「あっ……いけません、お姉様」 「あら。何がいけないというのかしら?」  〈妖〉《あや》しい指先は若い〈牡〉《おす》の髪を、頬を、首筋から胸元を〈撫〉《な》でさすり、更にその下にまでためらいもなく這い進んだ。  牡が体をくねらそうと、拒絶と呼ぶには弱々しい嘆声をもらそうと、〈牝〉《めす》の凌辱には拍車こそ掛かれ、〈緩〉《ゆる》まることなどありはしない。  当然であった。 「言ってごらんなさい。私が、私の城で、私のペットを可愛がっているだけなのに。一体、何がいけないというの?」  まさに然り。  〈瀧川〉《たきがわ》商事第二管理局長、〈桂葉恭子〉《かつらばきょうこ》。  その胸に輝く不可視のネームプレートは、第一に彼女が東京経済の重鎮たる商社の一員であることを示し、この都市において大多数の市民を〈睥睨〉《へいげい》する立場にあることを意味する。  そして第二には、瀧川商事における最大派閥たる副社長派のトップ5に含まれることを意味し、社外だけでなく社内においても圧倒的優位者たることを保障する。  加えてここは、彼女が己の城と公言してはばからない東京南部方面管理ビル。  その中にあつらえた、金銭的価値を測るならビルの他全てと比肩するのではないかとさえ思えるプライベートルーム。  ならば、誰が彼女の行動を〈咎〉《とが》めよう。  誰が咎められるというのだろう。  この小さな牡猫か。  ありえないことだ。 「そんな……ぼくは、ペットなんかじゃ……」 「あらそうなの?」  彼女は〈艶然〉《えんぜん》と微笑んだ。  優しく、〈温〉《あたた》かに。  それは装われた〈紛〉《まが》い物のぬくもりなどではない。  真実、支配者たる人間とはそういうものなのだ。  支配者から見れば小指の先ほどにも満たない〈蟻〉《あり》が、か弱い牙を突き立ててきたからといって、即座にひねり潰すようでは、〈狭量〉《きょうりょう》とのそしりを免れまい。  蟻が自ずと無力さを知るまで好きにさせ、微笑と共に見守る度量あってこその絶対君主であろう。  見よ。  彼女の微笑を前に、賢い牡猫は早くも己がしたことの意味を悟り、白い肌を震わせ始めているではないか。 「あなたが私のペットでないのなら、どうしてここにいるのでしょうね? この部屋は緊急の時を除いて、直属の部下にさえ立ち入りを禁じているのだけど」 「うぅ……」 「あなたは人間なの? なら申し訳ないけれど、今すぐ服を着てそこの扉から出て行ってくださる?」 「ち、違います! ぼくは……ぼくはペットです、お姉様の!」 「そう。良かった」  彼女は飼い猫の額に愛情を込めて〈接吻〉《せっぷん》し。彼は捨てられずに済んだ〈安堵〉《あんど》で瞳を潤ませた。  かくの如し。  彼は人権という安価なものを〈剥奪〉《はくだつ》され、かわりに女王の〈寵愛〉《ちょうあい》というかけがえのないものを与えられる。  彼女は〈愛玩〉《あいがん》動物と〈戯〉《たわむ》れる安らぎのひとときを得る。  誰もが身に相応の幸福を手に入れ、満足する。良き支配とはかくあらん。 「んっ……でも、でも。お姉様……!」 「なぁに?」  この可愛い牡をどのようにか〈翻弄〉《ほんろう》しどのようにか〈抱擁〉《ほうよう》する、愛欲の夢に沈もうとして。先刻に輪をかけて気弱げながらも上がった制止の声に、今度は〈苛立〉《いらだ》ちを見せて彼女の眉が動いた。  狭量と同様、無制限の寛容もまた美徳ではないことを彼女は知っている。  もしこれが彼ではなく、他の〈愛人〉《ツバメ》のしたことであれば、すぐにも外へ放り出していたはずだ……手加減なく、文字通りに。 「今は、大事なお仕事の最中です。ぼくと……こうしているせいで、もしなにかあったら……」 「あら、そんなこと」  彼の言葉に、彼女は消えかけた微笑をすぐ取り戻した。  彼女の身を案じてのことだと知り、許す気になったのだ。 「大丈夫よ。  確かに府外からの物資搬入は大事なお仕事だけれど、何度もしていることだもの。私がいなくても、ミスなどするような部下たちではないから」 「でも……最近は〈兇徒〉《テロリスト》の動きが活発だって言います。こんな時に襲われたりしたら、お姉様の身が……」 「誰からそんなことを聞いたの?」 「えと……護衛の人たちが話しているのを聞いて」 「……まったく」  日々の激務を忘れるために持つ、愛人との時間だ。だから彼女は仕事がらみの話を彼らに聞かせないよう、身辺に置く部下達には言い渡しておいたのだが。  直接言わなければいいのだろう、程度にしか彼女の命令を重んじなかった者がいると見える。  身近にそんな不心得者がいるというのは、彼女にとって由々しき問題だった。近日中の処理を決意しながら、健気な愛人の不安を拭ってやる。 「心配しないで。ここは50人以上の〈衛士〉《えいし》に守られているから。  瀧川衛士のことは知っているでしょ? 東京でも最強の戦闘集団。府庁直轄の帝国軍を除けば、だけど。  兇徒〈風情〉《ふぜい》には、どう間違えたって負けるものですか」 「はい……ごめんなさい。つまらないことを言って……」 「いいのよ。可愛い子……何も気にしなくていいの。  ばかな夢想家たちがいくら攻めてきたって、私には傷ひとつつかないし、あなたのこともちゃんと守ってあげるからね……」 「お姉様……あぁ」 「久瀬」 「はッ」 「新九朗」 「はッ」 「物資略奪の指揮は任せて良いな」 「承知」 「無論。……しかし、〈佐竹〉《サタケ》殿はいかがされる」 「敵将の首を取る」 「なに」 「なんと」 「それは佐竹殿といえど無謀!」 「何より、〈会頭〉《かいとう》殿の御指示に背くこと!」 「承知の上!」 「討死も切腹も覚悟の上と仰せか」 「しかし、何の故あって」 「大義」 「……大義」 「……大義と」 「さよう。全ては大義。  大義とは胸に宿すばかりでは意味なきもの。  〈知行合一〉《ちこうごういつ》の精神に〈則〉《のっと》り、実行せねばならぬ」 「佐竹殿は、我らが大義を行っておらぬと仰せか!?」 「そうは言わぬ。会頭殿のお考えに否やはない。  だが、俺は一刻でも、一秒でも早く、東京独立の大義を成したい。石馬少将の悲願を達したいのだ」 「む……」 「少将閣下の悲願……」 「この東京を真なる日本として未来に遺す。  石馬少将はそのために城壁をつくられたが、それでもなお足りぬ。日本人たる誇りを持つ者は減る一方、対して瀧川めを筆頭に西洋の拝金主義かぶれは増える一方。  この流れを食い止め、今一度正しき道を歩み直すために、東京は独立せねばならぬ。皮肉な話だが、今の日本と共にあっては真なる日本を守りきれぬのだ」 「それは、言われるまでもなきこと」 「そのために、会頭殿は〈深謀遠慮〉《しんぼうえんりょ》を尽くしておられる」 「わかっている。だが俺は不安なのだ。  独立の大業が成る前に、石馬少将の理想が滅び――全ては手遅れになるのではないかと」 「……」 「……」 「ここで彼奴、瀧川の管理局長めの首を上げることがかなえば、大願成就への大きな一歩となろう。この身ひとつを捨石にして理想へ近づけるのであれば、本望というもの」 「佐竹殿」 「会頭殿より命を受けながらのこの独断専行、無責任と罵るがいい。だがどうか、行かせてくれまいか」 「佐竹殿」 「皆まで言われるな」 「新九朗」 「思いは我らとて同じ」 「久瀬」 「何も心配めされるな。思うまま、本懐を遂げられよ」 「……すまぬ」 「〈東京独立是大義〉《トウキョウドクリツコレタイギ》」 「〈知行合一是大道〉《チコウゴウイツコレタイドウ》」 「大義を〈以〉《も》って大道を行かん」 「――いざ」 「さらば」 「さらば、佐竹殿」  部下は有能でなくてはならないが、愛人がそうである必要はない――とは、桂葉恭子が持つ主義の一つだった。  何故なら、部下は道具であるから主人の意のまま的確に動かねば話にならないが、愛玩動物が意のままに動いたら不気味でしかないからだ。  命令を受けてまごつく姿も可愛さのうちだと、彼女は考えている。  しかしそれはそれとして、主人がどのような場合に、どのような銘柄の紅茶をあるいは珈琲を好むか、ごく短期間のうちにパターンを把握し、主人に命令の手間をかけさせない心利くツバメというのも、やはり心地良いものだった。 「どうぞ、お姉様」 「ありがとう」  彼女の今現在の〈嗜好〉《しこう》と寸分〈違〉《たが》わぬ温度、香りを備えたティーカップを受け取り、恭子は満足げに目を細めた。  好みに沿わないものを用意した愛人を柔らかな〈侮蔑〉《ぶべつ》で見つめるのも彼女の楽しみの一つであり、言ってしまえばそれを奪われた格好なのだが、怒りなどはまるでない。  この〈明哲〉《めいてつ》さとその容姿とで、彼は恭子の愛人達の中で〈一頭地〉《いっとうち》を抜く存在だった。  しかしそれだけであれば、新参にも関わらず主人の〈寵〉《ちょう》をほぼ独占するようなことはできなかったろう。  むしろ不快がられ、早々に遠ざけられていたかもしれない。 「……どうしたの。さっきから、窓の方ばかり見て」 「あ、いえ。あの」 「そんなにテロリストが怖いの?」 「ちっ、違います」 「本当に? じゃあ少し、外へお使いに行ってもらおうかしら」 「……」 「行ってきてくれる? 一人で、だけれど」 「……うぅ……」 「もう」  〈俯〉《うつむ》いてしまった彼の手を取り、軽く力を入れて引き寄せる。 あっと声をもらして、男性としては小柄な体が女性としては長身の恭子の胸に倒れ込んできた。  あやすようにその頭を抱きかかえ、唇を重ねる。 「んっ……」  彼はおとなしく身をゆだねた。  〈瞼〉《まぶた》を震わせ、体を震わせながらであったけれども。それも、引き潮めく緩やかさでやがて消えていった。  彼の中の〈怯〉《おび》えが、抱擁する彼女に吸い取られたかのように。  〈傍目〉《はため》には、〈雛鳥〉《ひなどり》を〈毛繕〉《けづくろ》いする母鳥に見えたことだろう。  実際、恭子はそんなつもりだった。彼の髪に触れる指の細かな動きにさえ、愛しさは隠しようもなく匂う。  つまり彼は賢く、そして気弱だった。その二つのコラボレーションが、賢明ではあるが鼻につく鋭さはないという、彼女にとって理想的な成果を造り上げている。  加えて見目形も良いとなれば、愛するなという方が無理ではあるまいか。  愛人としておける〈旬〉《しゅん》を過ぎても、彼は何らかの形で側に置いておこうと恭子は決めていた。  秘書でも、執事でも、彼ならば問題なく務められるだろう。  自分に強いて政略的結婚をする必要などないことを思えば、夫としてしまっても構わないかもしれない。  さすがにそれは、今後長い時間を掛けて彼を見定めた上でのことだが。何にしても、彼を手放したくはない……。  と。 (おかしい)  愛人のことに没頭しているようでいて、しかし一方、瀧川商事の高級幹部は彼の言葉から別の思考を呼び起こされてもいた。 (テロリスト? ……まさか)  あるべき報告が遅れていた。  彼女が取り仕切る府外からの物資搬入は、数度に分けて行われる。一区切りがつく都度、彼女の元には簡単な連絡が届く決まりになっている。  一次搬入の予定完了時刻は22時20分。  壁の時計が示す現在時刻は22時26分。 (6分の遅れ……私が局長に就いてからは例のないことね)  彼女の脳内、愛人との戯れに〈耽溺〉《たんでき》するのとは違うところで、高速度計算が始まっていた。  今すぐ内線を取りあげ、状況を確認する必要はあるだろうか?  無駄に神経質な上司だと思われるのは避けたいところだが。  府内と府外の物資流通をほぼ一手に担うことで巨富を上げている瀧川商事にとり、当然ながらこの物資搬入は生命線だ。  いくら警戒してもし過ぎということはない――が、上から警戒を呼びかければ呼びかけるだけ比例して警戒度が増すというものでもない。  くどければかえって害となるだろう。  状況次第だ。  状況。  現在の搬入直衛警備――瀧川衛士団8個中隊104名。  配備中の衛士の警戒度――常に高いレベルで保たれている。 これは勤務中に〈欠伸〉《あくび》ひとつもらせば解雇という規則が、現場で守り抜かれていることからも確実だ。  テロリスト襲撃の可能性――これは当然ある。  百人規模の警備をテロリストが突破する可能性――過去数年間には例なし。  百人規模の警備をテロリストが〈迅速〉《じんそく》かつ静かに突破し、自分に緊急連絡一つ届くことがないまま、物資が略奪されつつある可能性――前例なし。可能性極小。  結論。 (6分の遅れは、ただの6分の遅れ……でしょ)  滅多にないことではあっても、理由はいくらなりと考えつく。  運送車両の遅刻。搬入作業の遅滞。あるいは単に担当官が連絡義務をど忘れしている。  どれもありそうなことだ。現状でテロリストの襲撃を疑うのは短絡的に過ぎた。 「お姉様?」 「ん。気にしないで」  いつの間にか、虚空を見据えて黙考していたせいだろう。不思議そうな顔をする愛人に、恭子は微笑みを返した。  この雛鳥がテロの影に怯えるのは愛らしいことであっても、管理部長たる自分が短絡的思考に従うのは失点としかなるまい。  あと五分はこのままでいていいだろう。  それでも連絡がなければ動くべきだ。  10分以上の遅滞は、事情がどうあれ黙過していいものではない。  考えを定め、再び、腕の中の〈儚〉《はかな》げな唇を奪う。   扉が蹴り破られたのは、その直後だった。  右手首を狙って打ち下ろされた〈棍〉《こん》の一撃を、彼は下からすくい上げるような剣運びで弾き飛ばすや、構え直すことなくそのまま剣先に楕円形の軌道を〈辿〉《たど》らせ、一息に斬り下ろした。  避けられようはずもなく、肩口から噴火のように血を吐き出してその衛士が倒れる。  〈月輪〉《つくわ》の剣、と〈云〉《い》う。  思想家であると同時に剣客でもある、彼が属する組織の指導者から直々に授けられた剣技だ。  覚えて以来〈修練〉《しゅうれん》を繰り返し、得意手の一つとなるまでにしていただけに、この危急にあってよどみなく繰り出せた。  実のところ、棒を相手とするには不向きな技であったから、斬り勝てたのは幸運と言わねばならない。  強烈な棒の打撃を受けた刀身は、〈鍔〉《つば》元から少し先、いわゆる〈弱腰〉《よわごし》と呼ばれる部分でわずかに曲がってしまっている。  だが、折れる刀は〈粗刀〉《そとう》。曲がる刀は良刀というもの。  切っ先をつまみ、力を込めて曲がりを直す。  こんな手荒な扱いをしても、よく〈心鉄〉《しんがね》の通った刀はひび割れを生むこともない。  〈歪〉《ゆが》みを完全に直すには刀工の技が必要だが、急場の〈凌〉《しの》ぎにはこれで十分だった。  息を整えて、走り出す。  急がねばならない。  だのに時折足が〈滑〉《すべ》るのは、腹から足を伝って垂れた〈血糊〉《ちのり》が、靴の裏にまで達しているせいか。  それは返り血であり、己の血でもある。  瀧川の衛士は疑いようもなく精強だ。  よく修練を積み、実戦の経験は豊富であり、敵を前にして〈怯〉《ひる》むこともない。  その実力は、彼の同胞と比べても決して見劣りしないだろう。  しかし。  と、走りながら〈佐竹義宗〉《さたけよしむね》は思った。  奴らに大義はない。  自分達にはある。  だからこそ奴らは倒れ、自分は倒れない。  ここに至るまでに七、八人の敵と遭遇し、既に手といわず足といわず、五指に余る傷を受けているけれども。  それらは動作にゆらぎを生じさせることさえない。  大義があるからだ。  東京独立の大義。  真なる日本を守るため、成さねばならぬこの大義を、夢物語と一笑に付す〈奴輩〉《やつばら》こそが瀧川商事。  日本政府と通じて今の立場を得た彼らは、東京独立によって既得権が失われることを恐れている。  つまり瀧川を支えるものは単なる功利の欲。  大義を奉ずる佐竹らが、敗れるはずはなかった。  敗れてはならなかった。 「誰だ――!?」 「シッ!」  角から〈躍〉《おど》り出てきた敵と、互いを視認し合ったのは5歩の間。  それを3歩で詰め、彼は歯の〈隙間〉《すきま》から息を〈軋〉《きし》り出しつつ、敵手が構える前に一撃を〈呉〉《く》れた。  斬。  突進からの〈唐竹〉《からたけ》割り、額を真っ向から割る一太刀を受け、その衛士は土砂崩れを浴びたかの如くに打ち伏せられる。  だが敵はもう一人。  そちらは意味のない〈誰何〉《すいか》で呼吸を無駄にすることなく、倒された味方に気を奪われることもなく、ただ即刻に棒を打ち下ろしてきた。  ――ぐむっ。  こぼしかけた苦鳴を無理矢理飲み込む。  〈咄嗟〉《とっさ》に間を詰めると同時、首を〈傾〉《かたむ》けはしたものの、〈躱〉《かわ》しきることはできなかった。  鎖骨に深々とめり込んだ重い棍は、骨を折るに至らずとも、亀裂くらいは入れたことだろう。  が。 (だからどうした) 「!?」  こちらの動きが止まることを確信していたに違いない。  すぐさま〈翻〉《ひるがえ》った反撃の一刀を、敵は〈為〉《な》す〈術〉《すべ》もなく逆胴に受けて吹っ飛んだ。  壁に背中を張り付かせ、〈臓物〉《ぞうもつ》を吐き〈晒〉《さら》す。 「大義」  なぜ、と問うように見えた敵の死眼にそう呟き、彼は再び走り出した。  精鋭の敵二人と交戦しながら、足を止めたのは刹那のことでしかない。  鎖骨を割る重傷も、今や彼には〈瑕瑾〉《かきん》ですらなかった。  よろめくどころか速度を増して、蛍光灯の下を駆け抜ける。  ――成すべき大義は、常に我が前にある。  前方に扉。  体当たりと同時に蹴りを見舞って押し開ける。  弾け飛んだ扉から、一歩踏み込んだ彼の前で――――  一体何事の最中だったのか、ソファの上で若い男を抱きかかえた女――彼の標的、桂葉恭子がぽかんと口を開き、間抜けな声を上げていた。 「……えっ?」  桂葉恭子は自他双方から鋭敏な女性だと見られていたが、扉が蹴り破られた瞬間の状況判断は賢いものとは言いかねた。  彼女の脳裏をよぎったのは、部下が上司の部屋に入る際の礼儀についてだったからである。  無論、この状況下で彼女の部下が〈叱責〉《しっせき》を受けねばならぬいわれはない。あるとしても、全く別の理由からであろう。 「……誰かしら」  護衛を呼ぶか? まず、無駄とみるべきだ。この侵入者は天井でもなく床下でもなく、堂々と、扉から現れたのだから―― 判断力を取り戻した彼女はしかし、打開策を得られなかった。  立ち上がり、芸もなく侵入者に問うてみる。  黒装束に覆面。  手には抜き身の刀。  〈古城址〉《こじょうし》から発掘された忍者そのままの姿の異人は、〈驕〉《おご》る風でなく、〈臆〉《おく》する色も当然なく、淡々と応えてきた。 「佐竹義宗。矛止の会に名を連ねるもの」 「……ッ」  思わず、奥歯を〈噛〉《か》む。  彼の名乗りがそうさせたのではない。  それと同時、窓の外から怒涛のような〈喚声〉《かんせい》が〈沸〉《わ》き起こったからだ。  先立つ事態と考え合わせれば、慎重に奇襲体勢を整えた敵が、一挙に攻勢へ出たということだろう。  敵の正体は、眼前の男の格好を見れば実のところ知れていた。  〈矛止〉《ほこどめ》の会。  偉大なるイシマの後継者を自称する思想団体は数多い。  その中には、イシマ主義をより先鋭的に進展させ、東京独立を訴えるものもいくつかある。  その一つにして最過激派。  そして、東京における最大の非合法武装集団。  それが矛止の会だった。  東京の現体制、閉鎖都市ではあるがあくまで帝国の一府という状態をこそ経営基盤とする瀧川商事にとっては、敵対分子の〈巣窟〉《そうくつ》に他ならない。  ここしばらくは鳴りを〈潜〉《ひそ》めていたため、恭子の考慮のうちになかったことが、不運であり不覚であった。 (勢力を〈蓄〉《たくわ》えていたということ……なら確かに、この警備の中への襲撃も可能か)  苦々しく、認める。  正しい状況把握も事後のことであれば、始末書の空白を減らす程度の役にしか立たない。  そもそも自分が始末書を書くまで生きていられるかどうかが、目下の〈懸案〉《けあん》であったが。 「目的は?」 「その首を頂く」  相手にそれを許すつもりはないようだった。  恭子はちらりと視線を走らせた。  刀は――ある。  一歩踏み出して手を〈伸〉《の》ばせば届く距離だ。  しかし刀を手にして、どうする。  戦うというのか?  恭子とて東京の〈貴顕〉《きけん》たる者、剣の心得くらいはある。  だがあくまで、たしなみ程度だ。  格別の才能を示したわけでもなく、実戦の経験があるわけでもない。  彼女の直衛隊をおそらくは全滅させてここまで到達した修羅を相手に、万に一つも勝てる見込みはないだろう。  では。  では、どうする? 「御免」  どうしようもない。  彼女が思考上でデッドエンドを迎えた時、現実上でそれを再現すべく、黒衣の剣士が襲い来た。  風が、巻く。  例え空気が鉄であろうと、構わず両断せんばかりのその猛刃。 (手向かいしなかったのは正解ね。おかげで綺麗に死ねそう)  今、自分を救うものがあるとすれば、それはもう神仏の奇跡くらいのものだろう。  しかし生憎、冠婚葬祭でしか宗教に触れない人間だ。  そんな己が願える奇跡は、苦しまない死あたりが相応に違いない。  そう納得し、恭子は死を受け入れた。  こんな理不尽の許容など、本来できるはずもないことだったが、一瞬の間だけなら難しくない。  それでまあ、安らかには死ねる。  そう思ったから。  ありえない奇跡が彼女を救ったことを、誰よりも恭子自身が信じなかった。  それは決して、神ではなかったけれども。  例えば。   A、B、Cという三人の人間がいる。  その誰かが一つしかないリンゴを食べた。  AとBは食べていない。   ではリンゴを食べたのは誰か。  ……などという設問の答えを出すために熟考を要する者がいるとすれば、それは本人がどれほど真剣であろうと〈道化〉《どうけ》以外の何ともなるまい。  この時の佐竹義宗は、不幸にしてその道化の役を割り振られていた。 「……!?」  すぐさま踏み出していた右足で床を蹴って飛び下がり、相手との距離をとった俊敏な動きに反して、彼の頭の中は困惑を極めていた。  何だ?  何が起こった?  何故、剣が弾かれた?  桂葉の手に武器はない。彼の一太刀を防げるはずはない。  にも関わらず、桂葉は健在である。  どういうことだ。  まさか。  いや。  いやいや。  まさかとは思うが。  桂葉の前にふらりと立つ、この小さな少年が、手にした刀で俺の一刀を防いだというのではあるまいな。  いや。  まさか。  まさかも〈糞〉《くそ》もない明らかな現実が、彼にはあまりにも受け入れ難い。  そこに立つのが紺の制服に身を包んだ瀧川衛士であったら、こんな思考の消化不良には〈陥〉《おちい》らなかっただろう。  どこから出てきたのかが謎も極まるが、それはひとまず置き、障害が現れたとだけ見なしてすぐさま斬りつけることができたはずだ。  だが今、彼の前にいるのは、イシマ主義の語る武士たらんとする彼からすれば同じ男と認めたくもないような、なよついた〈色小姓〉《いろごしょう》であった。  白い肌、長い髪。着崩したワイシャツと黒の〈長穿〉《ズボン》は良いとしても、羽織っているものときたら〈朱〉《あか》い〈小袖〉《こそで》。  最初に一目見ただけで、彼は〈顧〉《かえり》みる必要なしと断じていた。  ただの〈男娼〉《ツバメ》だ、と。  ――それが。 (俺の剣を防いだというのか)  その難しさを彼は知っている。  だけに、納得がいかなかった。  攻撃を防ぐということは、口で言うほど楽ではない。  避けるならば反射神経と運動能力の問題だが、受け止めるとなると技術が必要になる。  これは単純な理屈で、勢いよく振り下ろされてくる敵の剣に己の剣をひょいとぶつけるだけでは、エネルギーの差で吹き飛ばされるに決まっているからだ。  実際に幕末の戦役で、敵兵の打ち下ろしを受け止めようとしたが押し切られ、己の刀の鍔を額にめり込ませて死んだ剣客がいたという。  これは極端な例だが、剣撃を阻止する行為の危険を適切に伝える話ではある。  攻撃の威力に〈拮抗〉《きっこう》しようと思えば、腕をがちりと固めて受け太刀を支え、〈堅牢〉《けんろう》な防御の形をつくらねばならない。  しかしその場合、刀にかかる負担は大きなものになる。  佐竹自身、ここに来る途中の交戦で無理な受け技から刀を曲げてしまったばかりだ。  他の技術として、敵の攻撃を迎えるように剣を運び激突の直後に引き込むことで勢いを殺す、攻撃を受け止めるのではなく受け流すことで防ぐ、攻撃の剣に対し別方向から力を加えることで〈軌道〉《きどう》を変える、などがあるが、いずれも失敗の危険と刀を損なう可能性は高い。  今、朱い男が見せた技はその最後のものである。  自分ではなく他人を守るという困難の上乗せにも関わらず成功し、あまつさえ刀を損なってもいない。  そもそも、彼はいつ刀を持ったのか。  傍らの〈刀架〉《とうか》から〈大刀〉《だいとう》が消えていることを思えば、一瞬のうちにそれを引っつかんで抜刀し受け技を繰り出したとしか考えられないが。  どれほどの技量がそれを為さしめるのだろう。  ある程度の想像はつく。  おそらく自分には無理ではないか、という想像が。  ――――〈此奴〉《こやつ》。  佐竹は改めて、その男を見つめざるを得なかった。  身長は160センチを越える程度。  体重は50キロあるか、どうか。  そのふざけた格好は、剣をとって佐竹と〈対峙〉《たいじ》するにはまるでそぐわなくとも、〈豪奢〉《ごうしゃ》で退廃的な部屋の内装には合っているかもしれない。  少年的、下手をすると少女的ですらある〈風貌〉《ふうぼう》もまた。  しかし佐竹が武人としての眼でよくよく見ると、どうも表面的な印象ほど幼くもないようだった。  体つきに、成長を〈既〉《すで》に終えた感がある。  見た目通り十代半ば、ということはない。案外、二十歳を越えているのかもしれなかった。 (この男、瀧川の〈傭兵〉《ようへい》か)  衛士団を正規兵とするなら、それと別枠の臨時雇用兵部隊のようなものがあるかといえば、瀧川商事にそんな部門はない。  が、金と権力、そしてそれに〈付随〉《ふずい》する命の危険をふんだんに持つ幹部社員が、衛士とは別に私的雇用した兵を身辺に置くことがあるとは聞き知っていた。  この少年――青年?がそうなのだろうか。  それにしては、その背後の桂葉恭子までもが呆然としている風なのは、おかしなことだと言わねばならないが。  彼女は佐竹と同様、意外な成り行きに動揺しているように見える。  ――いや。ここまで。  佐竹は刀に一度空を斬らせ、〈血振〉《ちぶるい》した。  こびりついていた〈血糊〉《ちのり》が数滴、宙を飛んで〈黒檀〉《こくだん》の机を汚す。 (これ以上の愚考は無用。確かなことはひとつ……事態は何も変わっていない)  刀を上段にとる。  ――そう、変わっていない。  立ちふさがる〈幾多〉《いくた》の障害を乗り越えて、桂葉恭子の〈首級〉《しるし》を上げる。  それが彼の誓約。  この朱い男は標的を目前にして現れた最後の障害、ただそれだけのこと。  なら、斬り破るほかに必要な行為などない。  気構えをも取り直した彼に応じるが〈如〉《ごと》く、朱い敵も刀を持ち上げた。  右肩の上へ、〈担〉《かつ》ぐように構える。  剛剣の呼び声も高い〈薩摩示現流〉《さつまじげんりゅう》、〈蜻蜒〉《トンボ》の構によく似ていた。  それそのものでなくとも同質の形だろう。  あの構からの一閃は、敵の防御を無効化する速度と威力を持つという。  ――やってみるがいい。  〈得体〉《えたい》の知れない敵手を前にして。なお、彼は覆面の下で不敵に微笑した。  勝機に四種あり。  〈先の先〉《センノセン》、〈先〉《セン》、〈先の後〉《センノゴ》、〈後の先〉《ゴノセン》と云う。  先の先とは敵が油断していたり、裏をかかれたりなどして〈隙〉《すき》を見せている機。  先とは敵が攻撃を仕掛けようとして、意識が攻撃に集中し、体も攻撃準備のために固まり、防御がおろそかになる機。  先の後とは敵が攻撃を繰り出している最中、防御のしようがない機。  後の先とは敵の攻撃を己が防いだ直後、敵が体勢を立て直すまでの、無防備になる機。  戦いとはこの四機の奪い合いであると、佐竹の師は教えた。  己の狙いを隠し、敵の狙いをつかみ、裏をついて勝を取る。  その教えに則り、鍛錬と実戦で鍛えた眼力を駆使して見るに――などと肩肘張らずとも、敵の狙うところは明白だった。 (先の先か、先の機を欲しがっている)  受けに回るつもりはまるでないと見えた。 (才能はあるようだが。若いだけに、押しの剣しか使えぬか)  ならば悩む必要もない。  ――後の先をもらう。  佐竹はずいと一歩大きく進み、〈間合〉《まあい》を詰めた。  攻撃が届く距離、俗に〈一足一刀〉《いっそくいっとう》と呼ばれる距離まで、あとわずかに余す。  その間を埋めるように、す、と彼は身を乗り出した。  上体を前へ〈屈〉《かが》め。〈追随〉《ついずい》して、上段構えの剣が前へ出る。  斬り斬られる間合に――入る。  果たして、敵は釣られた。  男の右足が床を蹴り、しかし厚手の〈絨毯〉《じゅうたん》だけに音も立てず、その体は砲弾めいた勢いで前方へ射出される。 (〈殺〉《と》った)  いざ斬る段となれば、敵の若さは〈憐憫〉《れんびん》を〈催〉《もよお》した。  眼をかすかに細めながら、佐竹は屈めた上体を後ろへ引き、同時に前へ出した左足を伸ばすことで、体を後方へ送る。  これだけの動作で、彼の体は敵の攻撃範囲から抜け出すはずだった。  抜き技、という。  故意に隙を見せて敵の攻撃を誘い、躱して空振りさせ、そこへかぶせるようにして一撃を見舞う。  冷静さを欠きがちな真剣勝負においては実に有効な技だった。  これが練習試合であれば簡単に見抜かれるような誘いかけでも、実戦闘の興奮で頭に血を昇らせた者はあっさりと引っ掛かってしまう。  いま佐竹の前で、朱い着物をはためかせつつ、虚空を――虚空だけを切り裂こうとしている敵手のように。  彼の剣は届かない。届かないのだ。  若く愚かなその剣が、視界を通過した瞬間、それが最後の〈刻〉《とき》となる。  その前に、顔をもう一度見ておこうと、佐竹は意識の〈欠片〉《かけら》をそちらへ向けた。  〈相容〉《あいい》れぬ敵とはいえ、彼の一撃を防ぐほどの技を見せた者ならば、記憶に留めておく価値はあろうと思ってのことだったが。  表情をとらえた佐竹は、思わず眉をしかめた――実際にはそんな時間はなかったにせよ、〈心持〉《こころもち》に。 (わかっていないのか)  終わりを前にして、彼はそう思った。  わかっていない。  この敵は、現実がわかっていない。  死の運命が見えていないのだ。  でなければ、そんな表情はできない。  ――――朱い男は侮蔑していた。  目前の敵を侮蔑していた。  まるで勝ったのは自分だとでも言うように――――  何やら不満そうな顔で横倒しになった黒ずくめの〈死骸〉《しがい》に、彼は〈一顧〉《いっこ》だに与えなかった。  軽く刀を〈血振〉《ちぶるい》だけして、窓の方に向かう。 「……ね、ねえ。あなた」  扉から出て、廊下を通り、エレベーターを使って下に降りていては、手遅れになりかねない。  外から盛んに聞こえる瀧川兵の怒号は、むしろ形勢の不利を感じさせる。 「どういうことなの? あなた、一体」  となれば、こうするのが最善手だった。  机に登り、薄ガラスの窓を――鍵を外すのが面倒だったので――蹴り破り、 「ちょ、ちょっとぉ!」  そのまま、〈夜気〉《やき》に身を躍らす。  四階の窓から三階のテラスへ。  テラスから庭木の太枝へ。  太枝から二階の張り出しへ、そこから地面へ。  あらかじめ調べておいたショートカットルートを通り、降り立ったそこはトラックとカートが居並ぶ搬入現場。  しかし今は、ただの血生臭い戦場の一角でしかない。  飛び降りる最中に戦況〈把握〉《はあく》は済ませている。  彼は着地のために畳んだ足をバネのように伸ばすや、行動を開始した。  まずは正面。  突然背後へ現れた敵手に驚いて振り返る男を、〈何為〉《なにな》す〈暇〉《ひま》も与えず喉笛を突き裂いて倒し。     ――――〈刈流〉《かるのりゅう》 〈旋〉《ツムジ》  のけぞり仰向けに倒れゆく男の〈斜〉《なな》め後方から、〈手槍〉《てやり》を構えて一歩踏み込んできた〈新手〉《あらて》は、  前後に開いた足、その後足で踏み出したあと残した軸足をも前方へ向けて伸ばし、仕上げに〈爪先〉《つまさき》で地を蹴り出す、つまりは最大限に体を前へ送る飛躍の如き踏み込みで一息に間合を奪い、  ままに、斬り。     ――――〈飢虎〉《キコ》  短く息ひとつを〈鼻腔〉《びこう》から吸う間を置いて、左右から襲い来た双敵は、  まず〈袈裟懸〉《けさが》けに来た左手から飛び〈退〉《の》きがてら右手へ向かい、切ると見せてその敵の攻め気を〈挫〉《くじ》きたたらを踏ませ、  隙に足腰の転回に乗せた切り下ろしで、得物を取り直しかけていた左敵の〈頭蓋〉《ずがい》を唐竹に割り。  即座に反転しての横薙ぎで右の首をも打ち放ち。     ――――〈踊〉《オドリ》・三段目  戦場の〈喧騒〉《けんそう》ゆえか、〈未〉《いま》だ己の周囲で起きている事に気付きもせず、彼を視野にすら入れていない〈頭立〉《かしらだ》った〈風体〉《ふうてい》の男の背へ、〈芋〉《いも》でも刺すように刀を突き入れる。     ――――〈田楽〉《デンガク》  そうして。  〈心拍〉《しんぱく》みっつ分の間に、〈武田赤音〉《たけだあかね》は五人の敵を殺害した。 「……」   「なんなのよ」   「なんなのよ、あれは……っ!」  奇襲の勢いさえ打ち崩せば、形勢の逆転は簡単なことだった。  元々、〈兇徒〉《テロリスト》に遅れを取るような瀧川衛士ではない。  襲撃側がこれまで状況を有利に運べたのは、〈偏〉《ひとえ》に戦闘開始時点で確立していた戦術的優位による。  それを失えば、たちまち劣勢になるのは道理だった。  テロ側には仕切り直しを図れるほどの兵力もないとなれば、尚更だ。  あるべき帰結として、彼らは撤退してゆく。  夜闇の中へ消えてゆく。  衛士団の一部に、追撃しようとする動きがあった。  統率のとれた追撃戦が行えるほどには、まだ指揮系統が回復していない――というか、指揮系統は全く回復していない。  前線指揮官は今夜の戦闘の序盤でどうやら密殺されたようであり、その上の総司令官はつい〈先程〉《さきほど》まで色事にふけっていたのであれば、〈至極〉《しごく》当然のことだが。  敵を押し返せたのは、攻勢の中心点と見えた〈箇所〉《かしょ》を赤音が潰して回ったからに過ぎない。その撤退は整然たるものだった。  そこへ雑然たる追撃を仕掛けるのは殺してくれというようなものだったが、彼は制止の労をとらなかった。馬鹿の面倒まで引き受けた覚えはない。 (きっかり10人斬ったか)  常に最小限の斬撃で敵を〈屠〉《ほふ》ったつもりでも、これだけの数を斬ると柄まで血に染まるのは避けられないものらしい。  刀を〈眺〉《なが》める彼の手の中で、〈柄紐〉《つかひも》がぐじゅぐじゅと音を立てていた。刀身をよく見れば、刃こぼれの〈痕〉《あと》も多くある。  いい刀だな、と赤音は思った。  この程度の破損だけで、人間を十度斬るという酷使に耐えたのだ。金持ちのインテリアにしておくには、少々惜しい品かもしれない。  現代刀、おそらくは東京鍛冶の作品だろう。  この手の乱れ〈刃紋〉《はもん》は今は府内の一部だけの流行だ。他所ではあまり好まれない。  東京の刀工は需要の高さに反して――なのか、それとも需要が多いからやっつけ仕事ばかりになるものなのか、とまれ作刀の質は低いと見られていたが、すべてがそうとは言えないようだった。  そういえば、神田に住む〈支倉〉《はせくら》〈坊之助〉《ぼうのすけ》という刀鍛冶は名工だと聞いた覚えがある……。  戦場から戦場跡へと更に変容した搬入現場に立ち尽くし、刀に見入っていた赤音を現実に引き戻したのは、ばたばたばた、という品のない足音だった。  見れば、品のない女が駆け寄ってこようとしている。  日頃の運動不足を〈窺〉《うかが》わせる遅さで女がようやく彼の前までたどり着き、何やら言い立てようとするその前に、赤音は持っていた刀を押し付けた。 「……きゃあっ!?」 「〈研師〉《とぎし》に出しときな。そいつを打った刀工がいつも使ってる奴がいい。知らなきゃ連絡して聞け。適当な奴に任せるよりは、そうした方がいいぞ」  無理矢理に握らせて、歩き出す。  ほど近い闇の向こうから、聞き覚えのある車の停止音がしていた。迎えが来たということだろう。 「ちょっと、ちょっと! 待ちなさい!」 「……」 「事情を説明しなさいったら! 私の言うことが聞けないの!?あなたは一体何者なのか、ちゃんと」   「うるせえわめくなエロメガネ」  時計の秒針が半周した。 「…………な」  30秒の沈黙をはさんで、しかしまだ桂葉恭子は発するべき言葉を見つけられないようだった。  〈陸〉《おか》に上がった金魚そのままの図で口をぱくぱくさせたあと、ようやく声を〈絞〉《しぼ》り出す。  その時には、赤音の注意は既に彼女から〈離〉《はな》れ、近づいてくる足音へと向かっていた。  単に足を止め、そちらをちらりと見やっただけのことだが。 「あ、あなた、誰に向かってそんな口を――」 「君に決まってるじゃないか。なに間抜けなこと言ってるの」  答えたのは、足音の主。  しかし、声に続いて姿を現した人物は、〈慌〉《あわ》てて振り向く桂葉をきっぱりと無視した。  その後ろにつく長身〈巨躯〉《きょく》も、先行する人物を守るように周囲を警戒するばかりで、彼女には関心を払う様子がない。 「……社長!?」 「お疲れさま、赤音。ごめん、こんな面倒なこと頼んじゃって」  呼びかけも聞き流し。  その人物――瀧川商事社長、瀧川〈弓〉《ゆみ》は、返り血まみれの凄惨なさまにも構わず、赤音を細腕で抱きしめてきた。  赤音に輪をかけて小柄な彼女がそうすると、丁度、その髪の〈清楚〉《せいそ》な香りが彼の鼻をくすぐる格好になる。  赤音の視界の〈端〉《はし》で、桂葉が絶句し。長身、〈作務衣〉《さむえ》姿の老人は〈眉間〉《みけん》の〈皺〉《しわ》をやや深くした。 「すげえ面倒だった」 「うん。ほんとごめん」 「こんなことはこれっきりだ」 「そうする。怪我はない?」 「〈生憎〉《あいにく》と、そこまで〈愉快〉《ゆかい》な相手じゃなかったな」 「良かった……」 「服、汚れるぞ」 「いいよ」 「血に酔う趣味でもあんのか?」 「そんなのないけど。こうしたいから、こうするの。駄目?」 「好きにしろよ」 「うん」  〈嬉〉《うれ》しげに、〈頬〉《ほお》をすり寄せてくる弓。 「……社長」  その背を打った声は、これ以上の無視は許さない――という重さを持つものだった。  噴火前の地震めいた〈揺〉《ゆ》れも、響きの中にある。  にも関わらずすぐには振り返らないのなら、それは外からの威圧に対抗するだけのものを内に抱えている証なのだろう。  弓は桂葉が〈歯軋〉《はぎし》りし、拳まで震わせる頃になって、ようやく首を90度だけ回した。 「なに、局長」  赤音に応ずるそれとは全く響きの異なる声。  そして同様に異なる表情。  どちらにも、明確なニュアンスがある。  ――この〈期〉《ご》に及んでまだ話が読めない、ってことはないよね?  月が雲の陰に隠れたようだった。  それが彼女を恐れてのことならば、弓の〈言外〉《ごんがい》の意は全て伝わっているに違いない。  最大の善意をもって受け止めても、『話』は桂葉を激怒させるはずだ。  そして彼女の上司は、善意の解釈を〈促〉《うなが》すような配慮をしなかった。 「それにしても、これは幸運というべきだね。  僕の最も信頼するパートナーが、たまたま君のところにいて、君の苦境を救ってくれたなんて」  ――ふざけるなッ!  己の立場という〈猿轡〉《さるぐつわ》がなかったら、桂葉はそう叫んでいたのだろう。  瀧川社内にあって反社長派に〈籍〉《せき》を置く彼女にしても、ここまで〈愚弄〉《ぐろう》されるのは初めてのことに違いない。  行きつけのバーで出会って気に入り、引っ掛けた。  桂葉の視点から赤音を〈囲〉《かこ》った経緯を説明するなら、その一文で事足りよう。  しかしそれが、  ――あんたの仕組んだことだったってわけ!? 社の利益を守るためじゃない。私に貸しをつくるために!  噛みつくような視線がそう語っていた。  涼しい顔で、弓は受け流している。  矛止の会の襲撃計画を私的情報網でつかみ、それをなにかと反抗的な管理局長にそのまま伝えはせず、あえて襲撃させて窮地に陥るよう仕向け、そこを救ってやって貸しを作る。  救うにも社内の正規兵を動かせば事前に気付かれるから、私的雇用の人材を使う。  赤音に言わせれば策を弄し過ぎだが、大会社の社長などという役をこなすなら、時として必要になることなのかもしれない。  怒りだけでなく敗北感をも、桂葉は隠せなくなっていた。  視線が弓から離れる。  それが下へ向き、うつむいてしまう前に、彼女は〈踵〉《きびす》を返した。 「どこ行くの?」 「……追撃の指揮をとります」 「そう。ご苦労さま」  素っ気ないねぎらいを最後まで聞かず、桂葉が歩き出す。  それが反抗だというなら、彼女の性格と引き比べてささやかに過ぎた。  不似合いな血刀を振り回すようにして手近な衛士を集めながら、失意の背中が闇に溶けていく。 「……憂さ晴らしのつもりかな?」 「そういう女でもねえだろう」  胸元の呟きに、赤音はかぶりを振った。  弁護する義理はなかったが、あの女は筋違いの怒りを平気でぶつけられる程、恥知らずの素質に恵まれてはいないと思える。  そうかな、と小首をかしげる弓には別の見方があるのかもしれない。あえて聞きたいとは思わず、赤音は視線を転じた。 「八坂」 「……」 「おい。爺さん」 「……」 「寝てるのか?」 「……」 「嘘だな。起きている。何故なら鼻ちょうちんが出ていない」 「……」 「八坂っ」 「は」  弓のとがめる声に、その護衛たる八坂の反応は鋭敏を極めた。60を越す老齢であり、重量100キロ近い巨体でありながら。  加えて言えば、赤音の呼びかけには微動だにせずにいながら。  見事に無駄のない回れ右をして向き直った八坂に、弓は赤音の言うことを聞くよう〈眼差〉《まなざ》しだけで命令した。  それを待って、片手を突き出す。 「おれの刀」 「……」  本来ハードウェアに対応していないソフトウェアをエミュレータで無理矢理動かしているかのように、とでも言ったものか。八坂はのろくさと、抱えていた棒状物の一つを手渡してきた。  〈漆〉《うるし》塗りの〈鞘〉《さや》に納まった刀。  〈銘〉《めい》、〈越後住光秋〉《えちごじゅうみつあき》。刃長、二尺三寸三分。現代刀。  受け取ったそれをベルトに差し、赤音は気まぐれにぼやいた。 「もったいつけなくたっていいじゃねえか。コレがないとおれも様にならねえが、刀持ったあんたってのも同じだろ」  八坂は鼻を鳴らしさえしない。  答えなど〈端〉《はな》から期待していなかったので、構わず続ける。 「あんたは棒切れ一本だけって姿が合ってる。爺さんだしな」  余計な荷物から解放されるやその棒を右〈逆手〉《さかて》にとり、先端でアスファルトの地面を打ったのは返事のつもりであったのか。  違うだろう。この老兵が赤音に対してそんな愛想の良さを見せたことは一度もない。  八坂が持つ棒は実際、老人が〈携〉《たずさ》える杖程度の代物だった。  瀧川衛士の標準装備より、明らかに短い。1メートルあるかどうかというところだ。  しかし、それが〈老衰〉《ろうすい》した肉体の要求に応えた結果ではないことは、無言を通す口に代わって隆起した筋肉が語っている。  彼にとっては単に、半生をかけて練磨した技能を生かす最適の〈得物〉《えもの》を追求した結果、俗に〈杖〉《ジョウ》・半棒と呼ばれるそれに至ったというだけのことに過ぎない。 「八坂。何人かやって、桂葉の様子を見に行かせて」 「は」  弓に命じられると、八坂は一礼し、きびきびした足取りで来た方角へと戻っていった。  赤音からは見えないが、そちらに他の部下を控えさせているのだろう。 「気になるのか」 「ならないよ。席を外してもらっただけ」  社長の顔から一転して子供っぽい笑顔になり、弓は赤音の肩へ頭を乗せるようにしてきた。  その唇が軽いキスのように頬を撫でる。  好きに甘えつかせながら、赤音は黙って、辺りを眺めた。  医療班から手当てを受ける衛士の負傷者、〈拘束〉《こうそく》される襲撃側の負傷者などが目につく。  それらが目立つのは数が少ないからであり、数が少ないのは無傷で済んだ者が多いからではなく、死者が多いからだった。  日本刀にせよ鋼鉄棍棒にせよ、人を殺さずにはおかない道具だ。夜戦、乱戦、奇襲戦、加えて双方が恐れ知らずと、これだけ条件が重なっていれば〈尚〉《なお》の事。  弓もまた、赤音の視線を追って周囲を見渡した。  少しだけ辛さを見せて、その瞳が〈翳〉《かげ》る。 「たくさん死んだね」 「死んだな。モノは無事だったのか?」 「うん。赤音のおかげ」 「何だったんだ? 今日の搬入物は」 「色々あるけど。全部、ニューウォーリックからの直輸品だよ」 「なるほど、連中が襲ってくるわけだ」 「赤音、ほんとうに怪我はないの?」 「ねえよ」 「でも、血がこんなに……」 「おれの血がこれだけ出てたら、とっくに倒れてなきゃ変だろ。返り血だよ、全部」 「何人斬ったの?」 「10人」 「赤音は強いんだね」 「そうか……?」 「そうだよ」  弓はどこか〈恍惚〉《こうこつ》とした〈風〉《ふう》で、〈夢現〉《ゆめうつつ》にそう呟くと、軽く背伸びして唇を重ねてきた。  温かな感触を受け入れながら。相反して〈凍〉《こご》えてゆく心に呟く。 (そうだ……おれは強い。強いはずだ……)  響きは虚しかった。  赤音の強さを、誰よりも赤音こそが認めていない。  己が強いと、自覚ができない。  何故なのか。  戦場の〈只中〉《ただなか》を一騎駆けし、〈一桁〉《ひとけた》ならぬ数の敵を〈斃〉《たお》しながら手傷も負わない己が、どうして強いと思えないのか。  それはきっと。  赤音は思う。  強さの自覚とは、〈有象無象〉《うぞうむぞう》を虐殺して得られるものではないのだ。  それは互角、対等の敵手と〈鎬〉《しのぎ》を〈削〉《けず》り、〈遂〉《つい》に打ち倒してこそ、得られるものなのではないか。  ……対等の敵手。  東京という街は〈蠱毒〉《こどく》の〈壺〉《つぼ》に似る。  力ある者が数多く住まう。  今日の敵となった矛止の会の志士らも、すべてがひとかどの剣客だった。決して、赤音との間に大きな力量差と呼べるものはなかった。  しかし赤音と同等の力を持っているということと、赤音と対等の敵手であるということとは、少しならず別ではないのか。  赤音が欲しいのは、〈己のための敵〉《・・・・・・》だ。  それをこそ、〈渇望〉《かつぼう》する。  それはいるのか。 (いない。こんなところにはいない)  わかり過ぎるほど、わかってしまっている。  自分は与えられないものを渇望しているのだと、わかってしまっている。  だから、虚しい。  己を顧みれば、〈惨〉《みじ》めとさえ思う。  狂おしい飢えを抱えて戦いに身を投じ、一滴の水を〈貪〉《むさぼ》るように弱敵を屠り、どうにか一日一日をやり過ごして行く彼の姿は、さながら地獄の〈餓鬼〉《がき》。  赤音はまだ、待たねばならないのだ。  敵が現れるのを待たねばならないのだ。  だが、いつ。  いつまで待つのか。 「赤音……」 (いつ――)  恋情に〈焦〉《こ》がれた瞳を見返して。赤音が思うのは、まだ現れぬ敵のことだけだった。 「弓様」 「……」 「追撃の様子を見に行かせた部下からの報告なのですが」 「なに?」  足音もなく背後に立ち、何事かを告げようとする老武人に、弓は顔の半面だけを向けた。  三割の〈羞恥〉《しゅうち》と七割の不満、総合するなら「気を利かせてよ」と言いたげなものがそこにある。  しかし八坂は構わずに続けた。  ――たとえ弓が不満どころか逆上していようと、報告しないわけにはいかなかったろう。 「桂葉局長が死んでいるそうです」 「……!?」  矛止の会が撤退ルートに使ったのは、物資搬入用のトンネルだった。  侵入にもこれを使用し、警備を潰して突破してきたらしい。  当然だが、城壁を貫通するトンネルを抜けた先は閉鎖都市の外である。  外界へ出たあと、正規の通用門を通って東京府内へ戻ろうというのなら、税関並みの煩雑な手続きを経ねばならない。  それはテロ集団としては不都合に違いないから、彼らが非公認の通用口を確保していることはほぼ確実視できた。  そのことはさておき、桂葉恭子はトンネルの中ほどで死んでいた。三人の衛士を従えて、まるでそういう〈遊戯〉《ゆうぎ》なのだとでも言いたげにそろって倒れ伏している。  アスファルトの路面は、寝床とするにはいかにも硬く、心地が悪そうであった。安らかならぬ死に顔が、それに不満を訴えてのものということもあるまいが。  八坂は、死人たちに安息を与えることを急務とはしない様子だった。 「……奇怪」 「何が?」  部下の衛士に周囲の警戒を任せ、自分は〈骸〉《むくろ》を調べていた老人の低い呟きに、弓が反応する。  寒気でも感じるのだろう、赤音の着物の〈裾〉《すそ》をつかみながら。  赤音は八坂の言葉は聞き流し、弓のことは構わなかった。  どちらも今の彼には無意味なものだった。  ただ死体を、注視する。  桂葉は左肩口から右脇腹へ抜ける袈裟懸けを、その傍らの護衛は頭蓋を〈縦〉《たて》に切り砕く唐竹割りを受けて〈斃〉《たお》されている。  それは、いい。  八坂が〈訝〉《いぶか》り、赤音が視線を離せないのは他二人だ。  桂葉から3メートルほど前方に倒れている衛士、そしてそこからさらに5メートルほど離れて骸になっているもう一人は、そっくり同じ形の致命傷を受けていた。  右〈肩甲骨〉《けんこうこつ》付近を斜めに深々と〈抉〉《えぐ》る裂傷。  恐る恐るといった様子で弓がそれを眺め、やがて〈心許〉《こころもと》なさげに言う。 「……背中から、ざっくり斬られているように見えるけど」 「左様でございます。  しかし弓様、桂葉局長らは撤退する敵を追撃しておりました。当然、戦闘が起きたのなら、局長らが敵の最後尾をとらえて……という形であったはず」 「うん。……あっ」 「はい。にも関わらず、背中から攻撃を受けているというのはなんとも奇怪」 「………敵の〈殿軍〉《しんがり》が強くて、逃げようとしたところを斬られたとか?」 「府外方面に頭を向けて、うつ伏せに倒れておりますので、それはないかと……」 「じゃあ……潜んでいた伏兵にやられた?」 「かもしれません。  しかし伏兵は、戦力に余裕があってこその戦術。テロリストどもにはそぐわぬものです」 「…………」 「…………」  なら、どういうことなのだ。  弓、八坂、聞くとはなしに聞いてしまった様子の衛士たち。無言の問いが、彼らをつなぐ空気中に漂った。  赤音を別として。  ――正面から戦って死んだにも関わらず、その致命傷は後背。  それは、何を意味するか。 「…………身長3メートルの巨人が、至近距離の相手に大上段から大振りの一刀を見舞えば……手元に引き込むような形となり、このような傷が出来るやもしれませぬが……」  ぼそりとそう口にしたのは、たっぷり一分が経過した後の八坂である。  冗談など生まれてこのかた口にしたこともなさそうな〈厳〉《いか》つい老武人が、あくまで大真面目にそのようなことを言ったのだ。  その場全員の失笑を買って〈然〉《しか》るべきであった。  誰も笑わない。  誰も笑えない。  理解を〈拒〉《こば》む不気味な死に、誰もが〈怖気〉《おぞけ》を震っていた。  ――――赤音を除いて。 「く」  ただひとり。 「く、くく」  ただひとりで、笑う。 「くく、く。くくくくくくくくくくくく」  だがそれは、八坂を笑ったものではなく。 「……赤音?」 「弓よう。どうやらおれは日頃の行いがいいらしい」 「?」 「いつまで待つのかって、思ってた矢先に……これだもんな。  くっ、ははっ、ははは! おかしくてしょうがねえっての!  そりゃそうだろう、だってよ――」  吹き出し、哄笑して、腹を抱えて。  ……それから微笑して。  赤音は虚空に問うた。 「お前なんだろ」      「……」 「お前だろ?」      