ゆっくりと── 彼女の双眸が開かれる。 すでに、スイッチは入っていた。 湖のように澄んだサファイアの瞳は、いまや紅蓮のルビーへと変貌していた。 彼女を包む空気は恐怖に逃げまどい、輝く髪を舞い上がらせる。 内に凝縮された力を体中から噴き上げ、彼女はあらゆる存在を睥睨していた。 これが── 吸血鬼。 俺のちっぽけな想像は、一瞬で粉砕され跡形もない。 圧倒的な存在感の前で、俺は、自分がまだ生きているという確証を探し狂ったように唇を噛みしめていた。 彼女が一歩踏み出す。 聞こえるはずの足音は、風の渦に飲み込まれ霧散した。 ぶつりと、繊維が切れる感覚。 口の中に鉄の味が広がった。 それでも、さらなる確かさを求めて唇に歯を食い込ませていく。 「支倉くん」 穏やかな、しかし揺るぎない動きで彼女の腕が突き出される。 陽炎をまとった掌が俺の額に触れた。 どうしてこうなってしまったのか……。 わずかな悔恨が胸をかすめる。 だがもういい。 すべては終わりだ。 「悪く、思わないでね」 渡り鳥に似ている。 流れる景色を眺めながら、思った。 両手の指では数え切れないほどの転校。 日本中を、北へ南へと渡り歩いてきた。 渡り鳥と違うところがあるとすれば。 彼らが本能により住み家を変えるのに対し、自分は父親の仕事の都合で住み家を変える点だ。 ガアアァァッ 電車を包む音が変わった。 車窓を、鋼鉄の支柱が規則正しいテンポで走り抜け、海の青が見え隠れする。 橋に差しかかったのだ。 この橋の設計にも父親が関わっていたはずだ。 橋の終点は、潮見市、珠津島。 7年ほど前、住んでいた島だ。 あれから、どれだけの引っ越しをしただろう。 数えようとしたが、思い出せなかった。 転校も一度や二度なら覚えていようが、そこは渡り鳥。 行った先のいちいちを記憶してたら、頭がパンクしてしまう。 破り取ったカレンダーには、せいぜいメモ用紙くらいの意味しかない。 俺にとって大切なのは、これからめくるカレンダーだ。 「次は終点、珠津島海岸通り。どなた様も、お忘れ物のないようお降り下さい」 タクシーの運転手に道を聞き、学院に向かう。 どうやら、山の斜面にある白い建物群がそれらしい。 運転手によると、橋ができてから島はずいぶん変わったとのことだ。 本土のベッドタウンとして住宅街ができ、合わせて駅前も開発された。 田舎の生活を想像してたけど、意外と刺激的な毎日を送れそうだ。 15分ほどで校門にたどりついた。 多少古びてはいるが、風格を感じさせる門だ。 これから、ここで2年間を過ごす。 かなりの進学校だとか伝統校だとか、なにかと有名な学院だが、その辺はどうでもよかった。 一番大切なのは«全寮制»だってこと。 つまり、もう転勤族の親父に連れ回されずにすむってことだ。 転校生活が激しく苦痛だったわけじゃない。 だが、そこには名状しがたい窮屈さがあった。 例えるなら、ガラスのケースに入ったまま生活しているような気分だ。 こちらから向こうは見えるし、その逆もまたしかり。 でも、外界の何かに触れることはできない。 もしかしたら、吸ってる空気も違うのかもしれない。 だが今の俺は違う。 これから始まる新生活。 もしかしたら、今までになかったものが見つけられるかもしれない。 期待を胸に校門をくぐる。 「あなたが支倉孝平(はせくら・こうへい)君ね!」 敷地の奥へと続く階段の上から、声が降ってきた。 一段目に足をかけたまま、声の主を見上げる。 まぶしく健康的な両脚が、スカートの中へと消えていく。 細い腰やバランスのよい胸部よりさらに上。 整った顔立ちよりも、 生き生きとした笑顔よりも、 ――まずはその勝気な瞳に視線を奪われた。 淡い色の髪が風に揺れる。 春の陽射しが眩しくて、俺は目を細めた。 そして、いつの間にか止まっていた呼吸を再開する。 「ああ、そうだけど」 そぞろになっていた気を落ち着けて、俺は答えた。 「私はこの学院の生徒会副会長、千堂瑛里華(せんどう・えりか)よ」 「学院を代表して歓迎するわ。ようこそ、修智館学院へ!」 心地よいほど、さわやかな笑顔だった。 「あなたを迎えに来たの」 「え? どうして?」 迎えをよこされるほど、立派な人間になったつもりはないが。 「これから、一緒に学院生活を送ることになる人だから迎えにきたのよ」 臭いセリフだった。 でも、彼女は心からそう言っているのだと思う。 こんな表情で嘘をつく奴なんていない。 「心から歓迎するわ。よろしくね」 元気よく手を差し出してくる。 こんな歓迎を受けたのは初めてだ。 『今までになかったもの』 彼女の笑顔に、それを期待してもいいのだろうか。 きっと大丈夫だ。 そう思わせるほどの力が、その笑顔にはあった。 俺はゆっくり手を伸ばす。 手が触れあい、ここから新しい学院生活が始まる―― 「ひぁぁぁぁっっ!?」 と思ったら、寸前で彼女が手を引っ込め…… 尻餅をついた。 「……」 とっさに言葉が出ない。 女の子にいきなり悲鳴をあげられるなんて…… 正直、かなりショック。 「だ、大丈夫?」 「え、ええ」 副会長は地面にへたりこんだまま、困惑気味に俺を見ている。 「えっと……」 「……」 「た、立ったほうが……いいよな」 「そ、そうね」 俺が差し出した手を避け、副会長は自分で立ちあがった。 なんなんだ? 手は汚れてないはずだが……。 「あのさ……俺、なんか、まずいことした?」 一歩踏み出す。 「あ」 女の子の顔が、だんだん紅潮してきた。 「もしかして、調子悪い?」 「別に、そんなことは……」 「でも……」 「いいの、本当に、大丈夫だから」 「う、うぅぅ」 言ったそばから、口元を押さえ顔を伏せる。 「お、おい」 なんかの発作だったりするのか? なら放っておくわけにはいかない。 「誰か呼んだほうがいいか?」 「大丈夫、大丈夫よ」 女の子が顔を上げる。 白い頬を数滴の汗が滑り落ちた。 「ぜんぜん大丈夫じゃなさそうだぞ」 「平気だから……ちょっと、ごめんなさい」 そう言って俺から5メートルほど離れ、くるりと背を向けた。 「はぁ、はぁ、はぁ……」 背中が大きく上下する。 女の子が苦しげに呼吸するさまは、見ていて辛い。 なんとかしてあげたいが、どうしようもない。 「はぁ……ふぅ……」 「ふぅ……」 呼吸が深く、ゆっくりになる。 「ど、どう?」 彼女が向き直り、すっと姿勢を正した。 「ええ……だいぶ楽になったわ」 まだぎこちないが、笑顔も少し戻っている。 「一人でも転入手続きくらいはできるから、無理しないで」 「ありがとう……もう、平気よ」 「あ、案内するからついてきて」 「どこへ?」 「先生のところよ」 言うなり、校舎への階段を早足で上がっていく。 なんだって、そんなに急ぐのだろうか。 彼女が立ち止まったのは、ある教室の前だった。 「じゃあ、先生はこの中だから」 言うなりきびすを返す。 「ちょっと」 「何?」 「案内してくれて助かった。調子がよくないのに、すまないな」 「……ええ」 短く答え、彼女は立ち去った。 「ふう……」 こっちがむちゃくちゃ緊張してしまった。 ほんと、大丈夫だろうか? 出会ってからのことを考えると、心配ばかりが募る。 もしまた話す機会があったら、聞いてみよう。 「……さて」 気持ちを入れかえる。 中には先生がいるって言ってたな。 こんこん そこは、職員室ではなく普通の教室だった。 「ん、誰だい?」 「転校してきた支倉といいますが」 「ああ、キミが支倉君か」 「聞いているよ。ここまでは迷わず来れたかい」 「生徒会の方に案内してもらったので」 「そうか。千堂君、行くと言ってたからな」 「彼女は生徒会の副会長で、いろいろよくやってくれてるんだ」 「二人で来るものだと思ってたが」 「体調が悪かったようで、そこまで来て帰りました」 「ふむ」 生徒会が、こんなに先生に信頼されてるのも珍しいな。 「僕は青砥といって、化学を担当している。あとは君が入る寮の寮監もしてるから」 「いろいろ、よろしく」 「はい、こちらこそよろしくお願いします」 「さてどこにいったかな……あったあった」 青砥先生は、カバンの中から封筒を取り出した。 「ええと、支倉孝平君」 「はい」 「ご両親は海外に転勤か……一緒には行かなかったんだね」 「ええ、今までは一緒に引っ越していたんですが、今回は残ろうかと」 「なるほど」 「どうして、この学院を選んだんだい?」 「実は、昔ちょっとだけこの島に住んでいたことが あったので、いいかなと思いました」 俺の答えに、青砥先生は穏和な笑顔を浮かべた。 「さて、次に寮についてだが、寮の部屋番号は2A−18だ」 「これが生徒証と寮の部屋の鍵。生徒証が無いと学食で飯も食えないから、失くすなよ」 「わかりました」 「今後の予定だが、7日に始業式。クラスもこの時発表するから必ず来るように。8日から授業開始だ。9日には新入生歓迎会もある」 「これから数日は、いろいろと忙しいと思うが、 頑張ってくれ」 「ありがとうございます」 始業式までは、今日を入れてあと5日。 その間に、できるだけ学院に慣れておこう。 「僕からはこれくらいかな。あとは、さっさと友達 作って、いろいろ教えてもらってくれ」 「それじゃ、外まで一緒に行くか」 先生が荷物をまとめて立ちあがる。 「あー、おい紅瀬(くぜ)」 先生が通りがかった女の子を呼び止める。 「何か?」 「転校生を、寮まで連れてって案内してやってくれないか」 「これから用事がありますので」 右も左もわからない子羊の俺を目の前にして、きわめてすげない対応。 青砥先生の返事も待たずに、すたすたと去っていった。 「ふむ。ほかの奴を当たるか」 「おー、八幡平(はちまんだいら)」 次に声をかけたのは、とんがったビジュアルをした男子生徒。 「転校生を、寮まで連れてって案内してやってくれないか」 「転校生?」 「彼なんだ。学年は一緒だ」 「いっすよ」 「よろしく頼んだぞ、八幡平」 じゃあ、と校舎に戻っていく青砥先生。 「……」 八幡平と呼ばれた男がこちらを見ている。 外見は迫力あるが、中身は話してみなきゃわからない。 「支倉孝平です。よろしく」 「ああ」 そっけない返事だ。 ここでくじけるほど、俺はヤワではない。 「八幡平って珍しい苗字だな」 「ツカサでいい」 「オーケー、司」 「昼飯食った?」 「まだ」 「生徒証は?」 「今もらったところ」 「じゃ先にメシ食おう」 司に引っ張られ、ガラス張りの建物に入った。 「和洋中その他いろいろ揃ってる。会計は生徒証で。貸してみ」 「こうやって料理を注文して、受け取って、会計」 エビチリカレーを頼み、受け取り、レジに生徒証を通す司。 「簡単だろ?」 「つか今の生徒証、俺の」 「案内料だ。安いもんだろ」 そう来たか。 「先に席とってるから」 「定食系は時間かかるから気をつけろ」 ……なるほど。案内役は昼飯付きか。 その辺は割り切ることにして、大盛屋台風焼きそば紅ショウガ抜きを頼んだ。 「この先が白鳳寮。1、2階が男子で、3、4階が女子部屋」 食後、寮を案内してもらうことになった。 「部屋番号は?」 「えーと、2A−18」 「俺の3つ隣だ」 「玄関からは遠いが、日当たりと眺めは悪くない」 「喜んでいいんだよな」 「まあな」 「しかし、ここに転校なんて珍しいな」 「そうなのか?」 「転校の試験は入試より難しい。だいたい落ちる」 「運がよかったのかもな」 ここは、県内トップクラスの進学校。 進学率は100%に近いし、現役合格率もきわめて高い。 転入試験は難しかったが、それでも頑張れたのは…… 「で、なんでここ?」 「全寮制だからさ」 「寮にあこがれてたのか?」 「あーいや、親が転勤族で」 「なるほど」 会話が途切れる。 口調はかなり淡泊だが、さっぱりして付き合いやすそうな奴だ。 「到着だ」 「おう」 「ここのつきあたり、一番端が2A−18」 「わかった。助かったよ」 「しかし……きれいだな、この寮」 「築3年だ」 「これから荷ほどきか?」 「ああ、荷物はもう到着してるはずだし」 「終わったら、地下の大浴場に行くのもいいかもな。声掛けてくれれば付き合う」 「俺は2A−15だから」 「晩飯もおごりになるのか?」 「ありゃ最初の一回だけだ」 ぴりりりっぴりりりっ その時、俺の携帯が鳴った。 「悪ぃ、ちょっと」 ぴっ 「はい」 電話から聞こえてきたのは、何やらうろたえたおっさんの声だった。 嫌な予感。 ……。 …………。 「はあ、京都!?」 「どうした?」 「今日来るはずの荷物が、間違って京都に行っちまったらしい」 「届くの明後日だってさ」 「そりゃ困ったな」 本気で困った。 着替えもなんにも持ってないぞ。 「電話貸してみ?」 「どうするんだ?」 「いいから」 司に電話を渡す。 「二日後ってなに?」 「あんたんところの『大急ぎ便』使って送ってこいよ」 「そっちのミスだろうが」 電話から、気圧された運送屋の声が聞こえる。 「なら社員が新幹線で持ってこい!」 「……ん、明日な。よし」 「ほら」 通話を切った携帯を、俺に返してくる。 「明日?」 「荷物、明日届く」 「マジ?」 「マジ」 「マジ!? 助かった!」 後光が見えた。 「礼といっちゃあれだけど、晩飯、おごるよ」 「遠慮しないからな」 ニヤリと笑う司。 「ああ」 「さーて、荷ほどきが無いなら、風呂でも行くか?」 「タオルは貸す」 「じゃ、お言葉に甘えて」 「しかし、着替えられないのはちょっと辛いな」 「下着は貸さねーぞ?」 「いや、そういうことじゃなくて」 「ほら、浴衣とかあればなーと」 「温泉旅館じゃあるまいし」 「さ、行くぞ」 「むあっ!」 「ひああっ!?」 歩きだしたとたん、何かがぶつかってきた。 「あ、わわわわ」 「!?」 ふたりの女の子が目に入った。 ぶつかったほうの女の子は、バランスを絶望的に崩して階段下に落ちそうになっている。 「危ねえっ!」 「くそっ!」 とっさに手を伸ばす── こっちがつかむ前に、女の子が俺の腕をつかんだ。 「あ」 どががががががっっ!! 「……ぐふっ」 階段の踊り場まで、女の子とおっこちた。 痛ぇ。 痛いってことは生きている。 「今度はあの世に転校か?」 「ひでーな、おい」 よっと立ちあがる。 周囲には、お菓子やら飲み物やらが散乱していた。 「あいたたたー」 女の子も立ちあがる。 「ケガないか?」 「だいじょぶ」 「あの、そちらは?」 「ああ、なんともない」 「すみませんでした」 ぺこり。 「それより、あの子は……」 「ああっ、国宝級の壺が割れた!」 「なんだとっ!?」 「もー、そんなもの入ってないでしょ」 「でも国宝級のポテチは粉々に」 「ともかく、ケガなくてよかった」 「ごめんなさい、話に夢中になっちゃってて」 「いいよ、俺も悪かった」 「いいっていいって。お互いさまだし!」 「どちらかというと、一方的だったような……」 「……?」 「どうしたの?」 「ううん、なんでもない」 「それじゃ、ごめんねっ」 明るく謝罪の言葉を残して、また駆け上っていった。 「同じ寮に女子が住んでるのは新鮮だな」 「あの小さい方、先輩で寮長な」 「……マジか」 入浴後、ブラブラと寮を探索するうちに、22時半を過ぎた。 司によると、23時には廊下や談話室といった共用スペースの照明が落とされるらしい。 消灯時間というやつで、生徒はそれまでに自分の部屋へ戻らなくてはならない。 といっても、各個室の電気は使用でき、うるさくさえしなければ何をしていてもOK。 つまりは、寝る人もいるので23時以降は自室で静かに過ごそうね、という話だ。 ちなみに門限というのもある。 21時以降は寮の正面玄関が施錠され、玄関脇のインターホンで寮監の先生を呼び出さないと建物に入れない。 もちろん、中に入る際にはありがたいお説教がもれなくついてくる。 ま、両方ともいろいろと抜け道はあるらしいが。 「さーて、寝るかな」 荷物もないし、それ以外やることがない。 「どこに行く」 「いや、自分の部屋」 「布団は無いけど、ジャケットにでもくるまって寝ようかなと」 「仕方ないな」 そう言うと司は、自分の部屋の中に入るよう手招きした。 「どうした?」 「ここで寝ろ。風邪引くぞ」 「いいのか?」 「晩飯もおごらせちまったしな」 案外、義理堅い。 転校早々、消灯時間のルールを破ることになるが……。 暖かい部屋と寝具の魅力には抗いがたい。 「嫌なら別に」 「いや、頼むよ」 しかし司には世話になりっぱなしだ。 青砥先生が司を呼んでくれなかったら、どうなってたんだろう。 司の部屋は、思ったよりもこざっぱりとしていた。 「これを使え」 投げてよこしたのは、寝袋。 「マイナス5度でも大丈夫だった」 実証済みかよ。 「なんで寝袋なんか持ってるんだ?」 「前に、知り合いが泊まったときに置いてった」 なるほど。 そういえば、友達の家に泊まったこと、あんまりな かったな。 「この寮じゃ、よく泊まったり泊まりに来たりするのか?」 「いや、そんなには」 「孝平も今日だけだからな」 「わかってる」 寝袋をざっと広げ、中に入る。 初めての寝袋に手こずったが、なんとかチャックを閉める。 イモムシが一匹登場だ。 「あったかいな、これ」 「外で寝ても大丈夫だぞ、試すか?」 「遠慮しとく」 「歯ブラシとか予備ないから、今日は耐えろ」 「ああ、寝袋だけで十分だ」 「んじゃな」 初めての夜だ。 どんな夢が見られるか。 「きゃーありがとーっ!」 「おめでとーっ!」 「かなでは、かなでは幸せですっ! そしてひなちゃんを幸せにしてみせますっ!」 「あはは、お姉ちゃんそれじゃ結婚式だよっ」 「……なあ?」 「ああ?」 「いつもこうなのか?」 「時々な」 「うるさくて、大変だな」 「今から乱入しに行くか?」 冗談交じりに司が言う。 「いや、やめとくよ」 「そうか。気にせず寝ろ」 「だな」 「女子の階で見つかったら、シスター天池にフライパンでマジ殴りされるしな」 「そりゃ痛そうだ」 「だろ?」 「しすたーあまいけ、ってのは?」 「女子フロアの寮監だ」 「気をつけろ。シャレが通じない人だ」 「わかった」 「んじゃ」 「おやすみ」 ……。 …………。 眠気がこない。 疲れてるはずだが、気持ちが高揚しているのだろうか。 ゴロゴロ 姿勢を変えてみる。 ゴロゴロ 「眠れないのか」 闇の中から司の声。 「悪い、起こしたか?」 「いや、俺も眠れなくてな」 「そっか」 「そう言えば、孝平はどこから越して来たんだ?」 「昨日までは北陸にいた」 「それ以前は……まあいろいろ」 「引っ越しが多かったんだな」 「今回で19回目だ。20回目だったかも」 「大変だな」 「ま、慣れるもんさ」 「そんなもんか」 「でも、今回は卒業までいられそうだ」 「そっか」 「今日は世話になりっぱなしだったな」 「気にするな」 「しかしお前、けっこう変わってるな」 「どの辺が?」 「俺、こういうビジュアルだろ。たいていビビるんだよ」 「特にココ、進学校だしな」 「そういうことか」 「ま、あれだ。いろんな学校で人見てきたからな」 「相手のことは、とりあえずしゃべってみて決めることにしてる」 「見上げたもんだ」 「それやってて、今まで後悔したことはないよ」 「……ああ、1、2回地雷踏んだかな」 「はは、今回はどうだった」 「後悔してたら、ここで寝てないさ」 「そうか」 ……。 …………。 「よろしくな」 ……。 …………。 「ああ」 徐々に言葉少なになっていくのが、なんだか気持ちよかった。 ……。 修智館学院に来て一日目。 副会長に歓迎されたり変に避けられたり、司の世話になったり。 いろいろあったような、平和だったような。 そんなことを思いつつ。 俺の意識は、ゆっくりと闇に溶けていった。 「はぁ……はぁ……」 胸が激しく上下している。 ベッドに横たわっていると、それが余計に気になる。 頭ではおとなしくしろと命令を出しているのに、身体がいうことを聞かない。 もうずいぶん時間がたつというのに、どうしてしまったんだろう。 「まったく」 人には聞かせられない悪態をついて、目をつむる。 「支倉、だっけ」 名前を覚えるのは得意なほうだ。 脳内名簿には、近しい人から順にたくさんの名前が並んでいる。 支倉、 孝平。 その名前は、いきなり名簿のトップに躍進していた。 ……いや、欄外の一番目立つところか。 まあ顔は悪くない。 不作法な感じもしない。 プラスかマイナスかといわれればプラスだ。 ただ、それと胸の暴走はこれっぽっちも関係ない。 と思う。 正直参った。 こんなのは初めてだ。 理屈を越えたものが身体を勝手に動かしている。 このままコントロールを失ったら、 自分は…… そう思うと、いろんなものが頭を駆けめぐる。 「……」 ここで負けるわけにはいかない。 ちょっとしゃくだが、相談してみるか。 入れ食い状態で、食いついてくること請け合いだ。 それを考えると頭が痛いが、背に腹は替えられない。 「支倉……」 もう一度、その名を口にする。 身体を熱が走り抜けた。 よっぽどだ。 「あー、もー」 布団を頭までかぶり、むりやり目を閉じた。 「ごふうっ!?」 まぶしい朝の光。 さわやかな小鳥のさえずりに、俺の呻き声が混じる。 「ぐ、おおぉぅ」 腹に衝撃があった。 なんだいったい? 頭を起こすと、腹の上に男の顔があった。 「ぐあああああっ!?」 きしっ!! 逃げようとしても身動きが取れない。 「金縛り!?」 ……。 …………。 「あ……」 昨日は寝袋で寝たんだった。 そりゃ動けない。 よくよく見れば、腹の上の顔は司。 ベッドから俺の腹に落ちたらしい。 「おーい、司」 「Zzz」 「朝だぞ」 「Zzz」 「……すまん」 身体を転がし、司の頭を腹から下ろす。 ごつん! 床に頭が落ちた。 「Zzz」 「タフだ」 「いや、普通ベッドからは落ちない」 「俺はよく落ちる」 「だからって人の腹に落ちるのはどうかな?」 「落ちるときに下は確認しない」 寝てるんだから当たり前だ。 「しかし、昼飯までおごってくれなくてもよかったんだぜ?」 「宿泊代だ」 「目覚めは最悪だったけどな」 「誰のせいだよ」 俺はニラ玉焼きそばを食べながら言った。 「そういや、昨日来たときに副会長に会ったんだけど」 「副会長? なんで生徒会が?」 司が青椒肉絲(チンジャオロースー)定食を食べながら答える。 「いや、なんか歓迎しに来てくれたらしい」 「焼きそば好きなのか」 「まあな」 「それ、紅しょうが抜けてないか」 「あれは食べ物じゃない」 「好き嫌い言ってると、俺のように大きくなれないぜ」 そう言って俺の焼きそばをつまんでいく。 「生徒会だが、いろいろ面白いことを考えついては実行してるし、実際デキる奴が集まってる」 「面白いこと?」 俺は冷静に司の肉を略奪した。 「この間、卒業生を対象に卒業記念ワカサギ釣り ツアーを企画したんだが」 「参加希望者が集まりすぎたせいで、結局は学校行事扱いになった」 「なんだそれ」 「学校行事になると補助金が出る。生徒会としてはそれが狙いだったという話もある」 「旅費が安くなって万々歳、と」 「そういうことだ」 「どこぞのホテルの名料理長を学食に引っ張ってきたりもしてたな。今では学食の鉄人と呼ばれている」 「いったいどうやったんだ」 「さあな」 「とにかく、生徒会は普通じゃない」 「生徒からは人気もあるし、教師の信頼も厚い」 「まあ普通じゃないのはよくわかった」 「その生徒会の副会長はどうなんだ?」 「昨日会ったんだろ?」 「……いや、まあ、そうなんだけど」 「何かあったのか?」 「握手しようとしたら悲鳴あげられた」 「どう思う?」 「犯罪の現場だと思う」 「俺は誓って何もしてない」 「しかし、日頃の副会長のイメージじゃないわな」 「物怖じしなくていつも強気。ついたあだ名は『突撃副会長』だ」 「そういう人なのか?」 確かに、外向きのエネルギーを感じる人だったな。 握手するまでは。 「よっぽどのことがあったとしか思えないぜ」 「体調はかなり悪そうだったな。なんか知ってる?」 「聞いたことない」 「そのあと、先生のとこまで案内してくれたんだが、あっという間に消えた」 「やっぱり、気づかない間に何かしたんだろ」 「してないから」 「しかし、転校早々、目を付けられるとはやるじゃないか」 「いいことじゃないだろ、それ」 「さあな」 「まあ、変にこじれないうちに、きちんと話ししとけ」 「あとが怖いからな」 物騒な人物なんだろうか? 見た目は相当可愛かったが。 突然、携帯が鳴った。 「……お、運送屋か」 電話に出る。 ……。 もうそろそろ荷物が届くらしい。 「んじゃ部屋に戻ってるから」 「俺は用あるから。悪りぃな」 部屋の前まで戻ると、女子生徒が二人、廊下を歩いてきた。 「あ、国宝のポテチを粉々にした人だ!」 「残念だがポテチは国宝にならない」 「ケチ」 国の偉い人に言ってくれ。 「ねね、もしかしてここの部屋の人?」 「ああ」 「わたし真上に住んでるんだけど、もしかして夜うるさかった?」 「他の部屋で寝てた」 「よかった」 「なのに声が響いてきた」 「ごめんね?」 子供のようにしゅん、とする。 本当にこの人が先輩で寮長なのか、司。 どう見ても、元気な年下の女の子だが。 「昨日は、お姉ちゃんの誕生日だったんです」 もう一人の女の子が、口を開く。 寮長を姉と呼ぶ彼女は、穏やかな雰囲気をまとっている。 顔は……かなり可愛い。 「ちょっとだけ、盛り上がり過ぎちゃったの」 「いや、気にしてないから大丈夫」 「?」 「じー」 「な、なんだ?」 「お姉ちゃん、どうしたの?」 「こー……」 「……へー?」 「斬新な呼吸法か?」 「こーへー!」 こ、この呼ばれ方は、覚えがあるぞ。 「こーへーって、支倉孝平くん?」 「あ、ああ」 「そっか……あの孝平くんなんだ」 わずかに目を細める女の子。 「……」 この二人は……。 必死に記憶の糸をたぐる。 これまでに何百人といたクラスメイト、何千人といた同級生。 そのすべての顔を一つひとつ思い出していく……。 無理だろ。 どんだけ時間かかるんだよ。 「ん、もしかして思い出せないの?」 「ええと、まあ……」 「じゃあヒントをあげよう」 「わたしは悠木かなでです」 「……」 それ答えじゃないのか。 というか、思い出してきた。 「それじゃあ、この子は誰?」 と、髪の長い子を指さす。 「……陽菜(はるな)だ。悠木陽菜」 「せ、正解」 悠木陽菜。 昔、俺を助けてくれた子だ。 どうしてすぐに思い出せなかったんだろう。 あれから何年も会ってないとはいえ、ちょっと情けない。 「よかったね〜、ひなちゃんの名前間違えたらまたイカダで島流しにするとこだったよ」 ひなちゃん。 かなでさん専用の、陽菜の呼び方だ。 「ああ、あれは死ぬかと思った」 「っていうかよくそんな昔のことを覚えてますね」 「わたしは一度見たことは絶対忘れないもん」 「お姉ちゃん、さっきまで完全に孝平くんのこと忘れてたからね?」 「こーへーがおっきくなってたから、わかんなかったの」 「そりゃそうですよ、陽菜やかなでさんだって……」 かなでさんを見る。 「かなでさんは……縮みました?」 「かなですぺしゃるっ!」 げしっ 「ぐはっ……すね蹴りは、やばいで、す……」 「もっと先輩を敬うようにっ」 「孝平くん、大丈夫?」 「ごめんね、お姉ちゃんが……」 「ひなちゃん、謝ることなどないっ」 このコンビネーション……。 徐々に思い出してきた。 7年前、この島に住んでた頃。 陽菜とは同じクラス。 かなでさんはその姉で、三人でよく遊んだんだ。 おぼろげな、でも楽しかった思い出。 「ちわーす。ムサシノ通運ですがー」 そう、あの頃のムサシノ通運は―― 「……」 何を考えてたんだっけ。 「引っ越しのお荷物、もう運んでもいいすかね?」 「あ、お願いします」 「あれ? 今日引っ越しなの?」 「ちょっと、いろいろあって」 「わたしも手伝おうかな。昨日は迷惑かけちゃったし」 「いや、別にそれは」 「お姉ちゃんに任せなさいっ!」 「女の子だし」 「そして先輩で寮長だよ」 元気な笑顔に押し切られる俺。 昔も、この人には弱かった気がする。 「じゃあ、私はお茶を淹れようかな」 「わかった、頼むよ」 「よーし、一発で沈めちゃうぞーっ!」 何をするつもりですか。 ……運送屋が帰り、引っ越しはだいたい終わった。 「いい汗かいたあとのお茶は格別だねっ」 「かなでさん、途中で飽きてたじゃないですか」 「違うの」 びしっと俺を指さす。 「寮長として監督してたんだよ」 まあ、いろいろ指示を出してくれて助かったが。 「その件なんですが、かなでさん、ほんとに寮長なんですか?」 「もっちろん。十中八九」 わけがわからん。 「あ、ひなちゃんお茶おかわりね〜」 「はーい」 陽菜がどこかで淹れてきたお茶が、水筒から紙コップに注がれる。 家具は指示通りに配置された。 あとは、小物や本を置けば引っ越しは完了だ。 「……さて、ではそろそろお姉ちゃんが寮の中を案内してあげよう!」 「あ、それは司にしてもらいました」 「むぅ、わたしの仕事が」 「ていうか、つかさって誰?」 「八幡平司」 「昨日泊めてもらったり、何かと縁があってさ」 「そうなんだ」 ちょっと驚いた顔の陽菜。 「知り合い?」 「ううん、話に聞いたことがあるくらい」 「どんな話?」 「放課後、たまに学院を抜け出してるんだって」 「へえ……たしかに、やりそうな感じするな。飄々としてるし」 「でも、けっこう話しやすいヤツだ」 「うむうむ、さっそく友だちができてなによりだね。おねーちゃん、安心した」 「他には誰かと知り合いになったりしたの?」 「そういえば、生徒会の副会長と話したよ」 「千堂さん?」 「確かそんな名前」 「いきなり大物きたね」 「そうなのか?」 「綺麗な人だし……あれで運動も勉強もすごくできるんだよ」 「完璧すぎないか? そういう人ってちょっと敬遠されたりするだろ?」 「ううん、話してみると気さくでいい人なの」 「そこまで完璧かぁ」 死角なし。 本当にすごい人らしい。 そんな人に目をつけられるとは、どういうことだ? 「あ、お姉ちゃん、これから新寮生歓迎会の準備じゃなかった?」 「もう時間か」 「じゃあこーへー」 「これ必ずやっといて。よろしく!」 返事も聞かず、冊子を俺に握らせた。 「ええっ!?」 たたたたたっ あっという間に消えた。 「相変わらず元気だな」 「うん。そこがお姉ちゃんのいいところ。昔からね」 「ところで……」 かなでさんに渡された冊子を見る。 表紙には『修智館学院108の秘密!』という文字。 手作り感漂う冊子だった。 「毎年、新寮生に配られるの」 ぺらぺらと開いてみると、大きな学院の地図があった。 あちこちに印がつけられ、カメラの絵が描いてある。 印を繋ぐのは、数字つきの矢印。 順路を示しているのだろう。 「オリエンテーリングみたいなもんか……カメラが必要だな」 「持ってるの?」 「ああ、どっかの箱に入れたんだけど」 数ある段ボールからデジタルカメラを探す。 「ん、あれ?」 見つからない。 出てきたのは、目薬、コースター、目覚まし時計…… それから、手紙の束。 「……」 やっぱ、同じ箱に入ってたか。 「どうしたの?」 「いや、なんでもない」 手紙の束を、箱の奥深くに押しこむ。 「カメラ、私の持ってこよっか?」 「あ、大丈夫。きっとこの箱に……」 がさごそ  がさごそ 見事、発見。 「ちょっと古いんだよな」 カメラを見せつつ笑顔を作る。 「電池が空だ。撮るのは明日か」 「今日は引っ越しもしたし、明日ゆっくりやった方がいいよ」 「それもそうだな」 「じゃあ、私もそろそろ帰るね」 「ああ。手伝ってくれてありがと」 「いいよいいよ。孝平くん、またね」 陽菜が手を振って出ていった。 部屋には、まだ段ボールがいくつか残っている。 下着など、女の子に見せるにはちょっと恥ずかしいものだ。 さっさと片づけてしまおう。 翌日。 カメラと『108の秘密』を持って外に出た。 まずは、手近な撮影ポイントから。 寮の裏手に来た。 そこには、見上げるような大木があった。 春だというのに葉がない。 ……枯れてる? 冊子には『穂坂ケヤキ(ほさかけやき)』という、たいそうな名前が書かれていた。 なんでも、不治の病に冒された少女の魂が宿っており、願いを叶えてくれるらしい。 そんな立派なものには見えないが、とりあえずシャッターを切った。 ……。 ……。 ……。 ……。 カメラの絵が描いてある場所で、次々にシャッターを切っていく。 「しっかし、広いな……」 見渡す限り学院の敷地だ。 敷地は、大きく2つに分かれている。 グラウンドからプール、体育館、教室棟、食堂、寮などがある「新敷地」。 そして、講堂、図書館棟、旧職員棟など、古い建物がある「本敷地」。 撮影ポイントは、あとどれくらいあるんだろう。 冊子を開く。 見開きの地図に、撮影ポイントが手書きで加えてあった。 その後ろのページには「108の秘密」が列挙されている。 自分の生活する場所に秘密があるのは、それなりに面白いと思う。 「……秘密88、グラウンドに一人でいると運気が落ちる」 周りを見回す。 誰もいない。 「移動しよう……」 新敷地と書かれたエリアから階段を上り、本敷地に行ってみる。 旧教職員棟、講堂、図書館棟。 味がある洋風の建物が並んでいる。 ぴょこ 目の前を、白くて丸い何かが横切った。 ぴょこ 「……ウサギ?」 なんでこんなところに。 「あ」 「ん?」 とてとてと階段を下りてきた女の子が、じいーっと俺の顔を見つめる。 「な、なんだ?」 「こ、こんにちは」 「こんにちは」 つられて挨拶するも束の間。 女子生徒は、もうウサギを追いかけ始めていた。 「ゆきまるー」 ウサギの名前だろうか。 ぴょこ 「あう」 ぴょこ 「にゅ」 あと少しのところで、逃げられ続けている。 ぴょこ 「ふわ」 ウサギが俺の方に逃げてくる。 「よっ、と」 すんなり「ゆきまる」をゲット。 「はい」 「……」 もう一度、その子がチラリと俺を見た。 「ありがとうございました」 ぺこりと頭を下げる。 そしてくるっと向きを変えると、とことこと駆けていった。 あっちは、これから俺が行く建物がある方向だ。 少し階段を上ると、木々が開けた場所があった。 あまり大きくはないが、重みを感じさせる建物が建っている。 長年の風雨に耐えてきたのだろう、屋根も壁も味わいのある色合いだ。 冊子を見ると……礼拝堂とあった。 「お」 さっきの女の子がいた。 「雪丸」 ウサギに話しかけているらしい。 「逃げちゃダメです」 「外は、猫やカラスがいて危ないんですよ?」 そしてほおずり。 その小さくて丸くて白いウサギは、ふわふわしてて気持ち良さそうだ。 ああ――、 雪のように白くて丸いから「雪丸」か。 雪丸が俺に気づいてぴょこんと耳を立てた。 「どうしたの?」 「あ……」 女の子にも見つかってしまった。 女の子が立ち上がる。 「さきほどは、ありがとうございました」 「ウサギを捕まえるの、お上手なんですね」 聞いたことのない褒め言葉だった。 「たいしたことはしてないさ」 「ほら雪丸。おうちに帰りなさい」 大きなウサギ小屋の扉を開け、その中に雪丸を入れる。 「ちょっとだけ運動させようと思ったんですが、逃げられてしまったんです」 「そうだったのか」 女の子は、小屋にはいったウサギを目を細めて見つめる。 ずいぶん可愛がってるみたいだ。 「ところで、その服はなんかの制服なの?」 「あ、これですか?」 女の子は、ちょこんと袖を伸ばして俺に見せる。 「これはローレル・リングの制服です」 「ローレル……?」 「ローレル・リング。日本語だと月桂樹の輪という意味です」 「礼拝堂のお手伝いをする、委員会のようなものです」 「委員会で制服があるなんて、変わってるね」 「あの……この服をご存じないということは、後期課程から入学される方ですか?」 「今年の春からの転校生。2年……ああ、えっと、5年生だね」 どうも、まだこの学院のシステムには慣れない。 6年制の一貫教育で、前の3年を前期課程、後の3年を後期課程と呼ぶらしい。 学年は1〜6で数えるため、5年生なんていう学年があるのだ。 「では、一つ先輩ですね」 「君は4年生なんだ。よろしく」 「はい、よろしくお願いします」 「入学前から委員会活動なんて、熱心なんだな」 「あ、わたしは前期から所属していますので、春休みから活動しているんです」 「そっか。じゃあ、これからも頑張って」 「ありがとうございます」 「どうしたの、お客様?」 と、現れた女性は映画で見るようなシスター服を着ている。 本職の人なんだろう。 「あら、初めて見る顔ですね」 「東儀さんと同じ新入生の方?」 「いえ、5年生の方です」 「今年から転校してきました」 「そうだったの。よろしく」 「私はここでシスターをしている天池です」 「カウンセリングもしているから、何か悩みがあったら遠慮なく来なさい」 「はい」 いい人っぽい。 ……シスター天池。 どこかで聞いた気がする。 「ああ! フライパンでマジ殴りの」 「あら、誰が言っていたのかしら」 優しい口調とは裏腹に、ぴきぴきという音が聞こえるような気が……。 「気をつけろ。シャレが通じない人だ」 嫌な回想だな、おい。 「あ、すみません。転入の手続きがまだ終っていませんので」 「え〜……失礼しますっ」 矢継ぎ早に言って、早足で立ち去る。 「あ、ちょっと、あなたっ」 お願いですので、追ってこないでください。 と、強く神に祈ってみた。 「ふう」 神に祈りが通じたのか、シスターは追ってこなかった。 再び『108の秘密』を開く。 「……」 «秘密のデパート» という文字が、目に飛び込んできた。 «秘密の本丸» と鉛筆で書いて消した跡も、うっすらと見える。 さらに目を凝らすと…… 「伏魔殿……」 五十歩百歩だ。 なんでこんなに手作り感に溢れてるんだ、この本? かなでさんの息づかいまで感じられる。 それはそれとして。 地図をまじまじと眺める。 どうやら、その建物は学院の一番高い位置にあるらしい。 デパートでも本丸でもいいが、なんでこんなとこ行かなきゃなんないんだ? まあ、行くか行かないかって言われたら…… ……。 …………。 敷地の一番奥まったところにある石段を、さらに奥へと上っていく。 両脇を埋め尽くす木はのびのびと枝を伸ばし、鮮やかな新緑が頭上を覆っていた。 石段は角が丸く摩耗し、長い時間ここに置かれていたことを感じさせる。 木漏れ日が作る日だまりを踏みしめながら、さらに奥を目指す。 どことなく神社への階段を上っているような気分に なった。 吹き抜ける風も涼やかになっている気がする。 「そこの君」 「おわっ」 背後からの声。 おそるおそる振り向き、自分の顔を指さす。 「そう。君だ」 「あ、はい」 振り返ると、長髪の人が俺を冷たい目で眺めていた。 「なにか用かな」 「あ、ええと、秘密のデパートってのを探してるんですが」 「あいにく、ここは監督生棟だ」 監督生……。 確か、普通の学校でいう生徒会だ。 「念のため、秘密の本丸でもないです……よね?」 「まったく違う」 「力になれずすまないが、用件がないなら帰ったほうがいい」 ざわり、と風が起こり、男の長髪をなびかせた。 春風に舞うそれは、淡い光を帯びているようにも見えた。 色白で端正な顔立ちは、ともすると病弱な印象を受ける。 だが、双眸に光る強い意志と知性は、彼が病弱とは対極にいる人間であることを示している。 「すみません、自分、転校生で」 「なるほど」 一瞬、視線が俺を射抜き、 「もう迷わないようにな」 静かに目を閉じて言った。 俺が言うことに従うまで、彼はもう何も言わない。 それがわかった。 わかっているのに、動けない。 「あ……ええと……」 うまく声を発せない。 ……。 …………。 音が消える。 「どうした、お客さんかい?」 建物の中から男の声がした。 「……ふう」 ややあって、長髪の男が軽くため息を漏らす。 「いや、迷い込んだ一般生徒だ」 振り返りもせず長髪は言う。 「へえ」 軽い足取りで建物から出てきたのは、華やかな雰囲気の男子生徒だった。 長髪もかなり容姿が整っているが、この人はさらに輪をかけて美男子だった。 いつかこの場所をめぐって、女の子たちによる大きな争いが起こるに違いない。 「君が一般生徒君? 変わった名前だね」 「冗談が通じる状況ではないと思うんだが」 「そうさせたのは征だろ」 ニコリ、と美男子が笑う。 太陽すらも味方につけているのか、日の光が緩やかにカールした髪を輝かす。 見ているだけで、高貴な香りが漂ってくる気がした。 「ふーん」 頭の上からつま先まで舐めるように眺めてくる。 「な、なんですか?」 「君」 透き通るような指が、ぴしりと俺の胸を差し、ツン、と軽く押した。 「一般生徒君」 「支倉です」 「一般生徒@支倉君」 「ただの支倉です」 「お茶でも飲んでいかないか?」 「は?」 「またお前は……」 思考停止した俺の前で、先ほど«征»と呼ばれた男が再びため息を吐く。 「いいじゃないか」 「監督生室に閉じこもってばかりではなく、一般生徒との交流も深めなくては」 「少しは閉じこもってくれたほうが、俺の仕事ももう少し楽になるのだが」 「それとこれとは話が別だから置いておくとして、いいだろう征?」 「ほら、君からもお願いして」 背中を叩かれた。 「いや、あの」 「じゃあ復唱」 「お願いせーちゃん、聞いてくれなきゃ、ぷんぷんっ」 うはあなんだかこいつをころしてしまいそうだ、とせり上がるマグマを感じつつも、 「お願い……」 「あー、わかった」 うるさそうに手を振る«せーちゃん»と呼ばれた男。 「じゃあ君、おいで」 「征を口説き落とすなんて、いきなり見込みあるね」 「恐縮です」 「いいから、行くぞ」 少し«せーちゃん»がかわいそうに見えてきた。 それ以前に、もうちょっと追及しておくべきことがあるんじゃないか? と、思ったのは、監督生棟に飲み込まれてからだった。 だいぶ古くはなっているものの、手入れが行き届いた階段を上る。 木製の手すりはひやりと心地よく、優美な意匠の存在を手のひらに感じる。 先導するのは例のふたり。 ただでさえ長い足は、下から見ているせいでよけいに長く見える。 「覗かないでね」 「なにをだ」 高速ツッコミが入った。 俺の出る幕はないようなので、黙々と階段を上る。 がちゃり 先頭に立っていた美男子が、扉を開く。 「さ、どうぞ……支倉君」 「おじゃまします」 そこは、大正とか昭和初期にタイムスリップしたかと思うような場所だった。 黒々と光る木製の床。 それに映える漆喰の白。 家具は重厚な木製で、それぞれに繊細な彫刻が施されている。 くすんだ色は時代の経過を物語っているが、隙なく磨き込まれ、窓から射しこむ春の光を柔らかく跳ね返していた。 「誰? お客さん?」 と、軽やかな声とともに現れたのは、 「え?」 「あ」 ……。 …………。 千堂瑛里華と名乗った女の子だった。 声も出せず、彼女を見る。 ここは監督生室。 彼女は生徒会副会長。 ここにいるのは不思議じゃない。 「ねえ」 じっとりとした視線を美男子に投げる。 「なんだい、副会長?」 どどどっ!! 目にもとまらぬ早さで、副会長が美男子の胸ぐらをつかむ。 「なんで、ここにいるのよっ」 「……さあ?」 「呼んだんだよ」 「だ・れ・が?」 「それは神のみぞ……」 「伊織だ」 「やっぱりね」 「いやあ、照れるなぁ」 「この前ちゃんと言ったじゃない」 言いながら、ガクガクと美男子を揺する。 「なんだっけ?」 「若年性健忘症ってトシじゃないでしょ!?」 ガクガクガクガク 「わかったわかった、思い出した」 「さておき、お客人の前でその態度は、エレガントじゃないだろう?」 「むむむ」 「まず手を離す」 「オーケー、ゆっくりだ」 「まったく」 「そして壁に手をつく、足を肩幅に……」 「うっさい。お茶淹れてくる」 副会長は荒っぽい足音をたてて、隣の部屋に入って いった。 流れから見るに、副会長、俺のことを言ってたんだよな。 「ま、ざっとこんなもんさ?」 「制服がはだけてるんですが」 「ファンサービスだ」 「俺を見て言わないでください」 「ともかく、落ち着こう」 お前がな、と言いかけたところで、 「さあ、こちらへかけなさい」 長髪が椅子を引いた。 「……失礼します」 心の拳を下ろしながら、椅子にも腰を下ろす。 そんな俺の耳元に、長髪が顔を寄せた。 「あれは、ああいう生き物だと思ったほうが疲れない」 「は、はあ」 「まる聞こえだ」 鼻息荒く、金髪は上座に腰を下ろした。 つづけて長髪がその隣に座り、ようやく場が静かになる。 ひとつ息を吐いて、テーブルに映る自分を見つめた。 なんでこんなことになってるんだ? ひとつずつ整理しよう。 ここはどこ? 監督生室。 いわゆる生徒会室だ。 彼らは誰? 「支倉君」 監督生室にいるところからみて生徒会関係者だろうな。 「支倉君」 「は、はい」 いつの間にか声をかけられていた。 「なんですか?」 「君、意外に考えてることが顔に出ないね」 「え?」 なぜか── 胸の深いところに手を突き刺された気がした。 「そうですか?」 「ああ。苦労してるのかい?」 「……いえ、特には」 転校がらみの苦労は確かにあった。 最初の数回は辛かったり悲しかったりしたし、嫌な思いもした。 しかし、人間の慣れってのは偉大なもので、途中からは平気になった。 ちょっとしたコツさえつかめば簡単だ。 「苦労している人は、そう簡単に表情が変わらないのさ。なあ?」 「さあな」 「ほら」 極上の笑みを浮かべる伊織。 まるで、他人の懐に入ったのを知っていて、それをなかったことにするように。 「お茶、はいったわ」 隣室から副会長が出てきた。 どうやら、奥には給湯設備があるようだ。 「どうぞ」 がちゃっとティーカップが置かれる。 イコール、どうやら歓迎されていないらしい。 「ど、どうも」 「いーえ」 短く言って、席に座る。 いったい、俺がなにをしたっていうんだ? 「さて」 紅茶を一口すすって、金髪が口を開く。 「まずは自己紹介をさせてもらおう」 「俺は千堂伊織。修智館学院6年、ここの主、生徒会長だ」 この人が生徒会長? 大丈夫かこの学院? 「千堂?」 「うふふ、素敵な兄でしょう」 「あはは、やめてくれ人前で」 「……」 副会長だけ目が笑ってない。 こええ兄妹だ。 「まあいい。で、こっちが」 「千堂瑛里華。もう自己紹介はしたわね」 「ええ」 名前は千堂瑛里華。 会長の妹で5年生。 そして、なぜか俺を避けている……ように見える。 「俺は東儀征一郎。6年で、生徒会財務を務めている」 「なるほど、だから『せーちゃん』」 「ごほっ!?」 副会長がむせた。 「せ、せーちゃん……ぷっ、ぷはっ……」 「ハーイ『せーちゃん』。ハーワーユー」 「あはははっ、やめて、やめて……」 なぜか会長の背中をバンバン叩いている副会長。 「はぁ……はぁ……あー、おもしろ」 「ああ、ごほん、あれは伊織のでまかせだから気にしないでほしい」 「はあ」 東儀先輩が冷静に言う。 こういう状況に慣れてるんだろう。 妙に同情してしまう。 「東儀って、珍しい名字ですよね」 「よそでは珍しいが、ここでは古くからある名前だ」 「へえ」 「じゃあ、さっき礼拝堂で……」 「妹だ」 クイズ大会の決勝ばりに、速攻で答えられた。 そして、にらまれた。 「あー……妹さんでしたか」 「あんまり凄むなよ。別に手を出したわけじゃ……ないよね?」 「ええ」 「あれは妹で、名前を白という」 「もしまた会うことがあったら、よろしく頼む」 「わかりました」 「それで、君は?」 「支倉孝平です。今年から転校してきました」 「瑛里華とは同級生かな」 「はい」 「なるほど。かわいげのない妹だが……」 「余計なことは言わなくていいの」 「支倉くん、よろしく」 そう言って微笑むが、額には薄く汗がにじんでいる。 ここは差し障りないリアクションをしておこう。 「こちらこそ」 「同じクラスになるといいねえ」 「さらには隣の席なんてどうかな」 「遠慮しておくわ」 「ストレートだな」 「あ……」 副会長は、しばし視線を漂わせ── 「いえ、嫌ってことじゃないのよ。あはは」 などとごまかした。 どう見ても俺を避けてる。 いたたまれない。 「それでは、俺は仕事があるので失礼する」 「なんだいなんだい、お客様が来てるのに」 「お前のお客人だろう」 つれなく言って、東儀先輩は書類満載の机に移動した。 「気を悪くしないでくれ、あいつはちょっと寂しい男でね」 「いえ、お邪魔しているのはこちら……」 じゃない。 俺はむりやり連れこまれたんだ。 司の話では、生徒会はスゴ腕の集団らしい。 そんな人たちが俺を囲んでるのはなぜだ? 「あの、いきなりなんですが。俺、なんで呼ばれたんですか?」 「なぜだと思う?」 「転入手続きに不備があったとか?」 「じゃあそういうことで」 「ちゃんと答えて」 俺の代わりに副会長がツッコんでくれた。 「いやさ、外で声がすると思って覗いたら、征が支倉君をいじめてたと」 「生徒会が怖いとこだって思われたら困るだろ? だからお茶でも飲みつつ、ちゃんとお話しようと思ってさ」 「へーえ」 副会長は、うさんくさげな顔だ。 「それだけ」 「わざわざありがとうございます」 「いやいや、これも生徒会長の務めだよ」 「ほーう」 「うるさい妹だね」 「あ、冷めちゃうから、お茶どうぞ」 促されるまま紅茶をすする。 「で、どう? この学院は?」 「明るい雰囲気で、楽しそうです」 「そりゃよかった」 「どうやって過ごしても2年間は2年間。どうせなら楽しいほうがいいよね」 「そもそもね、この学校の校訓っていうのは……」 と、教頭みたいなことを語りはじめる。 副会長は話に興味がないようで、じっとティーカップを見つめている。 ふと副会長と目が合うが、すぐに逸らされる。 そう、問題はこっちだ。 なんで俺は避けられてるんだ。 初日、わざわざ校門まで迎えに来てくれたのに、俺に近づくなり態度が変わった。 俺が1週間風呂に入ってなかったとしても、あれはちょっとあからさますぎだ。 まあ、あの日は体調が悪かったってことでもいい。 だったら、いまここで俺を避けているのはどういうことだ。 「では、あとは若い人たちに任せて」 「なんの話ですか」 「二人の世界に入っちゃって、僕のトーク聞いてくれないし」 「あの、ちょっと聞きたいんですが」 「もしかして自分、副会長に何かしましたか?」 すっと空気が静かになった。 東儀先輩が走らすペンの音が、やけに大きく聞こえる。 「別に……」 少しかすれた声が出て、副会長は紅茶で唇を湿らす。 「別に何もされていないわ」 「でも、なんか避けられてる気がして」 「ほんと何もないから、気にしないで」 頬をかすかに紅潮させ、まくし立てる。 まあなんというか。 そんな調子で言われても気になる一方なんだが。 「あ、それよりお茶のおかわりどう?」 「俺はこれで」 「だったら、食器下げるから」 「あ、はい」 慌てて残った紅茶を飲み干す。 「ごちそうさまでした」 差し出したカップを、副会長は少し緊張した様子で受け取る。 「お、お粗末さま」 急ぎ足で給湯室へ入っていった。 席を立ちたくて仕方ないといった様子。 「うーん……」 やっぱりおかしいよなぁ。 「瑛里華と何かあったのかい?」 「自覚はないんですが」 「無意識に手を出すようになったら末期だよ」 さわやかな笑顔で言う。 「違います」 「ま、あとで聞いといてあげるよ。面と向かってじゃ言いにくいこともあるだろうし」 「特に、年頃の乙女にはね」 「お願いします」 「あーそうだ、支倉君、転校生だったよね」 「なぁ征、新入生の記念品って余ってる?」 ノールックで声をかける会長。 「あったが、搬出済みだ」 東儀先輩は、書類から顔も上げずに応じた。 「ざーんねん」 「転校記念に、新入生用の記念品をって思ったんだけど」 「いえ、気持ちだけで嬉しいです」 「そっか。ま、できたらなんか別のを考えとくよ」 「伊織、そろそろ時間だ」 ノートパソコンを手に、東儀先輩が立ちあがった。 「おや、そうだった」 「支倉君、これから入学式の打ち合わせがあるんだ」 「じゃあ俺はこれで」 「悪いね」 軽く頭を下げて席を立つ。 「えーと……」 副会長がいるとおぼしき隣の給湯室に目をやる。 「瑛里華ーっ」 きゅっと水道の音が止まる。 「なに?」 「お帰りだ」 「あ、そう」 「大したおもてなしもできなくてごめんなさい」 嬉しそうに言われた。 「いえ。お茶、おいしかったです」 「また寄ってくれ」 「あー、はい」 「それじゃ、ごちそうさまでした」 三人に頭を下げ、出口に向かう。 「そうだ、支倉くん」 「?」 振り返る。 「あなたの学院生活が、楽しいものになるよう祈ってるわ」 「……」 思わず返事を忘れる。 その笑顔は、初日に見せてくれたものと変わらなかった。 窓からの日射しを背に並んで立つ、会長と副会長、そして東儀先輩。 美術館に飾られても申し分ない、完成された絵だった。 「ありがとう」 「ふう」 噴水まできて、ようやく息を吐く。 終始、ペースを握られっぱなしだった。 いろんな学校を見てきたけど、あんな人たちは初めてだ。 人気があるってのも、あながち嘘じゃないかもしれない。 しかし…… 来た道を振り返る。 新緑の森にたたずむ監督生棟は、遠く春霞にかすんでいた。 副会長のことは、あんまりわからなかったな。 「支倉君、なかなかいい感じだったね」 「そうかしら」 「なに怒ってるのさ」 「おわかりになりませんか?」 「わーかりません」 「あのねぇ、なんで連れてくるわけ!?」 「恥ずかしがるなよ」 「で、ぶっちゃけどうなの? 調子は?」 「まだ少し心臓がドキドキしてるわ」 「それでも、はじめて会ったときよりはマシになったけど」 「ほう、慣れるものらしいね」 「わからないわ、身体に聞いて」 「よーし、この兄、禁断の恋路へと踏み出そうじゃないか」 「1ミクロンでも近づいたらやっつけるから」 「しかし、わからないとなれば、いろいろ試してみたくなるのが学者魂だろ?」 「いつから学者になったのよ」 「私は、生徒全員に楽しい学院生活を送ってほしいの」 「初日のことは事故としても、彼を巻きこむのは本意じゃないわ」 「ほう」 「副会長として、間違ったことを言ってる?」 「いーや」 「彼、親の仕事で転校ばかりだったらしいの」 「全寮制のここに転校してきたのも、そういう理由だと思う」 「安住の地ってわけか」 「そ。だから、なおさらここでの生活を楽しんでほしいわけ」 「興味本位で余計なことしないで」 「俺も楽しい生活を送りたいんだが」 「兄さんはもう十分でしょ」 「厳しいなぁ」 「やっと、撮り終わった……」 今日は、昨日に引き続きカメラを持って敷地内を回った。 夕方まで歩き続けたせいで、足が棒のようだ。 「あ、孝平くん」 「おう……」 「なんか、疲れてる?」 「ちょっとな」 「今日も撮影だっけ?」 「ああ。一日中歩きまわった」 「あはは、お疲れさま」 「陽菜も、去年やったんだろ?」 「う〜ん、やってない気がするけど……今年から 変わったのかな」 「ま、いいか。撮影してりゃ校内の建物も覚えるだろ」 「そうだね」 「じゃ、俺は風呂でも入ってくる」 「この時間なら、きっと独り占めできるよ」 「そいつはいい」 今日は、全身の力を抜いて湯船に浮かびたい気分だ。 さっそく向かうとしよう。 空いてる風呂ってのは、けっこう幸福度が高いシロモノだ。 特に、今日みたいに歩き回って疲れた日は……。 俺はうきうきしながら男湯ののれんをくぐった。 大浴場の脱衣所も、ほぼすべての籠が空だ。 心の中でガッツポーズ。 一気に服を脱ぎ、タオル一つを腰に巻く。 「よーし、よしよーし」 いざ大浴場へ。 霧のような湯気が視界を隠す。 いつもよりいい香りの空気を吸いこみながら、俺は進んでゆく。 この先にあるのは、俺の疲れを癒してくれる―― 「っっ!!!」 裸があった。 「?」 目の前に裸の副会長がいるように見える。 ノリノリすぎて、幻覚が見えてるのか? 「……なっ」 「あれ?」 「あ、あ、あ……あ、な、た」 ぴりぴりとした空気。 「まさか……」 まさか、 まさか、 まさか、 まさか、 まさかぁーーーーっっ 「本物?」 「当たり前でしょ!」 幻覚が地を蹴って、圧倒的な速度で急接近。 「まてっ幻っ!!」 「やかましいっ!!」 「ぼふあっ」 何が起こったのかもわからないまま、 現在、放物線を描いています。 「????」 状況が飲み込めない。 男湯にいる副会長。 女が男湯にいるわけない。 つまり、副会長が男ってことだ。 簡単な謎だ。 不思議なことなどなに一つない。 だいたい、それならそうと、早く…… 「何をしているの?」 「副会長は男なのか?」 「本人に聞いたら? ここを出た後で」 「……」 「……」 「すみませんっ!!」 逃げるように脱衣所を転がり出る。 ちらりと、赤いものが目に入った。 それは…… 「女」 と書かれた、赤いのれんだった。 「ぐは〜〜……」 やっと浴槽に入れた。 脚が伸ばせる風呂はやはり気持ちがいい。 脚といえば副会長の脚。 すらり。 均整の取れたプロポーション。 「よう」 司が風呂に入ってきた。 「おう」 「なんだその頬のモミジは」 「さあな」 しかし。 男湯に入ったはずだったのに。 なんであんなことになったのか。 誰かが入ってきた。 入り口の近くから、さざ波のようにざわめきが広がる。 「懐かしきかな大浴場」 「前に来たのはいつだったかな?」 「七ヶ月前だ」 生徒会の二人が入ってきたところだった。 「なんだこのざわめきは」 「珍しい人が来たからだろ」 「珍しいのか?」 「風呂で見たのは初めてだ」 風呂に入るだけでこれか。 本当に有名人なんだな。 ま、俺には関係ない話だ。 ……などと思っていたら、二人が近づいてきた。 「支倉君、隣いいかな」 「……はあ」 関係ある話になった。 「では、失礼」 なぜか二人揃って俺の隣へ。 「……」 囲まれた。 罠にかかったウサギのような気分だ。 「お、おい司」 司は、いつの間にか離れた場所に移動していた。 「裏切り者」 「いやあ支倉君、広い風呂は気持ちがいいな」 「せっかく広い風呂なのに、なんで俺のそばに来るんです」 「世間話でもしようと思ってね」 「東儀先輩としたらいいじゃないですか」 「征とは今さら世間話をする仲じゃない」 「もっともだ」 「というわけで話をしよう。支倉君」 なんでこんなに絡んでくるんだ。 何か重要な話でもあるのだろうか。 「最近どうだい?」 本当に世間話だった。 「ぼちぼちです」 「ごく最近はどうだった?」 「ぼちぼちです」 「その程度だったのかい?」 「何がですか」 「君の転校祝いさ」 「そんなもの貰ってないでしょう」 「あげたじゃないか、ついさっき」 貰ってない。 というか、この二人には昨日から会ってさえない。 だいたい、ついさっきは女風呂に突入して酷い目に……。 ……。 …………。 「あああああっ!」 思わず大声を上げて立ち上がる。 「もしかして……?」 「なかなか気の利いたお祝いだっただろう?」 「あれは、あんたらの仕業か」 「俺たちではなく、伊織の仕業だ」 「そう言うなよ」 「ともかく、転入おめでとう」 ぱちぱちぱち 「さわやかな笑顔で拍手すんなっ!」 「まあ、そう怒るなよ」 「のれんを変えるという古典的なドッキリにひっかかった支倉君」 「ぬぐぐぐっ」 「無駄に油を注ぐな」 「あんたらのせいで俺がどんな目にあったと……」 「そんな目だろう?」 俺の頬のモミジを指さした。 「これはまだいいです」 「明日から、副会長とどんな顔で会えばいいんですか?」 「寮で噂になったら、人生終わりです」 「他人の視線なんて気にしているうちは素人だよ」 「素人でけっこう」 「だいたいね、もう少し感謝したらどうだい?」 「何にですか」 「被害者のまま、瑛里華を見られたんだ。役得だろう?」 「これっぽっちも」 「瑛里華じゃ不満だったかい?」 「それは……」 副会長の姿を思い出す。 ……。 可愛いし、ボディラインも素晴らしいが…… 「……」 「ほら、やっぱり役得だと思ってる」 「だから、それとこれとは」 「あー、わかったわかった」 「じゃあ君が、僕の清廉潔白ぶりは宗教者も裸足で逃げだすくらいで、瑛里華にこれっぽちも魅力を感じてなくて」 「あんなもん見なきゃよかったと後悔してるなら、僕も謝ろう」 「……」 卑怯な。 「よし、それでこそお祝いした僕も気持ちがいい」 満面の笑みを浮かべる会長。 ちょっとカチンときた。 自分でもガキっぽいと思うが、カチンときたものは仕方がない。 「会長、ちょっとやりすぎ」 「俺はいいとしても、副会長は完全に被害者です」 「なんだい、急に恐い目をして」 緊張した空気を察したのか、風呂場にいる生徒たちが こっちを窺っている。 衆人環視の中で、学院のカリスマっぽい人に意見しようとしている俺。 今後の生活を考えれば、決して賢明な手とは思えなかったが── 言わなきゃ気が済まないこともある。 「全員が笑ってすませられないネタは、ドッキリじゃない」 「楽しけりゃいいじゃない、かるーく行こうよ」 「楽しくない人がいるって話です」 「今度は、みんなが楽しめる、もうちょっとレベルの高いのをお願いします」 「わお」 ちょっと目を丸くする会長。 「わかった。次はもっと大がかりなイリュージョンにするよ」 「何もしないのが一番ですから」 「そう言うなよ」 「ともかく、副会長には俺も謝りますから、会長もお願いします」 「ふむ。いつからそんな紳士になったんだい?」 「紳士なんぞ気取るつもりはありません」 「ただ、気にくわないから言っただけです」 「オーケー、わかった。僕も何かしら考えよう」 「そりゃどうも」 「支倉、なかなか骨があるな」 転校処世術的にはノーグッドなことをしている自覚があるので、褒められても複雑な心境だ。 「あの八幡平に気に入られているだけのことはあるね」 「初耳です」 「だって、彼、周りに君以外置かないだろ? 気に入られてるんだよ」 当の本人は、俺を置いて身体を洗ってるわけだが。 「『あの』八幡平ってのはどういうことですか?」 「彼もなかなか骨があってね」 「僕ら生徒会はやっぱ規則ってのが武器なんだけど、彼にはそういうの通用しないから、厄介といえば厄介なんだよ」 うすうす察してはいたが、どうやら司はそういう人らしい。 いわゆるアウトロー。 「ま、自分の快楽に正直なあたり、俺に似ているのかもな、あっはっは」 「へーくしっ」 くしゃみが聞こえた。 「そういえば、昨日はうちの妹が失礼したね」 「昨日?」 「ほら、監督生室で瑛里華がツンツンしていただろ?」 「その話ですか」 「あの後、瑛里華を問い詰めたんだよ」 「俺が招待したお客に、あの態度はどういうつもりかと」 「そうしたら、瑛里華が白状したよ」 「なんて言ってました?」 「なんだと思う?」 わかってれば、謝るなりなんなりしてる。 「実はねぇ、これはとってもデリケートな話なんだが……」 と、会長が俺の耳に口を寄せる。 「君に一目惚れしたらしいよ」 俺に、 副会長が、 一目惚れ……? 「はあぁあ!?」 周囲の注目が集まる。 「……」 遠くにいる司まで、こっちを不思議そうに見ている。 「いや、それって……」 「そういうことだ」 副会長が俺に? 眉目秀麗、成績優秀、運動神経抜群の副会長が……俺に? 「……」 「清く正しく美しく、冷静と情熱の中間くらいで頼むよ」 「あと、身体は隅々まで磨いておくんだよ。筋トレも怠るな」 結局、どうして欲しいんだ。 「しかし、これで二人が結ばれれば、俺はさしずめ愛のキューピットだ」 やな天使。 「それじゃ、後は若い人に任せて」 「無理はしないようにな」 「あの……」 こっちが言うことなんて聞いてない。 二人は悠然と風呂から出て行った。 話の内容のせいか長湯のせいか、かなりのぼせてしまった。 エアコンの正面に座り、扇風機も独占する。 「裏切り者」 「面倒は勘弁だ」 おわび、とばかりに牛乳を渡された。 「さんきゅ」 きゅぽっとフタを開け、一気に飲み干す。 「あ゛〜〜うまいな、くそ」 やっと一息つけた。 「しかし、あの副会長が一目惚れねえ」 「ありえないだろ」 「さあな。人の恋愛感情なんてわからん」 「お前は嫌なのか?」 「悪い気はしない」 なにしろあの副会長だ。 「つっても、情報源があの会長だぞ」 「ま、話半分にしとけ」 とはいえ、ちょっとワクワクしているのも事実だ。 一目惚れってことは、初日から俺を避けてたのは照れ隠しってことになる。 本当なら、ちょっと可愛いな。 「あっ、こーへー発見!」 かなでさんが、バタバタと走りよってきた。 「108の秘密の写真撮れた?」 「ええ。相当疲れましたよ」 「データちょうだい」 「部屋なんで、明日渡します」 「おっけー」 「それじゃっ!」 元気よく走り去る。 「落ち着かない人だな」 「原材料のほとんどが元気だよ、きっと」 「あ」 いきなりUターンしてきた。 「女子風呂に全裸で突入したってほんと?」 「なっ!」 「うわ、ほんとなんだ」 「なんで知ってるんです」 「いおりんが言ってた」 殺す。 「そんなイケナイこーへーには」 「風紀委員の鉄槌を、うりゃ!」 ぺたし おでこにシールを貼られた。 慌ててはがす。 見たこともないほど酷いシールだった。 不気味な絵の上から、呪われそうな字で「風紀」と書かれている。 「もういっちょ」 ぺたし もう一枚貼られた。 「むう……」 「もうやっちゃダメだからね!」 「このシールはなんですか」 「泣く子も大泣きする『風紀シール』」 「貼られるとなぜか猛省したくなる」 「しかも10枚たまるとバラエティ豊かなお仕置きがある、らしい」 「なんか、いきなり2枚もらっちゃったんですけど」 「捨てると5枚くれる」 「いらんわっ!」 「君にも貼ってあげよっか?」 「俺はノータッチ」 「ほうほうほうほう。ま、おとなしくしてるのが身のためだよ」 「それじゃ、こーへーはちゃんと反省してね」 「はい。あの、さっきの話は他の人には……」 「言わないよ」 「お姉ちゃんはこーへーがいい子になれるように応援してるからね」 頭を撫でられる。 「それじゃあね、写真ありがと」 「写真げっとで〜、猫がにゃ〜(にゃ〜)♪」 不思議な歌を口ずさみながら、去って行った。 ……。 司がじっと俺を見ていた。 「なんだ?」 「女子風呂に全裸で突入」 「いや、あのな」 「お前は神か」 「違うんだ、話を聞け」 ゆらりと立ち上がる司。 俺の体に優しく絡みつく。 「……ギブ! ギブ!」 美しい卍固めが決まった。 「ラッキー、テレビ空いてるわよ!」 風呂上がりと思われる副会長と他数人が、談話室に入ってきた。 「ぽちっとな♪ ん?」 テレビをつけるのと、こっちで絡まってる俺たちに気づいたのはほぼ同時。 瞬間、視線がきつくなる。 「おい、司……」 「あ、ああ」 もそもそとほどける卍固め。 非常に気まずい。 やはり、さっきのことを謝っておいたほうがいいだろう。 立ちあがり、副会長に近づく。 「あ、ええと……」 と、副会長の頬に朱が差す。 「わ、私、気分悪くなったから戻るね!」 一緒に来てた数人にそう告げると、一人さっさと談話室を出て行った。 「……」 「ご愁傷様」 「ま、副会長にすりゃ、そうとう気まずいよな」 裸を見られた上に、一目惚れの相手と来ている。 逃げだしたくもなるだろう。 この調子じゃ、いつ話ができるがわからないな。 「長期戦になるかもな」 「ま、頑張れ」 「えーりか。真っ赤な顔してどこいくの?」 「いま機嫌悪いの」 「なんでまた?」 「いいでしょなんでも」 「当ててみようか」 「けっこう」 「そうだな……好きな子にお風呂をのぞ……」 ぷちーん。 「なに、いまの音?」 「お前かーーーっ!!」 「ふごあっ!!」 「いたたた……なぜ殴打する?」 「殴打もするわっ」 「寮の階段でもみ合った際、誤って3メートル下の踊り場へ転落、頭部を強く打って病院に運ばれましたが、まもなく死亡……したらどうするんだ?」 「カメラの前で気丈に振る舞って、けなげな妹を印象づけるわね」 「だいたい、その程度じゃ兄さん死なないし」 「ひどい話だ」 「俺は恋の橋渡しをしてあげただけじゃないか」 「あ の ねぇ」 「余計なことしないでって言ったでしょ!?」 「だってー」 「クネクネしないっ」 「そういえば、さっき支倉君に会ったんだけど」 「それで?」 「彼、なかなかいいね。気に入っちゃったよ、オレ」 「んなこと報告しなくていいわ」 「はぁ……ともかく、もう放っておいて」 「えー」 「返事は『はい』」 「これ以上ヘンなことしたら、次は本気で怒るわよ」 「わかりました」 「ホント?」 「もちろんさ」 「でも……ちょっぴり怒られてみたいって思う俺、どうかな?」 「病院に永久就職するといいわ」 朝食とも昼食ともつかない時間に、司と学食に向かった。 「少し視線を感じるな」 「気にしないことにしよう」 どうやら、女子風呂乱入事件は、一部の人に漏れているようだ。 見られた副会長が吹聴するとは考えにくい。 「会長か、かなでさんだな」 「だろうな」 入学前から時の人にはなりたくない。 カツカツカツ 「お」 「どした?」 ちょっとうつむき加減の俺の目の前に、すらりとした脚が二本並んだ。 そこには…… 「うおっ」 「話があるから、食べ終わったら『穂坂ケヤキ』に来て」 「あ、ちょっと……」 俺の声も聞かず、副会長は離れていった。 ……。 周囲の視線が痛い。 時の人になりかけている。 「チャレンジャーに幸あれ」 「胃が痛い」 「そう落ち込むな」 「待ち合わせの場所が場所だし、いい話かもしれん」 「なんでそうなる」 「あそこは有名な告白スポットだ」 「枯れ木の下で告白されてもな」 などといいつつ…… 一目惚れ、の言葉が頭を何度もよぎった。 「と、ともかく、なるようにしかならん」 謝るべきところは謝り、誤解は解く。 告白は……されたら考えよう。 まずはさっさと飯を片づけることだ。 「こーへー! おーい!」 遠くから元気な声がする。 「こっちこっち」 かなでさんがぶんぶんと手を振っていた。 呼ばれるままに近づく。 「ちょうどいいところに」 「なになに?」 「風呂の噂、広がってるみたいなんですが」 「ん、わたし言ってないよ」 「そんなことより、一緒に食べよ」 とテーブルの上を指さす。 火のついたガスコンロ。 そして鍋。 「なんですかこれ?」 「鍋」 「いや、それはわかりますが」 「石狩鍋」 「鮭のブツ切りと大地の恵みの野菜がたっぷりたっぷり入った北の郷土料理でね、石狩川で……」 「素手で鮭をしゃーって取ったの」 「そりゃ人じゃなくて熊です」 「うん、惜しかった」 「惜しくないです」 「能書きはいいから、食べよう。わたしお腹すいた」 副会長を待たせてるんだが。 「食べなきゃ駄目ですか?」 「もちろん」 「元気出してもらおうと思って、こーへーのために作ったんだからっ」 ちょっと感動。 「あそこの『学食の鉄人』が」 厨房内では、なぜかいい笑顔でサムズアップする鉄人。 間違いなく俺のためではなかった。 仕方ない、さっさと片づけよう。 「司もいい?」 「大歓迎。どーぞどーぞ!」 「それじゃ」 「加勢よろしく」 「おう」 「こーへーはいくら好き?」 かなでさんはお椀に具をよそいながら聞く。 「まあそれなりに」 「……んじゃ、いっぱいかけて、と」 「つか、石狩鍋にいくら?」 「サービスしてくれたよ。合うんだってー」 目の前にお椀を突き出される。 山盛りのいくら。 いくらしか見えん。 いきなりの強敵だ。 「いただきまーすっ」 むしゃむしゃごきゅごきゅ 「いただきま……」 「おかわりっ」 「早っ」 「いっぱい食べないと大きくなれないよ?」 胸を張って言われた。 そしてかなでさんは小さかった。 「んじゃ、遠慮なく」 ががっと口にする。 「うまいな」 「味はいいんだが、多すぎないか?」 「これで何人前?」 「五人前」 ここにいるのは三人。 「大丈夫、もうすぐひなちゃんもくるし」 それでも四人。 「なんでそんなに頼んだんですか」 「んにゃー、小さい鍋がないんだって」 「これ裏メニューだから」 裏メニュー。 どこの小粋な料理屋だ。 「しかも悪いお知らせがありますっ」 「わたしもうすぐお腹いっぱい」 「早くもっ!?」 鍋は5分の1ほど減っている。 つまり80%は残っている。 「でも、お願いして作ってもらったもの、残しちゃだめだよね。人として」 かなでさんの言うことはもっともだが……そろそろ副会長が。 「負けられん」 大急ぎで残りの具を胃袋にかっ込む。 「お待たせ」 「おー、ひなちゃんおいでませー」 「あ、孝平くんたちも一緒なんだ」 援軍はありがたい。 「ノルマは一人1.3人前」 「そうそう。今、鉄人から麺をもらってきたから入れるね」 「ぐほっ!?」 鼻まで鮭が遡上しそうになった。 そんなことをやっている隙に、陽菜が麺を投入する。 「味噌ラーメンみたいだね♪」 「やっぱりシメは麺アルね」 「ノルマは一人1.6人前」 増やすなよ! 「いただきまーす」 陽菜は小さくガッツポーズ。 俺は、泣き言を言う代わりに、箸を口に運ぶことに集中した。 早食いと大食いの限界に挑戦し、なんとか鍋を制圧する。 「おー、ごちそうさまー!」 「おなかいっぱいだね」 「うまかった。さすが鉄人だな」 「こーへーはずいぶん急いで食べてたけど、おいしかった?」 残念ながら、中盤以降は味わってる余裕がなかった。 「ごちそうさまでしたっ」 「こーへーっ!?」 学食を飛び出し、寮へと続く並木道を駆け抜ける。 満腹状態には辛いが、それでも気合いで走りつづける。 「はぁ、はぁ……とうちゃ、く」 無情にも、そこには誰もいなかった。 代わりに、石を文鎮にして紙が置いてある。 ……。 『いい度胸ね♪』 夕暮れのちょっと冷たい風が吹き抜ける。 「ははは」 笑うしかない。 鍋討伐に時間がかかりすぎたらしい。 無駄に謝るネタを増やしてしまった。 その後。 副会長を探して寮内を歩きまわるものの、空振り。 夜に女子フロアへ入るのはいろいろと危険だ。 「参ったな」 ともかく、会って話をしないことには始まらない。 もし会えたら、まず今日のことを謝る。 女湯突入は会長の悪戯だが、これも一応謝っておくべきだろう。 しかし、一目惚れってのはどうしたもんか……。 会長のヨタだとしても悩ましいことこの上ない。 ……。 明日は始業式だ。 話をするチャンスはあるに違いない。 朝。 今日は始業式が行われる。 俺にとっては、この学院への入学日とも言える日だ。 転校を繰り返してきたはずなのに、珍しく少し緊張していた。 心のどこかで、今までの学校とは違うものを感じているのかもしれない。 建物の外観からの想像を裏切らない講堂内部。 椅子は備え付け。 座面はすり減り、美しい木目が際だっていた。 まだクラスが発表されていないため、俺と司は適当な席に座る。 こういうときは、後ろから席が埋まっていくものだが…… なぜか、前から人が埋まっていた。 「アイドルのライブみたいだ」 「似たようなもんだ。会長や副会長にはファンが多いからな」 「ま、適当に座ればいいさ」 真ん中より少し後ろくらいの席に陣取った。 ……。 そして、始業式が始まった。 副理事長や教頭によるお定まりのトークがだらだらと続き、やがて終わる。 ザワついていた講堂が、静寂に包まれた。 ステージには生徒たちの視線が束になって注がれている。 本当にライブみたいになってきた。 「なんだこれ?」 「見てりゃわかる」 突然、照明が落ちた。 そして、 スポットライトが、真っ暗なステージをポツリと照らす。 誰かが片膝をついてうずくまっている。 あれは…… 「正直、気分が重い」 正直、ひどい第一声だった。 拍手が止み、全員が会長を見た。 「今日から始まる一年で、俺の学院生活が終わってしまうからだ」 「あと一年」 「それだけしか愛しい君たちと時間を共有できない」 ゆっくりと立ちあがり、客席を見まわす。 光の加減か、なんかキラキラ輝いていた。 「だから、この一年を最高の年にしたい」 「そのためには、手段を選ばないっ!」 選べよ。 「手前に座ってる奴ら、盛り上がってるか!」 「俺だけでなく、ここにいる全員にとって最高の一年を作ろう」 「奥に座ってるお前ら、力を貸してくれ!」 「俺だけではどうにもならない」 「みんなの力で、世界を救うんだ!」 世界とか関係ないだろ。 冷静に考えたほうがいい。 教師までいちいちうなずきながら聞き入っている。 なんでだれも止めないんだ? 「二階席の奴ら、俺たちは一心同体だっ」 ここ一階建て…… 「うおっ」 空気読んだ一階のヤツが拍手してる。 「ありがとうっ、ありがとうっ」 キラキラと輝きながら手を振る会長。 声を揃えて「会長! 会長!」というコールをしている人たちもいる。 「それじゃ、みんな、今年一年よろしくっ」 壇上から降りる会長。 紙テープでも飛びそうな空気だ。 「すごい人気だな」 「まあな」 司に聞いたところによると、突発旅行や学食の鉄人スカウトの他にも、購買の充実や中庭の整備など、実績がてんこ盛りらしい。 そりゃ人気も出るわけだ。 拍手がやんでいく。 それでも、ボルテージは最高潮のまま。 講堂の室温は明らかに上がっていた。 「ときどき、この学校はおかしいんじゃないかと思うことがある」 「転校のプロから言わせてもらえば、確実におかしい」 「お前が言うと説得力あるな」 爆音が巻き起こった。 会長を上回る音量。 「次が来たぞ」 ステージに目を向けると、副会長が演台に向かっていた。 モデルみたいに伸びた背筋。 歩調はメトロノームのように正確だ。 副会長は、演壇に着くと鷹揚な仕草でマイクの位置を直す。 時間が止まったかのように、拍手がやんだ。 「会長がお騒がせしてごめんなさい」 涼やかな声は、新緑を吹き抜ける風のようだった。 冷たくもなく熱くもなく、心地よさだけが身体を満たしていく。 「新学期への期待に、少し熱くなっていたみたいね」 少し首を傾げ、笑う。 かわいいじゃないか、おい。 「ちょっと唐突なんだけど」 副会長が右手を挙げた。 「この手が見える?」 全員の視線がその綺麗な手に集中する。 「私の手って少し冷たいのよ」 冷え性? 「みんなの手はどう?」 周りの何人かが、自分の手を見る。 「じっと見てるとね、なんとなく寂しそうに見えない?」 俺は自分の手を見た。 なんとなく、そう見えないこともない。 「冷たかったり、寂しそうに見えたりしたのなら――」 そこで、副会長は手を前に差し出した。 「私と手を繋ぎましょう」 あの笑顔だった。 はじめて会った時、俺に歓迎すると言って向けた満面の笑顔。 「他の人とでもいいわ」 「近くにいる人と繋げば、きっと温かいし、寂しくないと思うの」 「そうやって助け合って、学院生活を送るのって悪くないと思わない?」 「でもね」 「いくら寒くて、寂しくても……」 ぱっ スポットライトに照らし出されたのは…… 俺だった。 「はいっ!?」 静まる講堂。 俺を見る目、目、目…… なに? なんなんだ? 「女子大浴場に、男子が突入するなどということはしないように」 「以上です」 一瞬の静寂。 そして…… 講堂は喧噪に包まれた。 「うわ」 「……」 終わった。 俺の平穏な学院生活が。 しかも、新学期が始まって30分で。 生徒が勢いよく立ちあがり、こっちへ走ってくるのが見える。 それも無数に。 ……ああ、 今日の晩飯、なんにしよう(逃避)。 「女風呂入ったってのはお前かっ!?」 「……許せないわ」 あっという間に囲まれる。 「お、押すなっ」 「罪は俺が許すっ! 副会長、副会長はどうだったんだっ!?」 「女の敵っ! さらすわよっ!」 「く、苦しい……」 「ぐおっ」 何人かの生徒が、俺の上に倒れこんできた。 「いでででっ! やばい、やばいからっ!」 「死ぬっ、マジ、マジで」 「死んだ方が楽かもよ、ふふ」 「う……」 「うああぁぁーーーーーっっ!!」 「あ、5年3組。孝平くん、一緒のクラスだ」 陽菜が掲示板を指さし、明るい声で言う。 「俺もだ」 いつもの雰囲気に癒される。 こいつらはペースを変えないから助かる。 「ははは……よかった」 喜ぶ元気もなかった。 「お風呂の件って、千堂先輩が仕組んだんでしょ?」 くすくす笑う陽菜。 「知ってたのか?」 「ううん。でも、なんとなくね」 「会長のキャラは有名だから」 「しかし、よかったじゃねえか」 「何がだ」 「これで初対面のヤツとも会話に困ることはないだろ」 「勘弁してくれ」 「きっと大丈夫だよ。みんなわかってて遊んでるだけだと思うから」 そう祈りたい。 しばらくして、新学期最初のホームルームが始まった。 俺は、いままで何度も経験してきたように、教壇の横に立たされている。 「で、こちらが転校生の支倉孝平君だ」 全員の簡単な自己紹介の後、担任の青砥先生に紹介された。 「転校は珍しいが、クラス替えしたばかりだから馴染みやすいだろう」 「ほら、自己紹介を」 繰り返してきた挨拶タイム。 挨拶は何より笑顔が大切だ。 第一印象の重要性は、さんざん思い知らされてきた。 ……今回については、いまさら第一印象もへったくれもないが。 「支倉孝平です」 「初めてのことばかりで、右も左もわかりませんが、よろしくお願いします」 クラスメイトの表情が語っている。 『んなことはわかってんだよ!』 『それよりもっと聞きたいことがある!』 と。 「それじゃあ、何か質問は――」 「はいはいはいはいっ!!」 「……」 泣けてくる。 「あの、女子風呂に全裸で突入したって本当ですか?」 教室がどっと沸く。 「それっていつの話なんですか!?」 「どうしてそんなことしたんですか!?」 「な、中の様子を教えて!?」 「やっていいことと、悪いことがあるでしょ!」 不倫が発覚した芸能人の気分はこんなものなんだろうか。 ――支倉孝平、女湯突入!! ……か!? スポーツ新聞風の見出しが浮かぶ。 「のぞきは文化だと思いますかっ!?」 「思うかっ!」 「つーか、あれは生徒会長の陰謀なんだっ」 けなげな反論も歓声に飲み込まれる。 「聞いてくれっ」 「つーか、聞けーーーーーーーーっ!」 本日、二度目の絶叫。 ばんっ!! 騒音がピタリとやんだ。 誰かが教室の扉を開いた音だと気づくまで、少し間があった。 「すみません、遅刻しました」 「紅瀬か」 見たことがある女の子だ。 「始業式初日から遅刻してくるとは、なかなかだな」 紅瀬さんは、先生に一瞥くれただけで無言。 態度最悪だ。 先生が暴力系だったら、紅瀬さん、いまごろ宙を舞ってるぞ。 「席に着いてかまいませんか?」 「ああ、かまわん」 「はい」 あれ? 何も言われない。 もしかして、先生も注意するのをためらうほどのワルなのか? 「待て紅瀬」 立ち止まる紅瀬さん。 「何か?」 「自己紹介してくれ。みんなはもう終わってるが」 「紅瀬桐葉(くぜ・きりは)です。よろしく」 簡潔に言って、席に向かう。 紅瀬さんのインパクトに飲まれたのか、教室は静かになっていた。 助かった……。 「では、今後の予定を説明しよう……」 先生が穏やかに語り出し、ホームルームは正常に戻った。 ホームルームが終わった。 さっさと寮に帰って寝よう。 「待って」 ぐいっと肩をつかまれる。 そうは問屋がおろさないらしい。 「詳しい話を聞かせてくれよ、勇者」 あっという間に人垣ができた。 泣けるっつーか、さすがにウザいぞ。 「おい、どけ」 人の海を割って、モーゼのごとく司が近づいてきた。 「は、八幡平君……」 「人囲んで、なにやってんだ」 「いやぁ、あはは」 級友たちの腰が退けている。 「帰ろうぜ」 「おう」 「お前、支倉と仲良かったのか?」 「ならどうした?」 肉食獣系の視線を向ける。 「え、えーと……」 「きょ、今日はこれで。じゃあな」 ひとり帰る。 それを合図に、人が散った。 「わるいな」 「なに」 クラスメイトの男子は、遠巻きに俺たち──主に司の様子を窺っている。 だいぶビビられてるらしい。 だが、女の子の中には熱っぽい視線を送っているのもいる。 人によっては、口数の少ないワイルドな男と取るのかもしれない。 「もてるんだな」 「男にビビられるのは、もてると言わないだろ」 「ま、そうな」 気づいてないなら放っておこう。 「さっさと帰ろうぜ」 「ああ」 「あ、脱出成功だね」 「付き合いきれねーよ、まったく」 「千堂さんってすごい人気だから、仕方ないよ」 それはわかる。 俺だって、まっとうな出会い方をしていたら、彼女の魅力に呑まれていたかもしれない。 「早いとこ謝って、禍根を断っておこう」 「ちゃんと説明すれば、きっとわかってくれるよ」 「生きて帰れよ」 「ぼそりと不吉なことを言うな」 とりあえず副会長のいそうな監督生室に向かうことにした。 一人だと非常に入りづらい場所だ。 少し緊張してきた。 だいたい、副会長になんと言えばいいのか。 ……ここまで来て迷うのもアホらしいな。 会ってから考えよう。 こんこん すごく遠慮がちにノック。 ……。 返事はない。 もう一度ノックをするが、結果は同じ。 「お邪魔します」 挨拶しながら、扉を押す。 鍵がかかっている。 窓を見上げるが、どの部屋にも明かりはついていない。 監督生棟にいないということは、寮にいるんだろうか。 とはいえ、女子フロアへ忍び込むわけにも行かない。 見つかったら更なるインタビュー攻めが待っているのは明白だ。 何かいいアイデアはないものか。 ……。 大浴場の前で待ち伏せ。 死ぬ気か、俺は。 談話室の前に人だかりができていた。 「はい、次はこちらの逸品っ!」 かなでさん? 「あ、孝平くん。どうだった?」 「留守だった」 「ところで、なにこれ?」 「卒業した先輩たちが置いていった物をオークションしてるの」 「孝平くんも参加してみたら?」 人垣の中で、小さな寮長が元気な声を上げている。 「これをただの観葉植物だと思うなかれっ」 「この子はなんとアセロラの木」 「そのうち赤くてかわいくておいしい実をつけるの」 「500円!」 「550っ!」 「しかも元水泳部部長のだから、食べると水中での速度が5%アップするかも!」 どういう不思議アイテムなんだそれは。 ノリのいい生徒たちが次々と入札する。 結局、そこそこの値段で引き取られた。 かなでさんが、手元の紙にチェックをつける。 「次はぬいぐるみっ」 右手には凶悪な顔の羊。 あんなもの誰もいらんだろ。 「なんと準ミス修智館だった萩原先輩が抱きしめて寝てた可能性がっ」 「5000っ!」 いきなり高っ! 「6000円!」 「9000っっ!」 一部の生徒が熱狂し、高値で競り落とされる。 「かなでさん、もしかして買わせるのうまい?」 「そうだと思う」 陽菜が嬉しそうに微笑む。 「んー、次はこれです。謎の雑誌の束」 「ある匿名の先輩の出品です」 「しばってあるので中は確認してないんだけど」 みんなの視線が雑誌に集まる。 「……男子生徒にとてもお勧めだそうですよー?」 ニヤリ。 かなでさんが闇取引の売人のように笑う。 「2000っ!」 「2500円っ!」 カンカンカン 「全員動かないでっ」 一瞬で場が凍りつく。 フライパンとおたまを装備したシスター天池だ。 「なんの騒ぎですか?」 生徒たちは互いに顔を見合わせ、戸惑っている。 「わたしが責任者でーすっ」 かなでさんの声が上がる。 「悠木さん、なにをしてたのですか?」 「先輩諸氏の残した不要品をオークションしてたんです」 「あなた寮長でしょう?」 「まるちゃん、きびしー」 「その呼び方はやめなさい」 「まるちゃん?」 「シスターの洗礼名が、マルガリータなの」 なるほど。 「お姉ちゃん以外の人が言ったら、きっとすごく怒られると思うよ」 「どんなものを売っていたのですか」 謎の雑誌の束にシスター天池が手を伸ばす。 一部の男子が祈るように天を仰いだ。 「こっ、こここっ、こんなものは学院にあってはならないものですっ!」 「没収!」 一部の男子が死んだ魚の目をした。 「無念……」 かなでさんも一緒に落胆した。 「そもそも、オークションの開催自体を許可していませんっ」 「でも、談話室のクッションはオークションの売り上げで買ったんです……」 ぱちぱちと拍手。 「まるちゃんが使ってる脱衣所の体脂肪計もです」 拍手が大きくなった。 「む……」 「続けちゃ、ダメでしょうか?」 「ですが……」 「まあ、いいじゃないですか天池先生」 いつの間にか、シスター天池の後ろに青砥先生が来ていた。 「青砥先生がそう仰るのであれば……」 「悠木君も出品するものには十分気をつけてくれよ」 「はっ、了解であります」 「ふしだらな物の出品は認めませんからね!」 「気をつけます」 「じゃ、続けてくれ」 ……。 二人が立ち去った。 「はいっ、それでは次は女子の皆さん注目っ」 何事もなかったように、説明を始める。 「ウェストが引き締まると噂のバランス・ザ・ボール改!」 「提供は茶道部の真鍋先輩だよ。あの抜群のスタイルの秘密はこれだったのです」 「落札したらぜひわたしにも貸してね!」 オークションは再び盛り上がっていった。 「いやー、わたし頑張った」 「それ自分で言わないほうがいいです」 「でも、いくつか残っちゃったね」 「まー、食器はしかたないよ。いつも山ほどあるから」 「なるほど」 「この急須とか、サイフォン、まだまだ使えそう」 「このティーカップセットももったいないな」 「じゃあこれ、こーへーの部屋行きね」 「はい?」 「これ使って時々みんなでお茶会しよう」 「でも男子フロアですよ」 「女子フロアから男子フロアへの移動は自由だよ。逆はダメだけど」 いや、ちょっと。 「よし急ごうっ」 「おー、ずいぶん綺麗になってる」 「ほんとだ」 「こーへーはいい子に育ったね」 ぽんぽん、と肩を叩かれた。 「わたしのおかげだね」 「違います」 「反抗期?」 「違う」 「孝平くん、ここに置いておけばいいかな」 「うん」 「俺の部屋なんですが」 「嫌?」 「嫌っていうか」 「本当に嫌ならやめるよ」 ずるい。 「……置いてくれ」 「いいの?」 「ああ」 素直に敗北した。 「それでこそこーへーだよ」 というわけで俺の部屋には、喫茶店でも開けそうな大人数用のお茶セットが常備されることとなった。 「Zzz」 「……」 司はそうするのが当然のように爆睡。 紅瀬さんは教科書も開かず、じいっと窓の外を見ている。 新学年、新学期。 どんなにやる気がない人でも、少しは緊張してる時期だが。 「Zzz」 「……」 二人の神経は常識を越えていた。 「では、この問いを……紅瀬、答えてみろ」 注意する意味もあるのだろう。 教師はにこやかに指名した。 「x=−y±√(y^2−4πr)/2πです」 紅瀬さんが呪文を唱えた! 「ぐむっ……」 教師は黙ってしまった! ちょっと同情する。 かちかち む? シャーペンの芯が切れた。 予備もない。 「はい」 すっと、隣の席から芯が渡される。 「さんきゅ」 「うん」 すぐに視線を黒板に向ける陽菜。 真面目だ。 俺はといえば、頭の半分は授業に向けつつも、もう半分は副会長の件に使っていた。 ここ数日で、女子風呂の噂は下火になりつつある。 それは、意外にも会長のおかげだった。 といっても、彼が尽力してくれたわけではない。 単に、会長のお茶目さが広く知られており、事情を説明すれば、 「会長ならやりかねないね。ご愁傷様」で収まってしまう、というだけのこと。 しかし、有名になってしまったのは事実だ。 俺が加害者であれ被害者であれ、しばらくは「あの」支倉君だろう。 問題は、どう見ても被害者である副会長だ。 なんとか謝らないと……。 「では、ここを……八幡平、答えてみろ」 「Zzz」 教師の手の中で、チョークが砕けた。 放課後。 「やっと終わったか」 大きく伸びをする司。 体の節々がばきばき鳴っている。 「机なんかで、よく一日中寝れるもんだ」 「親切に子守歌流してくれてんだ。難しかない」 「ひでえ」 「ひどさなら紅瀬が上だ」 ちらりと後ろの席に目をやる。 紅瀬さんは、ちょうど椅子から腰を上げたところだった。 「心外ね。私は先生の質問に答えただけだわ」 「な、上だろ」 「まあ、な」 「さよなら」 冷たい視線を俺たちに向けてから、紅瀬さんは消えた。 「さすがフリーズドライ」 「なにが?」 「紅瀬。そう呼ばれてるらしい」 「納得」 「そんじゃ、俺もこれで」 「部活か?」 「信頼と実績の帰宅部だ」 じゃっ、と教室を出ていく司。 「孝平くん、もしかして部活探してる?」 「まあ、ぼちぼち」 曖昧に答える。 俺は部活に縁がなかった。 すぐ転校するのがわかっていて、入部する気にはならなかったからだ。 「あ、そっか……」 雰囲気を察したらしい。 「ちなみに陽菜は?」 「美化委員会。ゴミ拾いしたり、花壇の世話したり」 「なんか、似合ってるな」 「ん? 褒められてる?」 「ああ」 「ま、そのうち部活見学でもするよ」 「うん、それがいいよ」 「じゃ、俺、行くとこあるから」 「はーい、またね」 そう。 俺には行くところがあるのだ。 …… ………… 「おーい……」 監督生棟には誰もいないようだった。 そっと扉を押してみたが、鍵も閉まっている。 これじゃ、いつ話ができるかわかったもんじゃない。 教室訪問するしかないかな。 風呂にも入り、もう少しで(一応の)消灯時間になる頃。 携帯が鳴った。 ……かなでさんからだ。 「はい」 「今から、お茶飲みに行っていい?」 「葉っぱとか豆とか仕入れてきたの」 昨日の今日でさっそくとは、手際がいい。 「いいですが」 「ちょっと待って、部屋を片づけ……」 がちゃ。 「というわけでこんばんはっ!」 「ぶっ」 「おじゃまします」 「部屋の前で電話したんですか」 「なんかドラマっぽくて楽しいでしょ」 そりゃ、電話する方は楽しいだろう。 「じゃあ、私はお湯沸かしてくるね」 「こーへー、あのテーブルある? 引っ越しのときにあったでしょ」 「ああ、折りたたみのヤツですね」 部屋の隅からテーブルを引っ張り出す。 「これでいけるかな?」 「大丈夫大丈夫〜♪」 「うりゃっ」 かなでさんが元気よく白いクロスをテーブルにかける。 「お茶菓子もあるよ」 「こーへーは、昨日のティーセットよろしく」 「了解」 こうして準備は進んでいく。 「いま蒸らしてるから、紅茶はもう少し待ってね」 「コーヒーミルも探さないと」 「紅茶があればいいんじゃ」 「コーヒー好きの人が困るでしょ」 今後も遊びにくるつもりらしい。 「それより、クッションを探しましょうよ」 女子組にクッションを譲ったので、俺だけカーペットにあぐらだった。 「しょーがないなー、暇があったら探しとく」 「あ、そろそろ時間だね」 陽菜がティーポットを持つ。 カップに注がれていく琥珀色の紅茶。 部屋の中に華やかな香りが満ちる。 「わ〜、おいしそう」 「いい香りだ」 三人分のお茶がそろう。 テーブルの真ん中には、クッキー。 優雅な取り合わせだ。 男だけだったらこうはいかない。 「ではでは、いただきまーすっ」 「召し上がれ」 「いただきます」 カップに口をつける。 これは…… 「!」 「どう?」 「ふわ〜、いい感じだね……」 「さっすがひなちゃん、わたしのヨメ!」 嫁なのか? 「うん、おいしくできてよかった」 「俺、あまり紅茶って飲まないんだけど……」 「これはうまいな。正直びっくりした」 「いい褒め方だね」 「いやホントに」 「ありがとう」 「クッキーもうまい」 「それは購買で買ったヤツ」 「……紅茶のおかげだな」 「あはは」 「それじゃ、次は緑茶タイム!」 「なんだそりゃ」 「いろいろ試してみようと思って」 ティーセットは片づけられ、急須と湯飲みと煎餅が出てきた。 「でも、始業式は大騒ぎになって大変だったよね」 とぽとぽと日本茶を注ぎながら陽菜が言う。 「一躍有名人だし」 「有名人というかさらし者ですけどね」 「そういえば、昨日は千堂さんと会えたの?」 「留守だった」 「あらら」 「できれば、副会長のクラスを教えてほしいんだけど」 「たしか隣のクラスになったんじゃないかな。2組だと思う」 「わかった」 「誤解はちゃんと解いとかないとね」 「うんうん」 「明日は新入生歓迎会だし、そこでも会えるはずだよ」 「じゃあ、そこで聞いてみるか」 「ではでは、支倉こーへーくんの健闘を祈って、乾杯しよう」 「お姉ちゃん、日本茶なんだけど……」 「細かいなぁ。そんなんじゃお嫁に……」 「あ、わたしのヨメだからいっか」 自己完結。 「それじゃ、かんぱーい」 「かんぱーい」 「がんばりまーす」 がちっ 湯飲みだけに乾杯の音は鈍かったが、妙に和んだ。 「また、こんな風にお茶が飲めるなんて思わなかったね」 「んだね。めでたいよこれは」 「でもさ、やっぱり気にしてるかな、孝平くん」 「ひーなちゃん」 「大丈夫。こーへーもわかってるはず」 「でも……」 「でもじゃない」 「誰も悪くないのに、ひなちゃんだけが気に病むのはよくないよ」 「みんな気にしないか全員が気にするか、どっちかにしよう」 「う、うん」 「こーへーがもしヘンなこと言ったら、わたしがぶっとばしてあげるから」 「あの、そういうことじゃなくて……」 「いいから、お姉ちゃんに任せなさいって!」 「…………うん」 朝。 教室前まで来てみると廊下がざわついていた。 けっこうな数の人が集まっている。 「これは?」 「ただの恒例行事だ、気にするな」 「そう言われると、余計に気になるだろ」 「あれだ、あれ」 人垣の中を指さす司。 背伸びして中を見る。 「紙が貼ってあるな」 「後期の学年末テストの結果だ」 「なんで今ごろ発表するんだ?」 「わざと遅らせてんだ。個人成績は後期のうちに配ってるからな」 「春休みで抜けた気合いを入れ直せってことだろ」 「なるほど、ご苦労なこった」 「ま、俺たちには関係のない話さ」 「俺は受けてないから関係ないけど、お前は違うだろ」 「俺も受けてない」 「受けろよ」 「正確には、受けた記憶を失った」 結果は聞くなということか。 「……なんの話?」 陽菜が会話に入ってきた。 心なしか不安そうな顔をしている。 「テストの話」 「あ、前にやったのだね」 「私もちょっと見てくるから」 人ごみに入っていく。 「くっ」 人混みの中に副会長がいた。 どこにいても目立つ人だな、良い意味で。 「また、あの子……」 非常に不機嫌そうな顔をしている。 「なんだあれ?」 「恒例行事の一部」 「話しかけても大丈夫かな?」 「やめとけ、今は最悪のタイミングだぞ」 「まあ、そんな気はするな」 「副会長は毎回、総合成績ダントツのトップなんだ」 「はあ」 「だが、数学だけは一位を取れない」 「苦手なのか?」 「いや、数学のトップは他のヤツの指定席なんだ」 「誰の?」 「紅瀬桐葉」 「え」 意外。 「しかも毎回ほぼ満点」 「すごいな……」 「もー、ばっかにしてるわ!」 ぷんすかしたまま、副会長は去っていった。 「またやってるね」 陽菜が戻ってきた。 「バカにしてるってのもひどい言いぐさだな」 「紅瀬さんだって頑張ってるわけだし」 「しかたないよ。紅瀬さん、他の教科が全部赤点ギリギリなんだもん」 「私の勘では、狙ってやってるんだと思うの」 女の勘を持ち出されるまでもなく、それはわざとだろ。 紅瀬桐葉。 侮れない女。 「ところで陽菜は?」 「え、私?」 「ふつう、だったよ」 謙遜してるようだった。 「司は結局どうだったんだ」 「さーて、寝るか」 そそくさと、教室へ入っていった。 昼休み。 昼食を終え、教室に向かう。 「お」 はるか彼方。 本敷地から歩いてくる人影が見えた。 あれ……紅瀬さんじゃないか? 紅瀬さんは、段ボール6つを抱えていた。 重ねられた箱は、彼女の額くらいまでの高さがある。 前が見えていないのかフラフラしていた。 「手伝うぞ」 「だれ?」 「支倉だ」 「ああ、支倉君」 やっぱり前が見えていないらしい。 「結構よ」 「見るからに辛そうなんだが」 「それでも結構」 「そういうことは、まっすぐ歩けてから言えよ」 ひょいっと、3箱奪う。 10キロはなさそうだが……。 紅瀬さんは、この倍を持ってたわけで。 「一人に持たせる量じゃないだろ」 「サディストの体育教師に好かれてるみたいね」 「好かれる相手は選べよ」 「選べれば苦労しないわ」 ひとつ鼻を鳴らして、紅瀬さんは歩き出した。 やや遅れて横に並ぶ。 「これ、どこまで運ぶんだ?」 「5年の教室に、ひとつずつ置いてこいって。生徒手帳らしいわ」 「そっか」 5年生は6クラスある。 だから箱も6つ。 「にゃー」 「ん?」 どこからともなく黒い猫が寄ってきた。 そして、紅瀬さんの足元にまとわりつく。 「どいて」 「なーお」 言葉虚しく、黒猫は彼女の足の間をすり抜けたり、進路を妨害したり。 「ほら、どいて」 「にゃおん?」 まったく離れる気配がない。 そんな猫を、紅瀬さんは危なげないフットワークで避けている。 「紅瀬さん、運動神経いいのか?」 「さあ? 考えたことないわ」 そうは言っているが、運動オンチだったらすぐ転んでしまうだろう。 「先生だけじゃなく、猫にも好かれるなんてびっくりだ」 「貴方にからかわれるなんて、厄日ね」 「ははは」 「で、この猫なんで寄ってくるんだ?」 「猫に聞いて」 「おう」 「なんでだ、猫」 「にゃー」 「うまそうな臭いがするからだってさ」 「猫の言葉がわかる人なんて初めてね」 「話せるなら、どくように伝えて」 「離れてろ」 「にゃお」 猫が去っていく。 「……」 「念のため、俺は猫語なんて知らないからな」 「わかってるわ」 ようやく昇降口に着いた。 「もうちょっとだから、頑張れよ」 「平気」 そう言って、紅瀬さんはずんずん先に進んでいく。 下足のままで。 「……」 気づいてないのか、わかってやっているのか。 リアクションに期待したい。 「おーい」 「なに?」 「靴」 「……ああ」 「それがいいかもしれないわね」 紅瀬さんは、そそくさと靴を履きかえる。 「これで満足?」 俺の希望で履きかえたことになってるらしい。 照れ隠しなのか、少しむっとしている。 「満足満足」 「行くわ」 身をひるがえし歩き出した。 アクは強いけど、けっこうイジると面白いやつだ。 放課後。 今日は新入生歓迎会とやらが催されるらしい。 教室はその話題で持ちきりだ。 「孝平くん、一緒に行かない?」 「おう」 学食には、すでにたくさんの生徒が集まっていた。 各部活の新入生勧誘も行われるらしく、ユニフォーム姿の人も多い。 中には、ちょんまげだのチャイナ服だの、謎の格好の人もいる。 新入生歓迎会は、立食パーティ形式のようだ。 テーブルには、唐揚げや焼きそばなど、パーティーメニューがところ狭しと並べられている。 その上、配膳カウンターには、すごい数のおじさん・おばさんが並んでいた。 随時、注文もできるってことか。 「……」 すっと、紅瀬さんとすれ違う。 そっちは出口じゃ? 「紅瀬さん、帰っちゃうの?」 「ええ」 「ああそう。支倉君、今日は助かったわ」 それだけ言って、紅瀬さんは去っていく。 「何かあったの?」 「荷物運びをちょっと手伝った」 「ふうん」 「紅瀬さん、なんか食べてけばいいのにな」 「残念だね」 「まあ、あの人、こういうの嫌いそうだし」 初日の遅刻といい、テストの成績といい、変わった人だと思う。 拍手がわきあがった。 即席で作られた演台(脚立)の上でマイクを握り、挨拶するのは…… かなでさん!? 「しょくーん、静粛にっ!」 「寮長の悠木です。別名、白鳳寮の良心」 「おいおいおいおい」 「やだなぁ、HAHAHA」 「キミら、あとで風紀シール」 新入生は見るからについてこれてない。 「今日は歓迎会ということで、食事は先輩のオゴリになりまーす!」 「存分に、学食の素晴らしい料理の数々を楽しんでくださいね」 「ただし……」 急に声のトーンが落ちる。 「料理を残した人は、あちらの『学食の鉄人』に顔を覚えられて、3年間不幸な学食ライフが確定」 「オゴリだからって、無謀な注文はしちゃダメだよ」 この前の鍋、残さなくて良かったな。 「あとね、全員が一度に注文するとあっという間にパンクするから、まずはテーブルのものを平らげること」 「わかったー?」 「はーーーい」 「はい、それじゃ新入生、入学おめでとう」 「いただきまーす!」 「いただきまーすっ」 わっ、と新入生がそれぞれの食べたいものを売っているコーナーに押し寄せる。 「キミら、返事したでしょーーーーっ!」 ギガバーガー、海老あなご天うどん、カニと帆立のカレー、特製担々麺トッピング全部乗せ大盛……。 高いメニューから飛ぶように売れていく。 そして各部のデモンストレーション。 チラシが宙を舞い、ダンスあり歌あり演武あり。 お祭りのようににぎやかだ。 さて……。 副会長と話をすることができるかな? あの、華やかで目立つ副会長なら、このお祭り騒ぎの中でもすぐ見つかるに違いない。 会場内をウロウロしていると、とある映像が目に入った。 急ごしらえのスクリーンに流れる校内のピンナップと解説。 「……」 見覚えあるぞ、あの構図、あの手ブレ。 「俺が撮った写真じゃねーか」 ここで使うなんて一言も聞かされていない。 ……。 どうやら、108の秘密はかなでさんの罠だったようだ。 会長といい寮長といい、困ったもんだ。 「あ」 すぐ隣から声が聞こえた。 「君か」 東儀先輩だ。 その後ろに隠れるように、白ちゃんが立っていた。 「こんにちは」 ぺこり、と頭を下げる。 「先日、ウサギを捕まえてくれたと聞いたよ」 「妹が面倒をかけて悪かったな」 「面倒というほどじゃ」 「ほら、白」 「あ、はい。あの、ありがとうございました」 再び頭を下げる。 なんだか恐縮だ。 「あんまり気にしないで」 「あ、はい」 「……では、行くぞ白」 「はい、兄さま」 ぺこりと頭を下げる。 三度目だった。 ほどなくして、副会長は見つかった。 多くの人に囲まれ談笑している。 待っていれば、話しかけるチャンスはあるはず。 ズルズル引き延ばしてもしかたがないし、ここで決着をつけよう。 ……。 少し待っていると、副会長が人垣から出てきた。 どうやら、料理を注文しに行くようだ。 ちゃーんす。 「副会長」 「あ……」 副会長の身体が緊張したのがわかった。 「ちょっといいか?」 「かまわないけど」 そっけなく言われる。 待ち合わせをすっぽかしている手前、仕方ない。 「あ、ボロネーゼをお願いします」 カウンターにオーダーを告げる。 「前は、待ち合わせの場所に行けなくてごめん」 「まったくね」 「あの状況で待ち合わせを無視できるなんて、どうかしてるわ」 かなでさんの鍋に巻きこまれたのが原因だが……。 人のせいにしても仕方がない。 「ごめん」 深々と頭を下げる。 