらわざわざヒモ代わりにするな そこは千波のことだからちゃんと最初はお兄ちゃんの制服のネクタイ使ったんだけど、途中でなんかぼろぼろになってすり切れちゃってしかたなく千波の…… 棚ごとリボンを切り刻んでやるううぅぅ!!! お兄ちゃんがチェーンソー持って暴れ出した!? 悪い子は居ねがああああああ!!! それいろいろ混じってる! 和洋が混同してるよお兄ちゃん!! 怒りを静めるのにまた一時間を費やした。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! いいかげんにしろ あうっ 千波を倒してゴールドをもらう。 それ強盗だよ!? 千波が起き上がって仲間になりたそうにこちらを見ている モンスター扱い!? なにか問題あるのか? また真顔で聞き返されてる!? ……で、いいかげん聞きたくなくなってきたけど次はいったいなんだ えっとねうんとねっ、どのダンボールにどんな物入れたのかわからなくなってねっ ちゃんとダンボールに入れた物書かなかったのか? ちゃんと書いたよ書きまくったよっ、これは千波が嫌いなのこれは千波がちょっと好きなのこれは千波が大変好きなの…… さてどのダンボールから運ぶかな スルーされてる!? ……いちおう書いてあるんならだいたい見当つくんじゃないのか それがねそれがねっ、千波が嫌いなのって次の日には好きになってることが多々あってねっ、千波としてもこれが思春期特有の目移りだからしかたないって…… 次はどのダンボール運ぶかな 思春期の子を無視するとグレるんだよ!? ……おまえは大好きなものも次の日には大嫌いになってるのか ううんっ、大好きなものはずっと同じで変わらない なにが大好きなんだ? ……えっと マシンガントークの千波がめずらしく口ごもる。 千波、片付けに戻るね ぱたぱたと立ち去った。 ……なんなんだ 手伝って欲しいんじゃなかったのか。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 俺はそろそろこの片付け作業は一筋縄では終わらないことを痛感していた。 千波のドレッサーが割れてるっ、真ん中からピキピキってヒビ入ってるっ、これって賠償金ものだよね! 鏡の部分を外して梱包しなかったおまえが悪いんだよ でもでもそれだけじゃないんだよっ、引き出しの中にあったコスメのボトルとビンも割れてるんだよ! 服と違うんだから引き出しに入れっぱなしにしてたらダメだろ このままじゃ花も恥じらう千波がいつまでも末永くすっぴんで過ごさなきゃになっちゃう! なにか問題あるのか? 真顔で聞かないでお願いだから!? 割れたガラスはどうなってる? あっ、えとっ、千波の部屋に…… さわるなよ。おまえはここにいろ。片付けてくるから う、うん…… ごめんなさい……お兄ちゃん…… べつに謝らなくてもいいから う、うん…… 謝るくらいなら倒されてゴールドになって欲しいから それ千波よりお金が大事ってことなの!? 夕方になって、俺のほうはまだまだだが、千波はいいかげん片付けが終わっただろうと思っていると。 あの……お兄ちゃぁん…… 千波がしょんぼりしてリビングに降りてきた。 どうした? 元気だけが取り得のおまえらしくない声出して その言葉はとても引っかかるけどツッコむ余裕も今はないよ…… どうもただ事ではないようだ。 なにがあったんだ? うん……すっごく言いにくいことなんだけど…… じゃあ言わない方向でファイナルアンサー? やだよ聞いてよっ、ていうか耳ふさがないでよ!? で、言いにくいことって? う、うん……あのね、千波のベッドがね…… 組み立てたんじゃないのか? しようと思ったんだけど……できなくて…… なんで その……ベッドを置くスペースがなくて…… ………… つまり、先に本棚やら机やらを部屋の中で組み立てたので、ベッドを置く場所がなくなったということか。 これ……もしかして、せっかく片付けたのに、ベッド入れるにはまた全部部屋から出さなきゃってこと……? ……眩暈がする。 大きなものから先に組み立てなきゃダメだろ…… だ、だってえ……千波、引っ越しの片付けなんて初めてで…… 言われてみるとそうだ。 昔、この雲雀ヶ崎から都会に引っ越したときは、俺と母さんだけでそのあたりの作業をすべてこなしていた。 千波はまだ小さくて非力だったので手伝えなかったのだ。 それでも手伝いたがる千波を、危険だからと言って母さんは優しくなだめていた。 そのときの千波は悔しそうにしていた。 悔しそうに、俺と母さんの作業を後ろから眺めていた。 でも……今度こそって思って……千波だって手伝えるんだって思って…… ……俺もやるよ 千波はうつむかせていた顔を上げる。 ふたりでやればすぐだよ 千波はやっぱり悔しそうに。 ううん……いい そう、否定した。 ……遠慮するなよ、おまえらしくない。手伝って欲しいから呼んだんだろ? ううん……この大変さをお兄ちゃんにアピールして見事こなす千波の雄姿をその目に焼きつけたのちに千波の株を上げて欲しかったの ……がんばれよ ウソです冗談です見捨てないでえ! しがみつかれる。 まあ、ちゃんと教えなかった俺が悪かったしな。だから、ふたりでぱぱっと終わらせよう お兄ちゃんは悪くないよ 足手まといは、いつも千波なんだよ…… 千波の頭に手を載せる。 足手まといなんて思ってない あ……お兄ちゃん…… 一度だって思ったことないからな お、お兄ちゃんっ、それはすっごくうれしいんだけど頭に載ってる手が痛いよっ、これもう載せてるんじゃなくてアイアンクローになってるよ!? 千波は足手まといなんかじゃないからな? 絶対足手まといって思ってるっ、その手がすべてを物語ってるっ、もう両手で千波のこめかみぐりぐりしてるよお兄ちゃん!? さて、それじゃあ最後の大仕事、千波の部屋を最初から片付け直そうか。 ……俺の部屋の片付けは今日中には無理そうだな。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……大声で呼ばなくても聞こえてるって でもでも大事件なんだよ! ついにメルトダウンでも起こしたのか? さすがの千波もそこまでの大惨事は起こせないよ!? ベッドの組み立てに問題あったのか? それがねどうやっても組み立てられないのっ、これってもしかして不良品っ、それとも運送事故で破損っ、引っ越し業者に損害賠償求めたほうがいいかなっ ……ネジが合わないだけじゃないか でもでもそれっておかしくないっ、ネジはちゃんと全部袋に入れてたから、なくなることも逃げ出すことも生まれ変わることもできないはずなのにっ おまえが後先考えずデタラメにネジを使うから、そうなったんだよ そんなの千波はネジ博士じゃないんだからわかるわけないよっ あのな、こういうのはどこにどのネジを使えばいいかわかるようにパーツにネジを貼っておくんだよ ……やっぱり千波は足手まといなんだね なに今さら言ってんの? 数分前のお兄ちゃんとは別人のような言葉が!? ベッド組み立て終わったら物運び込むからな。まずはこのバッグと…… わああっ、それ開けちゃダメ! なんだ千波のパンツか 少しは驚くとか目を逸らすとか顔赤くするとかそういう態度取ってよお兄ちゃんのバカ! そんなこんなで片付け(千波の部屋だけ)は終了した。 俺たちの荷物は各自の部屋の分だけなので、あと片付けが残っているのは俺の部屋だ。 この家はもともと詩乃さんが住んでいるので、リビングやその他の部屋を整理する必要はない。 都会で使っていたそれらの用品は、すでに処分している。 母さんとの想い出の品ではあったし、千波も最後まで反対していたけど、しょうがなかった。 むしろ、空き部屋を俺たちに使わせてくれる詩乃さんに感謝しなければならない。 両親のいない俺たちが途方に暮れず、雲雀ヶ崎で生活できるのは、すべて詩乃さんのおかげなのだ。 あら、洋ちゃん。おはよう 詩乃さんがようやくお目覚めだ。 おはようございます。うるさくしてすいません なにかあったの? 千波の大声でもぐっすり寝られる詩乃さんだった。 こっちこそごめんなさいね、こんな時間まで寝てしまって いえ、仕事のほう大変なんですよね? もう少しで山場は越えるから。そうしたらちゃんとご飯も用意するからね ダメですっ、それは千波の係りですからっ 部屋を借りてるだけで充分ですし、食事くらいなんとかしますから そうですっ、詩乃さんの分もちゃんと作りますからっ 俺がちゃんと作りますから 千波が作るんだよ!? すいません、たまにこの子とち狂うんで かわいそうな人を見る目で見ないでよ!? 洋ちゃんも千波ちゃんも、遠慮なんかしなくていいのよ? 夕飯は私に任せていいから ふたりの引っ越し祝いに、腕を振るっちゃうから 詩乃さんはほほえみながらキッチンに入っていった。 学費は母さんの貯金でなんとかなるとしても、食費のほうはどうしても詩乃さんの負担になってしまう。 甘えてばかりじゃ悪いし、俺もバイトを考えたほうがよさそうだ。 転入先の学校がバイト禁止じゃなければいいのだが。 詩乃さんっ、千波も手伝いますっ 千波も詩乃さんを追っていった。 それじゃあ俺は、と。 ちょっと出かけてきますね どこ行くの? 千波がすぐさま戻ってきた。 街を見てくるだけだよ 昨日も行ってなかった? また見てこようかなと じゃあ千波も行くね ……いや、おまえは詩乃さんを手伝うんだろ こっちはいいから。ひさしぶりなんだし、ふたりで見て回ってきたらいいじゃない はいっ、お兄ちゃんのお守りは任せてください! そりゃ俺のセリフだ。 でも、夕飯までには帰ってきてね? はーい! 詩乃さんのほほえみに見送られながら、千波をお供に家をあとにした。 外は比較的涼しかった。 吹き渡る風が、引っ越しの片付けで汗をかいた身体に心地よい。 重労働で疲れている足も、いくぶん軽くなる。 さすが雲雀ヶ崎だねっ、都会よりもずっと涼しいね しかし、できればひとりで出かけたかったんだが……。 千波ねっ、あそこ行きたい ダメだ まだなにも言ってないよ! 行き先はもう決まってるんだよ どこ? 夢見坂の先にある展望台 千波はきょとんとする。 展望台って、あの観光地としてはマイナーなあれ? そうだよ マイナーで悪かったな。 なんでなんでっ、星空でも見上げたいの? まあそんなところだな いつからお兄ちゃんはエゴイスティックなロマンティシズムを語るようになったの? ひどい言われよう。 もしかして昨日もそこ行ってたの? まあな そういえばお兄ちゃん、昔はよくそこで遊んでたみたいだよね 俺は学校帰りに展望台に寄り、あの彼女と遊ぶことが多かった。 陽が落ちるまで彼女と一緒だったから、帰宅するのはいつも遅かった。 母さんから怒られたことはなかったが、俺が帰ってくるまで遊び相手のいない千波は寂しそうにしていた。 とはいえ、彼女と遊んでいたのはほんの一ヶ月間くらいだったと思う。 俺たち家族が引っ越したことで、ふたりの夜遊びも終わったのだ。 その展望台って、実は想い出の場所だったり? ………… お兄ちゃんなんか照れてる ……照れてない でも千波が長年つけ続けたお兄ちゃん観察日記によると、お兄ちゃんがムスッとしてるときは照れてるか後ろめたいことがあるときで…… 観察日記とやらを取り上げて破り捨てる。 千波のライフワークの結晶が!? 遅くなると詩乃さんに悪いし、急ぐぞ 踏みにじってるっ、お兄ちゃん観察日記のカケラがお兄ちゃん本人の土足によって踏みにじられてる! 置いていくぞ 待ってよっ、いいよもうっ、どうせその日記は布教用だもんっ、観賞用はべつにあるもんっ ときどき我が妹の行動が計り知れない。 わあっ、この坂ぜんぜん変わってないねっ、先が見えないくらい長く続いてる 夢見坂と呼ばれるこの坂は、展望台と同じく雲雀ヶ崎の観光地のひとつとして数えられている。 ただ展望台があまり知られていないのと同様、この坂も観光に訪れる客はめったにいないようだ。 どうせ行くなら湾岸部のほう──海水浴や運河でのボート乗りをしたいと観光客が思うのもうなずける。 このあたりは、どこか寂しい風景だ。 千波はこの坂、上まで登ったことあるのか? ううんっ、一度子供の頃に登ろうとしたんだけど、途中で疲れちゃってタクシー呼んで帰って来ちゃった 昔から腹黒かったもんな なんで腹黒いんだよっ、ちゃっかりさんって言ってよっ そのちゃっかりが勉強その他に生きてくれればいいんだけどな 生きてるよしっかり そうなのか? うん たとえば? それは内緒だよっ 突然腕を組んでくる。 夢見坂は観光地としてだけじゃなく、学校の通学路にもなっているので、下校中の生徒が俺たちとは逆に坂を下りている。 その生徒たちの視線が、腕を組んで歩く俺たちにちらちらと向けられていた。 あの人、昨日も見かけましたね 隣にいる子、恋人かな ご、誤解されてる? あの人たち、きっと、千波たちが通うことになる学校の生徒だよね…… 俺たちの転入先のヒバリ校は、この坂の途中にある。 恋人同士で旅行かもしれないですね だったらこんな寂れた坂じゃなくて、海とか運河のほうがいい雰囲気になれると思うんだけどな 完全に誤解されてる。 千波は、元気だけじゃなくて、ちゃっかりなところも取り得なんだよ…… すぐに千波を振り払う。 ……バカなことやってないで、行くぞ お兄ちゃん、照れてる 照れてないっ でもお兄ちゃん観察日記によると、お兄ちゃんが目を逸らして毒づくときは照れてるか後ろめたいことがあるときか、もしくは恋にドキドキして…… 破り捨てる。 二冊目もお亡くなりに!? 置いていくからなっ 待ってよっ、いいよもうっ、どうせその日記は観賞用だもんっ、保管用はべつにあるもんっ 追いかけっこのように頂上を目指す。 あの人たち、ケンカしたみたい 痴話喧嘩でしょうか 彼女が怒って彼氏を追いかけてるね 彼氏の浮気を問い詰めた挙句に逃げられたという図式に見えますね じゃあこの旅行は彼氏の浮気を吐かせるために仕組んだ、彼女の巧妙な罠なのかな 可能性は高そうです。くわばらくわばら くわばらじゃねえ。 願わくば、彼女らと学年が同じじゃありませんように。 クラスメイトだったら目も当てられない。 あれ、お兄ちゃん…… ヒバリ校を通り過ぎて五分ほど歩くと、大きなフェンスが立ちはだかる。 展望台って立ち入り禁止だったの? いや、前に住んでたときはちゃんと行けたよ じゃあ今は工事でもしてるのかな だったら着工時期や完成見込み時期を書いた看板がどこかにぶら下がっていてもおかしくないのだが。 千波、まだついてくるのか? ついてくるって……お兄ちゃんこの先も行くの? まあな でも行き止まりだよ? 山に入って迂回するんだ 今晩のおかずに山菜でも取るの? なんでだよ。展望台に行くって言っただろ 俺は横に広がる林の中に入っていく。 わっ、待ってよお兄ちゃん! 腕をつかまれる。 なんでそこまでして展望台行きたいの? いいだろべつに よくないよっ なんで 理由くらい知っとかないと千波の服が汚れ損になるじゃないっ ……ついて来るのか? うんっ、だってお兄ちゃんのお守り任されてるから 俺は深々とため息をつく。 ……会いにいくんだよ 展望台に誰かいるの? ああ。たぶん 誰? ……ええと どう説明したものか。 お兄ちゃんの友達? ……そんな感じかな 昔よく展望台で遊んでたって人? 即答はできなかった。 千波、ずっと気になってたんだけど……。子供の頃からずっと気になってたんだけど その人って、女の人? べつにどうだっていいだろ 初恋の人なんてロマンチックなこと言わないよね? ……言うわけないだろ なんか図星っぽいなあ なぜに。 お兄ちゃん、その人のこと好きなの? そ、そそそんなことないぞ? お兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカぁ!!! たたかれる。 この先に千波のお兄ちゃんをかどわかした悪女がいるんだねっ 千波は我先にと林の中に突入した。 きゃああっ、スカートに枝が引っかかったっ、切れちゃう破けちゃうしかも見えちゃうお兄ちゃんに見られちゃう! バカなことやってないで行くぞ なんで千波のパンツをいつもスルーするんだよ! 思春期の妹を持つと苦労するなあ。 フェンスを迂回するのはそんなに時間はかからない。ほんの少し林の中を掻き分ければすむ。 それでも文句ぶちぶちの千波を連れ、展望台にたどり着いたわけなのだが。 ……誰もいないよ? ううむ。 お兄ちゃんきっとフラれたんだよっ、でも元気出しなよっ、詩乃さんのごちそうが心の底から楽しみだね! うるさいので鼻をつまんだ。 お兄ちゃん息ができないよっ、いくらここが新鮮な空気だからって口呼吸だけじゃ心もとないよっ、千波窒息死しちゃうよこのままじゃ! いいだろべつに なんて軽い死刑宣告!? たしかにここは無人のようだった。 展望台をぐるりと一周してみても、人っ子一人見つからない。 お兄ちゃん……千波とふたりっきりになったね 会えると思ったのだが。 確たる自信があったわけじゃないが、そう思わせるなにかが彼女にはあったのだ。 ここなら、誰はばかることなくなんでもできるね…… 俺は彼女に尋ねたいことがある。 問いたださなければならないのだ。 キミは俺と昔一緒に遊んでいた、あの彼女ですか、と。 展望台の彼女ですか、と。 千波……い、いいよ。お兄ちゃんとだったら…… じゃあ帰ろうか バカバカバカバカバカバカバカぁ!!! たたかれる。 千波は先に帰っていいぞ えっ、お兄ちゃんも帰るんじゃないの? これから来るのかもしれないし、もう少し待ってみるよ ダメだよお兄ちゃんっ、恋を忘れるには新しい恋に出会うことが一番なんだよ! なんの話だ。 詩乃さんの夕飯には間に合うようにするからさ ……そんなにその人に会いたいの? まあな じゃあ電話でもすればいいんじゃない? 連絡先は知らなかったんだ 知っているのは名前だけ。 昨日は会えたの? ああ どんなこと話したの? ………… その人、どんな人なの? 千波はしつこいくらい聞いてくる。 ……千波には言えないの? まったくもってそんなことはない 少しは躊躇して欲しかったよお兄ちゃん! しかしどう話していいものか難しいところではある。 たぶんな、信じないぞ なにが? その子がどんな子かって話 俺が手ごろな草むらに座ると、千波も隣に腰を下ろす。 一望できる雲雀ヶ崎の街並みが、夕陽によって橙色に染め上げられていた。 それが目に痛いくらい鮮烈だったから、俺は瞳を細めながらその言葉を口にした。 その子な、死神だったんだよ その子は展望台の彼女とうりふたつだった。 今となっては曇りガラス越しに見ている記憶でも、彼女に関することだけはまだ鮮明に残っている部分があるのだ。 そのひとつが、女の子の容姿。 俺の記憶からそっくりそのまま引き出してきたみたいに、その子は展望台の彼女そのものだ。 ただひとつ決定的な相違点を挙げるとしたら、その衣装。 衣装の一部のようにも見える、その大きなカマだった。 キミは…… 近づこうとしても、まるでふたりの距離を裂くように構えられたカマが、俺の足を前に踏み出させてくれない。 キミは、あの子なのか……? こんなふうに、震えた声を投げかけるしかなかった。 あの子? あ……ええと 目の前の彼女は、展望台の彼女とうりふたつ。 だがその記憶にある容姿とは、俺が子供の頃に別れた当時の彼女のままなのだ。 それとうりふたつだなんてありえない。 俺はあれから成長した。身長だって40センチは伸びた。 彼女だって俺と同じく成長しているはずなのだ。 目の前の彼女が、展望台の彼女と同一人物であるはずがない。 だけど。 だったらなぜ彼女はこんなにも……。 こんなにも、あの子と似ているんだ? あの子って誰? ……いや、その わたしの名前を聞いてるの? ……あ、ええと、うん どう見ても年下の彼女に気圧されながら、俺は呆然とうなずいている。 わたしの名前はメア メア──── これでいい? 展望台の彼女とは違う名前。 それどころか日本人の名前にも聞こえない。 ……彼女は、展望台の彼女とは別人? もしかしたら外国人かとも思ったが、彼女は流暢に日本語を話している。 いや、べつに外国人でも日本語を話せておかしくないか。 ……というか、そんなことはどうでもいい。 彼女は、俺が会いたかったあの彼女ではない? ただ似ているだけ? それにしたって似すぎている。 世の中には、その人のそっくりさんが三人いると聞いたことはあるけど。 次はわたしの番 メアが向き直ると、カマの銀刃が生々しく星明りを反射する。 あなたは小河坂洋くんでしょう ……あ、ああ やっぱり 彼女は小さくうなずいた。 疑問が持ち上がる。 彼女が展望台の彼女とは別人なのだとしたら、なぜ俺の名前を知っているんだろう。 ……聞いていいか? いいけど なぜキミは俺の名前を知っているんだ? 洋くん、自分のこと俺って呼ぶんだ 俺は確信する。 彼女は展望台の彼女ではないかもしれない、だけど少なくとも幼少の頃の俺のことを見知っている。 俺が自分のことを僕と呼んでいた小河坂洋を知っている。 キミ、俺のこと知ってるんだな うん どこで会った? ずっと昔。ずっと わたしが待ちくたびれるくらい、それは過去 ……俺のことを待っていたのか? うん どうして? 約束があったから ……キミはやっぱり そんなはずはない、だけどそうとしか思えない。 ……なんだこれは? 心臓の鼓動は落ち着くどころか暴れ出すばかり。 やっぱり、なに? 俺はかぶりを振る。 落ち着け、落ち着けと強く念じる。 でないと正常に思考が働いてくれない。 俺のこと待ってたのって……いつだ? だからずっと昔。言ったじゃない 今から何年前だ? そんなの忘れたわ たとえば七年前として、その頃キミはいくつだ? このわたしに歳なんてないわ ……え、なに? だからわたしがあなたに出会ったのは、わたしが赤ん坊の頃じゃない。わかった? ……ち、ちょっと待ってくれ ええと、今彼女はなんて言った? このわたしに歳なんてない? 歳がないって……どういう意味だ? そのままの意味だけど ……できればわかりやすく説明して欲しいな これ以上の説明はないと思うけど たとえばキミは死神だから歳を取らないとかさ 目の前の彼女──メアの姿格好から出た言葉だった。 死神…… メアは思案するように反芻した。 あなたがそれで納得するなら、それでいいわ あっさり肯定された。 つまりキミは死神だから歳を取らなくて、だから俺と再会した今も昔のままの姿ってことか? そうみたいね き、キミは……死神なのか? あなたが自分で言ったんじゃない 死神って、あの? どの死神を指しているのか知らないけど、わたしという死神はこのわたししかいないわ なんかもう禅問答をしている気分だ。 ああ、そうか ここに至ってやっと彼女の言いたいことが理解できた。 それ、死神のコスプレなのか ……こすぷれ? そういうアニメキャラがいて、でもキミはそのアニメキャラとは別人ってことを俺に知って欲しかったんだ。オリジナリティってやつ? なに言ってるのかさっぱりだわ そのカマ、作り物だろ? こうしてここにあるんだから、誰かが作ったものだとは思うけど 本物じゃないんだろ? なにを指して本物なのかは知らないけど、わたしにとってこれは唯一無二だから本物だと思うけど それ、斬れないんだろ? 斬れるわ 断言。 試してみる? 待った待ったっ、ほんとに斬れたらシャレにならないから! 斬って欲しいんじゃないの? それで俺が死んだらキミほんとに死神だろ!? だから死神なんだってば。あなたが言ったくせに ムッとする。 その表情がようやく歳相応のものに見えて、俺は焦りながらもホッとしていた。 彼女は見た目に反して大人びているふうに感じるのだ。 特に口調が。 展望台の彼女とはまるっきり正反対。 やはり別人なんだろうと思う。 じゃあ……とりあえずメアちゃんが死神だと仮定してだな ……ちゃん付け ますますムッとする。 わたしのほうがお姉さんなのに…… 彼女は、展望台の彼女とは別人なのに、この口調は想い出と重なった。 でも、年上ってことはないだろ どうして じゃあさっきも聞いたけど、キミ、いくつだ? 死神は歳なんて取らないわ ……キミってどこの学校通ってる? 死神は学校なんて通わないわ お父さんとお母さんはどこ? 死神はお父さんもお母さんもいないわ そればっかりだ。 ……じゃあそれがすべて本当だと仮定して 仮定しなくても本当なのに キミは、ここでなにをしてるんだ? 言わなかった? メアの唇が釣り上がる。 それは幼い容姿に似つかわしくない、どこか妖艶な笑み。 あなたを、待っていたの ……なんのために? 約束を果たすために 俺との再会の約束を果たすために? それだけじゃない メアはきっぱりと言った。 あなたの悪夢を刈る約束を果たすために わたしは、人の悪夢を刈る死神だから ……お兄ちゃんの悪夢を刈る? そうらしい それってどういう意味? 俺のほうこそ知りたい。 お兄ちゃん、それからどうしたの? もっといろいろ尋ねたかったんだけど、いなくなった 帰っちゃったの? だと思うんだけど そのときは急にあたりが暗くなり、空が雲で陰って星が見えなくなったと思ったら彼女は消えた。 別れのあいさつもなく、忽然と消えていた。 それもまた、展望台の彼女と初めてキス(おでこに)を交わした状況と似ていたかもしれない。 目をつむって60数えたらいなくなっていたというやつ。 とにかく、死神云々の部分を除けば、どこもかしこも展望台の彼女と酷似しているのだ。 それでまた会いたいと思ったの? ああ 死神のカッコした電波な子なのに? ひどい言われよう。 だいたいそのメアって子、お兄ちゃんが会いたかった女の子とは別人なんだよね 普通に考えればそうだな お兄ちゃん浮気はダメだよっ、するならむしろもっと身近な子に目を向けるべきだと千波は思うなっ 身近に女の子なんか皆無だし アウトオブ眼中どころか異性とすら認識されてない!? ケータイの時計を覗くと、そろそろいい時間だ。 七月だけあって陽は長いが、それでもすぐにここも橙色から紺色へと移行するだろう。 帰ろうか。詩乃さんが待ってる 不機嫌になっている千波を促す。 悪かったな、つきあわせて まったくだよっ、千波もうお腹ぺこぺこだよっ 勝手について来たのはそっちなんだけどな……。 死神のカッコした子、この街の子かな そうだろうな だったらこの場所じゃなくてもまた会えるんじゃないかな、そんなカッコしてるなら目立つだろうし 普段からあんな格好だったら補導モノだけどな……というか、真っ先に銃刀法違反で逮捕だ。 ここって理由は知らないけど立ち入り禁止になってるし、勝手に入ってるとお兄ちゃんが逮捕されるよ? そうだな。ほどほどにしておくよ ……二度と来ないってわけじゃないんだ。お兄ちゃんも諦め悪いんだから 俺はなんとなく、彼女とはここでしか会えないんじゃないかと感じていた。 それは彼女の容姿が展望台の彼女にそっくりだからだろうか。 ここが俺と彼女にとって特別な場所だからだろうか。 それとも、まったく別の理由があるんだろうか。 見て見てお兄ちゃんっ、初めてふたりで展望台に来た記念に木の幹に相合傘のイタズラ書きっ……て言ったそばから消そうとしてるっ、しかもペンキで念入りに!? 人の想い出を汚したらダメだろ千波 それじゃ千波の想い出はどうなるの! そんなの必要なのか? 真顔で聞かれるとほんと泣きたくなるよ!? 家に戻って来た頃にはすっかり陽も沈んでいた。 夏のわりに日の入りが早く感じるのは、この街が都会よりもずっと北に位置しているためだろう。 洋ちゃん、ちょっといい? そうして今晩のごちそうを心待ちにしていると、詩乃さんがキッチンから顔を出した。 はい。手伝いですか? なんでも言ってください、これでも家事手伝いは得意なんで 母さんひとりでは負担だった部分は、日ごろからよく手伝っていたのだ。 手伝うたびに大惨事を起こす千波の子守りが主な仕事だったわけだが。 それじゃあ、スフレ焼いたんだけど、夕飯前にお隣さんに持っていってくれる? 引っ越しのごあいさつを兼ねて、千波ちゃんと一緒にね? そういえば引っ越しのあいさつがまだだった。 了解です。おーい千波 なになにお兄ちゃんっ、わっなにそれすっごくおいしそうっ、千波もう我慢できないいただきまーす 千波は箱に入った三つのスフレを鷲づかみして一口で平らげた。 おいしいねお兄ちゃん……って、どうしたのなんで千波のこめかみに拳当ててるのっ、やだよダメだよやめてよこれはとても痛い愛のかたちだよお兄ちゃん!? あらあらダメよ洋ちゃん、千波ちゃんいじめちゃ いえこれは躾けてるんです。ここで叱らないとつけ上がる一方なので 千波ちゃん、おいしかった? すっごくおいしかったです! ありがとう。だから洋ちゃんも許してあげて? ……詩乃さんは甘すぎですよ 昔から怒ったのなんか一度だって見たことがない。 たくさん焼いてるから。またすぐ包むわね 詩乃さんはキッチンに戻っていく。 今のスフレ、お母さんの味がしたよお兄ちゃんっ ……そっか 今日のごちそうってそれかな? 食後のデザートだと思うけど。 お隣に持っていくんだからもう食べるなよ それは難しいよお兄ちゃんっ、スフレとタルトとマフィンは千波の動力源だから目についたらなにを置いても口に入れることがDNAレベルで決まってるんだから! じゃあその動力源断ったら千波も動かなくなるかな? マジメに相談されてる!? はい、洋ちゃん、千波ちゃん。よろしくね 詩乃さんお手製スフレを手に、いざ引っ越しのあいさつへ。 俺たちの家があるこのあたりは夢見坂のふもとに位置していて、比較的平野となっている。 少し歩けば駅や商店街があって、交通の便もいいし買い物するにもうってつけの立地条件だ。 お隣さんもそろそろ夕飯の時間かな ああ。留守ってことはないだろ どんな人たちかなっ、お友達になれるかなっ 以前に俺たちがこの雲雀ヶ崎に住んでいたときはアパート暮らしだった。 住所は商店街の離れのほうだったし、俺自身この家に近寄ることもなかったため、このあたりの住宅街には詳しくないのだ。 だからお隣さんがどんな家族なのかもわからない。 表札に名前が載ってるね そりゃ載ってるだろ なんて読むのかなこの漢字 たぶん〈蒼〉《あおい》だな 蒼ちゃんとお友達になれるかなっ 間違っても初対面の人に蒼ちゃんなんて呼ぶなよ それは難しいよお兄ちゃんっ、千波の生涯の目標は友達千人作ることで、相手が老若男女に限らず千波にかかればおたがいちゃん付けで呼びあう仲になるんだから! 千波ちゃんは本当に痛い子ねえ その目は友達に向ける目じゃないよ!? なにはともあれインターホンを鳴らす。 十秒経過するが音沙汰がない。 留守なのかな? 明かりはついてるけどなあ リビングらしき窓からは、カーテンの隙間から部屋明かりが漏れている。 もう一度インターホンを鳴らす。 誰も出ないね どうしたものか。 浄水器の押し売りとか新聞の勧誘とかと間違われてるのかな? 都会では夕飯の時間を狙ってしつこいセールスが押しかけるのが多かったけど。 この街って水きれいだし、浄水器は必要なさそうだけどな あっ、お兄ちゃんっ、ポストに新聞が刺さってる 夕刊を取り忘れているようだ。 雲雀ヶ崎日報だって ローカル紙だな。昔は俺らも取ってたんじゃなかったか お兄ちゃんっ、千波にいい考えがあるよっ 却下 まだなにも言ってないよ! そっかそっかそれはいい案だな、却下 まだなにも言ってないってば! 千波のいい案が世の平和に貢献した試しはない。 とにかくここは千波に任せておいてっ 止める間もなく千波はインターホンを押す。 すみませーん雲雀ヶ崎日報の者ですけどー集金に来ましたんで出てきてくださーい それ悪徳キャッチだろ!? ……集金? ああっ、善良なお隣さんがひっかかってる! わっ、ウソみたいにひっかかってる ……ひっかかる? あ、いえっ、こんばんはっ、蒼さんのお宅ですよね? ………… ……ひどく疑わしげに見つめられる。 あのっ、お名前なんて言いますかっ、蒼ちゃんって呼んでいいですか? きびすを返すお隣さん。 ちょ、待ってくださいっ、俺たち昨日隣に引っ越して来た者なんですけどっ ……さっき集金って言ったのに あ、ええと、あれは 騙されるほうが悪いんですよ! きびすを返すお隣さん。 お兄ちゃんっ、これでこのスフレは千波のものだよ! おまえもう黙れ 背中を指で突っつく。 あああっ、そこはダメダメっ、千波の弱いところだからとてもダメなのお兄ちゃんっ ……最近のセールスって怖い 悶える千波を薄気味悪く見つめるお隣さんだった。 あの、さっきは集金なんて言ってすみませんでした。愚妹に代わって謝罪します 謝ってから、スフレの包みを渡す。 これ、よかったら家族の皆さんで食べてください ……新聞の更新のおまけ? い、いや、引っ越しの手みやげです。俺たち、隣に引っ越してきたんですよ ………… まだちょっと疑わしげだったが、お隣さんはスフレを受け取ってくれた。 それじゃ、夜分遅くにすみませんでした ああっ、あっ、お兄ちゃん早くその指どけてっ、じゃないと千波ダメになっちゃうおかしくなっちゃう! ……変な人 俺も苦労してるんです ……がんばってください お隣さんは帰っていった。 よし、変な千波を見せて相対的に俺をまともに見せる作戦は成功した 千波ダシに使われたの!? これで俺の第一印象はばっちりだ 千波の第一印象は最悪だよ!? 帰るぞ千波 あの子と友達になれないどころか同情されちゃったらお兄ちゃんのせいだからね! 大丈夫だろ。おまえなら だって、前の学校で友達千人は無理でも、ちゃんと百人作ったもんな ………… 家に戻ろうか。詩乃さんが待ってる ……うんっ 千波は笑顔で俺の腕に抱きついた。 詩乃さんのごちそうはゆうに三人分を超える量だった。 食べきれるか不安だったが、詩乃さんは食べきれなくてもいいとほほえみながら言ってくれた。 千波は食べきろうとがんばっていた。 詩乃さんの料理は母さんの味だった。 千波はときどき泣きそうな顔をしたけど、すぐに笑顔に戻って一心不乱に食べていた。 いつもだったら食べ過ぎると太るぞとか釘を刺すのだが、今回ばかりはなにも言えなかった。 ただただ俺も目の前に並ぶ数々の料理を味わっていた。 母さんの想い出と詩乃さんの優しさを味わっていた。 もうダメ千波死んじゃうかも…… そして食べきった千波はグロッキーになっていた。 どうぞ、千波ちゃん。お茶が入ったわよ は、はいぃ…… 苦しいんだったらあとにしてもらえばいいだろ う、ううん……今日の千波はいつもの千波と違うんだからあ…… いつもと同じで後先考えない千波だと思うが。 洋ちゃんもどうぞ はい。いただきます 私、ちょっと仕事のほうに戻るわね。なにかあったらいつでも呼んでね 洗いものもすませたようで、詩乃さんは自分の仕事部屋に戻っていく。 詩乃さんは絵本作家で自宅作業が多いのだが、締め切りが近くなるとこんなふうに部屋に閉じこもりがちになるらしい。 いそがしい中で時間を作って、俺たちのために引っ越し祝いのごちそうを披露してくれた詩乃さんには頭が上がらない。 はぁう……胃のわずかな隙間に熱いお茶がいい具合に染み渡るよう…… 寝転がりながらお茶を飲むな、行儀悪いぞ。それに食べてすぐ寝ると牛になるぞ いいんだよう……今日の千波はいつもの千波と違うんだからあ…… まるっきりいつもの千波である。 ……まあいいか 千波のおかげで詩乃さんの手料理を残さずにすんだのだから。 俺、ちょっと涼みにいってくるよ どこ行くのぉ? そのあたりを散歩するだけだよ はぁーい、いってらっしゃーい だるだるした千波を置いて外に出る。 そうして俺は夢見坂を登っていた。 ……つくづく俺も諦めが悪いな。 目指すはこの先の展望台。 夕方には会えなかったのに、夜になったら会えるなんてどうして考えられるだろう。 今は夜の八時半。 普通の家庭だったらもう外出なんてしない時間。 展望台で遊んでいた俺とあの彼女だって、もう少し早い時間には帰宅していた。 そもそも彼女──メアは子供だった。 俺よりもずっと年下、幼かった頃の展望台の彼女と同程度の歳に違いなかった。 なのに夜も更けたこんな時間に、明かりも乏しい展望台に足を運んでいるとは思えない。 ……わかってるんだけどな。 この目で展望台が無人であることを確認したらすぐに帰るつもりだった。 要するに自己満足の類なんだろう。 メアがいないならそれでよかった。 ただ俺がどうしても我慢ならないのは、自分で確認もせずに相手がいないと決めつけてしまうことだった。 もしかしたらいるかもしれないのに、そのわずかな可能性すら捨てて諦めてしまうことだったのだ。 子供の頃、引っ越しすると母さんに言われた瞬間に、彼女と別れることを漫然と受けとめてしまったのと同じで。 彼女は諦めなかったのに。 最後まで俺を引きとめようとしていたのに。 再会の約束を交わしてからだって……。 洋くん、あたしにいい考えがあるよっ いい考えって? 洋くんが引っ越ししなくてもよくなるいい方法を思いついたの! どんなの? 洋くんが大ケガするの! え、な、なんで? 大ケガしてね、近くの病院で暮らすことにするの! そしたらあたしが毎日お見舞い行ってあげるから! これなら住む家も食べるものも困らなくてすむよ! で、でも、それはちょっとやだな どうして? だって……ケガするなんて痛いし怖いよ 男の子なんだからそれくらい我慢しなきゃダメだよ! そんな人事だと思って…… この展望台から街まで転がり落ちるだけでいいから や、やだよそんなの…… 洋くんって意気地なしなんだから 普通だと思うけど…… ……じゃあ、どうすればいいのかな ………… どうすれば、洋くんと離れ離れにならないのかな…… ……約束したじゃない 僕たち、再会するって 絶対に再会するって ……でも いつになるか、わからないんだもん 洋くん、いつ帰ってくるかわからないんだもん あたし、いつまでも待ってられるかわからないんだもん──── ────待ってたわ、洋くん そこには白い人影が待っていた。 会えるとは思えない、だけど会えるかもしれない小さな希望に賭けた結果がこれだった。 だから俺の胸はちくりと痛む。 あのとき、彼女の言うとおり俺がケガでもして入院していたら、俺たちは離れ離れにならなかったのかもしれないと。 本当のケガじゃなくたっていい、仮病でも使って母さんを説得しようと試みるだけでもいい。 俺は、もっと努力すべきだったのかもしれない。 だって俺は母さんに反発もせず引っ越しに従った。 引っ越しを決めた母さんが悪いんじゃない、当たり前だ、母さんだってこの街を離れたくなかったに違いない。 悪いのは、ただ成り行きに任せて従ってしまった俺なのかもしれない。 たとえ結果が伴わなくても、彼女と離れ離れにならないように努力しなかった俺の怠慢が、このやるせない現状を生んだのかもしれない。 どうしたの、難しい顔して ……いや 俺はかぶりを振る。 ……今は、そうだな。彼女と話すことが先決だ。 せっかくこうして会えたのだから。 過去に離れていた意識を、目の前の彼女に集中させる。 そっちは今日も星見か? べつに 俺を待ってたのか? べつに ……さっき待ってたって言わなかったか? 待っていたのは本当だけど、あなたの顔を見たら待たなきゃよかったと後悔したの ……どういう意味だよ だってあなた、わたしを見た瞬間に辛そうにしたもの ………… わたしは人の悪夢を刈るのが仕事だけど、できればその人が自分の悪夢を自覚していないときに刈ってしまいたい あなた、悪夢を思い出したから辛そうにしたんでしょう? 俺の眉間にしわが刻まれていくのを自覚する。 ……それは、冗談だとしてもちょっと笑えないな べつに冗談じゃないわ キミは俺の想い出を悪夢と言った それはたまたまかもしれない。キミに俺の思考を覗けるわけがないし、それは偶然に違いない その上でなぜそんなことを言えるのかは知らないけど、おかげで俺は非常に気分を害している キミが、俺の大切な想い出を悪夢と言ったから そうなんだ なのでできれば謝って欲しい いや 拒否られる。 ……落ち着けよ、相手は子供なんだ。 ええと、ごめんって一言だけでいいから言ってくれるとお兄さんはうれしいな いや このやろう。 わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが謝罪なの。だからいや この死神コスプレ少女はどうやら反抗期らしい。 いいけどさ……千波で慣れてるし 誰それ 俺の妹だよ。昔はひどい反抗期だったんだ 今では妙な方向で安定はしているけど。 あなたに妹なんていたの キミはひとりっ子か? 死神に兄弟なんていないわ つまりひとりっ子なのか。 ……そういえば両親もいないって言ってたような 死神に家族なんていないわ じゃあこの子は……天涯孤独なのか? だからこんな時間でも外出することができる? さすがに冗談だと思うのだが。 ふと思いついた。 キミ、よくここに出没するのか? 出没って……。わたしをなんだと思ってるの 死神なんだろ ……なにその投げやりな言葉 俺は展望台の彼女について名前しか知らない。だから彼女の家族のことも知らなかった。 住所も連絡先もいっさい不明。 だからこそ思うように再会を果たせないわけで。 手がかりは彼女の名前と、この展望台だけなわけで……。 でさ、キミはよくここに来るのか? そうね。星が見える夜にはここにいると思う じゃあさ、キミのほかにこの展望台を訪れる人って見たことないか? あるわ ビンゴだ! その人の名前は知ってるか!? 知ってるわ 頼む教えてくれ! 小河坂洋 俺じゃん!! ……いや、俺とキミ以外で誰か知らないか? 知らないわ 糸口はあっさり潰えた。 ということは、彼女はこの場所に来ていないのか……。 考えてみれば再会の約束を交わしたからといって、毎日展望台を覗きに来れるわけがない。 むしろ長い時間の中ですっかり忘れてしまっているほうがありえる。 ……あまり考えたくはないけど。 だって俺は覚えていた。 だから彼女だって覚えていると信じたい。 ……くそ。 どうして俺は彼女の連絡先を知らないんだ? あの頃はいつだって聞くチャンスはあったはずだ。なのに俺はなぜそれをしていない? これもまた俺の怠慢……? いや、一度は聞いた気がする。 たとえ引っ越しが決まって離れ離れになっても、電話や手紙で連絡を取りあうくらいはできるのだから。 だが俺たちはそれをしなかった。 なぜだろう、なにか理由があったはずだ。 その記憶はちょうど曇りガラスの曇った部分に位置していて、いくら拭おうとも晴れてくれない。 俺と彼女は結局、引っ越したあとは一度として連絡を取りあっていなかった。 今日のあなたはダメダメね よくわからないがダメ出しされる。 昨日のほうがチャンスだったのに……。でも、星が見えなくなってしまったから ……なんの話? こっちの話 キミって結局何者なんだ? 死神よ 人の悪夢を刈る、死神 命の代わりに? そう 悪夢ってなんなんだ? それくらい辞書で引いて 悪夢を刈るってなんなんだ? わたしは悪夢を刈ったことはあるけど、刈られたことはないから知らないわ なんて死神だ。 ……いや、死神だからこうなのか? それじゃあ…… なぜキミは、俺と遊んでいたあの子と、同じ姿をしている? それともキミは、やはり、あの子本人なのか? 俺に、友達と遊ぶ楽しさを教えてくれたあの子なのか? 一瞬、口に出すのを躊躇する。 聞くべきかどうか迷ったときは、聞かないべきよ メアは淡々とそう言った。 聞くべきか迷うような質問は、少なからず相手の心のうちを覗き見てしまう恐れがある もし軽い気持ちで覗いてしまった場合、その責任を負うなんて考えもつかない…… 見られたほうは、責任を取って欲しいのに 一緒に悩んで、一緒に怒って、一緒に泣いて、一緒に笑って欲しいのに…… だから、軽い気持ちだったら、聞かないべきよ そのほうが、おたがいのためだから 警告とでも言うように、その手のカマが銀に煌いた。 ……じゃあ 肺に溜まった空気を押し出す。 じゃあ、聞くべきだと確信したときは、聞いていいんだな? メアの表情が変わった。 それは初めて見る大きな感情の揺れだった。 ……そうね その表情も、感情を遠くに押しやるようにすぐにいつものむっつりに戻って。 そういうときは、黙っていても相手のほうから切り出してくるんじゃないの? 一瞬、空の光が雲によってさえぎられたとき、彼女の姿はかき消えた。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……うるさい。何時だと思ってる、近所迷惑だぞ だってねだってねっ、千波今から寝ようとしたのにお部屋が大惨事になっててねっ、特にベッド周りがひどくてこれじゃ安心して眠れないんだよ! オネショか? 千波は子供じゃないよ!? オネショでちゅか? ……見たいんでちゅか? 見たくねえよ そうじゃなくてねっ、千波のお部屋が片付け終わったにもかかわらずひどいことになってるんだよ! ……もしかして梱包の残材捨ててなかったのか? 難しいことはよくわからないけど、ダンボールや古新聞やプチプチでお部屋が占拠されてるんだよっ、これって新手の侵略者かなっ、宇宙人との異文化交流かなっ 早くUFOからお迎えが来るといいな? それが冗談だって思いたいけどお兄ちゃんの目が本気だから千波どうすればいいのかわからないよ!? わかったら立ち直れないぞ? そんなに千波のこと嫌いなの!? 俺は千波の頭をぽんとたたく。 バカなことやってないで片付けるぞ。ふたりでやれば一瞬だ あっ……うんっ なんだかんだで俺も甘いよなあ……。 これじゃあ詩乃さんを責められない。 ふたりで梱包残材を始末して、お休みと言って千波の部屋をあとにした。 さてそれじゃあ俺もそろそろ寝ようかと思うのだが、まだ俺の部屋はベッドすら組み立て終わっていない。 ……今夜はリビングで寝るしかないか。 部屋は今日運んだダンボールでいっぱいなので、昨日と違って布団を敷くスペースもないのだ。 明日は早めに起きて部屋の片付けを終わらせないと。 願わくば千波が手伝うなどと言い出しませんように。 ソファで寝るのは生まれて初めてだったが、寝心地はそんなに悪くなかった。 寝過ごした寝過ごした寝過ごした────っ!! ばたばたと階段を降りてくる足音が聞こえてくる。 ごめんお兄ちゃん今すぐ朝ご飯の支度するから……って、なんで昨日と同じでもう食べてるの!? 千波がダイニングに飛び込んできた。 おはよう 優雅に口元ナプキンで拭っておはようじゃないよっ、なんでもう朝ご飯食べてるのかって聞いてるの! 朝食抜かしたら脳が活発に働かないじゃないか そうじゃなくてっ、朝ご飯は千波の係りでしょ! そうなのか? そうなのっ、冷蔵庫のとこに当番表が貼ってあったでしょっ、昨日寝る前にまた作ったんだから! ああ、あれか あれだよ! 誤字脱字が多かったため再提出を要請する 採点されてる!? まったく毎回シュレッダーにかけるこっちの身にもなってくれ そこまでして当番表を隠滅したいお兄ちゃんの心を案じたくなるよ!? 言っただろ、おまえ朝弱いんだから無理に作らなくていいって だからそれじゃ誰も作らないじゃない! 俺が作ってる どうして千波を差し置いてそんな行為がのうのうと許されてるの!? いったい俺にどうしろと。 この卵焼き、なんで色が黄色いの? 普通黄色いだろ 千波が作ると黒いよ? 焦げてるからだろ ティラミスみたいでキレイだよ? ……おまえは二度と料理をするな でもでもっ、今度からお兄ちゃんに千波自慢の卵料理を毎朝披露するって天国のお母さんに誓ったんだから! そして二回続けて破ったと 三度目の正直に期待してお母さん! とにかく顔洗ってこい。それからちゃきちゃき朝飯食べろ うー…… ふて腐れて席に座る。 まず顔洗ってこいって ……洗ったもん 千波は卵焼きにマヨネーズをたっぷりかけてぱくつく(千波はマヨラーだ)。 うまくジューシーに焼けてると思うんだけど ………… うまくないか? ……おいしい よかったよ 千波のティラミス風卵焼きには到底及ばないけど はいはい 千波は終始不機嫌だったが、残さずに食べてくれた。 朝飯を食べ終え、本日の仕事に取りかかることにする。 引っ越しの片付けの続きである。 昨日は結構な重労働だったが、筋肉痛にはなっていなかった。 雲雀ヶ崎の健康的な環境のおかげだろうか。感謝。 それじゃ、まずはベッドか 大きなものから組み立てるのが基本である。千波と同じ轍を踏むわけにはいかない。 千波は……来ないな 千波が片付けを手伝いたいと言い出すかと冷や冷やしていたのだが、今のところそんな気配はない。 平和である。 この平和が末永く続いてくれますように…… 切実な願いだった。 ……………。 ………。 …。 こんなものか ベッドの組み立てを完了する。 パーツが合わないこともネジが足りなくなることもなかった。オールグリーンだ。 小休憩ということで寝転がってみたり。 次はどこから片すかな…… 部屋に積み重なったダンボールの数々は、見ているだけで辟易する。 苦労して千波の部屋を片付けたこともあって、重労働を二日連続というのが体力よりも精神的に堪える。 だけどやらないことには終わらない。 さて、次はこのダンボールの数々を開けて……いや、その前に整理ダンスのテープを剥がしてしまおうか。 それから衣装ケースに詰まっている服を整理して……。 と、ここで衣装ケースの上に載っているバッグに目が留まった。 それは俺が以前の学校で使っていたスクールバッグだった。 中身は教科書ではなく、お別れになるクラスメイトから餞別と言われて渡された品である。 男子一同と女子一同からそれぞれもらったのだ。 といってもどんなものか詳しくは知らなかった。 引っ越しの際、向こうについてからバッグを開けてくれと念を押されていたからだ。 その場で見られると恥ずかしかったからか、それともあとで俺を驚かせたかったからか。 どちらにしろ彼ら彼女らには感謝すべきだった。 もう少しここでの生活が落ち着いたら、メールで礼でも言っておこう。 それじゃあ拝見させてもらうかな 級友たちの顔を思い浮かべながら、うきうきしてバッグを開ける。 そこは肌色でいっぱいだった。 ……エロ本だった。 思い浮かべていた級友たちを殴りたくなった。 あ、でも女子のほうはまともだな…… 色紙が一枚入っていた。 それぞれ一言、思い思いの言葉を連ねている。 うあ……実は好きでしたとかあるけど、まあ冗談で書いたんだろうな その子はクラスの委員長で、彼女との会話といったらガミガミ文句を言われたときに俺が苦しまぎれの言い訳をするくらいだった。 調理実習でクッキーをもらったこともあったけど、作りすぎちゃって捨てるのもったいないだけだからねと強く釘を刺されていた。 バレンタインでチョコをもらったこともあったけど、これクラス全員に配ってるただの義理チョコだからねとこれまた強く釘を刺されていた。 もしもこの告白が本気だったら彼女はツンデレだと思う。 ……なんか懐かしいな まだ別れてからそんなに日にちは経っていないのに。 時間は離れていなくても距離が離れているからそう感じるのだろうか。 エロ本はそこらに投げ捨て、色紙を読みふける。 お兄ちゃんっ、千波参上だよっ、顔も洗ったし歯磨きも終わったし準備万端だよ手伝ってあげるよまずなにしようかっ、あれなんだろこれ床にたくさん肌色の本が…… それにさわるんじゃねええええぇぇぇぇっ!!!! 極道のように叫びながらダイビングキャッチ。 なっ、なになになんなのっ!? 千波はとても怯えていた。 ……部屋に入ってくるときはノックしなきゃダメだろ エロ本を背中に隠しながら何事もなかったように立ち上がる。 なにか用か? うんっ、昨日のお礼にねっ、千波がお兄ちゃんの ありがとういらない 言い終わる前に断られてる!? 千波、兄ちゃんは今いそがしいからちょっと部屋出ててくれないかな いそがしいんだったら千波が手伝ってあげるねっ お小遣いあげるから出ててくれないかな 千波は子供じゃないよ!? おしゃぶりあげるから出ててくれないかな 赤ん坊でもないよ!? まだ生まれてこないでくれるかな ついに胎児までさかのぼった!? 手伝いはいらないから。気持ちだけで充分だから でもでもっ、お兄ちゃんに対するこの熱い気持ちを心にしまうだけじゃなく行動にも表さないともう千波どうにかなっちゃいそうなんだよお兄ちゃん! ……わかったよ。じゃあおまえに重要な任務を言い渡す 了解だよイエッサーだよお兄ちゃん! 一刻も早く部屋から出てくれ あまりにも予想どおりで涙がちょちょ切れそうになったよ!? もうらちが明かないので千波を抱えあげる。 わっ、わわっ…… 問答無用で廊下に連れていく。 こ、これって……お姫さま抱っこ…… いい子だから、もう部屋に入ってくるなよ? う、うん…… 俺の腕の中で千波はおとなしくなってくれた。 さてようやくこの手で平和を取り戻したわけだが。 まずは整理ダンスのテープを剥がすか 塗装まで剥がさないようにしなきゃいけないので、集中力と丁寧な仕事が必須の作業だ。 まずは一段目の引き出しのテープをゆっくり優しくあたかもペットを愛撫するかのように慎重に……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、だーれだ! 突然視界がシャットアウトして手元が狂った。 べりっ! 回復した視界には塗装ごと剥がれたテープがあった。 えへへ答えは千波でしたーって、どうしたのお兄ちゃんっ、目が怖いよ顔が無表情だよやだよやめてよ拳が千波のこめかみめがけて迫ってくるよホラーのごとく!? とりあえずお仕置き。 ひどいよこの人信じられないよっ、笑って許されるかわいいイタズラだったのに! そのイタズラが引き起こした結果は笑って許されるものじゃない。 というか、部屋に入ってくるなって言っただろっ でもでもっ、千波昨日のお礼にお兄ちゃんの片付け手伝ってあげるって天国のお母さん誓ったんだもん! ……そっか うんっ それはうれしいんだけどさ それじゃテープ剥がすね べりべりべりっ!! ほら見て千波にかかればたかがテープごとき躊躇なく一息でタンスの塗装すら一顧だにせずって、痛いよぐりぐりしてるよ恩を仇で返されてるよお兄ちゃん!? お仕置きしてから千波を抱えあげる。 わわっ……ま、またっ……お姫さま抱っこ…… もう絶対に部屋に入ってくるなよ う、うん…… 約束だからな。俺とおまえ、ふたりの約束だ うん……ふたりだけの、約束…… おとなしくなった千波を廊下に連れていった。 塗装が剥げまくった整理ダンスは、ペイントでうまく修復し終わった。 ……案の定よけいな作業が増えてるな おそるべし、災いを呼ぶ千波の悪魔の手。 気づけばもう正午になろうとしている。 こんな調子では終わるまでに陽が暮れてしまいそう。 急いで次の仕事に取りかかる。 整理ダンスの次は……サイドボードか 色紙を飾るためにも組み立てなければ。 ツンデレ委員長のほかにもメガネ図書委員の子にも好きでしたと書かれていて、なんだか飾り辛くもあるのだが。 ……メガネ図書委員の子は冗談なんて言う子じゃなかったんだけどなあ。 サイドボードのガラス戸を包んでいた毛布を取り外す。 それから壁に据え置いたサイドボードにこのガラス戸をはめ直す。 これもまた集中力が必要な作業なので、ゆっくり優しくあたかも一輪の花を植え替えるかのように慎重に……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、ふーっ…… ぞくぞくっ! 突然耳元に息がかかり、狂った手元からガラス戸が落ちた。 がしゃん! 無残に砕け散った。 あのねあのねっ、お昼ご飯千波が作ろうと思うんだけどなにがいいって聞いてるうちに千波のこめかみに拳がセットされてるよお兄ちゃん!? 本日三度目のお仕置き。 おまえな、ふたりだけの約束はどこいったんだよっ だってねだってねっ、そろそろお昼の時間だしお兄ちゃんお腹ぺこぺこだと思ったしっ、ちゃんと食べないと片付けもはかどらないと思ったしっ 千波の腹がきゅるきゅる鳴った。 腹減ったのか? ……うん じゃあ俺がなにか作るから ダメだよっ、千波が作るんだよ! なんでそんなことすんの? なにその絶望的な表情!? 俺がメニュー決めていいのか? うんっ、なんでもいいよっ、なんでも作ってあげるから! じゃあカップラーメン そんなの料理じゃないよ!? しかし千波に果たしてお湯を沸かせるのか…… どれだけ信用ないの千波って!? 元栓締めたままだとガスは出ないんだぞ? それくらい知ってるよ!? グリルとコンロのつまみを間違えるなよ? それくらい知ってるってば! お兄ちゃんのバカ!! 千波は怒って部屋を出ていった。 再び訪れた平和に安堵する。 ……割れたガラスを片付けないと ホウキとチリトリを手にため息をついた。 ガラス戸買ってこないとな…… このままだと飾った色紙がホコリで汚れるじゃないか。 ちなみにエロ本はベッドの下に隠しておいた。 割れたガラスを始末して、お次はと。 これだな 組み立て式のAVラックだ。 これの組み立て作業で最も気をつけなきゃいけないのは、アルミ支柱の扱いだろう。 床や壁にぶつけて傷つけないようにするのはもちろんのこと。 さらに自分の指まで切らないように、慎重に過ぎるほど慎重に、あたかもボトルシップを製作するかのように……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、えいっ ふにゅんと背中にやわらかい感触。 えっとねお昼ご飯はトマトソースパスタにしようと思ったんだけどトマトが見当たらないって、お兄ちゃんの指がトマトになってるっ、つまみ食いはダメだよもうっ ……とにかくおまえは俺から離れろ 血がにじむ指を口に入れる。 千波はまだ俺の首にぶら下がっている。 ふにゅんふにゅん。 の、ノーブラ……? お兄ちゃんが指についたトマト舐めてるっ、そんなにトマトが好きだったなんて千波知らなかったなっ ……いいから早く離れろ ふにゅんふにゅん。 あれお兄ちゃん、指だけじゃなくて耳も真っ赤だよ? 離れろっ くるくる回転する。 わあーメリーゴーランドみたい~ まったく堪えていない。 そんなわけで千波を抱っこ。 あ…… 部屋に入ってきちゃダメって言ったろ だ、だって…… 千波、頼むから う、うん…… あと、トマトソースパスタなんてひとりで作れるのか? うん……がんばる…… 包丁でケガだけはするなよ うん…… なにかあったらすぐ呼べよ うん……ありがと…… おとなしい千波はかわいいんだけどなあ。 おまえ、家の中だからって、面倒くさがらないでブラくらいつけろよ ………… ほんのり赤かった千波の頬がさらに赤くなる。 ……いいんだもん よくないだろ いいの! なぜか怒られた。 切ってしまった指を応急処置して、AVラックも組み立て終えて。 やっとここまで来たか…… 次は本棚である。 これさえ組み立ててしまえば、あとはダンボールに入っている本や小物を整理して、片付け作業は終了だ。 時間は……三時か そういえば千波のパスタはどうなったんだろう。 まさかケガとかしてないだろうな…… 心配だったが、キッチンに顔を出したら出したで面倒なことに巻き込まれそうな予感がする。 ここは千波を無理やりにでも信用して、俺も自分の作業に集中しよう。 外していた棚板をひとつずつ本棚にはめていく。 ……あれ そのうちのひとつがうまくはまらない。 運び出すときに本棚が微妙に歪曲してしまったせいか、幅が合わないのだ。 棚板のほうをヤスリで削るしかないか……。 ほんの少し削れば幅も合いそうだ。 シュッシュッシュッ。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、ちゅっ 首筋に濡れた感触。 えへへ千波のキスマークつけちゃったーって、言ってるそばからヤスリで削られてるっ、皮膚ごと削ってるっ、そこまで千波の痕跡残したくないのお兄ちゃん!? 泣きつかれた。 で、今度はなんだよ…… あのねあのねっ、お昼ご飯ができたからお兄ちゃん呼びに来たんだよっ お、やけに時間かかってたけど、うまくできたのか? うんっ、パスタ作るの初めてだったから苦労したよっ それじゃ、冷めないうちに食べてみようか うんっ 千波と一緒にリビングに向かう。 トマトソースパスタ作ったはずなのになぜかイカ墨パスタが完成しちゃったけどねっ さて次はどこを片そうかな 一歩歩いただけで回れ右!? あー食べた食べた残りの作業もがんばるぞー 一口も食べてないどころか現物を見てもいないよお兄ちゃん!? 見ても味が変わるわけじゃないから おいしいかもしれないでしょ!? どんな味だった? ちゃんとイカ墨の味だったよっ 千波が好き嫌いのない子に育って兄ちゃんうれしいな その目は哀れみの目だよ!? さてどこを片そうかな そんなにトマトじゃないと嫌なのお兄ちゃん!? ……じゃなくて、それトマトが焦げすぎて黒くなっただけだろ でもねでもね味も苦いんだよっ、トマトなのに酸っぱくなくて苦いんだよっ、これってトマトがイカ墨に変わったとしか思えない化学変化なんだよお兄ちゃんっ へーそうなんだー なにそのテキトーな返事!? 料理中、ケガはしなかったか? あっ……うん よかったよ 千波の腹がきゅるきゅる鳴る。 俺が代わりになにか作るよ リビングに降りることにする。 ……ごめんなさい、お兄ちゃん 気にするなよ。おまえらしくない 千波は悔しそうに唇を噛んでいた。 千波が作ったトマトソースパスタは、パスタだけはまともに茹でられていた。 なので戸棚にあったパスタソースの素を使ってソースを作り直すだけですんだ。 ……ごちそうさま 千波は俺が作ったミートソースパスタにマヨネーズをたっぷりかけて食べ終えると、すぐに自分の部屋に戻っていった。 できればキッチンの惨状をなんとかしてから戻って欲しかったのだが、どうにも声をかけ辛かった。 食べている間、千波はずっと暗かった。 ……パスタソース、一から作ろうとしてたのか 軽量カップやフライパンは赤と黒で汚れている。 床には乱雑に捨てられた料理本。 ……不器用なんだから、無理するなよな。 それらをすべて片付けた頃、詩乃さんが起きてきた。 おはよう、洋ちゃん おはようございます すぐに朝ご飯作るわね ふらふらしながら、さっき洗い物を終えたばかりのキッチンに立つ。 今朝はパスタでいいかしら? 詩乃さんの目が線になっている。 ……寝ぼけてる? 遠慮なんかしなくていいからね? ふたりの引っ越し祝いに腕を振るっちゃうから ……いやそれは夕べにたくさん味わいましたから 今朝はパスタでいいかしら? ……それさっき聞きましたし、詩乃さんが今持ってるの包丁じゃなくてハタキです、ついでに朝ご飯じゃなくて時間的にはそろそろ夕飯です 詩乃さんはまな板をハタキでぱたぱたしていた。 あら、千波ちゃんはどこかしら? 部屋にいると思いますけど 千波ちゃん、今日は朝ご飯なにがいい? ……そこは千波の部屋じゃなくて冷蔵庫です 詩乃さんは冷蔵庫の中をハタキでぱたぱたしていた。 あら……千波ちゃんのお部屋、エアコンがよく効いてるのね。温度低くしすぎて風邪ひかないようにね? ……詩乃さん、まだ寝てていいですから 千波が朝に弱いルーツを見た気がした。 そろそろ外が暗くなり始めた頃。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! さっきまで元気がなかったと思いきや、すぐこれである。 あのねあのねっ、詩乃さんが千波にお料理教えてくれるってっ、今日の晩ご飯は千波に作らせてくれるって! なにしてくれてんのおまえ? 柄悪く舌打ちされてる!? 今日の夕飯は出前かあ 一目散に受話器取ってる!? あらあらダメよ洋ちゃん 詩乃さんの目は陽が落ちると線じゃなくなった。今はまともな詩乃さんだ。 今日は千波ちゃんが晩ご飯を作るんだから ……なんでまたそんな事態に お昼のリベンジを果たすためだよ! 俺、なにか千波に恨まれるようなことしたか……? なんで千波の料理がお兄ちゃんに対する報復みたいになってるの!? だってリベンジなんだろ それリベンジ違いだよ!? お兄ちゃんに千波の愛情たっぷりご飯を味わってもらいたいっていうこのいじらしい心意気がわからないの!? 充分わかってるよ じゃあなんで現在進行形で出前三人前頼んでるの!? 身の毛がよだつほど充分わかってるから そんなに千波は恐ろしい子なのお兄ちゃん!? すがりつかれる。 洋ちゃん 詩乃さんに額をコツンとされる。 千波ちゃんをいじめない。お兄ちゃんでしょう? ……いえ、兄だからこそ責任を持って大惨事を未然に防がなければならないというか またコツンとされる。 洋ちゃんは、千波ちゃんをいじめすぎ そういうつもりじゃまったくないのに。 それじゃ千波ちゃん、悪いお兄ちゃんをぎゃふんと言わせるお料理を作りましょうか はーい! ふたりは仲よさげにキッチンに入っていった。 なんだか俺ひとりが悪者みたいになっている。 俺は世界平和のために言っただけなのに…… 正義のヒーローはいつだって孤独である。 外に出る。 夕飯までにはまだ時間があるので、引っ越しの片付けの続きをしようかとも思ったのだが。 今夜の空は、こんなにも光にあふれている。 だから彼女はいるだろう。 寂れた展望台にひとりで立ち、こんなふうにこの星空を見上げているだろう。 そこに理由があるのかは知らないけれど。 彼女が何者なのかはわからないけれど。 わからないことだらけだけれど。 だからこそ俺は彼女に会いにいく。 こんにちは、洋くん もう時間的にはこんばんはだよ 細かいね、洋くん そうかな うん。細かくて、頭でっかち ……そうなのかな うん だからきっと、あたしと洋くんを足して2で割ると、この街一番の優等生になるんだよ 僕、学校ではもう優等生って呼ばれてるよ それはウソだよ。騙されちゃダメだよ ……べつに騙してないと思うけど 洋くん、誰に優等生だなんて言われてるの? 担任の先生とか その人がしょあくの根源なんだね ……そんなことないよ。先生、すごくいい人だよ そう思わせるのがその人のねらいなんだよ ……違うと思うけど ダメだよ洋くん、その人のかんげんに耳を貸さないように注意しないと ……どうしてそこまで悪く言うの 彼女は夜空に浮かぶあげパンをどこか物欲しそうに見つめていた。 ……先生なんてそういうものだよ あげパンに見える天の川をつかみ取るみたいに、その小さくて短い腕を伸ばしていた。 学校なんて、そういうものだよ…… 学校、嫌いなの? ………… その、給食では大人気だったあげパンから、視線がついと僕に移って。 洋くん なに? 洋くんはね、優等生なんかじゃないんだよ まるでそうであって欲しいみたいに。 だからね、あたしが教えてあげる 洋くんが優等生になれるように、お姉さんのあたしがいろいろ教えてあげる 彼女の瞳はなにかにすがっているようだった。 なに教えてくれるの? 洋くんが知らないこと どんなこと? それは洋くんが本当の優等生になったらわかるよ 彼女の、どこか寂しげな微笑。 だから、まだ秘密 洋くんが本当の優等生になって、もっと大人になるまでは、秘密だよ そして僕はたしかに、彼女から教えてもらったのかもしれない。 ふたりで見上げたこの夏の星座の下。 彼女と一緒にいるという行為が、年月が過ぎても覚えているくらい楽しいものなのだと。 僕は、教えてもらったのかもしれない。 だけど、そんな楽しかった想い出も今やもうところどころが霞んだ記憶に変わっている。 それはつまり、せっかく彼女からもらったその大切だったはずの記憶を、俺が忘れ始めているということか。 彼女と遊ぶのが好き──その感情が、俺の中で風化を始めているということか。 それとも、もうすでに風化したあとなのか。 これじゃあ俺は優等生とは言えない。 テストで合格点をもらえない。 学校では赤点など取ったことがない俺も、彼女の授業では落ちこぼれているらしい。 だから、せっかく教えたのに優等生になれない俺に、彼女は怒っているのかもしれない。 怒って、俺の前に現れようとしないのかもしれない。 ……いるかな、あいつ 俺にとって遊びの先生だった彼女とうりふたつの姿をしている奇妙な少女。 彼女と出会うためにはこのフェンスを乗り越えなければならない。 展望台に至るためのそれは障害だった。 幼い頃は夢見坂を登ること自体が障害だった。 子供の体力で坂を登りきることは難しい(千波が途中で諦めてタクシー呼んで帰ったこと然り)。 今考えると、展望台の彼女はよく毎日のようにこの坂を登れていたと思う。 俺がひいひい言って頂上にたどり着くと、いつも彼女は涼しい顔で迎えてくれた。 汗ひとつかいていなかった。 まあ、彼女は元気っ子だったし、当時の俺よりよっぽど体力があったのだろう。 頭でっかちと言われていただけあって、当時の俺は勉強以外には特に取り得のない生徒だったのだから。 ……今は、少しは違うと思うんだけどな。 頭でっかちなんて、もう言わせない。 彼女と出会うために夢見坂を毎日登っていた俺は、おかげで体力もついたのだから。 林の中に入り、フェンスを迂回する。 四度目ともなれば慣れたもので、枝に引っかかったり足場を踏み外したりすることはなかった。 小道に出て、不思議な期待に導かれてそこを目指す。 そして両脇の木立が途切れると。 俺の視界に大小の光があふれ、広がった。 こんにちは、洋くん 彼女の第一声はそれだった。 ……時間的にはこんばんはだぞ 細かいのね、洋くん ……そうかな うん。細かくて、頭でっかち ……そう思うのか? うん 俺とキミを足して2で割ると、この街一番の優等生になると思うのか? ううん 彼女は否定した。 死神は優等生なんかにならないから ……あ、そう。 俺は、幼い頃は優等生って呼ばれてたよ そうなんだ といってもそれは成績のほうだけで、それ以外はあまり優等生じゃなかったかもしれない ふうん 友達と遊ぶこともなかったからな 展望台の彼女は別にして。 ただ、転校してからは打って変わって友達とふざけたりバカやったり、また違う意味で優等生じゃなくなったと思う べつに生活態度が悪かったとは思わないけど、ツンデレ委員長にはよくガミガミ言われてたよ ツンデレ委員長って誰 俺のことが好きだったかもしれない子 ………… 俺、その子の気持ちにぜんぜん気づかなかったよ ……そう メガネ図書委員の子の気持ちにも気づいてあげられなかったよ そう 俺は、恋に関しても優等生じゃなかったんだ そう だから…… だから、そんな俺だったから、展望台の彼女は俺に恋というものも教えようとしてくれたのかもしれない。 ファーストキス(おでこに)はそういう意味だったのかもしれない。 あの頃の俺たちは、先生と生徒の関係だったのだ。 師弟のつながりみたいなものか。 時が経ち、今となっては俺と彼女のつながりは、この展望台と彼女の名前だけとなってしまった。 そのどちらかひとつでも失ってしまったら、俺はもう二度と彼女とは会えないんじゃないだろうか。 そんな気がしてならない。 だから忘れてはならない。 たとえどんなに霞んでしまっても。 せめて彼女の名前だけは、絶対に忘れてはならない。 だから、なに? ……いや 口に出して言うようなことじゃなかった。 そもそも目の前の彼女はあの彼女ではない。 想い出と重なるところは多々あっても、現実的に考えて同一人物であるはずがないのだ。 だからこそ、この彼女──メアがいったいどんな子なのかが気になるわけで。 キミってさ、日本人か? いきなりなに 気に障ったんなら謝るけど。ちょっと気になってさ どうして気になるの キミの名前、めずらしいからさ ……そう? そう まあわたしは日本人なんかじゃないから じゃあやっぱり外人さんか ううん。死神 ……ええと 誤魔化してるんだろうか。 国籍はどこなんだ? 死神に国籍なんてないわ どこに住んでるんだ? 死神に住所なんてないわ ……ホームレス? 悪いの? 悪くないけど。 ……いや、なにか事情があって言いたくないならいいんだけどさ 事情なんてないし、ちゃんと言ったじゃない 家はこの近くか? 死神に家なんてないわ なにがなんでも死神で通すらしい。 その衣装さ、独創的だよな ……そう? そう だから死神に見えるわけで。 まあわたしは死神だからね まさか街中でもその格好ってことはないよな 死神は街中なんて歩かないわ そのカマさ、重くない? べつに なんでそんなの持ってるんだ? 知らない 死神だから持ってるんだろ? そうかもしれないし、違うかもしれない。気がついたら持っていたから そのカマで悪夢を刈るのか そう なにからなにまでおもしろい設定だよなあ ……ずっと感じてたんだけど、わたしが死神だって信じてないわね そんなことない あなたが言ったくせに…… だから、そんなことないって ……にやにやしてるその顔が気に食わない 掲げたカマが、星明りを鈍く反射した。 夜空には雲が棚引くように天の川が広がっている。 その大きな壁に隔たれて、織姫と彦星が青く白く輝いている。 まるで、別れた相手に自分の存在を主張するかのように。 明日がなんの日か、知ってるか? 知ってるわ そっか うん 国民の祝日ってわけじゃないし、意外と誰も気にしてないと思ってたけど 気にするほど大切な日でもないし 普通の人はそうなんだろうな うん 小学生くらいまでは、学校で短冊とか飾ったりするんだろうけど 短冊? ケーキじゃなくて? ……キミんちって七夕をケーキで祝うのか? たなばた? 明日は七夕だろ? 七月七日、織姫と彦星が年に一度だけ会える機会を設けられた日。 天気予報では、明日は晴れだった。 天の川が洪水を起こすことはない。 ふたりは待ち焦がれた再会を果たすのだ。 ……そう。明日は、七夕だったんだ なんの日だと思ってたんだ? ……べつに 怒ったようにそっぽを向いた。 なにスネてんだ? す、スネてなんかないっ なにムキになってんだ? む、ムキになんかっ ははっ ……なに笑ってるの ちょっ、カマの切っ先を向けるなよ!? あわてて距離を置く。 ……そういうの、人に向けたら危ないだろ? 子供扱いしているその口調が気に食わない キミって大人びてるみたいだけど、さっきのキミは見た目どおりの子供だったよ だからホッとして、笑ってしまった。 ……わたしは子供なんかじゃない わかってるよ。死神だもんな そのバカにした態度が気に食わない だからカマをこっちに向けるなよ!? さっさと悪夢を刈っておけばよかったかな…… ぶつぶつ言っている。 それで、なんの日と間違ったんだ? いいでしょべつに 気になるんだけどな 知らない 機嫌を損ねてしまったようだ。 木立を渡る風を感じる。 気温的に寒いということはないが、風の冷たさが夜の更け具合を教えていた。 詩乃さんと千波が夕飯の支度を終えて待っているかもしれない。そろそろ家に戻らないと。 キミはまだ帰らないのか? 死神は帰ったりしないわ なんかもう日本語も変だ。 俺、帰るけど ……そう 明日もまた会えるかな? 知らない ……そっか 帰る前にカマで刺していい? いいわけないだろ!? やっぱり無警戒のところを背中からざっくりいくしかないか…… ……怖いことを言っているような。 あのさ、メア メアの深遠な瞳が俺に向く。 俺と一緒に帰らないか? その瞳がかすかに見開く。 家まで送っていくよ ………… もう遅い時間だし。ひとり歩きは危険だろ ……男の子ね ………… どうしていちいち想い出と重なるようなことを言うのか。 まさかこの次に「キスってしたことある?」と続くわけでもないのに。 さよなら、洋くん ほら、続かない。 あなたが背中を見せたらざっくりいこうと思ってたけど、チャンスを逃したみたい あなたの悪夢は、なかなか手ごわいのね そうして、俺の見ている目の前で、メアの姿は星明りとともに消えていた。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、おかえりなさ──い! リビングに上がると、千波がキッチンから転がるように飛び出してきた。 お風呂にしますかっ、お背中お流ししましょうかっ、それとも先に千波をお食べになりますかっ それどんな罰ゲーム? 千波の愛情は罰ゲームじゃないよ!? あらあら洋ちゃん、ベストタイミングね それではお兄ちゃんをダイニングにごあんなーい! ちょうど夕飯の支度が整ったところらしく、千波に腕をひっぱられていく。 ほらほらお兄ちゃんっ、見てよ見て見てっ、これ千波が作ったんだよ! おお、うまそうじゃないか そうでしょそうでしょっ、千波だってやればできるんだからね! うまそうに皿が並べられてるじゃないか お皿並べただけじゃなくてちゃんと千波も作ったんだよ!? このサバの味噌煮は違うだろうし、大根おろしも普通だし、ひじき豆もまともに見えるし、もしやこのなめこの味噌汁に世にも奇妙な物体が沈んでいるんじゃ…… お味噌汁をお箸でかき回すのはお行儀悪いんだよ!? あらあらダメよ洋ちゃん、ちゃんと手を洗ってからいただきましょうね 詩乃さん、千波が作ったのってどれですか? これよ 詩乃さんが持っているのはひじき豆だった。 嘘だッッッ!!! お兄ちゃんの目がとても怖いよ!? ウソじゃないわよ。ね、千波ちゃん もちろんですっ、これが千波の実力ですから! 俺が知ってる、悪魔の手を持つ少女・小河坂千波はいったいどこにいってしまったんだ……? なにその失礼極まりない二つ名!? そうよね、千波ちゃんはすごいんだから。レシピも見ずにひじき豆が作れるんだものね はいっ、千波はお兄ちゃんごときとは比べ物にならないくらいすごいんです! た、たしかに日ごろ家事手伝いをしていた俺でさえ、これを作るにはレシピが必要だ。 ひじき豆を作るにはしょう油のほかにも、酒にみりんに塩に砂糖の絶妙なさじ加減が必要なのだから……。 どうっ、お兄ちゃんっ、これでもまだ千波を足手まといだなんて抜かすのかなっ くっ…… 俺は負け犬のごとくひざまずく。 これまでの千波に対する数々の〈狼藉〉《ろうぜき》、どう落とし前つけてくれるのかなお兄ちゃんっ そ、それは……でも…… でももへちまもへったくれもないんだよっ、たとえお天道さまが許してもこの千波さまが黒と言ったら目玉焼きでも黒いんだよっ 言いたい放題だ。 千波ちゃんカッコいい…… そして詩乃さんが陶酔している。 さあさあお兄ちゃんっ、この世にも美しい料理人の千波さまに対してなにか言うことがあるんじゃないかなっ あ、ああ……千波、見直したよ もう一声だよお兄ちゃん! 千波、惚れ直したよ お兄ちゃん……!! がばっと抱きあう。 ふたりともお幸せにね…… 詩乃さんが目元をハンカチでぬぐっている。 それにしても、本当に千波ちゃんはすごいわねえ えへへっ、それほどでもないですよ詩乃さんっ 謙遜することない。明日からは千波にこのキッチンを任せることにしようかな えへへっ、これでようやく天国のお母さんを安心させてあげられるよっ あの千波がって言うと失礼か。妹の成長っていうのは早いものなんだな、もうびっくりだよ 私もびっくりしちゃった。卵焼きを作ってたはずなのにひじき豆になっちゃうんだもの えへへそこまで誉められると照れちゃうなーって、どうしたのなにしてるのっ、千波が作ったひじき風卵焼きをなぜゴミ箱に放り込んでるのお兄ちゃん!? さて長々とバカなことやってるとご飯冷めるし、いいかげん食べようか 我が家の食卓からきれいさっぱり千波のひじき豆が消え失せてるよお兄ちゃん!? あの物体をひじき豆として味わえるのは味オンチのおまえだけだ マヨネーズであえるとあの苦味がやみつきになるんだよ!? ……食事前にやめてくれ頼むから 本当、不思議ねえ。分量も火加減も間違っていなかったのに、どうして黒くなるのかしら これが、ゲテモノ作りに適した悪魔の手を持つ少女、小河坂千波の実力なのだ。 今日は七夕、織姫と彦星が再会を約束した特別な日。 この地域は北国ということもあって、七夕を一ヶ月遅れの八月七日に祝ったりもするのだけど。 どちらにしろ街をあげて祝うことはなく、例に漏れず俺たち小河坂家でも特に行事を行うこともない。 短冊に願いを記して笹の葉に飾るのは、子供たちだけのイベントだった。 いい歳をした大人が短冊なんか飾るのは、デパートの催しで子供連れの親がやるくらいなものだろう。 俺もまた、短冊に願いを込めて祈ったのは、子供の頃にたしか一度きりだった。 しかも笹に飾った記憶もない。 ただ短冊に願いを書き込んだだけだったと思う。 笹に吊るすのが面倒くさかったのか、それともほかの理由があったのか。 なんにしろその想い出も、曇ってしまって今は晴れない。 この空とは違って。 寝過ごした寝過ごした寝過ごした────っ!! 早くも定番になりつつある我が妹の起床風景だ。 ごめんお兄ちゃん今すぐ朝ご飯の支度…… ごちそうさまでした もう食べ終わってるよこの人!? 千波の分はちゃんと残してあるから それ昨日お兄ちゃんが捨てたひじき風卵焼き!? 俺は引っ越しの片付けをすませてくるから ちょっと待ってよっ、いいかげんそろそろ千波に朝ご飯作らせてよっ、毎朝毎朝千波の邪魔して楽しいのお兄ちゃん!? おまえが起きるの遅いのが悪いんだろ 千波は悪くないもんっ、目覚ましが勝手に止まってるのが悪いんだもんっ、あの目覚ましが壊れてるのがいけないんだもん! じりじり鳴ってたの聞こえてたぞ でもでもっ、千波には聞こえなかったもん! バカには聞こえないんだとさ どうでもいいように答えられてる!? 壊れてるのは目覚ましじゃなくておまえの耳だったわけだ そんなわけないよっ、千波はこの生涯で一日だって耳掃除を欠かしたことないんだから! おまえ、前に耳掃除しすぎて外耳炎になったことまだ懲りてないのな だって気持ちいいんだもん! それでついに鼓膜まで取り除いたせいで目覚ましも聞こえなかったんじゃないか? もしそうだったらこうしてお兄ちゃんと会話を交わすこともできてないでしょ!? 千波だしもうなんでもアリだろ お兄ちゃんの中の千波像ってどうなってるの!? とにかく三日連続で寝坊したおまえはまず天国の母さんに謝れ ごめんなさいお母さん! そしておまえの朝食のためにひじき風じゃない正真正銘のひじき豆を作った俺に謝れ ごめんなさいお兄ちゃん! その上そんなおまえを快く住まわせてくれている詩乃さんに謝れ ごめんなさい詩乃さん! 最後に全国の皆さんに謝れ ごめんなさい生まれてきてごめんなさいって、どれだけ千波のこと卑屈にさせるのお兄ちゃん!? 昨日俺をひざまずかせた罰だ お兄ちゃんが勝手にひざまずいただけでしょ!? じゃあ俺は部屋行ってるから、勝手に入ってくるんじゃないぞ お兄ちゃんのバカ──────っ!!! 朝っぱらでも変わらぬ元気のよさが、少しだけうらやましい。 この雲雀ヶ崎に引っ越してきて今日で四日目。 本来だったらすでに終わっていて然るべきの引っ越しの片付けだが、悪魔の手の妨害によりまだ小物の整理が残っている。 ダンボールのこまごました中身を、組み立てたAVラックや本棚にひょいひょいと入れていく。 ガラス戸が割れてしまったサイドボードはどうするか。 片付けが終わったら、商店街のほうに出向いて店を見てこようかな。 運がよければ同じ型のものが見つかるかもしれない。そうしたらガラス戸だけ売ってもらおう。 無理だったら新しく買い換えるしかないか……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、千波参上だよ手伝ってあげる……あ、あれっ がちゃがちゃとドアノブが揺れる。 なんでなんでっ、いくらやってもドアノブが回らないよっ、どうやってもドアが開けられないよっ、どうしたのなにがあったの返事してよお兄ちゃんっ! よし、ドアが開かないようにこちら側のドアノブをロープでがんじがらめにした甲斐があった。 これで昨日のように千波に邪魔されることはないだろう。 ……難点は俺も部屋から出られないことだけど。 トイレを催したらアウトだが、まあ千波がいなければ一時間もかからずに残りの作業は終わるだろう。 俺は心置きなく仕事に戻る。 さて次は、本類を本棚に並べて……。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! どんどんどんっ!!! 一番上に文庫本、真ん中に新書本と単行本、一番下に雑誌を入れて……。 どうして返事してくれないのお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! どんどんどんっ!!! 参考書は勉強机の棚に……。 いるんでしょ生きてるんでしょ千波のこと待ってたんでしょお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! どんどんどんっ!!! ……うるさくて作業がはかどらねえ。 もしかしてこれって一大事なのっ、返事したくてもできないのお兄ちゃんっ、待っててすぐ助けるからこんなときを想定して千波チェーンソー持ってきてるから! どんなときを想定してたんだよおまえは!? 悪い子は居ねがああああああ!!! きゅいーんっ、がりがりがりがりがり!!! 貫通だよお兄ちゃんっ、行くよすぐ行くよ千波が来たからにはマウスツーマウスの人工呼吸でって、お兄ちゃんがなまはげの形相で仁王立ちしてる!? 念を入れてお仕置きした。 ……とりあえずだな、ドアの修理は業者に頼んでおいたから 千波は悪くないよっ、お兄ちゃんが居留守使うのが悪いんだよっ 代金は千波の小遣いからって言いたいところだけど それは難しいよお兄ちゃんっ、千波はあぶく銭を持たないその日暮らしの風来坊だからコブタの貯金箱はいついかなるときも空っ風が吹いて涼しそうにしてるからねっ そう思って来年の千波のお年玉を差し押さえることに決定した ごめんなさいもう二度としませんそれだけは許してくださいお兄さまぁ! 足元にすがりつかれる。 本当に二度とするなよ? 修理代は母さんの貯金を使うんだからな あ……うん しかしこれだけの騒ぎでも詩乃さんは起きてこない。ものすごい寝つきのよさだ。 おかげで惨状を知られることなくドアを元通りにできそうだけど。 業者が来たら教えてくれよ。俺、片付けに戻るから 千波はしょんぼりとうなずいた。 こんなふうに非常識に手のかかる妹だが、それはそれで助かっているところもある。 千波の突き抜けた明るさが、両親がいなくなっても寂しくない所以なのだから。 やっと終わった…… めでたく引っ越しの片付けは完了した。 感涙である。 なんで四日もかかってるんだろうな…… 原因など言わずもがなでも、言わずにはいられない。 おめでとうお兄ちゃん感謝してねお兄ちゃんっ、千波が廊下でおとなしく応援してたおかげだねっ 皮肉ではなく真実なのが泣けるところだ。 ドアの修理もすっかりすんだし(出費は痛かったけど)、これで午後の時間はまるまる空いたわけだ。 ねえねえお兄ちゃんっ 却下 まだなにも言ってないよ!? そっかそっかそろそろ昼だしご飯作りたいのか、却下 そうじゃないよっ、それもあるけど千波ちょっとお買い物してきたいの なに買いたいんだ? 千波愛用サイドボードを買うんだよっ そういえば壊れたんだっけか 俺と同じでガラス戸が割れたのだ。 これから買いにいくのか? そうだよっ、善は急げだよっ でも、おまえのコブタ貯金箱って空っ風が吹いてるんじゃなかったか? そこでお兄ちゃんの登場だよ! 千波は俺の腕をひっぱる。 お兄ちゃんが千波のコブタにお慈悲の餌を 却下 まだ言い終わってないよ!? 金貸して欲しいんだろ そんなみみっちいこと言わないよっ、千波はお兄ちゃんのお金で千波愛用サイドボードを買いたいの! なお悪いわ。 ねえねえいいでしょ買ってよ買ってー千波のためにサイドボード買って買ってーパパ買ってー 誰がパパだ。 悪いけどそんな余裕ないから。俺だって自分のサイドボード買わなきゃいけないんだよ 千波のサイドボードとお兄ちゃんのサイドボード、どっちが大切だと思ってるの! 俺のサイドボード 眉ひとつ動かさなかったよこの人!? べつに新しく買わなくたっていいだろ。ガラス戸が割れただけなんだし、まだまだ使える お兄ちゃんだってそうじゃない! ガラス戸がなかったらせっかく飾った物がホコリまみれになるじゃないか 千波のだってそうなっちゃうんだよ! それくらい我慢しなきゃダメだろ それおかしいよ!? お兄ちゃんの発言にはとても大きな矛盾が見られるよ! え、どこに? お兄ちゃんと千波のサイドボードはまったく同じ状態なのに、どうしてお兄ちゃんは自分のサイドボードだけ買おうとするの!? 俺の金だから うわーん!! ついに泣き出した。 ……わかったよ。手持ち調べてみるから、ちょっと待ってろ わーい! なんとか買えそうだ お兄ちゃん大好き! 百二十円未満なら買えそうだ 缶ジュースより安いサイドボードってなに!? 缶ジュースひとつくらいは収納できるんじゃないか? それもはや棚として機能してないよ!? よかったな、これで千波の缶ジュースはホコリまみれにならないぞ そもそも缶ジュースなんか飾らないから!? いや千波なら飾るはずだ お兄ちゃんは千波のなにを知ってるの!? 小学校あがる寸前までオネショしてたことを知ってる うわーん!! また泣いた。 ……とにかくだな、買えないものは買えないんだからしょうがないだろ 千波はすでに泣き止んでいて、サイドボードに飾ってあった俺の色紙を見ていた(立ち直りが早いやつ)。 あっ、これって…… さわるなって 色紙をぱたんと伏せる。 ……好きでしたとか書かれてたような 見間違いだ うー それより買い物いくんだろ 誤魔化すような言葉になった。 金、貸してもいいぞ。その代わり絶対返せよ わっ、ほんと? 貸すのは俺じゃなくて母さんだけどな あ…… 引っ越しをする際にまとまった金は下ろしてある。引っ越し代もドアの修理代もそこから使ったのだ。 俺と千波のサイドボードを買ったら、残りは銀行にある貯金だけになるかもしれない。 そうなったら、貯金はもう学費と必要最低限の生活費以外には使えないだろう。 俺たちの食費を詩乃さんの全負担にさせないためにも、バイトは必須だった。 昼飯くらいは俺がおごってやるさ ……ありがと その言葉は俺に対するものか、それとも母さんに対するものか。 千波、バイト探してみようかな 俺の腕にくっついてくる。 バイトなんてしなくていい 食費を稼ぐくらい俺ひとりでも充分だろう。 学校もあるんだし、宿題やってる暇なくなるぞ ううんっ、もう決めたから 俺をひっぱって千波は階下に降りていった。 千波ね、商店街のある場所まだ覚えてるよ 俺もなんとなく覚えてるな どちらが言い出さなくても、俺と千波の足は駅の方角へと向かっている。 この街出てからずいぶん経っちゃったけど、意外と忘れないものなんだね 実際、暮らしてた時間はこの雲雀ヶ崎と都会でちょうど同じくらいだからな でもでもっ、千波は学校入ったらすぐ引っ越したってイメージだったよ 千波は俺のひとつ下だからそんなに歳の差はないが、俺よりも幼い頃にここを出たことは確かなのだ。 引っ越し、嫌だったか? 引っ越しが好きな人なんかいるのかな たしかに。 ただ一度目の引っ越しよりも、二度目の引っ越しのほうが嫌じゃなかったかな それは俺もそうだった。 一度も足を踏み入れたことのない都会への引っ越しに比べれば、今回の引っ越しは安堵感があった。 生まれた土地への憧憬もあったんだろう。 それは、都会の友人たちとの別れは寂しくても、それを埋めてくれる出会いがあるという期待でもあった。 その最たる存在が、展望台の彼女。 それだけじゃない、この雲雀ヶ崎で通っていた小学校の級友たちとも再会できるかもしれない。 相手の顔はもうほとんど覚えていないし(展望台の彼女だけはちゃんと覚えていた)、向こうも俺のことなんか忘れているかもしれないけれど。 それに懐かしむ再会はなにも人ばかりではなく、こうして千波と歩いて目にする街並みも含まれるのだった。 それじゃ、懐かしの雲雀ヶ崎探検にしゅっぱーつ! 千波の声を合図に、ふたりの歩調が速くなった。 五分ほど歩くと雲雀ヶ崎駅が見えてくる。 商店街はこの最寄駅の周りに集中していたはずなので、詩乃さんの家に暮らしている限り自転車いらずで買い物できるのだ。 この駅、ぜんぜん変わってないね 徐々に記憶がよみがえる。 雲雀ヶ崎へようこそ、と銘打った面白みもなにもないのぼりも健在だ。 わ。駅から団体さんが出てきたよ 観光客だろうな。今日は土曜で休日だし 団体客さーんっ、たくさんお土産買って雲雀ヶ崎にお金落として地元民の千波たちが払う税金安くしてねー 情緒のカケラもないのな、おまえ 観光バスに乗り込むお年寄りたちを横目に、俺たちは店が連なるほうに足を向ける。 このあたりもぱっと見、昔と同じ感じがするね スーパーや雑貨店、土産店なんかの個人経営店が並んでいる、昔ながらといった商店街。 高いビルやデパートなんかはなく、代わりに古ぼけた民宿やシャッターが閉まったままの店がちらほら見える。 あまり景気はよくなさそうだが、寂れているというよりはのんびりしているこの雰囲気が、数年経っても変わっていないのがうれしかった。 ほんと古めかしいっていうか、ノスタルジックって言葉がぴったりの街だよね この雲雀ヶ崎自体、古い歴史があるのかもしれないが、俺はそんなによく知らない。 小学校の社会科の授業で自分の街の歴史くらいは勉強するのだろうが、習う前に俺は街を出てしまっている。 だから知識といったら観光地としての雲雀ヶ崎の情報くらいなものだった。 過去は貿易港として栄え、今では商業港湾都市となっている雲雀ヶ崎は、運河を始めとする数多くの歴史的建造物に囲まれている街である。 運河のほかにも公園や温泉、神社、ロープウェイ、ビーチの広がる海もあったりする。 ハイキングに海水浴に紅葉にスキーと春夏秋冬楽しめる、まさしく観光地の見本みたいな土地だった。 その雲雀ヶ崎を含む市の人口は、約四十万人。 数字だけ見ると立派な中核市だが、実際に歩いてみると都市というよりは古都といった感じだ。 しかも年々、人口は減り続けていると聞いたことがある。 四季を通じて楽しめる観光地とはいってもいまいち地味なので、あまり人気はないのかもしれない。 さらに冬になれば雪が積もって交通の便が悪いし、暮らすにはいささか苦労が多いのも難点だ。 たしか雲雀ヶ崎には博物館だったか資料館だったかがあったし、これ以上の詳しいことは気が向いたときにでもそこに行って調べてみよう。 俺はけっこう勤勉である。 だいいち、俺はこの街が好きなのだ。 お兄ちゃんお兄ちゃんあれ見てあれっ! 却下 なんでいつも千波の言葉を最後まで聞こうとしないんだよ!? おおかた千波愛用サイドボードがショーウィンドウに飾ってあったんだろ。俺が値段見るまで却下だ そうじゃないよっ、あそこに千波の知らないお店があるのっ、たぶん千波たちが引っ越したあとにオープンしたお店じゃないかなっ 千波の指差した先を目で追う。 そこはたしかに記憶にはない店だった。 喫茶店だろうか? 新しくオープンしたのかもしれないが、俺がこの街を出てすぐに店が開いたのなら、新しいという形容は似合わない。 今ではこの雲雀ヶ崎商店街の一部として、すっかり馴染んでいるのかもしれない。 そういった変化は少し寂しかったりもする。 なんかこじゃれた感じで、雰囲気よさそうだよね 千波が言ったとおり、シックな外観の喫茶店。 窓ガラスから覗ける内装も落ち着いたレトロモダンといった風情で、つい入ってみたくなる。 サイドボード見てくる前に、ここで昼飯食べようか うんっ、ナイスアイデア! 千波と並んで店に入る。 来店を知らせるドアベルを聞きながら店内を見回す。 外観で感じたイメージどおり、なかなかよさそうな雰囲気だ。 飾ってある絵画や器、家具、流れている音楽が、引っ越しの片付けて疲労した身体を癒してくれる。 お客はぽつりぽつりと座っているので、ほどほど繁盛しているといったところか。 お兄ちゃんっ、あそこ座ろ 千波を追って、窓際の席に移動する。 このお店、思ったより新しいって感じじゃないね 色調のせいもあるけど、俺たちが引っ越したあとにすぐ開店したんだろうな だとしたら七年くらい経ってるし、オープンセールやってるわけじゃないのかな まあ、まずはなにか頼もうか 千波にメニューを渡して、俺も開く。 うむむ……? 一見して、どれがどんな料理なのかわからなかった。 ねえお兄ちゃん……ここってほんとに喫茶店? だと思うんだけどな…… メニューには見慣れない単語ばかりが並んでいた。 いらっしゃいませ~。ご注文はお決まりでしょうか? あ、いや……あのですね メニューの内容を尋ねようとした口が途中で止まった。 どうかされましたか? そのウェイトレスは白いフリフリのエプロンドレスに同色のカチューシャを装備していた。 わあっ、メイドさんだ。千波初めて見たよっ なんだここは、シックな外観とレトロモダンな内装に騙されたけど、その実態はメイド喫茶? ……初めて入ってしまった。 そんなの都会向けのマニア店とばかり思いきや、こんな北の観光地にまで普及していたなんて。 まじまじと視線を送る俺と千波の態度もなんのその、ウェイトレスはにこにこと営業スマイルをくずさない。 自分の格好を見て驚く客には慣れているようだ。ウェイトレス歴が長いのかもしれない。 見たところ俺と同年代くらいにしか見えないのだが。 あれ? お客さま…… あっ と、同時に口を丸くする俺とメイドさん。 以前、展望台のほうに行かれてましたよね。今日も観光ですか? しっかりした接客の言葉遣いでほほえんだ。 なになにっ、お兄ちゃんこの人と知りあいなのっ、引っ越してまだ間もないのにもう唾つけたのっ、お兄ちゃんがそんな節操なしだったなんて千波超ショックだなっ そうじゃないからとりあえず黙れ テーブルに備えてあったサラダ用のマヨネーズソースを千波の口に放り込む。 千波は目をエビスのように垂らしてチューチュー吸った(千波はマヨラーだ)。 今日も彼女さんとご一緒に雲雀ヶ崎の観光ですか? 千波の奇行を見てもスマイルをくずさない彼女はプロのメイドさんだ。 彼女はヒバリ校の前で何度か見かけた子だった。相手も俺を覚えていたらしい。 あの学校に通っているのなら、俺と同年代くらいに見えるのもうなずける。 俺も、来週の月曜からはヒバリ校の二年生なのだ。 この時期だと海水浴にはまだ早いですけど、運河でのボート乗りは風情があって最高ですよ 特にアベックには大人気で…… あ、いや。こいつは彼女じゃなくて妹なんです それと、俺たち観光じゃなくて、つい最近に引っ越してきたんですよ あ、そうだったんですか 来週からヒバリ校に通うんで、今後ともよろしくお願いします 社交辞令をすませておく。 えと、ヒバリ校の何年生ですか? 二年です わ、じゃああたしとおんなじだ 同学年と知ったせいか、くだけた口調に早変わりした。 あたし、〈南星明日歩〉《みなほしあすほ》。ヒバリ校の二年。キミは? 小河坂洋です こがさか……よう…… 口の中で俺の名を繰り返す。 小河坂くん、どのあたりに引っ越してきたの? ええと……夢見坂ってあるだろ? 気さくに話しかけてくるので、こっちも自然に敬語じゃなくなる。 そのふもとの住宅街なんだけど ああ、あそこなんだ。いいなあ、ヒバリ校のすぐ近くじゃない。朝遅くまで寝てられそう それでもあの坂は毎朝登らなきゃいけないし、けっこう憂鬱だったりするよ だよねえ、なんであの坂が通学路なんだろ、ていうか誰があんな場所に学校建てようなんて言い出したんだろ まあ、小学校じゃなかっただけマシかな そうだね、小学校は山のほうじゃなくて、駅向こうの海の近くにあったし そうそう、通う途中に踏み切り渡るのが面倒っていうのはあったけど…… ……って、彼女が通ってたその小学校って、俺が通ってた小学校と一緒か? キミって……この前引っ越してきたばかりじゃないの? あ、ええと ああっ、お兄ちゃんがメイドさんと親睦深めてるっ、お昼ご飯の代わりにメイドさん食べようとしてるっ、いくら初恋の彼女にフラれたからって手当たり次第になんてっ いい子だから黙れ 二本目のマヨネーズソースを口に放る。 千波は二秒で吸い終わる。 こいつは小河坂千波。俺の妹で、来週からヒバリ校の一年になる予定 あの、この子、マヨネーズソース早くも三本目吸ってるんだけど…… 千波、行儀悪いからそのへんでやめとけ もっと早く止めてよっ、もう少しで千波のお昼がマヨネーズだけになるところだったじゃないっ エビス顔で幸せそうに吸ってたくせに。 明日歩、話し込むのはいいけど、お客さんのオーダー取るのを忘れないようにね あ、はーい。お客さま、ご注文はお決まりですか? マスターらしき人の注意で営業モードに戻ってしまい、さっきの小学校の話はうやむやに終わってしまった。 あのあのっ、このメニューに書いてあるアストライアーってなんですか? それはね、てんびん座の天秤の持ち主である、正義の女神アストライアーのことなの アストライアーは羽ペンと人間の心臓を天秤にかけて、その人間の善悪を判決したと言われてるんだ アストライアーのアストロはもともと星を意味していて、ライアーは女性語尾で乙女を意味するから、アストライアーは星乙女とも呼ばれてるんだよ うっとりと話すメイドさんだが、肝心のメニューの内容はさっぱりだった。 ……あの、じゃあこの、本日のオススメって書いてあるヘルメスの竪琴って? ヘルメスっていうのは泥棒の神さまなの ヘルメスは生まれてすぐに太陽神アポロンの牛を盗んだんだけど、そのとき見つけた海亀も一緒に食べちゃって、その甲羅に穴を空けて竪琴を作ったんだ じゃあこのヘルメスの竪琴ってすっぽん料理? ううん、ハニートースト 関連性ゼロだった。 ……いやまあ、メイド喫茶ですっぽん料理が出てきても困るけどさ。 それでね、ヘルメスは盗んだ牛を取り返しに来たアポロンに見つかっちゃって、慌てたヘルメスは謝罪の意味で甲羅で作った竪琴をアポロンに差し出したの その竪琴はアポロンの手を経て〈吟遊詩人〉《ぎんゆうしじん》オルペウスに渡るんだけど、オルペウスが奏でる竪琴の音色は人間だけじゃなくて動物や草木さえも虜にするんだ そしてあるときオルペウスは妻である〈精女〉《せいじょ》エウリュディケーを助けるために冥界に降りて、この竪琴は大活躍するんだけど、結局オルペウスは妻を助けられずに…… 明日歩、お客さんが困ってるよ えーっとうーんと、じゃあヘルメスの竪琴はすっぽん料理じゃないから妻を助けるためにオルペウスの竪琴がハニートーストになって…… 千波の目がぐるぐるだ。 ご、ごめんなさいっ、あたしってばつい……。ご注文はヘルメスの竪琴ふたつでよろしいですか? ……あ、いや、それはいいんだけど 勝手に俺たちの注文をハニートーストに決められたのはべつにいい。 最初、ヘルメスの竪琴と言われても気づかなかった。 だけどオルペウスの竪琴と言われてハッとした。 今の話って、もしかしてこと座の……? 俺の言葉で、メイドさんはぱっと顔を輝かせた。 うん、だって今日は七夕だからね! メイドさんは軽やかなステップでマスターの元に戻っていった。 オルペウスの竪琴とは、こと座の星座絵で描かれている竪琴のことだ。 だからこそオルペウスの竪琴──ヘルメスの竪琴は、本日のオススメメニューだったのだ。 こと座の星のひとつであるベガは、七夕の織姫だ。 えーっとうーんと、じゃあヘルメスの竪琴はすっぽん料理じゃないからオルペウスの竪琴がハニートーストになって七夕だからメニューを勝手に決められて…… 千波はまだぐるぐるだ。 お待たせしました~、こちら当店自慢のヘルメスの竪琴になりま~す! テーブルに並んだハニートーストには、アイスクリームの上に笹の葉が載せられていた。 おいしかったねっ、お兄ちゃん ああ。これからは行きつけの店になるかもな メイド喫茶っぽいのでひとりでは入りづらいけど。 メニューの名前はどうやら星座の神話にちなんだものだったらしい。 入るときは気づかなかったが、店の名前も英字でミルキーウェイとある。