“結果”とは、常に最重視されて然るべきだ。 勿論プロセスは結果を生むために重要だが、正しい行動を取っても、正しい結果が出るとは限らない。 少なくとも彼らは――数多の屍を越え、血と泥と汗に塗れながら 此処までやってきた彼らは、嫌というほど思い知らされていただろ う。 結果だけが全てだということを。 「……何故だ」 「……何故、こんなことになってしまった」 宵闇に彩られた青年は、オオアマナの花に囲まれた空の下で全てに絶望していた。 「目を開けてくれ……もう一度、私に笑いかけてくれないか」 腕に抱かれた少女に向けて嘆願する。 その祈りが届かないと知っていても―― 「一個だけわかるよ」 「あなたにとって、その人は掛け替えの無い存在だった」 茫然自失で立ちすくむ青年の前には、彼よりも若さの残る幼い顔をした少年が膝をついていた。 「こりゃ立ち上がれないなって一発でわかるぐらいの痛みはさ――身体じゃなくて、心の深い部分にグサッて来て初めてわかるものだから」 「あなたの感じた“痛み”はあなたのもので、俺が導き出した“選択”も俺だけのもの」 「結果なんて不服であたりまえ。いつだって終わってみれば、容赦無い結末だ。だから――――」 少年の膝が起き上がり、再び両足が地を踏む。揺るぎない決意を持って。 「後で涙を流すくらい、俺にも許されるかな」 「キミの信念が、覚悟が、決断が、理解できないと言えば嘘になる」 「うん」 「しかし私はこの世界を受け入れることができない。心が受け入れることを拒んでいるのだ」 「うん」 「だから私は、どんな理由があってもキミを許すことができない」 「そっか……」 絶望の淵に立った者を言葉で理性の範疇に留めることが不可能であることを少年は知っていた。 自分にできることは持て余すほどの激情をその身で受け止めることだけ。 「これは俺の尊敬する人の受け売りなんだけどさ……」 「世界中に現存する種族の中で感情で殺すのは人間だけなんだ。他のイキモノは全て、種の繁栄の為の“本能”に縛られてる」 「だからこそ人間は――――理由に値しない理由で、軽はずみに殺しちゃいけないんだ」 青年の目に炎が宿る。 彼自身は、己を突き動かす感情の正体に気づいていない。 人いう種だけが持ちえる、自衛の目的で他者を攻撃する衝動。 「あなたの理由が理由に値するかしないか、確かめてやるよ」 少年はそう呟くと自嘲気味に笑った。 この状況下においてどこか冷めた目をしている自分よりも、目の前にいる魔神のような男の方がよっぽど人間らしいではないか。 その事実が少年にとっておかしくもあり、また自分も十分壊れてしまっているのだなと自覚させる材料になるのだった。 「ぁぁぁぁぁああぁぁぁ――」 青年は考えることを一切放棄し、原始的な破壊衝動に身を委ねた。 死ねない理由を持つ者と生きる理由を失った者――両者の感情が身体を借りて衝突する。 「私達が……何をしたというのだ」 迎え撃った少年の刃は届かなかった。 青年は冷静さを欠いてもなお命のやり取り、相手を殺すために必要な手順だけは忘れていなかった。 「何もしていないよ。ただ……善人が必ずしも報われるわけじゃない。理不尽だけど、どうにもならないことなんだ」 両者は動かない。いや、動けないのだ。 少年が得物に込める力を緩めれば青年に押し込まれてしまうだろう。青年にとってもそれは同じだった―― 「私は拒絶する。それが世界の真理だというのなら、全てを灰燼に帰す」 青年の炎が腕だけではなく全身へと燃え移る。 いや、燃え広がったわけではない――青年自体が炎と化しているのだ。 「やりきれない悲しみが紛れるなら俺はそれを幾らでも受け止めてみせる」 「だけど……本当にそれで気が済むはずがないことはわかっているだろ?」 「同じ傷の味を俺は知っているよ。でもそれだけじゃなにも変わらない」 「憎しみを向けている相手に同情される程、私の心は乱れているようだ」 「しかし、誤ちとわかってからでは後悔以外にはなにも出来ない」 「キミには《・・・》〈それも〉わかっているのだろう?」 「……それでも……それでも……やれることは見つければいいっ!」 「その先にあるのが深い闇だとしても……いつかは明るい光がさすってもんだろぉ!」 「私が人間であれば、もう少し違う気持ちになったのかも知れない」 「この煮えたぎった紅蓮の炎はもう私ですら止められない衝動だ」 炎はやがて少年を飲み込み四肢を這い回った。 「ぐぅっ……!!」 「私と共に行こう。この世界は穢れているのだから」 炎はオオアマナの花と少女の亡骸をもその渦の中に巻き込んでいく。 消え行く命の火は空を焦がし、《オーロラ》〈極光〉の瞬きさえも赤く染まっていった。 “×××”が“ソレ”から手を放したのには、それなりの理由がある。 一つは、遥かに予想を超えた“情報”の受け入れに耐えかねた脳が悲鳴をあげた事であり。 もう一つは、この事実を受けて自分はどうするべきなのか――正確には、《・・・・・・・》〈どうしたいの〉かという決断に直面したからだった。 ――――このままでは、今“視”たものが現実となる。 “×××”は何不自由ないエデンの園にいるといって過言ではなかった。 日々は充実し、危険とは無縁の世界で生き、穏やかに四季の移ろいを愉しんでいる。 ――――自分以外に誰が防げるというのだ。 出逢ってしまった物が禁断の果実と知りながら“×××”は行動に移らざるを得なかった。 “×××”だけが持つ特別な“力”が、それを物語る。 世界中でこの事に気づいているのは自分だけなのだと、それがわかってしまった。 ――――とんでもない貧乏くじを引いたものだ。 この時点で“×××”は捨てられない地獄の直行切符を手にし、覚悟を決めた。 どの道、憐れな骸になるのならば、不幸になるイキモノは少ない方がいい 眠っている“ソレ”を、淀み、強張った顔つきで見下ろす。 “×××”は“ソレ”に対して明確な恐怖を感じていた。 将来有望という点では、最初の印象と別の意味で変わりはないが、“×××”は如何せん“視”えすぎてしまう。 ――――《とわ》〈永久〉の休日とは、皮肉めいている。 “×××”は創世記の冒頭を思い出し、独りごちた。 神は6日間であらゆるものを創造し、7日目に休んだ。 明日から始まる一週間に関わり、数奇な運命に翻弄される人々は、無事に7日目を終えられるのだろうか。 笑って肩を取り合えるのだろうか。 ――――全ては、脇役である自分に掛かっている。 “×××”は概ねの結末が“視”えている。その上で、自分が舞台の主役を飾れないこともわかっている。 だが“×××”は誰にも知られず、歴史の影に消えていっても一向に構わないと思っていた。 それが自分の役目であり、きっと自分の力はそのために与えられたのだ。 “×××”は密かな企みを秘め、かざした手指の隙間から《オーロラ》〈極光〉を睨み続けた。 「あ、兄様」 「ああ……久しぶり……あれから元気にしてたか?」 「なにその、なんとなく疎遠になった幼なじみみたいなリアクション。同じ屋根の下で暮らしてるんだから、そうじゃないでしょ」 「かわえーイキモノとの遭遇。服似合っててかわえー。雨模様かわえー。いつにも増してかわえー」 「もう。私を褒めるのより挨拶が先でしょ?」 「おはようございます妹様」 「おはようございます兄様」 「結衣っちは俺だけの天使」 「はいはい」 「ちょっと、どこ行くの? あと5分だけ褒めちぎらせてよ。妹を溺愛するのは兄の宿命なんだからさ」 「……休日なんだから、もうすこしゆっくりしててもいいのに。お布団入ってからまだ2時間しか経ってないよ?」 「心配いらないって。体調は最高、コレ以上ないってくらいにっ」 「夏バテとは完全に無縁だね」 「身体の鍛え方が違いますから」 「それに寝腐るの、もったいないじゃん。眠ってる間も世界は動いてて、おもしろい事は雲の数ほどあるんだぞ?」 「兄様、普通は《・・・・・》〈星の数ほど〉、じゃない?」 「――――ていうツッコミも、起きてなきゃ受けられてない。息を吸って吐くだけのCO2自動作成機にはなっちゃダメ」 「限りある人生を大切にするのは、命ある者の義務じゃん」 「人生は短かったり、長かったりする不公平なものだからね」 「デートに連れてって欲しいならそう言ってよー。俺は結衣ならいつだって歓迎なんだから」 「シスコン乙」 「むがっ」 あごが外れるサイズの何か。 ベタつかず、さらっとしたカリカリの舌触り。 サクッ!と軽快に歯が通り、先に待つもふもふの新食感。 これは―――― 「むぐむぐ……むぐ。未来の嫁の愛妻弁当ならぬ愛妻揚げパンか!!」 「愛妻じゃなくってRe:non様の慈悲でしょ。たくさん余ってるから、頑張ってノルマこなしてね」 「むぐっ」 また押し込まれる。平均的ドーナツサイズ。そんなものを詰め込まれたら、口の中は不思議な事にちょっとしたグロ画像。 「ふぉれろくひはふぉみふぁをひゃらいんらろっ!(俺の口はゴミ箱じゃないんだぞ)」 「ん? 何? 『ババァは黙って仕事してればいいんだよ』? そっくりそのまま社長さんに伝えればいいの?」 「むきゅんむきゅん!!」 「兄様、汚い。冗談だってば」 「ふぅ……さて、全身に太陽を浴びてきますかね」 「社長さん下で眠ってるから、事務所通る時、起こさないように静かに出てってね。もし仕事以外で起こしたら……」 「起こしたら……?」 「気絶させた後、鼻にフックしてから樽に押し込んで“優真危機一髪”するって」 空想の樽目掛け、ナイフをざくざく刺していく結衣。 「そんなことするなら、こっちにも考えがあるんだぜ(ガクガク)」 「よしよし。私の前だからって強がる必要ないのよ、兄様。穴だらけは怖いよね、よしよし」 天使の笑顔で慰めてくれる妹様。 「それじゃ気をつけて行ってきてね兄様。はい、お弁当にもう一個」 「よしっ! これで空腹で倒れることはなくなった」 「くれぐれも静かにね」 「ぐーぐー……ぐーぐー……」 「…………うーむ……」 「気品がある!!」 「良い額だ。心が洗われる。キリッとした鋭角美。歴史のうつろいを感じさせるフォルム。きっと素敵で無敵なハッピー・デイズが始まる。そんな気がする」 「“全ては社長の為に”実に清々しい。ああ働きたい、今すぐ社長に貢献したいマジで」 「んむぐ……めろ~ん……?」 おっと。しかし休日の謳歌も仕事へのアクセント。寝るのも仕事とはよく言ったものだ。 ラララ月曜日♪ 今日は日曜日♪ 「そーっと……行ってきます……」 「んむぅ……ひとりごとは……もうすこし静かに……だーぞー……ゆーまー……」 「んぐぅ……めろ~~ん……」 清々しさがある。良い天気だ。躰が軽い。翼が生えたらこんな感じだろうか。 目隠ししたって歩けるくらい住み慣れた道は、小さな変化だって目に付く。 横断歩道の白線にタイヤ跡がついてたり。 誰かが零したアイスクリームに蟻が群がったり。 エーエスの運送業者が時間より遅れていたり。 そういうの――――全部ひっくるめて、時間が進行形だって教えてくれる。 からっとした夏の陽気。 じわじわと焼けるような天然の日焼けサロン。 俺はあんまり焼けない体質だから気にしないけど。 「さすがに3つ目はちょっと飽きるな。喉乾くし」 蜂蜜揚げパンを袋の上からぱくり。ごくり。 あえて道端でバタフライ効果を狙っていこうという意思表示。 昨日映画で見た。どうでもいいような小さな行動が、どうでもよくない大きな流れを生み出す効果だ。 例えばパンを咥えて走ると漫画なんかじゃイベント発生のサインになる―――― 「きゃぅーる!」 ――――ごっちんっ!! ってな感じに。 期待通り、ものの見事に運命の出会いをゲット! なーんて。動物とかってオチ? にしてはオシャレな鳴き声だった。 低飛行中のカラスは“きゃぅーる”なんて絶対言わない。 「うく、うくく……“いじめ”“虐待”“幻覚”“幻聴”。術式はよりどりみどり、私はゆとり……」 いやいやいや、人だ。女の子だ。パンなんか咥えてる場合じゃない。 「わるいっ、よそ見してましたっ! 大丈夫ですか?」 「か、カドを曲がってぶつかるのは伝統芸……や、や・る・わ・ね」 「ぶつかったの頭、だよね。見せて。痛む?」 「ううん、平気……むしろ、《・・・・・・》〈キミの方こそ〉私とぶつかって平気……?」 「え? 俺の心配はいいよ、全然平気だし」 「その身体はきっとオリハルコンで出来ていた」 やっぱり頭打ってよくない状態なのかな。 「やっぱり私、弱ってるのね。よそ見してたのは私もだから、お互い様だわ……」 「具合悪そうだ。ベンチで休みなよ、熱中症かもしれない」 「施しは結構。私は荒ぶる《ツクモ》〈九拾九〉の思想を持つ秘密集団の《エースストライカー》〈“禍”」 「99円ショップのGメンをやってるって意味かな?」 「関わらないで。今のセリフに意味は無いわ……まったくこれっぽっちも」 「意味のない事を言って会話のキャッチボールを不成立に追い込むのって、意味がなくない?」 「クッフッフ……! それが《・・》〈狙い〉、だとしたら……!?」 だとしたら……やっぱり意味ないからやめて欲しいかもしれない。 唯一、意味があるとしたら、意味のないことを自覚して言っている本人が“それだけで楽しそう”という部分。これは地味に大きいと思った。 「うっ……」 「やっぱり休んだほうがいいよ、支離滅裂だし」 「きゅぅ~~~ん」 ぽてん。倒れこんだ。目の前で行き倒れが発生。 「ダメダメ、そんなとこで寝ちゃ! 道端でキミみたいな美少女が落ちてたら犯罪が起きるって」 「お持ち帰りされちゃう……こ・わ・い」 「そんなにふらふらじゃ危なっかしくて放っておけないよ。立ち上がれる?」 「……無理かもぉ」 「…………」 「…………」 美少女の丸い頬がほおずきみたいに染まる。目を逸らして、ちょっと震えて、そんでもって言葉を選ぶように口をパクつかせる。 「な、鳴ったのはお腹の音じゃないわ。月の都で悪さした時に有罪判決で科せられた業――精神を狂わせる鐘楼よ」 「な……なんだって……?」 難しいことを言われた気がする。 「クフフ~。私の黒歴史に動揺を隠せないようね……」 「はぅんっ!」 「……さ、3度鳴れば被害は私だけに留まらず、あなたにも伝染するわっ」 「鐘の音っていうより、ジェットヘリが着陸するような音に聴こえたかも」 「私のお腹の音はそんな爆音じゃないもん! 小規模だもん!」 「…………小規模……」 「お腹の音じゃないもんっ!!」 今、認めたんだけどなぁ。んー……参ったな。 「はい、コレ」 咥えていたはちみつ揚げパンを渡す。 パッケージの上からだから、汚くない。と信じている。 「うっ……うぅ……Re:non印のパンなんかにこの私が迷う、だと……? じゅるり」 パンを見て。俺を見て。少し悩む素振り。よだれは滝のように垂れっぱなし。 「変なもんとか、入ってないよ。先に一口、食べてみせようか?」 「う~~~……う~~~~……」 お菓子と玩具の選択を迫られたこどもみたいな、気取らない迷い方。 「ぱーーーっ、くんッッッ!!!」 一瞬、豪快に口が開いたと思ったら一飲み。 その様をあえて目の前の美少女風に合わせる、“《テーブルマナー》〈クジラ系食事作法〉”みたいな? 「クフフ~、愉快愉快。その身を贄と捧げ、我が血肉となるがいい」 にたにたして指をぺろり。 キャラ作りなのか素なのかわからないけど。 一連の動作は俺の心を激しく揺さぶった。 「すげぇ! なんにしろすげぇ! 今の技、俺も習得したい」 「クフフ……哀れな……虚界の秘技 “《シロナガスオードブル》〈白鯨の嗜み〉”は一子相伝。 王族の証と知れ」 「やっぱ技名あるんだ! じゃあさじゃあさ、とりあえず何か食べいこっか」 「ご飯? 行く行くっ!」 「……あれ?」 「はい?」 「私、もしかしてご飯誘われてるのかしら……どうしよう、初対面でついてっちゃったらちょろい印象が……」 「ん? 友達とメシ食うだけなのに、何を遠慮してるの?」 「友達……?」 「そそ」 「誰と誰が?」 「俺たち。もう友達じゃないの?」 「運命的に出会った。取り留めのない話をした。プレゼントをした」 指折り数えて、3つも接点がある。 「それに……なんかこの子とはうまくやれそーだなって思っちゃったらもう――――俺はその時点で友達だと思っちゃうんだけど……」 「そういう手と手のとり方、輪の広げ方って――違う?」 「……わかんない。違く、ないと思うわ。間違ってないと思う」 「けど、その考え方は独り善がりって捉えられやすくて……全員が全員“そう”じゃないから」 「人と人が触れ合う事は、ほんの些細なきっかけでいいなんて簡単なこと、認められない人もいるから」 「でも……うん。私は好きかな。人が好きだから」 「奇遇だね、俺も人が大好きで仕方ないんだ」 「そっか。私の方が好きだけどね」 いい顔だ。太陽を想わせる活き活きとした顔。 プラスの表情は伝染する。周りを巻き込んで、楽しくさせる。 俺も大体、同じだから、この子と同じような顔をしてるんだろうな。 「私、菜々実なる。“なるようになる”の『なる』」 「なるちゃんかー。お腹が鳴るで『なる』ちゃん。覚えやすいね」 「“なんとかなる”だよ! しつこいと女の子に嫌われるんだから」 あれ、“なるようになる”じゃなかったっけ。 どっちでもいいんだろうな、きっと。 「ごめんごめん。俺は優真。水瀬優真だ。よろしく」 「カッコイイッ! 《ユーマ》〈UMA〉なんてなかなかいないよっ!」 「惜しい! 読みはあってるけど、絶望的につづりが違う!」 そういえば《バラシィ》〈零二〉の奴も初対面の時は同じこと言ってたっけ。 「優真。“優しく”て“真っ直ぐ”なんて名前負けしそうだけど、覚えやすいだろ?」 「キミって不思議だね。さっきはイイコト言ったように思ったけど、基本ゆるい」 「ゆるさ的にはそれくらいが、良い感じだろ。腹減ってる人を放っておくと社長にいじめられるし」 「社長? キミ、お勤めしてるの?」 「このご時世なら普通普通。まぁ今のはコッチの話、気にしないで――――さ、行きましょう!」 店まで案内する為に、美少女の手に触れるか触れないかのギリギリのところで―――― 「ひゃっ! 私に触れるなぁっ! 死人が出るぞーっ!」 「どわっ、危ないなっ。その人差し指で《メツブシ》〈部位狙い〉する元気あったのかよっ!」 「第二の、第二のアレが……出りゅぅっ! りゃめぇぇ邪鬼眼でひゃうぅぅっ、でひゃいまひゅぅ!」 「例によってご多分にもれず第三の腕が疼きだすぅぅぅッッッ!!」 やいのやいの。 やかましかしまし。 ぴーぴーうるさい路上の真ん中。 美少女との出逢いも、時の巡り合わせの成せる業。 人として生を受けたなら、日曜日は満喫しなきゃ嘘でしょ。 「ぱっくぅ……ぅむぅむぅむ。ぅむぅむぅむ」 「ばっくぅッ♪ 5皿目完食♪」 「ね、すっごいでしょマスター? なるちゃんの胃袋は底なし」 「この大皿を一飲みするなんて……これはもう大食いという域を越えた芸術だと思います」 「うっまいよ~♪♪ コケコッコライスってもっとベチャベチャした印象があったよ~♪」 「オムライスね」 「おかわりを用意するまでは、トーストを召し上がっていてください」 「わーい♪ じゃんじゃん持ってきて」 「あ、それと優真くん。当店では食べ放題は行なっておりませんので、お代金はしっかり頂くことになりますけど……?」 「金の話はいいよ。うまいもんを、たらふく食べさせてあげて」 オムライスの10杯や20杯で働く男はうろたえない。 「まーいうーーー♪ ホントに美味しいから、美味しい以外の言葉が出ないわ♪」 なるの満足そうな笑顔はプライスレス。 「しかし倒れるまで何も口にしないのは感心できませんね」 「そうなんだよなぁ。今のままでこんなに可愛いんだから、過度にダイエットしなくていいのに」 「……(ぴく)。美少女?」 「こーんな美少女とラウンジデートなんて今日はツイてるなぁ。じゃんじゃん食べてねー」 「優真くんは私をお気に入りに登録余裕ですか?」 なるは楚々としてハンカチで口元を拭う。流し目だ。背筋がやたらと伸びてイイトコの娘さんに見える。 「あまり真に受けなくていいんですよ。彼は女性なら誰に対してもこうですから」 「えー、なーんだ……なんか損した気分だわ。でも、別け隔てなく接するところは紳士かな?」 「なるちゃん、もしかして財政難?」 「短絡的すぎよ。お金持ちってわけじゃないけど、幕の内弁当が買えるくらいの手持ちはあるわ」 「ではどうしてこんなことに?」 「え? 何も食べないままでいたらどうなるんだろうって思って」 「………………」 「………………」 「“なるようになる”で、菜々実なる――――本領発揮すぎるよっ!」 「なんでさっ! 極限の飢餓感を身を持って体験しなきゃ、文章として起こせないじゃない」 「文字に起こす? 起こさなくていいじゃん。“腹減った、死ぬー”で伝わるじゃん」 「う・る・さ・い。私はダメなの。文章にできないと困るの。嫌なの」 「資金が底を尽きかけてるのも事実だけど……私はなる。“なんとかなる”!」 「なにやら訳ありのようですね」 「あれだ。家出娘だ」 「旅する乙女に家と情けは無用よ。所詮、この世は“《ロールプレイ》〈擬似世界〉”。邪鬼眼一つで切り抜けられるわ」 「マスターの下で働けば? この人、見たまんまの人畜無害だからヘンな事されたりしないよ」 「菜々実さんにそのつもりがあるのでしたら、手取り足取り、教えますよ」 「……自分のウエイトレス姿にちょっと揺れたけど、やりたいことが山積みだから、ごめんなさい」 「本当に困った時は訪ねてくださいね。軽食でよければ出しますから」 「タダで!?」 「時給換算で飲食代を相殺するまで働いてくださいね」 「世の中ってホントに切ないわ」 「従業員と言えば……」 店内を見渡すが店員はマスターだけ。ウエイトレスさんの姿、無し。 暇があれば隅っこで立方体パズルをいじっていた名物ウエイトレスさんは何処へ……? 「ああ、気づきましたか。連絡が取れなくなってしまいまして……待遇が悪かったのでしょうかね」 マスターの苦笑いから察する。連続無断欠勤継続中。あまり触れないほうがよさそうだ。 「人出が足りなくなったらなるちゃんでも俺でもいいんで、いつでも呼んでくださいね」 「私は無理だってば」 「元々、一人で初めた店。お客様の手を借りる必要はありませんよ。お気持ちだけ受け取っておきますね」 「おっと」 ひょい。ポップな効果音がしてきそうな気軽さで、マスターの指先がなるの肩に触れる。 「ひゃっ!」 「ダメだーーーマスターーーー!」 「――――私に触れりゅなぁぁぁぁっ! 邪鬼眼でひゃぅぅっ!! エンドレス破天荒でひゃいまひゅぅーーー!!」 「GAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!」 「身体に触られるのは、精神に“障られる”のと同一って“設定”らしいんだ! “黒”は“闇”か“《くろ》〈黎〉”で、“時”は“《とき》〈刻”に変換しないと気が〉済まないんだって!」 「はい?」 「何を言ってるかわからないと思うけど、俺もまったくわからん! そういう説明を受けた!」 「すいません、肩に埃がついていたものでっ。どうすれば気を鎮めて頂けるのでしょう」 「贄だ……贄を寄越すのだ。産地……否、 《さんちちょくそう》〈SAN値直葬〉の山羊の頭蓋を馳走しろ」 「オーダーオーダー! オムライス追加追加ー」 「ご注文承りました」 「ムッフー……がなるな! しばし待て私の 《ネオウツボ》〈十二指腸〉よ」 鼻息あらくフォークとスプーンをお子様握り。 なるに掛かれば“ごちそうさま”なんて言葉は長期海外出張中だ。 さて。本来の用事を済ませておかなくては。 手際よくチキンライスを作るマスターを覗きこむ。 「マスター、頼んでおいた奴はできてます?」 「ええ、試行錯誤を重ねましたよ。既に焙煎済みで、3日寝かせてありますからすぐ飲めますよ。完成品はそこです」 「あ、これですか」 珈琲豆のぎっちり詰められた硝子瓶が棚に置かれていた。 さながら《ブラックダイヤ》〈黒艶〉の如き輝きを放っている。 「ありがとうマスター。ブレンドの配分はこないだ言ってた通り?」 「いえ、3:3:3にして、新たにオールドビーンズを10%ブレンドしてあります」 「角の取れた丸みが加わるんだっけ。貴重なものなのに悪いじゃん」 「いいんですよ。珈琲を語れるのは優真くんくらいなものですから、嬉しいんですよ」 「何こそこそやってるのー? 難しい話? 難しい話は大得意っ!」 なるの話は難解というジャンルとは1,2本ズレた“正体不明”“意味不明”に含まれるんだよとツッコミを入れたい。 「前回はブルマンを主体に口当たりの良さを押し出しましたが失敗でしたからね」 「ペーパードリップだから余計にかな。粉の量に気を遣って《ネル》〈布〉で淹れてみるよ」 「専門的な事はわかんないから話に入るのやーめた。食べることに集中しよっと」 「わからなくていいんですよ、感じるものなんです」 マスターは盛りつけたチキンライスにとろ~り半熟玉子を掛ける。 「わ~~♪ 素敵~~♪」 ふわとろアツアツのオムライスと一緒に、2カップ分抽出した珈琲も振る舞ってくれる。 香り立つアロマを感じたいなら夏だろうがホットで頂く。 呼吸が楽しくなる瞬間。 的確な焙煎が施された珈琲豆でしかあじわえない、至福の一時。 職業柄、鼻はほとんど使いものにならないけど、香りの良し悪しくらいはわかる。 「元々、言葉で飾る気はないです。結局、飲まなきゃわからないですから。さぁ、菜々実さんも一緒にどうぞ」 「いっぱい食べて珈琲も飲めるなんて、幸せすぎて、こ・わ・い♪」 ちゅ……ずずず。すする。なると二人で《テイスティング》〈試飲〉。 「いかがですか?」 「――――と」 「トレンディッッ!!!」 「……う、うん…………トレンディ……?(これ……おいしいかな?)」 「コレだよコレ! コレい~ぞ~! こういうのでいいんだよこういうので!」 「良かったです」 「~~♪ 標高1500Mに及ぶ肥沃な土壌が容易に想像できるこの深み♪」 「良質な豆のみでブレンドするのはもちろん、“《ハンドピック》〈欠点豆処理〉”による影の努力が俺には感じ取れる!」 「ここまでの味を出すには、焙煎までの過程を汲んだ的確なドリップが必要になってくるわけだけど――――」 「語るよりも、冷める前に召し上がってくださいね」 目と目で通じ合う。そう。言葉は要らない。つい語りたくなるのがマニアの性だけど。 「間違いないよ。成功の予感しかしない。47作目の“妹ブレンド”は文句の付け所がない」 「きっと妹さんにも喜んでいただけるでしょう。では、何かあったら呼んでください」 「ふぅ……食べた食べたぁ。ずずず」 「――――え!? 妹!? 《ごうま》〈降魔〉くん妹いたんだ!」 「《ごうま》〈降魔〉じゃなくて優真。好き勝手な名前を付けないでください」 「はいはいチュパカブラくん。妹さん可愛い? 写メ見せて」 “優真→UMA”繋がりで攻めて来たのだろう。 言えば言うほど調子に乗って収拾つかなくなるタイプと見た。 「結衣は写真嫌いなんだよ。昔の人じゃないけど、魂抜かれるとか言い出すタイプ。あと、ムチャクチャ可愛い。地上に舞い降りた、俺だけの天使」 「へー、結衣ちゃんか。そんなに絶賛するほどキャラ立ってるなら興味あるわね。色々聞いていい?」 「いや……今度ね」 「なんでさ!」 「ちょっと新聞読んでゆっくりしたいから。しゃべり疲れちゃったんだよ」 「む。私、スルーされた」 コーヒーブレイク。ゆったりのんびり、味わいながら新聞紙に手を掛ける。 様々な物がデジタル化され普及されていく現代だが、新聞はなくならない。 うすっぺらな紙。黒ずむ指先。 目を閉じていてもわかる質感。 なくなってはいけないものは、確実にある。 ――といっても興味があるのは一つだけど。 「芸能欄、芸能欄――――Re:non様の記事あった」 紫護リノン。通称Re:non。 俺と同い年にして国民的グラドルとして完全定着している“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の広告塔。 恐怖すら覚えるほどの美貌は映像加工が噂されるが、イベント等で実物を見た者は『実物の方が数倍綺麗だった』と茫然自失で語る。 素人は容姿だけに囚われがちだが、Re:non様の本当の良さは挑発的な視線だと思う。 攻撃的で刺激的。 『見られたくらいじゃなんともない』と言うような強気の姿勢。 思い出したかのように見せる無邪気な営業スマイル。 一体、Re:non様の素顔とはどこにあるのか――――結衣はいつもそれを考えている。 「えい」 ぷす。Re:non様の額を貫通する無慈悲な一撃。 「むきゅっ!?」 なるの濡れた指が新聞紙を突き破っていた。 「Re:non様のご尊顔が大変な事になっちまいましたよ。どうしてくださりやがるんですますかぁ!?」 「ツーン」 「俺がかまってやらないから嫉妬に狂ってやったってヤツですか」 「コイツ、嫌い」 「自分より脚が長いからひがんでらっしゃいやがりますよ」 「厚底靴で低身長ごまかしてるかもねー」 「撤回は要求しない。アンチの侮蔑には揺らがない」 「いや、そういうんじゃないけど――――そういうんでいいや」 なるの回答は何とも歯切れが悪い。 一、Re:non様のファンを妹に持つ者として引き下がれない。 「マスターマスター、なるの下着の色知りたい?」 「ひゃう!?」 「呼びましたか?」 「呼んでない呼んでない! 呼んでないですからッ!!」 「そ、そうですか」 なるによってマスターがカウンターまで押し戻されていく。 焦り顔ながらに取り繕っていたなるだが、ピンと来るものがあったようだ。 「あ、あ、あああの時なのね、あの時なんでしょう。キミってば一言もいわないで、ずっと見てたんでしょ!?」 「見てたさ。ドモホ○ンリンクルの雫が落ちるのを丸一日眺めてる仕事みたいに見てたさ!」 「そんなくだらない仕事は存在しないわっ!」 「美少女が御開帳してたらそれを拝まないのは侮辱だろ! 男の子の気持ちも少しは考えてくれよっ!」 「忘れてくれないなら、おっかないことするわ」 「おっかないことってなに? いいよー、美少女にされることは全部受け入れます!」 「受け入れてみなさいよぉおおおおおおお!!」 「ちょ、新聞返してよ!」 ビリビリビリビリッ! って? え? え? え!? 「ぎにゃあああああああああああああああああああっ!!」 「妙技、《やおよろず》〈八百万〉分割……ッ!!」 Re:non様が無残に切り裂かれ、床に散らばった。 「決まったZE☆」 「こ、殺した! 人殺し!!! 印刷されているとはいえアイドル殺しは重罪だぞ!!」 「マスター、この足短いアイドルが出てる雑誌全部持ってきてくださーい!」 「首チョンパにするんで♪」 「あの瞳に迷いはない! 獰猛な肉食獣の目だ!」 「あれぇ? ごめんな、さ・い・わ?」 「ごめんなさいっ!!」 「はぁ……もう。貸しだからね。貸しの取り立ての為に――――」 なるは四角いケースからトランプのようなカード束を取り出すと、カードシャッフルを始めた。 シャッフルは5通りほど行われた。俺の知っている一般的なものから、高度なものまで、見ていて飽きない。 ふと気づく。なるは全てのシャッフルを一切手元を見ずに行なっていた。 「一枚引いて」 「――――あ、うん」 手品師顔負けのシャッフルに見惚れていた俺は反応に遅れた。 言われるがままデッキの真ん中あたりから一枚引きぬく。 「ひっくり蛙。ゲコゲコ」 「よっしゃ、カードオープン!」 何故かノリノリでひっくり返し、テーブルに叩きつける。 「逆向きでわかんない……えっと、ほいーるおぶふぉーちゅん。面舵の絵だ。あ、これタロットか」 「……ふーん」 “Wheel of Fortune”――――運命の輪。 蔦の絡まった面舵の周りを空想上の生物が飛んでいる。 「それ、あげる。タロット風のお手製名刺なの」 「これ自分で」 「ナンバーの下にちっちゃくメアド書いてあるけど、連絡しないでいいよ」 「なんでっ! せっかく仲良くなれたのに、これでお別れなんて寂しいじゃん」 「平気だよ、同じ街にいるんだし。それに運命の輪を引いた人とまた逢うのは、必然だよ」 「虹色の占い師の言葉に間違いなど、あんまりない!」 運命――――かぁ。いいよな、そういうの。 「だったら、次に逢ったら俺達の関係を友達から盟友に格上げしなきゃな」 「盟友。いい響きね。さらば、また逢う日までっ! “《アラウンドザワールド》〈ATW〉”」 弾むような足取りからは、なるにたくさんの目的があり、それに向かっていく力強さを感じた。 「なるは女の子だなぁ」 「あんないい子を泣かせたら出入り禁止ですよ」 歩み寄って来たマスターが“運命の輪”を手に取る。 「ご自分で作られたんですか、菜々実さんは器用ですね――――ところで、この名刺は頂いた時からこの向きでしたか?」 「上下が逆だったよ。見難いからこうしただけ」 「“運命の輪”……なるさんの占いは、《リバース》〈逆位置〉を深く捉えないスタイルなのでしょうか」 「マスター、タロット詳しいの? 俺が無知なだけ?」 「いえ、あくまで名刺に遊びを持たせただけでしょうからね」 勝手に納得したらしきマスターは、すぐに平常運転に戻った。 でもホント。また逢えるといい。心からそう思う。 「とりあえずマスター。“《いつもの》〈ブレンドピュア濃い目〉”もう一杯」 「かしこまりました。優真くんはこの後、予定はあるんですか?」 「んー。無い。無いから作るよ。例えば、秘密基地の開拓とか」 「女の子を連れ込む秘密の場所ですか?」 冗談めかすマスターに微笑みを返す。 まぁ、だいたい合ってる? かな。 そこまで親しい子は俺にはいないから、いつも一人だけど。 いつ誰を呼んでもいいように掃除しなきゃいけないな。 探し物は諦めた時にこそ見つかるものだ。 人間の誰かが言った言葉らしいのだが、あれはよく言ったものである。 現に私はそれを主として行動していなかったにも関わらず、依頼された物を発見するに至った。 「見つけたぞ恵子」 「帰ろう、私はキミを見つけたら連れて帰るよう親方から言付かっている」 恵子は私の言葉に反応しない。それは致し方のないことだ。 私と恵子の関係は、親方と違って特別なものではない。 馴染みの店で偶然顔を合わせることになったに過ぎず、店主である親方と比べるには無理がある。 かと言って日頃世話になっている親方の頼みを無視することもできない。 受けた恩は返さなければならない。人間というのはそういうものらしい。 「キミにもキミの都合があるのだろう。私も申し訳ないと思っている。本当だ」 恵子は私の言葉に耳を貸さない。 「親方に不満があるのであれば、直接話し合ってくれないか。私もキミの肩を持つことにやぶさかではない」 恵子は相変わらず私の言葉に耳を貸さない。よほどその行為は私よりも重要なようだ。 「口には出さないが親方も心配している、らしい」 「私にはそう見えなかったのだが、ノエルがそう言っていたから」 「彼女の言うことはいつも正しい。いや、ほぼ正しいと言うのが正解か」 私とノエルの関係は、親方と恵子に似ている。 「キミも親方と一緒にいた方がいい。きっとそれが正しいことだ。だから――」 「とりあえず、その《・・・・・・・》〈人間だったもの〉を喰おうとするのは、やめにしてくれないだろうか」 恵子の鋭利なクチバシが何度つついても、その炭化した肉は崩れない。 「キミのクチバシが折れれば問題になる。無理はやめてほしい」 返事をするように鳴く恵子。 本当にわかっているのだろうか。 「食事なら親方がいつも用意しているだろう? それでは満足できないのだろうか?」 「死んでしまった人間が好物だというなら、趣味が悪い」 親方の手から飛び立った理由はそれかとも思ったが、すぐさま否定する。 恵子に用意されている食事は屋台の残り物とはいえ、十分な量があった。 恵子は私の思惑を知ってか知らずか、食事を止めて私の肩に飛び乗った。 「ようやく帰る気になってくれたようで助かるよ。親方もきっと喜ぶ」 私がこれまで得た知識の中では、鳥とは本来、空を飛んで移動する生物だと認識している。 しかし恵子は私の肩から飛び去る気配はない。早く家に連れて行けと催促しているのかもしれない。 「この時間ならまだいつもの場所にはいないはずだ。食材の買い出しで街にいる」 恵子は了解したと言わんばかりに甲高い鳴き声を上げた。 私が現在使用している言語は人間にしか通じないはずなのだが、何故か恵子は私の言葉を理解しているように感じる。 それは私が人間よりも恵子に親近感を覚えているせいなのかもしれない。 この世界では毎年規則的に推移する気温の変化や天候の移り変わりがある。 人間はそれを四つに分け、それぞれに名前を付けた。 今はもっとも気温の高い夏に分類される。 太陽の光に照らされたアスファルト。ゆらゆらとうごめく蜃気楼が道の先まで続いている。 「人には愛着を感じる季節と、そうではない季節があるらしい」 私の肩で大人しくしている恵子に自分の考えを伝える。 「私も愛着と呼べるかわからないが、それぞれ優劣を作ることはできる。私は夏が一番いい」 学生であれば四季によって様々な変化があるらしいのだが、あいにく私はノエルと違って学園に通ってはいない。 仕事においてもことさら季節に影響されることもなく、 では何故夏が良いのかと問われれば、単純に高温を推移する今の時期が過ごしやすい。ただそれだけだと答えるだろう。 「あれは――」 ぼんやりと揺れる景色の向こうから、こちらに向かって歩いてくる人間の姿を視界に捉えた。 「珍しい人間もいるのだな」 その人間が向かう先には何もない。 何もない、というのは人間が利用するような施設がないという意味で、あるのは海に沈んだ街くらいだ。 海水浴の季節ではあるが、何もわざわざビルの沈んでいるような海で泳ぐこともないだろう。 そうこう考えているうちに、人間との距離はなくなった。 どこへ行くのだ―― その言葉を口にするつもりはなかった。 必要以上に他者への介入を行わない。 それがこの世界のルールであり、私にとっても都合が良かった。 私は今、この世界で回る車輪のひとつだ。 車輪の大部分は間で占められている。 歯車の群れから弾き出されないよう上手く回り続けるためにはルールから逸脱しないことが重要だ。 だから私は何も言わない。 それがこの世界のルールなのだから―― 「キミもそう思うだろう?」 恵子が私の考えを読み取り、同調する意味で声を上げ足元に飛び降りた。 仮にそうではなかったとしても、他者の考えを共有することは人間にもできない。受け手がどう捉えるか、それだけの話だ。 「もしかして俺に言いましたか? それとも足元にいる、そちらさん?」 「…………」 「カラスって真っ黒だから、こう暑いとかわいそうですよね。熱射病にならないんですか?」 「…………」 「飼っているわけじゃないんですか?」 「……カラスも恒温動物だ。体温調節に水を浴びることもあれば、木陰に潜むこともあるだろう」 「へぇ……カラスもお疲れさんだ」 「必ず黒いわけではないだろう。白変種もいる。この陽気だ、キミも気をつけるといい」 「はーい」 瓦礫の転がるアスファルトの上を真っ直ぐ歩き、しばらくしたところでふと思い当たる。 先ほどすれ違った少年。 彼がどこで何をする目的でここまでやって来たのか、そこに興味はない。 しかし仮にあのまま進んだとなると、確かその先には人間の死体が転がっていたはずだ。 私にとって興味の湧く対象ではなかったのでそのまま放置することにしたのだが、やはりアレは普通の人間ならば何かしらのアクションを示すところではないだろうか。 死体とは一般的には恐怖の対象であると言われている。人間誰もが必ず迎える姿というのに。 しかし、そうなるとあの少年には悪いことをしたのかもしれないと、今になって考え始める。 「…………」 今から引き返したところでもう間に合わないだろう。 ルールを鑑みても、やはり私は何もするべきではない。 他者に介入しない―― あの少年が今どういう心境にいるのか。 それは私にとって、興味を引かれる対象とは言えなかった。 「(あの少年は人間だ)」 「(そして人間は、百に届かぬ歳で自動的に死ぬ)」 人間は必ず死を迎える存在。 では死ねば人間になるのだろうか―― 私の興味は不意に湧き上がった疑問に惹かれ、すれ違った少年の顔さえおぼろげになっていた。 「………………はぁ……びっくりだなぁ」 喫茶店を出て秘密の聖域に向かう途中――――ひび割れた道路から顔を出す力強い雑草を踏まないように歩いていると、今の人とすれ違った。 胸に手を当てる。だいぶ落ち着いてきたけど、まだ高鳴っている。 「いやぁ、飼うかぁ……飼っちゃうんだぁ、カラス……」 動物への愛は人それぞれ。 周りに迷惑さえかけなければ好きにしていいと思う。 カラス。ぜーんぜん構いません。 だから今のは、全面的に俺の過失だ。 初めての感覚に戸惑ってしまった俺の過失。 人を見れば、何かしら突出した感情を自然と感じるものなのに。 あの人は年齢以上の“厚み”を持ちつつ、ごっそりと大事なものが抜け落ちているっていうか……。 硝子のように何も映していなかった。 「キミもそう思うのだろう?」 マネしてみたけど意味がわからない。 なるもおかしなことばっかり言う。 意味わかんない事を言うの、流行ってるのかな。 俺も何か一個くらい、意味深な台詞を考えなきゃな。 「こんなところに来るのは俺くらいだと思っていたけど、めずらしい事もあるもんだなぁ」 好奇心は猫をも殺すというけど、俺に死ぬ予定はない。 生きられるうちは、死ぬ気で生きる。 今まで食い散らかしたイキモノの命を粗末にしない為に。 これは社長の持論で。今は俺の持論でもある。 自殺スケジュールなんてものを組むのは、人生を悲観した弱虫か――本当に支えてくれる人ひとりいなかった、かわいそうな人だけ。 「………………」 だとしたら……《・・》〈これ〉はどちらに当てはまるのだろう。 ひどい。どういう状態だ。生死は確定的に明らか。人を呼ばなきゃ。人。さっきの人。犯人。安直。他殺。自殺。通報。 ――瞬時に脳を駆け巡る思考を、すべて破棄。 背けた目をもう一度、戻し、観る。観察という意味合いで観る。 人体の所々が黒い。微細な粒子が集まって、いかにも鉱石めいている。 「炭……みたいだな」 炭化した身体はまるで黒いドレスを着ているよう。 普通じゃない。 俺の知らない特殊な病気に掛かった末路だろうか。 「(これって……“《エーエスナイン》〈AS9〉”が配られる前に起きていたウイルス騒ぎと同じ症状……?)」 何にしろ近づきすぎるのはよくないだろう。 「(死体を前にしてるのに……案外、冷静でいられるものだなぁ)」 いや本質的には、俺だけじゃないか。 7年前の悲劇を経験してる人は皆、絶望に耐性がある。 俺はその耐性を、人より長く維持していたってだけの話。 《・・・・・・・・・・・・・・・》〈あの時に泳いだ“山”に比べたら〉――――なんてことない景色だ。 「?」 「――――――――」 転がった立方体の物体。 一瞬の間。 おもちゃ――――立方体のおもちゃ。 「パズル――じゃあ、この人は……」 死体の正体に気づくと同時に視界にノイズが走り、堪らず瞬きをする。 と――――喪失感。 「あ。面倒なの始まった……? ああ、始まってる始まってる」 ふっ、と。 照明が切れるように。 色彩が別れを告げ、目に映る全てが白み掛かる。 「無声映画かっての。まだ若いんだから、ガタ来られても困るのになぁ……」 こんなの馬鹿正直に申告したら、ポンコツ扱いで強制入院かな。 ま。放っておけば直るでしょ。 それより今するべきことは他にある。 携帯を取り出して、軽く深呼吸。なによりも先に、通報。 「……………………あー……」 説明、わかってもらえるかな。 俺、今こんな状態だし。 カラスの男の話もうさんくさいし。 なにより――――厳密に言えばここは立入禁止区域だ。 「匿名で掛けないと会社に迷惑が掛かるかも……街のほうに出る前に公衆電話あったっけ」 なるべく早く彼女をしかるべき場所に眠らせてやりたいけど、状況が状況だ。 他殺。自殺。俺は、そういうもののプロじゃないし、彼女の死を悼むほど事態を把握できていない。 だから考えず、目的に向かって走るだけだ。 「…………お。治ってきたか」 ひとつだけ間違いなく言えるのは、見つけたのが俺で良かった。 誰だって、人の死を目の当たりにするのは、辛いだろうから。 多くの人通りが織りなす東雲新市街駅前。 私と恵子もその中に混じりながら、恵子の飼い主である親方を探す。 夜になれば親方との面会も容易なのだが、持ち主に戻すのは早い方がいい。 何より予定はあったが時間にはそれなりの余裕があった。 「確かこの辺りにあると聞いていたのだが」 親方がいつも仕事の材料を仕入れる店。私は今その店を探している。 「名前を聞いておけばよかった」 何でも親方が懇意にしているこんにゃく屋が駅前にあるとのことらしいのだが―― 仕事を始める前に、いつもその店に寄っているのだと親方は話していた。 「おい、あっちにいるらしいぞ!」 「マジか! 行ってみようぜ!」 私が親方の行方について思案していると、目の前を若い人間の男二人が慌ただしく横切っていった。 「いる、とは一体誰のことだろうか」 まさか親方だろうか。 いや、偶然親方を探している私の目の前を、親方を探していた人間二人が横切る可能性は低い。 それとも私が知らないだけで、親方は昼間ここで屋台を出していて人間の間で評判になっているのだろうか。 「行ってみるか」 どちらにせよ、他に有効な選択肢などはなかった。 仮に違っていたとしても、その若者たちが向かった先はすぐそこの人だかりだ。 確かめる程度であれば時間の損失も僅かなものだ。 「街で噂の情報をイチ早くゲットするコーナー! 今日は東雲市を中心にして広がっているある噂を直撃しちゃいます!」 人の群れ、その中心には私が仕事で使用している物よりも遥かに重量のありそうなカメラに向かってマイクを握っている女性がいた。 「今日はナント! あの噂の死神について調べにきたのです」 私は他の群衆と同じように女性の言葉に耳を傾けた。 「街の人に話を聞いてみましょう。あなたは死神について知っていますか?」 マイクを向けられた顔に心当たりがあった。先ほど私の前を横切った男たちだ。 「知ってますよぉ。結構前から有名じゃないっすか」 「あれ、なんだっけ。確か名前あったよな」 「お前忘れたのかよ。“《ファントム》〈亡霊〉”だろ」 「その“《ファントム》〈亡霊〉”について詳しく教えてもらえませんか?」 私は胸の奥に生まれた疼きを抑える。 「俺も詳しくは知らないんすけど、すんげー前からある伝説みたいなもんなんすよ」 「伝説、ですか?」 「元々は別だった話がひとつになったとか、色々言われてるっぽいすけど」 「ああ、思い出した。中学んときに流行ったあれか! 闇にまぎれて人間の命を奪いにくる亡霊ってやつ」 「それそれ、今でもいるらしいぞ。なんでもそいつが目撃された現場には必ず死体が残されているとか」 「あー、そういやバイト先の後輩もそんなこと言ってた気がするわ。戦前から続いてる噂らしいな」 「戦争があったのって30年前だろ? どんだけ現役なんだっつー話だよな」 「でもそうなると少なくとも30年間、人を殺してまわっているということになりますが、そんなことが人間に可能なのでしょうか?」 リポーターの女性は男二人に語りかけるというよりは、カメラや周りにいる人間に向かって話しているように見えた。 「噂の数は無数にあり、もしも全てが“《ファントム》〈亡霊〉”と呼ばれる者の仕業としたら既に警察が捕まえているのではないでしょうか」 「やはり“《ファントム》〈亡霊〉”の正体は人ならざる者であり、私たちの想像を遥かに超えた存在なのかもしれません」 リポーターはカメラに向かって真剣な面持ちで語った後、顔の力を緩めて周囲を見渡した。 「ここで他の方々の意見も聞いてみましょう。あなたは“《ファントム》〈亡霊〉”がいると思いますか?」 マイクを向けられた人間は、質問に対して真剣に答える者は少なく、誤魔化すように笑う者が多かった。 いるかもしれない、そんな馬鹿げた存在は信じない。 ニュアンスは違えど総括するとその二種類が大半を占めていた。 「あなたはどう思いますか?」 気づけばリポーターのマイクは私に向けられていた。 「幽霊や化物の存在を信じますか?」 私はどう答えるべきか考えたのが、あまり待たせるのも悪い気がしたのでありのままに答えることにした。 「人間が認知していない存在が、この世界にないと言えるのだろうか」 「それは何故ですか?」 「何故? 私からすれば何故いないことが前提となっているのかがわからない。霊などの存在について、いないと証明できた者はいるのだろうか?」 「いや、いないことを証明した人はいないと思いますが」 「ならば存在する可能性は極めて高いのではないか。人間が世界の全てを掌握しているのなら話は別だが」 「で、でも、もしいるのであれば、それこそテレビに出たりしてると思うんですよ」 「意志の疎通ができるなら新たな知的生命体として取り上げられているはずです」 「彼らがそれを望んでいなければ、己の存在を隠そうとするだろう。だから公にはならない」 「テレビに出ないのも同じ理由だ。しかしそうではなく、人間が気づいていないという可能性もある」 「気づいていない?」 「ああ。もしかしたらキミたちが今まで撮影した者の中に“《ファントム》〈亡霊〉”が混じっていたかもしれない」 「キミたち人間の想像を超えた存在と、知らないうちに接触していたとしても認識する術がなければそれはただの人間だ」 「そう考えれば表舞台に登場しないからといって、存在の否定には繋がらない。間違っているだろうか?」 「は、はぁ……」 リポーターの女性は小さく口を開いてそれ以上質問はしてこなかった。 恵子の声が本来の目的を思い出させる。 「さようなら」 私は別れの言葉を残し、人の群れを後にする。 胸の疼きは収まっていた。 「今の人の映像……」 「使えるわけねぇだろ」 「ですよね」 「よりにもよってあんなのにマイク向けんじゃねぇよ。見たか? 肩にカラスなんか乗っけてただろ」 「ありゃ絶対おかしいって。まともな人間がやることじゃねぇ」 親方を探して新市街にまで足を伸ばしたが、結果的にそれは徒労だと知ることになった。 「おう、にーちゃんじゃねぇか」 結局親方を見つけたのは諦めて住まいにしている廃倉庫に戻ろうとしていた時だった。 「探し物は諦めた時にこそ見つかるとはよく言ったものだ」 「お? なんだ、俺を探してたのか」 探していた理由を話す前に、親方は私の肩に留まっている恵子の存在に気づいた。 「おお、見つけてくれたのか。すまねぇな」 「大したことはしていない。ただの偶然だ」 恵子は私の肩から飛び立ち、親方の前に舞い降りた。 「心配かけやがってコノヤロー。また逃げられたかと思ってドキドキしたじゃねぇか」 「以前にもこのようなことが?」 「あ? そうじゃねーさ。逃げたのは本物の恵子さ」 「本物? ここにいる恵子は偽物だったのだろうか?」 「……誰にも言うんじゃねぇぞ」 親方はバツの悪そうな表情を浮かべた。 「恵子っつーのは別れた嫁さんの名前だ」 「ああ、なるほど。理解した」 だから人間に使われる名前だったのだ。 「しかし何故誰にも言ってはならない?」 「愛想尽かして男と逃げた嫁さんの名前をつける女々しいやつだと思われたくないんだよ」 「なるほど。しかしそれは正当な評価ではないのだろうか?」 「うるせー。俺はただ思い出を大事にしてるだけなんだよ。いいか、誰にも言うんじゃねぇぞ」 「承知した」 人間は見栄や意地と呼ばれるもので己を包み隠す習性がある。 私にはいまいち理解が難しい感情の一つだ。 「そういえば、どうして親方はここにいる。夜まではまだ時間がある」 何より親方が商売をするためのおでん屋台の姿が見当たらない。 「ああ、昨日ちょいと置き忘れたものがあって取りに来てたんだよ」 「別に夜来た時でも良かったんだが心配事は片付けておきたい性分なんだよ」 「それには同意する。面倒なことは先に片付けておいた方がいい。私がこの街で住むようになってから得た教訓だ」 「そうは言っても面倒事は簡単に片付けられないから面倒なんだよな」 自嘲気味に話す親方の肩越しに動く影が見えた。 「きゃははは! マジお前決まりすぎじゃね!」 数人の人間が瓦礫の向こうから現れた。 「あいつら、こんなところで何やってるんだ?」 旧市街に普通の人間が立ち入ることは珍しい。 機能している施設や商店がなく、わざわざやって来る理由がない。 あえて利点を上げるとするなら、人の目に付きにくい場所であるという点だ。 私がそうであるように、新市街にいては都合の悪い者にとってこの廃れた街は利用価値がある。 「こんなとこに来るやつらがまともなわけねーよな」 「同感だが、私と親方も同じ場所にいることを忘れてはいけない」 「それは言わない約束だぜにいちゃん」 いつ約束したかを思い出そうとしている内に、騒いでいた若者たちは私たちの存在に気づいたようでこちらに向かって歩いてきた。 「あれぇ~? オッサンたちこんなところで何してるの~?」 三人組の男のうち、先頭の一人が私たちに話しかけてくる。 残りの二人はその後ろで生気の感じられない目をして俯いていた。 何かを呟いているようだったがここからでは聞き取れない。 「俺らが何してようが勝手だろ。それよりお前らこそ何やってる」 「俺たち~? 俺たちはみんなで気持良くなってるところだよ」 「薬か。別に俺たちは通報したり面倒くさいことはしねぇ。さっさとどこかに消えやがれ」 「薬? 彼らは病気にかかっているのだろうか?」 「ああ、救いようのねぇ病気だよ。親から貰った身体を大事にしろってんだ」 「別におっさんには関係なくね? こんな時代なんだし、マジメに生きててもどうにもなんねーじゃん」 「そう思うのはお前の勝手だがな、世の中にゃどうにかしがみついて必死に生きてる人間もいるんだ」 「目を背けるのも無理はねぇ。だけどよ、ちゃんと生きてる人間の邪魔だけはするな」 親方の言葉で目の前の若者はあからさまに機嫌を損ねた。 「あ? 何説教たれてんのおっさん? あんまうるせーことばっか言ってっとどうなるかわかってんの?」 「な、なんだコノヤロ! 俺はこう見えても昔陸上の選手だったんだぞ!?」 親方が陸上競技経験者だったとは初耳だ。しかし、それと今の状況はどう関係がしているのだろうか。 「だからなんだってんだよクソオヤジ!!」 どうやら私の疑問は思い違いではなかったようで、若者は私の疑問を代弁しながら親方に殴りかかった。 目の前で起きようとしている事象の結果を想像し、発生するだろう不利益を見過ごすわけにはいかなかった。 「ひゃあ!?」 親方から悲鳴のような声が聞こえるが、若者の拳は親方には届かなかった。 「……あれ、お前何すんだよ! どけ!!」 「その要求は受け入れられない。私がどけばキミは親方を殴りつけるのだろう?」 「たりめーだろバカ!」 「ならばやはりキミの要求は却下させてもらおう」 例えばここで親方が怪我を負ったらどうなるか。 程度の差こそあれど親方は負傷し、日々の業務に支障をきたすだろう。それはすなわち私の生活にも直接的な影響を与えるという意味だ。 《・・》〈面倒〉なことは避けた方がいい。 「おいテメェ離せよ! ふざけんじゃねーぞ!」 「離すわけにはいかない。そして私はふざけてなどいない」 「うるせぇカス殺すぞオラァ!!」 若者は私に右腕を拘束されている状態だったが、構わず残っている左腕で私を殴った。 「落ち着いてほしい。私はキミに危害を加えようとは思っていない」 「離せっつってんだろ!!」 若者は左腕で殴るだけではなく脚部を使った足蹴りを加えてくる。 「お、おい、大丈夫かにいちゃん!?」 「問題ない」 「すましてんじゃねぇぞコラ!!」 枯葉が燃える程度の小さな勢いの炎が揺れる。 「な、なんだよその目はよぉ!! やるってのかよ!!」 「――――――」 微小とはいえ、確かに私はこの若者に対して怒りを感じていた。 「少し大人しくしてくれないだろうか」 「な、なにを――!?」 私が抱いた感情は、例えるなら子供の駄々に親が抱く程度の些細なものだ。 それでも私の身体は僅かな怒りに反応し声を上げた。 「いた――あ、あつ、熱ぃ――!? は、はなせ!!」 「キミが大人しくすると約束してくれるなら」 「な、なんでもいい! わかったからはなしてくれっ!!!」 「こ、こいつ、おかしいだろ……!! ふざけんなよ……!!」 若者が右腕を押さえながら踵を返して走ると、後ろに控えていた二人も鈍い動きながらその後を追って行った。 「む……何かを落としたようだが」 私の呼びかけに耳も貸さず姿が見えなくなった。 若者の落とした物を拾い上げる。 プラスチックでできた小さな容器。その表面には“Angel”と書かれていた。 「これはあいつらが使ってた薬だな」 「薬? 病気を治療するものだろうか?」 「ちげぇよ。これは最近出回ってるヤバイ葉っぱだ。誰でも手軽に手に入れられて、遊び感覚で使える。ほとんど麻薬みたいなもんだ」 親方は私からその容器を受け取り、ポケットの中にしまいこんだ。 「親方も使用しているのだろうか?」 「バカ言ってんじゃねぇ。捨てるんだよ。こんなもんに頼ってても良いことなんてこれっぽっちもねぇ」 「それよりにいちゃん……あのガキに何したんだ?」 「少し、力を入れただけだ」 正確には若者が感じた苦痛は腕を掴んだ握力による痛みではないだろう。 黒い革製の手袋に覆われた右の手のひらを見る。 耐熱性に優れた特注品にも関わらず、少し焦げたような匂いがした。 「見かけによらず力つえぇんだなぁ。それにしてもあのガキ、熱いって言ってなかったか? 痛すぎて頭おかしくなったのか」 親方は知らない。知らないままの方がいい。 私たちが今の関係を保つためにも、秘密は秘密のままにしておこう。 「さあ、私にもわからないが、強いて言うとするなら」 「言うとするなら?」 「夏だから、ではないだろうか」 親方は呆れた様子で肩をすくめた。 倉庫の扉につけられた南京錠を外し、取っ手に力を込めると錆びついた鉄製の扉がスライドした。 元はどこかの商社が所有していた物流倉庫だったため、ドアの作りは一般的な住居と違っているらしいが、特に不便だと感じたことはない。 倉庫自体、海風に晒されて多少傷んでいる部分はあれど、広さに関しては申し分ない。 ロフトになっている二階部分を見上げる。 「ノエルはまだ帰っていないか……」 いつもならこの時間であれば家にいるのだが、今日はまだ戻っていないようだ。 まあいなければ困るようなことは特にない。今は。 「…………」 机の上に置かれた時計の針は14時半を指していた。 今日の仕事は日が落ちてしばらくしてからだ。 その前に一件、人に会う約束がある。しかしその約束の時間までもいくらかの余裕があった。 私は棚の上に置いてあるジョウロを手に取り台所に向かう。 室内で栽培している植物に水を与える時間だった。 「ん……?」 ステンレス製の炊事場。その上にある一片のメモ用紙と、重り代わりにされている液体入りの小瓶。 私はメモ用紙に目をやる。 『おつかれさまです。今日もファイト一発リポデインD、ですよ                        \(^▽^)/』 全体的に丸みを帯びたその文字に心当たりがあった。 「またか」 “また”と言うのは過去にも同じような事象を経験していることで成り立つ推測の一つだ。 私は信頼を置いている同居人の書き置きを、こうして目にすることは初めてではない。 いつも決まって用意されている褐色の小瓶を見ても、過去の事例と同義のものと言えるだろう。 「やれやれ、マスターと約束した時間に間に合えばいいのだが」 何に置いても私のために行動してくれるノエル。 彼女が一緒にいてくれなければ、私はこの世界で生活していくことも不可能だったに違いない。 それだけに私もノエルを信用していた。この世界で生きていく上で、彼女の言葉には間違いはない。今までも、そしてこれからも。 だから目の前の置き手紙と小瓶も、彼女が私を気遣って行なっていることの一つなのだ。 「ファイト一発」 この栄養ドリンクを飲む際には、必ずこのフレーズを口にしなければならないらしい。 根拠は未だにわからないのだが、ノエルが言うのだからきっと正しいのだろう。 「…………っ」 だから私は今日も小瓶に入った飲料に口をつける。 たとえ経験上、これが毒入りである事が明白だったとしても―― 「……やはりか」 ノエルの用意した液体を口にした途端、視界がぐるぐると回り始め全身の力が抜け落ちていく。 完全に四肢のコントロールを失ってしまう前に、私はそばに設置されているソファに腰を下ろした。 幾度も繰り返されてきたルーチンの始まり。異変は異変ではなく、むしろ予測を裏切られなかったことに安心さえしていた。 ただ一つだけ、やり残したことがあるとすれば……。 「……花に水をやるのを忘れていた」 気づいた時には既に遅かった。身体の自由は完全に失われていた。 ……………… 「待った?」 「いや、上出来だ」 「俺はな、政治家って生き物が大っ嫌いなんだ。どうしてだかわかるか?」 「わからない。一般的にも好かれていないと聞いたことはあるのだが」 「隠し切れねぇくらいあくどい事をやってきてんだから当然だな」 「まあ別に俺は悪事を働くなとは言わない。世の中利口なやつが得をして当たり前だからな」 「ならどうして」 「あいつらには覚悟も自覚もない。自分だけは安全だと思ってやがる。この世界のルールが奪い合いだってことに気づいてねぇんだよ」 兎のお面をつけた男は私の腕に何かの器具を装着させながら政治家に対しての不満をあらわにする。 男、と断定する要素は何もない。声は特殊な機械を通しているようで性別の区別は付かない。 「奪われる覚悟があってやってるならいい。弱い者が喰われるのは当然だからな」 ただ乱雑な口調から推測するに、おそらく男であるのだろう。 「そういうものなのか」 「そういうモンなんだよ。昔、俺の大っ嫌いな政治家がいたんだけどよ」 「ある日そいつがたんまり溜め込んだ裏金が盗まれた。そいつは金を失って失脚した」 「表向きは体調不良で引退ってことになったんだがな。まあ使命よりも大事なカネを失っちまったんだから本当にぶっ倒れたのかもな、ヒヒっ」 仮面に覆われて表情から判断できないが、笑い声が聞こえたということは、この男にとって政治家の不運は喜ばしいことなのだろう。 「まあ、奪って生きるやつは奪われる覚悟を持っとけってことだな」 「なるほど、覚えておこう。勉強になった」 この世界では対価を払って何かを得ることが常識だ。男の言わんとしていることも理解できなくはない。 「それはさておき、一つ聞きたいのだが」 「何だ?」 「今日はその話をしに来たのだろうか?」 「まさか。仕事に取り掛かる前のちょっとした雑談だよ」 男はカバンの中から医療器具のような物を取り出してこちらに振り返る。 「であるのなら、早く終わらせて欲しいのだが。今日はこの後予定が入っていてあまり時間的余裕がない」 「つれねぇなぁ。怖ぇだろうなと思って気を紛らわしてやってんのに」 「拷問というのは本来怖がらせることで目的を達成するのではないのか?」 「あぁ、それもそうか」 男は歩み寄り、私の左手に鉄製のペンチをあてがう。 「まさか拷問する相手にアドバイスされる日が来るとは思ってもなかったな」 「さてと、それじゃあ始めるとするか。拷問ってのは大体二種類あってな」 「傷めつけて苦痛を与えることが目的の場合と、目的を達成する手段である場合の二種類ある」 「私の場合は後者なのだろう?」 「その通り。だからこっちとしてはあまり血生臭いことはしたくない。わかるよな?」 この男の目的を私は過去の経験から把握していた。 男の目的とは、私の交友関係にあった。 「私は疑われるようなことはしていない。前もそうだったはずだ」 「前回シロだったからっていつまでもそうだとは限らねぇよ。もしそうなら俺はこの先あの忌々しい人間ドッグのためにカネを払う必要がねぇだろ」 「だとしても私に身の覚えはない」 「嘘をついてるやつは最初みんなそう言うのさ。俺も仕事しててそんなやつは腐るほどいた」 「アンタが嘘吐きじゃないってのは俺も同意だ。でも万が一って可能性もあるからな」 「俺もプロとして中途半端なことはできねぇんだ。わかるだろ?」 「仕事には誠意を持って取り組む。それがこの世界でのルールだ」 「だろ? だからアンタもさっさと本当のことを喋ってくれよ。今時浮気なんて珍しいことじゃねぇ」 男の目的とは、私が人間の女と関係を持っているかどうか―― 人間社会で言われるところの“浮気”を行なっているかどうかを調べることだった。 「疑いをかけられているような行為をした覚えはない。だから相手のことを聞かれても答えられない」 「だったら俺が代わりに言ってやろうか? アンタ、つい最近までやってた仕事があるよな?」 「仕事はいつでもやっている。人間というのはそういうものなのだろう?」 「働くことは別に悪いことじゃねぇさ。ただ浮気相手と出会う確率が一番高いのも職場だと相場は決まってる」 「そうなのか。覚えておこう」 浮気は職場で行われる。またひとつ、新しい知識を得ることができた。 「で、アンタの場合も例によって仕事仲間が相手だ。最近までやってた警備の仕事、覚えてるだろ?」 親方に紹介された前の仕事だ。 「そこで一緒にいた女がいるだろ」 「同じ仕事をしていた中に女はいなかった。勘違いではないか?」 「あんまり俺を舐めてもらっちゃ困るぜ。ほら」 男はカバンを漁ると一枚の写真を私の眼前に突き出す。 「アンタと一緒にいる女。こいつのことを教えてほしいんだ」 そこにはつい最近まで働いていた警備会社の制服に身を包んだ私が、ダンボールの載った台車を押している姿が収められていた。 すぐ横にはスーツ姿の女が立っている。 「アンタが働いてたビルの社員だってことはわかってる。後はちょっと調べればすぐに素性はわかるんだぜ」 「では何故私に聞く必要がある」 「少しでも手間を省くのがプロってもんだろ? それに、こうやってアンタを拷問することにも意味がある」 「意味か」 意味というのは何事にも存在するものである。少なくとも私はそう認識している。 とすれば、こうして拘束されていることにも意味があるのかもしれない。いや、少なくともそう思っている者がいるのだ。 おそらく私の行動を抑制するための警告だと考えられる。 わからないのは、どうしてこうも回りくどい方法を選択するのか、だ。 私の行動を制限したいのなら、直接言ってくれればいいのだが……。 男の言う通り、手間は省くのに越したことはない。 「とはいえ、さっさと吐いちまった方がお互いのためだぜ」 「俺だってどっちかと言えばアンタの爪を剥いだり指をアレしたりしたくはねぇんだ」 「その割には以前来た時は楽しんでいるように見えたのだが」 「気のせいだろ。爪を剥いでってもうんともすんとも言わねぇ奴を痛めつけたって虚しいだけだっての」 「拷問ってのは苦痛を与える側と与えられる側の共同作業なんだよ。アンタは落第もいいとこだ」 よくわからないが、私に至らぬ点があったのだろう。 「全くどういう人生送ってきたらそんな風になるのか教えてもらいたいぜ」 「人生、ではない。人間ではないからな」 「ヒヒッ、じゃあ幽霊か化物ってか。おーこえぇ」 男の声が恐怖を感じているように聞こえないのは、機械を通しているからだけではないだろう。 「つーわけだからよ、さっさとこの女のことを教えてくれねーか」 私は正直に彼女の名前を口に出した。 かなりおぼろげだったが、仮に間違っていたとしてもこの男の手間が少し増える程度だろう。 「お、今回は割りとさっくり吐いてくれるんだな」 「別に隠すようなことは何もない」 もっと言えば今日の私にはこの後に予定が控えているのだ。あまり長居をしている暇はなかった。 「殊勝な心がけは長生きの秘訣だ」 男は上着の内ポケットから取り出した手帳を開く。 おそらく私の口にした名前を書き込んでいるのだろう。 「彼女をどうするつもりだ」 「気になるか?」 「いや、あまり」 「強がらなくてもいいんだぞ?」 どうして私が強がらなくてはならないのか? 気にはなったが男の手首に巻かれた古びた時計を目にして疑問は飲み込むことにした。 「旧市街の海に浮かんでるかもな」 「海に? 海水浴でもさせるのだろうか?」 「ヒヒッ、おもしろい冗談だ」 冗談を言ったつもりはないのに笑われるのは気分が悪い。 男は目的を達したようで、私を痛めつけるための道具をさっさとしまい始めた。 「帰るのだろうか?」 「何だ? 寂しいから一緒にいてほしいっていうのか? 悪いが男と進んで仲良くなる趣味はねぇよ」 「ま、カネさえ貰えれば大抵のことは請け負ってやるぜ。アンタも困ったことがあったら気軽に相談してくれ」 「私の悩みは待ち合わせの時間に遅れそうなことだ」 「カネさえあれば時間も買える。俺みたいに必死こいて働いてカネを貯めるんだな」 初耳だった。時間は金で買えるのか。 どこで買えるものなのか気になったが、私が口を開く前に男はカバンを持ち上げて倉庫から出て行った。 時間を売る店の話は聞けなかったが、予定の時間には間に合いそうだった。 「今から出れば丁度良い時間に着きそうだ」 予期せぬ来訪客のおかげで予定を狂わされてしまったが、不測の事態で四苦八苦するのが人間だ。 そう考えると悪い気はしない。私もこの世界に馴染んできた証とさえ解釈できる。 「さて、それでは行くとしよう」 「…………」 一歩踏み出したところで足を止める。 前言を撤回しなければならない。 やはり思わぬ出来事というのは面倒なものだ。 「鉢に水を与えなくては」 駅ナカの商業スペースに設置されていた公衆電話から通報を終え、通りに出てきた。 すぐに熱気で額に汗が浮いてくる。 夏。太陽が頭上で大暴れするシーズン。 恐らく死体の身元を探るうちに喫茶店へも連絡がいくだろう。 マスターがショックを受けて寝込んだりしなければいいけど。 死因から他殺か自殺かを。 他殺ならば犯人の特定を。 調べて判明させて、二度とあんな事のないようにして欲しい。 容疑者と決めつけるのはよくないが、怪しい人物として“あの人”の特徴も伝えておいた。 やるべきことはやった。 俺みたいな一般人に尽くせるベストだろう。 が。当然だけど、休日を楽しむテンションからは一個分は下がっている。 「レモンを手に入れたらレモネードを作る。すっぱいからといって俺は捨てない!」 前向きであることは、俺が人生で学んだ中でも群を抜いて大切――――というか、《・・・・・》〈必要不可欠〉な事だった。 マイナスの気持ちを引きずるのは良くない。 俺は生きている、《ナマモノ》〈生物〉だから。 《ナマモノ》〈生物〉は常に進行形で、鮮度を失っていずれ過去形になるから。 楽しみたくても楽しめない人の分まで笑う。 死ぬ気で生きなきゃ、この世かあの世であいつと再会した時になんて言われるかわかったもんじゃない。 「――え!? ちょいケータイ見てみ、Re:non様が街頭ビジョンジャックしてんだってさ!」 「マジ? ……あ、ホントだ。店舗前にゲリラ出現? 生Re:non見たーい! ねぇねぇ行こう?」 歩行者のたったそれだけの会話がざわめきを呼び、波紋のように広がった。 一目、生Re:nonを拝もうと野次馬根性丸出しの皆様方。 街頭ビジョンの設置された建物の下が見る間に人で満たされていく。 「みんな忙しいなぁ。俺はどっしり構えて行くとしますかね」 なんたってRe:non様が待っているのは、この水瀬優真なんだから(確信)。 人人人。がやがやがや。 店舗前の道路にはみ出さんばかりの人であふれている。 いったい何が始まるというんだろうか。 「押さないでくださーい!」 「通行人は立ち止まらないでくださーい!」 「参加者はこちらに並んでくださーい!」 整理する警備員とスタッフの方が顔真っ赤で対応中という有様は、なんか商売とかっていうよりは“戦い”という表現が近いかも。 「キミキミ、よろしいかい?」 俺はスタッフらしきジャンパーの男の肩を叩く。 ジャンパーは色が統一されている。 “蜂蜜揚げパン普及委員会”と書かれている。ダサい。 「VIP席に通してもらえる?」 「お疲れ様です。VIP……? そんなのあったかな……ちょっと確認してきますので、お名前頂けますか?」 「名前? 優真だけど、聞いてどうすんの?」 「……貴方、ホントに関係者?」 スタッフの疑いの視線。 まったく。これが“まったくもう”ってヤツか。 俺が誰だかわかってないとは、三下だな……。 「関係も何も、Re:non様は俺の嫁だから。嫁のとこに連れてけって言ってんのさ」 「どらぁっ! 糞ガキがぁっ!」 「痛っ――――客にケツキックかよっ! しかも無視してどっか行くな!」 俺はめげない……! 前向き思考を保ったまま、別のスタッフに声を掛ける。 「コレって何の列ですか? 並んだらRe:non様が嫁に来てくれるんですか?」 「違う違う、そこの看板読めばわかるからっ!」 怒られた。最早戦場。言われた通りにしよう。 とりあえず人の隙間を縫うように歩き、立て看板を覗くことにした。  **夏の熱射病を吹きとばせキャンペーン開催!!** 『あの“Re:non様”が蜂蜜揚げパンを無料でお配りします!  お買い上げレシートをお持ちのお客様で、  お並び頂いた全員にもれなく大サービス!!  さらになんと! 抽選で5名様まで“Re:non”に食べさせて  もらえる権利が与えられます!!』 ※当店で1500円以上お買い物して頂いたレシートが必要です。 ※数に限りがありますので、時間内に終了する場合があります。  予めご了承ください。             «蜂蜜揚げパン普及委員会名誉会長――紫護リノン» 「……なるほど、理解」 「コレは素晴らしいイベントだぞ。早速、適当な物を買ってくるか」 ふと、思い出す。 なるにもらった“運命の輪”……。 これこそがなるのタロット名刺の効果か! 警備員とスタッフに言われるがまま列に並ぶ。 列からは人の背中しか見えないが、前の方で一個一個、手で配ってる人がいる。 むむ。あのすべやかな腕から漂うシルクの香り(?)。 モイスチャーな感じの赤ちゃん肌は……Re:non様か? 「ちくしょーーーーー! 外れたーーーーーーーーー!」 「チッ!! ホントに当たり入ってるのかよー!」 抽選に漏れたであろうファンたちの怨嗟と絶望の声が夏の快晴に吸い込まれていく。 まったく。運の無さを嘆くとは見苦しい連中だ。 ま。俺は“《なるのタロット》〈運命の輪〉”に選ばれし男だから、抽選に漏れるなんてことは余裕で無い。100%無い。 「後生です! もう一回だけ引かせてください! Re:non様に食べさせてもらうのが夢なんですっ!!」 「残念だけど、一回っきりなの……」 前列から聞こえて来るRe:non様とファンの会話。 俺の番も時間の問題だな。 「アナタに食べさせてあげたかったのは山々なんだけどね……」 「Re:non様も……残念がっている……? ぼくに食べさせてあげられなくてやりきれない思い……なのか?」 「うん。だけど、決まりごとだから。ね?」 「やっぱりぼくとRe:non様は運命の赤い糸で繋がれていたんだ。そうなると世界か? 世界が拒絶しているのか……やはり」 「次のイベントも絶対来てね? 絶対絶対だよ。わたしとの約束に“《へんしん》〈Re〉:”できる?」 「できるぅっ! 届けぇ! ぼくの思いッ! Re:non様に届けぇっ!!」 「ありがと。アナタの応援があれば、わたしはいつまでも超最強よ」 うーん、さすがはみんなのアイドル。 スパイスの利いたキャラで売ってるが、ファンひとりひとりを大切にする姿勢は健在だ。 「生のRe:nonボイス録音したら結衣が喜ぶかな。撮影はダメだろうけど、録音なら……」 携帯携帯――――ってまたかよぉ! ポンコツにもほどがあるだろ俺の身体……。 色彩をなくした男、水瀬優真。 なんてちょっとカッコイイけど、今は困るよ、今だけは。 カラフルな生Re:non様を拝むくらい願ったっていいじゃないですか。 ――――――――え? 「…………」 「…………」 あまりにも。 Re:non様はあまりにも自然な動作で、首をひねった。 見る為に――瞳で視認する為にそうしたのだろう。 それはわかる。わかるのだが……。 何を――――? 何故――――? ――――――――もしかして。 「俺……?」 いや。いやいやいや。方や一般人。方や国民的グラドル。 目が合ったなんて錯覚するのは怖すぎるよ俺。 信者にありがちな“自分だけは特別”という気持ちの表れか? 「どうしました、Re:nonさん」 「どうしたもこうしたも……テメェはゴミを拾って屑籠にぶち込むべきかどうかで迷ったことはねぇのか?」 「…………へ?」 「気配はホンモノだったんだがなぁ……おっ、おぉ……」 「――あ。アハハ……冗談冗談。何、みんなどうしたの? わたしの顔に何かついてる?」 「い、いやぁ……ハハ。なんでもないですよ。暑さにやられたかな……」 視界が正常に戻ったのはいいけど、今なんかRe:non様ヘンだったな……。 一瞬だけ――人類ヒト科が失ったであろう野生に満ちた鋭さを取り戻したようだった。 「はい、次の方――――あー達也さん? いつも応援ありがと。お手紙、読ませてもらったわ。すごく嬉しかった」 Re:non様はすでにファンとの交流にもどってしまっていた。 「――――きゃーーーー! 当たった当たっちゃった!! どうしようどうしよう!!」 「おめでと。準備、良い? わたしの指まで食べちゃダメよ」 「あのっ! 『この蜂蜜揚げパンを私だと思って召し上がれ、子猫ちゃん』って言ってください」 「これからも超最強な私だけを応援しなさい、子猫ちゃん」 嘆きの声とともに情報が入ってくる。 どうやらこれで当たったのは3人目らしい。 「まーた女かよー。Re:non様のイベントって女ばっかいい目見る印象があるんだよなぁ」 偶然にも全員が女性のようだ。 「俺の番まだかなぁ。俺が初めての男になるんだろうなぁ」 Re:non様と言えば蜂蜜揚げパン。 このイメージは完全に定着していて、切っても切れない関係にある。 初めの頃はファンも宣伝の為かと半信半疑だったが、Re:non様は本当に一日三食、蜂蜜揚げパンの時があるらしいことが最近判明した。 本当に好物だと広まってからは飛ぶように売れた。 少しでもテレビの向こうのRe:non様とつながっていたい。 そんな貴方のマストアイテム、蜂蜜揚げパン。みたいな。 一日三食、蜂蜜揚げパンプロジェクトは着実に浸透してきている。 こういったゲリラ出現の店頭イベントだけでなく、応募キャンペーンもあるから要注意だ。 「――――じー」 「あれ……?」 「抽選のがらがらを回す力もない? 代わりにわたしが回す?」 ン? と首を傾げる大人気アイドル様。 特に意識していないのかもしれないが、物凄い様になっている。 「俺の番? 来てたんだ。失礼しました、考え事をしてたもので」 「わたしとどんなことをして楽しむとか、そういう“妄想”?」 「そうっすね」 「ちょっとは隠してよ。恥ずかしいじゃない、もう」 くすり。笑う姿に色香がある。 ため息が漏れるほどの美しさ。 彫刻みたいに精巧な目鼻立ちは、こんなに近くでも揺るがない。 毛穴なんか見当たらない。あらゆる美の集合体、人類の集大成だ。 「まさしくナンバーワンの貫禄。おみそれしました」 「ふふ。頂点は常に一つ、ごまかしは利かない。誰もわたしに追いつけないわ、絶対にね」 「わたしは超最強だもの」 ゾクゾクゾク。背筋をツーっと指で撫でられるような声音。 本音かどうかわからないこの自信に満ちた姿こそRe:non様。 一体、素顔がどこにあるのだろう、謎は深まるばかりだ。 「なんてね♪ アナタにはわたしに食べさせてもらえる権利があるかしら?」 「よし。赤玉が出ればいいんだよな……っ!」 “運命の輪”のタロット名刺を握り締める。 「なる……俺に力を貸してくれ!!!」 「コレでどぉだぁああああああああああああああああああッ!!」 「………………白?」 「残念でした♪ ハイこれ、蜂蜜揚げパン」 「……………………」 「また次のイベントでね。応援してくれたら、その気持ちに“《へんしん》〈Re〉:”するからね」 「………………はぁ……」 とりあえず……目でもつぶるか。 ……ノーカン。 ノーカン……ノーカン……ノーカン……ノーカン……ッ!! 「俺は、何も、見ていない」 ガラガラガラガラッ!! 「ちょっ、やり直し禁止っ! ルールを守れない人には“《へんしん》〈Re〉:”しないよ!?」 何も聞こえない。 顔真っ赤で回す。 ぐるぐるぐるぐる。次こそは必ず――――!! 「そんな馬鹿な――――そんなはずが、ない。もう一回だけ……」 「お、おい……なんだよ。何つかんでるんだよ」 俺がガラガラの取っ手をつかんだのと同じくして、二人組のガードマンに片腕ずつ自由を奪われる。 「ちょっとこっち来て」 「迷惑だから。こっち」 無愛想なしかめっ面で引っ張っていく。 ふーん。善良なRe:nonファンの俺にワンモアチャンスも無しか。 「連行っすか? 裏でボコ殴り的なやつ?」 「いいから、こっち」 「うが~~~~~~~~~ッ!! 放せっつーのッ!!!」 上体を倒し、ガッチリと組まれた腕を“抜く”。 「なっ――――おい!?」 「加減しなよ馬鹿力さん。俺じゃなきゃ腕痛めてたぞ」 そんな驚かれたって、別に俺は格闘の達人でもなんでもないっての。 ただ彼らが、体格のいいガードマン以上の何者でもなかった。 肉体に対して資本金以上の価値観が持てていなかった。 ――――それだけの話。 「俺だって次の人に迷惑だってわかってるっての! ただ、どうしても一つ、ものもうしたいことがあるわけだ」 Re:non様に詰め寄る。 傍から見たら暴漢紛いの俺に対し、眉一つ動かさない。 “それで、それからどうするの?”とでも言いたげな微笑。 「コレってホントに当たり入ってるのか?」 「……くすっ。何を言うかと思えばすごい言い掛かり」 「並んでる間、暇だから見てたんだよ」 「当たってるのは全員女性。ありえるか? ――――並んでる男女の比率《オトコ》〈9〉:《オンナ》〈1にも関わらずだぜ?」〉 俺が訴えているのが“平等性”だとわかってもらえたのか、あからさまに困惑していた列の人たちが、俺の声に耳を傾ける。 「……俺はそういうのは好きじゃない。誰も確かめないなら俺がやる。どうなんだ、Re:non様!」 職務を思い出したガードマンに対し、Re:non様は“待った”を掛ける。 その余裕綽々は、温室育ちの世間知らずから来るソレではない。 アイドルとしても、それ以外の全てにおいて、常に絶対上位。 首位独走の余裕だ。 「当たりは、《・・・・・・》〈入っているわ〉」 「俺に誓ってか?」 「もう一度だけ言うわ。よく聞きなさい」 裁きを言い渡す閻魔のような絶対的強者の面構えを崩さない。 「当たりは、《・・・・・・・》〈入っていないわ〉」 場が凍りついた。 「…………え……今、わたし……」 だが一番焦っていたのは、口にした本人のようだった。 「ッ! なんだって言うのよっ!」 最初に、景色がブレた。 次に、一瞬の吐き気。 収まると、次に襲ってきたのは違和感だった。 一瞬の出来事だったが――――Re:non様が俺の服の襟に触れるまではなんとか肉眼で追えた。 サイボーグとかに放り投げられたような浮遊感――明らかに俺は空中を泳いでいた。 目の前にゴミ箱が出現。 “ああ、こりゃ落ちるな”と他人事のように思う。 この間、体感で約4秒。 「――――ぐっ!!?」 背中を打って、呼吸ができない。 衝撃は覚悟していたほどではなかった。 ぎっしり発泡スチロールの詰まったゴミ袋に着地したらしい。 ていうか、ここ何処……? つい数秒前まで、駅前のイベント会場にいたんだけど。 「全力で駆け抜けたし……肉眼で追えるヤツはいなかったと祈るしかないか」 そっけない声。 「死んじゃいないでしょ? 頭は打たないように調整して《・・・》〈運んだ〉つもりよ」 たまたまココに居合わせたような空気感で、溶けこむように俺の前にいる美少女。 「当たりどころが悪かった? それとも感度が良すぎて声が出ない?」 息一つ乱さない完全美女。 彼女が俺をココまで“運んだ”のだろう。 髪のセットがすこしだけ崩れていたからわかる。 「時間がないから一方的に話すけど――細工をしてもらったのよ。抽選で当たる5人は全員“《サクラ》〈囮役〉”よ」 「ぜ……んいん……げほっ」 むせながら俺は上体を起こしていくが、手を貸してくれる様子はなかった。 「ご褒美はそう簡単にあげない主義なの。それに、夢は叶わないから楽しいという考え方もあるでしょ?」 「“《サクラ》〈囮役〉”は全員女の子を選んだわ。でも、安心して。私はアブノーマルじゃないから」 Re:non様は、常備しているらしきサインペンのキャップを外した。 「私に相応しい男がいないなら、女の子の方が幾分マシだと思っただけのことよ」 「くすぐったい……」 「ずいぶん回復力、早いわね」 ペンが手のひらを走り、こそばゆさが残る。 「今日の夜でいいわ、必ず掛けなさい。一人の時よ。“《へんしん》〈Re〉:”しなかった時は超最強な罰を受けてもらうわ」 「掛ける……? いてて……」 「ゆっくり寝てていいわよ。私が戻らないと現場が大混乱になっちゃうしね」 「あ――――間違っても戻ってこないようにね」 手をひらひら振って優雅にご退場。 「待てよ……サクラなんか使っちゃダメだろ……」 「もう聞こえないか……」 「一体何だったんだよ……」 シャレにならない展開だった、あいててて。 実は昼間から呑んだくれて気持ちよく夢でも見てたって方がまだ説得力がある。 「でも……現実だよな。てのひらになんか書かれたし……」 Re:non様が直々に書いて下さった……サイン? 「…………読めないな……もしかして、数字……?」 どちらにせよ読めない。 そういえばネットオークションで一度だけRe:non様のサインの出品を見たことがあるけど……ミミズが這ったような文字だった。 解読不能なので諦める。 最近運動不足だったからか、ほんの少し腕を痛めたかも。 「はいはい……ああ」 着信があったのは仕事用の番号の方だ。1つの携帯で番号が3つまで登録できるサービスが主流になったのも、見えない人たちの頑張りがあるんだろうなぁ。 「はい。優真です」 「仕事だぞーゆーまー。大嫌いで大好きな仕事の時間だー」 「死ぬ気で生きて、死ぬ気で休日を堪能していましたよ。今日も色々あって楽しかったです」 「ふむ。それはなによりだ。今はどこにいるのだ?」 「駅前です」 「駅前? 《・・・・・・・》〈つまらないなー〉……」 「すいません、つまらなくって」 「ちょうど駅前の駐車場にバンを回してある。いつもの場所だ。着替えを用意してあるから、必要なモノを受け取ったら自分の足で現地まで向かいたまえー」 「はい」 「靴かー?」 「靴です。調子もいいです」 「わかっているならいいのだー。乗ってる奴らも別の仕事がある――――おまえ一人のために待ってられないのだよ」 あー、靴で良かった。駅前で良かった。助かった。 もし俺が駅前ではなかったとしても――仮に隣駅にいたとしても、そんなことは《・・・》〈無関係〉に“全力疾走しろ”と命令されただろう。 それが“仕事”。 「依頼は簡単な見積もりを取るだけ、まぁいつもと同じだな。詳細に関してはメールしておくから、ありがたく目を通したまえー」 「了解です。“全ては社長の為に”」 「良い心がけだ、頑張りたまえよ安月給」 「――――さて、ひとっ走りするかぁ!」 「世界の干渉率が日に日に増している……これは由々しき事態だ。早く何とかしないと……」 「このままではぼくとRe:non様の愛にも影響しかねない……失った邪気眼の力さえ元に戻れば……」 「それがキミの力なのだろうか?」 「えっ……うわっっ!?」 上を向きながらぶつぶつと独り言のようなものをつぶやいていた男は、眼前で立ち止まっていた私に気づかず、ぶつかって尻もちをついた。 「すまない、大丈夫だったか?」 「あ、すいません、こっちこそ考え事してて……」 私は男に左手を差し出す。何故か周りはいつもよりも多くの人間がたむろしていた。 そのおかげで私は前から歩いてくるこの男を避けることもできず、どうしたものかと考えているうちに男とぶつかってしまった。 こういう場合はまず謝る。それが人間社会でのルールだ。 「何か落ちたようだが」 「ああ、大丈夫ですよ。中身は蜂蜜揚げパンですから」 「蜂蜜揚げパン?」 「ついさっきまでRe:non様のイベントがあって。Re:non様知ってますよね?」 「いや、すまない。私にはわからないのだが、もしかして観音様のようなものだろうか?」 「え? あ、ああ、そうですね、ぼくにとっては神様のようなものです」 「ふむ、そうなのだろうか。神様のようなものが先ほどまでここにいたのだろうか」 ならば理解できる。普段よりも多いこの雑踏の訳はそういうことなのだろう。 「あの、もしよかったらおひとつどうですか?」 「これを私に?」 男は袋から取り出した蜂蜜揚げパンとやらを差し出した。 パンと名のつくだけあって、コンビニエンスストアなどで売っている菓子パンと似通っている。 今は特に食物を摂取する必要はない。しかし私にとって目新しいソレは少しばかり興味の引かれるものだった。 「いくらだ?」 「え、いや、お金はいらないですよ」 「何故だ? 売買ではなく譲渡ということか?」 「ええ、そうです。実はRe:non様のためにたくさん買ったはいいんですけど、ぼくあんまりこのパン好きじゃないんですよ」 「なるほど、奥が深いな」 「そういうわけで小さな子供とか、欲しそうな人に配ってるんですよ」 「私は小さな子供ではないが」 「見ればわかりますって。こんな子供いたらみんなビビりますよ」 男はわずかに呆れた様子で蜂蜜揚げパンとやらを私の手に握らせる。 私は呆れられるようなことを言ってしまったのだろうか……? 「それじゃ、ぼく帰りますね。家でRe:non様のイベントをチェックしないと」 「ああ、そうだ」 「何ですか?」 「ありがとうございました」 「へっ?」 「何故驚く? 厚意や助力に対しては、礼を言うのが人間として当然なのだろう?」 「え、ああ、そうですね。いえ、こちらこそすいませんでした」 男は私に向けてお辞儀をする。私も同じように頭を下げた。 「凄く礼儀正しい人なんですね。そういうの、いいと思いますよ」 男はそれだけ言い残して雑踏の中へ消えていった。 「……人間の基準はまだまだわからないことが多い」 市販されている書籍から得た知識が間違っていたというわけではないのだろうが……。 人の反応というのは千差万別で、明確な答えがない場合もある。 それこそ周りを歩いている大量の人間ひとりひとり、違う反応を返してくるかもしれない。 そのようなことは私が目を通した書籍には書いていなかった。抗議の手紙を送って修正させるべきか。 「…………」 決まった回答がないのが人間、というのが答えなのかもしれない。 だとすれば、私は何を道標にすれば良いのだろうか。 「ゴキゲンオー」 「…………」 人間についての考察はまたの機会にしよう。私にはやるべきことがあるのだから。 私は予定通り、喫茶店カフェ・ド・メントレに向けて歩き出した。 はずだったのだが―― 「…………何だ?」 前に踏み出した身体に反作用して後ろから引っ張る力を感じる。 何が起きたのかを確かめるため後ろを振り返る。 人間の子供が小さな手で上着の裾を掴みながら私を見上げていた。 「ゴキゲンオー!!」 「…………」 私は即座に頭の中にある、これまで記憶した言葉の辞書を開く。 だが少女の口にした単語に該当するものは引っかからない。 しかし私は慌てることはなかった。 「はい」 対人会話の中で、もっとも初歩的な言葉の一つであると同時に、汎用性の高い優れた言葉。 ニュアンスの違いで肯定にも疑問にもなる。 私は極めて抑揚を抑え、どちらとも取れるような曖昧な調子で言った。 「はい、じゃないよ。ごあいさつの言葉はゴキゲンオーだよ」 「……それはこの国の言葉なのだろうか?」 「およよ? ゴキゲンオーはゴキゲンオーだよ?」 「そうなのか。覚えておくとしよう」 また新しい言葉に遭遇した。後でノエルに聞いてみよう。 「それで、私に何か用でも?」 「わたし? わたしって言うのは女の子だけなんだよ? ヘンなの」 「いや、それについては反論させてほしい。“私”とは社会的集団の中において一個人を示す際にも使用される」 「女性の大半が用いる“私”と私が用いる“私”は似ているようで違うのだ」 「およよ? よくわかんないけどヘンなの」 「いや、だから――」 正当性を主張するため食い下がろうとする自分を制する。 相手は小さな子供だ。私以上に知識が乏しいのである。論理的説明をしたところで効果は薄いだろう。 「その話はもういい。私に何か用があるのだろうか?」 「……えとね!」 子供は未だ私の言葉に引っかかっているような顔をしていたが、言うべきことの重要さを思い出したようで大きな瞳を見開いてこう言った。 「まいごなんだよっ!!」 「迷子とは道に迷ったり同行者とはぐれたりするアレのことだろうか?」 「?? まいごはまいごだよっ! あのね、みつきちゃんとお散歩してたらね、たくさんの人がうじゃうじゃでね!」 「うじゃうじゃ、か。おもしろい表現だ」 子供の説明は一般的な文法から外れていることが多いらしい。 目の当たりにするのは初めてだったこともあり、多少なりとも興味の引かれる対象である。 「ぐるぐるバビョーンって飛ばされちゃってゴロゴロ転がってたらね、いつのまにかひとりぼっちになっちゃって困ってるんだよ!」 「あまり困っているようには見えないのだが」 「そんなことないよっ! ひとりぼっちじゃゴハンも食べられないよっ」 「あ、でもねでもね、さっき親切なおじさんがね、すっごくおいしいお菓子をくれたんだよ♪」 「それは良かった」 「うんうん♪ あれはおいしかったよぉ~♪ キラキラであまあまなんだよ」 「そんなものがあるのか。一度見てみたいものだ」 「いいよっ。ちょっと待ってね」 「タッタララッタッター♪ はちみつあげぱ~ん♪」 「ああ、それか」 偶然にも、先ほどの男から譲渡されたものと同じ菓子パンが少女の小さな手の中にあった。 「なんでなんで!? もっと驚いてくれないの?」 「私も同じものを持っている」 「あ、おんなじやつだー!」 「私も親切な男にもらったのだ」 とはいえ別段食料に困っているわけではなく、今口にすれば余分な栄養を摂取することになる。 人間で言うところの“おやつ”に該当するのだろうが、あまり間食は好ましくない。 そもそもこの菓子パン。全体を覆うように蜂蜜がコーティングされており、おそらく甘い。とんでもなく甘い。 私には必要ないものだが道端のゴミ箱に捨てようと思わないのは、男からの厚意を無駄にするのは常識的な観点から言って人間らしい行為とは言い難い。 さらに私と違ってノエルなら喜びそうだという点もある。どちらにせよ、破棄する利点は僅かばかり身軽になる程度のことしかないのだ。 「じーーっ……」 「どうした?」 「おいしそう……」 「おいしいかどうかは私よりもキミの方が知っているのだろう?」 「うん、もっともっと食べたいのです」 「ならばキミの持っているのを食べれば良いのではないか?」 「これはダメだよ! みつきちゃんの分がなくなっちゃうもん!」 「みつきちゃんはね、ツンツンしてるけど実はかわいい女の子だからお菓子も大好きだし、きっとはちみつあげぱんも食べたいんだよ」 「ツンツン? 鋭利な刃物でも持ち歩いているのだろうか?」 「ちっがうよー! 怒ってるんだけどそうじゃないの! でもほんとは怒ってるんだよ」 「でもそれはみつきちゃんのせいじゃなくてみんなが悪いんだよ! ぷんぷん!」 「ん……よくわからないのだが」 子供というのは噂以上に扱いが難しい。意志の疎通がとりにくいというのは思ったよりも面倒であることがわかった。 またひとつ社会の仕組みを覚えられたのと同時に、対応策もすぐに思いつく。 「つまり私が所持しているこれを渡せばいいのだな」 「えっ!? くれるの!? ほんとにほんと!?」 「ああ、私には必要ないものだ。キミに渡した方が有益だと判断した」 「で、でも、お金、ないよ!?」 「構わない。元々私も無償で譲り受けたものだ」 「わーっ♪ ありがとー♪ じゃ、えんりょなくいただきまーす♪」 「んーっ、おいし~よぉ~♪ キラキラであまあまだよ~♪」 「それは良かった」 迷子だと言った少女は根本的な問題が解決していないであろうにも関わらず、一切の悩みを感じさせない満面の笑みでパンを食べている。 さてと、私もそろそろ本来の目的に戻らなければ。 「では私はこれで失礼する。やるべきことが私にもあるんだ」 「もぐもぐ……んん、ふぁいふぁい」 少女はパンに夢中だったが、思い出したように私の言葉に応えた。 口の中に物が入った状態だったせいで上手く発音できていないようだったが、手を振ったところを見る限り、別れの言葉を口にしたのだろう。 「んぐ……あ、そうだ。ねぇねぇ、おにいちゃんの名前は?」 「名前……」 何の意味があってそんなことを聞くのだ。 躊躇いはあったが、子供の言葉に深い意味はないだろう。そもそも二度と会うこともない相手である。何も問題はない。 「赫。それが今の名前だ」 それだけ言って私は踵を返して歩き出す。 予定の時間には間に合いそうもなかった。 駅前の通りを抜けて住宅の立ち並ぶ歩道を歩く。 予定していた時間よりいくらか遅延しているが特に気にはしていなかった。 いくら人間社会では時間の概念が重要視されているとはいえ、仕事でもなければ数分の遅れ程度ならさして影響はないはずだ。 ただ一つ、私を悩ます問題があるとすれば―― 「ねぇねぇ、あかしくんあかしくん。あかしくんのあかしはどう書くの?」 迷子の子供に目をつけられたことだ。 「赤色の赤を二つ合わせて赫だ」 「絵の具のあかいろは混ぜあわせてもあかいろだよ?」 「絵の具の話ではなく漢字の話だ」 「漢字はむずかしくてあんまりわかりませ~ん」 「漢字でどう書くかを聞いてきたのではないのだろうか」 「カンタンなやつだったらわかるよ? 豚さんとか牛さんとかお魚さんとか」 「食用で出回っているものばかりだな」 「みんなおいしくて好き~。あとはね~」 「鳥」 「何故鳥にだけ敬称がないのだ」 「いやべつに。鳥は鳥だし」 「そうか」 そもそも他の動物に対しても敬称は必要ない。鳥にだけないのは気になるが。 ……いや、そうではない。私は何を普通に話しているのだ。 「一つ聞きたいのだが構わないか?」 「?? なぁに?」 この場において比較的必然性のある質問であるのだが、当の本人は心当たりが全くない顔で私を見上げた。 「……どうして私に着いて来るのだろうか?」 駅前で別れた後、少女は私の後を追ってここまで来た理由を問う。 特にこれと言った用件があるとは思えない。 「楽しそうだから!」 「はぁ……」 いけない、私らしくもないため息が出てしまった。 ……いや、思えば反射的に出た言葉にしては、かなり人間らしくなかっただろうか。 「悪くはない。いや、この状況自体は好ましくないのだが」 「ねぇねぇ、これからどこいくの?」 「メントレという喫茶店で人に会う。何故そんなことを聞く?」 「一緒にいくから!」 「一緒に来てもらっては困る」 「どーして?」 「…………」 これがある程度成長した人間であればそもそもこのようなことにはならないだろう。 赤の他人と理由もなく接触しない。人間社会における基本的なルールだ。 しかし基本的であるが故、国の定める法律などに明記されているわけではなく、私もどうして駄目なのかを上手く言語化することが難しい。 「そういうもの、だろう?」 「???」 ああ、駄目だ。やはりこの人間は幼さ故、常識的な観念が不足している。 知性の乏しい子供であれば致し方が無い。本来であればこの少女の親が面倒を見るのだろうが。 「迷子だと言ったか」 「そーだよ。まいごまいご」 「親とはぐれたのはどこだ?」 「…………」 少女の顔に初めて雲がかかる。わずかな時間しか話していないとはいえ、それまでの少女が見せていた無邪気さとはかけはなれていた。 しかしそれも一瞬のことで、すぐに調子を取り戻す。 「みつきちゃん」 「その“みつきちゃん”というのが親の名前か?」 「ちがうよ、みつきちゃんはみつきちゃんだよ」 「よくわからないが親とはぐれたわけではないのだろうか」 「さっきの場所でね、人がいっぱいいてね、気づいたらみつきちゃんがどっかいっちゃったんだよ」 “みつきちゃん”の情報は全くないのだが、大局的に見るといなくなったのはおそらくこの少女の方だろう。 確かに先ほどまでの駅前は多くの人間で溢れていた。はぐれてしまっても不思議ではない。 「であるのなら、あの場所を動かない方がいいのではないのだろうか?」 同伴者が意図的の少女と別れたのでなければ、今頃この少女を探していると考えるのが妥当である。 「んー、でもね、いっぱい探してもみつきちゃんいなかったんだもん」 「それは私に着いて来る理由にはならない」 「あかしくんと一緒にいないとみつきちゃんに会えないんだよーっ」 「…………」 意味がわからない。いや、今に始まったことではないのだが……。 野良猫に餌をやった後、後ろをついてくるようになった、という話を思い出した。 行動の選択に対する後悔はしても意味がない。重要なのは現状を打破することだ。 ……………………。 警察にこの少女を届けるべきか。 いや、彼らと関わりを持つのはノエルに固く禁じられている。新たに別の問題が生じる可能性は除外しなければならない。 ならば少々強引な手段で―― いや、それもまた同じことだ。 だとすると私の取れる選択肢はひとつしかなかった。 「一緒に遊ぶことはできない。私には行かなければならない場所がある」 「おさんぽ? いいよー♪ どんどんいこー♪」 少女は私の逡巡などおかまいなしに道を進んでいく。 「メントレの場所は知っているのだろうか?」 「えーっ? 知りませんよー! あかしくんが一緒にきてくれないとまいごになっちゃうよー!」 キミはすでに迷子だろう。 「いらっしゃいませ。おまちしておりました」 「こんにちは。遅れてすまなかった」 「いえいえ、営業時間内であれば、いつ来て頂いても私はここにいますから」 マスターはカウンターの向こうで白い皿を拭いていた。 店内を見渡す。客は私だけのようだ。 「今日は結構な数のお客様が来ていらしてたのですが、丁度一段落しまして」 「繁盛しているのは良いことだ。この店がなくなると私も困る」 「ふふっ、でしたら赫さんにも貢献して頂かなくてはいけませんね」 「善処する」 「ねぇねぇ、早く中に入ってよぉ!」 「おや、お連れ様がいらっしゃったのですか?」 「……私の本意ではないのだが」 一歩店の中に進むと、後ろから少女が勢いよく飛び出す。 「わっ!? ヘンな匂い!?」 「これはまた、可愛らしいお客様ですね」 「ねぇねぇ! ヘンな匂いがするよ!」 「これは珈琲の匂いだ。喫茶店だと言っただろう」 「いらっしゃいませ。お嬢さんには少し早いですかね」 「こーひーの匂いはじめて! こーひーこーひー!」 「赫さんのお子さんですか?」 「いや、そうではない。私に子供はいない」 「ふふ、冗談です。でしたらご親戚の方か何かですか?」 「迷子だ」 「迷子? それは困りましたね」 「まいごーっ!!!」 「何故か私に着いて来る。困っている」 「警察には?」 「いや、連絡していない」 「そうですね、あまり大事にしてしまうのもどうかと思います」 警察に届け出ないのは私達の都合だけしか考えていなかったのだが、マスターの解釈をわざわざ訂正する必要はない。 「いずれ飽きて家に帰るだろう。それまでの辛抱だ」 「それでいいのではないでしょうか。しかし、こんな小さな子供に好かれるのは失礼ですが意外でしたね」 「私も初めてのことで戸惑っている。人間の子供というのは皆こんな風なのだろうか?」 「はわぁ!? あかしくんあかしくん! ピアノがあるよ! すっごーい♪」 「どうなんでしょうね。私にも子供はいませんから」 マスターにもわからないということは、社会的常識に照らし合わせても決まった答えがない事例なのか。 「とりあえずこの少女のことは放っておいて構わない。私がどうにかしよう。それよりも、約束していた物は?」 「ああ、用意していますよ。今持ってきますので、お座りになっていてください」 「わかった」 マスターに促され、カウンター席に向かう。 「あ、まってまってー! 一緒にいくぅ――」 「きゃっ――!?」 私についてこようとした少女は足を取られて前かがみに倒れた。 走り出そうとした矢先――勢いについては申し分がなかった。 「ふぇぇぇぇぇっ……」 「大丈夫か?」 「ふええぇぇぇええぇえぇんん――!! 鼻がつぶれちゃったよぉ――!!」 「大丈夫だ。鼻は潰れていない」 「びええぇぇえぇえぇえぇんん――!!」 「どうしましたか!?」 「マスター、迷子の少女が転んで顔を打った。痛いらしい」 「それは大変です! すぐに救急箱を持ってきますから!」 マスターは扉の奥に消える。 「びええぇぇえぇえぇえぇんん――!! まえばぁ――!! まえばおれちゃったぁ――!」 「大丈夫だ。前歯は折れていない」 物事は予定通りに進まない。 「ぐすっ……」 転んだ少女が泣き叫ぶのを止めるまでかなりの時間を費やした。 マスターの用意した氷で打ち付けた箇所を冷やしている。 「すみません、全て片付けたつもりだったのですが……」 少女がバランスを崩したのは、床に落ちていた新聞紙の切れ端が原因だった。 「何故新聞紙が床に落ちていたのだ?」 「午前中にいらしたお客様の一人が、読んでいた新聞を破り捨ててしまったのです」 「新聞は破るものではない」 新聞とはそこに濃縮された情報を読み取るためにある。破ってしまえばその機能は損なわれてしまうはずだ。 「行動的なお客様でしたから」 「そうなのか」 マスターの言葉は直接的な解答になっていないように思えたが、さして重要性を感じなかったので追求はしなかった。 「はい、このくらいで大丈夫でしょう。まだ痛みますか?」 「……もうあんまり痛くない」 痛みが収まったと言う割には、その表情は今だ曇っていた。 「うう……」 僅かに赤みがかった鼻を撫でながら俯く少女。機嫌を損ねたようだ。 私としてはこちらの方が相手をする上で扱いやすいように思えたのだが―― 「本当にすみませんでした。おわびに何かご馳走させてください」 「!?」 少女の顔つきが明確に変化する。 「クリームソーダなどいかがでしょう。小さなお子様に大人気なんですよ」 「はい! 食べます! くりーむそーだ食べます!」 「わかりました、すぐに用意しますね」 「やったーーーー!! どんなの来るかなぁー、わくわく♪」 カウンターに腰かけ、宙に浮いた両足をバタバタさせている。犬が喜びの感情を示す行為に似ていた。 「先ほどパンを食べたばかりなのにまだ食べるのだろうか?」 「食べますよぉ? どーしてそんなこと聞くの?」 「いや、小さい割によく入るのだな」 「ごはんとデザートはベツバラなんだよぉ。だからいいんだって!」 「そうなのか」 「うん。でもね、ベツバラってどういう意味なのかな」 「自己に対する免罪符のようなものだと認識している」 「メンザイフ? よくわかんないけどベツバラでメンザイフだから平気なんだね♪」 「キミの好きにすればいい」 「はい、おまたせしました。