「ああ」  ぽつりと、闇の先からの返答。  弓がびくりと震え、八坂と衛士たちは一瞬のうちに身構えた。  しかしそんなことには寸分も気を払わず、  彼らは、互いの存在を確認する。 「〈伊烏義阿〉《イガラスヨシア》!!!」 「〈武田赤音〉《タケダアカネ》……!」  空気が帯電したようだった。  ゆるやかな気流であったものが消失し、張り詰めたなにかが取って代わる。  それは苦痛に満ちていた。  殺意があり闘志があり、憎悪があり〈妄執〉《もうしゅう》があり、悲嘆があり狂気があり、温かな〈情誼〉《じょうぎ》の腐り〈滓〉《かす》があり。  それは歓喜に満ちていた。 「ようやく来てくれた」 「ようやく見つけた」 「剣は出来たようだな」 「出来た」 「なら、どうする?」 「復讐する」 「おれを斬るか」 「貴様に裏切られ、殺された彼女の無念を晴らす」 「おれを斬るか」 「斬る」 「ふふ」 「……」 「……ふ」  あははははは。  赤音は笑った。  楽しくてたまらない、と。  子供のように笑った。 「伊烏!」 「……」 「伊烏、伊烏!」 「……っ」 「伊烏、伊烏、ああ伊烏!  最高だ、お前は最高だ! たかが女一人のことで、夜も眠れないほど怒り狂って、仕方ねえから寝ないで剣の修行して、それをずっとずっと繰り返してとうとう有り得ない技を手に入れたのか!  そんなことができるのはお前しかいねえ。最高だよ。ああ、お前に出会えて良かった、お前に憎まれて良かった、〈三十鈴〉《みすず》を殺して良かった!!」 「黙れ、畜生」  春風めいた赤音の口調に比して、伊烏の声音は厳寒を極めた。  しかし、その凍土の下には溶岩がある。 「俺の思いはまさしく逆だ。  なぜ、俺は……彼女は、貴様などに出会ったのだ!!」 「そりゃ、宿縁っていうもんじゃねえのか」  くすくす。  鈴を転がすような笑いだと、赤音は自分で聞いて思えた。  こんな笑いかたをしたのは、いつ以来のことか。 「御仏が導いたんだよ。  おれと、お前と、あの糞っ垂れをさ。  あいつの死に顔を覚えてるか? 犬の〈涎〉《よだれ》みたく血を吐き散らしてたがさ、あれもあいつの有難い宿命ってやつだったんだよ」 「……黙れと言っている」 「しかしお前も不思議だよな。あんな女のどこがいいんだ?そりゃあ仮にも道場主だからよ、おれも昔は〈媚〉《こび》売ってたが」 「やめろ」 「死んだ後まで忠義面しなくたっていいじゃねえか。死んだらあいつなんて魚の餌程度の価値しかねえだろ?」 「もう喋るな」 「ああ、そりゃ生きてたって同じことか。まあどっちにしろ、虫ケラ並みの女ってことだ」 「……」 「なあそうだろ。そうは思わねえか伊烏!」 「……それ以上、人語を、話すな」  〈巌〉《いわお》であった声が、遂にわななく。 「黙れ、喋るな、口を利くな声を出すな!  貴様の言葉を一つ聞くたび、俺は貴様の〈臓腑〉《ぞうふ》を一つ抜き取りたくてたまらなくなるのだぞ……!!」 「いいぜ。やれよ? 臓腑でも何でも、目でも鼻でも耳でも舌でも、お前にだったらくれてやる」  我知らず、赤音の手が帯刀の〈柄頭〉《かしら》を握る。  期待に打ち震える指先で。 「お前が極めた『〈昼の月〉《ヒルノツキ》』、見せてもらおうか……!」  それは魔剣の名。  赤音を殺すために伊烏が得たちから。  赤音の全身と全霊を以って、受け止めねばならないもの。  何故ならそれは、彼に捧げられるべき最高の〈供犠〉《くぎ》。 「始めよう、伊烏……」  ささやいて、誘う。  それに応える気配がないことがもどかしく、赤音は一歩踏み出した。  ――靴の下に、砂が七粒。  そんなことを把握する。  〈過剰〉《かじょう》な興奮に全ての神経感覚を活性化させられ、今や赤音は糸屑の落ちる音さえ逃せない。  始まるのだ。  冷たい〈惰眠〉《だみん》の冬は終わり、花咲く春がやって来る。  いずれはかなく散る花なれど、  咲き誇るうちは、心ゆくまで〈愛〉《め》でるとしよう。  さあ、  〈刃鳴〉《はな》の〈季節〉《とき》だ。  西暦1945年。  皇紀2605年。  日本帝国は有史以来最大の危機の只中にあった。 4月1日 合衆国軍、沖縄上陸作戦開始  4月7日 帝国軍戦艦「大和」沈没  5月8日 第三独邦、無条件降伏 6月23日 沖縄にて帝国軍壊滅  7月16日 合衆国、新型爆弾実験に失敗  7月26日 連合軍、ポツダム対日降伏勧告宣言 帝国、黙殺 8月9日 社会主義連邦、帝国に対し宣戦布告 連邦軍、満州国侵入  8月10日 帝国、国体護持を条件にポツダム宣言受諾を通達 連合軍、明確な返答せず  8月14日 御前会議にて徹底抗戦決定  既に情勢は明らかであった。  帝国軍は海に戦艦なく、空に戦闘機なく。  弾薬食料も尽きかけ、戦える人間にしてからが数少なく。  対して連合軍の圧倒的物量は、衰える気配さえなかった。  勝つために戦争を闘うならば、勝ち目を失った時点で終えるべきである。  帝国はそうしなかった。  敗北に向けて戦い抜くことを選択した。  何がそうさせたのか。  それは帝国の指導者たちが戦いを選択したからであり、民がその指示に従ったからである。  では上下の人々をそうさせたのは、何なのか。  降伏勧告の受諾にあたり条件とした、国体護持というものか。  そこまでの価値があるものなのか。  定かではない。  個々人を見れば、戦う理由は理想であったり、夢想であったり、意地であったり、狂気であったり、〈自棄〉《じき》であったり、ただの無知であったりした。   それらを強いて〈総括〉《そうかつ》するなら、  日本人の心が、無条件降伏を認めなかったのだと言えよう。  艦船尽き航空機尽き銃弾までもが尽きようと、  刀剣槍弓を手に抗戦する道へ、日本は踏み出したのである。  その結果は論をまたず、惨劇であった。 9月2日 合衆国軍、九州上陸  9月14日 連邦軍、千島占領  10月5日 連邦軍、北海道上陸 10月22日 奉天会戦終結 満州国軍壊滅  10月31日 熊本包囲戦開始 12月18日 連邦軍、函館占領  12月20日 帝国軍、熊本撤退 熊本包囲戦終結  その年が終わる前に、日本列島の北と南を代表する島々は帝国の支配を離れた。  北海道では11万、九州では23万人が死んだと記録にある。  本州決戦では更に死ぬのだろうと、  誰もがそう思っていた。  一億総玉砕の幻想が規模を縮小しながらも現実化しようとしていた1945年12月。  しかし、状況は変わりつつあった。 12月21日 合衆国と連邦、秘密会談  12月24日 合衆国、連邦、英王国、中華国によるポツダム四者会談  北海道を奪った連邦も、九州を占拠した合衆国も、この際日本全土を領すべしという意欲はあった。  あったが、彼らはその意欲が自国一国だけのものではないことを知っており、このまま対日戦争を続ければ本州での二国激突を避けられないことも理解していた。  巨大国家同士の泥沼の戦争。  その未来に思いを〈馳〉《は》せた時、両国首脳の考えは一致した。  ――本州島に日本を〈緩衝〉《かんしょう》地帯として残し、接触を回避する。 12月26日 ポツダム修正宣言  12月27日 帝国、国体護持を条件に受諾と通告 合衆国、「戦後日本の政体決定に対し、一切の介入をしない」〈旨〉《むね》を即時返答  12月28日 連邦、同様の返答 12月29日 帝国、降伏  12月30日 大帝、全国民に戦争終結を詔す  玉音放送の翌朝、陸軍大臣はこう言い遺して自刃した。 「大和士魂の勝利」  それは真実としてもごく一面のものに過ぎなかったろうが、彼の遺言は長く人々の記憶に留まることになる。  戦後、日本は数年の雌伏を経て、朝鮮戦争を契機に経済成長を開始し、国力を回復する。  その間、日本が戦争をすることはなかった。  だが、  日本における戦争は、続いていたのである。  〈東西冷戦〉《コールド・ウォー》。その一局面が日本にあった。  合衆国にせよ、連邦にせよ、日本をアジア経略の拠点としたかった。それが無理としても、対立陣営には渡したくなかった。  軍事力行使は最後の手段である。リスクはあまりに大きい。  ならば、精神面からの侵略はどうか。  思想的に日本を征服し、自陣営に取り込む。  両国の意図したところはつまり、戦火を交えぬ戦争であった。  連邦は戦時中に得た捕虜を共産主義に洗脳した上で日本に帰し、革命運動をさせるという手法を用いた。  一方合衆国は、アジア方面の戦争に際して物資調達を日本に求めることで特需をもたらし、また先進技術や享楽的文化を積極的に輸出するなど、実益によって日本人を掌握しようとした。  結局。  この戦争は、中国統一戦争の長期化や東欧情勢の緊張により連邦が日本への関心を弱めたこともあって合衆国が勝利を収め、日本は明確に西側陣営の一員となってゆく。 1969年 合衆国、帝国に安全保障条約を打診  本州内に合衆国軍基地を置こう――ただし無料で。  有事の際には共に戦おう――ただし合衆国の主導で。  要約すればかくなる安保条約は、東アジアへの影響力を強化したい合衆国だけでなく、いまだ戦前に比すれば劣弱な軍備しか持たない日本にとっても、益多いものとなるに違いなかった。  合理的に考えて、断る理由はない。    それが断られた事情に触れるならば、どうあってもその名は避け得ないだろう。  〈石馬戒厳〉《いしまかいげん》。  軍人にして文筆家。  異色の経歴ではあるが、それだけの人間で終わったなら、その名の歴史的重要性は決して高くなかったはずである。 1970年11月25日 石馬退役少将、〈市ヶ谷〉《いちがや》駐屯地にて決起  ――もはや真の日本は帝国軍にしかない。  この〈屯所〉《とんしょ》の〈柵外〉《さくがい》は侵略者のものである。  北海道、九州のように、国土が奪われたからではない。人の心が奪われたからである!  国民精神を奪われたからである!  そして今、最後の日本までもが潰え去ろうとしている。  このまま座視すれば安保条約が締結されることは、既に疑う余地もない。  かの文書が大帝の御前にうやうやしく提出される時、飛び掛かって書を引き裂く閣僚一人、皇居の門外で腹を切る将軍一人、いはしなかったのだ!  帝国軍は合衆国の傭兵に成り下がる。  大東亜戦争を戦いきった日本武士は滅びるのだ!  諸君は士魂の勝利を忘れたのか!?  欧米人が嘲笑して言うように、諸君もまたあの戦いを「愚かしい抵抗」との言葉でしか語れなくなったのか!?  それでも武士かァ!  諸君は武士だろう!  諸君は武士だろう!  ――もはや真の日本は帝国軍にしかない。  この〈屯所〉《とんしょ》の〈柵外〉《さくがい》は侵略者のものである。  北海道、九州のように、国土が奪われたからではない。人の心が奪われたからである!  国民精神を奪われたからである!  そして今、最後の日本までもが潰え去ろうとしている。  このまま座視すれば安保条約が締結されることは、既に疑う余地もない。  かの文書が大帝の御前にうやうやしく提出される時、飛び掛かって書を引き裂く閣僚一人、皇居の門外で腹を切る将軍一人、いはしなかったのだ!  帝国軍は合衆国の傭兵に成り下がる。  大東亜戦争を戦いきった日本武士は滅びるのだ!  諸君は士魂の勝利を忘れたのか!?  欧米人が嘲笑して言うように、諸君もまたあの戦いを「愚かしい抵抗」との言葉でしか語れなくなったのか!?  それでも武士かァ!  諸君は武士だろう!  諸君は武士だろう! 1970年11月28日 石馬叛乱部隊、首都機能掌握  ……石馬戒厳のクーデターは、完全に成功した。  政治及び軍事施設の制圧、交通・情報の確保、大帝への拝謁、そして軍事政権の樹立に至るまでを、合衆国の介入を許さぬうちにやり遂げたのである。 1970年12月4日 第一次石馬内閣成立  石馬戒厳は、共産主義も西洋的合理主義も憎まなかった。  しかしそれらが、祖国の精神を〈汚〉《けが》すことは憎んだ。  石馬の政治が国益追求より、精神面における日本の保護、海外思想の排斥を志向したのは自然のことであり。  そのような政権が長続きしなかったのもまた、自然のことであった。  石馬戒厳の行動は、クーデター翌年初頭の安保条約締結正式拒否、帝国軍再編まで迅速を極め、そこで壁に激突したかのように停止する。  壁というより、坂というべきか。  坂に向かって転がった球は、勢いを殺されながら斜面を登り、頂上に達することが出来なければ、やがて転落してゆく。  石馬は国内外の反発という坂を、二年半かけて転落した。 1973年4月 第三次石馬内閣成立 名古屋遷都  6月 石馬内閣総辞職  首相としての末期に、石馬は遷都を実行する。  日本で最も欧米化が進んだ東京を、合衆国の前線基地に等しいとして見限り、帝都たる資格なしと断じたのである。  新しい首都に、石馬が最初に望んだのは京都であった。  しかし現実的に考えて困難が多過ぎ、また強行しても古都市の情緒を破壊することは疑えず、かえって自分の望む文化保護に背くことになる。と、そう考えて断念したという。  かくして名古屋が首都となり――正しくは愛知県が愛知都となったのだが、そんな語呂の悪い呼称は誰も日常で使わず、単に名古屋とだけ呼ばれた――東京都は東京府となった。  余談。  この頃、「京都府が首都となったら、名称はどうするのか?」という論議が世間を賑わせた。  まさか京都都ではあるまいし、と笑ったのである。  これに対し石馬戒厳は、「そもそも京都府という名前が不思議だ。なぜ平安府にしなかったのだろう」とコメントしたという話があるが、某週刊誌のみが伝えたことなので、真偽はわからない。  総辞職直前、石馬は政権の座にあって最後の強権行使をした。  己を東京府知事に任じさせたのである。  自らが見限った街に知事として赴任する、この辺りに、石馬戒厳という人物の精神性の一部を見出すことができよう。  それから没するまでの数年間、石馬は東京の浄化に全力を注いだ。外壁封鎖などの諸政策を実施し、この都市に日本精神を取り戻させようとしたのだ。  ――ゆくゆくは、東京こそを日本の中の日本に。真の日本に。  後に側近が語った、当時の石馬の口癖である。   その葬儀には20万人が参列した。  石馬戒厳という人物は、つまるところ日本に何をもたらしたのか。  目的は、人々を侍にすることであったといわれる。  いわゆる武士道を、全国民の心に〈敷衍〉《ふえん》しようとした。石馬研究家の見解は、その点について多く一致する。  だがそれは、果たされたとは言い難い。  イシマ主義という日本古来の文化思想を尊ぶイデオロギーが生まれ、それは石馬退陣後の反動期を経て再評価され広まりはしたけれども、決して世間一般の主流となったわけではない。  巨人・石馬戒厳は現在に至るまで無数の人々から〈崇敬〉《すうけい》を受けている。しかし、敬うことと思想を受け入れることとは、別の次元に属する行為のようだ。  人々は着実に西洋的合理主義を常識化し、日本的倫理道徳を忘却していっている。  だが70年代以降、自国文化への関心が急激に高まったことは、疑いなく石馬の功績であろう。  石馬が思想アピールに使用した和歌、能楽、古武術、着物といったギミックは、その思想への好悪とは無関係に市民の興味を引きつけたのだ。  それを石馬が喜んだという記述は伝記にない。  石馬に言わせれば、それらはあくまで外形であり、その根底にある精神こそが肝要だったのだが、皮肉にも市民層における重要度は全く逆になったのである。  街には日本風家屋が増え、人々は好んで和服を着た。  能楽が紳士の〈嗜〉《たしな》みとなり、茶道が淑女の心得となった。  男子の武道、女子の舞踊は、子供の習い事として珍しいものではなくなった。  かかる風潮は30年後の現代日本にまで引き継がれている。  西暦2000年を過ぎた頃、特に武道道場が盛況を示したことについては、テロリズムの流行を抜きにして語れまい。  合衆国の主導による西側諸国の中東情勢への介入は、西側大都市を狙った中東勢力のテロ攻撃を招いた。それに対して西側は制裁攻撃を行い、中東は更なるテロで応じた。  救いのない連鎖が始まったのである。  日本も攻撃対象となり、名古屋、大阪、福岡といった都市に大規模テロを受けた。  これに加えてアジア系の外国人犯罪者が急増したこともあり、世情は一気に不安化した。  このことが国民の危機意識を〈煽〉《あお》り、護身術を教える武道道場の繁栄に〈繋〉《つな》がったのだ。  爆弾テロに対して刀剣の扱い方や人の殴り方は役に立たないが、個人レベルの犯罪者に対する備えとしてならそれなりの意味はある。  また危機に臨んでの気構えを学べる、護身術を身に着けることで安心感を得られる、といった面も重要だったのだろう。  武道隆盛の最たるは、石馬戒厳が日本精神の聖地にせんとした旧帝都である。  しかしこの都市の状況は、テロに悩まされる諸都市とは一線を画した。  ある府庁幹部がこう語っている。 「東京は先進国の大都市として唯一、銃声と爆音を聞くことが出来ない街である」  彼の発言に、異を差し挟む者は一人としていない。  東京府知事・石馬戒厳が行った政策を代表するものは二つあり、その一つが、東京閉鎖である。  石馬は、俗に「城壁」と呼ばれる壁を東京府外縁に設置し、外部との接触を物理的に断った。  これは実用目的より西洋の侵略を〈阻〉《はば》む意志を象徴する意味で建設されたというが、堅牢な防壁であることも事実である。  一般に知られている限りでは、各方面に設けられた正規のゲート以外に出入口はなく、ゲートを通過するには厳正な審査を受けなくてはならない。  石馬の定めた法により外国人は問答無用で弾き出されるから、中東系テロリストも侵入のしようがなかった。  そのため、東京では彼らによるテロ行為を、現在までのところ一度も受けていない。  もう一つは刀狩り法である。  石馬は日本刀をこよなく愛した。我が国独自の製法で鍛えられたこの刀剣を、日本文化の象徴とみたためだ。  銃火器への憎悪は、おそらくこの愛情を裏返したところにあったのだろう。  石馬は銃砲を西洋侵略の象徴ととらえ、府内からの徹底的な〈排斥〉《はいせき》を図った。  銃砲火器類所持絶対禁止法。  帝国軍を除いて一切の人間に銃器所持を禁じたこの法は、石馬の批判者が〈揶揄〉《やゆ》すべくつけた、豊太閤の故事になぞらえての異名がどうしてか広まり、一般には刀狩りと呼び慣らわされた。  既に府内に存在するものは徹底摘発、これから流入しようとするものは徹底阻止。  石馬は情熱をもってこの政策実施に取り組み、死の直前にはほぼ体制を整え終えた。城壁の完成もこれに貢献した。  以後に発生した、東京における銃火器犯罪は指折り数えられる程度である。  このようなことは、世界のどの大都市を見ても他に例がない。  法の厳しさのみならず、〈愛刀嫌銃〉《あいとうけんじゅう》の思想が美学として府内に浸透したことも、この成果に大きく寄与したと言えよう。  つまり、府庁幹部の豪語に嘘はない。  嘘はない。  ただ、〈些細〉《ささい》な事柄を付け加えるなら、  刀狩り法は、限りある警察力を一点に傾けたがため、当然たる帰結として、治安の低下という副産物を産み落としていた。  銃などなくとも人は争う。  銃弾なく爆薬もない平和な都市で、欲望ある者は刀剣を手に暴威を〈揮〉《ふる》い、〈無辜〉《むこ》の人々は凶刃から逃れるために必死であった。  警察戦力は警察自身を守るだけで〈飽和〉《ほうわ》しており、帝国軍は公的機関と城壁の守備のみを任務とするなら、誰が府民を守るというのか。  彼ら自身だ。  東京の人々は、全く実用的な技能として武術を求めたのである――攻撃のためにか、防衛のためにか。  治安の低下は〈脛傷〉《すねきず》持ちを呼び、彼らは更なる治安低下を招く。完璧な悪循環に陥った東京を、帝国は無視した。  もう首都ではないし、都市機能は他の大都市で代替が利くし、日本人しかいないのだから諸外国の目を気にする必要もないしで、資金と人員を投入して改善を図る必要性を官僚の誰も認めなかったからだ。  むしろ不穏分子が東京に集まってくれるということは、他の都市がそれだけ安全になるということであり、喜ばしくさえあった。  東京の人口がもたらす経済的影響力にのみ留意して――それに治安は関係ない、金銭に善悪はないのだから――おけば、他の〈一切合財〉《いっさいがっさい》は無視して何の差し支えもない。  何しろ壁で閉ざされた都市、見ないふりをするのは簡単だ。  そうして数十年。  府庁幹部は語る。 「東京は先進国の大都市として唯一、銃声と爆音を聞くことが出来ない街である」  誰も異は唱えない。  無論のことだ。  世界の人々は東京を忘れていたし、  帝国の人々は東京に背を向けていたし、  東京の人々は、つまらないジョークにいちいち付き合っていられるほど暇ではなかった。  閉鎖と隔離、忘却と無視の城壁によろわれて。  怯える市民と、彼らを狙う凶賊と、それに立ち向かう武人と、そんな都市を革命すべく剣を握るテロ組織と、そんな都市を守るべく剣を握る民間警衛団とを〈数多〉《あまた》、抱え込んで。  石馬戒厳が理想を託した旧帝都は今、日本最悪の治安を誇る――はずはないが、別に隠しもしていない街となっている。               (〈君衛一松〉《きみえいちまつ》「廃都への〈系譜〉《けいふ》」より抜粋)  炎の中に、赤音は〈佇〉《たたず》んでいた。  〈累々〉《るいるい》たる〈死屍〉《しし》を周囲に配して。  木と肉を焼く音がばちばちと響き、臭気が鼻を刺す。  それは、矛止の会と呼ばれるイシマ主義のひとつの帰結が、滅びゆく光景だった。  武田赤音は雨を聞いている。  地表から遠いこの高さに、滴の砕ける響きはない。  〈簫々〉《しょうしょう》と、風雨の〈擦〉《す》れ合う音だけが鳴った。  窓を開け放したテラスの〈傍〉《かたわら》に座り、静かな楽に耳を預ける。  時折、指を打つ。  眼の下に置いた将棋盤、その上に駒を打つ。  高い音は立たない。  ややもすれば、雨音に沈むほど。  部屋の主を起こさぬための気遣い――より、湿気を含んだ盤と駒がそうさせている。  駒の布陣は片側のみ。  指しているのは一人なのだから、片側だけで用は足りる。  5六銀――         ――……  2二玉――         ――……  2五歩――         ――……  9五角――         ――……  時に滑らかに、時に考え、一手一手指していく。  悩むのは、自分の手に悩んでいるだけである。いもしない対戦者の手を考えているのではない。  悩むまでもなく、それはわかる。  3一金――          ――9六歩  7七角成――          ――同玉  6七金――          ――8八玉  7八歩――          ――5四角  自分の手に、彼がどう指して来るか。考えなくともわかる。  その仮想する彼の指し手に、どう応ずるべきか悩む。  おかしなものだった。  4一銀――          ――2四桂  同歩――          ――2三飛  同銀――          ――同桂成  同玉――          ――3五桂  ……。  ふわり。と、  赤音の手が止まった機に、柔らかいものが背を覆った。 「引っつくな、弓」 「ひどいよ」 「なにが」 「僕が起きるまで、抱きしめていてって言ったのに」 「いつまでも寝てっから悪いんだろ。いま何時だと思ってんだ、寝ぼすけ」 「僕のせいじゃないよ。赤音がぁ……」 「あん?」 「うー」 「んだよ。昨日の夜なかなか寝させてやらなかったから悪いってのか?」 「ばかー!」  小さな手のひらがぺしぺしと背を叩いてくる。  よほど恥ずかしかったのか、しばらく落ち着きそうにないその様子に、赤音は軽く含み笑った。  弓のこんなところは、出会いの折から変わらない。  部屋を見回す。  先日まで、ほんの一ヶ月足らずを過ごした桂葉の部屋と比べれば、シックにまとめられた品の良い佇まいだと言えた。  難点は、小物が多い上に弓の気分で置き場所がころころ変わるため、その中から一つを探すのが存外に手間取るということだ。  この部屋唯一の時計は、今日は寝台の脇にあった。  いま何時だと、などと口にしながら、当の赤音は時間を把握していなかった。  晴れていれば明るさの具合でおおよその時間は計れるが、雨天ではそうもいかない。  時計は一時過ぎを指している。  赤音には、すべきことがあった。  しかしまだ、いささか早い。  が。 (日暮れを待つまでもねえか?)  自問する。  〈雨足〉《あまあし》は次第に激しさを増しつつあった。  隠密行動の適性さえこの雨が考慮の要なしとしてくれるのなら、夜よりも昼の方がむしろ好機かもしれない。  連中は夜行性なのだから――テロリストのような生き物はそうに違いないと赤音は決めて掛かっていた――昼はねぐらでおとなしくしているはずだ。  別に寝ていなくてもいい。  より多くがいてさえくれれば……   ふと我に返る。  いつからか背後の体温が消え、弓は正面に回っていた。  瞳の〈虹彩〉《こうさい》を不安げに揺らして。 「どした」 「……あの人のこと、考えてたの?」 「誰だよ?」 「あの……桂葉を殺した、ひと。赤音に復讐するって言ってた……」  言葉が途中からフェードアウトして消えてしまったのは、記憶が〈曖昧〉《あいまい》だったからではなく、聞いていいことだったのかどうか迷ったためであるらしい。  別に赤音は怒りもしなかったが、口は閉ざした。  既にけりのついた盤上を見下ろす。  弓の口から名前や容姿の特徴が出なかったのは当然だった。  あの日、伊烏は赤音に姿を見せることなく消えたのだ。  桂葉をはじめ瀧川の者達を斬った以上、伊烏には矛止の会の撤退を支援する意志があり、それを全うして共に去ったということなのだろう。  伊烏が会の一員となっていることは、疑う余地がない。  ――何やってんだ、伊烏。  視線を〈睨〉《にら》みに変える。弓のすくむ気配があった。  赤音が見ているのはあくまで、盤上に無い王将と周囲の駒たちだったが。  伊烏、おれはここにいるんだ。  お前が探し続けたおれはここにいるんだ。  お前を待ち続けたおれはここにいるんだ。  なぜすぐに来ない。  なぜそんな奴らに構っている。  不要だろう、そんなもの。おれとお前の〈狭間〉《はざま》には。  邪魔だ。  邪魔だ。  邪魔だ邪魔だ邪魔だ―――― 「ひゃっ!?」  出し抜けに起立した赤音に、弓が〈頓狂〉《とんきょう》な声を上げた。元から腰を下ろしているのになお尻餅をついたような格好で、〈瞬〉《まばた》きする目を向けてくる。  赤音は構わず、踵を返した。寸秒とて無駄に過ごしたくない、そんな気持ちに衝き動かされる。  歩きながら、言い捨てた。 「お前の手下を借りるぞ」 「え? 借りるって……はわ!?」  間を置いて崩れた小机に足を取られでもしたのか。  もたつく弓の立てる騒音を背に、赤音は部屋を出た。  ――邪魔なもんは、どけなきゃならねえ。  伊烏義阿は雨を見ている。  閑散とした蕎麦屋の中から、開いたままの板戸を覗いて。  板戸、などと口にするのを聞けば向こう気の強い従業員は怒ったかもしれないが、元来が自動ドアであろうと壊れて手動でしか開かなくなったのなら、それは伊烏の表現力では板戸としか言いようがない。  無論、わざわざ告げたりはしないが。  ざあざあ、と数多の水滴が地を〈穿〉《うが》つ音は、そろそろ轟きと呼ぶべき域に到達しようとしていた。  これを仮に天の笑声だとするならば、〈止〉《や》むのを待って出ようなどと甘い目算を立てていた彼を〈嘲〉《あざけ》ったものに違いなかろう。 「まったく、空は人間様の都合を考えてくれませんねー」  ぼやきながら、店の娘が空の湯飲みに茶を注いでくれるのを、伊烏は〈会釈〉《えしゃく》して受けた。  注文の品を食い終えたあと一時間以上居座って茶をもらう客の心境は、三杯目の茶碗を差し出す居候とほぼ同様である。  形ばかり口をつけて、彼は立ち上がった。 「勘定を」 「え? まだ雨ひどいですよ?」 「ああ――」  だが、いつまでも邪魔はできない。  と声にする前に、娘に言葉をはさまれる。 「なにかご用事が?」 「いや」  そうではないが、と咄嗟に言いかけてしまってから、伊烏は〈臍〉《ほぞ》を噛んだ。頷いておけばいいものを。  失策に気付いて言い〈繕〉《つくろ》う間を彼に与えず、娘は首をぶんぶん振ってまくし立てていた。会話能力において、伊烏ごときではこの娘の相手にならない。 「ならゆっくりしてってください。いま外に出たら風邪ひいちゃいますよ」 「それは」 「お客さんをそんな目に〈遭〉《あ》わせるなんて、うちの〈沽券〉《こけん》にも関わることですから」 「だが」 「遠慮しないでください」 「……ああ」  流されて、頷きはしたが。  やはり伊烏には、留まるべきとは思えなかった。  一呼吸を置いてから、もう一度口を開く。今度は、不退転の意図を持って。 「しかし」 「ええい、しかしもかかしもない!!」 「すいません」  伊烏義阿は、転じて退いた。  仕方のないことである。  伊烏は、やかんの沸騰を恐れる男であった。  昔からそうなのではなかった。両親の言によれば、幼少の頃の彼はやかんが好きで、ピーッと特有の沸騰音が鳴るたび嬉しそうに這い寄っていったものだという。やかんの宿星を背負って生まれた子供だったのかもしれない。  だが突き詰めれば、やかんと人は決して相容れないものだ。特に沸騰したやかんとは。  伊烏とやかんの破局はある時、両親の目がふと離れた隙に彼が沸騰中のやかんに触れてしまった刹那、唐突に訪れた。以来、伊烏はやかんをただ恐怖し、やかんはそんな彼を冷然と無視している。  この不幸な縁が、伊烏の人生に一抹の影を落としたことは否めなかった。  やかんのように沸騰する女性も彼の〈心的外傷〉《トラウマ》を刺激したから。  伊烏は卓上に両手をつくと、その場で腕立て伏せを開始した。 「恩人の分際で世話掛けさせないんじゃないっ!」 「はい」  がうー、とのうなり声混じりな台詞は語学的に崩壊しかけていたが、やかんに対してそれを指摘する度胸がもし伊烏にあったなら、腕立てが早くも十回を数えていたりはしない。 「あたしが〈質〉《たち》の悪い客に襲われた時、助けてくれたのは伊烏さんでしょう!」  そんなこともあった。 「ちょっと態度が気に食わなかったから『黄緑のたぬき』を丼に入れてたぬきそばってことにして出した程度でキレた、心の狭いあいつらから守って頂いたことをあたしは忘れてません!」  後で事情を知って少し後悔したが。 「そんな人を雨の中に放り出せるわけないじゃないですか!」 「そうだな」  うむ、と伊烏は頷いてみせた。  実は内心の声――普通はこんな風に説教もしないのではなかろうか――に対して頷いていたのだが、口に出さなければ波風は立たない。  生きる知恵であった。  伊烏が従順な姿勢に徹したことで、娘の腹は収まったらしい。ふーと息をつき、テーブルをわしづかみしていた両手を離す。 「まったくもう。伊烏さん、いい男なのに……根暗なとこさえなければ合格点なのに。惜しいなー」 「……根暗?」  何の試験に落ちたのかはともかく、その点は気に掛かった。残念そうに肩をすくめる娘に問うと、きっぱりした答が返る。 「そうやって、なるたけ人との関わりを避けようとするってのは、根の暗い証拠です」 「……」 「そういう人って大概いい人ではあるんですけど、女を幸せにはできないんですよねー」  言うだけ言って、娘はさっさと忙しげに〈厨房〉《ちゅうぼう》へ戻っていった。客がいなくとも仕事はあるものらしい。  店内に取り残された格好で、〈憮然〉《ぶぜん》と。伊烏は呟いた。 (別に根暗ではないぞ)  そう思う。  かつて彼が最も多く深く人と接したのは、幼少の頃から成人後まで住み込んだ道場だが、そこでの仲間の誰からもそんな評価をされたことはなかった。  彼ら以上にここの娘が伊烏を理解していると考える根拠はないのだから、彼女が間違っているとみるのが正しい。  昔の知り合いがここに現れて彼女に賛同するなら別だが、それはあり得ないことだ。 「よう根暗」 「……」  伊烏は、ぼんやりと視線を転じた。  昔の知り合いがそこにいる。  奥の座敷から首を突き出すようにして、こちらに手を振っていた。今までは彼の死角にいたらしい。 「〈一輪〉《いつりん》」  驚きが声に〈滲〉《にじ》む。  長身と鮮やかな髪が印象的な女。東京では見るはずのない姿だった。しかし、確かな現実としてそこにいる。 「〈奇遇〉《きぐう》だな、伊烏。こっち来ないか?」 「ああ」  伊烏は誘われるまま、湯飲みを持って座敷に上がり込んだ。  遠目にも明らかだった彼女の正体は、間近で見ても疑う余地がない。 「元気そうだな」  気にかかることは別にあったが、それよりも〈久闊〉《きゅうかつ》を〈叙〉《じょ》したかった。本心からの呟きに、彼女、一輪もまた微笑んで応える。 「ああ。君も相変わらず暗くて何よりだ」 「いや待てやはり気になる」 「うん?」 「俺は根暗ではない」 「根暗だぞ」  鉄壁のように揺るぎない答えが返ってきた。 「……道場では誰も、俺にそんなことを言わなかった」 「陰でみんな言っていたぞ」  〈槍衾〉《やりぶすま》のように容赦ない答えだった。 「だが、しかし、それは」 「ん?」 「やかんがッ……!」 「いや、わけわからん」  ぞんざいに伊烏をあしらいながらも、一輪はつるー、と妙に上品な仕草でざる蕎麦をすすっていた。  ねぎもわさびもろくに使わず、よく食べる。そんなものは蕎麦の風味を損なうだけだと言いたげに、それらを満載した小皿には目もくれない。  小碗に三杯ほどもさらりと片付けてから、彼女は改めて彼の方を向いた。 「四年になるか」 「……そうだな」  そのくらいだと、伊烏は記憶している。  彼が故郷を飛び出してから。 「どうしていた?」 「日本中を回っていた。北海道と九州にも、一度行った」 「〈九州〉《ニューウォーリック》はともかく、〈北海道〉《ウラジユーク》にもか。よく渡れたな」 「やりようはある。……そちらは?」 「おおむね、〈故郷〉《くに》にいたよ。気まぐれに旅くらいはしたけどさ」 「東京に来たのもそうか?」  風が窓ガラスを揺らす程度の間があった。 「……まあ、そうだね。そんなところだ」 「ふむ」 「故郷のことで、聞きたいことなんかはあるか?」 「……」  故郷の事。  知りたいことは、知っている。  知りたくないことは……聞かずともいい。 「特にはない」  傍で誰かが聞いていれば、あまりにも素っ気ないと思ったことだろう。  だが一輪はその答えを予期していたのか、軽い頷きだけで応じた。  また、ガラス窓が揺れる。  天候は平穏を取り戻す様子をまるで見せない。  それどころか、嵐の気配がある。  にわか〈隠密〉《おんみつ》に〈扮〉《ふん》してでもそろそろ帰るべきかもしれないな、と伊烏は思った。  娘の眼を〈誤魔化〉《ごまか》すことは大した難事ではない。  問題は勘定だが、それも一輪に頼めばいいことだ。   思考に気を取られていた彼にとって、一輪の声はやや唐突に響いた。 「君は、東京にはいつ頃からいる?」 「……二ヶ月前だ」 「またすぐにどこかへ行くのか?」 「いや」  行くわけがない。  行けるわけがない。 「何かあるのか」 「すべきことがある」 「君、」  その時降りた沈黙は、長かったはずだ。  だが、伊烏は〈刹那〉《せつな》としか感じなかった。思念は一局に集中し、そこを微動だにしなかったから。 「赤音を見つけたのか」    ――ぐしゃり。  厚手の湯飲みはその実、紙コップの〈脆〉《もろ》さだった。  破片のいくつかが〈掌〉《てのひら》に突き刺さる。  血の筋が生まれ、卓に〈滴〉《したた》る。 (深くは……ないな)  伊烏は己の負傷を分析した。  皮を裂いた程度に過ぎない。  手を使う運動に問題を生じることはないだろう。当然、抜刀にも。 「……」  一輪が無言で差し出してきた〈手拭〉《てふ》きを、受け取って手に押し当てる。  血量は大したことがないはずだが、赤い染みは水分と混ざって広がり、たちまち布巾の白さを侵略した。  血を落とすには手間が掛かるだろう。というより、こんなものはもう店では使えまい。  伊烏は後で、蕎麦の代金にいくらかの上乗せをして支払うことに決めた。 「伊烏」  名を呼ばれて、顔を上げる。  一輪は平然としていた。  そこに悲哀が見えたとしたら、眼鏡屋へ行くべきだろう。悲哀が自然? 彼女は間違っても、そんな弱々しい人間ではない。  その細い唇が〈紡〉《つむ》ぐ言葉は、またしても唐突だった。 「少し商売の話をさせろ」 「というと」 「二つあるが……こっちからにしよう。刀を売りたい」 「刀?」 「打ち下ろしが一振ある」 「む……」  伊烏は即答をしかねた。  彼女が売るものに間違いがないのは、知っている。  だが打ち下ろしとは、刀工が打ったままの状態、つまり研師による研磨が入れられておらず、〈拵〉《こしら》え――要は外装――もないことを示す。あまり実用には向かない。  専門職能者に〈委〉《ゆだ》ねて仕上げさせるのが望ましいのだが。 「腕のいい研師を知らない」 「私が仕上げてもいいよ。専門じゃないからね、料金は勉強しておく」 「どんな刀だ」 「一尺四寸」 「脇差か」  刃長が一尺以上二尺未満である刀を一般に脇差と云う。  武器としての位置付けは補助用、非常用だが、取り回しの良さから屋内の戦闘には向き、またそこに着眼されて流儀によっては主武器の地位に置かれることもある。  富田勢源で名高い中条流などはその好例だ。 「〈鋒両刃〉《きっさきもろは》のね」 「珍しいな。それは興味がある」 「だろう。だから銘も刀にふさわしく工夫している」 「ほう、どんな」 「マイケルギョギョッペンと切った」 「そうか。いい銘だ。買わない」 「……なぜだ?」 「今はちょっと、ぎょぎょっぽい刀は間に合っているのだ」 「君もわけのわからないことを言う男だな。まあ、いらんと言うなら仕方がない」  言葉尻に心残りの響きを乗せて、一輪は箸を置いた。いつの間にか、ざるは空になっている。  伊烏は壁に掛かった時計を見た。 「六時か」 「じゃあ、もう一つの方だ。これから時間あるか?」 「なぜ」 「暇なら私の宿まで来てくれ。君の刀を見たい」 「気になるか」 「そりゃあね。私がおなかを痛めて生んだ子だ」  おどける一輪に、彼もかすかな笑みを誘われた。  少しだけ、昔を思い出す。出来事をではなく、空気を。  こんな空気を日常としていた頃が、確かにあった。 「別にここでも構わないだろう」 「見るだけならね。ゆがみでもあるようだったら、直してやろうと思ったんだが」 「そういうことか。望むところだが……少し待て」 「うん?」 「今は雇われの身だ。雇い主に連絡を入れておく」  席を立ち、伊烏は店内の公衆電話に近づいた。  携帯電話は持ち歩いていない。  いつでも連絡を取れるという利点こそが、彼にはどうにも、〈鬱陶〉《うっとう》しくてならないからだ。 (帰りをどうするか)  番号を打ちながら、考える。  おそらく一輪の宿はこの近場だろうから、行くに際して問題はない。  だが帰りは、このまま天候が悪化すると交通機関が〈麻痺〉《まひ》している可能性もあった。  この近辺から今のねぐらの会本部までの距離を、二本の足だけで踏破するのは少々難しい。普通、そんなことをする人間はいない。いるとすれば、箱根駅伝の選手くらいであろう。 (俺も一部屋借りて一泊すればいいことか)  そう決める。  決めて、不審に思った。  番号を打ち終え、既に十数秒。   ――何故、出ない? 「はい……はい。大丈夫。わかってます。  別に危険なことなんかしやしません……本当です」  五分前までは気にも留めなかった雨の音が、今はとてつもなく耳障りだった。  電話の向こうの声が聞こえにくいのは無論、こちらの声も大きくせねばならないため、注意しないとまるで怒っているような口調になる。  おかげで赤音は声を荒らげつつ穏やかに話すという曲芸的話法を強いられていた。 「仕事が終わったらすぐ病院に行きます。  はい……わかりました。では後で、姉さん」  その苦行をようやく終え。  携帯電話をポケットにねじ込み、首を回す。ぽきぽきと小気味良い音がした。  ついでに溜息もひとつ吐くと、心なし疲労が抜けたような気がしてくる。  路傍に置き捨てられた自転車のサドルに乗って、〈蛙〉《かえる》が一匹、赤音を見上げていた。頭の両側に突き出た眼は物言いたげに、丸く黒い。 (人間様が〈羨〉《うらや》ましいか? なら代わってやってもいいけどな……こんな時とかは)  胸中にそう呟いても、無愛想な両生類はケロとも鳴かずに佇んでいる。  彼を指のひと弾きで路上に追放して、赤音は背後の軍勢を振り返った。 「で、なんだって?」  それは先頭の大隊長に、電話のせいで一方的に打ち切っていた会話の続きを促す台詞だったが。反応は鈍かった。  話の振り方が唐突で困惑したか、先の電話との口調の違いに面食らったかしたのか。  あるいは、そもそもの話が口にし辛いものだったのかもしれない。 「どうした。なんかおれに聞きたいんじゃなかったのか?」 「……はい。失礼な言い様になってしまいますが……」 「言ってみ」 「…………これは、本当に社長の命令なのですか?」 「あん?」 「本当に、社長がこの作戦をあなたに指示したのですか?」 「なるほど」 「……」 「そりゃ確かに失礼だ」 「申し訳ありません」 「いや、いい。おれは瀧川の社員じゃねえしな。おれの命令が本当に正規の業務命令かどうか、そりゃ普通は疑うだろうよ」 「……」 「おれの言葉を疑うなら、弓に連絡して聞けばいいじゃねえか」 「は?」 「だからよ、聞きゃいいだろ。おれを疑うなら」 「…………」  赤音は凄んだわけではない。  笑いを含んだ声で大隊長に勧めただけだ。 「聞けよ?」 「……い、いえ」  しかし彼は目を伏せ、口にした疑念を自分で打ち消した。  言葉のみならず首を振る態度によっても否定する。迷いを捨て去ろうとするかのように。 「その必要はありません」 「そうか?」 「はい」  不審げな視線は〈控〉《ひか》えめに、周囲の衛士らから注がれた。  赤音の不興は社長の不興。赤音に刃向かえば社長がその者の首を飛ばす――  実際にそのような事態がかつてあったわけではない。  だが弓の赤音に対する〈溺愛〉《できあい》ぶりは、それを知る彼女の側近たちの想像力を刺激せずにはおかないものだった。  そのことを、赤音は承知している。  彼らを動かすのは容易い。彼らの状況分析を、赤音に従うか否かという問題に置き換えてしまえばいいのだ。  そうすれば、後は勝手に賢い判断を下してくれる。  大隊長は黙り込み、赤音は路地の先を眺めた。  丁度、右手に〈傘〉《かさ》を差し、左手に三、四歳と見える子供の手を引いた主婦風の女が、脇道から現れたところだった。こちらを見て、びくりと立ちすくむ。  赤音は手を振ってやった。  応えようとしてか、子供が親に引かれていない方の手を伸ばしかける。それで主婦は我に返ったらしい。  息子と思しき子供を抱え上げるや、一目散に元来た道を駆け戻っていく。  素早い行動だった。東京府民として模範的な。  瀧川衛士が瀧川の施設外にいる時、その場所は二種類に分類される。  戦場、もしくは戦場になり得る場所。  いずれにしろ、命を脅かす危険と隣り合わせであり、近づかぬに如くはない。  その程度の判断ができないようでは、この旧帝都にあって長寿は望めないだろう。  あの主婦は東京に住んで長いに違いない。赤音に見せた機敏さからは、同様の事態に幾度も遭っていればこその年季が感じ取られた。  苦笑を含んで、視線を転じる。通りの向こうへと。  この街では珍しい、輸入雑貨を専門に扱う店舗がある。  高さはないがかなり大きい。駐車場も含めれば小学校のグラウンド程度はあるだろうか。  正面口はシャッターで閉ざされている。   ここが矛止の会の本拠であった――正しくは、この地下が。  長年の捜索の末、ついに瀧川商事は宿敵の心臓部を突き止めたのである……  などというドラマは、実は無い。  とうの昔から、この本拠地のことは瀧川の情報部に知られていた。  だのに放置していたのは、何故か。  とりあえず、瀧川社員の〈怠慢〉《たいまん》とは関係がない。  一言で言ってしまえば、瀧川にとって危険分子が矛止の会なる形で一つにまとまっているのは、必ずしも不利益ではないということだ。  一匹の狼と10匹の〈鼠〉《ねずみ》を比較して、強いのは前者だろう。  だが敵として相手をしやすい、対応策をとりやすいのもまた前者だ。防備に要する費用も〈被〉《こうむ》る損害も、長期的視野に立てば、前者の方が確実に安く上がる。  今、赤音が〈見晴〉《みはる》かすのは確かに矛止の会の中枢ではあるが、逆に言えば中枢でしかない。  最重要ではあっても、組織の一部でしかないのだ。  これを潰しても会が全滅するわけではない。  狼が死んで鼠の群れが生まれるだけだ。  矛止の会が組織として、より成熟したものであったなら、頭を潰すことで崩壊しない程度に勢力を弱めさせるというのは有効な手だったかもしれない。  しかし実際のところ、東京最大のテロ集団と言えど一個人の指導力に〈依〉《よ》るものでしかなく、頭を潰したらば分散してしまうことが目に見えているのだった。  これを本気で根絶するのなら、慎重に手足から削っていく必要がある。  真っ先に本部を潰すなど、愚の骨頂。 「衛士16個中隊、所定の配置に着きました」 「おう」 「中隊長達から、作戦目的の確認が来ています。返答はいかがしましょう?」 「晩飯」 「はい?」 「100匹ばかしの〈痩〉《や》せ豚を、切って潰して、まとめて焼いてハンバーグにする。トマトソースをかけて出来上がりだ」 「…………」  討つべからざる敵を討とうとしている。  大隊長が疑念を抱くのは当然だった。  ファジーな命令を「人員及び施設の完全制圧。局内規第八条に基づき戦闘行為許可」と翻訳して通信手に伝える彼から離れ、赤音は路地を出た。  シャッターの前までひたひたと歩み寄る。  ――愚の骨頂だ。瀧川にとっては。  けどおれにとっては、奴らがおれの邪魔をできなくなれば、それでいいんだよ。  斬撃は三度で事足りた。  三角形にくり抜かれた穴から、身を屈めて入り込む。  その赤音の後を慌てて、それでも雨に溶ける程度には足音を殺して、衛士隊が追ってきていた。  もっとも彼らの努力も、切り抜いたシャッターを赤音が無造作に蹴り転がして派手な音を立てているようでは意味がなかったろうが。  白刃を引っさげて、進む。店の奥から誰かが飛び出してきた。  店員風の身なりをした男である。  ロゴの入ったエプロンをかけ、サンダル〈履〉《ば》き。両耳には銀のピアスをつけていた。  顔からみて、年齢は二十歳というところか。にきび痕が目立つが、妙に〈愛嬌〉《あいきょう》もある。  当たり前だが面識などないその男は、さりながら愚鈍ではないと一目で知れた。必要なことしかしなかったのだ。  無遠慮な侵入者の群れを見やって鼻で笑い、彼はズボンの後ろへ手を回した。そして言い放ってくる。 「押し売りならお断りだ」  赤音も笑みを返した。 「それで帰っちゃ押し売りは務まらねえ」  男の投げ〈刀子〉《ナイフ》は、赤音の踏み込みより髪ひと筋分遅く、持ち主が絶命する前に放たれることはなかった。  テロリストのお株を奪うような奇襲は、完全に成功した。 「五木隊より入電。遭遇した敵小集団を制圧。ハ地区確保完了」 「おう」 「茅野隊より入電。ロ地区にて敵中規模集団と遭遇、制圧に時間を要すとのこと」 「可土倉んとこから半分行かせろ」 「風間より意見具申、予想以上に火の回りが早いのでハ及びニ地区への着火を遅らせてはどうかとのこと」 「任す」  矢継ぎ早な連絡の合間に、わぁっという喚声が混じる。  赤音が目をやると、黒装束の一団がここ、制圧完了エリアに仮設した本営をめがけて殺到し……到達するはるか手前で衛士一個中隊に包囲されたところだった。  別に面白いものではない。そこからはセオリーを裏切らない、当たり前の展開しか続きようがないのだから。  即ち前面の衛士の防御体勢、弾かれる敵の剣撃、側面及び後方の衛士の攻撃、殴打殴打殴打、打撲骨折内臓破裂、悲鳴を上げる男と血を吐く男と砕けた頭蓋から眼球をこぼす男とが地面に横転、殴打殴打殴打、死亡死亡死亡。全滅。  面白くもない。赤音は最後まで見ていなかった。  体制に対して公然と反旗を翻すゲリラと、地下に潜伏するテロリストとはどう違うのかという問いに、一つの回答として、前者は存在自体に意味があるが後者は行動しなくては意味がない、と言うことは可能だろう。  必然的に多く前者は防御的になり、後者はより攻撃的になる。  矛止の会は、その点において特異なテロ集団ではなかったようだ。襲撃戦に強く、防衛戦にはいかにも〈脆〉《もろ》い。  赤音の指揮下、瀧川衛士は矛止の会士を各個撃破している。  彼は戦術指揮の技能など持ち合わせていなかったから、個人としての戦闘感覚に頼って指示を下しているだけなのだが、それで十分に事足りるほど敵の動きは〈稚拙〉《ちせつ》だった。  散発的抵抗を繰り返す以外に能がない。  双方合わせて数百名に及ぶ規模の戦闘であるにも関わらず、襲撃からわずか二時間にして雌雄は決しつつある。 「河森隊より入電! リ地区にて会頭発見!!」  通信手の報告を受けて、仮設本営は湧いた。  会頭とは文字通り会の頭領、この身柄を押さえれば敵の組織性は完全に潰えるだろう。  赤音は軽く頷いた。 「あそ。じゃ殺せ」 「はぁっ!?」 「んだよ?」  甲高い声に鼓膜を射抜かれ、顔がしかむ。  声の方角を白眼で見やるが、その大隊長は泡を食った様子でなおも続けてきた。 「こ、降伏勧告をしないのですか。それはまあ、するだけ無駄というものかもしれませんが……生け捕りの指示はしておきませんと。敵の頭首の身柄を押さえれば、配下の者どもとて」 「駄目だ」  かぶりを振る。  それは赤音自身が既に考慮し、却下した案だったから。 「……駄目、とは?」 「お前の言いたいことはわかってる。けどな」 「はい」 「おれは惨いことが嫌いな〈性質〉《たち》なんだよ」 「はぁ?」  赤音は話を先取りして答えたのだが、何故か大隊長には意味がわからなかったらしい。  なに言ってんだあんた、と顔に書く少壮の男に、仕方なく彼は噛んで含める心地で説明してやった。 「降伏させて、武装解除して、んでもってまとめて焼き払っちまうのが手っ取り早いってんだろ? お前は」 「――――」 「それはわかるんだけどよ、あんまりにも可哀想じゃねえか。せめて抵抗くらいはちゃんとさせてやらねえとさ」 「……」  大隊長が黙り込んだのは、納得の意思表示だろう。  満足して、赤音は前髪をいじりながらに一言を付け足した。 「武士の情けってもんだ」 「武田様」 「ん?」 「まさか、全滅させるおつもりなのですか?」 「おつもりだが」  まさかも何もない。 「捕虜は……」 「いらね」 「な、何故」 「そうだな。まあ一言で言えばあれだ。気分」 「……」 「フィーリングって言ってもいい」 「いえ……あの……しかし。完全殲滅をするとなると、我々の被害も大きくなりますが……」 「頑張れっ」  赤音は、〈清々〉《すがすが》しく笑いつつ拳を握って励ました。 「……」 「ンな目で見るなよ。言うだけなら簡単だ、なんて皮肉を吐かせる気はねえ。おれも前へ出る」 「は。いや、それは」  答えによどむ大隊長を待つ間に――といって続きを聞きたいわけでもなかったが――周囲を見渡す。  本営付近はもう、ほぼ鎮静化していた。  時折ひょっこり現れて襲ってくる数人単位の馬鹿もいるが、赤音の所までは刃はおろか断末魔もろくろく届かない。  彼らの多くが和装であるように、地下本部も和風建築だった。  板張りの廊下に畳敷きの部屋。  どんな方法で維持管理しているものか、風雅な庭園まである。  戦国期の城郭を地下に押し詰めたような観だった。  だから、今の情景にも落城という形容がふさわしい。そう考えた時、赤音は小さく衝動的な笑いで、唇を震わせていた。  地下城塞が〈落〉《・》城というのは、なかなか悪くない〈諧謔〉《かいぎゃく》だ。  最初から落ちているものが、これ以上どこへ落ちるというのだか。  無理に答えを見つけるならば、月並みだが地獄だろう。  景観の落城的色彩を一際強めている炎も、それを連想させる。  