納得だ。 味は申し分なかったし、新しいクラスで友達ができたら放課後に寄ることもあるだろう。 お父さーん、あたしちょっと出かけてくるね 学校に大事な用があるんだ。お手伝いサボる埋め合わせは今度するから、あとよろしくね! あのメイドさんの声は、千波みたいな耳を裂く大声というわけじゃないのによく通る。 学校というのはヒバリ校のことだろう。 土曜なので授業は休みだと思うけど、部活か補習でもあるのかもしれない。 お兄ちゃん見て見てっ、このお店バイト募集してるよ 却下 お兄ちゃんの返答は否定が多すぎるよ!? バイトしたいって言うんだろ。しなくていいから でもでもっ、このままだと千波のコブタ貯金箱がかわいそうなんだもんっ、空っ風にさらされて風邪でもひいたら困るんだもん! 飼い主と一緒でバカは風邪ひかないから バカって言うほうがバカなんだよ!? 喫茶店の窓にはバイト募集の貼り紙がされている。 スタッフ急募らしいが、さすがにメイド喫茶で俺がバイトするわけにもいかない。 悪魔の手を持つ千波にウェイトレスをさせたら割った皿の請求が怖いので、こっちも却下だ。 時給900円からってあるよっ、夕方のバイトとしては高給だよっ、しかも都会と違って客足もそんなになさそうだしサボっててもバレなさそうだよっ それよりサイドボード買うんだろ。行くぞ うー 俺が歩き出すと、千波も不機嫌ながらついてくる。 おまえにバイトなんてさせられるわけないだろ。 そんなことしたら、天国の母さんだって心配するに決まっている。 えへへ、お兄ちゃんありがとっ どういたしまして 商店街を出る頃にはあたりはオレンジ色に変わっていた。 結局のところガラス戸だけ買えるなんて都合のいい話はなく、俺と千波の二人分のサイドボードを新しく買い換えることになった。 しかも個人経営店だったからか、都会に比べて思ったよりも値段が高く、早くも財布の中身は空っぽだ。 月曜になったら銀行から下ろしてこないとかな……。 いや、その貯金はなるべく学費にしか使わないと決めたのだ。 バイトを早急に探さなければ。 さっき買った千波愛用サイドボード2号、お店の人がおうちまで運んでくれるって言ってたね ああ。しかも今日中にだってさ 値段は高くても、こんな行き届いたサービスは個人経営店ならではのものだ。 じゃあすぐに帰らなきゃだねっ、夕飯前にはサイドボード組み立てちゃおっと ひとりでできるか? できるよっ、千波はもう子供じゃないからねっ 千波に急かされながら駅舎の前を通って、住宅街へと向かう。 この駅を中心とすると住宅街は南に位置していて、ここから北の方角、線路を越えれば海に出る。 俺と展望台の彼女が通っていた小学校は、海の近くに建っていたのだ。 そして線路沿いを東に進めば運河に出て、さらにその向こうは隣町となる。 雲雀ヶ崎ではなくなるのだ。 だから地理的にこのあたりは市の境に当たるわけだ。 雲雀ヶ崎が古都だとすれば、隣町はまぎれもなく都市だった。 俺の引っ越し先だった都会に肩を並べる大都市なのだ。 とはいえ、都会よりずっと北に位置するこの土地は、市の面積が広いせいか、あわただしい空気も騒音も感じない。 まるで時代をさかのぼったみたいに、雲雀ヶ崎の時間はゆるやかに進んでいる。 俺、ちょっとこのままひとりでぶらついてくるよ 家の門に着いてそう言うと、千波はきょとんとした。 どうしてどうしてっ、お店の人がサイドボード運んでくるのに? 悪いけど俺の代わりに受け取っておいてくれるか。詩乃さんが起きてたら、詩乃さんにも話しておいてくれ これからどこ行くの? どこだっていいだろ 懲りずに展望台なんて言わないよね ………… ……図星っぽいなあ ち、ちち違うぞ? お兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカぁ!!! ぽかぽかたたかれる。 過去は美しいから過去なんだよっ、夢から覚めるには現実を見つめることだよっ、まずは目の前の女の子を見つめることから始めるべきだと千波は思うなっ でも目の前には千波しかいないし それでいいんだよ千波で正解なんだよお兄ちゃん!? それじゃサイドボードよろしくな お兄ちゃんのバカ──────っ!!! ……バカって言うほうがバカなんじゃなかったのか 最近バカバカ言われる比率が高い気がする(俺も千波に言ってるけど)。 けどな、わかってるんだよ、そんなこと。 いくら彼女が展望台の彼女とそっくりだからって、それにすがっている俺は、バカだって。 展望台の彼女に会いたいなら、名前を頼りに調べるとか、もっと現実的な方法だってあるだろうに。 それよりも彼女に会うほうを優先する俺は、大バカだ。 展望台の彼女が怒って俺の前に姿を現さないのも、うなずける。 この夢見坂はなだらかだけど、異様に長い。 元は展望台と並ぶ(寂れた)観光名所のはずが、今ではなぜか展望台が閉鎖されている。 だからこの坂は、もはやヒバリ校の通学路としてしか機能していないんだろう。 ヒバリ校に通う生徒は一様に持久力がつくわけだ。 だから何度も同じ言葉を言わせないで。生徒の屋上の使用は禁止されてるって言ってるじゃない そしてそのヒバリ校の前を通りかかったときだった。 それじゃ天クルの意味がないってこっちだって何度も何度も口すっぱくして言ってるでしょ! ふたりの女子生徒が校門の近くで何事か言い争っていた。 片方は見知らぬ女子だったが、もう片方はさっきまでメイドに扮していた南星明日歩という子だ。 もし俺以外にも通行人がいたら、その人だって俺と同じくこうして立ち止まっていただろう。 それくらいふたりは声を荒げて、一触即発の雰囲気でおたがいをにらみつけていた。 天クルの意味って言われても、たかが同好会じゃない。視聴覚室を使わせてあげてるだけありがたく思ってよ 視聴覚室だけじゃスクリーンに天体図映すくらいしかできないんだよ~! いつまでもにやにや眺めてればいいじゃない それじゃ健全な天体観測とは言えないんだよ~! あなたたち同好会にはそれで充分でしょう ぜんぜん充分じゃないんだよ~! 最近なんかみんな飽きちゃってトランプ三昧になってるんだよ!? これで視聴覚室も取り上げる理由ができたわけね どうしてそこまで天クルを目のカタキにするんだよっ、こももちゃんは! わたしのこと名前で呼ばないで!? 今日は七夕なんだよ! 七月七日は雨の確率が統計で70%以上もあるのに今年はなんと晴れなんだよ!? 蝦夷梅雨なんだから雨でいいのに 織姫と彦星があたしを待ってるんだよ! 天帝に引き裂かれたふたりは今年ようやく〈洒涙雨〉《さいるいう》を枯らすことができたんだよ! ……さいるいう? 洒涙雨というのは、織姫と彦星が流す涙のことですよ。七夕の日の雨をよくそんなふうに呼ぶんです 気がつくと近くにまたひとり女子生徒が立っていた。気配がなくて驚いた。 以前にもお見かけしましたね。彼女さんとは仲直りされましたか? 誤解されたままだ。 今日はなにかヒバリ校にご用ですか、観光客さん? ああ、いや、俺は観光客じゃなくて 本日二度目の自己紹介だ。 来週からこのヒバリ校の二年のクラスに転入する、小河坂洋です。よろしくお願いします 丁寧にあいさつする。 引っ越しも二度目となれば、初対面の相手には第一印象が大切だというのが身に染みてわかっている。 これはご丁寧にありがとうございます。わたしはヒバリ校の二年生、〈姫榊〉《ひさかき》こさめと申します 俺以上に丁寧な自己紹介を返してきた。 今日は、転入手続きに来られたんですか? 向こうではいまだにらみあいが続いていたが、なんだかこっちはほのぼのだ。 手続きのほうはもうすませてあるんですけど、その 敬語じゃなくてもよろしいですよ。わたしたち、同学年じゃないですか じゃあそっちも敬語をやめて欲しいのだが。 以前もこの近くを歩いていましたよね ちょっと展望台に用があって。今日もなんだけど 展望台? やんわりと小首をかしげる。 でもあそこは立ち入り禁止なのに、どんなご用で…… 早く屋上のカギ貸してってば! もう一番星見えちゃってるし、急いで望遠鏡運ばないとなんだよ~! そんなに天体観測したいなら、自分の家の屋根でやればいいじゃない あたしんち喫茶店だからそんなことできないんだよっ、以前やろうとしたら外から見えるし集客に関わるって言ってお父さんがダメ出ししたんだよ~! じゃあ潔く諦めることね 諦めきれないからこんなに頼んでるんじゃないっ、どうしてわかってくれないのこももちゃんは! わたしのこと名前で呼ばないでって言ってるでしょ!? 相変わらず平行線ですね。明日歩さんと姉さんは 姉さん? 言われてみると、あのメイドさんと言い争っている女子生徒は目の前の彼女と顔が似ている。 いや、似ていると言うより合わせ鏡のようにそっくりだ。 七夕だったら天体観測じゃなくて、笹の葉に短冊結んで願い事でもやってたらいいじゃない そんなバレンタインさんを祝わないでチョコだけ贈るような真似するなんて天クルの名折れなんだよ~! たかが同好会にはピッタリね そもそも天クルを部として認めてくれないのもこももちゃんのせいじゃない! 名前で呼ばないでって何度言ったらわかるのっ、それと天体観測愛好サークルを部として認めないのは部員数が少ないからであってわたしのせいじゃないでしょ! そんなことないっ、部員が集まらないのもきっとこももちゃんの差し金なんだ! 自分の非を他人に転嫁するのはやめてくれる!? 絶対こももちゃんのせいなんだ絶対こももちゃんのせいなんだ~! こももちゃんのこももちゃんのこももちゃんのこももちゃんの~! 名前を連呼するの今すぐやめないと部だけじゃなくて同好会もつぶすわよ!? どうもキリがないようですので、わたし、行きますね どうするんだ? 姉さんの怒りを静めてから、明日歩さんをなだめます ぺこりとお辞儀して、俺の前から立ち去った。 激化する一方のふたりの争いをどのように止めるのかは非常に気になったが、俺のほうもいつまでも野次馬しているわけにいかない。 メイドさんの言葉を借りるわけじゃないが、今日はなんといっても七夕なのだ。 彼女と再会の約束を交わした、特別な日なのだから。 この先に続く展望台に立ち入った形跡など、ここ一年はとんと見つからなかったというのに。 そもそもヒバリ校に在籍する『彼女』は展望台を嫌悪することこそあれ、自らその場所に身を置こうなど考えもしないはずだ。 展望台は『彼女』にとって鬼門であり、忘れることが難しい特別な地であり、運命を狂わされた分岐路でもある。 そんな『彼女』が再びこの場に現れるとは考えにくい。 もしも都合よく現れてくれるのなら、自分の仕事は格段に容易くなるのだが。 とすると、これは別人か 少女はフェンスの周囲に散らばる足跡を冷めた瞳で睥睨する。 足跡の大きさからいって二種類、おそらく男女ふたり。 男のほうが数が多いのは、訪れる回数が女よりも多いということだろう。 その足跡は横一面に広がる林へと続いていて、フェンスを迂回して展望台を目指したことを窺わせる。 物好きもいるものだな どこかの観光客が立ち入り禁止を無視して強引に観光したのかもしれないが、複数に渡って同一の男が訪れているのならそのセンは消える。 その男は、なにかしらの目的を持って展望台を目指していることになる。 なにが目的かは知らないが、私の邪魔だけはしないでくれよ ヒバリ校に在籍してはならないのに、今もって在籍している『彼女』。 その『彼女』をあるべき場所に送り還すのが自分の仕事。 それを達成するための、ここは言わばゴールラインだ。 ゴール手前で石につまずくことだけは避けたいからな 男の目的が観光といった取るに足らないものなら問題はない、それなら展望台に訪れる回数もたかが知れている。 少女にとって最も忌むべき事態は、その男の目的がたとえば登校するのと同レベルで、連日に及び展望台を訪れる必要がある場合だ。 だとしたら、少女は男を排除するしかない。 少女の仕事とは要するにそういう類であり、人目につくのはできうる限り避けたいのだった。 どうしたものかな…… なんにしろこの男の情報は点在する足跡以外なにもないので、男に対して出るべき行動はすぐには決められない。 やるべきは男の目的を早急に知ること。 目的を知ったのち、排除か否かを決断することだ。 少女は差し当たってこの足跡を辿って展望台に向かうかどうか悩んでみた。 だがその思考は答えが出る前に遮られた。 坂の向こうから足音が聞こえてきたのだ。 ……これはまた 悩むまでもなく男のほうからやって来たわけだ。 石のほうから現れてくれたわけだ。 その石が足を取られて転ぶほど大きいのか、それとも裸足で踏んでも気にならないほど小さいのか。 ゴールテープを切る前に取り除くべきなのか……。 少女は、つまらなそうにその艶やかな髪を後ろに流した。 展望台までの道を遮るフェンスが見えてくると、その近くに誰かが立っているのに気づいた。 これまでここを訪れて人と出くわしたことなどなかったので、新鮮というよりは驚いた。 ………… 相手のほうはこれといって驚いた様子はなく、ともすれば俺を待っていたようにも見て取れる。 ……彼女は観光客かな。 初めて見る顔だからというわけじゃない。 俺はこの街を一度出ているし、地元民でも知らない顔なんてごまんといる。 そうではなく、ヒバリ校の生徒の話からしても、この展望台が立ち入り禁止になっているのは地元民では知っていて普通のようだったからだ。 展望台に立ち入れないと知っていれば、こんな場所にわざわざおもむく理由はない。 知らないのなら観光客のようなよそ者、ということだ。 俺のように目的があるなら別として……。 この先は立ち入り禁止だ。観光なら、立ち去ることをオススメするが 相手は淡々とそう言った。 外見はどう見ても女なのだが、口調が男に近いせいで中性的な印象を受ける。 いえ、俺は観光客じゃないんで このセリフ、今日だけで何度言っただろう。 先日この街に引っ越してきた小河坂洋です。よろしくお願いします 社交辞令も定番になりつつある。 とすると、やはりこの展望台が立ち入り禁止なのは知らなかったのか これまで出会った人たちと違って、自己紹介をしても相手は名乗ってくれない。 いえ、知ってましたけど じゃあキミはなぜここを訪れている? ちょっと用があって キミがここを訪れるのはこれが初めてじゃないということか はあ。用があるんで なんの用だ? ……なんだこの人は。 なんで職務質問みたいに突っ込んで聞いてくるんだ。 もしかして……このフェンスを建てた関係者ですか? だとしたら非があるのは俺のほうだ。 そういうわけじゃないが 彼女は気だるそうに肩にかかる髪を後ろに流して、 ただ、最近この展望台に勝手に立ち入っている輩がいたようなので、気になったんだ 冷たい視線を俺の顔によこす。 ……どうして俺が勝手に立ち入ってるって知ってるんだ? なにか検分されているみたいでひどく居心地が悪かった。 それで、キミはこの先の展望台にどんな用がある? ……ええと、フェンスを建てた関係者じゃないなら、俺がどうしようとそっちには関係ないですよね? この街の住民としていちおう注意はできると思うが この人は観光客ではない、地元民なのだ。 立ち入るなって注意してるんですか? まあ、そうだ すいませんけど見逃してください できれば今すぐ立ち去って欲しいんだがな それはちょっと難しいんで どうしても行くのか? はい 大事な用なのか? はい どんな用なんだ? ……それはちょっと 言えないのか? やましい事情があるわけじゃないが、初対面の人に言うのははばかられる。 言えないというのは、やましい事情があるということか それは違いますけど なら答えてくれ 注意を受けるのは仕方ないですけど、目的まで俺が答える必要はないですよね 残念だがそうなるな じゃあ俺、急ぐんで これ以上は相手にしないで林に向かう。 ……やましい事情なんかないのに、あるような気がしてきたじゃないか。 もうひとつだけ聞かせてくれ 彼女はこれまでと同様、淡々と口にする。 キミは、これからもこの展望台を訪れるのか? ……はい。たぶん おそらく、きっと。 少なくとも、展望台の彼女と再会できるまでは。 そうか 短く言い捨て、立ち去った。 よけいな時間を食ったことが焦りを呼び、俺は早足で展望台に向かった。 だけどそこは無人だった。 死神ルックのメアという少女は見当たらなかった。 俺は脱力して手近な草むらに腰を落とす。 どうもメアとは夜にしか会えない。夕方に訪れてもハズレを引いてばかりいる。 たしかメアは、星が見える夜にはここにいると言っていた。 じゃあ晴れた夜にしか展望台に来ないのか。 まだ子供だっていうのに夜遊びが盛んとは、親御さんも気が気じゃないだろうに。 一望できる街並みの頭上には、迷子になったみたいにひとつだけ光っている星が見える。 夏の一番星。 木星だ。 金星なんかもよく宵の明星として一番星に挙げられるが、あの星は中天高く輝いているので木星だろう。 木星よりももっと低い位置の西の空に輝くのが金星なのだ。 俺がこんなふうに、それなりに星に詳しくなったのは、展望台の彼女の影響だった。 昔にこの街に住んでいた頃は理科の授業で習った程度でしかなかったのに。 彼女と別れたあとは、その寂しさをまぎらわすためか、俺は天文図鑑とにらめっこすることが多くなった。 星座を覚え、それにまつわる神話もよく読んだ。 特に何度も読み返したのが七夕伝説だった。 昔の俺はたぶん、自分らふたりの境遇を織姫と彦星に照らしあわせていたのだと思う。 織姫と彦星がおでこにキスを交わしたなんてのはどの本にも載っていなかったし、そもそも彼女は織姫と違って機織りなんてしたこともないだろう。 だけどそんなことは些細であり、ただ俺はいつか訪れる再会を願って七夕の夜には空を見上げていた。 七月七日はまだ梅雨の時期であり雨模様が多く、たとえ晴れても都会の夜空はネオンの光やスモッグのせいで織姫と彦星はぼやけていた。 だから、満足に七夕の星空を見上げられなかったからこそ、彼女に会いたい気持ちは募っていくばかりだったように思う。 時が経つにつれ彼女との想い出は曇りガラスに徐々に遮られていき、それは七夕でいうところの天の川だったのだけれど。 今のように、こうして彼女との再会を願う気持ちだけは曇らなかったのは、ひとえに七夕の日のおかげ。 雲雀ヶ崎で見上げた降るような星空が恋しかったから、俺は彼女のことだけは忘れなかった。 忘れることなどできなかった。 ほら、こんなふうに──── 遠くに見える水平線へと太陽が沈み、街を飲み込んでいたオレンジ光がようやく消えると、次に現れるのは待望していたその景色。 きっとすべて合わせれば太陽に負けないくらいの光になる、星たちの競演だ。 都会の星空なんて比べ物にならない。どんな天文図鑑にだって引けを取らない。 もう、星のほうが黒い部分よりも面積が広くて。 本当に、星の中におぼれてしまいそうになる。 これが、七夕の星空なのね いつからいたんだろう、メアの姿が近くにある。 そろそろ見慣れてきた手持ちのカマは、多すぎる星の光を反射しきれずパンクしているように見えた。 なんだか、星が多すぎて怖い そうだな。ずっと見てると俺も怖いよ キレイなものも多すぎるとグロテスクになるのね それはちょっとうれしくない表現だな 織姫と彦星って、どれかわかる? 雲みたいに見える光の帯があるだろ、あれが天の川で、その上下に明るく光ってるのが織姫と彦星 上にあるのが? 織姫 下が彦星? そう よくできました ……メアも知ってるんじゃないか。 じゃあ彦星は…… メアはささやくように。 彦星は、織姫のお尻に敷かれてるのかな じゃあ、約束ね あたしたちは必ず再会すること! この展望台で必ず再会すること! 織姫と彦星みたいに離れ離れになっても、最後にはちゃんとふたりは再会すること! そして、再会したらケッコンすること! ケッコンして、あたしのお尻に敷かれること! どうしたの、間抜けな顔して ……いや 本当に、この子はわざとやっているんじゃないかと勘ぐるくらい俺の想い出を刺激する。 俺が自意識過剰なだけかもしれないけど。 キミはじゃあ、七夕伝説も知ってるのか? メアは答えなかった。 知らないなら、教えてやろうか? べつにいい そんなこと言わずに聞いてくれ ……あなたが話したいだけじゃない その昔、天の川のほとりには、天帝の娘で織姫と呼ばれる美しい天女が住んでいたんだ 織姫は天帝の言いつけをよく守り、毎日毎日機織りに精を出し、光り輝く見事な織物を織り続けた 天帝は織姫の働きぶりに感心していたが、年頃の娘なのに恋をする暇もない娘を不憫に思い、ある日牽牛という牛飼いの青年と結婚させることにした そうして織姫と牽牛のふたりは生活を共にし、仲睦まじく暮らした めでたしめでたし 勝手に締められる。 いや、まだ続きがあるんだけど 彦星がまだ出てきてないものね 牽牛っていうのが彦星のことだよ そうなんだ ああ メアは伝説の内容を知っているのか知らないのか、曖昧に答えていた。 とにかく織姫と牽牛は結婚し、幸せに暮らしていた だけど織姫は牽牛との新婚生活に夢中になり、天職だったはずの機織りをすっかりやめてしまったんだ だから初めは新婚だからと大目に見ていた天帝も、次第に腹を立てるようになり、最後には牽牛のもとから織姫を連れ戻してしまった 天帝は織姫をもう一度天の川のほとりに住まわせ、機織りを命じたんだ これから心を入れ替えて仕事をするなら、年に一度だけ、七月七日の夜には牽牛に会うことを許してやろうと言って…… めでたしめでたし ……ここで終わったらめでたくないだろ 年に一度会えるならいいじゃない わたしなんて、何年も待ち続けていたのに 誰を? あなたを どうして? 知らない 俺は首をすくめる。 続き、聞くか? ……うん 牽牛と離れ離れとなった織姫は、年に一度の牽牛との再会を励みに機織りを続けるようになった 牽牛もまた織姫との再会の約束を胸に仕事に励み、ふたりは七月七日を待ち焦がれた だが七月七日に雨が降ると天の川の水かさが増して、織姫は牽牛のいる向こう岸に渡ることができなくなってしまう ふたりは天の川を隔てて佇み、再会を果たせないことに心を痛め、川面を眺めて涙を流すしかなくて──── 引っ越しで離れ離れとなり、俺は彼女との再会の約束を胸に、たしかに仕事に励んでいた。 俺は星に詳しくなった。 そりゃあ天文学者に比べれば大人と子供以上の差はあるだろうが、今みたいに七夕伝説をそらんじることくらいは簡単にできるようになった。 これだったら星が大好きだった彼女にも七夕伝説を語ることができる。 それだけじゃない、ほかの星座の神話だって有名なものだったらロマンチックに語ることができる。 彼女に教えることができる。 俺に友達と遊ぶ楽しさを教えてくれたお礼に、俺は彼女に星を教える。 俺はもっと、別れてしまう前に、彼女に星を教えたかった。 雨が降ったら、織姫は彦星に会えないのね ……いや 俺は無理やりにでも明るい声を作る。 雨が降って天の川の水かさが増すと、悲しむふたりを見かねたかささぎが飛んでくるんだ かささぎ? スズメ目カラス科の鳥 小さそうな鳥ね そう。だからかささぎは群れをなして飛んでくる そして一羽一羽が翼を広げてつながり、架け橋となって、織姫を牽牛のもとへ渡す助けになってくれるんだ めでたしめでたし? そう。めでたしめでたし ふうと息をつく。 おもしろかったか? 普通だった キミは、星が好きなのか? どうして 晴れた夜に展望台にいるからさ ………… それとも、俺を待っているから、展望台に来るのか? メアは口を開かず、ただ俺に眼差しを向けていた。 その眼差しにはなにかしらの思いが込められていたのかもしれないが、俺には見当もつかなかった。 星降る空に、雲は今のところどこにも見当たらない。 七夕の星をさえぎるものは、なにもない。 ……あなたにとってのかささぎが 織姫と彦星は、俺たちの頭上で再会を果たしている。 いつか、現れますように メアはゆっくりと俺に近づいて。 ちょっと目、つむって ……なんで なんでも ……なんか怖いな 怖くないから あやしいな 早くしてったら。お姉さんの言うことが聞けないの? この言葉で、俺が従わないわけがない。 俺が目を閉じても、なかなかそれは起こらなかった。 まだ……目、開けないでね その言葉がいやに近くから聞こえてきて、相手は子供だというのにどぎまぎする。 開けたら、絶交だからね…… なぜだろう。 ひとかけらのピースすら外れずに想い出と重なる。 それはただの幻想であるはずなのに、幻想であるわけがないともうひとりの俺が言っている。 それは過去の俺だった。 俺が自分のことを僕と呼んでいた小河坂洋だった。 成長した俺はメアと展望台の彼女は別人だと思っているのに、想い出の中の僕はメアと展望台の彼女をダブらせているようだ。 それは想い出の中の僕もまたメアと同じで、あの頃の姿をしているからかもしれない。 僕は彼女のことが好きだった。 恋かどうかは知らない、だけどあの頃の自分はたしかに彼女が好きだった。 だったらなぜその気持ちを、せめて引っ越す間際くらいには言葉にしてあげられなかったのだろう。 もしも過去の再現で、彼女からおでこにキスをされたなら、僕はこの言葉を語るかもしれない。 彼女が60を数えるまで目を開けちゃダメだと言っても、僕は目を開けて彼女に告白するかもしれない。 僕はキミが好きだから、離れたくないと。 僕は、キミに感謝しているから。 友達を作ろうとしなかった僕の、キミが初めての友達だったから──── ───ありがとう、洋くん そこに、ちょこんとなにかが触れた。 だけどその感触はおでこではなく胸だった。 なにか、それは、ありえない感触だった。 たとえばおでこに誰かの唇が当てられた感触をそっくりそのまま胸に当てはめることってできるだろうか。 できるわけがない。 なぜなら俺は服を着ている、それを突き抜けて直接肌にそんなぬくもりを感じるってどういうことだ。 俺は目を開ける。 彼女は想い出と違って60を数えろなどとは言わなかったので、そんな罪悪感も感じずに目を開ける。 まるで水あめの中に棒をうずめるように。 メアの手にある大きなカマが、俺の胸に沈んでいた。 できれば、あなたが悪夢を思い出している間には、したくなかったけど…… そもそも罪悪感なんてものを感じる余裕もないくらい、それは純粋な驚愕。 でも、そんなことも言ってられなかったから…… この驚愕が数字で数えられるのなら、夜空に広がる星の数より多かったに違いない。 あなたの悪夢はふくらむ一方だったから ず、と切っ先が深く沈む。 あれだけあった驚愕がすべて恐怖にすげ替わる。 眼下にある光景はどう見ても非現実的なのに妙な生々しさがあって俺は叫び出したくなる。 だけど声は出ない、この視覚情報が自律神経を狂わせて舌と喉を麻痺させる。 痛みを感じないのも、そのせいなのか。 この生々しい感触が痛覚ではなくあたたかい光のように感じるのは俺が狂ったせいなのか。 これで、あなたの悪夢は、ひとつ刈られた このあたたかい光のような感触が、想い出の中のファーストキスに酷似しているなんて思うのは。 展望台の彼女とおでこにキスを交わしたように感じてしまうのは。 ***に、キスを……。 え──── おかしな感覚だった。 俺の中に、得体の知れない不安がそのとき生じた。 初めて入ったデパートで迷子になり、外に出たらそこはいつの間にかに知らない街に変わっていて、途方に暮れてしまうような。 そんな、知っていたはずの地理を突然奪い取られた感覚。 なんだ? 今、俺の身になにが起こった? 俺は今、なにを思い出そうとした? 頭の中でなにかをつかもうとするが、そもそもなにをつかめばいいのかがわからない。 もう、何度も言ったじゃない…… メアの頬に、ゆっくりと涙が伝い。 わたしは、悪夢を刈る死神だって…… その涙は夜空のどんな星よりも綺麗だと感じたとき、俺の中でつかみ取ろうとしていたなにかが消えた。 そのために、わたしはあなたを待っていたって…… 完全に、掻き消えた。 それは大切なものだったはずなのに。 この***は大切なものだったはずなのに。 これでは俺はいつまでたっても***と出会えない。 ***は怒ったままで俺に会いにきてくれない。 大切な***を失ったから、だから俺は、***との再会を果たせずに……。 あ、あれ……? なんだ、これ……。 うっ……く…… 俺は***が好きだった。 ***は俺の初めての友達だ。 だから俺は***と離れても***を忘れなくて***のために***が大好きな星に詳しくなって***と再会したら***に語って聞かせて***と一緒に……。 やめて……もう思い出さないで…… なんだよ、これは。 どうして、こんな……。 辛いのは、やだよ…… 理解した。 俺は忘れた。 俺は***の名前を忘れてしまった。 突然、ついさっきまでは確実に覚えていたはずなのに。 その情報だけがぽっかりと空いた穴のように俺の記憶から消え失せていた。 なんなんだよこれは……! これじゃあ会えない。 彼女に会えない。 一番の手がかりだった***の名前を忘れてしまってはもう会えない。 た、頼むよ…… やめてくれよ……。 俺は彼女と再会するって約束した。 その約束を果たすために俺は彼女を忘れなかった。 ずっと、忘れないよう大切に守ってきたのに。 おまえ、なのか……? この不可思議な結果の原因など眼下に広がる不可思議な光景が雄弁に物語っている。 返せよ…… 曇りガラスの向こうに隠れないよう、いつでもいかなるときでさえ、それが天職であるかのように拭ってきた大切な想い出だったのに。 なのに、こいつがそれを犯した。 返してくれよ……! こいつが鮮やかだった***を曇らせた。 あいつの名前、俺に返せよ……! いや…… 涙でくしゃくしゃになりながら、嗚咽の合間に言葉を綴る。 だってわたしは死神だもの…… 悪夢を刈り取る死神だもの…… あいつの名前が悪夢だって言うのかよ……! そうよ…… あなたが忘れたんだったら、そうよ…… その止め処ない涙は引き裂かれたふたりが流す洒涙雨のようでもあり。 よかったね…… 泣きべその表情で、それでも強気な言葉を吐いていた。 これで、悪夢に悩まされずにすむんだものね…… 満天に広がる七夕の星。 多すぎて怖いくらいの光に囲まれながら、織姫と彦星は天の川に隔たれたまま。 本当に、よかったね…… 洋くん…… 天のふたりは、雲に消えた。 千波、まだか! さっさと降りてこい! 俺は玄関から二階に向かって声を荒げていた。 なにやってんだっ、このままだと初日から遅刻になるぞ! だってだってっ、この制服着るの初めてだからリボンとかボタンとかうまく留められないんだもん! 千波は支度に手間取っているようで、いまだ部屋にこもったままだ。 俺は糊のきいた制服に違和感と一緒に感慨も抱きながら、千波の登場を今か今かと待っている。 俺たちは今日から晴れてヒバリ校の生徒になる。 そのためホームルームが始まる前に教務室に寄って担任の先生にあいさつしなければならず、できれば早めに家を出たかったのだが。 ケータイの時計を見ると、あと十分で予鈴が鳴る。 展望台に向かうのに何度か夢見坂を登った感じからすると、時間的に今すぐ家を出てぎりぎり間に合うかどうかといったところだろう。 ヒバリ校での授業初日だというのに、新しい門出に浸っている余裕もない。 お待たせお兄ちゃんっ、制服も着終わったし髪もセットしたし準備万端いざヒバリ校へレッツゴー! その前に名札はちゃんとつけたか? 千波は幼稚園児じゃないよ!? ハンカチはちゃんと持ったか? それだったらスクバに入ってるよっ そのスクールバッグが見当たらないけど そんなわけないよっ、千波の右手がしっかりくっきり力いっぱい千波愛用スクバをつかんでるよっ おまえが今掲げてるのはコブタの貯金箱だ なんてこと!? さっさとバッグ取ってこいっ これはまさか餌を与えなかったコブタの呪いが…… おまえが間違って持ってきただけだろっ、もう置いていくからな! そんなのやだやだっ、すぐ戻ってくるから絶対待っててねお兄ちゃん! 階段を駆け登っていく千波の背中を見ながら、俺はため息をつくしかなかった。 都会の学校に通っていたときも、千波はいつも遅刻ぎりぎりに家を出ていた。 そしてそんな千波を俺が待っている確率は、五分五分だった。 以前と違ってバスを使わなくても通えるほど学校が近くなったというのに、状況はまったく変わっていなかった。 痺れを切らして玄関を出ると、ちょうど目の前を通り過ぎようとする女子生徒と出くわした。 あ…… 目が合うと、彼女は立ち止まった。 その顔には覚えがある。お隣さんにあいさつに行ったときに応対してくれた子だ。 制服を見るに、ヒバリ校の生徒だったようだ。 おはようございます 無難に敬語であいさつする。 ヒバリ校は制服が二種類あり、彼女の制服はおそらく一年生のものなので、年下だとは思うのだが。 それに、見た目的にも年上ということはなさそうだ。 ………… 彼女は目礼だけすると、夢見坂のほうへ歩き去ろうとする。 あ、ちょっと ……? 呼び止めると、彼女は小首をかしげて俺を見た。 これから学校ですよね? よかったら一緒に登校しませんか? お隣さんとは早めに仲良くなっておきたかった。 都会とは違って慌しさのない雲雀ヶ崎の雰囲気が影響していたのかもしれない。心に余裕ができるというか。 ともあれ、ご近所付きあいは大切だ。 俺、今日からヒバリ校に通うんです。なんで、よかったらヒバリ校のこといろいろ教えてもらえると…… ああっ、お兄ちゃんがお隣さんと親睦深めてるっ、この前メイドさん食べたばかりなのにまた食べようとしてるっ、そんなに我慢できないなら千波もデザートにっ あなたはどちらさまですか? 他人のフリされてる!? ……いつかの変な人 千波は変な人じゃないよっ、以前のあれはこの人の陰謀であって千波は悪くないんだよっ、だから仲良くしてね蒼ちゃんっ いきなりちゃん付けはやめろって。すいません、こいつ礼儀知らずなもんで ……いつかの変な人の変な保護者 俺まで千波と同類になってる!? 千波の第一印象と引き換えに、俺の第一印象はカンペキだったはずなのに……。 お隣さんはひとりで坂を登っていった。 おまえのせいでお隣さんに変な人扱いされただろっ 自業自得でしょ! 家のカギは閉めたか? ばっちりだよっ 詩乃さん寝てるし、戸締りには気をつけないとな うんっ それじゃ、行くか その前に見て見てお兄ちゃんっ、千波のおニューの制服だよっ、かわいいでしょ美しいでしょお兄ちゃんが望むならこの姿でお料理だってお掃除だってっ 待ってくださいお隣さーん 逃げないでよお兄ちゃんのバカ──────っ!!! 走って坂を登っていく。 遅刻ぎりぎりのせいか、登校途中の生徒の姿はほとんど見られない。 だからお隣さんの背中は簡単に見つかった。 急がなきゃならない時間のわりに、お隣さんの歩調は遅かった。 おかげであっという間に追いついた。 お隣さん 隣に並ぶと、お隣さんは緩慢にこっちを向いた。 ……また出た お化けが出たみたいに言われる。 よかったら一緒に登校しませんか? なるべくにこやかに誘ってみる。 相手は無表情。肯定も否定もしない。 そのまま一秒経過、二秒経過。 気まずい空気が俺たちの間に流れ始める。 ……なんというか、いきなり出足につまずいたというか。 以前の悪徳キャッチのこと、まだ怒っているのかもしれない。 追いついたーっと 千波が後ろからひょこっと現れる。 ……また出た ねえねえ蒼ちゃんって何年生? 下の名前はなんていうの? このときばかりは気まずい空気を吹き飛ばす千波の傍若無人ぶりがありがたかった。 俺は小河坂洋、ヒバリ校の二年です。こっちは妹の千波で、一年です 相手が答えやすいように、先に名乗っておく。 ……一年。蒼〈衣鈴〉《いすず》 無感情に短く答えた。 それじゃ、千波と同じ学年か 思ったとおり一年生だった。 蒼さん、ゆっくり歩いてるけど急がなくて大丈夫か? もうそろそろ予鈴鳴ると思うけど ……なんか馴れ馴れしくなった あ、気に障ったなら謝るけど 蒼さんは無表情のまま無言になる。 や、やりにくいなあ。 蒼ちゃんって一年の何組なの? ………… 蒼ちゃんと同じクラスになれるといいなっ ………… 部活はなに入ってるの? ………… 蒼ちゃんと同じ部活に入りたいなっ ………… でもでも千波は文科系よりも運動系が得意だから蒼ちゃんが文科系の部活だったら残念だけど離れ離れになっちゃうかなっ、それでも遊びに顔出すからねっ ことごとく無視する蒼さんの態度もなんのその、千波は持ち前のマシンガントークで話しかけまくる。 都会の学校で友達百人作った実績は伊達じゃない。 あの、もしかしてこの前の引っ越しのあいさつのこと、怒ってる? ……そんなことないです やっと答えてくれた。 ほんと、ごめんな。また今度スフレ持っていくよ ……お構いなく それにしても蒼ちゃんって純真純情少女だねっ、新聞の集金だって言ったらあっさりひっかかっちゃうしっ 黙れ下郎 げ、げろう? ……失礼 よ、よくわからない子だなあ。 あははっ、蒼ちゃんっておもしろーい そして千波は相変わらずめげない性格だ。 そんなこんなでヒバリ校の校門前までやって来る。 時計を見ると、予鈴までもう三分もない。 ………… それでもマイペースに校門をくぐっていく蒼さんだ。 それじゃ俺たち、教務室寄らなきゃいけないんで。千波、急ぐぞ 蒼ちゃん、また今度お話ししようねー! 蒼さんは無言で校舎に入っていった。 えへへっ、初日なのにもう友達ができちゃったよっ 蒼さんとはほとんど会話できなかったが、千波は満足だったようだ。 蒼さんと一緒のクラスになれるといいな うん! 雲雀ヶ崎に引っ越してすぐ転入手続きをすませた際、校舎には一度足を踏み入れている。 だからどこがどの昇降口かは覚えているが、俺たちの下駄箱はまだ用意されていなかった。 俺たちはチャイムが鳴らないことを祈りながら、来客用の昇降口を目指して駆けていった。 教務室は校舎の一階に構えている。 俺と千波は学年が違うため、あいさつする担任の先生も違う。よってここで別れることになる。 簡単なあいさつをすませるとすでに予鈴は鳴り終えていて、俺は担任の先生に連れられて教務室を出て、三階に登りついた。 しばらく廊下を歩くと教師は立ち止まった。 プレートには2‐Aとある。 俺が転入したクラスである。 教師はここで待っていなさいと一言残して、教室に入っていった。 これから始まる朝のホームルームで、転入生の俺のことをみんなに紹介するんだろう。 そこで俺は自己紹介をしなければならない。 どくん、どくん。 以前の引っ越しと重なる光景。 まったく同じ緊張感。 果たして俺はクラスに馴染めるのか、クラスメイトに受け入れてもらえるのかという、いたたまれない不安。 ……はあ。 二度目とはいえ、慣れそうにない。 慣れるやつなんかきっといない。 ……千波はしっかりやってるかな。 あいつのことだから自己紹介で空回っていそうだが、持ち前の元気と明るさを武器にして、すぐにクラスの輪に解け込むだろう。 俺は、どうだろうか。 千波のようにクラスに解け込めるだろうか。 以前のように最初は苦労して、次第に解け込むようになるんだろうか……。 ……あー、なんか思考が暗いな こんなことでは笑われる。 展望台の彼女に笑われる。 彼女は俺に友達と遊ぶ楽しさを教えてくれた。 その楽しさを知った今の俺なら、クラスメイトの遊びの誘いを無視する子供の頃の「僕」にはならない。 都会の学校に転入したときだって、最初は苦労しても、最後にはたくさんの仲間を作ることができたのだから。 ……まあ、千波の百人には負けるけどな。 あら 顔を上げると、ちょうど廊下を歩いている女子生徒と目が合った。 どこかで見た顔……というか、もうホームルームは始まっているのに、なんでこんなところにいるんだろう。 そこの生徒、もうホームルームが始まってるのになんで教室の外に出てるのよ 俺と同じことを考えている。 早く教室に戻りなさい そうしたいのはやまやまだけど……。というか、そっちこそ外に出てるじゃないか 生徒会のミーティングが長引いただけだから。とにかく早く教室に戻りなさい 俺、今日転入してきたばかりなんだよ この説明だけでわかってくれると助かるのだが。 ああ、そういうこと わかってくれたようだ。 あなたが小河坂洋くんなんだ ……名前までわかられるとは思わなかった。 早くヒバリ校に馴染みなさいね。そうしたら、また会いにくるから ……どういうことだ。 相手は俺の前から立ち去った。このクラスの生徒じゃないようだ。 首をひねっていると、教室から俺を呼ぶ教師の声が聞こえた。 それじゃあ、いっちょ気合入れて行ってくるか。 もう名前も忘れてしまったあの子に笑われないために。 ドアを開くと、思ったよりも音が響く。 教室の中がしんと静まっているためだ。 張りつめた空気。身の周りの温度が下がった気がした。 俺は教壇に立つ教師の隣に並ぶ。 それから視線を正面に押し向ける。 クラスメイトと対面する。 数十本の好奇の視線が押し寄せていた。 どれもこれもが知らない顔……当たり前だが。 さすがに圧倒される。思わずしりぞきそうになる。 隣の席同士でささやきあう生徒もちらほら見かける。 七月という時期外れの転入だ、なにかわけありかと勘ぐられてもおかしくない。 ……べつにそんなおもしろおかしい理由なんてないのにな。 わかっている。相手は悪意があって俺にそんな目を向けているわけじゃない。 ただ、わかってはいても、簡単には耐えられるものじゃない。 教師が何事か軽く話すと、次に黒板に俺の名前を書いて自己紹介を促してきた。 ……ああ、そうだった。 俺は自己紹介をしなきゃいけない。教室に入る前まで覚えていたのに、頭からすっかり抜け落ちていた。 ……さっき妙な女子生徒に話しかけられたせいか。 さて、それじゃあ俺は、これからいったいどんな自己紹介をしようか? ……なにも考えていなかった。 用意周到が信条の俺らしくもない。 まあそれどころじゃなかったからな……あのメアって子のせいで。 展望台での一件から、心が落ち着きを取り戻すのに結構な時間を要したのだ。 落ち着いたというのは展望台の彼女の名前を諦めた意味ではなく、必ず思い出してやるという決意の表れだ。 ……と、今はそれよりも自己紹介だ。 内容をなにも考えていなくても、俺はこれが初めての自己紹介というわけじゃない。だから焦る必要はない。 これまで雲雀ヶ崎に出会った人たちに、俺はつつがなく自分を紹介していたのだ。 それでなくとも、俺はこれが初めての転入ではない。 昔はどんな自己紹介をしたのだったか。 愛想良くは話せなかった記憶がある。 自己紹介なのだからなにかしらを話しただろうに、内容はいまいち思い出せなかった。 そもそも内容なんてなかったのかもしれない。 ただ逃げ出したいという気持ちばかりが強くて、俺はなにも話さなかったのかもしれない。 この時間が早く過ぎるのをひたすらに待っていただけかもしれない。 だけど、今の俺は違う。 俺は成長した。 成長したのはなにも身長だけじゃない。 心も身体も成長を果たした俺は、大勢の前で堂々と自己紹介だってできるはず。 ……しかし、やっぱり内容を考えてこなかったのは痛い。 何度も言うが初対面相手に第一印象は重要だ、ならば親しみやすさをアピールしてウケでも狙うのが一番か。 でも外したらどうしよう。 寒いギャグを連発して痛いやつというレッテルを貼られたら、それを剥がすことは並大抵の努力では叶わない。 俺は千波のような厚顔無恥じゃない。そんなことになったら俺は登校拒否を選択する。 だったらそんなリスクは負わず、無難によろしくお願いしますとだけあいさつするのが妥当だろうか。 それはそれで、つまらないやつというレッテルを貼られるような気も……。 いつまでも無言の俺に、クラスメイトがざわめき出した。 ……うあ、やばい。 ごちゃごちゃ考える前に場つなぎでなんでもいいから話しておくんだった。 これじゃあ考えすぎの頭でっかちというレッテルを貼られてしまう。 またかよ! ああ、俺って本当はなにも成長してなかったんだなあ……。 小河坂くーん、がんばれ~! ざわついた教室で、ひときわよく通る声が耳を打った。 みんなも静かにしようよ~! 小河坂くん困ってるし、ちゃんと自己紹介聞いてあげようよ~! どれもこれもが知らない顔、ではなかった。 席から立ち上がって声を張り上げる女子生徒は、いつか出会ったメイドさんだった。 クラス委員の明日歩さんがこう言っているんですから、皆さんも落ち着いて小河坂さんの言葉を待ちましょう そしてその前の席には、ヒバリ校の校門で見かけた姫榊こさめという女子生徒も座っていた。 ふたりとも俺にほほえみかけていた。 それは、異分子の俺を受け入れてくれるという証だった。 そう思った瞬間、俺の頭に彼女らと交わした自己紹介が浮かび上がった。 今日からこのクラスで一緒に勉強することになりました、小河坂洋です まだ引っ越してきたばかりなんで、いろいろ教えてもらえると助かります。よろしくお願いします その自己紹介は結局のところ無難に落ち着いているわけだけど。 その後に沸いた拍手で、俺の心は軽くなった。 俺の席は窓際だった。 チャイムと同時にホームルームが終わると、一時間目の授業が始まるまで十分の休み時間がある。 新品の教科書をバッグから出していると、隣の席の女子生徒が早速話しかけてきた。 びっくりしたよ、小河坂くん 隣の席の女子生徒は、かのメイドさんである南星明日歩なのだった。 転入するって聞いてたけど、あたしのクラスに来るんだもん 俺も驚いたよ 世間って狭いんだね そのおかげで助かったよ なにが? いや、こっちの話 また今度、あたしの店に食べに来てね 今は金欠だから、すぐはちょっと難しいかな サイドボードを買って財布の中身は空っぽなのだ。 金欠だったらうちの店でバイトすればいいよ さすがにメイド喫茶でバイトは辛いな あはは、べつにメイド喫茶ってわけじゃないんだよ。あれはマスターの趣味でそうなってるだけだから 趣味って……よくそんな店でバイトしてるな そのマスター、危ない人なんじゃなかろうか。 バイトじゃなくてお手伝いね。その店、あたしの家なんだ。My自宅 その英語、意味かぶってるぞ。 で、あたしのお父さんがそのマスターなの 危ないマスターは父親らしい。 ……ますます危ないというか、娘にメイド服を着せてる父親ってどうなんだ。 あ、そうそう。それで気になってたんだけど、うちの店に来たときに小学校の話したよね? ああ、そういえば 俺も気になっていたのだ。 彼女はずいっと身を乗り出して、真剣な顔をして俺をまじまじと見つめた。 な、なんだ? 小河坂くんってさ、もしかして…… それはとんでもない至近距離。 息遣いまで感じられる、ありえない距離。 俺は慌てて身を反らして距離を離す。 ……彼女、近眼か? あの……南星さん? 明日歩でいいよ にこっと笑ってそう言った。 じゃあ……明日歩さん もう。呼び捨てでいいってば。あたしたち、クラスメイトでしょ? 俺は照れ隠しで首の後ろをかく。 じゃあ、明日歩 うん、洋ちゃん 名前でちゃん付け!? そ、それはちょっとどうかなと じゃあ洋くん? そっちも呼び捨てでいいよ それはさすがに恥ずかしいよ ……ちゃん付けのほうが恥ずかしいと思うけどな でも昔は洋ちゃんって呼んでたよね? 明日歩はもう一度、ぐいっと俺に近づいた。 俺はえび反りになりながら彼女の言葉を反芻した。 昔? 昔って、いつだ? 洋ちゃんって、あの洋ちゃんだよね? ……どの洋ちゃん? あたしもあとで思い出したんだけど、あたしたちって小学校一緒だったよね? クラスもずっと一緒だったじゃない。ね、頭でっかちの洋ちゃん? ………… こうしないと相手が見えないとでも言うように、至近距離で俺を見つめる南星明日歩という名の女子生徒。 そんな女の子が、たしかに過去の記憶に引っかかる。 当時の俺は彼女が言ったとおり頭でっかちで、本人はそんなつもりじゃなかったのだが、どこか周囲を見下した雰囲気があったのだと思う。 俺は誰からの遊びの誘いも乗ったことはなかったし、俺のほうから誘うなんてのは思いつきもしなかった。 だから俺には友達がいなかった。 俺が作らなかったのだ。 俺はそのことを気にしたことはなかったし、周囲だってそんな俺を放っておくのが常だった。 なのにいつもひとりでいた俺を心配からか怖いもの見たさからか、みんなの輪の中にやたらと入れたがる女の子がいた。 その子はそう、クラスの委員長をやっていて……。 あたしのこと覚えてない? あの頃もクラス委員やってたんだけどな その子はクラスをまとめていたしっかり者、というよりはムードメーカー的な女の子だった。 都会の学校ではツンデレ委員長がいたが、それとはタイプがちょうど真逆だろう。 南星明日歩はクラス委員としてなのか元来の性格からなのか、男子女子を分け隔てなくちゃん付けで呼んでいた。 頭ごなしに注意してクラスをまとめる委員長ではなく、あくまで友達のノリでみんなを自然と仲間の輪に組み込む委員長なのだった。 どう、思い出した? 思い出すもなにも、明日歩は目立ってたし忘れるわけないって あはは、ほんとかなあ。喫茶店で会ったときは他人行儀だったくせに 俺は雲雀ヶ崎出身だ。小学校時代の級友に出会うのはめずらしくもなんともない。 だけど相手も自分もすっかり忘れているものだと思っていたので、改めてこんな出会いがあるとくすぐったい。 そしてどこかうれしかった。 都会に引っ越したって聞いて驚いたんだよ。急な話だったからさ まあ、俺だって驚いたくらいだから 洋ちゃん、頭よかったよね。前と同じでこの学校でも学年トップを維持したりするのかな いや、都会ではそうでもなかったし やっぱり向こうの学校ってレベル高いの? いや、俺が勉強サボってただけ 洋ちゃん、昔もそんなふうに自分はさも努力してないって感じだったのに、いつもトップだったからなあ ほんとだって。もう頭でっかちはやめたんだよ じゃあ転入のとき、試験とかなかった? あったよ 結果どうだった? 点数は聞いてないから知らないけど ウソっぽいなあ ほんとだって さっきから楽しそうに話してるけど、おまえらって知りあいなのか? 俺の前の席に座っていた男子生徒が、興味津々で俺たちふたりを交互に見ていた。 洋ちゃんとはね、小学校が同じだったんだ あれ、小河坂って都会から引っ越してきたんだろ? 俺、もともとこの街出身なんだ。一度引っ越して出たんだけど、また戻ってきたんだよ ああ、なるほど 〈飛鳥〉《あすか》くんはあたしと小学校違うから、洋ちゃんとは初めてだよね 飛鳥〈未来〉《みらい》だ。まあよろしく頼むわ よろしく 変わった名だと思ったが、口にするのは失礼なので言わないでおく。 にしてもずいぶん中途半端な時期に転入してくるんだな。もう一ヶ月もしないで夏休みだってのに なんかワケありか? 相手は俺と違ってずけずけと口にした。 飛鳥さん、詮索は悪趣味だと思いますよ。それでも詮索したいのなら、もっと仲を深めてからにするべきかと と、今度は明日歩の前の席に座っていた女子生徒が参加してきた。 彼女の名前はもう知っている。 またお会いしましたね、転入生さん。今後ともよしなにお願いしますね こっちこそよろしく なんだよ、そっちももう知りあいなのか 少しばかりご縁があったんです あのときのケンカはどうなったのか、そのうち聞いてみることにしよう。 それにしても、姫榊さんともクラスメイトとは思わなかったな わたしは明日歩さんと同級生ですからね。ですのでわたしも明日歩さんと同じで、名前で呼んで構いませんよ 了解、こさめさん 呼び捨てにはしてくれないんですか? ……ええと 冗談です。わたしは飛鳥さんと同じで、小河坂さんと小学校が同じだったわけじゃありませんから あたしだけの特権だねっ おまえと同じ学校通ってたやつならほかにもいるだろうがよ でも洋ちゃんのこと真っ先に思い出したのはあたしだからね 明日歩さんだけが思い出すわけじゃないと思いますよ いや、俺がこの街を出たのってだいぶ昔だし、ほかに誰も思い出さなくても不思議じゃないよ ほらほら、あたしだけの特権だねっ ここは小河坂さんの名誉のために否定すべきところだと思いますよ 小河坂、教科書とかはあんのか? ちゃんと買ってあるよ わあ、新品。いいなあ 誰もが最初は新品だったんですよね 七月の今になってまだ新品のままだったら、そいつの学習態度がわかるってわけだ なんであたしの教科書と洋ちゃんの教科書を隣りあわせで比べるんだよ~! 装丁が新しいのはむしろ誉めるべきところですよ。それだけ大切に扱っているということですから 南星の場合は外がキレイで中が汚いけどな、イタズラ書きが満載で 勝手に人の教科書見ないでよ~! これでは救いがありませんね、くわばらくわばら 友達だったら少しはフォローしようよ~!! 俺は苦笑して目の前の光景を眺めていた。 このクラスに入る前は緊張と不安が多かったのに、今ではそんな気持ちはキレイさっぱり消え失せていた。 俺は、このクラスでうまくやっていけそうだ。 俺が覚えていた相手はなにも展望台の彼女だけじゃない、もうひとりいたんだから。 洋ちゃん、あたしの教科書と交換しない? 見た目は同じだしべつにいいよね? ……いや、夏目漱石の額に肉って書いてある教科書なんか使いたくないから ヒバリ校の授業内容はちょうど以前の学校と同程度に進んでいたため、特に慌てることなくスムーズに入っていけた。 もしも授業に置いていかれるようなら成績のほうを覚悟するしかなかったわけだけど。 その危険はないようだった。またひとつ心配が消えた。 そんな安心からか、俺は隣席の明日歩をぼんやりと眺めていた。 俺たちが隣になったのは、明日歩がクラス委員だからのようだ。転入生に対する先生の配慮なんだろう。 久方ぶりに再会した彼女は昔と変わらず、授業中に当てられると至極真剣にはきはきと答えていた。 その答えは間違っていることが多いのだけど、気持ちよく答えるので先生も特に怒ることはない。 教科書の落書きを見るに、不真面目な授業態度なのかと思ったのだが、そうでもないようだ。 ただ、彼女はたぶん集中力がないようで……。 また船を漕ぎ出した。 完全に眠ってしまったら、隣の席のよしみで起こしてあげることにしよう。 ほかにも明日歩は、休み時間になれば友達からの頼みごとに笑って応じたりと、嫌な顔なんか一度も見ていない。 さっきの休み時間には、俺にヒバリ校の校舎の構成を丁寧に教えてくれた。 このヒバリ校は、一階に一年生のクラス、二階に特別教室、三階にあたしたち二年生のクラスが並んでるんだよ で、最上階の四階は三年生のクラス、さらにその上は屋上になってて、そこは基本的に一般生徒は立ち入り禁止になってるの 都会の学校では屋上は自由に出入りできたし、昼休みはそこでよく弁当を食べていたものだが、ヒバリ校では無理のようだ。 その代わりヒバリ校は中庭が開放されてるんだよ。天気がいい日だと、昼休みは生徒であふれ返ってるんだ お弁当持ってきてる生徒だけじゃなくて、学食のメニューを中庭に運んで食べる生徒も多いの 学費と一緒に学食の食費も最初に払うシステムとなっているヒバリ校なので、弁当持参の生徒は少ないと思ったが、たしかにそれなら中庭は賑わいそうだ。 洋ちゃんがいた都会に比べたら、雲雀ヶ崎の空気はおいしいと思うし 食事中でも建物の中にこもってる手なんてないよ 学校の敷地が狭い都会では中庭のないところもあるくらいだったので、感動もひとしおだ。 でもまあ、あたしは学食で食べるほうが多いんだけどね 中庭だと、スカート汚れちゃうからね 最後に明日歩はぺろっと舌を出していた。 そんな明日歩はみんなのムードメーカー。クラスの人気者。 昔と、そして今も改めて感じる彼女の印象だ。 ……また船を漕ぎ出したな。 午前の授業がすべて終わる。 転入初日の昼休みは憂鬱だったりする。 まだ親しい友人もできていない俺は、場所もよくわからない学食を探して、ひとり歩き回ることになりそうだ。 学食の食費は授業料と一緒に払ってあるので、財布がサイドボードのせいで空っぽでもなんとかなるのはありがたいのだが。 問題は朝食代と夕食代なんだよな……。 今は詩乃さんに甘えていても、いずれバイトをして自分と千波の分くらいはなんとかしたい。 ね、洋ちゃん てっきり今ごろクラスメイトと学食に向かったと思っていた明日歩が、妙にうずうずした感じで声をかけてきた。 お昼は学食だよね? ああ、そうだよ 明日歩は待ってましたとばかりに身を乗り出した。 ……顔が近くてのけぞった。 どうも彼女は相手と話すときの距離がやけに近い。 いつもそうというわけじゃなく、ふとした拍子なのだろうし、それはもちろん俺限定というわけでもないのだが。 あたしもお昼はたいてい学食。ていっても、この学校の生徒はほとんど学食だと思うんだけど まあ、もう食費払ってるし、弁当とか購買だともったいないからな いちおう食費払うのは希望制みたいなんだけどね。でもいつのまにか払うのが普通になっちゃったんだって 弁当用意する親は大変だろうし、購買で買うのは金かかるし、学校の圧力じゃないか? そうなのかも、と明日歩は笑って肯定した。 あ、じゃあ学食って、券売機で食券買うわけじゃないのか うん、そうだよ。お昼になると、カウンターのトレーにもう料理が載ってるんだ。ちゃんとメニュー別にね 好きなメニューを各人が勝手に持っていくと うん だったら希望制をやめたのは、食費払ってない生徒が内緒に食べるのを阻止するって意味もあるんだろうな そんな心配があるんなら、最初からお金入れる券売機にすればいいのにね その食堂、あまり広くないんじゃないか? あ、うん。全員入りきれないから、中庭で食べる生徒も多いくらいだし 食券を購入するシステムにすると券売機の前に列ができて、ただでさえ狭い食堂がすぐ混雑する。だから今のシステムになってるんだよ 料理をあらかじめ作っておくと残って無駄になる場合もあるけど、多人数分だったら一食の材料費なんてたかが知れてるし レストランの普通盛りと大盛りの値段が大して変わらないのだって、材料費じゃなくて技術料として値段を算定しているからで…… 洋ちゃん、やっぱり洋ちゃんだね ……なんだそれ 昔と同じで頭でっかちの洋ちゃんだった 何気にショックなんですが。 学食の場所、知らないよね? ああ。これから探し回ろうと思ってたとこ あたしが案内してあげるよ そう言って明日歩は席から立ち上がる。 こさめちゃん、今日は洋ちゃんも一緒でいいよね? 構いませんよ。お昼を一緒して親睦を深めたのちに行う明日歩さんの作戦も黙認しておきますね なんだろう作戦って。 南星、おまえまさか…… そうじゃないってば! あたしは洋ちゃんと過去の思い出を語りあいたいから誘っただけだもん! じゃあオレが一緒でも問題ないよな ……えー 露骨に嫌そうな顔すんなよっ だって飛鳥くん、あたしのこと邪魔しそうだし…… いいカモが向こうから飛び込んできたんだ、放し飼いにしておくのはもったいないだろうが やっぱり邪魔するんだ~! 洋ちゃん捕らえるのはあたしだからね! 弱い犬ほどよく吠えるんだよ、それはカモ狩りの犬も同じってことだ あの……さっきから話が見えないんだけど…… 焦らなくても、カモさんにもいずれ理解できますよ 焼いて食われたあとじゃ遅いんじゃなかろうか。 なにはともあれ、転入初日の孤独な昼休みは免れたようだった。 ヒバリ校の学食は、以前の学校に比べるとだいぶ狭くて席数もあまりない。 それでも混雑しているように見えないのは、メニューが置かれたカウンターが広くて列ができないのと、あとは食堂以外でも食事できるシステムのおかげだろう。 いちおう先に席取っておいたほうがいいかな わたし、座って待っていますね 了解、メニューはいつもの? はい、サンドイッチセットで 洋ちゃんも座って待ってていいよ。なにがいい? あ……ええと メニューは和洋中なんでもござれだ。嫌いなものは? マヨネーズ以外ならなんでも 洋ちゃん、マヨネーズ嫌いなんだ ……家庭の事情でな 適当でいいなら、運びやすいどんぶり物にするけど いや、俺も自分で取りにいくよ 小河坂さんはある意味ゲストなんですから、席に座ってのんびり構えていて結構ですよ ……それはつまり、その後に焼いて食われるから? こさめちゃんひとりで四人分も席取ってるとほかの生徒ににらまれちゃうし、洋ちゃんも残って欲しいな 小河坂、メニューは? ……じゃあ親子丼で ラジャ 小河坂さん、わたしたちはお茶を持ってきましょう。席取りをするときは、その席にお茶を置いておくのがこの学食のルールなんですよ ふたりがカウンターに向かったのを横目に、俺とこさめさんは四人分のお茶を入れてから席に座った。 なんだか慣れてらっしゃいますね まったりとお茶をすすっていると、こさめさんが不意に言った。 なにが? ヒバリ校の生徒として、雲雀ヶ崎の住民として、もう馴染んでいるという意味です そうかな はい。都会からの転入生と聞いていたので、わたしたちとはどこか雰囲気が違うんじゃないかと思っていたんです 雲雀ヶ崎は、小河坂さんの住んでいた街に比べるとずっと田舎でしょう? たしかに。あ、悪い意味じゃなくて いいんですよ。住民の皆さんだって思っていることなんですから こさめさんは頬に手を当てて苦笑いする。 この街は、観光客の方々は物珍しがって喜ぶのでしょうけど、小河坂さんのように引っ越してきた方には不便な街だと思いますから 雲雀ヶ崎は電車もバスも本数が少ないし、デパートも100均も見当たらず、カラオケやゲーセンなんかの娯楽施設も少ない街なのだ。 だから、わたしたちとはなかなか打ち解けてくれないんじゃないかと心配だったんです それは、転入生が雲雀ヶ崎を嫌いになるから? こさめさんは控えめにうなずいた。 なら、その心配はいらないな 小河坂さんは、もともと雲雀ヶ崎出身ですものね それだけじゃない、俺はこの街が好きなんだ こさめさんは驚いたようだった。 あ、そうそう。俺も聞きたかったんだけど なぜ好きなのか理由を尋ねられる前に、話題を変える。 前に、この学校の校門でケンカしてたよな。ほら、明日歩ともうひとり…… 姉さんですね。名前は姫榊こもも。わたしの双子の姉なんです そっくりだったわけだ。 あれ、あのあとどうなった? 一時的な停戦には成功しましたよ じゃあまだケンカ中なのか 明日歩さんと姉さんは会うたびになにかといがみ合いますから。同じクラスじゃなくてホッとしているんです なんでそんなにケンカしてるんだ? 主に天クルが原因ですね ……天クルって? おそらく食事中にその謎は解けますよ お待たせ~! こちらサンドイッチセットと親子丼になりま~す! 明日歩が、いつかのメイドさん風にトレーを持って帰ってきた。 それじゃ、冷めないうちに食べちまうか こさめさんの横に明日歩が座り、俺の横に飛鳥が座って四人でいただきますをした。 食べ終わったら、どっちがこの無垢なカモを生け捕るか正々堂々と勝負…… 洋ちゃん、天体観測に興味ない? おまえ早えよ!? わあっ、汚い~! ご飯粒飛ばさないで! 抜け駆けすんなっ、まずは順序ってもんがあるだろ! 順序もなにもそっちが勝手について来ただけじゃな~い! 転入生にはどの部活にも平等に権利があるだろうが! あたしたちの天クルはそんなこと言ってられない状況なんだよ~! 勧誘となると、今度は明日歩さんと飛鳥さんがいがみ合うことになるんですね 騒々しいふたりを前に、こさめさんはのんびりとサンドイッチを食べていた。 なあ小河坂、おまえ趣味は? 飛鳥が突然、俺の肩に馴れ馴れしく腕を置いた。 特技はなんだ? よく読む雑誌は? よく聞く音楽は? 好きなテレビ番組は? は、はあ? 徹夜は平気か? 夜目は利くほうか? フー・ファイター事件をどう思う? アブダクションされたことは? ……どれから答えればいいんだ。 その質問嵐のどこが順序を守ってるんだよ~! 生誕137億年と呼ばれるこの広大な宇宙には地球人以外の知的生命体が息づいているとは思わないか? 137億年がなんだよっ、こっちは137億光年の先にある星座のロマンに想いを馳せられるんだよ! そんな宇宙の果てにまで星座はなさそうだが。 星座なんか所詮人が作った遊びだろ、なあ小河坂、こっちは人類の〈叡智〉《えいち》も及ばない神秘をこの目にできるかもしれないんだぜ? 洋ちゃんはあたしが先に唾つけたんだよ~! 飛鳥くんはひとりでUFO追いかけてたらいいじゃない! うちのオカ研は常に有能な人材を探してるんでね そのオカ研って部室もないし天クルよりも弱小のくせに~! オレがいる場所、そこがオカ研なのさ 要するに部員は飛鳥くんしかいないってことじゃない~! 俺はわけもわからず、黙々とサンドイッチをついばんでいるこさめさんに聞く。 ……さっきからなんの話? 部活勧誘の話ですよ 洋ちゃん、あたしたちの天クルに入るよね!? いーや、オレのオカ研だよな? ……なるほど。とりあえず合点はいった。 俺は転入生でまだどこの部活にも所属していない。それを狙っているんだろう。 昼食を誘われた理由も判明したわけだ。 オカ研はオカルト研究部ってわかるけど……天クルって? 天体観測愛好サークル、略して天クルだよ 要するに天文部ということか。 部員が少なくて部活として認知されない弱小サークルってことな もっと弱小のオカ研に言われたくないよ~! 小河坂さんは、どこか入りたい部活はもう決めているんですか? その前に、部活って必ず入らなきゃいけないのか? 部活に入るつもりなんて毛頭なかったというのに。 放課後はバイトがあるし……と、こっちも許可されているのかあとで確認しておかないと。 それに、放課後にはもうひとつ予定がある。 展望台の彼女の名前を思い出すためにも、なるべく早めにしておかなければならない用事だった。 部活の所属は必ずというわけじゃないですけど、ほとんどの生徒は入っていますよ この街、田舎だろ? 帰宅部になったって遊ぶ場所なんかねえから、暇するよりは部活するんだよ 塾に通うために帰宅部になる人もいるけど、それも少数派なんだよね ヒバリ校は進学校というわけじゃありませんからね だから小河坂、オレと一緒にUFOシグナルを受信して宇宙人とコンタクトを計ろうぜ そんな危ない人になっちゃダメだよ洋ちゃん~! 天クルなんか入ったら日がなトランプ三昧になるのがオチだ、こっちのほうがずっと健康的だぜ オカルトに比べたらトランプのほうがずっと健康的だよ~! わたしには五十歩百歩に聞こえますよ スクリーンに天体図映して眺めるの飽きたって言ってトランプ持ってきたのこさめちゃんなのに~! 今度は花札にしますか? それこそ五十歩百歩だよ~! それよりもすっかり冷めた昼食はどうしたものか。 なんにしろ俺は部活に入るつもりはないので、親子丼の具をくずしながらどうやって断ろうか思案中だった。 お願い洋ちゃんっ、天クル入ってくれたら正真正銘の部活として発足する野望に一歩近づくんだよ~! オレのオカ研にそんな姑息な意図はねえぞ、ただ純粋に宇宙人と人差し指を突きあわせて自転車で空を飛ぶために活動するんだからな だから危ない人だよそれ~! オレが見たところ小河坂はアブダクションされトランスミッションを埋め込まれた過去を持っている。すでにオカ研に入ることを運命付けられているのさ そんなバカな運命あるわけないよっ、だって洋ちゃんは天クルにぴったりな転入生だもん! いや、悪いんだけど俺は…… 洋ちゃんはうちの店に来たときに言ったもん! 矢継ぎ早の大声に、食堂で歓談しながら食事中だったほかの生徒が何人か振り向いた。 洋ちゃんはヘルメスの竪琴がこと座の神話だってわかってくれたもん! にぎやかな場所でもよく通る明日歩の声。 その言葉は、俺の胸にも通ったようだ。 ……天クルって、具体的にどんな活動するんだ? 少し興味が湧いた。 一度でいい、天体観測をやってみたくなった。 俺はもともと、星が好きというわけじゃなかった。展望台の彼女のために星に詳しくなっただけだ。 ただ知識を得るために天文図鑑を読みあさっていただけだった。 だから俺は、天体望遠鏡を使ってまともな天体観測をしたことなどなかったのだ。 明日歩の驚いた表情が、歓喜の色に変わっていった。 天クルはね、望遠鏡で夜空の星を眺めるんだよ。それで写真を撮るんだよ ほかには? それだけだよ。それだけでも、すごいんだよ 星ってね、すっごいんだから! どう表現していいかわからないのか、明日歩は天体観測の素晴らしさというものを身振り手振りで説明しようとしていた。 その必死な姿が、どこかかわいらしくもあった。 ……なんだよ小河坂、オレを裏切るのか? いや、最初からオカ研に入るつもりはないし オレと一緒にヘブンズドアを開く儀式で宇宙意思とチャネリングと洒落込もうぜ! それ危ない人だから ひでっ! では、天クルに入っていただけるんですか? こさめちゃんも部員なんだよ。洋ちゃんが入ってくれたらこれで五人目! それなんだけど、今はまだ保留でいいか? 明日歩とこさめさんは目をぱちくりする。 俺、放課後はバイト探さないとだし、ほかにもちょっと用事があってさ 前も言ってたよね、金欠だって ああ。この学校、バイトって平気か? 先生に理由を話して許可をもらえば平気ですよ。明日歩さんもそうしていますし あたしのは家事手伝い扱いだけどね なんでまたバイトなんかするんだ? ちょっとな カメラ買いたいんならデジタルカメラはやめとけ。UFOや心霊写真を撮るなら、やっぱりフィルム式をオススメするぜ そんなのより断然望遠鏡のほうがいいよ! 値段が高いと思ったら天体観測用の双眼鏡も安くてオススメだよ! ……買いたいのがあるからバイトするわけじゃないからさ 天クルはバイトしながらでも活動できるよ、だって天体観測は夜になってからが本番だからね! 明日歩さん、これ以上は小河坂さんを困らせるだけだと思いますよ あっ……うん こさめさんはにっこり笑って俺に向き直る。 小河坂さん、もしバイトの時間に余裕があったら、一度天クルの見学に来てくださいね いつでも待ってるよ、洋ちゃん! 俺は苦笑して了解と答えた。 それから俺たちはようやく昼食にありついた。 冷めていたけど、味は悪くなかった。 放課後となって、スクールバッグに教科書類を詰め込んでから席を立つ。 洋ちゃん、これからバイトの許可もらいにいくの? そのつもりだ。どの先生に言えばいいかな 担任の先生で大丈夫だよ。教務室の場所、わかる? そこはもう何度か行ってるから そっか。バイト、どんなの探すの? まだぜんぜん決めてないよ よかったらうちの喫茶店でやらない? スタッフがお父さんとあたしだけだからいそがしくてさ メイド喫茶じゃないから、男性スタッフも募集中だよ それはまあ、考えとくよ うん、天クルの見学と一緒に待ってるね 軽く手を振りあって、廊下に向かう。 ちなみにオカ研も男性スタッフ募集中だぜ ……バイト代が地球通貨じゃなさそうだからやめとくよ バイト許可は滞りなく下りた。 先生は俺の家庭事情を知っているので、生活費のためと言ったら一発だった。 とりあえず感謝。 最後にがんばりなさいと励まされたが、そっちのほうはむず痒いというか、よけいなお世話というか。 俺はべつに、自分の境遇が不幸だとは思っていない。 次に俺は階段を登り、三年生のクラスが並ぶ四階にやって来た。 今日、放課後にこのヒバリ校でやらなければならない用事はみっつある。 ひとつ目はバイトの許可をもらうこと。 これはもうすんだので、ふたつ目の用事のために俺はこの階に出向いたわけだ。 俺はこれから、名前を忘れてしまった展望台の彼女を訪ねて回ることになる。 廊下ですれ違う上級生の顔を確認する。 三年生の教室をこっそり覗いては、放課後の解放感を満喫している女子生徒の顔を眺め回す。 俺は、展望台の彼女の名前を忘れてしまった。 だけど彼女の顔まで忘れてしまったわけじゃない。 記憶の中の彼女は幼い女の子のままだけど、たとえ成長したってどこかに面影は残っているだろう。 その面影があれば見逃さないはずだ。 だからこうしてヒバリ校三年の女子生徒を訪ね回る。 彼女は雲雀ヶ崎出身だ。展望台で遊んでいたことから、これは間違いない。 そして彼女は俺よりも年上。実際の歳を教えてもらったことはないが、あの頃の態度からして間違いない。 とすれば彼女はヒバリ校の生徒である可能性があり、今も在校しているなら三年生でしかありえない。 ヒバリ校の生徒じゃないなら無駄足だし、生徒だとしても卒業していたらこれもまた無駄足になるのだが。 それでも俺は確率が低いからといって無下にはしない。 諦めたら後悔が待っている。 過去の「僕」が、ふくれっ面でそう言っている。 奇異の視線が俺に多数刺さっていた。 見知らぬ生徒がうろついていて、しかもクラスを覗き見しては立ち去っているのだからしょうがない。 居心地が悪く、早く彼女を見つけたい気持ちに拍車がかかる。 だけども彼女の姿は見当たらない。 三年の全クラスを覗いてみたが、結局展望台の彼女らしき生徒は見つけられなかった。 ……もう帰ったのかもな 放課後なのでその可能性もあった。 次は放課後じゃなくて昼休みに探すことにしようか? しかしそれでも、三年の全女子生徒と確実に出会えるわけじゃない。 たとえば授業中にでも全クラスを覗けば、全女子生徒を確認できるだろうけど。 それを実行したら、俺は不審生徒のレッテルを貼られる。その後に生徒指導室に軟禁だろう。 ……明日、また改めて探すことにするか。 それに彼女を探す方法はまだあるのだ。 今日のところは引き下がるとして、俺は次に図書室に向かうことにする。 特別教室が並んでいるのは二階だったはずだ。 ………… 階段に向かって歩いていると、また新しい女子生徒を見かける。 さっき探したときは見なかった顔だ。ちょうど今、この階に戻ってきたのかもしれない。 たぶん彼女も三年の生徒だろう。 だけど彼女は、展望台の彼女じゃない。 俺の想い出がそう告げている。 三年のクラスになにか用か すれ違う途中で声をかけられた。 キミは二年の転入生だろう。キミのクラスがある階は三階だ。迷子にでもなったのか ……あ、いえ、そういうわけじゃ と、この中性的な口調が記憶にひっかかる。 では、なんの用だ 人の事情を突っ込んで聞いてくるその態度にも覚えがあった。 ……この学校の生徒だったんですね そうだ。やっと思い出してくれたのか 向こうは最初から思い出していたようだ。 名前は知らないが、彼女は展望台に行く途中のフェンスの前で出会った人だ。 それで、キミはどうして三年のクラスを見て回っていたんだ? ……見られてたのか? 俺がクラスを見て回っている間、彼女の姿はなかったと思うのに。 私の質問に答えてくれないのか? ……その前に 誤魔化すように返す。 なんで俺が転入生って知ってるんですか? キミがこの前自分で言っていたじゃないか。この雲雀ヶ崎に引っ越してきたばかりだと 転入生が今日ふたりヒバリ校にやって来ることも、教師から事前に連絡があったんだ ……そうですか 次は、そろそろ私の質問に答えてもらおうか べつに答える必要はないですよね? あると思うが ギブアンドテイクって流行らないですよね? むしろ日本人としての礼節じゃないのか ……なんか俺に突っかかってません? それはキミのほうだと思うが それじゃあ俺、急ぐんで どうもこの人は苦手だった。俺を検分しているような目つきが特に。 まあ、急用があるのであれば仕方がないか 妙に物わかりよくつぶやく彼女に背中を向けて、俺は階段を下りていった。 扉の上にかかっているプレートに注意して探していると、図書室はすぐに見つかった。 内装は、前の学校の図書室と大差ない。どこの学校も図書室というのは変わらないのかもしれない。 貸し出しのシステムだって変わらないのだろう。 ……と思ったら、手書きの貸し出しカードだ 都会ではバーコードで貸し出しの本をチェックしていたが、手書きのほうが雲雀ヶ崎らしいかもしれない。 あれ、小河坂さん 受付に座っていた女子生徒が顔を上げると、その子はこさめさんだった。 こさめさん、図書委員だったのか そうですよ。今日は当番の日だったんです こさめさんは整理していたらしい貸し出しカードをカウンターの脇に置いた。 あ、ごめん。仕事してていいから 気にしないでください。図書室で本を借りる生徒はあまりいませんから、いつも暇を持て余しているんです 図書室には生徒の姿がほとんど見えない。前の学校と違って勉強に勤しむ生徒も少ないようだ。 委員会は部活と違って所属したがる生徒はあまりいませんので、ある意味こちらも勧誘の危険がありますよ ……委員会の勧誘なんてあるのか? 特に生徒会が行っていますね。生徒会役員の方は立候補だけじゃなく、推薦で選ばれることも多いですから まさか転入生をいきなり推薦はないと思うけどな 小河坂さんは前の学校では、委員会に所属していたんですか? いや、してないよ 部活は? してないかな やっぱり ……なんで? 小河坂さんは塾に通っていたんじゃないですか? いや、通ってないけど こさめさんは小首をかしげる。 てっきり、そうだと思っていたんですけど なぜだろう。 わたし、小河坂さんの転入試験の点数を知っているんですよ ……え 生徒会役員の姉さんから聞いたんですけどね。生徒会には生徒の成績を把握する義務があるそうですから ヒバリ校の生徒会はけっこう幅を利かせているようだ。 ……あまり関わりあいにはなりたくないな。 こさめさん、俺の点数って誰かに言ったか? 言ってませんよ。生徒会役員の方も公表することはありませんから、一般生徒には知られていないと思います 小河坂さんの成績は、とても優秀だって だから委員会や部活じゃなくて、塾と結びつけたわけか。 それ、誰にも言わないでくれるか? それはいいですけど、テストが実施されれば皆さん知ることになると思いますよ ……もしかして、テストの上位者は掲示板に名前が貼られたり? 中間と期末のテストは各教科ごとにトップ10の方まで並びますよ 俺は天を仰いだ。 ……どうしたんですか? いや……ちょっとトラウマが…… ……そうなんですか? テストの成績が優秀なのは誇るべきことだと思いますよ 子供の頃に雲雀ヶ崎を出て、都会の学校に転入したときのことだ。 頭でっかちの俺は、クラスに馴染むより先に行われたテストで、全教科学年トップをたたき出してしまった。 ……そうしたら、クラスで浮いた。 小河坂さんの転入試験の結果は、学年総代に選ばれてもおかしくない成績だったそうですよ ですから、姉さんは小河坂さんを生徒会にスカウトする気満々みたいです。気をつけてくださいね 勘弁してくれ……トラウマがうずくから 困ったことになったらいつでもご相談くださいね。わたしは姉さんの味方ですけど、小河坂さんの味方でもありますから こさめさんのような生徒ばかりだったら、昔の俺も苦労せずにクラスの一員になれたのかもしれない。 小河坂さん、今日はどんなご用で図書室にいらしたんですか? ああ、そうそう。探したい本があって どんな本ですか? 二冊あるんだけど。しかもちょっと特殊な 図書委員のわたしにかかれば、学校が所蔵している本ならどんなものでもお見せすることができますよ それじゃ、そんなこさめさんにあやかって 俺は本日みっつ目の用事をこさめさんに話した。 ヒバリ校の卒業アルバムと、記憶喪失に関する本を、俺に見せてくれないか? ヒバリ校の卒業アルバムは、展望台の彼女がここの卒業生かどうかを確認するために。 記憶喪失に関する本は、展望台の彼女の名前を取り戻すために。 彼女と再会を果たすために、やれるだけのことはやっておきたかった。 ヒバリ校は今年で創立五十五年目となります。そのため卒業アルバムは全部で五十二冊となっています 数字が合わないのは、一期生が卒業するまでは卒業生がいなかったためですね ヒバリ校は開校した当時、木造校舎だったそうです。体育館もプールも学食もなく、この図書室を始めとする特別教室もありませんでした また、通学路の夢見坂もほとんど整備されておらず、通いやすい学校とはお世辞にも言えなかったようです それでもこの場所にヒバリ校が建てられたのは、様々な理由があったそうなのですが…… 理由のひとつに、高台であることが挙げられます ヒバリ校は創立一年目にして、なんと天文部が存在していたんですよ そこまで言って、こさめさんは恥ずかしそうにほほえんだ。 そんな伝統的な部が、今では天クルと名を変えて、しかも部ではなくサークルになっていますけどね このように天文部は衰退したのかもしれませんが、ほかのところは市と学校が協力し、工事を重ねて今のヒバリ校と夢見坂に変えていったそうです 偉大な〈先人〉《せんじん》に感謝ですが、後代の天文部のためにせめて天体望遠鏡くらいは残して欲しかったですね こさめさんはそんなふうにヒバリ校の歴史講座を終えた。 天クルって、天体観測のサークルだろ? なのに望遠鏡がないのか? はい。どうも古くなって廃棄処分されたそうです。わたしが入学したときにはもうありませんでしたよ じゃあどうやって天クルは活動しているんだろう。 いちおう一台はあるんです。ですけどそれは、明日歩さんの私物なんですよ 二十万円もする天体望遠鏡を、喫茶店のお手伝い代をためて買ったって言ってました ……それはすごいな それでも安いほうなんだそうですよ。明日歩さんはもっといい天体望遠鏡が欲しいみたいです 明日歩はよほど天体観測が好きなんだな。 それより、この卒業アルバムをどうするんですか? もちろん見るんだよ 長机にずらりと並べられた卒業アルバムは壮観で、ヒバリ校の歴史の深さを物語っていた。 どうして卒業アルバムを見たいのか、理由を尋ねてもよろしいですか? できれば尋ねないで欲しいかな わかりました。それではわたし、小河坂さんがお探しのもうひとつの本を探してきますね こさめさんの心遣いがありがたい。 記憶喪失関連の書籍なんて置いてあるのかわからなかったのだが、こさめさんは奥の棚へと歩いていった。 そっちはこさめさんに任せて、俺は五十二冊の卒業アルバムに向き直る。 一冊を開くと、ちゃんと卒業生の顔写真も載っていた。 これなら調べられる。 この中から、俺は彼女の顔写真を探し出す。 そうすればそこには名前も載っている。俺は彼女の名前を取り戻すことができる。 さらにアルバムには住所だって載っているから、俺は彼女に会いにいくこともできるのだ。 ……よし 気合を入れる。 卒業アルバムはなにも全冊調べる必要はない。 展望台の彼女は俺より年上と言っても、十歳も離れていることはないだろう。 つまり年代的にありえない卒業アルバムを除くと、調べるのは十冊未満に抑えられる。 ……全部の年代の卒業アルバムを出してもらう必要なかったな こさめさんに心でお詫びする。 俺は椅子に深く腰を下ろし、近い年代から順にアルバムを開いていった。 ……………。 ………。 …。 小河坂さん、どうですか? ………… もう夕方になってしまいましたけど……まだ終わりませんか? ………… そろそろ図書室を閉める時間ですけど…… 俺は眺め終えたラストの卒業アルバムを閉じ、屍のように顔を突っ伏した。 いくら探しても展望台の彼女の顔写真は見つからず、気がつけば五十二冊まるまる目を通すはめになっていた。 白黒写真に載っているのを見つけたら、嬉しさよりも恐怖のほうが大きいと思う。 ……ごめん、こさめさん。長々と居座って そんなの気にしないでください。それより、調べ物のほうはうまくいきましたか? 残念だけど、うまくいかなかったよ こさめさんも残念そうな顔をする。 貸し出しもできますけど、どうします? いや、いいよ。卒業アルバムはハズレだったから 展望台の彼女はヒバリ校の卒業生ではない。 在校生か、もしくはほかの学校の生徒なのだ。 雲雀ヶ崎に建つ学校はヒバリ校だけじゃない。 全部でいくつあるかは知らないが、ヒバリ校の生徒じゃないとしたらその他の学校も調べるしかなさそうだ。 ……でも、どうやって調べればいいんだろう。 では、こちらの本はどうしますか? こさめさんは一冊のハードカバー本と、二冊の新書本を抱えていた。 記憶喪失ということで医療関係の棚を探してみたんですけど、この三冊くらいしか見つからなくて…… 充分だよ。ありがとう こさめさんは応えるようににこっとほほえんで、俺の貸し出しカードを作る準備を始めた。 ほんと、こさめさんがいてくれて助かった お礼には及びません。図書委員としてお役に立てて、わたしも嬉しかったですから こさめさんがカードに書いた小河坂洋の名前は、綺麗で優しい文字だった。 図書室で借りた本が入ったスクールバッグを手に、帰り道に展望台に寄ってみる。 そこで俺は彼女の登場を待つことになるだろう。 展望台の彼女の登場、そしてもうひとり。 メアという名の死神少女──── 俺にはメアに尋ねたいことが山ほどある。 本当にキミが、展望台の彼女の名前を奪ったのか? キミが悪夢と言った展望台の彼女の名前を、その大きなカマで刈ったのか? あのカマはなんなんだ? なぜ俺の胸に刺したのに、傷ひとつつかないんだ? 刺されたときのあの感触はなんなんだ? あの優しくて切ない感覚はなんなんだ? どうしてキミは、そのときに、泣いたんだ……? メアには不可解なところが多かった。 まずその衣服。死神を名乗るからには、死神装束と呼ぶべき衣装なんだろうけど。 そして手に持つ大きなカマ。これもまた死神だからこそ持っていて、刈るのは命ではなく悪夢らしい。 ほかにも、彼女はどうも俺のことを昔から知っているらしく、俺の悪夢を刈るために展望台で待っていたようだ。 だが俺は子供の頃、あんなけったいなカマを持った少女になんて出会ったことがない。 そもそも当時の年齢を考えると、メアは赤ん坊か幼稚園児ということになる。メアはそれを否定してはいるけれど。 メアの素性は謎に満ちている。親もいなければ家もない、歳を取らなくて生まれたときから死神らしい。 ……なんだその人外設定は。 死神なんだから人じゃなくて神なのかもしれないが。 飛鳥あたりに話したら喜びそうな話だが、俺にはメアが体よくウソをついているとしか思えない。 そして、これは些細かもしれないが、もうひとつ人外な謎がある。 それは彼女が俺の前からいなくなる光景。 あの夜……。 俺がメアから悪夢を刈られたあと、彼女は姿を消した。 あっという間の出来事だった。 俺が混乱していたせいかもしれない、メアが俺に背を向けて普通に歩いて坂を下りていくのを見逃していただけなのかもしれない。 あのときの俺は興奮状態にあった。正常な思考になく、視覚情報を脳でまともに処理できていなかった。 だが冷静になってから思い返すと、俺はメアと何度か展望台で会っているのに、メアが展望台から帰っていく姿を目撃したことがない。 なのに彼女は気がつくといつもいなくなっている。 不思議には思っていた。 空の星明りが雲に隠れ、視界が一瞬靄がかったように暗くなると、メアの姿は忽然と消えるのだ。 だがそれは一種の錯視だと思っていた。 人の視覚は明暗に対して弱い。急な視界の変化に対応できず、情報の処理が遅くなる。 メアが俺の横を通り過ぎて帰っていく際、急に視界が暗くなったため、消えたと誤認しただけなのだと考えていた。 あの夜も、メアは俺の胸にカマを刺したまま、そのカマごと俺の目の前から姿をかき消したように見えた……。 それが、俺の興奮状態による錯覚なのか、明確な事実なのかを探るためにも、俺はメアに会わなければならない。 メアが自然の摂理じゃない、超常現象的に俺の目の前から消えるのかを確認しなければならない。 たとえ信じるのが難しくても、彼女が人でなく本当に死神なのだとしたら、展望台の彼女の名前を刈り取ったのも彼女なのだと信じられるから。 でなければ──メアが原因でないのなら、展望台の彼女の名前を忘れたのは俺自身のせいになる。 俺自身が、大切な彼女の想い出を曇らせたことになる。 想い出、美化しすぎかな…… 俺はどうも、展望台の彼女という存在を、宝物のように扱いたがっているようだ。 陽が落ちる頃、晴天だったはずの空は曇り出していた。 今夜は星が見えない。どんよりと重そうな雲がその奥の光を完全にさえぎっていた。 ……メアは、星が見える夜に展望台に来るんだよな。 今日は来ないのだろうか。 たぶん来ないのだろう。 メアの連絡先も、展望台の彼女同様、俺は知らない。 聞いておくべきだったかな……これもまた怠慢ってやつなんだろうか。 なんか聞いても「死神に連絡先なんてないわ」と一蹴されそうな気もするが。 俺は夜が更けるまで、冷たくなった芝生に腰を下ろして憂鬱な曇り夜空を見上げていた。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 結局メアに会えずじまいで帰宅すると、千波が債務者を追いかける借金取りもあわやの速度で走ってきた。 どうしたのなにがあったのなんでこんな遅い時間に帰宅なのっ、もしかして学校でイジメられたのクラスに馴染めず傷心だったのっ、そんなときこそ千波の愛情がっ うるさいので千波の額に冷えきった手を当てた。 お兄ちゃん手が冷たいよっ、いくら千波の愛情があたたかいからってカイロ代わりはどうかと思うよっ、千波寒くて凍死しちゃいそうだよこのままじゃ! 人の死のうちで一番美しいのは凍死なんだぞ? なにその満足そうなとびきり笑顔!? あらあら洋ちゃん、今日は遅かったわね ちょっと用事があって。夕飯、もう食べましたか? まだよ。ダイニングに用意してあるから、早く食べましょう すみません。今度から俺が遅くなるときは先に食べてていいですから そんなのダメだよお兄ちゃんっ、家族はみんなそろって晩ご飯が基本なんだから! 俺は千波の頭にぽんと手を載せる。 そうだな。今日は悪かったな、千波 ぜんぜんへっちゃらだよっ、だって今日の千波は超ご機嫌だからねっ 千波ちゃん、新しいクラスで早速お友達ができたんですって そうなんだよお兄ちゃんっ、千波新しいクラスで蒼ちゃんとまた会えたんだよっ、蒼ちゃんとクラスメイトになれたんだよ! 蒼さん、かわいそうだな なんで千波が期待した反応と真逆なの!? まあ友達になれてよかったじゃないか うんっ、蒼ちゃんは千波の親友第一号に認定したよっ、蒼ちゃんも笑顔で喜んでくれたんだよ! 蒼さんの笑顔は想像もつかないが……。 千波のことだから勝手にそう思い込んでいるだけだろうが、いつの間にか相手もそれに引きずられているのがバカにできないところなのだ。 兄としては、そんな妹が危なっかしくもあるし、安心できる点でもある。 今夜は洋ちゃんと千波ちゃんの転入お祝いで、私も腕を振るっちゃったから ではではっ、お兄ちゃんを詩乃さんお手製ディナーまでごあんなーい! 俺はダイニングまで、千波に腕をひっぱられていく。 で、詩乃さん。食べる前に、千波が料理を手伝ったか教えてくれますか? 今日は私ひとりで作ったのよ よーし今日は食いまくるぞー! なんだよそれっ、お兄ちゃんのバカ────っ!!! 詩乃さんのご馳走をたらふく堪能し、リビングで一息ついてから自室に戻ってきた。 俺は机に、展望台からの帰りに商店街で買ったバイトの求人誌を置いた。 これはあとで読むとして、次に俺はスクールバッグに入っている記憶喪失関連の本を置く。 本のタイトルは「記憶の謎」や「脳のすべて」といった感じだ。 この中に少しでも記憶喪失について触れられていればそれでいい。 こうして本を見つけてくれたこさめさんには感謝だった。 ……さて 本を手に勉強机に座る。 俺は展望台の彼女の名前を突然忘れた。それは、俺の知識では記憶喪失と位置づけるしかなかった。 だからこうして調べるわけだ。 展望台の彼女の名前を取り戻すには、記憶喪失について調べて対処法を見つけなくても、彼女の名前をもう一度見聞きすればいい話なのだけど。 その、彼女の名前をもう一度見聞きするという行為が、思ったよりも難しいのだ。 俺はすでに、千波と詩乃さんに展望台の彼女について尋ねている。 昔、俺が展望台で一緒に遊んでいた女の子の名前を知っていたら教えてくれと。 だが千波は彼女の存在を知っていても名前までは知らず、詩乃さんに至ってはその存在すら知らなかった。 思えば俺が彼女と遊んでいたことを知っているのは、千波のほかには母さんしかいない。ふたりにしか話していなかったからだ。 だけど母さんはもういない。尋ねることはできない。 八方ふさがりなのだった。 ……まあ、焦るなよ、俺 感情を乱しては思考も働かない。その例が、メアにカマを刺されたときの俺だった。 俺は、メアのその行為に対して瞠目するだけで、あとはなにもできなかった。 もしかしたら抵抗できたかもしれないのに。 彼女の名前を忘れずにすんだのかもしれないのだ。 ……ふう 一度深呼吸をして、本に目を向ける。 まずは目次を見て、記憶喪失に関連していそうなトピックを確認する。 そこを重点的に読み進めていった。 ……………。 ………。 …。 一通り目を通し終わると、もう日付が変わる時間だった。 俺は本で得た知識を頭の中で整理する。 いわゆる記憶喪失を含む健忘と呼ばれるもののうち、俺のこの症状は部分健忘というものらしい。 記憶には大きく分けてエピソード記憶と技能記憶の二種類があり、簡単に言うと前者は言葉で表せる記憶、後者は言葉で表せない記憶だ。 言葉で表せない記憶というのは、主に技術やノウハウのこと。楽器を演奏したりスポーツしたり、そういった技能的行動の記憶だ。 俺が忘れた記憶は言葉で表せるエピソード記憶であり、そこに障害を負うことを一般に健忘と呼ぶのだ。 健忘にも全健忘と部分健忘の二種類に分かれ、ある期間内の記憶すべてを忘れることが前者、期間内の記憶の一部分を忘れることが後者である。 よって俺は、部分健忘の障害を負ったと考えられる。 部分健忘となる原因は多様のようだ。 ストレス等の心因性のものから、ケガをした等の外傷性のもの、病気や薬剤が原因となることもある。 俺のケースは……どれになるのかはまだ判断できない。 そして最も重要な、部分健忘を治す方法はというと、これは拍子抜けするほど簡単だった。 一般に健忘というのは、通常は数日から一、二ヶ月経てば、自然と回復するらしいのだ。 催眠療法や電撃療法といった治療方法もあるそうだが、この本ではあまりオススメはしていない。 記憶喪失は、なにもしなくても自然に治る。 忘れたことを気にしすぎず、深く考えないこと。これが一番の治療方法だというのだ。 そうすれば、ふとしたキッカケに、忘れていたことを思い出せるようになるらしい……。 ……なんだ、それ じゃあ俺は、彼女の名前を思い出すまでただ指をくわえて待っていろってことか? 本当にそんなことで思い出せるのか? それってただの怠慢なんじゃなかろうか。 ……ううむ いや、むしろこれは感謝すべき展開かもしれない。 手がかりが八方ふさがりに近い今、待つという行為が名前を思い出すことにつながるのなら、俺は率先して待つべきなのだ。 俺は待つという行為に努力すればいいのだ。 なんか都合のいいように解釈してるだけな気もするな…… とりあえず、待つのはやれることを全部やってからだ。 この三冊の本が絶対的に正しいとは限らないし、これからも暇があれば記憶喪失について調べてみよう。 あとはヒバリ校の在校生に彼女がいるのかを確認する。 名簿にでも顔写真が載っていればいいのだが。 卒業アルバムと違って、現役生の名簿の閲覧が許可されているのかも疑問だ。 このあたりは明日、誰かに聞いてみるしかない。 あとは三年のクラスを回って女子生徒の顔を確認だ。見落としがあるかもしれないし、何度か行う必要があるだろう。 住宅街や商店街も時間を見つけて歩いてみよう。彼女がこの近くに住んでいるなら、すれ違うかもしれない。 そして、展望台。 夜になったらメアに会いにいく。 もう一度メアと会い、話さなければならない。 尋ねたいことは、それこそ数えきれないほどにある。 やれるだけはやらないとな…… ……あと、バイト探すのも忘れないようにしないと。 雲雀ヶ崎で暮らし始めて間もないのに、いきなり多忙な気がするな…… まだ開いていない求人誌を横目に、ベッドに寝転がった。 寝過ごした寝過ごした寝過ごした────っ!! ダイニングキッチンで静かな一時を過ごしていると、騒々しい声と足音が耳をつんざく。 ……昨夜は今後の方針についてまとめたつもりだが、まずはこのパターンをなんとかしたいものだ。 ごめんお兄ちゃん今すぐ朝ご飯の支度…… いってきます もう食べ終わってるどころか登校する寸前!? ほら千波、おまえも登校の準備しろ 千波まだ起きてきたとこなんだけど!? 寝坊したおまえが悪い。パジャマのままでいいから学校行くぞ 行けるわけないよお兄ちゃんっ、髪だってぼさぼさのまんまなんだよ!? 学校で着替えて髪セットすればいいだろ クラスメイトに変な目で見られるよ!? え、今さらなに言ってんの? すっごい意外そうに答えられてる!? ほら早く制服をバッグに入れて準備してこい できるわけないでしょ!? できるわけあるだろう? なんでそんなマジメに諭されなきゃいけないの!? じゃ、いってきます ちょっと待ってよっ、大体なんでいつも千波に朝ご飯作らせてくれないのっ、千波になにか今生の恨みつらみでもあるの!? だから、おまえが寝坊したのが悪いんだって 千波は悪くないもん! この千波愛用コブタ目覚ましが勝手に止まってたのがいけないんだもん! どうせおまえが寝ぼけて自分で止めたんだろ そんなわけないよっ、ほら見てよ見て見てっ、ちゃんと六時半にセットしてるのに止めた形跡どころか鳴ってる形跡すら見当たらないんだよ! それAMとPMが逆にセットされてるから なんてこと!? あとおまえ朝っぱらから大声出すな、詩乃さんが起きたらどうするんだよ 大丈夫だよ、詩乃さん寝付きいいし 近所の人が起きたらどうするんだよ 大丈夫だよ、この時間ならみんな起きてるし 俺が不機嫌になったらどうするんだよ 大丈夫だよ、お兄ちゃんいつも不機嫌だし 天国の母さんが不機嫌になったらどうするんだよ 大丈夫だよ、お母さんいつも優しかったし 雲雀ヶ崎の皆さんが不機嫌になったらどうするんだよ 大丈夫だよ、千波はいい子だから とにかくおまえは地球人の皆さんに謝れ なにがなんでも千波を悪者にしたそう!? じゃ、いってきます お兄ちゃんのバカ──────っ!!! 待機限界時間を突破したので、千波を置いて家を出た。 あ…… 玄関を出ると、ちょうど蒼さんが前を通りかかるところだった。 おはよう、蒼さん 蒼さんはぺこっと軽くお辞儀すると、あとはもう前を向いて坂を登り始めてしまった。 俺は駆け足で蒼さんを追う。 蒼さん ……また出た 今朝もぎりぎりなんだな。実は朝弱いほうか? ……それほどでも うちの妹も朝弱くてさ。さっき起きてきたばかりだから、今日は遅刻確定だろうなあ ……そうですか そういえば、千波とクラスメイトになったんだって? ……遺憾です 仲良くしてもらえるとありがたいかな。言動とか変なやつだけど、ああ見えて根はいいやつだからさ ……善処します 言葉は少ないがちゃんと受け答えてくれてホッとする。 お隣さんに加え千波のクラスメイトということで、今後も顔を合わせる機会が多いだろうし。 蒼さんと一緒に校門に着くと、そこではなにやら人だかりができていた。 なんだ……? ……まさか 蒼さんはスクールバッグを胸にぎゅっと抱いた。 ……やられた なにがやられたんだ? たぶん、これ、持ち物検査です 行列の先を見ると、『生徒会』と書かれた腕章をつけた生徒が何人か立っている。 近くには長机がいくつか置いてあり、その上に生徒がそれぞれバッグを載せて相手に中を見せていた。 生徒会の持ち物検査……か? 一学期に一度くらいの頻度であるって、以前にホームルームで聞きました ほとんど抜き打ちなのか…… 今時抜き打ちの持ち物検査を敢行している学校があるとは。 ヒバリ校って、実は荒れてるとか? ……知りません 校則に厳しかったり? ……知りません 蒼さんもこう見えて不良だったり? ……死ねばいいのに い、今とてつもなくひどいことを言われたような? 俺と蒼さんは列の最後尾についた。 生徒たちは皆、嫌そうにバッグの中身を見せているが、特にお咎めを受けることなくスムーズに校舎へと抜けていく。 おかげですぐに自分らの番になりそうだ。これで時間がかかって遅刻扱いにされたら適わない。 ………… 蒼さんはスクールバッグを強く抱いている。 顔は無表情だが、どこか不安そうに感じた。 蒼さん、どうした? ……どうもしません もしかしてさ、バッグの中、見られたくない? ……見られたい人なんて誰もいません そのとおりだ。 俺なんかは転入したてということで、持ち物と言えば教科書と筆記用具くらいなものだが、通い慣れてくれば私物のひとつも持ち込んでしまうだろう。 前の学校でも雑誌の類なんかは俺もよく持ってきた。携帯電話はもちろん、携帯ゲーム機を持ち込むやつもいた。 この学校って、ケータイは平気か? ……持ってきてるんですか? いや、持ってきてないけど。転入したばかりだし、使うこともなさそうだったから ケータイは大丈夫です。ただ放課後以外は使用禁止だったと思います 蒼さんは持ってきてるのか ……持ってきてますけど、教えません なにが? メアドとか? なにかやばい私物、持ってきてるのか? ……なんでですか そんな感じがしたから ……迷惑です な、なにが? 詮索が? 女子なんかは男子とはまた違う理由で、私物を見られたくなかったり教えたくなかったりするのかもしれない。 はい次の人、バッグを開けて机に載せて 俺たちの番が来た。 蒼さんが動かなかったので、俺が先にバッグを載せた。 問題なし。はい、次の人 あれ。キミって、こさめさんのお姉さん? こさめさんの双子の姉は生徒会役員と聞いていた。 そうだけど……。あなた、小河坂くんよね ああ。一度会ってるよな こさめのクラスメイトだそうね。あとで知ったんだけど こさめさんにはいきなり世話になりっぱなしだよ。いろいろ助かってる あの子は人当たりがいいからね。言葉遣いも丁寧だし、南星さんと違って礼儀をわきまえてるし これで天クルにさえ所属してなきゃ自慢の妹なのに…… 肩がぷるぷる震えていた。 天クル、嫌いなんだな そうね。あなたも南星さんから勧誘されるかもしれないけど、相手にしないことを祈ってるから もう勧誘されたし、興味も湧いているんだが。 それと、こんな遅刻ぎりぎりの時間に登校は感心しないわね。家は坂のふもとで近いんでしょう よく知ってるな ちょっと調べればわかるわよ。生徒会役員は生徒の個々の情報を把握する義務だってあるし 生徒会はもしかしたら風紀委員会の役目も果たしているのかもしれない。 そもそもあなた、転入試験で目立ってたからね やめてくれ……トラウマが ……なんだかよくわからないけど でも成績が優秀でも生活態度が悪ければ生徒会には入れないわよ。今後は気をつけることね いや、誰も生徒会に入りたいなんて言ってないし 我が生徒会は常に有能な人材を探しているの。頭ごなしに否定しないで一考してくれると助かるわね なんか明日歩や飛鳥の部活勧誘に似てるぞ。 まだヒバリ校に転入したばかりだし、すぐに夏休みも挟むから、詳しい話は二学期になってからお願いするわ 無理矢理じゃないならいいけど。ええと……姫榊さん? ええ。まあよろしくということで ああ。よろしく それじゃ、わたしは持ち物検査があるから 仕事の邪魔して悪かったな そう言ってもらえるとありがたいわね。こういう検査って生徒から目のカタキにされやすいし だろうなあ 勘違いはしないでね。好きでやってるわけじゃないし、あくまで生徒会は良識をもって行動してるつもりだから それを聞いて安心する。 蒼さん、役員のお姉さんは良識的な人だし、もし引っかかってもお目こぼしを……って、あれ 姫榊さんと会話している間に蒼さんは生徒会の検閲を素通りしていた。 