メントレ特製クリームソーダですよ」 「うわぁ!? ねぇねぇすごいすごい! ジュースの上にアイスが乗ってるよ!」 「そうだな。私も知識でしか把握していなかったが、話に聞いたのと同じ作りをしている」 緑色に着色された炭酸飲料に半球の形をした氷菓が添えられていた。 「これ食べていいの?」 「どうぞ、せめてものお詫びです」 「やったー♪ いただきまーす♪」 少女はついさっきまでの沈んでいた感情など微塵も感じさせない無垢な笑みでグラスに手をつけた。 「おおおおおおおおおおおおお」 「おいっしーーーー♪ くりーむそーださんすっごくおいしいよ♪」 「ふふっ、お口に合ったようで安心しました」 少女は瞳を輝かせながらスプーンとストローを操る。興味の対象は完全に目の前のグラスへと注がれていた。 「マスター、頼んでおいた物なのだが」 「ああ、用意していますよ。少々お待ち下さい」 マスターはカウンターの下にしゃがみ込み、茶色い紙袋を取り出した。 「効果の方は期待しても良いのだろうか」 「もちろんです。即効性も高くて効き目バッチリの薬です。すぐに元気になりますよ」 「わかった。代金はいつもの口座に振り込んでおく」 「また何かあったらいつでもどうぞ」 マスターから受け取った茶袋を内ポケットにしまう。 倉庫に戻ったらすぐに試してみよう。 「ごちそーさまでしたっ♪」 「もう飲み終わったのか。早いな」 「おいしぃものはすぐになくなっちゃうのです」 「そう言って頂けると私も嬉しいです」 「さて……」 「お帰りになられるのですか?」 「ああ、早く薬の効果を試してみたい。それにあまり長居するとマスターに迷惑がかかるだろう」 「あかしくん、メイワクかけるようなこといつもしてるの?」 私ではなくキミだ――そう言ってしまうとまた面倒事が起こりそうな予感がして言葉を飲み込む。 「ではマスター、私は帰る。さようなら」 「またのお越しをお待ちしております」 「まってよあかしくーん、おいてかないでよー!」 走って私の後を追う少女。嫌な予感がした。 「きゃっ――!?」 またひとつ新しいことを覚えた。 新聞紙が落ちていようがいまいが、子供は転ぶ―― 「ふぇぇぇぇぇっ……」 《メントレ》〈喫茶店〉を出て、来る時に通った道を逆に歩いて行く。 「ねぇねぇ、これからどこいくの?」 「用件は済ませた。他にやることもない。倉庫に帰る」 「そうこ?」 「私が住んでいる場所だ」 「へぇ、あかしくんのおうちかぁ。じゃあいこっか」 「行かない」 「どーして?」 「私は行く。キミは行かない」 「どーしてどーして?」 「そこは私の家であってキミの家ではないからだ」 「でもお友達のウチに遊びにいくのはヘンじゃないよ?」 「私とキミはお友達なのだろうか?」 「一度会ったら友達で、毎日会ったら兄弟なんだよ?」 「それはおかしい。兄弟であるかどうかは生まれた瞬間に決められるものだ。血縁関係のない兄弟だとしても相応の手続きが必要と聞いたことがある」 「?? よくわかんないけどあかしくんはあたまいいんだねぇ」 「そんなことはない」 私以上に知識の乏しい人間と話したのは初めてだったせいでどうにも調子が狂う。 「(これ以上、この少女といると面倒なことに巻き込まれてしまうかもしれないな……)」 現にメントレからここまで歩いてくる途中、軒先で話している女性たちの会話が聞こえてきた。 内容は私達について。 どういう関係なのか訝しんでいたようで誘拐だ警察だ、などとも聞き取れた。 私のような風貌の男と少女の組み合わせはよほどミスマッチなものに見えるようだ。 どちらにせよ今から倉庫に戻るという状況で、この少女を連れていくことはできない。 「(…………撒くか)」 仕方がない。こうでもしなければこの少女はどこまでも食い下がって来ると思われる。 幸い、私はこういった状況に効果的な方法を目にしたことがある。 本だったかノエルの見ていたテレビだったかは思い出せないのだがこの際どちらでも問題はない。 周囲に他の人間がいないことを確認する。 決行は今しかなかった。 「大変だ。空にUFOが浮かんでいる」 「え!? どこどこ!?」 少女の視線は私の指さした空に向かっていた。 私は足に蓄えた力を開放して上方に向かい飛ぶ。 着地地点は前方にある店舗の屋根だ。 「ねぇねぇ、どこにもいないよー? UFOさんどこにもいないよー」 「およよ? あかしくんもいない!? どこいっちゃったの!?」 突如として私の姿が消えたことで動揺する少女。 その姿を屋根の上から見下ろす。 「は!? もしかしてあかしくんはUFOさんの存在を隠すために連れ去られちゃった!?」 「た、タイヘンだぁ! UFOさん待ってぇ!! あかしくん連れてっちゃダメぇーーー!」 少女は空を見上げながら走りだした。 曲がり角でその姿が見えなくなった頃、私は身を隠していた屋根から飛び降りる。 問題は解決した。 街路樹から飛び降りた瞬間を見ていた人間が訝しげにこちらを見ていたが、私は無視して倉庫のある旧市街に向かって歩き出した。 ちゅうぅうぅう~~~~~~。 「ぷあぁあ~~~~~!! 水うめぇっ! ミネラルウォーターうめぇっ!!」 臨時の仕事でほどよく疲れた身体に水分補給。これ大事。 今日は見積もりと簡単清掃だけだったから肉体労働レベルは低かったけど……。 「久々だったからなぁ、あそこまでヌチャヌチャになってるのは」 作業中は無心でやるけど、思い出すと結構キツイ。 嗅覚を殺してる俺でも、あの臭いは完全には遮断できなかった。 気を抜いたが最後、ハンパな仕事になってしまう。 「つらい仕事は全部俺任せ」 はぁ…………ホント……ほっとする。 一番厄介で、面倒な、《チョコ》〈粘土〉の現場を振ってくれる。 社長が俺を見限らず、信頼してくれているのが仕事内容一つで手に取るようにわかる。 「クッフッフ」 「……? 誰かそこにいるのかな……?」 「クッフッフ~。再び出逢ったな我欲の放浪者よ。運命には抗えない、何故なら運命の方が私を必要としているからだ」 「可愛い邪鬼眼使いだと思った? 残念! なるちゃんでした!」 「――――ってなるちゃんは充分かわいいよ! 失礼なっ」 「なるちゃん……キミってやつは……」 なるの笑顔もこの時ばかりはいたたまれなかった。 最初から最後まで自分一人でボケもツッコミもこなして、俺の哀れみの目もなんのその。とても健気に生きている。 「本当に家なき子だったんだね……!」 「違うって! 明らかに違うじゃん! 路上占いだよ見てわかってよ!」 「ウチでよければ部屋余ってるし、社長に掛けあってみるからね……」 「家がないのは事実だけど、へーきへーき。屋根がある場所なんていくらでもあるし」 「うぅ……なるちゃん……お腹減ったらいつでもいうんだぞ……? ヘンな奴に絡まれたら飛んで行くからね」 「はいはい、立ち話も何だから座って。汚いトコですが、ど・う・ぞ♪」 「ホントだ汚い。キノコ栽培してるのってレベルでむさ苦しみすぼらしい。ハンカチを敷くしかないね」 「うるさいっ! 少し汚れてるくらいが味があっていいの! 綺麗な占い屋は大抵が嘘っぱちだわ」 「冗談だよ。こんな可愛い子に占ってもらえるなら、みんなほっとかないだろうな。繁盛するでしょ?」 「そういうお客様はすぐわかるし、私は相手を選ぶからさっぱり。開く場所も占いで決めるしね」 なるは大げさな手振り身振りで貧乏アピール。 それからふっと顔を上げて、何かに気づいたように俺を凝視する。 「俺を不審者を見るような目で見ないでくれ」 「優真くん変わった香水つけてる?」 「これが噂のニオイ占いか」 「ワクワクされてもそんな占いないって……。ねぇ、これって……優真くん、ヤバイ事に片脚突っ込んでない?」 「なると俺はまだ健全な関係だろ。加速度的に進展して、片脚どころかどっぷり浸かって抜けられなくなるのは今度の予定さ」 「……優真くん、何してる人?」 セクハラ発言を躱して単刀直入に来た。 やましい事も、恥じる事もないんだけど、言い難い。 「俺はイマドキどこにでもいるような、働き者の学生のつもりなんだけど」 「……じゃあもっと直接聞こっかな」 「どうして《・・・・・・・・》〈腐ったタンパク質〉の香水なんてつけてるの?」 「いやいやいや。好きでつけてるわけじゃないよ……」 腐敗臭――死臭とも言うけど、なるはそれを嗅ぎとったようだ。 無理して隠す必要もないだろう。 「今日の現場、《チョコ》〈粘土〉だったから――――って、これじゃわかんないか」 「チョコ大好きっ!」 想像してるチョコとはきっと違うんだけど……。 「話してもいいけど、確実に気分を害すよ」 「水商売だっ」 「水商売、素敵じゃん」 「うん、素敵かもしれない。だって仕事そのものに良し悪しなんてないもん。要は働いている人の問題だもん」 「誇りを持って全力で取り組んでいるかどうか、その輝きだけが評価の対象だと私は思うわ」 誇り……。 そんなたいそうなものじゃないけど、“全ては社長の為に”を信条に頑張ってはいるつもりだ。 なるの考え方なら、話しても受け止めてくれるのかなと思える。 「ウチは――“百合かもめ”は《ライフ・ケア》〈特殊清掃〉の業務をやってて、俺は社員とバイトの中間で働かせてもらってる」 「《ライフ・ケア》〈特殊清掃〉ってのは、口で言えないような状況に置かれた悲劇の現場を元に戻す仕事。そういう仕事をする人を、“《クリアランサー》〈片付け屋”って言うんだ」 「………………」 「で、《チョコ》〈粘土〉ってのは水場――9割方は浴槽リスカで亡くなったホトケさんの現場を差す用語」 浴槽が粘土みたいにぬっちゃぬちゃ真っ黒で、どろっとチョコっぽいから、通称《チョコ》〈粘土〉。 身体に染み付くので着替えても風呂に入るまでは臭う。 「特に《チョコ》〈粘土〉の現場は最も厄介な仕事で、特別報酬が付く」 「よっぽどでなければ、手馴れてる俺が担当員だね」 自分でも、ちょっとダメかなとは思う。 何が? と言われれば、もちろん。 こういうことがスラスラ言えてしまうということが、だ。 「辛くない? そういうのに“慣れる”のって」 「……日々の飯の種だから、順応はするよ。作業効率ってのは、やっぱり必要だから」 「慣れないのはメンタル面」 「現場に、二つ分のロープがぶら下がっていた時なんか、泣きそうになるよ」 ……楽しくないよな、こんな話。 「ばっちぃでしょ? ははっ、脚のいっぱい生えた虫とかもうじゃうじゃだし。あははっ」 「立派だと思うわ」 無理して言ってくれたのかもしれないけど、素直に受け取らなきゃ罰があたりそうだ。 「私ね……『蛾と蝶の明確な区別ってないのに、蛾が嫌われるのはなんでかなぁ』って考えたことがあるの」 「は、はぁ……俺はないよ?」 “脈絡”なんてものは当然なくて、俺はちょっと戸惑った。 菜々実なるは雑学王だったりするのだろうか。 「綺麗な模様を背負って羽を広げて止まる蛾もいるのに、蛾だとわかった途端に煙たがられる」 なんとなく、わかる。 “蝶”は、芸術分野でも幅広く好まれ、賛美される。 “蛾”という単語の入った歌は、すぐ思い浮かばない。 「考え続けたら、ピンと来たの。これは私なりの答えで、きっと模範解答じゃないんだけど――――」 「蛾は“蝶”であることを進んで捨てたんじゃないかな」 「捨てる……諦めるって事? それとも、蝶か蛾に生まれてくる権利を持ちながら、あえて蛾を選んだって事……?」 「そう!」 ビンゴらしい。 俺だったら“蛾”の持つ印象がヒトにとって悪いってだけで済ませてしまうだろう。 「“蛾”は“蝶”の鮮やかさを立てるために、自分から汚れ役を背負って生まれてきた」 「きっと優真くんの仕事は、《・・・・》〈そっち側〉なんでしょ?」 うーん……喩えがわかりずらいけど……。 「概ね、正解かな」 なるはこう言いたいんだろう。 《ニクづくり》〈屠殺場〉や《イヌゴロシ》〈保健所と同じ、誰もが目を背けながら、けれど誰かがやらなきゃならない〉――――人材不足で必要不可欠な仕事に携わってる人。 確かに人の嫌がる仕事をするのは好きだ。 座りたくない席を俺という人間が埋めてあげられるから。 けど……最も大事な事をなるは忘れている。 「単純に、金ががっぽがっぽだからやってるってだけだよ」 「……それ言っちゃお終いでしょ」 がっくりと肩を下げるなるを見て、自分の評価が3段飛ばしで落ちたことを確信した。 「さーて、俺はがっつり働いてきたんだ。今は客としてなるちゃんの占いを受けさせてもらうよ」 「お昼のお礼もあるから、タダでいいよ。さぁ、何を占って欲しい? ズバッと当てちゃうわよっ」 「またタロット?」 「あれは名刺のオマケ。乱数要素の入る《ぼく》〈卜〉占いは専門外だから、ア・ソ・ビ」 「はいはーい! 先生、はーい! 何のことだかさっぱりわからないんですけどー!」 「お客さんはさっぱりでいいのよ。説明したってわかりっこないんだから」 「へー。で、俺はどうすればいいの?」 「占い師様に左手のひらを差し出すがいいわ」 「ハハァ! お願いします……!」 手のひらを上にして見えやすい位置に伸ばす。 「俺知ってるよ、手相占いでしょ」 「手相占いは星占いやタロットとは違って、結果を伝えるだけに留まらない。開運のサポートをすることだってできるのよ」 仕事の顔つきになったなるは、ざっと手のひらを見る。 「掌紋がハッキリしないわね。手の皮が剥けてる……溶けてる……?」 「軽装備で仕事してるからかな。強力な洗剤使った時なんかに、集中しすぎててゴム手袋の隙間から入ってることに気づかない事があるから」 「そうなんだ、大変だね。でも大丈夫だよ、丘と重要な線は生きてるみたいだから占えるわ」 集中し始めたなるは、俺の手首を持って手のひらを支えた。 細かい皺を確かめるようになるの指がすべり、くすぐったい。 「なるちゃんなるちゃん」 「ん?」 「気持ちいいよ」 「触れただけで!? ダメ人間だなぁ、これでもかってくらいダメだなぁ」 「そのまま揉んで欲しかったりなんかして」 「はぁ……働く頑張り屋さんだもんね。いいよ、優真くんの為に、仕事の疲れを癒してあ・げ・る」 NOと言えないなるのサービスマッサージが始まった。 ぷにぷにの指の腹で圧されて極楽気分。 「なるちゃんの指が絡まって気持ちい~」 「お客さーん、凝ってるとこないですかー?」 「反対の手もぷにぷにして欲しいかも~」 「はーい。ここですかー?」 「そこそこ、そこのツボ……あ~きもちぃ~……なるちゃん上手だね……最高ぉ~」 「そりゃあプロですからー。手のひらのツボは幸せの数だけあるんですよー♪」 「プロのテクやっばい……ハマりそう……通うよー毎日通うー……」 優しく包まれてもみもみぐりぐり。 「はぁ~…………ご苦労様。なるちゃんのマッサージ屋、凄く良かったよ。また来るね」 「うん、疲れたらまた来てね」 「今度は奮発してアロマオイルのコースにしようかな。なるちゃんの手で紙オムツ履かせてもらうの、楽しみだ」 「――――って違う違う違うぅぅっ!!! 占い屋だってばッ! 占わせてよ、お願いだからっ!」 「お、虫眼鏡! 本格的だなぁ」 「天眼鏡っていうんだよ! 占っていいですか? いいですよね!?」 「そんな必死になられたら、こ・わ・い」 「私のマネをす・る・な!」 「はははっ、悪かったってば」 長かった茶番が終わる。うっとりするほど気持ちよかったのは、茶番でもなんでもなく、本音だけど。 「じゃあ俺となるちゃんの恋愛の相性でも占ってもらおうかな。初夜はいつで、式はいつとか、子供は何人恵まれるとか、なるべく具体的に」 「ヤダよ変態」 「怒っちゃった? なるちゃんが可愛いから、ついふざけちゃったんだよ」 「うるさいわ。優真くんなんかを普通に占っても時間の無駄だってわかっただけよ」 「メニューに載ってる特別招待の“《リーディング》〈虹色占い〉”っての受けてみたいんだけど」 「話聞いてください。“《リーディング》〈虹色占い〉”コースは代金の代わりにチケットが必要です」 「残念だなぁ、なんかおもしろそうな名前なのに」 「チケットが必要です」 「ん? 何で二度も――――あ」 ピンときた。 昼間のタロット風、名刺を渡す。 「これこれ。“《リーディング》〈虹色占い〉”は受けたくてもなかなか受けられないんだぞ? この幸せ者っ!」 あれ? と思う。 なるの顔がすこし紅いのは気のせいか。 「“《ボッカ・テラ・ベリタ》〈真実の口〉”ってわかる?」 「石でできた有名なアレでしょ? 手を口に入れて偽りの心があると抜けなくなるって伝説の」 「“《リーディング》〈虹色占い〉”発想の由来は“《ボッカ・テラ・ベリタ》〈真実の口”なの。五指の紋と掌の裏表、合計7つの情報からその人の“隠された真実”を読み取る〉」 「ってことは真実の口のミニチュア版でも持ってるのかな? 楽しみ!」 「…………じーーーーー……」 「ん? どうしたの、なるちゃん。視線感じまくりなんだけど」 「優真くんは、見返りもなく私を空腹から救ってくれたから……特別なんだよ?」 「男の子にするのは初めてだけど、優真くんなら私もいいかなって思えるの。だからしてあげるの。そこの所、ちゃんとわかってね?」 「ど、どういうこと?」 「か、覚悟できた?」 なるは最終決戦にでも望むような緊張の面持ちで、つばをゴクリ。 どうやら真実の口への挑戦は勇気が試されるらしい。 もしかしたら想像を絶する痛みを伴うのかもしれない。 女の子なら出産の痛み。男なら、尿路結石みたいな。 「………………」 「大丈夫! 俺はいつでも覚悟完了! もじもじするなるはプライスレス!」 「それじゃ……ホントにやっちゃうわよ?」 「ああ、真実の口でバクッとやっちゃってくれよ。バクッと! そして俺の真実を暴くんだ!」 「うん……じゃあ…………ジッとしててね……」 さぁ、何をされるのやら―――― 「バクッ!!」 「ふひゃあ!?」 ――――え? えええええええええッッッ!!? 「……ん……ちゅ……ちゅ…………」 恥じらう美少女のおしゃぶり展開なんか予想だにしてない。 だが、うろたえるのはダメだ。 堂々としていればいい。 これはやましいことじゃない、占いだ、占い。 「な、なんて不思議な占いなんだろうなー。確かに、幸せ者かもしれないなー」 「……ん……んふ……」 ぬめる舌が指を這う感触。温かくて気持ちいい。 舌で指紋を読み取るなんて前代未聞すぎて理解が追いつかない。 まさか五指すべてにコレをするわけじゃ……ないよな? 「う、うーむまさしく真実の口。いや、なるちゃんの口。なるちゃんの口……」 「……ん……ちゅ……ちゅ……れろ…………」 「えっと……指はちゃんと洗って、消毒してあるから……汚くないよ……?」 何を言ってるんだ俺は。 「んー……かぷ……んもんも……」 「ぅ……ぅあ」 あま噛みに声が抑えられない。 ダメ。ヤバイ。ドキドキする。クラクラする。 あ――――性懲りもなく、またポンコツ発動か。 「――――ッ!?」 と。唐突に外気に晒される指。見れば、なるが弾かれるように指を放していた。 「お、終わったの? 結果は?」 「………………」 俺の指となるの口元とを繋ぐ唾液の橋が、プツンと切れる。 「……わ、わかんなかったわ」 「何も……?」 「うん……」 「えー、占い師失格じゃん! 指一本じゃきっと情報が足りなかったんだよ、ささ、他の指もどうぞ」 「結果発表~! 優真くんの心の闇は遥かなる悠久の向こう。私が踏み込んでいい領域ではなかったのであえなく撤退となりました~!」 「わーテキトー」 “隠された真実”なんて大げさな事を言うから気になったけど、所詮、俺にそんな大層なものはない。 「…………優真くん、さ……」 「ん?」 「…………ううん、なんでもない」 「歯切れが悪いよ。占いの結果が悪すぎて、教えてくれないとかそういうやめてね」 「偉そうに言えたことじゃないけど、ホントにわからなかったわ。やっぱりもう一回、普通に手相占いするね」 「いや、充分堪能したから。なるちゃんとの関係が進展したのはデカイ」 「指、ごちそうさま。あんまり美味しそうだから、あのまま占ってたら食べちゃってたかも」 「うわ、怖ッ! ん、待てよ……? なるちゃんに食べられるのはアリか……」 「クッフッフ。骨ごとムシャムシャ♪ 取り込んでやろうかー」 「今度、骨ごと食べれる焼き魚のうまい店、連れてってあげるよ。財布が空になるまで食べ放題」 「わーい! 優真くんは良い人だわっ♪」 「なるちゃんにとっての良い人であり続けられるように努力するよ。ところで、この唾液のついた指を舐めるのはオッケー?」 「オバカちゃん」 ハンカチで丹念に拭いてくれた。 「――――あ、ヤバ」 気づき、時刻を確認する。 食事の支度前にシャワーを浴びる時間はギリギリある。 「俺、速攻で帰んなきゃ。ホントにお代、いらない?」 「クッフッフ。取らないったら取らない。次に逢うまで死ぬなよ、盟友!」 「さらば、また逢う日までっ! “《アラウンドザワールド》〈ATW〉”」 ナンノコッチャだけど、なる流の“さようなら”をマネをした。 背中を向けて走りだしても、なるが手を振ってくれているのが何となくわかった。 帰ろう。家族が待っている。 今日はいつもよりも騒がしい一日だった。 旧市街に足を踏み入れると車の音や人の声などが遮断され、住む世界の違いをより鮮明に浮かび上がらせる。 本来の機能を失い廃れた旧市街の空気を吸うと、肩の荷が降りたような感覚を覚える。 それは私がまだ人間の立っている場所から離れている証拠である。 ここで生活を始めてから7年ほどの時間が経過してもなお、私はまだ人間に遠く及ばない。 子供一人、思うように扱えないようでは、環境に適応するにはまだまだ時間がかかりそうだ。 倉庫の扉を開ける。南京錠は外れており、中に誰かがいることを示唆していた。 さてどう話を切り出すべきか。 私は羽織っていた上着を脱ぎながら、今日の出来事について考える。 「ただいま」 「おかえりなさい」 「順調か?」 「ええ、そりゃもう」 ノエルは人間社会についての諜報活動に真剣だった。 「マツナカ、アウトー!」 「まっちゃんそらいかんで」 「ん? 聞きなれない言語だ。新しい言葉か?」 「いや、残念ながらこの情報は人間社会において役に立ちませんね。一応最後まで確認しますけど」 「そうか、何かわかったら教えてくれ」 「もちろんです。うっわー、いたそー」 人間のことをもっと詳しく知るために勉強しているノエルを邪魔してはいけないな。用件は手短に済ませよう。 「ノエル、少し話をしてもいいだろうか」 「それよりも、何か忘れていませんか?」 ノエルは視線をテレビに向けたまま口を動かす。 「ああ、すまない。ノエル、愛している」 「私もですよ」 ノエルは目線を寄越しながら私の言葉に応えた。 「いつも思うのだが、このやりとりは本当に必要なのだろうか? 私には良くわからないのだが」 「説明したじゃないですか。愛とは人間性を理解する上で避けて通れない道です」 「形だけでも習慣づけていけば、きっと私達もいつか愛を理解することができますよ」 「そういうものか」 「そういうものです」 優しく微笑むノエル。彼女が言うのであれば間違いはない。 去年から人間の学園に通い出したことも、この世界に適応するため始めたことだ。私よりも遥かに人間について詳しい。 「今日は随分遅かったんですね。確か新市街の喫茶店に行くと言ってた気がしますけど」 「ああ、少しばかり面倒な事態に巻き込まれた」 「面倒?」 ノエルの顔が曇る。私はすぐに言葉を続けた。 「いや、面倒だったというだけでもう解決している。ノエルが心配するようなことは何もない」 「そうですか。それならいいんですけど」 ノエルの心配事とは私達の存在が公になってしまうこと。 人間が放棄した旧市街に住んでいる理由もそれだ。 「キミに心配をかけるつもりはない。だから――」 「“キミ”じゃなくって“お前”、ですよ」 「ああ、すまない、今日はいつもより多くの人間と会話をしたせいだ」 ノエルはいつも“お前”と呼ぶことを要求する。 理由はわからない。とにかく彼女がそう言うのなら私は従うだけだ。 ただ一つだけ――ノエルが誤解していることがあった。 「今日会った人間の中に、兎の仮面を付けた男がいた」 「へぇ、それは珍しい人もいるものですね」 「ノエル、私は浮気をしていない」 私はもう何度言ったかわからない台詞を口にした。 「キミが疑うようなことはしていないし、やろうとも思わない」 「お前」 「お前が疑うようなことはしていないし、やろうとも思わない」 「何の事ですか? 私にはご主人の言ってることがよくわからないんですけど」 「疑うことはいい。疑いとは人間の誰もが持つ感情だ。人間らしいと言えるだろう」 「しかし、言いたいことがあるなら私に直接言ってほしい。そうすればお互い余計な手間が省ける。そうではないだろうか?」 「私がご主人を疑うわけないじゃないですか。もし仮に疑いを持ったとしても、私に咎める権利はないですよ」 「ご主人は私のご主人ですから」 私はノエルに主従関係を強制するつもりは全くない。 彼女が私をご主人と呼んだり、私のためにあらゆる些事や世話を焼いてくれていることも、ありがたいとは思えどそれを強いるつもりなど皆無だ。 私はノエルを信用しているし、ノエルもそれに応えてくれている。何も問題はない。 ただひとつだけ、ささいな行き違いを除けば―― 「まあまあ、いいじゃないですか。別にその兎、ご主人に何かしたってわけじゃないんでしょう?」 「約束の時間に遅れそうになった。水やりの時間を奪われたのだ」 「それはまああれですよ。その兎さんはきっと神様に遣わされた使者なんですよ」 「神の使者?」 そういえば、昼間の駅前に神が来訪していたと聞いたが。 「きっとご主人の自覚していないところで、神様を怒らせちゃったんでしょうね」 「神は私の浮気などに興味はないだろう」 「どうでしょうね。ともかくこれからいい子にしていれば、きっと兎さんが来てご主人の土いじりを邪魔されることもなくなりますよ」 「……だといいのだが」 結局今日もノエルを説得することに失敗した。 仕方がない。今度はあの兎が来ても良いように、やるべきことはさっさと済ませることにしよう。 「さて、ご主人、帰って来たばかりですから喉乾いてるでしょう? 何か用意しますよ」 「……まさかとは思うが」 「はい? 何ですか?」 悪戯な笑みを浮かべて冷蔵庫の中から麦茶を取り出すノエル。 「いや、何でもない。ノエルと同じもので構わない」 「栄養ドリンクは?」 「今日は夜から仕事がある」 「ふふっ、冗談ですよ♪」 麦茶のコップが置かれる 「ありがとう」 「どういたしまして」 ノエルが私にコップを差し出すが、そのコップを私は受け取ることができなかった。 「んっしょ……んっしょ……」 倉庫の扉がゆっくりと開き、来訪者の姿を捉えた私の視線はそこから動かせなかった。 「あ、あかしくん!」 「ど、どうしてキミがここにいる……!?」 「えへへ、ゴキゲンオー♪」 人間ではない私の場合、人生と言って差し支えないのか不明だが、仮にそれが許されるのであれば人生で一番驚きを隠せない瞬間だった。 「う……」 ああ。 手元からコップを落として固まっているノエルを見て、私は覚悟した。 もしかしたら、今日の仕事はキャンセルかもしれない―― 「う、浮気通り越して隠し子ですかっ!?」 「おーし、できたできたっ!」 夜の献立は合い挽きハンバーグをメインに、余り物の漬物やらサラダやらコロッケなんかを出してテーブルを彩る。 缶詰やパウチの“開封”だけで済ませるのは楽すぎるから、『~~のもと』とかでちゃちゃっと炒めた出来合いの物に一手間を加える。 凝りすぎず、凝らなさすぎない。 それが数年間変わらない、我が家の食卓。 「お疲れ様、兄様。ん、いい匂い」 「当然。水瀬家の胃袋を満たし、幸福を届けるのも俺の仕事だからね」 「家庭的で仕事にマジメ、女の子に優しい。これで黒縁眼鏡を掛けてたら、典型的なロールキャベツ系男子ね」 「ロールキャベツ系ってなに?」 「私が知ってる事は全部、兄様も知ってるでしょ」 肩を落としてため息をつく結衣。 確かに《バラシィ》〈零二〉から教わったから、言葉の意味は知ってる。 容姿、言動は草食系男子、ここぞというときに肉食系男子に豹変する奴。 「仮に俺がそうだとしても、相手にバレてるならただのピエロだろ。俺が狙ってるのは結衣なんだからさ」 「はいはい。夏野菜の揚げ物は食べる直前に揚げよ? 手伝うから言ってね」 「了解。く~~、ウマそう」 「賞味期限はまだ先だけど、蜂蜜揚げパンの大量在庫もちゃんと崩していってね?」 「あ、ああ。どんとこい」 妹様の笑顔を死守するため“飽きてきた”の一言は飲み込む。 「今日のノルマ、30個ね♪」 「お……おう……」 「♪」 「もしかして……怒ってらっしゃいます?」 「何の事? あ――――違うよ?」 「私に黙って生Re:non様のイベントに参加した上……」 「プライベートで手のひらにサインを書いてもらっておきながら死守できず仕事で洗い落ちちゃった事なんて――――全然怒ってないよ?」 「い、いずれ消えちゃう物だろっ! というかなんでそこまで知ってるんだよ!」 「兄様の事はなんでもお見通しです」 キッパリ。我が妹ながら恐ろしいが、怒らせなければ天使だ。 「手首を切り落として保存すればよかったじゃない」 「そんな考えに至るわけないじゃんっ! 俺死んじゃうじゃんっ!」 「え? 兄様、自分の命と私の命どっちが大事なの……?」 面食らい、続く言葉が出てこなかった。 結衣にしてみれば冗談だろうけど、そんな冗談が飛び出す事が冗談ではなかった。 「笑えない……そういう冗談は」 「兄様には失望した」 「ちょっと、ゴメンって! どこ行くの!?」 「どこにも行かないよ。今日子さんが気持よく汗を流せるように湯加減を見てくるだけ」 「真剣にご機嫌ナナメ?」 ヘタに追いかけてもさらに機嫌を損ねるだけだろう。 放っておけば、あっちからひょっこり出てきて、構って攻撃を仕掛けてくるはずだ。 「――――何事?」 下の事務所から鳴り響いてきたのは、こんな時間にあってはならないビルの解体作業みたいな轟音。 音は一度切りで止んだが、食卓の汁物は波打ってお椀からこぼれた。 物騒な世の中。用心して見に行くとする。 まぁ――おおよその予想は、ついてるけれど。 「ちょっと、ウチの事務所兼住居は現役だよ? 解体予定はないんだけど――――」 クレーム口調で事務所に降りていくと、いつもより視点が高く感じた。 「え……?」 ものの数秒で俺の身長が伸びたわけではない。 単純に床に金属的な板状のナニカが敷かれていて、それを踏んでいただけだった。 硬くて一箇所だけベコンとへこんでいるソレに見覚えはあったが、ソレを踏んでいる事実に納得ができずに視線を戻した。 「………………」 事務所の入口が開けっぴろげになっている。 そこにあるはずのモノがない事に気づいた。 だとするなら、俺が踏んでいるのは――――。 《・・・・・・・・・》〈事務所のアルミド〉アで間違いなかった。 「愉快愉快ー。“《クリアランサー》〈片付け屋〉”にケンカを売るのがどういう事か、身を持って知りたまえー」 「ドアやっつけたの!? ねぇ今やっつけたのドアだよね!? 開いたり閉まったりするだけの無機物さえ退治しちゃう姿に痺れる、憧れるーッ!!」 「めろんめろ~ん」 俺は歓喜のあまり王の凱旋を拍手喝采で迎える国民のように飛び跳ねた。 「おみごと今日子さんっ! よっ、世界一っ!! 惚れる~!」 「出迎えの言葉はおかえりなさいだろうがー、バカタレ古参アルバイタめー」 「今は仕事中じゃないんだから、優真って呼んでくれなきゃ嫌だよ社長」 「そうだったなー悪い悪いー。ゆーま、拾っておきたまめろん」 「わっかりました」 おかしな語尾を付ける(いつもこうだっけ?)今日子さんに嬉々として従い、足元のドアを壁に立て掛ける。 続いてドア枠を確認すると、見事に金具類が折れ曲がり、壁に亀裂が走り、コンクリ片がパラパラと散っていた。 「さっすが今日子さん、派手にやったなぁ。無理矢理ハメておくけど、早めに業者呼ばなきゃ不法侵入し放題だ」 手配の電話は後で掛けるとして……。 「ちなみに参考で聞きたいんだけど、ドアの野郎は今日子さんに何を仕掛けて来たの?」 「話せば長くなるが……帰り道からずっと、吸血鬼が私の周りをうろちょろしていたのだよメロン」 「えっと…………蚊?」 「うむ、そうとも言う。私も大人だ、最初は無視をしたのだが、強情な奴でなー。事務所のドアに止まって退かないのだよ」 「今日子さんの道を塞ぐなんて、命綱無しで高層ビルの窓拭きをするようなものじゃないか」 手をぷらぷらさせる今日子さん。 手の甲がほんのりと赤くなっていた。 「相手は虫だ。交渉の余地はない。この時点で私は戦いとみなしたわけだが――――戦いは常に全力でなければならない」 後はご覧の有様だった。 蚊を相手にドアをも壊す、ファニーでスパイシーな人。 《どくりつふとう》〈独立不撓〉――――社長を一言で現すならコレに尽きる。 「とりあえず、次は絶対に壊れないドアか楽ちん自動ドアにでもしようか」 「ゆーまのセンスに任せる。好きにしたまえー」 「はーい」 「ゆーまは私といるといつもニコニコだな。そんなに私が好きなのかー?」 「社訓復唱! “全ては社長の為に”!」 「やはー♪ いい言葉だなー、その心がけだぞ、ゆーまー♪」 「とりあえず上に行って、服のままシャワー浴びちゃってよ」 「私を臭い奴呼ばわりかー。4件も処理してきたというのに、まったく酷いやつだー」 死の香りは勲章だ。臭いが濃ければ濃いほど、仕事をこなした証だから。 「洗うのめんどーだなー。ゆーま、洗ってくれるかー?」 「ダメです。困らせないでください」 「ケチンボめー」 「ああ、ちょっとちょっと、そっちじゃないでしょ」 「無事だったようだなーキンコーン♪」 いつも眠っている社長机の下には小さな金庫が入っている。 事あるごとに頬ずりをしているが、現金を置いているのか、宝石が眠っているのか定かではない。 どの道、今日子さんの物に手を付けようなんて考えはないのでどうでもいいけれど。 「さっきの蚊が完全に潰れていたか確認しておきたまえー」 確認もなにも、もともと小さいんだから跡形もなくなっていると思う。 「確認する意味は?」 「わかっているだろう?」 「私が潰したんだ。私が奪ったんだ。私の意志で終わらせといて、償う気は無い――――だったら一つだろう」 「了解です」 限りある生命を摘むなら責任を持つ――――仕事柄、今日子さんが大切にするスタイルであり、俺にも色濃く根付いている。 ドアにもし蚊の残骸があったら(多分ないけど)、俺は今日子さんの飲む夕飯のスープに入れる。 “食べる為に殺す”。 それは生命を奪う上で最もシンプルな理由。 これが間違いなら、ほぼ全ての動物は設計ミスだ。 すべての命は、循環する。 「わーっ、天井すっごく高いよぉー。おっきぃおうちだねぇ♪」 「…………」 「うわぁー♪ このソファふっかふかだよぉー♪ ぼいーんぼいーん♪」 「……ちっ」 いけない。ノエルの機嫌が隠し切れないほど悪化している。 どうにかしなければ、今日の仕事に遅れることは避けられない。 「ノエル、これは違うんだ」 「出たっ! 浮気したダンナの言い訳人気ランキングナンバーワン!」 「? よくわからないが、お前の思っていることとは違う」 「ええそうでしょうね。まさか私も既に子供まで作ってるとは思いませんでしたよ。あの使えないクソ探偵、後でボコボコにしないと」 「だから違うと言っているだろう。私は浮気などしていないし、この子供は私の子供ではない」 「だったら何なんですか? えっ!? まさか……そんな!?」 「そんな?」 「この子供が浮気相手……!? 私がご主人の性癖を見誤っていたというのですか……!?」 「話を聞いてくれ」 「私のダイナマイトバディよりも、こんなツルベタ少女の方がいいだなんで……」 「あ、そうだ、手術に行こう。ご主人の理想にピッタリな身体を手に入れよう。金で」 「ノエル、落ち着いてほしい」 「ねぇねぇ、あかしくん、テレビのリモコンどこぉ? これあんまりおもしろくないんだけど」 「キミは少し黙っててくれ」 どちらも私の話をまともに聞く様子はなく、普段こうした複数人を相手に話す機会が少ない私には手が余る状況だ。 とはいえ、この少女は少々放って置いても大丈夫だろう。まずはノエルの誤解を解かなければ。 「聞いてくれノエル。この少女は私と何も関係はない。ただの他人だ」 「……本当ですか?」 「ああ、別に何かしたわけでもないし、ただの迷子だ」 「一緒におさんぽしてくりーむそーださん飲んだよ?」 「やっぱり嘘じゃないですか!?」 「頼む、キミは少し黙っていてくれ。余計に事態が悪化する」 「リモコンは?」 「その辺にあるだろうから適当に探して構わない」 「はーい♪ 宝探しだね! どこにあるのかなぁー」 「メントレに行く途中、迷子になっているあの少女に会った。それから何故か私の後を着いて来るようになった」 「用が済んで帰る前に面倒だから撒いて来たのだが、何故だかこの場所まで私を追ってきたようだ」 「私を信じてほしい」 「……わかってますよ。ご主人が私に嘘をつかないってことぐらい」 …………。 ん、そうなのだろうか? だったら浮気の件も信じてほしいのだが。 いや、今は置いておこう。目の前の事態を解決することが先決だ。 「全く、やっかいな物を持ち込んでくれましたね」 「すまない、私も万全を期したつもりだったのだが」 確かに私は少女を振り切ったはずだった。 可能性としては、別の道を通った過程で再度見つけられてしまったのかもしれない。 「で、どうするんです?」 「どうすればいいいだろうか」 「あっ! あった! リモコンあったよぉ!」 少女は私達の考えなどお構いなしに、見つけたリモコンを誇らしげに掲げていた。 「私達のことを誰かに話されたら厄介ですよ」 「そうだな」 私達が使用しているこの倉庫。もちろん所有権などなく勝手に使っているだけだ。 過去の天災によって滅んだ街とはいえ、不法に占拠していることはあまり知られたくはない。親方などの一部例外はあるのだがあくまで例外だ。 例えば役所の人間や警察などがやってくれば、面倒なことになるのは明白だ。私達には戸籍も住民票と呼ばれるものもない。 「本当にご主人とは関係ないんですね?」 「だと言っているだろう」 「だったら殺して海に沈めますか? もろもろの処理は私の方で準備しますので」 「駄目だ。もしこの少女が旧市街に入っているところを見られていたらどうなる」 「行方不明になった子供を探す親が、警察を連れてここにやってくるかもしれない。それは避けた方がいいだろう」 「だったら新市街に放置して来ますか? でもそれだとこのガキんちょまた戻って来そうですね」 「この場所を知られてしまったからな。放り出しても意味はないだろう」 「だとしたら、親元に返すしかないですねぇ。んもぅ、面倒なのは嫌なんですけど」 ノエルは基本的にあまり動きたがらない。 直接的に身体を動かすこと、何か用事を片付けるということ、その両方ともである。 後者に関しては明確なメリットがあればその限りではないのだが、この場合メリットを得るのではなくデメリットを回避することに当たる。 ノエルの顔は虚脱感に満ちていた。 「コラ、子供。私のテレビに触らないでください」 「あっ!」 ノエルは少女の手からリモコンを奪い取った。 「テレビ……見たいのにぃ」 「私の質問に答えたら貸してあげますよ。テレビが見たければ正直に答えることですね」 「しつもん? なぁに? 答えたらリモコン返してお菓子もくれる?」 「なんでお菓子もあげることになってるんですか。子供のくせにがめついったらありゃしない」 「がめー♪」 おそらく少女は“がめつい”の意味を理解していない。ただ私は教師ではないし、何より話を進めることが重要だったので何も言わない。 「まず簡単な質問からしましょうか。あなたの名前は何ですか?」 「……うーん」 「さすがにあなたが無知でバカな子供でも、自分の名前くらい言えるでしょう?」 「えとね、よくわかんない」 「自分の名を覚えていないのだろうか?」 「あのね、みつきちゃんはね、きおくそーしつだって言ってたよ」 「記憶喪失……」 記憶喪失。健忘と称される記憶障害。 原因にはいくつかのパターンがあるようだが、過去に体験した出来事やそれまで得た情報の一部を思い出せない状態のことだ。 病気の認知度に比べ、実際にその症状を発症する人間は少ないと聞いたことがある。 「あなた、誤魔化そうとしてるんじゃないでしょうね」 「……うそついてないもん……ほんとにわからないんだもん……」 「では家族のことも覚えていないということか?」 「…………」 少女は俯いて黙りこんでしまう。 突然記憶喪失だと言われても、大概の人間は信じられないだろう。荒唐無稽だ。 しかし、私には嘘ではないように思えた。 論理的な根拠はない。ただこの少女を見ているとそんな気がする。 私の人間を見る目にどれだけの信憑性があるかは疑問だが。 「頭を叩いたら思い出すかもしれませんね。昔のテレビはそうやって直したと聞きますし」 「だ、ダメだよっ! そんなことしてもきっと痛いだけだよっ!」 「物は試しと言いますからね。ダメならダメで私には何も困ることはないですからね」 「きゃぁ~! やめてぇ~!」 「ノエル、きっと頭を叩いても解決はしない。それどころか泣き叫ばれてうるさいだけだろう」 「ご主人がそういうなら」 ノエルは振り上げた拳を下ろす。 少女をかばったわけではないが、私には彼女に共感できる部分があった。 思い出せないことは誰にでもある。 「おや、あなたの頭についてるこれはなんです?」 言われて見るとそれまで気にしていなかったのだが、確かに髪飾りのような物があった。 「えへへ、これ? かわいいでしょ?」 「向日葵、ですか……妙な巡り合わせですね」 「そうだな」 その髪飾りのモチーフになっている花を、私は育てている。 倉庫の隅にある向日葵は少女のとは違い、まだ花を咲かせてはいないが。 「じゃ、あなたの名前は今からひまわりです。バカっぽくて能天気そうなところがそっくりですし」 「ひまわり……?」 「名前がないと不便でしょう。他に候補が欲しいなら出しましょうか? そうですね、うざい子供だからうざ子とかどうです?」 「人間の名前としては変ではないか?」 「んー、じゃあ蝿とかどうです? ピッタリでしょう?」 「お前は蝿と名乗る人間にあったことがあるのだろうか?」 「いいよ」 「何? 本当に蝿でいいのだろうか?」 「ちっがうよ~! ひまわりだよっ! ひ・ま・わ・り!」 「何だそっちか、残念です」 「ひまわりは、今日からひまわりですっ! あかしくん、呼んで?」 「何故だ?」 「いいから!」 「……ひまわり」 「はいっ! 何ですかあかしくん!」 「いや、呼べと言われたから呼んだだけなのだが」 「……なんかそれズルいですね。ご主人、私のことも呼んで下さい」 「お前までどうしたんだ」 「いいですから。優しく、精一杯の愛を込めて呼んで下さい」 愛を込めてと言われても、どうすれば良いのかわからないのだが……。 「……の」 「のえるちゃん!!」 「どうしてあなたがしゃしゃり出てくるんですか!」 「えへへ♪ あかしくん、のえるちゃん、ひまわり!」 「……はぁ、もういいです。なんかすごい疲れました。相手する方が馬鹿だと気づきました」 ノエルは疲れた様子でソファに座る。 「こんな子供に何かできる力はないでしょうし、とりあえずは様子を見ることにしますか」 「お前がそれでいいのなら」 「良くはないですけど。私とご主人の愛の巣に他人を置きたくはないですし」 「あいのす? なんかおいしそうな名前だねぇ♪」 「アイスとは何の関係もないですよ」 「なんだぁ、期待して損しちゃった」 「あっ」 唸るような低い音が倉庫内に響き渡る。 「えへへ……」 ひまわりは申し訳なさそうにはにかんでいた。 「ったく、子供のくせにいっちょ前にお腹だけは空くんですね」 「……パン二つにクリームソーダでは足りていないのだろうか」 「えっへん!」 「褒めてはいない」 とはいえ壁に掛かっている時計を確認すると、そろそろ頃合いだった。 「親方はもう来ている頃だ」 「そうですね、そろそろ行きますか」 「どこ行くのー?」 「ついてくればわかる」 食物摂取による栄養補給の時間だ。 放棄されて使われなくなった廃駅周辺では、当然のことながら照明設備なども機能していない。 それは旧市街全体に言えることで、夜になると街全体から光が消え闇に染まる。 私達の倉庫は自家発電設備を持ち込んでいるため生活に不自由はないのだけれど。 「おう、来たか」 暗闇の中でお互いの顔が識別できるのは、親方の屋台が光を発しているおかげだった。 「こんばんわ。今日もいつものを頼みたい」 「もう煮えてるぜ。丁度食べ頃だ」 「さすが親方、私達が来る時間に合わせてくれたんですね」 「そんな甲斐性がもっと早く身についていれば奥さんに逃げられる事もなかったでしょうに」 「うるせー! 恵子のことは口にするな! 悲しくなるだろうが!」 「およよ? いいにおいがするよー?」 「おぉ? そっちの嬢ちゃんは見ねぇ顔だな? おめぇさんらのガキか?」 「ええそうなんです。実はこの度、私とご主人の愛が形となって新しい命を授かりまして」 「そうではない。迷子の子供だ。訳あって一時的に預っている」 「ぶーっ、ご主人否定するの早すぎですよー」 「そりゃそうだよな。昨日今日生まれたにしちゃでかすぎるわな」 「そもそも私とご主人の子供がこんなアホ面した能天気なわけないでしょう」 「アホだぞぅー♪」 「ガハハ、俺にはお似合いの家族に見えるけどな」 「家族などではない。もしかしたら数日間、この人間も親方の世話になるかもしれない」 「おおそうか。それじゃ明日からはもう少し多めに仕入れといてやる」 「助かる」 目の前で沸き立つおでんの具を、親方から受け取った皿に運ぶ。 「ねぇねぇ、ひまわりも食べていいの!?」 「駄目だと言ったら大人しくしてるんですか?」 「やだやだやだ! ひまわりおでん食べる!」 「お金はあるんですか?」 「お金は……ないけど」 「物を買うにはお金が必要なんですよ? そんなことも親に習わなかったんですか?」 「うぅ……のえるちゃんのいじわる」 「私は社会の厳しさを教えているだけです」 「ノエル、そのくらいにしておいた方がいい。子供というのは泣き出すとやっかいな生き物だ」 「ご主人がそう言うなら」 「ひまわり」 「ふえ?」 「好きな物を取って食べても構わない。代金は私達の分と一緒に払う」 「ほんとっ!? やったったー♪ ひまわりおでん食べるー♪」 「おう、食え食え。熱いから気をつけろよ」 正直昼間体験したやっかいな出来事に比べれば、僅かな金銭の負担など些細なものである。 「たまごさん、こんにゃくさん、ちくわさん、どれにしようかなぁ~♪」 ひまわりは穴の空いた調理器具おたまを手に取り具材を選ぼうとするが―― 「ひゃあっ――!?」 前触れ無く鳴り響いた甲高い声に驚いておたまを落としてしまった。 「なんかいるよ!? ねぇ、なんかいるよ!?」 「何かではない。恵子だ」 「けいこ?」 自身の存在を主張するかのようにもう一度声を鳴らす。屋台の影から漆黒の羽を持った恵子が現れた。 「ひゃあぁぁぁ――!? と、鳥だよ!」 「ただのカラスじゃないですか。何をそんなにびびってるんです」 「鳥は鳥だよ……!! あかしくん、どっかつれてってぇ……!」 「怯える必要はない。恵子は無闇に危害を加えたりしない」 私はひまわりの怯えた様子を見て、ある疑問が湧き上がった。 「そういえばひまわり、ひとつ聞きたいことがあるのだがいいだろうか?」 「ふえ、なぁに?」 「ステーキなどの肉料理に使われている動物は何か知っているか?」 「牛さん」 「刺身などに使用される海を泳いでいるものは?」 「お魚さん♪」 「ではこれは?」 「鳥」 指さした恵子の話題になると、途端にひまわりの口調が堅くなった。 「どうして鳥だけ“さん”付けじゃないんですか?」 「鳥は鳥だからです」 ひまわりの口調から、鳥に対しての好意的な感情は読み取れない。 「もしかして、嫌いなものには敬称がつかないのではないだろうか」 「はぁ、なるほど。でもそれに何の意味が?」 「それは私にもわからない。どうしてなんだ?」 「鳥はびゅーって飛んできてバババってしながらツンツンするから嫌い!」 「牛は?」 「おいしいから好き♪」 「魚は?」 「お魚さんもおいしいから好き♪」 「じゃあこれは?」 「鳥っ!!」 なるほど。やはり推論は正しかったようだ。 「ひまわりは鳥に襲われたことがあるのだろうか?」 「うぅ……思い出したら怖くなっちゃった。あかしくん、なんとかしてぇ」 「キミを襲った鳥が特別なのかはわからないが、先ほども言ったように恵子は《・・・・・》〈生きた人間〉を襲ったりはしない」 「……ほんと?」 「ああ。それに食用という点に関しても、余計な脂肪が少なく栄養価も高い優秀な食物だ」 「おい、恵子は食い物じゃねぇぞ」 「そりゃ、俺と恵子が一緒に住んでた頃は甘~い生活だったけどな」 「そんなこと誰も聞いてませんよ」 恵子、という名は現在でこそ親方の飼うカラスにつけられているが、元は別れた婦人の名前だったらしい。 「おう嬢ちゃん、他の鳥が何したか知らねぇけどよ、恵子は嬢ちゃんを襲ったりしねぇから安心しな」 「うぅ……でもぉ」 「きゃあっ!」 「恵子も安心しろと言っている。餌をくれたら仲良くしてやると」 「ガハハ、本当にそう思ってるかは別としても、餌をくれた人間なら恵子も悪いようにゃしねぇだろうよ」 「……わかった。やってみる」 ひまわりは小分けにしたコンニャクの一切れを手のひらに乗せて、おずおずと恵子に差し出す。 恵子は小さく飛び、ひまわりに接近する。そして―― 「あ、たべたよ!? ひまわりがあげたコンニャクさんたべたよ!」 「これで嬢ちゃんと恵子は友達だ。もう怖がるこたぁねぇだろ?」 「うん! ひまわりとけいこちゃんは友達! えへへ♪」 ひまわりは警戒心がなくなったのか、恵子の背中を優しく撫でる。恵子も嫌がる様子はなく大人しくしていた。 「えへへ、けいこちゃんのお肌つるつるだねぇ」 「ひまわり、遊ぶのは構わないが、早く食べないとなくなってしまう」 「えっ!? なんでひまわりのお皿にあったこんにゃくさんがなくなってるの!?」 「もぐもぐ……さあ、恵子が食べちゃったんじゃないですか?」 「ノエルちゃんのお口にあるものなんだろな!」 「いいからさっさと食べなさい。あなたのために残しておくほど、私達は甘くないですよ」 「そうだな。定期的な栄養補給は生存する上で極めて重要だ」 「まってまって~! ひまわりも食べるぅ~!!」 静けさに満ちた夜の下に、不釣り合いな声が響き渡る。 普段とは違う夕食の雰囲気に違和感を覚えながらも、きっと人間の食事とはこのようなものなのだろうと想像して悪くはないと思った。 「ングッ……ングッ……ングッ……ングッ……」 「ングッ……ングッ…………っは~~~~。生き返った~♪」 食器の片付けを始めていると、今日子さんがブリキのバケツに並々注がれた水をうまそうに飲んでいた。 「夏の水分補給とはいえ、8リットルはやりすぎじゃない?」 「水は大事だぞー。それに満腹だー。ゆーまの炊く米はベチャベチャのおかゆみたいで美味だからなー」 「お粗末様です」 「ゆーまも、ヘンチクリンなパンばかりじゃなく、バランス良く食べないと倒れるぞー」 それができれば苦労はしないんだな、これが。 「さーて、こいつもやっつけるぞー」 「キャーーー、今日子さん素敵ーーー!」 「ングッ……く~……ビールも水もどっちもうまいなー」 「たった4%程度のアルコールで今日子さんは倒せない!」 「ところで仕事の話を食卓に持ち込んで悪いのだが……」 「あ、はい」 「給料を入れておいたから暇な時に確認しておきたまえー♪」 「やった! 仕事の話っていうか、嬉しい話だ」 “単純に、金ががっぽがっぽだからやってるってだけ” なるにそう言ったのは、全然うそじゃない。心からの本音だ。 「こっちこそ感謝しているぞ、ゆーま。いつもどおり、保険と税を引いた額から90%頂いておいたからなー」 「俺の借金どのくらい減った?」 「数えてないからよくわからない。細かいことはいいから、一生、私の為に働きたまえよ。めろんめろん」 「頑張って働き蟻の人生をまっとうさせて頂きます」 つらい仕事は往々にして割がいい。 俺が働けば働くほど“百合かもめ”が儲かる。 すると、今日子さんの懐が温まって微笑んでくれる。 この連鎖の為に。 全ては社長の為に。 俺は働きたくて働きたくて、ラララ月曜日なわけだ。 「ゆーまの汗水垂らした働いた金で“きゃんきゃん学園”でみーこちゃんとくんずほぐれつの背徳感……」 「なんか言った?」 「にゃーんも?」 「そっか……あむっ……むぐむぐ……」 「まだ食べるのか? こんなに買い込んで。アイドル信者の気持ちは理解できないなー」 Re:non印の“燃える蜂蜜揚げパン(激甘)”はお茶の間のお供。 常に『ご自由にどうぞ』と山盛りになっている。 妹様はコレについてくる生電話キャンペーンの応募シールだけが欲しいだけで、すでに当選して権利を得ているのでパン自体に興味はない。 よって俺が処理役というわけ。 「さて、後片付けはすべて任せたぞー」 「もっふん」 「そうだったそうだった」 思い出したことがあって、ソファにダイビングした今日子さんのお尻に話しかける。 「今日はめちゃくちゃ可愛い子に会ったんだよ。菜々実なるっていうんだ」 ソファに顔を沈めたままの今日子さんだが、脚がピクりと動いたので聞いているようだ。 「そーなのかー。写真の一つもなしかー?」 「色々と話して、飯を一緒して、盟友になって、ああ、あと……」 「おしゃぶりしてもらった」 「ブーーーーーーーーーーッッ!!」 「社長ッ!? 鼻血が致死量なくらい出てるよっ!!! タオルタオルッ」 「わ、私のことはいい。それより質問をしたいのだがいいか……?」 「どんとこい」 「お、お、おしゃぶりとはなんだね、オフフフ……フフフフフ」 「オフフフフフフフフフ!!」 謎の笑い声がリビングを支配するなんて事も、水瀬家にとっては日常茶飯事。 「ゴホン。時に優真」 仕事中かってくらいの真顔。 「何でもない言葉に“お”を付けると妙にエロさが増すのは何故だろう?」 「“しゃぶる”ならまぁいい。百歩譲っていいとしよう」 「だが“おしゃぶり”と言ってしまったらもう、期待せずにはいられないじゃないか」 「……饅頭に“お”を付けて、お饅頭…………とか」 「πrならオッパイアル。オッパイアル二乗。ほれみたまえ、数学者でさえ“お”の卑猥さにはほとほと困っているのだよ」 「サッカーの《オウンゴール》〈自殺点〉だって、“お”を増やしたら……」 「おぉぉおおおおおおんご~るぅぅぅぅっ♪♪♪」 「レッドカード!」 「恐ろしい。“お”は恐ろしいものなのだよ……」 「そうだね。“お”はちょっと厄介なシロモノだとわかったよ」 「ゴホン。話を戻そう。私は決してシモネタが言いたいわけではないのだ。私はただ、ときめいているのだよ」 「一体全体、ゆーまがなにをおしゃぶりされたのか……!」 「えっと……」 ぶっちゃければ占いの一環で“指”を咥えてもらっただけなんだけど。 指ってそのまま伝えたら、目を血走らせた鼻息ムフンな今日子さんの妄想をぶち壊しな気がする。 「おしゃぶり頂いたのは……俺の……身体についてる……」 「ついてる……?」 「く、咥えやすい細長い棒!」 「クワエヤスイホソナガイボウ!」 「クワエヤスイホソナガイボウクワエヤスイホソナガイボウクワエヤスイホソナガイボウ」 ちょっと心配になるくらい棒読みで、目は焦点が合っていなかったりして……。 「だ、大丈夫……?」 「オフフフフフ、オフフフフフ。メロンメローン」 壊れた笑みを浮かべたまま降りていってしまった。 恐らくだけど、繁華街かどこかの夜遊びできそうな店に繰り出していったのだろう。 「今日子さん、こういう話ホント好きだよなぁ……」 喜んでもらえるから、無理にでもセクハラして土産話を仕入れる癖が俺にもついたんだけど……。 「クワエヤスイホソナガイボウってなんなのだーーー!!」 “全ては社長の為に”も度を越すとアレだよな――――って、うわ! 「外で大声出したら迷惑だってメールしなきゃ」 まったくもう……。 「………………」 「……めろん、めろーん」 もちろん、言ってみたかっただけ。 食卓を片付けて部屋にもどろう。 「やっぱスタイルいいよなーRe:non様。食い込んだ水着を直す仕草、グッドです」 「うお。何に怒ってんだろってくらい睨んでる一枚。パジャマでギロリってどんなシチュ? コレは魅入るな……」 「………………」 「うーーーん……グラビア写真って下着みたいなデザインの水着ばっかりだけど、こういうのって普通に売ってるのかな……?」 「おっ……おぉっ……? 見えない……角度をつけてもダメか。絶対領域ってやつか。くっそくっそ」 「写真集を傾けるアソビ?」 「うはっ、親しき中にもノックありだろ」 「心の扉にノックしたよ」 「なるほど、そう来たか……」 俺は寝転がって読んでいた写真集を閉じ、ベッドの隣をぽんと叩く。 可愛い侵入者は気分が良さそうに隣に座った。 「聴こえなくなるほど何に集中してたのかな?」 「Re:non様が夢に出てきていい事できるように、明晰夢のトレーニングしてただけ」 「妄想ばっかり。妄想マン」 「結衣にそれを言われると言い返せないなぁ」 「ねぇ兄様、眠くなるまで何かゲームでもしない?」 控えめな態度だった。 俺にそのつもりはないけど、周りはみんな“働き過ぎ”という。 睡眠時間はきっちり3時間取ってるし、問題はないのに。 「妹様の頼みは断れないな、何しよっか? しりとりとか?」 「しりとり。うん。じゃあ……電気消そうか?」 「ああ、そうね。そうしよっか」 ……ん? 「いやいやいや、一緒に寝るとは言ってないぞっ! 消しちゃったけど!」 「兄様……」 頼りなくすがるような声だった。 「私の頼みは断れないって、今言ったばっかりだよね?」 意外なほど卑怯な手段を抵抗なく使う結衣に俺は戸惑った。 「さって。もういい時間だし、ヒットポイント回復するよー。おやすみっ!」 タオルケットをかぶり、枕に顔を埋める。 「急にどうしちゃったの?」 天使のような結衣の声が降り注ぐ。 「部屋にもどりなよ」 「流されやすい年頃の癖に……」 「………………」 枕に押し付けた鼻で呼吸する。 「もしかして私、兄様を困らせてる?」 「いや……俺が俺を困らせてるだけだよ。結衣は何も悪くない」 「俺がよわっちぃ奴ってだけだ……」 「兄様」 「うん」 「明日も晴れだよ」 「ありがと」 結衣がいなくなったのを空気で感じ、胸に溜め込んでいた空気を一気に吐き出す。 枕に顔を3つ数えたら、意識はゆっくりと霧のように散っていった。 食事を終え、倉庫に戻って時間を確認する。 「そろそろか」 時計の針は丁度22時を指したところだった。 「そろそろってなにが?」 「仕事に行く時間だ」 「およよ? 今からおしごと? お外もう真っ暗だよ」 「日が落ちてからでないと成り立たない仕事なんだ」 必要な道具の入ったトランクを右手に持つ。 「ではノエル、留守を頼む」 「お気をつけて。くれぐれも変な気は起こさないようにしてくださいね」 言わずもがな、私にその気はない。 「行ってくる」 「まってまって! ひまわりも行くっ!」 「何故だ?」 「たのしそーだから♪」 「仕事だと言ったはずだ。手間を増やされては困る。私だけの問題ではないのだ」 人間社会においては業務に私情を挟むことは良しとされていない。社会の輪に溶け込むためにも、私にはそれを徹底する義務がある。 「いいじゃないですか。今日の仕事は誰かに迷惑かけるようなものでもないんでしょう?」 ノエルの言った通り、私が受け持った業務内容はある程度自由度のある単独作業だ。 「しかし」 「もちろん遊びに行くわけじゃないんですから、ひまわりにも手伝わせたらいいんですよ。荷物持ちくらいできるでしょう」 「できるできる♪ ひまわり荷物持つ~♪」 「だそうです。連れて行ってあげたらどうです?」 「お前がそう言うのなら」 「やったー♪ じゃああかしくん、はやくいこっ♪」 ひまわりは私から機材の入ったトランクを奪い、駆け足で出口に向かう。 「お、おもい……」 「大丈夫だろうか?」 「だ、だいじょうぶだもん。ひまわりこう見えても力持ちだもんっ」 限界まで両腕を伸ばし四苦八苦している様子を見れば、その言葉が強がりであることは疑いようもなかった。 だが本人がその気でいるうちは尊重しておけばいい。 「では行ってくる」 「いってらっしゃい」 「ひとつ気になったのだが、やけにひまわりの肩を持つのだな」 ノエルがひまわりのことを気に入ったのか。意外ではあったのが、そうだとしたらしばらくひまわりをここに置いておくこともやぶさかではない。そう思ったのだが―― 「だってあのうるさいのと二人きりじゃ落ち着いてテレビも見れそうにないですから。ご主人が引き受けてくれてほっとしました」 「なるほど」 可及的速やかに、ひまわりの処遇を考える必要がありそうだ。 「んーしょ、んーしょ」 「代わろうか」 「だいじょうぶですっ、おきになさらずっ!」 旧市街を出て、未だ賑わいの残る駅前を通過する。 ひまわりは途中何度か休んだが、ここまで自らの決意を裏切りはしなかった。 だがそれも限界は近い。あらゆる意味で、だ。 「このままのペースでは仕事の時間に遅れてしまう。体力的にも限界だろう。それに――」 駅前の歩道にいる私達に刺さるいくつかの視線。 「注目を集める行動はノエルに禁止されている」 大の男が手ぶらで悠々と歩き、その後ろを年端のいかない少女が重そうな荷物を持って歩いている。 その光景は社会の倫理観に照らし合わせた際、あまり常識的な行動とは言えないようだ。 「はぁはぁ……あかしくんがどうしても持ちたいっていうならいいよ」 ひまわりがどこか強気である理由は検討がつかなかったが、私はその疑問は伏せたままにした。 「ああ、もし良かったら私に任せてくれないか」 「しょうがない、そこまでいうならいいでしょう。うん、しょっ!」 ひまわりは最後の力を振り絞るかのようにして、トランクを私の胸あたりまで掲げた。 「ありがとう、助かった」 相変わらず私達のやり取りを遠巻きに見ている者はいたが、これ以上訝しがることはないだろう。 「では行こう。あまり長居をしている余裕はない」 「あかしくんあかしくん」 先を急ごうとする私の上着が後ろから引っ張られる。 「どうした」 「あのね、喉が乾きました」 「…………」 ひまわりの首が左に曲がる。視線の先には大きなMGのロゴが入った自動販売機が設置されていた。 「……好きなものを買えばいい」 財布から硬貨を数枚取り出す。 「ありがとーっ♪」 ひまわりは受け取った硬貨を握りしめ、自販機に向かって走って行った。 置き去りにするわけにもいかず、しばし訪れた一人の時間を使って思案する。 そういえばひまわりはこの場所で誰かとはぐれてしまったと言っていた。 ここで待っていれば、いずれその者との合流もできるのではないだろうか。 今まさにひまわりの元へその者が駆け寄っても不思議ではない。そうなれば私の役目は終わり、互いにとって最良の結果になるのだが。 今のところ、それらしき人物は見当たらない。あれから時間も経ち過ぎている。 明日、ひまわりを連れてこの場所を訪れた方が可能性は高いかもしれない。 「おまたせしましたーっ♪」 「それほど待ってはいない」 ひまわりは緑色の缶を大事そうに抱えて戻ってくる。 メロンソーダだった。昼間メントレで飲んだことで気に入ったのだろうか。 「いただきまーすっ♪」 炭酸飲料の入った缶を両手で口に運ぶ。 「ぷはぁ! しごとの後はやっぱこれだねぇ! おつかれちゃん!」 「私の仕事は始まってもいない」 「細かいことは気にしちゃダメだよ。はい、あかしくんもどうぞ」 飲みかけの缶ジュースを差し出される。 「いや、私はいらない。現時点では摂取する必要はないのだ」 「必要とかじゃなくて、ジュースはいつでも飲みたいものだよ?」 「キミはそうなのかもしれないが私は違う」 「およよ?? よくわかんないけどあかしくんのお金で買ったんだからひまわりが全部飲んじゃダメなんだよ。はい」 「……わかった」 炭酸飲料の入った缶をひまわりから受け取る。 この少女にいくら論理的に説明をしても効果はない。だったら許容できる範囲ならば素直に従う方が無難だ。 「そういえば、キミが迷子になる前に一緒にいた人間の名はなんだったか」 「みつきちゃんのこと?」 「ああ、どうにかしてその人間と連絡を取る手段はないだろうか?」 「う~ん」 「連絡先の住所や電話番号など、何でもいい」 「う~ん、わかんない」 「あ、でもみつきちゃんのおうちは行ったことあるよ」 「その家はどこにある?」 「えーとね、あっち……いや、あっちだったかも。いやいや、やっぱりあっち……じゃないかも」 「結局どっちなのだ」 「わかんない。わすれちゃった」 あまり期待はしていなかったが、手がかりは得られなかった。 まあいい、ひまわりの身柄に関しては明日以降に対処すればいい。 今は目の前の仕事に早く取り掛からなければ。 「ん……」 私はひまわりから受け取った炭酸飲料を一気に飲み干す。 独特の刺激が喉を通過する。ノエルが用意する栄養ドリンクと似ていた。 「さあ行こう。話はここまでだ」 「あ、あかしくんのばかぁ!!」 「どうした?」 「ひまわりのめろんそーださん、どーしてぜんぶ飲んじゃったの!?」 「キミが飲めと言ったから」 「おすそわけだよぉ! ひまわりまだちょっとしか飲んでなかったのにぃ!」 「…………」 ならば最初にそう言ってほしいのだが。 曖昧な基準が相手にも共有できていると考えるのは人間の悪い癖だ。 「あかしくんのばかばかぁ、あんぽんたんっ!」 力のない殴打が私を襲う。 私は黙って財布の中にある硬貨を探した。 街外れにある山の頂きを登り、周囲に並び立つ物のない開けた場所で足を止める。 空との距離は縮まり、吸い込まれそうな夜空が私達の頭上に広がっていた。 「ふあぁ~、キレイなお星さまだねぇ」 「綺麗という価値観は私にはよくわからない。しかし壮観な景色であることには同意できる」 遮る物もない覆い尽くさんばかりの星々は、気が遠くなるほど離れたからこの星に住む人間に影響を与えている。 己の力が到底及ばない物に対して抱く畏怖と尊敬の念は、人間関係に限った話に留まるものではないと、この空は訴えているようだ。 「では仕事を始めるとしよう」 持ち運んだトランクを開け、中からいくつかの機材を取り出す。 「うわぁ、あかしくんのカメラおっきぃねぇ」 「私の所有物ではない。業務を委託した会社の備品だ」 「いまからそのカメラでおしごとするの? あかしくんは写真を取るおしごとの人なの?」 「写真ではなく映像だ。それに私もこの仕事を長く続けているわけではない」 数日前に親方から紹介される形で今の仕事を始めた。 「私の仕事は、強いて言うなら親方から紹介された仕事をする仕事、だ」 以前働いていた警備会社も元々一定期間の契約だった。満了による退職を経た後、この仕事を始めることになった。 様々な業種を体験できることは私にとって人間社会を知るという点において非常に有益だった。 「私は色々な仕事を請け負っている。だから今の業務もそう長く続けるわけではない」 「へぇ~、たくさんおしごとしてえらいねぇ」 「偉くなどない。どちらかと言えば定職に就いている方が社会的には偉いのだろう。安定した生活を人間は好む傾向にあるようだから」 私としては今の生活が身に合っている。 あまり長期間同じ人間たちと顔を合わせているのは面白味に欠けるし、私の言動や挙動を訝しむ人間も少なくはない。 こちらとしては状況に応じて最善の選択を取っているつもりでも、人間の目から見れば怪しく見えてしまう、というのがこれまでの経験則から導き出されている。 稀に私のような者を好意的に扱う者もいるのだが、今度はまた別の問題が発生する。 兎が私の前に現れることになるのだ―― 「ねぇねぇ、このカメラで何を撮るの?」 地面に置いてカメラのスイッチを入れる。 「あそこだ」 疑問に答えるべく私は空を仰いだ。 「お星さま?」 「違う。映像には映り込むが目的の対象物は別にある」 とはいえ業務の性質上、確実に成果が上げられるわけではないのだが。 私もまだ一度しか見たことがなく、頻度的に一週間に二、三回だと聞かされている。 しかし出現する時には連続して見えることもあるらしい。 「お星さまじゃなかったらなぁに? 他にはなんっにも――」 ひまわりの焦れた声が途中で止まる。 今日は喜ぶべきか“見える”日らしい。 私は地面に設置したカメラが起動しているのを確認し、ひまわりと共に夜空を見上げた。 「ふあぁぁっ! なんかキラキラしたのが出てきたよ!」 「あれはオーロラと呼ばれる現象だそうだ。キミは始めて見るのか」 「うん! あんなキレイなの見たことないよ! うわ~、すっご~い♪」 ひまわりは空に向かって手を伸ばし、どうにかしてオーロラを掴もうと必死だった。 「それは無理だ。天体に比べればここからの距離は近いらしいが、それでもアレを掴むにはキミの身長では足りない」 「じゃあもっとおっきくなったら届くかな♪」 「さあ。少なくとも私よりも高くならなければならないことは確かだ」 私は現在の時間を確認し、専用の用紙に日付と時間を記入する。 私の仕事はここから見えるオーロラの定点観測をすることであり、オーロラ出現時間の記入は業務内容でも重要な手順だと言われている。 オーロラとは天体の地場や大気の状態などが一定の条件を満たした場合に発生するらしい。 この現象は昔からこの星で確認されていたが、観測できる地域は極一部に限られていた。 平たく言えば本来この街では見れる物ではなかったようだ。 オーロラの観測が仕事として成りなっているのも、これまで考えられていた条件から外れているから、と親方は話していた。 「この世界は近代歴史の中で大きく破壊された。このオーロラもそれの副産物らしい」 「こわれちゃったの?」 「私が調べた書籍にはそう書いてあった。人間が自らの手で世界を住みにくい星にしたと」 今から遡ること数十年前、この星の主要な国家間の間で戦争が起きた。 人間の歴史上戦争自体はそう珍しい物でもない。幾度となく繰り返されてきた言わば恒例行事である。 しかし科学の発達した近代社会において戦争の質は劇的に向上しており、やがて種の存亡を自ら脅かすレベルにまで達した。 大地は荒廃し、海は汚れ、多くの人間が命を落とした。 残った者たちは過去の先人たちがそうしたように己の行為を悔やみ再興に向けて歩き出す。 しかし戦争による環境への影響は想像よりも大きく、地殻の変動などが相次いだ。 人間の生活できる場所は次第に減っていった。まるで星が人間という存在を追い出そうとするかのように。 「向こうに海が見えるだろう。あそこは元々この国の首都だったらしい」 「しゅと?」 「国というカテゴリーの中で最も栄えている都市という意味だ」 しかし地殻変動の影響で海面の水位が上昇し、やがて今のように海に飲み込まれてしまった。 「人間は何故、自ら面倒なことをしたがるのか、私が理解できない謎の一つだ」 生きるということ。 形は違えど誰しもが生を追い求め、結果死に向かう。何とも皮肉な二律背反だ。 「人間は何を目的にして生きているのだろうか」 「およよ? あかしくんはむずかしいことをいうねぇ。ひまわりにはよくわかんないや」 「ひまわりは何故生きている」 「ふえ? そんなこと言われても、毎日ごはん食べていっぱい寝てたら病気にならないよ?」 「そうだ。大抵の人間は何故自分が生きているのか、その理由を知らない」 死に対する恐れ。今まで無意識の内にこなしてきた“生きる”という行為に対して、全ての人間にとって一度限りの“死”は畏怖の対象である。 死を恐れるから生きる。単純だが理に適った衝動だ。 では私は――死に対する恐れは、あまり感じない。 では何故生きるのか――やらなければならないことがあるから。 「…………」 「あかしくんどーしたの? かおがこわいよ? もしかしておなかいたくなっちゃった?」 「そうではない。ただ少しだけ、昔のことを思い出しただけだ」 私が生きる理由、それは―― 記憶の片隅で揺らめく業火が、今もこの身を焦がすから―― 静まり返った倉庫内。 日付が変わってしばらく経った今では旧市街を通る電車の音も響かない。 ひまわりは二階のロフトに設置しているベッドでノエルと共に寝ている。 元々第三者の訪問を想定していなかったため、寝床となる場所はベッドか私の使っているソファくらいしかない。 オーロラの定点観測から戻ってしばらくはひまわりの声が響いていたのだが、寝静まった今では物音一つ聞こえてこない。 私はようやく訪れた静寂な時間を堪能していた。 「…………」 明日、すなわち今日の予定を思い返すと共に、ひまわりの処遇に関して思いを巡らせる。 オーロラ観測の業務は二日後であり、特にやるべきこともなかったはずである。 「いや、マスターから譲り受けた薬を試さなければ」 できればすぐにでも使ってみたかったのだが、色々と立てこんでしまいすっかり失念していた。 とはいえ薬を使うのなら邪魔されない環境が望ましい。その方が集中できる。 まずは迷子の少女をどうにかした方が良いだろう。 「っ…………」 体勢を変え、天井を見上げる格好になる。 しかしすぐに瞼を閉じると視界は闇に閉ざされた。 眠ろう。睡眠は人間と同じように私にも必要なことだ。 目覚めた後にやるべきことを反復し、私は考えることを止めた。 「…………」 私が意識を手放そうと決めた瞬間、倉庫内を移動する気配を感じた。 その気配の主は息を殺してゆっくりと、しかし確実に私の方へと向かって来ているのがわかる。 さてどうするべきか。このまま眠ることは難しいだろう。ならばソファから立ち上がるべきか。 私の出した結論は、余計な抵抗はせずに身を任せることだった。 「私の好きな人はご主人です」 声の主は私のすぐ近くまで歩み寄り、耳元で小さく呟いた。 「何か用なのだろうか?」 ノエルは私が上半身を起こすと、大げさに驚いたような素振りを見せた。 「え、起きてたんですか? やだ、寝てると思ったのに。寝てると思ったから勇気出して好きな人言っちゃったのに」 失言をしたにしては、その表情は浮かれていた。 「もうこうなったら責任取って下さい。私も言ったんだからご主人も私のこと好きって言って下さい」 ノエルは悪戯な笑みを浮かべて首を傾ける。 「明日も学園に行くのではないのだろうか?」 私と違い、ノエルは新市街にある学園に通っている。 明日もまた、決まった時間に登校しなければならないはずだ。 「別に大丈夫ですよ。眠る時間よりも、ご主人との時間が大事ですから」 「それにこの“処置”は私の役目です。ご主人が人間を襲ってしまわないための大事な大事な、ね」 細く冷たいノエルの指が私の胸を這う。 「私は人間を襲ったりはしない」 「罪を犯す前に布告するのは爆弾魔くらいですよっと」 私の言い分を一蹴したノエルはそのまま私の上に跨った。 「これは必要な“処置”なんですから。ご主人が他の人間に欲情しないための、ね」 反論しようとした唇をノエルの指が阻んだ。 「勘違いしないでくださいね。私がしたいわけじゃなくて、ご主人のために仕方なくやってるんですから」 「そうか」 どちらでも構わない。ノエルが満足するのなら、それで問題はない。 「うふふ……ご主人のここ、もう血が集まってきてますね……このままでは明日には、確実に本当に間違いを起こすところでしたよ」 「私達に繁殖機能は備わっていないが、人体を模している以上、女性を身近に感じることで男性器は膨張する」 つまり私はこの上なく正常であるが、無理にそう仕向けているノエルは正常とは言い難い。 「いつも言っているように、性的な欲求は充分に満たしておかないと、精神に甚大なストレスを与えることになるんです」 「わかっている。ノエルが私の男性器を欲しているのが、その証拠だろう」 「ご主人。コレはご主人の為であって、私は付き合ってあげているだけです」 「先日、私の園芸グッズを女性器に宛てがい、激しく腰を動かしていたようだが――」 「忘れてください」 「ノエル、あれは一体何をしていたのだ? 園芸グッズは園芸にのみ――」 「忘れさせてあげましょうか?」 私はノエルに弱い。甘いのではなく、弱い。 「……ノエルの好きにすればいいが、あまり綺麗なものではない」 「あれはご主人を煩悩から開放するトレーニングです。忘れてください。私は自分の為ではなく、全てご主人の為にしているのですから」 「性乱れるのはノエルの自由だ。使用許可は求めないが、消毒してから使ったほうがいい。これは忠告だ」 「聞き分けの無いご主人ですね」 「――――ッ」 私は急所に感じたサテングローブの肌触りに思わず身震いをした。 ノエルに全面的な信頼を置いているとはいえ、さらりとした感触からは温度が感じ取れず、ノエルの真意が伝わってこないからだ。 「私の手のひらがこの玉袋を握りつぶすのも、優しく丁寧に転がすのも、気分次第ということをお忘れずに」 潰されてしまうことでノエルにこういった事を強要される機会がなくなるのであれば、それもいいかもしれない。 しかしノエルは私との性交渉に少なからず喜びを覚え、機嫌は朝食のメニュー変更という目に見えた形で行われる。 日々が円滑になるコミュニケーションは、多少の時間を割いて余りあるメリットをもたらす。 「ご主人……うふふ……こんなにパンパンに張った重たいたまたまをぶら下げて……」 「私が絞り出さないといけないえっちな液体が、いっぱい詰まってますよ……」 「ほら……ご主人のおち○ちんも、私とえっちしたいっておつゆを出してます……いつもより出てますね……手袋が濡れちゃいましたよ」 ノエルの手に掛かれば私の男性器は容易く高められる。それこそ先端からカウパー液を噴き出すほどに。 「最初から素直に性処理をして欲しいと頼めばいいんですよ……悪いようにはしないんですから……」 大股を開いたノエルは露出させた下腹部を男性器に押し付け、魅せつけるように腰を揺らしてきた。 「心配はいりませんよ……私の身体はいつ何時、ご主人が性に溺れてもいいように、受け入れる体勢ができているんです」 「ご主人のおち○ぽを慰めるのも、私の務めですからね……」 くちゅ、くちゅ、ぬちゅ、くちゅぅ……。 いつもの営み。 散々聞いた水音。 ノエルの膣はいつも濡れている。 私生活で確認する事はないが、曝け出した時はほどほどに具合良く仕上がっているのだから大したものだ。 「んっ……んふっ……やっ……これだけで……きもち……あっ……」 ゆるんだ口元からこぼれる抑え気味の喘ぎ声も、散々聞いた。 「や……おま○こ……こしゅれ……あふ……ご主人の、大きいのが……あー……これ……すごく……」 「…………」 ぬるりぬるりと密着させた粘膜の押し付け合いが続くのは、ノエルは壊れてしまったように没頭しているからだ。 私はソファーに体を沈め、呆然とノエルの痴態を傍観する。 「んっ……んっ……ご主人の……あたって……このままでも……このままで一度……私だけでも……」 「ノエル」 「ふぁ……あ……な、なんですかご主人。いま、いいとこ……なのに……」 「やはり園芸グッズ同様、私の男性器を用いて執拗に擦り付ける行為を――――」 「スコップの事は忘れてくださいと何度言えばわかるんですか?」 「スコップとは言っていない」 「あまり私を冷めさせないでください。次に園芸グッズの話をした時が最期ですよ、ご主人」 女性はデリケートな生き物で、私には深く理解はできない。 しかしノエルの怒りを買うことはしたくないので、今までの経験を踏まえて一つの答えを導き出すに至った。 「せっかくいいとこだったのに、どうしてくれるんですかね……」 「違うんだノエル。私はこう言いたかったのかもしれない」 「こういった愛し合い方も時には必要だろう。しかし私はノエルと一つになりたい。ノエルの膣に収まりたい。一刻も早くだ」 「あぁ……それですっ。ようやくわかってくれたんですね」 当たりくじを引けたようだ。 「私としたことが、とんだ勘違いをしてしまいましたね。では、要望通りに……」 ノエルの手に誘導されるまま、中央に走った膣の縦線に先端が宛てがわれる。 「うふふ……ふふ……ふふふふ……」 楽しそうなノエルを見上げながら、私は開放までのフローチャートを思案する。 男性器を膣内に収める。 ノエルが愛を確かめ、堪能する。 ほどよく時間を掛けて射精する。 ノエル主導による騎乗位という体位で行われる性交渉は、既に数百を超えている。 「こほん――――ではご主人、いつもの言葉を」 「ノエル、愛している」 「……はい」 「ノエル、私は愛故に君に甘え、君に溺れてしまう……その事を、どうか許して欲しい」 「…………♪♪♪」 「うふふ……私とセックスがしたくて、たまらないようですね……わかりました、ご主人の精を私が受け止めましょう」 「…………やれやれ……」 「………………」 「ノエル、愛している」 「はい。よろこんで……私のおま○こを……心行くまで味わってください……」 ずぷぅっ、ぐぐっ――――ずぽぽぽぽぽっ。 「ンッ……はっ、んぁあんっ、ふぁ、ぁ、あ~~…………」 「あぁ……ご主人のおち○ぽ……ぴくんぴくんって、私のなかではしゃいでますよ……やっぱり私がしてあげないと、危険ですね……」 私にとっての騎乗位は、自らの太ももにノエルの尻の弾力が負荷された瞬間を意味している。 つまるところ男性器がノエルの最奥を押上げ、膣全体がこれでもかと絡んできている状態――――今がそうだ。 「はぁぁ……はぁぁ……ご主人……今日は一段と硬いですね……んっ……私のなかは、どうですか?」 「いつも通りだ」 「んっ……ちゃんと教えてくれないなら、私にも考えがありますよ……?」 ノエルは全てが演技ではないかと疑いたくなるほどの唐突さで、真顔地声に戻る。 しかし挿入が終わり、抽送が始まり、果てる間際になれば、私が何を言っても静止せずに腰を振り立てるようになることも知っている。 「いつも通り、最高だ。ノエルの膣は男性器の刺激に長けている。優れた柔軟性、膣液の潤滑によって私の性感を高めていく」 「そうでしょうそうでしょう……んっ、はぁ……では……このまま……」 ノエルは膣で咥え込んだまま腰を回転させ、しばし踊り子気分に酔う。 「ほっ、らっ、あっ、これ、イイですよね……ぐぽぐぽ、って、いやらしい音……ご主人のおち○ちんの、色んなとこが刺激されてるはずですよ……」 「ふゎっ、ゎ……ンぁんっ! ンッ、ンッ、ご主人の、熱い……っ! 私のおま○こ、溶けちゃいます……っ!」 ノエルはひとたび交われば隙だらけの顔でセックスに熱中してしまう。 当時は別人格などといった病気を疑ったが『女の子は誰でもそうなるんです』と呆れられてからは、考えないようにしている。 「あっ、んっ、ンッ、んぅ~、ンッ、はぁんっ、ご主人も、ほら、気持いいなら、声だしてもいいんですよっ」 「ノエル」 「ンッ、はい……なんでしょう……腰をぐるぐる回すのではなく、お尻がぶつかるくらい、上下に動いて欲しいんですか……?」 「あまり騒がないでくれ。眠っているひまわりが起きてしまうと、私はとても面倒だ」 「な……ご主人……まだそんなことを……」 「そんなこと? ひまわりが起きてしまっては、ノエルと続きを楽しむことができないだろう」 「ご主人……」 「そ、そうです……ね……あふ……邪魔者が、割り込んでは、困ってしまいますからね……」 「静かにえっちしましょう……二人だけの愛の世界には、なんぴとたりとも入り混む余地はないんです……」 官能的な吐息を漏らすノエルは、わかったのかわかっていないのか、カクカクと首を上下させた。 「このおち○ちんは……はぁ……私だけのもの……ご主人と繋がってる……ずっと、ずっと……」 「おち○ぽから、伝わってきますよ……ご主人の微細な乱れが……私のおま○こにっ、響いて……んぅっ」 「……やはりわかるか……私の乱れた心が……」 「はい……なんですか? もしかして、おち○ちん限界なんですか……? 私より先にイッちゃうんですか……?」 「今まで気になってはいたが、看過してはきたことがある」 「“おち○ぽ”“おち○ちん”“おま○こ”などといった呼び方は些か幼稚ではないだろうか?」 「ああ、そんなことでしたか……えっちの時は、いいんですよ……常識に囚われていては、欲求は満たせませんよ……」 「なるほど、一理ある。効率の問題だな」 繁殖機能のない私達にとって、こういった無意味な性行為自体が正気の沙汰ではないのだ。 性的ストレスの開放を目的にしている以上、正常な考えそのものが妨げになってしまっては非効率だ。 「そうです……私は常にご主人の事を考えて、こういった卑猥な言い回しを好んで使っているのですよ……」 「ンッ……はぅ、んっ、ん~~っ、ぜ、ぜんぶ、ご主人の……ご主人の為なんですよぉ……私は、べつに、したくなっていいんですから……」 膨らませすぎた風船のような双乳が揺れる様は、いつ見ても迫力がある。 耐久レースのようにあの胸を揉まされ、口に含む事を強要された時のことを思い出すと、若干の恐怖はあるが……。 「だっ、めぇ……はぁ、ご主人のたくましいおち○ぽが、奥をこつこつして、嬉しくて腰が勝手に動いてしまいます……」 「ンッ、ンッ、ンッ、私は、いつだって、ご主人を満足させられるんですっ、だからっ、他の人を抱いたりしては、いけませんよっ?」 「ああ、問題はない」 「ご主人は、楽な体勢のまま、私に身を任せていればいいんです、それだけで、極上のひとときが得られるんですから……」 ノエルの膣は絶頂が近づくと圧力が増し、男性器を急速に刺激する。 「あぁ~……きもちぃですね……はぁ……きもちぃ……きもちぃ……これが……すなわち……愛なのですよ……」 「私はご主人の為に、こんなに気持ちいいセックスをさせてあげてるんです……感謝してくださいね……」 ぱちゅんっ、ぱちゅんっ、ぱちゅんっ、ぱちゅんっ! いわく、致死量の愛情が混入された腰振りによって、ノエル自身が愛の重みにつぶれそうになっているように見えた。 「やっ、あっ……しなきゃっ、いけないことだからっ、ん~っ、ご主人を犯すのっ、私の、仕事だから、あっ、おま○こ、切ないのもっ、仕事のうち、だからっ」 「さすがに激しいな……とてもじゃないが、我慢ができそうにない」 「ご主人っ、んっ、出るんですね、ああ、もう、仕方のない人です……イキそうなおち○ちん、私が気持ちよくしてあげますっ」 「ンッンッンッ、はっ、あぁぁんっ、精液は、どこに出すつもりですか? いつも、私のどこに出しているのか、思い出してくださいね?」 「決まっている。性交渉の際、私はノエルの体内に全てを注ぎこむことを義務づけ――いや、注ぎ込みたいんだ」 「そうです……その通りです……ご主人の精液は、私のなかに出すために、あるんですから……」 私にはわからないが、ノエルの肉体は肉感的で男性の性的欲求を無闇に掻き立てるという。 それが通常の思考であるならば、私もそれに習い、ノエルの膣内に精液を放てる事に感謝するべきだろう。 「あっ、あっ、ご主人っ、ご主人っ、きもちぃ、あっ、きもちぃ、きもちぃの、キちゃう、ご主人といっしょに、きもちよくなれる、うれしい、このまま、いっしょに」 「あっ、あ~~っ、んぁ、ぃ、イク――――ご主人も、イって、精液なかに掛けてくださいっ!」 「ンッンッ、ン~~~~~~~~ッ! ~~~~~~~~~~~ッ! ~~~~~~~~~~ッッッ!」 射精にともなう刺激は強烈なものがある。 私がそれを快感と捉えることはないが、思考が一時的に停止するていどの痺れが男性器から広がっていく感覚はあった。 「~~~~~っ……~~っ……熱いの……たくさん……なかで出されて……イってしまいました…………」 全身の筋肉を弛緩させて悦に浸るノエルに精液を注いでいく。 「……い……イィ……この感じ……ご主人の愛がおなかに満たされる幸福感……はぁ…………きもちいいです……」 膣だけは忙しそうに収縮を繰り返し、飽きることなく私の精液を飲み込んでいった。 ノエルは次から次へと打ち上げられる精にやられ、微痙攣したまま蕩けきった瞳を虚空に彷徨わせた。 「はっ……はっ……ごしゅじんの、おち○ぽ……みゃくうって……はふ……びゅくびゅく……おま○こ……みたされてますぅ……」 「……ごしゅじんとのえっち……私だけのせーえき……私とごしゅじんの……あいのけっしょう……」 無尽蔵にこぼれる唾液を気にもとめず、うわ言をつぶやいている。 時折、思い出したように目を閉じ、肢体を震わせ、膣を収縮させては喘ぎを漏らす。 「……ノエル……射精は終わった。いつまで上に乗っているのか、具体的な時間を教えてもらえないだろうか」 「はぁ…………やっぱり……ごしゅじんとのえっち……すきぃ……だいすきぃ……」 「ノエル? ノエル。気をしっかり持ってくれ」 「は――あ……あぁ……えっと……ン……射精したんでしたね……お疲れ様でした……」 「夢見心地のところを起こしてしまっただろうか」 「い、いえ、特には。……必要だからしているだけですから」 よだれをすするが、火照った顔にはだらしなさが張り付いている。 「おち○ぽのふくろ、軽くなっていますね……ここに入っていたのがすべて、私のなかに……」 「ノエル、とても気持ちが良かった。私はとてもすっきりしたし、またノエルとこういった時間を過ごしたいと思う」 「そうですか……私は、べつにご主人の犯罪防止に一役買っただけですが……そう言ってもらえるなら、してあげた甲斐があるというものです」 行為を切り上げる為に用意されていた感想を卒なく伝えると、ノエルはご満悦のまま表情をほころばせた。 「ご主人は私が大好きですから、おち○ちんを抜かれるのは名残惜しいと思いますが……致し方無いですね」 「ノエル、シャワーを浴びるといい」 「私はいいんですよ。ご主人の精液を流すなんて……もったいないじゃないですか……」 ノエルという私の指針を失わずに済むのであれば、このくらいのセックスコミュニケーションは容易いものだった。 「それではまた、ご主人のおち○ちんが疲れた頃にでもするとしましょう」 「ああ、それで問題はない」 ノエルが求める限り、私はそれに応え続けるだろう。 「――――――――――――――――」 「ああ……はいはい…………ムシのウタでございますのね。鈴虫かな? なにかな?」 旧市街で焼き付いた生々しい光景がふと蘇った。 気にしていないとはいえ、数時間前のできごとだ。 体験としての記憶は完全に忘れることはできない。 一度思い出すと、あの後、どういうふうに対処されたのか気になりだした。 時計を確認する。 時刻は深夜3時を過ぎていて、俺にとって充分すぎる睡眠が取れていることがわかった。 「夜風も浴びるついでに、っと……」 「ふー、夜のドライブは目が覚めるなぁ」 到着。原付を路肩に止めて軽く伸びをする。 メットインに邪魔な荷物は全部仕舞って身軽になる。 「公衆電話の周辺、立入禁止になってるかな? でもこの辺りはそもそも立入禁止区域だしな……」 このへんの旧市街は、こう言うとアレだけど、割りと見捨てられた土地だ。 いや、無かったことにされた場所といった方がわかりやすいか。 倒れそうで倒れない斜めになった建物や、未整備で割れっぱなしの道路はいつ見てもひどい。 こんなんだから、当然、人の気配もない。 7年前の不幸――――通称“ナグルファルの夜”が色濃く残された旧市街。 そんな場所だから、生活範囲に含める人はほとんどいない。 稀にヘンなのが住み着いてるって噂も聞くけど、俺も似たようなものだ。勝手に秘密基地として開拓中の場所もあるし。 「…………」 と。足が止まった。 不意に、今から行おうとしている確認作業がひどく無礼に思えてきたからだ。 “発見者”のポジションで居続けるつもりなら、じっくりくっきりはっきり現場調査をして徹底的に死因を突き止めている。 状況的な誤解を生んで家族に迷惑を掛けない為に、匿名で通報したことを忘れてはならない。 なにより俺とウエイトレスさんの関係は希薄だし、関わるべきではないはずと判断したはずだ。 だというのに“思い出したから”なんて理由で首を突っ込み、掘り返すのはどうだろう。 「……忘れるべきじゃないですかぁ」 生の死体なんてガキの頃以来だから、ちょこっと夢に出ただけだ。 そもそもこの思考は、ポジティブじゃない。 「このまま帰るのはもったいないな。聖域の開拓に精を出すか!」 というわけで次に俺がするべきは―――― 「…………?」 と。再び足が止まった。音を聴いたのだ。 人のいないこの場所に存在する環境音は、虫の音と波音くらいのはずなのに……。 海は凪いでいて、シンとしている。 鼻は壊れ気味だが、聴覚は正常だ。 なら今の――――何とも人間的で音楽的な響きはなんだろう? 耳を澄ます。やっぱり聴こえる。 「こっちか……?」 人は自分の名前に近い発音を感じると、小さな声でも過敏に反応するという。 俺は、その音の正体に呼ばれているとでも感じたのだろうか。 蜜に誘われる蝶のようにふらりと歩き出す俺は、それが毒花でなければいいななんて思うことしかできなかった。 立入禁止のフェンスを超えた先に待っていたのは、地盤の狂いでアスファルトが突き出した珍百景。 見捨てられた旧市街の中でも、誰も寄り付かなさそうな――――事実、初めて目にした空間を歌声が支配していた。 ハミング。 誰に聴かせるわけでもなく感情のまま自然に口ずさむソレは、今はあまり耳にしなくなった賛美歌のようだった。 普段から音楽を聴かない俺は、特にコレといって気の利いた《コメント》〈感想〉があるわけではない。 好きか嫌いかで言えば、好きな雰囲気だった。 歌の良し悪しよりも気がかりだったのが、“此処に来たのもやっぱり間違いだったんだろう”という思い。 明らかに俺はお呼びではない観客――――彼女だけの秘密の空間に迷い込んだおじゃま虫。 そっとしておいてあげるべきだろう。 「………………」 「あ――」 失態。気づかれて、ジトッと見られる。足音を立てたつもりはないが、気づかれる時は気づかれる。 「続けて続けて、俺のことはほら、空気だと思っていいからさ」 「………………」 「もちろん俺は怪しい者じゃないよ――って怪しい奴はみんなこういうこと言うから気をつけてね」 「俺はホンモノの“怪しい者じゃない”だから誤解なきように」 「意味合い的には、推理モノのドラマとか、怪しそうな奴は犯人じゃないでしょ? 限りなく黒に近い白ってやつ」 「……………………?」 妙な気分――キッカケは直感の類だったが、簡単な思考によりすぐ違和感となって表れる。 少女は間違いなく俺が来たことで歌うのをやめたのに、今の反応はどうだろう。 邪魔者に対する嫌悪でもなく、 不審者に対する恐怖でもなく、 闖入者に対する警戒でもない。 ――本当に俺を“空気”と同一視しているような、そんな反応。 「……………………?」 とりあえずマネして首を傾げてみる。 「……………………?」 負けじと(?)反対側に首を傾げる少女。 「……………………?」 とりあえずマネして反対側に首を傾げてみる。 「…………ママ……?」 「ああ良かった、話してくれた。首が折れるまで永久ループを覚悟してたところだよ」 「ってママじゃないからね?」 「あ! まさか……ママになりたいの……? 俺の子供を生んで……ママに……」 「…………ママと違う……大体、一緒で……まったく違う……」 「俺を誰かと勘違いしてるのかな」 「…………そっくり……」 「誰と比べて?」 「人と」 「そりゃ人類ヒト科を代表する“百合かもめ”の“《クリアランサー》〈片付け屋〉”だからねっ!」 「形が」 「俺は優真。水瀬優真。“真に”“優れた”なんて名前負けしそうだけど、覚えやすいだろ?」 「…………どうでもいい……」 「え、えーっと……? 歌う妖精さんのお名前は?」 「………………」 世の中にいる美少女の全員が全員、なるみたいに波長が合う子であるわけもなく……。 トークの権利は貰えず、いないものとして扱われてしまったわけで……。 これ以上、この場で何ができるわけでもないし、いる理由はなくなった。 が――――。 「今日はめちゃくちゃ可愛い子に会ったんだよ。菜々実なるっていうんだ」 「そーなのかー。写真の一つもなしかー?」 俺は“全ては社長の為に”を信条とする“《クリアランサー》〈片付け屋〉”だ。 一応、接点は持ったわけだし、このまま手ぶらでは帰れない。 絵になる美少女を前に何もできない歯がゆさを緩和しつつ、今日子さんへの土産話を盛り上げる唯一の方法といえば――――写真。これしかない。 「撮るぜー。可愛く撮るぜー。無視は了解と受け取るぜー?」 まぁ、写真の一枚くらいなら笑って許してくれるだろう。 あれ――――携帯、“圏外”表示? 旧市街とはいえ、他の場所は平気なのに……。 ……そういうこともあるある。 写真機能が生きてればそれでOK。 歌う美少女パシャリ。プライスレス。 「でぃくくちゅんッ!」 「おわっ! キュート!」 可愛いくしゃみをするものだから、思わずときめいた。 偶然にも同時にシャッターを切っていたので、被写体の“瞬間”を切り取ることに成功。ベストショットだ。 「…………出てきた……」 「鼻水が? ティッシュもってないから、俺の服で拭いていいよ」 「…………潮騒が止んだ……危険区域……邪魔になる……」 「その前に、今の写真を美少女フォルダに保存するから名前教えてよ。フォルダ名つけられない」 「…………消して……」 「えー! よく撮れてるんだよ。見る? 名前言いたくないなら、歌う妖精さんフォルダでもいいけど」 「……それには映ってる……ココロが……」 「ココロ……? ……ああ、魂が抜かれるとかを信じてるタイプ?」 「消せ」 「消したよ。了承も取らずに勝手なことしてごめんなさい」 「………………」 ちゃんと謝ったつもりだけど、何一つ許しの言葉は投げかけてもらえなかった。 つまり、俺は許してもらえていない。 「もう帰るけど、風邪には気をつけて。夏とは言え、夜の海辺は冷えるから」 歌う妖精さんはやはり俺を無視して、くるりと背を向けた。 それは決別を意味しているように見えたけど……。 今日子さんいわく、俺は“笑っちゃうほど図々しい”らしいから。 コレ一回っ切りで俺を拒絶できるなんて思わないで欲しい。 とはいえ、今は機嫌を損ねたし、相手が嫌がっているなら去るべきだ。 来た道を戻っていると、世界的に有名な賛美歌が心地よく聴こえてきた。 「あ……」 携帯の“圏外”の文字が消え、メールを報せる。 内容は《バラシィ》〈零二〉の構って欲しいだけの文章だった。 内容よりも気になったのが……。 「あのへんの電波特殊なのかな……って、アレ――――?」 「なんでさっきの場所、ないんだ……?」 夢か……? 夢って事で済ませておこう。 ポンコツな俺なら、美少女と愉快な一時を過ごすくらいの夢を立ったまま見るくらい、ありえない話ではないだろう。 「気分を変えて、どっか行くかな……」 メットをかぶり、原付に跨る。 そろそろ空がやんわりと白んでくる頃だ。 となると、あそこしかないか、やっぱり。 「はぁはぁ……あの階段、全部で99って言われてるけど……数えると毎回100か101なんだよなぁ……」 住宅街を突っ切ってぐんぐん上り、原付を降りて階段ダッシュ。頭がズキズキするていどには走った。 しかし開けた視界は、俺の頑張りを祝福していた。 「ハァハァ……日の出まではまだ時間があるな……」 「一瞬でもこの絶景をみて、心のうちがわくわくする人間と、そうでない人間とはちがう!」 俺の秘密の聖域の一つ“薫る新緑の絶景高台”。 抜群に空気がうまい、自分の住む街を一望するにはうってつけの場所だ。 「事務所はあのへんだよな。社長もう帰ってきてるかなぁ」 「さっきまであのへんにいたんだよなぁ……なんか感慨深いっていうか、そんな感じだぁ」 「街は異常なしですね」 平和平和。海は静かだし、隕石もジェット機も落下の気配なし。 「もう少し空が白みだしたら、日の出が来るな」 「お、お――――」 「おぉ~~~~~~~」 なるが隣にいれば“日の出だと思った? 残念! オーロラでした!”って笑っている場面。 「でも綺麗だから良し」 夜空の大パノラマに揺れる《オーロラ》〈極光〉のカーテン。 「絶景かな絶景かな」 今更感が拭えないほど日常に定着しているが、俺にとっては毎回が初めてみたいに新鮮だ。 天気予報士さんの受け売りだけど、この街はオーロラの発生条件を満たしていない。 オーロラの正体は、夜空を駆けるワルキューレの甲冑の輝やきなんだとか言われてる。 嘘。北欧あたりの神話だと、そうみたいだけど。 夢のある話だと思ったけど、実際の所どうなのかは専門家たちの頑張り次第で明らかになるだろう。 「……にしても」 「…………どうにかならないのかなぁ……」 ハッキリと目視できる、繁栄と衰退の境界線。 限りなく住みやすさを追求した現代都市と、見捨てられ朽ち果てた地域。 人々は、現実的に暮らすことが困難になった場所を完全に無かったものにした。 地球が住めなくなったら月にお引越し、ってわけにもいかないだろうに、いつまで放置し続けるのだろうか。 「7年……経つんだよなぁ……」 悲劇――“ナグルファルの夜”。 地が割れ、天が裂け、海が荒れ、人が崩れた、一度きりの大災厄。 破壊の限りを尽くしておいて、原因はまったくの不明。 絶望のドン底に叩き落としておいてそれっきり音沙汰無しだ。 “ナグルファルの夜”によって世界は混乱した。 さらに、原因不明のウイルスで世界は混沌した。 国は何もしなかった。 いや、できなかった。 中枢機能があたりまえに停止したからだ。 緊急時の対策不足ではなく、対策不可能な未曾有の大規模災厄だった。 そんな中、救いの手を差し伸べたのが、 医療関係の大企業“《アーカイブスクエア》〈Archive 〉Square社”だ。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”は精製したワクチン“《エーエスナイン》〈AS9”を無償で配り、衣食住の問題解決にも全力〉を注いだ。 今の形になるまでには5年近く掛かったが、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”はブレずに世界のために尽力し続けた。 今では政府に匹敵する影響力を持っているが、権力に笠を着ることもなく、医療以外にも様々な分野の技術向上に貢献し、福祉関係への力も強めている。 ありがとう“《アーカイブスクエア》〈AS〉”。 みんな大好き“《アーカイブスクエア》〈AS〉”。 広告塔はもちろんRe:non様。 その辺も抜かりないぜ“《アーカイブスクエア》〈AS〉”! 「旧市街を直すのだって、俺たち住民が頑張って働いてれば、いつか叶うはずだ」 というわけで、流れ星に願い事をする感覚で両手を組んで目をつぶる。 「オーロラ様! オーロラ様! よろしくお願いします!」 病気平癒、交通安全、家内安全、厄除け祈願。 なるとRe:non様と妖精ちゃんの安産祈願。 一夫多妻の認められる世界になりますように……! 「お願いしますお願いしますお願いします!」 「俺の願いを聞き届けたなら、何かわかりやすいサインを……! 例えば、オーロラ様自身が真っ赤に染まるような……!」 「………………」 なんてね。 「祈るようになったら、人間はオシマイ……遊びでも、こんなことするんじゃなかったな」 本当の惨劇は――――祈りなんか通じない。 ――――――――あ、あれ? まさかの効果あり? オーロラどころか、視界全体が真っ赤っ赤に変化している。 「???」 瞬きをしても変わらない。 原付で走っていて小雨が降った時のように、顔に嫌な湿気を感じる。 「れろっ」 「へ」 首筋に熱くねっとりとした感触。 時間が止まったように感じられた。 やや思考が固まって――――一歩下がる。 「――――――――ッ!!??」 絶句。 心臓が跳ね、思考が完全に停止した。 「死臭がしたのにな」 視界の“赤”が血を滴らせ、顔を近づけてくる。 髪も、唇も、瞳もすらも赤い、《メチャクチャなヤツ》〈化ケ物〉。 逃げなきゃ――――頭で思い、シミュレートしても、まったくの無駄。蛇に睨まれた蛙の気持ちなんてわからないまま人生を終える予定だったのに。 「れろぉ~……」 「っ……」 ザラザラとした猫のような舌で首筋をなめられた瞬間、ナイフの背で撫でられるような感覚にどっと汗が吹き出した。 底なし沼で脚をつかまれたような――――どこまでも堕ちていく落下感。 「…………にゃは……違うな♪」 半月のような口元からチラリと窺える、真っ白な牙。 真っ赤な人型の中で、唯一、赤以外の色をした部分だった。 おいおい。おいおいおいおい。冗談だろ。何だコイツは。 ヤバイ――――頭の何処かで警笛が鳴った。コイツはヤバイ。 「怖がらせちゃったかい?」 その笑みが、いつでも踏み潰せる虫けらに向けるものだとわかった時、自分が何故動けないか紐解けた。 《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈仮に全力で逃げたとしても、逃げ切れないと身体が悟ったんだ〉。 「ゴメンネ――――お詫びに《ルージュ》〈口紅〉を引いてあげる」 真紅の指先が俺の唇の形にそってゆっくりと動いていく。 「………………」 「キミは最終兵器を出さないのかな?」 乾いた唇が湿る。舌先が感じ取ったのは、鉄臭い味だ。 「――命乞い」 「追い詰められると出す、あらゆる動物の中でヒトだけが使うとっておきの最終兵器」 情に訴える、という行為。 自分にも情があるから。相手にもあるはずだから。 “だから助けてくれ”という人間独自の必殺技。 「必死でツクってた自分? をかなぐり捨てて、積み上げてきたものを忘れて、執着するよにゃ」 「命に」 大笑いを堪えるようなニヤニヤ。完全に小馬鹿にされてる。だが、俺に何ができる? ……何も。考えるまでもなく、何もできない。 差し当たっては“考えるまでもない”という現実に直面できたことが、不幸中の幸いだった。 「ありがとうございます、は?」 口紅サービスのお礼請求――――分岐点だろう。 法の有無は関係ない。 今、自分が置かれた立場だけが全てだった。 生殺与奪を握られている現状だけに集中した。 命を媚びる事で生き永らえるも良し。 抵抗を試みるのもまた良し。 「こ、こ……」 「こ……? 殺さないで?」 …………。 「……声、かわいいなぁ」 「…………」 開ききった瞳孔が、何を意味していたとしても――――関係ない。 「ぶどう酒パーティの帰りか何か? 真っ赤っ赤で全然わかんないけど、声だけでメチャクチャかわいいってわかるよ」 声は所々ひっくり返るは、足は震えっぱなしだは、頬は引きつっているは、もう散々。 それでも俺は、俺でいたいから笑う。 俺自身を拒絶したくないからポジティブを貫く。 それがどんな状況だろうとも、だ。 「嫁になりたいなら、最初からそう言ってよ。考えてあげなくもないんだからさ」 真っ赤な人型は口元から愉快そうな息を漏らすと―――― 「……ふざけんにゃ♪」 軽快でいて気楽そうに、自由落下した。 「………………………………」 ポカンと開いた口が、しばらくふさがらなかった。 木々で茂っているとはいえ、自殺行為というか、ほぼ自殺だ。 それでも真っ赤な人型が死んだようには思えなかった。 「はぁ、はははっ――――はぁー! 威圧感ハンパじゃないなぁ……」 急いで手の甲で口元を拭う。 紅は取れず、粉のようにボロボロと落ちた。 “《クリアランサー》〈片付け屋〉”を生業にしてる分、血の性質について一般人よりは詳しいと思っている。 血管の外に出たことでの凝固――施されたのが“口紅”ではなく“血化粧”という結論から目を背けるのは、いい加減不可能だ。 つまり、さっきの奴の正体は――――《ヒトゴロシ》〈殺戮者〉? 「あー……なワケないだろ。良い方向に考えろ、良い方向に……」 「そもそも人の血じゃない……動物の血……肉屋……? あれだけの量だぞ? 違う」 「わかった! 輸血パックを運んでる最中に迷ってしまった人だ! 合点がいった!」 「迷っただけならまだしも、転んで全身に浴びちゃうなんて……おっちょこちょいだなぁ」 返り血を浴びてる理由もこれで大体、正解――――だったらどれだけ平和的か。 こんな都合的解釈じゃマズイ事くらいわかってる……。 だけど――――『深夜の高台で全身血だらけの何かと遭遇したが、ソレは自ら崖から落ちた』なんて話、誰も信じない。 「夢かー」 無力で善良な市民に取れる“通報”さえも選択肢からなくなったなら仕方がない。 夢なワケないけど、夢で片付けておこう。 「今の奴といい、昼間の一件といい、俺の周りで厄介なイベント盛りだくさんかよ」 「はぁーーあ……人生、楽しいなぁ……」 今日一日で、色々ありすぎた。 自意識過剰かもしれないけど、運命にからかわれてる感じがする。 「ダーメだ。考えすぎ……」 後で崖の下で転がってないかだけ確認すれば良い。 「ああ…………」 「もうすぐ、朝日が上るのか」 “今日”が歴史に刻まれていく。 「一時間だけ仮眠を取るかな」 朝日と自然の風を感じながら、楽な姿勢を取る。 心地良い疲れを感じられた俺は、間違いなく幸せだった。 夢。 これは夢だ。 状況は鮮明ではない。ここがどこであるのか、何が起きているのか。 明確にわかっていることは二つ―― 周囲を覆い尽くす勢いで燃え盛る炎と、それを遥かに凌駕するほどの怒りに苛まれていることだった。 身を焦がす激情の理由はわからない。 人間は深層心理や過去の体験を夢に投影するという。 私の場合は後者だ。 もっともその記憶の欠片を私はどこかに落としてしまった。 もしももう一度手に入るとするならば―― 私はどんなことでもするだろう。 「ねぇねぇ、あかしくん起きてよ。もってきたよー」 「ん…………」 眠っていた脳が覚醒していく。 瞼を開けるとひまわりの顔がすぐ目の前にあった。 「はい、どうぞ♪」 「…………」 ひまわりの手には立派に華を咲かせたモミジアオイが握られていた。 「これは何だろうか……?」 「なにってお花だよ?」 「それはわかっている。どうして私に渡そうとしている」 「あかしくんが欲しいって言ってたから」 「……そんなこと言った覚えはないのだが」 こめかみを押さえながら状況の整理をする。 目の前にいる少女は昨日迷子になった人間だ。 名前がないと言うのでひまわりと呼ぶことにした。うむ、間違いはない。 では何故私は感化できないひっかかりのようなものを覚えているのだろうか。 「ふえ?」 眼前の少女は無垢な瞳をこちらに向けている。 手に持ったモミジアオイを小さく振りながら―― …………? 「……ひまわり。ひとつ聞きたいのだが」 「およよ?」 「その花はどこから持ってきたのだろうか?」 「あそこ♪」 ひまわりが快活に指をさしたのは、私が栽培している植物を並べている棚だった。 「――!?」 等間隔で並べている鉢植えに駆け寄る。 「……なんてことだ」 私が栽培している植物の一つであるモミジアオイを確認すると、明らかに根本から花弁をもがれた茎がそこにあった。 悪い予想は当たるものだとどこかの人間が言っていたがまさにその通りだ。 「どーしたのあかしくん? おめめがぴくぴくしてるよ?」 「ひまわり。キミには言っていなかったかもしれない。だとしたらそれは私のミスでもある」 「およよ?」 「およよ、ではない。私は今キミを責めている。どうしてだかわかるだろうか?」 「どーして?」 ひまわりに悪意はないのだろう。そのことが余計に私を悩ませる一因でもあった。 「ここに植えられている植物は全て私が育てているものだ。屋外で生えているものとは違い、毎日手入れをしている」 「おぉ! ごくろーさまです」 「労いの言葉はいらない。私が好きでやっていることだ。それよりもキミに守ってほしいことがある」 「なぁに?」 「ここに置かれている植物を傷つけてはいけない。花を毟ってしまうことももちろん駄目だ」 「でもぉ……」 「でも、ではない。これは守らなければならないルールだ」 「うーん……わかったけど」 ひまわりは何故か納得できていない様子だった。 「あ、ひまわりもある♪」 ひまわりは目を輝かせて隣に置いてあった向日葵に手を伸ばそうとする。 「触ってはいけない」 私はひまわりの細い右腕を寸前のところで掴む。 「ちょっとくらいいいと思います!」 「触ってはいけない」 諦めの悪いひまわりの左腕もどうにか拘束する。 「ぐぬぬ……」 「…………」 子供の好奇心がこれほどまでに恐ろしいと初めて思い知らされた。 私は植物たちを守るため、打開策を必死に探した。 「今キミが目の前の花に触れることを諦めてくれるのなら、今日街に出かけた際キミの欲しいものをひとつだけ私が購入しよう」 腕に込められた力が緩むのを感じた。 「えっ!? ホント!?」 「ああ、本当だ」 目の前の報酬よりも魅力的な条件を提示することで諦めさせる。交渉において人間が使用する手段のひとつだ。 その効果は明らかだった。 「わかった! やくそくだよ! ひまわりとあかしくんのやくそく!!」 「ああ、私とキミの約束だ」 ひまわりの腕を解放する。 彼女の興味はもうどこかへ行ってしまっていた。 「あれぇ、朝から騒々しいですね」 ひまわりとの交渉が終えたと同時にノエルが二階から降りてくる。 「何かあのガキんちょがやったんですか?」 「問題ない。面倒なことは解決した」 「ならいいんですけど」 ノエルはブラシで髪を梳きながら、もう片方の手で携帯を操作していた。 私の視線に気づいたのだろう。ノエルは私に向かって携帯の画面を向けた。 「別に大したものじゃないですよ。今流行っている携帯小説ってものを読んでたんです」 「お前がそのようなものに興味を抱くとは珍しいな」 ノエルは基本的に娯楽小説の類を読んだりはしない。 人間社会を知るために有益な情報を日夜集めているからだ。 「クラスの連中がうるさくてしかたなくですよ。内容も酷いものです」 「闇の炎がどうとか魔眼がうんちゃらとか、中二病をこじらせるのも大概にしろって感じですよ」 「闇の炎と魔眼か」 実際に敵として戦うことを想定するとかなり手強い存在だろう。 もしも私の前に立ちふさがった時、退けることができるだろうか。 「ご主人。まともに取り合っちゃ駄目ですよ」 ノエルが呆れたように私を見ている。 「お願いしますけど、くれぐれも人前で闇の炎についての考察はしないでくださいね」 「この世界ではごく僅かな限られた人間の痛ーい妄想なんですから」 「ああ、わかった」 ノエルは棚から二枚の食パンを取り出してトースターにセットする。 人間は炎を操ったり、大地を割る怪力を備えていない。 一部を除けばの話であるが―― 「ねぇねぇあかしくんとのえるちゃんゴハン食べるの? ひまわりも食べるよ?」 「どうせそう言うだろうとは思ってましたが、もう少し居候らしく謙虚な姿勢は見せられないんですか」 「けんきょ? 警察が犯人を特定して逮捕または取り調べをすること?」 「それは検挙ですしどうしてそっちの方だけ無駄に詳しいんですか」 「ひまわりはこう見えても頭が良いのです、えっへん」 「偉くもなんともないですよ」 「ふがっ!?」 ひまわりの鼻にノエルの人差し指と中指が差し込まれた。 「オラァ!! 悔しけりゃ自慢の醜い声で鳴いて見やがれこの豚野郎がっ!」 「ふがふがっ――!!」 「何をしているのだ」 「いや、この生意気なガキんちょに世の中の厳しさを教えてやろうかと」 「なるほど」 ノエルは上から引っ張り上げるようにしているため、逃れるためには上方へと身体を持ち上げなければならない。 しかしひまわりとノエルでは圧倒的な身長差があるため逃げることはできない。 力を持つものが弱者を操るというこの世界の縮図が体現されている。 「おっと、できたみたいですね」 ひまわりを解放してトースターから焼き上がった食パンを取り出す。 「ご主人は苺ジャムでいいですか?」 「ああ、頼む」 「はいどうぞ、あなたの愛する妻ノエルが作った愛情たっぷりの朝ごはんです」 「だーーーーーーーー!! わーーーーーーーーーー!!! ぎゃーーーーーーーーーー!!」 「なんですかうるさいですね」 「のえるちゃんのバカぁ!!! どーしていじわるするの!! お鼻に指突っ込んじゃいけないんだよ!!!」 「自分にはしませんから平気ですよ」 「そーじゃなくてっ!! ひまわりのお鼻もダメなのっ!! あとひまわりも朝ごはん食べる!!」 「簡単な算数の問題を出しましょう。ここにいるのは三人、トースターで焼いたパンは二つ。さあどうなるでしょう」 「……ひとり食べられないよ」 「そうですね、新たに焼くにも生憎パンの残りはもうありません」 「うぅ……」 「だから私は焼きたての芳醇な食パンをトーストから取り出しぃー?」 「はわっ」 「無農薬有機栽培苺ジャムをトーストに塗りぃー?」 「わあああ!!」 「舌の上で転がる苺の風味を楽しむために口の中へ持っていってからのー?」 「やめてぇー!! それ以上はもうやめたげてぇ!!」 ノエルは食パンを齧る直前で動きを止めて微笑んだ。 「ふふ、冗談です。はい、あなたが食べていいですよ」 「ふえ!? ほ、ほんと!?」 「嘘ついてどうするんですか。食べたかったんでしょう。私は一食くらい抜いても平気ですから」 ひまわりの顔がゆっくりと驚きから満面の笑みへと変化した。 「やたーーーー♪♪♪ ありがとー♪ のえるちゃん大好き♪♪」 「ええ、私も素直な子供は好きですよ」 ノエルは食パンを頬張るひまわりの頭を優しく撫でる。 ひまわりはパンを食べるのに夢中で、映画の黒幕がするようにノエルが口元を緩めているのに気づいていなかった。 「だからあなたも私の命令には絶対に従ってくださいね。どんな汚いことでも喜んで実行する奴隷のように」 「うん、ひまわり、のえるちゃんの言うこと聞くー♪」 両者の間には認識の齟齬があるように見えた。 「なるほど」 私はこんな方法もあるのだなと感心した。 ノエルは私に比べ、人間の心を扱う術に長けていた。 同じ時間を過ごしてきた者として少しばかり羨ましいと感じる。 人間は他者よりも劣っていた場合劣等感や羨望を抱くというが私にも似たような感情を持ち合わせていた。 私も今以上に人間の感情を理解しなくてはならない。 「私はそろそろ学園に行きます。ご主人は今日どうするんです?」 「ひまわりを連れて新市街に出ようと思う。帰りが遅くなることはないだろう」 「わかりました、それじゃ」 ノエルは一歩近づき、顔を近づける。 その行為の意味を私は知っている。いつものように少し屈み、頬を差し出した。 「ああっ!? のえるちゃんがあかしくんにチューした!!」 「ふふっ、行ってきます」 ノエルは満足した顔で学生鞄を片手に倉庫から出て行った。 「ねぇねぇ! どーしてチューしたの! チューは特別な時じゃないとしちゃいけないんだよ!」 「そういうものだからだ。人間は出かける前にキスをするのが礼儀なのだろう?」 いくつかの書籍やノエルが用意した映像によれば、出かける際と帰宅した際に行う挨拶として主に男女間で行われている行為だ。 資料では状況に応じて立場を逆転させていたのだが、ノエルの希望で私たちの間では固定されている。 一つだけ疑問があるとすれば、ノエルが用意した映像資料内の人間は別の言語を使用していたために言葉が理解できなかったという点だがおそらくは問題ないだろう。 「のえるちゃんだけズルい! ひまわりもする!」 「ノエル以外の者としてはいけないと禁じられている。それにキミは一人で出かける訳ではないだろう」 「それともキミの要求に応じれば一人で倉庫から出て親の元へ帰ってくれるのだろうか」 もしそうなのであれば私もやぶさかではない。 ノエルには事後承諾を得る形になってしまうが、彼女も致し方ないと理解してくれることだろう。 「それは……無理だからやっぱりいいです」 「遠慮しなくても構わない。さあ、存分に口付けをしてほしい」 「やだーーーー! こっちきちゃダメぇーーー!!」 両手で私の顔を押さえ、接近を防ぐひまわり。 しばらく説得を試みたが、結局私の願いは叶わなかった。                     少女物色中                      Now catching…                     少女物色中                      Now catching… 「えっ、あの二人連れ? んー……『了解』っと」 携帯を仕舞う。近距離チャット完了。 平日の朝、一番忙しい時間に声をかけられてホイホイ捕まる女学生さんはそうそういないだろうけど、行くっていうならサポートする。 「しゃ。気合入れていくぞ」 最初が肝心だからな……。 「よぉよぉ、そこの可愛い子ちゃん達よぉ。俺とイイコトしな~い?」 「うわっ、ビックリした。もしかして私達のこと?」 「遅れちゃうから……」 「いいじゃねぇかよぉ。サボってどっか遊びに行こうぜぇ」 「だって。どうしよっか?」 「良くないと思う……」 「お嬢さん方、こっちへ!」 「は~~~? なんだーおまえーやんのかー?」 「あ?」 「あ~?」 男前気取りの兄ちゃんとガンの付け合い飛ばし合い。 「んぁ~~~?」 「あ~~~~ん?」 「なぁ~~~~~~~ん♪」 「うふ~~~~~~~ん♪」 「ぶふっ……! お、お前の負けだっ!」 吹き出したくせに、負けを通告された。 笑わせた方が勝ちじゃないのか……。 「……チッ! 負けたぜ! 覚えてやがれってばよっ!!」 何に負けたがわからないけど、予定通り退場する。 もちろん捨て台詞も忘れない。 「まったく悪いやつが世の中にはいるもんだ! 怪我はないかい、お嬢さん方」 「くす……っ」 「あはははっ、おもしろ~い! お嬢さん方だって!」 「え? え? どのへんがおもしろかった? 君たちの危機を救ったんだよ?」 「だって、悪絡みする役が水瀬くんで、正義の味方役がお兄さんでしょ? 古典的ー」 「水瀬くんは人気者だから……私たちみたいな子、相手にしないもん……」 そこまで聞いた“正義の味方”が恨めしそうに振り返った。 実際、しょうがない。同じ学園の制服だし、顔を知られてたら成功するわけがない。 「お~い優真、そりゃねーでしょ。知り合いにこの方法使っても意味ないんだからさぁ」 「そうかな? 2人とも笑って楽しんでくれたんだから、やった甲斐あったと思うけど」 「やっぱ笑顔が一番だよなっ」 「まぶしっ。こりゃ人気あるわけだ……」 「…………イケメン(ぽっ)」 「ちょっと~、それオレが受け取るはずだった視線なんだケドー」 「朝から水瀬くんと話せるなんてツイてたわ。ユミ、気になってるって言ってたもんね」 「ちょ、ちょっと! そんなこと水瀬くんの前で言わないで……もう」 「2人とも別のクラスだから覚えてなかったけど、これで友達だね」 「はいっ」 2人とも一緒にいて楽しそうな良い子だ。 「あ――そうだぁ! この縁を活かして、4人で遊びに行こうじゃない!! 決定!」 「水瀬くんまた後でねー。あんまりヘンなのと一緒にいると、人気落ちちゃうから気をつけてねー」 「今度は勇気を出してわたしから声を掛けるね……! さようなら……っ!」 「またねー」 「またねー……じゃねぇよ。オレの事は無視かよ。『柄悪い奴から助け出す作戦』大失敗だぁ」 「成功の可能性ほぼなかったしね」 「何抜かしてんだ。さっきの二人、お前に気があるぞ。コロっと行けるぜ? コロっと」 「そうかもね。けど――」 「“けど、俺じゃなくてもいい”だろ。そんなんだから、いつまで経っても童貞なんだよ」 続く言葉を奪われて苦笑する。 否定しようにも、実際、未経験者だし。 未経験であることを深刻視したこともないし。 「性欲から始まる恋愛もあるかもしれない。裏切りから発展する快楽だってあるかもしれない」 「お利行さんな純愛が生む結果の90%は、マンネリ地獄なんだぜ? あたりまえだよな。経験が少ない下手くそ同士だもの」 「うん」 「うんじゃねーよ、ズボン脱げ」 軽い口調だけど完璧な命令形。 零二といると、こういうことが結構ある。 自分の考えに妄信的な部分、みたいな。 「ちょんぎってやる。お前、今のままじゃ雄に生まれた意味ねーでしょ」 チャラい零二から香るのは、いつだって畳と線香の匂い。 「俺、一回でもキミのやり方に文句言ったことあったっけ」 「あぁ……BAD。熱くなって押し付けがましい事してたぜ……マンネリに苦しむのも、人間らしさじゃねぇかBAD」 共感はするけど、強要はしないのが俺達の関係だった。 「目の前の御馳走に手を付けないなんて、オレには考えられないが……それでいいよ。飢えてるとこ、見たくないし」 「飢えたら、喰うよ。命は循環するものだからね」 「優真はガクセーだからいいよな、入れ食いで。学園なんて制服娘のセルフサービス食べ放題の店みたいなもんだろ?」 「俺、勉強好きだよ」 「社会に出たら無意味だって知るよ……ちょい一服」 とん、とん。渋い銘柄の安タバコのパケを叩く姿が様になっている。 本人曰く大事なのは“葉っぱの詰まり具合”らしいが、俺にはよくわからない。 「スゥゥゥゥ…………」 「………………ハァァァァ……ハハハッ」 「うまい?」 「もちっと大人になったら一緒に吸おうな」 駐車禁止の軽自動車に寄りかかった零二は、持ち前のゆる~い顔つきで空をぼけ~っと眺める。 「雲ってさー、きもちよさそ~じゃね? ふわふわしてさ~」 「上に乗れたらいいなって思うよね、主に眠たい時とかに見ると」 「多分、アレだ。オレたちって仕事柄、万年寝不足じゃん? 道端にベッドあったら金払うのにって本気で思う時あるし」 「あるある」 「まともな時間に寝ないと体力って回復しないらしいぜ? 俺たち体内年齢いくつなんだろな」 「だったらあんな時間にメールしないでくれよ。俺だって毎日2時間はちゃんと寝てホルモンのバランスを保ってるんだよ」 「俺、夜勤明けで寝てねぇ寝てねぇ。けど帰って寝たら一日が終わっちまうからな、女見繕わないと干からびて死ぬし」 「さすがは“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の警備員。ただの警備員より残業代がっぽがっぽだね」 高月給のフリーター(言うと怒る)と、 安月給の“《クリアランサー》〈片付け屋〉”(借金返済で90%カットなので)。 年齢、仕事、性格、どれも合致しない俺たちの接点は、女の子が大好きというただそれだけだった。 「ホントは乳揉み師になりてぇんだけどな」 「そんなものあったら人気の職業ランキング1位まちがいなしだね」 「母乳が出ないママさんとか、乳が張って辛いおっぱいちゃんをマッサージして母乳を出させたり、おっぱいの痛みをやわらげる職業」 「え……実在するの?」 「携帯で調べてみ。普通に調べたらつまんねーから“KOEで入力”の機能使えよ、音声認識のヤツ」 「わかった。ンン――――«母乳»«おっぱいちゃん»«マッサージ»«乳揉み師»」 ※音声入力が確認できませんでした※ 「オレに貸してみ」 「むぅ……嫌だ。機械に馬鹿にされたくない」 ※音声入力が確認できませんでした※ 「ハキハキ喋るから認識しないの。発音は生々しさが命だ」 「«母乳»«おっぱいちゃん»«マッサージ»«乳揉み師»」 {乳揉み師}検索結果 約 904,000 件 (0.12秒) 男性が選ぶ「よくわからないけどやってみたい職業」ランキング 「おー! なんか出た!! さすがはバラシィ。素晴らしぃ!」 「だから言っただろ、変態検索はお手の物だ。次はこの街の風俗事情でも調べるか」 「おー! ヘタしたら俺の携帯に多額の請求がきそうでスリルあるねっ!!」 「«たちんぼ»«諭吉5»«暦区ヘルス»«オトコの娘»」 「………………」 めっちゃ見られていた。 流れるような髪が印象的な、美少女。気品に溢れ、資産家の集うパーティ会場にいてもおかしくない雰囲気を醸している。 朝から最低な汚物を視界に入れてしまったという顔から察するに、今のやり取りの一部始終は筒抜けか。 「ヒューーー!」 「ド偉い格好でオレ達の救いを待ってる迷い猫がいるじゃねーか」 「待ってないでしょ、明らかに引いてたじゃん」 「よし――――攫おう!」 「は? えっと、犯罪に手を染めるって意味で?」 「ここに一本の注射器がある。即効性のヤツだ。打ったらコロっといくから、二人で両脇で抱きかかえて路地裏に連れていく」 「警備の仕事そっちのけで、その手の動画を鑑賞してたんだね。ちゃんと手洗った?」 「ともかく次のターゲットはあの子で決定だな。オレに釣り合う女を見るのは久々だ」 顔つきにも品格があり、零二のチャラさと比較するのは可哀想なのでやめた。 「あの子を狙うのは、ボロ雑巾がホテルタオルに恋をするような高望みに思えるんだけど」 「いや――――行ける」 「な、何の根拠が……」 「焦ってんだよ、あいつ。付け入る隙は、必ずできる」 零二の観察眼が光った。 言われてみれば、確かにと思う。衣装、顔立ち、動きも洗練されているが、表情の硬さに落ち着きの無さがにじみ出ている。 「いっちょ声かけてみっか」 「でも待って。忙しいなら尚更、相手にされないんじゃない?」 「目線が少し下がってる。焦りの原因は、落とし物だな。かといって、誰かに声を掛けるわけでもない。捜索の手の入れ方が雑だな」 「つまり……?」 「周囲に知られて、万が一にも拾い逃げされたくない物。大人数で探せない――――落とした事自体が知られてはならないもの……」 「それこそ人生を大きく左右するような、家宝とかな」 したり顔で断言する零二。 「零二まさか……落とし物をズバリ当てて、それを持ってる振りして丸め込む気なの……?」 「ナンパで最も大切なもの、教えただろ? 引き際、目標、情報、そして――――」 「何度でもチャレンジする不屈の精神」 「GOGOGO! オレたちゃ新米乳揉み師! 駄目で元々楽しもうぜ!」 芝生を駆ける少年のように美少女を追っていく零二に追従する。 「おねーさんおねーさん」 「…………」 彼女の気持ちを代弁するなら“さっきの変態二人に絡まれた”といった具合か。まぁそうだよね。 「落とし物だろ?」 「…………」 見逃してしまいそうなほど僅かな動揺。 だが仕掛けた本人が気づかないはずがなく、しめしめと一気に切り込むべく舌なめずりをした。 「オレが持ってる、って言ったら?」 「……その言葉に嘘はありませんね?」 ナンパに対して無視を決め込むタイプの口を開かせる事に成功したら、後はトントン拍子に進む。経験上、そういうものだ。 「誰の指示かは聞きません。返して頂ければ結構です」 「タダじゃ返せないな。少しオレたちに付き合ってくれ」 「私個人としてでしょうか。それとも九條の人間としてでしょうか」 「へ……? 九條ォ……?」 雲行きが怪しい……。 「九條ってあの、パーティの“《ビンゴゲーム》〈余興〉”で自社ビル一つ賞品に出す、大財閥の……?」 「雲行き……」 「“落とし物”とは何を指しているのでしょう。貴方方が持っている証拠はあるのですか?」 攻守交替。零二の反応を怪しんだ九條のお嬢様は柔らかな口調で問いただした。 零二はいつも匠な話術で相手から自然に言葉を引き出すが、ここまで受け身に回るのは手痛い。 「交渉決裂か。なら、話はここまでだな」 「待ってください」 「雲行き! じゃなくて、うまい!」 質問に乗ったら破綻する場面でこの切り返し。 呼び止めた九條のお嬢様は口を開きかけて、一度視線を逸らした。 「……《・・・・・・・・・・・・・・・》〈踏んで壊したりしていませんか?〉」 新情報。ソレは踏んで壊れるもの。 コンパクトで持ち運びが利くものだ。 普通なら携帯かコンタクトあたりでアンサーだが、九條のお嬢様が必死で探すものとなるとどうだろう。 「政略結婚のオーダーメイド婚約指輪をなくしちゃ困るよな」 ムチャクチャ具体的に渦中のアイテムを口にした。 零二なりの根拠があるだろうが、かなり当てずっぽうに聴こえる。 「私が落としたのはつけボクロです」 「ふぉっ!?」 「雲行きっ!!」 今の反応でバレた。バレたーって顔してる。 「はいはい。つけボクロも拾ったよ! 憧れの泣きぼくろで大人っぽく見せられるアレでしょ?」 「いえ、口ボクロです」 「そう、口ボクロ! 両方拾った。差がわからないけど」 「返さなくていいですよ、差し上げます」 零二が遊ばれていた。 「えっと、ホントは何を探してるの? よければ一緒に探そうか?」 既に九條お嬢様の瞳は俺たちではなく、時計の針の動きに合わせて動いていた。 「貴方達のような目的も持たず、日々を浪費してる方々を相手にする時間はありません。他をあたってください」 「グァ! フリーターが一番言われたくない事を……!」 「やめとこうよバラシィ。図星じゃん」 「オレは意味なく危険物取扱者の免許持ってるんだぞ? 車も運転できない箱入り娘にフリーター馬鹿にされちゃたまんねぇよ」 「……無駄足でしたか…………」 ホントは何を落としたのだろうか。 でもさっきの子、どっかで見覚えがあるんだよなぁ。 九條……九條……うーん、思い出せない。痴呆が始まってるな。 「めげずに次行くか」 「ごめん、そろそろ学園行かなきゃ」 「頑張ってハーレム作れよ」 交差点の信号は赤を示していて、通勤の車がびゅんびゅん行き交っている。 「はいはい、零二もいい加減帰って――!?」 「――――!?」 知らぬ間に始まっていて、終わっていた。 “一瞬の出来事”というのはこういうことを差すのだろうか。 人が撥ねられた。 めいっぱい助走した走り高跳びみたいに宙を舞って地面にぐしゃり。 受け身なんて一切なくて、マネキンみたいに顔面からズザザザザって。 「きゃあーーーーーーーーーーー!!」 「うわあ! ハネた! だれか救急車、早く、早く!」 現実を把握したのか、遅れて重なりあった悲鳴が場に満ちた。 「よりにもよってトラックかよ……あれ、無理だろ……?」 茫然自失で率直に心情を吐露する零二に、きっと悪気はない。 あまりにも唐突すぎて、道徳のフィルターが掛けられないのだろう。 「こいつがふらふら信号を無視して入ってきたんだ! クソぉ! 俺の人生終わりだっ!!!」 降りてきた運転手は数歩、歩いたあとに膝をついた。 人を轢けば言い訳無用で人殺しとなり、人生設計が崩れる。 青年は衝突現場から10m近く吹っ飛んだ場所で、うつ伏せに倒れたままぴくりとも動かなかった。 身体の損傷は少なく、血や臓器などの《アラ》〈内容物〉は出てないな――――と職業柄、思ってしまう。 「…………あぁぁぁぁ……」 ぴくりとも……動かない…………? 「……余計なカロリー使っちまったじゃねぇかぁ…………」 青年はむくりと。 何事もなかったかのように平然と。 寝室で起床するように立ち上がった。 「…………」 彼の動きは緩慢だったが、事故のダメージからではなく、生来の性格からくる気怠さのように思えた。 「あぁ!?」 と。彼が大声をあげた。 何事かと思えば、レンズが割れてフレームががたがたになったサングラスをいろんな角度から眺めるだけだった。 「お気に入りだったのによぉ……ツイてねぇ……」 用済みになったソレを靴の裏で踏み潰し、去っていく。 事態を見守ったところで、ようやく傍観者たちの止まっていた時が動き出す。 「き、君! じっとしていなさい! そんな体でどこへ行く気だ!」 「どこに行くって――――俺が聞きてぇよ」 声は掛けられても、彼に近づいてまで静止させようとする者は誰もいなかった。 日常と掛け離れた現実を目の当たりにすると人は動けない。 昨晩の俺自身が経験済みだった。 「特殊撮影とかじゃ、ないんだよな……」 「……驚いたな」 この世には、衝突事故を些細な肩のぶつかり合い程度で済ませてしまう輩がいるようだ。 乗せるべき人物を失った救急車のサイレンが聞こえてくる。 結果として、誤報や悪戯通報として処理されるだろうが、この場にいた全員が口を揃えて証言するだろう。 ――事故は確かにあった、と。 「どれにしようかなぁ~♪」 ひまわりは目を輝かせながら辺りの商店を見渡す。 「ほんとになんでもいいの?」 「“何でも”だと語弊がある。多額の金銭が必要な物や持ち運ぶのに不便な物は遠慮してほしい」 「おかしは?」 「常識的な範囲であれば問題ない」 「りょーかいです! あとおかしとあかしくんってお名前似てるよね」 「一字違いではあるが私の身体は砂糖で構成されていないし甘くなどない」 「うん、そうだね。それよりどこのお店に行こうかなぁ」 僅か数秒で自ら言い出したことに対し興味をなくしていた。やはり子供というのは一般的な成人に比べて対応が難しい。 私は目的を遂行するため懐から数枚の紙幣を取り出してひまわりに手渡す。 「お金? ひまわりにくれるの?」 「好きな物を買ってくればいい。私はこの辺りで待っている」 「どーしてあかしくんは一緒にこないの?」 「少しやることがある。キミが買い終わる頃には合流できるだろう」 「わかった! じゃあひまわりがあかしくんとのえるちゃんの分のおかしも買ってきてあげるね!」 「私の事は気にしなくても構わない。それよりもできるだけ多くの店を回るようにした方がいい」 「りょーかいでーすっ♪ いろんな種類のおかしを買ってくればいいんだね! ひまわりにおまかせあれっ!」 「そういうわけでもないのだが」 駆け出したひまわりに私の声は届かなかった。 私は雑踏から外れ、花壇で咲いているオシロイバナに視線を落とした。ここでしばらくこうしていよう。 ひまわりを一人で行かせたのは注目されることを防ぐためだ。ひまわりの組み合わせは私が一人でいる時よりも周囲の視線が集まってしまう。 複数の店舗を回るように指示したのは、ひまわりを探しているかもしれない人間――“みつきちゃん”と呼ばれる人物の目に留まりやすくするためである。 仮にその人間と合流してそのまま帰るべき場所へ戻ってくれるのなら、面倒事が解消されて私としてもありがたい。 「お兄さん、何見てるの?」 始めは私に向けられた言葉だと気づかずに反応が遅れてしまう。 しかしその声が届く範囲には私と、地面に布を敷いて腰を下ろしている少女の姿しかなく、ようやく自分にかけられた言葉であると理解した。 「何か用だろうか」 「普通、待ち合わせでここにいる人は向こう側を向いてるものなの。お兄さんみたいに花壇の草を見てる人は珍しいから、ついね」 「逸脱した行為ではないと思うのだが。それとも屋外で花壇を見てはいけないというルールがあるのだろうか?」 「あってたまりますか。私も草花は好きだから共感できなくないのよ」 「そうか。花を見ていると説明できないのだが心が落ち着くような気がするのだ」 「わかるわかる。多分草の緑色ってのが心理学的に効果があるのよ? 目の保養にもなるしね」 私が見ていたのは花であって草ではないのだが。 「お兄さんも親に言われたでしょ? ゲームの後は30分間、山の緑を見なさいって」 「そうなのか。私はゲームをしたことがないのでわからない」 「今時珍しいわね。私ですらたまにRPGとかやるのに」 少女には風貌に反した趣味があるらしい。 対戦車ミサイルなど私も実際に目にしたことはないというのに。 「RPGに関しては知識でしか知らないのだが、普通の人間が手に入れることができるものなのだろうか?」 「え? この辺りじゃ色んなトコでバンバン売ってるけど?」 「それは嘘だろう。私もこの辺りに来ることは多いが、バンバン撃っている所など見たことがない」 もしそうだとすれば駅前は旧市街に劣らぬほど荒廃していなければおかしい。 私はからかわれているのだろう。からかわれるのは気分が悪い。私は話題を変えた。 「それでキミは何をしているのだろうか」 「私? 見てわからない、か・し・ら?」 少女は大げさに両手を広げて胸を張った。 記憶を遡る。同じような状況が過去にあったことを思い出した。 「ああ、わかった。少し待ってほしい」 私は仕事で得た紙幣を財布から抜き出し、少女の足元へ落とした。 「ん? 何このお金?」 「物乞いなのだろう? その金は好きに使ってくれて構わない。だから私を放って置いて――」 「誰が物乞いだああああああああああああああああ――!!!!」 「違うのだろうか」 「全然違うわよっ!! どんな目してたらこんな美少女が物乞いに見えるの、か・し・ら!?」 「すまない。であればキミは何をしているのだろうか」 「はぁ~、ここまで察しの悪い人は初めてだわ……」 少女は布の上に置かれていたカードの束を見せ付ける。 「占い師。占いと名のつくものならほぼ全てをマスターしてるスーパー占い師よ」 占い。何かしらの道具を用いて、対象者の運勢や未来などを透視する行為。 多くの人間に認知されているにも関わらず、その効果に関しては科学的根拠はないと聞いた。 つまり気休め程度に楽しむ一種の娯楽である。 「それは悪いことをしてしまった。許してほしい、占い師を見たのは今日が初めてだった」 「別に怒ってないからいいわ。丁度暇だったトコだし」 少女は渡した紙幣を懐に収めた。 「物乞いではないのなら、どうして金を自分の物にするのだ」 「これは占いの代金♪ お兄さん、今日の運勢最高に良いわ。私に占ってもらえるんだもん」 正直この少女が物乞いだろうが占い師だろうがどちらでも良かった。 それよりも花壇の花を観察することに戻りたい。 「今日の運勢が最高だと結果が出ているなら、キミが占う必要がないと思うのだが」 「ちっちっちっ、あんまり舐めてもらっちゃ困るねお客さん。私にかかれば運命の相手からなくしたテレビリモコンの在り処まで百発百中なのよ?」 「もし本当ならそれは凄いことだ」 「あ、いや、百発百中は言い過ぎたけど。まあ百発十中は堅いから安心してもいいわ」 「大分下がったのだが。十回に一回ならば適当な事を言っても当たりそうな確率だと思うが」 「むむむーー! 細かいことにこだわるタイプね。ピンと来たわ」 私が悪いのだろうか。 「ま、当たる当たらないは占ってあげた後に自分で確かめればいいよ。もし当たったらきっと私に感謝したくなるわ」 「ならば当たらなかった場合は返金してもらえるのだろうか」 「そんな占い師はい・な・い」 少女は脇に置いてあったタロットを手に取りシャッフルする。その手つきは素人目から見ても手馴れたものだった。 「何を占ってほしい?」 キミから解放される手段―― そう言っても少女は取り合わないだろう。であれば逆に占いを終わらせてしまった方が効率的だ。 「ならば、私のなくした物の手がかりがどこにあるのかを知りたい」 「じゃあここから一枚抜き取って」 少女はシャッフルを終えたカードの束を眼前の突き出す。 「探し物が何であるかを聞かなくてもいいのだろうか」 「消閑の綴り師と呼ばれた私に不知の事実など存在しないっ! という設定だから」 「なるほど、それが事実なら期待できそうだ」 もちろん私は信じてなどいなかった。個人の持つキャパシティの範疇を越え過ぎている。 私はカードの束から一枚を抜き取り、消閑の綴り師に提示した。 「ほう、ほうほうほう」 「これで何がわかるのだろうか」 「お兄さんの探し物は……テレビのリモコン――」 「いや違――」 「ではない! テレビのリモコンではない! 全然違う! 大丈夫!」 「…………」 少女は目を細めて唸りながら私が選んだカードを凝視する。 「……形のある物じゃない、よね。物質的な物じゃなくって、もっと別の何か」 彼女の言葉は私の身体を停止させた。 「最近じゃない……もっと昔になくしたもの……それはとても大事なもの」 「ああ、とても大事なものだ」 どんなことをしても取り戻さなければならないものだ―― 「その大事なものに辿り着くための手がかりを追ってる。けどそれも見つけるのが難しくて困ってる」 「その通りだ」 私は彼女の言葉を聞き逃すまいと耳を傾ける。 「む~~~~~~~ん……探し物の手がかりは……」 目を閉じ、人差し指を額に当てて考え込む。 「ズバリっ!! あっちの道を真っ直ぐ進めば手がかりと遭遇するでしょう!!」 背後を指差され、私は振り返った。 「……道などないのだが」 「やばっ、ミスったわ――じゃない、今のはウソ、冗談ですよお客さん♪」 上がりかけていた信用度が元通りの下降線を辿り始めた。 「ええと、あっちかなぁ?」 「何故私に聞く」 「じゃああっち! あっちでいいやもう!」 消閑の綴り師は最終的におざなりな態度で細い路地裏を指差した。 「あの道を行けば、探し物が見つかるというのか」 「見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない」 「あまりにも無責任だな」 「まあ何が言いたいかというとだね、占いなんかに頼ってちゃダメってこと」 「…………」 「そこっ! キョトンとした目をしないっ!」 「占いを生業にしている者の発言とは思えないのだが」 「占いに頼り過ぎちゃダメなの。あくまでも占いは助言であって、選択するのは本人だから」 「占いに頼って失敗するよりも、自分で納得して決めた上で失敗した方が諦めもつくでしょ?」 「確かにそうだ。私が今まで占いというものに興味を抱かなかったのも、きっとその辺りが関係しているのだろう」 「良い心がけね。これからもそうやって自分を強く持って生きていけば、いつか探し物も見つかると思うわ」 「他人事だからといって無責任な発言だ」 「私は占い師よ? 空が青いと言ってるのと同じ」 「なるほど、勉強になった」 一段落したところで周りに視線を移す。 ひまわりの姿は見えない。まだ買い物の途中か、もしくは―― どちらにせよ、もうしばらくこの辺りをうろついていても問題はない。 「行くの? 《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉」 彼女は自信に満ちた顔で問いかける。 私は急いで脳内の辞書を開き検索するが、該当する単語は見当たらなかった。 「すまない、その《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉というのはどういう意味か教えてもらえるだろうか」 「あなたの名前よ。どう、かっこいいでしょ?」 一体この少女は何を言っているのだろう。私には理解ができなかった。 「私にはすでに使用されている名前がある」 「そういう細かいことは気にしちゃダメよ。紅蓮のように真っ赤な髪だから《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉。かっこよくない?」 「そういった基準で物事を判断するのは得意ではない」 「厨二の良さがわからない人かぁ。残念」 そういえば今日の朝、ノエルも同じようなことを言っていた気がする。帰ったらノエルに聞いてみることにしよう。 「あ、忘れるとこだった。はい」 消閑の綴り師は占いに使用したカードの一枚を私に手渡す。先ほど私が無作為に選んだものだ。 「持ってると良いことあるかもよ?」 「あるかもしれないし、ないかもしれない」 「そういうこと♪」 占い師という人種に少し詳しくなれた日だった。必要かどうかはさておき、知識が増えるのは悪いことではない。 「さらば、また逢う日までっ! “《アラウンドザワールド》〈ATW〉”!」 「ああ、残念だがこの辺りで失礼する。さようなら」 消閑の綴り師に背を向けて指示された道へと歩き出す。 「名残惜しいなら、また私と出会うことを祈りながら寝るといいよっ! 私はこの街のどこかで占ってるから!」 歩みを止めないまま振り返ると消閑の綴り師が会心の笑みを浮かべて手を振っていた。 残念だ。花壇の花をじっくり観察するのはまたの機会にしよう。 駅前を少しばかり逸れると先ほどまでの喧騒が嘘のように静けさに包まれる。 裏通りに立ち並ぶビルの隙間は人の往来をまったく感じさせない。ゴミ袋が無造作に置かれた様子はどちらかと言えば旧市街に近い印象を受けた。 「…………」 ひまわりを待つための時間潰しを兼ねて消閑の綴り師の導きに従ってみたわけだが、このまま倉庫に帰ってしまおうかと思い立つ。 仮にひまわりが連れ人と合流した場合私がいる必要はない。 そうならなかったとしても、きっとひまわりは私の姿がなければ一人で倉庫に戻ってくるだろう。 戻ってこなくとも私にとって何ら問題はない。むしろ面倒事がなくなって助かる。 そうと決まれば行動に移すのは早い方が良い。 私は踵を返して歩いて来た道を戻り始めたのだが―― 「あんまウダウダ言ってっと何するかわかんないよ!?」 背後から何かが倒れたような音と男の声が私の足を止めた。 「おい、ビビらせたらカワイソウだろ。女の子は優しく扱ってあげねーと」 「こいつがオレのことなんつったか聞いただろ!?“オランウータンの子供みたいですね”っつったんだぞ!?」 「うまいこと――いや、ひどいこと言うもんだなぁ。それはよくない」 声の発生源には三人の人間が立っていた。穏やかな雰囲気ではなく、二人がもう一人を問い詰めているように見えた。 どうやら私には関係がなさそうだ。 しかし予定通り倉庫に帰ろうと目線を切る直前、私の目はあるものを捉えた。 「……面倒事にこれ以上関わりたくはないのだが」 足取りは重かったが、見て見ぬフリはできそうにもない。 争う人間たちに近づくと、責められている人間は女であることがわかった。 「勘違いなさらないで下さい。貴方の顔がそう見えただけです」 山吹色の髪をした少女は、男二人に気圧されることもなく凛々しい風格を纏っていた。 私の脳裏にスイセンの花が浮かび上がった。 「貴方の行為は社会的ルールから逸脱している分、オランウータンの子供にも劣ります」 「動物ですら群れでのルールを守っているのですから」 社会的ルール。私の好きな言葉だった。 「キレた!! マジきれた!! さすがに温厚で有名なオレでもさすがにキレたわ!!」 温厚で有名な男は評判に反して明らかに興奮していた。 「まあ落ち着けって。ここは俺に任せとけ。ねぇ、お姉ちゃん、名前なんていうの?」 冷静さを欠いている男を太ったもう一人の男が制する。 少女の方は相変わらず毅然な態度を崩さなかった。 「貴方がたに名乗る名前は持ち合わせていません。それよりも私の質問に答えて頂けますか」 「質問? ああ、ちっちゃい子供を見なかったかどうかだっけ」 「そうです。それを教えるからとこんな場所に連れ込んだのではありませんか」 三人は会話に夢中で私の存在に気づいていない。 彼らの話から大体の状況は把握してきた。 「そんなの知らないよ? 僕たちは君と仲良くなりたいだけだからさ」 「……嘘、だったのですか?」 「すぐに人の言うこと信じちゃダメだよー。悪い人についていっちゃダメだってガッコーで習わなかった?」 太った男が少女の腕を掴む。 「――!? 何をするのですか!?」 「何って男と女が揃ったらヤること一つでしょ」 男と女が揃えば一体何が行われるのか―― 興味はあったがそれよりも優先すべきことがある。私は彼らに一歩ずつ近づく。 少女の目がこちらに向けられた。 「…………」 だがそれもほんの僅かな間だけで少女は私から視線を逸らした。 ……………………。 腑に落ちない。私の知識によれば、こういった場合第三者の存在を認知すれば助けを求めるのが一般的な反応ではないのだろうか。 「おい、さっさとやっちまえ!! この偉そうな女を黙らせろ!!」 いけない、早くしなくては―― 私の存在を認識していなかった残りの二人にもわかるように、わざと足音を立てながら声をかけた。 「すまない。立て込んでいるところ悪いのだが」 「あ? なんだよオメぇ? 邪魔しようってのかよ」 「もしかしてこの娘の知り合い? だったら悪いけどしばらく貸しといてくんない?」 「いや、彼女と面識はない」 一度外れた少女の視線が再び私を捉える。今回はどこか驚きの色が浮かんでいるように見えた。 「だったらなんの用なんだよ!! ごちゃごちゃ言ってっとオメェから先にやっちまうぞ!」 「忙しいようだから端的に言わせてもらう」 私は彼らの足元を指で示した。 「そこに咲いているタンポポの花がキミたちに踏まれてしまいそうだったもので」 三人の人間は一様に目を見開いた。 「たんぽぽぉ?」 「ああ。私が育てているものではないが、せっかく咲いているのだ。何もわざわざ踏みつける必要は――」 オランウータンの子供に似ている方の男は私の言葉が終わるのを待たずに殴りかかった。 私は途中で途切れた台詞を復唱する。 「できればそのままにしておいてほしいのだが」 私は再び頬を殴られた。 何故この男はこんなにも怒りを露にしているのだろうか。 私の頼み方に問題はないと思うのだが……。 「ナメんのもいい加減にしろよ!! あ!? ナメてんだろ!?」 「私は何も舐めてはいない」 「その態度がナメてるっつってんだよ!!!!」 古くから伝わる言葉で“二度ある事は三度ある”と言われるものがあるのを思い出した。 同じく引き合いに出されることが多いもので“仏の顔も三度まで”と言うものもあったりもする。 実は私が調べた文献によれば本来は“仏の顔も三度”である。“まで”が付くと三度目も許されてしまうのではないかと誤認しかねないのだが広く伝聞しているのは“まで”がつく方だ。 「ウラァァァァアァアア――!!!!」 ただどちらにせよ、仏でも三度無法なことをされると腹を立てるという意味合いには変わりないので、だから私は若者に肉体的な罰を与えることにした。 「ギャアッ――!?」 服についた埃を掃う程度の力に留めたにも関わらず、若者は五メートルほど地面を転がった。 「ごぉあぁぁぁおえぇぇぇぇぇ――!?」 人間は酷く脆弱だ。私の身体が人間のソレと同じであるとしても、普通の個体とは比べるまでもない。 両者における明確な差はこの状況を見れば一目瞭然である。 「大丈夫だろうか?」 私は若者の身を案じ、手を貸そうと歩み寄る。 この若者の命自体にさほど興味はない。ただこの世界では人間の命を奪う行為は禁じられている。大事にしてしまうのは都合が悪かった。 「す、スイマセンでした――!!!」 太った方の若者は倒れている仲間の肩を担ぎながら謝罪をした。 「謝る必要はない。キミたちの邪魔をしたうえに彼を傷つけてしまった。許して欲しい」 私は手を差し出して握手を求める。人間の間で使用される和解を要求する行為だ。 自分のとった行動に私は自信を持っていた。突発的な状況に対しても上手くやれているな、と。 しかし―― 「う、ウワアアアアアアァァァァ――!!!」 二人の男たちは酷く怯えた様子で走り去ってしまった。 「…………」 何がいけなかったのだろうか。私の対応に問題はなかったはずなのだが……。 ……まあ良い。あの者たちとはもう会うこともないだろう。足元に咲いているタンポポの花も無事なのだ。 それにしても二日続けて人間と諍いを起こしてしまうとは、私も反省しなければならない。 波風を立てず、やるべきことだけを遂行しなくては。 「どうして――」 「ん――」 振り返ると一人残された少女は鋭い眼光で私を見据えていた。 「どうして私を助けたのですか」 少女の口調は疑問を投げかけるというより問責を受けているように感じた。 どう答えるべきか。 キミではなく足元のタンポポを守りたかった―― いや、先ほど見せた彼女らの反応を見る限り、この場に相応しい解答とは思えない。 私は核心に触れぬよう言葉を選ぶ。 「手の届く範囲だけでも、自分に何かできるのなら行動したいと思うのはおかしい事だろうか」 世界中に群生している草花全ての成長を見届けることなど不可能だ。 だからと言って手を伸ばせば届く距離にあるものを見過ごす理由はない。 「おかしいです。見て見ぬふりをする、それが普通の人間が取る行動です」 「なるほど、私もまだ至らぬところが多いようだ」 他人に指摘されるようでは勉強が足りない。 「今回はあなたに対処できる事態だったから首をつっこんだのでしょう?」 「対処しきれないほどの多勢であれば、見なかったことにしたはずです」 「かもしれない。できれば面倒事は抱え込みたくはない」 「…………」 少女は深く目を閉じ、吐き出すように言った。 「世界はまやかしで満たされている。そう思いませんか」 「まやかし……」 私は聞き馴れない単語を脳内の辞書で探す。 まやかし。嘘や偽りとほぼ同義に近い意味だったはずだ。 「人は打算がなければ動きません。無償の善意など存在しないのです」 「人間が利益を追求している点には同意だ。でなければ彼らの文明はここまで進化していないだろう」 「ですから回りくどいことを言わないであなたの要求を言ったらどうですか。お金ですか? それとも自己満足に浸るためですか?」 さて、どう答えたものか。 「私はキミの知っている人間とは違う」 「何故そう言えるのですか」 人間ではないから―― その一言に尽きるのだが、間違っても口に出してはいけない。私たちは隠匿されている存在なのだ。 「……やはりあなたも他の人と同じなのですね」 少女は私の沈黙に対して独自の解釈をしたようだ。 都合が良いので否定はしない。代わりに話題を変更した。 「キミはどうしてこんな場所にいるのだろうか。私には利便性があるように思えないのだが」 「あなたには――」 途中で何かを思い出したかのように言葉を中断する。 「……人を、探していたのです」 「先ほどここにいた彼らのことだろうか?」 「あの人たちは……私が探している子の特徴を伝えたら、知っている、教えてやるからこっちに来いと」 「なるほど、それで騙された」 「っ……!」 少女は苦虫を噛んだ様に視線を外した。騙されたという事実を恥じているように見えた。 「他人に頼った私が愚かだったのです。本来なら、こんなことはしないのに……」 いつもと違う行動を取るのは、そうせざるを得ない理由がある場合だ。彼女にもそれなりの事情を抱えているのだろう。 しかし、私には関係がない。 「私も人を探している。長年探し続けているのだが、今だ見つけられていない」 「…………」 「だが必ず見つけ出す。そうしなければならない理由が私にはある」 そういえば先ほどの占い師はまだあの場所にいるのだろうか。 向かった先には面倒事しかなかったと報告しようかとも思ったが、さらなる泥沼にわざわざハマりにいく必要はないと考えを改める。 「お互い、探し物が見つかるといい」 私はそれ以上少女にかける言葉も見当たらず、細い路地を引き返す。 しかし道の先に立つ人影がそれを制した。 「あーー!! あかしくんいた!!」 「…………」 買い物を終えたひまわりが大きな飴をぶんぶんと振っていた。 私の計画は徒労に終わったようだ。 「もー!! ちゃんとまちあわせ場所にいてくれなきゃ困っちゃうよ!! あかしくんがまいごになっちゃったと思っていっぱい探したんだよ!」 「すまない。だが迷子はキミだ」 仕方なくひまわりの元へ歩み寄ろうとするが、その脇をすり抜けるひとつの影があった。 背後にいたはずのスイセンに似た少女がひまわりに駆け寄る。 「見つけた――」 風に乗った柔らかな匂いは、スイセンよりも甘く優しげな香りだった。 「見つけた? 一体何を?」 今この場に現れたのはひまわりであって、少女の探し物では―― まさか―― ある一つの仮説が浮かび上がった。仮説は瞬く間にひまわりの言葉によって真実となった。 「あ!! みつきちゃん!! ゴキゲンオー♪」 「ではキミが――」 私と会う前にひまわりと一緒にいた人物。 「探したのですよ……今までどこにいたのですか」 「えとね、あかしくんのおうちだよ」 スイセンの少女は驚きと警戒を混ぜたような瞳で私を見据えた。 私は最終確認を行う。 「キミの名は“みつき”なのか?」 返ってきた言葉は回答でも黙秘でもなく、予想だにしない一言だった。 「あなたが“赫”ですか?」 私は理解に苦しむ。 つい今しがた、ひまわりの口から私の名が出た。だから彼女が私の名にたどり着くことは何も不思議なことではない。 しかし“あなたが”とは一体どういうことだ……? まるでひまわりが口にする前から、私のことを知っているかのような―― 彼女は私の沈黙を肯定と捉えたようで、私に向かってこう言った。 「お話があります」 「“《イデア》〈幻ビト〉”であるあなたに」 「何故知っている」 普通の人間が知るよしのない事実を少女はさらりと言ってのけた。 「あなたの、探し物に関係することです」 私の思考は一瞬にして奔流に飲み込まれる。 海の底で笑っている亡霊が手招いている気がした。 新市街での予期せぬ邂逅を受け、急遽住処である倉庫に舞い戻った。 道中、美月と呼ばれる少女は言葉数少なく、私の質問を一切受け付けなかった。 「ここなら誰にも聞かれることもないだろう」 少女は倉庫に足を踏み入れるなり、珍しい物を見るように内部を見渡した。 「このようなところに住んでいるのですか?」 「そーだよ♪ ここがひまわりとあかしくんとのえるちゃんのおうちでーす♪」 「…………」 少女は何かを心配するかのようにひまわりに目を配った。 「《へんぴ》〈辺鄙〉な場所ではあるが不便は感じていない。生活に必要な環境は揃えられている」 電気、水道、ガス。それら全てのインフラは過去の地殻変動に伴い、旧市街全域で機能していない。 にも関わらずこの建物内に水が流れ、灯の明かりが点るのは、専用の機材をノエルが屋外に設置しているからだ。 私にはどのような経路を使えばそれらを入手できるのか検討もつかない。彼女はどんなことでも要領よく平気な顔でこなしてしまう。 「それでは話の続きを聞かせてくれないか。キミは一体何者だ」 「あかしくんあかしくん」 始まろうとした重要な対話が遮られる。 「何だろうか」 「あのね、おきゃくさんが来たときは、お話の前にお飲み物を出さないといけないんだよ」 「すまないが礼儀を重んじている余裕がないのだ。喉が渇いているならそこから好きに取ってくれてかまわない」 私は飲料水の入った冷蔵庫を指差す。 「お構いなく。そんな無作法なこと、したくありません」 「良かった。ならば早く話を始めてもらえるだろうか」 「ひまわりはのど乾いちゃったからなんか飲むよー」 ひまわりは冷蔵庫を開け麦茶を取り出す。私達二人とは、明らかに温度が違っていた。ひまわりがいては話の腰が折られかねない。 「ひまわり、少し席を外していてほしい。口にする飲料が必要なら冷蔵庫ごと持っていってくれて構わない」 「こんな子供が持ち運べるわけないでしょう」 そうだった。ひまわりは普通の人間なのだ。ノエルとは違う。 彼女との生活で培われた目線で人間を見てしまうとは。どうやら冷静さを欠いてしまっているようだ。 「それにこれからするお話は、この子も関係しているのです。同席して頂いて構いません」 「キミの話は人間に聞かせても問題がないのだろうか」 「……きっと、難しいことはわからないでしょうから」 「なるほど」 「ごくごく……ぷはぁ! 呼んだ?」 「呼んではいない。ここにいて構わないから大人しくしていてくれないか」 「はいはーい♪ ひまわり大人らしくする!!」 誤解しているようだが、どちらにせよ同じ意味合いには変わりない。 「では説明を始めてほしい。まずキミの名前だが、美月と言ったか」 「九條。九條美月です。親族以外に名前で呼ばれるのは不愉快です」 「わかった。では九條、話を聞こう。まず、私達のことをどこで知ったのだろうか」 彼女は私が人間ではないことを知っていた。 “《イデア》〈幻ビト〉”――彼女は確かにそう言った。 この世界に生息する人間とは決定的に差別化された存在の総称。私とノエルはこれに該当する。 その事実が露呈しないよう、長年にかけて細心の注意を払っていたにも関わらず、九條は私が“《イデア》〈幻ビト〉”であると言い放った。 「その前に、あなたが“赫”である証拠を見せて頂けますか」 “赫”である証拠――すなわち“《イデア》〈幻ビト〉”であるという証明を少女は要求した。 「…………」 私は躊躇した。 人間の前で力を使うことはノエルに禁止されている。 しかしそれは私達が人間ではないと広まるのを防ぐためである。 ならばその戒めは無意味だ。この少女は私の正体を知っているのだから。 「わかった」 私は常時右手に装着している耐火性に優れた特殊な手袋を外す。 「これでいいのだろうか」 私は眼前に右腕をかざす。 そして呼吸をするのと大差ない感覚で炎を具現化した。 私は生み出した炎の火力をできるだけ抑えることに努めた。 間違っても部屋の内部に燃え移すわけにはいかない。そんなことをすればノエルに申し訳がない。 「……これが、あなたの“《デュナミス》〈異能〉”なのですね」 少女は私の右手を食い入るように見つめていた。 「……わかりました。もう結構です」 私は無事“赫”であることを認められたようだ。 一部の例外を除き“《イデア》〈幻ビト〉”だけしか扱うことのできない個別の力。人間界の理から逸脱した能力。それが“《デュナミス》〈異能”。 炎を消し、再び手袋を装着する。どうやらひまわりは冷蔵庫を漁ることに夢中で私の“《デュナミス》〈異能〉”を見ていなかったようだ。 「これで満足してもらえただろうか。であればキミの話を聞かせてほしいのだが」 少女は私の要求に応え、小さな唇を動かし始めた。 「あなたのことはその方から教えて頂きました。旧市街には“赫”という“《イデア》〈幻ビト〉”がいると」 「その人物は何者だろうか」 「それはお教え出来かねます。ですが、私がここに来たのはその方からの依頼をあなたに伝えるためです」 「依頼?」 “《イデア》〈幻ビト〉”についての知識を持ち、尚且つ私の正体に気づいている人物。 それだけでも得体が知れない。加えて私に依頼したいこととは一体―― 「あなたに……数日間、預かって頂きたいものがあるのです」 そう言いつつも少女に何かを取り出す素振りは見えない。 「…………」 代わりに視線を私の背後に向けた。 合わせて私も振り返る――麦茶だけでは飽き足らなかったと思われるひまわりが冷蔵庫の中を物色している姿があった。 まさかとは思うが―― 「……冷蔵庫、なのだろうか?」 「え?」 「あれは元々私の物なのだが……」 ふと思い返す。いや、そうとは限らない。あれも倉庫内にある他の物と同じように、ノエルがどこからか運んできた物だ。 もしも前の所有者が別にいたとしたら、彼女の言い分も―― 「……私をからかっているのですか?」 「ん?」 「あなたの冷蔵庫がどうなろうが、私には関係のないことです」 どうやらあの冷蔵庫はノエルが正当な手段で手に入れた物のようだ。 とするなら一体何だと言うのだろうか。 冷蔵庫とひまわりしかいない―― 冷蔵庫とひまわり-冷蔵庫=? 簡単な引き算にも関わらず、その解はにわかに信じがたいものだった。 「まさか、ひまわり……?」 「およよ?」 当の本人は事態の様相などいざ知らず、見つけ出したパンケーキを開封する途中だった。 「その通りです」 「ひまわりを預かってほしい、というのがキミの要求なのだろうか」 「はい。あなたには期日を迎えるまで、あの子を預かって頂きたいのです」 「何故?」 「理由については黙秘させて頂きます。その他の疑問に関しても基本的には答えかねますので予めご了承下さい」 「説明もなしでは交渉を円滑に運ぶことはできない」 何らかの事情で子供を預けること自体はさほど珍しいことでもないだろう。そういった施設は数多く存在している。 しかし最大の疑問は何故私に―― しかもわざわざ私が“《イデア》〈幻ビト〉”であることを確認した上で。 「ひまわりの面倒を見てほしいのなら、専門の業者に頼めばいい。あえて私に依頼する理由があるのなら、それくらい教えてもらえないだろうか」 九條は手を口元に当て、言葉を選んでいた。 「あなたに依頼するよう頼まれたから。それだけです」 「誰に?」 私の問いに対する答えは返ってこなかった。 では自分なりに考察してみよう。 まず人間と“《イデア》〈幻ビト〉”の違い―― 人間は脆弱だ。私達に比べ外的な衝撃にも弱く、あろうことか自ら命を絶つ場合もある。人間という種全体で捉えれば話は別だが、個人としてはあまりにも頼りがないと言わざるを得ない。 その点“《イデア》〈幻ビト〉”は個体としての強靭さは人間よりも勝っている。身体能力に関しても個体差はあれど人間に劣ることはまずない。 ノエルが見ていたテレビ番組のひとつで、世界中から選りすぐられた人間が走力を競う催しが行われていた。仮に“《イデア》〈幻ビト〉”が混じっていれば人間は手も足もでないことだろう。 だがどこまでいってもここは人間が支配している世界だ。私達が存在していたもうひとつの世界――“《ユートピア》〈幻創界〉”とは勝手が違う。 最大のデメリットは人間社会においてどこまでいっても私達は不純物であることである。 「キミに指示をした人物の名前も教えてもらえないのだろうか。話をするのに少々不便なのだが」 「お教えできません」 「理解した。ならば仮にその人物を“上司”と呼ぼう。部下に指示を与えるのは上司の役目だ」 「…………」 彼女は了承したというより興味がないように見えた。呼び方などどうでもいいらしい。 「キミの上司は私にひまわりを預けたい特別な理由がある。でなければ私のところに来るのはおかしなことだ」 「キミがそれを言えないというのならこちらは聞かないでおこう。業務の内容はわかっているのだから」 ひまわりを数日の間預かる。食料を与え、寝床を用意する。昨日から今日にかけて既に私達がやったことだ。面倒ではあるがやれないことはない。 相応の対価を用意しているのなら―― 「では報酬の話に移ろう」 私は彼女の一挙手一投足を見逃すまいと凝視した。 「キミは私の探し物について知っている様な言い方をした。覚えているだろうか」 「ええ、つい先刻の言動を忘れるほど愚鈍ではありません」 「キミは私の探している物が何であるか知っているのだろうか?」 「はい。あなたは“《ファントム》〈亡霊〉”を探している。私はそう聞いています」 正直に言うと私は彼女がその名を出すまで半信半疑だった。 「どうしてキミがそれを知っているのだ」 「必要最低限の質問しか受け付けられません」 人間であれば一方的過ぎる対応に腹を立てることもできただろう。だが私は交渉のテーブルから降りることを許されない。 私が存在している理由が目の前にあるのだから。 「キミたちがどうしてそれを知っているのか、言わないつもりなら構わない」 “《ファントム》〈亡霊〉”の存在は世間で広まっている噂だ。知っている者も多いだろう。 だが私がそれを追っていることを認知している人物となるば話は別だ。私はノエル以外に把握していない。 …………。 まさかノエルが? いや、わざわざ第三者を介入させて回りくどい方法を取る意味はない。ノエルも事の重大さはわかっているはず。兎の件はあるが浮気を疑うのとは訳が違う。 「キミが提供する対価というのは“《ファントム》〈亡霊〉”に関することだろうか」 「ええ、そうです」 「なるほど。しかしこちらの要求する対価が得られるという保証はどこにもない」 一般的に報酬は現物の先払いか信用に基づいた後払いが基本だ。そのどちらもないのでは業務契約は締結できない。 「ええ、ありませんね」 九條は拍子抜けするほどあっさりと認めた。 「ですがあなたには取捨選択をする余裕はないのではありませんか? 少なくとも私はそう聞いています」 「足元を見るとはこういうことを言うのだな」 彼女の言う通り、私に選ぶ権利はない。どれだけ不確かだとしても、今の私にはこれ以上ない手がかりなのだ。 私の返答はひとつしかなかった。 「わかった。キミの依頼を受けよう。具体的に何日ひまわりの面倒を見ればいい」 「現時点で確定させることはできませんが、一週間程度と考えて頂いて構いません」 一週間―― その期間を過ぎれば私の望む情報が手に入る――かもしれない。 生存活動に致命的な問題が発生するような業務内容ではない。言わば徒労に終わったとしても然したるリスクは存在しない。 それよりも何故彼女らは私達のことを知っているのか。どちらかと言えばそちらの方が切迫した問題である。 「当然ですが、期日までの間にあの子の身に何かあれば報酬はないものと考えて下さい」 「死なないようにすればいいのだろう」 「そんなことは言うまでもないことです。できるだけあの子の言うことを聞いてあげてください」 「善処しよう」 ひまわりに視線を移す。パンケーキを食べ終えたらしく、次の獲物を探して冷蔵庫に頭を突っ込んでいた。 「キミとひまわりはどういう関係なのだ。それも答えられないことなのだろうか?」 「……別に、ただの知り合いです。あなたに引き渡すまでの数日、面倒を見ていただけですから」 「なるほど」 私の経験談から言わせてもらえば、ひまわりの扱いには手を焼くことこの上ないと思うのだが、この無愛想な少女も同じように苦労したのだろうか。 「……何ですか」 「いや、別に何でもない」 「……用件はお伝えしました。私はこれで失礼します」 「っ!?」 美月が前かがみに倒れそうになった。 私は普通の人間ならこういった場合どうするのかを考え、九條が倒れてしまわないように身体を支えた。 「大丈夫だろうか」 「別に、少し眩暈がしただけです」 意識もしっかりしており、彼女の言う通り大したことではなさそうである。貧血か何かなのだろ―― 突如――轟音と共に倉庫内が大きく揺らいだ。 「わあぁっ!? じしんだよ!! みんな机の下にかくれてぇ!!」 大きな揺れが一度――パラパラと天井から塗料の欠片が落ちてくる。 「何だ」 地震であれば断続的な揺れがするはずだ。そもそもあのような大きな音は発生しない。 私は倉庫の入り口に近づく。 「ああ、ノエルか」 倉庫の外には亀裂の入った地面と、それを見下ろしているノエルの後ろ姿があった。 「どうしたのだ。中に入ればいいではないか」 「ごっ、ごごごごっ、ごごごごごごごごごごごっ」 「ん?」 ノエルは遠くの空を見上げたまま微動だにしない。 仕方がないので私はマネキンのように固まったノエルを担ぎ倉庫の中へ戻る。 「あ、のえるちゃんおかえりー♪」 「え?」 ノエルを肩に背負った私に対し、二人はそれぞれ反応を示す。 私はノエルを足から地面に下ろした。 「この方は一体どうなっているのですか……?」 「少し混乱しているだけだ。前にも一度こうなったことがある」 以前、新市街で人間の女に話し掛けられたことがあった。 偶然にもノエルがその光景を目撃しており、今と同じような状態になったことがあった。 「ごっ、ごごごごっ、ごごごごごごごごごごごっ」 「言いたいことがあるなら言えばいい。私はちゃんと話を聞く」 ようやく瞳の焦点が定まり、眼前に立つ私を捉えた。 「ご、ご、ご主人、浮気した、ノエル、悲しい……」 「浮気などしていない。いつも言っているだろう」 「ノエル、知らない、この女、知らない、何も、知らない、ノエル、悲しい……」 「病院にお連れした方がよろしいのでは」 「いや大丈夫だ。すぐに治る。ノエル、聞いてくれ」 ノエルの両肩に手を置く。 前にそうしたように今回もノエルの目から視線を外さない。 「私は浮気などしていないし、これからもしない。私を信じてほしい」 「……本当ですか?」 「ああ、浮気などするわけがない。私にはノエルがいる。それだけで十分だ」 「……ご主人」 「愛している」 私は前回の危機に直面した際、参考にした書籍の内容に従った。 確か書名は“女性の心を操る方法”だったか。ノエルが好むフレーズを合わせて使用することを忘れない。 ノエルの顔にゆっくりと安堵の色が浮かんでいった。 「……私もです」 ノエルは私の胸に顔を埋め、背中に手を回した。 「……人前でよくもそのような行為ができますね」 九條が人間の価値観に則った意見を述べる。 「愛、などと軽々しく語ること自体、まやかしであることの証明です」 「このままご主人の胸の中で死んでしまえばどんなに幸せか」 ノエルは顔を上げ、九條に正対した。 「でもどうやらそうもいかないようですね。私が死んだら誰もご主人を泥棒猫から守れなくなってしまいますから」 胸を突き出し、九條に対して威圧的な態度を取る。 しかし九條が気圧されているようには見えない。 「何か」 「言いたい事は山ほどありますがね、一つだけハッキリさせておきましょうか」 ノエルは豊かな胸をさらに押し出した。 「ご主人は私が守る! 何があってもだ!」 「どうぞ。私には関係がありませんから」 高圧的なノエルの視線をさらりと受け流す九條。 「用件はお伝えしましたので、私は失礼します。よろしいですか」 「私は約束を守る。キミたちも約束を守ってほしい」 九條は返事をする必要がないと思ったのだろう。 一瞬、睨み付けているノエルを見た後に背を向けた。 「あ、みつきちゃんかえっちゃうの?」 「はい。もうここに用はありませんから」 「そっかぁ。じゃあ帰る前にいいものあげる♪」 ひまわりは冷蔵庫を開け、中から菓子パンを取り出した。 「これは……?」 「はちみつあげパンさんだよ♪ あまくてふわふわですっごくおいしいの♪」 どうやら昨日手に入れたパンを食べずに残しておいたらしい。 「…………」 九條は差し出された菓子パンを前に逡巡しているようだった。 「どうしたの?」 「……私は結構ですから、あなたが食べてください」 「えぇー!? どうして!? すっごくおいしいよ?」 一瞬だけ、九條の視線が私とノエルに向けられた。 理由はわからないが、私達の目を気にしているように見えた。 「いらないのなら受け取る必要はないだろう。需要がないところに供給しても意味がない」 「ふえぇ!? いらないの!? せっかくずっとがまんしてみつきちゃんのために残しておいたのに……」 「…………」 九條はひまわりの懇願にも似た態度に僅かながら困惑していた。 だが意を決したようにひまわりから菓子パンを受け取った。 「ありがとうございます」 「えへへ、すっごくおいしいから、おうち帰ったら食べてね♪」 「では失礼します。ごきげんよう」 九條は今度こそ倉庫の外へ出て行った。 「ゴキゲンオー♪」 入り口から覗く九條の後ろ姿が足を止める。 地面にできた裂け目を見て何かを思案する素振りを見せる。 しばらく立ち止まった後、何事もなかったように立ち去って行った。 「ひまわり、ひとつ聞きたいのだが」 「なぁに?」 私は前々から気になっていた疑問を口にする。 「“ゴキゲンオー”とはもしかして“ごきげんよう”のことだろうか」 「およよ? ゴキゲンオーはごあいさつの言葉だよ。みつきちゃんに教えてもらったの」 「だからそれが“ごきげんよう”だと言ってるんですよ。“ゴキゲンオー”だと無茶苦茶強そうな上に合体しそうじゃないですか」 「よくわかんないけどゴキゲンオーはゴキゲンオーだよ」 「キミの好きにすればいい。言葉の微妙なニュアンスなど人間の歴史では幾度となく改変されてきているのだから」 可能性は低いがいつの日かひまわりの言語と同じものが一般化するかもしれない。 ある意味時代の先駆者となるのだ。それまで生きていればの話だが。 「それよりノエル、話があるのだが」 私は九條の話した内容を説明しようとするが―― 「大丈夫ですよ、大体は聞いてましたから」 やはりと言ったところか。 おそらくノエルは私達が倉庫に帰るのとほぼ同じくして帰宅した。 部屋の中に見知らぬ女がいたことで、中の様子を伺うことにしたのだろう。 そして途中で我慢できなくなり、地面に穴を開けた。 「あの女の素性は知ってるんですか?」 「いや、私にもわからない」 九條とその裏にいる上司に関しては一切の情報はなかった。 「怪しすぎますね。私達のことを知っていたことも気になりますし」 「私が“《ファントム》〈亡霊〉”を追っていることも知っていた。私とお前以外に知る者はいないと思っていたのだが」 「ふむ……わかりました。私の方であのつまんなそうな顔したクソビッチに関して調べてみますよ」 「可能なのだろうか?」 「そういうのが得意な人間を使うんですよ。幸い何人か心当たりがあります」 ノエルの人脈は私と違って広い。 学園に通っている分、交友関係は必然的に築かれるのだろうが、そうではない人間との付き合いも多いらしかった。 “兎”に代表されるように、表の社会ではなくどちらかと言えば私達に近い裏社会の人間だ。 何処を訪ねればそれらの人間と繋がりができるのか、私には検討もつかない。 「では数日の間、ひまわりを預かることにするが構わないだろうか」 「え、あかしくんちにお泊りするの? ひまわりは全然いいよー?」 「キミに聞いているわけではない。ノエル、構わないか?」 「ご主人が望むなら、どんなことでも私は反対しませんよ。それにあいつらの素性と目的が判るまで関係を維持した方がいいでしょうし」 ノエルの許諾は得られた。後は実作業中に起きるであろう手間はその都度対応すればいい。 言葉にすれば簡単だが、一筋縄でいかないのは昨日から身をもって体験している。 だがもしも私の望む情報が手に入るのなら、あまりにも安い買い物だと言えよう。 「では私は諸々の手配をして来ますね。ひまわり、あなたも来なさい」 「ふぇ? どーして?」 「ご主人はこれから一人でお休みになるんです。あのクソビッチに振り回されて疲れてるんですよ」 「いや、私は別に――」 ノエルはひまわりの手を引き外へ向かう。 その途中で懐から茶色い小瓶を取り出し、机の上に置いた。 「栄養ドリンクを置いていきますから飲んでくださいね。きっと疲れも吹っ飛ぶはずです」 「ああ……」 今回は事情が事情であるから許されたのだと思っていたのだが。 どうやらそれとこれはまた違った話らしい。 「私は浮気などしていない」 「知っていますよ。私はご主人を信じていますから」 言葉とは裏腹に、机の上に置かれた小瓶は差し込んだ陽の光を受けて怪しく光っていた。 国の中枢である暦区東雲に建つ東雲統合学園。 東雲駅からのアクセスが容易であり、敷地の中には教育環境が一通り揃っている。 快晴の日は屋上から澄んだ峰々が一望でき、健やかな気持ちをいつまでも保つことができる。 運営難に陥った近辺の学園も吸収合併している為、規模は大きいといっていいだろう。 創立者“久遠学園長”が掲げる建学の精神“自立”を教育方針に、何事にも挑戦する意志、壁を乗り越える心を持った独立できる大人の育成をしている。 大戦後の社会貢献の重要性見直しによる労働年齢の低下の影響で、学生アルバイターや有償ボランティア制度に対する校則はとても緩い。 学生労働者には、授業中の早退が認められ、欠席も出席扱いとされる場合が多い(月8回以内を限度とする)。 登校日は、平日の月曜~金曜。 休日は、土曜、日曜、祝日。 一日の教育課程は9:00~13:00までとなっており、放課後は18:00まで開放されて勉学や部活動などの自由が認められている。 細かい規則は学生証を参照――――っと。 「こんな感じで概ねいい?」 「土曜、日曜は原則として基本休みですが、代休制度により授業についていけなくなる学生を防ぐための処置として」 「午前中のみ学園を開放し、自主的な補習を受け入れています。ですわ」 「めんぼくないです」 「いえ、たいしたものです。思ったより覚えてらっしゃいますのね、水瀬さん」 「学園の一員だからね。学園概要をそらで読み上げるくらいできるよ」 「よろしいですわ。外部の方に我が校の事を聞かれて慌てふためかれては困りますもの」 度重なる遅刻の注意として、会長閣下に学園の概要説明と教育方針を問われていたが、満足のいく回答ができたようでなによりだった。 「あ、もし誰かに学園を説明する時に、一個だけ付け加えていい?」 「構いませんわ。一体どのようなことですの?」 「現、生徒会長“《ほうじょういん》〈北条院〉 《りりか》〈凛々華”は歴代の生徒会長で群を抜いて優秀であり、すべての学生の永遠〉の憧れである」 「水瀬さん、アナタ……素晴らしいですわっ」 「何を言ってるの? 普通だよ。閣下のお陰で日々、明るく楽しく健康に過ごせてるんだ。“みんな”思ってることだよ」 「おほほほほ♪ もっと、もっとおっしゃっていいのですよ♪」 「閣下……俺ずっと閣下の事見てきて、ずっと神なんじゃないかな? って思ってたけど……」 「けど?」 「やっぱり閣下は神だわ! 神! 言われ飽きてるだろうけど、神ぃ!!」 「おほほ♪ おほほほほ♪ …………もっと」 「神オーラを感じて号泣が止まらないので勘弁してください。あ、なんか寒い。夏なのに神すぎて鳥肌立ってきた」 「水瀬さんも、学園の誇れるエース。私のお仲間ではありませんこと?」 「稼ぎでは、間違いなくそうだろうね。“《クリアランサー》〈片付け屋〉”なんて、このご時世でもそうは就かない職だし」 「存じています。人様の煙たがる仕事を率先して行うなど、そうそうできることではありません。ご立派ですわ」 上品に微笑まれると庶民的な俺は勘違いしてムズムズしてしまう。 「俺、閣下と話すの、好き。楽しい時間をありがと」 「ッ! み、水瀬さんに好意を寄せられても、私は北条院の跡取り娘。それに学園内での不純異性交遊は原則として禁止ですわ」 「大丈夫だよ、そこまで夢見てないから」 「あまり女性を相手に、好きだのとおっしゃってはいけませんわ」 「自然に出てきちゃうんだよね。俺、人間大好きだし。特に、女の子は綺麗なイキモノだから」 「美の追求は女性に生まれた瞬間に与えられる義務ですわ」 「それで用事は何? 閣下は忙しい人なんだし、おしゃべりだけしにきたわけじゃないでしょ?」 「もちろん、あります。私個人としての水瀬くんとの雑談はここでお開きにしましょう」 凛とした瞳が真正面から俺を見た。 「先月、丸々1週間、学園に顔を見せませんでしたね」 反論を許さない、咎めるような物言い。 会長閣下としての振る舞いだ。 「原則として“月8回以内が限度”」 だからさっき学園説明や校則を言わされたのか。 しょうがないよな、実際、仕事三昧でサボりがちだし。 「停学……? ま、まさか退学って事はないよな……?」 修業過程を終えて社長に卒業証書を見せることができなくなるのは、本気で悲しい。 「許容される欠席数を著しく超えた場合、我が校には留年制度があります」 「う……留年はかっこ悪いなぁ……でも仕事優先なのは絶対だし……偏差値向上には一役買ってると思うんだけど、そのへんは考慮されない?」 「確かに水瀬さんは、成績で上位をキープしていますが、出席が足りなければ留年は免れられないでしょう」 「ぐぐぅ……」 困った。閣下に何か打つ手を考えてもらうしかあるまい。 「ですので――――全て、出席扱いにしておいて差し上げましたわ」 「え……?」 「個人を特別扱いするのは会長権限の乱用と取られるかもしれませんが……」 「努力が報われない学園に、教育方針もなにもありませんもの」 「閣下ぁ……」 「べ、べつに恩着せがましくそんな事を伝えに来たわけじゃありませんことよ?」 会長閣下にノートを手渡しされる。 「出た! 《しょうしゃ》〈瀟洒〉で豪奢なノート!」 会長閣下のノートはすかし模様が入り紙質が普通とは違う高価なものだ。 しかし偉そうなのは外見や材質ではなく、完璧に整理された内容にある。 「要点を纏めてあります。授業に追いついていけなくなられて、学力を落とされては困りますから」 「閣下ぁ……コレを俺に渡す為に……?」 「返却はいつでも構いませんわ」 「閣下ぁ……好きになりそう……胸がドキドキしてきた……」 「な!? べ、べつに私は偏差値を下げられて欲しくないだけで……」 「水瀬さんの事なんて心配してないのですからね? 勘違いしてはいけませんわよ?」 「ありがとう! 俺、全力で勘違いする! 閣下の恩は忘れない!」 「……では、見返りを請求するようで心苦しいのですが、一つ頼まれてくださいますか?」 「どんとこい。閣下の為なら、例え溶鉱炉の中ホルマリンプールの中だ」 「危険な事ではありませんわ。少しの間、学園長の相手を差し上げてくださるかしら?」 「相手…………?」 「“2四歩”」 「じゃ、同じく歩」 「同じく飛車……うーむ」 行けばわかると言われたから来たものの、将棋を指すことになるとは思わなかった。 閣下、曰く“放課後の嗜み”。 学園長は、歴代の会長にも放課後の付き合いを強要していたようだ。 「“2七銀不成”」 勝ち濃厚の一手。 「………………“6五歩”」 「“3七角成”」 苦し紛れの一手にすぐさま合わせていく。 「…………予言しよう。私が“5五角”を打つと、君は“4七馬”で反撃してくる」 「当然そう指し返しますよ。そしたら学園長は詰みじゃないですか」 「しかし、私はそれを予言した。予言通りに反撃してしまっては、つまらなくないかな?」 「中盤戦の駆け引きならまだしも、終盤は最善を尽くすだけだと思うんですが……」 「勝ちに徹するタイプのようだな」 「勝ちを目指さない場合、ゲームにおもしろみを持つことは難しいと思います」 「優真くん。勝ちに貪欲なのはいい。しかし我が校の教育方針は“自立”を促すことだ。助け合い、支えあう心があれば、私の“5五角”を見逃せるはずだ」 「果たして君は子供かな? それとも――――私の期待に応えられる器かな?」 「“4七馬”」 即答。ぴしゃり。王手。 「…………」 「…………俺の勝ちですよね?」 「優しさが足りない。このままでは進学は危ういな……」 「学園長って、勝負事になると感情的になる人ですね」 「私が? そう思えてしまうあたりが、やはり子供か……歳を取ると、そう簡単に感情的にならなくなるのだよ」 「じゃあ、ここで勝ち逃げしていいですか?」 「もちろんだとも。おぉ……忘れていた。私も、優真くんを退学処分にする書類に判子を捺さないと……」 「やりますやります。やらせてください、将棋やりたいです」 「そうか。では始めようか。次勝ったほうが、本当の勝者でいいかな?」 「なんでもいいですよ……」 「そうかそうか」 この人、ムチャクチャ負けず嫌いだなぁ。 集会で大勢の学生を前にしているときのどっしりとした貫禄が感じられない。 駒を初期配置に戻しながら、そんなことを思った。 黙々と。 粛々と。 駒を差す音だけで会話していると、夕方になっていた。 「……時に社長さんは元気かな?」 「……あ……ン、ンン……」 集中していて、喉が本調子ではなかった。 そう。今日子さんと学園長は付き合いがあり、おかげで俺の入学も容易だった。 学園長のこの態度も、一人の学生ではなく、俺を“水瀬”の一員として扱っているからなのだろう。 「ええ、そりゃもう疲れ知らずで誰よりも多い仕事量こなしてますよ。社長の仕事もやりながら、現場仕事も同時に。本当に人間か疑わしいものです」 「彼女の場合、一切やらないか、全力を尽くすか、極端にわかれるな。やるもやらぬも、手加減なしだ」 「『疲れたのだー』なんて愚痴を漏らすこともあるんですけど、俺に肩を揉んで欲しいアピールなんです。もちろん、何時間でも付き合いますけど」 「仲がいいようでなによりだ」 「最近の趣味は、ネットバンクで口座を確認しながら酒を飲むことみたいですね」 「なるほど。先日、一杯御馳走してもらった時も羽振りがよかったが、儲かっているのだな」 「大繁盛ですよ。こういう仕事ですから、喜んでいいのかイマイチわかんないですけど……」 「仕事のおかげで三食欠かさず飯が食えて、家族が養える。幸せです。幸せだから、手を叩いて笑う。俺はコレでいいと思ってます」 「君は日頃から笑顔を振りまいているが、社長さんの話をすると一層輝いて見えるな」 「あの人は……今日子さんは、俺にとって掛け替えの無い存在ですから」 少しだけ気恥ずかしかった。 「社長さんも君に愛されて、さぞかし幸せだろう」 「そう思ってくれてたら、嬉しいです」 「私もいつぽっくり逝くとも限らないから、君の所に予約を入れておこう。部屋で腐っていた時は、掃除を頼む」 「冗談やめてくださいよ」 「盤上を見なさい。この四角く囲われた部屋で、私と君は互いが率いる軍団を《ころ》〈掃除〉しあっている」 「また突然、妙な喩えですね。“1五銀”」 歩を一枚頂く。 「君が今、何の躊躇いもなく歩の首を刈り取ったように、相手も君の駒を奪う時に何も感じない」 「君に大切な人がいるように、多くの人は皆、大切な人がいる。君の大切な人を、その他大勢が“大切”に扱ってくれるなどと、思わない方がいい」 「いつか君に複数の護るべき人ができた時、君は選択することができるかな……“4五桂”」 「あ――――王手飛車取り」 単純なミス。回避はできた。だが社長の話と妙な喩え話に気を取られて気づかなかった。 「王手飛車取りは、詰みではない。王を逃すことで、ゲームは続行される。落語では、飛車が逃げる話もあったような気もするが、それはそれとして――――」 「《かたほう》〈飛車〉は100%、喰われる」 「………………」 何故だか、学園長の言葉は俺の深い部分に痛烈に刺さった。 社長は、王なのか……? 結衣は、飛車なのか……? 二者択一を迫られた時、俺は何を選び、何を失うのか……。 ……ゲームだぞ? これはゲーム。ポジティブも忘れてる、ポジティブ! 「こうする、かな!」 「ほう」 考えて考えて考えぬいて、それでもわからないなら――――スッパリ諦めて、一途で闇雲に行動する。それが俺式。 ――――って、いくらなんでもこの手はやりすぎたか! 「いい勝負だった。片付けは結構、気をつけて帰りなさい」 「いや、あの……熱くなってわけわからないことしちゃいましたの俺ですし……派手に飛んでますし……」 「前途有望な若者の時間を奪ったんだ、このくらいの仕打ちは覚悟の上だよ」 「でも……駒なくなっちゃってたら……あの……」 「学園長である私が帰りなさいと言っているのだが、聞こえないのかな?」 「失礼しました。また指しましょう」 「いつでも来なさい」 「…………」 「飛車を犠牲にせず、王を護ることもなく、《・・・・・・・・・・》〈盤面をひっくり返して〉自ら負けを選ぶ……か」 「勝ちへのこだわりは少なからずあっただろうに。考えすぎて深みにハマってしまうタイプのようだな」 「どちらも選ばない――――現実世界でも同じことができたら、どれだけ楽なのだろうな……」 「がぶ……むぐむぐ……むきゅん」 仕事のメールは入っていない。 電話がなるまでは非番なので、蜂蜜揚げパンを食べながら街を徘徊中。 「……ん? お!」 街頭テレビに流れているのは、Re:non様が出ている飲料水のCMだった。 「『自分に似合う服を着て、自分に似合う街に住み、自分に似合う夢を追う。わたしに似合うジュースは、アナタだけ』」 “《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”のキャップをひねり、腰に手を当てるRe:non様。 慌てて俺も自動販売機に走り、ケータイをワンタッチして “《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”を買う。 「『っ……っ……っ……!』」 「ゴク……ゴク……ゴク……!」 シロップのようなのどごし。 嘘みたいに甘いが、これでカロリーゼロ。 う~~~~きっつい。 「『超最強。“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”――わたしは、これかな』」 「――俺は、これかな」 Re:non様との一時の一体感に酔いしれていたが、周りの視線が痛いので空ボトルを捨てに行く。 「充電も完了したし、秘密のアレとアレを買いに行くかぁ」 昨日は給料日だった。日頃の行いが良いから、少し奮発しても罰はあたらないだろう。 大体、金の節約ってヤツは、俺は好きじゃない。 電気や水などの環境資源の節約はもちろん大切だし、理解できるんだけど。 金は消費しても巡るものなんだから、その分、頑張って稼げばいいだけのことじゃない? って俺は世の中の仕組みあんまわかんないから、そう思っちゃう。 「秘密道具その1は、文房具屋に行けばあるかな? 画材専門店か? デパートに確かそんな店入ってたよなぁ」 「……意外としたなぁ」 買い物する時に、全部お店の人に任せるのは俺だけだろうか? 自分はどこまでいっても素人で、店の人はプロだから――――“必要な物を全部揃えてください”というべきだと思っている。 「ま、いいやいいや。金はまた稼げばいいんだし」 それより、《・・》〈コレ〉が心を開くキッカケになったらいいな。 「毎日足繁く通ってやってる常連相手にその態度はなんだ!」 「ん?」 繁華街の表通りの街灯の下にリヤカーが止まっていた。 こんもりと盛られた野菜と果物。いわゆる路上販売だ。 「黙ってだいこんを3つ付けろって言ってるんだよ、頭でっかちが」 「困るよ、嵐山さん。今日は順調にだいこん売れてんだからさ、セロリで勘弁してくれないかい?」 「おでん屋がセロリ仕入れてどうすんだ。前にふきとキャベツ大量に買ってやった恩を忘れたわけじゃねーだろうな」 「へぇー、聞いたことも見たこともないような野菜と果物もあるみたいだなぁ」 店主と客が揉めてるようなので、俺は俺で種種雑多な野菜と果物を眺める。 「なんだ兄ちゃん。見世物じゃないぞ? それとも客か?」 「いや、えっと……こういうのってちゃんとしてるんですか?」 「あ? 傷んだモン捌いてるなんてイチャモンを付けに来たのかい、兄ちゃん」 「市場の半額以下でやっていける理由が知りたいだけですよ」 「こう言っちゃ悪いんだけど、俺には路上販売って汚らしいイメージがあるんです」 「てめぇ……」 怒鳴っていた客は明らかに顔色を変えた。 タダでは返さないという意思表示に近いものを受ける。 ――――が、俺はそのまま言いたい事を言う。 「正規の販売業者じゃないのは誰の目にも明らかだから、産地不明のいい加減な物に感じる。中に何が入ってるか、知れたものじゃない。返品の補償だってないんでしょう」 「ド素人が利いた風な口をきくんじゃねぇ!」 「コイツが売ってるもんはな、市場の仲卸と直接取引をした傷やゆがみのあるワケアリ果物ってだけだ」 「安く仕入れられるが普通の店は売るに売れない、ちょっと見た目に難があるだけの良い食材なんだよ」 「兄ちゃん……俺は儲けたくてやってんじゃねぇよ。俺がコレを買ってやんなきゃ、廃棄処分になる」 「食えばうまいのに、捨てていいわけがないだろ」 「…………」 認識を改めた。 喰うために育て、喰うために取った物なのに、捨てられる。 売るに売れない“食える物”を捨てない為に存在する仕事。 路上販売――――凄く、いい仕事じゃないか。 「コイツは大量の品を積んで、山の方からここまで引いてきてんだ。帰りは当然朝になる。それがわかってもナメた事言えるか?」 「嵐山さん、もういいって。目立つとまずいからさ、ほらだいこん4つ付けるよもう」 「おう、悪いな」 「ありがとうございます、賢くなれました。コレ、2つ詰めてもらっていいですか?」 「投げて遊んだりしないだろうな? 残さず喰うんだろうな?」 「会計の端末、これでいいんですよね」 ピッ。電子マネー支払いモードでワンタッチ。 「兄ちゃん、別に俺は乞食じゃないんだ。多めに入れられても礼なんか言わないぜ」 ダンボールに書かれていた値段より少し多めに支払った事に気づき、店主さんが返金しようとしてくる。 「必要な仕事だって教えてもらった、教育費です。これ、美味しく頂きますね」 「坊主、うまかったらまた買ってけ、次は安くしてくれる」 「勝手な事言わないでよ嵐山さん」 「働くって、いいですね。お互いがんばりましょう」 「嫌味ったらしい学生さんだな、まったく。机にかじりついてる奴に労働の何がわかるってんだよ」 「そうですね、すいません……はは」 さて、土産をゲットしたはいいが、さっき買った《・・》〈コレ〉もあるので両手が塞がってしまう。 「宅配サービス、今日の夜着可能だよな。良し、そうしよう」 きっと、そっちの方が盛り上がる。 「あ――――」 金ある+時間ある=なるちゃんと優雅なお食事会。 「なんてのはどうだろ!」 ふと思いついたこのプランは中々いい。 幸いにしてここは繁華街。 昨晩受けた気持ちいい占いサービスも営業中かもしれない。 だが、なるの占い屋が開かれていたスペースは別の路上パフォーマンスに使われていた。 時間帯が合わなかっただけかもしれないが――“開く場所も占いで決める”と言っていた気もする。 「金と時間があってもなるちゃんのサービス受けられないんじゃしょうがないなぁ」 夜になったら秘密基地の開拓を進めるとして、それまでは適当にブラつこう。 「あれ……閣下?」 「ダージリンは大体わかりましたわ。次はこの茶葉を試飲させてくださります?」 通りに面した入り口が小さく縦長の店――紅茶専門店で特徴的な髪型が目に止まった。 店の扉は開放されているので、閣下が店員に聞きながら必死でメモを取っているのが外からでもよく見えた。 「そっかぁ。門限とかあるしね。将棋相手を代わったのは、ココに来るためだったのか」 紅茶が好きなら、日頃のお礼にプレゼントしてあげたら喜んでもらえるかも。 と考えていると――なんとも言えない優しい香りが通り抜けた。 「九條のお嬢様?」 呼びかけに振り向く様も、同い年とは思えないほど優雅だ。 「俺の事が気になって尾行けて来たのかな。いつでも連絡取れるように登録をっと……」 「結構です。貴方と番号を交換する気はありませんので、どうぞ携帯を仕舞ってください」 「連れないなー。せっかくまた会ったんだし、放課後ティータイムしようよ」 「紅茶は普段から嗜まれるのですか?」 「飲むよー、年に一度は飲んでる。珈琲は毎日飲んでるよ」 「珈琲の話はしていません」 「女性の多くは紅茶を好み、男性の多くは珈琲を好む傾向にあると存じておりますわ」 立ち話中の俺たちを見つけてか、店から出て来た閣下が早々に言った。 「こうして水瀬優真は美少女お嬢様二人に囲まれて、幸せに暮らしましたとさ……めでたしめでたし」 「さようなら」 「ああ、行かないでお嬢様。薔薇の庭園でお茶をご一緒しましょう」 カムバックを要求。当然無視する九條お嬢様だったが、絹糸のような金髪をなびかせた北条院お嬢様が仁王立ちで行く手を遮った。 「九條美月さん、本日の欠席にはどのような理由がお有りですの?」 え? ああ。なるほど。 どこかで会っていたと思ったけど、九條お嬢様、ウチの学生だったのか。 「申し訳ありません。体調が優れなかったものですから」 「でしたら! 何故このような場所で油を売っていらっしゃいますの?」 「それを答える義務はありません」 「ありますわ。《わたくし》〈会長〉が《ルール》〈法だから、ですわ」 「かっけーーーーー!」 「見て分かる通り私は私服です。個人的な時間をどう使おうと貴方には関係がありませんし話す必要もないでしょう」 「何をトゲトゲしていらっしゃるのかしら、怖い怖い」 「…………」 「花に誘われる蜜蜂のようにふらふらと迷い込んで、そんなに紅茶が好きなら紅茶と結婚したらいかがかしら? おほほほほ♪」 「付き合いきれませんね」 「そういえばさ、朝から探してた探し物って見つかったの?」 「探し物? その話、詳しく聞かせて頂けますこと?」 「私から話すことは、何もありません。では」 「あっ、今のは逃亡と見なしますわよ九條さん! よろしいですわね?」 九條お嬢様は返事なく、規則正しい歩き方で通行人に紛れてわからなくなった。 「おほ、おほほほほ♪ 尻尾を巻いて逃げ出してしまいましたわ!」 「勝ち? ねぇ勝ち?」 「完全勝利ですわ♪ 九條の娘と言え、北条院の跡取りである私と向きあって話すのは怖いようですわね」 九條お嬢様の落とし物は本当に見つかったのだろうか。 目の下に隠し切れない疲れがうっすら出ていたし――――あれからずっと探してたんだろうなぁ。 「時に水瀬さん、将棋はお済みになられまして?」 「ちゃんと行ったよ。一勝一敗かな。二戦目は、盤上とは関係のない心理戦で勝負を降ろさせられちゃった」 「あ、リリ閣下、このあと牛丼大盛りつゆダクとかどう?」 「お誘い嬉しいのですが、そういった庶民的な物を頂くのは問題がありますわ」 「こう……かき込むように食すのですわよね? そのような姿を家のものに見られでもしたら外出禁止になってしまいますわ」 「ソーリー……」 閣下はこんな俺とも気さくに話してくれるので忘れがちだが、由緒正しきお嬢様だ。 「私、今日はこれで失礼しますわ。ごきげんよう」 「ごきげんようですわっ」 初めて使ったけど、ごきげんようって響き、なんかいいな。 上流階級っぽさがある。時と場合を考えて積極的に使おう。 「とはいえ、これで華麗に一人ぼっちか。紳士は悲嘆に暮れている時間などない。次の恋を実らせに出発だ」 周囲を灼熱の業火が覆う。 私はその光景を遠くから眺めていた。 ただひとつ、漠然と心に訴えかける感情が胸を締め付ける。 喪失感―― 私は何かを失った。何者かの手によって。 空しさで空いた穴に、どこからか煮え滾る奔流が雪崩れ込む。 血が逆流し、悲哀に打ちひしがれていた心はやがて持て余すほどの激情に支配された。 ―――――――――――――――。 私は叫ぶ―――― 憎しみに囚われた瞳が行き場を探す。 憤怒の正体は未だはっきりとしない。 それでも私は姿のない亡霊を見つけ出して罰を与えなければならない。 そうしなければと、心が叫ぶのだ―― 「よう、お目覚めか。グッドモーニング」 「……こんにちわ。どうやら今回の栄養ドリンクはいつもより効き目が強かったらしい」 私は倉庫のソファに座っていた。 もちろん手足には既に拘束具が付けられている。 「アンタも物好きだなぁ。昨日の今日じゃねぇか。全然懲りてねぇな」 「面倒事は私の意志に反してやって来るものだ」 「ヒヒッ、違いない。ま、俺としちゃ仕事にありつけるんだから感謝しねぇとな」 「ついでに別の仕事も入ったんだぜ。仕事は忙しいうちが華だからな」 別の仕事とはおそらく―― 「九條美月に関することだろうか」 ノエルが調査を依頼したのはこの男かもしれない。 「馬鹿野郎、依頼の内容をバラすのなんてシロウトのやることだ。俺は仕事に関しての口は堅いんだよ」 そういうものなのか。 「だがまあアンタにはいつも世話になってるからなぁ。想像に任せるとだけ言っておこうか」 「それだけで十分だ」 別段この男でなければならない理由はない。私はノエルから九條の情報が聞ければそれでいいのだから。 「それで今日は何を聞きたいのだろうか。私は浮気などしていない」 「ああそうかい」 いつもと違い気のない返事だった。 「どこか身体の調子でも悪いのだろうか? いつもと態度が違うように見受けられるのだが」 「拷問相手の心配をするマヌケがどこにいるんだよ」 「おかしかっただろうか」 「いや、アンタが変わってるのは前から知ってるけどよ。それにしたって舐め過ぎだぜ」 「すまない。そんなつもりはなかった」 「俺と違って計画性の欠片もない馬鹿が相手だったら目玉のひとつでも刳り貫かれてるところだ」 「なるほど、勉強になった」 拷問をする者の心配はしてはいけない。覚えておこう。 「まあ実を言うと今回は特にアンタから聞き出さなきゃならないことはねぇんだ」 「では私は何のために拘束されている」 「ま、お灸を据えられたとでも思ってりゃいいさ。次浮気したらこれぐらいじゃすまねぇぞっていうメッセージだな」 「私は浮気などしていない」 「浮気してる奴はみんなそう言うんだよ」 しばらく会話をした後、兎の仮面をかぶった男は引き上げていった。 一人残された私の元へ、小さな足音が近づいてくる。 「あ、あかしくんいた」 「ひまわり、どこへ行っていたのだ」 「おさんぽだよ。海とか公園とかいろいろぉ」 「ノエルは一緒ではなかったのだろうか?」 「のえるちゃんはご用があるからってどっか行っちゃった。ひまわりも行くって言ったんだけど子供がついてきちゃダメだって」 「そうか」 ノエルは九條の件で出かけていったのだろう。 「でね、ひまわりはそれでも一緒にいくーって言ったんだけどね、のえるちゃんはがんこものだから許してくれなかったんだよ」 「仕方がない。キミがいては面倒だったのだろう」 「でもね、それでもひまわりはあきらめなかったのです! すごいでしょ!」 手を焼いているノエルの姿が目に浮かぶ。 「そしたらね、100円やるからそのへんで遊んでなさいって」 「ひまわりは悩んだんだけどね、すっごく悩んだんだけど100円もらうことにしたんだよ」 その程度で引き下がってくれるのなら、今度から私も硬貨を常に持ち歩くことにしよう。 「ここで問題ですっ! 100円もらったひまわりは困ってしまいました。さてどうしてでしょー?」 「何故だ? キミにとって金銭の享受は良い事ではないのだろうか」 「なぞなぞ出してるのに聞き返しちゃダメだよぉ。しょうがないからヒントあげるね。ヒントはねぇ、お金は食べてもおいしくないんだよ」 「金銭と交換する物品、及び相手がいなかったのではないだろうか」 「???」 ひまわりにとって少し難しい言い回しだったようだ。私は言い直す。 「菓子を買う店が周りになかったのだろう」 「ピンポンピンポーン♪ だいせーかい♪」 旧市街には商店もなければ稼動している自販機もない。 例外として親方の屋台があるが、まだこの時間では店を開いてはいないだろう。 「新市街の方に行けばいくらでもあると思うのだが」 「のえるちゃんがここで遊んでなさいって言ったんだもん。やくそくは守らなきゃいけないんだよ」 「なるほど。殊勝だと思う」 「でね、おかし買いに行きたいからあかしくん一緒にきて」 「約束はどうしたのだ」 「あかしくんと一緒ならたぶんのえるちゃんも怒らないと思うな。おとなのあかしくんが一緒なら平気なんだよ」 子供を一人にしないよう大人が帯同することは常識である。常識に沿った行動を取るべきだ。幸いこの後の予定も空いている。 「わかった。一緒に行こう。どこへ行くのか決めているのだろうか」 「えーとね、エーエスに行こうと思います!」 「わかった。では早く行くとしよう」 身体の具合を確認するため二度三度と手のひらの開閉を繰り返す。薬の影響は既にないようだ。 「なにしてるのー! はやくいこうよぉー♪」 腕をぶんぶん振って急かすひまわりの後に続き、倉庫の扉をくぐった。 「ありがとっした~」 買い物を済ませ、コンビニエンスストアの自動ドアを通り抜ける。 「ん~、すっぱ~い、でもおいし~♪」 ひまわりは購入した駄菓子を貪っている。 「あかしくんもいっこ食べる~?」 「私はいらない。キミが全部食べるといい」 「そぉ~、おいしぃのになぁ~、ボリボリ」 24時間営業のコンビニエンスストアには多様な商品が揃えられている。 私にしてみれば植物関連の商品が置かれていないのであまり興味はないのだが、適当に歩いても見つかるほどに同名の店が数多く展開されている。 エーエス365――“《アーカイブスクエア》〈AS〉”という大企業グループが経営するコンビニエンスストアである。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”はこの街の至る所に影響を与えている。 新市街に住む人間の半分以上は、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の関連企業で働いているらしい。それだけ企業全体の規模が多岐に渡っているのだ。 それだけの大企業グループに成長したのはここ数年の話らしい。 過去に起きた人間界での混乱を総称して“ナグルファルの夜”と呼ぶらしいのだが、事態の収束に一役買った企業だと親方から聞いた。 混乱は特需を生む。戦争がなくならないのと同じだ。 「ねぇねぇ、今からどこ行くの?」 「倉庫に戻る」 「えぇー、あそんでいかないのぉ?」 「目的は果たした。それにもう日が暮れる。夜中に徘徊するのは常識的に考えてあまり好ましくはないのだろう」 夜間は日中と違い人間の目は厳しくなる。制服に身を包んで武装した人間に職務質問されたことがあるが面倒極まりない。 「さあ、帰ろう。ノエルも待っているはずだ」 しばらくすれば親方の屋台も現れるだろう―― 「――――ちょっとっ」 軽い衝撃が私の背中を襲う。通行人とぶつかってしまったようだ。 このような場合に取る選択肢は二つ―― 相手に非をなすりつけ罵倒するか、過ちを認め素直に謝るか。 私は良識的な人間の取るであろう選択肢を選んだ。 「私の背中が失礼をしたようだ。怪我はないか?」 「べつにいいわ。立ち止まったあなたに全過失はあるけれど、ね」 立ち止まっていた私にぶつかって鼻を打ったらしく、トナカイのように赤くなっていた。 「あ! はちみつあげパンさんのお姉さんだ!!」 「ん?」 「あ……! しまっ――」 狼狽する女性は、ぶつかった拍子に落としたサングラスをそそくさと拾った。 「ねぇねぇあかしくん知らないの!? はちみつあげパンのお姉さんだよ!!」 「ふふ。この世にはね、自分と同じ顔をした人が3人はいるのよ。勉強になったわね」 「蜂蜜揚げパンのお姉さんとは何だろうか? そもそもパンに兄妹はいないと思うのだが」 「ちがうよぉ! テレビとかに出てるお姉さんだよ! ジュースのテレビにも出てるんだよ!」 「わたしはそっくりさん。あまり大きな声を出されて誤解を招かれたら、たまったものじゃないわ」 「テレビに出ているタレントか何かだろうか」 「何を馬鹿な」 「歴代のアイドル総ナメにする視聴率を誇り、影響力のある女性芸能人ランキング堂々1位」 「――紫護リノンを知らないなんて情弱も甚だしいわ」 「……わたしは似ているだけで無関係だけどね」 Re:non――最近その名を聞いた覚えがある。 確か神の名前だったはずだ。アイドルだというRe:nonとは別のものだろう。 「りのんちゃん、はちみつあげパンさんちょうだ~い♪」 「ええ、いいわよバッグに……あ、ちょうど今切らしてる」 「やはりリノンというアイドルなのか」 「……わたしはRe:nonとは違うけど、似てるからネタで持ち歩いてるだけ」 Re:nonと呼ばれた少女は人の目を気にするように周りを窺っていた。挙動不審である。 「そーなんだ……もらえないんだ……すっごくおいしかったのに……」 「……蜂蜜揚げパンは好き?」 「あれはとてもいいものだから、やみつきっ!」 少女は悩む素振りを見せた後、背後にあったコンビニに目を向ける。 「保護者の方に聞くわ。私がこの子に蜂蜜揚げパンを買い与えたとして、それを取り上げたり、捨てたりしない?」 「私はその件に関与しない。食べ終わってゴミを屑籠に捨てるまで見届けるだけだ」 「待っていなさい」 そう言い残すと一目散にコンビニの中へと走っていった。 そして数秒もしないうちにレジへと向かい、紙幣を置いて私達の元へ戻ってきた。 少女の手には一袋の菓子パンが握られている。 「はいコレ、あなたにあげるわ」 つい先ほど購入したであろうパンの袋をひまわりに渡す。 「あ! はちみつあげパンさんだ!!」 ひまわりが受け取ったパンは、昨日私も通りすがりの男から譲り受けた物と同じだった。 「そっくりさんを指さして、リノンリノンって騒がないこと。わたしとの約束に“《へんしん》〈Re〉:”できる?」 「うんわかった! ひまわり誰にも言わない!!」 「いい返事。それじゃ私急いでるから。子供は早く家に帰りなさい」 「特に今日は危ないから。人の多い道を選んで帰るのよ」 黒髪の少女はウインクを残して走り去って行った。 「危ないとは一体どういう意味なのだろうか」 夜間になると治安が悪化する傾向にあるのは知っているが、何も今日に限った話ではないだろう。 