混乱を〈煽〉《あお》るだけの目的でかけた火なので、大した勢いはない。  衛士の包囲攻撃による確実な壊滅を期する赤音にはそれで充分であり、それ以上は邪魔である。  が、木と紙で造られた――外装のみだが――会本部は、彼の予測をやや越えて火に弱かったようだ。  天井に眼をやれば薄くわだかまる灰色の〈靄〉《もや》が見えた。  煙が蓄積しているのだ。この事態は彼の予定表にない。  地下なればこそ空調には気を使っているはずだが、それで足りない程度には火が回ってしまっているということになる。  赤音は放火担当の報告を思い出していた。腰を落ち着けている余裕はないかもしれない。 (動くか)  状況判断が行動を命じる。  〈折等〉《おりひと》しく、背を打つ遠慮がちな声があった。 「武田様。河森隊長より、会頭に投降を促すべきではないかと、再考を求める意見具申が……」 「返信しろ」 「如何に」 「てめえの股間をてめえでしゃぶれ。以上」 「……」 「野郎がそれでもまだうだうだ抜かすようだったら、遺言状と辞世の句と財産分与目録書いてからおれんとこ来るように言え」 「はっ」  次第に慣れてきたか、大隊長は常識人として最低限度の困惑を示したのみで、赤音の返事を通信手に伝えた。  通信手は機械的に連絡業務を始める。  彼が抱える最新式の電波不感地帯用無線は、地下という悪環境を無視して明瞭な音声を発信すること、疑いもない。 「ここは任す」  いいもん持ってるよな、と思いつつ赤音は歩き出した。  付き従う者はない。  彼は瀧川ではないのだから。  後方で大隊長が何かを言っている。  よく聞こえなかったので、振り返りもしなかった。面倒臭い。  ――――刈流、〈糸巻〉《イトマキ》。  我が小手を狙った敵の打ち下ろしに、強固な力を込めず下方よりすくい上げれば、当然弾かれる。  それを支えることなく、弾かれるまま、その力を利用して剣をくるりと回し、敵の小手を斬る。  小手返しの小手。  合理性を追求したシンプルな剣は、敵対者に回避を許さなかった。すとん、と手首がひとつ床へ落ちる。  返す刃で、首をも〈薙〉《な》ぐ。男はおとなしく受けた。  諦めたのか、左手一本では受け太刀が全く間に合わなかったのかは知らない。  矛止の会には、剣術の一流儀という側面もある。  流名は知られていないが、ほかならぬ会頭が興したものだという。会士の多くはこれを教授された剣術使いであった。  その技法は、特に小手打ちに妙があり。  赤音の右手首も薄く血を流していた。  皮一枚を切られている。  この傷は技の必要代償だった。失敗は意味しない。  唾を吐きつけておいて、歩みを再開する。  相変わらず、矛止の会にまとまりはなかった。  出がけに残してきた指令に従って衛士隊が敵司令部を抹殺したのなら、もう回復する見込みもない。  赤音は単身で動いているが、おそらく多数の敵兵に取り囲まれる危険はないとみていた。  奥へ伸びる通路は薄暗い。  この基地は蛍光灯がなく、〈行燈〉《あんどん》を光源にしている。  利便性を無視したその取捨選択の理由が、単なる雰囲気作りという以外に果たしてあるのか、赤音にはわからなかった。  とりあえず、矛止の会が掲げるいくつかの主義主張のうちに「節電」という項目はないはずだったが。  燃油灯との組み合わせは最悪と思える――何らかの安全措置はされているのだろうが――板張りの床を、足音を立てずに踏みしめる。  それは土足の後ろめたさからすることでは当然なく、不意打ちされる馬鹿げた事態を避けるためだった。  木製の廊下は気を抜くとたちまち硬質の音を響かせる。  突如、彼の背後の通路が木琴と化し、荒々しい曲を奏でた。  ――そう、例えばこのようにだ。 (人数、多いじゃねえかよ)  自分自身を罵りつつ、反転。  体勢を整えるのに半秒とは掛けない。  その速度は、しかし無駄だった。 「なんだ。ついてきたのか」 「はい」  大隊長と、直衛小隊四名。  生々しい死骸――さっき赤音が殺したばかりの会士を踏み越えて、駆け寄ってくる。  赤音は彼らを待たずに足を進めた。  呼んでなどいない。だが追い払いたくなるほど邪魔でもない。  靴音が落ち着いた頃、声だけ投げる。 「指揮はどうした?」 「倉木に……副長に委任してきました」 「平気なのかよ」 「俺より優秀です」  本気とも冗談ともとれる風で答えた大隊長は、心なしか雰囲気をくだけたものにしているようだった。錯覚かもしれなかったが。  赤音には、どちらでもいい。ふん、と鼻を鳴らして聞き流し、思いを別の方角へ向ける。  ――さて、あいつはいるのかね。  正直、会に身を置いてまだ日が浅いだろう彼がここにいるものか、自信はなかった。  いなくてもいいという気で来たのだ。そのときは、〈掃除〉《・・》だけして帰ればいいと。  だが、いないと決まったものでもない。  いるならば、早く会いたい。と、赤音は思う。  一方、敵を全滅させるまでは会いたくないとも思う。  極力、余計なものは減らしたいのだ。  何の邪魔もなく、二人だけで〈相対〉《あいたい》したい。切にそう願う。  しかし、そこまで都合良く事態が進むものだろうか。 (ツキを信じるしかねえな)  舌の上で呟く。  ならば、そう分は悪くないはずだった。己の人生を振り返ってみるに。 「この辺りはどの隊の担当だ?」 「ここは」  背後に、がさがさという鳴り。  作戦地図を開いているのだろう。 「ニ地区……五木隊ですね」 「音がしねえな」 「……は。確かに」  正しくは、する。  だが遠い。別の地区からの叫びや打撃音だ。  このブロックには静寂が降りている。 「制圧を終え、別のブロックに移動したのでは」 「野良犬どもがばたばた倒れてるしな」 「はい」 「けど、血が匂うのはなんでだ」 「は?」 「やたら匂わねえか?」 「それは……当然のことでは?」 「周りを良く見ろよ」  誰も口を利かない時間が五秒。  大隊長が理解に達するのに要した時間だ。 「……そうか。我々の武器は鉄棍」 「ああ。そんな派手に血は出ねえ。出るのは、奴らの刀で衛士が斬られた場合だ」 「では……」 「おれのツキにもけちがついたかな」  と、これは自分にしか意味の通じないことを呟く。  しかし赤音は、内心で断定していた。 (あいつじゃない)  衛士を片端から斬り捨てて回る。彼にそれができない、とは言わない。  だが、この戦況下でそんな行動をとる彼、というイメージは赤音にとっていかにも不自然なものだ。 (無駄な争いが嫌いなあいつなら、雑魚はやり過ごして、頭を狙ってくる)  そう思えばこそ、赤音は堅く守られた本営を出た。  そこを狙うだろう彼をひとまずやり過ごして敵を全滅させる時間を得られるよう、そして最終的にはこちらを発見するだろう彼が襲いやすいようにと。  角を曲がる。 「ほらな」 「あちゃあ」  赤音は意味もなく自分に対して得意がり。  その男はその男で、緊張感のない奇声をあげた。  見覚えはない。  一見して無害そうな印象を受ける、帯刀した〈袴〉《はかま》姿の男。  周囲には衛士の骸が三つ。 「五木……」  大隊長がうめく。  ということは、三人の内の誰かがこの地区担当の中隊長なのだろう。誰が、というよりどれがそれか、赤音は識別しようとはせずに、すぐ男へ注意を戻した。  遺体の判別は遺族の仕事だ。  男は困った風で、頬をこりこり〈掻〉《か》いたりしている。  しかし危機感を覚えているようには見えなかった。顔に深刻さがない。  もっとも、深刻になった様子を想像し難い造作の顔ではある。 「困ったなー、もう逃げるつもりだったのに。どうしよう。どうすれば。どうしたらいいと思います?」 「……おれに聞くのか?」 「ええ。貴方は見るからに親切そう――ではないけど、わりといい人そう……ってこともなく、どっちかっていうと悪人ぽいものの根は優しそうに見えなくもなくもなくもなくもなくも」  何故か。  男は赤音の観察を進めるにつれ、何かの自信をみるみる弱めていくようだった。  やがて、結論する。 「……うわぁ。根性ひん曲がってそう」 「あはははは」  赤音は、とりあえず笑った。  にこやかに、少し考えた後、下を指差す。 「油」 「はい? ……血ですよ、それ」 「フライパン」 「床のことですか?」 「コンロ」 「あれは火事では」 「肉」 「……私?」  自分を指差して〈瞬〉《まばた》きする男に、ぽん、とひとつ手を打って告げる。 「クッキングタイム」 「なんか私、すっげえ怖い人に出会っちゃってませんか?」 「焼いてから斬るべきか、斬ってから焼くべきか、そこが問題だな」 「いえ、あの。調理目的で私を殺そうとすることが第一の問題だと思うんですけど」 「問題か?」 「そこで悩むのはよしましょう。素直に納得する路線で。人として、倫理観を大切にして」 「ふむ。倫理」 「ええ。倫理」 「よし。お前は鯨か?」 「違いますけど」 「じゃあ問題ねえな」 「え!? それだけですか倫理!?」  たじろぐ男との間合を、赤音は歩み寄って詰めた。  距離が近づいても、男の印象はこれといって変わらない。中肉中背、際立って目を引く部分はどこにもなく、強いて言えば細すぎる眼差しだけが特徴的。  危険性は窺えなかった。  街角ですれ違うことがあっても、記憶に残るどころか認識できるかどうかからして怪しい、そんな男である。  理想的な刺客といえた。  街中ではなく戦場という空間で遭遇できたことは、幸運と言うべきだろう。  動いているのは赤音だけではなかった。  いつの間にか男も、己の生産した死体が邪魔にならぬ位置に移動している。  それでいて、口も休めていない。 「そこを通してもらえると、お互いにとって有益だと思うんですけどねえ」 「なんかくれるのか?」 「そーいう意味じゃないんですけどねえ。貴方の心配をしてあげたんですけどねえ。けどま、ここは私が大人になりましょう。お金あげます」 「いくら?」 「100円」 「いいのか。それでいいのか? お前の命の値段だぞ?」 「わかりました。110円」 「よし。んじゃ110円やるから殺させろ」 「あれ?」  男が首を〈捻〉《ひね》る前で、赤音は足を止めた。  戦闘の間合に、まだ余す。  刀は右片手に、ただぶらりと下げていた。  これで、戦闘態勢として過不足ない。  この状態からほぼ一挙動で攻撃できる自信を赤音は持つ。  対して男は、赤音以上に一見して戦闘的でない。  刀を鞘に納めたまま、〈鯉口〉《こいぐち》も切らず、両手を力なく垂らしている。  この状態から何ができるというのか。  それは決まっている。  〈居合〉《イアイ》ができるのだ。  納刀状態からの即攻撃。  抜刀が即ち斬撃となる。  基本用途は不意打ち、奇襲であり、今のような真っ向勝負において有効な技法ではない。  だが、全く無意味でもない。  居合には、刀が鞘の内にあるために攻撃の間合を把握され辛いという利点もある。  現に赤音は今、危険範囲におおまかな当たりをつけながらも、確信は持てずにいた。  息を吸うのをやめる。  吸っている間は身体の反応が鈍くなるからだ。  息は少しずつ、吐き出すようにする。  いつでもその吐気で、攻撃に踏み切れるように。  男が口を開いた。  やはり、隙を生む吸気はなく。  攻撃を可能とする呼気が、放たれる。 「……100万円に訂正していいですか?」 「しゃあねえな」 「持ってませんよね? 100万円」 「ねえよ」 「安心しました」 「んじゃ、100万円よこせ。見逃してやるから」 「分割でいいですか? ……いや、なんかいいように〈騙〉《だま》されてませんか私?」 「あのー……」  本当にそうしたわけではないにせよ、口調は赤音の背を人差し指でつつきたげに、大隊長がぼやいていた。  成り行きに付き合いかねたのだろうが。  彼の一声は、いわば無自覚に撃たれた号砲だった。  準備万端のランナーに送る合図に他ならなかった。 「武田様、この男――」  赤音は右足を小さく踏み出した。  同時に左〈膝〉《ひざ》を軽く折る。  それで、間合は激変した――赤音の剣が男を斬り得る間合に。  時等しく。  男の靴底が床を打つ。 (来るか)  この時点で、赤音に驚きはない。  男もまた膝をたわめ、既に運動準備状態にあったことは承知していた。  その上で踏み込んだ。攻撃を誘うために。  どう来る。  〈梨割〉《なしわ》りか、〈袈裟懸〉《けさが》けか、逆袈裟か切り上げか胴薙ぎか突きか偽攻か―― 「!?」  消える。  男は消えていた。 (なん――――だとォ!?)  想像を絶するリアリティは、赤音の記憶巣を刺激した。  思考を離れて神経系が暴走し、背骨を折るように屈して肉体を地に転がす。  視界の末端が、それを捕えた。  天井に張り付かんばかりの高さを、飛翔している〈彼〉《か》の男。 (無茶だろ)  飛躍。  まさしく飛躍。  翼の生えていないことがいっそ不条理と思えるほどの。  男の袴に隠された両脚は、肉と骨で出来ているとは考えようもない。金属製のスプリングで出来ている。  あるいは木製にしか見えない床が実は磁石で男の脚は電磁石。スイッチひとつで反発力が発生し飛行を実現する。人類は遂に自力飛行の夢を達成した。世界偉人伝記集におけるライト兄弟のページ数は削減され、この技術の開発者に与えられることになる。  はずがなかったが、だったらどうなのだと赤音は自問した。  しかし、判りきっていた。  赤音は最初から、それを知っている。  ――あれは単なる脚力と体術だ。  人間六人の頭上をひと飛びで越えられるだけの、単なる脚力と体術。  いつか、あいつが言っていた。  肉体のみならず地面の弾性をも利用するとか、なんとかかんとか。いや地面の弾性って何だよ。トランポリンじゃねえだろ。  赤音でなくとも目を疑うだろう狂事をこともなげに〈為遂〉《しと》げ、男は柔らかな着地をするとそのまま駆け出した。 「では、さようならー。なんだか〈毒茸〉《どく》っぽく赤いひとー」  捨て台詞をしっかり残し、だがその足は速い。 「……お、追え! 追えっ!!」  我に返った大隊長が、慌てて部下を〈叱咤〉《しった》する。  弾かれたように駆け出す、四人の衛士の背を見送りながら。赤音は眉をしかめて独りごちた。 (付き合いの悪い野郎だ)  身を起こす。肩透かしを食わされた気分は良くなかった。  しかしそれ以上に、驚きが冷めやらない。  あの跳躍。  壁を使っての二段飛びではあったが、それにしても常識外の飛距離と高さ。  よもや、あのような技芸の持ち主が世に二人もいるなどとは、赤音はこれまで夢にも思わなかった。 「……にしても、この美青年に何言いやがったあの野郎」  再び、奥を目指す。  今の男、今の一幕は気に掛かったが、赤音の目的とは異なる。  衛士に任せておくべきだった。あの四人が追いつけるとは、思えなかったにせよ。  ふと呟く。 「お前は追わないのか」 「はい」  大隊長は相変わらず、赤音の後についてきていた。  距離の取り方が悪くないな、と赤音は思った。  いま戦闘となっても赤音の邪魔はしない距離であり、そして赤音の背中を守って戦える距離でもある。  加えて。  赤音を一挙動で襲えるほどに、近い距離でもない。  悪くなかった。  赤音より十年は長いに違いない戦場経験を、確かに窺わせる。 「あなたの身柄の方が心配です」 「心配なのはてめえの首だろ?」 「もちろん」 「……堂々と頷くところじゃねえぞ」 「そうですね。あんたが移ったらしい」  赤音はちらと後背を流し見た。  その男の〈面貌〉《めんぼう》はいつしか、赤音の一挙一動にうろたえていた良識的大人のものではなくなっている。なにか、開き直った骨太な男の顔になっていた。  どちらかといえば好意的と見える色彩が、その眼にはある。 「ふん。あんた、か」 「ああ、失礼を」 「いいよ。敬意のない敬語よかマシだ」  肩をすくめる。  上っ面だけのへりくだりに快感を覚えられるほど、赤音は愚劣ではないつもりだった。あるいは、得な性分ではないつもりだった。  大隊長は笑うだけで何も答えない。  だが静寂を望んでいるようでもなかった。  顔を前へ戻しつつ、水を向けてみる。 「何か言いたそうだな」 「……」 「言えよ。暇だから聞いてやる」  無視ではなく、言葉を探す沈黙が背後に数秒。  やがての第一声は、待ち時間に見合うだけの洗練さを全く欠いていた。 「あんたは、酷い餓鬼だなァ」 「ガキって歳じゃないつもりだが」 「でも餓鬼だろう」 「自分は大人だって自慢したがる奴ほど、他人を子供扱いしたがるんだよな」 「俺と比較して言ってるわけじゃない。見たままを言ってる……あんたは俺の知ってる中じゃ、一番手に負えない餓鬼だ」 「ふん」 「自分の都合しか考えてない。  他人の価値は自分にどう役立つかだけ。  まあ子供ってのはみんなそうだが、普通は大きくなるにつれて周りが〈我侭〉《わがまま》を認めなくなるから、それじゃ世の中通らないんだとわかってくる、んだが……。  あんたの場合、我侭を押し通せる力を持ってるってのが厄介だ」 「金持ちの御曹司向けの説教に聞こえるな」 「違いない。よく似ている。だが金持ちの子供の力ってのは、つまるところ自分自身の力じゃない。  親の力だ。だから自由に使うってわけにはいかない。最低限の自制は必要になる」 「見てきたような言い草じゃねえか」 「見てきたさ、弓様を。だからわかるよ。あんたとは違う」 「……」 「あんたが〈恃〉《たの》む力はまぎれもなく自分の力だ。あんたはそれを誇っている。だから駆使することにためらいなんかない。  自分の力を自分で使っているだけだ、なぜ恥じる必要がある………ってとこだろう」 「そんな風に思ったことはあるよ、実際」 「周りのみんなに迷惑をかけてはいけない……ってのが、そういう奴にするべき説教なんだけどな。まわり、なんぞ歯牙にもかけてない奴に言ったって無駄に決まってる」 「お前、おれに説教する方法を探してるのか?」 「そういうつもりじゃないが。でも一応言っとくか? そんな生き方、どうしたって長続きはしない」 「……」 「長続きしないよ。所詮あんたの力は個人の力だ。一時期世間を引っ掻き回すことはできても、すぐにその巻き返しがあんたを襲う。必ずそうなる」 「意味深い忠告じゃねえか。一応、なんかで言ってほしくないもんだ」 「けどあんた、そんなことわかってるだろ?」 「……」 「そうとしか見えない。わかってて、その生き方やってるようにしか見えないんだよ。あんたは」 「じゃあ、おれは破滅主義者か?」 「気になるのはそこだな。破滅願望じゃない……ありがちな刹那主義とも違う。なんというか……なんというかなあ」 「なんだよ」 「たぶん、あんたは――」  どぅん、という揺れと轟音が地下城塞を渡る。  衛士の地上部隊が擬装店舗を倒壊させているのだろう。突入前に赤音が指示していたことだ。退路封鎖のために、重機を使ってやっておけと。  その音の下で、赤音は男といくつか、言葉を交わした。    やがて、静けさが――普通の戦場程度の静けさが戻る。 「……立ち入ったことを聞いても構わないか?」 「もう好きにしろよ。答えるかどうかは知らねえけど」 「子供の頃に両親を亡くしたりしたか?」 「まだ生きてる。多分」 「多分、ってのは?」 「ここ何年か、家族には会ってねえから」 「追い出されたのか?」 「いいや。おれが飛び出た」 「虐待でも受けていたのか?」 「本気で立ち入ってくるな、お前……普通の親だったよ。まあ、普通にいい親だった」 「そうか……家族は父母だけ?」 「いや、姉がいる。この人は、親よりもいい人間かもな。  子供の時分、両親の留守中に家が火事になったことがあったんだが、姉さんはその時自分を盾にしておれを〈庇〉《かば》ってくれてさ」 「…………」  〈生〉《しょう》という名の実姉のことを想う。  その名は皮肉なものであったかもしれない。彼女は自分自身ではなく、他人を生かすために身命を使ってしまった。 「お陰で自分は大火傷して、それからずっと入院生活してるけど。おれの前ではいつも明るく振舞ってた。  多分、おれに負い目を感じさせたくなかったんだろうな。そんな人だよ」 「好きか?」 「ああ。家族は皆、嫌いじゃないよ。おれは」 「ふむ……」 「なんだ。おれみたいなのは必ず恵まれない家庭環境を背負ってるもんだとでも思ってたのか?」 「正直に言えば」 「貧困な発想だな。人がどうかなるのに、いちいち親なんて必要ねえさ」 「じゃあ、なにが必要だったんだ?」 「さあね。とりあえず、お前が同情して涙を流したくなるような話は、おれにはしてやれそうもない」 「……」 「そいつを期待してるんだったら悪かったな」 「いや……」 「そろそろ黙ろうや。忘れてたけど、ここ敵地の真ん中だしな」 「……。最後に一ついいか」 「なんだよ」 「俺の甥も衛士やってるんだ。第二管理局で」 「……」 「桂葉恭子の部下だった。ここの連中が襲撃をかけたあの夜に丁度当番でな。  危うく死にかけたが、朱い着物の男だか女だかわからない奴のお陰でどうにか助かったと言っていたよ」 「もう少しマシな表現しろよな。さっきの野郎といい……」 「あんたは酷い餓鬼だ」 「おい。それ、マシな表現のつもりか」 「最悪の餓鬼だが、あんたは社長の愛人で、逆らえば首が飛ぶ。どうしようもない……だから、俺のことは好きに使え」 「……」 「何でもやってやる」 「最初からそのつもりだ」 「だろうと思ったよ」  テロ組織の本拠地をゆく道すがら。  赤音は名も知らない瀧川衛士の大隊長と、そんな話をした。  しばらくして、突き当たりに開け放たれた〈襖〉《ふすま》が見えた。  その向こうの部屋は、確認できる範囲には誰もいなかったが、赤音のみるところ何処かに敵が潜んでいるような気がした。  だから、傍らの男を先に行かせた。  彼は部屋に入った〈途端〉《とたん》、切り刻まれて死んだ。 (三人か)  敵の動きはよく訓練されていた。  殺到と斬殺と撤退に数秒とかけず、今は既に視界が限定される入り口手前からは見えないどこかへ再び潜んでいる。  それでも、赤音は振り下ろされた刃と駆け寄った足音の数を捉え損ねることがなかった。  敵は三人。それ以上はいない。 (さて)  考えるというほどでもなく、赤音は物思う。  敵が待ち伏せている地点を前にして、選択肢は二つ。一人で突入するか、衛士隊を呼んで突入するかだ。  前者は危険すぎる。一人の人間が三人の人間を一時に相手取るなど、ふざけた話だ。後者の方は確実な上、彼自身はなにもしなくて済む。デメリットといえば、いくらかの時間をここで無駄に潰すというだけ。  まったく、考えるに値しない論題だった。  ――――対多数戦闘には鉄則がある。  流れを掌握するということだ。  敵に主導権を与えてはならない。  敵に動かされてはならない。  受けに回るのはいいが受けのための受けに回ってはならない。  常に主導権を握り、敵を動かし、攻め手を持ち続けなくてはならない。  それができなければ戦場は民主主義に席巻され、多数決によって勝敗が決することになる。  歩むべきは覇道。  ただ一人の専制君主となって群集を〈隷下〉《れいか》に収めるべし。  幸い、敵はタネの割れた布陣になおも自信を持ち、赤音を待ち構えている。  彼らが〈痺〉《しび》れを切らすまでの数分か十数秒か数秒かの時間は、昼寝や読書や音楽鑑賞で使っていいものではない。  軽く助走をつけ、赤音は部屋へ飛び込んだ。文字通り、幅跳びのように。  死体を越え、その先へ。  刃の接近を肌に感じる。それは幻覚であり事実。  着地するや抜刀、屈んだ姿勢のまま立ち直しもせず即座、左足を軸に右回転しつつ刀を円陣形に一閃。  慌てたように踏み止まる足を一二三四五、六本見た。  うち一本を浅く裂く。服一枚程度。  構わない。元より攻撃動作ではないのだから。  敵をひとまず退けること、敵の配置を把握すること、敵が構築しようとしている流れを破壊すること、今企図したのはその三つだ。  それは果たされたと確信する。  赤音が右足を踏み下ろしたのは、ほぼ正三角形に散った敵の一人と正対する位置。  転身から立身へよどみなく動作を〈繋〉《つな》ぎ、刀は、つ、と天井を指す大上段にとる。 「ッ!」  正面の敵が息を呑む、その音を聞く。  ここまで攻撃的な構えを前にして踏み込める者はまずいない。  どれほど愚劣な頭でも、相討ちの結末が目に見えるからだ。  敵の手足から躍動性が消える。  防御のために体が固まる。  今から一秒程は、この敵は攻撃行動を行えない。  ――そして他方、無防備な背を見せつけられた残りの敵は襲い掛かってくる。  赤音が胸中にごちた予言は、完全な的中を示した。  しかしだからといって彼が予言者を名乗ったなら、〈詐欺師〉《さぎし》呼ばわりは避けられないところだろう。  彼は神の眼で未来を見通したのではなく、自分の手で望む未来を引き起こしたに過ぎないのだから。  足を踏み替え、右後方に跳ね飛びながら刀を打ち下ろす。  完全なタイミングの、それはカウンターだった。  まさに突き掛かってきていた敵は、すれ違いざまの一撃を受け、血〈飛沫〉《しぶき》を〈撒〉《ま》き崩れ落ちる。  顔を見る暇もなかったが、おそらくは困惑しながら死んだだろう。困惑さえ、なかったかもしれない。  転身。  刹那の過去まで彼がいた位置を、その左後方から切りつけた敵が、虚しくも床へ裂傷を刻んでいた。  振り返りつつ、赤音は既に切り上げている。  敵手の立て直しより、圧倒的に〈迅〉《はや》い。場を動かす者と動かされる者との差がここにある。  不意に、気付いた。  敵の、自分自身への失望が浮かんだ〈双眸〉《そうぼう》を眺めて。 (こいつ、女か)  斬。  切り上げの勢いは止まることなく、赤音の剣は再び天を指す。  残るは一人。最初に向き合った敵手。  その男は、今度はためらわなかった。  〈激昂〉《げっこう》の息吹を散らして、膝をつく仲間を蹴り散らさんばかりに攻め寄せる。  まず、見事だと云えた。  赤音の正面を斬り割る太刀筋、速度も威力も申し分ない。  が。   ――遅かりし由良之助ってか。  赤音の剣が敵手のそれと鏡合わせの軌道を辿る。  速度等しく、威力等しく。  対称を成す二つの刃は、中空で接触した。  そして一方が弾き落とされる。  互角の剣の衝突が生むは、かくも差異ある二つの結果。  〈所以〉《ゆえん》は力の方向性にあり。  赤音の頭部を斬るつもりだった敵の剣と、最初から敵の剣を打ち弾く気でいた赤音の剣とでは、力が同じであっても優劣は存在したのだ。  切り落としの名で呼ばれる術技。  赤音の一刀は敵刃をそらし、その持ち主の耳を削ぎ、鎖骨を垂直に切り裂き、そして命を断った。  決着である。  一対三の争闘の内実は、  ただ一人によるほか三者への〈頤使〉《いし》、〈圧制〉《あっせい》、〈搾取〉《さくしゅ》に尽き。  武田赤音は、暴虐の覇王だった。     ――刈流 〈火車〉《カシャ》  覆面を剥いだ下から現れた素顔は白く端正で男性的なものを全く欠いていたし、衣の前をはだければそこには茹卵のような丸みと柔らかさを備えた肌があった。  正解、と自分自身に報酬でもくれる気分で赤音は笑った。眼から漂う気配とわずかな匂いから女だと当たりをつけ、打ち倒す際とっさに刃を返したのだが、どうやら勘は狂っていなかったらしい。  〈棟打〉《むねう》ちとはいえ鉄剣の一撃は、全身を麻痺させるに足りていたせいだろう。あるいは敗北の恥辱のせいか。歯を食い縛るばかりだった女はようやく、乳房をさらけ出される段になって、こらえかねたかのように苦鳴を張り上げた。 「や、やめなさいっ!」 「何をさ?」 「今、あなたがしていることに決まってるでしょっ!」 「それじゃわかんねえ。はっきり言えよ、なんか頼みがあるならさ」  寒そうに震える桜色の突起を指で弾く。豊かな胸に比べて何とも小さなそれは、丘に芽吹いた幼いつくしのようだった。  愛らしくも嗜虐をそそってならない。 「つっ……そ、その、不埒な行為をやめろと……」 「駄目駄目。言葉は正しく明確にって、学校の先生に習わなかったか? おれがいま何をしていて、どうしてそれをやめて欲しいのか、ちゃんと言ってよお姉さん。じゃないとぼくわかんない」 「く……この……!」  乳首を指で転がしながらの台詞に、女が心底悔しそうな歯軋りをする。体がまともに動きさえすれば噛みついてきたことだろう。頭の中では既に十回ほど噛み砕いているかもしれない。だが現実の示すところ、赤音は片手一本で軽く彼女をねじ伏せていた。  力のない腕が肩を打つ、脆弱な抵抗は好きにさせておいて、胸の双丘に手を這わす。その感触は期待に背かなかった。固からず柔らか過ぎず、適度な弾力がある。大きさも含めて、赤音の好みと言って良かった。  好き放題に揉んで楽しむ。 「やっ……馬鹿、やめろぉっ!」 「お前学習しねえなァ。ちゃんと言えっての、私の乳房への愛撫をやめてくださいとかさ」 「言えるかっ! この変態、色情狂っ!」 「ひでえ言いようだなおい。まあいいや。やめて欲しいなら、やめてやろうか?」 「……え?」  女の瞳の中に、かすかな希望の色が灯る。  その間に、赤音は自分のベルトを手早く解いた。〈下穿〉《したばき》もはだけて、半ば隆起したものをさらけ出す。  唐突なことに、思考が硬直したらしい。女の絶句を見下ろして、赤音はにやと笑って告げた。 「代わりにお前がしてくれるってんなら、やめてやる」 「な……な、な」 「どうする?」 「どうって、そんな……何をしろと……」 「そうだな。こうしてもらうか」  言って、女の左手をつかむ。未だ痺れが抜けない様子のその手を導き、赤音は己の股間のものにあてがった。  そこでやっと我に返ったのか、慌てふためいて女が手を引き戻そうとする。だが勿論、赤音はそれを許さなかった。自分の右手で上から覆うようにして、無理矢理肉根を握らせる。 「いや、やだっ! 何を触らせてるのっ!」 「文学的には道鏡の三つめの膝という。いや、文学は関係ないか?」 「なによ、それ! 放して、放してったら!」 「お前の手、冷たくて気持ちいいな」  握ったまま更にしごかせると、緩やかな快感が味わえた。次第に昂りが増し、血が流れ込んでゆく。  どうにかして手を抜こうとする女の無駄な抗いが、赤音にはかえって心地良い。押しては引き、悶えるように暴れる指先が不規則な刺激を与えてくれる。しかし彼女は、自分が結果的に充分な奉仕をしてしまっていることにはまるで気付いていない様子だった。 「ばか、ばか、やめてよ! そんなもの握らせないでっ!」 「そう邪険にするなよ。どうせお前、こんな穴蔵で野郎共と一緒に暮らしてたんだ、連中の〈下〉《シモ》の面倒も見てやってたんだろ?その調子でおれのも可愛がってやってくれよ」 「ぶ、侮辱するな! 我々は大義のために集った……やーっ、なにか出てるっ!」 「それは文学的には先走りというものだ。いや益々関係ないな文学」 「やめて、こすりつけないで、そんな汚いのっ!」  嫌悪感に満ちた訴えを、赤音はさらりと聞き流した。身悶えする女の姿に興じながら、強制奉仕を続けさせる。自身の尖端からこぼれた液体を白磁の掌にすり込むようにしてやると、彼女の目の端には涙がにじんだ。  そんな様子もまた、たまらない。赤音の屹立が力をいや増す。  手指の感触と嫌がる姿を充分に楽しんだ上で、赤音は彼女を責め苦から解放してやった。といって無論、それで終わりにする気もなかったが。ぬめった手を拭う元気もないらしい女から、腰回りの着衣を引き降ろす。  まろび出た肢体は日光を浴びていないがために青白く、さりながら不健康さは感じさせない。むしろ程好い肉付きが食欲にも似た衝動を覚えさせる。赤音は欲求のまま、女の太股に舌を這わせた。 「ひゃっ!?」  虚脱していた女にも、流石にこれは強烈だったのか。跳ねるように起き上がりかける彼女をまた力ずくで押さえつけ、赤音は口元を歪めて、女の眼を覗き込んだ。 「お前、初めてか?」 「……〜〜っ!!」  声もない気色で、女が頬を紅潮させ、睨みつけてくる。それが答えになっていた。赤音の予想通りの。女の潔癖な態度からとうに知れていたことだ。先刻の言い草は単にからかったに過ぎない。 「良かったな。初体験の相手がこんな美形で」 「ふざけるなっ、この鬼畜! 誰が貴様なんかと!」 「あれ。嫌なのか?」 「聞くなっ!」  嬲られていると感じてだろう、女が柳眉を逆立てる。怒りの影の怯えを隠しきれてはいなかったが。宥めるように――逆効果に違いないが――その髪を撫でてやりつつ、赤音は軽く声を投げた。 「なら、やめてやってもいいけど」 「…………」  女は沈黙しただけだった。五分前のことを忘れるほどの酷い健忘症は患っていなかったらしい。警戒心を視線に乗せてぶつけてくるのに、ふんと鼻を鳴らして言葉を続ける。 「さっきも言っただろ。やめて欲しいなら、ちゃんと言えよ」 「……」 「許してください、処女なんです、乱暴に犯さないでくださいってな」 「……っ! どこまでも人を馬鹿にして……!」 「それも嫌か。じゃ、おれの好きなようにするまでだな」  赤音は自分の指を一度しゃぶると、それを女の秘唇へ差し入れた。固く閉じたその部位に、唾液の滑りを恃んで潜り込む。未開通のそこはあくまできついが、指を差せないほどではない。 「ひっ!」 「結構手強そうだな。お前、自分でいじったこともあんまりないだろ?」 「し、知ったことかっ! そんなところ触るな、ばかぁっ!」 「やだね。あれも嫌、これも嫌なんてのは認めないんだおれ」  突き刺した指を、ほぐすようにしてかき回す。固かった陰唇はそうするうち徐々に広がり、奥へ通ずる道を開いていった。指よりはずっと太い男根も、挿れて挿れられなくはなさそうに見える。  赤音は指を引き抜いた。  透明な液に混ざって血が一筋、そこに付着している。 「さーて。じゃあそろそろやっちまうけど、いいか」 「うっ……」 「しょうがねえよな。そうして欲しくないならはっきりそう言ってもらわないと困るが、言わねえし。ノーと言えない日本人は国際社会じゃ通用しねえんだよ。ここ日本だけど。ま、そういうことで、頂きます」 「ま、待ってっ!」  ぽむ、と手を打って股間のものをあてがおうとしたところで、赤音は女の悲鳴じみた声に止められた。  視線を投げると、葛藤を抱えた彼女の顔がある。 「なんだよ」 「……っ……」 「言いたいことがあるならさっさと言え」 「……ゆ……」 「ん?」 「……、ゆるして……」 「聞こえねえよ」 「許してください……」 「ふぅん?」 「処女なんです……乱暴に、犯さないでください……」  遂に屈して、涙ながらに女が呟く。頬を伝う雫は、砕けた心の破片に見えた。  そんな彼女が妙に美しく見える。くすりと微笑をこぼして、赤音は指先でその目元を撫ぜた。 「よしよし。よく言えたな」 「……」 「じゃあ、聞いてやらないと、」  指を滑らせ、おとがいに添える。 「な」  動かないように顎を押さえて。  赤音は唇を重ねた。 「!?」  〈瞠〉《みは》る双瞳を間近で眺めながら。彼女の唇の甘さを味わう。  一拍遅れての抵抗は、後の祭りというものだった。首を離せないと気付くや口を開こうとし始めたのは、赤音の舌を噛み切ろうとしたのに違いないが、既に顎を押さえられた格好でそんな真似ができるはずもない。彼女に許されたのは結局、赤音が自ら離れるまで、唇を貪らせるままにしておくことだけだった。  唾液の糸が細い銀の橋となって、二人の間に架かる。 「な……なにを!」 「その様子じゃ、キスも初めてだな。貞淑だねえ」 「言われた通りにしたじゃないの! もう、放してよっ!」 「ああ。お前の頼みは聞いてやるよ。犯すのはやめだ」  女の非難を、軽く受け流して。赤音はささやきかけた。 「優しく抱いてやる」 「……っ」 「嬉しいだろ?」 「この、卑怯者!」 「キスしながら入れてやるよ。恋人みたいだろ」  悲痛な罵倒を耳にしながら、赤音は言ったことを実行した。再び頭を抱え込んで、唇を奪う。拒絶の仕草までも楽しみ、同時に、手探りで彼女の秘処を見つけてそこへ己の隆立するものをあてがう。  どうにかして腰を動かし、逃れようとする女を嘲笑うかのように、赤音は構うことなく一息で貫いた。 「――っ!」  びくん、と赤音の腕の中で細い体が震える。反応はそれきり、他にはなかった。上げられるべき叫びさえ、重なった唇に奪われていたから。一度大きく震えただけで、彼女は初めての胎内への侵入を迎える。  よほどの苦痛なのだろう。赤音が女の口を解放した時、彼女は激しく喘ぎ、呪詛の言葉も出てこない風だった。目蓋を固く閉ざし、赤音を見てもいない。力を緩めればその瞬間、耐え難い痛みに狂乱するのがわかっていて、それが恐ろしいのか。  だが何であれ、赤音の知ったことではなかった。  彼女の膣は肉棒にぴっちりと張り付き、まるで禁忌を破った罪人を逃すまいとしているかのようだったが、破瓜の血が潤滑油の役を果たして動けなくはない。赤音は少しずつ、自分自身を揺さぶるようにして動かし、彼女の中を行き来できるようにした。男茎にまとわりつく肉がほぐれ、柔らかさを帯びてゆく。  最初の衝撃から次第に醒める一方、その動作が新たな衝撃を与えるのか。あ、う、と彼女が短い苦悶の声を、掠れた音色でもらし始めていた。 「なあ、おい」 「……っ、……!」 「知ってるか? こいつはな、大概の男にとっては恋愛の目的なんだが、大概の女にとっては恋愛の過程らしい。恋愛の悲劇ってやつの大半はここのずれが原因なんだとさ。  お前はどう思う?」 「……知るかぁっ!  嘘吐きの、暴行魔っ! さっさと、私の中から、出ていきなさいよっ……!!」  途切れ途切れに、嗚咽を伴奏にして、彼女が怨嗟の言葉で応える。赤音自身を締め付ける膣の肉感と相俟って、それは彼の快感を否応なく引き上げた。  肉根を突き込む。粘膜と粘膜が擦り合い、一方には喜悦を、もう一方には痛苦をもたらす。公平ではなく、計算は合っている。奪う者と奪われる者。両者の関係は強固で、完璧で、崩しようがない。  喉の奥で笑声を転がしつつ、赤音はいたぶるような優しげな声音で、眼下の獲物に語りかけた。 「さて、どうしよう。〈膣内〉《なか》に出しちまおうか?」 「……!」 「嫌か?」 「……っ、どうせ、何を言ったって、膣内に出すんでしょう!」 「はははっ! わかってきたじゃねえかっ!」  腰を打ち付ける。肉壷をえぐる。赤音はひたすらに享楽を貪った。それは当然の権利だと確信して。疑いようもない。何故なら彼は勝者なのだから。 「お前は敗者だ! 戦に負けたら、女は戦利品として分捕られるもんだって、昔から決まってんだろ! お前をどうしようがおれの自由なんだよ! 犯して犯して孕ませようが、誰からも文句言われる筋合いじゃねえ!!」 「くっ……いや、あぁっ!!」 「おらおとなしくしろよ! 一番奥まで突っ込んで、一番妊娠しそうなところで出してやるからさぁっ!」 「あぁーっ!!」  肉茎で女を貫く。楔のように、奥の奥まで。  尖端に感じた小さなくぼみ、そこが子宮口だと当たりをつけた時、赤音は欲望を解き放っていた。  子宮めがけて、全てを注ぎ込む。  一滴も余さず、全てを。 「……ひどい……」  何もかもを受け入れて。  涙の乾いた頬を震わせ、女は最後に、そう呟いた。 「伊烏義阿はどこにいる」 「……」  いきなりそう問われて即座に赤い矢印で一点を示した地図を差し出してくるとは、問いかけた赤音自身考えていなかった。  それは誰だ、そんな男は知らない、何故そんなことを聞く、はたまた郵便局員は郵便局にいるに決まっているとか、そういった返答の方がこの場合はむしろ当然だったろう。  裸の上へ上着だけを投げやりに羽織った女が、うっそりと身を起こしつつ呟く。その内容は、赤音の予想を外していなかった。 「どうしてそんなことを聞くの?」 「用があるんだよ」 「……知らない」 「そうか。じゃあ身体に聞くしかねえな」 「…………」 「…………」  尋問者と被尋問者の対話マニュアルというものがあれば、その例文に採用されてもおかしくないような変哲のない言葉の応酬だった。  はずだ。  にも関わらず、違和感を覚えて仕方ないのは何故だろうか。  赤音に我知らず首を傾げさせたその疑問は、あっさりと女が氷解させてくれた。ふつふつと湧く怒りに〈声音〉《こわね》を震わせつつ。 「もうしたじゃないの!」 「……だよな」 「なんでする前に聞かないのよ!」 「悪い。順番間違えた」  片手をぺらぺらと振って謝る。至極当然ながら、女は全く心慰められなかったらしい。  もし視線が物理的エネルギーを有するなら、戦艦〈大帝城〉《ダイテイキ》をも撃沈できるに違いない彼女の眼と向き合うのを避けて、赤音は明後日の方角を見やった。  生憎、壁にも天井にも巧妙な答弁が書かれているということはなかったが。 「……ま、実のところ、聞くまでもなかったからな。いい加減になっちまった」 「どういう意味よ……」 「ここにゃいねえんだろ、あいつ」 「……」 「別のアジトにいるのか……普段ここにいるとしても、今はたまたま外出してたか。そういうことだろ。  これだけ時間が経っても、まだおれの前に出て来ねえんだから。あいつはどう頑張ってこき下ろしても、ノロマ扱いは無理だ」 「よく知っているのね。その人のこと」 「ああ」  知っている。誰よりも、彼を知っていると自負できる。  しかしその赤音にして、知り得ない彼の事情があった。 「だから、本当に聞きたいのはそんなことじゃねえ」  女と正対する。  射抜くような視線を、赤音は意に介さず打ち返した。  女が息を呑むのも黙殺する。 「あいつは……伊烏は、なんでお前らの仲間なんかやってる」 「……?」 「ただ金で雇われただけか?」  それならいい。それならば、許す。  だが。 「それとも、あいつにも理想とやらがあるってのか。お前らみたいに」  矛止の会は日本精神の死守を至上目的とし、その手段として瀧川商事――彼ら〈曰〉《いわ》く売国奴の〈首魁〉《しゅかい》――の討滅、そして東京独立を掲げている。  伊烏も、そのために戦っているのか。  赤音への復讐のためだけではないのか。 「そうなのか?」   そんなことは、      ――――許さねえ。  赤音はそこまで、言葉にしなかった。それでも女は何か察するものがあったらしい。  表情を占めていた怒りがどこかに隠れ、小さな笑みが交替して現れる。 「あなた、名前は?」 「先におれの問いに答えろ。その後なら名前でもご趣味でも教えてやる」  赤音は左手で鯉口を切った。  同時に視線で女の手足、耳、そして髪――つまりは斬りやすそうな部位を撫で回す。  単なる〈威嚇〉《いかく》のつもりはなかったし、それは彼女にも通じただろう。  だが女は怯まなかった。  笑みは消えない。 「私が先よ。あなたが私の予想通りの人なら、質問に答えてあげてもいい」 「……。武田赤音だ」 「ああ、やっぱり。だいたい聞いた通りの人間ね、あなた」  愉快なことであったのか。女の笑いが音声に進化して、地下室に〈木霊〉《こだま》する。  赤音にとっては笑い飛ばせることでも、聞き流せることでもない。脳裏の思考がそのまま口をついた。 「聞いた? ……伊烏にか」 「ええ。喜びなさいよ、彼の目的はあなたを殺すことだけだから。そうであって欲しかったんでしょ?」 「……」 「彼が会に加わったのは、目的のために必要だったから。私達の方でも、彼は有用だったしね」 「なんでだ。おれを殺すのになんでお前らが要る。一人でおれのとこに来りゃいい話だろうが」 「馬鹿ね、あなた。鏡を見たことある?」  不慣れな、不器用な嘲りが女の口元に上った。 「自分が模範的な武士に見られるとでも思ってる? 正々堂々と戦う人間だと? こんなことをする自分が?」 「…………」 「まさか、よね? 伊烏は復讐を果たしたいんであって自殺したいんじゃない。瀧川に守られているあなたに、一人では挑めなかった。あなたが単独の時を狙おうにも、」 「……東京は全域が瀧川の支配圏みたいなもんだ。おれは携帯のボタンをひとつ押すだけで、府内のどこにでもごく短時間で援軍を呼べる……ってか」 「そういうこと。やっとわかった? 伊烏は邪魔な瀧川を排除してくれる力を求めて、私達に加わったの」  言うだけ言い切り、女は口を閉ざして赤音を見上げてくる。  はっきり、その眼の存在を察知してはいたが。  そういうことかよ。  と、赤音は彼女に〈溜飲〉《りゅういん》を下げさせるに違いない、苦々しい舌打ちをせずにはいられなかった。  まったく、鏡を知らないと云われてもこれは〈反駁〉《はんばく》できない。  ――ボケてんなおれも。そりゃあそうだ。邪魔だってんなら、おれのまとわりつかせてるもんが一番邪魔じゃねえか。  勿論、赤音は伊烏と戦うにあたって瀧川に助勢を頼む気など露ほどもない。  しかし、伊烏の方でそう思うかは全く別の話である。  その点に思い至らなかったのは、赤音が前ばかり見過ぎ、自己客観視を忘れていた証しだった。  では、どうするべきか。  簡単だ。彼が瀧川から離れて、一人になればいい――いや。それでも伊烏は疑うだろう。自分を誘う罠ではないかと。  しかも、その疑いは結果的に事実化する可能性を〈孕〉《はら》んでいる。  姿を消すに際して事情を説明しようとすまいと、弓が赤音をそれきり放任してくれるとは考え難いからだ。  伊烏は瀧川の伏兵を警戒しながら、赤音は瀧川の手から逃げ回りながら、互いを探し出して戦わねばならないことになる。  それでは一体、何のために矛止の会を始末したのだかわからない。 (なら、どうする――――!?)  白刃の〈煌〉《きらめ》きは突然だった。  完全な不意。  それでも赤音の肉体は条件反射の瞬発を為した。  足裏が床を踏み抜き、全身を退避させる。  直後、〈掠〉《かす》め過ぎゆく刃。  同時。いやその以前、彼の右手は柄へ飛び、鯉口を既に切っていたのを幸いに、すぐさま抜き打ちで斬り下げる。  鈍い手応えが、手の内を満たした。 「……馬鹿だな。お前」  赤音は思わず、呟いていた。 「別にお前一人くらいは、見逃してやっても良かったのによ」 「…………嘘ね」  女の〈応〉《こた》え。  鎖骨から斬り割られ、地に〈臥〉《ふ》しながらの。 「あなたは殺した。きっと、必ず私を殺した。  でも、それでいい……」  両手をつき、倒れる体を支える。  その顔が、赤音を仰いだ。  女は笑っていた。  最後に見たときと変わらず、だが、凄絶さを重ねて。 「敵に敗れ、辱めを受け、情報まで洩らして……生きていられるわけ、ないもの……ね?」 「……」  〈堰〉《せき》を切られた水路のように、女の肩が血を流す。  鮮血は床に広がり、そこで、別の血と混じり合った。  彼女の下腹部から滴る、〈破瓜〉《はか》の血と。 「〈介錯〉《かいしゃく》……して、くれるくらいの、優しさは、ある? あなた」  憎悪に満ちて穏やかに、女の瞳が〈潤〉《うる》む。  一瞬、そこに赤音の姿が映った。  一瞬だけ。  背後に回った赤音に、もう女の顔は見えない。  彼女の、生きた顔を見ることは、もう二度とない。 「〈顎〉《あご》を上げろ」 「……っ」  指示のまま、女がそろそろと顎を持ち上げる。  死に怯えたのではなく、力尽きかけて、動きが緩やかなのだとわかった。  時間は掛けられない。 (最後だけ、素直に言うこと聞いたな。こいつ)  そんなことを思って。  赤音は刃を打ち下ろした。  〈血振〉《ちぶるい》し、刀を納める。  それから懐に手を突っ込み、一枚のカードを取り出して、床へ投げ捨てた。  歩き去る。  既に、人が争い合う響きはどこからも聞こえてこない。  〈戦〉《いくさ》は終わったようだった。  かくして。  東京最大の非合法武装集団・矛止の会は、一夜にして中核を破壊され、現実の世界から過去の歴史へと退場した。 「はてさて、何でしょうかねこれは」   「…………」   「ははあ。なるほどなるほど」 「どうにも気になって、見張った甲斐はありましたか。これで失点が挽回できそうです」   「……」   「この場合、『挽回』で正しいんですかねぇ。それとも『返上』ですかねぇ?」  剣術に、三源流と〈云〉《い》う。  四源流などとも云い、またその内実にも諸説あるが、ひとまずは愛州移香斎の興した陰流、中条長秀の中条流、飯篠長威斎の神道流、この三流を指してそう称するとしておく。  いずれも室町期に発祥したものであるが、無論それ以前にも剣術は存在した。  陰流の背景は詳らかでないが、中条流は中条長秀が家伝刀法に工夫を加えたものであり、神道流は日本の武の聖地たる香取鹿島の産であるだけに根源を辿れば神代にまで遡る。  さりながらなぜ三源流と呼び、その以前と以後とで一線を画するか、それは剣術の地位の〈変遷〉《へんせん》が理由であろう。  上代より、戦場の主役は弓であり、あるいは大太刀であり長巻(薙刀)であり槍であった。  いずれも刀より長い間合を制する強力な武器である。  刀は首切り道具であり、また〈平素〉《へいそ》携行する護身用具であるに過ぎなかった。  しかし火縄銃の登場により弓槍が兵器の頂点の地位から転落し、またほぼ同時に時代が動乱期から統一へ向かう収束期に移って戦争が減ってくると、刀の役割自体はそれ以前と変わらなかったが、相対的な価値が変動した。  最強かつ機械的な新兵器に必ずしも好意的ではなかった武士達は、その必要性を認める一方で、古来の武器としてただ一つ(元から高くなかった)地位を維持した刀への執着を深め、操法への興味を高めたのである。  そして三源流が生まれた――とすると、実際に生じるのは矛盾なのであるが。三流儀はいずれも火縄銃伝来以前にできたものである。  つまりは、火縄銃伝来以降に隆盛乱立した剣術諸流派を分類すると、おおむね三系統に分けられ、その〈端緒〉《たんしょ》が三源流だということなのではなかろうか。  陰流からは、新陰流、タイ捨流、柳生新陰流、無住心剣流、疋田陰流……。  中条流からは、戸田流、一刀流、天真一刀流、北辰一刀流、東軍流……。  神道流からは、一羽流、天流、示現流、野太刀自顕流、神道無念流……。  この分派乱立は、武士の時代の終わりまで続いた。  幕末期は局地的ながら刀が実戦の主役となり得た時代である。  最終的に全国戦争に突入する以前、志士の集う大都市で無数に繰り広げられた暗闘は、弓槍鉄砲の携行が法により制限されていたために、刀を中心とするほかなかったのだ。  実用性が高まれば自然、人々の関心も高まった。  またそれに先立って、外国の接近を警戒した幕府が武士に武芸を奨励する法令を度々出していたこともあり、この時代の剣術は戦国の世にも勝る繁栄を見せた。  1843年に刊行された「新選武術流祖録」は、当時存在した武術諸流のうち主なものをピックアップした書だが、これに記されている剣術流儀の数は72である。  高名なものだけでこの数なのだから、全てを記載したらいくつになっていたかわからない。  明治維新後には反動のように激減したものの、大正昭和の停滞期を経て、イシマ時代に復調し、今はまた雨後の〈筍〉《たけのこ》のような氾濫期を迎えている。  その中心地は言わずもがな、幕末京都の如くに血刃乱舞する東京府である。  府内に存立する剣術道場の数は百や二百ではきかない。  数的増加の歴史は、基本的に発展の歴史であるはずだった。  新流派の誕生、あるいは流儀の分派とは、先師の教えに飽き足らなくなり、己の工夫を加えた時に起こるものだからだ。  〈偶〉《たま》には、その工夫がただの勘違いであり退化だったということもあったろう。  だがそういった流派は程なくして〈淘汰〉《とうた》され、元の流派に吸収されてゆくのが常だった。  また、後継者が未熟で技術を継承しきれなかった。あるいはもっと酷く後継者が絶えてしまった、などの事情で技術が失われることもあっただろう。  しかしそうしたものも、全く別の流派で同じものが伝えられていたり、後世の研究者が復元したりして、なかなかに滅びはしないようだ。  故に、現在まで――この荒廃の旧帝都まで、剣術は概して発展を続けてきたと言って良いだろう。  だがそれでも、〈零〉《こぼ》れ落ちたものは存在する。  それは通常とは少々異なる形で生まれ、異なる形で失われるものだ。偉大な達人が鍛錬の末に編み出し、弟子達がやはり鍛錬を重ねて受け継いでいくものではなく。  唐突に生れ落ちた天才が、唐突に開発し、その死によって唐突に失われるもの。  一代限りの剣。  〈所謂〉《いわゆる》、魔剣。  いくつもの伝説が現代にまで伝わっている。  しかし当然ながら、伝説は実態を伝えない。その脅威を語るに過ぎない。  新当流、塚原卜伝――「〈一ノ太刀〉《ヒトツノタチ》」。  