視界には入っていないが、副会長が俺をじっと見ているのがわかる。 向こうが許してくれるまで、頭は上げまい。 ……。 …………。 ………………。 「いいわ。私もそっちの予定を確認しないで一方的に約束させたし」 「その段階で断らなかったのは俺だ」 「殊勝ね。その態度に免じて許してあげる」 「あと」 「なに?」 「風呂場のこと」 「ああ」 ぶすっとした表情になる。 「兄さんから聞いているわ」 「あなたに悪意がないのはわかってる」 「でも、見たほうが謝るのが筋だ」 「ごめん」 「へえ……」 「ま、あんな手に引っ掛かるのもどうかと思うけど、転入したてじゃしょうがないわね」 「そう言ってもらえると助かる」 「私も始業式ではやりすぎたわ」 「……」 回想したくもない映像が頭を流れた。 「噂はほとんど消えたし、もういいよ」 「はい、ボロネーゼおまちどっ。大盛りにしておいたよ」 「……あ、ありがとうございます」 二人前はあろうかという料理を受け取る副会長。 「瑛里華ちゃん、相変わらずきれいだね〜」 「もう、おだてないでください」 屈託なく笑う瑛里華。 「それとさ」 「まだあるの?」 大ありだ。 会長によれば、きれいな副会長は、俺に一目惚れしているらしい。 真偽のほどを確かめなくてはならない。 「副会長は、一目惚れするタイプ?」 「はあ?」 なに言ってんの? って顔をされた。 「だから、一目惚れ」 「そうねえ……」 顎に手を当てて考え始めた。 けっこう真剣に考えてくれている。 ……。 …………。 「うん、したことないわ」 「そっか」 ちょっと残念。 「恋愛相談なんて、どういう了見?」 「ああ、実はさ……」 「ちょっと待った」 いきなり俺の言葉を遮る。 「ちょっとまって、ちょっとまって、ちょっとまって……」 呪文のように唱えながらうつむく。 なんか考えてるらしい。 ……。 副会長がゆっくりと顔を上げる。 剣呑な表情をしていた。 「兄さんでしょ、そういうこと言ったの」 「ご明察」 「なんなのよ、あの人」 「なんですぐバレるようなことを言うのかしら」 怖えよ。 「ま、あれだ、誤解が解けてよかった」 「そうね」 「兄さんには、私から言っておくわ。こってりとね」 「よろしく」 「でも、会長はなんで一目惚れなんて言ったんだ」 「面白そうだから」 「あの人はいつもそう」 「それじゃ、情報ありがと」 「ああ、こちらこそ」 「それと……」 満面の笑みを浮かべる副会長。 「これ、半分食べて。私、こんなに食べられないから」 と、さっき頼んだボロネーゼを渡された。 ずしっとくる量だ。 手加減しろよ鉄人。 「いま?」 「いま。約束破った罰だと思って」 「……」 ずぞっと口に入れる。 味は抜群だ。 さらに一口。 ふた口。 ……。 …………。 「さすが男の子」 通常の一人前程度に減った皿を受け取り、副会長は満足げにうなずく。 「助かったわ」 そう言って立ち去ろうとする。 「副会長、フォーク」 「ん?」 皿には、俺の使ったフォークがそのまま載っている。 「ああ」 「言わなきゃ気づかなかったのに、残念だったわね」 「嬉しくないから」 「あらそう」 「それじゃ」 星でも飛び出しそうなウインクをして、副会長は人垣のなかに帰っていった。 「おう、済んだな」 司が寄ってきた。 「見てたのか。面白いもんじゃないだろうに」 「そうでもないさ」 「ずっと副会長に謝る謝る言ってたが、俺は、結局謝らないと思ってた」 「謝らない理由がない」 「俺なら謝らないな。風呂の話は、どう見てもお前が被害者だ」 「どういう事情でも、女の裸見たら、男が謝るのが筋だろ」 「へえ」 「情けないと思うなら、それでもいいさ」 「いや、けっこう見直した」 「今までは、どう見られてたんだ?」 「周りに振り回されっぱなし」 「……否定はしない」 周りが強烈すぎだ。 「ま、ともかく筋を通すのはいい」 「長くつきあえるのは、そういうヤツだ」 「そうかもな」 にっと笑って、司は出口へ向かう。 「司、まだ閉会まで時間あるぞ」 「新入生ビビらしちゃ、あとで寮長から怒られるからな」 「んじゃ」と手を振って、司は立ち去った。 「……」 男の勘ってのは聞かない話だが…… なんとなく、司とは長くやっていけそうな気がした。 「歓迎会、お疲れさま」 「たいていは寮長任せよ。褒めるなら彼女を褒めてあげて」 「ああ、悠木姉か」 「彼女、よくやってるよね」 「そうね」 「つれない返事。まだ根に持ってるの?」 「別に」 「それで、待ち伏せまでしてなんの用?」 「別に」 「それじゃこれで」 「おいおいおいおい」 「なんなの?」 「いや、彼と熱心に話してたからさ」 「どうせ盗み聞きしてたんでしょ」 「してないさ」 「で、なに話したの?」 「兄さんが撒いた火種を消してただけよ」 「なんのこと?」 「1、お風呂 2、一目惚れ」 「もったいない」 「彼が『最近、副会長に避けられてる気がするんです』なんて言うから、もっともらしい理由を付けてあげたんだぞ」 「小細工は無用よ。こっちはかなり慣れたから。不意打ちでもない限りは取り乱したりしないわ」 「つまんな……いや、よかったよかった」 「もうこの件は終わり。チャラ。いい?」 「運命の出会いをなかったことにしちゃうのかい?」 「運命でもなんでもないから」 「これ以上余計なことしたら、ただじゃおかないからね」 「へいへい」 大浴場で歓迎会の汗を流し、部屋に帰ってきた。 なぜかティーカップが並んでいた。 「誰だ」 「わたしだ」 他人の部屋なのに、やたらと偉そうだ。 「お茶会の用意しといたよー」 「あ、孝平くん、勝手に入っちゃってごめんね」 「その常識的な対応に救われる俺の精神」 「その精神を常に痛めつけるわたし」 「立ち直れない俺」 「うそうそ、ごめんごめん」 うなだれた俺の頭をかなでさんが撫でる。 「こーへーにおいしいお茶を飲ませたら、元気になるかなーと思って」 「うまいんですか」 「そりゃそうよ!」 「料理記者歴50年の先生でも大納得」 「期待しますよ」 「おう、バリバリしてちょーだい」 「じゃ、ひなちゃんよろしくっ」 「……ここはコケればいいところですか」 「あ、お茶淹れてるから、あまり埃をたてないでくれると嬉しいな」 「姉妹でボケかっ!!」 波状攻撃を俺に食らわせながらも、いつの間にか進んでいくお茶会の準備。 部屋がたまり場になるのはいいとしても…… 部屋主がいないうちに中に入ってるのは、全面的におかしい。 「あのな、二人とも。聞いてくれ」 「いるか孝平」 打ち合わせでもしていたかのようなタイミングで、司がやってきた。 「ちょうどいいや。一緒に聞いてくれ司」 「なんだ?」 「なになに?」 「聞くよー」 こほん、とわざとらしい咳払いを一つ。 「部屋主がいない間にお茶会の準備が進んでるのは、不思議じゃないか」 「何やってんのかと思ったら、お茶会?」 「そう! おいしいお茶を飲むの」 「お菓子もあるんだよ」 「ほら」 クッキーかスコーンか、とにかく小麦を焼いた系のお菓子を出す。 「どれ」 司が一つつまむ。 「話を聞けい!」 「うまいな」 「でしょーっ!」 「だから、なんでかなでさんがいばってるんですか」 「えへへ」 褒められて陽菜は喜んでいる。 司は紅茶もぐっと飲み干すと、いつになく真剣な顔で俺の方を向いた。 「なあ孝平」 「ん?」 「このお菓子」 「このお茶」 「俺も自分のマグカップ持ってきていいか?」 「話が飛んだ! 今!」 「参加者は大歓迎」 「私たちも自分のカップ持ってこようよ」 「飛んだ先の話を展開するなっ!」 「孝平」 「もう少し、おおらかに生きろ」 「そうだよ、男の子なんだからっ」 「広い心!」 「そして、広い部屋!」 「引っ越してきたばかりだもんね」 「そこかよ!!」 3対1で見事に押し切られた俺。 「かんぱーい」 めいめいに紅茶・ほうじ茶・緑茶・菊花茶などを試しつつ、お菓子をつまむ。 「ところでキミ」 「俺か?」 「お名前は?」 「八幡平司」 「はちま?」 「はちまんだいら・つかさ」 「どう書くの?」 「めんどくせーな」 「孝平、書くもんある?」 「ほらよ」 紙とペンを渡す。 ……。 「はちまんだいら……どっかで聞いたような……」 「どうしました?」 「あーなんでもない。しっかし珍しい名前だね」 「長いから、司でいい」 「わかったよ、へーじ」 「わかってねえ」 「やあ、へーじ」 「お前までなんだ」 「さっき、俺の話を聞いてくれなかっただろ」 「こっちは重大な問題だ」 「こっちは重大じゃねえってことかおい」 「キミらが仲良くケンカしている隙に、へーじと呼ぶことに決めた」 「もういい」 諦めたらしい。 「もうちょっと抵抗してくれよ」 「いや、お前には抵抗するが、寮長には無理だ」 「シスターをまるちゃん呼ばわりする人だ」 「そうだったな」 「アオノリも『のりぴー』って呼ぶよ」 「自慢しなくていいよ、お姉ちゃん」 「アオノリって誰?」 「青砥先生」 「フルネーム、青砥正則だろ」 「なるほど」 軽く相槌を入れてみるが、かなでさんは思案顔で腕を組んでいた。 「むむ……? はちまんだいら……?」 「かなでさん?」 「あああーーっ! あの八幡平かーっ!」 「お鍋のときも会ってるよ」 「そうだっけ?」 「なに? どういうこと?」 「顔と名前が一致してなかったんだけど……ようやく思い出した」 「大悪人なのだよ、彼はっ」 びしっと司を指さした。 「なんのことだ」 「居眠りの常習犯でしょ」 まさしく。 「しかしそれは仮の姿。へーじの本業は、泣く子も黙秘する闇の調達屋さね」 「調達屋?」 「平日外出が許可されてるのをいいことに、街で調達した物資を寮で高く売りさばくの」 「どこの牢獄の話ですか?」 「ここ、ヒアー(Here)、白鳳寮プリズン」 「そういえば、平日に外出してる人っていないな」 「書類に外出理由を書いて、寮監の先生のハンコをもらわないと外出できないの」 「そうだっけ?」 「寮生活のしおり読んでないの、こーへー?」 「で、司は買い物を頼まれていると」 「わたしの目を見なさい」 ぺしっ 風紀シールを貼られた。 「で、なんで司は外出許可をもらえるんだ?」 「バイト。家計が苦しい」 「ああ……」 放課後、どっかに消えてたのはそれか。 「どんなアルバイトしてるの?」 「寿司屋」 「寿司屋でその頭はないだろ」 「デリバリーだけだ」 「ほほう、どんな乗り物でデリバリーしておるのかね?」 「チャリ」 「ふふん、うまく逃げたね」 「余罪を引き出そうとしないで下さい」 「ともかく、このへーじは極悪犯なの」 「司が犯人だってばれてるんだろ? 闇でもなんでもないじゃん」 「現行犯じゃなきゃセーフだ」 「そう……状況証拠しかないの」 「先代の寮長なんて、現行犯逮捕できなかったショックで……」 「……」 「卒業してしまったぁーーーっ」 「普通だし」 「ともかく、わたしが寮長になったからには好きなようにはさせないからっ」 「好きにしてくれ、俺も好きにする」 「おのれー」 うるさいことこの上ない。 「ほら、これでも食って」 と、コンビニのビニール袋から取り出したのは……。 「梅昆布茶チップスだ!」 「わ、新作だね」 「どれどれ……」 「おいしー」 さっそく試食するかなでさん。 「これ、調達品ってオチだろ?」 「もちろん」 「ぐ……」 「食べ物に罪はなしっ!」 開き直った。 「こんど、アボカドスカッシュを買ってきてくれたら今までの罪を許そう、うん」 犯罪者を取りこみ始めた。 「私は一角堂のラーメン食べたら、きっと今日のことは忘れるよ」 「俺、月刊ビジネスサンデー」 「そっちの方が悪どくないか?」 「気のせい気のせい」 「しょうがねえな。お茶会の茶菓子は提供しよう」 「おーし」 犯人と、それに寄生して甘い汁を吸う悪徳警官の図だった。 しばらくして、会はお開きとなった。 「また明日ねー!」 「おやすみー」 「おつかれ」 ばたん 時計を見ると、間もなく消灯時間だった。 これまで、こんな時間まで友達と遊んでいることはほとんどなかった。 今は遊んでるばかりか、自分の部屋がそういう場所になっている。 不思議なもんだ。 そういや…… かなでさんと陽菜、俺が部屋の鍵を開ける前から中にいたような。 どこから入ってきたんだ? 昼飯を食った直後の授業は辛い。 血液が胃腸に取られてるのか、血糖値が上がっているのか。 なんにしても、ひたすら眠くなるのだ。 教師すらあきらめ顔になる。 ──だから、時間割のその位置に体育の授業があるのは、絶妙な配置だと思う。 「おらいくぞ、孝平っ」 今日の授業はサッカーだ。 珍しく司が起きている。 そればかりか、活躍していた。 「よっしゃ、こいっ!」 キーパー用グローブをはめた手を、パンッとたたき合わせる。 すでに2ゴールを決められている。 これ以上はやれない。 「通すかっ」 「ほいっと」 チームメートが、あっさりかわされる。 見るからに経験者の動きだ。 「よっ」 「ほっ」 続けざまに、二人、三人とかわし、司はあっという間に目の前。 「いくぞっ!」 司の重心が下がった瞬間、 右足が閃く。 「っっ!」 直感したコースに飛び込んだ。 ずざざざーーーーっ 地面をしばらく滑った。 「いてえ……」 痛いがしかし、ボールの手応えはあった。 寝てはいられない。 立ちあがって前を見る。 ボールは司のほうへポテポテと転がっていた。 「くそっ」 ボールめがけて走る。 シュートされる前にキャッチだ。 「よーし、いい根性だ」 司も突っ込んできた。 俺が先か、司が先か── 一瞬で距離がつまる。 「っっ!!」 その瞬間、信じられないことが起こった。 横合いから、もうひとつボールが飛び込んできたのだ。 「待てっ!」 「知るかーーーっ」 地面に滑り込み、もうひとつのボールをキャッチ。 ごうっとすごい音をたてて、ボールが頭の脇を通り過ぎていった。 ホイッスルが鳴り響く。 3点目か……。 ま、しょうがない。 「おい、どうした?」 頭の上で司の声がする。 「いや……だいじょぶ」 ゆらりと立ちあがり、腕の中のものを見せる。 ……。 「ウサギ?」 「ああ」 ウサギの雪丸だった。 何が起きているのかわからないのか、赤い目で不思議そうに俺を見る。 「どっから来たんだ?」 「礼拝堂だ」 「礼拝堂? 非常食か?」 「なんでそうなる」 「ともかく、ちょっと届けてくる」 「礼拝堂は、昼休みと放課後しか人がいないぞ」 「マジか」 「ああ。放課後まで頑張れ」 「つーか、なんで授業中に人がいないこと知ってんだ?」 「野暮なこときくなよ」 「じゃ、あとは任せた」 「放置かよ」 「悪い。もう2、3点取らんと配当が悪くてな」 配当……。 「ま、孝平がキーパーじゃなきゃ、あと5点は軽い」 「お前、経験者だろ? 誰がキーパーでも同じだ」 「そうでもない。お前、いいスジしてるよ」 「ありがとよ」 「じゃーな」 とグラウンドに戻った司は、あっという間に1点取っていた。 「わあ、かわいいね」 「このウサギ、どうしたの?」 ざっと説明する。 「で、6時間目は面倒見なきゃならないらしい」 「ね、ちょっと抱いてみていい?」 「抱き方とかあるのかな?」 「あったような、なかったような」 「じゃあ、撫でるだけにしておくね」 「……うわあ、柔らかい」 陽菜が歓声をあげる。 「授業中はどうするんだ?」 ウサギをゴールに突き刺そうとした男が現れた。 「んー、とりあえず俺の膝の上を予定」 「大丈夫か?」 「さあ」 「なあ紅瀬さん」 後ろの席に話しかける。 「見ないふりしといてくれな」 「かまわないけど」 「そうだ、紅瀬さんも少し撫でてみない? この柔らかさは和むよ」 「……」 すっと、紅瀬さんが手を伸ばし、ウサギの背中に触れる。 なでりなでり 「……」 なんか……雪丸が震えてるんだが? 「柔らかそうね」 「それは、触る前に言うセリフだ」 「おいしいのよ、ウサギ汁」 「学食のメニューにはないようだけれど」 雪丸がマッサージ器のように振動している。 人間語がわかるはずはないから……紅瀬さんのオーラか? 「ま、まあ、とにかくよろしく!」 「ええ」 ──6時間目は、雪丸が粗相しないよう祈ることにした。 紅瀬さんの発言が効いたのか、雪丸は静かに6時間目をやり過ごした。 抱きながらその健闘をたたえつつ、礼拝堂に向かう。 「ゆきまるっ!!」 礼拝堂が見えてきたと思ったら、小さいシスターさんが飛びついてきた。 「ああ、やっぱり雪丸だよね」 「見つけたから、帰してあげようと思って」 「あ、あ……」 「あ?」 「ありがとうございます! ありがとうございます!」 泣いた。 ここまで喜んでもらえるとは思わなかったので、ちょっと驚く。 「じゃ、俺はこれで」 そう言って帰ろうとしたら…… 袖を、いつの間にかつかまれていた。 「あの、よろしかったらお茶でも飲んでいってください」 「あら、支倉君。どうしたのかしら?」 かいつまんで事情を話す。 「まあ、それはありがとうございました」 「床に隙間があって、そこから穴を掘って逃げたみたいなんです」 自由への逃走か。 お前も頑張ったんだな、雪丸。 しかし自由であるということは、自分の身を自分で守らなくてはならないということだ。 お前、ゴールネットに突き刺さるところだったんだぞ。 「無事でよかったです」 「もう少しでウサギ汁になるところだったんで」 「ウサギ汁……」 お茶をもったまま、白ちゃんはカタカタ震えていた。 「冗談だから」 「は、はい」 白ちゃんに冗談はやめといたほうがよさそうだ。 「あれ? 支倉先輩、血が」 見ると、手の甲にかさぶたができていた。 まだちょっと出血している。 体育で、何度も地面を転がってたしな。 「大したことないよ」 「でも、あの、心配です」 「消毒くらいはしておいた方がいいですよ」 「東儀さん、救急箱を」 「はいっ」 白ちゃんは小走りに奥へと消えていった。 治療が終ったころ、来客があった。 「こんにちは、シスター」 「こんにちは、東儀さん」 「ああ、支倉もいたのか」 「あ、こんにちは」 一瞬、東儀先輩にじろりと見られた気がした。 なんだろう? 「白、もう少し監督生室にも顔を出せよ」 「あ、はい。兄さま」 「手伝いしてるの?」 「いえ、私も役員なんです」 「え? 入学したばかりだよね?」 「ああ、君は転校生だったな」 「選挙は事後の信任投票だけなんだ。あとは、監督生室にいるのが役員になる」 「しかし、白は監督生室が苦手らしくてね」 と、白ちゃんの頭を撫でる。 「まだ緊張してるんですよ」 「ゆっくり慣れていけばよいではないですか。ね、東儀さん」 「ええ、それはそうですが」 心底、心配そうにしている。 「それじゃ俺はこれで。お茶ごちそうさまでした」 シスター天池と東儀先輩に頭を下げる。 「外までお送りします」 「本当にありがとうございました」 ぴょこん、と頭をさげる白ちゃん。 「こっちこそ、これ、ありがとう」 貼られた絆創膏を指さす。 「……」 「……どした?」 「支倉先輩は、生徒会に入るんですか?」 「ぶほっ」 「ど、どこからそんな話が」 「いえ、ちらっとそんな話を聞いただけです」 「あ、あの……」 「支倉先輩が入ってくれるなら、私も嬉しいです」 爆弾発言を残して去っていった。 ……。 …………。 俺が生徒会に入る? ちらっと聞いたって、どこで聞いたんだ? 白ちゃんは役員ってことだし、きっと他の生徒会の人から聞いたんだよな。 とすると、近いうちにお呼びがかかるってことか? 「……」 あのメンバーの中でやってくのは大変そうだ。 スゴ腕揃いってのは、あながちウソじゃないみたいだし。 なによりもまず会長がいる。 彼のヤバさは身に染みてわかったつもりだ。 まともにつきあってたら、遠からず胃に穴が開く気がする。 あとは副会長。 一目惚れがないってのはわかった。 ……。 「……あれ?」 なんか忘れてる。 副会長が一目惚れしてないってことは── はじめて会ったときから、ずっと避けられてるのはなんなんだ? 結局、振り出しに戻ってるじゃないか。 夕食を終えて部屋に戻る。 今日もお茶会が開かれるのだろう。 とすれば、確かめねばならないことがある。 かなでさんと陽菜が、どこから俺の部屋に入っているのか。 部屋の明かりを消す。 俺は、ベッドの布団の中で息を潜めた。 待ち伏せだ。 ……。 …………。 ………………。 かたん ほんのわずかな物音。 どこから聞こえた? ……。 かたかたかた ベランダか? しゅた ……。 からからから ベランダの扉が開けられる。 俺はベッドを飛び出し、部屋の明かりをつけた。 「やほー! こーへー!」 「あ、孝平くん、ごめんね。おじゃまします」 「ベランダから勝手に人の部屋に入るな!」 「えー、横暴だ横暴だ!」 「それはこっちのセリフです!」 「それに陽菜! 謝りながら『おじゃまします』って、悪いと思ってないだろ」 「しゅん」 「ひなちゃんをいじめるなー」 「いじめてない!」 「おー、今日もやるんだろ?」 「なんだ、さっそく盛り上がってるな」 「聞いてくれよ司」 二人の傍若無人な振る舞いについて話す。 「なるほど、わかった」 「孝平が、この部屋に、見られたくないものを隠していることが」 「なにー!」 「こーへー、いつの間にそんな悪い子にっ」 「男の子だもん、しょうがないよお姉ちゃん」 「ちょっと待て!」 「いつの間にか、何もかもが事実にされてしまうのは納得いかん」 「それでは単刀直入に聞く」 「この部屋に、二人に見られて困るものはあるか?」 「『答えない』という回答もアリとしよう」 む…… いや、そりゃ見られたくないものの一つや二つはある。 しかし、「ある」と言ってしまうのも敗北感が漂うな。 「あー……」 「じゃあ、『答えない』で」 「あるんだとさ」 「そっかー」 「仕方ないよ」 「人の話を聞け!!」 俺の憤慨は脇に置かれ、お茶会が始まった。 恒例になりつつあるのが少し気になる。 さっきの件は、俺のいない時に部屋に出入りするのは禁止。 ただし、ベランダからの行き来はアリということで収まった。 「こーへーが風邪で寝込んでたら、上の部屋から助けに来るからね」 「事前に電話をくれれば」 「えっ、寝込んでるところを起こしちゃまずいでしょー」 「汗をふいてるとこだったらどうすんですか!」 「もちろん手伝うよ!」 だめだ。 この人には俺、男だと思われてないんではなかろうか。 「あ」 「そういやさっき、廊下をうろうろしてる女の子がいたぞ」 「この部屋のプレートをじっと見てたけど」 「?」 「ちょっと見てみる」 玄関に向かい、ドアスコープから外を見る。 目が合った。 中をのぞき込んでいる。 ……白ちゃんじゃないか。 「わっ」 「やあ、どうしたの?」 「あ、支倉先輩」 「あの、その、実は」 「お客さんー?」 「中に入ってもらったらどうかな」 「そうだな」 「いま、友達とお茶会してるんだけど、一緒にどう?」 「え、ええと……」 きょろきょろしている。 「女の子もいるから、大丈夫だよ」 「でも」 どうも勇気が出ないようだ。 「ほら」 白ちゃんの手を取り、部屋に入れる。 「こんにちは」 「やっほー」 「こ、こんにちは」 「こっちに座って」 「ありがとうございます」 「孝平の知り合い?」 「ああ、東儀白ちゃん」 「東儀って……」 「うん、生徒会の東儀先輩の妹さんで、今年4年生」 「……でよかったよな?」 「はい、よろしくお願いします」 「教会でシスター天池の手伝いをしてるんだ」 「じゃあ、ローレル・リングに入ってるの?」 「はい。前期課程から入っています」 「ローレル・リングは人が少ないからね〜、貴重な人材だよ」 「はい、なかなか人が増えなくて」 「まるちゃん、いっつもヘコんでるもんね」 「まる?」 「え〜とね、シスターの……」 「いや、白ちゃんは染めない方が」 「そうだね」 「あ、わたしはキング・オブ・寮長ね、知ってる?」 「はい、悠木かなで先輩ですね」 「ぶっぶー、あれは芸名なんだ」 「??」 「真の名前は、マドリガルかなで」 「??」 「完全においてかれてるぞ」 「あの、悠木かなでが本名だからね」 「あ、そうなんですか」 やっぱり騙しちゃだめな人だ。 「私は悠木陽菜。寮長の妹で美化委員をやってるんだよ」 「よろしくお願いします」 「俺は司。帰宅部だ」 「あ、は、はい」 見るからに怯えている。 外見にインパクトあるからな。 「ところで、俺に何か用があったの?」 「あの」 「今日は、雪丸を見つけてきてくださって、ありがとうございました」 ごそごそと、持ってきたトートバッグから本を取り出す。 ウサギの本だ。 「実は、ウサギってとても骨が弱いんです」 「抱き方とかも、気をつけなくちゃいけなくって……」 「これに書いてあるの?」 「はい、そうです」 本を受け取る。 『ウサギのいる暮らし』という題名だった。 ぱらぱらと見ると、ウサギの扱い方について、図解などでわかりやすく書いてある本のようだ。 「ありがとう」 「いえ、雪丸をかわいがってくれる人が増えるのは、嬉しいです」 白ちゃんは、ぱあぁっと明るい顔になって喜んだ。 「白ちゃんは、紅茶にする? コーヒー? 緑茶?」 「では緑茶を……」 「いいよいいよ、淹れてあげるね」 「今日のお茶請けは、じゃーん!」 「きんつばでーす」 「わ、わたし、きんつばは大好きです」 「おお! わたし、ナイスチョイス!」 今日は和風なお茶会だった。 「あ、わたし、そろそろ……」 「えー」 「でも、もう11時だし」 「寝る前に、兄さまから電話があることが多いので」 「監視とは厳しいな」 「いえ、わたしを心配してくれてるんだと思います」 「わかった。送っていかなくても大丈夫?」 「はい」 「今度は、しろちゃんも自分のカップを持っておいでよ!」 「お友達を呼んでもいいからね」 「わかりました」 白ちゃんは嬉しそうにうなずいた。 昼休み。 学食で副会長を見かけるものの、さっさと立ち去ってしまった。 今日こそ、俺を避けてる理由を確かめたかったんだが。 「相変わらず縁がないな」 「避けられてるのもある」 「ご苦労さん」 ドンと水が置かれた。 「さんきゅ」 「あれ? ぐったりしてどうしたの?」 「ちょっとな」 「そう? 体調が悪いなら無理しないでね」 「ああ」 ピンポンパンポン♪ 「突然ですが、千堂伊織の時間です」 「貴重な憩いの時間に申し訳ないが、すぐ終わるので我慢してほしい」 「あ、会長だ」 「普通にしゃべれないのかね、あの人」 「さて、わざわざ全校放送を使わせてもらったのは他でもない」 「5年3組の支倉孝平くん、君だ」 俺かよ! 「君に伝えたいことがある」 「本日放課後、監督生室に来てください。一人で」 「待ってるからね〜♪」 「では、生徒諸君、引き続き楽しい時間を」 ピンポンパンポン♪ 「……」 注目が集まっていた。 陽菜まで、流出した原油まみれの水鳥を見るような目で俺を見ている。 「こういう呼び出しってよくあるのか?」 陽菜が無言のまま首を横に振る。 「別に、行かなくてもいいだろ」 「いや、そういうわけにも……」 しかし、会長はなんの用だろう。 やっぱり生徒会に誘われるのだろうか? ピンポンパンポン♪ 「大丈夫、怖くないからね」 ピンポンパンポン♪ 「聞こえた!?」 「まあまあ、そういうところある人だから」 どういう人だ。 「取って食われはしないさ」 「そりゃそうだ」 「ま、ちゃっちゃと済ませてくるさ」 そして放課後。 「会長に呼び出されるなんて、ちょっとうらやましいよね」 「代わるか?」 「パス。そんなことしたら、他のファンに殺されるわ」 「ていうかさ、支倉君ってなにもの?」 「妙に生徒会と関わりあるよね」 「こっちが聞きたいくらいだ」 「もしかして、会長とそういう関係?」 つっぱしった方向に頭を働かせている奴もおり。 「そんな妄想は、廃品回収に出してくれ」 「ひどーい。征様もいい感じに絡んできたのに」 ご勘弁。 「人気者ね」 「あんま、うれしくないがな」 「んじゃ、俺は行くから」 「いってらっしゃーい」 「帰ってこいよ」 「がんばってね〜」 「おう」 なぜかクラスメイトの盛大な拍手に送り出される。 万歳三唱しているやつもいたり。 俺が被害者であることを置いておけば、まあ、けっこう楽しいクラスかもしれない。 さて。 鬼が出るか蛇が出るか……。 深呼吸をして拳を作る。 こんこん こんこんこんこん 「やあ、きたね」 上から声がした。 見上げると、窓から会長が首を出している。 「鍵は開いてるから上って来なよ」 「わかりました」 「後ろがつかえてるから、早くして」 「!」 心臓が飛び出そうになった。 振り向くと、副会長が立っていた。 「ふ、副会長」 「わざわざ呼び出して悪かったわね」 「さ、いらっしゃい」 副会長が先に立って中に入っていく。 ガチャ 「連れてきたわよ」 「ようこそ、支倉君」 「おじゃまします」 「こっちに座って」 勧められた椅子に座ると、会長はさっそく親しげに語りかけてくる。 「この前はすまなかったね。風呂の件」 「後から散々瑛里華に怒られたよ」 「当然です」 「でも、スリリングで楽しかったろ?」 「寮生活で、女子風呂はやっぱり一度は入ってみたい場所ナンバー1だしね」 この人、きっと懲りてない。 紅茶が供された。 「ありがとう」 「どういたしまして」 「砂糖かミルクはいる?」 「いや、なくていい」 副会長の様子は、ずいぶん柔らかくなっている。 初めてここに来たときに比べれば雲泥の差だ。 「それで、今日はなんの用ですか?」 「ああ、謝りたかったってのもあるんだけどね」 「いくつか聞きたいこともあってね」 「はい」 「支倉君はこれまで大きな病気をしたことはあるかな?」 「は?」 意外な質問だった。 「ないです」 「そっか。怪我は?」 「特に大きなものは」 「入院したり輸血されたりしたことは?」 「ありません」 「なるほど、健康優良児だね」 「はあ」 「ご両親に持病はあるかい?」 「知ってる限りではないです」 「じゃあ献血をしたことは?」 「ないです」 「ふむ」 なんなんだ? 会長は、俺の回答に満足したのか、うんうんうなずいている。 東儀先輩は、我関せずといった様子でパソコン作業。 副会長は、何かのポスターに黙々とハンコを押している。 「ところで、この部屋がなぜ監督生室と呼ばれているか知っているかい?」 「いえ」 「監督生というのは、イギリスの伝統あるパブリックスクールなどで使われていた制度だ」 「これは、という生徒が教師に権限を与えられて、他の生徒を監督する」 「この学院は、元はパブリックスクールを手本に作られたんだ。これは知ってるね」 「学院の案内に書いてありました」 「だから、今でもこの建物は監督生棟だし、この部屋は監督生室と呼ばれている」 「それ以外は、今は全部『生徒会』と呼び替えているけどね」 「はあ」 正直どうでもいい話だが、俺を生徒会に誘う前振りなのか? 「生徒会の人って、四人だけなんですか?」 「そこだ、そこなんだよ」 「優秀な人材が揃ってるとはいえ、忙しいのは確かだ」 「一人、穀潰しがいるから」 副会長が作業机から言う。 「それが誰かは永遠の謎として……こほん」 「実は人を増やそうかと思ってるんだけど」 そう言って、東儀先輩の方を見る会長。 東儀先輩は、相変わらず顔色一つ変えずにモニターに向かっている。 「支倉君、部活はもう決めたかい」 「いえ」 「前の学校では?」 「帰宅部です」 「ふうん」 また、満足げにうなずいた。 気持ち悪い。 俺を誘っているようにも聞こえるが、肝心なことは切り出さない。 「どうして帰宅部だったんだい?」 「すぐ転校するのがわかってたら、部活には入れません」 「迷惑かけるから?」 笑顔の会長。 なぜか、身構えてしまう。 「はい」 「じゃあさ、転校しなくていいよーって言われたら、何部に入りたい?」 「え?」 不意を突かれた。 質問を頭で反芻する。 難しい質問じゃない……はずだ。 だが、答えは頭のどこにもない。 「考えたことなかったです」 と愛想笑いを浮かべた瞬間、 『違うだろ』 と、どこからか声が聞こえた気がした。 なんだか、腹の底が熱い。 「ま、タラレバの話はいいか」 またもや笑顔。 だが、いまの俺には、それが鋭利な刃物のように見えた。 いつもはおちゃらけたことばかり言ってる会長。 だが、ときどきこういう一面を見せるから恐い。 百戦錬磨の年長者を相手にしている気分になる。 「さて、終わり」 副会長が立ち上がり、こっちへきた。 緊張が破れて、ほっとする。 「のど渇いちゃった」 ティーポットからカップにお茶を注ぐ。 「今日は体調どう?」 「え?」 副会長が手にしたカップが、カチャリと音をたてる。 「大丈夫、平気よ」 笑みを浮かべる。 その笑顔に嘘はないように見える。 結局、副会長が俺を避けていた理由はわからないまま終わってしまうのか。 「無理するなよ」 「あ、ありがと」 ちょっと不意を突かれたように答え、紅茶を口に運ぶ。 「……あちっ」 「ん?」 「なんでもないわ」 「あちっ」 ぺろっと舌を出す会長。 「兄さんは猫舌じゃないでしょ」 「ああ」 副会長、猫舌なんだ。 「きょ、今日はたまたまよ」 「素敵な言い訳ありがとう……忘れない」 どこぞの恋愛ドラマかよ。 「別に恥ずかしいことじゃないんじゃ?」 「情け無用」 「いやはや、年頃の子ってのは難しいね」 「うっさい」 「じゃ、瑛里華さんもご機嫌斜めになったところで、今日はお終いにしよう」 「これで?」 「ん? なんか人生相談でもある?」 「なんなら、俺がスピリチュアルに答えるよ?」 「あー、君の前世はウサギだね」 「そういうことじゃなく、放送で呼ばれたんで、もっと深刻な話かと」 「はっはっは、実は雑談がしたかっただけでした」 わけがわからない。 「それでは、支倉君のお帰りだ」 ぱちり、と指を鳴らす会長。 「自分で見送って」 「あん」 「それじゃ、わざわざすまなかったね」 「このくらいならいつでも」 「支倉、伊織にはあんまりつきあわなくてもいいぞ」 相変わらずパソコンに向かいながら言う。 「ほんと冷たいんだ、ここの人たち」 「さ、下まで送ろう」 そう言うと、会長は席を立って俺を部屋の入り口までエスコートする。 「んじゃ、またね」 「あ、はい」 会長の笑顔が、扉の向こうに消えた。 ……。 なんだ今日の話は? 病歴を聞かれ、 生徒会は人不足だと言われ、 最後に部活を決めているか聞かれた。 やはり、俺を生徒会に誘うつもりなのか? 「今日の瑛里華は、ほぼいつも通りだったな」 「ずいぶん慣れたみたいだね」 「不意打ちでもなきゃ平気だって言ってた」 「不意打ち?」 「朝起きたら、ベッドに全裸の支倉君が寝ていた、とかそんな状況だ」 「なるほど」 「流されたら寂しいってわからない?」 「わかっているから流した」 「ところで、伊織は何も感じないのか?」 「ああ」 「性差があるということか」 「さあな、俺たちの欲求自体が不可解だし、細かいことはわからないよ」 「では、これが役立つかもしれんな」 「なにそれ?」 「支倉、サッカーの授業で派手にやったらしい」 「で、流血……と」 「抜け目なさすぎだよ。くわばらくわばら」 「急がせれば、明日には結果が出るだろう」 「そうしてくれ。早いに越したことはない」 「いい加減にしてほしいんだけど」 「おや……ノックもしないとは、不調法だね」 「それは失礼しました」 「兄さんの言ったとおり、私はもう慣れたから、こっちからちょっかい出さなければ何も起こらないわ」 「それじゃ盛り上がらんだろ」 「そういう問題じゃないでしょ」 「いい加減、正直になったらどうだい?」 「猫も杓子も『私らしく』のご時世さ。自己犠牲なんて流行らないと思うね」 「彼を巻きこみたいわけ?」 「俺は、お前のためを思ってやってるんだけど」 「余計なお世話よ」 「なあ瑛里華」 「なによ?」 「お前がまっとうになる、いいチャンスだろ?」 「そんな面倒まで見てくれなくてけっこう」 「自分でできないから、手を貸してるんじゃないか」 「私はやらないだけ」 「どうすべきかが決まってる以上、どっちでも一緒だろ?」 「どうすべきかなんて決まってないわ」 「ともかく、もう支倉くんをいじらないで」 「嫌だと言ったら?」 「邪魔するわ」 「それじゃ」 「どう思う、征?」 「自重しろ」 「つれないなぁ」 ゆっくりと目を開ける。 見慣れた天井が見えた。 「ふあ〜」 部屋に戻ってごろごろしている間に眠ってしまったらしい。 「やっとお目覚めか」 「……なんで俺の部屋にいるんだ?」 「俺は召集されただけだ」 「あ、やっと起きた」 「おはよ、孝平くん」 「お邪魔してます」 大集合だった。 「俺にプライベートはないんですか」 「あるある」 「どこにです」 「異次元?」 時空を越えた。 しかも疑問形だった。 「だいたい、前に約束したじゃないですか」 「俺が部屋にいない時は……あー」 そうか、俺がいたからいいのか。 「できれば寝てるときも避けてもらえれば」 「ちゃんと確認したよ?」 「いつです?」 「さっき。『お茶会するよ?』って聞いたら『好きにして』って」 そういえば、そんなこと言った気もする。 俺が許可したんなら仕方ない。 諦めて定位置に座った。 「孝平くんは何にする?」 「んじゃ、紅茶」 ん? 白ちゃんの持ってるかわいいカップは…… 「自分の持ってきたんだ?」 「はい」 恥ずかしそうに微笑む。 「えらいねー、わたしの言った通りにしてくれたんだ」 かなでさんが白ちゃんの頭を撫でる。 「く、くすぐったいです」 コンコン 「ん、誰だろ?」 「あ、あの、お友達を呼んでもいいということでしたので」 「誰か呼んでくれたの?」 「はい」 玄関まで行って、ドアスコープを覗く。 白ちゃんのお友達ってどんな子だろう。 ……まさか東儀先輩とかいうオチじゃないだろうな。 「!」 がちゃ 「お邪魔しても、いいかしら?」 「ど、どうぞ」 部屋に入る瞬間、副会長の表情に緊張の色がにじんだ。 「あ……え〜と」 「えりりんいらっしゃーい!」 「えり、りん?」 「ほらここ座るといいよっ!」 「あ、ありがとう」 「お待ちしてました」 「いらっしゃい、千堂さん」 「こんばんは、悠木さん」 「スーパーゲストだな」 「ああ……」 「どうした、変な顔して」 「いや、なんでもない」 ホントはかなり驚いていた。 副会長がここに来るなんて、あまりにも予想外だ。 「しかし、なんで生徒会のお偉いさんが?」 「白に誘われたのよ」 「話を聞いたら面白そうだったから、ぜひ参加したいって思ったの」 そう言って笑う副会長。 笑顔を素直に受け取れない俺は、もしかして屈折してるのか? 「ぜ、ぜんぜん問題ないよ」 「と、こーへーは嬉しそうな顔をした」 「勝手に人の表情を捏造しないでください」 「的確な状況説明だよ?」 「違います」 「嬉しくないですか?」 不安そうな目でじっと見られた。 「……とても嬉しいです」 そう言うしかなかった。 「私も参加できて嬉しいわ」 「飲み物は何がいいのかな?」 「えりりんは紅茶!」 「だよね?」 「ええ」 「では、わたしが特別に淹れちゃおう」 紅茶を注ぐ。 砂糖いっぱい投入。 「はい、まだ熱いからちょっと待たないとダメだよ?」 「ありがとう」 なんだろう? 副会長は、どこかかなでさんとの距離をつかみかねている感じだ。 「かなでさんと副会長って知り合いなんですか?」 「あ、えーと……」 「シークレット・サービス」 要人護衛? さっぱりわからない。 「そういえば、今日、こーへー呼び出されてたよね?」 「結局なんだったんだ?」 「いや、なんか雑談して帰ってきた」 「それだけ?」 正式に生徒会に誘われたわけじゃない。 今の段階で言いふらすことでもないだろう。 「だいたいは」 「そうね」 「雑談のために放送とはな」 「ほら、兄さんちょっと変わってるから」 一瞬、副会長と目が合う。 「……」 にっこり微笑まれた。 雑談で終わった、という方向で片づけたほうがよさそうだ。 「ふーん」 「兄さまにも会われたんですか?」 「いたけど、ずっとパソコンに向かってたよ」 「征一郎さんは、急ぎの仕事があったから」 ちら また目が合った。 というか、ずっと俺をちらちら見ている気がする。 どう考えてもおかしい。 監督生室で会ったときだって、なんとなく俺を避けてたのに。 なんでわざわざ俺の部屋に来るんだ? 「こーへーも、それでいいよね?」 「は?」 全然話を聞いてなかった。 「寝てたのか?」 「ごめん、考え事してた」 「明日みんなで、街に行こうって話だよ」 明日はたしか……創立記念日だっけ。 「どうかな?」 「いいんじゃないか」 というか、一度ぜひ案内してもらいたい。 「じゃあ、決定!」 「しろちゃんは礼拝堂のお仕事で行けないから、五人ね。わかった?」 かなでさん、陽菜、司、俺。 四人。 一人足りない。 副会長と目があった。 「副会長も?」 「ええ、ちょうど明日は暇だったのよ」 「な、なるほど」 絶対におかしい。 どういう風の吹き回しだろうか。 「お待たせ、全部洗い終わったよ」 「テーブルも綺麗になりました」 「ん、ご苦労さま」 「人が多いと早いな」 「んでは、解散っ」 「みんな明日のためにゆっくり休むんだよー」 「へいへい」 「お休みなさい」 「お邪魔しました」 みんなが次々に帰って行く。 最後に部屋を出ようとした副会長が振り返った。 「おやすみなさい」 「……おやすみ」 「また明日ね」 「……そうだな」 「何か言いたそうな顔してるわね」 「聞きたいことならある」 「じゃあ、談話室にでも行かない?」 「ここじゃダメなのか?」 「あのね、こんな時間に男の子と部屋で二人きりになったらまずいでしょ」 呆れたように言った。 時計を見ると、思ったよりも遅い時間になっていた。 「わかった、そうしよう」 副会長と二人で、部屋を後にした。 消灯時間15分前の談話室は、ひとけがなく静かだった。 副会長の呼吸の音が聞こえそうなほどだ。 心臓がいつもより速く動いている。 俺は緊張しているのだろうか。 たぶん、そうだ。 副会長の意図を知りたい。 どうして部屋まできたのか。 「聞きたいことって?」 談話室に、小さな声が反響した。 「どうしてお茶会に来たのかと思ってさ」 「そんなこと?」 呆れたように言う。 「言ったでしょ?」 「白の話を聞いて、面白そうだと思っただけ」 「それ、おかしくないか」 「何が?」 「はじめて会ったときから、俺を避けてたのに」 「始業式みたいな仕返しをしに来たとでも思った?」 「いや、そうじゃなくて」 「じゃあなに?」 回りくどいのはダメらしい。 「ごめん、今のなし」 「は?」 「お茶会はどうでもいいんだ」 「なによそれ」 「なんで俺を避けてたのか聞きたいだけなんだ」 「……聞いて、どうするの?」 「直せることなら直すよ」 「なんで、そんなことするのよ?」 「副会長とはじめて会った時にさ、思ったんだ」 「今までになかった生活ができるかもしれないって」 春の陽射しの中で、俺を歓迎してくれた副会長。 あのとき、俺は確かに「今までになかったもの」の訪れを感じていた。 「そう思わせてくれた本人に避けられるのって、なんか嫌だろ?」 「ふうん」 ちょっと鼻白んだ感じのあいづちを打つ。 ま、俺の勝手な思いこみだから無理もない。 青臭い話だし。 「私は避けてたわけじゃないのよ」 「ダウト」 「黙って聞いて」 「あれはその……体調の問題なの。だから、あなたが気にすることないわ」 「初日はそうだったかもしれないけど、ずっと変だっただろ?」 「だから、それは……ほら、体調であるでしょ」 副会長が視線を逸らす。 「……」 女の子+体調不良+定期的=○○。 「!」 女の子特有のアレか。 なら、月に一回じゃないかとも思うが、こればっかりは不思議ミステリー。 「気づかなかった、ごめん……」 「俺が勘違いしてた」 「わかってくれればいいんだけど……」 「とりあえず、はいっ」 白くしなやかな手が俺に差し出された。 握手? 「仲直りの証」 「子供っぽくないか」 「それだけじゃないわ、これは誓いよ」 「なんの?」 「一緒に楽しい学院生活を送っていくための」 心地よい飾り気のない笑顔。 普通の人が口にしたら、間違いなく臭くなるセリフを。 この人は自然に言う。 はじめて会ったときもそうだった。 彼女の繰り出した、笑顔と直線的な歓迎のコンビネーション── それは、転校ばかりだった俺にとって、ちょっとばかり刺激の強い癒しだったのだろう。 人と短期間でうまく付き合うには、いい意味でも悪い意味でも、相手に合わせる必要がある。 年がら年じゅう、相手をとっかえひっかえしている俺なんて、もうガードをガチガチに固めたボクサーみたいなもんで。 どこをどう狙ってもパンチが当たらないようにしてた。 そのガードが、副会長の笑顔一発でもろくも崩れ去ったというか、ガードごと銃で撃たれたというか……。 だからこそ俺は「今までにないもの」の訪れを感じたのだと思う。 「これからもよろしく」 そう、この笑顔にだ。 「こちらこそよろしく」 惹かれるように、俺の指先が、副会長の白い指先を目指す。 触れ合うまでの時間は、無限のようにも思えたし、一瞬のことだったようにも思えた。 そのくらい、俺は煮立ってたってことだ。 彼女がセールスマンなら、きっと歴史に残るトップセールスをたたき出すに違いない。 そんな下らないことを考えながら、 俺たちの指先は、 触れ合った。 「私の手って少し冷たいのよ」 始業式の言葉どおり、その手は少し冷たかった。 「冷たかったり、寂しそうに見えたりしたのなら――」 「私と手を繋ぎましょう」 きっと温かいし、寂しくないと思うの―― 手を握りあう。 ゆっくりと離れた俺の手は、前より少し温かくなっていた。 土曜日。 今日は創立記念日か。 もう少し寝ていたい。 なんでこんなに眠いんだろうか。 「……あー、あれか」 副会長と話した後、自分の部屋に戻ったものの、うまく寝つけなかったんだった。 寝なおそう。 ……待てよ。 今日は何かあったはずだ。 「明日みんなで、街に行こうって話だよ」 約束は10時。 時計を見る。 9時58分。 「あと二分だとおおおぉぉっ!!?」 がばっ がさがさ(←服をあさる) ぬぎぬぎ(←着替えている) 「さ、財布は……あった!」 ばたんっ 「はぁはぁ」 「……はぁ、おは……はぁはぁはぁ……よう」 「お、おはよう」 「大丈夫?」 「おはよう、ぎりぎりセーフね」 「まにあ……って、……よかっ、た」 「マニアってよかった?」 「違い……ます」 「あとは八幡平君ね」 「あ、来たみたい」 「おう」 「ぎりぎりアウトね」 「悪い、外に出る扉が見つからなくてな」 「どんな言い訳だ」 「よしっ、揃ったところで行きますか〜」 心地よい天気だった。 穏やかな風が髪を撫でていく。 笑顔の守衛さんコンビに挨拶しつつ学院の外に出た。 「金角・銀角」と呼ばれるこの二人、門限違反者に対しては鬼となるらしい。 ちなみに校門の門限は21時。 それ以降は門扉が閉じられ、そばにある通用口からしか中に入れない。 きしむ通用口を開けると、そこには腕組みをした鬼が……というわけだ。 「こーへー、寝癖がふわふわ揺れてるよ」 「後でどこかで直します……」 「今、直してあげる」 ぺたぺた。 頭を撫でられる。 「うん、よしっ」 「直りましたか」 「あきらめた」 「直ってないのか」 「むしろ悪化」 「ごめん」 「いえ、気持ちは嬉しいです」 後で直そう……。 とりあえず手櫛を髪に通した。 ふと、前を歩く副会長と陽菜を見る。 「……趣味?」 「うん。千堂さんは日頃どんなことしてるのかな、って」 「フレグランス、かしら」 「部屋でアロマライト使ったりしてるの」 「アロマライト?」 「アロマオイルを熱する道具よ」 「あ、見たことあるかも」 「それで、その日の気分で選んだオイルを蒸発させるの」 「わかるな、そういうの」 「私も入浴剤を気分で変えたりするの」 「ああ、入浴剤もいいわね」 「千堂さんはどこで買ったりするの?」 「海岸通りに、専門店があるんだけど」 「そのお店なら行ったことあるよ」 「入浴剤も置いてあるものね」 「すごくお洒落でいいよね」 「そうね。店員さんも詳しいし」 「女っぽい会話だ」 「俺たちは男っぽい会話でもするか?」 「じゃあ牛丼について語ろうよ」 こっち側でいいのか、かなでさん。 「キャンドルや香水、オイルの計量器具とかいろいろあるのよ」 「そうなのか」 結局、海岸通りに着くまで副会長たちの話を聞いていた。 知らないことばかりなので、意外と面白かったりする。 「凝り始めると道具がどんどん必要になってくるわけ」 「けっこういい値段だったりするよね」 「そうなのよ」 「だから少しずつ買ってるんだけど」 「なんか大変そうだな」 「そうでもないわ、楽しいわよ」 「私も今度やってみようかな」 「お、いいねー」 「お姉ちゃんも一緒にやろうね」 「うんうん」 「えりりん、その時はやり方教えてね」 「もちろん」 「……なあ、副会長変じゃねえか?」 「何が」 「悠木にやたらと気を遣ってないか」 そうだろうか。 「……そうね、ローズマリーがお勧めね」 「確か、記憶力が上がるんだっけ」 わからん。 「気のせいじゃ?」 「そうかね」 「そこの二人も、香水とか買ってみる?」 「は?」 「やめてくれ」 渋い顔をした。 「男物の香水も売ってるわよ」 「俺はパス」 「あら、どうして?」 「寿司屋の出前でご法度だ」 「なるほど」 「それじゃしょうがないわね」 「んじゃこーへーが買おう」 「いや、俺も別に……」 「かすかに上品な匂いがするのって魅力的よ」 「いいよね、そういうの」 「一度試してみたら?」 「みんなで選んであげるわ」 「はい?」 「あ、それいいね」 「エキゾチックなのにしようよ」 「どんなのですか?」 「ドリアンのにおい」 「最悪だ」 失神するほど臭いって聞いたぞ。 ぽん、と司が肩を叩く。 「俺も選んでやる」 「楽しそうだな、おい」 「んじゃ、まずその店に行く?」 「先に必要な物を買って、最後のお楽しみにするって手もあるわね」 「ふむふむ」 「おい、孝平」 「どうした」 「いや、あれ」 司が顎で指した先。 「……」 「あれは、紅瀬さんね」 むすっとした顔で言う。 そういえば、数学の試験だけ紅瀬さんに勝てないって話だったな。 「買い物かな」 「ちょっと違うような」 店を窺うでもなく、歩くでもなく。 流れていく人の波を、ぼんやり見ているだけのような。 服装を除けば、教室にいるときと変わらない表情だ。 「待ち合わせかな」 「ま、そんなとこか」 「あれが、紅瀬」 きらりと目が光る。 「知ってるの?」 「遅刻と早退の常習犯。現在、国際指名手配中」 「国際……」 「遅刻で海外逃亡しないだろ」 「名前は?」 「桐葉さん」 「『きりきり』か」 「はい?」 「じゃあ行ってくる」 「どこへ?」 問い返した時には、もういない。 「きりきり〜、逮捕だ〜」 たったったった。 不思議な名前を叫びながら、紅瀬さんに突進していく。 「……」 当の紅瀬さんは気づかない。 つーか、自分を呼ばれてるってわからんだろ、あれじゃ。 がしっ 「げっと!」 「なっ」 たったったった。 「連行しました!」 かなでさんが紅瀬さんを連れて戻った。 「……どういうことかしら」 俺たちの顔を見渡し── そして、副会長のところで視線が止まった。 大変重い空気。 「ご、ごめんね、うちのお姉ちゃんが……」 「悠木さんのお姉さんだったのね」 「そーだよ」 「大変ね」 なんとも言えない表情をした。 「ああ」 「笑顔で同意しない」 「紅瀬さん、お久しぶり」 「あら」 「休日も数学の勉強をしてるのかと思ってた」 「特に勉強の必要ないから」 「お暇なら、一緒に買い物でもしない?」 「あいにく、大切な用事があるから」 副会長に一瞥くれて、紅瀬さんは立ち去った。 「ちょっと変わった子だね」 「かなでさんには負けますけどね」 「……(怒)」 ぎゅ〜 「いだだだ……」 ほっぺたをつねられた。 「よしっ」 「盛り上がったところで、買い物に行こう」 どこで盛り上がったのか。 「とりあえず、どこに向かいましょうか」 「孝平くんに、お店を案内しながら回るのはどうかな」 「そうね。そうしましょ」 「なにか買いたいものはある?」 「生活用品とか」 「それなら、私がいいお店を知ってるから案内してあげるわ」 「助かる」 「優しい副会長でしょ?」 「まあな……」 「なんで目を逸らすのよ」 そんなに近寄られたら、誰だって目線を外すだろ。 「それじゃ、えりりん案内よろしくっ」 「任せて。それじゃさくさく行きましょ」 「時間は限られてるんだから」 「はーいっ」 一通りの買い物をすませ、休憩がてら公園に立ち寄った。 「海のくせに……波をちゃぷちゃぷさせてわたしを誘うなんてっ!」 「生意気だ〜っ!」 一目散に海へかけだすかなでさん。 あっという間に点になった。 「あの人、ガンシューティングのゲームでも突撃しそうだな」 「そうな」 「俺、一休みするわ」 とベンチに横になる司。 「私は、飲み物買ってくるね」 「ああ」 陽菜の背中を見送る。 「香水、気に入った?」 自分の手首の匂いを嗅ぐ。 いい匂いがした。 買い物袋の中には、同じ匂いのする小瓶が入っている。 「悪くないけどな」 「微妙な反応ね」 「どこで使えばいいのかわからん」 「誰かと出かけるときにでも、使うといいわ」 「なるほど」 「それで、欲しい物はちゃんと揃ったの?」 「だいたいは」 「ならよかったわ」 「あそこの店、品揃えいいな」 「ええ、便利でしょ」 「他にも欲しい物があったら教えて。お店を紹介できるかもしれないから」 「ありがとう」 「お安いご用よ」 「この公園にはよく来るのか?」 「買い物だけして帰ることが多いかな」 「そっか」 「でも、なかなかいい場所ね」 副会長は、軽く笑って海に目をやる。 「また機会があったら来てみるわ」 「いつも忙しいのか?」 「ま、ほどほどにね」 「行事の前なんかは、日曜でも作業があるし」 「そっか、大変だな」 「好きでやってることよ」 「また、みんなで買い物に行くような話が出たら、声かけるよ」 「ええ、よろしくね」 軽く笑って海の彼方へと目をやった。 日光を反射し、無数の星が散らばっているかのように輝く水面。 潮の香りを含んだ風が吹き抜けてゆく。 その風に乗って飛来した渡り鳥が、遊歩道の手すりに止まった。 「来てよかったかもな」 「買い物?」 「いや、この島に」 「どうして?」 不思議そうに覗き込んだ。 「今までの場所はちょっと窮屈だったからさ」 「いろいろあったけど、今は悪くない気がする」 「なによ、悟ったような顔して」 「まだ来たばっかりでしょ」 「この先も、今日みたいな日が続いてほしいだけさ」 気軽な調子で言った。 こんなに安らいだ気分になるのは、島に来てはじめてだ。 副会長の問題が解決して、胸のつかえが取れたのが大きいのかもしれない。 「一つ言っておきたいことがあるのよ」 「なんだ?」 「うちの兄さんのこと、気をつけた方がいいわ」 「それは、どういう意味で?」 「なにか企んでいるみたいだから」 「また罠か」 「その程度ならまだマシね」 「まいったな、風呂場より酷いのか」 「真面目に聞いて」 「昨日手を繋いだこと、忘れてないわよね」 「もちろん」 思い出すと、気恥ずかしい。 「平穏な日々を送りたいと本気で思っているなら、協力して」 「兄さんが何をしてきても、二人でなんとかするの」 「いいわね?」 副会長が真剣な目で見つめていた。 「ああ」 気圧されるようにうなずく。 どんなとんでもないイタズラをする気なんだ、あの人は。 とりあえず警戒しておこう。 「ただいま」 「お帰りなさい」 「はい、好きなの取ってね」 差し出された手には、缶が五本。 「わたしこれ」 「俺はコーヒーだな」 いつの間にか二人も戻っていた。 「サンキュー」 小銭を渡してジュースを手にする。 「じゃあ、これ飲んだら帰りますかー」 「はーい」 「そうだな」 「いただきますっ」 ごきゅごきゅごきゅ 「ぷは〜」 2秒かかってない気が……。 「はい帰るよ」 自由な人だった。 「検査結果が出たぞ」 「どうだった?」 「やはり少し変わっているようだ」 「それで瑛里華はメロメロになったってわけか」 「今のところ、それくらいしか原因が見あたらない」 「ま、計画がうまくいけば、おいおいわかるだろうさ」 「やるのか?」 「予定通りにいくよ」 「例のプランには問題があると思うが」 「瑛里華も邪魔する気満々だし、一気にカタをつけたほうがいい」 「それに、どうせいつかは知ってもらわなきゃ困ることだ。のんびりやっても意味ないさ」 「なるほどな」 「んじゃ、行きますか」 今日は一人で買いだしに出た。 昨日部屋に帰ってから、買い残しがいっぱいあることに気づいたからだ。 便座カバー、替えの枕カバー、トイレの消臭剤、台ふきん、ハンガーなどなど。 実家では当たり前にあったものも、ここでは自分で買わなければいけないのだ。 親のありがたみを、妙なところで実感してしまった。 俺は今、猛烈に所帯じみている。 「支倉、ちょうどいいところに」 「あ、東儀先輩」 「買い物か?」 「ええ」 両手の買い物袋を見せる。 「頼みたいことがあるんだが、時間はあるか?」 「大丈夫ですよ」 「これを白に届けてくれないか?」 手渡されたのは、『菓子舗さゝき』と銘の入った紙袋だった。 「和菓子ですか?」 「ああ。今日は礼拝堂で重労働があるらしくてな。差し入れだ」 「直接渡した方が喜ぶんじゃ」 「急な会議が入ってしまってな」 「なるほど。部屋に荷物を置いてからでいいですか?」 「もちろん。では、頼んだ」 俺に紙袋を握らせ、東儀先輩は去っていった。 ほんと妹思いのお兄さんだ。 日が傾き、気温が下がり始めていた。 先を急ぐ。 長い西日に照らし出される礼拝堂。 光の加減だろう、壁面がまだら模様に黒ずんで見えた。 病気の肝臓みたいな色だ。 ぎゃぎゃぎゃっ! 周囲の森から、カラスが耳障りな声とともに飛び去った。 「……」 ちょっと気味が悪い。 木製のドアが派手にきしむ。 むっとした空気が鼻腔から肺に流れ込んでくる。 「白ちゃん、いる?」 声が天井や床に乱反射する。 ……。 返事はない。 「白ちゃん?」 もう一度呼ぶ。 「?」 誰だ? 白ちゃんか? 一歩踏み出したそのとき、 「っ……ぁ……ぅ……」 喉から絞り出されたような、嗚咽めいた声。 すぐに人の声だとわからなかった。 「く、あぁぅ……ぁ……ぅ……」 無意識に身体がこわばった。 よくないことが起こっている。 そう直感できる声だった。 「白……ちゃん?」 返事は…… ない。 「……」 手にじっとりと汗がにじむ。 進むか、 進まざるべきか…… 一歩踏み出す。 じりじりと、頭の芯が焦げるような緊張。 一歩ごとに、驚くほど体力を奪われる。 心臓は早鐘のようで、脈動のたび頭に鈍痛が走った。 「うぁっ、あああっ……ぁ……」 声が、ひときわ高く上がった。 目を、やる。 礼拝堂の隅で、男女が立ったまま抱き合っていた。 いや、抱き合っているにしては奇妙だ。 細い腰を抱かれた女は、背筋から首までを弓のように反らしている。 ほぼ天井を向いた口が、何か言葉を発しようとしているのか、パクパクしていた。 まるで酸欠の金魚みたいだ。 そして、男は女の首筋に顔をうずめていた。 カップルなのか。 「ぅぁ……か……ぁ……」 そんな考えを、女の呻き声が吹き飛ばす。 違う。 なら、あんな声は出ない。 恐怖が染みこんだ声。 命が剥き出しになった声。 じゃあ何が。 何が行われてるんだ。 ごきゅり 唐突に、男の喉が鳴った。 ごきゅっ、 ぎゅくっ、 「ぁ……ぁ……ぁ……」 女の声が細く途切れる。 手からこぼれ落ちる砂を見るような、喪失感に満ちた声。 女が動きを止める。 何が起きているんだ? わからない。 わからないが…… 止めなくちゃダメだ! 「おいっ!」 口から出たのは、ガサついた声だった。 男が動きを止める。 「……おや?」 ふわっと、髪がなびいた。 「!!」 今ごろ気づいた。 この男、見たことがある。 「おやおやおやおやおや?」 こっちを見た。 「支倉君じゃないか」 白磁の顔に、切り傷のような口がぱっくりと開く。 彼は笑ったのだ。 唇の端から、赤いものがしたたり落ちた。 口の中から…… 血が溢れている。 「……か……かい、ちょう?」 口からこぼれたものが、胸元に見えるシャツを赤く染めていく。 血液。 間違いなく血液だ。 「見られてしまったね」 涼やかな声は、目の前の光景とギャップがありすぎる。 ふと目をやると、女の首筋には赤いラインが2本走っていた。 首にうがたれた赤黒い穴からこぼれるように、赤い筋が。 「な、なにをして……」 問いかけにもならない。 ただ、声を絞り出すのでやっとだ。 「見てわからないのかい?」 わからない。 知ってはいけない。 それは少なくとも、正常な人間の行為ではない。 どんどん状況を理解しようとする頭が憎らしい。 「教えてあげるよ」 ……。 …………。 「食事だ」 「……」 一歩、後ずさる。 それで、歯止めがきかなくなった。 「はぁ、はぁ、はぁ」 胸が、自分のものではないように激しく上下していた。 汗が次々と顔を滑り落ち、首や胸をべっとりと濡らしていく。 「はぁ……はぁ……ごほっごほっ!」 むせかえり、床にうずくまる。 「ごほっ、ごほごほっ……はぁ……はぁ」 水だ……。 水がほしい。 「はぁ……はぁ……」 水  水   水。 狂ったように水をかぶった。 頭も、 顔も、 上着がぐしょぐしょになっても、水をかぶり続ける。 だが、網膜にこびりついた赤が消えない。 少しでも油断すると、赤の残滓はぐにゃりと姿を変え── 頭を激しく振る。 消えやしない。 「くっ!!」 窓の外に目をやる。 夜の気配が混じった夕焼けは、破裂した血腫のようで吐き気を催させる。 どこを見ても逃れられない。 妙な無力感にとらわれ、俺はベッドに倒れ込んだ。 もういい。 全部忘れるんだ。 考えるな、 思い出すな、 見たこと聞いたこと感じたこと、 片っ端から放りだしてしまえばいい── 眠ったのはいつだったか── 目が覚めたのはいつだったか── ずっと泥の中にいたような気がする。 何度かドアがノックされたり、携帯が鳴ったりしたが、 動けなかった。 ピピピピッ   ピピピピッ がんっ 殴り飛ばした目覚まし時計は、床で弾み、壁にぶつかった。 ピピピピッ   ピピピピッ 止まらない。 「うっさいな……」 ベッドを降り時計を止める。 寝床に目をやると、嵐の後のような惨状。 しわくちゃのシーツに、ずれたマット。 枕には逆流した胃液まである。 替えの枕カバー、買っておいてよかった。 ……とまあ、 そのくらいのことは考えられるようになった。 ともかくシャワーを浴びよう。 冷たいシャワーを浴びて、気づいたことがある。 今日は平日だ。 つまり授業がある。 行くか、行かないか── 「……」 行こう、と思う。 一刻も早く日常に身を投じたかった。 いつもと変わらないみんなの顔を見て、一緒に笑いたかった。 日常で、ふざけた記憶を洗い流すんだ。 「よしっ」 気合いを入れて、制服に袖を通す。 髪を整え、 歯を磨き、 カバンを握る。 そして、ドアの前に立った。 ここを出たら、何があるかわからない。 いきなり、会長に遭遇するかもしれない。 そしたら…… 無意識に、手で首筋に触れていた。 唾液に濡れた白い首筋── 確かに走る2本の赤い筋── 「はは……」 悪い冗談だ。 嫌な想像を頭から追い出す。 そんなことあるわけない。 礼拝堂で、会長が人の血を吸っていた? 冗談だろ? 味噌汁で顔洗って出直したほうがいい。 ほんと笑えない。 これっぽっちも。 「おはよう」 いつもより明るく挨拶する。 「よかった。ちゃんと来た」 「ほんとだ」 「どうした?」 「お茶会しようと思って電話したんだけど、ぜんぜん出ないし、ノックしても返事がないから心配してたの」 「あー、ごめん、爆睡してた」 「もー」 呆れたように笑う陽菜。 「ま、無事でなにより」 ぼそっと言う司。 「ほんと、ごめんな」 苦笑いを返す。 そう。 俺が触れたかったのは、こんな空気だ。 あと数日もすれば、昨夜の記憶など洗い流してくれるはずだ。 何事もなかったように。 「今度のお茶会、お菓子は俺が持つよ」 「いいよいいよ、そんな気をつかわなくても」 「気持ちだからさ」 人間、生きていれば嫌なこともある。 だがそれを、後生大事に抱えて生きてく必要がどこにある。 めくり取ったカレンダーといっしょに捨ててしまえばいい、そんなものは。 何事もなく、放課後を迎えた。 そう、これでいい。 あとは寮に帰れば、一日終了だ。 「支倉君」 紅瀬さんが、すっと俺の横に立った。 「ん、どうした?」 「あれ」 と、紅瀬さんが顎で教室の入口をさす。 目をやって、一瞬、心臓が止まりそうになった。 ……。 「副会長……」 教室の入口で、副会長が手招きしていた。 今まで、教室まで来たことなんてなかったはずだ。 「なんだろ」 「本人に聞いてみたら?」 背中を汗が伝うのを感じる。 「土曜日はありがと、楽しかったわ」 「こちらこそ」 近づきすぎたのか、副会長が一歩後退する。 「兄さん、昨日は何もしてこなかった?」 「……」 内容が内容だ。 口にしていいものか迷う。 それに…… 話してしまったら、昨夜のことがすべて現実になってしまう気がした。 「どうしたの?」 「いや、なんでもない」 「ほんと、あの人のいたずら好きにも困ったものだわ」 そう、いたずらだ。 昨夜のあれもいたずらに違いない。 あの人のことだ、何をしてもおかしくない。 心配して損した。 「また、風呂事件みたいのはご勘弁だからな」 「あれは、たちが悪すぎよ」 頬を膨らます副会長。 様子を見るに、どうやら副会長は昨夜のことを知らないようだ。 「ところで、もう帰り?」 「ああ」 「それじゃ、昇降口まで一緒に行きましょ」 「わかった。カバン取ってくるよ」 副会長と他愛のない世間話をしながら、昇降口までやってきた。 「そういえば、副会長はどうして生徒会をやってるんだ?」 下駄箱のふたを開けながら、尋ねる。 「そうねえ」 同じく、下駄箱のふたを開く副会長。 副会長のクラス── 5年2組の下駄箱は、俺の背面だ。 「あ……」 「どうした?」 「これ」 「ああ」 副会長は手紙を2通持っていた。 「珍しくないんだろ?」 「そうね」 あっさりと言う。 さすがだ。 「どうするんだ?」 「読んでから決めるわ」 「今のところ、誰とも付き合う気ないけど」 「ずいぶんと親切だな」 「この人の気持ちをなかったことにしたくないだけよ」 なぜか── リアクションに迷った。 「私はこの学院にいるすべての人に、楽しい学院生活を送ってほしいの」 「もちろん、これを書いた人にもね」 と、カバンに手紙をしまう。 「なら、OKしてやれば?」 「バカ?」 「こんなとこで嘘ついても、お互いに嫌な思い出しか残らないわよ」 ま、馬鹿な質問だったと思う。 「それもそうか」 「さっき、なんで生徒会やってるのかって聞いたわね」 副会長が、茶色のローファーをぽんと置く。 しなやかな足をその中に収め、とんとんと、つま先で地面を叩く。 そして、俺を見た。 「みんなに楽しい学院生活を送ってもらうために、自分にできることを考えた結果よ」 そう言って笑う副会長。 なんだか、まぶしく見えた。 「立派なもんだ」 ちょっとくたびれ気味のスニーカーをはき、新品の上履きを下駄箱に入れる。 あとは、ふたを閉めて…… 「あれ?」 ふたは、誰かの手でしっかりと押さえられていた。 「なかったことにされかかってる俺の気持ちは、はたしてどこに行くのかな?」 声も出ない。 「燃えないゴミ箱かい?」 「か、会長……」 後ずさろうとする俺の腕を、会長がつかんだ。 「せめて、燃えるゴミにして空に還してほしいね。そのほうがロマンチックだろ?」 「兄さんの気持ちなんて、どこの自治体でも回収してくれないわよ」 「ひどいな」 「んなことより、いきなりなによ」 「ちょっと用事があってね」 「ふたりとも、これからいいだろ?」 「え……」 「取って食おうってんじゃないんだから、そんな緊張しないでよ」 「さ、監督生室でお茶でも飲もう♪」 ぐいっと腕を引かれる。 ……。 こうなればしかたがない。 昨夜のいたずらの意図を、納得いくまで聞かせてもらおうじゃないか。 「会長、一人で歩けます」 「これは失礼」 手を離し、軽く万歳する会長。 「今度は、なに企んでるの?」 「真面目な話だよ、珍しく」 「自分で言ってれば世話ないわね」 副会長は、ふん、と一つ鼻を鳴らした。 「ねえ」 「ん?」 「兄さんとなにかあった?」 「昨日、ちょっとな」 「そう……」 「忠告するのが遅かったみたいね」 悔しげに顔を歪める副会長。 「そんな顔するなよ。ただのいたずらさ」 人の血を吸ってたなんて、いたずら以外のなんだというんだ。 マジだとしたら、会長がヤバい犯罪者か吸血鬼になってしまう。 「お客人の到着だ」 「そうか」 部屋では、東儀先輩がパソコンに向かっていた。 「瑛里華、悪いがお茶を」 「わかったわ」 副会長は隣の給湯室へ入っていった。 「……」 「座ってよ」 「はい」 この椅子に座るのは3回目だ。 前の2回と、部屋の雰囲気は変わっていない。 どうでもいい世間話でも始まりそうな、気軽な空気だ。 「今日は、なんの用ですか?」 「せっかちだね。お茶が出るまで待ちなよ」 「あ、そうだ……」 思い出したように、会長席の後ろから何かを取ってくる。 「これ、君の落とし物だよ」 テーブルに紙袋が置かれた。 どくり、と心臓が鳴る。 袋には『菓子舗さゝき』と書かれていた。 言うまでもなく、俺が東儀先輩から預かったものだ。 「……」 時計の秒針が進む音が聞こえてきた。 俺の脈拍に比べ、それはずいぶん呑気なリズムを刻んでいる。 「伊織、ちょっと」 「失礼」 二人は難しそうな表情でパソコンを眺め、なにやら話しはじめた。 会長の横顔を見ていると、昨夜の光景が記憶の底から浮かんでくる。 あれは冗談なんかじゃない。 あの手で女の子を拘束し、あの口で血を吸っていたんだ。 そんな、欲しくもない確信が、どこからかわきあがってきてしまう。 かちゃ 「お待たせ」 「……ありがとう」 「部屋暑い?」 いつの間にか、額が汗だくだった。 ポケットを探るが、ハンカチは見あたらない。 「これで良かったら使って」 ポケットティッシュを袋ごと渡された。 「さて、始めようか」 会長と東儀先輩がパソコンを離れ、こちらの席に座った。 「ひとを働かせておいて、何やってたのよ」 「ソルティア」 「泣かすわよ」 「そうカリカリするな。これから面白い話をするからさ」 「まったく」 副会長も席に着き、全員が揃った。 「さて、単刀直入に行こう」 言ってから、紅茶に口をつける。 知らずに噛みしめた奥歯が、ぎり、と悲鳴をあげた。 「昨日のことをどう考えてる?」 「それは……」 「会長が、女の子の血を吸っていたと」 「兄さんっ!」 副会長が勢いよく立ちあがる。 「みっともない声出すなよ」 会長は俺を見たまま、副会長に言う。 穏やかだが重みのある声に、副会長も腰を下ろした。 「それで?」 「それで……」 「俺はなんなんだ?」 「あれが演技とかじゃなければ……」 「演技ではないよ。俺は血を吸った、実際に」 「……」 沈黙が降りる。 異常だ。 この人は、異常なんだ。 喉まで出かかっている言葉が、なかなか出てこない。 ……。 「どうした? 俺はなんなんだ?」 「……い、異常です」 苦労して、声にする。 「ところが正常なんだ」 にやり、と笑う。 「なぜなら、俺たちは人間の血を糧とする生物だからだ」 「君にわかりやすく言えば、吸血鬼」 アホか、と思った。 だが、いつものようにはツッコめなかった。 それは、場の雰囲気に飲まれていたせいかもしれなかったし、 俺が徐々に、その事実を受け入れはじめているからかもしれなかった。 「と言っても、信じないだろうな」 「ええ」 「そうだな……例えばこういうのはどうだ?」 立ちあがる会長。 その姿が、 一瞬で消える── 「とか」 ぽん、と肩に手を置かれた。 「っっ!?」 「身体能力は抜群なんだ」 「例えば、オリンピックで金メダルを取ろうとしたら、それらしいタイムになるよう手加減しないといけないくらいに」 肩から、感触が消える。 と…… 会長はテーブルの向かい側に立っていた。 今度は、なんとか移動の軌跡を追えた。 別に消えたわけじゃないようだ。 「なんなら、後で競争してもいい」 「……」 声も出ない。 「そう簡単には、信じられんだろう」 「ふむ」 「東儀先輩は、その」 「俺は違う。ただ伊織や瑛里華とは長い付き合いなのでな」 「知っていて、付き合って……」 「もちろんだ」 副会長に視線を向ける。 「……兄さんと同族よ」 腹立たしげに眉を歪めていた。 「……」 ティーカップがカタカタとかすかな音を立てていた。 俺の膝が、小刻みに振動しているせいだ。 「ま、あとは、昨日の女の子に話を聞いたらいいかもしれない」 礼拝堂での、苦しげな嗚咽が耳の奥によみがえる。 「あの子は……知り合いなんですか?」 「いや。可愛かったから選んだだけだ」 「彼女、昨日のことは何も覚えていないはずだ」 「それは、どういう?」 勝手に動く膝を手で押さえながら言う。 「俺たちは、人の記憶を消せるんだよ」 「血を吸った相手が、こっちを覚えてたら困るだろ? 生きる知恵だね」 理にはかなっているが、常識からは外れていた。 「首の傷までは消せないから、絆創膏かなんかで隠してるだろうけど」 「それだって、不思議に思うでしょう? なんで自分はケガしてるんだって」 「ところがさにあらずさ」 「たいがいの人は、自分が納得できる理由をつけておしまい」 「仮に覚えていたとしても、辛いことや嫌なことは、なかったことにしちゃうのが普通さ」 会長が俺を見る。 すべて見透かされてしまいそうな、細く鋭利な視線。 「ね」 お前だって、そうだったろう? 無言のうちに語りかけてくる。 凍るような恐怖の中で、腹の底だけが、じわっと熱くなった。 「だ、だからなんです」 「別に責めてるんじゃない。健全に生きるために備わった知恵だ」 「俺たちが、人の記憶を消せるのと変わらない」 そう言って、会長は紅茶を飲む。 「伊織、あまり脅かすな。喧嘩がしたいわけじゃないだろう」 「ああ、もちろんだ」 「なあ、瑛里華」 「うるさいわね」 「ともかく、今までのところはわかってもらえたかい?」 わかるもわからないもない。 話が突飛すぎる。 悪い冗談の類だ。 そう考えたかったが、無意識に震える身体がそうさせない。 「これも……いたずらですか?」 「違う」 「俺は、支倉君に生徒会の一員になってほしいんだ。だから正体を明かした」 「……」 「秘密にしたまま誘うことも考えたが、長い間にはいずれバレる」 「なら、先に話しておいたほうがいいだろう」 「ありがた迷惑です」 「だいたい、この生徒会だって、なんか目的があって集まってるんでしょう?」 「活動自体は普通の生徒会だ。やりたいからやっている」 「なんで俺なんです?」 「それは、生徒会に入ってくれたら説明しよう」 「……」 「入らなかったら?」 「悪いが、記憶を消させてもらう」 冗談を言っている顔ではなかった。 「記憶を……」 「ここ2週間、君がこの島に来てからの記憶を丸ごと消させてもらう」 「俺たちの記憶だけを消すような、器用な真似はできないのでね」 「記憶を消した後は、一切、君に関わらない」 「それを信じろと?」 「信じてくれとしか言えない」 むりやり絡んできて、 むりやり血を吸ってるところを見せて、 むりやり正体を明かして、 それで思い通りにならなければ、記憶を消す。 相手のことなんてまるで無視。 子供かと言いたくなる。 「ほとんど、おもちゃ扱いですね」 「だが、そうでもしなければ俺たちは友人が作れない」 友人か。 調子のいい話だ。 「判断は支倉君に任せるよ。心が決まったら教えてくれ」 「補足しておくが、記憶を消すのに痛みはない」 「以後は、安全な生活を保障しよう。もちろん君の友人を含めてだ」 「新学期は始まってしまったが、それでも2週間だ。いくらでもやり直しはきく」 2週間……。 つまり、俺が島に来てからこっちだ。 この期間の記憶を失うってことは、つまり、またゼロから始めるってことだ。 友人の顔を覚え、 教師の顔を覚え、 施設を覚え、 学院のルールを覚える。 並べてみて、意外に簡単なことだと気づく。 なにせ、今まで同じようなことを20回も繰り返して来たのだ。 20回が21回になったところで痛くもかゆくもない。 それだけのこと。 それだけのことなんだ。 また転校したと思えばオールOK。 それで、この人たちとの関係もきれいさっぱり清算だ。 吸血鬼の友人なんて作ってなんになる? 重っくるしい秘密を、墓場まで抱えていくのか? やり直すんだ。 俺の新しい学院生活を。 ……心は決まった。 「……」 なぜかためらった。 「どうした?」 「いえ」 なんだ? もう一度、自分の気持ちを見つめるが…… よくわからない。 ただ、さっきも感じた熱さが腹の底でぐるぐると渦を巻いていた。 気にするのはやめよう。 大事の前の小事だ。 「決心しました」 「記憶を消してください」 まっすぐ前を見て言った。 会長も東儀先輩も、表情を変えなかった。 ただ、副会長だけが唇をかんだ。 ……。 「バケモノじみた姿を見せて、仲間にならなければ記憶を消すなんて、取り引きにもなってませんよ」 「大体、脅迫して生徒会に入れた俺と、上手くやっていけると思ってるんですか?」 「君とはすでに友人だと思っていたんだけどなぁ、俺の勘違いだったか」 「勘違いです」 「瑛里華もかい?」 「それは……」 副会長は、静かな目でじっと俺を見ていた。 「副会長は……友達だと思ってます」 「でも……」 「吸血鬼じゃ、やっぱり友達失格か」 残念そうにため息をつく会長。 演技だ。 そうに決まってる。 自分たちを被害者にして、俺の罪悪感を煽っているだけだ。 「結論は変わりません」 「ふぅーーーー」 会長が大きく息を吐く。 「しょうがないか」 笑顔で言う。 「はい」 「ごめんなさいね、いろいろわずらわせて」 「でも、あなたのことを考えれば、そのほうがいいかもしれないわね」 副会長は少し寂しそうに笑った。 「ごめんな」 「いいわ、悪いのはこっちだから」 「さて、湿っぽくなるから、さっさとすませてしまおう」 「今から?」 「伸ばしても君の時間を無駄にするだけだ」 「……」 「記憶を消したあとは1日ほど意識を失うと思う」 「夜になったら、俺たちが君を寮の近くまで運ぶ。一般生徒に発見されるように」 「こちらは、発見されたら病院に運んでもらえるような流れを作っておく」 「どうしてそんなことを?」 「病院のベッドで目覚めたら記憶がなくなっていたという状況は、周囲が受け入れやすいだろう?」 「特に君の友人がな」 あらかじめ決めていたのか、何度も試したことがあるのか…… 東儀先輩は、さらさらと説明した。 「それじゃ、記憶を消すのは瑛里華、頼んだよ」 「はあぁっ!?」 「ば、ばか言わないで、それは兄さんの仕事でしょっ!」 「彼に記憶があって、一番困るのは瑛里華だろ?」 「なんで私がっ!」 「俺、別に記憶を消さなくてもかまわないし」 おいおい。 「あの、生徒会には入りませんよ?」 「あー、違う違う」 「昨日の女の子の記憶消しちゃったからさ、当分は力が使えないんだ」 「だから俺の場合、もうちょっと直接的な方法で忘れてもらうよ」 会長が副会長を見て笑う。 言葉の意味はつまり…… 殺す。 「できないと思ってるの?」 全身がざわりと総毛立つ。 理屈なんかない。 これは本能の世界だ。 殺される。 確実に殺される。 血を吸うとか、身体能力が高いとか、記憶を消せるとか…… そんな細かい証拠はどうでもいい。 この人は、違う生き物だ。 人間を餌として活動する生き物なんだ。 「といっても、こういう怯えた顔はもうされたくないので、瑛里華、頼むよ」 「卑怯だわ、こういうことだけ押しつけて」 彼女も、会長が本気であることはわかっているようだった。 「お前が日頃からたるみすぎなんだ。しょっちゅう言われてるくせに」 「お説教はけっこう」 片手で遮り、副会長は俺を見た。 「いいのね?」 「ああ」 「潔いことで」 苦虫をかみつぶしたような顔で言った。 「二人にして」 「よろしくね〜」 「支倉、お別れだ」 「お世話になりました」 「いや」 表情を変えぬまま、東儀先輩がドアに向かう。 「期待してたんだがね」 「ご期待に添えずすみませんね」 「ま、いいさ」 「生きてきた道に責任を持てない男なんざ、俺の部下としちゃ不十分もいいとこだ」 「なっ!?」 身を乗り出した俺の胸に、会長は人差し指を突きつける。 「俺にしてみれば、あっさりと記憶を消す道を選べるのが不思議で仕方ないよ」 「君の過去は、そんなに無価値なのかい?」 「2週間のことですから……」 「期間の問題じゃないだろう」 「正面から向き合わず、無為に生きてきた時間は無いのと一緒だ」 「本当は、1年でも3年でも消してよかったんだろう?」 なぜか。彼の目を直視できない。 「ここはね、意志ある者だけが輝ける舞台なのさ」 「せっかくやり直すんだ。性根から入れ替えるのをオススメするよ」 ちょんっと俺をつついて、会長は離れた。 「それじゃ、楽しいニュー学院ライフを」 いつの間にか、日が傾いていた。 残陽が差し込み、部屋には息が詰まるほどの赤が充満している。 逆光に立つ副会長は、ますますその美貌を輝かせていた。 対峙する副会長に表情はなかった。 「始めましょうか」 「どうすればいい?」 「座っていてくれればいいわ」 そう言って、俺の前に立った。 「……」 「……」 副会長は目をつむった。 足を肩幅ほどに広げ、大きく息を吸う。 暫時、肺に息を留め、静かに吐き出す。 ゆっくりと── 彼女の双眸が開かれる。 すでに、スイッチは入っていた。 湖のように澄んだサファイアの瞳は、いまや紅蓮のルビーへと変貌していた。 彼女を包む空気は恐怖に逃げまどい、輝く髪を舞い上がらせる。 内に凝縮された力を体中から噴き上げ、彼女はあらゆる存在を睥睨していた。 これが── 吸血鬼。 俺のちっぽけな想像は、一瞬で粉砕され跡形もない。 圧倒的な存在感の前で、俺は、自分がまだ生きているという確証を探し狂ったように唇を噛みしめていた。 彼女が一歩踏み出す。 聞こえるはずの足音は、風の渦に飲み込まれ霧散した。 ぶつりと、繊維が切れる感覚。 口の中に鉄の味が広がった。 それでも、さらなる確かさを求めて唇に歯を食い込ませていく。 「支倉くん」 穏やかな、しかし揺るぎない動きで彼女の腕が突き出される。 陽炎をまとった掌が俺の額に触れた。 どうしてこうなってしまったのか……。 わずかな悔恨が胸をかすめる。 だがもういい。 すべては終わりだ。 「悪く、思わないでね」 額がじりじりと熱くなる。 やや遅れて後頭部が熱くなってきた。 消える。 俺の2週間が。 目をつむろうとしたそのとき、 俺は気づいてしまった。 彼女の紅玉の瞳から── 涙がこぼれていることに。 ……。 「ふく、かいちょう……?」 「なによ」 副会長の手が小刻みに震える。 「どうして……」 「悔しいのよ」 「悔しいの」 「記憶を消さなくてはならないことも、この学院に記憶を捨てられる人がいることも、それが私の友人だったこともっ!」 「一から十まで、すべてが悔しいのよっっ!!」 副会長は叫んでいた。 全生徒の憧れの的である副会長が、恥も外聞もなく叫んでいた。 「……」 「なんで黙ってるのよ、何か言ったらどうなの?」 「どうせ記憶がなくなるんだ、いまさら何も言うことはないよ」 「そうやって、全部なかったことにして生きてきたのね」 腹の底で、また火がくすぶり始める。 彼女の言葉に腹が立っているのではない。 ただ何か、自分を突き動かそうとする衝動がくすぶっているんだ。 「ねえ、どうして簡単に記憶を消そうなんて思えるの?」 「この学院の生活は、消してしまっていいような、どうでもいいものだったの?」 「……」 「あなた、なんのためにこの学院に来たのよ?」 目的なんて別にない、なんとなくだ。 自分に言い聞かせるように、頭の中で反芻する。 『本当にそうなのか?』 不意に、そんな疑問が浮かぶ。 はじめて校門に立ったとき、自分は確かに、新しいものへの期待に包まれていた。 それは、何かを変えたいと心のどこかで思っていたからじゃないのか? 俺は、何かを変えたかった。 渡り鳥みたいな生活に嫌気がさしていたのだ。 誰とどんなに親しくなっても、すぐに訪れる別れ。 そのたびに味わう、身を裂かれるような辛さ。 そんな生活を何度も繰り返すうちに、俺は……。 環境にとけ込む術ばかりを身につけ、友人を作ることをしなくなった。 この島での件があってからは、なおさらそうだった。 部活だって同じことだ。 迷惑をかけるから入らない。 それは一面で真実だが、本当は違う。 確定した別れが恐くて、人とつながる場を避けていたんだ。 そう。 俺がなかったことにしてきたのは、人と深くつながりたいという、本当に単純な欲求だ。 その瞬間、腹の底の火は炎の渦となり、 『今ごろ気がついたのかい?』 とでも言うように、赤い舌をチロリと出した。 ああそうだ。 今になって、やっと気づいた。 だから俺は、両親の誘いを蹴ってまで、全寮制のここを選んだんだ。 「もういいわ。時間の無駄ね」 副会長の瞳には、炎が揺らめいていた。 額に当てられた掌が、再び熱くなる。 何かを変えたい。 明確にではないものの、そう思って入学した学院。 その2週間が、今まさに消えようとしている。 転校をもう一回するだけ……。 さっきまではそう考えていた。 でもそれじゃ、昔と同じことを繰り返しているだけだ。 「副会長」 「しゃべらないで。集中できないわ」 「もういい」 「何が?」 「俺の記憶を、俺の2週間を消さないでくれ」 「怖くなったの?」 「違う」 「副会長のおかげで、俺がなんでここに来たのか思い出せたんだ」 「……」 副会長が、無言で手を下ろす。 「少なくとも、消えてもいいような時間を過ごすためじゃない」 真意を探るように、副会長が俺を見る。 俺は強い視線に負けないよう、じっと彼女を見据えた。 「……怖じ気づいたわけではなさそうね」 「ああ」 彼女を包んでいた力が消える。 「おかげで、人の記憶を消さなくてすんだわ」 安堵したように息を吐く。 「でも、どういう心境の変化?」 「転校が嫌で全寮制の学校に来たんだ。今さら転校を繰り返したくない」 何かを変えたくてここに来た、とか 友人が欲しかった、とか ホントの理由は恥ずかしくて言えなかった。 「そう。ちょっと後ろ向きな気もするけど、見逃してあげるわ」 そう言って笑う副会長。 「ありがとう」 「終わった?」 会長と東儀先輩が入ってくる。 「おや」 「おやおやおや?」 まじまじと俺を見る。 「記憶消すの、ナシにして下さい」 「どうしてまた?」 「瑛里華の迫力に怖くなったのかい?」 「いえ、気が変わりました」 「どのように?」 「それはいいじゃないか。彼自身の問題だ」 「俺としては、仲間が増えて嬉しいよ」 両手を大げさに広げる会長。 「そのことなんだけど」 「私は、秘密さえ守ってくれれば、生徒会に入ってくれなくてもいいと思うわ」 「記憶と生徒会、二者択一ってことだったはずだ」 「私への相談もなく、兄さんが勝手に進めたことでしょ?」 「私は、支倉くんがここに入っても入らなくてもかまわないし」 「そりゃないだろ〜。俺は瑛里華のためを思って」 「人のせいにしないで」 「俺も、秘密さえ守れるのなら、無理強いはしない」 「征、寝返ったな」 内輪もめが始まった。 俺が生徒会に入るってことは、この輪の中に入るってことだ。 ……悪くないな。 いや、それじゃだめだ。 俺は、何かを変えたいんだ。 この2週間で生まれた人とのつながりを、もっともっと大切にしていかなきゃならない。 俺の学院生活は、俺が作っていくんだ。 「待ってください」 「ん?」 「なに?」 火花を散らしていた兄妹が、同時に俺を見る。 「生徒会にぜひ入れてください」 「ええっ!?」 嫌そうな顔をされた。 軽くへこむ。 「フィーーーーッシュ!!」 魚じゃねえ。 「これで少しは仕事が楽になるな」 「これから、よろしくお願いします」 「もちろんだ。思う存分よろしくしてあげようじゃないか」 「こちらこそ、よろしく頼む」 二人と握手を交わす。 残った副会長は、腰に手を当てて不機嫌そうにしていた。 会長と東儀先輩、俺の三人の視線が彼女に注がれる。 「な、何よ」 ぷいっと顔を背ける。 「歓迎されてませんね」 「いろいろ難しい年頃だからねえ……」 「ま、支倉くんがいいって言うなら、こっちも気にしないわ」 「でも、入れてくださいってスタンスが気に入らないわね、非常に」 「わかってる。精一杯頑張るよ」 「あーもー」 髪をくしゃりとする副会長。 「しょうがないわね」 そう言って、まぶしいほどの笑みを浮かべた。 「あの、お取り込み中でしょうか?」 気がつくと、ドアから白ちゃんが中を覗いていた。 「白ちゃん、ちょうどいいところに」 「え、え、え?」 有無を言わさず部屋に引っ張り込む会長。 白ちゃんはきょとんとしている。 「素晴らしい報告があるんだ」 「……あ、支倉先輩、こんにちは」 「こ、こんにちは」 いきなり間をはずす白ちゃん。 これはある意味、技だ。 「あー、こほん」 「実はね、支倉君が生徒会に入ることになったんだ」 「本当ですか」 「ああ、よろしくね」 「はい、こちらこそ」 「そうだ、支倉君の入会を記念して、今夜は街にでも繰りだそうじゃないか」 「そんな理由じゃ、外出許可が下りないわよ」 「堅っ苦しい学院だね、まったく」 それが生徒会長の発言か。 「では、鉄人にでも腕をふるってもらうか」 「あの人、量が……」 「いざとなれば、主賓が片づけてくれるさ」 動けなくなるまで食わされそうな予感がするが…… まあいい。 今日はとことんやってやろうじゃないか。 新しい学院生活の第一歩にするんだ。 「戸締まりをするから、先に出ていてくれ」 「白ちゃん、俺と一緒に出よっか」 「白、瑛里華と行け」 「え、はい」 「ほんと過保護なお兄ちゃんだよ、まったく」 「支倉くん、先に出てましょう」 「ああ」 外は、すっかり暗くなっていた。 学院で一番高いところにある監督生棟。 ここからは、学院のすべてが見渡せた。 静かなたたずまいを見せる本敷地。 月明かりに照らされ、白く輝く新敷地。 そして、都会の高層ビルのように、無数の明かりの灯った白鳳寮。 「あの明かり、一つひとつが学院を作っているのよ」 隣に、副会長が立つ。 「学院は、いわばステージよ」 「私たちは裏方として、みんながよりよい生活を送れるよう働いているの」 寮の明かりを見つめながら、副会長が言う。 その表情は穏やかで、飾り気がなかった。 「それと、もう一つ忘れないで欲しいことがあるわ」 「私たちも、生徒だってこと」 副会長が俺を見る。 「頑張るよ」 「まったく支倉くんは、覇気がないわね」 「胸を張りなさい、ここでは私たちが主役なんだから」 ばんっと背中をたたかれた。 「お、おう」 胸を張る。 「もっと!」 さらに胸を張る。 「よろしい」 満足そうにうなずいて、副会長は再び寮に目をやった。 そう。 俺は今までずっとステージに上がってこなかったんだ。 主役でもなく脇役でもなく、舞台に関わることを拒んできた。 だから、傷つきもしなかったが、楽しいこともなかった。 そんな自分の態度に嫌気がさしている自分にすら気づけていなかったんだ。 だが、今日からは違う。 俺もステージに上がるんだ。 修智館学院という名のステージへ。 「鍵は全部閉めたぞ」 「お疲れさん」 「伊織」 「ん?」 「こうなることもわかっていたのか?」 「もちろん」 「……と言ったほうがかっこいいかな」 「知らん」 「しかし、ずいぶんと支倉を挑発したものだな」 「彼、自分の気持ちを見ないフリして生きてきたみたいだったから、ちょっと突っついてみたのさ」 「結局、手柄は瑛里華に持っていかれたけど」 「なるべくして、そうなったのだろう」 「瑛里華と支倉では、日々に対する考え方が正反対だ」 「口先で言っているお前とは、言葉の重みが違う」 「どうだかねえ」 「なに?」 「いや、なんでもない」 「しかし、よかったじゃないか。征も彼のこと気に入ってたみたいだし」 「そこそこな」 「俺も、いじりがいのある奴は好きだね」 「ときどき、真っ向から反論してくるのがたまらなくいい」 「屈折してるな」 「ああ、もしかしたら支倉は、あの方と似てるのかもしれない」 「そうかもな」 「ところで、責任はとれるのか?」 「なんの?」 「支倉の件だ」 「責任なんて取らないよ。取る必要もない」 「彼は自ら選択したし、これからも選択し続ける。もちろん瑛里華もね」 「そのどこに、俺が責任を取る必要がある?」 「正論ではあるが、人として間違っている」 「人じゃないからな」 「とはいえ、けじめは俺がつけよう」 「あの人への報告は、きちんと俺がするよ」 「征も行くか?」 「そうだな。お前だけだと喧嘩になる」 「ははは、違いない」 「それじゃ、まずは支倉君を歓迎しようか」 ピピピピッ ピピピピッ ばしっ 手探りで目覚ましを止める。 朝だ。 いつもと同じ朝、いつも通りの部屋。 「……夢じゃないよな」 気分だけがいつもと違う。 子供の頃に冒険の物語を読んだ時と、同じ気分だ。 今までの日常とはまったくかけ離れた、非現実的な世界に迷い込んだような。 胸の高鳴りを感じながら、制服に袖を通した。 副会長と会長は吸血鬼だ。 そして俺は、彼らと同じ生徒会役員になった。 これから二人とどんな風に接していけばいいんだろう。 とりあえず意識しないで平然としてたほうが―― 「おはよっ」 「ぬおっ!」 「何よその反応は」 じと目を俺に向けた。 「いきなり現れたら誰だってびっくりするだろ」 「普通に挨拶しただけじゃない」 「朝だからって、ぼーっとしてたらダメよ」 「ほら、背筋伸ばす!」 ぽんっ、と背中を叩かれる。 「胸を張りなさい、ここでは私たちが主役なんだから」 昨日、背中を叩かれた時のことを思い出した。 背筋を伸ばす。 「これでいいか」 「もっと」 さらに背筋を伸ばした。 「ど、どうだ」 「もっとピンと」 牛のマネをする蛙の話を思い出した。 最後は、蛙が腹を膨らませ過ぎて爆発するんだっけ。 「ど、どうだ」 「もう一声」 「これ以上やると、爆発するっ」 「どんな構造してんのよ」 「それじゃ、顔でフォローね」 「顔?」 「さわやかに微笑んでみて」 「いきなり言われても」 「簡単でしょ」 「ほら」 俺を見て、にっこりと微笑んだ。 そのまぶしい笑顔をマネしてみる。 「こうか?」 「うん、そのほうが魅力的よ」 急に褒められても、反応に困る。 「どうしたの?」 「いや、別に」 副会長が俺の顔を覗きこんでいる。 昨日、記憶を消そうとした時とは正反対の、明るい表情だ。 「ああ、そうだ」 「何?」 「昨日は歓迎会までしてくれてありがとな」 「いえいえ。大したことができなくて、ごめんなさいね」 「あれだけ騒げば十分だ」 食堂で学食の鉄人が作った料理を食べ、余興やゲームをした。 「そう思ってくれてるなら、よかったわ」 春風に踊る髪を押さえながら、答える。 「あ、そうだ」 「支倉くん、放課後ヒマ?」 「空いてるけど、なんで?」 「聞きたいことがあるんじゃないかと思って」 「聞きたいこと?」 副会長が俺の耳元に顔を近づける。 「吸血鬼のこと」 少し、声をひそめて言った。 吸血鬼のこと、なんて。 聞きたいに決まっている。 「……教えてくれるのか」 「そういうこと」 「じゃあ、放課後に監督生室に来てね」 「お、おう」 「待ってるから。また後でね」 スカートを翻らせて、駆けていく。 放課後が待ち遠しいような、少しだけ怖いような気分だった。 放課後、言われた通り監督生棟に来た。 小さく深呼吸してから、扉を開ける。 「失礼します」 「やあ、待ってたよ」 「あら?」 俺の顔を覗きこみ、首をかしげる。 「もしかして、少し緊張してる?」 「微妙に」 「そんなに大した話じゃないから、気楽にしてて」 「どうぞ」 俺のために椅子を引いてくれる。 「東儀先輩と白ちゃんは?」 「二人は外に出てるわ」 いないのか。 吸血鬼の話を、白ちゃんに聞かれたくないのかもな。 「ちょっと、お茶淹れてくるわね」 俺に微笑み、隣の部屋へ去っていく。 会長と二人きりになった。 「うちの妹も、緊張しているようだね」 「なんで副会長が?」 「支倉君が固くなってるからさ」 「瑛里華は、君が吸血鬼のことを怖がっているんじゃないかと思っているんだ」 「話なんてしたら、ドン引きされるんじゃないかと心配している」 「ドン引きなんてしませんよ」 「吸血鬼の話をするっていうだけで緊張してるのに?」 「別に、それが理由じゃありませんよ」 確信もないのに否定した。 副会長に変な心配をされたくないし。 「一般生徒がここに来れば、誰でも緊張すると思います」 「なるほどね」 「こういう歴史ある部屋って、独特の空気なんで」 「たしかに慣れないと重苦しく感じるかもね」 「いっそ壁紙を、猫柄にでも変えてみようか」 「そういうこと言わないで」 「賛同したくなるから」 「そこは強く否定したほうがいいだろ」 「女の子はね、かわいい物に弱いのよ」 いたずらっぽく笑って、俺の目の前に紅茶を置いた。 「ありがと」 「じゃ、支倉君の瞳に乾杯」 微笑んでワイングラスに唇をつける。 濃厚な赤が、その中で踊っていた。 吸血鬼が飲む、赤い液体。 「なんですか、それ」 「なんだと思う?」 会長の目を見て、答える。 「血、ですね」 「アセロラドリンク果肉入り」 全力でテーブルに額を打ちつけた。 「まぎらわしい物飲むなっ!」 「うそうそ血」 「あっさり言うなっ!」 「だって、吸血鬼の話を聞きたいんだろう?」 「それは、まあ」 「血を飲んでるとこ見たいかなと思ってサービスしてみた」 「サービスになってないから」 「じゃあ、そろそろ始めましょうか」 「なんでも聞くといい」 「本当にいいんですか?」 「支倉くんに知ってもらうのは悪いことじゃないから」 「じゃあ、聞くけど」 鼓動が早くなる。 吸血鬼の真実を吸血鬼から聞ける人は、そういないはずだ。 「吸血鬼って、いったいどんな存在なんだ?」 「ずいぶん曖昧な質問ね」 「聞きたいことが多すぎるんだ」 「それならまず、私が吸血鬼について話すから、気になることがあったら質問してね」 「ああ」 「まず、吸血鬼は身体能力が高いわ」 「そして瑛里華はCカップ」 「関係ないでしょーっ!」 どごんっ! 「ぐふぅ」 会長が壁まで吹っ飛んだ。 「このように人くらいなら吹っ飛ばせるし、吹っ飛ばされても平気」 「なに平然と説明してんのよ」 「実演有りのほうが、支倉君だって嬉しいだろうと思って」 「いや、まあ、はあ」 「支倉くんも、なに赤くなってるのよ。今のは全部忘れて。忘れなさい」 「あ、ああ」 「次いくわよ、次」 頬を染めたまま、人差し指をぴっと立て説明を続ける。 「体はある程度丈夫だし、怪我をした時の回復も早いの」 「大怪我はしたことがないからよくわからないけど、小さな怪我なら一分位で完治するわ」 「便利だな」 「まあね。病気もないし、寿命もないし」 「寿命がない?」 「寿命では死なないってこと。不死なわけじゃないわ」 「実は紀元前生まれだったりとか?」 「失礼ね、私は支倉くんと同じ歳よ」 「俺は人間だったら長寿新記録を樹立してるかもね」 「そう、なんですか」 副会長が何も言わないから、本当のことなんだろう。 「ここまでで、何か質問は?」 「なんか特別な能力ってあるのか?」 「記憶を消せるだけよ」 一瞬だけ、表情が曇ったような気がした。 「他には?」 「あのさ、飯は毎日食べてるよな」 「なのに血も吸わないといけないのか?」 「それは『生きるための栄養を両方で取る必要があるのか』ってこと?」 「わかりやすく言えば、そうだ」 「なら、答えはノーね」 「普通の食事をしなくても、血を飲めば生きていけるわ」 「それなら、なんでわざわざ食べるんだ?」 「吸血鬼だって味はわかるし、食べる喜びも知っているからね」 「それにまったく食べなければ、周りに変だと思われるだろ?」 「なるほど」 「食事は楽しみとカモフラージュで、血を吸うのは栄養摂取のためか」 「栄養かどうかは、わからないけどね」 「え、なんで?」 「知らないのよ」 「吸血鬼のことを研究してる人がいないから」 「それなら、病院で調べてもらえばいいじゃないか」 「調べられて、異常だとわかって、それからどうなると思う?」 「新種の病気だと思われて、いろいろな治療をされる、とか……」 「あらゆる薬の投与や、放射線当てられるくらいならまだマシね」 「人間とはまったく別の生き物だと判断されたら、治療どころじゃ済まないと思うわ」 「その上、俺たちはマスメディアに取り沙汰されて、引っ張りだこになるだろう」 「未知なる生物としてね」 「人体実験も見せ物になるのも御免だし、そうなる危険を冒してまで調べようとは思わないよ」 「つまり詳しいことは会長たちも知らないし、知る方法もない、と」 「そういうこと」 「わかるのは自分で経験してきたことだけ」 「血が吸いたくなる感覚も、最初はそれとわからなかったし」 「どんな気分なんだ?」 「喉が渇いたな、っていう感覚があるでしょ」 「あれに近いような感じがして、血が欲しくなるの」 「血を吸われた人間はどうなるんだ?」 「少なくとも、吸血鬼に血を吸われただけで吸血鬼になることはないわ」 「そう。だから瑛里華も気にせずに吸えばいい」 「今は関係ないでしょ」 「やれやれ、こいつよりは温かい血のほうがおいしいと思うんだけどな」 空になったワイングラスが、テーブルの上に置かれる。 「今年の赤は、とろりとした芳醇さと深遠な芳香が一体となっているね」 「何言ってんだか」 「それって、本当に血なんですか」 「そうだよ」 平然と言う。 「誰の血なんですか?」 「知らない」 「そんなはずないでしょう」 「本当よ」 「兄さんが飲んでるのは、輸血用血液なの」 「輸血用でもいいのか」 「ええ。映画みたいにわざわざ人を襲う必要なんてないわ」 「じゃあ、なんで会長は人から血を?」 「気が向けば吸うさ。俺は瑛里華と違って、別に血は嫌いじゃないし」 「私にはその気持ちはわからないわね」 「だいたいね、人の首から血を吸うなんて今時エレガントじゃないの」 「輸血パックで十分よ」 常識でしょ? みたいな表情で言う。 「エレガントじゃないそうですので、会長もやめませんか」 「価値観はそれぞれさ」 「それに俺だって、年に数えるほどしか吸わないよ」 さわやかに肩をすくめた。 「あとは輸血用ですか」 「ああ」 「月に数回は補給しないと、どうなるかわからないのよ」 どこか悔しそうに言った。 「他に聞きたいことはある?」 「なんか弱点とかあるのか? にんにくとか十字架とか」 「映画に出てくる吸血鬼みたいな物は特にないわ」 「猫舌」 「……」 「会長もですか?」 「も、って何よ」 「まさか。瑛里華だけさ」 個人的な弱点じゃねえか。 「兄さんはちょっと黙ってて」 「しいて言うなら、血を飲まなければいけないことが弱点ね」 「特に疲れた時は飲みたくなっちゃうし」 「それは、例えば普通の運動とかでも?」 「運動で疲れても、遊んだ後でもね」 「大変そうだな」 「どうしようもないことよ」 「どうしても血じゃないと、ダメなのか」 「いろいろ試したけど、血以外はダメね」 「そういうこと。吸血鬼はね、血を吸わなければ生きられない、か弱い生き物なんだ」 「か弱いようには見えませんが」 むしろパワフルだ。 「弱いよ」 「個体数は少なく、餌は天敵ときてる」 「人間が天敵ですか」 「そうだよ。たしかに身体能力は高いけど、100人に囲まれたら捕まるだろうし」 「さっきの病院の話もそうだけど、バレた時の人間の対応だけは、映画や伝説と似ているんじゃないかな」 「寿命で死ななくても、不死身じゃないしね」 「まだ、何か知りたいことはある?」 どうだろうか。 けっこういろいろな事を聞いた気がする。 「すぐには思いつかないな」 「また気になることがあったら聞いてね」 「お互いのこと、ちゃんと知ってないと気持ち悪いでしょ」 「わかった。また白ちゃんがいない時にでも聞くよ」 「白? なんで?」 あれ? 「え、もしかして白ちゃんも知ってるのか?」 吸血鬼のこと。 「知ってるわよ。東儀家の人間だし」 「東儀家の人はみんな知ってるってこと?」 「そうね。長いつきあいだし」 「支倉君とも、仲よくやっていきたいと思ってるんだけど」 「どうかな?」 会長は、いつも通り余裕のある表情をしている。 その隣で、副会長が俺を見ていた。 俺は、吸血鬼の話を聞いて怖いとは思わなかった。 血を飲まなければいけないことを別にすれば、それほど人と変わらない存在。 「もちろん俺は構いませんよ、というか、よろしくお願いします」 「それはよかった」 満面の笑みを見せる。 「こちらこそ、よろしくね」 どこか、ほっとしたように言った。 「さてと」 会長が立ち上がる。 「もういい時間だし、今日はそろそろ出ようか」 いつのまにか、窓から差し込む光がオレンジ色に変わっていた。 「夕暮れに染まった帰り道、というのは心が和まないかい?」 吸血鬼が夕日を眺めながら言った。 「風情がありますね」 「こういう道は男女二人で歩くに限るよ」 「そうですか」 「かわいい女の子が一人で歩いてるのもいいね」 「なんでですか」 「襲いやすいから」 「誰か杭をくれ!」 「今度用意しとくわ」 「快楽殺人はほどほどにね」 「正義の鉄槌よ」 「ちなみに、杭も平気なのか?」 「胸に打たれたら、さすがに死ぬんじゃないかしら」 「……こんな綺麗な夕暮れの中でする会話じゃないわね」 「それもそうだ」 殺伐としすぎだ。 「じゃあ、なんの話にするかな」 「俺たちの感想でも」 「映画や本で知っているのと、まったく違いましたね」 「そうね」 「私はそういうステレオタイプな存在じゃなくてよかったって思うけど」 「なんで?」 「だって、こうして綺麗な景色を見ながら歩くこともできないでしょ」 そう言って夕日を背負って微笑む。 逆光のせいか、その表情がほんの少しだけ寂しげに見えた。 「まず沸騰させた水を用意する」 「そこに火をつけたマグネシウムリボンを入れる」 そう言えば、会長に聞きそびれたことがあったな。 