ちょっとちょっとっ、そこの生徒! まだ検査が終わってないわよ! ……ちっ い、今舌打ちが聞こえたような? それじゃ、バッグを開けて机に載せて ……どうぞ それ小河坂くんのスクバでしょ!? あなたのを見せなさいって言ってるの! ……ちっ どうも蒼さんは困っているようだ。予想どおり、運悪くなにか持ち込んでしまったらしい。 蒼さんをかばう 蒼さんをかばう 成り行きを見守る なあ、姫榊さん。やっぱり持ち物検査は行き過ぎじゃないか? ……あなた、さっきのわたしの言葉聞いてなかったの。こっちだって好きでやってるんじゃないんだから だとしても、無理やりはどうかと思うぞ そういう規則なんだから諦めなさい でもな…… ダメ元で食ってかかる。 蒼さんは、俺の言葉を意外そうに聞いていた。 仕事熱心なのは認めるけどさ ならそれを態度で示してよ 生徒ひとりくらい見逃したって罰は当たらないだろ? つまりこの生徒はなにか持ち込んでいるわけね そのうちに勘ぐられてしまう。 ……最悪 い、いやいや違うって! 俺だって蒼さんのバッグの中なんて知らないし! ……気化すればいいのに 俺って揮発性!? ……感謝は、いちおうします 小さくつけ足していた。 蒼さんっていうのね。どちらにしろ、あなたのバッグの中身を見ればすむことよ あなた、名前は? ……小河坂洋 いや蒼さん、それ俺の名前だから 見守るはずが口をはさんでいた。 蒼さんっていうのね。なにか隠しているみたいだし、よけいバッグの中身は見せてもらうわよ 姫榊さんはずいっと蒼さんに迫る。 蒼さんはバッグを抱きしめてうつむいている。 ……姫榊さん、もういいだろ? よくない。小河坂くんは知らないだろうけど、この雲雀ヶ崎は娯楽施設が乏しいから風紀も乱れやすいのよ それって普通、逆じゃないか? 娯楽が少ないなら風紀を乱す物だって買いづらいだろうし そう考えていた過去があったから、ヒバリ校はどんどん風紀が乱れていったの 今はネット通販で簡単に買い物できるし、むしろ外で遊ぶ場所が少ないから生徒は学校で遊ぶようになる それがエスカレートしていったのよ。要するにみんな遊びに飢えてたんでしょうね ま、暴力沙汰なんかの問題じゃなくて、落書きやらのかわいいイタズラばかりだったみたいだけど 進学校だったら勉強に精を出す生徒も多くなるんでしょうけど、このヒバリ校はどっちつかずの標準な学校だし もともと雲雀ヶ崎自体、田舎だしね なんか雲雀ヶ崎が嫌いみたいな言い方だな 嫌いじゃないわよ。好きでもないけど ヒバリ校って荒れてるのか? 一時期はさっき言ったみたいに遊びがエスカレートしたらしいけど、今は落ち着いてるわ。先生や、生徒会の先輩方の働きによってね だから、ヒバリ校を守った先輩方のためにも、現生徒会だって風紀を乱す生徒を許してはいけないの ……私たち生徒のためにお疲れさまです そう言ってもらえると嬉しいわ これからもお務めがんばってください ありがとう ではごきげんよう ごきげんよう……って、こらこらこらっ! ちゃっかり逃げようとするなそこの一年! ……一年ってバレた ヒバリ校は一年生だけ制服が違うし、それでなくたってあなた童顔で背が低いから ……なにか屈辱 それじゃ、バッグを開けて机に載せて ……どうぞ だからそれ小河坂くんのスクバでしょ!? ……ちっ なんかループしてるなあ。 早く自分のバッグ見せなさいってば! チャイム鳴ったらふたりとも遅刻扱いにするからね! 俺までか……? 元はといえばあなたが無駄話始めたからでしょう。責任くらい取りなさい 濡れ衣だと思う。 気がつけば校門の辺りに生徒の姿はほとんどない。というか生徒会の腕章をつけた生徒しかいない。 俺たちがもたついている間に持ち物検査は終了したらしく、長机の片付け作業も始まっていた。 蒼さん、そろそろ潮時じゃないか? 遅刻扱いになったら結局このお姉さんに怒られるし ……とても遺憾 蒼さんは渋々とバッグを載せ、中を開いた。 ようやく観念したわけね はい終わり チャック締めるなっ、こんな一瞬で調べられるか! この人仕事遅い ……舐めた口利くのもそこまでにしなさいね。なにが出てくるのかとても楽しみだわ 姫榊さんがどんどん三流悪役になっていく。 スクールバッグの中を覗き込みながら手を突っ込んだ姫榊さんは、してやったりといった感じで笑みを浮かべた。 蒼さん、これはなにかしら? 姫榊さんが手にしているのは一見するとトランプだった。 答えてくれる? これはなにかしら? 筆箱です どう見ても違うでしょっ、カードゲームの類なんじゃないの!? カードゲームに似た筆箱です 中は普通にカードが入ってるんだけど!? カードに似たシャーペンです じゃあこれどこ押せば芯が出るのかしら!? そこです どこよ! あそこです ここのこと!? バカが見るー ……ちょっと生徒指導室まで来てくれるかしら 待った待ったっ、それってタロットカードだよな? 姫榊さんが持っているカードには見たような絵柄が描かれている。たぶん間違いない。 タロットカードって、占星術で使うカードのことよね ……占いますか? 占いません あなたは将来金髪になるでしょう それどういう意味!? あなたはツンデレという星占いの結果 勝手に決めないでくれる!? 早くデレを希望 むしろツンにしかなれないわよ!? ……いや、というかそれ星占いじゃないよな? ツンデレ占いです そんな占いないよな? ……ウザい う、ウザ? ごきげんよう 蒼さんはタロットカードを素早く姫榊さんから奪い返し、さっさと校舎に向けて歩いていく。 だから待ちなさいってば! まだ話は終わって…… タイミングよくチャイムが鳴った。 チャイム鳴っちゃったじゃない! これから生徒会室で検査に引っかかった生徒のリスト作らなきゃなのに! お疲れさま 授業に遅れたらどうしてくれるのよ!? 俺に当たるなよ!? さっきの子の名前、蒼さんだったわよね ああ。蒼千波 あおいちなみ……と。よし、あとでクラス調べて早急に呼び出しね 遅刻遅刻遅刻────っ!!! 遅れた遅れた遅れた────っ!!! ちょっ、そこの生徒っ、止まりなさい! 急ぐぞ、千波 あっ、お兄ちゃんっ、待って待って置いていかないで────っ!!! 姫榊さんの怒号を背中に受けながら、千波と一緒に校舎に駆け込んだ。 洋ちゃん、今朝は登校遅かったよね まあな。身内に朝が苦手なやつがいてな 午前の授業が終わり、昼休みというところで明日歩が話しかけてきた。 身内って、前にうちの喫茶店に来てくれた妹さん? そう、マヨネーズソース吸ってた妹 小河坂さんは、妹さんと一緒に転入してきたって姉さんからは聞いていますけど 一個下だからな。学校も同じなんだよ 妹と一緒に登校してんのか? 朝は限界の時間まで待って、突破したら置いていくことにしてるよ 洋ちゃん、妹さん思いだね ……今の言葉でそんな感想は出ないだろ そんなことないよ。だって限界まで待ってるんでしょ? しょうがなくな 洋ちゃん、やっぱり優しいよ そうか? その妹さん、名前はなんていうんだ? 小河坂千波だけど クラスは? たしか1‐Cだったかな なるほど なぜかメモっている。 ダメだよ飛鳥くん~! 洋ちゃんの善良な妹さんを怪しげな研究部に入れようとしてるでしょ! 怪しげ言うなっ、おまえ全国のオカルトファンを敵に回したぞ! 全国の天文ファンがあたしの味方だもん! 小河坂、放課後にでもその妹さんに会わせてくれるか? 飛鳥くんの毒牙にかけちゃダメだよ洋ちゃん~! 千波ちゃんは天クルに入れるんだから! やっぱそっちが本音かよ!? 洋ちゃん、兄妹で星降る夜空を観測しようよ! やっぱ兄妹で人魂漂う墓場だろ! 危ない上に不吉だよそれ~! ……悪いんだけどさ、うちの妹は文化系が苦手だから、どっちも無理だと思う 運動が得意なの? だったら荷物持ちお願いしたいな~、天体望遠鏡ってけっこう重いから カメラ機材を運ぶのに役立ちそうだな どうあろうと勧誘するつもりなのか……。 そういえば姉さんが、蒼千波さんという方を探していたみたいですよ。苗字が違いますから、小河坂さんの妹さんとは別人のようですけど うまく誤魔化せたようだ。 そろそろ学食に行きませんか? 勧誘でしたら食事のあとでも遅くないと思いますよ そうだね。席いっぱいになると困るし 小河坂、食べ終わったら仲介頼むぜ ……飛鳥くんも一緒に来るんだ 露骨に嫌そうな顔されると傷つくんだけど!? だって飛鳥くん、あたしの邪魔ばっかりするんだもんっ ケッ、じゃあカメラに命を賭ける者同士、どっちが先に小河坂に仲介頼むか勝負するか? いいよ、勉強以外なら じゃあUFOを撮影できたほうが勝ち UFOじゃなくて新星にしてよ~! なんにしろ千波の意志は無関係なんだな…… それだけふたりは熱意を持っていて、似た者同士ということですよ こさめさんがキレイにまとめてくれた。 でもさ、千波って俺と違って星には興味ないから、やっぱダメだと思うぞ 四人そろって箸をつけたところで、先手を打ってみた。 UFOには? ……なんか星より興味持ちそうだけど、兄としてはあまり勧めたくないな オレと一緒に人類社会に解け込み世界平和を脅かす宇宙人エージェントを見破ろうぜ! それ危ない人だから ひでっ! そっかあ。無理強いするつもりはないけど、でも洋ちゃんは星に興味あるんだよね? まあそれなりにって程度だけど 小河坂さんはなぜ星がお好きなんですか? なんていうか、過去にいろいろあってさ 過去? どんなこと? 明日歩がいきなり身を乗り出して顔を近づけてきたもんで、どんぶりを落としそうになった。 うちの喫茶店来たときも思ったけど。洋ちゃん、それなりにって程度じゃなくて、ほんとはすっごく詳しいんじゃない? そんなことない。俺、天体観測だってしたことないし では、星に関する知識が優れているってことですか? たぶん、それなりに それなりばっかだな 子供の頃に見たプラネタリウムに感動して、それで調べたくなったとか? いや……そうだな 説明するのは照れるんだが。 正確に言うと、子供の頃は天体観測してたのかもしれない。肉眼だけど 雲雀ヶ崎に暮らしてた頃か ああ。都会と違って、ここって望遠鏡とか使わなくても星がよく見えるから 雲雀ヶ崎の星空に感動して、星に詳しくなったのかもな 都会で望遠鏡を覗くよりも、それはもしかしたら満天の星空だったかもしれない。 それほどに雲雀ヶ崎と都会の空には違いがある。 その頃って、あたしとおんなじ小学校通ってた頃だよね 明日歩は腕を組んでうーんとうなる。 あの頃の洋ちゃんって、何事にもあまり興味なさそうって感じだったけど……。そのくせ勉強はいつも一番で 明日歩さん、それ以上は失礼ですよ あ、ううん、悪い意味で言ったんじゃなくて いや、べつにそのとおりだったし そのとおりじゃないよ。だって洋ちゃん、クールで孤高なところが女子にすごく人気あったんだよ 頭でっかちっていうのだって、洋ちゃんをやっかんだ男子が勝手に言い出しただけだったし フォロー、ありがとうな ……洋ちゃん、信じてない。ほんとの話なのに あの頃の「僕」は、家族や展望台の彼女以外の人の前ではいけ好かない子供だったのだ。 じゃあ小河坂さんの子供時代は、隠れ天文ファンだったということでしょうか? 洋ちゃん、どうなの? 明日歩のきらきら笑顔が眼前に迫ってきて、俺は仰け反りながら答える。 ……天文ファンとは違うな。友達の影響っていうか あの頃の洋ちゃんの友達……。誰だろ…… 顔を近づけたまま悩まないで欲しい。 たぶん、明日歩は知らないと思うぞ。彼女、上級生だったし おまえ小学生のガキでもう連れ持ちだったのかよ そうじゃなくて。友達って言ったろ 子供の頃にさ、よく遊んでた女の子がいたんだよ。その子の影響で星空を眺めてたんだ 展望台が、その頃の俺と彼女の遊び場だったんだよ 明日歩はようやく俺から顔を離すと、どこか悔しそうに言った。 ……あの頃の洋ちゃんと友達になれた人がいたなんて 明日歩さん、それは失礼を通り越して罪ですよ 悪い意味じゃないんだってば! わかってるから ……洋ちゃんはわかってないと思う なにを? じゃあその初恋の彼女が星好きだったわけか 勝手に初恋にするな。後半は正解 その人ってあたしと洋ちゃんの小学校に通ってたんだよね。あたしたちの先輩ってこと? そうなるな このヒバリ校でも先輩ってこと? ……それはわからない わかりたくてもわからない。 今日も授業の合間の休み時間に三年のクラスを見て回ったが、成果はなかったのだ。 ねえねえ、その人が星好きでヒバリ校の生徒だったら、天クルに入ってくれるんじゃないかな? 先輩ってことは、三年の可能性があるわけか そうですね。三年生だとしたら卒業まではもう一年もありませんけど、部を立ち上げるのなら勧誘の価値はあると思いますよ 洋ちゃん、その人の名前教えてくれない? 俺は苦笑気味に答える。 それがさ、忘れたんだよな つい数日前までは覚えていたのに。 なんだよ、初恋の相手を普通忘れるか? だから初恋じゃないって そうだよね。洋ちゃん、恋愛にも興味なさそうだったもんね 嬉しそうに言うのは失礼ですよ 悪い意味じゃないの! こさめちゃんの言葉ってフォローみたいに聞こえるけど、ほんとはおとしめてるんじゃなかってたまに勘ぐっちゃうよ~! くわばらくわばら 意味わかんないよ~! なんか話がズレてきた。 明日歩。ちょっといいか? なに? 顔はドアップにしなくていいから!? 冷や汗ものだ。 昔よく遊んでた子──展望台の彼女は、名前は忘れたけどこの近くに住んでたのは確実なんだ そしてヒバリ校の生徒かもしれなくて、星が好き…… 明日歩はきょとんとしている。 だからさ、もしかしたらもう天クルに入ってるんじゃないかとも思うんだけど みんなの話を聞いていて思いついた可能性だった。 明日歩とこさめさんはまったく同じタイミングで顔を向かいあわせた。 天クルに所属する三年生の女子といったら、ひとりしかいませんね うん。〈諏訪雪菜〉《すわせつな》先輩だね 諏訪……雪菜。 頭の中で反芻する。検索をかけてみる。 展望台の彼女はこの名前だっただろうか? ……なにも思い浮かばない。引っかからない。 それほどキレイさっぱり忘れているのか、俺は? めちゃくちゃショックだ。 雪菜先輩が、洋ちゃんが言う展望台の彼女さんなの? それを知るためにも、その諏訪って人に会わせてくれないか? なんだよ、実はずっと好きでしたつきあってください? だから違うんだって! 洋ちゃん、雪菜先輩に会いたいの? ああ。お願いできるか? 明日歩はにんまりと笑った。なにか企んでいる笑みだった。 どうしよっかな~。そんなに会いたいの? ……まあ、会いたいといえば会いたいというか そんなには会いたくないんだ い、いや…… どうしよっかな~ 明日歩さん、小河坂さんが困っていますよ あ、困らせるつもりはなかったんだけど 楽しそうに言われても、つもりがあったとしか思えん。 洋ちゃん。会わせるのだったら簡単だよ 雪菜先輩は天クルの部員ですからね でもタダで会わせてあげるのは考えちゃうかなあ 何度も言いますが、雪菜先輩は天クルの部員ですからね ……つまり? 洋ちゃんが天クルに入ってくれればすぐ会えるんだよ! ……そう来たか。 いや……入りたくないわけじゃないんだけどさ。バイト探さなきゃだし、時間的にちょっと…… あたしのお店でバイトすればいいよ。部活の時間は外せるようにしてあげるから それは魅力的な話かもしれないが。 ……でも、メイド喫茶でか? メイド喫茶じゃないってば。お父さんがメイド好きなだけ 男の俺でも雇ってくれるのか? うん。ぜんぜん大丈夫! 小河坂さんのメイド姿は興味ありますね やっぱり考えさせてくれ よけいなこと言わないでよこさめちゃん~! オレも新しいカメラ欲しいしバイトしようかな がんばってね なんか態度冷たくね!? バイトは考えてみるからさ、先に諏訪って人に会わせてくれると助かるかなあと 名前は忘れてしまっても、彼女の顔は覚えている。 本人にさえ会えれば、忘れていた想い出だってよみがえる。そう思えるのだ。 じゃあ前向きに考えてね、絶対だよっ ああ。約束する 明日歩は満足げにほほえんだ。 こさめちゃん、食べ終わったら雪菜先輩のクラスに寄ってみよっか そうですね。雪菜先輩は天クルにはあまり顔を出しませんから、放課後まで待たないほうがいいかもしれません よくサボる人なのか? うん。ほとんど幽霊部員だから ……その人、ほんとに星が好きなのか? 展望台の彼女だったら毎日のように天クルで活動してそうなイメージなのだが。 天クルは実質的には活動停止の状態なんです。生徒会が屋上の使用を禁止していますから 主にこももちゃんがね。なんで天クルを目のカタキにしてるんだろ…… まあ実際、まともに活動してるとこなんか見たことねえな そんなわけで、いくら星好きといっても、天クルに顔を出さないのは仕方ないのかもしれません なるほど でもいつか絶対こももちゃんから許可勝ち取るからね。七夕の日はあたしが〈洒涙雨〉《さいるいう》流しちゃったんだから 一学期中には勝ち取りたいところですね そのためにも部員を集めて正式な部として立ち上げる! あたしたち天クルの目標だよ! オレの目標は部も個も超えたオカ研の存続だぜ がんばってね だからおまえ冷たすぎだろ!? いくら星と小河坂にしか興味ないからって! え、よ、洋ちゃん? 見ていて思いますけど、明日歩さんは星と同じくらい小河坂さんが好きですよね なっ、なんでそうなるのっ、洋ちゃんは関係ないでしょ! おまえアレか、実は小河坂の初恋相手にヤキモチ焼いてるってオチか。だから会わせるの渋ったり交換条件持ち出したりしてたのか だから違うの! あたしが洋ちゃん好きだったのは子供の頃の話で…… 時間が止まった気がした。 一瞬遅れて明日歩の顔がぽんっとトーストが焼き上がったみたいに赤くなる。 ……ご、ごちそうさま 明日歩は抱きかかえるようにトレーを持ち上げると、そそくさと立ち去った。 三人でぽかんとして明日歩の行方を追っていると、返却口で食器を返したあとに目が合った。 うっ……うわーん! ダッシュで逃げていった。 いやあの……これから雪菜先輩とやらに会わせてくれるんじゃ? わたしでよろしければ、ご案内しますよ あー、地雷踏んだな、こりゃ なんというか、複雑な気分だった。 校舎の四階に到着した。 すでに俺のクラスが位置する三階と、昇降口と学食がある一階に次いでよく来ている階となっている。 三年生にも見知られている気がして居心地はかなり悪い。 このクラスです。少々お待ちくださいね 先導していたこさめさんはクラスの入り口で立ち止まると、手近な上級生を捕まえる。 物腰が丁寧なのもあってか、こさめさんの頼みを相手は快く承諾してクラスに消えていく。 こさめさんって同級生でも上級生でも同じ言葉遣いなんだなあ。 小河坂さん、お待たせしました 尋ね人が現れたようだ。俺はこさめさんのところに近寄っていく。 姫榊妹か。なんの用だ? 雪菜先輩に会いたいという人がいまして ……会ったことがある人だった。 ああ、キミか 長い前髪の合間に覗く瞳が俺を捉える。 話すのは三度目になるか あれ……お知りあいですか? 少しばかり縁があったんだ ……こさめさん こさめさんに首を振って合図する。 あ……そうですか。残念です なにが残念なんだ? ええと…… こさめさんは頬に手を当て、困ったように俺を見る。 事情を話していいのか聞いているのだ。 ……あの、雪菜先輩 ああ、私に用があるんだったな 三年生に星を見るのが好きな女子生徒っていますか? 雪菜先輩は目をすがめる。 心当たりはないな あれ、雪菜先輩自身は好きじゃないんだろうか。だから天クルに入っているんじゃ? その質問になにか意味が? ……ちょっと人捜しをしてるんです だからキミはよくこの階に足を運んでいたわけか そうです キミが展望台におもむくのもそれが理由か この言葉には度肝を抜かれた。 違うのか? ………… 雪菜先輩……詮索はあまり 失礼か。そうだな、私にはキミに踏み込む権利がない 今はまだな なんでこの人はこう陰謀の匂いがぷんぷんなんだろう。 小河坂さん、すみません。雪菜先輩は悪気があるわけじゃないんです。ただ疑問に感じただけだと思うんです ……フォローされてしまったな 雪菜先輩はバツが悪そうだった。 事情を詮索するつもりはないが、人捜しであればもう少し詳しい情報が欲しいな。役に立てるかもしれない 情報は、今言ったのがすべてなんです 三年で星を見るのが好きな女子生徒? はい 顔と名前は? 顔は、会えばきっとわかります。名前はわかりません ……それはまた難儀だな 雪菜先輩は肩にかかった髪を後ろに流す。 私が思いつくのは、三年の名簿でも調べることくらいか。顔写真でも載っていればたどり着くかもしれない それは俺も昨日に考えていた方法だった。 三年生の名簿って、生徒も閲覧できるんですか? 私は知らないな。どうだ、姫榊妹? 名簿の閲覧は、理由があれば可能ですけど……。たぶん、意味がないと思います わたし、以前に図書委員の仕事で見たことがあるんですけど、顔写真までは載っていませんでしたから とすると、なんだ。 手がかりは途絶えたのか? ……いや、そうじゃない。 効率の良い方法がなくなっただけだ。展望台の彼女がヒバリ校の生徒であれば、俺はまだ見つけ出せるのだから。 俺が諦めさえしなければ。 履歴書の類なら顔写真も載っていそうですけど……。こちらはさすがに閲覧できないと思います 個人情報だからな。プライバシーやらの問題か ………… あの……小河坂さん こさめさんの声が本当に心配そうだったので、俺は吹っ切るつもりで言った。 すみません、雪菜先輩。お手数かけて いや、こちらこそ役に立てなくて悪かった それじゃあ、失礼します 雪菜先輩、たまには天クルに顔を出してくださいね ああ、わかった いつもそう言いますけど、来ないんですから 最近、どうも仕事が増えそうな気配があってな。だが善処はしよう 俺はこさめさんと一緒に来た道を戻る。 第一印象とは違って、雪菜先輩も感じがよさそうな人だったので安心した。 仕事が増えないことを、祈っているがな 気分は重かった。 そういう意味では授業というのはありがたい。黒板の文字を書き写すのに集中すれば頭を空にできるのだから。 目線を前方と手元だけに往復させる。 視覚情報を文字情報に転写する。 それだけを繰り返す。 そうしていると、ときおり視線を感じることがあった。 どこからだろうと思ってその方向を探すと、隣の明日歩と目が合うことが多かった。 だけど明日歩はすぐに視線を逸らして黒板に向き直ってしまうので、気のせいかと俺も授業に集中する。 時間が経つとまた視線を感じ、隣を見ると明日歩とまたまたばっちり目が合った。 そしてまた逸らされる。 俺は首をかしげて黒板を見る。 明日歩は授業の集中力がないとは思っていたが、こんな頻繁によそ見をするのは初めてだ。 なあ、明日歩…… 明日歩は逃げるように顔を背ける。 俺は黒板に目を戻す。 そんなふうに、午後の授業を過ごしていた。 あ、あの……洋ちゃん ホームルームが終わって放課後になると、明日歩がそわそわしながら声をかけた。 ようやく。 昼休みの一件以来、俺たちは会話を交わしていなかった。 ち、ちょっと……話があるんだけど うつむき気味に俺を見て、なにかに耐えるようにスカートをぎゅっと握っている。 ここじゃアレだし……外、いこ…… 声が震えている。唇も震えている。 瞬きすると長いまつげがふさふさ揺れる。 その奥、瞳が濡れている。 あのさ、明日歩…… な、なにっ 昼休みの件だったら、気にしないでいいからさ え…… 明日歩は信じられないといった顔をした。 き、気にしないでいいって…… ……ああ。誰だって知られたくない過去ってあるし、俺だってそうだから だから聞かなかったことにする。忘れるから ………… これじゃあ……ダメか? 明日歩はこそっとため息をついた。 スカートを握っていた手が、ゆるんだ。 ……やっぱり洋ちゃん、頭でっかちだね 明日歩は、今度は盛大にため息をついた。 まあ、いいけど。洋ちゃんの言葉にも一理あるし あははっ…… よくわからない笑顔。 想い出は、想い出だよね 洋ちゃんだって、そうなんでしょ? なんのことか一瞬、わからなかった。 ごめんね それはなんに対しての謝罪なのか。 ただ、少なくとも、明日歩はなにも悪くない。 だとすると、悪いのはきっと俺だ。 ……俺のほうこそ、悪い もう。なんで謝るんだよ なんでだろうな。本当に。 それで、どうするの? ……なにが? あたし、話があるって言ったと思うんだけど ……今のが話だったのでは? 帰りながら話したいし、一緒に教室出ない? 天クルはいいのか? うん。今日は休みにする そんな勝手に休みにしていいのか? いいんだよ。あたしは副部長なんだから それは新しい情報だ。 じゃあ俺も特に用ないし、つきあうよ 本音を言えば、展望台の彼女を捜しに街でもうろつくつもりだった。 だけど明日歩に対する、このよくわからない罪悪感がそうさせたのかもしれない。 ごめんね、こさめちゃん。今日はあたし、ちょっと用があるから先帰るね はい。ごゆるりと なんだ南星、小河坂と一緒に帰るのか? うん、悪いの? 悪くはねえけど。これから告白か? っ! ……こわ 悪趣味ですよ。ワザとやってるでしょう、飛鳥さん こりゃ本格的に地雷か…… 詮索も悪趣味ですよ 洋ちゃん、いこっ! 明日歩に腕をつかまれ、ドキッとした。 ぐいぐいとひっぱられる。ほとんど腕に抱きつかれている格好だ。 おい、明日歩…… なにっ! 怒られた。 明日歩は人と話すときの距離が近い。転入したばかりでも、嫌というほど知っている。 だが触れられたのはさすがに初めてだ。 想い出は、想い出だよ…… だけど……大切だから、大事にしすぎて、忘れられない想い出だってあるんだよ…… 洋ちゃんだって、そうなんだよね…… 校門に向かう途中、そんな声が聞こえた気がした。 なあ、明日歩…… なにっ! ……いや、そんな怒らなくても 怒ってないっ! 校門に着いた。 ヒバリ校は街に娯楽施設が乏しい代わりに部活動が盛んなのだと聞いている。だから帰宅途中の生徒は見かけない。 遠くのグラウンドからは、初夏の風に乗って運動部の喧噪が届いていた。 それでさ、明日歩…… だからなにっ! いいかげん、腕、離してくれると助かる ………… ひやあっ 間の抜けた声をあげて飛びすさった。 あ、あははっ…… 後ろ頭に手を当てて照れ笑い。 俺はどっと疲れを感じる。べつだん異性に慣れているわけじゃないのだ。 それで、話ってなんだ? あ、え、えと…… 明日歩らしからぬもじもじっぷりだ。 ……まあ、明日歩らしいと言っても、つきあいが長いわけじゃないし俺が知らなかった一面ってことなんだろう。 えと……そ、その…… あ、あのね、あたしね…… 明日歩は上目遣いに俺を見る。 洋ちゃんのこと…… ………… ……あれ、話って、本気で告白? そんなわけないよな。 よ、洋ちゃんのこと…… そんなわけ……。 洋ちゃんのこと、わかる気がするから……。展望台の彼女さんに会いたいって気持ち ……ほら、違った。 だから、考えてみたんだけど 明日歩は照れ笑いを浮かべながら。 これから、あたしと一緒に小学校いってみない? そう、言った。 こさめちゃんから昼休みのこと聞いたんだけど。展望台の彼女さん、まだ見つかってないんだよね? まだ、出会えてないんだよね? 顔……まだ、見てないんだよね? だから…… ……そうか 俺はようやく納得した。 うん。小学校の卒業アルバムなら、展望台の彼女さんが載ってるんじゃないかな? 展望台の彼女は俺たちと同じ小学校に通っていた。 学年はわからない。年上としか知らない。 だがヒバリ校と同じで、全年度の卒業アルバムは保管しているだろう。 だから、それを調べれば今度こそ連絡先を手に入れることができる。 もしも俺ひとりだったら難しかったかもしれない。 俺は雲雀ヶ崎の小学校を卒業していない。OBじゃないし、アルバム閲覧の許可を取るのも厳しそうだ。 だけど明日歩はれっきとした卒業生。 俺は感謝しなければならない。 明日歩のおかげで、俺はこうして小学校に足を運べる。 俺、小学校の卒業アルバムって持ってないんだよな 洋ちゃん、転校しちゃったもんね 明日歩は俺の隣を歩いている。 その距離はちょうど教室の席の間隔くらいに見える。 位置もまた、教室と同じで右隣だ。 明日歩はアルバム持ってるんだよな もちろん。今度見せてあげようか? べつにいいよ そうなんだ ああ クラスメイトだった人も思い出せるかもしれないのに 名前だって思い出せるかもしれないのに 展望台の彼女さんだって…… 言葉尻が、少し沈んで聞こえた。 夢見坂を下って直進すれば駅前のロータリーが出迎える。 洋ちゃん、小学校までの道覚えてる? なんとなくなら こっちだよ。いこ 右に折れると駅向こうに出られる踏切があったはずだ。 想い出どおり、明日歩の足は右に向かった。 山側──線路を挟んでヒバリ校が建つ側は坂が多いが、俺たちが向かっている海側は比較的平野となっている。 風情あふれる商店街を横目に、潮風に誘われるように歩いていく。 記憶はおぼろであっても身体は覚えているようだった。 それとも明日歩の案内のおかげだろうか。 俺の足は、小学校に近づいているという実感を文字どおり踏みしめているのだった。 そして、目的地に到着した。 うーん、やっぱり変わってないね。あたしたちの小学校って感じ 明日歩もひさしぶりだったのか? 洋ちゃんほどじゃないけどね。卒業したら、来る機会なんてほとんどないし 同窓会とか、そのうちやりたいなって思うよ そっか うん そのときは、洋ちゃんも呼ぶからね べつにいい ……素っ気ないなあ、頭でっかち その呼び名はやめてくれ。まだ怒ってるんだろうか。 洋ちゃん、ひさしぶりに来た感想は? 感慨深くもあり、それほどでもなかったり どっちなんだよ、もう 実際、あまり覚えてないんだよな 身体は覚えていても、頭がついていかない感覚。 ここが俺の小学校って言われればなるほどって思うし、ここは違いますって言われれば同じようになるほどって思う気がする ……洋ちゃんは、学校が嫌いだったの? なんで 嫌いだったから思い出したくないのかなって それは違う。勉強は嫌いじゃなかったし クラスは嫌いだったの? それも違うと思う 洋ちゃんは…… その寂しそうな声が印象的だった。 洋ちゃんは、学校に興味がなかったんだね 俺は学校が嫌いじゃなかった。 だが好きかと問われるとそれも違うように思えた。 俺は、学校は好きでも嫌いでもなかった。 明日歩のいるクラスは好きでも嫌いでもなかったのだ。 洋ちゃんは、展望台のほうが、大切だったんだね 明日歩は校舎に向かって歩いていく。 俺もあとに続く。 その途中だった。 どこからか視線を感じ、俺は振り返った。 ………… 俺たちがここに着いたあとに通りかかったのだろう。 彼女は校門の近くに立っていた。 そして視線を注いでいる。 俺、あるいはその後ろに建つ小学校に。 ……誰だろう。 ここの卒業生とか? 怪訝に思うのも仕方がない。 彼女はおよそ街中を歩く格好じゃなかった。 夏なのにカーディガンを着ている。 しかも靴はスリッパだ。 ………… 彼女は立ち去った。 ……洋ちゃん? 明日歩が心配そうに戻ってきた。 どうしたの? ……いや 俺はもう誰の姿もなくなった校門から、後ろ髪引かれる気分で顔を背け、歩き出した。 来客用の昇降口には窓口が設けられている。 卒業生だと明日歩が告げると、事務員が用件を尋ねてくる。 明日歩は丁寧に説明する。若干ウソも混じっているようだ。 尋ね人がいるなんて理由は、ともすると不審者扱いされかねないからだ。 明日歩の説明は続いている。 それを後ろでぼんやりと聞いている俺がいる。 なあ、小河坂洋。 おまえは小学校が好きでもなんでもなかったくせに、なぜ雲雀ヶ崎が好きだなんて言えるんだ? やっぱりそれは、展望台の彼女の影響か? すべては、会えばわかる気がした。 ……………。 ………。 …。 今日は、ありがとうな ううん……そんなの…… 明日歩の家、商店街だよな。じゃあここでお別れか ………… また学校で。それじゃあ きびすを返す前に明日歩が言った。 ごめんなさい…… 肩から膝まで力が抜けた。 ……なんで明日歩が謝るんだよ ………… 気にするなよ。頼むから 明日歩は俺を手伝ってくれただけなんだ。 だから、頼むからそんな顔するな。 じゃないと俺まで保たなくなる 諦めたら後悔が待っていると、過去の「僕」がふくれっ面で言ってはいても。 なにか、もう、手遅れなのだと思ってしまう。 展望台の彼女は、小学校の卒業アルバムには載っていなかった──── 俺たちは事務員に案内されて、図書室で卒業アルバムを見せてもらった。 年代からして十冊未満に抑えられたため、それほど時間はかからずに調べ終えることができた。 一冊ずつ慎重に調べたつもりだった。 だけど展望台の彼女らしき卒業生は見当たらない。 俺はさすがに狼狽した。 雲雀ヶ崎の小学校は学区制だ。ヒバリ校とは違い、この近くに住んでいれば必ずこの小学校に入学する。 そして彼女は俺と一緒で展望台まで歩いて訪れていた。 子供の足では、夢見坂の勾配を考えても、この近くに住んでいなければとてもじゃないが出向けない距離だ。 彼女の住所は俺と近所だったはずなのだ。 だから展望台の彼女はこの小学校出身で間違いない。 なのに、卒業アルバムには載っていない……。 なぜだ? 可能性はひとつしかないように思う。 展望台の彼女は、おそらく、俺と同じで転校したのだ。 卒業前に違う街に引っ越したから、俺と同じで卒業アルバムに載っていないのだ。 だとしたら……。 だとしたら、出会える確率はほとんどゼロだ。 名前を覚えていようが忘れていようが、関係ない。 連絡先をつかめなければ、この世界のどこに住んでいるのかわからない人間を捜すのは、不可能だ。 ……はは 力が抜けた。 明日歩と別れ、保っていた最後の緊張がこのとき崩れた。 俺は惰性で歩いていた。 橙色に染まる夢見坂の急勾配がひどくだるかった。 ……キミか フェンスの前では雪菜先輩が立っていた。 今日もまたここを訪れるのか ………… 理由は尋ねても答えないのだったな ………… 展望台の彼女とやらは捜せたか? ……いえ そうか 雪菜先輩はフェンスを越えた先を流し見る。 キミは、もしかしたら、その子を待つためにこの展望台を訪れるのか? 答える気力はなかった。 独り言だ。忘れてくれ 雪菜先輩は立ち去った。 俺は横手の林に立ち入った。 正直、逃避のようなものだったのかもしれない。 俺がこの展望台を訪れるのは彼女を待つためだ。 だが実際はメアに会って禅問答みたいな会話をするくらいでなんの成果もなかった。 いいかげん悟ったはずだ。 なのに懲りずに足を向けるのは、この現実から目を背けたいからなのか。 彼女に出会えないという現実から逃げ、想い出に浸っていたいだけなのか……。 陽が落ちていた。 眼下に散在する街の灯火が、頭上の星空に負けないくらい輝いている。 とはいえ今日が晴天だったら星空の光のほうが勝っていたに違いない。 今日は一日、うっすらと雲がかかっていた。 曇り夜空。 星が見えないわけじゃない。 見えないわけじゃないけど、その光は頼りない。 元気、ないのね 星々と同じく、メアの姿もどこか頼りなく映った。 具合でも悪いの? いや じゃあなんなの? さあな 今日のあなたはダメダメね そうだな メアには尋ねたいことが山ほどあったはずなのに。 なにかあったの? まあな わたしのせい? いや わたしがカマで刺したせい? いや あなたの悪夢を刈ったせい? いや わたしを恨んでるんじゃないの? 恨んでいるかもしれない。そうじゃないかもしれない どっちなの? どっちもなんだ ……どういうことなの? 大切な人が、いたんだ ………… べつに恋をしていたわけじゃない。俺は初恋なんて経験したことはない だけどその子は俺のかけがえのない人だった その人を、失ったかもしれないんだ 一瞬の沈黙が落ち。 そう ああ だからあなたは悲しいの? ああ だからあなたは──── そんなにも、悪夢に苦しむの? そう聞こえた気がした。 だけどメアの姿は消えていた。 頼りない星の輝きはまだ雲に隠れていないのに。 足音が聞こえたからだろうか。 うわあ…… 振り向くと、そこには別れたはずの明日歩の姿。 星が、こんなに近くに見える! 雲に覆われていたはずの夜空。 いつからだろう、そこはもう幕が開け、星たちの競演が始まっている。 手を伸ばせばつかみ取れそう 背伸びをすればもぐれそう 見てるだけで、もう、溺れそう いつかその星がこの手につかめると思っていた、想い出の展望台。 こんな場所、雲雀ヶ崎にあったんだ…… 明日歩は両手を広げて感嘆する。 その姿は、空から降る星の欠片を待ち受けているようにも見える。 どうして…… だって洋ちゃん、坂を登っていくんだもん。てっきり家に帰るのかと思ってたのに だから、洋ちゃんのあと、つけてきちゃった それは俺に話しかけるようでもあり、星に語りかけているようでもあった。 知ってる、洋ちゃん? 星がよく見える場所の条件って、意外と難しいんだよ 都会だと人工の明かりが多くて夜空が見えづらい。そこに比べれば雲雀ヶ崎のほうがたしかにずっと見えやすい でも雲雀ヶ崎だって人工の明かりがないわけじゃないし、問題になるのは〈光害〉《こうがい》ばかりじゃない 近くに水場があったりすると、霧やもやが出て星の光をさえぎることもあるんだよ だから、ここは、ステキな場所 だってこんなにも見渡せる。360度、全部! 全部、両手につかみきれないくらい、たくさん! 明日歩の声が澄み渡った夜空に響く。 あたし、この場所、大好きだよ! 東の空高く、雄大な夏の大三角がゆっくりと回転する。 はくちょう座の十字がまるで天の川を分断するように泳いでいる。 そして南の空にはさそり座が地平線近くに姿を見せ始め、赤色の一等星、アンタレスを浮かばせていた。 あたしはね、星が大好きなんだから! 湾曲する港の黒々したシルエット、街の灯火を映す運河の水面、夜空一面には目がくらむような星の輝き。 だから俺は無性に自慢したくなる──どうだ、ここは夢のようにステキな場所だろう! 双眼鏡、持ってくればよかったな…… 望遠鏡じゃなくてか? あたしの望遠鏡は部室に置いてあるから。それにけっこう重いんだよ、望遠鏡って。言ったと思うけど だから、外に持ち運ぶのはたいてい双眼鏡。観測するときブレないように、三脚も一緒にね あとは星図に、懐中電灯、方位磁石、今の時期だと飲み物とタオルと…… 明日歩は「あははっ」と笑った。 だけどね。いいんだ 今夜は必要ないって思うんだ 宇宙には、肉眼で見える星が八千個あるって言われてる そのうち、一晩に見える星はその約半分の三千五百個 あたし、たぶん、その星全部をこの目に映してるよ 明日歩の大きな瞳は数えきれない光をたたえている。 洋ちゃんの言葉、信じられる 肉眼でも天体観測してたんだって、信じられる 展望台の彼女さんのこと大事にしてるんだって、信じられる そうか うん なあ明日歩 うん? 俺、天クルに入ろうって思うんだ そっか ああ 展望台の彼女さんを待つために? ああ このステキな展望台で待つために? ああ こうしてあの日見た星空を見上げながら。 じゃあ、待てばいいよ 雲雀ヶ崎の星空を眺めながら待てばいいよ 焦らなくてもきっと出会える。その人もあたしたちと同じで星が好きなんだったら、絶対出会える 洋ちゃんは、あたしたちと一緒に天体観測すればいいんだよ そうすれば、想い出の人と、出会うことができるんだよ そんな明日歩の言葉が心に響いた初夏の日のこと。 俺のことを思い出してくれた彼女の近くで、俺が忘れてしまった彼女と出会えることを願って。 ようこそ我が天クルに、新入部員さん お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……朝っぱらから大声出すな、聞こえてるから だってねだってねっ、今日は七度目の正直でようやく早起きできたのに洗顔用の千波専用子ウサギタオルがどこにも見当たらないんだよ! それだったらおまえ、夕べアイス食べ過ぎて腹痛いって言って、タオルを腹巻き代わりにして寝てたじゃないか あ、そういえば 千波はパジャマの上着をぺろんとめくった。 へそと下乳が見えた。 あれ、ないよ? つーかおまえ、場所を選べ ……えっち いや萌えないし お兄ちゃん顔赤いもんっ そんなことない 真摯ではなく紳士に言う。 でもお兄ちゃん観察日記によると、お兄ちゃんが顔赤くして目を逸らすときは照れてるか後ろめたいことがあるときか、もしくはエッチな想像にハァハァして…… 破り捨てる。 三冊目もお亡くなりに!? じゃあ朝食作るかな 待ってよっ、いいよもうっ、どうせその日記は保管用だもんっ、妄想用はべつにあるもんっ ……なんだよ妄想用って。 お兄ちゃんっ、今朝は千波も早起きしたよっ、ついに今この時この瞬間から千波にご飯作らせてくれるんだよね! お、この卵双子だ こっちを見もせず目玉焼き作ってる!? 千波は半熟でいいんだよな。食感がマヨネーズに合うって言ってたもんな それはそうだけどそうじゃなくてっ、今日は千波が朝ご飯作るんだよ! ほら千波が好きなマヨネーズだぞ~ いったいどんなあやし方!? それ吸って静かにしてろ これだけじゃ千波の朝ご飯がマヨネーズオンリーになっちゃうじゃない! ちょっと油入れすぎたかな いくらマヨラーだからってマヨネーズだけを好むのはマヨラーとは言わないんだよ! 完熟だけどまあいいか マヨラーの道はマヨネーズだけにあらずなんだよっ、ほかの食材と組み合わせてこそマヨネーズの真髄なんだよ! 盛りつけ完了、いただきます ことごとくスルーされた上にもう作り終えてる!? ちょうどトーストもできたな。千波はコーヒー、砂糖三杯でいいんだよな せめてコーヒーくらい千波に煎れさせて! わかったから落ち着け わかってないっ、お兄ちゃんはぜんぜんまったくこれっぽっちもわかってないよ! そんなことない ほんとに千波の気持ちわかってくれたの!? 子ウサギタオルがなくなって悲しいんだろ? それいつの千波の気持ち!? 引っ越しして悲しいんだろ? べつにさかのぼらなくていいから!? 生まれてきて悲しいんだろ? なにがあろうと千波を悪者にしたがるお兄ちゃんの意志が固すぎて千波もう耐えられそうにないよ!? ほら、これ 千波の頭にタオルをかぶせた。 トイレに落ちてた。おまえ、夜中にトイレで起きたんじゃないか? そのとき落としたんだろ あ…… もっと早く言えばよかったな、悪かったよ ……ううんっ 千波は子ウサギタオルを抱きしめて席に着いた。 顔、洗わなくていいのか? いいの、食べたら洗うから いただきまーす! 完熟になってしまった目玉焼きに、千波は元気よくフォークを突き刺した。 あっ、蒼ちゃんだ。おはよーっ! ………… 玄関のカギを閉めていると、千波と蒼さんが門の前であいさつを交わしていた。 といっても声を出しているのは千波だけで、蒼さんは黙礼だけするとそのまま通り過ぎてしまう。 待ってよ蒼ちゃーんっ、一緒に登校しよー! 千波はその後ろを追いかけていく。 これで蒼さんとばったり出会ったのは三度目か。 千波と同程度に朝が弱いということらしい。 追いついたーっと ……また出た 蒼さん、おはよう ……おはようございます 蒼ちゃんってぎりぎりの時間に登校するんだねっ、これって千波と同レベルで早寝遅起きってことだよねっ ……とても屈辱 目覚まし鳴っても無意識に止めてて起きたあとに止まってるのにびっくりして誰かのせいにするんだよねっ ……とても恥辱 次はぜったい早起きするって誓ってもまた破ってその次に誓ってもまた破ってそのうちそれが自分のアイデンティティーに昇華するんだよねっ ……とても国辱 だから千波と蒼ちゃんは似た者同士なんだよねっ ……死ねばいいのに 息がぴったり合ってはいるがまったく友達関係に見えない。 蒼さんって、よく寝坊するのか? ……そんなことないです 早く起きても朝は優雅にゆっくりしたい派? ……優雅は好きですがそんなことないです 優雅は好きなのか。 それも千波とおんなじだねっ ……ありえない 蒼ちゃんは千波の親友第一号だからねっ ……頼んでない 蒼ちゃんも千波のこと大好きだもんねっ ……死ねばいいのに あははっ、蒼ちゃんって照れ屋さんっ ……誰か助けてください おお、鉄仮面のようだった蒼さんの顔が困惑モードだ。 まあ、こんなふうに大変なやつだけど、これからもよろしく頼むな ……保護者の責任放棄 見守ってるよ。ふたりの仲を ……最悪です そろそろチャイム鳴っちゃうよっ、蒼ちゃん急ごっ! わ、きゃっ、ひ、ひっぱらな……っ 千波に手を引かれて危なっかしげに走る、蒼さんの小さな背中を追いながら、俺も校舎に向けて駆けだした。 さてさてやって参りました、放課後の時間だよ~! 帰りのホームルームが終わると、明日歩はそう高らかに宣言した。 ここで問題です。放課後といえばなんでしょ~! なにやら明日歩がハイテンションだ。 洋ちゃん、わかる? 明日歩の期待してる答えはわかるぞ。部活だろ? ヒバリ校の放課後といえば、部活動ですからね 洋ちゃんとこさめちゃん大正解! 今日はトランプ部の活動すんのか そんな部どこにあるんだよっ、あたしたちはヒバリ校で代々受け継がれてる伝統ある天クルの部員なんだからっ 天ぷら愛好サークル、略して天クル 天体観測愛好サークルだよ~! 将来は天文部、もしくは天体観測部と名前を変えたいところですね となると、天クルじゃなくて〈天部〉《てんぶ》になるな 天界に住む神々を指す言葉と一緒ですね 天文ファンには光栄な名前だね 星座には神話がつきものだからな 明日歩さんから聞いていますよ。小河坂さん、天クルに入部するんですよね ああ。今日からよろしく なんだとぉ!? いきなり叫ぶなよ!? おまえバイトはどうしたんだよ それはまあ、うまく両立するよ だったらオレと一緒に廃屋に突入して幽霊探知機を胸に摩訶不思議アドベンチャーへと旅立とうぜ! それ危ない人だから ひでっ! それじゃあ部室いこっか 飛鳥さん。それではまた明日、学校で なんだったら今度、妹を紹介するからさ 言ったな、約束だぞ。忘れねえからな ……早まったかな。 憮然とする飛鳥を置いて、いざ天クルの部室へ。 天クルの部室ってどこにあるんだ? 校舎の二階だよ。特別教室が並んでる階 部室棟とかじゃなくて? 校舎とはべつに、部活で使うような建物が体育館の近くに建っていた気がするのだが。 部室棟が使えるのは運動部だけなんです。文化部は基本的に、特別教室を借りることになっているんですよ 文芸部は図書室、料理部は調理実習室って感じでね じゃあ、天クルは? 明日歩とこさめさんは顔を見合わせ、苦笑する。 本来、同好会レベルの部活は部室を持つことを許されていないんですけど…… そこはそれ、天クルはヒバリ校の伝統ある天文部が前身だからね! 部員数が足りなくなって今は同好会となっていますが、部室はまだ健在なんですよ つまり、ほかの同好会に比べて優遇されてるわけか そう言われると微妙なところなんですよね。先生の間では、天クル擁護派と否定派に分かれているみたいですし 生徒会はこももちゃんのせいで否定派になってるしね ぷんぷんと怒っている。 気になってたんだけど。明日歩って、姫榊さんのこと嫌いなのか? 洋ちゃん、こももちゃんのこと知ってるんだ 昨日、持ち物検査あっただろ? そのとき知りあった 正確には、転入初日に話しかけられたのだ。 向こうは俺を生徒会に入れたいせいなのか知らないが、すでに俺を見知っていたようだった。 こももちゃんは嫌いっていうか、天クルを目のカタキにしてる感じがするから…… 姉さん、星が嫌いなんです。だから天クルも嫌いなんだと思います なんでまた嫌いなんだ? 小河坂さん、詮索は悪趣味ですよ 聞かれたくない事情があるってことか。 あたしも理由は気になるけど、こさめちゃんもこももちゃんも教えてくれないんだもん 実を言うと、わたしも知らないんです あ、そうなんだ 姉さん、わたしにも教えてくれませんから。だから、申し訳ないんですけど…… いや、人の好みにまで文句はつけられないからな。明日歩だって星が好きっていうこと、誰かに非難されたくないと思うし そりゃあね だったら俺たちが姫榊さんを非難することもできないさ ……洋ちゃん、天クルの部員になったのにこももちゃんの肩待つの? そうじゃないって あたしたちが活動できないのってこももちゃんのせいなのに~! だから、そうじゃない。姫榊さんを説得させるなら、星が嫌いなりの方法があるってことだ どんな方法? ……それは知らないけど むー 明日歩さんを説得するには最後の詰めが足りませんでしたね 新入部員に求めるのは酷だと思う。 いつかこももちゃんをぎゃふんって言わせてやるんだから~! ぎゃふんと言う姫榊さんは見てみたいかもしれない。 はい、到着~。ここが天クルの部室だよ 頭上のプレートには「視聴覚室」と書いてあった。 昔からここを部室に使ってるわけか うん。部から同好会にランクダウンしたとき、この視聴覚室を使いたいっていうほかの部がたくさん出てきたらしいんだけどね 特に映画研究部が熱心だったと聞いていますよ。視聴覚室には大型スクリーンがありますからね 実際、映研に取られてもおかしくない状況だったんだって。伝統ある部っていっても、時代の流れには勝てないって感じで でも、部室は生き残ったんだな うん。その頃は部長の〈岡泉〉《おかいずみ》先輩が一年生のときで、部員も岡泉先輩だけだったらしいんだけど…… その岡泉先輩が、がんばってくれたんですよ。部室を守ってくれたんです 天クルの武勇伝になってるよね はい。功労賞です あたしならノーベル天文学賞をあげちゃうな 話を聞いている限り、その部長は明日歩に負けないくらいの天文ファンなんだろう。 覗き窓から明かりが見えますから、もう岡泉先輩が来ているようですね 洋ちゃん、岡泉先輩に失礼のないようにね。天クルの命の恩人なんだから わかったよ そんなふうに言われると緊張するが。 それじゃ、ちゃんとあたしについてくるんだよ お姉さんぶった言葉とともに明日歩は部室の扉を開けた。 おはようございま~す! おはようございます 明日歩の元気よいあいさつに続いて、こさめさんもぺこりとお辞儀する。 俺はふたりの後ろから初めて入った視聴覚室の内装をざっと見回した。 一番目に付くのはやはり大型のスクリーンだ。右手一面に真っ白な壁を作っているようにも見える。 その近くには小型のホワイトボード、手前の壇にはマイクや機材が設置されており、左に向かって長机と椅子がキレイに整列していた。 やあ、おふたりさん。今日は部活に参加かい? 壇上の椅子に座っていた線の細い男子生徒が、俺たちに気づいて立ち上がった。 はい。昨日は休んでしまってすみません いや、天クルは実質活動していないようなものだからね。謝ることはないよ 先輩、暇じゃなかったかなあって こさめクンとまったりお茶を飲んで過ごしていたよ まったりし過ぎてとろけそうでした 前に借りたDVDも見終わってしまったからね。また新しいのを借りてこないとなあ 先輩っ、映画鑑賞もいいけどあたしたちは伝統ある天クル部員なんですよ! な、なんだい突然。明日歩クンだって夏の新作見たい~って息巻いてたじゃないか そんな過去のあたしはゴミ箱にポイしてください。今のあたしはひと味もふた味も違うんです! そう言って明日歩は横に移動し、後ろに控えていた俺を両手を広げて指し示した。 じゃーん! 見てください! この人に注目してください! 穴が空くまで見つめてください! ……やめてくれ、恥ずかしすぎる。 小河坂さん、回れ右をしないでください もっと普通に紹介してくれ…… ええと……キミは誰だい? あ、小河坂洋っていいます。月曜に転入してきたばかりです。よろしくお願いします 丁寧に自己紹介。 こっちは天クルの部長、岡泉〈温土〉《はると》先輩だよ 岡泉先輩は胡乱な顔をしていた。 転入生クンがいったい天クルになんの用だい? そこまで言って岡泉先輩はハッとする。 ま、まさかこの部室を映研のやつらに売り渡そうと画策する生徒会の差し金……? いえ、洋ちゃんは転入生ですって。自分でも転入生クンって呼んでたじゃないですか 転入生の皮をかぶったスパイなのかも…… 生徒会の皆さんは、そんな回りくどい方法を取るくらいなら正面から攻撃してくると思いますよ 生徒会の方針が変わったのかも…… 姉さんはそんな姑息な手は使いませんよ 姫榊クンの性格が変わったのかも…… もうっ、先輩。この部室を守ったのは他ならぬ先輩なんですから。もっと自信を持ってください いや……あの頃の僕はおかしかったんだ。口を開けばシュプレヒコール、道を歩けばデモ行進、スローガンの最後には漢字で夜露死苦と書いてあった ……それ書いたの自分ですよね? 僕であって僕じゃない。あの頃の僕には死兆星が見えていたが今の僕には夜空を探しても見つけられないのだから よくわからないが、とりあえず、自己紹介のあとほったらかしにされている俺の立場は? たまに弱気になっちゃうそんな先輩のために朗報です。じゃーん! その紹介はもういい。 名前は小河坂洋。学年は二年生。性別は男 そしてなんと、本日より天クルの新しい部員となりま~す! 岡泉先輩はカッと目を見開いた。 イィィィィヤッッッッッホオオオゥゥゥゥゥ!!!! 机に飛び乗ってグ○コのようにバンザイした。 なんだこの人!? 先輩が躁になってしまいました 刺激が強すぎたかなあ みんな俺と違って驚いていない。 部長として歓迎するよ、新入部員の小河坂洋クン ……は、はあ びくびくしながら握手する。 うへへへぇぇ……コンゴトモヨロシクゥゥ…… 肉食獣の瞳で見つめられる。 ……この人には金輪際、近寄らないようにしよう。 先輩、洋ちゃんが怖がってますよ。はいコレ 明日歩は知恵の輪を岡泉先輩に渡す。 ハァハァ……ハァハァ…… 岡泉先輩は血走った目で知恵の輪に没頭する。 これでおとなしくなってくれるから 知恵の輪以外の餌は与えないでくださいね ……ここの部長が人間扱いされてないのはよくわかった あはは。こう見えて岡泉先輩、とっても優秀なんだよ このヒバリ校に入学してから、テストでは首位の座をキープし続けてるって聞いてるから 学年総代でもありますし、そんな岡泉先輩だからこそ天クルを守ることができたとも言えるんです 天才と狂気は紙一重という生きた見本だった。 じゃあ、部長が使いものにならなくなっちゃったし、代わりに副部長のあたしが天クルについて説明するね 岡泉先輩は部屋の隅っこで丸くなりながら知恵の輪を解いては元に戻し、解いては元に戻しを繰り返していた。 部員は全部で四人。部長の岡泉先輩、副部長のあたし、あとはこさめちゃんと、雪菜先輩 雪菜先輩の姿はない。幽霊部員らしいし、今日は来ないんだろう。 洋ちゃんが入ってくれたから五人だね。ほかの部活に比べたら少ないけど、天体観測に人数は関係ないからね 人数よりも場所と機材のほうが重要ですよね 天体望遠鏡はあたしのがあるからいいとして、あとは学校の屋上が使えればなあ 望遠鏡って、明日歩の私物なんだよな そうだよ。隣の資料室に置かせてもらってるんだけど。あそこの扉から入れるよ ホワイトボードの近くにそれらしき扉が見えた。 あと、けっこう値段するって聞いたぞ まあね。口径が15センチの赤道儀式の反射望遠鏡なんだけど オートサーチが付いて、デジカメとの相性もいいから気に入ってはいるんだけどね 赤道儀式ってなんだろう。オートサーチって? でもやっぱりいつかは大口径30センチの望遠鏡が欲しいな~ ちなみにそれ、いくらするんだ? ピンキリだけど、100万は超えるかなあ ……そんなにするのか。 明日歩の天文熱には感嘆するばかりだ。 望遠鏡って、レンズと反射鏡が大きいほどよく見えるんだよ。その分値段は高くなるし、重くもなるから持ち運びにくくなるんだけど それに大きいと場所を取りますからね 昔はね、校舎の屋上におっきな天体望遠鏡が置いてあったんだって。先代の天文部の所有物だったんだよ 古くなって廃棄処分されたんですよね 捨てられる前に見てみたかったなあ……。きっと天文台みたいでステキだったんだろうなあ 明日歩の瞳がきらきらする。 屋上って立ち入り禁止なんだよな。やっぱり天文部が衰退したのが理由か? 衰退って、洋ちゃんもれっきとした天クル部員なんだから言葉は慎んで欲しいな ……悪かった 小河坂さんは事実を述べただけで悪意はなかったと思いますよ わかってるけど~ 屋上の立ち入りが禁止されているのは、天体望遠鏡を廃棄処分したのがキッカケだったと聞いていますから、小河坂さんの言葉は当たっているかもしれませんね 禁止にしたのは生徒会なんだよね。風紀がどうとかの理由で先生方に申請して、許可されちゃったみたいなんだ それで明日歩は生徒会を敵視してるのか そうだよ。ラスボスはこももちゃん 天クル反対派の先頭に立ってますからね 姫榊さんと話したとき、自分らも好きで取り締まってるわけじゃないって言ってたぞ だとしても、屋上の使用許可くれないんじゃ一緒だよ。あたしはべつに風紀乱すつもりないのに 姉さんは、天クルに対しては私情を挟んでいるきらいがありますから。明日歩さんが怒るのももっともかもしれません そう思うならこさめちゃんもこももちゃんのこと説得してよ~ わたしは姉さんの味方でもありますから いっつもそれなんだから~! 姉妹愛のひとつの形だろうか。 だからね、天クルの部員が増えて部活として認可されれば、また屋上の使用許可がもらえるはずなんだよ サークルと部活では、説得力が違いますからね 許可されたら、屋上で活動再開するわけか うん 思うんだけど、べつに屋上じゃなくたっていいんじゃないか? たとえば中庭を使うとかさ 中庭じゃ、校舎が邪魔でうまく夜空が見えないもん だったらほかに見晴らしよさそうな…… と、ここまで口にしてうってつけの場所を思いついた。 雲雀ヶ崎の展望台があるじゃないか。あそこだったら遮蔽物もないし、思う存分天体観測できるんじゃないか? ですけど、あそこも屋上と同じで立ち入り禁止ですよ ……そうだった。いつも無視して出入りしているせいか、忘れそうになる。 あそこ、けっこう簡単に入れるぞ。内緒で使ってもいいんじゃないか? 生徒会に見つかったら、それを理由に天クルを廃部にすると思いますよ こさめさんは反対のようだ。理由ももっともだ。 小河坂さん、子供の頃に展望台で遊んでたって言っていましたよね ああ。その頃は自由に入れたのにな ………… なんでまた立ち入り禁止になってるんだ? こさめさんは眉尻を下げる。 昔、あそこで人身事故が起こったそうです。それが原因と聞いていますよ 事故って? こさめさんは首を横に振る。詳しくは知らないようだ。 明日歩は無反応。というか、さっきから会話に参加していない。 明日歩、どうした? ……洋ちゃんは、いいのかなって なにが? 天クルが展望台使うことだよ。大切な想い出の場所なんでしょ? そんなこと考えてたのか。 想い出の場所だからって、べつに誰にも立ち入って欲しくないわけじゃないぞ メアだってよく訪れるのだ。 俺はむしろ、訪れた人に展望台の彼女を見なかったか聞いて回りたいくらいだ。 ……思えば、展望台の彼女が見えないのは、そこが立ち入り禁止になったのも原因なんだろうな。 そういうものかな…… なに気にしてるんだ? う、ううん。なんでも ぱたぱたと手を振っている。 洋ちゃんがいいんだったら、展望台使わせてもらおっかな。フェンスも簡単に越えられたし 肉眼であんななんだから、望遠鏡で覗いちゃったらあたしそのまま甘い一夜を過ごしちゃうかも…… ……そんな言葉をうっとり言われると妙な気分になるな。 これでやっとトランプ部から卒業できるよ~ できません。あそこは立ち入り禁止だって明日歩さんも知っているじゃないですか 夜だったら誰にもバレないよ 夜だからこそ危険なんじゃないですか。あそこはあまり整備されていませんから、足を踏み外したら街まで転がり落ちてしまいますよ こさめちゃん、心配性なんだから 明日歩さんが楽天的すぎるんです じゃあこの三人で多数決取る? 天クルが展望台使うかどうか ……それは卑怯です 卑怯じゃないよ、民主的だもん。ね、洋ちゃん こさめさんが反対なら俺も反対かな なんで裏切ってるんだよ~!? 僕も反対だね いつのまに復活してるんですか~! 明日歩、自分で言ったじゃないか。部員を集めて正式に部として認めてもらって、堂々と屋上の使用許可をもらうんだろ? それはそうだけど~ 今日の天クルの活動予定はトランプだったね。明日はDVD鑑賞で明後日はまたトランプで…… 一刻も早くこの不毛な環境から脱却したいんだよ~! では花札にしますか? この現状に満足できるこさめちゃんがある意味うらやましいよ~! 俺には明日歩をからかっているふうにしか見えない。 明日歩さん。せっかく小河坂さんが入部してくれたんですから、がんばってあと一人、部員を集めたらいいじゃないですか ……うん 明日歩はふくれっ面だったが、最後にはうなずいた。 こさめちゃんもちゃんと協力してね? もちろんです なあ。あと一人で天クルは部になるのか? そうだよ。だからほんと洋ちゃんには感謝だよ~ だけど一学期も終わる今、ほとんどの生徒はすでに部活に所属しているし、帰宅部の生徒だって趣味や勉強でいそがしいだろうし…… もう~、さっきはちょっと引くほどよろこんでたのに、先輩ってばすぐ弱気になっちゃうんですから そうは言うけどね、明日歩クン…… 失礼します ノックと声が聞こえたと同時に、部屋の扉がスライドした。 こんにちは。天クルの皆さん 姫榊さんが不機嫌そうに立っていた。 ……誰かと思ったら 明日歩の表情がたちまち険しくなる。 今日も仲良くじめじめトランプでもしてたのかしら なんの用だよっ、勝手に入ってこないでよっ ちゃんとノックをしたし声もかけたわよ 同時に扉開けてたら意味ないじゃないっ 明日歩さん、どうどう こさめ。あなたもいつまでトランプ愛好サークル、略してトラクルに所属してるの 変な名前つけないでよ~! 姉さん。何度反対されようと、わたしはこのトラクルが大好きなんです トラクルがうつっちゃってるよこさめちゃん~! では花クルにしますか? あたしにはこさめちゃんの本心がいつまで経ってもわからないよ~! なんだか楽しそうだなあ。 というか、姫榊さん。なにか用があるんじゃないのか? ……その前に、なぜあなたがここにいるのよ にらまれた。 まさかこの天クルに入ったわけじゃないでしょうね、小河坂洋 ……フルネームで呼ぶなよ 答えてくれる、コガヨウ? 四文字で略すなよっ 昨日はよくもわたしをハメてくれたわね。蒼千波なんて生徒はこの学校にいないじゃない ……それで怒ってるのか。 それが用件なのか? ……そうじゃないけど つ、ついに生徒会からの廃部通告ががが…… 先輩、気を確かに持ってください そうですよ、部になるまであと一息なんだから。洋ちゃんが入部してくれたおかげで! 後半部分を強く告げる明日歩。 姫榊さんの額にびしっと青筋が立った。 ちょっとそこのコガヨウ だから四文字で呼ぶなっ、つーかおまえ昨日と態度変えすぎだろっ わたしを騙して天クルなんかに入ったあなたが悪い 腕を組んでそっぽを向く。 こももちゃん、活動の邪魔だから用がないなら出ていって欲しいな うるさい。それとわたしのこと名前で呼ばないで あのう……いくらお支払いすればお引き取り願えますでしょうか? 先輩、それは下手に出すぎです 小河坂くん、正直に答えて。本当の本気で入部したの? ああ ふざけないで ……いや、ふざけてないし そもそもなんでこんなサークルくずれになんか入るのよ 天体観測してみようかなあと そんな生活態度じゃ生徒会には推薦できないわね 誰も入りたいとは言ってないけど ふざけないで 理不尽だ。 だいたい天体観測は風紀を乱す行為じゃないでしょっ 深夜に外出するのは誉められた行為じゃないでしょう 夜遊びくらい自己責任の範疇じゃないか? ふざけないで もう~! あたしたちが好きで活動するんだから、こももちゃんには関係ないじゃない~! あるわよ。わたしは今日、あなたたちに最後の通告をしに来たんだから 姫榊さんはふんと鼻を鳴らす。 二学期になったらあなたたちの天クルは廃部にします シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 先輩、どうぞ こさめさんが知恵の輪を渡すと岡泉先輩はおとなしくなる。 た、食べられるかと思ったわ…… だよなあ…… とにかく。天クルは廃部にするから えー…… ……イライラする声出さないで 廃部って言われてハイそうですかなんて言えるわけないでしょっ それを決めるのはあなたじゃなくてわたしたち生徒会だから 横暴反対! イジメかっこ悪い! 正当な処置だから 姉さん、いくらなんでも急すぎませんか? これじゃあ納得できないのも無理がありません 急じゃないわ。定員の六人に達しなければ、天クルは部にできないって何度も言っていたじゃない でもサークルだったら許されるんでしょっ 許されない なんでっ わたしが許さないから 横暴反対! こももちゃんカッコ悪い! うるさいっ、あなたたちがサークルのくせに視聴覚室を陣取ってるからほかのサークルからクレームが山ほど届くのよっ、自分らにも部室をよこせって! そんなのあるの? あるわよっ あたしは聞いたことないよ? 生徒会に届いてるのっ いったいどこのサークルが騒いでいるんでしょう? 主にオカ研ね 飛鳥くんのバカバカバカ~! 元凶が発覚したようだ。 ほんとヒバリ校は部活動が盛んなんだな 他人事みたいに言わないでよ洋ちゃん~! そういうつもりじゃないんだが。 なあ姫榊 ……ちょっと、さん付けじゃなくなってるんだけど ツンツンしてるからいいかなあと 誰のせいだと思ってるのっ というより、ツンと呼び捨てに因果関係はありませんよね でさ、部員数が一学期中に六人になれば、生徒会的には天クルを存続させてもいいってことなのか? そうね。正式な部だったら部室をあげても問題ないし、クレームもなくなると思うから だったら明日歩、部員をもう一人確保すれば万事解決じゃないか それができれば苦労しないよ~! 今年の新入部員はまだ小河坂さん一人ですから。明日歩さんが焦る気持ちもわかってあげてください そこまで大変なのか。 今日家に帰ったら千波でも勧誘してみるか……いや、先に飛鳥に紹介する約束があったような。 それでなくても一学期はもう二週間もありませんから わずかな余命を最後の晩餐の用意で過ごすことね 悪役が似合うよなあ なに感心してるのよっ 姉さん。せめてもう少し期間を延ばせませんか? 延ばせない なんでだよ~! わたしが決めたから かわいい名前のくせになんでそんな横暴なんだよ~! 名前のこと触れないでっ、今すぐ廃部にされたいの!? 姉さん…… 突然こさめさんが姫榊にしなだれかかった。 あまりそんなふうに怒ってばかりいないでください…… こ、こさめ…… 姉さんの美貌がこれ以上醜く歪むのは、わたし耐えられません…… か、顔近い……近いっ…… わたしは姉さんの笑顔が好きなんです…… り、リボン、ほどかないでっ…… それ以上に、わたしは姉さんの困った顔が好きなんです…… 手、がっ……やあっ……当たってっ…… さらにそれ以上に、わたしは姉さんのせつない顔が大好きなんです…… む、胸っ……ふあっ……さわらなっ…… ……なんだこの展開は。 やめっ……てえ…… かわいい……姉さん…… はああっ……こ、こさめぇ…… もっと……もっと見せて…… やめ……なさいって言ってるでしょ!! 姫榊はこさめさんからしりぞくと、真っ赤になりながら急いで乱れた制服を整える。 ……はしたないところをお見せしました そう言いながらこさめさんは幸せそうだった。 なんだったんだ今のは…… ……鼻の下伸びてるよ そんなことない 紳士に言う。 むー じと目だ。 くっ……わたしとしたことが油断したわ…… そういう問題か? 今日のところはこれで勘弁してやるわ! 姫榊はありきたりな捨て台詞を吐いて去ろうとする。 うへへへぇぇ……生徒会の弱みゲットだぜぇぇ……このあられもない写真をネタに天クルの存続をぉぉ…… 姫榊はUターンして岡泉先輩のケータイをはたき落として踏みつぶした。 今日のところはこれで勘弁してやるわ!! 二回言った。 こさめっ、家に帰ったら覚えておきなさいよ! はい……うっとり なぜに? 姫榊は今度こそ去っていった。 ぼ、僕のケータイが…… 真ん中からぽっきり折れていた。 今のはさすがに先輩が悪い 悪いな 悪いです 僕はただ天クルのためを思ってしただけなのに…… それでも先輩が悪い 悪いな 悪いです ……僕の味方はこの子だけさ 知恵の輪に戻った。 結局、姫榊はなにしに来たんだろうな…… 姉さん本人が言っていたじゃないですか。一学期中に部員を集めないと廃部にするって 要するに嫌がらせでしょっ 明日歩はおかんむりだ。 こさめちゃんが撃退してくれなかったら、もっとねちねち言ってたに違いないもん あれは撃退だったのか。 校門前で今回同様、明日歩と姫榊がケンカしていたときも、こさめさんがこうやって収めたのかもしれない。 姉さん、次にやって来るのはいつでしょう…… 目がキラキラしている。明日歩が星について語っている目と同じだ。 ……なんとなくだけど、こさめさんが天クルに所属してる理由がわかった気がする 星が好きだからだよね? もちろんです 違うと思う。 部員、あと一人集めなきゃかあ 俺の妹に聞いてみようか? ありがと洋ちゃん~! ダメでも文句言うんじゃないぞ。あと先約で飛鳥にも紹介しないとだし ……洋ちゃん、律儀だね まあ、約束は約束だし 頭でっかち やめろと言うのに。 明日歩さん、今日の活動はどうしましょう? そうだね。洋ちゃん、資料室見てみる? 天体望遠鏡のほかにも、天文図鑑とか天球儀とかも置いてあるんだよ 今日の活動はトランプの代わりに、小河坂さんの歓迎会ですね じゃ、それにあやかって 洋ちゃん星座の神話とか詳しそうだし、いろいろお話ししたいな~ どうせ僕は弱気だしネクラだし情緒不安定だし部長のわりに頼りないし…… 岡泉先輩だけ、隅っこで知恵の輪に勤しんでいた。 初参加となった天クルの活動を終え、帰りに展望台に寄ってみた。 今は陽が暮れているが、着いたのは夕方だった。 天文図鑑や天球儀を使った明日歩のひとり星語りを聞いていたら下校の時刻となり、俺たちは解散した。 天クルは明日も活動するらしかった。 天体観測ができない現状では、天文談義に花を咲かすくらいなものなんだろうけど。 帰ったら、千波に入部を持ちかけてみるか…… 家だけじゃなく部活でもあのヒートっぷりを相手しなきゃいけないと思うと気が滅入るのだが。 ともあれ、手頃の草むらに座ってこんなふうに考え事をしていたらこんな時間になっていた。 メアの姿が見えないのは、空にうっすらと雲がかかっているせいだろうか。 まだ梅雨だもんな…… 本来なら雨が降っていてもおかしくない季節。 俺が雲雀ヶ崎で暮らし始めてから一度も降っていないところを見ると、今年は空梅雨だろうか。 七夕だって、途中で曇りはしたけど晴れだった。 ………… ……七夕、か。 俺はまだあの日の出来事に決着をつけていない。 メアには聞きたいことを聞けずにいる。 むしろ聞きたいことが多すぎて、どう聞いていいかも迷っている。 それでも、だからこそ、俺はこうしてメアを待っている。 メアは、星明かりの少ない夜空は無価値だとでも言うように、姿を見せることはなかった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、おかえりなさ──い! いってきます 千波が出迎えた瞬間にどこ行くのお兄ちゃん!? 自分の部屋だよ。着替えてくるから なんだてっきりウザがられたのかと思ったよっ、そんなわけないのに千波ったらなに勘違いしてんだろうねっ 自覚があって兄ちゃんもうれしいな その自覚ってウザいのと勘違いとどっちのこと!? あらあら洋ちゃん、おかえりなさい ただいま、詩乃さん 千波にもただいまって言って欲しかったよお兄ちゃん! じゃじゃ馬、千波 最後の『ま』しか合ってないよお兄ちゃん!? わかったから騒ぐな、バカなことやってないで早く夕飯食べよう 千波の頭にぽんと手を載せる。 今日も遅くなって悪かったな ううんっ、ぜんぜんへっちゃらだよっ 千波ちゃん、お兄ちゃんのために一生懸命ごちそう作って待ってたんだものね ありがとうな、千波 感謝の言葉と裏腹に頭に載ってた手がいつものぐりぐりに変わってるよお兄ちゃん!? こら、洋ちゃん。千波ちゃんをいじめない ……いえ、これは食材を無駄にした罰ですから 無駄なんかじゃないわよね、千波ちゃん はい! 詩乃さんも味見したときおいしいって絶賛してくれたし! うん。絶賛しちゃった ほらねお兄ちゃん! 詩乃さん、無理に口裏合わせなくていいですから なんで信じてくれないの!? とってもおいしいクッキーだったものね? はい! 千波自慢の卵焼きですから! 料理名がすでに噛みあってないだろっ おいしいって部分は合ってるわよ? ……正気ですか? 正気で絶賛しちゃった ……この家には味オンチがふたりいた。 ふたりの違いを挙げるとすれば、詩乃さんは味オンチでも料理がうまくて、千波は魔術的に下手ということだった。 夕飯後、俺は千波をリビングに呼んだ。 ……てんくる? 天体観測愛好サークル、略して天クルだ 天体観測するの? そうだ ヒバリ校ってそんなサークルがあるんだ そうだ お兄ちゃん、そのサークルに入ったんだ? おまえも明日入ったから なにその断定的な未来観測!? じゃ、頼むな 頼むもなにも千波には意味不明だよ!? おまえをサークルに誘ってるんだよ。天クルと、あとオカ研も候補に挙がってたんだけど オカ研ってオカルト研究部のことだよね? 千波こう見えて宇宙人の存在信じてるから天体観測よりはUFO観測のほうが好み…… 千波に聞いたら天クルのほうがいいって言ったから その千波ってどこの千波!? どの千波だっていいだろ この千波じゃない千波は千波じゃないよっ、お兄ちゃんの目の前にいる千波が本物の千波だよ! 自我を持った千波はいらないな…… 失敗作扱いされてる!? バカなことは置いといてだな、おまえ天体観測に興味ないか? ないよ ちょっとは考えろよっ だってだって千波は文化系よりも運動系が得意なんだもんっ、これは天から授かったギフトだからたとえお兄ちゃんに誘われても神さまが許してくれないんだもんっ じゃあ文化系が得意な千波を誘ってみるよ だからその千波ってどこの千波!? おまえまだ部活入ってないんだろ? うん、蒼ちゃんも入ってないみたいだから一緒に部活探そうって誘ってるんだよっ 蒼さん、かわいそうだな そんなわけないよっ、蒼ちゃんって無口だしたまに話しても毒舌だけど根は絶対いい子なんだよっ その点は同意するけどさ じゃあ蒼ちゃんと一緒にオカ研入るね なんでそうつながるんだよ!? だってだって蒼ちゃんって占いとか好きみたいだからオカルトにも興味あると思うんだもんっ 学校にタロットカードを持ち込んでいるくらいなので、占いが好きなのは確かだろうけど。 でもおまえは文化系が苦手だろ? それ以上に千波は宇宙人にお願いしてUFOに乗ってみたいんだよ! この千波はそろそろ寿命か…… 廃品扱いされてる!? おまえが星よりオカルトに興味があるのはわかった。でもな、天クルにものっぴきならない事情があるんだよ どんな事情? 早急にあとひとり部員を集めないと廃部になるんだ そうなの? ああ ほかに入部希望者とかいないの? 時期的に厳しいらしくてさ。生徒はほとんどほかの部に入ってるみたいで それでまだ帰宅部の千波にお願いしてたんだね わかってくれたか? もちろんだよっ、千波はお兄ちゃんのためなら一肌だって二肌だって脱ぐのをためらわないんだから! さすがは俺の自慢の妹だ 任せてお兄ちゃんっ、一刻も早くオカ研に入って捕まえた宇宙人を天クルに入部させてあげるから! さすがは俺の自慢の愚妹だ。 もういいからおまえ天クル入部決定な、明日みんなに紹介してやるから やだやだ千波はオカ研に入るんだから! なんでだよっ、オカ研って部員ひとりしかいないんだぞ? 天クルよりも弱小なんだぞ? サークルは楽しんでこそサークルなんだよっ、そこには弱小なんて些細な事情は介在しないんだよ! おまえなんでこういうときだけ正論なんだよ!? 千波はいつだって完全燃焼で生きてるだけだよ! 単に後先考えてないだけだろ!? たとえそうでもそれが千波の千波たる〈所以〉《ゆえん》なんだよ! ……すまん明日歩、どうやら我が妹は飛鳥に取られそうだ。 俺の誘い方が悪かった気がしなくもないが。 だいたいお兄ちゃん、なんで廃部になりそうなサークルになんて入ったの? ……よんどころない事情があるんだ 千波には言えないの? 天クルに入らない千波には言えないな 千波はふくれたが、追求はしなかった。 なあ千波、冗談じゃなくオカ研に入りたいのか? そうだよ、千波はいつだって本気だよっ 考え直す気は? ないよ、千波に二言はないんだから どの千波だったら二言があるんだ? そのネタもうやめようよ何気にショックだから!? わかったよ。だったら明日にでも、オカ研の部長に話しておくから 部長さん、お兄ちゃんの知りあいなんだ? たまたまクラスメイトだったんだよ 運命的な出会いって感じだねっ、千波がオカ研に入るのもきっと宿命だったんだねっ ……本当にすまない、明日歩。 明日、放課後になったらクラスに迎えにいくから うん、お願いねっ オカ研入るのはいいけど、UFO探して帰るのが遅くなったりするなよ うん、気をつける 宇宙人からお菓子もらってもついていくなよ うん、気をつける 危険なことだけは絶対するなよ お兄ちゃん、千波のこと心配なの? ……そんなことない えへへ 笑われた。 明日、蒼ちゃんも誘ってみよっと 蒼さんも帰宅部なんだったら、俺も天クルに誘ってみようかな ダメだよお兄ちゃんっ、蒼ちゃんは千波と一緒に宇宙意思のチャネリングと洒落込むんだから! ……なんか飛鳥とウマが合いそうだから困る。 ふたりとも、部活に入るの? 詩乃さんが食後のお茶を持ってきた。 あ、はい。俺は天体観測愛好サークルで、千波はオカルト研究部です よかった なにがだろう。 部活でよかった。もし洋ちゃんと千波ちゃんが私に気を遣ってバイトするなんて言ったら、止めるつもりだったから 詩乃さんの笑顔はこれまで見た中でも格段に優しかった。 姉さんだって、きっとそうすると思うから 姉さんというのは、俺たちの母さんのこと。 忘れないでね。あなたたちは、姉さんにとっても私にとっても、愛しい息子と娘なんだから 千波はなにも言えずにいた。 俺も同じだった。なぜなら俺は当たり前のようにバイトをするつもりだった。 ごめんなさいね、しんみりさせちゃって 詩乃さんはテーブルにお茶を置くと、洗い物の途中だったのかキッチンに戻っていく。 バイト……しないほうがいいのかな ……そうだな 千波はいい。俺も詩乃さんと同意見だ。 だが俺くらいはバイトをしても、母さんだって許してくれるはずだ。 俺たちは詩乃さんに感謝しているのだ。それを言葉じゃなく形としても贈りたいと思うから。 ……でもまあ、バイトをするにしろ、詩乃さんには内緒だな。 よけいな心配はかけたくない。 しかしこれで食費を入れ辛くなった。どうしようか。 お兄ちゃん、考え事? ……いや ある程度バイトをして金をためて、時期を見てまとめて渡すのがいいかもしれない。 それまでに受け取ってくれる口実を考えておこう。 ……その前に、バイト自体を探さないとなんだけどな。 展望台に行ったりサークル活動したりと、平日は時間が取れないようだ。今度の土日に行動しよう。 明日歩の喫茶店は候補のひとつだった。 お兄ちゃんっ、今朝はなに作るの? 今日も千波は平常の時間に起きてきた。奇跡は二度続いたようだ。 最近卵料理が多かったから、違う食材を使おうかなと だったら千波にいいアイデアがあるよっ たまには和風にしてみるか キッチンに立つお兄ちゃんはスルーが多すぎるよ!? おまえに構ってたら時間なくなって遅刻になるだろ 時間ないならふたりで協力して朝食を作るべきだよっ おまえが協力するから時間がなくなるんだろっ それは早計に過ぎるよお兄ちゃんっ、なぜならお兄ちゃんはまだこのキッチンを使って千波と一緒に朝食を作ったことが一度としてないんだから! 過去の俺グッジョブ 千波にとってはバッジョブだよ!? ……そんなに料理したいのか? うんっ なんで料理したいんだ? お兄ちゃんのお世話したいから 俺って千波に嫌われてるんだな…… なんで果てしなく落ち込んでるの!? 俺を困らせて内心でほくそ笑みたいんだろ…… するわけないよ!? なにがお兄ちゃんをそこまでネガティブに変えちゃったの! 千波っていう俺の妹 そんな偽物の千波はお兄ちゃんの妹じゃないよっ、この千波が正真正銘のお兄ちゃんの妹だよ! この千波は料理が得意なのか? うん! 偽物じゃないか 本物だよ!? 残念だったな、本物の千波は悪魔の手を持つ少女なんだ それお兄ちゃんが勝手に言ってるだけでしょ!? 時計を見たらもう七時を過ぎていた。 バカなことやってたから時間なくなっただろっ お兄ちゃんが千波を除け者にしようとするのがいけないんだよっ いいから作るぞ。たしか冷蔵庫に豚肉のパックがあったし、それ使って豚汁にするか フライパンで野菜と一緒に炒めてから煮込めば、うま味は少々飛ぶが時間短縮になるだろう。 待ってお兄ちゃんっ、豚肉なら千波が取ってくるから 千波は冷蔵庫の裏から肉を取り出した。 なぜに中じゃなくて裏!? 寝る前にここに置き換えておいて正解だったよお兄ちゃんっ、いい具合に腐ってる! 腐ってたら食べられないだろ!? そんなことないよっ、お肉は腐る直前が一番おいしいってお母さんが言ってたもん! そりゃ死後硬直で硬くなった肉を柔らかくするって意味で、店で売ってる肉には当てはまらないんだよ!? そんなの千波は肉博士じゃないんだからわかるわけないよ! とにかくおまえは食材を無駄にした罪により謹慎を命ずる、代わりに魚焼くからそこでおとなしく座っていろ お兄ちゃん、フライパンの油はこれでいいかな 座ってろって言ったろっ、つーか魚焼くのになんでグリルじゃなくてフライパンなんだよ!? そんなの千波は魚博士じゃないんだからわかるわけないよ! じゃあしょうがないから無難に目玉焼きに…… 了解だよお兄ちゃんっ、卵入れるね 油を敷いたフライパンに殻がついたままの卵を炒めている。 どうお兄ちゃん、こんな感じかな? 俺にどんな返答を期待してるんだおまえは…… 悪魔の手の効能により刻々と黒く変色する卵が不気味だった。 とりあえず火を止める。 あ、もう完成? ……そういうことにしといてくれ じゃあ盛りつけるねっ 大皿にぽつんと載った二個の卵が哀愁を誘っていた。 お兄ちゃん、このゆで卵おいしいねっ 正確には炒め卵だけどな…… 黒い殻を剥くと中はまともなゆで卵だったのが、最大の謎だった。 蒼ちゃーんっ、おはよー! ……また会った 家の前で蒼さんと合流するのはこれで四日目。 むしろ合流しなかった日は一度もなかった。 おはよう、蒼さん ……遺憾ですがおはようございます 蒼さんは俺たちと合流するのをどう思っているんだろう。言葉を聞くと迷惑そうだが。 毎日蒼ちゃんと登校できて千波うれしいなっ ……うれしくない 明日からも毎日蒼ちゃんと登校したいなっ 蒼さんは昨日にも見せた困惑顔を作る。 ……どうしてあなたたちは私に構うんですか 俺よりも、千波のほうだろうな どうして? なにが? 私に構う理由 え、友達だからでしょ? ………… 迷惑だったらそう言ってもいいんだぞ ……何度も言ったと思いますけど え、なんで迷惑なの? 蒼さんはため息をついた。 ……もう好きにしてください 蒼さんが坂を登り始めたので、俺たちも同行する。 ねえねえ蒼ちゃんって兄妹とかいないの? ……いきなりなに 千波はねっ、お兄ちゃんがひとりいるよっ、ぶっきらぼうなのが取り得のこの人だけどねっ 元気だけが取り得のおまえに言われたくない ……ふたりが兄妹なのはもう知ってる 蒼さんはどうなんだ? 兄妹とかいるのか? ……黙秘します 今度蒼ちゃんのおうちに遊びにいきたいなっ いかないでいい じゃあ今度の土日にお邪魔するねっ いかないでいいって言った じゃあ千波のうちに遊びに来る? 来ない でもでも千波はお昼過ぎまで寝てるから午前中はダメだからねっ 来ないって言った なにか用事でもあるとか? ……ありませんけど じゃあじゃあ外出でもいいよっ、千波と一緒にUFOを探す冒険の旅にレッツゴー! ……なんでUFO 蒼さん、天体観測に興味ないか? 千波が自然な流れでオカ研誘おうとしたのに割り込まないで!? 千波は意外と策士である。 ……オカ研? オカルト研究部、略してオカ研だよっ。蒼ちゃんも千波と一緒に入らない? 入らない 蒼さんはオカルトには興味ないってさ お兄ちゃんが勝手に決めないでっ、蒼ちゃんも宇宙人に頼んでUFO乗ってみたいよね? UFOは乗ってみたいけど入らない 乗ってみたいのか……。 じゃあじゃあ決まりだねっ、今日の放課後は千波と一緒にオカ研にレッツゴー! ありえない 千波、あんまり無理強いするなよ。蒼さんは天クルに入るんだから お兄ちゃんは無理強いよりたち悪い断定じゃない!? ……天クルってなに 天体観測愛好サークル、略して天クルだ 雲雀ヶ崎の星空ってキレイだし、天体観測には絶好だと思うんだけど、どうだ? ………… 蒼ちゃんは天体観測なんかに興味ないって おまえには聞いてない お兄ちゃんだって千波の邪魔したくせにっ ……その前に、なんで私を誘うんですか? ダメか? 蒼さんはどう応えるべきかわからないようだった。 ……ヒバリ校はもう、天文部がなくなったって聞いていましたけど そんな応えが来た。 天文部は以前に比べて部員数が少なくなったらしいけど、廃部にはなってない。サークルとして生き残ってるんだ ………… 蒼さん、星占いとかするんだよな。天体観測もやったことあるんじゃないか? ………… 無理強いするつもりはないけど、天クルって今、部員の勧誘してるんだ。よかったら入ってみないか? 蒼さんはしばらく無言でいたあと、ぽつりと言った。 ……校門です 蒼さんは立ち止まり、俺を横目でちらりと見た。 ……それでは それから校舎へと目を転じて歩いていく。マイペースに。 お兄ちゃん、放課後はクラスで待ってるからね。忘れちゃやだよ ああ、わかってるよ それまでに蒼ちゃんもオカ研に誘っとくからねっ、待ってよ蒼ちゃーん! 千波も慌ただしく駆けていった。 結局、蒼さんの天クル勧誘はうやむやに終わってしまった。 ……どうしたもんかな 蒼さんが千波の毒牙にかからないことを祈って、また折りを見て誘ってみるか。 じゃないと明日歩に合わせる顔がない。 なにより俺自身、天クルを廃部にしたくはなかった。 一時間目の授業が終わってすぐ、まずは報告をすませることにした。 飛鳥、約束は守ったぞ なんだよやぶからぼうに 明日歩、約束守れなくてごめん どしたのいきなり 報告終わり 小河坂さん、簡潔すぎて意味が通じていませんけど、もしかして言いづらい報告だったんですか? こさめさんにあっさり看破される。 洋ちゃん、あたしと飛鳥くんに約束なんかあった? いや、忘れてるんならいいけど オレが思い当たるのは、オカ研に妹さんを紹介してくれるってやつくらいだな そんなの飛鳥くんが勝手に約束にしただけでしょ。妹さんは、洋ちゃんが天クルに誘ってくれるんだから 明日歩、そのことなんだけど…… 洋ちゃん、今度妹さんに会わせてね。副部長として、天体観測の素晴らしさを説いてあげるから あ、いや、千波は夕べにもう誘ってみたんだけど…… わ、ほんと? じゃあ今日の活動は妹さんも来てくれるの? ありがと洋ちゃん~! い、いや、だから…… 小河坂さんの最初の報告と今の態度で、結果がわかってしまいました 小河坂、オレはおまえを信じてたぜ え、え? なにが? 明日歩、大切な話があるんだ。落ち着いて聞いて欲しい 紳士に言う。 ……はい なぜか明日歩の頬が朱に染まる。 実はな、うちの妹は愚妹なんだ ……身内を悪く言っちゃダメだよ洋ちゃん 天クルに誘ってみたんだけどさ、どうしてもほかに入りたい部があるって言われたんだよ その部がオカ研だったわけですね え、な、なんで? UFOに乗ってみたいらしい それはあたしも乗ってみたいけど 明日歩も乗ってみたいのか……。 だがここで重要なのは、千波は冗談じゃなく本気で乗るつもりらしいってことなんだ そいつは見込みがありそうだな 俺には逆にしか思えない。 そんなわけで、軍配は飛鳥に上がってしまったんだ そ、そうなの? 悪いな南星、小河坂の妹さんはいただいていくぜ そんなあ…… がっくりと肩を落とした。 残念ですけど、本人の意思は尊重しないといけませんね ぐすん…… この学校って、兼部は認められてないのか? 認められてたら、飛鳥くんと取りあってないよう…… もっともだ。 明日歩、報告にはまだ続きがあるんだ。落ち込むのはまだ早い 明日歩のためにも急いで付け足す。 千波以外にもさ、勧誘できそうな子がいるんだ。うちのお隣さんで、今のところ帰宅部なんだよ え、なになに? どんな子? 名前は? 何年生? ……そんな迫らなくていいから このドアップは癖なんだろうが、一向に慣れそうもない。 名前は蒼衣鈴、一年生の女子。もしかしたら天体観測に興味あるかもしれない わ、ほんと? 星がお好きなんですか? たぶん。星占いとかやるみたいだから それは期待できそうだね! 明日歩の機嫌は瞬く間に直っていた。 でもその子が帰宅部なら、オレにもチャンスがあるな UFOに乗りたいとは言っていたな……。 飛鳥には千波を紹介するし、蒼さんの先約は明日歩だろうな ありがと洋ちゃん~! その子、千波のクラスメイトだからさ、放課後に一緒に勧誘するか? うん! 明日歩は晴れやかな笑みを満面にたたえる。 昔からだったと思う。明日歩はこんな笑顔がよく似合う。 それは夜空に浮かぶ星よりももっと強い、青空に浮かぶ太陽の光ようだと感じた。 放課後となって、俺たち四人は帰り支度もそこそこに教室を出た。 1‐Cだったよね ああ。早めに行けば、蒼さんが帰る前に捕まえられるんじゃないか わたしもご一緒したいんですけど、今日は図書委員の仕事がありまして…… そっか。じゃあ二階でお別れかあ 一年生のクラスは一階、特別教室は二階なのだ。 千波ちゃんはクラスで待ってるんだよな 会ってもいないのにちゃん付けになってる。 創部二年目にしてようやく部員ゲットだぜ 飛鳥くんが入学してから作って、ずっとひとりだったんだよね ちなみにクラス替えは三年生に上がってからですので、わたしたちは一年生のときもクラスメイトだったんですよ 二年生に上がるとき、制服だけ新しく替わったんだよね 替わったのは一年生のほうですけどね 今年から、女子だけな。新入生確保のためか知らんけど だから一年と、二年、三年の女子では制服が違うのだ。 飛鳥、去年は勧誘しなかったのか? ああ。最初はひとりでもいいと思ってたんだよ。そっちのほうが身軽だしな まあ、カメラ持って走り回るなら都合がいいような けど途中で気づいたんだ。そもそもひとりで活動するなら、サークルを作る必要がなかったって いや、作る前に気づけよ だから今年から勧誘始めたんだけどさ、天クルと同じ理由で部員が集まらなかったわけだ 新入生でもダメだったのか? みんな、どうしてもサークルより部活入るのを選んじゃうんだよね。そっちのほうが人数多いし、友達作りにもなるから その気持ちはわかる気がする。 話聞いてるとさ、サークルって誰でもほいほい作れそうだな 部活は一定数の部員を集めなければいけませんけど、サークルは申請して審査が通れば許可されますから その分、サークルは部活と違って部室も部費ももらえないけどね じゃあ、わざわざサークル作る意味ってないんじゃないか? 実際そうなのかもしれません。ですけど、ここは雲雀ヶ崎ですから 娯楽が少ない街だからこその遊び場みたいなもんだな 他校はどうか知らないけど、ヒバリ校の放課後は部活やサークルにみんな集まって活動っていうのが基本なんだよ たしかに趣味が同じ者同士が、学年もクラスも超えて集まるというのは、サークルでもなければ難しそうだ。 ただ、どうせならやっぱり部活のほうがいいよね。部費がもらえれば活動の幅も広がるし 天クルは例外的に部室はありますけど、部費はもらえていないんです だから明日歩の望遠鏡が部室に置いてあるのか うん。いずれは部費もらって、部員全員分の双眼鏡を買いたいなって思うよ うちのオカ研も全員分のカメラが欲しいところだぜ 妹さんを入れてもまだふたりだけどね 部員数では、わたしたち天クルのほうが一歩リードしていますよね それどころかリーチかかってるし。これから洋ちゃんが紹介してくれる生徒が入ってくれればめでたく達成! ケッ、油断して足下すくわれねえようにな。まだその生徒が入部してくれるって決まったわけじゃねえんだろ それは飛鳥さんも同じですよ あたしは洋ちゃんを信じてるから! ……いや、むしろあまり期待はして欲しくないというか その蒼さんって子、星占いが趣味ならきっとおとなしくて引っ込み思案でとっても素直で大和撫子って感じのかわいらしい子なんだろうな~ 明日歩はすでに俺の話を聞いていなかった。 もしそんな性格でしたら、明日歩さんの押しの強さでなしくずし的に部員にできるかもしれませんね こさめさんは柔らかい物腰のわりにしたたかだ。 二階でこさめさんと別れたあと、俺たちはそのまま階段を下りて一階の千波のクラスに向かう。 あっ、お兄ちゃーん! 千波のクラスは階段のそばだったようで、下りた途端に大声が聞こえた。 ベストタイミングだねお兄ちゃんっ、千波のクラスちょうどホームルーム終わったところだから! わかったから大声出すな、恥ずかしすぎる ただでさえ見慣れない上級生が三人も訪ねているので、下級生から注目を浴びつつあった。 ……これは早めに切り上げたほうがよさそうだな。 彼女が千波ちゃんか? 元気な子だな それに雰囲気とか洋ちゃんに似てるよね いやそれは絶対にない 俺はこんなはた迷惑なヒートじゃない。 蒼ちゃーんっ、約束どおりサークルの人たち来たよー! 千波がクラスに向かって呼びかけると、蒼さんが恥ずかしそうに顔を出した。 ……お願いだから叫ばないで 蒼さんの気持ちがよくわかる。 ……それでは 待った待ったっ、まだ帰ろうとしないでくれ 彼女が蒼さん? 思ったとおりおとなしそうでかわいらしい子だね~ ……なにか屈辱 あっ、いつかのメイドさんだ おひさしぶり、千波ちゃん。早速だけど天体観測に興味ない? おまえまだ諦めてねえのかよ!? 聞いて聞いてお兄ちゃんっ、千波がんばって蒼ちゃんをオカ研に誘うとしたんだけどねっ、なかなかうんってうなずいてくれなくてねっ ……帰ります いきなり収拾がつかなくなってきた。 千波、こっちがオカ研部長の飛鳥未来だ。詳しい話はふたりでしてくれ おう、よろしく千波ちゃん で、蒼さん。ちょっと話があるんだけど、いいか? ……手短かになら とりあえず二組に分けるところから始める。 はじめまして飛鳥先輩、名前からしてオカルトですねっ 宿命ってやつだな、オレも気に入ってるんだ。呼ぶときは部長でいいぜ わかりましたオカルト部長! そっちじゃなくて名前に部長つけようぜ!? 千波のお守りは飛鳥に任せて、俺たちは注目のるつぼとなっているこの場から離れる。 ここ……視聴覚室 うん、そして天クルの部室だよ 落ち着いて話をするためには絶好の場所だろう。 岡泉先輩、いないな まだホームルーム終わってないのかもね 蒼さんは入り口の近くに立ったままだ。 あ、よかったら座って ……いえ 蒼さんはなにも言わずについて来てくれた。途中で帰ると言い出さなくてよかった。 ごめんね、部室まで連れて来ちゃって ……それより、用件を そうだね。洋ちゃんからはもう天クルに誘われてるんだよね? ……ようかん? いや、俺の名前 小河坂〈羊羹〉《ようかん》 ……和菓子にしないでくれ あはは。蒼さんっておもしろいね 俺の名前はもう知ってるよな。こっちは南星明日歩、天クルの副部長だ よろしくね 蒼さんは無反応だった。 それでね、洋ちゃんから聞いたんだけど。蒼さんって星占いが好きなんだって? ……そんなことないです あのタロットカードって、占星術に使うやつだよな? ……そんなことないです 学校に持ち込んでるってことは、そういう類に興味あるんじゃないか? そんなことないです もし星が好きなら、天クルに入ってあたしたちと一緒に天体観測…… そんなことないって言いました 明日歩の言葉が遮られた。 わかったら、二度と私を誘わないでください 明日歩はぽかんとしていた。 それをはっきりさせるために、私はここまでついて来たんですから 明日歩は口をぱくぱくさせた。 ……失礼します 蒼さんは一礼して部室を出ていった。 明日歩の勧誘はものの一分で撃沈した。 うっ……うわーん! そして泣いた。 ……正直言うと、断られる気がしたんだよなあ したんだよなあ、じゃないよ~! なんか取りつく島もなかったよ~! 実に蒼さんらしかったなあ なんだよそれ~! 洋ちゃんを信じたあたしがバカだったんだ~! い、いや、蒼さんってなに考えてるかわからないところがあるから、一筋縄ではいかないっていう意味で…… ぜんぜん大和撫子っぽくなかったよ~! それは明日歩が勝手に想像してただけだろ…… きっと天クルはこれをキッカケに廃部へと追い込まれちゃうんだ~! 悪い方向に飛躍しすぎだろ…… 洋ちゃんはこの危機的状況をなんとも思わないの~! 思ってるから、まだ勧誘を諦めてないんだよ この言葉で、明日歩の泣き言が収まった。 俺、蒼さんとは家が隣同士なんだ。朝は一緒になることが多いし、諦めずに誘ってみるよ 洋ちゃん…… だから明日歩も諦めるな。帰宅部の生徒はほかにもいるかもしれないし、これからも勧誘続けよう ……うん 明日歩は控えめにうなずいた。 うなずいたあとは、いつもの明日歩に戻っていた。 じゃあ気を取り直して、天クルの活動始めよっか 隣の資料室か? うん。天文資料は全部そこに置いてあるからね 視聴覚室に比べればこの部屋は格段に狭い。 ただどちらが部室らしいかと言えばこの部屋だ。 明日歩の天体望遠鏡を始めとして、ごちゃごちゃした空間のところどころに天クルらしさが窺える。 これから昨日みたいに天文談義か? 星図に囲まれながら、明日歩が話す星座の神話を延々聞かされそう。 嫌いじゃないので、俺としては構わなかった。 ううん。今日は、洋ちゃんのお話が聞きたいな ……俺が知ってる神話か? 明日歩ほど詳しくないし、たぶん聞いたことあるのばかりだぞ あは、それでもいいんだけどね 明日歩は手近のダンボールに腰を落とす。俺もならって座った。 洋ちゃん、昨日あれから展望台に行ったでしょ 唐突に尋ねた。 ……見てたのか? ううん。でもあたしたち帰り道一緒なのに、洋ちゃんいつまで経っても坂下りてこないんだもん 昨日、俺たちは部室で解散した。 明日歩は喫茶店の手伝いがあるとのことで、俺やこさめさんよりも早く学校を出たはずだった。 俺のこと待ってたのか? うん 喫茶店のほうはどうしたんだ? 手伝い始める時間は遅くなっちゃったよ なんで俺を待ってたんだ? 明日歩はどう答えようか迷ってから、 ちょっとね、気になったんだ なにが? 展望台の彼女さんが、だよ ………… 展望台、行ったんだよね? ああ、と俺はうなずいた。 会えた? いや 彼女にも、メアにも会えずじまいだった。 そっか。次は会えるといいね 明日歩、勘違いしてるぞ ……え? 一緒に調べたじゃないか。展望台の彼女は、もうこの街にはいないんだ それは自分にも言い聞かせる言葉。 だから、俺は会えると思って展望台に行ってるわけじゃないんだよ 明日歩の視線が足下に下がった。 ……ウソつき ウソじゃない じゃあなんで展望台に行くの? 浮かんだ答えは、メアに会いたいからというもの。 だが言葉にはできない。 教えられないわけじゃない、現に千波にはたやすく話せた。 明日歩の雰囲気が俺の口を封じているのかもしれない。 あたしね、ほんとは引き返して洋ちゃんを追いかけようと思ったんだよ 明日歩は、今度は手を後ろについて顎を上向け、天井を見上げた。 だけどね、空がうっすら曇ってたから。星空を見上げることができないと思ったから それで、やめることにしたんだよ よく、意味がわからない。 洋ちゃんのお話、聞きたいな 明日歩は俺に強い視線を注ぐ。 ……さっき言ったろ? 俺は明日歩ほど神話に詳しくないって あたしが詳しくない話もあるでしょ? なんのことだろう。 天文談義もいいけど、それ以外の洋ちゃんのお話が聞きたいな 洋ちゃんが転校したあとのお話が聞きたいな ……それって それは、天クルの活動と言うのだろうか。 話してくれたら、あたしの中学校時代も話してあげてもいいよ もしかしたら、展望台の彼女さんが登場するかもしれないよ? ………… だから、よかったら聞かせて欲しいな…… 話す 話す 話さない ……わかった。つまらなくても文句言うんじゃないぞ うん。言わないよ 明日歩は笑顔でうなずいた。 俺はかいつまんで転校先の話をした。 都会の学校とはいっても、敷地が狭いくらいで雲雀ヶ崎の学校と大して変わらなかったと感じたこと。 最初は友達作りに苦労したが、卒業する頃には仲の良いクラスメイトができたこと。 中学に上がるとまた仲間が増え、部活も委員会も所属はしなかったが、学校行事では一丸となって取り組んだこと。 男子とふざけあって女子から怒られるときもあったが、それはそれで楽しかったこと。 以上で終わり。 自分で話した内容とはいえ、人が聞いておもしろいところはどこにもない。 至って普通。どうということはない学校生活。 俺の小学校時代には手に入れられなかったものばかり。 ちなみにツンデレ委員長とメガネ図書委員の話は伏せておいた。 聞いてると、あたしが知ってる洋ちゃんとは別人みたい そうかもな 洋ちゃん、親の仕事の都合で引っ越ししたんだよね。先生からそう聞いたんだけど ああ、そうだよ じゃあさ、洋ちゃんは…… 明日歩はそれが本題だと言わんばかりに。 洋ちゃんは、どうして雲雀ヶ崎に戻ってきたの? まるでなにかを期待するみたいにそう聞いた。 じゃ、次は明日歩の番な ……誤魔化された 理由はそれこそ人が聞いて楽しくなる内容じゃない。 あたしの中学校時代は、普通だったよ そうなのか うん、そうなの ………… ………… ……もう終わりか? うん、終わり 待ってくれ。 いや、なんていうか、まだあるだろ? ないよ ……展望台の彼女は? そんな名前の女子は知らないなあ 意地悪く言った。 洋ちゃん、今日も展望台いくの? 俺と同じで誤魔化したってことなんだろうか。 ……あはは 明日歩は急に笑った。 ごめんね、今のは忘れて 俺の顔に出ていたのか、明日歩は自分から取り下げた。 洋ちゃん、今日も展望台いくの? そうだな。暗くなってきたら行くつもり 夜じゃなきゃいけないの? ああ 昼間に来てるのかもしれないよ? だから、展望台の彼女は関係ないんだ 明日歩は納得できないようだ。 よかったら、一緒に来るか? えっ この前みたいに天体観測しないか。天クルの活動だと問題あるだろうけど、ふたりでやる分にはいいだろ 今夜が晴れれば、そこにはメアもいるかもしれない。 一度、メアを誰かと会わせてみたいとも思っていた。 メアの正体を知る手がかりにもなるだろう。 ……いいの? この場合は俺が誘ってるんだから、明日歩がいいかどうかを答えないとだろ ……うるさい、頭でっかち なんでだよ…… あたし、平日の夜はたいてい喫茶店の手伝いがあるから外出できないんだよっ それで不機嫌なんだろうか。 誰かさんがバイトしてくれたらもっと楽になるのにな~ 俺は苦笑する。 