古伝の術を基にして卜伝の鬼才が大成させたこの剣は、ごく単純な技法でありながら、あらゆる敵あらゆる技を制したとされる。  わずかな弟子が継承したとも言うが、現在には(少なくとも万人を納得させる形では)伝わっていない。  二階堂平法、松山主水大吉――「〈心ノ一方〉《シンノイッポウ》」。  相対した者を金縛りにし、果ては意識まで奪ったという。個人に限らず、集団をも。  鵜呑みにするならばもはや超能力だが、要は喝声だったのだろうと妥当な推測をする向きは多い。しかし、その程度のものにしては不気味な伝説であり、謎は深いといえる。  天然理心流、沖田総司――「〈三段刺突〉《サンダンヅキ》」。  瞬息にて放つ三段の突き技。  単に突きを三回連続するだけなら誰でもできるが、その全てが一挙動のうちであり、その全てが必殺となると尋常ではない。  武神は早世を宿命づけられた一青年だけにこの絶技を許した。  魔剣の伝説は数多ある。  されど現代に伝わる魔剣は、一つとしてない。  だが。  現代には現代の魔剣がある。  魔剣の伝説に〈比肩〉《ひけん》する魔剣の現実がある。  その一つは、この廃都市に。  流儀の名は〈兵法綾瀬刈流〉《へいほうあやせかるのりゅう》。  使い手の名は伊烏義阿。  魔剣の名は――――  瀧川本社の敷地内に建てられた武道館は、さすが東京最高規模の武力集団を擁するだけあって広大なものだった。  総面積は野球場ほどもあり、内部は数区画に分けられている。  その一つに、赤音は立ち入った。  衛士の集団訓練には使われない、個々人の自主訓練用の区画である。その用途設定は厳格なものではないが。とりあえず今は、場内はまばらだった。  板張りの床を鳴らす足音を聞いてか、その数人が顔を向ける。  そしてすぐに背けた。そろって、何も見なかったとでも言いたげに。  彼らが赤音をどう思っているかが知れる〈挙措〉《きょそ》だったが、それは赤音にとっても不都合ではない。  標準装備の鉄棍で打ち込み稽古をしている長身の衛士の後方に、自分の場所を確保して、赤音は正座した。  奥に〈設〉《しつら》えてある神棚の方角を見て、鞘ごと抜いた刀を膝前に置き、〈刀礼〉《とうれい》を済ます。  立ち上がって、抜刀。  軽く息を吸う。  右足を前に、左足を後ろへ下げる。  刀を背に回す。  肩、肘、手首の力を抜く。  息を吐き、右足を前に進め、刀を縦一文字に振り下ろす。左足を引きつける。  左足を後ろに引く。右足をひきつける。  息を吸う。刀を中段にとる。  刀を振りかぶる。〈峰〉《みね》が背に触れるまで。足を進め、振り下ろす――  準備運動であり基本稽古であるこの素振りをするに、赤音が特に注意することは、腕の力を抜くという一事だった。  彼が学んだ刈流において、刀を振るのは腕の力ではない。  全身の、体重の力だ。  足腰が進むことで体重が移動する、その力を剣に伝達し、斬撃を為すのだ。  腕は単に力の伝達経路であるに過ぎない。そこが独自の力で動けば、むしろ邪魔になる。だから腕の力は抜くのだ。  腕力よりも、体重移動力の方が圧倒的に強大である。いわば身体の一部位と全身との比較なのだから。  とは言うものの、これは彼の流派特有の思想に過ぎない。他流儀にはまた別の方法論が存在する。  刈流ではあまり重視しない腰の捻り、回転を駆使して剣を操る流派は多い。  重視しないどころか否定している腕力をフルに活用し、かつ高度な剣術――おそらくは戦場〈介者〉《かいしゃ》剣法の風を色濃く残すものだろう――もあると云うが、それには赤音はまだ出会ったことがなかった。  刈流では、修行の初期段階で腕の脱力を徹底して叩き込む。  初級者の中には、腕の力を本当にすべて抜いたら刀を振れるわけがないと考える者が少なくなく、それは確かに間違いではないが、腕の脱力を意識しない限りは体重移動の力を使えないのだ。  肉体がその〈論理〉《ロジック》を持たないからである。  腕力を奪われながら、しかし剣を振れと命令されて初めて、肉体は不条理な要求を満たせる方法を模索し、体重移動力に行き着く。  必要が発明を生む、という真理だ。  まれにこうしたプロセスを経ず、最初から全身の力を駆使してしまえる者もいるが、それは「天才」という札を貼って脇にのけておくべきであろう。  普通はこの意識改革を必要とする。赤音自身もそうだった。  素振りをする。  腕の力はどこまでも殺す。  前へ進む、五十数キロの体重が移動する力で剣を振る。  腕の力を使うとすれば、振った剣を止める時だけだ。  この時も、指を軽く締める程度にしか力は込めない。心持ち、左手は引き右手は押すようにする。  〈茶巾絞〉《ちゃきんしぼ》りなどの名で呼ばれる手の内の技法だが、これで充分、勢いの乗った剣を止められる。  腕力の使用を刀を支えるだけ、刀を止めるだけの最小限度に抑え、足腰で刀を振れるようになると、刈流では基礎ができたと〈見做〉《みな》された。  百本ほどで、素振りを終える。  体慣らしとしてはこの程度で良かった。その日の調子の確認もできる。――まあ、普通。  疲労はなく、呼吸の乱れもない。赤音はそのまますぐに技の稽古を始めた。左足を前にし、右足を引き、刀は右肩の上へ担ぐようにしてとる。  刈流では、〈指〉《サシ》と呼ばれる〈構〉《かまえ》。彼はこれを最も好んでいた。  状況を仮想する。  敵は一人。  こちらに向けて構えている。剣を頭上に振り上げた上段ということにしよう。こちらの喉元へ向けた中段でも、膝先へ向けた下段でもいいが。  間合は近い。  左肘を軽く突き出すだけで斬られる。  突き出す。  敵が斬る。斬ろうとする。  勝機、先。  ひゅ、と細く鋭く息を放って、赤音は右足を蹴った。  体が前へ飛び出し、体重移動の力が発生する。  それに剣を連動させる。  左足はしっかと床を踏みしめる。  これはいわばメトロノームの軸だ。これが固定されていないと、メトロノームの針つまり身体はどこかへ飛んでいってしまう。〈折角〉《せっかく》の力も逃げてしまう。  逃がしはしない。前へ進む身体に対して左足はむしろ引き込むように使い、前方ななめ下へ打ち下ろすエネルギーをつくる。  打ち下ろすという意識が重要だった。体重を上から下へ落とすという意識が。  これあってこそ、刀は単なる威力に留まらぬ破壊力を宿す。  刈流のこの剣は、敵の防御を打ち砕くことを、つまりは敵の剣で受け止められてもそれを吹き飛ばして肉体を断たんと欲するものだ。  それは夢想ではない。この技術が内包するロジックは冷徹に実現の可能性を提示する。  人間の肉体が高速で落下するエネルギーを、余さず有する剣撃があるなら、そんなものはどうしたところで受け止められはしないのだから。  打ち下ろす行為は、必然、上体を前屈みにさせるが、これは斬撃の最後の段階で腰をぐいと前へ進めることで姿勢修正をする。前屈みのままで斬り終えると、そこから即座に次の行動へ移らねばならなくなった場合に支障をきたす。  ――――刈流 〈強〉《キョウ》   眼前の空間を、右上から左下まで切り抜ける。  敵は攻撃を仕掛けようと決めてから実際に攻撃するまでの硬直瞬間をつかれ、為す術なく左肩口から右脇腹まで斬り断たれた――と仮想する。  敵が誰であれそうなったろう。今の機に、今の剣速で挑まれて、回避を成功する者などいないと赤音は確信できる。  例えあの男でも――まあ彼ならば、その攻撃硬直瞬間を〈看破〉《かんぱ》できるかということがそれ以前の問題となるが。  刈流において、剣の威力は速度に正比例する。  剣の運動はイコール身体の運動であり、その運動エネルギーは運動速度の上昇に応じて高まる。  運体の速い剣は重い。  逆に言えば、男性として軽量の体でありながら一撃必倒の威力を師に認められるまでに練磨した赤音の〈強〉《キョウ》は、すなわち神速でもあるという事。  構え直す。同じく指。  状況設定。  敵、一人。  長身に加え大振りの刀を持ち、こちらよりも長い攻撃間合を有する。  こちらの剣が届かず、自分の剣は届く距離から攻撃しようとしている。  防御を考慮している様子はない。  勝機、先の先。  右足で踏み込み、切り下ろす。  基本的には強と同様。  だが、左足の運用法を、技の中盤、刀の切先が天頂を向いたあたりで変化させる。  引き込むように使っていたものを、押し出すようにする。膝を伸ばし、足首を伸ばして。  体が前へ出る。大きく、遠く。  赤音の外観からみて妥当といえる攻撃距離を確実に〈逸脱〉《いつだつ》するだろうところまで、剣は到達を果たす。  これには難点があった。  先のたとえを用いれば、この行為はメトロノームの軸を緩ませるものだ。動きは乱れ、運動エネルギーは逃げる。威力と速度は目減りを避けられない。  しかしその欠点も、敵の完全な不意を打てるのなら帳消しにできる。  ――――〈飢虎〉《キコ》   相対した顔が〈唖然〉《あぜん》たる表情を凝固させ、倒れ、死にゆく様を仮想して、赤音は技を終えた。  額に浮いた汗を手の平で拭う。  実戦を想定した技稽古は疲労が激しい。わずか二度で、素振り百回の倍ほどは体力を消耗していた。  息をついて、ふと。赤音は視線を感じた。どちらかと言えば〈剣呑〉《けんのん》な。  眼球を動かさずにその方向を見やれば、作務衣の巨体がある。 (いたのか、八坂……)  稽古は、あまり人に見られたいものではない。  飢虎のような奇襲の技は、知ってさえいれば簡単に破れるものだ。知られていないことが、強さの肝なのである。  とはいえ、八坂は既にこの技を実戦の場で見たことがあるはずだった。今更気に病むことでもなかった。  呼吸を整え、構を戻す。  周囲を確認した。次の技は場所を少し広く使う。邪魔になる物や人間がないかどうか。ない。  状況設定。  敵、一人。  前方5メートル。  既に刀を構え、慎重に近づきつつある。  赤音は腰を落としたまま、即ちいつでも攻撃に移れる姿勢のまま、すすす、と早足で間合を詰めた。  距離5、4、3、2――  一足一刀の間に踏み込む。敵にぎりぎり、斬られる間合。 敵が斬りつけてくる。   と、見取って即座、前に出ていた足で床を踏み押し、滑るように短くバックステップ。  剣を避ける。  勝機、後の先。  袈裟懸けの形に斬り下ろす。ここはやはり強の運体。  虚しく突き出された格好の、敵の両腕を断つ。     ――〈奔馬〉《ホンバ》 (……斬れたか?)  思う。遅い、と。  この技には構造的な欠陥が存在する。  最初の歩法、早足の接近は、敵に威圧感を与えると共に思考時間を奪うことで、攻撃範囲への踏み込みが後の先を狙った誘いであることを隠す目的がある。  だが前方への急進、後方へのステップ、前方への攻撃と、運動ベクトルがころころ転ずることは、そこに遅滞の発生を不可避とした。  修練によってある程度は改善できるが、遅滞そのものを無くすことはできない。  赤音は、ある程度以上の身体能力、反応速度を持つ者――瀧川衛士や矛止の会の剣客以上の武人を相手とした場合に、この技で仕留め切る自信はなかった。  今は亡き彼の師でも難しいだろう。  構造的欠陥なのだ。相手を選んで使え、ということだ。  ……しかし、その欠陥を、誰もが考えなかった方法で解決し、無敵の術にしてしまった異才もいる。  そのロジックは、他者には無意味だった。  理解は出来ても実行ができない。赤音には、いや彼以外のあらゆる人間には――――  想念に没頭しかけていることを悟って、赤音は頭を振った。  稽古を再開する。  〈春水〉《シュンスイ》、〈沓掛〉《クツカケ》、〈駄犬〉《ダケン》、〈踊〉《オドリ》、〈打ち鐘〉《ウチガネ》……  刈流兵法には多くの技があり、それぞれに想定する状況が異なる。  敵の数、配置、得物、構、行動、勝機。  それら状況想定を念頭に置いて行わねば、技の〈形稽古〉《かたげいこ》には何の意味もない。  特に勝機は重要だ。  どういう勝機を〈衝〉《つ》くという想定をしない技は、勝てる確証がないのに仕掛ける技ということになり、意味がない。  技は勝てる機に勝てる行動をするマニュアルなのだということを、常に忘れるべきではなかった。  刈流が戦闘理論において定める勝機は三つである。  〈先の先〉《センノセン》、〈先〉《セン》、〈後の先〉《ゴノセン》と云う。  先の先とは敵の不意、油断、意表。  先とは敵が攻撃しようと意識を集中させた瞬間、つまり攻撃の直前あるいはゼロ地点。  後の先とはその後、敵が攻撃行動にある最中。  戦士が戦闘中に防御力を失う機をこの三種に分類したのだ。  これは別に刈流独特の思想ではない。考え方としては、特に〈変哲〉《へんてつ》のないものだ。他流にも類型が見られる。  三機のほかに先の後などを加えてより細分化した解釈をする流儀もあり、また同じ語句を用いながらも具体論は語らず観念的解釈のみ示す流儀などもあるらしい。だが実用面においてはそう異なるものでもないと思われた。  これらの勝機は、自然発生を待つべきものとは違う。  自力でつくるべきものだ。  じっと守りを固め、敵の疲労による隙を、あるいは焦っての突出を待つというのも一手ではある。  だがいつ来るかわからぬ勝機より、我が手で引き出した勝機の方が、確実に衝きやすいのは道理だろう。  また、先に忍耐が尽きるのは敵と決まったものでもない。  正面の敵から先の先の勝機を奪おうというのであれば、必要なのは隙をつくらせる策、裏をかく策だ。気合を発する、通常より遠い間合から撃つ、フェイントを仕掛ける、セオリーを外した形で攻める、等々。  あるいはもっとえげつなく、降伏を口にする、敵の背後に伏兵の存在を〈騙〉《かた》る、などの〈奸計〉《かんけい》が有効なこともあろう。  後の先の機を狙うなら、敵の攻撃を引き出さねばならない。それにはこちらが隙を見せる必要がある。  疲れた風を装い、もしくは何かに気を取られた風を装って。また、敵が先の機を狙っているようならば、攻撃の気配を偽装するのも良い。  そうして誘い出した敵の攻撃を〈躱〉《かわ》し、防いで、すかさず反撃して勝つ。  防御と反撃、それが一体であれば最良だ。  例えば、上段から剣を振り下ろしてきた敵の腕を、迎え撃って切り上げるといったように。  その防攻一体の極致が、先の機を衝くことだと言って良い。  後の先同様に敵の攻撃を誘いながら、実際に攻撃が起こる前に潰そうというのだから、そういうことになる。  それは至難だ。  先の先にせよ後の先にせよ、その勝機ははっきりと目に見える形で現れる。  しかし先は、攻撃の〈兆候〉《ちょうこう》という〈曖昧〉《あいまい》なもの。  目に見える形があるとしても、姿勢のわずかな前傾とか、目配りであるとか、呼吸の調整だとかの微細なもので、看破するのは容易ではない。  看破したと思って仕掛けても、勘違いであれば敵に後の先を与えることになり得る。  勘違いでなくとも。敵の攻撃兆候を見取ってから攻撃するのだから、これは最初から差をつけられたレースに等しい。  勝つには敵を確実に上回る攻撃速度が必要となる。  それが無ければ負けるか、相討ちになるだろう。  技量未熟の者が先の機を狙うのは、〈正〉《まさ》に無謀。  三つの機。  かかる理論に基づきこれを取り合うならば、戦闘は騙し合いの様相を〈呈〉《てい》する。  敵に見える隙は、本当に隙か。  今まさに斬り掛かってこようとしている敵は、本当に来るのか。こちらの先制を誘っているのではないか。はたまた、斬ると見せかけて突いてくるのではないか。  勝負に勝つには己の真意をひた隠し、敵の真意を見抜かねばならない。  ――そういった精神から、一次元上のところに、〈無想〉《ムソウ》という境地がある。  何も考えず、全てを知る。  己を無とし、世界を自己に〈包含〉《ほうがん》する。  敵は我の心を測れず、我は敵の心をつかめる。この境地にあれば、もはや敵に敗北することはない。  いや、突き詰めれば、敵と戦う必要さえなくなる。全てを知れば、敵を避けることも、敵を作らないことも容易だ。  世界と己との調和。  刈流ではその領域へ至って、修行の完成とする。  ……赤音は無想の境地からは程遠い。  生涯、行き着くことはないだろう。  戦闘に際して、赤音が多く〈企図〉《きと》するのは先の先、そして先だ。  後の先はあまり好まない。性格的なものが多分だが、それだけではなかった。  己から誘い、故意に見せた隙に打ち込ませるにしても、敵に一度攻撃の機会を与えることには変わりない。  その攻撃が彼の予測を超えたものになることも有り得た。  赤音の使う飢虎のような、通常と異なる間合あるいは軌道を有する技法は、どこの流派にも大抵ひとつふたつはあるものだ。  相手にイニシアチブを渡さず、先手を打っての必勝を赤音は好む。  隙を見出して先の先を衝く。攻撃を釣り出して先の機を衝く。反応と剣速において卓抜する彼は先の勝機も難なく取った。  だが、後の先が必要になる場合もある。  例えば、勝機がどうのこうのうんぬんかんぬんなどは考えもせず、戦いはパワーとスピードの比較のみによって決まるものと思い込んで〈遮二無二〉《しゃにむに》掛かってくるような手合い。  例えば、先手を好む赤音の性向をよく知っている手合い。  そしてまた、周囲の異変などのために彼の気が〈逸〉《そ》れたところを打ち込まれてしまった場合。  そういう際、赤音は即時の判断で後の先を取った。  その柔軟性は彼固有のものであるらしい。  三つの勝機を同時に企図しようとすれば、大抵は意識が〈散漫〉《さんまん》するだけに終わる。そのため通常、戦う者は、まず敵の先手を警戒し(つまりは後の先を狙い)、敵に攻撃する様子がないと見ると、先の先の機を待つ。あるいは隙で敵の攻撃を釣り、先もしくは後の先を取ろうと図る――といった心運びをする。  そうやって考えることを常にひとつに絞っていれば、意識は集中力を欠くことがない。  しかし、期待を裏切られた場合は。例えば先の機を打とうとしていたのに遅れ、敵の攻撃を許したりすれば、そのまま為す術なく斬られるのは避け得ない道理。  この点について、赤音は即応能力という特性を持つ。  緊急事態に際して、驚くなどという無駄なプロセスを彼の肉体は経ない。そんなことは役立たずの脳味噌に勝手にやらせておき、反射神経の指揮下に〈隷従〉《れいじゅう》して最適の行動を最速にて為す。  先手を打つつもりでいた赤音の機先を制して、繰り出された敵の剣撃を――――躱し、即座、その空振りの隙をついて斬る。例えば、このように。  結果として、無想の境地にある剣聖に近いことが彼にはできた。このため、先手を好む〈嗜好〉《しこう》が弱味になったことはない。  だが、それはあくまで結果が似るだけなのだ。鍛錬の果てに至る武人精神の極点とは根本的に違う、ただの先天的な性質でしかない。  剣聖ではなく剣聖まがいに過ぎない赤音では、及ばぬ局面があるはずだった。  赤音は大概の相手からなら、先もしくは先の先の勝機を取られても即応性と剣速とで奪い返せると思っている。  だが、後の先はどうか。  返す返すも戦いとは騙し合いである。  必勝の機をつかんだと思って仕掛けたらば、それが実は後の先を狙った敵の罠だったということも、あるかもしれないのだ。  さすがにそのような状況下では、赤音の特性も〈益体〉《やくたい》なかろう。  敵がこちらの攻撃を受け止めてくれるのならいい――ならば少なくとも体勢は押し崩して、後の先など取らせない――が、受け流され、また回避されてしまえば、どうしようもなく隙をさらす。  そうならないべくするには、敵の意を正しく洞察する以外になかった。かつて赤音は、実戦でその見極めをしくじったことはない。だから生きている。  しかし未来においてもそうとは限らない。  赤音の眼を振り切る技量の持ち主が現れるかもしれないし、あるいは赤音と同じ即応能力の持ち主が現れるかもしれない。  ……いや。  必ず現れる。  その時はどうするか。  より強い者に敗れるのは当然と、死を受け入れる。そういうものだがそれはそれとして、赤音には一つ別の思案もあった。  ――後の先に対して先を取る。  赤音は再び、構を指にとった。  状況設定は、強と同等。  肘を突き出して誘う。  敵が攻め来ようとする。  その機先を制して袈裟斬り。  しかし罠だった。敵は退いて避けた。  後の先を取られる。敵が袈裟懸けに斬り下ろしてくる。  その前に、  左足で踏み込み、その運体力を使い、腕を捻って斬り上げる。     ――〈小波〉《サザナミ》  〈淀〉《よど》みなく繰り出す連撃の技。一度目が〈偽攻〉《フェイント》ということはなく、どちらとも殺傷目的である。  一の太刀で斬れれば良し。防がれたらば押し切る。躱されたらば二の太刀で仕留める。  今は敵が一撃目を後方に退いて避けたことを想定していたが、彼の右側に敵が回り込んできてもこれは斬れる。  左側に回りこんできた場合は、そもそも一撃目を避けきれていまい。完全に逃避を図ったならともかく、後の先を狙うほどの近距離にあるならば。  まさしく必殺のための剣だ。  が。 (負けるな。今のじゃ……)  それだけに、完成は至難だった。  まず左足を軸に右足を踏み込んで一撃、次いで右足を軸に左足を踏み込んで二撃。  そのプロセスは赤音であっても、連結点にタイムロスの発生を避けられなかった。  敵の斬り下ろしの方が、確実に有利となる。  難点はそれだけに尽きない。  返しの斬り上げは、急ぐとどうしても角度が低くなり、胴を切るものになりがちである。  胴を切られても人は即死しない。  敵が上から斬り下ろしにきていた場合、先に胴を切っても敵刃は止まらず、相討ちになることがあると伝え聞いている。  敵を逆袈裟に、あるいは腕を切り上げるように角度を高くしようとすれば、右手の捻りがきつくなり、更に動きを遅らせる。体のバランスも崩れる。  また、一の太刀の終わりの時点で右肘がほぼ伸びきっているため、二の太刀は肩だけを回転軸にして刀を振り上げねばならない。これも無論、動きを遅め、体勢を揺さぶる。  致命的な欠点と言えた。  二の太刀は一の太刀で仕留め切れない難敵、一の太刀を避けるや即座に反撃を加えてくるような達人を斬るためであるのに、それが遅れたり崩れたりするのでは意味を成さない。 (まあ……稽古するしかねえよな)  自分の胸にぼやく。  必殺の剣などという都合の良いものが無いのは当然のことだ。  不完全な技を、稽古を積んで鍛え、理想に近づけていくしかない。  そういうものだ――あの男のように、飛躍して理想に手を届かせ得る、天才という翼を持つ者を除いては。  無いものねだりは〈詮無〉《せんな》いことだった。赤音はそれよりはましなはずの、剣を振る行為に専心した。  二度、三度。  十度、二十度と繰り返す。  汗が滴り落ち、髪を湿らせた。それでも、理想の速度には到底届かない。  ただ剣を二度振るだけなら簡単なのだが。剣は常に足腰と連動しなくてはならない。  そうでなくては人の肉体を斬る力と速度を刀は得ない。  しかし足腰と連動すると、斬り下ろしと斬り上げ、この二動作の連結が要するタイムロスが大きくなる。  あるいは、一の太刀を捨て技にするなら――やりやすくはなるだろう。だがフェイントなど見抜かれたら終わりである。  二度の攻撃は、いずれも重いものでなくては意味がない。かつ、敵の反撃を許さぬ迅速なものでなくてはならない。  無理難題にも程があろうというものだった。 「だよなァ」 「何がだ」  嘆息もろともの呟きに、それが憮然と応じる。  赤音は納刀し、稽古の手を休めていた。練習台が動いてしまったのだから、仕方ない。一息つくにもいい〈頃合〉《ころあい》であったし。  正面に立つ若い衛士の〈体躯〉《たいく》を見上げ、片方の肩だけすくめて見せる。 「とろくせえよな、って話だよ」 「あー。確かにトロい。だから腹立つんだ……そんなもんで何度も斬られてるこっちはな」  と、吐き捨てた衛士の口元は、続けて唾も吐きたげだった。実際にそうする人間なら、衛士団に籍を持てまいが。  どうやら彼は、赤音の練習台に使われていた――赤音は前方で稽古していた彼を仮想敵の位置に据えていた――ことが不満であるらしい。  裏通りのチンピラなら震え上がるだろう白眼で赤音を〈睨〉《ね》め付け、手に持つ棒で自分の首筋をぴたぴたと叩く。 「鬱陶しいったらありゃしねえ。社長の傭兵だかなんだか知らんがさ……その程度の腕で何の役に立つってんだよ? ん?立ちゃしねえだろ、邪魔なんだよてめえ……」 「もらった金の分は働いてるつもりなんだが」  赤音は適当に答えた。傭兵の相場などあって無いようなものだから、実際はどうだか知れない。一殺いくらの出来高制なら、わかりやすいのだろうけれども。  前髪をいじりながら周囲を見回す。  他の衛士らは皆〈一様〉《いちよう》に、彼らの方を見ていない。不自然な程。  つまりは、気付きつつも関わり合いを避けているのだ。  八坂は最初から目を向けてきているが、介入の意思がないという点では変わらなかった。無言で眺めている。  赤音にならってあたりを見渡し。その態度は自分を支持するものだと、若い衛士は――どうも入団したばかりの新人らしい――思ったようだった。  怒りに混じって余裕の笑みが浮かぶ。 「働いてる? そりゃどこでだ。テロリストども相手の戦場か?違うだろ。社長室のベッドの上だろ。社長はそっちのご奉仕に金払って下さってるんじゃねえのか、〈色子〉《いろこ》」 「……案外、的を射てる気はするな。その見解」  すこぶる本気で、呟く。  それを、だが衛士は彼の怯みと見たらしい。表情を覆う〈軽侮〉《けいぶ》の色が決定的なものになった。 「はん。そーだろそーだろ。だと思ってたんだよ。じゃあこんなとこでチャンバラごっこしてる必要もねえよな? さっさと帰れ」 「帰るよ。もう少しやってからな」 「邪魔だっつってんのが、」 「ほら、寄越せ」  怒声を発しかけた衛士の鼻先に、手を出して促す。 「あぁ?」 「その木刀、おれのなんだろ? やんならさっさとやろうや。色子は衛士よりか忙しいんだからよ」  彼が左手に携えている木刀を見て言う。  最初から、この男が何をしたくて絡んできたかなど分かりきっていたのだ。  男の右手には〈樫〉《かし》の棒がある。  木刀と木棍。真剣と鉄棍よりは平和的だが、致傷力を、その気になれば殺傷力をも持たせられるという点で違いはない。 「……ふん。意地張るじゃねえか」  意外そうに呟きながらも、衛士は木剣を投げ渡してきた。  そして一歩、二歩と下がる。  赤音はその場で、軽く木刀を振った。  赤樫製である。白樫に比べて折れやすく思われ、あまり好まなかったが、この際は些事だった。  重さ、長さは過不足なし。  そうして〈仕合〉《しあい》の体裁をとる二人の周辺に、気配が揺れていた。無関心を装いつつも興味を抑えきれずにいるのだろう。  壁の姿見を利用して様子を見ている者もいる。 「言っとくが、てめえから売ってきた喧嘩だからな」 「はいはい」  せこく予防線を張る男に、赤音は〈嗤〉《わら》って認めてやった。  くだらない。  そんな念押しなどせずとも、彼は赤音を叩き殺しさえすればいいのだ。  それで彼の正当性に異を唱える口は無くなる。まさか、周りにいる連中が赤音の擁護をするはずもないのだし。  その態度が気に障ったか、若い衛士は頬を紅潮させて、長棒を振りかざした。  棒術というより剣術的な構。  相手を打ち潰すことのみを考えた構をとる。  そのような体勢になると、衛士の大柄さは強調された。大きいだけでなく、よく鍛えられていることが一目でわかる。流石に府内最精鋭の一員たるだけはあった。  赤音と並ぶとまったくもって大人と子供、外見上だけでなく性能上もそうだろう。肉体の比較において、赤音の勝てる要素が一つでもあるとは考え難い。  だが、  力を力で凌ごうというのなら技はいらず、  力を封じて勝つために技は〈在〉《あ》る。  赤音は指の構をとった。  そして、すぐに動いた。この相手に呼吸を計る必要はない。  右足を踏み出し、体を飛ばし、その運動力を剣に伝える。  木刀が打ち下ろされた。真剣に比べて刀身が太い分だけ速度は落ちるが、些細なことに過ぎない。 「――しッ――」  衛士の体が滑る。  滑る。姿勢をそのまま、ごく短距離のバックステップ。〈強靭〉《きょうじん》な足腰があって初めて可能な〈業〉《わざ》だ。  反応も速い。最初から、赤音の手を読んでいたためだろう。  男の長身が移動し、木刀は空振りする。 「しゃあッ!!!」  衛士が跳ね戻った。  紺の制服によろわれた肉体が、〈膨〉《ふく》れ上がったように錯覚する。それほどの〈威迫〉《いはく》。  上空から襲い来る棍棒は暴走車に等しく。  防ぐ術はなく、避ける術とて〈最早〉《もはや》ない。  赤音は肩口を打ち砕かれ――――  その場に倒れ伏して泣きながらのたうち回るところをもう二三発殴られると土下座して謝り散々に罵倒されつつ命からがら逃げ出して、衛士は先輩方から絶賛を浴び八坂にも認められて奥義爆砕棍とかそんな名前の必殺技を伝授されてその後ますます活躍し弓の目にも止まってたちまちハートをゲットして空席だった社長愛人の席に納まりやがて結婚して遂に社長になったりなんかしましたとさ。  ……とは。  赤音が思うに、若い衛士の未来予想図ではそうなっていたかもしれないということであって。  現実は少々、異なった。 「ぐ……ぎぃ……」  絞め殺される豚じみた唸りを、赤音は頭上に聞いていた。  その口は声のみならず〈涎〉《よだれ》をも、ぼたぼたと零している。耳にも目にも汚らしいこと〈甚〉《はなは》だしい。  しかし、それも無理からぬ。  肘を打ち折られても全く平気ではっはっはっと綺麗に笑える人間がいたら、その者こそ最優先で病院に送るべきだろう。  なぜ、と衛士は問いたげだった。  だが赤音に言わせれば、問うまでもないはずだった。  衛士の打撃の前に、左足を踏み込んで放った赤音の二の太刀が、その腕を下から砕いた――見えたままの事実が真実である。  先刻までずっと、稽古姿を披露していた技であろうに。  それとも、あの遅々とした技を食ったことが疑問なのだろうか。それもまた、馬鹿馬鹿しい。 「さっきのは修練だ」 「…………」 「とろい技をもう少しとろくないようにできねえか、あれこれ考えて研究しながらやってたんだよ。余計なことしてなけりゃ、これくらいには速くやれる」  男が尻をつく。  そして、とうとう耐えかねてか、絶叫した。  その様を見下ろしもせず、赤音は沈思する。  やはり、遅い。  二度目の踏み込みと手首の返しに時間が掛かり過ぎている。バランスも崩しており、危うくすっ転ぶところだった。  今は相手が油断していたから〈成就〉《じょうじゅ》したが、本来このレベルの敵手に使っていい技ではない。勝率が低過ぎる。  更に鍛錬を積み、速度を上昇させなくては駄目だ。  いや。それだけでは不足か。  新たな工夫を見出し、技の運動効率から上昇を図らねばならないかもしれない。  しかし、どんな工夫が有り得るだろう……。  赤音は思索に沈みつつ、あらぬ形に折れ曲がった利き腕を抱えて泣き喚く男、それに駆け寄る同僚ら、苦々しげな八坂などを全て置き去りにして、武道場を去った。  昼食は、外でとることが多い。  わざわざ出掛けずとも、弓の部屋でごろごろしていれば勝手に用意はされる。どこの店屋物よりも上等な食事がだ。あえてそれを避けることに、切実な理由は何もなかった。  単に、昼は一人で安い物を食う方が赤音の趣味に沿うというだけである。  だから、店も高級なところは選ばない。 「相変わらずシケてんな……シケてるって言葉、わりと気軽に使っちまうけど、この店はほんっとうにシケてるよな」 「だまれ社会的廃棄物」  店に入るなり思わずこぼれた赤音のごくごく素直な感想に、笑顔より〈三白眼〉《さんぱくがん》の似合う店員は似合いの表情で唸り声をあげた。 「来るな来るな来るなっつってんのに何度も何度も何度も何度も来た挙句、言うことがそれかいっ! 肉蕎麦の材料にするぞあんた!!」 「それだけは許せ」  立ちはだかるように、というか実際に立ちはだかっているのだろうが、赤音の針路を〈塞〉《ふさ》ぐ娘を脇にどける。  見渡せる限りの店内には、いつも通り客がいなかった。 「死ぬことはなんとか我慢できても、ネズミの代わりってのは絶対にイヤなんだよ」 「あはは。ねえあんた。その震えが来るほどつまらない冗談、よそで言ってないでしょうね? 言った? ねえ言ったの?」 「なんで割り箸へし折って先をとがらせて握り締めてんだ?」 「いいの気にしないで。あたしの人生の一大悲劇を乗り越えるための道具なんか」 「お前の人生の悲劇はこの〈完膚〉《かんぷ》なく流行らない蕎麦屋であって、ここからの解放ってのはいずれ訪れる最終的決着悲劇しかないだろうから、多分なにやったって無駄なんじゃねえの?」 「そこまで言うか!!」 「なんでおれこんな店に来てるんだ?」 「聞くなっ! 知るかっ! 来るなっ!」 「きっとぼくは君のことが好きなんだね……」 「吐くよ?」 「人類が恋愛という概念を手に入れて以来最悪の断り文句じゃねえかな、それ」  壁際の席に座る。  客がいない蕎麦屋の長所は、どこでも好きな席を取れるということだ。それに尽きる。  〈寂寞〉《せきばく》たる店を特に寂寞たる姿で見られる角の席が、赤音の好みだった。  傍らまで近づいてくる娘を見上げ、水を〈寄越〉《よこ》せ、注文を取れと視線で促す。  全く通じなかった。  彼女はなおも、があがあと言い〈募〉《つの》っている。 「これでも加減してあげたのよ。本気になったらこんなもんじゃないんだから。あんたみたいな掃き溜めのダンゴムシ男は、あたしの好みから一番遠いんだからね!」 「……なんでこの街の人間はどいつもこいつも、美男子を素直に賞賛するってことができねえんだ? 眼が玉子なんじゃねえのか?」 「そりゃあんたでしょ。それも腐ったタマゴ。あんたの眼を見てるとほんとーにそう思うもの、ああ神と両親と子孫の名誉にかけて、こいつ絶対クズだなって」  自分の発言に感じ入ったように、うんうんと頷く娘。  赤音は少しの間、天空から雷が降ってきてこの蕎麦屋を抹殺しないかと待ってみたが、その様子はなかった。かつて一度たりと姿を見せたことのない店主がこの時だけ熱した土鍋を手に現れることも。 「まったくどーしてあんたみたいのがいつまでものさばってんのかしら。瀧川商事も、矛止の会なんかよりこういう奴を抹殺してくれればいいのに」 「いいわけねえだろ。府内随一の治安戦力が、社会の害虫を差し置いて純真な一青年を弾圧しててどーする」 「あんなの、別に害でもなんでもないじゃない。あたしらを狙って襲ってくるわけでもないし。そりゃ街中でチャンバラやらかすのは鬱陶しいけど、それ言ったら瀧川衛士だっておんなじことだしね」 「そういうもんか?」 「ま、テロ集団なんて無いに越したことはないから、潰してくれたのはせいせいしたけど。またすぐに新しいのが生えてくるでしょ、どうせ」 「そりゃそうだろうな」  赤音は〈首肯〉《しゅこう》した。  実際、彼女が言う程度のことでしかない。当事者以外の人間にとって、矛止の会の壊滅など。 「それより、あんたのどこが純真よ。  あんたは絶対、女を不幸にするタイプ。たしかにツラはそこそこ見られるから、ばかな娘には好かれるんだろうけど。あたしの観察力はごまかせないんだからね」 「いいから注文取れよ」 「あんた、何様のつもり!?」 「客。客」 「あーそーでしたっけ。じゃあさっさと言って。高いの頼んでよ、サーロインステーキ蕎麦とか」 「無えよ」 「1万でつくってあげる。うちのかけそばと吉乃屋の牛丼で」 「……誇大広告にも程があるんじゃねえのか、そのメニュー。利益率何百パーセントだ?」 「うるさいなー。この店、あんたみたいのが来るせいで客の入りが良くないのよ。稼げるところで稼がせなさいよ」 「いや。この店が流行らんのは」  赤音は冷静に指摘した。彼女の肩を指差し、 「人に飯食わすとこで動物飼ってるあほのせいだろ」 「……」  くるっぽー。  沈黙の空気を、鳩の投げやりな〈囀〉《さえず》りだけが揺らした。  一分ほども、彼女は獅子座流星群を消えるまで眺めるような表情を虚空に向けてから、 「注文は?」 「たぬき」  がらんとした蕎麦屋は、居心地は良かった。  30分もすれば飽きるに違いないが。昼食の時間を過ごすだけなら丁度良い気分転換になる。  時おり奥から響いてくる、店員の立てる騒がしい物音や鳩の間抜けた声も、BGMだと思えば〈耳障〉《みみざわ》りでもない。  天井を見上げて、赤音はふと苦笑した。  娘に見られたら〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく気色悪がられたことだろうが、幸い今は壁が隔ててくれている。  天井にはみっともない穴が開いていた。  直径10センチほどの、虫食いにしては大きな穴だ。あの娘が掃除中に突き破ったのかもしれない。  常識に照らして考えて、この店内を清掃するに〈箒〉《ほうき》やモップをどう使っても天井を打つことはなさそうだったが、彼女ならばやり遂げる気がした。  厨房からの轟音はおよそ蕎麦をつくる過程で発生しているとは信じ難い。  それが、〈可笑〉《おか》しかったわけではなかった。赤音が笑ったのは、そんな穴に今まで気付かなかった自分である。  常連を名乗っていいくらいには――店員は断固として認めまいが――通い込んでいるのに、どうしてか。  理由はわかっていた。 (余裕……か。やけに、落ち着いてやがる……今のおれは)  見えるものが変わるほど。  では、これまでは焦っていたのか。そうなのだろう、と思う。 無為の日々に焦り、視野を〈狭窄〉《きょうさく》していた。来ないものを待ち続け、他のものを見ようとせず、だから何も見えていなかった。  一体、見過ごしてきたものがどれだけあるか。  それが今、赤音への無慈悲な殺意と赤音を上回る力とを兼ね備えた最強の復仇者に追い詰められる立場になって、蕎麦屋の天井に何ということもない破損を見つけたりしている。  なんでさ、と彼は彼自身を笑わずにいられない。  別に、視野が広がったわけではないのだ。  ただ、この景色のどこかにあいつがいるかもしれない――と、常にそう思えるようになっただけ。  それだけのことが、赤音の感受性をかくも〈躍進〉《やくしん》させる。  その眼で見れば、この店に限っても発見は一つ二つではなかった。赤音は座敷があることさえ知らなかった。いやさすがに知ってはいたが、意識していなかった。  使うことがなく、興味関心も引かないそれは彼の主観世界内で無いものと同列に扱われていたようだ。  これでは、極まる珍事としてそこに客がいたとしても、気付かなかったかもしれない。卓の一つに陣取ってこちらを眺めている女を見返しながら、赤音はそう思った。  …………。   「一輪!?」 「やあ」  思わず席を立つ彼に対し、女の方は身じろぎもしない。気楽な素振りで片手だけ上げている。  唐突というにも唐突な出会いにいくつもの疑問が赤音の脳裏に渦を巻いたが、差し当たって最優先されたのは驚くことなど何もないと言いたげな彼女の態度だった。  眉根をたわめて、〈訊〉《き》く。 「……平然としてるな?」 「いや、さっきから気付いてたし」 「なら声掛けろよ!」 「不幸な女にされたくなかったんだ」  などと言って、長い髪の女はつるー、と蕎麦をすすった。  卓上にはざるがある。  そういや好きだったよな、と赤音はどこか呆然としながらに思った。  〈藤原一輪光秋〉《ふじわらいつりんみつあき》。  赤音とは旧知の、〈刀鍛冶〉《かたなかじ》。  治安低下を反映してか長刀、剛刀を主流とする〈昨今〉《さっこん》の風潮をまるきり無視し、手頃な尺でやや細身の刀を好んで打つ。扱いやすさと切れ味とで、彼女の作刀は図抜けていた。  この女刀工に言わせると、刀という道具の必要素はその二項に尽きるのだという。  そんなことはない。実戦の場で刀に求められるのは、より遠い間合から攻撃できる長さと打ち合いに耐えられる堅牢さだ。ある若い刀工がそう言い、一輪を論難したことがある。  女だてらに鍛冶師となり、しかも他に媚びない彼女が鼻についたのだろう。一輪が自説を曲げなかったため、事は決闘沙汰にまで発展した。  勝負の日。  弱刀へし折ってくれんと息巻く男は、見事な〈大剣〉《だんびら》を持参した。刃長二尺九寸、身幅広く肉厚で、目方は2キロを越えていただろう。  それに対して、一輪が無造作に取り出したものは、   金属バットだった。  ――いやさ。そういう意味での実戦性なら、刀なんかよりもこっちの方が優秀に決まってるじゃないか。  卑怯者、自分の刀を持ってこいと騒ぐ男に肩をすくめつつ、一輪はそう言ったものである。  結局、決闘はお流れになった。  そんな彼女だったから、当然のこととして刀剣界での肩身は狭かったらしい。  顧客も多くなかったようだが、それでも少数の賛同者はいた。  赤音の〈差料〉《さしりょう》にも一輪光秋の銘がある。  彼が一見した印象では、彼女はあの頃、つまり四年前と変わっていないように思えた。  髪が多少伸びているくらいが違いだろうか。  中身はきっと、まるで変わっていない。彼女は変わりようのない人間なのだ、おそらく。  そう思うと、何故ここにいるのかと聞く気もなくなった。  赤音が知っていた頃の彼女は、なんとなくどこにでも現れそうな雰囲気のある女だった。四年後の今も、なんとなくどこにでも現れて、こんなところにもいるというだけに違いなかろう。  口調にしてからがなんとなさげなのだから。 「ま、出会った以上は仕方ない。嫌々ながら相手をしてやろう。こっち来い」 「行かねえ」 「拗ねるなよ。冗談だ。私が君を愛しているのは知っているだろう」 「拗ねてねえし知らねえよ全く」 「なんて酷いことを言うんだ君は。傷心したぞ。悲しみに暮れるお姉さんを慰めるために、いいからさっさと来いっての」 「まるで必要性を感じねえんだけど。話がしたいならあんたがこっち来りゃいいだろ」 「私は座っていて、君は立っている。運動効率の観点から見れば、動くべきがどちらかは自明なのではあるまいか」 「……そういう風に、相手の流儀に乗って負かそうとするあたりが、あんたのやらしいところだよな……」  ぶつくさ言いながらも赤音は折れて、座敷に上がり込んだ。  元々、本気で意地を張っていたわけではない。彼女の言うことに素直に従うのは〈癪〉《しゃく》、そういうスタンスが昔からあって、どうやらそれを忘れていなかったというだけである。  赤音が対面に座っても、一輪はしばらく沈黙していた。窺うように見つめてきている。  そうなると彼もまた無意味に対抗したくなって、無言のまま待った。  馬鹿らしさに耐えたのは約五秒。  とりあえず近況を聞こうとしたところで、彼女が口を開く。トーンを落とした声で、あたかもそれが哀しいことであるかのように、 「……変わっていないな。君は」 「あんたもだろ。四年やそこらでそう変わるかよ。がきじゃねえんだから」 「そうだな……四年だ。君が姿を消して」 「道場はどうなった?」 「鹿野道場か。私が知っていて、君が知らないことといえば」  一輪は水の入ったグラスを手に取った。  一口含み、白い喉を動かしてから、 「……もう、無いことくらいかな」 「そうかい」 「惜しいと思うか?」 「ああ」 「いいところだった。あの道場は」 「そうだな」  別に皮肉なく、認める。  そう、いいところだった。  あの日までは、何もかもがうまくいっていたのだ。  かつては東国随一とさえ呼び称えられた刈流兵法〈鹿野〉《かの》道場。  宗家一族の相次ぐ死により一度は没落したものの、ふたりの高弟、伊烏義阿と武田赤音の浮上により勢威を取り戻しかけていた。  そしてあの日。  先々代〈宗家〉《そうけ》の娘であり、鹿野家最後の生き残りである〈三十鈴〉《みすず》を〈娶〉《めと》り、新たな宗家として流儀の道統を継ぐべきはいずれであるか、遂に決定するために赤音と伊烏の仕合が行われた。    ――あの日までは、何もかもがうまくいっていた。 「一輪」 「うん?」 「あんたは知ってるんだな」 「なにをさ」 「四年前に何があったのか」 「はて」 「すっとぼけんな。知らなかったら、お前生きてたのかって、まず聞くだろ」 「生きているものに生きていることを問うなんてのは、哲学者の領分であって鍛冶屋のすることじゃないけれど。まあ、そうだな」  彼女はもう一度、水で唇を湿した。 「法律上、君は既に死者だ。  四年前の北陸震災で建物の倒壊か崖崩れかに巻き込まれて、今もどこかに埋まってるんじゃないかとみられている」 「知ってるよ」 「けど、私は……話を聞いたんでね」  知った、ということだろう。赤音が生きていることも、なぜ姿を消したのかも。  それを誰からとは、聞くまでもない。  予想通りの答えに赤音は頷き、先を促した。 「で?」 「ん?」 「おれが何をしたか聞いたんなら、色々問い詰めたいこととかあるんじゃないのか?」 「そうして欲しいのか」 「全然。けど、あんたの質問には答えるよ」 「……」  それは、義務であるような気がしている。  同時に、彼女の権利でもあると。だが。 「いや」  ややあって、一輪は小さくかぶりを振った。 「いいよ」 「いいのか?」 「うん」 「そうか……」  感謝するべきなのかと、想う。  違うだろう。彼女は赤音のために、そうしているのではない。おそらくは誰のためでもない。  ただ彼女の立場が、そうさせるのではないか。  いつの間にか虚空を見ていた。  視界に一輪を入れ直すと、彼女もうつむかせた視線を戻していた。〈常〉《つね》通りのとらえ難い微笑が、また唇を開いている。 「聞きたいのはむしろ、この四年間どうしていたかだな。なにやってたんだ?」 「ほら」 「おわたっ」  刀を鞘ごと抜き、投げつける。  彼女は慌てて箸を捨て、右手でつかみ取った。 「危ないな。何をする」 「どうせあんた、今のおれの剣がどんな面してるか見たがるし、見ればどんな使われ方をしてきたか、大体はわかるんだろ」 「まあ、そうだが……どうも、年下の男に見切られるってのはいい気分じゃないな」  ぼやきつつ、一輪は鯉口を切って少しだけ刃を抜く。  現れた鉄の肌へじっと眼を送る彼女に、赤音はふと思いついて言葉を継いだ。 「ついでだ、しばらく預けるから砥ぎも頼む。  こっちじゃどうも、あんましいい砥師に縁がなくてさ。あんたの素人研ぎの方がいくらかマシだ」 「構わないが……刀工の片手間芸より腕が劣る砥師しかいない、なんてことはあるまいに。この街で」 「いい砥師がいるかって話と、そいつとおれに縁があるかって話とは、また別だろ?」 「友達いないんですよコイツ」 「……」 「……」  唐突に現れてそれだけ言い、注文の蕎麦をどっかりと置くやさっさと立ち去っていく娘の背中を、赤音は黙って見送った。  ぽつりと想う。  ――保健所の電話番号っていくつだっけか。  顔を戻すと、一輪は、学校でいじめられて帰ってきた我が子を見る母親のような表情をしていた。 「……とにかく、頼んだ」 「ああ。私もそうするつもりだったしな」 「へっ?」 「いや。……それじゃあ、ほれ」  刀を納め、ポケットに手を入れた彼女が小さな箱を取り出し、投げて寄越す。  受け止めて見ると、ホテルのマッチだった。名前と住所が記してある。 「私の宿だ。刀はそこへ取りに来い」 「あいよ」 「代わりの刀はあるのか?」 「一応はな」 「ちぇ」 「なんだよその舌打ち」 「丁度、こないだ打った刀が手元にあるんだよ。そいつを売ろうかと思ったんだが」 「いいもんなら買うけど」  赤音はついつい、そう言っていた。  特に必要がなくとも、良い刀ならば欲しくなる。そうして買ってしまって、後で困ることも多いのだが。  これはもう、剣術使いの〈業〉《ごう》というものだろう。 「ほんとか? もちろんいいものだぞ。まず、銘は殺戮幼稚園」 「いらない」 「なぜだ。せっかくぎょぎょっぽく思われないよう銘を切り直したというのに」 「わけわかんねえけど。それ、精神健常者に売る気あんのか?」 「銘は単なる愛嬌だよ。刀自体はいい出来だぞ。ほら」  一輪が傍らの刀袋を解き、差し出してきたものは〈白木〉《しらき》造りの脇差だった。  それを受け取り、抜いて、〈鑑〉《み》る。  刃渡りは一尺三、四寸か。刀身の先の方だけが両刃という、あまり見ない形状をしている。 「やたら……軽くないか? それに鉄の色が変だ」 「〈古鉄〉《ふるがね》を集めて打ったものだからね」 「てえと」  そのような製法は、耳にしたことがあった。  古刀と呼ばれる戦国期以前の刀の製法は、実は現在失われてしまっている。どのようにして鍛造したのか、マニュアルがないのだ。  機密性を維持するために文献を遺さず、口伝によってのみ継承しようとしたことが災いしたらしい。  現存する古刀は、その優美さ、そしてあるいは性能においても、現代刀の追随を許さない。そのため現代刀工たちにとっては、古刀製法の解明が一大命題となっている。  試みの一つが、古鉄つまり昔の鉄で刀を打つことだった。  古刀の時代の鉄の製法も、やはり現代では失伝している。肝はそこなのではないか、同じ鉄を使えば同じ刀が出来るのではないかと考えたわけである。  そうやって造られた刀の中には、当代の名刀と呼べるものもあると聞く。 「なんとかって無鑑査刀工が、姫路城から抜いた釘を使って刀を打ったって話を聞いたことがあるな。それと同じようなもんか?」 「ああ。この刀は大坂城の」 「おお?」 「空き缶を集めて作った」 「そりゃただのリサイクルだろーが!?」  思わず叫んで、脇差を卓の角に叩きつける。あっさりと、刀身は半ばからひしゃげた。 「おいおい、何をする。そんなことをしても簡単に復元できる名刀殺戮幼稚園だからいいものの」 「うわ、ほんとだ。なんで?」 「アルミ製だからな」 「スチール缶ですらねえのかよ、材料」  べこべこと音を立てて無節操に変形する名刀?を鞘に戻し、赤音は一輪の〈襟元〉《えりもと》を引っ張ると、それを胸の間に押し込んだ。  座り直して、ほったらかしだった蕎麦を抱える。 「こら、えっち」 「他にはなんかないのか?」 「……んー。一年ほど前に頼まれて打って、依頼人が金を払えなくなってそのままになってる脇差があるが。こっちはそれほどいい出来じゃない。正直売らずに済んで良かったと思ってる」 「大刀は?」 「大刀は打ってないんだ。四年前からね。あれが最後だよ、君の“かぜ”と――」  言いながら、彼女が先ほど渡された赤音の刀をちらと見る。  一輪光秋には〈奇癖〉《きへき》があった。  〈茎〉《なかご》、つまり柄の中に収まる部分に切る銘は通常、刀工名とその在所、年月日というところだが、彼女はこれに加えて、人の子にするように刀固有の名を与えた。  かぜ、とは赤音の刀に刻まれた固有銘である。  それらの中にはよく意図のわからないものも多かった。殺戮うんたらは論外として、かぜもそうだ。彼女によると、同時期に打ったもう一振りの刀と合わせて、意味を持つ銘らしいが。  ――もう一振りの刀。 「彼の……」  揺れを遅めていく唇を眺めつつ、ふと思惟に引き込まれる。  〈担〉《にな》い手を得た、あの刃の、  美しい閃き。  夢のような軌跡。  聖別されし不可侵とまで思えた、それは――――  ……………………。   蕎麦を食い終えて、赤音は丼を置いた。 「どうしたんだ?」  気になって尋ねる。一輪は中途半端に言葉を切り、ずっと口を〈噤〉《つぐ》んでいた。 「いや」  どこか〈面〉《おもて》を〈晦〉《くら》ませて、微笑する彼女。 「こぼしもせず器用に食べるな、って思ってただけだよ」 「? 子供じゃあるまいし」  何言ってんだと思いつつ、彼は一輪が寄越してきた紙布巾を受け取った。口元に手をやり、 「……ああ」  ようやく気付く。  赤音はいつしか、笑っていたのだった。  道理で、蕎麦が食いにくかったはずである。  晴れ渡った青空を嫌うなら、その心は腐っている。  確信と共に、彼は雲一つない天を〈忌々〉《いまいま》しく見上げた。全く、天気は人の都合を考えない。ましてや人の心情など、存在すら知るまい。  それとも良く知っているのか。空は今の彼にとって悪意的なまでに、どこまでも青かった。  数日前、この大通りを川にせんばかりだった豪雨が恋しい。  路傍に雑踏を避けて〈佇〉《たたず》み、息をつく。吐くそれ一つ一つが毒に満ちている気がした。  にも関わらず一向に胸が晴れないのは何故なのだろう、とも思う。  決まっていた。  吐いた毒をまた吸っているからだ。  