吸血鬼のことではなく、なぜ生徒会役員に俺を選んだのかということ。 今日行ったら、聞いてみよう。 「すると支倉、どうなると思う」 「は」 とっさに立ちあがる。 まずい、聞いてなかった。 誰か助けてくれ。 「Zzz」 世界で一番見る必要のない方向を見てしまった。 「ん……」 陽菜の声がした。 陽菜が、さりげなくノートをこちらに向ける。 「マグネシウムリボンは、沸騰した水の中で燃える?」 と書かれていた。 「燃えます」 「正解だ」 正解したものの、情けない気分だ。 陽菜に目で礼を言いながら席につく。 にっこりと微笑みを返された。 「……お、終わったか」 眠そうな顔で起き上がる。 「顔に机の跡がついてるぞ」 「む」 気だるげに両手で頬をこすった。 「おでこな」 「そっちか」 「孝平くん」 鞄に教科書を入れ終えた陽菜が、隣から覗きこむ。 「ん?」 「何かあったの?」 ぎく。 吸血鬼のことか? 「なんで?」 「授業中、ずっと考え事してたみたいだったから」 ああ、心配してくれてるのか。 「悩み事か」 「いや、別に悩んではいないよ」 「そっか」 「そういえば、さっきは助かったよ。ありがとう」 「大したことじゃないよ」 陽菜が小さく首を振り、柔らかい髪が揺れた。 「じゃあ私、委員会に行くね」 「美化委員会だっけか」 「うん、今日は清掃活動があるから」 「そっか。頑張ってな」 「いつもより頑張ってくる」 体の前で手を小さく握ってみせる。 「俺も行くかな」 「バイトか」 「ああ、密輸も兼ねてな」 「そうか、うまくやれよ」 「おう」 軽く手を振り、別々に出て行く二人を見送った。 俺もさっさと監督生室に向かおう。 鍵が開いていたので、そのまま中に入る。 扉を開けると、会長と副会長がシックなテーブルを囲んで座っていた。 東儀先輩は部屋の端にあるパソコンに向かっている。 白ちゃんは見あたらないな。 ローレル・リングに行ってるのかな。 「どうも」 「いいわね、自然な感じよ」 組んでいた足を揃えて立ち上がり、俺のほうに歩いてくる。 「どうだ?」 「60点」 「低いな」 「明るさが足りないからよ」 「この間、言ったのに」 「何を」 副会長は、なぜかにっこりと微笑んだ。 そして何も言わない。 「……いきなりどうした?」 「もう。ここよ、ここ」 副会長が人差し指で俺の頬に触れる。 「ああ、笑顔か」 「そういうこと」 満足げな笑顔でうなずいた。 「支倉君や白ちゃんが入ったおかげで、監督生室が明るくなった気がするね」 「そうなんですか?」 「別に暗かったわけじゃないけど、前は三人だけだったし」 「二人の新戦力を得て、生徒会はよりよい方向に進んでいるよ」 会長が満足そうにうなずく。 「あの、聞きたいことがあるんですけど」 「吸血鬼のこと?」 「いえ、なんで俺を選んだのかまだ聞いてなかったんで」 「生徒会に入ったら話してくれるって言ってましたよね」 「ああ、それか」 「私も聞きたいわね」 「支倉君の力が必要だったからさ」 「具体的には?」 「瑛里華のサポート」 「それは俺じゃなくてもいいんじゃ」 「いや、支倉君が適任だよ」 「サポートって言うのはね、俺と征みたいな関係になるってことだから」 「二人の関係って、どんな?」 「一心同体」 「違う」 遠くからきっぱりと否定した。 「と、このようにすかさずツッコミが飛んでくる関係」 「なるほど」 「息が合う相手じゃないと、サポートはつとまらないってことさ」 「俺と副会長は息が合ってると?」 「そう見えるよ」 「もう裸まで見た間柄だし」 「なっ!」 風呂場での記憶が蘇ってくる。 ナイスなプロポーションが脳内のキャンバスに浮かび上がった。 俺の記憶力、万歳! ……。 …………。 がくがくがく 脳内の旅路から戻ると、肩を掴まれて揺さぶられていた。 「支倉くんっ、なんで遠い目してるのよ!」 「思い出したでしょ、今!」 「いや、もう、消えた、忘れたっ」 「まったく」 「こっちまで思い出しちゃうでしょ」 真っ赤な顔をしながら、俺から手を離した。 「あの時見たことは綺麗さっぱり忘れるの」 「記憶消去じゃあるまいし、そんな簡単には忘れらないさ」 「支倉君の心のビデオテープに、しっかりと録画されてるしね」 「そうなの?」 「いやまあ、あながち的外れでもないというか不本意ながら大正解と言うか」 「うー」 「そんなもの消去よ、消去」 「爪が折られてるような場合は……」 「そんなのテープ張って上書きするの!」 「わかった?」 至近距離でじっと見つめられる。 ……。 「……む」 頬を再び赤く染め、視線を逸らした。 「ど、どうした?」 「な、なんでもないわ」 「……覚えててもいいけど、口には出さないこと」 そう言ってちらり、と俺を見る。 まだ頬に朱が残っていた。 「わ、わかった」 副会長を直視できずに、机に視線を落とす。 「いいコンビになると思うんだけどねえ」 「あんなことがあったら、むしろやりづらいわよ!」 「あれ、瑛里華は誰がサポートでもよかった?」 「それは」 副会長がわずかに考え込んだ。 「支倉くんみたいに誠実な人のほうが、仕事はしやすいとは思うけど」 「俺が誠実?」 「兄さんにはめられたのに、わざわざ謝るところとか」 「あれは、当然だろ」 「そうやって当然だと思ってるところもね」 「そうなのか」 「なら、問題ないね」 「というわけで支倉君には、瑛里華専属の東儀征一郎的存在になってもらおう!」 俺の両肩に手を置き、キラキラした視線を向けた。 「はあ」 「伊織の意味不明な言い回しは気にするな」 「瑛里華と組んだ時に、個々で働く以上に効率がよくなればいいだけだ」 「なるほど。理由はなんとなく理解しました」 「で、俺はどんな仕事をすればいいんですか?」 「初めは、仕事の仕方を覚えてほしいの」 「どうやって?」 「実践あるのみよ」 俺に向けて人差し指を突きつけた。 白い指のむこうに、勝ち気な瞳が輝いている。 「支倉くんには、何か一つ責任ある仕事をやってもらうわ」 「いきなりか?」 「兄さんも征一郎さんも9月で引退だから、それまでに仕事の進め方を覚えてもらわないとね」 引退まで4ヶ月半しかない。 それまでに、会長たちの穴を埋められるようにならないといけないのか。 「征一郎さん、体育祭を任せようと思うんだけど問題はあるかしら」 「ないな、時期的にも最適だろう」 「じゃあそうしましょう」 「体育祭ってなんの仕事なんだ?」 「体育祭の実行委員長よ」 「委員長? 俺が?」 「毎年、生徒会役員が兼任してるから。今年は支倉くんに任せるわね」 微笑みを浮かべ、それから自分の席へと戻って行く。 「いや、でも、去年の体育祭とか知らないぞ」 「大丈夫大丈夫。委員長は印鑑を押してればなんとかなる」 「そんないい加減でいいんですか」 「俺が去年やった時はそんなもんだった」 「兄さんの言うことをまともに聞いちゃダメよ」 「でも体育祭実行委員はしっかりしてる人が多いから、初めての仕事には向いてるはずよ」 「わからない事があれば兄さんにも聞けるし、困った時は私もフォローするわ」 「それなら、なんとかなるか」 「どうする、支倉?」 いきなり委員長なんて務まるのか不安ではある。 しかももう本番まで1ヶ月を切っている。 でも何事も経験だ。やってみよう、かな。 「できる限りは頑張ろうかと」 「委員長がそんな弱気じゃ、委員が不安になっちゃうわよ」 「学院を影から支えて行くことに、自信と誇りを持って」 副会長の檄にうなずく。 「あ、ああ」 「支倉くん、胸を張っていきましょ」 あっさりと俺の逡巡を消し去る。 いつか頼れる生徒会役員になって、堂々と隣に並べる時が来るんだろうか。 そんなコトを考えながら、生徒会役員としての第一歩を踏み出すことにした。 「わかった。任せてくれ」 「うん、その調子よ」 副会長は、満面の笑みを浮かべた。 「よう」 「あ、いらっしゃい」 陽菜のいるテーブルに焼きそばを置き、腰を下ろす。 少し遅れて、司も食べ物の載ったプレートを持ってきた。 「昼にしちゃ空いてるな」 「いいことだ」 「だな」 「なんだ、また焼きそば紅しょうが抜きか」 呆れたように言われる。 「そっちこそ青椒肉絲(チンジャオロースー)ばっかりだろ」 呆れたように言い返す。 「あのね、二人とも」 「毎日違うもの食べないと体に悪いよ?」 「それもそうだな」 言いながら司の肉を強奪。 仕返しとばかりに焼きそばを奪われた。 「これで少しはバランスが取れるかもな」 「もっと野菜を取ったほうがいいよ」 「私のサラダ、少しあげるね」 「貴重なサラダを人にあげるなんてっ!」 「ひなちゃんサイコーっ!」 がしっ いきなり陽菜に抱きつき、頬をすりすり。 「お、お姉ちゃん、食事中だから抱きつくのはちょっと」 揺れる椅子の上で、陽菜が身をよじる。 「うん。満足」 ぱっと陽菜から離れた。 何を食べたらこんなにテンション高く育つんだろうか。 「じゃあ偉いひなちゃんには、わたしのサラダをあげよう」 自分の持ってきたサラダからレタスを陽菜の皿へ。 「お姉ちゃん、いいのに」 「ひなちゃんが野菜不足で倒れないか心配なの」 「だからそこの二人、今度からはわたしのをあげる」 「いや、わざわざくれなくても」 「ひなちゃんとわたしが心配するでしょ!」 「もごはっ!」 レタスを口に突っ込まれた。 「お、お姉ちゃん」 「うまいか」 「死ぬとこだった!」 「もう一枚いっとく?」 「焼きそば以外も食べるようにしますから、大丈夫ですよ」 「うんうん、それならお姉ちゃんも安心」 小さな手で頭を撫でられた。 「たまに私がバランスいい食事でも作って、みんなで食べるとか」 「それは、さすがに大変だろ」 寮の部屋には、まず調理設備がない。 そして購買には料理の材料が売ってない。 だから、何かを作ろうとしたら、出来合いの物をミックスするしかない。 わざわざ週末に買い物するのも、調理道具をなんとかするのも大変な手間だろう。 「俺が材料買ってきてもいいが、あまり重いと厳しいな」 「基本は自分たちで栄養を取らないとダメだよ」 「いつか鍋パーティくらいはしてみたいけど」 「そうだね」 「これから夏になりますけどね……」 夏に鍋は暑そうだ。 「あ」 「こーへーに聞きたいことあったの忘れてた」 「なんですか?」 陽菜と司も、かなでさんを見た。 「生徒会に入ったってほんと?」 「ええ、まあ。なんかそういうことになりました」 「むー」 「あ、そうなんだ」 「言おうと思ってたんだけど、忘れてた」 「呼び出しとかも、そういうことだったんだね」 「まさか孝平がお偉いさんになるとはな」 「ぐー」 「なんですか」 「お姉ちゃんになんの相談もなく決めたら寂しいよっ!」 ぺたしっ 「なぜ風紀シール!? 風紀関係ないですよね!?」 「じゃあはがす」 べりべりべり 「痛たたたたっ!」 「だ、大丈夫?」 「あのねこーへー、生徒会は危険なんだよ?」 机に両手をついて、こっちに身を乗り出す。 真剣な目で俺の目を覗きこむ。 「そうなの?」 「ナベのフタだけ持って大気圏突入するくらい危険なの」 「相当危険だな」 「えっと、具体的には……?」 「策略と謀略と疑念と疑惑とあとアレに包まれた場所なの!」 「アレってなんですか」 「わたしが聞きたいよ!」 逆ギレか! 「生徒会について何か知ってるんですか?」 「ううん、キュッピーンって思うだけ」 「キュッピーン?」 「直感の音」 「なるほど」 つまり別に理由があるわけじゃないのか。 「まあ普通じゃないのは間違いない」 「大変かもしれないけど、頑張ってね」 「相談になら、いつでものれるから」 「ありがとう」 「入っちゃったものは仕方ない。困ったときは助けてあげよう」 「ありがとうございます」 「なんで目を逸らしながら言うの?」 「他意はないです」 「他に黙ってることない?」 「黙ってたわけじゃないですけど、体育祭の実行委員長になりました」 「委員長!?」 「そうきたかー」 「いきなりなんて、すごいね」 「何をしたらいいかさっぱりなんだけどな」 「大丈夫、わたしも寮長になった時はさっぱりだったから」 「まあ、気張りすぎんなよ」 「そうだな」 「応援するね」 「さんきゅ」 みんなに励まされて、体が軽くなったような。 自分じゃ気づかなかったけど、プレッシャーを感じてたのかもしれない。 放課後。 昨日と同じように監督生室へと向かった。 そういえば副会長が、笑顔で入ってくるようにと言ってたな。 にやり。 こんなもんだろうか? 鏡がないと、どんな顔してるかわからんな……。 「どうも」 「なんで口の端を歪めてるんだい?」 「ハードボイルドにイメチェン?」 「失礼な。笑顔ですよ」 「支倉君のレベルなら、さらに上位の笑顔を繰り出せるはずだよ」 「必殺技じゃないんですから」 「いいや、笑顔は恋の必殺技さ」 「見本を見せようか?」 「俺に恋の必殺技を向けてどうするんですか」 「支倉君のハートをトキめかせる自信があるんだけど」 「なおさら遠慮しときます」 「アホなこと言ってる場合じゃないわ、もう時間よ」 「おっと、そうだった」 「さあ、行こうか支倉君」 「どこへですか?」 「体育祭実行委員会、第一回目の会議よ」 「は?」 「さあ、支倉くんの力を存分に発揮してきてね!」 笑顔で背中を押された。 「んじゃ、レッツゴー♪」 呆然としている俺の手を会長が引っ張った。 「さ、急いだ急いだ」 「みんなが委員長の君を待ってるよ」 「いや、でもなんの準備もしてないし、去年の資料もまだ見てないですよ!」 「まあまあ。なんとかなるよ」 びしっと決めてこいと言われても、何も知らずに行ってどうしろというのか。 いや、どうせ委員会のメンバーとは体育祭までのつきあいだ。 波風さえ立てなければいいのかもしれない。 頼りない委員長と思われたとしても、すぐに関係なくなるもんな。 と、今までの俺なら考えていたかもしれない。 でも、これからはそういうわけにはいかない。 短い付き合いだろうがなんだろうが、精一杯やらないと。 「ちょっと待ってください」 会長を呼び止めた。 「ん?」 「入る前に聞きたいんですけど」 「時間がないよ」 「すぐ済みます」 「じゃあ、一つだけなら」 「去年の第一回目の会議でしたことを教えてください」 「いい質問だね」 意味ありげに、口の端を吊り上げてみせる。 「委員長の引き継ぎ、名簿の作成、オリジナル競技の話し合い」 「以上の三本だ」 「オリジナル競技?」 「実行委員の考えた競技。ウチの体育祭の目玉さ」 「心配はいらないよ」 「委員の大半は去年の経験者だし、やる気溢れるメンツが揃ってるから」 やる気溢れる委員たちをまとめるはずの委員長が、素人。 しっかりしないと、すぐに不満が出そうだ。 教室に入ると、多くの視線が俺に集中した。 一部の女生徒の視線は会長に釘づけ。 「やあ、お待たせしてしまって申し訳ない」 「そんな、全然大丈夫です」 「会長、今年もお願いします」 会長は去年の体育祭で相当な信頼を得ているようだ。 「見知った顔が多いようだけど、新入生もいるのでまずは挨拶を」 「アオノリのマネでやります」 青砥先生のマネ? 「僕は生徒会会長、前体育祭実行委員長の千堂伊織だ」 もはや本人にしか聞こえない……。 「そのインスタント麺は、僕の秘蔵品だ」 「あはは、そっくりー」 「会長ってすごいね」 緊張していた新入生たちも、口もとを押さえて笑う。 一瞬で、部屋の中の空気が優しくなった。 「さて、ここで今回の委員長を紹介しよう」 ざわめきが起こる。 「静粛に頼むよ。さあ支倉君、どうぞ」 会長の隣。 いつもは教師のいる位置に立つ。 教室の椅子に座る全員を見つめ返す。 全部で40人ほどか。 先輩も、同級生も、後輩も混じっているようだ。 静かな農村に入り込んだ不審者を見る村人のような目で俺を見ている。 緊張は、ない。 教室のこの位置に立つことは慣れている。 転校する度にそうしてきたように、まずは自己紹介をすればいい。 「今年の体育祭、実行委員長に就任しました生徒会役員の支倉孝平です」 拍手のかわりに、小さなざわめきが起きた。 「生徒会にいたっけ?」 「あれじゃない? 女風呂覗いた人」 「あ、そうかも」 様々な囁きが聞こえる。 「俺は、この4月に転校してきたばかりです」 「だからこの学院の体育祭のことは何も知りません」 「……そんなこと言っちゃっていいのかい?」 会長の囁きに対し、小さく「任せて下さい」と囁き返す。 会長は、腕を組んで笑顔を浮かべた。 「この委員会には、去年も参加した方が多いそうですね」 「だから、できる限りそういった方の意見を聞いていきたいと思います」 沈黙。 さて、ここからだ。 「では、俺には何ができるのか」 「俺は今まで転校を繰り返し、いろいろな学校を渡り歩き、数多くの体育祭を見てきました」 「その中で、楽しかったことや感動したことを、形にして提案します」 「去年までの体育祭に、今までになかった楽しさや感動を提案すること」 「それが俺にできることです」 小さな拍手。 それでも、拍手が起きた。 「デメリットの後にメリットの提示か。印象は悪くないね」 再び、会長が囁きかける。 「支持率は25%ってとこだね。後はどうする?」 「援軍に期待ってとこです」 小さく口にして、教室に視線を戻す。 「まだ不安に思われる方もいるでしょう」 「ご安心下さい。俺たちには頼れる男がついています」 「紹介しましょう、影のスーパーアドバイザー、千堂伊織会長です!」 「おや?」 「待ってました!」 「会長ー!」 「さ、一言どうぞ」 「ありがとう、ありがとう」 「支倉君は役員としては経験が浅いけど、やる気はあるから大丈夫」 「彼が言った通り、背後には俺がついてる」 肩を組まれた。 「そんなわけで、彼に委員長任せちゃってもいいかなー?」 「いいともー!」 昼のテレビ番組を思わせるかけ声が、教室中に響いた。 会長の力を利用するのはできれば避けたかったが、この際仕方がない。 とりあえず、みんなに委員長として認められることが重要だ。 そういう意味では、一応の成功、ということになるのかもしれない。 「それでは、名簿作成に入りたいと思います」 その後、名簿作成やオリジナル競技の会議もつつがなく進んでいった。 「はあ……」 「はい、お茶」 「ありがと」 「で、どうだったの?」 「よかったよ」 「どんな風に?」 「みんなに委員長として認められたね」 「俺の後任だから、比べられて不満が出るだろうと思ってたけど」 「無駄に人気あるものね」 「それを逆手に取って、利用したのはいいアイデアだった」 「へえ」 「オリジナル競技についてはとりあえず保留」 「次回の会議までに全員で考えてくることになった」 「ぐだぐだにならなかっただけでも上出来だよ」 「支倉くんの初陣の感想は?」 「最悪の展開を避けるのが精一杯だった」 「みんなが会長に『今年も委員長をやってくれ』っていつ頼み出すかわからなかったし」 「ぎりぎり成功?」 「そんな感じ」 「慢心することなく、次の会議に向けて準備できるわね」 「ポジティブだな」 「前向きな思考は、力になるわよ」 人差し指をぴっと立てて言った。 「それで、これからどうするの?」 「とりあえず、早いとこ過去の体育祭の資料が見たいんだけど」 「一応私が探してみたんだけど、見つからないのよね」 「兄さん、どこにやったの?」 「忘れちゃった」 「いいわ。私と支倉くんで探すから」 端正な眉尻を吊り上げながら、紅茶に口をつける。 「しかし、なんで実行委員はあんなにやる気に溢れてるんですか?」 「2年、3年連続でやってる人がほとんどだし」 よっぽど実行委員の仕事が面白いとしか思えない。 「それはね、ちょっとした役得もあるからさ」 「役得?」 「そのうちわかるよ」 「オリジナル競技はどうする気なんだい?」 「過去の資料を見て、考えようと思ってたんですけど」 体育祭をいっぱい見てきたなんて言ったからには、下手な案は出せない。 「これからじっくり考えますよ」 「楽しみにしてるよ」 「あ、支倉くん」 「次回から、会議は一人で行くことになるからね」 「わかった」 これからは前委員長である会長と比べられることになるだろう。 とは言っても、焦っても仕方ない。 「任せてくれと言った以上、頑張るよ」 「その言葉、ちゃんと現実にして私に見せてね」 勝ち気な表情に、思わずどきりとする。 失望はさせたくない、と思った。 今日もいい天気だ。 軽く両手を伸ばして深呼吸してから、歩き出す。 前を歩いているのは、副会長か。 背後から声をかける。 「おはよう」 「……あ、支倉くん」 いつもより元気のない声が返ってきた。 「どうしたんだ?」 「何が?」 「珍しく元気が無さそうだからさ」 もしかして、血が足りないのだろうか。 「ちょっと夢見が悪かっただけよ」 「ああ、なるほど」 「なんでそこで安心した顔するのよ」 「いや、もっと……アレ的なことかと思った」 誰かに聞かれるとまずいだろうと思い「吸血鬼」という単語を伏せた。 「血なら足りてるわ」 さすが副会長、察しがいい。 「てか、血とか言ってもいいのか」 「二人きりなんだから、いいじゃない」 思わず、前後を確認する。 俺たちの会話が聞こえる距離に生徒の姿はなかった。 「なるほどね」 「ねえ、今日も体育祭の仕事でしょ」 「そのつもりだけど」 「資料を探さないといけないのよね?」 「そうだな」 「なら私も手伝うから、見つけちゃいましょ」 「忙しいんじゃないのか?」 「今日はそうでもないわ」 「助かる」 「いいのよ」 「どこにしまったのか忘れた兄さんが悪いんだから」 「それじゃ、放課後に監督生室でね」 「ああ、わかった」 うなずき合った後、副会長は駆けていった。 「そこで水素イオン指数を測定して、反応をグラフ化することにより……」 「おっと。今日はここまでだ」 「次回は実験を行うから、忘れないようにな」 数人の生徒が返事をする。 ノートを閉じて、背筋を伸ばした。 やっと昼休みだ。 「学食か?」 「購買な気分だ」 「あ、今日は教室で食べるの?」 「そうしようかと」 たったったった 「さあさあ、学食いこー」 この人はどこにでも現れるんだな。 「孝平くん、購買なんだって」 「購買か。じゃあそうしよう」 「かなでさんもここで食べるんですか?」 「うん」 「去年もひなちゃんとこで食べたりしてたし」 「上級生に見えないからいいのか」 「かなでビームっ!」 がすっ 「ぐぅおぉ」 脛を蹴られた。 「ごめんね、大丈夫?」 「こうなるのがわかってて言うとは、そういう趣味か?」 「うっかりしただけだ」 「さて」 司が、ポケットから何かを取り出す。 俺の机の上に何かを転がした。 サイコロが、4つ。 「孝平、コレで勝負しねえか」 「負けたら相手の分を買いに行く」 「のった!」 「風紀委員としての自覚はあるんですか」 「これくらいの遊びは規則違反じゃないもん」 「孝平と悠木は?」 「面白そうだしやってみるか」 「ひなちゃんもやろうよ」 「わたしが守るから」 何をする気だ。 「お姉ちゃんがそう言うなら」 「ん、サイコロか」 「あ、のりぴー」 やばい。 アオノリがサイコロを手にした。 「没収っすか?」 「いや、懐かしいと思ってな」 手の中で4つのサイコロを器用に転がす。 そして、なにげなく机の上に落とした。 「あ……」 「すげえ!?」 すべての目が、1だった。 「ふむ」 「ほどほどにしとくようにな」 そう言って、立ち去った。 「全部1ってどんな確率なんだ」 「1296分の1」 「うおっ」 いきなり後ろから声がした。 「気にしないで」 クールに言われた。 「きりきりもやろうよ」 「遠慮しておくわ」 「遠慮は無用!」 がしっ かなでさんが紅瀬さんを捕まえた。 「ふぅ……」 「ごめんね、紅瀬さん」 「嫌なら言ってね」 「好きにして」 何かを諦めたらしい。 「しかしアオノリはすごかったな」 「ありゃあ、ああいう技だ」 「そうなのか」 「ああ見えて昔は、いろいろと遊んでいたらしい」 「見かけによらないもんだな」 「そういうことだ」 「やるのなら、早くして」 「始めるか」 「単純に数の多いヤツが勝ちだ」 「わかった」 「それじゃ、始めるぞ」 「誰から振る?」 「じゃあ……」 陽菜がおずおずと手を挙げる。 サイコロを転がした合計は、19。 続いて振った司の合計は、13。 負けのなくなった陽菜が、そっと席を立った。 トイレだろうか。 桐葉さんの合計は、9。 俺の合計は、7。 「7!?」 「寮長を残して、暫定最下位だな」 「わたしが負けることはあり得ないよ」 「なんでですか」 「のりぴーの必殺技、盗んだから」 「まさか、あの一瞬で!?」 こくりと俺にうなずくと、サイコロを小さな手で握った。 「うりゃっ!」 「おおおっ!」 「マジか!」 4つのサイコロはすべて同じ目で揃った。 オール1で。 「合計4」 「寮長の負けだな」 「しまった、1にしちゃったあああああああっ!!」 その場に崩れ落ちた。 「ここまでできるのに負けるのはすごいな」 「なんというイージーミスっ!」 「いいもん、わたし買ってくるからっ!」 「ご注文はっ!」 やけくそ気味に叫んだ。 「あんパン」 「焼きそばパン」 「カレーパン」 「この時間じゃ、焼きそばパンは買えないよっ」 「人気だしな」 「じゃあ食パンを」 「誰が負けちゃったの?」 陽菜が戻ってきた。 「寮長だ」 「やっぱり……」 「やっぱりって?」 「お姉ちゃん、こういう運ないから」 「運は関係なかったけどな」 「?」 「くうぅ」 「はい、お姉ちゃん」 手に持ったビニール袋をかなでさんに渡す。 「パンとジュース?」 「早くしないと売り切れちゃうと思ったから」 「買って来ちゃった。ごめんね」 「そうか、売り切れは考えてなかった」 「思ったより時間がかかったからな」 「ひ、ひなちゃん、ありがとうっ!」 「大好きっ」 陽菜に抱きつく。 「お姉ちゃん、オーバーだよ」 「よしっ、今日はわたしのおごりっ」 「存分に食べてねっ!」 「いいですよ、別に」 「負けてないひなちゃんに買わせちゃったんだよ」 「わたしに残されてるのは、おごるか切腹かの二択だよ?」 切腹は困るな。 「なら、おいしくいただきます」 「んじゃ、遠慮なく」 「孝平くんは、焼きそばパン好きだったよね」 野菜ジュースと共に手渡される。 「おおお、サンキュー」 「はい、きりきりもどーぞ」 「昼食抜きかと思ったわ」 時間に追われながら、全員でもぐもぐとパンを平らげていく。 いい機会だし、体育祭のことでも聞いておくか。 「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」 「ひゃひ? ほーへー」 「お姉ちゃん、食べながら話しちゃダメ」 陽菜の言葉にこくこくとうなずく。 「もぐもぐ、ごくん」 「何? こーへー」 「去年の体育祭は、どんなオリジナル競技をやったんですか?」 「竹馬競争と目隠しリレーだったかな」 「あとは、地雷原突破」 「なんですその物騒な競技は」 「落とし穴がある場所を、恐る恐る走り抜けるの」 「あれは酷かったな」 「そうなのか」 「前日の雨で落とし穴にドロ水がたまってた」 「落ちたら最悪だな」 「最悪だったよ」 「落ちたんですか……」 かなでさんが、遠い目をしながら小さくうなずいた。 放課後になり、みんなが帰宅の準備を始めていた。 俺もオリジナル競技を考えながら、鞄にノートを放り込む。 「うーん」 餅食い競争は、どうだろうか。 あれは喉に詰まらせて倒れたヤツがいたような。 「何か?」 「え?」 「こちらをにらんで、うなってるから」 「考え事してただけだ」 「そう」 そのまま帰ろうとする。 「あ、ちょっと紅瀬さん」 「何かしら?」 「今年の体育祭で、やりたい競技ってある?」 「出たくない競技ならあるわ」 「出てみたいのは?」 「何もないわ」 一秒も迷わなかった。 「紅瀬さんらしいな」 素直にそう思った。 「昼も体育祭のことを聞いていたわね」 「なぜ?」 「体育祭の委員長になったんだ」 「そう」 「いきなり聞いてすまなかったな」 「別に気にしてないわ」 「助かったよ、ありがと」 「礼を言われるようなことはしてないけれど」 かすかに不思議そうな顔をした。 「一応、答えてくれたから」 「そう」 かすかに納得したような顔をした。 「さよなら」 言い残して立ち去った。 俺も監督生室に行かないと。 監督生室へ向かう階段を上る。 扉のノブに手をかける前に、自分の頬を触ってみる。 笑顔で入ればいいんだっけ。 がちゃり 「あ」 扉を開けると、目の前に白ちゃんがいた。 「やあ、白ちゃん」 「えっと……」 なんか不思議そうに俺の顔を見ていた。 「どうしたの?」 「いえ、何かいつもと雰囲気が違うので」 「いいことがあったんですか?」 「いや、特には」 「そうですか」 「でも、嬉しそうな顔してます」 「私が、笑顔で入ってきてってお願いしたのよ」 副会長が席を立って会話に参加した。 「あ、それでですか」 「わたしも見習います」 そう言って、にっこり微笑む。 心がほわーんと和んだ。 「なんか見てるだけでこっちも顔が緩んでくるな」 「支倉先輩の笑顔を見てても、そうなります」 がちゃり 「おや、みんな扉の前に集まって何やってるんだい?」 「ずいぶん楽しそうな顔してるけど」 「笑顔の練習です」 白ちゃんが会長に笑顔を向ける。 「どうですか?」 「伊織流、微笑み返しっ!」 会長が全力で微笑んだ! 辺りはまぶしい光に包まれた。 「ま、負けました」 「いきなり目潰し技を繰り出さないで下さい」 「挨拶みたいなものさ」 どんな挨拶だよ。 「すごい……笑顔って光を放つんですね」 「あんなことできるの会長だけだから、マネしちゃダメだよ」 「ねえ兄さん、征一郎さんは?」 「ああ、征は委員会まわりだ」 「そのうち戻ってくるよ」 「そう」 「じゃあ支倉くん、そろそろ資料を探しましょ」 「助かる」 「頑張ってね」 「ヒマなら兄さんも手伝いなさいよ」 「おや、今日は春らしい穏やかな日差しだね」 会長が窓の外を遠い目をして眺めた。 「ほっといて探しましょう」 「ああ」 「あ、お手伝いします」 「いいの?」 「今日は兄さまから、何も言われてませんので」 「ありがとう、助かるよ」 「それじゃあ、二人が倉庫で一人がこの部屋を探すって感じかしら」 「ああ、これは体育祭の仕事だから、支倉くんが仕切ってみて」 「俺が?」 「身内で練習しといたほうがいいでしょ」 「じゃあ、二人ともどっちを探したいか希望はある?」 「ないわ」 「どちらでも」 どうしようかな。 とりあえず、上は楽そうだから俺は倉庫に行くとして……。「俺と副会長が倉庫で、白ちゃんがここでいいかな」 「わかったわ」 「はい」 倉庫は薄暗かった。 「異世界みたいに混沌としてるな」 窓から差し込む光の中で、埃が舞う。 山積みの紙、ボロボロの棚、古い机、玉入れ台や綱引きの綱、看板などが転がっている。 「なんでこんなことになってんだ?」 「日頃使わない物がここに集まるのよ」 「体育祭で使う物もあるからチェックしておくといいかもね」 「そうなのか」 「たしかあの辺で見た気がするわ」 膝の高さまで乱雑に置かれている書類だの備品だのを乗り越え、副会長が進んでいく。 ひらひらと危ういラインで上下するスカートの後を、なんとかついていく。 「なんで、こんなに、進み、にくいのよ!」 「そこにゴミがあるからだ」 「ゴミじゃないわよ」 「たぶん」 「整理したほうがいいんじゃないか」 「これでも時間のある時に資料の一部を電子化したりしてるんだけど」 「何十年分もたまってるから、焼け石に水ね」 マシになってこれなのか。 足下に積まれた資料を拾ってみる。 「予算配分表か」 5年前の物だった。 「あ、これじゃないかしら」 奥の棚から紙の塊を取り出す。 「体育祭って書いてあるな」 副会長が何枚かめくってみる。 「むー」 「どうした?」 「38年前のだけど、参考になる?」 「いくらなんでも古すぎだ」 「そうよね」 二人で手分けして探し始めた。 「俺と白ちゃんが倉庫で、副会長はこの部屋を」 「わかったわ」 「はい」 倉庫の中は、薄暗かった。 「物が山積みですね」 「入るのがためらわれるな」 床は紙やら本やらが膝あたりまで積み重なっていて、歩くのも一苦労だ。 「仕方ない、行くか」 「はい」 俺が歩いた後を白ちゃんがおずおずとついてくる。 歩きにくいのか、どんどん距離が離れてしまう。 「大丈夫?」 「支倉先輩、すごいです」 「こんなところをどんどん歩けるなんて」 「普通だよ」 「でも、わたしはうまく歩けません」 「何かコツがあるのでしょうか?」 「歩幅を大きくとると歩きやすいかも」 「雪が積もってる時、足を上げて大きく一歩踏み出すだろ。あんな感じで」 「では、やってみます」 意を決したように胸に手を当てる。 「えいっ」 かけ声とともに右足を高く引き抜く。 スカートが太腿に勢いよく持ち上げられる。 いつもはスカートに隠されている部分が見えてしまうと思った刹那―― 「対価は、支倉の命だ」 と俺の脳内で東儀先輩が呟いた。 俺は全力で体を捻って視線をずらし、勢いあまって棚に突っ込んだ。 がっしゃーん 「は、支倉先輩、大丈夫ですかっ!」 「……生きてる、大丈夫」 落ちてきた本を手で横によけ、なんとか立ち上がった。 がちゃり 「お、戻ったね」 「見つかった?」 「残念ながら、見あたりませんでした」 「とりあえず、小休止しようか」 「はい」 「そうね」 副会長が椅子に腰を下ろす。 「さすがに少し疲れたわ」 「優雅に休息することも大事さ」 ワイングラスを傾けながら、会長が言う。 副会長が、難しい顔をしてグラスの中の赤を見つめる。 「物欲しそうな顔してるね」 「誰がよ」 「ほら」 会長が副会長に何かを投げた。 「それは?」 小さな赤いパックが副会長の白い指に包まれている。 「輸血用血液よ」 「あ」 白ちゃんがそれを見て給湯室に向かう。 と、思ったらすぐに戻ってきた。 「はい、どうぞ」 ストローを差し出した。 「ありがとう、白」 「支倉先輩のお茶も、すぐに淹れますね」 血を吸うストローもお茶も、白ちゃんにとっては変わらないのか。 「慣れてるんだな」 「はい?」 「いや、なんでもない」 「はい」 「えい」 副会長がパックにストローをさして、口をつける。 ちぅちぅ 「んー」 微妙な顔をした。 「まずいのか」 「そうね」 「正直に言うと、こんな血は飲めたもんじゃないよ」 「その割には優雅に飲んでるじゃないですか」 「気分だけでもと思ってね」 「おいしい血とかあるんですか?」 「経験上、元気で健康な人間のはおいしいね」 「女の子だとさらに倍」 「何言ってんだか」 「いやいや、異性の血のがおいしいよ」 「映画でも若い女の子ばっかり襲うイメージがありますよね」 「若い女の子の血は最高さ」 「単なる俺の趣味かもしれないけどね」 「結局、経験で語るしかないからよくわからない、と」 「お、わかってきたね」 「いろいろ聞きましたからね」 「とりあえず、こいつは不味い」 「できれば飲みたくはないよ」 「味はどうでもいいけど、飲まなくて済むならそれに越したことはないわね」 ことん 「お口直しです」 お茶が全員に供された。 礼を言ってお茶をすする。 「あちっ」 思わず副会長を見る。 何も言うな、という目をされた。 俺は小さくうなずいて、会長の方を向いた。 「そのパックはどこで手に入れてるんですか?」 「知らないほうがいい」 会長の口許から、いつもの微笑みが消えた。 「……なんでですか?」 「たとえば、俺たちを利用しようとする者がいるとする」 「そいつはまず、君や白ちゃんを捕まえるだろう」 「で、パックのルートの情報が漏れる。ここまではいい」 「全然よくないです」 「パックが無くなれば、俺たちは見境なく人を襲いだすかもしれない」 「その被害はこの島の住人だけでは済まないと思う」 冗談を言っている顔ではなかった。 「聞いても君に、それほど利点はないんじゃないかな」 「どうしても、と言うなら話すけど」 「やっぱりいいです」 がちゃり 「あっ、兄さま」 「ただいま」 「お帰りなさいませ」 「ねえ、征一郎さん」 「ん?」 「去年の体育祭の資料がどこにあるか、知らない?」 「一階倉庫の奥、左手の棚の3段目だ」 すらすらと答える。 「見てくるよ」 部屋を出て一階倉庫に向かう。 「どうだった?」 「あっさり見つかった」 東儀先輩が言った通りの場所にあった。 表紙には「体育祭資料」と去年の数字が書かれている。 ぱらぱらとページをめくり、内容を確認する。 オリジナル競技について書かれているページがあった。 今までに採用された案とボツになった案が、箇条書きされている。 前回の反省会の議事録もあった。 これは役に立ちそうだ。 「ありがとうございます、助かりました」 頭を下げた。 「気にするな」 「やっぱり征一郎さんは頼りになるわね」 「兄さんと違って」 「あの資料の山の位置を覚えてる征がすごいだけさ」 「はいはい」 「よかったですね、支倉先輩」 「白ちゃんも、ありがと」 これを参考にして、体育祭の仕事をしていこう。 ゆっくりと風呂に浸かってぼーっとする。 ──さっきまで、体育祭の資料に目を通していた。 どうやら競技の賞品は、学食や購買の出入り業者から提供されるらしい。 その賞品の配分も、委員長の仕事だとか。 加えて、オリジナルの競技も考えないといけない。 当日まであと半月と少し。 やることはいっぱいあるな。 がちゃり 「ふう」 「今だ、突撃ー!」 「な!?」 「お邪魔するね」 ベランダから二つの影。 「よう」 「あの、失礼します」 入り口から二人侵入。 「お茶会の準備かんせーっ!」 「早っ!」 「かんぱーい」 「ちょっと待って下さい」 「ん?」 「なんですかこれは」 「お茶会すること、風の如く」 「孫子的に言わなくてもいいです」 「こーへーが来るまでみんな入るの待ってたんだよ」 「事前に言ってくれればいいじゃないですか」 「こんなに遅いとは思わなかったんだもん」 「そっか、待たせてすみません」 「今日は長風呂だったな」 「ゆっくり浸かりたい気分の時ってあるよね」 「ああ。ちょっと考え事しててさ」 「もしかして、体育祭のことですか?」 白ちゃんが小首をかしげて聞いた。 「ああ」 「今日は資料が見つかってよかったですね」 「お陰様でね。ありがとう」 「しろちゃんと一緒に探したんだ?」 「副会長も入れて三人かな」 「あ、そう言えば」 「瑛里華先輩は、今日はお仕事でこれないそうです」 「寮に帰ってもやってるのか」 「はい」 俺も体育祭の仕事をしないといけないんだけどな。 待てよ、いい機会だし相談してみるか。 「みんなにちょっと聞きたいんだけど」 「なあに?」 「体育祭で、どんな競技がやってみたい?」 「オリジナル競技のこと?」 「そうです」 「オリジナル競技ってなんですか?」 「毎年、実行委員が考える競技なんだ」 「そうなんですか」 「いいアイデアが浮かばなくて、困ってたんだ」 「まず砂浜まで行く」 「遠距離走か?」 「そして寝る」 「サボりか!」 「そんなへーじに、風紀しーるっ!」 「ってのは冗談」 「むぅ」 すごすごとシールをしまった。 「なんでもいいんですか?」 「体育祭でやるようなことなら」 「和菓子食べ競争とか……」 なぜか、みんなの視線がお茶請けの和菓子に集中した。 「ダメですか」 「いや、そういうのでもいいと思う」 「俺のいた学校でもあったし」 「和菓子食べ騎馬戦」 「どのタイミングで食べろと」 「敵を倒す前の儀式の時」 「どこまで斬新なんですか」 「あとは棒倒しとか」 「ああ、敵のでかい棒によじ登って倒すやつか」 「危険だから禁止になっちゃったけどね」 「ああいう風に戦ったりするのが一番盛り上がるよ」 「女子が見てても、面白いもんね」 「他の競技と何が違うんだろうな」 「みんなでやるからではないでしょうか」 「一人で走るより、リレーの方が面白いと思いますし」 「確かに、参加人数が多いほうが盛り上がるよな」 「玉入れなら、みんなで参加できるけど」 「どこかの学校で水風船で玉入れってのがあったな」 「水風船いいね」 「普通の玉入れじゃなくて、カゴ入れにしようよ」 「カゴ入れ?」 「敵がカゴを背負って逃げ回って、そのカゴに向かって水風船を投げるの」 「いいんじゃねえか」 「水風船を投げられたら誰でも本気で逃げるだろ」 「たとえ俺でも手を抜けん」 「でも、参加人数が多いと水風船作るのが大変なんじゃ」 「同じチームの人がその場で作るのはどうでしょうか?」 「わたしみたいに、投げたりするのが苦手な人もいますし」 「補給隊と攻撃隊、みたいな感じか」 「なるほど、面白そうだな」 「どう?」 「過去の競技とも被ってないし、いいですね」 「じゃあ、オリジナル競技は『水風船で死屍累々っ☆』に決定っ!」 「なんて縁起悪いネーミングっ!」 「えー。かわいいのに」 「どこがですか」 「死屍累々の、るいるいのとこ」 「るいるい?」 「パンダの名前みたいだね」 「ね、かわいいでしょ死屍累々」 「絶対かわいくないです」 「こーへー」 かなでさんが上目遣いで俺を見つめる。 そして、せつなげな表情で囁いた―― 「……しし、るいるい」 「わたし動物園に、ししるいるい見に行きたいな……」 「動物園でどんな事件が起こってるんですか」 俺はそんな危険な動物園には行きたくない。 「とりあえず、競技はそれでいってみようかと思います」 「題名は変えますけど」 「むう」 「みんな、ありがとう」 「お礼されること、何もしてないよ」 「こーへーのためなら、いつでも手伝うよ」 「その通りだ」 しばらくして、白ちゃんが声をあげた。 「あ……」 「どうした?」 「そろそろ戻らないといけません」 「そっかー残念」 「でも、お片づけが……」 「いいよいいよ」 「こーへーがやっとくから」 「いつもお茶淹れてもらってるし、気にしないで」 「その分、監督生棟にいる時にこーへーに優しくしてあげてね」 「なんですかその母親的な発言は」 「……」 陽菜がなぜか、ちらりと俺を見た。 「あ、はい。ありがとうございます」 「また来てね」 「気をつけてな」 「おやすみ」 「おやすみなさい」 ぺこり、と頭を下げて部屋を出て行く。 「孝平くんのお母さんって、さっきみたいなこと言うの?」 ああ、そのことが気になってたのか。 「小さい頃によく母親が言ってたけど。もしかして俺だけか」 「転校しまくりだったから、親が友達ができるか気にしてたのかもな」 「そういえば、今ご両親はどこにいるの?」 「東南アジアを転々としてて、今はマレーシアのはず」 「転勤って海外まで行くのか」 「橋を架ける仕事だからな」 「あっちじゃ仕事に困らないらしい」 「さすがに海外まではついていけなかったか」 「まあ、そうな」 「それで、なんでこの島にしたの?」 「俺も同じことを聞いた気がするな」 「全寮制だからだっけか」 「あとは一番長く住んでた場所だからかな」 「あの時が一番なの?」 「ええ」 「それより、そっちはどうなんだ?」 「そっちって、どっちだ」 「みんな」 「俺だけそういう話するのも変だろ」 「えっと、うちは……」 「この島に生まれてずーっとそのまんまだよ」 「島の外に出たことも、あんまりないしね」 「へーじはどこ出身なの?」 「北の雄大な大地だ」 「石狩鍋の生まれたとこだ!」 「その認識はどうなんですか」 「そこに母親と双子のいもう……」 「双子の妹!?」 「妹さんがいるんだ?」 「ねえねえ、写真とかないの?」 「なんでそんなに食いつく」 「いや、想像がつかなくてな」 「うんうん」 「写真は!?」 「ない」 「ケチー」 「じゃあ、今度までに送ってもらって」 「おっと、もうこんな時間か」 「んじゃ、お先」 「あ」 扉の向こうに消えた。 「逃げたな」 「なんで逃げるのかな」 「妹の写真を見せたくないからかと」 「お姉ちゃん、あんまり無理に言っちゃダメだよ」 「そっかー」 「よしっ、謝ってくるっ!」 言うが早いか走り去った。 「行動が早いな」 「それがお姉ちゃんのいいところだから」 「孝平くん、そろそろ片づけよっか」 「ああ」 食器洗いを陽菜に任せ、テーブルクロスなどを片づけていく。 こうして、今日のお茶会は幕を閉じた。 「それじゃあ、私は監督生室にいるから」 「しっかり頑張ってきて」 副会長がぽんぽんと、俺の両肩を叩いた。 「気合い注入」 「元々、満タンだ」 俺の余裕の笑みを見て、副会長は笑顔で立ち去っていった。 本当は、まったく余裕じゃねえ。 放課後。 今日は第2回目の会議だ。 過去の資料を見る限り、会議は毎年1、2回しか行われないものらしい。 つまり、今日ですべてのことを決めなくてはならないということだ。 本番はもう今週末。 軽く深呼吸をしてから、扉を開けた。 ざわめいていた教室が静かになる。 委員たちが、俺の入ってきた後も扉を見つめ続けていた。 「今日は会長は来ません」 「あくまで影のアドバイザーですので」 俺がそう口にすると、明らかな落胆が伝わってきた。 やはり、俺だけでは不安なのだろう。 「では、体育祭実行委員会、第2回目の会議を始めます」 ……。 まず、最初に行ったのは班分けだ。 BGM班や得点記録班、進行管理班、それからアナウンス班。 去年の経験者が、率先して経験のある班になってくれたおかげで、スムーズに進んだ。 俺の仕事は、右も左もわからない新入生に、班がどんな仕事をするのかを説明するだけだった。 「得点記録班は、グラウンドや本部で点数を記録します」 「本部から点数掲示板まで伝令したり、表示を変えたりする役目です」 「……じゃあ、それやってみます」 「転校してきた割には、よく知ってるじゃないか」 「去年までの資料を見ましたから」 「ほう、ちゃんと勉強してんだな」 先輩の委員が、少しだけ感心したようだった。 ……。 次はいよいよオリジナル競技だ。 全員が考えてきたものを羅列し、多数決を取る。 多数決の結果は……。 「では、今年のオリジナル競技は」 「中に人の入った大玉転がし、スーパー障害物競走」 「それから水風船カゴ入れに決定しました」 お茶会のメンバーが考えた案も選ばれた。 それが少し誇らしくもあり、嬉しくもあった。 「どうぞ」 白ちゃんがお菓子の載った皿を、机の上に置いた。 花を模した和菓子だ。 「かわいいね」 「え?」 「これはなんの花なの?」 「あ、和菓子の話ですね」 「藤の花です」 「へえ」 「支倉」 「今のは、かわいいね、の前に主語をつけたほうがいい」 本気だ。本気の目だ。 「征の言う通りだ」 「勘違いをされるような言い方は、軋轢を生むからね」 「すみません」 「見本を見せよう」 「征、かわいいね」 「大したことではないが、一応気をつけてくれ」 見事な完全無視だった。 「会議はどうだった?」 「今日は、班分けとオリジナル競技を決めたよ」 「細かいことは、班のリーダーと話し合って決めていくことになった」 「しっかりやってるみたいね」 「でも宿題がたっぷりある」 「宿題、ですか?」 白ちゃんが小さく首をかしげ、ツインテールが揺れた。 「競技ごとの点数配分、種目の順番の決定、賞品の分配とか」 「いっぱいですね」 「そうなんだよ」 「それで、できればパソコンを借りたいんだけど」 「征一郎さんが使わないなら、いいわよ」 「俺は自分のノートを使うから、そこのを使うといい」 そう言って、デスクトップに視線を向けた。 「ありがとうございます」 「使い方はばっちり?」 「たぶん大丈夫」 パソコンを起動する。 まず、今日の会議のまとめを作らないといけない。 それから点数配分について。委員が出してくれた案の羅列、調整。 プログラム冊子の仮作成もしないといけない。 やることは、山のようにあった。 「どう? まだかかりそう?」 副会長が俺の顔を覗きこんだ。 窓の外はいつの間にか深い紫色に染まっていた。 監督生室内には、俺と副会長しか残っていない。 「もうちょっとなんだけどな」 データの書式を変えたいのに、うまくいかない。 副会長に聞いてみるか。 「これって、ファイルの設定?」 「どれどれ」 副会長が、俺の肩越しに画面を覗きこむ。 マウスを譲るために下ろした俺の右手が、副会長のスカートに触れた。 「あ、ごめん」 「いえいえ」 これ、近すぎないか? 「俺、どいたほうがいい?」 「そのままで構わないわよ」 あっさり言って、俺の背後から操作を続ける。 その手がぴたりと止まった。 「あ、もしかしてこういうの気にする?」 「近くにいると意識しちゃうとか」 冗談っぽく口にする。 「そりゃあ、まあ、多少はな」 「えっ」 「そうなんだ」 「俺じゃなくてもそうだと思うが」 「男の子ってこれくらいで意識するのね」 「女の子はなんともないわけか?」 「さあ、どうかしら」 はぐらかされた。 「ちゃんと画面見ててね」 副会長が端整な指でカチカチとマウスを動かし始める。 「ほら、これはこっちの設定を変えるのよ」 「ああ、なるほどな」 俺は、作業行程を覚えることに集中した。 「はい、できたわ」 「さすが副会長、早いな」 「使い慣れてるだけよ」 「今のわかった?」 「ばっちり」 「そう」 満足そうにうなずいた。 「これで保存して、今日は終わりだ」 「もうそろそろ、寮の門限だから急いで出ましょ」 「もしかして、俺がいるから帰れなかったとか?」 「こっちも仕事が残ってただけよ」 肩をすくめてみせる。 パソコンの電源を落とし、鞄を手にする。 遅くまで残ったおかげで仕事はけっこう進んだ。 もう体育祭まで時間はない。 明日からいろいろな作業が始まるはずだ。 死ぬ気で頑張ろう。 そう思いながら、監督生室を後にした。 放課後。 教室を本部にして体育祭の準備が進められていた。 赤いペンキのついたハケで、点数表示用の看板を塗っていく。 「委員長なんだから、看板まで手伝わなくてもいいのに」 同じ学年の実行委員が、不思議そうに言う。 「見てるだけってのも申し訳なくて」 「女風呂突入した割に真面目だね」 「……」 嫌な枕詞だな、おい。 「委員長、ちょっと」 「なんですか?」 「プログラム冊子の挿絵なんだけど、交渉が難航してて」 「美術部でしたっけ?」 「そそ、頼んでもいいかな」 「わかりました」 「美術室にいると思うから」 笑顔でうなずいて立ちあがった。 誰もいなかった。 もう一度、入り口の札を確認する。 間違いなく美術室だ。 さて、どうしたものか。 「あ、孝平くん」 「すごい格好だね」 目を丸くされた。 自分の姿を見ると、ジャージにいろんな色が付着していた。 「看板を塗ってたんだ」 「頑張ってるみたいだね」 そう微笑んでから、ちらっとペンキのついた部分を見た。 落ち着かないのか、陽菜が少しそわそわしている。 「そんなに酷いかな?」 「え?」 「ペンキ」 「ううん、洗いたくなっただけ」 「美化委員の習性か」 「そんな感じかな」 照れたように微笑んだ。 「孝平くんは、こんなところで何してるの?」 「美術部に用事があったんだけど、いなくてさ」 「それなら、写生しに公園に行ったみたいだよ」 「おお、助かる!」 「何しに行くの?」 「挿絵の交渉」 「そっか」 「うまくいくといいね」 笑顔に見送られ、外に向かった。 「申し訳ないけれど、お断りするわ」 いきなり断られた。 「ウチは部員の少ない弱小部だし、この絵で賞でも取らないとまた予算が減っちゃうのよ」 筆の柄で、トントンとスケッチブックを叩いた。 「貧乏暇なし。暇がなければ慈善事業はお断り」 「あ、たしかキミ、生徒会役員になったのよね?」 「はい」 「美術部の予算を上げてくれるなら、喜んでやるわ」 「今は体育祭実行委員長として来ていますので」 「そうよね」 がっかりされた。 居心地の悪い沈黙が訪れる。 俺は、視線をイーゼルの上のキャンバスへと移した。 そこには、公園の風景が繊細なタッチで描かれている。 あまりに上手くて、感心してしまった。 「……そんなに見とれるような絵じゃないでしょ」 「いや、すごいと思います」 「悪い気はしないわね」 「あの、挿絵じゃなくて表紙にしてみませんか」 「得がなければやらないって言ったでしょ」 「プログラムは生徒全員が見ますし、表紙なら目立ちます」 「美術部の作品であることをアピールすれば、宣伝になりますよ」 「それで、入部したいって子が来てくれるとでも?」 「これだけの絵なら、可能性はあるかと」 美術部部長が、筆を置いてじっと俺を見た。 「いいわ、素直に受け取っておきましょう」 「その代わり、しっかりアピールするの忘れないで」 「それで、その後どうしたの?」 実行委員の仕事を終えた後、報告のために監督生室に来ていた。 「もちろんです、と答えた」 「やるねえ」 褒められた。 「支倉君には詐欺師の才能があるよ」 褒められてなかった! 「騙してなんかないです」 「本当に上手い絵だと思いましたし」 「冗談だよ。よくやった」 「支倉先輩は、実行委員の間で人気急上昇だそうです」 「そうなのか?」 「なんでも、BGM班が揉めているのを解決したそうですね」 「わたしのクラスの子が、頼りになるって言ってました」 「そんなことしたかな」 いろんなことがありすぎて覚えていない。 「でも、ここで手を抜いちゃダメよ」 「りょーかい」 軽く敬礼してみせる。 「ん」 敬礼し返された。 「東儀先輩、またパソコン借りていいですか?」 「ああ」 パソコンを起動する。 あとはプログラム冊子の誤植を直せば、一段落だ。 副会長の言うように、最後まで手を抜かずにやろう。 体育祭までもう3日しかないし、ラストスパートだ。 朝の教室。 今日の一限目は体育祭のための時間らしい。 教卓の上には、実行委員の作った冊子が載っている。 自分が手がけた物が配られる、というのはこんなにドキドキするものなのか。 「ほう、今年の表紙は美術部の絵か」 「これを後ろに回してくれ」 前から順番に冊子が手渡されていく。 「ほらよ」 前の席に座る司が、俺の机に冊子を置いた。 意味ありげに口の端をつり上げる。 「お前の汗と涙の結晶が回ってきたぜ」 「変な言い方をするな」 残り一冊を後ろに回す。 「これは?」 「話を聞いてなかったのか」 「ええ」 悪びれもせずに言う。 「体育祭のプログラム冊子だ」 「そう」 興味なさそうに、窓の外へと視線を戻した。 「競技種目のページを開いてくれ」 「これから、誰がどの競技に出るのかを決めるぞ」 「例年通り体育祭実行委員以外は最低一種目が義務だからな」 「なんだ、じゃあ孝平は出ないのか」 「委員長はずっと本部待機だ」 「あ、そうなんだ」 少し残念そうな声を出す。 「テントの下は涼しそうだな」 「代わるか? 隣、教職員だらけだぞ」 「それはきついな」 「テントより海のほうが涼しそうだ」 「本気でサボる気か」 「その日、海が俺を呼べば」 「かっこよく言う所じゃないだろ」 「じゃあ次は100メートル走の立候補」 「はい」 紅瀬さんが手を挙げた。 教室にざわめきが広がる。 「では、紅瀬」 「男子は誰かいないか?」 誰も手を挙げない。 「なんで100メートル走は人気がないんだ?」 「各クラスの強豪が出揃うから、みんな出にくいみたい」 「そんなハードルの高い競技に、紅瀬さんが立候補するなんて意外だな」 「そうかしら」 「走るのに自信があるのか?」 運動神経はよさそうだが。 「別に」 「じゃあなんで100メートル走なんだ?」 「どうせどれかに出なくてはならないのでしょう?」 「それなら、一瞬で終わるものがいいわ」 「紅瀬さんらしいね」 「やる気ない上の立候補か」 「それに強豪が揃うのなら、負けても誰も何も言わないもの」 「……なるほど」 「なんだそのいいこと聞いたみたいな顔は」 「男子、いないか?」 「俺がやる」 不純な動機で手を挙げた。 放課後、監督生室に向かう。 「やあ、支倉君」 「会長も監督生室に行くところですか?」 「そうだよ」 「今日は実行委員会はいいの?」 「あとは、前日の準備くらいですね」 「時間が余るなんて、いい仕事したね」 「褒め言葉は全部終わった後で受けつけます」 「真面目だねぇ」 「それより、判子押すだけなんて大嘘じゃないですか」 「嘘じゃないさ。人を動かすか自分が動くかの差だよ」 「交渉が難航して頼られたりするでしょう」 「俺が言ったら、全部その場で通るし」 「……ですよね」 圧倒的な人気の差というのは恐ろしい。 噴水前に行くと、ホウキを抱えたシスター姿の人物がいた。 「あら」 「こんにちは」 礼儀正しく挨拶をする。 そういうことにはうるさい人だからな。 「やあ、志津子ちゃん♪」 思わず会長を二度見した。 「千堂君、その呼び方はやめなさい」 「重そうだね、手伝おうか?」 なんだ、このかなでさんを彷彿とさせるフランクな対応は。 「申し出は嬉しいけれど、けっこうよ」 「千堂君も支倉君も、生徒会役員の仕事があるのでしょう」 「わかったよ、それじゃあね」 ひらひらと手を振って、会長が歩き出す。 俺は慌てて一礼して、その後に続いた。 がちゃり 「まったく、ひやひやしましたよ」 鞄を置いて、アンティーク調の椅子に腰を下ろした。 会長も、いつもの席に座る。 「生徒会役員なら、あの程度で動揺してちゃダメさ」 「今度、俺と山にこもって精神修行でもする?」 「やめておけ、伊織が飽きて置き去りにされるのがオチだ」 「行ったことあるんですか」 「……」 静かに目を閉じた。 何かを思い出したのか、わずかに表情が歪んだ。 あるのか。 「会長と東儀先輩って、仲いいんですね」 二人で山ごもりなんてよっぽどだ。 「うーん」 「別に仲がいいわけではない」 意外な言葉が返ってきた。 「でも、いつも一緒にいるし」 「それは理由にならないだろう」 「征は照れ屋なんだ」 「はあ」 「好きに受け取るといい」 東儀先輩は、そう言って自分のノートパソコンに向かった。 「副会長と白ちゃんは、どうしたんですか?」 「白は礼拝堂だ。瑛里華は会議の資料を集めている」 パソコンの画面から視線を外さずに、東儀先輩が答える。 「瑛里華が仕事熱心だから、助かるよ」 「寮に帰ってからも仕事してるみたいですね」 「そうなんだよ」 「心配して『仕事はほどほどに』なんて言った日には小言を言われるし」 「小言、ですか」 がちゃり 副会長が、紙の束を抱えて入ってきた。 「おかえり」 「ただいま」 「瑛里華」 「何?」 椅子に座り、紙の束に目を通しながら答える。 「仕事はほどほどにね」 うわあ。 「……ふう」 「あのね、兄さん」 「みんなに楽しい学院生活を送ってもらうのが私たちの役目でしょ」 「だらだらしてたら学院生活なんてあっという間に終わっちゃうわ」 「一度休憩して、それが癖になっちゃたらどうするのよ」 まだ、書類に目を通し続けたまま言った。 「ね?」 「ね、と言われましても」 「どう思う?」 「志には賛同しますけど」 副会長が書類から視線を外し、俺を見る。 少し不満げな顔だ。 ……。 ここで仕事のしすぎはよくないなんて言ったら、怒るだろうな。 だけど、心配ではある。 「支倉君は、瑛里華の身体が心配なんだね」 いきなり耳元で囁きが聞こえた。 「絶対、心読んでますよね」 「いや、心配そうな顔してるから適当に言っただけ」 「支倉君が、頼れる生徒会役員になれば瑛里華の仕事も減るよ」 「伊織が勤勉になっても解決するな」 「引退間近の俺が頑張るより、若い人が成長した方がいいだろう」 「というわけで、頼んだよ」 ぽんっ、と肩を叩かれた。 「わかりました」 「瑛里華が君を一流の役員に育ててくれる」 「光源氏が紫の君を育てたようにね」 「無駄に怪しげなニュアンスにしないで」 呆れたように言いながら、書類の束を棚に移動させた。 もう全部読み終わったのか。 「あ、そうそう」 「支倉くん、これ」 一枚のプリントを手渡される。 『体育祭BGM班の当日の配置』と書かれていた。 「委員の子から預かったから」 「悪いな、サンキュー」 「いえいえ」 「じゃあ、私はこれから会議があるから行ってくるわね」 返事を返す間もなく、出て行った。 忙しい人だな。 「ふぁ〜、することがないね」 「そろそろ帰ろうかな」 兄妹でえらい差だった。 「征と支倉君はどうする?」 「仕事が残っている」 「俺もまだいます」 「それじゃ、お先」 軽く手を挙げて、部屋を出て行った。 とたんに部屋の中が静かになる。 東儀先輩の打つキーボードの音だけが響く。 ……。 副会長が渡してくれたプリントに目を通し終えた。 お茶でも飲もうかな。 「東儀先輩、お茶飲みます?」 「ああ、ありがとう」 給湯室に向かう。 見たこともない茶葉があった。 白ちゃんが買ってきたやつなのかな。 なんかこだわりがありそうだ。 急須にポットのお湯を注いで、傍らにあった和菓子をお茶請けにした。 慣れない手つきでテーブルの上に置く。 「ここに置いておきますね」 「では、少し休むかな」 テーブルを挟んで東儀先輩と向かい合うことになった。 沈黙。 何か話したほうがいいんだろうか。 「……和菓子、好きなんですか?」 「洋菓子よりはな」 再び沈黙。 東儀先輩がお茶を口元に持っていく。 そこで、かすかに眉をしかめた。 お茶に何か問題でもあったのかな? 飲んでみればわかるか。 「……薄い」 茶葉が少なすぎたか。 「すみません、淹れなおします」 「いや、いい」 「白ちゃんみたいにうまくいきませんね」 「白には散々教えたからな」 「東儀先輩が?」 「お茶の淹れ方もそうだが、礼儀作法は一通り」 「厳しい家なんですね」 「ああ」 「古いしきたりも多いしな」 古いしきたりのある家ってどんな家なんだ。 「もしかして、ものすごい名家だったりします?」 「古い家柄ではある」 「古いってどれぐらいなんですか?」 「この島に東儀上水という農業用水路があるんだが」 「それを東儀の祖先が作った、という江戸時代の文献が残っている」 「それ以前はわからないな」 島の歴史に残ってるってすごいな。 ウチじゃ考えられない。 「代々伝わってる、先祖のすごい話とかってあるんですか?」 「島に伝わる怪談話ならそれなりに知っている」 「それは夏までとっといて下さい」 「怪談は苦手か」 「別に怪談も吸血鬼も苦手じゃないですよ」 「慣れたものだな」 珍しく、東儀先輩が口の端を緩めた。 「……あの」 「伊織先輩たちと、長いつきあいだって言ってましたよね」 「それが?」 「血を吸われたことってあるんですか?」 「一度もないな」 なら、俺が吸われることもないのかな。 再び静かになった監督生室に、扉の開く音が響いた。 「ただいま」 「遅くなりました」 「ちょうど白もローレル・リング終わったんですって」 「今日は掃除だったんだろ?」 「なんでわかるんですか?」 目を丸くした。 「来る前にシスター天池がホウキを持ってたからさ」 「あ、そうだったんですか」 納得したように微笑んだ。 「支倉くん。明日はいよいよ体育祭前日だけど、準備はばっちり?」 「ああ。予定より早く終わったんで、今日は実行委員の休息日」 「明日は朝から忙しいけどな」 「板についてきたみたいね」 「褒められても気を抜かない」 「わかってるじゃない」 満足げに微笑んだ。 「もしよかったら、みんなで学食でもどう?」 「そうしようかな」 「兄さま、どうします?」 「それほど急ぎの仕事はないし、行こうか」 「はい、兄さま」 体育祭を目前にして、何もすることがないのは逆に不安だけど。 ここは、明日に備えて英気を養っておこう。 監督生棟の倉庫は相変わらず混沌としている。 体育祭の過去資料の棚とは反対側。 そこに、人が入れるほど大きなくすんだ玉が鎮座していた。 体育祭でしか使わない道具が他にもいくつか見える。 玉に軽く触れてみると、指先に埃がまとわりついた。 しかし、躊躇は許されない。 俺は玉の反対側にいる男子にうなずいた。 「ふぁいとおお―――っ!!」 「いっぷぁああつっ―――っ!!」 ごろごろごろ 見事成功。 一緒に大玉を取り出した生徒が、さわやかな笑顔で親指を立てる。 「ナイスファイト委員長!」 「ナイスファイト委員!」 親指を立て返す。 「委員長、後は何を運ぶんだっけ?」 「得点板と大玉もう一個、綱引きの綱」 「聞こえたかー?」 「そっち得点板よろしくー!」 「りょーかいっ!」 男子委員によって、次々に道具が外に出される。 窓の開く音が聞こえた。 「おー、やってるねー」 「精が出るな」 「頑張ってる支倉君は、光って見えるね」 監督生室のある二階を見上げると、二人が顔を出していた。 大玉が転がらないように両手で抑えながら、返事をする。 「俺じゃなくて、委員のみんなが頑張ってるんですよ」 「そういう台詞はこう言うんだ!」 「俺じゃなくて……委員のみんなが」 「そう! ここにいるみんなが」 「十数年前のウーパールーパーのように輝いて――」 「失礼した」 がらがらがら、ぴしゃ 窓の向こうに二人が消えた。 東儀先輩、容赦ないな。 「わあ、大きな玉ですね」 「支倉くん、手伝おっか?」 扉の中から白ちゃんと副会長が出てきた。 「いや、大丈夫」 「遠慮しないでもいいのに」 「重い物を運ぶのは、男の仕事だろ」 「へえ、言うじゃない」 「頼もしいです」 ごろごろごろ 「ん、なんだこの音?」 「大玉っ! 転がってるっ!」 「むおっ!」 俺の支えている白い大玉とは別の、赤い大玉が転がっていく。 「こっちは頼んだ!」 「あ、はいっ」 全力で赤い大玉を追いかける。 大玉は位置エネルギーを利用してどんどん加速していく。 俺は地面を蹴って、階段でなんとか追い越した、が。 ここは足場が悪いな。 平らな場所までこのまま走るしかない。 ごごごごごご! もはや大玉は、疾走する凶器と化していた。 勝負は一瞬で決まる。 急制動の後、ワン・ステップで背後を振り返り、迫る大玉と対峙。 ごごごごごごごごご! 「かかってこいやあああああああああああっ!」 ぷちっ 「だ、大丈夫ですか!?」 「おい、委員長がぺしゃんこだ!」 「……はっ」 実行委員のメンバーが俺を心配そうに覗き込んでいた。 「目を開けたぞ!」 「お、大玉は……?」 「委員長に当たって勢いが弱まったところを俺たちが……」 「止まったんだな……よかった……」 「委員長!?」 「しっかりしろ、委員長ー!!」 ――支倉孝平。 大玉(赤)との激闘の末、華麗に散る。 ということもなく、体はなんともない。 大玉が軽くてよかった。 「よっと」 足下のダンボールを持ち上げる。 中身は体育祭の賞品だ。 邪魔にならないとこに移動しておこう。 「学食の業者を連れてきたわ」 制服姿の紅瀬さんが、体育館の入り口を指差す。 中年の男性が、台車を押していた。 「なんで紅瀬さんが?」 「遅れて来たら、道を聞かれたのよ」 「なるほど。わざわざありがとう」 俺の言葉には特に反応せず、去っていった。 「委員長、新しく来た協賛品はどこに置いてもらう?」 「そこの端がいいかな」 「はーい」 体育祭の景品が次々と運び込まれてくる。 「ん?」 新しく運び込まれたダンボール箱に、紙が貼られていた。 「実行委員会御中」と書かれている。 「なんだこれ」 「あれ、知らないの?」 「毎年恒例の、実行委員へのご褒美」 そういえば会長が、役得があるとか言ってたような。 あとで全員に配ることにしよう。 「委員長ー!」 「外の配置見てほしいんだけどー!」 「はい、今行きます!」 休む暇もなく、仕事が続いていた。 「得点板おっけーです」 最後の配置が決まり、委員全員が集まっていた。 「これで今日の作業は終了です」 「皆さんの働きのお陰で、予定よりも早く終わることができました」 「明日はいよいよ本番です」 「体育祭実行委員の力を見せつけてやりましょう!」 委員全員が拍手をしてくれた。 体育館にある委員への報酬を配り、この日の作業は終わった。 「む」 少し汗臭い。 さっさと大浴場に行って、疲れを癒そう。 からからから 「お、空いてるな」 体を流してから、風呂に浸かる。 「ふぃい〜」 あまりの気持ち良さに、口からエクトプラズムが出てるような気さえする。 「うおっ!?」 いきなり目を覆われた。 「だーれだ」 男子風呂で、こんなイタズラをするのは……。「こんなイタズラするのは会長しかいませんよ」 「そうでもない」 「司!?」 「会長とはそういう関係なのか」 「そういう関係ってなんだ」 「イタズラされる間柄」 殺意が芽生えた。 「冗談だ」 「そんな渋い顔をするな」 「声でわかるだろ」 「間違いようがない。司だ」 「……つまらん」 「何がしたかったんだ?」 「ただの冗談だ」 「気にするな」 このしなやかな手の感触、間違いない……。 鼓動が早くなる。 「……副会長、だろ」 「いくら学院を楽しくしたいからって、それはやりすぎだぜ」 はしたない副会長を諭すように言った。 「どういう思考回路してんだ、お前」 司が呆れきった顔をしていた。 「司かよ!?」 「俺で悪かったな」 「ところで、副会長とはもうそういう仲なのか?」 「そういう、とは?」 「一緒に風呂に入る仲」 「んなわけないだろ」 「怒るな」 「ただの冗談だ」 「しかし、今日はずいぶん張り切ってたな」 「見てたのか」 「あれだけ動いてりゃ、嫌でも目に入るさ」 「まあ、明日が本番だ」 「それなりに頑張れ」 「ああ、そうするよ」 もしかするとさっきのも、司なりの励ましだったのかもな。 「じゃあ、また明日」 「ああ」 司が扉の向こうに消えた。 一日中動いていたせいか、風呂に入っても微妙に疲労感がある。 さっさと寝て、明日に備えることにしよう。 がらがらがら 「ひゃっほー、こーへー」 「今日も一日お勤めご苦労様っ!」 「お邪魔するね」 いつものようにベランダから悠木姉妹が入ってくる。 「あの、さすがに今日はお茶会はムリですよ」 「わかってるって」 「頑張ってるこーへーを癒しにきたの」 「そう思ったら寝かせてくれると嬉しいんですが」 「いいからいいから」 いきなり手をつかまれる。 「うりゃ」 ばすっ そのままベッドに倒された。 「全然癒されねえっ!」 「ほらほら、いいからうつぶせになるの!」 「うつぶせ?」 「悪いようにはしないから」 しぶしぶ、言われた通りにする。 「とうっ!」 「ぎゃ!」 「お姉ちゃん、もっと優しく乗らないと……」 「なんでいきなりバックマウントポジションなんですか!」 腰の上あたりから、かなでさんの柔らかい感触が伝わってくる。 「それはね、こうするためだよ」 もみもみ 「お……おお?」 肩を揉まれる。 「疲れたでしょ、マッサージしてあげる」 もみもみ 背骨に沿って丁寧にほぐされる。 「どう?」 「……気持ちいいです」 もみもみもみもみもみもみ もみもみもみもみ もみもみ 「こーへーの体力が満タンになった!」 「満タンかどうかはわかりませんが、体が軽くなりました」 「はい、孝平くん」 陽菜が水筒のコップを差し出す。 「これは?」 「特製のホットミルクだよ」 「飲んだら、ぐっすり眠れると思うの」 「おお、ありがとう」 陽菜から受け取って、口にする。 「こーへーの魔法ゲージが満タンになった!」 「俺に魔法の才能があったことを初めて知りました」 「お姉ちゃん、あんまり長居しちゃうと悪いよ」 「そだね」 「それじゃ、ゆっくり休むんだよ」 「明日も頑張ってね」 「二人とも、ありがとう」 「こーへーのためならお安い御用」 「お休みなさい、孝平くん」 二人が非常梯子から上に戻っていった。 騒がしかったけど、一気に癒された気がする。 明日はいよいよ体育祭本番だ。 しっかり休んで、頑張ろう。 体育祭当日。 まぶしいほどの朝日が、グラウンドを輝かせている。 実行委員の活気ある声が、あちこちで飛び交っていた。 「テント設営終わりました!」 「テントはそこで最後ですね」 「各班、持ち場について準備して下さい」 実行委員が返事をして、それぞれの担当箇所へと向かう。 グラウンドには多くの体操服姿の生徒の他に、珠津島の住人や父兄もちらほら見える。 俺はもうすぐ始まる開会式を本部のテントで待つ。 「支倉」 「おはようございます、支倉先輩」 「あれ、どうしたんですか?」 「いや、様子を見に来ただけだ」 「どうですか、うまくいきそうですか?」 「ここまではなんの問題もないよ」 「いえ、選手宣誓を支倉先輩がやると聞いたので」 「ああ」 「問題ないと思う」 「すごいですね」 「わたしだったら、あの上で話すことを考えただけで胃が痛くなってしまいます」 ちらり、と朝礼台を見た。 「大丈夫、いざとなったら人をジャガイモだとでも思うさ」 「ジャガイモ、ですか」 「和菓子でもいい」 「和菓子がいっぱい……」 想像したのか、幸せそうな顔をした。 「どうやら、心配はいらなそうだな」 「では、邪魔をした」 「いくぞ、白」 「はい」 「頑張ってくださいね」 笑顔で手を振って去っていった。 開会式が始まり、副理事長の挨拶を迎えていた。 次はいよいよ俺の選手宣誓。 落ち着け、と自分に言い聞かせる。 こんなの転校の挨拶と変わらないだろ。 実行委員の初会議の時もなんとかなったし。 ちょっと人が多いだけだ、いつもの20倍くらいじゃないか。 20倍……。 いやいや、ジャガイモか和菓子だと思えばいいだけだ。 どうですか、俺。 落ち着いただろ? ……。 バクバクバクバク 心臓が激しく暴れている。 指先が、俺の意思とは関係なく震えていた。 会長や副会長は、よくこんな大勢の前であんな余裕を見せられるよな。 「続きまして、5年支倉孝平による選手宣誓」 「ほら、出番だ」 「――――」 何か言葉を返した気がする。 頭が真っ白になって、わからなくなる。 行かなくては、と立ち上がり、朝礼台の階段に足をかける。 こつん あれ。 最初のセリフ、なんだっけ? こつん やばい、思い出せない。 あと一歩上ったら、もうマイクの前だ。 最後の一歩をやたらゆっくり踏み出しながら、必死に頭を巡らす。 こつん 最後の音が鳴り響いた。 1000人ほどの視線が俺に集中していた。 体がマイクの前で固まる。 こんなに人がいるのに、静まりかえっている。 蛇に睨まれた蛙の気持ちってこんな感じなんだろうか。 そんなどうでもいい考えは浮かんでくるのに、肝心の言葉が浮かばない。 「……」 「……」 冷静な顔や、心配そうな顔が見えた。 「……」 会長と目が合う。 こちらを見てニヤリ、と笑った。 落ち着け、と励ましてくれたのか。 「いよっ! ミスター女風呂っ!」 にゃろう。 いつかあの人を天に返そうと心に決めた。 「選手宣誓っ!」 怒りに任せて叫んだ。 灰だ……。 灰になっちまった……。 いったい何を言ったのかさっぱり覚えていなかった。 体育祭の陽気な音楽でさえ、レクイエムに聞こえる。 「支倉くん、よかったわよ」 「……何が?」 「選手宣誓」 「あーあーあーあー」 「ちょっと、なんで両耳押さえて丸くなるのよ」 「自分の痴態なんて聞きたくない」 「痴態? しっかりやってたじゃない」 「……は?」 「まさか、緊張しすぎて覚えてないとか言わないでしょうね」 「……」 「あ、ほんとにそうなんだ」 「笑いたければ笑え」 「笑わないわよ。初めてにしては上出来だったし」 「落ち込む必要なんてないんだから、堂々と座ってなさい」 「責任者が下向いてちゃダメよ」 「それもそうだな」 「ちゃんと自分のクラスでも応援してなさい」 「最下位のチームは、今年も片づけなんでしょう?」 「そうだな」 「私のいるチームは負けないからいいけど」 「次は、2年女子の1500メートル走です」 「選手は入場門まで集まって下さい」 「行かないと」 「出るのか」 「ええ」 「あ、自分のクラスじゃなくて私を応援してくれてもいいからね」 いたずらっぽい笑顔を残して駆けていった。 銃声が鳴り響く。 それを合図に、2年の女子1500メートル走が始まった。 「はい、これ」 いきなりマイクを手渡された。 「なんですか?」 「マイク」 「それはわかりますけど」 「実況係の子がトイレに行きたいって言ってたから、実況引き受けたの」 「でもよく考えたら、1500メートルはひなちゃんも出てるんだよね」 「それで?」 「わたしだとひなちゃんだけ応援しちゃうでしょ」 「だからやって」 「実況を!?」 「ほらほら、もう走ってるから」 「やったことないですよ!」 「こーへーならできるっ!」 状況を見ようと慌てて、グラウンドに視線を移す。 さすが副会長、ダントツで先頭だ。 マイクのスイッチを入れる。 「え〜あの〜」 え〜あの〜、と会場中に響いた。 「何してんのさっ!」 「いや、だって何言ったらいいか」 「わたしがちょっとだけ見本みせるよ!」 「お、おう」 かなでさんがマイクを奪う。 「なんと始まりました女子1500メートル」 「今2番手はわたしのヨメひなちゃんです」 「左側走ってる可愛い子です」 「あ、あっちから見たら右か」 「どっちでもいいや、ひなちゃんだけファイト〜っ!」 「報道偏り過ぎっ!」 「だからわたしがやったらダメって言ったでしょ!」 「わかりました、俺がやりますからっ!」 よし、テレビのアナウンサーみたいな感じでいこう。 「失礼しました」 「女子1500メートル、現在先頭は2組の千堂瑛里華」 「その少し後ろに3組の悠木陽菜が続いています」 「おっと三番手は苦しそうな表情、少し遅れてきたか!」 ゴールテープが準備されているのが見えた。 「もうすぐゴールです。現在千堂瑛里華と2番手の差は……えー……」 こういう時テレビでなんて言ってたっけ。 「三馬身!」 「千堂瑛里華っ! さらに加速し四馬身の差をつけてゴールっ!」 「……したのに、勢いを緩めずこちらへ突っ込んでくる?」 「私は競走馬かっ!!」 びしっ! 「ぐほうっ!?」 1500メートルの勢いを乗せた強烈なツッコミが入った。 「次は、全校生徒による『水風船入れ』です」 「あんまり変な実況はしないようにね」 「悪気はない。あまりにとっさだったんだ」 「でも、残念ね」 「自分の考えた競技にも出られないなんて」 「仕方ないさ」 「じゃあ、支倉くんの分も暴れてくるわね」 冗談っぽく、袖をまくり上げる仕草をしてみせた。 ……。 開始の音が鳴り、全校生徒が水風船を投げ合う。 かごを背負った生徒が逃げ惑う。 「俺のカゴに水風船が入ったことは、今まで一度もない」 今年初の競技なんだから、当たり前だ。 「私を狙うなんて、非効率ね」 あの二人のカゴは難易度が高そうなのに、それでも追う人数は多い。 こんな時でも人気者だった。 ……。 「……ふぅ」 紅瀬さんがカゴを背負っていた。 最小限の動きで、水風船を避けている。 ……。 「あっ、あ、また入ってしまいました……」 なぜ白ちゃんがカゴ背負っているのだろう。 補給部隊は満員だったのかな。 「お、重いです……」 ああ、水風船がカゴに入ると、どんどん逃げられなくなるのか。 「……」 白ちゃんを庇うように、東儀先輩が立ちはだかる。 「東儀、邪魔をするな!」 「さあな」 東儀先輩の隙を見て、白ちゃんにいくつもの水風船が投げられる。 「……ふっ」 そのすべてに、東儀先輩が手で触れた。 まるでスローモーションのような映像。 そのとたん、風船が爆ぜ割れる。 一つとして、白ちゃんには届かない。 「兄さま……、すみません」 「気にするな」 「水風船だ、もっと水風船を!」 東儀先輩はいつでもこいとでも言いたげに、目を閉じた。 ちなみに、白ちゃんと東儀先輩は違うチームである。 ……。 割れた水風船から飛沫が飛ぶ。 濡れることなど気にならないほど、みんなが熱中していた。 俺は、それを遠くから見つめている。 できれば参加したかったな。 終わりの合図の音が鳴るまで、そんなことを考えていた。 さて、ちょっと時間が空いたな。 どうしようか?手元のプログラムを見ていると、頭上から晴れやかな声が聞こえた。 「どう、調子は?」 副会長が俺の顔を覗きこんでいた。 「まあまあかな」 「ふうん」 「今のところは順調に進んでる」 「競技はあと3分の1程度だし、なんとかなりそうだ」 「そういう時間帯にトラブルが起きるのよ」 「不吉な予言するなよ」 副会長は両手を腰に当て、眉根を寄せた。 「みんなが、今の支倉くんみたいに安心してるの」 「だから責任者は、そのぶん気を張ってないと」 「わかった、気をつける」 「ねえ、ちょっとプログラム見せて」 不意に、俺の手元を覗きこむ。 顔がすぐ近くまで迫り、髪がさらりと流れ落ちる。 かすかな汗と、心地良い花の匂いが鼻をかすめた。 「……次の次が出番か」 あまりの近さに、思わず体をのけ反らせる。 「どうしたの」 「いや、別に」 「顔が赤いわよ」 「今日は暑いからな」 「テントの下にいるのに?」 「競技の準備もしてるし、ずっといるわけじゃないさ」 「私なんて、ずっと競技に出てるんだからね」 そういえば、個人種目にはほとんど出てる気がする。 「出過ぎじゃないか?」 「みんなに推薦されるから、断りきれないのよ」 「それに、楽しそうな種目は出てみたいじゃない」 「副会長らしいな」 競技に出ている時の副会長は、子供のように楽しそうな顔をしていた。 見ているだけで心躍るような表情。 「残念ね」 「何が?」 「支倉くんも、競技出たかったでしょ」 「委員長だから仕方ないさ」 「俺の分は、副会長が活躍してくれるんだろ?」 「そうね」 「最後までぶっ通しで活躍してみせるから、ちゃんと見てなさいよ」 「あ、やっぱいいや」 「なんでよ」 「よく考えたら敵だし」 「敵とか味方とか、この際関係ないでしょ」 「あるだろ」 「私が支倉くんのために勝つって言ってるんだから素直に応援すればいいの」 「頑張れ、副会長」 「よしっ」 満足そうに輝かしい笑顔を浮かべる。 「じゃあ、行ってくるわね」 体中からやる気を溢れさせながら、入場門へと向かっていった。 競技の準備をして、本部のテントへ戻る。 「えーっと、あれ……?」 白ちゃんがテントの前できょろきょろしていた。 「白ちゃん、本部に何か用?」 「あっ」 「支倉先輩を探してたんです」 「俺?」 「差し入れをと思いまして」 小さな両手で純和風の弁当箱を差し出した。 「いいの?」 「もちろんです」 「そのために持ってきましたから」 「ありがとう」 礼を言って受け取る。 本部の机の上で、弁当箱を開けた。 「おお。おはぎだ」 「はい」 「疲れた時には、甘い物がよいと聞きましたので」 「助かるよ。最後まで頑張れそうだ」 さっそく食べようと箸を持つ。 いや、いま食べるのはまずいな。 休憩中でもなんでもないし。 「……あの、何かありましたか?」 「いや、あとで食べようと思って」 「そうですか……」 少しだけ残念そうにうつむく。 「ほら俺、実行委員長だし、いま食べてたら示しがつかないから」 「あ、そうですね」 「休憩時間に持ってくればよかったです。気がつかなくてすみません」 「謝ることなんてないさ。すごく嬉しいし」 「作ってよかったです」 嬉しそうに微笑んだ。 「作ったって、もしかして手作り?」 「はい」 「でもどこで作ったの?」 寮には調理施設なんてないし、作るのはけっこう大変なはずだ。 「昨日、実家に帰りましたので、その時に」 ああ、なるほど。 白ちゃんはこの島の住人だもんな。 「もし、お口に合わなかったら遠慮なく残してくださいね」 「白ちゃんが作ったんなら、きっとおいしいに違いない」 「……わたし、砂糖と塩を間違えたことがあるんです」 恥ずかしいような、情け無いような顔をして言った。 「……」 「あ、でも安心して下さい。今回はちゃんと確認しましたから」 慌てて小さな手を振った。 「前に、兄さまに作った時に失敗したことがあって」 「でも兄さまは、砂糖と塩のことには触れず、ただおいしいとだけ言ってくれました」 「それは、少し困ります……」 悲しそうな顔をした。 ショックだったんだろうな。 「だから、お口に合わなかったら遠慮なく残して下さい」 「わかった」 「そうしたら、次はもっとおいしいものを作りますから」 表情から、本気でそう言ってるのがわかった。 健気な子だな。 「委員長、ちょっと」 実行委員が本部に駆け込んできた。 「どうしました?」 「得点集計と競技準備に手が足りなくなってきて」 他から人を回すか? いや、どこもぎりぎりだろう。 「わかりました、俺が行きます」 「お願いね」 言いながら走り去っていく。 「白ちゃん、悪いんだけどちょっと行ってくる」 「あの、わたしもお手伝いします」 「いや、でも……」 「やりたいんです、お願いします」 ぺこりと頭を下げて、俺を見上げた。 そこまで言われて断る理由もない。 「じゃあ、行こう」 しばらくして本部に戻ってきた。 「ぎりぎりだったな」 「はい」 得点集計はそれほど問題なかったが、競技の準備はあと一歩で間に合わなくなるところだった。 白ちゃんが手伝ってくれなければ危なかったかもしれない。 「助かったよ、ありがとう」 「いえ、勉強になりました」 「勉強?」 「もしかしたら、来年はわたしが委員長になるかもしれませんから」 生徒会役員の数は少ないし、その可能性は高いのかもしれない。 「これからも、お手伝することがあれば言って下さい」 「じゃあ、お願いしようかな」 「はいっ」 俺を見上げて嬉しそうに微笑む。 会長や東儀先輩が抜けた後、どうなるか少し不安だったけど。 白ちゃんもいるんだし、一緒に頑張っていける気がした。 本部の席に座っていると、一人でグラウンドの入り口にいる生徒が目に入った。 「……」 よく見ると紅瀬さんだ。 何をしてるんだろう? 見回りがてらに、近寄ってみることにした。 ……。 紅瀬さんは、こちらに背を向けている。 門から出入りする一般客を、ちらちらと見ているようだ。 誰かを捜してるのかな。 「にゃー」 紅瀬さんの足下に、黒猫がまとわりついていた。 前に見たのと同じ猫だろうか。 「暇なの?」 「にゃー」 「私はあまり暇ではないのよ」 言葉とは裏腹に、ゆっくりとした仕草でしゃがみ込む。 しなやかな指先で黒猫の頭を撫でた。 体操服姿の女の子と黒猫。 言葉にするとミスマッチだが、絵になる光景だった。 紅瀬さんだったら、なんでも絵になりそうではあるけどな。 ……。 しばらく紅瀬さんと猫を見ていると、猫と目が合った。 「にゃお」 俺に一声鳴いて、去っていく。 紅瀬さんが俺を見て、ゆっくりと立ち上がった。 「貴方なの」 「ずいぶん懐いてるんだな」 「どうかしら」 「クラスの待機場所にいなくていいのか?」 「それは委員長としての詰問かしら?」 なんか少しだけ機嫌が悪いような。 俺のせいで猫が逃げたからだろうか。 それとも、サボりの取り締まりだと警戒しているのか。 「ただのクラスメイトとして話しかけただけだ」 「そう」 「もう私の出る競技はすべて終わったし、ここにいても問題ないでしょう」 「ああ。別にいいんじゃないか」 「……クラスメイトとして注意しに来たわけでもないのね」 俺の返答が意外だったのか、不思議そうな顔をした。 本当は席で応援してないといけないんだけど。 まあ競技はサボってないみたいだし、何も言うまい。 「委員長なのに、ここにいていいの?」 「今、委員長は休憩中」 「そう」 艶やかな髪に触れながら、興味なさそうな返事をする。 「あんまり話しかけないほうがいいか?」 「どちらでも」 紅瀬さんはグラウンドの入り口を眺めながら、答えた。 「競技はどうだった?」 「別に」 「適当にやっただけよ」 つまらなそうに言った。 その言葉の通り、紅瀬さんはずっと全力を出していないように見えた。 「よくわからないな」 「何が?」 「いつもの紅瀬さんなら体育祭ごとサボりそうなのに、ここにいる」 「で、クラスから離れたところでつまらなそうにしてる」 「面白いかどうかでサボっているわけではないわ」 「そうなのか」 ちょっと意外だった。 「ねえ」 「ん?」 「……この時間から、人が来ることって……あるのかしら」 門を見ながら呟く。 この時間になると、出て行く人はいるが、入って来る人はいない。 「さすがにもう来ないんじゃないか。体育祭自体ももうすぐ終わるし」 「そう」 感情の読み取れない声。 グラウンドから視線を外し、俺を見た。 「もう、戻るわ」 「ああ」 短く言って、俺たちのクラスの待機場所へと歩いていった。 さて、俺も本部に戻るかな。 「ふれー、ふれー、3組!」 「がんばれ、がんばれ、3組!」 グラウンドでは、応援合戦が繰り広げられている。 かなでさんが先頭に立って、俺たち3組の応援をしていた。 そういや、かなでさんも3組なんだよな。 「一撃必殺さーんーくーみっ!」 「ヒット・アンド・アウェイさーんーくーみっ!」 小さな身体でぴょんぴょんと跳びはねている。 かなでさんに指揮されるように、女子はダンスをし、男子は旗を振っていた。 「いくぞーっ!」 かなでさんのかけ声と共に男子生徒四人が、ばっと布を広げる。 「とうっ!」 かなでさんが飛んだ。 布をトランポリン代わりにして大ジャンプ。 そして見事に着地。 歓声が巻き起こった。 「どもども」 ……。 「支倉、どう思う?」 隣に座るアオノリが聞いた。 「何がですか?」 「僕は今の応援が一番よかったと思うんだが」 「元気さと華やかさで言えばダントツですね」 「やはりそうか」 「ふーむ」 手元の紙を見て悩んでいる。 応援合戦の採点表か。 「こーへー、やっほー!」 さっきまでグラウンドにいたはずなのに。 応援が終わって、そのまま走ってきたのか。 「3組の応援どうだった?」 「元気爆発でしたね」 「のりぴーは?」 「一番よかったんじゃないか」 「じゃあ、うちのクラスに点入れてくれる?」 「自分の受け持ちには、あまり入れないのが通例でな」 「そういう時は、自分の感性を信じてっ!」 「審査員に直接交渉はダメです」 「違うの」 「ただわたしは、心で感じたことを素直に評価してほしいんだよ」 「悠木姉の言う通りかもしれないね」 「いいんですか」 「通例といっても禁止されてるわけではないし、優れていたのは事実だ」 「やったー!」 「こーへー、応援合戦ってトップ何点だっけ?」 「5点」 「少なっ!!」 「去年と一緒ですよ」 「それじゃ逆転できないよっ」 「わたしね、応援ってすごく大事なことだと思うの」 「だから点数さらに倍っ!」 「ムリです」 「じゃあ3倍っ!!」 「いいですか、倍より3倍の方が多いんです。余計ダメですよ」 「冷静に返されたっ!」 「こーへーは、わたしの応援で元気出なかったの?」 「元気は出ました」 「じゃあ、自分の感性を信じてっ」 「信じてますが、配点は変えられません」 「しょんぼり」 小さな肩を落とし、がっかりする。 なんか無茶苦茶なことを言われてるはずなのに、可哀想になってくるな。 「大丈夫ですよ、かなでさん」 「ん?」 「これからかなでさんが大活躍すれば、3組の逆転勝利は間違いなしです」 「かなでさんに期待してますよ」 「こーへーがそう言うのなら、やってみせようっ」 「お姉ちゃんにすべて任せなさい!」 ぐっと小さな手を握り締めて、走り去っていった。 ちょっとした休憩時間。 自分のクラスの待機場所に戻ることにした。 「休憩か」 「一瞬だけな」 クラスのメンバーを見渡す。 陽菜が女の子の髪を編んでいた。 「こんな感じでいいかな?」 「うん、ばっちり。ありがと陽菜」 「どういたしまして」 「私もお願いしちゃっていいかな?」 「もちろん」 嬉しそうにうなずいて、クラスメイトの髪を編み始める。 「大人気だな」 「髪が邪魔で走りにくいらしい」 「なるほど」 改めて待機場所を見渡す。 明らかにウチのクラスの三つ編み比率が高い。 「これ、みんな陽菜がやったんじゃないよな?」 「ほとんどそうだ」 陽菜は相当頑張っていたようだ。 「ふあ〜」 「眠いな」 「休憩だし、寝といても問題ないだろ」 「そうするわ」 気だるげに椅子に座って目を閉じた。 「はい、できたよ」 「ありがと、恩に着るよ」 「三つ編みぐらいでおおげさだよ」 クラスメイトににっこりと笑って、それから俺に近寄ってきた。 「孝平くん、お帰りなさい」 「お帰りって言われるとなんか妙な気がするな」 「そう言われればそうかも」 口元に手を当てて笑う。 「でもね、孝平くんがやっと戻ってきた気がして」 「あー、たしかに戻ってきたって感じはするな」 「今日、陽菜と話をするのは初めてだし」 「そうだね」 「かなでさんとは話したんだけどな」 「お姉ちゃんと本部で実況してたもんね」 さっきの1500メートル走のことか。 「変な実況になっちゃってごめんな」 「面白くて、ちょっと笑っちゃった」 「でも、気にすることないよ。あのお陰で頑張れたし」 「まさか。あれで?」 「知り合いの声が聞こえると、頑張らなきゃって思えるから」 「そんなもんか」 「うん。そんなもんだよ」 柔らかな微笑みを浮かべた。 「でも、陽菜は速かったな」 「そ、そうかな」 嬉しそうに言った。 「でも、千堂さんはやっぱりすごいね」 「ラストスパートで引き離されちゃった」 「2位でも十分立派だと思うけど」 「私にしてはできすぎだよ」 「きっと千堂さんが出るとわかってて、速い人はエントリー避けてたんじゃないかな」 謙遜するところが、陽菜らしいな。 「5分後に、クラス対抗リレーが始まります」 「おっと、そろそろ時間か」 「本部に戻るの?」 「ああ」 「そっか。委員長、頑張ってね」 「そっちもな」 「うん」 陽菜に手を振られながら、待機場所を後にした。 最後の銃声が、空に鳴り響いた。 部活対抗リレーのゴールを知らせる音だ。 体育祭のすべての競技が終了した。 そして、あっという間に閉会式が終わり―― 観客席から人の姿が消え―― 体操服姿の生徒たちも、ほんの一部を残して、グラウンドから去っていった。 「支倉くん、お疲れさま」 「やあやあ」 「お疲れさまでした」 「ご苦労だったな」 いきなり生徒会メンバーに囲まれた。 「お疲れさまです」 「委員長、やっと終わったね」 「まだ、片づけが終わってませんよ」 「それは負けたチームの仕事だろう?」 「指示を出すのは実行委員ですから」 「今年からそうしたの?」 「勝手に監督生室の倉庫に全部ぶち込まれたら、来年出すとき大変だろ」 「だから、あんな状態になっていたんですね」 「多少は改善するだろうな」 「ちゃんと来年のことまで考えてるのね」 「去年の委員長は考えなかったのに」 会長にジト目を向ける。 「風習を重んじただけさ」 「はいはい」 「で、委員長はどうだった?」 「開会式でちょっと取り乱しましたけど、あとはなんとかなったと思います」 「あ、会長」 「なんだい?」 「開会式のヤジ、ありがとうございました」 あのヤジが無ければ、台上でずっと立ち尽くしていたかもしれない。 きっと、会長なりに助けてくれたのだろう。 「俺はいたずらしただけさ」 会長は、曖昧に笑ってみせる。 「他にやりようはいくらでもあるのに」 「本人がいたずらだと言っているのだから、そういうことにしておこう」 「?」 白ちゃんが、不思議そうな顔をした。 「気にするな、大した話ではない」 「あ、はい」 「さてと、支倉くんの邪魔になっちゃいけないし、そろそろ行きましょうか」 「はい」 「頑張ってね」 「ああ」 軽く挨拶を交わして、みんなが去っていく。 会長だけが、その場に残った。 「なんですか?」 「支倉君、初仕事終了おめでとう」 「はあ」 「受け取ってくれ」 そう言って、会長が俺のほうに右手を差し出す。 飴玉でもくれるのだろうか。 会長の手から、俺の手に何かが落ちる。 「……鍵?」 「俺の部屋、いつでも来ていいから」 「返しますね」 「うそうそ、監督生棟の鍵」 「じゃあ、そういうことで」 それだけ言って、会長も去っていく。 「……認められたってことかな」 手の中の鍵を見つめて、呟いてみる。 たぶん、そうなのだろう。 これは正式な役員になった証なのかもしれない。 「委員長ーっ!」 「ん?」 実行委員のメンバーが、こっちに走ってくる。 「片づけ終わりましたよ」 「あとは打ち上げだ」 「ほら、早く行きましょう」 男子に肩を組まれ、女子に手を引っ張られる。 「わ、わかった、自分で行くからっ!」 そう言っても、誰も手を離したりしなかった。 みんなで体育祭の終わった喜びの言葉を交わしながらグラウンドを歩いていく。 なんだ、この陽気な集団は。 でも、傍から見れば俺もその集団の一員だ。 不思議な気持ちになる。 この気持ちを、なんと表せばいいのだろう。 嬉しくもあり、楽しくもある。 ――充実感。 今までの苦労がすべて吹き飛ぶような気分だった。 日曜日。 今日は休日だ。 窓から外を見る。 「……やたらいい天気だな」 よし、たまには買い物にでも行くか。 月刊ビジネスサンデーも出てるはずだし、そうしよう。 というわけで、一人で街に来た。 相変わらず人が多い。 「さて、と」 とりあえず本屋に向かおう。 あっさり雑誌をゲット。 散歩でもするかな。 この街で俺が知ってるのは、買い物をする場所だけだ。 ちょっとぶらぶらして、詳しくなっておくのも悪くないだろう。 そう思って歩き出した。 しばらく街を歩いていると…… ブオオオオオオ 「うおっ!」 原チャリが俺の真横に止まった。 ライダーが、手慣れた手つきでハーフメットを外した。 「おう」 「司!?」 「孝平、チャリは乗れるか」 なんだか、焦っているように見える。 「人並みにはな」 「手伝ってくれ」 「何をだ?」 「寿司屋だ。バイト代は出る」 「ちょっとした緊急事態でな」 困ってるのか。 これは、友人として助けるべきだろう。 「わかった。どうすればいい?」 「助かる。あの寿司屋が見えるか」 司が前方を指差す。 寿司屋の看板が見えた。 「ああ」 「その店の親父に俺のダチだと言えばわかる」 「頼んだ」 短く言って、メットをかぶる。 ブオオオオオオ あっという間に去っていった。 俺は走って寿司屋に向かう。 店につき、和風の引き戸を開けた。 がらがらがら そこは、戦場だった―― 罵声と寿司ネタとシャリが飛び交っている。 寿司職人たちが、恐るべきスピードで寿司を作っていた。 「……あの」 「なんでい、坊主!?」 「司に手伝うように言われて来たんですが」 「援軍か」 「スイートプリンセスホテルは知っているな」 この島に来たばかりの俺でもわかる。 珠津島一有名なホテルだ。 「はい」 「そこに、中東のどっかの国の皇太子が来ている」 皇太子!? 「できる限りの寿司を持ってそこに行ってくれ」 「表にある『無限』を使うといい」 投げられた鍵を受け取る。 「無限?」 「うち最速の――」 「三輪自転車だ」 ……。 表に出ると、ハンドルがちょっと斜めになった満身創痍の三輪自転車があった。 俺は無限にまたがって、街を疾走する。 ホテルと寿司屋を何度も往復。 息が切れ、胸が苦しい。 いつ足がつってもおかしくない状況だ。 三輪自転車のハンドルがさらに変形している。 視界がぼやけてきた。 もう、何度―― 寿司を運び、桶を回収したことだろう―― ていうか、俺何やってるんだろう―― 最後の桶をホテルから回収し、寿司屋に戻ってきた。 がらがらがら 「大丈夫か」 「……瀕死だ」 「すまねえな、助かった」 「こいつは、バイト代だ」 封筒を渡される。 けっこうな金額が入っていた。 「いいんですか?」 「これだけじゃ足りねえくらいさ」 「司と一緒に、寿司でも食っていきな」 がらがらがら 「ただいま」 「おう、お疲れ」 「私にまで出前させるのは、これっきりにしてね」 「ああ、すまねえ」 女の子が入ってきた。 どこかで見た顔だ。 美術部の部長か? 「あら、あなたは……」 「どうも」 「なんで、部長がいるんですか?」 「ここは私の家なの」 「なんだ、知り合いか」 「体育祭の時にちょっとな」 「それより貴方たち、もう門限だけどいいの?」 「私はもう寮に戻るけど」 眼鏡のブリッジに軽く触れながら言った。 もうそんな時間か。 「寿司は残念だが、行くか」 「ああ」 俺と司と、美術部部長。 三人で寮に向かった。 何気ない話をする中で、俺は部長に親しみを持つようになっていた。 「……」 司が俺を見て微笑んでいる。 「ん?」 「気にするな」 ――秋になった。 雲が流れていく。 芝生に寝ころび、空を眺めていた。 風が吹き、草の匂いが鼻をかすめる。 穏やかで、心地よい世界。 季節が過ぎるのは、本当にあっという間だ。 修智館学院に転入してから、色々なことがあった。 そして今、俺は喜びを噛み締めている。 なぜなら―― 何物にも代えがたい存在が、そばにいてくれるから。 その存在を確かめるために、ゆっくりと体を起こした。 「もう、動いちゃダメよ」 眼鏡のブリッジに触れながら、微笑んだ。 彼女の手には、スケッチブック。 そこには、絵が描かれているはずだ。 幸せそうな、彼女の恋人の絵が―― END 「ぐ、ぬ」 「ほーら、もうちょっとで講堂だから頑張って」 「お、おう」 俺の手には、10キロほどの紙袋がひとつずつ。 取っ手の細いヒモが、拷問のように手のひらに食い込んでいた。 こいつを運ぶのが、今日のミッションだ。 「せ、せめて4つに分けて二人で持つとかなかったのか?」 「4つになったら、支倉くん、持ちにくいでしょ」 「いや、二人で……」 「るーららー♪」 「聞く気なしかよ」 「行事で挨拶してるときと差がありすぎだろ? サギだぞ」 「人聞きが悪いわね、場をわきまえてるだけよ」 「いまはどういう場なんだよ」 「そんなこと気にしなくていい場」 「ひでえ」 俺のため息に、不敵な笑みを浮かべる副会長。 「悪い口ね」 「い、いやぁ、それほどでも」 「いま、脇腹をつっついたらどうなるかしら?」 「俺が暴れて、紙袋の取っ手が切れて、中身が散乱するな」 「拾ってる間に、部活総会に副会長が遅刻という大失態」 「支持率は急落で、関係団体に不正が見つかり、引責辞任で涙の会見……」 「長い」 脇腹を指先でつっつかれる。 「うおわっ」 「ほりゃ」 「ギブギブギブ、袋破けるっ! 破けるからっ!」 「支倉くん、ものを頼むならプリーズでしょ?」 「洋画の悪役かよ」 「どこが悪役?」 「その笑顔」 「へえ」 「というのは冗談で……やめてください」 「しかたないわね」 副会長が腕を引く。 「あのなぁ、袋破けたらどうすんだよ」 「お・こ・ら・な・い」 俺の顔の前で指を一本立てる。 「あとで冷たいものおごったげるからさ」 「不満?」 「い、いや、十分だよ」 「なんで目を逸らすの?」 「なんでもない」 「ほ、ほら、急がないとホントに遅れるぞ」 紙袋を持ち直し、歩を速める。 「なーんだ、早く歩けるんじゃない」 愉快そうな声が背後から聞こえた。 副会長が、こんないたずら好きな性格だったなんて……。 他の生徒が知ったら、絶対びっくりするぞ。 「部活動は、授業では得がたい連帯感や結束を獲得すること、そして何より、充実した学院生活を実現することが目的です」 「したがって、各種大会において優れた成績を収めることが目的ではありません」 「所属する生徒が熱意をもって取り組むことこそが必要であり、またそれができている部活ならば、おのずと目的も達成されるでしょう」 澄んだ声が朗々と響く。 熱のこもった演説に、50人近くいる部活の代表者がうなずく。 さっきまで俺とふざけ合っていた副会長とは別人だ。 サギだろ。 とか一瞬思ったが、まあ違う。 単にTPOをわきまえてるだけだ。 そうでなくちゃ、副会長は務まらないのだと思う。 それに、真面目一辺倒な人よりよっぽどいい。 会議が終わり、俺たちは食堂に来ていた。 「あ〜〜〜〜〜〜〜〜」 席に着くなり、副会長が伸びをした。 「野良猫みたいな声出すなよ」 「じゃ、お上品な家猫っぽくやる?」 「なぁぁ〜〜〜〜って」 ペルシャ猫の伸びはこんな感じなのだろうか? 飼ったことないから知らんけど。 「誰かに見られたらどうすんだ」 「でも、支倉くんしかいないし」 「俺だったらいいのかよ」 「困るの?」 瞳を覗き込まれる。 「んなこたないさ」 「ならいいじゃない」 「あ、そうだ、冷たいものおごる約束だったわね」 「いいって、気にするなよ」 「遠慮しないで、ちゃんと働いてくれたんだから」 「そこに座ってなさい。副会長命令よ」 「……わかったよ」 「うんうん。で、リクエストは?」 「じゃ、アイスコーヒーで」 「了解。ちょっと待っててね」 副会長が、カウンターへ向かう。 甘い香りが漂ってくるような、しなやかな後ろ姿だ。 「……」 まずいまずい。 思わず注目してしまった。 「お待たせー」 トレーをテーブルに置き、副会長が向かいに座る。 きちんとスカートを畳むのが女の子らしい。 「はい、アイスコーヒー」 「ありがと。副会長はなに頼んだんだ?」 「アイスレモンティー。ここの、けっこうイケるのよ」 「へえ、今度試してみるかな」 「試しに飲んでみる? まだ口つけてないし」 「じゃ、ちょっとだけ」 ストローに口をつける。 レモンの華やかな香りが鼻に抜けた。 少し遅れて、穏やかな苦みが口に広がる。 「肉体労働の後には最高だな」 「でしょ」 「こっちも飲むか?」 「ごめんなさい。私、苦いのダメなの」 苦笑しながら、副会長は自分のグラスを手に取った。 桜色の唇がストローに触れ、琥珀色の液体が上昇する。 「あー、おいしっ」 一気に半分くらい空けた。 「今日はお疲れさん」 「支倉くんこそ、荷物運びさせちゃって悪かったわね」 「力仕事は男の仕事だろ。いつでも遠慮なく言ってくれ」 「おー、感心感心」 おどけた表情の副会長。 演説をしてたときとは、やっぱ別人に見える。 「副会長ってやっぱすごいよな」 「なによいきなり」 「会議のときと感じがぜんぜん違うからさ」 「そう? 私は特に意識してないけど」 「みんなの前に立つと、自然にそうなるのかもね」 「リーダーの才能があるんじゃないか?」 「さあ、自分ではわからないわ」 笑いながら、毛先を指に絡める。 「その笑顔、取り締まり対象に認定するっ!」 かなでさんが、仁王立ちしていた。 「あ、かなでさん」 「冷静に返されるとちょっと辛い」 「こんにちは、悠木先輩」 「やー、どもども」 「しかし、いい感じに盛り上がってるカップルがいると思ったら、こーへーとえりりんとはね」 「か、かっぷる?」 「休憩してただけです、勘弁してくださいよ」 「なあ、副会長」 「え、ええ」 副会長が、居住まいを正してうなずく。 「で、それを言いに来たんですか?」 「うん」 あっさり首を縦に振る。 「もしかして、ヒマですか?」 「その目その肩その口にっ!」 べしっ 「あだっ」 例のシールを貼られた。 「あー、お姉ちゃん、こんなとこに」 と、食堂の入口に立ったのは陽菜だ。 「ふ、追っ手か」 「いったい、なにやってんですか?」 「乙女の秘密」 「では、また相まみえようぞっ」 「お疲れ様です」 「あ、そうそう、部活の件、何かあったら報告してね〜」 「じゃっ」 声をかける間もなく、かなでさんは走り去る。 