それなら次の土日にでも、明日歩の喫茶店いっていいか? バイトの詳しい話聞かせてくれ わ、ほんと? ああ。ほかにも探してみるつもりだけど、候補のひとつってことで ありがと洋ちゃん~! 貼り紙してもぜんぜんバイト希望者来なくて、お父さんも困ってたから ヒバリ校の生徒が部活動に取られてたら、なかなか集まらないだろうな バイト自体も基本的に禁止だからね。洋ちゃんは許可されたんだよね? ああ。家庭の事情で一発だった 家庭の事情? 俺と千波って親戚の家に居候中だからさ。急に家族が増えると家の食費もバカにならないからって事情 そっか……。だから急いでバイト探してたんだ まあな 天クルに誘ったの、迷惑だったかな いや。家計が苦しいわけじゃないしな 実際、詩乃さんからそういう話は一度も聞いたことがない。逆にバイトを反対されているくらいだ。 じゃあ、その土日に天体観測っていうのはどうだ? うん! 即座に返事が返ってきた。 でも、天体観測じゃなくて星見ね。天クルの活動じゃないんだから こだわるんだな 同じような意味だろうに。 洋ちゃんの初めての天体観測は、天クルがいいって思うから…… 初めての星見は、あたしがもらうけどね それはどんな意味のこだわりなんだろう。 せっかくだし、展望台まで洋ちゃんに望遠鏡運んでもらおっかな~ いいけど、代わりに天体観測……じゃない、星見についていろいろ教えてくれると助かるな。初めてだからさ もちろん。用意する物とかもあとで教えてあげるね がらがらと扉の開く音がした。 誰か来たみたいだな 岡泉先輩かな。今日は遅かったなあ 明日歩が立ち上がったので、いったん話は打ち切りとなった。 ああ、資料室にいたんだね。無人だったから今日は僕ひとりなのかと思ったよ 岡泉先輩は俺と明日歩の顔を見ると、あからさまにホッとした。 てっきり天クルに愛想を尽かして僕ひとり除け者にして退部したんじゃないかって…… ホッとしたのも束の間、すぐに落ち込んだ。 退部なんかしませんよ。逆に今は勧誘に燃えてるんですから! それは助かるけどね……。ただ小河坂クンが入ったばかりだし、統計学的にあと一年間は誰も入らないんじゃ…… もう~! 自信を持ってくださいってば! 先輩は、誰か入部してくれそうな人の心当たりはないんですか? あるわけないじゃないか ……断言されてもな。 小河坂クンはいないのかい? ひとりですけど、います ありがとう。僕を慰めてくれてるんだね ……いやそうじゃなくてですね 今日の先輩は鬱に寄ってるなあ。こういうときの先輩ってなに言ってもネガティブに捉えられちゃうから 鬱になったり躁になったり大変な人だな……。 そういえば、こさめクンの姿が見えないね 図書委員の仕事でお休みです。先輩こそ今日は遅かったですけど、委員会の仕事とか? 僕なんかに委員会の仕事が務まるわけないじゃないか ……いえ、先輩はいちおう学年総代なんですし 難儀な人だと思う。 僕が遅くなったのは、天文部時代の元顧問からこれを受け取っていたからさ 岡泉先輩は、近くの机に置いてあったものを手に取った。 それは一見すると望遠鏡の置物のようにも見えた。 ……なんですか、これ? オルゴールだよ 岡泉先輩は円筒の部分を指で撫でる。 天文部がなくなる折りに修理に出していたそうで、業者から受け取った元顧問が今まで渡すのを忘れていたらしい じゃあ天クルの備品ってことですか? そう取ってもらって構わないかな。当時は天文部のシンボルみたいなものだったそうだよ へえー。めずらしい形のオルゴールですよね、なんか望遠鏡みたい カレイドオルゴールという名前だそうだよ ……カレイド? 万華鏡ですか? ああ。ネジを巻いてレンズを覗けば、色とりどりの光の競演を眺めることができる ビーズの部分が回転する仕組みになっているんだ。万華鏡は手動で回すのが普通だけど、このカレイドオルゴールは自動で回るわけだね 岡泉先輩は底についているネジを巻く。 だから、明日歩クンが言った望遠鏡というのはあながち間違いじゃないかもしれない 夜空に向けて望遠鏡を覗き込めば、この万華鏡に引けを取らない色とりどりの星の競演を観測できるのだから ……って、オルゴール鳴ってないですよ? あれ 岡泉先輩は底を覗き込んでもう一度ネジを回す。 ネジは回転するが、肝心のメロディは聞こえない。 おかしいな……。修理は終わったと聞いているんだけど もともと壊れてたんですか? そのようだね。長い間壊れたままだったらしいけど、天文部が天クルに変わるのをキッカケに誰かが修理に出したんじゃないかな でも、直ってないですよね? おかしいなあ……。元顧問に聞いてこようかな 岡泉先輩はカレイドオルゴールを持って、首をひねりながら部室を出ていった。 ……またふたりになっちゃったね 気になったんだけど、岡泉先輩が言ってた元顧問って天文部時代の顧問なんだよな そうみたいだね。あたしはどの先生か知らないけど 岡泉先輩から聞いた話だと、授業してるときはずっと黒板向いてて絶対に生徒のほうに振り向かないっていうおもしろい先生なんだって ……それで授業が成り立つんだろうか。 天クルの顧問っていないのか? 部活ならまだしも、サークルにまで顧問がいたら先生が何人いても足りないよ それほどサークル数は多いということか。 それに、文化部は顧問がいないほうが多いんじゃないかな。天クルだって必要ないって思うし わからないことは明日歩に聞けるもんな 岡泉先輩も天体観測に詳しいからね これからどうする? うーん、どうしよっか。岡泉先輩、いつ戻ってくるかわからないし…… 天クルの勧誘でもするか? この時間だと部活やってる生徒しか捕まらないよ。やるんだったら朝のほうがいいかも ……それは辛いな 洋ちゃん、いつも遅刻ぎりぎりに登校だもんね 俺の役目は蒼さんの勧誘だな。その他の勧誘は任せた むー 明日歩は不機嫌そうにしていたかと思うと、急に笑みを浮かべた。 あたしもまだ家の手伝いまで時間あるし、展望台いってみよっか? ……今からか? うん。今から さすがにまだ星は見えないだろ むー ……さっきから犬化してるな。 散歩がてらってことで、どう? ……ええと 断る理由はない気がする。 ただこの時間に展望台を訪れても、メアはいない。 とすると俺は夜にもまた出向かなければならないわけで、それが尻込みする原因かもしれない。 また今度にしないか? 俺もほかに行きたいとこあるからさ 体よく断ったわけではなく、これは本当のことだ。 ……べつにいいけど。用事でもあるの? ちょっとな、調べ物っていうか。時間があるときにやっておきたかったんだ なに調べるの? 死神少女の生態についてだ 明日歩は、とても間抜けな顔をしていた。 あ、小河坂さん。それに明日歩さんも カウンターに座っていたこさめさんが、俺たちに気づいて立ち上がる。 こさめちゃん、お疲れさま 蒼さんの勧誘は成功しましたか? むー わかりやすい返答、ありがとうございます 阿吽の呼吸だ。 天クルの活動はどうしたんですか? 洋ちゃんがね、図書室に用事があるんだって 小河坂さん、また調べ物ですか? そんなところだ またって……洋ちゃん、死神に興味あるの? ……死神? ああ、いや、それは言葉のあやっていうか メアについて説明するのは難しすぎる。 新入生には多いですよね、死神好きな子 こさめさんはのんびりとそんなことを言った。 入学したら、みんな一度は耳にするだろうしね。なくならないよね、この都市伝説 誰が流した噂なのか気になるところですよね いつから流れてたのかっていうのもね 飛鳥さんも去年は調べてましたよね。結局なにもわからなかったみたいですけど 熱しやすく冷めやすいんだよね、飛鳥くんって。オカルトファンのわりに オカルトファンだからこそじゃないですか? 天文に比べれば、オカルトの類は新しい情報が生まれやすいでしょうから 洋ちゃん、どこで死神の噂聞いたのか知らないけど、調べてもなにも出てこないと思うよ? い、いや、ちょっと待ってくれ あまりの急展開に面食らった。 あのさ、みんなメアのこと知ってるのか? ……めあ? 人の名前ですか? 死神の名前だよ 死神に名前なんかあったっけ? 死神は死神ですよね 誰かが噂に尾ひれつけちゃったとか? そういった変化も多いですよね。せっかくの都市伝説ですから、いつまでも変わらず後代に伝わって欲しいものです。伝統みたいに 洋ちゃん、ダメだよ。勝手に尾ひれつけちゃ ……いや、だから待ってくれ なんで俺が非難されなきゃならないんだ。 そのヒバリ校の都市伝説ってなんなんだ? 死神の噂だよ。出会うとカップルの仲を引き裂くって内容だったと思うけど ですからその死神は、生徒の間では恋の死神とも呼ばれているんですよ カップルの恋を死に追いやるって意味なんだろうね そんな都市伝説があるのか、この学校。 でも、クラスで誰も話してなかったぞ? 都市伝説に興味を持つのは一年生までで、二年生に上がる頃にはすっかり忘れているのが普通ですからね ていうか洋ちゃん、誰かから聞いたんじゃないの? もう知ってるんだから いや、初耳だけど 小河坂さんは死神の都市伝説を調べたいんじゃないんですか? たぶん違うと思う ……なんだよたぶんって なにか俺までこんがらがってきた。 その死神の噂、もう少し詳しく話してくれないか? 詳しくって言われても、いっぱいあってあたしも把握しきれてないよ 噂は様々ですが、共通しているのは先ほど明日歩さんが話した内容ですよ カップルの恋を引き裂くって? はい その死神の姿格好とかは? 死神だからカマとか持ってるんじゃない? 姿に限らず、歳も性別も千差万別ですよ 現れる場所とかは? ヒバリ校の都市伝説だし、ヒバリ校じゃない? 普通に考えればそうですよね 展望台に現れるって話は? こさめちゃん、聞いたことある? どうでしょう。そういった話もあるかもしれませんね メアかどうかは判断しようがなかった。 あくまで噂レベルの話のようだし、鵜呑みにするつもりじゃないのだが。 もしその死神がメアだったとしたら、メアに出会った人は誰かとの恋を引き裂かれるということだろうか。 俺はメアに出会っているので、すでに誰かとの恋を引き裂かれたということだろうか。 ……俺が展望台の彼女の名前をメアによって忘れたのだとしたら、それは恋を引き裂かれたということだろうか。 洋ちゃんが思案モードに入っちゃった 昔もよくあったんですか? 小学生の頃の洋ちゃんはいつも思案モードだったかな。あはは だが俺が展望台の彼女と再会できないのは、なにもメアのせいというわけじゃない。 メアと出会っていなくても、俺は彼女と再会できていないはずなのだ。 展望台の彼女が雲雀ヶ崎から出ているのなら、名前を覚えていたとしても捜せないのだから。 それになにより、俺は彼女に恋をしていない。 ……まあ、それはひとまず置いておくか おかえり、洋ちゃん なにが? 小河坂さん、図書室に来たということは、なにか本をお探しなんですよね? ああ。またこさめさんに協力してもらえると助かるかな 記憶喪失に関する本ですか? いや、今回は違う本 どんな本ですか? そして俺は今回の目的を説明した。 幻覚について、知りたいんだ たとえば幽霊や宇宙人なんかの類を目撃した場合、まず疑うのは自分の目になるだろう。 自分は幻を見たんじゃないか。今日は疲れてるのかな。そんな思考が普通だと思う。 例に漏れず俺もメアという存在を、一種の幻覚かもしれないと疑っている。 目の前で消えたり、人の胸にカマを刺したり、およそ日常とはかけ離れた光景を俺は幾度も確認しているのだ。 それをすんなり現実と受け止められるほど、俺は頭が柔らかくない。 メアは本当に実在するのか。 幻覚だった場合、なぜ俺は幻覚を見ていたのか。 重要なのはその二点。 用意してもらったこさめさんに感謝しながら本を開く。 記憶喪失を調べたときと同様、とりあえず気になるトピックだけに目を通す。 人はどんな場合に幻覚を見るのか──主な原因は薬物、ストレス、アルコール、心の病、病気の発熱、重度の失血、そして頭を強打することによる脳機能障害。 一見すると多種多様だが、共通項はちゃんとある。 いずれもドーパミンとエンドルフィンの異常分泌が原因という点だ。 そうなると人は眠っているときに近い状態──夢幻状態に陥るらしい。 夢はしばしば人が通常知覚できないメッセージを示し、不思議な体験をさせる。 知覚のタガが外れ、周囲から飛び込んでくる情報や脳内の記憶を制御できなくなるからだ。 そのため、現在の気持ちや過去の想い出が幻覚のかたちでよみがえることもあるらしい。 だからメアが幻覚だとするなら、俺は夢を見ていたのと同じなのだ。 俺はもしかしたら、展望台の想い出を通して、彼女の存在をメアとして見ていたのかもしれない。 メアは、俺の過去が作り出した死神なのかもしれない。 洋ちゃん、なにかわかった? ……あまりうれしくないことがわかったよ 防衛機制という言葉がある。 人は欲求が満たされない場合、無意識のうちに自己を守ろうとして、ある種の方法を取る。 そのときの心の仕組みのことを、防衛機制という。 たとえば、勉強したのにテストで良い結果が出せなかったときにもっともらしい理屈をつけてしまうこと。これを合理化という。 また、自分の学校が他校との部活試合で勝ったときに自分自身が勝ったように自慢してしまうこと。これを同一視という。 あとは、好きな子に意地悪してしまうのもこれに当たる。これを反動形成という。 要するに、さっきの考えが正しいのなら、俺は欲求を満たすために想い出に浸っていたということになる。 展望台の彼女に会えないためにストレスが溜まったので、幻覚を生み出して発散するという、なんとも情けない結論になってしまうのだ。 ……しかも、メアと展望台の彼女がうりふたつであることの説明までついてしまうじゃないか。 うれしくないことって、どんな? 俺が調べ物をしている間、明日歩は暇だったろうに最後まで待っていてくれた。 まあ、納得できる収穫がなかったっていうか どんな収穫? ……ええと 洋ちゃん、なんで幻覚なんか調べたの? ……黙秘権は? ない。待っててあげたんだから 明日歩さん、小河坂さんが困っていますよ だって気になるじゃない~! 図書室ではお静かにお願いしますね ……ごめんなさい 時間的にはほとんど夕方だった。夏だけあって、外はまだ昼間のように明るいが。 俺は開いていた本を閉じた。 ありがとう、こさめさん。助かったよ どういたしまして。お役に立ててなによりです 明日歩、家の手伝いのほうはいいのか? あっ、そういえば。そろそろ帰らないと 図書室ももう少しで閉める時間ですし、今日はこれでお開きですね 洋ちゃん、一緒に帰る? 展望台に寄るつもりなので、断ろうとも思ったのだが。 そうだな。帰るか 明日歩がまた不機嫌になる気がしたので、こう答えていた。 いったん家に帰ってから展望台まで引き返しても、問題はなかった。 手伝いがなかったら、帰る前に展望台寄りたかったんだけどね 明日歩は俺の右隣を歩いている。 クラスでも右隣の席なので、そこが明日歩の指定席になったかのようだ。 ほんと残念だなあ。洋ちゃんと星見したかったのに 土日はもうすぐだし、慌てることはないだろ その日が晴れって保証はないもん。今日は晴れだけどさ 晴れか? ちょっと曇ってる感じだけど でも雨は降らないよ。絶対 天気予報でそう言ってたのか うん、あたしの天気予報が言ってたの ……明日歩が勝手に言ってるだけじゃないか そうじゃないよ 明日歩は先を歩いてから、くるんと振り返った。 あたしの雨警報は、天気予報よりも当たるんだから えへんと胸を張っている。 ……なんだ、雨警報って 雨足がね、聞こえるんだよ。雨が近いとね ……雨足? 雨が降る前にか? うん ざーざーって? ううん、きーんきーん ……どんな雨だよ だから、警報なんだってば。きーんきーんって 飛行機みたいだな そうだね。そんな音なのかもしれない 飛行機なんて乗ったことないけどね 明日歩はまた俺の右隣に移動する。 雲雀ヶ崎って北にあるからもともと梅雨の時期が短いけど、今年はそれが顕著みたい あたしの雨警報もずっとお休みしてるんだ その雨警報、当たるのか? うん。的中率100%! またまた胸を張っている。 ……強調されるから、やめて欲しいんだが。 七月入ってから、一度も鳴ってないんだよね だったら、土日も晴れるさ。明日歩の警報が休んでいるんなら そうだね。楽しみだなあ 話していると長い坂も短く感じる。俺たちはふもとに降り立った。 あたし、明日は早めに学校いって天クルの勧誘ポスター作ってみるよ。掲示板に貼れば少しは効果があるかも じゃあ俺も家で勧誘のチラシ作ってくるかな ……勧誘、手伝ってくれるの? 当たり前だろ でも、蒼さんのほうだけやるって言ってたから…… あれは冗談。ほかの勧誘だってやる 明日歩は屈託なく笑う。 チラシ作って配るの? ああ。早朝は辛いから、帰りのホームルーム終わってからすぐ校門に立って、帰宅する生徒に配ってみようかなと そうすれば帰宅部の生徒をピンポイントで狙えるしな さすが洋ちゃん、ナイスアイデア! あたしも手伝うよ それじゃ、また明日 ばいばい 明日歩は手を振って商店街のほうへ走っていく。手伝いの時間が間近なんだろう。 道を曲がって背中が見えなくなったところで、俺は家の門をくぐった。 バッグを置いたら、展望台に出向いてみよう。 メアは幻覚なのか、はたまた実在するのか。 幻覚だとしたら、これまでのメアとの会話もまた幻聴ということになる。 本当に、うれしくない結論だ。 明日歩の言葉どおり今夜は晴れのようだった。 だからほら、目を凝らさずとも見えている。 俺の瞳は、はっきりと夜空の光とその下で待つ死神少女を捉えている。 また来たのね ああ。悪いか? 悪いというか、不気味 ……なんだよ不気味って 間違った。疑問 疑問って、なにが どうしてここを訪れるのかなって 訪れたかったからだよ どうして? メアに会いたかったからだよ メアのむっつり顔がますますムスっとなった。 ……やっぱり不気味 なんでだよ あなた、わたしを恨んでるんじゃないの? 前回と同じ質問だ。 なんでそう思う? わたしがあなたの悪夢を刈ったから 俺がキミに会いたかった理由のひとつだな ……? どうしてもキミに確認したかったことがあるんだ ……なに? 展望台の彼女の名前は、キミが奪ったのか? 展望台の彼女? 俺が昔ここで遊んでいた女の子。その子の名前を忘れたのはキミのせいなのか? 忘れたのなら、わたしが原因だと思う キミが、俺から記憶を奪ったのか? うん それが悪夢を刈るってことなのか? うん なぜそんなことができるんだ? できるからとしか答えようがない 理屈は知らないが結果はわかるってことか? そうなんだと思う たとえば、だ。 名前を忘れたのは俺自身が原因で、だが俺はその事実を幻覚のせいにしたがっているというふうにも解釈できる。 俺の弱さが、メアを生んでいるということだ。 ちょっと目、つむってくれるか? ……え? 目、つむってくれ どうして? どうしても いや 拒否られる。 メアってさ、俺に目をつむれって言ったよな。それからカマを刺したよな うん じゃあギブアンドテイクってことで、今度はメアが目をつむってくれ いや このやろう。 わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが命令されることなの。だからいや 俺の幻覚だったとしたらやけに反抗的だ。 じゃあどうすれば目をつむってくれるんだ? そもそもなんでわたしが目をつむらなきゃなの 実験したいんだ なにそれ 実験も知らないのか? 刺していい? カマを構えるなよ!? 今日のあなたはバカバカね なんだよバカバカって…… ダメダメとどっちがマシなんだろう。 メアってさ、死神なんだよな? あなたがそう言うなら、そうだと思う 命令されるのが嫌いなわりに受動的な答えだが、まあいい。 俺さ、死神なんて人外設定は信じてないんだ ……あなたが言ったくせに でも、これからする実験を行えば、信じられると思う ……そうなの? そうなんだ メアは迷っているようだ。 頼むよ。これは命令じゃなくてお願いだ。俺はメアを死神として扱いたいんだ わたしは死神じゃなくてもいいけど 根本を覆す発言を食らう。 でも死神じゃないとすると、俺はメアを幻覚として扱うことになってしまうんだ ……幻覚って 残念なことにこのままだとメアは俺が見ている幻覚になるかもしれないんだ な、なんでそうなるのっ 慌てている。 メアって幻覚じゃないのか? 当たり前じゃないっ。わたしはこうしてここに存在してるんだから こうは言っているが、自己主張の強い幻覚というのも症例にあるらしいので、鵜呑みにはできない。 じゃあ幻覚じゃないってことを証明するためにも、目をつむってくれないか? ………… 警戒しているのがありありだ。 すぐすむんだ。三十秒もかからない ……本当? 本当 ウソだったらカマで刺していい? ああ。だから頼むよ ……うん メアはおっかなびっくりに目を閉じた。 俺はメアに近づき、正面に立った。 足音が聞こえたせいかメアはびくっとした。 だけど約束どおり目は閉じたままだ。 メアは肩を強ばらせて不安そうに立っている。 改めて思った。小さな身体。小学生並みの身長。 顔だってあどけない。 展望台の彼女にそっくりだから、とても幼い。 だから、普段の大人びた口調が、無理をした背伸びを思わせていた。 俺はメアを抱きしめた。 大きな震えが伝わった。 そこにはちゃんと感触がある。 幻覚とは思えないぬくもり。 あたたかく柔らかい。 それともこの感触も幻なのか。 幻覚は視覚や聴覚だけじゃない、触覚にだって当てはまる。 幻味や幻嗅なんて言葉もあるくらいだ。 ……よくよく考えてみると、それじゃあ実験の意味がないじゃないか。 それでもこのぬくもりを現実じゃない、ただの夢として扱うのは、いたく寂しく感じられた。 い…… 胸の中でメアのつぶやきが聞こえる。 い、い、い、い…… ……い? いつまでこうしてるのっ!! がこんっ!! いてえ!? 脳天に衝撃が襲い、尻餅をついた。 なにすんだっ! そっ、それはこっちのセリフでしょ! メアは自分の身体を守るようにぎゅっとカマを抱きしめていた。 ついでに耳まで赤くなっていた。 カマで殴ったのか…… 刃のほうじゃなかっただけありがたく思いなさいっ 火が出る勢いで怒っている。顔からも火を噴いている。 な、なんなの今のはっ…… 実験だけど そんなの聞いてないっ ……いや、実験するって言ったじゃないか だ、抱きしめるなんて聞いてないっ メアはいいって言ったじゃないか そんなの知らないっ 俺が頭をさすりながら立ち上がると、メアはびくっとしてあとずさった。 ……そんな警戒されると傷つくんだけど あ、あなたが悪いんでしょっ 実験の内容話さなかったのは謝るよ 謝っても許さないっ まさかここまで怒るとは思わなかった。 に、二度とやったらっ、絶対許さないからっ びくびくしながら凄まれても怖くはないが、代わりに罪悪感が湧く。 本当、悪かった。ごめん 紳士ではなく真摯に謝る。 ………… メアの頬はまだ赤いままだ。 ……わたしが幻覚じゃないってわかったならいいけど いや、わからなかった ……なんですって 待った待ったっ、カマを振りかぶるなよ! だって話が違うじゃないっ 俺もわかると思ったんだけど、よく考えるとわかるわけがなかったんだ ……つまりあなたはわたしを怒らせたいわけね カマが喉元に当たってるんだけど!? 今度やったら首ちょん切るからねっ わかった誓うっ、誓うから! カマが離れたので安堵する。 ほんと……びっくりしたんだから…… そんな顔をされると俺が全面的に悪い気になってくる。いや、俺が悪いんだろうけど。 それじゃ、次の実験してみるか ……わたしの話を聞いてなかったの カマがまた戻ってきた。 違う違うっ、抱きしめる実験じゃなくて! じゃあなにがしたいの変態くん ついに変態呼ばわりだ。 メアさ、これから予定あるか? メアはちょこんと首をかしげる。 もし時間あるなら、俺の家に来ないか? ……え? ちょっと遊びにさ。夕食もごちそうするぞ メアは驚いていた。 親御さんには俺の家から電話で連絡すればいいし 死神に親なんていないわ ……そうだった。 あなたの家に、遊びに? ああ。どうだ? いや ……なんで わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが馴れあいなの。だからいや ……なんか嫌いなの多くないか? よけいなお世話 少しの間でいいから。遅くなるのが嫌だったら、お茶だけでもいいからさ ……もしかして、それが次の実験なの? メアが本当に幻覚なのかどうか。 それを証明するためには俺ひとりでは限界があるようだ。 だったら俺以外の人に証明してもらえばいい。 メアを誰かと会わせて、メアの姿を見ることができるのなら、俺の幻覚ではないことがわかるはずだ。 俺だけの幻覚なら他人が幻視できるとは思えない。 あなた、わたしを実験動物かなにかと勘違いしてるんじゃないの 実験というのもある。だけど純粋にメアを招待したいっていうのもある もっとメアのこと知りたいんだよ ……わたしを? ああ どうして? メアと友達になりたいから これは本当の気持ちだった。 展望台の彼女の名前を忘れたことに関して、今となっては俺はメアを恨んでいない。 なにより、俺はもう過去の「僕」にはなりたくない。 メアは、かあっと頬を染め上げた。 ど、どうしてっ ……なんで怒るんだ 怒ってなんかないっ 怒ってるようにしか見えないけど わたしは理由を聞いてるのっ だから、友達になりたいからだよ ……許さない なんでそこでカマを構えるんだよ!? う、うるさいっ、とにかく許さないからね! なにかよくわからないが……他人の家に上がるのが嫌なんだろうか。 それか、俺を嫌っているとか。 メアって俺のこと、嫌いか? え? なにかと俺をカマで刺そうとするし、実際に一度刺してるし、嫌われてるのかなと ………… どうなんだ? 嫌いなら、はっきり言ってくれたほうがありがたい メアは小さな腕でカマをぎゅっと抱きしめる。 し、知らない…… 強く、強く抱きしめる。 わたしが知るわけ、ないじゃない…… この言葉もよく意味がわからなかった。 俺の家、遊びに来るの嫌か? ………… 無理強いするつもりはないんだ。今日じゃなくてもいいし、気が向いたら遊びに来てくれないか? ……いつでもいいの? ああ じゃあ……いってもいい 了解 で、でも、いかないかもしれないからね わかったよ 拒絶されていないことがわかったので一安心だ。 それは、メアが俺の家を訪れなくても、誰かほかの友達をここに呼べるということだから。 ……帰る メアは不機嫌に告げた。 もう帰るのか? 今日のあなたはバカバカだから ダメダメとどっちがマシなんだ? どっちも最低 そうですか。 ……もうあんな真似しないでね 誓うって言ったろ もししたら、もうここに来なくなるかも それは非常に困る。 家まで送ろうか? 死神に家なんてないわ じゃあどこに帰るんだ? メアは答えず、きびすを返した。 ……バカバカ 一瞬、辺りに影が落ちると、そのときにはもうメアの姿はなくなっていた。 ……これってやっぱり、不思議体験だよな 天クルではなくオカ研に入るべきだったかもしれない。 冗談だけど。 待機限界時間を突破するまで、あと五分。 今朝の千波は俺が朝飯を食べ終わる頃に起きてきた。 そして毎度のごとく俺に文句をぶつけたあとに食べ出して、今は自室で支度をしているはずだった。 次から待機時間を五分短くしてみるかな…… そうすればほぼ十割の確率で俺は千波を待たなくてすむだろう。 嘆息しながら玄関の扉を見つめていると、ふと近くに人の気配を感じた。 ………… そこはお隣さんの家の門だった。 背丈がちょうどメアくらいの女の子。小学生だろうか。 俺と同じように玄関の扉を見つめている。誰かを待っているようだ。 蒼さん宅に用でもあるんだろうか。 なあ っ!? そばに寄って声をかけると、女の子はこっちが驚くほど激しく飛び上がった。 ど、どうかしたか? ………… 怯えた瞳で俺を見上げる。 その姿は抱きしめたあとの昨夜のメアとそっくりだ。 ……俺、そんなに不審者に見えるか? ええと、この家に用があるのか? ………… 呼び鈴、押してあげようか? ………… 女の子はなにも答えない。 というか、今にも逃げていってしまいそうだ。 ……ああ、子供に怖がられるってこんな気持ちになるんだな。ショックだ。 な、なあ。お兄さんは怪しい者じゃないぞ? この家のお隣に住んでるんだ 最大限にこやかに笑ってみせる。 ……た、助けて 困ってるのか? ならお兄さんが助けてあげるぞ? このお兄さんから誰か助けて…… 落ち込まざるを得ない。 お姉ちゃんが、知らない人に声かけられたら助けを呼べって…… い、いや、だから俺は不審者じゃないし善良なお隣さんで先日引っ越してきた小河坂洋ですよろしくお願いします 無理やり自己紹介をすませる。 ……た、助けてえ 俺が誰かに助けを呼びたくなる。 あ、あのさ、お名前は? お姉ちゃんが、知らない人には個人情報を漏らしちゃダメって…… そのお姉さんは素晴らしい教育者だ。 でもな、考えてもみてくれ。俺は不審者じゃないんだ 知らない人はみんなそう言うって…… 知らない人でも不審者とは限らないんだぞ? 女の子は目をぱちくりする。 知らない人が不審者だったら、地球人の99%以上が不審者になってしまう。それはおかしな話だと思わないか? ……ぐす なんか泣いてる!? ああっ、お兄ちゃんが女の子泣かせてる! 最悪のタイミングで不審者登場。 お兄ちゃんが無理やり女の子お持ち帰りしようとしてるっ、メイドさんに飽きたらず幼女まで食べようとしてるっ、千波そろそろお兄ちゃんの将来が心配になってきたなっ ……ま、また出た お化けが出たみたいに言ってる。 ……あれ、この既視感を伴う言葉って。 〈鈴葉〉《すずは》…… 蒼さんが玄関から駆け足でやって来た。 あっ、蒼ちゃんおはよーっ ………… 蒼さんは、まずったという顔をした。 お、お姉ちゃん…… 女の子は蒼さんを見つけたとたんにしがみついた。 鈴葉。どうして外に出てるの? え、えと、お姉ちゃんのお見送り…… そんなのいいから。風邪なんだし、休んでないと その子、もしかして蒼さんの妹か? 違います え…… 女の子の顔がさっと青ざめる。 え、あ、ううん。今のはナシ 蒼さんはすぐに女の子の頭を撫でる。 ……蒼さんの笑顔は初めて見た。 鈴葉、ほら早くおうちに戻って ねえねえその子、鈴葉ちゃんっていうの? 違う え…… 女の子の顔がさっと青ざめる。 う、ううん。今のもナシ 笑顔で頭を撫でている。 鈴葉、一緒におうち戻ろ 蒼さんは女の子(鈴葉ちゃんというようだ)の手を取って、自宅に消えていった。 ふたりとも戻っちゃったね そうだな 今の子、蒼ちゃんの妹さんかな? だろうな。一緒に家に戻ったし 鈴葉ちゃんともお友達になりたいなっ これ以上蒼さんに迷惑かけたらダメだろ? 千波の肩に優しく手を置いても言葉の内容は非情だよお兄ちゃん!? ……まだいた 蒼さんが出てきた。鈴葉ちゃんの姿はなかった。 さっきの子、かわいい妹さんだったな ……そんなことないです ちっちゃかったし小学生だよねっ、千波たちも通ってた小学校の生徒なのかなっ 蒼さんは無言で通り過ぎていった。 待ってよ蒼ちゃーんっ 千波はめげずに追いかけていった。 蒼さん宅に振り返ると、ドアの隙間からさっきの子が覗いていた。 俺に気づくと慌てて顔を引っ込める。 ……人見知りなのかな。 不審者扱いされていないことを祈りたい。 妹さん、蒼さんが大好きなんだな ……なんでですか あの子、風邪ひいて学校休んだんだろ? なのに見送りって言ってたから ………… ねえねえ蒼ちゃんっ、鈴葉ちゃんとお友達になってもいいかなっ ……ちっ ほらお兄ちゃん、蒼ちゃんも賛成してくれたよ! どこがだ 同意 明日から土日でお休みだし、蒼ちゃんの家で鈴葉ちゃんとも遊びたいなっ ……やめて 明日はお昼過ぎにそっち訪ねるからねっ ……助けて がんばれ 千波の猛進を止めるのは多大な体力を浪費する。 ……薄情 千波の相手してくれる人が増えて助かるなあ ……死ねばいいのに 交換条件でどうだ? 蒼さんは怪訝な顔をする。 蒼さんが天クルに入ってくれたら、千波の猛進を全力で食い止めてもいい ……卑怯 ダメだよお兄ちゃんっ、蒼ちゃんは千波と一緒に今日からオカ研の活動に勤しむんだから! おまえまだ諦めてないのかよっ お兄ちゃんが勝手に割り込んでるだけでしょっ ……不毛な争い 蒼さんは淡々と言った。 私はどこの部にも入るつもりないのに それじゃあ明日から千波のお守りよろしくな ……とても卑怯 蒼ちゃんっ、オカルト部長に蒼ちゃんのこと話したらスカウトしたいって! 占い好きは素養充分だって! べつに占いは好きじゃない でも星占い、するんだろ? 千波も占って欲しいなっ あなたの頭は将来お月様になるでしょう それハゲるってこと!? ……というかそれ星占いじゃないよな? 月占いです そんな占いないよな? ……ウザい 蒼さんの言葉は人の心をぐさぐさ突き刺す。 蒼さん。天クルの件、マジメに考えてくれると助かる ……マジメに考えた結果、断ります 千波の猛進はいいのか? ……くっ 無理やりは感心しないよお兄ちゃんっ、蒼ちゃんはオカ研に入りたがってるんだから! 入りたがってない 千波、今日は部活するのか? それは愚問だよお兄ちゃんっ、千波この日のためにUFO激写用のカメラも用意したんだから! その使い捨てカメラ、フィルム使い切ってるだろ そんなわけないよっ、これは千波が中学校の修学旅行でほとんど使わなかった使い捨てカメラなんだから! もったいないから俺が使ってやった なんてこと!? 中身は全部千波の寝顔だ ……待ち受けにしてたり? してねえよ なんで千波のカメラ勝手に使うんだよ! おまえいつも寝坊するからフラッシュたけば起きると思ったけど起きなかっただけだ お兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカぁ!!! ……平穏な生活が恋しい 蒼さん、それは千波が生まれたときに俺が捨てた宝物だ。 お待たせしました~。こちらサンドイッチセットとラーメンセットになりま~す! ていうか、運んでるのはオレなんだけどな お疲れさまです、飛鳥さん 次は俺も運ぶの手伝うよ 学食では四人で食べるのが常となっている。 転入生の俺を気遣っているためなのかもしれないが、文句などはもちろんなかった。 しっかし千波ちゃんってとんでもなくパワフルだな。相手するだけでへとへとだったぜ 元気な子だよね、千波ちゃん。結局オカ研入ったの? むしろもう入ってるつもりになってたぜ。宇宙人を捕まえたいって息巻いてたからな 迷惑かけて悪いな いや目からウロコが落ちたぜ マジですか。 オレ、ミステリーとの遭遇なんて夢物語だって心のどこかで思ってたんだよ。だけどそんな弱気なオレを千波ちゃんが改心させてくれたんだ 千波さんに感謝ですね オレの命の恩人だぜ 千波の株が妙な方向に急上昇している。 千波ちゃんはもはやオカ研の部員じゃねえ、オレの生涯のパートナーだぜ じゃあよかったら持って帰ってくれ お、いいのか? いいわけないでしょ、もう。洋ちゃんの大事な妹さんなんだから むしろ俺のほうから持ち帰りをお願いしたいんだけど ダメだよ洋ちゃん。冗談でも本人の前では言わないようにね 似たようなことは何度も本人の前で言ってるが。 飛鳥さん、今日の放課後は千波さんと活動ですか? おうよ。手始めにヒバリ校の都市伝説を調べるつもりだ それ、死神が出てくるやつだよな 小河坂も知ってんのか。耳が早いな 飛鳥くん、まだ都市伝説調べてたの? 一度は諦めた。図書室の資料を調べても生徒に聞き込みしても、有力な情報が手に入らなくてな だけど改心した今のオレは違う。諦めたらすべてがそこで終わりだって千波ちゃんに教えてもらったんだよ 千波の言動からどうやったらそんな結論を得られるのかがミステリーだ。 それに、新人の初仕事としては打ってつけだと思うしな あまり無茶はさせないでくれよ なんだかんだ言っても妹が心配なんだな あたしが言ったとおりでしょ そんなんじゃない わかってるよ その顔はわかっていない顔だ。 わたしたち天クルもオカ研に負けないよう、勧誘を諦めるわけにはいきませんね うん、もちろん 蒼さんのほうはまだ待ってくれ。難航気味なんだ わたしたちに手助けできることがあれば、いつでも言ってくださいね オレも蒼さんには興味あるな 飛鳥くんは千波ちゃんをもらったんだから蒼さんはあたしのだよ~! 物扱いされてる。 べつに横取りしようってわけじゃねえよ、そっちが失敗したらもらうってだけで だといいんですけど 食べ終わったら打ち合わせするか。ポスター貼りと、ビラ配りの手順を確認しないと 勧誘争いはひとまず終わったし、オレも応援だけはしてやるよ よーし、絶対あとひとり部員集めてこももちゃんをぎゃふんと言わせるぞ~! 明日歩はガッツポーズを取って、意気揚々と食べ始めた。 やあ、お待たせ 遅いですよ、先輩。ホームルーム終わったらすぐ集合って昼休みに伝えたのに ごめんごめん。所用で遅くなってしまって なにかあったんですか? カレイドオルゴールの再修理をお願いしてきたんだ。昨日は元顧問を捕まえられなくてね しかも部室に戻ってきたら明日歩クンも小河坂クンもいなくなってるし…… これから天クルの仕事があるというのに、しょっぱなから岡泉先輩は意気消沈だ。 これ、先輩の分です。よろしくお願いします 勧誘のビラの束を渡す。 これは昨夜に俺が作ってみたものだ。そして昼休みに可能な限り多くの枚数をコピーした。 デザインは素人なので凡百だが、活動内容など明日歩が補足で加えたところもあるし、必要事項はすべて記してあるはずだった。 新人の洋ちゃんがこんなにがんばってるんですから、先輩ももっと部長の威厳を見せてくださいっ ビラ配りなんて恥ずかしいなあ…… いきなり萎える発言しないでくださいよ~! あ、生徒が校舎から出てきましたよ。そろそろ始めたほうがいいかもしれません それじゃ各自配置について、かけ声は元気よくね。よろしくお願いしま~す! 明日歩にひっぱられるかたちで、俺たちの勧誘活動が始まった。 帰宅する生徒はまばらだった。ほとんどの生徒は部活や委員会でいそがしいからだ。 だが逆を言うとこの時間に帰る生徒はどこの部活にも所属していないわけで、やみくもに声をかけるよりはよっぽど効率がいい。 一学期が終わるまでの日数は少ないので、勧誘も計画的に進めなければならなかった。 なにしてるの、あなたたち そして数人の生徒にビラを半ば押しつけるかたちで渡し終えた頃、姫榊が現れた。 ……なんでこももちゃんが来るんだよ 姉さん、今日はもうお帰りですか? ええ、生徒会の仕事もないし。それよりあなたたち…… 姉さん、どうぞ 姫榊の文句が飛んでくる前にビラを渡した。 こももちゃんに配ったら火に油を注ぐだけな気も…… なんなの、これ。天クルの勧誘活動? はい。姉さんもよかったらどうですか? 雲雀ヶ崎の星降る夜空をわたしたちと一緒に見上げませんか? するわけないでしょ 姫榊はぺいっとビラを投げ捨てた。 シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 先輩、どうぞ こさめさんが知恵の輪を渡すと岡泉先輩はおとなしくなる。 た、頼むからこの人首輪でつないでてくれない……? だよなあ…… 自業自得だね なぜか明日歩が勝ち誇っている。 まったく、こんなの配って部員が集まるとでも思ってるの? こももちゃんには関係ないじゃないっ 帰宅部の生徒を狙ってるんでしょうけど、この時期で帰宅部だったらそもそもどこの部活にも入る意思がないってことじゃない そんなのやってみなきゃわからないじゃないっ 明日歩の言うとおりだな ちょっと、そこのコガヨウ ……いいかげんその呼び名やめろ 小河坂くん、少し時間いいかしら 時間って、なにか用か? ええ。あなた、生徒会に入りなさい いきなり命令口調だ。 ……それに関しては二学期に話すんじゃなかったのか? 見るに耐えなくなったから。天クルなんかの活動で無駄に時間をつぶすこともないでしょう ちょっとちょっとっ、ツッコみどころが多すぎてどこからツッコめばいいのかわかんないよっ ならまず自分の行動にツッコみなさい どういう意味だよっ 小河坂くん、わたしについて来て。生徒会室で詳しく説明してあげるから いや……そんなこと言われてもな 洋ちゃん、こももちゃんの言うことなんか聞くことないよ。勧誘の続きしよ 無駄な努力に汗水流すこともないじゃない こももちゃん、邪魔だからあっちいってくれる? 邪魔なのはそっちでしょう、ここは校門なんだから。それといいかげんわたしのこと名前で呼ぶのやめなさい こももちゃんこももちゃんこももちゃんこももちゃん ……よっぽど天クルを廃部にさせて欲しいようね 一触即発だった。 小河坂くん。あなたの優秀な力は天クルじゃなくて、生徒のための生徒会に発揮されるべきじゃない? 優秀と言われてもな。 成績を指しているのなら、それは過去に友達を作らなかった代償のオマケとしてついて来ただけの代物だ。 展望台の彼女に言われていたとおり、俺は優等生じゃなかったのだ。 姉さん、今日はここまでにしましょう。小河坂さんも明日歩さんも困っています なんで小河坂くんが困るのよ。それに南星さんが困るのはわたしとしては本望…… 姉さん わたし、これ以上そんな姉さんを見たくありません…… ち、ちょっ、やめ…… ほら、姉さん。わたしに笑顔を見せてください…… こ、こんな状態でどうやって笑えとっ…… それではもっと困ってください……わたしをゾクゾクさせてください…… や、やあっ……さわらなっ…… もっと、もっとせつなくなってください…… はああっ……だ、だめえっ…… 姉さん……ああ、わたしのかわいい姉さん…… だめっ……だって言ってるでしょ!! 帰宅途中の生徒がギャラリー化してきた中、姫榊は顔を燃え上がらせながら乱れた制服を直した。 ……はしたないところをお見せしました 絶対確信犯だよなあ。 鼻の下伸びてる あるわけがない 紳士に言う。 むー 犬化する。 き、今日のところはこれで勘弁してやるわ! うへへへぇぇ……今度こそこのあられもない写真をネタに天クルの存続をぉぉ…… 姫榊はケータイをはたき落として踏みつぶした。 こさめっ、家に帰ったら覚えておきなさいよ! はい……うっとり 姫榊は悔しそうに逃げ帰っていった。 ぼ、僕の二台目のケータイが…… 誰も同情はしなかった。 気を取り直して勧誘始めるよ。皆さーん、天クルをよろしくお願いしま~す! 今の突発イベントを天クルのショーとでも思ったのか、主に男子生徒が次々とビラを持ち帰っていった。 ………… しかも一般人のギャラリーまで集まっている。 ……って、あのときの彼女? 一度、小学校を訪れた際に見かけている。 間違えたくても間違えられない。 夏にカーディガンの出で立ちが、少女の姿を風景から切り離している。 目立っているのだが、ほかの皆は勧誘にそれどころではなく気づいていない。 ………… 俺を見ている……というよりは、俺たちの勧誘活動を眺めているんだろう。 楽しんで、というようには見えない。 どこか、思い詰めたように、彼女はそこに立っている。 ………… そのうちに彼女は歩き去っていく。 俺は後ろ姿を目で追っている。 ……いったい誰なんだ? 洋ちゃん、サボってる。疲れちゃった? ……あ、いや 男の子なんですから、しっかりしてくださいね わかったと手で示してから振り向くが、もう彼女の姿は完全に消えていた。 俺は、勧誘に意識を戻した。 ……………。 ………。 …。 ビラ、全部は配れなかったね 全校生徒じゃなくて帰宅部を対象にしてたわけだし、こんなもんじゃないか 俺たちは夕方になったところでビラ配りを終了した。学校に残っているのは部活動中の生徒だけだと踏んだからだ。 週が明けたら入部希望の生徒、来ないかな~ ポストに入れるビラの効果は、千通に一回反応がある程度らしいぞ ……洋ちゃんに突き落とされた たとえすぐ反応がなくても、継続して行えば確率も上がると思いますよ まさかまたビラ配りするのかい……? 当然じゃないですか。なんなら明日もやりましょう! 明日は土曜だろ。学校、休みじゃないか でも土曜スクールがあるじゃない ……なんだそれ 先生から説明がありませんでしたか? ヒバリ校は土曜日でも希望者のみ、教室で自習ができるんです 初耳だ。 午前中だけだけどね。今みたいに週休二日制になる前は、半ドンと呼ばれていたらしいよ その頃は強制で、しかも普通の授業だったそうだ うえー、そんなのあたしだったら耐えられない 塾のようなイメージがありますね 小河坂クンは都会から転校してきたんだよね。向こうではどうだったんだい? 土曜は普通に休みですよ。ただ全国模試でつぶれることはありましたし、塾に行ってる生徒も多かったですけど せっかくの休みなのになんで勉強したがるんだろ 明日歩さんが天体観測したがるのと同じ理由じゃないですか? ……やっぱり想像できないなあ 岡泉先輩は受験ですよね。塾とか行ってないんですか? ああ。自宅学習ですませているよ それで学年総代って、すごいですね それは僕をおとしめているんだね いやなんでそうなるんですか 僕はそれに足りうる人種だからさ そんなセリフをさわやかに言える先輩は大物なのか小物なのかいまいち不明だ。 洋ちゃん、土曜スクールはどうするの? ……うーん、今聞いたばかりだしな 洋ちゃんが行くなら、あたしも行こっかな あなたは誰ですか? なんだよその職務質問!? それほど意外だったんです ……傷つくなあ 明日歩クンもついに勉学に目覚めたのかい? そういうわけじゃないんですけど 明日歩はあははと照れ笑い。 洋ちゃん、約束覚えてるよね? なんだろうと考え、すぐに思い当たる。 バイトの話だよな。覚えてるぞ 洋ちゃんが土曜スクールいくんなら、終わってからそのまま一緒にあたしんち来ない? デートですか? なっ、なんでそうなるんだよ! 挙式はいつだい? 先輩までなに言ってるんですか~! で、相手は誰なんだ? えいっ こさめさんにチョップされた。 小河坂さん、ボケるときの言葉は選びましょうね ……俺だけ悪者なのか? はい やり直す やり直す やり直さない こさめさん、挙式はいつだ? えいっ チョップされる。 わたしにボケてどうするんですか こさめさん、相手は誰なんだ? えいっ チョップされる。 こさめさん、好きな人とかいないのか? えいっ チョップ。 いないなら俺とつきあってくれ えっ…… チョップが来ない。 えいっえいっえいっ と思ったら三倍になって来た。 ……びっくりしてツッコミが遅くなりました 胸に手を当てていた。 ……ふたりとも楽しそうだね 明日歩が犬化していた。 明日歩は複雑な顔をしていた。 僕たちは電車通学だから、ここでお別れかな それでは小河坂さん、明日歩さん。よい週末を 月曜も海の日で祝日だから、次に会うのは火曜だね ふたりは駅の方向に歩いていった。 残されたのは俺と明日歩のふたりだけ。 明日歩の住所も駅近くの商店街なのだが、皆と一緒には帰らなかった。 ……それで、どうするの? その声は少し不機嫌だ。 土曜スクールだよな うん 行くよ。終わったら明日歩の家、お邪魔させてくれ それだけじゃないよ ほかにあっただろうか。 ……忘れてそうな気がしたけど、本気で忘れてる 犬化しそうな明日歩を見て閃いた。 午前は土曜スクール、午後はバイトの説明、夜になったら星見しようか? うん! 一転、笑顔に立ち戻った。 明日は一日中、明日歩につきあうことになりそうだ。 勧誘はするのか? ううん、あれは冗談。土曜スクールって、参加する生徒のほうがずっと少ないから それだとビラ配りの効果も出ないか。 蒼さんのほうは難しそう? そうだな。本人、迷惑がってるから 無理やりになりそうなら、やめていいよ。楽しんで活動できなきゃ意味ないもん それでも天クルの廃部だけは避けたいと考えている。明日歩だけじゃなく、部員のみんなが。 いっそのこと蒼さんから名前だけ借りて、幽霊部員として参加してもらう手もある。雪菜先輩の例だってあるし。 ただ、そんな方法では明日歩の笑顔が曇るに違いない。 なあ、明日歩 なに? たとえばだけど、ヒバリ校の生徒じゃない人が天クルに入部することは可能か? 明日歩はきょとんとした。 それは……普通に考えて、ダメじゃない? そういう規則はあるか? あたしは知らないけど……。こももちゃんなら知ってるんだろうけど 生徒じゃなくても年齢が俺らに近ければOKってことはないか? うーん、やっぱり聞いてみないとわからない 俺も明日歩も姫榊とは連絡取りづらいし、こさめさんから聞いてもらえるとありがたいな ケータイで頼んでみようか? 助かるよ でも、なんでそんなこと聞くの? 俺は、星空に移行中の夕焼けを見上げて言った。 もうひとり、星が好きそうなやつに心当たりがあるんだ 明日歩と別れ、自宅にバッグを置いて展望台で待っていると、すぐにあたりは闇に溶けた。 ただ、闇といっても星明かりにあふれているのでそれほど暗くは感じない。薄闇だ。 今日もまた、夜空には光の群が走っている。 こんばんは こんにちは 今夜のあなたもバカバカね バカバカって言うほうがバカバカなんだぞ 帰っていい? いきなりかよっ メアは軽く吐息をついた。 ふざけたのは謝るけどさ そうじゃない。でも帰りたい ……だって今日は胸が苦しいの 恋する乙女みたいなことを言う。 風邪でもひいたのか? 蒼さんの妹さんも風邪らしいし、流行っているのかもしれない。 死神は風邪なんてひかないわ 否定されたか。 じゃあどうしたんだ? あなたを刺したくて刺したくてたまらないの…… 殺人衝動ですか。 帰る前に刺していい? ……ダメだ 痛くしないから 痛くないのは知ってるけどダメだ ……あなたがいけないのに メアはふいっと横を向く。 それから、手持ちのカマを抱きしめた。 あなたが、まだ悪夢を見ようとするから 諦めようとしないから…… ………… さすがに気づいている。 メアが言う悪夢とは、展望台の彼女との想い出を指している。 メアは、理由は知らないが、俺の想い出を手に持つカマで奪おうとしている。 メアの素性も正体も知らないし、幻覚かどうかも判断つかなくても、それはおそらく正解だった。 ……本当に、体調悪いのか? ………… もしメアが悪夢を刈れなくて辛い思いをしてるのなら、なんとかしてやりたいって思う 俺ができることがあれば、してやりたいって思う 実際、できることはあるんだと思う ………… だけど俺の想い出は俺のものだ。誰かに奪われるわけにはいかない メアに奪われるわけにはいかないんだよ ………… だから、メアに悪夢を刈られることは助力の範疇を超えているから、助けてやることはできない ………… ごめんな メアの表情が普段のむっつりに戻る。 ……べつにいいけど いいのか。 ほんとごめんな べつにいいったら 許してくれてよかった。 どうせ背後からざっくり刺すし ぜんぜんよくない。 ……そこまで体調悪いのか? そういうわけじゃない。あなたがぜんぜん諦めてくれないからイライラして、それで胸が苦しくなってたの ……それ、八つ当たりっていうんだぞ うるさい変態くん 今度は俺の胸が苦しくなりそうだ。 今日のあなたはチャンスだったけど、ダメダメに戻ったみたい たしか、俺が悪夢を思い出していないときがチャンスなんだったか? うん 俺が思い出していれば刈れないってことか? そうじゃない。でも、思い出していないとうれしい 以前に刈られたのは七夕だ。俺は展望台の彼女を確かに思い出していた。 俺に思い出していて欲しくないのか? うん なんで? なんでも 想い出を刈られた日、メアは涙を流していた。 なにかを必死に堪え忍びながら、泣いていたのだ。 その仕事は苦労しそうだな 誰のせいだと思ってるの 俺のせいだよな うん 残念だったな、死神さん 絶対刺してやる、変態くん メア っ! 俺が一歩近づくと、メアは一歩あとずさった。 ……いや、なにもしないから だ、だったらいいけど 昨日の抱きしめが尾を引いているようだ。 ちょっとさ、聞きたいことがあったんだ なにっ ……頼むから警戒しないでくれ 警戒なんかしてないっ 怒るなよ 怒ってないっ ははっ ……なんでそこで笑うの なにかにつけてカマ振りかざすのやめようぜ!? バカにされた気がしたから そうじゃない。子供らしくていいなと思っただけで ……やっぱりバカにした そうじゃなくて、安心しただけなのに。 メアを見ているとどうも背伸びをしているように見えて、こんな気持ちが湧くことがある。 で、聞きたいんだけど なに。早くして メアって星が好きなんだよな? そうかもしれない じゃあさ、俺と一緒に天体観測しないか? いや そっこー拒否られる。 ……なんでだよ わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが馴れあいなの。だからいや そういえば前にも言っていた。 じゃあメアひとりで天体観測しないか? ……日本語が変に聞こえるんだけど メアの近くに俺もいるかもしれないけど、望遠鏡覗くのはメアひとりだ。これでどうだ? いや なんでっ わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが変態なの。だからいや それは俺に対する当てつけか。 天体観測をしたことは? ないけど やってみたいと思わないか? ……わからないけど でも、星なんて望遠鏡がなくたって、こんなによく見えるじゃない これ以上に見えるんだよ これ以上……と、メアは繰り返してから夜空を見上げた。 それって……どんなの? 実は俺も見たことがない なのに見たいの? だからこそ見てみたい たぶんそれは、万華鏡みたいじゃないかって思うんだ 筒から覗ける光の絵は、きっと万華鏡にも劣らない。 万華鏡は見たことあるの? 子供の頃に、誰だって一度は見てるんじゃないか ………… メアはないのか? 悪いの? 悪くない。だけどもったいない 天体観測をしないのと同じくらい、もったいないことだと思う そんなにキレイなの? ああ。今度持ってくるよ ちょうど天クルにカレイドオルゴールなる万華鏡があるし、修理が終わったら借りてこよう。 わたしでも、天体観測できるの? メアは、念を押すように尋ねた。 ああ わたしでも、キレイって思う? ああ 星が好きなメアだったら、絶対だ メアは、こくんとうなずいた。 キレイじゃなかったら、刺させてね 了解だ 俺は内心ホッとする。 これでメアの意思は確認できたから。 規則で問題がなければ、俺はメアを天クルに誘うことができるのだ。 それは同時にメアをほかの部員に会わせるということでもある。 メアの存在が幻覚かどうかもはっきりするだろう。 ……実はなにか企んでる? あるわけがない 紳士に言ったらカマが迫った。 なんでだよ!? あくどい顔したから ……紳士だと思っていたのは俺だけ? そうだ。メアのフルネーム、教えてくれるか? メアは怪訝そうにする。 ……どうして? ちょっと必要なんだ 部員の名簿を作るときに必要になるし、なにより俺も知っておきたかった。 フルネーム、教えてくれるか? いや ……だと思った。 名前教えるのも嫌いなもののひとつなのか? そうじゃないけど ならいいだろ? 死神に名前なんてないわ あるだろっ、メアっていうのは名前じゃないか ……そうだけど なら苗字は? 死神に苗字なんてないわ ……言うと思ったけどさ。 急ぎじゃないからいいけど、そのうち教えてくれよな ないって言ってるのに 教えてくれよな? 念を押す。 今日のあなたはパカパカね なぜか馬扱いになる。 そろそろ帰る 約束したからな 教えないって言ってるのに そっちじゃなくて。天体観測のほう ………… よかったら、明日にでも ……考えておく メアの姿はなくなった。 明日は、明日歩と一緒に星見をする予定がある。場所はこの展望台だ。 メアは、明日歩の前にも現れることになる。 その結果いかんによって、俺の今後の行動も変わるだろう。 いや……どうだろうな メアが幻覚だったとして、俺の行動がどう変わるのか、想像は難しかった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 夕食後、千波が毎度のごとく騒ぎ出した。 はいチーズ! パシャッ。 カメラのフラッシュをもろに浴びた。 ……なにする 今日ね今日ねっ、オカルト部長からカメラもらったんだよっ、使わなくなった古いデジカメなんだってっ、これで千波愛用カメラ2号の誕生だよっ デジカメを手に小躍りしている。 へえ、よかったじゃないか オカ研の活動ってやつだろう。 飛鳥に感謝しないとな うんっ、もちろんだよっ、だってこれ使えば寝静まったお兄ちゃんを狙ってあられもない姿を激写してネタにして脅して千波の下僕に…… デジカメをはたき落として踏みつぶす。 千波愛用カメラ2号が!? バカなことやってないで宿題でもしてろ バカなことしたのはお兄ちゃんだよっ、液晶が粉々になったじゃないっ、これじゃ写真写せないよ! 念写すればいいんじゃないか? オカ研新人の千波にはスキル的に荷が重いよ!? 飛鳥に謝らないとな そうだよっ、せっかくオカルト部長が千波を信頼して預けてくれたのにこれじゃ千波の株が大暴落だよ!? マイナスがマイナスになっても足し算だからマイナスなんだぞ? 失礼極まりないよこの人!? 俺も一緒に謝ってやるから 当然だよ! 千波を紹介してごめんなさいって謝るから 謝る方向が間違ってるよお兄ちゃん!? あらあら、お部屋がすごいことになってるわね デジカメの残骸に目を留めた詩乃さんが、ホウキとチリトリを持ってきた。 ……すみません、詩乃さん いいの。だけど、あんまりはしゃぎすぎないでね? まったくだよっ はしゃいでるのはいつもおまえひとりだろっ そんなわけないよ! そうね。そんなわけないわよね 私から見たら、洋ちゃんも千波ちゃんに負けないくらい楽しそうにはしゃいでるものね ……今、聞き捨てならないセリフを聞いた気がする。 洋ちゃんは千波ちゃんが好きだからいじめちゃうのよね。でもやり過ぎはダメよ? い、いや、俺たちってそんなふうに見えるんですか? うん 奈落の底に落ちた気分。 お掃除終わり。もう散らかしたらダメよ? 詩乃さんはほほえみながら去っていった。 どしたの、お兄ちゃん。どんよりオーラが出てるよ? 穴があったら入りたい気分だ…… だったら千波が用意してあげるねっ ゴミ箱を持ってきた。 遠慮なく入っていいよっ 千波の頭にかぶせた。 お兄ちゃん前が見えないよっ、いくら千波の頭にベストフィットするからってヘルメット代わりはどうかと思うよっ、千波暗闇恐怖症になっちゃうよこのままじゃ! これで地震の備えはカンペキだな 前が見えなきゃ逃げられないよ!? あらあら、お部屋がゴミだらけになってるわね ゴミ箱から散乱したゴミを見た詩乃さんが、ホウキとチリトリを持って再登場した。 本当、洋ちゃんと千波ちゃんは仲良しねえ 泣いて走り去りたい気分だった。 今日は土曜日。 世間では休日だが、ヒバリ校には土曜スクールなるものがあるそうだ。 そのため平日と同じ時間に起きている。 千波の寝坊にはらはらさせられることがないというのが平日とは違う点か。 土曜スクール万歳だな そうしてダイニングキッチンでひとり優雅なモーニングタイムを楽しんでいると、家の呼び鈴が鳴った。 千波も詩乃さんもまだ寝ているので、俺が出るしかない。 おはよ、洋ちゃん 来客は明日歩だった。 ……どうしたんだ? 洋ちゃんと何度か一緒に帰ったからね。住所くらいさすがに覚えてるよ あ、いや、そっちじゃなくて 洋ちゃん、もう制服着てるね。えらいえらい 明日歩は俺の言葉をさえぎって続けた。 あたしと一緒に、登校しよっ もしかして、俺が土曜スクール忘れてると思ってたか? それで確認のために訪れたとか。 あはは。それが半分、違う理由が半分 違う理由って? 一度ね、やってみたかったの。男子の家に迎えにいくっていうの 〈初体験〉《しょたいけん》ってやつだね 卑猥に聞こえるけどツッコまない。 明日歩がご機嫌だったから。 次の〈初体験〉《しょたいけん》目標は、洋ちゃんの家にあがることだよ 明日歩は玄関で俺の支度を待っていた。家にはあがっていないのだ。 そんな目標だったら、いつでも叶えられるさ そうかな ああ いつでも遊びにいっていいってこと? ああ。なんなら今日でも 明日歩は首を振った。 そんな一度に叶ってたら、ありがたみがないからね うーんと伸びをした。 こさめちゃんは土曜スクール来られないって。家のお手伝いがあるみたいで 家事ということだろうか。 飛鳥は? どうだろ。来ないんじゃないかな、あたしと一緒で勉強嫌いだと思うし なのに明日歩は来るんだな そうだね。まだ二回目だけどね ちなみに初めて土曜スクールいったときに、二回目は絶対ないなあって思ってたんだけどね なのに明日歩は二回目を迎えたわけだ。 理由を尋ねるのは野暮なんだろうか。バイトの話だけなら土曜スクールに参加しなくてもできるのだ。 まあ俺の自意識が過剰なだけという説もある。 こさめちゃん、こももちゃんに聞いてくれるって。部活の規則の件 助かるよ 勧誘できそうなもうひとりって、誰なの? そうだな。あとで詳しく話すよ 夜になったら、星見のついでに本人と会ってもらうつもりだ。 土曜スクール、早く終わらないかなあ 自主的に参加する生徒の発言じゃないな あはは、ほんとだね 聞きそびれてたんだけど、自習ってなんの教科でもいいのか? 学校側でプリントとか用意してくれるけど、いちおう生徒の自由だよ 机を固めてみんなで勉強会っていうのも許されるし 明日歩はちらっと俺を窺う。 だから洋ちゃん、あたしに勉強教えてね? 俺、転入生なのに。 ただ前の学校とヒバリ校とで授業の進度はほとんど変わっていないので、問題ないと言えば問題ない。 言っとくけど、俺は教えるのあまり得意じゃないぞ あ、そうなんだ 妹にせがまれて教えたときも、不評だったからな どんなふうに不評だったの? 優しくないらしい 明日歩はくすくす笑った。 なんとなく想像つくかなあ だから自分で勉強するのをオススメする 大丈夫だよ 明日歩はきっぱりと言った。 あたしだったら、絶対大丈夫だと思うんだ そして、ぜんぜん大丈夫じゃなかった。 ……くー 自習が始まって五分も経つ頃には、明日歩は夢の世界に旅立っていた。 ……まあ、いいけどさ 自習用に用意されていた数学のプリントを解いていく。 明日歩の解答欄はヨダレで埋まっていた。 土曜スクール、あっという間に終わったね~ そりゃそうだろうな。まさか午前いっぱい寝続けるとは思わなかった あ、あはは…… 寝不足だったのか? ……内緒 恥ずかしがっている。 しっかり寝たのに昼寝したのが恥ずかしいのか、それとも寝不足の理由が恥ずかしいのか。 これからあたしんちだね その前に昼飯食べないと あたしの喫茶店で食べればいいよ 俺、今月ピンチでさ いまだに財布の中身は空なのだ。バイトするまでこの状態が続きそうだ。 お金なんか取らないよ。洋ちゃんは大事なバイト要員だからね すでに俺が喫茶店でバイトをすると決めてかかっている。 それに、お客さまでもあるんだから お言葉に甘えたいのはやまやまなのだが。 家にいる千波は大丈夫だろうか。ひもじい思いをしてないだろうか。 詩乃さんはまだ寝てるだろうし。 洋ちゃん、迷ってる そりゃあな そういえば、千波は昼過ぎから蒼さんの家に遊びにいくと話していた。 そっちでご相伴にあずかる可能性もあるか。迷惑はかけてしまうだろうけど。 それじゃ、ご馳走になろうかな そうこなくっちゃ! 明日歩の元気にひっぱられて坂を下っていく。 あっ 駅前に着いたとき、明日歩が急に立ち止まった。 洋ちゃん…… しょんぼりした声。 きーんきーんって鳴ってる…… それ、雨警報か? この世の終わりみたいな顔でうなずいた。 今夜の星見、楽しみにしてたのに~! ……本当に雨なんか降るのか? 空は快晴、雲もまばらにしか見えない。 遠くに入道雲あるし、そんなのなくたって降っちゃうんだよ~! 今日中に降るのか? 降るんだよ~! 天気予報はどうだっただろうか。思い出せない。 夕べから準備だってしてたのに…… 星見の? うん…… それで寝不足だったのか? あ、えと…… 恥じらってからうなずく。 実は、寝てない…… 俺は言葉を失う。 楽しみで眠れなかった…… まるで遠足前の子供だ。 星見──天体観測は、明日歩の中でそれほど大きな位置を占めている。 雨って大降りか? 小降りじゃないのか? ……そこまではわかんないけど 天気雨の可能性は? 明日歩はわからないと首を振る。 雨が降ったって、星さえ見えれば星見できるんじゃないか? 望遠鏡が濡れちゃうよ…… ……それもそうか。 夕方になったら部室いって、洋ちゃんに運ぶの手伝ってもらおうと思ったのにな…… 明日歩は恨めしげに空を見上げる。 神さまの、バカ 明日歩の喫茶店は名前をミルキーウェイと言う。 いかにも女性向けスイーツ店という名前だし、メニューにもかわいらしいカタカナばかりが並んでいる。 そしてどれを頼むとどんな料理が出てくるのかさっぱりわからない。 お待たせ、洋ちゃん 明日歩がウェイトレスのユニフォーム(メイド服)を着込んで登場だ。 大きな声じゃ言えないけど、お代はいらないからね ほかの客の手前、小声で言う。 ほんとにいいのか? いいんだよ。バイトしてくれるなら毎日好きなの食べていいってお父さんも言ってるし なにか、バイトとして働く状況が着々と出来つつある。 洋ちゃんが食べ終わったらお父さん紹介するね。バイトの詳しい説明もお父さんが話してくれるから 明日歩はメニューを俺に渡す。 洋ちゃん、なにがいい? マヨネーズ以外ならなんでもいいよ むー 不機嫌になる。 ……いや、好きなの頼みたいのはやまやまだけど、どれがなんだかさっぱりでさ 頼めばわかるよ そりゃそうだが。 じゃあ前に頼んだヘルメスの竪琴で むー また不機嫌だ。 安全パイだと思ってるでしょ そりゃ、これしかわからないし ほかのお客さまはだいたい直感で選んでるよ。ロシアンルーレットみたいで楽しいって好評だし ……雲雀ヶ崎の住民は心が広いなあ。 メニューも店の名前も、あたしがつけたんだけどね。お父さんの反対を押し切って 星好きの明日歩らしい。 洋ちゃん、まだメニュー決まらない? ……決めようがないんだって 洋ちゃんは星座の神話に詳しいんだから、ほかのお客さまより選びやすいと思うんだけどな 神話を知ってても、ヘルメスの竪琴を頼んでハニートーストが出るとは思わないだろ…… 好きな神話とかないの? 好きっていうか、一番知ってるのは七夕伝説だな 七夕は終わっちゃったけど、メニューはちゃんとあるよ 明日歩が指さしたメニューは『かささぎの架け橋』とある。 ……カラスの丸焼きとか出てこないよな さてどうでしょう~ 楽しんでるなあ。 じゃあこれで頼むよ 焼き加減はレアですか? それともウェルダン? 本気で丸焼きかよっ ウェルダンですね。承りました~ 明日歩はメニューを下げてカウンターに戻っていく。 食事前なのに胸焼けがしてきた。 お待たせしました~。こちら、かささぎの架け橋になりま~す! 明日歩が運んできたのはピザだった。 ……ていうか、ピザのレアってなんだ もんじゃ焼きみたいな感じ? 疑問系で言われても。 マヨネーズ抜きにしといたけど、それでよかった? ああ。ありがとうな 具材はツナとチーズがたっぷりで、かぶりつくと口とピザの間にチーズの架け橋がかかった。 明日歩は俺の正面に腰かけて、にこにこと見入っている。 ……仕事はいいのか? お客さまに呼ばれたらいくよ マスターもなにも言わないところを見ると、けっこう自由な職場なのかもしれない。 さ、食べて食べて ああ しかし見られていると落ち着かない。 あ、タバスコ使う? いや、いいよ 辛いの苦手? そうじゃないけど 外、ちょっと曇ってきたみたい まだ雨は降ってないな ピザ、おいしい? おいしいよ よかった だが見られている上に話しかけられまくって食べづらい。 さ、もっと食べて食べて 明日歩は食べないのか? あたしはあとで。今ランチタイムだから、お客さまがいるしね。もうちょっと経てばがらがらになるから だから洋ちゃんは気にせず食べて…… 明日歩。ちょっと手伝ってくれるかい マスターから声がかかった。 なにするの? コーヒー煎れてくれるかな オーダー? 僕が飲みたい えー えー、じゃない。早くしないとお手伝い賃から差っ引くからね もう……。自分で煎れればいいのに 明日歩は渋々と立ち上がった。 ごめんね、洋ちゃん いや、それより仕事がんばれ うん 明日歩と入れ替わりにマスターがやって来た。 すまないね。ゆっくり食べていていいから 俺に気を遣ってくれたんだろうか。 明日歩から話は聞いてるよ。小河坂くんだよね はい。よろしくお願いします 礼儀正しいね。合格 はやっ! お味はどうだい? 明日歩が作ったものなんだけど その言葉にも驚いた。 ……いつも明日歩さんが作るんですか? いや、明日歩はフロア担当なんだけどね。今日は友達が来るからってことで、そのピザだけ特別にね そのわりにめちゃくちゃうまいですよ? 店のメニューとして出されたものだと思って、納得して食べていたのだ。 その言葉、明日歩に言ってあげるとよろこぶだろうね。夕べは徹夜で練習していたから ……おいおい。 星見が楽しみだっただけじゃなく、俺が食べるかどうかわからない食事にまで時間を割いたのか。 種をバラすと、キミがどのメニューを頼もうがそのピザが出てきたわけだけど マスターは楽しげに笑っていた。 食べ終わったら、食器はそのままでいいから僕のところに来てくれるかな は、はあ…… マスターは持ち場に戻っていった。明日歩が砂糖の量を聞いてきて、ブラックと答えていた。 俺はピザをまた一口食べた。 最初の一口よりもそれはおいしく感じられた。 お父さん、洋ちゃん食べ終わったって すみません、ごちそうになってしまって いやいや。それじゃあ小河坂くん、こっちの席にかけてくれるかな 店内は少数だが客がいる。邪魔にならないよう隅のテーブルに三人で腰かけた。 明日歩はいなくていいから えー まだ食事中のお客もいるし、レジにでも立っていて お会計だったらお客さまがレジ来たらでいいじゃない 差っ引くよ? ……横暴だなあ 明日歩は渋々レジに向かった。 小河坂くん、明日歩に料理の感想は言ったかい? あ、はい。おいしいって言いましたけど よろこんでいただろう? というより、終始にこにこしてましたよ 感想を言う前も言ったあとも、変わらず笑顔だった。 そうか。キミは明日歩のお気に入りのようだからね 意味深な発言に聞こえる。 それじゃあバイトの説明だけど はい 今から入ってくれるかい? はやっ! ああ、自己紹介がまだだったね そんな理由で驚いたわけじゃない。 僕は南星〈総一朗〉《そういちろう》。知ってのとおり明日歩の父親で、この喫茶店ミルキーウェイの店長を務めている 僕のことはマスターでいいから。明日歩とは仲良くやってくれそうだし、これからもよろしく頼むよ あくまでここはバイトの一候補として考えていただけなのに、本決まりのように話が進んでいく。 なにか質問はあるかい? とりあえず、たくさんあります 最近の若者にしては積極的でいいね。合格だ いや、合格でなく。 ユニフォームは僕と同じエプロンだ。裏にあるから取ってくるよ 俺の質問が飛ばされているんですが。 まずはテーブル拭きと椅子の整理をお願いしようかな。それが終わったら食器洗い 細かいやり方は明日歩に聞いて。それじゃあよろしく マスターは席を立って俺のエプロンを取りにいった。 俺は明日歩に声をかけられるまで、呆然と座っていた。 ……………。 ………。 …。 雨、降ってきたね…… 明日歩の指導を受けながら食器洗いを終えてフロアに出ると、窓に水滴がついていた。 星見、無理かなあ…… まだ昼だし、夜には晴れるかもしれないぞ ……うん 明日歩の表情は天気と同じく曇っている。 お疲れさま。コーヒー煎れたよ マスターがマグカップを持って俺たちを出迎えた。 店内に客がいないのは雨のせいだろうか。 明日歩にそれを聞いたら笑われた。 うちはお昼時と夕方過ぎにしかお客さま来ないから。そんなに流行ってるわけじゃないんだよね なのにバイトが必要なのか? 混み時はあるし、お父さんひとりじゃ大変だから その言葉はうれしいけど、放課後に早く帰ってきて手伝ってくれるともっとうれしいかな それは無理だって言ってるじゃない。天クルがあるし 明日歩の星好きも困ったものだね マスターは苦笑して裏に戻っていった。 お仕事は一段落かな。洋ちゃん、お疲れさま マグカップで乾杯する。 洗い物、慣れてるんだね 昔から家事手伝いはよくやってたから 優秀なバイトくんが入ってくれて助かるな~ それなんだけど、俺まだ入るなんて言ってないぞ 明日歩は今初めて聞いたように目を見開く。 え、そうなの? そうだ ドッキリ? 違う 今さら辞めますなんて言わないよね? 今さらもなにも入ったつもりないし 言い逃れなんて男らしくないよ? 言い逃れじゃなくて正論だし もう二時間も手伝ってくれたのに? おかげで参考になった じゃあ入る? わからない あたしのこと騙したの! なんで俺が悪者になってるんだよ…… 洋ちゃん、ピザ食べたよね? ……それは食べたけど タダで食べたよね? 脅迫にかかってる? 代金なら払うよ 80万円になります ゼロ増やしすぎだろ!? バイトくんになってくれたらタダになります 完全なる脅迫だ。 ええとだな、俺さ、マスターからバイトの詳しい話聞いてないんだよ あれ、最初に話してなかった? いきなり仕事頼まれて終わったんだよ 明日歩はため息をついた。 お父さん、大ざっぱだからなあ。あたしのお手伝い賃に関してだけ細かいけど そんなわけでさ、マスターの代わりに教えてくれるとありがたい それも参考? ああ そんなこと言わないで、ぱぱっと決めて入ってくれたらいいのに 用意周到が性分なんだ 帰ってからバイトの求人誌と比べてみるつもりだ。 具体的になに教えて欲しいの? 時給と就業時間かな 時給は900円で、就業時間は適当だよ ……適当なのか うん 好きなときに仕事して好きなときに休めるのか? うん。いいでしょ、いわゆるフレックスタイム制! フレックスタイム制は始業と終業時間が自由だけど、コアタイムは設定するのが普通だぞ ……たてついたので不合格 理不尽だ。 明日歩も適当な時間に手伝いしてるのか? そうだね。でも喫茶店が混みそうな時間はなるべく手伝うようにしてるよ だから平日の夕方からはたいてい手伝ってるかなあ 俺は、手伝いが理由で明日歩が平日の夜の外出が難しいことを聞いている。 手伝いで天クルを休むこともあったんじゃないか? そういうときもあるけど。なんでそんなこと聞くの? いや…… 明日歩は休もうと思えばいつでも休めるのに、いそがしいマスターを思って仕事を手伝っているのだ。 好きな天体観測を犠牲にしても。 明日歩はえらいな なに、いきなり 俺さ、ここでのバイトは前向きに考えるって言ったよな。それはウソじゃないから うんっ そっちが迷惑じゃなかったら、今日は夜まで手伝うよ わ、ほんと? 予定はもう、夜からの星見だけだからな 晴れてくれたらいいね ふたりで窓の外を眺める。 雨足は強くなるばかりだった。 雨が降るとね、雨警報は鳴らないんだよ。きーんきーんがなくなるの もう降ってたら、警報の意味ないもんな 晴れ警報のほうが欲しかったな。あたし そうすれば、こんな不安はなくなるから 雨は嫌いか? 天文ファンにとっては天敵だよ 今日が雨でも、明日は晴れるかもしれない だから、明日は星見できるかもしれない ……明日でもいいの? むしろいつでもいいぞ その明日歩の笑顔が太陽のように見えた。 だから、なんとなく、今夜は晴れるんじゃないかと感じた。 次の仕事はなにしたらいい? なんにもないよ ……ないのか 強いて言えば、お客さまが来るまで暇なあたしをおもてなしすること? そんなんでいいのか…… 重要な仕事だよっ 明日歩が顔を近づけてきたので反射で逃げる。 ……拒絶された。不合格 俺をバイトに雇いたいのか雇いたくないのかどっちなんだ。 ふたりとも、手伝いはもういいから。勉強でもしてたらどうだい マスターが裏から出てきた。 えー えー、じゃない。テストも近いだろう ……そうだけどさ テストがあるのか? 来週から期末テストだよ。忘れてたの? というか、初耳なんだけど…… あれ、先生から連絡は? なかったと思う 担任の先生もおおざっぱだからね。お父さんみたいに よくよく考えてみると、一学期も終わる今は期末テストの時期だった。 明日歩たちにとっては当たり前だから、今まで話題にもしなかったんだろう。 ……おかげで俺はなにも準備ができていない。 すまん、明日歩。予定ができた テスト勉強? ああ。そろそろ帰るよ お代は80万円になります それはバイトから逃げるなって意味か。 約束は守るから。夜にまた来るからさ 90万円になります なぜに増やす? あたしをおもてなしして欲しいな~ 一緒に遊べという意味だろうか。 明日歩もテスト勉強があるだろう。お客も当分来ないだろうし、仕事は僕ひとりで大丈夫だから べつにお父さんはどうでもいいけど ……娘の反抗期はいつ終わるのかなあ お父さん、明日歩はよくできた娘だと思いますよ。 小河坂くん、よければ明日歩の勉強見てあげてくれないかな。明日歩ひとりだと心配でね ……信用ゼロだなあ とても成績優秀なんだろう、小河坂くん。明日歩から聞いてるよ あ、いえ、それは昔の話なんで 今でも優秀だよ。洋ちゃん、先生に当てられて間違ったことないもん だから、一緒に勉強しよ? そういう流れになるのか。 嫌なんじゃなかったのか? 勉強はやだけど、どうせするなら洋ちゃんに教えてもらいたいかなって 俺の教え方は不評だぞ? あたしなら大丈夫って言わなかった? 土曜スクールの結果を思い返すと、寝るから大丈夫という意味にしか聞こえない。 僕からも頼むよ。明日歩の家庭教師をしてくれる間もバイト代は出すから、どうだい? バイト代という言葉が意外だった。 いえ、今日はバイトじゃなくて手伝いなので。給料はいりません なにを言ってるんだ。キミはもうバイトだろう? ……誤解してると思ってたけど、どうしたものか。 洋ちゃん、もらっときなよ。お父さんが払うって言ってるんだから そういうわけにはいかない ……勉強教えてくれないんだ 勉強は教える。でもバイト代はいらない 合格だ よくわからないが肩をたたかれる。 家庭教師の時間は就業時間外だけど、僕の気持ちとして払うよ。近いうちに口座番号を教えるように マスターは満足げに裏に戻っていった。 よかったね、洋ちゃん ……というか、このままだと俺は確実にここでバイトするしかなくなると思うんだ やったね 明日歩もまた満足そうだった。 喫茶店と住居はつながっており、明日歩の部屋は二階にあった。 そして明日歩はテスト勉強を始めて五分も経たないうちに寝息を立てていた。 ……くー 徹夜らしいし、眠いのはわかるのだが。 さすがに無防備すぎるだろ…… 男を部屋にあげて、しかもふたりきりだというのに。 なにが起きるわけでもないのだが、妙に緊張する。 同年代の女子の部屋に入るのなんて初めてなのだ(千波は除く)。 ……集中しよ テスト範囲は明日歩が昼寝に入る前に聞いたし、教科書と未使用のルーズリーフも借りている。 俺は黙々と問題を解いていく。 ん……洋ちゃん…… 寝言でいきなり名を呼ばれてびくっとする。 洋ちゃん……ごめんね…… それはなんに対しての謝罪なのだろう。 とりあえず、明日歩のルーズリーフはヨダレで埋まっていた。 わあ……見て見て、洋ちゃん! 雨、あがってるよ! 俺たちの願いが届いたのか、陽が落ちる頃には空に星明かりが灯っていた。 それは明日歩が目覚めた時間でもあった。 夕飯も食べたし、支度もすんだし、あとは部室から望遠鏡を運ぶだけだね 明日歩はバッグを肩に提げている。中に観測のための道具が入っているんだろう。 夕飯はマスターが明日歩の部屋まで運んでくれた。断る間もなかったので、そのままいただいてしまった。 自宅にはあとから連絡した。詩乃さんに今夜の夕飯はいらないと話した。 悪いことをしたと思うのに、詩乃さんの答えは「よかったわね」だった。 俺がこの雲雀ヶ崎に馴染んでいることに安心しているようだった。 それじゃあ、出発しよっか ご機嫌の明日歩に俺も続いた。 星見するの、ひさしぶりだなあ。あたし、今夜もまた眠れなくなっちゃいそう…… 違う意味に聞こえるからやめて欲しい。 俺は夜空を見上げる。 商店街は人工の明かりが多いので星の光はほのかに感じられる程度だが、展望台に登れば違って見えるだろう。 あたしの望遠鏡も、きっと今ごろよろこんでるよ 明日歩は相変わらず俺の右隣で歩いていた。 坂道には水たまりが点在している。雨はまだやんだばかりなのだ。 すべるから気をつけてね 明日歩こそな あたし、勉強は不得意だけど運動は得意だから 千波と似た感じか。 だけどか弱い女の子だから、望遠鏡はよろしくね はいはい、と返しておく。 これから学校いくんだよな そうだよ 思うんだけど、こんな時間だと校門閉まってないか? 校門って閉まるものなの? ……いや、閉まらなかったら不用心だろ 洋ちゃん、たぶんそれ都会の学校だからだよ。雲雀ヶ崎は田舎だからね 都会でも田舎でも、不用心は不用心だと思う。 それでも警備員はいると思うから、あたしたちも気をつけなきゃね 気をつけるのは学校を守る警備員のほうだろ あたしたちが警備員に見つからないように気をつけるの とても嫌な予感がする。 夜の立ち入りは禁止されてるからね。捕まったら天クル廃部にされちゃうかも 夕方だったら堂々と取りにいけたんだけど……あはは 笑い事じゃない気がする。 だったらさ、明日に回してもいいんじゃないか? 無理に危険な橋を渡ることはない。 ダメだよ、明日が晴れる保証はないもん。あたしは今を大切に生きたいの 大切に生きるなら、逆に危険は回避すべきだろ むー 犬になってもダメだ 頭でっかち やめてください。 警備員に捕まりそうになったら逃げればいいじゃない 簡単に言うなよ…… 洋ちゃんを見捨てることはしないから そうじゃなくてだな あたしの星見を邪魔する存在は雨だろうと警備員だろうと許されないんだよ 胸を張るような言葉じゃない。 だから、一緒にいこ? それでいいのか……? いいんだよ。でもこさめちゃんには内緒ね、絶対怒ると思うから 呆れるしかなくなる。 ……というかさ、もし侵入者の俺たちが警備員に見つからなかったら、それこそヒバリ校のセキュリティはザルってことにならないか? ヒバリ校ばんざいだね 本当にそれでいいんだろうか。 校門に着いた。 校舎はほぼ消灯しており、警備員しか残っていないのが察せられる。 校庭の時計は午後七時半を指している。 ドキドキするね たしかに不安でドキドキするな あたしはわくわくのドキドキだよ クラス委員がそれでいいのか……? 洋ちゃんしつこいよ。あたしは今を大切に生きるクラス委員なんだから 明日歩はどうやら千波側の人間だ。 一直線に部室向かって、電気はつけないで望遠鏡持って、一直線に帰ってくる。オーケー? 不満はあるけどオーケー それじゃ、ミッションスタート! いきなり大声をあげて冷や冷やさせる明日歩だった。 わあ……夜の校舎って初めて 初めてって、常習犯なのかと思ってたよ こんな危ない橋、何度も渡れるわけないよ 危ないという自覚はあるのか。 外が晴れてくれたおかげか、窓から薄ぼんやりと光が差しており、俺たちはそれを頼りに廊下を進んでいく。 足音が響くね…… なるべく音出さないようにな。声のトーンも落としたほうがいい うん…… 早く部室に着きたいが、ゆっくりと移動するしかない。それがもどかしい。 なんか肝試しみたいだね この場合、お化けより警備員のほうが怖いけどな そうかな……。あたしたち以外の足音とかピアノの音とか聞こえたほうが怖いかも 音楽室の肖像画の目が動いたりな 学校の七不思議って感じだね。ヒバリ校だと死神の都市伝説になってるけど 怪談の一種みたいなものか そう考えると面白半分で広まっているのも納得できる。 あたし、ホラー映画とか苦手なんだよね。でもテレビでやってると、怖いもの見たさでつい見ちゃうの 引き返してもいいんだぞ? むー なんで今夜はそう意固地なんだろう。 俺たちは静かに階段を登っていく。 部室は二階に位置している。 二階に着いたところで、なにか音がした。 明日歩、ストップ えっ……きゃっ 廊下に出ようとした明日歩の腕をひっぱり、踊り場に引き戻した。 ちょっと静かにしてろ 耳をすますと、やはり音が聞こえる。 おそらく足音。この先に、誰かいる。 俺は陰からそっと顔を出す。 ………… 遠目に人影が見える。 闇のせいでよくは見通せず、誰かは判然としない。 ……警備員の見回りか? だが懐中電灯の光は見えない。警備員だったら持っていてもよさそうなものだが。 一瞬、ある可能性を思いつく。 ヒバリ校の都市伝説に登場する死神だ。 ……まさかな。 目を凝らすが、人の形の輪郭くらいしかわからない。 ………… そのうちに人影は消えた。 足音が遠ざかっていく。上か下の階に移動したんだろう。 肺に溜まっていた空気を吐き出した。 なあ、今の人影見たか? 明日歩に振り返る。 ………… 明日歩は無言で縮こまっている。 接している箇所から震えが伝わる。 今さらながら気づく。距離がとんでもなく近い。 ……というか、俺の手が明日歩の肩を抱いている。 明日歩の顔が俺の胸にある。 うあっ 素っ頓狂な声をあげて飛びすさる。 明日歩はうつむいている。前髪と暗闇のせいで表情は見て取れない。 わ、悪い…… それしか言えない。 ………… なにかつぶやいたようだが、聞き取れない。 びっくり……した…… 今度は聞き取れた。 普段の明日歩とは正反対の、蚊の鳴くような声。 ほ、ほんと悪い 明日歩は無言でいたが、しばらくしてからゆっくりと俺のほうへ寄ってくる。 ……誰かいたの? 不安そうな上目遣い。 ああ。警備員かどうかはわからないけど、急いで部室向かったほうがよさそうだ 明日歩は、こく、とうなずく。 頼りになるね、洋ちゃん どこか、照れくさそうな声だった。 さっきは悪かったな 三度目の謝罪。 ……ううん その声も照れくさそうだった。 俺たちは無事、部室にたどり着き、校舎の外まで望遠鏡を運び出すことに成功した。 キャリングケースに入れた望遠鏡は想像以上に重く、帰りの歩みはさらに鈍くなってしまった。 とはいえ、明日歩が周囲に気を配りながら先導してくれたおかげで誰かに見咎められることはなかった。 あの人影に出会うこともなかった。 校門を抜けたあとは坂を登り、途中のフェンスを迂回するのに獣道とも言えない道を越える。 雨にぬかるみ気を抜けばすぐにでも転びそうな俺を、明日歩が必死に支えている。 あたしだって、少しは洋ちゃんの役に立たなきゃね 俺の腕をつかんで進む。その姿はすがりついているようでもある。 キャリングケースの中身──望遠鏡の鏡筒を木にぶつけないようにするのが大変だった。 明日歩いわく、強い衝撃があると光軸が狂ってしまって調整が大変なんだそうだ(意味はなんとなくピンときた)。 とにかく俺は望遠鏡を必死に守る。 そんな俺を明日歩が必死に守っているように見えた。 もうちょっとだよ、洋ちゃん。ファイトっ お互いがお互いを支え、前を目指して。 木々が開けると、そこには数え切れない光が待っている。 うわあ……! 雨上がりの夜空はいつになく澄み渡って、一面を信じられないほどの星の輝きで満たしていた。 まるで星の洪水だった。 星たちの渦巻きに俺たちまで巻き込まれ、目が回る。 来たかいがあったね、洋ちゃん……! 俺は肩からベルトを外し、ケースを傍らに置いた。 望遠鏡のレンズで覗いたこの空はどのように映るのか。 楽しみでもあり怖くもある。 メアが言っていた。キレイなものも多すぎるとグロテスクになると。 それはつまり恐怖だった。 その気持ちが、今、半分くらいは理解できた。 洋ちゃん、お疲れさま。座って休んでいいよ 明日歩は提げていたバッグからレジャーシートを取り出し、雨露に濡れた地面に敷いた。 あと、これ 続いてバッグから取り出したものを俺に渡す。 ……双眼鏡も持ってきてたのか うん。あたしこれから望遠鏡の準備するから、それで星空眺めてていいよ 望遠鏡と同様、使うのは初めてだった。 どうやって使えばいいんだ? えっとね、まずは接眼レンズの幅を合わせて……そうそう、折り曲げて調節するの それで、ここにピントと視度の調整リングがあるから、見たい星を見ながら回せばいいんだよ 俺はシートに座って双眼鏡を構え、適当に夜空を見上げてみる。 月もそんなに明るくないから、見やすいんじゃないかな ピント調節、視度調節のふたつのリングを回していく。 オススメはね、天の川だよ。はくちょう座からいて座にかけての付近が一番見えやすいから合わせてみて 肉眼とは違った狭い視野を、その方角へと向けていく。 どうかな? 雲っぽかった光の帯が、違ったように見えないかな? 徐々にピントが合わさっていく。 きっと、肉眼で見えなかったたくさんの星が、洋ちゃんに会いに来るよ 視野が鮮明になった瞬間、まばゆい光が瞳の奥まで差し込んだ。 これは、そうだ。 万華鏡だ。 天の川に沿って、双眼鏡の視野を少しずつ移動させると、星が様々な角度で飛び込んでくる。 メアに話したとおりだった。 それは当てずっぽうだったのに、これは確かに万華鏡。 人が童心に返るための魔法の道具だった。 明日歩はしゃがみ込んでケースを開けていた。 望遠鏡を組み立てるようだ。 俺が手伝っても邪魔になりそうなので、もう一度双眼鏡で天の川を仰いだ。 天の川は、ギリシャ神話では大神ゼウスの妻であるヘラの母乳が天に流れたものだとされている。 英語でミルキーウェイと呼ばれるのはそのためだ。 そして科学的には、天の川は銀河系を横から見ている光景だと言われている。 俺たちが住む太陽系──それを飲み込む銀河系の姿が、この天の川なのだ。 この万華鏡の光の中に、俺たちは生きているのだ。 洋ちゃん 顔を上げると、明日歩が正面に立っていた。 そのまま隣に腰かける。 準備は終わったんだろうか。 どう? 双眼鏡で覗いた感想は なんていうか、圧巻だ 明日歩は満足そうだった。 その双眼鏡持ってていいよ。望遠鏡もまだ使えないしね 準備、終わってないのか? うん。あとは待つだけだけどね ……待つ? 反射式の望遠鏡はね、外に持ち出すときは三十分くらい外気に慣らさないとなんだよ じゃないと、温度差とかの関係で〈鏡筒〉《きょうとう》の中の空気が乱れちゃって、うまく見えないんだ さすがに詳しいな お昼は洋ちゃんが家庭教師だったけど、夜はあたしが星見の先生だね 昼の明日歩は赤点もいいところだけどな 夜の洋ちゃんが赤点取らないことを祈ってるよ 明日歩は体育座りで星空を見上げている。 やっぱりいいなあ、ここ。どうしてもっと早く来なかったんだろ…… 立ち入り禁止は昔からなんだよな うん。あたしが展望台の存在知ったときには、もうフェンスが立ってたから だから、洋ちゃんがうらやましい 子供のときにもこの星空を眺めた洋ちゃんが、うらやましいよ 今も昔もこの展望台は変わらない。 フェンスが立とうがここの風景は変わらない。 明日歩が好きだと言ったこの星空は、過去には展望台の彼女も好きだった。 昔の僕も今の俺も好きだった。 だからこの空は変わらない。 変わらずに在り続けた。 ただ、それを見上げる俺たちが変わっている。 みんながみんな、成長したから。 まるで俺たちの周りだけ時間が流れているような錯覚すら受けている。 ……そういえば、メアもそんな感じだな。 歳なんてないと言っていたし、この星空や展望台と同様、今も昔も同じ姿なんだろうか。 俺は立ち上がって周囲を見渡した。 ……どうしたの? 明日歩も俺に合わせて立ち上がった。 ちょっとな、人捜し 俺は歩き出す。 メアの姿は見えない。まだ来ていないんだろうか? 暗がりのところも目を凝らしてみる。 やはりメアは見つけられない。 洋ちゃん…… 戻ってみると、明日歩が困ったような顔で立っていた。 もしかして、展望台の彼女さん? あ、いや 隠さなくたっていいよ。気持ち、わかるから ……そうか うん 捜しているのは別人だとは言えない雰囲気。 大丈夫だよ。いつか絶対、出会えるよ にこっとほほえみかけた。 俺はバツが悪くて視線を逸らしてしまう。 そろそろかな 明日歩はしゃがんで、傍らのバッグを持った。 中から道具を取り出しては、シートの上に並べていく。 それは? 星図と、方位磁石と、あとは明るくなりすぎないようにセロファンをかぶせた懐中電灯 明日歩は満天の星空に向かって高く声を上げた。 始めよっか、望遠鏡を使ったあたしたちの星見! 俺も、明日歩にうなずいた。 明日歩と共に星見をしながら、メアの登場を待とうと、俺は思った。 おかえりなさい。お友達の家は楽しかった? はい。すみません、こんな時間になって もう夜の十時を回っているのだ。 連絡もらってたし、謝らなくたっていいのよ 靴を脱いで上がったところで気づいた。 あれ、千波は? いつもなら今ごろ騒がしく登場しているはずなのだが。 洋ちゃんに報告があるって言って、さっきまで起きてたんだけど 詩乃さんは優しい笑みを浮かべる。 リビングで寝ちゃったの。お部屋に運んだから、今はベッドの中よ 今日は休日だし、遊び疲れたんだろう。 今日、お隣さんの家で遊んでたんですって。それを洋ちゃんに話したかったみたい 迷惑かけてなきゃいいんですけど 千波ちゃんなら大丈夫よ その自信はどこから湧いてくるんだろう。 シャワーを浴びて自室に戻った。 俺はベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を見つめる。 初めての星見は興味深かった。 俺は飽きずに星々を追いかけた。 明日歩は俺の横で星座の解説をしてくれた。 どちらかと言えば俺より明日歩のほうが楽しんでいただろう、十時を越えても明日歩は帰ろうとしなかった。 説得するのは骨が折れたのだ。 おかげで望遠鏡を明日歩の家まで運ぶ道すがら、明日も星見の約束をするハメになっていた。 明日歩って、展望台の彼女よりも星が好きかもな…… 結局メアは現れなかった。 望遠鏡から目を離した際にはそれとなく周囲を見渡していたのだが、それらしき人影は見つけられなかった。 晴れた夜に訪れないのは初めてかもしれない。 なぜだろう。 明日歩がいたから? 他人が自分の近くにいる場合、幻覚を見ないなんてことはありうるだろうか。 メアという存在が俺の想い出──展望台の彼女の記憶から作られているのだとしたら。 明日歩がそばにいるときは、展望台の彼女のことを忘れているから、幻にすがらなくても良いということ? ……やばい、なんか説得力あるぞ。 ただ、メアは俺が想い出に浸っていないときに記憶を奪いたいと言っていた。 俺が想い出に浸らなければメアが現れないのだとしたら、メアは記憶を刈ること自体できなくなる。 それは矛盾だ。 メア幻覚説の穴である。 だから、メアはただの幻なんかじゃない。 メアは実在するのだ。 今はその矛盾を頼りに、そう思うことにした。 ……おはようございまふ 昼になろうというところで千波が起きてきた。 休日はいつも昼過ぎまで寝てるのに、めずらしいな ……ん 千波はふらふらとテーブルにつく。目が線になっている。 平日は朝から騒がしいのが常なのだが、本来朝の弱い千波は休日だとこんな感じである。 夕べは早く寝たみたいだし、それで早く目が覚めたのかもな ……ん コーヒーを煎れて千波の前に置く。 なにか食べるか? 俺もちょうど昼飯作ろうと思ってたところなんだ ……ん なにかリクエストあるか? ……お兄ちゃん 俺を食べたいのか。 お兄ちゃんと一緒に作る…… テーブルから離れ、ふらふらとキッチンに立つ。 はい、お兄ちゃん…… 包丁を、刃のほうを向けて渡してくる。 いいから座ってろ、ケガするから 平気…… 俺が刺されてケガしそうだ。 パスタとコーンスープでいいか? お兄ちゃんがいい…… そんなに俺を包丁でさばきたいのか。 お兄ちゃんと一緒に作るのがいい…… パスタを鍋で茹でている間、千波は包丁を持ってうろうろしていた。 ……おはようございまふ そしてハタキを持ってうろうろする詩乃さんも加わったキッチンはとてもカオスだった。 ふたりが対面するとチャンバラが始まったが、見なかったことにした。 いただきまーす! いただきます 昼食ができあがった頃には、ふたりは正常に戻っていた。 詩乃さんも今日は早起きですね 仕事のほうが落ち着いてきたから。本当はもっと早く起きてご飯を用意したかったんだけど…… 詩乃さん朝弱いんですから無理しなくていいですよっ おまえも人のこと言えないけどな 千波が寝坊するのはコブタ目覚ましが反抗期に入ったからだよっ、真の千波は早寝早起きのはずだからねっ 真の千波を拝める日は永遠に来ないだろう。 それより聞いてお兄ちゃんっ、千波昨日は蒼ちゃんと遊んでたんだよっ そうだってな 蒼ちゃんだけじゃないんだよっ、なんと蒼ちゃんの妹の鈴葉ちゃんとも仲良くなったんだよ! そうなのか そうなんだよ! 蒼さんに同情するよ お兄ちゃんの発言はなんでいつもネガティブなの!? おまえがポジティブすぎるんだよ それでねそれでねっ、今日はこの家に蒼ちゃんと鈴葉ちゃんを招待するんだよ! 誘拐は犯罪だぞ? 招待って言ったでしょ!? それじゃあ、おやつにスコーン焼いてあげるわね わーい! さすが詩乃さん、わかってるな うん! 眠り薬を仕込んで千波を眠らせようなんて お兄ちゃんは千波をなんだと思ってるの!? 核弾頭だろ どういう意味なの!? 千波ちゃんがいると、みんな仲良しになるって意味よね 詩乃さんが俺とは違う解釈をした。 冷戦って言うと言葉は悪いけど。だけど千波ちゃんにはそれくらいの力があるの そうでしょう、洋ちゃん? 詩乃さんに見つめられ、俺はうなずくしかなくなった。 えへへ、誉められちゃった 千波はパスタにマヨネーズをたっぷりかけて食べ始めた。 まあそれでもいいかと、俺も食事を進めた。 天気は快晴、このまま崩れなければ昨日に続いて夜に星見ができるだろう。 その予定のオマケというかなんというか、昼からもまた明日歩の喫茶店で手伝いの約束もさせられている。 休日の予定といえば前々から考えていたバイト探しだけだったので、問題ないと言えば問題ない。 ただ、いつか買った求人誌は一度も開いていない。 明日歩にはほかのバイトと待遇を比較すると話していたのに、星見が楽しかったせいかすっかり忘れていた。 このままだと俺はなしくずし的にミルキーウェイのバイト店員だ。 それもまた、問題ないと言えば問題なかった。 いらっしゃいませ~って、洋ちゃんだ 約束どおり来たぞ えらいえらい。どうぞ座って、すぐお昼作るから いや、今日はいいよ そんな遠慮しなくたって、お代は取らないからさ もう食べてきたから、と返そうとして思い留まる。 昨日に出されたピザは明日歩の手料理という話だった。 今日もそうだとしたら、断るのは悪い気がする。 ほらほら、座って座って 席に座らされると、明日歩は間髪入れずメニューを渡す。 何になさいますか、お客さま? ヘルメスの竪琴を頼むとなにが出るんだ? それは出てからのお楽しみだよ かささぎの架け橋を頼むとなにが出るんだ? それも出てからのお楽しみだよ どれも同じメニューなんだろ? うん……う、ううん、そんなわけないよ~ 今日も徹夜か? うん……う、ううん、さすがのあたしも星見が楽しみなだけで二日連続は辛いよ~ 俺は気づかれないようにため息をつく。 そこまでしてくれるのは、俺を是が非でもバイト要員にしたいからか? この先の思考は打ち消した。 ……無理するなよな なにか言った? なんでも。じゃあこのケイロンの弓にしようかな いて座の神話を選ぶなんて、洋ちゃんわかってるね! 夏の星座の代表格であるいて座は、夜になれば俺たちにその勇ましい姿を見せてくれるだろう。 ものの十分もすると、明日歩がメニューを持ってくる。 こちらケイロンの弓になりま~す! 明日歩が持ってきたメニューはボンゴレビアンコだった。 二食連続でパスタはさすがにきつかった。 冷めないうちに食べて食べて 正面に腰かけて、にこにこと見入っている。 俺は完食を果たすしかなかった。 いらっしゃいませ、当店へようこそ~って、あれ 食べ過ぎの腹痛に耐えながらテーブル拭きをこなしていると、見知った客が来店した。 こんにちは、明日歩さん 客はこさめさんだった。 めずらしいね、休日にあたしの店来るなんて。なにか用事? 喫茶店に入る用事はひとつしかないと思いますよ あは、そうだね。それでは一名様ご案内~ あ、一名ではありませんよ こさめさんの後ろに、もうひとりの客が憮然として立っていた。 初めて入ったけど、店の名前のわりに落ち着いた雰囲気なのね 明日歩は目を瞬かせる。 今日は姉さんも一緒なんです ……えー お客に対してなによその態度は はいはい、じゃあ適当に座ってよ 明日歩、お客さまに失礼だろう。ちゃんとご案内しなさい まったくね、メイドの自覚が足りないんじゃないの? メイドじゃなくてウェイトレスだよ! 明日歩、ご案内 ……こ、こちらの席でよろしいでしょうか~ 明日歩の営業スマイルが引きつっている。 明日歩、やりにくいなら俺が応対するけど あ、ううん、洋ちゃんはまだ接客やったことないし。大丈夫だから 小河坂さんもこんにちは ああ こさめさんが俺のエプロンに目を留めた。 ひょっとして、明日歩さんのお店でバイトですか? そうだよ。昨日から入ってくれたの 本決まりってわけじゃないけど、いちおうな 姫榊がぴくっと反応した。 ちょっとコガヨウ ……なんだよこももちゃん に、二度とその呼び方しないでくれる!? そのセリフ、そっくりそのまま返したい。 なんであなたがここにいるのよ さっき言ったろ、バイト見習いみたいな感じなんだ ふざけないで ふざけてないのに。 あなたは転入生で知らないでしょうけど、ヒバリ校は原則バイト禁止なのよ それならもう許可は取ったよ ……そうなの? ああ なんでわたしの耳に届いてないのよ ……知らないけど 小河坂さん、バイト先が決まったら先生に報告しないといけませんよ。その後に生徒会にも連絡がいくと思います そういうことか。 正式に決まったら週明けに報告するよ あたし的にはもう正式決定なのにな~ ちょっと南星さん、どういうつもりか知らないけど、ところ構わず小河坂くんを巻き込むのはやめてくれる? 巻き込んでないよ。天クルもバイトも洋ちゃんの意思だもん いや、半分くらいは明日歩の意思だった。 だいたいこももちゃんには関係ないし あるわよ。転入生が学校に馴染めるよう計らうのも生徒会の仕事なんだから やけに俺に構うと思ったら、生徒会に入れたいだけじゃなくほかに理由があったのか。 姫榊は、言葉はきついが生徒思いだ。持ち物検査のときにもそれは窺えた。 小河坂くんがなにも知らないからって、自分の好きなように扱うのはどうかと思うけど そんなつもりないよ。それに洋ちゃん、学校にはもう立派に馴染んでるじゃない わたしには、南星さんに振り回されてるようにしか見えない 姫榊は俺に向き直る。 小河坂くん、来週から期末テストだけどバイトしてる暇なんてあるの? まあ、少し仕事手伝ったら勉強するつもりだから あたしの家庭教師もよろしくね ……今日もか? うん。今日も ちょっと南星さんっ ご来店ありがとうございました あからさまに帰そうとしないでくれる!? またのご来店をお待ちしておりません ……よほど天クルの寿命を縮ませたいようね クラスでは嫌な顔ひとつ見せない明日歩も、姫榊に対してだけはいつも敵意剥き出しだ。 