つまりは〈瞋恚〉《いかり》に狂いつつ、伊烏義阿は待っていた。極上の日和の下、穴でも掘って己を埋め捨てたい衝動に耐えて。 「どもー。お待たせしました」 「……」  待ち人が来れば、胸がすくということもない。  空同様に傍若無人な朗らかさを振りまいて、糸目の男が歩み寄ってくる。誰はばかることもなく、何はばかる色もなく。  彼の置かれた立場を思えば、理不尽なほど。  そのことについては、伊烏は何も言わなかった。これはそういう男だと知っている。  空に〈唾棄〉《だき》するのと同じで、この男に人がましい態度を求めても、己が馬鹿を見るだけで終わる。  口にすべきは必要なことのみで充分だった。 「首尾は?」 「全て滞りなく。あー、いえ、実は多少。田北さんが駅の改札を抜ける時に少し揉めまして」 「警察か?」  有り得ない、と思いつつ呟く。  正体を隠して行動する会士を看破し捕縛する、そんな能力が、いやそもそも意志が警察にあるはずがなかった。  あるとすれば瀧川の私設警衛団であり、先日の襲撃以来、会の残党を警戒し追尾しているという可能性だった。  それは警察の気まぐれより危険である。  図らずも伊烏は希望的楽観を口にしていた。だが果たして、男は首を左右する。 「いえ。あの人こないだから、すいすい定期券買って使い始めてるんですけど。あれで自動改札通るのってコツがいるじゃないですか。田北さん、まだ慣れてないもんだからもたついて」 「…………」 「しかも後ろがつかえてたんで、もう焦って焦って。ああいう時ってパニックになっちゃうんですよねえ。私も経験あります」 「……他には?」 「沖の旦那が出陣前の血祭りを……」 「なんだそれは」 「また街中で一人斬っちゃったんですよ。あの人、なんかスリとか置き引きとかの小悪党を引き寄せる念波でも出してんですかね? 今日は引ったくりでしたけど。すぐに追いかけてって、ずばーって」 「殺したのか」 「まあ、袈裟懸けにばっさりとやられて生きてる人もいないでしょうねえ」 「そこまでせずとも良かろうに……」 「いーんじゃないですか別に。相手は盗賊ですし。  でも周りの人は旦那が斬るところしか見てませんから、近頃じゃあの人、有楽町の辻斬り平蔵なんて呼ばれてるらしいです」 「似合いだな。他には?」 「井野口君が、うちで飼ってる鶏が卵を二つ産んだから今日は勝つって言ってましたよ。なんか吉兆らしいです。よくわかりませんけど喜んでいいんじゃないですかね」 「一応確認するが、優先度の高い順に話しているのだろうな?」 「もちろんです」 「ならもういい」  吐息して、話を打ち切る。  この〈渡四郎兵〉《わたりしろべえ》という人格に救いを見出せるとすれば、粘着質ではないという点がそれだった。会話を望まない相手にわざわざ食いついてきたりはしない。  だが、この時は違った。視線を〈逸〉《そ》らした伊烏の前に、何かを突きつけてくる。  小さな板状の何か。  反射的に振り払いかけて、伊烏は思い留まった。 「……これは、日浦の」 「ええ。貴方が使って下さい」 「しかし」  言われるままには、手を伸ばしかねた。  その意味を知っていたから。  渡は言葉を続けた。 「ご承知の通り、これは日浦さんの側で死んでいた敵の所持品です。おそらく、彼女と刺し違えたのでしょう」 「…………」 「驚くべきことですが、このカードは有効です。  信頼できる筋から確認しました。ここ数日間に、瀧川本社の警備管理部から登録抹消されたカードはない……カードの紛失を確認していないのです。つまりこれはまだ使えます」  内容にふさわしいほど彼の声は〈抑揚〉《よくよう》に富んでいなかったが、確かにそれは驚くべきことに違いなかった。  驚くべき〈奇貨〉《きか》。  何かの間違いだと一笑に付したくなるほどの。  だが信頼できる筋とやらがそう言うのなら、そうなのだろう。  その点に疑念を〈挟〉《はさ》む余地はない。それがどういうものか、伊烏もある程度は知っている。  要するに、瀧川情報部の手は会の内部にも及んでいただろうが、それは何も一方的にそうされていたわけではない、ということだ。 「我々の中で、単独の戦力として最も期待できる貴方にこれを託す。皆の意見は、この点で一致しました」 「……」 「受け取って下さい」  伊烏は応える言葉を発せなかった。  ただ握り、つかんだ――瀧川本社ビル内での自由を保障する、VIP用IDカードを。  〈日浦〉《ひうら》の遺したもの。  有する意味はとてつもなく大きいが、〈所詮〉《しょせん》は集積回路を少々埋め込まれたプラスチックの板切れでしかない。  そんなものが彼女の遺品なのだ。  日浦という女。  下の名前は知らない。  忘れてしまった。  その程度の付き合いだった。  だが、良くしてくれた。  会と伊烏の利害は一致していたが、なら仲良くできるというものでもない。殊に一方が非合法組織であり、一方が〈不調法〉《ぶちょうほう》な男であったりすれば。  その橋渡しを担ってくれたのが彼女だったのだ。  彼の復讐に巻き込まれて死んで欲しくなどなかった。  彼女だけではない。多くの人間が死んだ――朱い小袖を〈纏〉《まと》う男が率いたという、瀧川私兵団の強襲で。  矛止の会の志士達には、彼らの戦いがあり、あの日の壊滅はその結果に過ぎない。そう思っても、伊烏は指のわずかな震えを〈抑〉《おさ》え切れなかった。  自分と赤音の因縁の巻き添えになったという側面を無視できなかった。  赤音はなぜあのようなことができるのか。  会を皆殺しにしたのは必ずしも、瀧川の意向ではあるまい。大きくはあの男自身の意向だろう。伊烏を殺すのに邪魔だという、おそらくそれだけの理由による。  ――〈良知〉《りょうち》あり〈知行合一〉《ちこうごういつ》し命惜しまず。  誰の心にもある根源的倫理の声を聴き、その命ずるまま我欲を交えずに行動し、行動するにあたって死を恐れない。  武士とは、武道に生きる〈士〉《さむらい》とは、そういうものであったはず。  赤音はそれを忘れ果てたのか。   ……そのようなこと。  今更、問うまでもなかった。  四年前のあの日。  宗主を決するあの仕合に、伊烏が勝利し、  そして、彼の妻となるはずだった三十鈴を赤音が殺した、  あの日から、わかっていたことだ。  今や彼は、自己一身のために幾百の人間を殺戮して、きっと恥じる気色さえもない。  それが強さと呼べるものなら、伊烏は〈反吐〉《へど》を吐きたかった。  だが。  だが、  それが復讐に必要であるのなら。  同じ強さがなくばあの男を討てないのなら。     俺は、 「ちょ、ちょっと待って……赤音……」 「やだよ」  〈懇願〉《こんがん》を切って捨て、背後からのしかかるようにして抱きかかえる。あう、と身悶える弓の微弱な抵抗が、むしろ心地良い。  赤音は軽く舌を〈舐〉《な》めずると、首筋へ這わせた。  びく、と敏感な肢体が跳ねる。 「う、んん……だめ。ちゃんと答えて……」 「いいだろ、どうでも」 「だめだよ……大変だったんだからぁ。いくら相手がテロリストでも、こっちから攻撃するなんてとびきりの違法じゃない。  府庁の連中をなだめるのに、僕がどれだけ……あぅっ」 「そんなの、これが初めてってわけでもねえだろ?」 「そうだけど……っ。そういうことする時は、事前にちゃんと、根回しをして……」 「先にやるか後にやるかってだけの違いじゃねえか」 「大違いだよぉ。お金がたくさん掛かったし、いろいろ借りも作っちゃったし……だから、ちゃんと答えて。どうしてあんなことしたの……?」 「気分だよ、気分」  誠実さのカケラもねえなと自分自身思う声で、赤音はそんな答えをした。〈殊更〉《ことさら》虚言を〈弄〉《ろう》す気はなくとも、真実を語る意欲もなく吐かれる言葉は、大抵が嘘の親類程度のものになるらしい。  気分。まあ気分っちゃ気分だ。全くの間違いでもない。  そんな風に思いつつ、綺麗に整えられた髪へ顔を埋め。 「歌いたい気分とか、散歩したい気分とか、三時のお茶を今日だけはコーヒーにしたい気分とか、あるだろ。あの日のおれは奴らが鬱陶しくて仕方ない気分だったんだよ。そんだけだ」 「そんな……」  怒ろうとして怒りきれない、そんな弓の香りを楽しむ。  ほのかな〈柑橘〉《かんきつ》系の味わい。香水によるものか肌本来の匂いなのかは知らなかったが、それは赤音の好みに沿っていた。  嗅覚で弓の女性を〈咀嚼〉《そしゃく》する。  赤音の異性興味は大概、内面よりも外面に〈偏〉《かたよ》った。一般に、〈下衆〉《げす》と呼ばれる志向の持ち主である。  だが顔や体型については、さほど〈偏狭〉《へんきょう》な理想を持たなかった。彼がこだわったのは、匂いだ。 「社内からも、突き上げられてるんだよ。なんであんな便利な敵を潰したりしたのかって。明日の会議では絶対副社長にそのこと質問されるから、それまでに弁明を考えないと……ぁんっ」 「んなもん簡単だろ」  小柄な体のわりに豊かな乳の、先端をつまんで転がす。弓の肌は火照り、汗ばみだしていた。それでも体香が不愉快なものを帯びたりはしない。  いつものことであり、好ましいことでもある。  強い香水類を赤音は嫌った。ナチュラルなものならばある程度は許容できたが、どう考えても自然的には有り得ないような手酷い化学合成を経たものには、少量でも不快感を誘われる。  強くて不自然となると、もう近づきたくもない。  弓がその手のものを使わないのは、彼には有難いことだった。指先の触感と共に心ゆくまで香りを楽しみつつ、言う。 「飼ってた傭兵の独断専行だって正直に言って、そいつを処分しちまえばいい。  立場に傷がつくのは避けられなくても、処分をきっちりして今後同じことは起きないって示せば、幹部連中も納得するしかねえだろ」  それを聞いて。  弓は〈頤〉《おとがい》をそらし、彼を振り仰いできた。  熱っぽい黒瞳に、涙が溜まっている。 「……ひどいよ」 「なにがさ」 「僕が、そんなことできないって知ってて……!」 「ああ」  涙を舌ですくって、〈囁〉《ささや》く。 「知ってる」 「ひどい……赤音、ひどいよぉ」 「それでも、おれを嫌いになれないんだな。お前は」  彼の視線の下、鼻にかかった切なげな声で弓は泣いていた。  旧帝都を支配すると言ってさえさほどの過言ではない権勢者が、そうしているとまるで〈寄〉《よ》る〈辺〉《べ》もないみなし子のようにしか見えず。赤音はあやすように、その胸を優しく〈弄〉《もてあそ》んだ。 「可哀想に」  一時止めていた腰を、再び動かす。  胸と違って体相応の大きさしかない彼女の膣は、幾度となく体を重ねた今でも、きゅうきゅうとした締め付けで赤音を包んでくる。からみつく濡れた柔肉は、上質の絹にも似て心地良い。 「ひんっ……」  哀しみとも快楽ともつかない声。  喘ぎだす弓の尻に手を這わせ、尾てい骨の周りを撫で〈摩〉《さす》る。  アヌスに近い辺りを、親指で。こうされると彼女は〈悦〉《よろこ》ぶのだと赤音は知っていた。 「あっ……あんっ」 「おれのことが好きか」 「んっ……そんなこと、聞かないで……っ」 「聞かせろ」 「好きっ……好きに、決まってるじゃないっ……!」 「なんでだ?」 「そんなのっ……赤音しか……」 「おれしか?」 「赤音しか、いないからぁ……ああっ!」  弓が黒髪を振り乱す。汗の玉が散る。  もう彼女は言葉を忘れたようだった。赤音とて、考えて話せるほどの理性は失くしつつある。性交の快楽は人を〈溺〉《おぼ》れさせるもの。溺れて口が利ける者などいない。  動きながら、肉根の背を膣壁に押し付けるようにする。弓の最高の性感帯はそれで刺激されるはずだった。  自身も絶頂へ駆け上がりつつ、赤音は衝動のまま言葉に口をつかせていた。彼女の耳元へ、そっと。 「本当におれしかいなかったんなら――」 「やっ、ああっ! もう、だめぇ……!」 「お前はどうなっても、後悔だけはしなくていいってことだ。他の選択なんて、なかったってことなんだからな……」 「あああああっ!!」  赤音の左手の指が、膣口の突起をきつく〈摺〉《す》った。それを最後に、弓が叫んで達する。  同時に、赤音も果てていた。子宮口へ亀頭を押し込んだ状態で、溜まっていたものを吐き出す。それは一瞬に、膣内を汚し尽くした。  白濁の液体が結合部分から溢れ、白いシーツに滴る。 「あぁ……ぅ……ふ…………」  ぱたん、と弓が脱力して、ベッドの上に臥した。  眼を閉じ、荒く吐息しながら、〈余韻〉《よいん》の底に落ちている。波打つ背中は上気して朱く、熱い。  赤音は弓の中から男茎を引き抜いた。まだ、力を失っていない。治まりきらぬ欲求を体現して、隆起したままでいる。  足りない。  昂りに身を任せ、それを弓の半開きの口の中へ押し入れる。〈朦朧〉《もうろう》と、弓は受け入れた。半ばまでを咥えこみ、舌を寄せる。 「んふ……」  触手めいたうねりが、赤音の肉根にまとわりついた淫液を拭った。嫌悪の様子もなくぴとりとはりつき、舐め上げる。  舌先はやがて、裏筋に到りそれを転がすようにした。むず〈痒〉《がゆ》い快感。  いまだとろんとした顔つきのまま、無心に奉仕する弓の髪を、赤音は一房たぐって撫でた。 「可愛いやつだよ、お前は」 「んぅ……」  嬉しげに、彼女が目を細める。  ちう、と吸いたてるような愛撫。再び射精感を呼び起こされながら、赤音はもうしばらくこれを続けさせようと思っていた。  その後で、また抱こう。そうも思った。  弓には兄がいたと、赤音は以前に誰かの口から聞いた覚えがある。  彼女本人ではない。本人からそのことを聞くのは、今が初めてだった。 「僕が子供の頃に死んじゃったけど」 「……」  腕の中の女がぽつぽつと語るのを聞きながら、天井を眺める。明りを〈灯〉《とも》されない室内は薄暗く。時刻は夜に差し掛かっていた。  さりとて赤音はともかく、一社の社長が自室に引き〈篭〉《こ》もって〈気怠〉《けだる》く過ごしていていい時間でもなかったろう。  普段なら、まだ執務中のはずだった。彼女が自由時間らしきものを持てるのは、あと数時間ほど経ってからになる。数時間経っても持てない日もある。  今日は異例と言うべきだった。何かあるのかもしれないが、赤音にとって尋ねたいほどの疑問でもない。  弓の話に、〈相槌〉《あいづち》だけ打つ。 「いい兄貴だったのか」 「わかんない。覚えてないもの。本当に子供だったから……どんな人だったのかも、どんな顔してたのかも」 「アルバムくらいあるだろ」 「あるけど。それって、覚えてるっていうのとは違うでしょ」 「あぁ。かも」 「覚えてるのは」  きゅ、と抱え込んだ小さな頭が〈瞼〉《まぶた》を閉ざした。気配で感じる。 「その人が死んでから、僕はその人の代わりになったってこと」 「跡継ぎになったってことか」 「うん。それと、男に」 「男?」 「跡継ぎは男でなくてはならないから、男になれって」 「……」  もぞもぞ。 「きゃっ! ど、どこ触ってるの!」 「いや、ちょっと不安になって」 「今更確認しなくたって知ってるでしょ!?」 「ああ。お前のそこがどんなんかは良く知ってる。絵に描けるくらい。描くか?」  ぺっしん、といい音が鳴った。 「性転換させられたわけじゃありません」 「そりゃまあそうだろな」  そこまで徹底していたら、何はさておきとりあえず凄いが。そんな風に思いつつ、赤音は少し赤くなった鼻をひくつかせた。 「表向き、男ってことにされたのか? っても……」 「うん。女性として生まれて育てられて、戸籍上もそうなってるものを都合で男性に変更できるわけがないから。変えさせられたのは、立ち居振る舞い」 「ふん」 「男のように振舞え。女に見られないようにしろ。女と思われるってことは甘く見られるってことだって」 「古臭ぇな。市ヶ谷決起から何年経ったと思ってやがる」 「だよね。でもそれはほんとのこと。瀧川の社長は女よりも、男の方が望ましいのは確かなんだよ。だから僕も文句は言わなかった」 「……」 「言わなかったから……みんな、僕がどうとも感じてないって思ってたのかな」 「……」 「どうせ子供だから、そんなことされても何ともないだろうって思ってたのかな。昨日まで当たり前に女の子してた子供に、今日から男になれなんて……」 「……」 「みんながそう言ったよ。父さんも、母さんも、叔父さんも、教師も、メイドも、八坂も……みんな、当たり前のようにそう言った。  僕が平気で受け入れると思って………平気なわけ、ないのに」  最後はかすれ声にして。弓がぎゅ、と強くしがみついてくる。  強くといっても彼女の全力は赤音の体をろくに揺らせもしないほど弱く、間違っても男のものでは有り得ない。 「赤音だけだったんだよ」  胸にすり寄せられる頬。  温かさの中に少しだけ、冷たい水の感触があった。 「赤音だけが、僕に女を要求してくれた。赤音だけなの。僕には赤音しか……だから……だからね……」  少しだけ、もじもじとためらった後。  大切な宝物を、初めて誰かに見せる子供のように、  彼女ははにかんで口にした。 「愛してる……赤音」 「…………」        わたくしは   ――――――――――愛して  赤音は弓の体を引き剥がした。  寝台の上に身を起こす。 「えっ……赤音?」 「……」 「ど、どうしたの。気に……障った?」 「何でもねえ」 「でも……」 「何でもねえってんだろ」  黙れ。と、  明確なニュアンスを込めて言い捨てる。よほど感受性が鈍磨した者でなければ、その意を誤解することはできなかったろう。  沈黙の〈帳〉《とばり》の中、赤音はベッドを降りた。脱ぎ捨ててあった服をつかみ、着込んでいく。  仕上げに小袖を羽織ろうとしたところで、彼はメールの着信に気が付いた。携帯に、一通。30分ほど前。 「あ、あのね。赤音」  恐る恐るに、何か必死に勇気を奮い起こした様子の弓が掛けてくる声を背中で聞きながら、内容へ目を通す。  ごく短い。  ほんの数行の、赤音に奥歯を噛ませる文面だった。 「今日、僕の誕生日なんだ。だから」  頬肉も噛んだかもしれない。血の味がした。だがそれはどうでもいい。そんなことに構っていられる時ではない。  携帯を懐へ投げ込み、早足で扉に向かう。 「あ、赤音っ」 「姉さんの容態が急変したらしい」 「え?」 「行ってくる」  返事は待たず、廊下へと出て。  駆け足気味に数歩進んだところで、彼は軽い破裂音のようなものを聞いた。  それは床に枕を投げつける音だったかもしれないが。気にするだけの余裕は、今の赤音にはなかった。  東京経済の王者、瀧川商事。  最大のテロ集団、矛止の会。  そして両者の対峙。  それらが何十年続いたものであろうと、崩壊は一瞬だった。  一週間。  矛止め会による桂葉恭子の襲殺から一週間。  数十年の時と比較すればまさしくひと瞬きの間に、すべてが崩れ去ろうとしている。  歴史に重みというものがあるのなら、それを嘲笑するかのような拙速さで。  すべてが崩れ去る。  伊烏は両足を軽く前後に開いて待った。  それだけである。気迫を〈漲〉《みなぎ》らせてこちらへ駆け寄ってくる敵を、刀を抜きもせずに立ち尽くして待つ。  それは危機管理がなってないと批判されるべき態度だったかもしれない。だが実際的に、これで用は足りていた。  敵が足を踏み切り、上段から斜めに鉄棒を打ち下ろす。同時、伊烏は回転した。  後ろに引いた左足を軸に、右回り一転。左手で鞘口を握り上向かせ、右手で抜刀しながら。  黒い男の姿が一度、伊烏の視野から消える。耳の直後に鋼鉄の〈擦過音〉《さっかおん》を聞く。  男が視界に復した時、その姿は前のめりに体勢を崩しており。伊烏は刀をつかんだ右腕を左上方へ伸ばしている。  回転はまだ終わっていない。体は〈尚〉《なお》も右へ回り、連結された刀は連動し、左上から右下への片手逆袈裟斬りを発現す。  至近距離にあっていまだ無為となった攻撃挙動の只中に身を置く敵手にとり、その斬撃への防御は荷が勝ち過ぎたろう。  祈りを唱える暇すらあったかどうか。おそらくはなかった。伊烏になかったのだから。  白刃が肩口を割る。妥協なき致命傷を負って、一人の戦士は一名の戦死者となった。     ――――刈流兵法 〈沓掛〉《クツカケ》  機械的な防衛機構は既に無力化されている。復旧に一時間は要するだろう。入手したVIP用IDカードはやはり有効であり、その効果は甚大だった。  各要所を制圧したイシマ志士は、そろそろ敵の猛反撃にさらされている頃だろう。だが、しばらくは拮抗できるはずだ。  渡が今日のために呼び集めた会残党は、数こそ多くないものの、長く実戦部隊に属していた熟練兵ばかりである。陽動、分断、封鎖、〈各々〉《おのおの》の任務を必要なだけ果たすに違いなかった。  全ての行為が、目的とするところは一つ。  ここ瀧川本社ビルの最上階にある一室を、孤立させるため。  衛士団を引き離され、連絡経路を塞がれた社長室は、無援の離れ小島に等しい。  否、正確には一本だけ道が残っている。今伊烏が駆け抜ける、この社長室直通路だけが。  通路入口の認証機構は既に内側から破壊され、もはや誰にも門扉を開かない。  通路内数箇所に設置されたシャッターは緊急事態に際して下ろされ社長室を保護するためのものだが、それも警備システムを破壊された現在は用を為さない。  つまり。唯一の道も、瀧川社長を救わない。  およそ20分間はこの状況を維持できるというのが事前の計算だった。過信はできないが、信頼には足る。1200秒の間、東京の女帝は十にも満たぬ部下だけで己を守るのだ。  数人の親衛兵と――朱い姿の、直属の傭兵だけで。  言うまでもなく、伊烏の目的は社長などではない。その朱だ。  形勢はなお、伊烏に不利である。一対多の勝負となることに変わりはない。だがこれ以上に分のある状況は、もう望むべくもないだろう。  ――今夜で片をつける。  決意を新たに、伊烏は次なる敵を迎え撃った。  〈長蛇〉《チョウダ》。  〈鍛鉄〉《タンテツ》。  〈牛追〉《ウシオイ》。  いずれも鞘の内より始まる居合の技。  居合とは、〈対手〉《あいて》の眼から刀を隠し間合を隠し剣筋を隠す。  三の敵、その一は鍔下ではなく柄頭を片手で握って間を伸ばす〈外法〉《げほう》の抜刀にて〈咽喉〉《のど》を裂き、その二は身を右後方へ捻って打撃を躱しざま逆手抜刀して斬り、背後を襲いしその三は左の〈腋〉《わき》下からするりと差し込んだ〈隠迅〉《おんじん》の切先で肺を貫いた。  全て、死んだ。伊烏は殺すしかなかった。殺さぬなら、彼が死なねばならない。  生と死、結果の差異は明確であるが、それを分けた力量にも同じほどの隔絶があるかといえば、そうではないことを伊烏は自覚していた。  昼と夜の違いもまた明確だが、いつまでが昼でいつからが夜か正確に区分はし難い、勝敗とはそんなものだと、彼は思っている。  〈延〉《ひ》いて言えば、剣術使いの勝利は常に薄氷上のものだ。  瀧川衛士の訓練は身体能力の強化を主眼とする。  それは機密情報を探らずとも、彼らの肉体を見るだけで明白なことだ。  噂によれば、商事にスカウトされた元合衆国軍人の提案が発端だという。真偽は不明だが――東京府に外国人が存在するのか、まさか今も存在するのか?――確かに西洋的と言えなくもない発想ではある。  それは合理的思考の結論だ。優れた身体能力は、およそどのような戦場にあっても兵士を裏切りはしない。  確実な強さ、確実な有利を約束する。メリットは大きく、一方で鍛えるために困難な技術も長い時間も必要としない。  戦闘力を形成するものは身体能力と戦闘術。瀧川衛士は圧倒的に前者を重視した訓練を養成段階から徹底され、それによって府内最精強の名を確保した。  過酷さにおいて帝国陸軍の教練にも匹敵するという一年間の衛士基礎訓練課程は、戦闘に用いる筋肉の徹底強化をひたすら行うだけのものだが、脱落せずやり遂げた者はその時点で既に怪物だ。  それから〈施〉《ほどこ》される棒術の訓練など、怪物の爪牙を研ぎ上げる程度の意味合いしかない。  正規の衛士となった後の平時訓練も、養成段階で得た体力の更なる上昇を図ってプログラムが組まれる。  その成果は着実であり、年季の入った衛士の体はもはや〈痩身〉《そうしん》の伊烏あたりと比べたならば別人種にしか見えないほどのものになる。  瀧川は実に効率良く、戦力を生産・強化する体制を確立しているのだ。「力」の追求がこの成功をもたらした。  他方、刈流はじめ日本武術の一系は「術」を追求した。  まず優れた身体能力があり、それを最大限に駆使すべく戦術を用意する、瀧川の戦闘思想はそういうものである。  対して刈流は、まず勝つための理論が存在し、それを実現するために身体を練磨する。術に力を付随させて技をつくるのだ。  その修練は、戦闘状況を設定してその中で勝てるように規定された行動をなぞる、というものが中心になる。  いわゆる形稽古である。  形稽古を指して無意味だと笑う者は少なくない。現実はそんな思い通りには運ばないと。それはその通りであり、実際修行者の多くは技を実戦で活用できない。  何も考えずにする形稽古は、単なる一人芝居でしかないからだ。  しかし中には、形稽古の真意は状況が思い通りに進むのを待つことではなく、思い通りに進むよう仕向ける修業なのだと気付いて、考え始める者もいる。  自分に都合良く敵を動かすにはどうすればいいか。そして、都合良く動かなかった場合にはどう対応すればいいか……と。  そこへ至ってようやく「形」は「技」となるのだが、その域まで達せられる者はごく一握り。  そしてその技でさえ、必勝ではない。敵の行動が自分の想定を越えれば――意図を読んで裏をかいてくるかもしれないし、予想以上の速度で襲ってくるかもしれない――敗北するのみだ。  総じて、術の追求は確実な強さを約束してくれない。  だが、あらゆる状況を想定してそれに打ち勝つ技を用意する、そこまで達すれば確実に無敵である。  無論のこと、幻想だが。あり得ない夢だが。果てなる高みを目指して、一歩一歩進んでいくことは可能なのだ。  力の追求と術の追求、両者のどちらが上であるとか下であるとか決め付けることはできない。どちらであろうと強いものは強い。  だが両者がぶつかった時、戦いを主導するのは後者だろう。その術を力ずくにでも破らなくては前者の勝利はない。  今、瀧川衛士の中でも最強であろう社長親衛兵らが、伊烏に勝てないように。  鉄棍でバットよろしくフルスイングしてくるのを前屈して避ける。背筋をなめて行き過ぎる風の凄まじい重さに寒気を覚えつつ、伊烏は体を跳ね上げ抜き打ちに斬り上げた。  体格に似合わぬ幼児的な悲鳴と血泉を残し、また一人が死に果てる。 (これで11人)  〈疼痛〉《とうつう》と共に、胸へ呟く。  〈忸怩〉《じくじ》たる響きがあった。殺すより他にないから殺している、だからといって、誰が彼に正義を認めるはずもない。  東京へ来る前に二人。先日の夜襲で四人。そして今日五人。  復讐を誓ったあの日から、復讐のために殺めてきた人の数が、これで11。  生命というものが等価であるならば、一つの生命でしかない己は本来他者の生命を一つでも奪えはすまいに、それが11。  大量殺戮者だと誇っていいだろう。誇っていいものならば。胸を張ることなどできず、伊烏は〈屍鬼〉《しき》のように〈項垂〉《うなだ》れて、死臭のする通路を走った。  血溜まりに足を取られることもなく駆ける。  その身体は既に、人を殺し慣れているのだ。  11の〈死者の顔〉《デスマスク》は伊烏の脳裏に焼きつき、永劫、消えそうにない。  復讐の為と言えど、彼らに対して直接の怨恨があるわけではなかった。ただ一人を、ただ一人の仇敵を討つために、彼らは〈妨〉《さまた》げとなったから、殺さねばならなかった。  だがそれもまた、誰に正義を認められるものでもない。  師が生きていれば、何と言うか。伊烏は思いを巡らせた。  物も言わず首を〈刎〉《は》ねてくれるなら、いい。だがおそらく、失望の吐息をただもらすだけなのではあるまいか。  それは他の何にも増して恥辱であった。  ――外道を憎んで外道に〈堕〉《お》ちる愚かしさよ。 (それは承知の上です、先生。しかし)  人間の完成こそが剣の究極。剣術の〈理〉《ことわり》をもって人と、世界と相対せば、剣を抜くこともなく、常に勝者たる。  そう説いた師の姿を心中に描き、伊烏は声なく叫んだ。 (その究極で、奪われたものを取り返せるというのですか!?そんなことはできない! できるのは許すことだけだ。だが奴を、許していいはずがない)  そして、この世に外道を罰する摂理はなく。  天誅は機能をしない。  だから。 (俺の手で〈誅〉《ちゅう》するしかないのです、先生!!)  最後の階段を駆け上がる。  細く真っ直ぐ伸びた通路の、その先に。  師のような〈巌〉《いわお》の〈人影〉《じんえい》が、〈悠〉《ゆう》と立っていた。 「……っ!?」  一瞬ならず〈気圧〉《けお》されて。  やがてその名を口奥に噛む。  ――――〈八坂竜騎〉《やさかりゅうき》。  瀧川弓の最後の護衛。  身じろぎひとつしなくとも敵者を退けるだけの威迫を、それは放っている。  しかし。 (我が師)  足を踏み出す。 (たとえあれが、貴方本人であろうとも)  侵し難いその姿を、 (赤音との間に立ち塞がるのであれば)  正視することなどできず、立ち止まる。  伊烏は怯えていた。  どうしようもなく。己の罪に、その罪を鳴らすような敵影に、怯えていた。  だが足を止めたものは怯えではない。  殺意だ。  ――12。  胸中でその数に一を加えて、伊烏は〈双眸〉《そうぼう》を伏せたまま、コンクリートの床を蹴った。  赤音が病院に駆けつけた時には、既に危険な状態は脱していた。呼吸、心拍は安定し、意識も回復していた。  だが別に病状が快方に向かったわけではないと、息急き切る彼に医者は言わずもがなのことを告げた。  今回の窮地を乗り切ったことで、しばらくは小康状態を保てるだろうが、保障されるのはその程度のことでしかない。彼女の肉体にも精神にも回復の兆候は見えず、もしそれが有り得るとしても、長い時間と多くの幸運が必要になるだろうとも。  虚しい期待を抱かせて患者の家族を振り回すまいとする医者の義務感が言わせた台詞だったのだろうが、赤音は元々、最高学府を首席に近い順位で卒業し瀧川の〈招聘〉《しょうへい》を受けて支配下の大病院で要職に就いたこの栄光ある〈藪〉《やぶ》医者に、何ほどの期待をしていたわけでもない。  聞くべきことだけを聞いてさっさと診察室を辞し、彼女の病室へ向かった。  病棟の奥まった一室、『〈武田笙〉《たけだしょう》』と記名された扉を叩く。 「……あかね?」 「はい」  〈誰何〉《すいか》をノックの返事と受け取って、答えつつ赤音は扉を引き開けた。  病室は広い。だがともすれば寒々しいまでに広々として感じられるのは、容積に比して内容物量がまるで釣り合っていないせいだろう。  入院患者に必要なものはそろっていることを思えば、この広さは余計なものを押し込むためなのだろうが、彼女も赤音もその存在意義を満たしてやれる何かを思いつけなかった。  住人の甲斐性無しぶりを嘆いているに違いない部屋の角にはぽつんとベッドが置かれ、その上に痩せた姿が上体を起こしている。 「来てくれたんだ」 「勿論です。でも、遅れてしまいました」 「ううん、嬉しい。ごめんね。お仕事中だったんでしょう?」 「仕事中ったら、雇われの護衛なんてのは24時間仕事中ですけど」  申し訳なさそうな微笑に対して、赤音はかぶりを振った。  鏡台の椅子を引っ張り出して腰掛ける。女性用の小さなものだが、それで充分、不自由はない。 「逆に言えば、24時間ヒマを持て余してるみたいなもんです。おれしか警護がいないわけじゃなし、問題はありませんよ」 「ならいいんだけど……」  迷いを残して語尾が消える。  赤音は笑顔をつくって彼女に向けたが、その無意味を知ってもいた。形よりも音を、ここでは頼らねばならない。 「それより、寝てなくて平気ですか?」 「うん。辛いのを乗り切った後は気分が良くなるから。いつもそう」 「はあ、なるほど。わかります」  答えながらに、彼女の顔色を〈覗〉《のぞ》く。  普段は青いほどに白んでいる肌が、今日はやや体温を帯びてか、ほのかに朱を差していた。しかし、発熱の気配はない。  どうやら無理をしている様子ではなかった。 「あかねもそんなことがあるの?」 「ありますよ。一週間続いた口内炎が治った時とか」 「あぁ。痛いもんね、あれ」 「ええ。あれが治った時は、なんだかもう、世界に向かって愛とか叫べそうな気分になります」 「うんうん」  実感を込めた赤音の言葉に、彼女の小首がこくこくと頷く。  この患者が実年齢よりも幼く見られがちなのは、そういった〈所作〉《しょさ》がどこか小動物じみているからだろう。  〈遮光器〉《しゃこうき》が顔の上半分を隠してしまっているせいでもあるかもしれない。  実際は赤音より二歳の年長であり、当然ながら成年である。  彼女の遮光器は、過去に火災で傷つけた眼を保護するためのものだ。強い光熱を浴びて弱体化した眼球は、遮光器なしに何かを見ようとすれば激しい苦痛を生む。  必要なものだったが、火傷による機能低下に加えてこのフィルタのため、視力は極めて低かった。  彼女の負傷は眼だけではない。ほぼ全身を火に焼かれていた。  今もって、その身体は包帯を巻かれていない部分の方が少ない。皮膚という人体の防壁の破損はそこから多くの病の侵入を許し、生命を絶えず危機に晒している。  限られた体力では、身体を起こして会話することさえ楽ではないはずだった。赤音はもう一度、勧めることにした。 「姉さん、そろそろ休んだ方がいい」 「うん……でも、もう少し」 「? どうかしたんですか」  訝る。彼女はあまり、こういった〈我侭〉《わがまま》を口にしない。  病人にできるのは少しでも周囲に負担を掛けないよう努めることだけだと、やや過剰なくらい意識し、医師や看護婦が気後れするほどその指示に忠実だった。  赤音に対しては尚更だ。養われているという意識のためだろう。それが今日はどうしたのか、首を傾げざるを得ない赤音へ、ややあって。 「眠るのが怖いの」 「怖い?」 「死ぬ夢を見るから」  そんなことをぽつりと〈洩〉《も》らした。 「…………」 「毎晩同じ夢を見る……同じように死ぬ夢。起きた時には覚えてないんだけど、なんでかな。そんなふうに感じるの」 「気のせいですよ。じゃないとしても、夢はただの夢です」 「そうかな……」 「ええ」  意識して力強く、〈頷〉《うなず》く。  だが彼女を想念の沼から引き上げるには足りなかったらしい。〈澱〉《よど》んだ呟きが、なおも続く。 「わたし、思うんだ。わたしはきっと、毎晩本当に死に掛けているんじゃないかって。それを起きた時には、夢だと思っているだけなんじゃないかって」 「……」 「そしていつか、それが夢じゃないことに気付いた時……わたしは死んでいるんじゃないかって」 「姉さん」 「おかしいよね」  毛ほどもおかしくなさそうに、彼女は弱く笑った。 「わたし、そう思うと怖いの。何もできないわたしなのに……生きてたってあかねの重荷になるだけのわたしなのに。きっと死んだ方がいいのに、死ぬのが怖い」 「……」 「ごめんね、あかね。こんな……わたしで」 「っ!」  このまま言葉を続けさせれば、その重みで彼女は死ぬ。そんな気がして。  弾かれたように、赤音はシーツの上で震える白い手を〈掴〉《つか》んだ。  両手で包み込む。  それは、彼の脳裏に残る過去の記憶とはあまりにも大きく食い違った、小さく病み衰えた手であったけれども。そんなことには、ごく些細な意味もない。  体温がある。その温もりに、彼女の生命を確認できる。それこそが意味だった。 「あなたはこんなところでは死なない」  確信を音にして、呟く。 「おれが死なせない」 「あかね……」 「今のおれがあるのはあなたのおかげだ。あなたが覚えていなくても、その事実は変わらない」 「……」 「姉さん」  遮光器の向こうの瞳は窺い知れない。赤音は手の中を見た。手の中の命に語りかけた。 「おれは今、戦っています」 「えっ?」 「あなたに応えるために。――意味がわからなくても構わない、聞いてください。おれはあなたに応えて、戦っている」 「……」 「だからあなたには最後まで、見届けて欲しい。  生きて下さい。  最後の時まで、あなたが生きてくれたなら……おれはきっと、あなたが生き続けたことに、意味を与えてやれる」  自分の中でも、はっきりとはしないものを。そのままに赤音は口にしていた。それは確かに在る、形の見えない何かだった。 「意味……」 「だから、姉さん」  両手を握り締める。  その命が、こぼれ落ちないように。 「お願いです。……死んだ方がいいなんて、思わないで下さい」 「…………」  彼女は答えなかった。  わかっている。こんな言葉で、人を救うことはできない。  彼女は厳然たる現実として死に脅かされており、それを排する力を彼の言葉などが持つはずはない。  それでも。こんな〈欺瞞〉《ぎまん》の言葉の一片でも彼女が信じてくれたのなら、それは死を遠ざける力になる。  死神はいつだって、心の弱い者から連れて行くのだ。その来訪を拒むことは不可能でも、心が強くあれば順番をより後に回すことはできる。  赤音がつかんだ手は、指先だけがかすかに動き、主の困惑を伝えているかのようだった。  だがやがて。彼の手に、彼女のもう一方の手が重なる。 「姉さん」 「……」  彼女はやはり、何も答えてはくれない。  しかしその頬には、わずか、羞恥の赤みが差していた。  己の弱さを恥じてのものか。ならば、赤音にはそれで充分だった。  恥じられるなら大丈夫。何もかも諦めた弱者なら、恥など感じないだろう。  安堵して、息をつき――唐突な電子音に、赤音は吐きかけた息を飲み込んだ。 「あ。いけね」 「だめだよ、あかね。病院じゃ電源は切っておかないと」 「すいません」  しかし、掛かってきたものは仕方なかった。着信音をかき鳴らす携帯を取り出し、液晶画面に目をやる。  弓だった。 「……なんだ?」 《あ、赤音っ!?》  通話して、すぐ。泡を食った様子の声が飛び出してくる。  赤音は眉根を寄せて、電話を軽く押さえた。  どのようなものであれ、弓との会話はこの病室にあって〈声高〉《こわだか》にしたいものではない。 「そりゃおれの携帯に掛けてきてるんだからな。おれが出るだろ。おれの携帯に掛けてお前が出たら変じゃねえか。しかも掛けてるのもお前だったら、これはもうアレだぞ。SFだ。いや妖怪かも」 《そんな落ち着いてないでよ!》  電子音声は、半泣きの様子も〈克明〉《こくめい》に表現した。 《今どこなの!? すぐに戻ってきて!》 「地球上のどっかにゃいる。スペースシャトルを迎えに寄越してくれるんだったら、どこへでも一分以内に参上してやるよ。……で、どうした」 《テロリストだよ! 本社を襲撃してきたの!》 「そりゃ豪快な連中だな。敢闘賞でもくれてやってから、とっとと衛士団で叩き潰しちまえ。そんでもってその光景を最上階から見下ろしてだな、はははゴミのようだとか言ったりするとかっこいいぞ」 《駄目なんだよ! なんでか、警備システムを奪われちゃって……そのせいで衛士団は分断されちゃってるし、ここへの直通路にまで敵が侵入してきてるの! だ、だから早く……!》 「八坂は?」 《僕の部屋の前にいるよ。まだそこまでは敵は来てないけど、いつ来てもおかしくない状態で……だから、こんなのんびり話してる場合じゃないんだってばあ! どうして平然としてるの、赤音!》 「いや、これでも慌ててるつもりだ」  嘘だった。  確かに、平然として〈居〉《い》る。赤音にはこの事態に際し、慌てふためく理由が全く存在しなかったから。  釣針に餌をつけて川に投げ込んだら、魚が掛かった。その結果に、そんな馬鹿なと〈瞠目〉《どうもく》するものはいないだろう。  それと同じ事。 《とっ、とにかく早く来て……!》 「わかった」 《……え?》  再度の懇願に即答を返してやる。と、弓は意表をつかれたように、ぽかんとして呟いた。電話口の表情も想像がつく。 《本当?》 「なんだそりゃ。てめぇが呼んでるんだろうが」 《う、うん。そうだけど。ただちょっと……不安だったから》 「馬鹿だな、お前は」 《そうだね……ごめん》 「すぐに行く。ちゃんとそこで待ってろ」 《うん。早く来てね……》  心細い中にも安らいだ声を聞き終えて、赤音は通話を切った。電源もオフにしておく。  もう、この携帯に彼女から電話が掛かってくることはあるまい。今日のみならず、〈金輪際〉《こんりんざい》。 (本当に馬鹿だな。あいつ)  蕎麦屋の娘がいみじくも語った通りに。  聞こえたのは会話の半分だけでも、内容を漠然とは把握できたのだろう。ベッドの上から残念そうな視線が、赤音に向けて注がれていた。 「……もう帰るの? あかね」 「いいえ。今日はずっと一緒にいますよ」 「え? でも……」 「いいんです」  〈戸惑〉《とまど》った風の彼女に、薄く微笑んで首を振る。背を支えながら肩を押し、寝るように促しつつ、 「タチの悪い知り合いから、遊びに来いと誘われただけです。酷く酔ってましたしね……放っておいて構いません」 「そうなんだ。……でも、友達は大切にしないと駄目だよ?」 「はい」  苦笑して頷くと、彼女も安心したようだった。おとなしく彼の腕に体を預け、寝台に横たわる。  布団を掛け直してやりながら。赤音は胸中でだけ、笑みを深くした。 (どうやら最後の壁は八坂になるか)  八坂。  東京武界の最高位、〈剣匠〉《けんしょう》二十四〈傑〉《けつ》が一。  最強であり。無敵であり。鉄壁であり。戦場の告死者であり、  ――〈斬りで〉《・・・》のある〈据〉《す》え物ってとこだ。そうだろ? 伊烏。  声いらず、呼び掛ける。無敵の戦鬼と無名の復讐鬼。片や歴戦の〈古兵〉《ふるつわもの》、片や流血を〈厭〉《いと》う青二才。勝敗など最初から見えている。わかりきっている。  この東京で一人。赤音にだけは。 (頼んだぜ、伊烏)  おれがお前にしてやったように、お前もおれの回りを綺麗にしちまってくれ。  そうすれば、おれたちはようやく二人きりだ。  誰もおれたちの間にはいなくなる。  もう誰も邪魔をしない。  明日からは、もう誰も。  剣匠二十四傑と云う。  近年の東京府における最大のイベントであった石馬戒厳決起三十周年祭に際し、これを主催した府知事は〈催〉《もよお》しの一つとして、この乱地にあっても最強と称される武人を幾人か選び出し、賞揚するということを行おうとした。  彼はその筋の識者を集めて選考委員会を設立し、討論させた。  この手の論争の常で会議は紛糾したものの、〈能〉《よ》く意見を取りまとめる者があって、最終的に二十四人を選抜した。  それは府知事の予定を大幅に超えて多かったのだが、彼は再選考を要求はせず、そのままに公表した。  何故ならそれは、実に〈巧〉《うま》く選ばれた二十四人であり、ここから誰を削っても、あるいはここに誰を加えても、途端に説得力を失い、紙屑論評に堕することが明白だったからである。  戦場での強さにおいて最上たるがこの二十四人の誰であるかはともかく、二十四人の誰かであろうことは、衆目とも一致していた。  事実、これが公表されたとき、的外れな結論だと〈詰〉《なじ》った府民はごく少数に留まり、その後も増えていない。  世に知られていない達者はきっといたことだろうが、知られていない者の名を誰も声高に語らないのは当然である。  選ばれし武人集を尊称して、府知事は剣匠二十四傑と呼んだ。  その名を受けて喜んだ者もいたかもしれないし、笑った者もいたかもしれないし、肩をすくめた者もいたかもしれない。気付かなかった者もいたかもしれなかった――府知事は別に、賞状とトロフィーを送りつけたりしなかったので。  府民は、武人の極峰を示すものとして生まれたその一名詞を、〈畏怖〉《いふ》と共に受け止めた。彼ら個々の名と併せて、その名はたちまちに〈巷間〉《こうかん》へ浸透し、いまや子供でも知らぬ者はいなくなっている。  数多の道場を破った常勝の二刀使い、「〈鋏虫〉《はさみむし》」〈村崎伊東〉《むらさきいとう》。  当世にあって武芸十八般を地でゆく、「十八芸」〈神代大吾〉《くましろだいご》。  素の拳でもって兜を割った、「〈鉄瓶和尚〉《てつびんおしょう》」〈小吉坊〉《しょうきちぼう》。   そして、旧帝都の魔神。 「無人の野を〈征〉《ゆ》く」〈百武〉《ひゃくたけ》。  いずれも道場の中のみならず、無法の路上においても武威を誇った、血生臭い実戦武者たちである。  既に死した者もいるが、その最期も勇名を損なうものではなく、変わらずして二十四人の内に在った。  剣匠二十四傑。  その一席は、瀧川商事社長専属護衛にして衛士団師範頭たる武人が占める。  即ち、「悪竜」八坂竜騎。  瀧川家当主三代に仕え、主を護り闘うこと百余度、その全てにおいて不覚を取らず、打ち退けた敵の数は数百ないし千ともいう、正真正銘不敗の戦鬼。  壊れた都市が産み落とした二十四匹の化物群の中にあって尚、戦歴隔絶する狂闘士である。  今夜の敵手を迎えて、老兵には何の〈昂〉《たかぶ》りもなかった。  高揚であれ、動揺であれ。主の命を背負って立つこの戦場は八坂にとって人生そのものであり、何らかの感興を覚える時期など、あったとしてもとうに過ぎている。  彼は淡々と、得物を手に身構えた。  半棒である。木製、長さは1メートル程度。武器として無用の長物ではないが、際立って優秀なわけでもない。  八坂がこれを用いるのは、汎用的な戦闘性能が高いからではなく、主を守る戦闘に適しているからだった。  彼の主は屋内にいることが多い。障害物の多い屋内では、長大な武器は自在な使用を許されないことがままある。だから、衛士標準装備の長鉄棒は選ばない。  刀剣も選ばない。主を守るということは、主の側で戦うということであり、己の武器で主を傷つけてしまう危険性を〈孕〉《はら》む。  無論あってはならないことだが、その危険を消去することは不可能だ。  万一そうなった際、刀剣であればわずかな接触が取り返しのつかぬ事態となり得るが、棒ならばよほど運が悪くない限りは〈打撲〉《だぼく》以下の負傷で済む。  この半棒は主を守るため。半棒を構える形もまた、主を守るためだけのもの。  八坂は己の胴体を斜めに切る対角線と平行に、右手を左上、左手を右下に置いて棒を持っていた。奇形である。  この構から、八坂は右からでも左からでも、上からでも下からでも、臨機に応変して打撃を繰り出すことができた。片手打ち、諸手打ちも都合によって自由自在。  棒術は元々剣術などに比べて攻撃手段が多彩なものだが、彼の使う技術はその特性を更に突き詰めていた。  だが防御はどうなのだと、八坂は昔、同僚に問われたことがある。  なるほど、その構は攻撃には良い。しかし防御の弱さは一目瞭然だ。頭や胴を狙った攻撃なら防げよう。だが脚を狙われたらばどう対処する? 剣や槍に刺突されたらばどうするのだ?と。  その時、八坂は何も答えなかった。そんな質問を発すること自体が、同僚の愚かさを物語っており、説明したところで理解されないことが明白だったからだ。  防御?  防御だと?  己と同じく護衛たる者がそんな言葉を口にするならば、八坂は無言で嘲るほかに術を持たない。  護衛にとって守るべきものは唯一つ。主の身命のみだ。  己の身命など考慮の外である。  防御の技など必要ない。必要なのは、主を脅かす敵を討つ攻撃の技である。そして、攻め手を尽くしてもなお敵の刃が主に届かんとする時は、肉体をもって食い止めるという覚悟である。  八坂の覚悟は、幾度かその実在を試されていた。胸、腹、加えて両肩に、深々たる傷痕が今も残る。いずれも致命傷とならなかったのは幸運なことだった。別に感謝はしなかったが。  護衛は、かけがえなき主を守るための、替えの利く捨て駒に過ぎない。いつ死のうと構わないのだ。護衛が死ねば、次の護衛が主を守る。それが死ねば、その次の護衛が。  彼はたまたま生き残ってきたが、そのことには別段、何の価値も無いのだ。  今夜こそ、死ぬかもしれぬ。  八坂は半ば闇に溶ける濃紺の敵影を〈見据〉《みす》えてそう思ったが、恐怖なるものを呼び起こされはしなかった。それも良かろう、とだけ思う。  ――刺し違えて、あの敵を止める。  気負うこともなく、彼はその覚悟を〈丹田〉《たんでん》に据えた。  敵の姿は判然としない。着流し姿であることがわかる程度だ。確証はないが、矛止の会士だろう。  瀧川に外敵は腐るほど存在するが、今この時期に、かくも強硬な襲撃を掛けて来る相手となると、他には考え難い。  今この時期。  八坂は戦いの場にふさわしからぬ想念を、短い時間だが持ち込まずにいられなかった。口の中に発生した苦虫を噛み潰す。  あの〈痴〉《し》れ者。  奴は勝手な振る舞いで瀧川に多大な損失を招いた。それが愚かさと、弓への忠節のためであれば、まだ受け入れようはある。  だが違う。あの若造は己を利する何らかの〈目論見〉《もくろみ》あって事を成したのだ。〈心底〉《しんてい》知れぬながら、それだけはわかる。  決して主のためにはなるまい、〈邪〉《よこしま》な企みであろうことも。  八坂は主に対し不満を抱いたことはない。そもそもそんな能は持たない。  だがあの男を身辺に置くことだけはやめて頂けないものかと、常々思っていた。  臣たる分をわきまえ、差し出口は叩かずに来たが、例え不忠であっても苦言を〈呈〉《てい》するべきではなかったか。矛止の会襲撃事件後はとみに、そう考える。  今夜を越えて生きていたならば、この襲撃の責任を追及し、奴を追放せしめるべきかもしれない。  が、それはいま考えても〈詮無〉《せんな》いことだ。  迫る敵は、八坂の勘が〈正鵠〉《せいこく》を射ているならば、容易な相手ではない。  桂葉を殺した者。  小僧と因縁ありげであった、姿も見せず消えたあの夜の敵手。  あれと同じ気配、とでも言おうか。  そんな曖昧な感覚に〈依〉《よ》って何かを判断するのは八坂の好みではなかったが、あの夜に闇を隔てて対峙した者と今また向き合っている、そんな気がどうしてもするのだった。  仮にそうであるなら、正体不明の剣の使い手である。桂葉らが如何にして殺されたのかは、あの後も〈折〉《おり》ごとに考えてきたが、結局答えを出せていない。  正面から戦いながら、背を〈穿〉《うが》たれた桂葉ら。〈如何〉《いか》なる戦闘が展開されたものか、想像を超えていた。  得体知れぬ力に無策で挑む。それはいわば、死の約束だが。  ――構わぬ。   それで怯むようならば、八坂なる男には一片の価値もない。   ――俺を殺したくば殺すがいい。だが貴様の命も貰う。  敵が足をふと、止める。それは逃げるためではなく。強襲の準備であると、八坂の感覚は察知した。  全身から力を抜く。ここで力むようなら馬鹿である。脱力の状態からこそ最大の筋力を生み出せることは、武人たる者ならば常識として知る。  敵手とても同様。定かならぬ視界の中にあっても確かなほど、ゆらりと、〈彼〉《か》の者は見事な〈弛緩〉《しかん》の様相で立っていた。  あの〈態〉《たい》から駆け出してくるのならば、それはさながら砲弾と〈見紛〉《みまが》うばかりのものになるであろう。  その口が、小さくうごめいたようだった。錯覚かもしれない。そうでないならば何か、数を数えたかのようで――と、八坂に見えた瞬間。    果たして、影は地を蹴った。  消失、とさえ見紛う。猫のように急激な、静から動への移転。人間の肉体で、かかる動作が可能であったのかと、見るものをして驚嘆させずにおかない異様の瞬発。  彼我の距離は約10メートルある。いや、あった。  社長室へ続くこの通路は陸上のグラウンドほど走り〈易〉《やす》さを追及して建築されてはいないが、敵はそんなことなど構いなしに、スプリンターはだしの疾走で距離を切り詰めてくる。  高速にも関わらず、最初、足音は八坂の耳に届かなかった。  やがてそれが、聞こえてくる。〈衣擦〉《きぬず》れの音。いや鉄板上の油に火をかけた音。足音の急激な拡大は、反比例して激減する相対距離を物語る。  そして、音とは必ず遅れるものである以上、実像はより〈逼迫〉《ひっぱく》しているに違いないのだ。  敵の初動から、心臓が鼓動を一つ打つ間さえ経っていない。しかし早、不〈明瞭〉《めいりょう》だった黒影はその姿を明らかにしていた。  紺の〈装束〉《しょうぞく》に包んだ身体は、やや長身の部類に属するか。手足は長い。〈撃尺〉《げきしゃく》の間合は一段上の体格のそれに〈匹敵〉《ひってき》するだろう。  