「おねーちゃん、ちょっと」 「このかなで、そう簡単に捕まらんわっ」 「きゃっ」 陽菜をちょこまかとかわして、かなでさんは食堂の外に消えた。 しょんぼりした顔で陽菜が寄ってきた。 「ごめんなさい」 「ああ、大丈夫だよ。それより早く行かないと追いつかないぞ」 「あ、そうだね」 「千堂さんもごめんなさい」 「いいのよ悠木さん、気にしないで」 「それじゃ、また今度」 笑顔を残して、陽菜も去っていった。 「陽菜も苦労してるよな」 「悠木姉妹、か」 「ん?」 「なんでもない」 「そう言えば、かなでさんが言ってた部活の件って?」 「おそらく部活動調査書のことでしょうね」 「あれか」 部活動調査書── 今日の会議で各部に配った資料だ。 活動内容や実績、部員数などを記入し、生徒会に提出する。 それを元に本年度の予算を編成するのだ。 「でも、かなでさんになんの関係が?」 「悠木先輩、風紀委員長でしょ?」 「何かトラブルがあったときに、協力してもらうことがあるの」 「彼女にしかできないこともあるから」 「へえ」 生徒会執行部も全能というわけではないらしい。 「さて、そろそろ戻りましょうか」 そう言って、副会長は紅茶を飲み干した。 合わせて、俺もグラスを空ける。 「帰ったら、会議の後処理ね」 「ああ、頑張ろう」 ホームルームが終わり、喧噪が教室を包む。 さっそく、陽菜が寄ってきた。 「孝平くん、部活動総会出たの?」 「ああ、一応」 「うんうん、着実に活動してるね」 「つっても、いまのところは副会長の手伝いがメインだけどな」 「荷物運んだり、プリント配ったり」 「あはは、初めは誰でもそうだって」 「千堂さんも生徒会に入った頃は同じだよ」 「いや、あの人は最初っから飛ばしてた予感が」 「えーと」 陽菜の視線が虚空を漂う。 「ううん、ぜったい同じ、きっと、おそらく……たぶん」 「ファイトファイト」 「あ、ありがと」 尻すぼみな声援を受け取る。 「お楽しみのとこ悪い」 「どうした?」 「姫様直々の呼び出しだ」 背中越しに、顎で教室の入口を指す。 「姫様?」 見ると、副会長が立っていた。 姫様か。 「やるな、王子」 「姫はわかるが、王子は無理だ」 「アタックしてみたのか」 「するかよ」 「ならわからんだろ」 「わかるわ」 「あのー、千堂さんぶすっとしてるけど」 戸口に立つ副会長は、 「(なにごちゃごちゃ言ってんのよコラ)」 という顔をしていた。 「辛いな」 同情しきった表情で、肩に手を置かれる。 「まるっきり他人事だな……」 「んじゃ、悪いけど」 「頑張ってね」 クラスの注目を集めつつ、副会長の元へ向かう。 「あのさ、人の顔見てコソコソしゃべられたら感じ悪いでしょ」 「変な話はしてないって」 「ホント?」 「ホント」 「ふうん……」 頭のてっぺんからつま先まで眺められる。 「ま、いいわ」 「ところで、今日、時間ある?」 「ああ」 「よかった。ちょっと付き合ってほしいのよ」 「前に配った部活動調査書をまだ出してないところがあって」 「その回収ってこと?」 「正解」 「どのくらい提出してないんだ?」 「5つね」 「そんなもんか。で、どこの部活?」 「ついてくればわかるって」 「ここ?」 「ええ。今日のターゲットは運動部」 目の前には部室棟らしき建物。 春の日射しをはね返して白く輝いている。 「ずいぶんきれいだな」 「運動部の部室ってのは、なんていうかこう、もっとカオスなもんじゃないか?」 「確かに、去年まではそうだったわね」 「新築したのか?」 「いいえ。美化委員会と協力して強襲浄化作戦を決行したの」 「強襲?」 「強襲よ」 「総員に告ぐ。目標は前方の部室棟である」 「昨夜の打ち合わせ通り、しゃにむに突っ込み、すべての部屋を浄化せよ」 「手向かう者は斬り捨ていっ」 「お姉ちゃん、ほんとにやるの?」 「この悠木かなで、やるといったらやるっ」 「ホウキ隊、前へ」 「正義は我らとともにあり、突撃っ」 「お姉ちゃん、チリトリ部隊がっ」 「ひるむなっ、敵前逃亡はシールだっ」 「とまあ、こんな感じ」 「なんでかなでさんが仕切ってるんだ?」 「あははは。あの人が仕切るのに理由が必要?」 「ああ……そうな、うん」 「さーて、さっさと片づけましょっか。前衛は任せるわ」 「おう」 1時間ほどかけ、5つの部室を回った。 手元には4枚の書類。 4つの部活は大会前の練習で忙しく、提出を忘れていただけだった。 残りの一つは、部長が風邪で休み。 「案外すんなりだったな」 「回収はね」 「他になにかあるのか?」 「ま、それは書類を全部集めてから説明するわ」 「じゃ、とりあえず戻るか」 書類を鞄に突っこみ、監督生室に向かう。 野球部の甲高い打撃音が、青空に吸い込まれた。 グラウンドでは、多くの運動部がそれぞれのエリアで練習に励んでいる。 先輩が後輩を叱咤する声。 気合いの入った後輩の応答。 ランニングの掛け声。 それらが一体となって響く。 「一生懸命やってるわね」 副会長もグラウンドを眺める。 表情には、穏やかな感情が浮かんでいた。 我が子を見守る母親の顔にも似ている。 「支倉くん、運動部はやってなかったんだっけか?」 「ああ、転校多かったからな」 「副会長は運動部……ってのは難しいか」 「そうね。間違って本気出したら大騒ぎになるわ」 「じゃあ、文化部にでも?」 「ええ、そうね」 ま、それならバレることもないだろう。 「ちょっと待った、体育祭で大活躍してただろ?」 「あれでもかなり抑えてるのよ」 副会長が笑う。 笑いながら、再びグラウンドを見る。 「悪いこと聞いたか?」 「気にしないで、仕方ないことでしょ」 鋭いバットの音。 「……!」 まったくの偶然だった。 音につられてグラウンドを見た、その視界の隅に白球が入ったのだ。 「副会長っ!」 「きゃっ!?」 副会長の腕を掴み、抱き寄せる。 白球が空間を切り裂く。 数瞬前まで、副会長がいた場所だった。 「あ? え?」 腕の中で目をぱちくりさせる副会長。 ややあって、顔が真っ赤に染まった。 「い、い、いきなり何?」 「ケガはない?」 「な、なんでケガするのよ」 「えーと」 とりあえず副会長を離す。 「ちょっと待ってて」 付近を探す。 少し離れたところでボールが見つかった。 もちろん、野球の硬球だ。 「こいつが飛んできたんだよ」 「野球の、ボール?」 「間一髪だったぞ」 「あ……ごめんなさい」 申し訳なさそうに視線を落とす副会長。 「なんで謝るんだ?」 「本当なら、私が先に気づかなくちゃいけないのに」 身体能力が高いから、か。 気持ちはわかるが、変な責任の背負い方だと思う。 「ケガなかったんだから、どっちが気づいてもいいじゃないか」 「……そうね。ごめんなさい」 思い直したように笑う。 「ところで、そのボールもらえる?」 ぴっとボールを指さす。 「どうするんだ?」 「返すのよ、持ち主に」 副会長がグラウンドを見る。 かなり遠くで、野球部員が手を振っていた。 「控えめにしておいたほうがいいぞ」 ボールを渡す。 「わかってるって」 と、豪快にワインドアップに入る。 「おいっ」 「へーきっ」 右腕が振り抜かれた。 副会長の髪とスカートが、ひらりと宙を舞う。 華麗にパンツが見えたが忘れよう。 ずっぱーーーんっ!! 白球は放物線は描かず、一直線にミットへ入った。 「ストラーイクッ!」 「控えめにしておけって言ったじゃないか」 「大丈夫、バレない程度に力抜いてるから」 野球部員は、自分のミットに入ったボールを不思議そうに眺めている。 少しして、首をひねりながら去っていった。 「ほら、気づいてないでしょ?」 「はぁ」 脱力。 「バレたらどうするんだよ」 「ごめんごめん」 「でも、危ない目にあわされたんだから、ちょっとくらい仕返ししたっていいじゃない」 いたずらっぽく笑う副会長の額には、たくさんの汗が浮かんでいた。 それに、少し肩が上下している。 「副会長、もしかして調子悪いのか?」 「べ、別に」 ふい、とそっぽを向く。 「でも、汗が」 「あ、ごめんなさい」 ポケットからいそいそとハンカチを取り出し、額に当てた。 「本当に大丈夫か」 「なんでもないわ、気にしないで」 そう言って、先に立って歩き始める。 副会長の背中を見ながら、俺は彼女と初めてあった時のことを思い出していた。 「お、副会長」 「あら、支倉くん」 放課後。 副会長にばったり出会った。 「今日は来るんでしょ?」 「ああ、これでも生徒会役員だ」 「自覚出てきたじゃない」 副会長と背中合わせに下駄箱を開く。 「書類も揃ったし、次の作業に移りたかったの」 「次?」 「書類審査よ」 「あら?」 「ふぅ、またか」 「手紙か?」 振り返らずに聞いてみる。 「ええ。可愛い封筒、いいセンスしてる」 「有望じゃないか。考えてみたら?」 「誰とも付き合う気はないわ。前にも言ったじゃない」 「覚えてる」 「あれって、俺が生徒会に入った日だろ」 「あははは、そうだったわね」 副会長が靴を履く。 「でもさ、せっかくの学院生活だろ? 付き合ってみてもいいんじゃないか?」 「いいのよ、これで」 ぴしゃりと言い切った。 「だいたいあなたはどうなの? 彼女いるの?」 「いないな」 「ポテンシャルは高いんだから、頑張りなさいよ」 「高いのか?」 「え、えーと」 「た、高いって言ってるんだからいいでしょ」 怒った。 「悪い悪い」 「からかわないで」 「先行くから、ちゃっちゃと来てねっ」 言い捨てて、走り去った。 意外に純でびっくり。 「ちわー」 「遅い」 まだぶすっとしていた。 「支倉君〜、何かしたのかい?」 「あはは、いやまあちょっと」 「はっはっは、まあ若いうちが華だよね、うん」 「伊織、油売ってるんじゃない」 やれやれと首を振って、会長はパソコンのデスクに向かった。 「支倉先輩、お茶をどうぞ」 「お、さんきゅ」 お茶を受けとり、椅子に座る。 「さっそくだけど、これ見て」 活動報告書だ。 「サッカー部か」 ざっと見たところ、内容に問題はない。 書類の提出期限も守っているようだ。 「なんか問題が?」 「どうも水増ししてるみたいなの、部員数」 「部費増やそうって腹か」 「ええ。毎年1、2件あるのよ」 「去年は、入部届を提出させて、いちいち調べたわ」 「だったら、今年もそこから取りかかるか」 「じゃあ、日を改めて調査しましょ」 「あとはこっちね」 「囲碁部か」 「部員数が4? 少ないなこりゃ」 「規則だと、部員が4人以下のところは次の年度から休部になるのよ」 副会長が表情を曇らす。 「規則に例外を作れるのか?」 「難しいわ」 「ただ、伝統ある部活だし、部員も真剣に取り組んでるから、できるなら残してあげたいのよ」 「じゃあ俺たちで勧誘してみるか? ポスターとか作って」 「あまり肩入れすると、公平性に欠けるわね」 副会長が腕を組む。 「ま、時間かけて考えよう。急ぎじゃないんだろ?」 「そうね」 「白ちゃん、悪いけど、アレお願い」 会長がいきなり白ちゃんを呼ぶ。 「あ、はい、少々お待ち下さい」 白ちゃんが給湯室に消え、すぐに戻ってきた。 「どうぞ」 「さーんくす」 会長の手には輸血用血液。 10秒チャージ的なノリでくわえる。 口でちゅーちゅー吸いつつ、両手はキーボードを叩く。 「なんだかなぁ」 「言っとくけど、私はああいう下品な飲み方しないから」 「ああ、わかってるさ」 「おーい」 「ん?」 「おや?」 外から聞き慣れた声が聞こえた。 「悠木先輩ね」 副会長の表情が少し引き締まる。 会長が窓を開けて身を乗り出した。 「はろはろ、いおりん」 「おお、悠木姉ー」 輸血用パックを持ったまま、手をブンブン振る。 「んなもん、振るなっ!!」 「おー、こーへーもいるっぽいね」 「聞いてよ悠木姉。彼、ボクをいじめるんだよ」 「あっはっは、それはいおりんがうすらとんかちだからだよ」 「言ったなー♪ やっつけるから上がってこい」 「アイサー」 ついていけねぇ。 「来たよ」 「こんにちは、悠木先輩」 「やっほー、えりりん」 「こんにちは、寮長」 「ノンノンノン、今日は寮長として来たんじゃないのさ」 「では、どんな用件だ?」 「風紀委員長として参ったっ」 「誰が?」 「こーへー、あとでいじめるから」 「さておき、いおりん」 「部活動申請書を見せてちょーだい」 「部活の件は瑛里華と支倉君に一任してる」 「なーる。じゃあ、えりりん、お願い」 「どういった事情で?」 「どこの部活がどんな様子か知りたくてさ、そんだけ」 「ま、風紀委員長がおっしゃるなら」 「さんきゅー」 書類の束を前から順に見ていくかなでさん。 ふーん、へー、ほー、とか言っている。 「ところで悠木先輩」 「ほいほい?」 「部活の掛け持ちが多すぎるんじゃないですか?」 「かなでさん、いくつ入ってるんですか?」 「10くらい?」 「多すぎですからっ」 「いやー、頼まれると断れなくて」 「どうやって活動してるんですか?」 「気が向いたときに行くだけ」 「だって、名誉試食部員とか、名誉棋士とか、無形文化財とかだし」 最後のはどうか。 「ま、細かいことは気にしない気にしない。誰も困らないでしょ?」 「そりゃそうかもしれませんが」 「まあまあ支倉君、悠木姉を常識で縛るのはナンセンスだよ」 「いやー、よくわかってるね、さすがいおりん」 「ただの似たもの同士でしょ」 「まったくだ」 「はっはっは」 「はっはっは」 どうでもよくなってきた。 「んじゃ、資料ありがと」 ぱさりと資料を置く。 「もういいんですか?」 「うん、一通り見たし」 「悠木」 「ほわっつ?」 「無茶をして混ぜっ返すなよ」 「はっはっは、なんのことかわかりませんな」 「じゃ、まったねー」 ばたん 「あの、お茶を用意したんですが、悠木先輩は」 「帰った」 「ええと、あの、あの」 お茶の行き先がなくなり、おろおろしている。 「その茶は俺がもらう。喉が渇いた」 「あ、はい」 「悠木先輩、ほとんど台風ね」 「超大型のな」 「困った」 「そうね」 背後にはサッカー部の部室。 さっきまで、部員水増しの調査をしていた。 「入部届、人数分あったな」 「手続き上はシロね」 「つっても、無理やり書かせたのかもしれないぞ」 「そうかもしれないけど、これ以上の追及は難しいわ」 「取り締まるのは生徒会の役目じゃないし」 そう言いながら、副会長の表情にはどこか余裕があった。 「あら、物騒なのが来たわね」 「は?」 見ると、かなでさんがこっちへ歩いて来ていた。 その背後には、ガタイのいい男子生徒6人が控えている。 どういうこっちゃ。 「やー、ご苦労ご苦労」 「どうしたんですか?」 「ちょっとヤボ用があってのう」 「後ろの方々は?」 「柔道部の皆さん。今回ご協力を頂いております」 押忍っと声が上がった。 どういう関係だ? 「どんな用件かしら?」 「ちょっと話を聞きたい部活があるんさね」 「どちら様?」 「ひ・み・つ」 「なにかやらかしたんですか」 「だーいぶ電気使用量が多いんだよ。部員数に比べて」 「ちょこっとならガタガタ言わないけど、レンジとかコタツとか持ち込まれちゃうとねえ」 「部室で生活する気ですかね」 「そうなのかもしれないねぇ?」 と、かなでさんが背後の柔道着を見る。 一様に、にへら、と不器用な笑顔を作った。 あやしい。 「ま、ちょっと話を聞いてみるだけだから」 「では、結果が出たら教えて下さい」 「りょーかい。あることないこと調べちゃうよ」 かなでさんと柔道部の皆さんは、意気揚々と部室棟へ向かっていった。 「どうなるかな」 「さあ? 報告を待ちましょ」 落ち着いた様子で、副会長が笑う。 「たのもー」 かなでさんが部屋に来たのは、約2時間後だった。 「あら、もうカタがつきましたか?」 「ちょろいちょろい」 ひらひら手を振って椅子に座る。 「しろちゃん、飲み物ちょーだい」 「はい。何にされますか?」 「オレンジジュース」 「かしこまりました」 「喫茶店かよ」 「あ、オーダーを復唱した方がいいですか?」 「いや、しなくていいから」 「わかりました」 白ちゃんは、ちょっと残念そうに給湯室に向かった。 「いやー、かわいいウェイトレスさんだね」 「店じゃないんですが」 「いやいや、ここの住人みたいなセリフだね」 「すっかり馴染んでるみたいで、お姉ちゃんうれしーよ」 「それで、どうでした?」 「あーうん、大漁大漁」 「レンジでしょ、小型冷蔵庫でしょ、テレビにゲームにコタツ、ホットカーペットもあったかな、あとハロゲンヒーター」 「マジで生活する気だ」 「あはは、ま、住みたくなる気持ちはわかるんだけどね」 「私もわかります」 「気の合う仲間と共有するスペースって、居心地いいですよね」 「そうそう。だからわたしも、よくこーへーの部屋行くでしょ?」 「ええ、まあ」 ちょっとくすぐったい。 「お待たせしました」 「きたきた、喉乾いちゃってさ」 と、渡されたジュースを半分ほど一気に飲み干す。 「あー、勝利の美酒ってやつだね」 「ところで、部活はどこだったんですか?」 「サッカー部」 「ぶっ」 「私たちが入ったときは何もなかったですが?」 「えりりんが来るからって、片づけたんじゃない?」 「生徒会が帰って、全部運び込んだところに、わたしたちが押し込んだと」 「タイミング良かったですね」 「そのへんはいろいろあってね」 「で、どうするの?」 「規則に従えば、部室没収ですね」 「けっこう厳しいな」 「事前に禁止事項として説明してることだから」 「んじゃ、今年で2件目か」 「いえ、はじめてよ」 おかしいな。 はじめてじゃない感じがするんだが。 ……あ。 「柔道部」 「あー、とっても頼もしかったよ」 「いや、そうじゃなくて、柔道部も同じことやったんじゃ?」 「さーて」 白々しく口笛の真似をしている。 「かなでさん」 「なにかな」 「見逃す見返りに、今日のミッションを手伝わせたでしょう」 「それじゃ、わたしはこの辺で」 「ちょっと待……」 「お疲れ様でした〜っ」 光の速さで出ていった。 「いいのか?」 「いいんじゃない? 結果として2件の違反がなくなったんだから」 しれっと言う。 「策士だな」 「それは悠木先輩でしょ、私に言わないでよ」 なんかこっちも白々しい。 副会長、全部知ってたんじゃないのか? 「そういうやり方は、生徒会的にOKなのか?」 「それが楽しい生活につながるなら」 ふむ。 そういうことなら。 「だったらサッカー部も見逃がそう」 「どうして?」 「見返りに、部員水増しの件、正直になってもらうってのはどうだ?」 「イエスッ」 びしっと指さされた。 「悪くなってきたじゃない」 「褒められた気がしないな」 「褒めてるわよ」 「アリガト」 「ぶすっとしない。はい笑って〜」 「HAHAHA」 「いやぁ、悪い後輩を持ったもんだ」 給湯室から、いきなり会長が現われた。 「聞いてたんですか」 「わたしが給湯室に入ったら、後ろから口をふさがれました」 白ちゃんも涙目で出てくる。 「犯罪者寸前です」 「犯罪者かどうかはともかく、征には内緒だよ、白ちゃん」 「ヤツに知られたら殺されかねないからね、俺が」 「は、は、はい」 「盗み聞きなんてしないで、はじめから出てくりゃいいでしょ」 「話があんまり黒いから怯えてたのさ」 「ワオキツネザルのようにねっ!」 指でピストルをつくり、俺を撃つ。 「さっぱり意味がわからないです」 「ま、ともかくだね、まるーく収めていこうよ、まるーく」 「俺らも風紀も警察じゃないんだし、しつけは親御さんに任せとけばいい」 「私たちの仕事は、みんなが楽しく過ごせるようにすることよ」 「もちろんサッカー部員も含めてって言うんだろ?」 「もちろん」 副会長の信条が、なんとなくわかってきた。 「彼らには近いうちに、話をしに行きましょう」 「わかった」 その日の放課後。 俺と副会長は、再びサッカー部を訪ねていた。 当初、部員水増しを否定していた部長だったが、部室を交換条件に出したとたんに顔色が変わり── 「部室を失った部長と、部室を守った部長。どちらが素敵かしら?」 「部室没収の危機を救った、立派な部長になりましょ」 ──という副会長の言葉で、あっさり落ちた。 部長の話では、今年の新入部員27人のうち、9人が水増しの幽霊部員。 右も左もわからない新入生に飯をおごりつつ、『活動しなくていいから名前だけ』と拝み倒したらしい。 事情を聞いたあと、幽霊部員の氏名クラスを聞き出して捜査は終了。 「ねえ、部長さん」 去り際、副会長は足を止めた。 「大会……近いのよね?」 「心配しないで。このことは先生方には内緒にしておくわ」 「みんな、サッカー部には期待しているのよ。かっこいいところ見せてね」 部長が救われたような笑顔で応じる。 フォローも万全だった。 「27人中9人は幽霊か」 「ちょっと欲張りすぎね」 「まったくだ」 二人で肩をすくめる。 「さて、あとは幽霊部員に退部届を書いてもらえばOKね」 と、カバンから書類を取り出す。 「もう用紙はできてるから」 「準備いいな」 「話し合いがうまくいったら、必要になると思って」 「だらだらやってると、サッカー部の部長も不安になるだろうし」 「よーし、さくさく片づけよう」 退部届けを集め、監督生室に戻ったのは午後8時半。 部屋にはもう誰もいない。 「あ゛〜〜、疲れた」 どっかりと椅子に座る。 「お疲れ様」 「とりあえずは一件落着ね」 水増し問題は解決。 電化製品の持ち込みも解決。 かなでさんは大捕物をやって満足。 サッカー部にも傷はつかなかった。 「ここだけの話、全部計画通りだったのか?」 「まさか、電源関係の問題は偶発的なものよ」 「私はただ、悠木先輩とタイミングを合わせただけ」 「水増しが手続き上問題なかったから、別件から切り込もうとは考えていたんだろ?」 「ふふふ、もしかしたらそうかもしれないわね」 「へいへい」 ま、そういうことにしておこう。 「でもさ、生徒会ってほんとボランティアだよな」 「まあ、金銭的な見返りはゼロね」 「そういう意味じゃなくて、副会長は苦労ばっかりなんじゃないかと思ってさ」 「そうねえ」 少し考える。 「確かに苦労はあるけど、それで学院が楽しくなるなら私は満足できちゃうみたい」 「どこの聖人だよ」 「趣味の問題」 「なんかスッキリしないな、そういうの」 「なんで機嫌悪くなるのよ」 「だって、今回の件は、もともとサッカー部が悪いわけだろ?」 「それを、副会長が頭ひねって解決して、おまけにサッカー部にまで気をつかって」 「苦労してるの、副会長ばっかな気がしてさ」 「ふうん」 副会長がじっと俺を見る。 「なんだよ」 「心配してくれてるんだ」 「まあ、ありていに言えば」 照れ隠しに笑う。 「ありがと」 「礼なんかいいさ、別に」 副会長は少しだけ視線を落とし、右手で自分の髪を撫でた。 「あー、こほん」 咳ばらいをして、カバンからブリーフケースを取り出す。 中身は集めてきた書類だ。 「これ、頼むわ」 「了解」 書類を手渡した瞬間、ふと思いつくことがあった。 「そーいえば」 「この人たち、サッカー部辞めたんだから、今はフリーってことだよな?」 「悠木先輩みたいに掛け持ちしてなければね」 「だったら、囲碁部に紹介できないか?」 「入部しろとは言えないけど、囲碁部の人に『この人たちはフリーです』って教えることくらいはできるだろ」 「あら」 「どう?」 「いいじゃない」 副会長が立ち上がる。 「冴えてる、支倉くんっ!」 ばしばし肩を叩かれた。 「痛え痛え痛え」 「あ、ごめん」 恥ずかしそうに手を引っこめる。 「囲碁部のことずっと考えてたんだけど、いい案が思いつかなくて」 と、部屋を歩き回り始めた。 「部長さん任せってのがアレなプランだが」 「いーえ、むしろちょうどいいわ」 「あんまり肩入れすると、ひいきになるでしょ。そこのバランスで悩んでたのよ」 「というわけで、支倉くんファインプレー」 びしっと指さされる。 「テンション高けーな」 「冷めてるわね。嬉しくない?」 「いやまあ、もちろん嬉しいさ」 と答えてはみたが、おそらく副会長と喜びを共感できていない。 彼女はきっと、誰かの力になれることを喜んでるんだと思う。 俺はどっちかといえば、副会長の満足げな顔を見れたのが嬉しいわけで。 「善は急げってことで、明日にでも話しにいくか」 「わかったわ」 笑顔で答えてから、時計を見る。 「あら、そろそろ門限ね」 「げ、10分切ってる」 「仕事で疲れた上にシスターのお説教じゃ、泣くに泣けない」 「じゃ、ダッシュね」 「よしっ」 放課後。 監督生室に向かった。 「こんにちは」 「あら、支倉くん」 部屋に入ると、副会長が給湯室から出てきた。 他に誰もいない。 「今日は一人?」 「ええ、みんな外で仕事があるみたい」 「白はローレル・リングだけど」 「仕事はあるか?」 「少しだけ」 「あ、お茶入れたから一緒にどう?」 副会長がテーブルにお盆を置く。 上には茶器がのっている。 「お、さんきゅ」 「私しかいなかったから、自分好みで作っちゃったけど……」 「ま、我慢してね」 「副会長お手製ってだけでラッキーだ」 期待を膨らませつつ席に着く。 副会長がてきぱきとお茶の準備をしてくれる。 すぐにティーカップから、甘い香りが漂ってきた。 「ミルクティー?」 「チャイよ」 「チャイ?」 「インド風ミルクティーね」 「へえ、飲んだことないな」 「街のカフェとかには置いてると思うわ。学食にはないけど」 「カフェか……普通の男子学生には縁のない場所だ」 「そうかもね」 「副会長はカフェでお茶したりするのか?」 「あんまり行かないわね。街自体そんなに出ないし」 「へえ、意外だな。行きつけの喫茶店とかありそうなイメージだった」 「人をイメージで語らないように」 「ほら、とにかく飲んでみて」 目の前にチャイが置かれた。 「じゃ、遠慮なく」 ティーカップを口に運ぶ。 「……」 口にして感じたのは、まず温度。 ぬるい。 熱々を想像していたので拍子が抜けた。 そして、次に来るのが甘さ。 甘い。 マックスを越えてる。 飲み込むと、シナモンの香りが鼻腔を満たした。 これはとても良い。 「どう?」 「ああ……」 コメントしにくい。 「うまいよ」 「シナモンがスッキリしていい感じだ」 「ふう……」 「嘘つきが一人いるわね」 ティーカップを口につけたまま、視線だけ上げて俺を見た。 「何をおっしゃるウサギさん」 「ウサギじゃないから」 副会長がティーカップを置く。 そして、足を組み替えた。 「支倉くんの率直な感想はこうでしょ」 「激甘、そしてぬるい」 「……よくわかるな」 「自分好みで作ったって言ったでしょ」 「普通の人が飲んだら、そう感じるに決まってるの」 「あ、なるほど」 さらにチャイを飲む。 副会長の言うとおりだ。 「まずいってことじゃないからな」 「ありがと」 「でも、支倉くん」 「ん?」 「もし気を遣っておいしいって言ってくれたなら、今後はそういうのナシにしてくれていいわよ」 「言いたいことはズバっと言っちゃって」 「正直にいろいろ言い合えた方が、仕事もうまくいくしね」 ぱちっとウインクされる。 「ああ、そうするよ」 「こいつは、ぬるくて甘い!」 「改めて言われるとカチンとくるわね」 そう言って笑う。 「しかし、副会長は甘いの好きだな」 「ちょっと恥ずかしいんだけどね」 口を尖らせてツンとする。 「そうか?」 「女の子が甘いの好きなのって普通じゃないか?」 「そ、そう?」 「白ちゃんもよく和菓子食べてるだろ」 「だから気にすることないぞ」 「猫舌は?」 「かわいいって思う人もいるんじゃないかな」 「そうなの?」 「兄さんはずっと子供っぽいって言ってたけど」 「人によるって」 「それに、治そうと思って治るもんじゃないだろ?」 「そう……治らないのよ」 「いろいろ試したのか……」 頑張る人だ。 「だいたい、火傷して終わりだけど」 副会長が熱いものを頑張って飲もうとしているところを想像する。 思わず苦笑してしまう。 「笑わないで」 「悪い悪い」 「まったく、こっちは苦労してるのに」 そう言いながらも、副会長の表情は穏やかだ。 そういえば、副会長とのんびりしゃべるのは初めてかもしれない。 いつも何か仕事しながらが多かったからな。 「あ、そうだ。ちょっと見てくれる?」 副会長が鞄から雑誌を取り出す。 「なに?」 「夏の服なんだけど……」 と、雑誌のページを開く。 見開きに2つの写真が載っている。 右は、カッチリしたかっこいい系の服。 左は、少しアジアンテイストが入ったキュートな感じのヤツだ。 「どっちがいいと思う?」 「誰が着るんだ?」 「私に決まってるでしょ」 「そうだな……」 副会長を見る。 雑誌を見る。 さらに副会長を見る。 さらに雑誌を見る。 「ねえ。あんまり見られると恥ずかしいんだけど」 「そんな見てたか?」 「見てたわよ」 「すまん」 ちょっとテレる。 「で、どっちがいい? 支倉くんの趣味でいいわよ」 俺の趣味を聞かれているってことは……。 少し期待してもいいのか? 「こっちのかわいい方だな」 「あ、そうなんだ」 「カッチリした方が好みか?」 「うーん、自分で選ぶとどうしてもカッチリしちゃうのよね」 「かわいいのも似合うぞきっと」 「ありがと、参考にしてみるわ」 「支倉くんは、かわいい女の子が好み? 美人系じゃなくて」 雑誌を閉じて副会長が尋ねてくる。 「ま、中身次第だな」 「外見の話をしてるの」 「あくまで好みの話だけど、副会長みたいな子は好きだぞ」 「そ、そう……」 目を逸らす副会長。 それをやられると、さすがにこっちが恥ずかしくなってくる。 「あ、あくまで、好みの話だぞ」 「う、うん、好みね」 そう言って、副会長はお茶を飲み干した。 「さーて、書類整理でもしよ」 「手伝うぞ」 「ええ、お願いするわ」 「じゃ、食器を片づけてくるよ」 「さんきゅ」 食器をまとめて給湯室へ向かう。 ちょっと気分がふわふわしていた。 「あら」 「お、副会長」 「のドッペルゲンガー」 「本人だからっ」 「買物かなんか?」 「監督生室で飲む紅茶を買いに来たのよ」 「購買じゃティーバッグしか売ってないでしょ?」 副会長の持っている袋をちらっと見る。 紅茶を買ったにしては、大きいような。 「そんなにたくさん買ったのか?」 「……せっかく紅茶買ったから、それに合うケーキを買ってみたの」 「ほら、紅茶とケーキって切っても切れない関係にあるから仕方なく、ね」 「副会長ってほんと甘いもの大好きだよな」 「なっ……」 例によって、少し赤面する副会長。 「甘い物と言えばさ」 「何よ」 ほんの少しだけ頬を膨らませて、上目づかいで俺を見る。 からかわれると思ったんだろうか。 「司から聞いたんだけど、最近、新しいケーキ屋がオープンしたんだってさ」 「初耳ね」 「そこのオリジナルバーニングケーキってのが絶品らしい」 「……む」 ごくり。 副会長の喉が鳴り、目が輝きを増した気がした。 「えーっと、行ってみるか?」 「場所はわかるの?」 「一応、聞いてある」 「仕方ないわね、つきあってあげるわ」 すごく嬉しそうに言った。 波の音が聞こえる。 二人でベンチに座ってうつむいていた。 「……苦くて、ざらざらしてたわ」 隣に座る副会長が、しょんぼりしたまま呟いた。 「ああ……」 「表面が焦げてる時点で、おかしいと思ったのよ」 「バーニングにも限度があるわよね……」 ケーキの味を思い出したのか、眉根を寄せて言った。 「すまん……」 「いいのよ、支倉くんのせいじゃないし」 「ああいうケーキもあるんだって勉強になったから」 「あんなに大人向けな物だと思わなかった」 「大人になっても食べたくないわ」 「俺もだ」 なんで司はあれを紹介したんだ。 あいつの味覚だとうまいのか? 「まだ、口の中がじゃりじゃりするわ」 「ジュース買ってくるけど、いる?」 「あ、俺も行こうか?」 「いいわよ、ゆっくりしてて」 「じゃあコーヒーをお願い」 「よく苦い物を飲む気になるわね」 「缶コーヒーは甘いぞ」 「ふうん」 「じゃあ、行ってくるわね」 副会長が立ち上がり、スカートを風になびかせながら歩いていく。 「確認しとくか……」 携帯を取りだし、司にかける。 「おう」 「今大丈夫か」 「まあな」 「お前の紹介してくれたケーキ屋に行った」 「そしてバーニングケーキを食べた」 「一人でか?」 「……」 「二人か。それは悪かったな」 「知ってて紹介したな?」 「あの味を知ってもらいたかっただけだ」 「できれば一生知りたくなかった」 「本屋の右隣り、地下2階に行け」 「連れがいるなら詫びにもなる」 「ケーキ屋か?」 「ああ。俺が知ってる中じゃ、一番うまい」 「わかった」 通話が切れた。 「はい、コーヒー」 いつの間にか、副会長が戻ってきていた。 冷たいコーヒーを手渡される。 「サンキュ」 「なあ、副会長」 「ん?」 「まだケーキ、食べられるか?」 「さっきみたいなのじゃなければね」 「じゃあ、口直しに行こう」 司の紹介してくれた店でケーキを食べながら、副会長とずっと話をしていた。 二人で店を出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。 「これぞケーキって感じだったわね」 副会長が嬉しそうに言う。 「なあ、寮の門限って何時だっけ?」 「21時よ」 時計を確認する。 20時45分。 「やばい、走らないと間に合わないぞ」 「行きましょ」 言うが早いか、俺の手を取って走りだす。 そして一気に加速。 「む お お お お ぉ ぉ ぉ」 「ぎりぎり、間に合ったわね」 「ぐ、はっ、ひ、はっ」 酸素、酸素をくれ。 「だ、大丈夫? 速すぎた?」 「いや、でも、あれだ……」 副会長は、途中から俺に合わせながら走ってくれた。 しかし、それは俺の全力疾走のスピードであるわけで。 「ただの、体力不足、だ」 「そうは見えないけど……」 「余裕だ、余裕」 男には意地があるのだ。 背筋を伸ばして、なんでもない風を装う。 「意地張ることないのに」 副会長が口許を押さえて、おかしそうに笑った。 前に、ここへ来たのはいつだったか。 母の居室であるにもかかわらず、はっきりと思い出せない。 漏れた苦笑に、周囲を漂うお香の煙が揺れた。 甘さと苦さが混然となった香気は、その筋では珍重されるものだろう。 だが、自分にとっては、母の苛烈な性格を思い起こさせるものでしかない。 「いいのを見つけたそうじゃないか」 御簾の奥からの声。 部屋の温度がいくぶん下がった気がした。 「はい」 「まだなのか?」 「今は様子を見ています。近いうちに必ず」 「どう様子を見るというのだ?」 「なにぶん学院でのことですから、慎重の上にも慎重を期さなくては」 ぱちりと、扇を畳む音が響いた。 「餌一匹にご丁寧なことだな」 「すみません」 「謝る暇があったら、なすべきことをなせ」 「さもなくば」 「わかっておろうの?」 「はい」 「ふん、返事だけは一人前だな」 「下がれ」 「あの……」 母からの返事はなく、私の声は宙に散った。 別にいい。 そもそも、話したいことなど思い当たらない。 では、なぜ声をかけようとしたのか? 自問をすぐにもみ消した。 胸の奥が、また少し暗い色に染まる。 そのせいか、体はすぐに動かなかった。 「失礼します」 時間をかけ、ゆるゆると立ち上がる。 脚には、畳の跡がくっきりと残っていた。 帰りのホームルームが終わった。 「ったく、放課後だってのにあちーな」 「ヤツが、あの調子だからな」 窓の外の太陽を指す。 午後3時を回っているというのに、遠慮なく頑張っている。 「バイトだってのに、空気読めねえヤツだ」 「寿司の配達だっけ?」 「ああ。メットが暑いんだ」 「メットって、お前チャリだろ?」 「もちろんチャリだぜ」 自称、原動機ナシ自転車だろが。 「ま、ここでクダまいてても仕方ねぇ」 「おし、帰ろう」 「んで、今日も生徒会か」 「ああ」 「クーラー入ってんの、あそこ?」 「まさか」 「命拾いしたな」 「教室でも入ってねえ時期に、監督生室だけ入ってたら暴動もんだ」 「ただでさえ暑いのに、暴動はご勘弁」 「ははは、そうだな」 「そういや、教室のクーラーはいつから入るんだ?」 「7月だ。今が一番暑いってわけさ」 「ん? あれは」 「どうした?」 司が顎で差した先は体育館。 建屋の裏へ続く小道を、見知った姿が進んでいく。 「副会長だな」 「どうすんだ?」 「何が?」 「体育館裏っつたら、アレだろ」 放課後の体育館裏といえば、喧嘩か告白の殿堂。 季節柄、ちょっとしたヤブになってそうだ。 相手の男も、もうちょっと場所選べよ。 「男にでも呼び出されたんだろ」 「だから、どうすんだ?」 「どうもこうもないさ」 「つまんねーな」 「邪魔することじゃないだろ」 そう言いつつも、ちょっと気になる。 下駄箱のラブレターを見たときは何も感じなかったのに。 「んじゃ、さっさと帰るか」 「お、おう」 監督生棟に向かって歩く。 たしか坂の手前から、体育館裏が見えてしまう場所があったような……。 近づきたくないが、監督生棟へ行くには通らなくちゃいけない。 「支倉くん」 「おわっ」 いきなり背後から声をかけられた。 「お、おう」 「今から監督生室?」 「そっちも?」 「もちろん」 いつも通りに見える副会長。 告白の結果は聞くまでもない。 なにせ、副会長には誰とも付き合う気がないのだから。 「今日は暑いな」 「まったく、げんなりするわ」 手をかざしつつ、空を見上げる。 「でもま、暑くなってもらわないと困るのよ、これが」 「なんでまた」 「今月はプール開きがあるの」 「去年は、寒いわ雨は降るわで大変だったわ」 「プール開きって、生徒会で何かやるのか?」 「ちょっとしたセレモニーをね」 「ほんと、いろんな仕事あるな」 「まーね」 そう言って歩き出す副会長。 揺れる彼女の肩に、何かが付着していた。 「副会長、左肩のとこ」 「え、なに?」 「なんかついてる」 「え? え?」 自分の肩を見ようとして、副会長は反時計回りに回る。 「じっとしてて」 「あ、うん」 「テントウムシだな」 「えっ!? 取って」 「待ってろって」 副会長の肩に指先を伸ばす。 「まだ?」 「動くなって」 テントウムシの進行方向に人差し指を置く。 すぐに虫が乗り移った。 「取れたぞ」 「見せて見せて」 副会長がいつになくハイテンションだ。 「こいつだ」 指を立てて見せる。 テントウムシが指先へ上っていく。 「ふふっ、かわいいじゃない」 「こいつは、高いところに行く習性があるんだ。ほら」 指先を下に向ける。 テントウムシは、Uターンして手首の方に上り始めた。 「不思議だわ」 「ねえ、また逆にして」 再び指先を上に向けると、虫は指のさきっちょ目指して歩きはじめた。 その様子を、副会長は好奇心に目を輝かせて見つめている。 虫なんて嫌がるかと思った。 「でも、なんで肩についてたのかしら」 「体育館裏行ってたからだろ。あそこ少しヤブになってるし」 「……へえ、物知りじゃない」 風が吹いた。 指先に達したテントウムシが、薄茶色の羽を広げ飛び立つ。 俺も一緒に飛んで行きたかった。 「空は青いなぁ」 「覗くなんて、どういう趣味?」 「すまん」 「でも覗くつもりはなかった」 「廊下から姿が見えたから、ちょっと気になって」 「知ってたなら最初っから言いなさいよ」 「ほんとごめん」 頭を下げた。 「まったく」 腕組みをして、ふいと顔を逸らす。 「恥ずかしいじゃない」 副会長の頬がかすかに染まる。 「ごめん」 「相手、見たの?」 「遠かったから顔は見てない」 「だいたい、体育館のとこは通りすぎただけで立ち止まってもいない」 「信じていい?」 「もちろん」 じっと見つめられる。 「もういいわ」 「テントウムシのかわいさに免じて許してあげる」 サンキュー、テントウちゃん(仮称)。 ピンチで、やや頭がゆだっていた。 「えーと……じゃあ、行くか」 歩き出すが、副会長は動かない。 「ねえ」 「な、なに?」 「結果」 胸が高鳴った。 もしかして、OKしたとか? 「断った……んだよな?」 「ええ」 「だ、だろうと思った」 「あはは、わかってるじゃない」 副会長の笑顔に、少しほっとした。 「誰とも付き合わないって言ってたしな」 「そうね」 ぎゅっと自らの腕を抱く副会長。 表情がかすかに憂いを帯びている。 「でも、もったいないよな。ポテンシャル高いのに」 以前の副会長の言葉をそのまま返す。 もし自分が副会長を好きになったとして、そのとき芽があるのかないのか……。 「ありがと」 「でもま、無駄なポテンシャルだけどね」 「寂しいこと言うなよ。そのうちいいやつ見つかるって」 「いいのよ、そういうことは人間同士ですることだから」 「……」 なんか、衝撃的な発言だったぞ。 「さ、行きましょ。仕事が待ってるわ」 「あ、ああ」 俺も歩きだすが、頭の中は副会長の言葉でいっぱいだ。 「いいのよ、そういうことは人間同士ですることだから」 つまり彼女は── 吸血鬼は、人間相手に恋愛などしないと言ったのだ。 副会長は人間ではない。 彼女の生活があまりに人間と変わらないから、 生徒会役員になってからの生活があまりに楽しかったから、 そんなことまで忘れていた。 「どうしたの?」 「いや、なんでもない」 「そう? ずいぶん汗かいてるけど」 「平気だって」 「早くも夏バテ?」 「そんなヤワじゃないって」 あんなことを言った後だというのに、副会長は気楽な調子だ。 彼女が気楽でいられるのは、いつも考えていることを口にしただけだからだと思う。 『吸血鬼は恋愛をしない』 そんな考えを、彼女が胸の中に飼っているとしたら、ちょっと寂しい。 汗が額を滑り落ち、俺は空を見上げる。 強烈な日射しに、視界が一瞬白く飛んだ。 「ちわー」 「あ〜、あつ〜」 副会長は、パタパタと手のひらで顔を扇いでいる。 「暑いところお疲れ」 「白、何か用意してやれ」 「はい、お待ち下さい」 白ちゃんが給湯室に入る。 「6月からこれじゃ、つらいですね」 「7月になればクーラーが入るんだけどねえ」 「そうだ。生徒会役員に立候補するときは、6月からクーラーを入れると公約したらいいんじゃないか?」 「当選間違いナシね」 「名案っすね」 ぐったりと椅子に座る。 ぐったりしているのは、もちろん暑さのためだけじゃない。 「ときに支倉君」 会長がテーブルに手をつき、意味ありげに俺を見る。 「この暑さの原因を知ってるかい?」 「エルニーニョとかそういうのですよね」 「違うね」 「じゃあ何よ?」 「君らが白昼堂々イチャついてるからだっ!」 びしっと指さされた。 「と、唐突に何を?」 「いやね、暑いから窓を開けたんだよ」 「ついでに景色を満喫していたら、見えてしまったわけだ」 どんだけ目がいいんだ。 「噴水のそばで手を握り合って『きゃっきゃうふふ』なんて、二人とも青春してるなあ」 遠目にはそう見えたらしい。 まあ、俺たちの距離が近かったのは事実だ。 「殴っていいかな」 「俺も参加する」 がたり 立ち上がった。 「お、おい、なんだい?」 目標までの距離、 2メートル。 障害物、 なし。 「こーのーっ!」 「出歯亀がーーっ!!」 俺たちの拳がクリーンヒット。 「てんとーむしぃっ!!!」 会長は、開け放たれた窓から飛び出していった。 「ナイスパンチ」 「そっちこそ」 「ふむ」 パソコンの画面を見ながら、東儀先輩がうなずいた。 「冷房はやはり、7月からが妥当だ」 「え? どうして?」 「もし窓を閉めていたら、ガラスが割れていた」 静かに言って、東儀先輩はマウスをダブルクリックした。 「いやー、飛んだ飛んだ」 少しして、会長が旅から帰ってきた。 首をぱきぱき鳴らしながら自分の席に座る。 「あのねぇ、俺が吸血鬼じゃなかったら洒落にならないよ、ああいうのは」 「吸血鬼じゃなきゃ殴らないから」 「あ、そうそう」 「空飛びながら考えたんだけど、水着解禁日ってもうすぐだよね」 「もうちょっとマシなこと考えてよ」 「あと、いやらしい言い方しないで」 「つーか、水着解禁日ってなに?」 「ただのプール開きよ」 「まあそうとも言うね」 「で、そのプール開きを二人で盛り上げてくれないかな?」 「伊織先輩は盛り上げるのがお好きですね」 「ああ、大好きだ」 「同じくらい高いところも好きだろう」 「あんまり褒めるなよ」 「でも、どうして私たちが?」 「体育祭と一緒で、知名度を高めるためさ」 「なるほど」 唐突だが悪くない。 むしろ面白そうだと感じるあたり、俺も変わったのかもしれない。 「なあ副会長、やってみないか?」 「いいわね」 副会長も即答する。 「で、具体的にどうするかだけど」 「そうねぇ」 腕を組む副会長。 「はぁ、拍子抜けるねぇ」 ほおづえをつく会長。 「どうされましたか? お加減でも悪いのですか?」 「放っておけ、すんなり話が進んで落胆しているだけだ」 「む、難しいです」 「理解しようとしなくていい」 「そういえば、副会長」 「去年のプール開きはセレモニーをやったって言ってたよな?」 「ええ」 「具体的には、先生方の挨拶と、あとは安全祈願のお祓いね」 「お祓いって、神主さんを呼んだのか?」 「いや、俺がやった」 「ぶっ」 「思い出させないでくれ」 東儀先輩でさえ、辛そうな顔をしてる。 「じゃあ、今年は何する?」 「お祓いはないわね」 「そりゃまあ」 「ぱっと思いつくとこだと、水泳大会なんてどうだ?」 「水泳大会は夏休みに予定されてるけど」 「だったら、前倒しして一緒に開催するとか」 「時間割を動かさなきゃいけないし、けっこうハードル高いわよ」 「やってやれないことはないだろ」 「ヤル気十分じゃない」 「わかったわ、やりましょう」 「まずは企画を固めないとな」 「そうね」 「でないと、先生方に交渉できないわ」 「じゃ、そいつは俺がやってみる」 「大丈夫?」 「ああ、任せといてくれ」 「なら、私は簡単にタスクリストを作っておくわ」 「お二人とも、頑張って下さい」 「ああ」 「楽しいプール開きにするわ」 「よし、いっちょやるか」 「ええ」 「たーだいまー」 「どこへ行っていた」 「仕事さ。料理部の部長にせがまれてね。大・試食大会だ」 「遊んでいただけか」 「失敬な。こういう地道な努力が生徒会の人気を作るのさ」 「で、二人は?」 「30分ほど前に帰った」 「寮で続きをするらしい」 「へえ、気合い入ってるじゃないか」 「あの二人、息が合ってきたな」 「そうだな」 「しかし、手がかからなすぎるというのも寂しいものだね」 「嘆くべきことではないだろう」 「まあ、年寄りのグチだ」 「放っておいていいのか? あの二人」 「なるようにしかならんさ、人の気持ちなんか」 「後悔することになってからでは遅いぞ」 「後悔などしないさ」 「どうだかな」 深夜1時を回った。 寮に帰ってすぐ机に向かったが、企画書はまだ形にならない。 たしか、体育祭の時もこんなことで悩んでたな。 ほんと生徒会は大変だ。 「あ〜〜」 大きく背伸びをすると、こわばった関節が音を立てた。 ぴりりりっぴりりりっ ぴりりりっぴりりりっ 携帯が鳴る。 「はい、もしもし」 「お疲れ様」 「どうした?」 「なんとなく電話してみただけ」 「もしかして寝てた?」 「まさか、ちゃんと頑張ってるさ」 「あはは、感心感心」 「で、どんな感じ?」 「ぼちぼち、かな」 「はっきりしないわねぇ」 苦笑が聞こえる。 電話越しに吐息がかかるようで、くすぐったい気分だ。 「どこで詰まってるの?」 「水泳大会はいいんだけど、普通の競技だけじゃ寂しいと思ってさ」 「もう一声ほしいんだよな」 「で、ネタが出ない」 「ああ」 「なんかあるかなぁ」 副会長がうなる。 俺もうなるが、ここ数時間考え続けたネタだ。 そう簡単には出てこない。 「ぱっとは思いつかないわね」 「しょうがないさ」 「俺も、もうちょっと頑張ってみるよ」 「あ……」 「ん? なんか言ったか?」 「う、ううん」 「そっか」 「あ、それじゃ、そろそろ切るわね」 「電話ありがとな」 「夜だからって恥ずかしいこと言わないの」 「テレた?」 「て、テレてないわよ」 「んじゃ、またな」 「ええ」 耳から電話を離す。 「あんまり頑張りすぎないでね」 「ん?」 再び携帯を耳に当てる。 ツーツー なんか言ってた気がしたが。 明日にでも聞いてみよう。 「さて」 このまま頭をひねってもラチがあかなそうだ。 テレビでも雑誌でも、とにかくヒントを探そう。 テレビの電源を入れると、見慣れたタレントの笑い声が響いた。 バラエティー番組なら、何かヒントが転がってるかもしれない。 「東京地方の天気は晴れ」 「昼は30℃近くまで気温が上がり、暑い一日になるでしょう」 「ん……」 机に突っ伏していた。 最後に見た時計は、確か4時10分くらい。 そして今は8時19分。 4時間は眠れた計算だ。 ……。 「寝過ぎだろっ!」 机に散らばった書類を鞄に突っこむ。 ひらりと落ちたメモも、空中でキャッチ。 なによりこいつが大事だ。 寝ぐせ、洗顔は…… なんとかしよう。 「はぁ、はぁ、はぁ」 額から水滴がぱたぱたと落ちる。 「どうしたの!?」 「水でもかぶったのか?」 「かぶった」 「寝ぐせ直す時間がなくてな」 椅子にどさりと座る。 「あー、久々に全力で走った」 「夜忙しかったのか」 「健全な意味でな」 「孝平くん、タオル、よかったら使って」 「さんきゅ」 「あとこれも」 と、ウェットティッシュもくれた。 顔をふけってことだろう。 「女の子は装備品が充実してるな」 「いろいろあるからね」 「ははは」 背もたれに体をあずけ、頭をふく。 「水が飛ぶわ」 背後から、吹雪のような声がした。 「あ、すまん」 「いいえ」 味気ない返事をして、紅瀬さんは手元の文庫に視線を戻す。 ちらりと見えたタイトルには、春琴抄とあった。 「タオル、いい?」 「洗って返すよ」 「いいよ。干しておけばすぐ乾くから」 「じゃ、悪いけど」 「気にしないで」 そう言って、俺が返したタオルを窓枠にぶら下げる。 続いて鞄から…… 「洗濯バサミッ!?」 「ん?」 「あ、いや、なんでもない」 「そう?」 ぱちり、とタオルを留める。 どんだけ充実してんだよ。 「ちわ」 「お疲れさん」 「あれ、副会長は?」 部屋には会長しかいなかった。 「俺だけじゃ不満かね」 「すみません、本音が漏れました」 「まあいい。罰としてトイレブラシ買ってきて」 「そんなもん、購買に売ってないですよ」 「だから街で」 「週末に買ってきますから、我慢してください」 「嫌だね」 ぷつり。 「困った駄々っ子ですね」 ぱきりと指を鳴らす。 「まあ、そう言うな」 「トイレブラシが君の人生を変えるんだ」 壊れた機械は、45℃の角度で叩くと直るらしい。 「滅っ」 「いやぁぁぁっ!」 会長につかみかかったところで、背後からドアの音。 「どうかされましたかっ!?」 「白ちゃん、ご覧の通りさ」 いつの間にかシャツのボタンを外している会長。 「ちょっと会長!?」 「え、えと……」 「失礼しましたっ」 白ちゃんは、顔を真っ赤にして出ていった。 「殺しますので遺言を」 「まあ待ってくれ、めでたい日にそれはないだろう」 「珍しい遺言ですが、責任をもってご遺族に伝えます」 「今日は瑛里華の誕生日なんだよ」 「はい?」 「誕・生・日」 「はあ」 胸ぐらをつかんだまま呆気に取られた。 「だからトイレブラシを」 「意味がわかりません」 「瑛里華の誕生日と聞いたら、何かしたくなるのが人情だろう?」 「そりゃまあ」 「ところが、今のところそういう企画はない」 「兄弟愛ゼロですね、見事に」 「あーいや、それは誤解」 「俺たちには誕生日を祝う習慣がなくてね」 「え」 「俺たちには寿命がない」 「1年生きたところで、別にめでたくもなんともないからね」 言ってることはわかるが、それでいいのか? 「征もそれを知ってるから企画は立てないし、瑛里華もおそらく気にしてない」 「と、ここまでを踏まえた上で、君はどうしたい?」 「俺は……」 千堂家の習慣に従うか── 無理やりにでも祝うか── ……。 「何も聞かなかったことにして祝います」 「それを瑛里華が喜ばないとしても?」 「一回くらい誕生日やってみてもいいでしょ」 「マーベラスっ!」 「支倉君も、いい感じにテキトーになってきたね」 褒められたと思っておこう。 「じゃ、何か買ってきます」 「しかーし、週末までは外出許可が出ないのがこの学院さ」 「そっか……くそ」 「だからトイレブラシを」 「結局、つながんないでしょうが」 「おいおい、頼むよこーへーくん」 「トイレブラシは、街でしか買えない監督生室の備品だろ」 「……おお!」 「会長、冴えてますね」 「誰にものを言ってるんだい」 「最初から話してくれれば、もっとよかったと思います」 「ものには順序ってものがあるんだよ」 突っこむ気にもならない。 「じゃ、トイレブラシを一つで」 「領収書も忘れずに」 「了解です」 鞄を引っつかみ、出口へ向かう。 「あ、忘れてた」 「?」 「今日は君ら二人きりだから」 「どういう気の回し方ですか」 「仕方ないだろ、教師陣と会議なんだから」 「なんでも、PTA関連でちょっとあったらしくてね」 「しょっぱい話ですね」 「代わりに支倉君が甘い時を過ごしてくれ」 「そういう関係じゃないですよ」 監督生室を飛びだした。 「だったら、走って行くことはないだろうに」 「……若いころ思い出す俺も、いい加減おっさんだな」 「ただいま」 「どこ行ってたのよ」 副会長の声が飛んできた。 「会長に買物頼まれて」 「はあ? この忙しいときに?」 「すまん。断れなかった」 「で、何買ってきたの?」 「トイレブラシ」 「アホかーーーーっ!!」 大噴火した。 とりあえずトイレに逃げる。 ま、プレゼントのことは少し内緒にしておこう。 しばらくして、ようやく話ができる状態になった。 「それで、企画書はまとまったの?」 「一通りは」 朝方、鞄に突っこんだ書類を渡す。 「拝見するわ」 ぺらぺらと紙をめくる。 「なるほどね」 「大まかな企画はいいと思うけど、結局、特別競技は思いつかなかったんだ」 「ああ、その話な」 ふたたび鞄をあさる。 底に、メモ一枚を見つけた。 「こっちに書いておいた」 「えーと……」 「ずいぶん達筆ね」 半ば睡魔に支配されつつ書いたらしい。 「ちょっと待って、解読するから」 深夜番組から得たアイデアが書かれているはずだ。 水泳。 深夜番組。 「ポロリ?」 「はい?」 「なんでもない」 「しっかりしてよ、自分で書いたんでしょ?」 「待ってろって」 「……お、わかった」 「鬼ごっこだ」 そう。 最後に見た番組でやってた企画だ。 「プールでやるの?」 「もちろん」 概要はこうだ。 各クラスから二人くらい選手を出す。 生徒会が鬼を何人か用意する。 全員をプールに入れて、あとはひたすら鬼ごっこ。 もちろんプールから出るのはNG。 制限時間まで逃げ延びた人たちで、賞品を山分けする。 「なるほど」 腕組みする副会長。 「でも、鬼ごっこって子供の遊びでしょ?」 「確かに子供の遊びだ」 「でも、子供の遊びを大人が本気でやると盛り上がるんだ、これが」 「どうやって本気にさせるのよ?」 「賞品をつけよう」 「学食のタダ券なら、みんな欲しがるだろ?」 食事を学食に頼ってる俺たちにとって、タダ券は至高のアイテム。 食費が浮いた分だけ、小遣いが増えるからだ。 実質、賞金をもらえるのと変わらない。 「代表が生き残れば、クラス全員が得するわけだし」 「応援してる人も盛り上がれそうね」 「そういうこと」 「いけそうか?」 副会長は、少し考えて組んだ腕を解いた。 「やってみましょう」 「よしっ」 「まずは企画書。そのあと先生方への交渉」 「学級委員を集めて説明会、盛り上げるにはポスターも必要だわ」 「忙しくなるな」 「むしろ張り合いがあるわ」 二人でにっと笑う。 「さっそく取りかかるか」 机に置かれた書類をまとめる。 「あ、そうそう、これ」 副会長が、人差し指でメモを押さえる。 「?」 「遅くまで頑張ったのね」 「ま、まあ」 「自分でやろうって言って、アイデアなしじゃかっこ悪いしな」 くすぐったい気分だ。 あっさり嬉しくなってしまうのが悔しい。 「ふふふ、そうね」 「ま、まだ、企画が通ったわけじゃないし、頑張ろう」 そのうえ強がってしまう。 副会長を意識してないって言ったら…… 嘘になるかもしれない。 ぴりりりっぴりりりっ 「おっと」 部屋のすみに移動。 「ちわ、寿司勝です」 「いま行く」 「すぐ戻るから」 「え? どこ行くの?」 「ちょっと」 入口のドアを開く。 「人使い荒いぞ」 「あとで埋め合わせするから」 「頼むぜ」 「寿司勝」と書かれた“おかもち”から一辺30センチくらいの箱を出す。 両手でしっかり受けとった。 「大将にバレそうでヒヤヒヤした」 「すまん」 「ま、いい」 「ここまでチャリで来たのか?」 「アホ、シスターに殺されるだろうが」 「きっちりチャリで来たさ」 ちなみに、司の言うチャリは状況によって意味が違う。 「んじゃ、またな」 「助かった」 返事の代わりに、にっと笑って司は立ち去った。 「よし」 両手の重量感を確かめる。 ほんのり爽やかな香りがした。 「ただいま」 「お帰り」 「あら、それ何?」 俺の持ち物を見て言う。 「ああ、ちょっと頼んでたもの」 「開けてみろよ」 「私が?」 怪訝な表情をしつつも、俺から箱を受けとる。 「変な仕掛けがあるんじゃないでしょうね」 「大丈夫だって」 「まあ、なら」 箱を机に置き、副会長がふたを開いていく。 ゆっくりと。 少し警戒しながら。 「あ……」 箱はフラワーボックスだ。 白、赤、ピンクのバラが敷きつめられ、格子模様を形作っている。 「きれい」 副会長が箱を持ち上げ、香りを嗅ぐ。 「素敵な香りね」 「でも、これ」 どうしたの? と表情で聞いてくる。 「今日、誕生日なんだろ」 「え?」 「プレゼント」 「私に?」 「他に誰がいるんだよ」 「う、うん」 副会長の表情からは感情が読み取れない。 なんか不安になってきた。 「もしかして迷惑だったか?」 「違う、違うの」 「ただ、こういうの初めてだから」 誕生日を祝う習慣がないのは本当だったようだ。 「どうしよう……」 そう言ったっきり、副会長は黙る。 顔を見ていられなくて、俺は明後日の方向を向く。 時が過ぎてゆく。 「……」 副会長の鼻がかすかに鳴る。 こんなに喜んでもらえるとは思えなかった。 人生初ってのが大きいんだろうな。 「ありがとう、支倉くん」 副会長を見る。 俺を見ていた。 「上手く言葉にできないけど、ありがとう」 「ああ」 潤み、深みを増した瞳の色。 言葉がなくとも、それで十分だ。 「ありがとう」 三度くりかえし、副会長は眼を細める。 俺も同じような顔をしているのかもしれない。 「ふふっ」 副会長が白い歯を見せ、フラワーボックスを机に置く。 そして、しっかりとふたをする。 「飾らないのか?」 「飾るわ」 「でも、部屋に置きたいの」 「そっか」 「じゃあ、袋あったほうがいいな」 戸棚を開け紙袋を取り出す。 「ありがとう」 「4回目だ」 「変なこと数えないでよ」 苦笑する。 いつもの空気が流れ始めた。 「でもこれ、どうしたの?」 「買物に出たときに、一緒に頼んで来たんだ」 「作るのが時間かかるらしくて、ここに届けてもらった」 「親切な花屋さんね」 「ああ」 正確にはこうだ。 プレゼントを何にしようか考えていた。 ふと、小洒落た花屋のフラワーボックスが目に入った。 店員に聞くと、オーダーが入ってから作るので、1時間くらい必要とのこと。 宅配だと、到着は早くて明日の午前中だという。 そんなに待てないし、明日じゃ時機を逸してる。 運良く(運悪く)友人がチャリで通りがかった。 無理やり受け取りと配達を頼んだ。 すまん、司。 「さて、仕事再開するか」 「ええ」 「あ、ひとつ聞きたいことがあったんだった」 「どうぞ」 「昨日、電話くれたよな」 「切るときに、なんか言いかけなかったか?」 「いえ、何も」 「そっか」 「はいはい、仕事仕事」 「さっさと企画書作って、職員会議通すわよっ」 「よしっ」 週明け。 休日返上で完成させた企画書を提出した。 火曜日には職員会議を企画が通過。 そこからは怒濤の仕事ラッシュだった。 なにしろ、3日間で準備から告知までしなくてはならなかったのだ。 ポスター作成、学級委員への説明、賞品の交渉などなど……。 放課後の活動時間だけでは足りず、寮でこなした仕事も多い。 それでもなんとか作業を終え、土曜日の午後を迎えた。 「位置について」 「よーい」 スターターピストルの音が青空に響き渡る。 水しぶきが上がり、割れるような歓声がプールを包んだ。 次々と行われていく競技を、俺は本部テントから眺めていた。 隣には、水着に身を包んだ副会長。 組んだ足をときどき入れ替えるものだから、目のやり場に困る。 「みんな気合い入ってるわね」 「ああ。この調子でいってくれれば、ラストはもっと盛り上がるはずだ」 「ふふふ、そうね」 笑って、プールに視線を戻した。 水面で乱反射する日射しに副会長は眼を細める。 「副会長、本当は参加したかったんじゃないか?」 「私はこれでいいのよ」 「みんなが楽しんでいるのを見るのが、なにより嬉しいわ」 「そんなもんかな」 そう言いながら、最近は副会長の気持ちがわかるようになってきた。 生徒会役員になり、行事に企画から関わってきたからだと思う。 企画者としては自分が競技に参加することより、みんなが楽しんでくれることの方がよっぽど大事だ。 「はっはっは、まさに敵なしっ」 一着でゴールした人には見覚えがあった。 どう見ても楽しみまくってる。 「兄さん、自分が泳ぎたかっただけなんじゃ」 「それもあるかもな」 「声援ありがとうっ、ありがとうっ」 会長が観衆に手を振ると、場が一気に沸き立つ。 「でも、ああやって盛り上げてくれるのは助かるよ」 「適材適所といえばそうね」 などと、二人で苦笑していると…… 「やっほー、元気してるかなー」 「あ、かなでさん……それに陽菜も」 「こんにちは」 「こんにちは」 「何かあったのか?」 「ううん。陣中見舞いに来たの」 「これ、よかったら飲んで」 ビニール袋を渡される。 紅茶と麦茶のペットボトルが2本ずつ、合計4本入っていた。 「ありがとう、悠木さん。ちょうど喉が渇いていたの」 「見てるだけだと、ほんと暑いんだ」 「足らなかったらまた持ってくるから、言ってね」 「ありがと。そうさせてもらうよ」 「こーへー、いまんとこトラブルは起きてないかい?」 「ええ。大丈夫です」 「けっこう、けっこう」 「なんかあったら風紀が出張るからねっ!」 「よろしくお願いします」 「うむうむ」 薄い胸を張るかなでさん。 胸については、まったく似ていない姉妹だ。 「お姉ちゃん、そろそろ次の競技の準備しないと」 「あ、そうだった」 「何に出るんですか?」 「50メートル背泳ぎ」 「できるんですか、背泳ぎ」 「そりゃもう、アメンボのよーにね」 アメンボは背泳ぎしない。 「二人とも、わたしの活躍を瞳に焼き付けておくといいよ」 「ええ、頑張ってください」 「任せとけっ」 「それじゃ、またね、孝平くん、千堂さん」 「ええ。楽しんでね」 立ち去る二人に手を振る。 「支倉くん、水着好きなの?」 「いきなりなんの話だ」 「二人のこと、じーっと見てたじゃない」 「じーっとってのは人聞き悪いな」 「男として自然な範囲は出てないぞ」 「ふうん……」 「な、なんだよ」 「ん? 焦ってる?」 「焦ってないから」 「ふーん」 楽しそうな副会長。 まあ、水着やスタイルがどうのって話をしたら、副会長のそれは群を抜いてる。 口に出したら殺されるだろうが。 「あ、そうそう。せっかくもらったんだし、差し入れ飲もうぜ」 「ええ」 「何が入ってるの?」 袋を開ける。 「紅茶と麦茶だな」 「副会長は紅茶だろ?」 「あったりー」 副会長に紅茶のペットボトルを渡す。 「あ、忘れてた」 「どうした?」 「持ってきたものがあるの」 副会長が自分の荷物をあさる。 ……。 取り出したのはかわいい紙袋だった。 「これ」 「何?」 「開けてみればわかるわ」 笑顔で促され、袋を開ける。 中にはサンドイッチが入っていた。 「準備でお昼食べる時間がないと思ったから」 「お腹空いたでしょ?」 「ああ、ぺこぺこだ」 「じゃ、遠慮なく食べて」 「ありがたく」 さっそくタマゴサンドにかじりつく。 「……」 「お、うまいよこれ」 「ホント? よかった」 胸に手を当てて息を吐く副会長。 「これ、副会長が作ってくれたのか?」 「そうよ」 「といっても、出来合いの物をミックスしただけだけどね」 寮には調理施設がない。 工夫して作ってくれたのだろう。 「でも、売ってるヤツより絶対うまいよ」 「褒めすぎだって」 くすぐったそうに笑いながら、毛先を指に絡める。 「もう一個いいか?」 「もちろん」 「じゃ、遠慮なく」 次は、ツナサンドを口に運ぶ。 「こっちもうまいよ」 「なら、作ったかいがあったわ」 サンドイッチを頬張る俺を、副会長はうれしそうに見ている。 「全部食べちゃっていいからね」 よっぽどうまそうに食っていたのか、副会長が言う。 「俺ひとりで食ったら気まずいだろ」 「一緒に食おう」 「あはは、そっか、そうだね」 副会長が、笑って手を伸ばす。 俺も3つめに手を出した。 ……。 待てよ。 サラダサンドをくわえたとき、ふと思い当たった。 副会長って、腹減らないよな。 つーことは、俺のために作ってくれたのか? 「……」 仕事仲間の俺に作ってくれたのか、ちょっと気になる俺に作ってくれたのか── それはわからないが、どっちにしろ俺がうれしいのは本当だ。 うまさが3倍増しになった気がする。 約2時間に渡り続いた水泳大会も、いよいよ最終種目を残すのみとなった。 最後はもちろん、学食のタダ券をかけた鬼ごっこだ。 プールには、各クラス2名ずつ、計36名の代表選手。 プールサイドには、鬼役の屈強な男が4人、腕組みをして立っていた。 迫力を出すためか、顔に隈取りがしてあったり、額に『大往生』と書かれていたりする。 「鬼の人、どっかで見たことないか?」 「柔道部の人たちじゃない?」 「鬼役を手配したの、悠木先輩だし」 「かなでさん、こういうの好きそうだもんなぁ」 言ってるそばから、ちびっこい人影がスタート台に上った。 「蒼天既に死す。黄天まさに立つべしっ」 意味不明だが、鬼たちは野太い雄叫びを上げた。 「諸君の相手をするのは、この悠木かなでが召喚したジュードーマスターたちだ」 「段位は合わせて6段」 「チケットが欲しくば、5分間、己の帽子を守ってみせるがいいっ!」 プールの中からも雄叫びが上がる。 「ではでは」 かなでさんが軍配を上げる。 一陣の風が吹き抜け、プールを静寂が包んだ。 「レディーッ、ゴーーーッ!!」 柔道部員が飛び込み、ぶっとい水柱が上がった。 選手たちが一斉に動きだす。 だが、水の抵抗もあり、なかなか思うように動けない。 並外れた体格の鬼たちは、その重量に任せ一直線に水をかきわける。 小魚の群れを追うマグロみたいだ。 「どうしたっ、その程度かっ」 かなでさんはスタート台の上で軍配を振っている。 「ねえ、支倉くん」 飛んでくる水しぶきを避けながら、副会長が口を開く。 「なに?」 「紅瀬さん、なんで鬼ごっこに出てるの?」 「目立たなくてすみそうだからって、立候補したみたい」 「……やっぱり紅瀬さんは紅瀬さんね」 副会長は、不機嫌そうに紅瀬さんを見つめている。 そういえば、紅瀬さんとは試験がらみで因縁があるんだった。 問題の紅瀬さんはというと── 次々と選手が脱落していく中、静かな表情でプールに立っていた。 と、鬼の一人が紅瀬さんめがけて進みだした。 タンカーのような突進。 10メートルほどあった距離が、一瞬でつまる。 だが紅瀬さんは、じっと突っ立ったままだ。 鬼の丸太のような腕が振り上げられる。 「危ないっ」 副会長が机を叩く。 ばしゃーんっ!! 鬼の腕が水面をなぎ払った。 ……。 だが、その手に紅瀬さんの帽子は握られていない。 「紅瀬さんがいないわ」 水しぶきの後には、鬼だけが立っている。 「潜ったか」 「そうらしいわね」 固唾を呑んでプールを観察する。 しばらくして、まるであさっての方向に紅瀬さんの上半身が浮んだ。 ざっと1分近くは潜水していただろう。 「もぐってれば、そりゃ目立たないわな」 「まあ、有効といえば有効な戦術ね」 クレバーだ、紅瀬さん。 「ひゃああっ」 ひときわ、かわいらしい声が上がる。 「これ……」 「白じゃないかしら?」 「誰だっ、代表に選んだ奴はっ」 今度は俺が机を叩いた。 迫り来る鬼に、白ちゃんはただか細い悲鳴を上げるばかり。 ほとんどその場を動けないでいる。 「ああ……白……」 東儀先輩が卒倒した。 「こ、来ないでください〜」 ヒグマのごとく両腕を掲げた鬼に、ぱしゃぱしゃと水をかける白ちゃん。 ぱしゃぱしゃ  ぱしゃぱしゃ   ぱしゃぱしゃ 鬼は申し訳なさそうに笑って、他のターゲットに向かった。 「なんだそりゃ」 「こらーっ」 紅瀬さんが地の利を生かしているとするなら、白ちゃんは自身のポテンシャルを存分に発揮していた。 「意外に紳士だな、柔道部」 「気持ちはわかるけど」 「残り1分っ!」 そうこうしているうちに、かなでさんの声。 鬼たちの動きはいっそうキレを増す。 選手たちはあっという間に減り、残りは三人。 そんななか、紅瀬さんは水に潜ってそれっきり。 どこにいるかすらわからない。 白ちゃんは、ぱしゃぱしゃバリア。 不幸な残り一人は、あっという間に鬼の餌食になった。 「しゅーりょー」 「あ、あれ?」 「ぷはっ」 残ったのは、白ちゃんと紅瀬さんだった。 「しろしろときりきりの勝利だーーっ」 テンションが上がりまくった奴らが、次々とプールに飛び込んでいく。 「諸君、日頃の恨みを晴らすチャンスだっ!」 聞き慣れた声が聞こえ、続いて歓声が上がる。 「ははははっ、こらっ、おまえらっ」 青砥先生が宙に舞った。 「あっ、やめなさいっ、やめてっ、やめてーーっ」 シスターも宙に舞った。 「兄さん……」 副会長は眉間を押さえていた。 「日が延びたな」 「ええ。夏が近い証拠だわ」 俺たちは、スタート台に並んで座っていた。 垂らした足が水面に着きそうで着かない。 なんかもどかしい。 「行事って、何度やってもあっという間に終わってしまうわね」 「楽しいことは、ちょっと足りないくらいがいいだろ?」 「そうかもしれない」 撤収はすべて完了し、あとは施錠をするのみ。 プールサイドに人影はなく、大会の残響だけが耳の奥にある。 「でも、支倉くんの企画、予想以上に盛り上がったわね」 「安心したよ」 かなでさんの演出にも助けられたし、勝者が予想外の人物だったのも良かった。 最後の、先生ダイブは想定外だったが、青砥先生なら許してくれるだろう。 シスターは…… あとで数人、奉仕活動に出てもらおう。 「けが人もなくて良かった」 「ええ」 返事はか細かった。 副会長は、じっと夕焼けに染まる水面を見つめている。 光の加減か、その横顔には憂いが見て取れた。 なぜか気にかかる。 初めて見る表情なのに、よく知っている気がする。 どこで見たのか、なぜそう感じるのか、俺にはわからない。 「なあ、副会長」 「ん?」 「俺と競争しないか」 「見てばっかりだったし、最後くらい泳いでもいいだろ?」 企画者は、企画の成功を喜べばいい。 それはわかっている。 でも、副会長の顔を見たら、なんかじっとしていられなくなった。 「……そうね」 先に立ち、副会長に手を差し出す。 柔らかな手をしっかりと握り、立ち上がるサポートをする。 「クロールでいい?」 「ああ。距離は、行って帰ってで」 「OK」 飛び込みの姿勢を作る副会長。 いくつもの曲線が複雑に折り重なり、彼女の体を形作っている。 直線的な男の体とは大違いだ。 「用意はいい?」 「いつでも」 「じゃ。よーい……」 ……。 副会長の声と同時に、飛んだ。 「速すぎだこらーっ」 「そう? これでも加減したんだけど」 速いなんてもんじゃない。 俺がゴールしたとき、副会長はすでにプールを上がって伸びをしていた。 荒くなった息を落ち着けつつ、プール横にたどりつく。 「ごめんね、支倉くん」 プールサイドから、笑顔で手を伸ばしてくる副会長。 そして気づく。 見上げるアングルは、かなりきわどい。 とりあえずTPOをわきまえるよう、水面下に念を送る。 「ま、ともかく負けは負けだ。晩飯おごるよ」 副会長の手を取る。 「いいからいいから」 「どうせ後で、学食無料券もらえるから遠慮するなって」 「あ、そっか」 「だったら、贅沢させてもらおーっと」 手を引かれ、プールから上がる。 勢い余って、抱き合うように体が触れ合った。 互いに立ちつくす。 確かな体温を感じたころ、どちらからともなく離れた。 副会長に触れた右肩が、熱い。 彼女を意識しているからだけではない。 副会長の体が、実際に熱かったのだ。 「副会長?」 「……」 うつむいた額に汗がにじんでいる。 息も荒い。 「副会長」 もう一度呼ぶ。 「ごめん、なさい」 何度目だろう。 前回は確か、野球のボールを避けたとき。 記憶をさかのぼれば、初めて会ったときに行き着く。 女の子特有の体調のせいだと思っていた。 人によっては、重い人もいるだろう。 だが、副会長みたいな反応を見せる人はいただろうか。 「なあ、体調悪いのか?」 「だ、大丈夫よ」 「大丈夫って顔してないぞ」 「もしかして、初めて会ったときと同じになってるんじゃないか?」 「……」 「本当に体調の問題なのか?」 「知って、どうするの?」 うめくような声だった。 「俺にできることがあるなら、協力する」 「できることがなかったら?」 「……」 言葉に詰まる。 暗に、できることはないと言われている気がする。 できることがないなら、知っても知らなくても同じか? いや…… 「それでも、副会長のことなら知りたい」 「前提も理由もない」 それが、純粋な欲求だからだ。 「支倉、くん」 傾きを増した西日が、副会長を赤く染めている。 その姿は、景色に溶けてしまいそうなほど、はかなく見えた。 「なんでかな」 副会長が顔を上げる。 泣いているようにも、笑っているようにも見えた。 「支倉くんには、隠し事がしにくい体質みたい」 「さっきも、けっこう本気で泳いじゃったし」 「なんか……取りつくろえない」 俺は、無言で次の言葉を待った。 握りしめた手のひらが、汗でじっとりと湿る。 「騒ぐのよ」 「あなたに近づくと、血が」 「血……」 俺は、覚悟できていたのだと思う。 さほど驚きはなかった。 「ずいぶん慣れてきたんだけど、最近、また影響が強くなってきてる」 「どうして?」 「わからない」 「俺の血が、欲しくなるのか?」 「欲しくないと言えば、嘘になるわ」 「でも、それだけじゃないのよ、この感じは」 副会長が胸元に爪を立てる。 思うように動かない体の部位を、さいなむような仕草だった。 「……」 常識的には存在するはずのない吸血鬼。 種に関する知識の集積もなく、ただ経験のみで自分を知り、生きねばならない。 それは、空の見えない真っ暗な森を、地図なしで歩くのに似ている。 その不安と恐怖は、どれほどのものだろうか。 ましてや、副会長は人間の社会で生活しているのだ。 「いいのよ、そういうことは人間同士ですることだから」 副会長の言葉は、むしろ自然にも思える。 でも、そう思ってほしくはない。 人間にもいろいろいるってことを、知ってほしい。 「あ、でも、大丈夫よ」 いきなり、副会長は笑顔を作った。 「は?」 「血が騒ぐと言っても、汗をかく程度だし」 「それに、私は我慢できるわ」 「人の血は絶対に吸ったりしないから、心配しないで」 大した問題じゃないわ、とでも言うような笑顔。 その表情に、胸がぎゅっと縮むような感覚を覚える。 この感覚は知っている。 転校生活の中で、俺がずっと避けてきた感覚。 そう、これは…… 人との距離が遠ざかった瞬間の感覚だ。 副会長の言葉は、字面だけなら、俺を気遣っているようにも見える。 でも、本当の意味は違う。 彼女は言ったのだ。 あなたが私を怖がるのは悪いことじゃない── それは私のせいだから── 私だけの問題だから── つまりは、踏み込んできた俺から距離を取ったのだ。 「待てよ」 「え?」 試されてると思えばいい。 向こうが距離を取るなら、追いかけるだけ。 それが、俺の自分勝手な欲求だなんてことは百も承知だ。 「俺は、何も心配なんてしてない」 「え? え?」 「血が飲みたくなったら、飲んでくれてもいい」 「ちょっと、私はっ!」 「ともかく、今日みたいになったら言ってくれ」 怒鳴られる前に言葉を遮る。 副会長の視線がさまよった。 「前もって言ってくれてれば、大丈夫」 「俺は、驚かないさ」 「え、えと」 信じられないものを見るような目で、俺を見る。 そんな副会長の頭に手を載せる。 「大丈夫だ」 そう言って、優しく撫でる。 「あ、うん」 副会長は、赤くなってうつむいた。 「歩けるか?」 「うん」 うなずいてくれた。 半分、上の空っぽかったけど。 「じゃ、着替えて監督生室に戻ろう」 「そ、そうね」 副会長の手を引いて歩きだす。 なんとかなったのか? 確信はない。 でも、ま、手を振りほどかれてはいないし……。 なんとかなったと、思うことにしよう。 部屋に入るなり、うつ伏せにベッドへ倒れた。 頭の中がぐるぐる回っている。 プール開きは順調。 撤収も順調。 その後、支倉くんと泳いだ辺りからおかしくなってきて…… 血が騒ぎ出してからは、完全にコースアウトした。 その後のことは、ろくに覚えてない。 なんか、叫ぼうとしたり、頭を撫でられたりした気がする。 予想だにしなかったことだ。 「まったく」 うめいてみても、わけがわからないのはそのまま。 でも、変な直感だけは残っている。 彼は…… 支倉くんは…… 欲しかったものをくれたのではないか。 ……。 そっか。 そうに違いない。 一人うなずいている自分は、かなり怖い。 でも気にしないことにする。 「そうよね」 呟きつつ、仰向けになる。 天井を眺めながら、今後のことを考える。 ふと、夜露のように冷静さが下りてきた。 考えてはいけない。 その先にある結論に触れてはいけない。 「謝る暇があったら、なすべきことをなせ」 「さもなくば」 「わかっておろうの?」 脳裏に浮かぶ、あの人の声。 そうだ。 私は抗うと決めたのだった。 支倉くんがいくら私を受け入れてくれたとしても、私が私であろうとする限り── 結果は、明白。 寒気が背筋から広がり、心地良い胸の火照りを追い出す。 頭が冷え冷えと冴えわたっていく。 「支倉……くん」 その名を呼んだ瞬間、 「……っ」 胸に、不安が押し寄せる。 「あ……う……」 こんな感覚は初めてだ。 胸の中心が砂になり、風に散っていく。 残るのは、真っ黒な空洞。 突如として現われた虚ろは、ゆっくりと、確実に、拡大していく。 声も出ない。 考えることもできない。 頬を伝う涙を感じることさえできない。 闇を押さえ込むことだけで精一杯だ。 「支倉、くん」 その人の名を呼ぶ。 虚ろの拡大は止まらない。 むしろ、速度が速まった気がする。 ……。 でも同時に、 彼に会うことでしか、この空洞は満たされないと、 悟った。 昼休み。 いつものメンバーで食堂へ繰り出した。 「なんにすんだ?」 「焼きそば」 「またか」 「まただ」 「孝平くん」 隣にいた陽菜が、頬を膨らます。 「つ、付け合わせにサラダでも食うかな」 「そうそう。バランスよくね」 「八幡平くんもだよ」 「へーい」 青椒肉絲にサラダをつける司。 「私はとろろソバにしよっと」 「夏はいいよな、冷たい麺」 「食欲が落ちても食べられるしね」 6月も下旬。 珠津島はすでに梅雨に入っていた。 湿度が高いため、真夏より暑く感じる。 梅雨明けが待ち遠しい。 「そういえば、ちゃんと勉強してる?」 ソバを手繰る手を止め、陽菜が言った。 「なんの?」 「き・ま・つ・し・け・ん」 「お、おお〜」 すっかり忘れてた。 「そろそろ始めないとまずいな」 「そうか?」 「一般的には」 「んじゃ、いいや」 まあ、司には司の生き方があるに違いない。 「7月の1日からだよな」 「うん」 「今からなら十分間に合うよ」 「よし、いっちょやるか」 「変な点取ったら、副会長に殺されかねないし」 「(あのねえ、役員がこの点数じゃ示しがつかないでしょう?)」 脳内で副会長の声が再生される。 「私が何をするって?」 リアルに声が聞こえたぞ。 しかも背後から。 「よ、よう」 振り向く前に、肩に手を置かれた。 マジで怖い。 「こんにちは、千堂さん」 「おす」 「こんにちは」 声しか聞こえないが、機嫌はよさそうだ。 「副会長、もう飯食ったのか?」 「ん? まだよ」 頭のすぐ上で声がする。 「だったら、一緒にどうだ?」 「これから寮に用事があるの。ごめんね」 「じゃあ、どうしてここに?」 「外から姿が見えたから、挨拶しようと思って」 「へえ」 コップの水を眺めながら、司がつぶやく。 「なに?」 「なんでも」 「それじゃ、私はこれで」 「またね」 「ええ」 肩から手が離れる。 どの指かの爪が、首筋をすっとかすめた。 「勉強、ちゃんとね」 「ああ」 「よろしい」 そう言って、副会長は学食から出ていった。 ……。 「消されるかと思った」 「大丈夫」 「楽しそうな顔してたよ、千堂さん」 「姉さん女房か」 「勘弁してくれ」 言葉とは裏腹、心は少しだけ浮ついていた。 迷惑がってる素振りをみせるのも、単なる照れ隠しだ。 ……。 水泳大会が終わり、俺と副会長の距離は少しだけ近づいた。 普通の生徒から見た彼女は、物事をぐいぐい進めていく、頼れる存在かもしれない。 もちろん、副会長としての彼女はそういう人だ。 でも、素の彼女はもっと複雑だ。 迷いも悩みもあるし、前進していたかと思うと急にバックしたりもする。 俺もまだ、彼女というパズルを解きはじめたにすぎないのだと思う。 「こんにちは」 放課後。 いつも通り監督生室に到着する。 白ちゃんは、お盆を持って立っている。 「あ、来たわね」 「お疲れさん」 「白、お茶を」 「はい、かしこまりました」 白ちゃんは、いつの間にかお茶担当になっている。 「白ちゃん、いつもごめんな」 「お気になさらないでください」 「わたしはこの仕事が好きですから」 ま、本人が嫌じゃないならいいか。 「ところで支倉君、期末試験が迫っているのはもちろん知っているね?」 「はい」 「今日も勉強しろってプレッシャーかけられました」 ちらりと副会長を見る。 「私たちが悪い点を取ったら、示しがつかないでしょう?」 「瑛里華の言う通り」 「俺たちは、一般生徒の規範にならなくちゃいけないからね」 「というわけで、今日から試験モードに入りたいと思う」 「試験モード? 具体的には?」 「試験が終わるまで、監督生室に顔を出さなくていいわ」 「もちろん、何かあったら呼び出すけど」 「勉強に集中しろってことか」 「でも、監督生室を空にしていいのか?」 何かあったときに困る気がする。 「その心配はないわ」 「私は毎日、ここで勉強してるから」 「そっか。なら安心だな」 「支倉君も、ここで勉強してくれて構わないよ」 「クーラーもお茶もあるし……瑛里華もいるからね」 ヒゲのない顎を、右手で撫でる会長。 「なんでニヤニヤしてるんですか?」 「さてね」 「ま、ともかく、試験が終わるまでは好きにしてくれ」 「会長はどうするんですか?」 「好きにするさ」 質問に答えてねえ。 「東儀先輩はどうするんですか?」 「すまないが、俺と白は別の場所で勉強させてもらう」 「なるほど」 そうすると、ここで勉強するのは副会長だけか。 「支倉くんはどうする? ここで勉強してみる?」 ほんの少しだけ上目遣いに、副会長が聞いてきた。 「邪魔にならないか?」 「ぜーんぜん」 「なら、そうさせてもらうよ」 「わかったわ、試験まで頑張りましょう」 「ああ」 寮の部屋は、テレビや雑誌といった誘惑が多い。 ここならストイックに勉強できそうだ。 「二人とも、留守は頼んだぞ」 「任せて」 「わかりました」 副会長と顔を見合わせて、うなずく。 「では、ただいまより試験モードに移行する」 「みんな、がんばってね〜」 言うなり、会長は部屋から飛び出していった。 どうみても勉強するテンションじゃないんだが……。 「会長、どこに行くんだ?」 「さあ」 わかるわけないわ、といった顔の副会長。 ホント、会長は謎だ。 「支倉先輩、お待たせしました」 「お、ありがとう」 氷の入ったグラスの中で、緑色の液体が涼しげに光っている。 「冷たい緑茶?」 「はい。もう梅雨ですから」 「季節を楽しむ心は大切だな」 「は、はいっ」 嬉しそうに返事をする白ちゃん。 先生と生徒みたいな兄妹を見ながら、グラスに口をつける。 スッキリしてうまい。 「時間も限られてるし、さっそく勉強しましょうか」 「そうだな」 鞄から勉強道具一式を取り出す。 いまや俺も生徒会役員だ。 ひどい点数を取るわけにはいかない。 気合いを入れていこう。 午後8時45分。 門限ぎりぎりまで試験勉強をして、俺たちは帰途についた。 石畳に伸びる俺たちの影は、以前より近くなっている気がする。 「そういえばさ、今日は大丈夫だったか?」 「ん? 体調のこと?」 「ああ」 「特に変化はなかったわ」 「よかった」 「なんかあったら、遠慮しないで言ってくれよな」 「そうするわ」 副会長が眼を細める。 「やっぱりさ、ときどき怖いって思ったりする?」 「いや、ぜんぜん」 「どう見たって、普通の女の子だし」 かわいさは普通ではないが。 「それに、人から血は吸わないんだろ?」 「もちろんよ……絶対に」 「エレガントじゃないから?」 「そんなことも言ったわね」 苦笑する。 「実際は、単に人から吸いたくないだけよ」 「こうして一緒に生活してるのに、食べものだなんて思えないわ」 「確かにな」 もし、牛や魚と話ができて、友達にすらなれるとしたらどうだろう? 絶対食えない。 「ま、吸血鬼としては落第かもしれないわね」 声のトーンが、少し下がった。 そのせいか、軽い冗談には聞こえない。 「どういうこと?」 「吸血鬼は、人から血を吸うのが本道なんだって」 「だから、血を吸ったことがない私は半人前なの」 誰がそんなこと言ったのか。 会長か親御さんか、まあ年長者だろう。 「別に、吸わなくてもいいじゃないか」 「輸血用血液があるんだし」 「そうね」 「でもまさか、こんなふうに話せる人ができるなんて思わなかった」 副会長は2、3歩先に進む。 そして、振り返った。 「ありがと、支倉くん」 「礼なんていいさ、別に」 「なら、もうお礼はなしね」 冗談めかして言う。 「それもどうか」 「じゃ、どうして欲しいのよ」 「さてね」 笑って言う。 副会長も笑った。 言葉に意味はない。 ただ、笑い合ってるのが本当に楽しかったのだ。 これはもう、よくよくだよな。 副会長の笑顔をもう一度見る。 梅雨の暗い夜なのに、なんだか輝いて見えた。 ほんと、まいったな。 監督生室で勉強するようになって、数日がたった。 試験モードに入ってから、東儀兄妹は姿を見せていない。 会長も、なぜか見当たらない。 「あのさ」 「なに?」 シャーペンを走らせながら、副会長が口を開く。 「会長って、一人で勉強してるのか?」 「どこかで遊んでるんじゃない?」 「会長がそれじゃまずいだろ」 「平気よ」 「兄さんは、教科書程度のことなら全部覚えてるから」 「だてに長生きしてないってことね」 「ずるくは……ないか」 どこかの段階で勉強はしたのだろう。 吸血鬼だって、努力なくして優れた成績は取れない。 実際、俺と同年齢の副会長は、黙々と勉強に励んでいる。 特に数学は。 「紅瀬さんに勝てるといいな」 「絶対に雪辱を果たすわ」 「そう何回も負けてたまりますか」 ガリガリと数式を書き連ねる副会長。 気合いが入ってる。 副会長は、総合得点でずっと学年トップだったらしい。 だが、数学だけは、いつも紅瀬さんの勝ち。 しかも紅瀬さんは、数学だけ高得点で、他は軒並み赤点スレスレ。 それがまた、副会長を刺激している。 「副会長って、昔っから学年トップだったのか?」 「去年からね」 「じゃあ、その前は副会長よりデキるヤツがいたわけだ」 意外だ。 副会長が負けてるところは想像できない。 「……」 ふいに、副会長の表情が固くなった。 「違うわ」 「え?」 「私、学校に通い始めたの、去年からだから」 ぱきっ 無意識に、シャーペンの芯を折ってしまった。 この学校が初めてってことは── それ以前は学校に行ってなかったってことで── 「ま、まえ、文化部に入ってたって言ったよな?」 「……」 無言の返答。 副会長は嘘をついた。 そう思っていいのだろう。 「……」 「言いたくなかったのよ」 「あまりいい話じゃないし」 学校に行ってなかったのなら、何をしていたのか。 考えられるのは、せいぜい長期入院くらいだ。 「聞いていいか? 学校に行ってないとき、何してたのか」 副会長がシャーペンを置き、椅子の背もたれに体を預けた。 表情は険しい。 「屋敷にいたわ」 「外に出してもらえなかったから」 一瞬、言葉を失った。 「……な、なんでまた」 「幼い吸血鬼を社会に出すのは危険だからよ」 「暴走して、街中で血なんて吸おうものなら大変なことになるわ」 「まず、自分の欲求を制御できるようになって半人前」 「人から血を吸って、しかるべき処置が取れるようになって、ようやく一人前」 「それまでは、外に出してもらえないの」 「そりゃ、理屈はわかるが」 ずっと閉じこめられて生活してきたなんて。 友達と遊ぶこともなく、自然に触れることもない。 それはどんな生活なのか。 ふと、テントウムシに目を輝かせていた副会長を思い出す。 やけにハイテンションだと、俺は不思議に思ったけど……。 あれは、自然に触れた感動そのものだったのかもしれない。 普通なら、幼い頃に感じるものを、副会長はいま感じたのだ。 「人間だって、独り立ちするには何年もかかるでしょう?」 「私たちも、人間の中で上手くやっていけるようになるためには何年もかかるの」 「正体がバレれば滅ぼされる」 「でも、人間の近くでしか生きていけない」 「天敵の群れの中で息をひそめて生きるのが、私たちの本質なのよ」 自嘲気味に言って、笑う。 なんだか気が遠くなってきた。 副会長は人間とたいして変わらない。 ずっと付き合っていける。 俺はそう思ってきた。 でもそれは、 もしかしたら、 俺がそう思えるよう、副会長が配慮してくれたからじゃないのか? ……。 俺が副会長の立場ならそうする。 意味なく相手を怖がらせたって仕方がない。 必要最低限のことは話し、不必要なことは言わない。 もしかしたら、副会長はもっとたくさんの秘密を持っているのかもしれない。 ならば、彼女はあとどれだけの秘密を持っているのか。 「驚いたでしょ?」 少し寂しそうな目で、副会長は言った。 「あ、ああ」 驚いた。 彼女が人間ではないと再認識した。 でも── ここで俺が引いたら、副会長は話したことを後悔するだろう。 そんな思いはさせたくない。 「でも、話してくれてよかった」 「副会長のことわかるの、なんか嬉しいよ」 「……馬鹿ね」 「ひどいな」 「ふふ、ほんと馬鹿」 副会長が穏やかに笑う。 「そういや、副会長って人の血を吸ったことないって言ってたよな」 「だったら、どうして外に出してもらえたんだ?」 「無理言って出してもらったの」 「輸血用血液があるこのご時世、人から血を吸う必要なんてないでしょ」 「まあ、おかげで半人前だの出来損いだの言われたけど」 「時代が変わったなら、それでいいと思うけどな」 「私もずっとそう言ってたんだけどね、どうにも頭が固くて」 肩をすくめ、おどけた調子で言う。 吸血鬼のしきたりの中でも、おかしいと思うことには抵抗してきたようだ。 なんとなく安心した。 「さて、勉強に戻りましょうか」 「こういう話は、また時間のあるときにね」 「ああ」 と、シャーペンを持とうとしたが…… ない。 「あれ?」 「どうしたの?」 「いや、シャーペンがない」 「気がつかなかったわ」 教科書やノートの下を探す。 ない。 「おかしいな」 椅子から下りて、テーブルの下を確かめる。 向かい側に、副会長の足が見える。 膝はぴったりと閉じられている。 残念な気分になるのは、俺が特別なわけではなく、男の本能だ。 「あった?」 副会長が、テーブルの下に顔を出す。 「目の前にあるじゃない? どこ見てるのよ」 「え? あ」 本当に目の前に落ちていた。 「おかしいなぁ」 「どっか余計なトコ見てたんでしょ」 「失礼な」 「どっちが失礼よ」 「とにかく、さっさと拾って」 「りょーかい」 シャーペンを拾い、席に着く。 向かいの副会長は、少しだけ顔を赤らめていた。 「いやらしいことするなら、一緒に勉強しないからね」 「はいはい」 「まったくもう」 ぷんぷんしながら、副会長は勉強を再開する。 俺も教科書に視線を戻す。 が、 しばらくは勉強が手につかなかった。 副会長と一緒にいて何も考えるなってのは、難しいよな。 「試験前、最後の週末だな」 「みんな、遊びに行かずしっかり勉強してくれ」 という先生の言葉で、帰りのホームルームが終わった。 「いよいよ、迫ってきたね」 隣の席から陽菜が話しかけてくる。 「ああ。勉強はバッチリか?」 「ん〜、どうかな」 「やれることはやった気がするけど」 あいまいに笑う。 まあ、陽菜がそう言うなら、きっといい成績を取るのだろう。 「孝平くんは?」 「そこそこかな」 実のところ、監督生室での勉強は順調だった。 副会長がいるから、わからないところはすぐに聞ける。 テレビなどの誘惑がないのもポイントだ。 「孝平くん、ずっと監督生室で勉強してるよね」 「なんとなくね。あそこ静かで涼しいし」 「仲良くしてる?」 「ああ……ってなんの話だ?」 「千堂さんの話」 「そりゃ、仲悪くはないさ。仲間だし」 「なら良かった」 「女の子には優しくしてあげなくちゃダメだからね」 にこにこしている。 「わかってる。いらん心配すんな」 「ふふふ、そうだね」 どうやら、陽菜は俺の気持ちを見抜いているらしい。 ま、幼なじみだしな。 陽菜と別れ、監督生棟に向かう。 雨は降っていないが、空は灰色の雲に覆われている。 「あ、あの、生徒会の方ですよね」 「そうだけど、どうかした?」 息を切らせて走ってきたのは、知らない女の子。 ジャージを着てるし、運動部の子かな。 「はぁ、はぁ……良かった」 「ぶ、部室棟で……男の子が喧嘩してるんです」 「喧嘩?」 「それで、あの、仲裁を……」 「わかった。どこの部でやってるんだ?」 「テニス部と野球部です」 「よし、わかった」 急いで部室棟に向かう。 走りながら携帯に手を伸ばす。 とりあえず、副会長に連絡しておいた方がいいだろう。 「……」 と、思ったがやめた。 打倒、紅瀬さんに燃える副会長は、今ごろ勉強に集中しているはずだ。 邪魔はしたくない。 俺の手に負えない話だったら、そのときまた考えよう。 仲裁が終わり、監督生棟に着いた。 日は既に傾いている。 喧嘩の内容は本当に下らないものだった。 そもそもの原因は、グラウンドのエリア争い。 だったのだが…… 日頃から不満がたまっていたのだろう。 どっちが先に手を出したのかすらわからないまま、両者は激突。 俺が仲裁に入ると、殴り合い自体はすぐに収まった。 だが、長かったのはそこから。 両者の苦情を延々聞かされるハメになった。 ほんと勘弁して欲しい。 とりあえず、相手に改善して欲しい点を書類で提出してもらうことにして、その場を収めた。 まあ、文章にしているうちに頭も冷えるだろう。 「お疲れ〜」 「遅かったじゃない」 副会長が教科書から顔を上げる。 「運動部でいざこざがあってさ、その仲裁してたんだ」 「はあ?」 「もう片づいたよ」 言いながら、椅子に腰を下ろす。 「ちょっと、支倉くん」 副会長がにらんできた。 「どうして私を呼ばなかったの?」 「問題が難しけりゃ呼ぼうと思ったけど、そうでもなかったからな」 「二人で対応すれば、もっと早く解決したでしょう?」 「副会長には勉強頑張ってもらおうと思ってさ」 「紅瀬さんに勝つんだろ?」 副会長は、大きなため息をついた。 「気持ちはありがたいけど、試験前なのはあなたも一緒じゃない」 「私としては、むしろ支倉くんに勉強を頑張って欲しいわ」 「まあ、俺の方が成績は悪いな」 学年トップと比べりゃ、誰だってそうだ。 「あ、ごめん、そう言う意味じゃないの」 「ただ、そういう細かいトラブルは私の担当だから」 「そりゃ初耳だぞ」 「なんとなく、そういう分担になってたの」 副会長の視線が泳ぐ。 なんだろう? 副会長、ちょっと冷静じゃない気がする。 「ホント言うとね、他の人には、もっと時間を有意義に使って欲しいのよ」 「副会長は有意義に使えなくてもいいのか?」 「私はいいの」 「みんなに楽しんでもらえれば、それが一番なんだから」 ぴっと指を立てる副会長。 素晴らしい自己犠牲精神だとは思うが…… ちょっとばかり寂しい。 「俺も生徒会役員なんだし、副会長だけが苦労することはないさ」 「次に同じようなことがあったら俺もちゃんと連絡するから、一緒に解決しよう」 「……そうね」 あいまいな笑顔を作る副会長。 「さ、勉強しようぜ」 「ええ」 再びシャーペンを握る副会長。 さっきの様子だと、しばらくは一人で苦労しようとするかもしれない。 でも、いつかは一緒に苦労するのが自然な関係が作れればと思う。 鞄から教科書を出しつつ、そんなことを考えた。 試験もいよいよ最終日。 最後の課目は保健体育だ。 問題は簡単で、終了12分前にもかかわらず、ほとんどの生徒が解答を終えている。 俺も数分前から筆記用具を置いて、窓の外を眺めていた。 「……」 今回の試験勉強は楽しかった。 試験が終わってしまうのが残念に思えるくらいだ。 副会長と同じ場所で勉強する、ただそれだけのことなのに── ほんと、変わるものだ。 副会長の存在は、俺の中で日に日に大きくなってきている。 彼女は吸血鬼で、人間と違うところもある。 俺の知らない過去だって、きっとまだあるだろう。 それでも、俺は副会長が好きだ。 付き合いたいとも思うが、向こうは俺をどう思っているのだろう? 人間とは恋愛しないとか言ってるし、どうしたら上手くいくのか……。 シャーペンを置いてもう10分。 試験終了までは、あと15分もある。 どうにも手持ちぶさたになり、窓の外を眺める。 「……」 もう試験も終わりか。 なんだか、お祭りみたいな時間だった。 そう思えるのはきっと、彼、支倉くんのおかげだ。 彼の存在だけで、いつもの試験勉強がまったく別物になった。 ほんと、変わるものだ。 彼への気持ちを言葉にすることは難しくない。 それほど明確な形をとりつつある。 ……。 まただ。 渇いてきた。 彼のことを考えると、いつもそうだ。 喉がカラカラになる。 初めて会ったときから、私は彼の血を欲してきた。 だから怖くなる。 私の心は、血への欲求に隷属しているのではないか── この気持ちが、身体から生まれているのではないか── そんな疑念をぬぐい去ることができない。 せめて、心だけは自由でありたいのに。 時間の流れが止まったかのような空間。 お香の煙だけが流れるともなく流れている。 この短期間に、またここに来るなんて思わなかった。 「その後、どうだ?」 「ようやく期末試験が終わりました」 「そのようなことは聞いておらぬ」 「例の男のことだ」 「気に入っているようではないか」 「……はい」 「ならば、ためらうことはないであろう」 「お言葉ですが」 「輸血用血液がある今、どうしてそこまでする必要があるのです」 彼女への反論など無意味だ。 彼女の機嫌を損ねれば、むしろ状況は悪くなる。 にもかかわらず反論してしまう。 もしかしたら自分は、彼へ思いを伝えられない鬱屈を、いまここで晴らしているのかもしれない。 「お前、誰のおかげで輸血用血液を飲めていると思っているのだ」 「……それは」 「自分の力では生きてもいけぬくせに、口ばかり達者になりおって」 「出来損いめ」 氷柱のような言葉が突き刺さる。 何度聞いても慣れることはない。 少しのあいだ目を閉じ、凍てつく胸に熱が戻るのを待つ。 これほどの言葉を、どうして彼女は簡単に口にできてしまうのか。 「ふん、まあ好きにするとよい」 「自らが立てた誓約を反故にするのなら、それ相応の覚悟があるのだろうな」 奥歯を噛みしめた。 そう。 自分から立てた誓約だ。 初めから守るつもりなどなかったし、その覚悟はできている。 ただ今は、それが少しだけ悔やまれる。 「下がれ」 「はい」 朝っぱらから人だかりができていた。 「あ、孝平くん、おはよう」 「おはよう。これって試験結果の発表?」 「そうみたい」 「みたいってのは?」 「混んでて、まだ見れてないの」 陽菜がちょっと背伸びをする。 だが、彼女の身長では人垣の奥までは見通せない。 「あら、支倉くん」 「おはよう」 「おはよう、千堂さん」 「おはよう」 副会長は、まだ鞄を持っている。 俺より登校が遅いなんて珍しい。 「寝坊でもしたのか?」 「ちょっとね。最近、寝つきが悪くて」 「へえ、悩みでもあるとか?」 「特にはないんだけど、ね」 気まずそうに笑う。 「リラックス効果がある入浴剤なんて使ってみたらどうかな?」 「リラックス効果だと……ラベンダーかしら」 「ありがとう。さっそく試してみるわ」 「……風呂」 大浴場で、副会長に遭遇したときのことを思い出してしまった。 「支倉くん?」 「え? なに?」 「前に忘れてって言わなかった?」 二の腕をつねられる。 「あだだだっ、すまんすまんっ」 「ホント、やーね」 大げさにため息をつく副会長。 「ふふ、仲良くてうらやましい」 「ちょ、ちょっと、悠木さん、なに言いだすのよ」 「まったくだ」 「だから、それが仲いいってことだよ」 「じゃ、私は教室行くからね」 陽菜はくすくす笑いながら立ち去った。 「支倉くんが、変な想像するからよ」 「俺のせいかよ」 「でしょ?」 「違うね」 「副会長が反応するからだろ」 「ば、馬鹿言わないでよ」 「通して」 「おっと」 「あ、ごめんなさい」 廊下を塞ぎかけていたらしい。 「……って、紅瀬さんじゃない」 「私が廊下を歩いているのが不思議?」 「いいえ」 いきなり笑顔になる副会長。 目が笑っていないが。 「こちらこそ、廊下をふさいでごめんなさい」 「どいてくれればそれでいいわ」 紅瀬さんが立ち去ろうとする。 「ちょっと待って」 「なに?」 「結果、もう見たの?」 「なんの結果?」 ほんのわずか、紅瀬さんの口の端が吊上がった。 『どうせ勝ってるから、興味なんてないわ』といった表情だ。 「期末試験の結果」 「見ていないわ」 「一緒に見ない?」 「どうして?」 「もしかして、見るのが怖い?」 「まさか」 夏だというのに、超クールな会話が展開されている。 「それじゃ、見てみましょ」 「いいわ」 二人が掲示板に近づいていく。 人垣が自然に割れ、道ができた。 「せーの、で見るわよ」 「いちいち仕切らないで」 「せーのっ」 なんのかんの言って、紅瀬さんも合わせていた。 「あ……」 「……」 掲示板に目を走らす。 総合得点 1位、千堂瑛里華。 まあ、これは順当だ。 問題は数学だが……。 「おおっ!」 数学、 1位・紅瀬桐葉・100点。 1位・千堂瑛里華・100点。 「副会長、やったな」 「あー、五十音順で負けたかっ」 初めて聞く敗因だ。 「紅瀬さん、次は勝つわよっ」 びしっと紅瀬さんを指さす。 「せいぜい頑張って、『あ行』の旦那様でも見つけることね」 こんな憎まれ口も初めて聞いた。 「それじゃ」 紅瀬さんは去っていった。 「やったじゃないか」 「ええ、そうね」 意外に冷静な声だった。 さっきまでのテンションはどこへ行ったのか。 「あまり嬉しくないとか?」 「嬉しいわよ、100点だし」 やはり冷静だ。 なんか訳ありなんだろうか。 「それより、自分の点数は見たの?」 「お、忘れてた」 「30位までに入ってなかったら監督生棟の掃除ね」 「試験終わってから決めるなよ」 支倉、支倉……と。 ……。 「お」 あった。 総合で28位。 「副会長、あったぞ」 「え?」 なぜか、副会長は目をつむっていた。 「あ、ほ、ホント!?」 「28位だ」 「やったじゃない!」 手を握られて、ぶんぶん振られる。 嬉しい のだが…… 「みんな見てるから」 「!?」 慌てて手を離すが、しっかり注目が集まっていた。 「えーと、細かいことは放課後ってことで」 「え、ええ、そうね」 真っ赤な顔で、カクカク笑う副会長。 これは、世界的にも貴重な映像だ。 「じゃ、じゃあ」 「ま、また」 そそくさと別れ、自分の教室に向かう。 背中には、激しく視線が突き刺さっていた。 放課後。 監督生室へ向かう俺を、すれ違う生徒がチラチラと見てくる。 朝の件が広まったようで、今日は一日この調子だ。 「あら」 「おっす」 「朝は悪かったわね」 「気にするなって」 副会長が靴箱を開ける。 「……」 「……」 手紙が三通。 見慣れた光景だが、一瞬どきりとした。 副会長がモテることも、彼女が人間と付き合う気がないことも知っているのに。 「ええと」 副会長は、手早くラブレターを鞄にしまう。 「行きましょっか」 「そ、そうだな」 何人ライバルがいたって関係ない。 勝負はどうせ一対一だ。 二人並んで監督生棟に向かう。 「そういや、まだちゃんとお祝いを言ってなかったな」 「なんのこと?」 「試験結果。朝はゴタゴタしてたから」 「ああ、そのこと」 副会長は、ちょっと恥ずかしそうに毛先を指に絡める。 「学年トップおめでとう」 「ありがとう」 「戦友に言われると、嬉しいわね」 「戦友?」 「一緒に勉強したでしょ」 「ああ、たしかに戦友だな」 「支倉くんも、28位、おめでとう」 「ありがと、戦友」 軽く手を上げると、副会長がハイタッチしてきた。 不意の柔らかい感触に、ちょっと驚く。 「あと、もう一つお祝い」 「紅瀬さんと引き分け、おめでとう」 「あはは、学年トップより嬉しいわ」 「しかし、今朝は豪快にいがみ合ってたな」 「周りの人、びびってたぞ」 「いがみ合ってたとか言わないで、喧嘩してるみたいじゃない」 「違うのか?」 「私は紅瀬さん嫌いじゃないもの。