「何か心当たりがあるだろうか」 「もぐもぐ……およよ? なんか言った?」 「いや、何でもない」 ひまわりに聞いた私が悪かった。 どちらにせよ早く帰るという点に関しては言われるまでもないことだ。 コンビニの店員が慌てた様子で外に駆け出してくる。 恐らく先ほどの少女を探しているのだろう。 面倒な事になる前に立ち去るべきだと判断し、旧市街に向けて歩き出した。 原付飛ばして旧市街駅前に到着。 途中で建物の破片か何かを踏んでタイヤが心配だったけど、パンクはしていなかった。 このあたりは駐車禁止なんか取り締まらない無法地帯だから、適当に停める。 「日が落ちるまではまだ時間があるな」 時計を確認して秘密基地へと足を向ける。 「お? 路上販売の時の――」 忙しそうに水桶で洗濯でもするように野菜を磨いている。 野菜売りの店主と同じくリヤカーを背にしているが、まだ開店前のようだ。 この辺りで店なんか出して儲かるとも思えない。 つまりは“誰かがやらなきゃイケナイ仕事”の一つなのだろう。 多くの人に理解されず、ひっそりと営まれ、いずれなくなってしまうちっぽけな仕事。 「お、まっくろくろすけどもめー」 「飛び回ってて元気そうだなぁ」 ……ん? 《・・・・・・・・・・・・・・》〈もしかしてそういうことなのか〉。 「……俺には関係のないことだよな」 首は突っ込まない。ここに来たのは秘密基地で遊泳を楽しむためだ。 「うわ、シャツめっちゃ絞れる。吊るして乾かしとこう」 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の地殻変動で沈んだビル群の一つを拝借し、秘密基地に改造する計画は順調だ。 缶詰類のストックはあるし、衣服も何着か置いてあって寝泊まりも可能。 女の子を連れ込んであんなことやこんなことをする為のムフフ空間になる日は近い。 「さっぱりしたー」 泳ぎ疲れた。ごろーんと寝転がって一休み。 生活空間だけは掃除してあるが、自然に生えたツタや草は見栄え的にイイのでこのままにしておこう。 「落ち着くなー」 一人でいる時間。 独りだけの空間。 孤独とはちがう。 「なるちゃん。Re:non様。リリ閣下。バラシィ。九條お嬢様。社長。みんななにしてるのかなぁ」 意味もなく立ち上がって、窓枠から静まり返った夕暮れの水面を眺める。 こうしていると、誰もいない世界に取り残されたような―――― 「………………っ」 左にも。 「………………っ」 右にも。 誰もいない。 「そ、そうだ……あの子に会いに行かなきゃ。そうだったそうだった」 調子が狂う。考えるのは、だから嫌なんだ。 携帯を片手に、壁のように続いていくフェンスに沿って歩いていく。 ……………………。 ………………………………………。 「………………はい、きたぁ!」 画面には“圏外”の表示。 突き出したアスファルトに少女が立っているのが見える。 今回は深夜ではないので、時間的にいないかと思ったが杞憂だった。 「しっかしココ、どういう仕組なんだろうなぁ。旧市街におけるガラパゴス空間?」 ま、いいか。なんでも。重要なのはいつだって理屈じゃなくて中身の方だ。 「わぁ! 偶然っ! えー、嘘みたい。俺たちやっぱり目に見えない何かで繋がってるのかな? どう思う?」 「………………」 “偶然を装っての出逢い作戦”は失敗。 「昨日は初対面で色々とごめんね。よかったら、お話しない? 俺、人と話すの大好きなんだ」 「…………誰とでも好きなだけ話してくればいい……」 「今、俺の眼中にあるのは君だけだよ」 「…………水瀬優真は人と話すのが好き……」 「おっ、おおおっ。名前覚えていてくれたなんて感激だなぁ。君はなんていうの?」 「…………ココロはココロ……」 「心……? あ、そうだ。今日は良い物があるんだ」 何の策も容易せずにこんな美少女を攻略できるとは思っていない。 「じゃん! お絵かきセットー!!」 先ほど繁華街で店員さんに見繕ってもらった品で、素人目だけどかなり本格的に揃えてくれているように感じる。 「写真は《こころ》〈魂〉を抜かれちゃうけど、絵のモデルなら問題は解消だ。君の美しさを俺の筆で閉じ込める」 「…………ココロのココロを抜く……?」 「ん……もしかして。今更だけど、ココロって名前だったりした?」 「…………ココロはココロだから、ココロでいい……」 「そっか、改めてよろしく。携帯は……嫌いだよね、確か。ここ“圏外”だし」 「いつもここにいるの?」 「…………その必要があるから……」 「ココで誰かが海に飛び込まないか監視してるとか? そういう仕事もなくはなさそうだ。立入禁止区域で? という疑問もあるけど」 「…………絵描き……?」 「描いたこと無いけどね。美術の授業は廃止になったし――――ああ、孤児院にいた頃に結衣とお互いを書き合ったっけ」 「…………?」 「ガキの時のらくがきだよ。懐かしいな。あの頃のあいつはホント、騒がしく駆けまわってたなぁ……」 幼少期の結衣に、性格的な面影はない。 あの頃は天真爛漫って感じだったし。 クールぶっててたまにデレっとする今とは大違い。 「…………水瀬優真は孤児……?」 「そ」 玩具なんて買い与えてもらえる環境じゃなかった。 木登りとか、おにごっことか、身体を使った遊びばかりした。 だかららくがきなんて、よっぽどの雨降りにしかしていない。 「…………ココロと同じ……?」 「え、そうなの!? なんだよぉ早くいいなよぉ妹になりたかったの? いいよいいよ、ココロちゃん可愛いから歓迎だよ」 「…………ココロも捨て子……」 「滅多な事を言っちゃダメだよ。ママがいるんでしょ?」 「…………ママはママでしかない……」 「うーん?」 複雑そうだったけど。 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”を経た世界で、複雑でない家庭の方が圧倒的に少ないのは事実。 あの災厄の後で、家も職も身内も友人も手の届く範囲全てが無事でしたなんて人は、いない。 気楽そうに笑って過ごしてる奴ほど、忘れられない傷跡を背負って生きてるんだって、俺は思う。 ココロが“特別”に“特別”ってわけじゃない。 「ちょっと先に、このカルトンとかって奴に画用紙をセットするのやっちゃう」 指の肉を挟むと泣くほど痛いタイプのクリップが上部についてたので、紙を挟む。 適度な重さが安定感となっていて、書く際にズレたりしなそうだ。 鉛筆削りはカッターを用いて、ごぼう削りの要領でやればいいとか言ってたな。 「ぽい?」 「…………ぽい?」 「それっ《・・》〈ぽい〉でしょ。形から入ってすぐ飽きる自称絵師、みたいな?」 「…………ぽい……」 頷くココロに満足し、自称絵師である俺はHB、B、2Bの3本を削っていく。 3とか4とか5とかのBも一緒に買わされていたが、ずぶの素人がゴルフクラブを使い分けないのと同じで無視。 「…………ココロも何かする……?」 「ジッとしててくれるだけでいいよ。メチャクチャ可愛く描くから楽しみにしていてね」 「…………楽しみ……? わかった……楽しみにする……」 「期待に応えられるように頑張ります」 とにかく描きやすく扱いやすい画材をチョイスしてくれたらしく、泳ぐように筆が進む。 「ヤバイ。割りと楽しい。このまま芸術家とか目指してみるのも一興か」 「………………」 「あ、ジッとって言っても喋っていいからね。身体はなるべく動かさない方向でお願いします」 優しく髪を包む潮風。 絵になる美少女に退屈を感じさせるわけにはいかない。 「ココロちゃんって髪長いのに、炊きたての御飯みたいにつややかだね、いや決して口説いてるわけじゃないよ」 「………………」 「何年くらい掛けて伸ばしたの? 美容品のCMとか出たら一躍人気になれると思うんだけどなぁ」 「…………最初から、こうだった……」 「ウィッグなの?」 「…………? ……違う」 「ま、いいや……それで……昨晩は一切、触れなかったけど、そろそろ聞いてもいいかな」 「ゴホン! ん。その格好さ、さすがに目が泳ぐ時があるんだけど……あるていどは許容してくれたりする?」 「…………ママにもらった。ヘン……?」 「変じゃないよ。個性的だなって思う。ただ、健全な男子にとって過激すぎる衣服は目の毒だから、つい見ちゃっても怒らないでね?」 「…………? ……見ていいよ」 「よっしゃあ」 ……………………………。 ………………………………………………。 ……………………………………………………………………ハッ!! 「だ、ダメやぁぁぁぁっ!!! あかん、あかんやつやぁぁぁっ!!」 「やっぱり見ちゃダメって言ってくれ。でないと際限なく見てしまうからっ」 「やっぱりダメ」 我を忘れて欲求に従ってしまった。 シースルーのベビードールの破壊力に頭がクラクラ。 チラ見せどころか丸見えの下着には俺もお手上げだった。 「でも、君とこうして対面して話せるなんて不思議だなぁ。昨日は人を寄せ付けないイメージが大有りだったからなぁ」 「…………そういうのではない……」 「てっきり嫌われたんだと思ってたから、いっぱい話ができて嬉しいよ」 「…………時が、満ちていないから……」 「じゃあ、満ちるまでは君の時間を独占できるわけね。それが満ちると、ココロは“必要”な事を始めるわけだ」 「…………ママの命令だから……」 命令――――その言葉の持つニュアンスに引っかかりを覚えた。 「ママの事は好き?」 「…………好き……?」 「…………好きって何……?」 「不可解で、厄介で――――人間特有の素敵な感情のひとつ」 「わかりやすく言えば、『コレいいぞ~』って思う事」 「…………コレいいぞー……?」 「コレいいぞ~。なるちゃんいいぞ~。Re:non様いいぞ~。ココロちゃんいいぞ~。ってね」 「あ、女の子の前で他の女の子の名前は出しちゃいけないってバラシィが言ってたっけ。あははっ」 「…………ママの事はコレいいぞーではない……」 どうやら“コレいいぞ”とは思わないらしい。 娘さんをこんな所に一人置き去りにする意味はなんだろう。 こんな所に一人――――ここって……。 「……そうだ」 余計な事を思い出した俺は、聞かなければいいのに掘り返そうとしてしまう。 「いつも、大体ここにいるなら……距離的に公衆電話、見えるよね。何か気になったこととかってなかった?」 「…………特には……」 「本当に?」 「…………騒がしい時があった……」 恐らく、昨日の通報の後の事を言っているのだろう。 「…………騒がしくなる前は、大きな塊が転がってた……」 話しながら描き進めていた筆が止まった。 塊とは――――ウエイトレスさんの死体の事を指している。 「その《かたまり》〈死体〉は、誰かが持ってきたもの? 現場で作られたものなの?」 「…………? 塊は塊。いつのまにか転がってた……」 「そっか……」 ……それっきり何となく話しかける間がつかめずに時間だけが過ぎた。 「……うがぁ!」 「…………?」 「俺のココロちゃんはこんなんじゃない! もっと女神的で、妖精然としている! この絵からは少女臭の欠片もしないっ!!」 納得の出来に仕上がらず、何枚か無駄にする。 感覚はつかめてきているが、なかなか集中できない。 「………………」 俺が一丁前にスランプぶって鉛筆を持つ手に痛みを覚え始めた頃、それは聴こえてきた。 川のせせらぎや虫の音のような環境音みたいに溶け込んだハミング。 意気込むわけでもなく、自然と理解した。 無心で、ありのままのココロを描けばいい。 すらすらと、筆が進んだ。 幾つもの線が重なり、イメージ通りのものが紙に描かれていく。 完成に近づいていくのが気持ち良くもあり、充実の終わりを告げる意味では惜しくもあった。 「いいね。こういう時間。誰かと一緒にゆったり歳を取っていく感覚っていうのかな――――」 「躍るようなひとときも、心が掻き乱されるハプニングもいいけど、ささくれだった心が丸くなっていくような時間が、俺はやっぱり一番好きだ」 人と人が出逢って一緒に何かをするのって、意外とこんなものだと思う。 共同で何かをするのが親睦には絶対欠かせない。 だけど、そこに意味や理由を求める必要はない。 まともにやったこともないデッサンなんて思いつきの為に、初対面に等しい異性を付き合わせる。 つまらなくて。くだらない。無意味に近い時間の過ごし方だけど――――それで両者が退屈せずにいられたのなら、もう何をやっても平気って事だ。 「…………ふぅ……傑作だぜ……っ」 筆を置く。集中の疲れが押し寄せ、目頭を軽く押さえる。すぐ隣にココロが立ち、完成品を眺めていた。 「天才画伯誕生の記念すべき第一号は君に贈ろう」 「…………ココロに……?」 「うむ。時価70億優真・《ドル》〈$〉のところ、 1優真・《ドル》〈$〉にオマケしてあげよう」 「…………単位がわからない……」 「1優真$の支払い方法は、手の甲にキスでもオッケーです」 別に本気じゃなくて、物は試しで言ってみた。 ココロは反応の薄い子だから、おもしろい表情とか見れればいい。 そんな軽い気持ち。 まぁ、上手にセクハラできれば社長への土産話にもなるって魂胆も、アリアリなんだけども。 「……ん…………」 うわ。良い香り。女の子がお菓子でできているって最初に言い出した人の表現力は果てしない。 ココロはつま先立ちになって、俺に顔を近づけて――――って。 「…………ちゅっ……」 「うぁ……」 反射的に耳たぶに触れる。 ほんの僅かに感じた湿り。 ココロの唇が俺の耳に触れた証だった。 「…………手の甲ではない……?」 「いや。えと。う、うん……手の甲はこっちでした」 「………………」 ココロはドギマギする俺に目もくれず、品定めするように絵を見ていた。 どうも男心が弄ばれた感じがする……。 気を取り直して感想なんか聞いてみよう。 「どう? なかなか無難で並の上って感じでしょ。もっと下手くそだったり、アバンギャルドなの想像してた? 俺って何やらせてもセンスあるなぁ」 「…………ココロ……?」 「そう。君を描いたんだよ。現実の方がやっぱり断然かわいいけどね」 「…………水瀬優真は絵が上手……?」 「……上手かどうかは、ココロの主観で判断して欲しいな」 「…………わからない……」 「…………わかるまで持ってていい……?」 「どうぞどうぞ。道具も一緒にプレゼントするから、退屈凌ぎに描いてみたらいいんじゃないかな」 ココロは画材を手にとって、一つ一つ入念に調べていた。 紙にひっついた鉛筆の顔料が視覚的に形となって認識できるようになる――そんな根本的な部分から絵の正体を探ろうとしている感じだった。 「――――でぃ」 「でぃくくちゅんッ!!」 「おっと!? “出てきた”?」 「ずずず……出てきた」 確か、危険区域がどうとか、邪魔になるとか言ってたはず。 そろそろお《いとま》〈暇〉しましょう。 「…………水瀬優真……」 「ん? いいよ、なんでも言って」 「…………色も塗って……」 「ああ、じゃあ次に来た時、塗ってあげる。約束だな」 「…………約束……?」 「取り決め。次に来たら、俺はココロの絵に色を付ける事にベストを尽くすって事」 「…………わかった……」 また一人、美少女とお近づきになってしまった。 「っと――――何してるか知らないけど、とにかく気をつけて!」 返事代わりに、鉄砲のような風が力強く伸びる雑花をさらった。 気まぐれに何かを壊す姿は残酷で、ココロが同じ目に遭わないか少し心配になった。 邪魔者扱いをされるのがわかっていても、仲良くなった子を独り残して行くことに抵抗を感じてしまう。 「行って」 ……触れちゃイケナイ部分は誰にだってある。 きっとココロにとって、くしゃみの後は、自分だけの世界。 俺にもそういう部分は、あるから、だからわかる。 「てなわけで、ごきげんようですわ」 旧市街に続くトンネルを前にした時、忘れかけていた少女の言葉が蘇った。 人の多い場所を選べ――今更ながら無理な相談である。 旧市街に向けて歩くにつれ、人の姿は見かけなくなっていった。当然だ、この先は旧市街へと続いているのだから。 高架下をくぐるように通されたトンネルの内部はかろうじて通電しているが、いくつかの照明は壊れているのか役目を果たしていない。薄暗い空間が真っ直ぐ伸びている。 「ねぇねぇ、今日のごはんもおでん?」 「そうだが、キミは駄菓子とパンを食べていただろう。夕食はいらないと思っていたのだが」 「そんなことないよっ! ひまわりはそだちざかりなんだから、一杯食べないと大きくなれないんだよっ!」 「そういうものなのだろうか」 「そういうものなのです!」 個体の体積を鑑みれば成人よりも食物を摂取する量は少ないはずだ。幼い子供にも関わらずこれだけの食欲があるのは珍しい例なのかもしれない。 「それはそーとあかしくん」 「何だろうか」 「この道なんだかオバケ出そうだよね」 「オバケ? 怪物や死霊といった類のことであれば迷信だ。少なくとも世間の常識ではそう捉えられている」 だが必ずしも世の中に拡散している情報が全てではない。それは私自身の存在が身をもって証明している。 「ひまわりは未知の生物に対して恐怖心はないのだろうか」 「ふえ? べつにこわくないよ? どっちかというと見てみたいなー」 恐怖心よりも好奇心が上回っているようだ。これまでの言動などを思い返してみると納得できるような気がした。 「では行くとしよう。食事の時間に遅れるとノエルの機嫌を損なってしまう」 出口に向けて歩き出す。 ふと視界の中に黒い靄のようなものが移りこんだ。 「ん――誰か歩いてきている」 珍しいこともある。丁度このトンネルは旧市街と新市街の境に位置している。 つまり前方の人影は旧市街からやってきたことになる。 滅多にないことだがありえない話ではない。先日も旧市街でたむろしていた若者達に遭遇したばかり―― 「あ、あかしくんあかしくん」 「何だろうか」 ひまわりが前方に視線を向けたまま、上着の裾を引っ張る。 「オバケがいるよ」 「オバケ……?」 おぼろげな灯りの向こう側は暗闇に塗りつぶされ、輪郭を象る境界線は曖昧だ。 それでもトンネル内に響く足音は次第に大きくなってゆく。 「……………………」 闇に埋もれた人影がゆっくりとその姿を露にしていく。 人ではない。そう断定するのに時間は必要なかった。 「お、オバケ出たよ!?」 かろうじて人の形を象っているが決して人間ではない似て非なるもの―― 液体気体固体、そのどれとも判別がつかない黒の塊。人間で言えば顔に当たる部分から浮かび上がる赤色の双眸―― 「幻覚、ではないようだ」 ひまわりにも見えているということは、個体に起きた精神障害の類ではない。となれば目の前にいる謎の物体はこの世に存在していることになる。 私は知識の倉庫を漁るが目の前の事象に結びつく情報は見当たらなかった。 「私達に何か用だろうか」 人間でなければ“《イデア》〈幻ビト〉”か……? いや、私の知る限り、いかに“《イデア》〈幻ビト〉”と言えどこの世界にいる限り器は人間の形をしているはずだ。となればあれは“《デュナミス》〈異能”によるものか? どちらにせよ通りすがりの者であれば私が関知するところでは―― 「ォォォォォォォォオオオオオオオ…………」 けたたましい咆哮が反響する。 言葉にしなくとも伝わる思い、とやらが人間の間には存在すると 聞いたことがある。 なるほど――――姿は曖昧で表情はなくとも不気味に光る二つの球体から感情を読み取ることは容易だった。 ひとつだけ腑に落ちない点があるとすれば、その意思は謂れのない敵意だったことか―― 「ォォォォォォォォオオオオオオオ!!!!」 黒い物体が不快な咆哮を上げて跳躍した―― 「きゃっ!?」 理由はわからなくともその場にいればどうなるのか想像できた。人間に殴られるのとは比較にならないことは明白であり、私はひまわりの服を掴み後方へ飛びのいた。 腕だと思われる部位がついさっきまで私達の立っていた地面を砕く。 私の見間違いでなければ衝突の瞬間、腕が地面に向けて伸張した。 「どうして私達を襲うのか、説明してもらいたいのだが」 「ォォォォォォォォ……」 言葉によるコミュニケーションを図るが、どうやら相手は言語を習得していないようだった。できれば面倒事は回避したいところだがそうもいかない。 「緊急時だ、すまない」 「きゃあっ!!」 ひまわりを掴んでいた左腕を振って後方へ投げ飛ばすと同時――――がら空きになったわき腹を膨大な質量を持った腕が突き刺さった。 くの字になって吹き飛ばされた私はトンネルの内壁に打ち付けられる。 「あかしくんっ!?」 「大丈夫だ。生命活動に支障が出るほどの機能不全は今のところ確認できない」 無視できるレベルとはいえ、肉体的苦痛による信号は脳へ送り続けられている。それはあまり心地よいものではない。 「暴力行為はこの世界のルールで禁じられている。知らなかったのならそれは仕方がないことだ」 私は壁に手をつけながら立ち上がる。 衝撃の逃げ場がない体勢のままで再度圧力を加えられては、いかに“《イデア》〈幻ビト〉”が人間よりも頑丈な作りをしているとはいえ致命的な損傷を受けてしまう。 「…………………………」 黒い塊は私の方を見ていたがあまり興味はなかったようだ。 代わりに少し離れた場所に転がっていたひまわりの方に向く。 「ォォォォォォオオオオオオ――!!!!」 一度目との差異に目を凝らす。 感情の細かい変化については判断がつかない。 何しろ共通の言語を使用していないのだ。 「何だあれは……?」 にも関わらず私の注意を引いたのは、身体の中心部に位置する辺りがぐにゃりと捻じ曲がり始めたからだ。 私は沼を想像した。踏み入れると二度と浮き上がらない底なし沼だ―― もちろんそれは喩えであって実際には全く別のものである。 沼は森の中にあるものであり体内に宿すことはできない。 それでも目の前に現れた黒い渦は同種の危険を感じ取らせる。 アレに飲み込まれてはいけない――――取り返しのつかない事態を招いてしまう。 理解に苦しむ状況といえども、強烈な禍々しさを前に理性が警鐘を鳴らしていた。 「あ、あかしくんあかしくん! たぶんこのオバケすっごく怒ってるよ!?」 「おかしな話だ。理不尽な暴力を振るわれたのは私だと言うのに」 事態は飲み込めないが平和的な解決は望めそうにもない。 ひまわりと因縁があるのか知らないが、彼女に私が受けた程度のダメージを負わせるわけにはいかない。人間であれば間違いなく生命の維持に支障をきたすだろう。 そうなれば九條との取引きに問題が発生してしまう。 契約の履行――何を置いても成し遂げねばならない至上命題なのだから。 「申し訳ないが、キミの行為を見過ごすことはできない」 外気に晒された右手に風の流れを感じる。 悪くない感触だが楽しむ暇はあまりなかった。 「ォォォォォォオオオオオオ――!!」 側頭部を掴まれて気分を害したのだろうか。黒い塊は苛立ちを隠さなかった。 不服の意を示そうと蛮声を轟かせる。 その姿は人間よりも低脳な動物に近い。 「ォォォォォォオオオオオオオオオ――!!」 圧倒的な質量を持った腕が私に目標を合わせて急激に加速する。 「(そこまでして――――受け取りたいのだろうか)」 私は言葉による交渉は不可能であると判断する。 身体中を伝って右手に集約する奔流が、今か今かと溢れ出すのを待つ。 「(私の内側を……柔らかな部分を……容赦なく、無慈悲に、痛めつけ、焦がし尽くす、この、紅蓮の夢を……)」 「ならばこの紅蓮の夢、受け止めてみるがいい」 「ォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――!!!!!!」 「きゃああっ――!?」 薄暗かったはずのトンネル内は、僅かな間ではあったであったが白昼と変わらぬ明るさに包まれた。 溜め込んだ炎を開放した際に生じる爆発音がトンネルの内部に反響する。 「凄いな、まだ頭部が残っている」 私は素直に感心した。以前放棄所内を散策した際、鉄製の扉に全く同じ衝撃を与えた。 熱と爆発に耐えられなかった扉は爆ぜるように焼き千切れて穴を開けた。 その塊の頭部は厚さ10ミリの鉄板よりも強度において優れているということになる。 「ォォォォォォォ…………」 “《イデア》〈幻ビト〉”の肉体は人間に比べ幾分強靭と言えるだろう。 とはいえ全ての事象に限りがあるように、“《イデア》〈幻ビト〉”にも限界はある。例えば拳銃で撃たれれば血を流すだろうし、車両に轢かれれば骨は砕かれる。 ノエルのようにそれらを無力化する“《デュナミス》〈異能〉”があればこの限りではないのだが。 「まだやるというのなら、次はさらに力を込める」 私はひまわりと黒い塊の間に立ちはだかる。 理由はわからなくとも黒い塊はひまわりに矛先を向けていた。 ここで私が何もせずに傍観していれば、この黒い塊はひまわりに危害を加えるだろう。 ただ人間が一人どんな目に遭おうが私とは無関係であるし興味もない。 しかしひまわりは私の目的を果たすための重要な役割を担っている。たとえ争うとしても奪われるわけにはいかない。 「あかしくんっ!」 「大丈夫だ。私もオバケを見るのは初めてだが実体はあるようだ。キミは離れているんだ」 ひまわりを安全圏に誘導する。 「ォォォォオオオオオオオオオオ――!!!」 「戦意は失っていないか」 面倒だ――――そう感じたのは、ここ最近で何度目だろう。 「(最近は、面倒な事が増えた)」 「だが……面倒でも――――向き合う必要のある事もある」 私の行く道を塞ぐのなら容赦はできない。私は“《ファントム》〈亡霊〉”にたどり着かなければならないのだ。 心を焦がす業炎の正体を、私は知らなければならない―― 「悪いが、あまり遅くなってしまうと花に水をやる時間がなくなってしまう」 「すぐに紅蓮を与えてやろう」 「ォォォォオオオオオオオオオオ――!!!」 調子の浮き沈みが安定している。 ココロとのやり取りで体内環境が清浄化されたらしく、頭はすっかり醒めて実にポジティブな状態だ。 これぞまさしく、美少女パワー。 「だいぶいい時間だな。疲れて帰ってくる社長の為に夕飯の準備しなきゃ」 美少女と欝な顔で話す健全男子なんて見たことがない。 裏を返せば美少女と話していると笑顔になる。 つまり美少女と話している限りは無敵で素敵な状態が保たれるのだ。 そして社長と結衣もウチの顔面偏差値SSSクラスの二強なので、帰ってからも俺は笑顔ということになる。 っていうか性格も天使。 仕事と家族がある充実感。 バラシィ曰く、俺みたいなのは“リア充”といってステータスらしい。 ともかく宅配の届く瞬間に俺がいないと面白さが半減してしまう。 仕込みをしていた屋台はなくなっていた。 もしかしたら営業は別の場所でするのかもしれない。 原付に跨ろうとして違和感に気づく。 来た時に俺が停めたのと微妙に位置が違う。 「マジ……? 悪戯……?」 渦巻く嫌な予感を抑えながら注意深く観察すると、メットインの開け口がひしゃげているのがわかった。 「ってか、コレじゃ上からシート載っけてあるだけじゃないですかー」 バールなどを用いたのだろう。強引な手口で、ボルトで固定されている部分からボッキリいかれてる。 メットインに何を入れていたか覚えていないが、肝心のメットは無事なのでいいだろう。 「はぁ……心ない悪戯だなぁ。他にも何かされていないか点検しないと、運転するのは怖いな」 目立った損傷はシートだけで、ブレーキ、ライト、タイヤ、ともに正常らしく、様子を見ながら運転して帰れそうだ。 「修理代はそんなに掛からなそうだけど、今後もここに停めるのは考えものかなぁ」 いつもの“まぁいいや”で済ませて帰ろうかと思ったが、転がってきた缶が脚にあたって止まった事でそうも言ってられなくなった。 「……珈琲? 中、まだ少し入ってる……」 転がってきたのは瓦礫の山の影だろう、ゆるやかなスロープになっていて飲み残しが線になっている。 放置された缶が風もなく倒れて転がってきたと考えるよりは、誰かが現在進行形で飲み残しで捨てたと考えるのが妥当だろう。 「犯人さんだったら懲らしめちゃおっと」 数歩。なんて声を掛けようか考えながら近づいたところで気づいた。 見慣れない物が落ちているな、と思った。 それを俺は、見慣れないなりに“大樹の枝のようなぶっとい棒”と 仮定し、《クワエヤスイホソナガイボウ》〈今日子さん絶賛の俺の指〉の20倍はあるなと思った。 月明かりの影になっていたので半身ズラし、その正体が明らかになると同時に俺は警戒を強めた。 「…………《・》〈腕〉の不法投棄は見過ごせないなぁ……」 その腕に見覚えはないが、その色には見覚えがあった。 墨色――ウエイトレスさんの遺体と同じ損傷の仕方だ。 「んぐっ、んぐっ……」 「誰かいるんだろ。ちょっと話をしようよ」 男がいる。 物陰に腰を下ろしているようだが全身は見えない。 何かを飲んでいるようだった。 「げふっ……おまえのだったか?」 「ごっそさん。やっぱ缶コーヒーはオーロラブレンドが一番だぜ」 「あ、えっと……大体わかったよ」 原付に悪戯したのは、やっぱりこの人らしい。 最近はめっきり“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”しか飲んでない俺だけど、缶コーヒーをメットインに入れたままだったようだ。 「他人の物を許可無く飲むのは軽犯罪だからやめた方がいい」 「うっ、るせぇーーー……」 「おいイイコちゃん。俺は久々にシャバで缶珈琲を飲んで気分がいい。このまま消えちまえよ糞野郎」 「そうはいかないよ。そこに転がってる腕、誰の? 君のなら治療しなきゃいけないし、他の人のなら理由を聞かなきゃいけない」 「うっ、るせぇなぁ。趣味が合う奴はヤりづれぇんだよ」 趣味とはオーロラブレンドの事を言ってるのだろうか。 俺は豆から挽いた珈琲が好きなだけで、缶珈琲は趣味ではない。 「見なかったことにしちまえって言ってんだゴキブリ野郎」 「腕……」 「腕の1本や2本でゴチャゴチャうっ、るせぇよ。おまえは髪の毛1本抜けたくらいで大騒ぎするってか?」 「屁理屈ばっかり」 ランニング後のように呼気が荒く、声に疲労感が滲んでいる。 「はぁ……ダメだこりゃ、言葉が通じないぜ」 携帯を取り出す。 「見てみぬフリもできないなら骸になっとけ」 「――――ッッ!?」 腹部へ衝撃が襲った――――が、その不意打ちに俺の“身体”は反応していた。 「一発でお陀仏か。退屈凌ぎにもならないぜ」 「………………」 「海まで吹っ飛ぶはずだったんだが、生身の腕じゃこんなもんか。独房生活で鈍ってるぜ」 「手加減してくれたおかげでしょ? 本気でやるなら、脚を踏んで固定してから打つはずだよ」 「……なんでケロっとしてんだ」 「働く男ですから」 簡単なこと。危険を察した身体が打撃を受け流すために脚を使って、後方へ跳ぶ命令を自動選択したのだ。 拳による強打は《インパクトタイミング》〈当たる瞬間〉に力を込めるタイプが多く、その瞬間さえズラせばかすったも同然だ。 落下ポイントの予測にも思考が追いつき、重心の置所を意識して受け身を取った。 Re:non様のイベント時に受けた不可避の速攻は固定された“投げ”だった為、反応も反射も意味を成さなかったが、単なる打撃ならばあるていどの回避行動は身体に染み付いている。 「肉体イジメと基礎体力作りは、嫌ってほど社長に叩きこまれているんでね」 「なんだカタギじゃないのか。この界隈に詳しくないから、組の名前出しても意味ないぜ。とりあえず、魚の餌にしてやればいいか?」 「えー、さっき飽きるまで素潜りしたから今日はもういいよ」 「ご自慢の潜水記録更新しとけよ。死ぬまで浮かんで来ないんだから、長いこと潜ってられるぜ」 「自己記録の6分を更新できるいい機会か」 「……? 聞き間違えか。6分つったのか?」 きっと嘘だと思われてる。社長と一緒にお風呂に入れた歳の頃から呼吸を止める訓練をしてたから、平均5分なのは本当なのに。 「そんなことより、勘定が合わないんだよね。君、腕に手錠なんかしてオシャレなのはいいけど、ちゃんと2本あるじゃない?」 「落ちてた腕と合わせて3本あることになるから……《・・・・・・・》〈アレ、誰の腕?〉 答えてくれない?」 「……そうか。そういうことか。何だよ、早く言えよ。最初から俺目的で“追ってきた”ってわけだ」 「? いや、俺は、その腕の事が知りたいだけでさ……」 「うっ、るせぇ! あんな糞暇なトコは懲り懲りなんだよ! 研究所の番犬なんぞに捕まえられてたまるかよっ!!」 「事情は良くわかんないけど、元気ってことでいいんだよね? じゃあ遠慮無くいくよ」 「一回は一回だって社長も言ってたし――」 同性で体格も向こうが有利だというのに不意打ちを許したんだ。 そんなものを甘んじて受けっぱなしなほどMじゃない。少しおとなしくなってもらおう。 「そっちから来るか。ハハッ、嫌いじゃないぜ、そういうのっ!」 距離を詰めながら喧嘩相手を観察する。 腕利きの傭兵を想わせるずっしりと鍛え抜かれた肉体をしている。 逆を言えば、多少のムチャをしても後腐れないってわけだ。 屈辱的で攻撃的で暴力的な一撃を、いかにポジティブに決めるか。 「らぁッ!!!!」 「――――ッ!!」 申し分のない助走で踏切、跳躍。 落下地点は、ヤンチャ男の鼻っ柱。 靴の裏から伝わる確かな手応えがあった。 「分からず屋は、死なない程度に顔面を踏んづけてやれってね」 「…………一回は一回、だろ。ハハッ、踏ませてやったぜ」 「あれ……?」 男は嗤う。 驚きもせず、痛がりもせず、目を開けたまま靴越しに嗤う。 「――――で、いつまでクセェ脚、乗っけてんだよッ!!」 も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ 「!?」 小雨を肌で感じ取るような気にもとめない変化の予兆を直感した。 踏んだままだった顔を再び蹴って距離を取る――――それが幸いした。 怪奇の拳――――。 一瞬前まで俺がいた虚空を穿ち、その勢いを殺さずに地表を抉った。 ズぞぞぞぞぞぞぞォ゛。と。数多の腕が縦横無尽に舞う。 アイスクリームをすくうように容易く削れるコンクリート。 地響きと大轟音。 廃駅が揺り籠のように揺れた。 《ホラー》〈異形〉――――数多の腕を生やした姿は、42の手で《せんじゅ》〈千手を表す菩薩のよう。 だが、その手で世界を救う気はないのは、固められた拳から容易に察することができた。 「避けんなっ、一回は一回ってホザいたのはおまえだぞっ」 「もう一回ずつ、やったでしょ……」 『もし巨人が槌を地表に叩きつけたとしたら』という想像が現実の出来事になっていた。 十分に距離を取っていた俺がそれでもよろけたのは、発生した地割れに足をすくわれそうになったからだ。 一途に肉体破戒のみを目的とした一撃――あの場にいたなら骨が砕けていただろう。 「捕獲者気取りが、ビビってんじゃねーぞ。この調子じゃ俺はおろかあいつを捕まえるのなんかできっこねーな!?」 「どうなってるんだあの身体……あいつって誰だよ……?」 「人を《モルモット》〈実験動物〉扱いしやがった連中がまだとぼけるか……」 「俺を“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”なんて糞みたいな呼び方しやがったのはおまえらの方じゃねーかッ!!!」 怪力乱神そのものの異形が咆哮を上げ、大気がぴりぴりと緊張する。 「た、ターーーーーーイム! タイムタイムタイム!」 距離を取りつつ万歳降参のポーズ。 全身で闘争意欲が欠片もないことを伝える。 俺は無害な一般ピーポーなんだ。 「さっきの《オンナ》〈追跡者〉は問答無用で斬り掛かって来たが、おまえはそうやって油断させる戦闘スタイルなのか?」 「違う違う。根本的に違う。戦うとなったらそんな姑息なことしないで真正面から行くけど、そもそも戦わない。終わり」 「お礼参りは体力が回復してからと考えていたが、予定変更したぜ。――怨返しと行こうか」 《おぞ》〈悍〉ましい量の腕がバキバキと“指鳴らし”の音楽会を開催する。 腕が多いという事は手数が多いという事。 仮に全てを自由自在に操れるのだとしたら、結果は見えてる。 「俺はバイクを取りに来ただけで、《おん》〈怨〉なんか返される云われはないんだってっ!」 「うっ、るせぇ。チッ、さっさと始めねぇから一本オシャカになったか」 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は“もぐ”とか“毟る”とか“千切る”に近い印象で身体から生えた豪腕を取って、捨てた。 身体から離れた豪腕は瞬く間に色を変え、腐臭を立ち上らせる。 同じ速度で、彼の背には爪の生え変わりのように腕が補填された。 「(さっき落ちてたのは、ある意味では紛れもなく彼の腕だったってわけね)」 チンケな錯覚や妄想では断じてない。 目の前の男は人の形をしているが、人の域を超えている。 対して俺は働く学生でしかない。 「(言葉は通じるみたいだけど、人間じゃないんだよな? 喧嘩とかしていい相手じゃないだろ絶対……)」 まぁ。戦う理由はもうない。 あの腕が彼の病気(?)だってわかったし、戦況的にも痛み分けが適用されるだろう。 彼は何かに追われているようだが、俺はその何かには《ノータッチ》〈無関係〉だ。 「“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”さん、だっけ? 君ね、人に迷惑を掛けず、早めに病院に行く事。コレ約束だから。守れるなら頷いて。そしたら和解だ」 「和解ね……それならほら、持って帰れよ……」 「ちょ、あなたが持ち上げていらっしゃるのは――――俺のバイクなんですけどぉお!!」 「忘れもんだぜッ!!」 軽々と遠投される《スクーター》〈和解の贈り物〉。 《プレゼント》〈重さ90kgの塊〉が降ってくるなんて悪夢でしかない。 「――――――――」 あまりにも馬鹿すぎるのだけど、避けるか受け止めるかで一瞬、迷った。 結構な額したから。 愛着もそこそこあるから。 その一瞬が命取りというのも往々にしてあるわけで……。 「やっぱ無理! って、あーーーーっ!!」 視界を埋め尽くす車体から逃れる術はすでになかった。 「ハハッ! ビンゴッ!!」 「ハァ……ハァ……ヤバ…………」 「何をされたんだっけ。ああ、真正面からバイクを受け止めて、一瞬意識が飛んで……」 「い゛ッッ! あ……ははっ、《アバラ》〈肋骨〉何本かイッたっぽいかぁ……明日からの仕事に響くし、社長にも怒られるなぁ……」 折れて内蔵に刺さってなければ儲けもの。 死なない状態ならば“深刻な状態”ではないから。 「とりあえずここから抜け出して……“一回分”の貸しを取り立てなきゃ……」 が――――抜け出せない。 原付を退かそうとしても、激痛で無意識に力が抜ける。 脳が直接命令を出すので、神経痛を無視することはできない。 「ハァ……ハァ……おいおいおい。ヤバそうなんですけど……絶体絶命なんですけど……」 「念を押しとくか」 「~~~~~~ッ!!」 安全靴で手の甲を思いっきり踏み砕かれる。 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は体重を掛けて踏んだままくるりと回り、折れた手の骨をさらに細かく粉砕してきた。 「蜘蛛の罠に掛かった虫ケラみたいだぜ? ざまあみろ。まさか狩られる側に回るとは夢にも思わなかったか?」 横這いの車体に“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”が乗った事で、さらに重量が増す。相撲取りにマウントポジションを取られたらこんな感覚だろうか。 「あの……結構苦しいんで、このぐらいで勘弁してもらえない……? 喧嘩、負けでいいんで……」 「…………ああ。いいぜ。俺はおまえらと違って、苦しみ悶えても実験を続ける冷血動物じゃないからな」 「よかった……じゃあ、これ退かせてもらえる? 優しくお願い」 「嬲り殺すのは勘弁してやる」 拳を固める音は歯軋りみたいに鈍く、耳障りだった。 「一撃で屠ってやるから、動くなよ」 「え、え? 本気で殺すの? 殺人は罪だよ?」 「おまえ、俺の顔を踏んだろ。だから顔を潰す。潰してやる。殴って潰す。俺は手が痛くなるだろうけど、おまえは痛みを感じないだろうな」 本気だ――――言葉を重ねるごとに“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の声の温度が下がり、覚悟していくのがわかった。 「ふざけんなぁ……!」 死ぬわけにはいかないという本能が神経痛を鈍らせ、凌駕する。 どうにか上半身を起こせるかといった時、既に“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は振りかぶっていた。 め゛きょ。嫌すぎる音が身体の内側から響いた。 「――――――――――――!!」 愛車の下敷きは解けなかったが、ぎりぎりで体勢を変えたおかげで顔面粉砕は免れられた。 肩の骨が砕け、完全に使い物にならなくなるだけで済んだ。 「動くなって。死に損ないが呼吸するためだけに生きるのがどれだけ苦しいか、おまえらが一番知ってるだろ?」 「悪く思って死ねよ。当然の報いだ」 身動ぎをする度に激痛が走り、視界に星屑が散った。 さて。汗が出てきた。 どうやら本当に殺されるらしい。 恐怖はないが、画期的な方法も浮かばない。 「でも……生きなきゃ……」 「誓ったんだ……死ぬ気で楽しんで生きるって誓ったんだ……」 「最期に学べたな。気の持ちようでどうにかなるなんて都合の良い話は現実にはないんだぜ」 ポジティブ――――地獄のように熱い呪いの誓約は、俺の胸を焼いた。 信仰にも似たその気持ちは特別な力も、催眠的な効果も、奇跡的な展開も恵んではくれなかった。 腕を振り下ろされれば物理的な結果が待っている。 「なんとかしなきゃ……なんとかなる……絶対、なんとかなる……」 漏れだしたガソリンが服に染みてきた。 火を点ければ映画みたいに大爆発でもするのだろうか。 期待はできそうにないし、ライターの一つもない。 いよいよもって、さようならの時間というわけだ。 「あ……れ…………」 死をリアルに感じたからだろうか、死の間際には音が遮断されるものなのか、世界から音が消えた。 散々騒いでいた心臓の鼓動も。 お互いの呼吸運動も。 頭に響くズキズキした脈動も、完全に聴こえない。 完全な無音空間。 俺の上に乗った“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”が何か言っているが、餌を求める金魚のように口パクをしているとしか思えない。 俺に罵声を浴びせているのか。 最期の一言でも求めているのか。 どちらにせよ、聞こえないのでわからない。 だが、不意に――口パクをするばかりで一向に殺す作業に移らない事に気づいた。 「(もしかして……)」 俺を殺そうとしている男も、失われた音に戸惑っている……? 「あ――――」 倒れているという体勢のおかげで俺は、“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の死角から 《・・・・・》〈這い寄る影〉の存在に気づいた。 《・・・・・》〈這い寄る影〉は無音の世界の歩き方を熟知しているかのように気配を消し、“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ”の背後を取る。 そして合図のようにトントンと、その可愛らしい耳を叩いた。 《・・・・・・》〈なんとかなる〉かもしれない。 そう思い、俺は側頭部を地面にぴったりと押し付ける。 上を向いた片耳を自由の聞く手でめいいっぱい押さえ、祈った。 「……ん、戻っ――」 「おめでとぉ――――――――ッッッ!!!!」 「!!?!?!?!!!?!!?!?」 爆破物が破裂するような《ラウド》〈轟音〉をゼロ距離で受けた“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ”は、耳を押さえたまま踊り狂った。 いくら特殊な肉体をしていても、音の振動による内部破壊は免れられなかったようだ。 「おめでとう、音のある世界。さようなら、音を愉しむ器官」 俺は耳を覆っていた手を放す。もちろん、俺を助けてくれた人の声を聞くためだ。 「でも鼓膜は再生するっていうし、私って優しいか・し・ら?」 「なんとかなるもんだな、なるちゃん……」 「話は後よ、盟友。よいしょっと……」 軽々――――とはいかないにしろ、90kgの車体を何でもないような顔でひっくり返したのには驚いた。 「立てる?」 「ああ、立てる、立てる……ごふっ」 口の中は切れていないのに吐血した。 やっぱり内蔵に刺さってたのかもしれない。 「ごめ……服に付くから……いいよ手伝わなくて。自分で立つから……あはは……」 「………………」 「あ……」 なるは血を吐いて嗤う俺を何も言わずに背負うと、地面を蹴った。 なるの背中は温かくて少し眠くなったが、あっという間に地面に降ろされていた。 「こっちの手は、ダメね。肩も。厄介なのは中か……応急処置のしようがないわ」 「変な事に巻き込んじゃったね……星の巡りで、旧市街で店を出してる最中だった……?」 「喋らないで。このままじゃまずいって、自分が一番わかってるでしょ?」 「なるちゃん……逃げて……あいつ、見たでしょ……あれくらいでどうにかなる奴じゃない……」 「間違って何人分か多めに腕を生やしてたわね……」 なるは来た道を確認する。 まだあいつが追ってくる気配はない。 「う……あ……」 明滅。意識が飛びそうになる。 視界が徐々に暗くなっていく。 今から病院に搬送されて間に合うだろうか。 「“《リーディング》〈虹色占い〉”の結果」 え……? 「あの時、言いよどんだ“《リーディング》〈虹色占い〉”の結果。人差し指にある生命線に近い役割をする別の線が、ぶった切れてたの」 「…………はは……言うの遅い……」 「重要なのは、線の切れ方。角度、深さ、長さ、全てに意味がある。目で見るより舌で確かめるのが一番正確に“観”る事ができるの」 「私の舌に狂いがなければ、優真くんは特別な存在だわ」 「……はは……いいから、逃げなよ……」 特別……か。 思春期にありがちな妄想だ。 俺は極普通の、どこにでもいる学生バイターなのに。 「私は“《ユートピア》〈幻創界〉”から“《ディストピア》〈真世界”に来て、人と“そうでない者”の区別の仕方を偶然発見したの」〉 「人であって人ではない者にのみ刻まれた、人差し指の“《しゃだんせん》〈刻々線〉”をね」 俺が死にそうだっていうのに、なるはいつもの調子。 でも、こういう謎会話をするの好きそうだから、いいか。 「仮にそんなのあったとして……偶然で発見できるかな……都合の良い、偶然だなぁ……」 「ごふっ」 「……偶然ってのは、私が手相に興味を持ったことで、“《しゃだんせん》〈刻々線〉”を見つけたのは必然だわ」 「嫌でも気づくわよ。《・・・》〈私自身〉の指に、どんな本にも載ってない線があれば」 「つまり……なるは、自分も俺と同じ“特別”であると言いたいのかな」 夢見るメルヘン少女なのは大いに結構だけど、そろそろ救急車を呼んで欲しい。汗だくなのに、凍えるように寒い。 「説明は終わり。あなたは特別。私は、あなたを助けられる」 「…………ごめん」 「ごめん……救急車、呼んで」 その言葉を信じてあげることは、できなかった。俺の怪我をどうにかできるのは、占い師じゃなくて、腕利きの医者と十分な環境だった。 「……あと、逃げて……ホントにお願い……」 「病院への搬送は諦めて。このあたりは立入禁止区域だし、来るまでに時間が掛かり過ぎるわ」 なるは俺を助けたいのか、助けたくないのか、どっちなんだろう。 さすがに無駄口を叩いている場合じゃないってことぐらいわかっているはずだ。 「私達は禁忌に触れる。何が飛び出すかわからない。天使か、はたまた悪魔か」 「あなたは私の所有物に成り果てるかもしれない。逆かもしれない」 「私を一生恨むかもしれない。せっかく拾った命を否定し、自ら断つかもしれない。いいえ、自殺すら――――できないかもしれない」 なんだってこんな無意味な話をするのかを考える。 “特別”とやらと、《トゥエルブ》〈異形の男〉とは関係があるのか? あのタイミングで音という音が消失したのはなんだったんだ? コツも知らない女の子にバイクが起こせるか? なによりもなるはなんでこんなに――――真剣なんだ? 「答えは二つに一つ。こっち側に来るの? 来ないの?」 「……なるちゃん……」 「私のオススメは、人間のまま終わること、だけどね」 なるは、こんな時にまでふざけたり、嘘をつく子じゃない。 何らかの方法を用いて、極めて高確率で俺を救える。 救った後の“状態”までは補償できない。 だからお勧めはできない――――そう言っているのだ。 ああもう――ホント優しくて、かわいいなぁ。 「連れてってよ」 細腕をつかんだ。 柔らかな肉が異常なほど温かく感じる。 俺の手が、異常に冷たくなっている証拠だろう。 「…………」 「気が済むまで、連れ回して……道連れにしてよ……」 「……俺は……どんなに不自由な身体だって、《ハンデ》〈欠陥〉を背負ったって、生き抜いてやる……生きなきゃ、ダメなんだ……!」 くだらない一人よがりな誓約があるし。 生きる為に奪ってきた《イキモノ》〈食事〉に顔向けできないし。 家で帰りを待ってくれている社長に手酌はさせるわけにはいかないし。 「“なんとかなる”っていうなら……俺を、なんとかしてくれ……!」 「……その選択は決して“最善”なんかじゃないけど、私もここでお別れなんてしたくなかったわ」 強く頷くなるとは逆に、俺はこの選択を最善だと思った。 「この菜々実なるが、なんともならない優真くんを、なんとかなるようにしてあげる」 「さぁ、時間がないわ、私に倣って」 「そのムチムチおっぱいを、揉めばいいんすかね……?」 「心臓を覆う視認できない“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”に手のひらを集中させて」 ちぇ。ふざけ返してはくれない。 血だらけの死に損ないに付き合う気はないようだ。 なるを真似て胸の位置で手のひらを広げるが、この段階では何も起きなかった。 「“《エンゲージ》〈契約〉”は異種間の異性によってのみ成功例が確認されてるの。理由は“《アンドロギュノス》〈両性”が関係するらしいけど、割愛」 「このあとは……どうすれば?」 「“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”を繋ぐわ」 「うん……わかんない。まかせる……」 「ここまで来てアレだけど、相性ってものがあるらしいの。できなかったら、その時はその時ねっ」 「はは……どう見たって俺たち……相性ピッタリじゃん……」 「どんなところが?」 「……こんな危機的状況でも、何がおもしろいのかわかんないのに、笑ってるとこ……とか」 「ごふっ……べっ」 びしゃり。と。 俺は再び地面に血を吹き出して笑った。 ホント、ふざけてんじゃないかってくらいの吐血量。 「“《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”。――――私の本当の名前。《ゆいいつめい》〈唯一名」 「アルラウネ……?」 「唯一名は本名って意味じゃないから、必ずしも最初に授かった名前じゃないわ」 「例えばそれは、芸能人にとって芸名かもしれない。作家にとってペンネームかもしれない。体を表し、自分を自分たらしめる呼称こそが、唯一名なの」 「優真くんの唯一名を教えて」 俺は……今日子さんの子だ。 「……水瀬……優真……俺にとって、一番大事な名前だ……捨てたくない、今日子さんとの絆だ……」 「頭を空にして、目で会話するの。私は“優真”。優真くんは“アルラウネ”を肉体に繋ぎ止める」 「“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”に干渉し合う事は危険を伴う。お互いが信頼し合い、想い合う事で、お互いを忘れずにいられる」 「通して。繋いで。結んで。縛って。お互いの心を一本化する。その作業は、“感覚”でやる」 「はいはい……連帯責任の共同作業、ってわけね……」 もうそろそろ……きつい。 視界が霞みがかって、かわいい顔がぼやけてる。 「(……職業柄、無縁だと思ってたんだけどなぁ。こういうオカルト)」 菜々実なる――――“《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”。 “《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”と一つに―――― 「――――!?」 鎖――――手のひらから打ち込むように出現したソレは光となって胸に吸い込まれていく。 条鋼のピアノ線のように緩みなく張られ、重量感をまったく感じない異質なものだった。 「ちょ、なるちゃん、これ――――あ!?」 なるの胸にも同じように光が差している。 「通った……忠誠より愛よりも業深き、番いの《わ》〈環〉」 ブルブルブルッ。と。《わ》〈環〉が振動をはじめ、次第に揺れ幅が増していく。 突如、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が押し寄せた。 「どんどん……揺れが増して……」 「集中して。《わ》〈環〉は、ひとつ咬み合わないだけで、ただの線になる」 こんな死に損ない一人救う為に、命綱無しのぶっつけ本番に望むなるの覚悟はたいしたものだ。 生唾を飲み干し、“《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”の名を呼び続ける。 心の波が凪いだ。 鎖の振動が止んだ。 あのまま鎖が振動し続けていたら、どこかの《わ》〈環〉が弾け飛んでいたのではないだろうか。 その場合、目には見えない“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”とやらは、果たして無事だったのだろうか。 ――――どうでもいい。 関係ない。知らなくていい。 「(俺は“《エンゲージ》〈契約〉”とやらを、成功させる。まだ生き足りないんだ)」 失敗例は知らないままでいい。 大事なのは終わらせること。 それだけだ。 「………………」 俺を見つめるなるちゃんの眼差しが心強かった。 心の中で俺の唯一名を呼び続けているのがわかった。 二人の心臓の鼓動間隔が寸分違わず一致し――――。 不可視の“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”の鼓動も同様に一致し――――。 通して。繋いで。結んで。縛って。 鎖の環は、その姿を宿命の形と変えていった。 「ゥゥゥゥウゥゥゥウゥゥ……」 衝突の最中、不意に黒い塊の注意が逸れた。 このままではきりがないと思い始めた矢先のことだった。 黒い塊の視線は何もない壁へと向けられている。 視界に黒い塊を捉えたまま壁の辺りを確認するが、やはり何の変哲もないただのコンクリートで塗り固められた壁面だった。 「どこを見ている。戦闘中に余所見をするのは命取りだと思うのだが」 私の呼びかけにも反応する様子はなく、その姿は無防備な姿を晒しているようにしか見えない。 誘っているのだろうか――? 用意された好機ほど危険な物はない。 私は僅かに間合いを詰めるに留める。 人間の社会でも同じだ。窮地に立たされている時にこそ、悪魔の囁きは蠱惑的であり唆されないよう冷静でいなければならない。 「…………」 ゆっくりと足を踏み出す――それでも相手に反応はなかった。 いけるだろうか。私は仕掛ける事を決め右手に力を込める。 「靴紐がほどけてるぞー!!」 「何……?」 突如として背後から発せられた声がトンネル内に響き渡り、私は無意識的に自分の靴を確認してしまった。 しかし、見下ろすと同時にふたつのことが判明した。 ひとつは靴紐はほどけてなどいなかった事。 そしてもうひとつは―――― ――――声の主がノエルであることだった。 「食らえ、腰抜け――!!!」 ノエルの手から放たれた無人の四輪車が私の頭上を通過する。 車両は走行を行うのにエンジンの動力を必ずしも必要としないということを、宙を駆ける巨大な鉄塊は証明した。 「っ――」 私はやがて訪れる衝撃に備えてひまわりの元へ身体を投げ出した―― 「きゃああっ――!!」 宙を駆けた車は見事に黒い塊へ直撃した。 それまで黒い塊が立っていた場所には半壊した車がトンネルを塞ぐようにして横たわっていた。 衝撃による粉塵の影響で黒い塊がどうなったのか確認することは難しかった。 「大丈夫か、ひまわり」 腕の中にいるひまわりの安否を確かめる。 「けほっ、けほっ、ひまわりは平気だよ。あかしくんは?」 「私の身体に損傷はない。それよりも――」 公共の施設である放棄所に続くトンネルはその機能を現状失っていると考えた方がいいだろう。もしも一般人が通りかかれば面倒な事態になることは免れない。 「お二人とも大丈夫ですか~?」 新市街側の入り口から間延びした声とともにノエルが近づいてくる。 「この車はノエルの物だろうか」 「いいえ? 近くに落ちてたやつですけど」 それは落ちていたのではなく、駐車していたのではないだろうか。 「ご主人がピンチのようでしたから、急いで何か投げる物を探したら丁度すぐそばにあったんで」 運転手の姿が見えないことが救いだ。放置車両か、もしくは所用で離れているだけか。どちらにせよ早急に事態の収束を図らなくてはならないだろう。 「まあまあ、心配しなくても後始末は。面倒ですけど私がやっておきますよ」 「元はといえばご主人に危害を加えようとしたやつが悪いんですし」 ノエルは横たわる車両に近づく。 「気をつけた方がいい。死んだとは限らない」 「ただの人間なら生きてるとは思えませんけどね。ご主人が戦ってたのは何者なんですか?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”かもしれないのだが、正確には私にもわからない。少なくとも人間ではないだろう」 「ふーん、何にせよご主人に手を出したらどうなるのか、その身にじっくり教え込んであげないといけませんねぇ」 ノエルは片手で車両を持ち上げ、壁際に立てかけた。 「うわぁ!? のえるちゃん力持ち!!!」 「驚いたでしょう? 私が本気出したらこんなものですよ。あなたもこうなりたくなかったら私の言う事を聞いた方がいいですよ」 「え、たかいたかいしてくれるの? んー、でもひまわりはお子様じゃないからたかいたかいは卒業したのでへいきです!」 「いや、そういうことじゃないんですけど」 「…………」 照明の光に反射して塵が明滅している。 「いない」 私は先ほどまで対峙していた黒い塊を探すが、視界の届く範囲にその姿はどこにもなかった。 「死体すらないのは変ですね」 「消滅したのかもしれない。ノエルは相手の風貌を見ただろうか」 「いえ、遠くからじゃ暗くて影にしか見えませんでしたよ。人間じゃなかったんですか?」 「ただの人間なら“《デュナミス》〈異能〉”を使うまでもない。というか人間相手に車を投げつけてはいけない。爆発したら私はともかくひまわりが危ない」 「投げる前にガソリンタンクはもぎ取りましたから大丈夫ですよ」 「それに人間だろうが何だろうが、ご主人に悪い影響を与える者は例外なく排除します。どんな手を使っても、ね」 「のえるちゃんは一途なんだねぇ」 「ふふ、そうでしょう」 「どうりで私との浮気が疑われた人間と疎遠になるわけだ」 「殺してはいませんよ。私の願いを叶えてくれるウサギさんにお願いしてるだけです」 兎の仮面が脳裏に蘇る。ノエルが直接関与していないのであれば面倒な事にはならないだろう。 そもそもノエルは私以上に面倒事が嫌いなのだから。 「で、謎の不届き者と戦わなくてはいけなかった理由は何ですか? まさかガンつけられたとかじゃないですよね」 「どうだろうか。確かに私はソレの目を見たかもしれないが」 「そもそも人間じゃなければ何なんです? もしかして“《イデア》〈幻ビト〉”ですか?」 僅かではあるがノエルの言葉からそれまでなかった警戒心が感じられた。 当然だ。相手が人間であれば対応は後手でも問題はないだろう。殴られてからそれ以上殴られないようにすればいい。 しかし私達と同じ幻ビト“《イデア》〈幻ビト〉”であれば悠長に構えているわけにはいかない。致命的な事態を招いてしまえば対応する暇さえないのだから。 「“《イデア》〈幻ビト〉”かもしれないが、正確に断定することはできない。私達を襲った理由もわからないままだ」 「ふぅむ……わかりました、私の方で調べておきますよ。相手が見えないままじゃ対処もしづらいですから」 「頼んだ。それともうひとつ」 「何です?」 「その車を含め、ここの後始末はどうするのだろうか」 トンネル内には車両の部品や割れた電灯などが散乱していた。人の目に留まれば通報されてもおかしくはない。 「ここは掃除させておきますよ。車の方は借りただけですから元の場所に戻しておけばいいんじゃないですか?」 「随分と劣化が激しいようだが、気にしないのだろうか」 「気にしない気にしない」 私は持ち主の話をしたのだが、何となく誤って伝わっているように思えた。 「じゃあ私は車を元の場所に戻してきますね。ちょっと待っててくださ――」 黒い塊の姿が消え、ノエルが現れた事により緊張は弛緩していた。これは紛れもない事実だろう。 でなければ足音が鳴るまで、その気配に気づかずに接近を許すとは思えなかった。 すっかり寒気が消え、吐血も止んだ。 とてつもなく即効性のある修復効果に言葉を失いながらもあちこち触ってみる。 痛い。激痛が走る。だからこそ嬉しい。生きているとは、苦痛や快楽を伴うものだから。 「もしかしてなんですけど……なんとか、なっちゃった……?」 「クッフッフ。我と再生力をリンクしている間の自己治癒力は通常人の20倍~70倍だと、アバウトに言っておこうか」 「自然治癒って普通は実感できないのに、めっちゃ感じるよ。超高性能な酸素カプセルに入っているって思えばいいかな?」 「もっと、ス・ゴ・イ」 折れていた手の甲をさすると、ぬるっと、滑った。 何かと思えば――――垢だった。驚くほどの量の老廃物。 「(新陳代謝が上がってる……? 体温も高い気がする)」 「ところで……なんともない? なんかこう、力が湧いてくるみたいなの」 「あるある! ふわーーーって。折れた部分が熱くって、砕けた骨が手と手を取り合ってくっついていく感覚!」 「契約者が近くにいるからなのもそうだけど、きっと優真くんが本来持つ自然治癒力がそもそも高いからだわ」 「じゃあ抱き合ったらもっと早く快復できる? 俺、明日も仕事だからさぁ。一刻も早く快復したいんだよね」 笑顔で両手を広げる。 「アバラちょん♪」 「ごぉっ――ほ、コォ……ごめんなさい……」 「よろしい」 無理。まだ無理。修復中の身体は絶対安静のようだ。 「で……力は? 開放できない?」 「力? 力はあんまり入らないかな。まだ痛むし」 「そうじゃなくて、快復力とは別の」 「歯に小骨が挟まったら気になるのと同じで、外に出さないと収まりのつかない衝動みたいなの、ない?」 「いますぐなるちゃんに好きだって言いたい、この感情の事か……」 「違う。“飼い猫と同じ姿形をした百万匹の猫の中から、一回で飼猫を探し当てる”ような研ぎ澄まされた感覚っていうのかな」 「本当の自分と向き合うっていうか……」 なる自身、その“力”に対して的確にコメントできるほど詳しくはないのかもしれない。 「ごめん。わかんない。力ってのがないと、俺死んじゃうの?」 「いや……別に……そういうわけじゃ」 「なんでだろ……それだと契約が成功してない事になるんだけど……」 「あ……」 揺れを感じ、視線を廃駅に移す。 「暴れてるね。私達がどっちに行ったかわからなくて癇癪起こしちゃったのかしら」 耳をやられた千手の男が怒り心頭で起き上がったのだろう。標的を失い、頭に血がのぼるがまま手当たり次第に破壊行為を続けているのかもしれない。 「ちょっと行ってくるからここで待ってて」 「ダメだよ! 女の子ひとりで、あんな奴を相手にさせるわけにはいかない。電話で人を呼ぼうよ」 「そんなの呼んでもダメダメ。《・・・・》〈あいつら〉そういうの敏感だから、尻尾巻いて逃げ出しちゃうわ」 「だからって――――」 言葉が途切れた。口論する俺たちの顔と顔の隙間を飛来し、通りぬけるねずみ色の物体に意識をもっていかれた。 コンクリート片の塊が数メートル先で叩き割れて散らばった。 「ね、狙われた……? どこからだ……」 「焦らないで。音の震源地は同じ、駅のまま変わってない――――彼はまだあそこで盲目的に暴れてるはず」 「やたらめったら数撃ちゃ当たるで投げてるのか、たまたま苛立って投げた一個がここに降ってきたか。そんなとこじゃないかしら?」 教え子にレクチャーするような気楽さ。 どこからくる冷静さなのかはわからない。 だからこそ、慢心を招く恐れがあった。 「……やっぱり危険すぎる。あの怪力にもし捕まったら、なるちゃんの全身は隈なく骨折すること間違いなしだ」 「戦わないで済むなら一番いいけど。私がやらなきゃならなくなった理由は、優真くんにあるんだよ?」 「え……何で?」 「優真くん、顔覚えられてるんだよ? 一回話し合っておかないと後々面倒なことになることくらいわかるでしょ?」 「あ――――そっか」 言われてみれば。 「なるちゃんは見られてないけど、俺はこれから先、追われることになるのか……」 「そ。顔を洗っている時に後頭部に硬いもの叩きつけられたら嫌でしょ? だから、お話してくるの」 「どんなふうに? 説得なんかできるの? 俺がもう少し快復してからじゃ、ダメなの?」 「もう……さっきから心配しすぎ。死地に向かう戦士を引き止めるみたいなの、やめて。そういうんじゃないから」 「《ワーカーホリック》〈熱狂的仕事ファン〉の優真くんは、どうして社長を“上”に見るようになった?」 こんな時に妙な質問だった。 噛み砕かずに“立場上”という言葉で片付けたら怒られそうだ。 「社長といたら嫌でもそう思うから、だよ」 「つまり、そういうこと。さっきの奴と私が戦ったら嫌でもわかるものなの」 今でも。こんな事になった後でも。 なるが普通に可愛いだけの女の子に見えてしまう。 そんな俺は、馬鹿なのだろうか。 「上下関係とか主従関係ってのは、教えるものじゃなくて、わからせるものなの」 ――――“《エンゲージ》〈契約〉”。 《・》〈私〉が“《ディストピア》〈真世界”にやってきてから独〉自に調べて知ったそれは、両者の心臓を楔打ちするような危険なものだった。 別世界の住人である両者を結びつけることで、副次的に一生を左右するほどの変化を起こす行為。 肉体的な変化であり、運命的な変化でもあるとされる。 “契約をさせる側”に肉体的な変化はないので、あるていどの歳月が経たなければ実感できないというのは頷ける。 事実、私はこの通り。契約前と何も変わっていない。 一つだけ、無理矢理に実感する方法があるにはある。 それこそが“《エンゲージ》〈契約〉”の利点でもあるのだが、優真くんの身体を慮ると行動に踏み切れなかった。 そもそも、《・・・・・・・・・・・・・・・》〈そんな事しなくて事足りてしまう〉だろう。 現状だけを見れば、“《エンゲージ》〈契約〉”は大好きな人間を一人助ける為の手段でしかなかったというわけだ。 でも、それでいい。 「形はどうあれ、これで優真くんは形式上の契約者。共存関係なんだぜ。クッフッフ、友達でも盟友でもない、新境地♪」 水瀬優真は女たらしな細身の外見からは想像できないほど鍛えられていた。 “話し合い”が終わる頃には、あれだけの大怪我とはいえ嘘のように治っているだろう。 さて。そろそろ到着だ。 ――《はなしあい》〈平和的な解決〉とやらが、うまくできるといいけど。 「――――ッ!!」 私はキリンの全高を越える跳躍から華麗に着地した。 反動で両手を突き、這いつくばった状態になるが、その状態でギロリと睨むと絵になるので好きだ。 「お待たせしたわね」 「クッフッフ。我が契約者が世話になったようだな。褒美をやろう。何が欲しい? 富か? 名誉か? コノヨノスベテか?」 「……話せるていどのアタマと、質問に応えられる程度のクチがあれば助かるぜ」 「なんだとう。やんのかー」 「質問に答えてくれ。俺を襲った命知らずは、おまえってことでいいんだよな?」 「何を隠そう、私が音砕きの主犯だわ。片耳の怪力マンさん♪」 「こそこそと不意打ちかましやがって。おかげで片耳オシャカだぜ。一回は一回だからな、覚悟しろよ?」 「んー? さっきのって不意打ちかしら。《ステルス》〈光学迷彩〉でもないのに? ちょっと音の扱いに詳しいだけ、な・の・に♪」 「……今度こそ、間違いなく追っ手だな。ハハッ! さっきの奴は骨がなさすぎたし、タダのアホだったか。やりすぎたぜ」 「追っ手? え? もしかして闇の組織に追われてるとか、“あいつにやられた古傷が疼く”とかそういう話? 私の得意分野だわっ」 「とぼけんなよ、火消し屋の処理係が。実験体に逃げられて躍起になってんのはわかってんだ」 「実験……? よくわかんないけど、邪気眼仲間ね。そういう“設定”なら合わせる合わせる」 「おいおい。今更かぁ? 俺が“《フール》〈稀ビト〉”だって事は承知の上だろうが」 「“《フール》〈稀ビト〉”? なんのことかしら」 なるほど、“《フール》〈稀ビト〉”という名称を知っている。 もしかして“設定”ではなく、本当に組織があり、彼のような“特別”な人間を管理しているのだろうか。 だとしたら……気になる。 目の前の彼や――――優真くんのように“《しゃだんせん》〈刻々線〉”を持つ人間を定義付ける組織とはなんだろう。 「“《フール》〈稀ビト〉”って、あなたみたいな人を指す正式名称だったりするの?」 「……あくまで無関係者ぶるわけか。まぁいい。俺が“特別”ってのは、見ればわかるだろうよ」 も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ 異形の腕は、ひっくり返った虫のような生理的嫌悪を伴う動きをみせる。 「そりゃムカデもびっくりの腕をこさえられちゃーねぇ。あら、ムカデは足だったかしら……?」 私も、その実態を完全に掌握しているわけではなく、断片的に知っているだけだ。 “《ディストピア》〈真世界〉”に来てエレベーターに初めて乗った時に『止まりたい階を押すだけ』という使い方は理解したが、その構造全てを理解していないのと同じだ。 「腕がいっぱいあると便利かしら? やっぱり正面から見ると、こ・わ・い」 「不便だよ馬鹿野郎が……神が用意した必要な数だけの腕があれば、俺はよかったんだ」 「――両耳」 「? 片方聴こえるでしょ。会話できてるもん」 「俺は片方なくなったから、おまえは両方差し出せよ。ついでに髪も刈り上げろ。それでチャラだぜ」 なくなったって、鼓膜が破れたくらいで大袈裟な。 男の足裏が地面を離れたのを目視するまでもなく“音”で判断できた。 来る――――猪のような突進。 大柄な男のそれは、さながら戦車。 待ち兼ねた出番を歓喜するように千手がはしゃぎ蠢いた。 「……動きすぎてお腹が減ってきた頃だったし、ちょうどいいわ」 「せめて私の気持ちだけでも満たしてよ、堕ちゆく君の《スクリーム》〈大絶叫〉で」 「うっ、るせーーーッ!!」 確かに、多い。私の手は二本。 受け切れない。躱しきれない。 とはいえそれは、《すで》〈徒手空拳〉ならばの話だ。 「先に仕掛けたのは、そっちだから……容赦しないわよ」 流血の飛沫――――私は《・・・》〈私の魂〉を抜き放った。 肉体から断ち切った腕はあっという間に色を変え、嫌な臭いを立て始めた。 “音”は昔馴染みのお得意様だ。 空気を裂いて私に向かってくる豪腕すべてに音はある。 だから私はリズムに合わせて私の武器を振るっただけだ。 「クフッ♪ 残念、私の方が百枚上手」 「ってめぇ……」 「ああ、その“腕”は血も神経も通ってないんだ。戦いに悲鳴は付き物なのにぃ」 身体に残された腕は断面を見せびらかすようにうねっていたが、にょきにょきと手品のように生え変わった。 「やっぱり。やっぱりじゃねーか。ハハッ、腹ン中真っ黒のタヌキ女がっ!」 「たぬき!? そんな喩えダメだもん。なるちゃんは可愛いんだから、うさぎやハムスターに喩えてくれなきゃ認めないもんっ!」 「黙れよ化けモンが。そんなもん振り回して可愛いも何もないだろうが」 男は私の“《アーティファクト》〈幻装〉”を指差して唾を飛ばす。 「化ケ物じゃなくて人外キャラって言って! 失礼しちゃうわ。作家性のない人ってコレだから……」 どうやら私の感性をわかってくれない不届き者のようだ。 「腕とチャンバラなんて滅多にない体験になりそう。もったいないなぁ、文章にリアリティ出そうなのに……話し合い、しに来たんだもんねぇ……」 「ごちゃごちゃと何の話をしてやがんだ?」 「殺さない程度に手加減するのって、一番難しいって話」 「ハハッ! やってみやがれ! 俺には俺のヤり方ってもんがあるからよぉ」 やれやれ。 上下関係と主従関係は教えるものじゃない。 わからせるものだ。 「めらんこり~~っく、に」 携えた武器――“《アーティファクト》〈幻装〉”の扱いに、長ける長けないの概念はない。 呼び出してから試し切りすることもなければ、生まれてこの方、練習したこともない。 “《アーティファクト》〈幻装〉”は自分自身――――“《ユートピア》〈幻創界”の魂を武器化したといって過言がないから〉だ。 「してやるわッ!!」 私の“《アーティファクト》〈幻装〉”――“《ギロチンスクリーム》〈夜宴交響曲”で空気を引き裂いた。 圧力波の伝搬によって衝撃破が生まれ、大音響を撒き散らし不可視の刃と化す。 命を取るつもりはない。脚にかするように狙ったが、狙い通りにいくか責任はもてない。 優真くんを痛めつけ、契約を半ば強制させた分の借りは取り立てる。 音速攻撃による崩壊音――――私の“音”が、果たして何を壊したのかはっきりする。 「…………ふーん。わからせるの、失敗かしら」 地面叩きつけられた無数の腕が地盤ごとひっくり返し、畳のようにめくれたコンクリートが盾になっていた。 ひび割れたコンクリートが砕ける。 後ろに隠れているはずの男が――――既にいない? 「消えた――――」 何故――――。 不可解が思考を支配したのは一瞬。 しかし戦場において一瞬は命取りだ。 突如として蟲で埋め尽くされた風呂桶に投げ入れられるようなおぞましい感覚に襲われた。 「『種は蒔いたぜ。そろそろ芽吹く時だ』」 「――――――あっ!」 も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ 気づく。 “音”の発生源は足元。 彼の狙いは、地盤で盾を作ることではなく――――《もぐら》〈土竜〉。 「きゃあっ!!」 地底の住人達が光と救いを求めるように手を突き出し、私の脚に、腰に、腕に、武器に、蔦のように絡んだ。 「ハハッ! あー息苦しかった。“《ワットロンク》〈亡者の白手〉”完全再現だぜ」 「振り払えない――ッ!! ンンッ、くる、しぃ……ッ!!」 磔にされた聖者のような状況にされ、四肢を動かすことすらままならない。 純粋な力で負ける気はしなかったが、予想を超えて私の力を上回っていた。 「こんなっ、ずいぶん汚い手を使うじゃない……見たまんまの脳筋キャラでいなきゃダメじゃん……っ! キャラ崩壊反対っ!!」 「汚い? おい……それをおまえらが言ったら、本末転倒どころの騒ぎじゃねぇぞ」 「あぐぅぅっ」 「クソッタレ……どうして俺は人間の姿をハンパに保ってんだ。もっとベツモノの、化ケ物そのものにしちまってくれれば諦めもつくってのによぉ!」 一本一本が味わった事のない怪力。 いくつもの骨が軋む音が残酷なリズムを奏でる。 巻き付く豪腕が首まで伸びたら、お終いだ。 「“ナグルファル”でグチャグチャになる前にはよぉ、腕に獣が寄生する漫画が流行ったんだ。おまえ、知ってるか?」 「わかんないわよ」 それだけの説明でわかるべき著名な漫画らしいが、私は知らなかった。 「その寄生する獣はよ、笑えるくらいイイ奴なんだ。寄生主と意思疎通を取ってよ、結託して壁を乗り越えて、最後は信頼関係を築いてた」 「それがなに……?」 「微妙に憧れてた気持ちもあったんだ。そういう不思議体験みたいなのによ。けど吹っ飛んだぜ、そんな気持ち」 「コイツらは、そんな綺麗なモンじゃない。ただの狂った殺戮衝動の塊。どん詰まりの単細胞だぜ」 蠢く亡者の腕が這い上がってくる。 「誰でもいいから破戒したくて仕方ないんだとよ――――こんな奴らと意思疎通なんか取れるか?」 「俺が殺気立つと、どうやってんのか知らないが、勝手に攻撃しやがる」 「服従は愚か、話も聞かない。コイツらを束ね、統括するなんて事は無理だ。俺の手に負える存在じゃない」 「――――が、基を正せばコイツとの同棲を強制したのはおまえらだ。ガキ臭ぇ復讐心と言われようが、俺が殺気立ってるのもおまえらが先に仕掛けたからだ」 “おまえら”というのが何を指しているのか知りたいが、それどころではなかった。 「自業自得ってやつなんじゃねーか? おい」 現状では私を壊すには不十分と感じたのか、首元に伸びた豪腕が三つ編みの要領で一本に重なる。 「む~~~~~~ッ!! ~~~~~~~~ッ!!」 大樹の幹の如き腕に顔面ごと呼吸器を押さえられてしまい、息ができなくなる。 “《ディストピア》〈真世界〉”において借り物の肉体を使用する私たちは、もちろん呼吸ができなければ死んでしまう。 「コイツら賢く見えるが、そうじゃない。殺すことに関して一途で真剣なだけだ。キモチワルイだろ?」 もう限界。奥の手を発動するしかない。 「なるーーーーーーーーッッッ!!!」 ――――と思った矢先に見知った声が割り込み、私はぎりぎりまで我慢することに決めた。 何故ってもちろん、《・・・・・・・・》〈私が書くとしたら〉ここいらが主役様の覚醒イベントだからだ。 俺の見てない間になるは危ない橋を渡り、案の定というか橋は崩れ、例の“腕”によって磔にされていた。 身体は痛むが、そんな事は頭にない。 とにかくなるを助けることだけで頭がいっぱいだった。 「なる、なる、なるっ!! なんだこの腕、下から伸びてる――――? あいつは……」 「ハハッ! 片割れが来たかっ、ちょうどいいぜ」 「は、はぁ――――!? 伸ばした腕を地中に……!?」 そんな馬鹿な。 しかし戸惑っている暇はない。 なるを救うのが先決だ。 「待っててね、今どうにかするから」 「おまえに何ができるんだ? 誠意は見せたが、何も出来ませんでしたってオチだろ」 なるにへばりつく腕を剥がすには、素手じゃ話にならない。 「ンッ――――ンフッ――――」 なるの身体がビクンビクンと電気ショックでも与えられたように跳ねる。 「なる……ッ!?」 流れ出る嫌な汗が目に入っても瞬きできないほど焦った。 大半が“腕”で占められていたが、残された肌の色だけでも真っ青だと判断でき、死人のソレと変わらなかった。 「ゅ……ぁ…………ん……」 「しっかりして。大丈夫。すぐに助ける」 なるの瞳から生気が抜けていく。 消え入りそうな声をしぼりだす姿が、俺の焦りを極限まで引き上げた。 「(このままではなるを失ってしまう。大切な人を…………失ってしまう)」 「だ、ダメだッ――――そんなのはダメだ。絶対に――――」 なんでもいい、固い物。 腕の拘束をこじあけられる物。 コンクリートを突き破る“腕”に対抗しうる物。 なんでもいい、なんでも――――!! 何処かに、何処かにないのか――――!? 「な――――」 なんでもいい、とは確かに思ったし、口にもした。 しかし俺が求めたのは、標識や街灯などの鉄棒といった路上で拾えて、ある程度に硬くて力を込めやすいものだ。 「刺さってるのか……俺の胸に……」 今日は大小、様々な不思議体験をさせて頂いたわけだが、ここまで混沌とした光景を目の当たりにすることになろうとは思わなかった。 「……なんだっていうんだよ…………」 ビビりながらも、観察は怠らなかった。 柄の生え際は、俺の住む世界とは異なる景色をしている。 沼と空を混ぜたような粘着質でありながら爽やかな――――曖昧模糊とした印象を与える境界線。 「どうすんだよ……抜くのか……抜かないのか……?」 俺が欲しいのは物理――――力で捻じ伏せる事ができる物ならなんでもいいわけで。 不可思議な力なんかに頼ろうという気は毛頭なかった。 だが、意味があると考えた方が自然な気もする。 現実世界にあるもので、なるを“腕”の戒めから開放することが本当に可能だろうか。 そもそも、この柄の先は心臓なんじゃ――――あ。 「バカか俺」 らしくないじゃないっすか。 「これ、『らしくないじゃないっすか』ってやつじゃないっすか!?」 「考えすぎたって、アタマ悪いんだからいい案なんか浮かびっこないじゃん!?」 「こんなフザケタ世界に片脚踏み入れておきながら常識に囚われて、女の子ひとり救えないなんてのは、許されないッ!!」 意味や理由なんかどうだっていい。 とにかく条件に見合った物が目の前にあるんだ。 絶対――――100%の確率で俺の欲しい物が出てくるというポジティブ精神でいくっきゃない。 柄を掴む。引き抜く力を込めると“境界”独特のねばっこい抜き心地に笑ってしまう。 「なんだ。いつもやってることと同じじゃん」 “《チョコ》〈粘土〉”の現場で遺留品をさらう時の感触と大体同じ。つまり、慣れっこだった。 後はただ、待ち兼ねるようにそこに在ったものを引きぬくだけだ。 「なんとか、なるぅぇえぇぇ――――ッッッ!!!」 ――――ズボッ。さながら投球フォームで引きぬき、そのままの勢いで“腕”に叩きつけた。 巻き付いた“腕”が衝撃で剥がれてから、俺は手に持っていた得物の正体をようやく確認した。 「剣……っぽい?」 なんだこれ、というのが素直な感想だった。 剣身から七本の枝刃がされている。 刃は鉄製で分厚く、斬るよりは潰す事に向いているようだ。 所々に錆の腐食が進み、決して綺麗とは言い難い。 「……どういうこと…………?」 口元が開放されたなるは、身の安全が完全に確保されていないにも関わらず焦っていなかった。 ただ俺の手にした鉄剣に意識を集中させ、強い眼差しを向けていた。 「変よ……独立して物質化されるのは“力”とは違う。それじゃオリジナルになっちゃう」 「状況だけ見れば“《アーティファクト》〈幻装〉”に近いけど……そんなバカなことってある? だって“《エンゲージ》〈契約”は“《イデア》〈幻ビト”とは交わせない」 「……別の何か……失敗にしろ、成功にしろ、もっとずっと特別な――――“《レアケース》〈類まれなる一例〉”」 動揺するなるを見る限り、さっき言っていた“力”とは違うものらしく、しっくりきていないようだった。 まぁコレがなんであろうが俺は気にしない。 大事なのはなると無事にこの場を離れることだ。 「なるちゃん大丈夫? 怪我はない?」 「うん」 「なるちゃん?」 「え? うん。こんなの何でもないわよ。一人でできるもん」 「え……一人でできるもんだったの?」 「クッフッフ♪ 伊達や酔狂で音相を操ってないわ」 なるに絡みついていた“腕”は瞬時に何倍にも膨らみ、耐え切れず弾けていった。 内側から圧力を掛けられて連鎖的に弾ける様は、さながらポップコーン。 「すげぇっ!! なにその技ッ!! 俺にもできる?」 「一子相伝の暗殺拳。菜々実の冠を背負いし継承者だけが扱えるものよ。クフフ♪」 いつもそうだが芝居がかった事を言う時のなるは、めちゃくちゃ嬉しそうだ。 「技名は特に無いけど、私にはコレがあるわ。コレさえあれば大体なんとかなる」 「“《ギロチンスクリーム》〈夜宴交響曲〉”――私の魂と同等の価値を持つ、“《アーティファクト》〈幻装”」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”……?」 手に持った八ツ又の鉄剣と見比べる。 コレも同じカテゴリーに入るものなのだろうか。 どう見ても、俺のは薄汚い気がするんだけれども。 「気品がある!! きっとあれだ、不思議アイテムだ。絶体絶命を切り抜けるのに使うんだ」 「種明かしをすると、“《ギロチンスクリーム》〈夜宴交響曲〉”は触れた物質に振動を送って内部から破壊することができるの」 「“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の腕は私の“《アーティファクト》〈幻装”ごと抱き込んでいたからね、壊そうと思え〉ばいつでも壊せたわ」 「つまりそれって……最強ってことなんじゃないんですかね?」 「崇めすぎ崇めすぎ。信仰心が瞳からあふれて、い・る・わ♪」 「信仰心は鼻からも出るよー」 カリスマ溢れる決めポーズを取るなるに対し、なんとなく俺は脱力してしまう。 「じゃあ、その気になれば拘束は断ち切れたってわけかぁ」 「心配したんだぞ、なるちゃん」 「優真くんの覚醒の為に演技してたら、途中から本気でヤバくなってきちゃったけどね」 「てへっ☆」 「てへじゃねーですよ――――で。とりあえず、どうする? 逃げる?」 「そうはさせてくれないでしょ。だってまだ私の《・・》〈両耳〉、無事だもん」 「もう耳だけじゃ済まさないぜ。まとめて血祭りだ」 「あっ、潜ったっ!!」 も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ 「また来るわっ!」 地中から飛び出した千手が、絡まったコード類のようになりながら構わず伸びてくる。 「つかんでみなよ、その方が狙いが定まるから好都合だ」 俺は“《エンゲージ》〈契約〉”して生まれ変わった。 この人間離れした回復力ならば、多少の怪我を負っても平気だろう。 「あ、私は強度的に平気だろうけど、優真くんが足つかまれたら骨折られて、引きずり込まれてショック死するかも」 「先に言って――――ッ!!」 ギリギリで地を蹴り、バク転で逃れる。 両足を掴み損ねた“腕”同士がぶつかっていた。 「“契約”したって身体能力が飛躍的に向上するみたいな例は稀だわ。優真くんの力は、その剣に隠されてると思う」 剣――って言い切るには不恰好で錆の浮いたコレに、何ができるのだろう。 「早速だけど武器さん、お手並み拝見させてもらいますよ」 素材は“腕”を潰せる程度に頑丈だが、どこまでいっても物理的だ。 なるのように“音”を操れるような超能力があるようには見えない。 「うっ、おっ!」 頭、喉、目、股――――致命打となりうる部位を狙って放たれる強力無比な《ブロー》〈連打〉。 長物の扱いなんて見よう見まねだ。 近接格闘と同じ要領で、防御は最小限の動きに徹する。 八ツ又の鉄剣を細かく動かし、衝撃を殺していく。 「右後ろ、左膝狙い」 「え――――あ、ああ」 生返事と同時、右後ろのコンクリートが弾け、腕が顔を出した。 予測できていたおかげで攻撃は空を切ったが、死角となっていたのでほぼ避けられなかっただろう。 「次、頭部狙い――軽くお辞儀、左に大股3歩カニ歩き。一拍あけて――――ジャンプッ」 「おおっ、凄っ――俺、凄くないか!」 なるのナビに従うだけで簡単に躱せてしまい、武術の達人になったような高揚感が味わえた。 「2度も聴けば、同じ波長の“音”は覚えるわ。全神経をそっちに集中するから、一人じゃできないけど」 「俺が囮になってる間は当たらないってことね」 運動全般にはそれなりの自信があるが、体操選手のようなハードな飛び跳ねが繰り返されるので息が切れてきた。 「なるちゃんっ、そろそろどうにかしたい。俺の武器には何か特殊な力とか眠ってないの? 炎とか出したいんだけどっ」 「説明が面倒だなぁ。私だってソレが何なのかわかんないんだもん。“《アーティファクト》〈幻装〉”なら、使用方法なんて自分で全部わかっちゃうもんだし」 「役立たずってことかぁ……使えないなぁ……」 隠し切れない俺の失望に影響されるかのように、鉄剣の曇りが深くなった気がした。 「優真くん、もういいよ。“調整”できたから」 ズイ、と。自ら標的になるかのように前に出る。 なんとも頼もしい。 「クッフッフ。出てきてよ土竜さん、かくれんぼはお終いよ」 「遍く下賤は、なる様に平伏すがいい。直々に終幕の幸福をくれてやる」 「――――斬首刑最後尾に並べッ!!」 なるは高々と飛び上がると、深々と“《アーティファクト》〈幻装〉”を地面に突き刺した。 「うおっ、すごい揺れる……! こんなことまでできるんだ……!」 大規模な装置無しには不可能と思える大振動だった。 自然の脅威に敏感な野生の鴉が、我先にと空へ羽ばたいていく。 「憐れな亡骸を弔うは、血を糧に育つ植物の定め」 俺は立っていられず尻もちをついたが、なるは突き刺した“《アーティファクト》〈幻装〉”を支えに不敵な笑みを浮かべていた。 「厄介な対応しやがってッ!」 地中から飛び出した“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は、頭についたコンクリを手で払った。 「ストップなるちゃん。出てきたよ」 「チッ。私好みの厨二シチュだったのに……」 抜き払った“音”の“《アーティファクト》〈幻装〉”は濡れた刀のように流麗で、有名なデザイナーが設計したように格好良かった。 対して俺の持つコレは……なんともお粗末で時代錯誤な形をしていらっしゃる。 くんくん。しかも錆臭い。最悪だ。いいとこなしだ。 「乗り物酔いみたいで気持ち悪いじゃねーか」 「筋肉質な男が乗り物酔いだなんて、ちっとも似合わないわ♪」 「腹も痛ぇし、散々だ。拾い食いがたたったか……?」 「あ……もしかして《オーロラブレンド》〈缶珈琲〉、賞味期限切れだったかな。忘れるくらい前のやつだし」 「そんな罠があったとはな」 「さすがに自業自得じゃない?」 「――余裕ぶるなよ。今の状況がどれだけ危ういかわかってるか?」 「優真くん、下がっててってば」 「元はといえば俺が売ったケンカだよ。俺もなるちゃんと一緒に白黒つけるよ」 俺を守ってくれる頼もしい肩に手を置く。 俺となるとの仲とはいえ、一応女の子肩だ。 セクハラで訴えられた時の弁明を百は考えてあった。 だが――――手のひらに感じた炎のような熱に、ふざけた考えは吹き飛んだ。 「……なるちゃん、もしかして」 「うん。まぁ。辛いよ」 さっきの“腕”の締め付けのダメージが残っているのだろうか、なるは苦笑している。 「魂イコール“《アーティファクト》〈幻装〉”なの。文字通り、命を燃料に使う諸刃の剣だから――――肉体の負担と消耗は、想像以上かもね」 「他人事みたいに言うなよ。なるの身体だろ。どうして今まで黙ってたんだよ」 「だって、逆境って、ソソるじゃん。勝ちそうで勝つ物語って、どこで盛り上がればいいかわからなくって醒めるもん」 物語とか、設定とか、キャラとか、なるはそういうのを気にするけど、俺達はいつだって現実を生きてる。 「ホント、何の為の“《エンゲージ》〈契約〉”かわかんない」 なるは不可解に俺の胸元へ手を伸ばす。 「こんなにも近くに強力な武器が用意されてて、制約無しで使い放題だって言うのに……」 だが、途中で握りつぶすように拳を固めた。 「私は――――優真くんを犠牲にする為に“《エンゲージ》〈契約〉”をしたつもりはないから」 「というわけでいきなりですが、次の一撃で仕留めたいと思います。覚悟の程は?」 「『ない』って言うのが本音だ」 へ……? 「恐らく、俺は負ける。手加減無しのおまえの一撃を受けたら、即死だろう」 戦いの中で力量差を知ったのだろう、見た目以上に冷静な判断だった。 「万が一、勝てたとする。その場合、おまえは死んでいるが、既に俺は疲労困憊だ。感情的になった片割れが、俺を殺す――――つまり」 「なるべくなら、やりたくない」 「んー……?」 つまり、丸く収まっちゃったって事で間違いないよな。 殺しあうような結末は絶対NGなので方向性としては一番、俺好みだった。 「じゃあ、俺がまとめていい? 今回の一件は、後腐れない形での手打ちってことで、一つ」 「残念……その時間は過ぎちゃったのよ」 「言ったでしょ。私は長く“《アーティファクト》〈幻装〉”を維持できない。あいつの言葉を信じて見逃して、私が無力化したあとで戻ってきたら――――どうなる?」 「そう考えるのが妥当だな。仮に足の一本でも折って見せれば戦闘不能とみなしてくれるか? それなら話は別だが」 「あなたは危険すぎる。あなた自身はそうでなくとも、その“腕”は生かしておいていい存在じゃないわ」 「言うと思ったぜ……ま、私怨もあるし、また実験されるくらいなら当たって砕け散った方が楽だぜ」 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は自嘲気味な、諦めに似た笑みをわずかに見せたが、次の瞬間には獰猛な獣の顔にもどっていた。 彼は犠牲者と加害者の中間地点を彷徨っているだけで、人道を完全に踏み外してはいなかった。 しかし、どうやら二人は、分かりあえる段階を越えてしまっていた。 「こいよ。どうせ殺り合うのは俺じゃない、コイツらの方だ」 「おまえの本気のヤル気をビンビンに感じちまったコイツら、もー止まんねーぞ……」 グロテスクな肉塊がぶりゅっ、ぐでゅっ、と表面の皮膚を突き破り――――それは既に腕というより得体のしれない“肉柱”だった。 “肉柱”は二倍、三倍、無限大に膨れ上がり、ただそれだけで周囲を破壊した。 つまりは、存在そのものが破壊だった。 「痛ェ……ンなんだよぉ、ブクブクおっ勃たたせやがって、そんなに殺しが好きか……だったら勝手に殺しやがれよ……」 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”が自らの――――否、膨張を続ける正体不明の“肉柱”に嫌悪と恐怖の眼差しを向ける。 あの“肉柱”が放たれた際の破壊力に一切の夢、希望はない――――あるのは絶望だけだ。 「私は人が好き。人を辞めちゃったあなたは、人の脅威になる。制御が利かないなら、尚の事ね」 「あなたを駆除する理由にはならない、か・し・ら」 なるは、笑っていなかった。 本気で迎え撃って、恐らく勝ってしまうから。 勝ってしまうことは、殺してしまうことだから。 その顔に、悪趣味な笑みは、これっぽっちもなかった。 「ちょっと、なるちゃん……」 なるの構える“《ギロチンスクリーム》〈夜宴交響曲〉”は等間隔で機械的な収束音を吐き出していた。 跳ね上がった“音”が警告するように高鳴り出し、引けない状況になる。 そして――――“怨嗟”が広がった。 「調整完了」 二人の緊張が空気で伝わって来ると、身の覚えのない震えが走った。 「……俺……勘違いしてた」 力のありすぎる者同士の争いは、こんな簡単に殺し合いになってしまう。 殺し合いとケンカは違う――――結果がどっちに収束しても、取り返しが利かない。 死が何も生み出さない事は、“ナグルファル”を経験したであろう二人ならわかっているはずなのに……。 「破゛ぁ゛ああぁあぁぁぁぁぁ――――!!」 「おぉおおぉおぉぉぉぉぉぉぉ――――!!」 「やっぱりダメだっ!」 完全決着の合図を報せる咆哮に臆することなく、俺は破戒が交錯する危険地帯に躍り出た。 「え――――優真くんっ!?」 放たれた不可視の衝撃波は軌道に従って“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を仕留めに掛かるが、突如として発生した《おれ》〈障害物が邪魔をする形になった。 「ッッッッッ!!!!!??」 暴れまわる“《ソニックブーム》〈音殺〉”の衝撃は、俺と言わずなるの前方全てを巻き込むものだった。 鮮烈な痛み――――だが、恐らくなるは間一髪のところで俺が割って入る可能性を考え、《ズラ》〈下方修正〉したのだろう。 死をイメージするほどの重症ではなく、幾重もの深い生傷が生まれる程度で済んだ。 「(効――――くぅぅッ)」 超常の力をまともに浴びた直後の俺に、続報が入る。 粉塵を舞い上がらせながら背中目掛けて伸びてくる、危険極まりない“肉柱”――こちらこそが最も危険だった。 「死にたがりにも程があるぜ」 息ができないのはもちろん、背骨やら消化器官や大切なものがごっそり壊された嫌な感触だった。 巨大な鉄球を振り子のように叩きつけられたらこんな感じだろうか。 今朝方トラックにハネられた青年が見舞われた衝撃と同等か、それ以上であろう衝突に躰が空中に投げ出される。 「――――――――ッ!!?」 長い――――永すぎる滞空時間を終え、無防備な状態でどしゃりとコンクリートに落下した。 「チャチャ入れやがって。やり直しだぜ」 「……さっさと終わらせて、優真くんを看なきゃ」 なるは心配そうな視線をくれたが、この場においては戦いに集中することに決めたらしい。 正直、生きていただけでなく、他人の気配りに気づけるほどに意識が保たれていたのは奇跡とも想える。 「脚がめちゃくちゃ重い……腕も……腕は、しょうがないか、コレを握ってたんだし……」 肌身離さず持っていた八ツ又の鉄剣が衝突のタイミングで一役買い、衝撃を殺してくれたのだろうか。 八ツ又の鉄剣――なるの持つ“《アーティファクト》〈幻装〉”とは似て異なる、無能な鉄の塊。 心なしか、前より汚れている。窯焼きで放置したパン生地のように黒々として、もう何がなんだか。 でも――――影の立役者だ。 「……なるのピンチを救ってくれたのは、おまえだもんな」 俺の事もなんだかんだで救ってくれたし。 古臭くたって、俺の元に現れてくれた俺だけの《オーダーメイド》〈特注武器〉だってのに。 骨董品扱いして。 欠陥品扱いして。 扱いきれない自分を棚上げした結果、ご覧の有様。 「どうにかならないかな……二人を、止めたいんだ……」 這い蹲る弱虫の俺の問いかけに呼応するように、枝刃した七本の一つから黒ずんだ錆が剥がれ落ちた。 その一部分だけ取ってみれば、別世界のように美しい。 本来の姿を取り戻すように味のある輝きを放っている。 「なんだよ、ちゃんとカッコイイじゃん……」 また一つ、剥がれる。現れるのは、やはり時代を感じる年季の入った鈍い煌めき。 そういえば――――歴史上で似たような形状の武器があったのを思い出す。 以前、リリ閣下の最強ノートを丸暗記した際に蓄えた知識……豪族の武器とされたそれには、“《タタリ》〈祟〉”が封じられているとされていた。 「……持ち主が、こんな不甲斐ない奴でごめんな」 かろうじて動く手で、千切れたシャツで剣身を拭き清める。 決して俺が上ではなく武器が上であることを認めながら、頼る為に言葉を投げかける。 頑固な錆がぽろぽろと垢のように剥がれていく。 「無益な殺し合いに終止符を打つのに、協力して頂けますか……?」 信じることで輝きを取り戻す武器の正体はやはり、俺の考えの通りで間違いないのだろうか。 その存在が恩恵となるも、災厄が降りかかるも、全ては信仰次第――――即ち、《タタリガミ》〈荒御霊〉と呼ばれるもの。 「殺さない程度に、都合よく、格好良く、決めちゃってくださいよ」 この鉄剣になるの“《アーティファクト》〈幻装〉”と同じような“力”があるなら……。 なるのように“力”に寄り添うのではなく。 俺は“力”を立て、発揮しやすい環境づくりをする脇役でいい。 「今後こそ、決めるぜ」 「……大、ピ・ン・チ。でも、なんとかなる」 「懲りてないなぁ……なる……もうケンカの域じゃなくなってる。そんな怖い顔で殺り合っちゃ、ダメだろ絶対……」 地を舐めながら向けた視線の先では、先ほどとまったく同じやり取りが繰り返されようとしていた。 違っている事といえば、勝利の先を見据えていたなるの表情が苦痛に歪んでいることくらいだ。 決めるべきシーンで決められず計算が狂ったのだろう、力が残っているようには見えない。 それは俺が招いた状況悪化だった。 つまり――――《・・・・・・・・・・・・・》〈俺がやるしかないってことだ〉。 「うわ……」 全ての枝刃の先端が、蛍に似た柔らかき生命の光を宿していく。 「なんだろう染み込んでくる確実に。ありえないほど湧きだしてくる、この力は――」 淡く、ときに強く、ゆっくりとした瞬き。 蛍光の乱舞が視界を埋め尽くし、幻想へ誘った。 “力”の説明書は手元にないし、“力”の条件、使用法、詳細なんかまったく知らない。 「良し……良し良し良しっ! こうなったら後は、出たとこ勝負ですね」 それでも、ポジティブ精神さえあれば《・・・・・・》〈なんとかなる〉。 「これで、終わりだぁあぁぁあああぁぁ――――!!」 「うっ、るせぇええぇぇぇえぇぇぇぇぇ――――!!」 怪力乱神と“音”の魔神が決着の一撃を交差させる、その一瞬。 渾身の力を振り絞り、霊験あらたかな八ツ又の剣を握りしめ―――― 「行っけぇえぇぇええぇ――――――――ッッッ!!」 刹那――目に映る光景が、語られる神々しき《てんちかいびゃく》〈天地開闢〉の再現映像と化した。 「ッッ――――!!」 超局地的な暴風が吹き荒れた。 それは距離のハンデを物ともせず、瞬く間に二人の舞台に割り込む。 遠方からの横槍を躱すこと叶わず、雷を取り込んだ暴風は砂塵ごと“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を巻き込まんと荒れ狂う。 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は攻守兼ね備えた“肉柱”で即席の《バリケード》〈防壁をこしらえる。 「防ぎ――――切れな……ッッッッ!!」 無駄。“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を圧倒的な力の差で行動不能に陥らせて錐揉み状態で吹き飛ばすまで、全てがワンセットの出来事だった。 「…………雷は……不可避……」 「“音”が聴こえるよりも、落ちる方が速いから……」 なるは尻餅をついたまま海岸側に首をひねり、呆然とつぶやいていた。 音速の衝撃波を放っていたなるよりも先に、俺の放った“力”が “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を捉えた理由を噛み締めているようだった。 暴風の通り道は散々たる有様だったが、場所を動かずに飛び道具で戦っていてくれたお陰か、なるの身に大事はなさそうだった。 それでもなるは腕を押さえている。《かまいたち》〈鎌鼬〉が通ったような切り傷があちこちに散見された。 どれだけ飛ばされたのか――――ようやっと遠くから着水の音が聴こえた。 「あれが優真くんの“力”……目が覚めるほどにド派手で……かっこいい……」 「ははっ。桑原桑原……だなぁ……」 命の危機が去ったことで極端に力が抜け、蓄積した疲労感が一気に襲ってきた。 手にしていた八ツ又の剣は役目を終えたように消えてしまったので、お礼は心の中で告げることにした。 「あ、優真くんっ!」 なるが駆けつけてくれたのがわかった。 心配掛けた事を謝りたいけど、意識を保てそうにない。 「どうしてあんなムチャを――優真くんが割り込まなきゃ、問題なく解決してたのにっ」 「………………」 ――――違うでしょ。 問題オオアリでしょ。 あんな悲しそうな顔で命を奪おうとしてたくせに。 そう言ってやりたいけど、口がうまく動かなかった。 まぁ、でも。 目をつぶって死んだふりして眠ってしまえば、きっとなるが看ててくれるに違いない。 その柔らかい身体で抱きしめたり、優しくしてくれるに違いない。 せめて仕事の電話が鳴るまでは――――おやすみなさい。 「優真くん……優真くん……っ!」 「もしかして眠っちゃった?」 「もう……ちょっとは身体を気遣ってよ。“《エンゲージ》〈契約〉”してるからって、死んじゃったら回復も何もないんだから……」 「結局あいつの言っていた“組織”に関しては聞けずじまいだったけど……一体なんのことだったのかしら」 「ううん、今はそれより優真くんの事。とりあえず運ぶにしても、私は家なき子だし。どうしようかしら?」 「それにしても……最後の優真くんカッコ良かったわ……」 「なんだー、先客かー?」 「あ、ヤバッ……人来ちゃった」 「可愛らしいお嬢さんがいるじゃないかー。ずいぶん騒がしかったが、百鬼夜行でもあったのかー?」 「いえ、えっと……その……じ、地雷が埋め込まれていて……」 「地雷ー? まったく、いつの時代の置き土産だ。まさか、そんな物騒な物を踏んだのかー?」 「あ、あははっ。踏んではいないんですけど、ちょっと巻き込まれて汚れちゃって……」 「ケガをしていたら大変じゃないかー。よければ事務所に寄りたまえ、私はキミのような可愛いお嬢さんには優しいのだー」 「むふふ……可愛いなー……じゅるり……」 「視線が、こ・わ・いぃ……」 「あの、何か用事があってここに来たんですよね? 私の事はいいので、お構いなく」 「キミの方こそ気遣い無用。食事係がなかなか帰ってこないのでおでん屋台に来たのだが今日は開いていないようだから用事はないのだ」 「どうしよう……変に揉めそうだし、優真くん抱えてダッシュで逃げちゃった方がいいかな……」 「むー? さっきから後ろを気にしているが……何か隠しているのかー?」 「わわわっ」 「…………ふーむ……なるほどなー」 「そこに転がってる《おでんダネ》〈優真〉とは知り合いなのかー?」 「お、おでん種って……?」 「道端で力尽きて女の子に看病かー、まったくいい御身分だなー」 「えっと……あの……」 「なにをしている? まさか私に背負えとでも言うのかー?」 「――――は?」 「知り合いなのだろう? そのおでん種を拾って帰ると言っているのだー」 「目上の者に重荷を持たせる気かー? それでもいいが、身体を要求するぞー」 「あなたってもしかして……優真くんの言ってた……」 「名乗るほどの者じゃない。 ただの“《クリアランサー》〈片付け屋〉”だー」 旧市街と新市街を繋ぐトンネルを後にして倉庫へ向かう。 ノエルが私の危機を救うために使用した四輪車。元に戻した後すぐに持ち主と思われる人間が車の元に戻ってきた。 すでに私達は新市街側の入り口へ入った後だったため姿は見られなかったが、その男の我が子を失ったかのような凄惨な悲鳴は耳に届いた。 「それにしてもたかが車であんなに落ち込むこともないでしょうに」 「人間の価値観とは個体差があるのだろう。他人から見て瑣末なものでも当人にとっては重要な場合もある」 以前読んだ雑誌か何かにそう書いてあった気がする。 「金属の塊にそこまで執着する気持ちは理解できませんね」 ノエルにもわからないのであれば、私に理解できるわけもない。 「それよりも警戒しなければならないのはご主人を襲った者の方です」 「ああ、そうだ」 「またいつ襲ってくるかもわかりません。ご主人なら平気だとは思いますが、一応注意しておいてください」 「わかった。頭に留めておこう」 ひとつだけ手がかりがあるとすれば、あの黒い塊は私よりもひまわりに執着する素振りを見せたことくらいだろうか。 「ひまわり、一応聞いておきたいのだが、あの者に心当たりはあるのだろうか」 「えー、ぜんぜん知らないよー。ひまわりもオバケ見たの初めてだもん」 やはり心当たりがないようだ。