抜刀はせず、左手で鞘を握り親指だけ鍔にかけた、〈居合腰〉《いあいごし》の体勢で駆けてきている。  前髪の〈狭間〉《はざま》に覗く両瞳は〈昏〉《くら》かった。殺意に満ち、そして己の殺意に怯える眼。  右手は動かない。剣を抜かぬ。まだ抜かぬ。 (居合か。それも、抜きの速さによほどの自負ありと見える)  不意打ちもへったくれもない真っ向勝負で、既に武器を構えた相手に抜き打ちで挑む――なまなかな技量では為し得ないことだ。神速と呼ばれる抜刀術が必要となる。  この男が誇大妄想狂でない限り、八坂はこれからそれを見せつけられることになるだろう。視えるものかどうか知れないが。  神速の縮地と神速の抜き打ち、その速度でもって圧倒し、何させることもなく斬るつもりか。  もしくはより確実に、間合の侵略でこちらの攻撃を誘い出し、それを躱した上で斬るつもりか――否。あの速度では柔軟な進退は不可能だ。攻撃を避ける方法がない。  ならば、敵は攻撃をさせぬ気なのだ。自己に防御の必要を生じさせる前に勝負を終える。敵を上回る速度で先手を取り、その一手のみで勝つ。  企図は攻撃〈一辺倒〉《いっぺんとう》。  これを迎え撃つ〈定法〉《じょうほう》は、術を尽くして敵の初撃を防ぐことだ。攻に対し攻で応ずれば、十中八九、双方〈相討〉《あいう》つのだから。  しかしおそらくこの敵は、受けに回られることも想定し、それを打ち破る策を秘めているのだろう。  ――知ったことではない。  八坂は構を崩さなかった。  敵手と同等、攻撃一辺倒の構を。棒の先端に羽虫が止まる、さまでに不動。  敵の速度は異様だ。  先手は奪われるだろう。敵が撃尺の間合に踏み込む、その戦機を〈捉〉《とら》え損ねるつもりはないが、それでも〈彼〉《か》の黒影の先は行けまいと思えた。  己は斬られる、だがそれは、何の〈懸念〉《けねん》にもならない。  八坂は、敵を撃つだけで良いのだ。  己を生かすを活人剣と云い、己を殺すを殺人剣と云う。八坂の武技は常に殺人剣だった。初めて戦陣に立った時から、一度の例外もなく。  先手を取られてからでいい。斬られてからでも構いはせぬ。己が殺されたその後で、敵を殺す。  間合が詰まった。未だ敵刃は抜かれない。  床が鳴る。  過去に幾度か聴いた音だ。主の部屋の扉を〈指呼〉《しこ》の距離に仰ぐここまで、敵に踏み入られたことは決して多くない。だが数度はあり、その〈毎〉《ごと》にこの音を聴いた。  主の庭が土足で踏み荒らされる音を。これが鳴る時は必ず極めつけの窮地であり、そして必ず、八坂は非礼の代価を支払わせ、主を守ってきた。  間合が接する。  間合を越える。 「げあっっっ!!!!!」  〈咆哮〉《ほうこう》たる息吹を吐き、八坂は全身、両腕両足胸背の筋肉を爆発させた。半棒を撃つ。握りは〈諸手〉《もろて》。打形は袈裟懸け。  もとより全力で走行する者が機敏に動いて攻撃を避けるなど〈絵空事〉《えそらごと》だが、なお八坂は万策を打った。  唐竹、縦一文字に振り下ろせば、体を横に〈捌〉《さば》いて避けられるかもしれない。  横一文字に薙げば、八坂の踏み込みは直進ではなく弧を描くものとなるため伸びを欠き、後方への退避を許すかもしれない。  大きく踏み込んで斜めの袈裟打ち、これならば、回避の可能性を極限まで減らせる。  受け止めてきたら――打ち潰すまで。  迎え撃ちに、こちらの腕を斬ってきたら――両腕を一度には断てまい。片腕が残っていれば、差し違いに潰せる。  腕以外を斬ってくるなら――望むところというものだ。  敗れる道理はない。  八坂は死ぬかもしれないが、敵も死ぬ。  主は生き、勝利する。  この期に及び敵の右手はまだ、差料の柄に伸びていなかった。  そのことに〈訝〉《いぶか》る。何を考えている? 反応を遅らせたのか?それともここからの技があるのか? いや、いずれであろうと知らぬ。事ここに至れば、もはや策も技も無価値のもの。  半棒を振り落とす。  それは確実に敵を討つ。棍の〈物打〉《ものうち》、最も威力の乗る部位が敵を打ち据える。肩口から入り〈肋骨〉《ろっこつ》を砕き肺臓を潰す。  棍の速度と敵の速度、棍の角度と敵の針路、以上から導かれる計算式の解が、至近の将来におけるその結果を約束する。  ――だから、そんなことは有り得ないのだ。 (いつ)  砂時計の砂一粒の中で、八坂は呟いていた。 (いつだ)  自問する。答えはない。 (いつなのだ?)  他にも問う。答えはない。 (一体)  〈巌〉《いわお》たるべき己に、〈罅〉《ひび》割れを自覚して。  〈いつ〉《・・》、〈敵は消えたのだ〉《・・・・・・・》?  〈どこへ〉《・・・》、〈敵は消えたのだ〉《・・・・・・・》?  八坂は天を見上げた。刹那にあっては、わずか瞳孔を持ち上げるだけであったけれども。  何を思っての仕草でもない。己を過信していた人間が、初めて己の無力たるを知った時、自然とする動作がそれなのかもしれない。  しかし。  〈敵は〉《・・》、〈そこにいた〉《・・・・・》。  紺色の衣を翼のように。  〈迅〉《はし》る右手は、今こそ刀へ。  暗黒の〈眼窩〉《がんか》に、八坂の姿をひたと据え。  ――彼は。 (飛翔)  凍った心が、一語を紡ぐ。  それは確かに、飛翔だった。  地を〈這〉《は》う人のすべき業ではない。 (馬鹿げている)  馬鹿げていた。  人が飛翔するなど、馬鹿げている。それは、鳥だ。  そして、飛ぶ鳥を棒で打とうとした己も馬鹿げている。できるわけが、ないではないか。 (そうか)  一方で、得心する。  間合が接した瞬。この敵は、そのまま踏み込んでくるかわり、疾走の勢いを利して跳躍したのだ。  突っ込んで来るという目算の上で放たれた八坂の打撃は当然、標的を〈捉〉《とら》え得ない。かくも想定外の狂手を捕捉する〈術〉《すべ》などない。  だがそこまでに留まったなら、所詮は奇芸であったろう。 (この動き)  ただ飛ぶのみならず。敵は身体を前屈させている。つまりは、八坂の上空で宙転しようとしている。  その期すところは。 (抜刀)  宙転抜刀。  それは抜きが即、斬撃であり。 (全ては一動)  飛翔即宙転、宙転即抜刀、抜刀即斬。  〈幻魔〉《げんま》のような攻防一致。  その〈精華〉《せいか》たる、〈閃刃〉《せんじん》は。 (完全死角――――後背から、敵を穿つ)  半棒が床を打ち、虚しくも甲高い音を鳴らした時。  右肩で〈爆〉《は》ぜた灼熱に、不破の衛士は生涯ただ一度の、苦痛と絶望の叫びをあげた。           ――――我流魔剣 〈昼の月〉《ヒルノツキ》  あらゆる状況を想定してそれに打ち勝つ技を用意する、そこまで達すれば確実に無敵である。  無論のこと、幻想だが。あり得ない夢だが。果てなる高みを目指して、一歩一歩進んでいくことは可能なのだ。   伊烏義阿は、翼を生やし、その果てに指先を掛けていた。  伊烏は、膝を折って着地した。この時には既に、刀の切先を鞘口まで戻している。  立ち上がりつつ、納刀し。歩み出そうとして。 「……てっ!」  呼びかけか、〈喘鳴〉《ぜんめい》か。定かならない声が、空気を揺らす。  ちら、と肩越しに振り返る。  八坂が……  右腕を〈喪失〉《そうしつ》した八坂が、残った左腕で必死に、身を起こそうと〈足掻〉《あが》いていた。 「待て……っ!」  ずるり、と手が滑る。血糊の広がりに。  彼は顔面を無様に床へ打ちつけた。  それでも、手を伸ばしてくる。 「ま……!」 「…………」  伊烏は目を〈背〉《そむ》けた。  逃げるように、早足で離れる。  ――あの出血では長くは保つまい。  心の〈何処〉《どこ》かが、冷静にそう呟く。  だが手当てをすることも、〈止〉《とど》めを刺すことも、伊烏にはできなかった。己の恐怖に背中を押されて、前へ進むことしかできない。  〈昏倒〉《こんとう》してか、かすれ声はすぐに聞こえなくなった。そのことに安堵し、安堵する己の〈卑小〉《ひしょう》さを噛みながら、老兵が守らんとしていた扉に手をつける。  無駄な鍵は掛かっていなかった。  おそらくは過去一度も、招かれざる客を立ち入らせなかったのだろうその一室は、長い不可侵の歴史に見合うだけのものを備えていると、伊烏をして感じさせた。  広大であるとか、調度が高価であるとか、そういうことではない。空気である。神殿、あるいは遺跡、そういった場所と同質の何かがここにはあった。  ざっと、眺め渡す。  赤音は――いない。  いるのは一人だけ。  この部屋の正当な主人、瀧川商事の〈総帥〉《そうすい》が、ソファの前に棒立ちして、小柄な身体を震わせていた。 「瀧川弓か」 「……どうして」  わななく唇がそんな言葉を作る。 「どうして、どうやってここまで……!」 「……」  それは彼の〈誰何〉《すいか》の答えにはなっていなかったが、元より聞くまでもなかったことだ。構わず、伊烏は彼女の欲する答えを示してやった。既に無用のそれを、足元に放り投げて。  一枚の、VIP用IDカード。 「……っ!!」  そこに瀧川弓が何を見たのか、伊烏には窺い知れない。  しかしその瞬間、彼女の意志は砕けたようだった。かくんと膝を落とし、両腕は〈萎〉《な》えた。漂白された顔でカードを〈凝視〉《ぎょうし》し、〈茫然自失〉《ぼうぜんじしつ》して。  やがて。笑い出した。 「あは……あはははは」 「…………」 「あはははは」  笑う。  涙が大粒をつくって、頬を流れた。 「はは……ははは! なんでさ! どうしてだよぉ!」 「……?」 「ひどいよ、赤音! なんでこんなことするの! 僕が一体……何を、何が、どうして! わからないよ! 全然わかんないよ!!」 「武田赤音は何処だ。ここにはいないのか」 「いないよ! いるわけないよ! ずっと待ってたけど……来るわけがなかったんだ!!」  笑いが泣き声で押し潰されていく。  彼女の錯乱が気に掛からない、と言えば嘘になったが、気にしている暇がないことも事実だった。  彼に与えられた時間は20分。この間にすべきを終えて、脱出せねばならない。時間に不足はあっても過分はなかった。  赤音がいないならいないで、すべきことはある。伊烏は再び抜剣した。鋭利極まる先端を弓へ向ける。しかし泣きじゃくる彼女に、気付いた様子はない。  そのまま斬れば良かったのかもしれないが、伊烏はふと〈御託〉《ごたく》を並べていた。  〈因果〉《いんが》を含めたところで死に納得できるものでもないだろうに。  あるいは、自分自身を納得させたかったのかもしれない。 「瀧川弓。矛止の会は、報復としてあなたを殺す」 「…………」 「俺自身は雇われ者に過ぎず、あなたに恨みはない。俺が殺したいのは赤音だけだ。だがあなたが瀧川の力で奴を守る限り、奴は殺せない。奴を斬るために、あなたには死んで頂く」  ゆら、と弓が顔を上げる。ぴたりと涙を止めて。  伊烏は思わず〈後退〉《あとずさ》った。  機械仕掛けの人間というものがいずれ造り出されるならば、それはかくあろうかという〈形相〉《ぎょうそう》。 尋常な神経の持ち主が、正視して〈堪〉《た》え〈得〉《う》るものではなかった。 「僕が赤音を守る?」 「……」 「笑わせないでよ――もう知るもんか」 「……?」 「あなたの声、思い出した。桂葉を殺したひとだよね。赤音に復讐したいんでしょ? だったら、いいことを教えてあげる」 「いいこと?」  引き込まれて、反問する。  応えて彼女は、伊烏の思いもよらぬことを口にした。 「赤音の姉が、うちの系列の病院にいるよ。浅草橋の」 「……姉? 奴に?」 「知らなかったの? 笙っていう人。赤音にとても大切にされてる。身柄を押さえれば役に立つんじゃないかな。きっと赤音は彼女を見捨てないだろうから。  僕とは違ってね」 「……」  初耳だった。赤音の姉が東京にいるなどと。  考えてみれば、伊烏は彼の家庭環境などろくに知らなかった。思い返せば四人家族だと聞いたことがあるような気がする、その程度だ。四年前のあの日以前も、以後も、伊烏の関心は彼自身の上にしかなかったから。  復讐を期しながらこれまで一度もそんなことに思い至らず、瀧川の社長などの口を借りてようやく気付かされたのは間抜けに過ぎたが、何にしても〈有為〉《ゆうい》の情報には違いない。  伊烏は少しだけ迷ってから、剣を納めた。  どうやら、この女性を斬る必要はない。事情はよく把握できないが、彼女は明らかに、愛人であったはずの男への愛情を失っている。  赤音と戦う妨げにならないのなら、瀧川弓が今後も生き続けようと、伊烏はまるで困らなかった。  矛止の会にとっては違うのだろう。だがそれならば、彼らの手で殺すべきだ。そう考えても、伊烏は己を不義理だとは思えなかった。  報復の目的は既に充分達している。社長の鼻先に凶刃を突きつけた時点で、旧帝都の支配者瀧川家の名には〈拭〉《ぬぐ》いようのない泥が塗られたはずだからだ。  〈踵〉《きびす》を返す。  赤音は殺せなかったし、瀧川弓は殺さなかった。だが進展はあった。大きな進展が。  それを無にしないためにも、早く立ち去るべきだった。ここにはもう、用がない。  着物の〈裾〉《すそ》を〈翻〉《ひるがえ》し、  その裾を、小さな手に〈掴〉《つか》まれる。 「…………」 「…………」  黙って見下ろす伊烏の下で、彼女も黙って、〈俯〉《うつむ》いていた。  指を震わせ、肩を震わせ。  ややあって、ぽつりと。 「……だめ。やっぱり、だめだ」  呟く。  弓は顔を上げた。  一度は消え失せた涙が、またそこにある。今度は小さな、筋となって。  ……ただの、人間の顔だった。 「赤音を裏切れない」 「……」 「だって僕は、赤音を愛したんだから。赤音が僕を愛してなくたって、それが変わるわけじゃない。……変わるもんか! 僕の心はそんなにお安くない!」 「……」 「僕はあいつを裏切ってなんかやらない。意地でも愛し続けて、音を上げさせてやる。だから……だから、お願い」 「……」 「今聞いたことは忘れて。何も聞かなかったことにして。赤音を……殺さないで!」  すがり付いてくる、その女のことを。  何一つ知ってはいないのだと、伊烏は自覚した。  瀧川弓。瀧川商事社長。それは名札と肩書きに過ぎない。  彼女はどういう人間だったのか。  どんな生き方をしてきたのか。  赤音とどうして出会ったのか。  どんな気持ちを、赤音との間に〈育〉《はぐく》んでいたのか。  彼女の本質に触れるかもしれない何事も、伊烏は知らない。  知るべきだったのだろうか。  知れば、こんな結末とは違う、より不幸ではない何かを、伊烏義阿と瀧川弓の接触は双方にもたらし、その後二度と会うことはなくとも、人生における意味ある出会いの一つとして記憶に刻むことができたのだろうか。  今はもう、わからない。  弓が〈懐〉《ふところ》に手を入れた時、伊烏は右手を走らせ、彼女の手が何かを握った時には、彼は既に抜刀を終えていた。居合の使い手にとり、抜刀とは斬撃である。  弓は懐剣の鞘を払うこともなかった。  そのずっと前に、逆袈裟に斬り下げられて、〈柔〉《やわ》らかい絨毯の上へ身体を落としていたから。白い羽毛が、〈紅〉《くれない》に染まる。 「…………お願い…………」  彼女が最後の息で口にしたのは、その一言だった。  それは刃よりはるかに、伊烏に対して殺傷力を持っていたかもしれない。彼女の〈今際〉《いまわ》の〈際〉《きわ》の願いは、伊烏には決して応えることができないものなのだ。  生命の最後のかけらを〈費〉《ついや》やして言葉にされたそれを、彼は、踏みにじらねばならない。他に、どうしようもない。  息絶えた瀧川弓の瞼を閉ざす。してやれることは、それだけだった。  立ち去るために歩き出して。伊烏は一度だけ、胸中にごちた。  ――哀れ。        人骨踏みしめ怨念〈喰〉《く》らい〈這〉《は》いずり進み血を〈啜〉《すす》る                    悩ましきかな我が武道  医者の仕事を生命の救済であると勘違いしている者は案外に多い。そんなはずはないのに。救えるのなら、人は医者ある限り不死でいられなくてはおかしいが、そうではないのだから。  〈笄〉《こうがい》で爪の間の汚れをほじり取りながら、赤音は思う。  医者とは死の販売業である。  〈肺結核〉《はいけっかく》による死を望まない患者を治療し、三日後の交通事故による死を与えるというように。依頼人のニーズに応じて病気による死を回避させ、異なる死へ送る。  結局死ぬことには変わりなく、実質的な変化をもたらさない以上、これは一種のエンターテイメント業と見るべきではないのか。  つまり芸能人や風俗嬢の同胞である彼は、そのくせ不景気な顔で〈陰々滅々〉《いんいんめつめつ》と話し、相手する者を全く心楽しませなかった。  職業意識の不足も〈甚〉《はなは》だしい。 「おそらく、笙さんはもう長くは持ちません」 「…………」  そんな話題を、診察室ではなく、人気がないとはいえ廊下の真ん中で赤音を捕まえて言ってくるのもまた、理解の難しい行動ではあった。  明るい朝日の差し込む場所で伝えれば、聞き手が事実を〈静穏〉《せいおん》に受け止めやすいとでも思ったのだろうか。  実際の所、朝日は医者の髪の中に頭皮を〈透〉《す》かして見せ、そこの砂漠化が近いことを赤音に教えただけである。 「手は尽くしましたが、及びませんでした。  最高の技術と最善の努力を費やしたつもりです。我々の力不足とは思いたくありません……が、あなたにそう思われるのは仕方ないと考えています」 「まあ、思うけどさ。だってよ、力が足りてたんなら治せないわけねえもんな?」  弁解と虚勢と謝意を〈石鹸〉《せっけん》水で混ぜ込んだような物言いに、肩をすくめて答える。痛烈な非難ということもない単なる〈揚〉《あ》げ足取りだったが、それでも医者にいくばくかの打撃は与えたものらしい。  疲労の濃い顔が横を向き、芝居色もあらわな〈咳〉《せき》払いをする。  ややあって、細い呟きが〈清潔〉《せいけつ》な床の上にこぼれた。 「……ここへ来られるのが、もう少し早ければ」 「……」  それには、赤音の方が目を逸らした。  別に、痛手を感じたわけではないが。その言葉は、初めてこの病院に来てからの歳月を〈顧〉《かえり》みさせたのだ。  ――良く持った、って言わなきゃならねえのかな。  あの時の彼女の様相を回顧し、そう思う。  医者は〈暫時〉《ざんじ》の間を置き、言葉を続けていた。 「精神面も、回復には至らず……退行症状、認識不全を始めとする諸障害は未だ残ったままです」 「その点に関しちゃ、よくやってくれたと思ってるよ。まともに口が利けるようになっただけでも、ここに来る前とじゃ大きな違いだ」 「それはあなたの存在あってこそでしょう。我々はほとんど何もできなかったし……何もできないまま終わるようです」  重い何かを吐き出すように。そう言って、一度口を閉ざす。  次の言葉を口にするために。  赤音はようやく気付いていた。彼は、筋を通しているのだ。武田笙という患者への医療について、思うところを〈虚飾〉《きょしょく》なく語ることで。  自負、自責、言い訳、無念。隠さず全てを言葉にすることが、この医者なりの誠意なのだろう。  なら、彼が最後に告げる言葉は知れていた。  その〈出鼻〉《でばな》に、笄を仕舞って右手を突き出す。眼前に手を開かれた医者は、吐きかけた息を飲み込んでしゃっくりのような音を立てた。 「……?」 「謝ってもらう必要はない。彼女は死にゃしないからな」  こんな話をしても意味はない。そうと知りつつ、赤音はまくし立てた。 「彼女は死なせない。何があってもだ。  そうだな……はなから、医者は関係なかったんだ。医者がいようといまいと、おれは彼女を死なせなかったし、なら彼女が死ぬはずはなかった」  言葉を向ける相手は、自分であったかもしれない。一言毎に思い起こす。彼女の生きる意味を。  〈盲信〉《もうしん》する。それが彼女を生かし続けると。 「あんたが謝る必要はない。あんたに関わりなく、彼女は死なない。こんなところでは、絶対にだ」 「……」  あっけにとられていた医者の顔に、やがてゆっくりと、理解の色が広がりつつあった。  そして両眼に宿る〈憐憫〉《れんびん》。彼の人生において幾度となく、このような局面に向き合うたび心の棚から取り出されてきたに違いない、使い古しの感情。  二人だけだった空間に、ようやく第三者の足音が割り込む。  会話を打ち切るに丁度良い〈契機〉《けいき》だった。医者の側を離れ、足音の方に歩き出す。  見知った顔の看護士が、シーツの束を手に近づいてきていた。 「あら、赤音くん。おはよう」 「ども」 「また、泊り込みでお姉さんの付き添い? いい弟さんねー。うちのはもう、可愛げがないったら」 「姉離れができないだけですよ、おれは」 「それぐらいがいいんだってば。一度離れちゃうと、もう口も利こうとしないんだから。まったく、お前のおしめを取り替えてやったのは誰だと思ってんだってーの」 「普通はそんなもんじゃないですか」  談笑する赤音と看護士の脇を、疲れ顔の医者が通り過ぎる。  お大事に、という囁きを〈聴〉《き》いた気がした。  瀧川商事社長の横死から数日。  その傘下にあった病院には今のところ、劇的な変化は訪れていない。 「おはよう、あかね」 「おはようございます。もう起きてたんですね」  病室に来た赤音を、彼女は既に身支度を済ませた姿で――と言っても大した変化がないのは仕方ないが――迎えた。  時間を考えると、珍しいことだ。この病室の朝は比較的遅い。  彼女はいつになく上機嫌に見えた。早起きと合わせて赤音が理由を尋ねる前に、無骨な遮光器の下の小造りな唇が躍る。 「あのね、聞いて聞いて。夢を見たんだ」 「夢?」 「うん。いい夢。そのせいじゃないかな、早く起きちゃったのも。なんだか気分が良くて」 「どんな夢ですか」  話に乗りながら、いつも通り鏡台の下の椅子を引き出して座る。彼女は良く聞いてくれたと言わんばかりに、声を弾ませた。 「将棋をしたの」 「……将棋?」 「うん。あかね、好きでしょ?」 「ええ」  ほとんど唯一の趣味だと言っていい。  最近はめっきり指さなくなったが。 「上手だったよね」 「どうでしょう」 「違うの? でも夢では、あかねがわたしにやりかたを教えてくれてたんだよ」  この病室の採光は良くない。彼女の痛んだ眼に対する配慮のためだ。  だが風は吹き込む。穏やかな朝の風が、なんということもない夢の話を語る彼女の声を転がした。 「けど、全部は教えてくれないから。どんどん相手の人に駒を取られちゃって」 「意地が悪いですね、夢の中のおれは」 「違うよ。全部教えたら面白くないから、あかねはそうしてくれてたの。わたし、負けてたけど楽しかったもの」 「そうですか……」 「うん。すごく楽しかった。それでね……」  風は尽きず、彼女の話も止め〈処〉《ど》なく続く。  赤音は終始、微笑んで聴いていた。  6三馬――         ――……  8五馬――         ――……  2五桂――         ――……  3三歩――         ――……  縁側に面した座敷からは、陽光の洗礼でほのかな金色を帯びた庭を見渡すことができる。しかし伊烏は、その様に心を奪われることがなかった。  視線は、膝の前。片側にのみ駒が布陣された将棋盤の上。  時に滑らかに、時に考え、一手一手指していく。  悩むのは、自分の手に悩んでいるだけである。いもしない対戦者の手を考えているのではない。  悩むまでもなく、それはわかる。  9六歩――          ――7七角成  同玉――          ――6七金  8八玉――          ――7八歩  5四角――          ――4一銀  自分の手に、彼がどう指して来るか。考えなくともわかる。  その仮想する彼の指し手に、どう応ずるべきか悩む。  おかしなものだった。  2四桂――          ――同歩  2三飛――          ――同銀  同桂成――          ――同玉  3五桂――          ――……。  かつて、ただ一人を相手に幾度となく、夜もすがら指し続けたことがある。  あの頃は、  一生をかけて守りたいと思った女性がいた。  共に彼女を守ってくれると信じた友がいた。  今はもう、どちらも居ない。  四年前。  彼女を自分と共に守るはずの友が、彼女を刃にかけたとき、消えてしまった。  彼女は死に、友は怨敵となった。  四年前。  静止した盤を前に、伊烏が〈追憶〉《ついおく》するのはその向こう。  〈泡沫〉《うたかた》のような幸福の夢。  ――――遠い日々だった。  彼はひとり将棋盤に向かう陰影の男を遠目に眺めつつ、気分屋の男からの電話を受けていた。庭の木陰に、身を隠すようにして。  雨男と山男。さて、付き合いやすいのはどっちですかねえ。そんなことも考えながらに。  どちらとも関わらないに越したことはない。だが得てして、そういう人間ほど人生にまとわりついてくるものなのだ。 「まあ、うまくいったって言っていいんじゃないでしょうか。こちらの予定とはだいぶ違っちゃいましたが、結果的には」  幸いなことに、山空は晴れていた。  今日に限って言えば、電話の向こうにいるのは好人物である。今も〈鷹揚〉《おうよう》に笑っていた。  だが、機嫌が急変するからこそ気分屋という。彼は気楽ながらも慎重に、言葉を選んだ。 「矛止の会をいきなりぶっ潰されちゃった時はびっくらしましたけどねー。ええ。どうしようかと思いましたよ、そりゃあ。あの人達にはまだまだ暴れてもらうつもりでしたし」  彼がこの男の機嫌をとるようになって、それなりの時を経ている。対応の方法はわきまえていた。  手順を誤りさえしなければいいのだ。この人物の心理活動は、おおむねマニュアル化されて彼の頭の中にある。  それだけでも、男は自分自身のルーツに恥じるべきだったかもしれない。かの巨人は決して、部下に見切られなどしなかったのだから。 「ですが結末はこういうことになったわけで。いや、何が幸いするやらわかりませんね世の中は。禍転じて棚から牡丹餅ってやつですか」  福と為す、だろう。と、電話口は訝しげに訂正した。  血統など、穴の空いたゴムホースのようなものである。水を〈漏〉《も》らすばかりか、ゴミを混じらせもする。〈確〉《しか》と送り届けられるものは多くない。  だからその男が偉大でないとしても、それは仕方ないことだった。しかし。  それにしても、皮肉くらいは〈解〉《かい》してもいいだろうと彼は思う。実際に解されたら困るのだが、思わずにはいられない。  ――〈棚牡丹〉《たなぼた》、ですよ。貴方は何も為してないんだから。  その一言をこそ口に出し、〈諫言〉《かんげん》とすべきであったのかもしれないが。 「瀧川の社長派はこれで終わりでしょう。もう担ぐ神輿がありませんからね。副社長派は半分がた、貴方の息が掛かってますし……望み得る最良の事態になったのでは? 東京に宿るイシマの意思が、貴方を選んだとしか思えません」  口にしたのは、〈陳腐〉《ちんぷ》な〈阿諛追従〉《あゆついしょう》だった。  今度は高らかな笑声が返ってくる。つまるところ、この〈仁〉《じん》に理解できるのはそこまでなのだ。今の台詞もまた皮肉を含むなどと、そんな疑念は抱きさえすまい。  自分の力で何一つ為さない男は、十数キロ先の高層ビルで、無邪気に我が世の春を〈謳歌〉《おうか》している。 「残るは後始末だけです……はい、もちろん。今度はちゃんと予定通りに片付けますとも。どうかご心配なく」  あー、馬鹿くさいですねえ。  渡四郎兵は心の中でだけぼやきつつ、サラリーマン稼業に精を出していた。  その日の夕刻、赤音は〈深川〉《ふかがわ》のホテルに一輪を訪ねていた。  外観、さほど高級そうに見えなかったその街宿は、中に入って見てもやはり中程度というところだった。こと宿泊業に関する限り、見た目と内実は大概が一致する。  泊り客に、自分はここに宿泊しているのだと道行く人へ誇らせることもサービスのうちと心得て、高級宿ほど外装に凝るものだからかもしれない。  エレベータの前を素通りして階段を登り、五階の一室の前でノッカーを叩く。 《どうぞ》  ドアホンから、聞き知った声が粗い電子音の調べになって流れ出る。赤音はノブを回し、さっさと踏み入った。  洋式のホテルでは靴を脱ぐ必要がなく、手間を省けるのは良いことだったが、日本人として違和感を振り払えないことでもある。 「やあ。来たな」  広くもない一人用客室の窓際で、椅子に座ってテレビを眺めていた長身が立ち上がり、気安い声と表情を投げかけてくる。  事前の連絡もない唐突の来訪にも関わらず、一輪には驚いた気色もなかった。  不思議に思うべきではないかもしれない。過去の経験から研ぎ上がりの時期を見計らって、今日足を運んだのだから。赤音はそれを口にしてみた。 「頃合かと思って来たんだが」 「ビンゴだよ。ほら」  ベッドの陰、日は当たらないが風は通りそうな場所から、一輪が鞘に納まった刀を拾い出す。  刃側を上にしてそっと差し出されたそれを受け取り、赤音はすらと引き抜いてみた。  〈曇〉《くも》りもなき白銀の刀身、二尺三寸余。  まだ〈寝刃〉《ねたば》を合わされていない刃は真新しく、どこまでも滑らかである。初めて手にした時そのままの姿で、赤音の剣はそこにあった――  一見する限りでは。 「……?」  わずかな疑念を視線に込めて、一輪を見やる。そらっとぼけた表情で、彼女は口を閉ざし、赤音が何か言うのを待っている様子だった。  どうも勘違いではないらしい。  一応、確認をしてみる。軽く一振り。軽くといっても、腰の落としは利かせての振りだ。  刀には〈樋〉《ひ》という溝を彫る場合があり、これの有る刀を振れば笛のような音が鳴る。赤音の刀に樋はないが、それでも剣勢の強さで風を切る音は響いた。  その音が、赤音の知る愛刀の叫びとは、微小ながら調子を違えている。  認めたことはもう一つあった。振りのもたらす手応えもまた、赤音の身に染み付いたものではない。 「おい」 「なにかな?」 「あんたの研ぎってここまでヘボだったっけか?」 「こらこらなんだその失敬な言い草は。君の方から頼んできたことだろうに」 「なんだじゃねえよ!」  もう一度振る。  先と同じ音、同じ手応え。  記憶とは違う音、違う手応え。  その〈差異〉《さい》がどこから来ているか……  赤音は〈歯噛〉《はが》みした。 「軽くなってんじゃねえか!」 「そりゃ、研いだんだしな。当たり前だろう」 「だからって普通20グラムも減るかっ!?」 「正しくは19グラムだ。しかしいい勘してるね、君」  一輪はあくまで平然としたものである。  既に椅子の上へ戻り、ワイングラスをくゆらせでもしそうな優雅の〈態〉《てい》で彼を眺めている。実際に手にあったのは自販機のお茶だったが。  どうにかしてその余裕を崩せないかと、赤音は眼を〈眇〉《すが》めて皮肉を口にした。 「刀を粗末にする刀工ってのも希少だな?」 「缶入り緑茶を開発したのはうちの会社ですって、そんな自慢されても反応に困るんだが。何をどう感心すればいいんだ?」 「聞けよっ!!」 「私は刀剣への愛情を失ったことなど無いとも。それが自分の打った刀であれば、尚のことね。実の子に等しいとさえ思っている」 「その実の子に体壊すほどダイエットさせといて言う台詞か」 「かぜのやどりはだれかしる」 「あん?」  やにわに放たれた呪文めく一句に、気勢をそがれる。  彼女はいつからか、白刃に〈茫〉《ぼう》と見入っていた。本当に、親が子供を見守るような〈面持〉《おもも》ちで。  その指が伸びる。  銀の肌に指紋をつけるような無法はせず、爪だけが〈鋭尖〉《えいせん》たる〈鋩子〉《ぼうし》に触れた。  刀を〈架〉《か》け橋に、赤音と一輪が接する。 「……体を壊させたりはしない」 「?」 「健康のためのダイエットなら、親心ってものだろう」 「どういうことだ」 「これが本来の“かぜ”なんだよ。これまでは贅肉がついていた……つけていたって言うべきだな。必要以上に重ねを厚くしておいたんだ」 「……なんでそんなことを」  少なくとも、赤音にそんな注文をした覚えはない。 「昔の君にはそれがふさわしかったからだよ。しかし今の君には、これが必要になる」  これ、と言った際に刀身をゆるく一押しして、彼女は指先を離した。  〈鋼〉《はがね》の剣がそれだけで揺れる。その軽々しさは鍛冶師の断定の言とは裏腹に、赤音をして不安しか覚えさせなかった。  確かに扱いやすさは増したのだろうが、これまでその点に不満を抱いたことがなければ、〈有難〉《ありがた》がる気持ちとて芽生えようがない。 「……頼りなくなったとしか思えねえんだけど。折れねえだろうな?」 「もちろん肉を削った分、強度は落ちている。下手な使い方をしたら、切り込んだだけで刀身がひん曲がるかもしれないね」 「勘弁しろよ……」  うめいて、赤音は胸中に一つの光景を思い浮かべた。  ウェートリフティングの選手による真剣試し斬り。〈刃筋〉《はすじ》さえ正しく立てれば女子供でも両断できる〈巻藁〉《まきわら》に、その刃筋を乱して――つまりは斬る角度と刃の角度を平行にせず――斬り込んだ刀は、選手が無理に押し切ろうとしたため、見るも無残な変形を遂げた。  日本刀が直角に曲がる姿など、後にも先にもその一度のほかは見ていない。  そんな真似を、自分もやらなくてはならないのだろうか。 「なに、心配はいらない。今の君なら使いこなせる」  やはり明言する一輪は、ことさら自信を〈漲〉《みなぎ》らせてはいなかった。過去の歴史を読み上げるように、〈力〉《りき》みもせぬかわり迷いもない。刀について語る時だけ、彼女は時折こういった話し方をしたことを思い出す。  それは全て真実だった――かどうかは〈憶〉《おぼ》えていない。しかし、〈論破〉《ろんぱ》は無理だったはずである。  赤音は諦めて、ベッドに腰を下ろした。椅子は一輪が使っているものしかない。  辺りを見回し……目当ての物がないので、彼女に声をかける。 「砥石貸してくれ」 「はいよ」  何故そんな所にあるのか知らないが、一輪は上着のポケットから小ぶりの石を取り出すと投げ寄越してきた。受け取って、抜き身の刃とそっと触れ合わせる。  切先下三寸から、刀身の中ほどまで。〈物打〉《ものうち》と呼ばれる、刀が最大の斬撃力を有する部位を、砥石でごく軽く〈磨〉《す》る。  寝刃を合わせるとはこの行為を指した。  刃に〈鋸〉《のこぎり》状の細かい傷をつけることで、対象物への食いつきを増し、切れ味を高めるのである。  刀によっては逆効果になることもあるらしいが、赤音は実際に使い比べた経験から、寝刃はつけるようにしていた。それも常に、自分の手で。研師にそういう要望を伝えればほどほどのところで研ぎ上げをやめ、寝刃をつけたのと同様の状態で納品してくれるものだが、微妙な使い加減まではさすがになかなか解してくれないからだ。  本職の化粧研ぎほどではないにしろ美しく磨かれた姿を見せている刃を痛めるのは、いささか気の引けることではあったものの、もはやこれはいつ必要になるとも知れない。備えはしておかねばならなかった。  〈火急〉《かきゅう》の際にはその辺の土や砂に打ち付けるだけでも最低限の用は為すが、無駄な傷がつくし、また間違って石に切り込みでもしたら目も当てられないので、あまりやりたいことではない。  赤音がそれに没頭する間、一輪は口を利かなかった。  〈無味乾燥〉《むみかんそう》したテレビの音声だけが、室内を白々しい〈喧騒〉《けんそう》で満たす。画面を見ていない赤音は確証を持てなかったが、どうやら民放の特報番組と思えた。  無闇に重々しい雰囲気で、東京の誰もがここ数日間に語り尽くしたようなことを、もったいぶって垂れ流している。 《では事の発端は、瀧川による会への攻撃ではなく、その前にあった会側の襲撃でもない、ということですか?》 《そりゃあそうですよ。今回の事件の全てがそこから始まったんだとしたら、いくらなんでも展開が早過ぎるでしょう。一月も経ってないじゃないですか》 《まあ、そうですねえ》 《連邦が崩壊した時だって、部外者から見れば突然の大事件だったけど、あれも色々と経過があってあの結末になったわけでしょう。これも同じことです》 《では先生は、いつから今回の事件が始まっていたと……?》  石と刃を慎重に重ねる。  軽く磨って離し、刃を寝かせて傷の具合を確認する。  充分であれば、先へ進める。不足であればもう一度。やり過ぎは、どうしようもないので、そうはならないようにして。 《……いずれにしろ、瀧川商事は経済界の王者としての地位を失うということですね》 《失うしかないでしょ。考えてもみてよ。瀧川さんが物資流通を独占してこれたのはどうして?》 《それはやっぱり、政治家と結びついていたから》 《久留米君、君はどうしてそういうことばっかり言うのかなぁ。思いつきで適当なこと言わないでよ。そんなだから、今上の陛下を〈諱〉《いみな》で呼んだりしちゃうんじゃない?》 《はぁ、すいません。でもこれはですね》 《重要なのは、瀧川の武力なんですよ》  力加減が〈肝要〉《かんよう》だ。  強過ぎてはならない。弱過ぎるくらいで良い。  だが本当に弱過ぎれば、手から取り落として〈繊細〉《せんさい》な刃と石を打ち合わせ、大馬鹿を見る。  ……刃に石を。  ここで加減を誤ればその大馬鹿になるわけだが。 《瀧川なら、大事な物資をちゃんと守って、消費者のところに送り届けてくれる。そういう信仰があったわけです。だから商事はシェアを独占してこれた》 《はい》 《だけどその信仰が崩れちゃったわけ。よりによって社長を、テロリストに殺されちゃったんだよ? 難攻不落の要塞だと思ってたもんが、実は砂上の楼閣だったってことじゃない。これはもう任せておけないって、みんなが思うのは当然でしょう》 《ですよねぇ。一番厳重に守られていたはずのトップが殺されちゃったわけですからねえ》  ――――。 《あの社長さん、まだ若いのに気の毒だったけど》 《まあ仕方ないでしょう。瀧川商事もこれまでに色々やってきたわけですから》 《だからねぇ久留米君》  赤音は……   寸分の〈仕損〉《しそん》じもなく、精密作業をやり終えた。  仕上げに〈錆〉《さび》止め油を薄く、〈満遍〉《まんべん》なく塗って、鞘へ納め入れる。  ずっと下向かせていた顔を持ち上げると、既にテレビは消され、一輪が隣に座っていた。  じっと、赤音より高い位置にある瞳が彼を見つめている。 「なんだよ」  心まで透かすような眼差し。〈居心地〉《いごこち》の悪さを覚えて、赤音は身じろぎした。  目を逸らして首筋を掻く。一輪は何も言わない。  と。  視界を白い手が横切ったと思った次の刹那、赤音は彼女の胸に抱き込まれていた。 「……?」  〈咄嗟〉《とっさ》に声も出ず、目を〈瞬〉《しばたた》く。  平素はあまり感じない一輪の女性も、こうしてみれば明らかだった。頬に当たる感触はふくよかで柔らかい。  わけもわからないまま安らいで〈瞼〉《まぶた》を閉ざしかけ、慌てて体を離そうとする。 「だめだ」  彼女は逃がしてくれなかった。ぎゅ、と赤音を捕える腕に力がこもる。  長身であり、刀鍛冶を職とする一輪は、女性の常を〈凌駕〉《りょうが》して力が強い。単純な腕力なら赤音より勝るかもしれない。  そんなこともなかったかもしれないが、確かめるのは度胸のいることだった。負けたらば、男としての〈沽券〉《こけん》に関わりそうである。  仕方なしに、赤音はおとなしく身を預けたまま、同じ問いを繰り返した。 「……なんだよ?」 「風の吹き回しってやつかな」 「そいつはどういう」  風だ。と、  発せられるべき末尾は、一輪の喉に消えた。  言いがけに、唇を重ねられればそうなる。これもまた突然、顔を上向かされて。  彼女と瞳を見合う間もなく、唇の温もりのほかの認識を失う。  吐息を吸っただけでは足りないとばかり、一輪は舌先を赤音の歯に押し当ててきた。ノックのようなそれに口の力を緩めると、たちまち、濡れた肉が入り込んでくる。彼女の舌の動きは指にも等しい。  一方的に口内を〈蹂躙〉《じゅうりん》され、頬に添えられた手には撫でさすられて。そんなやりように怒りを覚えない自分が、赤音はいささか不思議だった。  一輪だからな。と、なんとなく受け入れてしまう。彼女だから何がどう、とも思わないのだが、彼女だからと許容する。  ……あるいは、赤音が一輪のすることを嫌がらないのではなく、赤音が嫌がるのなら一輪はしないということなのかもしれないが。  彼女はこんな際だけでなくいつも、押し付けがましいものを感じさせない女だった。  といって。 「不満がないわけじゃねえんだけど」 「知らないな」  ようやく口唇を解放され、言い募った赤音に、一輪はうそぶいた。その目元にわずか、朱が上っている。  〈手櫛〉《てぐし》でこちらの髪を〈梳〉《す》き、彼女は囁いてきた。 「甘えなよ。久しぶりに抱いてやる」 「……おれにそんなこと言う女、あんただけだぞ」 「そうだろうね」 「おれの意思は?」 「いやなのか?」 「いやだ」  反発したくて反発だけする。  それを甘えと云うのだとは、赤音も知っていた。 「だめ。聞いてあげない」  甘やかすように拒絶して。  一輪はもう一度、唇を寄せてきた。  ――また、見ている。  何故だろう。それは彼の、解けない疑問だった。  彼女はいつも見ていた。  包むような眼差しで。  すぐ近く、しかし少しだけ離れたところから。  物言いたげでも、物問いたげでもなしに。   彼女はいつもそうしていた。  話している時、  食事をしている時、  道場で稽古をしている時、  眠って、目覚めて、傍らにいつしかいた彼女を見つけた時も、  初めて、体を重ねた時も。   彼女はいつもそうして見ていた。  彼を。  そして、彼と共にいたもう一人を。  一度だけ、その眼差しの意味を問うたことがある。  なんでいつもそんな眼で、おれたちを見ているのかと。  彼女は哀しげな色を見せた。  微笑して、手をひらひらさせて、冗談めかした声を出し。   なぜその様を哀しげだと感じたのか、今でもわからない。  ――いつか違うものが見えないかと思いながら、ずっと見ているんだけれどね。同じものしか見えないんだ。だからいつも、私は同じ眼をしているんだろうね。   その意味もまた、わからない。  四年前まで、ずっと彼女はその眼をしていて。  四年ぶりに再会してみれば、やはり同じ眼をしていた。  同じものしか見えないから同じ眼をしているのだと、彼女は云った。  彼女の眼に見えるものは、今も昔も変わらないのか。  再会した時、彼女は云った。  変わっていないな、と。  彼は相槌を打った。だが内心では思っていたのだ。よもや、そんなことはあるまいと。  四年前とは何もかもが変わった。変わり過ぎた。  彼女には変化が見えていないのか。 「なあ」 「うん?」 「昔より、いい男になってんだろ。おれ」 「いいや。ちっとも」 「ちぇ」 「同じだよ」  彼女はからかう風で口にした。 「昔と同じ――綺麗な顔をしている」   何故か、また。  理由もなく、彼女は哀しげだと感じた。  ――あるいは。  ふと、思う。  彼女はずっと昔から、彼らの変化を見通していたのだろうか。  彼らがどうなるのか、〈辿〉《たど》りゆく〈流転〉《るてん》をも含めて、彼らの姿を見ていたのだろうか。  だから、  四年前も、  四年後の今、こうして彼を優しく抱く最中も、  その眼差しは変わらないのか。  彼女はずっと、  同じ眼差しで、  同じものを見続けて、  同じ哀しみを、抱き続けているのだろうか。 「……赤音」 「ん?」 「私はね……自分の生き方を後悔したことって、あまりない」 「あんたらしいな……」 「君のこともだ。後悔したことはない」 「……」 「だけど……さ」 「ん……」 「一度だけ。一度だけ、言ってみてもいいかな」 「……」 「二度は言わないよ。これっきり」 「……なにさ」 「例えば……君の刀」 「ああ」 「それを……まったく別の刀に打ち直すことも、できると思う」 「できねえだろ」 「削って、研ぎ直して……弱くなるかもしれないが。できると思う」 「鍛冶師が喜んでやるようなこととは思えねえな……」 「違いない。けどね……私も刀鍛冶だけの私じゃない」 「……」 「けどね、けど……君が断るのなら。これからの私は、刀鍛冶だけの私になるだろうね……」 「一輪」 「……さ。どうする?」 「……そうか」 「ああ」 「……」 「一輪」 「ん」 「ありがとな」 「…………赤音」  夕暮れの〈河川敷〉《かせんじき》を歩く。  ぽつねんと〈独〉《ひと》り、影を伸ばして。近辺には野球やサッカーのグラウンドがいくつか散在しているはずだが、今日はもう誰もいないのだろう、歓声一つ聞こえてはこない。  短い草々が乱雑に生える荒れ道を歩くのは、見渡す限り、彼だけだ。  一輪のホテルを出た赤音は、その足で〈浅草橋〉《あさくさばし》の病院へ向かっていた。距離はそれなりに離れている。タクシーを拾っても良かったが、それも面倒で結局歩きを選んだ。  少なくとも気分の上では、その方が楽だ。  土草を踏みつつ、川面を眺める。  鏡と呼ぶには〈濁〉《にご》り過ぎのそこに、夕陽の他の何が映っていたわけでもないが、その〈淀〉《よど》んだ紅だけで充分に赤音の心は震えた。  紅色は血を指し、血は〈戦〉《いくさ》を指す。  およそ感受性など持ち合わせていないような人間であってもできるに違いない、単純無芸の連想。  赤音にとって戦とは、もはやただ一つだ。  伊烏義阿、二世の〈縁〉《えにし》とさえ思う宿敵と遂に迎える、四年越しの決着。  今度こそ。  今度こそは、真実、勝負を決する。  四年前は裏切られた勝負を。  四年の月日は長かった。餌を目の前にしながらも首から下を地中に埋められて動けない犬の心地だった。〈憤怒〉《ふんぬ》と焦燥、絶望と〈苦悶〉《くもん》にいったい幾度眠れぬ夜を過ごしたか知れない。  〈安穏〉《あんのん》と眠った夜の方が少なかったはずだ――いや。そんな夜が、果たして一度でもあったか。  その日々も終わる。  伊烏はやって来るだろう。赤音に斬られた鹿野三十鈴の仇を討つために。  ここへ至って邪魔者は全て無い。彼に矛止の会はなく、赤音に瀧川商事はない。もう誰もいないのだ。赤音と伊烏を〈繋〉《つな》ぐ線上には。  胸が躍る。ゆったりと歩いているはずなのに、心拍の高まりは際限もない。心臓が口から飛び出した時はどうするべきかと、考える必要を覚えるほど。  いつそうなっても驚くには〈値〉《あたい》すまい。だが反面、〈脳漿〉《のうしょう》は雪を溶かした水のように冷たく〈澄〉《す》んでいる。  己が最高の状態にあることを、赤音は確信した。  習い覚えたすべての術を、過去のいつよりも速くいつよりも強く、今の自分ならば繰り出せる。過去のいつよりも的確に。  その自信が〈芽生〉《めば》え、芽生えるや後は伸びるのみで〈枯〉《か》れる気配は枝葉にもなかった。  この絶頂はきっと、長く続きもしなければ無償のものでもないのだろう。三日後には生命が〈枯渇〉《こかつ》していようとも不思議とは思わない。  だがそうなるなら、それで良し。  あと一人とだけ戦う力があれば、赤音はそれ以上何も、己の肉体に望まない。  あと一人とだけ――   ってわけにもいかねえのか。  荒れ野に立つ影は、いつからか二つあった。  羽織った着物の裾を風に遊ばせながらゆったりと歩く赤音と、  その前方はるかに、〈地蔵尊〉《じぞうそん》のごとくそびえる不動の〈巨躯〉《きょく》。  期待などはする〈由〉《よし》もなかったが、予測はしていたことである。  〈瞬〉《まばた》き一つするほどにも、赤音は心を動かさなかった。  近づくにつれ、地蔵の造形は一つ一つ明らかになる。  〈薄野〉《すすきの》を思わせる短い髪。  無数の傷が走る顔面はさながら〈胡桃〉《くるみ》。  年経た松の重厚さで根を張る両の脚。  太い胴は鋼鉄の柱でなくて何だと云う。  そしてそこから伸びる〈注連縄〉《しめなわ》の腕は、  左の一方にしかなかった。 「見たか、八坂」  十歩の間から、笑いかける。 「魔剣昼の月」 「あの夜の侵入者は、貴様のIDカードを使っていた……」  六歩の間で、〈紅蓮〉《ぐれん》たる声が応える。 「弓様を……売ったな!? 武田赤音!!!」  どこか遠くで、〈夜烏〉《よがらす》が鳴いた。  言葉はそれきり。  言葉に代わる交流もない。  相手を人と思えばこそ、それらも用いる意思が起こるというもの。  心を通い合わせるところ一片さえなく、  交わし合うものは〈嘲弄〉《ちょうろう》と憎悪。  ならば、彼らが言葉を、人に人を理解させる〈叡智〉《えいち》を、必要とするだろうか。  しない。  彼ら二人にとってみれば、互いの心情を〈慮〉《おもんばか》るなど時を費やすだけ愚かしく、かく至った因果を語り合うなど更に無用。  ――さっさと殺して死骸に〈唾〉《つば》する。  〈相見〉《あいまみ》えた瞬間に赤音はそう思ったし、八坂もまたそうであったろう。  人がましい振る舞いなど、最低限度も求め合わずに、  彼らは死闘する。  〈薄暮〉《はくぼ》は互いの表情を〈杳〉《よう》とさせた。赤音には八坂の〈双眸〉《そうぼう》も見えない。だが、想像はついた。鼻を鳴らして〈嗤〉《わら》いながら、無造作に歩み続ける。  八坂が健在であった頃、赤音は彼を恐れなかった。その強さへの認識は別として、恐怖を抱いたことは一度たりと。  最強者たる彼と戦うことがあっても、負けるとは思えなかったからだ。それは理屈を越えた所での意識である。  〈所詮〉《しょせん》、飼い犬だ。  強靭で、〈老獪〉《ろうかい》で、よく飼い慣らされた犬だ。  主人に連れられていなくては何もできない。主人と共に立ち向かってくる時は脅威でも、一匹でいれば豚も同様。  叩き殺すのは赤子の手を捻るより簡単だと、そう思っていた。彼が〈隻腕〉《せきわん》となった今も無論、それは変わらない。  だが警戒心はあった。  ――手負いの獣か。  八坂の杖術はある程度知っている。防御に一切配慮をしない、攻撃性能だけを追及した戦闘技術だった。馬鹿馬鹿しいが、油断は絶対にできない。  彼のペースで戦わせてはならなかった。そうしないための策はいくつか、脳裏に収蔵されている。  それを赤音は〈放棄〉《ほうき》した。  片手になった以上、両腕であった頃と同じ技術は使いようがなく、〈補〉《おぎな》いをつける何らかの工夫を〈強〉《し》いられているに違いないからだ。先入観はこの際命取りとなる。  初めて対する敵として、戦術を策するべきだった。  八坂は左逆手に、半棒を体の前で斜めにして構えている。  赤音から見て右側からならまだしも、左側からの攻撃に対しては防ぐ術などないと見えた。  しかしそれが、傷ついた老犬にとって何だというのか。  赤音がそこを狙えば、彼は〈委細〉《いさい》構わず斬らせ、差し違えに必殺の一打を叩き込んでくるだろう。  相討ちを恐れるような相手ではない。  いや相討ちこそ、望んでいるかもしれない。  八坂にとって、この戦いを生き延びるということはおそらく、〈自裁〉《じさい》の手間が増えるというだけのことでしかないのだ。  主の死、その罪は赤音に有りとする一方、その責任は己に有りと、この男ならばそう考える。主の死に責を負えば、もはや武人は死ぬほかにない。  ――おれは違う。こんなとこで死んでる場合じゃねえ。  伊烏が待っているのだ。  うらぶれた〈座敷犬〉《ざしきいぬ》ごときには、命はおろか分秒の時間さえ、くれてやるのは惜しいというもの。  この上はせめて、手早く済ませるまで。  四歩の距離に達する。赤音は仕掛けた。  左手を帯刀の鞘口へ、右手を柄へ飛ばす。天性の居合使いたる伊烏義阿のそれには及ばないものの、一段〈劣〉《おと》る程度の速さで抜刀する――   ――ために、左手の親指で鍔を押し出して鯉口を切り右手の親指と他四指とで柄をはさみ込んだ刹那。  八坂の左足は〈早〉《はや》、地上を〈滑空〉《かっくう》していた。  大足に踏み込み、逆手打ちを振り下ろし。全体重を乗せた一撃は空気を引き裂きまた叩き出し、標的とされた赤音の右手首への先触れの使者とした。  ただの二次現象に過ぎないその風にしてからが、打撃そのものと錯覚しかねぬ重さで肉を打つ。  赤音が抜刀すべく動いた瞬間には、反応していたに違いなかった。それほどに迅速。  抜刀の抜き手を狙ったこの旋撃、逃れられる〈筈〉《はず》はない。ここまで的確に〈先〉《セン》の機を奪われ狙われ打たれ、かつそれを逃れ得るならば、それはもう人の技ではない。  神技。