どっちかって言えば好きよ」 「絶対、そうは見えないぞ」 「紅瀬さんは、挑発的に話さないと食いついてこないの」 「あんなにしゃべってる紅瀬さん見たことないでしょ?」 「言われてみれば、そうか」 「けんか腰に話すのは、そうしないと会話できないから」 「去年、一年かけて見つけ出した画期的方法よ」 「そういや、紅瀬さんと同じクラスか」 「ええ」 「私もほら、初めての学院だったから、いろんな人と話してみたくて」 「でも、紅瀬さんって、話しかけてもレスポンスがないでしょ?」 「恐ろしいくらいにな」 「だから、絶対この人と話せるようになろうって決めたの」 「結果的にはライバルみたいになったけど、ま、それもつながりのうちよね」 そうだ。 去年は、副会長にとって初めての学院生活だったのだ。 初めての学院、授業、行事、クラスメイト。 副会長の目には、この学院のすべてが輝いて見えていたのだろう。 きっと、それは今も変わらない。 だからこそ、学院を少しでも楽しくしようと努力できるのだと思う。 彼女にとって、学院生活はかけがえのないものなんだ。 ふと、監督生室で記憶を消されかけた時のことを思い出す。 副会長は怒っていた。 転校してからの2週間を、チャラにしようとした俺に。 きっと悔しかったのだと思う。 同じ学院の生徒が、日々の生活に価値を見いだしていなかったことが。 生徒会役員として生徒の生活を楽しいものにできない、自身の無力さが。 副会長と揃って監督生室に入る。 「あー、やっと来た」 「今日は朝から盛り上がってたらしいね」 いきなりこの話題か。 「大したことはしてないわ」 「もちろんです」 「本気を出せばもっとすごいってことかあ」 腕組みをして、うんうんうなずく会長。 「変な想像しないでよね」 「ともかく、好き合っていたとしても人前では控えることだな」 「ちょっと征一郎さん、私は別に」 副会長が慌てて否定した。 一抹の寂しさがある。 「両想いかどうかは置いといて、とにかく注意します」 「支倉先輩は瑛里華先輩と……」 「いや、だから」 高速でツッコもうとするが……、 白ちゃんは、ぼんやりと床を見ていた。 「白ちゃん、どうした?」 「あ、いえ……なんでもないです」 「そういえば、支倉先輩。今回は順位がずいぶん上がったのですね」 「すごいです」 「ありがとう」 「副会長にいろいろ教えてもらえたから、そのおかげだ」 「白はどうだったの?」 「わたしは……83番でした」 まあ、中の上くらいか。 「白はもう少し努力が必要だ」 「はい、頑張ります」 充分だと思うが、東儀家の目標は高いらしい。 「征一郎さんはトップでしょ?」 「そうだな」 「会長は?」 「何番だった?」 「3位だ」 「だって」 自分で見てねえのかよ。 しかし、本当に勉強しなくても成績がいいとは。 「そう言えば、東儀先輩は進学するんですか?」 「そのつもりだ」 「やっぱり、医学部ですか?」 「『やっぱり』というのは?」 「イメージです」 「……兄さまが白衣を」 何かを想像している白ちゃん。 「ぜひ、俺の主治医になってくれ」 「お前に医者は必要ない」 「そういえば、会長は進路決めてるんですか?」 「北北西」 「いや、小ネタはいいですから」 「進路なんて決めてないよ。好きにするだけさ」 「征にくっついていくもよし、留年して孝平くんと遊ぶもよし」 「適当ですね」 「どうせ終わらない人生なんだ」 「好きなときに好きなことをするだけさ」 言われてみればそうだが、共感するのは難しそうだ。 「副会長も会長と同じ考えなのか?」 副会長を見る。 考え事をしているのか、返事がない。 「副会長」 「え? なに?」 「副会長は進路とか考えてるのか?」 「私は……」 「まだ考えてないわね」 「そっか。なんか決めてると思ってた」 「そういう支倉くんはどうなのよ?」 「考えてない」 「なーんだ、一緒じゃない」 「まだ1年以上あるし、のんびり考えるさ」 「そうね」 笑う副会長。 細められた目には、たしかに何か別の感情がこもっていた。 でも、それも一瞬のうちに消えてしまう。 「ま、来年のことを言っても鬼に笑われるし、もう少し近い将来の話をしよう」 「というと?」 「文化祭さっ」 「ぶっ、ぶんかさいーっ!?」 白ちゃんが、突然大きな声を出した。 「は?」 「白、どうしたの?」 「あの、いえ、大きな声を出せと……伊織先輩に指示されましたので」 尻すぼみに声が小さくなる白ちゃん。 体も縮こまっていくようだ。 「つまらないことを白にやらせるな」 「俺は面白かった」 「それはよかったわね」 「でも、文化祭って9月ですよね?」 「そうだね。9月の13と14、土日に開催される予定だ」 「だが、全体の企画は一学期から始めないと間に合わなくなる」 「各クラスでも、今週中には文化祭実行委員を選出してもらうことになるだろう」 「なるほど」 「どういう仕事があるんですか?」 「支倉君と瑛里華には、事務仕事をお願いするよ」 「俺は渉外や広報を担当する」 「俺はもちろん実行委員長だ」 「白ちゃんは、みんなのサポートをしながら大まかな仕事の流れを覚えてね」 「来年には、後輩も入ってくる。しっかりとな」 「わ、わかりました」 「6年生は、これが最後の仕事になるのね」 「ああ、これで最後かと思うと胸が張り裂けそうだ」 「いやまてよ、留年すればもう一回……」 「それは選択肢から外して」 「ともかく、所狭しと暴れまわる予定さ」 「今年は、ほどほどにしてくれ」 眉根をひそめる東儀先輩。 いったい、会長は今までどんなことをしてきたんだ。 「あ、そうそう」 「予算をあげるから、支倉君はなんか面白いことやってくれる?」 「軽く言ってくれますね」 「やりたくないならいいけど」 「どうする、支倉くん」 試すような笑顔を見せる副会長。 またこのパターンか。 無茶な注文もいいとこだが…… 彼女に試されては、やるしかない。 「もちろんやる」 「あら、気合い入ってるじゃない」 「なんでも挑戦することにしてるんだ」 「よーし。なら、精一杯やってみせて」 「文化祭が終われば、すぐに役員の信任選挙だ」 「文化祭での働きいかんでは、不信任もあり得るからな」 「ま、役員見習いの卒業試験みたいなもんだと思ってよ」 「わかりました」 来期は、きっと副会長が会長になるだろう。 なら俺は、副会長として一緒にやっていきたい。 副会長として信任されるには、知名度と実績が必要だ。 文化祭は、その試練であり最後のチャンスでもある。 気合いを入れていこう。 「あ〜、いい風呂だった」 「まったくだ」 一風呂浴びて談話室へ来た。 時間が遅いせいか、俺たちの他には誰もいない。 扇風機のスイッチを入れ、ソファへ腰を下ろした。 「今日のバイトはきつかった」 「暑かっただろ」 「メットが蒸れた」 「お疲れさん」 「同い歳で働いてるんだから、司はすげえな」 「必要に迫られてるだけだ」 「同じ状況なら誰だって働く」 「そんなもんか」 「バイト先じゃ、年下が寿司握る練習してる」 「家庭持ちもいるぞ」 「結婚はさすがに実感わかないな」 「俺もだ」 「そういや、副会長とはどうだ?」 「ああ……」 「ぼちぼち、な」 曖昧に答える。 「気持ちは否定しなくなったか」 「隠すもんでもないさ」 「そのほうがいい」 「自分の気持ちに鈍感なヤツはモテない」 「あと、変に隠すヤツな」 「経験談か?」 「どうだか」 にっと笑う。 「お」 「どうした?」 「10秒目を閉じろ」 「なんで?」 「いいから」 「わかった」 ……。 …………。 「おわっ」 目を開けると、副会長が立っていた。 「なによ、失礼ね」 「あーいや、すまん」 「ていうか、司どこ行った」 「出ていったけど」 「逃げやがったな」 「人徳ないのね」 副会長が、30センチほど間を空けて、隣に座った。 髪が少し濡れている。 「風呂入ったのか?」 「ええ」 「で、なんでここに?」 「涼みに来ただけ」 「……あ、お財布忘れちゃった」 「なんか買うのか?」 「飲み物買おうかと思って」 「おごるよ。何がいい?」 「ありがと。じゃあアイスティーで」 「よしっ」 「ほい」 「さんきゅ」 飲み物を副会長に渡し、再びソファに座る。 ちなみに、さっきより少し近くに座ってみた。 「そう言や、文化祭の仕事だけど」 「俺の企画って、予算いくらもらえるんだ?」 「正確に決まってないけど、多くはないわ」 「豪華さで驚かすのは難しいでしょうね」 「なら、アイデア勝負だな」 「低予算でできて、派手なやつか」 「難しいと思うけど考えてみて」 「成功すれば、信任選挙も心配ないわ」 「ああ、精一杯やるよ」 「来期も生徒会役員として活動したいからな」 「支倉くんが会長やってみる?」 「俺は副会長で充分さ」 「副会長が会長になるなら、サポートする」 「……なんかややこしいな」 「そうね」 「支倉くんだったら、瑛里華って呼んでくれてもいいわよ」 「……」 『支倉くんだったら』……か。 好意的に解釈してしまっていいのか? 副会長はうつむき加減に、手のアイスティーを見つめている。 「試しに、呼んでみる?」 うつむいたまま言う。 「そ、そうだな。えーと……」 けっこう恥ずかしいな。 俺はあさっての方向を向く。 「……瑛里華」 談話室に声が響く。 ……。 …………。 余韻が消える。 「……悪く、ないわね」 「そうか」 副会長を見る。 彼女もこっちを向いた。 「じゃ、これから瑛里華って呼ぶよ」 「よろしくね」 「ああ、それと……」 「俺のことも、孝平って呼んでくれないか?」 「え? どうして?」 「俺だけ呼び捨てなのも、なんかバランス悪いし」 「それは、そうかもしれないけど」 「試しに呼んでくれよ」 「それで嫌なら、やめてくれてもいいから」 「でも……」 「遠慮するなって」 「え、ええと……」 ……。 …………。 「こ、孝平?」 「それでOK」 「どうする、支倉くんに戻す?」 「いいわ、孝平で」 「よし、決まり」 「これからもよろしく」 「ええ、こちらこそ」 「来期も、一緒に仕事ができるといいな」 「ええ、孝平がいてくれれば頼もしいわ」 「少しでも仕事わかってるヤツがいた方がいいし」 「ま、まあ、そうね」 歯切れ悪い返事。 瑛里華の気持ちはだいたいわかっていた。 でも、なんとなく気恥ずかしくて、仕事の話にしてしまったのだ。 「あーあ」 「なに?」 「なんでもない」 「俺の答えがいまいちだった?」 「ち、違うから」 ぷいとそっぽを向かれた。 「けっこう意地が悪いのね」 「どうかな」 「こら」 肘でつつかれた。 「怒るなって」 「もう」 笑ったまま、副会長の表情が固まった。 そして、 額に汗がにじむ。 「……」 「もしかして、例のヤツか?」 「え、ええ」 瑛里華の肩が小刻みに震えている。 「ごめんなさい、部屋に戻るわ」 瑛里華が立ち上がる。 「送る」 「いいの、大丈夫だから……」 そう言う足がふらつき、持っていた紙コップが手を離れた。 「瑛里華っ」 崩れ落ちる瑛里華を抱き留める。 「しっかりしろ」 身体が熱い。 額には玉のような汗が浮かんでいる。 耳元で何度も名を呼ぶ。 うっすらと、瑛里華の目が開かれる。 「瑛里華、大丈夫か?」 「……」 返事はない。 ぼんやりと、俺の顔を見ている。 大丈夫……なのか? そう思った瞬間、 しなやかな腕が俺の首にからみついた。 「っっ」 なんだ? 何をするつもりだ? 距離を取ろうとするが、腕の力が想像以上に強い。 逃げられそうもない。 と、瑛里華の顔がゆっくりと近づいてきた。 ま、まさか…… キス!? いや、ちょっと待て。 瑛里華の眼は、俺の顔を見ていない。 顔の少し下、 首だ。 「瑛里華っ」 俺の声に、瑛里華は反応しない。 まずい。 このままじゃ血を吸われる。 俺の血を吸ったら、瑛里華は……。 血を吸うのを嫌っている彼女はどう思う? 吸わせるわけにはいかない。 少なくとも、彼女が理性を失ってるときには。 「くっ」 だが、彼女の腕は解けない。 なすすべなく、瑛里華の顔が近づいてくる。 迷っている時間はない。 一か八かだ。 「……」 瑛里華の首筋に顔をうずめた。 離れられないなら、距離を縮めてしまえばいい。 この位置なら、瑛里華も俺の首にかみつけないだろう。 「……」 身体が発する熱が、顔に伝わってくる。 初めて口をつけた女の子の肌は、男のそれとはまったく違った。 柔らかくしっとりとした、白玉のような質感。 汗すら、桃のような香りがした。 「……ん」 瑛里華の口から、ため息が漏れる。 巻きついていた腕から力が抜けた。 「……」 おそるおそる顔を起こす。 ……。 瑛里華と目が合った。 先ほどとは違い、俺の目をしっかりと見ている。 「大丈夫か?」 「……ええ」 自分の身に何が起こったかわかっているのだろう。 言葉は意外としっかりしていた。 「ごめんなさい」 「いいんだ、仕方のないことだろう?」 瑛里華はぎゅっと唇をかみしめる。 彼女の中を、感情が渦巻いているのがわかる。 「気にするな」 「俺も、気にしてない」 諭すように言う。 でも、言葉が彼女に届いた実感がない。 「ありがとう」 ぽつりと言って、身体を起こす。 「立って平気か」 「大丈夫よ」 自分の足で立った瑛里華は、思ったよりしっかりしてた。 でも、表情は暗い。 「お茶こぼしちゃった」 床には、紙コップが二つ転がり、残っていた氷が散乱していた。 「俺が掃除しておくよ」 「瑛里華は、部屋で休んでくれ」 「いいの?」 「ああ」 「じゃあ、悪いけどよろしくね」 その表情に力はない。 不安がかき立てられる。 「なあ、瑛里華」 「ん?」 俺は、両手のひらを瑛里華の頬に当てる。 驚きもせず、俺を見た。 「笑えるか?」 無言で笑顔を作る瑛里華。 「よし」 「また明日、元気で会おう」 「うん」 「難しいことは考えないで、とりあえず寝ちまえ」 「わかったわ」 「ごめんなさい」 「もういいよ」 瑛里華の頬を軽くなでて、手を離す。 「おやすみ」 「おやすみなさい」 瑛里華が談話室を出てゆく。 なんとか、元気になってくれればいいのだが。 ベッドに横たわり、天井を見つめる。 眠気はまったくなかった。 身体は長距離走を終えた後のように熱を持っている。 そして、胸の底からわき上がる欲求。 自分の身体なのに、何一つコントロールできていない。 いや、今はまだいい。 制御できている。 あのとき。 ソファから立ち上がり、気が遠くなったあのとき。 私は理性を失っていた。 状況から見るに―― 私は倒れ、抱き起こした孝平の血を吸おうとしたのだ。 自分はこの身体を甘く見ていた。 欲求は、理性で抑え込めると思っていた。 でもダメだった。 孝平と親しくなればなるほど、欲求は強くなる一方。 このままでは、遠からず彼の血を吸ってしまう。 彼は私に血を吸わせてくれるだろう。 そういう人だ。 でも、私はそれを望んではいない。 血を吸ってしまえば、私は負ける。 自分にも、あの人にも。 負けたくない。 そしてなにより、彼を傷つけたくない。 「孝平」 ぽつりと、涙のように言葉がこぼれ出た。 耳の奥で、彼の声が蘇る。 胸の高鳴りが、やや遅れて、満ち潮のように押し寄せる。 私は呼び捨てにされて嬉しかった。 「副会長」と、役職で呼ばれるより、彼に近づけた気がしたからだ。 それは、明らかに好意だ。 だからこそ、怖い。 彼の首筋に牙を突き立てる。 溢れ出る血液が、私の体を満たす。 想像するだけで身の毛がよだつ。 同時に、その果てに待っているであろう快感に、体の奥が熱くなる。 彼の血を快感へと変換する「仕組み」が、自分の中に存在するという浅ましさ。 そして、もしかしたら── 好意すら「仕組み」に支配されているのかもしれない。 欲求を満たすべく、「仕組み」は私が好意を持つよう操ったのではないか? くすぶっていた恐怖が、体を包む。 違う。 断じて違う。 私は自分の意志で彼を好きになったのだ。 証明しなくてはならない。 この心だけは、忌まわしい血には支配されていないと。 なら、どうしたら良い? 答えは、わかっている。 辛いけれど、そうするしかない。 ……。 耐えられるだろうか? いや、耐えなくちゃいけない。 耐えなければ、また同じことを繰り返すだけだ。 翌朝。 前を歩く瑛里華を見つけた。 たくさんの生徒が歩く中でも、彼女の姿はすぐにわかってしまう。 無意識に彼女を探してるんだろうな。 「おはよう」 「おはよう、支倉くん」 支倉くん? 昨日のこと忘れてるのか? ま、昨日の今日だし、まだ慣れてないだけかもしれない。 「調子はどうだ?」 「もう大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」 瑛里華の表情は明るい。 だが、どこか堅い。 「あ、そうそう」 「昨日、瑛里華って呼んでって話したでしょ?」 「ああ」 「あれ、やっぱりナシにしない? 恥ずかしいし」 「私も、支倉くんって呼ぶから」 あっさりと言う。 「どうしたいきなり?」 「ごめんね、私の都合ばっかりで」 「じゃ、私、急ぐから」 「え? おいっ」 俺の言葉も待たず、瑛里華……副会長は走り去った。 「……」 俺は呆然と立ちつくす。 おかしい……よな。 昨夜は瑛里華と呼ばれて喜んでた気がした。 なのに、一夜明けたらこの態度。 いったい、何があったんだ? 「こーへー、おはよーっ」 突然、元気な声が響いた。 「あ、かなでさん」 「なに突っ立ってんの?」 「あーいや、なんでもないです」 「もー、しっかりしなさいっ」 ばしっと背中を叩かれる。 「うすっ」 「んじゃねっ」 手を振って、かなでさんはバタバタ走っていった。 俺も、気を取り直して歩きだす。 昼休み。 俺は副会長の教室に向かった。 少しでも話ができればいいんだが。 ちょうど、副会長が廊下に出てきた。 「副会長」 「っ!?」 しまった、という顔をされた。 「今からメシ?」 「そ、そうよ」 「じゃあ……」 「ごめんなさい。友達待たせてるから」 言うなり早足で立ち去った。 「……」 まだ誘ってないわけだが。 放課後。 ホームルーム終了直後に、副会長の教室へ向かった。 副会長のクラスは、まだホームルームが終わっていないようだ。 出てくるのを待つ。 教室が騒がしくなると同時に、ドアが開いた。 すぐに副会長が出てきた。 「おう」 「あ、支倉くん」 伏し目がちになる副会長。 通りすぎていく生徒たちが、不思議そうに彼女を見る。 「監督生室、行くんだろ?」 「ええ」 「じゃ、一緒に行こう」 「そうね」 笑顔で応じたが、作り笑いだとわかった。 副会長と並んで歩く。 俺たちの距離は、昨日より倍くらい開いている。 「あ、そうだ、副会長」 「なに?」 「梅雨、明けたらしいな。テレビで言ってたよ」 「よかった」 「もう梅雨はうんざり。髪も広がるし」 「俺も、頭の鉢のとこが立っちゃって困るんだ」 「いっそ、全部立てちゃえば?」 「司みたいになるぞ。似合うと思うか?」 「どうかしら」 まじまじと俺の顔を見る。 が、すぐに目を逸らした。 しまったと、あからさまに態度に出して。 「見てみないと、なんとも言えないわね」 「んじゃ、やってみるかな」 「お、お好きにどうぞ」 「ああ」 会話が途切れた。 彼女がこっちを気にしているのが雰囲気でわかる。 でも、目は決して合わせてくれない。 「あ、そうだ」 副会長が立ち止まる。 「どうした?」 「教室に忘れ物してた」 「え?」 「取ってくるから、先に行ってて」 「お、おう」 じゃっと手を上げて走っていく。 この場の空気に耐えられなくなった、といった感じだ。 どうせ監督生室で顔を合わせるってのに。 なんというか── 避けられてるよな。 しかも、中途半端に。 軽くため息をついて、歩を進める。 仮にだ。 副会長が俺を避けてるとして、その原因はなんだ? 昨夜の状況と合わせて考えるに、欲求の件が絡んでいるのは間違いなさそうだ。 このまま一緒にいると、いつか血を吸ってしまう。 だから、離れる。 もしかしたら、そんな考え方をしたのかもしれない。 ……いまさらかよ。 前から話題に上っていたんだから、わかっててしかるべきじゃないか? それをいまさら気づいたみたいに態度を変えるなんて。 いや、もしかしたら副会長もわかってたのかもしれない。 わかっていたのに、実際に正気を失ったら自信がなくなった── そんなところだろうか。 だとしたらどうする? 近づいては離れる逃げ水みたいな彼女に、どうやったら追いつける? どうしたら元気づけられる? 逃げるより速く追いかけるか、逃げ道をなくしてしまうか。 どっちにせよ、行動しないことには始まらない。 放課後の監督生室。 部屋には、俺と副会長と白ちゃんがいた。 会長と東儀先輩は、さっそく文化祭関連の仕事で外に出ている。 副会長は、黙々と書類に向かっている。 そこそこ会話はするものの、やはり素っ気ない。 というか、素っ気なくしようとしている。 「夏休み、支倉先輩はご自宅に帰られるのですか?」 棚を整理しながら、白ちゃんが聞いてくる。 「ずっと寮だな。今の自宅は海外だし」 「白ちゃんは?」 「わたしは定期的に戻ります。近所ですから」 「副会長は?」 「戻らないわ」 「じゃあ、もし時間ができたら海にでも行こう」 「せっかくの夏休みだし、きれいな砂浜もあるんだろ?」 「珠津島には、小網代浜という海水浴場があります」 「鳴き砂が有名なのです」 「お、鳴き砂なんて珍しいね」 「どう? 副会長」 「時間があれば」 「まあ、忙しいかもしれないしな」 「そうね」 「??」 白ちゃんが副会長を見る。 いつもと反応が違うのに気づいたのだろうか。 「あ、わたし、お茶を淹れてきます」 ぱたぱたと白ちゃんが出ていく。 「なあ」 「俺、怒らせるようなことしてないよな?」 「ええ」 「だったら、どうして俺を避けるんだ?」 「なんの話?」 「今朝から、様子おかしいぞ」 「そんなつもりはないけど」 顔も上げずに、ボールペンを走らせている。 ちなみに、使っているのは海岸通り商店街謹製の配布用ボールペンだ。 白地の本体に、青い字で「海岸通り商店街」と書いてあるだけの、経済的なデザイン。 監督生室に100本ほど積みあがっている、謎の備品だ。 「昨日のこと、気にしてるのか?」 「ここで話すことじゃないでしょ」 「じゃあ、今夜、時間を取ってくれ」 「宿題があるから、難しいわね」 「だったら明日」 「明日も宿題」 「おまえなあ」 苦笑してしまう。 「なんで笑うのよ」 「わかりやすいぞ」 「意味がわかりません」 「俺も」 「はあ?」 副会長が顔を上げる。 「あっ、ミスっちゃったじゃない」 「仕事してるんだから、話しかけないで」 書類に修正テープを貼る。 「意味不明だ」 「話しかけないでって」 「聞いてくれ」 副会長が俺を見る。 俺が、声のトーンを重くしたからだ。 「俺の勘違いかもしれないが、何かあるなら聞かせてくれ」 「うやむやにするのは嫌だ」 「……」 無言で俺を見ている。 つと、視線を外した。 「わかったわ」 「今日は最後までここに残って」 「ああ」 とりあえず会話の機会は確保した。 二人きりになったのは、午後5時46分だった。 鬼のように時計を見ていたから間違いない。 部屋は、西日で真っ赤に燃えている。 「お茶、淹れてくる」 「できるの?」 「ま、それなりに」 こう見えても、お茶会の会場提供者だ。 今も週一ペースでお茶会は続いている。 陽菜の華麗なテクニックを見てきた俺だ。 やれる(はず)。 「お待たせ」 「ありがとう」 副会長の前に紅茶を置く。 「味見してみてくれ」 「ええ、いただくわ」 副会長が紅茶に口をつけた。 がらにもなく緊張する。 「うん、合格点ね」 「良かった」 「なかなかやるじゃない」 「まあな」 ありがとう陽菜。 心の中で合掌。 「それで、話があるんだっけ?」 「ああ」 副会長の向かい側に座る。 「副会長、今朝からおかしいぞ」 「どこが?」 「俺のこと、避けようとしてるだろ?」 「朝も、昼休みも、放課後も」 「避けてなんていないわ」 「そうか?」 「そうよ」 ぷいっとそっぽを向く副会長。 「そういうところが、わかりやすいんだ」 「なんですって?」 「確かに副会長は避けてない」 「避けようと頑張ってたけど」 「大した自信ね」 「それって、私が支倉くんに近づきたいって思ってるのが前提でしょ?」 「私たちはただの友人よ。違う?」 「私はいつも通りにしているだけだわ」 「そう思いたいのか?」 「事実を言ってるだけよ」 「いつも通りなら、こんな話しない」 「違うと思うから、わざわざ話を聞いてるんだ」 「別に聞いてくれなくてけっこうよ」 副会長が席を立つ。 俺は、ドアの前に立ちふさがった。 「待ってくれ」 「嫌」 「じゃあ聞いてくれ」 「いーや」 手のひらで耳に栓をする副会長。 べーっと舌を出した。 話を続ける。 「昨日の夜、部屋に帰ってから何考えたんだ?」 副会長は聞こえないふりで、つんとしている。 「瑛里華、聞いてくれ」 「瑛里華って呼ばないで」 「聞こえてるんじゃねーか」 だったらいい。 勝手にしゃべろう。 「これは、俺の勝手な想像だ」 「副会長さ、このままじゃ俺の血を吸っちまうって思ったんじゃないか?」 「今までは理性が残ってたけど、昨日はそうじゃなかった」 「自分に制御できない自分がいる、だから俺から離れようって考えたんだろ?」 副会長は、口を真一文字に結んで俺をにらんでいる。 「あの時、何があったか教えるよ」 「副会長が倒れそうになって俺は抱きとめた」 「目を覚ました副会長は正気を失ってて、俺の首を狙ってきた」 副会長が目を固くつむる。 「血を吸われてもいいと思った」 「俺の血で、いつもの副会長に戻るなら、それでいいと思った」 「やめてよ」 「それが嫌なの。わからない?」 「わかるさ」 「俺が逆の立場だったら、やっぱり血は吸いたくない」 「だから、俺は吸われないようにした」 副会長が視線を落とす。 耳を塞いでいた手が力無く下ろされた。 「どうやって私を止めたの?」 「力、強かったでしょう?」 「キスした」 「はあっ!?」 「口を塞げば、血を吸われないだろ」 「あなたって人は……」 1、2歩よろめきつつ、副会長は口を押さえた。 「冗談だ」 「殺すっ」 「本当は、副会長の首に顔をうずめた」 「えっ」 今度は首を押さえた。 「ごめん」 副会長がじっと俺を見る。 「……いいわ」 「ごめんなさい。お礼を言わなくちゃいけないくらいなのに」 「いや、こっちこそ」 会話が途切れる。 副会長は、沈黙から逃れるように窓辺へ向い、外を眺める。 焼けつくような夕日に、メリハリのあるシルエットが浮かぶ。 「副会長が俺を避けようとしたのは、そういうことなんだろ?」 「ええ」 やっと認めた。 「だから、もう先はないの」 「私の気持ちは変わらないから」 「血を吸うくらいなら親しくならないって、そういうことか?」 「そうよ」 「副会長らしくないな」 「あなたに何がわかるのよ」 少しだけ語気が強くなった。 「わからないさ」 「話してくれないことは、わかるはずないだろ」 「言えないことだってあるわ。あなただってそうでしょ?」 「俺はたいして深い人間じゃない。たいていのことはしゃべっちまった」 「嘘よ」 「……ああ」 「たしかに、一つだけ言ってないことがある」 副会長が振り返る。 じっと、俺を見つめた。 「副会長を、人間とは別ものだと思ってる」 「なっ!」 ぴくりと、かたちのいい眉が動く。 「あ、改めて言うことじゃないでしょ?」 「最後まで聞け」 「俺は、副会長を、人間とは別ものだと思ってる……」 「でも好きだ」 副会長が、完全に凍った。 まったく動かない。 「……ふふっ」 自嘲気味に口の端を歪める。 「また冗談? よくよく質が悪いわね」 そしてまた、俺に背を向けた。 シルエットが、わずかに震える。 「冗談だと思うか?」 「もうしゃべらないで」 副会長に近づく。 あと3メートル。 あと2メートル。 「近づかないで」 あと1メートル。 副会長の肩に手を置いた。 確かな熱と、震えが伝わってくる。 「やめて、よ」 「副会長が好きだ」 窓に映った副会長の表情が歪む。 痛切な中にも甘やかさのある表情に、なぜか女性らしさを感じた。 「無責任に気持ちをぶつけないでよ」 「自分勝手なのはわかってる」 「でも、わかっててもどうしようもない」 「余計、言えなくなるじゃない」 「それでも、知りたい」 「教えてくれ、副会長の気持ちを」 「言えないわ」 「どうして?」 「怖いのよ。自分の気持ちが自分のものだって、自信がないの」 俺に向き直り、副会長が自分の胸を押さえる。 「いるのよ、この中に」 「血を吸っておいしいって感じるものが」 「初めて会ったときから、あなたの血が欲しいって言い続けてるヤツが」 「あなたと一緒にいた私も、笑った私も、仕事した私も……」 「全部、この胸にいるヤツの仕組んだことかもしれないの」 泣きそうな声で副会長が言う。 俺が聞きたかったのは、こういうことなんだ。 「わからないでしょう、自分のことが何一つ理解できない怖さを」 「今なら、想像できるさ」 彼女を苦しめるもの。 他者には、絶対にさらさないカセ。 割れたガラスのように鋭く、副会長の血が乾きもせず付着している、苦悩。 触れれば、彼女の何分の一かは痛みを感じる。 それゆえに彼女という不確かな存在が、少しだけ確信を持って感じられのだ。 「私に、どうしろって言うのよ」 副会長が額に手をあて、前髪をくしゃりと握る。 「どうもしなくていい。そばにいてくれれば」 「無理よ」 「難しいこと考えるなよ」 「俺のことが嫌いか?」 「……す、好きよ、悪い?」 「嬉しいさ」 「バカ」 「付き合って、どうしようって言うのよ」 「できれば、幸せになりたい」 射抜くような視線で、副会長が俺を見た。 今までの目とは、まったく違う。 「ねえ支倉くん」 「そんなもの、この先にはないわ」 「どうして?」 また俺に背を向け、窓の外を見る。 「私の生活は、あと1年半で終わり」 「は?」 「卒業と同時に屋敷へ戻るの」 一瞬、平衡感覚がなくなった。 「学院に入る前からわかってた」 「初めから私には未来なんてない、ただ終わりを待つだけなのよ」 「……副会長」 喉から苦しげな声が漏れた。 最初、それが自分の声だとわからなかった。 「どういうことなんだ?」 「前に、私はずっと屋敷で生活してきたって言ったわよね?」 「ああ、聞いた」 「私、どうしても学院に行ってみたくて……」 「三年間だけって約束で、通わせてもらったの」 「だから戻るのよ。屋敷に」 「そんなの、ありかよ」 いつだったか、彼女の心をパズルだと思った。 今、俺の頭の中でバラバラだったピースがはまっていく。 いや違う。 すべてのピースをくっつけ合わせてしまう、インチキみたいなピースが現われたんだ。 今まで、俺が見てきた副会長── 日々を大切にする彼女。 学院生活をより楽しくしようとする彼女。 自分だけは苦労しても構わないという彼女。 生徒たちの笑顔を眩しそうに見つめる彼女。 将来の進路を答えなかった彼女。 人間と恋愛はしないといった彼女。 そこにあったのは、最初から終わることが決まっている日常への、諦め。 そして、近づきたくても近づけない人たちへの、羨望。 わかりすぎるほど、わかる。 かつての俺と似ているからだ。 転校が決まっている学校。 別れが決まっているクラスメイト。 俺は、積極的に関わることをやめた。 満たされない欲求をなかったことにして。 副会長は、まったく逆だった。 関わって関わって、自分が存在した証を残そうとした。 満たされない欲求の代償として。 彼女が口癖のように言う「みんながより楽しめる学院」という言葉。 その「みんな」に、彼女自身は含まれていなかったんだ。 「アホだ」 今度は、俺が前髪を握りつぶす番だった。 自分に腹が立つ。 俺は、ほとんど同類みたいな副会長に救われ、毎日を楽しんでいた。 同時に、彼女の身勝手さにも腹が立つ。 自分のことは棚に上げて、俺を救い、勇気づける。 私にはかなえられないから、あなたに託すわ、と言わんばかりに。 「無責任だ」 「お互いさまだわ」 副会長が振り向く。 「副会長、ウソついたよな」 「なんのこと?」 「俺が生徒会に入った日の夜」 「言っただろ、夜景見ながら」 「学院は、いわばステージよ」 「私たちは裏方として、みんながよりよい生活を送れるよう働いているの」 「それと、もう一つ忘れないで欲しいことがあるわ」 「私たちも、生徒だってこと」 「自分たちも含めて楽しめる学院生活とか、聞こえのいいこと言って」 「副会長、ホントは自分を含めてないだろ」 副会長が目を見開く。 「な、何をいうのよ」 「だから、自分だけが苦労しても平気……」 「いや、むしろそのほうがいいんだろ?」 「自分の手に入らない生活を、自分が良くしてる」 「そういう実感が欲しかったんだろ?」 副会長は、窓枠に手をつき自分の体を支えた。 「幻滅した?」 「しねえ」 「ただ、ちょっと腹が立つ」 「……」 「どうせ離れる学院だから、自分はステージに上がれないから、裏方に徹するなんて……」 「なかったことにするなって、自分で言ったじゃないか」 「逃げすぎだ。全力疾走で逃げてるぞ」 「なんで、そこまで言われなくちゃならないのよ」 「俺が、副会長に救われてるからだ」 「私に?」 「そうさ」 「今の副会長は、昔の俺と変わらない」 「そりゃ俺は人間だし、つらいっていっても転校がせいぜいだから、副会長より楽だったと思う」 「でも、諦めて、自分を押し殺してるのは一緒さ」 「そ、それは」 俺は副会長の手を握る。 その手は冷たく、ほとんど力が入っていない。 「副会長自身が楽しまなきゃウソだ」 「無理よ」 「そこまでわかってるなら想像つくでしょ」 「無理じゃない」 「最後には全部失うかもしれない」 「でもさ、今、楽しもうとするのは無理じゃないだろ?」 「支倉くん……」 「俺は副会長に救われたんだ。生徒会に入ったあの日に」 「だから今、毎日を楽しめてる」 「無責任で身勝手なのはわかってる」 「でも、副会長と一緒にいたい」 相手の痛みに共感できた分だけ、離れられなくなると言うなら── 今の俺には、この人から離れるなど考えられない。 「だ、だめよ」 苦しげに首を振る。 彼女の手を、俺の胸の高さまで持ち上げた。 「やめて」 力無い言葉を紡ぐ、その唇を塞いだ。 最後に、一瞬だけ見えた副会長は、泣いていたようだ。 「ん……っ……」 何かを言おうとする唇に、より強く唇を重ね合わせる。 「っ……」 柔らかな両手が俺の胸を押さえ、はねのけようとする。 だがその力は、昨夜のものに比べてあまりに弱い。 彼女を抱く手に力を少しだけ込める。 唇の隙間から副会長の息が漏れ、俺の顔にかかる。 俺は目を開く。 目があった瞬間、副会長がまぶたを閉じる。 こんな時も、逃げていく副会長。 逃がしたくない。 右腕を副会長の腰に回す。 「っ……う……」 ちょっと乱暴かもしれなかった。 唇を離したら、何を言われるのだろう。 殴られるか。 蹴られるか。 まあ、いまさら心配しても仕方がない。 結局、先のことは何も確定していない。 何もかもが闇の中。 ただ、闇の中に道しるべがあるとしたら── 今、この瞬間の衝動なのかもしれない。 彼女がもし、同じように考えてくれるのなら、それが一番嬉しい。 「っ……くっ……」 副会長が息を継ぐ。 俺も息を継いだ。 まだ、離れたくない。 できることなら、ずっと。 先のことはわからないのだから。 「っ……」 唇が離れた。 一瞬だけ視線を交わし、副会長はすぐに目を伏せる。 「好きだ」 「……わかったわよ」 「好きだ」 「わかってるって」 副会長が俺の胸に額を当てた。 「頭の中がめちゃくちゃ」 「ああ」 副会長の頭をかき抱く。 髪の奥が少し汗ばんでいて心地好かった。 この汗は甘いのだろうか? いや、しょっぱいに決まってるが、甘く感じてもおかしくない。 そのくらい、俺の頭の中もめちゃくちゃだった。 「ねえ、これからどうするのよ?」 「わからん」 「無責任ね」 「でもいいわ。今は気分がいいから」 「少なくとも、自分の気持ちが信じられるし」 「そうなのか?」 「ええ。自分のことを知ってもらって嬉しいのは、血が欲しいのとは関係ないでしょ?」 「だから、私の気持ちは血に支配されていないわ、おそらく」 「ええと、それって……」 なんか、いいことを言われた気がする。 「わかるでしょ?」 「わからん」 「なんでよ」 「自分のことを知ってもらって嬉しいの」 「つまり?」 「な、なに言ってるのよ?」 副会長の耳が真っ赤になる。 顔は見えないが、真っ赤に違いない。 「いや、わからないから」 「す、好き……」 「うあぁぁぁぁっっ!!」 ガスガス頭突きされる。 「うがっ、ごはっっ!!」 体が軽い。 「……」 宙を飛んでいた。 「おぶっ」 書類棚に激突した。 彼女になった女の子は、あんまりからかっちゃいけない人らしい。 「は、支倉くんっ!?」 駆け寄ってきた。 「洒落になってねえ」 「あと、これからは孝平って呼んでくれ、瑛里華」 「あ、そ、そうね」 瑛里華が頭の近くに立つ。 スカートがひるがえり、中が見えた。 「……白か」 「は?」 「いや、東儀先輩の妹が、さ」 ……。 瑛里華のつややかな髪が軽やかに舞う。 「孝平のスケベッ!」 拳が無慈悲に振り落とされた。 爽快な目覚め。 洗顔を済ませ、制服に袖を通す。 瑛里華に殴られた部分には、見事なアザができていた。 さすが吸血鬼。 「ふぁぁ〜」 朝日を受け、大きく伸びをする。 「だらしないわよ、孝平」 「え?」 朝日を背に立っている人がいた。 その均整の取れたシルエットは、見間違えることはない。 「おはよう、彼女」 「あ、朝からなに言ってんのよっ」 いきなり噴火させてみた。 「冗談だ」 「おはよう、瑛里華」 「あ、う、うん」 恥ずかしそうにうなずいて、すぐに俺の横へ並んだ。 なんだかテレる。 それでいて嬉しい。 周囲の生徒に言いふらしたくなるくらい、嬉しい。 まあ、今のやり取りで、すでに何人かは俺を凝視しているが。 「そういや、昨日殴られたとこ、アザになってたぞ」 「自業自得、覗くのが悪いんでしょ」 「すまん」 「あんまり恥ずかしがらせないでよね」 「手加減できなかったら危ないから」 心配してくれてるらしい。 「悪かった」 「よろしい」 晴れて付き合うことになった俺たち。 呼び方が変わったくらいで、これといった変化はない。 でも、瑛里華が彼女だというその事実だけで、俺は嬉しかった。 「しかしさ、昨日の俺たちって変だったよな」 「何が?」 「告白ってさ、もっとちゃんとしてるっていうか、行事っぽいもんだと思ってたよ」 「ええ」 「私も、あんなの初めてだったわよ。ほとんどケンカみたいだったじゃない」 苦笑する。 「俺たちらしいってことにしとこう」 「そうね。あんなのが一般的だったら困るし……」 「なんだか、悔しい気もするじゃない?」 「まあな」 自分たちは特別だと思いたい。 そんな子供っぽい自尊心すら、受け入れることができる。 すごいっていうか、やばいぞ今の俺。 「でも、私は感謝してるのよ」 「あんな風に気持ちをぶつけてくれて」 「意識してやったわけじゃない。いつの間にか、ああなっただけさ」 「だからいいのよ」 瑛里華に真正面から感情をぶつける人なんて、この学院にはいないだろう。 俺以外には。 そんなところが、彼女には嬉しかったのかもしれない。 「♪〜♪〜」 「ご機嫌だな」 「もちろん」 「こんないい朝、今までなかったわ」 軽くステップを踏む瑛里華。 「なんか、いいな、すごく」 「何が?」 「今の状況」 ちょっと考える瑛里華。 「そうね、すごくいいわ」 「監督生室に行ったら、なに言われるかしら?」 「会長なんか、大喜びでからかってくるぞ」 「こういうの大好きだから、兄さん」 「東儀先輩はいつも通りだろうけど、白ちゃんは気を失いかねないな」 「あはは、そうね」 ちょっと楽しみになってきた。 ハイテンションでしゃべりながら、俺たちは校舎に向かう。 周囲が驚いた目で見ているが── 気にすることなんかない。 教室に入った瞬間、クラスメイトの視線が俺に集中した。 瑛里華との噂は、すでに広まっていたらしい。 恐ろしい伝染力だ。 さすがの迫力にびびりつつも、気にしないフリで自分の席へ向かう。 「おはよう、孝平くん」 「おはよ」 「やったね」 ぐっと親指を立てる陽菜。 「ま、まあな」 万歳したくなる欲求を抑えて、答える。 「こうなるんじゃないかなーって思ってた」 「いつから?」 「役員になってすぐだよ」 「なんとなく、波長が合ってる感じだったから」 「エスパー並の洞察力だ」 「外から見てると、意外にわかるんだ」 「まったくだ」 司も会話に入ってきた。 「途中から俺ですらわかった」 「司にはいろいろ世話になったな、ありがとう」 「ま、気にするな」 いつもとほとんど表情が変わらない司。 それでも、喜んでくれている気がする。 「でも、これからが大変だね」 「勉強頑張らないと、同じところに進学できなくなっちゃうよ〜」 「……」 そうだよな。 普通は、彼女に未来がないなんて知らないからな。 「なーに、頑張ればいいだけのことさ」 「言うねえ」 「おうよ」 笑顔を作って席に着く。 頑張ってどうにかなる問題なら、軽いもんだ。 頑張ってどうにかなるなら。 「あなた」 「おう」 めずらしく、後ろの席から声がかかった。 「変わった趣味してるわね」 「余計なお世話だ」 「そう」 言ったきり、紅瀬さんは小説に目を落とした。 紅瀬さんだけは本当にわからない。 放課後。 瑛里華と待ち合わせてから、監督生室に入った。 パンパパンッ 「おわっ」 「きゃっ」 驚く俺たちの上に、カラーリボンや紙吹雪が降ってくる。 「おめでとうっ」 「おめでとうございますっ」 満面の笑みを浮かべる二人の手には、クラッカーがあった。 「ど、どうも」 「ありが、と」 クラッカーの煙が薄く漂う中、俺たちはちょっとあっけに取られた。 「めでたい、本当にめでたい」 「では、お二人に現在の心境を語っていただきましょう」 マイクを突き出される。 「か、会長、恥ずかしいですから」 「大げさに祝うようなことじゃないでしょ」 瑛里華は頬をかすかに染めている。 「いいからいいから、コメントを」 「え、えーと……いろいろあって、瑛里華と付き合うことになりました」 「な?」 「う、うん、そうそう」 「というわけで、よろしくね」 「支倉君、瑛里華を頼んだよ」 「こう見えて、引っ込み思案なところがあるからね」 「ちょっと、やめてって」 「頑張ります」 「瑛里華に何かあったら殺すからね」 「明るく言わないでください」 「これで、カップルは二組目かな?」 「は? 一組目は?」 「俺と征」 「違う」 黙々と仕事をしていた東儀先輩が、こっちを向く。 「支倉、瑛里華」 「はい」 「責任ある行動を頼むぞ」 「大丈夫よ」 「あと一番大切なことだ」 「仲良くしろ」 表情も変えずに言って、東儀先輩はまた仕事に戻った。 クールというかなんというか。 「兄さまは喜んでいるのです」 「そうなのか?」 「もちろんです」 「最初にお伝えしたときには……」 「余計なことは言わなくていい」 「は、はい」 「まったく、不器用なんだから」 「二人とも仕事はどうした」 「文化祭まで日がないぞ」 瑛里華と顔を見合わせ、苦笑した。 「さ、ガンガンやりましょう」 「いっちょ頑張るかっ」 みんなの祝福がこんなに嬉しいなんて思わなかった。 やる気がバリバリ出てきた。 「さーて、ちゃんと録音できてるかな?」 机の下からデジタルレコーダーを取り出す会長。 「なに、さりげなく録音してんですか」 「いや、明日の昼休みに、全校放送で流す予定なんだが」 「没収っ!」 顔を真っ赤にしている瑛里華。 そんな姿が、どうしようもなくかわいく見えてしまう。 「なに、ニヤニヤしてるのよ」 「してないって」 「絶対してる」 「ど、どこが」 「こ・こ」 ほっぺたをつつかれた。 「やめろって」 「あれ? テレてる?」 「テレてない」 「兄さま、お二人とも仲睦まじいですね」 「あれは悪い例だ。真似するな」 「はい」 「じゃ、お先に失礼します」 「ああ、お疲れさま」 「また明日ね〜」 ばたん 「ねえ、星がきれいよ」 瑛里華の言葉に夜空を見上げる。 無数の星が輝いている。 天の川までは見えないが、それでもかなり多くの星が見えた。 「すごいな、都会の夜空とは大違いだ」 「都会では星が見えないらしいわね」 「ああ、街の光で空が白っぽく見えるくらいだからな」 「ちょっと寂しいかな、それは」 手の甲に、瑛里華の手の甲が軽く触れる。 瑛里華は無言だ。 手をつなぎたいってことかな? こっちからも手の甲に触れてみる。 特に嫌がる様子はない。 そのまま指をからめ、手を握った。 「行こうか」 「ええ」 やや上気した表情の瑛里華。 俺の顔も赤くなってるかもしれない。 ふわふわした気分だ。 瑛里華の手の感触にばかり意識が行ってしまう。 向こうも同じ気分なのか、ほとんど無言。 俺たちは、うつむきがちに石畳を歩いていた。 何か話さないとな。 「あ、そうそう」 「え、な、何?」 ハッとしたような返事が返ってきた。 「昨日は返事もらえなかったけど」 「夏休みに海でも行かないか?」 「海水浴?」 「まあ」 「そっか」 瑛里華が少し考え込む。 何を考えているのか。 やっぱり水着の心配かな。 「いいわ、行きましょう」 「よしっ」 頭の中を、瑛里華の水着姿が駆け抜ける。 現物を目にしたら、きっと見惚れてしまうに違いない。 「な、なんでそんな嬉しそうなのよ」 「あ、いや、なんとなく」 「また、いやらしいこと考えてたんじゃない?」 くすりと笑う。 「またってどういうことだ」 「さあ、自分の胸に聞いてみたら」 聞くまでもない。 「なんのことやら」 「それにしては、手が汗ばんでるみたいだけど」 「ぬお」 手を引き離そうとする。 でも、しっかりとからみついた指が俺を離さない。 「甘く見てもらっちゃ困るわよ」 「くそ、これが吸血鬼のパワーか」 「別に嫌じゃないから、このままにしてなさいよ」 「そういうこと考えるのは普通でしょ。男の子なんだから」 「ま、まあ」 「女の子も考えるのか?」 「か、考えるわけないでしょっ」 「あだだだっ」 手を思いっきり握られた。 「女の子にそういうこと言わないの。いい?」 「りょーかい、りょーかいっ」 「よろしい」 骨が砕けるかと思った。 「力技は勘弁だぞ」 「恥ずかしがらせる方が悪いのよ」 「前にも言ったじゃない、変なこと言わないでって」 「言われた気もする」 「言ったわよ、まったく」 「孝平にしろ、兄さんにしろ、なんでこうなのかしら」 「恥ずかしがる瑛里華がかわいいからだ」 「ちょっと、なに言うのよ、バカ」 うつむいてしまう瑛里華。 でも、顔が赤くなっているのは隠しようもない。 「まあなんだ」 「夏休みも忙しいと思うけど、時間見つけて海行こう」 「うん」 瑛里華がぎゅっと手を握ってくる。 痛くはない。 俺もしっかりと握りかえした。 「いやー、当てられた当てられた」 「俺にもあんな時代があったかと思うと、十字架を抱いて海に飛び込みたくなるよ」 「何年前の話だ」 「あっはっは」 「しかし、瑛里華もああなってしまうと、ほんと可愛いもんだ」 「いい笑顔だったな」 「おや、征がそんな穏やかな顔できるなんて知らなかったよ」 「いつも、しかめ面にさせているのはお前だ」 「ひどいこと言うね」 「自覚しろ」 「しかし、彼は知っているのか?」 「ある程度は聞いてるんじゃないの」 「瑛里華が、何も話さないで人と付き合うなんて思えない」 「アイツはそこまで強くないさ」 「とすれば、支倉の肝が据わっていたということになるな」 「さしずめ、魔女の手を逃れ、茨の森を走り抜ける王子様とお姫様ってとこだね」 「茨か」 「ま、そんなもんさ」 「ぜひ、駆け抜けて欲しいもんだね」 「本当にそう思っているのか?」 「もちろん」 「吸血鬼が、普通に恋愛してもいいじゃないか」 「……」 「白」 「おい、白」 「あ、はい……お茶ですか?」 「違う」 「あの二人のこと、お前が気にする必要はない」 「征の言う通りだよ」 「白ちゃんが気にすることじゃない」 「は、はい……」 瑛里華と別れ、部屋に戻った。 瑛里華という彼女ができて初めての一日。 長かったような、あっという間だったような一日だった。 胸にはまだふわふわした感覚が残っている。 こんな感覚が自分の中に眠っていたなんて、想像もつかなかった。 「お」 鞄の中で携帯が鳴った。 ディスプレイには「千堂瑛里華」の文字。 脊髄反射のように胸が高鳴る。 「もしもし」 「あ、私。こんばんは」 「おう、どうした?」 「えーと、特に用事はないんだけど、なんとなく寂しくなっちゃって」 ちょっと口ごもっている。 「そっか。俺も電話しようと思ってたんだ」 「そ、そうなんだ」 「今日は、いろいろあったけど、楽しかった」 「これからもよろしくな」 「ええ、こちらこそ」 「……」 「……」 いきなり話のネタに詰まる。 電話越しだからだろうか、変に相手を意識してしまう。 「なんか困ったな」 「あはは、そうね」 「電話、迷惑だった?」 「え!? んなことない」 「声が聞けるのは嬉しいんだ」 「ただなんつーか、声が聞ければ満足って言うか……なんて言えばいいんだ」 電話越しにつながってる感覚が重要で、それがすべてというか。 ともかく迷惑なんてことはなくて、むしろ今は嬉しい。 「なんとなくわかる」 「電話してればそれでいいって感じでしょ?」 「そう、それ」 「だから、ネタが途切れても嫌じゃないし、電話が迷惑なんてことないから」 身振り手振りを交えて熱弁をふるう俺。 「ならよかった」 「じゃあ、これからも電話していい?」 「もちろん」 「ありがと」 「私ね、けっこう寂しがり屋なのかもしれない」 「それは俺もだ」 「大丈夫だから、いつでも電話してきてくれ」 「うん、わかった」 電話の向こうの瑛里華は、いつもとは別人のようにしおらしい。 「あー、これで眠れそう」 「よかった」 「それじゃ、お風呂入るから」 「ああ、俺もそうするよ」 「また明日ね。今日はありがと」 「おやすみ」 「おやすみなさい」 言葉を切る。 ……。 しかし、通話をやめるのが惜しい。 向こうからも電話は切られない。 さーっというノイズ音だけがかすかに聞こえる。 「切るからな」 「あ、うん、そうして」 「なんか切りにくいよね」 あはは、と苦笑している。 よくわかる。 俺だって終わりにしたくない。 「だったら、電話切るときは、いつも俺からって決めよう」 「じゃないと、いつまでも電話しっぱなしになっちまうからな」 「うん。じゃお願いね」 「よし。おやすみ」 「おやすみ」 2秒ほど置いて、携帯を閉じた。 部屋に静寂が訪れる。 別世界から帰ってきたかのような気分だ。 世の中のカップルは、みんなこの気分を味わってるのだろうか? 「さて、風呂入るか」 わざわざ声に出す。 でないと、気持ちが切り替わらない。 それくらい、浮ついた気分だった。 ほんと、怖いくらい不思議だ、恋愛ってのは。 修智館学院は夏休みに入った。 実家に帰る生徒、 部活に精を出す生徒、 勉強にいそしむ生徒、 寮で遊びほうける生徒、 いろんな生徒がいる中、 俺と瑛里華は、ほとんど毎日が文化祭の準備。 時間が取れず、やきもきしながら日々を過ごしていた。 恋人に必要なのは、誰にも邪魔されず、話したり手をつないだりする時間だ! と、 毎晩、枕に向かって無言で叫ぶ俺。 午後の監督生室。 俺と瑛里華は黙々と仕事をこなしていた。 キーボードの音やペンの走る音、書類をまとめる音だけが響いている。 「あ、あのさぁ。これは提案なんだけど」 「やっぱり、君らは羽を伸ばしたほうがいいよ」 「仕事がありますから」 「責任がありますから」 毎日、同じ場所にいるのに遊べない。 これは、想像以上のストレスだった。 俺も瑛里華も、日を経るごとに口数が少なくなっている。 これじゃダメだとは思うんだが。 「あ、あの、お、お茶です」 「ありがと」 「なんで震えてるの?」 「い、いえ、怖くありません。平気です」 カタカタカタカタカタ ティーカップが揺れている。 「ふむ」 「ふむ」 先輩が同時にうなずいた。 「よし、名案を思いついたぞ!」 ズバっと立ち上がる会長。 「早く言って」 「ええ」 「くっ、この恐怖」 「我が妹夫婦ながら恐ろしい」 「で、名案というのは?」 「おお、そうだった」 「ただいまから3日間、生徒会役員は完全休養するように」 「は?」 「なぜ?」 「な、なぜって、俺が遊びたいからだ」 「海や山で開放的な気分になって、ほろ苦い思い出を作りたい」 「というより、この部屋から出してくれ」 「いいんですか、この忙しいのに」 「たまには良いだろう」 「ただし休むのも仕事だ。休む以上は、一切仕事はしないことだな」 「まあ、征一郎さんが言うなら」 「しょうがないか」 「そうです、仕方がないのです」 「じゃあ、この書類が終わったら」 「会長命令だ、仕事は禁止」 「わかりました」 「はい」 ボールペンを置く。 「じゃあ、どうする?」 「とりあえず、食事でもしましょうか」 「おお、思うさま食ってくれ」 「たくさん食べて、大きくなってください」 なんか、白ちゃんは錯乱している。 「じゃ、帰るわね」 「また、3日後に」 「良い休日を」 「お疲れさま」 俺たちは、未決の書類を軽く片づけ、監督生室を出た。 「……」 「……」 「……」 「怖かった」 「わたし、まだ体が震えています」 「伊織、よくやってくれた」 「いや、征のフォローのおかげだ」 「やはり、できたてカップルを仕事漬けにするのはよくないな」 「俺たちにとってな」 「お二方、怖い目をしていました」 「くわばらくわばら」 「俺たちも少し根を詰めすぎた」 「いい機会だ、骨休めとしよう」 「よし、俺は若者らしく旅に出るぞ」 「期日までに帰ってこいよ」 という事情があった次の日。 約束通り海水浴場に繰り出していた。 熱い砂の上にレジャーシートを敷き、俺は荷物番。 瑛里華は華麗な変身の真っ最中だ。 瑛里華はどんな水着を着てくるだろう? 中身のかわいさは折り紙付きだから、どんなデザインでも似合うと思う。 しかし、あんまり過激だと、諸般の事情で今後の運動に支障をきたしかねない。 かといって、地味だと寂しい。 女子更衣室の方は見ないようにしつつ、想像を巡らす。 「お待たせー」 「お、おう」 なんてこった。 ウッズもびっくりのスーパーショットだ。 赤のビキニに白のTシャツを羽織り、裾を胸の下できゅっと結んでいる。 すらりと伸びた腕と脚、くびれたウェスト。 「よ、よく似合ってる」 「どの辺が?」 「どの辺って、そりゃ、ええと」 もう一度、瑛里華の全身を眺める。 余計に胸が高鳴った。 「ねえ、どの辺?」 俺の目の前に屈み込む。 目の保養を通り越して、もはや刺激物だ。 「知らん、全部だ全部」 「私だって恥ずかしいんだから、ちょっとは褒めてくれてもいいじゃない」 そう言って俺の左隣に座る。 「か、かわいいよ」 「色も似合ってるし、それに……」 「それに?」 「スタイル、すごくいいんだな」 「手、貸して」 「は? なんで?」 「いいから」 問答無用で左腕を握られた。 俺の手を、どこに持っていこうと……。 「ん、ちゃんとドキドキしてるわね」 脈を取られた。 「そんなの、見りゃわかるだろ」 「怒らないの」 「ちょっと、からかってみたかっただけ」 そう言って、俺の肩にしなだれかかってきた。 腕に当たる柔らかいのは、言わずもがなのアレだ。 「いつもと、匂いが違うんだな」 「あ、気づいた?」 「いつもは柑橘系だけど、今日は、なんだろう?」 「嗅いでみたら?」 「どこに香水つけてんだ?」 「ここ」 と、胸を指した。 「どうやって嗅ぐんだよ」 「あはは、冗談」 「ホントはこっち」 と、ハンドタオルを出した。 「水に入るかもしれないのに、体につけたら流れちゃうでしょ」 「そりゃそうか」 タオルの香りを嗅いでみる。 「石鹸っぽい香りがした」 「嫌い?」 「いや、好きだよ」 「そう、良かった」 「香りは好き嫌いがあるから」 「孝平はどんな香りが好き?」 「甘ったるいのはダメだな」 「つけすぎてなきゃ、だいたい大丈夫だけど」 「つけすぎないように注意するわ」 「これからも、香りがきつすぎたら言ってね」 「ああ」 「じゃ、泳ぐか」 「そうね」 立ち上がり、瑛里華の手を取る。 「よーし、いくぞっ」 「テンション高いわね」 「無理……」 どさりと、レジャーシートに倒れこんだ。 「だらしがないわねえ」 「テンション高えのどっちだ」 「あはは……ごめん」 こっちは人間。 瑛里華の遊びに着いていくので精一杯だった。 「いや、楽しくてつい」 「じゃ、お詫びにマッサージしてあげる。どこが疲れた?」 「腰かな」 「了解。だったらうつ伏せになって」 言われた通りにする。 正直なところ、仰向けでマッサージされるとヤバいことになるのでは、という危機感があった。 「痛かったら言ってね」 「おう」 瑛里華の手が腰に触れる。 しっとりした感触は、海に入っていたからではなく、肌の質感のせいだ。 ぎゅっぎゅっ リズミカルに押してくる。 「おー、気持ちいい」 「こっちはどう?」 手が、腰から背中に上がってくる。 「ああ、すごくいい」 「こってるわね」 「デスクワークばっかりだったから」 「そうよね」 「監督生室の椅子って、デザインはかわいいんだけどクッションがね」 「アンティークだもんな」 「かなりいい物なのよ」 「体には優しくないけど」 突然、背中にかかる体重が増した。 「ぐえ」 「よっこいしょっと」 声がしたかと思うと、太腿の裏側に体重が乗った。 柔らかな感触と熱。 もしかして……。 「乗ったな」 「重くない?」 重いと言ったら、どうなるんだろうか? 「へ、平気」 「よーし」 「よっ、ほっ」 適度な刺激が腰や背中をほぐしてくれる。 それ以上に、こすれあう太腿の感触がヤバい。 地盤改良工事のごとく、軟弱な砂地に杭を打ち立てかねない。 耐震強度も上がり、瑛里華が上で暴れても大安心というわけだ。 かなり混乱していた、俺が。 「はい、終わり」 「お、ありがと」 瑛里華が俺の体から下りる。 名残惜しさを感じつつも、体を起こす。 「お返しに肩でも揉むよ」 「どーしよっかなー」 じろりとにらまれる。 「やましいことはないぞ、決して」 「ふーん」 「じゃ、お願いね」 座った瑛里華が、俺に背中を向ける。 「あ、髪ジャマね」 濡れた髪を前に持っていき、うなじを露出させた。 「いくぞ」 かすかに震える手を落ち着かせ、瑛里華の肩に触れる。 「ひゃっ」 「変な声出すなよ」 「だって、くすぐったいから」 「大人しくしてろって」 手に力を込める。 「あー、いいかも」 「こってるとこあるか?」 「うーん、全体的に」 「全体的、ね」 ゆっくりと肩をほぐしていく。 やっていてわかったが、瑛里華はたいして肩がこっていなかった。 こうしたかっただけなのかもしれない。 ま、いいか。 そう思ってくれていたのなら嬉しいし、スキンシップは少しも悪いことじゃない。 「どう?」 「気持ちいい。リラックスできるわ」 「よかった」 瑛里華の肩を丹念に揉んでいく。 俺まで穏やかな気分になってきた。 人に触れていられるというのは、本当にいいことだ。 それが好きな人ならなおさらだ。 性欲とは違う部分の欠損が満たされていく気がする。 そして、やや遅れ、いとしさがこみ上げてきた。 この人と離れたくない。 引き離そうとするものがあるなら、排除しなくちゃいけない。 そういう感情が自然に浮かんでくる。 不思議なものだ。 「ん……」 瑛里華の体から力が抜け、俺にもたれかかってきた。 「どうした?」 「すぅ、すぅ」 返事はなく、寝息だけ聞こえた。 疲れてたんだろうな……。 彼女はいろんなものを背負ってる。 人と付き合う、ただそれだけのことにしても単純にはいかない。 悩み苦しんだ結果が、監督生室での言い合いだった。 あれから、問題は何一つ解決していない。 卒業と同時に彼女は屋敷に戻り、俺はどこかへ消える。 回避する術など、思いついちゃいない。 なんとかしないと。 肩を揉む手を止め、瑛里華を後ろから優しく抱く。 吸血鬼って言ったって、体はこんなに薄く、肩は細い。 たとえ俺の方が非力だったとしても、守らなくちゃならない。 この大切な人を。 学院に帰ってきたころには、日はとっくに暮れていた。 なにしろ、瑛里華は夕方まで眠っていたのだ。 途中からは俺も寝てたし。 「ごめんね、せっかく海に行ったのに」 「気にするなよ、俺は楽しかったぞ」 「瑛里華はつまんなかったか?」 ぶんぶん首を振る。 「ならいいだろ」 瑛里華の頭を抱え、優しく撫でる。 「うん」 「さ、帰ろう」 瑛里華の手を引く。 「ほら、そろそろ手を離さないと」 「あ、そうだね」 つないでいた手を離す。 名残惜しそうに、人差し指同士が絡まる。 「また明日遊ぼう」 「そうね」 そう言いながら、切なげな目で俺を見る。 「大丈夫。消えてなくなりゃしないさ」 もう一度、頭を撫でる。 付き合って気づいたことだが、瑛里華はどうも別れ際に弱いらしい。 別れてすぐに電話を掛けてくることもある。 彼女には悪いけど、男冥利に尽きると言える。 「ちゃんと歯磨いて寝るんだぞ」 「当たり前でしょ、バカ」 「じゃ、おやすみ」 「ええ、おやすみ」 手を軽く振って自室に向かう。 少しして振り返ると、彼女はまだ小さく手を振っていた。 「ふう……」 荷物を放り出し、ベットに横たわる。 心地よい疲労感があった。 今日の出来事を頭の中でリピートする。 やっぱり瑛里華の水着姿が脳裏に焼きついていた。 携帯が鳴る。 瑛里華だ。 このタイミングってことは…… また、寂しくなってしまったらしい。 「もしもし、どうした?」 「あ、うん、なんとなく」 さりげなさを装いつつも、声は切なげだった。 寂しさが伝染してくる。 「まだ消灯まで時間あるし、どっかで会うか?」 「談話室?」 「ああ」 「別の場所でもいいぞ、俺の部屋とか」 大胆発言をしてみた。 「えーと……」 ためらっている。 当たり前か。 「行く」 「えっ!?」 「行くって言ってるの」 「来てほしくないの?」 「いや、来てくれ」 「ゆっくりお茶でも飲もう」 「わかった」 「少し、時間かかるかも」 「待ってる」 「じゃ、またね」 電話を切る。 「……」 急展開だ。 来るのか、瑛里華がここに。 ぐるりと部屋を見回す。 危険物センサーON。 ……。 そりゃあるさ、男の子だもの。 ベッドを飛び降りる。 まずは、危険物を隠して、次に掃除。 時間は限られてるぞ。 床の掃除を終えたところで、ノックの音が聞こえた。 ぎりぎりセーフといったところだ。 「ちょっと待ってくれ」 入口に向かう── その前に、ベランダの鍵を確認。 かなでさんが飛び込んできたら大変だ。 よし。 緊張を隠しつつ、ドアを開く。 「こんばんは」 「おう」 いささか緊張した面持ちの瑛里華。 「どうぞ」 「お邪魔しまーす」 ドアを閉め、鍵を掛けた。 「な、なんで鍵閉めるのよ」 「逃げられないようにさ」 「本気で?」 後ずさる瑛里華。 「冗談だって」 「でも誰か入ってくるのもちょっと嫌だろ」 「そ、そうね」 「とりあえず、座るか」 「あ、うん」 瑛里華はちょこんと床に座った。 「お茶淹れるな」 「よろしくー」 紅茶の湯気がたちのぼる。 まずは一口飲み、気分を落ち着けた。 「今日は楽しかったわ」 「私、海水浴初めてだったの」 「そうだったのか」 「また来年も行こうぜ」 「ええ、絶対よ」 「もちろん」 「あ、そうそう……」 瑛里華が部屋を見回す。 「ちゃんと健全な生活してるかな?」 「も、もちろん」 「じゃあ、ちょっとチェックしちゃおっかな」 瑛里華が本棚や小物を調べ始める。 ふふふ、残念ながらそこの地雷は撤去済みだ。 「ん〜、何もないな〜」 ふらふらと部屋を見回る。 無駄無駄。 「元からないもんは、探しても出てこないぞ」 「自信満々ね」 「悠木さん、けっこうあるって言ってたけど」 「なんだとっ」 「ま、冗談だけどね」 はめられた。 「焦るってことは、あるみたいね」 「健全なだけだ」 「別に怒ってないわよ」 そう言って、瑛里華は俺の隣に座る。 「席はあっちだろ?」 「意地悪」 瑛里華は脚をくずし俺にもたれた。 瑛里華の感触に鼓動が早くなる。 「健全な男子に近づくと、どうなるかわかってるのか?」 「さあ」 試しに手を握ってみると、ほんの少し震えていた。 「瑛里華」 もう片方の空いた手で、瑛里華の頭を撫でる。 「ん……」 気持ちよさそうに目を閉じる。 体温が上がったのか、ふわりと瑛里華の香りが流れてきた。 もしかしたらそれは、動物で言うフェロモンみたいなものかもしれない。 証拠に、理性が少しずつ弱くなっていくのを感じる。 「かわいいな、瑛里華は」 頭を撫でていた手をうなじに差し入れる。 そこはわずかに汗ばんでいた。 「くすぐったい」 瑛里華が俺の目を見る。 見ているくせに見られたくないような表情。 誘われるように、俺は顔を近づけた。 「瑛里華」 「好きって言って」 「好きだよ」 唇を重ねた。 みずみずしい唇は簡単に形を変える。 首の角度を変え、違う方向から瑛里華を味わう。 リズムを取るように、互いの唇をついばみ合う。 どちらからともなく吐息が漏れ、唇の間で一つになった。 「怖くないか?」 「平気、孝平だから」 再び距離をゼロにする。 強めに唇を押しつけると、歯と歯がカチリと音を立てた。 舌先で歯の表面を撫でてから、歯茎をなぞる。 「ん……ふ……」 息が荒くなってきた。 同時に、歯の隙間から瑛里華の舌がおずおずと顔を出す。 舌先を触れさせた。 ぬらりとした感触に、頭がぼうっとなる。 舌を先へ送り出すと、瑛里華の舌が立ちふさがった。 その防壁をなだめすかすように舌を回り込ませる。 ぴちゃ、くちゅ 水音が漏れる。 俺と瑛里華の唾液が混じりあっている。 信じられないという思いと感動に、俺はより深く強く舌を絡める。 「ぴちゅ……くちゅ、ちゅっ」 瑛里華も俺の舌の動きに応えてくれる。 彼女の舌が、俺の口蓋、歯茎、舌の裏をなぞっていく。 そして、鬼ごっこのように、互いの舌を追いかけ合う。 キスというより、互いの舌と口を愛撫し合う行為だった。 「ちゅっ……はぁ……」 唇が離れる。 無言のまま、再び接触する。 今度はいきなり舌を入れていく。 ぴちゅ、くちゅ 俺の部屋に湿った音が響く。 ただ無心に舌を動かす。 気がつけば、俺の股間はすでに硬くなっていた。 「瑛里華」 握っていた手を離し、彼女の胸に持っていく。 服の上からそこに触れる。 ふわっとした感触。 瑛里華の吐息が強くなり、甘い芳香が一段と匂い立つ。 彼女の手が、俺の手に重なった。 拒否ではないだろう。 ゆっくりと乳房を撫でる俺の手に、重ね合わせているだけだ。 瑛里華の舌の動きが止まる。 顔が離れると、熱い息が漏れた。 「んっ……あっ……」 とぎれとぎれの声。 俺の手の動きに合わせ、体をぴくぴくと震わせる。 気持ちいいのか? 男の俺に、その感覚はわからない。 ただ、自分の刺激に瑛里華が悪くない反応を示していることが嬉しい。 「痛く、ないか?」 「う、うん、平気」 目をつむったまま、瑛里華が答えた。 返事を聞き、俺は両手を乳房に当てる。 薄いブラウスの下には、ブラのワイヤーの感触。 ブラごと、大きく乳房をもみしだく。 「は、あ、孝平……好き」 手を動かしながら、瑛里華の耳元に口を寄せる。 「俺もだよ、瑛里華」 そのまま、耳たぶを甘くかむ。 首筋に口づける。 舌を這わす。 「ひゃう……んっ……」 瑛里華が痙攣する。 ぴたりと合わせた膝を、もじもじとこすり合わせている。 「くすぐったい?」 「うん、くすぐったいけど」 「よ、よくわからない」 「気持ち悪いか?」 「ううん」 「やめるか?」 「あ、大丈夫」 彼女の反応がわからなくて、確認を繰り返す。 「直接、触るぞ」 ブラウスの裾に手を回す。 ゆっくりと差し入れる。 「あっ……ちょ、ちょっと……待って」 「ん? どうした?」 瑛里華が俺の胸に頭を当てた。 「ここじゃ……」 「あ、ごめん」 嫌だよな、こんなトコじゃ。 テーブルの上には、飲みかけの紅茶が二つ。 湯気もなく、ゆらゆらと水面が揺れている。 「ベッドに行こうか」 胸の中で瑛里華がうなずく。 そんな彼女を抱きしめ、できるだけ優しく立ち上がらせる。 二人とも、膝はカクカクと震えていた。 おぼつかない足取りで、ベッドへ向かう。 股間はすでにはちきれんばかりで、歩くたびに圧迫される。 ベッドまでの2メートルばかりの距離が遠い。 「好きだよ」 「うん、大丈夫、平気」 俺に対する答えなのか、自分に言い聞かせているのか、わからない。 瑛里華も、不安や恐怖と、なんとか折り合いをつけようとしているのだろう。 「大丈夫だ、瑛里華」 ベッドの端に到着した。 二人で腰を下ろす。 瑛里華はずっと俺に抱かれたままだ。 「私でいいの?」 消え入りそうな声だ。 「瑛里華がいいんだ」 「でも、私は……」 吸血鬼だし、未来はないのかもしれない。 「わかってる」 「それでも、瑛里華じゃなくちゃ嫌なんだ」 「ごめんなさい」 「謝ることなんてないさ」 「俺は、平気だ」 瑛里華を抱きしめ、背中を撫でる。 「一緒だ、ずっと」 「うん」 瑛里華の肩を持ち、体を離す。 口づける。 彼女を抱くことに迷いなどない。 それが伝わればと思う。 「ん……ちゅ……」 すぐに舌が絡む。 唾液が絡む甘い感覚に、頭がしびれていく。 「ん……くちゅ……ちゅっ」 瑛里華は一心に舌を動かしている。 どうしてこんなに愛しいのか。 理由などわかりようもない。 瑛里華の肩を持つ手に力を込める。 受け流すように、彼女はゆっくりと仰向けになった。 体重をかけないよう覆い被さり、双のふくらみに手を当てる。 「ん……」 乳房を温めるように、ゆっくりと手を動かす。 「あ……うっ……」 瑛里華の眉がゆがみ、声が漏れる。 わずかにだが、手のひらに突起の存在を感じた。 ブラに包まれたそこを指の腹で撫でる。 「ひゃっ、あっ」 びくりと体を震わせた。 「痛かったか?」 声なく首を振る瑛里華。 ならばと、さらに乳首を刺激する。 「はっ、あっ、うっ」 面白いように瑛里華が弾み、息がどんどん荒くなる。 「服、脱がすな」 瑛里華がぎゅっと目を閉じる。 俺は、震える指先で赤いリボンを外す。 しゅるりと、それはあっさりとはずれた。 そして、ボタンに手をかける。 一つ、 二つ…… 上から順に戒めをとき、雪のように滑らかな肌を露出させていく。 鎖骨の隆起から、胸もとのなだらかな山裾。 そして、 二つのふくらみが姿を現す。 ブラは白で、豪華なレースがあしらわれていた。 「すごく、きれいだぞ」 「そんなこと、ないから」 目をつむったまま言う。 顔はもう真っ赤だ。 「きれいだって」 一番下までボタンを外し、前を開く。 上半身があらわになった。 新雪の肌には薄く血が上り、汗がなまめかしくにじんでいる。 むしゃぶりつきたくなる衝動を抑えつけ、俺は再び胸に手を伸ばした。 「あっ、んっ」 さっきよりダイレクトに、胸の感触が伝わってくる。 突起の存在も確かだ。 「ここが感じるんだっけ?」 「し、知らないわよ」 「試してみるよ」 ちょっと意地悪を言って、ブラの上から乳首を転がす。 「あっ、ああっ、んっ、あっ、あっ」 「やっぱり感じてる」 「い、いやらしいよ孝平……バカ、バカ」 身をよじりながら言う。 言葉には、まったく力が感じられない。 気にせず胸を刺激し続ける。 「あっ、あんっ、やっ、ああっ、あっ」 声は甘く切なげだ。 瑛里華は腕を上げた格好で、ゆるゆると体をよじる。 俺は、胸を触ったまま上半身を押しかぶせ、鎖骨に舌を這わせた。 「きゃっ、くすぐったい、こら、あっ」 瑛里華が俺の頭を押さえる。 彼女の抵抗を無視しつつ、舌を滑らせる。 胸の谷間、脇腹、ウェストライン、おへそまで。 「あうっ、こらっ、あっ、くすぐっ……たいから」 抵抗が弱くなっていく。 肌はさっきよりも湿り気を帯び、汗のしょっぱさが俺の欲求を加速させる。 「胸、直接さわっていいか?」 「え、やだ……やだよ……」 「どうして?」 「そ、そんなの知らないわよ」 「じゃ、触ればわかるな」 「こ、こらぁ……」 そんな声出されたら、余計に見たくなる。 「背中、少し浮かせて」 「だめだって」 言いながらも背中を浮かす。 手を差し入れ、ブラのホックを探し当てる。 作りを想像しつつ、指先を動かす。 「あ……」 小さな声とともに、ブラがゆるんだ。 「外すぞ」 瑛里華はまた目を閉じる。 ゆっくりと、ブラをはずしていく。 なめらかなふくらみが、揺れた。 ブラがなくなっても、乳房はほとんど形を変えない。 乳房の先端には、ツンと立った乳首が存在を主張している。 「小さいでしょ?」 世の女性を敵に回すようなことを言う。 「ちょうどいいよ」 「形も、すごくきれいだ」 言いながら、手のひらで包み込む。 しっとりとした質感。 その柔らかさは、俺の体のどこにもないものだ。 「こんなに柔らかいのか」 乳房は手の中で自在に形を変える。 それでいて、手を離せばすぐに元の形へ戻った。 「ん……ふぅ……」 瑛里華がため息のような息をつく。 直接さわっている分、慎重に優しく手を動かす。 「あ、ん、なんか……先がぴりぴりする」 「ここか?」 乳首に軽く触れる。 「あうっ」 電気が走ったみたいにはねる。 「敏感なんだ」 痛みを感じさせないよう、指の腹で少しずつ刺激を加えていく。 「んっ、んあっ、や、やだ……あっ」 瑛里華が体を揺する。 逃げるようにも、刺激を求めているようにも見えた。 「かわいいぞ、瑛里華」 「へ、変なこと……言わないで」 「こうしてみていいか?」 胸に顔を近づけ、乳首を口に含む。 「え、ちょっと、恥ずかしい」 こっちはもうしゃべれない。 舌先で固いつぼみを転がす。 「んふっ、あ……ん、んっ」 瑛里華に頭を抱えられた。 乳房に押しつけられながらも、舌を動かし続ける。 「やだ、あっ、ああっ」 声が高くなってきた。 そろそろ、他のところも……。 俺は空いた手を下に伸ばしていく。 瑛里華の膝に触れ、さする。 「あっ、ちょ、ちょっと」 奥に進もうとしたところを、太腿で挟まれる。 「そっちは……恥ずかしいから」 「そう?」 わざとらしく言って、再び乳首を口に含む。 「あうっ……ん、あっ」 今までより速く舌を動かす。 太腿の力がゆるむ。 その隙に、手を股間まで滑り込ませる。 「んんっ」 そこには熱気がこもっていた。 指先にはつるつるとした下着の感触。 その中心を探るように、手を動かす。 「ああっ、あっ、あ……ああっ」 他の場所を触ったときとは声が違う。 眉根にシワを寄せながら、もじもじと腰を動かしている。 俺は、胸から顔を上げる。 「痛くない?」 「うん……」 「ねえ……孝平も脱いで」 「俺も?」 「当たり前でしょ」 「服着たままで、どうやって……」 言いかけて、口をつぐんだ。 「どうやってするの?」とでも言いたかったんだろう。 「わかった」 シャツを脱ぐ。 いつの間にか、俺も汗だくだった。 カチャリとベルトを外す。 瑛里華を見ると、向こうは俺を凝視していた。 「いやらしい」 「そそ、そんなことないわよ」 瑛里華が慌てて目をそらす。 俺は、ズボンを脱ぎベッドの下に落とした。 「……」 瑛里華が目を丸くして俺を見ている。 視線の先は。 トランクス。 ヤツが隆々としていた。 「あ、えーと」 「そんなに……なるんだ」 不安そうな表情を見せる瑛里華。 彼女の隣に再び移動する。 「瑛里華がきれいだからだ」 「バ、バカ……」 視線をそらす瑛里華の首筋にキスする。 「んっ」 「口が、うまいのね」 「思ってることを言っただけだ」 右手を乳房に当て、再び愛撫する。 「ん、あ、他の人にも……言うの?」 「言うわけないだろ」 苦笑しながら左手を太腿に這わす。 瑛里華が身を固くする。 「大丈夫」 「慣れてる?」 「まさか」 手を股間にぴったりと当て、秘裂をなぞるように上下させる。 「あっ、んっ」 すぐに瑛里華が反応する。 知識はあるものの、実際にどこが一番いいのかわからない。 なんとなく目星をつけながら、手を動かす。 「あっ、指、やらしい……やらしいから」 「ああっ、んっ、んんっ」 瑛里華の息が荒くなる。 それにしたがって、太腿の間が熱くなってくる。 心なしか、下着の内側も湿ってきていた。 俺は、夢中になって指を動かす。 手の上下運動に、軽い振動も加えていく。 「やっ、あうっ、あっ、あっ」 断続的に瑛里華が痙攣する。 「どう?」 「わかんないっ、わかんないって」 「ちゃんと教えて」 手の動きを速める。 「ああっ、やっ、だめっ、孝平っ、ああっ」 腕を両手で捕まれた。 軽く無視しつつ、指先に押し込むような動きを加える。 「だめっ、あっ、あっ、あっ、あああっ」 瑛里華の体に力が入る。 もしかして、いきそうなのか? 忘れていた胸の愛撫も再開させる。 こっちも併せれば……。 「あああっ、あっ、やっ、だめっ、だめだめっ」 「やあっ、孝平っ、孝平っ、ああっ、いやあっ」 「いいよ、いって」 「あっ、ああっ、やっ、んあっ、いちゃ、いっちゃ……」 「いっちゃ……だめっ、あああっ、あっ、あ、あ、いっちゃう……」 「うあああああああぁぁぁぁぁぁっっっ!」 ひときわ声が高くなり、瑛里華が体をぎゅっと縮こまらせた。 そして、びくびくと何度も震える。 寄せ来る快感の波に耐えるかのようだ。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 くたりと力が抜け、瑛里華は大きく胸を上下させた。 「瑛里華……」 指を少し動かす。 ぬるりとした感触が伝わってきた。 下着を少しずらし、指先を中に入れる。 くちゅ 濡れてる。 指先が溶けるように熱い。 「孝平……はぁ、はぁ……やだって……言ったのに」 「かわいかった」 「ばか……」 すねたようなことを言いながらも、潤んだ目でじっと俺を見ている。 俺も、彼女の目を見る。 かすかに瑛里華がうなずいた。 「……」 下着に手をかける。 瑛里華の腰が浮く。 丸めるように下着を下ろしていく。 スカートを着けたままなのが、妙に刺激的だ。 今までとは比べものにならないほど、胸が高鳴る。 「見ないで……よ」 瑛里華がぎゅっと目をつぶる。 見てもいいと勝手に解釈し、下着をずらしていく。 ……。 うっすらとした茂みが現れた。 下着の裏側は、愛液できらきら光っている。 すごい、な。 足の方に移動しながら、下着をおろし、片足を抜く。 足の間の暗がりはよく見えない。 でも、その奥に進みたい欲求が湧いてきては下半身に送られていく。 俺はトランクスを脱ぎ、床に落とした。 ペニスは感覚がなくなるほどに勃起している。 「瑛里華」 ゆっくりと、脚の間に入っていく。 息を飲む音が聞こえた。 「大丈夫」 瑛里華の脚を開かせながら、前に進む。 一瞬見えたそこは、ぴたりと閉じており、表面は濡れて光っていた。 「大きく……なるのね……」 「ああ」 そう言って、ゆっくり体を倒す。 「いいか?」 「気持ちよくなって、孝平」 「ありがとう。好きだよ、瑛里華」 手でペニスを支え、先端を瑛里華のそこに合わせる。 「いくぞ」 腰を前に進める。 「んっ……」 先端が、ぬるりとした感触に包まれる。 「はっ、あっ……」 瑛里華が眉間にしわを寄せる。 痛いのだろう。 だが、止められない。 さらに体重をかける。 一瞬の抵抗。 瑛里華を見る。 彼女が軽くうなずく。 狭い洞窟を、一気に割り開く。 「うあっっ……あっ……」 ペニスが強烈に締め付けられた。 「くっ」 危うくいきそうになった。 「う……入った?」 「ああ」 膣内は溶けるようだった。 自分と瑛里華の境界がなくなるような感覚。 「き、気持ち……いい?」 「ああ、すごくいい」 瑛里華が穏やかに笑う。 その頬を涙が伝った。 「動いて、いいよ」 「辛かったら、言えよ」 「うん」 腰をゆっくりと引く。 「あ……あ……う……」 ヒダの一枚一枚が、俺を逃すまいと手を伸ばす。 尻に力を入れ、快感をやり過ごす。 そして、再び押し込む。 「んあっ」 すごい快感だ。 あと何回動けるか、わからない。 それでも、快感への欲求は止められない。 「瑛里華っ」 ピストンを再開する。 ぐちゅ、ちゅっ、くちゅっ! 「んああっ、あっ、あっ、んっ、あうっ」 水音と瑛里華のあえぎ声が、部屋に反響する。 結合部に目をやる。 ぬらぬらと光る男根が、瑛里華の中から血液混じりの愛液を掻き出す。 そしてまた、埋没していく。 瑛里華とつながってる。 その思いが、頭をどんどん白くしていく。 「あっ、やっ、孝平っ、孝平っ!」 「瑛里華、瑛里華っ」 名前を呼びながら、腰を打ち付ける。 ぐちゅ、ぐちゅ、ぴちゅっ 体がぶつかり合い、液体が飛び散る。 「ああっ、あっ、うあっ」 「こんなっ、あうっ、はげし、くて……」 動くたびに、瑛里華の体に衝撃が伝わる。 柔らかなふくらみが、たぷたぷとこぼれそうに揺れる。 それを両手でつかむ。 「ああっ、あっ、あっ、あっ」 手加減なんかできない。 ただ、腰の動きに合わせて乳房をもみしだく。 「んっ、あっ、あっ、だめっ」 「胸が……あうっ、んあっ、あああっ……」 ぐちゅっ、くちっ、ずちゅっ、くちゃっ! 蜜で満たされたそこに打ち込むたびに、強烈な快感がペニスを包む。 もう腰の感覚もない。 本能に任せて腰を振るだけだ。 「ああっ、なんかっ、じんじんしてっ、あっ、ああっ」 「やっ、好きっ、孝平っ、あああっ、あっ、あっ」 喘ぎがとぎれずに流れる。 痛いだけじゃなく、感じてる。 「瑛里華も、よくなって……くれ」 「あうっ、あああっ、孝平っ、んっ、んっ、うあっ」 「好きっ、好きっ、ああっ、孝平っ、わたしっ、わたしっ」 俺から飛んだ汗が、瑛里華に降っていく。 それにも気づかず、彼女はひたすら俺を受け止め続ける。 ペニスに、熱い衝動が上り始めた。 もう、もたない。 「瑛里華っ」 胸をもみしだいていた手で、瑛里華の腰をしっかりと固定する。 渾身の力で棒を送る。 ぐちゅっ、くちゅっ、じゅちゅっ、ぐちゅっ! 「ああっ、もう、私っ、やっ」 「わかんないっ、白く、白くなるっ、やああぁっ!」 「瑛里華っ、一緒にっ」 もう、自分がどうしているかわからない。 狂ったように腰を振る。 「うんっ、一緒っ、もう少しでっ、ああっ」 「ああっ、いっちゃ……んあっ、あっ、あっ、ああっ」 「だめっ、だめっ、だめっ、孝平っ、ああっ、いやあっ」 「あああっ、来るっ、なんか来てっ、あああっ、だめっ」 「だめだめだめっ、あああぁぁっっ」 瑛里華の声が駆け上がった。 「いくぞっ」 「来てっ、ああっ、あ、あ、あ、あ」 「ああっ、孝平っ、だめっ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」 「ああああああぁぁぁっっっ!」 ぎゅっと、膣が締まった。 慌てて腰を引く。 びゅくっ、どくっ! どくっ、どくっ! 突き抜けるような快感と共に精液が飛び出し、瑛里華を汚していく。 「あ……あ……う……」 瑛里華が痙攣する。 射精後の脱力感に、俺は瑛里華に覆い被さった。 汗に濡れた体がこすれ合う。 「はぁ、はぁ……ヤバイ、これ」 「ん……よ、かった?」 「ああ、信じられないくらい。瑛里華は……」 「……痛かったに決まってるよな」 「う、うん……まあね」 本当なら気持ちよくなってもらいたいが、初めてじゃ仕方ないか。 「すまない」 髪が張りついた瑛里華の顔をなでる。 「ううん……」 瑛里華も、弱々しく手を伸ばし、俺の頭をなでてくれた。 「いいの、痛くても幸せだから」 そう言って、笑みを浮かべる。 「そっか」 俺が逆の立場なら、同じように笑えるだろうか。 「ところで、さ」 「なんだ?」 「ほら……それ」 瑛里華が、恥ずかしそうに俺の股間を見る。 発射してなお、ギンギンにいきり立っていた。 「まだ、足りてない?」 「ま、まあ」 当然、足りていない。 もっと瑛里華とつながりたい。 「いいのか?」 「だって、それじゃしまえないでしょ?」 「ああ」 「ふふふ、いやらしい」 「からかうなって」 「いやらしい孝平は、からかわれたらどうするの?」 くすくす笑う。 「……こうする、かな」 「きゃっ」 瑛里華をうつ伏せにし、腰を持ち上げる。 「やだ、恥ずかしいって」 四つんばいにさせた。 スカートをまくり上げると、どろどろの性器が顔を出した。 蜜壺からこぼれた液体が、内股を伝っている。 刺激が強すぎだ。 「からかった罰だ」 瑛里華の後ろに立つ。 「やっ、ちょっと」 「逃げない」 瑛里華の腰を支える。 ゆらゆらとおしりが揺れ、むしろ卑猥に映る。 「今回だけだからね」 「どうしよっかな」 秘裂を指でこする。 「ひゃっ」 「できそう?」 瑛里華がうなずく。 「じゃ、いくぞ」 どろどろの性器に棒を合わせる。 もう、一刻も早く入れたくて仕方がない。 くちっ 「んっ」 先端をうずめる。 さっきよりは、かなりスムーズだ。 「痛くないか?」 「う、うん、さっきよりは」 「奥まで入れるぞ」 ゆっくりと肉棒を埋め込んでいく。 「ん、あ……く……」 狭い道をゆっくりと進んでいく。 ざわざわと亀頭を包み込む刺激が、とろけるような快感をもたらす。 時間をかけ、最奥に到達した。 「あ、あぁ……」 瑛里華が大きく息を吐く。 熱い泥風呂に入っているような心地よさだ。 「すごく気持ちいいぞ」 「私も、なんか……お腹が熱い感じ」 こっちを見ようとして、体をねじる瑛里華。 膣壁が不意に動き、先の敏感な部分がこすれる。 「う、やば……」 「ん?」 「なんでもない」 「もしかして、気持ちよかった?」 瑛里華が腰を揺らす。 中身が不規則に揺れ、亀頭をこすってくる。 「え、瑛里華、こら」 瑛里華の腰を手で固定する。 「あんまり調子に乗ると……」 腰を引き出す。 「あっ、ん……」 濡れた肉棒が、瑛里華の性器から顔を出す。 彼女の内側は濁りのないピンク色。 白く濁った愛液が、とろりとこぼれる。 「っ」 再び突き入れる。 すぐに引き抜く。 「あっ、やっ、急に、動かないでっ」 むしろペースを速める。 四つんばいの瑛里華を、力の限り突く。 「あっ、ああっ、んっ、あっ」 すぐに、瑛里華の声から余裕が消えた。 すちゅっ、ぐちゅっ、ずちゅっ! 体液の飛沫が俺の股を汚していく。 瑛里華のスカートも、かなりべっとりだ。 その光景に頭がくらくらしてくる。 「んっ、ああっ、やっ……」 「ん……あ……んあっ……」 「あん……あっ、あっ……ああっ……」 いつの間にか、瑛里華も自分の腰を前後させている。 俺が突くときには、お尻を突き出し、抜くときは引く。 自分から摩擦を強くするような動きだ。 「腰、動いてるぞ」 「や、やだっ、知らないから、あっ、ああっ」 こんな姿を学院の人たちが見たら、どう思うだろう。 あこがれの副会長が、今は、四つんばいで腰を振っている。 そんな劣情が、俺の動きを激しくする。 「くっ、ああっ、だめっ、ぶつかってっ、あああっ」 「我慢しなくて、いいぞ」 「んっ、やっ、でもっ、顔が、見えないと……」 瑛里華が体をひねる。 亀頭が予想外の方向からこすられる。 「う、動くなって」 さらに激しく突く。 「やあぁっ」 「あっ……あ、あ、あ、あ、だめ……だめっ」 快感にゆがんだ瑛里華の顔が少しだけ見えた。 見たこともない表情に、肉棒が硬度を増す。 「やっ、おっきく、ああああっ」 「やっ、来るっ、だめっ、だめだめだめっ」 瑛里華が前のめりになり、シーツを握りしめる。 背中に覆い被さり、思い切り腰を振る。 こっちも、限界が近い。 「孝平っ、あっ、ああっ、なんか来るっ、ああっ」 「うあっ、あっ、あっ、あっ、あっ、やっ、孝平っ!」 「やっ、あぁっ、だめっ、だめっ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ」 「ほんと、だめっ……あ、あ、あ、あ……うああああぁぁぁぁぁぁっっ!」 泣き出しそうな声を上げ、瑛里華が体を硬直させる。 同時に、肉棒全体が締め付けられた。 無数のヒダが、カリの裏側をずるりとこすり上げる。 「くっ」 一瞬、目の前が白くなった。 どくっ、びくっ びゅっ、どぴゅっ 射精感が何度もペニスを駆け上がっていく。 「っ……」 快感に声も出ない。 すごすぎる、これは……。 突き刺したまま、瑛里華の上にぐったりと覆いかぶさる。 「ぁ……っ……あ……あ……」 瑛里華は、まだ息もできず体を震わせている。 そんな彼女を、背中からぎゅっと抱きしめた。 「はぁ、はぁ、はぁ……こ、孝平」 「すごい、良かった」 「う、うん……わ、私も……」 そのまま口も利けず、瑛里華を背後から抱き続ける。 二人とも汗びっしょりだった。 瑛里華の美しい髪も、体に貼りついている。 「動けそうか?」 「あ、うん……もう少し、したら」 ふと、俺たちがつながったままだったことに気がつく。 「あ……」 さっと血の気が引いた。 慌てて、ペニスを抜く。 「あ、やっ……」 瑛里華がお尻をくねらせる。 膣口から白濁した液体が流れ出し、シーツに垂れた。 「ふふふ……ずいぶん出したわね」 「すまん」 ティッシュを取り、瑛里華のそこを優しくふいた。 白い液体には、わずかに血が混じっている。 「ありがとう」 「いいって」 瑛里華と目が合う。 「後悔してる?」 「まさか」 「後悔したことなんてこれぽっちもないさ」 「そう、よかった」 瑛里華が優しく笑う。 「あ、そうだ、お風呂借りていい?」 「ああ、遠慮なく使ってくれ」 「タオルは横の棚に入ってるから」 「じゃ、ちょっと借りるね」 瑛里華が浴室に向かう。 部屋には、汗と体液の臭いが充満している。 いわゆる情事の後というのは、こういうものか。 嬉しいような恥ずかしいような気分になる。 とりあえずは片づけだ。 しばらくして、瑛里華が風呂から出てきた。 「お風呂ありがと」 「ああ」 「悪いけど、今日は泊めてね」 「もう、消灯時間過ぎてるし」 時計を見る。 瑛里華が来てから、ずいぶん時間が経っていた。 「喜んで」 「じゃ、俺も風呂入ってくるよ」 と、風呂に向かったところで、手を握られた。 「どうした?」 「あの……」 「一人で、ベッドにいるの寂しいから」 「わかった」 瑛里華の頭をなで、二人でベッドに向かう。 ベッドの中で向かい合う。 瑛里華は、俺の胸に顔をうずめた。 「後悔してる?」 「まさか、今までで一番嬉しいさ」 「瑛里華は?」 「後悔するくらいなら、ここにこないわ」 瑛里華の額にキスをする。 「離れないでね」 そういって、瑛里華は目をつぶった。 「離れないさ」 瑛里華の頭を撫でる。 今日は、眠るまで撫でていようと決めた。 ふと、物音がして目が覚めた。 ベッドに、瑛里華がいない。 彼女が寝たところまでは見届けたはずだが……。 起きたら女がいない。 ドラマとかでよくあるパターンか? 「……」 その心配は杞憂に終わった。 窓際に瑛里華が立っていたからだ。 窓を開け、外を見つめている。 「瑛里華、どうした?」 「あ、起こしちゃった」 瑛里華が振り返る。 悲しいような、辛いような顔をしていた。 「何かあったのか?」 「ちょっと、血が……ね」 「また、欲しくなったのか?」 「大丈夫、もう収まるわ」 「ごめんなさい、せっかくの夜なのに」 「いいさ」 「仕方がないことだろ?」 応えず、瑛里華はただ笑う。 「輸血用の血、俺の部屋にも置いた方がいいな」 「今度、持ってこいよ」 「ええ、そうね」 そう言ったものの、いまいち気乗りしてないように見える。 「最近ね、輸血用血液を飲んでも、ダメなの」 「ダメってのは?」 「満足できないのよ」 「飯食っても、腹がいっぱいにならないってことか」 「人に例えれば、そうね」 「どうして」 「私にもわからないわ」 「どうして自分が血を欲しくなるのか、それ自体がわからないんだから」 輸血用血液を飲んでも、欲求が満たされない。 その先にあるのは何か。 やはり、人間から血を吸うことなのか。 「なあ、瑛里華」 「これを言ったら、怒るとは思うけど」 「本当にヤバくなったら、吸ってくれていいんだぞ」 何かを考えるように、視線を落とす瑛里華。 「気持ちは嬉しいわ」 「だけど、吸ってしまったら私は……」 「でも、吸われても害はないんだろ?」 「それに、どうせ吸うなら、俺のを吸ってくれ」 「瑛里華が他人の血を吸ってるの想像すると……ちょっとな」 瑛里華を元気づけたくて、軽口をたたく。 「ありがとう」 瑛里華がベッドに戻ってくる。 掛け布団を上げ、彼女を迎え入れた。 「あったかい」 瑛里華が胸にしがみつく。 とても、小さく見える。 「前から聞こうって思ってたんだけど」 「卒業したら、屋敷に戻るって言ってたよな」 「ええ」 ぎゅっと身を縮こまらせる。 「それってどうしてなんだ?」 「なんの理由もなく屋敷に戻れなんて、おかしいだろ?」 「理由なんてないわ」 「強いて言えば、あの人がそう決めたからよ」 「あの人ってのは、親か?」 「ええ」 「そんなの無視しちまえよ。いくら親でもありえないだろ」 「無理よ」 「どうして? なんで諦める」 「そういう、しきたりなの」 「しきたりって、大昔だったらわかるけど」 「ごめんなさい」 それ以上の会話を拒絶するように、瑛里華は言った。 「……」 どうして黙ってしまうんだ。 俺にできることならなんでもしたい。 理不尽なしきたりなんか、ブチ破ってやりたい。 だけど、瑛里華にその気がなかったらどうしようもない。 もっと話を聞きたい。 屋敷に戻る条件があるなら、やりようはある。 どうしても条件を満たせないなら、最悪、駆け落ちみたいな手段だってあるかもしれない。 どうやったら話してくれるのか……。 孝平の寝息が聞こえる。 せっかくの夜なのに、自分は何をしているんだろう。 謝りたいことばかりが、胸の中に積もっていく。 こうして抱いてくれたというのに、ぬぐえない不安。 親しくなればなるほど高まる血への欲求。 先がないという裏切り。 自由になる条件はある。 でも、それを孝平に言うわけにはいかない。 結局は私のわがままだ。 「ごめんなさい」 小さく呟く。 「ん……」 孝平の優しい寝顔。 この優しさに救われて、守られて、ここにいる。 なのに彼を裏切り続けている。 どうすればいいんだろう。 そんなことは何度も考えてきた。 でも踏み出せない。 本当に意気地なしだ。 休養期間が終わり、文化祭の準備が再開された。 準備は忙しかったが、日々は充実感に満ちている。 自分の体調に気づかないくらい……。 「ごほっ、ごほっ」 「頑張るのはいいけど、体調崩してどうするのよ」 「病人に憎まれ口たたくことはないだろ」 「すまんな、口の悪い妹で」 「これでも、風邪の話を聞いたときには、大慌てしてたんだけどね」 「余計なことは言わなくていいの」 「ほら、あとは私に任せて」 「やれやれ」 会長を部屋から出そうとする瑛里華。 「あれだ、支倉君、頑張りすぎだよ」 「まあ、ゆっくり休んで、またバリバリやってくれ」 「了解です。すみません会長」 「いいっていいって」 軽く手を振って、会長は出て行った。 「大慌てだったのか」 「アホ」 「ぐほっ」 布団の上から腹をたたかれた。 「慌てるに決まってるでしょ、バカ」 ぷいっと顔をそらす瑛里華。 「すまん」 「でも、あれだぞ」 「風邪うつるし、瑛里華もそろそろ」 「大丈夫、私、病気にならないから」 瑛里華が肩をすくめる。 「あ、そうか」 「だから心配しないで」 「しっかり看病してあげる」 「悪いな。でも仕事は大丈夫か?」 「病人は、余計な気を回さないの」 「じゃ、ご飯作るね」 そう言って、瑛里華はテーブルに荷物を広げはじめる。 「レトルトでいいぞ」 「それじゃ寂しいでしょ。一手間加えるわ」 「ありがとう」 「いいのよ。その代わり、早く元気になって」 部屋に包丁の音が響いた。 どこからか、調理道具を調達してきたらしい。 なんか、嬉しいな。 俺は天井を眺めながら、その音に耳を澄ます。 幸せな気分になってきた。 「孝平さ、ちょっと頑張りすぎなんじゃない?」 「そうか?」 「みんなと同じくらいしか働いてないと思うが」 「夜、遅くまで起きてるでしょ?」 「文化祭のネタ考えなくちゃならないしな」 「結局、思いついたの?」 「だいたいは」 「へえ、どんなの?」 「秘密」 「瑛里華に驚いてほしいし、それに楽しんでほしいからな」 「あら、そう言われたら聞けないわね」 企画は俺の胸の中にある。 低予算で喜んでもらおうとすれば、大事なのはアイデアだ。 何日もかかって、ようやく「これぞ」ってのを思いついた。 「ま、楽しみにしててくれよ」 「ふふふ、そうね」 ふわりと、ネギの香りが漂ってくる。 「なに作ってくれるんだ?」 「ひ・み・つ」 やり返された。 「つっ!」 包丁の音がやむ。 手を切ったな。 「大丈夫かっ」 ベッドを飛び降りる。 「平気、ちょっと切っただけだから」 「見せてみろ」 「あ、ちょっと」 瑛里華の手を取る。 左手の人差し指から血が出ていた。 「いいのよ、すぐふさがるから」 「でも、痛かっただろ」 指をくわえようとする。 「だめっ!」 手を払われる。 「おっと」 「こういうの嫌だったか?」 「ご、ごめんなさい。そういうつもりはなかったんだけど」 「ほら、やっぱり血を吸うって、なんか意識しちゃうから」 「そっか。こっちも気がつかなくてすまん」 「あはは、じゃ、お互いさまってことで」 「ほ、ほら、もう血は止まったし」 指を見せてくる。 傷はもうふさがっていた。 「はい、病人は寝ててちょうだい」 「ああ」 言われたとおりベッドに戻る。 血を吸うのを嫌がってる瑛里華だから、血を意識してしまう。 ま、気持ちはわかるが……。 ちょっと釈然としない。 「できたわよ」 「おう」 しばらくして声がかかった。 ベッドを降り、テーブルへ向かう。 テーブルには、おかゆがあった。 「消化にいいかと思って」 「いまいち食欲なかったんだけど、これならいけそうだ」 なかなか手の込んだおかゆだ。 白かゆに、ほぐした鮭の塩焼きを載せ、溶き卵をかけ回してある。 レンジにでもかけたのか、卵はほどよく半熟だ。 その上に、たっぷりのアサツキと千切りの生姜が載っていた。 どれもこれも、学校では買えないものばかり。 街で買ってきてくれたのか……。 うれしさで胸をいっぱいにしつつ、レンゲを取る。 「遠慮なくどうぞ」 瑛里華が向いに腰を下ろす。 「じゃ、いただきます」 さっそく口に放りこむ。 「あつっ、おっ、ふっ」 「慌てないの」 笑われた。 今度はしっかり冷ましてから食べる。 鮭の塩気と、卵の甘み…… そして、生姜の香りが鼻に抜ける。 「うまい」 「そう、よかった」 瑛里華が頬杖をついて俺を見つめる。 眼を細め、とてもご機嫌な様子だ。 俺は、おかゆを次々と口に入れていく。 「うまい、うまいよ」 「おかわり、あるからね」 「ああ」 食べながら、ぼんやりと幸福感を覚えた。 自分がガツガツと食う姿を喜んでくれる人がいる。 それがどうして幸せなのか、自分でもわからなかったが── ただ、妙に幸せだった。 「しっかり食べて、早く治して」 これだけうまいもん食って、薬飲んで寝れば、絶対よくなる。 というより、気持ち的にはもう治っていた。 明日から、しっかり役員の仕事をしよう。 そう誓いつつ、おかゆをかき込む。 そんな俺を、瑛里華はずっと楽しそうに見ていた。 ぱちりと、扇を閉じる音がする。 言葉を発さぬまま、ただ何度も扇を開いては閉じている。 機嫌の悪い証だ。 「今日のお呼び出しは、どういったご用件ですか?」 ぱちり。 音だけで返事はない。 ……。 この人の呼び出しは、いつも突然だ。 こっちの予定などおかまいなし。 呼びたいときに呼び、用件が済めばすぐ追い出す。 そのくせ、こちらの呼びかけに応えることはない。 つまるところ、それが私たちの関係だ。 もはや悲しみも湧いてこない。 そう。 この人との間には、なんの感情もない。 何も、ないのだ。 「いいかげん、済ませてしまったらどうだ?」 唐突に言葉が投げつけられた。 「人間とのことですから、慎重にやりたいと思います」 「急いでは、し損じますので」 「貴様の考えなど、とうにわかっておる」 タバコの煙でも吐きだすように言った。 「あと1年半、ゆるゆるとやり過ごすつもりなのだろう?」 「いえ、そのようなことは」 ぱちり! ひときわ高く、扇が鳴った。 ……どうやら、この言い訳も限界らしい。 「最近は、ずいぶんと懇意にしているようだな」 「もう、抱かれたか?」 無意識に奥歯を噛んだ。 「ならば、考えることなどないではないか」 「さっさとその人間を眷属にすればよい」 眷属。 「どうして眷属なのですっ」 「吸血鬼が眷属を作ることに、なんの不思議がある」 「この時代に、眷属など必要ないでしょうっ」 「輸血用血液があるからか?」 「はい」 「貴様、あれがどこからともなく現われると思っているのか?」 「……」 「ま、それはともかくとしても、その人間を眷属にすることになんの不都合がある」 「貴様が懸想しているのなら、むしろ好都合だろう」 「彼は眷属にしません」 「他の誰かを探します」 「そう言って、今まで誰も眷属にしなかった」 「そもそも貴様は、はなから眷属など作る気がなかったのだろう?」 「そんなことは……」 「つくづく、出来損いだな」 「貴様のためを思って言っているというのに」 私のため? 何を、 何を言っているんだこの人は。 「どこが私のためだと言うのですっ」 「吸血鬼は眷属を持つものだ」 「兄さんは……兄さんは眷属を持っていないでしょう?」 「ヤツはよい」 「不公平です」 「言っておるではないか、お前を思ってのことだと」 「わかりませんっ」 「もうよい、貴様との問答は飽きた」 「期限を設けよう」 「それまでに、眷属を作らねば、館に戻ってもらう」 「話が違います」 「卒業までは置いていただける約束です」 「誓約を破ったのは貴様だ」 「母様っ」 「さて、期限はいつにするか」 だめだ。 何も聞いてはもらえない。 「お前、文化祭とやらにご執心のようだな」 ま、まさか。 「文化祭の前までに決めてもらおう」 「母様っ!」 「文化祭だけはせめて……」 「せめて今のままで、眷属ではない彼とともに過ごさせてください」 「お願いしますっ」 恥も外聞もなく頭を下げる。 文化祭だけは、 文化祭だけはやり遂げたい。 孝平の企画を見なくては── 「母様っ、お願いします」 「お願い、します」 「ほう」 ぱちり。 また扇が鳴った。 「期待には応えてくれるのだろうな?」 「は、はい、必ず」 「よかろう」 「ありがとうございます」 「ふん」 「一つだけ言っておくが、逃げれば男を殺す」 「っっ!」 殺す!? 孝平を殺す? いや、冗談ではないだろう。 この人にとっては、虫を殺すのも人を殺すのもたいして変わらないのだから。 「下がれ」 「は、はい」 夜だというのに、外気はぬるく、じっとりと肌にまとわりつく。 結局、こうなってしまった。 わかってたはずだ。 遠からず、こうなることは。 私はどうするべきだったのか……。 「べき」論なら答えは決まってる。 付き合うべきではなかった。 好きになるべきではなかった。 血を吸わず、眷属を作らず、あの人の言葉に抗い続けると決めたなら── 人と交わりなど持つべきではなかった。 愚かだ。 人ではない者の存在に驚いたのか、森の鳥が騒ぎ始める。 愚か者! 貴様は選択を間違った! 好きになるべきではなかった! 支倉孝平を不幸にしたのはお前だ! あざけりの声が私を包む。 「わかってるわよっっ!!」 「わかってるわよ……」 「そんなの……わかってるわよぉ……」 立っていられない。 地面にうずくまる。 目から溢れたしずくが、道にぱたぱたと落ちていく。 「ま、それはともかくとしても、その人間を眷属にすることになんの不都合がある」 「貴様が懸想しているのなら、むしろ好都合だろう」 好都合? 好きな人を血液タンクにして何が好都合か。 好きな人が、ずっとそばにいてくれるから好都合か? なぜそんなことが言える? 飽きるほど生きてきて、どうしてわからない? おかしい。 狂ってる。 好きな人を眷属になどできるわけがない! 「……」 彼が私を選んでくれるからこそ価値があるのだ。 時とともに通りすぎる無数の選択肢の中で、私を選んでくれるから喜びがある。 価値があるのは選択であり、結果じゃない。 選択肢を奪うことは、命を奪うに等しい。 揺らぎも自由もなくなれば、それは石と同じ。 そうだ。 初めから答えは決まっている。 考える余地などない。 「眷属になんて、しない」 立ち上がる。 もう、迷いはない。 ……。 そう言えば、一つだけあの人に感謝できることがあった。 次に会った時には伝えよう。 迷いを取り除いてくれてありがとう、と。 2学期が始まって二日。 9月とはいえ、日中の陽気は夏そのものだ。 「今日のホームルームでは、文化祭のクラス企画を決定してもらう」 「それじゃ文化祭実行委員、後は頼んだぞ」 そうか。 クラスはこれから準備を始めるんだな。 こっちは1学期から準備に取りかかってるし、頭の中はもう文化祭のことでいっぱいだ。 「孝平くんは、クラス企画に参加できるの?」 「俺はあっちがあるから難しいと思う」 「そっか、残念」 「でも、絶対見に来てね」 「ああ、わかった」 今回は、全来場者を対象に「気に入った企画アンケート」を実施する予定だ。 もちろん、ベスト3には商品が出る。 うちのクラスには頑張ってほしいな。 文化祭実行委員の仕切りで、会議が進んでいく。 いつものホームルームとは違い、なかなか白熱している。 「……ああ、まだやってんのか」 いつもなら最後まで寝ているヤツも、途中で目を覚ますくらいだ。 「喫茶店に決まりそうだ」 「またか」 「だから、なんかヒネリを入れようって話になってる」 「あそ」 「ところで、例の件、いけそうか?」 「任せろ」 「あそこは寿司勝の常連だ。顔は通ってる」 「頼むぜ」 「へいよ」 「孝平くん、なんか意見ない?」 「俺はクラス企画には参加できないって」 「意見出すくらいならOKだよ」 「むしろそこで貢献してみるとか」 「まあ、そうか」 「ということで、○○喫茶に当てはまる言葉を考えて」 「じゃあ……」 教室をぐるりと教室を見回す。 なんかネタはないか? 紅瀬さんが小説を読んでいる。 「激辛喫茶……とかな」 「支倉が激辛喫茶だってさ」 いきなり挙手する司。 「おいこら、冗談だって」 「孝平くん、盛り上がってるよ」 「はあ!?」 「しかし、どういう喫茶だ?」 「知らん」 「とても辛いのよ」 まあ、字面通りなら。 