何か繋がりがあるかもしれないと思ったのだが。 「あー、色々面倒くさい事だらけで嫌になりますね。私は家でテレビ見てたいだけなのに」 「あー、ひまわりもテレビ見るぅ♪」 「その前にまず親方のところにいかないと。もう店を開いて待っているかもしれない」 私達のために来ているようなものなのだから待たせるのは申し訳ない。 「ん? 誰か歩いてきますね」 ノエルの言葉通り、前方から接近する気配を感じる。一人ではないようだ。波の音に混じって複数の足音が近づいてくる。 この道で人間とすれ違うことは稀である。何しろここは旧市街なのだ。街頭の灯りもないこの道では近づかなければ相手の顔も認識することは難しい。 間近まで迫ると反対側から歩いてくる集団が二人であることがわかった。 ……いや、三人か。 背中に一人背負われているようだ。 「あれ、お兄さん、こんなトコで何してるの?」 「キミは――」 三人のうちの一人に私は心当たりがあった。 「久しぶり、でもないか。今日の昼に会ったばかりだっけ」 日中、駅前でひまわりを待っていた時に会った占い師だった。 「私は家に帰る最中だ」 「家に? こんなところに家があるの?」 「詳細は言えない。そういう決まりなんだ」 「さすが《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、組織の追手から身を隠してるってわけね。OK、私も聞かなかったことにしてあげる」 「そうしてくれると助かる」 消閑の綴り師は片目で瞬きをして了解の合図を送った。 何か誤解していそうな口ぶりだったが都合が良さそうなので否定はしなかった。 「ちっ……」 「ああ、まずい」 私の背後からノエルの舌打ちが聞こえた。 「どうしたの?」 「こっちの都合で申し訳ないのだが、少し内輪話をさせてほしい」 私はノエルに向き合う。その視線は消閑の綴り師をこれでもかと睨み付けていた。 「ノエル、私は浮気などしていない」 「……こいつ、誰ですか」 私の弁解は耳に届いていないようで、不快感を体現したような低い声を出した。 「ふっふっふ、我の名を問うかヒトの子よ……! それは契約の意と捉えてよいのか?」 「…………」 「げふぅっ――!?」 ノエルの下段突きが消閑の綴り師の下腹部にめり込んだ。 「ノエル、揉め事は面倒だ」 「すみません、なんかイラっとしたので」 「ちょ……殴ることはないでしょ……! 女の子のお腹は大事にしなきゃいけないのよ、赤ちゃん生めなくなったらどうするの……!?」 「誰の子を生む気ですか? 返答次第では身体の心配すらできない状態にしますけど」 「ノエル、それ以上は止めておいた方がいい。事を荒立てたくはないだろう」 気の立ったノエルをどうにか諌める。 「むー、キミの知り合いかー? 可愛い顔してなかなか血の気が多いではないかー」 それまで様子を窺っていた女が会話に参加する。 彼女の風貌に見覚えがあった。先ほどトンネル内で私達の横を通り過ぎて行った者に似ている。 彼女の背中には眠っているのだろうか、ぐったりとして動かない男が背負われていた。 「いや、知り合いってほどじゃないんですけど」 「な、知り合いじゃないだと!? 既に知り合い以上の関係だと言いたいのか!?」 「ノエル、お前は少し黙っていた方がいいのではないか」 「ははは、元気なお嬢さんだー。今日は美少女をいっぱい見れて幸せだぞー」 何故女性が同姓を見て幸福を感じるだろう? 異性に対して性欲から来る満足感を覚えるのは知っている。人間が繁栄するための原始的な感情だ。 ということは女性に見えるこの人間は、実は男ということか。そういえば書籍で見たことがある。数は少ないが女装する男も存在すると。 「なるほど、そういう事か」 「何か言ったかー?」 「いや、何でもない。気遣いは心得ているつもりだ」 「んー?」 彼女――いや、彼は怪訝な表情を浮かべた。 性に関する話はデリケートである。事実に気づいているのは私だけかもしれない。ならばこの場で露見してしまうような口ぶりは止めた方がいいだろう。 他者に対する気遣い――日々の見聞を広げる努力が功を奏す。この調子ならば私が人間と遜色ない振る舞いができる日もそう遠くない。 「用がないなら行くぞー? 私は腹が空いて仕方がないのだー」 彼は私達が通ってきたトンネルに向かって歩き出す。見送り様に背中におぶられている男の顔が見える。 「…………」 どこかで見たことがあるような―― 思い出そうと過去に経験した仕事を思い返すが該当する顔は浮かび上がらない。 ――どうでもいい事か。思い出せないのはその程度でしかないという事だ。 「じゃあ私も行くね、《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、バイバイ」 「ああ、さようなら」 消閑の綴り師は先行している二人を追う。 「あ、そういえば占いの結果どうだったー? 探し物は見つかったかねー?」 少し離れた場所で消閑の綴り師は振り向いた。 「おぼろげではあるが道標を見つけることはできた。後は私の求める場所を指し示していることを願っている」 「そっか、探し物見つかるといいね。運命の導きに従ってまた会うことができたら手を貸してあげる」 「“《アラウンドザワールド》〈ATW〉”!」 前にも聞いた気がする単語を残して今度こそ振り返ることはなかった。二人の姿は闇に溶け込んで見えなくなった。 「あの言葉は一体どういう意味なのだろうか。ノエルは知って――」 振り返る途中で言葉が途切れてしまった。どうやら私は間違いを犯していたようだ。 「……楽しかったですか? 私以外の女とおしゃべりして幸せでしたか?」 「そんなわけがないだろう。私は浮気などしていない」 他者との会話で幸福を覚えることはない。そもそも幸福という感情を体感したことがない。会話による知識の獲得によって満足感を得たことはあるが―― 「本当ですか? 嘘じゃないですよね?」 「私はノエルに嘘をつかない。今までもそうだったはずだ」 「……じゃあ私の事、愛してるって言ってください」 「愛している」 「ん……私もですよ」 ノエルは私の腰に腕を回し、上目遣いで見上げた。 「ご主人がそこまで言うのなら許してあげますよ。その代わり、優しく愛を込めて抱きしめてください」 「それは構わないのだが」 「? 何ですか?」 一連の流れにおいて、主眼は別のところに置かれているようなそんな感覚を覚える。 「いや、何でもない」 「ご主人のぬくもりを感じたら、細かいことはどうでもよくなるんですよ。それが愛というものです」 「そうなのか」 愛についての情報がまたひとつ増えた。それでも全容はいまだ不明だ。 「でもご主人がまた別の女とイチャイチャしたら、今度は私が力いっぱい抱きしめてしまうかもしれません」 「それは止めてほしいな。“《デュナミス》〈異能〉”を使ったノエルの力で抱きしめられれば、私でも胴が二分されてしまう」 「大丈夫ですよ。ご主人は死なせません。そのためなら私はこの命すら捨てる覚悟がありますから」 「それも困る。私一人では上手くやっていく自信がない」 「ふふ、じゃあこれからもずっと一緒にいなくちゃいけませんね」 そうだ。これからも私はノエルと共にいる。足りないパーツを補うため、既にノエルは私の一部と化しているのだから。 「そういえばひまわり、キミは先ほどからやけに静かではないだろうか」 抱き合う私達をよそに、ひまわりは海を眺めていた。 消閑の綴り師とすれ違った辺りから、その存在感は珍しく薄れていた。 「えっ? なにか言った?」 「私とご主人の邪魔をしないよう空気を読んでたんでしょう? 良い心がけですよ」 「んー、そうじゃなくてねー」 月の光による効果だろうか、ひまわりの横顔からいつも見せている太陽のような雰囲気が消えていた。 「なんかねー、ヘンな気持ちになったんだ」 「変な気持ちとは?」 「んー、よくわかんない」 「どうせお腹が空いたとかでしょう」 それは違うのではないだろうか。ひまわりは少し前に菓子を食べていた――という理由だけではない。 ひまわりの瞳はここではないどこかを見ていたような……そんな印象を受けた。 「ひまわり、キミは自分の名前すらも思い出せないと言った」 「…………」 「それが嘘か真実か、私達は追及しない。キミがそうだと言うのなら、それでいい」 そう言ったものの、私にはひまわりが何かを偽って自分達に接近したなどとは思えなかった。年端もいかない子供であるひまわりに、そんな知恵はないだろう。 何よりたった二日ではあるが、ひまわりと共に過ごし観察して抱いた印象は、打算的で狡猾な人間とは正反対だという事だ。 花はつぼみを開くのが当たり前であるように、ひまわりもまた己の感情に迷いがない。 「ねぇ、あかしくん」 「何だろうか」 「忘れちゃったことって、やっぱり思い出さないといけないんだよね」 一瞬私の記憶に関して言っているのかとも思ったがそうではなかった。 ひまわりも私と同じなのだ―― 「人間は――いや人間に限らず、生物には例外なく培われた過去がある。過去があって始めて現在が存在する。万物に共通する世界の理だ」 「それがなければ現在の自分は何を信じればいいのかわからない。決断した選択は本当に自分が正しいと思えるものだったのだろうか、と」 「もしかしたら今の自分は偽者ではないのかとさえ疑ってしまう」 「にせもの……?」 本来の自分は右を選ぶはずだった。しかしそのための記憶を喪失してしまい、結果的に左を選んだ。 それはもはや自分ではない何者かによる選択ではないだろうか。 「だから私は追い求める。胸を焦がしてやまない衝動の答えを知るために」 「大丈夫ですよ。私がついていますから。きっとご主人の記憶を取り戻してあげます」 「ひまわりも忘れちゃったこと、思い出したい」 「キミと私、手がかりは同じだ。九條との契約が終わればわかることもあるだろう」 「うん、ひまわりもあかしくんの忘れちゃったこと、思い出すの協力してあげる!」 抱き合う私達にひまわりが駆け寄る。 「あ、コラ、私とご主人の間に割り込んで来ないでください」 「ひまわりもぎゅーっ、する♪ ぎゅーっ♪」 背の低さを利用して下から両手を突き上げ、私とノエルに挟まれる格好になるひまわり。 「うわー、のえるちゃんのおっぱい大きくてやわらかーい♪」 「ちょ、離れなさい、私の胸に触っていいのはご主人だけなんですよっ!」 「一度ノエルが離れればいいのではないだろうか」 「嫌です、こんなガキんちょに負けたくありません」 「おっぱいぱふぱふ~♪」 鈴虫の鳴く夏の夜――道端で二人の“《イデア》〈幻ビト〉”と一人の人間が身体を寄せ合っている光景は、さぞ異様に見えただろう。 幸いにして、私達を見ているのは夜空に浮かび青白い光を放つ月だけだった。 「今日子さーん! 今日子さーーーん!」 「こらーバカモノー、帰ったらまず手を洗いたまえー」 「そんなのいいから、俺の手に顔近づけて!」 「むー? こうかー」 「もっと!」 「……手のひらに何か隠しているのかー?」 「ばー!!」 「なんだ、蛙かー」 「今日子さんつまんねー。ぜんぜん、おどろかないじゃん。クラスの女子はキャーキャー言うのに」 「帰り道で捕まえたのかー?」 「うん。もう弱ってるのかな? 動かないや。川に戻したら平気かな?」 「ゆーま、戻す必要などないぞ。その蛙は、おまえが手のひらに閉じ込めて捕まえてきたものだろう?」 「え――でも、もどさなきゃ、死んじゃう……かわいそうだよ」 「変だな。今朝食べていたサンマだって焼死体のようなものだろー?」 「だって、あれは加工されて売ってるじゃん。食べられる為に生まれてきたヤツでしょー?」 「偉い。よく言った。では早速、解体したまえ」 「――――え?」 「解体したまえー解体したまえー解体したまえー」 「今日子さん、おかしいよ。まだコイツ生きてるのに、何を言ってるの? そんな酷いことできないよ」 「ゆーま。私の目をみたまえ」 「…………」 「普段、優真が口にしている鳥も、豚も、魚も、生きていたものだ。人知れずそれを下処理している者がいるのだ」 「私はな、ゆーま。進んでイキモノの命を奪い、食材として変化させている殺害代行の方々を尊敬している」 「何故ならそれは、多くの人が目を背ける、人の嫌がる仕事だからだ」 「うん」 「イキモノの本質は、食べることにあるのだ。人も同じだ。日々、命を奪い、食い殺す事で生きながらえ、明日を迎えている」 「……うん」 「さて、ゆーま。もう分かるだろう」 「今まさに、ゆーまの責任で無駄死しようとしている蛙を喰うことのどこが“酷い”ことなのだー?」 「……でも今日子さん。蛙は、食べ物じゃないよ」 「どうしてだー?」 「そんなの、聞いたことない。クラスの誰も、そんなことしない。絶対、普通じゃないよ」 「普通の人は嫌がってしないだろうなー」 「だったら、なんで俺にそんな事をさせるの?」 「私はただ、正しい事を教えたいだけなのだよー」 「正しいこと……?」 「正しい」 「…………焼いて、食べます……」 「ゆーま。残さず食べたら、私は尊敬するぞ。明日から、私の仕事を手伝う権利をあげようじゃないかー」 「え? 今日子さんの仕事……? 俺に手伝いなんて、できるかな」 「安心したまえ。ゆーまは私が見込んだ男だー」 「今まで仕事の話ってしなかったよね。ねぇ、どんな仕事してるの?」 「ケロちゃんを食べきったらなー」 「食べるよ。けど、ちょっとくらい教えてくれたっていいじゃん」 「一言で言うなら、人の嫌がる仕事だなー」 「――――ン」 夢……。 ぼんやりと記憶に残っている夢の欠片が、確かに自分の過去であると断言できる。 「今日子さんはあの頃からちっとも変わっていないよなぁ」 目を擦り、光の遮断された室内に夜目を利かす。 「……クフ……クフフ……」 俺の部屋。 俺の布団。 そして――俺の腕を胸に抱いて眠る大事な契約相手。 「ずっと隣にいてくれたのかな……」 疲れて眠ってしまったのだろう、気持ちよさそうな寝顔からは楽しい夢を見ているのが容易にわかった。 「クフフ……火事を起こすだけが能になってしまったな、片翼をもがれた竜よ。貴様は過去の栄光にすがり、棺桶にでも引きこもっているのがお似合いだ……」 「長い寝言だなぁ。なるちゃん、よだれ。乙女のよだれが川になってる」 口元を伝うよだれをフキフキしてあげる。 「ん~む、むにゅむにゅ……ンフー」 無防備に熟睡中の美少女を間近で拝めて幸せだ。 こんな可愛い姿を見てほっこりしない男はいないだろう。 「では受けるがいい、虚界のソウルエナジーマテリアルファントムブラスターを」 「みるみるミラクル、なるなるナデナデ~……」 「なるなるなでなで~」 呪文めいた《ねごと》〈台詞〉に合わせて、なるなるの頭を撫で撫でする。 「でへ~……黄金期と申した貴様の力はそんなものか……こそばゆい……気持ちいいくらいだ……」 「こちょこちょこちょ」 「ン……ふへーー……ごろごろごろ……♪ もっとー……♪」 「よーしよしよし、よーしよしよし」 なるは抱きしめたいくらい可愛い普通の女の子だ。 実際は、ちょっと複雑な存在で、人間とは違うみたいだけど。 そんなの関係なくて、なくてはならないイイヤツ。 「んむっ、ふあ……」 「ふゎぁっ!! なんじゃあっ!!」 「おはようございます」 「え、優真くん? 暗くて何も見えない。闇に紛れて私に何かしようったってそうはいかないわ」 「ぐへへー、いいのんか、何かしてされたいんかー?」 「ダメーーーッ! されるよりしてあげたい微妙なお年頃なのーーッ!!」 「聞き捨てならないんだけどっ」 「うにゃーーーーっ!! 電気、電気ッ」 「落ち着いてよっ、俺なんかしたっ!?」 「ハァ……ハァ……ハァ……。うぅ、ケ・ガ・サ・レ・タ」 「大丈夫、責任は取るよ」 「一日朝昼晩×3回、9食おやつ付きでちゃんと面倒見てくれる?」 「いいよ、金の続く限り養ってあげる。割りと本気で」 「冗談はさておき、まだ休んでなくて平気? 生身の人間なら死んでるレベルだったわよ?」 「んー……平気かな。起き上がれる時点で問題ないよ」 「てゐっ!」 「うぐっ――――治ってるか確認する度に殴るのやめて、キツいよ」 「あ、ごめんごめん。優しく触って確かめてもいいんだけど、優真くん絶対変な声出すから嫌」 「なるちゃんもいい歳なんだから、そろそろいかに自分が魅力的かを理解して欲しいよね」 「でも良かった、無事で」 「なるちゃんのおかげだよ。ずっと俺の側にいてくれたんでしょ? ありがとう」 「うん♪ 私も無事だよ」 「よっし。早速、ご飯の支度しなきゃ――――って待てよ。俺、なるちゃんに家の場所教えたっけ?」 「ああ、そのことなら社長さんに教えてもらったの」 「え? 社長と知り合いだったっけ?」 「優真くんが気絶した後に偶然通りかかったの。優真くんを見て、ウチの子だって」 「あちゃあ。カッコ悪いとこ見せちゃったな……」 「ピクリとも動かない優真くんを見ても顔色一つ変えないなんて、肝が据わってるわね。普通、心配するものじゃないかしら」 「ああそれは――借金、返し終えてないからさ」 「え? 借金? あるの? けどそれ、関係なくないかしら?」 「あるよ、オオアリ。これはさ、信頼なんだよ」 「信頼?」 「恩を借りたまま野垂れ死ぬわけがないっていう信頼――仮に俺が血だらけで息をしていなくても『さっさと立ちたまえー』って蹴るだけだと思う」 「壮絶な光景だわ……」 「社長にまた借りができちゃったな。ここまでおぶって運んでくれたなんて……感動だよ」 「むむ」 「あれ? なんか気に障ること言ったかな?」 「べ・つ・に。社長さんの背中じゃなくて悪かっ、た・わ・ね」 しかめっつらで頬をぷく~っと膨らませる。 「怒ったなるちゃんの顔もかわえー」 「ムカッ。ここまでおぶって運んだのは私だって意味よっ」 「ええっ! 意識がなかったのが悔やまれるなぁ。でもなんとなく、凄くいい匂いがした気がする。なるちゃんの優しい花の香り」 「私におぶってもらえて嬉しい?」 「めちゃくちゃ嬉しいよ、ありがとう」 「よろしい」 「なるちゃんが倒れたら、俺がお姫様だっこしてあげるね」 「遠慮しとくわ。優真くんは社長さんの奴隷であるまえに、私のパートナーなんだから。そこのとこ忘れちゃダメよ」 「了解。了解ついでにお願いがあるんだけど」 「うん?」 「社長には戦いの事とか、契約の事は黙っててもらえないかな」 「火山が噴火しようが、宇宙人が攻めて来ようが、あの人のことだから何でもなさそう顔で『そーなのかー』で済ませちゃうんだろうけどさ」 「できる限り、余計な心配は掛けたくないんだ」 「元々、契約は交わした二人だけの秘密。自分から言うつもりなんてないから安心して」 「ありがと。ご飯の前に、いくつか今日のおさらいをさせてもらってもいいかな? 俺もなるちゃんの世界に足を一歩踏み入れてしまったわけだし」 「ご期待に添いまして質問コーナー開設ー」 「いぇーい! 待ってましたっ!」 「早速ですが、私はこう見えて人間ではありません」 「な、なんだってぇええーーーーーーッ!!!」 「で、具体的には?」 「根本的に人間――――“《ディストピア》〈真世界〉”に住む “《クレアトル》〈現ビト〉”と私は、まったく別の生命体って 事」 「“《ディストピア》〈真世界〉”は、つまりこの世界の呼び方だよね。俺が住む、地球っていうか……この世界全部。“《クレアトル》〈現ビト”ってのは、俺を差すのかな?」 「“《クレアトル》〈現ビト〉”は通常人類の事。社長さんやマスターさんを差すわ」 「優真くんは、何らかの要因ですでに“《フール》〈稀ビト〉”だったの。だから“《エンゲージ》〈契約”出来たって訳」 「“《フール》〈稀ビト〉”かぁ。じゃあ、なるちゃんはなんて呼ばれてるの?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”。“《ユートピア》〈幻創界”出身の“《イデア》〈幻ビト”」 「は、はぁ……“《イデア》〈幻ビト〉”のなるちゃんね」 「全体的に良いセンスしてるでしょ?」 「え――――なるちゃんが考えた名称なの?」 「ううん。共通認識として偉い人が付けたんだけど、結構、私好みに仕上がってるの」 「ちなみに本来用いられる言語は“《ディストピア》〈真世界〉”に おける肉体では発音不可能だから、純 “《ユートピア》〈幻創界〉”産ではないけどね」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”ってのはどこにあるの? 俺も遊びに行ける?」 「チッチッチ。質問は一個ずつ、慌てない慌てない」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”は“《ディストピア》〈真世界”から物凄ぉぉぉく離れた“隣”の世界」 「誕生に関しては私は詳しくは知らないけど、遥か昔にできたのは確かだわ」 「俺にとってはフィクションで捉えるが一番近いからゲーム的な感覚で言い返すけど、長老みたいな人から話を聞けないの?」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”って結構広いのよ。時代の生き証人には会ったことないわ。いるかどうかも怪しい」 「私の持つ知識は、自分の生まれ育った場所限定だから、間違いもあるかもね」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”を統治している組織はもちろんあるんだけど、逆らえないほどの権力があるわけじゃないわ」 「それでも大きな諍いがあったこともないし、平和的よ」 「聞く限り、発展途上といった感じかな。報道も充分にされてなさそうなイメージ。情報を仕入れるのが育った場所だけって部分からも、そう感じる」 「もしかして優真くん、私たち“《イデア》〈幻ビト〉”が槍を持ち、雨乞いをし、物々交換する民族か何かだと思ってない?」 「そこまでじゃないけど……高度情報社会のこっちと比べたら、規制されてもいないのに“わからない事”があるなんて考えられないよ。なるちゃんもわかるでしょ?」 「うーん……ちょっと訂正させて。情報情報って……優真くん、何か勘違いしてるわね」 「人は最弱だった。何故なら牙がなかったから」 「しかし知識と器用に動く腕があった。だから道具を作った。群れを結成し、子供に知識を継承した」 「長い年月を掛けて、“《ディストピア》〈真世界〉”の頂点に君臨した」 「進化の系譜を遡れば、そういうことになるのかな?」 「生きるので精一杯な弱い生命体は知恵を絞る事を強いられたけど、“《イデア》〈幻ビト〉”は違う」 「“《イデア》〈幻ビト〉”は争いの大原因であるエネルギー供給の必要がないし、人間が適応できない環境の9割に耐えられる頑強な《からだ》〈器を持つの」 「なにより――本能的に“必要以上を求めようとしない”傾向にある」 「だから、現代社会のような発展を遂げる必要がなかったのよ」 「なるほどねー。なるちゃんの実家に挨拶がてら遊びに行くってのはどう?」 「いやそれが、できないのよ」 「なんで?」 「軽々しく私みたいなのが行き来するのって危ないじゃない?」 「だから、“《ユートピア》〈幻創界〉”と“《ディストピア》〈真世界”を繋ぐ通路があって、厳重に管理されてるのよ」 「この通路は“《イデア》〈幻ビト〉”の間では“《ステュクス》〈重層空間”って呼ばれてるわ」 「今は壊れちゃってて出入りできないみたいだけど、まぁそのうち直るんじゃないかしら」 「じゃあ、なるちゃんも戻れないんだね」 「うん。ずっと戻ってないわ。故郷のみんな、馬鹿ばっかりだから。好き勝手にやってるのが目に浮かぶわ」 大体の概要は理解できた。後は気になる単語ごとに細かい説明をもらえば万事解決だ。 「クッフッフ♪ 他に聞きたいことはないのか“《フール》〈稀ビト〉”よ。世界の真理を知る私に答えられないものなど、あんまりないっ!」 「それじゃあ、お言葉に甘えて……」 「クッフッフ。そう簡単に私の全てを把握できると思ったら大間違いだぞ」 「なるちゃんは、地球――じゃなくて、“《ディストピア》〈真世界〉”の侵略とかが望み?」 「そんなおっかないことしないわ。知的好奇心の赴くままにやって来たのよ、健全でしょう?」 「“《ディストピア》〈真世界〉”には何人くらいの“《イデア》〈幻ビト”がやって来ているの?」 「うーん……ちょっと検討がつかないわ。 “《クレアトル》〈現ビト〉”より絶対数が少ないのは間違いな いと思うけど」 「なるちゃんはいつ頃、こっちへ?」 「私がこっちに来たのは10年くらい前よ。“ナグルファル”も、経験した。この世の終わりかと思ったわ」 「だね…………あれ? そういえば…………いや、これはやめておいたほうがいいのかな……?」 「言ってよ、気になるわ」 「なるちゃんって外見的には同い年くらいに見えるけど、実年齢は俺より上なのかなって」 「クッフッフ。それは、ヒ・ミ・ツ♪ 気にされて敬語とか使われたく、な・い・し」 「歳以前に、こっちの姿は借り物なの。 “《ユートピア》〈幻創界〉”の私が人の形をしていると思わな い方がいいわよ」 「それはそれで見てみたいけど、やっぱ俺にとってのなるちゃんは、今のなるちゃんがベストかなぁ」 「私もこの姿は好きだわ。本当の姿より馴染んじゃってる気がするもの」 「自分の事を私に尋ねられても……」 「俺、ここのとこずっとさ、世界がモノクロ映像みたいになる現象に悩まされてたんだけど、それって今回の件に何か関係ってあるの?」 「……まさかッ! いや、しかし、あるいは……」 「?」 「あれは……“《グリモワール・オブ・なる》〈なるの魔導書〉”は未完成だったはずではないのか……?」 「白と黒の派閥はユリウス暦769年以降、共同戦線を張っていたというのに……今になって、そんな……」 「なるちゃんの事だいぶわかってきたよ。今の台詞は、まったくの無意味なんだよね?」 「無意味じゃないもん! そんな酷いことばっかり言ってたら何も教えてあげないんだからねっ」 「まぁまぁ。なるちゃんから見て、俺は何者なの?」 「昨日までは、“《しゃだんせん》〈刻々線〉”を持っているだけの、普通の人間だったけど」 「今は“《エンゲージ》〈契約〉”で干渉力が上がって、完全に“力”が解放されてしまったの」 「そこまではおさらいだね」 「“《フール》〈稀ビト〉”でも“力”に目覚める割合は多くないみたいなの。“《エンゲージ》〈契約”で覚醒を誘発させるのは禁忌とされてるわ」 「“《フール》〈稀ビト〉”と見れば容赦無用で処理しようとする輩がいるから、目立った行動はしないように」 「とすると、俺を“《フール》〈稀ビト〉”にしたなるちゃんも?」 「同罪。運命共同体ってこと」 「なるほどねぇ……俺が見てたモノクロ映像は?」 「単に色弱とか、普通に普通の目の病気なんじゃないかな……お気の毒に」 「え……やっぱアレは普通に病気ってオチなの……? 参ったな……仕事に差し支えが出なきゃいいんだけど」 「あんまり意味のない質問だと思うわ」 「どうして?」 「じゃあ優真くんは、自分の生きてる世界がどうして誕生したのか説明できる?」 「天文学者でも哲学者でもない俺に言われても困る!」 「それが答え。私は“《ユートピア》〈幻創界〉”にゴマンと居る一般的な“《イデア》〈幻ビト”でしかないの。なのでわからない」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”は私たち“《イデア》〈幻ビト”が跋扈する世界。それ以上でも以下でもないわ」 「世界を繋ぐ“《ステュクス》〈重層空間〉”は? 俺は勝手に転送装置みたいなのを想像してるけど」 「大体合ってるわ。ただ転送より重要なのは“預かり所”の存在かしら」 「“《ディストピア》〈真世界〉”に行く際、“《イデア》〈幻ビト”は “《ステュクス》〈重層空間〉”に全てを置いていくの」 「コレは絶対のルール。洋服を着て海に入ったら沈んでしまうでしょ? 同じ原理。もちろん私も置いてきているわ」 「――――って、鼻血鼻血っ! ティッシュ」 「あ、ありがと。なるちゃんが全裸で降り立った瞬間を思うと刺激が強すぎて……」 「服とかってレベルの話じゃなくて、“魂”すらも置いてくるのよ」 「それでも身体能力が“《クレアトル》〈現ビト〉”と同じにならないのは、フィルターを通り抜けるようにいくらか“力”を持ってきてしまうからのようね」 「私がある程度“音”を操れるのも、知らず知らずに持ち込んでしまった力の残滓って事」 「“《ステュクス》〈重層空間〉”のシステムは結構ちゃんと知ってるんだね」 「私が来た当時は壊れる前だったから、管理体制が今ほどズサンじゃなかったの。少ないけど説明も受けたから、覚えていたのよ」 「なるほどねぇ」 「前提条件として“《アーティファクト》〈幻装〉”は“《イデア》〈幻ビト”の魂そのもの――――これを覚えておいて〉」 「はーい」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は、私たちの“魂”に元々備わっている血肉のようなもの」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”に秘められた力は極めて凶悪で強力。私が暴れてる姿を優真くんも見たと思うけど、アレは一端に過ぎないわ」 「ということは、なるちゃんは“音”以外も操れる……?」 「ううん。“《アーティファクト》〈幻装〉”は一人に付き、一つ。なんてったって魂だからね、いくつもあったら、こ・わ・い」 「ちなみに“《ユートピア》〈幻創界〉”では、なるちゃんの力はどのくらい強いの?」 「わかんない、結構やれるんじゃないかしら?」 「試す機会がなかったからあれだけど、多分、“《イデア》〈幻ビト〉”同士で戦ったら相性がモノを言うと思うわ」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は時に物理法則さえ捻じ曲げる。人が崇め祀る神に等しい力を持つ」 「でも突き詰めれば力には“属性”がある。“火”が“水”消されるように、絶望的な相性もあるんじゃないかしら」 「思ったけど、そんな物騒なものをいつでも振り回せるって危険すぎない?」 「大丈夫」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”はこっちの世界の常識を覆しちゃうから、“《ステュクス》〈重層空間”の“預かり所”に預けてあって取り出すこ〉とはできなくなってるの」 「あれ? なるちゃんは堂々と“《アーティファクト》〈幻装〉”を出してたよね?」 「“《ステュクス》〈重層空間〉”が壊れてるのは言ったと思うけど、それに伴って今まではできなかった裏ワザが可能になったの」 「それっていうのは?」 「対価を支払う事で、“《アーティファクト》〈幻装〉”を自分自身――つまり“《ディストピア》〈真世界”の器から引き出す事」 「なるちゃんはそのせいで酷く疲弊してたね」 「それが対価。身体に掛かる負担は並じゃない わね。よっぽどの事がない限り無闇に使う “《イデア》〈幻ビト〉”もいないはずよ」 「そういうことね。タイムリミットも短かったみたいだし、簡単には悪用できないか」 「私もなるべくなら当分使いたくないわ」 「あんまり無理しないでね、なるちゃんの辛い姿は見たくないから」 「うん。ありがと……♪」 「どういたしまして」 「対して“力”は“《フール》〈稀ビト〉”――優真くんや、さっきの筋肉男の持つ“《デュナミス》〈異能”の事」 「“《デュナミス》〈異能〉”?」 「そ、“《デュナミス》〈異能〉”。ここテストに出ます」 「広義では私の“《アーティファクト》〈幻装〉”を用いない微妙な“力”も“《デュナミス》〈異能”だけど、まぁ“力”でも“《デュナミス》〈異能”でもお好きな様にって感じね」 「“《デュナミス》〈異能〉”は“《フール》〈稀ビト”になったことで “《ユートピア》〈幻創界〉”への干渉力が上がり――」 「“《ステュクス》〈重層空間〉”の“預かり所”に置かれた “《アーティファクト》〈幻装〉”を無断借用することで手に入る」 「この場合使用しているのは、既に絶命した “《イデア》〈幻ビト〉”の忘れられた“《アーティファクト》〈幻装”になるわね」 「永遠に預けっぱなしになった遺品を使ってるようなものかぁ」 「“《デュナミス》〈異能〉”は“《アーティファクト》〈幻装”とは能力的な面でも大きく違うわ」 「“《デュナミス》〈異能〉”は適合性を高める為に肉体を変型させ、同化する」 「筋肉男の場合、特殊な“腕”が生えていたわね。あれは典型的な“《デュナミス》〈異能〉”の同居型の一例」 「体重をほぼ0にして空高く浮き上がったり、頭の回転を高めて天才のようになったりする超能力タイプもあるわ」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は魂そのものだから発動条件や使用方法は考えるまでもなく理解できるけど」 「“《デュナミス》〈異能〉”は借り物だから、勝手がわからないことが多いみたい」 「…………でも、優真くんのはやっぱり異質だ わ。だって形状は明らかに武器―――― “《アーティファクト》〈幻装〉”に近い姿で取り出してたもの」 「でも、使い道わかったのは土壇場になってからだよ。“《アーティファクト》〈幻装〉”は手にしたら全てを理解するんでしょ?」 「“《デュナミス》〈異能〉”と“《アーティファクト》〈幻装”のハーフみたいなのよね……とりあえず“〉《レアケース》〈類まれなる一例”という二つ名を付けておくわ」 「なるちゃんの右腕になった俺に相応しいね」 「なにそれ、こ・わ・い」 「昨日の深夜に、近くの高台からオーロラを見下ろしてたら視界が真っ赤に染まったんだ」 「変だな? って思ったら声がして――――赤いのは景色じゃなくて、人が目の前にいるんだって気づいた」 「その血って……人の血なの?」 「確かめようがないけど、そんな気がする。俺は危害を加えられてないけど……殺そうと思えば、いつでも殺せたんだと思う」 「優真くんはどう思うの? その怪物を通りすがりの異常者と見るか。はたまた“《フール》〈稀ビト〉”と見るか。“《イデア》〈幻ビト”と見るか」 「わかんない。ただ、笑いながら身投げしたんだ……あんなこと、普通の人間には無理じゃないかな」 「なら“《クレアトル》〈現ビト〉”の可能性は低いわね。心配はいらないわ、私が一緒にいたらやっつけてあげる♪」 「頼もしい限りです」 「詳しくなってどうするのよ」 「可愛い女の子の事に詳しくなりたいのに、理由は必要ないでしょ」 「う、うん……そうかもしれないわね」 「しかも一応二人っきりの状態だし。つい意識しちゃって口に出しちゃった」 「言われてみれば密室に年頃の男女が……襲、わ・れ・る?」 「なるちゃんの可愛さを構成する重要なファクターだしね、知りたいんだよ。柔らかさとか、大きさとか、形とか」 「どんな変態発言も下心なしで言ってのける。優真くんの卑怯なとこは、ここよね」 「俺、誰よりもなるちゃんの魅力に関しては真剣に耳を傾けられると思う」 「人事じゃないっていうかさ――――なるちゃんの事、なんでも知りたいって本気で思ってるから」 「もし予想より大きくても、小さくても、目を逸らす気はないよ。何カップなの?」 「………………ここだけの話、私の胸には秘密があるの……」 「なるちゃんと俺の仲だよ。包み隠さずに打ち明けていいんだよ」 「実は私の胸……本当は真っ平らなの! 全部パットでごまかしてるのっ!」 「そっか。恵まれなかったんだね。でも大丈夫だよ、俺はAAだって、ぜんぜん気にしない」 「え、てっきりがっかりするんだと……」 「ちっちゃくたって気にしちゃダメだよ」 「ちっちゃくないもんっ!! 馬鹿な事ばっかり言うから、からかおうとしただけだもんっ!!」 「嘘だったの!?」 「嘘に決まってるでしょ、ホンモノよっ。まるっと全部、私の所有物」 「よかったぁ。なるちゃんはそのサイズがぴったりだから、ホッとした」 「何でそんな爽やかな顔するのよぉ……下心のないセクハラは一番困るよぉ……」 「そうそう。なるちゃんの二の腕と膝小僧についてなんだけどさ」 「私の身体的特徴に関する質問は却下っ!」 「残念だなぁ」 「ホントに? 頭こんがらがっちょんしてない?」 「詰め込みだけどこんがらがっちょんってほどではないかな。後でボロが出そうだけど、わかんない時はまた聞くことにするよ」 「今度は私の方から質問するわね」 「どうしてあの時、強引に割って入ってきたの?」 「“力”の使い方も把握していない優真くんが闇雲に割り込んだって、邪魔なだけだわ」 「食べるつもりはあったの?」 「……は?」 「少なくとも相手は、なるちゃんを食べる為に戦おうとはしてなかった」 「ふざける時は責任持ってふざけ返されたいけど、マジメにしゃべる時はマジメに返して欲しいタイプなの」 「食べるとか食べないとか、話に関係ないじゃない?」 「あるよ」 「飢えは、最もシンプルでわかりやすい絶体絶命だし、生き延びる為に食べる事は戦いの理由になる」 「なるちゃんがいかに覚悟を持って戦っていたとしても、後になって襲ってくるのは虚しさだけだよ」 「よくわからないわ。私にだって理由ならあった。それとも“理由”に値しなかったって言うの?」 「殺し合いの理由は、絶対にそうせざるを得ない状況でなければ成立しないはずなんだよ」 「世界中に現存する種族の中で感情で殺すのは人間だけ。他のイキモノは全て、種の繁栄の為の“本能”に縛られてる」 「人は誰しも。本質的に殺戮者なんだ」 「多くの命に生かされてる。屍の上に成り立ってる。だから、仮に感情で殺したとしても、死を無駄に扱ってはならないんだ」 「その持論通りなら、優真くんは道端で踏んでしまった蟻の一匹一匹を丁寧に拾って口に放り込んでは飲み下しているって事になるわよ?」 「そう。全ての死をフォローするのは難しいよ――――だからこそ、だからこそなんだ」 「気づいただけ――ほんの僅かでも自覚した時だけは、確実にするべきなんだ」 「話が飛躍してる気がするわ。それに人を食べるなんて、カニバ何とかじゃない……」 「あはは。受け売りの押し付けだよ。実践するかどうかっていうより構え方の問題」 「要は、この考え方でいれば殺すって行為を自制できるじゃん?」 「俺はこの考え方が――社長の考え方が好きだから。それに従って身体を動かしたまで。結果的に割って入る形になっちゃったね」 何も不思議な理論じゃないと思う。 俺だって“ナグルファル”を経験するまでは、生きてることに特別な感謝はしていなかった。 心のどこかで、虫と小動物を、区別ではなく差別してた。 寿命の長短、愛玩の強弱を秤に掛けて、命に違いを見出してた。 でもそうじゃなかった。 全てのイキモノは命がけで支えあってる。 社長はそれを教えてくれた。 「……うん。納得は、したかな。優真くんは優真くんの信念に従って行動したってことね」 「なるちゃん初めて会った時、人が好きって言ってたよね? “《クリアランサー》〈片付け屋〉”の俺と競えるくらい、人が好きって」 「好きよ、大好き」 「だけど話しててわかったの。あの“《フール》〈稀ビト〉”は分かりあえない。見境なく人を襲う」 「人が好きだからこそ、あの命は摘んでおくべきだったの」 「……なるちゃんは可愛いだけじゃなくて、優しいね」 「そうかしら……私はただ、多くの不幸を未然に防ぎたかっただけ……普通の考えよ」 「それを“普通”って言っちゃえるトコが、すげぇ可愛くて優しいって言ってんの」 本当は相手を追い詰めるような選択はしたくなかったに違いない。 決断の重さを思うと、手を握らずにはいられなかった。 「優真くんの手……あったかい……手が温かい人は、心が冷たいっていうけど、優真くんはどうなのかな」 放り出すような言葉だった。 俺は応えを返さない。 なるの思うように決めてもらえば、それでいいから。 「頑張ったね、なるちゃん」 「…………」 「次にもし何かあったら、辛い決断は、全部に俺に任せていいんだよ」 「女の子を守るのは、男の役目なんだから――――頼っちゃってください」 「うぅ……ぐすぐす……うぅ…………」 「え、ええっ!!? なんで泣いてるの? 目にゴミ入った?」 「キザっぽいよぉ。でもカッコイイよぉ。どうしよう、私ってちょろい女なのかしら……?」 「好感度上昇? なるちゃんの好みに一歩近づけたようでなによりだ」 「私の理想の回答なんだもん。きっと私達が “《エンゲージ》〈契約〉”するのも、主の導きによって決定 していたんだわ」 「理想ね……いちいち芝居がかってるなぁ」 「小説家やってますんで」 「えー、初耳だぁ」 そういえば出逢った時も、餓死寸前の心境を文字に起こすとかどうとか言ってた気が……。 「クッフッフ♪ これでもブックリスト登録4桁の有名作家、な・の・よ?」 「ブックリスト? 投稿タイプのオンライン小説をメインに活動してるのかな」 「“どこでも文庫”の立ち上げ当初からの古株よ」 胸を反って得意気な表情をつくるなるに、拍手で応じる。 オンライン小説って基本的に無料公開だろうから趣味の範疇に収まっているはずだけど、それでも上位を獲得しているのは凄いと思う。 「もっと早く教えてくれればよかったのに」 「優真くんとここまで親密な関係になるなんて思わなかったんだもん。熱狂的ファンになられてストーカーされたら、こ・ま・る♪」 妄想にくねくねと身を捩らせる赤ら顔のなるはさて置き、携帯で“どこでも文庫”を検索する。 「“どこでも文庫”……これか」 「最大級のオンライン小説投稿サイト。閲覧はすべて無料。一人でも多くの人に分け与えたい、この熱い想い」 「ほえー、結構な数があるなぁ。読み切れないよ」 「私はライバルはほとんどチェックしてるけどね。優真くんは私のだけ読めばオッケー。有象無象は無視無視」 「恋愛小説とかだったらヤバイなぁ。涙腺崩壊系は、めちゃくちゃ弱いんだよね」 なるちゃんが書くんだから、きっとメルヘンチックで脳みそとろとろな少女がお菓子の国をつくる話とかだと予想。 「ジャンル別に飛んで」 「はいはい」 「厨二病」 「厨二病? ってなんだろ……まぁいいや」 「カテゴリー別→有害図書→超上級者向け→末期患者専用」 「有害図書指定受けてるの!? 末期患者専用って、自らそんなカテゴリに入って読者数減らしていいの?」 「いいんです。良い物はどこにあっても気づかれるものなんです」 カテゴリの参加作家一覧が18人というのは多いのか、少ないのか。少ないんだろうな。 言われた通りに操作すると、カテゴリーチャンピオンが表示された。 「《ペンネーム》〈PN〉《サードアイノミコト》〈邪気眼命って人がブックリスト1位だけど、まさか…〉…」 「クフフ……や、ヤツの天下は一時的なもの。いずれ厨二と言えば私の顔が浮かぶようになる」 「じゃあ2位の――――」 「ああぁぁぁぁっ! 疼くッ! 吼えるッ! 騒ぐぅぅッ!! 十二星座になぞらえたこの肉体に幽閉した、煩悩の妹たちがぁぁぁッ!!」 「じゃあ……3位の、《アラウンド・ザ・ワールド》〈消閑の綴り師*A,T,W〉って人?」 「クッフッフ♪ 《・・》〈一発〉で探し当てるとは、さすが私の右腕だ。いかにも私が“消閑”の称号を意のままにする者だ」 「ヤバそうなタイトルある。狂おしき月夜に……」 「あっ、ダメ! 『狂おしき月夜に咲いた花は沼地の屍よりも綺麗なピンク色をしていたか?』は黒歴史だから閲覧禁止なんだもんっ!」 そこまで言うなら見ないけど。 結局、その花が屍よりも綺麗なピンク色をしていたのかどうかだけは知りたかった。 「名作はこちらでーす」 「名作はこっちでしたかぁ」 なるは洋服屋の店員のような笑顔で俺の携帯を操作し、アナウンスしてくれる。 「果てしないから、ホントに。笑えるくらい伏線張っちゃったもん」 「いやぁ、自分で言うのもなんなんですけど、おもしろい。おもしろすぎるわ」 一緒に画面を見るために、なるの方から身体をくっつけて押しくら饅頭してくる。 ふんわりと心地よく漂うのは、おかしくなりそうなくらい威力のある女の子の香り。 「じゃーん! 私の自信作、異世界交流ファン タスティックラブコメディ―――― 『“《プログレッシブ・プリズム・プリンセス》〈Progressive Pr〉ism Princess”』」 「どれどれ。絶賛好評連載中“《ピースリー》〈PPP〉”。第17回“どこでも文庫祭”有害図書部門ノミネート作品!? 凄いねっ!!」 「クッフッフ♪ 出版する時のタイトルロゴも考えてあるの。“P”の形のレイピアが3本、黒い一枚岩に突き刺さってるの。どう?」 「どうって言われても……それはまた先の話なんじゃないかな、有害図書だし。とりあえず、どんな話なの?」 「簡単に言っちゃえば――――超能力が使える異世界の姫が謎の組織に狙われる少年を守り、幾多の困難を乗り越えていく話」 「壮大だねー」 あらすじだけ聞くと相当まともなボーイ・ミーツ・ガールに聞こえてしまう。 「よし、早速読んでみよう」 「あっ!!? 貸してっ!!」 と思ったところで、携帯を取り上げられてしまった。 「わーいっ! 感想板に書き込み来てるー!」 「どれどれぇ……“《クリスマス》〈降誕祭〉”さん。こんばんわっ」 「常連さん?」 「ううん、一見さん。なんだろな~なんだろな~♪」 「『斬新すぎて誰も書けない』だって! クフフ、見る目が、あ・る・わ」 「物は言いようだね」 「『おーい、ご飯はまだなのかー? 私は腹が減ったぞー』」 「ご飯っ! 話してたらお腹空いたっ、優真くんの料理楽しみ♪」 「死にかけて運ばれたと思ったら、目が覚めてすぐご飯を作るハメになるなんて……忙しくっていいねっ!」 「ごちそうさまでしたッ!!」 「んー? 何か言ったかー?」 「ごちそうさまッしたァッ!!!」 「聞こえんなー、もういちどだー」 「ごっそー様でしたぁああああぁぁあぁぁあぁぁッッッ!!!」 「ダメだな。怒鳴ってるだけで感謝が感じられない、もういちどー」 「お腹ぽんぽん♪ 幸せぇ~♪ ごちそうさまになりましたっ♪」 「うむ、いい声だー。後は優真が片付けるから、腰掛けてくつろいでいたまえー」 「は~い♪」 「男女差別だぁ……ちくしょう……俺ばっか……悔しいからなるちゃんの食器舐めよっと」 「待て優真っ、そういうことなら私と代わりたまえっ!」 「いいですよ。俺がやるんでっ、なるちゃんの食べた食器を隅々まで綺麗にするのが俺の役目なんでっ」 「そんな事したら、二度と口利かないから、よ・ろ・し・く」 「やだなぁ、冗談だよ」 ノリに合わせて愚痴ってみたけど、料理は片付けも含めて料理なので、全然、苦じゃない。 俺が食器を洗ってる間、二人はテーブルで面接するように向い合っていた。 ここからでも聞こえるから耳だけ傾けておこう。 「さて。君たちに何があったのか根掘り葉掘り聞くほど私は野暮ではないのだよ」 先ほどなるは、食事の席で身の上話を披露した。 もちろん“《イデア》〈幻ビト〉”であることは隠していたし、大半がでっちあげだったけど。 倒れていた俺を解放してくれた優しい家なき子――――それだけで今日子さんは大きく頷いていた。 「天涯孤独の身ながら路上占いで健気にも生き抜いてきた君を、私は高く買おうじゃないかー」 「決してその容姿に惹かれたわけでは、ぐふー……ないのだよー……ぐへー……」 「は、はぁ……あの、よだれ拭いてください」 「おっと失礼したー。とはいえ君の味わった境遇はこの時世、珍しいことではないぞー」 「はい。重々理解しています」 「なぁに、君一人、養うくらい造作ないことだー」 「え、いいんですか?」 「部屋も余っているし――――そうだ。君は、優真と同じくらいの歳だったかな?」 「そうです。そういう設定で――じゃなくてっ! 同じか一個上ですっ」 「んー? 曖昧だがまぁいいかー。君さえ良ければ、ゆーまと東雲統合学園に通えるように手続きしてやってもいい」 「え? 学園――――でも……それって難しくないですか? 何から何までお世話になってしまうのもちょっと……」 「なぁに、あそこの学園長とは見知った仲なのだよ。私の要求を断ったら《・・・・・》〈どうなるか〉理解してるはずだー」 「あはは……こ・わ・いぃ……」 「行きたくないのかー? 学歴の一つは欲しいだろー? 私はそんなもの何もないがなー」 「……行きたいです。普通の人間みたいで、憧れてたんです」 「普通の人間ー? 君は異常者なのかー?」 「いえいえいえ、行きたいなー学園っ! 制服かわいいといいなー!」 「あ、あとで私とお着替えしようじゃないかー……ふ、ふふふ」 「社長さん、たまに目が怖くなりますよね……」 「それじゃ……コレにサインしたまえ。こんな事もあろうかと届出用紙を用意しておいたのだー」 「用意周到ですね」 「あれ、書くとこ少ない。名前を記入するだけなんだ……菜々実なる……っと」 「やったー」 「……?」 「ゆーまー、これを見たまえー、私だけの美少女性奴隷が誕生したのだー、玩具にするのだー」 「え? え?」 洗い物が片付いたので呼ばれるままにテーブルへもどる。 踊り狂う今日子さんから、授与式のように恭しく用紙を受け取る。 「あちゃあ……なるちゃん書いちゃったのかぁ。契約書」 「不履行は許さないぞー。れっきとした“家族契約”――――私を裏切ったら借金まみれだー」 「な、何……もしかして私……ハ・メ・ら・れ・た?」 「たまえたまえたまえっ! たまえたまえたまえっ!」 「たまえたまえたまえっ! たまえたまえたまえっ!」 息のあった“社長笑い”に青ざめる涙目のなる。 「うっ……ううぅ…………ど、どういった内容の契約でしょう……私……24時間休まず男の相手でもさせられちゃうんでしょうかぁ……」 「なる、その堅苦しい丁寧語はやめたまえよ」 「私は今“社長”としてではなく“家族”として語らっているのだろう? 家族の空気を乱すようなら蹴り飛ばして犯すぞー」 「ひぃっ!? こ・わ・いぃ……」 「なるちゃん怖がることないよ。その契約書に書いてあることは、全て水瀬家のルールみたいなものなんだ」 「つまり――『水瀬の一員として結束し、裏切らず、支えあって生きていこう。不履行を起こさない限り、家族の絆は絶対だ』ってこと」 「私は煮え湯を飲ませはしないのだ」 「家族……? 私が……? いいんですか、社長さん……」 「何度言わせるのだ。団欒の時は呼び捨てくらいがちょうどいい」 「あ……。えへへ……♪ わかった。今日子さん」 なるは気恥ずかしそうに左手を出し、握手を求めた。 「なるちゃん♪」 なるに悪気がないからこそ、俺は指名されていないにも関わらず慌ててその握手に応えた。 悪気があれば、《・・・・・》〈別の意味で〉手が出ていたと思う。 「優真くんはいまさらでしょ? 私は今日子さんに握手を――」 「なるちゃーん♪♪♪」 少しだけ、俺は握手の手に握力を込めた。 「ゆーま、女の子の手を粗雑に扱うなー」 「手…………あ――――」 「ご、ごめんなさい」 やっぱり、いい子だ。きっともうなるは、この事に関して追求したり、考えたりしないだろう。 「何のこと? そんなことよりなるちゃん、ようこそ水瀬家へ!」 「ゆーま、私のセリフを奪うなー。歓迎するぞ、なるー」 「うん……ごめん……じゃない、ありがとう、今日子さん」 「夢の美少女と一つ屋根の下生活、開始だーっ」 「祝いだー円陣組むぞー」 肩を組み合って円陣を組む。 気分は甲子園を目指す球児。 「息を合わせてふぁいおーふぁいおー」 「うぇーい!」 「声出してこー、声ー。声出てないよー!? 声ー!」 「うぇい、うぇーいッ!!」 「水瀬家サイキョーかー?」 「うぇーい♪ 水瀬家サイキョー♪」 「うぇーーーいッ!!!」 「今から一緒に~! これから一緒に~! ベッドに~行こうか~!」 「うぇーい♪」 「さて」 「さてさて」 「あれれ、盛り上がってきたところなのに」 テキパキと円陣をやめた今日子さんが、俺の目の前に真顔で立った。 「と、いうわけだ。優真、聞いたかー?」 「ベッドですね」 「えっ――――それって優真くんを男として誘ってるの? 今日子さんと優真くんってやっぱりデキてたの!?」 「俺じゃないよ。なるを見てたら劣情を催しちゃったんだよ」 「うむ。言質も取れたしなー」 「…………えっと……」 「“今から一緒に、これから一緒に”……ベッドに行くのって私……?」 「なるのスカートに頭突っ込んで太ももペロペロしたいなー」 「おい」 「家族のスキンシップだね。逃げられないように玄関は塞いでおくね」 「お香タイプの媚薬も炊きたまえよー」 「言われなくてもわかってるって」 「ちょっと聞こえてるわよっ!? 何で私がターゲットになってるのっ!?」 「久々の素人……うふ、うふふふふ」 「今日子さんってまさか……そっちの趣味が……」 なるは後ずさるが、方向が悪い。そっちは壁だ。 今日子さんと結託して兎さんを追い込んでいく。 「まぁまぁまぁ。お尻に頬ずりさせたまえよー」 「はいはいはい。逃げない逃げない」 「にじり寄って来ないでっ、変態一家っ!!」 わたわたと後退し、なるの背が壁につく。万事休す。 「ひぇえっ、逃げ場がっ」 「まぁまぁまぁ。ウチの敷居をまたぐ《イニシエーション》〈通過儀礼〉のようなものだと思いたまえよー」 「はいはいはい。家族水入らずって言うじゃない」 「いや、やめて……やめてくださいぃ……こ・わ・いぃ……」 「なるちゃん取ったどーーー!!」 「ぎにゃああああっ!!」 目をつぶって脱兎の如く飛び出したなるを羽交い絞めにする。 「ぐふっ、どえっちな上乳が強調されてたまらんー」 「うわーん! 優真くん信じてたのにっ、人でなしっ!!」 「ゆーまでかしたぞー、給料アップだー」 「なるちゃんには悪いけど、今日子さんの幸せは俺の幸せ――――あ」 「…………」 仲間になりたそうにこちらを窺っているのは、妹様だった。 「うわあああああああああああん! 変態一家ーーーーー!!!」 「ぐぁ――」 気を取られた隙に、肘が思いっきり《みぞおち》〈鳩尾〉に入った。結構ヤバイ。 「私の気持ちも知らない優真くんが悪いんだもんっ。自業自得だわっ」 「まったくだなー、くふふー、捕まえたぞー」 「今日子さぁん……私はいたってノーマルな女の子なんですぅ……初めてはできれば男の子が……」 そんな風にチラチラと視線を送られると勘違いして助けてしまいたくなってしまう。 「ゆーまくぅん……こわいよぅ……助けてよぅ……」 「……ごめん、なるちゃん。今日子さんも鬼じゃないから」 水瀬家に慣れるなら、“全ては社長の為に”の社訓を身体で覚えてもらうしかない。 「そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃないかー」 「うぅ……何をされるんだろ……」 「それは私の部屋でゆっくりと話そうじゃないかー」 「あの、マッサージ得意なんで……今回はそれでご勘弁を……あぅあぅ」 なるはずるずると今日子さんの部屋に引きずられていった。 「……今日子さん、相変わらずなんだから」 「ご飯、終わっちゃったよ」 「いい。寝てたし。……一緒に食べたくないし」 「あ、なるちゃんに嫉妬してるでしょ」 「違う」 「今日から家族の一員だよ。家族契約も交わしたしね」 「私の部屋には入って来ないように言っておいてね」 「無駄だよ。なるの事だから、勝手に入っちゃうと思うよ」 「やっぱりそういうタイプなんだ。鍵閉めとく」 「人見知りな結衣かわえー」 「うるさいなぁ、もう。入って来られて困るのは、兄様の方でしょ?」 そういう言い方はずるいと思う。 「自分も可愛がられたいなら、今日子さんに構って攻撃すればいいのに」 「違うって……理由なんて、兄様が一番わかってるくせに」 「はいはい」 妹様も難しいお年頃ってことだろう。 でも今日に限って言えば、機嫌を治す方法を知っている。 「俺の部屋、行こうか。今日は、《・・・》〈あの日〉だったよね」 「兄様、覚えててくれたんだ……ちょっとだけ見なおしたかも」 「あんだけ食べさせておいて忘れてると思っちゃうあたり、悪女の匂いがぷんぷんするなぁ」 「兄様早く。上に行こ」 「珈琲を淹れていくから、先に待ってて。マスターと俺の新配合のヤツ、うまいよ」 微笑みが二人分咲いた。 階段を登っていく結衣を見送り、合作の“妹ブレンド”をミルに入れる。 引き立ての香りに、思わず頬がゆるんだ。 「…………」 「……ずずずっ」 お揃いのマグカップから漂う優雅な香りを跳ね飛ばすほど、結衣の纏う空気はコレ以上なくピリピリとしている。 得物を目で窺う猫のように瞬きもせず一点に見つめ、どんな些細な事でも察知し、俊敏に対応できる状態を保っていた。 「リラックスリラックス」 「ふぁっ!」 結衣は過敏にビクッと背中を震わせた。 「や、やめてよ兄様。驚いた」 「運動会前夜って感じ? 緊張してパニックになるくらいなら、直前まで意識しない方がいいんじゃない?」 「子供扱いはやめて。兄様は女の人の匂いするベッドに顔をスリスリする変態行為の続きをしててよ」 「さっきまでなるちゃんいたしね。俺の事、看ててくれたんだよ。優しいんだ」 「あの菜々実って人の胸とかお尻とかに釣られたんだ。騙されてるよ」 「なるちゃんはそういうのと違う」 「もう完全に骨抜きね。尻に敷かれて、何もかも取られて、捨てられて――――そうなった時に慰めるのは私なんだよ?」 「俺となるちゃんは恋愛してるわけじゃないよ、家族だってば」 「体目当てでしょ」 「うーん……結衣っちが、あの発育の良い身体に勝つ為には、蜂蜜揚げパンだけじゃ難しいかもね」 「でもきっと、俺が結衣に望んだのは、見た通りの成長……ってことなんだろうなぁ」 「……兄様、目がやらしい」 「断じてそんな目で妹様を見たりしてません。そんなことばっかり言ってる悪い子にはRe:non様のおやすみ電話は来ないよ?」 「かれこれ、30分は待ってるのかな……意識したらまたドキドキしてきた……」 「もういつ掛かって来てもおかしくない時間だね」 “蜂蜜揚げパン”に付いてくる生電話キャンペーンの当選者は、事前に伝えた番号へRe:non様から電話が掛かってくる。 毎月100名限定と競争率は高いが、3分ほど生Re:non様と電話できる夢の様なキャンペーンだ。 当選に至る裏話はもちろん、俺の涙ぐましい3食蜂蜜揚げパン生活がメインで語られるだろう。 「どんな話すれば、喜んでもらえるかな……」 「ありのまま、枕の下に写真を置いて眠ってる事とか言えばいいんじゃない?」 「絶対キモがられる」 「写真集と同じ水着を着て鏡の前で横ピース決めてたこととか」 「兄様なんでそのこと知ってるの」 「え? あ、うん……ゆ、結衣の事はなんでも知ってるよ……?」 「犯罪者」 「そういう目はやめてくれよ。結衣だって、俺の事は何でも知ってるじゃん」 「卑怯な言い方しかできなくなっちゃったね。全部、菜々実って人が悪いのかな」 「まだ言ってる」 「………………」 「とにかく平気だよ。Re:non様は女性ファンには優しいし」 「あわわっ、ににににに、兄様、鳴ってる! 電話が鳴ってるっ!」 「慌てるなって、通知番号は……間違いなくキャンペーン係の人だね。ゴー結衣」 「あーうー……電話って鳴るものだっけ? 故障してるんじゃない?」 「いいから息吸って、吐いて……りらーーっくす」 「すーーーーはーーーー……」 「頑張れっ。取っちゃえば後は成り行きでゴー」 「……こ、この電話が絶対にRe:non様だって責任持って言える?」 「ゆーいー」 「あ、怪しい電話かも。オラオラ詐欺かも。オラオラ言われて怖くなって兄様のカードの暗証番号しゃべっちゃうかも」 「バレたって静脈認証ついてるから、早々、引き出せないって。ほら、結衣」 「証拠だしてよ……」 「え? 何のさ」 「100%確実にRe:non様からの電話だって言う証拠はあるの? ないの?」 「いやいやいや、あのね、結衣聞いてよ」 「って、ていうか、兄様ポケットから携帯でウチに掛けてるんじゃない? 私が取ったら『残念でした~』って馬鹿にするんだ」 「人を騙すのも大概にして」 「あー……」 頭がくらくらしてきた。 しまったぞ、これはしまったって奴だぞ。 妹様は重度の人見知りが悪化して、病院で診てもらわなきゃならないレベルにまで達しているのかもしれない。 逆に考えれば、これは結衣が人見知りを克服する絶好のチャンスだ。 相手は天下のRe:non様。取りさえすれば、高いトークスキルで、こっちが気持ちよく喋れるように巧みに誘導してくれるに違いない。 「嫌だ……もしホントにRe:non様でも、声キモいって言われるんだ……うまく喋れる自信ないし……恥ずかしいよ……」 背に腹は変えられない。 こういうのは卑怯だし、嫌いな手だからやりたくなかったんだけど……。 「あーあ……俺、何個、蜂蜜揚げパン食べたっけなぁ……」 「……!?」 「栄養バランスを考えた食事取らないと“《クリアランサー》〈片付け屋〉”なんてやってられないのになぁ」 「う……うぅ……」 「早く取らないと留守録にメッセージを残されて次の人に行っちゃうよ? いいの?」 「…………ごめんなさい、やっぱり無理です」 「結衣の為に蜂蜜揚げパンいっぱい食べたんだぞ! 今度は結衣が頑張る番だっ! 出てみろってっ! 絶対に大丈夫だからっ!」 「うぅ~~~~~」 「頑張れ、結衣っ!」 「ダメぇ! 兄様代わりにお願い、聞いて欲しい事は紙に書いて出すから!」 む、無理かぁ。 「キツイ言い方してごめん。最初からわかってたことなのに」 「……もしかしたら、取れるんじゃないかって思ったんだ」 さて――――リノン様と生電話しますか。 「はい、当方は数あるRe:nonスタイルの中でも、小悪魔系Re:non様に虐げられるのを心待ちにしている者です」 「出るのが遅いのも、わたしに叱られたくてわざとやったのかしら?」 好みを伝えると一瞬でソレに合わせてくる、プロの成せる業だ。 「一体、誰を待たせたと思っているのか聞かせて。5秒以内。5、4、0。遅い、謝りなさい」 「申し訳ないです。果たしてRe:non様と対話できる身分なのかを自問自答していたらこうなってしまいました」 「今すぐ床に熱烈なキスをしなさい。特別にわたしを床だと妄想する権利をあげるわ」 「ありがたやありがたや……」 「ふふ、もしかして本当にしているの? だとしたら真性の屑ね」 「ひぇぇ……」 「服を脱いで外を走って来なさい。道行く人にマジックを渡して、その汚い背中でマルバツゲームをしてもらうのよ」 「も、もう勘弁してください……妹が見ているので……教育によろしくないので……」 「あ、もうこのキャラいーい? ごめんね、調子に乗りすぎちゃった♪」 相変わらず、どこに“素”があるのか判断に困るミステリアスアイドルっぷりは健在だ。 「ふふ。初めましてかしら? 蜂蜜揚げパン普及委員会名誉会長の紫護リノンよ。この度は、たくさんのお買い上げありがとう」 「こっちこそ、忙しい中、電話してくれてありがと。いやぁ、危なく留守電で済まされるとこだった」 「実は3件連続で留守電だったから拍子抜けしてたとこ。絶対に居留守よね。土壇場で怖くなってしまうのかしら?」 「Re:non様と話すのは恐れ多いことだからね。なんたって、超最強だし」 「それわたしのセリフ。喉を潰されたい? 舌を抜かれたい?」 「声だけだと余計にゾクゾクするぅ。ありがとうございますっ」 「そうそう。キャンペーンに登録してるのは『水瀬結衣』名義なんだけど、どうして出てくれないのかしら?」 「妹は大ファン過ぎて緊張しちゃって、氷みたいにカッチコチ」 「ふふ、可愛い……♪ 大丈夫よ、代わって。わたしは取って食ったりしないから」 「いやぁ、ちょっとキツイ。あ……」 妹様の口パクによるカンペを読唇する。 読心術なんかこれっぽっちもできないけど、妹様のなら愛でわかる。 「通話時間って限られてたよね」 「3分よ。全世界がわたしの虜だから、平等に分け与えたら妥当なところかしら? なーんて♪」 「じゃあ妹が聞きたいこと、俺が代弁するから答えてもらえる?」 「事前に用意しておいてくれたのね、感心感心」 『ブラジャーの捨てどきがわかりません。いつ頃捨てるのが普通なんでしょうか?』 「いきなりね」 怒って切られるかと思ったけど、そこは業界ナンバーワン。 うろたえることもなく、穏やかな物言いだった。 「なるべくなら直接話したいから、代わって欲しいんだけど」 「だってさ」 「~~~~~~~ッ!!」 「頚椎に傷がつく勢いで首を振ってる」 「仕方ないわね。結衣ちゃんはいくつでローテーションを組んでる?」 「『兄様に教えることになるから嫌』って、教えてくれなかった」 さすがに面倒に思われたのか、小さなため息が聴こえた気がした。 「わたしは撮影の度に渡されるから、一度でも付ければいい方。大抵は捨てちゃうわ」 「だから結衣ちゃんの気持ちはわからないけど――そういう時は感覚で勝負よ。飽きたなって思ったり、捨てた方がいいかなって悩んだ時が替え時じゃないかしら」 「物を大切にしすぎるとオシャレの本質を見失うわ。悩んだら次へ。困ったら前へ。気分を入れ替えて、ゼロへ」 地味に“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”の宣伝をしている気がする。 「お金はもちろん、キミが出すのよ? お兄さん♪」 「いくらでも出す用意はあるさ。可愛い妹の為だもの」 「良い返事ね♪ 家族を大切にするお兄さんには、きっと素敵な “《へんしん》〈Re〉:”が待っているわ」 「だってさ、結衣。よかったね」 大きく頷きながら、続く質問を投げかけてくる。 「えっとね、『可愛い下着っていうのがわかりません。Re:non様は何てブランドの何色をはいていますか?』」 「んー……ふふ、それホントに結衣ちゃんからの質問?」 「疑いようもない真実だよ」 「あなたが聞きたいだけじゃなくって?」 「百歩譲ってそうだとしても、確かめる術はないよね? Re:non様はファンを疑ったりしないもの」 「ふふ、ふふふ……そんなこと言ってないでしょ」 ちょっとイラっとしてる。 「結衣ちゃんは好きな人いる?」 「ああ、いるよ。俺」 「嘘でしょ」 「いいえ、ホントです――――ってそんな怖い目で見ないでよ結衣」 「好きな人がいれば、好みに合わせるのもいじらしくっていいと思うんだけど……そういうわけじゃないのね」 「何をもって可愛いかと言えば、装飾じゃないかしら? リボンがついてたり、フリルがついてたり、刺激的なデザインだったり……」 「色はお好みだけど、無難に清純な白か、ペールカラー。ピンクはフェミニンでウケがいいわ。黒はセクシー系の代表格だし、一見、似合わなくても背伸びのギャップに惹かれる男性は多いわね」 「必要以上に面積が大きかったり、無地のものはちょっと控えたほうがいいわね。あと、なるべく高いのがいいかも」 「質と価格が比例するって意味じゃないの。高い物――――ブランド物の長所は自信に繋がる事。コレを持ってるんだ、っていう強い意識が芽生えるのは大事よ」 さすが、すらすらと流れるように応えてくれる。 聞き入って口を挟む気にもならなかった。 「一番大事なのはね、結衣ちゃんがトキめいたら、それは買いってこと」 「わたしのお気に入りを言うのは簡単だけど――マネをするだけじゃなくって、自分のセンスを信じて突き進んで欲しいな」 「道は必ず開けるから♪」 「さすがRe:non様。結衣も納得したっぽい」 「ふふ、よかったわね」 「あ、そんな事しないと思うけど――――この電話を録音してネットに流したりしたら怖ぁい目に遭うからね♪ 固定電話から個人情報は調べ放題だから」 「しないしない」 「そろそろ時間だから――」 「しないからRe:non様もイベントでサクラなんか雇っちゃダメだよ」 「――――!?」 「それと人を放り投げるのはまずいよ。あれは効いたぁ。ワケあってから頑丈になったから、人を投げたい時は俺に言ってね」 「………………」 Re:non様は生唾を飲み込む音さえも一般人のソレとは違う美しさがあった。 「……どうしてこっちに掛けて来てるのよ」 「はい? 掛けたのはそっち――――」 「そういう意味じゃない。番号よ。書いたでしょ」 「あれサインじゃなくて番号だったんだ。Re:non様の文字下手っぴだから解読できなかった」 「ふ、ふふ……あの時は急いでたからよ。私は何をやらせても超最強。習字の段位も持っているのよ」 「いや、仕事してたら消えちゃってた。あはは」 「わたしのファンなら握手の後は一週間は手を洗わない事を心がけなさい。仕事で汚れるなら転職しなさい」 「まぁいいわ……不幸中の幸いね。これで居場所は突き止めた」 「時間いいの? もっとおしゃべりできるならこっちは万々歳だけど」 「……こほんっ」 「名残惜しいけどもう時間だわ。今度も蜂蜜揚げパンをよろしくね♪ 絶対絶対だよ。わたしとの約束に“《へんしん》〈Re〉:”できる?」 「僕たち私たちはRe:non様以外のアイドルを一切認めることなく、Re:non様だけを信仰し続けることを誓いますっ」 「ありがと♪ あなた達がわたしを慕い続ける限り、わたしはいつまでも超最強よ」 「ごきげんよう」 「は~~……終わった。死ぬかと思った」 「出たのは俺なのに大げさだよ」 「兄様って肝が据わってるよね。Re:non様を相手に友達感覚で話せてた」 「気にし過ぎたら相手にも悪いじゃん。せっかく世界一位さんとおしゃべりできるのに、緊張してたらもったいない」 「電話越しでも綺麗な声だった。やっぱりホンモノは違うなぁ。自信に満ち溢れてるっていうか……わたしとは大違い」 「Re:non様も言ってたよ、我道を行けって。結衣っちは結衣っちのいいとこ、ムチャクチャあるんだから」 「私でもアイドルになれる?」 「そのためにも人見知りを――――」 「鳴ったね、事務所のチャイム」 「もういい時間なのに誰だろ。水瀬に喧嘩を売りに来たなら門前払いだ」 「菜々実って人が上がってくる……馴れ馴れしくされる前に部屋にもどるね」 「いやいや、この機会に人見知りをだね」 「兄様、ありがと。明日も晴れだよ」 「……うん」 「やれやれ……なるちゃんとは正反対。昔はあんなんじゃなかったんだけどな……」 言っても仕方ない。 今は、やってきたどちら様かを迎えに行くのが先決だろう。 「優真くんチャイム鳴ったよ」 「お疲れ様。今日子さんとの親睦は深められたようだね」 「や――――いやぁっ。言わないでぇっ」 耳を塞ぎたくなる《トラウマ》〈惨劇〉を引き出してしまったようだ。 「もう細長いものは見るのも嫌、嫌なのっ! あんなに奥まで入るなんて、常識を覆すのはもうやめてぇっ!」 「な、なるちゃん……」 「なんであんなに見せつけるの? ほらほらって。じゃあ今日子さんはどうなの。アハハ。私だけ? 私だけなんだ」 いったい何があったのかは聞かないでおこう……。 「それなのに終わってみると、あの時間が掛け替えの無いものに思えてくるのは何故……?」 なるの顔は火照り、憂うように淫靡な影をつくる。 「はぁん……まるで魔法みたい。取り返しのつかない快楽を覚えさせられてしまったわ……」 ほっと吐き出す吐息は熱に浮かされたようだ。 「今日子さん上手だったでしょ」 「…………うん……すっごく。身体がとろけちゃいそうだったもん……」 「ひょえー。や、やるなぁ今日子さん……」 「あれ? カップが二つ……?」 「ああ、喫茶店で話したでしょ? 妹の結衣だよ。さっきまでくつろいでた」 「えっ、妹さん? 可愛いのよね。顔見たいわ」 「うーん……まぁ、そのうちね。本人の心の準備もあるだろうし」 「私ってやっぱり招かれざる客なのかしら……? お兄ちゃんを奪うライバルが来たって敵視されてるとか」 「気難しい年頃ってだけだよ」 「あ、もったいない。珈琲ほとんど飲んでないね。ちょうど喉乾いてたし、いただきま~す♪」 「冷めちゃってるから、後で新しいの淹れてあげるよ。あと、もうなるちゃんは家族なんだから、誰か来ても堂々と出ていいんだからね」 「あ、そうだったわ。なんかまだ慣れなくって」 照れ笑いするなるを置いて、玄関へ向かうことにした。 「はい、ご苦労様です。あ、扉はウチの大黒柱が壊しちゃったんでそのままでいいですよ」 受け取ったダンボールを片手に宅配業者を見送る。 「さーて」 「こんな時間に誰からだー」 手の塞がった俺を気遣ってか、今日子さんが玄関をはめ直してくれた。 「リビング戻ってから開けようよ」 「なぁなぁゆーまー。聞きたまえよー聞きたまえー♪」 「聞く聞く。なるちゃんとの幸せ家族計画でしょ?」 見るからに上機嫌な今日子さんの相手をしていると、こっちまで幸せになる。 「なるの中……ほじくりがいがあったぁ。すごかったぞー。こっちまで気持ちよくなってしまった」 「ホクホクだね」 「奥のほうが敏感みたいだなー。きゅって脚を縮めて、う~~って唸ってたぞー。あー♪ かわいーんだなー♪」 「自分ではそこまで奥にやったことはないんだろうね」 「最初は怖がっていたようだが、そこは私のテクでフォローだ。ぐふふー、色っぽい声を聞かせてもらって満足だぞー」 「いいなぁ、なるちゃん。今日子さんの耳掻き、ずいぶん長いことしてもらってないなぁ」 「何歳児のつもりだ優真ー? 私の膝枕はもう卒業しただろー」 「さすがに甘え過ぎだよね。とりあえず、なるも水瀬家の洗礼を受けたってわけだ」 純粋に羨ましかったけど、甘えん坊が許される歳じゃないこともわかってる。 「耳掻きって人にされるの怖いよね」 「うむ。信頼している相手にしか、任せたくないものだなー。だからこそ、気持ちよくなってくれて良かった」 「今日子さんの耳掻きは比類なき腕前だから当然だよ」 なると今日子さんの思い出作りが成功して良かった。 「さぁ、お二人さんご注目っ。特に今日子さんはご注目」 「あ、何か持ってる。ダンボール箱?」 「さっさと開けるのだー。どうせ宗教勧誘か送りつけ商法だろー」 社長のうんざりした顔の移り変わりが拝める位置を確保してから、開封していく。 「なんだろうな。ん……新聞紙に包まれたこれは――――重いっ! て、手が折れるっ!!」 「何をやってるのだゆーま。なる、手を貸してやるのだー」 「クッフッフ。愉快愉快。片手で充分だ」 「って……ホントに軽くない?」 「いやいやいや重いよ。なるちゃんの細腕じゃ折れちゃう。だ、ダメだ! 蜜がぎっしり詰まってるから重い」 「そ、そんな事ないと思うんだけど」 「……はぁ、情けない。そんなことで “《クリアランサー》〈片付け屋〉”が務まるものかー。 貸してみたまえー」 屈みこんだ今日子さんは片手で器用に新聞紙の包みをはがしていく。 「ん――――」 「あれぇ? おかしいなぁ。コレ、見覚えあるなぁ。なんていう果物だっけ」 「めっ、めっ、めっ――――」 「うーん……わかんないっ! 今日子さん教えて! このずっしり重たくて蜜がぎゅって詰まった甘ぁい香りの果物は一体全体なんなのか、ズバッと答えちゃってくださいっ!!」 「めッろ~~~~~~~~~~~~~~~~ん♪♪♪♪♪」 「誰からだろ……って俺だー! 送ったの俺だっ、忘れてたなぁ」 「めろ~~ん♪ めろんめろ~~~ん♪」 「そっかー、サプライズプレゼントなのね」 昨日の今日子さんは語尾にメロンばっかり付けてうるさかったから、もしかしてと思ったけど。 「メ・ロ・ン! メ・ロ・ン!」 我が子にするように頬ずりをする今日子さんを見て、買って良かったって思う。 「なる、メロンを神棚に運びたまえー! 粗相のないようになー!」 「はいっ、ただいま」 なるはテーブルを神棚に見立て、慎重にメロンをお皿の上まで運んだ。 路上販売のワケあり商品なので僅かにヘコみがあるが、果物の価値は果肉にあって外見にはない。 「おっと、こっちはなんだろうなー。《メロ》〈銀ムツ〉だー! 煮ても焼いても美味しいぞー!」 「メロもめろ~ん、メロンもめろ~~~ん♪」 もしメロンではなくメロが食べたかったら盛り下がってしまうので、考慮して両方買っておいた。 「じゃ、じゃあ二礼二拍手一拝とかしちゃうわっ」 なるのテンションもおかしくなったのか、率先してメロンに参拝作法を実践している。 「ゆーま、我々も拝むとしよう。ありがたやー」 「ハハァ……! メロン様、美味しく実ってくださり、ありがとうございますぅ」 「…………ふふ」 「どうしたのなるちゃん。可愛いすぎる笑顔してたら今日子さんに食べられちゃうよ」 「ううん。家族っていいなぁって」 「あたりまえじゃん」 「はーい、どうぞ」 「お邪魔します」 プライベートルームに顔を見せたのは、いつもより髪がしっとりして、肌もぴっちぴちの潤いの美少女だった。 食べたくなるような髪だ。どんな味がするのやら。 「水も滴るイイなるちゃん」 「シャワー頂きました♪ 久々にちゃんとした水浴びができた気がするわ」 「サッパリして気持ちよかったでしょ。なんだかんだ暴れまわったし、あとは寝るだけだね」 「あれ? 本読んでたの? 見せて見せて」 「ん? ああコレ。寝る前に欠かせない夜のお供、Re:non様の2nd写真集“クレッセント”だよ」 多面性のあるRe:non様の中でも、夜をテーマにしたとびっきりセクシーな写真集。 あの完成された美から来る絶対的な自信と挑発的な視線の虜になること間違いなしの一冊だ。 「コイツ大嫌い」 「また始まった。新聞紙の件は忘れてないからね」 持っていた写真集をなるから遠ざける。破られたら堪らない。 「オタク臭っ。これでポスターが貼られてたら完璧だわ」 「本気で言ってないことくらいわかるよ。なるちゃんは人の趣味にどうこう言う子じゃないからね」 「お金さえ積めば整形し放題、写真加工もし放題だわ」 肉眼で見た俺の評価を言うなら、ダイヤモンドの原石を磨いた本物のダイヤモンドだ。 人工的な誤魔化しの効く美しさではない。 なるも思いついた悪口を言ってるだけだろうから、本気にはしないけど。 「逆に聞くけど、どうしてそこまで嫌いなの? 理由のない批判なんて低レベルなこと、なるちゃんはしないでしょ」 「いくつかあるけど……」 「一個でいいよ」 「あの子が売れっ子小説家の作品にキャラとして登場したことは、知ってるかしら?」 「ああ、骨のなんちゃらっていうタイトルの。俺は買ってないけど」 「まえにラーメン屋で夕飯を食べてた時、ちょうどあの子が作家と二人でインタビューに答えてるところがテレビでやってたの」 「その中で『本はもう読みましたか?』って質問があって、あの子はこう答えたの」 「『わたしは必要もなく小説は読まないの』」 「『ページを開けば誰にでも平等に知識や、興奮や、感動が手に入る。達成した気になって満足してしまう』」 「『空想のお世話になるのもいいけど、その全ては、現実世界で獲得してこそ意味があるはずじゃないかしら? そう。わたしのように』」 「名言すぎる。近々発売するRe:non様の語録集に収録されてるね」 作家のなるが嫌いになる理由としては、上出来なワンエピソードだった。 「創作をおままごとだと言い張ったのよ? 全ての作家に対する冒涜であり挑戦よ」 「隣で話を聞いてた作家の顔はそれきりカメラに映らなかったけど、唇を噛んでいたに違いないわ」 Re:non様は、こういった発言で周りに存在をアピールする節がある。 Re:non様の言葉が本心なのかマイクパフォーマンスなのかは置いといて、彼女が頂点に君臨し続けるには飽きられないキャラでいることが必要なのだ。 普通の人なら『読みました』『面白かったです』など好意的な感想しか言えないシーンで、堂々と自分を貫いてみせる。 あの自信満々な態度でハッキリと断言されれば、お茶の間の視聴者は嫌でも注目するだろう。 「その作家の本を、なるちゃんは一冊でも読んだの?」 「話題になるだけあって序盤から引き込まれる展開で終始、安定して読めたわ」 「文章は地に足ついてて、キャラも個性的で好きになれる、すごくいいものだった」 なるほど。 つまり、その小説家は典型的なオンリーワンであって。 対する、紫護Re:nonは究極的なナンバーワンというわけだ。 「コイツを嫌いな理由はそれだけじゃないんだけど……やめとく。優真くんとは、楽しい話がしたいから」 同感。分かりあえない話を続ける気は俺にもなかった。 写真集がなるの視界に入らないよう配慮し、話題を変えた。 「学園は楽しみ?」 「うん♪ 明日から通えるなんて嘘みたい」 「うぐ……なるちゃんの可愛さに学生というステータスまで追加されたら、ど、どうなっちゃうんだぁ?」 「いよいよ誰も止められないわね。向かうところ敵なし」 「それもこれも全部、今日子さんのおかげだよ。偉大さが身に染みるでしょ」 「学園長さんと電話で2、3言葉を交わしただけで入学できるなんて、驚いたわ。裏口もいいところね」 「制服は今日子さんからもらった? いつ女の子を連れ込んでもいいように、コスプレ用で持ってたはずだけど」 「あれ? 私の制服姿が気になるのかしら?」 「そりゃ愛しのなるちゃんが制服を第何ボタンまで開けるのかは気になるよ」 「試着しようと思ってるんだけど、見たい?」 「な、生着替えはまずいよ。鼻血が致死量に達する」 「しないわよ」 「明日でいいよ。興奮して眠れなくなっちゃう」 「肝心なトコで奥手よね。エッチなのは口ばっかの優真くん♪」 「ははは。今日子さんはぶっ倒れたままだった?」 「ソファから落っこちてたけど、戻してもまた寝返りで落ちるからタオルケットを掛けといたわ」 「それ正解」 「いつも、あんなベロンベロンになるのかしら?」 「割りとなるけど、仕事に差し支えはないよ。仕事の電話が来れば嘘寝だったみたいに瞬間的に起きる。あんな人、他にいないんじゃないかな」 「メロンがお酒の肴になるのは勉強になったわ」 「今日子さんは何でも肴にしちゃうよ。月見酒も。星見酒も。一番好きなのは、海見酒らしいけど」 「一発芸の『蛇口全開で1分間耐久、水道水がぶ飲み』は脅威だったわ」 「今日子さんは特殊な訓練を受けています。良い子は真似しないように」 「しないわよ。というか無理。私も人より大喰いだけど、暴飲はお腹壊しそう」 「思い出しただけでお腹が――――否、結界を潜り抜けた“《アビス》〈進化の終着点〉”で堕天使達が騒ぎよる。黙示録が予定より早まったか……」 クフフと笑んで、いつもの決めポーズを取っている。 「お腹痛いの? どれどれ」 「ひょわ!?」 がら空きのお腹をさする。細くて締まってるけど、女性特有のやわらかさが良い具合に手のひらに馴染む。 「でゅわぁぁぁぁんッ!? ぽんぽん触りゅなぁぁぁっ!! 第四の、第四のアレが……出りゅぅっ! 出ひゃぅうぅぅぅぅッッッ!!」 「ユナイテッド肘ボンバーッ!!」 「がっ――――!」 顎にイイのをくらった俺は、叩きつけたお餅みたいに床に伏した。 「お、女の子のお腹を気安く触っちゃダメなんだもんっ!」 「イテテッ……なるちゃんのお腹が心配で……」 「それにしたってストレートすぎるわ。そういう時は背中をさすって」 「で、第四のアレって?」 「《ヘルゲート》〈煉獄の門〉の連中と交信してただけよ。閻魔が霊界に物見遊山してるってもっぱらの噂だわ」 「ああ、意味はないんだね。ひゃっくりみたいなもんだ」 「失礼ね、ひゃっくりは意味あるわよっ」 「ひゃっくりは意味あるけど、なるちゃんのは意味ないんだったね。ごめんごめん」 「“意味”の83%は既に消失した。残された僅かな“無意味”を増幅できるのが我が一族の真髄」 「みかん食べる?」 「わーい! 皮剥いてある。こういう小さな気遣いが、優真くんのイイトコだわぁ♪」 とりあえず食べ物で会話を一度精算するという方法は有効みたいだ。 常になにかしら持ち歩いておけば、なるの暴走を止める上で役立ちそうだ。 「バクッッッッ! もむもむもむ……ごくん」 「スッパ~~~~~イ♪」 和むなぁ。 「なるちゃんのソレって厨二ジャンルを書く上で大事なことなの?」 「厨二は考えるものではない、感じるものだ」 「“《ピースリー》〈PPP〉”さわりの方だけ読んだよ。ざっと見て14章あったから驚いた。ホントに力作だね」 「…………そっか……」 「…………あれ? ムチャクチャ落ち込んでない?」 「さわりを読んで、途中でやめちゃうくらいの評価ってことでしょ?」 「いやいや、まず設定と世界観が別記で用意されてたじゃん。あっち読破するだけで文庫一冊分は楽にあったよ?」 「これでも削った方なのよ。私の設定ノートを全公開したら投稿サイトが阿鼻叫喚の地獄絵図になるわ」 「ちゃんと設定を咀嚼してからじっくり読もうと思ってね。読み出したら止まらなくなりそうだから止めたんだ」 「そういうことなら納得したわ。優真くんは良き読者のようね」 「キャラ立ってるよね。ヒロインの《ひひめめ》〈日冒目〉ちゃんの設定、凄いって思った。あーいうの俺、絶対考えられないよ」 「『傘? 必要ないわ。許可なく私にぶつかれるほど、雨だって馬鹿じゃないわ』」 「『虹は何故綺麗か知っている? 私に見限られないよう、努力し続けているからよ』」 「それ、お気に入りのセリフなの! 一字一句違わずに言えた優真くんは偉い」 「読んだばっかりだし、名台詞が雨のように刺さって大変だったよ」 「主人公の少年が優真くんそっくりなの。姫を一途に守ったり、ちょっとエッチなとことか、行動理念も似てるわ」 「じゃあ煮詰まったら俺が主人公の気持ちになって考えてあげよっか?」 「え?」 「あ、余計なお世話かな。創作なんてやったことないから、マナー違反みたいなこと言ったかも」 「ううん、嬉しい……♪」 「ずっと一人でやってきたけど、何か足りないって感じてたの」 「優真くんがアドバイスしてくれれば、モチベーションの持ち方も変わりそう。さらに上を目指せるわ」 「共同作業かぁ。まるで夫婦みたいだね」 「…………」 「なんて。俺なんかには冗談でも言われたくないよねー」 「う、うっ――――」 「うぜぇええええええええええええええ~~~♪♪ うぜぇうぜぇうぜぇ♪♪」 「痛い、痛いッ! 叩かないで、痛ェッッッ!!」 「おまえ、うぜぇ♪」 「指差さなくてもわかりました、俺はうざいです」 「言い方がうぜぇーんだもん♪ もー♪ 夫婦だなんてー、言っていいことと悪いことが、あ・る・ん・だ・ぞ♪」 「痛ッ!! イッ、ちょっ、うわっ、うわぁっ!!」 「もうッ♪ もうッ♪ どんなプロポーズだよッ♪ そんなに私が好きかッ♪♪」 なるは気分が良いとバシバシ殴る癖があるみたいだ。 「もう半殺しなんで、全殺しは勘弁してください……」 「あれ? 優真くんなんで倒れてるの? 誰にやられたの? 私が仕返ししてあげるわ」 「………………」 なるの特殊スキル“都合の良い物忘れ”が発動したらしい。 「でも優真くん、私のこといつも可愛いって言ってたし、何となく気づいてたわ。もしかしなくても両想いね♪」 「そうだね、俺はなるちゃんスキーだよ」 「恋人同士だわッ! 何をしたらいいのかしら。遊園地デート?」 「何もしなくていいんじゃない?」 「嘘つき。優真くんの恋愛にプラトニックは似合わないわ」 「え? 《・・・・・・・・・》〈恋人じゃないじゃん〉」 「……………………………………………………………………………ん?」 カップ麺くらいなら作れるくらいのスゴイ間があった。 「うまく理解できなかったわ。もう一回、いいかしら」 「いや、恋人は違うでしょ。家族じゃん」 「生まれて初めて芽生えた淡い恋心の雲行きが怪しい」 「好意的に思ってくれるのは嬉しいんだけど、錯覚だと思うんだ。なるちゃんと俺じゃ釣り合わないよ」 「初恋は未だ実らず青い果実のまま成熟の時を待つ」 「話、聴こえてますか?」 「雲行きっ!」 「が怪しい?」 「ふ、フラれた……? でも好きって、何度も耳にしたもん! あれ全部ウソってこと!?」 「人として好きって意味だけど」 「だってだってっ、責任取ってくれるってっ!」 「取るよ。なるちゃん家ないからウチ泊まって良いし、生活面は俺がカバーするって意味だったんだけど」 「家族の一員ってことになるよね。盟友でも、契約者でも、恋人でもなくて、大切な家族」 「うぅ……」 いつ頃から俺をそんなふうに見ていてくれたのだろうか。 “契約”をした時からか。 自作小説の主人公と俺が似ているからか。 今まで二人で過ごした短くも濃厚な時間からか。 とにかくなるは、俺の事を異性として見てくれているようだ。 「じゃ、じゃあ私の撤回不可能なくらい明確な告白の行き場はどこへ?」 「これからもよろしくお願いします。ただし、家族的に。という決着でひとつ」 「もしかして優真くん、他に好きな子がいるの?」 「Re:non様は憧れだしなぁ。身近な中では、なるちゃんがダントツで好きだよ」 「だったらなんで? ま、まさか今日子さんとは真逆の性癖……」 「そんなわけないでしょ。脚と脚の間にホソクテナガイもんが生えてる奴に興味はないよ」 「会話の弾みでしちゃうような告白だから軽く思われたのね。もっとムードを考えるからテイク2いい?」 「いいけど、答えは変わらないよ。俺みたいな未練がましい妄想野郎は、やめたほうがいい」 「吹っ切れた気になってるだけで、どっかで期待ばっかりしてるおかしいやつだからさ」 「なにそれ……意味分かんない……」 全然、納得いってなさそうだった。 適当な事を言って強引に断ろうとしてる嫌な奴とでも思われたかもしれない。 「ク……クフフ……コレって逆境? そうか。わざと私が燃えるようにスルーしたのね。そういうことね」 「1フラレくらいでヘコタレるような菜々実なる様ではありません」 「いつか“うん”と言う日まで、しつこく言い寄ってあげるから覚悟するがいいわ!」 恋愛に闘士を燃やすなるを見て、おぼろげに思う。 告白に『いいよ』って返事するのは簡単だったけど、俺はきっとそれをしないし、できない。 いつかできる日が来るとは思うけど、それまで待ってもらうわけにもいかない。 とするならば――――なるが俺に感じている“好き”が映画のパンフレットのような厚みしか持たないうちに、嫌われる行動を取った方がいいのだろうか。 「まぁさ、付き合うとかそういう形式じみた事はいいじゃない」 「生涯の伴侶を決断するわけでもないし、こうやって一緒にいるだけでいいじゃん? なるちゃんの頼みなら、大抵は聞くし」 「それもそうね。同じ屋根の下で暮らしてるんだし、いつでも会えるものね」 「そっかそっか、なーんだ」 『胸がドキドキして一人じゃ眠れない』なんて乙女な事を言われた日には、俺がどうして恋愛できないかを洗いざらい話さなきゃいけないところだった。 「どのくらいまで恋人っぽい事していいの?」 「雄の本能という獣が、人の理性という鎖から解き放たれない程度なら何をしても」 「ご、強引なのは嫌だわっ! 私、優しくされたいもんっ」 優しくならいいって……。 俺がその気だったら、その……そういう事がOKなのだろうか。 「う……ダメだ。想像しただけで色々と限界になるから、ピンクな会話はやめにしよう」 「……? …………なるほど」 なるは立鏡に映った自分を上から下まで見下ろしてから、悪戯チックに笑んだ。 「そういえば優真くん……“《リーディング》〈虹色占い〉”で指を咥えた時、妙にビクビクしてたわね」 「あの……なるちゃんさん?」 「この間読んだ本にも、恋愛成就の基本は積極性に尽きるって書いてあったし……」 あの顔は企んでいる顔だ。 「さ、さて! いつ緊急の仕事が入ってもいいように体力を回復しなきゃ。俺は寝るよっ」 「わかったわ。おやすみなさい、優真くん♪」 「あ、うん。おやすみー」 笑顔で引き下がられると、余計に怖い。 「……困ったなぁ。絶対なんか仕掛けてくるじゃん」 先ほどの流れから来る想像力と、なるの香りが充満した部屋のコンボに快眠を妨げられそうだった。 とはいえ、一度眠ってしまえばどうとでもなるだろう。 休むのも仕事のうち。 “《クリアランサー》〈片付け屋〉”はいついかなる時でも舞い込んだ仕事を最優先に考え、動ける体作りを心掛けなければならない。 「今日も色々あって、いい一日だったなぁ」 闇に目が慣れないうちに目をつぶり、考えるのをやめる。 そうやって頭を空っぽにして――――それでも自然と浮かんでくるのは大切な人たちの顔だ。 両手で数えられるほどの顔ぶれの中に、俺が恋とか愛とかにかまけちゃイケナイ理由を見つける。 「俺、お疲れ様です」 「…………んー……」 「んしょ……お邪魔しまーす……」 温かい……だけじゃなく、やわらかい……だけじゃなく。 なんかこう……気持ちいい……っていうか? 母親の、胎内で丸まっているような――――心地良さが、俺を包んでいる。 「わっ、温かい。優真くんの人肌と油断顔ゲット」 子守唄のような声が、いっそう眠りを深くする。 「どなたかは存じませんが……ありがとうごじゃまーす、むにゅにゅ……おやしゅみぃ……」 「気持ちよさそうに眠ってるのにごめんね。起きてもらわないと、来た意味の半分以上が失われちゃうの」 優しい香りがして……幸せで……安眠快眠、明日もいい仕事ができそう……。 「ぜ……っと……ぜっ……と……ゼット……Z……ZZZ……ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ…………」 「ゆ・う・ま・君♪ ていっ♪」 「むきゅんっ!?」 「いっ!?」 「しー……うるさくすると、みんな起きちゃうわよ? っていうかその寝言は突っ込んだほうがいいのかしら?」 「な、何をしてるのなるちゃん。ここ、俺のベッドだよ? すぐに出てください」 「まぁまぁそうおっしゃらずに。新製品の、菜々実なる抱きまくら、おひとつどう? 今ならキャンペーン中で無料期間付き」 「わっ、わーーっ」 「ぎゅ~~♪♪ ゆーまく~~ん♪♪ 愛してる~~♪♪」 超やわらかいなるちゃんボディの気まぐれで戯れな急接近。 押し潰れたできたてのプリンみたいなおっぱいは、服越しでもわかるぷにぷに感。 「見えてますって、可憐な乳輪までバッチリ視界に収まってますってっ!?」 「しょうがないなぁ、ちょっとくらいならいいわよ」 「年頃の男女がひとつのベッドってのはいくらなんでも間違いが起きるってっ!」 「ふふふ。菜々実なる抱きまくらの売りは抱き心地だけではありません。設定した厨ニボイスを吐きまくります」 なるの体温と眼差しが反論の自由を与えてくれない。 「で、ではサンプルを……」 音声再生スイッチに見立てて、肩のお肉をぷにっ、と押してみる。 「“朝まで優しく抱いてね……ご主人様”」 「なんか違うから間に合ってます」 「そこを何とかー。サービスするからー」 「あ、こら、ダメ……くっつきすぎだよ……」 「クッフッフ♪ いーやーだ♪」 なるがご機嫌なのはイイコトだけど、この密着感はヤバい。 いささか、過ぎた愛情表現というか、家族サービスの粋を超えてるというか。 「う、うーん……なるちゃんの服装は、いたいけな青少年には目の毒だよ……」 「好きになったからには積極的にいかないとね。恋に時間は関係ないし、優真くんカッコイイから誰かに取られちゃったら嫌だもん」 やっぱりさっきの笑みはこういうことか。 「はいはい、お終い。力技は卑怯だよ? 色仕掛けは大人になってから」 「何のことかしら? 私はただ、命の恩人と交流を深めに来ただけよ」 「俺となるちゃんは彼氏彼女の関係にはなれないんだよ。家族でこういうのは良くないよ」 「ただ一緒のベッドで甘えてるだけで、何もやましいことなんてないわよ? その発言自体に問題があるんじゃないかしら?」 ああ言えばこう言って、ほっぺたを胸に当ててすりすりしてくる。 「んふ……♪ 優真くんは、清く正しいから……私に甘えられても、変な考えは起こさないわよね」 「へ、変なって……な、なんのことやら……早く、出て行ってよ」 「クッフッフ……♪ 私が何をしたって、ひどくやらしい水瀬優真にはならない、の・よ・ね?」 なるの掌が腕や胸やお腹を撫で、そしてとうとう……。 「うはっ」 「どうなの……? 家族なら、こんなことされても、なんとも思わないはずよね……?」 なるがパジャマの上からいやらしい手つきで、ち○この輪郭をなぞってくる。 「ちょ、なるちゃ……あぅ……」 なるは美少女だから、女の武器を生かせば男なんてころっと落ちる。 特に俺みたいな思春期の小僧は、四六時中とはいかないにしろ、事あるごとに変態な事を考えてしまうわけで……。 「(ヤバイ……このままじゃ、我慢が……できない……)」 下腹部に熱い衝動が込み上げてくる。 ぶっちゃけ、半勃起。 バレたら、なんて突っ込まれることやら。 「あ……ふふ♪」 さす……さすさす……こしこしこし……。 確信犯の笑みで『ん?』と首を傾げながら、パジャマ越しにち○こをシコシコ。 「優真くん……コレ、なにかなぁ? 硬いのがあるわよ。私へのプレゼントでも隠してるのかしら?」 「うぉいっ! な、なななんで脱がそうとしてやがりますかっ」 舌なめずりをし、パジャマを脱がそうとしてくる。 悲鳴をあげそうになりながら阻止する俺。 ――――なんていうか、襲われてる? 「ストップッ! 犯罪じゃなかったっけ、コレ! 立派なセクハラだよッ!?」 「だって、勃ってるじゃない」 「た、勃ってる……けど……勃ってたら何? 勃っちゃダメなの?」 「そんなこと言ってないじゃない。えっちな気分じゃなきゃ、こうはならないもの。私に興奮してくれたのよね?」 「だ、だからなんで脱がそうと……」 「仕舞っておけない大きさになってるからよ。大丈夫、恥ずかしくないから、私に任せて……♪」 「…………」 「そんなに怖がらないで。嫌がることも、痛がることも、しないから」 「ねぇ……優真くん……気持ちいいこと……し・よ♪」 その気になれば追い出すことができたのに、俺は力を抜いてしまった。 ダメだとわかっていても、なるの可愛くも淫らな誘惑に打ち勝てるほど枯れてはいなかった。 「わぁ……♪」 ち○こが外気に触れて、ビクッとしゃくりあげる。 ちょっと蒸れたち○こに感じる熱っぽい視線。 淫乱モードななるの瞳が爛々と光る。 あれは俺を襲う気満々の目だ……。 「すごいおっきいね。本物なんて初めてみたわ……」 ち○こってやつは別の生き物だなと改めて思う。 俺の理性などお構いなしに凶暴な姿を晒し、快楽を求めようと必死で、媚びを売るよう首を振る。 「いっつもこういうふうになっちゃうの?」 「いつもは、こんなバキバキに勃起しないよ……なるちゃんが乗っかってるから……」 「私だから? やっぱり私のこと大好きじゃない……♪ じゃあ、これで晴れて恋人同士ね」 「そこに結びつけるのはやめてよ。俺は、恋なんかしていい身分じゃない……」 「強情ね。まぁ恋の話はおいおいするとして、今はこっちの子を慰めてあげないとね」 なるが繊細な手つきでち○こを握り、上下に動かしてくる。 「んくっ、う、うわっ」 「え? まだ触っただけじゃない? 騒ぐようなことかしら?」 「だって気持よすぎるから……最近、いじってなかったからのもあるかもだけど……」 「やっぱり男の子って、一人でおち○ちんいじったりするのね。本で書いてあった通りだわ」 「…………お……」 「ん?」 「(おち○ちんって……なるの口から……あのちっちゃい桜色の唇が、おち○ちんって言った……)」 などと感動していると、なるはもぞもぞと姿勢を変える。 それだけで育ちすぎたメロンみたいなおっぱいが零れそうになる。 「だ、黙られると、さすがに恥ずかしいんですけど。私だって、その方が悦んでもらえるかなって思って勇気出して言ってるのよ?」 「ごめん……俺には、刺激が強すぎて……」 そもそもこの状況がかなり特殊だ。 女の子と話したことは数あれど、ち○こを握られながらの会話なんて初めてだし。 「っていうか、なるちゃん……慣れてるよね? もしかして、こういうの初めてじゃない?」 「初めてに決まってるじゃない。ただほら、私って作家じゃない? 官能小説だって好き嫌いなく読むのよ」 「どんなシーンに直面してもキャラに自然に動いてもらうためには、一定の知識が必要でしょ?」 「なるほど……」 「知らないことって文章に出ないのよ。経験は滲み出るものなの」 耳年増っていうんだっけ。こういう子。 でもそういう日頃の努力って、報われる。 その習慣自体は、とても偉いと思う。 「だから初めてだけど……私に任せてくれれば、いっぱいいっぱい気持ちよぉく、最後までシてあげられると思うわ」 「どうしても、私のおててでおち○ちんを扱かれるのに抵抗があるなら、やめるけど」 「一個だけいい……?」 「うん?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”って――人間のこどもを授かることができるの?」 「……ううん。無理よ。“《イデア》〈幻ビト〉”同士でも無理って話だわ」 「えっちな事が“えっち”だって理解はできるから、普段は合わせた反応をするけど……実際、そんなに抵抗感はないのよね」 いくらと筋子の違いくらいには、納得できた。 なるは女の子としての振る舞いを身に着けているだけで、本能的な部分で性行為そのものにコミュニケーション以上の意味を見いだせていない。 俺という個人に対して好意を抱いた上で、料理をつくったり、背中を流すのと同じ感覚で、ち○こを弄るという選択肢が含まれているのだ。 「ね、一緒にイチャイチャして遊ぼうよ。もしかして遠慮してるのかしら?」 そう――――《・・・・》〈遊び感覚〉。 しかし“《イデア》〈幻ビト〉”にとってはそれが普通であり、気に入った子(この場合は幸運にも俺)に対して積極的になれるのだろう。 もちろん、周囲に人目があったりすれば別だけど、今は二人きり――俺に奉仕することに躊躇いはないのかもしれない。 だったら……それは恋人同士の営みとは、意味合いが違ってくる。 「……今夜……一回だけ……お願いしようかな」 「りょーかい♪ それでは一名様、快楽の園へごあんなーい♪」 どことなく《プレイ》〈風俗〉っぽい。 内容も。そのえっちな顔も。えっちな身体も。 いろんな意味で、俺の期待感を煽ってくる。 「こうして……てのひらで優しく包んで……んしょ……熱い……このおち○ちんには炎属性が付与されているようね……」 なるのかわいいぷにぷにお手々が、剥き出しの蒸れたち○こにぴったり密着する。 「んっ……んっ……先っぽは、ぷにぷにしてる……棒のとこは、硬くて……芯が入ってるみたい」 指圧を加えながら、皮を伸ばすように、しゅこ……しゅこ……こしゅこしゅ……くしゅくしゅ、しゅっこしゅっこっ。 「ん……シコシコ良い? 反り返ってる、裏側のスジ、ここなにかしら? 撫でてみよっと」 ち○この形を確かめながら、上目遣いで見つめて、しゅこしゅこしゅこ……シコシコシコ……っ。 「なんだか優真くん、おち○ちんされたら、大人しくなったような……? シコシコ気持よくて、抵抗が馬鹿らしくなっちゃった?」 「いや……なるみたいにかわいい子でも、その……ち○こ触ってくれるんだなぁって」 意味不明だけど、童貞の思考は基本的に意味不明。 なるは首を傾げながらも、ち○こを扱くのは忘れない。 実践皆無を補って余りある天性の才能。 「顔と体は、関係ないじゃない。シてあげたいって思う気持ちだけが共通事項でしょう?」 「私はもっと優真くんに悦んでもらいたいだけ……ん……ん……おち○ちん、しゅっしゅ、気持ちいい……?」 「すごく……」 「クフフ。わかってたけどね」 「だって見たことない顔してるもん。『おち○ちんシてくれて嬉しい』って『なるちゃん大好き』って顔に書いてあるもん」 「ね、捏造だよ」 「嘘よ。出逢った時からずっと、私におち○ちんして欲しかったでしょ? 今だって、おっぱいチラチラ見てる」 「誰だって見るじゃん」 「年頃の男の子だもんね、仕方ないわ」 ほっぺたと同じくらい柔らかくて小さな指で、尿道口をくりくりほじほじ。 なるがち○こを弄ると、何も知らずに玩具で遊んでいるような印象がある。 でも実際は、俺の反応をチェックしながら、的確に性感を高めようとくれている。 「シコシコ続けてたら、もっと硬くなってきたね。優真くんのおっきいおち○ちん、どんどん気持ちよくしてあげるわ」 「なるちゃん、えっちすぎ……」 「えっちすぎちゃうと嫌? じゃあ、やめる?」 「あ……」 「ん?」 「だって、こんな途中じゃ……困るっていうか……」 困る。困る。困る――――埋め尽くされた思考が行動となって、なるを求めてしまう。 「あ……♪ なにこの手? いきなり肩をさわるなんて、がっつきすぎじゃない、か・し・ら?」 「今のは……反射っていうか……やめて欲しくなくて……」 「つい、つかんじゃった?」 「そう……かな。そうだと思う」 「もう、優真くんってば可愛いわ。心配しなくってもおち○ちんやめないから、安心して気持ちよくなることだけ考えててね」 「ん……ん……いつか……このおち○ちんが、私の事も……可愛がってくれるのね。今のうちにいっぱい仲良くなっておかなきゃ」 シコシコシコ……くしゅくしゅぬちゅ、くちゅくちゅ……乾いた摩擦音が徐々に水っぽくなっていく。 「やや? 成果が表れてきたわね。ぬとぬとのおち○ちん汁がこんなに」 「あっ……あっ……」 「もっとテクを磨いて、優真くんを昇天させてあげるわ♪ 私はやり遂げてみせるっ」 なるは物怖じすることなく親指でち○こ汁をすくい、亀頭にまぶせる。 状況に応じてどんな刺激を与えれば悦びに繋がるかを、オンナの本能で悟っているのかもしれない。 「ぬるぬるおち○ちん、さっきより暴れるようになったわ。ビクビクって、生意気におねだりしてくる。そんなに私におち○ちんされたいの?」 「さ、されたい……なるちゃん、もっとして……」 「本体が答えたっ。本体のおねだりじゃ聞かないわけにいかないわね……じゃあ、おち○ちんにとろとろのお汁を塗って……」 「いっぱい力を込めて、ちゅこちゅこちゅこ、って……♪ ほら、どんどん溢れてくる。おもしろーい」 ちょうどいい圧迫感と天然ローション。 なるのぬるぬる手コキはあまりにも上手で。 男の俺はされるがまま悶えるしか道がない。 「あ、優真くん、おち○ちんの溝を中指と親指で挟んでくりくりして、人差し指でおしっこの穴のとこ擦ってあげるのが好きみたい」 「て、的確すぎるよ、うぅぅ」 「お客さん、かゆいとこないですかー? なんて。おち○ちん全部がむず痒いのかしら?」 くちゅくちゅくちゅ……くちゅくちゅぬちゅぐちゅ……。 「おち○ちん擦るのって不思議……まるでコレ一本で優真くんをコントロールできるみたい……」 「(なる……なる……なる……なるちゃんの手……気持ちいい……なるちゃん、可愛い……)」 おかしくなりそう。 いや、半分なりかけてる。 俺の命の恩人でもあり、好みのタイプの美少女が、ぴったりと添い寝したままち○こを扱くという淫靡な光景。 つまりは、なるが無償で抜いてくれる。 脳みそが蕩けそうなくらい優しくてえっちな手コキで。 メリットなんてないのに。俺を気持ちよくしてくれる。 「んしょ……ん……もうずっとビクビクしてるわ……そんなに私にいい子いい子されるの好きなんだ? クッフッフ♪」 「(この重量感たっぷりのおっぱい……当ててるの、かな……? ずっと載せててほしいな……)」 密着した掌とち○こに不思議な一体感が生じる。 病的に膨らんだ快楽が俺を狂わせ『なるちゃんの手は俺のち○こを気持ちよくさせるためにあったんだ』と錯覚する。 「このままシてたら確か……おち○ちんが気持ちよくなりすぎちゃって、馬鹿になっちゃうのよね?」 「手で扱くのをセックスしてるのと勘違いした脳が、精液を無駄に吐き出す命令を出すって書いてあったもん」 「そう……だよ……なるちゃんにこのままされたら……射精、しちゃうよ……」 「ああ、そうそう射精。男の人が一番気持ちよくなって、おち○ちんのことしか頭になくなっちゃう瞬間よね?」 