姉さん、まずは座りませんか? 明日歩さん、ご案内の続きをお願いします あ、うん。一名様ご案内~ ……本気でわたしを怒らせたいようね 明日歩。いいかげんにしないと差っ引くよ に、二名様ご案内で~す 明日歩はぎこちなくふたりを席まで先導する。 姫榊とこさめさんは向かいあって座った。 そこのメイド、早くメニュー渡しなさいよ なんだよその態度っ、水があれば充分でしょっ 明日歩 こ、こちらがメニューになりま~す ……これ、なにがどの料理なんだかさっぱりなんだけど 文句あるなら帰ってよっ 明日歩 ご、ご注文はお決まりでしょうか~? ああっ、明日歩の笑顔がおもしろいくらい引きつりまくってる。 明日歩、あと俺やるから。この伝票に品目書けばいいんだよな う、うん…… お客さま、ご注文はいかがいたしますか? 姉さん、以前にわたしこのメニューを頼んだんですけど、とてもおいしかったですよ そうなんだ。じゃあそれふたつお願い カルヴァリの十字架ふたつですね。かしこまりました 板についてますね、小河坂さん 誰かさんと違って礼儀正しいし 今後は明日歩の給料を小河坂くんに回そうかな うっ……うわーん! 泣いた。 カルヴァリっていうのはキリストが〈磔〉《はりつけ》にされた丘の名前ではくちょう座の別名にもなってるんだよ~! 解説しながら厨房に走っていった。 で、具体的にどんな料理なの? ……さあ 以前に頼んだときはお子さまランチでしたよ 旗の代わりに十字架が立っていそうだ。 ……そんなもの、なんで頼むのよ おいしいからです こさめさんはどんな料理でもそう答えそうだ。詩乃さんみたいに。 明日歩のお友達だよね。すまないね、いつもはあんな接客じゃないんだけど マスターがアイスティーを運んできた。 今日も暑いからね。これは僕からのサービス そんな、悪いです ありがとうございます 姫榊が受け取ったので、こさめさんも礼を言ってそれに倣った。 小河坂くん、店も空いてきたし、仕事はしばらくないから休んでいていいよ マスターも明日歩に続いて厨房に入っていった。 アイスティーは三人分用意されていた。 マスターって、南星さんのお父さん? ああ。この店、ふたりでやってるみたいだ 最初はマスターおひとりだったんですよ。いそがしそうにしているのを見かねた明日歩さんが、自分から手伝うようになったそうです ふーん…… 思案げにストローをかき回している。 小河坂さん、座りませんか? 仕事もないようなので、お言葉に甘える。 今日はですね、お昼を食べるのもそうですけど、小河坂さんにも用事があったんです 小河坂くんの家に電話したら、南星さんの家に遊びにいったって答えられたから 応対したのは詩乃さんだろう。 わざわざ会いに来てあげたのよ。感謝してよね 小河坂さんのケータイの番号を知らなかったので、姉さんを説得して連れてきてしまいました もしかして、部活の規則の件か? ええ 生徒以外を部員にしてもオッケーってことか? ダメに決まってるでしょう 一蹴。 ……規則でそう決まってるのか? そんな規則はないけど。常識的に考えて不許可 それを決めるのは生徒会か? そうよ。部活は生徒会の管轄だから じゃあ生徒会から許可をもらえばいいわけか 姫榊は怪訝な顔をする。 ……わたしの話を聞いてなかったの? 姫榊は不許可でも、それを決めるのは生徒会なんだろ? わたしは生徒会役員だけど 役員ひとりの独断じゃなくて、生徒会の会議の場で審議してくれないか? ……まさか、わたしに発案しろってこと? 察しがよくて助かる。 ああ。部活およびサークルの部員は、ヒバリ校の生徒でなくても入部できる。それを規則に加えて欲しい 事前に用意していた作戦なのだ。 姫榊は呆れ返っていた。 姉さん、わたしからもお願いします。部外者でも、わたしたちと歳が近ければ活動に弊害はないと思いますし こさめさんが即座に味方する。 あのね……。ふたりとも、本気で言ってるの? ああ はい わたしは天クルを廃部にしたいと思ってるのに、なんで敵に塩を送るような真似をしないといけないのよ 姫榊は仕事に私情を持ち込むのか? 生徒の意見を反映するのが生徒会の責任じゃないのか? いきなり正論を持ち出さないで なにか間違ってるか? 非常識な議論をしてる暇は生徒会にはないってことよ どこらへんが非常識なんだ? ヒバリ校の生徒じゃなければ部活の公式大会には出られない。なのに部外者を出場させたら失格になるでしょう なにもすべての部活やサークルに適用しなくてもいいんだ。問題が起こらないサークルだけでいい 要するに天クルの部員確保なんでしょ? 今さら隠すつもりはないので、そこはうなずく。 生徒会に持ちかけるだけでいい。お願いできないか? 結果は決まりきってるじゃない やってみなきゃわからないだろ ヒバリ校のサークルに部外者を入れたら市民クラブとなにが違うのよ。その方法で天クルを存続させたいならヒバリ校じゃなくて市役所にでも持ちかけることね くっ、論破できない。発案くらいはこぎつけられると思っていたのに。 わかったら、あなたも南星さんに振り回されてばかりいないで、自分の優秀な学力をほかに役立て…… 姉さん 姉さんが小河坂さんを欲しがる気持ちもわかります…… ち、ちょっ、こんなところでも!? ですが小河坂さんは天クルにとっても必要な人材なんです…… やあっ、待ってっ、人いるから……! 姉さんにはわたしがいるじゃないですか…… ふああっ、だめっ、見られるっ、だめえっ……! 姉さんは誰にも渡しません…… 途中から言いたいこと変わってるでしょ……!? 姉さんはわたしだけの姉さんなんですから…… わ、わかったからっ、わかったからあ……! こさめさんが離れると、姫榊は大慌てで乱れた服を直す。 ……お騒がせいたしました 仲のいい姉妹だね マスター、なぜちょうどよくカウンターにいるんですか。 ……小河坂くん 真っ赤な顔でにらみつけられる。 な、なんだよ 今の出来事は記憶から抹消しなさい。ううん、これまでの同じ出来事もすべて そんな簡単に…… 抹消しなさいね! 否定するとショック療法の流れなので高速で首肯。 それとこさめっ、帰ったらお仕置きだからね! はい……わくわく いったいどんなお仕置きなんだろう。 姉さん、小河坂さんの言ったこと、よろしくお願いしますね 天クルの命運は姫榊にかかってるんだからな ……まったく、なんでそんな展開に 姫榊はうなずいた、というよりうなだれた。 期待はしないことね。わたしが天クルを廃部にしたいことには変わりないんだから ほんと、天クルを目のカタキにしてるんだな それは今さら 星が嫌いなんだって? それも今さら 小河坂さん わかってる、詮索するつもりはない。 ただ思うのは、こさめさんは誰かが他人に踏み入るという行為を嫌っているんだな、ということ。 それこそ姫榊が星を嫌うのと同レベルで。 こちらカルヴァリの十字架になりま~す! 明日歩がメニューを持って登場だ。 で、洋ちゃん。鼻の下伸びてない? あるわけないじゃないか 紳士に言った。 お子さまランチ、おいしかったですよ まずまずだったわね それではまた学校で 何度も言うけど、発案の件は期待しないでね 誰もこももちゃんに期待なんか……むぐっ 姫榊の機嫌を損ねるのはマイナスなので、明日歩の口をふさいでおく。 天クル一同、頼りにしてるからな ……ふん こさめさんはご機嫌に、姫榊は不機嫌そうに帰っていった。 明日歩、一学期が終わるまで時間ないんだし、打てる手は全部打っておこう 諭してみる。 明日歩は借りてきたネコのようにおとなしくなっていた。 俺に後ろから抱かれたまま。 うあっ そっこー離れる。 明日歩は熟れたリンゴになった顔をうつむかせている。 最近このパターン多いな……。 ……そうだね。天クルのためだもんね あ、ああ テストが終わったら夏休み。タイムリミットは終業式の二十三日。それまでに部員集めるぞ~! 明日歩が笑顔で元気よく言ったので、俺は安堵する。 二十三日っていうと、次の次の月曜か うん。テストが火曜日から金曜日まであって、土日挟んだ月曜日が終業式。テストもその日返ってくるよ 赤点取った生徒は、補習があるからまだ夏休みに入れないけどね 夏休みに遊ぶためにもテスト勉強しないとな それが終わったら星見だねっ 明日歩は手をかざしながら空を仰ぎ見る。 いい天気。こんなに澄んだ青空! シーイングもよさそう! シーイングというのは、大気中のチリや水蒸気のことで、これが悪いと天体の像も乱れるらしい。 昨夜に明日歩から教えてもらった知識だった。 まだ三時かあ。早く夜にならないかな…… 勉強する時間はたっぷりあるな ふえーん…… 客もいなかったので、マスターに断ってふたりで明日歩の部屋に向かう。 テーブルに向かいあって五分もすると、明日歩の寝息が聞こえてきた。 ……くー 今日も徹夜のようなので、起こすことはしなかった。 ごめんね、荷物持ちさせちゃって 気にするな。それに嫌だって言ってもさせるんだろ あはは、そうなんだけどね 今夜は学校からではなく、明日歩の家から展望台まで望遠鏡を運ばなければならない。 昨夜の帰りは下り坂だったのでまだ楽だったが、行きは上り坂なのだ。 俺は心で気合いを入れてキャリングケースを担ぎ上げる。 疲れたら言ってね、交代するから たぶん大丈夫だ 重量は10キロもないし、日頃の運動不足を解消するにはちょうどいいかもしれない。 それじゃ、今夜も星見にしゅっぱーつ! 明日歩の号令で俺たちは歩き出す。 展望台にメアは現れるだろうか。 星見ももちろん目的だが、メアを明日歩に会わせてみたいという気持ちも大きかった。 いいかげんはっきりさせたい。メアは幻なのか、実在するのか。 でないとなにも始まらない気がした。 なにが始まるのかも知らないのだが。 洋ちゃん、もう疲れちゃった? 黙っていた俺に明日歩が声をかける。 いや、まだまだいける 肩に食い込むベルトにも慣れてきた。 さすが男の子、天クルの有望株だね 荷物持ちだったら俺じゃなくて、岡泉先輩でもいいんじゃないか? 先輩、体力ないから。一度資料室の掃除のときに運んでもらおうとしたら、持った瞬間に下敷きになってたよ ……それは器用だな 望遠鏡に傷がつかなくてホッとしたよ そっちの心配なんだな…… だから洋ちゃんは天クルにとってなくてはならない部員なの。こももちゃんの誘惑に乗っちゃダメだよ 誘惑って、生徒会の勧誘か? うん。委員会活動なんかしてる暇ないんだから こさめさんは図書委員の仕事もこなしてるじゃないか 明日歩自身もクラス委員と両立している。 ……洋ちゃん、こももちゃんの肩持つんだ なんでそうなる 生徒会役員って図書委員とかクラス委員よりもいそがしそうだよ? それはそうかもな だからダメ。いい? まあ、入るか入らないかは姫榊から詳しい話を聞いてからだな ……裏切り者 天クルを辞めることはないから むー 星見、こさめさんを誘ってもよかったかもな 強引に話題を変える。 反対しそうだけどね。危険だって言って いつか展望台の立ち入り禁止が解けて、天クルのみんなで天体観測したいな そうだね。それか、こももちゃんから屋上の使用権を勝ち取るか 天クルが部活として認められれば、その交渉もしやすくなるだろう。 それで初めて、天クルの活動がスタートするんだよ 雲雀ヶ崎の展望台か、ヒバリ校の屋上か。 どちらも手に入れられれば、それに勝るものはない。 校門を通りかかったところで、人の気配を感じた。 俺は立ち止まってその方向に目をやる。 ……洋ちゃん? 人影が見える。校舎に向かっているようだ。 昇降口に消えていく。 誰かはわからなかった。 どしたの、やっぱり疲れちゃった? いや、まだまだ平気 さすが男の子。えらいえらい ……俺のこと子供扱いしてないか? あたし、四月生まれ 俺より年上だと言いたいのか。 疲れたらいつでもお姉さんに言ってね、お手々つないであげるから~ 無言で歩き出す。 あっ……気に障った? そうじゃない、だけどそんな態度を取られると俺の想い出がうずくのだ。 展望台の彼女もよくお姉さんぶっていた。 ご、ごめんねっ 慌てる明日歩に苦笑を返した。 やっぱり少し疲れたかな。早く登って展望台で休もうか うんっ 展望台は無人だった。 俺はケースを置いて一息つく。 お疲れさま。シート敷いたよ 明日歩は望遠鏡の準備を始める。 その間に俺は展望台を回ってみる。 ……いないな 隅に隠れているのかと慎重に捜してみたが、メアの姿は見当たらない。 戻ってみると、明日歩が満天の星空に瞳を細めていた。 あとは待つだけか? うん シートに腰を落とすと、明日歩も右隣に座った。 いつまでも…… どこかぼんやりした声だった。 いつまでも、こんなふうに星空を見上げられたらいいね 三十分経ってから、俺は昨夜に明日歩から教わったとおりに望遠鏡を操作する。 明日歩の望遠鏡は赤道儀式なので、レンズを覗く前に極軸合わせをしなければならない。 天体は日周運動しているため、望遠鏡の回転軸を地球の自転軸方向に合わせるのだ。 俺はファインダーに北極星を入れてから、ハンドルを使って緯度調整し、架台を固定する。 あとは天体オートサーチの機能があるので、好きな星を自動で探して追尾するらしい(さすが二十万の望遠鏡だ)。 洋ちゃん、飲み込み早いね。一度教えただけなのに 望遠鏡が優秀だからな ……教える先生が優秀って言って欲しかったなあ そうして望遠鏡を覗くと、肉眼や双眼鏡では点でしか捉えられなかった星が違った姿を見せてくる。 〈二重星〉《ダブルスター》や〈連星〉《れんせい》として俺たちの前に現れる。 夜空を見上げただけでは知りえなかった光の風景。 きっと誰もが感動する。 〈二重星〉《ダブルスター》って言えば、やっぱりはくちょう座のアルビレオだね ああ、黄金の主星とエメラルドの伴星の、恋人みたいに寄り添う姿がとってもステキ…… 明日歩の瞳もアルビレオに負けないくらいキラキラだ。 天頂付近に輝くこと座にわし座にはくちょう座。 そして天の川を南下すれば、いて座とさそり座が顔を出す。 いて座で描かれるケンタウロス族のケイロンは、〈大神〉《たいしん》ゼウスの命令で、さそり座の毒サソリが暴れ出さないように心臓のアンタレスに狙いを定めてるんだって ケイロンは不死身の身体と優れた頭脳を持っていたんだけど、ヘルクレスとケンタウルス族の戦争が起こったときに重傷を負ってしまうの 不死身のケイロンは死ぬことはなかったけど、ケガの苦しみから不死の力を〈巨人神〉《きょじんしん》プロメテウスに譲って、そして〈大神〉《たいしん》ゼウスの手によって天に上げられたんだって…… 傍らで話す明日歩の神話を聞きながら、物語に浸りながら、ひとつひとつの星座を追っていく。 それだけで時間はあっという間に過ぎていった。 俺、明日歩の店でバイトすることにするよ 星見が一段落してから俺は言った。 ……どしたの、急に なんかさ、俺も望遠鏡買おうかなと思って 詩乃さんに渡す食費もある。だから急ぎというわけじゃない。 それでもこの感動をもっと身近なものにしたいから、俺はバイトしようと決意する。 明日歩、ダメか? 明日歩は首をぶんぶん振った。 喫茶店ミルキーウェイのウェイトレスとして、洋ちゃんのバイトを歓迎するよ うれしそうな声と笑顔だった。 バイトに天クルに、これからもよろしくな あはは。改めて言われるとくすぐったいね~ 俺も照れくさくなる。 こちらこそ、よろしくお願いします ぺこりとお辞儀。 天体望遠鏡って一口に言ってもたくさん種類があるから。洋ちゃんが買いにいくとき、一緒に選んであげるね ああ、頼むよ それから、俺は周囲を見渡す。 星見の合間にメアを捜すのは常となっている。 ………… 明日歩も俺の真似をして視線をあちこちに振る。 ……展望台の彼女さん、いないね そうだな 洋ちゃんさ ん? 明日歩は次の言葉を飲み込む。 ……なんでもない そう言って歩き出した。ぶらぶらと。 俺が首をかしげると、がさりと物音がした。 明日歩の足音じゃない。今の音で明日歩も足を止めていた。 なんだろ。動物かな 物音は明日歩の進行方向から聞こえた。 明日歩は俺に振り返る。 山の中だし、キツネとかいそうだもんね 明日歩の背後で小さな人影が一瞬よぎり、すぐに木々の陰に隠れた。 俺は走ってそこの林に突っ込む。 よ、洋ちゃん? 明日歩に答える余裕はない。 林を抜け、フェンスの前に出たところでやっと追いついた。 メア…… ………… 星明かりの下、メアの姿がぼうっと浮かび上がっている。 来てるなら、声かけてくれてもいいだろ ……べつに 素っ気ない。怒っているんだろうか。 今、明日歩から逃げただろ 明日歩って誰 さっきの女子。近づいてきたから、逃げたんじゃないのか? べつに 展望台、戻らないか? メアは手持ちのカマを抱きしめる。 ……いや どうして もう帰るから その前に、明日歩に会ってくれないか? メアはむっつりをくずさない。 どうして 俺の友達なんだ。紹介したい 紹介…… メアは口の中で反芻する。 ……べつにいい そんなこと言わないでさ。頼むよ いや 俺の友達と、メアも友達になってくれないか? メアはさらに強くカマを抱きしめる。 ……今、せつなくなった なんでまた きっとあなたのせい そこカマを向けないように!? 胸がきゅんきゅんするのはあなたがいるから それはたぶん恋だ 今夜のあなたもバカバカね カマが首筋に当たってるから!? ……帰る メアは俺に背中を見せる。 ちょ、待てって 肩をつかんだ。 っ!? メアは振り返ってカマを横薙ぎして俺の髪を数本舞わせた。 俺は尻餅をついた。 ついに本性を現したわね変態くん…… ぷるぷると震えている。 ……カマが今にも俺の顔面に突き刺さりそうだ。 二度としないって約束したのにっ 肩つかんだだけだろっ 万死に値するっ はは ……その笑いは死を覚悟したという意味ね 刺さる刺さるマジで刺さる!? よかったね、痛みはないから だが刺されると痛みを伴う代償がある。 メア 立ち上がると、メアはびくっと後ろに下がる。 続きは展望台でやらないか? ……あの子と友達になれって? ああ いや 一生のお願いだ ……せつなくなるからいや それを乗り越えた先に得るものがあるんだ ……適当ばかり言って 洋ちゃーん、どこ~? っ!? 明日歩の声が林から聞こえてくると、メアは飛び上がった。 ぎこちなく回れ右をして駆け去っていく。 追いかけようとしたときには、メアの姿はかき消えていた。 あっ、やっと見つけたよ~ 明日歩が俺の元に走り寄ってくる。 急にどこかいっちゃうんだもん、びっくりしたよ 明日歩、今ここにいた女の子、見たか? ……誰かいたの? ああ。さっきまで展望台にいて、ここまで追いかけてきたんだけど、どうだ? 明日歩は首を振る。 知りあいだったの? ああ…… 明日歩はメアを見ていない。 ……見えていない? メアは俺の幻だから、明日歩は見ることが適わない? それとも単に目撃する前にメアが消えたのか。 ただ、どちらにしろ、明日歩はメアが発した物音だけは聞いていた。 女の子なんだ? ああ、小学生くらいの小さな女の子 そんな子が夜遅くに展望台来てたの? そうなるな 洋ちゃん、それで心配になったから追いかけたんだね そういうわけじゃないが、そういうことにしておいた。 その子、メアっていうんだ 変わった名前だね 明日歩は首をひねる。 ……あれ、前にその名前、聞いたような? 死神疑惑がかかってるからな ……神出鬼没な小学生ってこと? そんな感じだな 俺は言葉を続ける。 今度、紹介したい。友達になって欲しいんだ うん、いいよ 明日歩はなんの躊躇もなくそう言った。 メアとは違って。 展望台に来てたってことは、星が好きなのかな。一緒に星見できたら楽しそう! 明日歩の言葉に、俺も賛同した。 星見を終え、明日歩の家に望遠鏡を運び、自宅に戻ってくると蒼さんが門の前に立っていた。 ……どうした? 蒼さんは俺に横目を向ける。 俺の家に用か? ……はい 千波関連か? ……ご明察です 今日、蒼さんを招待するって言ってたからな しかしその蒼さんがこうして家の前にいるのはなぜだろう。 招待は、断ったんですが…… 蒼さんはため息をつく。 私が出かけている間に、鈴葉がお邪魔してしまったみたいで…… 事態は飲み込めた。 家、あがるか? ……とても遺憾ですが、お願いします 千波のやつ、誘拐は犯罪だと言っておいたというのに。 あら、お客さま? はい。お隣の…… 蒼衣鈴ちゃんよね。何度か道で会って、あいさつしたことはあるから 蒼さんは軽く会釈する。 家が隣同士なのだ、顔見知りなのもうなずける。 いらっしゃい。遅い時間だけど、明日も休日だしね。ゆっくりしていって ……いえ、すぐ帰りますので 詩乃さん、千波のやついます? 千波ちゃんなら、そこでお休み中よ 俺と蒼さんは詩乃さんの視線を追った。 鈴葉ちゃんと、一緒にね 無防備に眠る千波に、鈴葉ちゃんが同じく無防備に寄り添っていた。 お昼からずっとふたりで遊んでたから。疲れて眠っちゃったのね ふたりは仲が良さそうに手をつないでいる。 千波はいつの間に、鈴葉ちゃんとこんなにも打ち解けあえるようになったのだろう。 だけどそれは、特に驚くべきことじゃない。 ……千波さんは、すごいですね それは感嘆にも似た蒼さんの言葉。 鈴葉がこんなに人に懐くのは、初めてです 昨日も、そうでした。鈴葉は人見知りが激しいのに、千波さんとはすぐに仲良くなってしまって…… いえ、すぐに、というわけでもありません 鈴葉も最初は怖がっていました。遊びに来た千波さんを見て、鈴葉は私の背中に隠れていました 私は千波さんを追い返そうとしました。だけど千波さんは帰ろうとはしませんでした 千波さんは、一緒に食べようと言って、スフレの包みを取り出しました そして私たちの目の前で食べ始めました 鈴葉は驚きました。私はウザいと思いました それでも千波さんは、おいしい、おいしいって言いながら、本当においしそうに食べていました だから、鈴葉は興味を持ったんだと思います 千波さんにおそるおそる近づいて、千波さんはなにも考えていないような笑顔でスフレを手渡して…… 鈴葉も、おいしいって言って…… 気づけば、鈴葉も笑顔になっていて そこには感嘆と、それ以上の呆れが見える。 どうして千波さんは、鈴葉の好きなおやつがスフレだって知っていたのか…… 偶然だとは思いますけど…… 偶然じゃないさ ……え? 千波が蒼さんたちと仲良くなりたくて、ちゃんと自分で調べたからなんだ ………… そうね。千波ちゃんが私に聞いてきたの 引っ越しの手みやげとして、私がスフレを渡したことがあったから、千波ちゃんは気づいたんでしょうね 私はご両親から、衣鈴ちゃんや鈴葉ちゃんのことを伺っていたから スフレが好きなんだって聞いていたから 千波は友達作りの天才だ。 努力に裏打ちされた天才なのだ。 だからな、次はきっと、蒼さんの番だ ……? 蒼さんも、気がついたら千波の友達になってるよ ……ありえません それはどうかな 絶対にありえません 蒼さんはめずらしく語気を荒くしていた。 私は、友達なんていりませんから 蒼さんのその言葉は、メアと友達になることを抵抗なく受け入れた明日歩とは正反対だ。 そして、明日歩と友達になることに逡巡していたメアとも違う。 蒼さんのそれは、明確な拒絶。 昔の「僕」にダブって見えた。 今日は祝日、海の日だ。 昼にもなると気温はだいぶ上がってきて、海の日とあるとおり海水浴にでも行きたくなる。 ミルキーウェイでのバイトがあるから無理なのだが。 その分、夜には三度目の明日歩との星見が待っている。 お兄ちゃん、どこ行くの? ちょっとな。商店街まで お買い物? いや、喫茶店に行くんだ 前に千波と行ったメイドさんのお店? まあな じゃあ千波も行くね ……なんでだよ お兄ちゃんのおごりでジェラートを食べるためだよ! 棒アイスをくわえながら理不尽な力説をする我が妹だ。 つーかおまえ、蒼さんたちと遊ぶんじゃないのか? 今日は予定してないよ ほかの友達と遊ぶんじゃないのか? みんなテスト勉強でいそがしいんだって おまえは勉強しないのか? しないよ 赤点取っても知らないぞ 千波も知らないよ 頼むから知ってくれ でもでも千波の辞書に勉強の文字は一画たりとも見当たらないんだよ! だったらおまえは地球人の皆さんに謝れ つながってるようでつながってないよお兄ちゃん!? じゃあいってきます いってきまーす! なにがあろうとついて来るつもりのようだ。 洋ちゃんいらっしゃい~。今日は正式なバイトくんになってからの栄えある一日目だね! 入店すると、いの一番に明日歩が出迎えてくれる。 さ、座って座って。すぐご飯持ってくるから そう思って昼飯はまだ食べていない。まさか明日歩は今日まで徹夜ということはないと思うが。 明日歩、その前にちょっとかくまってくれるか? かくまう? なにから? 宇宙人よりも恐ろしい生命体からだ な、なにそれ? お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! くっ、遅かったか。 この人ひどいよ悪魔だよっ、忘れ物があるって言って家戻ったままいなくなるんだもんっ、詩乃さんが裏口から出たって教えてくれなかったら千波途方に暮れてたよ! あ、千波ちゃん。こんにちは~ 明日歩に気づいた千波もすぐにあいさつを返す。 こんにちはです、メイドさん メイドさんじゃない、失礼だろ。おまえの場合は明日歩先輩だ いいんだよ、ちゃんと自己紹介してなかったもん そうだよ千波は悪くないよっ ここが店じゃなかったら今すぐぐりぐりしたい。 洋ちゃんのクラスメイトの南星明日歩だよ。よろしくね 千波は小河坂千波です、兄がいつもお世話になってます 今日はお兄ちゃんと一緒にお昼食べに来たの? はいっ、主にジェラートが食べたいです! あはは、今日も暑いもんね~。それじゃ二名様ご案内~ 明日歩に冷房近くの席まで先導される。 お客さま、メニューはいかがいたしますか? じゃあ明日歩の手料理で かしこまりました…… 言ってから明日歩は顔を赤らめた。 あ、あれ? なんであたしが作るって知って…… お兄ちゃんっ、今のやり取りはまるで恋仲っ マヨネーズソースを口に突っ込んで黙らせる。 し、しばらくお待ちくださいませ~ 明日歩はそそくさと厨房に入っていった。 千波、それ吸ったら帰れよ 千波はマヨネーズ吸いに来たわけじゃないよっ じゃあなにしに来たんだよ お兄ちゃんがおごってくれるって言ったんじゃない! 改ざんするなっ、俺だって財布の中身空なんだから 千波とおんなじだね ……待ってくれ。 もし明日歩がジェラート持ってきたら、その金誰が払うんだ……? お兄ちゃんでしょ? だから俺も無一文なんだよっ でもでもさっきお兄ちゃんもメニュー頼んでたじゃない あれは明日歩の厚意で無料なんだよっ なんでなんでっ、お兄ちゃんだけなんで無料なのっ、やっぱりメイドさんはお兄ちゃんのメイドさんだったの! 誤解招くこと言うなっ、おまえだってマヨネーズ無料で吸ってるだろっ これは最初から無料だもんっ、千波のジェラートはお兄ちゃんが無料にしてくれるんだもん! だから勝手に決めるなよ! 勝手じゃないもんっ、千波が無一文なのはお兄ちゃんが千波愛用サイドボード壊したせいなんだから! その改ざんはさすがに厚かましすぎるだろ!? お待たせしました~、こちら煮込みハンバーグのライスセットとマンゴージェラートになりま~す! ほらメニュー来ただろ、どうすんだよ! 千波は悪くないよっ、夏が暑いのが悪いんだよ! 季節のせいにまでするなよ! だって千波はジェラート食べたいんだもん! 俺はべつに食べたくないんだよっ、明日歩の持ってきた料理に金なんか払わないからな! あ…… 明日歩の声で我に返った。 そ、そっか……食べたくないんだ…… なにやら涙声だった。 あ、あはは……あたしが料理作るの、迷惑だった? お父さんに比べたらぜんぜん上手じゃないし…… ご、ごめんね…… いやいやいやっ、そうじゃなくて! いけないんだー、お兄ちゃんがメイドさん泣かせたー おまえいいかげんにしないと目と鼻と耳にマヨネーズ突っ込むぞ!? お兄ちゃんが逆ギレしてるっ、千波はジェラート食べたいだけなのに! だから俺は食べたくないって言ってるだろ! ……っ 気づいたときには遅かった。 明日歩はメニューを持ったまま厨房に戻っていった。 お兄ちゃんのバカっ、早く追いかけなきゃ! さも自分は無関係みたいに言うなよ!? いいから早くっ、じゃないと千波のジェラートが! おまえの心配はそっちかよ!? とにもかくにも明日歩を追った。 明日歩の誤解を解くのに、ゆうに三十分は費やした。 席に戻ってみると、マスターが別に用意したらしいジェラートを千波が幸せそうに食べていたのでマヨネーズをかけてやった。 千波がさらに幸せそうになってムカついた。 あ、お代はいいよ。千波ちゃんのジェラートはあたしのおごりってことで そういうわけにいかない。俺のバイト代から引いてくれていいから ……もう。頭でっかちなんだから お兄ちゃん、バイト代って? 俺、ここでバイトすることにしたんだよ じゃあ千波もここでバイトするね 待て待て待て。 わ、千波ちゃんほんと? はい、千波これでも料理は得意ですから! どの口がほざいてんだ、ああ? ガンつけられたあとのぐりぐりは格別に痛いよお兄ちゃん!? 詩乃さんの言葉、忘れたのか? バイトはするなって言ってただろ でもお兄ちゃんはバイトしてるんでしょ? 俺のは必要悪なんだよ 千波も必要悪だよ バカ、おまえは絶対悪だろ? そんな励ますように言われたって内容がひどいから台無しだよお兄ちゃん!? 洋ちゃん、ダメだよ千波ちゃんいじめちゃ 明日歩は腰に手を当て、お姉さんぶって注意する。 それから千波に優しく言った。 千波ちゃん、じゃあちょっとだけ手伝ってみる? ありがとうございます! 待った待ったっ、それはこの喫茶店に核弾頭を放り込むのと同じなんだよっ そんなわけないでしょ。千波ちゃん、ユニフォーム着せてあげるからこっち来てね はーい! ああ、無知というのはこうも罪なものなのか。 俺はミルキーウェイの冥福を祈った。 お待たせ、洋ちゃん。あたしの換えのユニフォーム貸してみたんだけど、どうかな? 明日歩の後ろからメイド服姿の千波が登場する。 見て見てお兄ちゃんっ、千波のメイドコスプレだよっ、かわいいでしょ甲斐甲斐しいでしょお兄ちゃんが望むならこの姿でご奉仕だっていけないご奉仕だってっ ひざまずいてこの靴舐めてキレイにしな そういうプレイは新米メイドの千波には荷が重すぎるよお兄ちゃん!? お父さん、洋ちゃんの妹さんがお仕事手伝ってくれるってー 合格だ なにもしてないのにさすがに早くないですか!? 心配ないよ。お父さん、人を見る目はあるから 俺には千波のメイド姿に萌えたからとしか思えない。 千波ちゃん、まずはテーブル拭きやろっか? はーい! 元気がいいね、合格だ こんな適当でこの店は儲けが出るんだろうか。不安だ。 千波の失敗をフォローするため、俺も手伝うことにした。 千波ちゃん、お疲れさま。ちゃんとうまくできたね~ はい! 千波にかかればテーブル拭きぐらい朝飯前ですから! 花瓶に手をぶつけては水がこぼれる前に俺が拾い、椅子を蹴飛ばしては倒れる前に俺が直していたんだが。 千波ちゃんだったね。料理が得意ならコーヒー煎れてくれるかな? 待て待て待て待て。 それじゃついでにスフレも焼いてあげます! 待ってくださいお願いします。 明日歩、そろそろテスト勉強の時間じゃないか? 千波だって勉強しなきゃいけないだろ? そんなことより千波がスフレ焼いてあげるね あたしも千波ちゃんのスフレが食べたいな ふたりとも勉強したくないのが見え見えだ。 そうだね。期末テストは明日からだし、三人ともあがっていいよ えー えー おまえ馴染みすぎだから ぐりぐりの折檻は新米メイドの千波には重すぎるよ!? コーヒーとスフレは僕が用意しようか。あとで部屋まで運んであげるよ ほら行くぞ二人とも。マスター、俺が責任持って家庭教師しますんで 小河坂くんがいてくれると、仕事に勉強にほんと助かるなあ 文句ありげのふたりを明日歩の部屋まで連行した。 正答率70%、合格ラインぎりぎり突破。お疲れさん ふえーん……やっと終わったよ…… 答案を返した途端、明日歩は机に顔を突っ伏した。 マスターの手前、居眠りを許すわけにはいかなかったのだ。 あとで間違ったところ復習しておくんだぞ ……むー ふくれている。 赤点は30点未満なのに、なんで合格ラインがそんなに高いんだよう…… なに言ってる。赤点取らなきゃいいっていう考え方がそもそも間違ってるんだ 洋ちゃん、優しくない…… 俺の教え方は厳しいって前に話しただろ サインがコサインでタンジェントだから三平方の定理が因数分解で命題が真または偽の場合に指数関数が1192作ろうスイヘーリーベー…… 千波の目がぐるぐるだ。 明日歩が一年のときに使っていた教科書で勉強していた千波だが、終始こんな調子だった。 普段の授業態度がどんなものか容易に想像がつく。 そろそろ夕飯の時間だけど、食べるかい? 部屋の外からマスターの声がかかる。 はーい! 食べまーす! 手のひらを返したように正気に戻る。 千波、問題解き終わったのか? 終わったよっ 見え透いたウソつくな、つーかなんで数学の解答欄に元素記号書いてるんだよっ 70点? 0点だ やっと終わったー 終わってない。おまえは全教科赤点ぎりぎりラインなんだからせめて時間のかからない暗記科目以外を今のうちに集中的に…… 洋ちゃんはご飯いらないって。千波ちゃん、いこっか はい! お兄ちゃんの分も千波が食べますから! 反テスト同盟が組まれていた。 さてさてやって参りました、待望の星見の時間で~す! テスト前日だし、ほどほどにな それはわかんないよ 明日歩は伸びをしながら空を仰ぐ。 だって今夜もこんなに晴れてるんだよ。星だって誰かに見上げて欲しいって思ってるよ それは同意だった。だから反対はしなかった。 俺にはほかに目的もあったから。 星見ってなに? 星占いのこと? それも星見っていうけどな 天体観測のことだよ 千波も行っていいですか? うん、あたしがやり方教えてあげるね わーい! それじゃあ先に千波を家まで送ってくるよ これまでの流れを平然と無視するお兄ちゃんが怖くてたまらないよ!? もう夜遅いし、詩乃さんが心配するだろ でもお兄ちゃんは行くんでしょ? まあな じゃあ千波も行くね ダメだ なんでお兄ちゃんはよくて千波はダメなの! 千波は天クルのメンバーじゃないだろ? 入るなら連れていってもいいけど お兄ちゃんそれで牽制してるつもり? 千波は天クルに入らなくても勝手にお兄ちゃんについていくんだから! 望遠鏡の重さにも慣れてきたなあ いつもの完全スルー!? 洋ちゃんてば、そんなイジワルしなくたっていいじゃない。千波ちゃんはオカ研があるんだからしょうがないよ 明日歩が甘やかしたことを言う。 千波ちゃんは星見したいんだよね? はい! それじゃいこっか わーい! もしもし詩乃さん? 今から千波を送りますんで なにがなんでも千波を仲間外れにしたそう!? もう……。夜だし、千波ちゃんが心配なのはわかるけど 明日歩が拡大解釈する。 お兄ちゃん、千波のこと心配してくれたの? あるわけがない そこは紳士に言う場面じゃないでしょ! 洋ちゃん、照れ隠しが下手だなあ また拡大解釈される。 テスト前日だからほどほどにって言ったの、洋ちゃんじゃない。急いで展望台向かわなきゃ 千波も道具持つの手伝いますねっ ありがと~。じゃあ双眼鏡お願いね お兄ちゃんお兄ちゃん、双眼鏡ってどうやって使うの? まずは地球人の皆さんに謝れ どんなチャンスも逃さず千波を悪者にしようとするお兄ちゃんの意志が固すぎて千波もうめげそうだよ!? だが千波はめげずに俺たちについて来るのだった。 わあ……。夜の展望台ってこんななんだ どうだ、壮観だろ? 都会じゃ絶対に見られない星空だ あは、洋ちゃん自慢してる 千波は夜空に見入っている。明日歩はうれしそうに望遠鏡の準備を始める。 俺はといえば、メアを捜していた。 周囲を見渡す。そこらに隠れているかもしれないので、歩きながら耳を澄ます。 どんな些細な音も逃さない。 昨夜はメアを見つけたはいいが、逃げられてしまった。 明日歩に会わせる前に消えてしまったのだ。 だから、もしメアを見つけたら、なるべく長く残ってもらうようにしないといけない。 ……捕まえられれば簡単なんだけどな。 だが捕まえてもメアなら簡単に逃げ出せそうだ。 なんと言っても文字どおり消えることができるのだ。 なによりメアは犬や猫の動物とは違う。捕まえるという表現は妥当じゃない。 そして、人間かどうかすらあやしくても。 メアは、俺の友達だ。 友達でいいんじゃないかと思っている。 カマで刺されようが想い出を奪われようが、メアに会いたいと思うこの気持ちは本物だから。 だから、向こうはどう思っていようが、メアは俺の友達なのだ。 じゃあ……。 じゃあ、友達に自分のそばにいてもらうためには、どうすればいいだろう? 俺はその答えを、展望台の彼女から教わっている。 見つけたぞ、メア ……見つかった 今夜はここじゃなくて、俺たちのところに来ないか? いや もう帰るのか? うん 俺たちと一緒に天体観測しないか? いや 俺たちのこと見てたんじゃないのか? ………… 一昨日も、昨日も、今日だって陰で俺たちのこと見てたんじゃないのか? ………… 俺たちのところに来ないか? ……いや まあ、そうだよな ……え? 逆の立場だったら俺だってそう言うよ 俺がこの世で最も嫌いなもののひとつが、押しつけなんだ。だから俺だってメアと同じ答えを返す だからさ…… 俺は後ろ頭をかく。 天体観測してみたくなったら、いつでも来てくれ 望遠鏡で星を覗きたくなったら、いつでも言ってくれ 俺は、メアと一緒にいるのが、好きだから あたしと遊びたくなったら、いつでも言ってね あたしは、キミと一緒にいるのが、好きだから 今…… カマを握るメアの手に力がこもる。 今、きゅんってした せつないのか? ……うん どうしてだろうな きっとあなたのせい それはたぶん違う どうして 俺も過去に似たようなことがあったから その気持ちは誰のせいでもない、自分自身の問題だった。 ……そろそろ戻るよ 俺は来た道を引き返す。 ただ、過去の「僕」とメアとの違いを挙げるなら、メアは友達という関係を否定しているようには見えないこと。 どちらかと言うと蒼さんのほうが過去の「僕」に近い気がする。 だから、こんな二番煎じのやり方でうまくいくのか、自信はなかった。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 戻ってくると、千波がロケットのごとく突っ込んでくる。 明日歩先輩が星見の準備終わったってっ、望遠鏡ってどうやって使えばいいのかなっ 使い方はまず地球人の皆さんに謝ることだ その言葉に愛着でもあるのお兄ちゃん!? 洋ちゃん…… 明日歩もまた歩み寄る。 だけどその視線は俺には向けられていなかった。 後ろにいる子、誰? その言葉に、俺は救われた気持ちになる。 勘違いしないでね…… 振り向くと、そこにスネた顔のメアがいる。 わたしは、べつにあなたと遊びたいわけじゃない…… 死神は、誰かと遊ぶなんてことはしない…… ただ、あなたにカマを刺したから……悪かったかなあって、ミジンコくらいは思ってたから だから、ミジンコくらいの時間だったら、遊んであげるって言ってるの…… ……充分だよ 明日歩と千波はよくわかっていない感じ。 俺はメアの正面に立つ。 メアは目を合わせようとしない。 メア だから俺は言う。 メア、目をつむってくれるか ………… ミジンコの時間でいいから目をつむってくれないか ……いや また、変態なことするんでしょ そうだな ……開き直るとは思わなかった ダメか? 決まってるでしょっ 俺はやりたい。ダメか? メアはかあっと顔を赤くし、肩をいからせる。 だ、ダメに決まって…… 俺は手を伸ばした。 メアはびくっとして、固く目をつむった。 俺は、メアの頭を撫でた。 ………… あ…… メアの身体から、力が抜けていく。 ……どうして メアの髪を梳くように、撫で続ける。 どうして、こんなにせつないの…… 抱きしめたときに感じたぬくもりがそこにある。 嫌なのに、嫌じゃない…… よく、わからない…… わからないよ…… あの……あたしたちのほうがもっとわからないんだけど…… お兄ちゃん、その子っていつだったか言ってた死神のカッコした子? っ!? ふたりの声が聞こえると、メアは飛び上がって俺の背中に隠れてしまう。 明日歩、千波にもメアが見えている。 俺は、だから安堵する。 メアは俺の幻覚じゃない、ちゃんと実在するのだ。 死神……。言われてみるとそんな感じかも…… ていうか、おっきなカマ…… 名前はメア。俺の友達なんだ あ、昨日来てたっていう女の子? そうそう メアがぎゅっと俺の背中をつかむ。 わかってるよ ………… 明日歩、望遠鏡使わせてもらっていいか? それはいいけど…… メア。こっちだ そっと手を取る。 メアは震えたが、逃げなかった。 ふたりで望遠鏡の前に立つ。 ちょっと待ってろ 極軸合わせと緯度調整を始める。 メアはどの星が見たい? ……あれがいい メアは空を指さす。 どれだ? あなたが聞かせてくれた星 七夕か? うん ファインダーを合わせてから、メアと場所を交代する。 ……どうすればいいの? ここを覗くだけでいい メアは接眼レンズに顔を近づける。 そうして望遠鏡を覗く。 メアから言葉はなにもなかった。 ただ、長い時間をそうしていた。 天の川に隔たれた七夕の織姫と彦星を、一心に見つめ続けていた。 おはよう、洋ちゃん。今朝はぎりぎりじゃないんだね さすがにテスト当日だからな 千波は今ごろ慌ただしく支度をしているはずだ。 あれからちゃんと勉強したか? できるわけないよ。夕べはほんとびっくりしたんだから なにかあったんですか? うん。人が消えたの なんだそりゃ 目の前で女の子が消えたんだよ。こう、すうーって、空気に溶けるみたいに 過程をすっ飛ばした明日歩の説明を聞いても、ほかのふたりは首をかしげるだけだった。 おかげであのあと、テスト勉強にぜんぜん手がつかなかったよ~ そのわりに残念そうじゃないのはどういうわけだ。 あたしが赤点取ったら、洋ちゃんのせいだからね ……俺は関係ないだろ 責任取ってね そんな楽しそうに言われても。 よく話が飲み込めませんけど……。明日歩さんは昨日、透明人間に出会ったんですか? 透明じゃカメラに撮れねえし、つまらんな 違うよ。洋ちゃんが言うには、死神だよね? 本人がよくそう主張してるからな 死神って、ヒバリ校の都市伝説のアレか? 飛鳥が食いついてくる。 どうなのかな? 本人に確認を取ったことはないな おっきなカマ持ってたし、きっと間違いないよ~ それにしても、明日歩は非常識な存在を目撃したわりには呑気だと思う。 千波にいたってはメア宇宙人説を持ち出して、友達になりたいと息巻いていた。 ふたりともその死神を見たってことか? そうなるな どこで見たんだ? 展望台だよ。ほら、立ち入り禁止になってるところ 勝手に入ったのかよ 誰にも言わないでね 迷惑はかけてないよな。星見してただけだし 死神のメアちゃんも夢中になってたよね~ 死神の名前はメア、と メモっている。 ……小河坂さんも明日歩さんも、本当に見たんですか? こさめさんが困惑気味に確認した。 そうだよ。お話はあんまりできなかったけど 星見を終えたらすぐいなくなったからな 死神は星に興味あり、と またメモっている。 夢でも見ていた、というツッコミはなしですか? 洋ちゃんも千波ちゃんだって見てるんだから、絶対夢じゃないよ 皆さんで同じ夢を見ていた、という可能性もありますよ こさめさんの言葉がひっかかる。 ……そうか、集団幻覚っていうセンも考えられるのか。 だがメアは、そんなモノではないと感じる。 俺の勝手な希望かもしれないが、メアは確かにあの展望台に存在するのだ。 おまえらだけじゃなくて、千波ちゃんも見たのか ああ。三人で星見してたから もしその話が事実なら、オレも近いうち展望台に張り込んでみるか。オカ研としては見過ごせねえしな えー なんで嫌そうなんだよっ だってせっかくロマンチックな場所なのに、張り込みとかオカルトとか…… つまり南星は小河坂とふたりきりがいいわけか なっ、そ、そうじゃなくて! ……今夜も展望台に行くんですか? 明日歩、行くのか? あ、う、うん。もちろん! だそうだ。こさめさんも、よかったら一緒にどうだ? こさめさんは首を振る。 立ち入り禁止ですし、危険じゃないでしょうか…… そんなことなかったよ。足場も悪くなかったし 明日歩さん、まずは勉強が先じゃないですか? テストは今週いっぱいあるんですから こさめさんは反対のようだ。 テストは午前で終わりだし、お昼から夕方まで勉強して、夜に休憩がてら星見すれば万事オッケー! お昼から夕方までは、天クルの勧誘活動じゃないんですか? ああっ、そうだった! ……副部長が忘れてどうする まあおとなしくテスト勉強してるこった。死神にはオレがあいさつしといてやるからよ 誰も行かないなんて言ってないでしょっ、勉強なら三連休にみっちりやったんだから そのうち二日は寝ていたと思うけど。 洋ちゃんはあたしの味方だよね? 赤点を俺のせいにしないなら、つきあうよ なによりメアにも会いたかった。 ……わたしひとりが反対しても意味がありませんね こさめさんも観念したようだ。 こさめちゃんもつきあってくれる? すみません、それは難しそうです 勉強あるもんね。じゃあテストが終わったらだね それも、難しいかもしれません え、どうして? こさめさんはすまなそうにする。 やっぱり展望台が危険だから? わたしは、姉さんの味方でもあるからです 姫榊が反対するからってことか? そんなところです こさめちゃんは天クルの一員なのになあ すみません…… あ、ううん。こさめちゃんのおかげで、こももちゃんを撃退できてる部分もあるもんね チャイムが鳴った。 まずは天クルよりもオカ研よりも、期末テストか 皆さんのご武運を祈ってますよ テスト終わったら、一緒にお昼食べようね~ 三者三様、黒板を向いてテストに備える。 テスト開始前は、都会の学校では最後の悪あがきで誰かと会話する余裕なんてない生徒が多かったが、ヒバリ校では違うようだ。 そののんびりとした空間が心地よくて好きだった。 明日歩クン……またやるのかい? 当たり前ですっ、天クルの命運がかかってるんですから! 千通に一回反応ある程度でもビラ配りはやらないと! まだ入部希望者は現れませんけど、根気よく続けるしかありませんよね テストが終わり、学食で昼を食べたあと、天クルの部室に集合してから俺たちはビラを持って校門前にやって来た。 テスト期間中は、部活ってどうなんだ? 普通にやってるところが多いよ 進学校ではありませんからね その分、文化部も運動部も活気があるというわけさ であれば帰宅部をピンポイントで狙う作戦は続行だ。 ちょうど生徒も下校してきたね 俺たちは校門の両脇にそれぞれつく。 あいさつは元気よくね! それじゃ勧誘開始っ、よろしくお願いしま~す! 明日歩の営業スマイルを先頭に、俺たちも続いた。 ……………。 ………。 …。 ……どこ行ったかと思えば ビラ配りの途中で、姫榊が下校してきた。 ちょっとコガヨウ だからそれやめろよっ うるさい。ちゃんとクラスにいなさいよ、おかげで捜し回ったじゃない 姉さん、小河坂さんにご用ですか? そうね 冷やかしならあっちいってよっ 用があるって言ったでしょっ、ちょっと小河坂くん借りるわよ 用と言われて思い当たるのは一件だけだ。 でも、僕たちは勧誘中なんだけど…… そうだよ。洋ちゃんもいそがしいんだから 姉さんも一枚いかがですか? いらないって言ったでしょ ぺいっとビラを投げ捨てた。 シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 岡泉先輩、そのまま食べちゃってください! 姉さんを食べるのはわたしです…… あっという間に場がカオスだ。 姫榊、ちょっと 歩き出すと、姫榊は察しよくついてくる。 ……どこ行くの? 姫榊に話があるんだ。すぐ戻るから 姫榊の名前を出したからか、明日歩は渋い柿を食べたような顔をしていた。 小河坂くん、本気で生徒会に入らない? 立ち止まったところで、姫榊が言った。 ……天クルの活動はそんなに無駄に見えるか? ええ 人員が必要なら、俺以外を誘えばいいじゃないか たとえば誰よ たとえば……学年総代の岡泉先輩とか だが岡泉先輩も天クルの一員なので、ヘッドハンティングされるのは困る。 ……あの人、性格というか挙動に問題あるから 納得だけど。 それでも俺よりふさわしい生徒はいるだろ いないから誘ってるんだけど 買いかぶりすぎじゃないか? それを判断するのはあなたじゃなくて、わたしを始めとする生徒会だから どうも平行線だ。 それより、俺に用ってあの件だろ? ええ 姫榊はうなずいて、 テストが終わってから役員のみんなに集まってもらって、さっきまでミーティングしてたんだけど おかげでなにも食べてないわよ ありがとうな ……ふん 姫榊は腕を組む。 で、どうだった? とりあえず、地域の交流を目的に、文化部を限定として部外者の参加を認めるための案を提出してみたわ 雲雀ヶ崎は観光地として有名だけあって、市の行政や町内会の活動も活発なのよ だからヒバリ校の生徒が部活動を通して、住民と一緒にボランティア活動をするのは社会勉強になる それを理由に、ヒバリ校の生徒の枠に捕らわれない、地域住民の部活およびサークル参加の認可を申請 まあ、概要はこんな感じ 俺はあっけに取られていた。 ……まさか、そこまでしてくれるとは思わなかった 頼まれたからやっただけよ。この案が通るかもわからないんだし なんだかんだで仕事をこなす姫榊は生真面目だ。 そして、いいやつだ。 からかう ねぎらう ねぎらう ありがとうな。大感謝だ ……ふん 照れていた。 今は審議中なのか? 姫榊っていいやつだな バカなこと言わないで 文句ばかりでもやることはやってくれるし バカなこと言わないで 嫌よ嫌よも好きのうちなんだな バカなこと言わないで だからこさめさんに迫られても内心よろこ…… どがっ!! 忘れなさいって言ったでしょ!! ……顔面に蹴りが飛んでくるとは。 ……で、今は審議中なんだよな そうね。明日またミーティングを行うけど、テスト期間中だからあまり時間は割けないわよ 充分だよ ……充分じゃないでしょう 苛立たしげに言う。 こんな進度じゃ、規則を作って許可が下りるまでに一学期なんてとっくに過ぎてるでしょうね 姫榊はそっぽを向く。 ……そうなのか? そうなの。生徒会長がもっと即断できる人なら違ったんでしょうけど、基本的に日和見だからね 新しい規則を作って問題でも起こしたら、内申に響くとでも思ってるんじゃないかしら もしかして、天クルのこと心配してるのか? ……バカじゃないの。わたしは天クルを廃部にしたいって言ってるでしょう 一学期中に部員確保っていうの、もっと延ばすわけにはいかないか? 甘えないで 鋭い視線が突き刺さる。 二学期が始まったらすぐに部活会議が行われる。そこで生徒会が各部の状況を確認する 部員数が六人に達していない部活があれば廃部にする 夏休み中の入部は認めていないから、実際は一学期中の部員数で判断することになる そして天クルは数年前から部員数を割ってるのに、部室を使用しているから、ほかのサークルから反発を受けている 姫榊はひとつ間を置いて。 たとえ過去の天文部が伝統ある部だったからって、天クルだけ特別扱いするわけにはいかないの これ以上はヒバリ校にとって害でしかないのよ なのに、ただでさえ今の状態が不正なのに、期間を延ばすなんてことができるわけないじゃない 不正を不正で上塗りしてもしょうがないじゃない そんな行為で得られた結果に、いったいなんの意味があるっていうのよ 俺は黙って聞いていた。 反論できるわけがない。 さっき姫榊が話したとおり、部外者の入部許可が間に合わなければ──メアの入部が間に合わないとしたら。 その上、ビラの勧誘も失敗に終わったとしたら。 残る希望は、蒼さんしかいない。 あの蒼さんを説得なんてできるだろうか? 最悪、蒼さんから名前を借りて、幽霊部員としてでもいいから入部を……。 ………… ……いや、以前にも考えたとおり、そんな結果じゃあ明日歩は納得しない。 姫榊だって納得しない。 勝ち取るしかないのだ。誰もが納得するかたちで。 あとひとりの部員を。 ありがとうな ……そこは感謝するところじゃないでしょう いや、姫榊のおかげで覚悟ができた 今の俺の目的が、星見をすることでもバイトをすることでもテスト勉強をすることでもなくなった。 天クルの存続。 初めて、そのひとつだけとなった。 ……むー 姫榊と一緒に戻ってくると、明日歩が犬化していた。 姉さん、これからお帰りですか? 用事はすんだしね。こさめもテスト勉強があるでしょ、一緒に帰るわよ こさめちゃんまで巻き込もうとしないでよっ 巻き込んでるのはそっちでしょっ、南星さんもこれで赤点取ったらクラス委員の立つ瀬がなくなるんじゃないの あたしは洋ちゃんに家庭教師してもらったから大丈夫だもん ちょっとコガヨウ ……不機嫌になると呼び方変えるのやめてくれ 喫茶店にお邪魔したときも言ってたけど、家庭教師ってなによ 休みの日に一緒に勉強しただけだ。クラスメイトならべつに普通だろ? 姫榊は腕を組んでため息をつく。 そんな調子で、南星さんに足下をすくわれないようにね 手をひらひら振って去っていった。 ほんと、感じ悪いなあ 明日歩が言うほど悪くないと思うぞ ……洋ちゃんが寝返った 違うのに。 小河坂クン、さっきはなんの用事だったんだい? 天クルの存続に関して話してたんです。あまり芳しくなかったですけど ……うまくいかなかったんですね。残念です でもさ、こさめさん はい? こさめさんが姫榊の味方をするのは、わかる気がする こさめさんは驚いてから、とびきりの笑みを浮かべる。 はい。姉さんは、わたしの自慢の姉さんですから ……ふたりして寝返るんだ 違うというのに。 姫榊クンに協力を持ちかけたということかい? そんな感じです 生徒会にとって天クルは目の上のたんこぶみたいなものだし、それは難しいさ 岡泉先輩は遠い目をする。 廃部まで、あと六日かあ…… 来週の月曜には一学期の終業式。タイムリミットまでは一週間を切っている。 弱気になったらできることもできなくなりますよ! みんな、勧誘続けるよ! 明日歩は下校する生徒に元気よくビラを配っていく。 俺もまた明日歩に負けじと勧誘を続けた。 夕方になり、帰宅部の生徒は残っていないだろうと踏んで勧誘活動を終えた。 俺たちは疲労を背負いながら、夢見坂を下っていく。 ビラ配りも二回目ですから、あまり配れませんでしたね 一回目のときにもらった生徒はいらないだろうしな 逆を言えば、今回で帰宅部の生徒にはほぼ行き渡ったかもしれないね ……反応あるといいんだけど 明日歩は浮かない顔だ。 明日はどうしますか? ……洋ちゃん、どうする? 回答権が回ってくる。 岡泉先輩が言ったとおり、めぼしい生徒には行き渡ってると思うから、正直これ以上は意味がないかもしれないな 人事は尽くした。あとは天命を待つのみだね ………… 明日歩さん、元気がないみたいですけど…… まあね。なんていうか、あんまり手応えがない感じで ビラを受け取った生徒は、こちらが強引に手渡しただけで、読んでいるかも疑わしいのだ。 あまり気に病まないほうがいいですよ。やるだけはやったんですから ……ほんとにそうかな ビラ配りだけじゃない、ポスターだって貼ったじゃないか。これで廃部になっても悔いはないさ…… 目尻に涙が光っている。 もう、これで全部なのかな。あたしたち、まだやれることがあるんじゃないかな…… こさめさんは困ったように俺を見る。励ましてください、といった感じで。 やれることは、まだあるさ 明日歩が横目をよこす。 文武両道って言うだろ? テストで赤点取らないように勉強しないとな 明日歩は苦笑いを浮かべた。 ……洋ちゃん、お母さんみたい 俺は、明日歩の母親とは一度も会っていない。 バイトをしているときも、夕食をごちそうになったときでさえ見なかった。 単身赴任だろうか。 それとも片親なのだろうか。 さすがに詮索はできない。 文武両道と言っても、天クルは文化系ですから、どちらも文ですけどね 武が苦手な僕としては、明日歩クンにも文をがんばって欲しいかな ……なんであたしだけ赤点の心配されなきゃいけないんだよ それは、この中で赤点を取ったことがあるのが明日歩さんだけだからですよ やっぱり取ったことあるのか、明日歩。 そんなわけで、帰ってからちゃんとやるんだぞ ……星見もダメ? ダメだな 今夜もつきあうって言ったのに…… 家庭教師をした身としては、赤点常習犯になって欲しくないからな 優しくないんだから 明日歩はふくれたが、俺を含むその他三人からは笑い声が聞こえていた。 バイトに関しては、テスト期間中は来なくていいという話だった。テストに集中して欲しいそうだ。 そんなやり取りをして明日歩たちと別れたあと、俺は自宅に戻る前に蒼さんの家に寄ってみた。 ビラ配りの間、蒼さんは下校してこなかった。 前回のビラ配りでもそうだった。俺たちは蒼さんにビラを渡していない。 勧誘が始まるよりも先に帰ってしまったんだろう。 ホームルームが終われば急いで校門前に集まるようにはしていたが、それでもビラの準備で時間にロスはできる。 特に一年生はクラスが一階だし、昇降口が近いので、先に帰られてしまう可能性がある。 蒼さんはそのうちのひとりだったわけだ。 俺は、ドアフォンを押した。 ……しつこいって言われそうだけどな 一度はっきりと断られている。それでも俺は蒼さんを勧誘しようとしている。 下手をすると嫌われるだろう。 ……もう嫌われている気もするけど。 俺は、もう一度ドアフォンを押す。 ……出ないな 留守のようだ。 蒼さんは帰っているはずなのだが。 どこかに出かけたのかもしれない。 あっ、お兄ちゃん。おかえりなさーい! リビングに上がると、千波がテーブルを使ってなにやらカードゲームに興じていた。 その向かいに座っていた相手は、俺に驚いたのか、千波の隣に逃げてしまう。 大丈夫だよ、この人は千波のお兄ちゃんだよ、ぶっきらぼうだけど無害だから安心していいよっ ね、鈴葉ちゃん ………… 鈴葉ちゃんはおずおずと俺を見上げる。 こんにちは 怖がられるのを覚悟して、あいさつした。 鈴葉ちゃんは口を開けたり閉じたりしてから、 こ、こんにちは……です 小さな声であいさつを返した。 あ、あの……この前は、失礼しましたっ そしてかわいらしくお辞儀した。 わ、わたし……すごく失礼なこと言って…… ああ、いや、気にしてないから そう答えると、安心したのか鈴葉ちゃんはほほえんだ。 人見知りが激しいとのことだったが、千波のおかげだろう、警戒が解けたようだった。 今日も鈴葉ちゃんと遊んでたのか? うんっ、鈴葉ちゃんの家に遊びにいったらちょうど蒼ちゃんが出かけたあとだったみたいでねっ、ひとりでお留守番してたから連れてきちゃったよっ 留守番なのにいいのか? は、はい……ちゃんとカギかけましたから うちの千波と交代しないか? それはつまり千波より鈴葉ちゃんのほうがしっかりしてるからお兄ちゃんの妹にしたいってことなの!? よくわかってるじゃないか 千波的にはよくわかりたくなかったよ! ち、千波さんは……しっかりしてると思います いったいいくらもらったんだ? 買収容疑かけられてる!? ち、千波さんはとても優しいし、楽しいし、素敵な方だと思いますっ…… 女神のようなことを言う。 鈴葉ちゃん、小学生だよな? は、はい。三年生です まだそんななのに礼儀正しいんだな そ、そんなこと……ないです…… 恥じらうようなところが、やはり大人びて見える。 お兄ちゃんも一緒に遊ぶ? いや、ちょっと用事があるんだ。ていうかおまえはテスト勉強いいのか? 千波は勉強よりも鈴葉ちゃんと遊ぶことに価値を見出してるんだよ! いつもなら一蹴するところだが、今回ばかりは反対するわけにもいかない。 あのっ、ご迷惑だったら、帰りますけど…… 迷惑なんかじゃないよっ、千波は鈴葉ちゃんが大好きなんだから! あ、ありがとうございます…… 恐縮している。 ストレートすぎる千波の言葉は、ウザいことも多いが、人の心を動かすことだってある。 お兄ちゃんの用事ってなんなの? 天クル関係だ 展望台関係じゃなくて? それも含めてだな 千波もね、学校帰りにオカルト部長と一緒に展望台寄ってみたよ オカ研の活動か? そうだよっ、ふたりで雲雀ヶ崎のミステリーに挑んでるんだよっ ビラ配りの最中、蒼さんと同じく千波と飛鳥も見なかった。 昼飯も食べずに展望台に向かったのかもしれない。 メアちゃんには会えなくて残念だったけどね みんなはメアが夜にだけ現れることを知らないのだ。 まあ、内緒にしておこう。 もし教えたら、飛鳥が夜中に千波を連れ出すなんてことにもなりそうだ。 兄としてはちょっといただけない。 明日は放課後に聞き込みだよっ、千波たちが都市伝説の死神の謎を解き明かしてみせるんだよっ 聞き込みって、ヒバリ校の生徒にか うんっ そのついでにさ、相手が帰宅部の生徒だったら天クルに誘ってみてくれないか? いくらくれるの? これでどうだ? ぐりぐりに金銭価値はないよお兄ちゃん!? ち、千波さんをいじめないでくださいっ 鈴葉ちゃんに止められた。 あ、あの、天クルって、天体観測のサークルですか? ああ。鈴葉ちゃんも知ってるのか? は、はい。ヒバリ校にそういうサークルがあるって、お姉ちゃんが話してましたから…… 蒼さんは興味を持ってくれているということだろうか。 鈴葉ちゃん、蒼さんがどこに出かけたか知らないか? ……お姉ちゃんですか? 鈴葉ちゃんは小首をかしげる。 お姉ちゃんはよく夕方や夜にお出かけするんですけど……すみません、知らないです なになにお兄ちゃんっ、蒼ちゃんと遊びたいの? おまえと一緒にするなって スクールバッグを置きに、自室に向かう。 鈴葉ちゃん、ゆっくりしていってくれ あ、ありがとうございますっ ぺこっとお辞儀。 蒼さんとは正反対で、とても素直な子だと思った。 そうして俺は展望台で夜を待った。 明日歩から雨警報は聞かなかったし、必ず晴れると思っていた。 梅雨はもう明けたのかもしれない。 こんにちは こんにちは 刺していい? そっちがこんにちはって言ったんだろ!? 今夜のあなたもバカバカね そのセリフは早くも聞き飽きている。 ……ねえ メアはきょろきょろと周囲を見回す。 昨日の子たちは? 今日は来ないんじゃないかな じゃあ、望遠鏡は? 持ってきてないよ ………… むすっとした。 星見、したかったか? ……べつに ごめんな べつにって言ったじゃない 代わりといってはなんだけど、これを持ってきた 俺は一枚の用紙を手渡す。 ……なにこれ 天クルの入部届 てんくる? 天体観測愛好サークル、略して天クルだ 天体観測…… そうだ。このサークルに入れば、好きなだけ天体観測できるんだ 大仰に手を広げて強調した。 どうだ、メア。俺たち天クルと一緒に広大な宇宙に浮かぶ星々に想いを馳せたいと思わないか? 思わない 拒否られる。 なんでだよっ なんでって言われても 昨日はあんなに望遠鏡覗いてたじゃないかよっ 死神は望遠鏡なんて覗かないわ 思いっきり覗いてただろっ 間違った。死神は広大な宇宙に浮かぶ星々に想いなんて馳せないわ ……星見、楽しかったんじゃないのか? 普通だった だったらなぜ、昨夜はあんなに七夕の星を見つめ続けていたんだろう。 それこそ一時間を超える時間だったのに。 メア。そこに署名してくれないか? いや 名前を書くだけでいい。それだけでいい。あとは俺にすべて任せれば万事オッケー、ふたりはハッピー うさんくさいからいや ……天クル、入ってくれないか? いや くっ、このあまのじゃくっ子め。 今夜の目的が早くも滞りそうだった。 だいたいなんでわたしが、その天クルっていうのに入らなきゃいけないの 入って欲しいからだよ 今日のあなたはパカパカね それ意味わからないから わたしが入らなきゃいけない理由を聞いてるんだけど メアと一緒に星見したいからだよ 星見だったら、昨日だってできたじゃない。わたしが天クルに入らなくてもできたじゃない それでも頼む いやだったら 天クルでも、メアと一緒にいたいんだよ ………… メアと、もっと一緒にいたいんだ ………… 赤くなった。 ……今、きゅんってなった それはきっと天クルに入りたいって意思表示だ あなたを刺したいって意思表示だと思う その振り上げているカマを俺が白刃取りできたら天クルに入ってくれないか? わかった。じゃあいくよ すみません冗談です。 ……実はな、どうしても天クルに入って欲しい理由があるんだよ それをさっきから聞いてたのに 天クルって、ヒバリ校のサークルなんだけどさ 坂を下りる途中にある学校のことね 知ってるんだな すぐそこにあるし でな、そのヒバリ校の天クルは、廃部の危機にあるんだ ふーん どうでもいいように答えられる。 それでな、廃部にならないためには、あとひとり部員が必要なんだ ふーん そんなわけでな、ここでもしメアが入ってくれれば廃部にならなくてすむんだよ ふーん だからお願いだ、俺を助けると思って天クルに入部してくれ! いや このあまのじゃくっ子め! じゃあどうすればいいんだよ!? 廃部になればいいんじゃないの 廃部にしたくないから頼んでるんだろ!? 命あるものはいつか死ぬ。形あるものはいつか朽ちる。あなたが言う天クルだって同じでしょう そんなポエムはどうでもいいんだ ……腹立つんだけど ここにペンがある。残りはメアのサインだけだ。その入部届に名前を書けばすべては丸く収まるんだよ! それこそどうでもいいわ メアはぺいっと入部届を投げ捨てた。 シイィィィィッッット!!!! きゃああああああああ!!?? 岡泉先輩の真似をしたらメアは飛び上がって林の向こうへ逃げていった。 ……おーい、メアー。もうしないから出てきてくれー メアは木の陰からおずおずと顔だけ出す。 か、噛みつかない……? 狂犬扱いだ。 ま、またやったら、刺すからね……? 見るからに怯えている。 も、もしやったら、今度から犬の変態くんって呼ぶからね……? 人として最底辺のあだ名だ。 わ、わかった……? ……了解 びくびくしながら戻ってくる。 それで、どうだ? ……なにがよ 俺の熱意、わかってくれたか? ……変態な熱意はわかった 天クル、入ってくれるか? よりいっそう入りたくなくなった いったいメアは俺にどうして欲しいんだ? なんか当てつけがましい言い方ね…… どうしたら天クルに入ってくれるんだ? お手上げな気分で聞く。 そもそも、わたしはヒバリ校の生徒じゃないんだけど。天クルに入れるの? ああ、それに関してはなんとかなると思う。というか今なんとかしてる最中だ ……そこまでしてわたしに入って欲しいの? ああ そんなに天クルが廃部になるのがいや? それもある。だけどそれだけじゃない なに? 言ったろ、メアと一緒にいたいからだ メアは、カマをぎゅっと抱きしめる。 俺は続ける。 俺はさ、メア。もしメアが入ってくれなくても、天クルを廃部にさせる気はないんだ 天クルは必ず存続させるんだ だから、天クルの活動が本格的に始まれば、俺は夜に天クルのみんなで天体観測することが多くなると思う そうなれば俺はここに来ることが難しくなる。メアも知ってると思うけど、この展望台は立ち入り禁止なんだ 部活動としては、この場所は使えないんだ 俺は、メアに会いに来ることができないんだ ………… 俺は、天クルが好きだ。だから天クルの活動に参加する だけどそこにメアがいないのは寂しいって思う だからさ、メア。天クルに入ってくれないか? 天クルに入って、そして今度は、ヒバリ校の屋上で俺たちと一緒に望遠鏡を覗かないか? メアは、答えなかった。 答えに悩んでいるようだった。 実際には、展望台を訪れる回数はゼロにはならないだろう。俺は展望台の彼女を諦めたわけじゃない。 明日歩は言っていた。このステキな展望台で星空を見上げながら彼女を待てばいいと。 俺もそのつもりだった。 それでも、頻度は必ず少なくなる。 メアに会える回数は減ってしまう。 俺は投げ捨てられたままだった入部届を拾って、メアに再度手渡した。 ごめんな、なんか押しつける感じになって メアは吐息をつく。 ほんとに、そう。押しつけは嫌いって言ってたくせに だから今すぐじゃなくていい。まずは考えてみてくれ できたらタイムリミットである来週の月曜までに返事は欲しいが、求めすぎるとやはりそれは押しつけだ。 ……名前、書かないかもしれないからね ああ そうなっても恨まないでね ああ。わかってるよ ………… メアは背中を向ける。帰るのだろう。 消える前に、肩越しに俺を見た。 ……さよなら、変態くん メアはいなくなった。 また明日、と最後に聞こえた気がした。 展望台からの帰り道、ヒバリ校の校門に差しかかったときだった。 あれは…… 前方に人影が見えた。 小さな背丈、見覚えのある背中。坂を下っている。 俺は駆け足で追いかける。 蒼さん っ! 後ろから声をかけると、蒼さんはびくっとした。 立ち止まって、ゆっくりと振り返る。 悪い、驚かせるつもりは…… ……俺のほうが驚いた。 ……お化けかと思いました 蒼さんは、俺にとってはもう見慣れている長い筒を胸に抱いていた。 それ……望遠鏡だよな 暗くて見え辛くても間違いようがない。 ………… 蒼さんは隠すように正面を向いて、歩き出す。 俺は慌てて隣に並ぶ。 それ、どうしたんだ? ……どういう意味ですか 天体観測してたのかなと 意識せずとも声が弾む。 星占いに望遠鏡に、これで星に興味がないなんて言われても信じられない。 蒼さんは黙って歩いている。 もしかして、さっきまで展望台にいたのか? ……展望台? 坂を登ったところの展望台。そこにいたんじゃないか? 方向的には展望台かヒバリ校しか考えられない。 俺は蒼さんを見なかったが、展望台はある程度広いので、気がつかなかったのかもしれない。 蒼さんは難しい顔をしていた。 ……あそこって、入れないんじゃないんですか? 立ち入り禁止になってるけど、フェンスは簡単に迂回できるんだ ……入ったことあるんですか? ああ……って、蒼さんは? 首を左右に振った。 展望台に行ってたんじゃないのか? ……違いますけど あれ。 じゃあ、その望遠鏡は? ……私のです それはわかるが。 今まで天体観測してたんじゃないのか? ………… 蒼さんは答えてくれない。 しつこいって思われるだろうけど、言っていいか? ……なんですか? 天クル、入ってくれないか? 蒼さんは顔つきを厳しくする。 それはもう、断ったはずです 蒼さん、天体観測に興味あるんだろ? ……そんなことないです じゃあその望遠鏡は? これは望遠鏡じゃないです ……じゃあなんだ? チョコです ……いや、タバコを隠す言い訳じゃないんだから でも私のだから、食べさせません 食べられるのか? 無理をすればたぶん ちゃんと消化できるのか? 無理をすればたぶん それより先に歯が欠けるよな? ……ウザい ……グサっとくるなあ。 実はな、ここに入部届がもう一枚あるんだ ……もう一枚の意味がわかりませんけど、入らないって言いました 天クルはな、廃部の危機にあるんだ ……いきなり話が飛んだような それでな、廃部にならないためには、あとひとり部員が必要なんだ そうですか そんなわけでな、ここでもし蒼さんが入ってくれれば廃部にならなくてすむんだよ そうですか だからお願いだ、俺を助けると思って天クルに入部してくれ! お断りです 俺は天クルが好きなんだ ……また話が飛んだような だから俺は天クルの活動に参加する。だけどそこに蒼さんがいないのは寂しいって思う だからさ、蒼さん。天クルに入ってくれないか? 天クルに入って、そしてヒバリ校の屋上で俺たちと一緒に望遠鏡を覗かないか? 覗きません 蒼さんは答えに悩んでいるようだった ……なんでいきなり状況描写なんですか、それに悩んでませんし ごめんな、なんか押しつける感じになって まったくです だから今すぐじゃなくていい。まずは考えてみてくれ 考えた結果お断りです メアのときのようにうまくいかない。 ……どうしてもダメなのか? そう言ってます 俺はいったいどうすればいいんだ? ……私に聞かれても 蒼さんはいったいどうして欲しいんだ? 関わらないで欲しいです 取りつく島がない。 俺は諦めないからな ……諦めて欲しいです 蒼さんが天クルに入ってくれなきゃ、毎日千波を家にけしかけるからな くっ……卑怯です さあどうする? ……殺るしかないか 想定外の結論に!? いや、今のはナシの方向で 賢明な判断です 望遠鏡持って、どこ行ってたんだ? ……あなたには関係ありません 俺と関係を作ってくれないか? ……セクハラで訴えますよ 俺は諦めないからな ……千波さんといい、あなたといい 蒼さんはため息をついた。 どうして、私なんかと関わりあいになりたいのか…… 蒼さんと友達になりたいからだよ 蒼さんの表情に呆れが混じる。 ……なんのメリットもありませんよ それを決めるのは蒼さんじゃないからな あなたたちだとでも言うんですか いや 俺は期待を込めて言う。 決めるのは、今の俺たちじゃないってことだ 過去の「僕」ではなく、今の俺が展望台の彼女を想っているように。 未来の俺たちが、友達になって良かったと、そう想ってくれればいい。 千波、蒼さんが望遠鏡持ってること知ってたか? めずらしく早起きして、これまためずらしくすでに制服まで着込んでいる千波に聞いてみた。 蒼ちゃんが持ってるのは望遠鏡じゃなくてタロットカードだよ? いや、望遠鏡も持ってるんだよ。昨日知ったんだけど そうなんだ。UFO観測用かな? 普通は天体観測用だろ お兄ちゃん、まだ蒼ちゃんに天クルの勧誘してるの? まあな ダメだよお兄ちゃんっ、しつこい男は嫌われるんだよっ、蒼ちゃんは地球外生命体との接触を願って日々その運命の時を占ってるんだから! 毎度の千波の妄想だろう。 蒼さんって、教室で星占いやったりしてるのか? 休み時間のときとか、たまにやってるよ なに占ってるんだ? 占いっていうか、お願い事してるんだって。おまじないみたいなものって言ってた タロットカードにはそんな使い道もあるのか。 どんなお願い事だ? わかんない。蒼ちゃん、教えてくれないから 千波でも聞き出せないのだったら、俺が聞いても無駄かもしれない。 千波から見て、蒼さんは星が好きだと思うか? 蒼ちゃんは宇宙人が好きだと思うよっ 冗談は置いといて、どうだ? 千波はいつでも本気の千波だよっ 千波は置いといて、どうだ? 千波を置いたら千波がいなくなっちゃうよお兄ちゃん!? まったくもって話が進まない。 そろそろ出る時間か わっ、待って待ってっ、今支度してくるから! 席を立つ千波に、さりげなく聞く。 千波はさ、どうして蒼さんと友達になりたいんだ? そんなの決まってるじゃない そしてなんでもないことのように言った。 蒼ちゃんが好きだからだよっ おはよっ、蒼ちゃーん! おはよう ………… 蒼さんはちらりと俺たちを見ただけで、そのまま坂を登っていく。 待ってよ蒼ちゃーん! それを千波が追っていく。 そんな朝の風景が、気づけば定番になっている。 蒼さん、テストのほうはどうだ? ……いつもどおりです 蒼ちゃんって頭よさそうだよねっ ……そんなことない 今度千波にカンニングさせて欲しいなっ ……勉強教えるんじゃなくてカンニングなんだ 普通に勉強教えてくれると兄としては助かるな それは難しいよお兄ちゃんっ、千波は文より武の申し子だからどうせ頭を使うなら中身じゃなくて外側なんだよ! ヘッドバットでもする気かおまえは ……そういえば、授業中はよく居眠りして机に頭ぶつけてる よく見てるんだな ……見たくなくても見えるんです。千波さんの後ろの席ですから じゃあテスト中に千波が親指立てたらそれを合図に蒼ちゃんが答案を誤って落として千波がそれを拾ってあげると同時にその答案を千波のと交換する手はずでよろしくね! ……やるわけない 千波がカンニングしてそうだったら、遠慮なく先生に知らせてやってくれ ……承知です 蒼さんは以前よりもずっと俺たちに言葉を返してくれるようになった。 だから、できればもっと、蒼さんに踏み込んでみたかった。 なあ、蒼さん 校門で別れてしまう前に、呼び止めた。 ……なんですか? 願い事、叶うといいな ………… なんで千波が蒼ちゃんににらまれてるの!? ……誰にも話さないで欲しかった まだお兄ちゃん以外には言ってないよっ、蒼ちゃんが望むなら他の人には話さないよっ、千波は友達との約束だけは絶対忘れないからねっ それは本当だから、安心していい ………… 俺も、誰にも話さないよ 蒼さんはもうなにも言わずに校舎へ向かう。 ……蒼ちゃん、怒ったのかな 悪いことしたな まったくだよっ、このせいで蒼ちゃんが千波に答案見せてくれなかったらお兄ちゃんを恨むからね! 千波は頭の外側を使うんだったな ぐりぐりには使って欲しくないよお兄ちゃん!? 蒼さんを天クルに勧誘したい。 そのためにはどうすればいいだろう。 答えはどこかにある気がした。 テストが終わり、学食で昼を食べているところで明日歩が言った。 あたし、やっぱりビラ配りやるよ ……これからですか? うん。このまま家に帰っても、どうせ勉強に集中できないと思うし 最後まで、やるだけはやりたいからね 俺とこさめさんは顔を見合わせる。 飛鳥はここにいない。早々に食べ終わり、都市伝説の聞き込みとやらに出かけていった。 あ、ふたりに手伝ってもらうつもりで言ったんじゃないからね。テストもまだ中盤戦だし ただあたしがやりたいだけだし…… 俺もやるよ わたしも混ぜてくださいね だ、だから無理に手伝ってもらわなくても…… やりたいからやるんだよ 明日歩さんと一緒です 洋ちゃん、こさめちゃん…… 明日歩は感動していた。 あたしは良い部下を持って幸せ者だよう…… 我らの副部長は涙もろかった。 お、今日もやってんのか。精が出るな 二時間ほど配ったところで、飛鳥が下校してきた。 聞いて聞いてお兄ちゃんっ、千波たちさっきまで生徒を捕まえまくって都市伝説の謎に迫ってたんだよっ 飛鳥の横には千波もいた。 小河坂さんの妹さんの、千波さんですよね あ、はいっ、はじめましてです! 姫榊こさめと申します。よろしくお願いしますね 自己紹介を交わすふたりの横で、俺たちは飛鳥から話を聞いている。 オカ研もがんばってるよね 千波はどうだ、使えるか? 聞き込みにはかなりの戦力だぜ。なんせ物怖じせずに誰彼構わず突っ込んでいってたからな まあ納得だ。 聞き込みの中心は千波ちゃんと同じ一年だってのもあったしな 二年生と三年生は都市伝説に興味失せてるもんね それで、知ってる都市伝説についてなんでもいいから教えてくれって感じで聞いて回ってたんだが…… なにかわかった? たいていはどこかで聞いたような噂ばかりだったな そう言って飛鳥は手帳を開く。 ただ、気になった点がひとつだけあった なになに? 明日歩も興味津々だ。UFOに乗りたいだけはある。 なんと、死神を見たっていう生徒がいた 目撃者か? めずらしいね。ていうか初めて? 都市伝説の死神については誰かから聞いたことがある、それ以上は知らないってのが普通なんだけどな なのにこの目で見たっていう生徒がいるんですね しかもひとりじゃなくて何人も見つかったんですよっ ふたりも参加してきた。 へえー。なんか信憑性ありそうだね ……それ、メアってオチじゃないよな? おまえらが展望台で見たっていう死神だな。そうかもしれねえし、違うかもしれねえ 今回はどうも現場がここらしいからな 飛鳥は親指で後ろの校舎を指す。 ……このヒバリ校で死神を見たって? らしいな 飛鳥は鷹揚にうなずいて、 目撃者は四人、全員女子。おたがいクラスメイトでテニス部の仲間、まあ友達グループってやつだ で、部活が終わってコートで夜までだべってたらしいんだが、そのうちのひとりが校舎に忘れ物をしたんだそうだ うちの学校って夜でも昇降口が開いてるからな。警備も結構ずさんだし、四人でそのまま教室に向かったわけだ そうしたら、見てしまったんだよ 飛鳥は演技がかった低い声で続ける。 大きなカマを持った子供が、廊下をひたひた歩いてるのをな…… ぱたん、と手帳を閉じた。 ……子供だったの? 証言によると、暗くてよくは見えなかったが、背はずいぶん低かったらしい。だから子供で間違いないだろうな 大きなカマは暗くても見えたんですか? こっちも詳細にはわからなかったみたいだな。それでも長い棒みたいなのを担いでたらしいから、カマで間違いないんじゃないか 死神って言ったらやっぱりカマだもんね その話だけを聞くと、ますますメアだと思えてしまう。 顔や性別はわからないのか? ああ。背が低くて長い棒を担いでいた。確実なのはそのふたつだけだな メアちゃんがヒバリ校に遊びに来てたのかなっ、千波たちに会いに来てくれたのかなっ メアの性格からしてそれはなさそうだが。 そんなわけで、オカ研創部以来のでかい収穫があったんだ。次は夜を待ってヒバリ校で張り込みだぜ オカルト部長と一緒に、今夜にも校舎を探検だよっ ……いや、マジでか? うんっ、メアちゃんに会えたら友達になってくるねっ 却下 なんで!? おまえはテスト勉強があるだろ でもでも宇宙人と友達になってUFOに乗せてもらうっていう千波の壮大な野望が叶うかもしれないんだよ! それは前に聞いたから知ってるけどさ じゃあ許してくれるんだねっ ここにサインしたら許してやる それくらいお安いご用だよっ 飛鳥、これ千波の退部届な クーリングオフを熱烈希望するよお兄ちゃん!? ……まあ小河坂が心配するのはわかるけどさ 洋ちゃん、千波ちゃん思いだもんね なぜそんなふうに捉えるんだ。 でもでも千波は宇宙人を捕まえられる日を待ち望んで事前に虫取り網も用意してたんだよ! おまえ昆虫採集とごっちゃになってるから わたしも夜に張り込みなんて危険だと思いますよ。警備員の方に見つかったら大変です やるんだったら夏休み入ってからのほうがいいんじゃない? 肝試しも兼ねてって感じで なんにしろ俺は反対だからな 飛鳥はため息をつく。 テストもあるし、しゃあねえか。夏休みからでも遅くねえしな 千波ちゃん、それでいいか? はいっ、ぜんぜんオッケーですっ、千波はオカルト部長に一生ついていきますから! なんかそれプロポーズみたいじゃね? げしっ! お兄ちゃんが千波のお尻蹴った!? 気のせいだろ ……小河坂、おまえもたいがいシスコンだな なぜそんな解釈になる。 オレら、これから展望台寄るから。まあそっちも勧誘がんばってくれ それじゃ失礼しまーす! 飛鳥と千波は坂を登っていった。 なんかふたり、いいコンビだね 傍目からだと恋人に見えるかもしれませんね ………… 洋ちゃん、大切な妹にまとわりつく虫を駆除したがるお兄ちゃんの顔になってる そんなことはまったくもってない。 ビラ配りを終え、明日歩たちと別れてから蒼さん宅を訪ねた。 だが前回同様、留守のようだ。 俺はいったん自宅に戻る。 お姉ちゃん、今日も出かけたみたいです 遊びにきていた鈴葉ちゃんに聞いてみた。 すみません、行き先はわからないです……。わたしが聞いても教えてくれないんです 遊んであげられなくてごめんねって言って、制服のまま出かけていって…… 望遠鏡を持って出かけるときもあります……。そのときはだいたい夜になってからですけど 望遠鏡ですから、たぶんどこかで天体観測をしてるんだとは思うんですけど…… ありがとうな。それだけわかれば充分だ お兄ちゃん、蒼ちゃん捜しにいくの? ああ。帰りは遅くなると思うから、詩乃さんにそう言っておいてくれ あ、あの、お姉ちゃんに用でしたら、ケータイの番号教えますけど いや、いきなり知らない番号からかかってきても、蒼さんの場合は出なそうだしな 千波がかけても一度も出ないくらいだからねっ 自慢げに言っている。 お姉ちゃん、あんまり人の番号登録してないみたいだから…… 鈴葉ちゃんが気に病むことじゃないさ そして蒼さんが悪いわけでもない。 俺はリビングを出る。 蒼さんが本当に天体観測をしているのなら、行き先はふたつしか思い当たらなかった。 待ちくたびれたぞ、メア ……いつもどおりの時間だと思うけど それだけメアに会いたかったんだ メアはぴくりと肩を震わせる。 ……最近、せつなくなるのが多い でさ、聞きたいことがあるんだ ……どうでもいいように流された むすっとしてしまう。 メアは、今夜この展望台で誰かに会ったか? あなたに会った 俺以外では? 会ってない。さっき来たばかりだし 俺も、メアとしか会っていない。 展望台を捜してもほかには誰もいなかった。 メアは、ヒバリ校に行ったことあるか? 坂の途中にある学校よね ああ 行ったことはないけど メアの答えで、確信を得る。 メア、入部の件は考えてくれたか? まだだけど そうか。できたら早めに答えくれよな じゃあな、と声をかける。 ……帰るの? メアは戸惑っていた。 まあな ……もう? ああ どうして? 急用があるんだ ………… 悪いな ……べつに悪くないけど むっつりした顔。 俺は帰ろうとしていた足を戻し、メアの前に立つ。 ……帰るんじゃないの 俺は、メアに向かって手を伸ばす。 同時にカマが俺の喉元に当たる。 なんでだよ!? 殺気を感じたから 頭撫でようとしただけだって! 万死に値する 俺が固まっていると、メアはカマを下げてしりぞいた。 ……二度とやらないで、じゃないとちょん切るから メアはきびすを返すと、そのまま消えてしまった。 ……怒らせたかな。 だが今はほかにやるべきことがある。 俺は展望台をあとにした。 ビラ配りの最中から、もしかしたらとは思っていた。 明日歩と一緒に夜の校舎を訪れたときに見た、あの人影。 校門前で見かけた、望遠鏡を抱いていた蒼さん。 飛鳥と千波が聞いたという死神の噂。 その死神は大きなカマを持っていた。 いや──正確には、長い棒のようなものを持っていたのだ。 夜であっても校門は開いている。 遅くまで部活をしている生徒に配慮しているのかもしれないが、おかげで不審者だって簡単に中に踏み込める。 俺は不審者じゃないけどな。 細心の注意を払って階段を登る。 ここで警備員に見つかったら笑い話だ。 これはチャンスだと思うから。 天クルを存続させるための、逃してはならない好機なのだ。 屋上に続いているだろう、金属製の重い扉を、俺は力を込めて押し開けた。 足を踏み入れた途端、向かい風が髪を揺らした。 地上に比べて涼しいと感じた。 満天の星々が淡い光を降ろしている。 薄闇のヴェールに包まれている。 どこか幻想的な風景。 展望台に勝るとも劣らない見晴らし。 ここで天体観測ができたらどんなに素晴らしいだろう。 その中を歩き進んだ。 足音に気づいたのだろう、彼女は俺に振り向いた。 遠目でもわかるくらい驚いている。 俺が捜していた人だった。 俺はゆっくりと近づいた。 蒼さんが、夜空から降る星明かりを身体いっぱいに浴びている。 自分のものだと言った望遠鏡の前で、どうしていいかわからないように立ち尽くしている。 そんな姿が綺麗でもあり儚くもある。 どうして…… 今日、夕方に家を訪ねたんだけど、留守だったから ………… 夜になって、家に戻ってきたんだな それで望遠鏡を持って、また出かけた…… 飛鳥と千波が聞いた死神は、カマを持っていたんじゃない。 望遠鏡を持っていたのだ。 蒼さんの望遠鏡は、明日歩のものよりも鏡筒が細くて小さい。だから蒼さんの細腕でも簡単に持ち運べるんだろう。 鈴葉は…… 俺の家にいたよ。千波と一緒だった たぶんもう自宅に戻ってるんじゃないか ………… どうして、鈴葉ちゃんにも言わないんだ? ……なにがですか 天体観測してること。鈴葉ちゃん、ちょっと心配してる感じだったぞ 蒼さんは俺から視線を外し、望遠鏡を見つめる。 いつも、ここで天体観測してるのか? ………… 今日が初めて、じゃないよな ………… 蒼さんが朝ぎりぎりに登校するのは、このせいなんだよな? いつも夜遅くまで、ここで星を見上げてるから…… 蒼さんは答えを返さない。 明確な拒絶を感じる。 夏の星空って、好きなんだよな 俺だけが一方的に語っている。 俺は、七夕の星が一番好きなんだ ………… 蒼さんは、どの星が好きだ? ……ありません ようやく答えが届いても、そこにも拒絶が込められている。 私の好きな星なんて、ありません ……天体観測してるのにか? していても、見えませんから 私の好きな星空は見えないんです どういう意味だろう。 今はもう、あの星空は見えない…… 望遠鏡を覗けば過去の星空が見えるって、教えてもらったのに 想い出の星空が見えるって聞いたのに なのに、決して見えることはない 私の好きな星空だけは、見ることができないんです ……もしかしてさ 蒼さんは物憂げな瞳を向けている。 キミは、過去を見たいのか? ………… 想い出をよみがえらせたいってことなのか? それが蒼さんの願いなのだったら、なんて俺に似ているんだと笑ってしまいそうだ。 ……私になんの用だったんですか? もうわかってるんじゃないか 天クルには入りませんよ 交換条件でどうだ? ……千波さんを家にけしかけるんだったら、私にも考えがありますよ 今回はもっと平和的な交換条件だ なんですか? 俺が蒼さんの願いを叶えるから、蒼さんも俺の願いを叶えてくれ 蒼さんは胡乱な顔をする。 俺の願いは蒼さんが天クルに入ってくれることだ 私の願いは天クルに入らないことです 了解だ、じゃあ俺が蒼さんを天クルに入れなかったら、蒼さんは天クルに入ってくれ ……自分で言ってておかしいと思わないんですか 思ったさ。 ……蒼さんの願いは別にあるだろ 思いつきませんけど 星占いの願い事だよ ………… どうだ。この交換条件、乗るか? その前に聞かせてください なんだ? 私は、自分の願いを誰かに話したことはありません。鈴葉にだって話していません だからあなたが知ってるはずがありません そのとおりだな なのにどうやって叶えるんですか 俺は不可能を可能にする男なんだ ……ダサ 俺もそう思った。 まあ叶えられなかったら蒼さんは天クルに入らなくていいんだから、乗っても損はないだろ? ………… それでも嫌ならそう言ってくれ。無理に天クルには入れなくていいって、副部長のお達しなんだ すでに無理やりになってる気もしますけど だから、蒼さんが嫌ならこの交換条件はなしだ 聞かせてください どうぞ 私が交換条件を断ったとして、あなたは天クルの勧誘をやめてくれるんですか? それは確実にないな 蒼さんは大きく息をついた。 ……だったら、乗ったほうが賢明です わかってるじゃないか 交換条件の期限はいつですか 来週の月曜。あと五日だな ……短いですね その日までに部員が集まらないと廃部になるからな たった五日じゃ、たとえ私の願いを知ったとしても叶えられないと思います 言ったろ、俺は不可能を可能にする男なんだ ………… 答え、聞かせてくれるか? 答えを引き延ばして、天クルの自然消滅を待つ手もありますね そうなったら、また新しく天クルを発足させるまでだ。俺の勧誘は終わらないな ……わかりました。乗ります 了解 心の中で安堵する。 その代わり約束してください。来週の月曜までに私の願いを叶えられなかったら、二度と勧誘に来ないでください そっちも約束してくれ。願いが叶ってもウソをついて叶わなかったなんて言わないでくれよ ……わかりました それじゃ、交換条件は成立だな きっと後悔しますよ それはどうかな 本当に、千波さんのお兄さんなんですね ……なんだそれ いくら私が拒絶しても、千波さんは寄ってきます。友達になるのが当たり前のような顔をして あなたも、同じです 私が天クルに入るのが当たり前だっていうような顔をしています そう見えるなら、光栄だな 蒼さんの願いを叶えられる自信はない。 なのに自信があるように見えたなら、少なくとも俺はダサくはないだろう。 俺は、不可能を可能にする男だからな ……三回も言って、ダサ 台無しだった。 お兄ちゃん、千波もう寝るね あ、待った。その前に、ちょっと頼みがあるんだ ……千波と一緒に寝たいんでちゅか? 寝たくねえよ でもでも千波のベッドはセミダブルだから狭くないよ! そりゃおまえの寝相を考慮して母さんが買ったんだよ 千波ねむねむだから寝るねー テンションが上がったり下がったりいそがしいやつ。 おまえに聞きたいことがあるんだ。蒼さんについてなんだけど それだったら蒼ちゃん本人に聞けばいいんじゃない? 残念なことに俺よりおまえのほうが蒼さんに近い位置にいるんだよ。だから間接的に聞いてるんだ 嫉妬でちゅか? おしゃぶり欲しいでちゅか? さすがの千波もお兄ちゃんの拳は口に入らないよ!? 毎度のことながら話がちっとも進まない。 おまえ、蒼さんについてどこまで知ってる? 蒼ちゃんは星占いが好きで鈴葉ちゃんが好きでスフレが好きで今日は生理だったよ ……最後のだけ初耳だが、知らないほうがよかったかもしれない。 そんな俺では絶対聞き出せない情報を聞き出せるおまえを見込んで、頼みがある 千波と一緒に寝るの? 戻らなくていいからな? 拳を口に入れようとするお兄ちゃんも戻ってるよ!? 蒼さんの過去について、なんでもいいから知ってることを教えてくれないか 千波の頭にハテナが浮かぶ。 蒼さんから直接はおまえでも聞けないかもしれない。だけど鈴葉ちゃんからは聞いてないか? 蒼さんと友達になるために努力する千波は、必ず聞いているはずなんだ。 蒼さんをもっと知りたいから、俺よりも前から奔走していたはずなんだ。 俺に、蒼さんの過去を教えてくれないか? いくらくれるの? 千波愛用デジカメを買ってやる ……え? オカ研で使うだろ。欲しいんじゃないのか? え、え? 本気で? ああ。テストが終わったらまたバイト始めるし、夏休み中に買ってやる 千波は唖然としていた。 おまえを見習って、俺も本気になったんだよ ………… 頼む。俺に協力してくれないか ……えへ 笑われた。 デジカメはいいよ。ケータイの使ってるし それに、そんなの買ってもらわなくても、うれしいもん 蒼ちゃんと友達になろうとしてくれるお兄ちゃんが、好きだもん 千波…… 感謝する 感謝する 内心で感謝する ……俺もだ なにが? 俺も、そんなおまえが好…… す? すき焼きだ 夜食にしては重いメニューだねお兄ちゃんっ お礼に作ってやろう お兄ちゃんらしからぬ優しい言葉だねっ つい誤魔化してしまった。 うれしいけど今日も暑いから冷たいメニューだともっとうれしいよお兄ちゃんっ もう作ってやんねー、ぺっ 唾吐くほど冷たい態度を望んだわけじゃないよお兄ちゃん!? 蒼さんの過去について、千波は知っている範囲で語ってくれた。 俺は、自慢の妹に感謝する。 それを言葉にするのも態度に出すのも難しくても、こんな妹が俺も好きなのかもしれない。 千波は知っている範囲で語ってくれた。 俺は、自慢の妹に感謝する。 一緒には寝てやらなかったけど。 おはよう、明日歩 あ、洋ちゃん。今朝も早いんだね それだけ明日歩に会いたかったんだ 昨夜にメアに言ったのと同じ言葉をかけたら、明日歩の顔が沸騰した。 え、えっ、今の…… でさ、聞きたいことがあるんだ ……流された そして犬化した。 明日歩は、雲雀ヶ崎の宇宙科学館って知ってるか? 明日歩は首をひねる。 千波から聞いた情報がこれだった。 雲雀ヶ崎にはプラネタリウムや天文台を擁し、夜間観測会なんかも実施している科学館がある。 それが雲雀ヶ崎宇宙科学館である。 蒼さんは過去によくそこへ通っていたらしいと千波は教えてくれたのだ。 宇宙科学館かあ。懐かしいな~ 明日歩も行ったことあると思ってたよ 天文ファンとしては当然でしょう だからきっと蒼さんだって天文ファンだった。 そして今は通っておらず、代わりに屋上で天体観測をしているのだ。 俺はこれから明日歩に宇宙科学館の場所を教えてもらって、そこにおもむいてみる。 きっとそこに蒼さんの願いを叶える手がかりが……。 今はもうなくなっちゃって寂しいんだけどね 明日歩の言葉で思考が止まった。 ……なんだって? だから、今はもう科学館が閉館になってるから、寂しいなって へ、閉館? あ、そっか。洋ちゃん、その頃はもう引っ越しちゃってたから知らないんだ 引っ越す前も宇宙科学館なんて知らなかったけど……それはともかく、マジで閉館? そうだよ。四年くらい前かなあ。プラネタリウムの最終公演は見にいったけど、感動的だったよ~ 俺は頭を抱える。 ……ということは、蒼さんが宇宙科学館に通わなくなった理由はそれか。 考えてみれば、そんな場所が現存していたら、明日歩たちだって部室でトランプよりはそこに足を運んでいるだろう。 科学館の建物も、もうないのか? 建物は残ってるみたいだよ。中は誰もいないと思うけど 訪ねても無駄足のようだ。 どうして閉館になったんだ? 大人の事情じゃないかな、採算取れなくなったとか。今時の子供は星空よりもゲームだからなあ せっかくつかんだ手がかりなのに、いきなりつまずきそうな流れだった。 なあ明日歩、科学館について、なんでもいいから知ってることを教えてくれないか ……洋ちゃん、なにかあったの? 蒼さんがな、昔よくそこに通ってたらしいんだ。だから気になってさ 勧誘に関係ある? ある あたしも手伝ったほうがいい? ああ、明日歩なら大助かりだ 明日歩の顔に笑みが咲いた。 科学館のこと調べたいなら、岡泉先輩に聞いたほうがいいかな。先輩のほうがあたしより詳しいし なんたって、科学館の天文クラブにも入ってたって言ってたからね 宇宙科学館か。懐かしいなあ 放課後を待って、部室で岡泉先輩を捕まえた。 閉館するという話を聞いたとき、僕の瞳には死兆星が映ったんだ そこから先の記憶はおぼろげだけど、きっと最終公演日には惜しみない拍手と花束を贈ったに違いないんだよ…… 俺にはシュプレヒコールを贈っていたとしか思えない。 岡泉先輩、天文クラブに所属してたんですよね 科学館が閉館した理由は聞いていませんか? 科学館を調べるにあたって、事情を話した明日歩とこさめさんは俺に協力すると言ってくれた。 蒼さんを勧誘するために。 そして天クルを存続させるために。 閉館した理由は聞いてないよ。僕も寝耳に水だったくらいだからね 噂では、館長が辞職したことに関係があったらしいけど。そう考えると人材不足が理由かもしれないね 館長はとても人望があったそうで、仕事を辞めるにあたって職員たちも科学館から離れたのかもしれない 館長って誰なんですか? 僕は知らないかな。天文学の分野では名前の知れた方だったそうだけど、当時の僕は学問よりもロマンチックな星座の神話に夢中な年頃だったものでね 先輩が所属していた天文クラブでは、神話のお勉強をしていたんですか? そうだね、神話をなぞりながら天体観測をしていたよ。メンバーの大半が子供だったし、妥当なところだろうね いいなあ、あたしも天文クラブ入りたかった なんで入らなかったんだ? お父さんに猛反対されちゃって。子供に理解がない親はダメだよね 俺の印象では理解がある親という感じなのだが。 それで、なぜこんなことを聞くんだい? 実はですね、天クルに勧誘してる生徒がいるんですよ。その子が昔、科学館に通ってたみたいで 蒼衣鈴っていう一年生なんですけど ……蒼衣鈴? 岡泉先輩は目を丸くする。 あれ、知ってるんですか? 天文クラブの仲間で、同姓同名の子がいたよ。めずらしい名前だと思っていたけど、案外多いんだなあ ……いやそれ、本人なんじゃないですか? 先輩が知っている蒼さんは、いくつでしたか? 僕より年下だったね。出席率が高かったから、よく覚えているよ 本人で間違いないだろう。 潰えたと思った手がかりが、思わぬところで再び舞い込んだ。 科学館の閉館で天文クラブもなくなったんですか? そうだね、集まる場がなくなったからね。しょうがないとは思うけど、やっぱり寂しかったよ 遠い目をしている。その目に死兆星が映っていないことを切に願う。 キミらの言う蒼さんがその彼女だったら、天クルに入ってくれるかもしれないね ……だとよかったんですけど、なかなかうまくいかないんですよ じゃあ、彼女はもう天体観測に飽きたのかな それはないと信じたい。そうだとしたら屋上に望遠鏡を持って訪れる理由がわからなくなる。 先輩は、過去の星空を見るという意味がなんだかわかりますか? ……過去の星空? はい。蒼さんが言ってたんです、過去の星空を見たいって 岡泉先輩は思案する。 ……明日歩クン、わかるかい? ぜんぜんです 明日歩は肩をすくめる。 だって星空に過去なんてないんですから ……過去がない? そうだよ。この宇宙ができてからおよそ137億年、その間に消えた星もあれば生まれた星もたくさんある なにより星座を形作る恒星は固有運動によって動いている だから正確には星空に過去はある。長い時の中で夜空の風景は変遷を繰り返す だけど僕たちの住むこの地球が生まれたのは46億年前、僕たち人類が誕生したのがたった400万年前…… じゃあ、蒼さんが生まれたのは何年前になる? ……二十年も前じゃないですね 宇宙の歴史に比べたら一瞬もいいところのその時間に、星空がどれだけ変わると思う? ほとんどゼロに近いですよね 少なくとも星座に影響が出るような変化はない。だから僕たち人の一生にとっては、星空に過去なんてないんだよ 僕たちの過去も未来も、この雲雀ヶ崎の星空は、そのままの姿で在り続けるんだよ 岡泉先輩の言葉はどこか陶酔しているようにも聞こえる。 星が好きなのはそういう理由からだろうか。 星座も神話も、未来永劫そこにあるからこそ、俺たち天クルを惹きつけてやまないのだろうか。 ……と、それはともかくとして。 でも、それだと蒼さんの願いがですね…… こうは考えられませんか? こさめさんが意見する。 わたしたちが見上げる夜空の星々は、とても遠くにありますよね。百光年、百万光年、百億光年離れた星だってあると思います そしてその光がわたしたちに届くまでには、百年、百万年、百億年かかっています だから、わたしたちが目にしている星空の光は、過去の光ということになります わたしたちは、すでに過去の星空を眺めているんです ……なるほど。たしかにそうだね ただ、それだと僕たちは望む望まないに関わらず、過去の星空だけを見上げていることになるんじゃないかな そうなると、蒼さんの願いはすでに叶っているということになってしまう。 蒼さんは過去の星空を見たくても、見ることができないと言っていた。 見たくても見えないのだ。蒼さんが望む星空は。 それはつまり、どういうことだ……? それでは、逆というのは考えられませんか? 逆って? 逆転の発想です。星空に過去がないのであれば、蒼さんの願いは叶えられません 星空が過去であったとしても、蒼さんの願いは叶えられません ということは、つまり こさめさんは人差し指を立てて、 蒼さんの望む星空は、そもそもわたしたちの頭上に広がっている星空ではないんです ……どういうこと? そういうことか それしか考えられないね なんでみんなしてわかったように答えてるの!? 明日歩だってわかるはずだ。なんたって俺より天文に詳しいんだから 天文ファンならもちろん、星にある程度関心がある人なら気づくんじゃないだろうか。 そして蒼さんが望む星空を再現する方法は、現実的にはひとつしかない。 あ……もしかして 明日歩も気づいたようだった。 だから蒼さんは、科学館に通ってたってことなの……? たぶんな 科学館の設備だったら、蒼さんの望む星空も見ることが可能だからね だから、おそらく蒼さんの言う過去というのは、過去の星空という意味じゃない。 