「紅瀬さん、もしかして乗り気?」 「激甘よりは」 「何が辛いのかな?」 「タコヤキに外れがあるとか」 「ああ、あるあるそういうの」 メモり始める陽菜。 こんな光景が、教室のそこかしこで展開されている。 「名前勝ちだな」 「どういう内容か、想像したくなるもんね」 「サドンデス」 「物騒なこと呟くな」 「そういう調味料があるのよ」 「食えるのか?」 「即死するわ」 「ストレートなネーミングだな」 「サドンデスという調味料……と」 それもメモるのか。 放課後。 「あのさ、孝平のクラスの企画なんだけど」 さっそくまとめられた企画一覧に目を通し、瑛里華が言う。 「そういうことになった」 「なになに……『激辛喫茶HASEKURA』」 「なんだそれは?」 「俺が聞きたいくらいです」 「当日、クラスにいないでしょ? なんで名前入ってるのよ」 「発案者だから」 「人がいいとか言われない?」 「たまにな」 「ま、私と付き合ってる段階で、お人好しか」 「お前たち、付き合ってたのか!」 「どういうタイミングですか」 「でも、面白そうな喫茶店ですね」 白ちゃんがお茶を出してくれる。 「ま、うちのクラスなら、きっと盛り上げてくれるさ」 「ところで、白ちゃんのクラスは何やるの?」 「演劇です。島にまつわる昔話を題材にしたものだそうで」 「夏休みから練習していたようです」 「気合い入ってるな」 「はい。お手伝いできないのが心苦しい限りです」 「気にするなって」 「俺たちはこっちの仕事を精一杯やればいいさ」 「ええ、それが文化祭全体の成功につながるんだから」 「そうですね、わかりました」 白ちゃんは、しっかりとうなずいてくれた。 「そう言えば、支倉にはまだ言っていなかったな」 「俺と白は文化祭の2日目に参加できない」 「え? どうしてまた?」 「どうしても外せない家の用事があってな」 「東儀さんちは、珠津祭の運営をやらなきゃいけないんだ」 「珠津祭?」 「2日目に、島の神社で開かれるお祭りよ」 「文化祭が終わってから夏祭りの夜店に行くのが、ウチの生徒の王道パターンだね」 「文化祭で女の子を見つけて、祭りで決める、という寸法さ」 「たしかに、安定の流れですね」 「孝平は参考にしなくていいから」 じとっとにらむ瑛里華。 「しないさ、当たり前」 「よろしい」 「ともかく、東儀家は朝から祭りの準備をしなくてはならない」 「月曜の後片づけには参加できるはずだ」 「すまんが、よろしく頼む」 「わかりました」 「ところで、孝平の企画、まだ動いてないみたいだけど」 「そうそう、俺も心配してたんだ」 「大丈夫です」 「ならいいけど……」 「心配するなって、水面下で動いてるから」 というか、水面下じゃないといろいろヤバかったりする。 事前に漏れると、中止されるかもしれない。 「いやにもったいぶるじゃないか」 「サプライズが大事ですから」 「楽しみにしてるわよ」 「ああ」 「いやぁ、ようやく盛り上がってきたぞ」 「9月に入ってからの2週間は、毎年あっという間に過ぎるからね」 「悔いの残らないよう頑張っていこうじゃないか」 「もちろんです」 「ええ、頑張りましょう」 「はいっ」 文化祭が迫ってきた。 休み時間や放課後の話題は、もっぱら文化祭。 少しずつ、学内にお祭りムードが広がっていた。 放課後の監督生室では、日々、書類との格闘が続いていた。 今日は飲食物を販売する企画のチェックだ。 まとめて保健所にチェックしてもらわなくてはならない。 「6年2組は、海の男料理『マリアナ海溝』」 「マリアナ汁と、深海よりの使者……」 「なんだよ、深海よりの使者って」 「イカ焼きみたい」 「非加熱の調理品はないわね」 「イカが危ないかもしれないな」 「ええ、チェックをお願いしましょう」 「こっちは、『あなたの知らないコスプレ喫茶』」 「街のケーキ屋から買ったものを出すだけだな」 「孝平は、コスプレとか好き?」 「ものによる」 「つーか、いきなり変なこと聞くな?」 「ものによるってのが、なんか研究してる感じよね」 うんうん、うなずいている。 「中身によるよ」 「私だったら、どんなのが似合うと思う?」 「瑛里華だったら……」 瑛里華を見てみる。 自分の彼女ながら、いつ見てもかわいい。 美人は三日で飽きるというが── 瑛里華には、ずっと飽きないんじゃないかと思う。 「目がいやらしい」 「やかましい」 「ともかく、瑛里華だったらなんでも似合うさ」 「ありがと」 「でも、なんか釈然としないわね」 「釈然としないのはこっちだ」 「君たち、子供の前でそういう会話は控えてくれ」 「あの、なぜわたしの肩をつかむのですか?」 「子供だからだろう」 「は、はい……しゅん」 「大丈夫、まだまだ成長期なんだから」 「そ、そうですね」 「白を慰めて、いい人のフリをしても遅い」 「君たちのようなのを、世間ではなんというか知っているかい?」 「なんです?」 「バカップル」 「ええっ!?」 「うそっ!?」 「本人は気づかないものだな」 「ともかく、今夜のコスチュームの相談など、二人だけでしてくれ」 「でなければ俺も混ぜろ」 「そんな相談してませんから」 「もういい、書類を片づけるのが先だ」 「わかりました」 「それが終わったら、消防に提出する書類を作ってもらう」 「うす」 再び書類に向かう。 衝撃の事実だ。 俺たちがバカップルだったなんて……。 いや、ちょっと待て。 もし俺たちの未来が限られているなら、ちょっとくらいバカでもいいだろう。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 司からのメールだ。 『下にいるから、来てくれ』 と書いてあった。 「ちょっと出てくる」 「どこいくの?」 「友達が来てるんだ、すぐ戻る」 「友達……」 「そんなところにまでヤキモチか?」 「そんなわけないでしょ」 「まったく……」 「待たせたな」 「おう」 「例のものは、それか?」 「ああ」 司の足下にはダンボールが2つ。 文化祭特別企画用のアイテムだ。 「軽いから持ち運びは簡単だ」 「じゃ、こいつは監督生棟に置いておく」 「しかし、どうやって屋上に入る?」 「それは考えてある」 「そうか、ならいい」 「ここまで運ばせて悪かったな」 「司には面倒かけてばっかだ」 「今回は、昼飯2回だな」 「2回でも3回でもいいさ」 「じゃ、当日の動きはまた連絡する」 「おう」 ポケットに手を突っこんで、司が去っていく。 さて、ダンボールの隠し場所だが……。 そういや、1階に倉庫があったな。 「あー、終わったー」 「今日は書類多かったな」 時刻は午後8時33分。 黙々と作業してもこの時間だ。 部屋にはすでに、俺と瑛里華しかいない。 「征一郎さん、さらりと消防の書類追加したしね」 「なるべく仕事を引き継ごうとしてるんだろう」 「でしょうね」 「来年のためにも、しっかり覚えないとな」 「……ええ」 「あの二人みたいな名コンビを目指そう」 「わかったわ」 にこっと笑う瑛里華。 「さて、そろそろ帰るか」 「ええ、時間ね」 何事もなかったように、テーブルを片づける。 1分も経たずに、片づけは終わった。 「鍵は?」 「私持ってる」 「よし」 「じゃ、出よう」 「ねえ孝平?」 「ん?」 「手をつないで帰ってもいい?」 おずおずと手を差しだす瑛里華。 「もしかして、バカップルって言われたの気にしてるのか?」 「まあ、それなりにね」 「いいだろ、バカップルでも」 瑛里華の手を取り、指を絡める。 「そうね」 彼女が満足げに笑う。 「よし、帰りましょ」 文化祭は明日に迫った。 今日は授業がなく、全校挙げて文化祭の準備に取り組んでいる。 監督生室は、文化祭終了までは作戦本部扱い。 朝からひっきりなしに役員や実行委員が出入りしていた。 「孝平、4年4組で暗幕が足りないって言ってる」 「了解、持ってく」 「片づけてきたぞ」 「ごめん、次は視聴覚室に行って」 「蛍光灯が切れてるらしいの、2本ね」 「換えを持ってくよ」 「出店関連で、機材が届いてないらしいわ」 「任せとけ」 「校舎に野良犬が迷い込んだって」 「……わかった」 「はぁ、はぁ、はぁ……次は?」 「お茶飲んで」 「さんきゅー」 ちなみに、時刻はまだ午後1時。 テーブルの上には、ペットボトルのお茶と紙コップが多数。 大きな皿が2つあり、おにぎりも準備してある。 「悪いわね、孝平ばかり働かせて」 「いや、誰かいないとまずいだろ」 監督生室の電話は、臨時で文化祭実行委員の本部用の電話となっている。 番号が各実行委員に知らされており、トラブル対応の窓口になっているのだ。 いつ電話がかかってくるかわからないから、誰かが常駐しているのが望ましい。 「ま、力仕事ばっかりだし、俺に任せておけって」 「頼もしいわね」 「おかげで、今年はかなり楽だわ」 「去年はもっとすごかったのか」 「まあね、犬は迷い込まなかったけど」 「さっきの犬、むちゃくちゃでさ、どんどん校舎の奥に行くんだよ」 「外に追い出すのが一苦労だった」 「あはは、ホントお疲れさま」 瑛里華が組んでいた足を入れ替える。 汚れ防止のため、今日は生徒全員が体操服。 つまり、瑛里華の動作は非常に危険だ。 「やっぱり、体操服とか好きなんだ」 書類に目を落としたまま、瑛里華が言う。 「女は視線に敏感なの」 「ふっ、なんのことかわからんな」 「ま、いいわ」 「そういや、他の人は?」 「征一郎さんは、商店街でビラ配りの準備」 「白は礼拝堂を使う企画の手伝い」 「会長は?」 「兄さんは……激励」 「なんだそりゃ?」 「校舎をまわって、みんなを激励するの」 「一応、それなりに必要な仕事ではあるのよ、不本意ながら」 「盛り上げるって意味では重要だな」 「まあね」 そのとき、監督生室の電話が鳴った。 「はい、監督生室」 「はい、はい」 電話をしながら、用件をメモしていく瑛里華。 このメモをあとでデータ化し「よくあるトラブルリスト」を作る。 次回以降の文化祭運営に役立てるのが狙いだ。 「では、すぐに向かいますので」 瑛里華が電話を切った。 「なんだって?」 「屋上から垂れ幕をぶら下げるから、手伝ってくれって」 「じゃ、ちょっと行ってくる」 こうして、短い昼休みは終わった。 放送委員会の仕事を終えた後、さらに3つの仕事。 監督生室に戻ったころには、日が暮れていた。 「お疲れ、全部片付いたよ」 「お帰りなさい」 瑛里華が立ち上がる。 紙コップにお茶を注ぎ渡してくれた。 「サンキュー」 一気に飲み干した。 「ふぅ、うまい」 「結局、一日中動きっぱなしだったわね」 「まあな」 もう一杯、注いでくれた。 「でも、みんな喜んでくれてやりがいがあったよ」 「それに、どこも一生懸命やってるからさ、自然と手伝おうって気になるし」 「わかるわ」 「準備する側としては、それが一番よね」 嬉しそうに微笑む瑛里華。 「ところで、みんなは?」 「さっき電話があって、兄さんと征一郎さんは遅くなるって」 「商店街の人と盛り上がっちゃったらしくて」 「どうやって盛り上がるんだ?」 「おおかた兄さんが何かやったんでしょ」 「あの人、なぜか年配の人にも人気あるのよね」 「白ちゃんは?」 「礼拝堂の仕事でバテちゃって、先に帰したわ」 「相当ハードだったみたい」 「ま、仕方ないな」 「二人が帰ってくるまで、のんびりしてよう」 「ええ」 俺たちは、並んで椅子に座る。 「そうだ、肩こってない?」 「だいぶキてる」 「揉んであげる」 瑛里華が立ち上がり、俺の背後に回る。 「痛かったら言ってね」 「ああ」 ふかっとした手が肩に載る。 「松竹梅どれがいい?」 「松」 「よくばり」 くすっと笑って、瑛里華が手を動かす。 「あ、けっこうこってる」 親指がいいところを押してきた。 「おお、そこそこ」 「強さは?」 「ちょうどいい」 最初は肩回り。 そのうち背中に下がり、また肩に戻ってくる。 「瑛里華って、尽くすタイプだよな」 「そう? 意識したことないけど」 「海でもマッサージしてくれたし、風邪ひいたときは飯作ってくれたし」 「尽くそうと思ってやったことじゃないし」 「それが尽くすタイプってことだ、きっと」 「じゃあ、そういうことでいいわ」 「言っとくけど、孝平にだけだからね」 「さんきゅ」 「ところで、松竹梅ってのはなんだったんだ?」 「松コースはこれがついてくるの」 肩を揉んでいた手が、胸に下りてくる。 「お、おい」 手が腹まで来た。 それ以上、下りると……。 「ざーんねんでした」 瑛里華の腕は、俺の胸の前でクロスされた。 ぎゅっと後ろから抱きしめられる。 「尽くすタイプだと思ってたんだけど」 「そう期待通りにはいかないわよ」 優しく言って、腕に力が込められた。 柔らかな胸は、当然、俺の背中に押しつけられている。 瑛里華は、そのままじっと動かない。 密やかな呼吸音だけが、耳に入ってくる。 「もしかして、何かあったか?」 「……別に」 「これが私にとっての癒しなの」 「……そっか」 気のせいだったらしい。 「だったら、続けてていいぞ」 「うん、ありがとう」 と、さらに強く抱いてきた。 瑛里華の手に触れる。 しっとりと汗ばんで、少し冷たい。 「私さ、自分がこんなに寂しがり屋だったなんて思わなかった」 「気づいてた」 「バレてたか」 「毎晩、自分の部屋に帰るたびに不安でどうしようもなくなるの」 「ひどいときは授業中も」 なんとなく、瑛里華が肩を揉んでくれた理由がわかった。 おそらく、面と向かっては言えなかったのだろう。 「俺だって似たようなもんさ、いつだって会いたい」 瑛里華の手を強く握る。 「うん、ごめんね」 「謝るなよ。俺は嬉しいから」 声のする方に首をひねる。 そこはすぐ、瑛里華の顔だ。 「瑛里華」 「ん……ちゅ……」 唇が重なる。 すぐに舌が絡む。 ぴちゅっ、くちゅっ、ちゅぱっ 瑛里華の動きがいつもより激しい。 彼女の舌が俺の舌をねじ伏せ、口内をくまなくなぞっていく。 「くちゅっ……んっ、ちゅぱっ、んふ……」 瑛里華がうつむき加減なせいか、彼女の唾液が流れ込んできた。 甘い感覚が、口の中いっぱいに広がる。 瑛里華……。 声に出せないから、頭の中で彼女の名を呼ぶ。 こうしているだけで、胸の中に愛しさが溢れていく。 「ちゅ……ぷはっ」 唇が離れた。 「はぁ……はぁ……」 瑛里華は、息も整えようともせず俺を見ている。 俺も見つめ返す。 それ以外、何もしない。 ただ、時計の秒針だけがカチカチと時を刻む。 「この姿勢、疲れるでしょ」 と、瑛里華が俺の正面に回り、膝の上に横から座った。 そして、俺の首に腕を絡める。 「続き、しよ」 「この格好で?」 「いいじゃない。記念よ」 なんの記念だよ……、 とつっこむ前に、瑛里華がキスをしてくる。 瑛里華の舌が口に滑り込んできた。 「んちゅっ……んっ、孝平……」 瑛里華の舌の動きは、愛撫の範囲を越えていた。 唾液を流し込みながら、ひたすら舌を暴れさせている。 溢れた唾液で、俺の顔が濡れていく。 「くちゅっ……ちゅっ、好き……孝平……」 目をつむり、うわごとのようにしゃべる瑛里華。 完全に自分の世界に入っている。 今日の瑛里華はすごいな。 さりげなく胸に手をやりながら、俺も舌を動かす。 「んんっ、胸っ……あっ、くちゅっ」 「触っちゃ……あっ、ああっ……ぴちゅっ」 何回か体を重ねた経験から言うと、おそらく瑛里華は胸が弱い。 胸を触るとすぐにテンションが上がるのだ。 体操服の上から包むように乳房を揉みしだく。 「んあっ……やだっ、ああっ、あっ、あっ」 「くちゅっ、ぴちゅっ、あっ……くちゅっ」 喘ぎながらもキスをやめない瑛里華。 口の端から液体が溢れている。 とんでもなく刺激的な表情だ。 「ああっ……んっ、くちゅっ……孝平っ」 俺に覆い被さるように体重をかけてくる瑛里華。 椅子がギシギシと悲鳴をあげる。 アンティークものだけに、ちょっと耐久力が心配だ。 「瑛里華、ちょっと」 瑛里華を少し持ち上げる。 「どうしたの?」 「机にうつぶせになって」 「え、キスは……」 「姿勢変えてから」 瑛里華を脚から下ろす。 背中を向かせ、上半身をテーブルに倒す。 上から覆い被さり、瑛里華の唇を目指す。 「う……ちょっと、重いかも」 「すまん」 どこうとする俺を瑛里華が止める。 「いいよ……なんか安心する」 「なら、このまま……」 腕を机について体重を分散させつつ、瑛里華にキスをする。 待ちかねたように瑛里華が舌を伸ばしてきた。 「くちゅっ……んっ、んあっ……んんんっ」 「瑛里華……今日はいやらしいな……」 「いつもと……くちゅっ……同じ、だってば……」 「そう?」 「そう」 「もう、余計なこと言わないで……くちゅっ」 吸い付くように俺を求めてくる。 応えるように舌を瑛里華に差し入れ、中をかき回す。 溢れた唾液が、テーブルに垂れていく。 「んっ、んあっ、んっ……くちゅっ、ぴちゅっ」 興奮で体温が上がっているのだろう。 瑛里華から強く香りが立ち上る。 花のような香りに、頭がぼーっとしてくる。 「うん……くちゅ……ちゅっ、ぴちゅ……」 ぴちゅっ、くちゅっ、ぬちゅっ くちゅ、ぴちゅっ、ちゅっ 夕暮れの監督生室に湿った音が響く。 昼間はたくさんの人が出入りしていた空間。 そこで俺たちは情事に及んでいる。 背徳感が興奮へと変換されていく。 俺は、キスをしたまま胸に手を伸ばした。 「うっ……あっ、あっ……やっ……」 二つの膨らみをつかむ。 瑛里華の唇が離れ、喘ぎが漏れる。 「やめるなって」 再び口をふさぐ。 同時に胸を揉みしだく。 「くちゅっ、ちゅぱっ……ああっ……んぐっ、ぅちゅっ」 「ちゅっ……あああっ……やっ……くちゅっ、んんっ」 喘ぐ瑛里華の口を執拗に追いかける。 「あああっ、んちゅっ……やっ……くちっ」 喘いではキスをし、キスをしては喘ぐ。 おぼれた人が必死に呼吸しているようだ。 俺はキスをやめ、胸に集中する。 服の上から先端とおぼしき位置をおおざっぱにつまむ。 「ひゃああっ……ああっ、やああああっ!」 口を解放された瑛里華が、大きな声を上げる。 「声、エロいぞ」 瑛里華の耳元でささやく。 「ば、ばか……そんなこと……ないって……んあっ」 そう言われると、もっと声を聞きたくなる。 乳首をつまんだまま乳房全体を揺する。 空いていた舌は、瑛里華の耳の穴に差し入れる。 「やっ、ちょっと……んあっ、あっ、あっ」 「耳は……あああっ……んんっ、胸っ……んんっ」 どっちに反応していいか、わからないらしい。 「こっちもしてみるか?」 「え……ど、どこ……」 不安そうな声。 「ここ」 片手をお尻に持って行く。 下へ滑らせ、秘所に触れた。 「うくっ」 瑛里華が震える。 指先でブルマをくすぐる。 「やっ……くすぐったい……あっ、んっ」 くすぐったいだけではない声がした。 「嫌ならやめる」 「くっ……ああっ……バカ……」 やめないでという意味に解釈し、中指をクリトリスの位置に当てる。 爪側で激しくこする。 「うあっ、だめっ……」 「そこ、敏感……だから……んんっ、くっ」 瑛里華の背中がぴくぴくする。 親指も膣口付近に添えた。 もう一方の手で乳首を重点的に攻めていく。 「やああっ……だめっ、だめっ……あああっ、あっあっ……」 「孝平っ、やっ、そんなっ……あああっ……あぁぁっ」 「ほんと……もう……いっちゃ……ああっ、んあっ、くっ」 「だめっ、いく、いっちゃ、いっちゃう……ああああああああぁぁっっ!!」 あっという間に瑛里華が上りつめる。 「あ……あ……っ……」 寄せる快感に体を震わせ、身を縮める。 こんなに反応してくれると、かなり嬉しい。 「いった?」 「う……っ……ん」 首だけ振っている。 「じゃ、見せてね」 「え……な、なに……」 ブルマに手をかけ横にずらす。 下着と性器の間に糸が引いた。 べっとりと濡れたそこは、絶頂の余韻にひくひくしている。 「ちょっと……あんまり見ないでよ……」 「いつも見てるだろ」 「こんな姿勢じゃ……」 瑛里華はお尻を突き出している。 脚の間のそれを隠す術もない。 「場所もアレだしな」 「や、やだ」 「いつもみんながいるところで、下だけ見せてるんだぞ」 「言わないでよ……」 脚をもじもじ動かす。 秘唇がこすれ、蜜がにじむ。 みだらな光景に、トランクスの中でペニスが硬くなる。 「さ、続きな」 指を秘裂に当て、ゆっくり上下させる。 「あっ、あっ……んあっ……」 さっそく声が出る。 指に愛液がなじんだところで、指先を蜜壺に埋める。 くちっ 「あっ……う……」 第二関節まで差し込む。 少しだけ指を曲げ、お腹側の壁面をこすりながら出し入れする。 「うあっ……やっ、だめっ……ああっ、んっ」 「んああっ、ああっ……すごく……あっ……ああああっ」 「すごく、何?」 「知らない……知らないから……ああっ」 ちゅっ、にちゅっ、くちっ 自分の指が瑛里華の中に入っては出てくる。 かき出された愛液が手のひらにたまっていく。 「どんどん溢れてくるぞ」 「だから……報告、しないで……よ……」 「ああっ、いやっ……ああっ、あ、あ、あ、あ……んぅっ」 何かに耐えるように首を振る瑛里華。 もう少し刺激を加えてみよう。 俺は上着に手をかける。 「やっ……いきなり……」 抗議される前に、指の動きを速める。 「やああああっ、だめっ、速いっ……んあっ」 乳首はブラ越しにわかるほど尖っていた。 指の腹で押しつぶす。 振動させる。 つまむ。 「あああっ……そこっ、くっ……だめっ……」 「おかしくなっちゃう……よ……こう、へい……」 「直接触るぞ」 「だめって……言ってるのに……」 抗議は無視してブラをたくし上げる。 形のいい乳房が、待ちかねたように外に出た。 間髪入れず、乳房を手で包む。 「んっ……あ……」 汗で濡れた乳房はしっとりと温かい。 指の間からこぼれそうなそれを、もみほぐすようにマッサージする。 「あ、あ……んっ……孝平……あっ」 「痛くない?」 「うん……気持ち、いいよ……あっ……うっ」 「こっちは?」 蜜壺に入れた指。 手首をひねり、いろんな方向をこする。 「やっ……あああっ、あ、あ、ああ……」 「だめっ、あっ……」 逃げようとしているのか、瑛里華がお尻を動かす。 だが、この姿勢ではどうしようもない。 むしろ、こすれる場所を増やすだけだ。 「二本にしてみる?」 「え、に、二本は無理だって……」 指二本よりは、俺の分身の方が太い。 つまり入るということだ。 人差し指と中指をそろえ、 ぬちゅ。 ゆっくりと差し込んでいく。 「う……あ……あ、あ、あ、あ」 指の付け根まで、あっという間に飲み込まれた。 「入ったぞ」 言いながら、指を前後させる。 「う、うそ……あ、あっ、ああっ」 「ああっ、だめっ……あああっ、いやっ……あああっ」 声が艶を帯びる。 緩急をつけて指を動かしながら、もう一方の手で乳首をつまむ。 「ああっ、あっ、あっ、……だめっ、孝平っ」 「同時にされたら……あっ、んんっ、ああっ……」 「やっ、あああっ、あ、あ、あ、あ……んあっ、だめっ……」 瑛里華が身を縮める。 もうすぐだ。 「ああっ、またっ、私またっ……」 「あああっ、いっ、いく……だめっ、いくっ、いくっ」 「んんっ……あ、あ、あ、あ……あああああああぁぁぁぁっっっっ!!!」 瑛里華の体が硬直した。 蜜壺に入れていた指がぎゅっと締め付けられる。 「あ……あ……あ……」 内腿がぴくぴく痙攣している。 「はぁ、はぁ、はぁ……あ、ん……」 瑛里華がテーブルの上でぐったりした。 荒い息に背中が上下する。 俺の指で瑛里華が良くなってくれるのは、けっこう嬉しい。 さて、そうすると後は…… 自分の下半身に目をやると、もう準備は整っていた。 体操服とトランクスを下ろしペニスを露出させる。 勢いよく天井を指していた。 愛液でどろどろになった手で、潤いをなじませる。 「瑛里華、俺もいいか?」 「ん……いい、よ……」 まだ絶頂の余韻の中にいる瑛里華が、ぼんやりした声で応える。 「じゃ、するぞ」 俺は秘裂を指で押し広げた。 蜜壺からトロリと蜜がしたたる。 「見ないで……」 秘孔の上にあるつぼみが、きゅっと縮まる。 ほとんど色素の沈着がなく、きれいなままだ。 ちょっと指先でつついてみる。 「ひゃうっ!」 「だめっ、そっちは違うから……」 「どこがいい?」 「ほら、下の……」 「ちゃんと教えて」 「バ、バカ……」 「手で教えてよ」 「やだもう」 言いながら、瑛里華は手を後ろに伸ばした。 俺のペニスをつかむ。 「おっ」 そうきたか。 「こ、ここだからね」 亀頭を膣口に誘導する。 「ここ?」 少し突っつく。 瑛里華がもじもじと腰を揺らす。 「そ、そこ……ねえ、孝平……」 「わかってる」 一気に半分くらいうずめる。 「ひゃうっ……あっ……」 瑛里華の背中が反り上がる。 すぐに抜いてしまう。 「え……こ、孝平……」 「ああ」 再び中程まで突き入れる。 「んあっ……くっ……」 腰をグラインドさせる。 奥までは入れず亀頭だけを出入りさせていく。 「ああっ、んっ……孝平……奥まで、入ってる?」 「ん、まだ」 「奥まで入れる?」 「え……う……好きに、して」 入れて欲しいようだ。 「自分で動いてみて」 「う……」 言葉に詰まる瑛里華。 しかし、ゆっくりとお尻をこちらへ突き出した。 俺は動かない。 瑛里華が近づいてきて、じゅぷりとペニスを飲み込んでいく。 「あ……あ……う……」 俺の腰と瑛里華のお尻がぶつかる。 今度は瑛里華が遠ざかっていく。 結合部から、ぬらぬら光る男根が現れる。 「もう少し速く」 「う、うん……」 「んっ、あっ……あっ……ん……」 瑛里華が腰を揺する。 棹がきゅっきゅと刺激され、しびれるような快感が腰を包む。 「上手だ」 「俺も手伝うな」 さっきよりは速度を上げてペニスが出入りする。 「あっ、あっ……んっ……いい……孝平っ」 「んっ……好きっ……ああっ、あっ、あっ」 ぬちゅっ、くちゅっ、ずちゅっ 愛液が白く濁ってきた。 「う……あ……んっ……」 瑛里華の動きが速くなる。 「気持ちいいぞ」 「うん、良くなって……私も、いいから……」 「孝平をよくしてるって思うと……あっ……んっ」 「すごくね……嬉しいの……ああっ」 瑛里華の言葉に嬉しくなる。 「瑛里華」 瑛里華の腰を押さえた。 そして、 一気にペースを上げる。 「あああっ……んっ、あああっ、あんっ、あんっ」 「やっ、孝平っ、いいよっ……あっ、あっ、あっ」 肉がぶつかる音が響き、結合部から液体が飛び散った。 「くっ、あっ、すごいっ……孝平っ、もっと、もっと強くしてっ」 「私に、ぶつけて、あっ、あああっ、孝平っ、孝平っ」 痛切な声を上げる瑛里華。 胸がぎゅっと痛くなるような言葉だ。 「いくぞっ」 がむしゃらに腰をたたきつける。 肉がぶつかる振動が瑛里華の体を走り、乳房がぷるぷる震える。 そこを手で握る。 力を加減できる状態じゃない。 「ひゃうっ……あああっ、ああっ、んんっ……いいよっ」 「孝平っ……あああっ、くっ……好きっ、好きっ」 声に快感がにじんだ。 渾身の力で腰を振る。 ずちゅっ、くちゅっ、ぬちゅっ! 激しい水音があがる。 溢れた愛液が床に飛び散った。 「孝平っ、孝平っ……あああっ、だめっ」 「すごく、すごく、感じて……あああっ、孝平っ、ああああっ」 「もうっ、私、いって……いっちゃ、う」 「遠慮するな……いって、いいぞ……」 こっちもヤバい。 いつ達してもおかしくない状況だ。 「瑛里華……」 両手で乳首をつまむ。 「あああああっ、だめっ、だめっ……ああああっ」 瑛里華が震える。 ペニスがこすられ、甘い刺激がわき上がる。 「俺もいくぞ」 「うんっ、一緒……一緒にいって、孝平っ」 「ああっ、んんっ、もうっ、私……私、いくっ、あっ」 「いっちゃう……孝平っ、一緒に来てっ」 「あああっ、あっ、ああああっ……あ、あ、あ、あ、あ」 「いっちゃ……う……あああっ、ああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」 こっちも限界だ。 どくどくどくっ! ペニスが爆発した。 びゅくっ、どくっ!! 瑛里華の上に、精子が次々と降りそそぐ。 「っ……あ……ああ……」 「っっ」 走り抜ける快感に目の前が真っ白になる。 射精後の脱力で、瑛里華の上に倒れこみそうになる。 テーブルに手をつき、なんとか身体を支えた。 「う……く……」 「気持ち……よかった」 「うん……私も……」 顔を伝って落ちた汗が、ぱたぱたと瑛里華の上に落ちていく。 「汗かかっちゃって……悪いな」 「いいよ」 瑛里華が手を伸ばし俺の汗をぬぐう。 そして、それを口に入れてしまった。 「お、おい」 「ふふ、しょっぱい」 「こら」 お返しに瑛里華の首筋をなめる。 「あはは……くすぐったいって」 「瑛里華もしょっぱいぞ」 「こ、こら、そういうこと言わないの」 恥ずかしそうに身をよじった瑛里華を、背中から抱きしめる。 酸味と甘味が混じった香りが鼻腔をつく。 交わった証の匂いだ。 「抱かれてると安心する」 うわごとのような声が聞こえた。 「俺も、こうしていると安心するよ」 「そう……そうね」 瑛里華の声は、わずかな愁いを帯びていた。 抱きついているせいで顔は見えないが── もしかしたら、つらそうな顔をしているのかもしれない。 「ねえ?」 瑛里華の手が俺の股間に伸びてきた。 「さっきから、お尻つついてるんだけど?」 「おっと」 言われてみれば、まだ硬度を失っていない。 愛液で光る肉棒。 それを瑛里華の手が包み、にぎにぎと刺激を加えてきた。 「元気元気」 「おい……」 「生徒会役員のくせに、悪い子ね」 「お互いさまだ」 「どうしたい?」 亀頭を指がくるくるこねる。 「そりゃ……決まってる」 瑛里華の瞳が怪しく揺れた。 「じゃあ、床に寝て」 「ああ」 期待でドキドキする。 いったい何をしてくれるのか……。 背中が床に触れる。 ちょっと固いが、そんなことより目の前の光景の方が気になって仕方がない。 俺の腰の上に瑛里華がまたがっていた。 「してあげるね」 瑛里華が自ら股間の布地をずらす。 先ほどまで、俺が出入りしていた部分があらわになった。 「これが」 瑛里華の白い指が、男性自身を持つ。 「ここに」 瑛里華の腰が下り、亀頭と膣口の距離が縮まる。 先端がわずかに触れる。 そこで、瑛里華の腰が止まった…… 「??」 と、思ったら前後に揺れ始めた。 ぴちゅ……ぬるっ…… 「うおっ」 ぬるぬるとした感触が、亀頭や裏筋をこする。 いよいよ怒張するそこは、熱源目指して今にも飛びだしていきそうだ。 「瑛里華……じらすなよ……」 「入りたい?」 わかりきった質問をしてくる。 答えなんてわかってるくせに。 「今すぐ」 「ちゃんと言って」 「瑛里華の中に入りたい、今すぐ」 「よくできました」 ずりゅ、ぬりゅ…… 「あ……ん……」 ゆっくりと埋没していく。 充分に濡れそぼった壁面が亀頭を包み、ぬらぬらと絞り上げる。 「ふう、あう……入った?」 うっとりと瑛里華が言う。 「ああ……溶けそうだ」 「ふふふ、溶けるのは……まだ、早いからね」 言うなり、瑛里華の腰が石臼のように円運動する。 適度に締められたペニスが、全方位からこすられ、吸い上げられていく。 「くっ」 思わず腰が動く。 「気持ちいいと、そういう顔するんだ」 「知るかよ」 平静さなど装えない。 肉棒が熱い蜜に溶けていかないようにするので必死だ。 「んっ……せいぜい、頑張って……ああっ」 「孝平、硬くて熱い……」 「こうやってされる方が、好きなの?」 「だから……知るかって」 「ふふっ、態度、悪い……よ」 腰の動きが速くなった。 膣口から溢れた蜜を潤滑油に、瑛里華の腰が股間の上でグラインドする。 「ふあっ、ああっ……んっ、孝平……」 「中が、熱い……熱くて、なんか、じんじんしてくる」 ぬりゅ、ずりゅ 挑発的な目で俺を見据えたまま、瑛里華は腰を動かす。 「瑛里華……いやらしい動きしてるぞ」 「そんなこと……ない」 「孝平の方が、エッチな顔してる」 「ああっ、くっ……うっ、あああっ……ん、んんっ」 瑛里華の動きがまた少し速くなる。 円運動に、上下への動きも加わってきた。 「ほら、自分で動いてるじゃないか」 「し、知らない」 「勝手に動いちゃうんだから……仕方ないでしょ」 言いながら、快感に眉をゆがめる瑛里華。 「そうか?」 ちょっと腰を突き上げてやる。 「ふああぅ……やっ、動かない……で」 「ああっ、あっ、あっ……だめっ、ちょっと」 ぐちゅっ、じゅっ ぴちゅっ! 瑛里華の身体が上下に弾む。 「んあっ、ああっ、熱いよっ……孝平、熱いっ」 「勝手に、動いちゃって……止まらない……止まらない」 結合部が丸見えになった。 濡れ光る瑛里華の性器に、俺のペニスが激しく出入りする。 そのたびに、粘液質な音が部屋に響いた。 「やっぱ、いやらしい……じゃないか」 「いやらしく、ないよっ……しかた、しかたないのっ」 「あああっ、んあっ、あああっ……だめっ、動いちゃう、身体が、勝手に……」 じゅぷっ! ぐちゅっ! 完全な上下動に変わった。 自分の乳首をつまみながら、抑えきれない欲望に腰を振る瑛里華。 俺もタイミングを合わせて腰を振る。 「あんっ、ふぁぁぁっ、だめっ……気持ちっ、気持ちいいっ……」 「うああっ、ああっ、ああっ、孝平っ、孝平っ!」 瑛里華が髪を振り乱す。 傍若無人な刺激に、ペニスはいつ爆発してもおかしくない。 「うっ、くっ」 腰を叩きつける。 「ふああっ、ああっ、孝平っ……んんっ、ふあっ、あっっ」 「もっと、動いて……私も、動く、あああっ、からっ」 「ああああっ、あっ、あっ、だめっ、ひゃうっ、ふぁああっ」 瑛里華が無茶苦茶に動く。 そのたびに、膣内が動き、俺を握りしめこすり上げる。 絶頂に導かれながら、俺もただがむしゃらに動く。 「んあああっ、孝平っ、孝平っ……気持ちいいっ? 気持ちいいっ?」 「ああっ、くっ、もうっ」 「いいよっ、ほらっ、いつでも……」 「この格好なら……ああっ、んっ……外には、出せないでしょ」 「中に、いっぱい……孝平を、溢れさせてっ……んんんっ、ああああっ」 言葉に連動するように、膣が俺を吸い上げる。 溶けるような摩擦に、腰を振ること以外何もできなくなった。 「瑛里華っ、瑛里華っ!」 夢中でペニスを叩きこむ。 「はあっ、ふあああっ、はげしいっ」 「そんなにされたら……私、私もっ……ああっ、あっ」 「あふっ、ああああっ、だめっ、いっちゃう……いっちゃうからぁっ、あああっ」 瑛里華の汗が飛び散り、監督生室の床が悲鳴を上げる。 「ふあああっ、一緒にっ、一緒に……」 「あああっ、うくっ、もう、だめっ……ああああっ、ふあああっ」 「ずっと……ずっと好きだからっ……あああっ、いつまでもっ」 「ああ、俺も……だっ」 発射は秒読みだ。 「孝平っ、孝平っ……うれしいっ!」 「だめっ、だめだめだめだめっ……ひゃうっ、あああっ」 「いくぅ、いっちゃう、いっちゃうから……あああっ、やあああっ」 「あ、あ、あ、あ、あ……だめっ、いくっ!」 「うああああっ、あっ、あっ……孝平っ……あ、あ、あ、あ、うあああぁぁぁっっ!!」 瑛里華が硬直する。 その瞬間、ペニスを精液が駆けあがった。 びくっ! どくっ! びゅくっ! どくどくっ! 瑛里華の体内でペニスが爆発する。 「うあ……ああ……あ、あ……」 身体を弓なりに反らせ、痙攣する瑛里華。 その中に、白濁を叩きつける。 びゅっ、びゅびゅっ! どくっ、びゅくびゅくっ! 波のような快感が全身を走り抜け、息もできない。 「いってる……孝平……私の中で、いってる……」 「熱いものが……広がって、る、よ……」 とろんとした声で独り言のように呟く瑛里華。 全身が断続的に痙攣していた。 「くっ……えり、か……」 一番深いところに、精液が広がっていくのを感じる。 溶けたお互いの体が混じりあっているような感覚だった。 「はぁ……あ……はぁ……」 「真っ白……何も、見えなく……なっちゃった」 呆然と俺を見る瑛里華。 「俺も、だ……」 ペニスは、吐き出す物もないのにまだビクビクしていた。 時機を逸した快感が、もぞもぞと背骨をくすぐる。 「ん……」 ペニスが少し縮まった。 結合部の隙間から、白濁が溢れ出る。 「ふふふ……出したね、ずいぶん」 「あ、ああ……」 「出し過ぎて、溢れてる」 「きれいに、するか……」 瑛里華を優しく持ち上げる。 こぽっ ペニスが抜け、丸見えの女性器から精液がこぼれた。 刺激的すぎだ。 「ティッシュあったっけ?」 「棚の方」 「よし」 瑛里華を椅子に座らせ、ティッシュを取りに行く。 箱ごと取って振り返る。 「……」 乱れたテーブルと椅子。 椅子では着乱れた瑛里華が息を落ち着けている。 そして、部屋に広がる淫臭。 今、会長が帰ってきたら終わる。 とりあえずは……、 瑛里華に近づき、結合部をふいてあげる。 「ありがと」 「服、伸びたりしてるだろ」 「そうね……ま、いいわ」 「次は普通の服でしような」 「私がしたかったみたいに言わないで」 瑛里華が笑う。 「ま、文化祭の企画が成功したら、考えてもいいわね」 「よし言ったな。本気で頑張るぞ」 「たんじゅーん」 「男はそういうものだ」 「晴れればいいね」 「ああ」 外を見る。 きれいな夕焼けだ。 きっと晴れてくれるに違いない。 「さて、片づけるか」 「そうね」 「私は身支度してくるから、あとよろしく」 「了解」 瑛里華が部屋から出て行く。 トイレで身支度を整えるのだろう。 「さて」 会長たちが戻ってくる前に掃除だ。 俺たちの願いが通じたのか、文化祭1日目は好天に恵まれた。 今日は、生徒や教師、役所や島のお偉いさん向けの日だ。 「二人は伊織と行動して、しっかり勉強しておくといい」 「お偉方への挨拶も、生徒会役員の大切な仕事だ」 「わかりました」 「征一郎さんは来ないんですか?」 「ここを空けるのはまずいだろう?」 「それに、俺はもう引退する身だ、新しいことを覚える必要はない」 「次代を担う若者に、仕事を覚えてもらわなくちゃね」 それはわかる。 不安なのは、暴れる会長を俺たちで抑えられるかなのだが……。 「兄さん、変なことしないでよね」 「俺は、面白いことなら進んでやるが変なことはしない」 「朝の挨拶を見ちゃうと、説得力皆無です」 登場は、屋上からのパラシュート降下。 着地と同時に特撮さながらの爆炎が上がる。 着ていた軍服が左右に割れ、タキシードに早着替え。 お偉方や先生が唖然とする中、華麗に挨拶を決めた。 もはやわけがわからない。 「まあ、つかみはしっかりやるに越したことはない」 「これも覚えておいてくれよ、来年は君らがやるんだから」 「真似できるわけないでしょ」 「同じことをしろとは言わない」 「瑛里華には瑛里華の武器がある」 「例えば、支倉君を骨抜きにしたその蠱惑的な肉体……」 どごんっ! 瑛里華の見事なハイキックが、会長を戸外に吹き飛ばした。 今日のパンツは水色。 間違いない。 「では、行ってこい」 「行ってきます」 「じゃ、また」 「待ちくたびれたぞ、二人とも」 ピンピンしていた。 「階段下りる手間を省いてあげたんだから、感謝してよね」 「少々手荒かったが、まあいい」 「さ、張り切っていこう!」 挨拶回りは延々と続いた。 副理事長、学院長、PTA会長、島の商工会会長……などなど。 たいそうな肩書きをもったおっさんに、次々と紹介され、挨拶していく。 そんな人たちと口を利いている自分にも驚いたが、一番驚いたのは── 会長の振る舞いだった。 少しも気取らぬ態度で敬語を操り、笑いを取り、相手を立て、場をきれいに収めていく。 目立つ仕事を会長に任せていた、東儀先輩の気持ちがわかった。 会長って人は、やっぱり並じゃない。 監督生室に戻った頃には、日が傾いていた。 文化祭1日目は無事終了し、生徒たちは設備の修繕や、明日の練習に取りかかっている。 「なんだい君たち、シケた顔して」 「化け物ですね、会長」 「しみじみと言われるとショックなんだが」 「いや、そういう意味じゃなくて」 「兄さんの話術を侮っていたわ」 「お偉いさん相手に、互角以上だったし」 「お偉いさん? ああ、彼らね」 「せいぜい5、60年しか生きていないんじゃ、ヒヨッコだよヒヨッコ」 「ね、人類みな年下!」 そうだった。 「言われてみれば、落ち着いてるのも当然ね」 「だな」 「そう言うな」 「話術は、伊織のパーソナリティによるところが多分にある」 「なんでもいいさ」 「来年は君たちが同じことをするんだ。頑張ってくれ」 「はい」 「ま、俺はしばらくしたら、またこの学院に戻ってくるから」 「そのときはまた一緒にやろう」 「普通の人間には無理ですから」 「精進あるのみだね」 そういう問題じゃねえ。 「あ、白ちゃんお茶頼むよ、3つ」 「はい、わかりました」 なんだかんだ言って、会長も東儀先輩も俺たちを心配してくれている。 二人の引退が近づいているせいか、そんなことを妙に実感した。 シャワーを浴び、一日目の疲れを洗い流した。 明日は、俺の企画を実行に移す。 しっかり眠らないとな。 「お」 携帯のダイオードが光っている。 着信があったらしい。 履歴を残した相手に、さっそくかけ直す。 プルルルル…… 「はい、もしもしっ」 ワンコールで取った。 「あ、俺。すまん、風呂入ってた」 「あ、そうだったんだ」 「どうした? また寂しくなったか?」 「あはは、ちょっとね」 声には、なんとなくいつもの元気がない。 「部屋、来るか?」 「あ、えーと……」 「今日は、遠慮しとく」 「声を聞ければ大丈夫だから」 「そっか」 「もう、風呂入ったのか?」 「まだ。これから入ろうかと思って」 「ゆっくり入れよ、明日も大変だろうから」 「わかってる」 「あれ?」 ……部屋の外に人がいるような。 「どうしたの?」 「誰か来たかもしれない、司かな」 「え? あ、じゃあ切るね」 「いいって、ちょっと待っててくれ」 「邪魔しちゃ悪いでしょ」 「そんなことないって」 「私もお風呂入るから」 「また明日ね」 「わかった、おやすみ」 「おやすみなさい」 せっかく電話してたのに、どこのどいつだ。 彼女との楽しい時間を奪った罪は重い。 ドアに向かう。 ……。 誰もいない。 おまけに気のせいかよ。 しかし、いまさらかけ直すってのもちょっとアレだ。 風呂入るって言ってたしな。 メールにしとこう。 「はぁ、はぁ……」 危なかった。 孝平は、変なところで勘がいい。 まったく。 ……まった、く。 こんな夜に顔なんか見たら、おかしくなってしまう。 胸の内を全部さらけ出してしまう。 それは、絶対に避けなくてはならない。 ちゃらちゃちゃーちゃらちゃちゃー♪ 「きゃっ」 孝平からのメールだった。 『せっかく電話してくれたのにごめん』 『さっきのは気のせいだった』 『明日は頑張ろうな。おやすみ』 「バカ……」 携帯を閉じ、握りしめた。 眠れるだろうか? ……眠れるわけがない。 ベランダへの窓を開く。 風はない。 ねっとりとした空気がまとわりついた。 空気の読めない天気。 風に当たりたい。 風に……。 全力の跳躍は久しぶりだ。 風を切る音が心地よい。 頬を伝うものが一瞬で後方へ流れ、夏の夜空で気化していく。 履いていたスリッパが壊れた。 さすがにもたないか。 まあいい。 「ふぅ……」 大きく息を吐く。 校舎の屋上は、少しだけ風があった。 涼しくはなかったが、クーラーの乾いた風よりはいい。 かちゃ 携帯を開く。 さっきのメールをもう一度見る。 「孝平……」 一文字一文字から、彼の声が聞こえてくるようだ。 受信ボックスには、孝平からのメールが山のようにたまっている。 これだけあれば…… 「っっ!」 着地音。 反射的に距離を取る。 「誰っ」 「逃げるなよ、俺だ」 「……兄さん」 「視察行ってくるわね」 「あとは、よろしくお願いします」 「ここは俺に任せて、ゆっくり回ってきたらいい」 「妙に親切ですね」 「人の善意を疑うようになったらおしまいだよ」 「ほら、さっさと行った行った」 笑顔で手を振る会長。 「じゃ、失礼します」 開場後しばらくして、俺たちは視察に出た。 ま、視察という名の自由時間だ。 本敷地からは新敷地が一望できる。 校門から校舎まで、たくさんの人で埋まっていた。 昨日とは違い、お客さんの服装もカラフルだ。 「2日目は、一般のお客さんが多いの」 瑛里華がお客で溢れる敷地を、満足そうに眺める。 例によって、その視線には、手が届かないものへの羨望も込められていた。 「瑛里華」 「ん? なに?」 「そういう顔、するなよ」 瑛里華の頭をくしゃっと撫でる。 「あ、ごめんなさい」 「瑛里華もみんなと一緒だ」 「さ、順に視察しよう」 頭を撫でた手で、そのまま瑛里華の手を握る。 「ちょっと、まずいわよ」 「いいだろ、バカップルなんだから」 恥ずかしがる瑛里華。 そんなのは気にしない。 校舎前は、たくさんの出店でにぎわっていた。 食べものを焼く、香ばしい匂いが漂ってくる。 「よっ、そこいく彼氏彼女ぉっ!」 「え?」 まっさきに反応してる。 「……つーか、かなでさん、何やってるんですか?」 「ヤキソバ売ってるんだけど?」 不思議そうに首をひねった。 「いや、そこ、野球部の屋台ですよね」 「うん」 「ああ! なんではっぴ着てないかってこと?」 「んなわけないです」 「かなでさん、野球部じゃないでしょ」 「細かいなぁ、隣の彼女以外にモテないよ」 「瑛里華だけで十分です」 「ちょっとそれは恥ずかしいかも、嬉しいけど」 「あつーーーーいっ!」 「ストップ温暖化っ!」 「君も、300円で環境保護に貢献したまえっっ!」 鉄のヘラでビシッと指される。 「わ、わかりました」 お金を払い、ヤキソバを2つもらう。 「ありがとーっ!」 「紅生姜、大盛りにしといたからっ」 「わかってやってますよね」 「紅生姜も食べないと、大きくなれないぞっ」 「あーーー、そこ行く熱々カップル!!」 すぐに他の客に声をかけ始めた。 「エコロジック・アニマルめ」 「環境に貢献しちゃったわね」 おかしそうに笑う。 「んで、ヤキソバどうする、食べる?」 「そうね、せっかくだから」 と、手近なベンチに座ったところで…… 「千堂センパーイっ!」 女の子が走ってきた。 「あら、何かあった?」 「こ、これ、食べてくださいっ!」 差し出されたのはお好み焼き2パック。 「ありがとう」 「そ、そ、それじゃっ」 がばっと頭を下げ、速攻で消えていった。 顔真っ赤だった。 「ファンの人?」 「そうだと思う」 ヤキソバの上に、お好み焼きが重なった。 嫌な予感がする。 「一つ聞いていいか?」 「これは想定してたこと?」 「ある程度は」 「去年の実績は?」 「20個くらい?」 笑顔で言われた。 「とりあえず、校舎に入ろう」 「いいじゃない、記念よ、記念」 「それにもう遅いし」 「!?」 周囲を見る。 人垣ができていた。 「ぐ、ぬ」 両手に買い物袋。 5月ごろ、同じようなことしたような……。 「20個どころじゃないだろ?」 「私はそのくらいよ」 「半分は、支倉センパイ♪ のでしょ」 「……まあ」 驚くことに、 というほど驚いていない自分も怖いが── 俺にくれる人もいた。 どうやら、そこそこの人気はあったらしい。 「モテモテで良かったわね」 「怒ってる?」 「ぜーんぜん」 「妬くなって、恋愛がどうこうじゃないんだから」 「それは別にいいの」 「ただ、あーんまり、嬉しそうだったから」 すねたような口調で言う。 もちろん、演技なのはわかっている。 「んなことないぞ」 「どうかしら」 そう言って腕を組んでくる。 そして、体重をかけられた。 「ぐあっ、それはマジ辛い」 「罰として、監督生室までこのままね」 「鬼」 「吸血鬼ですから」 「さ、ちゃきちゃき歩くっ」 屈託のない笑顔で言う瑛里華。 その表情は本当に楽しそうで、思わず嬉しくなる。 「よし、一気に行くぞっ」 「きゃっ、引っ張らないでっ」 大量の食料を監督生室に預け、俺たちは校舎に入った。 喫茶店、お化け屋敷、射的、研究発表……などなど。 さまざまな企画が目白押しだ。 その一つひとつに顔を出し、声をかけていく。 全部回るには、相当時間がかかりそうだ。 「よう、陽菜」 「あ、孝平くん、千堂さんも」 「こんにちは」 「どうだ、激辛喫茶は?」 「それがね……」 と、教室の前の廊下を見る。 椅子が10脚ほど並んでおり、人が座っている。 「もしかして、空席待ち?」 「そうなの」 「すごいな」 「ロシアン・タコヤキとか、グループで盛り上がれるメニューが受けたみたい」 「たいていのお客さんはグループだしね」 「じゃ、ちょっと入れそうもないな」 ちらりと教室の中を見る。 見事に満員だ。 「おっ」 「どうしたの?」 「紅瀬さんと目が合った」 「あら、ちゃんと働いてくれるなんて」 「そして、こっちへ向かってくる」 「味見、どうぞ」 丸い紙皿を差し出された。 上にはタコヤキが4個、並べられている。 「これが?」 「ロシアン・タコヤキだよ」 「紅瀬仕様の」 なんだその仕様。 「どうぞ」 紅瀬さんは、瑛里華を見て言った。 「ありがとう、紅瀬さん」 「クラス行事に積極的に参加するなんて、意外ね」 「そうかしら」 「さ、食べて」 「……わかったわ」 「この中に、ハズレが一個ってわけか」 「そうみたいね」 じっとタコヤキを観察する。 見た目に区別はつかない。 「じゃあ、私はこれ」 「俺はこれ」 「悠木さんは?」 「わ、わたしも?」 「そういう流れだ」 「なんか、だまされてるよね……」 とか言いながら、ちゃんと付き合ってくれるらしい。 三人が取った。 「私からいくわよ」 瑛里華が、そいつを口に放り込んだ。 「むぐむぐむぐ……」 「どうだ?」 「どう、千堂さん」 「……」 瑛里華が、目をくわっと見開いた。 「う……か、から……」 口を押さえる。 「陽菜、水っ」 「あ、うんっ」 陽菜が教室へ走り込む。 「大丈夫か!?」 「だ、だめ……う……く」 足をジタバタさせながら、くるくる回っている。 「千堂さん、お水っ」 「あ、ありが……と」 「こくっ、こくっ、こくっ」 一気に飲み干した。 「はぁ、はぁ、はぁ……」 「死ぬかと……思った……」 瑛里華は涙目になっていた。 「いきなりハズレ引くなんて、ついてないわ」 「残念」 「うっさいわね」 「ま、運がなかったな」 「ごめんね、千堂さん」 俺と陽菜は、普通のタコヤキを口に入れた。 「……」 「……」 「んんん〜っ! んっ、んっ!」 「ぐほっ、がっ、やばっ、これっ」 辛いなんてもんじゃない。 痛い! 激しく痛い! 「あら?」 「水っ、死ぬっ」 「むー、むー、むー」 「仕方ないわね」 紅瀬さんが教室に入る。 水を飲んで、ようやく落ち着いた。 「はぁ、はぁ……なにこれ……」 「辛いっていうか……もう」 「痛いぞこれ」 口の中の感覚が、まだ戻らない。 「全部ハズレってズルいんじゃない?」 「あら、違うわよ」 「貴女が食べたのは『激辛』、悠木さんが『メガ辛』、支倉君が『ギガ辛』」 「あと一個は?」 「『テラ辛』」 「じゃあ、私のが一番辛くなかったのね」 紅瀬さんが呟いた「残念」ってのはそういうことか。 「つーか、ロシアンでもなんでもないだろ」 「紅瀬仕様よ」 「わたし、完全に被害者な気がしてきたんだけど」 「すまん、巻き込んだ」 「紅瀬さんには、残ったのを食べて欲しいわよね」 「私、テラ辛くらいがちょうどいいの」 ばけもんだ。 「それじゃ、よい文化祭を」 「あ、こらっ」 紅瀬さんは、口の端で笑い教室へ入った。 「ほんと、相変わらずね」 苦笑する瑛里華。 その目には、優しさがにじんでいた。 あれ? 一瞬だけ胸が痛くなった。 「じゃ、わたしも戻るね」 「ああ悪かったな」 「ううん、いいよ。楽しかったから」 「千堂さんもまたね」 「ええ、さよなら」 陽菜は手を振って教室へ戻っていった。 「しかし、ひどい目にあったな」 「まあまあ、お祭りだしいいじゃない」 にっこりと笑う瑛里華。 今日は本当にご機嫌だ。 「よし、次に行くか」 「ええ」 自然に手をつなぐ。 すべての企画を回り外に出る。 日がわずかに傾いていた。 お客もかなり減っている。 「そろそろ、文化祭も終わりね」 「あっと言う間だ」 瑛里華が看板やポスターで飾られた校舎を見上げる。 つないだ瑛里華の手に力が込められた。 やっぱり―― 何かおかしい。 だが、おかしさの正体がわからない。 のどに骨が引っかかったみたいな気分だ。 「なあ瑛里華」 「ん?」 「なんか言えないこと抱えてないか?」 「いいえ、ないわよ」 「……」 瑛里華の手を強く握る。 「大丈夫よ」 「何かあったら言ってくれよ」 「もちろん」 そう言って笑う。 「そういえば、孝平の企画はどうなったの?」 「ああ、これからだ」 「打ち合わせもしたいし一回戻ろう」 「了解」 「ただいま」 「戻りました」 「お帰り」 「あんまり遅いから、駆け落ちでもしたかと思ったよ」 「そんなことしません」 「わかってる、わかってる」 「ま、お茶でも飲んで」 そう言いながら、会長は俺たちに座るよう促す。 お茶を手に、瑛里華と並んで席に着く。 「さて、文化祭もそろそろ終わりだが……」 「支倉君の企画はどうなったんだ?」 「はい」 「俺の企画は、後夜祭が終わった後にやります」 「何するつもり?」 「そのときまでは秘密だ」 後夜祭は、文化祭が終了して1時間後に行われる。 基本は定番のファイアストーム。 各企画で使用した装飾品などを、このときに燃やす。 フォークダンスを踊って、めでたく文化祭は終了だ。 「後夜祭が終わったら、みんなを教室棟の前に誘導してくれませんか?」 「わかった、支倉君の言う通りにしよう」 「あと、準備があるんで、文化祭が終わりしだい抜けさせてほしいんですが」 「え?」 「ん?」 「な、なんでもないわ」 「すみません突然で」 「ま、仕方ない」 「後夜祭は俺と瑛里華でやっておく」 「実行委員もたくさんいるし、問題ないわ」 「ありがとう。しっかりやるよ」 「さて、どんなものを見せてくれるか楽しみだね」 「二人とも見に来てください」 「もちろん」 時計を見る。 午後4時55分。 あと5分で、文化祭も終わりだ。 「さて、そろそろ行きます」 お茶を飲み干し、立ち上がる。 「頑張ってくれよ」 「はい」 「孝平」 瑛里華が俺の手に触れた。 じっと俺を見る。 「楽しみにしてるわ」 「ああ」 瑛里華の手を軽く握り、 放す。 「またな」 「ええ、またね」 「天井に面白いことでも書いてあるのか?」 「うるさいわね」 ……。 「馬鹿な女だ」 「知ってる」 ……。 「ねえ兄さん」 「私は間違っているかしら」 「それは、時間をかけて自分で考えることさ」 ……。 …………。 ………………。 「俺は後夜祭の準備に行く。お前は好きにしろ」 「え?」 「好きに時間を使えと言ったんだ」 「じゃあな」 倉庫にしまっておいたダンボールを持ち、昇降口まで来た。 「おう」 「お待たせ」 「手伝わせて悪いな」 「かまわんさ」 「行くか」 屋上では、垂れ幕を片づける人たちがいた。 二言三言挨拶をかわし、彼らがいなくなるのを待つ。 屋上には、俺と司だけが残された。 周囲はいい感じに暗くなってきている。 まずは扉の鍵をしめる。 「なぜ鍵を」 「見つかった場合の時間稼ぎだ」 「まさか、無許可か!?」 「そのまさかだ」 司が天を仰いだ。 「昼飯5回だな」 「恩に着る」 ダンボールを開く。 中には、長さ30センチ、太さ4センチほどの円柱がたくさん入っている。 10メートルほどのヒモに、円柱20本が干物みたいにぶら下がっている。 これで1セット。 合計5セットある。 「じゃ、端からいこう」 フォークダンスの陽気な曲が流れてくる。 この音楽が終われば、後夜祭も終わりだ。 兄さんは時間をくれたけど、私はまだ部屋から動けなかった。 「ぅ……く……」 一人になったとたんに、堰を切ったように溢れ出した涙。 天井を眺めたまま、流れるに任せていた。 今の私は、ひどい顔をしているに違いない。 そろそろ、行かなくては。 大ざっぱに涙をぬぐう。 脱力した体に力を入れ、立ち上がる。 ドアの前に立ち、部屋の中を見回す。 ……。 監督生室。 自分の学院生活の象徴であり、結局は、ここ以外に居場所はなかったのかもしれない。 孝平に言われるまでは、自分でも、ちゃんとわかっていなかった。 私は、自分で自分を学院の外に置いていたのだ。 所詮は吸血鬼だと、 人間と共には過ごせないと、 いずれは館に戻される運命だと、 自分の周囲に、諦めの壁を張り巡らせていたのだ。 それでも、完全には諦めきれなくて── みんなに貢献することで、自分がこの学院の一員であるという証を立てようとした。 不純だ。 屈折してる。 私に救われたと言った孝平。 だが、彼を救ったという言葉でさえ、私の屈折から生まれたものだ。 ……。 転校ばかりの日々を送ってきた孝平。 その中で彼は、日常に価値を置かない生き方を身につけた。 学院生活を捨てることができる生徒がいること、 学院での日々を無価値に思う生徒がいること、 それは、私の存在意義を否定する。 転校してきたときの孝平は、私の天敵だったのだ。 救われたと彼は言ったが、私は孝平を屈折した欲求を満たす道具にしただけだ。 にもかかわらず、彼は私を受け入れてくれた。 なんという幸運だろう。 彼に会わなければ、きっと私は屈折したままこの学院を去ることになっていた。 そして、人を好きになる喜びを知ることもなかっただろう。 これだけのものをもらっておきながら、私は── 学院から去る。 感謝の言葉すら伝えることなく。 学院の敷地を見下ろす。 孝平が生徒会に入った時も、ここから夜景を見た。 あのときとは違い、寮にはほとんど明かりがない。 その代わり、グラウンドでは赤々とファイアストームが燃え、周囲を生徒たちが回っている。 最後に孝平と踊ろうと思っていたが、それもほろ苦く消えた。 自業自得だ。 フォークダンスが終わり、歓声と拍手が巻き起こる。 文化祭が終わった。 もうすぐ生徒たちが校舎前に移動する。 私も行こう。 どんな企画が行われるかはわからないが── これが孝平を見る最後の機会だ。 人が集まってきた。 みるみるうちに、校舎前の広場が人で埋まっていく。 これから何が起こるのか……。 みんな期待に満ちた表情をしている。 「えー、みなさーーーんっ!」 突然、メガホン越しの声が降ってきた。 屋上だ。 フェンスのところに、人影が見えた。 「孝平」 思わず口にする。 理性のたがを粉々に破壊する、その名を。 「孝平……」 「文化祭お疲れ様でしたっ!」 彼を眷属にはできない。 だから屋敷に戻る。 覚悟したはずなのに── 「こうへい……」 「文化祭の、最後の最後に……」 そばに行きたい。 その手を握りたい。 抱きついて、彼のすべてを手に入れたい。 「こう……へい……」 「生徒会からプレゼントがありますっ!」 「……」 光の滝だった。 言葉も……ない。 ただ呆然と、光の粒が流れ落ちていく様を見上げる。 大歓声が上がった。 だがなぜだろう。 私の心は、光の流れとともに透き通ってゆく。 孝平。 私の好きな人。 私の大好きな人。 それ以外に何もない。 「孝平、かっこいいよ」 その瞬間、 ただ一瞬だけ── 孝平との距離がゼロになった気がした。 「……」 「どうした?」 「あ、いや……ちょっとな」 「なんでもない、気のせいだ」 「??」 「最後のヤツいこうぜ」 「それじゃ、最後の最後の最後のプレゼントですっ!」 ぱんっ! ぱぱぱんっ! 花火の音が響く。 何かの打ち上げ花火だ。 「いま、落下傘を打ち上げましたっ!」 「こいつをゲットした人は、絶対幸せになるっ」 「生徒会が保証しますっっっ!!!!」 「バカなんだから……」 花火に照らされて落下傘が降ってくる。 ふわふわ、    ふわふわ、 夢のように。 そう、思えば夢のような毎日だった。 目をつむれば、他愛のない日々がまぶたの裏に蘇る。 クラスメイトの笑顔。 生徒会役員の笑顔。 孝平の笑顔。 これだけの宝物があれば、これから永遠に続く生活も明るく生きていける。 風のいたずらか、落下傘の一つが私の上に降ってきていた。 「幸せになる、か」 ならば、私ではなく誰か他の生徒に取ってほしい。 私はもう屋敷に帰るだけなのだから。 「……」 ふと、かつて孝平に言われた言葉が頭をよぎる。 「副会長自身が楽しまなきゃウソだ」 必死な顔で、そんなこと言ってたっけ。 「バカね……本当に」 でも…… バカだから好きになってくれたのかもしれない。 少しでも後先を考えたら、吸血鬼と付き合おうなんて思わないだろう。 それを、こっちの話なんか聞いてないみたいに迫ってきて。 強引にキスして……。 「孝平……」 そういえば、自分はそんな人の彼女だったんだ。 なら── 最後に一つくらい、 わがままをしてもいいかな。 文化祭翌日。 今日は後片づけの日だ。 ほぼ昨日のうちに片づけを終えていた俺は、ぐったりしていた。 「あたたた」 体の節々が痛い。 といっても、昨日の大暴れのせいじゃない。 昨夜── 花火が終わりに近づいたころ、シスターが屋上に怒鳴り込んできた。 まあ、当然といえば当然だ。 校舎の主成分はコンクリとガラスだから火事にはならないが、火遊びは火遊び。 現行犯逮捕と相成った俺と司は、日付が変わるまでシスターのお説教。 今朝は今朝で、早朝から礼拝堂の奉仕。 こいつがダメージ大だった。 とりあえずゆっくり体を休めよう。 目を覚ますと、すでに日が傾いていた。 とりあえず、瑛里華に昨夜からのことを報告しておこう。 携帯を取る。 プルルルル…… プルルルル……プルルルル…… プルルルル……プルルルル……プルルルル…… 「……」 電波が届かない(以下省略)……というアナウンスが聞こえた。 電源切って爆睡してるのか? だったら、会長か。 プルルルル…… プルルルル……プルルルル…… 「お客様のおかけになった電話番号は」 「いや、男の声ってないですから」 「ノリが悪いな、支倉君は」 「で、どうしたんだい?」 「昨日からのことを報告しとこうかと思って」 「ああ、聞いてるよ」 「志津子ちゃんと、深夜まで盛り上がったんだって?」 「はい」 「ついでに、今日はお昼近くまで奉仕活動でした」 「お疲れさん」 「でもまあ、昨日の花火はよかったよ。この俺が合格点をあげよう」 「ありがとうございます」 「瑛里華には連絡した?」 「いや、電話に出なくて」 「もう少ししたら、また電話してみます」 「何度電話しても出ないぞ」 「は? 携帯なくしたとか?」 「今から時間あるか?」 「はい」 「監督生室においで」 「……」 「待ってるよ」 「……はい」 何度電話しても出ない? どういうことだ? なんだか胸騒ぎがする。 とにかく、監督生室へ急ごう。 「はぁ、はぁ、はぁ……」 「走ってきたか」 「瑛里華、どうしたんですか?」 「ま、座って茶でも飲んでくれ」 「会長っ」 「いいから」 と、紙コップにお茶を注いでくれた。 椅子に座り、ぬるいお茶を飲む。 会長の雰囲気がいつもと違うところから見ても、何かあったに違いない。 まずは冷静にならなくては。 「もう大丈夫です」 「OK」 会長が俺の向かい側に座る。 「先に言っておくが、いい内容じゃない」 「はい」 腹に力を入れて聞く。 「瑛里華は館に帰ったよ」 「っっ!」 帰った? 「帰ったって、どういう意味ですか?」 「もう館からは出ない。今週中には学院をやめる手続きが取られるだろう」 「そんな……卒業までは大丈夫だって……」 衝撃で頭がぼんやりする。 「それが早まったということだろう」 「どうして」 「細かい経緯はわからない」 「ただ、文化祭が終わったら館に戻る覚悟だったようだ」 「会長、知ってたんですか?」 会長がうなずく。 「どうして教えてくれなかったんです」 「瑛里華がそれを望んでいなかったからだ」 はっきりとした口調で言う会長。 「……」 昨日のことを思い出す。 いつにも増して楽しそうにしていた瑛里華。 そして同時に、寂しそうな顔も見せていた。 瑛里華にとって、昨日が学院生活最後の日だったからだ。 「瑛里華」 「ん? なに?」 「そういう顔、するなよ」 瑛里華の頭をくしゃっと撫でる。 「あ、ごめんなさい」 「瑛里華もみんなと一緒だ」 「ほんと、相変わらずね」 「ええ、さよなら」 「まあまあ、お祭りだしいいじゃない」 「またな」 「ええ、またね」 最後の言葉が「またね」かよ。 「くそ」 どことなく瑛里華の様子がおかしいことには気づいたのに……。 もっと深く事情を聞いておくんだった。 「ま、瑛里華のことは諦めた方がいい」 そう簡単に諦められるわけがない。 こっちは、伊達や酔狂で付き合ってたわけじゃないんだ。 「会長」 「瑛里華は、この学院に来るまで、館に閉じこめられてたんですよね」 「おや、知ってたのか」 「フィーリングだけで付き合ってたわけじゃなさそうだね」 「あと過去形にしないでください。別れてもいないのに」 「おまけに諦めが悪い」 ニッと笑う会長。 「それで?」 「瑛里華は、人の血を吸わないから館から出してもらえなかったって話でした」 「結局は、人間の血を吸えば出してもらえるってことですか?」 「そうかもな」 「かもっていうのは?」 「俺にもわからないのさ。あの人の機嫌しだいだからな」 「お母さんですか」 「ああそうだ」 「しかし、血を吸えば出してもらえるとして、支倉君はどうする?」 「俺の血を吸わせます」 「そこだよ、何もわかっていない」 「君にそうさせたくないから、瑛里華は黙って消えたわけだ」 それはわかってる。 瑛里華は血を吸うのを嫌がっていた。 「瑛里華の気持ちはわかります」 「でも、館に閉じこめられるくらいなら、少しくらい吸ってもいいじゃないですか」 「瑛里華もよくよく考えたはずだ」 「血を吸わない代償として、彼女は君を失うばかりか今後一切外に出られない」 「永遠にだ」 それだけの代償を背負って、俺から血を吸わないことを選んだ。 血を吸わないのは瑛里華のポリシーだ。 でももしかしたら、もっと俺の知らない事情があるのかもしれない。 「俺が血を吸わせれば、瑛里華の覚悟を台無しにすることになりますね」 「そういうこと」 「……」 彼女の意志を尊重するなら黙って諦める。 それが大人の選択だと思う。 だが俺は── 瑛里華を救いたい。 「君が悪いわけじゃない。もちろん瑛里華が悪いわけでもない」 「悪いものがあるとすれば、運か星の巡り合わせだ」 「それで諦められれば、俺も大人ってことなのかもしれませんね」 「なに?」 会長がにらんできた。 負けじとにらみ返す。 「誰も悪くないのはわかってます」 「でも、それで状況が変わらないなら誰かが悪役になるしかないでしょう」 「支倉君が悪役になるのかい?」 「はい。一生、屋敷から出られないなんておかしいですよ」 「俺は、好きな人にそういう人生を送って欲しくない」 「瑛里華を自由にしたいんです。瑛里華の意に沿わなくても」 「瑛里華の気持ちはお構いなしか」 呆れたように会長が言う。 「……すみません」 「それでも、彼女を助けたいんです」 「君は状況を軽く考えてる」 「どういうことですか?」 「相手はあの人だ。場合によっては死ぬかもしれないよ」 「例えば、瑛里華と逃げようなんてしたら十中八九殺されるだろうね」 「あっさり言いますね」 「あの人は、人間なんて餌としか思っていない」 会長は真剣そのものだった。 考えていたほど話は簡単ではないようだ。 「迷いがあるならやめたほうがいい」 とはいえ、死ぬとか殺すとか言われても実感は湧かない。 実感が湧かないことより、瑛里華が閉じこめられているという現実の方が重要だ。 「行きます」 「お姫様を助けに行くのは、男のロマンですよ」 会長がため息をつく。 「冗談で言ってるわけじゃないんだけどね」 「まったく、最近の若いのはこれだから」 会長が自分の机に向かう。 「言い忘れたけど、行くなら一人で行ってもらうことになる」 紙に何かを書きながら会長が言う。 「一人で?」 「俺はあの人に嫌われてるからな」 「一緒に行くと状況がこじれる可能性がある」 一人か。 ま、いまさら退けるわけがない。 「わかりました」 「やっぱり行くの?」 「行きます」 「ふう、しょうがないね」 と、コピー紙を渡してきた。 紙には地図が2つ書かれていた。 「大きい地図が館までの道のり」 「小さいのは敷地内の地図だ」 「屋敷に地図が必要って……」 「今から行けば夜になるし、無駄に広いからね」 「はあ」 「あの人は、奥の純和風の建物にいる」 「瑛里華は?」 「手前の洋館だ」 「あの人には先に会っておいたほうがいい。機嫌を損ねたら終わりだ」 「あと、小細工は絶対にするな」 「了解です」 「会長、ありがとうございます」 「礼を言われることなんか何もしてない」 「気をつけてな」 「行ってきます」 今頃、瑛里華は何をしているだろう。 自分の部屋にいるのだろうか。 もしかしたら、もっとひどいところに入れられてるかもしれない。 寂しがり屋の彼女だ。 きっと、いろいろとネガティブなことを考えているに違いない。 早く会いたい。 ……瑛里華が望んでいないとしても。 地図に従い山道に入る。 頭上には木々が生い茂り、月の光は届かない。 人通りはなく、聞こえるのは自分の足音とガラついた鳥の声だけだ。 道は緩やかな登り坂になった。 どうやら、山の奥へ向かっているようだ。 シャツは汗に濡れ、べったりと体に張りついている。 本当に屋敷があるのだろうか? 見慣れた空の形だった。 少し縦長の四角形。 幼い頃から見上げ続けた窓の形だ。 また、この部屋に戻ってきてしまった。 「……」 昨夜から私を苛み続けていた不安。 孝平と離れたとき、いつも襲ってくる不安。 体の中身が砂になり風に散っていくような、あの感覚。 人はなんと呼ぶのだろうか。 ベッドの下には、20を越える輸血用血液の空パック。 こんなに飲んだのは初めてだ。 砂となった自分が風に飛ばされぬよう血で湿らせた── そういうことなのかもしれない。 孝平のいない生活の中で、あとどれだけ同じような夜を過ごすのだろう。 ……。 この部屋には時間がない。 なすべきこともなく、話すこともなく、規則もなく── 気が向いたときに血を飲み、好きなときに好きなだけ寝る。 羊水に浮かんだような生活に、生きていることすら忘れてしまう。 そのうち、彼への想いさえ失ってしまうのかもしれない。 ベッドボードの落下傘を手に取る。 生徒会が幸せを保証してくれる逸品だ。 「孝平」 ボール紙の重りに傘をつけただけの安っぽい造り。 少し引っ張れば、すぐに壊れてしまいそうだ。 でも……。 薄く残った火薬の匂いが、昨夜の光景と孝平の姿を思い起こさせてくれる。 それだけで、胸の中が温かくなる。 やっぱり、わがままを通して良かった。 落下傘を抱きしめる。 孝平。 生徒会の保証は確かみたいね。 少なくともここに一人、幸せを感じている人がいるよ。 屋敷が実在するのかいい加減不安になってきたころ、唐突にそれは現れた。 歴史の教科書に出てきそうな、古びた洋館だった。 壁面が月明かりに照らされ、ほの明るく光っている。 庭木はきちんと手入れされているから、人はちゃんといるようだ。 だが、夜にもかかわらず明かりはついていない。 「……」 瑛里華は、ずっとここで生活してきたという。 いったいどんな毎日を送ってきたのだろう。 少なくとも、笑顔に溢れた生活ではない気がする。 そんなところに、また瑛里華を閉じこめさせるわけにはいかない。 地図を開き、裏手にあるという建物を目指す。 建物はすぐに見つかった。 その大きな建物は平屋建てで、手入れが行き届いている。 温泉地の高級和風旅館のようなたたずまいだが、漂う緊張感は旅館とはほど遠い。 悪寒をともなう汗が、じっとりと浮かんでくる。 行くしかない。 小さな門をくぐり建物に近づく。 玄関の戸に呼び鈴はない。 鍵はかかっておらず、戸は簡単に開いた。 「お上がり」 名前も尋ねられず、突然家の奥から声がした。 予想以上に若い声だ。 高圧的な雰囲気もさほどない。 「失礼します」 そこは広い和室だった。 お香だろうか、甘い香りが漂っている。 「お座り」 部屋を仕切る御簾の奥から声がした。 奥のほうがこちらより暗いせいで、姿はほとんど見えない。 「はい、失礼します」 部屋の中央に正座する。 「はじめまして、支倉孝平といいます」 「あの、瑛里華さんのお母さんですか?」 「そうだ」 「瑛里華が世話になったようだな」 「いえ、こちらこそお世話になりっぱなしでした」 今のところ特に悪い印象はない。 ただ、俺の来訪を知っていたような雰囲気がある。 「して、用件は?」 「はい……」 なんだろう。 戸が開く音がした。 あの人がいる、離れの戸の音だ。 こちらに用があるのか? だとすれば、数年ぶりの快挙。 常識的に考えれば……来客。 兄さんか、 征一郎さんか、 「まさか、ね」 そう言いながら、じっとしてはいられなかった。 もし孝平だったら── 「瑛里華さんを、もう一度学院に通わせてほしいのですが」 「かまわんよ」 「え?」 「ただし、ヤツが眷属を作ればの話だが」 眷属? 瑛里華からも、会長からも聞いたことがない言葉だ。 「人間から血を吸わないのが問題だって聞いてたんですが」 「それもあるが、眷属を作ることの方が重要だ」 瑛里華は隠していたのか、屋敷に戻る本当の理由を。 「あの、眷属というのはいったい?」 「聞いておらぬのか?」 「はい」 「そうか」 胸騒ぎが止まらない。 もし孝平だったら、 もし孝平があの人に会っていたら! いつの間にか走り出していた。 裸足の足は、全力疾走には耐えられない。 皮膚が裂ける。 痛い。 だが、気にしてはいられない。 「……なればわかる」 「?」 ふわりと、 御簾が浮いた、 「がっっ!」 なんだ? なんなんだ? 俺の、 腹から、 ……。 …………。 腕が生えてる。 「ごぽっ……」 喉を熱いものが駆けあがり、口から溢れ出た。 誰かが走って来ている。 誰だろう。 「来たか」 だれ、だ……、 ……ろう。 「っっ!!!」 えり……か……。 「さっさと済ませよ」 「っっ!!」 「いやあああぁぁぁっっっ!!!!」 まぶしい。 さっきまで夜だったよな。 何があったんだっけ? ……。 そうだ。 屋敷に行って、瑛里華の母親と話していたんだ。 そして……、 御簾が上がって……、 「うあっっ!!」 「はぁ……はぁ……」 俺の部屋だった。 寝巻姿の自分は、ベッドで上半身を起こしている。 掛け布団が床に落ちかけていた。 「孝平……」 傍らには瑛里華が立っていた。 悲しげな視線を俺に送っている。 どうなってるんだ? 瑛里華は屋敷を出ていいのか? 俺はなんでここにいるんだ? 疑問が一気に浮かんでくる。 「えーと……何がどうなったんだ?」 「うん……」 瑛里華が視線を落とす。 「順に話すから」 と、落ちかけの布団を上げてくれた。 俺は大人しく横になる。 「どこまで覚えてる?」 「瑛里華のお母さんに会って眷属の話をしたな」 「眷属って言葉を知らなかったから、聞いたんだ」 「そしたら、御簾が動いて……」 そうだ……。 俺、死にそうな目に遭ったよな。 布団の中で、おそるおそる腹部に手をやる。 ……痛くない。 「俺、怪我しなかったっけ?」 「したわ」 「死にそうだった気がするんだが」 瑛里華がぺたりと床に座る。 「死にそうだったわ」 「だから……助けたのよ」 「……助けたとは言えないか」 どっちなんだ。 「ちゃんと説明してくれ」 「え、ええ……」 「孝平はあの人に襲われて、大けがをしたの」 「そのままにしておいたら、確実に死んでしまうほどの」 「だから、あなたを眷属にして助けたわ」 眷属? 俺を眷属にした? 「あの、眷属っていったい?」 「ああ、知らないのであったな」 「……なればわかる」 「眷属ってなんなんだ?」 「吸血鬼みたいなものよ」 「……は?」 「吸血鬼の血を飲んだ人間は、眷属になるの」 「いや、あの、ちょっと……」 「細かいことは後で説明するけど、いまのところは吸血鬼になったと思って」 「……」 脳味噌をゆすられたような気分になった。 「吸血鬼はケガしてもすぐ治るわよね」 「だから、孝平は死んでいないの」 「う、嘘だろ……」 起き上がる。 パジャマのボタンを外す。 腹を見る。 へその上あたりに、拳大の黒ずみがあった。 だがそれだけだ。 「跡は、1日もすれば消えると思う」 信じられない。 俺はもう、人間じゃないのか。 「何度も考えたわ……」 「このまま死なせたほうがいいんじゃないかって」 「でも結局、こうすることしかできなかった」 「……ごめんなさい」 あーもー、しっかりしろ俺! 瑛里華がヘコんでるじゃないか! 頬を両手で叩く。 「実感はないけど理解した」 俺は大けがをした。 そのままじゃ死んでしまうから、瑛里華が俺を眷属にした。 眷属は吸血鬼みたいなもんで、ケガがすぐ治る。 おかげで死なずに済んだ。 なら、いいじゃないか。 死ぬよりはマシだ。 「ありがとう、助けてくれて」 「お礼なんて言わないで」 「私は……」 言葉に詰まって瑛里華がうつむく。 額に手を当て、くしゃりと前髪を握る。 何度か見た仕草だ。 「いろいろ辛いかもしれないけど、死ぬよりはマシさ」 「それに、瑛里華も外に出られるようになったんだろ?」 「ええ」 「良かった」 「良くないわよ」 「私はこんなこと望んでなかった」 「あのまま、屋敷で生きていてもよかったのに」 うめくように言う瑛里華。 「どうして屋敷に来たのよっ」 「自分勝手よ、私の気も知らずに」 「我慢できなかったんだ、瑛里華がずっと閉じこめられるなんて」 「私だって嫌だったわ……」 「でも、孝平を眷属にしたくはなかったから屋敷に戻ったのよ」 「初耳だな」 「言えるわけないわ」 「そんな話したら、孝平は眷属になるって言いだすでしょ」 「ははは、おそらくな」 「バカっ」 涙目でにらまれた。 「ごめんな」 瑛里華の気持ちはわかる。 でも……。 俺たちが付き合い続けるには、結局これしかなかったんじゃないか? 「怒ってるか?」 「怒ってるわ……自分に」 「孝平をこれだけひどい目に遭わせて」 手を伸ばし瑛里華の髪を撫でる。 「ごめんなさい、私のせいで」 「いいよ……俺は後悔してない」 「瑛里華が戻ってきたんだ、それで満足さ」 「孝平……」 「聞きたいことがあるんだけど」 「眷属と付き合っちゃいけないっていう決まりとかあるのか?」 「ないわ、そんなの」 「じゃあ、眷属になった俺は嫌いか?」 「そんなわけないじゃない」 「なら安心した」 「俺も不老不死なんだろ?」 「ええ」 「なら、ずっと一緒にいられるな」 「……バカ」 瑛里華が立ち上がる。 そして、ゆっくりと俺を抱きしめた。 「ほんと、バカなんだから」 相変わらずの柔らかさと、いつもの香り。 やっぱり、瑛里華なしの生活は俺には辛そうだ。 「瑛里華、顔見せてくれ」 「いやよ」 「いいから」 瑛里華の体を起こす。 ぽろぽろと涙をこぼしていた。 「目が真っ赤だ」 「見ないでって」 「じゃあ、目をつむって」 瑛里華がまぶたを閉じる。 肩を引き寄せ、唇を重ねた。 「ん……」 「瑛里華……」 瑞々しい唇。 頬に触れるかすかな吐息。 その感触に、いま瑛里華がここにいると実感する。 それだけで、無茶してよかったと思えてしまう。 瑛里華の言う通り、俺はバカなのかもしれない。 でも、そのおかげで今があるというのなら── 瑛里華がこの腕の中にいるというのなら── これから、 永劫に続く人生も、 ずっとバカでいいと思う。 「おはよー」 「おはよう」 「おう」 「よかった、風邪治ったんだ」 「ずっと休んでたから心配しちゃったよ」 「ちょっとこじらせたみたいでさ、40℃までいったよ」 「ま、もう完全復帰だ」 「支倉君も風邪引くのね」 「おいこら」 風邪をひいたというのは嘘だ。 瑛里華によると、血を飲んでからの俺はずっと眠りっぱなしだったらしい。 屋敷に行ったのが月曜日の夜。 瑛里華の血を飲まされ、目を覚ましたのが金曜日。 そして今日は土曜日。 4日間の欠席については、瑛里華の配慮で風邪をこじらせたことになっていた。 「昼飯おごるのが、そんなに嫌だったのか?」 「ただの風邪だって」 「約束は覚えてる」 昼飯か。 懐かしいような、寂しいような気分になる。 目を覚ましたその日から、俺はほとんど味を感じなくなっていた。 ラーメンを食っても、わずかにしょっぱく感じるくらいだ。 原因はおそらく眷属になったからだ。 先日の瑛里華の説明を思い出す。 「そろそろ、眷属のこと聞いてもいいか?」 「明日からどんなふうに生活したらいいかわからないし」 「そうね、説明しておくわ」 ベッドに腰を下ろしていた瑛里華の表情が引き締まる。 「初めに謝っておかないといけないんだけど……」 瑛里華が言いよどむ。 「遠慮しないで言ってくれよ」 「ええ……」 「実は、眷属について細かいことはわかっていないの」 「これから教えることも、兄さんから聞いた話だから」 「俺以外に眷属っていないのか?」 「私は見たことないわ」 「兄さんは昔見たことがあるみたいだけど、あまり話さなかったみたいで」 「そうか……まあ、わかってる範囲でいいよ」 「ごめんなさいね」 申し訳なさそうに視線を落とし、瑛里華が再び口を開く。 「まず、眷属には寿命がないわ、身体能力も高いし、怪我をしてもすぐに治る」 「これは私たちと同じね」 「……」 寿命がない……。 つまり俺は、もう死ぬことがない。 突然すぎて実感は湧かないが、少なくとも嬉しいとは思わなかった。 「俺もやっぱり血を吸いたくなるのか?」 「その必要はないみたい」 「普通の人間と同じように食事をするらしいわ」 「そうなのか」 「ただ……」 「なんかあるのか?」 「一番よくわかってない部分なんだけど、定期的に活動が止まるみたいなの」 「止まるって……どうなるんだ?」 「ごめんなさい、わからないのよ」 「……」 自分で確かめるしかないのか。 マジで怖いぞ。 「それで、もう一つあるんだけど……」 声のトーンが落ちる。 瑛里華は、沈痛な面持ちで床を見つめている。 「言ってくれ、知らなくちゃいけないことなんだろ?」 なおも視線を上げない瑛里華。 そのまま口を開いた。 「眷属はね、主の命令に逆らえないの」 「主っていうのは?」 「血を与えた吸血鬼……つまり私よ」 「……孝平くん」 いきなり現実に戻された。 「あ、ああ……なんだっけ?」 「千堂さんにお礼言った?」 「お礼? なんの?」 「ずっと看病してくれてたんだよ、千堂さん」 「つきっきりだ」 「そうだったのか……」 考えてなかった。 俺の傷がふさがるまでは、いろいろ治療もしてくれたのかもしれない。 ただ寝てるだけの男を、風邪に見せかけるのだって大変だ。 そして何より── 瑛里華は、ひたすら自分を責め続けたに違いない。 体力はあるといっても、心は人間と同じ。 彼女の苦悩を思うと胸が痛い。 ちゃんとお礼を言わないと。 「がっちりお礼する」 「デート一回じゃ足りないよ」 陽菜が笑う。 「ああ」 入口のドアが開き、アオノリが入ってきた。 「よーし。みんな席に着けー」 「お、支倉来たか」 「はい、もう元気です」 「文化祭で無茶するからだぞ」 「いやあ、あはははは」 こうして、以前と変わらない日常へ俺は戻っていった。 放課後。 俺と瑛里華は監督生室に向かった。 なんだか、久しぶりな気がする。 「ちわす」 「おお、支倉君」 「いろいろと大変だったな、支倉」 みんなが笑顔で迎えてくれる。 今まで通りの雰囲気に、自分が変わったという実感が湧かない。 「どうだい調子は?」 「おかげさまで元気です」 「もう傷もふさがりましたし」 「支倉先輩、お茶をどうぞ」 「さんきゅー」 「あ……」 お茶を出してくれた白ちゃんが、何か言いたげに俺を見る。 「どうかした?」 「え? い、いえ……なんでもありません」 「あの……支倉先輩が元気になられてよかったです」 「ああ、ありがと」 笑顔で答え、湯飲みを口に持っていく。 豊かな緑茶の香り。 少し熱めの温度。 ただ、味はしない。 この一点が俺に現実を教えてくれる。 「……ごめんね、孝平」 俺の気持ちを察したのか、瑛里華が言う。 「気にするなって」 「う、うん」 しゅんとする瑛里華。 「まさかこんなことになるとはね」 「ま、仕方ないですよ」 「それに俺は後悔してないですし」 「館の場所を教えてくれたのには、感謝してます」 「そう言ってくれると助かる」 「いやもう、あれからが大変でさ。瑛里華に殺されるかと思ったよ」 「殺せなくて残念だわ」 「あの人に直接会わせるなんて、どうかしてるわよ」 「まあまあ」 なぜか俺が場を取り持っている。 「そういえば、お母さんは今どうしてるんだ?」 「知らないわ、屋敷にいるんじゃないかしら」 「今回のことも、すでに忘れてるかもね」 「これ以上、関わり合わないのが一番だよ」 「……わかりました」 「伊織、選挙の話はもう伝えたのか?」 「ああ、忘れてた」 俺も忘れてた。 「次期の生徒会役員なんだけど……」 「会長は瑛里華、副会長は支倉君、財務は白ちゃんで届けを出すことにしたよ」 「副会長、ですか」 「会長がよかった?」 「あー、いや、信任選挙大丈夫ですかね」 「大丈夫、大丈夫」 「文化祭の花火が大好評でね」 「事前に許可を取っていればもっとよかった」 「落下傘もバッチリ拾ったし」 「生徒会役員向けじゃないんですが……」 「やっぱり、そうよね」 「ん? どうした?」 「な、なんでもないわ」 「ともかく、生徒諸君からの支持は確実だ」 「大船に乗ったつもりで選挙に臨んでくれ」 「了解です」 「じゃ、話はそんなところ?」 「ああ。もう帰ってくれて構わないよ」 「ですって」 俺を見て、瑛里華が言う。 「いや、でも仕事とか」 「改選前だから、この時期は仕事がないの」 「それに、今週くらいは様子を見ておいたほうがいいわ」 「無責任な話なんだが、俺たちも眷属のことはよくわからないんだ」 「だから、なんともアドバイスしにくいところがあってね」 「そうでしたか……わかりました」 「気づいたことは、できるだけ報告するようにします」 「頼んだよ」 「眷属学の未来を作るのは支倉君だ!」 「そんな学問いりませんから」 信任選挙を経て、俺は副会長になった。 会長の言葉どおり、不信任に投票する人はほとんどゼロ。 会長や白ちゃんも同じような結果で信任。 新生徒会にとっては理想的な船出となった。 俺が眷属になってから、瑛里華は毎日俺の部屋に顔を出す。 いつの間にか瑛里華の私物も増え、ほとんど通い妻状態だ。 お茶会を開催したときなど── 「そろそろ、別の会場を探した方がいいんじゃ……」 「そうなあ」 「わたしたちも、負けずにもっと私物を置けばいいんだよっ!」 「勘弁してください」 などと騒がしい。 今日も今日とて、瑛里華は教科書を読みながらお茶を飲んでいる。 「体育の授業はどう?」 「ああ、ずいぶん慣れた」 「サッカーは注意しないとヤバいな。熱中すると思わず力が入るからさ」 眷属になって一番苦労しているのは、力の制御だった。 本気を出した日には、オリンピック選手にスカウトされかねない。 「瑛里華も会長も、よくコントロールできてるよな」 「私たちは生まれつきだしね」 「これをするには、このくらいの力加減っていうのが染みついてるから」 「ま、そうか」 「孝平もだんだん慣れてくるとは思うけど」 「やっぱ心配でさ」 「大丈夫だって」 「そもそも、吸血鬼が実在するなんて誰も思ってないから」 「たまにすごい力を出しても、目の錯覚で片付いちゃうものよ」 「まあ学院の方はそれでいいんだけど……」 「他に何かあるの?」 「あの時とか、痛くないか?」 「あの時って?」 「主にベッドの上でするヤツ」 「力を制御できてる自信ないんだけど」 「そーいうこと、いきなり言 わ な い の」 ほっぺたをつねられた。 「あ……」 「ご、ごめん」 瑛里華の手から力が抜ける。 俺のほっぺたの強度を気にしたからではない。 「大丈夫だ」 瑛里華の手を握る。 「気にするなって」 「あ、うん……」 瑛里華が気にしているのは、眷属が主の命令に逆らえないことだ。 俺が眷属になってからというもの、彼女は命令口調を避けている。 「瑛里華、気にしすぎだ」 「でも……」 瑛里華の隣に移動する。 できるだけ優しく肩を抱く。 「心配するなよ」 「仮に逆らえないような命令をされても、怒らないから」 「違うのよ」 「私が怖いのは自分自身なの」 瑛里華が視線を落とす。 「どういうこと?」 「もしも孝平が離れていきそうになったとき、私は自分のそばから離れないように命令するかもしれないわ」 「もしかしたら、私を愛するように命令するかもしれない」 「一度命令の味を知ってしまったら、いつかは孝平を完全にコントロールしたくなってしまう気がして」 「それが、怖いのよ」 痛切な言葉が流れる。 俺は、すぐに答えを返せない。 「私がどうして孝平を眷属にしたくなかったかわかる?」 「人生が変わっちまうからか?」 「それはもちろんあるわ」 「でも、本当はね……」 そこでいったん言葉を切る。 「自分勝手なこと言うけど、いい?」 「ああ」 「あのね、私はいつでも孝平に好かれてるって感じたいの」 瑛里華が俺の目を見て言う。 「他人の気持ちはわからないわ」 「でも、だからこそ期待する言葉をもらえたときが嬉しいのよ」 「だから、孝平を眷属にしたくなかったの」 「好きだって言われたときの嬉しさを失いたくなかったから」 「瑛里華……」 「100%、私のわがままだけど、孝平には私を選んでほしいの」 「選ばせたいわけではないのよ」 そこまで言って、瑛里華は息をついた。 「私は孝平の主になりたいわけじゃないから」 「普通の恋人同士でありたいの、これからもずっと」 けっこう、来るものがあった。 こんなに人から想われるなんて、自分はどれだけ幸せものなんだろう。 「瑛里華がそんな風に考えてるなんて知らなかった」 「ごめんな瑛里華」 「いいのよ、私も言ってなかったから」 「ちょっと恥ずかしいしね」 照れ隠しなのか、瑛里華は俺の額に軽くキスをした。 「それに、孝平が私の意志通りに動くようになっちゃったら……」 「今みたいに、気持ちを知ってもらえた時も、嬉しくなくなっちゃうでしょ?」 そうだ。 いま自分は、瑛里華の気持ちを知って嬉しい。 いつでも命令すれば相手の気持ちを知ることができるとしたら……。 この胸の温かさも忘れてしまうかもしれない。 「そうだよな、わからないからいいんだよな」 「うん、そう思う」 瑛里華の頬を撫でる。 手の動きを感じるように、目を閉じた。 そして、俺の手のひらにキスをする。 なんてかわいいんだろう。 恥じらいもなくストレートにそう思う。 瑛里華の顎を指先で軽く支える。 「あ……」 瑛里華がうっすらと目を開ける。 瞳が潤んでいた。 「瑛里華。好きだよ」 「うん」 ゆっくりと唇を重ねる。 「ん……孝平……」 唇の熱さが、じわりと伝わってくる。 胸の中まで伝わるような熱だ。 「好きよ、好き……」 呟くように瑛里華が言う。 「俺もだ」 優しく瑛里華の下唇を、俺の唇で挟む。 「んっ……ちゅっ……」 瑛里華も俺の動きに応える。 何度も何度も、顔の角度を変えながら唇をついばみ合う。 互いの息が絡み合う。 「孝平」 瑛里華が俺の唇を完全にふさいだ。 間髪入れずに、舌が入り込んでくる。 唾液が口内に流れ込んだ。 「んっ……くちゅ……孝平……」 瑛里華の舌が口の中をまさぐる。 その動きはいつになく情熱的だ。 負けじと俺も舌を動かす。 「んむっ……あっ、くちゅっ……ちゅっ」 唇が離れる。 それでも瑛里華は舌を伸ばす。 空中で俺たちの舌が絡み合う。 「はぁ、んっ……はぁ……」 熱い息が顔にかかる。 「そ、そう言えばさ」 「文化祭の準備の日に、監督生室でしたよな」 「くちゅ……ん……う、うん」 「あのとき、文化祭の企画が成功したらまたしようって言っただろ」 「……よく覚えてるわね」 少し寂しそうな顔をする瑛里華。 あのとき、瑛里華はもう屋敷に戻ると決めていた。 つまり、優しい嘘だったんだ。 「またできて、よかった」 「孝平……」 再び瑛里華が俺の口をふさいだ。 「くちゅっ……んっ、孝平……ぴちゅっ」 派手に水音が立つ。 気がつくと、瑛里華の指がシャツのボタンにかかっていた。 あっという間に、一つ、二つと外される。 「くっ」 大きく開いた胸に、瑛里華の手が滑り込んできた。 予想外の攻撃に体が震える。 「ふふ、ぴくっていった」 瑛里華の瞳が扇情的な色に揺れる。 「今日は……させて」 ぞくりとするような笑みを浮かべ、瑛里華が俺のシャツを脱がせた。 「ど、どうするんだ?」 「どうすると思う?」 瑛里華の手が俺の膝に置かれた。 内腿をくすぐりながら、ゆっくりと股間に近づいてくる。 「お、おい、いたずら……するなって」 「恥ずかしがらないの」 瑛里華の手が股間を覆った。 もみほぐすように、そこが刺激される。 やばっ。 止めるまもなくペニスに血が集まる。 「あ……気持ちいいんだ」 指先が棹をつかむ。 上下にゆっくりと動く。 「くっ……っ……」 爪でカリの裏側がくすぐられる。 「どこでこんなの……覚えるんだ……」 「顔見てると、なんとなくわかるの」 「ほんと、かよ……」 「ほんと」 今度は亀頭を5本の指先でつまみ、くりくりと回転させてきた。 「やば、いって」 「もうパンパンね、苦しくない?」 「苦しい、かも」 「じゃ」 瑛里華の手がチャックにかかる。 ゆっくりとじらすように下ろされていく。 トランクスを押し下げ、カチカチのペニスが引きずり出された。 先端からは、既に液体がにじみ出している。 「こら、元気すぎ」 「しょうがないだろ、瑛里華がエロいんだから」 「ひどいこと言わないの」 しなやかな指が、先走りを亀頭に伸ばしていく。 ぴりぴりとした刺激が下半身を襲った。 「くっ」 「かーわいっ」 笑いながらも瑛里華の手は止まらない。 亀頭やカリを、くりゅくりゅとこね回してくる。 「……」 このままじゃ、あっという間にいかされてしまう。 瑛里華の乳房に手を伸ばす。 「私はいいの」 たしなめるように、瑛里華が俺に身体を寄せた。 「今はさせて」 俺の胸に、柔らかな乳房が押しつけられる。 「時間稼ぎ、しようとしたでしょ?」 バレた。 「どうかな」 「とぼけても無駄よ」 再び瑛里華の手がペニスをつかむ。 「ずるい孝平にはおしおきね」 言うなり手が動きだす。 握りはきつすぎず弱すぎず。 指の腹が順々にカリをこすっていく。 「ぅ……ぁ……」 「気持ちいい?」 耳元でささやかれる。 それすら快感となり、肉棒はいっそう硬度を増す。 「いいのね」 上下する手に回転が加わる。 自分でするときの刺激とは比べものにならない。 びくりびくりとペニスが脈打ち始める。 「え……り、か……」 「かわいい顔してるよ、孝平」 「こ、ら……」 先端からは次々と先走りが溢れてくる。 瑛里華がそれを指で取り、棹や亀頭になじませる。 滑りが良くなった分身をさらに早くこすり上げる。 腰のあたりがモヤモヤしてきた。 「もっと気持ちよくなって」 そう言って、唇を重ねてきた。 軽く握られた白い指のトンネルを、俺の肉棒が激しく出入りする。 指の凹凸が裏筋やカリをコロコロと転がす。 「ぐ……」 「感じると、そういう顔するんだ」 「もっといい顔見せて」 熱い息が耳にかかる。 俺をこすりながら、瑛里華も興奮しているんだ。 「ほら、ほーら……」 瑛里華の手がすぼめられ、四方から亀頭が圧迫される。 そのままの状態で、手の動きはさらに速度を増す。 「っっ!」 甘い痛みと快感が突き抜ける。 限界が見えてきた。 「遠慮しないで」 瑛里華が、人差し指と親指で輪っかを作る。 それを出っ張りの下に当て、きゅっと締めた。 そして、手を振動させてくる。 「っ、ぁっ……うっ……」 腰が揺れる。 恥ずかしいが止められない。 精液が上昇してくるのがわかる。 「そろそろ、ヤバい、かも」 「ほーら、出して」 手が速度を増す。 もう、だめだ。 「そろそろ、うっ……っ」 「好きなときに、いいよ」 手がペニス全体を包み、激しく上下する。 熱いものが、一気に駆け上がる。 「くっ」 突き上げるような快感が体を走る。 びゅくっ、びくびくっ! びゅっ、びゅくっ、びゅっっ!! 「きゃっ」 瑛里華に握られたまま、どろっとした液体を吐き出した。 あまりの快感に、しばらく息ができない。 「すごいわね」 瑛里華が手についた白濁を亀頭にこすりつける。 達したばかりのそこが、ぴくぴく震えた。 「ごめん……汚した」 「いいよ気にしないで」 瑛里華が笑う。 「気持ち良くなってくれた?」 「ああ、すごく良かった」 「そっか、安心した」 「ありがとう」 「こういうの、今日だけだからね」 「いやらしい子だって思わないで」 「エッチな子は好きだぞ」 「調子に乗らないの」 頬をつままれた。 「じゃ、今度はお返しさせてもらうぞ」 「え、いいって」 「だめだって」 瑛里華を半分抱き上げながらベッドへ移動する。 「はい、到着」 瑛里華をベッドに座らせる。 「襲われる〜」 瑛里華がおどけて言う。 「襲わないって」 シャツとズボンを脱ぎ、瑛里華の隣に腰を下ろす。 枕元のティッシュを取る。 「ほら、顔」 「ん……」 「ありがとう」 「こっちこそ」 瑛里華の肩をつかみ、唇を寄せる。 「孝平……ちゅ、んっ」 キスをしたまま、ゆっくりと瑛里華を寝かす。 「かわいいよ」 「な、何をいまさら」 そう言いながらはにかむ。 「ほんとだって」 首筋に口づける。 「ひゃっ……」 「ほら、かわいい」 「もー、やだ」 俺の胸に頭をぶつけてくる。 「こら、頭突きするなって」 「恥ずかしいでしょ、もう」 さっきはあんなに積極的だったのに、今度は恥ずかしがってる。 そんなところもかわいらしい。 「瑛里華」 首筋にキスをする。 そのまま舌を出し、ゆっくりと鎖骨に下りていく。 「んっ、あっ」 ぴくりと体が震える。 瑛里華の体を引き離しながら、胸元へと移動していく。 肌にすっと鳥肌が立ち、すぐに汗ばんできた。 「胸、触るぞ」 「う、うん」 目をつむったまま、瑛里華が答える。 俺は両方の手でふっくらとした乳房を手で包んだ。 「あ……う……」 マシュマロのような質感は相変わらずだ。 力を入れた分だけ形を変える。 「柔らかくて、気持ちいいな」 「ん、そ、そう?」 「ああ」 乳房の中身を温めるように、ゆっくりと円運動させる。 「なんだか……優しい」 うっとりとした声だ。 「さっきのお礼だから」 目の前で揺れるうなじに舌をつける。 「んんっ」 産毛の存在を舌先に感じながら、襟足をなぞっていく。 「あっ、くすぐったいよ、孝平」 抗議の声を聞き流しつつ、胸の突起を探す。 指先にそれが触れた。 「んっ、あっ」 やっぱり瑛里華はここが敏感だ。 他とは反応が違う。 「ここ好き?」 耳元でささやく。 「し、知らないわよ」 「嘘つきだな」 耳たぶを甘くかむ。 「ひゃうっ」 「や、やだ……」 「嘘つくからだ」 再び胸の突起を攻める。 指の腹で優しくつまみ、ころころと転がす。 「っ……あっ、うっ……やっ」 「やだっ、だめっ……あっ、あ、あ、あ」 瑛里華が痙攣する。 「ここ、好きだよな……瑛里華」 「んっ、あっ、うっ」 返事もできず、必死にうなずいている。 手のひらで乳房を包み、大きく揺り動かしていく。 「やっ、あっ、あっ……あっ、くうっ」 声が高くなっていく。 「やっ、あっ、あ、あ……」 きゅっと乳首を押しつぶした。 「ひうっ、あ、あ、あ……やああぁぁぁっ」 びくりと瑛里華が震えた。 そして、くたりと力が抜ける。 「はぁ……はぁ、はぁ……」 軽く達してしまったらしい。 胸だけでいくなんて……すごい感度だ。 「どうだった?」 「孝平……」 聞こえているのか微妙だ。 俺は手を下に伸ばしていく。 「まだ終わりじゃないぞ」 脚の間に手を入れる。 熱がこもり、じっとりと汗に濡れている。 「んっ……あ……」 そのまま手を滑らせ、股間まで持っていく。 指先が秘所に触れた。 ぬるり。 指先が抵抗なく滑る。 中から愛液がしみ出しているのだ。 「すごい濡れてるよ」 「や、やだ、言わないで」 「ほら」 指を瑛里華に見せる。 「や、やだって……」 瑛里華が俺の指を手で握って隠す。 仕方がないので、もう片方の手を股間に持っていく。 中指を秘裂に当て奥を探る。 「ああっ……あっ、やっ」 ぎゅっと身を縮める瑛里華。 すでに濡れそぼったそこは、下着ごと指を吸いこんでいく。 くちっ、くちっ。 湿った音が聞こえる。 中の状況を想像すると、否応なしにペニスが硬くなってくる。 「あ……孝平、お尻に当たって……」 「硬くなってるだろ」 「う、うん……」 中指を第一関節まで埋め、親指はクリトリスに当てる。 そのまま、マッサージ器のように振動させる。 「あああっ、やっ、だめっ……あ、あ、あ、あ」 びくびくと瑛里華が震えた。 「やだっ、だめっ……あっ、んあっ」 「それ、すぐいっちゃうっからっ……だめっ、だめだめっ」 いやいやと首を振る瑛里華。 そんな反応をされると、いかせてみたくなる。 さらに強く手を振るわす。 「ひゃうっ、あああっ……やっ……ああああっ」 声がうわずる。 瑛里華が捕まえていた俺の手が自由になった。 「もうっ、だめっ……いくっ、いくよ……孝平っ」 すかさず胸に持っていく。 乳首をつまみ、きゅっとひねる。 「やっ、あ、あ、あ、あ……ひゃうっ、ああああぁぁぁっっっ!!」 中に入れていた指が圧迫される。 下着の濡れが広がった。 「あ……あ……あ……」 取り残されたような声を出し、瑛里華の体から力が抜けた。 2回目の絶頂に息が上がっている。 すごいな、今日の瑛里華……。 秘所を触っていた手は、見なくてもわかるほど濡れている。 そろそろ俺も我慢できなくなってきた。 「瑛里華、いい?」 「……え?」 「ほら」 瑛里華の手を取り俺の分身を触らせる。 「あはは……元気」 「じゃ、下着取るよ」 手をパンツの中に入れる。 「ふあっ」 中は、どこを触ってもぬるぬるだ。 薄い茂みも肌に張りついている。 くるくると下着を下ろしていく。 片足を抜いた。 俺もトランクスを脱ぐ。 ペニスはもう破裂しそうに勃起している。 一刻も早く瑛里華に突き立て、ぬるりとした内部を味わいたい。 「すごいね」 苦笑する瑛里華。 「元気すぎて恥ずかしいな」 「いいよ、いつでも」 瑛里華の脚を持ち、開かせた。 付け根があらわになる。 遠目にわかるほど濡れていた。 上げた脚を抱え腰を進めていく。 蜜壺に先端を当てる。 すごいな。 奥から愛液が漏れ、湯気がでそうなほど熟している。 入れた感触を想像するだけでペニスが震える。 「いくぞ」 先端を突き立てる。 「あっ」 くちゅっ。 あっという間に亀頭が飲み込まれた。 ぬめりと熱さに、思わず声が出そうになる。 瑛里華の腰がゆらゆら揺れる。 催促するような動きに興奮の針が振り切れた。 「っっ」 いきなりピストン運動を始める。 「ひゃっ、やっああっ……ああっ、ああぁっ」 ぐちゅっ、ぐちゅっ! 十分に濡れたそこからは、派手な水音が上がった。 前後する男根を、握りしめるようにヒダが絞ってくる。 「ああっ、孝平っ、孝平っ……んあっ、あっ」 高い声が上がる。 瑛里華より先にはいけない。 尻に力を入れ強く腰を振る。 「うあっ、ああっ……いやっ、ああああっ」 「孝平っ……んっ、激しいよ、ああっ、あああっ」 瑛里華の声に反応するように膣内がしまる。 溶けるような熱と壁面からの刺激に、頭が白くなっていく。 「ああっ、だめっ……私っ、今日は……なんかっ」 「んあっ、あっ、あっ……やっ、孝平……」 瑛里華の手が俺の腕を握る。 爪が肌に食い込む。 「くっ」 瑛里華の脚をより広げ、体を貫くようにペニスを送り込む。 ずちゅっ! ぐちゅっ! 愛液が白く泡立ち、飛び跳ねる。 「ひうっ、ふあっ……あっ、あっ、も……もう」 「おかしくなって……きちゃう……んあっ、あっ!」 声のトーンが高くなる。 腰の角度を変え、壁面をつつく。 「ひああっ、あっ……だめっそれっ」 「壊れるっ、孝平っ、あっ……やっ、あああぁぁっ」 「瑛里華っ」 限界が近づいてきた。 最後の力で、がむしゃらに腰を振る。 「ああああっ、だめっ、だめっ……んあっ」 泣きそうな顔の瑛里華。 俺から飛んだ汗が、ぱたぱたと瑛里華に降っていく。 「孝平っ……あっ、あ、あ、あ……」 「いくっ……あああっ、だめっ、だめだめっ!」 「やっ、やっ、あああっ……孝平、孝平っ……」 「もう、私っ、いくっ、いっちゃ……いく」 「あ、あ……あ、あっ、あ、あ、あ……あああぁぁっっ!!」 収縮した膣に、思い切り肉棒を打ち込んだ。 しびれが走る。 びくびくっ! びゅくっ! どく……どくどくっ!!! 体の中身が噴き出すような快感。 頭が真っ白になる。 どくっ、びゅくっ! アホみたいにペニスが震える。 「あ……出てる……孝平のが……」 そんな声が聞こえないほどのしびれが、体を駆けめぐっていた。 「っ……」 一気に脱力する。 「中に……広がってる……」 「……」 実際のところ、抜く余裕がなかった。 「ん、いいよ……気にしないで」 「あ……広がってる、すごい……」 瑛里華がとろんとした笑みを浮かべる。 「今日はけっこう来たかも」 「ええ……お疲れさま」 瑛里華が俺の腕を撫でてくれた。 緊張が解け男根が収縮する。 ゆっくりと腰を引いた。 一瞬だけ体内が見え、暗がりから白濁した液体があふれ出る。 「出しすぎ……たまってた?」 「笑うなって」 「瑛里華がよかった証拠だ」 「ありがと」 ティッシュを取り瑛里華をふいてあげる。 1枚や2枚じゃ足りない量だ。 これも眷属パワーだろうか……。 んなわけないか。 秘所や体をふき瑛里華の隣に寝る。 すぐに瑛里華が体を寄せてきた。 「なんだか幸せ」 「よかった」 瑛里華の頭を撫でる。 その手を彼女が捕まえ頬ずりしてくる。 上気した肌が心地よい。 「瑛里華、最近は安定してるのか?」 「なんの話?」 「ずっと、血を吸いたくなったり不安になったりしてただろ?」 「最近は特に感じないわ」 「ここに来てるからね、きっと」 と、瑛里華は俺の手を握る。 「じゃあ、今は血を吸いたくないんだな?」 「ええ、そうだけど?」 ちょっと不思議そうな目で俺を見る。 「だったら、一つ頼んでいいか?」 「言ってみて」 俺の空気が変わったのを察したのか、瑛里華は言葉を選んだ。 「俺の血を吸ってくれないか」 「な、何言ってるのよ」 「人の血を吸わないのは知ってるでしょ」 「知ってるけど、俺人間じゃないし」 「茶化さないで」 「茶化してないさ」 ごろりと仰向けになる。 