「好きな女の子とか、かわいい子に射精させてもらうと、とっても幸せなんでしょう……?」 俺が頷くと、なるは潤んだ瞳で射精に向けて一心に手コキを続けた。 思考がぐちゃぐちゃに蹂躙される感覚。 とにかくこのまま、なるの手で慰められたい……。 「ん……ん……ん……私の手をアソコだと思い込んだおち○ちんが、どぴゅって射精するの、早く見たいわ……♪」 欲求不満の塊が甘い疼きとなり、玉袋から一気に駆けあがってくる。 「なるちゃん、で、出るから、手放して……あとは、自分でするから……」 「あ、おち○ちんイクのね。このまま私の手で出すより、自分でした方が気持ちよくなれるのかしら?」 「いや、なるちゃんの手の中で出したら汚れちゃうから……そこまでしてもらうのは、気が引けるっていうか……」 「なんだ、そんな理由? 私なら全然平気よ。優真くんの赤ちゃんの素だもん、汚くなんかないわ」 「そういう問題じゃ……」 「だーめ。私が責任をもって、最後までおち○ちんの面倒を診ます♪ 優真くんは楽な体勢で、私のおっぱいでも見てようね」 むっちりおっぱいでのしかかりながら、ぐちゅぐちゅぐぽぐぽ、と高速で手を上下させる。 サキュバスに搾精されているような猛烈な射精感。 それは耐性のない俺が耐え切れるような手ぬるい快感ではなかった。 「くっ、いっ、く、いっ、くよ……」 「うん、うん、イクイクするのね。すごく苦しそうな顔……息も荒くって……精液出さないと死んじゃいそうね」 シコシコッ、くちゅくちゅッ、シコシコシコシコッ! 「(ま、まずい……このままじゃ、なるちゃんの手が……手にかかっちゃう……精液、かかっちゃうぞ……)」 「ほら、優真くん、イっていいわよ? 私の手の中にびゅーびゅーしよ? 私しか見てないから、いっぱい出しちゃっていいのよ」 「なるちゃん……なるちゃん……イク……あっ、あっ……」 「いいよ。かけて。私の手でも、胸でも、顔でも……優真くんの好きなとこに、好きなだけ出しちゃお……」 ぶぴゅぅ~~~~っ!! びゅぅ~~~っ、どぴゅどぴゅぅぅ~~~~~っ、びゅびゅぅ~~~っ!! 「あっ、出た。先っぽの切れ目から、きゃっ♪ てのひら浮いちゃうくらい勢いがあるのね」 「まだ出てる。優真くん、溜めすぎだわ……んー、手を被せて蓋をしなきゃベッドが汚れちゃう……」 「あ……あ……あー……あー……っ」 頭が真っ白になる。 なるに見られながら達してしまった。 恥ずかしさよりも満たされた気持ちのほうが強かった。 「出るの終わるまで、シコシコしてあげた方がいい? それとも、黙ってたほうが余韻に浸れるのかしら?」 「少しだけいじって……気持ちいいの、続いてるから……」 精液だらけの手コキはゆっくりとペースダウンし、やがて止まった。 人生で一番気持ちの良い射精だったことは言うまでもない。 「見て見て。こんなにいっぱい。危険なおち○ちんね。コレって人間の女の子だったら、妊娠確実?」 「わかんないけど……むちゃくちゃ出たね……気持ちいいと、こんなに出るんだ……」 「気持よくできたなら、良かったわ。私もおち○ちん弄り、楽しかった」 こってりと白濁した精液は、抜群に大きなおっぱいにまで飛び散っている。 糸を引く精液で遊ぶなるの姿を見ていると、夢なんじゃないかという疑問さえ浮かんだ。 「……ありがとう……気持ちよかったぁ……疲れも取れて、すっきりしたよ……」 「そうだわ、疲れた時の恒例行事にしましょうか?」 「ええっ?」 「いいじゃない、仕事の後に一杯やるのと同じ感覚? みたいな。精液ってあんまり身体に溜め込むと毒だと思うの。定期的に出さなきゃね」 仕事で疲れて帰ってきたらなるのご褒美が待っている日常……堕落してしまう。 「はぁ……ダメだよ。ハマっちゃったら、毎日でもお願いしちゃうじゃん」 「じゃあ毎晩寂しくないように、こっそり添い寝してあげる。私にくっつかれて興奮しちゃったら、おち○ちんスッキリするおまじないをかけてあげる♪」 そんな日常……想像しただけで……干乾びちゃうじゃん。 「よいしょっと……おち○ちんぐったりしてる。すっきりしたら、ふにゃふにゃになっちゃうのね」 「男の子……って匂い♪ おしっこ穴にとろとろの精液、たくさんついてる。放っておいたら、どうなるんだろう」 「かぴかぴになるよ……」 「かぴかぴは嫌ね。じゃあ、お掃除してあげたほうがいいのかしら」 熱い吐息が掛かると、むくむくっとち○こに血潮が流れていく。 「あれ? もしかして早速、私のお疲れマッサージの出番かしら?」 「なるちゃんが、えっちな事ばっかりいうから収まんなくなっちゃったんだよ」 「血管が浮いて、怒ってる。ごめんね、優真くんとばっかりお話しちゃって。おち○ちんが嫉妬しちゃったのかしら」 「ああ、なるほど……優真くんは、ここが気になるのね……なら……ここに挿れてみる?」 妖しく笑ったなるがはち切れんばかりの乳房を完全に晒した。 「うは……」 童顔に見合わぬ、みずみずしい巨乳。 おマメのようなピンク色の乳首がちょこんと載っている。 こんなものを見せられて興奮しない奴はいない。 「なるちゃんのおっぱい……すごく可愛い……」 「優真くん。よだれ垂れてるわよ?」 「そ、そんなことはないよっ」 「でも、褒めてくれて嬉しいから……おっぱいでシてあげよっか……?」 なるは返事を待たず、充分すぎる硬さを取り戻したち○こをシゴきながら、胸の谷間に差し込んでいった。 「ジッとしててね……こういうのも、読んだことあるの。パイズリだったかしら? おっぱいでおち○ちんを包んであげるやつ」 ぬるんっ。にゅぷぷぷぷっ……。 「わぁ、すごい。すっぽり隠れちゃった」 「それだけなるちゃんのが大きいってことだよ……」 「クッフッフ♪ 精液でぬるぬるだから、よく滑りそうね」 怒涛の展開に驚くより、快楽を得ることに集中してしまう。 発情した雌猫のようにち○こに求愛してくるなるを止める手立てはないし、ち○こは完全に胸にロックされている。 しっとりしてぬめぬめ。適度な乳圧は、未だ経験がない女性器の締め付けを想わせる。 「(なるちゃんの手もよかったけど……おっぱいも溶けちゃいそうなくらい柔らかくって、また違った感じ……)」 「ん……しょ……んっ、両側から、ぎゅってして……すべすべのおっぱいコキ……これはこれでいいでしょう?」 「すごく……」 「んっ、んっ、んふっ、んふっ、んうっ、んっんっ、んっ、んっ……」 「う……はぁっ……こ、これは……」 押し上げるおっぱいと同時に、かわいい吐息が肉先に吐きかけられる。 「ほらぁ、優真くん……私の谷間がおち○ちんの形になっちゃってる……私のと優真くんの大きさ、ちょうどいいわよね……」 「私、やっぱり優真くんしかいないんだと思うわ。おっぱいとおち○ちんの相性も、ぴったりだもん……」 たゆんたゆんのバストを左右から押し付けて、揉みしだくようにち○こをマッサージしてくる。 「あぁ……あっく……」 「もっと可愛い声で喘いでいいわよ。えっちに悶えても、私は笑わないもん……」 「やっぱり……良くないよ……こんなの、なるちゃんに甘えてるだけだ」 「口ではそう言ったって、おち○ちんは正直じゃない。甘えん坊なおち○ちんは、私ナシじゃ生きていけないみたいよ?」 「なるちゃん……」 前傾姿勢の上目遣いが反則的にかわいくって、つい見惚れてしまう。 歓喜にしゃくりあげた肉棒が、とぴゅぴゅ、と先走り汁を漏らした。 「出逢いも運命的だしね。“《エンゲージ》〈契約〉”しちゃったんだし、ちょっとくらいえっちしたって仕方がないよ」 「それとこれとは関係が――――」 「んー……届く、かしら?」 「ぺろっ、ん……ぺろっ」 「うっ……!」 「あ、やっぱり気持ちいいんだぁ。じゃあもっとしてあげるね」 「んるっ、んろろ、んちゅ、ぺろぺろれろっ、ちゅっ、ちゅ……」 キスの雨。 食いしん坊美少女の唇がぷちゅぷちゅと押し付けられ、ミルク皿を舐める猫のように舌を這わせてくる。 「さっきはお手々をアソコだと勘違いしちゃったけど、今度はおっぱいを孕ませちゃう……?」 唾液たっぷりの舌で裏筋をぺろぺろされて……。 「はぐっ……」 「あれ? おち○ちんビクってした……変態なんだから。私がえっちなこと言うだけで、感じちゃうの?」 「んっ……んっ……精液って、えっちな匂い……なんだか私も、いやらしい気分になってきちゃう」 危険な笑み。完全に手玉に取られている。この快楽を振りきれる男なんて、いるはずもない。 「敏感なさきっぽ、咥えちゃうわね……あーん♪」 「あっ……くっ……」 「れるちゅっ……んーちゅ、ちゅこちゅこちゅここ……ちゅぴ……ンッ、ンちゅッ、ンちゅ……」 目を閉じて高級料理を味わうように、夢中でち○こを味わう。 「んーちゅ……ちゅ~ぱちゅ~ぱっ。んちゅ、んぷ……ぺろぺろれろろ~」 ち○こにへばりついたダマになった精液が掃除され、口内でしきりにねぶられる。 「ん~、ふふぅ……♪ んぱ。私の口のなか、とんでもないことになっちゃったわ。このまま、二度目の精液もいただいちゃおっと」 舌で亀頭をころころされると、あっという間に性感が高まっていく。 「私のおしゃぶりどう? 上手にできてるかしら?」 「なんていうか……天国。手でされるのも好きだけど、口の中はあったかくて、ぬめぬめで……こんなに気持ちいいこと知らなかった」 「クッフッフ♪ 素直でよろしい。いっぱい良くしてあげるから、おっぱいとおクチでたくさん射精してね」 「はぁむ……ちゅっ、るちゅ、んちゅぽ、ちゅずずっ、ちゅっぽちゅっぽちゅっぽっ」 唇をキュって締めて唇コキしながら、口内では舌が優しく包んでくる。 「んちゅ……ちゅっこちゅっこ……ちゅっ、ちゅ~っ、れろれろぉ~ん。ちゅっ、ちゅっ、んちゅ~っ」 俺は言葉もなく、ただ荒い呼吸を繰り返しながら淫猥な光景をぼうっと見つめる。 「んんっ……ちゅっ……んっ、んちゅ~、んっちゅ……ちゅう……ちゅぷぷっ」 「(なるちゃんの口の中に、ち○こが入っちゃってるんだよなぁ……いいのかなぁ、本当に……)」 「はみゅ……ちゅう、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ……」 愛おしそうにち○こを咥える姿は、まるで恋人と熱烈なキスをしているようだった。 「んふっ……ちゅ……ちゅう……ちゅぽちゅぽ……れろちゅっ、ちゅっぽちゅっぽちゅっぽっ」 なるの優しいおしゃぶり。 なるのかわいいおくちにち○こが出入り。 ……やっぱりどう考えても、夢に思えてしまう。 「なるちゃん……こういうこと、他の人にしちゃダメだよ……」 「んぱっ……ん? どうして……?」 「ど、どうしてじゃなくって」 「クッフッフ。本気にした? 冗談よ。優真くんにしか、したくないもん……優真くんのおち○ちんだけ、おしゃぶりしてあげる……」 「ちゅっ……ちゅっ、ちゅぱ……ちゅぅっ……んちゅ、ちゅっ、ちゅぽ……ちゅううちゅううう……」 再び始まる官能の調べ。 甘い疼きが陰嚢から肉棒全体へと行き渡り、狂おしいほどの痺れにビクビクとち○こが跳ねた。 「んふっ! んちゅっ、んぽ……ぱっ。おち○ちん大暴れ。イきそう?」 「そろそろ……だよ……」 「そっか。またイっちゃうんだ。しょうがないなぁ優真くん。おっぱいとおくち、両方でシてあげるから、精液たくさん出そ?」 なるは震えるち○こを『いい子いい子』と撫でてから、これでもかと乳圧を掛けた。 「んっ、んっ、んっんっ、んちゅっ、んみゅ、んっ、ちゅっ、んちゅっ、んっんっんっんっ」 「あっ……っ……っ……」 限界……。 「ちゅっ、イッれ、いいよっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅ~~~ちゅう~~~~~っ♪ ちゅくちゅくちゅっ、ちゅぅ~~~っ♪」 「な、なるちゃ、このままじゃ、くちに出ちゃ……う……」 「うん……うん……♪ らひて……せーえひ……んちゅっ、ちゅっちゅ~~♪ おくひにっ、ろぴゅろぴゅひてっ、んちゅっ、るちゅれちゅっ」 口内射精の許可が甘美に響く。 「れろちゅっ、んちゅ、ちゅぱちゅぱちゅぱっ、ちゅこちゅこちゅっ、んぷんぽっ、んろろっ」 「じゅっぷっ、ちゅっ、ぢゅっ、ぢゅっ、ンッ、ンッ、ンッ、ちゅぶっ、ちゅぷっ、ちゅっぽちゅっぽちゅちゅうぅぅぅ~~~~~~~~っ!!」 どぷっ、どぷびゅるうぅ~~っ! びゅるびゅるっ、どびゅるどびゅるぅうぅうぅぅぅぅっ!! 「――――んッ!? んっ、んぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!?」 果ててしまった。 口の中がいっぱいになるくらい大量の射精。 「んんんふっ……! ンッ、んふ……ん~~~~っ」 「あっ……あっ……あーーー……」 放出はなかなか終わらない。 一度抜いたとは思えない量が、なるの口へ流れ込む。 おっぱいとおくちで、二度目の、最高に気持ちいい瞬間。 「ん……ん……んぷ……んっ……んふ……」 最初こそ驚いたようだが、すぐに精液を内頬に溜め込んでいく。 そのまま唇をカリ溝で締め付けて固定して、ベロで舐め回しながら精液を受け止めてくれる。 「んっ……んっ……んっ……んー…………んー…………」 「はぁ……はぁ……はぁ~~~……」 なるは射精の余韻を楽しめる程度に吸い付きと舌の動きを調整し、優しく唇でシゴきながら、最後の一滴まで搾りとってくれた。 「ちゅぱ。んれろっ……ほりゃ……こんりゃにれたお……」 れろっ、と出した舌の受け皿に、一週間以上溜め込んだ精液がたっぷりと載っていた。 搾りだした精液の池から独特の性臭がするが、嫌な顔ひとつせずに『見て見て』と褒美をねだるように見せつけてくる。 「ありがとう……とっても気持ちよかったよ……」 「えへへ……♪ こりぇ、ろうひらたら、ひぃの? はきらしゅ? のみこみゅ?」 「あ。ペッって出していいよ」 「ん~? ほんろにひぃの……? もっらいないきがしゅるへど……?」 「じゃ、じゃあ……飲んでほしい……かも」 俺がそう言うのを心待ちにしていたようなえっちな顔で、なるは舌を引っ込ませた。 かわいいおくちの中が再び白濁液で満たされる。 「くちゅくちゅくちゅ……んー……くちゅくちゅ……」 なるはリスのようにほっぺたをふくらませて精液でくちゅくちゅとうがいを始める。 「んっ……んくっ、んく……ごく! ごく……ごく、ごくんっ!」 「ホントに飲んじゃった……」 唇からツー、と精液がこぼれそうになるが、慌ててすする。 「ぷぁ……また、いっぱい出ちゃったね……」 「なるちゃんが、上手だったから……」 「そう言ってもらえると、してあげたかいがあるわ。ごちそうさまっ」 「えっと……うん……ありがとう。お粗末さまです」 「精液ぷりぷりしてて、よく噛んだのに喉に絡まっちゃったわ」 「あれって、おいしい……?」 「んー。生臭くってあんまり美味しくはないけど、もったいないもん。それに、飲んだ方が男の子はうれしいんでしょう?」 「嫌じゃなければね……」 気持ちよくしてくれたお礼じゃないけど、なるの頭を撫でながら、指で唇の精液を拭ってあげる。 「あっ……♪ ありがと。今日はもうドクターストップ?」 「あたりまえでしょ。それにしても、汗かいちゃったね。なるちゃん、先にシャワー浴びてきなよ」 「えー? こんなに気持ちよくしてあげたのに、身体を洗ってもくれないのかしら……?」 「ダメだよ。そしたらまた、したくなっちゃうだろ……」 「それが狙いだったとしたら?」 「わかったよ。シャワーは個別に浴びるけど、眠るのは一緒。それじゃダメ?」 「よし、その条件を飲もうっ」 これで、とりあえず今日のところは、襲われずに済むだろう。 「(ごっそり体力を失った気がする……明日、仕事になるかなぁ……)」 それにしても、女の子の身体って気持ちいい。 サキュバスも裸足で逃げ出すえっちななるには、今後も手を焼きそうだった。 水瀬家の朝は早いらしく、換気のためか全開にされた窓から寝過ごせないほどの蝉の鳴き声が入ってきた。 「んーむにゅ……ゆーまくん……いにゃい……?」 久々のちゃんとしたベッドは疲れを完全に取り去ってくれたが、私が起きるにはまだ時間的に早い。 しかし忽然と消えていた優真くんの腕枕の行方を追うことは重要だ。 「むにゅむにゅ……」 ぐしぐしと顔を擦りながらリビングに降りてきた所で、下の階から聴こえてくる声に気がついた。 「止めても行きますよ」 「聞き分けたまえよ。いい加減、クドいぞ」 「山田さんと国谷さんが有給使ってオフじゃないですか。人手が足りない事くらいわかってますよ」 「ほー? 撤回の言葉を待つとしようか。受付時間は私が瞬きを我慢している間に限るがなー」 「社長……俺は間違ったこと、言ってないですよ。学生であるまえに“《クリアランサー》〈片付け屋〉”ですから」 「ありぇー……?」 リビングに来る前から睨み合っていたのだろう、両者、一歩も引きそうにない。 「ふぁ~~あ……ケンカはダメだわ。話し合いで解決しましょ」 剣呑な空気をぶち壊して悪いけど、あくびは抑えられなかった。 「張本人がお出ましだー」 「んむにゅ……んー? あ!」 もしかして。もしかして! もしかしてっ!! 「わ、私を取り合っていたの!?」 一気に目が覚めた! 「……近からず遠からずかな」 「珍しくゆーまが引かないのだー。なる、早くなんとかしたまえー」 「家族喧嘩はダメよ。何があったの?」 「なるちゃん、これは家族喧嘩じゃない」 「いいや、家族喧嘩だー」 「いいえ、部下が社長に意見するという前代未聞の事態です」 普段のぽやぽやした一面ばかり見てるからか、その鋭い視線に私は驚いた。 対して今日子さんはいつも通りの感じだが、本心はわからない。 「えっと……それで、どういうこと?」 「つまりさ、社長が俺に仕事を休めって言うんだ。急務で結構、押してて……明らかに人も足りない」 「なるちゃんには悪いけど、一日だけ入学日をズラすだけで済むことなんだ。なのに社長は頷いてくれない」 “社長”――――優真くんがそう呼ぶ時、その関係は家族から会社になる。 事務所と住宅スペースが分かれているとはいえ、公私混同しやすい環境にあるのに――――二人はキッチリとスイッチする。 「なるには昨日、明日から通えると伝えたのだー。私は自分の言葉に責任を持っているだけなのだー」 「ですから、俺が現場に向かいます」 「なるは初めて学園へ行くのだぞー? わからないことも多い。道に迷ったらどうする気だー?」 ああ、だから話に私が関係してるのか。 「でも、社長も俺も抜けたんじゃ、仕事が追いつか――――」 「社長ではない、今日子だ。何度言わせる。今はおまえたちの保護者なのだよー」 「………………」 「なるー」 「は、はい」 「心配しなくていいぞー。私は今から手続きの話をしてくる」 二人の意見は割れていたが、割れていない。 いがみ合いではなく、支えあいだった。 優真くんは、今日子さんの力になりたくて。 今日子さんは、私にした約束を守りたくて。 互いの優しさの方向性が咬み合わないだけ。 なら……私が二人の為にできることは―――― 「なら――――私は、めいっぱい楽しんでくる!」 「二人が仕事を取るか家族を取るかで揉めてくれた分まで、ちゃんと学園生するわ! 死ぬ気で学園生して、占いの仕事だって頑張っちゃうっ!!」 「夜には、みんな疲れた顔で一日お疲れ様の夕食を囲むの。これで決まりだわっ!」 「は、はははっ……今日子さん、なるちゃんは任せて」 「うむ。よろしく頼むぞー」 優真くんの口調が砕けたものに変わった事で、二人が和解できたのだとわかった。 「なるが着替えをしている間に、朝食を作ってやりたまえ。人は食わなきゃ、一日を始められないからなー」 「りょうかいっ」 「ふふ……やはり、なるはウチに相応しいイイ子だなー」 「いってらっしゃーい」 「いってらっしゃーい」 優真くんと並んで見送りを終える。 「はぁ……俺どうかしてた。今日子さんが大丈夫っていったら絶対大丈夫なのに、そこは信じるだろ普通」 「今日子さんの役に立ちたくてしょうがないんだね」 「生きる理由の一つだからね。たまにやりすぎて、今みたいになっちゃうけど」 「私の事もそのくらい大事にして欲しいわ」 「やっぱ今朝は、全面的に俺が悪かったな。仕事の事になるとどうもね……はは」 曖昧に笑う優真くんは、やっぱり優しかった。 本音はわかる。私より今日子さんの方が大事に決まってる。 “家族”をヒイキしない優真くんはその無意識の天秤を認めないだろうけど、私は確実な開きを感じた。 「……ホント、良い人」 けど、それでいいと思った。 それがあたりまえだと思った。 濃密とはいえ、私とは一日二日の出逢い――――今日子さんと優真くんが“家族”として歩んできた道のりとは比べようもない。 私は私のペースで完全な“家族”の形を目指して、二人との距離を埋めていこう。 「朝はパン派? ご飯派? ラーメン派?」 「我が欲する物は、妬み、嫉み、僻み、憾み、偬しみ――――人間らしい矮小な思念よ」 「つまり、全部食べるってことだよね?」 「いかにも」 「なるちゃんは残さないから、作りがいがあるよ」 「私、着替えてくるけど、こっそり覗いちゃダメだからねっ」 「そっか。がっつり覗けば怒られないのか」 やっぱり優真くんは、このゆるい顔つきで冗談ばっかり言ってるのが一番合ってる。 「結衣ちゃんは、まだ眠ってるの?」 「ああ、うん。起こさないであげて。結衣は気分屋だから、そのうち自分から出てくる」 「そう。じゃ、ホントに覗いちゃダメだからね」 「覗かないよ! この目が嘘をついてるように見えるっ?」 「見える」 天気。晴れ。以上。 おっと、一番大事なことを忘れてた。 女連れで登校という偉業を達成したんだった。 「クッフッフ♪ 制服美少女?」 「うんうん。こんなに可愛い子、ほっとけないよ」 「そう? 優真くんなら悪い気はしないかなー。どこへ連れてってくれるのかしら♪」 「はは、とりあえず学園だよ。今日子さんに任されてるからね」 いつもなら登校は《バイク》〈愛車〉でひとっ飛びなんだけど、今日からはなると仲良くという形になるだろう。 愛車は修理で直る状態じゃないし、当分は歩きがメインになりそうだ。 「放課後に仕事がなかったら、二人でどっか行こうか?」 「星の巡り的に占いのお店出そうかと思ってたけど、そんなに行きたいなら仕方ないわね~♪」 「なるちゃん学園ってどんなとこだかわかってる?」 「寺子屋でしょ」 「微妙に古ぼけた感覚は捨ててください」 「不特定多数の男女が上も下もない同等の立場で足並みを揃えた《カリキュラム》〈教育〉を受けて、伸び伸びと健やかにステップアップする施設でしょ?」 「完璧だね。で、なるちゃんなりに学園生活の目的は設定してある?」 「無論よ。ざっと見積って100人――――友達を作っちゃうわ」 「うわお。大きく出たねぇ」 「知識欲を満たすだけなら図書館だってできる。大事なのは、他人と自然に話すことができる空間にいるってことだと思うの」 「何の為に?」 「クッフッフ♪ 超ひも理論を使って説明すると、セ・ン・デ・ン♪」 「なんちゃら理論なんて使わなくても、平たく言って“信仰集め”に必死ってことね」 「私の小説は趣味の範囲で収まって良い代物じゃないわ。いつか春が来る。必ず……っ!」 「そのとおり。絶対に報われる日が来るさ」 「さっきから私たちと同じ制服の子が一人も歩いてないんだけど、気のせいかしら?」 「もしかして学園は著しい過疎化に悩まされてたりするんじゃ――――まさか1クラス2人編成で優真くんと私だけなんてオチ!?」 「ないない。《シノガク》〈東雲統合学園〉はこの辺りの学園を統合してる分、大きいよ。マンモス校ってほどじゃないけどね」 「学園生を見かけないのは、始業まで全然時間があるからだよ。勤労学生も多いから、朝はギリギリまで眠っていたいんじゃないかな」 「よかった……人は多いにこしたことはないの。手始めに優真くんの友達から勧誘しようかしら」 「“《アラウンドザワールド》〈A・T・W〉”教の布教活動の話?」 「優真くん、笑って」 「あははー」 「その白くて甘い爽やか笑顔とセクシャルな発言のギャップで、女子の人気を独り占めでしょう? 友達分けて」 「なるちゃんが俺より人気ないわけないじゃん。心配しなくても人気者だよ」 「そうかしら。水瀬家に汚染されて排他的な考え方にどっぷり浸かっちゃったから“広く、浅く”の付き合い方ができるか不安だわ」 「家族を一番に想うことが排他かぁ。確かに、俺はその他大勢の“友達”より“なるちゃん”個人を大切にするよ」 「優真くんのモットーは“狭く、深い”友好関係ね」 信号が赤になる。 せっかくなので青になるまで説明することにした。 「そんなカッコイイいいものじゃなくて、線の引き方が人より不器用なだけ」 「誰だって大なり小なりの円を作る。こっから先は、他人。この内側は、知り合い。さらに内側は、仲間。もっと内側は、家族。ってね」 「円を狭く引けば引くだけ、相手を傷つけたくないって思ってるってことよね?」 「……逆かもよ?」 「そう簡単に“降参”しない、ぶっとい精神の持ち主しか身の回りに置きたがらない臆病な人かもしれない」 「逃げられて傷つくのは、相手よりも自分だから――――強い人ばっかり置きたがって血眼で選別する」 「まっ――仮に真意がそうでも、結果的に自分の手の届く範囲だけを愛するのって、“欲”を絞ってて俺はスキだけどね」 「…………」 「あ、あれ? パッチリおめめで見ちゃってどうしたの?」 「優真くんってさ、自分の意見に関しては意外なほど口が回るっていうか――これでもかってほど説明するよね」 がらにもなく回りくどい言い方をしたからか、別人を見るような視線で見ていた。 「優真くんって何を深く考えてて、何を軽く見てるのかわからなくなる時があるわ」 「俺が考えてるのは、家族の事と、仕事の事と、どんなアクシデントを装ってなるちゃんのおっぱいを揉むかって事だけだよ」 「ポケットからバナナの皮がはみ出してるわよ」 「バナナの皮で滑っておっぱい有頂天作戦を見ぬかれちゃったかぁ。大丈夫、次の手も用意してあるから」 「何度も言ってるじゃない。私はされるより、してあげるのが好きなの。優真くんがその気なら、私は構わないのよ?」 「学生の風紀の乱れっぷりを熱烈なキスで示してみちゃう? それとも、《・・・》〈こっち〉かしら?」 ズイ、と顔を寄せてくるなる。 俺はもちろんあわわのタジタジ。 「ご、ごめんなさい。ヘタレなんで勘弁して」 自分に自信を持っている子にちょっかいを出しすぎると、強かなしっぺ返しが待っている時がある。 「許す、という方向でまとまったわ」 「脳内会議で?」 「うっ……旧支配者達に、乗っ取られる……」 「青だから、行こうよ」 「クッフッフ♪ 初いやつめ。こっちから責めると顔色変えて逃げ出しちゃうんだから」 なるには弱点がいっぱい握られてるので何とも言えない。 「これで学園内の施設案内はだいたい終わりかな」 「思ったより広いわね。普段は使われてなさそうな場所も多かったし、優真くんと二人であんなことやこんなことをするにはもってこいね」 「あ、あんまりイジメないでよ」 「クフフ♪ 言われ慣れてないと返答に困るでしょ? 逆の立場を理解した?」 「ごめんって。こういうのって言ったもん勝ちだったんだなぁ」 「でも私は本気よ? まだ朝だけど……優真くんがしたいっていうなら、すぐにでも……」 「ゴメン。まだなるちゃんとは付き合えないから」 「ガーン……2フラレ……」 『わたしなんかわたしなんか』とつぶやきながら地面に“の”の字を書くなるを見て思う。 なるは“《イデア》〈幻ビト〉”だ。 俺にフラレて涙目になってるが、基礎体力は常人を遥かに凌ぎ、オマケに“《アーティファクト》〈幻装〉”という兵器まで扱える。 対する俺は“《フール》〈稀ビト〉”。 契約者のなると一緒にいることで驚異的な回復力を発揮し、人間一人を海まで運べる謎の力が扱える。 “普通”という言葉を当てハメてはならない逸脱者だ。 「(――――わかる。わかるよ、昨日の話と体験を踏まえれば否定できない事実だってことはさ)」 手のひらを太陽に透かしてみる。 白熱に縁取られた指の一本一本が人智を超えた魔具を握ったのは、昨晩の事。 遥か昔に感じるそれは、夢でも妄想でもなく、確かにあったことなのだろうか。 「光が眩しいぜのポーズ?」 いつの間に失恋から復活したなるが首をかしげていた。 「実感がなくってさ」 「昨晩、人間離れした戦いに身を置いたのは本当に俺だったのかなって」 「優真くんしかいないじゃない。私と“《エンゲージ》〈契約〉”して“預かり所”にアクセスして力を得た。認めているはずよ?」 「だよなぁ……」 「どうしてそんなふうに思うのかしら?」 「例えば背中にジジジジってジッパー付いててさ、下げると別の人が出てくるのとか」 「優真くんの皮を被った誰かが、セミの脱皮みたいに?」 「はは、言ってみただけ」 でも近い感覚はあった。 「なんかさ――――現実味が乏しいんだ。一晩経ってみて、冷静になったのかなぁ」 手のひらを握る。開く。握る。開く……。 「とにかく必死だった」 「なるちゃんを助けなきゃって気持ちだけが頭にあって……武器になりそうな物を目で追ったんだ」 「うん……?」 目を閉じて、思い返す。 なるの苦しそうな、くぐもった声。 そう。 こんな感じ。 イメージできる。 感覚を呼び起こす。一度出来たことだ。 「俺の望みに呼応して……“境界”は開く」 「うおおぉ!? 出たぁ!!??」 「うわぁ! ホントに出ちゃったわ!」 「ちょっと、無闇に力を発露させちゃダメよ。遊びで使っていいものじゃないんだから」 「まぁまぁ。自分に力があるなら、コントロールできるようになっておかないと気持ち悪いじゃん?」 「だからって何で今やる必要があるのよー!」 「善は急げ」 「こんなとこであの力を使ったら校舎が吹き飛ぶわよっ。それのどこが善なのよっ」 「誰もいないから平気だよ。俺、あの鉄剣とは仲良くなれたんだし」 「意味わかんない。優真くんの借金生活がいよいよ返済不可能な粋に達しちゃってもいいの?」 「へーきへーきっ!」 「いい加減にしなさいーーー! 誰が見てるかわかんないんだからーーー!」 「うわぁっ! いきなり求愛されても、こ、困っ――」 「くぬぅ~~~ッ!!」 「おっ、そんな引っ張っちゃ――――とっと!?」 「きゃあっ!」 その力に抗えるわけもなく、必然的に俺はバランスを崩し―― 「重ッッッッッッ!!」 手にしていたナニカの圧倒的な重みに俺はひっくり返った。 派手に後頭部からぶっ倒れて、その拍子にソレが手から抜ける。 「あいててて……重すぎだろ」 「あわわわわ、優真くん、あれっ、あれっ」 「うわああああああ!? コケた拍子で学園長の首がぁぁぁ!!?」 「なんて破壊力……っていうか、もしかしなくても今のって、昨晩取り出した武器と違った……?」 「ちょ、ちょっとちょっと、これどうすんの……」 「ますますおかしいわ。力にしろ、“《アーティファクト》〈幻装〉”にしろ、お一人様一点限りのルールは絶対のはずじゃ……」 「ねぇ作家のなるちゃんに聞くけど、銅像っておいくらほどするの?」 「え? えっと胸像……等身大胸像……原型から着色までの制作費に設置費……あと台座もね……」 「ざっと、こんなものかしら?」 手のひらをパー。指は5本。つまり……。 「50……500?」 「最低でも、そのくらいは覚悟したほうがいいわね」 「ははっ、はっはっはっ♪ はーーーーっはっはっは♪♪」 「……壊れた?」 「なるちゃん、どんまい!」 「え?」 「一緒に謝ろうね。返済も、一緒に。俺たちは未来永劫、一蓮托生、二人三脚だもんねっ!!」 「なっ、なーーーっ! お断りだわっ、私止めたもんっ! 優真くんが勝手にやったんじゃないっ!」 「家族は決して裏切らない。これ絶対」 「占い稼業だけじゃ利息分を払うだけでやっとだわっ! 私はアテにならないわよ」 「またまたー。なるちゃんの信条はなんだったかな? ほら、大きい声で、3、2、1!」 「なんとか、な・ら・んッ!!」 「…………お、俺のこと引っ張ったよね?」 「…………わ、私はやめろって言ったわ」 「………………」 「………………」 「もしかして俺たち……」 「人生詰んだ……?」 「――――つまり学内を案内し終えたところ、若さ故の運動欲求に駆られ、かかと落としの練習で胸像を大破したと」 「間違いありません。靴に鉄板を仕込んだなるちゃんキックが炸裂したのをこの目で見ました」 「……壊れんだろ、さすがに」 「いえ、なるちゃんは格闘技の有段者です。TV出演の経験もあります」 「ホントかね?」 「禍神式厨ニ拳法を少々」 「聞き覚えがないな」 「暗殺拳は一子相伝ゆえ」 即席で考えたんだろうから、あるわけない。 「まぁいい。物はいずれ壊れるが、体裁というものがある」 「修繕費のアテがないのであれば、菜々実君に身体で支払って頂く他あるまいが、それでいいかね?」 「操を捧げる殿方は心に決めてますゆえ」 「というのは冗談だが、困ったな。いくら今日子君の頼みとはいえ、問題児を入学させるわけにはいかない」 「あぅ…………言葉もありません……」 「では、今回の件は白紙にするとしよう」 「…………あー……」 こりゃダメだ。この方向性のまま放ったらかしにしたら、人として終わってる。 「ごめん、学園長。ホントは俺がやったんです」 「え、優真くん……?」 「どういうことかね」 「そのまんまの意味ですよ。なんかムシャクシャして、やってやったんです」 「ちょっと時間掛かるけど全額、俺が支払います」 「む、無理よ。あれ高いのよ? さっき教えたじゃない」 「平気だよ。働いて返せない額じゃない」 「処分とか下さなきゃならない立場だってのもわかるから、退学でもなんでもしてくださって構いません」 「だから、なるちゃん責めるのやめてください。ココに入れてやって、学園生やらせてやってください」 「お願いします」 心を込めて頭を下げた。学園長は、伝わらない相手じゃない。 「優真くん……やっぱり……素敵ぃ……♪」 「偉い……! 男だなぁ優真くん、いやぁ男だよ」 しんみりと頷く学園長に対し、今にも茂みに押し倒してきそうな熱い視線を送ってくるなる。 とりあえずどうにかなったかな? 「ねぇねぇ、色男」 「告白なら後でにして」 「カッコイイけど……アレ? って思って思い返したら、事実その通りだよね。私やってないし」 「しっ! せっかく自己犠牲っぽく決まったんだから、しっ!」 「試して悪かった。君たち学生のしでかした悪さの一つや二つ大目に見れずして、学園長など務まらんよ」 「……え?」 「君たちはきちんと謝りに来た。逃げずに責任を取りに来た。それは、我が学園の教育目標“自立”に繋がっている」 柔和に笑んだ学園長から察するに、最初からお咎めはなかったということだろうか。 「菜々実なる君、ようこそ東雲統合学園へ。充実した学園生活を送りなさい」 「はいっ。ありがとうございますっ」 「まだ時間的に余裕があるな。少ししたら職員室にいって、学年主任から話を聞きなさい。場所は優真君がわかるだろう」 「大丈夫です。それと、今日子さんって、もう帰りましたか?」 「君たちが来るまで話をしていたんだが、水分補給をしに出たきりだな」 「生水のがぶ飲みは今日子さんの十八番。パワーの源っていつも言ってますからね」 「さて……私にも用事ができた。すまんが二人とも、今日子君に帰るよう言っておいてくれないか? 何処かの階の水飲み場にいるだろう」 「わかりました。では失礼しました」 「失礼しま……ありがとうございま……あれ? どっちを言うべきかしら?」 「両方いっぺんでいいんじゃない?」 「失礼しがとうございました」 「うむうむ」 今日子さんは下の階の廊下にいた。 実際にまだその姿を見たわけではないが、音が報せてくれた。 「がぶがぶがぶがぶがぶっ、がぶがぶがぶがぼがぼがぼがぼがぼっ」 蛇口を限界まで捻った時の、手の付けられないほどの勢いで水が流れ出ている。 滝の如き激流に鬼気迫る顔で飲む姿は、さながらオアシスに辿り着いた砂漠の放浪者だ。 「あそこまで飲む必要……あるの? な、何か喉に詰まらせたのかしら」 さすがのなるも驚きを通り越し、得体の知れない感情を持て余していた。 「はぁ……はぁ……はぁ……あ……ゆーま。なる」 「落ち着いた?」 「………………ああ……夏とはいえ、ちょっと飲み過ぎたなー……」 口を拭った今日子さんは、いつも通りだった。 「水分補給は大事だよ」 「久遠とは話がついたのかー?」 「今してきたとこ。問題無し。クラス分けまではわかんないけどね」 「よかったなー、なる。晴れて制服を着れるようになったなー」 「ふへへっ♪ 今日子さん、くすぐったいよ。こどもじゃないんだから、頭撫でないでよ」 「めでたいめでたいー」 「もう、今日子さーん♪ ありがとー♪」 噂の家族水入らずのラブラブタイム。 「だー、置いてけぼりは勘弁だよっ。そのイチャイチャって俺も混ざっていい? 俺だけ寂しいっ」 「優真くんはダメ」 「ガーン……1フラレ……」 喜びを分かち合う二人の様子を指を咥えて見ていた。 「ところでゆーま、ちょっと気になったのだが……」 「ん?」 いじけるのをやめて、手招きに応じて耳を貸す。 「………………」 「ああ……うん。ちょうどあるね、2クラス合同で……うん……使うと思うよ」 「………………」 「確かめてみないとわからないけど、多分、大丈夫じゃないかな」 くらりと頭を揺さぶって、倒れるように離れる今日子さん。 「い、いかん……鼻血が出そうだー……」 「特急で仕事を終わらせてくる。所定の時間に必ずいるようにしたまえ」 「了解。俺は俺の仕事をしておきます」 「では2人とも勉学に励みたまえー。ではなー」 「じゃあ、始まるまで職員室で待ってようか。あそこは涼しいし、お茶も出してくれるはずだよ」 「賛成っ」 「『私を目標にするのは完璧に近づく最も効率的な手段だけど、同時に私を越えられない現実に直面する残酷な手段でもある』」 「キャーーーーーーーーッ!! 姫様ァーーーーーッッ!!」 「『言うまでもなく一つとして欠点はない。今までも、これからも』」 「嘘嘘ッ! ホントに“《ピースリー》〈PPP〉”の作者なの!? 寝る前に必ず読んでるよっ」 「クッフッフ♪ 応援なぞ要らない。私が求めているのは贄だ、村中の血を掻き集めて来るがいいっ」 「村っ! ハハハハハッ、村だってさ!」 「やっぱり作者だけあって言うことも変わってるー。ウケるー」 「私、“tubuyake”で“《ピースリー》〈PPP〉”の厨ニ名言BOT作ったんです。見てもらえますか?」 「えっ、知らないわっ! 嬉しいっ、見たい見たい。見せてー♪」 とまぁ、このように。 教室では、なるを中心とした円が形成されていた。 ド派手な自己紹介を終えたなるは、既に馴染みまくっている。 信仰集めなんてするまえから“《ピースリー》〈PPP〉”はみんなに浸透していたようだし、なるの気さくでとっつきやすい人となりは楽々と受け入れられていた。 「あ、そうだ♪ みんなにコレをあげるわ」 思い出したようになるが配りだしたのは謎の3点セット。 黒い羽。 変な形の蝋燭。 古めかしい紙。 受け取ったクラスメイトはわくわく顔で説明を待っている。 「これってもしかして、“《ピースリー》〈PPP〉”で姫がしてる“跪いて指をしゃぶれ”の契約に使う道具?」 「やっぱり! この蝋燭は特殊な塗料が入ってるんですよね! 漆黒の羽ペンの先で削って、羊皮紙に刻印を記すんですよねっ!?」 「クッフッフ……いかにも。これは箱庭の信者共への褒美である。“消閑”の称号を欲しいままにする我に信仰を捧げよ」 「菜々実さん、人気者だね」 「…………」 「剣咲さんは、知ってる?」 名指しで呼んで初めて剣咲さんは視線を向けたが、それだけだった。 “かったるい”という語源は彼女の出生に隠されているのではと思うほどの緩慢で、よっこいせという感じに動く。 「のえるんは、知ってる?」 「…………ッ」 下の名前で呼ぶと汚物を見るような見下した目で睨んでくる。 ここまでして、ようやく会話が成立し始めるのが彼女とのいつものやり取りだ 「“tubuyake”なら、短文投稿で流行ってる情報サービスですよ」 もういいだろ、と吐き捨てるかのようにそっぽを向いてしまう。 「そっちじゃなくって“《ピースリー》〈PPP〉”って携帯小説」 「まぁ、一応」 「おもしろいよね」 「まぁ、白紙を眺めるよりは」 「実は俺、なるちゃんとはただならぬ関係でさ。紹介してあげようか?」 「まぁ、今度」 「今でいいよ、すぐ呼ぶから」 「そのヘラヘラした顔を見てると、胃もたれするんですよ」 「え? 何か言った? どこ行くの?」 剣咲さんとお近づきになるのは難しい。 何度かチャレンジしているが、表情一つ崩れた試しがない。 かといって別にクラスで浮いているわけでもなく、《ハブ》〈省〉にされてるわけでもない。 「何か好きなものの一つでもわかればなぁ」 いたって健全な女子学園生だが、特別仲の良い友達はいないらしく、放課後はすぐに帰ってしまう。 そして特筆すべきはもちろん、飛び抜けて大きな―――― 「ゆーまく~ん♪」 思考中断。 遠巻きに俺と剣咲さんとの会話を見ていたのか、谷口さんと中島さんの仲良しコンビが歩いてきた。 「剣咲さんもったいないよね。せっかく優真くんが優しくしてくれてるのにさ」 「優真くんに声掛けられてあんなダルそうな顔するの、絶対おかしいよ」 「そう言ってくれるのは嬉しいけど、俺が軽々しく話しかけてるからじゃないかな」 「だーかーらー。女の子はね? 誰でも、優真くんには軽々しく連れ回されたいのっ♪」 「ははっ、意味わかんない」 「剣咲さん心に決めてる人がいるんじゃない? そんな感じする。あとは大穴でレズとか」 「単純に色恋沙汰に興味ないタイプかもよ? 何にせよ、優真くんに興味ない分にはこっち的にはプラスね」 「あのルックスでアタック掛けられたらコロっと行きかねないもんね。そういう点では、剣咲さんには今後ともおとなしくしてもらいたいね」 「っていうかさ、中島さんシャンプー変えた?」 「――ほら! 気づくんだもん♪ そういうの女子は一番うれしいんだよ、このぉっ♪」 「痛い痛い、叩かないで」 なるも嬉しいと叩いてきたけど、女の子は大抵そうなのだろうか。 「わたしは? わたしなんかいつもと違くない?」 「ヘアピン新調したのくらい来た時から気づいてたよ。似合ってる。髪も、いつもよりふわっとしてて柔らかそう」 「ほらほらほらっ。ちゃんと見てないと気づかないこと、さらっと言ってくれる。他の男子も見習って欲しいよね」 「自分じゃ意外と気づかない服についた埃とか汚れとか、ストッキングのほつれもちゃんと指摘してくれるしね」 自分なら、そうして欲しい。 自分なら、気づいたら口に出して言って欲しい。 だから、相手にもそうしてる。それだけの事なんだけど。 「俺がチャック開きっ放しで歩いてたら絶対指摘してね」 「も~~~っ♪♪」 「でも2人とも偉いよね」 「バイト3つ掛け持ちで頑張って、自分磨いて、一生懸命に24時間を有効活用するアクティブなとこ、凄いカッコイイ」 「そんなの余裕余裕。自分一人で何でもやるって“《ナグルファル》〈7年前〉”の馬鹿に誓ったし」 「そーそー♪ 普通っしょ? 生き残った者の義務みたいなー? わたしらなんか全然、不幸でもなんでもないもん」 「はははっ」 2人とも口調はイマドキの学生だけど、その実、中身は誰より 《タフ》〈強靭〉で、誰よりも真剣に生きようとしている。 そしてそれは2人だけに限ったことではなく、教室中で笑っている誰も彼も、ほとんどに言えたこと。 俺はそうやって一生懸命に日々を送る人間様が、ムチャクチャ好きだ。 2人のような境遇は珍しくないし、今を生きる人は皆、後悔しないために笑うことを身につけた。 「(だから剣咲さんだって、笑ってる瞬間は絶対あるんだよなぁ)」 ズルいくらいに幸せな、花がほころぶような笑みを、誰に向けているのだろう。 「そうそう、行方不明者が正式な死亡者って見なされるのも、7年なんだって。博識じゃない?」 「テレビでやってたの見ただけでしょっ」 「いろんな意味で節目だよね。もう少ししたら《たなばた》〈7月7日〉で、もう7年……か」 「……あ、俺ちょっと用事を思い出した。2人とも“《ピースリー》〈PPP〉”読んであげてねっ」 「次の時間、合同体育だよ。着替えもあるからあんまり遅れないでねー」 2人に笑顔を返して教室を出る。 「……ふぅ。今から行けば約束の時間ぴったりか」 「じと~……」 「おっ、なるちゃん。良かったじゃん、大人気っ」 「ジトト~~~~ン」 無事に入学デビューを飾った家族とのハイタッチを期待していたのだけど、そんな気分ではなさそう。 「わかっていたことだけど、やっぱムカつく」 「え? 何が?」 「わかってても納得できないってこと」 「弱ったな……なるちゃんへの特別扱い、足りてない?」 「それとも俺が……“家族”の一員であるなるちゃんとクラスの女の子を、ホントに同列に見てると思う?」 「うっ――そ、そ、そういう軽いとこが嫌なのよっ。寝てる時、鼻にわさび突っ込んでやるんだからっ」 「あっ……ああもう」 これでも、なるの事は特別視してるつもりなんだけど。 誰かを特別な目で見たその瞬間から、他の異性と話しちゃいけないなんて事はないはずだし。 「関係良好なのにハッキリと男女の関係ですって答えを出さないのは、相手にとってむず痒いに決まってるよなぁ」 でも――――もうすぐ、なるの気持ちに答えられるかもしれない。 その時に、なるの方から願い下げをされなきゃの話だけど。 言われていた空き教室の鍵は何者かによって壊されていたので、難なく入ることが出来た。 既に合同体育の準備と移動は始まっているが、俺は学園より今日子さん優先なので気にしない。 「うまくいったね」 「馬鹿もの、声を潜めたまえー」 「ねぇ今日子さん、一つだけ聞いていい?」 「給料一ヶ月分天引きでいいならなー」 「おあつらえ向きな大きさの貫通穴が壁に開いてるなんて、変じゃない?」 「天からの賜り物だろう。日頃の行いがいいからなー」 「確かにっ」 とかなんとか話していると、隣の部屋――――女子更衣室からキャッキャウフフな声が響いてきた。 「頃合いだね」 「うむ。あと一ヶ月分は本当に天引きするからなー」 大きく頷く今日子さん。ワクワクが隠し切れない。 「で、では優真……わ、私から良いのだな……?」 「桃源郷へ、行ってらっしゃい」 喉を鳴らした今日子さんがゆっくりと壁にへばりつき、目の位置をぴったりと貫通穴につけた。 「おっ……おっ……オフフッ、オフフフフッ」 「どう?」 「ま~べら~~~すっ♪♪」 「うら若き少女特有のスメ~ル♪ 輝くような白、白、白~♪ 見られているとも知らずにはしゃぐ姿は、天使の集会だ~♪」 「今すぐ、まとめて養ってあげたいぞー♪ ふふ、オフフフゥ――――もう私が乗り込んで、保健体育の授業にしてやるかー?」 「ホントにやっちゃダメだよ」 食い入るように見つめる今日子さんの口元をシャツの袖で拭いてあげる。よだれでべっちょりだ。 「なるがいるぞ。なる可愛いなー。おおっ、オフッ、オフフフフッ」 「ゆーまも覗くがいいー」 「なるちゃんは……やめとく」 「恥ずかしがらなくてもいい。新しくできた友達と無邪気に笑う下着姿、見たいだろー? 女の子は同性だけで固まると、途端に大胆になるからなー」 「見たいけど、やめとく」 「むぅ? もう意識し始めたのかー? 子作りに励むのは勝手だが、生むなら女の子を頼むぞー」 「しっぺ返しが怖いだけだし……なるちゃんくらいは、もう少し真摯に向き合いたいっていうか……」 「ゴメン。うまく言えない」 「青いなー。それを意識するっていうのだよ」 今日子さんの姿は万華鏡に夢中になる子供のようだった。 「おっ!? え!? うそ、デカッ! ありえんっ!」 「め、め、め、めろ~~~~~~ん♪♪」 「今日子さんっ」 そのまま後ろに倒れそうになった今日子さんを支える。 「大丈夫?」 「いやー、デカくてありえん。メロンオバケかと思ったぞー」 「最近、お祓い行ってなかったね。2ヶ月前に入った品川さん、 “《クリアランサー》〈片付け屋〉”始めてから真昼間でも化けて出られるようなったって 言ってたよ」 「ゆーま、あのオバケ欲しい。あのメロンに顔を包まれて、もふもふされたい。買ってくれたまえ、買ってくれたまえよー」 「今度はおねだり……うーん。どんなオバケなんだ?」 はてさて。この穴の先には、どんな光景が広がっているというのだろう。 「ごくり……」 好奇心を抑えることができない。 今日子さんを卒倒させるほどの威力を持ったメロンオバケとは、一体……。 「…………」 開け放たれたロッカーに腕が伸び、無造作につかんだセーターが引っ掛けられた。 何気なく払った横髪からは女の子本来のフェロモンがパッと散り、空き教室にまで香ってくる。 その正体は―――― 本当におっぱいオバケだったッ!!!! 「さっさと着替えちゃいますかね……」 欲張りを超えた強欲ボディは、身じろぐだけで揺れに揺れる。 その圧倒的な存在感は度を超えており、俺の覗き行為は芸術の域まで押し上げられたのではと錯覚した。 「(脱ぐとヤバい人っているけど……こ、ここまでとは……)」 周りの女子は自分と比べたくないのか、“なかったコト”にするためか、彼女は狭いはずの更衣室で3人分以上のスペースを有していた。 「(こぼれ落ちそうなんて表現じゃ追いつかないな。両手で揉んでもはみ出るあれは最早、モノノ怪の類か……)」 前々から思っていたが――――目に見える形で思い知らされた以上、確定させてしまおう。 剣咲さんは《シノガク》〈東雲統合学園〉きっての巨乳である。 「ん?」 き、気づかれた? 「どうやら……胸がキツいのは気のせいじゃなさそうですね」 訂正しなければならない。 剣咲さんは《シノガク》〈東雲統合学園〉きっての巨乳であり、未だ成長過程である。 「(こ、この機を逃したら一生御目に掛かれなかったなぁ……)」 剣咲さんは下乳から抱え持つように揺さぶり、かったるそうに吐息をつく。 「もうコレ以上、上のサイズなんてあるんですかね……」 間違いなく、専門店に行かなければないだろう。 一般的な店が国宝に被せる物を売っているわけがない。 「……めんどくさい」 ブーたれながらも、着替えを進める。 ブラウスに手がかけられ、ムチムチとしてなめらかな身体のラインが浮き彫りになる。 仮に俺が女だったとしたら、こんなものを見せられたらグーの音も出ないだろう。 「クッフッフ……な、なかなかやるわね……グーの音も出ないわ」 「はぁ……どうも」 見切れているが、なるの味わっている驚嘆は想像に難くない。 人類の神秘とは何かを封じ込めた豊満なヒップもまた、学生離れしている。 時間を忘れて魅入ってしまいそうだった。 「……こんなとこに……穴…………?」 あ――――今度こそ、バレた。 「今日子さん、逃げま――――あれ? いない!?」 窓が開いている。剣咲さんに夢中で気が付かなかったのか。 「家族の絆は絶対守るって約束したじゃないですかぁぁぁぁぁぁっ!!」 「早ッ! 隠れる暇もなく呆気無く人生終了っ!」 「…………」 「あ……こないだの……?」 え。でも、何でだろう。部外者のはずなのに―― 「ああ、なるほど、思い出した」 「ははっ」 危なそうな人なので、できれば顔を覚えていて欲しくはなかったのだけど……。 「私は怪しいものではない、作業員として許可を得て立ち入っている」 この人は警戒するにこしたことはないが、今はそれどころではない。 「えっと、俺、そこのロッカーに隠れるんで、うまいこと誤魔化してくださいっ!」 「待ってほしい、何をしたのだ? 私は何から君を隠せばいいのだろうか」 「覗きっ! 今からかわいい子が鬼の形相で入って来るから、作業で穴を開けていたとか適当によろしくっ!」 「情報が少ない。私はどのような立場で対応すればいい。キミは対価に何を払えるのだろうか」 「この借りはいつか返すからっ」 できれば彼に借りを作りたくなかったが、背に腹は代えられない。 「つまりは鬼退治の依頼か」 「……ご主人でしたか」 「ノエル。偶然だな」 ご主人……? カラス使いも見知りらしい。 しかも下の名前で呼んでも平気な関係。 とすると……こういうことか。 「こんなところで何をしていたんですか?」 「(なになに……? ひまわりを探していた……?)」 「(そんなムチャなイイワケが通るはずないでしょっ! 教室の中に花が咲いているわけがないんだからさっ!)」 「またですか。ご主人に苦労かけるなとあれほど言ったのに。まあ仕事ですから仕方ないですね」 「(通ったー! 俺の仕事も珍しいけど、ひまわりを探す仕事は世界に何人だ!?)」 剣咲さん(妻)は至って冷静に証拠である貫通穴を確認する。 「ひまわりを探すのに穴を開ける必要はないと思いますけど。器物破損ですよ。私というものがありながら、何を見てたんですか」 「浮気確定ですね」 浮気……やっぱり思った通りの関係らしい。 「ちょうど私のロッカーが見える位置に開いた穴……ご、ご主人は私の着替えが見たかったんですか?」 「そ、そうだったんですか……」 どんなに話しかけても靡かない剣咲さんの美顔がほころぶ。 「じゃあご主人は他の女を覗いていたわけではないんですね」 カラス使いは何も語らず、やれやれと首を振っているだけだった。 「見るだけじゃなくて、その手で触れてもいいんですよ?」 「(うわー! うわーーー! 抱き合ってる。あの剣咲さんが!?)」 男に対し愛おしそうに頬ずりをし、ぷっくりと厚ぼったい唇を何度も首筋に押し当てていた。 しかし――俺が真に恐怖したのは、やはり男の方だった。 「(し、師匠……? 師匠ってことか……)」 あの強欲ボディを当然の如く受け止め、キスされても表情一つ崩さない――――地上に舞い降りた究極のナンパ師。 「……学園にいるからといって、他の女に目移りしたら駄目ですよ」 「…………」 「なんてこったい……」 「あの感じだと、一線は余裕で超えてるよなぁ……」 剣咲さん、身体も心も大人ってわけだ……。 なんと羨ましい……。 年上ブーム到来の報せをバラシィにメールしておくとしよう。 「あの2人の関係は、ただならぬ臭いがするけど……足を突っ込んだら取って食われそうだなぁ」 剣咲さんの夫(?)からは、つつけば埃が出そうな空気感はあったが、関わらない方がいいと心の何処かで警笛が鳴っている。 剣咲さんを介する事が覗き発覚を成立させる以上、彼に恩を返せる日は限りなく遠そうだった。 「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」 「はぁ……はぁ……はぁ……」 炎天下の空。 大の字に寝転がった俺たちは酸欠でぶっ倒れていた。 「ははっ。なんとか撒けたね」 「ふふっ。普通、あんなことするかしら? あー、もう、馬鹿みたいっ♪」 「あの調子じゃ夜まで終わらなかったかもしれないよ」 事の発端は“《ピースリー》〈PPP〉”の作者であるなるが、ファンサービスの一環で無償で占いを始めたことに遡る。 放課後にも関わらず、男女を問わずクラスのほとんどが予定をキャンセルし、なるに占いを求めた。 空気を壊すわけにもいかず、なるは断ろうにも断れず涙目で俺にヘルプサインを送ってきた。 「これで昨晩のおんぶの借りは返したよ」 「全然、返せてないわよ。私、明日からなんて言われるのかしら? 憂鬱だわっ♪」 俺は、なるを中心にできた人の囲いを掻き分け、彼氏気取りでなるをお姫様だっこした。 騒ぎ立てる連中を無視して、廊下中を走り回って叫んでやった。 “なるちゃん欲しけりゃ俺から奪ってみろー”って。 「公認カップルになっちゃったわ。もう優真くん以外の男の子、私に寄ってこないんじゃないかしら」 「そんなことないって。明日から、なるちゃん目当てのチャレンジャーが俺の元に現れるよ」 「私、知らない人に奪われるの嫌よ? 優真くん、ちゃんと責任取ってくれる、か・し・ら?」 「家族ですからっ」 腰に手をついて威張っている隙に、なるが消えていた。 「一体、この細い足のどこにあんな脚力が隠されてるのかしら?」 「おぉ、おっ、おぅおぅ」 「出張マッサージでーす」 しなやかでいてシャープな輪郭の五指が、俺のふくらはぎをぷにぷに揉み揉みと……。 「やめて、コレ以上はやめて。なるちゃんに触れられると理性が……」 「なにそれ。私を襲う為の100のイイワケの一つ? 誰もいないんだし、家族の親睦深めちゃう?」 「ていっ」 「ひゃん!」 「うぅ……でこぴんされたぁ」 「え、そ、そんなに痛かった?」 「頭蓋骨にヒビ入った。罰として、放課後デートね♪」 命短し恋せよなるは、この空に負けず劣らずの陽気だった。 「(ああ、そうか……)」 『放課後に仕事がなかったら、二人でどっか行こうか?』 今朝方、俺が口走ったたった一言の口約束を、なるは心待ちにしていたようだ。 「待ってね、メール見てみる」 「仕事の断りのメールなら、私が代わりに送ってあげるね」 「いや、まだわかんないんだけど……」 「えっとねー……『カィシャつみゃんなぃからゃめるぅサョナラだぉ~☆』っと」 「送信しちゃだめだよ!」 メールを確認するが新着は零二の構って攻撃だけだった。 社長が3人分の働きで会社を回してくれたのだろう。 スケベ顔で覗きに夢中になっていても、やることはやる。 やっぱり、一生、頭が上がりそうにない。 「予定無し」 「お仕事、大丈夫だったんだ。さすが今日子さん、できる女だわっ」 「そういうことなんで、俺と遊びに行って頂けるんですかね?」 「わーい! 優真くんと初デートっ♪ マイフォークとマイスプーン持ってきて良かったわっ♪」 「綿飴が空を泳いでるっ、よーし食べるわよー」 食いしん坊さんは、既に空腹で幻覚が見え始めてるのかもしれない。 和洋中揃った評判の食べ放題の店があるので、そこに連れて行ってあげよう。 「楽しそうね、わたしも混ぜてくれない?」 「おお、Re:non様そっくりの美少女だっ! 女の子なら誰でも歓迎だよ」 「できれば二人っきりがいいわ」 「ちょっとちょっと、横からいきなりしゃしゃり出て、きて…………って」 「あまりの美しさに、揃って驚いているのかしら。ムリもないわね」 「んと…………そっくりさんじゃない……?」 あたかも最初から立っていたかのようにウインクする女性の正体が、一瞬わからなかった。 個人的な時間を同じ目線で過ごせるはずのない舞台に立っているはずの人。 「マジモノの――紫護Re:non様ッ!?」 「は~い♪ こんにちは。みんなのアイドル、リノンよ」 「どうしてここに――――あれ……?」 些細な違和感が気になりだした。 なるとのおしゃべりに夢中になっていたとはいえ、屋上の入り口は重くて開閉音の響く扉しかない。 気づかない方がおかしいはずだ。 「みなまで言わずともわかるわ」 「わたしは階段から来たわけでも、元からここに潜んでたわけでも――――それ以前に、この学園の学生でも関係者でもない」 「用があったからわざわざ出向いたの。校舎の壁を駆け上がってね」 「傾斜角90度ですけど!?」 「適当なとこで壁蹴りジャンプ」 「音もなく背後に着地!?」 「ファンなら知ってるでしょう? わたしはいつだって超最強。超最強に不可能はないわ」 言葉だけでは根拠がないが、威風堂々の態度からくる説得力が俺を頷かせた。 店頭イベントでの一件を思い返す。 瞬間移動と見紛うほどに桁外れた脚力。 男一人を片手で投げ飛ばせる膂力。 息切れ一つ起こさない基礎体力。 アイドルレッスンで鍛えられているとはいえ、か弱い女の子に――――否、人間に成せる業ではない。 「さすがの俺でもわかった。紫護リノンの本当の顔は……あれだ……あれだよ。なんだっけ。なんだっけ。なんなんだー!」 「“《イデア》〈幻ビト〉”?」 「先に言われたか。そう、間違いなく“《イデア》〈幻ビト〉”だろう」 「正解」 一言、発するだけで空気の質が変わったように感じる。 しかしRe:non様の纏うオーラに尻込みはしてられない。 「奇遇ね、虹色の占い師。これも運命かしら?」 「いい加減、懲りたら? 私にその気はないわ」 「事あるごとに私に付きまとって、迷惑なのよ。何を言われたってあなたなんかに手を貸すつもりはないわ」 「と言われても、状況がイマイチつかめないわ。一兎を追って二兎を得るなんて、都合が良すぎるもの」 「何かしら、その喩え。わかんないこと言ってないで帰ったら?」 「要件が済んだらそうさせてもらうわ」 食って掛かるなるだが、Re:non様はしっとりと余裕のある声でいなしてしまう。 なるがRe:non様を嫌いなのは知っていたが、面識があることまでは知らなかった。 もちろん“《イデア》〈幻ビト〉”であることも、少なからず驚いた。 「今までの経験から『これから話がややこしくなる』という空気を察したから、先に言っておくよ」 「俺はRe:non様が人間じゃなくても、大ファンだからっ!(きっぱり)」 「あたりまえよ。一度わたしの虜になったら、離さない。他の事に時間は使わせない」 「そこまでファンをコントロールできて、初めて一流のアイドルと言えるの」 「三流、二流風情がいくら足掻いても、頂点であるわたしに追いつくことは不可能ね」 「Re:non様は社会現象だしなぁ。“衣・食・住・Re:non”は去年の流行語大賞だし、Re:non様のグッズで破産した人は数しれない」 「笑っちゃうわね、私にとっては“衣・食・食”よ。優真くん、そんなキラキラした目で見ないっ」 「いやぁ、二人がユニット組んだら業界に震撼が巻き起こるんだろうなぁと」 「組まないわよっ」 「売れない」 「ぁによ! 売れるもんっ」 厨ニ作家とナンバーワンアイドルの相性は最悪のようだった。 「あなたと虹色の占い師はどんな接点があるのかしら?」 「不埒な関係です」 「ああ……恋愛ごっこ? 占い師の趣味はこういう男なんだ。案外、メンクイなのね」 「もしかして褒められてる?」 「一般的な目線で言って、顔はいい方でしょう。小さなコミュニティの中でもてはやされる程度の話だけど」 自然体でいるのに、その薄い笑みは刀剣の切っ先を思わせる。 昨晩、あれだけの戦闘に身を置いたおかげでRe:non様に秘められた危険性がなる以上であるとわかった。 「もういいから、逃げるわよ優真くん」 「え、なんで?」 せっかくアイドル様が貴重な時間を割いてやってきてくれたのに、こちらから逃げる必要がどこにあるのだろう。 「問題を先送りにするだけじゃない? わたし、彼の住所は知っているわよ」 「ブラフだわ」 「本当よ。わたしが用があって追ってきたのはあなたじゃなくて、彼の方なんだから」 「え……?」 「ああ、俺なんだ。昨日の今日でお話できるなんて光栄だなぁ」 「昨日の今日……? どういうことよ?」 「このわたしが、ファンの自宅に生電話するキャンペーン。住所を割り出すのは簡単だったわ」 「個人情報はキャンペーンにしか使用しないって書いてあったよ?」 「ええ。書いてあったわね。だから?」 「……こういう奴だから、私は大ッキライなの」 「悪いわね、デートの邪魔して。少し、彼とお話したいだけだから」 なるはうんざりとした表情を崩さず、失礼極まりない視線を向けている。 しかしなるちゃんといい、Re:non様といい、“《イデア》〈幻ビト〉”は美少女が多いのだろうか。 ひょっとすると、これは画期的な“《イデア》〈幻ビト〉”の割り出し法かもしれない。 「水瀬優真、くだらない事を考えているわね」 「そんなことないよ。くだらない事を考えたことなんて一度だってない」 「あなたは街頭イベントで話した時から異常さを隠しきれていなかった」 「占い師と一緒にいることからも、“《イデア》〈幻ビト〉”を知っていることからも、通常人ではないことは分かってるの」 「単刀直入に聞くわ――――あなたは何?」 「Re:non様の下僕です」 「違うでしょ。どっちかと言えば、私のでしょ」 「占い師の下僕? どういう冗談? あなたたち、思ったよりアブノーマルな関係だったりするの?」 「もっと深い意味での繋がりよ……わかるでしょ?」 「――――!?」 「驚いた? なるちゃんは水瀬と契約を交わした、由緒正しい家族の一員だよ」 「優真くん惜しい。そっちじゃないわ」 「…………はぁ。そう。考えなしに付ける薬はないわね」 「あなたが特定の人間と恋人ごっこなんてしてるから、変だとは思ったのよ。契約相手ってわけね」 「禁忌を犯したことくらい、百も承知だわ。私は優真くんと“《エンゲージ》〈契約〉”にした」 「文句あれば、この場で聞くわ」 「ふふっ――――“《フール》〈稀ビト〉”を狩る側のわたしに、それを言っちゃう?」 「“《ピースリー》〈PPP〉”2話の吸血鬼みたいに夜な夜な徘徊しては、俺みたいなのをハンティングしてる感じですか?」 「事の重大さを、くだらない小説の設定なんかで表現しないで。適当なことを言ってられる立場じゃないのよ?」 「次に私の前で創作を馬鹿にしてみなさい、二度とたこ焼きを熱々のうち食べられないよう口の中をズタズタにしてあげるわ」 「“《フール》〈稀ビト〉”はどうして駆逐されなきゃいけないの?」 「“《フール》〈稀ビト〉”は“《アーティファクト》〈幻装”を無断借用して、我が物顔でつまらない力に変換するでしょう?〉」 「身に余る力を得た事で驕り高ぶり、平気で犯罪を起こす。元が人間だから、欲望にまみれているのね」 「わたし達のような強者がカンチガイを狩る事には、概ね納得しているわ」 Re:non様の言葉を鵜呑みにするならば、“疑わしきは罰せよ”だ。 決めつけは良くない。 “《フール》〈稀ビト〉”を悪人として一緒くたにしてしまい、個人のモラルを信じる気はさらさらないようだ。 「大丈夫だよRe:non様。他の奴は知らないけど、少なくとも俺は、この力を悪用する気ない。使ったとしても家族を守る時くらいだよ」 「弁明は聞いてない」 よほどの堅物か、マニュアル人間タイプか、過去に何かあったか―――― 「無駄よ優真くん。“《イデア》〈幻ビト〉”にとって “《フール》〈稀ビト〉”は忌むべき存在なの」 「感覚的に言うなら、墓を勝手に掘り返されるようなものかしら。知らない人でも、いい気分はしないでしょ?」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は私たちの魂。勝手に使っているという行為そのものが許せないのは、何となくわかるわ」 「……じゃあ、どうなるの? Re:non様は、俺をどうするの?」 「コイツが組織立って動いていて、仲間に報告でもされたら厄介だわ」 可愛らしい食いしん坊の唇が閉じ、発散していた明るさを内側に引っ込んだ。 それは“音”に愛される“《イデア》〈幻ビト〉”の好戦的な顔つきだった。 「口を封じるしかない、か・し・ら」 「明るいうちから、おっかないったらないわ。カルシウム足りてる?」 我関せずの態度で構えもしないRe:non様は、相変わらず余裕だった。 「ちょ、ちょっとストップ!」 “《イデア》〈幻ビト〉”同士が衝突したら、校舎が崩壊してしまう。 「キャットファイトするなら素手で頼むよ、負けた方が脱ぐという約束付きでね。それなら許可します」 「まぁ聞いてちょうだいよ、悪いようにはしないから」 Re:non様は野良猫のように警戒を解かないなるを無視して、テレビ出演時の流暢な語りを披露する。 「虹色の占い師には何度かちょっかい出してるし、薄々気づいていると思うけれど。わたしは、ある群れの中に身を置いているわ」 「その母体となるのが“《アーカイブスクエア》〈AS〉”と言えば、逆らっても無駄だとわかるかしら?」 「……アーカイブ」 「スクエア……」 街に浸透したその単語は、唐突さを伴って頭に響いた。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”は人々を支える大企業であり、世界中から圧倒的な支持率を誇っている。 最先端の医療技術で“ナグルファル”で発生したウイルスから人々を護り、その後も復興に尽力した救世主。 Re:non様を専属の広告塔として置いていることは有名であり、説得力を増加させている。 なるですら警戒しても無駄とわかったのか、小さくため息をついた。 「国民的人気の影に“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のバックアップがあったと思えば、納得はできるわね」 「適正な判断をありがと」 「それで? 真っ黒な大企業に身を置いて、一体、何を企んでるのかしら?」 「あら、自分たちにとって都合が悪い相手が一人でもいたらブラック企業扱い?」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”は利潤を求めて、権力を振りかざすだけの雑魚じゃないわ。人間が豊かに暮らせるように心がけている立派な企業よ」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”なくして、暦区がこの短期間で都市機能を回復できたと思う?」 投げかけに答えられないのは、その絶大な影響力を身を以て知っているからだ。 「凍える空の下で眠る人もいなければ、食糧難の悲鳴を叫ぶ声もない。犯罪は年々減少し、娯楽施設も充実してきている」 「全部“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のおかげでしょう?」 ごもっともな言い分に頷くしかない。 「私たちの存在を知っているということは、少なくとも“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のお偉いさんは“《イデア》〈幻ビト”で構成されてるのよね」 「上層部の半数はそうじゃないかしら。そもそ も、人間が指を咥えて見ているだけだから “《アーカイブスクエア》〈AS〉”が纏め上げたのが今の世界じゃない」 「人より優れた“《イデア》〈幻ビト〉”の貴方なら、わかるでしょう」 「人間を馬鹿にしないで。人間には人間の良さがあるわ」 「人は弱いイキモノよ。保護が必要なくらいにね」 「現に90%以上の人間が“《フール》〈稀ビト〉”になって力を得た瞬間に豹変する」 「今まで、びくびくしながら周りを確認して“自分より下”を探し出しては安心してたんだもの」 「優位に立って我が物顔をするのは当然のことよね」 試すような瞳にムッと来た。 「俺は大丈夫だって。私欲の為に使ったりはしないよ。一、Re:non信者として誓える」 「弁明は聞いてない。二度も言わせないで」 聞く耳をもってもらえなかった。 “俺だけは”という言い方が、既に自分を特別視した危険なワードだと捉えられているのかもしれない。 しかし人間を護る大目標の為に“《フール》〈稀ビト〉”の人権を奪って駆除するのは、確かに効率的だと思う。 過ぎた力を持った人のほとんどは欲望に忠実になり、モラルは瓦解し、破滅に向かう――――歴史が雄弁に物語っている。 「占い師。あなたにアプローチを掛け続けたのは、“《フール》〈稀ビト〉”を割り出せる稀有な能力を高く買ったからよ」 「お偉いさんに紹介して、紹介料をガメようって魂胆ね。き・た・な・い」 「本題に入るわよ」 「わたしはアイドルの顔とは別に、“《フール》〈稀ビト〉”を秘密裏に処理する役目があるの」 「本来なら“《フール》〈稀ビト〉”の彼はもちろん。 “《フール》〈稀ビト〉”を生み出したあなたも、まとめて 連行するべきなのだけど……」 「やってみなさいよ」 「……単細胞?」 「う、うるさいずらぁああああぁぁぁぁぁッッッ!!」 「ストップなるちゃん、最後まで話は聞こうよ?」 「こいつ絶対デストロイするっ! こいつと話してるとムカムカしてくるのよっ」 「向こうにそのつもりがあるなら、こんな長々と説明しないんじゃないかな?」 「自分から所属をバラす必要がないことくらいわかってるわよっ」 両手を蜘蛛の足のように動かしてウーウー唸っている。 きっかけさえあれば飛びかかりそうだ。 俺の知っているなるはこんなにすぐ頭に血が上る子ではない。 頭でわかってても相容れない相手というのは、遺伝子のレベルで決まっているのかもしれない。 「…………」 言われた事を咀嚼して考えをまとめていると、不意に思考が昨日へ飛んだ。 「捕獲者気取りが、ビビってんじゃねーぞ。この調子じゃ俺はおろかあいつを捕まえるのなんかできっこねーな!?」 「人を《モルモット》〈実験動物〉扱いしやがった連中がまだとぼけるか……」 「俺を“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”なんて糞みたいな呼び方しやがったのはおまえらの方じゃねーかッ!!!」 「さっきの《オンナ》〈追跡者〉は問答無用で斬り掛かって来たが、おまえはそうやって油断させる戦闘スタイルなのか?」 捕まえる―――― モルモット―――― 斬りかかるオンナ―――― 「“腕”の男に手錠を掛けたのって、もしかして……」 「“腕”――――ああ……アレに会ったんだ」 『問答無用で斬り掛かったオンナ』の正体が大アイドル様とは、さすがに予想しなかった。 「あ――――あの男が言ってた組織って……そういうこと。なんとなく繋がったわ」 「あれから行方知らずって報告を受けてたけど、始末してくれたようね」 「…………」 「まぁいいわ。それはそれとして……」 「わたしは、《・・・・・・・・・・・・・》〈貴方たちなんか見つけてない〉から」 なると視線が合う。察しの悪い俺たちでもわかった。 「見つけてない以上、連行する事ができるはずないし、争う事も当然できないわね」 「なかったコトにして見逃してくれるってわけね。俺たちにとっては都合がいいけど、それだけじゃないんでしょ?」 「鬼畜な要求が始まるわよ。跪いて足を舐めろとか」 「それはただのご褒美でしょ?」 「ぁによっ!?」 突っかかるなるだが、実際問題、我々の業界ではご褒美です。 「ぜひ、靴は脱がないままで」 「帰ったらいくらでも踏んで上げるわ。使い物にならなくなるまでね」 漏れだした心の声に大層、怒ってらっしゃる。 「わたしが要求する条件を飲めば二人とも見逃してあげる。普段通りの生活にもどっていいわ」 「創作がわからない奴の言うことなんか信用できないわ」 「電話一本でこの学園を囲うことも、証拠を隠滅することも容易いのだけど……」 あの時の“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の様子から思うに、Re:non様はなると同等かそれ以上の実力者だろう。 加えてバックボーンには“《アーカイブスクエア》〈AS〉”――――。 「他に何か打つ手が? わたしを口止めできるほどの策が用意できるの?」 「そんなものはないわ!」 何も無いくせにやたら強気だった。 “音”を操るなるならば先制攻撃で黙らせることは可能だろうが、あまりにも危険すぎる。 「条件ってのは?」 「二度言うのは嫌いなの」 と、言われても。 言われた覚えがないので困る。 「《・・》〈最初〉に言ったじゃない。ファンならわたしの言葉は一字一句、聞き逃さない事」 ヒントを頼りに思考をめぐらしていくと、物凄く自分本位な結論に達した。 言ったら殴られそうだが、それもまたファンとしては一興。 「…………ってことだよね?」 「は?」 「正解」 ……………………え? 本当にそんなことでいいの? 一寸先は闇だ。 人生は何が起こるかわからない。 そこに面白さを見いだせるのもまた、人生だけれど。 「さすがに俺みたいな一般人の隣を歩くのはまずくない?」 「べつにオトコと街をぶらぶらするくらい平気よ。マネージャーとでも思えばいいじゃない」 「バレたら今後の活動に支障をきたすんじゃない?」 「携帯で手軽に写真が取れる時代、市民ジャーナリストによるスクープは後を絶たないわね」 「でも嬉しいんでしょ? わたしと歩けて」 「感動だけどさぁ」 「どんな噂が立っても、揺らがないのが頂点よ。あなたが要求を飲んでくれたお礼でもあるけどね」 「本心は?」 「ふふっ、虹色の占い師からオトコを奪ったら愉快かなって」 食えない女子の悪戯っ気のある微笑は、謎に包まれたアイドルRe:non様に良く似合う。 しかし――Re:non様とならんで街を歩けるなんて幸運が舞い降りるとは思わなかった。 「やだーーー!! やだやだっ。優真くんとの放課後デートは私だけのものなんだからぁっ!」 「今日一日、借りるだけよ。彼と二人きりで、どうしても確かめなければならないことがあるの」 「優真くん、何とか言ってよっ」 「くそぉ~~~っ! クソクソクソッ!」 「なるちゃんと放課後デートしたいのは山々だっ! 山々なんだが、こうなってしまっては仕方がないじゃないかぁっ!!」 「俺に拒否権はないんだよな。好きにしろ。デートでもなんでもしてやる」 「口調と表情が一致してないっ」 「くすっ……彼、なかなか優しいわね」 「ぁによっ! これのどこがよっ!」 「強制的に選ばされたって思えた方が、あなたのプライドが保たれるでしょう?」 「がっ、がっ、がーーーー! がーーーーっ!!」 「噛み付くのは禁止だよっ。ここは従おうよなるちゃん。埋め合わせはするからさ」 「そのタケノコみたいに飛び出したツインテールもどきを引き抜いてあげるわ」 「やだっ、助けてっ! 怖い人がいるぅ」 「なるちゃん、そんなコト言っちゃいけません」 「GAOOOOOOOOOOOOOOO! 優真くんから、HA☆NA☆RE☆RO」 「残念。二人まとめて死に急ぐのね。早速、連絡を……」 「うーーーいいもんっ! 一人寂しく占い屋ひらくもんっ。悪い男に捕まってホイホイついてっちゃうんだからっ!!」 「な、なるちゃん!」 「やっぱり引き止めてくれるの……!?」 「展開次第で朝帰りになるかもしれないから、その時はメールするね」 「わーーーんっ!! 浮気者ぉっ!!!」 「略奪愛がどうとかって大騒ぎだったわね。あの子、本当にショック受けてたんじゃない?」 「まさか。なるちゃんの打たれ強さは重量級ボクサー顔負けだよ」 「何度も告白されてはフってるのに、諦めるどころか負けじとアプローチを重ねてくる」 「え? “《エンゲージ》〈契約〉”相手で、あんなに仲もいいのに……何処に断る理由があるの?」 「俺って今までずっと、色鉛筆の“白”だったから……華やかな色になって削られるのは、まだちょっとね……」 「あれだけ好かれてて、自分のことを一番使われない“白”だって断言するのね」 「あんなに可愛くて優しい子、俺にはもったいないから」 「覚えておきなさい。誰かに認められる事は、凄いことなの。その相手に、自分を卑下する事ほど失礼なことはない」 「ははっ、きっつ」 叱咤激励の類で俺の心根は覆らない。 今の俺は、なるを受け入れられない。 「仮にわたしの彼になれるって言われても、あなたはそのチャンスを逃すの?」 「Re:non様を嫁にするには今の1000倍は自分を磨かないと、荷が重すぎるかな」 「そう、猿人レベルの低能ね。だったらあなたは、霊長類とでも結婚しなさい」 「ははっ、厳しいところも素敵だなぁ。やっぱり付き合っちゃうかなっ」 「ふぅん――――本当につつかれたく話題は、そうやってはぐらかすんだ」 「何が?」 「さぁ」 同じ目線で話して見てわかったことだが、Re:non様は人の本質を見抜くのに長けている。 俺がはぐらかしてるものの正体なんて決して見逃さない。 あっさり気づいた上で追求をやめたのだとわかった。 「月末にわたしの語録が発売するんだけど、当然買うのよね?」 「初回限定版を保存用、観賞用、布教用、妹用、トイレ用に1冊ずつ計5冊買うよ」 「思ったよりは少ないわね。結衣ちゃんは元気? わたしのアドバイスは参考になったって?」 「嬉しそうにしてたよ。あんなことになっちゃって迷惑掛けたね」 「べつに。アガリ症なんでしょ。女の子のファンは好きよ? サード写真集なんて100冊買ってくれた子がいたのよ」 「最近は大量に買って、写真をアップすることで信者アピールをするのが流行りみたいだし」 「ネットはあんまりやらないかな。チャットとかも、よくわかんない。直接会って話すほうが、好きだし」 「覚えのないツギハギだらけのコラージュ画像があったりして、おもしろいわよ」 「自分の画像が裸にされてたり、ってこと? そういうの見ても傷ついたりしないの?」 自分が当人ならば、話題に上げるのも気持ち悪い気がする。 人に見られる事を仕事にしていると耐性がつくのだろうか。 「だっておもしろいじゃない。写真集だって、結局のところ用途は低俗な一人よがりでしょう?」 「耳が痛いです」 「貶してないわよ? 人間らしいじゃない。手の届かない存在と認めた上で、もやもやを的確に自己処理しているなんて」 「耳がっ、耳が聴こえないっ」 「見下してるわけじゃないわよ? だってそれは、《・・・・・・・》〈調整でしょう?〉」 「何もしないで犯罪を起こしたり、捕まるのを覚悟でわたしに襲いかかってこられても困るわ」 「――――勢い余って、喉笛を噛み切ってしまいそうだから」 戦場に身を置いた際のなるから漂った獰猛な一面は、Re:non様からもかいま見えた。 己の肉体と魂に絶対の自信を持つ“《イデア》〈幻ビト〉”がその気になれば、俺の胴体と首はすぐに離婚するだろう。 「自分のファンを容易く犯罪者予備軍扱いするのはいかがなものかと」 「いいからいいから。わたし本体には何の影響もないので、存分に妄想の中でRe:non様とのひとときをお楽しみください」 「さすがはRe:non様、おデブちゃんだなぁ」 「……太っ腹って言いたいの?」 「学もあるっ!」 Re:non様は行き止まりに来たかのようにピタりと立ち止まった。 「ちょっと、わたしの目を見て」 輝く魔性の瞳が至近距離に急接近。天然の催眠術に掛かってしまいそうだ。 視界に俺を映してくれてると思うと、それだけでファン冥利に尽きる。 「あの時と違う……視線を交わしただけでスイッチさせられたはずなのに……」 ご期待には添えなかったらしい。 「ねぇ……何か、強く言って聞かせてくれないかしら」 「どういうこと?」 「わたしを威圧するように命令して欲しいの。できれば断りそうな要求がいいわ」 「俺みたいな一般人に強引な事されて怒らない? 首折らない?」 「いいから命令しなさい、これは命令よ」 「んー……喉も乾いたし、一緒に“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”飲もうか?」 「もっと強い口調で」 「う、うるさいっ、飲めよっ! 暴力を振るう……ぞ……?」 「嫌よ」 女神に吐ける精一杯の暴言だったが、ぴしゃりと拒絶される。 「あれれ?」 口では嫌と言いながら、Re:non様は透明人間に背中を押されるように自動販売機まで歩いて行った。 難しい顔をしながらサングラスをかけ直し、2本の缶を手にしてもどってくる。 「はい」 「ありがと。お金――――」 言いかけたところで、手で“待った”を掛けられる。 「収入が多いのはわたし」 ごもっともなので、お言葉に甘えて受け取る。 街灯前に立ち止まって飲むことにした。 「ふふっ、CMのやつ、やってほしい?」 時折見せるあどけない顔でおちゃめに言われ、一瞬思考が停止した。 「やったっ! お願いしますっ」 気まぐれなファンサービスに歓喜。素直に歓喜! プルタブを起こしたRe:non様は準備が整っている。 CMで何度も見た、豪快な飲みっぷりが実演された。 「ゴク……ゴク……ゴク……!」 「っ……っ……っ……!」 「超最強。“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”」 「わたしは、これかな」 「わーーわーーーっ! 感激れふぅ!」 「このくらいでオトコが飛び跳ねないの。今後も紫護リノンをよろしくね」 「は、はひぃっ、缶捨ててきましゅぅ~」 俺は目ヂカラ溢れるウインクにノックダウン寸前、呂律だって回るわけがなかった。 「そういえば、優真の“《デュナミス》〈異能〉”をまだ聞いてなかったわね」 「俺だってリノンのを聞いてないよ?」 「……ちょっと」 「ん? なに?」 「名前を呼び捨てにしていいとは言ってないわ。っていうか、態度が10秒前とは別人じゃない?」 「リノンだって、俺の名前を呼び捨てたじゃん。おあいこでしょ」 「それって、おかしくない? だってあなた、神を崇めるような目でわたしを見てたじゃない」 「そうだけど、それはそれ、これはこれ。様付けで呼ぶのをやめただけで、大ファンであることには変わりがないし」 「ただまぁ……堅苦しいのは抜きにした方が、リノンも楽かなって思っただけ。どうしてもって言うなら、やめるけど?」 怪事件に遭遇した探偵のような怪訝な様子で、俺をまじまじと見ている。 「……変な人ね。わたしの信者なのに馴れ馴れしくて、距離を縮めすぎると引いていく」 「誰かと一緒にいないと寂しい癖に、寄り掛かられるのは息苦しい――――自分が定めた距離感じゃないと混乱する」 リノンの言葉は鋭利な投槍のように深く刺さる。 心に掛けた南京錠を壊されて覗かれるような、嫌な感覚だ。 「ははっ。あれだ、ヘタレってやつだ」 「ヘタレ? 手遅れの間違いじゃない?」 俺が視線を逸らしたのは、そうせざるを得なかったからだ。 その自信満々な――――自分がミスをすることなど一切ないと断言するような笑みに、全てを見透かされている気がしたから。 「……それで? あなたは何ができるの?」 「詳しいことはわからないけど、“《アーティファクト》〈幻装〉”を出せるみたい」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”? そんなわけないじゃない。 “《イデア》〈幻ビト〉”は“《エンゲージ》〈契約”できない。 あなたは“《フール》〈稀ビト〉”でしょ」 「昨日まで普通の人間だった俺に聞かれても困るよ。なるちゃんのセンスで“《レアケース》〈類まれなる一例〉”と命名されたけど」 「現段階で脳に直接働きかける力や、精神汚染を引き起こせる力は確認できてる?」 「ヒト一人に焦点を絞れるレベルの力じゃなかったのは確かだよ」 「もっと凶悪な――――竜巻や、津波、噴火や、雷……メカニズムが解明されて尚、完全な対策ができない自然現象と同規模の破壊兵器だった」 「嵐を巻き起こして建物を吹き飛ばしたり、直接的に目に見える事象を生み出すタイプね」 「……聞いてても、言ってても、やっぱ実感は湧かないなぁ」 「もういいわ。話してわかるのはこのくらいでしょうし」 研究素材の下調べの済んだサイエンティストのような爛々とした瞳が俺を舐めまわす。 「後は、少し踏み込んだ実験が必要になるかしら」 鳥肌の立つような事をぼそっと言わないで欲しい。 住所が割れてる以上、社長に迷惑が掛かるので逃げることもできないのだから。 「ふふっ、ねぇ優真。このあと時間ある?」 「急な仕事が入らなければ、いいよ。なるちゃんの埋め合わせは夜か、明日するし」 「あなた――――わたしの部屋に来ない?」 「うぇ!?」 悩ましいお誘いに気が動転し、今一度、相手がリノンである事を確認した。 弓のようにしなやかなボディラインは充分に引き締まっているが、女性的な丸みも感じ取れる。 「どこ見てるの?」 俺がいやらしい意味で汲み取ったのがわかっているのか、リノンは薄く笑っている。 「お、俺、初めてなんだけど……手取り足取り教えて頂けますかね?」 「決まりね」 「き、決まっちゃった……」 喉からこぼれる声が、緊張にかすれているのがわかった。 大ファンであるリノンの自宅を訪問することは、夢の一つだ。 「――――わたしだわ。仕事の連絡かしら。そこで待ってて、少し掛かるかも」 携帯を片手に雑踏から離れるリノンが思い出したように振り返る。 「安心しなさい。部屋についたら、誰にも邪魔はされないから」 「は、はひ……」 「………………ごくりっ」 ……や、やべぇ~~~~~!? 「ウインクされた! ど、どうしよ。拒否権がないってのが問題だよなぁ。いいなりにならなきゃ、なるも俺も捕まっちゃうんだし……」 誰もが憧れる天下のアイドル様の部屋にお呼ばれ――――。 常識的に考えて、健全な男女が二人っきりの部屋ですることなんて一つしか……。 「いやいや、まさか。なるちゃんとだって一線は超えてないんだよ? それは盛りすぎだよさすがに」 「まして相手は紫護リノン。水瀬優真しっかりしろ。おまえどれだけ贅沢なんだ? 仕事して社長に貢いでればいいんだよ。おまえはまったくダメな奴だなっ」 「……落ち着け。落ち着こう。がっかりするような展開が俺を待ってるんだ。いつも通りだ」 あーだこーだ自分自身と言い争う。 一人でにやけてしまう昼下がり。 「とりあえず、なるようになるだろっ」 魔法の言葉とともに両頬を叩いて気合注入、ポジティブ注入。 これでどんな事になっても万事オッケー。 「おまたせ」 「早っ! まだ30秒も経ってないよ?」 「あれ? どこまで話したか忘れちゃったわ。わたし、何をしてたんだっけ」 「えー。さっきの話はやっぱりナシになるのかぁ」 都合が良すぎる話には穴があるものだ。 「え? ううんっ。ならないわよ。どこかに行く……んだったかしら?」 「リノンの部屋で朝までハグハグ」 「ああ……そうね。そうだったわね」 ぶっ叩かれるかと思ったが、本当にハグハグで合ってるらしい。 そんなことよりも、健忘気味のリノンの笑み混ざったぎこちなさが気になった。 「電話の内容、ハードだった? どこかで一回、休もうか」 「ううん。平気だから、あまり気にしないで」 「あ――――ちょっと待って、師匠だ」 覗きの件では大変お世話になった。 何かお礼がしたくて、がっしりとした背中に近づいた所で、俺の脚が止まる。 「しかしまた……凄い組み合わせというか……あの人の腕はハンパじゃないなぁ」 「赫さん、後ほど紅茶館へ行きましょう」 「ああ。どこでも付き合おう」 学園内で本妻らしき剣咲さんと抱き合ったあと、愛人と優雅にティータイムを満喫しようというのには驚きだ。 「2人ともなかなか振り向いてくれないのに。あんなに簡単にゲットできるのは何故なんだろう」 バラシィと組んで行ったナンパでも見向きもされなかったというのに……。 「お楽しみを邪魔するのは野暮ってものよ。行きましょう」 「そ、そうだった。俺には俺のアフターが待っているんだった!」 「ねぇ……もっとわたしを隠すように歩いてくれると助かるんだけど」 「え? ずっとこんな感じで歩いてなかったっけ」 「わたし有名人なのよ? 紫護リノンよ? もう少し、気を使いなさいよ」 「あー……うん。俺の背中に隠れて」 能力で人目をカヴァーできると豪語していたのは、一体なんだったのか。 とはいえ、背中にぴったりと密着されるのは嬉しいので良しとする。 「部屋まではどのくらいなの? このまま歩く? 電車? 人目がアレなら、タクシー捕まえるけど」 ちょうど横断歩道を信号待ちしているところに、“空車”表示のタクシーが通りかかる。 「その前に寄りたいところがあるんだけど、いい?」 「いいよ。そこって、近いの?」 「ええ、一瞬で着くわ――」 「――――あ」 まったくの不意に片足が地面から離れた。 俺はわけもわからず足をもつれさせて半回転する。 横断歩道に身を乗り出し、転ぶ瞬間に振り向いた。 「地獄っていう素敵な場所よ」 ――両腕を突き出したままのポーズで、満足そうにリノンが笑んでいた。 「危ッ――――!」 跳ね起きるのとタクシーが通り過ぎるのは、まったくの同時だった。 ほんの僅かでも遅れていれば、高速回転するタイヤが俺の頭を泡みたいに弾き飛ばしていただろう。 「おい、おいおい……今の何?」 「冗談よ」 危うく死に掛けた俺に、こどもの悪戯のように言ってのける。 一体、どういう神経をしていればそんな顔ができるのだろう。 「冗談じゃなくなるとこだったし、すごい目立っちゃったよ。髪の毛まとめて抜けたしさぁ……」 「だから冗談だって――――あっちに走りましょう?」 殺す気で背中を押したのか、それくらいで死なないとわかっていたのか、真意の程はわからない。 理由は後で問いただすことにして、この場を離れることにした。 「ここでいいわ……はぁ……はぁ……」 駆け込んだのは、いつかの路地裏だった。 滅多な事では人が来ないだろうから話をするには都合はいいが、今を代表するアイドル様が来るべき場所とは思えない。 「“《イデア》〈幻ビト〉”って発作的に人を殺したくなる病でも患っているの?」 「ちょっと……あれだけ走ったんだから……はぁ……少し休ませてよ……」 「大丈夫……?」 「うるさいわね、オトコとオンナは身体の作りが、違うんだからっ」 荒々しい呼吸を繰り返し息を整えるリノンからは、余裕たっぷりの瀟洒な雰囲気は消え去っていた。 「んー……とりあえず、冗談でも殺そうとするのはやめてね?」 「……さて……一番《・・》〈濃い〉のは、この子ね……」 息切れが落ち着いたらしいリノンは、今度はなにやら思案を始めている。 「調子も悪そうだし、帰ってしっかり休んだ方がいいよ。部屋には今度お邪魔するからさ」 「そうさせてもらうわ……わたし、先に行くから。表に出るのは少ししてからにしてね」 「そっか……こんな所から一緒に出るところ激写されたらマズイもんね……?」 自分で言ってて、しっくりは来ていない。 全力疾走していたとはいえ、裏路地に入るまでに写真の何枚かは撮られていておかしくない。 今更になって気にすることだろうか……? 「バイバイ」 「ばいばーい」 なんだか、最後まで良くわからない幕切れだった。 リノンの目的は俺をここに取り残すことで達成されたのだろうか。 部屋の話はどこへ……? 「…………気を取り直して、なるちゃんと遊ぶかな」 ポジティブに気持ちの切り替える。 なるは占い屋を開くって言ってたし、きっと寂しがっているだろう。 ハンバーガーの差し入れで機嫌を直す作戦を考えついたので、まずは繁華街へ―――― 「兄様」 「――――――――」 それは、俺のあらゆる予定をキャンセルさせられる、たった一つの声音だった。 「こっち向いて」 この瞬間に俺が抱いた想いは至ってシンプル。 “とうとう、この時が来た”――――プラスでもマイナスでもない、来るべき運命に従った。 「やっぱり兄様だ」 そこに居るだけ俺を華やかな気分にさせる大事な妹が、いつものように慎ましく立っていた。 「結衣……家から出てきたんだ……」 「ねぇ、こんな所でなにをしているの?」 「さぁ……おまえを、待っていたんじゃないかな……」 「ずっと……こんな時が来るのを、待ってたんじゃないかな……」 結衣が後ろ手に握っている物の正体は、鈍色の光からなんとなく想像できる。 ゆるやかに心拍数が下がっていくのは、俺の覚悟の完了を示していた。 「結衣……」 散歩のような気軽さで距離を詰めてくる結衣から後ずさる必要も、逃げる必要もなかった。 この時点で俺は、脳裏を過ぎった様々な可能性の束をまとめ上げ、結局のところ動くことができないのを悟っていた。 「……成長したよな…………どこに出しても恥ずかしくない、いい女だよ……」 「兄様、プレゼントがあるの。そこを動かないでね」 「……ああ……何かな……」 下されるであろう審判の予想が大幅にズレる事がないとわかっていた。 結衣が歩調を早めたのは反響する靴音でわかったし、華奢な力を増幅させる為の助走であることもわかっていた。 ――――わかっていても、俺は動かない。 「――――ッ!!」 太腿に走った痛みよりも、噴き出した鮮血が結衣に掛かっていないことに安堵した。 不衛生な路地に膝をつき、床に流れる真っ赤な血を眺めると、急速に現実感が押し寄せた。 「現実に起きている……」 血だ。 俺の血液。 体内の3分の1を失うと致命傷になる体液。 それは大きく分けて3つ存在する可能性のうちの1つが消えた事を意味していた。 「喜んでもらえたかな? 私からのプレゼント♪」 愛情込めてつくったお菓子の感想を聞くような無邪気さ。 「はぁ……ぐ……っ」 ナイフに肉を断たれるのは冷たい感触だったが、苦しみは感じなかった。 嬲り殺しにされている犠牲者の思考と掛け離れているのは重々承知で――俺は確かにホッとしていた。 これで……終わってもいいのなら……。 「ごめんな……結衣……」 「あれ……命乞いするの早くない? 逃げたり騒いだり、すると思ったのに」 「……プレゼントは、これ一つかな?」 この世でたった一人の血の繋がった妹になら――――命を奪われることに文句はなかった。 理由にならない理由で、こんな時間にこんな形で一生を終わらせられても、構わなかった。 俺と今日子さんの持論による殺人の正当化なんて度外視。 ――結衣の行動理由は全てにおいて優先されるのだから。 「もっともっとあるに決まってるじゃない。最初に脚を狙ったのは、動きを鈍くするためなんだから」 「サクッと」 「――――ッ!!」 反対の太腿にも凶刃が振り下ろされた。要領は同じ。痛みも同じ。 「この状態で柄をひねると、中の神経がズタズタに破壊されて、二度と歩けないようになるんだって」 「へぇ……知恵も、付けたんだね……」 「兄様で試させてねっ」 結衣が、こんなに残虐なわけがない。 だからほぼ100%――――目の前の人物は結衣ではない。 だからといって、手を上げることはできなかった。 「――――見つけた」 刹那――光から切り離された狭い路地に深い闇が満ちた。 煌めく一等星のような点が残影となり、物理法則を無視した突風となって通過した。 「きゃぁあぁああぁぁぁッッッ!!」 舞い上がった粉塵に、反射的に瞼を閉じる。 再び瞼を持ち上げた時には、結衣は先日の俺のようにバケツの山に埋もれていた。 「だから人は嫌なのよ」 「どいつもこいつも――わたしを舐めたらどうなるかさえ、本能で感じ取れないんだもの」 躊躇なく血溜まりに脚を踏み入れたのはモデル体型の美少女、リノンだった。 しかし彼女を包む空気は華やかではなく、黒い濃霧のような 《ダークマター》〈この世に存在し得ない概念〉をまとっていた。 「あまりの怒りで、わたしの心は隙間だらけ。漏れだす感情の矛先は、どちらさんに向けようかしら」 「……帰って眠るんじゃなかったの?」 返事はなく、冷たい視線が俺を射抜いた。 「わたしとのデートをすっぽかすなんて大罪を犯しておいて、そのていどの怪我で済んで良かったわね」 “そのていどの怪我”とやらを眺める。 さっくりやられた両腿からは絶えず血が流れつづけていた。 「質問に答えて。優真、あなたはここまでわたしに連れて来られた。間違いない?」 「ああ……ちょっと走っただけで息切れするリノンに、ね」 「質問は終わってない。優真、あれがあなたの妹だと言うのなら、ナイフを持ち歩き、兄の脚を刺すのが趣味の変態で間違いないのね?」 「…………さぁ」 「さぁって」 「結衣は……反抗期、じゃないかな? 刃物は……自衛手段の一つっていうかさ……」 「ああそう。刺して笑うやつを妹と言い張るのね。あれが何らかの“力”――変身能力のようなものを用いた偽物だとは、認めないのね」 「この後に及んであなたは、気づかない振りをし続けるのね」 …………少し、疲れた。 「……リノンには、関係ないだろ」 「いいわ。わたしは、わたしの不可侵領域に土足で入ったあいつに、死ぬより苦しい地獄を味わわせるだけ」 「いたたっ……今のは一体……」 「な、なんでここにリノンが……それにこの“力”……あいつも私と同じ能力者!?」 「わたしと入れ替わって何がしたかったのか答えてもらうわよ」 「ひっ!!」 恐怖に顔をにじませた結衣は、一目散に出口へと駆け抜けていった。 「つくづく救えないわ。人間にとっての全速力は、わたしにとって歩くような速度だというのに」 「………………」 “《エンゲージ》〈契約〉”によって治癒力の向上したとはいえ、脚の回復にはしばらく掛かるのが感じ取れた。 立ち上がることのできない俺は、リノンの行く手を阻むことはできない。 「――――ちょっと」 だから、疾走の気配を見せるリノンの足首を無言でつかんだのは、単なる悪あがきだ。 「……ふざけている場合じゃないんだけど」 「………………」 跡が残るくらい強く足首を握り、意識がある限り離す気がない事を伝える。 超最強の頂点を自称するリノンは、さすがその通り、慌てず騒がず出口を見据えた。 おそらく、表へと逃げていく結衣との距離を正確に図っているのだろう。 射程距離に入るまで猫が逃げ出さないように、急がずとも追いつけると判断したようだ。 「十中八九、あいつは“《フール》〈稀ビト〉”。それもタネがわからないと苦戦する厄介なタイプ」 「何度でも言うわ。あれは偽物。私の仕事の範疇――捕縛の対象なの」 「………………」 「優真を狙った理由はわからないけど、親しい者に化けて抵抗力を失わせられる汚さと賢さは持っているようね」 リノンの呼吸が森林浴をするようにゆったりとなり、同じ速度で瞳から感情が消えていった。 「勘違いしないで優真。あなたへの失望は、あの偽物への怒りより僅かに小さいだけ」 「こんな醜態を晒す輩にプライベートを削ったことを、早くも後悔しているところよ」 「さぁ、離して。わたしがその腕を折るよりも前に」 数秒後、リノンが何の躊躇もなく俺の腕の関節を反対方向に折り畳むだろう。 「洗脳とか、催眠術でもいい……知らずにやってるかもしれない…………もし、万が一、本物だったら……おまえ」 「――――ッ!!」 「責任、取れるのかよッッッ」 全力を注いだ腕に、足首の軋みが伝わってきた。 「…………………………責任………………なにそれ?」 「……ッ!!」 「……ッ!!」 視界にノイズが走り、堪らず瞬きをする。 と――――喪失感。 「くっ……こんな時に……」 「チィ……! 《スイッチ》〈強制変更〉か」 「…………行かせない……」 「あっちもこっちもか。ったく、嫌ンなるぜ……」 「リノン……?」 オペ室でメスを入れられたように開いた肉の裂け目に、リノンは笑顔で指を突き入れていく。 「寝とけ。可能性を摘むのが、私様たちのオシゴトなんだぜ」 肉を直接えぐり出されるのは、ズグズジュッという意外なほど陳腐な音だったが、異常なほどのショックだった。 口が裂けるほどの絶叫を上げたつもりが、そんな暇もなく俺の意識は吹き飛んでいた。 動かなくなった“山”を雨晒しで泳いでいた。 “不幸”が積み重なって築かれた“山”。 作業のようにそれらを掻き分ける。 ひたすらに。 ひたぶるに。 ひたむきに。 それしかできなくなってしまった機械のように掻き分ける。 全ては、心を繋ぎ止める為だったのかもしれない。 探しつづける事が既に、微かに残った自我を保つために行為になっていたのだろう。 それらは水を吸い、重く、臭く、邪魔な障害物でしかなかった。 探しものも障害物の一つになっていないことを祈った。 足場にしている腐敗した脆い“山”が崩れると、“山”から転げ落ちた。 何度も。 何度も。 転げ落ちては、屍をつかんで登り直した。 赤いナニカと黒いナニカとよくわからない液体にまみれながら繰り返した。 “山”の麓から眺めている人がいることには最初から気づいていた。 その人は手を貸すでもなく、話しかけるでもなく、事の顛末を気にするでもなく、ただ漠然と景色を堪能するように立っている。 即ち、無関係を意味するに充分な態度だった。 この“山”に関係者が眠っているのだとしても、傍観者に徹するのであれば無関係者だった。 ――――祈っていろ。 呪詛が過る。 ――――指を咥えてみていろ。 呪詛が膨らむ。 ――――諦めない、逃げない、祈らない。 ただ黙々と、自分だけを信じて“山”を泳ぎ続けた。 あんな形で気絶したからだろう、久しく見なかった頃の夢を見た。 俺の心が不安定だった頃――――ポジティブ精神の素晴らしさに目覚めるまえにお世話になった夢だ。 「やんなっちゃうなぁ。普通、アイドルが脚に開いた穴に指をねじこむかよ」 筆舌に尽くしがたい痛みだった。 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”との戦いで味わった激痛でさえ気を失うことはなかったのに。 「いつつ……おお、凄い……」 心臓の弱い人が見たら卒倒しそうなエグい傷口だったのだが、縫合もなしでほとんど塞がっていた。 「便利っていうか、なんていうか。こうして見ると、人間以外のものになったって実感が湧くなぁ」 痛みは残るが、しばらく休んでいれば歩けるようになるだろう。 「リノン……怒ってたな……そりゃ怒るよな……あんなの、結衣の偽物に決まってるんだし」 電話を掛けに行った後からずっとリノンはおかしかった。 言ってることはチグハグで筋が通らず、冗談交じりに信号待ちで背中を押した。 あの時から“偽物”が“リノン”と入れ替わり、そして“結衣”と入れ替わったのだろう。 「間違ってるのは俺だよなぁ……」 「……その声は……ゆーまかー?」 「え? 今日子さん……?」 間延びした気の抜けた声で、居酒屋の暖簾でもくぐるかのようにひょっこり顔を出してきた。 「偶然だなぁ。こんなとこで何をしていたのだ。新しい覗きスポットか何かかー?」 偶然――――? 「ストップ。一旦、整理したいからワイン箱の前で止まって」 「ほー? 私に命令をできる身分だったかー?」 「こっちにも事情があってね。今日子さん、こんなとこって言ったけど……今日子さんこそ、どうしてこんなとこに入ってきたの?」 今日子さんが一瞬だけ、意表を突かれたような表情をしたのを俺は見逃さなかった。 「私が何処に行こうが、何をしようが、私が責任を持つんだ。私の勝手だろーが」 「素直に答えられないって事は、ほぼ認めているってことかな?」 警戒レベルを上げると、今日子さんはわけがわからなそうに手を広げていた。 「今日子さんが今日子さんだっていう証明をしてみてよ」 「水瀬今日子。職業“《クリアランサー》〈片付け屋〉”。好きなもの女の子(美少女限定)。これでいいかー?」 「なーんだ、本物じゃ――――いや、まだわからないな」 一度ひどい目に遭ったからか、今の俺は冴えている。 仮に、記憶をあるていど共有できるとしたら、状況は変わってくる。 「やるな。まんまと信じるところだったぞ」 「何の遊びか知らないが、さすがに説明ナシじゃついていけないぞー。私にもわかるように教えてくれないかー?」 「もう俺を弄ぶのはやめてくれ。身内に化けられるのは気分が良くないんだ。こんなことをする理由を教えてくれよ」 「化ける――――?」 「これは、どういう状況だー?」 同じ声音。同じ相貌。表から現れた人は、コピーのように今日子さんと一致する容姿だった。 「お、おー! おーーー! 初めまして、私のそっくりさん。ゆーまはこの事を言っていたのかー!」 「ゆーま。状況を説明したまえー。測ったように服装が同じのそっくりさんなんて、いるはずがないだろー」 「おおー、賢いなー。言われてみればそうだー。私のストーカーも大概にしたまえよー?」 「つまりキミは……偽物ということになるなー」 片方は、物珍しそうな顔で色んな角度からそっくりな自分自身を眺めては感嘆の息を漏らしている。 片方は、そっくりな自分に警戒するように睨みつけ、距離を取っている。 どちらもが、今日子さんの取る正しい行動に思えてしまう。 「訂正したまえよー、偽物はキミの方だろー? 本物だっていうなら、私の分まで仕事をしたまえよー」 「確かにキミが私と同じだけの仕事量をこなせるのならば、雇う価値はあるなー」 「作業効率は二倍だなー。早速、契約の話だが……」 「待ちたまえよ。何故、偽物が偉そうにしているのだー? 社長は私だろー?」 「むむー」 「(どっちだ……? どっちが本物の今日子さんなんだ……?)」 確信が持てるまでは、どっちに手を出すわけにもいかない。 