それを、赤音は当然のように、  ――あほが。   使いはせず、彼が使ったのはむしろ対極の、ひたすらに人間臭い技だった。   ――あっさり掛かってんじゃねえや。  〈罠〉《わな》。  前方へ出した左足の膝を後方に向けて押し伸ばし、全身を退避させる。動いた距離はほんの数寸、しかしながらそれで充分。  予測される半棒の軌道から、赤音の右手は脱出した。その速過ぎる反応を為し得たのは神智ならず人知。  抜刀は誘い。狙いは〈後の先〉《ゴノセン》。  多く居合と対する者は、その起こりを制したがるもの。  ならばと抜き手を釣り〈餌〉《え》に敵手の攻めを誘い出し、かわして制するが刈流〈古伝〉《こでん》の抜刀技。     ――――〈浮草〉《ウキグサ》  水面に漂う浮草を、確たる大地と見誤って踏みしめた愚者は水底に没するのみである。  術意を全うすべく、赤音は引いた足腰を前へ戻しつつ抜刀した。即斬。一刀にて敵の首を打ち飛ばす。〈彼我〉《ひが》の体格が同等、または我が大きければ顎が邪魔となる正面からの首切りも、彼が我より大きければ妨げる何物も無い、  ――――錯覚を知る。 「ぐ……がッ!?」  赤音の早過ぎた知覚が見せた幻は、  幻の中に存在し得ない激痛が粉砕した。  何が。  何が起きた。  この痛みは何だ。  こんなものは予定にない。  予定にないことが起きている。  在り得ざるものが在り得ている。  何故だ。  こんな。  どうして。  このおれが。  錯乱する知性をよそに、知覚は苦痛から出発して現実を逆算した。  苦痛の源泉は胸。胸骨を割られている。割っているのは棒。八坂の杖。先端をこちらの胸に突き込んでいる……何故?  抜き放ったとばかり思っていた我が剣は、その実まだ一寸も鞘から白刃を〈晒〉《さら》していない……  ふと、声なき声を感知する。   ――――〈小才子〉《こざいし》。  八坂の吐気は、そう告げているかのようだった。 (……糞!!!)  強いられた苦鳴をまだ吐き終えぬ瞬時の最中。  理解に達した赤音は、砕けんばかりに上下の奥歯を打ち合わせた。それだけの時間がもしあったなら、本当に砕いていただろう。 (誘われたのはおれかぁっっっ!!!!!)  呼気を内に、肺の中で逆上を叫ぶ。  この一合、釣り師は八坂。  浮草を踏み抜いた愚者は赤音。  赤音の抜刀に引かれて八坂が繰り出した打撃、それこそが八坂の釣り針。赤音が返し技を仕込んでいることを最初から察知し、それに合わせて、振り下ろしの打ちを〈中途〉《ちゅうと》から突きに変化。  結果。  赤音は抜刀斬のために進出したところを見事に迎え撃たれた。  無理な軌道変化が〈祟〉《たた》って八坂の胸突きは一打必倒の威力を欠いたものの、それでも胸骨に〈罅〉《ひび》の一つ二つを入れていることは疑う余地もない。  胸に走る激痛がある。激痛は屈辱を呼び、屈辱は激怒を呼ぶ。  な、ぜ、だ。  なぜ、おれが、こんなところで、こんなやつに、もたついてなきゃあならねえ!?  伊烏がいるというのに!  伊烏が、待っているというのに!!  激怒。  赤音にとっては正当な、真っ直ぐに刺し貫く怒り。  それを〈頭蓋〉《ずがい》ごと打ち割らんとするかに、突きから手首を返しての八坂の第二撃が襲った。棍の頭が上空から飛来する、追撃の〈天頭〉《てんとう》打ち。  技で返す余力はない。河川敷の柔らかい土を蹴り放って、赤音は大きく後方に飛び退いた。棍頭がこめかみを掠める。皮を裂かれ、肉をも〈齧〉《かじ》られたと痛覚する。 (〈無様〉《ぶざま》!)  脳が揺れた。〈平衡〉《へいこう》感覚が乱れる。それはどうしようもなく、隙だった。己への〈叱咤〉《しった》も、回復には役立たない。  八坂がその隙を見逃すだろうか。まさか。老兵とは、老獪さとは、それを見出す点にこそ〈卓越〉《たくえつ》するものだ。  巨大な足が、相反する静けさで地を駆ける。後足を小さく寄せる、その予備動作だけを〈挟〉《はさ》み、次には、攻撃のための踏み込みが来る。  ――――甘く、  赤音はよろめくまま、腰を乱し、膝をついた。左膝を、そして右膝をも。  あるいはその格好は、土下座でもしようとしているかに見えたかもしれない。  見えたとして、八坂は一切関知しなかっただろうが。復讐の老人にとってその様は、殺すべき敵がいま動けずにいると、それだけの意味しか持たなかったはずだ。  両膝をつき、腰の沈んだ状態で、人間という生物は〈機敏〉《きびん》に動かない。  〈蚊〉《か》に例えれば、警戒を解いて口を動物の皮膚に突き刺し血を吸っている状態だ。平手一発で容易く叩き潰せる。                 …………バランス回復。  必勝の機に、八坂は袈裟懸けで半棒を叩き落としてきた。  狙い所は首筋。  〈頚骨〉《けいこつ》を根元から折り砕かんと企図せし、  今度こそは殺傷す、〈渾身〉《こんしん》総力の重加撃。  そこへ、   ――――甘く、見るな、老いぼれッ!!!  右足を踏み込み、  体重を前方へ飛ばし、  同時に抜刀して。  赤音は両膝をついた姿勢から、斬撃を放っていた。     ――――刈流 〈座の一〉《ザノイチ》  日本剣術は、着座状態からの技術体系を有する。  これは世界にも類例のないものだ。  着座状態で戦う技法ならば他国にもあることはあるが、それを一流一系まで成すほどに追求した例などない。  座の居合。  その意義は、鍛錬にあると云う。  自在ならぬ状態で刀を〈揮〉《ふる》えてこそ、自在なる状態での技が〈冴〉《さ》えると云う。  であろうとも、そこには当然、  単純に、着座からの戦闘術という側面もある。 「ぬ!?」  この夕、剣杖が交わってから初めて。  八坂がくぐもった声をもらした。  何か小さな、黒いものが、〈黄昏〉《たそがれ》の空に跳ねる。  ……それは棒の切れ端。  赤音の抜き打ちが、落下する半棒と交差し、その先端を切り飛ばしていた。 「鉄製なら、こっちが打ち負けてたけどな……!」 「っ!」  八坂が飛び下がり、間合を置く。合わせて、赤音は立ち上がった。  苦痛を感じる。勝敗は見えた。  胸骨の損傷は、致命的でこそないが、軽視もできない。当分の間は絶えず苦痛を発し、行動を妨げることだろう。  こめかみに負った傷もまた、浅くない。下手に頭を振り回すと、流血が眼に入り込みかねず、その注意も要した。  一方、八坂の体は無傷。勝敗は見えていた。  〈対峙〉《たいじ》する老兵の顔を覗く。  それは、〈凄愴〉《せいそう》の一語に尽きた。戦歴を物語る傷跡群、そんなものは何ほどでもない。凄まじさは造形ではなく、表情そのものにある。  主を失ってからの短い間に、彼がどれほどの苦悶に身を〈浸〉《ひた》してきたのか、想像はするに難くない。しかしおそらく、実際のそれは更に深いのだろう。  もはや八坂は〈幽鬼〉《ゆうき》そのものであった。  その〈相貌〉《そうぼう》に、惑いがひらめく。  おそらくは取り直した棒の軽さが、鬼面をしてそうさせた。  ……三寸余りも切り詰められた杖。  それは、一打で人を打ち倒し得る力を維持しているだろうか?  無い。  それはもう、一撃では、人を壊せない。 「……!」  勝敗は見えた。  そのことを八坂も〈悟〉《さと》ったならば、  そこが隙とならぬはずはなく。  勝機〈此処〉《ここ》、〈先の先〉《センノセン》。  赤音は刀を振りかざした。もう策も何もない。〈指〉《サシ》の構をとるや、即、袈裟斬りに斬り込む。  相討ちは、今度はこちらが望むところ。死ぬのは八坂一人だけだ。  それを知ってか、老人は逆撃を試みもせず、後退しつつ棒で斬撃を打ち払ってきた。反応は速く、挙動も速い。  咄嗟の事でありながら、一刀を防ぎ切ったのは流石と賞賛に値するだろう。  だが、代償は要した。衝撃を抑え損ねた八坂の手から、半棒が弾け飛ぶ。  ――決着する。  今や、悪竜は無手だ。牙無き竜だ。これまで他者を畏怖させてきた力を失い、無力な草蛇と成り果てている。  それでも体勢を立て直せば、素手を〈以〉《も》って刀を制し得るだけの体術を、八坂ならば使えたかもしれないが。そんな余裕を与えるつもりは、さらさらにない。  死ね。  などと、赤音は無駄な勝利宣言で時を施したりすることなく、かわりに腕を引き戻した。間を詰め、間合に捉え、再度の袈裟。  老体に〈鞭〉《むち》打って足腰を跳ねさせ、八坂が〈仰〉《の》け〈反〉《ぞ》るようにしてなおも〈躱〉《かわ》す。  そこまでだった。  無理を重ねた〈体捌〉《たいさば》きに、剣匠たる〈武侠〉《ぶきょう》が遂に足を踏み崩す。  正中線が乱れ、戦闘適正を全く失ったその姿勢は、凡人の棒立ちのさらに以下。〈矜持〉《きょうじ》に賭けても転びはすまいが、そこにはもう防ぎ手がなく、攻め手などはとうから無い。  次の一刀で終わる。赤音は確信して、  そこで、  刻の潮流が失速した。  ――――おい。  ゆらぎながら、八坂は唯一の腕を懐に差し入れていた。そして、なにかをつかみ出そうとしている。  なにか。  なにか、を。 (待てよ)  何かを取り出す。  それは、 (ちょっと待て、おい)  それ。 (……はは。笑える。そりゃねえって感じ。全然似合ってねえ)  コマ送りのような風景のなかに、それを見て。  赤音の世界は、完全に静止した。  ――――拳銃だと!!??  〈拳銃〉《ハンドガン》。  警察もしくは軍関係者でもなければ、実物を見る機会はまず皆無だろう。しかし、それを見間違える者はよもや居るまい。  接近戦における〈最終的兵器〉《ファイナルアンサー》。  ありとあらゆる武術格闘技を、一手で凌駕し撃砕する、究極の強さ。  剣でこれに勝つことはできない。  絶対にできない。  油断だった。  この街でこんなものに出会うことは、有り得ないと。想定の必要はないと思い捨てていた。  銃砲火器類所持絶対禁止法。刀狩り法は、今や単なる法律ではなく、東京府民の侵せぬ美意識であり、アイデンティティに密着してすらいる。  警察の監視網を潜り抜け、銃を手に入れるのは、全く不可能で、全く成功の見込みがないことでは、ない。やりようはある。どんな物でも金さえ払えば、売ってくれる人間というのはいるものだ。  しかし、この街で銃を使うということは、はみ出し者たちの間ですら〈爪弾〉《つまはじ》きにされるということを意味した。  絶体絶命の窮地を脱するためであっても、銃を使ったと知られた者は笑い者となり、後ろ指を差され、事実上人権を〈剥奪〉《はくだつ》されて、後はどうにかして警察に捕まるか無頼漢らの〈私刑〉《リンチ》にかけられるかする前に東京を脱出する算段を練るしかない。  脱出したところで、犯罪者として府外のより強力な警察機構に追われる人生が待っているだけであるが。  銃を撃つくらいなら死ぬというのが、石馬戒厳以来30年、善悪問わず東京の男が共通して有する矜持なのだ。このため、唯一法的に銃器所持を認められている帝国軍さえも侮蔑の対象となり、慢性的な志願者不足に悩んでいるほどである。  瀧川商事の力があれば、密かに銃器を所有し〈隠匿〉《いんとく》するくらい造作もないだろう。それはわかっていた。しかし実際に用いてしまえば、東京全てを敵に回すことになりかねない。  〈故〉《ゆえ》にその銃口は火を噴くはずがなかった。  だがしかし。すべてを失った八坂がそんな考慮をこそ、するはずがなかった。 (ふざけんな……)  静止した時間の中で。赤音は〈地団駄〉《じたんだ》も踏めずにいた。  せめて、八坂が最初から拳銃を手にしていたなら、まだ逃れる目もあったのだ。  拳銃は、ある程度の距離が離れていると、そうそう当たるものではないという。訓練もしていない素人では、数メートルも離れればまず命中を期待できないらしい。  考えるまでもなく、八坂は銃の素人だろう。ならば出会った折、即座に逃げ出せば、有効射程を脱する前に背後から何発か撃たれても、無傷で済ませられる可能性は決して低くなかったに違いない。  しかし、この局面。  こちらの剣撃を躱され、その躱しざまに銃を突きつけられた今、そんな理屈が……一体、何の役に立つ!?  無駄だ。  〈益体〉《やくたい》もない。  百人に聞けば百人が言うだろう。これはもう、死ぬしかない。  いわば後の先を銃で取られた格好だ。  この瞬間、赤音の剣は袈裟懸けの斬り下ろしを空振りさせ、虚しくも宙を泳いでいる。  剣を取り直して今一度斬りつけるには、圧倒的に時が不足。  取り直さず、ここから、左足を踏み進めて斬り上げようとも、やはり間に合いはすまい。  そもそもまだ、斬り下ろしの挙動が完結しておらず、踏み込みに使った右足は中空にある。  それを踏みしめてからでなくては、次の攻撃を始められない。  どのように考えても、持ち上がっていく八坂の腕が赤音の胸の高さに達し、引き金を引く方が速い。最大限の幸運が味方して……どうにか、差し違えられるかというところだ。  強引に手首を返して、足腰が浮いたこの状態から、腕の力だけで斬り上げてみるか。それなら間に合うかもしれない。問題は、間に合ったところで、そんなものでは厚い筋肉と固い骨を断てるはずもないということだが。意味がない。  八坂は確実に目的を達する。  この機を待っていたのだ。何があろうと殺せるこの機を待ち、老兵は懐に呑んだ凶器を最後まで隠していたのだ。  その忍耐が勝利した。  赤音は死に、八坂は勝つ。  決着はついた。  ――――馬鹿な。  時間単位が限りなく細分化しどこまでも遅速化するのを感じながら、赤音は意識だけで迫る現実に〈抗〉《あらが》っていた。  もはや意識しか、赤音の自由になるものはない。  馬鹿な。  馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な。  こんなことがあってたまるか。  こんなところで死んでたまるか。  ようやく、ようやく、伊烏と戦えるというのに!  おれはずっと待っていた。  ずっとずっと待っていた。  あの日から、この日を待って生きてきた。  他に何の希望もなかった。  伊烏と戦う日だけが〈標〉《しるべ》だった。  そのために耐えてきた。  四六時中、己を解放しない〈瞋恚〉《いかり》に耐えてきた。  悪夢のため夜中に跳ね起きて絶叫し、身中を〈灼〉《や》く炎に〈悶〉《もだ》え、再び眠りを得られず、やむなく外に飛び出して闇雲に剣を振り回し、疲れ果てて倒れ、そうしてやっと泥の上に〈束〉《つか》の間の安眠を〈貪〉《むさぼ》る。  そんな日々に、ひたすら、耐えに耐えてきた。  伊烏と戦うこの日のために。  あの日から。  四年前の、あの日から。  ずっと。  〈甲高〉《かんだか》く、音が鳴る。  それは決着の音。  木刀と木刀とが激突し、込められた技と力にわずか劣った一方が、折れ飛んだ音だった。  折れた木刀の主は武田赤音。  健在にして対手を制した木刀の主は伊烏義阿。  ――――おお――――  門弟衆の歓声が、勝負の終わりを告げていた。 「師範代」 「赤音……」 「参りました。完敗です」 「紙一重だったさ。いや……そんな差もあったのかな。運だけで勝ちを拾ったという気がする」 「まさか。師範代の実力です」 「お前が勝っていても、何の不思議もなかった。本当に、そう思う……」 「やだな、師範代。酷いですよ。そんなこと言われると、未練が湧くじゃないですか」 「……すまん」 「ははっ。冗談です。おれは嬉しいんですよ」 「?」 「あなたはやっぱり、おれより強かった……まだ、おれの目標でいてくれる。おれはまだ、あなたの背中を追える」 「……赤音」 「師範代……あー、いえ。これからは先生ですね」 「堅苦しいな。お前にそんな呼ばれ方はしたくない……」 「駄目ですよ。示しってもんがつかないでしょう。嫌って言っても、これからはそう呼びますから」 「むう……」 「師範……先生」 「…………」 「これからも、よろしくお願いします」 「……ああ。一緒にやっていこう、赤音」  彼らは固く、手を握り合う。  刈流兵法宗家最後の血統、鹿野三十鈴と結婚し、流儀を継承する者は、ここに伊烏義阿と決した。  だが、それはごく〈瑣末〉《さまつ》なことだ。  ――どちらが上でも良かった。互いに認め、敬い合うこの二人が、手を携えて柱となり道場を支える限り、我ら刈流は隆盛の一途を〈辿〉《たど》るに違いない。  彼らを取り巻いて拍手を送る門弟たちの誰もが、そう信じたことだろう。その未来を疑うべき理由は、何処にもなかった。  この時。  仕合に用いた木刀を、もし、赤音が持ち帰っていなかったのなら。  〈幸〉《さち》満ちる未来は、きっと現実になったことだろう。  そうしたことに、他意は何もなかった。  ただ、〈敬慕〉《けいぼ》した兄弟子と、二人といない親友と、全てを出し尽くして戦った今日の仕合の記念として、一生の宝物として、大切に保管しておこうと思っただけだ。  だが。  自室に戻り、折れた木刀を改めて見直した時。  赤音はそれに、気付いたのだ。 「三十鈴様……どういうことですか」 「…………」 「我々が仕合で使った木刀は、あなたが用意したものです。最高の品々の中から厳しく〈吟味〉《ぎんみ》して選んだ二振り……そうなのでしょう? 今日の仕合は流儀の大事なのですから」 「…………」 「ひび割れの入った不良品など選ぶわけがないし、まして……ましてや」 「……」 「〈鑿〉《のみ》を打って、故意にひびを入れておくなんてことが……あるはずもない」  彼女の膝元に転がした木刀を見る。  折れた断面。  亀裂の〈間隙〉《かんげき》に残る、明らかに不自然な傷跡と、こびりついたかすかな金属〈滓〉《かす》。  ――それは、何を示すのか。 「三十鈴様……お願いです。教えて下さい」 「……」 「これは、どういうことなのですか!?」  頭の中をぐちゃぐちゃにしながら。  問いを叫ぶ赤音に、彼女を〈詰問〉《きつもん》しているつもりはなかった。  ただ、否定を望んだ。  どんな〈屁理屈〉《へりくつ》でも良かった――それこそ、最近の木は酸性雨の影響で変にひび割れたりあまつさえ謎の化学反応を起こして金属化したりするんです、というようなものでも。  それで赤音は納得しただろう。  崩壊してゆく自分自身を救うために、あらゆる知性と理性を感性を封印して『真実』にしがみついたことだろう。  だから、彼女は否定するべきだった。  恥知らずに徹するべきだった。  だのに。  彼女は。 「お許し下さい」 「――――」 「お許しください。お許しください、赤音さま……」 「――――」 「わたくしは」  ………… 「わたくしは……伊烏さまのことを」   ……あなたは、 「伊烏さまのことを」   だから……あなたは。 「愛して――――」   だから、おれたちの勝負を、あなたは、おれたちの、 「お許し下さい、赤音さま! どうか――――」   あなたは、だから、おれたちの勝負を、  〈穢〉《けが》したのだと、  そう云うのか!!??  そう云うのか!!!!!! 「あぁーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!」  赤音は絶叫した。  声が枯れてもなお叫んだ。  喉が裂けて、血を吐いた。  それでも叫んだ。  叫びながら、赤音は腰の一輪光秋を抜き放ち、  まだ打ち上がったばかりだった、〈無垢〉《むく》な白刃を振り下ろして、  三十鈴を斬り伏せていた。  悲鳴。  絶叫。  〈慌〉《あわただ》しい足音。  開け放たれる〈襖〉《ふすま》――――  ……あの後。  〈激昂〉《げっこう》した伊烏に襲われ、赤音は死力を尽くして抗った。  我を失っていたあの時に、何故そんなことができたのか、今にして思えばわかる。  死ねなかったのだ。  親友と全てを出し尽くし合ったと思えた仕合は〈偽〉《いつわ》りだった。伊烏と真実、決着をつけるまでは死ねない。  憤怒で技を見失い、〈苛烈〉《かれつ》ながらも愚鈍な剣を振り回す、この伊烏に斬られるわけにはいかない。  赤音は伊烏の乱剣を耐え、強引に繰り出される当時まだ未完成だった昼の月に手傷を負わされながらも、反撃の一太刀を加えた。  深傷にも怯まず伊烏はなお戦おうとしたが、その時、下からの突き上げるような大震動が辺りを襲い、行燈が倒れて〈畳〉《たたみ》に引火した。  それがマグニチュード6.8、最大震度7、被災者10万人に達する北陸震災の幕開けだったとは、後で知ったことだ。  ――必ず殺す。俺は必ず貴様を殺すぞ、赤音!  火炎と激震、天井の崩落とに隔てられ、追撃を阻まれた伊烏の無念の叫びを、赤音は今もその細かな旋律に至るまで記憶している。  あれは契約であった。  伊烏が憤怒を力に昇華し、最強の姿で現れるのを待ち続けたこの四年、あの叫びだけが、赤音を支える力だった。  他には無い。  何も無かった。  何も無かったのだ。   ……思えば、あの男は〈慧眼〉《けいがん》だった。  あの、名も知らぬ、年上ぶった、虫の好かない……少しだけ、父親に似ていた男は。 「たぶん、あんたは……どうでもいいんだ」 「何が」 「あんたは、自分のことなんかどうでもいいんじゃないかな。そう思える」 「おい」 「……」 「筋が通ってねえぞ」 「ああ」 「自分のことしか考えないで生きてるくせに、自分のことはどうでもいいって、そりゃどんな奴だ」 「わけがわからないな」 「わけわかんねえよ」 「だが、的外れか?」 「……」 「徹頭徹尾自己中心的なくせに、自分の命運に興味がない……なんだろうな、これは。もしかすると、根本的なところに勘違いがあったか……」 「なんだよ?」 「こう聞くのも変な話だが。  あんた、もう自分なんて無いのか?」 「…………」 「自分なんてものはとうに無くしていて、ただ何か一つの意志だけが残っている……別の言い方をすれば、その意志だけで自分を保っている。  他人を顧みないから傍目には自己中心的に見えるが、その自己は極めて限定的で、実は自分さえ顧みていない………そういうことか?」 「お前さ。衛士なんかやめてカウンセラーでもやった方がいいかもよ」 「定年退職したら考えよう。しかしそう考えれば筋は通るが、だとすると精神疾患だな。人格の荒廃状態だ……分裂症に似ているが、それとはまた少し違うか」 「精神科医でもいけそうだな」 「そいつは難しい。今のは半可通の知識を並べただけなんでね。わかったふりをしてみただけだ」 「んだよ。割と本気で感心してたのに」 「それは、俺の言ったことが当たってるって意味か?」 「……」 「なら、あんたの意志はなんだ?  ただ一つの意志は、なんなんだ?」 「…………」  ただ一つの意志。  そう、  残りしものは、それひとつきり。  他の全ては、武田赤音という武人のすべては、鹿野三十鈴の一言が奪い去った。  仁。  義。  礼。  智。  忠。  信。  孝。  悌。  もはやいずれも無い。  何もかもが失われ、  しかし、  有るべき全ては残っている。  〈腰間〉《ようかん》の一刀、  それを駆使する五体、  そして、刀と体に課された一つの命題。   ――――伊烏義阿と雌雄を決する。  赤音はその為だけに生きるものと化した。  いや。思えば。  元より武田赤音とその剣は、かくあるべきものであったと、今は思う。  かの事件は赤音にとって、決して涙すべき悲劇ではない。あの夜、〈鈍刀〉《なまくら》だった刃は研ぎ上げられたのだ。不純物を〈削〉《そ》ぎ落とされたのだ。  この身はただ、伊烏義阿と戦う力。  目前の老傑の、恨みがましい〈眸〉《ひとみ》を見る。  ――己の罪科の報いを受けよ。  そう告げていた。  罪科か。  矛止の会なる組織を虐殺した。  瀧川商事を使い捨てた。  その社長、奇縁から彼を愛した瀧川弓をも、最後は邪魔者として死地に蹴り落とした。  罪である。  八坂の告発に対して、自己を正当化するどんな弁護も、赤音の中には無い。  そんなものを、そもそも求めさえしない。  この身は一刀。  人を斬った刀を罪人として法廷に立たせれば、判事の質問に何か答えたりするのだろうか。  どうなんだ、八坂。  ――ハッ!  赤音は〈嘲笑〉《あざわら》った。  忠義に生きる〈至誠〉《しせい》の男を嘲笑した。  〈滑稽〉《こっけい》だよ八坂。  なるほどお前は完璧に正しい。  おれは罪人で、お前は正義の〈鉄槌〉《てっつい》の担い手だ。  おれの中に正義があれば、お前の正義に〈真摯〉《しんし》な心で向き合えたのかもしれないが。生憎だな。そんなもの、おれにはない。  おれが犠牲にしてきた命を無意味にしないためにも戦わねばならない――なんてことさえ言いはすまい。おれは犠牲の山のことなど、顧みてすらいないから。  おれは伊烏義阿と戦う。他のことなど知らぬ。  伊烏と戦う為に駆け抜けた道で、虫を何匹踏み潰したかなど、考えること自体が愚かしい。  八坂よ。  曇りなき誠忠の士よ。  なぜお前が滑稽に見えるか教えてやる。  お前は、空から降ってくる巨岩に向かって、危ないからどけと言っているも同然だからだ!!         ――――身勝手な、  どくのはお前だ、八坂!!  おれは、伊烏義阿と、戦うのだ!!!         己一身の欲望に〈憑〉《つ》かれた、身勝手も極まる〈傍若無人〉《ぼうじゃくぶじん》の魂が、いま〈常理〉《じょうり》を歪めて奇跡を生む。  気がつけば、赤音は立ち尽くしていた。  下を見ると、〈骸〉《むくろ》。  残った腕をも切り放たれ、とうに失血死した八坂が有る。  ――今、何が。   自問に答える声はない。  だが、〈四肢〉《しし》に残るわずかな感覚と、  天に反逆するが如く真上を指す刀、  そして、刀を支える〈異形〉《いぎょう》の握りが。  赤音に、魔剣の完成を伝えていた。  病院に〈辿〉《たど》り着いた時は、既に夜だった。 「……?」  妙に慌しい。  八坂から受けた傷の手当てをしたかったのだが、夜間窓口に誰の顔もない。  廊下を警備員らが足早に行き交い、その脇で患者達は不安げに、ぼそぼそとささやき合っている。  看護士の白衣もちらほらと見える。その一つに見覚えがあると思った時、向こうも赤音に気付いて、駆け寄ってきた。  何事か、叫びながらに。喧騒に負けていたその声は、彼女が間近にまで来てようやく、赤音の耳へ届いた。 「赤音くん! お姉さんが……笙さんが、さらわれたの!」 「……!」  長風呂に〈浸〉《つか》っている間に、赤音は帰ってしまったようだった。  一応、待つようには言っておいたのだが。考えてみれば、それは未練というものだったろう。  もう一度顔を合わせて、彼女が彼に、何を言えたというのか。  彼が彼女に、何を言えたというのか。  言えたことは、一つしかないだろう。  そうと知ったから、彼は待たなかったのかもしれない。だとすれば何とも、彼らしい優しさだ。 (心外だね。別れをちゃんとできるくらいの強さは、身につけたつもりなんだが)  身支度を整えるかたわら、ふと窓の外の夜光街を眺めて。  微笑んでみる――笑えた自信は、なかったけれども。  彼女は知っている。  これが別れだと知っている。  彼女は知っている。  これから彼らが、相争うことを知っている。  はるかな昔から知っていた。  あの古色漂う、町外れの道場で、初めて二人を目にした時。  右の眼に蒼い青年を、左の眼に朱い少年を収め、両眼の中で二人を並べ立ててしまった時から。  彼女は知っていたのだ。  彼らは〈相食〉《あいは》む剣。  互いを倒すために打ち上げられた双児刀。  戦わずにはいられない。  彼らは彼らである以上、存在に賭けて、戦わねばならない。  彼らは一刀。  唯一人限りの敵を討つため、その身に刃を宿して生ず。 「またのご利用をお待ちしております」 「残念だが」 「は?」 「もう二度と来ないだろう……いや、ここの待遇には何の不満もなかったけれどね」  建物を出て、彼女は去る。  外へ――この街の外へ。  二度と戻らない道を、歩き去ってゆく。  彼女は結末を見届けない。  元より、それが旅の目的ではなかった。彼女が望んだのは、二人が巡り合い戦う前に、彼らに再会し、健在な最後の姿を見届けておくこと。手掛かりなどなく、果たされる見込みもない願いだったが、天の〈采配〉《さいはい》が引き合わせてくれた。  彼らは刀。  彼女は刀鍛冶。  折れた刀を打ち直すことはできない。しかし健在な姿が心に生きていれば、新しい刀を打つことはできる。  二人のような刀を。願わくば、今度は相食む運命を持たぬ、一対の剣を。  彼らを胸の中にかき抱いて、一輪は去る。  彼女は結末を見届けない。  既に知っていた。  それは不条理に〈非〉《あら》ず道理。  彼女は刀鍛冶で、彼らは刀なのだから。  ――勝敗を分けたものは何か。  おそらくそれは、技の優劣ではない。  天運でもないだろう。  あるいは、  復讐のために剣を握り、勝たねばならなかった伊烏と、  剣のために剣を握り、勝敗はその結果とのみ捉えた赤音と、  二人の間にあったその差が、糸屑ほどの、剣速の差となって〈顕〉《あらわ》れたのかもしれない。  ――東京における彼女の物語はここで終わる。  〈狂鍛冶〉《くるいかじ》・藤原一輪光秋の伝説は、この後二度と、伊烏義阿、武田赤音のいずれとも絡み合うことがない。 「……いつまでここにいるつもりだ?」 「いつまでって。もちろん、最後まで見届けますよ」 「最後?」 「貴方と武田赤音の決着がつくまで」 「そして生き残った方を斬るか」 「はい?」  うっそりと、伊烏は身を起こした。  破損した塔の最上階。  心地良い風を楽しめるならば、壊れていることにも意味はあると思える、そんな処。  上には夜空と月。  横には柱に〈括〉《くく》られた女。  前には、不思議そうに首を傾げる無責任な顔の男。  ぐるりと一通り見渡して、思えたことは一つだった。最後のものが一番、この場にふさわしくなく、興趣を欠く。  〈渡四郎兵〉《わたりしろべえ》。  この男は果たして一体、自分自身をどの程度のものと捉えていたのかと。この場にあって伊烏は、皮肉に考えずにはいられない。 「お前にも都合というものがあるだろうしな」 「都合?」 「俺と赤音が死ねば、一連の事件の当事者はすべて消え失せる。その方が何かと好都合ではないのか?」 「えーと、あの、何の話でしょーか。別に伊烏さんが何人いても、私の人生レイルロードには何の事故も起きやしないと思うんですけど……」 「そうかもな」 「はあ?」 「あるいは本当に、お前にはどうでもいいことなのかもしれん。だが、偉大なる石馬戒厳の後継者殿は何と言う?」 「――――」 「後始末は綺麗にやれ、とでも言われているのではないか?」 「…………」  渡はようやく黙り込んだ。  といってその〈鬱陶〉《うっとう》しさが、さほどに薄らいだわけでもないが。伊烏はひとまず、心をよそに向けられた。  深々と蒼い空、涼やかな風、〈皓々〉《こうこう》たる月。いずれも快い。  彼の好きな夜だった。  氷を溶かして描いたような風景。柱の女は奇妙に溶け込んで、違和をつくらない。白い女だというのに、〈昏〉《くら》い風を受けて塗り潰されもせず、緩やかにそこへ浸透している。 「矛止の会を操り、瀧川を制し、国際自由都市宣言を発して、東京を事実上の独立国家とする……か。どうやら今のところは目論見通りに運んでいるようだが」  彼女にということはなく、呟く。  どうあれ、彼女――赤音の姉、武田〈笙〉《しょう》か――が伊烏の言葉を聞くことはなかったろう。  〈拉致〉《らち》される以前から、彼女は意識が無い。最初は寝ているだけかと思ったが、どうやら実のところは〈昏睡〉《こんすい》していたのか。 「堂々たる壮挙ではなく、隠密を使っての陰謀によって遂げる理想。石馬戒厳が知れば何と言うかな。あの人物が旨としたのは行動の純粋性であって、間違っても、目的の為に手段を選ばないマキャベリズムなどではなかったはずだ……」  伊烏の声はしじまの中をよく通ったが、やはり反応はない。  彼女をここへ連れてきてすぐ、一度だけ、意識を取り戻したと見えたことがあった。そして彼を見て――顔を覆う遮光器が、そのどちらも定かではなくしていたが――、問い掛けか〈譫言〉《うわごと》か、彼女はその時、何かを口にしようとした。  声は出なかった。だが口の形が、伊烏にはこう読めた。  ――いみ、と。  見間違えかもしれない。そうではないかもしれない。いずれにせよ、皮肉にもその言葉は意味を持たなかったのだろう。  体の病は心も侵し、世界とのつながりを断たしめる。〈篤〉《あつ》くなるほどに。伊烏は彼女の病状など知る由も無かったが、軽からざるものであろうことは、容易に推察できた。  なぜなら、その肌は白すぎて。  既に見紛いようもなく、死の気配を漂わせていたから。  せめて束縛からは解放してやるべきか――芽生えかけたその思考を、伊烏は封殺した。  解放?  なぜ。  あれは赤音の姉だ。  彼が救うべき人間とは断じて違う。  あれは、人質に過ぎない。  そして。  刃に過ぎない。  腰の一輪光秋二尺四寸一分と同様の、復讐を期した刃に。  伊烏はそう考える自分に、現実感を覚えなかった。鏡の中に見覚えのない顔を発見するに似た、虚ろな客観視の感覚だけがある。  あれは確かに赤音の肉親だ。  赤音の肉親であって……赤音自身ではないのに。  ――俺は本当に、できるのか。  自問もまた、質の悪いテープに録音した己の声を聞くよう。  しかしそんな意識の底に、黒いものがあることも、伊烏は自覚していた。  それは時間を掛けて少しずつ集まり、結晶し、硬化した何かだった。冷え固まった溶鉄、そのような何かは、伊烏の意思をもってしても今や動くことがない。  否。それは既に、意思の内か。  動かざるそれは、いずれ、己の衝動によって動くのだろう。  それは、真っ直ぐに進む力だ。余計な一切を振り捨て、直進する力だ。一つの理念だ。  知行合一……では、有り得ない。そこにあって、行動と合一するものは良知では有り得ない。  別のものだ。  その黒鉄の理念に、指針を示すものは、  伊烏の〈劣情〉《パッション》に他ならなかった。 「……参っちゃったな」  会話の間としては長過ぎる、数分を置いて。渡は今更に、降伏を示していた。  頭をかきながら視線をあさってへ向け、独白めいた口振りで云う。 「まさかバレバレでしたとはねえ」 「貴様が新宿の密偵であることくらい、会頭や幹部らは皆気付いていたさ。新参の俺でさえ自ずと知ったようなことだからな。  目的が同じならばと、見逃していただけだろう。自覚がないのかもしれんが、貴様に役者の才能は乏しいぞ」 「……」  その言葉に、彼の表情は震えたようだった。  伊烏は知っていた。この男は、表面上の印象ほどには、実のところ平常心が強くない。余裕のように見えるのは自尊による〈驕〉《おご》りであり、そこを突かれれば〈容易〉《たやす》く心を乱す、と。  知っていたからといって、配慮などはさらさら不要。 「去れ、小策士。俺と、赤音の、邪魔をするな」  文節を区切り、一語一語、宣告する。  伊烏の言葉の意味も、言外の意味も、渡には理解されたろう。  前者に密偵は、〈諾〉《だく》とも否とも応じなかった。だが後ろに数歩下がって距離を取ったのは、後者への反応だったか。  能面めくその相貌に、薄い笑みが戻る。 「きっついなぁ。でもま、いいんですけど」  言いながらに、密偵の爪先がたんたんと、ステップのようなものを踏んだ。言葉で何を言うよりも、それは人をからかい苛立たせるものであったし、本人がそのつもりでしていることは疑いもない。  伊烏は、一顧だにくれはしなかった。その人自身に関心を抱けないのに、動作一つなぞ気に掛けられようか。 「万一に備えて、手は打っておきましたしね。  武田を仕留めたら、すぐに東京を出た方がいいですよ。伊烏さん」 「……」 「でないと、せっかく仇討ちを果たしても、会の残党か瀧川の社長派に捕まってすぐあの世行きってな羽目になっちゃいますからね」 「それが貴様の最後の策か」 「瀧川さんには社長暗殺犯の写真を名前入りでお送りしただけですが、会の連中についてはちょっと嘘をつかせて頂きました。  本部に瀧川兵を引き込んだのは、内通者の暗躍だと」 「なるほどな。……俺ではなく、赤音が生き残ったら?」 「彼はとっくに会の天誅リストのトップですよ。これまでは瀧川を警戒して手出しを控えていたようですが、もうそんな心配はいりませんしね。  今は瀧川も彼を狙ってるんですよ、実は」 「…………」 「そんなわけで、貴方がたはそういう人達に狙われているわけでして。どちらも崩壊したとはいえ、人間の一人や二人、草の根分けても探し出して叩き殺せる程度の戦力は残していますよ、もちろん。  本当は今すぐにでも逃げ出した方がいいんですが」  〈饒舌〉《じょうぜつ》な男が口を止める。その糸目の動きは見取りづらかったが、伊烏の表情を覗いているのだと知れた。  舌なめずりに似た視線を、頬の上で感じ。伊烏は、何も言わず見返しだけした。  他にすることがなかった。瀧川や会残党がどう迅速に動こうと、赤音の来着はそれより早いだろう。そうでありさえすれば、それ以上のことは彼の関知の外だ。  つまり渡の言うことなど、知ったことではない。  その内心を、どう読み取ったのか。 「もっとも、公式非公式を問わず城壁の門すべてに手が回っていたら……逃げようったって、逃げられないでしょうけれどもねえ……」  権力の〈走狗〉《そうく》はそんなことを、〈嗜虐〉《しぎゃく》の〈喜悦〉《きえつ》が〈滲〉《にじ》み出た、〈有体〉《ありてい》に言って変態的な声で言ったのである。  これにはもう、伊烏は視線を返すことすら阿呆らしく、溜息もつけずに〈面〉《おもて》を伏せた。  それをまた何か勘違いしたのか。気色の悪い含み笑いが、空気を揺らす。  実に。  道化の〈鑑〉《かがみ》のような男だった。 「だから、私が手を汚す必要なんて最初からなかったんですよ。ただ性分で、自分でできることは自分でやっておきたかったんですが……ま、しょうがない」 「……」 「今ここで貴方と戦ったとして、その最中に武田が来たりしたら、彼も私を邪魔者として殺しに掛かるに決まってますからね。  貴方がた二人を一度に相手にしては、流石にちょっと勝てません」 「一人なら勝てると言いたげだな……」 「そう言っていますよ。私の能力は知っているでしょう?」 「…………」 「できれば貴方を相手に試してみたかったんですが……意味のないリスクは冒せません。これにて失礼することにしましょう。では、お達者で」  わざとらしいにこやかさを、これでもかとばかりに見せ付けて。場違いな男はようやくに、階段を下って去っていった。  塔が静寂を取り戻す――には、無駄にリズムをとる足音が消えるのを待たねばならなかったが。 「貴様の能力……?」  〈訝〉《いぶか》って呟く。   この夜、伊烏が渡の発言のうちまともに取り合ったものは、それだけだった。  ――渡四郎兵の能力。  知っている。  知っているが。 「取るに足らず」  侮蔑を添えて、〈憫笑〉《びんしょう》する。   この夜、伊烏が渡にくれてやったものは、それだけだった。  ――――東京タワーで待つ。  病室に残された書置きの、それが全てだった。  人を呼び出すにしては、その短さは甚だ不親切であったし、事によっては不十分でもあったろう。指定場所の住所と簡単な地図と交通手段くらいは〈併記〉《へいき》しておくのが社会人の配慮というものだ。  時間の指定がなく、あまつさえ差出人の名もないなどというのは、それ以前の常識の問題である。  だが実際として、その内容に不足はなかった。  東京タワー、東京に居てその固有名詞を知らぬ者もいまい。  差出人は筆跡が明かしていた。  時間の指定がないのは、この上なお待つ必要はない、という意味だ。他に解釈はできない。  つまり。  伊烏義阿は最後の舞台に、この旧帝都の中心たり最高峰たる333メートルの巨塔を定めたのだ。 (あの〈朴念仁〉《ぼくねんじん》にしちゃあ、悪くないデートスポットだよな)  立ち入り禁止と記してある、古ぼけた標識の横を行き過ぎて、廃墟を眺め渡しながら赤音は独りごちた。  東京タワーは正式名を護国十二天王寺と云い、戦後の復興期に国家鎮護と発展を願って建造されたものである。  国威誇示の目的もあって、世界一の高度を達成するべく当時の最新技術が投入されたが、外観は京都の東寺五重塔をモチーフにして整えられた。  建造後十数年間は東京を代表する観光スポットの地位を揺るがせず、人々の耳目と足を集めたが、1972年、石馬政権に対する叛乱を起こすも破れた帝国軍の一派がこの最上階に逃げ込んだのち爆死する事件があって以来、禁忌の地となり、取り壊されはしなかったものの人が寄りつくことはなくなっていた。  だからこそ、伊烏はここを選んだのだろう。  赤音にも、異存のあろうはずはない。  〈瓦礫〉《がれき》を蹴散らして塔の下へ歩み寄り、中へ進もうとし。だが彼はそこで、立ち止まらなくてはならなかった。  軽快な足音がたかたかと、建物の内から漏れ聞こえてくる。待つほどのこともなく、それはあっさりと近づいてきて。 「……んぁ?」 「あちゃあ」  赤音は眉を片方だけ吊り上げて呟き。その男は、緊張感のない奇声をあげた。  初見ではない。  その服装も声色も既に赤音の記憶から抜け落ちていたが、前髪の間の糸目だけは忘れていなかった。  矛止の会の本拠を攻め落とした時に〈遭遇〉《そうぐう》している。人外の跳躍を為したあの男とみて正しい。 「困ったなー、もう逃げるつもりだったのに。どうしよう。どうすれば。どうしたらいいと思います?」 「うるせえどけよ雑魚」  すっとぼけた様子で何やら言ってくる男に、しっ、と赤音は片手を振った。  宝箱を開けたら中身はまた箱、そんな気分になっている。苛立たしく、もどかしい。 「お前なんぞの出番じゃねえ。なんで今更になっておれの前に出てくるんだか知らねえが、邪魔だ。さっさとどっか失せろ」   「…………雑魚ォ?」  男の声調が変ずる。  無造作な赤音の一言は、何かの引き金であったらしい。初めて、糸目が開いていた。  引き〈攣〉《つ》った〈眦〉《まなじり》の狭間に、〈猛禽〉《もうきん》的な瞳が現れる。  視線の矢を射掛けて来つつ、男は唸りを発した。 「今なんて言った、お前……雑魚って言ったのか」 「は? なんだもしかして禁句? プライドに関わる言葉だった? あー悪い悪いごめん。じゃあ言わなかったことにしとくから、君も聞かなかったことにしてだね、えーとどうでもいいから早くどっか消えてくんない?」 「……なんて言ったかって聞いてんだよ」 「うるさくないけどどいて下さいませんか格好良いお兄さん、って言ったんですよ。ええ。多分。きっと」 「雑魚っつったんだろうが!!」 「わかってんなら聞くなよ〈木瓜〉《ボケ》。あー、いや、〈縮緬雑魚〉《ちりめんじゃこ》のような星空だなあって言っただけです。常に新しい表現の道を模索する風流なおれ。桜の散る季節には理由もない涙が止まらないんだ。いや、別に花粉症ではなくて」 「……」  男に納得した様子は、まったくなかった。  今にも突進して来そうな気配ならば、夜目にも明らかにあったが。  どうやら説得は失敗したようである。〈臍〉《ほぞ》を固めながら、赤音は認めた。  喧嘩を売ったつもりは別になかったのだが、気が急くあまり考えずに受け答えしたらば、結果的にはそういうことになってしまったらしい。  やり取りを思い返せば、怒りを受け流すつもりがしっかりと付き合ってしまっている。考えなしに地で応対した結果がそうなったのは、赤音の人間的な程度が相手とだいたい同等だからだろうか。そうかもしれない。  糸目の男――かつて糸目であった男は、表情を見る限り、怒りが加害行動を生まずに収まるラインを既に踏み越えている。 「オレが雑魚だと……? お前如きが言うか。この〈小兵〉《ちび》がよ。ただの操り人形がよ!」 「はあ?」 「オレが雑魚なら、オレの手の上で踊ってたお前はなんだ?お前は何もかも自分で仕組んだつもりになってたんだろうがよ、はっ、笑わせるな。お前も利用されてただけなんだよ、オレに」 「はあ」 「適当吹いてると思ってんのか? ふん、お前はどうせ死ぬから教えてやる。いいか、オレは府知事の――」 「いやそんなのいいから」  うんざりと、赤音は始まりかけた〈長広舌〉《スピーチ》を〈遮〉《さえぎ》った。 「別にお前がおれを利用してたっていいからさ。そんなの知ったこっちゃねえし。お前が凄い策謀家だって言いたいんなら、ああうん認めるから黙れ。これ以上無駄な時間使わせんな」 「ぐ……!」 「けど、そういうのって人間誰しもお互い様ってやつじゃねえの? 誰だって人を利用するし人に利用されてるだろ。そんなことがなんか重要か? 重要なのは、自分のしたことに満足できたかどうかって、それだけじゃねえのか?」 「……っ」  男が形相を歪ませて黙る。赤音は思い起こす。  ここに至るために、自分が利用し蹴り捨ててきた幾多の人間を。彼らの全てを赤音は歯牙にも懸けていない。だが、彼らが自分の生にそれでも満足していたのならば、それは赤音がどうふんぞり返ろうが汚せるものではないのだ。 (にしても、おれも付き合いがいいよな……)  そう思って、苦笑いをしたくなる。そんな場合ではないのに、余計なことをする、これは子供っぽさというものか。  しかし、それも〈潮時〉《しおどき》だ。  赤音は足を前後に軽く開いた。目算で、対手との距離を測る。  それを見て取っての反射行動か、男も同様の身構えをした。口元は怒りに強張らせたまま。  だがふと、それが変じた。唐突に不気味に、余裕めいた笑いが浮かび上がる。 「……?」 「そうだな。オレとお前と、どっちが雑魚か……証明するには、これが一番早い」 「自信満々じゃねえの。蚊トンボよろしくぴょんぴょこ跳ねる芸があるからか?」 「…………」 「好きにやってろよ。おれは痛くもかゆくもねえ」 「……そうかい。  だがよ。こいつはちょっと、かゆいんじゃねえか?」  言うや。  男の体が沈み、  飛ぶ。  その場で、真上へ。かつて見た時と同様、非人間的な高さに。  ……それだけならば、今さら驚く価値はなかった。赤音には。  しかし。 「!?」  赤音は眼を見張っていた。  跳躍と同時――男の体が転回する。  のみならず。  その手は柄にあって抜刀を為し。  転体と共に斬撃。  ……そして、着地。  彼の両足が地面を踏んだ時には、剣は既に鞘の内へ納まっていた。  一瞬の芸。  それは、〈紛〉《まご》うかたなき。 「――――」 「よもや、知らないはずはないな? “昼の月”だ」  赤音の絶句を受けて、男は〈心底〉《しんそこ》愉快げに唇を緩めた。 「オレには、どんな運動も一目見れば構造を理解できるって能力があるんだよ。こいつもそれで手に入れた。一度だけ見たんでな」 「…………」 「ふん……なかなか面白いことを考えたじゃねえか、伊烏も。宙転からの抜き打ちか。確かにこんなトリッキーな技、見切れる奴なんてそういねえだろうよ。いいものもらったもんだ」 「……。……」 「んん? なんか随分静かになったな、おい」  卵を飲んだ蛇のように、男の喉がうごめく。  どう見ても好感を持てないそんな喜悦の〈挙措〉《きょそ》に、赤音は何ひとつ、応える言葉がなかった。  廃塔の前、うら寂しげな空間を、男の笑声だけが占有する。 「後悔してるか?」 「……」 「遅えよ。お前は死刑だ。それに元々、お前らはなるたけオレの手で殺したかったしな……馬鹿がよ。もう少し遅く来てりゃ、オレに会わずに済んだのに」 「……」 「じゃあな、雑魚。あの世で泣いとけ」  その言葉は、〈冥土〉《めいど》の土産として〈呉〉《く》れたつもりか。  男が走り出す。  裂かれた風が悲鳴を上げた。風を引き裂くものはより強き風。強き風は地を〈穿〉《うが》ちながら進む。  穿つ。穿つ。穿つ。〈怒涛〉《どとう》に等しいその疾走。  10メートルに足りない距離を、走破するのに求めた時間はどこまで〈瑣末〉《さまつ》か。  伊烏義阿のそれに伍する――あるいは〈凌〉《しの》ぐ。  疾走が既に剣撃の速度。  この速度に乗ることとなる実の剣速はいかばかりになろうや。  男はそれを今教える。  右足が大地を踏み抜いた。  天翔する。  時を置かず回る身体。  抜かれる刃。  それは、  ひた無慈悲に、襲い来る――――  赤音は。  後ろに軽く退いて躱してから、〈蠅〉《はえ》でも叩き落すかのように、抜き打ち一刀で男を斬り捨てていた。 「……そんな」  地上に〈臥〉《ふ》して。  己でつくった血溜まりに浸りながら、まるでそれが理不尽なことだとでも言いたげに、男は隙間風の声を上げていた。 「なんで……」 「なんでじゃねえよ」  赤音に勝利の喜びなどはない。  ただ、つまらないものを見せられたという不興にだけ満たされて、足元からの虫の息に応える。 「お前、“昼の月”の名の意味を知ってたか?」 「……?」 「知らなかったんだろうな」  吐息する。  人に対する苛立ちというものは、程度を越すと哀れみに転化することもあるらしい。赤音の心情の一端は、そう移ろいつつあった。 「昼の月はな」  一度区切って、ぽつりと続ける。 「宙返りと抜刀術を足した技なんかじゃねぇ」 「…………」 「あれは間合を狂わせ、奪う〈術技〉《わざ》だ。魔剣たる所以はそこだ。その後はおまけみてえなもんなんだよ。……つったって、わかりゃしねえか。お前には」 「……」 「だが聞いとけ、猿真似屋。  お前の剣は変哲の無い夜の月だ。  伊烏の剣は、いつ抜き放たれるとも見えない、人の予測を許さないものだからこそ、天の怪奇“昼の月”の名に値する……」  男の息はもう赤音の耳まで届かない。  それでも、言わずにはおれず。 「〈才〉《サイ》なく〈心〉《シン》なく刀刃を弄んだ愚物。ふさわしい惨めさで死ね」  唾と共に最後の一言を吐き捨てて。  赤音は塔の中へ、その場を去った。背に聞こえたすすり泣きの声は、きっと草木と夜風の合奏であろう。  結局名すら聞かなかった男のことを、赤音はすぐに忘れた。  伊烏が、いる。  この上にいる。  四年前から――  いや。  彼と出会った日から。ずっと、歩き続けてきた道の終点。  ぎしぎしと、一歩毎に〈軋〉《きし》んで音を立てずにおかぬ階段を登る。  階段は皮肉なことに、破損が酷ければこそ実用性を有していた。もし万全であったら、通電していない蛍光灯は物の役に立たぬ以上、暗くて一歩とて進めたものではなかったろう。  壁のそこかしこに穴が開き、ふんだんに〈撒〉《ま》かれる東京の夜明かりが流れ込んでくるため、薄ぼんやりとだが辛うじて足元を確かめられる。  赤音は階段をゆっくりと登った。  塔の高さに見合って、階段はひたすらに長い。足腰を練磨していない人間ならば何度も休止を必要としたろうが、彼はそうせぬ一方、〈殊更〉《ことさら》急ぎもしなかった。  猛り〈逸〉《はや》っていた気持ちは、不思議と今、落ち着いている。  静止してはいないが、さざめいてもおらず。例えるなら音を立てずに〈梢〉《こずえ》を揺らす木々のように。足と同様にゆるりとして、意思もまた進んでいる。  八坂から受けた傷は軽いものではない上、結局ろくな手当てもしていない。しかしそれも心身を騒がすものではなかった。  割れた胸骨が発する疼きはこのまま放置することの危険性を伝えていたが、今だけはその痛みも全身の調和の内にある。  行く手が、ふと開けていた。  穴がどうこうという程度を越えて、壁が崩落しているらしい。階段の下から見上げる赤音には、階段の先に夜空が広がっているように見えた。その方向へと進む。 「……はぁ……」  踊り場まで登りつめた時、思わず。彼は感嘆の声を口にしていた。  絶景。  夜の東京の全貌が、そこからは見渡せた。  整理されているとは、言い難い。  むしろ〈不揃〉《ふぞろ》いな積み木を無作為に投げ転がした風。  その上へ砕いたガラスをばら撒いたとでも言えば良かろうか。  乱雑に広がり、てんで勝手に伸び上がり輝いている建物たちの群れ。  そこに芸術家の指が為す〈洗練〉《せんれん》は無い。  しかし、一切の努力なくただ生来のものとして美貌を得た、〈傲慢〉《ごうまん》な貴婦人ならばそこにいる。  美しくあるべくして造られた街ではなかった。  誰もこの街の美になど気を払わなかった。  元々が急ごしらえの、実用性のみ求められた都市であり、  外周を壁で囲われて後は、この国にあってごみ捨て場に等しい扱いを受けてさえいた。  それでも〈今宵〉《こよい》、赤音が見下ろす東京は綺麗だった。  美しくある過程の全てにそっぽを向かれながら、まるでそのことへの意趣返しだと言わんばかりに、〈絢爛〉《けんらん》たる光輝を誇っている。  