単純に自分の過去を指していた。 きっと、自分自身の想い出を指していた。 蒼さん、過去に自分の目でその星空を見たってことだよね? いいないいなっ、うらやましすぎるよ~! ですけど、蒼さんはなぜそんな星空を見上げることができたんでしょう? そればかりは本人に聞かないとわからないだろうね だけど、蒼さんの望む星空はわかったし、その再現方法もちゃんとあるんだ そうだね。じゃあ蒼さんを勧誘するために、あたしたちで作ろっか 自作のプラネタリウムを! 盛り上がる明日歩を、俺は慌てて制した。 待った待った、プラネタリウムってそんな簡単に作れるのか? 簡単なわけないよ。去年の学園祭に天クルの出し物で作ったけど、二週間くらいはかかったかなあ 初めてだったので勝手がわからずに苦労しましたよね まあ二度目だから二週間はかからないだろうけど、さすがに一日二日じゃ難しいかもしれないね 期限は来週の月曜だ。時間はない。 予想よりも早く蒼さんの願いに目星がついたのはありがたいが、叶えるための方法が予想よりもずっと大がかりで時間がかかるのだ。 じゃあ来週の月曜まで徹夜で作ればいいよ ……いや、まだ期末テスト終わってないんだぞ? あたしは天クルのためなら赤点も覚悟できるよ! 問題はそれだけじゃない。プラネタリウムを作るとして、場所はどうするんだい? ここでいいんじゃないですか? 机とか全部どかせばスペースも作れるし それは難しいんじゃないでしょうか。準備は夜までやらないと間に合わないでしょうから 学園祭のときとは違って、教室の夜の使用は許可されないと思いますし…… それでなくても机や椅子を勝手にどかしていたら、先生や生徒会に大目玉を食らうだろうね じゃあ、どかす必要のない体育館とかグラウンドとか 昼は部活動で生徒が使用していますし、夜だと警備員に見つかってやっぱり大目玉だと思いますよ こっそり作ってればバレなくない? 警備員だって見回りくらいはするだろうし、誰にも見つからずに作るのは不可能だよ それならヒバリ校の外でやれば解決なんじゃ? そうなると今度は必要な資材を部室から運び出すのが大変だね。ただでさえ時間がないのに じゃあどうすればいいんですか~! まとめると、ヒバリ校の中で、ある程度スペースがあり、なおかつ誰にも見つからない場所が必要ということになりますけど…… そんな場所、都合よくあるわけないよ~! ……あのさ、ちょっとみんなに質問 議論しあっていた三人の視線が俺に向く。 テストあるのに、プラネタリウム作るの、手伝ってくれるのか? 三人は、なにを今さら、という顔をした。 言ったじゃない、あたしは赤点取る覚悟があるって わたしは赤点を取るつもりはありませんが、楽しそうですので参加させてくださいね 僕は赤点を取るつもりでも自動書記のように腕が勝手に動いて取らせてくれないから問題ないよ それ別の意味で問題ありますから。 それに、天クルのためだからね プラネタリウムを作っても、蒼さんが入部してくれる保証はないですよ? 俺の勘違いかもしれない。蒼さんの願いはまったく違うところにあるのかもしれない。 それでも可能性はあるんだろう? だったらやるしかないじゃないか できることはすべてやる。やらないで後悔するよりやって後悔したほうが、ずっと建設的ですね あたしは最初から後悔するつもりなんてないよ だって、きっとこのプラネタリウム作りは、大切な想い出になるからね 明日歩の迷いない言葉。 俺も腹を決めることにした。 蒼さんが大切にする想い出にも勝る想い出を、俺たちが新しく作ればいい。 そうすれば、たとえ蒼さんの願いが叶わなかったとしても、俺たちが後悔することはない。 ひとつ、いい場所を思いついた え、どこどこ? 校舎の屋上だ。そこだったらスペースもあるし、誰にも見つからなそうじゃないか? それはそうだね。警備員だって見回りには来ない そりゃ出入り口の扉にカギが掛かってるんだから、誰も来ないとは思うけど…… ただ、わたしたちも入れませんよね ……屋上って立ち入り禁止なだけじゃなくて、カギまでかかってるのか? そうだよ。こももちゃんがカギ貸してくれないから、七夕の日も屋上で天体観測できなかったんだから そういえば、そんなやり取りを聞いていた。 でも俺、屋上に入ったぞ 三人は一様にきょとんとする。 夕べ、そこで蒼さんと会ってたから ……え、どうやって? 普通に扉開けてだよ。カギなんてかかってなかったぞ もしかして、今は解除されてるのかい? それはないと思います……。姉さんが許すはずがありませんから じゃあ、どういうこと? 可能性はひとつしかなかった。 蒼さんが、屋上のカギを持ってるってことか…… ど、どうして? 蒼さん、生徒会役員なんじゃないですか? それでしたら先生から借りられるはずですから それはないと思う。持ち物検査のときに姫榊と話してたけど、初対面って感じだった 蒼さん、勝手にカギを持ち出してるってこと? それは判断しようがないけど、僕たちにとっては僥倖かもしれないね そのとおりだ。 屋上は普段カギがかかっている。だから誰も訪れない。 警備員だって来ない。見回る必要がないからだ。 そして蒼さんがカギを持っているのなら、俺たちはそれにうまく便乗することができる。 ひとつ問題があるとすれば、屋上を使用する場合は夜に限定されるということだね ……そうなんですか? だって日中にプラネタリウムを組み上げたら、外から見えてしまうじゃないか プラネタリウムの高さから考えて、校庭やグラウンドからは丸見えになってしまいますよね 土日だって運動部に見つかる可能性がある。顧問の先生に見咎められたらアウトだろうね じゃあ夜に一気に組み上げるしかないってことだね ……いや、それだと、たった一夜の勝負ってことにならないか? 洋ちゃん、わかってるじゃない なぜそんな軽く言えるんだろう。 あたしたちは、今日の夜から始めて、明日の朝までにプラネタリウムを完成させるからね! なぜそんな笑顔で言えるんだろう。 これは大博打なのに。 今後すべての時間をこの行動に費やすことになる。 ビラ配りもテスト勉強もできなくなる。 間に合わないかもしれないという不安もある。 それでも、たぶん、それだけの価値があると思えるから。 あたしたち天クルなら、絶対にできるから! 我らが天クルの副部長は、恐れも不安も吹き飛ばす太陽の笑顔で、俺たち部員をひっぱってくれるのだ。 屋上のカギはかかっている。 だから昨夜に蒼さんが屋上を訪れていた時間を見計らって、俺は扉の前に立つ。 カギは、開いている。 この奥で蒼さんは、望まない夜空を見上げている。 ……また来たんですね ああ 今夜はなんの用ですか? 伝えたいことがあったんだ ………… 明日の朝、よかったらまたここに来て欲しい ……どういうことですか? キミに見せたいものがあるんだ なんですか? それは当日のお楽しみだ ………… 来てくれないか? もしかして、昨日の交換条件ですか? ああ 私の願いを叶えてくれるんですか? そのつもりだ 昨日の今日で早くないですか? 運がよかったんだ 俺は、仲間に恵まれていたから。 朝なのに、私の願いを叶えられると思うんですか? たぶん 夜じゃなくていいんですか? たぶん 弱気ですね 自信があるわけじゃないからな 明日の朝、何時ですか? 学校に一番乗りの時間で 誰にも見つからないためには、そうするしかない。 ……私が朝に弱いのを知って? ああ きっと、私は寝坊しますよ そのときは諦めるしかないな 諦められるんですか? 簡単じゃないけど、努力してみる ………… 蒼さんの瞳が、望遠鏡に向く。 今夜は、どの星を見ていたんだ? ……わかりません ただ、適当に見上げていただけですから 蒼さんは望遠鏡を抱きかかえた。 ……帰るのか? はい 早いんだな 天体観測の気分じゃなくなりましたから 適当に見上げてただけなんだろ? ……ウザい 蒼さんは俺の横を素通りする。 屋上の出入り口の前で振り返った。 ……なにしてるんですか なにって? 早く屋上から出てください 俺は、蒼さんに歩み寄る。 カギ、かけなきゃいけないんですから 望遠鏡、持とうか? ……結構です 家まで送ろうか? ……どうせ帰り道は一緒だと思いますけど、結構です 屋上のカギ、なんで持ってるんだ? あなたには関係ありません そのまま坂を下りていく。 校舎に引き返そうかとも思ったが、俺は蒼さんのあとを追った。 夜道にひとりにはさせられない。 ……結局ついて来た 迷惑か? 迷惑です ……あんまりはっきり言われるとめげそうになるな 遠慮せずにめげてください したくてもできないんだよな ……なぜですか 千波だって諦めていないのに、兄の俺が諦めるわけにはいかないだろ ………… 明日、忘れずに屋上に来てくれるとうれしい ……行きませんから 蒼さんは門をくぐって自宅に消えていった。 ……さて。 急いで学校戻らないとな 蒼さんは屋上のカギを閉めていた。 だが今は開いているはずだった。 カギを持っていない俺たちは、校舎側からだとどうしようもできない。 だけど、屋上側からなら、扉についているつまみをひねるだけで開けることができる。 待ってたよ、洋ちゃん 悪いな、遅くなった ううん。蒼さんを送ってたんだよね まあな うん、えらいえらい 蒼さんが天体観測をしている最中、俺が屋上に出たときに、明日歩も同行していたのだ。 そして明日歩はすぐに物陰に隠れた。俺は何食わぬ顔で蒼さんに声をかけた。 俺と蒼さんが屋上をあとにしても、明日歩はそのまま残っていた。 だから蒼さんがカギを閉めても、明日歩の手でもう一度開けることができたのだ。 蒼さんの持ってた望遠鏡、屈折式だったね。口径は6センチくらいかな。ちょっと年季入ってる感じだった 長く使ってるってことか たぶんね。でも〈鏡筒〉《きょうとう》はキレイだったし、丁寧に扱ってるんだと思う 蒼さん、望遠鏡を大切にしてるんだと思う それは、ますます天クルに入って欲しくなるな そうだね。もし入ってくれたら、キャリングケースをプレゼントしようかな 蒼さん、望遠鏡を剥き出しのまま運んでたから。間違って傷つけちゃうといけないし 正式な部になれば、部費がもらえる。それで買ってあげられるかもな うん。そのためにも、気合い入れてプラネタリウム作るぞ~! 明日歩の高い声が、澄んだ夜空に吸い込まれる。 ほかのみんなはどうだ? さっきケータイで連絡したよ。こさめちゃんも岡泉先輩も、すぐ来るって 俺たちは下校の時刻になるまで、できうる限りの準備を部室で行い、いったん解散した。 そして夜を待って屋上に集まる手はずだった。 これから俺たちは、まずは部室に用意しておいた資材を運び込まなければならない。 プラネタリウムのドームを形作るダンボールは、昼間のうちに商店街のスーパーからかき集めていた。 それじゃ、明日歩。念のため、あれ頼む うん 明日歩は手のひらを耳の後ろに当て、目を閉じた。 ……聞こえない。きーんきーんは聞こえないよ 雨は絶対、降らないよ! 蒼衣鈴は自室の机に向かっている。 机上には数枚のカードが見える。衣鈴はそれに重ねるように更なるカードを置いていく。 十二星座を用いた、タロット式の星占い。 だが衣鈴が占うのは恋愛運でも勉強運でも健康運でも別段なく。 衣鈴は〈自〉《・》〈己〉《・》を占っている。 この星占いは〈自〉《・》〈己〉《・》〈成〉《・》〈就〉《・》の運気を計る。 占いの結果を聞いた者が、自らその結果を成就するかのごとく占いどおりに振舞ってしまうこと。 それが自己成就。 衣鈴はそれを期待する。 要するに自己暗示の類であり、衣鈴は望む結果が出るまで占いを繰り返し、望む結果が出た時点で占いを終了する。 そして満足感を得る。 この占いにそれ以上の意味など端から求めていなかった。 ………… この願いが、いつか叶うと信じて。 いつか自己成就できますようにと。 衣鈴は、諦観に似た希望を胸に秘めて。 ………… 衣鈴はタロットカードをしまう。 星占いをしていても、どうにもあの兄妹が頭にちらついて仕方なかった。 小河坂洋と小河坂千波。 隣に引っ越してきた上級生と同級生。 ……また、明日も話しかけてくるのかな。 千波はなんの悩みもなさそうな顔で近寄ってきて、嫌味なくらいの元気を振りまいてくるのだろう。 洋はそんな千波に苦笑しながら、平穏を象徴したようなたわいない会話を振ってくるのだろう。 おとなしく無口な自分に、あんなにしつこく寄ってくる人なんてこれまでいなかったのに。 周囲の人たちはそんな自分を放っておくのが常だったのに。 いったいなにが楽しくて自分に構うんだろう。 なにが楽しくて、私と友達になりたいなんて言うんだろう……。 ………… 衣鈴は部屋の傍らに置かれた望遠鏡を見る。 洋は明日の早朝、屋上に来いと言った。 もしも自分の願いを叶えるためなのだったら、洋は星空を見せてくるはずだ。 ……朝に見える星ってなに? 衣鈴はそれほど天文に詳しくない。 望遠鏡を覗くのは天文に興味があるからではなく、ある特定の星空が好きなだけだからだ。 それは過去の記憶を象徴しているから。 衣鈴は、想い出に浸っていたかったから。 だから科学館が閉館してその想い出の星空をもうこの目にできないと知ったとき、衣鈴は失意に落ちた。 それは誰かのせいではないし、衣鈴自身のせいでもないからよけいに性質が悪かった。 衣鈴はすべてを拒絶した。 あの星空と一緒に想い出を形成する家族以外のすべてを拒絶した。 もともと人付き合いが得意なほうではなかったので傍目には変化がなかったかもしれないが、会話を交わせばそれは顕著に現れた。 衣鈴は毒舌になっていた。 死ねとかウザいとか言った。 大抵の者はそこで撃沈した。 だが洋と千波はそれでもそばにいようとする。 その図太さは賞賛に値する。 嘆息せざるを得ない。 ……まったく 衣鈴の手には屋上のカギが握られていた。 科学館の閉館日に、望遠鏡と一緒に館長からもらったもの。 衣鈴はこのカギと望遠鏡を大切にしている。 このふたつを使えば想い出の星空が見えると言われたから。 見えるはずがないのに。 あの星空は雲雀ヶ崎の星空とは違うから、見上げられるはずがないというのに。 なのに、なぜ館長は衣鈴にそう話したのか。 その答えを、衣鈴はまだ見つけられないでいる。 空が白み始めてからどのくらい経っただろう。 屋上の扉が開く音がした。 俺たち全員がそちらを向いた。 注目にさらされたためか、彼女は立ち止まる。 その表情には不安が濃く出ている。 今にも帰ってしまいそう。 俺はすぐに駆け寄った。 蒼さん、おはよう ……おはようございます 来てくれたんだな ……来なかったら、恨まれて今後もつきまとわれそうな気がしましたので 早起き、できたんだな ……実はあと十五分で予鈴が鳴ります マジですか。 まだ見咎められていないのは、運がいいということか。 私は、朝が弱いですから それでも、遅刻ぎりぎりじゃない。ありがとうな ………… 蒼さんは俺の横手に視線を送る。 そこでは明日歩たちがへとへとになって座っている。 ……あなた方も、屋上に出られるんですね まあな あそこにあるの、なんですか? カッコいいだろ? ……どちらかというとカッコ悪いですよね 誰が見てもそれは不格好なドームだろう。 なんなんですか? 自作のプラネタリウムだよ 蒼さんの目が見開く。 ……プラネタリウムって、作れるんですか? ああ 簡単に作れるんですか? 簡単じゃなかったな。というか間に合わないかと思った 蒼さんが早起きしていたら、作業中の格好悪い姿を見られていたかもしれない。 プラネタリウムは、たったさっき完成したばかりだった。 ……夕べはプラネタリウムなんてなかったですよね そうだな まさか、夜の間に作ってたんですか? そうなるな 寝てないんですか……? そうなるな わ、私ひとりのために……? それよりさ 急がなければ、テストが始まってしまう。 蒼さんを遅刻させるわけにはいかない。 あのプラネタリウムはな、タイムマシンなんだ 蒼さんは、なにを言われたかわかっていない顔をした。 あのプラネタリウムは、過去から未来まで、好きな時代の星空を映すことができるんだ どんな時代の、どんな場所の星空だって、生み出すことができるんだ ………… だから、あれは、星のタイムマシンなんだ 蒼さんは呆れていた。 ……自作のプラネタリウムに、そんな機能があるとは思えませんけど 何度言わせるんだ? 俺は、不可能を可能にする男なんだ ダサいです ああ、これで失敗したら俺はダサいな ………… 騙されたと思って、見ていってくれないか 俺は振り返った。 明日歩、こさめさん、岡泉先輩が手を振った。 こっちはいつでも準備オッケーだよ 明日歩が入り口の暗幕を広げた。 コンビニで買った氷を入れておいたので、涼しいんじゃないかと思います こさめさんが優しくほほえみかけた。 小河坂クン、あとは任せたよ 岡泉先輩がぱたりと倒れた(限界らしい)。 俺は再度、蒼さんに振り向いた。 天クルのプラネタリウム観望会に、ようこそ ドームは高くても入り口は低いので、腰をかがめて入らないといけない。 まずは俺が中に入り、あとから蒼さんを迎え入れた。 ……真っ暗 まだ上映前だからな ……息苦しい 換気はしてたんだけど、今は密閉されてるからな ……襲われそう するわけないだろ…… 変なことしたら大声上げますから 冗談で言ってるんじゃなかったら相当ショックだ。 それじゃあ、蒼さん 俺はタイムマシンの装置を手探りで見つけてから。 蒼さんが見たいと望む星空を、教えてくれ 蒼さんはためらわずに言った。 南天の星空を見せてください 俺もまた、ためらわずに答えた。 その願い、叶えるよ ドームの中心から光があふれた。 天に向かってそれは昇り、広がり、闇と混在を始めた。 するとそこに宇宙が生まれる。 世界が変わる。 頭上いっぱいに星の群れが輝いていた。 散らばった大小のきらめきは乱雑のようでいて無限の調和を奏でていた。 これは…… 雲雀ヶ崎からは決して見えない、南半球の星空を生み出した、ピンホール式の自作プラネタリウム──── 本日は、天クルプラネタリウムへのご来場、誠にありがとうございます 北半球に位置する日本では、南半球の星座や星雲を見上げることはできない。 それでは、南天の星々を順に追ってみることにいたしましょう 俺はポインターを使って星空を巡回する。 南十字星から始まり、孔雀座、風鳥座、一角獣座、巨嘴鳥座と幻想的な動物の星座が並ぶ。 羅針盤座、定規座、時計座、望遠鏡座、顕微鏡座など、変わった名前の星座も多い。 そして大小マゼラン雲やエータカリーナ星雲などの美麗な天体も多数ある。 それらすべてが自作の恒星投影機から映し出されている。 調理用のアルミボウルを用いて、より半球に近づけるためにゴム製ハンマーでひたすらたたき続けた。 座標を計算し、南天の星の数だけ穴を開けるポンチング作業を気が滅入るほど繰り返した。 こさめさんと岡泉先輩が昼のうちから取りかかっても、一晩中かかっていた。 俺と明日歩はドームを作った。 設計図を用意したあと、そのとおりにダンボールをカッターで切り取った。 ダンボールの内側を白く塗装した。 それからガムテープでつなぎ合わせた。 遮光のために隙間という隙間はすべて塞いだ。 夜の屋上で、懐中電灯を駆使しながら、そうしてドームを組み上げた。 私の想い出にある、星空…… 私の大好きな、星空…… もう、見ることはないと思ってたのに…… 望むことの叶わない星空に想いを馳せ。 想い出の望遠鏡で過去を覗く。 だから今度は、天クルの仲間と一緒に、今の星空も好きになって欲しかった。 雲雀ヶ崎の星空も好きになって欲しかった。 蒼さんは、声も上げずに、静かに泣き続けていた。 体育館の壇上での校長の長い話がようやく終わる。 七月二十三日の月曜日。 一学期の終業式。 その日は、天クルの命運を分ける日でもあった。 ロングホームルームも終わって、ついに念願の夏休みだね~! ………… かき氷食べてスイカ食べて海水浴に夏祭りにもちろん天体観測もやりまくるぞ~! ………… 洋ちゃんは夏休み、なにか予定ある? お父さんがお昼だけでもバイト出てくれると助かるって言ってたよ ………… あたしも遊んでる以外はお手伝いしてるし、課題はまあラスト一週間で適当に片付けるし…… ………… だから、よかったら一緒にバイトして、時間あったら一緒に遊んだりしたいなって…… ………… ……洋ちゃん、聞いてる? 俺は机にぱたっと突っ伏す。 ど、どうしたの? 俺の手には、先ほど返ってきた期末テストの答案が握られている。 金曜日のラストの教科、数学。 点数にして二十九点。 赤点である。 プラネタリウムを自作するのに徹夜したため、最後の最後で寝落ちした結果だった。 あ、洋ちゃん赤点取っちゃったんだ うああああ言わないでくれー! 生まれて初めての補習の烙印だった。 落ち込まなくたっていいよ。あたしも金曜日のテストは全部寝ちゃって赤点だったし ……それに関しては謝るしかないな そんな必要ないってば 明日歩がかがんで顔を近づけてきたので、俺は上体を起こすしかなかった。 だって、一緒にプラネタリウム作ったの、楽しかったもんね わたしは大丈夫でしたよ。いったん解散して家に帰ったとき、仮眠を取っていましたから 僕も大丈夫だったよ。眠っていたはずなのにすべての解答欄が埋まっていたから それ大丈夫じゃないですから。 あたしと洋ちゃんだけ補習かあ 補習は今週いっぱいで終わりですよね。八月に入ったらみんなでどこか遊びにいきたいですね まずは海水浴がいいな~。その次に夏祭りでかき氷とたこ焼きと焼きそばとリンゴ飴! はあ…… ……洋ちゃん、まだ落ち込んでる プラネタリウムの後片付けが残っているから、正気に戻って欲しいところだけどね 屋上のプラネタリウムは、金曜日の放課後に解体して隣の資料室に詰め込んである。 その間、誰にも見つからなかったのは、期末テストが終わった直後で皆が浮かれていたからかもしれない。 それはともかく、資料室はこれから整理しないと足場もない状態だ。 ダンボールに関しては廃棄するしかないかもしれない。 ドームを組み上げるのは苦労したし、躊躇してしまうが、こればかりはしょうがなかった。 天クルの皆さん、ごきげんよう 姫榊がノックもせずに入ってきた。 なんの用だよっ あら、忘れたのかしら。今日は天クルの廃部が決定する運命の日だっていうのに 勝手に廃部って決めつけないでよっ じゃあ聞くけど、部員は六人集まったの? 明日歩はうっとうめいてあとずさる。 部員は五人のままだった。 ポスターの効果もビラ配りの反応も結局なかった。 そして蒼さんからは、まだ入部の意思を聞いていないのだ。 だからプラネタリウムが成功したのかはわからない。 蒼さんの願いが叶ったのかはわからない。 気になってはいても、誰もそのことには触れていない。 俺たちのやるべきことは、蒼さんの答えを待つこと、それだけだったから。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 今度は我が妹が慌ただしく登場だ。 蒼ちゃんが天クル入ってあげるってっ、その代わりまたプラネタリウム見せて欲しいってっ、入部届渡してくれって頼まれたから持ってきたよ! おおーっ! と歓声が上がった。 千波としてはオカ研に入って欲しかったんだけどお兄ちゃんに譲ってあげるよっ、なんたって今日の千波は超ご機嫌だからねっ そう言って千波はテストの答案を掲げて小躍りした。 ほらほら見て見てお兄ちゃんっ、きれいに全部30点だよっ、全教科赤点じゃないんだよっ、せっかくの夏休みに補習受ける人がほんと哀れで仕方ないね! よくやったな、千波 言葉は激励なのに手がぐりぐりしてるよお兄ちゃんっ、しかもいつにも増して強烈に!? ……なんなのよ、まったく 喜びあう天クルのみんなを横目に、姫榊は毒づいていた。 せっかく、部外者も部活に参加できる案を通してあげたっていうのに みんなを驚かせてやろうと思ったのに。そのあとに恩でも着せてやろうと考えてたのに これじゃ、わたしひとりバカみたいじゃない…… その声は小さかったが、ちゃんと耳には届いていた。 ありがとうな、姫榊。 この借りは、いつか必ず返すから。 ふーん。そんなことがあったんだ まあな。いろいろ大変だったよ それで木曜日と金曜日は展望台に来なかったんだ ああ 土日は来れたのに来なかったんだ ……蒼さんが気になって、忘れてた ………… 悪かったよ ……なんで謝るの まあ、なんとなく ……今日のあなたはバカバカね なあ、メア 一歩近づくと、メアはびくっとして一歩しりぞく。 ……なんで逃げるんだよ ま、また変態なことするんでしょっ なにもしないって どうだか…… 答え、聞きたいと思っただけだよ ………… 俺たちの天クルに、入ってくれないか? 俺は手を差し出した。 俺と一緒に、また望遠鏡を覗かないか? メアは迷っていた。 手を伸ばそうか悩んでいるようだった。 その手には、以前に渡した入部届がある。 ……わたしは、死神なのに ああ 死神は、人間と馴れあうことなんてしないのに ああ 死神は…… そしてメアの入部届が、ためらいがちに、ゆっくりと俺の手に伸びてきた。 死神は、雲雀ヶ崎の星空が、好きだから…… 真っ赤になって、ぼそぼそと言った。 俺は、メアの名前が書かれた入部届を受け取った。 それから、もう片方の手を伸ばした。 だから……ちょっとくらいなら、あなたたちのそばにいても、いいかなって…… あなたのそばに、いてもいいかなって…… 一緒に望遠鏡、覗いてあげてもいいかなって…… 万華鏡の光を、眺めるのも、いいかなって だってわたし、まだ万華鏡、見たことないんだから 補習一日目、やっと終わったね~ はあ…… ……まだ落ち込んでる。いいかげん現実を見つめなきゃダメだよ 見つめたからさらに落ち込んでるというのに。 補習は午前で終わるので、空には太陽が真南に昇っている。 気温も真夏日といった感じで、俺たちは手をうちわ代わりにしながら長い坂を下っていた。 洋ちゃん、今日はバイト出られそう? そうだな。午後からは予定ないし、そっち行くよ やった なぜだかVサイン。 テスト前にやってたみたいに、バイト終わったらそのまま星見したいね~ 天クルの活動したいのはやまやまなんだけどな しかし俺たちはまだ屋上のカギをもらっていない。 屋上の使用許可が下りないのだ。 部員はめでたく確保でき、廃部を免れるのは決定的なのだが、じゃあ天クルは部として認められたかと言えばそうでもない。 決定を下すのは二学期の部活会議の場だと、姫榊に釘を刺されているのだった。 だから俺たち天クルは今もってサークルであり、せっかくの夏休みなのに満足な活動ができるかどうか怪しかった。 あたしはふたりで星見でもぜんぜんいいよ それじゃ部員集めた意味がないだろ そんなことないよ。今度からは堂々と胸張って部室に望遠鏡置いとけるし 実際に胸は張らないで欲しい。 それにこももちゃんから嫌味言われなくなるし、飛鳥くんにも自慢できるし どうでもいい理由ばかりな気がする。 でも、どうせならみんなで天体観測したいじゃないか ……それはそうかもだけど 明日歩はどこか歯切れが悪い。 あんなに勧誘がんばってたのに、うれしくないのか? うれしいに決まってるよ。だって天クルがちゃんと残ってくれるんだもん あたしの代で終わらなくてすんだんだもん でもね、と明日歩は続けて。 あたしはね、結局、星を見上げられるんだったらそれでいいのかもしれない 誰かと一緒に星を好きでいられたら、それでいいのかもしれない 明日歩は空へと瞳を細める。まだ見えない星を探すように。 自分勝手な副部長だな そうだね。だから内緒にしといてね あたしと洋ちゃんのふたりだけの秘密ってことで ふざけた調子でそう言った。 今度、星見するか ……今度なんだ。今夜じゃなくて 俺、姫榊にかけ合ってみるから。部になるのが二学期でも、屋上のカギくらい早めに貸してくれるかもしれない むー お手 犬扱いしないでっ あと、登校日ってあったよな。八月十日だったと思うけど うん、たしか金曜日だよね その日に部活会議できないか交渉してみるよ ……洋ちゃん、熱心だね なんで不機嫌なんだよ そんなことないもん 犬化しているのが証拠だが。 とにかく、夏休み中に天クルが活動できるようにしたいんだよ ……なんでそこまで熱心なんだろ それなら理由はひとつだ なに? 俺も、星が好きだからだよ 明日歩とだけじゃない、蒼さんともメアとも、天体観測をしたいからだ。 俺からしたら、天クルの存続が決まってからの明日歩のほうが変に見えるけどな ……あはは よくわからない笑い。 だってさ……なんていうかさ、洋ちゃん…… 明日歩は言いよどんでから、 あたしとふたりじゃ、嫌なのかなって…… 俺がなにか返答する前に明日歩は続けた。 あはっ、気にしないで。そういう意味じゃないから 明日歩は手をぱたぱた振っていた。 夏休み中にも天クルの活動できるなら、あたしもやりたいって思うよ 強引に話題を戻された感じ。 ただ、そんな簡単じゃないと思うよ。相手はこももちゃんだし まあ、いざとなったら蒼さんからカギ借りるよ 蒼さん、なんでカギ持ってるんだろうね 今度聞いてみるけど、たぶん学校から借りたのとは違う気がするな だよね。一般生徒に貸したままなんて、許可されるはずないし だから蒼さんからカギを借りて屋上に出たとしても、それは天クルの活動とは言えないかもしれない。 誰かに見咎められたら、せっかく勝ち取った正式な部の座も取り消されそうだ。 展望台を内緒で使うのと状況は変わらなかった。 最終的には、姫榊を頼ることになるんだろうな 借りを返す前にまた借りを作るのは心苦しいのだが。 生徒会には入らないでね それは保留ってことで むー 自宅に着いたところで、明日歩が言った。 お昼、うちで食べない? いいのか? うん、もちろん また明日歩の手料理だろうか。 ごちそうになりたいんだけどな…… 断るのは悪いと思うが、前回と違って今日は補習もあったし、明日歩は徹夜で料理の準備をしていたなんてことはないだろう。 むしろそう願う。 なにか用事? 家で千波が腹空かせて待ってるんだ 千波ちゃんもうちで食べればいいよ そうなると千波がバイトを手伝うというコンボが決まる。 なので却下だ えー わがまま言うんじゃない ……あたしの厚意がわがまま扱い 次はごちそうになるから 絶対だからね ああ それじゃ、お店で待ってるね 最後には機嫌を直して、明日歩は帰途についた。 何度も断るのは悪いので、次からは事前に昼飯を用意してから補習に行こう。 そうすれば千波が飢えることもない。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、おかえりなさ──い! 飢えた千波のお出迎えだ。 千波お腹空いたからこれからご飯作ろうと思うんだけどなにが食べたいかなお兄ちゃんっ 飢えた千波はこのように惨事を起こす確率を飛躍的にアップさせる。 なんでもいいのか? うんっ、千波が作れる料理ならねっ 地球上の料理じゃ無理だしな…… 考えのスタート地点がおかしいよお兄ちゃん!? まずはヒントをくれ そこまで思いつくのが難しいの!? じゃあ千波の作らない料理で頼む 千波が作れる料理が千波の作らない料理って意味不明だよお兄ちゃん!? つまりおまえはキッチンに立たなくていい いつもいつも着地地点が同じ気がするんだけど!? 今作るから待ってろよ 待つのはお兄ちゃんだよっ、千波がご飯作るんだから! 人が下手に出てりゃなにつけ上がってんだ? 千波の厚意がとんでもない扱いに!? 詩乃さんも起きてくるだろうし、すぐ作るか だったらふたりで作ったほうが早く終わるよっ プラスにマイナスを足してもかけてもプラスにはならないぞ? ほんと失礼極まりないよこの人!? さて作るかな お兄ちゃんのバカ──────っ!!! 洋ちゃん、千波ちゃん 昼飯を食べ終えたあと、家を出る前に詩乃さんに呼び止められた。 夏休みに入ったし、ふたりにお小遣いあげるわね そう言って封筒を渡してくる。 いや、小遣いなんて…… ありがとうございまーす! 千波は素早く受け取って中身を開けた。 わっ……こんなにいいんですか? 三万円も出てきた。 洋ちゃんはお兄ちゃんだから、五万円ね ……いや、お年玉じゃないんですから そんなに受け取れるわけがない。 姉さんがどのくらいあげてたか聞いてなかったから。少なかったら言ってね? これだけあれば充分ですっ というか気持ちだけで充分ですから いらないんだったら千波がもらうねっ 千波の手元に八万円が行き渡る。 お兄ちゃんっ、千波これまで生きてきてこんな大金一度に手にするの初めてだよっ、夢みたいな気分だよ! 取り上げて詩乃さんに返す。 一瞬にして夢が散ったよお兄ちゃん!? おまえにはあとで俺が小遣いやるから 遠慮なんてしなくていいのよ? いえ、母さんの貯金がありますから。詩乃さんこそ気にしないでください 詩乃さんは残念そうにしていた。 じゃあお兄ちゃんっ、千波にお小遣いちょうだいっ それくらい我慢しなきゃダメだろ さっそく約束反故にしようとしてる!? 千波ちゃん、はい また八万円が千波に渡る。 夏祭りもあるし、お兄ちゃんと一緒に使ってね? はーい! いや、だからこんなにはさすがに…… 洋ちゃん 詩乃さんが言葉をさえぎる。 これはね、いつも食事を作ってくれてるお礼も兼ねてるの それこそ受け取る理由にならない。食材は詩乃さんが買ってきてくれているのだ。 多いと思ったら、貯金してね。返しに来てもまた千波ちゃんにあげちゃうからね 詩乃さんは俺に言い返す暇を与えず、仕事部屋に戻っていった。 お兄ちゃんっ、千波これからお買い物いってくるねっ 没収 鬼だよこの人!? これで足りるか? 福沢諭吉八人のうち、二人を渡す。 わっ、お兄ちゃんにしては太っ腹 おまえの生涯賃金だからな それだと少なすぎるよ!? 一般人の生涯賃金が二億円だし妥当だろ なのに千波は二万円なの!? 一万分の一だな それが千波の生涯なの!? 太く短く生きるんだぞ それどころか千波もうゾンビだよ!? それくらい我慢しなきゃダメだろ 我慢の限度もいいところだよ!? 残りの金は貯金することにしよう。 今後は、毎月小遣いやるようにするから。詩乃さんにねだって迷惑かけないように はーい! 無駄遣いはするなよ わかってるよっ、今どうしても必要なのは探偵グッズくらいだからねっ ……なんだよ探偵グッズって 都市伝説の謎を暴くための張り込み用のグッズだよっ 没収 千波の生涯賃金が!? 張り込みって、前に言ってたヒバリ校の張り込みだよな そうだよっ、夏休みに入ったから今度オカルト部長と深夜の校舎を探検だよっ 却下 なんでなんでっ、夏休みならいいって言ったのに! それよりおまえは夏休みの宿題があるだろ 補習の人に心配される筋合いはないよっ 誰のせいだと思ってんだ? 千波のせいじゃないのになんでぐりぐりされてるの!? とにかく、夜の校舎に死神は出ないんだよ なんでお兄ちゃんが断言できるのっ 正体は蒼さんだったと話していいものか迷う。言いふらして欲しくないだろうし。 蒼さんが学校側に内緒で屋上を使っていたのだとしたら、なおさらだ。 死神を調べたいんだったら、メアに直接聞けばいいんじゃないか? 最有力候補なんだし でもでもっ、オカルト部長と一緒に展望台いってもメアちゃんに会えないんだもん! 俺が聞いておいてやるから どうやってメアちゃんに会うの? ……方法は、できれば話したくなかったんだけどな。 メアはな、夜にしか展望台に来ないんだよ あ、そうなの? ああ。それも晴れた夜限定だ。メアって星が好きみたいでさ、いつも星見に来てるんだよ メアちゃん、熱心に望遠鏡覗いてたもんね 納得したようだ。 でも、夜にひとりでメアと会いにいこうとか考えるな。会いたいなら、絶対に俺を誘え なんで? なんでもだ 展望台は立ち入り禁止区域だし、それでなくとも夜道をひとりでは行かせられない。 オカルト部長とふたりだったら? ダメだ なんでなんでっ とにかくダメだ ……べつに虫を駆除したいわけじゃないからな。 ふくれる千波に二万を返す。 じゃあ今夜展望台いこうねっ わかったよ。その代わり、校舎の張り込みはするなよ それはわからないよお兄ちゃんっ、千波の宇宙人捕獲大作戦は時にどんな犠牲を払うことも厭わないんだから! ならまずおまえが犠牲になれ その前にこのぐりぐりの犠牲の対価が不明だよお兄ちゃん!? なにはともあれ、今夜も展望台行きは確定のようだった。 バイトのため、明日歩の喫茶店に向かっている途中のことだった。 たく……いいかげんこのポンコツにもうんざりね 炎天下の中、汗だくになってスクーターを押している人がいる。 近くにバイク屋もないし、最悪だわ…… エンストなのかタイヤのパンクか、スクーターに乗れなくなったようだ。 もともと人通りは多くない小さな駅だが、時間帯が悪いのかちょうど誰の姿も見かけない。 ………… ……と思ったら、ひとり発見。 というか、カーディガンの彼女じゃないか。 見かけるのは三度目だった。 ………… 彼女は距離が離れたところから俺を見ている。 俺は辺りをきょろきょろする。近くに人はいない。 バイクの人とは場所が外れている。 だから間違いない、彼女は俺だけを見ている。 ………… 彼女は不意に腕を持ち上げる。 弾みでカーディガンの前が開くと、私服が覗く。 それはパジャマにしか見えなかった。 ………… 彼女は指で自分を指し示した。 それから、人差し指を交差させてバッテンを作る。 ……な、なんだ? ジェスチャーだろうか。 ………… 彼女はさっきの仕草をもう一度繰り返す。 ええと、なんだ。 自分は? ダメ? 彼女は続けて、俺を指で指し示す。 それからバイクの人を指差してから、右手でOKサインを出した。 ……今度はなんだ。 彼女は謎の仕草をもう一度繰り返す。 俺が? 彼女を? 助けろ? えらいね。うん、えらい 風に乗ってそんなつぶやきが耳に届いた。 そして立ち去っていく。 誰なんだろう、彼女は。 なぜ俺は気にしているんだろう。 ひどく落ち着かない。 なんだろう、これは。 うずく。 そしてなにかがわめいている。 まさか…… 少女の姿はもう見えない。 どこに消えたのかはわからない。 視界の隅で捉えていたバイクの人も遠ざかっている。 ……わかったよ、助ければいいんだろ。 必然的に俺が声をかけることになる。 あの、手伝いましょうか? ハンドルを握ったまま、その人は首だけでこちらを向く。 歳は詩乃さんと同じくらいだろうか。 ただ詩乃さんとは違って気の強そうな印象だ。 助かるわ。じゃあ後ろから押してくれる? はい 荷台に手をかけて、バランスを取りながら押し進める。 座席の下に荷物が入っているのか、思ったよりも重い。 商店街で買い物した帰りだから。重くて悪いわね いえ、困ったときはおたがいさまですから あはは、あんたいい子ね。見ない顔だけど、雲雀ヶ崎に住んでるの? はい。先日引っ越してきたばかりですけど なるほどね 小河坂洋って言います。よろしくお願いします 礼儀正しいわね。私の若い頃とは正反対だわ 今でも若く見えますよ うれしいこと言うわね。だけどあんたくらいの歳の子から社交辞令もらうと嫌味にも聞こえるわ ……そんなつもりじゃ あはは、変に大人ぶらなくたって、ガキはガキらしくしてるのが一番よ 諭されてしまった。 この街、どう? 外から来たんじゃ住みにくいんじゃない? 不便なところもありますけど、前にも住んでたんで 出戻りなんだ。めずらしいわね そうなんですか? 引っ越す連中は不便な環境に嫌気が差して出ていくのが普通だからね。戻ってくることはないでしょ なんていうか、寂しいですね あんたはこの街が好きみたいね はい 素直な返事ね。あんたみたいな子がいるんなら、この街もまだまだ捨てたもんじゃないのかもね こんなふうに会話を交わしている途中で、聞くのを忘れていたことを思い出す。 そういえば、どこまで押していけばいいんですか? 悪いんだけど、私の家までお願い どこらへんですか? 隣町よ てっきり雲雀ヶ崎の住民かと思いきや、そうじゃなかった。 隣町は運河を越えた先にある。 雲雀ヶ崎よりもずっと都会のその街は距離的には近いが、街の面積もまた広いのだ。 彼女がスクーターで来ているというのが不安を誘う。 私より若いんだから、頼りにしてるわよ その言葉がすべてを物語っている気がした。 そして、目的地に着くまでに一時間かかった。 気候がよければ大した時間じゃないのだろうが、なにぶん夏真っ盛りなので体力をかなり消耗した。 車庫にバイク入れてくるから、ちょっと待ってて。お礼もしたいから 結局俺よりも元気だった彼女は、手伝いなんてなしでもノンストップで帰宅できたのだろう。 俺は石段に座って息を整える。 しかし、自宅というのが神社だったのには驚いた。 俺はこの辺の地理には雲雀ヶ崎以上に詳しくない。隣町に神社が建っていたこと自体、知らなかった。 鳥居を見上げると「〈星天宮〉《せいてんぐう》」とある。 初めて聞く名だし、有名じゃない地方神を祀っているんだろう。 にしても、暑いな…… 日陰を探して境内を散策する。 緑が多いためだろう、セミの大合唱が耳に痛い。 片耳をふさぎながら、俺はバイトに出るのが遅くなると明日歩にケータイで連絡した。 こういうとき、労働時間が適当というのはありがたい。 ちなみに終業式の日に連絡網を作ったので、天クルメンバー全員の番号もアドレスも登録済みだ。 電話越しの明日歩は不満そうだったが、事情を話したら納得してくれた。 しかも、えらいえらいと誉められた。 バイトの先輩風からか、明日歩は時折こんなふうにお姉さんぶるようになっている。 展望台の彼女を思い出し、ドキッとすることもある。 そしてケータイを切ってポケットに入れたとき、俺は我が目を疑った。 電話をしていたために気づくのが遅くなった。 境内は無人じゃなかった。 巫女さんがひとりいた。 燦々と照る太陽の下で、手にあるひしゃくを使って水を撒いている。 打ち水というやつだろう。 彼女の一帯だけは、真夏の暑さから逃れていた。 冷気を求めて自然に足が誘われる。 ……なっ 向こうも気づいたようだった。 あいさつ代わりに手を上げると、姫榊は嫌な姿を見られたと言わんばかりにそっぽを向いた。 ……なんで小河坂くんがいるのよ ちょっと参拝に 本気? ウソ でしょうね、誰が好きこのんでこんな真夏日にお参りなんかするのよ 夏祭りもまだ先だっていうのに ぱしゃぱしゃと水を撒く。 巫女に打ち水に、夏の風物詩といった感じ。 姫榊って、巫女だったんだな 家がたまたま神社だっただけよ。おかげでこんな面倒な仕事まで手伝わされてるわよ 明日歩と対抗できるな メイドなんかと一緒にしないで 職業に貴賎なしだろ うるさい って、足に水かかりそうだったぞっ 近くに立ってるからよ。というか、さっきも聞いたけどなんでここにいるのよ スクーター押すの手伝ったら、ここに着いたんだよ ……スクーターって、お母さんの? やっぱり姫榊の母親か 気の強そうなところがそっくりだ。 とすると、こさめさんの母親でもあるわけで、こさめさんの性格は父親寄りなのかもしれない。 あのスクーター、古くてね。いつか壊れるとは思ってたんだけど タイヤのパンクじゃなかったから、やっぱエンジンのほうか お母さんは? 車庫にいる。なんかお礼してくれるらしくてさ、戻ってくるの待ってるんだよ お礼なら、わたしの代わりに打ち水やってよ ……べつに手伝うくらいならいいけどさ あ、ほんとに? ああ。どのくらい撒くんだ? 境内全域にまんべんなく ……そろそろ帰るかな 冗談よ。石畳の周辺だけでいいから、よろしく 待った待ったっ、ひしゃくあずけてどこ行くんだよっ 手伝ってくれるんでしょ? 俺に全部押しつけないで自分もやれよっ 押しつけてなんかないわよ。水が足りなくなってきたから、予備の桶に汲んでくるだけ 姫榊はなんだかんだで生真面目なんだった。 水なら俺が汲んでくる。力仕事だしな じゃ、お言葉に甘えて 場所は? 鳥居の近くに清めの水があるから ……いや、打ち水に使うもんじゃないだろ その近くの蛇口から水道水も出るから 了解 姫榊は空いていた手桶を俺に渡すと、打ち水を再開する。 小河坂くん、南星さんのところでバイトしてるのよね そうだけど。それが? うちでもバイトしてよ。わたしが手伝いの当番のときだけでいいから ……なんか明日歩と違ってこき使われそうだから、やめとく 打ち水と掃除を押しつけるだけよ 夏祭りってこの神社でやるんだよな そうだけど 屋台のバイトだったらおもしろそうだな それはこっちじゃなくて、町内会の管轄だから じゃあ姫榊は夏祭り、なんの仕事するんだ? ………… 姫榊は答えなかった。 代わりに水が飛んできた。 なんでだよっ いいから、さっさと水汲んできてよ 行こうとしたらそっちが話しかけたんだろっ ……ふん すぐ汲んでくるから 当たり前 俺は桶を手に歩き出す。 あーあ、早く家に入って涼みたーい 文句の多い巫女だった。 打ち水が終わってから、神社の近くに構える姫榊の自宅にお邪魔した。 悪かったわね、こももの手伝いまでさせちゃって 彼女は姫榊〈万夜花〉《まやか》さんというらしい。さっき名前を教えてもらった。 暑かったでしょ。今麦茶持ってくるから 万夜花さんが台所に消えると、入れ替わりで姫榊が居間に入ってきた。 まだ帰ってなかったのね なんかさ、お茶でもどうぞって言われて お礼って言ってたものね 姫榊は私服に着替えている。本日のお務めは終了らしい。 部屋の冷房が利くまで、わたしもここで涼んでるわ 正面の座布団に腰を降ろした。 姫榊って雲雀ヶ崎に住んでるんじゃなかったんだな そうよ。だから電車で通学してるんじゃない といっても、このあたりは雲雀ヶ崎の延長線上みたいなところだけどね。風景もあんまり変わらないし この隣町は都市と評して差し支えないが、神社の周辺は中心部から外れているためか、とてものどかだ。 雲雀ヶ崎から離れてないし、万夜花さんみたいにバイク使ってもいいんじゃないか ヒバリ校はバイク通学も自転車通学も禁止。夢見坂の勾配を考えれば妥当でしょうね まあ自転車じゃ、あの坂はかなりきついか 俺は原付免許を持っているので、バイク通学は魅力的だったのだが。 校門前にバス停でもあればよかったんだけどね バスが走っても、利用者はヒバリ校の生徒くらいになりそうだけどな 観光地のはずの展望台は立ち入り禁止だしね ただ、涼しかったらまだしも、この暑さであの坂を歩くのはね…… 気持ちはわかる。登校日が今から憂鬱だよなあ と、思い出した。 登校日にさ、生徒会のミーティングって開けないか? ……なによ、やぶからぼうに 可能か不可能か。どっちだ? どっちって聞かれたら可能になるけど……ていうか、なんか嫌な予感がするんだけど さすが姫榊、話が早い それはどうも。だから却下 話が早すぎて困る。 どうせ天クルの関係なんでしょ? ご名答 念を押すけど、わたしは天クルが嫌いだからね 俺は姫榊が公私混同しないことを知ってるから 盛大にため息をつかれる。 はぁ……天クルはめでたくサークルから部に変わった。これ以上、生徒会になにを求めるっていうのよ 屋上の使用許可を求めたい 二学期になったら許可してあげるわよ。制限はつけるつもりだけど 二学期じゃ遅いんだ。夏休み中にお願いしたい ふざけないで 至ってマジメだ 夏休みは生徒会だって休みなのよ だから登校日にお願いしたいんだ 天クルは部活会議を経てから正式に部として認められる。その部活会議は二学期に行われる。わかるでしょう 暫定的に屋上の使用許可だけもらえればいいんだ そんな例外は認められない 部外者の部活参加は認めてくれたじゃないか 誰のおかげだと思ってるの 姫榊のおかげだ。だからまた姫榊にお願いしたい 図々しいと思わないの 思う。だからこの借りは必ず返す じゃあ境内の打ち水と掃除よろしく 打ち水はもうやったし、あとは掃除だな 夏休み中ずっとよろしく 理不尽だ。 もしくは、生徒会に入りなさい わかった 姫榊は目を丸くした。 ちょっとっ、今まで断ってたのはなんだったのよっ 正直、俺に委員会は向いてない。だから断ってた だけど、姫榊が条件を飲んでくれるなら、生徒会に全力を尽くしてもいいと思った ……そこまで天クルが大事なの? 大事だ 二学期まで待てないの? 待てない どうして? 理由はいろいろあるけど、あまり言いたくないな 言いなさい 不遜に追求してくる。 理由を話すとなると、メアについて説明することになる。 そして最も大きな理由を話すとなると、展望台の彼女まで説明することになってしまう。 からかわれるのが目に見えていた。 やましい理由だったら、なおさら許可するわけにはいかないわね ……やましくはないんだけどさ なら話せるわよね どうしたものか。 姉さん、詮索は悪趣味ですよ ……フォロー役がいいタイミングで登場したわね こさめさんがやって来て、姫榊の隣に腰を落とした。 小河坂さん、こんにちは ああ。お邪魔してるよ 姉さんも隅に置けませんね ……なにをどう勘ぐったのか知らないけど、小河坂くんを招待したのはわたしじゃないわよ お、みんな勢揃いしてるわね 万夜花さんが麦茶を俺たちに配って回る。 ていうか、こさめの分も配ったら私のがないじゃない その分は、わたしが持ってきますね こさめさんが台所に消えると、その席に万夜花さんが座った。 あんたらの話し声、聞こえてたけど。やけに懐かしい話してたわね ……懐かしい? ああ、こももには話してなかったか 万夜花さんは麦茶を一口飲んでから、 私、ヒバリ校のOGなんだけどさ。その頃、天文部に入ってたのよね 姫榊が持っていたコップを落としそうになった。 そ、そうなの? ええ。うちの神社は〈天津甕星〉《あまつみかぼし》を〈祀〉《まつ》ってるわけだし、跡取りだった私が天体観測に興味持ってたとしても驚くことじゃないでしょ 天津甕星というのは地方神の名前だろうか。 むしろ星嫌いのあんたのほうが異端だと思うけどね ……ふん 小河坂くんだったわよね。今の天文部って、天クルなんて名前に変わったの? あ、はい。部員数が足りなくて、部じゃなくてサークルになってたんです でも、また部として認められたんですよ こさめさんが戻ってきた。 小河坂さんが部員を勧誘してくれたおかげですね こさめさんだって協力してくれたじゃないか ふたりとも天クルに入ってるわけね。どう、部活は楽しい? 今までも楽しかったですけど、今後はもっと楽しくなりそうです 本格的な活動はこれからだしな 青春の謳歌って感じね ………… そんなふて腐れた顔してないで、あんたも入ったらいいじゃないの ……冗談。巫女してるだけでうんざりなのに 姫榊は立ち上がって居間を出ようとする。 姉さん、お部屋に戻るんですか? ええ。課題でもやってるわ そんなの昼間っからやらなくてもいいじゃないの わたしは計画的に進めてるだけ 勉強なんか社会に出てからなんの役にも立たないのに お母さんと一緒にしないで あんた、いちおうこの神社の跡取り候補なんだけど 継ぐつもりないから つきあい悪いわね 長女だからってそこまでつきあう義理はないから そっちじゃなくて、客人の相手のほう 小河坂くんを連れてきたのはお母さんなんだから、わたしは関係ないでしょ 小河坂くん、こももの赤裸々アルバム見る? なによそれは!? ただの家族のアルバムよ なんでそんなの持ち出すのよ! こももの話題で盛り上がろうかなと だからわたしは関係ないでしょ!? 小河坂さん、これが姉さんの去年の夏祭りのときの写真で…… やめんかっ! 写真を拝む前に取り上げられる。 じゃあこももの幼い頃の赤裸々秘話で我慢しとくか 小河坂さんは何歳の頃の姉さんを聞きたいですか? ……なにがどうあろうとわたしをここから出さないわけね 賑やかな家族だった。 お茶を一杯いただいたあと、姫榊の家を出た。 明日歩が待っているし、長居はできないのだ。 小河坂くん、詩乃って知ってる? 最寄りの駅まで送ってくれる万夜花さんが、そう聞いた。 ……詩乃さんですか? やっぱり知ってるんだ 叔母にあたる人ですけど…… 詩乃が結婚したって話は聞いてないしね。苗字を聞いたときはまさかって思ったけど 俺もまた、違う意味でまさかと思った。 詩乃さんもヒバリ校出身なんですか? ヒバリ校で卒業アルバムを調べていたときに、同姓同名の生徒は見つけていたのだが。 そうよ。知らなかったんだ 詩乃さんは話す素振りもなかったし、俺からも聞いたことはなかった。 ただ、少し考えれば道理だ。 母さんはヒバリ校に通っていたのだから。 じゃあ、詩乃さんと同級生だったんですか? ううん、詩乃は私よりふたつ年下だから。学年が違うから、クラスも違った でも、と万夜花さんは続けて。 天文部では、一緒だったけどね バイト始めが遅くなった分、終わりも遅くなってしまった。 マスターは夕方には上がっていいと言ってくれたのだが、昼時の混雑を手伝えなかった分、夕方時の混雑くらいは仕事をしたかった。 給料は月末に振り込まれるし、そのくらいは働かないと申し訳が立たない。 あっ、お兄ちゃん。お帰りなさーい リビングに入ると、声をかけてきたのは千波ひとりじゃなかった。 こ、こんばんはです。お邪魔してます ……どうも お、三人で遊んでたのか ……千波さんに、鈴葉を拉致られました そ、そうじゃないよお姉ちゃんっ。千波さんが誘ってくれただけだよっ ふたりで遊んでたら蒼ちゃんが迎えに来たんだよっ ……迎えじゃなくて助けに来た な、なんでそんなこと言うのお姉ちゃんっ 天クルに入部してくれた蒼さんなのだが、これまでと違って態度を軟化する、ということはないようだ。 蒼さんらしいとも言えるので、特に不満があるわけじゃなかった。 洋ちゃん、おかえり 詩乃さんがキッチンから顔を出す。 お夕飯の用意できたけど、衣鈴ちゃんと鈴葉ちゃんもよかったら食べていってね ……あ、いえ 詩乃さんっ、千波も運ぶの手伝いますっ 蒼さんが断る間もなく、千波はすっ飛んでいった。 千波の手によりダイニングのテーブルに夕食が並んでいく。 ……あの、誰も食べるとは お、お姉ちゃん 鈴葉ちゃんが蒼さんの服の袖をひっぱる。 ……鈴葉は、食べたいの? 鈴葉ちゃんはおずおずとうなずく。 親御さんはいいのか? え、えと、うちの両親は、どちらも仕事で帰りが遅いですから。お姉ちゃんがいつも夕食作ってくれてるんです じゃあ蒼さん次第ってことか。 ……鈴葉が食べたいなら、つきあいます 蒼さんは妹に甘いようだ。 両親が留守がちだと、家事とか大変そうだな ……親に関しては諦めてますから。バカップルですし バカップル? お父さんとお母さん、とても仲がいいんです。仕事もおんなじで、家でも外でもいつも一緒にいる感じで だから、悪く言うと子供には放任主義で、良く言うと自由にさせてくれるんです だったら毎晩うちでご飯食べていけるねっ ……それはさすがに 私は大歓迎よ 千波も大歓迎だよっ ……待ってください 急な話だし、蒼さんが困惑するのもわかる。 鈴葉ちゃんがまた蒼さんの袖をひっぱった。 ……食べたいの? こくんとうなずく。 みんな優しくて、楽しいから…… 鈴葉…… で、でも、迷惑だったら我慢する 迷惑なんかじゃないわ。鈴葉ちゃんが言ったとおり、大人数で食べたほうが楽しいものね じゃあ決まりだねっ ………… 蒼さんを歓迎する 蒼さんを歓迎する 黙認する 蒼さんだけだぞ、渋ってるの ……渋りもします 夕飯を一緒するだけじゃないか ……先輩も賛成なんですか 当たり前だろ ……なぜ当たり前なんでしょう 蒼さんと鈴葉ちゃんを歓迎したいからだ ……答えになってません どう感じたのか、蒼さんは複雑な顔だった。 俺も賛成はするのだが。 ……食費の心配をしてしまう俺は、心が狭いのだろうか。 あの、詩乃さん なに? 両親に言って、食費は払うようにしますから、鈴葉だけでもお邪魔させてもらって構いませんか 食費なんていらないわ でしたら、遠慮させてもらいます 詩乃さんは軽く吐息をついた。 衣鈴ちゃん、誰かさんに似てるわね 俺を見ないでください詩乃さん。 じゃあ、お金に関してはご両親に私から話しておく その代わり、鈴葉ちゃんだけじゃなくて、衣鈴ちゃんも一緒だからね ……それは お姉ちゃんも一緒がいい…… 鈴葉ちゃんがすがるような目で見ていた。 一緒じゃなかったら、わたしも我慢する…… ……わかった 蒼さんが折れた。これで決まりのようだった。 ご迷惑おかけしますが、今後もよろしくお願いします これで蒼ちゃんと鈴葉ちゃんは親友からさらにランクアップで千波の家族も同然だねっ ……死ねばいいのに お、お姉ちゃんっ、そんなこと言っちゃダメだよっ いいんだよ鈴葉ちゃんっ、千波の耳にはしっかりくっきり蒼ちゃんの心の声が聞こえてたからねっ ……ありえない 蒼ちゃんは千波も鈴葉ちゃんも大好きだからねっ ありえないって言った え…… あ、ううん、鈴葉は大好き 千波のことも大好きなんだよっ 死ねばいいのに そ、そんなこと言っちゃダメだよっ 会話がループしている。 賑やかな食卓になってうれしいわ 先行きが不安なところもあったりするが、それも含めて詩乃さんに同意だった。 お兄ちゃん、約束忘れてないよね? 賑やかな夕食後、リビングでくつろぎながら千波が言った。 展望台に行きたいんだろ うんっ。蒼ちゃんと鈴葉ちゃんも誘いたいなっ 千波はこう言ってるけど、どうする? ……それって、夢見坂の頂上にある展望台ですか? ああ。立ち入り禁止だから、無理には誘えないけどな なにしに行くんですか? 夜になるとそこに死神さんが出るんだよっ、これからお話ししてこようかなって 死神……? 都市伝説の、アレ? 千波がそれを確認したいらしくてさ お姉ちゃん、都市伝説って? あ、うん。ヒバリ校に、恋人の仲を裂くっていう死神の噂が広まってるの あら。その噂、まだ残ってるのね 詩乃さんがお茶を持ってきた。 詩乃さんも知ってるんですか? ええ。懐かしいわね ヒバリ校出身なんですよね? そうよ。話したかしら? 今日、たまたま知ったんです。駅前で万夜花さんって人に会って 詩乃さんは「そう」とうなずいて、近くに座った。 万夜花さん、元気だった? 駅から自宅までスクーターを押して帰るくらい元気でしたよ ねえねえお兄ちゃん、万夜花さんって誰? こさめさんの母親だよ 千波は姫榊とはまともに会ったことがないと思うので、こさめさんの名だけ出しておいた。 それと、私の先輩でもあるのよ 天文部で一緒だったんですよね ええ 詩乃さんは懐かしむように相好をくずした。 天文部って……お姉ちゃんが入った天クルのこと? 話から察するに、その前身だと思う 洋ちゃんと千波ちゃんが話していたのを聞いたんだけど、衣鈴ちゃんも天クルに入ったんだって? ……とても遺憾ですが、そうです これからも、ふたりと仲良くしてね? 蒼さんはどう答えようか悩んでいた。 悩んで、結局なにも言わなかった。 詩乃さんが知ってる死神の都市伝説って、どんなのですか? これを機に尋ねてみた。 恋人の仲を邪魔するんじゃなかったかしら ほかには? ……どうかしら。私よりも万夜花さんのほうが知っているかもね そうなんですか? ええ。万夜花さんは神社の神主だし、オカルトには詳しいと思うから 折りを見て、万夜花さんから話を聞くのもよさそうだ。 お兄ちゃん、そろそろ準備して行かない? そうだな。あまり遅くなっても困るしな 展望台に行くのは、天クルの活動というわけじゃないみたいね あ、はい。もしかして、止めます? 私たちが活動していた頃は、展望台には入れたんだけど……。よくそこで天体観測していたから だけど、今は立ち入りが禁止されているからね たとえ詩乃さんが反対しても千波の宇宙人捕獲熱が冷めることはないんだよっ 詩乃さんは頬に手を当てて眉尻を下げる。 千波さんが行くなら、わたしも行ってみたいです…… す、鈴葉? もちろん鈴葉ちゃんも一緒だよっ させるわけない もちろん蒼ちゃんも一緒だよっ 鈴葉、もう遅い時間だし、そろそろ帰らないと え……で、でも 夏休みだし平気だよっ、展望台ってすっごく星がきれいで圧巻だから鈴葉ちゃんもきっと気に入るよっ は、はい。楽しみですっ 鈴葉、この女の甘言に耳を貸しちゃダメ この女扱いだ。 蒼ちゃんもきっと気に入るよっ あなたは黙ってて ふたりとも展望台が大好きになるよっ は、はい。楽しみですっ 鈴葉、お姉ちゃんの言うことが聞けないの? あ、あう…… 大丈夫だよ鈴葉ちゃんっ、千波の耳にはしっかりくっきり蒼ちゃんの心の大賛成が聞こえてたからねっ 適当言わないで は、はい。千波さんを信じますっ ……ちょっと待って じゃあ満場一致で決まりだねっ、これからみんなで展望台にレッツゴー! ……こいつだけは殺るしかない みんな落ち着けって。詩乃さん、俺が責任持って引率しますから、許してもらうわけにいきませんか? 展望台、入ったことあるの? はい。危険な場所じゃありません。立ち入り禁止になってるわりに簡単に入れますし でもあそこはね、昔、人身事故があったのよ それは、いつかにこさめさんからも聞いている。 どんな事故だったかは私も詳しく知らないけど、フェンスが建ったのはそれがキッカケなのよ 俺は、絶対にそんな事故は起こしません 私は仕事があるからついていけないけど、なにかあったらすべて私の責任にする。それが条件 ……それは、とても重い条件だ。 約束できる? できます 詩乃さんはため息をひとつついた。 ……星がきれいな場所というのは、同意だから あ、じゃあ 実はね、あそこを立ち入り禁止にしていることに抗議が集まっているって話もあるの。せっかくの観光地だしね だから、禁止が解かれて、整備が整うのを待って欲しかったんだけどね 詩乃さんは立ち上がった。 きっと、姉さんなら反対する。だけど私は、天文部員だったから…… 子供たちにも、もっと雲雀ヶ崎の星空を眺めて欲しいからね 詩乃さんは最後にほほえんで、仕事部屋に戻っていった。 ……メアちゃんに会いたいだけなのに、なんか大事っぽくなったね それはしょうがない あそこ、立ち入り禁止になってるのが不思議なくらいなのに? まあ認識の差っていうか、子供と大人の温度差だろうな いくら安全といっても、俺だってさすがに鈴葉ちゃんを連れていくことには迷いがある。 わたし、迷惑はかけません。お姉ちゃんのそばから離れません 絶対だぞ? は、はい。だから連れていってくださいっ ぺこっとお辞儀。 了解だ。じゃあみんなで夜遊びといくか わーい! ありがとうございますっ ……なんでこんなことに 蒼さんだけは終始不満げだった。 四人で家を出る。 展望台行きに明日歩も誘おうかと思ったが、星見というわけじゃないのでやめておいた。 私、望遠鏡取ってきます 蒼ちゃん、天体観測するの? わからないけど、いちおう 千波にも使わせてくれるとうれしいなっ 絶対ありえない 蒼さんは自宅に戻っていく。 窓からは明かりが漏れていない。まだ両親は帰ってきていないようだ。 お姉ちゃん、望遠鏡はわたしにもさわらせてくれないんです。とても大切なものみたいで 蒼さんが買ったものなのか? えと、わかりません。教えてくれないんです ……お待たせしました 蒼ちゃん蒼ちゃんっ、その望遠鏡って蒼ちゃんが買ったものなの? あなたには関係ない なんでなんでっ、千波たちもう家族なのにっ 黙れ下郎 お、お姉ちゃんっ、そんなこと言っちゃダメだよっ 蒼さんは誤魔化すように鈴葉ちゃんの頭を撫でていた。 屋上のカギについては聞いていいか? よくないです どうして持ってるんだ? よくないって言いました 望遠鏡、俺が持とうか? 結構です 明日歩がさ、望遠鏡を入れるキャリングケースを買ってあげるって言ってたぞ お気遣いなく 部費で買うから、遠慮しなくていいんだ 部費の支給は二学期に入ってからになりそうだけど。 それでも、お気遣いなく 蒼さん、もう天クル部員なんだぞ? それとこれとは話が別です 同じだと思うのだが。 それより、行くなら行きましょう あまり遅くなって、両親が帰ってきたときに私たちがいないと、捜索願でも出されそうです お父さんとお母さん、心配性だから…… そのわりに自分勝手なところが納得いかないんですけど だからこそ蒼さんは妹の鈴葉ちゃんに対して、しっかりしているんだろう。 鈴葉ちゃん、坂はきつくないか? は、はい。平気です 転ぶといけないし千波と手、つなごっ やめてさわらないで鈴葉が怖がってる こ、怖がってないよお姉ちゃんっ 蒼ちゃんも千波と手、つなごっ ありえない じゃあ蒼ちゃんはお兄ちゃんに譲ってあげるねっ、千波は鈴葉ちゃんとつなぐからっ 蒼さんと目が合った。 ……つないできたら大声上げますから やらないって 警戒され過ぎるのもショックだが。 望遠鏡くらいは持ってあげたいんだけどな べつに重くないですから 展望台に向かう途中でさ、林に入らないといけないんだ。そのときは手伝うから ……ウザい 蒼さんの毒舌にはいつまで経っても慣れそうにない。 ここから迂回するんですか? うん。千波が案内してあげるねっ ………… 怖くないよっ、大丈夫だよっ、そんなに暗くないから 木々は天井までは覆っていないので、晴れた夜であれば見通しも悪くない。 千波の手、離さないでね 千波が手を引き、ふたりで歩いていく。 それを心配そうに眺める蒼さん。 本当にひとりで大丈夫か? さっきからそう言ってます 望遠鏡抱えたままだと、前が見づらいだろ。俺も経験あるからわかるんだ しつこいです 蒼さんは聞く耳を持たず、千波たちを追った。 途端、根っこに足をつまずかせてバランスをくずした。 きゃっ…… 転ぶすんでのところで後ろから支えた。 ほら、言わんこっちゃな…… いやあっ! 突き飛ばされた。 というか、望遠鏡で突きを食らった。 ……なにするんですか 支えただけだろっ さわられました しょうがないだろっ 痴漢はやめてください 親切心だろっ ここに天クルの退部届があります すみません軽率でした ……なぜ弱みを握られたみたいになってるんだ? 次またやったら退部しますから 憤まんやる方ないご様子の蒼さんを追い、そのまま追い越した。 ………… 飛び出している枝を脇にどけてやったりと、進みやすいように道を作る。 ………… 蒼さんは憮然としてあとについて来た。 わあ……。星がとても近くに見えます 雲雀ヶ崎の星空ってキレイだよねっ、都会とぜんぜん違うもんっ 先に着いていた千波と鈴葉ちゃんは満天の星空に見惚れていた。 ……屋上よりも、ずっと明るい 校舎の屋上も星空に関しては申し分ないが、展望台の風景はそれに加えて地上に見える街や運河の灯火が格別だ。 望遠鏡を抱きかかえたまま、蒼さんは天地の明かりを見比べながら観賞を続けていた。 その間に、俺はメアを探してみる。 一見して見当たらないが、またどこかに隠れているのかもしれない。 ……もう隠れる理由はない気もするのだが。 とりあえず一周してみよう。 昼間と違ってセミの鳴き声もやんでいる静かな展望台を、俺は歩き始めた。 見つけたぞ ……見つかった なんで木の上にいたんだ? 見つけられたのは運がよかった。 葉がひらひら落ちてきて、なにかと思って見上げたらメアが木の枝に座っていたのだ。 その葉っぱはメアがわざと落としたのかもしれない。 隠れてたのか? べつに 向こうに友達が来てるんだ。一緒に行こう いや ……なんで なんでも 前は一緒に天体観測しただろ? 俺たちと友達になってくれたんじゃないのか? あれは気の迷いだった ……また振り出しに戻ってる? そんなどんより落ち込まなくても 誰のせいだよ…… 今日は望遠鏡、あるの? ああ。蒼さんが持ってきてるよ ………… なぜかムスッとする。 どうした? わたしの知らない子 蒼さんは初めて来たからな ほかにもいた 鈴葉ちゃんのことだろう。 やっぱり俺たちのこと見てたんだな ……帰る なんでっ みんなバカバカだから 俺にわかる言語で説明してくれ とにかく帰る もしかして、と思う。 メアってさ なに 人見知りなのか? ………… 無言でカマを振りかざすなよっ ……あなたがバカバカなのが悪い その言語を訳すと? 死神は人見知りなんてしないわ じゃあみんなのところに行こう ………… 死神に二言はないよな? ………… 一緒に星見しよう それが目的じゃなかったのだが、蒼さんに頼めば望遠鏡を貸してくれるかもしれない。 メアはスネた感じでうなずいた。 あっ、メアちゃんだ! 戻ってくると、千波が我先にと駆け寄った。 はいチーズ! ケータイを掲げたので蹴り上げた。 なにするの!? そりゃこっちのセリフだ 落ちてきたケータイを拾い上げる。 メアは俺の背中に隠れながら、なにが起こったのかわからない顔をしていた。 おまえ今、メアの写真撮ろうとしただろ うんっ、メアちゃんの記念撮影だよっ このケータイは没収する なんでなんでっ、メアちゃんの写真をみんなに自慢しようと思ったのに! はいチーズ 突然のフラッシュは目に毒だよお兄ちゃん!? これで自分の写真を自慢できるな 千波きっと目つぶっちゃったから撮り直しを要求するよお兄ちゃん!? 咄嗟のことだったとはいえ、なぜ俺は千波の撮影を止めたんだろう。 なにかわかるかもしれないのに。 メアが幻覚じゃないという証拠にもなるだろうに。 だけどもし写らなかったら、逆にメア幻覚説に根拠を与えることになってしまう。 それが怖かったのかもしれない。 俺の中で、メアは実在している──そうであって欲しいと願う気持ちはそれほど大きくなっている。 ……ねえ メアが俺の背中をつかんでくる。 それ、なに? 携帯電話だ。知ってるか? バカにしないで。見たのは初めてだけど メアちゃんっ、こんばんは メアはさっと俺の背中に隠れる。 ねえねえメアちゃんっ、写真撮ってもいいかなっ メアは顔を半分だけ出して千波を見る。 お兄ちゃんっ、千波とメアちゃんが並んでるとこ撮って欲しいなっ ダメって言っただろ メアちゃんはいいかもしれないでしょっ メアだって嫌に決まってる べつにいやじゃない なにゆえ!? なにゆえとか言われても いつものメアらしくないだろ!? どういう意味よ いつものあまのじゃくっ子はどうしたんだよっ 誰があまのじゃくっ子よ もしかして俺が嫌に決まってるって言ったからか? いいに決まってるって言えばあまのじゃく的に断ってくれたのか? なに言ってるのかさっぱりだわ 千波、さっきのやり取りを逆パターンでもう一回だ お兄ちゃんっ、千波とメアちゃんが並んでるとこ撮って欲しくないなっ いいって言っただろ メアちゃんはダメかもしれないでしょっ メアだっていいに決まってる べつにいやじゃない そこは『べつにいやじゃなくない』だろ!? なに怒ってるのかさっぱりだわ ……あの、その子は? 蒼さんが歩み寄ってくる。 その背中には鈴葉ちゃんが隠れていて、メアをおずおずと窺っている。 メアもまた俺の背中に隠れて、鈴葉ちゃんを窺っている。 おもしろい構図ができあがっていた。 奇抜な服装…… メアって言って、自称死神だ ……だから、死神って言い出したのはいちおうあなたが先なんだけど その衣装とカマは? 死神装束と死神のカマだ わたしは悪夢を刈る死神だから ぷっ、ダサ ……この子、刺していい? お、お姉ちゃんっ、そんなこと言っちゃ失礼だよっ 蒼ちゃんは鈴葉ちゃんの頭を撫でていた。 俺も真似してメアの頭を撫でようとしたら首筋にカマが当たったのでやめた。 あ、あの……こんばんはです 鈴葉ちゃんがメアとコミュニケーションを計ろうとする。 ……こんばんは コミュニケーションに成功する。 ふたりとも背中に隠れたままだけど。 わ、わたし、鈴葉っていいます そう 洋さんのお友達ですか? 違う ……肯定してくれよ、メア。 死神は友達なんて作らないわ 自分で自分を死神……ダサ ……この子、刺していい? メアさん、歳はいくつ? 子供扱いしないでっ 鈴葉と同じくらいかな そんな小学生と一緒にしないで。言っておくけど、あなたよりずっと年上よ この年頃で背伸びはよくあること ……わたし、この子嫌い 千波は大好きなんだよねっ あなたはうるさいから嫌い お膳立てした友好関係が早くもくずれようとしている。 わ、わたしはメアさんとお友達になりたいですっ 鈴葉ちゃんは意を決したように蒼さんの背中から飛び出して、せいいっぱい声を張り上げた。 わたし、昔から身体が弱くて、学校よく休んでて、そしたら人付き合いが苦手になって…… だ、だけど、わたしも、千波さんみたいになれたらって…… 千波さんみたいに、明るく元気になれたらって…… だ、だから……ぐす…… ……鈴葉 蒼さんが鈴葉ちゃんの頭を撫でて落ち着かせた。 鈴葉ちゃんは人見知りだ、これは勇気を振り絞った結果の言葉なんだろう。 泣き虫ね そんな言い方はないだろ べつに悪い意味で言ったんじゃないわ じゃあどういう意味だったんだろう。 鈴葉ちゃんは自信持っていいんだよっ、千波を手本にしてればすぐ千波みたいになれるからねっ 子供は無垢だからって洗脳もほどほどにな? いかにも真実っぽく言うから蒼ちゃんにものすごい勢いでにらまれてるよお兄ちゃん!? ……メアさん 鈴葉ちゃんに寄り添いながら、蒼さんがこちらを向く。 私のことは嫌いでいい。だけど、鈴葉とは友達になってくれると助かる ………… お願いします 頭を下げると、メアはたじろいだ。 ……まあ、べつにいいけど あ、ありがとうございますっ……ぐす ……お礼はいいから、泣きやみなさい は、はい 鈴葉ちゃんは目元をごしごしとこする。 ……子供は、苦手なんだけどね 俺にしか聞こえない小さな声でつぶやいた。 俺から見たら、メアのほうが子供に見えるけどな ……眼科に行ったほうがいいんじゃないの 蒼さんや千波とも、仲良くしてくれるとうれしいかな そんなの知らない そういうところが鈴葉ちゃんより子供に見える。 じゃあお友達記念ってことで千波がメアちゃんと鈴葉ちゃんのツーショット撮ってあげるねっ あ、ありがとうございます…… 鈴葉ちゃんの気持ちを思うと、俺も反対できなくなった。 ……メア、いいか? いいんじゃないの 素っ気なく答えてから、メアは渋々と俺の背中から出てきた。 俺は千波にケータイを返してから、メアと鈴葉ちゃんを隣に並ばせる。 よ、よろしくお願いしますっ ……べつにそんな固くならなくても 照れくさそうにしているふたりは、同じ学校の先輩後輩にも見える(メアの服装とカマはアレだが)。 ……どうかしましたか 蒼さんが俺に横目を送っている。 心配そうな顔をしてますけど 実際、メアが写真に写るのかドキドキものだ。 あのメアって子、洋先輩の親戚かなにかですか? あ、今、名前で呼んでくれたな ……さっき鈴葉も呼んでいたので。それより、どうなんですか メアは親戚じゃない、友達だよ さっき本人が否定してたと思いますけど ……メアはひねくれ者なんだ。たぶん 蒼さんは無表情にメアを観察している。 めずらしいですね メアの格好か? いえ、先輩とメアさんが友達だとしたら、その関係が 歳の差が結構あるのに そうかもな メアの歳は聞いていない(教えてくれない)ので、実際どのくらい離れているかはわからない。 あ、あの、メアさんは何年生ですか? 死神は何年生でもないわ 学年がない学校なんですか? 死神は学校なんて通わないわ 通信教育ですか? 死神は通信教育なんて受けないわ す、すごいですっ ……そう? はいっ、義務教育を免除されるくらい優秀ってことですからっ ………… あ、メアがうれしそうだ。 まあわたしは死神だからね しかも自慢した。 ……アレ、なんのキャラクターになりきってるんでしょう メアをコスプレイヤーとして見ていた。 それじゃ撮るよっ、笑って笑ってっ、はいチーズ! カシャ。 千波さん、メアさん、ありがとうございましたっ どういたしましてだよ ………… メアは複雑そうだ。慣れていないといった感じ。 俺の元にとことこと寄ってきて、また背中に隠れてしまう。 ……まぶしかった 夜だからフラッシュはしょうがない なんだか疲れた お疲れさま、と言ってやった。 鈴葉ちゃん、ケータイに写メ送るねっ は、はい 千波、俺にも送ってくれ 了解だよっ 送られてきた画像を固唾を呑んで開いてみる。 メアは、写っていた。 照れ笑いを浮かべる鈴葉ちゃんの隣で、ぶすっとして立っている。 ……これはもう、確定でいいんじゃないか? メアは夢でも幻でもない、実在する。 ここにいる。 俺のそばにいるメアは、確かにいてくれるのだ。 ……ちょっと、頭を撫でる意味がわからないんだけど その感触を確かめようと勝手に手が動いていた。 鈴葉ちゃんのために写真に写ってくれたことの感謝も含まれていたかもしれない。 払いのけようとしないメアにも感謝する。 十回撫でたら一回串刺しプレゼント…… ポイント制みたくなってる!? 蒼ちゃんにも画像送るねっ、あとメアちゃんは…… メアってケータイ……持ってるわけないよな 悪かったね ぷっ、遅れてる ……この子だけは洋くんの次に刺す あくまで俺が最優先なんだな……。 メアちゃんにはあとでプリントした写真あげるねっ なら俺がやっとくよ お願いねっ ………… ねえねえメアちゃんって死神なんだよね? 千波が、俺の背中から顔を半分だけ覗かせているメアに聞いた。 ……そうだけど ヒバリ校の都市伝説の死神なんだよね? ……え、なに? ヒバリ校で、恋人の仲を引き裂く死神が現れるっていう噂が立ってるんだ そうなんだよっ、千波はオカ研メンバーのひとりとしてその謎に取り組んでる最中なんだよっ メアは、その謎の死神が自分だって思うか? メアの眉間にしわが寄る。 ……恋人の仲を引き裂くなんてのは知らない。わたしは、悪夢を刈る死神だから 隠している素振りはない。本当に知らないようだ。 悪夢を刈るって、なんなんですか? お兄ちゃんも前に言ってたよね ここで、千波は「あっ」と口に手を当てた。 そういえば、メアちゃんってお兄ちゃんの初恋の人にそっくりって…… げしっ! お兄ちゃんに蹴飛ばされた!? よけいなこと言うからだ ……歳の差を無視したこの関係はそういうわけですか くっ、変に邪推された! 初恋の人? なんでもないんだ 紳士に言う。 ……うさんくさい顔 この技はいずれ封印しよう。 あの……わたしの質問…… 悪夢は悪夢。人の記憶や想い出に起因する夢よ 遅れたが、メアが説明してくれた。 ……もしかして、それでメアなんて名乗ってるの? 一同はきょとんとする。俺も含めて。 めずらしい名前だと思ってたけど、ニックネームの類だったんだ え、そうなの? メアは答えない。むっつりのままだ。 蒼さん、なんでそう思うんだ? メアは、ナイトメアから取ってる。悪夢の英訳です あっ、それ千波も知ってる。夢を食べる馬だよね 夢を食べるのはバク。ナイトメアは悪夢を象徴するって言われてる黒い馬──夢魔のこと わあっ、蒼ちゃんオカルトに詳しいね ……星占いの過程で知っただけ 来年になったらオカ研に入れるねっ ありえない メアは俺の背中をぎゅっと握っていた。 メア…… なによ この名前、偽名なのか? 死神に名前なんてないわ メアのフルネームはすでに知っている。 天クルの入部届に署名してくれたからだ。 そこには『メア=S=エフェメラル』とあった。 メアちゃん、ほんとの名前教えたくないの? 死神に名前なんてない。ただ、それだと不便だから他人にはメアと呼ばせている。なにか問題あるかしら この年頃で変身願望はよくあること ……後ろからざっくりいっていい? よくないからな 俺はポケットから入部届を取り出す。 ここに書いてくれた名前はなんだったんだ? あなたがあんまりしつこいから書いただけ この名前もウソなのか? ……それよりも メアの表情が険しくなる。 それ、なんでまだ持ってるの なんでって? 天クルに出したんじゃないの。早いほうがよかったんじゃなかったの ……そういえば、まだメアには説明していなかった。 わたし、部員になったのよね いや、まだだ ……なんですって 待った待ったっ、鼻先に刃が当たってるから!? あなたが入って欲しいって言ったから書いたのにっ やんごとない理由があったんだよ! 一生懸命、名前考えたのにっ 一生懸命の方向が間違ってないか!? 入部届持って待ってたのに来ないしっ 土日はそれどころじゃなかったんだって! うるさい変態! カマの柄でどつかれた。 ……いくら初恋の人に似てるからって、こんな小さな子にまで手を出して 今のやり取りのどのあたりからそう解釈できるんだよ! きっと目がエロかったんだよお兄ちゃんっ はいチーズ 千波の目はつぶらだからフラッシュでつぶす必要はないよお兄ちゃん!? よ、洋さんっ、千波さんをいじめるのはいけないと思いますっ なんだか俺ひとりが悪者だ。 ……疲れた。もう帰る 待ってくれ、俺に弁解くらいさせてくれ このままだと俺が変態で終わってしまう。 あのな、夏休み中の入部って認められないんだ。部活を管理してる生徒会が休みになるらしくて メアから入部届を受け取った昨夜に、すぐにこさめさんに電話をして姫榊にかけ合ってもらったのだが、あえなく一蹴されたのだった。 今、夏休みなんだ ああ。今日から入ったんだよ 今日って火曜日よね そうだな あなたが土日に取りに来れば間に合ったのよね まさしくそのとおりです。 ……やっぱり帰る すぐに入部できるようにするから。機嫌直してくれ 屋上の使用についてもうやむやになっているので、姫榊とはもう一度はっきり話をつけないと。 その際に、メアの入部も頼み込もう。 じゃないと屋上が使用できても、メアを連れていくことができない。 なにはともあれ、姫榊には借りばかりが積もっていく。 わたし、入部できるの? ああ。必ずそうなる。そうなるようにする ………… メアちゃんも天クルに入るんだ? ……べつに 小学生が入れるとは思わないけど ……小学生じゃない。それにあなたは洋くんに対しては敬語なのに、なんでわたしに対してはタメ口なの これでも年上への礼儀をわきまえているから だったらわたしにも礼儀をわきまえなさい この年頃で背伸びはよくあること ……洋くん、わたしもう我慢の限界かも そ、そうだメア、蒼さんが望遠鏡貸してくれるってさ 全員にウインクして合図を送る。 (友達なんだしみんな仲良くしてやってくれ!) (……なにやってるんでしょう、ウザ) (ゴミでも入ったのかな) 通じやしねえ。 お、お姉ちゃん、メアさんと一緒に望遠鏡使わせてもらっていい? 鈴葉ちゃんが女神のような提案をしてくれた。 望遠鏡は三脚で固定されて置いてある。蒼さんが組み立てたのだろう。 お姉ちゃん、いいかな? ………… 蒼さんは見るからに困っている。 嫌なら、無理する必要ないわ ……誰もそうは言ってない わたしには、その子供にどうやって断ろうか考えているようにしか見えなかった ………… お姉ちゃん…… ……ごめんね、鈴葉 そうつぶやいて頭を撫でた。 鈴葉ちゃんの頼みも断るほど、あの望遠鏡は蒼さんにとっては特別なのだ。 ……悪い、メア あなたが謝ることないわ。謝るとしたらあの失礼な子のほう ……謝る。鈴葉の友達になってくれたのに、ごめん 本当に謝るとは思っていなかったのか、メアはうめいて後ずさった。 ……本当に、みんなバカバカね 千波はバカじゃないよねっ あなたはバカうるさいからバカ あははっ、メアちゃんっておもしろーい めげない千波に対しても後ずさるメアだった。 ……洋くん 帰るのか? うん なんか、悪かったな べつにいいったら あ、あの、また会えますか? ……会おうと思えば、会えるんじゃないの 素っ気ない答えでも鈴葉ちゃんは満足のようだった。 次は、一緒に星見しような 期待しないで待ってる そうしてメアはきびすを返し、計ったように夜空の星が瞬くと、そのまま消えた。 俺には見慣れた光景、千波は二度目の目撃だろう。 ……え? あ、あれ? だが蒼さんと鈴葉ちゃんは初めての体験だ。 今、消えたような…… 蒼さんは目をこすって、メアの姿があった空間を凝視する。 そこにはもう星明かりだけが満ちている。 メアさん、足速いんですね ………… 鈴葉ちゃんは現実的に解釈したようだが、蒼さんは難しい顔をしていた。 ねえねえ、結局メアちゃんって都市伝説の死神じゃないの? 本人は否定してたな じゃあ新種の死神かなっ、それとも宇宙人かなっ 蒼さんはどう思う? ……マスコミに売れば金になるかも そういう答えじゃなくて!? いったい、彼女は何者ですか? 俺も知らない。誰も知らないんじゃないか 千波的には宇宙人がベストだよっ め、メアさん、宇宙人なんですか? 実は千波も宇宙人なんだ そうだったの!? おまえが信じてどうする。 蒼さん、さっき言ったのって本気か? マスコミに売る? ああ やめておきます。そんなことをしたら、先輩に恨まれそうですから 千波は、メアが宇宙人だったら捕まえるのか? ううんっ、親睦深めてお友達になって果ては家族になったのちにお願いしてUFOに乗せてもらいたいなっ 鈴葉ちゃんは? え、えと、メアさんはお友達ですから…… 鈴葉ちゃんは、ケータイの液晶に映った画像を大事そうに見つめていた。 改めて思う。死神だろうと宇宙人だろうと関係ない。 メアが夢でも幻でもなく、そこにいてくれるのであれば。 俺は、これからも友達であり続けることができる。 補習二日目、無事終了だね~ はあ…… ……また落ち込んでるし。あんまりそういう態度取ってると、嫌味に思われちゃうよ 自分は本来補習なんて受ける人間じゃないー、みたいな ああ、いや、そういうわけじゃなくて ほんとかなあ 補習はいいんだ。ひとりだったら泣けるけど、明日歩もいるしな どうせあたしも補習だよっ おかげで助かってる なんだよそれ~! 明日歩と一緒だと、嫌なこともそんなに嫌じゃなくなるからな ムードメーカーの効能だ。 俺の言葉をどう取ったのか、明日歩は赤くなっていた。 それにさっきは落ち込んでたんじゃなくて、考え事してたんだ な、なに考えてたの? どうやって姫榊を説得するか むー あっさり不機嫌になる。 千波とはまた違うかたちでころころ変わる表情は、見ていて飽きない。やっぱりムードメーカーだ。 俺さ、昨日姫榊に会って話したんだよ。屋上の使用許可を求めたんだけど ダメだったんだ? ああ。難航しそうな気配だった そりゃあね。こももちゃんだし ただ、姫榊ってマジメだからさ、こっちが真剣に頼めばいつかうなずいてくれると思うんだよ そうかなあ ああ なんで断言できるんだろ 姫榊を見てればわかる むー でもな、困ったことに、その何度も頼み込むっていうのが案外難しいんだ 夏休み中だし、こももちゃんに会う機会ないもんね 直接家を訪ねるのも気が引けるんだよな 姫榊だって予定があるだろうし、あまり迷惑はかけられない。 電話は? 番号がわからない。こさめさんも教えてくれないし こももちゃんがストップかけてるんだろうね。こさめちゃん、こももちゃんの味方だから こさめさんが姫榊を説得してくれるかもしれないけど、やっぱりこっちからも働きかけないとな 登校日にはこももちゃんに会えるんじゃない? できればそれまでに話をつけておきたいんだ 登校日には生徒会にミーティングを開いてもらって、正式な許可をもらいたいのだ。 そういえば洋ちゃん、こさめちゃんとこももちゃんの住所知ってるんだね ああ。神社ってのは予想外だった 行ってきたんだ? 姫榊の母親と偶然会ってさ。そのまま成り行きでな 万夜花さんだね。豪快な人だよね~、昔はレディースだったって聞いたことあるよ 元ヤンですか。 万夜花さん、ヒバリ校の天文部員だったんだってな あ、そうなの? ああ。天クルの話したら、懐かしいって言ってたぞ へえー、天文部ってどんな感じだったのか、あたしもいろいろ聞いてみたいな 夏祭りのときにでも聞けるかもな そうだね。神社が夏祭りの会場だもんね。楽しみだな~ 夏祭りっていつ頃なんだ? えっと、来週の土曜からだから…… 八月四日か うん。四日から七日までの四日間だよ その日なら、祭りついでに姫榊に会えそうだな 登校日前だし、時期的にも問題ない。 会えるとは思うけど、あんまり長くは話してる暇ないんじゃないかな。いろいろ仕事あるだろうし それもそうか。なんと言っても姫榊は巫女なのだ。 洋ちゃん、変なこと考えてない? 考えてない あやしいなあ 姫榊の神社は夏祭りのバイト募集してるのか考えてただけだよ そうすれば姫榊と話せる機会が増える。出店はほかの管轄らしいが、手伝える仕事はあるだろう。 やっぱり~! それじゃお祭り一緒に回れないじゃないっ、ただでさえこさめちゃんもいないのに~! こさめさんも巫女するのか そうだよ~! 姉妹なのだから、当然と言えば当然だ。 だからこさめちゃんはしょうがないけど、お祭りは天クルのみんなで回るんだからね 副部長のお達しとあっては従うしかないか。 まだ蒼さんを部員のみんなに紹介してないし、一度くらいみんなで集まりたいじゃない 部として認められた終業式の日は、連絡網を作りはしたが、蒼さん本人は部室に来ていない。 蒼さんの代わりに、千波がケータイの番号とアドレスを教えてくれたのだ。 お祭りが終わったら、こさめちゃんも入れてあたしの喫茶店で打ち上げしたいね~ 明日歩が楽しそうに話すので、俺も自然とうなずいていた。 こんにちは、小河坂さん ミルキーウェイでバイト中、こさめさんが来店した。 いらっしゃい。今日は一名様? はい。姉さんも誘ったんですけど、あえなく断られてしまいました こさめさんを席に案内すると、明日歩が水を運んでくる。 こさめちゃん、おひさしぶり~ まだ二日ぶりですけどね ご注文はいかがいたしますか? いつものメニューでお願いします カルヴァリの十字架ですね。かしこまりました~ オーダーを取ると、明日歩は厨房に入っていく。 実は、こっそり十字架を集めているんです お子さまランチの旗を集める感覚らしい。 女の子だな それは女性蔑視と取ってよろしいんですね いや取らないでくれ はい、小河坂さんはそんな人じゃないですものね 調理の仕事はマスターと明日歩に任せている。俺が担当する皿洗いと席の片付けは今のところなさそうだった。 座りませんか? 今日も小河坂さんに用があって来たんです じゃあ、少しだけ 明日歩が厨房にいる間は俺が接客担当だ。新しく客が来るまで、こさめさんのお相手が俺の仕事になった。 小河坂さん、今週末はなにかご予定がありますか? 特にないな。補習は金曜で終わるし、バイトも基本平日だけだし では、わたしたちと一緒に海水浴に行きませんか? 突然の申し出だった。 お母さんがですね、ひさしぶりに詩乃さんにお会いしたいそうなんです なるほど、納得だ。 ふたり、同じ天文部員って言ってたもんな はい。ですから詩乃さんと、よければ千波さんも一緒に、雲雀ヶ崎のビーチで羽を伸ばしてみませんか? わかった、聞いてみるよ 土曜日と日曜日、どちらがいいか確認を取ってもらえると助かります それも聞いてみるよ ありがとうございます そっちも家族で? はい。お父さんは、病院の仕事がいそがしいので無理ですけど へえ。父親は医者なのか はい。変わってますよね、母は神主ですし 俺はカッコいいと思うけどな 男の子ですね それは男性蔑視と取っていいと 小河坂さんはわたしをそんな目で見ていたんですね、しょんぼりです ……どうもこさめさんには敵わないな。 じゃあこさめさんと万夜花さん、あとは姫榊が来るのか はい。よろしくお願いします 思わぬところで機会ができた。 詩乃さんの予定が立てば、みんなで海水浴。姫榊とも天クルについて話せるだろう。 お待たせしました~、こちらカルヴァリの十字架になりま~す! 明日歩が料理を運んできた。 明日歩さん、お話があるんですけど、いいですか? うん。あたしもちょっと休憩~ トレーを抱いて席に座った。 明日歩さん、今週末はなにかご予定がありますか? 明日歩も誘うようだった。 店のお手伝いくらいかな。昼間と夕方だけ では、お母さんの言葉をそのままお伝えしますね 万夜花さんから? はい。明日歩さんと、明日歩さんのお父さんへの言づてです こさめさんはコホンと咳をしてから、 土曜か日曜、どちらかを休業日にして私に付き合え、だそうです ……休業日って やけに強引だな…… なにかあるの? はい。海水浴のお誘いです。小河坂さんもお誘いしてるんですよ わ、ほんと? いくいく! 即決だ。俺もそうだったけど。 明日歩さんだけじゃありませんよ。明日歩さんのお父さんもお誘いしているんです ……なんでお父さんまで お母さんからのお誘いなんですよ あ、万夜花さんってお父さんと知りあいなんだよね。たまに喫茶店に来てお茶はしてたけど 俺は初耳だった。 その口ぶりからすると、小河坂さんだけじゃなく、明日歩さんも知らなかったみたいですね なにが? こさめさんは楽しそうにくすっと笑った。 実はですね、明日歩さんのお父さん──総一朗さんは、お母さんと詩乃さんが天文部に入っていた頃の部長さんだったそうなんです 俺と明日歩はぽかんとする。 ですからこのお誘いは、天文部のOB会を兼ねているんです。わたしたち子供はオマケみたいなものですね ……それは、なんていうか 世間って狭いんだね…… まったくだ。 お父さん、やっぱり昔から天文に興味あったんじゃない…… 明日歩が独りごちる。 あ、じゃあマスターも天体観測とかするのか ……えっと いらっしゃい、明日歩のお友達のこさめさんだね 明日歩が答えづらそうにしていると、マスターがアイスティーを持って登場した。 あれ、まだ食べていないんだね はい、用事があったもので。マスターにも なんだい? お母さんからの伝言があるんです ああ、急に胃の調子が ……あの、わざとらしく帰ろうとしないでください どうせロクでもない伝言だと思うとね マスターと万夜花さん、ふたりの関係を垣間見た気がする。 マスターは今週末、ご予定はありますか? この喫茶店でのんびりしてるよ どちらかを休業日にできますか? ……いきなりだね。さすがに難しいかな しないとお母さんが直接説得に来る手はずになってます 明日歩、土日は休業だから手伝いも休みだ やった~! それでは小河坂さんも、詩乃さんのほうをよろしくお願いしますね 天文部の部長だったわりに、万夜花さんのほうが力は上のようだった。 ……天文部のOB会? はい。万夜花さんのお誘いなんです 夕食後、詩乃さんに喫茶店でのことを説明した。 それでですね、土日のどちらかにみんなで海水浴に行かないかってことなんですけど 誰が参加するかは聞いてる? ええと、姫榊一家と南星一家と、あと俺たち小河坂一家と…… 今日も夕飯を一緒していた蒼さんと鈴葉ちゃんに視線を振る。 ほかにも友達を誘っていいって ……わたしたちもですか? ああ。多いほうが賑やかになってうれしいそうだ 蒼さんは特に答えず、行儀よくお茶を飲んでいる。 急にOB会なんて言うから、雲雀ヶ崎を出た人たちまで集まるのかと思ってびっくりしちゃった 天文部員が詩乃さんたち三人だけとは思えないし、OB会というのは語弊があるか。 万夜花さんのことだから、本音は夏祭りの準備でいそがしくなる前に、ぱーっと遊びたくなったのかもね 詩乃さん、土日は平気ですか? そうね、仕事にもまだ余裕があるし 承諾を得られた。 先方の都合を考えると、土曜日のほうがいいかもしれないわね。日曜日にゆっくり休んでもらって、月曜日から夏祭りの準備に取りかかれるでしょうし じゃあそういうことで、あとで連絡しておきますね ねえねえお兄ちゃん、千波も行っていいの? ああ、むしろせっかくのお誘いだし来てくれ わーい! それで、よかったら蒼さんたちも…… 遠慮します え…… あ、ううん、鈴葉は行っていいから 蒼ちゃんも一緒がいいなっ 遠慮するって言った お姉ちゃんも一緒がいい…… 蒼さんは辛そうにする。 じゃあ明日はみんなで一緒に水着見てこようねっ 死ねばいいのに そ、そんなこと言っちゃダメだよっ 蒼さんは鈴葉ちゃんの頭を撫でて誤魔化した。 蒼さん、土日はなにか予定あるのか? ……特にないですけど じゃあさ、天クルのみんなも呼ぶつもりだし、顔合わせってことで来てくれないか? 夏祭りよりも一足先に、蒼さんを紹介できそうだ。 蒼さんは沈黙を守っている。 衣鈴ちゃん、一緒に来ない? ……詩乃さんがそう言うのなら。日頃ご迷惑をかけてますし そんなのは関係なしに、みんなで楽しみましょう 蒼さんは渋々とうなずいた。 これで蒼さん、鈴葉ちゃんの参加も決まった。 岡泉先輩は明日歩が連絡する手はずになっているし、雪菜先輩はこさめさんが担当している。 こさめさんいわく、雪菜先輩を誘うのは難しいかもしれないとのことだったが。 雪菜先輩とは、ここ最近会っていない。 テスト期間中も部室には一度として顔を出していなかった。 もともと幽霊部員の彼女は、去年の学園祭ですら出し物を手伝わなかったらしい。 協調性がないというよりは、ほかにやるべきことがあって一緒にいられないとはこさめさん談だ。 じゃあなぜ天クルに所属しているのか。 理由は知らなかった。 お兄ちゃん、千波のお友達も呼んでいい? 物思いに耽っていたせいで、反応が一瞬遅れる。 ……いいけど、誰か呼びたい人でもいるのか? うんっ、オカルト部長 却下 なんで!? 脊髄がそう答えたから それ脊髄反射だよっ、お兄ちゃんオカルト部長のこと嫌いなの!? そんなことない、飛鳥は友達だし なら反対する理由ないでしょっ たしかにそうだ。というかなぜ断ったのか自分でもわからない。 千波はなんで飛鳥を誘いたいんだ? 雲雀ヶ崎のミステリーを解くっていう志を共に抱く同士だからだよっ 却下 志まで否定されたくないよ!? ……要するに洋先輩はシスコンなんですね なぜそんな解釈になるのかはなはだ疑問だ。 洋ちゃん、意地悪しないで誘ったらいいんじゃない? ……詩乃さんがそう言うなら わーい! 詩乃さんありがとー! ……詩乃さんには誰も敵わないんですね 女王さまみたいでカッコいいですっ あらあら それが小河坂家の家主であるということなのだ。 今日も今日とて展望台におもむく途中、飛鳥に電話した。 『海水浴はいいけどよ、近いうち夜に千波ちゃん借してもらうからな』 いつか来る話題が、やぶ蛇となって訪れた。 ……本気でヒバリ校の張り込みするのか? 『ああ。校舎に現れた死神は蒼さんだって話だけどよ』 飛鳥には蒼さんの事情を話している。 調べていればいずれ行き当たるだろうし、千波と違って飛鳥なら分別をわきまえてくれると思ったからだ。 飛鳥は、蒼さんについてはとやかく調べないと約束してくれた。 『でも、都市伝説のほうの死神の噂は、蒼さんが入学する前からあったんだ』 『それに、展望台に現れるメアって子が都市伝説と無関係を主張してるなら、展望台はシロになる。となれば現場はヒバリ校が最有力だろ』 噂の広まりようから考えても、飛鳥の意見には同意せざるを得ない。 ヒバリ校だったら、夜じゃなくてもいいじゃないか 『死神が昼間に現れるんなら目撃情報のひとつもあるだろ。ゼロってことは、人気のない時間帯ってことなんだよ』 目撃情報がゼロだったら、そもそも噂なんか立たないんじゃないか? 『現に立ってるってことは、在校生じゃなくて卒業生にいたんだよ。夜に見たってやつが』 ………… 『なんだよ、不満そうだな』 ……まあな 『千波ちゃんを借りるからな』 ダメだ 『べつに千波ちゃんを取って食うつもりなんてねえよ。おまえ、妹に対して過保護すぎるんじゃねえか?』 そんなことはない 『頭ごなしに否定するだけじゃ説得力ねえけどな』 とにかく、夜の校舎なんて危険だろ? 警備員に見つかったらどうするんだ? 『そんなの百も承知だろーが、今さら議論する気はねー』 千波ってあんな感じでうるさいだろ、騒ぎ立ててソッコー捕まるぞ 『なあ小河坂、むしろそうやって抑えつけてると、千波ちゃんひとりで校舎の探検に乗り出すんじゃねえか?』 その可能性は否定できなかった。 『心配ならおまえも付いてくればいいだろ』 ……わかったよ 『やっとお許しが出たか。面倒な兄貴を持った千波ちゃんに同情するぜ』 そのセリフはむしろ俺にかけてくれ 『海水浴は土曜だったな』 ああ 『夜の張り込みはそのあとだな。それまでオレは、夏休み中でも部活来てる連中に地道に聞き込みでもやってるさ』 なにかわかったら教えてくれよ 『なんだよ、結局おまえも興味あるんじゃねえか』 そういうわけじゃないんだけどな 気にならないと言えばウソになるだけだ。 メアと都市伝説の死神が本当に無関係なのか、それを示すのは今のところメア本人の言葉しかないのだから。 ……海水浴? ああ。今度の土曜にみんなで行くんだけど そして俺は、昨夜撮った鈴葉ちゃんとのツーショット写真を手渡したあと、メアも誘ってみることにしたのだった。 メアも一緒にどうだ? いや そんなすぐ断らないで、考えてみてくれないか ………… 行くかどうかを悩んでいるのか、それとも断り文句に悩んでいるのか。 メアは、海って見たことあるか? ここから見えるじゃない。真っ暗だけど 入ったことは? ……ないけど きっと驚くぞ。海の水がしょっぱいことに仰天するぞ それくらい知識として知ってるから 友達みんなで海水浴に行くんだけどさ ふうん メアも行くんだけどさ 勝手に断定しないで 明日、千波たちが水着を見にいくらしいんだ。よかったらメアもどうだ? いや メアの水着姿、見てみたいんだけどな ……変態 お子さま相手に欲情なんかしないって 刺していい? 欲情して欲しいのか? そ、そんなわけないでしょっ おマセさんだな うるさい変態くんっ 振り下ろされたカマをさっとかわす。 甘いな、そろそろおまえの技は見切ったぞ? 見切ったはずのメアの姿が消えていた。 ……あれ? まさか帰ったのか? がこんっ!! いてえ!? 脳天に衝撃が来た。 今夜のあなたもバカバカね 背後に振り向くと、そこにメアが立っている。 な、なんだ今の? 後ろに回ってカマの〈柄〉《つか》でたたいただけよ じゃなくて、瞬間移動でもしたのか? ううん、消えてすぐ現れただけ そんな芸当までできるのか。 今夜は星明かりが不安定だから 夜空を見上げてつぶやいた。 気になってたんだけど、いつも星明かりが少なくなるとメアって消えるよな うん どういう原理なんだ? そんなの知らない 知らないのにできるのか? そんなものでしょ。あなただって二足歩行の仕組みを知らなくてもできるんじゃない? そのとおりだ。 メア、泳ぎはできるか? そんなの知らない 知らなくても、メアならきっとできるんだろうな ……そうかな ああ。できなくても、俺が教えるぞ ………… 海水浴、考えてみてくれよな ……しょうがないから、考えてみてあげる その言葉だけでも充分だった。 晴れて補習は終了した。 するとようやく夏休みに入ったのだと実感する。 天気もまた絶好の海水浴日和であり、羽を伸ばせと言わんばかりに強い潮風が俺たちを出迎えてくれる。 洋ちゃん、お待たせ~ パラソルの日陰で待っていると、海の家で水着に着替えた明日歩が一番乗りでやって来た。 ありがとね、荷物番してもらって こういうのは準備が簡単な男の役目だろうしな 向こうではマスターがシートに寝そべって、詩乃さんと万夜花さんの到着を待っている。 といっても大人たちは水着に着替えるわけではなく、詩乃さんと万夜花さんは単にドリンクを買いにいっただけだ。 お父さんたち、今日は泳がないんだって。なにしに来たんだろうね 積もる話があるんだろうし、海水浴ってのはそのための口実なんだろうな そんなんじゃ、エメラルドグリーンの海が泣いちゃうね。海水がさらに塩っぽくなっちゃうよ このビーチは、雲雀ヶ崎から隣町にかけて広がっている。 俺たち雲雀ヶ崎の住民にとっては、車や自転車を使えばあっという間の距離だ。 俺たちは時間を決めて、現地集合したわけだった。 ほかのみんなは? こさめちゃんたちは着替え中だよ。まだ来てないのは岡泉先輩と、飛鳥くんと、あとは蒼さん姉妹かな 雪菜先輩は? 来られないって。こさめちゃんが言ってた 明日歩の言葉は残念というよりは、予想どおりといった感じ。 俺は周囲を見回す。夏の定番ということで、ビーチはそれなりに客が見受けられる。 