育ての親に殴りかかる事なんて、絶対にしてはならない。 「埒が明かないなー。ゆーまに決めてもらうとするかー」 「それでいいぞー、ゆーまが私を間違えるはずないからなー」 「ただ指差しで当てられてもおもしろくないので……」 「――――じゃーん♪ 街に出たついでに買ったウイスキー♪ 落とすなよー」 投げ渡される、ポケットタイプの小瓶。 これをどうしろというのだろうか。 「偽物と思う方の頭にこれをぶっかけて、オマケでもらったこいつで――――」 投げ渡されたのは、どこにでも売っている100円ライター。 「燃やしちゃう、ってのはどうだろーか?」 「ゆーま、偽物の目的が見えたなー。私を殺して事務所を乗っ取ろうと言うわけだ。耳を貸すなよー」 「おやー? 『ゆーまが私を間違えるはずがない』と聞いたがなー? 舌の根も乾かぬうちに、自分の言葉を撤回するのかー?」 「最後まで自分の発言に責任を持って、有言実行したまえよ。本物さん」 「話にならない。この偽物は限度というものを知らないなー。どちらにしろ、ゆーまを人殺しにしてしまうではないかー」 「本物さんは、ちょっと焦げたくらいで死ぬのかー」 これは“本物”からのヒントであると同時に、“本物”が飽きてきたからこそヒントが出たのだとわかった。 「いいよ今日子さん。せっかくのお酒を無駄にするのはもったいないでしょ」 小瓶を投げ返すが、今日子さんは笑いながらひょいと躱してしまう。 隣にいた今日子さんは地面すれすれの小瓶に《・・》〈右腕〉を伸ばすが、本来左腕で取るべき無理な体勢の為にファインプレーならず、壁に当たってガラス片が弾けた。 「馬鹿ものー! 破片が刺さったらどうするつもりだったんだー!」 「この私に投げ渡すなんて考えられん。片腕の不自由な私を労りたまえー」 「――――――」 急激に心が冷えていくのが実感できた。 「何のために脚があるのだー。きちんと歩いて渡したまえー、安月給めー」 目の前のナニカがナニカを喚いていた。 半分以上が聞き取れなかった。 だが何も有益な事など言わないことだけはわかる。 動物以下の戯言は、耳に入らない。 「…………今日子さん」 「……ん」 「ごめんなさい」 「気にしてない。悪乗りした私も私だ」 「ちょっと……ちょっとちょっと待ちたまえよ。何勝手に決定してるのだー。偽物に騙されるような育て方はしてないぞー」 「もういい、しゃべるなよ。また同じことをされても困るから、捕まえさせてもらうよ」 脚の傷もだいぶよくなったし、ちょっと走ったくらいで息切れする奴を相手に遅れは取らないだろう。 「おい……近づくなゆーま……育ててやった恩を忘れたのか?」 「記憶もあるていど盗めるのか。いい加減、その姿はやめてくれ。気分が悪いんだ」 「まったくだなー。同じ顔がいると、落ち着かない。種明かしをしたまえよー」 「わ、笑うなっ! こんな出来損ないに化けるんじゃなかった。せめてマトモに腕が動くような奴にすれば……」 デキソコナイ――――? 「ごぅヴェッ!!」 「はい、弱すぎる。偽物」 家族への誹謗中傷が俺の心を極限まで獰猛にさせた。 気づけばよく回る口に指を突き入れ、襟を掴んで倒すのと同じ要領で“口の内頬”を掴んで強引に倒していた。 「ググググぅ、ァがががっ――――!! ぇほッ! ゲほッ!」 薄汚れた地面にもんどり打った偽物は、寝返りを繰り返すという惨めをさらしていた。 本物なら、口に指を入れた瞬間に指が喰われていただろう。 『食べていいから入れたんだろー?』とか、容赦なく肉ごと骨ごと噛みちぎるのが今日子さんだ。 「情けなくて、涙が出そうだよ」 こんな結果になるまで、見分けがつかなかった自分が許せなかった。 こんな茶番に付きあわせてくれた“偽物”に腹が立って仕方がなかった。 大切な人と同じ姿に化けられ、倒すしかない状況に追い込んでくれたことも、反吐が出るほど嫌だった。 「ど、どうして……ゆーま……間違えているぞー。うぅ……痛い……そっちが偽物なのに、ひどいー……」 「わかってないな。困ってたのは俺だけなんだよ」 「今日子さんはおもしろい見世物だと思って、敢えて合わせていただけだ」 「その気になったら、おまえなんか喋るより前に地に伏してる」 「うぅ……どうして私がこんな目にぃ……考えなおしてくれー、ゆーまー。私が本物なのだー」 「…………」 「こんなのはさ、今日子さんにとって大事件でも何でもないんだ。 《おはじき》〈子供の遊び〉みたいなものだから」 「――――くだらない遊びを盛り上げる為に、身の潔白を証明する為だけに、抱えた《ハンデ》〈欠陥〉を喋ったりするような人じゃないんだよ」 今日子さんの左腕は動かない。 いつもブラりと垂れ下がってるだけのお荷物で、お飾りだ。 《ハンデ》〈欠陥〉を公言することで自分を弱者と認めさせて保護してもらったり、酒の席で笑い話にする人もいるけど、今日子さんは誰にも言わない。 そのことで誰かに頼ったり、相談したのを見たことはない。 俺だって言われたことはないし、聞いたこともない――――一緒に生活してるうちに気づいたのだ。 「ゆーま」 「止めないで」 「はぁ……珍しく怒っているなー。感情のコントロールは“《クリアランサー》〈片付け屋〉”にとって基本中の基本だからなー」 今日子さんは表に繋がる反対側の出口を塞ぐように壁により掛かり、俺と偽物に決着をゆだねた。 「で――――やって良いことと悪いことの区別もつかないの?」 なるを家族に向かい入れた時、左手で握手しようとした時だって必死で止めた。 今日子さんが反応に困るまえに、行動した。 だけど――――今、こんなくだらない奴に、それを馬鹿にされた。 「今日子さんの前で、言わせやがって。どうしてくれる?」 沸騰した泡が弾ける感覚だった。 感情の矛先がここまでくっきりはっきりしていると、わかりやすくていい。 一発では足りない。 収まりそうにない。 それでも、できればあの顔を殴ったりはしたくない。 「立てよ、人の傷みがわかんない化ケ物。触れちゃいけない部分に触れられることがどんなに辛いか教えてやる」 「うるさいんだよ気持ち悪いマザコン野郎。偉そうに説教垂れるな」 “偽物”は口中に溜まった血混じりの唾を吐き捨て、極めて鋭い眼光で俺を睨んだ。 「年に一度の厄日だわ。化けた相手がことごとく普通じゃない。紫護リノンも、水瀬今日子も、頭のおかしい奴ばかり」 「極めつけに狂ってるのは――――おまえだ、水瀬優真」 「ああ、そう。否定はしないけどさ……俺をどうしたいんだ? 殺そうとしていたみたいだけど、恨みを買った覚えはないんだよね」 「狂った害虫を駆除するのに、恨みもなにもないわよ」 「何だって?」 「あんなちっぽけなコミュニティの中で持てはやされていい気になって、女をとっかえひっかえしてる正真正銘、最低のクズ野郎が」 「…………」 「私と結婚を前提に付き合っていたのも、お前みたいな狂った屑だった」 「は?」 「私が子供を生めない身体と知った途端に態度を変えた」 「私くらいの年上が包容力があっていいって囁いてくれたのも、毎月のお小遣いが欲しいだけの嘘だった」 「顔の良い若い男なんて、みんな心の中は一緒でしょ。肉欲と金と刺激を求めて、女を騙しつづける」 「気持ち悪い……おまえに比べたら、便所で飛び跳ねる虫すら可愛く見えてくる……」 聞いてもいないのにつらつらと我が身の不幸を語りだす。 「そのどうでもいい犯行理由を根底から覆して悪いんだけど、俺、童貞だから」 「あいつもそう言ってた。一緒だから平気って。嬉しかったのに。24歳まで純血を守り通した私を抱いてくれて」 「でも全部ウソだった――――私は深く傷ついたッ!!」 「……で? どうするの? どうやって、どうなったら、納得のいく結果なんだよ」 「死ね。この力で、おまえみたいな人間の皮を被った害虫を葬る。今までしてきたようにね」 「頑張れなかったんだね」 「なによっ」 「この世界で――――“ナグルファル”で生き残った人は、大なり小なり傷を負ってるのにさ」 「誰か一人に裏切られたくらいで、ヤケになって……新しい恋に向かおうとしないで、周りにあたってさ……」 「なんかそれ――――負けを認めてるようなもんじゃない?」 「うるさい。黙れ家畜。棚のコレクションが増えるわ。何十人と寝たかわからないおまえの真っ黒な性器を、瓶に入れて保管してあげる」 「はぁ……」 「この姿になると――――刺したって文句が言えないのよねぇ? 兄様♪」 「さっきまでは、だろ……」 その姿を見るだけで心拍数が急上昇した。 「今まで殺したバカはみんな、不意をついて刺されると這いずって逃げたのに……おまえは受け入れてた」 「どうやら兄様は頭のネジが外れてるようね♪」 「もし、万が一、極わずかの、奇跡的な確率で――――本当に本物だったらって思ったら、手なんか出せるわけがない」 「死ね♪♪」 振り下ろされた素人丸出しの凶刃は楽に受け止められたが、肉迫した妹の姿に動揺して下がるほかなかった。 「本物の妹は、兄様を殺す趣味があるの?」 だから何度も、その可能性は否定できないと言っている。 結衣が俺と会って俺をどうするかなんて、結衣にしかわからない。 そうあって欲しいという、願望かもしれないけど……。 「仮に、殺そうとしてきたとしても……この世にたった一人の大切な妹がそう考えたなら、仕方ないだろう」 「言ってる意味がわかんないんだけど? 妹になら殺されてもいいって、マザコンでシスコンの救いようがない変態趣味ね」 俺はさっき“偽物”に、“前へ進まない事”を負けだと言った。 しかし――――いつまでも感情の処理から立ち往生している俺も、同類ではないだろうか。 「――――ぐッ」 身体がおかしい……。 喉が乾く。脚が重い。動悸が激しい。 予兆のように身体がじわりじわりと蝕まれていく。 「はぁ……はぁ…………はぁ…………やべぇ……」 頭痛、耳鳴り、息切れ、その他多くの面倒な症状までが俺を襲ってくる。 「虫唾が走るのよ。人なんてすぐに裏切る。こどもを生めない身体とわかった瞬間に、あの男が逃げたように」 「はぁ――――はぁ――――だから……大なり小なり……誰しもが、ハンデを背負って生きてるって……はぁ……はぁ……」 「マゾな兄様♪ 私に刺されるのが嬉しくて、もう興奮してきちゃったの?」 「はぁ――――はぁ――――――――ぁッ――――あッ――――――――」 「やっぱり兄様にとって、この姿は弱点みたいね」 「く……結衣に成りすますのはやめろ……」 「やめなーい♪」 後ずさる。その分だけ追ってくる。追い詰められる。 結衣の形さえしていなければ、思う存分やれるのに……。 「くそ……」 一度、距離をとって―――― 「待ってっ、私を置いて行かないでっ! 兄様ぁっ!!」 「――――――――――――ッッッ!!!」 その言葉は、脳内で山彦のように何度も反響された。 蝕む音量は跳ね返る度に強くなる。 遠く海の底から届いたような錯覚をともなって、どこか懐かしい場所へと俺を誘った。 「――――あ」 何かが起こっていた。 「ああ……」 違う。何かを起こしたんだ。 他でもない俺が――――力の制御もできない甘えん坊が、自分勝手に暴発したんだ。 「ひっ……あっ…………あぁっっ」 尻餅をついた偽物の結衣は水たまりをつくり、アンモニア臭を立ち上らせている。 戦意喪失の原因は、震える幼顔から数ミリ外れた位置に空いた大空洞だろう。 「ば、化ケ……モノ……っっ」 都合、3棟を貫通するトンネル状の破戒の楕円。 今まで以上に凶悪な力が発現したのだとひと目でわかった。 「――一体、いくつ恩を売られるつもりだー?」 あまりにも近くにいすぎて気づかなかったが、今日子さんが目の前に立っていた。 ただ立っているのではなく、煙を昇らせる手で俺の腕を握っている。 「感謝したまえよ。間一髪――――殺人者にならずに済んだ」 「……今日子、さん……俺……」 「心配いらない。ゆーまを追い詰める正体の察しは、大体ついた」 「…………はい……」 「何も言わなくていいのだよ」 どんな言葉より魔法のように浸透する今日子さんの声に優しく包まれる。 今日子さんは何も聞かず、背中を撫でてくれた。 俺の暴走を止めた今日子さんの人間離れした強さについて、俺も聞かなかった。 大事なのは、俺が殺人を“やらかさなかった”ことであり、今日子さんが無事だと言うことだけだった。 「ど、どっちも……化ケ……モノ……ありえない……こ、殺される……っっ」 「遊び半分で刃物を持って失禁かー。目も当てられないなー」 「私の家族に関わりたいなら、それ相応の覚悟をしたまえ。覚悟がないなら――――速やかに消えたまえ」 「ひぃぃっ!! こ、腰が抜けて、た、立てな……っ!」 「脚が動かないのなら、逆立ちしたまえよ。それもできないなら、ほふく前進をしたまえよ」 「はぁ……はぁ……はぁ……」 「それにしても……切るなら喉だろー」 「首に当てて、相手の頭を押し下げる。首の皮膚がたるんで、頸動脈が筋肉に隠れず刃に届くようになる。力なんていらないのだよ?」 「な、何を言って……」 「わからないかー? 私は出された物は残さず食うタチだって話をしているのだよ」 「そ、そんな……ヤバい……こいつら、おかしい……ふ、普通じゃない……」 壁を支えによろよろと立ち上がった結衣の偽物は、涙ながらに出口へと向かっていった。 「今日子さん……」 「む、むー、建物の補修に掛かる額が、ウチが弁償できる限度を超えているなー」 「逃げるが勝ちだー。歩けるか、ゆーま」 「もちろん」 口では強がってみせたが、実際のところ“《デュナミス》〈異能〉”を使った反動からか立っているのがやっとだった。 「仕方のない甘えん坊だ」 「あ……」 俺がどんな状態なのかを察した今日子さんは、肩を貸してくれる。 「今まで以上に、私に貢ぐのだぞ」 「それはもう、よろこんで」 『もうすぐ帰るから、ベッドの上で全裸で正座待機よろしく』 何度目かになる、はぐらかしメールを見てから私は携帯を閉じた。 「ぶーぶー。結局、今日のデートはナシになっちゃったし、やってられないわ」 朝帰りじゃないからいいものの、リノンと仲良くやっていたと思うとおもしろくない。 帰ってきたらこの埋め合わせはしてもらわないと。 「私が社長だー、みんな働けー、私に貢ぐのだー」 「…………遅いぃ……」 帰ってきた時、真っ先に『おかえり』って言いたくて玄関のある事務所スペースで待っているというのに。 そりゃ、一人寂しく社長ごっこもしたくなる。 「お腹空いてきちゃった」 「蜂蜜揚げパンのストックだけはいっぱいあるのよね」 もぐもぐもぐ。 「……あいつの商品ってだけで、なんかムカつくかも…………」 「あ――――そうだ」 一袋完食し、ゴミ箱にビニールを捨てながら奥へ歩く。 「結衣ちゃん? いるー?」 昨日から何度かチャレンジしているけど、反応はない。 「ねぇ、お姉ちゃんとお話しない? 扉越しでもいいから。しりとりでもしようよー」 「…………むぅ」 ここまで徹底して拒否されるとさすがに傷つく。 「お兄ちゃん、もうすぐ帰ってくるって言ってたよ? 今日こそは、一緒に御飯食べようね」 返事がなさすぎてつまらない。 「ゆーいーちゃーん?」 建て付けの問題か、ノックがいささか乱暴だったからか、鍵を掛け忘れて眠ってしまったらしい扉は僅かに開いた。 「これはひょっとすると……ひょっとして……寝顔チャーンスッ」 とにかく会って話さなきゃ関係は始まらない、玉砕覚悟でGO! 「ありがと……もう自分で歩けるから」 今日子さんに肩を借りて事務所の近くまで戻ってきた。 本当は少しまえから一人で歩けたけど、こんな時くらい甘えてもいいかなと思った。 「しっかし派手に壊したものだなー。ひどい有様だったぞー」 「逃げちゃったけど、平気かな……? やっぱまずくない?」 「安心したまえよ、部下の不始末は社長が被る。現場でごたごたなるのが面倒だっただけで、建物の所有者には何らかの対応をしておく」 「さらなる負債を抱えて、ますます仕事に精が出ます!」 今日子さんは静かに頷くと、リハビリ中の患者並の歩調に合わせてくれた。 「ゆーま。あいつが何だったのかはどうでもいい。おまえの“力”が何かも知らない」 「あ……うん。さっきのは……事故っていうかさ……」 「いいのだ。聞こえていたし、把握できた。私の考えは、あながち見当違いではないだろう」 「いつ頃から、引きずっていたんだ?」 育ての親に隠しても無駄だとわかった。 「少し前から――――独りになると、さ」 「そうか……そうだったのか……」 俺の乾いた笑みの意味を、今日子さんは正確に飲み込んでくれた。 「なるには、その方向で話を合わせてやればいいのか?」 「いや……いいよ。もういい。今日子さんが何かする必要はない。聞かれたら、俺に振ってくれればいいから」 「…………おらー」 「――――ぴゃ!?」 男の俺が飛び跳ねるほどの平手打ちが炸裂。 「沈むなー。我が家でそんな顔は許さんぞー」 「そ、そうだね……ポジティブポジティブ!」 あの日した自分勝手な誓いも、今日だけは特別な感覚だった。 「ただいま帰ったぞーなるー」 「ダブルフォーメーションでがっつりセクハラしちゃうぜー」 出迎えの為か、なるは玄関の前で待っていた。 「…………ねぇ……優真くん」 「おー? なるが無視したぞー。家主である私の挨拶を無視とは何事だー、ちゃぶ台ひっくり返すぞー」 「とりあえずなるちゃん、水バケツ一杯まで持ってきて。俺も今日子さんも喉カラカラ」 「そんなことより、聞きたいことがあるの」 なんだか真剣な様子にアテが外れた。 メールの応答から、てっきり怒られると思っていたのに。 「結衣ちゃんの部屋、鍵掛かってなかったから……中にいると思って、入らせてもらったわ」 らしくない真顔の理由は、その一言だけで充分わかった。 「ベッドも家具もない、仕事用具が積まれた物置みたいな部屋だった。人が住んでる形跡なんて、なかったわ」 「オッケー。水、飲んだら話すからさ、水ちょうだいよ水」 「結衣ちゃんの事になるといつもそうやって誤魔化す。今日子さんには、聞く暇もなかったし」 「…………」 そう。なるが今日子さんに聞いていれば、もっと早く結論に辿り着いただろう。 今日子さんに口止めはしてなかったし、そもそも相談もしていなかった。 つまり、遅かれ早かれ、この時はやってきたのだ。 「家族の間に嘘はなしでしょ? これって、大事なことじゃないの?」 「私、一目見たこともないのよ? それどころか、あって自然なものが何もない。部屋はもちろん歯ブラシも靴も。こんなのって変だわ」 「なる、リビングで話を聞こうじゃないか。優真もそれでいいだろう」 「優真くん、はっきりさせておきたいの」 今日子さんの制止も振り切って、なるは俺の瞳をまじまじと見た。 “《エンゲージ》〈契約〉”の時と同じ。 真剣に俺のことを思ってくれている頼れる顔。 「いいよ。何」 「《》〈結衣ちゃんって、本当に――――《・・・・》〈いるの?〉」 “ナグルファル”を体験した人々は、大なり小なり、心に傷跡を抱えている。 「そんな顔しなくたって、ちゃんと妹様は、いるよ」 なるは、反射的に二の句を継ごうとする。 ちゃんと伝わっていない。 俺は証拠を示すように、軽く胸を叩いた。 「いるってば――――《・・・・・・》〈この中に、さ〉」 それから俺は、あらゆる不幸を跳ね飛ばすくらい前向きに、笑った。 「おまたせ。珈琲できたよ」 「あ、うん。ありがと」 なるは珈琲にミルクを沈める。スプーンをくるくると回すとスペードのような模様になった。 「これってマスターと合作したっていう……」 「鼻がいいね。その通り、妹ブレンド」 「昨晩、優真くんの部屋にはコップが2つあって、片方が丸々残ってた。今にして思えば、一口も飲んだ跡がないなんて変だわ」 「結衣はさ、俺の設定では珈琲党だったから。淹れてやると、喜んでくれた」 黒い水面に浮かぶ適量の油分は、ネルドリップの証。 珈琲は俺の好物であり、結衣の好物。 「ずずずっ――――うまいっ! 気品があるっ!! 珈琲農園魂を感じるっ!!」 「…………」 なるは嗜むように珈琲で唇を濡らした。 俺が話しだすのを、いつまでも待ってくれている。 それはなるが、俺のことを大切に思ってくれてるからだ。 「今日子さんは? シャワー?」 「聞いたところでこれからの生活に影響するような事はないし明日からも働いてもらうからって金庫に頬ずりしながらお酒を飲んでたわ」 「今日子さんらしいなぁ」 もう一口、珈琲を含む。 何から話すべきかをまとめようとして、綺麗に順序立てることができないことに気づいた。 「優真くんのペースで、話してくれていいから。ちゃんとここで、全部聞くから」 ちくしょうって思った。 俺の周りには、良い人が多すぎる。 良い人に甘えるがまま、俺は浮かび上がる言葉を吐き出すことにした。 「俺と結衣は、物心ついた時から孤児院で生活してたんだ」 「なんでも、病院に設置された匿名でこどもを託せる場所に入れられてたんだって。赤ちゃんポストってやつかな」 「…………ひどい……」 「ううん。生みの親には感謝してるよ」 「どうして?」 「望まれなかった命だったとしても、きちんとした場所に“捨てて”くれたおかげで死なずに済んだわけだし」 「ハンパな育児放棄より、よっぽどマシ。育児に掛かる資金もあるていど一緒に入れられたみたいだし、結衣と血の繋がりのある兄妹だってわかる資料もあったみたい」 「……そっか」 というか、このご時世、特筆すべきほどの境遇でも不遇な生まれでもない。 説明するのに必要なければ、端折ってもいいくらいだ。 「結衣と離れ離れになったのは、あの日――――“《ナグルファル》〈7年前〉”の時だよ」 「孤児院の人に引率されてバスでピクニックにやってきたところで地盤沈下が起こって、横転したみたいでさ」 「こどもだったし、何が起きたかなんてわからなかったよ。雨で視界は悪いし、地形がメチャクチャに変動して、バスが宙吊りになって、みんな谷底に真っ逆さま」 「みんなって……」 「俺だけは運良く後部座席の窓が割れて、外へ逃げ出せたんだ。中から手を伸ばす結衣の小さな手も、つかむことができた」 「だけど放した」 「結衣は、真っ逆さまに落ちてった」 あっさりと告げる俺に、なるは開きかけた口を閉じた。 何か言うべきだと明確に思ったんだろうけど。 何を言うべきかは判断できなかった感じだろう。 「こどもの力じゃ、どうあっても支えきれなかったのかもしれないし、単純に滑ってしまったのかもしれない」 「でも、どっちでもいいんだ」 「助けられなかった“結果”は変わらないし、変えられない」 「……優真くん…………」 本当に、どっちでもいいんだ。 例えばなるが、今みたいに自分のことのように辛い顔をしても、しなくても。 どっちでもいい。 絶対に過去は覆らないのだから。 「バスから這い出た後はもう完全にパニック。頭の中は結衣の事でいっぱいで、別のルートでバスの落下地点まで降りていった」 「色んなモノの残骸があった。地獄があるならこんな感じだって、子供心に思ったっけ」 「死んじゃった人たちが無造作に積み重なって、“山”とかできちゃってて、狂ったようにそこに登って行って……」 「何も考えられなくって、力尽きるまで探したけど――――もう誰が誰だかわかんなかったよ」 絶望の耐性は、あの時に身についた。 「後から聞いた話じゃ、バスに乗ってたうちで生存者は一人だけ。俺だけだったみたい」 「…………つらい話をさせて、ごめんなさい」 「気にしないで。泣いてないでしょ、俺」 「特別に自分が不幸だとは思ってないよ。今を生きてる人たちは、大なり小なり語りたくない過去を持ってる」 むしろ、こんな話をされた側の方がつらい気持ちになるから。 優しいなるなら、余計に今みたいな表情になるから。 だから言いたくなかったっていうのも、若干ある。 「で……《・・・・・・・・》〈俺の見ている結衣〉の話だったよね」 珈琲で唇を湿らす。 安らぐ芳香。 あの頃の俺たちにとってはまだ、黒い水でしかなかった。 「最初はさ、時々、夢に出てくるていどだったんだ」 「そのうちに『結衣が生きてたら、どんな風に成長してるのかな』って考えるようになった。この時点で終わってるよね、色々と」 笑ってみせたけど、なるは何も反応してくれなかった。 「7年経った結衣は美人で、しっかり者で、ちょっぴり人見知りで、化粧も覚えて、髪型はこんな感じでって……」 「――――そんなふうに『もしも』の設定を付け足していったら、いつの間にか、本当に俺の周りを歩きまわるようになったんだ」 「最初は驚いたけど、妄想だって自覚はあったから、すぐに慣れた」 「話せるのは家の中限定だったし、消す方法もわかんなかったし、受け入れるしかなかったってのもあるにはあるけど」 「結衣はあたかも一緒に生活してるように振る舞った。俺もそれに合わせてた」 「趣味が被ってたのは、俺の妄想だからだろうなぁ。珈琲好きだし。リノン様好きだし。うん、貧相な発想だ」 「でもやっぱり妄想だから、リノン様の生電話には出られなかったわけだけどね。ははは」 「…………」 「依存症の一種なんだってさ、こういうの」 「外からは正常さを保ってるように見えて徐々に妄想の世界を自分の中に築きあげていく疾患」 「困難に直面する能力が低い人間が、現実に代わる《もうそう》〈虚構の世界〉を作り出して逃避する、きわめて人間的な病気」 「つまり、弱虫病だね」 「……優真くんは、それでいいの……?」 「結衣ちゃんの影を追い続けて――――幸せになれるの?」 「さぁ。どうなんだろうね。妄想は、妄想でしかないのはわかってる」 「いつか、どこかで生きてた結衣が……ひょっこり目の前に現れて、俺の想像したままの姿で『兄様』なんて呼ぶかもしれないけど」 「なーんて! 冗談だよ、冗談」 「…………」 「ちゃんと潮時はわきまえる」 「もうすぐ、7年の節目なんだ。失踪宣告――法律でさ、7年行方不明だと、死亡と見なされるんだってさ」 「“ナグルファル”の後はそれどころじゃなくって、その辺の処理もされてなかったから。今更だけど、一応の一区切り」 「…………そっか」 「こんな風に過去を引きずってさ、妹様の分まで必死で笑って生きようなんて思ってる奴なんですよ実際」 周りにいる似た境遇の人が、現実を見据えて仏様にお線香をあげてる時に、俺は妄想に逃避して……。 ホント、しょーもないやつです。 「…………私の告白をうやむやにした時に、優真くん言ってたよね」 「自分のことを『未練がましい妄想野郎』って」 「『吹っ切れた気になってるだけで、どっかで期待ばっかりしてるおかしいやつ』って」 「物覚えすごっ! ちょっと待って、“《イデア》〈幻ビト〉”って記憶力も人並み外れてるの?」 「女の子は、フラれた時の言葉は覚えているものなの」 「…………言っておくけど、『あの時こうしていれば』なんて気持ちは一切ないよ」 「もう結衣は7年経って、正式に死んだんだから。結衣を助けられなかった事を償う気はない」 「違うな。償いたくても――――挽回のチャンスをもらえる機会なんて、あるわけがないから」 “偽物”に刺された時は、ほんのすこしだけ期待した。 結衣が生きていて、俺を見つけ出してくれたんだな、と。 あの時――――俺が手を放した時に、結衣がどんな顔で落ちていったのか、思い出せる時が来たと思った。 「孤児院で結衣が書く俺の似顔絵は、いつも笑顔だったから」 「あいつの思い描いた“お兄ちゃん像”を保つには、尽くせる手は全部尽くして、最後までポジティブに足掻いて、大往生してやる。そんなふうに生きてきた」 「でも……今日限りで、結衣の事を考えるのはやめにする」 「結衣は、死んだ。もういない」 口にしてみると、意外なほど受け入れられる自分がいた。 「…………」 話の内容を咀嚼するなるを眺めながら、珈琲を一口ふくむ。 美味しかった妹ブレンドは、いつか浴びた雨のように冷えきっていた。 「優真くんの人生の分岐点となったのが “《ナグルファル》〈7年前〉”とわかった上で、私からも 一つ、話があるわ」 「これは私が“《ディストピア》〈真世界〉”で直接ナグルファルの夜を体験した時に感じたことなんだけど」 「ナグルファルの夜に“《イデア》〈幻ビト〉”は少なからず介入しているわ」 「……どういうこと?」 「7年前の《たなばた》〈7月7日〉」 「突如として“《ディストピア》〈真世界〉”を襲った破滅的な地殻変動と奇病の蔓延――――それらは真の解決を見ないまま闇に葬り去られた」 「事態を収束に導いた“《アーカイブスクエア》〈AS〉”には、リノンやその他、大勢の“《イデア》〈幻ビト”が所属しているっていうじゃない」 「ナグルファルの夜が……単なる自然災害じゃないってこと?」 「ちゃんと調べてみないことには解らないけどね。リノンの所属組織は“《フール》〈稀ビト〉”の研究をしているみたいだし、聞けば何かわかるかも」 「……いいよ、べつに」 「何がいいの? こうやって探っていけば、あなたたちを襲った不幸の真相にたどりつくかもしれないじゃない」 「今、世界には光が満ちてる。平和に水を差すような事は、知らなくっていい」 「占いの種類は豊富なの。専門外だけど、人探しに適した透視やダウジング占いだってある」 「そして“《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”には、私も知らないような“不可能を可能にする能力”がごまん〉とある」 「…………もういいって」 「もう結衣の事は済んだし、ナグルファルだって過去の話だよ。俺たちには今の生活がある」 「潮時なんだよ。うじうじすんのはやめやめ。なると今日子さんとの生活一筋で俺はやっていくよ」 いつまでも結衣の幻影に捕らわれていてもしょうがない。 もう吹っ切った。 今日限りで、終わりにしたんだ。 妄想の結衣が現れても、もう相手にしない。 「嘘つき」 「え? 何が」 「私は優真くんと、今日子さんと――――結衣ちゃんの4人で食卓を囲む事で頭がいっぱい。優真くんは、違うの?」 「でも結衣は――――」 「GAOOOOOOOOOOOOOOOッッ!! でもって言うなーーーーーーッッ!!」 なるちゃんザウルスが吼えた。 「ただでさえキラキラ輝いて見えた優真くんの笑顔が、それでも半分未満だったって知っちゃったんだよ?」 「結衣ちゃんと一緒にご飯を食べていた時の曇りのない笑顔は、もっともっと――――素敵だったんでしょう?」 「私と今日子さんだけじゃ、その時の笑顔には、届かないんでしょう?」 「そんなことない。なるちゃんと今日子さんがいれば、俺は――――」 「うるさいうるさいうるさすぎるぅうううっっっ!!!」 「なるちゃん……」 「妥協だらけの“一筋”なんか、いらないもんっ!!」 「最後まで自分に正直な優真くんでいてよっ! 優真くんが“真っ直ぐ”なら、私が“なんとかする”からっ!!」 「……こっぴどい言われようだなぁ」 頭ではなるを理解した気になっていたけど、完全に間違いだった。 なるが俺に抱いていた感情は、恋愛感情ではなかった。 恋愛は、相手よりも自分の幸せが先に立つ。 相手の本当の幸せを考えて身を引ける人は、恋愛なんか下手っぴだから。 俺が今日子さんにそうあって欲しいと願うのと同じ。 恋人に向ける感情ではなく、家族に向ける感情。 「今日子さんがなるちゃんを迎え入れたのは、ここまでわかっていたからなのかなぁ……」 「諦めずに頑張っていれば、きっと大丈夫だよ! 結衣ちゃんも無事に見つかる! 私の小説もベストセラーになるっ!!」 「ハッピーエンド!」 無根拠な荒い鼻息。 奇跡が起きても助からない状況だった結衣が生きてて。 自分の本が何故かベストセラー。 そんな馬鹿な事を――――“なんとかなる”って信じられるなんて……。 ――――ああ、でも。 忘れていた。 俺も、なると同じだ。 それこそ俺の持ち味だ。 それが唯一、俺のイイトコ、俺の“らしさ”。 「さっきから聞いてれば言いたい放題。それ、俺のポジティブだろ? 返してよ」 「ポジティブって所有権があったの、か・し・ら?」 「ありますよそりゃ。俺が現ポジティブ保持者なんだから、勝手に奪われちゃ困るんだよ」 「その意気その意気」 「これからもよろしくおねがいシャス!」 「シャス!」 「……せ、せっかく真面目な話してたのに空気の読めない《ネオウツボ》〈十二指腸〉ね」 なるのおかげで、気持ちの整理がついた。 このお礼は、ぐーぐー鳴り響くお腹に直接するとしよう。 「あー腹減った。なるちゃん、和・洋・中、何が食べたい?」 「んー……言わなきゃわかんない、か・し・ら?」 「全部もってこーい、ね」 ひとまずは、目の前にいる家族の笑顔のために、腕によりをかけて。 またも同じ夢だった―― 肉の焼け焦げた匂いが鼻腔を刺激する。夢であるにも関わらず、まるで足元から炎に焼かれているような現実感を覚える。 視界は私の意志を反映しない。指定された構図を眺めることしかできない。まるで映画を見ているようだ。 炎に囲まれ俯くひとつの影。その手からぽたぽたと鮮血が滴り落ちていた。 血の主は影の足元で既に亡骸と化している。 どうしてこんな事に―― 私は選択を誤った。世界は過ちを許すほど寛容ではなかった。 できることはただひとつ―― 結末を迎えるために、あるべき場所に還すために、私は全てを知らなければならない―― 瞼を開くと視界を覆うようにひまわりの顔が飛び込んできた。 「……何か用だろうか」 「おはよー、あかしくん♪ はいこれー♪」 「…………?」 息遣いが感じられるほど近づけられた笑みのすぐ横に、モミジアオイの花をかざすひまわり。 「…………」 「えへへ♪」 「…………」 「――!?」 跳ね起きるようにソファから身を起こす。 靴を履くことも忘れ、栽培している植物の棚に向かう。 「……ああ」 花弁を失ったモミジアオイが昨日に比べてまたひとつ増えていた。 「はい、あーかしくん、これあーげる♪」 「それはキミの物ではない、私が育てている私の所有物だ。他人の財産を奪ってはいけない。それがこの世界のルールのはずだ」 「だってあかしくんが苦しそーだったんだもん」 「確かに胸が苦しい。それはキミが私の育てている花を傷つけたからだ」 「ちがうよー、あかしくんが言ったんだもん。だからひまわりは急いで持ってきたんだよ」 理解できない。いや、子供の言動は正常な人間でさえも理解しかねる場合があると聞いた。これ以上ルールについて論理的に説いても効果はないだろう。 「終わった事はどうしようもない。覆水盆に帰らずということわざもある」 「ほへ? よくわかんないけど、ひまわりの帰るおうちはここだよ♪」 「何を言っているのか私にはわからないが、その花はキミにあげよう」 「え、いいの?」 「その代わり、今一度その胸に留めておいてほしい。この花達に触ってはいけない」 「わかったー♪ ねぇねぇあかしくん、お水をいれるビンとかなーい?」 残念な事にひまわりの口調から信用できるほどの誠意は感じられなかった。 「……花を活けるのだろうか。それだったら台所にあるコップを使って構わない」 「はーい♪」 すぐに枯れてしまうよりは水を与えて飾られた方がモミジアオイとしても本望だろう。 「ご主人、おはようございます」 「おはようノエル」 制服に着替えたノエルが眠たそうな瞼を擦りながら階段を下りてくる。 「あ、のえるちゃんおはよー♪」 「あなたは朝からやかましいくらいに元気ですね」 ノエルは冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。 「あ、ごはん食べるの? ひまわりもごはん食べるよー♪」 「いちいち申告しなくてもわかってますよ。それともあなたの分の朝食はないと言ったら諦めるんですか」 「あきらめなーい♪」 「だったらせめて用意するまで黙ってなさい。あんまりうるさくしてるといちごジャムの瓶を口につっこんで無理矢理塞ぎますよ」 「え! いいの!? やってやって♪」 「はぁ……もういいですから大人しく座ってなさい」 ノエルは呆れ顔を浮かべながら食パンをトースターにセットした。 「ご主人も麦茶でいいですか?」 「ああ、それで構わない」 小麦色の液体がコップの中に充満していく。 「…………」 「どうしました?」 「何か聞こえないだろうか」 液体が流れ落ちる音が止む。 「……足音、ですね」 「来客の予定はあっただろうか」 「いえ。迷い込んだ人間でしょうか」 「どうだろうか。私の耳にはこちらに向かって歩いてくるように聞こえるのだが」 扉の向こう―― その先から一定の間隔で鳴り続ける足音は次第に近づいてきていた。 「どうしたの?」 「ひまわり、少しの間喋らないでほしい」 「?」 話し声を聞きつけてこの場所が見つけられては面倒だ。気まぐれで迷い込んだ人間ならそのうちどこかへ消えるだろう。 しかしそんな思惑とは裏腹に、足音はさらに大きくなってやがて扉の前で鳴り止んだ。 そして―― 明確な意思を伝えるように倉庫の扉を鳴らした。 「……どうすればいいだろうか」 「とりあえず開けてみるしかないですね。私達に用があるみたいですし」 ノエルの言葉に従い、私は扉を開けるべく立ち上がって入り口に向かう。 鉄製の扉をゆっくりとスライドさせ、予期せぬ来訪客の顔を確かめた。 「おはよう。今日は清清しい朝だ。君もそう思わんかね」 見知らぬ顔の老人が、朝の光に目を細め私に微笑んだ。 「それで、ノエルの学園を管理する学園長が一体何の用があってここに来たのだろうか」 「教師が家庭訪問に伺うのは珍しいことではないだろう?」 久遠と名乗った男は倉庫の中を見渡しながらそう言った。 「そうか、それは失礼した。ノエルの保護者は私だ。今日は遠いところ疲れたのではないだろうか。老体には少々酷だっただろう」 「ご主人、騙されないでください。家庭訪問は担任の教師が行うもので学園長がわざわざ来たりしませんよ」 「それにここの住所は学園に届け出てはいませんよ」 「アポなしで来るとしても新市街にあるダミー用のビルに出向いて管理人に追い返される手筈になっています」 「そうなのか」 初耳だった。人間社会で生活するための手回しは全てノエルに任せていた。 「あと、ご主人は私の保護者じゃなくて旦那様ですから。大事な事なので間違えないでください」 学生の身分だと既婚者で通すのは不自然だと思ったのだがノエルは不服だったようだ。 「ふむ、しかし役所に届け出てた正式な婚姻関係ではないのだろう? 君達“《イデア》〈幻ビト〉”には戸籍が存在しないのだからな」 隠してきた事実を知る者が、九條達に続いてまたしても目の前に現れた瞬間だった。 「……何故それを知っているのだろうか」 「いやなに、長く生きていれば知識も積み重ねられていくものだよ」 「ただの人間なら、死ぬまで知らない事ですけどね」 ノエルは久遠の後ろに立つ。 「そして人間は死んでしまったら口を利く事ができません。あなたで証明してみせましょうか?」 「待って欲しい、この人間にはまだ聞かなければならないことがある」 「感謝する。老いた身ながら、まだまだ人生やり残した事が多いのでね」 秘密を知る老人の口を塞ごうとするノエルを制す。 本気に捉えていないのか、はたまた肝が据わっているのだろうか――久遠は柔らかな笑みを崩さない。 私はあるひとつの可能性に思い当たった。 「久遠、あなたが九條をここに寄越した“上司”なのだろうか?」 現状で私の知る限り、ここの事を知っているのは九條と九條に命令をした者。 “上司”と呼ぶ存在の顔を私は知らない。目の前にいる老人がそれに当たる可能性が皆無ではない。 しかし私の思惑とは裏腹に―― 「上司? 何の事かな?」 老人は心当たりがないといった感じで目を丸くした。 「いや、知らないのなら構わない。こちらの話だ」 私の推察は外れてしまったが、よくよく考えれば“上司”は姿を現さないために九條をここに寄越したのだ。自ら訪れるつもりがあるのなら、初めからそうしていただろう。 「では久遠、あなたは私達の事をどこで知ったのだろうか」 「ふむ、頼みを聞き届けてもらうにはこちらもある程度話さなければなるまいな」 久遠は顎から長い伸びた髭を触りながら口を開いた。 「君は“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”を知っているかな?」 “《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”、通称AS。 「この街に拠点を置く巨大企業グループの事だろう。物心ついた者なら知っていて当然の一般常識だ」 「そうだな。“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”は再興に一役買い、今や世界になくてはならない存在だ」 「しかし“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の上層部は多数の“《イデア》〈幻ビト”で占められているという事実は、一般常識ではない」 「普通の人間は“《イデア》〈幻ビト〉”の存在を認知していない。知らなくて当然だろう」 “《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”は“《イデア》〈幻ビト”によって作られた企業だ。 元々は規模もそれほど巨大はなく、人間と“《イデア》〈幻ビト〉”の関係を保つために作られた企業だ。“《ディストピア》〈真世界”と“《ユートピア》〈幻創界”を繋ぐ“道”を管理している。 “《ユートピア》〈幻創界〉”から“《ディストピア》〈真世界”に来るには“道”を管理する“《アーカイブ》〈Archive  《スクエア》〈Square”を通さなければならない。 人間界への積極的な関与をせざる負えなくなったのは、世界中で発生したパンデミックが原因だった。当時新種のウイルスに対する対抗策を持たない人間は世界的パニックに陥った。 しかし“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”がワクチンを開発したため、流行は次第に収束していった。今では根絶宣言も出されている。 戦争、地殻変動、パンデミック―― 短い歴史の中で立て続けに発生した混乱は、最盛期では何十億と繁栄していた人類の数を激減させるのには十分だった。 「まさかあなたは“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の人間……いや、“《イデア》〈幻ビト”なのだろうか」 「ほう、何故そう思う?」 「あなたが“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”で然るべき役職についていたのなら、私達の事を知っていてもおかしくはない」 「当たらずとも遠からず、と言ったところかな。確かに私は“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の一員だった。君達の事はその当時の資料で知った」 「ではあなたも」 「いやいや、私は君達とは違うよ。今は “《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”から離れたただの“人間”だ」 「“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”にはこの場所の情報も載っていたというんですか」 旧市街にあるこの倉庫を生活拠点として利用し始めたのは、 “《ディストピア》〈真世界〉”に来てからしばらくした後だ。 もしもここの住所が“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”に知られているとしたら、彼らは“《ディストピア》〈真世界”にやって来た“《イデア》〈幻ビト”の動向を追っていることになる。 「いやいや、基本的に“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”が“道”を通った後の“《イデア》〈幻ビト”に関して積極的に動向を探る理由はない」 「もちろん、“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の目につくような問題を起こせば別だろうが」 「私達は何も問題を起こしていない」 「知っているよ。剣咲ノエル君の成績は優秀だ。対人関係に無頓着なのが玉にキズらしいが」 「学園とは知識を得る場所でしょう。何の生産性もない会話に付き合う必要はありませんね」 「あの年頃の子達と合わないのも無理はないが、一生に一度の経験はもっと大事にすべきではないかね」 「ご心配なく。私の一生にご主人がいればそれ以上に勝る喜びはありませんから」 久遠の後ろに立つノエルは冷たい視線をぶつけながら言い放つ。 「そんな事より、この場所の事をどこで知ったのか教えてもらえますか」 「“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の情報網でないのならどこから手に入れたんですか」 「君達の顔は資料で目を通したことがあると言ったな。そしてどこかで見覚えのある君が私の学園に通い始めたのだ」 「後はもう難しくはないだろう。その手の人間に依頼して君達の住処を調べさせた。だから私はここにいる。理解したかね」 「そう簡単に尾行させたつもりはないんですが」 「今の時代、文明の利器を使えば大抵の事は不自由なくこなせる。法に縛られなければより顕著にな」 「随分物騒なお友達がいるようで」 その手のお友達はノエルの方が多いのでは、と思ったが口にはしなかった。それよりも話を先に進めることが先決だ。 「“どうやって”ここに来たのか、それは理解した。では“どうして”ここに来たのか、それを教えてほしい」 「ふむ。実は君達に頼み事があってな……」 久遠の顔に僅かだが陰りが見えた。 「近頃、妙な噂が立っていてな……どうやら学園の内部に“人間ではない者”がいるようなのだ」 「人間ではない者……“《イデア》〈幻ビト〉”の事だろうか」 「そうとも限らない。“《フール》〈稀ビト〉”の可能性も否定できない……いや、むしろそちらの方が濃厚かもしれん」 “《フール》〈稀ビト〉”―― “《フール》〈稀ビト〉”とは“《イデア》〈幻ビト”以外に“《デュナミス》〈異能”を行使する事ができる人間の総称だ。 原理は定かではないのだが、本来“《イデア》〈幻ビト〉”しか持ち得ない“《デュナミス》〈異能”を後天的に宿して操る事ができる。 「もしも噂の元凶に立つ者が存在するとしたら、人間の手には負えないだろう。放置して置けば学生に被害がでないとも限らない」 「噂とは一体どういったものなのだろうか」 「所詮噂であるから正確な情報ではないが……」 久遠はそう前置きをして噂に関する情報を話し始める。 「自分と同じ顔をした者と会った、車に轢かれても無傷だった、身体の体積を超えた量の水を飲む、黒い姿をした化け物――」 「私が耳にした事がある噂だけでもこれだけある。全てが同一人物であるかさえも定かではないし、ただの作り話がほとんどだろう」 「黒い姿の化け物――」 「君も聞いたことがあるのかね」 「少しばかり」 噂の元凶が昨日遭遇した黒い塊である確証はない。しかしアレが徘徊しているのならば、噂のひとつでも流れるのは当然だろう。 「それら全ては“《ファントム》〈亡霊〉”の仕業とも言われているが……本当のところは私にもわかりかねるな」 「…………」 「どうかしたのかね」 「いや、こちらの話だ」 “《ファントム》〈亡霊〉”―― その名が頭の中で反芻される。無意識の内に爪が食い込むほど込められていた力に気づいて心を落ち着かせる。 「つまりあなたの依頼とは学園内に潜伏している人成らざる者を見つけ出し、排除してほしいという事だろうか」 「排除、とはつまり殺すということかね」 「そういう事になるだろう」 「それは困る。後処理の事も考えなければならないのだよ。もしも相手が学生であれば尚更にな」 人間は“《イデア》〈幻ビト〉”と違って個々の繋がりが強固である。個人が失踪すれば捜索願いが提出され、警察が全力で行方を捜索する。社会から一人の人間を消すのにも相当の根回しが必要なのだ。 「ご主人、こんなメンドくさそうな事は無視するに限りますよ」 「ノエルがそういうのなら私は従う」 ノエルの言う事に間違いはない。 「大体あなたの願いを聞き届けたら、私達にどんなメリットがあるというんですか」 「残念ながらこちらが差し出せる物で君達が喜びそうな物はないな。剣咲君の成績を操作して全ての項目を最高評価にしてやることくらいか」 「別に成績とかどうでもいいですし。というか呑気な顔して堂々と教育者失格発言をするのはどうかと思いますけど」 「お気に召さないようで残念だ。困ったな、そうなると私に残されたカードはひとつしかないな」 髭を撫でながら別段困った様子もなく私とノエルを見る久遠。 「君達の情報を“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”に流さない、という条件ではどう――」 久遠の言葉は最後まで発音されなかった。 後ろにいたノエルがその首を掴んだからである。 「――オマエ、何を知っている」 首を掴まれ持ち上げられた久遠は呼吸もままならないはずだがそれでも僅かに苦悶の表情を浮かべる程度に留まっていたのは関心した。 「っ――穏便に収めたいのはお互い様ではないかね」 殺すかもしれない。何がノエルの逆鱗に触れたのか私には判断がつかなかったが老人の残り少ない命が消えようとしていたのは明白だった。 「…………」 「ノエル、今は止めておいた方がいいのではないだろうか。ひまわりもいるし部屋も汚れてしまう」 「…………」 ノエルは逡巡しているようだったが、やがて老人の息が途絶える前に力を緩めた。 「……そうですね、自分で片付けるのは面倒ですから」 「っ――ゲホッゲホッ」 急に支える力を失った久遠は地面に片膝をついた。 「――交渉は成立したと考えていいかな?」 呼吸を整えながら立ち上がる久遠の姿は強がっているようには見えなかった。 「私は構わないのだが、ノエルが反対するなら受けることはできない」 「いいんじゃないですか。ご主人がそういうなら」 意外にもノエルは久遠の依頼に対して前向きな姿勢を見せた。先ほどからの様子から反対するとばかり思っていたのだが。 「というわけだ。あなたの望み通り、学園に潜伏するかもしれない人成らざる者を探してみよう」 「助かる。私もここまで来た甲斐があるというものだ」 「ひとつ聞かせてほしいのだが、どうして私達に依頼をする気になった。人間に扱えないとしても、そういった事は“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”に任せればいいのではないだろうか」 「先ほども言ったように、事を大きくしたくはないのだよ。“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”に知れたら全学生を拘束されないとも限らない」 なるほど、あくまで秘密裏に全てを処理することがこの業務の注意点か。 「しかし、秘密を漏らさないかわりに働けというのは依頼と言うより脅しではないだろうか」 確かに“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の目に監視されることはできれば避けたい。面倒な事が起きないとも限らないからだ。 「だが断れないだろう? 理不尽な力に振り回されるのも人の《つね》〈常〉だ」 「そうなのか、ならば悪い気はしない」 そもそもこの件に関しての報酬は重要ではなかった。私の目的と一致する部分があるのだから。 「そうと決まれば早速今日から学園に来て調べてほしい」 「どうやって調べる」 「方法は任せよう。もちろん問題を起こさない事が大前提だがね」 「調べるにしても、学園に部外者が入り込むのは無理があるのではないだろうか」 「ふむ、その点に関しては問題ない。実は今朝学園の中庭にある銅像が壊れてしまってな。その修理を承った作業員という事にすればいい」 「何か言われれば私から依頼されたと答えればいい。教員には君の邪魔にならないよう話を通しておこう」 「ひとつ問題があるのだが、子供も同伴しても構わないだろうか」 「子供? あそこでテレビを食い入るように見ているあの子かな?」 ひまわりは私達が話している間、朝のテレビ番組に夢中だった。 円滑に話を進められたのは、始まる前にテレビのリモコンを渡したおかげだった。 「訳があって今ひまわりを一人にするわけにはいかない。できれば行動を共にしたいのだが」 「構わんよ。片親になってしまった教師の中に、学園へ子供を連れて来る者もいる。今の時代、そう珍しくもないからな」 「そうか。助かる」 あくまで可能性の域を出ないのだが、昨日の黒い塊がひまわりの元にやって来ないとも限らない。 そうでなくとも無事に期日まで預からなければならない以上、ひまわりを一人にしておく事に不安が残る。 「では私はそろそろ学園に戻るとしよう。こう見えてもそれなりに忙しい身なのでね」 「わかった。しばらくしたら学園に出向くとしよう」 「ではよろしく頼む」 交渉の結果に満足したように、久遠は柔らかな笑みを残して倉庫から出て行った。 「ひまわり、少しいいだろうか」 ひまわりに声をかけるが返答はなかった。 完全にテレビから発信されている電波に心を囚われている。私は歩み寄り肩を揺する。 「わあっ!?」 「驚かせてすまない。少しいいだろうか」 「もうすぐうきうきさんがわりばしでロケット作り終わるからまってて!」 「わかった」 ひまわりの見つめるテレビ画面上では、中年の男性とマスコットのぬいぐるみをかぶった人間が工作をしていた。 私はひまわりがこちらを向くのを待つ。 「ほへ~」 「…………」 「ふあ~」 「…………」 「ご主人が話あるって言ってるんですからこっち向きなさい」 「ぎゃっ!?」 ノエルの手刀がひまわりの脳天に突き刺さった。頭蓋骨が粉砕しなかったのはノエルが手加減をしたからなのだろう。 「のえるちゃんなにするの!?」 「テレビの時間は終わりですよ。それとも金輪際テレビ見せなくてもいいんですか」 「うぅ……よくないです」 「じゃあご主人の話を聞きなさい。あなたにも関係する事ですから」 頭を抑えながら涙目になっているひまわりは、テレビに対する未練をどうにか断ち切ろうとしているように見えた。 「ご主人も律儀に待ってあげなくていいんですよ。用があるなら力ずくで聞かせればいいんです」 「そうなのか」 「だめだめぇ~! ぼうりょくはいけないんだよ! ひまわりのあたまがわるくなっちゃったらのえるちゃんのせいなんだからね!」 「心配しなくてもそれ以上悪くなりようがないので安心しなさい」 「ほんと? よかったぁ~」 「よかったのだろうか」 何も解決していないように思えたのだが、本人がいいというなら問題ないのだろう。 「ご主人、すいませんけど今日の朝食を用意する時間がなさそうです」 「何か用事でもあるのだろうか」 「ええ、ちょっと今日は早く学園に行かないといけないのを忘れてました」 「わかった。私達も後で行く」 「え? どこあそびにいくの?」 「後でご主人が連れて行ってくれますよ。言っておきますけど、くれぐれもご主人の手を煩わさないでください」 ノエルは椅子の上に置いてあった学生鞄を手に取った。 「じゃあご主人、行って来ます」 「ああ、いってらっしゃい」 「じゃあこわれちゃったおじぞうさんを直しにいくの?」 「他にもやる事があるのだが、つまりはそういう事だ」 ひまわりに学園へ出向く旨を伝えると二つ返事で了解した。 「キミは大人しくさえしてくれていれば問題ない。くれぐれも私から離れないようにしてほしい」 「はーい♪ どんなとこなのかなぁー、わくわく♪」 同意の返事を得られたにも関わらず、一抹の不安は拭い去れなかった。 「では朝食にしよう。焼いた食パンに苺ジャムをのせた物でいいだろうか」 朝食を済ませた後は花に水をやらなければ。 「私に用があるのなら、隠れていないで姿を現したらどうかね」 「いつから気づいてたんですか。ただの人間になら絶対気づかれない自信があったんですけど」 「あれだけ殺気を帯びた視線を向けられれば、どんな人間でも不審に思うだろう」 「それで、私に何か用かね。主人の目がない場所で私を殺す気か?」 「それも悪くはないですけど、その前に私の質問に答えてください」 「あなたはどこまで知っているんですか」 「おやおや、相手に物を尋ねるというよりは脅しだな」 「…………」 「ふむ、君にもあまり余裕がないようだ。頭と胴が繋がっているうちに釈明をした方が良さそうだな」 「君達、というか君の事か。推測でしかないが、大方の事情は理解しているつもりだ」 「なら私があなたを邪魔に思うのもわかるんじゃないですか」 「君達の邪魔をするつもりはない。今回の件に手を貸してくれれば、君達の事は忘れよう」 「…………」 「今更弁解できる立場ではないが、悪いとは思っているよ。だが私にも余裕がないのでな。使える物はどんな物でも利用させてもらう」 「あなたが約束を守るという保障は?」 「保障を提示できるような話ではないだろう」 「私が約束を破りそうになったら、その時は君の好きなようにしたまえ。今言えるのはそれだけだ」 「……あなたの目的は一体なんですか……?」 「いずれ君にも知れる日が来るやもしれんな……だが、そうならぬよう、こうして老体に鞭を打っているのだよ」 久遠の訪問から丁度一時間後――ノエルの通う東雲統合学園の校門前に到着した。 「うわー、おっきぃねぇ、あかしくんのおうちのなんばいもあるよー」 「そうだな」 入り口を前にして施設の外観を眺める。聞いた話ではここ数年のうちに立て直されたらしく、手入れの行き届いた印象を受ける。 正門の柱には“東雲統合学園”と書かれた鉄製のプレートが貼り付けられている。 「この時間は授業が行われているのだろうか」 大勢の人間が収容されているはずなのだが、見渡す限りその姿はどこにも見えない。 恐らく教室と呼ばれる各部屋に集められ講義を受けているのだろう。 「ねぇねぇあかしくん、どこあそびにいくの」 「遊びに来た訳ではない。くれぐれも誰かに問われた際は銅像の修理をしに来たのだと答えてほしい」 私の左手に携えた工具箱を見せる。以前、水道管修理の業務に携わった際に入手した物だ。 表向きは銅像を修理する名目である以上、気休め程度とはいえ修理工に扮する努力は必要だ。生憎作業着は手元に残っていなかったため服装による偽装は叶わなかった。 「ひとまず破損した銅像の状態を確認しておこう。進捗を問われた際、状態を答えられるようにだけはしておかなくてはならない」 そういえば久遠から壊れた銅像の位置を聞いていない事を思い出した。 しかし大した問題ではない。学園内を散策していればやがて見つかるはずだ。 「あ、あれじゃないのかなぁ」 予想とは裏腹に銅像は思ったよりも早く見つかった。 正門を抜け直進すると、台座の上に備え付けられていた人型の像が視界に入った。 私は銅像に近づき状態を確認する。 「これは簡単に直せるものではないな」 人の形を模しているはずの像には無機物という点以外にも、人間との大きな相違点があった。 首から先がない―― いや、存在しないわけではない。像の後ろ側に討ち取られた生首のように置かれていた。 損壊した原因は恐らく銅像の首部分に耐久度を越える負荷が加わったのだろう。 「しかし一体どういう状況だったのだろうか」 私の知る限り、人間の腕力では銅を加工する事はできないはずだ。ましてや切断部は直径15cm程度の太さである。 もしくは校舎とは違って銅像自体は何十年前に作られた物であり、長年雨風に浸食されて脆くなっていたのだろうか。 どちらにせよ最初から可能だとは考えていなかったが、私にこの銅像を修理する事はできない。 「状態の確認は完了した。銅像の件はこれでいいだろう」 破損した銅像から視線を外してひまわりを探す。 しかし―― 「ああ、いないな」 周囲を確認するがひまわりの姿はどこにも見受けられない。 「全く逃走する気配を感じさせなかった。感心する」 だがそれとこれとは別問題である。 学園には大勢の目がある。騒ぎが起きればすぐに認知できるだろうし、人前では“人成らざる者”も行動を起こしづらいのではないだろうか。 とはいえ僅かな可能性も残すべきではない。早急にひまわりの身柄を確保すべきだろう。 面倒事が起きる前にひまわりと合流すべく、校舎の中へと足を向けた。 ひまわりを探して校舎内を歩いていると、定刻を告げるベルが辺りに鳴り響いた。 その知らせを待ち構えていたように廊下に連なる各教室の扉が開く。 最初に教師らしき人間達が書類を片手に疲れた様子で退室する。続いて喧騒と共に学生の姿が廊下へあふれ出した。 その中に見覚えのある顔を見つけた。 話かけるかどうか迷ったが、見ず知らずの人間に問いかけるよりは話が早い。そう結論付けて歩み寄り声をかけた。 「君はこの学園の学生だったのだな」 「え、“《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”? どうしてここにいるの?」 消閑の綴り師は学生の群れを抜けて私の元にやってくる。 「奇遇だ。こんな場所で会うとは思わなかった」 「私もビックリしたけど、でもこれは偶然なんかじゃないよ」 「どういう事だろうか」 「私達がここで出会ったのは“《エピストゥラ》〈運命の道標〉”に記されたさだめなのよ」 「聞きなれない言葉だ。一体それは何なのだろうか」 「ダメよ。それ以上知るともう後には引けなくなるわ。世界の真理を知ってしまったら最後、後悔しても遅いわ」 「ふむ、面倒事は遠慮したい。では聞かなかった事にしよう」 「懸命な判断ね。機関に追われるのは私だけでいいもの……孤独には、もう馴れっこだから」 消閑の綴り師は自らの身体を抱きしめた後、何事もなかったかのように気を取り直した。 「それで? “《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”はこんなとこで何してるの?」 「校門にある銅像が壊れているのを知っているだろうか。私はその修理を頼まれた」 「え、あ、ああ、あれね。うん、ご苦労様。なんかゴメン」 「どうして君が謝るのだろうか」 「何でもない何でもないこっちの話。それより銅像を修理しに来たって本当?」 「何故疑う?」 「だってそんな格好した修理工なんて見たことがないわよ。工具箱持ってるけど全然似合って・な・い」 服装に関しては普段着ているジャケットにジーンズなのだがそこまでおかしいのだろうか。 「だが今の私は修理工だ」 「だからそう見えないんだってば」 「それでも私は修理工なのだ」 携帯していた工具箱を見えるように眼前へと突き出す。 「……銅像ってドライバーで直せるの?」 「業務内容に関する情報は口外できない。どうしてもと言うのなら質問は上司に問い合わせてほしい。私には答える権利がないのだ」 これまで請け負った業務の中でも同じような状況に陥った事はある。 大抵の場合、会社に雇われているという立場を強調すれば都合の悪い事態から逃れられた。人間とのやり取りにおいて、追求を逃れる効果的な手段だ。 「まあ事情があるのね。私は空気が読める事で有名な女だから、これ以上は聞かないであげる」 「ありがとう」 空気が読める事で有名な“消閑の綴り師”は私への追求を止めた。 「ところで私からもひとつ聞きたいことがあるのだが」 「何?」 「頭にひまわりの髪飾りをつけた少女を見なかっただろうか。迷子になって困っている」 「んー、私は見てないけど。ついさっきまで授業受けてたし」 「そうか。もし見かけたら、私が探していたと伝えてほしい」 「ん、わかったわ」 「菜々実さ~ん」 「あ、中島さんと谷口さん」 教室を移動している一団の中から二人の女子学生がこちらへとやって来る。 「誰と話してんの――って、うわっ!?」 「きゃっ! ヤバッ! 超イケメンじゃん! 菜々実さんの知り合い!?」 「イケメン……? ラーメンの種類、そのひとつだろうか?」 「あはは、おもしろい冗談ですね~。凄くカンジの良い人じゃん、菜々実さんのカレシ?」 冗談を言ったつもりがないのに笑われるのは不愉快だ。 消閑の綴り師と同じ年代であろう二人は上目遣いで私を見上げた。 私は初対面の人間と遭遇した時、様々な印象を抱く。その中でもこの二人は私にとって何の利益も生み出しそうにない部類の人間だった。 「知り合いなんだけど、偶然仕事で来たんだって」 「何の仕事してるんですか~?」 「今は修理工をしている。他にも受けている業務はあるのだが」 「あの~、もしよかったら直してほしい物があるんですけどぉ……」 「何だろうか」 新しい業務委託の依頼だろうか。生憎だが現状では他の業務との兼ね合いで手一杯だと言わざるを得ないのだが。 「私~、先月カレシと別れちゃって~すっごく傷ついちゃってるんです」 「何がだろうか」 「私のコ・コ・ロ」 「あ~、アンタズルくない? そもそもカレシと別れたのアンタの浮気が原因でしょ?」 「それは言わないって約束したじゃん。つか私の中で一番になれなかった男が悪いんだし」 「済まない、せっかく仕事の依頼をしてもらったのは助かるのだが、私には受ける事ができない」 「どうしてですかぁ?」 「今は他の仕事で忙しい。それに――」 致命的な問題を私は抱えていた。 「私は人の心を修復する術を知らない。力になれず申し訳ない」 必要な技術を備えていない者に業務を遂行する事は不可能だ。 断りの返事に対して二人の女子学生はどうしてか言葉を失っていたのだが、しばらくして嬌声をあげた。 「顔がカッコいいから何言ってもカッコよく聞こえちゃう」 「耳が妊娠しそう」 「はいはい、あんまり“《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”を困らせないの。それに早く着替えないと間に合わないわよ」 「はーい」 「はーい」 二人の女子学生は近くの教室に入っていった。 「あなたもここにはいない方がいいわよ。変態呼ばわりされたくなければね」 「ああ、私もやるべきことを成さなければならない。では少女の件、よろしく頼む」 消閑の綴り師は女子学生が入って行った教室の扉を開けた。 さて、ひまわりの行方を探すとしよう―― 「おっと――」 振り向き様、別の教室から出てきた人影とぶつかってしまう。相手は思わぬ障壁に体勢を崩したが倒れはしなかった。 「すまない、大丈夫だろうか」 「なんだ男かー、どうりで頑丈だと思ったぞー」 他の女性と違い制服に身を包んでいない。しかし教師と判断するには若い気がした。 「気をつけたまえー。私とぶつかったら怪我するぞー」 「一般的に男性よりも女性の方が華奢な身体つきだ。女性側の心配をするのが妥当だと思うのだが」 「私は社員の生活を守る社長だぞー。健康第一、鍛え方が違うのだよー」 「そうなのか、失礼した」 「わかればいいのだー」 胸を張る女性の姿を見て私は記憶の中にあるひっかかりに気づいた。 この人間の顔をどこかで見たような―― 「……なるほど、そういうことなのだな」 「ん? どうかしたのかー?」 「いや、何でもない。他人の秘密を暴こうなどと下世話な考えはない。私は社会のルールを知っている」 「何を言っているのだー? へんなやつだなー」 私はこの者と会った事がある。昨日の夜、黒い塊に襲われた後にすれ違ったのだ。 その際、私はこの人間の秘密に気づいてしまった。彼女は女ではないのだ。肉体に自信があるのも納得できる。 「それよりも、キミは学生ではないように見えるのだが、ここで何をしていたのだろうか」 「ふふふ、気になるのかー?」 社長は意味ありげな笑みを浮かべた。 「気になるなら自分の目で確かめるがいいー。先に言って置くが自己責任だぞー」 私の肩を叩いて去ろうとする社長。 「ウチの社員に伝言を頼む。捕まってもウチの会社の名前は出すんじゃないぞー、社訓を思い出せー、と」 そう言い残して社長は駆け出し廊下の向こうへ消えていった。 「一体何があるというのだろうか」 私自身、学園という施設に立ち入るのは始めてだ。内部の設備に対する興味はある。 何よりひまわりの姿を探さなければならないのだ。もしかしたらここにいないとも限らない。 私は社長が出てきた教室の扉を開ける。 ほぼ同じくして悲鳴にも似た叫び声が耳を襲った。 「家族の絆は絶対守るって約束したじゃないですかぁぁぁぁぁぁっ!!」 壁際で膝をついた男子学生が私の方に振り返った。 「早ッ! 隠れる暇もなく呆気無く人生終了っ!」 「…………」 「あ……こないだの……?」 こないだ? この少年と面識があるのだろうか。 私はすぐに記憶を掘り返す。 「ああ、なるほど、思い出した」 「ははっ」 昨晩、先ほど走り去って行った社長の背中に背負われていた少年だ。今しがた伝言を頼むと言われた社員とはこの少年の事だろうか。 「私は怪しいものではない、作業員として許可を得て立ち入っている」 やはり時間を割いてでも作業着を手に入れるべきだっただろうか。もう何度目したかわからない説明をするのも少々面倒に感じていた。 「えっと、俺、そこのロッカーに隠れるんで、うまいこと誤魔化してくださいっ!」 少年は私の説明が耳に入っていないのか、慌てた様子で部屋の隅に設置されているロッカーの扉を開けた。 「どういうことだろうか? 私は何を誤魔化せばいい」 「覗きっ! 今からかわいい子が鬼の形相で入って来るから、作業で穴を開けていたとか適当によろしくっ!」 返答を待たずに少年はロッカーの中に立てこもった。 「この借りはいつか返すからっ」 これは仕事の依頼なのだろうか。つい先ほど女子学生の依頼を断ったように、私には他の業務を抱え込むほどの余裕がないのだが。 どうしたものかと思案していると、背後の扉が開く音がした。 「……ご主人でしたか」 「ノエル。偶然だな」 ノエルはいぶかしむように教室内を見渡す。 「こんなところで何をしていたんですか?」 「ひまわりを探していた。どこかへ行ってしまったのだ」 「またですか。ご主人に苦労かけるなとあれほど言ったのに。まあ仕事ですから仕方ないですね」 ノエルは先ほどまで少年がいた場所の壁に近づく。 「ひまわりを探すのに穴を開ける必要はないと思いますけど。器物破損ですよ。私というものがありながら、何を見てたんですか」 「浮気確定ですね」 何故そうなるのだろうか? もしや消閑の綴り師達とのやり取りを見られていたのだろうか。 なんと答えるべきか考えあぐねる。 「ちょうど私のロッカーが見える位置に開いた穴……ご、ご主人は私の着替えが見たかったんですか?」 「そ、そうだったんですか……」 勝手に納得を始めるノエル。 ノエルの肢体は人間の基準で計った場合、異性の性欲を刺激するようだ。 現に巷には薄着の女性がポーズをとった雑誌などが溢れているが、ノエルの身体つきは胸部の突起などにおいてそれらに引けをとらない。 「じゃあご主人は他の女を覗いていたわけではないんですね」 私の視界にはノエル以外も捉えているのだが、私に向けられた疑いは晴れたようなのでよしとしよう。 「見るだけじゃなくて、その手で触れてもいいんですよ?」 ノエルの腕が私の首に絡む。頬同士が触れ合い、肌の冷たさを感じる。 「……学園にいるからといって、他の女に目移りしたら駄目ですよ」 「わかっている。私は浮気などしていない」 授業を受けるノエルと別れ、ひまわりの捜索を再開する。 一時間ほど敷地内を巡回し、終業を知らせるベルが鳴り響いたと同時にようやくその姿を視界の隅に捉えた。 教室から出てくる学生とは反対側からこちらに向かって走るひまわり。 「あ、あかしくん、やっと見つけたよ。まったくどこ行ってたの?」 「それは私の台詞だ。キミが突然いなくなったので探していたのだ」 「ひまわりがおしっこに行って帰ってきたら、あかしくんいなくなってるんだもん」 ならば一言声をかけてくれればいいものを―― 「あかしくんのおしごとはおわったの?」 「いや、まだ何も進展していない」 最たる原因はキミであると言いかけたが抗議の言葉を飲み込む。 「じゃあはやくおしごとしないとね」 「キミも私の業務が首尾よく進むよう協力してほしい」 「なにすればいいの?」 「何もしないでほしい。私から離れず大人しくしていてくれればそれでいい」 「はーい♪ そんなことかんたんだよー♪」 「あまり説得力は感じられないのだが」 少し離れた廊下では鞄を持って階段を下りていく者や雑談をしている者が見受けられる。おそらく教室の中にはまだ多数の学生が残っているだろう。 ひまわりを探している最中、私なりに“人成らざる者”がいないか目を光らせていた。人間の姿に擬態している可能性も否定できないからである。 とはいえその場合、正体を見破る事ができる保障はどこにもない。人間と“《イデア》〈幻ビト〉”の違いはほとんどの場合、視覚的な差は皆無に等しい。 相手が“《デュナミス》〈異能〉”を使えば一目瞭然なのだが。 「ねぇねぇ、あかしくん」 「何だろうか」 「おしっこいきたくなっちゃった」 「……先ほど行ったばかりではないのだろうか」 「でもしたくなっちゃったんだからしょうがないんだよっ」 やはり何もするなという要求はひまわりにとって困難だったようだ。 「あそこにトイレがある」 教室が連なる正面側ではなく背後に伸びた廊下の先を指で示す。 「行くのであればなるべく早急に済ませてほしい」 「あかしくんもおしっこするの?」 「私はトイレの前で待っている。早く行ってくるといい」 「はーい」 ひまわりは女性用を示す赤い人型のマークがついた洗面所に向かう。 私はひまわりが出てくるのを待つ事にしたのだが―― 「あのぉ~、中に入りたいんですけど」 入り口の前に立つ私の背後には、一人の女子学生が萎縮した様子で立っていた。 「ああ、すまない」 邪魔にならぬよう道をあける。 「……どうも」 目の前を過ぎ去る際、女子学生のいぶかしむような視線を私は見逃さなかった。 「……どうやら洗面所の前で待機するのはマナーに反する行為のようだ」 外に立っていようが彼女に実害は及ばないだろう。だがこの場面で考えられる原因はそれしかない。となれば少し離れた場所で待機した方が懸命だろう。 周囲を見渡すとすぐ後ろに“図書室”と書かれた札が掛けられた扉があった。図書室とは膨大な数の書籍を備えた施設である。 私はひまわりを待つ間、実際にこの目で図書室を見てみよう。 知識の宝庫である書籍。それらが大量に集められた図書室はまさに宝の山だと言えよう。 人間社会の情報を手に入れるため、私は図書室の扉を開けた。 部屋の内部は事前に得た情報のとおり、壁一面に並べられた書籍が天井近くまで伸びた棚に敷き詰められていた。 学生のざわめきが遠く聞こえるほどに、図書室の中は静けさに満ちていた。 教室と比べ、人間の密度は限りなく低い。カウンターに一人、その他本を読んでいる者、探している者を合わせても両手の指で数えられる程度だった。 「あれは――」 私も他の者に習って興味のある書籍を探そうと図書室の中に足を踏み入れる。 しかし実際に書籍よりも気を引かれるものを見つけてしまい、本棚の品定めは叶わなかった。 歩み寄ると彼女はそれまで読んでいた書籍から視線を外し、警戒心を込めた瞳で私を見据えた。 「……どうしてあなたがここにいるのですか」 「仕事で学園に来る必要があった。まさかキミに会うとは思わなかった」 九條が身を包んでいる洋服は、倉庫に来た時とは違ってここの学園指定の制服だった。すなわち彼女はこの学園に属している学生という事だ。 「あの子は一緒ではないのですか」 「ひまわりの事か。彼女なら今、向かいの洗面所にいる。出てくれば気づくだろう」 「なら構いませんが」 話は終わりだと言わんばかりに九條は手元の書籍へと視線を落とした。 「仕事は必ず完遂させる。だからキミ達も約束を守ってほしい」 「…………」 質問に対する返答は真意の見えない沈黙だった。 「心を奪われているのだろうか」 「……どういう意味ですか?」 九條は驚きと苛立ちが綯い交ぜになったような表情でこちらを見る。 「人間は素晴らしい出来栄えの書籍や映像作品を前にした際、周囲の声が聞こえなくなるほど没頭してしまうと聞いた事がある」 「キミは今そういった状態に陥っていたのではないだろうか」 「そのような事ではありません。答える必要がないと思ったから何も言わなかっただけです」 「なるほど、人間の会話とは奥深いな。沈黙すらも意思の伝達手段として使用される」 「伝えたい事があるのなら、言語を使って伝達すればいい。そう思うのは人間についての理解が足りないせいだろう」 「誰もが思った事をそのまま口にしてしまう世界なんて、成り立つわけありません」 「何故だろうか」 九條の瞳により一層の力強さを感じた。 「皆、集団でいる事に安心を得ているからです」 「群れをなすのは人間に限った話ではない」 「動物が群れで行動するのは何故だと思いますか?」 「種としての生存本能があるからだろう。何かの書籍で読んだ事がある」 「そうですね。個よりも種全体を重要視するのは生物の基本的な本能です」 「例えばシマウマの群れを例に挙げますが、群れで行動している最中、ライオンに襲われたとしましょう」 「群れの中で一番足の遅い年老いたシマウマがライオンに捕まってしまいました。他のシマウマはどんな行動を取ると思いますか?」 シマウマとは白と黒で彩られたウマ科の草食動物だ。それとは逆にライオンは肉食動物であり力の差は歴然だ。 「捕まったシマウマが喰われている間に、安全な場所まで逃げるのではないだろうか。彼らに年老いたシマウマを救出する手立てはない」 「果たしてそうでしょうか? 数では圧倒している場合がほとんどです。立ち向かう意思させ見せれば、ライオンが逃げ出す可能性もあると思いませんか」 「シマウマの思考は私にはわからない。おそらく個を犠牲にしても守らなければならない重要なファクターがあるのだろう。少しでもリスクを避ける行動は動物に限った話ではない」 「そうですね、人も同じです。いえ、命が危機にさらされるわけではないですから、人の方がシマウマよりも残酷と言えるでしょう」 「人は大局的な思想に追随しなければ、自分がライオンに食べられてしまうと考えるからです。そうならないためなら、平気で他者を排除します」 「人間のコミュニティにおいては仕方のない事ではないだろうか。人間世界を動かすのは大勢が納得できる統一された意思だ」 「それほど大げさな話に限らず、人間は会社や学園、近所付き合いに至るまで他者の評価によってその一生を左右されている」 「それがつまりシマウマにとっての死と同義である、と考えている人間は多いのではないだろうか。コミュニティから逸脱した人間が生きていくのは困難だと想像に難くない」 「あなたはそれを仕方のない事だと思いますか?」 「人間社会のルールに則ればそれが正しいのだろう。そうやって人間の社会は発展をしてきたのではないだろうか」 「そうですね。それが真実です」 誰もが表立って口にする事はない。しかし九條の考えが人間の根底にあるのは真理なのだろう。 「なるほど、だからキミはああいう風に言ったのか」 「何の事ですか?」 九條と始めて会った路地裏――その場ではどういう意味なのか理解できなかったが今ならわかる気がする。 「世界はまやかしでできている」 「……よく覚えていますね」 人間は自己を優先しながらも他人と協調する事を強いられている。 仮面の裏に隠された真実の顔―― まやかしで満たされているという九條の主張も間違いではない。 「あ、あかしくん、こんなとこにいた!」 洗面所から戻ってきたひまわりが私達の元にやって来る。 「あかしくん、またまいごになっちゃうところだったよ! もう、気をつけてね!」 「ひまわりさん、図書室ではお静かに」 「あ、みつきちゃんだ! ゴキゲンオー♪」 「ごきげんよう」 快活なひまわりを前にしても九條の落ち着いた態度は崩れない。 「あ、みつきちゃんなんかおいしそうなもの飲んでる」 ひまわりは九條が読書の合間に口へ運んでいた水筒に興味を抱いたようだった。 付属のコップには鮮やかな赤色の液体が満ちていた。 「アッサムのオレンジペコです。よろしければお飲みになりますか」 「え、いいの!? やったー♪」 コップを受け取ったひまわりは嬉々として口の中に入れる。 「…………」 笑顔が消えていくのに時間はかからなかった。 「ん゛~~~~~~……!?」 「どうしたのだろうか」 ひまわりは頬を膨らませて悶えていた。 「……ごくっ、ぷはぁ~、思ってたのとぜんぜんちがう味~……」 「口に合わなかったのだろうか」 「なんかね~、すっごくにがいんだよ。ぜんぜんオレンジの味しないし」 「オレンジペコというのは茶葉の等級、すなわち葉の大きさを表す言葉ですから、オレンジの味がしないのは当然なのですが?」 「あかしくんも飲んでみてよ~。すっごくにがいから」 己の口に合わないものを他人に勧めるとは一体どういうつもりなのだろう。 とはいえ私自身、味わった事のない体験に興味が湧いていた。 「私も口にして構わないだろうか」 「……お好きに」 アッサムというのは確か紅茶という飲料に区分される種別のひとつだ。 私は紅茶というものを飲んだ事がない。コンビニエンスストアなどで売っているらしいが、基本的に私が摂取する飲料は水か麦茶である。 「…………」 「ねぇ、にがいでしょ?」 舌に広がる香りに神経を集中する。 「苦い、とは思わない。どちらかと言えばうっすらと広がる甘みを感じる」 「アッサムは他と比べて濃い味わいで甘みがあるのが特徴ですから。ひまわりさんには少し合わなかったようですが」 私はコップの中に残った紅茶を飲み干す。 鼻腔を吹き抜ける香りは心地よささえ覚える。花の香りを嗅いだ時の感覚に近い。 「良い物だと思う。紅茶という物に興味が湧いた」 「……本当ですかっ」 「ん……?」 一瞬、九條の目つきが変わったように見えた。 学園内に鳴り響くチャイムによって会話を中断される。 室内に設置されている時計に目をやると12時30分を指していた。終業した後も時間を知らせるチャイムは一定の間隔で鳴るようだ。 「…………」 視線を戻した時には既に九條の顔はいつもの調子に戻っていた。 「時間が来ました。私は用がありますのでこれで失礼します」 読んでいた書籍や水筒を鞄の中に片付ける。 「まだ話したい事がある」 依頼や上司の件についても何か聞き出せればと思っていたのだが。 「申し訳ありませんがそれはまたの機会に。あるかどうかわかりませんけど」 私の要望は審議にかけるまでもなくはね付けられてしまった。 「それではごきげんよう」 「ゴキゲンオー♪」 九條は振り返る事なく、拒絶するように図書室を後にした。 九條が図書室から立ち去った後、私達もすぐに本来の目的である学園内の調査を再開した。 複数の学生に噂についての聞き込みを行うが、さして重要な情報は手に入れる事はできなかった。程度の差はあれど事前に久遠から聞かされた話と大差はない。 「ねぇねぇあかしくん、ひまわりおなか空いてきちゃったんだけど」 時刻は正午過ぎ―― この学園の終業時間は過ぎており、帰宅する学生の姿が周りに溢れている。 「今日の所は一旦引き上げた方がいいだろうか」 余りに突然の依頼だったため、これといった対応策も用意できていない。 今回は下調べとしての意味合いだったと捉え、明日以降本格的な調査を開始した方がいいかもしれない。 「あれ……? あかしくんあかしくん」 「何だろうか」 ひまわりは私ではなく校舎の上部を見ていた。 「なんかヘンなのいたよ」 「変とは?」 「くろいカゲみたいなのがビュンビュンって、上にのぼっていってたみたい」 「それはどこに見えたのだろうか」 「あそこの下からびゅんびゅんって!」 ひまわりが指差したのは人通りがなさそうな校舎の裏手に位置する細い通路だった。 「あそこからね、カベをつたって上までのぼってったんだよ」 黒い影―― 私達が見た黒い塊だろうか。 少なくともひまわりの見間違いでなければ、それは人間の身体能力を遥かに凌駕した行為であり、“人成らざる者”の枠に適合する者だろう。 すなわち私の探している対象である可能性は否定できない。 「どちらにせよ、確かめなければならない」 学園内に続く昇降口と黒い影とやらを目撃した校舎の壁面を見比べる。 「ひまわりの見た黒い影を追う。それが私の仕事だ」 「りょーかいでーす! じゃあはやくいかないと!」 「いや、こちらから向かった方が速い」 昇降口に向かうひまわりを制し、人通りのない細道へ移動する。 下から建物の構造を確認する。足場になりそうな箇所はいくつかあった。 「私はここから屋上まで登る。キミはここで待っていてほしい」 「え、うん、わかった、だいじょうぶだよ?」 「…………」 人間は必ずしも口にした言葉通りに行動するわけではない。ひまわりに関して言えばより顕著に現れる傾向だ。 「やはりキミも一緒に来てほしい。一応確認しておくが、同じような壁を登った事はあるだろうか」 「あかしくんはバカだなぁ、こんなところのぼったらあぶないんだよ? 落ちたらいたくてたいへんなんだよ」 「自分が知力に優れているとは思わない。しかし少なくともキミよりは社会のルールに精通していると自負している」 やはり選択肢はひとつのようだ。 「ひまわり、私の背中におぶさってほしい」 私は膝をつき、ひまわりに背を向けた。 「え、おんぶしてくれるの?」 「ああ、しっかり捕まっていなければ、痛くて大変な事になってしまうので気をつけてほしい」 「はーい♪」 ひまわりが背中に乗り、両腕を私の首に回す。 「あかしくんのせなかおっきー♪」 「遊んでいるわけではない。舌を噛まないよう、口を閉じていた方がいい」 「りょーかいでーす♪ あかし号、はっしーん!!」 私は機械ではないのでその呼び方はどうかと思う。 しかし抗議の言葉はこの場で相応しくないと判断したため、結果的にはひまわりの命令で飛び立つ形になってしまった。 「ふぁああああ――!」 各階に設置された窓の縁、雨水を流すパイブなどを利用して屋上まで駆け上る。 最後の足場に力を込めて跳躍し、屋上のコンクリートに手を掛けた。 背中に張り付いたひまわりも途中で振り落とす事はなく、無事に屋上まで到達した。 「大丈夫だろうか、ひまわり」 「ひまわりは大丈夫だよ。それよりあかしくんってすごいんだね。大人の人はみんなできるの?」 「どうだろう。それはひまわりが大人になればわかる事だ」 状況を確認するためにゆっくりと頭を出す。 私達の張り付いている場所から20メートルほど離れた場所に三つの人影を確認した。 学園の制服に身を包んでいる者が二人、もう一人は全身黒い衣装を着用していた。 女性二人と男一人―― 男の顔はこちらに背を向けていたため確認できないが、残り二人の顔に関して私は心当たりがあった。 「あれは消閑の綴り師? それに――」 「あ、はちみつあげパンのおねえさんだ」 以前街中でぶつかった少女――名はRe:nonだったはずだ。 「もしかしてひまわりの見た黒い影とはあの少女の事だろうか」 「んー、そうかも」 状況から判断するとその可能性が限りなく高い。仮に黒い塊が屋上に現れていれば騒ぎのひとつも起きているはずだ。 彼女らの会話は風の音にかき消されてはっきりとしない。 時折聞き取れる会話に耳を傾ける。 「虹色の占い師には何度かちょっかい出してるし、薄々気づいていると思うけれど。わたしは、ある群れの中に身を置いているわ」 「その母体となるのが“《アーカイブスクエア》〈AS〉”と言えば、逆らっても無駄だとわかるかしら?」 黒装束の女性につられて残りの二人が聞きなれた企業の名を口にする。 Re:nonはさらに“Archive Square”が残した功績について説明していたようだった。 「私たちの存在を知っているということは、少なくとも“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のお偉いさんは“《イデア》〈幻ビト”で構成されてるのよね」 「上層部の半数はそうじゃないかしら。そもそも、人間が指を咥えて見ているだけだから“《アーカイブスクエア》〈AS〉”が纏め上げたのが今の世界じゃない」 どうやら二人は普通の人間が知りえない“Archive Square”の裏事情について知っているようだった。 遮蔽物のない高所では風の影響を直接受けてしまう。 風圧はさほど問題ないのだが、風の切る音が彼女らの会話を遮ってしまう。 「よく聞こえない」 「ねぇねぇあかしくん」 耳元でひまわりが囁く。 「何だろうか」 「うでがつかれてきちゃった」 「腕を離すと大変な事になる」 片手で鉄柵を掴み、空いたもう片方の手でひまわりの下半身を支える。 「きゃっ、あかしくんのえっち」 「キミの身体を支えるために仕方のない事だ。他意はない。我慢してほしい」 「あかしくんにえっちなことされたってのえるちゃんに言いつけちゃおうかなぁ」 「それだけは止めてほしい。わかった、取り引きをしよう。後でひまわりの望む菓子を購入する。それで手を打ってはくれないだろうか」 「うんいいよ。やくそくだからね」 「ああ、約束は守る」 ひまわりに手を焼いている間に、風が収まり彼女らの会話が再び聞き取れるようになる。 どうやら“Archive Square”に属する少女は、背を向けている少年を追ってここまで来たらしい。 そして件の銅像――それを破壊したのは彼ららしい。 彼が犯人だと言うのなら“Archive Square”に追われる理由も理解できる。損傷箇所を見る限り、とても人間の仕業とは思えなかった。 彼が久遠のみならず私の追う対象である可能性が―― 「あかしくん、あかしくん」 「今度は何だろうか」 彼らの話に興味が湧いたところで私の聴覚はひまわりに邪魔をされてしまう。 「えとね、おしっこしたくなっちゃったんだけど」 「何故だ。既に二回も済ませたはずではないのだろうか」 「したくなっちゃうものはしかたないんだよぅ」 それまで抑制されていた声量が大きくなってしまったのは、ひまわりの訴えが切実である証拠だろう。 しかし私にはそれよりも懸案すべき事態に際していた。 「静かに」 私は頭を下げる。会話をしていた三人のうち、黒装束の少女がこちらに振り返る素振りが見えたからだ。 「ねぇ……おしっこ」 「……わかった。降りよう」 即座に頭を下げたため視認される事は避けられただろうが、不審に思いこちらまで確かめに来られては身を隠す時間も場所もない。 何より適切な場所以外での排尿は社会のルールに反する。 ひとまず手がかりになりそうな情報を入手できた事に満足しておくべきだろう。一度に多くを望み過ぎるのは失敗の原因となりかねない。 ひまわりを洗面所に連れて行き、再び屋上に戻った時には既に彼女らの姿は消えていた。 屋上を後にして昇降口に向かう途中、廊下の向こうから聞こえてきた声に私の足は止まった。 「あれ、みつきちゃんの声じゃないかな?」 「キミにもそう聞こえるだろうか」 聞き覚えのある凛とした声がこちらまで聞こえてきた。 「みつきちゃんといっしょにあそびたい♪」 「そうだな、私も彼女と話がしたい」 声のする方まで近づくと、九條と複数の女子学生が話している姿を見つけた。 「そんなに怒らなくてもいいじゃありませんか」 九條と対面している集団――その先頭に立つ派手な容姿をした女子学生が九條と話しているようだった。 「別に怒ってなどいません。ゾウがアリに噛まれても腹を立てないのと同じです」 「なにそれ、あたしたちの事バカにしてるの?」 「凛々華さんのトコよりもおっきい会社だからって調子乗りすぎじゃない? 九條グループ社長の一人娘ってだけで偉そうにしないでくれる?」 九條グループ―― 聞き覚えがある。“Archive Square”に協力する大企業グループの名だ。 「皆さんがこう言うのも無理はありませんわよ? あなたはもう少しクラスメイトの方々に柔らかな物腰で対応できないのですか?」 「他人にどう思われようが興味がありませんから。あなたとは違います」 「……まるで私が常に人の目を気にしているような言い方ですね」 「そう言ったつもりですが。どうせあなたの事ですから、会長に立候補したのもそれが理由ではないのですか」 「ぐぬっ……!」 「あんた言って良いことと悪いことあるのわかんないの?」 「勉強もできて家柄も良い。見た目が良いから男子にも人気ある」 「そりゃ凛々華さんはあんたに全部負けてるよ? だからって死体を蹴るようなマネするなんて趣味悪すぎ」 「……ちょっとあなた、誰もそこまで言ってませんことよ?」 「あ、ちょっと言い過ぎました?」 「でも中身は凛々華さんの方がよっぽど綺麗だよ。結局男も最後は中身で判断するし」 「だよね。こんな年中、変な本ばっか読んでて人を鼻であしらうような人にカレシどころか友達もいるわけないじゃん」 「…………」 「皆さん言い過ぎですわ。……ですが九條さん、あなたにも問題があるという事は自覚なさっておいた方がよろしいのではありませんか?」 にやつく三人を鋭い視線で射抜く九條。いつもの拒絶するような印象ではなく、どちらかと言えば怒りを堪えているようだった。 「気に障ったのなら謝りますわ。ですが多くの人があなたをどういう目で見ているのか、ちゃんと考えた方がよろしくてよ」 三人は九條との会話に満足したのか、充足感に満ちた表情で立ち去ろうとする。九條は憤りを腹の中で消化し、その場を耐えるかに思えた。 しかし突然目線を変え、私達の方に向かって歩き出す。 突然の行動に、三人の女子学生も何事かと九條を目で追う。 そして―― 「私にも付き合っている方くらいいます」 付き合う、というのは特定の異性間で形成される交友関係の呼び方、そのひとつだ。 新たな九條の情報を手に入れる事ができた。私にとっては有益だ。 しかし九條のとった行動は私の理解を超えていた。 「私は、この方とお付き合いしています」 九條は私の横に並び立つ。一同の視線が私に集約された。 「…………」 「……私は浮気などしていない」 「ねぇねぇ、どこでごはん食べるの~♪」 「そうだな。ひまわりの好きな物で私は構わない。それと後ろ向きで歩くのは危険だから止めた方がいい」 心を弾ませながら繁華街の商店を見比べるひまわりに私の忠告は届いていないようだった。 「…………」 「ねぇねぇ、みつきちゃんは何食べたい?」 「……私は別に。ひまわりさんが決めて頂いて結構です」 「りょーかい♪ じゃあここからはひまわりのどくだんじょーだね♪」 いつになく浮き立つひまわりとは対照的に、私と並んで歩く九條の顔つきには影が差していた。 「……どうして何も聞かないのですか?」 学園で半ば強引に私の腕を引いた九條だが、道中ではほとんど口を開く事はなかった。 「私が疑問に思っている事は明白だろう。キミがそれについて気づいていないとは思えない」 「ならばキミが説明できる状況になるまで待っていよう。とりわけ差し迫った事態でもないのだから」 相手が言いよどんでいる時は無理に答えを要求しない。社会のルールにおいての高等手段だ。私も人間の行いが板についてきたようだ。 「……我ながら、愚かな事を言ってしまったと思っています」 「私達を後ろから監視している彼女に言った言葉についてだろうか」 20メートルほど離れた道の角から、凛々華と呼ばれた女子学生の姿が見える。 本人は隠れているつもりなのだろうがあまりにもお粗末で尾行とは言いがたい。私ならもっと上手くやれる。 「我ながらつまらない嘘をついたと自覚しています。責めて頂いて結構です」 「そんな事をするつもりはないが……キミらしくないとは感じた」 激情にかられて思わぬ行動に出るのは人間の性質だ。しかしこれまでの堂々とした九條の対応から、想像がつかなかったのは事実だ。 「……やはり、嘘だったと話してきます」 「待って欲しい。それだとキミの立場が悪くなるのではないだろうか」 「あざ笑うでしょう。あの人達にとって格好の餌ですね」 「ではその事態を回避した方がいいのではないだろうか」 「私に協力してくれるのですか……?」 「こうして共に歩き、恋人と呼ばれる関係を偽装すればいいのだろう? 別段難しい事ではない」 懸念があるとすればこの光景をノエルに目撃される事だが、見つからない事を祈るしかない。 「どうして……?」 「何故私がキミに協力するか疑問に思っているのだろうか?」 九條に助け舟を出す理由は簡単だ。 「まずこの事態はキミにとってそれなりに重要な案件なのだろう。しかもこの状況では私以外にキミの手助けをできる者はいない」 「となればキミに借りを作っておく絶好の機会だと言える。人間社会においては交渉相手に恩を売っておいて損はない」 「しかもキミと会話する機会が増えるのは私にとっても好都合だ。キミや、キミの上司についての情報も手に入るかもしれない」 「以上の点が、キミに協力しようと思った主な理由だ」 「…………」 九條は目を見開いていた。 「私の説明に不明点があっただろうか?」 「……いえ、そうではなく……それは私に言わない方が良かったのでは?」 「何故だろうか」 全くもって九條の言っている意味がわからない。説明を要求したのは九條の方だ。 「……いえ、何でもありません。ふふっ……おかしな人なのですね」 九條は口元に手を当て頬をゆるめた。始めて見た彼女の笑みは上品で新鮮だったのだが、笑われるような事を言った覚えはない。 しかし何故だろうか。今までと違いあまり不快感を感じる事はなかった。 「では申し訳ないのですがお願いできますか? 今日一日、あの人が諦めるまでで構いませんので」 「いいだろう。ひまわりもキミといるのは好きなようだ」 「ふたりとも何おはなししてるのー! ちゃんとひまわりについてこないと迷子になっちゃうよー!」 「迷子になるのはキミだ」 見失ってしまわないよう、私と九條は小走りでひまわりの後を追った。 予期せぬ事態は食事のために立ち寄ったカフェテリアで発生した。 「あんなもの紅茶と呼べません! ドブ水ですドブ水!」 「ドブ水……」 「あかしくん……みつきちゃんがこわいよ……」 店を出て九條の後を追うひまわりと私。 注文を済ませたにも関わらず、商品を受け取り食事を終える事はできなかった。 「せめて口にした後でも良かったのではないだろうか」 九條はカウンターで出された紅茶を見た途端、無言で立ち上がって店を出てしまった。 「飲まなくてもわかります! あんな方法では風味もあったものではありません!」 九條は珍しく声を荒げる。 「値段を見た時に気づくべきでした。おかしいとは思っていたのです。手間を考えればあの値段では採算が取れるはずがないのですから」 ひまわりが選んだ店は安さを売りに若者の多くに利用されているハンバーガーショップだった。 ひまわりは好きな物を選び、私は適当に目のついた物を注文した。 九條にも注文するよう促したのだが、思えばその時点からどこか不機嫌な様子だった。 図書室で飲ませてもらった紅茶を思い出し、セットのドリンクをそれにしたまではよかったのだが。 「見ましたか!? ボタンを押してカップに注いだだけですよ!?あんな何時淹れたかわからないもの私は飲みたくありません!」 彼女が紅茶に対して独自の拘りがあるのは見て取れた。だからこそ粗悪な物を許せなかったのだろう。 そもそも私の配慮も足りていなかったのかもしれない。いつか読んだ書籍では、女性をエスコートする際の店選びは慎重に行わなければならないと書いてあった。 私とひまわりの感覚で決めてしまったのはいささか無用心だった。社会のルールに沿った行動を取らなければ。 「ねぇねぇあかしくん……ひまわりのおなかはもうぺっこぺこだよぉ……」 「別の店を探そう。とはいえ目に入った店を無作為に選ぶ事はできない」 周囲を窺うと柱の影から例の女子学生が顔を引っ込めるのが見えた。 あまり手間取っていると、偽装が見抜かれてしまうかもしれない。 「そうだ、私にひとつ心当たりがある」 「…………」 「どこでもいーよーもう! おなかすいたぁ!! がーっ!!」 九條の口に合う確証はない。それでも私の知る数少ない店の中で、最も可能性が高い店を思い浮かべる。 躊躇う訳があるとすれば、喫茶メントレのマスターに面倒をかける事になるかもしれないということだけだ。 「いらっしゃいませ――おや、赫さんでしたか」 「こんにちは、マスター。今日は食事を摂るために来させてもらった」 「どうぞどうぞ。丁度客足も一段落しまして暇だったんですよ」 「ひまわりめろんそーださん飲む!!」 「かしこまりました。どうぞお座りになってお待ちください」 快く迎え入れてくれたマスターに案内され、カウンターに向かう。 「…………」 「どうしたのだろうか? ここでは不満だったのだろうか?」 「……いえ、そういうわけではないのですが」 九條は店の入り口付近で躊躇いを見せていた。まさか九條ほどの者になれば、一歩店に足を踏み入れただけで提供される紅茶の状態が判断できてしまうのだろうか。 「どうかなさいましたか?」 マスターは足取りの悪い私達を気遣う。 「おや、あなたは」 「……ごきげんよう」 「二人は知り合いなのだろうか?」 「ええ、美月さんのお父上と親交がありまして。美月さんにも何度かこの店に来て頂いた事もあるんですよ」 「そうだったのか。なら安心できる」 既に来た事があるのなら途中で腹を立てて立ち去る事もないだろう。 「…………」 「何か問題でもあるのだろうか?」 知り合いの店であるにも関わらず、九條の表情は冴えない。 「いえ、何でもありません。早く私達も席に着きましょう。ひまわりさんを待たせてしまっては可哀想ですから」 何事もなかったようにスカートを整えながらカウンターへと腰を下ろす九條。 「もしゃもしゃ……おそいよふたりとも……ひまわりはもうちゅうもんしちゃったよ」 「ひまわりは何を食べているのだろうか」 「サンドイッチです。私の昼食用なので出来合いのものですが」 「……マスターの昼食を何故キミが食べている」 「ほえ? おいしそーだったから?」 「回答になっていない」 「構いませんよ。料理ができるまで時間がありますし、よろしければ皆さんでつまんでください。もちろんお代は結構です」 「ありがとうマスター。ひまわりもお礼を言わなければならない」 「もしゃもしゃ……ありがとー♪ もしゃもしゃ、すっごくおいしいよー♪」 「いえいえ、どういたしまして。ではお二人もご注文をどうぞ」 私と九條は渡されたメニューの中から軽食を頼む。 「承りました。それでは少々お待ちください」 出来上がった料理を食べ終え、満たされた食欲を持て余す。 「食後のお飲み物は何になさいますか?」 「くりーむそーださん!」 「かしこまりました。お二人は?」 「私は水で――いや、やはり別の物にしよう」 飲料の欄に目を通す。 「九條、学園でキミに飲ませてもらった紅茶はどれだろうか」 「えっ……?」 「あれと同じ物をもう一度飲みたいのだが」 「赫さん、美月さんの淹れた紅茶を飲んだのですか?」 「ああ、あれは何と言う種類だったか」 「今日淹れて行ったのはアッサムオレンジペコのストレートティーです」 「マスター、同じ物はあるだろうか」 「アッサムのオレンジペコはメニューにありますが……美月さんの淹れられた物と比べられては期待に応えられないかと」 「どういう意味だろうか」 「ウチの店は喫茶店の体をとっていますが、本来珈琲を主に取り扱っている店ですから」 「美月さんの使ってらっしゃる茶葉と比べれば安物ですし、同じ味は再現できないかと」 「茶葉だけのせいにするのは聞き捨てなりません」 大いなる鼓動が動き出すのを感じた。 「そもそも自分の足で良質な茶葉を探す事も紅茶を淹れるために必要な事です」 「私はこれまでいくつものお店に足を運んで実際に確かめて来ました」 「そもそも粗悪品でなければどんな茶葉でも淹れ方次第ではおいしく頂く事ができます」 「簡単に素材の良し悪しだけで決め付けてしまうのは同意できません」 「これは手厳しい。頭が上がりませんね」 本来年長者であるはずのマスターが少女一人にたじろいでいる姿は珍しかった。 「そうだ、もし良ければキッチンをお貸ししますので、美月さんに淹れて頂くというのはどうでしょう?」 「……私が、ですか?」 「キミにしかできない事なのなら、私もキミにお願いしたい」 「…………」 あの感覚を是非とももう一度体験したい。これまで人間界で生活した中で出会った事のない感覚だった。 「……わかりました。それでは少しお待ちください」 カウンターを迂回し、客席とは反対側に立つ九條。 私は期待していた。人間の嗜好というものに限りなく近い感情が芽生えている自分にも―― 「ほへ~……」 「……………………」 「あれ? めろんそーださんはどこへ?」 「お待たせしました」 カウンターに座る私、ひまわり、そしてマスターの前に紅茶の注がれたカップが差し出される。 「ねぇねぇみつきちゃん。めろんそーださんのすがたがどこにもないよ?」 「満足できなければ後でマスターに作ってもらえばいい。ひとまず九條の淹れた紅茶に口をつけてみればどうだろうか」 「え~、さっきのんだやつでしょ~? あんまりおいしくなかったのに……」 「昼間お出ししたのはストレートでしたので、今度はひまわりさんの分だけミルクティーにしてみました」 言われて見ればひまわりのカップに注がれた紅茶だけクリーム色をしていた。 「ほんとだ。色がちがうよー」 「本来アッサムはミルクティーに適した茶葉ですから、甘味も加わって丁度良いかと」 私達はほぼ同じタイミングでカップに口をつけた。 「――――」 舌に上に熱と共に透明感のある甘味が広がる。 喉を通る際に香りが鼻を突き抜け、葉の匂いであろう爽快感に包まれた。 「……おいしいですね」 「心地よさがある」 「んー! おいしー! ひまわりこれなら大好きだよー♪」 「ありがとうございます」 九條は表情こそ普段と変わらぬ凛とした雰囲気だったが、少なくとも気を悪くしている様子はなかった。 「同じ素材を使ってこの結果では、全くもって言い訳のひとつも思いつきませんね」 「だいじょーぶだよ、ますたーくんはくりーむそーださん作れるんだから」 ひまわりはマスターの肩をえらそうに叩く。 「慰めの言葉、ありがとうございます」 子供にわかったような口を聞かれても、マスターは演技かかった口調と表情でひまわりに合わせていた。 「それにしても同じ材料で違いが出るということは、九條は何か特別な事をしているのだろうか?」 「いいえ、特に何もしていません」 「では何故」 「私にもご教授願いたいですね」 「…………」 九條は口元に手を当てて言い淀んでいた。 「教えられない事であるのなら、無理に言わなくても構わないのだが」 「いえ、そうではなく……本当に聞いて頂けるのですか?」 聞いて頂ける? 教えを請うのは私達だというのに、言葉の使い方がおかしいのではないだろうか。 「話を聞く時間はある。面倒でなければ話してほしい」 「……わかりました」 九條の瞳に力強さが生まれるのを私は見逃さなかった。 「まず今回使用した茶葉についてですがアッサムのオレンジペコになります」 「ひまわりさんはオレンジ味だと誤解なさったようですが、実はひまわりさんだけではなく誤解している方は少なくありません」 「オレンジペコという特定の茶葉は存在しません。