思えば、奇妙な街であった。  いまだかつて一度たりとも実用されたことがないとはいえ、大都市を一撃で崩壊せしめ得る兵器が確実に存在する時代に、磨き上げた金属の刃という古典的武器を手にその技量を競い合う輩が〈跳梁跋扈〉《ちょうりょうばっこ》する。  それは誰の目にも、愚かしかろう。  だが東京の輝きは、紛れもなくその愚かしさが生んだもの。  ならばそこに価値はなくとも意味はある。  愚かなる光の〈世界〉《くに》。  こんな都市は他の何処にも無く、  過去においても無く、  おそらくは未来にも無く、  そして、いつまでも続くものでもないのだろう。  運命と偶然と、幾分かの意思と、もしかしたらば誰かの愛嬌が、溶け合って生まれた一時の夢。  今だけの限られた〈蜃気楼〉《しんきろう》。  この街でなくてはならなかったのだと、赤音は思った。  赤音と伊烏という二者が正しく終結するためには、今、此処でなくてはならなかった。  この荒廃都市が在ったこと。  それは無かったことに比べて、どれほどの幸であったのか。  この都市が無ければ、赤音も伊烏も、全く異なった形でしか在り得なかったろう。その想像こそ悲痛であろう。  赤音は感謝した――誰に感謝すれば良いのかは、わからなかったけれども。  眼下の街をいとおしみ、手を差し伸べて抱え上げたい想いに駆られながら。  彼は最後の階段を登った。  風は一陣。  光は一条。  この高さにあっては稀有であろう静やかな気流と、月輪がもたらす細い明かりのなかに、終着の地はあった。  天井はない。ここが現在の最上階ということか。あくまで現在の、でしかないことは、床の中央から天頂に伸びる太い鉄柱の長大さが証明している。  柱にはところどころに、かつてあったのだろう階層の破片らしきものがこびりついているのも見て取れた。  床には他にも、長さにて全く及ばないものの幾本かの柱が突き出している。  壁の残骸なども至る所にあった。  だが全体を見れば〈寂寞〉《せきばく》としており、動き回るに障りはないと思える。  既にこの場は荒れ果て過ぎ、どんな役割を負っていたのかも定かではない。  しかしおそらくは、何もなかったのではないか。  無数にあった階層の一つに過ぎず、〈荘厳〉《そうごん》な仏像も貴重な経文もなかったに違いない。  赤音にはそう思えたが、失望は何もなく、むしろ〈淡〉《あわ》い満足があった。  そんな場所の方が良い。そんな場所の方が相応しい。こんな、誰の注視も受けない場所の方が、おれたちの決着には、きっと。  〈荒涼〉《こうりょう》の塔上に、人影は――三つ。  朱い小袖を風に揺らす赤音。  中央奥ほどに佇む紺の着流し。  その近く、柱に括りつけられた白い女性。  着流しの男は、女性の首筋に抜いた刀の切先を突きつけている。女の方は、意識がないらしい。力なくうつむき、目前の刃を確認できている様子ではない。  男もまた、己の刃に気を取られている風ではなかった。切先は不動であったけれども。  男は、こちらを見ている。  彼を見ている赤音と同様に。  伊烏義阿。  四年ぶりの再会であることを、赤音は今更に自覚していた。  意外と思えたのは、あの矛止の会の襲撃の夜以来、彼を近くに感じていたからだろう。再会という儀礼はとうに終えたと、無意識は勝手に認めていたか。  顔を合わせるのは、今が四年ぶりのことなのだ。  かつてと比べ、伊烏は老いていた。  年を重ねたというよりも、ただ老いて。絶頂期にあろう肉体とはあまりに裏腹な、落ち〈窪〉《くぼ》んだ瞳がそう思わせる。  四年の間に彼が呑んだ苦痛が、そこにすべて沈んでいるかのようだった。  その印象と、赤音が抱いた感慨とは、果たして相反していただろうか。  ――――ああ、伊烏だ。  深い安堵と喜びの、赤音はその想いを噛み締めていた。  それは、記憶の中の容貌と照らして、本人に違いないと判断したから生じたものでは、なかった。  何が想わせたか。  己を顧みても、赤音の中に明確な論理は無い。  強いて言えば、彼がここにいたことが、彼が伊烏たることを証明した。  例え伊烏が、本当に老いさらばえていようと、  かてて加えて、両手両足を失い、顔までも潰されていようが、  此処に、この時、こうして、赤音と対峙していたならば、  赤音はそれを伊烏と見極めたことだろう。  この地にて己と相対するのは伊烏のほかに有り得ない。  他の何者にも、その行為は為し得ない。  論理を超え、信仰のように、その確信はある。  だから赤音は安堵した――伊烏はここにいる。  己のための敵はここにいる。  赤音が戦い、凌駕し、勝利するための敵はここにいる。  あるいは赤音が戦い、打倒され、敗北するための敵はここにいる。  彼は赤音を斬るべくして打ち上げられた一刀。  そして己は、伊烏を斬るべくして打ち上げられた一刀。  相打つために生まれ出で、相打つために生きてきた。  この結末は必然であり違えられざる約束。  時は今、この掌中にある。  伊烏もまた同様に感じている――と思えるのは、錯覚であろうか。  しかしならば、彼が〈誰何〉《すいか》の声ひとつ発しないのは何故か。  月明かりは決して、四年の隔絶を経た顔を一目で確認させるほど、下界を照らしてはくれないというのに。  それは彼もまた疑いなく信じているからではないのか。  ここに立つのは、赤音のほかに有り得ないと。  状況がどのような変転をしようとも、今この地に立てる者は赤音しかいないのだと。  そう確信しているから、彼の口は名を確かめることもせず、こちらへ注ぐ眼差しを迷わせることもないのではないか。  ……それはささやかな、不動の信仰。  この月夜、この最果ての塔の〈頂〉《いただき》で、戦う者がいるのならば、伊烏義阿と武田赤音の二人でしか有り得ない。  澄んだ音色が風を渡った。  〈弓弦〉《ゆづる》を鳴らす魔除けにも似て、ぴぃん、と。どこからの何の音か判然とはしなかったが、おそらく柱の一本から伸びて別の柱に引っ掛かっていた電線のようなものが、風に揺らされてか落下し、鞭のしなりで床を打ちすえたものではなかったか。  その〈余韻〉《よいん》までが消えた頃、伊烏は、重たげな唇を開いていた。 「何故だ?」  と。  ……ただ、その一言だけ。  赤音は咄嗟に返す言葉がなかった。  意図が通じなかったのではない――それは明快だ。  彼は四年前の、〈弑逆〉《しいぎゃく》の理由を問うている。  それはわかる。だが。 (もうちっと、愛想ってもんがあってもいいんじゃねえのか)  絶句する一方、おかしみが湧く。  別に美辞麗句を尽くせとは言わない。  しかしせめて、主語と述語と目的語くらいはあってもいいのではなかろうか。  そもそも、それは今更聞くことか。  聞くならば、四年前にこそ聞くべきだったろう。  だがあの時、伊烏は聞かなかった。意味ある言葉は一言も発さず、斬りつけてきた。あの光景、あの事実を前にしては、そこへ至らしめた経緯など無意味と断じたから。  その通りだ。それで良い。そんなことを問う必要は、かつても今もない。  ……ああ、そうか。  その思いつきに、赤音は口元をほころばせた。   聞く必要もないことをわざわざ聞く。  それは、あるいは彼なりの愛想と言えまいか?  ならばこちらも、心をこめて対応せねばならないだろう。  赤音は数瞬かけて、脳裏に言葉を組み立ててから、それを口にした。 「答える前に教えてくれ」 「何をだ」 「どう答えたら、お前はおれを許す?」 「…………」 「どう答えたら戦う気を失くす? そいつをあらかじめ教えといてくれよ」 「……」 「それだけは言わないようにするからさ」 「獣め」  伊烏がぼそりと〈唸〉《うな》る。赤音は視線を転じて、笑みを消した。  朽ちた柱に紐のようなもので束縛されて、第三の人がそこにいる。遮光器に隠されて表情を識別し難い彼女は、だが〈危惧〉《きぐ》すべき容態にあると悩まず知れた。  か細い呼吸が聞こえる、そんな矛盾を錯覚できる。元々死に〈瀕〉《ひん》していた彼女に、この〈処遇〉《しょぐう》はいかにも過酷なものだろう。  赤音の目を追って、伊烏もそちらをついと覗いた。 「……東京に姉がいたのだな。  少し、驚いたが。思えば互いに家族や故郷の話など、ろくろくしたこともなかった……」 「彼女をどうするつもりだ?」  その問いに、答えはすぐ返らない。  刃が翻った。  ぱちり、と〈切羽〉《せっぱ》が鯉口に重なる音だけ響かせて、伊烏の刀が鞘へ納まる。 「……」 「俺が斬らねばならないのは貴様だ。この女ではない」  彼の声は、〈凍〉《い》てついた大地を思わせて揺るぎなかった。  〈瞑〉《ひし》ぐかのように目を伏せて、独語のように呟く。 「貴様を苦しめるためだけにこの女を殺すなら、俺は貴様と同列に落ちよう」 「……そうか」  赤音はぽつりと応えた。  ――――何か、予感するものがある。  立ち並ぶ二人は奇妙に調和を成していた。  濃紺の男と白い女。〈渓谷〉《けいこく》と清流のようにとでも言おうか、異質でありつつ釣り合いがとれている。絵になる、とはこういう様なのかもしれない。  しかし視野を広げて、景観の中に二人を収めると、その絵は一転してどこか不似合いなものを感じさせた。  この場に〈相応〉《ふさわ》しくないのだと、そう思える。彼女が、そして先にはここに在ることが必然と思えた伊烏さえもが。  その感慨が、胸を騒がせたのではなくも。  ――――予感がある。  人の中にあって人知を越えるものが未来を予知し、理解〈能〉《あた》わぬそれを感覚のみして身体を震う。  赤音は知らずして感じている。  それを。  その亀裂を。 「だが」  伊烏の呟きが……逆接して、続く。  声を亀裂させながら。  凍てつく大地であったものがひび割れる。 「だがな、赤音」  彼の右手は柄から離れていない。  納刀してから一度たりとも。 「俺は」  呟きは、裂けた大地。  大地は割れている。  それは倒壊して、  灼熱の〈奔流〉《ほんりゅう》を噴き上げる。 「俺が失ったものを、お前は失わずに済む、それこそが決して耐え難いのだ!!!」  それは溶岩の渦。  伊烏は〈吼〉《ほ》えていた。  勇壮でもなく清厳でもなく、ただ魂の断末魔を吼えていた。 「心弱き俺を呪え――――赤音の姉!!」  咆哮に刃鳴りを重ねて。  伊烏は一刀で、白い〈柔首〉《やわくび》を打ち飛ばしていた。  ……紅い桜の花弁が舞う。 「どうだ」  伊烏が、叫ぶ。 「どうだ、赤音!」  これまで一度とて見たことがない、  どす黒く醜い感情に、額から頬まで染め抜かれた顔で。  〈瘴気〉《しょうき》を吐くように、伊烏義阿は言い放つ。 「怒りがあるか! 憎しみがあるか!  貴様にその味を知らしめることが俺の欲望だった。  ずっと迷っていた……だが決めた。貴様と同じものに堕そうとも、俺は復讐を貫くと!!」  悪鬼そのものとなった彼の声。  それを聴きながら。 「さあ、憎め! 剣を抜け!  貴様は四年前の仕合に納得しなかったのだろう!? 決着をつけたいのだろう!  俺と貴様はもう同等だ。何の差異もありはしない。それでも俺は、貴様を殺して、復讐を遂げ尽くす! 来い……赤音!!」  それを聴きながら。  暗い床に散った血滴と、遂に純化し果てた復讐鬼と、双方を見つめて――赤音は。  怒りも。  憎しみも。  持つことは、なかった。  ただ胸の内に、いくつかの言葉を呟いていた。  ――――ああ。  殺したか、伊烏。  彼女を殺したか。  けど、悪いな。  怒り?  憎しみ?  そんなものはない。  おれにあるのは、  歓喜と。  祝福だよ。   おれは、今、  復讐を遂げたのだから。  目にしてはじめて、自覚した。  おれが彼女に望んだものは、この最期だったのだと。  この死のために、生きていてもらったのだと。  思えばこれこそが、有り得べき唯一の、帰結ではなかったか。  この最期はお前の復讐。  この最期はおれの復讐。   そしてこの最期は、彼女の救済。  彼女はお前のものだった。  おれのものでは、決してなかった。  お前の手が彼女に最期を迎えさせたのなら、それは、彼女がこれまで生き続けてきた意味に応えるものにちがいなく。  おれの手であれば断罪でも、お前の手ならばきっと、慈悲だ。  だから。  彼女のこの死は、祝福されねばならない。  心から云える。   ――――おめでとう。  武田笙。  何もかも忘れたあなたにおれが与え、四年を生きたこの名前を、おれはもう二度と想わないのだろうけれど。  結局、おれも伊烏も、導いたのはあなただった。   伊烏義阿。  確かにこれでおれとお前は真実対等。  おれが四年前に失ったものを、お前も今、失った。  伊烏が刀を〈血振〉《ちぶるい》し、再度鞘に納める。無論のこと和平の意思表示などではない。これこそが戦闘態勢である。たった今、事実で示したように。大きく飛び退き、間合を取ったこともまた同様。  距離、メートルにして7か、8か。  彼に対して、赤音は抜刀した。居合にて伊烏と覇を競うことは叶わない。  左足を前に、右肩担ぎに構える。これが赤音の辿り着いた剣。  伊烏の剣と戦うために見出された赤音の剣。  刈流、〈指〉《サシ》の構。  これから赤音はこの剣で、伊烏と全能を駆使して戦い、〈或〉《ある》いは勝ち或いは敗れる。  その結末のために生きてきた。  その結末のためにこの命はあった。  命の意味を生きているうちに定めるなど、きっとひどく馬鹿げたことなのだろう。それでも赤音は、疑いを持たなかった。  伊烏を〈憧憬〉《どうけい》していた。  その剣に恋していた。  鹿野道場で初めて出会ったとき、伊烏は下位の門下生の一人に過ぎず、技もごく〈拙〉《つたな》かった。やがて開花する〈天稟〉《てんぴん》はまだ〈蕾〉《つぼみ》であり、それを見抜き目を掛けていた師範がいたということもなかった。  それでも赤音は〈惹〉《ひ》かれていた。ほかの誰とも違う、羽化したばかりの蝶のような剣に、ただ一目で魅せられていた。  心の琴線に触れたとしか、言い様もない。  そのことが、赤音に一心不乱の修行をさせた。  伊烏を真似たかったのではない。彼に彼だけの剣があるように、赤音も自分だけの剣が欲しかったのだ。いつか、彼の剣と己の剣とを競い合わせることを夢想して。  夢は今、ここに在る。  屍山血河を踏み渡り、幾多の怨霊を産み落としつつ、至ったこの塔の上で。  赤音は幸福だった。  伊烏は不可思議な自覚の中にある。  四年前からずっと、一瞬の過去まで、心身を〈灼〉《や》いていた怒りと憎悪を、この刹那は覚えない。  消えたのではなく。静かで、より強い何かに押しのけられている。いや、内包されている。  それはシンプルな、闘争心だった。 (あるいは)  ふと思う。 (四年前の裏切りがなくとも、俺達はいずれこうなったのではないか)  それほどに。  仇敵との決着の時を迎えて、伊烏の心身は〈静謐〉《せいひつ》であった。  昂ぶらず。  荒ぶらず。  流れる水のように、戦い〈征〉《ゆ》く己を自覚する。  伊烏が地を蹴った。  一太刀で勝つ。  蒼狼の疾駆を真っ向から迎え、赤音は心中に期した。  二の太刀などは無い。  一撃で仕留められなくとも次がある――などという考えで、勝てる相手ではないのだ。  一撃、必殺。  実現するには間合を〈掴〉《つか》まねばならない。伊烏の疾駆を捕捉せねばならない。  しかし、それこそが至難であった。  伊烏の走行は速度を、歩幅を一定にせず、だが一貫して疾走。  この剣を振り下ろし、確実に殺せる間合を、つかみきれるか。  少なくとも、過去には一人たりと、それに成功した者はいないのだ。  そう。  魔剣昼の月、その真の恐ろしさはここにある。  あの糸目の男が誤解したように、昼の月を見た人間の多くは、宙転からの抜刀という変幻ぶりで勝を得るのだと思い込むのであろう。  だが、違う。  魔剣は、今。間合を詰める、この疾走から始まっている。  これが既に技なのだ。  ジゲン流という剣術がある。  〈薩摩〉《さつま》藩の御家流であった示現流をはじめ、その源となった天真正自顕流など、同系諸流は数多いが、中の一つに野太刀自顕流(別称を薬丸自顕流)というものが存在する。  この流儀の『〈懸〉《かか》り打ち』という、トンボ(刀を右肩上、天頂に向けてとり、左足を前に、右足を大きく引く構)から疾走して敵に駆け寄りそのまま斬る技は、幕末維新の日本を〈震撼〉《しんかん》させた。史上空前の大動乱の中、主として薩摩藩の下級武士らによって振るわれ、他流の剣客を薙ぎ倒し、最強の剣の一つとして雷名を打ち立てた。  なぜ、かくも一見して至極単純な剣に、そんなことができたのか。  よく語られる理由としては、その威力に比類が無く、受け止めても押し切られてしまったからだと云う。  間違いではない。  だがそれだけならば、受け止めず避ければいいだけのことだ。だけのこと、というほど楽ではあるまいが。  一説によれば、その真髄は間合を奪う点にあったという。  猿叫をあげ、疾走してくる薩摩〈隼人〉《はやと》を前にしたとき、多くの剣士は肝を潰し、間合を見誤り、届くはずもない距離で手を出してしまう。そして空振りし、斬られる。  あるいは立ちすくんで何もできずに斬られる。  敵が間合をしかと見定め、切れる距離に入るまで手を出さぬ者であるなら、ジゲンの剣士は自らの足で間合を奪う。  即ち、最後の一歩を飛ぶに等しい大股の踏み込みとし、走る速度に慣れた敵の目を欺くのである。  振り下ろす機を失した敵の太刀は宙に留まり、その身はジゲン流の一刀を受けることになる。  しかし、時には差し違えになる場合もあった。ことに突き技で迎え撃たれると、そうなりがちだったようである。  〈剽悍〉《ひょうかん》なる薩摩隼人は、だからといって恐れたりしなかった。生命の価値は薄紙一枚分と豪語し、確実に敵を殺傷するこの剣を振るいに振るった。  かくありて最強の剣名は生まれたのだ。  これと同様の理論上に、刈流兵法・〈奔馬〉《ホンバ》がある。  早足で間を詰めて敵の攻撃を誘い、かわして斬る技法。敵の攻撃阻止を間合幻惑に頼らず、バックステップで防ぐことを意図している点で『懸り打ち』より優れている。  だがそのために動きが複雑になり攻撃が遅れること、それを少しでも補うために疾走はせず早足の進みから始めるため幻惑効果はさほどでもないこと、などの点では劣った。  伊烏はこれを、独自の工夫を加えて昇華した。  技は懸り打ち同様、疾駆から開始する。  走行に幻惑された敵が間合を見誤り、届かぬ剣を振り下ろし。あるいは剣を居付かせ。無力となったとき、伊烏は疾走のまま抜き打ちで斬り捨てる。  だが、敵が間合を正確に把握し、伊烏を切り裂く剣を振り下ろす場合もある。  その時、彼は未来を〈捻〉《ね》じ曲げるのだ。  敵が繰り出す剣は、「伊烏が走り続ければ」当たるもの。  それを退がって避け、そして斬るのが奔馬の思想だ。前進、後進、また前進の運動ベクトル変転は、どうしてもこの技から迅速さを奪った。  伊烏は、飛ぶ。  疾走、そのままに踏み切り。運動力を損なうことなく。  敵の斬撃を飛翔して避け、宙にて前転、そこからの抜刀斬撃。  さなきだに間合の読み難い抜き打ちが空からの技ともなれば、もはや剣筋の見切りは不可能とさえ言えよう。  では敵が手を出さず、〈後の先〉《ゴノセン》を取らんと期して、伊烏の攻撃を待ち構えた時はどうか。  伊烏は期待に応えて、先手を打ってくるであろう。  変幻かつ神速の、踏み込みと抜刀とで。  後の先とは敵が攻撃の最中にあるために防御が不能という勝機。当然、敵の攻撃をまず防がねば始まらない。  伊烏の居合に対して、それが果たして可能なものか。  それは、恐ろしい速さで〈どこからか〉《・・・・・》襲ってくる刃を避ける、ということなのであるが。  これが突進攻撃でさえなくば、とにかく後方へ逃れることで避けるだけは何とかなったかもしれぬものの。  居合とは己の左腰に差した刀を右手で抜きつつ斬る技。当然、左側への攻撃はできないのだから、そちらへ回り込みさえすれば勝てる――  などと思い込んだ者は、居合術を甘く見たことに対して生命の代価を払わねばならなくなるであろう。  左腰の刀を〈左手で〉《・・・》抜いてそのまま左側を斬る、そんな技さえ実在することを彼らは知るまい。  ――――伊烏に抜かせるな。  それは鹿野道場の合言葉だった。  先手、先手を取っていくしか勝機はない。  だが、ただ斬りつけても疾走跳躍で躱される。  ならば、  フェイントを仕掛けて飛ばせ、すかさず斬ってはどうか。  飛ぶことを見越して、最初から上に斬りつけてはどうか。  自分も跳躍しながら斬ってはどうか。  ……いずれも策として不足はなく、そして、共通する前提条件を有する。  つまりは、意図を伊烏に読ませない、という。  見破られた策など無残なものである。  過去にこれらの策を試みた者が幾人いたにしろ、例外なく無残に終わったことは、伊烏がいま健在なことからも自明。  赤音にも、彼の眼を騙してのける自信はなかった。  先手を打たれれば、飛んで斬る。  後手に回られれば、駆けて斬る。  元来が屈強の居合使いであった伊烏義阿が、その地位に安住せず、必勝不敗の更なる高みを目指して見出した技法。  鍛錬、経験、心気、勇猛、命欲、そのような、通常の剣術が厚みを増し力を鋭さを高めるために求める諸々を、一切、重要とはせず、ただ伊烏の才能と確立された技術にのみ立脚する剣。  冷徹に勝利を行う一つの〈機構〉《システム》。  敵が何者でも関知せず、  強剛の闘士も無力な小娘も等しく斬り捨つ。  それが昼の月。  赤音を魅了した伊烏の剣、その至極の姿。  無敵、  無敵に近い魔剣。  勝機は。  あるとするならば、一刹那。  こちらが先手を控えた場合、伊烏はある段階で、先制攻撃に対する飛翔居合から、自ら先制する疾走居合へと、意図を切り替える。  その瞬。  即ち、〈先〉《セン》の勝機。  さしもの伊烏も、確実にその機を捉えられたならば、もはや手も足も出まい。  飛翔は既に出来なくなっている。疾走中では咄嗟に飛び退くというわけにもいかないだろう。  〈躊躇〉《ちゅうちょ》せず抜き打ちを放っても、刀を抜き構えた状態から打つ斬撃に対して居合抜刀では、構造的な速度差で勝敗は歴然。  ――先の機に仕掛ければ、勝てる。  伊烏を相手に、先の勝機をつかむことさえできれば。  赤音は両眼を限界まで開き、伊烏を見据えた。この〈目蓋〉《まぶた》は決して閉ざさないと誓って。  閉ざすのは勝った時。  敗れた時は――きっと、伊烏が閉ざしてくれるだろう。  伊烏もまた、赤音を見据えて走る。  その一歩に、彼との出会いを想う。  その一歩に、小柄な身体で必死に木刀を素振りする姿を想う。  その一歩に、初めて帯刀を許されてはしゃぐ笑顔を想う。  その一歩に、満身〈創痍〉《そうい》で道場破りを打ち倒す闘志の眼を想う。  その一歩に、最初で最後と思えた仕合の場に対した影を想う。  その一歩に、敬慕した〈女〉《ひと》を斬り伏せる狂鬼を想う。  その一歩に、火炎の中の〈訣別〉《けつべつ》を想う。   〈嘗〉《かつ》て赤音と共にあった日々を踏みしめて、伊烏義阿は駆けた。  赤音が待つ。  伊烏が征く。   思えばこの四年間は、  ずっとそうだった。  間合が狭まる。際限なく。  指呼の間が対話の間に。対話の間が〈斟酌〉《しんしゃく》の間に。  それさえ過ぎて。  二人は互いの瞳の中に、己の姿を視認した。 「――――――――――ッッッ!!!」  赤音は気を吹いた。  右足を蹴り出す。  射出される全身。  〈迅〉《はし》る刃。  伊烏の姿はもはや眼前。吐いた息さえ届く距離。  伊烏はまだ抜刀していない。  この間合で逃れることは不可能の極。  勝機を取った、  赤音の一刀は必ず伊烏を斬ったと、迷いなく断じられる。  ――――だというのに。  なぜ、  赤音の刃は、血の曇りなく澄んだままなのか。  答は明快にして異常。  不可能の極を超え、  伊烏は飛翔していた。  ……勝利する。  復讐に勝利する。  伊烏義阿は確信する。  己はこの復讐に、勝利を収めたと。  憎悪は焼け、惑いは果て、怨念は遂に届く。  〈雪恨〉《せっこん》の矢がようやくに、〈不倶戴天〉《ふぐたいてん》の仇敵を射抜く。  後は今、抜きつつある一刀を赤音の首に叩き込めばすべてが終わる。  赤音の剣はもう間に合わない。〈己〉《おの》が敵を捉え切れず虚しく空を薙いだ刃が慌てて巻き戻ろうとも、その〈遥〉《はる》か前に、伊烏の剣は使命を果たす。  全ては終わる。  四年前からの戦いが今こそ終わる。  伊烏は勝利し。  復讐を遂げ。  報仇を果たし。  この四年という刻を、決着させることができる。   ――それが、何をもたらすのでなくとも。  宙を舞う伊烏には見えるはずだった。地に向かって斬り下ろされ、無限の遠さにある赤音の刀が、  赤音の刀が、  赤音の刀が、  刀は、     ――――何処だ?         …………風が吹いている。  伊烏には見えない。  まさに己の命を血花に散らさんと迫る、あり得ざる鋼の〈颶風〉《ぐふう》が、伊烏には見えない。                 花散らす風の宿りは誰か知る         ――――赤音の刀は何処だ。                 我に教えよ行きてうらみむ  それは魔剣であった。  ベースとなった技術は、刈流〈小波〉《サザナミ》である。  小波は二つの問題点を持つ。  一つは二歩の踏み込みを要するため迅速に技を終えることが至難であるという点。  もう一つは、両腕をひねり返しての斬り上げは間接駆動上の難があり、更なる技の遅れと体勢の乱れを招くという点。  まず第一の問題を、この魔剣は二歩目の踏み込みをなくすことで解決する。しかしそれだけでは無論、返しの斬り上げが腕だけで振るものとなる。それは棒振り芸であって剣術ではない。  刈流兵法は云う。〈滑〉《なめ》らかに人を斬るには、体が前へ進むことで、体が下へ落ちることで、生じる体重移動のエネルギーを利して刀を振らねばならず。つまりは足腰で刀を振るという感覚が必要となる。  腕はむしろ、刀にエネルギーを伝える連結点という認識でなくてはならない。  腕力で扱う剣は体勢を崩しやすく、刃筋が乱れるため切れ味がなく、またすぐに疲労して力を失う。良いことがない。腕の力は、使わないことを原則とする。  ではどうするか。  まず一撃目を通常通り、全身を前に打ち出す力と、全身を上から下へ打ち下ろす力とで行う。この時自然、上体は前屈する。  これを躱されたら、二撃目である。この見切りは、一撃目の踏み足が着地する前にせねばならない。敵が躱した時、即座、それを察知する。  その刹那、刈流の間合騙しの技、飢虎の踏み込みと同じ要領で左足を伸ばし、体を更に前へ出す。  体が前に出る、その運動の中心は踏み込みをする足の軸となる腰だが、その腰から上を、前進運動から「切り離す」ことを意識する。そうすると自然、上体を起こす力が働く。  自動車のサイドミラーに風船がついた紐を結び付けておき、その状態で走り出せば、風船には後方へ押し流そうとする力が働く。理屈としてはそれと同様。  前進の力。上体が起きる力。これに、踏み込んだ足が地面を打つ、接地の反動力を加える。  この総合力をして、斬殺の動力に〈充〉《あ》てる。  工夫の第一は〈是〉《これ》。  第二は、手の内である。  刈流の、刀を握る手は柔らかい。腕の力で振らないことがそうさせるためだ。特に柄の末端を握るため剣と身体の連結の主軸となる左手より、補佐に過ぎない右手においてそれは〈顕著〉《けんちょ》である。  その柔らかさを利し。一撃目を避けられた時、まず右手の指に柄を引っ掛けるようにして剣を止め、次いで右手はそのままに左手だけ向きを返す。  つまりは右手の握りの中で柄を半回転させる。刃が上を向くように。敵を向くように。  右手と左手の向きが互い違いとなる手の内。  かくあれば何が起こるか。  両腕を無理に捻って返さないから、体勢は崩れない。  右腕の動作は、肘が伸びきっているため肩しか動かせないという苦境を脱する。伸びた肘を折り戻すことが斬撃の駆動となるからだ。  この握りは定法から外れたもの。攻撃距離は伸びず、攻撃方法も限定される。汎用性のある手の内ではない。  だがこの姿勢からの、斬り上げの技に限っては、  腕の駆動に何の妨げもなくなり、最速を極め得る。  この局面に限定して、これこそが最適手。  かくなる二つの工夫により、その理論は完成を見る。  一歩の踏み足、一太刀分の時間で、二度の斬撃を繰り出す術。  赤音の剣は、ここに結実した。  これは、歴史上の――とさえ言えない伝説上の――剣豪が、修練の果てに体得し、戦乱の世にあってなお比類なき蛮勇暴威を彼に許したもの。  伊烏義阿の魔剣とは質が異なる。  際立った工夫に〈依〉《よ》る剣ではない。  〈稀有〉《けう》の才が生んだものでもない。  形をなぞるだけならば、誰にもできよう。  だがこの技を生かすには、一の太刀を敵手が無力化した瞬間を、毛筋のずれさえなく〈確〉《しか》ととらえ、即、二の太刀に移らねばならず。  かような要求に実の戦中で応えることなど、誰にかできよう。  最良の運動効率を、最高の反応速度で貪り尽くしてこその剣。  武田赤音はこれを成す。  彼の即応能力の極限。無想の境地とは似て非なり対極。  宿敵の〈所作〉《しょさ》を〈寸毫〉《すんごう》たりとも余さず逃さず把握し応じ尽くす、愛のような執念だけが、この妖技を現実のものとした。           ――――我流魔剣 〈鍔眼返し〉《ツバメガエシ》  勝敗を分けたものは何か。  おそらくそれは、技の優劣ではない。  天運でもないだろう。  あるいは、  復讐のために剣を握り、勝たねばならなかった伊烏と、  剣のために剣を握り、勝敗はその結果とのみ捉えた赤音と、  二人の間にあった純度の差が、糸屑程の、剣速の差となって顕れたのかもしれない。  だが、益体もないことだ。  きっと、彼らの間に差などなかった。  ただ、コインを放れば表と裏のどちらかを上に向けて落ちるように、結果が出ただけなのだろう。  首の後方を、冷えて鋭利な波がかすめて過ぎた。  失墜の音が、それに続いた。  天翔ける鳥が地に落ちたか。  大輪の花が〈散華〉《さんげ》したか。  そんな、物悲しい響。  赤音は息をひとつ、ふたつ、みっつとついてから、刀を下ろした。  ひどく、重い。  〈提〉《さ》げ持つことすら満足に出来ず、切先は床を撫でている。  こんなものを、自分は手足のように〈揮〉《ふる》っていたのかと。  信じ難く、思わずにはいられなかった。  鉛の棒めいて、赤音の刀は鈍く、輝きもしない。  己の役目は終わったと、言わぬばかりに。  ゆるりと背後を振り返る。  床の上に、赤い雫を振りまいて、黒い塊。  伊烏義阿はまだ生きていた。  ひゅう、ひゅうと、空気を吐いている。  それは口からではなかったかもしれない。  切り開かれた肺腑からであったかもしれない。  だが生きてはいた――その瞳が動いたから。                    「なぜだ」  赤音を見て、  伊烏はそう問うた。  戦いの始まりに口にした問いを、  戦いの終わりにもう一度、口にした。  その声に力は無く。  なかばかすれて。  ともすれば聞き取ることすら難しかったけれども。   嘘を許さぬ響きがあった。 「今更、聞くことかよ」  赤音は、伊烏の瞳に己の瞳を投じて、応えた。 「おれはお前に嫉妬した。  仕合に勝ったお前が、手に入れるはずだったものを、すべてぶち壊してやりたくて、おれは彼女を殺したんだ」   「…………屑……が…………」  伊烏義阿は息絶えた。  赤音は柱に歩み寄り、括られていた遺体を解放した。  抱えたそれが、羽毛のように軽い。  そうっと運んで、彼の骸の隣に並べる。   月光が聖火のかわりに、二人を白く〈浄〉《や》いてくれた。  ――――じゃあな。  言葉なく、心だけで、別れを告げる。  赤音は背を向けて、その場を離れた。  足を引きずり、物陰を求める。  彼らと己を隔ててくれる、壁が欲しかったのだ。  数歩先に、あった。そこへ、腰を下ろす。   独りきりになった。  景色がよく見える。  先刻に見たものと寸分違わない、豪奢な夜景が視野を埋め尽くしていた。  無数の灯りは明滅して、あたかも音なき楽曲のように、楽しげなリズムを刻んでいる。  刀を鞘に納め入れる時、刹那だけ刃がその光を照り返して、七色に〈映〉《は》えた。  記憶の底が、ふと閃く。  これと同じ輝きを知っている。  ずっと昔のことだ。  両親にせがんでせがんで、誕生日にやっと買ってもらえた車の模型。  遊園地のパレードのものを模したその車は、色とりどりの小さな電球をいくつもつけていて、走らせるとそれをばらばらに輝かせた。  何度か遊んでいるうちにすぐ、安物の電球は切れて光らなくなってしまったけれど。  その光は色〈褪〉《あ》せながらも、まだ心に残っている。  ――――そうか。  この光は、あれに似ていたのか。  あれは綺麗だったな。   輝く街並みに、そう想う。  その感慨は新たに得たものではなく、ただ過去の記憶の想起。  今、赤音は何も感じることがない。  心は静止して在る。  それは当然のことだ。  もう、この世界が赤音に与えてくれるものは、余さず貰い受けた。何も残してはいない。  心は外界を向く必要を、もはや失っている。  手に入れるべきものは、手に入れた。  一剣を以って奪い尽くし、己の胎へ喰らい込めた。   ならば知ろう。  この〈魂〉《こころ》の完成を。  シャツのボタンを全て外す。  前を広げ、素肌をさらした。  折り畳んだ白布が、懐からこぼれ出る。  病院で貰ってきたものだ。床に落ちてしまう前に、拾う。  赤音は一度納めた刀を、半分ばかりだけ抜いた。  切先から一尺程度だろうと思える場所を見定め、そこに布を巻き付けていく。  意外に難しい。切ってしまわないように気をつけながら、やや手間取って、ようやく十周ほど巻き終えた。  そこを右手で握り、再び刀を抜き放つ。  全身から力を抜き、柔らかにする。  だが、ことさら意識する必要もなかった。既に赤音の中に、体を固くするほどの力は残っていない。  ただ一度、ただ一瞬のみ、赤音をして異才の神技と拮抗せしめた魔剣が、その代償に奪い去っていたから。  右手は、白布を巻いた、刀の中ほどを握る。左手は、逆手に柄を握る。  刃を下にした剣先を、己の〈鳩尾〉《みぞおち》につきつけ。  す、と息を吸う。  吸いながら、腹筋を〈腹腔〉《ふくこう》の中に押し込めた。  一度、息を止めて。  はっ、と息を吐く。  腹筋を押し出す。   切先が肉を穿った。  〈痺〉《しび》れるような感覚が広がる。 (……切先、五分。少し浅いか?)  刃が埋まった鳩尾を見て、思う。  刀を固定し、腹筋の力を〈奮〉《ふる》い起こした。  刃先が更に沈む。  六分、八分。  ――――良し。   赤音は一息に、己の腹を〈臍〉《へそ》まで切り下げた。  血が噴出する。  赤音の全神経を、衝撃が打ちのめした。 (まだだ。まだ)  〈眩〉《くら》みかける意識を繋ぎ止め、刀を引き抜く。  それでまた、新たな血が〈溢〉《あふ》れた。  急速に色を失おうとする視界に、しがみつく思いで、刀を取り直し、左脇腹に尖端を押し当てる。  呼吸を測っている余裕はもうなかった。  本能的な躊躇を無視し、刃を突き刺す。  そして、横一文字に斬り開いた。  世界が暗転する。  かと思えば白熱。  赤。  青。  紫。  狂的な転変の後、世界は薄明に包まれて、色彩を取り戻した。  己の腹部を、赤音は見下ろす。  真紅を〈纏〉《まと》った暗黒の十字が、確と彫り抜かれていた。  〈穢〉《けが》れた臓物は、未だこぼれ出ず、静かに闇の中へ潜んでいる。  その成果に、満足した。  刃を、抜く。  今や巨石のように重いそれを、ゆるゆると持ち上げて、首筋まで運ぶ。  もはや感覚はない。それが思い通りに動いているものか、確かめる術がない。  だが赤音は、剣路を共に歩んだ相棒が、最後まで自分から離れずにいてくれることを信じた。  首筋に、温もりめく冷気。  死に絶えた感覚の中で、それだけを知った。  刀を引き下げる。  すべての形が崩れ去る。  すべての流れが静止する。  何もかもが消えていく。  彼が生きたすべて、   燃え盛った闘志も、  引裂かれた誠心も、  荒れ狂った凶意も、  心震わせた歓喜も、  煮え〈滾〉《たぎ》った執念も、  身魂を捧げた剣も、   そして、たったひとつのものを求め続けた至情も。  あらゆる彼が霧散し、溶け、失われる。  一個の生命の何もかもが、まるではじめから何も無かったかのように、存在を失い意味を失い滅び消えゆく、そこにこそ、深い〈充足〉《みちたり》を得て。武田赤音は、その生涯を終えた。  ――なにやってんだ、おれ。 「赤音!」 「なにやってんだよおれは!?」 「赤音! 大丈夫!?」 「大丈夫じゃねえ!」  片腕斬られて、平気なわけあるか。 「て、てて、手当てっ。手当てしないと……!」 「いいから行け」 「え?」 「さっさと逃げろってんだ! でなきゃ何のために片腕捨ててお前拾って、くそ重いの我慢してここまでかついで走ってきたんだかわかりゃしねえだろ!」 「そんな! 赤音はどうするの!」 「おれは戦うんだよ、あいつと」 「無茶だよぉっ!」  ああ無茶だ。あほかおれは。  戦うんだったら、弓を拾う前に伊烏と会った時、そうすりゃ良かったんだ。なら五体満足で戦えた。  だってのにあの場は片腕を犠牲にして逃げ出して、そのせいで力尽きかけている今になって戦おうなんざ。  狂気の沙汰じゃねえか。 「ていうか重くないよ僕!」 「やかましい!!」  ああ、糞。  わかっている。  あの場で戦わなかった理由は、そこで死んだら弓を守れないから。  いま戦うのも同じ。戦わねば弓を逃がせないから。  どうも愚行の理由はそういうことらしい。  ……ったく。  一体いつの間に、おれの価値観は暴落やら〈高騰〉《こうとう》やらを起こしていたんだか。 「は、初めてえっちしたとき、赤音は『軽くて抱き心地がいい』って言ってくれたじゃない! だから僕はあれ以来ずっと、体重を維持するためにすっごく努力して」 「んなこた誰も聞いてねえよ! お前バカだろ! 状況わかってねえだろ!!」 「わかってるよ! 僕の人生の危機でしょ!?」 「そうだよわかってんなら早く逃げろっつの!」 「赤音に重いから嫌いなんて言われたら生きていけないもの!」 「そっちかよ!!」  ――やがて伊烏はここに来るだろう。  彼には魔剣があり、復讐の魂がある。  対する赤音は、片腕を失い、これまで己を支えてきた魂をも失った。  決して勝てないとわかっている。  だが、不思議に、  敗れもしないのではないかと。そんな気がした。 「赤音っ」 「なんだ」 「軽いって言ってくれるまで、離れないからね」 「うるせえバカたれ」  そして――――  伊烏が来る。 「どこへ行くんだ?」 「北」 「北のどこ」 「さあ」 「決めてねえのかよ」 「決めてない」 「威張るなよ……」 「ふふ」 「……」 「……」 「一輪」 「うん?」 「おれは弱くなったか」 「……そうだね。きっと、ね」 「だよな」 「けど」 「ん?」 「折れてはいない。折れてはいないよ」 「……」 「折れなかった……君たちは、どちらも」 「……そうだな」 「私はそれが嬉しい」 「ふん」 「すごく嬉しいんだよ」 「……」 「……」 「で、どこ行くんだ」 「北」 「だから、北のどこだよ」 「さあ」 「決めろよ!」 「そのうちね。ま、心配するな。責任は取るよ」 「責任?」 「君の面倒は私が見てやる」 「……そーかい」  空を見る。  いい夕焼けだった。 「説明するまでもありません」 「なんですって?」 「ぼくはお姉様のペット……そうでしょう。違いますか?」 「え、ええ……?」 「さ、部屋に戻りましょうお姉様。紅茶を淹れ直しますので」 「ちょちょちょっと待ってーーーーーッ!!!」  ずしゃがー、と音を立てて滑り込んでくる何者か。 「ちゃうやん! ちゃうやろっ!? あんた僕の愛人やん!ここはそれを暴露するところとちゃいますの!?」 「……誰? このエセ関西人」 「社長ですう! あんたの上司ですう! でもってこの赤音は僕のラバーで、君んとこにいたのは策略で、こーやって助けてやって貸しを作って得意満面でウハウハ笑う予定だったのっ!ね、そうだよね、赤音!」 「弓」 「うん」 「嘘から始まる愛もあったんだ」  _| ̄|○  弓は〈挫折〉《ざせつ》した。  その後ろで八坂はスタンディングオベーションしていた。  そうして。 「ああ、お姉様っ……」 「ふふ、いい子ね」  武田赤音と桂葉恭子は末永く幸福に暮らしたそうな。  めでたしめでたし。 「……」   「赤音がいると聞いてやって来たが……」   「まさか、同姓同名で同じ顔で同じ声の別人だったとはな……」   「フッ」  「…………」 「つっこみましょうか?」 「……」 「ありえねえです。それ」 「わかっとるわーーーーー!!!!!」  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――と。  その光景を幻覚した時、赤音の体は弾けていた。 「…………それが貴様の選択か」 「……」   「……っ……」   「………えっ?」   「…………あかね?」   「………」   「あかね!?」 「あかね……あかね!」   「どうして……」 「どうして……?」   「あんたはおれの姉さんだろう。守るのは……当然だ」 「……」   「赤音……」   「俺は不愉快だ……」   「俺は間に合わなかった。だがお前は間に合った……守りたいものを、守った……」   「……不愉快だよ……」 「伊烏……」 「…………」 「おれが死んだら、彼女の遮光器を外せ……」 「……?」 「けど、死ぬまでは待ってくれ……死ぬまでは……」  外してしまったら。 「あかねぇ……っ!」 「……ねえさん」  この四年間の真実が、消えてしまうから。 「おれは彼女に嫉妬した。  お前と結ばれる彼女が……おれはどうしても許せなかった。  おれも……お前を愛していたから」 「……赤音……」   「そうだったのか……」   「お前も……俺と同じ想いを……」 「伊烏……」 「実を言えば……俺は……嬉しかった……。  お前が彼女を殺した時……これでもう……二人を隔てるものはないと……。  そんな己が恥ずかしく……俺は……必死にお前を憎み……。  ……馬鹿だったな……。  素直に……なって……いれば……」 「伊烏……!」 「だが……これで俺は……お前だけのものになれた……。  うれしいよ……あか、ね…………」  そう言って。  伊烏義阿は息絶えた。  彫像と化した彼を見下ろす。  生きている間は常に〈面〉《おもて》を占めていた苦悩が、今は無い。  その安らぎへ誓うように、赤音は呟いた。 「ああ。お前はおれのものだ。もう誰にも、おれたちの邪魔はさせない」 「――――お生憎さま。  わたくしが邪魔をさせて頂きましてよ」 「!?」  宙を、飛んだ。  ……伊烏の骸が。  生前のように。いや生前にすら有り得なかった異様さで。  のみならず。  それを目で追った赤音は、更に驚愕すべきものをそこに見出さねばならなかった。 「……あんた」 「あら。もう姉さんとは呼んでくれないの?」  彼女が立っている。  首の無い彼女が。  いや。  己の首を己の手で抱えた彼女が、そこにいる。  その姿、さながら〈死霊騎士〉《デュラハン》。 「……黄泉路に迷ったか」 「それはまあ。変態二人の間に挟まれてこんな最期を迎えれば。でも、違いますのよ」 「なに?」 「わたくしは、大いなる意志に選ばれて甦ったのです……いえ、わたくし達は!」 「……!」  死霊の声が高らかに響いた、途端。  その背後へ、立ち上る陽炎のように現れゆらめく影三つ。 「そう……選ばれたんですよ」 「大いなる意志は我らを必要とした」 「私たちの力を」  糸目の男。  八坂。  桂葉恭子。  ――それは、  異常の発現、夢想の顕在、混沌の君臨。  真と偽が裏返り真は偽となり偽は真となり。  ここに〈法則〉《ルール》は逆転し新たな〈世界〉《ロール》が〈開闢〉《かいびゃく》す。 (冗談だろ)  くらりと視界が傾ぎ、足がたたらを踏む。  現実感の喪失に、赤音は〈眩暈〉《めまい》を覚えていた。 「どいつもこいつも、布で隠してなきゃいけねえ面をぬけぬけとさらしやがって……大いなる意志? なんだそりゃ。そいつがお前らを墓から掘り出したってのかよ」 「如何にも」 「意志は力を求めている」 「東京のために。いえ……」         ――――永遠なる祖国のために。  〈凛〉《りん》たる声は頭上から。  瓦礫の塔の上に、黒い影が隆立している。  ――月光が映すその姿。  この国に住まう者ならば、見誤ることなど有り得ようか。 「……おい」  誰にともなく呆然と、呟く赤音。 「あれも墓の下から這い出してきたくちか?」 「いいえ」 「あの方はそもそも亡くなられてなどいない」 「あの方は不死」 「大義のため命を捧げられたあの方は、大義を完遂する時まで決して死ねない」 「そう、あの方は――――」  愛国の叛乱者!  内閣総理大臣!!  禁軍最高司令!!!  東京大総統ッ!!!!         ――――〈石馬戒厳〉《イシマカイゲン》ッッッ!!!!! 「シャレんなってねえよ!!」  赤音は思わず叫んだ。  だが無論、そんなことで現実が虚構に覆りはしない。 「祖国を永遠なるものとする。それがあの方の大義」 「いかにあの方の働きで日本の心が守られようと、それは一時のこと」 「やがてはまた、滅びの危機にさらされる」 「しかし……呪法によって不死を得た愛国者が集い、国をつくれば?」 「もはや心が失われることはない」 「これこそが永遠なる祖国!」 「石馬閣下はそのために、不死を授けるに値する同胞を求めておられたのです」 「武田赤音。閣下は貴様の行いを良しとしておられる」 「矛止の会、瀧川商事……あなたが死に追いやった戦士達は皆、我々の仲間になりましたからね」  ふと、気付けば。  赤音を見る黒影は五つだけでなく、  十、二十と、その数を増やしていた。 「諸君は武士だろう!」  それに大イシマが声をかける。  影たちが応、と吼えた。 「諸君は〈不死〉《ブシ》だろう!」  応――――!! 「…………ああ、そうかい」  一分ほどの黙想で。赤音は目の前の事実を受け入れた。  ありえないと叫ぼうが、この光景は消えそうにない。なら、逆らわず受け入れるべきだった――受け入れられるところは。 「好きにしろよ。別に止めやしねえ。  ……だが、伊烏は返せ。そいつは、おれのだ」  影たちが塔の上を仰ぐ。  彼らの〈首魁〉《しゅかい》。  最上の絹に似た光沢と柔らかさを帯びて揺れる癖のない黒髪、白い玉石を溶かし込んだかのように〈艶〉《つや》めく肌。〈可憐〉《かれん》という言葉こそがふさわしい、たおやかな容姿ながらその鬼気は、従える死屍集すべてのそれを足して倍しようとも到底届かぬ。  姓を石馬、名を〈雪緒〉《ゆきを》、号を戒厳。  即ち石馬戒厳は、伊烏の骸を足元に、ゆっくりと首を振った。 「できない」 「何故だ」 「これから〈臣〉《わたし》は、この者達を率いて東京を制圧する。  だがそれだけでは永遠の祖国はつくれない。  象徴が必要だ。  この東京こそが真の日本であるという、象徴がなくてはならない」 「……それは?」 「決まっていよう」  石馬は笑いもせず、ただその両眼を〈敬虔〉《けいけん》なものとした。 「我が国の象徴は、戦後憲法の定める通り」 「……帝都から引っ張ってくる気かよ」 「いや。  今上の帝は外の日本に必要な御身。  この東京には、我が君――大帝陛下に御還りを願う」  ……大帝。  日本最後の神。  その御手が先の大戦の幕を開け、そして閉ざした。  無論、とうに崩御している―――― 「御霊をお呼びする準備は既に整って久しい。  しかし、御霊にお宿り頂く体がなかった。  神をお迎えする以上、体にもふさわしい格が求められる。  強い力、強い魂を宿していたものでなくてはならない。  が――」 「ッ!」 「それも今、手に入った」 「させるかよ!」  赤音は鞘をも斬り割る勢威で抜刀した。  周囲の黒影が一斉に殺気立つ。  構わず、ただ独り冷然たる石馬に切先を突きつけ、言い放つ。 「何度も言わせんな……そいつはおれのだ!  おれが殺して、おれのものにしたんだ。  何もしてねえくせに、横から掠め取ってんじゃねえ!!」 「そこまでこの者に執着するならば、我らの同胞となれ。  君の剣は我が大義に有為のものと認める。  特別に、大帝のお側近くに仕えられるよう取りはからおう」 「お断りだ。わかんねえのか。おれが欲しいのは伊烏だ。大帝なんぞじゃねえ」 「そうか。  残念に思う」  涼やかなる声の響きのわずかな変化こそは号令であったのか。  亡者共が次々と、刀槍棒刃を抜き連れる。  月光を返して青白く揺れる無数の鋼。  しかしそれらの鋭さも、今や赤音を直視し刺し貫く炎の剣のような眼光には到底及ぶべくもない。  圧力すら伴なう視線を逃れずに迎えた時。赤音は静かに、悟るものがあった。  誰が説明したのでもない。  何が理解させたのでもない。  ただ目前の存在と、対峙する己の存在との狭間に解悟する。  〈ここ〉《・・》には、最初から、三人がいたのだ。  赤音と伊烏の二人だけだと信じていた〈次元〉《せかい》に、突如現れたのではなく最初から、この魔人はいたのだ。  如何なる縁が結んだ三角か、それはわからない。神か、剣か、それとも何かの血によるものか。知るよすがとて無い。  だがこれは始めから、三人の争剋だった。  赤音と伊烏が戦い、その勝者と石馬戒厳が相対する、そういう〈宿命〉《さだめ》だったのだと理解する。  もしそうでないのなら。  一度は尽きたかと思われた力が今、赤音の内に再びふつふつと湧きつつある理由を、果たして何処に見出すことができよう。  しかしこの戦いは、伊烏との戦いとは相似のようで相反。  戦うこと自体に意義を得ない。  勝利しなくては意義を得ない。  武田赤音は石馬戒厳を打ち倒し、膝下に踏みしめ、その心身を貪り食い尽くし、完全に滅ぼし去る以外の如何なる結末も受け入れてはならない。  何故ならもはやそれしか、赤音と伊烏の争闘をただ二人だけのものに取り戻す方法はないのだから。  決意を心奥に据え、赤音は月を戴く姿に剣を差し向け続ける。  それが無言の挑戦であったのなら、冷気を裂いて放たれた声は受諾の返答であったのだろう。 「武田赤音。  〈臣〉《わたし》は石馬戒厳である」  希代の傑人は、聞かずとも誰もが自ずと悟ろうその名を堂々と下した。 「〈臣〉《わたし》は君の死をもって、東京浄化の第一歩とする。  君は我が同胞たちを踏み越え、ここまでやって来るがいい」 「できやしねえって面だな? なら昼寝でもして待ってろよ。五分で蹴り起こしてやる」 「あら、大きく出ましたこと。  ではまずわたくし達、愛国不死団四天王の相手をして頂こうかしら?」  死霊騎士。糸目の男。八坂。桂葉恭子。  先陣とばかりに、四人は前へ進み出てくる。  その後ろに瀧川衛士が、矛止の会士が、重厚な隊列を組む。  彼らの頭上に〈聳〉《そび》え立ち、巨大な忠臣は両腕を真っ直ぐ天空へと突き上げた。 「帝国万歳!!」  おお――――  亡者たちが歓喜にどよめく。 「大帝陛下万歳!!」  おお――――!! (死せる者が雄叫びを上げ、太陽は海の果てに沈み再び現れず。  〈黄昏の世界〉《トワイライトゾーン》へようこそ――ってか)  独り、毒づく。  世界はどこから狂っていたのか。  世界はどこまで狂っているのか。  狂ってしまったこの世界に果てはあるのか。  豪語しながらも、赤音は長い戦いを予感していた。  この場の一戦など、きっとほんの前奏に過ぎないのだろう。  だが、この戦いに自分が敗れるとは、決して思わなかった。 「叩き潰してやる」  ――――何者であろうと。 「全部、全部全部全部、叩き潰してやる」  ――――それがあいつを取り戻すのに必要ならば。  立ちはだかるは、心から体まで狂いきった化物共。  立ち向かうは、愛憎争剋の果てに魔剣をつかんだ剣鬼。 「行くぞ、亡者共……灰は灰に、塵は塵にってなァ!!!」  東京最後の戦いの火蓋は今、切って落とされた。