その中に、メアの姿は見つけられなかった。 結局メアは海水浴に来ると確約してくれたわけじゃない。考えておくと言われたきりだ。 まあ集合場所は教えたので、気が向いたら姿を見せるんじゃないだろうか。 ひとつ心配なのは、俺は一度も昼間にメアと出会ったことがないということ。 幽霊の類ではよくあるように、夜にしか現れないなんてことはないと思うのだが。 これまで夜の展望台でしか出会わなかったのは、メアが星見に来ていたからだと思うし、そんなオカルトな理由じゃないと信じたい。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 情緒ある潮騒など完膚無きまでに消しつぶしてくれる我が妹の登場だ。 見て見てお兄ちゃんっ、千波のおニューの水着だよっ、かわいいでしょセクシーでしょお兄ちゃんが望むならこの姿でエプロン着けたってお風呂入ってあげたってっ わかったから静かにしてくれ貧乳 うわーん!!! 会心の一撃がヒットした。 ……よし、勝ってる 自分の胸を持ち上げる明日歩には悪いが、千波と大差ないと思う。 あと、近くに俺がいることを忘れないで欲しい。 ふたりとも、雲雀ヶ崎の海はひさしぶり? はいっ、小学生のとき以来です あたしもひさしぶりなんだよ~。小学生の頃は友達とよく遊びに来てたんだけどね 俺は初めてだな ……え? そうなの? ああ。めずらしいとは思うけど 俺は、明日歩や千波が言ったように、友達と海へ遊びにいくなんてことはなかった。 遊びの誘いはすべて断り帰途を急ぐ。 夏休みも家から出ることは少なかった。 それが俺の小学校生活だった。 洋ちゃん、雲雀ヶ崎の海はどう? 俺の気持ちを察してなのか、明日歩はそう聞いた。 俺は自信を持って答えられる。 最高に、ステキな場所だ 陽光を乱反射する広大な海面は、あたかも展望台で見上げる満天の星空のよう。 だから、この場所は最高なのだ。 皆さん、お待たせしました 今日も暑いわね……。冷房の利いた部屋でのんびり過ごしたかったわ 姫榊姉妹も集まった。 四人もそろうと色とりどりの水着で囲まれてしまい、なんというか落ち着かない。 洋ちゃん、鼻の下 言いがかりはよしてくれないかな 紳士を装うつもりが無実を装う犯罪者風になる。 わたし、姉さんの水着姿が間近で見られて感無量です 冗談でも誤解されるようなこと言わないでっ ……このふたりに負けてるのは知ってたけど、悔しい 胸を持ち上げないでください。 小河坂くん、もう少しそっちにどけて 場所を空けると、姫榊がパラソルの日陰でうつ伏せに寝そべった。 暑いの苦手か? 暑いのも寒いのも苦手、だから飲み物取って わがままお姫さまだ。 姉さん、その体勢だと小河坂さんにオイルを塗って欲しいみたいに取られますよ そんなハレンチなことやっちゃダメだよ洋ちゃん~! ……ハレンチって。 南星さんに言われなくてもさせないわよ 俺だってしたくない なんでよコガヨウ ……怒る理由がわからん ふん 女のプライドではないでしょうか? いちいち解説しないでっ、お仕置きするわよっ はいっ、わくわく お兄ちゃんお兄ちゃんっ、なんなら千波の背中に これでいいか? ラムネは塗るものでも浴びせるものでもないよお兄ちゃん!? ……彼女が小河坂くんの妹の千波さんね。ふたり、あまり似てないわね そっかな。昔の洋ちゃんだったら千波ちゃんと正反対だけど、今はそっくりだと思うよ 見た目と性格は似てませんけど、雰囲気は似てますね ……あまり千波とバカやってると同類に見られてしまう。気をつけよう。 おはよう、みんな…… 続いて岡泉先輩がふらふらと歩いてきた。 ああ……この日差しは僕には強すぎる 先輩、ひ弱ですからね 水……水をくれぇぇ…… 瞳孔が開いてきたので、千波にかけて遊んでいたラムネを急いで渡す。 姉さん、ひとりでシートを独占していると岡泉先輩が干上がっちゃいます ……この人を怒らせるのだけは回避したいわね 姫榊がパラソルから出ると、岡泉先輩がそこに倒れ込んだ。 そんな無理するくらいなら、海水浴断ればいいような気もするけど なに言ってるんだよ。洋ちゃんが悪いんだからね なんでそうなる 洋ちゃんが言ったんじゃない。今日は、天クル新メンバーの顔合わせも兼ねてるんでしょ? そう言ってから、明日歩は天クルが部になったことを威張るみたいに姫榊を見た。 無い胸反らせてなに言ってるんだか まだ発展途上だもん~! 身長止まれば胸も止まるんじゃないの 身長だって伸びてるもん~! 1ミリ未満ね なんで知ってるんだよ~! ああごめん、それは胸の成長のほうだったかしら だからなんで知ってるんだよ~! 姉さん、生徒会役員ですから あー肩凝って仕方ないわ どうせあたしは肩凝るほど大きくないし中学から一度もブラのサイズ変わってないよ~! そのスレンダーな体つきもステキです…… こさめちゃんの百合相手はこももちゃんでしょ!? まったくもって男の肩身が狭くなる会話だ。 お兄ちゃんお兄ちゃんっ、千波のバストも発展途上っ これでいいか? ラムネかける意味がわからないし冷たいしベタベタして気持ち悪いよお兄ちゃん!? お、みんな集まって賑やかだな 飛鳥も到着し、これで残すは蒼さん姉妹のみだ。 もう集合時間だけど、来ないな 千波ケータイにかけてみるねっ 千波が連絡を取ったところ、今向かっている途中とのことだった。 蒼ちゃんが寝坊して遅れてるみたい もう昼過ぎなのに、よく寝てたんだな 千波も朝弱いけど今朝はちゃんと早起きできたよっ 千波は遠足の日に限って早起きする性質なのだ。 蒼さんたち、待ってたほうがいいかな? 明日歩はうずうずと海に入りたそうにしている。 蒼ちゃん、自分たちは気にせずどうぞって言ってたよ 大人たち三人はすでにパラソルの下で談笑中だ。俺たちは俺たちで楽しめということだろう。 それじゃ、お言葉に甘えるか ではでは、これより天クルの海水浴を開始しま~す! 宣言するや否や、明日歩は海に向かってすっ飛んでいった。 ていうか、わたしは天クルの部員じゃないんだけど オレも違うな 岡泉先輩、体調はどうですか? 日陰のおかげでだいぶ持ち直したよ 千波、泳ぐ前に準備運動しとけよ 抜かりはないよお兄ちゃんっ って、なんで誰もついて来ないんだよ~! 肩をいからせて戻ってきた。 明日歩、まずは準備運動が先だろ? えー えーじゃない 千波ちゃん、泳ぎは得意? はい、これでも体育は万年5ですから! それじゃあたしと沖まで競争しよっ 先輩だからって手加減しませんよっ ふたりは連れ立って走っていった。 ……おーい、準備運動ー 聞く耳持たずに海に飛び込んでしまった。 子供ね、まったく わたしたちはどうしましょう? ナンパでもすっか? しないって ガールハントは? 同じ意味だろ わたしたち、ビーチボールを持ってきてますよ それ、枕代わりじゃなかったんだ それでもいいですけど、せっかくですし わたしはトロピカルなジュースでも飲んでるわ 姫榊って運動苦手か? ……失礼ね、これでもわたしは文武両道よ 全員が海に入っていると蒼さんたちが来ても気づかないかもしれませんし、皆さんでビーチバレーでもどうですか? 海に入る前の準備運動にもなるし、俺は賛成 あんまり日に焼けたくないんだけどね バレーは対戦形式にしましょう。それならきっと盛り上がりますよ 飛鳥、やるか? これからウォッチングに行くつもりだったけど、しゃあねえな その首にぶら下げているカメラはなんだ。 岡泉先輩は……無理そうですね 僕は観戦しているよ そんなわけで、蒼さん姉妹を待ちがてら軽くビーチバレーをやることになった。 四人ですから、チームは分けやすいですね 誰と誰が組むんだ? この配置でいいんじゃない とすると俺&飛鳥VS姫榊姉妹の構図になる。 それだとオレらのほうが有利じゃねえか? 男女の体力差を考えるとな 小河坂くんは知らないけど、飛鳥くんの運動能力は並みじゃない。問題ないわ オレのこと知ってるのかよ、ほとんど面識ねえのに 生徒会役員だから こももちゃんって呼べばいいのか? それだけは絶対やめて! 試合前ですし落ち着いてください、こもも姉さん その呼ばれ方初めてなんだけど!? 姫榊、叫んで無駄に体力使ってると負けるぞ? ふん、ビーチバレーは体力よりも俊敏性と反射神経が重要じゃない この際、腕力も関係ありませんよね まあ競技用のビーチボールってわけじゃないし、スパイクしてもスピードはたかが知れてるからな だから男女の体力差も腕力差も、特に有利にはならない。 頼りにしてます、姉さん ま、適当にがんばるわ 負けたら相手チームから好き放題オイルを塗られる罰ゲームもありますし 聞いてないんだけど!? 小河坂、狙うのはこさめさんだ。話を聞くに運動神経は姉よりもずっと劣る 目の色変えて容赦なく勝ちに向かうおまえが夏の日差しよりまぶしいよ ルールは三点取ったほうの勝ち。それでは、サーブしますね ち、ちょっ、罰ゲームなんかやらないからね! 勝てばいいんです、姉さん 勝ってもメリットないじゃない! 若い男子の瑞々しい肉体を好き放題さわれますよ わたしそんな趣味ないから!? なんだ姫榊、あれだけタンカ切っといて自信ないのか? ……好き放題さわられたいんだ いやいやいやっ、そうじゃないだろ!? ほかの二人もさり気なく離れていくなよ!? 姉さん、ふたりであの変態を退治しましょう そうね、風紀を乱して問題起こされる前に これで全員やる気になったな、さすがはこさめさん 払った代償がとてつもなく大きいんだけど!? 勝ったらおまえにオイル券を譲ってやっから さも俺がさわりたいように言って傷口広げるなよ!? 姫榊姉妹が悶える姿をオレが写真に撮って売りさばくからよ、分け前は半々だ この変態どもには絶対負けない……! 怒りの形相を作る姫榊の後ろで、こさめさんの手からボールが上がった。 オレらも本気になるぞ! 俺は早く誤解のほうを解きたいんだけど! 小河坂、オレがレシーブすっからトスだ! くっ! 飛鳥のレシーブから俺のトス、そしてボールは飛鳥の頭上へと上がる。 恨みはねえが覚悟! 飛鳥のスパイクがこさめさんを襲う。 見え見えなのよっ! 姫榊がこさめさんをかばってダイビングボレーした。 ステキです姉さんっ いいから早くトス上げて! こさめさんがボールを上げると、姫榊は素早く立ち上がって助走する。 いけえ! 高いジャンプから、身をめいっぱい反り返す。 ……胸が突き出されてふくらみが半端ない。 充分にしなった姫榊の腕が振り下ろされる。 やあっ! カシャ。 なに撮ってるのよ!? 姫榊は空振った。 ああっ、一点向こうに入ってしまいました カメラのフラッシュで目くらましなんて卑怯でしょ!? 作戦どおり姫榊の胸揺れ写真をゲットだぜ、小河坂 俺が首謀者みたいに言うなよ!? さあ次もビーチバレーという名のウォッチングに勤しむぜ! 姫榊はカメラをはたき落として踏みつぶした。 相棒おおおおぉぉぉぉ────っ!!!! 無惨な死骸に泣きながら取りすがった。 さすがにキレそうだわ……。生きて帰れるとは思わないことね、コガヨウ さっきのあれは飛鳥の独断なんだって! こさめ、サーブして! 聞く耳持たず、こさめさんからボールが飛んでくる。 飛鳥っ、来たぞ! おまえのことは生涯忘れねえよ相棒…… カメラの墓作ってる場合じゃないだろ!? 飛鳥が役立たずになったので、一回で向こうにボールを返すしかない。 敵がひとりしかいない今がチャンス! 姫榊のレシーブからこさめさんのトスが上がり、それを目で追いながら姫榊が空を舞う。 これで同点! そんな反り返って水着が外れないか冷や冷やしながら、俺はレシーブの構えを取る。 穴になった飛鳥のスペースを狙うつもりだろう、撃ってきたらすぐにその方向へダイビングだ! もらったあ! 勝ったらわたしは男子の代わりに姉さんのお肌にオイル塗らせてもらいますね! 手ワキワキさせてなに言ってんの!? 姫榊は空振った。 ああっ、さらに一点向こうに入ってしまいました あなたのせいでしょっ!? しょんぼりです 帰ったらお仕置きだからね! はいっ、わくわく ちなみに俺のダイビングボレーは勢い余って飛鳥が作った墓の砂山に突っ込むだけで終わった。 相棒おおおおぉぉぉぉ────っ!!!! またも泣きながら取りすがった。 くっ、向こうにリーチかかっちゃったじゃない! ですが姉さん、飛鳥さんが戦力外となった今、敵は小河坂さんひとりです わたしには背後にも敵がいるような気がするけど…… 姉さんの背後霊さんは反抗期ですね あなたのことよ!? こさめさんのサーブで、ボールが俺の元に落ちてくる。 依然飛鳥が役立たずなので、普通に打ち返すしかない。 こさめっ、レシーブ! はいっ、姉さんトスをお願いします! 食らえ小河坂くんっ! わたしのスパイクが飛ばされています姉さん! あなた、わたしに比べると運痴だし空振りそうだから しょんぼりです…… ……仲が良いのか悪いのかよくわからん姉妹だよな。 なんとか姫榊のスパイクに食らいつき、ボールを上げる。 こさめっ、レシーブ! つーん スネてないでボール上げてお願いだから!? 勝ったらおさわりしていいですか? オイルでもおさわりでもなんでもいいから早くしてよボール落ちちゃう!? 小河坂さんっ、覚悟してください! こさめさんの瞳に炎が燃え上がり、絶妙なところにボールを浮かせた。 これでまず一点! させるか! 予想どおりスパイクは泣きくずれる飛鳥のスペースに飛んできて、すれすれでボールを拾うことに成功した。 こさめっ、もう一回レシーブ! つーん なんでまだスネてるの!? あ、あの……大切なお話があるんです。はしたないと思われるかもしれませんが、聞いていただけますか? こんな余裕のないときにどういう嫌がらせ!? できましたら、わたしがおさわりする際は、水着を脱いでいただけると大変うれしく…… できるわけないでしょ!? ……しょんぼりです こさめさんのやる気のないレシーブが、姫榊を越えて俺のところまで飛んできた。 チャンス! こさめっ、あとで覚えておきなさいよ!? ボールはちょうどスパイクできそうな軌道を描いて落ちてくる。 これで勝ちだ! させない! こさめさんを狙うのは読まれていたのか、俺のボールは姫榊に難なく拾われた。 こさめっ、トス上げて! 姉さんが水着を脱いでくれないんです…… わ、わかったからっ、人気のないところで三秒だけ脱いであげるから! その三秒のためならわたしは火にも飛び込めます……! こさめさんの瞳に再び炎が燃え上がった。 もうチャンスボールは飛んで来ないとなると、俺は満足にスパイクも打てなくなる。 勝っているとはいえこの現状ではジリ貧だ、なにかいい手はないものか。 なぜ勝ちにこだわるのかと言えば、姫榊をさわりたいのではなく逆にさわられたくないからだ。そんなのは恥ずかしすぎる。 現状打破を模索していると、トスを上げていたこさめさんと目が合った。 アイコンタクトを送ってみる。 (姫榊のオイル券あげるから俺に勝たせてくれっ、三秒と言わず無制限にさわっていいから!) スパイクの前に姉さんのビキニをこっそりほどけばいいんですね、オッケーです小河坂さん! とんでもない形で伝わる。 コガヨウ…… そこまで詳細に方法は考えてなかったから!? それじゃ大筋は当たってるってことじゃない! 今のうちに…… きゃああっ、本気でやろうとしないで! 姉さん、このままではボールが落ちてしまいます! 誰のせいよ!? 姫榊にスパイクする暇がなかったため、山なりのボールが返ってきた。 続けてチャンス! くっ! こさめさんを狙ったわけでもないのに食らいついた。姫榊の運動神経は想像以上に優秀だ。 こさめっ、ボールお願い! ああ、姉さん、ダイビングボレーの連続で珠のお肌がこんなに汚れて…… なんでしなだれかかってくるの!? 汚れた姉さんも垂涎ものです…… いいから早くボール拾ってよ!? 夏の熱気にあてられたんでしょうか……わたしもう我慢できません…… やああっ、水着脱がさなっ、だめっ、さわらなっ、はああっ、直接はだめえ……! ボールは無情に転がった。 ああっ、ついに三点取られてしまいました 俺たちチームの完封勝ちだった。 俺がガッツポーズを取っている間、姫榊は羞恥に涙ぐみながら乱れた水着を直していた。 こさめっ、いったいどういうつもりなの!? くわばらくわばら ちゃんと説明して!! 小河坂さんに……勝たせないと身体の隅々までオイル塗ってやるって脅されて…… コガヨウ…… 頼むから信じるなよ濡れ衣だから!? 脅迫は犯罪、よって罰ゲームは無効だからね! ……それが言いたかっただけ? 相棒……成仏しろよな…… 落ち込む飛鳥と、怒り狂う姫榊と、責められる俺を前に、こさめさんが満面の笑顔で言った。 海水浴って楽しいですねっ 結局、こさめさんだけが満足したビーチバレーだった。 フッ、こういうのを眼福と言うんだろうね ……もうひとり満足した人がいたか。 ……遅れました 小休止を取っていると、蒼さん姉妹がやっと到着した。 す、すみません、遅刻してしまって…… 鈴葉ちゃんが謝ることないさ うん。鈴葉は悪くない 鈴葉ちゃんの頭を撫でる蒼さんが悪いわけだが。 彼女が蒼クンだね。昔の面影が残っていたから、すぐにわかったよ 岡泉先輩がパラソルの陰から出てきた。 お久しぶりでいいよね ……よくありません。初対面ですし 覚えてないかな、科学館の天文クラブで一緒だった岡泉温土だよ ……岡泉 思い出してくれたかな たしか、科学館が閉館になるときにテロ未遂で捕まった人がそんな名前だったような それはきっと同姓同名の別人だね、僕がそんな過激な行為を働くわけがない いや、やりますから先輩なら。 昔のキミは無口だったけど、今はそうでもないように見えるね ……そんな変わってないと思いますけど あの頃にあったような拒絶の雰囲気が和らいだように感じるよ ……ウザい キミと普通に話せてうれしいよ 死んだらいいと思います ふふふ……ゾクゾクするよ 蒼さんは怯えていた。とりあえず普通に話せてはいないと思った。 入部届の名前を確認したときにも気づいたけど、あなた校内にタロットカードを持ち込んだ一年よね どちらさまでしょう ……シラを切るつもりね、来学期の持ち物検査は覚えておきなさいよ わかりましたこもも先輩 名前はべつに覚えなくていいから!? お、お姉ちゃんっ、失礼なことばかり言っちゃダメだよ…… 心配いりませんよ、ケンカじゃありませんから あ、はい…… こさめさんのフォローはこういうときこそ役に立つ。 ふたりはああ見えて仲良しなんですよ あ、は、はい だからその珠のお肌にオイル塗ってもよろしいですか? いやいやいやっ、それ全然つながってないから 誤解される前に言っておきますが、小河坂さんにオイルを塗るのもやぶさかではありませんよ? こさめさんの守備範囲は縦にも横にも広いんだな……。 明日歩と千波はどこまで泳ぎにいったのか、まだ戻ってこない。 飛鳥も二台目のカメラ片手にウォッチングと称してどこぞへと消えていた。 蒼さん、鈴葉ちゃん連れて泳いできていいぞ ……先輩は? ちょっと休んでる。さっきまでやってたビーチバレーが激しすぎてさ おかげで身体が火照ってたまりません…… ……あなたが言うと卑猥な意味に聞こえるわね 泳いでれば千波にも会うと思うし、一緒に遊んできたらいい は、はい。お姉ちゃん、いこっ ……願わくば会いませんように 鈴葉ちゃんと手をつないで、蒼さんは渋々と歩いていった。 ドリンクでも買ってこようか。みんなの分も一緒に あ、じゃあ お代は結構。バレーではおもしろいものを見せてもらったからね、お礼におごるよ 姫榊の顔が目に見えて赤くなる。 それじゃあ行ってくるよ 岡泉先輩の背中が遠ざかる。 うへへへぇぇ……このあられもない写真をネタに天クルの部費を大幅ゲットだぁぁ…… 姫榊がジェット機のごとく岡泉先輩を追いかけてケータイをはたき落として踏みつぶした。 ぼ、僕の三台目のケータイが…… 今度やったら先輩を踏みつぶしますからね! うな垂れて知恵の輪を始めてしまった岡泉先輩に、姫榊はフンと鼻を鳴らして戻ってきた。 ……おまえ、どれだけクラッシャーなんだよ どれもこれも正当防衛でしょ! 戦歴は岡泉先輩のケータイを三台、飛鳥のカメラを一台、千波のカメラを一台か…… 千波さんのカメラなんか知らないわよ ……あれは俺が踏みつぶしたんだった。 やっぱり天クルなんかを部にするんじゃなかったわね、風紀を乱すのが目に見えてるじゃない そんな目くじら立てないでください、クラッシャーこもも姉さん 呼び名が長くなってるんだけど!? 岡泉先輩のあれは天クルを想っての行動なんだよ、クラッシャー姫榊 リングネームみたいだからやめてくれる!? そこで、だ ぽんと手を打つ。 岡泉先輩を見習って、俺も天クルのために行動を起こしてみようと思うんだ ……嫌な予感がするわね ご名答だ。 屋上の使用許可、お願いできないか? 姫榊は嘆息する。 二学期まで待ちなさいって話さなかったかしら それじゃあ遅いって言ったと思うぞ あなた、ここまでくると天クル中毒者ね 天クル自体、天体中毒者の集まりみたいなもんだしな ジャンキー小河坂さんですね リングネームを付けられる。 登校日にさ、生徒会でちゃちゃっとミーティング開いてぱぱっと許可もらうだけでいいんだ そんな簡単に言わないで 姫榊なら簡単だ。俺が保証する 勝手に保証しないで お願いだ、この借りは必ず返すから すでに貸しがひとつあると思うんだけど それも含めて返すから その言葉に偽りは? あるわけがない 紳士に言う。 ふーん……貸し借りという名の取引ってわけね 姫榊はいやらしく笑んだ。 生徒会に入ってもらうくらいじゃ、借りを返したことにならないからね? ……理不尽な要求をされそうだ。 天クルを辞めろっていうのはナシだぞ 言っても辞めないんでしょ、そんな不毛なことしないわ 常識の範囲内で頼むぞ 愚問ね。それじゃあ…… わたしが用意しますね きゃああっ、なんで水着脱がそうとするのよ!? オイルを塗ってもらうんですよね? それでよろこぶのはあなただけでしょ!? 小河坂さん、やっちゃってください いやあっ、羽交い締めにしないで! ふたりして楽しそうだな…… やああっ、肩ヒモ外すなっ、み、見えちゃうっ、見ないでよ小河坂くんっ!! 誰も見ようとなんてしてな…… どがっ!! ぐあっ……顔面蹴るなよ!? 目がエロかった 見ないって言ってただろ俺!? ふん 微妙な女心というやつですね いいから放しなさいっ、暑苦しいっ ふー ふああっ、耳に息吹きかけないでえっ…… 小河坂さん、その気になりましたか? べつに…… どがっ!! ぐあっ……なにすんだ!? 見ないでよ! 見てないから!? 目がエロかった! 濡れ衣だ! こさめっ、いいかげん離さないとあとでひどいわよ! どんと来いですっ や、やあっ、ビキニずらすなっ、やだあっ、ほ、ほんとに見えちゃうからあ……! くくっ姫榊、見られたくなかったら屋上の使用許可を どがっ!! ぐあっ……ただの冗談だろ!? 〈性質〉《たち》が悪いにもほどがあるわよ!! 俺の性質より姫榊の足癖のほうが悪い。 わたしをこれ以上怒らせると取引自体やめるからね! ……こさめさん、放してやってくれ しょんぼりです なんだよ、もう終わりか? こさめさんの手から解放された姫榊は飛鳥が構えていたカメラをはたき落として踏みつぶした。 相棒おおおおぉぉぉぉ────っ!!!! また戦歴が増えた。 ……話を戻すけど、なに要求するんだ? 落ち込んでる岡泉先輩と飛鳥を慰めればいいのか? 自業自得のふたりよりこのわたしを慰めて欲しいわよ 大胆です姉さん…… そっちの意味じゃないでしょ! 頭でも撫でればいいのか? わたしは子供かっ 大人の女として扱った上で慰めて欲しいそうです あなたもうしゃべらなくていいから!? いきなり誘われても萎えるだけなんだけど どがっ!! ぐあっ……なんで踵で蹴りなんだよ!? ふん そろそろ鼻血でも垂れそうだ。 姉さん、結局なにを要求するんですか? わたしの仕事を手伝ってもらうわ ……ぽ 照れる意味がわからないのよ!? もしかして、生徒会の仕事か? いいえ 姫榊はいっそういやらしく笑う。 神社の仕事。わたしの代わりに境内の打ち水と掃除、よろしく わかった、やる ……やけに即決ね 登校日が来るまででいいんだろ? まあね わたしたちは夏祭りの準備がありますから、打ち水と掃除まではなかなか手が回らないんですよね それに夏は暑くてたまらないから だから打ち水するんだろ そうよ、お願いね 天クルが活動できるようになるなら、安いもんだ 取引成立? ああ あとでやめましたなんてのはナシよ そっちこそな 理不尽な要求じゃなくてホッとする。 屋上の使用許可、頼むぞ。打ち水と掃除の代わりに 誰もそれだけが要求とは言ってないけどね ……は? 要求はまだあるから ……じゃあもうひとつの要求ってなんだよ もうひとつ、とも言ってないけどね ここに来て姫榊にハメられたことを知る。 さっきのが一つめの要求でしょ。二つめ三つめ四つめ以降の要求は、まあ思いついたら教えるわ ちなみに登校日が来るまでめいっぱい働いてもらうから、そのつもりで これ以上ない理不尽な要求だった。 それと、これから先、わたしの命令を一度でも聞かなかったらこの話はなかったことになるから 要求から命令に変わってるぞっ じゃあ屋上の使用は諦める? そう言われては受け入れざるを得なかった。 洋ちゃん、こさめちゃん~。みんなも泳ごうよ~ 明日歩さんのご帰還ですね あれ、なんか洋ちゃん落ち込んでる。ていうかあっちで岡泉先輩、こっちで飛鳥くんも落ち込んでる ほんと、近頃の男子はだらしないわね 姉さんが言うと説得力がありますね 姫榊は明日歩と入れ代わりでパラソルの外に出る。 泳ぐのか? せっかくだしね。小河坂くんとの話もついたようだし、騒がしいのも来たことだし 誰のことだよっ 自分のことだってわかってるじゃない 姉さん、わたしもご一緒します ……海の中でまで妙なことしたらただじゃおかないわよ はいっ、わくわく なんだかんだで仲良さそうにふたりは歩いていった。 洋ちゃんも行こうよ~ 明日歩は休まなくていいのか? うん、まだまだ平気。夜までだって泳いでられるよ 元気だな 洋ちゃんも元気になろうよ~ 千波はどうした? さっき蒼さんと合流してたよ 蒼さんの願いは叶わなかったわけだ。 蒼さんの妹さん、鈴葉ちゃんっていうんだよね。かわいいね~ それに礼儀正しいし、千波と交換したいくらいだ 千波ちゃんだってかわいくて優しいじゃない。鈴葉ちゃんに泳ぎ教えてたし、あたしもあんな妹欲しかったなあ のしを付けて差し上げたい。 洋ちゃん、まだ休んでたいんだったらいいもの貸してあげよっか なんだ? ゴムボート。空気入れるから待っててね 片隅に畳まれてあったボートを広げ、ポンプをつなげて手で押していく。 これ使えば、休みながらでも一緒に海に入れるもんね でもさ、男の俺がボート乗って、女の明日歩が押すっていうのはちょっと…… いいのいいの。それ~ なんとも情けない配置で海上を進んでいく。 波が打ち寄せると飛沫が降りかかり、太陽に焦がされた肌に心地よい。 それ~それ~ そろそろ深くなってきたのか、明日歩は歩きから泳ぎに転向、そのままバタ足で押していく。 もうだいぶ進んだようで、周囲に人気がなくなってきた。 ……どこまで行くんだ? ん……このあたりでいいかな 基準でもあったのか、明日歩は泳ぎを止めて腕全体でボートにつかまる。 足、下につくか? うーん、つかないみたい ……大丈夫か? それ~それ~ 水をかけられた。 やめろっ、水がたまって沈むだろっ あははっ、洋ちゃん泳げないの? そうじゃないけど、転覆したら乗り直すのが大変だろ それ~それ~ 聞いちゃいない。 しばらく水かけにつきあっていると、明日歩は不意に周囲をぐるっと見渡した。 もう、完全に人影はなくなっている。 静かだね…… 銀にきらめく海面。宝石をまぶしたよう。 星空に浮かんでいる──俺たちふたりだけが独占している、そんな錯覚すら覚える。 それほどに、明日歩は俺を遠くまで連れてきた。 あたしもさすがに疲れちゃったかな…… 交代するか? ううん、と明日歩は首を振った。 ……そこ、乗っていい? やっぱり交代か 一緒に乗っていい? これ、ひとり用じゃないのか? そう答えるよりも先に明日歩は身を乗り上げた。 てっきり向こう側に背を向けて座るのかと思っていた。 だが明日歩の背中は俺の目の前にある。 俺の膝の間に身体がある。 ボートは狭く、そのため俺が腕を回せば簡単に明日歩を抱きしめられる格好だった。 ちょ、明日歩…… ………… 明日歩はなにも答えない。 明日歩の顔は見えない。 だから明日歩がどんな気持ちかわからない。 ボートが揺れる。 重心が偏っているせいで不安定に波打つ。 そのたびに明日歩と触れあった。 おたがい水着で露出が多いから、肌と肌が重なった。 明日歩…… ………… 波が打ち寄せる。 なのに潮騒は聞こえない。 心臓の音がうるさすぎて聞こえない。 あ、あはは…… 鼓動のみの世界で明日歩の声だけははっきりと届く。 あたしには、ちょっと早すぎたかな…… 段階、飛ばし過ぎたかな…… なんだろう、段階って。 一度ね、やってみたかったんだよ…… 男子と一緒にボート乗るの、やってみたかったの…… 男の家に迎えに来て、男の家に上がるのはまだ早くて。 だから、それを飛ばして男と一緒にボートに乗る。 その男とは、今のところすべて俺だ。 心臓、すごいドキドキだよ…… 段階とは、そのドキドキ具合なのだろうか。 い、嫌なら、言ってね……。すぐ降りるから…… 俺は乾いた唇からどうにか声を押し出す。 嫌ってわけじゃないけど…… そ、そう……? じ、じゃあ、このまま…… このままがいい…… ひときわ高い波が来た。 バランスを取らないと裏返りそうなほど揺れた。 ボートがかたむく。 落ちないためにはどこかにしがみつくしかない。 ないのだが。 しがみつく しがみつく できない 俺は必死にしがみつく。 その場所がまずかった、というか一ヶ所しかなかった。 目の前の小さな背中を抱きしめた。 ……ぁ 明日歩はぴくりと肩を揺らした。 だがそれだけだった。 姫榊だったら激怒するだろう、蒼さんなら死ねと罵倒するだろう、メアだったらカマで刺してくるだろう。 だが明日歩はなにもしない。 逃げようとも離れようともしない。 いい……から…… い、いいのか? だ、ダメ、だけど…………いいの…… よくわからない。 いや──なにもわからない、というわけでもない。 答えはひとつしかないのかもしれない。 波は、すでに過ぎていた。 なのにまだやわらかくあたたかい感触はこの腕の中にあり、だからこそ俺はどうすることもできず、いっそもう一度波が来てボートを転覆させてくれと祈っていた。 そして。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、見つけた──っ!! 突然の大声にふたりして飛び上がり、そのまま海にどぼんと落ちた。 ……この波はさすがに想定外だったぞ、千波。 できるわけない。 だってしがみつくとしたら、目の前の……。 きゃっ…… 波が過ぎた頃、ふたりして海に落ちていた。 その後に俺たちを探していた千波が来るまで、明日歩と一緒に転覆したボートにつかまっていた。 明日歩は赤くなったまま、ずっと無言だった。 詩乃さんがねっ、スイカ買ってきたからスイカ割りしようだってっ、だからお兄ちゃんのこと捜してたんだよっ ……あー、そうか ………… 陸に上がってボートを片付けると、明日歩はそそくさとパラソルの下に入っていってしまった。 その間、明日歩はうつむくばかりで会話もなかったが、少し時間が経てば普段の笑顔が見えるだろう。 似たようなことがあっても、明日歩はいつもそうだった。 明日歩先輩、顔真っ赤だけどどうかしたの? べつになんでもない お兄ちゃんも顔赤いけど日焼け? それよりスイカ割りするんだろ スイカ掲げて今にも千波の頭に振り下ろしそうだよお兄ちゃんっ、それスイカ割りって言わないよ!? ……なにやってるんですか、いったい えと、準備できましたけど 蒼さん姉妹も海から戻っていたようで、詩乃さんから受け取ったらしい棒とハチマキを持ってきた。 じゃあスイカは向こうに置いてくるか ねえねえ誰がスイカ割る? やりたい人いる? あなたが一番割りたそうに見える わたしたちは指示係ですね じゃあじゃあみんなの力を合わせて一発でスイカ割りを成功させようね! 千波、こんな感じでいいか スイカが砂に埋まって見えなくなってるよお兄ちゃんっ、早速チームワークを乱そうとするお兄ちゃんの頭をかち割りたくなったよ!? がんばれみんなー、とパラソルから声が飛んできた。 明日歩の応援だった。 その様子はいつものとおりで、俺は胸を撫で下ろした。 明日歩の近くには岡泉先輩も座っていて、興味深げにこちらを眺めている。 向こうのパラソルでは、詩乃さんら年長組も観戦していた。 それじゃ始めるよー、蒼ちゃん目隠しお願い! これでいい? 蒼ちゃん息が苦しいよっ、スイカ割りのハチマキは首じゃなくて目に巻くのが正しいんだよっ、千波窒息死しちゃうよこのままじゃ! 本当にありがとうございました お礼の意味を深く考えたくないよ蒼ちゃん!? そ、そんなことしちゃダメだよお姉ちゃんっ 鈴葉、私があなたの目を覚まさせてあげるからね 千波さんをいじめるお姉ちゃんなんかだいっ嫌い! ………… 蒼さんは顔を真っ青にしてくずおれた。 わ、私は……ただ鈴葉のためを思って…… 親の気持ちは子に理解されないものなんだよ、蒼さん……。 鈴葉ちゃん、ハチマキの後ろ結んでくれる? は、はいっ 千波の準備が整ったところで、海水浴では定番であるスイカ割りがスタートした。 千波さん、そのままです、そのまままっすぐです えと、こっち? ……まっすぐって言ってるのに、なんで左右にふらふらするの だって前が見えないからまっすぐがどっちかわからなくなってるんだよ! 足を前に出すだけでしょ…… えと、こっち? バックしてますっ、戻ってきてます千波さんっ ……前後不覚にもほどがある 前が見えないから前がどっちかわからないよっ、これはもうみんなの協力が不可欠だよっ、このままだと千波のスイカが暗闇の彼方に逃げていっちゃうよ! 千波、よく聞け 待ってたよお兄ちゃん! 箸を持つほうが前だ よけいわからなくなったよお兄ちゃん!? お、落ち着いてください千波さんっ ……鈴葉の言うとおり、落ち着いて聞いて 千波を助けて蒼ちゃん! 〈右舷〉《うげん》船首十五度二十メートル主砲〈旋廻〉《せんかい》ゼロ度〈仰角〉《ぎょうかく》三十五度発射撃沈目標沈黙オーケイ? 新米スイカ割り〈人〉《にん》の千波には荷が重すぎる暗号だよ!? 千波さん、それで合ってますっ、目標にちゃんと近づいてますっ 千波はやればできる子だったよ! ……ちっ ままならないものだな、蒼さん 早急に次の手を考えなければ…… スイカを持って逃げれば簡単なんだけどな ですがそれはエレガントではありません 嫌がらせの風上にもおけない最終手段だからな な、なんでふたりとも千波さんを助けるどころか足をひっぱろうとするんですか!? ふたりして鈴葉ちゃんの頭を撫でてごまかした。 みんなっ、指示がないよっ、千波そろそろ不安になってきたよ! このままあえて指示を出さずにいかにもみんな飽きて違うことやってますという状況を作り出すのはどうでしょう ただでさえ視覚を奪われて不安な千波の聴覚さえも奪うのか、蒼さんの容赦のなさに感涙だ では私は飲み物でも買ってきます そんなことするお姉ちゃんなんかだいっ嫌い! ち、千波さん、がんばって~ 妹のために慣れない笑顔で応援を始める蒼さんに感涙だ。 千波、バカなことやってないでそろそろ終わらせるぞ バカなことやってたのはお兄ちゃんたちでしょ!? 目標にはあと数歩ってところだ、ちょっと右にずれてるから左に修正かけろ こう? そっちじゃねえっ、茶碗持つほうが左だろっ そんなの千波は茶碗博士じゃないんだからわかるわけないよ! ち、千波さん、バックしてます戻ってきてます! が、がんばって~ 蒼さんの顔に大量の冷や汗が流れている。そろそろ無理な笑顔も限界のようだ。 もう聴覚に頼るな千波、逆効果にしかならないから それじゃみんなの協力を仰げないよ! 大丈夫、俺たちは信じてるから え…… 俺たちはいつでもおまえのそばにいる、だからおまえはたとえ視覚と聴覚がなくともなんの心配もいらないんだ お、お兄ちゃん…… おまえは自分の嗅覚だけを信じるんだ うんわかったありがとうお兄ちゃんって、千波は犬じゃないんだからできるわけないじゃないうわーん! それで合ってます千波さんっ、今目標に到達しましたっ えー、マジで…… 残念そうな声が聞こえるよお兄ちゃん!? 千波さん、棒を振り下ろしてください! が、がんばって~ 今こそみんなの力を結集するときだった。 やあっ! 千波はスイカをゴルフの要領でかっ飛ばした。 うわあ…… 千波さん…… なんでだよ…… 非難ごうごうだった。 手応えばっちりだよっ、みんなのおかげで千波は友情と努力と勝利をつかむことができたんだよ! その三原則をドブに捨ててくれた千波には、海まで飛んでいったスイカを回収してもらうことにした。 夕方になると俺たちは海の家で夕食を取る。 こんな大所帯での団らんは初めてなので、楽しくもあったが、落ち着かない気分にもなる。 俺は食べ終わると、一足先に海の家を出た。 ビーチの客はまばらになっている。 気温も下がってきたため、昼間は火傷するほどだった砂浜もぬるくて歩きやすかった。 これならシートの上に座る必要もない。 俺はそのまま腰を落とした。 橙色の海原を眺めていた。 水平線に沈む夕陽を、ただ黙々と見つめながら。 ………… ……なっ。 一瞬、視界に入った。 だがすぐに消えてしまった。 俺は立ち上がった。驚いたせいでそうするまでに時間を要してしまった。 彼女はビーチを出ようとしている。 俺は砂を蹴る。 走った。 そうするしかなかった。 うずくんだ。 だって、わめいているんだ。 過去の「僕」が急かすんだ。 同じ轍は踏むなと。 二度と手放すなと。 次に手放したら、もう取り戻すことはできないと。 ビーチを飛び出すと駐車場が迎える。 海水浴を終えた客が自家用車に乗り込んでいる。 車は列をなして通りに消えていく。 人も車も多かった。彼女の姿は見つけられない。 ……手放したのか? 俺はまた? いや、そうじゃない。 俺は彼女を忘れていない。 名前を忘れても存在は忘れていない。 覚えている。 だから大丈夫。 まだ猶予はある。 俺は、この想い出を手放す気などさらさらない。 そうしてビーチに戻ってきて。 座るとさっきよりも砂浜は冷たくて。 水平線に沈む夕陽も、半分以上が姿を消すと。 俺は一番星を探し当てた。 これが、海…… 雲雀ヶ崎の海…… 真っ暗じゃないのは、初めて見る…… そうして、今、太陽は完全に沈みきる。 だけど、陽は沈んでいるのに水平線は明るかった。 空も海も残らず夜に彩られても、そこだけは淡い光を宿していた。 それは世界を二分する残光。 境界線。 天上も地上も同じ色をしているけれど、それは決して同じ場所ではないという証。 これが…… どこか、そう、その光景はもしかしたら俺とメアの境界線を表しているのではないのかと、そんなふざけた考えまで浮かんでしまう。 それくらい、日没の風景というのは印象的だった。 これが、夜空に変わる前の、世界の色…… メア ……なに? 水平線までの距離って、どのくらいあると思う? ……すごく遠いんじゃないの どのくらいだと思う? ……百キロくらい? いや、五キロだよ 円とピタゴラスの定理を使って計算するとそんなもの。 ……頭でっかち 水平線は意外と近くにある。 こんなにも近くにある。 なのに、だっていうのに。 たった五キロなのに、俺たちは、あそこまではきっとたどり着けないんだろうな 俺はこれまで日没をまともに見たことなんてなかった。 都会に住んでいた頃も。 過去に、雲雀ヶ崎に住んでいた頃も。 はは…… ……なに突然笑い出してるの いや、なんかさ、もったいなかったなって なにが 都会はさ、海が近くになかったから、こうしてみんなで泳ぎに来ることはなかったんだ プールはあったけど、人が多くて満足に泳ぐことはできなかったんだ だけどさ、雲雀ヶ崎は違う 違ったんだ しかもこんなオマケまで見られるんなら、ほんと、子供の頃にも遊びに来るんだったなって…… ………… メアが口を開きかけたとき。 後ろから、たくさんの声が聞こえてきた。 わあっ、なにこれっ、こんなの見たことないよ! すっごくキレイ…… 日没なんて初めて見るかもね こんな風景があったんですね…… 写真に撮るのもためらっちまうな 冒涜のような気さえするね ずっと見てると、怖くなる…… うん…… 残光は徐々に弱まっている。 境界線が上下の闇に溶け始めた。 この光が消えてしまうのが惜しい。 憧憬にも似た小さな苦しみを受けながら、俺たちは最後までそこから目を離さずに見届けた。 それから詩乃さんの声が聞こえ、万夜花さん、マスターの声も続いた。 花火を持ってきたらしい。 メアの姿はいつしかなくなっていたけれど。 俺たちは、瞳に焼きついた水平線の残光に負けない光を、この砂浜に灯していた。 おはようございます、雪菜先輩 ああ。おはよう 海水浴、楽しかったですよ よかったじゃないか 雪菜先輩にも来て欲しかったです キミも知っているだろう、私はあまり雲雀ヶ崎の住民と関わりあいを持ちたくないんだ お仕事柄ですか ああ。今の仕事が終われば、私はここを去るからな 情が移ると、離れたくなくなるからですか? 美化すればそういうことだ 美化しないと? どうせ去る土地なのだから、私にとっては価値がない ………… 不満そうだな はい、とても不満です なら謝っておくさ お仕事は、いつ頃終わりそうですか? 可能ならすぐにも終わらせたいが、遅くともキミたちがヒバリ校を卒業するまでには終わらせたいものだ あと一年半といったところですね そうだな その前に雪菜先輩は卒業してしまいますね 私としてはそちらのほうがありがたいな それも、さきほど話した情が理由ですか? ああ 雪菜先輩のお仕事はとても暇そうですので、授業はいい暇つぶしになるんじゃないですか? そうかもしれないな 暇でしたら、天クルの活動に参加しませんか? 仕事でいそがしいから遠慮しよう ……矛盾してますよね 要するに口実ということだな 本人が肯定しないでください 私は、ヒバリ校に通うつもりはなかった。万夜花さんに言われなければ、ただ陰で機会を待つだけでよかったんだ 機会を待って、仕事を完遂できればそれでよかったんだ 母はそれをよしとしなかったわけですね いい迷惑だよ わたしは、母に感謝しています なぜ 雪菜先輩とこうして知りあいになれたからですよ 友達になれたからですよ ……私を無理やり天クルに所属させたのも、それが理由なのか はい 本当に、いい迷惑だな はい ……それで、私をここに呼び出した用件はなんだ? 雪菜先輩のご機嫌伺いですよ それだけではないだろう はい。雪菜先輩はもう知っていると思いますが、最近この展望台を訪れる人が多くなっています そのようだな。やっかいな展開になったものだ 雪菜先輩はその理由を知っていますか? いや。小河坂洋に関係していることはわかるが 彼を中心に、皆さんで星見をしているからですよ ………… でも、それはあまり問題ではないんです。天クルの活動が本格的に始まれば、皆さんはヒバリ校の屋上にその場を移すはずですから それよりも、もっと大きな問題があるんです なんだ? ここには、死神が出るそうですよ ……死神? はい。大きなカマを持った、死神の少女です 小河坂さんは、どうも彼女に会いにこの展望台を訪れているようです ですから、天クルの活動が始まっても、小河坂さんだけはここを訪れることをやめないかもしれません ……死神というのは、ヒバリ校で噂されている都市伝説の死神か? それはわかりません 私も何度か展望台に入ったことはあるが、そんなモノに一度も出会ったことはないぞ 死神は夜にしか出ないそうですよ キミは、会ったことがあるのか? はい。海水浴の日に、短い時間ですが見かけました ですから、展望台だけに現れる、ということではないようです ………… この死神は、雪菜先輩のお仕事に関係ありますか? ……どうだろうな。だが可能性はある なんと言っても、この地にはキミらの星天宮がある はい 私も少し調べてみようか お役に立てたようでなによりです キミは、なぜこの話を私にしたんだ? 何度も言わせないでください。わたしは、雪菜先輩を友達だと思っているからですよ 役立てそうな情報なら、役立てて欲しかったんです ……変わっているな、キミは そうでしょうか ああ おかげで、仕事がやりにくくてたまらない それは、誉め言葉ですか? ああ。そのとおりだ 今はまだ、な やっと来たわね、遅いじゃない 昼下がり、神社の境内に足を踏み入れると、セミの鳴き声に乗って不機嫌そうな言葉が聞こえてきた。 これ以上怒らせてしまう前に、俺は彼女の元に駆けていく。 手伝いは二時からって約束してたと思うんだけど 初日だし、少しの遅刻くらい大目に見てくれ 巫女装束をまとった姫榊が、ひしゃくを片手に水を撒いていた。 海水浴で約束したとおり、俺は今日から登校日までの間、姫榊の手伝いをしなければならない。 打ち水始めちゃったじゃない。全部押しつけるつもりだったのに 待っててくれてよかったのに 小河坂くんが忘れてるかもしれないと思ったから、やってあげてたんでしょ 生真面目だな ……うるさい。それより、遅れた理由を話しなさい 明日歩の喫茶店に寄ってたんだよ なんでよ バイトをしばらく夕方からにして欲しいって交渉しにな 明日歩を説得するのは骨が折れた。理由が姫榊の手伝いなので、なおさらだった。 ……今日、夕方からバイトなの? ああ。それまでに打ち水と掃除は終わらせるから それが終わってからの仕事プランも考えていたんだけど、残念ね ……ああ、バイト入れててよかったなあ。 まあ、そのぶん毎日働いてもらえば問題ないか 明日も来なきゃなのかよっ 当たり前じゃない 俺は姫榊の代わりに手伝いするだけでいいんだよな? 明日の手伝い当番も姫榊なのか? ううん、こさめだけど じゃあ俺は関係ないだろっ 二つめの要求は、こさめの当番も手伝うこと。あの子も夏祭りの準備でいそがしいのよ まあ基本的に手伝いはわたしとこさめが交互にやってたから、小河坂くんは毎日になるわけだ 得意げに説明していた。 ……わかったよ。約束だしな 小河坂くんも生真面目っていうか、律儀よね 毎日でも、手伝うのは夕方までだからな? わかってる 桶に水汲んでこようか お願い。わたしは撒いてるから 俺が来ても仕事をすべて押しつけようとはしない。やはり姫榊はいいやつだ。 水場を往復する。汲み終われば、俺の仕事は姫榊の話し相手になることくらいだ。 今日、最高気温が何度か知ってる? 知らないけど、あまり知りたいと思わないな 賢明ね。あー、早く終わらせて涼みたいわ 終わったら夏祭りの準備があるんじゃないのか? こさめやお母さんと違って、わたしの仕事は夜からでもできるから。そっちのほうが涼しいしね だったら昼間は時間あるんじゃないか。俺に手伝わせなくたっていいだろ 時間があったって外に出たくないのよ、日に焼けたくないし 姫榊の肌は新雪のように白い。 巫女してるのも苦労が多いのよ たしかに日焼けした巫女というのは体裁が悪そうだ。 日焼け厳禁の一番の理由は、夏祭りの仕事だけど…… ぶつぶつ言っている。 海水浴行ったわりに、焼けてないよな 日焼け止め使ってたから オイル塗りからは逃げてたじゃないか ……嫌なこと思い出させないで。日焼け止めは海に着く前に塗ってたのよ なるほど。 まあこさめさんがそれでもあえてオイル塗りたくなるのはわかるな、姫榊の肌って白くてキレイ……って、なんで水かけてくるんだよ!? 目がエロかった こさめさんと一緒にしないでくれ そっちこそこさめと一緒にしないで。あの子のあれはただの冗談だと思うし 俺だって冗談だ……って、水かけるなよ!? ふん ちなみにこさめさんの姫榊に対する迫りようは本気だと思う。 こさめさんもぜんぜん日焼けしないよな あの子は日焼けしない体質なのよ そんな体質あるんだろうか。 わたしはあの子と違うから、今だって木陰に入りたいの。明日は遅刻しないで来なさいよ、もう手伝わないからね わかったよ 家はここから一駅よね。近いんだし、十分前行動を心がけること まるで先生だ。 小河坂くんが働いてる間、わたしは部屋で課題でもやってるから 理不尽な先生だ。 それで夜から夏祭りの準備か。たしかにいそがしいな 夏祭りが終わるまではしょうがないわ どんな仕事なんだ? なにが 夏祭りの準備だよ。どんなことするのかなと 絵馬作ったり、〈櫓〉《やぐら》組んだり、〈提灯〉《ちょうちん》下げたり、あとそろそろ町内会の人たちと出店の配置も決めないとだし。いろいろよ それが姫榊の仕事か? ……だいたいはお母さんの仕事だけど こさめさんはなにやるんだ? あの子は事務関係ね。お母さんと一緒に祭事会場の設計してるわ で、姫榊は? ………… なぜか恥ずかしそうにする。 万夜花さんやこさめさんとは別なのか? か、関係ないでしょ なんで姫榊だけ別なんだ? な、なんでもいいでしょ 人に言えない仕事なのか? そ、そんなわけないでしょ 恥ずかしがるようなことなのか? だ、誰も恥ずかしがってないっ エロいこととか? どがっ!! ぐあっ……踵で蹴るなよ!? あなたがふざけたこと言うからよ 冗談に決まってるだろ! 〈性質〉《たち》が悪かった 草履だったからいいけど靴だったら鼻折れてたぞ! 折れてないからいいじゃない あと袴だからいいけどスカートで足振り上げると中身がモロ見え…… どがっ!! は、袴だからやってるに決まってるでしょ! 姫榊の足癖を考えるとスカートでもやるだろう。 あと、鼻頭がとても痛い。 夏祭りの仕事については聞かないで。これ、三つめの要求だから。破ったら取引は無効だから なにがなんでも隠すつもりのようだ。 わたしも小河坂くんに聞きたいんだけど なんだ? この前はこさめにうやむやにされたけど、どうしてそこまで天クルが大事なの? ……星が好きだからだよ なんで好きなの? じゃあ逆に聞くけど、姫榊はなんで嫌いなんだ? この質問、こさめさんに釘を刺されているのだが。 姫榊の質問をかわすにはこれしかなかった。 ……聞いてるのはわたしなんだけど よかったらさ、今度展望台に来ないか? 展望台? ああ。夢見坂の頂上にある展望台 ……あそこって、立ち入り禁止でしょ 簡単に入れるんだ まさか、入ったことあるの? ああ 怒るだろうか。生徒会役員として注意するだろうか。 それでも、姫榊には話してもいいように感じていた。 あそこで見上げる星空は絶景だ。自慢の場所なんだ ………… だから、よかったら星見してみないか そして姫榊が少しでも星を好きになってくれたら、言うことはない。 天クルのためにも、おそらく俺のためにも。 姫榊とはこれからもつきあいがあるのだから。 姫榊、星見ってしたことあるか? ……ないけど じゃあなおさらだ。どうだ? ……行くわけないでしょう 立ち入り禁止だからか? それもある 生徒会役員として、ルールは破れないからか? それもある。だけど個人的な理由もある 星が嫌いだからか それだけじゃない わたしは、あの場所が大嫌いなの この言葉は意外だった。 ……入ったことあるのか? いや、意外でもないだろう。俺たちが子供の頃は、展望台は立ち入り禁止じゃなかったのだ。 だが、姫榊はそれも否定した。 展望台に入ったことなんて、一度もないわ ……じゃあ、なんで大嫌いだなんて言えるんだ? 姫榊は軽く嘆息した。 もういいでしょ、この話は。最初に聞いたわたしも悪かった あなたは星が好きで、わたしは嫌い。それで充分よね 充分じゃないから展望台に誘ったというのに。 打ち水、終わらせるわよ。まだ境内の掃除も残ってるんだから 姫榊は水を撒き始める。それでこの話は打ち切られた。 これ以上なにを言っても、場の雰囲気を悪くするだけだ。 打ち水を終え、涼しくなったところで掃除をする。 それでお務めは終了だ。 仕事の時間は一時間半といったところ。姫榊と話しながらだったので、仕事に集中すれば一時間かからない量だろう。 姫榊は最後まで俺と一緒に手伝いを続けてくれた。 話し相手がいるおかげか、打ち水も掃除も苦痛ではなかった。 今日はお疲れさま ああ。そっちもな 家、上がっていってもいいわよ。お茶くらい出すけど いや、バイトもあるしな。遠慮する そう。ま、いいけど それじゃ、行くよ 明日は遅刻しないで来なさいね わかってるって 姫榊との会話は簡潔だ。だから別れも簡潔で味気ない。 まあでも、テンポがよくて心地よくもあるのだった。 むー バイトに入っての明日歩の第一声がこれだった。 明日歩、接客業なんだからスマイルスマイル ドアベルが鳴る。ちょうど客が来たようだ。 いらっしゃいませ…… 呪詛のような声だった。 それが客に対する態度かよ…… お、飛鳥でよかったな 飛鳥くんじゃなかったら店のイメージダウンだったね おまえらケンカ売ってんのかっ あはは、売り上げ貢献ありがとうございます。一名様ご案内~ 明日歩が席まで先導する。 なぜか飛鳥は制服姿だった。 学校行ってたのか? おうよ、オカ研の活動だ 夏休み中もやってるんだ。どんな活動してるの? 小河坂には話したけどな、夏休み中に部活来てる生徒に都市伝説について聞き込んでる 学校で泊まり込んで練習してる部員もいるし、夜の情報も手に入りそうだからな 夏休みって言ったら合宿だもんね。天クルでも合宿できたらしたいね~ 命運は登校日にかかっているわけだ。 南星、コーラ頼むわ はいはい。オーダー入りま~す 明日歩は厨房に消えていく。 それで、なにかわかったのか? 今のところめぼしい収穫はねえな 千波も一緒だったのか? いや、借りていいなら借りるけど ……まあ、聞き込みくらいなら おまえが心配してる張り込みはまだやらねえよ。聞き込みでなにかしら情報が手に入ってからだな こんにちは、いらっしゃい マスターがコーラを持ってきた。 マスター、ちょうどよかった なにか用かい? 小耳に挟んだんすけど、ヒバリ校のOBなんすよね そうだよ 飛鳥も知ってたのか 海水浴のときに千波ちゃんから聞いたんだ。万夜花さんや詩乃さんもそうなんだってな 天文部の同期だからね。万夜花にはよく振り回されていたものだよ……詩乃はにこにこ見ているだけだったし 苦労が忍ばれる言い方だ。 じゃあヒバリ校の都市伝説って知ってますよね? ああ、死神か。それも懐かしいね 俺も興味があったので、マスターの言葉に耳をそばだてる。 男女ふたりが死神によって引き裂かれる、童話みたいな噂だったと記憶してるよ ……男女ふたり? 小河坂、知らねえのか? それで恋の死神なんて名前がついてんだよ 男女っていうのだけ初耳だったんだよ 恋を引き裂くんだから、同姓じゃねえだろ そりゃそうだが。 マスター、その男女が誰かっていうのは知ってるんですか? 聞き込みでは特定できなかったけどな。というかパターンが多すぎる 噂には尾ひれがつくからね。僕も正しくは知らないよ マスターが知ってる噂って、どんなものっすか? 飛鳥はメモの用意をする。 マスターは思い出しているのか、時間を置いてからゆっくりと語り出した。 僕が知っている噂では、その男は病で余命幾ばくもなかったそうだ だから男は、恋人だった女に自分のことを忘れて欲しいと願うようになった すると死神が現れて、女から男の記憶を奪っていった 死神だから、恋の記憶を刈ったという表現が妥当なのかな。そのまま男女は別れることになったそうだよ 飛鳥は簡単にメモを取ると、ぱたんと閉じた。 ……そういう内容だったんですね あくまで噂のひとつというだけだよ 記憶を刈るという部分がメアを彷彿とさせる。 それって、ヒバリ校の校舎で起こったことなんですか? ヒバリ校で広がっているんだから、おそらくそうだろうね。この喫茶店でもたまに耳にするけど、ヒバリ校の生徒以外では話している人を見たことがないよ だがメアは、自分はヒバリ校に行ったことはないと言っていた。ウソをついている素振りはなかった。 やはりメアとは別の死神だと思える。 似たような話はほかにもあるぞ。マスターが話した噂は男が病気ってなってるけど、逆のパターンもあるしな 都市伝説だからね。どれが正しいかは、当事者にしかわからないさ 本当に当事者がいればいいんすけどね この伝説、信じてないのかい? 信じたいのはやまやまなんすけど、有力な情報が集まらないんでなんともっす 小河坂くんはどうだい? ……飛鳥と同じですかね その死神がメアでないのなら、興味はあっても、それは学校の七不思議レベルでしかない。 万夜花さんや詩乃さんもなにか知ってそうっすか? 詩乃はわからないけど、万夜花は神社の跡取りだったこともあって、当時からオカルトには詳しかったよ 俺が聞いた限りじゃ、詩乃さんはあまり知らないみたいだったぞ じゃあ近いうちにこさめさんに頼んで、万夜花さんに聞き出してもらうかな マスターは、都市伝説を信じてたんですか? ……そうだね マスターは顎を揉みながら、 僕は、どちらかというと信じていたほうかな。だけど解明したいとは思わなかったよ なんでですか? 時代の差かな どういう意味だろう。 都市伝説の謎は、きっと僕たちの世代よりも、キミたちの世代で挑むのが正しいんだ でないと、都市伝説の意味がない。そういうことだよ やはり、よく意味がわからなかった。 お父さん、またお客さまからオーダー入ったよ~ 明日歩の声に、マスターは手を上げて応じる。 僕が教えられるのはここまで。あとはキミたちでがんばりなさい マスターは厨房に戻っていった。 三人してなに話してたの? ヒバリ校の都市伝説についてだよ 飛鳥はコーラを一気飲みした。 なにかわかったの? まだなんにも。だけど、必ず解明してやる 熱心だな おまえだって星見に熱心だろ 飛鳥は伝票を持って席から立った。 もう帰るのか ああ。次は図書館でも行ってみようかと思ってな お昼寝に? ちげーよ、ヒバリ校の歴史について調べてみるんだ 都市伝説に精を出すのもいいけど、夏休みの課題も忘れるなよ なにかわかったら情報提供してやるから、いざとなったら写させてくれ 死神について教えてくれなんて一言も言ってないぞ そうか? オレには興味津々に見えるけどな だとしたら、俺はまだ無意識にメアと恋の死神を結びつけているということだ。 メアって自称死神にも、今度会わせてくれよな ……海水浴のときに見なかったか? 日没のとき、おまえの隣に立ってた子供だよな。いつのまにかいなくなってたじゃねえか 話もできなかったし、次はちゃんと紹介してくれ ……考えておく べつに捕って食おうなんて考えてねえよ。千波ちゃんに対してもそうだけど、おまえって過保護だよな 心外だ。 飛鳥は会計をすませて店を出た。 それを見送ったあと、明日歩がつぶやいた。 あたし、最初はメアちゃんが恋の死神だと思ってたけど…… やっぱり、違うよね どうしてそう思う? だってさ、都市伝説で聞く死神ってどこか悲しくない? 恋人の仲を裂いちゃうし でも、メアちゃんは悲しい感じがしないから 無愛想なんだけど、悲しいっていうよりは、怯えてる感じがする 明日歩はお姉さんぶって言ったのだ。 メアちゃん、人見知りするみたいだしね 夕飯を食べたあと、俺は出かける準備をする。 海水浴ではメアとほとんど話ができなかったし、これから展望台を覗いてみるつもりだった。 ……出かけるんですか? リビングにいると思っていた蒼さんが、気がつくと後ろに立っていた。 ああ。ちょっと展望台までな ………… 一緒に来るか? 断られそうだけど。 ……はい うなずいたあと、蒼さんはリビングをちらりと見る。 鈴葉は千波さんにかどわかされていますし…… じゃなくて、一緒に遊んでるだけだろ 夏休みに入ってからは毎日のようにかどわかされています…… 黄昏れていた。 私が最も恐れていた事態です…… 鈴葉ちゃんが楽しいならいいじゃないか 私の知る鈴葉はいなくなってしまいました…… 蒼さんも一緒に遊んだらいいじゃないか ふ……同情はよしてください…… ……蒼さん、千波と遊びたくないのか? はい きっぱり言われる。 千波は蒼さんと遊びたそうだぞ ……死ねばいいのに そう邪険にしなくていいんじゃないか 私は、千波さんの友達じゃありませんから 友達じゃなくて家族だったか 死んだらいいと思います 俺にはもう友達同士にしか見えないけどな 先輩の目は節穴ですね あくまで認めないようだ。 とすると、蒼さんにとっては俺もまだ友達じゃないんだろうなあ。 ……少し待ってください 望遠鏡、持っていくのか? はい 蒼さんはお隣の自宅に入っていく。 展望台まで俺と同行するのは、星見が目当てなんだろう。 だから俺がいてもいなくても、蒼さんの行動は変わらない。 蒼さんは天クルの部員になっても、屋上で過去の星空を見上げていた頃とあまり変わっていないのかもしれない。 展望台に着いた。 メアの姿は今のところ見当たらない。 それでも空はこんなにも晴れている。どこかに隠れているに違いない。 俺、ちょっとメアを探してくるよ ……来てるんですか? たぶん 俺が歩き出すと、蒼さんは望遠鏡を組み立て始めた。 メアを見つけたら使わせて欲しいが、以前と同じく蒼さんは断るだろうか。 というか、ふたりがまた険悪にならないことを祈る。 ……………。 ………。 …。 展望台を二周ほどして戻ってくる。 蒼さんは覗いていた望遠鏡から目を離してこちらを向いた。 遅かったですね そんなに時間経ってたか? はい。一時間くらいです ……そんなにかかっていたとは。 メアさんはどうでした? 見つからなかったよ 藪の中や木の上まで、探せる場所はすべて探したつもりだったが、メアがいる気配はなかった。 晴れた夜に姿が見えないのはめずらしい。 今夜はなにか用事でもあったんだろうか。死神に用事なんてあるのか知らないが。 俺が知っているメアの用事と言えば、ここに来て星を見ているか、もしくは。 俺の記憶を刈ることくらい。 ……疲れたんですか? ちょっとな 俺は手近の草むらに腰を落とす。 蒼さんは望遠鏡を片付けるようだった。 もう星見はいいのか? はい じゃあ蒼さん、片付ける前に ダメです 望遠鏡、使わせてもらっていいか? ダメって言いました ……ケチだな ケチで結構です 死んだらいいと思います ……ウザ 蒼さんのセリフなのに……。 俺も早く望遠鏡買わないとな 部費で買えるんじゃないんですか いや、どうせなら自分の望遠鏡が欲しいからな ………… 片付け終わったようで、蒼さんは望遠鏡を胸に抱える。 持とうか? 結構です 帰るか? 結構です ……帰り道は一緒だぞ 私が林の中を歩くとき、わざわざ先頭に立って枝をどけなくてもいいという意味です それくらいさせてくれ 結構ですから させてくれないと千波をけしかけて鈴葉ちゃんを朝食と昼食にも招待するぞ くっ……卑怯です さあどうする? ……殺るしかないか またその結論に!? というわけで、今のはナシ 賢明です 帰ろうか ……先頭に立ってるし 蒼さんは、渋々とあとに続くのだった。 空は快晴、天気の週間予報もすべて晴れ。 上がる一方の熱気に辟易しつつも俺は神社に到着した。 ……遅いわよ、コガヨウ コガヨウって言うな あなたが遅かったのが悪い 今日は時間どおりだろ 三十秒の遅刻 細かいよ。 それに十分前行動って言ってあったじゃない。おかげで先に打ち水始めちゃったわよ なんというか、文句は多いがとことんいいやつだ。 境内も賑やかになってきたな そうね。午前中に、町内会の役員とボランティアの人が祭りの設営をやってたから 今はやってないんだな この時間は一番暑いからね。今は休んで、夕方になったらまた始まるんじゃないかしら 俺たちはその一番暑い時間に仕事をしているわけだ 涼しくするための打ち水だからね 桶に水汲んでくるよ よろしく 蛇口をひねりながら姫榊の様子を眺める。 撒いた水が石畳に光って、まばゆい絨毯のようにも見える。 その上を歩く姫榊は衣装も相まってどこか神々しい。 しかもその巫女は精巧な彫刻みたいな美人と来た。 ……なによ、じろじろ見て 戻ってくると、俺の視線に気づいていたらしく姫榊は不機嫌に言った。 そのツンケンしたしゃべりがなきゃ、カンペキなんだよなあ いったいなんの話よっ 言ってみる 言ってみる やめておく 姫榊って美人だなと思って ………… 驚いていた。 実は結構モテるんじゃないか? ……な、なによいきなり たぶんさ、都会も含めて俺が出会った人たちの中で、姫榊が一番美人だぞ 姫榊は不機嫌そうに照れている。 ……本気で言ってるの? 本気というか、感じたままというか ………… 告白とかされたことあるんじゃないか? か、関係ないでしょ 彼氏は……いないか。いたら俺じゃなくてそっちに仕事手伝わせるだろうし う、うるさいわね なんで彼氏作らないんだ? だ、だから関係ないでしょ 巫女だからとか? ……いつの時代の巫女よ。そりゃ、基本的には未婚じゃないとダメだけど 神職資格を取ってる巫女だったら交際だって気にするかもしれないけど、うちはマイナー神社だし。そんな堅苦しくないわ だったらなんで彼氏作らないんだ? ………… 無言で水かけるなよっ これ以上聞いてきたら蹴るわよ。これ、四つめの要求。破ったら取引は無効の上、蹴るから 蹴るの好きだな…… 誰のせいよ だいたい、小河坂くん間違ってない? なにが? わたしは一番の美人じゃないでしょう。双子の妹のこさめもいるんだから そっくりなので、同率首位はあっても単独首位はないか。 でもこさめさんは美人というか、かわいらしい感じじゃないか? わたしに聞かれたって知らないわよ 内面の差かもな、こさめさんと違って姫榊の性格はどう考えたってかわいくな…… どがっ!! ぐあっ……結局蹴ってるじゃねえか! ……ふん くだらないことばかり言ってないで、ちゃんと仕事しなさいよね なんでもない ……なんなのよ うちがマイナー神社だからって、ちゃんと仕事はこなしなさいよ。これ、四つめの要求 桶に水汲んだらやることないんだよ なんでわたしに水撒きさせてるのよ そっちが勝手に始めてたんだろ 代わってあげようって慈愛の精神はないの 代わってやるよ もうすぐ終わるしべつにいいわよ じゃあ慈愛とか言うな うちわで扇ぐくらいしなさいよ そんなのないし 暑いんだけど 天気に言ってくれ セミがうるさいんだけど セミに言ってくれ 家からうちわと麦茶持ってきて パシリに使うな これ五つめの要求 暴君だ。 あー、早く涼みたーい 本当、文句の多い巫女である。 お疲れさまです、おふたりとも 掃除中、こさめさんが境内に入ってきた。 手に持ったトレーにはコップが並んでいる。 差し入れですよ ありがと。さっき小河坂くんをパシらせたばかりだったけど、悪いわね よって二杯目の麦茶である。 いえ、これくらいしないと申し訳がなくて こさめさんから差し入れを受け取る。手のひらから伝わる冷気が暑さを和らげてくれた。 こさめさんも巫女装束なんだな はい。これは作業着みたいなものですから こさめも手伝ってくれるんだ はい。だいいち、今日はわたしがお手伝いの当番ですし。ですからふたりとも、上がってもよろしいですよ いや、どうせなら最後までやるよ そうね。こさめこそ、祭りの準備はいいの? 設計のほうはすべて終わりましたから。あとは町内会の皆さんに残りの設営をお任せするだけです じゃあ設営が再開する前に、終わらせてしまいましょう こさめさんが加わり、俺たち三人は竹箒を使って境内を掃いていく。 打ち水をした場所にゴミを付着させないよう注意しないといけない。 秋になれば落ち葉を集めて焼き芋でもできそうだが、夏だと虫の死骸なんかが多くて食欲は湧かない。 強い陽射しとの相乗効果で夏バテを促進するだけだ。 姉さんこそ、お祭りの準備はよろしいんですか? こさめさんが掃除の手を休めずに話しかける。 わたしは夜に練習するから。そっちのほうが涼しいし 練習って? あ、ううん、なんでもない 姉さんはですね、お祭りの最終日に…… 言ったら蹴るわよっ ……そういうお仕置きはしょんぼりです どういうお仕置きならいいんだろう。 明日歩から聞いたんだけど、ふたりとも祭りの最中も仕事があるんだって? そりゃあね 社務所に詰めていないといけないんです。皆さんと一緒に回れなくて残念ですけど 休憩時間くらいないのか? あるけど、たかが知れてるわよ。雲雀ヶ崎では一番大きな祭りだから、人出が多くなるし どうしても問題や苦情が多くなるんですよね。その対処だけで一日が過ぎていく感じです あれ、ここの祭りって雲雀ヶ崎の祭りなのか? そうよ。神社の住所は、隣町ではあるけど 集客効果を狙っているんでしょうね。ネズミさんがたくさん住まう遊園地みたいなものですね 雲雀ヶ崎は田舎でも、都会の隣町より観光地としては有名ということか。 なのにこの神社はマイナーなのか? 悪かったわねマイナーで 姫榊も自分で言ってただろっ 小河坂くんだって子供の頃に雲雀ヶ崎に住んでいたみたいだけど、神社の存在は知らなかったんでしょう たしかにそうだ。 お祭りの存在はどうですか? ……知ってた気もするな。来たことはなかったけど 思い返してみると、母さんと千波が浴衣を着ていたときが何回かあった気がする。 雲雀ヶ崎の住民でも、普段は参拝に来ないのに、楽しい祭りにだけ参加する人たちが多いのよ お墓もないので、墓参にいらっしゃる方もいません。ですから神社の名前はあまり知られていませんよね 名前は星天宮だ。天津甕星を祀っていると以前に聞いた。 あと賑わうと言ったら、正月の初詣くらいなものね。それだけじゃ賽銭で儲けることもできないのよね 不謹慎な巫女だった。 その分、仕事が夏祭りに偏ってるわけか 休憩時間がまとまって取れるようでしたら、一緒に回れるかもしれませんね わたしはパスだけど、こさめだけでも行ってきたら でしたらお祭りの最終日は皆さんと特等席で姉さんの…… 蹴るわよっ ……痛いお仕置きはしょんぼりです 痛くないお仕置きってなんだろう。 もう夏祭りの話題はやめましょう。ただでさえ多忙でうんざりしてるのに 最終日っていつだっけか どがっ!! ぐあっ……今の蹴りの理由を説明願いたいんだけど!? 夏祭りの話題はやめてって言ったでしょ 日取りぐらいいいだろ! 三つめの要求は夏祭りの仕事に関して聞かないこと。忘れたとは言わせないわ それはべつに聞いてなかっただろ! 聞きそうな雰囲気だったから事前に制裁した なんて暴君だ。 くだらないことばかり言ってないで、さっさと仕事終わらせるわよ。じゃないとお仕置きするから なあこさめさん、お仕置きってなんだ? どがっ!! 二度と聞かないで。六つめの要求だから 暴君、ここに極まれり。 よ、おふたりさん。景気はどうだ? 昨日に続いて飛鳥が景気よさげに姿を見せた。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ、待ちに待った千波が来たよ──っ!! しかも万年好景気の千波まで来店だ。 そっちこそおふたりさんじゃない。ご機嫌みたいだけど、なにかあったの? 聞き込みの成果でも出たのか? そうだよお兄ちゃんっ、さっきまでオカルト部長とヒバリ校で都市伝説の聞き込みしてたんだけどねっ 焦るなって千波ちゃん、まずは座ろうぜ はーい! お兄ちゃん案内よろしくー! こちらの席でよろしいですか? そこは玄関だよお兄ちゃんっ、もしかして帰そうとしてるの!? お会計、二万円になります まだ飲み食いしてない上にそれ千波のお小遣いのぴったり全額だよ!? おまえの生涯賃金だからな 洋ちゃん、千波ちゃんと騒いでるときが一番輝いてるね ……俺の人格を全否定された気分だ。 とぼとぼとふたりを席に案内して、ドリンクふたつのオーダーを取ると明日歩は厨房へと伝達に向かう。 それで、なにがわかったんだ? うんうん、教えて教えて 気になるのか、明日歩もすぐに戻ってきた。 今週からな、野球部の連中が合宿してるんだよ。体育館を寝泊まりの場所にしてな それで、そいつらから聞いた情報なんだが…… 飛鳥は俺たちふたりを見回す。 夕べのことなんだが、消灯時間の前に部員数人がトイレに向かうため廊下を歩いていたんだよ 体育館から出たから階は一階だ。廊下には当然明かりは点いていない だが星明かりのおかげで完全な闇というわけでもない そんな薄闇の中で、そいつらは見たんだよ…… ……なにを? 死神か? いや、それがな…… 飛鳥はもったいぶってから、声を低くして言った。 ……UFOなんだよ 俺と明日歩は同時に白い目を向けた。 あからさまに信じてませんよオカルト部長! ケッ、これだからゆとり世代は いやおまえも同世代だから いいか、そいつらは淡い光が天井を漂っていたと言っていた。最初は窓から差した星明かりだと思ったが、角度的に違ったらしい そして警備員の懐中電灯の光でもなかった。光は線になって届いていたんじゃなく、球のかたちで浮いていたからだ それ、蛍じゃないの? 季節的に 球は球でも、楕円に近かったらしい 円盤を横から見たら楕円になるだろ? だからUFO説を振りかざすわけか。 聞く限り、大きさは小動物並だそうだ だとしたらえらく小さなUFOってことになるな そんなんじゃ乗れないね そのときは宇宙人がマイクロ波で人を小さくしてくれるから大丈夫です! マイクロ波は電波の一種ってだけで人をマイクロサイズにする効果はない ケッ、これだから頭でっかちは 飛鳥の真似して楽しそうだが覚悟はできてんだろうな、ああ? ぐりぐりじゃなくてオカルト部長のときみたいな軽いツッコミだけで許して欲しかったよお兄ちゃん!? じゃあ人魂とか? お盆も近いし その可能性は否定できねえな ただの見間違いじゃないのか? なんだよ、信じねえのか? UFOの誤認って世間にあふれてるしな たしかに、公式での世界最初のUFO目撃報告が入ってから今年でおよそ六十年、その間UFOの目撃証言も証拠写真も山のように届いてる その情報が玉石混交なのはオレも否定しねえけど、だからってUFOが存在しない証明にはならねえだろ? 玉石混交じゃなくて、石しかないんじゃないかって言いたかったんだけどな オレはな、石が大多数の情報から宝石を見つけ出すのがオレたちオカ研の使命だって思うんだよ オカルト部長最高です! げしっ! なんで千波のお尻蹴るの!? なんとなく ……なんか飛鳥と明日歩の視線が痛いな。 飛鳥くん、ほんとにUFOだって思うの? 正直言えば、だったらいいなって希望だけだ。だから今夜に決行しようと思うんだ ……まさか ああ。UFOかどうかをこの目で見届けるために、千波ちゃんと一緒に夜のヒバリ校を張り込みだ オカルト部長と一夜を共に過ごします! げしっ! なんでまた蹴るの!? 言い方がイラっときた 千波もう決めたんだから反対しても無駄だからね! 反対はしない。そういう約束だしな 本音を言えば一蹴したいところだが。 その代わり、俺も同行するからな え、お兄ちゃんも? ああ。いいんだよな、飛鳥 オレたちの邪魔さえしなけりゃ問題なしだ なになに、それって前にも言ってた肝試し? メインはあくまで張り込みだけどな おもしろそうだからあたしも参加する! 反対はしねえけどよ、UFOが出ても追いかけたりするなよ。オレが写真に撮るまでは フラッシュ焚いちゃったら警備員に見つからない? ちょうど野球部が合宿してるし、警備員に見咎められても野球部ですって言えば誤魔化せる ……あたしと千波ちゃんは無理なんだけど マネジって言えば平気だろ じゃあ張り込みの最中はオカルト部長のこと野球部長って呼びますねっ ……いや普通に飛鳥部長でいいから 何時から決行なんだ? 目撃情報によると夜十時前後ってことだったし、一時間前の九時でいいだろ で、何時まで張り込むの? もちろんUFOを見つけるまでです! 却下 なんで!? それじゃ朝まで張り込むことになるだろ、さすがに一泊なんかさせられるか 目撃しねえのを前提にしてるんだな…… あたしも泊まりは無理かなあ。お父さんが怒りながら〈街中〉《まちじゅう》を捜し回りそう 穏和なマスターからは想像できないな あれでけっこう心配性なんだよ? 昔はぜんぜん違ったけど お待たせ マスターが注文したドリンクを運んできた。 明日歩、泊まりは認めないからね。みんなもあまり無茶しないように しっかり釘を刺してマスターは戻っていった。 怒らせると怖いんだよね、お父さん じゃあどうすっかな 張り込みは十一時くらいが限度じゃないか? それ以上になるとうちも詩乃さんが心配しそうだ 学校に一泊くらい平気だよっ、詩乃さんは千波のこと信用してるもん そうだな、十一時で解散するか オカルト部長にまで見限られた!? 千波ちゃんのせいじゃねえよ。オレの帰りが電車だから、終電を考えて念のためだ 十一時になって、残りたいやつは残る。それでどうだ? じゃあ千波は残りますっ もしもし詩乃さん? 今夜千波と出かけますけど十一時にはふたりとも戻りますんで さっそく逃げ道塞ごうとしてる!? 千波ちゃん、洋ちゃんの気持ちもわかってあげないと。千波ちゃんがかわいいから心配してるんだよ その言葉は納得いかないが、千波のほうは納得したようだった。 話はついたな。集合場所は校門前だ、遅れるなよ 飛鳥の一言に、一同は思い思いにうなずいてからグラスを手に取った。 千波、虫取り網持っていきますね! あたしは天体双眼鏡持っていこうかな~ 俺は暇つぶしのモバゲー探しとくか ……おまえらなにしに来るんだよ ……肝試し、ですか? ああ、これから千波を連れてヒバリ校に行くんだ それで制服を着てたんですね 蒼ちゃんと鈴葉ちゃんも一緒に行こうよっ、大人数のほうがUFO探しやすいと思うしっ ……UFOって、どんな肝試しなの わ、わたしも行っていいんですか? もちろんだよっ 鈴葉ちゃんはうれしそうだ。 これで鈴葉ちゃんも同行決定っ 死ねばいいのに 蒼ちゃんも来るんだよっ 死んでください みんなでUFOに乗るんだよっ 死になさい 期待から希望に変わって最後に命令になったよ!? 蒼さんはいいと思うんだけど、鈴葉ちゃんはな…… さすがに野球部のマネジには装えない。 だ、ダメですか……? あ、いや ご迷惑……おかけしませんから…… そんな目で見つめられると、とても断れない。 ……警備員に見つかったら、野球部の夜食を差し入れに来た家族の人って設定にしておくか しておくか、じゃないです。私は大反対です 蒼さんも私服だし、ふたりで差し入れに来たってことにすれば違和感ないだろうし そういう問題じゃありません あ、でも飛鳥の話だと野球部は十時に消灯らしいし、差し入れは難しいかもしれないな 消灯してるの知らなかったってことにすればいいんじゃない? よくない そうだな、それでいこう いかないでください ちょうどサブレ焼いてたから、包んであげるわね。持っていくといいわ 詩乃さんまで賛成しないでください 洋さん、千波さん、なにか持っていくものありますか? ケータイがあれば充分だよっ、UFOか宇宙人見つけたらそれで激写するんだよっ わかりましたっ お願いだからわからないで はい、サブレ。お腹が空いたら食べてね ありがとうございます。十一時には戻りますから それじゃいってきまーす! いってきますっ ……誰か、私の話を聞いて 鈴葉ちゃんに手を引かれ、蒼さんは渋々と従った。 みんな集まったな……つーか、集まりすぎてるぞ 蒼ちゃんと鈴葉ちゃんは助っ人ですっ 野球部の差し入れに来たという設定上、蒼さんは鈴葉ちゃんと一緒で私服姿のままだ。 よ、よろしくお願いします うん、よろしく。参加者は多いほうが楽しいもんね~ UFOに見つからなきゃいいんだけどな UFOのところを警備員に言い換えたい。 ……というか、UFOというのは人に見られると逃げるんでしょうか 宇宙人は人見知りなんだよ、メアちゃんもそうだし 大人数のほうが見つけられる確率も上がると思うし、蒼さんと鈴葉ちゃんも参加でいいか? そうだな、宇宙人に襲われたら仲間は多いに限るしな ……飛鳥が千波に感化されてきた気がする。 それじゃ、満場一致で肝試し始めよっか ……ここに不満者がひとり とりあえず目撃現場の校舎一階を散策だな ……これが数の暴力 意見を封殺された蒼さんがいじけていた。 薄闇の中を、星明かりを頼りに歩く。 足音が静謐な空間に響いている。 合宿中らしい野球部は体育館に集まっているんだろう、人の気配は俺たち以外まったくない。 鈴葉ちゃん、千波から離れないでね は、はい…… 手をつなぐふたりのあとを、蒼さんが黙ってついていく。 教室も一部屋ずつ調べていくからな 飛鳥が大きな音を立てないように教室の扉をスライドする。 カギかかってないんだな そりゃ、校門にカギかけないくらいだもん 胸を張らないで欲しい。 飛鳥は教室を覗くが、変わったところはないようで俺たちに進むよう促した。 先頭を飛鳥、続いて千波と鈴葉ちゃんが寄り添って歩いている。 そしてしんがりは俺と明日歩と蒼さんの三人だ。 夜の校舎に入ったの、これで二度目かあ 話すのはいいけど、あまりでかい声出すなよ。勘づかれたら困る 飛鳥が振り返って注意した。 警備員には見つかりたくないからな オレが心配してんのはUFOのほうだ 俺はおまえが心配になってきたよ……。 明日歩先輩、前にも肝試ししたんですか? あ、ううん。星見するのに、洋ちゃんに部室から望遠鏡運び出してもらったんだけど…… 言って明日歩はうつむいた。 ……どうかしましたか う、ううん、あはは…… 明日歩の照れ笑いに、千波と蒼さんは首をかしげる。 そのときは警備員と勘違いした蒼さんから隠れるため、明日歩の肩を抱いたのだ。 俺まで意識しそうになって、かぶりを振った。 お兄ちゃん、顔赤いよ? 暗いのにわかるわけないだろ でもお兄ちゃん観察日記によると、お兄ちゃんが猛烈に頭振るときはピンクの妄想に顔を赤くして…… 破り捨てる。 四冊目もお亡くなりに!? 千波ちゃん、大声は厳禁だって そうだぞ千波 踏みにじってるっ、最後の一冊だったお兄ちゃん観察日記のカケラがお兄ちゃん本人の土足によって踏みにじられてる! 四冊すべてを破り捨てた達成感は格別だった。 さあ肝試しを続けようじゃないか、千波 いいもんべつにっ、お兄ちゃん観察日記がなくなっても千波にはまだお兄ちゃん生態記録が残ってるもんっ 達成感は長く続かなかった。 ほんとふたりって見てて飽きないよね 恥ずかしくなるくらい仲良し うらやましいです そして敗北感が加わった。 とぼとぼと教室を見て回り、曲がり角で飛鳥が足を止めた。 一階は収穫なしか あれ、この先は? 左に曲がると体育館、右に曲がると教務室と警備員の宿直室。どっちもパスしたほうが無難だろ 野球部にはこの肝試し、教えてないのか? ああ、顧問の耳に入ったら面倒だし。だから野球部の連中にも見つからないようにな とすると、右に曲がっても左に曲がっても、下手をするとそこで肝試しが終わってしまう。 じゃあ、残るは階段しかないね そうだな。一階だけに現れるとは限らねえし、続いて二階の探索をするぞ 鈴葉ちゃん、怖くない? は、はい。皆さんと一緒ですし、平気です ………… 蒼さん、顔色悪くないか? ……暗いのにわかるわけないです さっきの俺と一緒のセリフだ。つまり図星ということだ。 気分、悪いのか? 疲れたとか? わかるわけないって言いました 先行する飛鳥たちを追って、蒼さんも階段を登る。 蒼さん、鈴葉ちゃんを千波ちゃんに取られて機嫌悪いのかな いや、蒼さんはいつもあんな感じだ もっと仲良くなりたいな。天クルの仲間だしね 俺たちもみんなに続いた。 二階も、今のところ収穫なしか…… 二階に並ぶ特別教室を半ばまで見回ったが、野球部が見たという光の玉は現れない。 ぜってー見つけてやるからな…… 飛鳥は目を光らせて先に進んでいく。 なあ明日歩、飛鳥って昔からあんななのか? そうだね。あたし、飛鳥くんとはヒバリ校で知りあったけど、一年生のときからオカルトファンだったよ 見てると、明日歩の星好きにも匹敵するよな あたしの趣味はあんな不健全じゃないよっ 明日歩先輩それは間違ってますっ、宇宙人は常に人類との友好関係を築こうと狙ってるんですっ、それを後押しする部長の趣味は超健全ですっ 友好関係築きたいんなら、飛鳥が探さなくても向こうから現れるだろ…… 宇宙人は恥ずかしがり屋さんだからねっ ……まあ、地球の侵略を狙ってるって考えないだけ健全なのかな どこもかしこも変人ばかり そ、そんなこと言っちゃダメだよっ そうこうしていると、視聴覚室の前に着く。 天クルの部室である。 お邪魔させてもらうぜ それはいいけど、大事な天文資料とかにさわらないでね 夜の視聴覚室は、化学実験室の次に不気味かもしれない。 大型スクリーンに人影でも映ったら、飛鳥と千波以外の全員が逃げ出すだろう。 ………… 蒼さん、入って来ないのか? ……今、入るところです そわそわしながら遅れて入室した。 ここも入らせてもらうぜ 飛鳥は隣の資料室に足を向ける。 何度も言うけど、よけいなものにさわらないでね へいへい わあっ、す、スクリーンに! 出たのか!? っ! ほら見て見て星明かりで影絵ができるよっ スクリーンに千波が手で犬を作っていた。 人騒がせなことするなっ ……心の底からまったくです 蒼ちゃんにぐりぐりされるのは初めてだよ!? 結局、資料室にも目新しいところはなく、俺たちは部室をあとにする。 洋ちゃん、神社のお仕事はどう? 肝試しとはいえ団体行動のせいか、自然と口数も多くなってくる。 姫榊にこき使われて大変だよ 大変ならやめればいいのに でも約束してくれたからな、要求をこなせば登校日にちゃんと屋上の使用許可くれるって こももちゃん、反故にするかもしれないよ? 姫榊はそういうやつじゃない むー そういえば、境内が華やかになってきたぞ。祭りの飾り付けで 今週の土曜からだもんね。楽しみだな~ お兄ちゃん、お祭り行くの? そのつもりだ 昔はぜんぜん来なかったのに。お母さんが誘っても まあな、だから今年が初参加だ 海水浴のときみたいにみんなで集まりたいね~ そうだな、声かけてみるか ま、オレは特に異論ねえけど 千波ももちろん参加します! ………… お姉ちゃん、お祭りは毎年家族で回ってたけど…… うん。だから今年も家族で ……お姉ちゃん、天クルに入ったんだし、お友達と一緒でもいいよ ううん 家族で回る予定があるなら、蒼さんを誘っても困らせるだけかもしれない。 こさめさんは仕事があるけど、休憩時間が取れたら一緒に回るってさ 姫榊にはパスを言い渡されてしまったが。 じゃああとは岡泉先輩と雪菜先輩に連絡だね ………… 蒼さん、もし都合がつくようなら つきませんから ……反応早いな。 お姉ちゃん…… お祭りの会場で合流できるかもしれないし、きっと千波たちと一緒に回れるよっ は、はい ……そうならないことを祈る 話しているうちに廊下の端まで行き着いた。 次に俺たちは三階に向かう。 ずっと疑問に思ってたんだけどさ なに? 雪菜先輩って、なんで天クルに入ってるんだ? もともとはこさめちゃんの紹介だよ 雪菜先輩、洋ちゃんと同じで転入生なんだって。雲雀ヶ崎に引っ越してきたの ただ、あたしたちが入学したのと同時期だったから、あたしもあとで知ったんだけどね だから、転入したばかりの雪菜先輩を思って、こさめちゃんが誘ったんじゃないかな じゃあ、こさめさんと仲良いんだな 親戚みたいだよ そうだったのか。 引っ越してきたってことは、一緒に住んでるとか? こさめちゃんの家族は居候してもいいって言ったみたいだけど、雪菜先輩は断って一人暮らしって聞いてるよ この歳で一人暮らしというのは大変そうだ。 雪菜先輩、去年は部室に何度か顔出してくれたけど、今年はまだゼロなんだよね。天体観測に興味ないのかな ヒバリ校に馴染むために天クルに入ったんなら、クラスで友達ができたら幽霊部員になるのもしょうがないか そうだね、寂しいけどね 三階でも、UFOらしき影も形も見つけられなかった。 ……ここでも発見できなかったら、いったん一階に戻ってみるか この四階は最上階だ。 さらに上の屋上は立ち入り禁止でカギがかかっている。探索したくてもできないのだ。 カギを持っている蒼さんはなにも発言しなかった。 一階に戻って、またここまで登るの? いや、あとは長期戦覚悟で張り込みだ。目撃情報があった地点でな ケータイを覗くと、時間は十時に差しかかるところだった。 残り時間は一時間だ。 お、お姉ちゃん…… 鈴葉ちゃんが蒼さんの袖を引いた。 ……どうしたの? あ、あの……おトイレ…… 鈴葉ちゃんはもじもじする。 ……すみません。ちょっといってきます うん。場所は一年生の階と同じだから んじゃ、鈴葉ちゃんが帰ってくるまで待機か ご、ごめんなさい、迷惑かけて…… 謝ることないって 夜の校舎は小学生の鈴葉ちゃんにとっては不気味だろうし、緊張しっぱなしだったんだろう。 あ、あの…… 今度は蒼さんがおずおずと言った。 いちおう……ほかにも誰かついてきて欲しいと言いますか…… 言いづらそうにつぶやいていた。 ふたりだけじゃ宇宙人見つけても捕まえるの難しいもんね、千波もついてくよっ あなたは丁重にお断り なんで!? 送り狼になるから 蒼ちゃんは千波をなんだと思ってるの!? じゃあ俺がついてくか 蒼さんはめずらしく反対しなかった。 えらいえらい。男の子だね 男として覗かざるを得ないのか お兄ちゃんって真性のロリコンなんだねっ、千波知らなかったなっ ……よ、洋ちゃんって 信じるなよ!? ほらっ、蒼さんからは軽蔑の眼差しと鈴葉ちゃんからは怯えた眼差しが飛んできてる! だから小学女子の展望台の彼女さんとの想い出をそんなに大切に…… それ人の想い出を汚してるから!? ……もう誰もついて来なくて結構です 鈴葉ちゃんの手を引く蒼さんを慌てて追った。 トイレに入った鈴葉ちゃんを、蒼さんと共に廊下で待つ。 肝試しって言っても、特になにも起こらなそうだよな 暇つぶしに話しかけてみる。 警備員や野球部の部員がいるってわかってるから、ホラーな雰囲気もあまりないし ………… それにやっぱり星明かりで暗闇じゃないのが難点だな。不気味っていうより幻想的な感じだ ………… 蒼さんはいつにも増して口数が少ない。 やっぱりどこか調子悪いんじゃないか? ……どうしてですか ずっと難しい顔してたからさ ……ほっといてください それとも明日歩が言ったとおり、千波に鈴葉ちゃんを取られて機嫌を損ねているんだろうか。 ……早く帰りたい あと一時間の辛抱だ ……もう帰ります 鈴葉ちゃんが反対しそうだけどな ……千波さんに関わったばかりに 鈴葉ちゃんにとってはよかったんじゃないか ……そんなことは 学校休みがちって聞いたし、友達少なかったんだろ? だったら…… 言葉が中途で止まった。 俺は視線を上向けて話していた。だから気づいた。 なにかが天井を横切った。 俺は素早く周囲を見渡す。警備員が発した懐中電灯の光とも限らない。 だが人影はなかった。 飛鳥たちが待っている場所からも離れているので、誰一人見当たらない。 ……気のせいか? 蒼さん、今…… 視界の隅になにか捉えた。 俺は視線をもう一度上向ける。 今度こそ見つけた。 あれって…… 淡く光った白色の玉がふよふよと浮いている。 マジか…… もしかしなくても、飛鳥が言っていたUFO? ケータイを掲げてシャッターを切ろうとした矢先、二の腕に感触が走った。 誰かがそこを強く握っている。 抱きしめられていると言ったほうが正しい。 鈴葉ちゃんか? いや、鈴葉ちゃんはトイレだ。 じゃあ……。 ………… 蒼さんだった。 両目をぎゅっとつむって、まつげを震わせて、頭上の物体から隠れるように必死にしがみついていた。 ……そういうことか。 蒼さんは体調をくずしていたんじゃなく、幽霊の類が苦手だったわけだ。 なのにこれまで夜の屋上でひとり天体観測をしていたのだから、過去の星空にはよほど思い入れがあるんだろう。 再度、頭上の物体に視線を移すと、そこは見慣れた天井しか見えなかった。 ……逃げられた? 撮影するチャンスを失ってしまった。 聞いていたとおり、円盤の形をした小さな光。この大きさでは人どころか犬や猫だって乗れないだろう。 蒼さんはまだ目をつむって震えている。 蒼さん ………… 蒼さん、もういなくなったから ………… 蒼さんはゆっくりと瞳を開ける。 ………… そうすると俺の腕が目の前にあるわけで、薄目だった蒼さんの両目がみるみる大きく開いていった。 いっ、いやあっ! そして突き飛ばされた。 ……なにするんですか そっちから抱きついてきたんだろっ ウソつかないでください 真実だっ 私がそんなはしたない真似するはずありません 現にしてたんだけどっ 言いがかりはやめてください そりゃこっちのセリフだっ ここに天クルの退部届があります すみません俺がやりました 反射的に認めていた。 次またやったら退部しますから 冤罪なのに…… 蒼さんの悲鳴を聞きつけたのか、みんなも駆けつけた。 な、なにがあったの? さっき、すごい声がしましたけど…… お兄ちゃんっ、まさかまさかっ 違うからその先は言うな 本気で覗くとは思わなかったぜ だから違うんだよ! きゃっ わっ っ! 突然のフラッシュにびくっとなる。 飛鳥くんっ、いきなり写真撮らないでよっ オレじゃねえよっ 千波でもないですよ? 俺の腕に捕まっていた蒼さんが、すぐに気づいて慌てて離れた。 さっきの光だな…… なんか見かけたのか? ああ。飛鳥、もしかしたら大発見かもしれないぞ え、じゃあ今の光って UFOが出たんだ! 飛鳥はすぐにデジカメを構える。 ファインダーを覗いてレンズをあちこちに巡らせるが、円盤の光は影を潜めている。 小河坂、本当に見たのか? ああ、おまえの言ったとおりだった。円盤みたいな光が天井に浮いてたよ UFOだと信じたわけじゃないが、謎の物体であることは確かだ。 さっきのフラッシュはなんなの? 移動したときの残光かもな。かなりのスピードで飛行してるのかも よっしゃ、そうと決まればここで張り込むか。女子と男子に分かれてトイレの陰に隠れるぞ お姉ちゃん…… ……だ、大丈夫、怖くないから ううん、すごくドキドキするねっ ……そ、そう 怖がっているのは蒼さんだけかもしれない。 俺たちは男女に分かれてトイレの手洗い場に待機する。 次に現れたらすぐにシャッターを切れるよう、それぞれカメラやケータイを手にしている。 まさか本当に出るとはな…… おまえが信じないでどうするんだよ ちげーよ、自分の幸運に打ち震えてるだけだ と、ケータイが震えた。 明日歩からのメールだった。 『張り込みってつまんない、動きたいよ~(ノ◇≦。)』 ……飽きるの早いな。 我慢しろと返信する。 またケータイが震えた。 今度は千波からだ。 『サブレ食べていい?(*^ー゚)ノ』 まだ我慢しろと返信する。 次に蒼さんからメールが届く。 『(゚Д゚)』 ……なにに怒ってるんだ? わからないが我慢しろと返信。 今度は鈴葉ちゃんからだ。 『( ゚Д゚)凸』 鈴葉ちゃんって俺のこと嫌い!? すぐにまたメールが届き、今のはお姉ちゃんが勝手に送ったんですごめんなさいとあった。 ……なにやってるんだあっちは。 そしてまた明日歩からメールが来た。 『|-゚)』 向こうを見たら明日歩が壁から半分だけ顔を出していた。 こわっ!! うおっ、びっくりさせんな! やった成功~ 女子トイレが盛り上がっていた。 なにしてんだよおまえ…… いや俺じゃなくて向こうがさ…… またメールが来た。 『オレサマ オマエ マルカジリデス』 ……蒼さんからだった。 どうも女子軍は暇らしい。気持ちはわかるけど。 みんな、肝試しの自覚が足りないんじゃねえか? 肝試しに張り込みはしないと思うが、もともと張り込みが目的なので文句は言えない。 ため息をついて視線を廊下に戻すと、そこになにかいた。 飛鳥っ なんだよ、オレはメールなんか送ってねえぞ じゃなくてあそこっ 白い光が円を描くように飛行している。 飛鳥は目を剥いてからカメラを構え、素早くシャッターを切る。 カシャ。 フラッシュに驚きでもしたのか、光は瞬く間に飛び去っていった。 女子トイレのほうでもキャーやらウソーやら騒いでいる。 飛鳥以外のフラッシュは見えなかったので、向こうは撮り損なったか、撮るのを忘れたんだろう。 ……これって 飛鳥が撮った画像を覗き込んでいた。 どうだ、UFOだったか? 見てみろ 液晶を向けてきた。 そこには白い円盤──いや、目視よりも輪郭がはっきりと映ったそれは、正確には円盤の形をしていない。 生き物……か? たぶんな。鳥にも見えるけど…… 翼のようなものが左右に生えているし、鳥類ではあるようだが。 光ってて見えづらいな…… 発光する鳥なんていまだかつて聞いたことがない。 UFOじゃなかったか……。けど、〈UMA〉《ユーマ》かもしれねえ なんだ、そのユーマって 科学的に存在が確認されてない未知の動物のことだよ 誰かがイタズラでそこらへんの鳩を蛍光色にペイントしたんじゃなくてか? 夢がないこと言うなよ……って、また出たぞ 謎の生物が飛来してくる。そのまま天井で旋回を始めた。 メールが来た。 『お兄ちゃん、千波これから捕まえるね(*^ー゚)ノ』 写真だけじゃいまいち判断つかねえし、いっそ捕まえてみるか…… オカ研メンバーは捕獲する気満々だ。 だが千波は虫取り網を持ってきていない。俺が却下してしまったからだ。 こんなことなら許せばよかったかも。 千波ちゃんからメール来たな。……同時に飛びかかりましょう、か。その作戦、乗ったぜ 飛鳥、待った。なにか聞こえる 足音のようだ。速度からして走っている。 警備員かもしれない。さっきから大声で騒いでいたし、気づかれてもおかしくない。 千波にメールを送り、まだ飛び出すなと忠告する。 やべえな。トイレの奥に隠れるか そうするしかないな けどその間にあの生命体に逃げられたら…… 苦悩している。 女子トイレは静まっている。向こうはもう隠れたのかもしれない。 ……何者か、確認だけでもしておくか。 足音はすぐそこだ。息を潜めてその人物を待つ。 ……もう。やっと見つけた 聞き覚えのある声だった。 捜し回ったじゃない。勝手に離れるんだから 見つからないよう、そっと顔を出してみる。 その人物は大きなカマを持っていた。 こら、天井にいないで降りてきなさい メアが、旋回する生命体においでおいでしていた。 ……なんでヒバリ校にいるんだ? あのけったいな格好の子……海水浴でも見た子だな ああ。メアだ 噂の宇宙人エージェントか そんな噂は誰もしていない。 早く降りてきなさいったら。ご主人さまの言うことが聞けないの? 謎の生命体は一向に降りてくる様子がない。 メアはそのうちにぴょこんぴょこんと手を伸ばして飛び跳ねた。 降りてっ、来なさいっ、てば! こら! 手はまったく届かなかったが願いは届いたようで、謎の生命体は翼をはためかせてメアの頭に着地した。 ここはあなたの巣じゃないのっ、何度言ったらわかるの 頭に乗った生命体を両手で抱き下ろす。 メアが喉を撫でると、翼をへたっと垂らした。 生命体の身体から光が徐々に薄くなっていく。 全体像が露わになった。 ………… ………… ふたりで息を呑んだ。 メールが来た。 『お兄ちゃん、あれって新種のドラゴン?(*^ー゚)ノ』 ドラゴンだったらすべてが新種だと思うが。 次に蒼さんからメールが来た。 『明日も晴れるといいですね』 見なかったことにしたようだ。 もう離れないでね。ご主人さまを置いていっちゃダメなんだからね わかった? ドラゴン(?)は返事の代わりにメアの頬を舐めた。 きゃ、や、やだ……くすぐった…… めっ かわいらしく躾け始めた。 ……あれはほんとにメアか? またっ……だ、ダメだったら、もう…… めっ 明日歩からメールが来た。 『メアちゃんがかわいいよ!(≧∇≦)/』 蒼さんからもメールが来た。 『(゚Д゚)』 ……なにがしたいんだ? いい? ご主人さまの言うことは聞かなきゃダメなの。じゃないと、めっするからね ……やば、笑ってしまいそう。 きゃ、やんっ、な、舐めないでったら…… めっ ぶはははははは! 限界を突破した。 メアはドラゴン(?)を抱いたまま飛び上がった。 俺の笑い声を合図に、隠れていた面々が姿を出す。 メアちゃんかわいかったよ~! あ、あの、こんばんはです その子ってメアちゃんのドラゴン? サブレ食べるかなっ、あげてもいいかなっ ……本物なの? 作り物じゃなく? さわってもいいか? いや、その前にツーショット撮らせてくれ! え、え……? なに……? メアは状況を把握できていないようだ。そんなメアを飛鳥がカメラに何度も収めている。 メア 遅れて俺もそばに寄る。 奇遇だな、こんなとこで会うなんて 俺の姿を認めたメアは一目散に寄ってきて、俺の背中に隠れてしまった。 なんで、洋くんが……ここに…… 隠れたまま、ぼそぼそとくぐもった声で言う。 肝試ししてたんだよ。そっちこそ、ヒバリ校には入ったことなかったんじゃないのか? ……昨日、入ってみたの。初めて 昨夜に展望台でメアを見つけられなかったのは、ヒバリ校に来ていたからか。 野球部が見たという光る円盤も、メアの頭に乗っているこのドラゴン(?)だったわけだ。 小河坂、独り占めしないで紹介してくれよ 飛鳥の声に、メアは完全に背中に隠れてしまう。 この面子でメアがまともに話したことがないのは、飛鳥だけだ。 メア、あいつは飛鳥未来。俺の友達だ ………… よろしくな、メアちゃん。でさ、いくつか質問してもいいか? 飛鳥くん、やめなよ。メアちゃん怖がってるよ ひとつだけでいいんだ。おまえらからメアちゃんの話聞いたときから、どうしても確認したいことがあったんだ メア、いいか? ……べつに 飛鳥は了承と取って、一言一句を丁寧に言った。 メアちゃんは、〈人〉《・》〈間〉《・》〈な〉《・》〈の〉《・》〈か〉《・》? ………… その質問は、俺がメアに対して悩んでいたものを集約しているように思えた。 メアは迷わず答えた。 わたしは、死神よ ……人間じゃないってことか? それは知らない。だけどわたしは死神。悪夢を刈る死神 それで充分でしょう ……いや、充分か? あたしは充分だよ め、メアさんは、メアさんだと思いますから 千波的には宇宙人のほうがうれしいよっ この年頃で変身願望はよくあること ……前半ふたりはいいとして、後半ふたりはわたしにケンカ売ってるってこと? 俺に聞かれても困る。 ヒバリ校の都市伝説の死神とは違うのか? よく知らないけど、違うんじゃないの 人類社会に解け込み隙あらば友好もしくは地球侵略に打って出る宇宙人エージェントじゃないのか? なに言ってるのかさっぱりだわ 近くにUFOを着陸させてるんだよな? そんなの見たことも聞いたこともないわ 飛鳥は落胆した。期待には添えなかったようだ。 メアの頭を巣にしていたドラゴン(?)が、翼をはためかせて浮遊した。 あっ、こらっ 天井で旋回を始める。メアが呼びかけても降りてこない。 で、あれはなんなんだ? わたしの〈僕〉《しもべ》 ……ペットじゃなくて? 〈僕〉《しもべ》 以前メアちゃんに会ったときは見なかったよ? つい最近、展望台で見かけて〈僕〉《しもべ》にした 展望台って人外魔境なんだねっ 俺にケンカ売ってんのか? 想い出を汚すつもりはなかったからぐりぐりは許して欲しいよお兄ちゃん!? ……本当に本気で本物? 作り物じゃないでしょう、元気に飛び回ってるし ありえない 現にありえてるでしょう 予想するに、クリスマスプレゼントのラジコン ……なにがなんでもわたしを子供扱いしたいわけね 子供は子供らしく生きるのが一番 ……この子はいつか絶対後ろから刺す 目を離すとすぐ険悪になるふたり組みだ。 これ食べるかな、あのドラちゃん 千波は包みからサブレを一枚取った。 