これは茶葉の形状、すなわち大きさを表す単語になります」 「等級に関しては他にも“《フラワリー・オレンジペコ》〈FOP〉”、“《フラワリー・ブロークン・オレンジペコ》〈FBOP”、“《ブロークン・オレンジペコ・ファニングス》〈BOPF”などの種類があります」 「ねぇねぇあかしくん、みつきちゃんがわけのわからない言葉をつかいはじめたよ」 「安心していい、私にもわからない」 「次に今回使用した茶葉、アッサムについてですが先ほど申しあげたように本来ミルクティーとして好まれる事が多い茶葉ですね」 「私はストレートティーの方も好きなので単純にどちらが上という事はありません」 「アッサムとはその名の通り、インドのアッサム地方で栽培された品種です。アッサムに限らず、茶葉の名称は産地の名前から取られている事が多いですね」 「有名な茶葉としては他にもダージリンやニルギリ、ウバなどが挙げられます。この辺りだと聞いた事がある方も多いのでは?」 「ちなみに私が一番好きなのは……悩みどころですがやダージリンのセカンドフラッシュでしょうか」 「高価な物が必ずしもおいしいとは思いませんが、マスカットフレーバーを持つ希少なダージリンは格別ですね」 「ちなみにマスカットフレーバーとはマスカットのように爽やかで品の良い香り、という意味です。オレンジペコと同じく、マスカットの味がするわけではないのであしからず」 「では次はいよいよ紅茶の淹れ方についてご説明します」 「まず用意するカップやティーポットに関してですが、もちろん何でも良いという訳ではありません。ティーポットは必ず銀製やガラス製、または陶磁器を使用してください」 「一般的な家庭で使われている鉄製ですと、紅茶の中に含まれるタンニンという成分とポットの鉄分が化学変化を起こしてしまいます」 「その場合、紅茶の風味が損なわれてしまったり、色が黒ずんでしまいますので注意が必要です」 「カップにも同じ事が言えますが、カップの場合は色にも気を遣わなくてはなりません。紅茶の色が反映される白色がベストです」 「道具に関してはこのくらいですね。では実際に紅茶を淹れる工程についてご説明しましょう」 「まずはお湯を沸騰させます。温度はできるだけ高温が望ましいので必ず100度前後まで温めて下さい」 「お湯が沸騰したらティーポットとカップにお湯を注いでください。これは事前に道具を温めて置くという意味があります」 「紅茶の味と温度は密接に関係していますから、できるだけ温度を高く保つための処置になります」 「ある程度ティーポットが温まったらお湯を捨て、茶葉を入れます」 「茶葉の量はカップ一杯分につき大体3gほどで結構です。当たり前の話ですが、ポットに入れる茶葉の量で味が変わってしまいますのでお好みに合わせてください」 「茶葉を入れ終わったらその中に沸騰したお湯を注ぎます。ここで注意点がひとつあるのですが」 「ポットにお湯を注ぐのはできるだけ高い位置から叩きつけるようにしなければなりません」 「これは抽出時に“ジャンピング”という現象を起こりやすくするためです」 「“ジャンピング”とはポットの中で茶葉が上下へ泳ぐようにして葉を開かせる事を指します」 「これが起きると紅茶の成分がよりお湯の中へ溶け込みますので、香り高い、よりおいしい紅茶になります」 「抽出する時間は大体3分前後で良いでしょう。細かい茶葉ほど短く、大きな茶葉ほど抽出にかける時間は長くなります」 「時間が経ちましたらカップに注いでいたお湯を捨て、茶こしを通してまわしながらカップに注ぎます。ポットの中にある紅茶は残さずカップに注いでください」 「ちなみにポットの残りが少なくなるほどおいしいと言われ、最後の一滴は“ベスト・ドロップ”と呼ばれていますので必ず最後の一滴まで注いでください」 「あ、ひとつ言い忘れていましたが、紅茶に使用する水はミネラルウォーターではなく水道水で構いません」 「紅茶には軟水の方が適しているため、硬水であるミネラルウォーターは紅茶には合いません」 「ヤカンに水を汲む際には、ポットにお湯を注ぐ時と同様できるだけ高い位置から注いであげてください」 「こうする事で水の中に空気を多く含み、茶葉に空気が付着する事で“ジャンピング”が起こりやすくなります」 「以上が紅茶を淹れるための基本的な工程になります」 「…………」 「…………」 圧倒的な知識の流れ、洪水ともいえる講義の奔流が収まった。 「あっ……」 自らに向けられた視線に気づき、罰が悪そうに俯いた。 「恥じる事はない。勉強になった」 「……本当にそう思っているのですか?」 「知識の量は多ければ多いほど人間としての価値がある。私はそう思っているのだが違うのだろうか?」 「望まれない知識など、意味はありません」 「役に立つかどうかで区別してしまっては、皆同じ教養しか持ちえなくなる。それではつまらないと私は思う」 「…………」 「ひまわりもね、おはなしはよくわかんなかったけど、みつきちゃんの紅茶さんはおいしいってこと知ってるよ」 「私も味を左右するのは素材ではなく経験と努力が最も大切である事を再確認させて頂きました。非常に有意義でしたよ」 「……お役に立てたようで光栄です」 人間は各自異なる趣味や嗜好を持っている。私が植物の栽培に傾注するのも無意識下で人間に近づこうとしている証拠なのかもしれない。 他者を拒絶しあらゆる事柄に興味を示そうとしない九條も例外ではなかった。 しかし私の前で雄弁に語った九條と、他の者から見えている九條は別人とさえ思えるほどの温度差がある。 何故これほどまでに違いがあるのだろうか。 仮に片方が仮面であるとすれば――素顔を隠さなければならない理由を私はまだ知らない。 喫茶メントレを出ると、通りの向こう側に設置された電柱の影に例の女子学生の姿を見つけた。 すなわち関係の偽装は継続される。九條の情報を掴みたい私にとっても好都合だった。結果的に先ほどまで回っていた繁華街に帰着した。 複数の商店が並び立つ繁華街では目的がなくただ歩いているだけでも不自然ではない。周りを見渡せば私達以外にも同じような行動を取っている若い男女の姿が見受けられる。 「ねぇねぇ、これからどこいくの?」 「特に目的地は設けていない。どこか行きたい場所はあるだろうか」 「私、ですか……?」 「人間はこういった場合、趣味に興じたりするのが普通なのだろうが、生憎私はそのための施設について疎い」 「ひまわりに任せてしまうのも不安だ。できればキミに先導してもらいたいのだが」 「私もその手の事に詳しくありません」 「ふむ、困ったな」 歩きながら連なる商店に目をやると書店が近づいている事に気づいた。 「そうだ、書店で物色するというのはどうだろうか。キミも興味はあるのではないだろうか」 書籍に目を落とした九條を思い返す。大量の書籍が納められた図書室に居たという事は、読書に対して少なからず執着があると想像できる。 しかし―― 「別に特別本を好んでいるというわけではありません」 私の想像は見事に裏切られた。 「何故だろうか。昼間キミに会った時、読書をしていたはずだ」 「……私が読んた事があるのはこの一冊だけです」 九條は鞄の中から一冊の文庫本を取り出す。 よく見ると背表紙の反対側、確か小口と呼ばれる箇所がうっすらと茶色に染まっている。 表紙や背の部分も随所に装飾の剥がれが見て取れ、長年にかけて使い込まれた印象を受けた。 「それは?」 「……“星の銀貨”という童話が元になった小説です」 書籍の題名を聞いても筋書きは浮かび上がらない。当然だ、創作作品に関してはほとんど目を通した事がない。 私が主に精読するのは人間界のマナーや常識について。それとガーデニングに関する専門書くらいだ。 「どういった話なのだろうか?」 「……くだらない夢物語ですよ」 「愛読書に対する批評とは思えないな。内容の是非に関係なく、人間とは夢に焦がれる生物だだろう。私にも興味はある」 「…………」 「……あるところに貧しい少女がいました。少女の持ち物といえば、穴の開いた服とひとかけらのパンくらいでした」 「やがて彼女はお腹を空かせた男性に会い、なけなしの食料を譲ってしまいました」 「少女にも余裕がないのだろう? どうして彼女は他人に食料を分け与えてしまったのだろうか」 「少女はとても優しい心の持ち主だったからです。そんな彼女の前に次々と貧しい人達が現れました。彼女はそのたびに、自分の持ち物を与えてしまいました」 「やがて食べる物も着る物もなくなり、少女は星空を見上げて立ち尽くしていました」 「……すると空から星が降り始め、その星は銀貨に変わりました。少女は銀貨を拾い集め、裕福に暮らしました」 「――というお話です」 「荒唐無稽な現象だ。実際に星が降り注げば、地球は壊滅的な打撃を受けてしまう」 「童話ですから。現実にこんな話はあり得ません」 「現実に辟易している人間が多いからこそ、空想は望まれるのではないだろうか」 「……私はこの話が好きではありません」 「この少女がいるのが童話の中ではなく現実だったとしたら、最後に救いなど訪れなかったでしょう」 「……世界はそれほどまでに優しくなどありませんから」 九條の発言と行為は矛盾しているのではないだろうか。好きでもない書籍――それしか読んだ事がないという事実は背反している。 「では何故キミはその本しか読まないのだろうか? 私にはキミの真意が理解できない」 「あなたに答える必要はありません」 九條は明確に拒絶の態度を取った。 「気を悪くしたのなら謝る。確かに私には関係のない事だ」 年季の入った一冊の書籍が、九條の目的や上司の情報に繋がるとは思えない。 「…………」 私達の間に重たい空気が流れ会話が途切れる。 「私は何か気に障る事を言ってしまったのだろうか」 「別に――何でもありません」 「そうか」 九條が何でもないと言うのならそうなのだろう。 「あちぃな、おい」 突如、行き手を遮る影の出現に私達は足を止めた。 邪魔にならぬよう、道を譲ろうとしたのだが―― 「おいおい待ってくれよ。せっかくアンタの姿を見つけたんだ。話くらい聞いてくれないか」 「あかしくん、このおじさんとしりあいなの?」 「いや、知らない人間だ。九條の知人ではないだろうか」 「いえ、私も面識はありません」 「何だ、つれねぇなぁ。何度も二人きりで楽しい時間を過ごしたってのに」 上下を茶色いスーツで固めた男は卑しく口元を歪めた。 「まあいいさ。何もアンタらのお楽しみを邪魔にしに来たって訳じゃねぇ。ほんの少しだけアンタに聞きたい事があるだけだ」 「聞きたい事とは一体何だろうか?」 「アンタの連れ、どこにいるか知らねぇか? 用があって探してるんだが連絡が取れなくて困ってるんだ」 「ああ、なるほど」 男の正体について想像がついた。この者はノエルと繋がりのある裏社会の人間なのだろう。 人間の社会に溶け込むため様々な手段を講じる必要があり、それは普通の人間よりも非合法な手段も厭わない人間の手を借りた方が好都合だったからだ。 男の風貌から受ける怪しげな印象も、彼がそちら側の人間だと考えれば納得がいく。 「生憎だが、私にもわからない。数時間前までは学園にいたのだが」 「アンタでもわからねぇのなら地道に探すしかねぇか。ったく、電話にもでねぇしあんまり手間かけさせるんじゃねぇよ」 「すまない、ノエルに会ったらキミが探していたと言っておこう」 「あ、俺が文句言ってたのは忘れてくれ。大事な依頼主のご機嫌は損ねたくないからな、ヒヒヒ」 あまり品が良いとは言えない笑い声を漏らしながら、男は胸の内側から何かを取り出す。 「アンタにも渡しておく。何か困った事があったら何時でも電話して構わない」 手渡されたのは仕事などで取引相手に渡す氏名や会社名の書かれた紙だった。表面は白い下地に黒文字と至ってシンプルな作りだ。 「江神探偵事務所社長――江神善太郎」 「社長っつっても社員もいねぇし事務所も構えてねぇけどな。無駄な経費は削減するに限るだろ」 「では何故事務所と表記しているのだろうか」 「まあ昔の名残だな。俺が起こした会社じゃねぇんだ。ジジイのジジイのそのまたジジイか誰かが遥か昔に始めたんだよ」 「今日までその名が残ってるんだから歴史だけは一人前だな。そんなものは一円の金にもならねぇがな」 「おじちゃんおじちゃん、ひまわりにもちょうだい!」 「おう、いいぞ。ちゃんとお父さんかお母さんに渡すんだぞ。困った事があったら親切な人がいるから相談してみればってな」 「あと言っておくが俺はまだおじちゃんなんて呼ばれる年じゃねぇ。こう見えてもまだギリギリ20代なんだよ」 男なりの冗談なのだろうか。サングラスで目元は覆われておりはっきりとはしないが、一般的な20代の人間とは一線を画しているように見受けられる。 「きゃっ――!?」 隣に立つ九條が小さく驚きの声を上げてバランスを崩した。 走り抜けていった通行人と接触したようだ。 「お嬢ちゃん、大丈夫か?」 「……別に、何ともありません」 「本当か? スられた物がないか確認した方がいいぜ」 「たかが通行人と接触したくらいで心配するような事でもないと思うのだが」 「あめぇな。世の中にはスリを専門にする業者だっているんだぞ。俺も少し前に仕事を依頼した事があるしな」 「……なくなった物はありません」 九條はいぶかしみながらも所有物の確認を終えたようだ。 「そうか、運が良かったな。じゃあ俺は忙しいから。アンタも女遊びはほどほどにしておいた方がいいぜ」 「まあ俺は仕事が増えて助かるんだけどよ」 江神は帽子の位置を正して人ごみの中へと消えていった。 「……あなたのお知り合いだったのですか?」 「間接的にはそうだと言える。ノエルの知人だったようだが、詳しい事は私も関知していないので不明だ」 ノエルを探していたらしいのだが、あの男に何かを依頼したのだろうか。 どちらにせよ私が深く考えても意味はない。ノエルに任せておけば問題はないのだから。 「さて、これからどこへ行こうか」 思わぬ人間との会話に時間を取られたが、現在私達は恋人関係を偽装している最中である。 あまり立ち止まったままでいては後ろを追っている女子学生に見抜かれてしまうかもしれない。 「行くあてがないのでしたら」 「行きたい場所があるのだろうか」 九條の口元が僅かに緩んだ気がした。 「紅茶専門店がこの近くにあるのですが」 「ああ、なるほど」 そんな物があるのならば、九條がそこへ向かうのは必然だ。 メントレでの光景が蘇る。あっけに取られた顔のひまわりが目に浮かんだ。 九條に案内された紅茶専門店での用を済ませ、駅前の通りに出る。 店内には豊富な種類の紅茶が陳列されていたが、私には僅かに色が違うといった程度の差異でしか区別ができなかった。 「ひまわりさん、どうかなさいましたか? 先ほどから元気がないように見えるのですが」 「ひまわりはね、みつきちゃんがおいしいみるくてぃさんをいれてくれたらそれだけでまんぞくなんだよ」 「?」 紅茶店で九條が説明をしている間、私はともかくひまわりには到底理解の及ぶ話ではなく、その場で静止していた。 ノエルだけではなく、九條にもひまわりを意のままに扱う術があるようだ。私も見習いたいところだが、九條と同等の知識を得るには膨大な時間が必要で到底真似できない。 「少し羨ましいな」 「何か言いましたか?」 「独り言だ」 しかしサンプルとしては心もとないのだが、私を除く二人はひまわりの扱いに長けている。 まさか私の方に問題が―― いいや、そんなはずはない。私は人間らしく振舞えている。そのためにコミュニケーションに関する書籍を読み、日夜業務をこなしているのだ。 「あ、《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉じゃない」 背後から声がかかる。私をその名で呼ぶ者は一人しかいない。 「やっほー、偶然だね。いや、これもまた“《エピストゥラ》〈運命の道標〉”の導きか……」 「今日もここで店を開いているのだろうか」 「そうよ。今日は開く予定なかったんだけど……ああっ! 思い出したらまた腹が立ってきたわ!!」 「面倒な事でもあったのだろうか」 「話してるだけで八つ当たりしそうだからこの話は忘れて。それより今日は一人じゃないのね」 消閑の綴り師はひまわりと九條を眺める。 「あ、もしかしてこの子が昼間探していた子?」 「ああ。訳あって私が今預かっている」 「ひまわりだよー♪ おねえちゃんはヘンなカッコして何やってるの?」 「変とは失礼な。思った事を素直に口に出しちゃダメだって先生に教わらなかった?」 「よくわかんなーい♪」 「《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、親の教育がなってないよ」 「私は親ではない」 「でも預かってるんでしょ。だったらどんなに短い間でも今はあなたがこの子の親代わりなんだから」 「そういうものなのだろうか」 ひまわりと私の間には血縁関係もなければ戸籍上の繋がりもありはしない。 しかし消閑の綴り師の言う通り、ひまわり程度の幼い子供にとっては感受性の高い時期である。はからずも私はひまわりの模範となるべき立ち位置にいるのかもしれない。 「わかった。気をつけるようにしよう」 私は日々常識的な人間であるように心がけている。そんな私を模範にしても悪影響は出ないはずだ。 「で、後ろの彼女はどちらさま? もしかして《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉の恋人?」 「違います」 「ん? 違うのだろうか?」 「え、あ、いえ……間違ってはいませんでしたね」 「付き合い始めてまだ日が浅いの?」 「ああ、正確には今日からだ」 「うわっ、まさかのできたてホヤホヤ!? おめでとう! うらやましい! 財布落とせ!」 「最後の一言だけ祝いの言葉ではなかったようだが」 「ハッ、つい本音が出ちゃったわ。いけない、あの女のせいで心が荒んでいるんだわ、どこまでも忌々しいクソ女め」 私の知らないところで消閑の綴り師も苦労している風に見えた。 「よぉし! それじゃ、二人の門出を祝してあなた達の未来を占ってあげようじゃないの」 「うらない? ひまわりもうらなってほしい!」 「オーケーオーケー。あなたの未来はね……」 「ドキドキ」 「ズバリ! この後、《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉に好きなお菓子を買ってもらえるでしょう!」 「ほんと!? やったー♪♪」 「待ってほしい。それは必然的に私が買わなければならないという事ではないだろうか」 「いいじゃんそれくらい。あなたが無邪気に喜ぶ子供の笑みを絶やそうとしない限り、今の予言は的中す・る・わ」 「随分と他人に押し付ける要素の強い占いだ」 この予言は当たるだろう。ひまわりを期待させてしまったのだ。もしもその期待を裏切ってしまえば面倒な事になる。私にもできる至極簡単な予言だ。 「後ろのあなたは何か占ってほしい事ないかしら?」 「……………………」 九條は消閑の綴り師の問いかけに沈黙した。しかしそれが長く続く事はなく―― 「いえ、結構です」 明確に拒絶の意を示した。 「どうして? サービスだからお金は取らないわよ?」 「金銭の問題ではありません。私は占いが好きではありませんから」 「好きではない、という事は」 「はっきり申し上げれば、科学的根拠もない荒唐無稽な言動で他人を惑わし、尚且つ収入を得る行為には同感できないのです」 「なるほど、キミの言う事も一理ある」 「ちょ、ちょい待ち! 確かにそういう詐欺師まがいのインチキ占い師もいるだろうけど、私は違うわよ!」 「何が違うというのですか。まさか未来を予見できる力があるというのですか?」 「それは……ないけども」 「ではあなたもインチキ占い師と同じではありませんか。自分の事を何も知らない他人からの助言など、迷惑以外の何物でもありません」 「っ――!?」 九條の指摘は消閑の綴り師の感情を逆撫でするのに十分だったようだ。目を見開いた顔がやがて怒りに変わる。 かと思えば口元を緩め、笑みを浮かべる。私には波立つ感情を抑えているように見て取れた。 「わかったわ。ここまで言われて立ち上がらなければ消閑の綴り師の名が廃るってものよ」 立ち上がる、とは比喩だったらしく消閑の綴り師はそれまで通り座ったまま、台に身を乗り出した。 「《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、前に渡した名刺持ってる?」 「名刺? そのような物をもらった覚えはないのだが」 消閑の綴り師から受け取った物といえば、一枚のタロットカードだけだったはずだ。確かまだポケットの中に入れたままである。 取り出してカードを確認するが、西洋風のレイアウトの裏側はタロットの図柄が描かれているだけ―― 「いや、よく見ると文字が記載されている。これはメールアドレスだろうか」 「ぴんぽーん。気づくのが遅かったみたいだけど」 消閑の綴り師の手が差し出される。私は譲渡されたカードを渡した。 「これ、名刺ってだけじゃなくて、実は特別な占いが受けられる権利なのよ」 「前のとは違う物なのだろうか」 「全くの別物ね。これは私のオリジナルなんだから」 消閑の綴り師のオリジナル、と聞いて全く期待感が煽られないのはどうしてだろうか。 「本当はカードを持ってる本人にするんだけど……私の貞操は優真君に捧げるって決めてあるからごめんね」 謝られたようだが私には心当たりがなかった。 「それに《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉にしても私の名誉は回復しないわ。当の本人じゃなきゃ意味がないもの」 消閑の綴り師の視線が九條に向く。 「私なら結構ですと申し上げたはずですが」 「別に強要はしないけど、自分で確かめないのなら私の占いをインチキ呼ばわりした事訂正してもらうわ」 「発言を撤回するつもりはありません。占いなど、所詮オカルトです」 「ならば彼女に付き合ってやればどうだろうか。キミが何かを失ったり損益を被る話ではないと思うが」 「…………」 「さすが《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、もっと言ってあげて」 「消閑の綴り師の肩を持つわけではない。もちろん強制もしないが、私達は監視されている立場である事を忘れない方がいい」 トラブルを起こしている場面を見られるのはお互いにとって避けた方がいいだろう。私も目立ちたくはない。 「……わかりました」 九條も私の意図を理解したようで申し出を了承した。 「そうと決まればちゃちゃっとやるわよ。座って手の平を差し出して」 本意ではないらしく、九條の動きはゆっくりとしていた。それでも指示された通り、台の上に九條の白くしなやかな指が差し出された。 「“《ボッカ・テラ・ベリタ》〈真実の口〉”って知ってる?」 「答えなければ占いが終わらないと言うのなら答えますが」 「知ってるなら説明はいらないわね」 私の知らない単語だった。興味はあったが邪魔をしてはいけないと思い黙っていた。 「それにしてもそんなに冷たい態度取らなくてもいいじゃない。そんなに私の事気に入らないの?」 「……別にあなたの事を特別に嫌悪している訳ではありません。私は誰に対してもこうですから」 「ツンデレか。私の小説にはよく出てくるけど、実際見るのは始めてだわ。もし良かったら参考までにもっとお話したいんだけど」 「急いでますので早く終わらせて頂けませんか」 「……ますます興味湧いてきちゃったわ」 消閑の綴り師は台の上に置かれた九條の手を取って自分の顔に近づける。 「キレイな手ね。私よりも白くて細い」 「それが占いの結果に関わるのですか」 「ちょっと羨ましかっただけよ。ん――? くんくん」 九條の手を眼前まで近づけた消閑の綴り師の鼻が小刻みに動く。 「あ、なんかいいにおいがする。渋いようでほんのり甘い香り」 「――ちょうど良かったわ」 私達三人は言葉の意味を理解できなかった。 しかしすぐに消閑の綴り師の行動によって明るみになった―― 「ぱくっ!」 「きゃああっ――!?」 九條の指が消閑の綴り師の口へと突っ込まれた。 いや、無理やり口の中に誘導されたと言った方が正しいだろう。 「もごもご…………ん……ちゅ……ちゅ…………」 加えた指を離すどころか味わっているようにさえ見える。 不意のアクシデントなどではなく、消閑の綴り師が意図して行っている事らしい。 「い、いや……!」 九條は必死に腕を引き戻そうとするが、予想外の力があるのかしなやかな指は成すがままにされている。 「……ちゅ……ちゅ……れろ……」 「ねぇねぇあかしくん、みつきちゃんがたべられちゃうよ」 「痛みを感じてるようには見えない。喰われているわけではないだろう」 「た、助けて……! おねがい……!」 「助けた方がいいのだろうか」 「そう……です、おねがい……します……!!」 「九條が嫌がっている。止めてやってくれないだろうか」 「ふぉっ――――ッ!?」 消閑の綴り師は目を限界まで見開き、やがて九條の指から離れた。 「はぁ……はぁ……」 「ごちそうさまでした。いやぁ、良いお味でした♪」 消閑の綴り師は鞄の中から二枚のハンカチを取り出す。 「はい、これで拭くといいわ」 まるで料理を食べ終えたように自分の口元を拭いながらハンカチを差し出す。 「結構です! 自分の物がありますから」 九條はもう二度と近づきたくないらしく、距離を取って自分の指を拭いていた。 「それで占いの結果はどうだったのだろうか」 「バッチリわかったわよ。私の舌に間違いはないわ」 「こんな事で何がわかると言うのですか! ただの暴挙でしょう!」 九條はいつにも増して拒絶反応を示していた。当然か、私の知る限り他人の指を了解なしに舐める行為は常識的とは言えない。 「まあまあ、落ち着きなって。あなたの秘密、ちゃんとわかったから」 「えっ……?」 九條の顔つきが凍る。まるで自分の命を人質に取られたように。 消閑の綴り師はハンカチを台に置き、九條を見上げながらこう言った。 「あなた、“《フール》〈稀ビト〉”でしょ」 「ハァ、ハァ……」 「笑えるくらい遅ぇな」 「きゃっ――!?」 白昼堂々の狩り。 《・・》〈私様〉が軽く押しただけで盛大にぶっこけた偽物ちゃんににじり寄る。 「おーおー、かわいそうに。私様も傷ついたんだぜ? この孤独な心……歪んじゃうぜぇ」 「おめぇさぁ……ちょろっと調子に乗りすぎちゃったかなー?」 法の下に裁かれてれば幾分、幸せだったっていうのに。 馬鹿野郎が――――翼への憧れは叶わないから詩的であって、手に入れればもがれる日に怯えるだけだ。 “《フール》〈稀ビト〉”に一歩づつゆっくりと近づく。 この足音が止まる時、命の時計も止まるって事をわからせてやるように。 「ひぃぃぃぃ――!? く、来るなぁ――!!!」 まるで赤ん坊だ。恥を知れ恥を。自業自得なんつーありふれた言葉は、ルーツは知らずとも日常的には使えるだろうが。 「来るなぁ、ハハハッ! 来ちゃうぜ。オシゴトだからな」 生存競争と弱肉強食。無抵抗のアホ面を殺すのは性に合わないが、ちょろっと借りがあるからな。 「ぐぅっ――!! ああああああああぁぁぁぁぁ――!!!」 「おいおい、中途半端だなぁ。“人を呼ぶ”って決めて叫んでるんだろ? だったらもっと喉が焼けるくらい叫んでみろよ!」 「本当に生きていたいって思ってんのか? 私様は、おめぇみたいなのに甘くないぜ」 “《フール》〈稀ビト〉”は地面に転がったまま身体を押さえて身悶える。 目の前で起きた変化に、仕入れていた状況との統合性は取れた。 「ハアッ……ハアッ……」 “《フール》〈稀ビト〉”の“《デュナミス》〈異能”が解けた……? どんな素顔がちょっくら拝んでやるか。 「えらい美人さんだぜ……」 ま、私様ほどじゃないにしろ、私様と比べられるくらいだ。 「っ――!!」 いや、比べられるほどってことは、かなり高レベルってことだよな? そもそも私様の美貌っつったらあれだ、業界ナンバーワンアイドルなわけだし、並び立つもののいない頂点なわけだし。 「……なぁぁぁっ! どうでもいいこと考えちまったぜ。《シラフ》〈素面〉だからこんなことになるん――――」 「だぜ……?」 路地に立てかけられていた鉄パイプが倒れるのはいいとして、それがうまい具合に私様の行く手を阻むとは運が良い。 「――!!」 「で? でー!? そっからどうすんだー!?」 こんなもん、私様にとっちゃ障害にすら―――― 「うわぁ、大丈夫かあんた!?」 「……………………」 人気者は辛い。野次馬に嗅ぎつけられた現場じゃ、自由に暴れることもできやしない。 「え、あれ、もしかして君は――」 まあいいや。顔は覚えたし。すぐに追いつく。 「り、Re:non様!?」 「ふざけ散らしやがって……捻り潰してやんぜ」 「あなた、“《フール》〈稀ビト〉”でしょ」 私の聞き間違いではない。 消閑の綴り師は九條に向けて確かにそう発言した。 「わ、私は……」 「大丈夫よ、ただの人間にはわからない言葉だもん。《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉には何の事だかさっぱりでしょ?」 釈然としないのは“《フール》〈稀ビト〉”という言葉の意味ではない。 何故“消閑の綴り師”の口からその言葉が出たのか―― 彼女は九條が“《フール》〈稀ビト〉”だと言った。予期せぬ情報に衝撃を受け、私の思考は噛み砕くのに必死だった。 「“《リーディング》〈虹色占い〉”に間違いはないわ。これで私がインチキ占い師じゃないってハッキリ――」 「あ、ちょっと待ってよ――!」 静止の言葉を振りほどき、九條は駆け出した。 「みつきちゃん――!?」 後を追うひまわり。しかし―― 「ぎゃふん――!?」 勢いあまって転倒してしまう。 「ふぇぇぇええぇぇえぇぇ……!!」 「大丈夫? 絆創膏いる?」 先ほどまでと態度に変化が見られないのは消閑の綴り師ただ一人だった。 「先ほど九條に言った事は一体……」 「あ、“《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”は知らなくていい事だよ。あんまり人に知られたくない話らしいし」 消閑の綴り師は勘違いをしている。私が普通の人間であり、 “《フール》〈稀ビト〉”の意味合いを理解できなかったと。 彼女がどうして“《フール》〈稀ビト〉”について知っているのか、気にならないと言えば嘘になる。 まさか消閑の綴り師は“Archive Square”に属する者なのだろうか―― 「あかしくん!」 「どうした、傷が痛むのだろうか」 ひまわりは零れそうな涙を拭い、身体を起こした。 「みつきちゃんを追いかけなくちゃダメだよ! すっごくかなしそうな顔してたんだから!」 「……そちらの方を優先するべきか」 消閑の綴り師についても気にはなるが、重要なのは九條の方ではないだろうか。 理屈ではなく、咄嗟の判断としてそう思えた。 「私は九條を追う。キミにはまた会いたい」 「あかしくん! あかし号の出番だよ!!」 九條を追うにはそちらの方が都合良さそうだ。ひまわりの前に跪き、背中を開放する。 「よいっしょっと! とうじょうかんりょうでありますたいちょう!!」 隊長? よくわからないが準備を終えたようだ。 最後に消閑の綴り師の方を確認するが、彼女はまだ一人でぶつぶつと呟き、自分の世界にいるようだった。 彼女に別れの言葉を残さぬまま、私はひまわりを背負って走り出した。 道行く人間に話を聞き、目撃情報を元に進んでいくと見覚えのある場所へとたどり着いた。 手すりで囲われた向こうには夕焼けに染まる東雲の街並みが広がっている。 九條は風に揺れる長い髪を抑えながら市街を見下ろしていた。 「…………」 ひまわりを地面に下ろしてゆっくりと歩み寄る。しかし声をかけるのを思いとどまった。 完成された一枚の絵画に上から手を加えてしまうには惜しかった。 そうさせるには十分なほどに目の前の少女は美しく、同様に儚げで壊れてしまいそうな危うさをはらんでいる。 絵の中の少女がこちらを振り返った―― 「どうして追って来たのですか」 「キミが突然走り出したから」 「あかしくんあかしくん、みつきちゃんが言ってるのはたぶんだけどそういうことじゃないんだよ?」 「そうなのだろうか」 「…………」 二人にわかる事が私にはわからない。人間と“《イデア》〈幻ビト〉”の違い――と決めつけるのは簡単だ。 しかし私は九條が“《フール》〈稀ビト〉”であるかどうかを聞けないでいた。 人間ではない私でもそれを口にする事を躊躇わせる何かの存在を感じていた。 「……聞きたい事があるのでは?」 「そうだな。疑問はある。知りたいと思う感情も」 「…………」 「おかしいな」 「えっ……?」 「疑問はあって問いかける相手も目の前にいる。しかし回答を得るための言葉が出てこない」 「……違う。そうではない。言葉は用意されているのにキミに晒して良いのか迷っている、と言った方が正しいだろうか」 「それは何故ですか?」 「何故だろうな。理由は不明だ。ただ漠然とそう思う。キミなら、人間であればこの感情の正体についてわかるだろうか」 「……さあ。私も人間ではありませんから」 自嘲気味の微笑みを皮切りに私の知りたかった情報について話し始めた。 「あの方の言う通り、私は“《フール》〈稀ビト〉”です。その名の意味は知っていますね?」 「ああ、“《イデア》〈幻ビト〉”の“《デュナミス》〈異能”を得た人間の事だろう」 「……私も“ナグルファルの夜”以降に発現した“《フール》〈稀ビト〉”の一人です」 “ナグルファルの夜”――今からおよそ七年前に起きた未曾有の混乱。 「“《フール》〈稀ビト〉”の生まれる仕組みは解明されていません。そもそも“《フール》〈稀ビト”の存在は公にされていませんから」 「ただ原因は“ナグルファルの夜”にあると考えられています。それ以前に“《フール》〈稀ビト〉”がいたという事実は確認されていません」 「キミは“《フール》〈稀ビト〉”や“《イデア》〈幻ビト”についてどこまで知っているのだろうか」 「詳しい事は聞かされていません。あなたの方が詳しいのではありませんか」 「……私が知っているのは“《フール》〈稀ビト〉”という存在が誰にも受け入れられないという事です」 「問題を起こせば“Archive Square”に追われるという事は私も知っている」 事実、数時間前に“Archive Square”の女を見たばかりだ。 「……赫さん」 「何だろうか」 名前を呼ばれた事に違和感を覚えたのは、九條の口からその名を聞いたのが始めてだったからだ。 「あなたは私を見て、どう思いますか?」 「…………」 質問の意図が定かではない。あまりにも広義過ぎて九條の望む回答の方向性が不明だ。 しかし聞き返すのは躊躇われた。九條は意味のない言葉を使わない人間だ。不明瞭である事も何か意図があるのかもしれない。 「……キミは」 思案した結果、私はありのままを述べた。 「キミは、面倒な人間だ。私がこれまで会った者の中でも珍しいほどに」 「私の過去を匂わせて詳しい事情は一切語らない。上司についても黙秘する。私が話しかけても、よく怒る」 「……別に、怒っているつもりはありませんけど」 「かと思えば私を偽の恋人に仕立て上げたり、紅茶の話を嬉々として語る」 「どれが本当の顔なのかはっきりしない。一筋縄でいかないのは手間がかかる。面倒だ」 「…………」 「しかし、面倒事には二種類あるとキミに教えてもらった」 「面倒事は無意味な物と有意義な物に分けられる。キミに関しては大体が後者だと言えるだろう」 「キミが紅茶について語る時、周りに対する配慮を忘れて話し始める。普通の人間にとってそれは必ずしも受けいれられる事ではないだろう」 「私にしてみても話を噛み砕くのに必死だ。もう少し落ち着いて話してくれればと思わなくもない」 「だが本質的に捉えると、キミは私に知識を享受してくれているのだ。多少手を焼かされるとしても私にとって有意義であり喜ばしい」 「本人を前にして随分と率直な意見を言われるのですね」 「間接的な言い回しはあまり得意ではないのだ。ただでさえ人間の言葉によるコミュニケーションは必ずしも正解があるとは限らない」 「……思った事を素直に相手へ伝えるのも、人としてどうかと思います」 「覚えておこう」 私の対応には不備があったようだ。しかし不愉快な思いをさせたにも関わらず、九條は柔らかな微笑みを浮かべた。 「あなたの本音は悪意がありません。だから私の胸の中に入り込んでも、すっと溶け込むのかもしれませんね」 「……ですが、誰もが皆……いいえ、ほとんどの人はあなたとは違います」 「私は人間ではないからそう思うのではないだろうか」 「だとしたら、私は人間が嫌いなのかもしれません」 九條の澄んだ瞳が私を射抜く。 「……昔、あるところに一人の少女がいました」 私は九條の言葉に耳を傾け、脳裏で情景を想像した。 「少女はそれまで何の変哲もない普通の暮らしをしていました」 「しかしある日、自分の身体に起きた異変に気づいたのです」 「他人にはない、特別な力の存在に」 特別な力――九條の話が自分自身を投影しているとすれば、その力とは恐らく“《デュナミス》〈異能〉”の事だろう。 「少女は怖くなって誰にもその事を言えませんでした。もちろん両親にも先生にも」 「ですが運命は少女の秘密を秘密のままにしておいてはくれませんでした」 「その日は珍しく、母親と登校する事になりました。普段は車での送迎だったのですが、その日は母の仕事が一段落して時間に余裕があったのです」 「少女はとても喜びました。そして楽しかった時間もつかの間、学園の正門に到着してしまいました」 「事件は少女が母親と別れ、仲の良かった同級生の中に加わろうとした時に起こりました」 「居眠り運転をしたトラックが学生の群れに突進したのです」 「衝突寸前にドライバーは目を覚ましてハンドルを切ったようですが、間に合わずに転倒してしまいました。辺りには倒れた学生達の身体と悲鳴で満たされました」 「幸いにも少女はかすり傷を負った程度で命に別状はありませんでしたが、トラックの下敷きにされて助けを請う同級生の姿が目に入りました」 「助けなければ――少女は強く思いましたが子供に、いえ人間に持ち上げられる重さではありません」 「周りにいた大人達にもどうする事もできず、炎を上げるトラックを離れた場所から見ている事しかできませんでした」 燃えるトラック、散開した現場、消え行く命の灯火―― その状況下で現状を打破できる可能性があるのは一人だけだ。 「少女は“《デュナミス》〈異能〉”を使いました。誰にも見せてはならないという戒めを破り、下敷きになった友達を助けたのです」 「結果、どうなったと思いますか?」 脅威は取り除かれた。傷跡は残されたが不幸中の幸いとも言える。 しかし現実はそう単純ではないという事くらい容易の想像できた。 「いくらかの命を救う事はできたのだろう。しかし少女はその代償を支払わなければならなかった」 「仰るとおりです。少女は衆目の面前で“《デュナミス》〈異能〉”を使ったために、周りの人間から迫害を受けました」 「当然ですね。人間の理解を超えた現象を目の当たりにしてしまったのですから」 私とノエルが正体を隠して生活しているのと同じだ。人間の価値観では私達を受け入れる事は叶わない。 「助けたはずの同級生も例外ではありませんでした」 「少女が病室を訪れた際に同級生の放った第一声は、幼い少女の心に支えきれるものではありませんでした」 「……同級生が言った言葉はこうです」 「『来るな、化け物――』と」 「恩知らずと言わざるを得ない」 「命を救ってもらった恩よりも、恐怖の方が勝ったのでしょう。普通の人間なら当然の反応かもしれません」 「少女を拒絶した人間の中には同級生だけではなく、少女の母親も含まれていました」 「事件後、少女は一度も母に会う事も叶わぬまま、両親は離婚してしまいました」 「離婚の理由を父は教えてくれませんでしたが、少女が問う事はありませんでした」 「聞く必要がなかったし、聞きたくなかったからです」 同級生から阻害され、母親から捨てられた少女―― 少女の境遇が言葉で語られる以上に過酷なものだったのだろう。 「それ以来、少女は誰かに依存する事を止めました」 「どんなに言葉の上では関係を取り繕っても、真実を知ればまた同じ事が繰り返される」 「だったら始めから一人でいればいい。何故なら――」 始めて出会った時の九條が脳裏に浮かんだ。 「世界はまやかしで満たされている――」 ひとしきり語り終えた九條は強張った身体の力を抜くように深く息を吐いた。 「……くだらない話でした。忘れて頂いても結構です」 九條は風になびく髪を押さえ街並みに視線を移した。 「キミのアイデンティティに関わる大事な話だったのだろう。くだらないとは思わない」 「……………………」 曖昧な笑みを浮かべる九條に私は何を言えば正しいのだろう。 「あのね、ひまわりにはちょーっとだけむずかしいお話だったんだけどね、いっしょうけんめいみつきちゃんのお話聞いたよ?」 「キミは九條の話を聞いてどう思ったのだろか」 「んー、みつきちゃんはおともだちを助けたんでしょ? それっていいことだよね?」 「そうだな。常識的に考えて良い事だろう」 「だったらみつきちゃんはなんにもわるくないよ! まわりの人たちがおんしらずなんだよ」 「確かに。しかしそう簡単に結論付ける事はできない」 「どーして?」 「正しさとはその時代の価値観によって左右される。周りの人間全てが黒だと言えば、九條は黒なのだ」 「そんなのおかしーよ!! みつきちゃんはなんにもわるくないもん!! あかしくんのおばかさんっ!!」 「暴力に訴えるのは論理で敗北したと認める行為だ。だから私を殴打してはいけない」 「あかしくんがわからずやー!! みつきちゃんはなんにもわるくないんだからー!!」 「私もそう思う」 「ふえっ?」 「どうして驚く。最初からそう言っていると思うのだが」 「うそだよ! さっきみつきちゃんのことわるく言ったもん!」 「言い方が悪かったのなら謝る。あくまで人間という種の観点に立った意見を述べたまでだ」 「じゃああかしくんはみつきちゃんの悪口言ったりしない?」 「ああ。少なくともキミの取った行動よりは不満を感じていない」 「ならぜんぜんだね」 私とひまわりの考えているラインに大きな差があるような気がした。 「じゃあひまわりと一緒にあかしくんもみつきちゃんのおともだちになってあげよ」 「友達、か」 “恋人”と並んでよく耳にする人間同士の関係を表した単語だ。 「しかし友達になるためにはどうすれば良いのだろうか。意味合いは書籍を通して知っているのだが、今までそういった関係になった者はいない」 「今日からあなたとわたしはおともだちですっていえばいいんだよ」 「それだけで良いのだろうか」 いまいちはっきりとしない事柄のひとつだったのだが、蓋を開けてみれば大したものではなかった。 「待って下さい。私を置いてお二人で話を進められても困ります」 「みつきちゃんはひまわりたちとおともだちになりたくないの……?」 「そ、それは……」 困惑して歯切れの悪い九條は珍しかった。何事においてもすばやく判断し率直に意見を述べる人間だと思っていたのだが。 子供の要望とは目に見えない力のある言葉なのかもしれない。 「……あなたは私を拒絶しないのですか?」 「そうする理由があればそうする。しかし今のところ見当たらない」 「私にとって、利益を享受させてくれれば良い人間で、不利益を被らされるのなら悪い人間だ」 「……どこまでも真っ正直な人なのですね」 風の強くなる気配を感じた。 「……おかしな人。あなたのような人、今まで会った事がありません」 「私は“《イデア》〈幻ビト〉”だ。キミが見てきたのは人間だろう?」 「……それだけでは――」 海から流れ込む風が一層強まる。 「あっ――」 風の圧力を受けた九條の身体がバランスを崩した。 考える前に私は行動に移した。 「…………」 「大丈夫だろうか」 倒れる寸前、九條の身体を抱きとめる事に成功した。 「あ、ありがとうございます……」 「人間は脆い。気をつけてほしい」 地面に倒れた程度でも、当たり所が悪ければ致命的なダメージを追ってしまう。 人間とは儚く脆い。 彼女を今失うわけにはいかない。大事な契約をまだ終えてはいないのだから。 「立てるだろうか。ここは風が強い。別の場所に移動――」 思わず身体が硬直してしまった。 「いたいた――――――」 私達の背後に突如として出現した気配を感じた。 しかしそれは気配、などと生易しいものではない。 “《ディストピア》〈真世界〉”に降りて久しく感じた事のない研ぎ澄まされた殺気だった。 「いけない」 「えっ?」 九條を抱いたまま、空いていた左手でひまわりの後ろ襟を掴んで跳躍する。 二人の了解を得ぬまま即座に回避行動を取らざる終えなかったのは、少女が私達に向けて突進する予兆を感じたからだ。 「喰らっとけよ、色男ォォオォォオォォォッッ!!」 飛来――――といって差し支えない光景だった。 対象者のその後を一切考慮しない全力の脚技がどれだけの脅威かは考えずともわかる。 咄嗟の出来事に不十分な体勢だったせいで回避が間に合わない。 ひまわりを掴んでいた左腕を少女の踵が捉えた。 「きゃあああっ――!?」 直撃した腕から先の力が抜け、手から放たれたひまわりの身体が投げ出される。 衝撃が緩和される草むらに落ちた事が唯一の救いか。 「ひまわり、大丈夫だろうか」 「いたたた、ひざすりむいちゃったよぅ……」 涙目になるひまわりとは裏腹に安堵する。致命傷を受けたわけではなさそうだ。 「あれ? なんだ今の感触……割りとマジでやったんだが、手応えがなかったような……」 「本気でやってその程度なら、やめておいたほうがいい。私に分があるようだ」 「なぁにぃ~~~? 言うねぇおまえ。そんな屑を命を張って護ろうってわけだぜ?」 よく見れば、先日、ひまわりに蜂蜜揚げパンを渡した相手に似ている。 しかし性格はまるで違うことから、別人と判断した。 「説明をしてもらいたいのだが」 「イチャコラ抱っこかましてるベッピンさんに聞いてみろ」 「彼女に襲われる心当たりがあるのだろうか」 回避行動を取る際、強制的に身体を拘束したままの九條に問いかける。 「……存じません」 「そうやって何人も騙してきたってわけか。慣れてるだけあって事情を知らないと嘘ついてるように聞こえないから大したもんだぜ」 「何を言っているのです」 「とぼけるなよ半端モン。私様に捻り潰されかけただろうが」 事情は不明瞭だがこの少女の狙いが九條の命である事は明らかなようだ。 ならば難しくはない。やるべき事ははっきりとしている。 今、九條を失う事は何を置いても避けなければならない優先事項なのだ。 「もしかしてわたしと《や》〈戦〉る気か?」 「詳しい事情はわからない。しかしおおよその見当はついている」 生身の人間にあれほどの跳躍は不可能だ。となれば可能性はひとつしかない。 「キミは“Archive Square”の者だろう。そして“《イデア》〈幻ビト〉”だ」 「だったらどうだってんだ? ああ!?」 「昼間、学園の屋上でキミ達が話しているのを聞いた。断片的ではあったが、キミは“《フール》〈稀ビト〉”を追うのが仕事のようだ」 「覗き趣味まであんのかよ、下衆野郎が」 できれば“Archive Square”と諍いは起こしたくはない。ノエルにも固く禁じられている。 しかし彼女が九條の命を狙うとなれば見て見ぬふりをするわけにもいかない。 「見逃してはくれないだろうか。キミにも表向きの顔があるのだろう。騒動を起こしてはキミの生活にも支障が出ると思うのだが」 「みんなのアイドル“Re:non様”の事か? バーカがっ! 私様こそが《ピンチヒッター》〈代打様〉なんだぜ」 「キミの二面性のある性格が実にユニークなことは多少理解ができた。しかしもう一度、よく考えてほしい」 「うるせぇなぁ、ここには私様以外に誰もいないじゃねーか」 「逃げられたのは厄介だったが、人のいない場所に移動できたと思えば結果オーライだぜ」 「だが――――」 「――――もういいじゃねぇか、始めようぜ」 少女が低く構えた。どうやら説得には失敗したようだ。 「九條、少し離れていた方がいい」 「……どうするつもりなのですか?」 「私に選べる余裕があるほどの選択肢は与えられていない。この場を切り抜けるために残されているのはひとつだけだ」 “《イデア》〈幻ビト〉”との戦闘は“《ディストピア》〈真世界”に来る前にノエルと戦って以来だが―― 「ひまわりが飛び出してこないように見ていてほしい。守りながら戦っていたのでは集中できない」 「……わかりました。お気をつけて」 右手を覆っている手袋を外すと、風の流れを手の平に感じた。 「強いのか?」 「わからない」 「なんとなく蹴った感じが違ったんだよな……普通なら身体ごと吹っ飛んで笑えるんだが」 「なら見逃してもらえるのだろうか」 「いいぜ――――てめぇの命だけならな」 つまり九條の命はないと言う事であり、到底受け入れられる提案ではなかった。 「では力ずくで見逃してもらう事にしよう」 「待ってましたんだ、ゼッッ!!」 地面を這うほどに身体を屈め突進する様は人というより獣に近かった。 「ゼッ――!!」 交錯する直前、少女は軌道を変えて跳ね上がる。 落下する勢いのままに回転させた右足を振り下ろした。 「…………」 「私様の動きが追えるか……やるなぁ」 「私の視力は人間の平均よりも優れている。書籍を読む際は灯りを点けるようにしているお陰だろう」 逆にノエルは暗い場所でテレビ鑑賞をしている影響で視力が低下してしまったらしい。 「つっても今のはウォーミングアップだぜ。 “《アップシフト》〈一速〉”」 トントンとその場で小刻みに跳ねる。 その動作を何度か繰り返した後、地面に足が触れた瞬間に少女の姿が消えた。 「《はや》〈疾〉いな」 消失したと思わせるほど少女の加速は凄まじく、瞬きのタイミングが悪ければ見失っていただろう。 右手後方から飛来する手刀を寸前のところでかわす。 「私様は、休まないぜッッ!! 躱し続けられるかなッ!?」 私を中心にして風となった少女が駆け回る。 人間の眼球でカバーできる範囲は前方に限られる。 死角を利用する彼女の動きを捉える事は困難だ。 視覚に頼るよりも聴覚と肌に触れる空気の動きに集中する。フェイクの混ざった攻撃に対応するには本命を見抜かなければならない。 「ゼッ――!!」 「もう限界だろうか?」 「強い強いっ! さすがだぜ」 「そんじゃ――――“《アップシフト》〈二速、三速〉”」 《はや》〈疾〉さのギアが一段――いや数段上がる。 最早視覚から送られる映像にはまるで意味がなかった。 「…………とんだ狂犬だな……」 私の身体を何度も衝撃が襲う。痛覚でしか彼女がどこにいるのか判別できない。 それも痛みを感じたと脳が認識した時には、もう別の場所に移動していて意味をなさない。 「オラオラオラオラッッッ!!」 ここまで体術において歴然の差を見せ付けられるとは予想外だった。 しかし極限までスピードを高めた代償か、少女の打撃そのものの威力は低下していた。 「…………」 それでもこのまま攻撃を受け続けていれば疲弊してしまうだろう。彼女の体力も無限ではないだろうが、目算のない消耗戦に持ち込むのは得策とは言えない。 身体を壊されてしまう前に多少のリスクを背負ってでも光明を見出すしかない。 頭の中でタイミングを計る。相手に気づかれては意味を成さない。 彼女の攻撃には一定のパターンがある。 重点的に下半身、膝の辺りを狙っている。 足を殺してしまえば獲物を狩るのは容易い。それは“《イデア》〈幻ビト〉”に限らず人間や動物も同じだ。 膝を襲った衝撃に耐え切れず、私は片膝を地面に着いた。 「終わりだぜぇぇッ!!!」 「ああ、終わりだ」 無防備に晒された私の顎を大木で打ちぬかれたような衝撃が襲う。 自らの身体が痛めつけられているというのに、私の脳内にはある植物の姿を想像していた。 痛覚からの逃避――いや違うだろう。 では何故か。この状況がその植物を想起させるほどに類似していたからだ。 「あ――――」 少女は事態を飲み込めていないようだった。それほどまでに確信した未来を描いていたのだろう。 しかし世界は残酷だ。予定通りに事が進んではくれないのだから―― 「ハエトリソウを知っているだろうか」 花と見間違えるほどに鮮やかな朱色に染まった葉を捕虫部と言う。 導かれるように引き寄せられた昆虫を閉じ込め、葉から分泌される消化液でゆっくりと溶かしながら養分を得る植物だ。 「ンのぉおおぉおおおっ――!!」 拘束されていないもう片方の足が私の顔を捉える。不十分な体勢から放たれた蹴りは先のものとは比べるまでもなく弱弱しい。 「もう終わりにしてはくれないだろうか」 「そりゃ何の冗談だぜ」 「キミと私達は出会わなかった。それぞれの生活に戻り、静かに暮らす。それでは駄目だろうか」 「――!!」 再度少女の左足が顔面に打ち付けられる。 「こいつッ――――!!?」 仕方がない。私もこれ以上譲歩はできない。 「私はハエトリソウのように時間をかけはしない。すぐに済む」 少女の足を掴んだ右手に胸の奥で滾る奔流を流し込む。 「うわああああああああああ――!?」 ふと脳裏にある光景がちらついた。 炎の中に立ちすくむ、無力な男の映像だった。 「クソ、全く繋がらねぇじゃねぇかよ。こっちが出ねぇと文句垂れるくせによ」 「……もしもし」 「お、やっと繋がった。何度電話しても出ねぇからどうしようかと思ってたところだ。忙しいのか?」 「ええ、あまり長話してる時間はありませんね」 「そうか。なら用件だけ伝える。今日アンタに会って話したい事があるんだが――」 「ハマザキ、アウトー!」 「ハマちゃん、それわかってたやん」 「おい、忙しいとか言ってテレビ見てんじゃねぇかよ!」 「テレビではないですよ。録画してあるDVDです」 「変わんねぇよ。ったく、相変わらず自分勝手だな」 「話とはなんです? 電話で言えばいいじゃないですか」 「いや、電話で話せるような事じゃないんだ。できれば二人だけで話したい」 「アンタの旦那に関わる事だ」 「……わかりました。では18時にいつもの場所で」 「おう、待ってるぜ」 「さて、これで準備は整ったな」 「――おっと、大事な事を忘れてた。死体処理屋に連絡しねぇと」 「悪く思わないでくれよ。俺達がいるのはカネに支配されてる世界なんだからな」 轟音を引き連れた灼熱の業火は私の手の中で燻っている。 掴んでいた少女の足はもうこの手にはなかった。始めからそのつもりだった。 「はぁ……はぁ……」 私の手から逃れた少女は肩を上下しながら立っていた。 「そうか。なるほど」 爆ぜたはずの足は多少焼け焦げていたが、未だ胴体と連結しその支えとして役目を果たしていた。 「左腕をやられたようだ」 二の腕に痛みを覚える。見ると私の意志に反してダラリと垂れていた。 どうやら腱を損傷したらしく、脳からいくら信号を送っても左腕は反応を示さない。 「それがキミの“《アーティファクト》〈幻装〉”だろうか」 少女の手には見慣れぬ形状の物体―― 獣を象った三つの円が隣接している。形容できる名称は思いつかない。 しかし自らの使用用途だけは高らかに声を上げて主張しているようだった。どうやら爆発の寸前にあれを取り出し、私の腕を斬りつけ脱出したのだろう。 「“《サイレントキル》〈有無幻の凶夢〉”。“私様”がそう呼んでいるから、私様もそう呼んでいる」 “《イデア》〈幻ビト〉”が人間界へ来る際、“ステュクス”に置いてきた本来の力。 “力”が霞んで見えてるほど“《アーティファクト》〈幻装〉”の存在は大きい。“《イデア》〈幻ビト”としての大部分が“《アーティファクト》〈幻装”に込められているのだから。 「しかし自らの身体を触媒にして“ステュクス”から“《アーティファクト》〈幻装〉”を取り出す行為は身を滅ぼす」 「わかってる。私様だって、こんなマネはしたくなかった……だが、効果は絶大だな」 刀の切っ先を向けられた左腕に目をやる。少女の刀に纏っている黒い霧のような物が斬られた患部にも付着していた。 よく見ると黒い霧は消えるどころか傷口全体に広がっていく。 「私様の“《ヤミ》〈正体不明〉”は、放っておけば侵蝕しながら全身に広がっていく。ジエンドだぜ」 「自らの“《アーティファクト》〈幻装〉”について情報をバラしてしまっても良いのだろうか」 「勝負はもう決まっちまったじゃねーか」 いかに人間よりも性能に優れているとはいえ、仕組み自体は同じだ。歯車が欠損すれば車輪は回らない。 しかし……。 「キミが封じたのは私の片腕だけだ」 「だぜ。お前は、なかなか骨がある。私様はちゃんと生きようとしてるヤツが嫌いじゃねーんで、見逃してやるぜ」 「つーわけだが、見逃せない奴もいる――――“《アップシフト》〈四速〉”ッッッ!!!」 刹那――――少女の速度が“音”を超えた。 「っ――!?」 「みつきちゃん――!?」 「さよならだぜ、醜い“《フール》〈稀ビト〉”」 声のした方に振りかえる。その時には既に少女が九條に手を掛けた後だった―― 「げほっ――」 九條の胸から円形の剣が引き抜かれると、あわせたように口から大量の血液が流れ落ちる。 ゆっくりと――抜け殻のように力の抜けた九條の身体が血溜まりの上に倒れた。 「みつきちゃぁん!!」 「心地いいぜ……戦場にこどもの悲鳴はつきものだ」 「よいしょっと。トドメはきちんと刺すのが、相手への礼儀だぜ」 「くっ――――!」 少女は九條の身体を無造作につかむと、荷台へ積むかのように乱暴に放り投げた。 「ま! ソレに対する執着がどれほどのものか、死価選別ってやつでもあるがなっ!!」 高台の柵を超えれば、そこは崖――――。 これ以上九條の身体を損傷させては生命活動は間違いなく停止する。 「おいおい…………」 「――――――――届いた、か」 落ちゆく九條を寸前のところでつかむことができた。 「残った片腕は、戦う為のものだろ? どうしてそこで、救う為の腕にしちまうんだよ……」 「……はやく……行って、ください……」 虫の息となった九條が必死に言葉を振り絞った。 そこで気づいた――――九條から引きぬいた際、少女の“《アーティファクト》〈幻装〉”は既に手中になかった。 「放すべきだろ……おかしいだろそんなの……放せよッ!!」 「――――ッ!!」 戦輪は糸がついているかのように空中を飛び回り、私の背中を斬りつけた。 「――――ッ!! ――――ッッ!」 何度も、何度も、何度も。 無抵抗な背中をさらした私は、抵抗するすべを持たない。 「……どう……して」 「キミを失うわけにはいかない。まだ聞かなければならない事が残っている」 「それがお前が悩んで、お前が導き出した選択なのかよ……」 「何故だ……何故そこまでそいつに執着する。守るほどの価値があるやつじゃねーんだぞ!」 「ではキミに問おう。この世界で何を置いても優先すべき物はなんだ」 「自分自身」 「それはキミの価値観だ。そして人間の大多数も同じ回答をするのだろう」 「私様が“《わたくしさま》〈自分〉”を優先する事の意味を、その他大勢の回答と一緒くたにするんじゃねぇっ!!」 目を剥いて吼える少女にも、何か理由があるのだろう。 「しかし目的のために生きているとしたら――その目的のためなら命を賭しても構わないのではないだろうか」 「目的を失った生に価値はない。少なくとも私は無意味な物だと考える」 「……………………」 「なんなんだよちくしょう……」 「誰かを護る力もないくせに、失って嘆くほどの“目的”が自分にはあるって、それ自慢かよ……」 飛来する戦輪は私を傷つけ続ける。 「ちくしょうが……クソ……こいつ、もしかしてすげぇイイヤツなんじゃねぇか……クソ……あークソ……でも……でも……」 「そいつは私様の大切なものをコケにしやがった……ここで引き下がっちまったら……私こそ半端モンじゃねぇかよぉッ!!!」 「あかしくん!! みつきちゃん!!」 「ひまわり、来てはいけない。キミに何かあったら契約を履行する事ができなくなってしまう」 「でもっ!! あかしくん死んじゃうよぉ!!!」 私の身体は人間よりも頑丈にできている。それでもこのまま闇に侵蝕され続ければ限界は来るだろう。 「……あなたは……愚か……です……」 「愚かか。悪くない言葉だ。人間に近づいた証拠だろう」 「他人を助けても……負った傷は……いつまでも残り続けます……」 「そうだな。きっと背中の傷はしばらく残るだろう」 「……そういう意味では……おかしな……人、ですね……」 「そう言われるのは慣れている」 「…………」 九條の呼吸が一段と弱々しくなるのを感じる。 会話の最中も現状を打破する方法を思案していたが結局妙案は思いつかなかった。 「神がいるとすれば、ここで死ぬのが神の意思か、はたまた試練のひとつか」 神は姿を現さない。しかし仮に存在しているとすれば、その意思を図る方法がひとつだけ残されている。 「九條……私の胸の鼓動を確かめてみる気はないか?」 「こんな時に……貴方は……なにを……」 「九條、キミはこう言った。世界はまやかしに満たされていると」 「本当にそうなのか、確かめる気はあるだろうか。もしもあるのなら、私の胸に手を伸ばしてほしい」 「…………」 返事はない。しかし虚ろな瞳は私を見ている。 「――真実を知る勇気はあるか」 「望むのならば私の胸に手を伸ばせ。そして声に耳を傾けろ」 「…………」 九條の指が僅かに動き、そして私の胸に触れた。 「キミならそうするだろうと思っていた」 私は祈る。会った事もない得体の知れない神様とやらに―― 「九條美月。私の“《ゆいいつめい》〈唯一名〉”は“《ファイヤ・ドレイク》〈赤銅の火竜”――憤怒を司る火の精だ」 二人の身体を結ぶ鎖。 神は存在するのだろうか。未だに答えは出ない。 それでも私達の運命は前に進む事を許されたようだ―― 「…………」 「……傷が、治っています」 「そのようだ。私も腕を動かせる」 背中の痛みも消え、九條の身体から流れる血も止まっている。 「“《エンゲージ》〈契約〉”の影響だろう。話には聞いたが体験するのは始めてだ」 「“《エンゲージ》〈契約〉”……」 適合性のある“《イデア》〈幻ビト〉”と“《フール》〈稀ビト”が交わる事で起きる現象――それが“《エンゲージ》〈契約”だ。 「“《エンゲージ》〈契約〉”を行うには互いの《ゆいいつめい》〈唯一名を知る必要がある」 「適合する相手を見つけるのは難しいと聞いた。キミと私は運が良かったようだ」 「…………」 「“《エンゲージ》〈契約〉”にはいくつかのメリットがある。傷が癒えたのもそのひとつだ」 しかしそれが本質ではない。 「今からキミの身体を通して“《ステュクス》〈重層空間〉”にアクセスする。そこから私の“《アーティファクト》〈幻装”を取り出す」 “《フール》〈稀ビト〉”が使用している“《デュナミス》〈異能”は“《ステュクス》〈重層空間”に置かれた “《アーティファクト》〈幻装〉”を利用したものだ。 “《ステュクス》〈重層空間〉”対して親和性のある人間を介す事で、“《イデア》〈幻ビト”の負担が減るらしい。 「…………」 「怖いだろうか」 「……いいえ。あなたがそう言うのでしたら、私はお任せします」 「ありがとう。では行くぞ」 九條の胸に宛がって手がずぶりと沈んでいく―― 「んっ――」 まるで粘土ようなドロドロとした感触の先に、熱い鼓動を感じ取る。 「キミは死なない。私が守る」 「それはあなたの過去のため、ですか」 「そうだ。私にとって唯一無二の記憶なのだ」 「……一生懸命、なのですね」 「この世界では懸命である事を望まれるのだろう。だとすれば私がそうなるのも必然だと思わないだろうか」 「……かもしれませんね」 燃え滾るように熱い塊を手中に収める。 ゆっくりと――零れ落ちてしまわないよう、細心の注意を払いソレを引き抜いた。 「――――――!?」 視界に色が戻り風の流れを感じる。夕焼けに染まる街並みが目に飛び込んできた。 少女は驚きながらも頭上の戦輪が弾き飛ばされた事を知り、空中でキャッチした。 「神の存在を私は疑っている。しかし――」 「意思を持って行動しなければ、神を疑う事さえ叶わないのではないだろうか」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”……それに驚異的な快復力……」 「おまえ……まさか……」 手の内に納められた銃を少女に向ける。 先ほど、少女の戦輪を弾き飛ばしたのも私の弾丸によるものだ。 「禁忌を犯したのか……ッ!!」 「ああ。確証はなかったがどうやら成功したようだ」 「これでハッキリした。おまえらの処理は正式に私様の仕事になったぜ」 「“Archive Square”は“《エンゲージ》〈契約〉”を認めてねぇんだよ」 「そうなのか、初耳だ。それは困ったな」 騒ぎを大きくしてはノエルにも迷惑をかけてしまう。 「しかしこの場でキミを殺してしまえば、私達の情報が伝わる事はない。違うだろうか」 「なかなかおもしろいことを――――」 少女の言葉が終わるのを待たず、引き金を引いた。 「人間だろうが、指先ひとつ動かす力があれば拳銃を扱える。鉛の弾を、音速で飛ばすことができる」 「瞬間的に“音速”を超える、私様のスピードを舐めるんじゃねぇぜ」 放たれてから弾丸を避ける事は不可能とされているが、人ならざる少女には可能だったようだ。 「所詮は野良犬。血統書つきの私様にゃ敵わないぜ」 威勢の良い態度は着弾箇所に登り立つ炎の柱を目にした途端に途切れた。 「……こりゃあ、まともな原理の発火じゃないな」 「私の“《アーティファクト》〈幻装〉”から射出された弾丸は一般に出回っている物とは違う」 「着弾した物を包み込み、燃やし尽くすまで消える事はない」 「偉そうな口は――」 少女は胸を押さえて苦しみだす。 「ッ――こんな時に……!」 「私は契約者から“《アーティファクト》〈幻装〉”を取り出した。キミは自分の身体から取り出した」 「キミも“《イデア》〈幻ビト〉”ならばこの違いが持つ意味を知っているはずだ」 「ぐっ……!!」 少女の身体に異変が起きたのは当然の結果と言えるだろう。 “《イデア》〈幻ビト〉”が自らの体内を介して“《アーティファクト》〈幻装”を使用するのは負担が大きい。 「続けるだろうか?」 「その余裕ぶった面が気に食わねぇ――――潰す」 状況を把握してもなお、少女の闘争心は燃え続けていた。 「キミがその気なら止めはしない」 生半可な火ならば、それよりも熱く滾る炎で包み込めばいい。 少女の動きに目を凝らす。間違っても先ほどのように九條を狙わせてはならない。 「もうやめてってば――!!」 「…………」 「ひまわり、出てきてはいけないと言っただろう」 「あかしくんもはちみつあげパンのおねえさんももうケンカしちゃダメ!!」 二人の間に手を広げたひまわりが介入する。 動く事ができなかった。私よりも少女の方に近く、先に行動を起こせば彼女がひまわりを利用しないとも限らなかった。 「ガキを黙らせろ。もう、お互い引ける状況じゃねぇだろ」 「みつきちゃんはわるい事しないよ!! それにずっとひまわり達と一緒にいたもん!!」 「そいつは道行く人々を騙して回る最低のクズだぜ」 「みつきちゃんはそんな事しないもん!! ひまわりと一緒にいたもん!!!」 「だとしても――――切っ掛けにすぎない。もう、全然そんなレベルの話じゃないんだ」 「この二人は“禁忌”を犯した。私様は二人を壊す必要がある」 「一緒にいたもん!!! うわあああああああんん――!!!」 「…………チッ」 「うえええええええええええええええんん――!!」 ひまわりの泣き声が響き渡る。少女の炎が萎んでいくのを感じた。 「あああぁぁぁぁぁ、クソ……こういうのは苦手だ……リノン……」 「………………オーケー……トリトナ。把握したわ」 「なんだ……?」 「いいえ、べつに。その子を泣かせたのも作戦のうちかしら」 「いや、ひまわりの手柄だ。私は見ていただけだ」 少女にとって今のタイムロスは大きい。 もうこれ以上“《アーティファクト》〈幻装〉”を維持できる状態ではないようだ。 「うぇぇぇええええええええええええん!!」 「ひまわりよくやった、もう泣き止んでいい」 「ええ、泣き止んで。今は手よりも口を使って場をまとめたい、貴方の声は、うるさすぎる」 「……みつきちゃんとあかしくんいじめない……?」 「少なくとも、貴方が黙っている間はね」 少女の手から完全に“《アーティファクト》〈幻装〉”が消えた。 「ほら」 「うん、ありがとおねえさん」 ひまわりは泣き止んで鼻をすすっている。 「あかしくんもあぶないてっぽうしまわなきゃダメだよ」 「いや、彼女に争う意思がないかどうか確証を得られるまでは警戒を解く事はできない」 「しまわなきゃダメっ――!!」 「いやしかし――」 「しまわなきゃダメったらダメなの!! ダメダメダメ――!!!」 「…………」 私は要求に応じ、手の内にあった“《アーティファクト》〈幻装〉”から手を離した。 支えを失った銃は地面に触れる前に霧散して消えていった。 「うん、これでなかなおりだね! よかったよかった!」 「本当に諦めてくれたのだろうか」 「奥の手は最後まで隠し持っておきたいの、どうしても死にたいなら、続けるけど……」 「それは“自傷”の域に入るから、わたしはやりたくない」 私は少女とひまわりの元に歩み寄る。 「確証はあったつもりだけど、今思えばアレすらもあいつの罠だった可能性も捨てきれないわね」 「そちらの事情はわからないのだが、キミが戦わないのであれば私にも理由はない」 「疑いが晴れたわけじゃないけどね。でも――」 「この子に、してやられたわ♪」 「ひまわりはうそつかないよー」 秒単位で決着のつく世界。 ひまわりが大泣きしなければ生まれなかった“時間切れ”だった。 「そう。わたしが悪かった。それは認める」 「けれど“《エンゲージ》〈契約〉”まで見逃すのは虫が良すぎるわよね」 「キミが襲ってさえいなければ、“《エンゲージ》〈契約〉”などしていなかった」 「仮にわたしに非があったにしろ、組織はそんなことを無関係に貴方たちを捕まえようとするでしょうね」 「だから――――会わなかったことにしましょう」 「…………」 九條は離れた場所で少女を警戒していた。無理もない、訳もわからぬまま胸を刺されたのだから。 「信用出来ない?」 「できるわけがありません。間違いで殺されてしまっては取り返しがつかないのですから」 「だったら今度は、本気で殺そうか?」 「…………」 「根っこの部分で、“《イデア》〈幻ビト〉”は“《フール》〈稀ビト”が嫌いなのよ」 「それは明確な区別だし、差別なの。人の身で“《イデア》〈幻ビト〉”の魂に干渉する、下賎な輩なのだから」 「こうやって見つめ合うだけで――――メチャメチャにしてあげたくなる」 「九條に手を出すようなら、私も全力を尽くそう」 「やらないわよ、ただここでわたしを殺さないなら、話を持ち帰らない事を信用してもらうしかないわよ?」 「わかった信用しよう」 「………………は?」 「どうかしただろうか」 「貴方って…………愛すべき馬鹿ってやつ?」 「私の言動にどこか問題があっただろうか」 「はいはい、もういいから。言わないって約束するわ」 “Archive Square”の者と交戦した事がノエルに知れれば会わす顔もない。新たな住処を探す手間も省けて非常にありがたい。 「貴方達の名前、教えてくれる?」 「“Archive Square”に報告しないのであれば」 「えとね、ひまわりはひまわりで、こっちはあかしくんでしょ。あとみつきちゃん」 「……九條、美月です」 「九條……? 九條って、あの?」 「…………」 「知っているのだろうか」 「九條グループの一人娘でしょ。ウチとも関係があるから話くらいは聞いた事があるわ」 「……九條の人間が“《フール》〈稀ビト〉”か……温室育ちじゃ、さっきの性悪とは別人確定か」 「…………」 「どういう意味だろうか」 「わたし、そろそろ行かなくちゃ。やることが山積み」 「忙しそうだ」 「アイドルは忙しいものよ」 暴風雨にも似た少女は背を向け歩き出し、台風のそれと同じように過ぎ去っていった。 「…………」 「疲れた顔をしている」 「そう……ですね。少し疲れました」 無理もない。一時的とはいえ瀕死の重症を負ったのだから。 「ひまわりもおなかすいたよー」 「まだ夕食の時間には早いと思うのだが」 「いっぱい歩いたしみつきちゃんおいかけたりしたらおなかすいちゃったんだよー」 「九條を追う道中は私の背におぶさっていただけだと思うのだが」 「あかし号をあやつるのにもしんけいつかうんだよー!」 「なるほど。そういう事なら仕方がない」 「くすっ……」 九條の口元から上品な笑みが零れる。 「何かおかしかったのだろうか」 「いえ、すみません。先ほどまで命の危機に晒されていたせいか、気が緩んでしまいまして」 「なんだかお二人を見ていると、全部夢だったとさえ思えてくるから不思議です」 「夢ではない。身体の状態は元に戻ったが、決定的な違いがある」 「……“《エンゲージ》〈契約〉”、ですか」 やむ終えぬ事情があったといえ、私はノエルの戒めを破ってしまった。早急に事実関係を報告した方が良いだろう。 「私達は今から倉庫に帰ろうと思う。キミを尾行していた女子学生の目もなくなった。ひとまず今日のところは役目を終えた」 「そうですね。ありがとうございました」 「もしもキミに不都合がなければ一緒に来ないだろうか」 「今から、ですか……?」 「ああ。キミも“《エンゲージ》〈契約〉”がどういった効果を及ぼすのか知っておいた方がいいだろう。その辺りについては私よりもノエルの方が詳しい」 「……わかりました。それではご一緒させて頂きます」 「ハァ――ハァ――!」 酷く身体が重い。脳に送られる信号が危険なレベルにまで達した時、ようやく自分が一目散に走り続けていた事を知った。 「クソッ――! 殺す! あのクソ虫、生きてられると思うなよ!!」 激しく波打つ心臓を鎮めようと呼吸を整える。どれくらいかして、ようやく物事を整理するだけの思考力が戻る。 「……“この姿”はまずいわね」 別の誰かに変わる必要がある。あいつらに見せていない顔が良い。その辺りで適当に見繕うか。 「……丁度いいわ」 トンネルの向こう側から近づく足音が響き渡る。やがてその人影は輪郭を得て眼前にやって来る。 「……なんですか?」 「い、いえ、別に何も――」 「凄い汗出てますけど」 「ら、ランニングの最中なんですよ! 健康のために!」 「はぁ……まあ何でもいいですけど。それよりこの辺で黒いサングラスをかけた怪しいスーツの男見ませんでしたか?」 「み、見てないですけど」 「そうですか、どうも。……ジュース買ってこよ」 通りがかった女は気だるそうにトンネルを出て行った。 「……どうもありがと」 運よく現れた女に礼を言う。タイミングだけでなく、容姿も申し分ない。あの顔と身体があれば、大抵の男は篭絡できるだろう。 「さてと、この子はどんな子なのかしら」 姿を変え、雪崩れ込んでくる情報をひとつずつ整理していく。 「えっ……どういうこと……!?」 彼女の持つ秘密――自分の主人にさえも明かしていない秘め事に足が震えた。 「そんな……じゃあ“ナグルファルの夜”って――」 「よう、待たせたな」 溢れる情報に集中し過ぎたせいで、声をかけられるまで背後から近寄る男の存在に気づかなかった。 「え、えと……」 迅速に顔と記憶を結びつける。 「あ、あなたでしたか。随分遅かったんですね」 「ちょっと準備に色々手間どっちまってな。業界の人間はどいつもこいつもカネにうるさくて困る」 江神善太郎――自称探偵を名乗る裏の道に住む人間だ。 「ん? アンタ、すげー汗じゃねぇか?」 「ちょっと走りたい気分だったんですよ」 「若いねぇ。いや、俺もまだ20代なんだけどよ」 江神は鞄を開け炭酸飲料を取り出した。 「やるよ。喉渇いてんだろ。落ち着いてくれなきゃ話もできねぇ」 「あ、ありがとうございます」 正直助かった。喉の渇きは限界に近かった。 「んっ――」 缶の蓋を開け、一気に流し込む。疲弊した身体の細胞が蘇っていく。 「そうそう、大事な話ってのはな」 「っ……!?」 手元から缶が滑り落ちた。砂利の地面に茶色の液体が広がる。 「アンタからの仕事、もう請けられなくなった」 え――どうなっているの……!? 硬直する身体は視線を変える事もできない。正面に立つ男がゆっくりと銃をこちらに向けるのを眺める事しかできなかった。 「別の依頼を請けててな。本来依頼の内容はどんな事があっても他人には漏らさねぇんだ」 「一度信用を失っちまったら二度とこの世界ではやって行けないからな」 「でもまあアンタには特別に教えてやる。金払いのいいお得意様だったからな」 男の言っている意味がわからない。はっきりしているのは私の身体が指一本動かせないという事だ。 「動けないだろ? 毒を盛らせてもらったからな。アンタはまともじゃねぇんだから用心して当然だろ」 「っ……!」 「俺が請けてるのはな、アンタを殺せって依頼だ。わかりやすいだろ?」 「いつもは自分で殺ったりはしねぇんだがな、他ならぬアンタだ。俺も心を鬼して引き金を引こうと思うわけよ」 殺される――? 嫌だ、私には関係ない! 殺されるべきは私じゃない――! 「アンタの旦那は怒るだろうなぁ。でもまあ安心しな。ちゃんと面倒見てやるよ」 「知らないままでいる事は許されねぇんだ。殺して生きるやつはそれを自覚しなけりゃな」 嫌だ死にたくない死にたくない! 私にはまだやるべき事がたくさん―― 「じゃあまあ、文句はあの世までとっといてくれ。俺もそのうち行くだろうからよ」 「…………」 「どうかしただろうか」 「いえ、あなたのお家に伺う事はもうないと思っていたので」 「人間の感覚で言えばあまり綺麗とは言えないだろう。不満ならば場所を変えてもいい」 「そういう事ではなく……その」 「誰かのご自宅に伺うというのは、あまり経験がないので……」 年頃の学生にしては珍しいのだろう。しかし過去の顛末を聞いた後では致し方ないと納得できる。 「ひまわりのおうちに来たかったらいつでもいいんだよ♪」 「キミの家ではない。私も勝手に使っているだけだが」 「寂しいところですが、見方を変えれば静かで落ち着く場所かもしれませんね」 「数日前までは私とノエルの二人きりだったのだが、今はひとりで何人分も騒がしい居候がいる」 人間の子供とは騒々しい物だと知っていたが、実際に近くに置いてみると想像以上だった。不快に思う事はないが、正直手に余る場面も少なくはない。 「同居してらっしゃる方……ノエルさんとはどのようなご関係なのですか?」 「“上司”に聞いていないのだろうか」 「私も多くを聞かされているわけではありませんから」 手となって動く者が拘束されても情報の漏洩は起きない。なるほど。利口なやり方だ。 「ノエルとはもう長い付き合いになる。こちらに来た七年はもちろん、それ以前から行動を共にしている」 「ではあの方も“《イデア》〈幻ビト〉”なのですね」 「そうだ。昔は敵対していた事もあるが、今は私を助けてくれる大事な存在だ」 「敵対……?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”は人間と違い誕生した瞬間から知性や主義主張を持っている者が多い。主張が違えば争いが起きる。人間と同じだ」 「……どうしてそれが今の関係に落ち着いたのか、聞いても構いませんか?」 「特別な事はない。長く続けていれば飽きる。それだけの事だ」 「あかしくんとのえるちゃんけんかしてたの? けんかはよくないよ?」 「昔の話だ。今は互いに傷つけ合う事はしない」 「…………」 「……いや、間接的には時折なくもないか」 「ほえ?」 倉庫も近づきノエルにどう話を切り出すべきかと思い悩む。彼女は私の浮気に対して過敏な反応を示す。もちろん私は浮気などしていないのだが、人間の女性が近くにいるだけで嫌悪感を抱く。 そして今、私は誰も連れてきた事のない住処に九條を連れて歩いている。兎との邂逅は避けられそうもなかった。 「九條、ノエルと会う前に言っておかなければならないのだが」 「何でしょうか」 「きっとノエルはキミの姿を見た途端、何かしらの反応を示し予想外の行動を取る可能性がある」 「もしかしたら不快な思いをするかもしれない。それでも彼女を刺激するような言動は控えてほしい」 どちらかと言えば九條も自分の主張を貫くタイプの人間だ。ノエルが浮気を疑っても否定してくれるだろうが、その結果険悪な関係にならないという保障はない。 面倒事は避けるに限る。とはいえ既に片足を突っ込んでいる自覚はあった。 「もうすぐ着く。先に私が入って事情を説明する。キミは後から入ってほしい」 「わかりました」 さて、審判の時だ―― 扉に手をかけ中に入ると、部屋の明かりは点灯しておらず暗闇に支配されていた。その中で唯一光を放っている長方形の機械。 テレビの前で膝を抱えている同居人は情報収集に勤しんでいた。 「おかえりなさい」 「ただいま」 手元にある炭酸飲料を探しつつも、視線はテレビに向けたままだ。 「ノエル、愛している」 「私もですよ」 「ノエル、愛している」 「ええ、私もですよ?」 「愛しているのだが――」 話の切り口を探し、どうした物かと思っていると不意にテレビの電源が切られた。 部屋の中は完全に闇の支配するところとなった。 「だが……なんです?」 「…………」 「怒りませんから、正直に話して下さい」 黒で塗り潰された世界の中で、ノエルの双眸だけが怪しく光る。 「……やはりこの話は聞かなかった事に――」 暗闇を駆ける風の動きを感じた。 身体に負荷がかかり、瞬く間に自由を奪われた。 「私の愛がご主人に伝わっていますか?」 「もちろんだ。今まさに全身でひしひしと感じている」 ノエルの抱擁は力強く、大事な物を決してなくさないという決意が伝わる。ノエルが恵まれた乳房の持ち主だった事が幸いし痛みを感じはしない。 「私に隠し事はナシですよ」 「ああ、隠している事など何もない」 隠す気などない。いや、その手段が頭を掠めたのは事実だが。 「今日は少し特別な一日だった。キミにも聞いてほしい」 「もちろんですよ。私の耳はご主人専用ですからね」 動物同士が互いの身体を擦り付けあうように、ノエルの冷たい頬が首筋に触れる。 「それで、話って何ですか?」 「ああ、実は――」 「もうおそいよあかしくん! ひまわりおなか空いちゃったんだからはやくしてよー!」 「ひまわりさん、まだ入っては――」 入り口の向こうに駄々をこねるひまわりとそれを制止する九條の姿が覗いた。 「…………」 「あ?」 前交渉は失敗に終わった。ならばもう全てを打ち明けるしかない。 「すまない、お前の忠告を破ってしまった」 「私は――彼女と関係を持ってしまった」 ノエルの身体から生気が抜け、壊れたカラクリ人形のように首が傾いた。 「リーリーリー」 「バック」 「リーリーリー」 「ゴー」 「えと、あの方は何を言ってらっしゃるのでしょうか」 「私にもわからない。ノエル、大丈夫だろうか」 全身の力が抜け、まるで軟体動物のようになったノエルは、ソファにもたれ天井を虚ろな瞳で見つめている。うわ言のように何かの呪文みたいなものを呟いているが意味は不明だ。 「ねぇねぇのえるちゃん、おなかすいたよー。おでんさんたべにいこうよー」 「リーリーリー、ピッチャーびびってるよー、モーション盗み放題よー、一歩目大事にー」 「のえるちゃんってば! しっかりしなきゃだめだよ!」 「しっかりしなきゃ。そう思ってた時期もありました。ご主人のため、私がしっかりしなきゃ、ご主人の……」 「うう……ぐすっ……」 放心していたのも束の間、涙と鼻水を垂れ流して泣き始めた。 「うぅ……やぁだぁ……もうやだぁ……おうちかえるぅ……」 「私達の家はここだ」 ノエルがこんな状態ではまともに話ができない。どうしたものだろうか。 「えと、日を改めた方が良いでしょうか……?」 「……もう少し様子を見ても駄目ならそうした方が――」 「……タダで帰れると思ってるんですか?」 諦めかけたその時、ノエルの身体がむくりを起き上がる。 「私のご主人を傷物にしておいて、堂々と太陽の下を歩けるとでも?」 「傷は負ったが完治している。それは問題ではない」 「大問題です。ご主人は少し黙っていてください」 「――わかった」 倉庫の中には私と三人の女性。 一人は隠そうとしない敵意を剥き出しにして睨み付け―― もう一人も自分に向けられた感情に呼応するように鋭い視線で対峙している。 「ねぇねぇあかしくん、おなかすいたよー」 最後の一人は争いに我関せず、空腹を訴え私の服を引っ張っている。 最早私の手に負えないのは明白だった。 「美月、と言いましたか。あなたに聞きたい事があります」 「九條です。親族以外に名前で呼ばれたくありません」 「うるせーバーカ。文句言える立場じゃないと自覚しろってんですよ」 「あなたの方こそ初対面の人間に対しての礼儀を軽んじているのではありませんか。もう少し自覚をお持ちになった方がよろしいかと」 「…………」 並べて見て気づいた事がある。ノエルも九條も我が強く、己の信条を易々と曲げたりしない。 似て非なる物がぶつかりあっても中和される事なく、どれだけ混ざり合っても分離したままだ。まるで水と油である。 「じゃあいいですよ、えっと苦情さんでしたっけ」 「……発音がおかしいと思いますが」 「え、何がですか? 私、人間じゃないんで難しい事言われてもよくわかりませーん。ぷっぷー」 「……美月で構いませんから、その呼び方は止めてください」 「ふん、最初から口ごたえしなきゃいいんですよ。苦情さん」 「だからその呼び方は止めて下さいと申し上げているでしょう!」 「え、なんすか? キレてるんですか? ねぇ、キレてるんですか? ねぇねぇ?」 「キレてません!!」 「みつきちゃん、すっごくこわいよ……」 「ノエルの挑発に乗せられているな。九條らしくない言葉遣いだ」 私とひまわりは二人の戦いを外から眺めているだけだった。 「大体あなたのその服は何ですか! はしたないにもほどがあります!」 「自分の家で何着ようがスッポンポンだろうが人の勝手でしょうが!」 「あかしくん、二人のけんか止めなくちゃダメだよ」 「……そうだな」 これ以上続けさせては二人の思考低下を招きかねない。そんな姿はできれば見たくはなかった。 「バカ!」 「バカはあなたです!」 「少しいいだろうか」 「何ですか!」 「何ですか!」 戦輪を操る少女に襲われた際にも引かなかった身体が僅かにたじろいだ。しかしここで引き下がっては肝心の話ができない。 「大事な話をしたい。そのために九條をここに連れて来たのだ」 大きく逸れた話題を強制的に引き戻す。九條も冷静さを取り戻したのか、前傾だった姿勢を元に戻し小さく咳払いをした。 「ノエル、私はキミに謝らなければならない。約束を破ってしまった」 「私は“《エンゲージ》〈契約〉”を行った」 普段は眠たげなノエルの瞼が大きく開かれた―― 「以上が今日私の体験した出来事だ」 “《エンゲージ》〈契約〉”に至る経緯を昼から順を追って説明する。 なるべく九條のプライバシーに関する情報は避けたつもりだ。他人の秘密を軽々しく口にするのは人間のルールに反する。 「…………」 てっきりノエルは禁じていた“《エンゲージ》〈契約〉”を行ってしまった事を責めるのだと思っていた。 しかし私の話を聞き終わったノエルは真面目な顔で考え込んでいる。 「怒らないのだろうか」 「え? ええ、別に怒ったところでどうにもなりませんし。そもそも私がご主人に怒りをぶつけるなどありえませんよ」 先刻の光景が脳裏に蘇ったがすぐに記憶の奥底へと押し戻す。 「“Archive Square”の“《イデア》〈幻ビト〉”は本当にご主人を追わないと約束したんですか?」 「そう言っていた。少なくとも私には彼女が嘘をついているようには見えなかった」 もちろん私には嘘を見抜く力など備わっていない。それでも人間が嘘をつく際の独特な匂いは少女から嗅ぎ取れはしなかった。 「…………」 「ノエルすまない、キミとの約束を破ってしまった」 「仕方がありません。状況が状況ですからね。今はご主人が無事帰ってきてくれただけで幸せですよ」 「それよりどこかおかしいところとかありませんか? 些細な変化でも構いませんから、もしも異変を感じているなら言ってください」 「いや、私は何も。九條はどうだろうか」 「私も特には。自分ではおかしいところがあると思えません」 「あなたには聞いてませんよ」 「赫さんに聞かれたから答えただけです」 「赫さん……だと?」 ノエルの額に青筋が立つ。しかしすぐに自制して落ち着きを取り戻す。 「……あなたへの落とし前はいずれつけるとして、とりあえず話を聞いた限りでは差し迫った危機はないようですね」 「“Archive Square”が私達を放置しておくかは、あの少女次第といったところだろう」 「ならひとまず様子を見るってことで大丈夫でしょう。もしもまた襲撃してきたとしても、今度は私がついてますから安心してください」 「頼りにしている」 「それより問題はキツツキさんですかね」 「美月です」 「あれそうでしたっけ。まあ両方ツンツンしてるからどっちでもいいんじゃないですか?」 「ノエル、“《エンゲージ》〈契約〉”について、詳しく話してほしいのだが」 「ああはい、わかりました」 再燃しそうな火事を事前に消化する。二人の扱いに関して短時間のうちに上達したのかもしれない。 「確かご主人には前にちょろっと説明したと思いますが」 「ああ、その最中にお前が毎週視聴している番組が始まってうやむやになった」 「そんな馬鹿なぁ。私がご主人への説明より自分の趣味を優先するわけないじゃないですか、やだなぁ」 私の記憶が正しければ以前そういう出来事があったはずだ。結局その場ではあまり関心のある情報ではなかったため聞き返す事はしなかったのだが。 「まあ体験した本人達がよくわかってるでしょうが、“《エンゲージ》〈契約〉”とは“《イデア》〈幻ビト”と“《フール》〈稀ビト”の間に交わされる特殊な現象を指します」 「…………」 「やっぱめんどくさいので明日でいいですか?」 「すまないノエル、できれば今話してくれると助かる」 「んもぅ、ご主人にそう言われたら断れないの知ってるくせに♪」 「…………」 「のえるちゃんはあかしくんにぞっこんなんだよねー♪」 「お、あなたよくわかってますね。ご褒美にソファの周りにあるお菓子食べていいですよ。私の食べかけですからありがたいと思いなさい」 「うっほーい! おかしおかし♪」 元々ひまわりは話に興味がなかったようで、促されるままソファに座って菓子を頬張りながらテレビを見始めた。 「さて、それでは説明を始めますか」 私と九條はノエルの話に耳を傾けた。 「“《エンゲージ》〈契約〉”を結ぶ事ができる対象はさっき言った組み合わせ以外にはありません」 「ただの人間とは何をしても“《エンゲージ》〈契約〉”することは不可能です」 「つまり美月さんは“《フール》〈稀ビト〉”だったというわけですね」 「…………」 「“《エンゲージ》〈契約〉”のメリットデメリットはいくつかあります」 「互いの命を共有する事で生命の強さが増します。ご主人達の傷が癒えたのはその為ですね」 「最大の変化は“《フール》〈稀ビト〉”から“《アーティファクト》〈幻装”取り出せるようになる事で使用時の“《イデア》〈幻ビト”を苛む苦痛が緩和される事です」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は“《イデア》〈幻ビト”自身の身体を介して取り出す事も可能です〉が、肉体と精神の両方を激しく消耗します」 この辺りは以前に聞いた事がある。戦輪を操る少女を見ても分かる通り、長期の戦闘には極めて不向きだ。 「もちろん“《フール》〈稀ビト〉”を介したからと言って、好き放題使えるわけじゃありません。ただ弾数に余裕があるってだけです」 「“《エンゲージ》〈契約〉”のデメリットとは何だろうか」 私と九條が気になるのはメリットよりもそちらの方だ。致命的な問題が生じるのであれば対策を講じなければならない。 「まあ……“《エンゲージ》〈契約〉”事態にこれと言ったデメリットはありませんよ。そもそも誰とでもできるわけじゃありませんから」 「どちらかと言うと副次的な問題ですかね」 「どういう意味だろうか」 「“《エンゲージ》〈契約〉”というのは大きな力をもたらします。それこそ人間が相手なら何人かかってこようが手のつけられないほどの力です」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”の使用もそうですが、何より“フィンブル”と呼ばれる“《イデア》〈幻ビト”本来の力を呼び出す行為も可能なのだそう〉です」 「“フィンブル”……? それは一体どういうものなのだろうか」 「さあ、私も実際に見た事があるわけじゃないので詳しくは。ただ“《アーティファクト》〈幻装〉”さえも超えた力の行使が可能なのだそうですよ」 「発動条件などは私も知らないんですけどね」 “《アーティファクト》〈幻装〉”を超えた力――想像するだけでも持て余すだろう事は明白だ。相応しい用途を探すのも困難だろう。 「まあそれだけの力ですからね。人間界の安定を図っている“Archive Square”にとっては無視できないんでしょう」 「副次的なデメリットとは彼らに目をつけられるという事だろうか」 「ええ、ただでさえ“Archive Square”は “《フール》〈稀ビト〉”の存在を良しとしてませんから」 「何でも捕らえた“《フール》〈稀ビト〉”を使って怪しげな実験をしてたりしてなかったり」 「どっちなのだ」 「さあ、詳しい事は。必要なら調べてみますけど。どちらにせよ、目立つ行動は今まで通り控えてください」 「できればこの人と関わりを持つのも止めてほしいんですけど」 ノエルの視線は黙って話を聞いていた九條に向けられる。 「お前の心配はもっともだ。しかしそうできない理由がある」 「わかってますよ。この件に関して私が何を言っても無駄な事くらい」 「すまない。手間をかけさせる」 「ご主人にかける手間は私にとっての幸福ですから。いくらでも私を頼ってください」 ノエルは屈託なく微笑んだ。 「それより美月さん」 「あなたはご主人と“《エンゲージ》〈契約〉”した身なんですから、くれぐれも“Archive Square”の機嫌を損ねるような事はしないでくださいね」 「人前で“《デュナミス》〈異能〉”を使った日には、命の保障があると思わないでください。あなたが目をつけられたら私達も迷惑ですから」 「言われずとも……絶対にそのような事はしません」 ノエルの忠告がなくとも、きっと彼女は“《デュナミス》〈異能〉”を行使しないだろう。頑丈な鎖でがんじがらめにされた箱の中にあるのだから。 「ねぇねぇ、お話終わったー?」 テレビを鑑賞していたひまわりが飽きたのかこちらにやって来る。 「ごはんまだー? ひまわりおなか空いちゃったんだけど」 「菓子を食べていたのではないのだろうか」 「そんなのもうたべおわっちゃったよー!」 「は!? 全部食べたんですか!?」 「そーだよ? だってのえるちゃんが食べていいっていったもん」 口の周りを菓子の残骸で汚したひまわりは特に悪びれている様子もなかった。 「食事にしないだろうか。もう時間は過ぎている」 時計の針は既にいつもよりも三十分ほど経過していた。 「やったー♪ おでんおでん♪」 「お話は終わったようですので、私は失礼します」 「えー、みつきちゃんもいっしょにおでんさんたべようよー」 「良いのですか?」 「キミの好きにすればいい」 「新参者は目にからしを塗りこまれるのがそこの屋台での掟ですから、その覚悟があるならぜひどうぞ」 そんな事をしたら眼球が大変な事になるではないだろうか。少なくとも私達はやった事がない。 食べ物を粗末にしてはならない。それがこの世界でのルールだ。 親方の屋台は昨日と同じ場所で光を放っていた。 「よう、きたな」 「こんばんわー、おでんさんくださーい♪」 「用意できてるぜ。好きなだけ食ってけ」 屋台の用意された木製の椅子にそれぞれ腰を下ろす。 「お、また新しいお客さんが増えてるな」 「……はじめまして」 九條は親方への挨拶もほどほどに、屋台の装飾や作りに目を配っていた。 「どうかしたのだろうか」 「いえ、別に。ただこういった施設で食事をするのは始めてですので」 「九條グループのお嬢様は毎日おフランス料理ってわけですか? 見た目ボロい上に冴えない中年の店主が作ったおでんなんか食べられないと?」 「誰もそのような事は申し上げていません。このような場所に立ち寄った事がないので新鮮だっただけです」 「ガハハ、こっちも嬢ちゃんみたいな子は珍しいな。ウチに来るのは疲れたサラリーマンがほとんどだからな」 「おやかたくん! たまごさんとちくわさんとこんにゃくさんください♪」 「おう、ちょっと待ってな。えーと、たまごとちくわと……」 「キミも好きなものを取るといい」 「自分で取るものなのですか?」 「どちらでも構わない。親方に頼むのも可能だ。特に難しい作法などは要求されない」 「おう、そうだぞ、食いたいものを食う。それだけだ」 「では……取らせて頂きますね」 九條は煮え立つ具材をさい箸とお玉を使って自分の皿によそう。 「赫さんは何がよろしいですか?」 「すまない。ではこんにゃくとはんぺんをお願いできるだろうか」 「かしこまりました」 「うおおおおい!! 何ちゃっかり正妻ポジ奪おうとしてるんですか!! その役目は私だけでいいんですよ! キャラがかぶるでしょうが!!」 「別に他意などありません。ただの礼儀作法です」 「ただの礼儀作法です、キリッ」 「…………」 「どうぞ、こんにゃくとはんぺんでしたね」 「ありがとう」 「無視すんなや」 「ガハハ、にーちゃんも大変だな。両手に華とはうらやましいぜ」 「所詮あなたにはそれが限界でしょう。料理を取ってあげるだけなら誰にでもできます」 思い返してみるが、ノエルにおでんの具をよそってもらった事実はなかった。 「ふーふー、はいご主人♪ あーん♪」 「んっ――」 ノエルの箸がこんにゃくを挟んだまま私の口元に近づけられる。口を開け、そのこんにゃくを頬張る。 「ノエルの愛情がたっぷり込められたこんにゃくの味はどうですか?」 口に運ばれたこんにゃくはいつもと変わらぬ親方の味付けだった。 「どうです? 私とご主人のラブな日常を前にして言葉も出ませんか?」 ノエルは自信あり気な顔で九條に目をやる。 「すみません、お水を頂けないでしょうか」 「こっち見てないし!!」 「つぎはだいこんさんとういんなーさんくださーい♪」 「あいよ。それにしても嬢ちゃん、身体ちいせぇのによく食うな」 「いっぱいたべないとね、おっきくなれないんだよ!」 「あなたは異常にお腹が空くだけでしょう」 ついさっきまでノエルの菓子を食べていたはずなのに、ここにいる誰よりも食べている量が多い。一体ひまわりの胃はどういう作りをしているのか気になる。 「それよりにーちゃんよぉ、ひとつだけ忠告しといてやるぜ」 「何だろうか」 「色んな女と遊びたい気持ちはよーくわかる。でもよ、中途半端な態度でいたら両方とも失っちまうぞ」 「良い事言いますね親方。さすが妻に逃げられた後も未練タラタラで、飼ってるカラスに名前をつけるだけの事はありますね」 「それは言うんじゃねーよ! 俺だって別れたくなかったんだよ!」 「うぅ……帰ってきてくれよぉ、恵子ぉ……」 「あーあ、また始まっちゃった」 「そーだ。けいこちゃんにもごはんあげないと!」 「え、ひまわりさんどこへ――きゃっ!?」 屋台の裏に隠れていた恵子の姿が現れる。 「けいこちゃん、ごはんだよー」 ウインナーを箸で細かく切り分け恵子の前に置く。 「だ、大丈夫なのですか?」 「問題ない。恵子は危害を加えたりしない」 「なら良いのですが……少々驚きました」 九條の反応を見て分かるようにカラスを飼育している人間は少ないのだろう。私も親方以外には聞いた事がない。 「親方、私にも水をもらえるだろうか」 「うぅ……勝手にしろぃ……ぐびっ……ぷはぁ、恵子ぉ……」 顔を真っ赤に晴らした親方は一升瓶から酒を注ぎ口に運んでいた。 こうなってしまえば親方は今は亡き妻を思いこちらの話が聞こえなくなる。 親方の忠告を思い出す。ノエルを失えば私もこうなるのだろうか。 ……思い浮かべようとしても上手く想像できなかった。 「ふぁー、おなかいっぱいー、もうたべられないよー、げぷっ」 親方の屋台から戻り、一息つくために水道から水を汲む。 「私はそろそろおいとまさせて頂きます」 「えー、みつきちゃんかえるのー?」 「はい。家の者が心配しますから」 九條の話によると両親は離婚しており母親はいない。家の者とは父親の事だろう。 「帰れ帰れ。私とご主人の愛の巣にこれ以上居られるのは迷惑です」 「言われなくても失礼させて頂きます」 九條は身支度を始める。 「ご主人、美月さんを途中まで送っていってあげたらどうですか?」 「意外だ。お前がそんな事を言い出すとは」 夜道を女性一人で歩かせるのは危険が伴う。常識を重んじれば私が同伴すべきなのだが、まさかノエルの口から促されるとは思わなかった。 「勘違いしないでくださいね。もしもご主人に変な事したらそこの海に沈めますからそのつもりで」 「私は何もするつもりなどありません」 ノエルの言う変な事とは何なのか不明だったのだが、了承を得られた事は間違いないだろう。 「では少し出てくる。すぐに戻る」 「ひまわり、あなたも一緒に行きなさい。少しは動かないと豚になりますよ」 「おさんぽいくのー? だったらひまわりもいくよー♪」 「では行こう」 ノエルを残し、私達は倉庫を後にした。 波の音が奏でる演奏を聴きながら、月明かりの下を並んで歩く。 ふと自分の胸に手を当てている九條に気づく。 「気にしているのだろうか」 「えっ……?」 九條は見られていた事を自覚していなかったらしく、僅かに驚きの声を上げた。 「“《エンゲージ》〈契約〉”の事だ。キミにとっては喜ばしくはないのだろう」 「…………」 過去に人外の力を使った事で阻害された―― 他に打つ手がなかったとはいえ、より人間から離れる結果となってしまったのは九條にとって望まないものだったのかもしれない。 「……過ぎた事を悔いても仕方ありませんから」 「そうか。ならいい」 九條は自分に起きた変化を受け入れているようだった。 「明日もまたあの女子学生はキミを気にするだろうか」 「……彼女が私につっかかってくるのは今に始まった事ではありません」 「なるほど。しかし何故彼女はキミにあれほど執着するのだろうか」 「良く分かりません。ただ私が気に入らないのでしょう」 嫌悪を抱いているのではれば普通近寄らないものではないのだろうか……? 人間の行動原理は奥が深い。 「では明日も引き続き恋人関係の偽装を行えばいいのだろうか」 「えと、明日は学園が終わった後に予定が入っていまして」 「そうか。では偽装する必要はないということか」 「……明日は午後からパーティに出席しなければならないのです」 「パーティ? 誰かの誕生した日を祝うあれの事だろうか?」 「人ではなく会社ですね。父の経営する会社が10周年を迎えるので、それを記念するパーティが行われるのです」 「パーティ? パーティっておいしいごはんがいっぱい出てくるあれのこと?」 「え? ええ、食事も用意されると思いますが」 「いいなぁ、ひまわりもパーティでおいしいものいっぱい食べたいなぁ」 「食事をするのが本質ではないだろう。要人達が顔を合わせる事が目的のはずだ」 「でもごはん食べるんだよね? おにくとかデザートとかたくさん」 「らしいな。私も実際に体験した事がないので詳しい情報は知らない」 「……もしよかったら、ご参加してみますか?」 「え!? いいの!?」 「私達は関係者ではないだろう」 「私の知人ということでしたらご案内できます。近しい者だけではなく、色々な人が来られますから大丈夫かと」 「あかしくんいこうよ! ねぇねぇいこうよ! あかしくんいこうよぉー!!」 「…………」 多くの衆人が集まる場所はなるだけ避けた方が無難ではある。私達は姿を隠している身分だ。 しかし正直に言えば人間の催し物に興味があった。九條の事を知るためにも有意義な機会となり得る。 「わかった。では私達も同行させてもらおう」 「やったー♪ おいしいものいっぱいたべるー♪」 「わかりました。それでは手配しておきます」 倉庫に帰ったらノエルの承諾を得る事にしよう。リスクの伴う行動であるため反対される可能性も否定できない。 「明日も学園にいらっしゃるのですか?」 「ああ、そのつもりだ」 「では終業のチャイムが鳴りましたら、図書室までおこしください」 「わかった。覚えておこう」 「パーティパーティたのしいな♪ おにくがたくさんまってるぞ♪」 「ふふっ……」 ひまわりの頭は既に明日の事で一杯だった。かくいう私も未知の体験に対する興味を抱いていた。 仕事以外の予定が入る事は極めて稀で、マナーに関する知識を掘り起こしている自分に気づき、人の事を言う資格はないのかもしれなかった。 「もしもし」 「……誰だ?」 「誰だって、私ですよ。番号でわかるでしょう?」 「……マジかよ、俺の電話はあの世に繋がる機能でもついてんのか?」 「は? 訳のわからない事言わないで下さい。ついに頭がおかしくなったんですか?」 「いや、なんでもねぇよ。なんでもねぇ……常識が通じなくたって“《イデア》〈幻ビト〉”相手にいちいち驚いてられるか。で、何の用だ?」 「とぼけないでください。約束の時間に来なかった無礼はすっぽり頭の中から抜け落ちてるんですか?」 「あ、ああ、そいつは悪い事をしたな。急に予定が入っちまって」 「ちゃんと報酬から天引きしといてくださいね」 「もちろんだ。失った信用の補填はさせてもらう」 「まあそんな事はどうでもいいんです。それより頼んでおいた九條美月に関する資料は集まりましたか?」 「ああ、もちろんだ。明日にでも渡しにいく」 「わかりました。明日こそはお願いしますね」 「わかってるよ。それよりひとつ聞いてもいいか?」 「なんです?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”ってのは分身したりできんのか?」 「分身?」 「他人の姿に成りすますでもいい。そんな事も可能なのか?」 「急にどうしたんですか?」 「いや、ちょっと別の仕事で気になる事があってな」 「……まあいるんじゃないですか? そういう“《デュナミス》〈異能〉”を持った “《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”がいてもおかしくないですよ」 「この目で見た事があるわけじゃないですけど」 「そうか。参考になった。それじゃあまた明日連絡する」 「……ヘンなの」 「まあヘンなのはあんなお面をチョイスする時点でわかってたんですけど」 「ただいまー♪」 帰宅するとノエルはいつものようにテレビの前に座っていた。 「ノエル、少しいいだろうか」 「何です?」 「ひまわりおふろはいるよー♪」 倉庫について早々、ひまわりは風呂場に向かっていった。 「明日、九條の会社が主催する催し物に出席したいのだが」 「催し物?」 「会社の創立を記念するパーティだそうだ」 ノエルはあからさまに怪訝な顔をした。 「お前の言いたい事はわかる。人の目につく場所へは行かない方がいいと言うだろう」 「それでも行きたい理由があるんですよね?」