ドラちゃん? ドラゴンだからドラちゃんだよっ そういえば、名前ってあるのか? べつにないけど ドラちゃん(?)は千波の手のひらに載ったサブレを飛びながらくわえると、メアの頭に着陸して食べ始めた。 こらっ、食べかすがわたしの顔にかかるでしょっ めっ ぶはははははは! ……そんなに刺されたいんだ うそうそ冗談だからカマ振り上げるなっ メアちゃんもドラゴンの子もかわいい~! きゃあっ、だ、抱きつかないで! ふたりで押しあいへしあいしている。 しっかし、ドラゴンなあ。龍って鳥類か? ほ乳類か? は虫類でもよさそうだけどな……。ただ、新種のほ乳類ってほかに比べると格段にめずらしいらしいぞ ほほう、そいつは勉強になった。展望台を捜せばほかにも見つかるかもな 飛鳥、言っとくけど マスコミに売るなんてしねえよ、オレが興味あるのはオカルトだからな。ドラゴンじゃファンタジーだ あ、あの、撫でてみていいですか……? いいけど 鈴葉ちゃんはおっかなびっくりにドラゴンの頭を撫でる。 ドラゴンが気持ちよさそうに瞳をつむると、鈴葉ちゃんは笑顔を浮かべる。 ドラちゃん、はいあーん 夜食のはずだったサブレはドラゴンの餌にされたようだ。 メアちゃん、この子の名前ドラちゃんでいいの? べつに せっかくだしメアが決めるべきじゃないか? 名前なんているの? ……いや、メアだって自分で自分の名前つけたんだろ? 名前がないと不便って理由でさ メアという名は偽名だ。本当の名前は知らない。 今はまあ、それはそれとして。 今まではどう呼んでたんだ? 〈僕〉《しもべ》 ……それはあんまりだろ そう? そうだ じゃあ〈下僕〉《げぼく》 変わってねえ。 ちゃんと名前つけてあげないと、かわいそうじゃないかな…… 鈴葉ちゃんがドラゴンの頭を撫でながら言う。 ……あなたが言うなら考えてみてもいい メアの中で鈴葉ちゃんのランクは上位のようだ。 ドラちゃんでいいんじゃないかなっ いや なんでなんでっ、かわいいのにっ あなたがうるさいからいや 千波のランクは下位なんだなあ。 メアは頭に乗っていたドラゴンを抱きかかえると、面と向かいあう。 こうしてみると不細工ね おまえな…… あれにしようかな なんだ? あなたが聞かせてくれた七夕伝説の鳥 ……かささぎか? うん なに、かささぎって? 織姫と彦星が再会できるように、天の川の架け橋になってくれる鳥だよ へえー、じゃあ呼び名はかーくんだねっ かー坊でもいいな ちゃんと名前もらえてよかったな、かー坊 ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! わあっ、かーくんが炎吐いてお兄ちゃんの頭が燃えた! かーくんもよろこんだみたいね どこが!? 攻撃してきたんだけど!? ドラゴンだけあって炎まで吐けるのか…… ファンタジーだね カッコいいですっ ……明日も晴れるといいですね 蒼さんだけ見なかったことにしていた。 十一時が近くなって、俺たちは校門前に帰還した。 そんなわけで、今夜のミッションは無事終了だ またやろうなんて言い出すなよ それはわからねえな。今回は外れだったがまた有力な情報があればいつでも張り込むぜ そのときは千波もお供しますねっ 結構おもしろかったし、あたしも参加しようかな~ 私は二度とご免 お姉ちゃん……わたしも肝試し…… ……考えておく 数の暴力で決行されそうだ。 蒼さんがいると驚き役で盛り上がりそうだな ……よけいなお世話です、アサルト部長 その間違いワザとじゃなきゃありえねえよな!? 飛鳥とオカルトを足したからアサルトなのかな 一石二鳥な呼び名ですっ、次からはそう呼びますねアサルト部長っ ……いいかげん名前で呼んでくれ メア なに どうして、ヒバリ校に来てみようって思ったんだ? ………… メアは視線を背けてから、 ……あなたのせい なんでまた あなたが、天クルの話したり、天体観測に誘ったり、海水浴に誘ったり…… 友達、連れてきたりするから…… だから、ヒバリ校がどんなところか気になった それだけ…… そうか ……うん 頭を撫でようとしたが、そこにはかー坊が乗っている。 代わりにかー坊の頭を撫でた。 ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! 正当防衛ね ……鈴葉ちゃんには素直に撫でられていたのに。 メアはくすくすと笑っていた。 洋くん、そろそろ 帰るのか? うん かー坊も、またな ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! ばいばいだって そんな和やかなあいさつじゃないだろこれ!? じゃあね メアは身をひるがえす。 坂を登っていき、すると途中で闇に溶け込む。 かささぎと名付けられたドラゴンも同時に消えた。 マジで消えたな……。さすが、死神なだけはある しきりに感心していた。 都市伝説の死神も、あんな感じに神出鬼没なのかもな その言葉に答えられる者は、今のところ誰一人いない。 オレ的には、都市伝説の死神は宇宙人エージェントでお願いしたいところだぜ それだけはないと思った。 夏休みはそれなりに有意義に過ごしていた。 喫茶店でのバイトに始まり、海水浴、肝試し、展望台での星見、そして姫榊の仕事の手伝い。 毎日のように神社を訪れ、打ち水と掃除をこなす。 姫榊は言葉はきついが生真面目なので、なんだかんだで俺と一緒に仕事をする。 たわいない談笑で暑さをまぎらわせながら。 姫榊の理不尽な要求により夏祭りの話題は厳禁ではあったけれど。 日々の設営で彩られていく境内を見ていくうちに、祭りの日が楽しみになっていた。 祭りの期間は四日間。 八月四日が初日で、七日が最終日。 境内は賑わっていた。 老若男女が石畳の道を行き交う。うちわを片手に浴衣姿で歩く人も多く、彩りに花を咲かせる。 連日、俺たちは通っていた。 太鼓のお囃子を聞きながら、立ち並ぶ露店を覗きながら、俺は都会の祭りはどうだったかと思い返す。 こぢんまりしていた印象が拭えない。 雲雀ヶ崎ほど大規模ではなかっただろう。 由緒正しき伝統があるわけでもない、言ってしまえば屋台を楽しむためだけの行事だった。 だからだろう、俺は祭りの最終日である今日を一番の楽しみにしていた。 祭りの締めとして、最後に伝統神事が行われるらしいのだ。 雲雀ヶ崎のお祭りの本番がなんで今日かって言うとね、八月七日だからなんだよ 俺は明日歩と金魚すくいに興じながら、神事にまつわる話を聞いていた。 このお祭りはもともと、七夕祭りって呼ばれてるの。旧暦だと七夕は八月七日頃になるからね それにね、織姫や彦星が最も輝くのは旧暦の七夕なんだって。だからお祭りが終わったら星見しようねっ 七月七日は洒涙雨流したんだもんな 今夜はそのリベンジだよ。展望台で一夏のアバンチュールに溺れるんだから…… 明日歩の瞳が恋する乙女のそれになる。 じゃあ神事っていうのも、七夕に関係あるのか うん。境内の奥に建ってる社殿でやるんだけど、人だかりがすごくて見るの大変なんだよね クラスメイトのよしみで、こさめクンに特等席を取ってもらえばいいじゃないか それか、姫榊とかな 岡泉先輩と飛鳥が歩いてくる。 ふたりはこれまで面識がなかったそうだが、海水浴やこの祭りを経て仲良くなったようだ。 こさめちゃんいそがしいから、あんまり無理言えないし。こももちゃんは頼んでもどうせ断るだろうし そういえば、姫榊ってあまり祭りの仕事に触れて欲しくないみたいだったな あはは、恥ずかしかったんじゃないかな 神事の主役だからね 前はずっと万夜花さんが主役だったけど、ヒバリ校に入学した去年からこももちゃんに変わったんだよ 姫榊がヘマしたら、今度はこさめさんに変わるのかもな どんなことやるんだ? 焦らなくても、そのうち始まるよ。せっかくだし見てきたらいいんじゃないかな 明日歩は見ないのか? 人が多いから、あたしの背だと見えづらくて。洋ちゃんの背だったら後ろからでも大丈夫だと思うよ お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! 祭りの喧噪もなんのその、我が妹の大声はよく届く。 あのねあのねっ、千波お兄ちゃんにとっても切実なお願いがあるんだよっ 両手にりんご飴とあんず飴とチョコバナナと綿菓子と焼きとうもろこしを持った千波がのたまった。 お小遣いなくなっちゃったから貸して欲しいなっ ……おまえ、詩乃さんからもらった二万はどうした 千波の血と肉になって今も生き続けてるよっ 全部食い物かよっ これからカキ氷とベビーカステラとたこ焼きと安っぽいソース焼きそば食べたいから貸して欲しいなっ どのくらい欲しいんだ? 誰もぐりぐりが欲しいなんて言ってないよ!? 千波ちゃん、一緒に射的やらない? お姉さんがおごってあげる ほんとですかっ ほんとほんと。最終日なんだし、どうせなら最後まで楽しみたいもんね わーい! ……あまり愚妹を甘やかさないでくれ、つけ上がるから 洋ちゃん、今日は無礼講だよ その無礼講が四日も続いてるから言ってるのに。 明日歩は初日から金魚すくいや射的、ヨーヨー風船つり、輪投げなんかの露店を回っている。 千波と違って食べるより遊び倒したいようだ。 わっ。千波ちゃん、ちょっと待って 射的の露店に向かっている途中で、明日歩のケータイが鳴り出した。 こさめちゃんからだ こさめさんは初日から今日まで仕事を抜け出せなかったようで、俺たちと一度も合流していなかった。 うん、みんなで射的のお店にいるから。待ってるね~ こさめさん、来るのか? うん。やっと時間取れたって つっても、ほとんど祭りも終わってるけどなあ 一緒に神事を見ることくらいできるかもしれないね みんなが見るんだったら、あたしも見ようかな あっ 千波は両手のりんご飴と(以下略)を一気に食べ終わると、急に走り出した。 蒼ちゃん発見ー! その声にびくっとした蒼さんが、構えていた射的の銃を走り寄ってくる千波に向けた。 ……フリーズ 抱きついてプリーズ? これ以上近づいてあまつさえ抱きついたら撃つ ち、千波さんは景品じゃないよお姉ちゃんっ 蒼さん姉妹が射的の真っ最中だった。 蒼さんたちともやっと合流か 毎晩探してたんだけどぜんぜん見つからなかったよっ す、すみません…… 謝ることないよっ、こうして千波たちは運命的に出会えたんだからねっ ……最後の最後で気を抜いた。うかつ 蒼さんが出会わせないように注意してたんだろうなあ。 家族は一緒じゃないのか? ……今日は平日ですから。親はどちらも仕事です こんな日にまで大変だ。 詩乃さんも土日は祭りに足を運んでいたが、平日の昨日今日は自宅で仕事をしているのだ。 鈴葉ちゃん、欲しいのあったら取ってあげよっか? 明日歩が代金を払って銃を受け取っていた。 あ、え、お姉ちゃん…… 鈴葉ちゃんはどうしていいかわからないのか、蒼さんに助けを求める。 蒼さん、今日は無礼講だよ その言葉が蒼さんを説得したようだ。 ……よかったね。鈴葉 う、うんっ じゃあじゃあ千波も鈴葉ちゃんに景品取ってあげるねっ あなたはいい なんでなんでっ 借りを作りたくない 蒼さん、無礼講だよ ……取れるものなら取っていい 鈴葉ちゃん、帰りはきっと大荷物だよっ た、楽しみですっ 蒼さん、明日歩、千波が並んで銃を撃つ中、こさめさんが到着した。 皆さん、ちょうどおそろいですね 雪菜先輩を除けば、これで当初の予定メンバーは勢揃いだ。 雪菜先輩にはこさめさんが連絡を取っていたのだが、あえなく断られたそうだ。 そして、メアの姿もない。 誘ってはみたのだが、海水浴と同じく考えてみるということだった。 今年も多くの方が参加されたみたいですね 終わりが近いからか、こさめさんは感慨深げだ。 仕事、言ってたとおり多忙みたいだな これでもわたしは楽なほうなんですよ。電話の応対だけですから 大変なのは、電話の依頼で現地に飛び回るお母さんと姉さんなんです 万夜花さんはさっき本部で酒飲んでた気がするけどな 町内会の方々と騒いでいたね ……なかなか帰ってこないと思ったら、やっぱりサボってましたか 姫榊は仕事中か? はい。神事の準備中です 結局、姫榊は俺たちと回れないようだ。 あたし景品三個ゲット~ 千波は二個ゲットー ……屈辱。一個 それらすべてが鈴葉ちゃんの小さな胸に抱かれた。 た、たくさんで歩けません…… そう言った鈴葉ちゃんはうれしそうだった。 それでは皆さん、一段落ついたようですし、わたしについて来ていただけますか? どこか行くの? はい どこだ? 社殿です こさめさんはぴんと指を立てて言った。 神事が始まるにはまだ時間がありますが、早めに皆さんをお連れしたいんです 特等席を取っておいてありますから こさめさんが俺たちを先導してくれる。 最後尾を歩いていたところで、俺は足を止めた。 視線を感じる。 この雑踏の中、気づけたのは奇跡的。 奇跡が起こった理由はなんだろう。 ……ひとつしかないよな。 奇跡でもなんでもないからだ。 この祭りは雲雀ヶ崎では有名なのだ。 だったら彼女も足を運んでいておかしくない。 そう考えていたから。 祭りの期間中、それとなくキミの姿を探していたから……。 ………… はっきりと目に留めた瞬間。 人混みが映らなくなる。雑踏が聞こえなくなる。 俺の目にも耳にも届かなくなる。 彼女だけに意識が向く。 だから世界に、ふたりだけ。 なあ…… 向こうも俺に気づいている。 その距離は遠くもないが近くもない。 キミは…… いいの? 俺の言葉に割り込んだ。 みんな、歩いていっちゃうよ 友達、なんでしょう? キミの友達……なんでしょう? 俺は言葉を失う。 えらいね。うん、えらい たくさん友達、作れるようになったんだね…… もはや疑いようがない。 優等生に、なれたんだね…… 彼女は、やっぱり。 俺が捜し求めていた……。 少女は身をひるがえした。 人混みの奥へと消えていく。 我に返った。するとこれまで届かなかった祭りの雑踏が目と耳を打つ。 声が聞こえる。 過去の「僕」が叫んでいる。 なにをしている、追いかけろ。 また後悔したいのか? 足が、弾かれたように前へ出る。 なあっ……おい! 待ってくれ! 人通りをかき分ける。 客は皆、社殿に向かっているのか、逆走する俺の壁となって立ちはだかる。 すいませんっ、急いでるんですっ、すいませんっ…… ぶつかっては謝りながら突き進んだ。 すでに彼女の姿は視界にない。 見失っている。 届かない。 今はまだ、届かないのか。 キミが言う優等生になれたのかは知らないけれど。 今もって俺は、キミと再会する資格がないのかと。 だから。 捕まえたなら逃げる理由をなんとしても問いただす。 祭り会場の始点まで戻ったが彼女の姿はなかった。 流れに沿って戻ってみたが、やはり見当たらない。 彼女は帰ったのだろうか。 帰り先さえわかっていたら、こんな気持ちにはならないのに。 彼女を見かけた場所で立ち尽くしていると、明日歩たちが心配そうにやって来た。 はぐれたと思っていたようだ。 俺は当たり障りなく誤魔化しておいた。 ……まだ、チャンスはあるよな。 次に見つけたときは、覚悟しろよ。 俺は成長したからな。 昔の「僕」と違い、どうしようもない別れが待っていたとしても諦めない。 最後まで、決して諦めることはない。 軒に吊るされた淡い明かりが、古びた木造建築を夜闇に浮かび上がらせている。 俺たち一行は社殿の真ん前に通された。 この舞台らしきところで神事が行われるようだった。 厳格な雰囲気がそうさせるのか、夏の熱気は健在のはずなのにこのあたりはどこか寒い。 加えて最前列に座っているので落ち着かない。 こさめさんが用意してくれたお茶を飲んで気を静めていると、後ろにぞくぞくと人が集まってくる。 喧噪が最高潮に達し、すると次第に波が引くようにそれら一切の音は霧散する。 澄んだ静寂に包まれると、タイミングを見計らったように大太鼓が打ち鳴らされた。 それは厳かに始まった。 腹を震わせる大太鼓から、軽快な小太鼓、澄んだ鉦の音、かすれる響きの笛の音色が加わり、そして重なる。 この舞台──神楽殿の中央に、姫榊の姿がある。 厳格な冷気に満ちる空間を、音色に合わせて渡っていく。 舞っている。 見慣れた巫女装束ではない、清く煌びやかな舞衣を纏いながら。 身の丈もある刀──薙刀を振るいながら、姫榊は神座に神楽を奉納する。 こももにとってはまだ二度目の舞台だけど、なかなか様になってきたわね その舞台を台無しにしかねないアルコール臭が漂ってきたと思ったら、それは万夜花さんだった。 どう、雲雀ヶ崎の祭りを過ごした感想は? 伝統ある祭りは違うなって感じでした あはは、伝統って言っても要はお盆の一環よ。七夕ってのはもともと祖先を〈祀〉《まつ》る行事だからね この巫女神楽だってそう、選ばれた巫女が機織りをしながら神の〈来臨〉《らいりん》を待つ〈棚機女〉《たなばたつめ》の行事が元になってるのよ 機織りっていうよりは、剣舞に近い感じがしますね そうね、だけど〈採物〉《とりもの》である〈布帛〉《ふはく》を織るのが機織りなんだし、その〈採物〉《とりもの》がこの星天宮では薙刀になっているってだけの話よ ……採物? 神楽っていうのはね、霊魂の動きを身体で表現する〈祈祷〉《きとう》のことなの。そして神霊が〈依〉《よ》りつく〈呪具〉《じゅぐ》が〈採物〉《とりもの》よ こももはね、その〈採物〉《とりもの》を使って霊魂を自身の身体に取り込み、鎮め、そして送り還しているの 鎮魂や〈魂〉《たま》送りって呼ばれてるけど、聞いたことくらいはあるんじゃないかしら 姫榊の手にある薙刀が、時に激しく薙がれ、時に静かに凪いでいく。 その動きは川面の流れのようでもある。 昔は天の川に見立てた川に笹を流して願い事をする行事なんかもあったけど、あの子の動きはそれを思い起こさせるわね 姫榊の流動的な舞は、感嘆の息がもれるくらい淀みがない。 見る者にとっては冷たくも映る美貌に、身を包む衣装も合わさり、まさに清冽だ。 まあ私から見たらパンチっていうか、攻撃力が不足してる感じだけど ……なんだ攻撃力って、というか雰囲気をぶち壊さないで欲しい。酒も飲んでるし。 〈採物〉《とりもの》にはさっき言った〈布帛〉《ふはく》やこの薙刀のほかにも、様々な種類があるわ。そしてそれぞれ役割も決まっている 鈴や扇は神霊を招き請うものとして、笹や〈布帛〉《ふはく》は浄化と再生を祈るものとして そして剣や弓、薙刀なんかは武力の象徴として、鬼を追い払う役目を持つ だから、攻撃力? 雰囲気ぶち壊さないで欲しいわね いやそっちが先ですから 武器を使った舞は〈山伏〉《やまぶし》の武術に〈祖型〉《そけい》があって、多くは鬼退治のためのものだったと言われているわ ただ鬼を追い払うだけじゃなくて、まつろわぬものとして元の居場所に還してあげるという意味も持つんだけどね そこまで説明すると、万夜花さんはやおら神楽殿の奥を指差した。 あそこに見えるのがなにか、わかる? それは壇上に飾られており、一見すると石だった。 神社の御神体ですか? そうよ。正体はなんだかわかる? ……水晶? 惜しい。鉱石という点では正解だけど 表面はざらざらしているようなのに光沢も見え、全体的にほのかな光を発している。 姫榊が薙刀を振るうたび、室内灯を反射してか、さながら万華鏡のように色合いが変化していた。 私たちはあれを〈天津甕星〉《あまつみかぼし》が宿った〈依代〉《よりしろ》として、この神社に〈祀〉《まつ》っている 星天宮の名はそこから来ているし、祭りを旧暦の七夕に合わせて催すのもそのためってわけ 天津甕星が宿る石を御前に、姫榊の舞は続いている。 少なくない観客が見守る中、姫榊は臆することなく祭りのとりを飾っていた。 あの子は気が強くても度胸があるわけじゃない、だけど欠点があればしっかりと努力で補ってくる うちの舞姫も、そろそろ一人前になったのかしらね 娘の晴れ舞台を前にしているためか、万夜花さんの口調はなめらかで楽しげだった。 俺も、明日歩も、ほかの皆も似たような気持ちだったのかもしれない。 姫榊の繊細で流れるような神楽に心が高揚し、いつしか時間も忘れて愉しんでいる。 ……姫榊も、隠すことなかったのにな。 こんなにも魅力的な神楽を舞えるのだから、逆に自慢したっていい。 生真面目なところも合わせて、姫榊は本当に損な性格をしている。 だから明日歩にだって誤解される。 だけどまあ、それも姫榊の魅力のひとつなのかと、そう思えるくらいには姫榊とのつきあいも長くなっていた。 俺の雲雀ヶ崎生活は、気がつけば一ヶ月を過ぎていた。 待ってください、雪菜先輩 誰かと思えば、姫榊妹か 帰られるんですか? ああ 姉さんの神楽も見ずに? 彼女が今までどれだけ練習に励んできたか、私はキミの口から聞かされている キミが嘘をつく理由はないし、話にあった練習量で生まれる技術力を考えれば、失敗など万に一つもないだろうさ だから見る必要がない? ああ ……でしたら、姉さんが毎晩遅くまで練習していたことは、教えないほうがよかったですね そんなことはない。どちらにしろ私は見物しなかった ………… 祭りの仕事はちゃんとこなしたつもりだが ……はい、ありがとうございます。今年も手伝っていただいて それくらいはしないとな。私はキミら姫榊家に生活費を出してもらっている身分だ 皆さんと一緒にお祭りを楽しんでもよかったんですよ? わかっていて言わないでくれ。私は、雲雀ヶ崎の者たちとあまり関わりたくないんだ ………… そうだ。いちおう報告しておこうか ……なんですか? 夜を待って展望台に足を運んでみたが、キミが言った死神には会えなかったよ それはきっと、雪菜先輩が怖くて隠れていたからですよ ……私はそんなにいかつく見えるか? いえ、小河坂さんの話から察するに、死神は人見知りするそうなんです 人間くさい死神もいたものだな ですから次は天クルの皆さんと一緒に訪れてみてはどうですか? 皆さんそれぞれ死神とお知りあいになったようですし、雪菜先輩にも紹介してくれると思いますよ 私が急にそんな申し出をしても、天クルの皆は面食らうだけだろう 幽霊部員が仇になりましたね。日頃から交流を深めていれば、こんなことにはなりませんでしたのに わかっていて言っているだろう? はい どうもキミは私にお節介が過ぎるな 雲雀ヶ崎の皆さんと仲良くなるのは、デメリットでしかありませんか? ああ、そうだ ………… 話は終わったようだな ……あの ん? わたしが、死神と話してみましょうか? それとなく、探りを入れてみましょうか? ……いいのか? 展望台は、キミにとってはあまりに辛い場所だろう 心配には及びません 雪菜先輩の仕事の手助けだと思えば…… 姉さんのためだと思えば、どうということはありませんから ……そうか はい 雪菜先輩。死神の正体が、あなたの想像どおりでしたら、そのときは…… ああ そのときは、消すさ アレは、私たち人にとっては〈夢幻〉《ゆめまぼろし》にすぎない だから、これ以上は、人の目に映らないようにしてやるさ…… それじゃ、みんな。四日間のお祭りは無事終了と相成りました。これまで大変ご苦労さまでした~! かんぱーい! ……露店で遊んでただけの人が、無事もご苦労もないでしょう そんな姫榊の文句は誰にも届かなかったようだ。 さっきまで祭りを回っていたメンバーでミルキーウェイを貸し切って、まるで二次会の様相を呈している。 ちなみにマスターは神社のほうで万夜花さんと飲んでいるらしかった。 こっちは疲れてるのに、無理やり連れ出して…… 姫榊の祝賀会ってことにしといてくれよ わたしのなにを祝うのよ 神楽、よかったぞ ……神楽殿に入ったとき、あなたたちが目の前にいたから驚いて声上げそうになったわよ こさめさん、特等席のこと内緒にしてたのか。 問い詰めようにもこさめはいないし…… こさめさんは祭りの後片付けがあるとかで、遅れて参加とのことだった(なのに万夜花さんは飲んでいるらしい)。 一方、神楽を披露した姫榊はねぎらいの意味で後片付けを免除されていたので、無理やり連れてきたわけだ。 そういうことだから、祝わせてくれ べつにあなたたちに祝ってもらう筋合いないから。むしろ気色悪いんだけど ほんとしゃべらなきゃカンペキなんだけどなあ なんの話よっ 来年も見に来るからな 来ないで。これ、七つめの要求だから ……いや、待ってくれ 冗談よ 姫榊はあさってのほうを向く。 ……でも、あまり人には言わないでね 都会の友達に写メ送りたいんだけど 絶対やめてっ なにを恥ずかしがっているんだか。 ……小河坂くんだって、学力のこと人に教えたくないんでしょ。たぶんそれと一緒だから わかったような、わからないような。 姫榊は頬杖をついて、コップ(中身はアルコールではない)片手に騒いでいる面々を眺めていた。 祭りでも騒いで、祭りが終わっても騒いで、元気なことね…… 一休みしたら展望台に行くつもりなんだ ……星見? ああ よく体力が続くわね 明日歩がさ、どうしてもって言って。今日って旧暦の七夕じゃないか ……ふん そっぽを向いてしまう。 七夕の日は、姫榊が屋上のカギを貸してくれなかった。だから明日歩は天体観測できなかったのだ。 屋上の使用許可、打診してみるつもりだから ぽつりと言った。 ありがとうな その代わり登校日まで境内の打ち水と掃除、きっちり手伝いなさいね わかってる 明日、神楽殿の大掃除もやるから。それもよろしく ……わかったよ あと神楽衣装をクリーニングに出しておいて ……わかった 薙刀も研いでおいて ……わ、わかった わたしが指鳴らしたらうちわで仰いで、二回指鳴らしたら麦茶持ってきて 暴君だ。 登校日まであと三日、思いつく限りの要求叶えてもらわないとね お手柔らかにお願いしたかった。 ……………。 ………。 …。 お兄ちゃーん、千波ねむねむだから寝るねー テーブルで寝るな、家に帰るまで我慢しろ 夜も更け、そろそろ我が妹の就寝時間が近かった。 さすがに眠くなってきたな…… みんな、だらしないなあ ……あふ 鈴葉も眠くなった? うん…… 明日歩クン、そろそろお開きにしようか。特に鈴葉ちゃんは家に帰してあげないと ……残念ですけど、了解です。こさめちゃんにも連絡しておきますね こさめさんはまだ訪れていなかった。後片付けが長引いているようだ。 ほんとは三次会も予定してたんだけどなあ どれだけ体力バカなのよ だって今日は七夕のリベンジなんだよ~! 三次会というのが星見だったわけだ。 明日歩、三次会は行けそうな人だけ参加でいいんじゃないか? 洋ちゃんは? 俺は行くよ うんっ、ならオッケー! 現金なやつだな 僕も行きたいところだけど、電車の時間がちょっとね もう終電ですか? 都会と違って、ここは電車の本数が少ないからね 電車組は、不参加はやむを得ないでしょうね。わたしは元から不参加だけど とすると、参加できそうなのは小河坂兄妹と蒼さん姉妹になるのか ……私は鈴葉を連れて帰ります あ、えと……お姉ちゃん…… いいから 鈴葉ちゃんの眠気を汲んでか、蒼さんは有無を言わせなかった。 くー 千波、まだ寝るなっ 千波ねむねむじゃないから参加するねー 目が線になっている。 三次会は、千波をいったん帰してからになりそうだ。 すみません、皆さん。遅くなってしまいました と、こさめさんがようやく登場だ。 よかった~、もう少しでお開きの連絡するところだったよ だからすぐにお開きよ ……それはしょんぼりです 三次会があるよ。展望台で一緒に星見しない? バカ言わないで。わたしたちは電車組なんだから はい、ぜひ参加させてください ちょっと、こさめっ たった一駅ですし、徒歩でも帰宅できますから わたしが許さない。夜道を一人歩きで帰るなんて 俺が送ってもいいぞ あたしも送るよ ありがとうございます、おふたりとも ……なんなのよ、まったく 額を押さえていた。 姉さん、先に帰ってお母さんをよろしくお願いします。飲み過ぎると明日の片付けに差し支えますし ……わかった。あまり遅くならないようにね はい それじゃあ、今日は解散。みんなお疲れさまでした~ お疲れさま、と声をかけ合った。 俺たちは駅で電車組と別れ、蒼さんの自宅前まで着いた。 蒼さん、今日はどうだった? ……疲れました つまらなかったと答えられるよりはずっといい。 それじゃ、お休み ……お休みなさい 寝ぼけ眼の鈴葉ちゃんを連れ、蒼さんは自宅に入っていく。 両親には事前に連絡していたようで、玄関の扉が開いた際に出迎えの姿が見えた。 さて。 俺も千波を置いてくるか あたしたちはここで待ってるね いってらっしゃいませ すでに夢の世界へ旅立っている千波を背負い直し、隣の我が家に向かう。 千波の分だけ荷物が多く、そのため今夜は望遠鏡を明日歩とこさめさんのふたりが運んでいる。 早めに戻って、今度は俺が担ぐことにしよう。 すいませんけど、千波をお願いします 部屋に運んでおくわね。洋ちゃんの帰りはいつ頃になりそう? たぶん二時間後くらいだと思います じゃあその頃になったら、連絡ちょうだい。車を出してあげるから ……展望台って、車入れるんですか? 軽自動車ならフェンスのところまで入れるわ。車で迎えにいくくらいは簡単よ いえ、歩いて帰りますから 遠慮しないの。お友達も一緒なんでしょう? それも女の子ふたり はあ…… ふふ、両手に花ね なにが言いたいんでしょう。 みんなも車で送ってあげるから。そのほうが安全でしょう。わかった? 明日歩とこさめさんを考えれば、そのとおりだ。 すみません、よろしくお願いします うん。それで、洋ちゃん なんですか? どちらが彼女さん? ……いや、どっちも普通の友達ですから 詩乃さんは意外とそういう話が好きらしい。 そうして俺たち三人は坂道を登っていく。 右隣には明日歩、左隣にはこさめさん。 友達でも、両手に花と言うんだろうか。 てっきりさ、こさめさんは展望台行きを断ると思ってたよ なぜですか? 前は危険だって言って反対してたからさ そうだよね。あたしもダメかなーって思ってた 危険ではないんですよね? うん、足場もしっかりしてるし でしたら、わたしの杞憂だったということですよね。参加しない理由はありません 手のひらを返したこさめさんの物言いに、明日歩とふたりで首をかしげていた。 展望台に着いた。 俺は望遠鏡を置いて一息つく。 明日歩の話では、八月七日は織姫と彦星が最も輝く日なのだという。 夜空を見上げると、それは本当だと思えるくらい、一面に強い光が瞬いていた。 星が、とても近いですね…… 初めて来訪したこさめさんが感嘆の息をつく。 こさめちゃん、はいこれ。望遠鏡の準備ができるまで、その双眼鏡で星見してるといいよ 明日歩はこさめさんに双眼鏡を渡すと、ケースから望遠鏡を取り出し、組み立てを始める。 その間にメアを探すのが俺の日課みたいなものだ。 明日歩とこさめさんを尻目に、歩き出す。 小河坂さん 展望台を半周すると、こさめさんが歩いてきた。 メアさんをお捜しですか? ああ。そっちはどうしたんだ? わたしもご一緒したいと思いまして そう言って俺の隣に並ぶ。 星見はもういいのか? はい。織姫も彦星も、とても大きく輝いていました。きっと再会してよろこんでいるんですね 明日歩は? 望遠鏡の準備中だったんですが、双眼鏡を返したらわたしの言葉も届かないほど星見に没頭してしまいました 明日歩らしいな そうですね メアを見つけたらすぐ戻ろう はい 次に捜してみるのは、残りの半周分だ。 ふたりがかりなら簡単に見つかるかもしれない。 姫榊もいれば、捜すの手伝ってもらうんだけどな ですが、姉さんは断るでしょうね そもそも姫榊は星見について来ることがない。 今夜は疲れていたのが理由だろうし、そうじゃなくても断っていただろう。 小河坂さんは…… こさめさんの声のトーンが低くなった。 小河坂さんは、霊感というものを信じますか? ……いきなりだな 霊能力や神通力と言い換えてもいいかもしれません。どうですか、信じますか? こさめさん、巫女だもんな そういう力を持っていてもおかしくないのかも。 小河坂さんは信じますか? こさめさんは執拗に繰り返す。 その瞳はまっすぐに俺を射ている。 なにかを見てしまう力 なにかを感じてしまう力 その対象は〈神仏〉《しんぶつ》や霊魂だけではなく、死神にだって当てはまるのかもしれません そんな力を、小河坂さんは信じますか? 俺は苦笑しながら答える。 昔の俺だったら信じないけど、今の俺だったら信じるかもな 今の俺は、何度も不思議体験をしているから メアを幻覚と疑ったり、記憶喪失について調べていた最近の俺さえも、過去のものになっている。 こさめさんの視線が俺から外れ、正面に移る。 姉さんがこの場所を嫌うのは、それが理由なのかもしれません…… この展望台になにかを感じているから、嫌いなのかもしれません だから、姉さんは星が嫌いなのではなく、この場所が嫌いなだけなのかもしれません 過去に姫榊も似たようなことを言っていた。 展望台には入ったことがないが、大嫌いだと。 小河坂さん 姉さんを、展望台に誘うことだけは、しないでください 姉さんが、自らの意志で訪れようとするまでは お願いします…… 姫榊は霊感を持っている。 こさめさんの話はつまり、そういうことだ。 あの神楽を見たあとに言われたせいか、俺自身の不思議体験云々を除外しても、普通に信じてしまいそうだ。 見つけたぞ、メア ……見つかった 欄干に座っていたメアは、俺が呼びかけると正面に降り立った。 祭り、来なかったな 近くまで行ったけど、明るすぎて 明るいのは嫌いか? ……べつに 言葉のニュアンスから、苦手と見た。 メアはあまのじゃく気質なので、言葉の内容より声色で判断したほうがいい。 それに……神社は少し遠くて、疲れる だから海水浴のときも長居できなかった なんだそれ べつに 遅れてかー坊が降下してきて、メアの頭に着地した。 こらっ、そこはあなたの巣じゃないのっ めっ ぶはははははは! ……かーくん、あれやって ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! よくできました 危険な芸仕込むなよ!? 笑ったあなたが悪い あ、あの…… 俺の横にいたこさめさんが目を丸くしていた。 生き物……ですか? 注目されたためか、メアは俺の背中に隠れた。 かー坊も一緒についてきたので、後ろから炎で焼かれないかと気が気じゃない。 龍みたいに見えますけど…… メアのペットなんだ。つい最近、飼い始めたらしくて は、はあ…… メアが背中をぎゅっと握ってくる。 ……誰? 海水浴で会っただろ 知らない 海水浴のときは大勢だったし、会話したわけでもないのでしょうがないか。 こさめさんって言って、天クルの仲間だよ 紹介すると、呆然としていたこさめさんは背筋を伸ばして気を取り直した。 姫榊こさめと申します。よろしくお願いしますね ………… メア、あいさつは? ……子供扱いしないで 子供じゃないか かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! よくできました これ下手したら死ぬと思うんだけど!? 命あるものはいつか死ぬ。そこに善悪はなく早いか遅いかの違いしかないわ 善悪がなくてもこんな間抜けな死に方は嫌だ。 メアさんは、とても達観してらっしゃるんですね ……べつに わたしたちよりずっと大人だって思います ……そう? はい まあわたしは死神だからね なんかうれしそうだ。 メアさんは、よく展望台を訪れているようですね わたしは死神だからね 星がお好きなんですか? べつに お昼にはいらっしゃらないんですか? べつに 今度、ほかのお友達を連れてきてもよろしいですか? ほかの友達って誰だろう。 べつに メアの答えは普段と同様、素っ気ない。 こさめさんは気を悪くした様子もなく言葉を続ける。 不躾なのを承知で、いくつか質問に答えていただいてもよろしいですか? こさめさんは、肝試しのときの飛鳥と同じことを言った。 あなたは、人ではないんですか? わたしは死神だから 死神とはなんですか? 死神は死神よ あなたはなぜ、自分を死神だなんて言うんですか? ………… メアが初めて言葉を詰まらせた。 それは…… 俺の背中を握る力が強くなる。 それは、洋くんが言ったから…… こさめさんの瞳が俺に向いた。 ……俺? メアはこくんとうなずく。 洋くんが、わたしを死神って呼んだから メアが自分を死神だって言うからだろ わたしが言うより、洋くんのほうが早く言った ……そうだったか? わ、忘れたの? 慌てている。 いや……そんな気もするけど、でも俺が死神って呼んだからメアが死神になったわけじゃないだろ? べつにわたしは死神じゃなくてもよかった 根本を覆す発言を食らう。 ……前にも一度あったな。 メアを幻覚だと疑い、それが嫌だったから、俺の中でメアを死神として扱いたいという気持ちが大きくなったのだ。 メア なに? メアって俺の幻覚じゃないよな 当たり前 死神でいいんだよな かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! 今日のあなたはダメダメね なんで炎なのか理由がわからないんだけど!? 今日のあなたはバカバカね なにがバカバカなのかわからないんだけど!? ………… メアはそっと俺から離れる。 ……洋くん なんだよ? このバカバカ! カマで頭をどつかれた。 ……帰る 身をひるがえし、そして消えた。 あとを追ってかー坊もいなくなった。 消えた…… こさめさんは確認するようにつぶやく。 ……なんだったんだ、いったい このままではいずれ俺の頭はパーマか真っ二つのどちらかだろう。 メアさんが怒った理由、わからないんですか? こさめさんは苦笑いを浮かべていた。 ……さっぱりだな たぶんですけど、小河坂さんに否定して欲しくなかったんですよ。自分が死神だということを 最終的に肯定したと思うんだけどな 言葉が悪かったんでしょうね。『死神でいいんだよな』なんて言ったら、自信がないみたいじゃないですか メアさんは、あなたに、心から自分のことを死神だと思っていて欲しいんですよ いまいちピンと来ない。 たとえば小河坂さんと明日歩さんがつきあったとして、小河坂さんが『彼女でいいんだよな』なんて確認したら…… 明日歩さんは、とても悲しむでしょうね ……変な例えを使わないでくれ ピンと来ませんか? 想像しそうになって、かぶりを振る。 ……それよりさ 誤魔化したように思われただろうか。 こさめさん、メアになにか感じたのか? ……どういう意味でしょう? 姫榊が霊感を持っているなら、妹のこさめさんだって持っているんじゃないかと思って それで、あんな質問をしたんじゃないか? ……いえ こさめさんは否定する。 メアさんが不思議な方だというのは、皆さんから聞いていましたから。純粋な好奇心ですよ 本当か? なぜ疑うんですか? こさめさんは他人の詮索を嫌うのに、したからさ。だったら、なにか理由があるって思うのは自然じゃないか ………… ……これも、詮索か? はい こさめさんは柔らかく笑む。 詮索は、悪趣味です。それでも詮索をしたいのなら、もっと仲を深めてからのほうがよろしいかと こさめさんとの仲を? はい これ以上に? はい。これ以上に、です 友達以上に? はい。友達以上に、です その関係とは、つまり。 ………… ……恋人か? ……恋人か? ……恋人か? えいっ こさめさんからチョップを食らう。 思っても口に出してはいけませんよ、小河坂さん 言葉には〈霊威〉《れいい》が宿ると言いますから…… 言霊のことか はい 巫女らしいと言うべきか。 万が一、叶ってしまったら……それはとても困ったことになります とても困るのか はい。とても、とっても困ります 俺、こさめさんに嫌われてたのか そんなことを言う小河坂さんは、嫌いです そんなふうに怒るこさめさんが好きだぞ えいっ またチョップだ。 女泣かせの小河坂さんも、嫌いです…… だって、わたしには、恋をする資格がありませんから ……冗談です。これも悪趣味でしたね こさめさんは、笑顔をくずさず言ったのだ。 わたしには、恋をする資格がありませんのに あ、やっと戻ってきた 望遠鏡を覗いていた明日歩が、戻ってきた俺たちに気づいて手を振った。 あたしをひとりにするなんてひどいよ~ 明日歩が星見に没頭してたからだろ。こさめさんが言ってたぞ 離れるなら声かけてくれればいいのに~ かけたんですけどね こんな夜更けに女の子をひとりにして許されると思ってるの~ 七夕の星空を観測できた気分はどうだ? もちろん最高だったよ、それからひとりだったことに気づいて落ち込んだけど その集中力を授業にも生かせればいいんだけどな むー ひとりにしたのは悪かったよ しょうがないなあ 明日歩さん、こういうときは簡単に許すのではなく、なにか見返りを求めるのが上策ですよ 特に、現状よりも進展を計りたい場合には ………… 明日歩は頬を赤らめる。 というわけですので、また最初からどうぞ ……あ、あたしをひとりにするなんてひどいよ 明日歩は会話をたどたどしく巻き戻す。 ……つきあうしかないのか。 悪かったよ ……うん ………… ………… ………… そ、それだけ? とても悪かったよ えいっ こさめさんからチョップを食らう。 また最初からどうぞ ……ダメ出し? ひ、ひとりにするなんてひどいよ 悪かったよ ……それだけ? 代わりに金魚すくいで取った金魚あげるから うんっ ……明日歩さん、そこで満足しないでください え、そ、そう? そうです。また最初からどうぞ えと、あたしをひとりにするなんてひどいよ…… 悪かったよ うん 代わりに風船つりで取った風船あげるから えいっ チョップを食らう。 また最初からどうぞ ひとりにするなんてひどいよ…… 悪かったよ いつまで続ければいいんだろう。 それだけ……? ええと、代わりに…… どうすればいいんだろう。 ……どうして欲しいんだ? えいっ チョップを食らう。 明日歩はなんだか複雑な顔をしていた。 あ、うっかりです。わたしがお邪魔なんですね。だからふたりとも照れてしまうんですよね そ、そんなことないからっ そろそろ帰りますね 帰らなくていいからっ 帰るんだったら送るよ あ…… こさめさんはため息をついた。 小河坂さん。わたしは途中でタクシーを拾いますから、結構ですよ そういうわけにいかない 小河坂さん こさめさんは語気を強める。 無知は罪ではありませんが、無知のフリは罪ですよ 言葉を失う。 それでは 制止する間もなく、歩いていってしまう。 追いかけることはできなかった。 明日歩をひとりにはさせられない。 ……ごめんね それはなんに対しての謝罪だろう。 頭上で、再会を果たした織姫と彦星が瞬いている。 洋ちゃん メアが消え、こさめさんが去り、この舞台にはふたりの影しかない。 あたしに、どうして欲しいかって聞いたよね…… 明日歩の声が震えている。 じゃあさ…… 明日歩は意を決して。 腕……組んでみていい? 一歩、俺に近づいた。 ちょっとね、やってみたかったんだ…… 一度ね、やってみたかったんだよ…… 男子と腕組むの、やってみたかったの…… ………… 銅像のように凍りついていると、明日歩の腕が上がる。 その手が俺の手に触れて。 ……ウソだよ、もう 明日歩は俺と握手した。 これは、仲直りの握手 ケンカをしたわけじゃなかったのに。 あたしの願いは、ひとつだよ 多くは望まない、やってみたいことはいろいろあるけど、一番欲しいのはひとつだけ 明日歩は俺から離れると、星空を振り仰ぐ。 そこに、俺と明日歩は流れ星を見つけた。 あたしは、こうして好きな人と一緒に、星空を見上げていられれば…… 織姫と彦星の近くに、一筋の星が流れて消えた。 洋ちゃんと一緒に星見ができれば、それで充分だよ それが明日歩の願い事。 流れ星に託した願い事。 俺はホッとする。 ……なぜ? わかっていても、俺は、わからないフリをしているんだろうか。 その子…… 帰ったものだとばかり思っていた。 メアが俺の背後にいる。 明日歩は気づいていない。メアは俺の背中に隠れている。 メアは俺にしか届かない小声で言う。 その子、あなたのことが、好きなのね 知っている。 あなたは、どうするの? ……わからない 俺は、優等生ではないから。 そう メアは、今度こそ姿を消した。 帰り際、詩乃さんに電話をして車を出してもらった。 途中でこさめさんを見つけたそうで、後部座席で一緒になった。 ひとりで帰らせたことに詩乃さんから一言あるかと覚悟したのだが、こさめさんのフォローがあったようでお咎めはなかった。 明日歩は助手席に座って詩乃さんと談笑している。 その表情、声色はいつもの明日歩と変わりない。 俺だけじゃない、ほかの皆だってそう思っている。 だから明日歩の願いは本物で、たとえ俺が好きでも恋人になりたいわけじゃない。 明日歩は俺を初恋の相手だと言った。 その気持ちはもう風化しているということ? じゃあなぜ俺にあんな行為を働く? よくわからない。 なんて複雑な方程式。 俺には、解くのが難しすぎる。 千波、まだか! さっさと降りてこい! 俺は玄関から二階に向かって声を荒げていた。 今日は登校日だろっ、このままだと遅刻になるぞ! だってだってっ、この制服着るのひさしぶりだからリボンとかボタンとかうまく留められないんだもん! それはまだヒバリ校の制服に慣れていなかったためなのか、単に千波が忘れっぽいだけなのか。 俺は普通に装着できているので後者だろうけど。 根気よく待っていると、どたどたと千波が階段を降りてきた。 お待たせお兄ちゃんっ、制服も着終わったし髪もセットしたし準備万端いざヒバリ校へレッツゴー! その前に黄色の帽子はどうした? 千波は幼稚園児じゃないよ!? バカなことやってる時間ないから急ぐぞ 待って待って千波まだ靴履いてないよ! 早くしろっ 早くしようと思ったら靴下も履いてないことに気づいたよ! じゃ、いってきます やだやだすぐ履いてくるから絶対待っててねお兄ちゃん! 階段を駆け登っていく千波の背中を見ながら、俺は大きくため息をつくしかなかった。 あ…… 千波と一緒に家を出ると、蒼さんとばったり出くわす。 おはよう 蒼ちゃんおはよーっ ……おはようございます 登校日でも遅刻ぎりぎりなんだな ……そっちもです カエルの子はカエルなんだよねっ ……意味が不明 ふたりは同類って言いたかったんじゃないか? そのとおりだよっ ……これまでに類を見ない屈辱 坂を登っていく蒼さんを、俺たちも追っていく。 一学期を再現しているこんな登校風景が、未来に訪れる二学期も示唆しているように思えた。 登校日の目的は、長い夏休みで生徒がだらけていないか先生がチェックすることにあるんだろう。 よってそんなに時間はかからずに、午前中で俺たちは開放となる。 それも、昼にはまだ一時間も余裕があった。 小河坂さん、姉さんから伝言です お、待ってたよ お昼を食べてもまだ帰るな、だそうです 了解。クラスで待ってたほうがいいのか? 部室でも大丈夫だと思いますよ なになに、なんの話? 姫榊がこれから屋上の使用許可取ってくれるんだ まだもらってなかったのか。天クルって部員確保したんだろ? 二学期の部活会議で正式な部になるらしくてさ。その前に許可くれって交渉してたんだ 許可取れそうなの? 姉さんは夏休み中も生徒会の皆さんと連絡を取りあっていたようですから。会議はスムーズに開かれているんじゃないでしょうか そうすると、あとは姫榊がいかにうまく説得するかだけど、姫榊の力なら心配ない なんでそこまで信じられるんだろ 姫榊を見てればわかる こももちゃんを見てるから信じられないんだけど…… 姉さんは小河坂さんと会っているときだけ乙女ですから それ恋ってこと!? ありえないだろっ 洋ちゃんの浮気者~! 浮気ってなんだよ!? 展望台の彼女さんという人がありながら~! なんでそこでその名が出るんだよ! 初恋の相手なんだろ 違うって言ってるだろ! モテモテですね、小河坂さん むー 暑い暑い くわばらくわばら とても疲れる展開だった。 入るわよ 学食で昼を食べてから部室で待機していると、姫榊が姿を見せた。 入る前にノックしてってば 小河坂くん、これ ……無視された 約束の屋上使用許可証よ ぶっきらぼうに言って、渡してくる。 仮使用って扱いだけどね。これ持って職員室行けば、屋上のカギを貸してもらえるから さすが姫榊、大感謝だ 感謝してるなら、今後も要求に応えてもらおうかしらね ……勘弁してくれ 夏祭りの翌日の大掃除では筋肉痛になったのだ。 こき使わせてもらったし、今は勘弁してあげるわ。次は生徒会で覚悟しておくことね 洋ちゃんが生徒会になんか入るわけないよっ それを決めるのは南星さんじゃなくてわたしだから こももちゃんじゃなくて洋ちゃんでしょっ 同じようなものじゃない ぜんぜん違うよ~! 小河坂クン、生徒会に入るのかい? 考え中です あたしは反対だからね! 僕は賛成するよ なんでですか~! 小河坂クンを通して天クルのために便宜を図ってもらえそうじゃないか 不正は許しませんからね 言うまでもないじゃないか ……なにか信用できないのよね、この人 あられもない写真を撮られ続けてるからな……。 小河坂さんが生徒会に取られると、天クルとしては寂しくなりますね あたしは大反対だからね! 姉さんの乙女度もアップしてしまいますしね なによそれは…… 姫榊、もうカギ借りてきても平気なんだよな それはいいけど。これから活動? 活動というか、屋上の下見だな 天体観測って言ったら夜だもんね 最初の活動なら夜間から入るのが無難だろうね せっかくの夏休みだし、合宿とかしたいよね~ 申請すればできるけど、今からじゃもう無理よ 一学期に申請できればよかったんだけどね。まあ二学期まで持ち越しかな 学校始まってからでも遅くないか。九月は連休あるし、楽しみだなあ~ 姫榊、もうひとつ確認だけど。新入部員の所属も、二学期からじゃないと認められないんだよな そうよ とすると、メアは天クルに呼べないわけだが。 でもさ、見学ってかたちで、入部希望者と一緒に活動するくらいはいいよな? ……まあ、見学だったら誰でも自由だけど となれば、話は決まった。 これ、渡しておく。希望者の入部届だ 天クルの皆にはもう話している。 誰ひとり反対する者はいなかった。 今日から、メア=S=エフェメラルは、天クルの入部希望者として俺たちと一緒に活動する ……誰なのよ、それ 友達だ どこの国の人よ…… 聞いても、死神に国なんてないって答えられるだろうな 姫榊はキツネにつままれた顔をしていた。 二学期になったら、正式な処理よろしくな ……天クルの活動? ああ、これからヒバリ校の屋上で天体観測やるんだ。天クルの初活動みたいなもんだよ 屋上は夜八時から十一時までの使用許可をもらっている。カギも部長の岡泉先輩があずかっているのだ。 ……私も行ったほうがいいんですか? そりゃあ、蒼さんは部員だからな ………… 都合よかったら、参加してくれないか 蒼さんは言う。 いつか、もう一度、私にプラネタリウムを見せてくれますか? ああ。約束だもんな 蒼さんは瞳を伏せた。 でしたら、参加してもいいです じゃあ千波も行くねっ おまえは天クルの部員じゃないだろ もちろんオカ研として参加するんだよっ そんなことできるか 校舎の張り込みのついでだよっ ……今夜、張り込みの予定だったのか? そうだよっ、前回は失敗だったけど今度こそ宇宙人を捕獲するんだよっ 飛鳥も来るのか? ううん、千波ひとりだよ。千波が自発的に思いついた活動だからねっ ひとり暴走させるより、まだ俺たちと一緒のほうが安心だ。 今夜の張り込みは屋上だけにしとけ。俺も手伝ってやるから わっ、ほんと? ああ なにをどう手伝えばいいのかもわからないが。 宇宙人見つけたら千波にすぐ報告してねっ 任せろ ……体よく監視下に置いたわけですね 監視下? なんでもない では、鈴葉が眠っている間に出かけましょう 鈴葉ちゃんは夕飯を食べたあと、ソファで休んでいるうちに居眠りしてしまっている。 蒼さんとしては、鈴葉ちゃんが起きて一緒に行きたいと言い出して欲しくないんだろう。 肝試しでも思ったが、鈴葉ちゃんを夜中に外へ連れ出すのは俺でもためらう。 詩乃さん、鈴葉ちゃんをお願いします うん。みんな、あまり遅くならないようにね 詩乃さんから夜食のマドレーヌを受け取り、俺たちは出かける準備を始めた。 校門前に着く。 集合場所は屋上だ。時間的に、ほとんどの部員が集まっているだろう。 明日歩の望遠鏡は、昼に屋上の下見をしたあとに運び込んである。 蒼さんもまた望遠鏡を抱えている。 先に屋上行っててくれるか? 警備員にも連絡が伝わっているはずだし、堂々と屋上へ出られるのがありがたい。 ……先輩は? ちょっとな 用事ですか? まあな。天体観測始める前に、寄るところがあるんだ 目的地は展望台だ。 じゃあ蒼ちゃん、千波たちで先に張り込みやろっか ……ひとりでしてればいい 蒼さん、千波のお守りは任せた ……厄介者を押しつけないでください これ以上の文句が飛んでくる前に、俺は坂を登り始めた。 メアの姿は一見しただけでは見当たらない。 マイブームなのか知らないが、最近のメアはかくれんぼを好むようだ。 普通に待っていて欲しいものだ。 ……………。 ………。 …。 ……今夜の隠れ場所は難度が高かったな でも、見つかった メアが座っていた木の枝は、展望台に続く小道をさえぎるフェンスの近くだった。 要するに展望台から少し外れた場所だ。 隠れるのは展望台の範囲でお願いできないか? いや ……範囲が広くなると辛いんだけど わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが命令されることなの。だからいや メア、次も展望台の外に隠れていてくれ いや よし、これで次は展望台の中にいるだろう。 約束だからな いや これで展望台の中か外かわからなくなった。 ……なにやってるんだ俺たちは。 今夜の用件は? メアに会いに来たんだ バカバカね かー坊はどうした? さっきまで一緒だったけど、どこかに飛んでいった 俺のせいか? ううん、あの子も気ままだから。そのうち戻ってくると思う かー坊が戻ってきたら、ヒバリ校に来ないか? ……これから? ああ、これから なにするの? 屋上で天体観測するんだ だったら展望台でいいじゃない 今回は天クルの活動なんだ。だから、展望台ではできないんだ ………… 天クルの活動が、今夜から始まるんだよ ……わたし メアは、大きなカマを抱きしめる。 わたし、部員になったの? まだだ。だけど、見学は大丈夫だってさ ………… 俺たちと一緒に、今度は屋上で望遠鏡を覗かないか? メアは、ぽつっと言った。 ……いや それはいつものメアの返答。 気が向いたら、来てくれよな これもいつものやり取りだ。 先に行って待ってるから ……行かないかもしれない それでもいいよ ………… またな ……うん メアがうなずくのを確認して、俺はヒバリ校に引き返す。 待ってたよ、洋ちゃん これで残るはひとりだね メアさんはどうでしたか? 気が向いたら来るって。だから、先に始めてよう ほらほら蒼ちゃん、ケータイからでも星がすっごくキレイに見えるよっ ……ひとりで見てればいい 蒼さんはちょうど望遠鏡を組み立て終わったところだった。 こっちもいつでも始められるよ 三十分前には、明日歩クンとふたりで準備を進めていたからね 夏休み中は夜も寒くないし、天体観測に打ってつけだよね~ 許可を取ってくれた姉さんに感謝ですね それじゃあ、明日歩 うん 明日歩は、屋上に集まった面々をぐるりと見回した。 これより天クルの第一回天体観測会を始めま~す! 八月って言ったらなんといっても、ペルセウス座流星群だよね 流星群というのは、決まった日時にまとまって飛ぶ流星のことだよ ペルセウス座流星群はほかの流星群と比べても流星の数が多いから、流星を初めて眺めるにはお勧めだね ちょうど新月で月明かりもありませんし、屋上だけあって視界も開けていて好条件かもしれませんね うまくいけば今夜だけで何十、何百個も見えるかも! ペルセウス座流星群が最も活発になる時期もここ数日ということで、明日歩の言葉は本当になるかもしれない。 今思うと、展望台で明日歩と一緒に見つけた流れ星は、この流星群だったんだろう。 明日歩の態度はその後も変わらず、俺たちに明るい笑顔を振りまいている。 みんな、お願い事考えてきた? 流星が現れてから消えるまではほんの一秒程度だし、願い事は難しいんじゃないかな 一秒程度で伝えられる内容ならお願いできそうですね じゃあ…… その流れは自然だった。 人の名前くらいなら、伝えられるかもしれないね 一瞬の空白ができた気がした。 会話が途切れていた。 皆、それぞれ頭に誰かを思い浮かべたのだろうか。 誰かの名前を思い浮かべたのだろうか。 忘れてしまった俺には、それはまだ叶わない。 雲雀ヶ崎だからこそ、流れ星を見ることは少なくない。 いつか、過去の「僕」もまた、展望台の彼女を想って流れ星に願いを込めたことがあった。 迷信なんて信じない、かわいくない子供だった過去の「僕」でも、いったいなにを願ったのか。 今の俺と、そんなに大差はなかったかもしれない。 ……明日歩、望遠鏡は使わないのか? 会話を振ってみた。 うん。ペルセウス座流星群はね、望遠鏡や双眼鏡はいらないんだ 視界が狭くなるから、かえって見つけるのが大変になるんだよ。肉眼でも充分見えるからね 肉眼でも見ることができるからこそ、ペルセウス座流星群は八月最大の天体イベントと言われてるんだよ でも、流星探すのに飽きちゃったら言ってね。望遠鏡、使っていいから 蒼ちゃん蒼ちゃん、千波流星をカメラに撮ろうと思って待ってるのにぜんぜん見つからないよっ ……ケータイ覗いてるせいでしょ 蒼ちゃんだって望遠鏡覗いてたじゃないっ 私は流星に興味ないから なんでなんでっ なんでもいいでしょ……あ、発見 なんでなんで蒼ちゃんだけずるいよっ ……うるさいからあっちいって 向こうは向こうで楽しくやっているようだ。 流星群の流星は、基本的に放射点を中心にして放射状に出現するんだ ペルセウス座流星群の放射点はペルセウス座にあるから、その方向を注意して見ていれば…… 蒼ちゃん、ペルセウス座ってどれ? ……知らない あ、今流れた! わたしも見つけました 俺もだ 僕も ……発見 なんでなんでっ、千波だけまだ一個も見つけてないよ! 千波ちゃん、カシオペヤ座はわかる? M字に見える星座だけど その右下に広がっている人の字みたいに見える星座が、ペルセウス座ですよね ペルセウス座の方向を注意してと言ったけど、その方向だけに出現するわけでもないから、できるだけ広い範囲に注意を向けることが大切なんだよ えっと、えーっと 千波の目がぐるぐるだ。 つーかおまえ、ケータイ覗くのまずやめろって それじゃ流れUFOが撮れないじゃない! あくまでオカ研の矜持を忘れないようだ。 お、あそこに流れた どこどこ? 今度はあそこだ あそこってどこ? 次はあっちだ どっちなの! この調子なら百個は超えそうだ うわーん! ……仲がよろしいことで 蒼さんだけが淡々と自分の望遠鏡を覗いている。 蒼さん、流れ星はいいのか? ……興味ないって言いました 俺は後ろ頭をかく。 想い出の星空が、好きなんだよな ……はい ほかの星空は好きになれないか? ………… 先輩は、勘違いしてるんだと思います 私は星空が好きなんじゃないんです 星が好きだから、想い出の星空が好きになったわけじゃないんです だから…… だから、無駄なのだろうか。 天クル、辞めろと言われれば、辞めますから そんなこと言わない 先輩はそれでいいかもしれません、だけどほかの皆さんまでそうとは限りません あたしはぜんぜんオッケーだよ、天クルに入ってから星が好きになってもアリだもん 蒼クンが入ってくれなければ、天クルは廃部になっていたしね。僕らは感謝してるんだよ 蒼さん、これからもよろしくお願いしますね ………… ほかのみんなも、辞めて欲しくないってさ ……バカがつくお人好しばかり 千波は蒼ちゃんに天クル辞めてオカ研に入って欲しいと思ってるからバカじゃないよっ あなたはバカがつくバカ それどのくらいバカなの!? メアがよく口にするバカバカくらいバカなんだろう。 ……聞いてもいいですか? なんだ? あの星……南十字に似てますよね ああ、あれははくちょう座の北十字だな 南半球からしか見えない南十字とは、よく対比されて語られるね はくちょう座の白鳥はね、ギリシャ神話では〈大神〉《たいしん》ゼウスの化身って言われてるんだよ でねでね、白鳥の尾のところで光ってるのがデネブで、くちばしのところの星がアルビレオ アルビレオはね、天上の宝石って言われるほど、全天で最も美しい〈二重星〉《ダブルスター》なんだよ! 熱心に語る明日歩を前に、蒼さんは少し面食らっているようだった。 天文クラブでも説明があったと思うけど、覚えてなかったかい? ……興味ありませんでしたから じゃあさ、蒼さん。せっかくだし、その望遠鏡で覗いてみるのもいいんじゃないか ………… ……流れ星、発見 蒼さんは望遠鏡から離れた。 肉眼のほうが、いいんですよね 結局、蒼さんは〈二重星〉《ダブルスター》を観測することはしなかった。 代わりに流れ星を眺める蒼さんは、雲雀ヶ崎の星空に興味を持ってくれたのか、ちょっとわからない。 でもまあ、天クルの天体観測は成功と言えるのかもしれない。 ……来てみた メアが背後に立っている。 頭にはかー坊も乗っていた。 待ってたぞ ……帰る ウソだウソ、待ってなかった やっぱり帰る ……待てって、改めてみんなに紹介するから 絶対いや メアの素振りを見て、転入日にクラスで自己紹介を求められた自分を思い出した。 じゃあ、自由に見ていってくれ そのつもり メアに気づいたほかの面々も、話しかけたり話しかけなかったりと自由だった。 だからまあ、これはこれで成功なのだ。 夜空に流れる星々は、広大な海を気ままに泳ぐ魚のようにも見えた。 姫榊こももは苛立っていた。 こさめの帰りが遅い。 いつまで夜遊びしているつもりだろう。 天クルの活動は聞いていたし、屋上の使用許可を勝ち取ったのは他ならぬ自分なので文句は言えないのかもしれないけれど。 だからこそよけいに腹立たしい。 星嫌いの自分がなぜ天クルの片棒を担ぐハメになっているのかと、こももは疑問でたまらなかった。 原因は、小河坂くんか…… 彼が転入してからというもの、予定が狂ってたまらない。 二学期には天クルを廃部にし、ヒバリ校を卒業したあとはこの家──星天宮を出るつもりだった。 そうすれば、こももの環境は一新する。 星に関する一切の事柄からオサラバできる。 それはとても住みよい居場所に違いなかった。 なのに、こももが描いていたそんな未来像は、もはや虫に食われた有様だ。 ……まあ、家を出れば問題ないんだろうけど 天クルが存続し、在学中は我慢することになっても、卒業すれば解放されるのだから。 家を出るのも難しいんだけどね…… 自分は長女で神社の跡取り筆頭だし、去年からは七夕祭りの舞姫も受け持っている。 それら重荷を放り投げれば、妹のこさめにすべてがのしかかってしまう。 来年、進路相談の時期になれば家族会議はしきりに開催されるだろう。 考えただけでも憂鬱になる。 どうしたのよ、眉間にしわ寄せて。美人が台無しよ ……お母さんに美人とか言われてもうれしくないわよ そりゃあ私のほうが美人だからね 万夜花はそう言って笑ってから、居間を見回した。 こさめは部屋? 学校よ。聞いてないの? なにが 天クルの活動。屋上で天体観測やるんだって なるほどねえ。だからあんたは不機嫌なのね 母のこういういやらしい笑みがこももは星と同列で大嫌いだったりする。 この時期はペルセウス座流星群が見えるものね。私も境内で見てこようかしら 勝手に見てくれば あんたは? 行かないわよ 境内じゃなくて、学校のほうよ ……それこそ行くわけないじゃない。わたしは天クルの部員じゃないし 部員とか部員じゃないとか、関係ないでしょう。流星群の美景に比べれば〈些末〉《さまつ》な問題よ お母さんはそうでも、わたしには大問題なの 一緒に楽しんでくればいいじゃない 冗談 こももはフンと鼻を鳴らす。 わたしが星嫌いだって知ってるでしょ ねえ、こもも わたしのこと名前で呼ばないで ……とんでもない親不孝者ね、この子は で、なによ こももはさ、この神社が嫌いだから、星が嫌いなの? こももは言葉に窮した。 星の名を冠した神社──星天宮。 代々祀っているのもそれ関係。 星嫌いのこももなのだから、神社が好きということはない。 だけど、なぜ星が嫌いなのかと問われれば、それは。 ……べつに、神社は嫌いじゃないけど そっか でも、好きでもないからね わかってる 万夜花は居間を出ていった。 言ったとおり、外に出て夜空を見上げるのだろう。 神社の周囲は住宅が乏しいので、街の明かりで星見を阻害されることはない。 ……なにが楽しいんだか こももはふて腐れて座布団に寝転がった。 弾みで裾がめくれ返って下着が見えていそうだったが誰もいないのでよしとする。 なぜ、自分は星が嫌いなのか? 屋上で天体観測なんて考えられないし、展望台で星見なんてもっと考えられないだろう。 それはいったいなぜなのか。 答えはない。 自分でもわからないのだから答えようがない。 だからこももは誰かに尋ねられても答えられない。 こさめにも洋にも理由を話せない。 それでも星嫌いの理由をあえて言葉に当てはめるなら、生理的嫌悪が最も妥当だろうか。 好き嫌いなんて、そういうものだと思うしね…… たとえば食べ物の好き嫌い。 こももはカボチャが大嫌い。 さつまいもは普通に食べられるし、スープやスイーツにしたカボチャもおいしく食せるのだが、煮物や天ぷらのカボチャはちょっといただけない。 そこに理由はない。嫌いだから嫌いなのだ。 好き嫌いってそういうものでしょう? だから、気にしてもしょうがないのかもしれない。 いくらこさめが残念そうだからって、南星さんに恨まれるようなことになったって。 小河坂くんに勧められたからって、わたしが天体観測することはありえないのよ…… あんた、そんな格好だとパンツ見えるわよ 外出たんじゃなかったの!? こももは上体を跳ね上げた弾みで膝を机にぶつけた。 あうう…… なにやってるんだか ……なんでお母さんがいるのよ なんかね、曇ってきたみたいでさ。すぐ戻ってきたわ ……あ、そう したたかに打った膝頭をさすりながら座り直す。 流星群は数日見えるだろうし、明日に持ち越すわ 明日も晴れとは限らないじゃない 今年がダメでも来年がある。明けない夜がないように、晴れない空もないわ あんただって同じかもよ なにがよ 空模様が移ろうのと同様、あんたの心模様だって移ろってるんじゃないかってこと ……なにを根拠に 今年の神楽、去年よりも楽しそうに舞ってたわよ その原因がなにかなど、こももは考えもしないうちに言葉で打ち消した。 もしそう見えたんなら、老眼でも始まったか、アルコールの過剰摂取で視界が歪んでいたかのどっちかね ……本当に親不孝者ね、この子は そりゃ、元ヤンキーのお母さんの子だからね 流れ星、見えなくなってきたね…… 夜空が陰ってきたようだ。 雲の流れを見るに、近いうちに空全体を覆いそうな雰囲気だ。 雨警報は鳴ってないから、雨の心配はないけど…… 明日歩は耳を澄ます仕草をしながらそう言った。 曇りまでは、さすがにわからないんだよね 時間も遅くなってきたし、そろそろお開きにしたほうがいいかもな えー 不満げだ。 ペルセウス座流星群の本番は夜半からなのに~ 零時を過ぎると放射点の高度が高くなって流星が見やすくなるからね。だけど屋上の使用は十一時までだよ 展望台で二次会って手もありますよ! ……洋くん メアに袖を引かれる。 わたし、そろそろ 帰る時間か? こくんとうなずく。 いくよ、かーくん ぼー あぢぢぢぢぢぢぢぢっ!! じゃあね あいさつされるたびに炎に焼かれるのなんとかして欲しいんだけど!? 好かれてる証拠じゃないの メアはどこ吹く風で去っていった。 星明かりは徐々に薄くなっている。 メアちゃん、天体観測楽しんでくれたかな どうだろうな。顔に出さない性質だし、言葉も素っ気ないからなあ 蒼ちゃんと同じだねっ ……死ねばいいのに 毒舌度は蒼さんが上だろう。 それにメアは、無理に感情を抑えている感じがある。 自分は子供ではないと背伸びをしている。そう思う。 あの、展望台の彼女のように。 メアクンの気持ちがどうあれ、来てくれないよりはずっといいさ そのとおりだ。 メアは好きなことは好きと言わなくても、嫌だったら嫌だとはっきり言うはずだから。 それじゃあ、帰る準備を始めようか ……もうお開きなんですか? そろそろ十一時だ。時間も押しているしね 明日歩、夏休みはまだ半分残ってるじゃないか。これで終わりじゃないんだからさ 次の活動は、お盆が終わったあとでしょうか そうなるだろうね 明日歩、それでいいだろ? ……うん 小河坂さんの言葉には素直ですよね 意味深に言わないでよ~! 蒼ちゃん、なにが意味深なの? ……私に聞かないで とりあえず、居心地が悪いので望遠鏡の片付けを始めた。 帰り道。 望遠鏡を運ぶのも今や手慣れたもので、坂の上り下りでも特にふらつくことはなくなっている。 部室に置く案もあったのだが、明日歩がお盆中に手入れをしたいと言ったので運ぶことにしたのだ。 蒼ちゃん、千波も望遠鏡持つの手伝うよっ ……近寄らないでさわらないで平気だから 遠慮することないのになっ 蒼さんも慣れたもので、遅れることもなく俺たちのあとを歩いていた。 洋ちゃん なんだ? 覚えてる? 今夜は、初めての天体観測だったんだよ 初めてって感じはなかったけどな 展望台でやってたのは、星見だよ そうだったな 明日歩がこだわる理由は、わかりそうでわからない。 明日歩の家に望遠鏡を置いて、駅前に着く。 次の活動日が決まったら、連絡網で伝えあおうか そうですね。みんな、お盆はゆっくりしてね そっちも課題ちゃんとしろよ あはは、ほんと洋ちゃんってお母さんみたい 一瞬、母さんの姿が頭をよぎった。 ……お盆と言えば墓参りか。 それでは、失礼しますね 今日は楽しかったよ またね、みんな 三人はそれぞれ帰途についた。 鈴葉を連れて、私も帰ります ああ。今日はお疲れさま ……まったくです。明日歩先輩の家までつきあってしまいました 遅くまで悪かったな ……まったくです 鈴葉ちゃんまだ寝てると思うし、千波が蒼ちゃんの家までおぶってあげるねっ てっきり蒼さんは断るのかと思いきや。 ……まあ、そのほうが鈴葉もよろこぶかもしれないし 蒼さんは少しずつでも千波を受け入れているのだとわかって、うれしくなった。 それに、今生の別れになるかもしれないし…… それどういう意味なの蒼ちゃん!? お盆はそっちの夕飯にお邪魔しないから お盆終わったらまた一緒に食べようねっ そうならないために全力で鈴葉を調教する……! こんな燃えてる蒼ちゃんは初めて見るよ!? 蒼さんは千波を受け入れているのかどうか、またわからなくなった。 八月十三日は、墓参りの日。 雲雀ヶ崎の墓参りもこの日に行われることが多いようだ。 といっても夏祭りが催された星天宮に墓参客が集まることはない。 星天宮には墓地がないからだ。 街外れの霊園は賑わっているのだろうが、それを横目に姫榊こももは毎年お盆をのんびりと過ごしていた。 こももは夢見坂を登っている。 お盆だけあってしんと静まりかえった黄昏時、田舎である雲雀ヶ崎だから輪をかけて人気がない。 散歩をするにはいささか寂しいかもしれない。 とはいえ目的は気晴らしというわけではなかった。 ヒバリ校を越え、展望台に至る遊歩道に踏み入っていく。 ……ここに来たのは、どのくらいぶりかしらね 展望台を訪れたことのないこももでも、フェンスの前までは歩いたことがあった。 ヒバリ校の近くに立ち入り禁止区域があると知り、生徒会役員として念のため確認しておこうと思ったからだ。 なにも変わってないわね…… それはなにもこの周辺の風景だけではない。 頭痛がする。気分が悪い。 以前もそうだった。 このフェンスの、網の目になった隙間から押し寄せる空気を、こももはどうしても好きになれない。 入ってもいない場所が嫌い。 だが入らなくてもわかるのだ。 食べ物の好き嫌いは食べた際の味で嫌いになる以外に、食べる前の匂いで嫌いになることだってある。 こももはフェンスの前に立つことで、この奥の展望台が苦手であると判断することができたのだ。 だからこの展望台嫌いは、星嫌いに関係しているとは限らない。 ただそうなると自分はなぜ星が嫌いなのか、その起因がどこにあるかという謎が残る。 その謎は今日に至っても解明できていない。 だから結局星嫌いに関しては生理的嫌悪としか表現できないため、こももはこの好き嫌いの理由を誰にも話せないのだった。 ……もしかしたら、平気になってるんじゃないかって、期待したんだけどね 依然、自分は展望台が苦手のようだ。今日はそれを確認するのに訪れたのだ。 急に思い立った理由は、お盆で暇だったということもあるが、先日の万夜花との会話も影響しているだろう。 天クルの部員じゃなくても関係ない、皆と一緒に天体観測を楽しめばいいじゃない、と。 べつに楽しむつもりは毛頭ないが、こももは生徒会役員として一度くらいは監視目的で活動を見学しようかと、そんなふうにも思っていた。 夜遅くに大切な妹を天クルにあずけるのだ、姉の立場としてもそれは必須だった。 ……この分じゃ、無理そうだけどね 天クルの活動の場は展望台ではなく校舎の屋上だ。 屋上は平気のこももだが、天体観測が始まればどうしてもこの展望台を考えてしまうだろう。 だから、自分に天体観測は無理なのだ。 そろそろ帰ろう。 頭痛がひどくなっている。額には脂汗もかいている。 あまり長居をすると、家に帰ってから夏休みの課題をこなす気力まで削がれてしまいそう。 規則や計画をなによりも重視し、それに沿うための努力は決して怠らないこももだからこそ、苦手なものがあれば克服したいと考えてはいるのだけど。 悩むだけで進展が見込めないのなら、無理なものは無理と諦めるのも肝心かと、こももは自嘲気味にきびすを返す。 するとそこに見知った人影があった。 姫榊妹かと思ったら、姉のほうか 諏訪雪菜が歩いてきた。 こももは驚いた。 こんなところで会うとは思いもしなかったというのもあるが、それ以上に雪菜の服装に驚いたのだ。 ……その格好、どうしたんですか? いやなに 雪菜は低く笑う。 仕事があってな ……神社のですか? この姿でほかの仕事はないだろう 墓参の仕事……じゃないですよね そうだな なんの仕事ですか? キミには関係のない仕事さ 雪菜は親戚ということもあって顔見知りだ。 とはいえ会話はあまり交わしたことはない。 幼い時分からの知りあいではないし、それどころか去年に母からいきなり親戚と言われて紹介されただけなのだ。 ヒバリ校に転入することになったからよろしく、と。 姫榊家に居候するという話もあったようだが雪菜のほうから断ったそうで、それ以来会う機会もほとんどなかった。 夏祭りなどの行事のとき以外は、学校でたまにすれ違うくらいしか接点がない。 それほど親しくない間柄。 こさめは誰に対しても愛想がいいので雪菜と会話する場面を多々見ているが、それだってどれもこさめのほうから話しかけているといった印象だ。 彼女は、どこか人と距離を置いている節がある。 キミは、どうしてここに? ……ただの散歩です こんな寂れた場所でか そうなりますね 展望台が気になるのか? こももは言葉をなくす。 顔色が悪いのはそのせいか? ……なんのことですか キミも、私や姫榊妹と同じだということさ 気分が悪いのは、巫女としての霊能力や神通力のせいかもしれないぞ ……バカバカしい その言葉、万夜花さんが聞いたらどう思うかな あんたらしいって笑うでしょうね 目に浮かぶな 雪菜は笑った。ただ形として笑っているだけに見えた。 私はこれから展望台に行くつもりだが そこで仕事ですか ああ なんの仕事かは教えられないんですよね そうでもない。私について来るのなら知ることができる こももは肩をすくめた。 どうせ反対するんでしょう いや、キミであれば反対する理由はない お母さんの娘だからですか そうだ 帰ります こももは言い捨てた。 それから、忌々しく言うのだった。 これ以上ここにいたら、頭が割れると思いますから 母さんの墓はまだ建てられていなかった。 詩乃さんの話では、一周忌に建てるとのことだ。 だから母さんをなくしたばかりの俺たちに墓参りはまだ早いのかと言われれば、そうでもない。 墓参りに限らず、こういった法要時には迷ってしまう。 千波にどのように接したらいいのかと、悩んでしまう。 じゃあ、千波ちゃんはまだお父さんのお墓参りには…… はい。あれ以来、一度も行ってないと思います 俺たちは母親だけじゃない、父親もなくしている。 まだ赤ん坊の頃の話だ。雲雀ヶ崎の霊園にその墓はある。 俺たち兄妹が物心つく前は、場所が離れていることもあって母さんひとりで墓参に行っていたようだ。 物心ついた頃には母さんに連れられて俺たちも参っていた。 千波も一緒だった。だから千波は父親の墓参りをしたことがないわけじゃない。 だが成長し、小学校に入学してから何年か経つと、千波は頑なに墓参を拒否するようになった。 その頃からだろう、千波が母さんに対して反発することが多くなったのは。 そしてそれは、兄の俺にも同様だった。 その反動なのかなんなのか、今では俺にべったりになっている気もするが。 そんな千波の反抗期は雲雀ヶ崎を出る前後──小学校中学年の頃には弱まってきて、引っ越しをしたあとはさらに弱まった。 都会の学校に馴染む頃には元気あふれる千波に戻った。 俺や母さんとの仲も改善した。家事を手伝おうとして大失敗し、だけどめげない千波に戻った。 母さんも千波も幸せそうに笑っていた。 だけどもそれは、都会に引っ越すことで父親の墓参りをしなくてよくなったという、千波の考えから生まれた笑顔だったのかもしれない。 それについて千波と話したことはない。母さんと話したこともなかった。 雲雀ヶ崎に戻ることになって、千波がなにを思い、どう考えたか。 むやみに聞き出すつもりはなかった。 もしお墓参りが難しいなら、無理にすることはないわよ ……はい。詩乃さんは行くんですか? ええ。これから親戚の皆さんと出かけてくるわ ………… 洋ちゃんは…… 俺は、やめておきます ……無理にすることはないわ。だけど、姉さんのことは気にしなくてもいいのよ? 母さんは一度、家を離れている。それは親類と縁を切ったということだ。 その子供である俺たちに、この実家で暮らさないかと誘われたことからも、親戚の人たちは誰も母さんに対して負の感情を抱いていないのはわかる。 母さんも言っていたのだ。 家を飛び出したのは自分のわがままだった。ほかの皆は悪くない、悪いのは自分だったのだと。 もし私たちに対して気を遣っているのなら、やめてね。みんな姉さんの子供に会いたいって言ってるんだから 洋ちゃんや千波ちゃんに会いたいと思ってるんだから ……すみません だから、洋ちゃんが謝ることはないのよ 今年は遠慮します。だから、すみません 詩乃さんは小さく吐息をついた。 ……千波ちゃんのため? たぶん、そんな感じです 母さんが死んでまだ間もないのに、千波をあまり刺激したくないというのが本音だった。 千波は、なんだかんだで母さんっ子だった。 今ごろ千波も部屋で落ち込んでいるかもしれないのだ。 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃ──んっ!! ……おまえ、人の心配を簡単にぶち壊すのな ふふ。文句を言ってるわりにホッとした顔してるわよ ……そんなことはありません なになになんでホッとしたの? なんでもない。それよりなんだ なんだじゃないよっ、今日は十三日だからお墓参りの日なんだよっ、それは千波たちも含めた地球人には平等に当てはまる行事なんだよっ 地球人じゃなくて日本人の間違いだろ 千波ちゃん、お墓参りしたいの? はい! 当然じゃないですか! だって天国のお母さんに千波の近況報告しないと心配かけちゃいますから! 正直、驚いた。 父親の名前は出なかったが、それでも千波は母さんの墓参りはしたいと言う。 そうね。じゃあ三人で、姉さんのお墓参りしようか 詩乃さんはそう言ってリビングの席を外した。 お母さんきっと千波たちのこと待ってるよっ、早くお参りしないと化けて出てやるって言ってるよっ ショックを受けていないわけがない、だけど千波はちゃんと心の整理を進めている。 母さんの死を受け入れようと努力しているのだ。 待ってね。今、準備するからね 詩乃さんが戻ってきた。 リビングのテーブルに母さんの写真が立てられた。 千波ちゃん、これを そして詩乃さんから千波へ、花が渡される。 これから出かけると言った墓参りのために用意していた花だろうか。 それとも、母さんのために、最初から用意してくれていたのだろうか。 ……千波 うん 千波の手から花が供えられる。 俺たちは、母さんの写真立てに花をたむけて線香をあげる。 お母さん。天国で元気にしてる? 千波はね、とっても元気にしてるよ お兄ちゃんはイジワルだけど、とっても仲良しにしてるよ 詩乃さんは優しいから、いつも笑顔でいられるよ 都会の学校の友達とは別れちゃったけど、今でもメールで連絡取りあってるよ それでね、お母さん 千波ね、ヒバリ校でも友達ができたんだよ みんないい人たちばかりだよ みんな楽しい人たちばかりだよ お母さんが通ったヒバリ校で、たくさんの友達と一緒に、千波は元気にしてるんだよ だから、なにも心配いらないからね お母さんは、天国でいっぱい笑っててね 千波と一緒に、いつまでも、笑顔でいてね 俺たちは手を合わせる。 瞳を閉じる。 そして想う。 母さん。 家を飛び出す覚悟で、あなたがどうしてもと産んだ千波は、さっきの報告どおり元気でやっています。 手がつけられないくらい元気でやっています。 むしろ元気が減って欲しいくらい元気でやっています。 だから安心してください。 たまにぐりぐりするのは兄なりの愛情のつもりですから安心してください。 笑顔でいてください。 そうして見守っていてください。 千波を見守っていてやってください。 俺も、守るから。 あなたの愛娘である千波は、あなたの息子である俺が必ず守るから。 だから、絶対に、二度と千波を泣かせはしない──── 黄昏に沈んでいたこの地も今は薄闇に支配されている。 諏訪雪菜は展望台に立っていた。 眼下に広がる街の灯火が以前に訪れたときよりも望めないのが、法要時を印象づける。 遠く、ここからは到底見通せないが、各地の墓地は年に何度もない雑踏にあふれているのだろう。 ……さて、どうしたものかな 展望台には少なくない回数を訪れている。 それなりに地理は詳しくなったので、捜し人を見つけるのは難しくないと考えていたのだが。 どこに隠れているんだか…… それとも今夜もハズレなのだろうか。 死神とやらは来ていないのかもしれない。 そのメアという名の自称死神は、こさめの話によれば少なくとも人ではないという。 その根拠はメア自身もそうだが、メアが連れているペットがより顕著のようだ。 こさめいわく、炎を吐く龍らしい。 ……なんだそれは。 もちろんメア自身にも疑う点はあり、瞬間的に姿を消すことができるようだ。 この話を聞いてから、雪菜は半信半疑ながらも本腰を入れることに決めた。 やはり、一度この目で確かめるしかない。 ただでさえここは『彼女』を還すためには必須の場所となっている。 いざというときの弊害を避けるためにも、確認は必要だ。 難儀なことだな…… そう決めたはいいが、肝心の死神に会えなければどうしようもない。 どうも天クルの活動に混じっているようだが、そこに自分も混じるわけにもいかない。 雪菜の仕事は極力人目を避けなければならないから。 雪菜は、噂の死神が人でないと判断したなら、即刻消すつもりでいるのだった。 そうならないことを祈っているがな メアの姿はまだ見えない。 雪菜は探索を諦める。 腕を組み、こさめの言葉を思い返す。 話を聞く限りでは、メアは小河坂洋に懐いているようだ。 で、あるならば。 ダメ元で、やってみるか 雪菜は肺に空気を溜め、一息に吐き出した。 展望台の死神クン、聞こえているか 凛とした声が木々を渡る。 空間を裂くような鋭い声。 聞こえているのなら出てきてくれないか 雪菜は展望台の中心に立っている。 波紋のように広がるその声は隈なくこの場を網羅する。それだけの強さがある。 小河坂洋クンからの伝言があるんだ 雪菜は、こちらからは捜さずに、相手からのコンタクトを期待している。 彼は今日、墓参りでここを訪れることができない だから私が代わりに来た お願いだ、姿を見せてくれないか 雪菜はいったん言葉を止める。 耳を澄ます。 音はない。 視界は変わらない。誰の影も見えない。 ときおり吹く風がうざったく、雪菜は乱暴に髪を後ろに流す。 もう一度声を張り上げようとしたとき、それは起こった。 これは…… なにかが生まれていた。 欄干の隙間から、夜露に濡れた草むらから、ふわりと飛び立つなにか。 風にそよぐ梢とともに揺れ動く。 光の乱舞。 それは、蛍の舞だった。 ……驚いたな ひとつが生まれる頃にはふたつが生まれ、それが連鎖し息をつく間もなくここは光に充ち満ちた。 まるで星空の中に立っているようだ。 不安になって夜空を見上げる。 そこにも光の乱舞がある。 天と地の境がない。 私は、溺れるのか。 目眩がする。 自分が溶かされていくようだ。 こももとは違う意味で気分が悪くなっていた。 死神を釣るはずだったんだがな…… 応えたのは蛍のほう。 それともこれは死神からのメッセージだろうか。 死神を騙そうとした罰というわけか。 雪菜は苦笑し、退散を決め込んだ。 展望台を出ようとした──その方向に。 誰かがいた。 ……洋くんからの、伝言? 雪菜はこの目でしかと見る。 その姿は少女のもので、誇示したように持つカマよりも背丈が小さい。 彼女が死神だろうか。 いや──これはむしろ、彼女から自分が死神だと伝えたがっている格好だ。 彼女には記号的意味が多すぎる。 不自然なほど。 養殖の神話、あるいは仕組まれた都市伝説を語られるのに似た不快感を持つほどに。 これまで出遭った同類以上に、作為を感じる。 ……キミが、メアという名の死神か? そうだけど 私はキミを探していた。だが初めましてと言うべきか そうね。わたしはあなたなんて知らない 雪菜はにやりと笑う。 キミは龍を飼っているそうだな それがなに 姿が見えないようだが どこかを飛び回ってると思うけど 紹介してくれないか いや キミは本当に死神なのか メアの表情は動かない。 人ではないのか なんなの、あなた 私の前で消えてみせてくれないか なんなのかって聞いてるんだけど 言うなれば死神のファンだ 変な人 キミに言われたくはないな サインでも欲しいの いただけるのならもらおう 洋くんの友達なのよね 友達ではないな。面識がある程度だ 洋くんの伝言って、なに 悪いな 雪菜は腰を低く落とす。 その手を静かに得物にかける。 それは、方便だ ………… メアの表情に警戒の色が浮かぶ。 その姿が陰る。 徐々に薄らいでいく。 ……当たりか。 確信に至る。 コレは『彼女』の同類だ。 雪菜は得物を抜いた。 瞬間、星よりも蛍よりもまばゆい閃光が奔流となって放たれる。 ……え? それは瞬きよりも短い刹那の出来事。 メアは、そこにいる。 消えてはいない。 消えることができない。 なにが起こったかわからないように。 ただ呆然とそこにいる。 私は、キミに用があるんだ まだ、帰られては困るんだ 雪菜は、静かに得物を構えた。 この仕事──── その薙刀は、鋭利な光彩を宿してメアの命を狙っている。 死神退治に、悪いがつきあってもらおうか お兄ちゃん、千波ちょっと出かけてくるね 詩乃さんが墓参りに出かけたあと、ふたりでのんびりしていると千波が不意に言った。 どこ行くんだ? 決めてないよっ ……散歩ってことか? そうとも言うよっ 急にどうしたんだ? ちょっとね 千波は窓のそばに寄る。 夜空は今日も満天に星をたたえていた。 外の空気が吸いたくなっちゃった お兄ちゃんもついて来るんだね べつについて来たわけじゃない じゃあなんで千波と一緒にいるの? たまたまだ お兄ちゃんも散歩したかったの? そうだ 千波が言わなくても散歩するつもりだったの? そうだ 千波を夜道でひとりにさせられるわけがない。 えへへ 千波は上機嫌だった。 腕を組んできたので振り払おうとしたが、考え直した。 今日だけは好きにさせようと思った。 お兄ちゃん、千波にくっつかれて顔赤らめてる 死んだらいいと思います 蒼さん風毒舌対応。 でもお兄ちゃん生態記録によると、お兄ちゃんが不自然に毒舌になるときはエッチな感触に期待して…… 破り捨てる。 千波のライフワークの結晶2号が!? くくくっ、まだ隠し持ってるなら早めに出したほうが身のためだぞ? お兄ちゃんが千波の身体まさぐってるっ、闇夜を幸いに無理やり服脱がして押し倒そうとしてるっ、あたかも凌辱主人公のように! 世間体があるのでこれ以上はよしておく。 バカなことやってないで行くぞ 待ってよっ、いいよもうっ、どうせその記録は布教用だもんっ、観賞用はべつにあるもんっ 何冊破けば終わるんだろうな……。 千波はまたくっついてくる。 詩乃さん、何時に帰ってくるのかな さあな。遅くならないようにするとは言ってたけど そっか 千波さ うん? あやうく父親の墓参りに触れそうになり、すぐに変更した。 次の天クルの活動日だけどさ うん 今週の金曜になりそうだ 天クルの部員じゃない千波なので、俺と違って連絡は受けていないだろう。 お盆が終わってすぐだね 千波は参加できそうか? ……千波も行っていいの? 当たり前だろ 千波は強く腕を回してくる。 もちろん参加するよっ 了解 今日のお兄ちゃんは優しいねっ さっきは人を凌辱主人公扱いしていたようだが。 天クルのこと、蒼ちゃんにも教えてあげよっと 蒼さんにもすでに連絡があっただろうが、言わないでおいた。 天クルの活動日に遊びにいってみるよっ、千波たちの夕食にも招待してみるよっ ああ、頼むぞ 蒼ちゃん、了解してくれるといいなっ おまえなら大丈夫だ そうかなっ そうだ 蒼さんに調教されたかもしれない鈴葉ちゃんだって、きっと千波が好きなままだ。 千波いつもこんなふうに優しいお兄ちゃんがいいなっ よりいっそう腕を回してくる。 なあ、千波 なになに? おまえって胸ないよな 日頃から思ってたけどお兄ちゃんはデリカシーが千波だけにピンポイントで欠如してるよ!? 言い換えれば、それはほかの誰よりも千波とのつきあいが長い証拠なのだった。 なにも考えないで歩いてたら、展望台に着きそうだね 散歩にはちょうどいいだろ そうだねっ、今夜も星見にレッツゴー! ここから先は離れて歩けよ なんでなんでっ 横に並んでると歩きづらいだろ、道が狭いし。縦列だ 名残惜しいけどわかったよっ、それじゃ千波が先頭いくねっ 千波は一足先に走っていく。 あまり急ぐと転ぶぞー 聞こえていないようだ。 俺は嘆息して、あっという間に闇にまぎれてしまった背中をゆっくりと追っていく。 フェンスを迂回する道は、最初は獣道ですらなかったが、これまで何度も往復したおかげか足跡で舗装されている。 そこを歩いていく。 千波とふたりだけでここを訪れるのは二度目になる。 一度目は、まだヒバリ校に転入する前だった。 バカなやり取りをしていたことしか覚えていない。 今回もそうなるだろう。 俺たち周囲の環境が変わっても、俺たちふたりの関係はこんなふうに続いていく。 これから先も変わらない。 その安定が心地よい。 心地よいから、それを壊すことはしたくない。 林を抜けた先に光がある。 それは期待よりもずっと淡くて大きな光だった。 一粒が小さくても、夜空の星に劣らない数が集まっているから大きく見えるのだと遅れて知った。 蛍だろうか? 音がした。 ほのかな音だった。 気づいたのは運がよかった。そうとしか言いようがないくらいのかすかな草の葉の揺れだ。 俺はその方向に視線を向ける。 そして見る。 天上から降り注ぐ星彩、地上から浮かび上がる蛍火、間に挟まれ強く照らされた千波の身体がゆっくりと、ゆっくりと前のめりに倒れていった。 人が立っていた。 緋色の人影だった。 人影は倒れ伏す千波を見下ろしていた。 光が強すぎるためか顔が見えない。 上半身は影となり、反対に下半身が明るかった。 だからいやでも目についた。 その手に煌く刀──この形状はどこかで見たことがある。 そうだ、夏祭りの際、姫榊が手にして舞った薙刀だ。 刀身が鮮やかに、美麗に、生々しく天地の光を反射する。 洋くん! どこからか呼び声がかかった。 人影が動いた。 瞬く間にその姿は木々の闇に隠れ、視界から消えてなくなる。 入れ代わりでメアが横手から飛び出してきた。 倒れた千波に気づいたのか、息を呑んだ。 風が吹いている。 冷たく乾いている。 その夜風は千波の背に集まっていた蛍を洗い流していく。 俺は、千波の元に、ふらふらとたどり着いた。 おい…… しゃがみ込む。 肩に手をやる。 仰向けにする。 千波は瞳を閉じている。 まるで眠っているようだ。 千波……? 千波は応えない。 俺は身体を揺さぶる。 反応はない。 頭がぼんやりとして、自分がなにをやっているのか、なにを話しているのか、判断ができなくなる。 支えている千波の身体の重さも、熱も、だんだんと希薄に感じられていく。 頼むよ、おい…… 応えない。 千波…… 手先が冷たくなり、逆に頭の芯が熱くたぎる。 千波っ……起きろよ、千波! まぶたを開けてくれない。 いくら呼んでも応えてくれない。 なんだよ、これ……。 なんなんだよ、これは……! よ、洋くん…… なんだっていうんだ、いったい。 なにがどうなっているんだよ。 わけがわからない。 この場すべての光が俺たちを嘲笑っているようで。 千波を呼ぶ俺の声は空しく、静かな夜の空気に消える。 俺たち周囲の環境が変わっても、俺たちふたりの関係は変わらない。 これから先も変わらない。 その安定が心地よい。 心地よいから、それを壊す者は許さない──── お姉ちゃん、ちょっといい? ……どうしたの。もう寝る時間でしょ えと、聞きたいことがあって なに? 千波さんのことだけど ………… ……すごく不満そう それで、千波さんがなに? うん。あのね、わたし、お盆が終わったらまた遊びにいきたいなって…… ………… い、いいかな……? ………… ……めちゃくちゃ不満そうだよう 遊ぶ前に、夏休みの宿題は終わったの? う、うん。お盆入る前に終わらせたよ 自由研究とかは? 読書感想文にしたからすぐ終わったよ ほかに提出するものは? 全部終わらせたよ 鈴葉はえらいね ……お姉ちゃんの笑顔がひきつってて怖いよう そんなに遊びにいきたいの? う、うん。お夕飯もまた一緒したいなって…… ……はあ だ、ダメかな? ダメって言ったら諦める? ………… ……ごめん。そんな顔しないで あ、じゃあ…… その代わりお姉ちゃんも一緒だからね うんっ。お姉ちゃんも千波さんの友達だもんね ……そうじゃなくて、監視目的だけど 洋さんも入れて、また四人で展望台に遊びにいきたいね メアさんにも会いにいきたいね ……そうね メアさんも、鈴葉の友達なんだものね うんっ 俺は、目覚めない千波をおぶって帰宅した。 家には詩乃さんがすでに帰っていて、俺たちの姿を見るなりなにがあったのかと聞いた。 俺は状況を説明した。うまく説明できたかは覚えていない。 だが詩乃さんは察したようで、ただちに受話器を取ってどこかに連絡を入れていた。 ここで救急車の存在に思い至り、冷静さを欠いていた自分を蹴り飛ばしたくなった。 俺は千波を部屋に運んでベッドに寝かせた。 千波に呼吸はある。規則正しく胸が上下している。 外傷は見当たらなかった。 だが目立つ箇所にないだけかもしれない。 千波の身になにも起こっていないのなら、あんなふうに倒れたりするはずがない。 ………… 千波の手を取る。 頭や頬を撫でる。 あたたかい。 起きろよ、千波。 元気だけが取り得のおまえらしくない。 このままだと母さんが心配するぞ? 報告したのに、ウソついたことになるんだぞ……。 ……洋ちゃん 詩乃さんが様子を見に来たようだ。 さっき、お医者さまに連絡したから。私の知人だから、すぐに来てくれるわ ……ありがとうございます 千波ちゃんはどう? ぱっと見、眠ってるようにしか見えません 詩乃さんは俺の横に立ち、千波を窺う。 そうね……。大事はないと思うけど だけど、目を開けてくれません ………… 俺、なにやってるんでしょうね…… 洋ちゃんのせいじゃないんでしょう だとしても、俺は千波を守れなかった。 俺も詩乃さんも、これ以上はなにも言わなかった。 詩乃さんが呼んでくれた医者は、万夜花さんの夫──姫榊姉妹の父親だった。 千波を検診したあと、詩乃さんが話したとおり大事はないと伝えた。 首の後ろに目立たないがアザがあって、ここに急な衝撃を受けて意識を失ったのではないかということだ。 今は眠っているだけだという。 念のため、明日になって千波が目覚めたら、彼が勤める隣町の病院で精密検査をしてくれるそうだ。 それから、千波がアザを作った状況で思い当たることはないかと聞かれ、俺はないと答えた。 あると答えれば警察沙汰になる。 状況を考えると、千波は襲われた可能性がある。 そうなると展望台の立ち入りができなくなる恐れがある。警察が封鎖するかもしれない。 こんな事故が起こったのにメアや展望台の彼女にまで考えが及ぶのは、千波が無事だったからにほかならない。 千波が無事でなかったら、それこそ俺はなによりも優先して犯人を追い詰める。 俺は、展望台で見たあの人影に心当たりがあったから。 その人影は薙刀を持っていた。 そして巫女装束を着ていたのだ。 とすると性別は女。 これら条件に当てはまる人物は、雲雀ヶ崎を限定とすればそうはいない。 もしも彼女が千波を襲ったのだとしたら。 俺は、理由を問いたださなければならなかった。 千波は起きていなかった。 これが普段であれば、休日ということもあってどうせ昼過ぎまで寝ているんだろうと軽く流すだけなのだが。 どうにも朝食作りの手が動かない。 キッチンをうろうろと歩き回っては千波の部屋がある二階を見上げ、ため息をついていた。 洋ちゃん、千波ちゃんが気になるなら部屋を覗いてくればいいじゃない べつに気にしてませんから 心配なんでしょう? いえこれっぽっちも ……一晩過ぎたら、洋ちゃんのあまのじゃくが戻っちゃったわね メアと一緒にしないで欲しい。 それじゃあ私からお願いするわ。病院に連れていかないとだから、千波ちゃんを起こしてくれる? 詩乃さんの頼みならしょうがないですね 朝の弱い詩乃さんがこの時間に起きているのも、病院の検査があるからなのだ。 それじゃ、起こしてきます お願いね はい、あくまで詩乃さんのお願いがあったからですから はいはい 詩乃さんは困ったように笑った。 千波の部屋の前まで来る。 まだ寝ているだろうか。それとも起きて身支度でも整えているだろうか。 起きたなら支度よりもまず騒がしく階段を駆け下りているはずだし、やはり寝ているんだろう。 いちおうノックをしてから耳を澄ます。 反応はない。 眠っている。 次はドアノブを回す番だ。 カギなんてないから難なく開くだろう。 なにもためらう必要はない。 呼びかけても起きなかったらどうしようなんて、不安がることはない。 千波は無事だったのだから。 足を踏み入れた。 中は静まっている。 そして、引っ越しからまだ一ヶ月だというのにちらかっている。 整理整頓の行き届いていない部屋の奥に千波のベッドは置かれている。 俺は毛布のふくらみに近寄る。 千波の様子は昨夜から変わっていないように見えた。 起き出した気配はない。それどころか、寝相の悪い千波なのに毛布が乱れた様子もない。 その、あまりの静けさにゾッとする。 千波…… 頬にそっと手を当てた。 あたたかい。たしかなぬくもり。 赤みも差しているし、寝息だって聞こえる。 それだけでホッとする。千波は間違いなく生きている。 ……なにを考えているんだ、俺は。 千波、起きろ。千波 肩を揺さぶった。 細い身体が俺の手にあわせて動く。 千波のまぶたが痙攣する。 ん…… 声がする。久しく聞いた気がした。 おにい……ちゃん…… 起きたのかと思ったが、まだ千波の瞳は開いていない。 千波の唇が震えていた。 助けて……苦しい…… ………… くるし……よう…… そのたどたどしい言葉が心臓を鷲づかみにした。 千波? おい、千波……! あ……う…… しっかりしろ、千波……! 苦しい……もう……だめっ…… どこが苦しいんだ、兄ちゃんに言ってみろ、すぐ助けてやるから! お、お兄ちゃぁん……! 千波っ、千波……! もう食べられないよう……! 間髪入れずデコピンした。 なっ、なになになんなのっ!? 千波は額を押さえて飛び起きた。 詩乃さんお手製ディナーをお兄ちゃんと一緒に食べてたら千波のおでこが痛くなったよ!? 食べ過ぎたからだろ そんなわけないよっ、食べ過ぎで痛くなるのはお腹だけだよ! 千波……今まで隠していてすまない まるで千波の胃が額にあるの黙っててごめんみたいな言い方だよお兄ちゃん!? 元気になったみたいだな 千波の頭にぽんと手を置く。 千波はいつでも元気だよっ そうだったな 千波は目をきょろきょろさせる。 ……あれ? 朝のあいさつはおはようだぞ 朝? そうだ ここって…… 千波の部屋だな お兄ちゃんっ、一大事だよ! どうした? 千波展望台にいたはずなのに部屋に戻ってるってことはこれって神隠しかなっ、それともタイムトラベルかなっ、あるいは宇宙人がUFOに乗せて連れ帰ったのかなっ いつもの千波で兄ちゃん一安心だよ そのわりに痛い子を見る眼差しなのはどういうわけなのお兄ちゃん!? ようやく肩の荷が下りた。軽くなった心がそう言っていた。 千波、展望台で気を失ったの? ああ。覚えてないのか? 千波の記憶では展望台に一番乗りしてメアちゃんを捜そうとしたら部屋にワープしたことになってるよっ とすると、千波は人影を見ていないようだ。 千波ちゃん、顔色いいし、食欲もあるみたいね はいっ、寝覚めすっきりで近年まれに見る爽快な気分です! 詩乃さんが俺の代わりに作ってくれた朝食をもりもりと食べている。 首は痛くないか? べつに寝違えてないから平気だよっ じゃなくて、首の後ろだ。アザになってるだろ? えっ、どこどこ? 千波ちゃん、じっとして。むやみにさわっちゃダメよ 詩乃さんが千波の髪をかき上げて確認する。 腫れもないし、キレイに消えてるわね 凝りまで消えて肩が軽くなった気がします! どうやら謎の人影は千波に危害を加えるどころか健康促進に一役買ったようだ。 それでも、ちゃんと病院には行きましょうね お兄ちゃん病気なの? 俺じゃなくておまえだ なんでなんでっ、千波は健康で〈絢爛〉《けんらん》だよっ、こう見えて一度も歯医者さんにかかったこともないからねっ 千波……今まで隠していてすまない まるで千波の余命は残り幾ばくかしかないんだごめんみたいな言い方だよお兄ちゃん!? 健康診断みたいなものだから心配しなくていい。それより早く食べてしまえ 食べ終わったら、みんなで出ましょうね なんだかわからないけど千波は注射が大の苦手だから拒否権を発動させてもらうつもりだよっ 注射はしないと思うわよ。検査が終わったら、千波ちゃんお疲れさま会を開いてごちそう作ってあげるわね わーい! 詩乃さんはほほえんで、車の準備に向かった。 千波が駄々をこねる前に丸め込むその手腕は見事だった。 病院での千波の検査は滞りなく終了し、どこにも異常なしとの結果だった。 担当した姫榊医師は柔和な雰囲気の人で、まさしくこさめさんの父親と