「輸血用血液に頼ってたら、この島からずっと出られないだろ」 「瑛里華が俺の血を吸ってくれていれば、どこへだって行けるぞ」 「世界一周旅行とか」 「それはそうだけど」 「瑛里華はずっとこの島にいたから、もっといろんなところを見せたいんだ」 「で、でも……」 瑛里華が戸惑っている。 「ま、そういう現実的なメリットはさておいて」 「さておくの?」 「ああ、ほんとのところは違うから」 「そっちを先に言ってよ」 「けっこう、恥ずかしい話なんだけど」 「聞いてあげる」 「俺たち、これから百年も二百年も一緒にいるんだろ」 「そうなるわね、孝平が離れていかなければ」 「離れないつもりさ」 「だから、もっと瑛里華を支えられるようになりたい」 「これからずっと、一緒に生きていくパートナーとして」 「それに……」 「それに?」 「もし、瑛里華の欲求にまずい変化があったとき……」 「他の人の血を吸うのを見たくない」 「瑛里華には俺だけの血を吸って欲しいんだ」 「孝平……」 「人間で言ったら、結婚指輪みたいなもんかもしれない」 「瑛里華は俺以外から血を吸わない」 「俺も瑛里華以外には血を吸われないようにする」 「ま、そういう約束」 「結婚か……」 瑛里華が体を起こす。 仰向けの俺を見下ろす。 「吸血鬼の私が、そんなことできるとは思わなかった」 「単に前例を知らないだけさ」 瑛里華の頬に手を伸ばす。 「孝平のためにポリシーを曲げるのよ」 「いいのか?」 「あなたが言わないで」 「その代わり、孝平にも約束してもらうわ」 「どんな?」 瑛里華が馬乗りになる。 「私がもし何か命令をすることがあったら……」 「そのときは、私を捨てて」 「……わかった」 瑛里華もうなずく。 その瞬間、 瑛里華の瞳が深紅に輝いた。 髪がわずかに舞う。 西日に照らされたそれが、きらきらと光を反射する。 そう言えば、 瑛里華に記憶を消されそうになったときも、こんな夕方だったな。 「はじめてだから、痛いかもしれないわ」 「できれば優しくしてくれ」 「できれば、ね」 「孝平……」 「ん?」 「手を握って」 「ああ」 瑛里華の両手を握る。 彼女はかすかに震えていた。 「大丈夫だ」 しっかりと手を握る。 「いくわよ」 瑛里華の頭が下がってくる。 まず、俺にキスをし、 そして、首筋に口を当てた。 いつもとは違い、尖ったものが皮膚に触れていた。 「瑛里華」 「ずっと、一緒にいよう」 瑛里華がうなずいた気がした。 「っっ!」 ぷつりと、鋭い痛みが走った。 すぐにそれは重いしびれに変わる。 「んっ、こくっ……くっ」 瑛里華ののどが鳴っていた。 俺から流れたものが瑛里華の中へ入っていく。 それはたしかに彼女の血となり肉となっていくはずだ。 「……」 いいな……血を吸われるのも。 天井を見上げ、ぼんやりと思う。 わかりにくいことは何もない。 俺と瑛里華が、いま一つになってゆく。 こんな恍惚は今までなかった。 瑛里華も同じ感覚でいてくれたなら嬉しい。 「んっ……っ……」 瑛里華の力がゆるんだ。 ゆっくりと頭が離れていく。 少し名残惜しいな……。 瑛里華が体を起こした。 口元から赤い筋が垂れている。 夕日の中で俺を見下ろす姿には、あらがいがたい凄みがあった。 「どうだった?」 「ん……うん……」 我に返ったように、瑛里華が口を手の甲でぬぐう。 「怖い……」 「え?」 「怖いくらいおいしかった」 瑛里華の表情は晴れない。 「癖になりそうで怖い」 不安げに眉をゆがめる瑛里華の頬に手を伸ばす。 「孝平は痛くなかった?」 「初めはちょっと痛かったけど、たいしたことない」 「そっか」 瑛里華が傷口に触れる。 「もう、出血は止まってるわね」 「すげえ、体だ」 「もしかしたら、毎日吸えるように治りが早いのかもな」 「これからも遠慮しなくていいぞ」 「もう……バカ」 こうして俺たちは、共に生きていくための約束をした。 永遠を生きる俺たちが、この後どうなるのか、 どんな世界を見るのか、 それはわからない。 だが、彼女がそばにいて俺も彼女のそばにいられるのならば、きっと―― いつまでも、息の合った二人でいられることだろう。 「あれ……」 「どうしたの?」 「なんか……眠くなってきた」 「ちょっと、どうしたのよ!?」 「これって、あれじゃない?」 「もしかして」 「眷属の活動停止……だっけ?」 「え、うそ、なんでこのタイミング」 「知るかよ、体に聞いてくれ」 「ど、どうしよ? オムツとかあった方がいいのかな?」 「やめてくれ」 「つーか、その前に服着ないと」 ……。 約10分後。 俺は眠りに落ちた。 季節は巡り―― 俺が学院に来て2回目の春。 瑛里華と並び学院の敷地を見上げる。 島を離れる前に、もう一度ここを見ておきたかったのだ。 新しい生活を夢見て転校した修智館学院。 ここはまさに、俺にとってのターニングポイントとなった。 瑛里華との出会い。 そして、彼女との恋愛。 生徒会役員としての毎日。 寮での生活。 クラスメイトとの日々。 一つとして無価値なものはなく、俺の胸に刻まれている。 この学院に来るまでの毎日をほとんど覚えていなかった俺が―― 毎日を積極的に生きていくことができるようになったのだ。 そうさせてくれたのは……、 「初めて会ったのもここだったわね」 「あのときは、ほんとごめんなさい」 「あー、あれはビビったよ。いきなり逃げるからさ」 「危うくトラウマになるところだった」 この人、千堂瑛里華だ。 彼女とはこれからも共に生きていく。 俺から血を吸うようになった瑛里華は、もう輸血用血液に縛られることはない。 ひとまずは、県外の同じ学校に進学することにした。 同居生活を送りながら、これからのことをゆっくりと決めていくつもりだ。 時間は山ほどある。 むしろ、山ほどある時間をいかに過ごしていくかが、俺たちの課題だ。 「さて、行くか」 「そうね」 手をつなぎ、空いた手に旅行鞄を持った。 このまま駅へ向かい新居へと旅立つ予定だ。 「これからもよろしく、孝平」 「ああ、こちらこそ」 一歩踏み出す。 南風が吹き抜け、桜の花びらが舞った。 「向こうも桜咲いてるかしら?」 「近くの河川敷に桜並木があるらしいぞ」 「なーいす」 「じゃ、まずはお花見ね」 「そうしよう」 まず一つ、楽しみな予定ができた。 こうやって、少しずつ時間を楽しいものに変えていけばいい。 それがきっと、永遠を生きる俺たちに必要なことだ。 放課後。 監督生室に行くため本敷地に向かう。 途中、噴水の前でシスター天池とすれ違った。 「支倉君、雪丸を見ませんでしたか?」 「いえ」 「また逃げたんですか?」 「鳴き声は聞こえるのですが……ありがとう」 そう言って階段を降りて行く。 古めかしい講堂棟の脇を通り抜け、監督生棟に向かう階段を上りかけたとき。 礼拝堂から聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「そんなとこに行っちゃ駄目じゃないですか!」 珍しい。 白ちゃんが怒っているようだ。 相手は、もしや……。 「ほら、早く降りてきてください」 白ちゃんが怒っている相手は、やはりウサギの雪丸だった。 「白ちゃん、どうしたの」 「あ、支倉先輩」 「雪丸が……ほら、あんなところに登ってしまって」 指さす先を見る。 すると、祭壇の上の方に雪丸が乗っていた。 しかも高いのが恐いのか、自分では降りられないようだ。 「ほら、ゆーきーまーるー」 「自分じゃ降りられないんじゃないか?」 「俺が下ろすよ」 「あ、はい」 「すみません、お願いします……」 「ここ、登っても?」 「ええ」 祭壇によじ登り、雪丸に向かって手を伸ばす。 「雪丸、ほら」 そっと雪丸を抱え、白ちゃんに渡した。 白ちゃんも、ほっとした顔になる。 「お騒がせしました」 「わたしでは届かなかったので、本当に助かりました」 ちょっと恥ずかしそうにしながらも、ぺこりと頭を下げる。 「これくらい、おやすいご用だけど」 俺は、礼拝堂の中を見回す。 「ほんとに、いつ来ても人がいないよな、ここ」 「そうですね……」 「他に、ローレル・リングの人っていないの?」 「名前だけの方なら、何人かいるようなんですが」 「今は、ほとんどわたしとシスターだけみたいなものです」 「そういや、シスターと噴水の前で会ったな」 「あ」 まずい、忘れてた──みたいな顔になる白ちゃん。 「あの、シスターは雪丸を探しに外へ」 「そうみたいだな」 「早く雪丸が無事戻ったことを伝えないと」 「は、はいっ」 「ありがとう、支倉君」 「いつか、ローレル・リングに入ることも考えておいてくださいね」 「あはは……」 ため息をつくシスター。 「仕事は多いのに、人が少ないのよ」 それは見ていればわかる。 「ローレル・リングで仕事を頑張ったら寮生活で何かしても許されるとか、特典は無いんですか?」 「いえ、むしろローレル・リングのメンバーは寮生の模範ともなるべく……」 「生徒会の仕事もあって、なかなか難しいかと」 「ふう……、仕方ないですね」 話が長くなりそうだったので、早々に断った。 「じゃあね、白ちゃん」 「あとから、わたしも監督生室に行きますね」 「おう」 「ちわす」 「ん、支倉か」 珍しく千堂兄妹がおらず、室内には東儀先輩一人のようだった。 「ここに来る途中、礼拝堂に白ちゃんがいましたよ」 「ほう」 「珍しく大声を上げて怒ってたので、びっくりしました」 「なぜ怒っていたんだ」 口調は静かだが、すごい食いつきだ。 「それがですね……」 顛末を説明する。 「なるほど。礼拝堂も平和なものだな」 白ちゃんが本気で怒っていたわけじゃなかったからか、東儀先輩は落ち着いた声で言う。 「しかしな、支倉」 「白は本当に怒ると怖い」 急に真剣な顔になった東儀先輩。 「そう……なんですか?」 「ああ。ただ、普通に怒っても怖くない」 「ぷく〜っと頬を膨らます程度だ」 たしかに怖くない。 「怖くないと言うと、もっと膨らむ。丸々と膨らむ」 「はあ」 「怖いのはその後だ」 「きんつばを食べさせないと、口をきいてくれなくなる」 「はあ」 「というわけだ。怖いだろう?」 「はあ?」 東儀先輩は、ずっと真顔のままだ。 ただのシスコンなのか、それともギャグのつもりなのか。 この人はわからない。 「そもそも、白ちゃんはそんなに膨らむんですか?」 「怒らせてみればわかる」 「でも、口をきいてくれなくなっちゃうんでしょう」 「まあな」 ……白ちゃんは、俺にもそんな顔を見せてくれるのだろうか。 考えてみれば、白ちゃんが東儀先輩にそんな顔を見せるのは、兄妹だからかもしれない。 膨らむのか。 ちょっと想像した。 ……かわいいかも。 「おいしくないきんつばは逆効果だから気をつけろ」 「どこで売ってるものならいいんですか」 「この島で一番の老舗、『さゝき』がお勧めだ」 「白も、そこのきんつばなら納得の味だと言っている」 「ありがとうございます。今度行ってみます」 「少しなら日持ちするから、買っておいてもいいかもしれないな」 「ふう」 「こんにちは」 女子二人が、連れだって入ってくる。 「今日は暑いわね」 「兄さま、支倉先輩」 しゃべり始めた瑛里華の脇から、ずいっと前に出てくる白ちゃん。 珍しいな。 「今、きんつばの話をされていませんでしたか」 言葉の匂いでも外に漏れたんかい。 「ああ、してた」 「やっぱり」 「東儀先輩から、いろいろ話を聞いてたんだ」 「白ちゃんが怒っても、きんつばをあげれば簡単に機嫌が直るとか……」 「むー」 「そんなに簡単ではありません」 頬を膨らませる白ちゃん。 な、なるほど。 「言っちゃ駄目じゃない」 見回すと、いつの間にか東儀先輩は姿を消している。 早っ! ──っと思ったら、給湯室の方から一枚の皿を持ってやってきた。 「白、これを食べるといい」 「わ、きんつばです」 「今お茶を淹れてやろう」 「ありがとうございます、兄さま」 さすがの技。 流れるような一連の動き。 「おいしいです」 膨らみ始めたことなどまったく忘れてしまったかのように、白ちゃんはきんつばを味わっている。 「さすがね」 副会長も感心していた。 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまです」 「俺たちまでごちそうになってしまって」 「気にするな」 「『さゝき』のきんつばの良さがわかればいい」 「小さくて食べやすかったです」 「一口で食べてしまいました」 「それはいけません」 白ちゃんが立ち上がる。 「もっと味わって食べないと」 「いや、おいしかったよ」 「支倉先輩、こんど『さゝき』にご案内します」 「じっくり食べれば、もっと深い味もわかっていただけると思います」 「すっかりつかまったわね、支倉くん」 「仕方ない、つきあってやってくれ、支倉」 「……はい、わかりました」 白ちゃんの初めて見るような迫力に負け、俺はうなずいた。 多方面からの仕事が集中している副会長。 しかも副会長でないと担当できないものばかり。 「瑛里華、これも頼む」 「俺が見ようか?」 「内容は?」 「グラウンド脇の花壇に植える花の年間計画書、美化委員会」 「くっ」 「支倉くん、花の名前に詳しい?」 「ごめん」 「もー、なんで今日はこんなに」 「すまない、これも頼めるか」 「征一郎さんまで?」 「さすがに女子更衣室の件は、俺ではな」 「はーい」 「副会長、紅茶でも淹れようか」 「助かるわ……」 「すみません、紅茶の葉っぱが切れていました」 「む、む、む」 「……もごもご」 会長が、爆発寸前の副会長を押さえ込む。 「悪いね、二人で紅茶を買ってきてくれないか」 「ちょっといい葉っぱを頼むよ。今日は特別だ」 会長のポケットマネーとおぼしき札を受け取ると、俺と白ちゃんは監督生棟を出た。 東儀先輩からは備品も頼まれ、生徒会の買い物ということで外出許可を取った。 守衛の金角銀角も、許可のおかげで無事通過。 平日に学校の外に出るのは新鮮だ。 「どこに行こうか」 「海岸通りでもいいんですが……」 「今日は、古くからある喫茶店で買うというのはどうでしょう」 「なるほど。良さそうだ」 「瑛里華先輩もお疲れでしたし」 「華やかなものよりも、落ち着いたものを買って帰りましょう」 「わかった」 白ちゃんの案内について坂を下り、海岸通りの近くまで来る。 「ちょうど、この前話をしていた『さゝき』も近くにあるんですよ」 「じゃあ、そこにも寄っていこうか?」 「でも、あまり遅くなっては」 「ちょっと寄るくらいなら大丈夫さ」 「ついでに、お茶菓子も買っていこう」 「は、はい」 案内されるままついていくと、中心部から離れる道に入った。 「では、こちらです」 いつものコースを外れ、閑静な住宅街に向かう。 古そうな家が続く街並み。 この島に来てから、こんなところに来たのは初めてだ。 「この家、すごいな」 塀がどこまでも続き、母屋もかなり道から奥にある。 周囲の家の中よりも格段の風格を感じた。 「ここが、うちです」 「あ、そ、そうなんだ」 立派な門の表札には、たしかに「東儀」と書いてある。 「すごい家だね」 「そんな、ただ古いだけです」 「土日は家に帰ったりしてるの?」 「時々は、そうしています」 目当ての喫茶店はすぐ近くにあり、紅茶の葉もいいものを売ってもらった。 外から見ても、一見喫茶店とはわからない隠れ家的な店だった。 「そして、ここがさゝきです」 ちょっと得意げに紹介してくれる白ちゃん。 高く評価しているということなのだろうが、胸を張った姿がかわいい。 こちらは小さい店構えながらも、渋くはげた金文字看板を掲げている。 右から左に読むのだと気づくのに、数秒かかる。 そこには、『きゝさ舗子菓』と書いてあった。 「こんにちはー」 暖簾をくぐって店に入る白ちゃんに続く。 奥から、お婆さんが出てきた。 「あれまあ」 「白様ではありませんか」 白様? 「さ、様づけは、その……」 「あれまあ、それは失礼致しました」 「今日は平日だというのに、どうされましたか」 「ええ、ちょっとした用事のついでに、お茶菓子を買おうかと」 何気なく応えている白ちゃんだが。 ……白様って言ってたな。 「そちらの方は?」 「学院の先輩で、いつもお世話になっている方です」 「あ、どうも」 「あれまあ、それはそれは」 「今日もきんつばでよろしいですか」 「ええ、お願いします」 「今日はこちらの丸い方も」 丸いきんつばなんてものもあるんだな。 「はい、かしこまりました」 お婆さんが、慣れた手つきできんつばを包む。 「それと、いただき物ですが、旬の苺がありますのでよろしければどうぞ」 「一緒に包んでおきますので」 「あ、はい」 「ありがとうございます」 お店を出ると、お婆さんが見送りに来た。 「またぜひいらしてください」 「はい」 そう言って店を後にする。 苺の包みを持ち、俺はさながら荷物持ちだ。 「歴史のある家だって聞いてたけど、本当になんか『名家』って感じだね」 「いえ……、そんなことはないのですが」 なぜか恐縮しまくっている白ちゃん。 「白様、なんて呼ばれてるんだ」 「そそそれはっ、そのっ」 「なんてな。ごめんごめん」 慌てさせてしまった。 「じゃあ、東儀先輩の備品もさっさと買って帰ろうか」 「はい」 「ただいまー」 「ああ〜紅茶様の到着だわ〜」 そうとう疲れてるな。 「兄さまたちは?」 「二人で出ていったわ。しばらくしたら戻るって」 「副会長一人で頑張ってたのか。お疲れ」 「それでは、さっそくお淹れします」 「砂糖もたっぷり用意しますね」 「ありがと〜」 「副会長も一度休憩したら?」 「そうさせてもらうわ……」 ささやかなお茶タイム。 白ちゃんが淹れた、独特な香りのする紅茶と和菓子がテーブルに並ぶ。 「和菓子って、紅茶に合うの?」 「組み合わせ次第ですけど、よく合いますよ」 またちょっと自慢げな白ちゃん。 試してみる。 「ほんとだ。おいしいな」 「きんつばはラプサン・スーチョンに合うわね」 「この紅茶の銘柄?」 「そう。中国の紅茶よ」 「だから和菓子にも合うのかも」 「さゝきのきんつばは、小ぶりでちょうど食べやすいと思うのです」 「白様じゃ、あまり大口開けて食べるわけにもいかないもんな」 「むー」 「支倉先輩にはもうあげません」 「ごめんなさい」 ちょっと怒らせてみる。 これまではあまり見せてくれなかった顔を見るのが楽しかった。 「支倉先輩、こんどはちゃんと味わって食べてくださいね」 「ああ。しっかり味わってるよ」 「甘すぎず、でもしっかり甘い」 「そのとおりです」 嬉しそうだ。 「……あれ、さっきは丸いきんつばも買ってなかったっけ?」 「ええ。いろいろと食べてもらおうと思ったのですが」 「今日はちょっと買いすぎました」 「なので、こんどのお茶会に持って行こうかなと」 「いい考えね」 「あっちも楽しみだな」 「そ、そうですか」 まるで自分が褒められたかのように照れる白ちゃん。 「……あ、瑛里華先輩、そろそろお仕事に戻らないといけないのでは」 「だな。副会長、手伝えるものがあったら手伝うぞ」 「わたしは後片づけをします」 「うん。どっちもお願い」 「苺はどうしようか」 「兄さまや伊織先輩もいるときに、みんなでいただきましょう」 「わかった」 みんな、仕事につく。 俺は、仕事を手伝いながらも白ちゃんの豊かな表情を思い出したりしていた。 「準備かんりょーっ」 「じゃあ、始めよっか」 いつも通り、俺の部屋に集まる面々。 「あれ、えりりんは?」 「今日は別の女の子の集まりに行かなくちゃいけないって」 「瑛里華先輩は、いつも引っ張りだこです」 「ふむ。じゃあその分も盛り上がらなくちゃいけないね!」 「おー!」 今日も俺の部屋はにぎやかだ。 「今日は、しろちゃんが何かお茶菓子を用意してくれたって聞いたけど」 「あ、はい」 「お菓子屋さんで買ってきた、きんつばがあります」 「おーっ、すごい!」 「えらいえらい」 白ちゃんの頭を撫でるかなでさん。 「どこの店?」 「『さゝき』というお店なのですが」 「あそこの和菓子はおいしいよねー」 「ご存知でしたか」 「そりゃもう。老舗だもん」 「長く続いてるのは、伊達じゃないよ」 「へえ、楽しみだ」 緑茶と紅茶が行き渡る。 「さっそく、いただいてみようっ」 「はい、このお皿でいいかな」 「では……」 丸いきんつばがテーブルの皿に載る。 監督生室で食べたものとは形が違った。 「ぱくり」 「むむむー、こっ、これは……」 「ど、どうされましたか」 「デリシャス! トレビアーン!」 かなでさんは、白ちゃんを抱きしめて大喜び。 「むぎゅ」 「かなでさん、手加減してやって下さい」 「やー、でもこりゃうまいよ」 一つ食べてみる。 「四角いのと味は近いけど、どこか素朴な感じだ」 「もともとは、丸いお菓子だったそうです」 「丸いのは、昔ながらの作り方をしているそうですよ」 「なるほど」 「これ、お茶にも合うよね」 「うん。こりゃうまい」 きんつばの山がみるみる低くなっていく。 「皆さんに喜んでいただけて、良かったです」 白ちゃんも満足顔だ。 一通りお茶とお菓子を食べ、まったりムードが漂う。 陽菜は、白ちゃんの髪を編んだりしていた。 「ぬお」 「どりゃあっ、勝利!」 最後の一つのきんつばは、司とかなでさんの奪い合いになり、かなでさんが圧勝した。 「むぐむぐむぐ……しろちゃんてさ、どうして和菓子が好きなの?」 「好みが渋いよね!」 「えと、子供の頃から、うちではお菓子と言えば和菓子だったので、なんとなく」 「お祭でも、よく振る舞われていましたし」 「お祭って、神社の?」 「珠津祭だね」 「ええ」 「珠津島神社の秋季例大祭です」 「どんな祭なんだ?」 「文化祭のあとで、カップルが行く祭だ」 「そそそんなんじゃ」 「風紀委員もその日はチェックが甘くなったりならなかったり」 「にゃはは〜」 「カップルの王道ルートって言われてるよね」 「へえ」 「白ちゃんはその祭によく行ってるの?」 「あ、その」 「東儀家は、お祭りを仕切る側なので……」 「おお、なるほどねー」 古そうな家だったし、ありそうな話ではある。 “白様”だもんな。 「俺は一度も行ってない」 「へーじはあまり興味なさそうだね」 「去年はバイトしてたし」 「それはなんつーか、お疲れ」 「今年は誰かと行けるといいな」 「うちの寿司屋はかき入れ時だから無理だろ」 「淡泊だなぁ、へーじは」 「お祭りだもんね。お寿司は注文多そう」 「猫の手も借りたいくらいだ」 「……」 「ま、その分時給も上がる」 「むっ、それは風紀委員長としては聞き捨てならない」 「風紀は関係ないよお姉ちゃん」 「……」 白ちゃんが、気のせいか、少しそわそわしている気がする。 「白ちゃん、どうかした?」 「あ、その」 「ちょっと、雪丸のことが気になってしまって」 「雪丸って?」 「礼拝堂で飼ってて白ちゃんが世話してるウサギです」 「夕方、雪丸にエサをあげた後、小屋の鍵を閉めたか自信が無くなってしまって……」 「ふむ」 「それは心配だね」 「はい、野良猫に襲われたりしたら……」 「明日のウサギ小屋は血まみれ、か」 白ちゃんが心なしか震えている。 「縁起でもないこと言うな」 「もう消灯時間になっちゃうよ」 「どうしましょうか……」 ちょっとうなだれる白ちゃん。 「じゃ、ちょっと見てくるか?」 「えっ」 「懐中電灯があれば大丈夫だろ」 「ぱぱっと行って、ぱぱっと帰ってくれば」 「風紀委員長の前でその発言は大胆だな」 「あ」 「いや、おっけー!」 「あたしゃ、しろちゃんの優しい思いに心打たれたよ」 「ウサギのことを、そこまで心配するなんてなかなかできるっこっちゃない!」 「あたいが感動して目を泣き腫らしてる間に行ってきな!」 「これはどういうキャラ?」 「なんか、任侠ものか時代劇かな?」 「泣きやむぞー」 「行こう、白ちゃんっ」 「はいっ」 裏口から寮をこっそり抜けだし、礼拝堂に向かう。 「礼拝堂の裏です」 「よし」 夜の校舎は真っ暗で、噴水の水は止まっていた。 静かなせいか足音が響き、思わず忍び足になったりする。 「だ、誰もいませんね」 「まあ、この時間だしね」 「暗いです」 「この時間に出歩いたことは?」 「ないです……」 「うわ、真っ暗です」 「雪丸、ちゃんといるかな」 「いてほしいです……」 夜の礼拝堂は、神聖な場所の割には不気味だった。 裏手に回ると本当に真っ暗で、懐中電灯がなければ足下に穴が開いていても気づかない。 「このあたりかな」 「あの、貸していただいていいですか」 「ああ」 懐中電灯を渡す。 「……」 「どう?」 白ちゃんが、ウサギ小屋の中を照らす。 「あ……大丈夫です」 「ちゃんとエサを食べてました」 「良かった」 ほっとした声の白ちゃん。 鍵もちゃんとしまっていたようだ。 「懐中電灯を見て、少しびっくりしていたかもしれません」 「こんなに真っ暗なんだもんな」 白ちゃんが、懐中電灯を返してくれる。 「でも、ちょっとドキドキして楽しいですね」 「そう?」 「ええ。こんな時間の礼拝堂を見るのは新鮮です」 「学院もひっそりとしていて、どこにも人がいないですし、声も聞こえません」 「まるで眠り込んでいるみたいです」 「そうだな」 生徒や教師のざわめき、部活のかけ声……。 昼間は、何かしら人の気配のする音で満ちている。 「……じゃ、そろそろ戻ろうか」 「そうですね」 「あれ?」 気のせいか、懐中電灯の明かりが弱くなったような。 「あ……光が」 「弱くなった?」 「かもしれません」 「早く戻ろう!」 寮へと駆け出す。 「はいっ」 「はあ、はあ、はあ」 「ふう、ふう、はあ」 なんとか、懐中電灯が消える前に街灯のある場所まで戻ることができた。 「裏から、戻ろう」 「はあ、はあ……そ、そうですね」 鍵を開けてもらい、部屋に戻る。 「ただいまー」 「戻りました」 「あちゃー」 「?」 走ったせいでちょっと汗ばんだ服の裾をぱたぱたさせながら部屋に戻ると、靴が一つ多い。 「白か」 「に、兄さま」 「白がここにいるかと思って来てみたのだが」 「あの、こんな時間に外に連れ出したりしてすみませんでした」 まず、何より先に謝ることにした。 「いっ、いえ」 「兄さま、わたしが言い出したことで、わたしが悪いのです」 「いや、それはいい」 「話は全部聞いている」 東儀先輩が、俺をちらっと見る。 「無事だったか?」 「ええ。元気でした」 「そうか」 ……。 陽菜はもちろん、かなでさんまでが叱られた子供のようにしんとしている。 別に、東儀先輩が怒っているわけでもないのに。 「時間も遅いから、ほどほどにな」 「は、はい」 「はい」 東儀先輩は、そう言うと俺たちの脇を通り、部屋を出ていく。 すれ違うとき、もう一度、目が合った。 ばたん。 扉が閉まると、誰からともなくため息が漏れる。 「せいちゃん、ちょっと怒ってたかな?」 「友好的な雰囲気じゃなかったな」 「私は怖かったかも……」 「怒られるものだとばかり思ってた」 俺も同感だ。 「兄さまはめったに怒らないのですが」 「今日はやばかったかもねー」 「まるで、娘を悪い遊びに誘ってる仲間ににらみを利かす父親みたいな」 「その例えはどうかと思いますが」 「たしかに、怒らないのが逆に怖いくらいでした」 かなでさんが立ち上がり、東儀先輩が去っていった扉を見つめる。 「いおりんとずっと一緒にいるくらいだもんね」 「やっぱり、ただ仕事ができるってだけの人じゃないな。むむー」 「……そろそろ、今日はお開きにしようか」 「ああ、そうだな」 皆で食器を片づけ、解散となる。 最後に残った白ちゃんは、少し申し訳なさそうにぺこりと頭を下げて部屋を後にした。 「んっ、んん〜」 副会長が、少し退屈そうに背伸びをした。 「この前はあんなに忙しかったのに、今日はほとんどすることが無いわ」 「もうちょっとバランスとれないものかしらねー」 「うちに仕事を持ってくる人は、こっちの事情は知らないからな」 「郵便局に行ったりすると、窓口が混む日と混まない日のカレンダーがあるじゃない」 「ああいうのを作っちゃうのは?」 「前もって忙しい日がわかっていれば作れるだろうが」 パソコンに向かって、何かのデータを作っている東儀先輩。 会長は、少し眩しげな目で窓から外を眺めていた。 「予測できないトラブルに対応するのも、俺たちの仕事のうちさ」 「兄さんに正論を言われるとなぜか腹が立つわ」 「何か、前倒しでできるお仕事は無いのですか」 「その考え方は大切だぞ、白」 「はい、兄さま」 「一階の掃除をするというのはどうでしょうか」 「一階?」 「ええ。物置のように使われていますよね」 そういえば、体育祭以来、一階の部屋に入ったことはない。 「倉庫か」 「今の状態は今の状態で味があると思うけどね」 「俺には理解できない味だが」 「去年よりはマシにしたつもりです」 「根本的な解決はほど遠いけどね」 「あ、お客さんだ」 監督生棟への階段を上ってくる人影を、目ざとく見つける会長。 「じゃ、俺はちょっと出迎えて話を聞いてくるから」 掃除に乗り気じゃない分、急にフットワークが軽くなったようだ。 「待って兄さん。私も行く」 やることに飢えていた副会長も後に続く。 ばたん ……。 部屋の中には、東儀兄妹と俺が残った。 急に静かになった気がする。 「そういえば……」 パソコンのモニターから視線をこちらに移す東儀先輩。 「先日の門限破りの件だが」 「あ……はい」 いきなり『門限破り』と言われては、こちらは悪いことをした立場として話を聞くしかなくなってしまう。 神妙にならざるを得ない。 「一度だけなら、そのことを責めるつもりはない。が……」 「消灯時間を過ぎてから、男子の部屋に男女が集まるというのはあまり褒められたものではないな」 穏やかな、しかし確信に満ちた声。 これはきっと、自分が言っていることに自信がある人の声だ。 「生徒会役員として、他の生徒に範を垂れるべき立場にあることを考えてみてくれないか」 「自分のしていることを、多くの生徒が真似したらどうなるかを」 むぐ。 持って回った言い方ではあるけれど、ストレートに突いてきた。 教師に指導されているような気分になってくる。 「あれは……」 「あれは、寮長でもあるかなでさんが、転入してきた俺が学院に溶け込めるようにと」 「それ自体はわからないでもない」 「だが、さすがにもう溶け込んだと言ってもいい時期だろう?」 「それに、寮長とはいえ悠木も一人の生徒だ」 「あまり遅くなったり、うるさくしたりしないようには気をつけています」 「普段は、消灯時間も過ぎないことがほとんどで……」 「最低限、してはいけないことをしていないというだけだ」 くっ……。 やはり、生徒会の懐刀と呼ばれる人に口答えしても無駄なのか。 「もちろん、何がなんでもすべてのルールを守れとは言わん」 「ただ、やはり節度というものはあるべきだろう。そうは思わないか」 「は、はい……」 「いいえ、兄さま」 「支倉先輩も、お茶会の皆さんも、きちんと節度は守っていると思います」 「白」 「皆さんとてもよくしてくれますし、同じ学院に通う仲間同士が仲良くなるのはいけないことでしょうか」 「それに何より、楽しいのです」 「む……」 思わぬところから現れた、白ちゃんの援軍。 東儀先輩も、反論できずにいる。 「はっはっは、征は相変わらず白ちゃんに弱いな」 「ただいまー」 そこに、ドアから入ってきた二人。 「……どこから聞いていた?」 「門限破り、のあたりから」 「お客さんかと思ったら、先生からお願い事されちゃって」 「そこで、盛り上がってるところ悪いんだけど、征も一緒に来てくれないかと」 「ならすぐに声をかければいいものを」 「まあ、そこはそれ」 「あとは若い二人に任せて。ほら、行くぞ」 「……」 最後にちらっとこっちを見て、東儀先輩は連れて行かれた。 監督生室に残る俺と白ちゃん。 静かになった部屋で、互いに目が合う。 「あ、あの、支倉先輩」 「先ほどは、兄さまが失礼しました」 「ああ、いや、別に東儀先輩は失礼なことなんて言ってない」 「でも」 「もっともなことさ。こっちが反論できた立場じゃない」 「まあ、白ちゃんが援護してくれて助かったけど」 「ふふ、そうですね」 二人で少し笑う。 ふと、言葉が途切れる。 外の陽は少し傾き、黄色みがかって室内を照らしていた。 「……兄さまは、わたしのためを思って言ってくれたのだと思います」 俺もうなずく。 「ただ、まだわたしが頼りなくて一人前だと認められていないので」 「白ちゃんだけじゃないさ」 「俺も、心配されないくらいにならないとな」 「そんな、支倉先輩まで」 「一緒に頑張ろう。な」 「は、はいっ」 なんとなく、共同戦線を張ったようになった俺と白ちゃん。 具体的に何をすれば認められるのかはわからない。 けど、東儀先輩に心配されるような男ではいたくないというのも事実だ。 「では、手始めにこちらの書類を片づけましょう!」 「おう」 その後は、二人でしっかりと仕事をした。 先輩たちと副会長が帰ってきた時には、あまりに仕事が進んでいたので、少し驚かれるくらいだった。 今日も監督生棟へ向かう階段を上る。 東儀先輩に一度注意されてからというもの、生徒会の仕事で辛いと思うことがほとんど無くなっていた。 どうすれば認められるのか。 どうすれば心配されなくなるのか。 「これをすれば良い」というわかりやすいハードルがある問題じゃないと思う。 日頃の言動一つひとつ、それこそ箸の上げ下ろしから始まってすべての行動が意味を持つのだろう。 新緑の緑も濃くなり、植物が元気を増す季節だ。 階段の周りも生命力に満ちている。 「よしっ」 気合いを入れ直し、石段を踏みしめる。 ……。 監督生棟まで、あと20段程度のところで。 白ちゃんが佇んでいた。 「白ちゃん」 「あ、支倉先輩」 白ちゃんが振りかえる。 「何してるの?」 「ええと……」 何かを言い淀んでいる。 「こ、これを見てください」 気のせいか、少し恥ずかしがっている白ちゃん。 その指さす先を見ると、細長いものが石段の上をうねっていた。 蛇だ。 太さはそれほどでもないが、長さは1メートルほど。 「蛇……?」 「はい」 「石段を横切ってるようなので、その……待とうかと思いまして」 「なるほど」 ここも山の中だし、蛇くらいは出るか。 横切るのを待とうなんて、白ちゃんらしいというかなんというか。 微笑ましいって感じだ。 しかし、白ちゃんは少しうつむいている。 「ん? どうした?」 「いえ、もしかしたら笑われるかもしれないと思ってました」 「別に笑わないさ」 「それにいい天気だし、外でのんびりしてるのも気持ちいいよ」 「そうですか……」 「良かったです」 にこにこと嬉しそうにしている白ちゃん。 笑わなかっただけで、こんなに喜んでもらえるならお安いもんだ。 ……木々の間から、空を見る。 今日もよく晴れていた。 そろそろ気温も上がってきて、初夏が近づきつつあるのを感じる。 「気持ちいい風ですね」 「そうだな」 蛇を見ると、急がず、のたのたと前に進んでいる。 「白ちゃん、蛇は苦手?」 「ええと」 「あまり得意ではないです」 「そりゃそうか」 「小さい頃に、神社で木から蛇が落ちてきたことがありまして」 「ものすごく驚いてしまって、それ以来、ちょっとだけ怖いです」 「その神社って、この前話に出た神社だよな」 「ええ、珠津島神社です」 「たしか、お祭は東儀さんちが仕切ってるんだっけ」 「そう……なりますね」 気のせいか、一瞬白ちゃんの表情に陰がさした気がした。 「もちろん、多くの方に手伝っていただいた上で、ですけど」 「大きい祭なんだろうな」 「そんなに大きくはないです」 「でも、なんていうか……きちんとしたお祭りです」 きちんとした、お祭り? 「白ちゃんは、その祭で何をしてるの?」 「あ、あの」 「あまり上手くなくてお恥ずかしいのですが……」 「少しだけ、舞を舞っています」 舞? 舞と言われても、どんなものかピンと来ない。 「神様に奉納する踊りだったりとか」 「わたしも、様式など詳しいことはわからないです」 「ただ、兄さまは東儀家に昔から伝わるものだと言っていました」 「東儀家は、昔は代々珠津島神社の神主を務めていたそうです」 「今は、世襲ではなくなっているので、別の方が神主をしてらっしゃるのですが」 「そうだったんだ」 そういえば、和菓子屋のお婆さんも『白様』って呼んでたっけ。 島に昔から住んでる人の中では、東儀家はそういう位置づけなのだろう。 「それなら、今でも祭を仕切ってるのもわかる気がする」 「わたしは、舞しかできないのですけれど……」 「兄さまはお祭りでも重要な役割を担っているそうです」 東儀先輩が……。 そうか。 言われてみれば、そんな雰囲気もある人だ。 「東儀先輩、やっぱりすごい人なんだな」 少し嬉しそうな白ちゃん。 きっと、白ちゃんにとって東儀先輩は、誇らしい兄なのだろう。 「そんな人に認められるのは、楽じゃなさそうだけど」 「俺たちも、しっかり頑張ろう」 「ええ、そうですね」 東儀先輩は白ちゃんにとっては偉大な存在なんだろう。 だからこそ、一人前に見てもらいたい。 その気持ちはわかる気がする。 ……蛇は、いつの間にか横断を終えたらしく、姿を消していた。 「じゃ、そろそろ監督生室に行こうか」 「あ、そうですね」 「一緒に頑張ろう」 「はい」 新任の生徒会役員同士、まだまだ勉強しなくてはならないことは多い。 石段を踏みしめながら、俺と、たぶん白ちゃんも、決意を新たにした。 「というわけで、毎回、消灯時間前にお茶会はお開きにしたいと思う」 「どういうわけだ」 「人の話は聞けよ!」 「そうだよ」 「こーへーが、花嫁の父にそうしろって言われたのだ! ばばーん!」 「なるほど」 「捏造するなっ!!」 「あ、あうぅ……」 白ちゃんは真っ赤になっている。 「でも、やっぱり消灯時間は守った方がいいよね」 「お姉ちゃんも寮長なんだし、ちゃんとしないと」 「そうねえ」 「しかも、風紀委員長なんだろ」 「ぶーぶー、わたしだけ責めるなー」 今日もにぎやかなお茶会。 俺から健全なお茶会にしようという提案をしたところだ。 赤いままの白ちゃんが、小さい声で言う。 「あ、あの、支倉先輩」 「兄さまのことはおいておいた方がいいような……」 「うーん、そうだな」 「まあつまり、生徒会役員とか寮長とかがいるわけだし」 「他の生徒に『真似をしました』って言われたときに、申し開きできないことはやめようと」 「ま、孝平がそうしたいならそれでいいさ」 「すまん」 「ううん、私たちも孝平くんの部屋で騒ぎ過ぎちゃってたもんね」 「真似をされて困らないように、という話はもっともだわ」 「じゃあ、これからはそれでいきましょ」 「よーし、じゃあ……」 かなでさんが、グッドアイディアを思いついた! みたいな顔をする。 「早起きして、早朝お茶会だ!」 「って、消灯時間は決められてるけど、朝早いのはいいのかな?」 「知らないで言ってたんですか!」 「消灯時間の反対だから……仮に『点灯時間』として」 「えりりん、知ってる?」 「あ、えーと」 「……ごめんなさい」 風紀委員長に続き、生徒会副会長も撃沈。 「俺は知らんぞ」 「期待してない」 「部活で朝練がある人もいるよね」 「早い人だと、7時前には寮を出てるみたいだよ」 「そんなに早いのか……」 でも、点灯時間がわかる情報ではない。 「あの……」 「白ちゃん、知ってる?」 「ローレル・リングの活動で、早朝から礼拝堂に行くことがあるんです」 「寮監のシスターが、その時におっしゃっていました」 「何時なのー?」 「毎朝5時に、シスターが玄関の鍵を開けるそうです」 「すげえな」 「毎朝その時間にシスター天池は起きてるんだ」 「じゃあ、早起きのまるちゃんに負けずに、朝5時からお茶会だね!」 「健康的すぎます!」 「ちょ、ちょっと厳しいかも……」 「むしろ苦行だ」 「私も、温かいベッドの方がいいかな」 「そもそも、かなでさんは起きられるんですか?」 「無理っす」 全員ずっこける。 「というわけで、消灯時間にはちゃんとお開きってことでー」 一応、みんな茶化しながらも話を聞いてくれて、そういうことになった。 「でも、ローレル・リングってそんなに朝早くから活動してるんだな」 「ええ。礼拝堂から見る朝焼けはとても綺麗でした」 「そうか、日の出が見えるんだ」 「運動部より早いよね」 「自由参加なんですが、シスターはいつもいらっしゃいます」 「何してるんだろ」 「お祈りと、あとはハーブ園のお世話などをしているそうです」 「ハーブ園って、シスター天池が?」 「ええ。何種類か育ててらっしゃいます」 「本当は畑を耕して、神の恵みを実感するために自足するのが理想だと仰っていました」 「シスターはとても敬虔な方なのです」 心から尊敬するように、白ちゃんは言う。 先日は、神社で舞うと言っていた白ちゃん。 その白ちゃんが礼拝堂での奉仕活動もしている。 全然違う宗教に関わっているような気もするけど、きっと白ちゃんの中では矛盾しないのだろう。 「シスター天池が真面目なのは、よく知ってる」 「だろうな」 「へーじは、目つけられてるもんね」 「説教という名のカウンセリングも受けた」 「じゃ、このお茶会も目をつけられないようにしなくちゃね」 「というわけで、今日はお開き」 「次回はしろちゃんとこーへーのあやしい関係についてだよ」 どっと皆が沸く。 そのまま食器を片づけ、解散という流れになった。 ちゃんと消灯時間前。 皆が靴を履いて部屋を出て行く。 ……が、白ちゃんだけが残っていた。 「どうした?」 「あ、あの……」 まだ顔を赤くしている。 「花嫁の父にそうしろって言われたのだ!」 あ。 あれか。 気にしちゃってたんだな。 「かなでさんだろ」 「あまり気にしなくていいさ。場を盛り上げようとしてああ言っただけだよ」 「そ、そうなんですか……」 ん? 「あ、いえ、いいです」 「それでは、おやすみなさい、支倉先輩」 「ああ。おやすみ」 ばたん ……まったく、かなでさんにも困ったものだ。 「困った、困った」 もやもやを吹き飛ばすように、ひとりごちた。 しばらく歩いていると、前方に見慣れた制服が見えた。 俺と同じ方向に向かって歩いている。 小さい女の子と、男の組み合わせ。 カップルか。 しかし、見たことある後ろ姿だな。 隣の男と話しているのか、女の子の横顔が見える。 「……」 白ちゃん!? 白ちゃんが、男と二人きり。 こ、これは――気になるな。 とてつもなく気になる。 二人が前を歩き続けている。 その後ろ姿を見ながら、歩く俺。 これじゃ後をつけてるみたいだな。 振り向かれたら気まずいし。 いっそ気軽に挨拶してみるか? うーん……。 迷っていると、白ちゃんたちが店に入っていった。 そのまま、二人の入った店の前に到着。 店の前に置かれた看板を見た。 気にはならないな。 「……うん、全然まったく気にならない」 呟きながら二人を眺めていると、二人は店に入っていった。 そのまま歩いて、二人の入った店の前に到着。 ちらり、と店の前に置かれた看板を見た。 落ち着け、俺。 まずは状況を知ることが大事だ。 二人の会話の内容がわかれば、すべての謎は解けるはず。 こんな時は、アレしかないだろう。 ――読唇術。 唇の動きで、すべての会話が手に取るようにわかる技術だ。 「……今の俺になら、できる!(←経験ゼロ)」 まず、前を歩く二人を見る。 目を細めて、その唇の動きに集中。 横顔だから、ものすごく見にくいな。 「……」 「……」 今の唇の動きから判断すると……。 「(甘噛みって3メートル弱だとそれなりですよね?)」 「(ソクラテスを御飯にかけて混ぜればな)」 なにこの会話? 絶対違う気がする……。 もっと集中しよう。 「(あの、どこに連れていかれるのでしょう?)」 「(へっ、お前は売られたんだよ)」 「(そ、そんなっ。だから制服なんですね)」 「(ああ、高く売るためにな)」 「(支倉、先輩……)」 うおおおおおっ! 白ちゃんが危ないっ!(俺の思考も危ないっ) あれ。 二人が店に入って行く。 そのまま歩いて、二人の入った店の前に到着。 ちらり、と店の前に置かれた看板を見た。 「ペットショップ バステト」 ペットショップ……か。 「何をしている」 「うおっ!?」 慌てて振り返る。 私服姿の東儀先輩がいた。 「ペットでも飼うのか」 「あ、いや、そういうわけじゃないんですが」 「広山弘一。修智館学院4年生」 「血液型はA型。誕生日は4月4日。成績は中の下。白と同じ6組」 「白と彼は、教室の金魚の世話係だ」 「今日は大方、エサの補充にでも来たのだろう」 「そうなんですか……」 そう答えるのが精一杯だ。 彼は東儀先輩によって完全にマークされてるらしい。 「あの、東儀先輩はこちらで何を……?」 「ちょっとした用事があってな」 「そ、そうでしたか」 微妙な間が流れる。 「では」 東儀先輩が短く言った瞬間―― 一陣の風が吹いた。 思わず両手で顔を庇う。 そして風がやみ、両手をどけると東儀先輩の姿はなかった。 「忍者か!?」 思わず虚空に突っ込んだ。 「あ、支倉先輩?」 「や、やあ白ちゃん」 白ちゃんたちがペットショップから出てきてしまった。 「じゃあ、これで」 「はい、また」 広山くんは、そのまま去っていった。 「あれ、彼は?」 「ここでお別れする予定でしたから」 「そうなのか」 「今日はどうされたんですか?」 「まあその……買い物だ。もうすんだけどね」 持っている雑誌の入った袋を掲げてみせた。 「では、お天気もいいし、少しお散歩しませんか?」 「そうだね。じゃあ、行こうか」 「はい」 二人で街をブラブラと歩き、公園に来た。 「支倉先輩、海が綺麗ですね」 「ああ」 白ちゃんの言う通り、夕焼けに染まった海は幻想的ですらあった。 自然と足が止まり、二人で景色を眺める。 「……不思議です」 「ん?」 「夕日は、大きく見える気がします」 海側の手すりに小さな手をのせ、少し首をかたむけて囁く。 「ああ、たしか目の錯覚なんだよな」 「比べる物が近くにあるかないかで、見え方が違うんだっけ」 「でも、実際にこうして見ると……」 「たしかに、錯覚だなんて思えないよな」 「あの」 白ちゃんが、夕日に染まった顔をこちらに向けた。 「ん?」 「支倉先輩は、いろいろな場所で暮らしていたんですよね」 「ああ」 「印象に残っている夕日は、ありますか?」 「どうだろ……」 今まで夕日を見た記憶を思い出す。 「田舎で見た夕日が綺麗だったかな」 「山の間に吊り橋が架かっててさ、その向こう側に沈んでいくんだ」 「やっぱり景色のいい場所のは印象に残ってるよ」 「そうですか」 どこか、羨ましそうに俺を見上げた。 「この島で見る夕日とは、違いますか……?」 難しい質問だ。 太陽は一つ。 夕日だってもちろん同じ。 でも、白ちゃんが聞きたいのはそういうことじゃないだろう。 「違うんじゃないかな」 白ちゃんが、じっと俺を見ている。 「なんとなくだけどね」 「なんとなく、ですか」 「俺の記憶に、その時感じた温度や匂いや気持ちが混ざってるから」 「だから、そう思うのかもしれない」 哲学的なことは俺にはわからない。 だから、思ったことを言った。 「……この間、テレビを見ました」 「え、うん」 「サバンナ王国わはわは、という番組だったんですが」 「わはわは……」 「はい、わはわはです」 「その中で見た、サバンナの夕日はとても大きかったです」 「まるで、別の世界でした」 思い出すように、目を閉じる。 「わたしはほとんど、この島を出たことがありません」 「だから、支倉先輩に聞きたかったんです」 俺の目を見つめた。 「この島以外の夕日が、どんなものなのか」 白ちゃんの髪が、潮風に揺れている。 「白ちゃんが卒業したら、その時に見に行けばいいんじゃないかな」 「そう、ですね」 「不安だったら、東儀先輩と一緒に、とか」 「……俺がついてってもいいしさ」 「支倉先輩も一緒に、ですか」 「楽しそうです」 嬉しそうな表情をする。 「でも、この島の夕日も悪くないよ」 「俺の夕日ランキングでは上位に入ってる」 「……では、しっかり見ておかないといけませんね」 白ちゃんはじっと、遥か先にある水平線を眺めた。 その横顔も夕焼け色に染まっている。 「いつか、他の夕日と比べるためにね」 「はい」 ゆっくりと、時間だけが過ぎていく。 日が落ちるまで、俺たちはその場所にいた。 家に帰ってくると、いつも思う。 ここは、空気が違う。 寮のような、雑多でにぎやかな雰囲気とは正反対。 穏やかで、 静かで、 整っていて、 そしてちょっと重い。 だから、普段は忘れてしまっていることも思い出す。 古くから続いている、いろんなこと。 多くの人が守ってきたこと。 そして、わたしも守ろうと思っていること。 支倉先輩。 一緒にいると楽しい人。 一緒にいると穏やかな気持ちにもなれる人。 歩幅を合わせてくれる人。 一緒に歩いていける人。 一緒に歩いていきたい人。 でも。 支倉先輩のことを…… 好きになってはいけない。 わたしは東儀家の人間だから。 東儀家の人間には、大切な役目があるのだから。 目覚ましよりも早く目が覚めると、損したような得したような複雑な気分だ。 二度寝するほど眠くはない。 早起きは三文の得らしいし、起きてみることにしよう。 昨晩、久しぶりに雨が降った。 今日は傘はいらないかなーなどと思いつつ、寮の玄関まで来ると……。 「しっ」 「伏せて、支倉隊員!」 かなでさんが物陰に隠れている。 「何やってんですか、かなでさん」 「今、このあたりには誰もいない」 「その中を、しろちゃんが……」 「白ちゃんが?」 「歌いながら出ていった!」 「別にいいじゃないですか歌くらい」 などと言いつつ、二人でそっと様子を覗く。 「雨上がりの虹〜♪」 くるくると傘を回しながら、軽いステップを踏む白ちゃん。 雨はすっかり上がっている。 日差しが、木の葉の水滴をきらきらと輝かせる。 雨上がりの朝の清浄な空気の中に、白ちゃんの髪が跳ねている。 「きらきら光る緑〜♪」 あちこちにある水たまりを、その軽いステップで避けていく。 傘がまたくるりと回る。 「支倉隊員、どう思う?」 「隊員て」 「しろちゃん、かわいいねえ」 「オヤジですか」 「それよりかなでさん、制服に着替えなくていいんですか?」 「わ、まずいまずい」 「あとは任せた。アディオス!」 たったかたーと階段に消えていくかなでさん。 何してたんだろう。 外を見ると、白ちゃんはくるくると並木道を歩いていく。 俺も、一緒に登校しよう。 青い空と、それを映す水たまり。 その間で回る白ちゃんと水色の傘。 「るららら〜♪ たったるらら〜♪」 こうして見ていると、白ちゃんはまだ4年生になったばかりなんだと思い出す。 楽しげにステップを踏み、片手に傘、片手に鞄。 くるりくるり。 「あっ」 「あ」 「は、支倉先輩……」 「白ちゃん、おはよう」 「えーと、なんか楽しそうだったから、声かけられなくてさ」 「み、見てましたか?」 「見てました」 「歌も聞いてました。雨上がりのにじぃ〜♪」 「や、やめてくださいよう」 ぽかぽかと叩かれた。 「ふうん、白が歌を」 「ああ」 「誰にも見られてないと、案外そういう子なのよ」 「人見知りをしているだけ」 「そうだったのか。知らなかった」 「生徒会で一緒に活動する仲間なんだから、それくらい知っておいた方がいいわ」 「……で、なんで突然白の話?」 「え、あ、いや。たまたま」 「そう」 「ま、いいけど」 副会長は、下手くそな大道芸人を見るような目で俺を見た。 「たまたまだって」 「たまたまだろう」 ……午後の監督生室。 今日はそんなに仕事もない。 みんな、ここにはお茶を飲みに来たようなものだ。 「きゃっ」 給湯室から白ちゃんの声。 「どうした?」 俺が立ち上がろうとしたとき。 「大丈夫か、白」 既に、東儀先輩が白ちゃんの傍らに立っていた。 「あ、は、はい。少しお湯がはねてしまって……」 「そこを水で流すんだ」 「はい」 「流水で冷えたら、少し様子を見よう」 「水ぶくれになるようなら、もう少し手当をする」 「たぶん、そこまでは大丈夫だと思います」 「ならよかった」 「が、まずは冷やしてからだ」 「はい、兄さま」 ……どうやら、白ちゃんがお湯をこぼして手にかけてしまったようだ。 それにしても。 「征一郎さん、素早い動きだったわね」 「ああ。俺なんか立ち上がる暇もなかった」 そして、その後はつきっきり。 東儀先輩は、白ちゃんがしばらく流水で手を冷やし続ける間、一緒にいてあげるようだ。 「二人が気になる?」 「気になるっていうか……」 「すごく仲がいいなと思ってさ」 「俺らくらいの歳になると、兄弟とあまり一緒にいないだろ?」 「そうね」 「でも、あの二人は、前からあんな感じよ」 「そうなんだ」 「でもまあ、やっぱり特別に見えるわ」 「うちが普通だよなあ」 「うちもある意味普通じゃないでしょ」 いつから話を聞いてたのか、会長が話に入ってきた。 「あの二人のことは昔から見てたけど」 「まあ、昔からあんな感じだねえ」 「ほんとに子供の頃からってことですか」 「ああ」 「二歳しか離れてないけど、征はあのとおり面倒見がいいし、白ちゃんを大事にしてる」 「白ちゃんも構われて嬉しそうだし、よく懐いてるだろ?」 「ええ。そうですね」 「……瑛里華も、あんなふうに懐いてくれてた時期もあったんだがね」 「知らんわっ!」 「お茶が入りましたよ」 白ちゃんが、お盆にカップを載せて持ってくる。 「さっきの、大丈夫だった?」 「ええ、兄さまも見てくれましたし、大丈夫でした」 「お気遣い、ありがとうございます」 ……俺の出る幕なんて、まったくなかったな。 なんて言うか。 ほんのちょっとだけ、悔しい気がした。 「ちぇー、みんなちゃんと夏服着てくるんだもんなー」 「それが普通だよ、お姉ちゃん」 「もう暑いですし」 「いや待て」 ……そんな話をしてるそばから、冬服をかっちり着込んだ紅瀬さんが脇を通る。 しかも、何やら真っ赤なカレーを持っていた。 「こら、きりきり!」 「なんですか」 別に校則違反じゃなかったはずだが。 「暑くない?」 「いえ別に」 「しかしまた辛そうなもん食ってるな」 「新しい調味料を仕入れたそうよ」 「頼んでみたら?」 「なんて調味料だ?」 「デスなんとかと言っていたわ」 「私は遠慮します……」 「よし、チャレンジ!」 「やめといた方が」 ……15分後。 かなでさんは、水を何十杯も飲んでいた。 「はひ〜はひ〜」 「だからやめとけと」 「チャレンジ精神はすげえ」 そんな俺たちの横を、汗一つかかずに出ていく紅瀬さん。 「お先に」 「ひりひり!」 「呼んだかしら」 「舌がひりひり〜」 「駄洒落かよ!」 「では失礼」 食器を返却口に返し、学食をあとにする。 渾身のギャグを飛ばしたかなでさんは、テーブルにぱたりと突っ伏した。 「わ、お姉ちゃんすごい汗」 「息も絶え絶えだ」 「はひ〜」 「なんか、甘い飲みものの方がいいのかな」 かなでさんが激しく首を振る。たぶん肯定だろう。 ……それにしても紅瀬さんが食べてたもの、いったいなんだったんだろう。 さらに時間を経て、やっとかなでさんもマトモにしゃべれるようになってきた。 「む、むー」 「今日はお茶会だ!」 「流れが見えませんが」 「だって口の中が辛いんだよ」 「辛いのが夜まで残るわけないでしょ、お姉ちゃん」 「じゃあ辛さの訓練のためにキムチ鍋パーティ」 「我慢大会はやめましょうよ」 「普通の鍋なら」 「でも、食材が手に入るかなぁ」 「あと鍋にも使えるホットプレートかコンロがほしいよね」 「まとめてなんとかするっ」 「わっ、すごいです」 「まさか……本当に鍋パーティなんだ」 俺のテーブルの上には、カセット式のガスコンロと土鍋、それに食材が並んでいた。 「かなでさん、どうやって揃えたんですか?」 「ふっふっふー♪」 「お姉ちゃん、学食の鉄人にデスなんとかって調味料の危険性を訴えたの」 「だってあれは危険なものだよ」 「素人が食べたら危ない!」 「それで、そのひりひりの舌と引き換えに、食材やら何やらをもらってきたと」 「人体実験だな」 「お、お疲れさまでした」 「貴い犠牲。そして引き換えに手に入れた食材と食器だから、心して食べてね」 「むっ、そろそろ食材投入しちゃっていいよ」 野菜やら肉やらの中から、煮えるのに時間がかかりそうなものから鍋に投入。 鍋の中には、白いスープが張ってあった。 「キムチ鍋じゃないんですね」 「お姉ちゃんは今、辛いもの駄目だと思うの」 「だから、今日は豆乳鍋だよ」 「なるほどね」 「健康に良さそうだ」 「じゃあフタ閉めるよー」 かぽ 「でも、鉄人は味見しなかったのかしらね」 「鉄人は、知識としてそのデスなんとかがとても辛いことは知っていたみたい」 「なのにさっそく使った紅瀬さんが平気そうだったから、不思議に思ってたんだって」 「ああ……紅瀬さんね……」 以前、副会長は痛い目に遭ってたんだっけ。 「そこで一般人のわたしが登場して、危険性を身をもって実証したってわけ」 「大活躍だよねー♪」 「まあ、ある意味」 「学院のみんなを救ったんですね」 「言われてみればたしかにそうかも」 ぐつぐつという音が、フタの周りと湯気抜きの穴から聞こえてきた。 「お、そろそろか」 「楽しみです」 「お箸と取り皿を回すね」 そうして、鍋パーティが始まった。 「ほら! その辺煮えてきた!」 「キノコ投入しますよー」 「はちっ、はふはふっ」 時に慌ただしく、時にまったりと。 食材を少しずつ胃に収めながら話に花が咲く。 「俺が初めてこの寮に入った日、かなでさんの誕生日だったんですよね」 「そうだっけ?」 「お姉ちゃん、階段でぶつかったじゃない」 「おー……、おーおー!」 「その晩、荷物がなかったから司の部屋に泊めてもらったんですが」 「前にも言いましたが、そっちのお祝いの声が夜中まで聞こえてたんですよ」 「盛り上がったもんねー」 「まだあれから二ヶ月か」 「ずいぶん溶け込んでるわね、支倉くん」 「とても編入生とは思えません」 「あー、いや、そういう話じゃなくてさ」 褒められればいい気分だが。 「違うの?」 「今の俺たちはうるさくないのか、ってのが気になって」 「な、なるほど」 「これまで引っ越しが多かったから、賃貸マンションとかアパートも多かったんだけど」 「けっこう上や下の部屋の音って聞こえるんだよね」 「うちは一戸建てだから、あまりそういう感覚はないわ」 「うちも小さな一戸建てだけど……」 「お姉ちゃんの部屋の音はよく聞こえてたかな」 「え」 「えーっ! どんな音!」 「こ、ここではちょっと……」 「その言い方はむしろ気になる」 「ええ、そうね」 「例えば……」 「寝てるお姉ちゃんが、ベッドから落ちる音とか」 「落ちるんですか」 「え? 落ちたことなんかないよ?」 「寝ぼけたまま戻ってるの」 「起きないんですか?」 「そうみたいだよ」 「それは特技ですね」 「特技って言うか……」 「俺も似たようなもんだ」 「そういやそうだったな」 「ほら、フツーフツー」 俺の周りに二人もそういう人がいる状況が、普通じゃないと思う。 「……つか、話を戻そう」 「俺たちがうるさいんじゃないかって話だ」 「俺の田舎が北国だって話はしたか」 「聞いた」 「私は初耳だけど」 「ああ。隣の家は40キロ先だ」 「そしてうちは丸太小屋」 「冬はすきま風で鼻水がつららになる」 「毛皮からはみ出たところはすぐ凍傷だ」 「と、とても寒そうです……」 白ちゃんは、どんな想像をしたのかぷるぷる震えている。 「純真な白ちゃんをだますな」 「ああすまん。まあ普通の家だ」 「床暖房はあるけどな」 「床暖房って暖かそうだね」 「足下がぽかぽかしたら寝ちゃいそうだよ」 「しかも、床で転がって!」 「楽しそうね」 「ああっ、また話がずれてる」 「じゃあ、白ちゃんのお家はどう?」 「えっ、あの……」 何か言い出しづらそうだ。 「支倉先輩は一度見てらっしゃるんですが」 「ええっ! いつの間に!?」 「こーへーもやるねえ、ひゅーひゅー」 「無理に盛り上げないで下さい」 「生徒会の買い物で通りがかっただけです」 「ちなみに白ちゃんの家は、歴史のありそうな日本家屋でしたよ」 「そうなんだー」 「つか、かなでさんや陽菜は、この島にずっと住んでるんだったら知ってるんじゃ?」 「立派な家でしたよ」 「うちはパークタウン側だから、あまり旧市街の方は詳しくなかったり」 「ああ。橋の付け根の方でしたっけ」 「白ちゃんちのあるあたりは、昔ながらの街並みって感じ」 「はい」 「それもあって、あまりうるさいと思ったことはありません」 「せいちゃんも静かなの?」 「ええ、そうです」 「まあせいちゃんは暴れたりしない感じだよね」 「他にうるさい家族とか」 「えと……うちは人が少ないので」 ちょっと声が沈んだような。 気のせいか? 「うちの兄さんはうるさいわね」 「いつも、一人で何かどたばたしているわ」 「いおりんは元気だもんね!」 「きっと、一人でも技の研究をしているに違いないよ」 「なんの技ですかっ」 「ふう、腹いっぱいだ」 「ちょうどいい量だったな」 「やっぱり鍋はいいね!」 「こうして、みんなで鍋をつついてると、仲間って感じがするし」 「あはは、そうだねー」 「監督生室でも鍋をするのはどう?」 「器具と材料をどうするかだな」 「会長に言うと、監督生棟の裏に畑を作りそうだ」 「たしかに……」 「でも、お鍋はおいしかったです」 「それに、とても楽しい時間でした」 「また、チャンスがあったらやろう!」 こうして、本日のお茶会改め鍋会はお開きとなった。 少し声が沈んだ時があった白ちゃんのことは、気になったが…… 家族のことだとしたら、ちょっと聞きにくい。 鍋は楽しんでくれたみたいだし、ま、いいか。 プール開きが近づいてきていた。 生徒会では、それに合わせてちょっとしたイベントを企画している。 俺は、その準備に取り掛かっていた。 「そっちはどうだ?」 「そろそろ一段落つきそう」 「お、早いな」 副会長は、各部からの予算申請書類と部員数のデータをにらんでいた。 「もう少しで、怪しい部活はピックアップできるわ」 「データが揃ったら、あとは突撃してみるまでよ」 そう言えば、この人は『突撃副会長』と呼ばれていたんだった。 生徒会役員の中に入って、一緒に仕事をしてると忘れてしまう。 「お二人とも、お疲れさまです」 そして、絶妙のタイミングでお茶を持ってきてくれる白ちゃん。 白ちゃんには、俺と副会長の仕事のサポートをしてもらっていた。 「ふう、ありがとう」 「いただくわね」 三人でしばしお茶を飲んだあと、再び作業に戻る。 「んっ、ん〜〜っ」 背筋を伸ばす。 ちらっと時計に目をやると、けっこうな時間になっていた。 「ふああ……」 ちょっと気を抜いたところを突いて、アクビが出る。 「支倉先輩、お疲れさまです」 「お仕事の進み具合はどうですか?」 「うーん……なかなか終わらないな」 「続きは明日かなぁ」 「私、もうそろそろ終わるし、手伝おっか?」 「ん、いや、この仕事は一人でやってみたいんだ」 「俺も早く一人前にならないとな」 「へえ、やる気じゃない。いいことよ」 「わたしも、早く一人前になりたいです」 「そうね。白にも近いうちに何か一つ仕事を担当してもらうわ」 「は、はいっ」 今日は、会長と東儀先輩が二人で出かけているため、監督生室にいるのは三人。 ついさっき会長からは、遅くなるから監督生室には戻らないよ、という連絡があった。 ふと立ち上がった白ちゃんが、またお茶と和菓子を持ってきてくれた。 「甘いお菓子は頭の疲れにも効きますよ」 「お、いただきます」 「今日はどら焼きです。二つしか無いのですが」 「お二人で一つずつ食べてください」 「いや、それは悪いだろ」 「そうよ、白」 「いえ、あの、実は昨日こちらのどら焼きはいくつか食べてまして」 「なるほど」 「じゃ、遠慮なくいただくわね」 しっとりしたカステラ生地。 中には、甘さがしつこくない小豆餡が包まれている。 「あ、おいし」 「うん。さらっとしてる」 もふもふとどら焼きを食べる俺と副会長。 白ちゃんは二人をにこにこと見ている。 ……白ちゃん自身の仕事はもうとっくに終わってるんだよな。 もしかして、付き合って残ってくれたのか。 「?」 その笑顔からは、真意はわからない。 でも、俺は白ちゃんが残っててくれてることが、単純に嬉しかった。 「あ、そうだ」 忘れてた。 鞄から、小さい紙の包みを取り出す。 「昨日『さゝき』に行って、きんつば買ってたんだ」 「白ちゃんも、そろそろお腹すいてくる時間だろ。一緒に食べないか」 「きんつば……」 俺が取り出した包みを見ると、白ちゃんは大喜びした。 「こ、これは」 「作るのが難しくてあまり売られない、限定のきんつばです!」 ぴょんぴょん飛び跳ねそうなくらい大喜びしてくれる。 「へえ、じゃあこれも期待していいのね」 「もちろんです瑛里華先輩」 「お、お茶を淹れ直してきますねっ」 そう言って、給湯室へ向かう白ちゃん。 ……だが、すぐにしょんぼりして戻ってきた。 「さっき、緑茶が切れたんでした……」 「あー、紅茶じゃダメよね」 「きんつばだもんな」 白ちゃんは、泣きそうなくらいにがっかりしている。 「お茶の無い和菓子は、おいしさも半減です……」 「しかし、そんなこともあろうかと」 俺は、『さゝき』のお婆さんにきんつばと一緒に勧められた、緑茶の茶葉パックを取り出す。 「!!」 白ちゃんは大いに喜び、きんつばを頬ばった。 何か変に気を回したのか、それとも本当だったのかはわからないけど。 副会長は「録画予約を忘れた」ということで先に帰っていった。 つまり、白ちゃんと寮まで二人。 「きんつば、おいしかったです」 「支倉先輩も、和菓子のおいしさに目覚めてきませんか?」 「あー」 たしかに、この二ヶ月でこれまでの一生と同じくらいの和菓子を食べたかもしれない。 「うん、目覚めかけてるような気がする」 「まだまだおいしいものはありますから、ぜひまた食べてくださいね」 「楽しみにしてるよ」 「はいっ」 ……今なら、鍋パーティの時のことを聞けるかな。 「白ちゃん」 「はい」 「この前、俺の部屋で鍋したときさ」 「えーと」 「なんか一瞬、暗くなった?」 「暗く……」 「あ」 思い当たることがあったらしい。 「え、ええ、ちょっとだけ」 「なんか気になっちゃってさ」 「話しにくいことならいいんだけど……」 「もしよかったら、聞かせてくれないかな」 「いえ、そんな大したことではないんです」 白ちゃんは、少しだけ困ったような笑顔を作って言う。 「親戚の命日が近いので、お墓参りに行かなくてはいけないことを思い出しまして」 「そっか」 「はい」 「お気遣いいただき、ありがとうございます」 「それじゃ、おやすみ」 「おやすみなさい」 白ちゃんは、嘘はついてないと思う。 でも、本当のことを全部言ってるわけでもない……ような気がする。 いつかちゃんと話が聞けるといいな、と思った。 「あ、支倉先輩」 放課後、監督生室へ向かって階段を上っていると、白ちゃんに声をかけられた。 なぜかシスター服を着込んで、スポーツドリンクのペットボトルを何本も抱えている。 礼拝堂で、何かやってるのだろうか。 「俺も持つよ。スポーツドリンク」 「ありがとうございます」 「今日は、ローレル・リングの活動?」 「ええと……半分くらいは」 「半分?」 「はい、シスターがお困りなので、お手伝いを」 「ああ、お遣いありがとう東儀さん」 「いえ」 「あら支倉君も運んでくれたのですね。ありがとう」 シスター天池が、土まみれの軍手を取る。 礼拝堂の周囲の大掃除中といったところだろうか。 「今日は掃除ですか?」 「まあ、そんなところです」 「6月に入ったとたんに、礼拝堂の裏手で雑草がもさもさ生えてきたので草むしりを」 そりゃ暑そうだ。 「島の水源に近いので、除草剤を撒くわけにもいきませんしね」 「シスターが育ててらっしゃるハーブも、雑草に栄養をとられてしまって……」 「なるほど」 「それで、二人で草取りをしていたのです」 それでスポーツドリンクか。 「じゃ、俺も手伝いますよ」 「ちょうど、生徒会の仕事も一段落したところなんで」 「まあ、それはいい心がけです」 「たしか監督生棟に軍手があったんで、持ってきます」 監督生棟で倉庫を探すと、軍手はすぐに見つかった。 他に何か使えそうなものはないか……? 当てずっぽうに箱を開けてみる。 すると、下の方から鎌も見つかった。 草を根絶やしにはできないだろうが、作業効率は格段にアップしそうだ。 「俺はどこを担当しましょうか」 「わ、鎌……ですか?」 「ああ。監督生棟にあった」 「それがあれば百人力ですね」 「では、こちらの奥をお願いするわ」 一番、雑草が生い茂っている方を指さされる。 「礼拝堂に近いところは私と東儀さんで抜きますから」 「支倉君は、奥の方を鎌でばっさばっさとお願いしますね」 「任せといて下さい」 夏至も近いため、放課後になっても日は高い。 慣れない鎌を扱い、じんわりと汗をかいてはスポーツドリンクを口にする。 それでも、作業をしているうちに、少しずつ鎌の使い方がわかってきた。 すると最初の頃より力を入れなくても、早く雑草を刈れるようになってくる。 こういう作業は、自分が上手くなっていくのを楽しむと、時間が早く進む。 礼拝堂の周りの雑草を、俺はどんどん刈っていった。 「ご苦労さま」 「あとは、刈った草を片づけて終わりにしましょう」 「うす」 「それにしても、支倉君と鎌のおかげでずいぶん早く終わったわ」 「男手があると違うものですね」 「支倉先輩、大活躍ですね」 「役に立てたなら良かった」 「ついでに、寮の門限に間に合わなくても一度くらい見逃してもらえたりしませんか?」 「ふふ、残念ながらそれとこれとは話が別です」 シスターの防御は固かった。 「それより支倉君」 「前にも誘ったことがあったと思いますが、ローレル・リングに入る気はありませんか?」 「礼拝堂の管理も、やはり男手がほしいところですし」 「いや、まあ」 信心の『し』の字も無い俺にとっては、無縁のことだと思う。 それに奉仕活動とか、ガラじゃない気もするし。 「ええと……いろいろと忙しくて」 「東儀さんも一人では寂しいでしょう?」 「そ、そんなことは」 少し慌てる白ちゃん。 「でも……」 「支倉先輩が入ってくれたら、嬉しいです」 「あら」 急に目を輝かせる。 「東儀さんもこう言ってるけど?」 「白ちゃんを味方にするのはずるいです」 「あ、もちろん無理にとは……」 「ふう」 「そうね。こういうことは、何よりもまず本人の心がけが重要です」 ここで断ると、なんか俺の心がけが悪いみたいだ。 が、まんまと入るわけにもいかない。 白ちゃんには少し悪いけど、生徒会が忙しいのも事実だし。 「やっぱり、今はちょっと」 「残念ですが仕方ありませんね」 「はい」 「また機会があったら、手伝ってくれると助かるわ」 「それはもちろん。できる範囲で」 「はいっ」 ちょっと残念そうだった白ちゃんも、にっこり笑ってくれた。 たまにはこんなふうに働くのも楽しい。 ちょっとだけ日に焼けた顔。 汗ばんだ体に心地よい疲れを感じながら、監督生棟に向かった。 監督生棟に向かって階段を上っていると、白と支倉が礼拝堂に向かうのが目に入った。 白の服装からすると、ローレル・リングの活動だろう。 ……。 最近、白と支倉の仲がいい。 どこまではっきりしたものかはわからないが、互いにある程度の好意を持っているのだろう。 ふむ。 あの、おとなしくて引っ込み思案の白が、異性に好意を持つとは。 この学院の後期課程に進んでからというもの、白はずいぶん成長したように思える。 精神的に自立してきた、と言えるかもしれない。 それ自体は、とても喜ばしいことだ。 そして、俺もそれは望んでいたはずだ。 白がいつまでも俺を頼っているようではいけないことは、明らかだったはず。 俺の言うことを「はい」「はい」と聞いているばかりだった白。 その白が、自分で幸せを見つけようとしているのなら。 俺はそれを応援したい。 したいのだが。 監督生室には、まだ誰も来ていなかった。 窓を開ける。 湿度の低い、爽やかな熱気が部屋の中のわずかな埃を舞わせていた。 ……。 ここは、島の中でも高いところにあるため、遠くまでよく見える。 学院の敷地の外。 家々の屋根。 島に住む人々。 昔から、島に住んでいる人々。 我が東儀家は、そういった人の中で成り立っている。 皆を束ね、敬愛され、支え、支えられ。 そんな東儀家だからこそ、果たしてきたことがある。 果たさなくてはならないことがある。 「兄さま」 ぱたぱたと駆け寄ってくる白。 「兄さま、お呼びでしょうか」 「ああ」 旧図書館。 ここは、ほとんど人の出入りがない。 伊織に、白をここによこしてくれるよう言付けておいた。 それから一時間半。 ローレル・リングの活動を終えてそのまま来たのだろう。 白の服装は変わっていなかった。 「……草がついているな」 「今日は礼拝堂の周りの草取りを」 「支倉先輩が手伝ってくれたので、早く終わりました」 嬉しそうに言う。 その笑顔に、かすかに胸が痛む。 「白」 「はい」 「生徒会の役員になって二ヶ月ほど経つが、どうだ」 「まだ一人前の役員として仕事ができているわけではありませんが……」 「皆さんに良くしていただいてるので、楽しいです」 「楽しいか。それはいいことだ」 「……新人の支倉はどうだ」 「支倉先輩は、わたしと同じ時期に役員になったのに、いろいろ活躍されていてすごいです」 「わたしも早く支倉先輩のようになりたいです」 「ふむ」 「それに、いろいろと優しくしていただいて」 「まるで……」 「まるで、兄さまがもう一人できたようです」 白は。 間違いなく、支倉に好意を寄せている。 そして、それを抑えようとしているのかもしれない。 しかし。 この先に待っているのは、絶望だけだ。 絶対に叶わない望みを持つことは、望みがないことよりつらいだろう。 どうせ叶わないのなら。 その望みを、真剣に望むようになる前に、忘れることだ。 「白」 「はい」 「……」 「しっかり、仕事を覚えるんだぞ」 「わかりました」 「さ、監督生棟に戻りなさい」 「はい」 ……。 切り出せなかった。 ふ……はは。 俺も、ふがいないことだ。 白に、俺の意図を察したのを期待するのは酷……だろうな。 保険として、支倉に事情を話し、諦めてもらうように持っていけないだろうか。 望みが、真剣になっていく前に。 いい天気だ。 今日は、白ちゃんと海岸通りで待ち合わせをしている。 監督生室の備品の買い出しだ。 一緒に学院から出るのではなく、現地で待ち合わせるのは初めてになる。 「あっ、支倉先輩!」 俺が待ち合わせの場所に行くと、白ちゃんが先に来ていた。 遠いうちから俺を見つけ、犬のように駆けてくる。 「白ちゃん、早いね」 「ふふ。そんなことありませんよ」 時計を見ると、1時ちょうど。 白ちゃんは、何分前からきてたんだろうか。 「待った?」 「ええ、10分ほど」 ふむ。 「ん〜、だめだ」 「こういう時は、嘘でも『いえ、わたしも今来たところです』って言わなきゃ」 「ええっ! す、すみませんでした……」 真に受けて、謝る白ちゃん。 つまらないことを言いながらも、白ちゃんがあまり待っていないようなのでほっとした俺。 「あ、いや、冗談だ」 「ほら、昔のドラマとか漫画とかでありがちな会話だよ」 「ああ、そうだったんですか」 「びっくりしました」 初めて会った頃は、少しおどおどして他人の様子を窺っていることが多かったと思う。 それが今では、俺の目の前で、ころころと表情が変わる。 見ているだけでも、楽しくなってくる。 「では、どこから行きましょうか?」 「そうだなぁ……目的の店があるわけでもないから、端から順に見ていくか」 「はいっ」 古くなってヒビが入った、来客用のティーカップ。 白ちゃんが欲しがっている新しい茶漉し。 副会長がご所望の、ちょっといい紅茶。 少しサビが浮いたので、少人数用の傘立ても買い換える。 ひとつひとつは細かい買い物だが、全部達成しないとミッションは成功しない。 となれば、端からあたってみるのがいいだろう。 目についた店には、全部入ってみる。 「このティーカップはどうでしょうか?」 「ちょっと予算オーバーかなぁ」 「お、こっちは?」 「伊織先輩が『センスが古い』って言いそうです」 「安いもんなぁ」 「この傘立て、良さそうじゃない?」 「あまり聞いたことがないメーカーのものは、少し不安かもしれません……」 「それなら、こちらの方が」 「それは大きすぎるんじゃないか」 「うーん、そうですね」 十数店を回ったところで、傘立て以外は揃った。 傘立ては荷物になりそうだから、買うのを最後に回したのだ。 「だいたい、こんなもんかな」 「傘立てはどうしましょうか」 「二件目の壺の傘立てにはちょっと惹かれた」 「でも……あれは、ちょっと高すぎたかな」 「そうですね。予算をオーバーしてしまいます」 「五件目の竹でできた和風のはどうでしょう」 「あれか。たしかにキレイだったけど……」 「お客さんが多い時とか、壊れやすそうじゃない?」 「言われてみれば」 「見た目も値段も悪くなかったんだけどな」 「なかなかしっくりきませんね」 買い物を始めてから3時間。 そろそろ、一息入れたくなってきた。 「一度、休憩してお茶でも飲まないか」 「お茶、ですか」 白ちゃんの目がキラリと光る。 これは……和菓子を狙うハンターの目か。 「この場合の『お茶』は、日本茶だけではなく紅茶やコーヒーや甘いものも含む」 白ちゃんも、俺が気づいたことを察して、にこっと笑った。 「そうしましょうか」 海浜公園にやってきた。 「あれ?」 「海岸通りではないのですね」 「ああ。入ってみたい店があって」 「ほらあそこ。海沿いの」 オープンカフェ風になっていてテーブルもある、倉庫風の建物。 「ああ、あのお店ですか」 「入ったことある?」 「いいえ、一度もないです」 「外からは何度も見ているのですが」 「俺もそうなんだ」 「じゃ、入ってみないか?」 「えっ、でも、少し値段も高そうで……」 「高いものを頼まなければ、大丈夫だろ。たぶん」 「わ、わたしも少しなら」 「いやいや。ここで後輩の、しかも女の子に出させるわけにはいかない」 「じゃ、行こうか」 身構えて入った割には、普通の、コーヒーがおいしいお店だった。 オープンテラスの席に案内される。 それなりの値段のメニューもあったけど、その辺は避けて、飲み物をオーダー。 二人で食べようと、小さなケーキも一つ頼んだ。 ケーキをつつきながら、あの店はセンスが良かったとか値段が手頃だったとかいう話をする。 あっという間に時間も過ぎていった。 おかわりしたコーヒーを飲みながら、二人で海を眺める。 「支倉先輩とは、前にもここで夕焼けを見ていますよね」 「ああ、そうだな」 「本当は、こんなこといけないんですが……」 「最近、学院にいるとなにか少しだけ、息苦しさのようなものを感じてしまって」 白ちゃんでも、そんなことを感じることがあるのか。 「全寮制だもんな」 「もし良かったら、またこうやって日曜日は外に出て遊ぼう」 「ふふ、遊びに来ているのではなくて、今日はお買い物です」 「お、ああ、そうだったか」 白ちゃんが、重くなりかけた空気を吹き飛ばして笑ってくれた。 良かった。 彼女には、ずっと笑顔でいてほしい。 「わたし、好きです」 ……。 「この場所で、支倉先輩と夕日を見るのが」 「あ、ああ」 「俺もだ」 努めて平静を装う。 好きです、と言われたのかと思った。 もしかしたら……という思いがあるだけに、空振りした期待が恥ずかしい。 考えれば考えるほど恥ずかしくなってくる。 「さあ、まだ傘立てが残ってる」 「会長や東儀先輩も納得の逸品を捜さないとな」 「はい」 恥ずかしさを海に投げ捨てるように、オープンテラスをあとにした。 その後、あれこれと迷いながら、傘立てを選ぶ。 一度決まりかけたが、やはり最初に見た店に戻って買うことにした。 シンプルな形でスチール製、色は黒。 これなら邪魔にもならないし長持ちしそうだ。 「やっと、お買い物も終わりました」 「そうだな」 「色も、いいのが選べたし」 「そうですね」 時間を掛けただけあって、傘立てに限らず納得のいく買い物ができたと思う。 値段も予算内に収まったし。 ……と、そんな時。 「ところで、今、何時でしょうか」 「えーと」 と、腕時計を見て凍り付いた。 今ちょうど21時。 ジャストナウ門限。 ザーッと血の引く音が聞こえる。 「今、門限だ」 「えええっ」 「どっ、どどどどうしましょうか!?」 「とにかく、急いで戻ろうっ」 紙袋やらビニール袋やらを抱えた俺たち。 それらをがちゃがちゃ言わせながら、学院への坂道を上っていった。 校門を遠くからそっと見てみる。 「どうですか?」 「だめだ。完全に閉まってるし、守衛の金角銀角まで陣取ってる」 「で、では……」 「怒られるしかありません。おとなしく……」 しょんぼりしている白ちゃん。 もう少しで泣きそうだ。 「いや、待てよ?」 「?」 「たしか、司から……」 俺は、学院の周囲を囲む塀を、校門とは反対側に向かって歩き出した。 「どこへ行くんですか、支倉先輩?」 校門から遠ざかる俺を見て、心細そうについてくる白ちゃん。 「うまく行けば、寮に戻れるかも」 「え、でも」 少し前に、司から聞いたことがある。 バイトが長引いて門限を過ぎてしまい、校門が閉まった時。 通用口から入れてもらうのではなく、山中の抜け道からこっそり帰っていると……。 「は、支倉先輩、暗いです……」 「ごめん、もう少しのはず」 街灯もほとんど無い山の中。 修智館学院を取り囲む塀は続くが、道路は細くなっていく。 「そろそろだと思うんだけど」 煉瓦を見ながら歩を進める。 ばさばさっ 「ひゃっ」 「大丈夫? ふくろうかな」 「え、ええ。大丈夫です」 「ごめんな。もう少しして駄目だったら戻ろう」 そう言ってまもなく。 アスファルトの道路がオフロードになり── 塀に脚を掛けて乗り越えられそうな場所を見つけた。 「ここか」 「なんとか……中に入れそうですね」 荷物も、上と下で受け渡しながらなら大丈夫だろう。 「で、でも」 見上げると、山は真っ黒だ。 星や雲が見える夜空は、実はとても明るかったのだと気づく。 「ここまで来たら行ってみよう」 「わ、わかりました」 俺たちは、斜面を登り始めた。 「足もと、気をつけて」 「はい」 暗闇に目が慣れてきた。 月光は、思っていたよりずっと明るい。 しかし森の中の道では、その月明かりをも木々の葉が遮ってしまう。 俺たちにとって救いだったのは、その道が、案外人の足で踏み固められていたことだ。 「ここ、意外とメジャーな道なのかな」 「もしかしたら、そうなのかもしれませんね」 「何十年も前の先輩も通ってたりして」 「最初に通った人、すごいですね」 「そうだな」 慎重に、慎重に歩く。 上り坂を一歩ずつ。 校門からの階段は、どれくらいの高さがあっただろうか……? その、何倍も歩いたような気がしてしまう。 道に迷っていないことを願った。 そして、これは緊張しているからそう感じるだけだと、自分に活を入れる。 「まだ……でしょうか」 白ちゃんを不安にさせてはいけない。 「大丈夫さ。もうすぐのはずだよ」 そして言葉通りに。 なんと、寮のすぐ裏手に出た。 「わ、こんな場所に」 「寮からだと、こんな道があるの全然気づかないな」 「そうですね……」 「この道のことは秘密な」 「はい」 「あの、支倉先輩」 「ん?」 「えと……ちょっとドキドキしたけど、楽しかったです」 そう言って、白ちゃんが微笑む。 「そっか。良かった」 「兄さまに見つかったら、怒られてしまいますね」 「そうかもな」 ぽん、と白ちゃんの頭に手を置き、よしよしと撫でる。 「あ……」 「初めて、兄さまに秘密ができました」 そう言った白ちゃんは、なぜか、少し嬉しそうだった。 放課後。 監督生棟に向かう途中、白ちゃんに声を掛けられた。 「支倉先輩」 てこてこと、後ろから追いかけてくる。 俺は立ち止まり、白ちゃんが追いつくのを待った。 「すみません」 「あれ」 「白ちゃん、今日は冬服?」 「あ、これは……」 そう言って、ちょっと照れた顔になる。 「昼休みに学食で、少しこぼしてしまいまして」 「じゃ、今洗濯中?」 「ええ」 「良かった。風邪でも引いたかと思った」 「ご心配をお掛けしました」 季節はずれの冬服を着た白ちゃんと、監督生棟への石段を上る。 監督生室では、山のように積まれた書類を前に副会長がうなっていた。 全部活から集まった、部活動調査書だ。 「さーて、どこから手をつけようかしら」 「お、揃ったか」 「一筋縄で行かない部が出てきたら手伝うよ」 「ふふ、兄さんの出番があるかしら」 「ほほう。お手並み拝見と行こうか」 副会長も、気合いが入っている。 「去年までの資料なら、10年分俺がまとめておいた」 「部活動監査フォルダに入ってるから、見てみればいい」 そう言って、パソコンを指さす東儀先輩。 「さっすが征一郎さん」 「昔の資料は助かるわ」 「今年のこの書類も、誰かがまとめて入力しておかないとな」 「あ、じゃあ俺がやりますよ」 「わ、わたしもお手伝いします」 「今年の新役員たちは働き者でいいねえ」 「で、瑛里華。お話を聞きに行く部活は決めたかい?」 「ええ。とりあえず一件は確定だから、今日はそこから行くわ」 「いつも手強いフェンシング部よ」 「あそこか」 フェンシング部を持つ学校が市内に少ないこともあり、何より大会での成績がいい。 実績があると、部員数も増える。 加えて部員の平均成績が抜群という話で、先生方の覚えもめでたい。 優良な部だけに、予算を多く申請してくる常連だ。 「楽しそうだから、俺は瑛里華についていくことにするよ」 「ついてきてもいいけど、手出しは無用よ」 「はいはい」 妹の成長が嬉しいのか、会長はご機嫌だ。 「俺も行こう」 「あそこの申請をそのまま通していたら、他の部に予算が回らん」 分厚いファイルを持って、同行を申し出る東儀先輩。 こちらも、最精鋭の三人組で臨むことになるようだ。 「じゃあ、後は任せた」 「わかりました」 「じゃ、行ってくるわね」 戦闘モードの顔になって監督生室をあとにする副会長。 俺と白ちゃんは、三人を見送った。 残った二人で手分けをして、部活動調査書を入力していく。 夕方の監督生室には、しばらくキーボードを叩くカタカタという音だけが響いていた。 「あれ?」 電気を点けようとした白ちゃんが、小さく首をかしげる。 「どした?」 「あそこの電球が」 指さす先を見ると、一つだけ電気が灯っていない。 骨董的な価値すらありそうなスズラン型の電灯ではなく、あとから設置されたと思しき副照明。 天井に直接ついているため、かなりの高さだ。 「たしかこの前、東儀先輩が予備を……」 棚を開けると、交換用の電球が出てくる。 「すみませんが、支倉先輩にお願いしてもいいですか」 たしかに、白ちゃんが椅子に上っても届かなそうだ。 「ああ。まかせとけ」 椅子を二つ、照明の下に運ぶ。 靴を脱いで、その上に立った。 照明に手を伸ばす。 ……。 と、届かない。 「白ちゃん、ここの電球って、交換してるの見たことある?」 「いいえ……ないです」 「届きませんか?」 「くっ」 背伸びをしてみたが……指先はまだ電球に触ることができない。 さて、どうしたものか。 「その机、ここまで動かせないかな」 一度椅子から降り、白ちゃんと二人で机を動かそうとしてみる。 「えいっ」 「むっ」 「とりゃっ」 ……。 ぴくとも動かない。 「こりゃ駄目だ」 「どうしましょうか……」 「脚立とかないかな」 「二階で見たことはありません」 「一階を探してみますか?」 「それしかないか……」 体育祭関係のものをある程度整理したとは言え、一階に置いてある物は多岐に渡る。 しかし、残念ながらその中から脚立を見つけることはできなかった。 八方塞がりだ。 さて……。 ……。 ピンッ 「肩車だ」 「俺が白ちゃんを肩車して、椅子に上れば届くんじゃないかな」 「え……肩車したままですか?」 「だ、大丈夫でしょうか」 「白ちゃんなら軽いから、フラついたりはしないと思う」 「危なかったら、すぐに下ろすからさ」 「で、では……」 「やって、みましょうか」 「よし」 椅子を、もう一度照明の下に並べる。 そして俺がしゃがみ、白ちゃんが俺の方に乗る。 ……と、しゃがんでから気づいたが、白ちゃんの太腿に俺の頭が挟まれることになるのか。 うわ。 ちょっと大胆な提案だった気がしてきた。 「無理そうならやめてもいいぞ」 「いえ、大丈夫です。やります」 スペアの電球を持った白ちゃんが、しゃがんだ俺の背後から、背中をまたいでくる。 肩に、白ちゃんの体重を感じ── ふに 両耳が、白ちゃんの太腿の内側に触れた。 「よっ」 「わわわっ」 両脚に力を入れ、立ち上がる。 ふっと白ちゃんの体が持ち上がる。 想像していたよりも、ずっと軽い。 俺は、難なくまっすぐ立つことができた。 「高いです……」 普段の白ちゃんの目線からすると、1メートルほど高くなっている。 世界も違って見えるかもしれない。 「椅子に上るよ」 「は、はいっ」 白ちゃんの足首を持つ。 両脚が俺の頭を軽く挟むように閉じられた。 ふわっ、と甘い香りがする。 「よっ」 ここが一番難しいかと思っていたが、無事椅子の上に立つことができた。 「手は届きそう?」 「はい、大丈夫です」 「じゃ、頼む」 キュッ、キュッ 電球を抜き取る音が聞こえる。 「支倉先輩、重くないですか?」 「いや、軽い軽い」 実際に、白ちゃんは軽かった。 あまり肉付きの感じられない腰回り。 細い足首。 それでも柔らかい太腿。 なんだか、鼓動が速くなってきたような気がする。 白ちゃんの体温を首周りに感じる。 なんか、変な気分になってきた。 ともすると脳内に欲望が生まれそうになるのを、必死に理性で押さえつける。 押さえつけなくては。 俺は、じっと作業が終わるのを待った。 キュッ、キュッ 換えの電球をセットしている音が頭上から聞こえる。 キュッ、キュッ 「ふう。終わりました」 「おつかれ」 「じゃ、降りるよ。気をつけて」 「はい」 また、白ちゃんの両脚が俺を挟む。 白ちゃんは、俺の頭に手を乗せてバランスを取っていた。 「ほっ」 椅子から降り、白ちゃんを下ろす。 スイッチを点けてみると、換えた電球はちゃんと輝いた。 「ふう。なんとか交換できたな」 「そうですね。それと……」 「何かあった?」 「高いところから見た部屋の中は、新鮮で素敵でした」 「そんなに?」 「ええ」 「支倉先輩や兄さまも、わたしとは違う景色を見ているのだなと思いまして」 「はは、そんなに高くないよ」 「白ちゃんは……これくらい?」 中腰になって、白ちゃんと目線の高さを合わせる。 「……そ、そうですね」 目の前に白ちゃんの顔。 中腰になったせいか、その顔が近い。 「……けっこう、低いんだな」 「ええ。145センチしかありませんから」 「……」 そのまま動きが止まる。 見つめ合う。 互いに、何かを言い出すきっかけも無いままに。 ……。 白ちゃんの吐息を、肌で感じる。 近づいている。 少しずつ、少しずつ。 視界に入るすべてが、白ちゃんになっていく。 瞳が潤んでいる。 「あ……」 白ちゃんが、ふと目を逸らした。 「白ちゃん?」 「あの、えと」 白ちゃんが、一歩引く。 「ご、ごめんなさい」 「あっ、ごめんなさいじゃなくて、その、お茶、そうだお茶でもいかがですか?」 早口でまくしたてる。 「え、えっと」 「あ……あの」 「すみません……」 うなだれる。 ……なんだ? うぬぼれじゃなく、たぶん、いい雰囲気になったはずだ。 ちょっとショック。 でも。 白ちゃんが、ためらっているような。 白ちゃんが何かを思い出して、ブレーキがかかったような。 そんなふうに考えてしまうのは、俺に都合が良すぎるだろうか。 「白ちゃん」 「は、はい」 「あのさ、もし何か……」 がちゃ 「思ったより、時間がかかったわね」 「いやいや、いつものことさ」 「あまり『いつものこと』でも困るのだが」 俺と白ちゃんは(おそらく)光よりも早く距離を取った。 どやどやと三人が室内に戻ってくる。 「あら、どうしたの?」 「い、いや。おつかれ」 「お、おつかれさまです」 なんだかんだ言いながら、三人とも笑顔だ。 交渉は上首尾に終わったのだろうか。 「あの、お茶をお淹れしましょうか」 「ああ。頼むよ」 「やっぱり、人間直接会って話し合えばなんとかなるもんよね」 「正攻法で寄り切った感じだったな」 「もう少しズルいやり方もあっただろうが、上出来だ」 「正攻法は気持ちいいわ」 それからしばらく、副会長が今日の活躍について話してくれた。 ……白ちゃんに聞きかけて聞けなかったこと。 何かためらう理由が、あるのだろうか。 翌日。 日曜日なのになんとなく早い時間に目が覚めてしまった俺。 学食に行って、爽やかに朝飯でも食うか。 そう決めて、寮を出た。 ラフな格好のまま外に出る。 学食のおばちゃんたちは日曜日も仕事で大変だなとか、でもシフト制で交代してるはずとか。 割とどうでもいいことを考えながら、食堂棟に向かう。 すると。 遠くに白ちゃんと東儀先輩の姿が見えた。 二人とも私服だ。 歩く方向から考えると、食堂から出てきたところだろうか。 そのまま道を横切り、校門の方へと歩いていく。 「雨が降らなくて良かったな」 「そうですね、兄さま」 そうこうしているうちに、二人は校門につながる階段を降りていった。 家に戻るのだろうか。 ……。 最後にちらっと、白ちゃんの横顔が見えた。 少なくとも、楽しそうな顔をしているようには見えなかった。 神妙な感じというのだろうか。 「去年の七回忌と違って、今年は二人きりだ」 「はい、兄さま」 兄さまとわたしは、校門を出てしばらく坂を下り、東儀家の方向に曲がった。 「花を買っていこうか」 「いつものお店ですか」 「ああ、そうだ」 小さく古ぼけた花屋。 毎年、ここで花を買っている。 用意してあった花を受け取る兄さま。 線香とマッチも買った。 空を見上げると、灰色の雲が少し増えている。 「少し、雲が出てきました」 「雨にならなければいいが」 花屋に見送られ、兄さまとわたしはさらに歩を進める。 旧市街の中心の道から折れ、坂道を登った。 道幅は徐々に狭まり、そのうち舗装もなくなる。 細い道の周りには、小規模な畑が続いていた。 畑をいじっていた人が、顔をあげてぺこりと頭を下げる。 兄さまとわたしも、会釈をした。 道の突き当たりには、斜面を這うように墓地があった。 古い墓地。 墓地の入り口には、簡素な作りの小屋がある。 扉や鍵は無い。 「俺は水を汲んでいくから、白は掃除をしていてくれ」 「はい」 その中には、ホウキやちりとり、木製の桶、竹筒、それに水道などがあった。 見渡しても、兄さまとわたしの他には人影は無い。 「では、これを」 ホウキとちりとりを渡される。 「はい。先に参ります」 墓地の中の石段を登る。 最上部まで続く石段は、古い墓石と新しい墓石が混在する墓地を二分していた。 周囲の墓に刻まれた苗字に見覚えがある。 時々、目の動きだけで左右の墓石を見る。 石段は、大きく立派な石で作られていた。 その一段一段を踏みしめて上る。 そして、最上段に着いた。 「ふう」 石で作られた囲いの中に、いくつか「東儀」名義の墓石がある。 歴史を感じさせる朽ちかけのものから、真新しいものまで。 その中で、中心にある墓石にもまた「東儀家」と刻まれている。 苔むしており、それほど大きくはない。 しかし、石の「風格」のようなものを感じる。 わたしは、その墓石に一礼すると、その周囲をホウキで掃き始めた。 兄さまが、桶に水を入れて石段を登ってくる。 落ち葉などをちりとりに集め、竹筒の中にたまっていた水を捨てる。 新しい水を注いだ竹筒に、今日買った花を差した。 「これを頼む」 「はい」 桶の水を墓石に掛け、清める。 兄さまはマッチをすり、線香の束ごと火を点けた。 しばらくして炎を消し、煙だけが出るようにする。 それを、墓石の前にそっと立てた。 「今日で、丸七年か」 「そう……ですね」 七年前。 わたしはまだ子供だった。 まったくそんな気はしなかったが、兄さまもまだ子供だったはずだ。 「ちゃんと、今年から後期課程に進みましたと報告するんだぞ」 「父さんと母さんに」 「はい」 父さまと母さま。 この墓石の中に眠っていると、兄さまに教えてもらった。 毎年こうしてお参りにも来ている。 でも……。 本当に、二人はここに眠っているのかな。 「兄さまと一緒に生徒会役員になったことも、報告しないといけませんね」 「そうだな」 夏の薫りを含む風が、線香の煙を巻いて山の方へなびく。 兄さまとわたしは、静かに手を合わせた。 「……」 「……」 兄さまの眉が、かすかに動いた。 わたしは、なぜか目を閉じる気になれず、線香の煙を見ていた。 「……」 「……」 風が止んだ。 煙はまっすぐ立ち上ったあと、墓石の最上部と同じくらいの高さでたゆたう。 兄さまの言うことを信じたい。 でも、どこでずれてしまったのか。 今では「信じなくてはいけない」という思いに変わっている。 ……。 どれくらいの時間が経っただろう。 上空で、円を描くように飛んでいたトビが、一声鳴いた。 「ん」 兄さまがまぶたを開く。 「そろそろ、戻るか」 「はい、兄さま」 灰色の雲はいつの間にか流れ、頭上には青空が広がっていた。 遠くには、入道雲が高くそびえている。 高い日差しが、影を濃くする。 もう一度、夏の風が吹いた。 「本格的になってきた梅雨、を前向きに楽しむ方法を考えましょう」 「じめじめしてるからって、ココロまで湿気っちゃ駄目よね」 副会長が見得を切る。 短い期間だが、差し迫った仕事が無いのだ。 放課後は、とりあえず監督生室に足を運ぶのが習慣になっている。 それが例え、今日のような日でも。 俺たちに訪れた、つかの間の休息。 6年生の三人は、ちょっとだけ顔を出したと思ったら帰って行った。 5年以下の俺たち三人も、資料整理をしたり、梅雨の前向きな過ごし方を考えたりしている。 「梅雨のおかげで、珠津川も用水も枯れないのだと兄さまに教わりました」 「それはそうね」 「あ、そうなんだ」 「この建物の裏の山奥に、泉があるの」 「千年泉っていうんだけど、そこを源流にした珠津川は枯れたことが無いそうよ」 「へえ、知らなかったな」 「小さい頃に、社会科でも習いました」 「島の風土だからね」 「ここから、近いの?」 「そうね、15分くらいかしら」 「一度、行ってみようかな」 「じゃあ、白が案内してあげたら?」 「私が留守番してるから」 「え、でも」 「いいのか?」 「いいから、ほら、いってらっしゃい!」 副会長に追い出されるように、山道を行く俺と白ちゃん。 あれ、強引なようで、副会長なりの気遣いなのかもな。 「この先です」 副会長の意図に気づいているのか気づいていないのか、先導する白ちゃんのあとを歩く。 「少し暑いな」 「そうですね」 「夏服のお洗濯も終わりました」 「あ、ほんとだ」 「少し、染みになってしまったところもあるんですが」 「ぱっと見、わかんないよ」 「それなら良かったです」 むっとする草いきれの中を、しばらく二人で歩いていく。 うっすらと汗をかきながら山道を登ると、突然それは現れた。 「うお、こんなところがあったんだ」 「きれいですよね」 青く澄んだ綺麗な水。 木々の姿が、波のない水面に映りこんでいる。 季節ごとに、ここは自然のキャンバスとなるだろう。 ……ん? なんか、ここ。 覚えがあるような。 「ここ、関係者以外立ち入り禁止?」 「そんなことはありませんよ」 「ただ、昔から島に住んでいる人は、あまり近寄りません」 「大切な水源を、尊いものだと考えている方も多いですから」 「なるほど」 「あと、学院の外からでも、珠津川の川沿いを遡ってくれば……」 「ここにたどり着くことはできると思います」 「ふーむ」 俺、ガキの頃、ここで遊んだことがあるかもしれないな。 ぼんやりとそんなことを考えつつ、背伸びをする。 「んんっ」 「生徒会のお仕事がないと、のんびりですね」 「ああ。そうだな」 「でもまたすぐに、大きな仕事が入ってくる」 「あ、文化祭ですね」 「夏休みもかなり使うってさ」 「……夏休み、ですか」 少し元気が無くなったような。 「夏休み、何かする予定でもあった?」 「あ、いえ、その、予定と言うほどきっちりしたものではないのですが」 「何かあるんだ」 「は、はい……」 「以前、少しだけお話をしたと思いますが、舞の練習を」 「ああ。祭りで舞うっていう」 「そうです」 「珠津島神社の例大祭……大きなお祭りは、夏休み明けにあるので」 「兄さまとの練習は、毎年夏休み中にやってきたんです」 兄さまとの練習。 そうか。東儀家が仕切っているんだから、当然東儀先輩も。 「でも、じゃあ東儀先輩は去年どうしてたんだろ」 「生徒会もやってたよな?」 「わたしは兄さまよりも舞が下手なので、たくさん練習しないといけないんです」 「兄さまは生徒会と両立できましたが、わたしは……あまり自信がありません」 不安げな表情。 「うちの神社で奉納する舞は、男舞と女舞があって、二人一組で舞うんです」 「最初は、母さまに教えてもらっていました」 「それからずっと兄さまと一緒に奉納してきたので、今年もできればと思っているのですが……」 「大切な舞なんだろ」 「はい」 「農作物はもちろん、いろんなものに感謝をするお祭りです」 「太陽の恵み、雨の恵み、大地の恵み」 「秋の例大祭は、いつの間にか新嘗祭とも一緒になって、神社の行事の中でも一番大きくなりました」 「文化祭と一緒の日なんだっけ」 「舞は、今からでも練習を始めればいいんじゃないか?」 「何なら俺も付き合うからさ」 「そうですか?」 「あ……で、でも、お気持ちはありがたいのですが」 「その……」 黙りこくってしまう白ちゃん。 あ。 この前の監督生室の時と一緒だ。 白ちゃんの中で、何かブレーキがかかってる気がする。 ブレーキがかかると、俺が近づいた分だけ、白ちゃんが引く。 「あのさ、白ちゃん」 白ちゃんが、かすかに、ぴくっと震える。 俺が、こんなに白ちゃんを辛そうにしちゃってるのかな。 そう考えると、申し訳ない気分になる。 同時に、そのブレーキに腹が立ってくる。 「単刀直入に聞くけど」 「なんか、最近ちょっと俺から逃げてない?」 「そ、そんなこと……」 「そんなこと、あるよね」 「う……」 「あと、ちょっと言いにくいんだけど」 「俺たちが、なんとなくいい雰囲気になった時に逃げてるような気がする」 「……」 「俺が踏み込んでいい話なのかはわからないけど」 「もし、白ちゃんが辛そうにしてる原因が俺にあるなら、なんとかしたいと思ってる」 ふと、白ちゃんが千年泉の方に視線を送る。 水面を渡るそよ風に、髪がそよぐ。 ……少しの間、何かを考えて黙る白ちゃん。 俺は、口を開いてくれるのを待った。 白ちゃんを促すようなことを、言いたくなるのを我慢して、じっと待った。 ふと、監督生棟前の石段で、二人で蛇が横断するのを待っていたことを思い出した。 あの時も、のんびり待ったものだ。 今だって大丈夫。 焦らず、待とう。 ……。 すると、白ちゃんがゆっくりとこっちを向いた。 「わたし……」 「結婚相手が決まっているんです」 「え?」 思わず声が出る。 白ちゃんはうつむいている。 今、なんて言った? たしか、結婚相手が決まっている、って。 「えええっ!?」 「しっ、白ちゃん、結婚って、あの結婚?」 「は、はい」 「あ、そ、そうなんだ」 「な、なるほど……」 彼女の家は、島でも名家だということだったし。 旧市街の方は、昔からの慣習とか残ってそうだし。 「あの、決まっていると言っても、特定の候補がいるということではなく……」 「東儀の分家がいくつかあるのですが、そこの方と結婚するのがしきたりということになっています」 白ちゃんの言葉が耳から入ってくるものの、理解できない。 頑張って頭を回転させようとしているのだが。 最初の一言ばかりが頭の中をかき回す。 「あのさ、白ちゃん」 「は、はい」 「今言ってた、しきたりってヤツ、もう一度教えてくれないか」 「わかりました」 それから、白ちゃんはゆっくりとしゃべってくれた。 東儀家のこと。 そして、白ちゃん自身のこと。 東儀家が、島の神社では代々祭司を務めてきたこと。 そしてまた、東儀家は代々、島の庄屋も務めていた。 もう何百年も昔から。 明治時代に神職の世襲が廃止され、島の外から派遣された人が神職を務めるようになっても…… 島民にとっては、東儀家が神職で庄屋の家柄なのだ。 それで、旧市街に行くと「白様」などと「様」付けで呼ばれたりしていたのか。 まだまだ話は続いた。 今でも、古くからの島民の間では、東儀家を頂点としたヒエラルキーが一部残っていること。 東儀家の広大な敷地には分家がいくつか存在し、信仰心が篤い氏子たちは、分家とともに東儀本家の屋敷のメンテナンスなどを行っていること。 そして…… 白ちゃんは、その分家から結婚相手を選ぶというしきたりがあること。 ……。 「誰かに話したのは、これが初めてです」 「す……」 顔が、くしゃっと崩れる。 「すみませんでした」 白ちゃんは、頭を深々と下げて謝った。 涙を流しながら。 すん、と鼻をすする音が小さく聞こえる。 「う……」 声を上げて泣きそうなのを、こらえているのだろう。 「白ちゃん……」 俺の中でも整理がつかないまま。 でも、泣いてる白ちゃんを放っておけないという思いで、声をかける。 「支倉先輩」 「何を、何について謝ってるんだ」 「白ちゃんに、謝らなくちゃいけないようなとこは無いだろ」 「いえ、いえ……あります」 「じゃあ、それってなんだ?」 「俺には全然わからない」 「それは……」 「わたしの気持ちが弱いから」 そう言って、また白ちゃんがうつむく。 その肩をつかむ。 「白ちゃんが、何を言ってるのかわからない」 「ご、ごめんなさい」 「白ちゃんが困ってるなら、力になりたいんだ」 「白ちゃんが悩んでるなら、一緒に考えたい」 「白ちゃんが辛いなら、やわらげてあげたい」 「白ちゃんが……」 「俺は、白ちゃんが好きなんだ」 「……!」 白ちゃんが、一瞬目を見開く。 そして…… 「う、うう……うううわああああ」 泣いた。 「う……うう……っく……」 俺は、どうしていいかわからなかった。 勢いのままに、思いを伝えた。 そして、白ちゃんに泣かれてしまった。 ……しばらく、白ちゃんが落ち着くのを待つ。 嫌がっているとか逃げるとか、そういうわけではなさそうだ。 俺は、ゆっくりと白ちゃんの背中を撫でた。 「うう……あ、う……」 「いいよ。ゆっくり、落ち着いてくれれば」 「は、はい……すみま……せ……」 嗚咽と深呼吸を交互に繰り返す。 少しずつ。 少しずつ、白ちゃんも落ち着いてきた。 「白ちゃん」 「だ、大丈夫です。もう」 「ごめん」 ぺこり、と頭を下げる。 「なんか俺、白ちゃんのこと考えずに、一人で突っ走っちゃって」 「ちっ、ちがっ……」 また、泣きそうになる白ちゃん。 ……今度はこらえたようだ。 「違うんですっ」 「わたしが……」 「わたしが悪いんです」 「なんで白ちゃんが」 「最初から知ってて、認められないことはわかってたのに……」 「わたしの意志が弱いばかりに、支倉先輩に」 「支倉先輩を……」 「うっ、うう……好きに……好きにならなければ良かったのに!」 「……」 「うわああああっ」 しゃがんで、再び泣き出してしまった白ちゃん。 俺は、また背中を撫でる。 ……そうだったのか。 「ごめんな、俺、鈍くて」 白ちゃんの頭に手のひらを置き、撫でた。 何度も、何度も。 そして撫でながら、語りかける。 「俺は大丈夫だよ、白ちゃん」 「白ちゃんに、大切な家の、守らなくちゃいけないしきたりがあっても」 「俺たちの仲が、認められないものだと思っていても」 「少なくとも俺は、白ちゃんが悪いなんて少しも思っていない」 「そんなに泣きながら、謝ったりするようなことは何一つ無いんだ」 「だから、顔を上げて、話をしよう」 「これからの、話を」 「こ、これから……?」 涙でぐしゃぐしゃになった顔を、白ちゃんが上げてくれる。 「白ちゃんは、どうしたい?」 「え……えっと……」 「……」 困ったように、考え込んでしまう。 「しきたりをどうするかなんてことは、考えたこともない」 「だから、どうしたらいいのか全然わからない。こんなところ?」 「……そ、そうです」 「好きって言ってくれて、とても嬉しいよ」 「一緒に考えていこう」 「そして、やれるだけのことをやろう」 「諦めたり、逃げたりするのは、全力を尽くした後でも遅くないはずだ」 「はい」 頑張って、白ちゃんが笑ってくれる。 これから何が待っているのか、何と戦わなくちゃいけないのか…… そんなことがまったくわからないまま、俺も白ちゃんを元気づけるために、微笑んだ。 そして。 白ちゃんの額に、軽くキスをした。 「あ……」 「う、嬉しい、です……」 泣き笑いの顔。 「うん。良かった」 「本当に、良かった……」 俺は、白ちゃんを抱きしめた。 「泣いてたの、わかってしまうでしょうか」 「うーん。少しは」 「どうしましょう……」 俺と白ちゃんは、とりあえず一度監督生棟に戻ることにした。 出てから、それなりに時間が経っている。 留守番を買って出てくれた副会長が、待ちくたびれているかもしれない。 山の中の道は下り坂で、帰りはかなり楽だった。 がちゃ 「あれ?」 鍵がかかっている。 鍵を開けて、監督生室に戻った。 机の上には、副会長のメモが残っていた。 「お腹が減ったので先に上がらせてもらいます。戸締まりはきちんとね」 それだけが書いてあった。 「もう、帰っちゃったみたいだ」 「そうですか」 「でも、顔を見られなくて助かりました」 「そうだな」 ふふふ、と二人で小さく笑う。 笑い終えると、部屋はしーんとする。 その静寂が、少しだけくすぐったかった。 「あの、支倉先輩、お茶を淹れましょうか」 「あー、俺も手伝うよ」 「いえ、今日はわたしがやりたい気分なんです」 「そっか。じゃあ、待ってる」 給湯室に消える白ちゃん。 ……監督生室は、とても静かだった。 湯飲みを準備する音、お湯を注ぐ音。 普段は気づかないお茶の準備の音が、今日はやたらとはっきり聞こえる。 しばらくすると、お盆に二人分のお茶を載せた白ちゃんがやってきた。 「どうぞ」 「いただきます」 「お茶請けは、落雁と最中を」 「お、豪勢だな」 あ。 これは、話の続きをしようってことなのかな。 「じゃ、いただきます」 「わたしも」 二人で、お茶に口を付け、和菓子をいただく。 「うまいね」 「この最中は、さゝきの看板菓子なのです」 そう言って、幸せそうに最中を口に運ぶ白ちゃん。 幸せそうな顔になってくれて良かった。 大ファンになりそうなくらい、最中に感謝した。 でも、白ちゃんが口火を切りにくいようなら、俺が水を向けないといけない。 「さ、これでお腹もしばらく大丈夫だ」 「話の続き、しようか」 「いえ」 「あの、わたし、聞いて欲しいことがあるんです」 「うん」 「わたしと、兄さまのことです」 監督生室には二人しかいないのに、背筋が伸びた。 白ちゃんの瞳にも、意を決したような光が宿っていた。 「わたしは、とても大切に育てられたと思います」 「東儀家は、昔は代々神社の祭司を務めていたという話を以前したと思うのですが」 「女の方が神に近いと考えていたそうなので、そのせいかもしれません」 「あ、神さまは氏神と豊穣の神を合わせたようなものだと教えられました」 「うん」 なんとか、話について行こうと頭を回転させる。 「子供のころ、ケガをしました」 「お庭で遊んでいて、転んだのです」 少し寂しげな顔。 「すると、父さまは……兄さまを怒りました」 「それも、かなり強く」 「え、なんでさ」 「……わからないです」 「わたしが、どんなに『兄さまは悪くないです』と言っても、怒られるのは兄さまでした」 「……」 どういうことだろう。 それだけ、東儀家にとっては白ちゃんが大事だったということなのだろうか。 「兄さまは、わたしにはとても優しくしてくれていました」 「なので、兄さまがわたしのせいで怒られるのは、とても……」 「悲しいというか、とにかく兄さまに申し訳なくて……」 「そっか」 その気持ちはわかる気がする。 「それから、わたしは……わたしは……」 「東儀先輩が白ちゃんのせいで怒られないように生きてきた、と」 「そう……そう、ですね」 「兄さまに迷惑を掛けないようにしようと、ずっと考えてました」 「子供の頃の話なのですが……」 「今も、ほとんど変わっていないような気がします」 そうだったのか。 初めて会った頃の白ちゃんを思い出す。 東儀先輩の背中に隠れていた白ちゃん。 東儀先輩の言うことを聞いている白ちゃん。 「今も、家に戻るとご両親が?」 「あ、いえ」 白ちゃんが、ちょっとためらう。 「父さまと母さまは、いません」 「いない?」 「はい。兄さまからは、二人とも亡くなったと聞いています」 「だから、七年前から兄さまは東儀家の当主も務めています」 「昨日が命日で、わたしと兄さまとお墓参りに行きました」 「もう、七年も経ちました」 昨日、白ちゃんが東儀先輩と出ていったのを思い出す。 でも……。 聞いています、ってのはどういうことだろう。 「神社の行事ごとなどは、兄さまが何かと世話をしてくれるのでこなせています」 「けれど、いつまでも一人前として扱ってもらえないのは寂しいです」 「そして、兄さまの負担になってしまうのが申し訳なくて……」 白ちゃんが、少し肩を落とす。 ただでさえ小さいのに、さらに小さく見えた。 「白ちゃんが、申し訳ないと思っていて」 「早く一人前として扱って欲しいのなら、成長するしかない」 「それは……そうですね」 「二人の問題だからあまり口を挟むべきじゃないと思うけど……」 「もし白ちゃんが、今の状態を抜け出したいと思っているなら、協力する」 「は、はいっ」 「よろしくお願いします」 「一人前を目指して、頑張ろう」 なぜか、監督生室の机を挟んで、俺と白ちゃんはがっちりと握手をした。 白ちゃんの手は小さく、そして少し汗ばんでいた。 「誰かに、家のことをお話するのは、とても緊張します」 「ずっと内に抱えているより、絶対いいさ」 「白ちゃん、辛そうだったし」 「お話しして、少し体が軽くなったような気がします」 「あと……こころも」 「白ちゃん、一つだけ確認していい?」 「あ、はい」 「なんでしょうか?」 小首をかしげる。 「『好きにならなければ良かった』ってことは、白ちゃんは、その……」 一気に白ちゃんが、熟したプラムのように真っ赤になる。 「はっ、支倉先輩っ」 「うん」 白ちゃんの目を見て、言葉の続きを待つ。 「……ど、どうしてそんな目で見つめるんですか?」 「どんな目?」 「期待してるような、目です」 「いつから俺のこと好きだったのか、聞きたいから」 「そ、それは……」 顔を染めたまま、うつむいた。 「えっと……その……」 「一緒におでかけを……いえ、もっと前かもしれません……」 「あ……」 「生徒会に入るって聞いたときも嬉しかったです……」 「きっと、ずっとずっと前から、好き……だったのだと……」 恥ずかしそうに口ごもった。 そんな仕草が、俺の心音を早くさせてくれる。 「は、支倉先輩はどうなんですか……?」 「え?」 どうだろう。 俺はいつから、この健気で小さな女の子に惹かれたんだろうか。 いつも生徒会でお茶を出してくれる白ちゃん。 雪丸の世話をしている白ちゃん。 出会った時は、噴水で雪丸を追いかけてたっけ。 「わからないや。俺もけっこう前から好きだった気がする」 「……じゃあ、同じですね」 嬉しそうに、純粋な微笑みを俺に向ける。 夕暮れの監督生室で、一度だけ―― 俺たちの唇が触れあった。 支倉先輩に勇気づけてもらってから4日。 どう兄さまに話そうか考えているうちに、何日も過ぎてしまった。 だけど、いつまでも迷っていてはダメだと思う。 どう切り出そうかなんて、まだ決まっていないけど。 兄さまに、ここに来て下さいとお願いした。 緊張してくる。 手のひらに汗をかいているのは、暑さのせい。 そう思うことにしよう。 ……支倉先輩は、一緒に行こうか? と言ってくれた。 でも、これはわたしの問題だから。 わたしが、兄さまと話をしなくてはいけないと思う。 「待たせたな、白」 「あ、いえ、兄さま」 「ここではなんですから、どうぞ、中へ」 「わかった」 きいっ 短く扉の蝶番が鳴いて、兄さまとわたしが礼拝堂の中に入る。 外の日差しは強いが、中は対照的に暗く、少し涼しい。 「中は、少し涼しいな」 「そうなんです」 兄さまと同じことを考えていたようだ。 嬉しい。 そう思ってしまう。 だめだだめだ。 わたしは、もう少し……兄離れをしなくてはいけないのだ。 「それで、話とは?」 兄さまがわたしの前に立ち、正面からじっとわたしを見つめてくる。 う……。 蛇ににらまれた蛙のように、わたしは固まってしまう。 兄さまを蛇に例えるのは失礼かな。 勇気を振り絞る。 振り絞って、言わなきゃ。 「実は」 「ああ」 「実は、その……」 「その……ええと」 「どうした」 ……。 「東儀家のしきたりについて、お聞きしたいことがあるのです」 「そうか。なんだ?」 「わたしが……わたしの、結婚相手は、分家の方の中から選ばれると聞きましたが」 「それは、今でも変わっていないのでしょうか」 「その通りだ」 「変える必要もない」 「そ、そうですか……」 兄さまは、少しも声の調子が変わらない。 とりつく島もないとはこのことか。 それでも、言っておかなくちゃいけないことがある。 これだけは。 「あの」 「わたし、支倉先輩と」 「ん?」 「わたし、支倉先輩と、お付き合いをさせていただこうと考えています」 「それは……交際するということか」 「はい」 「支倉には、もう話したのか」 「はい」 「支倉先輩は、了承してくださいました」 本当は、支倉先輩が先に言ってくれたんだけど。 こう言っておいた方が、兄さまに怒られるのはわたしだけで済むかもしれない。 怒られる……のかな? 「ふう」 兄さまの眼光が鋭くなる。 「支倉は、東儀家のしきたりを知らないのだろうから仕方ないにしてもだ」 「白」 「は、はい」 「どうするつもりなんだ」 「支倉を、いつかは捨てることになるのだぞ」 「それでは彼に辛い思いをさせるだけだろう」 「でっ、でも支倉先輩は」 「それにだ」 「どうしたところで添い遂げることなどできないのだとしたら……」 「それは、救いの無い悲劇の始まりだろう」 「そうじゃないか、白」 「……」 兄さまにとっては、しきたりを守るなんてことは当たり前なのだ。 そんなことはわかっていたはずだ。 わたしだって、しきたりは守るものだと思っている。 それなのに…… わたしは、兄さまに話をすれば、解決するとでも思っていたのだろうか。 まったく可能性が無いような言い方をされるのは当たり前だ。 でも、辛い。 苦しい。 唇を噛んで、立ちつくす。 「そうだ」 「もし、白が直接支倉に言うのが辛いようなら、俺から言ってもいいが」 「に、兄さま」 「それは……自分でなんとかします」 「そうか。早い方が、きっと傷も浅くて済む」 「支倉には、生徒会で瑛里華を補佐する人材になってほしいところだ」 「なるべく後に引きずらないようにな」 「……」 兄さまが言うことは正しい。 これまで、ずっとそうだった。 わたしも、兄さまの言うとおりにしてきたし…… それで、上手くいっていた。 兄さまには感謝してもしきれない。 でも。 父さまと母さまのことが、ずっと頭の隅から無くならない。 時を経るごとに、消えるどころか、だんだん大きくなってくる。 「今日の話は、もうこれでいいか?」 「は、はい」 兄さまが、礼拝堂を出て行く。 その背中が遠ざかる。 このままでは、このままの生き方では、いけないような気がする。 わたしは、きっと兄離れをしなければいけない。 ばたん 昨日のお茶会に、白ちゃんが来なかった。 珍しい。 白ちゃんは、これまでほとんど参加していたのに。 ばんっ 背中を叩かれる。 「おはよー、こーへー!」 かなでさんと陽菜だった。 「おはよう」 「おはよーっす」 ばんっ 「背中が丸まってるぞー」 「もっと背筋伸ばして、元気出しなよ!」 「え、俺、元気ないように見えますか」 「見える」 「もう全っ然、元気ないなぁ」 「まんがで言うと、顔に縦線が入ってる。30本」 具体的だ。 「マジで?」 「うん」 「あーっ、わたしが言ったことを疑ったでしょー」 「お姉ちゃんは少し大げさです」 「でも、やっぱり……」 「いつもよりは少し、肩が落ちてるような気がするよ」 「やっぱり、昨日の……もごもごーっ」 昨日の? 陽菜が、何か言いかけたかなでさんの口をふさぐ。 「ううん、なんでもないの」 「孝平くん、元気出して。ファイトっ」 小さくガッツポーズ。 陽菜がガッツポーズをするということは、かなでさんが解放されたということだ。 「そう。男には戦わなくてはいけないときがある」 「こーへー、ファイッ!」 かなでさんは、何かと戦うように軽いフットワークのシャドーボクシング。 俺は、何かを倒さなくてはいけないらしい。 「ふっ、ほっ、とりゃあっ」 「ぷっ」 かなでさんのボクシングスタイルがあまりにぽわぽわしてて、思わず笑ってしまった。 「あっ、笑ったね」 「わかりました、元気出しますよ」 「うん」 「それでこそこーへーだ!」 また、かなでさんにバンバン叩かれる。 二人の励ましで、なんだかもやもやしていたのが晴れたような気がした。 放課後。 監督生室に行くと、千堂兄妹が来ていた。 「ちゃーす」 「あら」 「ん?」 「征一郎さんたちとすれ違わなかった?」 「うん」 「今日は、征一郎さんと白は帰ったから」 「ローレル・リングの方で人手が足りないってんで、征が買って出たらしいよ。助っ人」 「そうなんですか」 監督生室でなら、久しぶりに白ちゃんに会えるかと思ったけど、礼拝堂じゃしょうがない。 それにしても、ローレル・リングで助っ人が必要なら、言ってくれれば俺だって…… 「で、支倉くんはこれをよろしく」 どさっ 書類の束が目の前に置かれる。 厚さは約10センチ。 地球に優しくないことこの上ない。 「これは?」 書類をめくってみると、カオスなキャッチコピーや極彩色のイメージ写真がある。 「な……なんですかこりゃ」 「ひどい言いようじゃないか」 「各クラスや部活で、どうしたら楽しくなるか、お客さんに楽しんでもらえるかを考えてるんだ」 「これは、その結晶なんだよ」 「文化祭の、企画書ですか」 なるほど。 しかし、言われなければわからないほど、混沌とした書類である。 「表向きは普通の喫茶店でも、油断しちゃだめよ」 「よく読むと、巧妙にカモフラージュされた『スクール水着喫茶』の企画だったりするから」 「……それ、駄目なのか」 「俺がよくても、父兄や島の皆さんがいらっしゃるからねえ」 「私が許しません」 なるほどね。 企画が分厚いのは、何かを隠している場合もあると。 でも、東儀先輩はこれを放ったままローレル・リングに行っちゃっていいのかな。 どすっ 「で、これが昼休みに征一郎さんがやった分」 「支倉くんの受け持ちは、だいたい征一郎さんの半分くらいね」 東儀先輩はバケモノか。 「これくらいなら、今日中には終わるかしら」 「任せとけ」 本人がいないのに、無言の売り言葉を買ってしまう。 ……終わったのは、門限ぎりぎりだった。 放課後。 今日こそは、と意気込んで監督生室に行く。 授業が終わってから、真っ先に教室を出ようとする。 「支倉君」 教室の反対側の扉から、紅瀬さんに声を掛けられた。 「なんだ?」 「青砥先生が呼んでるわ」 「はあ」 「急いでいるところ残念ね」 急いでるのが丸わかりか。 しかし、なんの用だアオノリ。 「おー支倉」 「なんでしょうか」 心なしか、少し早口になってしまう。 「生徒会から頼まれてたもの、見つかったから運んでくれ」 「は?」 青砥先生に連れられていったのは、昇降口の脇にある倉庫。 「これが30年分の卒業アルバムと文化祭のプログラムだ」 「予備がもうない本もあるから、落としたり破いたりするなよ」 そう言って、紙袋を15袋ほど託された。 非情な重さ。 「それじゃ、俺は仕事があるから」 「監督生室に持って行くのは任せたぞ」 すたすたと去っていくアオノリ。 ……この紙の束を、俺一人で? とりあえず、両手に紙袋を一袋ずつぶら下げて、えっちらおっちら階段を上る。 残りはあと13袋か。 監督生室に行ったら誰かに手伝ってもらおう。 そして誰もいないわけで。 「ぐぬぬぬっ」 あ、あと、3往復。 「これで、最後……だ……」 初めて、人がいた。 「あら、支倉くんが運んでてくれたの」 「あら、じゃない。大変だったんだ」 「おおご苦労」 「汗だくじゃない。アイスティー、飲む?」 「ああ。ありがとう」 「ところで、みんなどこに?」 「講堂だ。文化祭で使う申請があったから、設備の点検をしてた」 って、俺が7回×行き帰りで14回も脇を通ってるじゃないか。 どっと疲れが出た。 昼休み。 食堂で白ちゃんの姿を見かけた。 紙パックの牛乳を買っている。 「白ちゃん!」 「支倉先輩」 白ちゃんが小走りで駆け寄ってきた。 なんか、久しぶりに会うような気がする。 目の前に座っていた司がちらっとこちらを見た。 「あのさ、今日は監督生室に来る?」 「ご、ごめんなさい……」 「今日も、ローレル・リングの活動が」 「そっか……」 「もっと、会いたいです」 俺が落ち込んでるのが見て取れたのか、そう言ってくれた。 司が咳き込んだ。 「俺もだ」 「そうだ」 「支倉先輩に、メールをしてもいいですか」 「えっ」 「アドレス、教えてたっけ」 「生徒会に入ったばかりの時に」 「今まで、迷惑かなと思ってメールは控えてたのですが」 「いや、全然そんな必要ないよ」 「あ、昼休みにもちょっと用事が」 残念だが、仕方ない。 「じゃ、メールで」 「はい、メールで」 白ちゃんが去っていく。 目の前で、司がすました顔をしていた。 既に食べ終えている。 「何か言ってくれ」 「お前の部屋は、お茶会で人が出入りするから……」 「ロックする機能とか、使った方がいいかもな」 「寮長にラブラブメールを朗読されたくないだろ」 実にマトモなアドバイスが来た。 「すまん。そうだな」 少し冷めた焼きそばをもそもそと食べる。 司はあくびをしながら待っててくれた。 ベッドの上に座って、携帯を見つめていた。 白ちゃんからのメールが来る。 はずなのに。 「来ないな……」 こっちからメールするか? でも、白ちゃんからメールするって言ってたんだから、最初の一度くらいは待とう。 1時間経過。 まだ来ない。 穴が開くほど凝視しても、携帯は沈黙したままだ。 「風呂にでも入るか……」 でも、風呂に入ってる間にメールが来るかもしれない。 ……俺、ほんとに白ちゃんのこと好きなんだなぁ。 たかが、一通のメールに振り回されてる自分が、ちょっとおかしい。 自分で苦笑しながら、部屋の風呂に向かった。 そして、風呂から出てみると…… 「Eメール 1通」の文字。 「おおっ!」 どきどきしながら、待望のメールを開いた。 From>へーじ Sub>用は無い。肩の力を抜け。 しかも本文無し。 「うおおおいっ!?」 携帯を床に叩きつけそうになる。 が、すんでのところで踏みとどまった。 司に俺の行動がバレバレなのが少し悔しい。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 「また司か?」 From>東儀白 Sub>こんばんは 今度こそ、白ちゃんからだ。 深呼吸をしてから、メールを開く。 『こんばんは、支倉先輩。メールをするのは初めてですね』 『これまで男の人とメールをしたのは、兄さまと伊織先輩の二人だけです』 『なので、少しどきどきしています』 会長とはメールのやりとりがあるんだな。 『伊織先輩からのメールは、時々おふざけが混じっていました。たまたま兄さまがそれを見て、怖い顔をしていました』 『それ以来、伊織先輩からはメールが来ません』 あの人、どんなおふざけをしたんだろうか。 『本題です』 『先日兄さまに支倉先輩とのことを話しました』 おおっ! 『すると兄さまは』 ……ここでメールが切れている。 「次週へ続く?」 馬鹿なことを言ってる場合じゃない。 もしかしたら、白ちゃんに何かあったのかも……。 白ちゃんが、部屋でメールを打っている。 「えっと……先日兄さまに支倉先輩とのことを話しました、っと」 「すると、兄さまは……」 ブォォォォンッ!! 「ひっ!」 「今のは、チェーンソーの音……?」 「そ、そういえば噂を聞いたことがあります……」 「夜遅くにメールを打っていると、仮面をしてチェーンソーを持った方が襲ってくるって」 「ベランダに……いるの?」 ガシャンッ! 「きゃあっ」 ブォン、ブォォォンッ!! 「そ、そんな、まさか、仮面が……」 「越前ガニの甲羅だなんてっ!」 ブオオオオォォォォンッ!! 「いやああああーっ!!」 「白ちゃんが、危ないっ!」 俺の妄想はどうでもいいが、何かあった可能性はある。 急いで部屋を飛び出そうとしたところで―― ハラリとバスタオルが落ちた。 裸のままだった。 「服を着ないとっ」 慌ててトランクスに足を通そうというまさにその時。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ ごんっ! 「──! ──!」 思わず振り向いた俺。 片足立ちの不安定な状態のまま転び、壁にしこたま頭をぶつけた。 From>東儀白 Sub>こんばんは2 後頭部を抱えながら、携帯を見る。 『さっきは失礼しました』 『兄さまから電話が掛かってきたので、驚いて、途中で送信してしまいました』 そういうことか。 何もなくてよかった。 『兄さまに支倉先輩とのことを話したのですが、まったく相手にしてもらえませんでした』 『兄さまの中には、しきたりを破るという選択肢自体がないのだと思います』 『わたしも、しきたりを破りたくはありません』 『何かいい方法があれば良いのですが……』 『でもとりあえず、もう少し兄離れをしようと思いました』 『あらあらかしこ』 手紙の締めだっけ、これ? ……それより返事を書かねば。 『白ちゃんと会って話がしたい。いつなら大丈夫?』 何かが足りない気がした。 送る前に消去。 白ちゃんは今、どんな気持ちでいるんだろう? きっと、ものすごい勇気を振り絞って、白ちゃんは東儀先輩に話をしてくれたんだ。 それが、相手にされなかったのだとしたら。 白ちゃんは落ち込んでいるはずだ。 『まだ、始まったばかりだから一緒に頑張ろう』 『東儀先輩とは、話し合って少しずつ溝を埋めていこう』 『近々、会って話ができないかな』 こんなところか。 送信、っと。 すぐに、白ちゃんからは『明日の夜でお願いします』という返事が来た。 表には出さないように、でも俺的には猛烈な勢いで、仕事をした。 文化祭の準備が一つ目の山を迎えようとしている。 「そろそろ出揃ったわね」 「企画書?」 「ええ」 「夏休みに入ると、つかまらない人が出てくるから、こっちも今がラストチャンスよね」 腕まくりをして、鉢巻きくらい締めそうな勢いだ。 「あと、やっつけなきゃいけない書類、どれ?」 「支倉君もエンジンが掛かってきたようだね」 「これも俺の後輩指導の賜物だな」 「仕事丸投げしただけじゃない」 呆れたような目で会長を見た。 「権限委譲式のスパルタ後進育成さ」 「まあ、たしかにそれで成長はしましたけどね」 「これで、俺も安心して引退できるというものさ」 「でも、後輩の一人である……白ちゃんが、最近あまりここに来てないですよね」 「気になるかい?」 久々に、心を見透かされるような目で見られる。 「ええ、気になります」 「へえ、はっきり言うじゃない」 「男らしくていいわね」 「瑛里華よりも白ちゃんか」 「何くだらないこと言ってんのよ」 「私は応援してるからね」 「ああ、ありがと」 「じゃあこれが残りの仕事」 またどさっと書類が渡される。 「頑張って」 「なっ!? 話の流れからすると、これは無いんじゃないか」 「ハンデを欲しがるのはね、自らが劣ってると認めるようなものだよ」 「これくらいで音を上げるようじゃ、そもそも土俵にも上がれないわ」 この兄妹にたたみかけられると、ぐうの音も出ない。 それに、言ってることはもっともだ。 「わかりました。やりますよ」 それからの数時間は、これ以上ないくらいに集中して仕事を終わらせた。 「支倉先輩」 「しーっ」 「あ、すみません」 「黒い服は……目立たないため?」 「あ、そ、そうです」 「なんか、二人きりで会うのも久しぶりな気がするよ」 「ええ」 「ここのところ、ローレル・リングの活動が忙しくて」 「こっちも、文化祭の準備がさ」 ……。 「あの、少し変なことを言うかもしれませんが、笑わないでくださいね」 「? ああ」 「ここ何日か、わたしたちにまとまった時間が取れなかったのは……」 「兄さまが何かをしているのかもしれません」 「あはは、まさか」 それは考えすぎだ。 いや、まてよ。 「今日は、征一郎さんと白は帰ったから」 「ローレル・リングの方で人手が足りないってんで、征が買って出たらしいよ。助っ人」 おかしい。 今まで、そんなことを東儀先輩がしてたか? 「生徒会から頼まれてたもの、見つかったから運んでくれ」 あれは結局、誰が頼んだんだ? それも、うちのクラスの担任に。 白ちゃんも、忙しかったと言っていた。 全部、東儀先輩が仕組んだのか? 「そんな、まさか……」 そんなはずはないと思っても。 笑い飛ばすことができない。 「兄さまに……」 白ちゃんが、苦しそうに言う。 「兄さまに対してこんなことを考えてしまう自分が、嫌いになってしまいそうです……」 そんな白ちゃんの肩を両手で支える。 この前、白ちゃんが話してくれた二人の話を聞けば、当たり前だ。 白ちゃんは兄の東儀先輩を。 東儀先輩は白ちゃんのことを考えて、ずっと生きてきたのだ。 それも、ここ7年は、二人きりで。 その兄を対立する相手として疑うに至った白ちゃんの気持ち。 辛いだろう。 泣きそうになるのも、わかる。 白ちゃんが、俺を選んでくれた。 俺の思いと白ちゃんの思いが通じたから、こんなに辛くなってるとは思ってほしくない。 「白ちゃん。もっと俺たちデートしよう」 「え」 「二人で。他の用事は全部済ませて」 「急に入った用事は、次の日に回せばいい」 「お茶会もやろう」 「二人もいいけど、みんなでわいわいにぎやかなのも楽しいよな」 「は、はい」 「なんかさ、楽しいことたくさんしよう」 「嫌なこと忘れるとか、そういうんじゃなくて……」 「一緒にいて良かったって、そう思えるように」 「そう、そうですよね」 「考えてみりゃ、今だってデートだよな」 「門限までは……あと少しあるな」 「手をつないでも、いいか?」 「は、はい……」 暗い中でよくわからないけど、白ちゃんの顔は赤いような気がした。 肩をつかんだままだった手を、ゆっくりと下ろす。 白ちゃんも、握りやすいように手のひらを開いてくれた。 小さい手。 細い指。 ちょっと力を入れて握ったら、壊れてしまいそうだ。 そっと、ガラス細工を持つように、白ちゃんの手を握る。 白ちゃんが指を開き、二人の指が交互に絡まる。 「じゃ、歩こうか」 「は、はい」 「デートですもんね」 そう言って、にっこり微笑む。 俺は、返事をする代わりにつないだ手をぎゅっと握った。 日曜日。 今日は、白ちゃんとデートをする日だ。 カーテンを開けて、爽やかな朝日を―― ザアアアア 「……」 なんてこった。 この世界に神はいないのか。 吸血鬼はいるのに……。 「え? 雨を止ませろ?」 「はい」 「それは窓の外の世界のこと? それとも君の心かい?」 きらーん 「そういう視線は女性に向けてお願いします」 「まあ、さすがに天候は変えられないねえ」 「ですよね」 「せっかくのデートなのにね」 「な、なんで知ってるんですかっ」 「おっ、ホントにデートなんだ」 「……」 くそう、はめられた。 「おや、噂をすれば」 「支倉先輩っ」 「あ、伊織先輩、おはようございます」 ぺこり 「おはよう」 「あの、どうしましょう……」 「雨が降っています」 「そうだな」 「おいおい、雨だってデートくらい行けばいいじゃないか」 「でも、土砂降りですよ」 「わたしだけなら構いませんが……」 「白ちゃんが風邪引いたらどうするんですか」 「あ……」 「そうです、支倉先輩に風邪を引かれたら困ります」 「何このバカップル」 「いや、真面目に心配してるだけです」 白ちゃんは舞の練習だってあるんだし。 俺とデートして体調を崩したなんてことになったら、東儀先輩に顔向けできなくなる。 「ああ、でも街に行くより、寮の方が正解かもね」 「なんでですか?」 「街に行ったら、征にマークされるかもしれないし」 「……」 そういえば、白ちゃんを心配して街まで来てたことがあったような……。 「それもそうですね……」 「白ちゃん、今日は寮で過ごそうか」 「はいっ」 「よい一日を」 ひらひらと手を振られた。 俺の部屋に白ちゃんと二人きり。 外から雨音が聞こえてくる。 「せっかくのデートだったのに、どうして雨なのでしょう……」 「天気予報ちゃんと見とけばよかったな」 「晴れの予報でした」 「あ、そうなんだ?」 「支倉先輩とデートだと聞いて、調べたんです」 「喜んでいたのに……外れてしまいました」 「そっか」 俺と付き合ったことで、白ちゃんが楽しい思いをできるように。 そう思ってたんだけど、雨じゃなあ……。 白ちゃんが、スカートの裾を直した。 お出かけ用の服が、この部屋で浮いている。 「お茶でも、淹れましょうか?」 「ああ、ありがと」 どうしたものかな。 話をするだけでもいいんだけど。 もっと、何かないだろうか。 室内とはいえ、デートなんだし。 待てよ? 「白ちゃん、ちょっと待っててもらっていい?」 「あ、はい」 廊下に出た。 そして2つ隣の部屋を尋ねる。 「誰だ」 「俺だ」 がちゃり 「おう、どうした」 「ゲーム持ってるか?」 「TVゲームならある」 「貸してくれ」 「ソフトは?」 「……女の子でも遊べる物がいい」 「ほう」 にやり 妖しく微笑んで、部屋の中へ消えていく。 「ほれ」 「サンキュー」 「この程度じゃ、飯はおごらなくていいぞ」 「じゃあな」 にやり 妖しく微笑んで、部屋の扉が閉まった。 「ただいま」 「おかえりなさいませ」 「むぅ」 「ど、どうしたんですか?」 「今の挨拶に、なぜかじーんとした」 「?」 「ちょっと新婚さんみたいだったから」 「あ……」 顔を真っ赤にさせてうつむいた。 頭を撫でたいが、手はゲーム機でふさがっている。 「それ、どうしたんですか?」 「司に借りたんだ」 さっそくテレビに接続する。 「一緒にやってみない?」 「は、初めてですけど大丈夫でしょうか?」 「初めてなんだ?」 「はい、実家にはそういう物はありませんでしたから」 ああ、確かに東儀家にTVゲームは無さそうだ。 東儀先輩もやらなそうだし。 「どれか、やってみたいのある?」 「わたしが選んでいいんですか?」 「もちろん」 おずおずとソフトに手を伸ばして吟味する。 物珍しそうにパッケージを見ているのが、かわいい。 「あの、どれが簡単なのでしょうか?」 「このレースゲームは易しいと思うけど」 「で、では、それで」 緊張した様子で、言った。 ソフトを入れて起動。 2P対戦を選んでみる。 「あっ」 「ん?」 「対戦、と書いてありました」 「うん」 「支倉先輩と戦うのですか?」 「まあ、そうなるね」 「あの、できれば……」 「一緒にしたいです……」 寂しそうにこちらを見つめる。 しかし、同じチームでやる機能なんてないぞ。 「あ、じゃあ、こうしよう」 ……。 ピ、ピ、ピ、ピーン! シグナルは赤から青へ。 レースが始まった。 俺はアクセルボタンを押す。 目の前にはカーブ。 「え、えっと、これ? これでいいんですかっ?」 白ちゃんが方向ボタンを連射。 「わっ、わっ、曲がりましたっ」 「押しっぱなしでも曲がるよ」 「あっ、ほんとうです、曲がりますっ」 二人で同じコントローラーを操作していく。 近くないとできないので、白ちゃんは俺が胡座をかいた上に座っている。 「あ、今度は左ですね、は、速いです、あ、あっ」 ぴょこぴょこと体を動かして画面に反応する。 女の子の感触が、足の上で跳ねていた。 すこぶる幸せ。 「ひ、左っ……ひだ、りっ……」 白ちゃんの体が左に傾く。 「え!? 右っ、みぎに曲がってっ!」 今度は右へ。 「ははは」 必死な様子がかわいくて、思わず笑ってしまう。 「な、なんで笑ってるんですか?」 「あ、あっ、曲がりきれませんっ、あっ、壁がっ」 「おっと」 急いでブレーキ。 どかーん 「あっ、あ、あ、ぁ……」 間に合わなかったか。 「爆発しました……」 白ちゃんが目を丸くしていた。 「今度はどうした」 「返そうと思って」 「早いな」 「酔ったらしい」 「この短時間でか」 「ああ」 「で、なんか映画とかないか?」 「……待ってろ」 にやり 部屋の中へ消えていく。 「こいつが一番ましだ」 「2回も借りに来たし、天丼おごる」 「プライスレスだ」 「サンキュー」 がちゃり 「お帰りなさいませ、だ、旦那様」 じーん 「あ、あの、どうして固まってるんですか?」 「幸せを噛み締めてたんだ」 「言ってよかったです……」 恥ずかしそうに顔を伏せた。 「あ、それはなんですか?」 「映画。一緒に見ようと思って」 「あ……いいですね」 「どんな映画なんですか?」 「これ」 タイトルを見せる。 「?」 知らないのか。 「一時期話題になったやつ」 「戦争物のラブロマンス」 「そうなんですか……楽しみです」 セットして、再生する。 そのまま床に座った。 「……」 白ちゃんが立ったままじっと、俺を見ている。 「どうしたの?」 「あの……」 「さっきみたいに座っても、いいですか?」 頬を染めながら、聞いた。 「おいで」 「はいっ」 白ちゃんが、嬉しそうに俺の上に座る。 そのまま、二人で画面を見つめた。 ……。 物語は佳境を迎えていた。 ラブロマンスには、当然キスシーンがある。 画面では有名な俳優同士が唇を重ねている。 白ちゃんは、俺に体を完全に預けていた。 リラックスしてくれてるのかな。 俺の方は、どきどきしてしまっている。 心音が、白ちゃんに伝わっているかもしれない。 キスシーンを見て、白ちゃんを意識してしまったのだ。 ここで、映画と同じようにキスしてみたらどうだろうか。 「……白ちゃん」 「……」 「あのさ、キス……しよっか」 「……」 無言のままだ。 映画を邪魔されるのいやなのかな。 顔を覗きこんだ。 「すぅ……すぅ……」 「!」 安らかな顔で眠っていた。 「す、すみませんっ、途中で寝てしまうなんてっ」 「しかも、こんな時間まで……」 「いや、全然かまわないよ」 「あの、支倉先輩があったかくて、それでつい……」 「気にしないで。嬉しかったから」 「え?」 「かわいい寝顔、見れたし」 「……ぅ」 「もうすぐ消灯だし、今日はもう戻った方がいい」 「あ、はい」 「途中まで送ろうか?」 「いえ、その寮内ですから……」 「それもそうだな」 「では、失礼しました」 「またね、おやすみ」 「おやすみなさい」 せっかくのデートなのに、寝てしまうなんて。 昨日、どきどきして眠れなかったせいかもしれない。 支倉先輩は優しい。 雨で少し落ち込んでいたわたしに、気をつかってくれた。 支倉先輩といると、楽しい気持ちになれる。 明日、また会うのが待ち遠しい。 できればずっと一緒にいたい。 でも……。 東儀の掟はそれを許してくれない。 「……」 喉が渇いてしまった。 部屋に戻る前に、何か買っていこう。 あ……。 「……」 兄さまが、いる。 何か、言わなくては。 でも、なんて言えば……。 「……」 兄さまが去っていく。 わたしに気づいていたはずなのに。 放課後、監督生室にちょっと顔を出したあと、白ちゃんとここで落ち合った。 泉が鏡のように、日の光を反射している。 白ちゃんは、少し寂しそうな顔をして言った。 「兄さまと、最近あまりお話をしていないんです」 「兄さまからも、わたしからも」 「必要な用事のあるときしか、話をしなくなってしまいました……」 「でも、兄妹ってそんなもんじゃないか?」 「そうなんですか?」 「いや……いろんな兄妹がいるだろうけどさ」 「白ちゃんたちは、一緒にいる時間がすごく長かったと思う」 「だから、今がそんなに異常だってことはないよ」 少しほっとしたような顔をする白ちゃん。 「今日は暑いな」 「はい」 「木陰に行くか」 二人並んで座れ、しかも木陰になってる場所を探すのには少し手間取った。 でも、並んで座ると改めて白ちゃんと二人きりだという喜びに包まれる。 「食堂で、ペットボトルか何か買ってくればよかったな」 「今から行くには遠いですよね」 「戻ってくるのが面倒だもんな」 監督生棟からここまでの山道、そして監督生棟と食堂の間の階段を思い出す。 「昔の資料見てたらさ、あの噴水から教室棟までの階段『四年坂』って書いてあった」 「四年坂?」 「転ぶと、4年以内に死ぬという伝説があったんだってさ」 「え……」 「それは、もしやそういう方がいたとか……」 「後期課程は4年たつ前に卒業してるから、真偽は不明」 「留年するなよ、って意味があったのかもね」 「あ、なるほど」 純粋に感心したような白ちゃん。 こういう純朴なところが、とてもかわいい。 「もう廃れた伝説だけどな」 「でもせっかくですから……」 「そうだ。来年の新入生に配る『108の秘密』に載せたらどうでしょうか?」 「それはいいかもしれないな」 「白ちゃんも、転ぶなよ」 「ふふ」 「あの階段で転んだら、伝説がなくても大変ですよ」 「そりゃそうだな」 木陰に入って、梅雨の合間の厳しい日差しからは解放された。 水面を渡ってくる風は、少しだけ冷気を含んでいる。 山を縁取る木々の葉が風に揺らぐと、山全体が揺れているような錯覚を受けた。 「兄さまと、こんなに会話が少ないのは初めてです……」 白ちゃんがつぶやく。 「寂しい?」 「いえ、それは……兄離れをすると誓ったのですから、我慢します」 「それに、支倉先輩がいてくださいますから」 「寂しかったら、いつでも言ってくれ」 「はい」 嬉しそうに、微笑んだ。 「でも……」 「このままでは、祭りの舞が心配です……」 「東儀先輩と二人で踊るんだっけ」 「はい」 「兄さまと、呼吸が合わないのではないかと……」 呼吸か。きっと繊細な踊りなんだろうな。 「今まで、兄さまの言葉に疑問を持つことはほとんどありませんでした」 「なのに最近、兄さまの言うことがなぜか信じられないんです」 「信じられない?」 「はい」 「父さまと母さまなのですが……」 「7年前に亡くなったんだよな」 「それが、その……」 「本当はどうなのかなって……」 言ってはいけないことを言ってしまった、というような顔をしてる。 そもそも、その言ってる内容が信じられない。 「いや、ちょっと待ってよ」 「葬式はしたの? 遺体は見た?」 「お葬式はしましたが……」 「父さまと母さまの遺体は見ていません」 「人が死ぬってことは、医者とか警察とか、よくしらないけど死亡診断書とか」 「そういうのが必要なんじゃないの?」 「分家の中には警察やお医者様もいるので、なんとかなってしまうのかもしれません」 「じゃあ戸籍とかは?」 「それも、同じことだと思います」 「もし……本当にそうなら、でも確かめようもないな」 「そうなんです……」 それと、口には出さなかったけど、もし白ちゃんが言ってることが正しいなら…… 東儀先輩がやってることは、たぶん何らかの犯罪になるはずだ。 「白ちゃんは、なんでそう思ったんだ?」 「その、ご両親がまだ亡くなってないんじゃないかって」 「えと……なんででしょう?」 こける。 「なんとなく、としか」 「何か証拠があるとかじゃなくって?」 「は、はい」 「すみません……」 どう考えればいいんだろう。 白ちゃんの勘に過ぎない、両親が実は生きているという説。 その証拠はどこにもない。 む……。 「あのさ」 「白ちゃんの勘を信じられないって言うつもりはないんだけど……」 「証拠も何もないのに東儀先輩を疑うのは、ちょっとつらいと思う」 「それは……そうだと思います」 「で、何も証拠を探して東儀先輩を追い詰めろとかいう話じゃなくてさ」 「直接、東儀先輩に聞いてみるのがいいんじゃないか?」 「もし事実がどっちだったとしても、東儀先輩と白ちゃんの間だけの出来事であれば……」 「そのあと、どっちに転がっても被害は最小限で済みそうだろ?」 「そう……ですね」 「あとは、わたしが兄さまに……」 「ちゃんと、直接、尋ねることができるといいのですが」 「大丈夫」 白ちゃんの頭に、ぽん、と手のひらを置く。 「たった二人の兄妹だろ」 「それに、俺もいる」 「もし白ちゃんがそうしてくれって言うなら、一緒に行くし……」 「俺が白ちゃんの代わりに直接東儀先輩に訊いてもいい」 「支倉先輩……」 白ちゃんが、そっと体を俺に預けてくる。 「支倉先輩がいてくれて、良かったです」 俺は、細い白ちゃんの肩をそっと抱きながら、頭を撫で続けた。 「さて、どうしたもんかな」 「ふぁにが?」 ヨモギ饅頭を食べながら、瑛里華が寝ぼけた相づちを打つ。 「気づいてないんじゃないだろうな」 「ああ、あのことね」 口に残るヨモギ饅頭の餡と野草の風味を、紅茶で流す瑛里華。 その組み合わせにはいささか異議もあるが、個人の好みの範疇ということにしておく。 「……どうにかするつもりがあるの?」 「それを今考えてるんじゃないか」 と口には出してみたものの、積極的に動ける事態ではないのも確かだ。 しかし、支倉君を生徒会役員に引っ張り込むことで、こういった事態になろうとはね。 やってみなくちゃわからないものだ。 ま、わからないから楽しいんだけど。 「俺は応援したいな」 「めでたいことじゃないか」 「そうね」 「うちとのしきたりなんて、守ることはないわ」 「寂しいんじゃないか?」 「まさか」 「あの子には、好きに生きてほしいもの」 「何にしても、征一郎さんと白が仲違いして、東儀家がおかしくなっちゃうのは避けたいわね」 「おー、まともな意見だ」 「本気で考えて、本気で言ってるんだから当たり前でしょ」 まあ、そりゃそうだ。 うちだって、東儀家の客分として扱われてきたからこの島の特等席に居場所ができたわけで。 昔ほどではないとは言え、島内ヒエラルキーの頂点にいる東儀家は盤石である方が望ましい。 「まさかとは思うけど」 「白かわいさに征一郎さんがキレたりしないことを祈るわ」 「んー?」 「逆じゃないのかな。むしろ……」 征のやつ、失敗したなぁと思ってるんじゃないかね。 両親のこともあるし、スネに傷持ってるのは征の方だからなあ。 「むしろ、なに?」 「え? むしろなんて言ったかな」 「言 っ た わ」 「記憶にないなぁ」 「また何か隠してるんでしょっ!」 瑛里華の執拗な追求をかわして、さっさと監督生室を脱出。 空にはぽっかりと月が出ていた。 満月と半月の間くらいの月だ。 さて。 白ちゃんと支倉君はどうするのだろう。 若さ、で突っ走れるだろうか。 どこかで、俺はそれを期待しているのかもしれない。 終業式が終わった。 全校生徒が、籠から解き放たれた鳥のように散らばっていく。 部活に走る者あり、寮に帰る者あり、遊びに行く者あり。 そんな人の流れからはぐれ、本敷地へと続く階段を上る。 今日はまた格別暑い。 ここ数日、表面上は生徒会の仕事は順調だった。 9月の文化祭に向けて、全校のあちこちで活動が始まっている。 全体を見渡す俺たち生徒会役員も、今のところトラブルもなく上手くやっていた。 会長と東儀先輩は、その9月末で生徒会役員からは引退。 副会長と俺と白ちゃんには、信任投票がある。 人数が減るので、新人のスカウトも考えたりした方が良さそうだ。 ……などという話が「表面上」。 その下に流れる、俺と白ちゃんと東儀先輩の問題は、一歩たりとも進展していない。 「ちわーす」 「こんにちは」 副会長も、こちらに軽く手を振ってみせる。 「さて、通知票を見せてくれ」 「いきなりですね」 「俺や征が抜けた後の生徒会を支える人材なんだよ。君は」 「その自覚があるかどうかを見る」 「自覚があっても能力とか努力とか」 「能力を発揮するのも、努力するのも、まず最初に自覚ありきさ」 しぶしぶ通知票を渡す。 会長や副会長のような(文字通り)バケモノと張り合えるような成績ではない。 「うん、これくらいなら上等じゃないか」 「あれ?」 「そんなに良くないですよね」 「いやいや。それでもこれだけ取れてれば十分……とは言わないが」 「最低限のハードルはクリアしてるよ」 「そうですか」 胸をなで下ろす。 案外ハードルは低かったようだ。 「ま、物足りないけどね」 「上等って言ってたじゃないですか」 「いやいやいや、そういう意味じゃなくてね」 「支倉君の、生徒会役員としての“ウリ”がほしいなと思ってね」 「今だと、君には何か突出したセールスポイントが無いだろう?」 「ええまあ」 そんなものが必要なのかどうか、という反論は面倒なのでしないでおく。 「なんでもいいんだよ」 「学食の超特盛りマウンテンカレーを3分で完食するとか」 「指先ひとつで相手をダウンさせられるとか」 「ジョン・ケージの『4分33秒』を演奏できるとか」 「楽器の前で何もしないだけで、セールスポイントになるんですか?」 「てか、前の二つは無理です」 「早食いは尾行に役立つよ」 「論点がずれてます」 「じゃあ全教科で通知票が『1』とか」 「進級するなと言うんですか」 いつも通りの監督生室だ。 いつもと違うのは、5人の役員が揃っていないこと。 「学院ナンバーワンの掃除好きとか、本職のパティシエも逃げ出すお菓子職人とか」 「身近にそういう人がいたらいいな、とは思うが」 「洋菓子もいいですが、和菓子もいいですよ」 「俺が生徒会の便利屋というポジションを得つつあることがわかった」 「そ、そんなことは」 「それも一つの道かも」 「よし、それで行こう!」 皮肉の通じない人たちである。 今日は、白ちゃんがいる代わりに、東儀先輩がいない。 昨日は逆だった。 仲の良かった頃の二人を思い出すと、仲直りしてほしいと思う。 しかし、その原因が俺にもあると思うと、いたたまれない気分だ。 心なしか、白ちゃんも元気が無いように思える。 もしかしたら、会長がことさらに絡んでくるのも、一つ空いた椅子の存在をかき消すためかもしれない。 「じゃ、頑張ってね」 会長が帰り、副会長と二人きりになる。 どうやら、次代を担う二人に仕事が集中するような仕組みになっているようだ。 門限ギリギリになりそうなので、白ちゃんは先に帰している。 「そっちはどう?」 「もうそろそろ終わりそう」 「そっちは?」 「よしっ」 「今、終わったわ」 会話が途切れ、部屋の中が静かになった。 俺が書類をめくる音が、やたらと大きく聞こえる。 「なあ副会長、聞いていいか?」 「なに?」 「白ちゃんと東儀先輩のことなんだけど」 「うん」 「なんとか、仲直りできる方法はないのかな」 「元凶自身が何言ってんの!」と笑われるかな、と思って話しかけた。 「そうね……」 しかし、副会長は真面目に考えてくれている。 「私も聞きたいことがあったんだけど、いい?」 「ああ」 「白とは、もう正式に付き合ってるの?」 「そう言っていいと思う」 「白ちゃんが東儀先輩に報告したそうだし」 「なるほどね」 「白ちゃんは……いろいろ辛そうだ」 「この前は、お祭りのことも心配してたし」 「それは……そうでしょうね」 「あの二人が仲直りする簡単な方法もあるけど、それは嫌なんでしょ」 「ま、まあ、そういうことになるか」 俺と白ちゃんが別れればいいってことだろう。 「となると、難しそうね」 「狭い道だわ」 「それは、わかっているつもりだ」 「あ」 「そういえば……」 「ん?」 「兄さんが言ってたことがあるの」 「白かわいさに征一郎さんがキレたりしないことを祈るわ」 「んー?」 「逆じゃないのかな。むしろ……」 「むしろ……」 「征一郎さんは、ヘコんでるんじゃないかしら」 「えええ!?」 「激怒してるってならともかく、ヘコんでる?」 「そう」 「あの二人、白が一方的にブラコンだったと思う?」 「いや……」 「東儀先輩も、けっこうなシスコンだったんじゃないかな」 「そうよね」 「互いに、互いの存在を支えにしてきたような面があると思うの」 「だとしたら……」 「東儀先輩も、辛いってことか」 「ま、推測だけどね」 「いや、それでも、暗闇に一筋だけ光がさしてきた……かも」 「ありがとな、副会長」 「あらあら。茶葉なんて買ってきてくれなくていいのよ」 要求された。 「お安い御用だ」 「あと、もちろんお茶菓子も買ってこなくていいからね」 「……わかった」 黙って仕事にとりかかる。 ……東儀先輩も、辛いんじゃないかという話。 二人が互いに苦しんでいるなら、何か、いい解決方法があるかもしれないな。 前向きに考えていこう。 夏休みに入ると、帰省する生徒などがいるため、寮の人口密度が減った。 当然、大浴場も空いている。 部屋のシャワーで済ませる奴が多いのか、貸し切りになることも珍しくない。 俺と司は、優雅にも朝風呂を楽しんでいた。 「休みの方が早く目が覚めるな」 「授業がある方が寝てるのにな。不思議だ」 「帰省しねえの?」 「ああ。交通費もバカにならないし」 「海外だったな」 「そっちは?」 「こっちも交通費がバカにならないのは一緒だ」 「せいぜい、バイトに精を出すさ」 「じゃあこっちは文化祭だ」 「青春だな」 「東儀とは上手くいってんのか」 「なんだ急に」 「青春つながりだ」 「まあ、ぼちぼちな」 「経験上、そういう奴からは幸せオーラが出てるもんだが」 「出てるだろ。ほれほれ」 「や、出てねえな」 「そもそも、オーラなんて見えるのか」 「見えない。感じるものだ」 「出ないように抑えてんだよ」 「ふーん」 司が、俺の目をのぞきこむ。 「ならいいが」 「……すまん嘘だ。いろいろトラブってる」 「仲直りは?」 「本人とじゃない。周囲だ」 「三角関係とかか」 俺と東儀先輩で、白ちゃんを取り合ってる図が頭に浮かぶ。 「……当たらずとも遠からず」 「ま、上手くやってくれ」 「相談には乗る」 「助かるよ」 「そうだ」 「寮長が最近お茶会が少ないって怒ってたぞ」 「わかった」 冷えたペットボトルを飲みながら、まぶしい室外に目をやる。 「そろそろバイト行くわ」 「んじゃ、俺もどっか行くかな」 「監督生室?」 「そっちは昼過ぎからなんで」 「適当にその辺をぶらぶらする」 「わかった。じゃな」 「おう」 司と別れる。 司の勘の鋭さは侮れない。 が、マイペースで立ち位置がずれない司の存在は、ありがたくもあった。 俺もその点は見習わないと。 ──夏休みに入ってから、白ちゃんは一度家に帰った。 その後、寮に戻ってきたり家に帰ったりと忙しそうだ。 まだ、一度も二人きりで会えていない。 こんなに近くにいるのに、その距離がもどかしい。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 急いで携帯を開く。 白ちゃんが俺に謝っていた。 『今日も、家の蔵の片づけをしています。三日目ですが、なかなか終わりません』 『早く終わらせて、生徒会の仕事をお手伝いしたいのですが……』 『ごめんなさい』 俺も返事を打つ。 『仕方ないさ。頑張れ』 『さっき寮の風呂に入ったら、司と二人で貸し切りだった』 『司は休みの日の方が早起きなんだとさ』 互いに、日常の些細な出来事をメールする。 直接会って話をしたいという想いが募る。 白ちゃんもそうだろうか。 きっとそうだと思いたい。 しかし、今それを溢れさせるのは無意味だ。 互いにその想いを抑えて、日常のやりとりを続けていた。 監督生室での仕事が始まるまでには時間がある。 俺は、ほとんど来たことがない図書館に足を運んでみた。 図書館の主のような司書さんが一人。 あとは、がらんとしていて誰もいなかった。 司書さんに、珠津島の歴史に関する本の位置を尋ねる。 教えられた棚に行ってみると、珠津島史のような本が何冊か並んでいた。 適当に何冊か抜いて、机まで運び、一冊ずつ眺めてみる。 一番活字が小さい『珠津島郷土史』という本が、歴史について詳しかった。 戦後すぐに、潮見大学の助教授が調査したものらしい。 当時はまだ様々なタブーが残っていたようで、資料にあたったり聞き取り調査をするのは大変だったそうだ。 目次を見る。 本は、珠津島が海賊の根城だった時期のことから書かれていた。 江戸末期には外国船への砲台、二次大戦時には海軍の基地があったことなど、通史が書いてある。 第二章から、詳しい郷土史となった。 あちこちに「東儀」の文字が出てくる。 旧珠津川の流れを変えて、今の海岸通りの方に流して上水としたこと。 さらに分岐させて農業に使えるようにしたのが「東儀上水」。 このあたりからは、東儀家が江戸時代から庄屋として島を事実上掌握していたことが窺える。 『東儀家が音頭を取らなかったら、これほどの大土木事業は成し遂げられなかっただろう。』 その章は、このように結ばれていた。 そしてもう一箇所、「東儀」という文字が増えるのは、珠津島神社についての項目だ。 ──珠津島神社。 祭神は珠津比売(タマツヒメ)。 元は島の土着神であったが、依代であった巫女が神格化され人格神となった。 神紋は桔梗。 珠津島神社では、明治まで東儀家が代々祭司を務めてきた。 祭神の性格もあって、代々の当主の娘を斎(いつき)として神に仕えさせた東儀家。 そのため東儀家では、女性の方が神に近いと考えられ地位が高い。 東儀家の家紋も桔梗。 明治の太政官布告により神職の世襲が廃止されたことで、東儀家はその地位を失った。 以後は、島の外から派遣された人間が神職を務めるようになる。 大戦終了後は世襲が再び認められ、終戦直前に神職を担当していた家が社家となっている。 しかしこの社家はお飾りで、島民にとってはいまだに東儀家が神職の家柄。 大部分の祭事は今の社家が執り行っているが、古くから伝わる祭事は東儀家の行事として残っている。 特に、秋季例大祭で行われる独特の舞は、神を招くものであり古い信仰形態を残している。 ……なるほど。 これが、みんなが言ってた「お祭り」のことだろう。 ここで白ちゃんが舞うということは、俺が思っている以上に、重要な意味を持っているようだ。 そんな白ちゃんと、島の外から来た馬の骨の俺が付き合ってはまずいのではないか。 それとも、古くて閉鎖的な慣習から俺が白ちゃんを外の世界に連れ出すべきなのか。 いろいろ考える。 ぼーんぼーん…… 柱にかかった、古そうな時計が音を立てた。 腕時計で確かめると、正確に時を刻み続けているようだ。 ……そろそろ、メシでも食ってから監督生室に行くか。 俺は本を棚に戻し、司書さんに会釈をして図書館を出た。 支倉か。 こんなところに来ていようとはな。 ……。 支倉が読んでいた本は……これか。 『珠津島郷土史』 なるほどな。 いい線だ。 彼は、彼なりに頑張っているということだ。 それ自体は、評価に値する。 さて。 今年の舞はどうしたものだろうか。 このままだと、白は舞わないかもしれない。 しかし……白に無理矢理押しつけても、反発をするに違いないのだ。 そもそも、押しつけられてやるようなことでもない。 義務感でやるものでもない。 長年積み重ねられてきた歴史に敬意を払い、 その歴史を守ってきた先人の思いに敬意を払って初めて舞えるのだ。 無論、最初はそのようなことはわからずとも良い。 次第に、感じ入り、染み入るものだと思っていた。 しかし。 白はまだそこまで思いが至っていないにもかかわらず、歴史を絶ち切ろうとしている。 白を導くことができなかった俺に問題があるのかもしれないが……。 ともあれ、今年の秋季例大祭をどうするか。 それが問題だ。 時間が解決する問題と、時間では解決できない問題がある。 白か、支倉か、または白に代わる誰かが、その問題の重要性に気づいたときに…… 既に守るべきものは絶えていました、という状況ではどうしようもないのだ。 白は、少し内向的な部分を除けば、健やかに育ったと思う。 間違った育て方はしていないと思う。 俺も、父の育て方を見てきたのだから。 父は、厳しい人であった。 学業やスポーツでどんなにいい成績をあげても、褒められたことは一度も無かった。 繰り返し聞かされた言葉。 「東儀家の当主たるもの、自らを犠牲にしても家族と一族を守れ」 学業やスポーツや社会的地位も、結局は一族を守るための手段に過ぎないということだろう。 ──父がいなくなり、褒められることも叱られることもなくなった。 それで楽になったかというと、そんなことはまったくなかった。 いろいろと頑張ってきたが、結局、父に導かれてここまで来たのだと思う。 父は大きな目標であり、東儀家当主としての見本なのだ。 そして、今は俺が東儀家の当主である。 東儀一族、家族を守ることが俺の使命だ。 父や母を含め、たくさんの祖先がしきたりに殉じてきた。 自分だけが逃れるわけにはいかない。 俺があっさり逃げ出してしまったら、しきたりに命を懸けてきた祖先の気持ちはどうなってしまうのだ。 ──できることなら、白を自由にさせてやりたいという気持ちもある。 しかし、東儀家の人間には、東儀家の人間がやるべきことがある。 白と、なんとかして関係を改善しなければ。 せっかくの夏休みだというのに、白ちゃんと会えない日が続いている。 7月は終わってしまった。 俺に用事が入ったり、白ちゃんに用事が入ったり。 今日は久しぶりにお茶会をすることになっていた。 しかし、やはり白ちゃんは来ることができないそうだ。 ……白ちゃんに会いたいという気持ちが、自分でも驚くほど募っている。 会えない日々が、寂しい。 俺、こんなに白ちゃんのこと…… 「こーへー、来たよーっ」 ベランダから響くこの声は…… 「おひさーっ」 「こんばんはー」 悠木姉妹の登場だ。 「そのハシゴ使うのも、久しぶりですね」 「それというのもお茶会が少ないからです、ぶーぶー」 「孝平くんだって、忙しいんだから、仕方ないでしょ」 「忙中閑ありっていうでしょ」 「こーいうのはね、忙しいからこそやるものなの」 「忙しいときの方が、気分転換にもなるしね」 「なるほど」 「おう、来たぞ」 玄関からは司が。 今日の面子はこれでそろった。 「本日のお茶ですが、アイス緑茶・オ・レにチャレンジします」 「へえ」 「涼しげだな」 梅雨も明け、今が一年で一番暑い時期だ。 最高気温も、連日体温といい勝負をしている。 「でも、寮も人が減ったよね」 「うちみたいに実家が近いと、帰ろうって気にはならないかな」 「そーだねー」 「遠すぎても同じだ」 「うわ、シンクロ」 「今、きれいにハモったよね」 「ハモったハモった〜♪」 「俺と司がハモって、なにがそんなに楽しいんですかっ」 「んー……」 「シンクロといえば、男子シンクロナイズドスイミングって無いよね」 「話それすぎです!」 「すね毛は見たくないだろ」 「剃ればいいんじゃないかな?」 「あとは、スプレーとか……最近は除毛の技術もいろいろと」 「そっちの話を膨らますなっ」 「それに、なんかそういう映画があったし、一時期はやってました。男子シンクロ」 「男子シンクロはいいよもぅ」 「話を始めたのはかなでさんじゃないですか!」 他愛もない会話。 白ちゃんのことについては、誰も触れない。 きっと、皆がなんとなく気を遣ってくれてるんだろう。 そんなちょっとしたことが嬉しかった。 お茶会が終わり、一人になったところで、ベランダに出てみた。 白ちゃんとメールのやりとりをする。 お互いの予定を確認し合うと……次に合えそうなのは、明明後日だ。 『では4日にお会いしましょう』 『楽しみにしています』 そんな、白ちゃんのメールが嬉しくて、顔がにやけるのを止められない。 3日後が、今から楽しみで仕方がない。 会えたら何をしよう。 いや会えるだけで、とても嬉しい。 例えば差し向かいでお茶でも飲みながら、話をするだけでも。 あ。『さゝき』に行って、お茶菓子を買っておこうかな。 でも白ちゃんはきっと買ってくるだろうから、被ってもなぁ。 うーん。 ……こんな風に悩むのも、また楽しかった。 夕方頃。 やっと白ちゃんからメールが来た。 自分でも恥ずかしくなるくらい、今日は一日いろんなことが手につかなかった。 少しの時間があると、メールが来てないか携帯を確認。 少し経ってまた確認。 こんなに一通のメールを待ったのは、初めてだ。 メールは…… 『ごめんなさい、用事が長引いて、少し遅れます』 俺は、ベッドに倒れ込み、ごろごろと転がった。 次にメールが来たのは、夜の8時過ぎだった。 『お待たせしました。やっと用事が終わりました』 『これから、わたしの部屋でお茶でもいかがですか?』 白ちゃんの部屋……。 白ちゃんが俺の部屋に来たことは何度もあったけど、白ちゃんの部屋に行くのは初めてだ。 とりあえず、オッケーの返事を出す。 部屋を出がけに、ちょっと鏡なんか見たりしつつ。 昨日『さゝき』で買ったきんつばをお土産に持ち、廊下に出る。 白鳳寮は、1〜2階が男子フロア、3〜4階が女子フロアだ。 その間にはオートロックの扉があり、女子フロアから男子フロアへは自由に行けるが、逆は無理。 例外は、女子側からの手助けがある場合だけだ。 その扉を通っている時、そしてその後女子フロアにいる時、誰かに見つかるのは避けたい。 特に女子フロアに男子がいるのがシスター天池に見つかると、フライパンでマジ殴りという話だ。 それとは別に、やっぱり単純に少し気恥ずかしい。 そんなわけで、やや挙動不審になりながら上階を目指す。 すると……ちょうど白ちゃんが、扉からにょっと顔を出した。 「白ちゃん」 「さ、どうぞ」 久しぶりに会う白ちゃん。 鼓動が少し速まってるのは、女子フロアへ潜入することへの緊張だろうか。 「俺、女子フロア行くの初めてだ」 「ちょっとドキドキしてきた」 「ふふ、男子フロアとそんなに変わりませんよ」 白ちゃんに続いて、階段を上る。 目の前で、白ちゃんの黒いスカートがふわふわ揺れる。 ……いよいよ、禁断の女子フロアだ。 3階を通り過ぎて4階へ。 白ちゃんが、さっきと同じように扉から頭だけ出して、廊下を確認する。 「支倉先輩、大丈夫です」 「おう」 女子フロアに足を踏み入れた。 「なんだ、本当に変わらないな」 「ふふ、そう言ったじゃありませんか」 構造も壁や床の色遣いも、まったく一緒だ。 勝手に期待が高まってたせいだが、やはりちょっと拍子抜けだ。 「でも、かなりラフな格好のまま、女子生徒が歩いてることはありますよ」 「見てみたい気もするけど……」 どれくらいラフなんだろ。 「俺が見つかる方が、リスクは大きいな」 「あ、そうですね」 そんな話をしながら、白ちゃんの後をついて歩く。 なんとなく、猫背気味に。 「……ここがわたしの部屋です」 部屋番号は4D−17。 きい…… 白ちゃんが扉を開く。 「どうぞ」 「おじゃまします」 白ちゃんの部屋だ。 この寮で初めて、女の子の部屋に入る。 「へえ、作りも一緒なんだな」 「同じ建物ですから」 ちょっと渋めで重厚な色の家具が、白ちゃんと少しアンバランスで面白い。 「あ、すぐお茶淹れますね」 「ああ」 慣れない部屋でいきなりくつろげるほど神経は太くない。 ちょっといい香りがするのは、なんだろう。 観葉植物がある。 ウサギのぬいぐるみがある。 ……あー、あまりきょろきょろしててもな。 少し落ち着こう。 するとすぐに、白ちゃんが緑茶を持ってきてくれた。 「部屋にも急須があるんだ」 「ええ。便利ですよ」 「そうそう。これ『さゝき』のきんつば」 手みやげを渡す。 「わあ、ありがとうございます!」 「ではさっそくお茶菓子としていただきましょうか」 「ああ、そうしよう」 「そうだ。座布団が無くて申し訳ありません」 「え? ああ、いいよいいよ」 「お茶会のおかげで、座布団やらクッションやらで溢れてる俺の部屋の方がおかしいんだし」 「ふふ、たくさんありますもんね」 ずずず お茶をすする。 きんつばがテーブルの上に置かれる。 「俺、この学院に入るまでの人生より、入ってからの4ヶ月で食べたきんつばの方が多いだろうな」 「間違いない」 「えっ、そ、そんなにですか?」 「そもそも、和菓子自体をあまり食べてなかったし」 「でも、食べてみるとおいしいな。お茶にも合うし」 「は、はい」 嬉しそうだ。 まるで自分が褒められたように、少し得意げに照れてるのがかわいい。 ずずず それから俺たちは、ここ何日間かの忙しさを自慢し合った。 征一郎さんが作った用事もあるかもしれないし、そうじゃない用事もあるだろう。 ……今日は、俺の部屋じゃなくて白ちゃんの部屋でお茶を飲んでいる。 せっかく作れた二人の時間に、邪魔が入らないようにしてるのだろうか。 ちょっと、穿ちすぎかもしれないけど。 二人の時間。 邪魔が入らなければ…… どうなるんだろう? 「女子フロアの部屋に、シスター天池が見回りで中に入ってくることはあるのか?」 「何か、不穏な噂があれば入ることもあるみたいですが……」 「普通はありませんよ」 「男子を見つけるとフライパンでマジ殴りって噂は、本当なのかな」 「わたしも、殴っている現場を見たことはありませんが……」 「フライパンはシスターの部屋の玄関にぶら下げられているのを見せていただいたことがあります」 「でも考えてみりゃ、女子フロアの守護聖人だもんな」 「武勇伝のひとつやふたつくらいあった方が、抑止力は高まりそうだ」 「抑止が効いて、フライパンがずっと使われなければいいですね」 「『抜かずの刀』だな」 殴らず、料理もしないなら「いためずのフライパン」だな、という名前も思いついた。 けど言うのはやめた。 「なぜですか?」とか聞かれて「痛めず」と「炒めず」で……なんて解説をする羽目になったら恥ずかしすぎる。 「あ」 「ん?」 「殴らないで、料理もしないなら『いためずのフライパン』ですね!」 「……」 プルプル震える俺。 「……えっ? えっ? どうかしましたか?」 ツボにはまってしまった。 「くっ、あははははっ、白ちゃん面白すぎ」 「そ、そんなに面白くは……」 「もう、白ちゃんはかわいいなぁ!」 頭を撫でつつ、ぎゅっと抱きしめる。 「あっ……」 「俺も、同じこと考えてたんだよ」 「でも言わなかった」 「なんでですか?」 「白ちゃんも、きっと同じことを考えてるに違いないと思ったから」 真っ赤な嘘だ。 「う、嘘です……それなら笑わないですよう」 「ふ……あはははは」 「もう、なんでそんなに笑うんですかー」 「よしよし、白ちゃんはかわいいかわいい」 なでなで 「そうやってまたごまかそうとして……」 もう一度、白ちゃんの華奢な体を抱きしめる。 白ちゃんの顔が、ちょうど俺の心臓のあたりに埋まる。 「むー」 俺の鼓動を聞くように、しばらく胸に納まっている。 「はう……」 最初は少し抵抗していた白ちゃん。 しばらくすると、全身の力が抜けて行った。 背中を撫でる。 「ん……」 そのまま、何度も何度も背骨に沿って撫でる。 「んん……、んっ……」 時々ぴくっとする以外は、俺に撫でられるままになっている。 ……白ちゃんが気持ちよさそうにしているので、しばらく続けたあと。 白ちゃんの両肩をつかんで、10センチくらい距離を取った。 正面から瞳を見つめる。 自然に、白ちゃんがそっと目を閉じた。 ゆっくりと白ちゃんを引き寄せる。 「んっ……」 白ちゃんと唇を重ねる。 こんこん 「!」 誰かがこの部屋の扉をノックした。 音を立てないようにあたふたしている白ちゃん。 俺は…… とにかく立ち上がり、白ちゃんの肩を叩いて正気づかせ、とるものもとりあえず風呂場に駆け込んだ。 扉を閉めると、真っ暗になってしまう風呂。 なんだろう、この罪悪感というか……まるで見つかった間男のような恥ずかしさというか。 自分がそんな立場になるなんて思ってもみなかったから、妙な気分だ。 漫画かドラマでのように、自分の状況が客観的に見えて少しおかしい。 耳を澄ます。 「は、はーい」 ……多分今、ドアスコープを覗いている。 がちゃ 扉を開けた。 「こんばんは」 「遅くにごめんなさい」 ……誰だ? 耳を澄ます。 「明日のローレル・リングの活動についてだけど」 シスター天池か! 「午前中に急な職員会議が入ったので、午後からということに……」 ふう 力が抜ける。 ……それにしても危ないところだった。 見つかってたら、他ならぬ俺が「シスター天池のフライパン武勇伝」の最新作を飾るところだった。 「あら、このサンダルは大きいですね」 !!! やばいっ! 靴を隠すのを忘れてたっ!! そういや、ドラマでも漫画でも間男が逃げるときは靴を持って逃げるか靴がトラブルの元になるか…… って分析してる場合かっ! どっどどどどどうする?? あわあわあわあわあわあわ 「こっ、これは、兄さまのサンダルです!」 「えと、楽なので、少し借りっぱなしにしていました」 白ちゃんナイスフォローっ! グッジョブ!! あとは、シスターが信じてくれれば…… 「あら、確かに楽そうね」 「じゃあまた明日。おやすみなさい」 「おやすみなさいませ」 ……。 ばたむ ……戻ってこないとも限らない。 もう少しだけ、ここで待つ。 ……。 「支倉先輩」 「もう、大丈夫そうです」 「……よかった……」 「そ、そうですね……」 「寿命が間違いなく3ヶ月ほど縮まった」 「わたしもです……」 「サンダルが見つかったときはどうしようかと」 「あれはナイスフォローだった」 「俺が風呂に隠れるとき、靴も一緒に持って行くべきだったんだよな」 「いきなりそこまで気は回りませんよね」 「……もし次があったら、この経験は生かそう」 「あまり生かしたくないです……」 「そうだな……」 テーブルの上に、湯飲みが二つ乗っている。 これは……見られなかったかな? 俺は、残ったお茶を一気にあおった。 「じゃ、今日はこれで帰るよ」 「あ、はい」 「お忘れ物はありませんか?」 「それより、廊下にシスターとか誰かがいないか、見てくれると助かる」 「そ、そうですね」 俺は、白ちゃんに先導されるような格好で、廊下を歩き、階段を降りた。 「じゃ、白ちゃんここで」 「はい」 「……おやすみなさい」 「おやすみ」 白ちゃんの頭を撫でる。 本当は、キスのひとつでもしようかと思ったけど…… 撫でて終わりにした。 女子フロアか…… 男子の間では、禁断の園みたいに言われてるけど、実際には緊張の連続だった。 あ、女装とかしたらどうだろう? スカートはいて、長い髪のカツラつけて。 ……なに考えてんだ、俺。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 「お」 白ちゃんからのメールだ。 From>東儀白 Sub>さっきはびっくりしました 『今度はいつ会えますか?』 『今日はちょっと、不完全燃焼というか、なんというか……だったので』 激しく同感だ。 すぐにスケジュールを確認する。 明日、明後日と昼は埋まっているけど、夜なら大丈夫だ。 その旨を返信する。 ……。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ From>東儀白 Sub>わかりました 『それでは、明後日の夜、8時頃でいかがでしょうか』 『あと、今度は、支倉先輩の部屋がいいと思います』 こちらも激しく同感。 了解、っと。 送信。 不完全燃焼。俺の部屋で二人。 ……とりあえず、掃除でもしとくか。 この夜は、ずっと部屋の掃除をして更けていった。 遅れていた、文化祭テーマの第一次選考が終了した。 ファンキーな案が多すぎて、読んでるだけで疲れる仕事だった。 「ふあー、今日は疲れたわねー」 「けっこう集まるんだな」 一枚の紙に何案も書いてあったりもした。 「いいことじゃない。盛り上がってるってことよ」 「しかしもっとこう、魂に響く案はないものかな」 「自分で提案すればいいじゃない」 「提案? したよ」 「え、じゃあ俺が読んだ案の中にあったんですか?」 「ああ。何十個も考えたからね」 「真面目に考えたの?」 「一次選考はくぐり抜けましたか」 「ああ。いくつかは残った」 「どれが会長の案でも公平に選ぶだけです」 「そうそう、その調子で頑張ってね」 「俺の案など消し飛ぶくらいのテーマが出てくるのが一番だよ」 「さて……じゃ、今日は上がりましょ」 「そうだな」 「じゃ、戸締まりします」 それから三人で早めの晩飯を食って、寮に帰り、そこで別れた。 食堂で食事をしてるあたりから、そわそわしていたらしい。 何度か、副会長に指摘された。 そして、部屋に帰ったあとは、さらにそわそわしている。 そうだ。 携帯の電源が切れないように、早めに充電しておこう。 電池マークが一目盛りも減ってないのに、念のため充電器にセット。 明らかに念の入れすぎだ。 あ、ベランダからの侵入者には要注意かもしれない。 鍵をかける。 そしてカーテンの合わせ目も重ねて、外から中が見えないようにする。 他にできることはなんだろう。 あ、そうそう。 風呂の排水溝の髪の毛を片づけておかないと。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ うおう! 携帯を充電器から外す。 From>東儀白 Sub>今からそちらに向かいます 本文は無かった。 白ちゃんも、気が急いているのかもしれない。 ま、俺ほどじゃないけどな。 おっけー、と返信する。 ……さて。 テレビでもつけて、いつも通りくつろいでた感じを出そう。 テレビの内容がさっぱり頭に入ってこない。 ……つか、白ちゃん遅いな。 時計を見る。 さっきから10分。 遅いってことはないか。 俺がそわそわしてるだけなんだよな。 あー、でもこれだけ時間があるならシャワーでも浴びとけば良かった。 汗臭くないかな。 ちょっとシャツの首元を引っ張って、くんくんと匂いを嗅いでみる。 よかった。大丈夫だ。 って言うかね、俺、ちょっとそわそわしすぎだ。 落ち着いてテレビを見よう。 深呼吸深呼吸、リラックスリラックス。 ちらっ、ちらっと何度も時計を見ている。 30秒ごとに時計を見ても、白ちゃんが来るわけじゃないのに。 ああもう。もう少し落ち着けよ俺。 ……決めた。 シャワーを浴びる。 その間に白ちゃんが来たら、それはそれで構わない。 部屋の鍵を開けとけば、入ってくるだろう。 全裸になり、風呂に入る。 頭から、半分お湯で半分水みたいな温度でシャワーをかぶる。 頭を冷やそう。 ん? 今ノックの音がしたような。 シャワーを止める。 ……。 …………。 気のせいだったかな。 もう一度、頭からシャワーを浴びる。 頭を冷やそう。 ノックの音が聞こえるなんて重症だ。 ん? 今携帯の着信音がしたような。 シャワーを止める。 ……。 …………。 また気のせいか! 相当だな。 ……あまり、頭は冷えてないような気がしてきた。 さて、服を着ようかな。 こんこん ん? 気のせいか…… こんこん 「支倉先輩、開けていいですか?」 気のせいじゃねえ! しかも鍵開いてるし! 俺は全裸か!! 「ちょっと待った!」 「えっと、ちょっとだけ待って!」 「あ、は、はい」 大慌てで服を着る。 全裸の時に火事とか地震が来たらこんな感じか? ……。 なんとか服を着終え、玄関の扉の外に呼びかける。 「あ、お待たせ。もう大丈夫」 「おじゃまします」 「あの、どうして、息が上がっているのですか……?」 「ん? そう?」 「?」 ちょっと強引気味にスルー。 「あの、遅れてすみませんでした」 「いや、全然待ってないよ」 待っている間にどんな気持ちでいたかなんて、とても言えない。 「今日は暑かったので、ちょっとシャワーを浴びていて……」 「あ、そうなんだ」 「俺もちょうど今シャワー浴びててさ」 「今日は暑かったしねえ」 「そうでしたねー」 ……二人ともシャワーを浴びてから集まったってことか。 「実は白ちゃんが今ノックしたとき、俺まだシャワー出たばっかりでさ」 「白ちゃんが扉をがばっと開けてたら、俺全裸だったんだ」 「あ、ご、ごめんなさい……」 「いやいや、謝らなくてもいいって」 「そう、今日は『さゝき』で古い作り方をしたきんつばを買ってきたんです」 「へえ……って、俺も何度か『さゝき』できんつば買ったけど、そんなのあったっけ」 「たまに作るんですよ」 「ついでに、お茶も淹れますね」 白ちゃんは、きんつばを置くといつものお茶会のように準備を始めた。 きんつばは…… 「へえ、丸いんだ」 「ええ、もとは刀の鍔を真似て作ったんだそうです」 「なるほど」 「あ、思い出した。初めて『さゝき』に行ったときにもあったよね」 「覚えててくれましたか」 嬉しそうに白ちゃんがテーブルにやってくる。 「確かその後、お茶会でみんなで食べたよね」 「とっておきのお茶も持ってきたんですよ」 「一緒にいただきましょう」 「おう」 豊かな時間が過ぎた。 「おいしかったなあ」 「そうですね」 「おいしい和菓子とおいしいお茶があるのは幸せです」 「良かった良かった」 「俺も、白ちゃんのおかげでおいしい思いができて良かった」 テーブルごしに、白ちゃんの頭を撫でる。 「よしよし」 「あ……」 嬉しそうな表情をする白ちゃん。 「あ、あの、支倉先輩」 「ん?」 「そっ、その、そちらへ行ってもいいでしょうか?」 「あ、おう、もちろんだとも」 白ちゃんが、テーブルのこちら側に来る。 俺の隣に座って、ちょっとだけ、俺にもたれてきた。 「重く……ないですか」 「あのなあ、俺だって男だぞ」 「白ちゃんくらいだったら、どーんともたれてきたって大丈夫」 わざとらしく、大きめのジェスチャーをしてみたりして。 「で、では……お言葉に甘えて」 体重を預けて、もたれかかってくる白ちゃん。 俺は、白ちゃん側の手を回して反対側の肩を抱き寄せた。 「あ……」 白ちゃんの肩はあいかわらず華奢だ。 ちょっと力を入れて抱き寄せたら、壊れてしまいそうなくらいだ。 白ちゃんが首を捻って上を向く。 至近距離で目が合う。 「……ふふっ」 「あ、笑うかなここで」 「だって、この前もこんなタイミングで……」 白ちゃんの部屋に、シスター天池が訪れてきたんだった。 「鍵は閉めた」 「誰か来ても、もう寝たふりをして出ないことにする」 「……で、どう?」 「それなら、安心ですね」 「じゃあ、仕切り直し」 「……って、気合い入れるのもなんか変かな」 ちょっといい感じだったムードが、霧散してしまった。 「いえ」 「っ!」 白ちゃんが、俺にキスをした。 「いいと思います。のんびりで」 「少し……こうしてていいですか?」 「あ、ああ」 俺にもたれた白ちゃんが、目をつむる。 ……。 白ちゃんの体温を感じる。 心臓の鼓動までが伝わってきそうだ。 「……くぅ」 「?」 「……すう……くぅ……すう……」 「白ちゃん?」 そっと呼びかける。 こてん、と頭が俺の二の腕に乗る。 寝てしまったのか。 よっぽど疲れてたのかな。 疲れるような日々が続いてたんだろうな。 俺は、そっと白ちゃんを抱えた。 背中……肩胛骨の下あたりと、膝の下に手を通し、立ち上がる。 ふわっ 白ちゃんは想像してたよりもさらに軽かった。 まるで羽を持ち上げているようだ。 俺のベッドまで運ぶ。 ……白ちゃん。 こんなに軽いのに……きっと、いろいろ背負ってるんだな。 一人で支え切れてるうちはいいけど…… 俺が、支えになってあげられれば。 いや、そうなりたい。 そう思いながら、そっと白ちゃんをベッドに横たえた。 「っ!?」 「白ちゃん?」 目をぱちくりさせて、頭の上にクエスチョンマークを浮かべる白ちゃん。 「どした?」 「あっ、は、支倉先輩……」 「べ、ベッドに……行きませんか?」 ? 「白ちゃん、ベッドにいるんだけど」 「えっ」 「あ……ほ、本当ですね……」 真っ赤になる。 「あの、もしかしてわたし、寝てましたか?」 「ああ。抱きかかえてベッドまで運んだ」 「すみません……」 「ま、気にするな」 「……でも今の『ベッドに行きませんか?』ってのは気になる」 「あ、そ、それは……」 「それは?」 「寝ぼけていたので……」 言いにくそうな白ちゃんを促す。 「あの、自分の部屋で練習したんです」 「なにを?」 「支倉先輩に、ちゃんと言えるようにって」 ものすごく縮こまって、白ちゃんは告白した。 「おりゃ」 「きゃっ」 白ちゃんをぎゅっと抱きしめる。 「白ちゃん、かわいいな」 「もう、力一杯かわいい」 「むぎゅ」 「あ、ごめん」 そっと、白ちゃんを離す。 白ウサギを抱いているときに似ているかもしれない。 小さくて、力を入れちゃ駄目で。 ……それでも、俺は抱きしめた。 「あ……」 「白ちゃん」 「は、支倉先輩……」 こくり、と白ちゃんがうなずいた。 「あの、わたし……」 「どうした?」 「ええと……」 「服は、自分で……?」 「いや、俺が脱がしてあげるよ」 俺のベッドの上で、女の子座りをしている白ちゃん。 俺は、その後ろから近づく。 「白ちゃん」 「はい……」 もう一度、白ちゃんとキスをしたかった。 白ちゃんの顔をこちらに向ける。 小さいけど、ぷるっと弾力のある白ちゃんの唇。 「ん……ちゅ……」 お互い動かずに、相手の唇の感触を確かめ合う。 頬にあたる鼻息が、少しくすぐったい。 少し、唇が重なる角度をずらす。 二人の唇が、90度近い角度で交わる。 「んふう……んちゅ……」 唇の間から舌を伸ばし、白ちゃんの唇を舐めるようにつつく。 すると、白ちゃんの唇の間からも舌が出てきた。 二人の舌の先端が、牽制するようにつっつき合う。 ぷるんとした感触の唇と比べて、舌はねっとりと絡む。 濡れていたし、なにより熱かった。 「んんっ」 「んむっ……んふう……むちゅっ……」 徐々に、互いの舌は絡み合い、相手の口に侵入した。 白ちゃんは舌も小さい。 小さいというより、薄くて細い。 その舌が必死に俺の舌の動きに答えようとしているのが、いじらしい。 かわいい。 「ぁ……ん……んっ……ぷは」 口を離す。 白ちゃんは、自分の舌の動きを恥じるように顔を伏せた。 「大丈夫」 なにが大丈夫だかよくわからない。 それでも、白ちゃんを安心させたくてたまらなかった。 「は、はい」 白ちゃんも、精一杯の決意を込めた返事で答えてくれた。 背中を撫でる。 一瞬、くすぐったいのか慣れてないからか、ぴくっと白ちゃんが震える。 でも、ゆっくりと優しく撫でているうちに、力が抜けてきた。 「は……あ……うぅ……」 するっ 白ちゃんの胸のリボンを解く。 大きく開いた首周りを肩まで広げる。 きめの細かい、つややかな肌が目にまぶしい。 俺はその肩に唇をつけた。 「はあっ……くぅ……」 白ちゃんが敏感に反応を返す。 今まで服に包まれていた肩は、温かかった。 ……この服、どうやって脱がせればいいのかな。 広がった首周りをもっと広げて、下に降ろす? それとも、下からまくり上げて、頭から抜く? う……どっちだろ。 白ちゃんの肩に唇を這わせながら、そんなことで悩んでいると…… ブラジャーのストラップが、なで肩を滑った。 「あ……」 白ちゃんが一瞬それを恥ずかしがり、戻そうと手を伸ばす。 でも、俺は手を握って、そのままにさせた。 「白ちゃん」 「は、はい」 聞くは一時の恥、だよな。 「あのさ……」 「この服って、どうすればいいのかな」 「……あ」 すぐに言いたいことを察してくれたようで、助かる。 「えと、まずは袖を抜いて……」 「うん」 「そして、ええと……」 「うん」 「あ、あの、わたし、自分で脱ぎますね」 あ、その方が楽か。 ……っていうか、解説してて恥ずかしくなってきたのかもしれない。 俺は、白ちゃんが服を脱ぐのを、じっと見ていた。 「その、あまり、見られると……」 「あ、ごめん」 その間に、俺も服を脱いでおいた方がいいのか? 白ちゃんだけ脱がせるのも不公平だよな。 よくわからないながら、俺も服を脱ぐことにした。 しゅるっ 衣擦れの音が聞こえる。 俺も、手早く服を脱いで、トランクス一枚になった。 「あ……ちょっと、恥ずかしいですね……」 「いや、かわいい」 ぺたん、と服を脱いだ白ちゃんがさっきまでと同じ格好で座る。 ついさっきまでと比べると、白ちゃんの肌が見える面積が全然違う。 白ちゃんは華奢で軽くて細いってイメージしか無かったけど…… お尻のあたりは、少し女の子らしい丸みがあったり。 パンツは、ブラと同じ薄いピンク色。 シンプルで、柄もレースも無い。 「あの……」 「わたし、あまりスタイルがよくないので……恥ずかしいです」 「いや、そんなことないよ」 「で、では、せめて電気を」 「白ちゃんがかわいいから、もっともっと見ていたいんだ」 「うぅ……」 本当に恥ずかしいらしく、目を閉じてうつむいている。 腰は細い。 腰から背中のラインに少し見とれてしまう。 ……初めて見る白ちゃんの背中に、ちょっとくらっと来た。 キレイだ。 思わず、直に触れた。 「きゃっ……」 手の指先に残る感覚。 白ちゃんの肌の感覚。 あ、やばい。 なんか……自分を止められなくなりそうな……。 俺は、白ちゃんのブラに手を伸ばした。 ホックが背中の真ん中にある。 構造はよく知らなかったけど、見ればわかった。 「あ……」 「外すよ」 「……は、はい」 ホックを外す。 肩から滑り落ちていたストラップから腕を抜くと、白ちゃんの胸が露わになった。 小ぶりの胸。 でも、一瞬目に入った胸は、白ちゃんが両腕で隠してしまった。 もったいない、と思う。 「ごめんなさい」 「胸は……ほんとうに小さくて……」 「そう?」 「体育の授業の時などに、クラスの皆さんと比べても……」 「気にしないでいいさ」 「俺は、それくらいのも、いいと思うよ」 「そうですか?」 「ああ、そうだ」 「例えどんなにスタイルのいい人がいても、俺は白ちゃんがいいんだ」 「支倉先輩……」 ちょっとキザだったかもしれないけど、俺の本心だった。 だから、頑張って白ちゃんに伝える。 「白ちゃん、好きだ」 耳元でささやく。 一番伝えたい言葉。 何度でも伝えたい言葉。 「わたしもです、支倉先輩」 「好きです」 「大好き……です」 「うん」 もう一度、軽くキス。 白ちゃんの体を覆っていた布は、もうほとんど残っていない。 俺は、その最後の一枚に手をかけた。 「ん……」 よく見ると、白ちゃんの背中にはうっすらと汗がにじんでいる。 部屋には、軽くエアコンがかかっている。 暑いってことはないと思う。 緊張……してるんだろうな。 ふと自分の手を見ると、俺の手のひらも汗をかいていた。 一緒だ。 二人とも緊張してるんだ。 「脱がすよ」 「はい」 白ちゃんは、腰を少し持ち上げてくれた。 パンツの両端に指をかけ、ゆっくりと引き下ろす。 お尻の割れ目が見える。 太腿から膝を通し、右足を先に、最後に左足を抜く。 白ちゃんが、一糸まとわぬ姿になった。 「あっ、あのっ」 「ん?」 「恥ずかしいです……」 「うぅ……」 「うん」 よしよし、とまた頭を撫でる。 「白ちゃん、とてもかわいいし……きれいだ」 「男の人の前で、こんな……」 「は、裸に、なるなんて」 「はしたないと思います……」 白ちゃんがどんどん小さくなっていく。 顔だけじゃなくて、耳や、首すじまで赤くなっていた。 「白ちゃんだけじゃないよ」 「俺だって恥ずかしい」 「でも、恋人同士ならそれを乗り越えられる」 「特別な相手だからね」 「わたしは……」 「わたしは、支倉先輩にとって、特別な相手ですか?」 「ああ。もちろん」 「白ちゃんの全部を知りたいし……」 「全部を見たい。全部に触れたい」 「わかりました」 「……あ、ありがとうございます」 「支倉先輩にそう言ってもらって、とても、嬉しいです」 そう言って、恥ずかしそうに目を伏せる白ちゃん。 ……なんか、不思議な気分だ。 寮の俺の部屋。 お茶会の時はみんなが集まる部屋。 いつも、俺一人で寝てるベッド。 そのベッドの上に、白ちゃんが、裸で座っている。 非日常的すぎて、ちゃんと理解できてないのかもしれない。 「あの、どうかされましたか?」 「いや、なんでもない」 「?」 白ちゃんが、少し不思議そうな顔で俺を見ている。 「白ちゃん、おいで」 「は……はい」 裸の白ちゃんを抱きしめる。 温かい。 白ちゃんの体温を直に感じる。 二人とも汗ばんでいる。 どきどきしていた。 俺の下半身はさっきからずっと硬くなったままだ。 白ちゃんも緊張している。 もう何度目かわからないキスをする。 「……ん……んっ……ちゅ……」 俺の腕の中にいる白ちゃんは、おとなしく俺にされるがままになっている。 一度口を離して、またキス。 今度は舌も絡めてみる。 すると、白ちゃんも絡めてくる。 「んちゅ……あむ……んっ……」 白ちゃんの目は、これでいいですか? と問いかけるように俺を見上げている。 俺はその問いに答えるように、いっそう強く抱きしめた。 「んんっ……ちゅ……ぱ……」 白ちゃんに後ろを向かせ、耳たぶ、首筋へと舌を這わせてみる。 くすぐったいのか、感じてくれているのか、体をくねらせる白ちゃん。 「はぁ……んっ……ぁん……」 俺は白ちゃんを後ろから抱きしめたまま、ベッドに倒れ込んだ。 トランクスを脱ぎ、俺も全裸になる。 「あっ」 ぽすん 二人とも、ベッドに横になった。 俺は白ちゃんを後ろから抱きしめているままだ。 白ちゃんに密着すると、ずっと勃っていたものが、白ちゃんのお尻に当たった。 「……あっ」 俺の硬くなったものは…… ちょうど、白ちゃんのお尻から、両脚の付け根に挟まれる感じになった。 「あ、あの……あの……?」 きっと、この体勢でいいんですか? と言いたいんだろうなと思う。 肩を抱く。 白ちゃんの耳元にささやく。 「大丈夫」 「は、はい……」 腰を前後に少し動かしてみる。 白ちゃんの太腿に挟まれた肉棒が、股間にすりつけられる。 「あっ、……あぁぅ……」 先端が、白ちゃんの割れ目に当たっているのだろうか。 白ちゃんが、これまでとは違う感じ方をした。 片手を白ちゃんの前に回し、そのあたりをいじってみる。 「……あぁ……んっ……支倉先輩……」 くちゅ 「あ……」 「あ、やっ……」 白ちゃんが……濡れてきた? 手で直接触ってみると、粘性のある液体が俺のものについていた。 「白ちゃん……濡れてる?」 「そ、そんな……」 「い……言わないで、下さい……」 消え入るような声で言う。 「いや、嬉しいよ」 「俺だけが興奮して、俺だけが気持ちよくなってるんじゃないかって心配だった」 「それじゃ、白ちゃんに申し訳ないし」 「そんなことないです」 「わたし、胸も小さいですし、支倉先輩が気持ちよくなってくれないと……」 「どうすればいいのかは……よくわからないんですが」 「わたし、頑張りますから」 そんな、けなげな白ちゃんの言葉が、胸に迫る。 愛おしすぎる。 「白ちゃん」 ぎゅうっ 抱きしめる。 俺の胸と白ちゃんの肩、腰と腰、脚と脚がぴったりとくっつくように。 「初めて……だよね」 こくっとうなずく白ちゃん。 「痛いって言うけど、優しくするから」 「なるべく、ゆっくりするから」 「は、はい」 白ちゃんの右足を、ぐっと抱える。 「あっ、あああっ」 「このまま……いい?」 「は、はいっ」 大きく脚を開き、丸出しになった白ちゃんの股間。 このあたりか? ぱんぱんに張った亀頭で、白ちゃんの大事な部分を探る。 「……んっ……んんっ……んあ……」 一番濡れてそうなあたりに狙いをつけて、腰を前に進める。 「あっ……」 つるっと滑ってしまい、うまく入らなかった。 「くっ」 再度チャレンジ。 そうでなくても、白ちゃんの入り口は狭いはずだ。 やっぱり、この体勢は難しかったか? そう思っていたら、ふと俺のペニスが白ちゃんに握られた。 「あ、あの……」 真っ赤な顔の白ちゃん。 導いてくれる、ってことだよな。 「……うん。ありがとう白ちゃん」 「お願いするよ」 「はい……んっ」 俺の肉棒の先端が、白ちゃんの細い指にそっと握られる。 う……気持ちいい……。 ぴと ここが……白ちゃんの入り口……。 「ど、どうぞ……」 返事の代わりに、俺はぐっと腰を突き出した。 「っ!」 「あっ、あああっ……っ……!」 入り口は、とても小さかった。 散々待たされた俺の肉棒は、多分これまでの中で最高に大きくなってると思う。 これが……入るか? もう一度、腰に力を入れる。 先端だけ、なんとか白ちゃんの中に入った気がするけど…… これ以上は無理っぽい気がする。 「はぁ……はぁ……支倉先輩……」 「だ、大丈夫です……」 「でも」 「大丈夫です……はぁ……来てください……」 「お願いします……」 ここまで言ってくれるなんて。 きっと、痛いんだろうに。 「ああ。わかった」 ぐっ 白ちゃんの肩を押さえ、体が上に逃げないようにする。 そして、腰を強く押し出す。 ぐぐっ……っ! 「ああっ!」 「んんっ!……くっ…………うわああああぁぁぁ……」 くっ きつい……っ 白ちゃんは、ちゃんと濡れていたと思う。 でも、それ以上に小さい体の白ちゃんの膣は、小さかった。 「あああぁっ……ふあっ……くうぅうっ……んんっ……」 呼吸も苦しそうだ。 「ごめん、白ちゃん」 「痛くない……はずないよな」 「だっ、大丈夫です」 「そんなに、痛くありません」 たぶん、嘘だ。我慢させてしまってる。 「それより……」 「ぜ……ぜんぶ、入りましたか?」 「あ、いや……」 半分くらいだと思うけど……これくらいで止めておいた方がいいんじゃないか? 「支倉先輩、全部、全部……お願いします」 「……」 もう、痛くしないってのは、無理だろう。 というか、十分痛くなっているに違いない。 なら、いっそ…… 「じゃあ、入れるよ」 「はい」 ずっ ずっ、ぐぐぐっ! 「ああああっ!……っ!……ああああっ」 白ちゃんの一番奥に、先端がついた。 膣の中には、俺の肉棒がぎっちり詰まっている。 「あぁ……はぁ……んんぅ……っ」 白ちゃんが息をするたびに、膣内がきゅっと締まり、肉茎に刺激が加わる。 少し、白ちゃんは目尻に涙を浮かべている。 「ごめん、痛かったよな」 「……ちょっとだけ、痛かったですが……だ、大丈夫です……」 「本当?」 「え、ええ」 「それより、支倉先輩は、気持ちよく……なってくれてますか?」 「ああ」 白ちゃんに、何度もきゅっきゅっと締め上げられて、それだけでいってしまいそうになる。 必死にそれを我慢していた。 「白ちゃんの中、とても熱くて……とても気持ちいい」 「よ、よかったです……はあぁ……はぁ……」 「あの……」 「これから、どうすれば……」 「俺が動いて……もっと気持ちよくなって……とか」 「あ、でも、白ちゃん痛いだろうし、もう少しこうしてれば」 「……支倉先輩」 「動いてもらえませんか?」 「いいのか?」 「は、はい」 「支倉先輩は、先輩が一番気持ちよくなるように、して下さい」 「なんで、そんなに……」 「だ、だって、わたし、初めてですから……」 「きっと上手くできないと思うんですが……」 「せめて、支倉先輩には、気持ちよかった思い出にしてほしいなと……」 「その気持ちは……とても嬉しい」 「でも、きっと痛い」 「きっと白ちゃんだけがとても我慢することになるんだと思う」 「だ、大丈夫です」 案外頑固だった。 「わかった。じゃ、動くぞ」 「はいっ」 ずずっ 一番奥まで刺さっていた肉棒を、ゆっくり引き抜く。 「はああ……ふはあぁ……あぁぁ……」 そして、最初の時のように肩を押さえながら、ぐっと腰を突き上げる。 「ああああっ……んっ……くあぁっ!」 また、一番奥まで肉棒が沈み込む。 「どう?」 「大丈夫です」 大丈夫じゃないのは俺の方だった。 一往復しただけで、白ちゃんの膣内の肉襞の洗礼を受け、限界が近い。 白ちゃんを見ると、必死に、痛くないフリをしている。 そんな白ちゃんが、無性にかわいい。 「先に謝っておくよ、ごめん」 「えっ? それってどういう……あっ、あああっ!」 俺は、もう我慢できなかった。 本当は、白ちゃんの中に入ってからずっと。 むちゃくちゃに、動きたかった。 「うああっ!……ああっ!……んああっ!」 だから、白ちゃんの中に向けて、腰をガンガン突いた。 深く、より深く。 強く、早く! 「そんなにっ……強くっ……ああっ……んんんっ!」 白ちゃんの体の自衛反応なのか、膣の奥から、どんどん愛液が溢れてきた。 きついのはあいかわらずだが、滑りがよくなってくる。 「すごい、白ちゃん……どんどん溢れてる」 「やあぁ……そ、そんなっ……はあっ……んんんっ!」 どんどん、腰の動きを速める。 ぢゅぷっ!…ぬぷっ!…ぢゅぷうっ…ずぷうっ…! 「んあっ!…はぅん!…んんっ!…くぅっ!」 俺は、気持ち良すぎて、もうなにも考えられなくなっていた。 このまま最後まで…… 「あああっ、はっ、はせくらっ、せんぱいっ……っ!」 「くっ、白ちゃん……っ」 「お、おかしくっ、おかしくなっちゃ……あっ、あああっ、ああっ!」 白ちゃんの膣内が、きゅうっと締めつけてきた。 「だめっ……だめですっ!……あっ……あっ! あっ、ああっ、ああああっ!」 「白ちゃん、いくよ……っ」 白ちゃんの一番奥に、肉棒を突き込む。 「ああっ、あっ、あっ、んあっ……ぅああああああぁぁぁぁっっっっ!!!」 俺は、白ちゃんの膣内に、大量の精を放った。 びゅくうっ! びゅくっ! びゅうっ! びゅっ! こんなに精液を出したことはないってくらい、射精は続いた。 ぴゅっ! びゅっ びゅぅ……っ……っ 「ああ……はあ……ああ……はあぁ……」 白ちゃんは小さい体でそれを全部受け止めた。 息が荒い。 「はぁ……はぁ、はぁ……はぁ……はせ、くら……せんぱい……」 「ああ、白ちゃん……はぁ……」 「とても……気持ちよかった……」 「よ、よかっ……です……はぁ、はあ」 「はぁ……んんっ……はぁ……」 まだ、白ちゃんの膣は、俺のペニスを痛いくらいに締めつけている。 「んんっ……あ……ん……」 白ちゃんの体が、時々、ぷるっと震えている。 「んっ……っ!……はぁ、はぁ……」 「白ちゃんは、ずっと痛いだけだった?」 「あ、その……いえ……」 「最後の方は……ちょっと、気持ちよかったです」 「ちょっとって割には、声も大きかったけど」 「あ、いえ、その……途中からよくわからなくなってしまって」 「頭が真っ白に……」 もしかして白ちゃん、初めてなのに……。 「はぁ……はぁ……ぁ……」 白ちゃんは、満たされたような表情だった。 俺も、白ちゃんと一つになれたことの喜びをもう少し味わっていたくて、しばらくそのままでいた。 それから、白ちゃんが少し落ち着くのを待って、ベッドを下りた。 白ちゃんに先にシャワーを浴びてもらい、その後俺がシャワーを浴びる。 一瞬、一緒にシャワーを浴びようかとも思ったけど、なんとなく気恥ずかしかった。 「ここに来る前にシャワーを浴びてて、こうなるような気がしてました」 「俺もそうだ」 「でも、よかった。ちゃんとできて」 「は……はい」 白ちゃんは、行為を思い出したのか、うつむいて照れている。 「白ちゃん」 顎に手を当てて顔を上向きにさせ、キスをした。 「んっ……」 唇を離す。 「これからも、ずっと一緒だ」 「二人で、いろいろ乗り越えていこう」 「は、はいっ、支倉先輩!」 白ちゃんは、嬉しそうに、にこっと笑った。 白ちゃんが、大事な話があるというのでこの「穂坂ケヤキ」に来た。 願いを叶えてくれるという噂のある木だ。 今は葉がなく、強い真夏の日差しが俺と白ちゃんに直接降りそそぐ。 白ちゃんは、なぜかうつむき、泣きそうな顔をしていた。 「お別れを……しなければならなくなりました」 「え?」 唐突な言葉に、呆然とする。 今、白ちゃんはなんて言ったんだ? 「ごめん、よくわからない」 「お別れを……」 泣きそうな顔で、もう一度口を開く。 最後まで聞きたくなくて、抱きしめた。 「あっ」 「支倉先輩……」 白ちゃんの細い体が、手の中にある。 この子を、手放したくない。 失うことへの焦りを和らげるように、ぎゅっと力を込めた。 「あ、あの、苦しいです……」 俺だって苦しい。 「どうして、そんなこと言い出すんだよ」 「ずっと一緒だって、言ったのに」 「ご、ごめんなさい」 「わたしも、一緒にいたいです……」 「でも……」 「お盆は実家で過ごすことになっているんです」 「……」 「はい?」 「だから、1週間くらい、支倉先輩と会えません……」 どうしよう。 俺抱きついてるんですけど。 「……えーっと、別れるってことじゃないんだね?」 「え! 別れる、なんてそんなっ」 「そんなこと……言わないで下さい……」 「いや、俺がそう勘違いしただけだから」 すごすごと、抱きついていた腕を放す。 「そっか、実家に帰っちゃうのか」 「はい、毎年この時期には帰らないと……いけないんです」 「とても、寂しいです……」 「帰らないわけにはいかないんだよな?」 迷うように、手をもじもじさせる。 「支倉先輩に、行かないでと言われたら……」 「いや、ごめん。困らせるようなこと言って」 「たぶん、大事なことなんだろ?」 「はい……」 「なら、遠慮なく行っておいで」 「寂しいときは、メールしてくれ」 白ちゃんは、泣きそうな顔でうなずいた。 大浴場に入ってから部屋に戻ってきた。 ベッドに置いた携帯が、ちかちかと光っている。 白ちゃんからだろうか。 From>東儀白 Sub>お元気ですか 『支倉先輩、お元気ですか』 『今日わたしは、分家の方とお会いしました』 家族会議(?)だろうか。 白ちゃんはこのために帰ったのかな。 ……そういえば、白ちゃんは分家の誰かと結婚するって言ってたような。 お見合い、だろうか。 『お話ししている時も、支倉先輩のことを考えてしまいました』 『早く、支倉先輩に会いたいです』 嬉しいことを言ってくれる。 『こっちはみんな元気だ』 『監督生室で文化祭の準備をしてる』 『俺も早く会いたい』 そう書いて、送信した。 From>東儀白 Sub>夢を見ました 『昨日、支倉先輩の夢を見ました』 『夢の中で、わたしは支倉先輩とお出かけしていました』 『夢から覚めると、とても寂しい気持ちになりました』 『あと数日が永遠のように感じられます』 『支倉先輩は今、何をしていますか?』 白ちゃんが寂しがっていることが伝わってきた。 たった数日離れただけ。 その短い間を長く感じていたのは、俺だけじゃないのか。 白ちゃんには、寂しい思いをさせたくない。 楽しいことを想像して過ごせるように、してあげないと。 『俺は今、白ちゃんが帰ってきた時のことを考えてた』 『帰ってきたらデートしようと思うんだけど、どこに行きたい?』 これで、デートのことを考えてくれるようになるかな。 しばらく待っていたけど、返信はなかった。 From>東儀白 Sub>早く会いたいです 『迷っていて、返信が遅れてしまいました』 『ごめんなさい』 『考えたのですが、やっぱり街に行きたいです』 『夢の中で、支倉先輩と街を歩いていたから』 『早く、支倉先輩とお話したいです』 『手をつないで、一緒に歩きたいです』 『支倉先輩の顔が見たいです』 『支倉先輩の写真、もらっておけばよかったと後悔しています』 会いたい気持ちが、溢れているように感じた。 俺も、早く白ちゃんに会いたい。 でも、その気持ちをつづったところで、白ちゃんの気持ちは解消されないだろう。 『デートは何日がいいかな?』 『今度は、晴れるようにてるてる坊主でも作っとくよ』 どんっ 「支倉先輩っ」 「うおっ」 「支倉先輩、支倉先輩っ、デートですっ」 「お、落ち着いて、白ちゃん」 「は、はい」 名残惜しそうに離れた。 「すみません、はしゃいでしまいました」 しゅんとした白ちゃんの頭を撫でた。 「あ……」 「気持ちはわかるよ」 「俺も同じだったから」 白ちゃんが帰ってきてから数日。 これまで、白ちゃんはたまっていた生徒会の仕事に集中していた。 俺も手伝って、やっと空けた時間だ。 「今日はめいっぱい楽しまないとな」 「はいっ」 「いい天気になってよかったです」 前と違って、まぶしいくらいの晴天だ。 「じゃあ、行こっか」 「そうですね」 白ちゃんが、嬉しそうに微笑む。 二人で、歩き出した。 「あの……」 「ん?」 じっと、俺の手を見つめていた。 「手、つなごうか」 「はいっ」 小さくて柔らかい手で、俺の手を握る。 同じ強さで、握り返す。 俺たちの手は、少し汗ばんでいた。 「大丈夫? 暑くない?」 「暑いですけど」 「つないでいたいです」 「俺もだ」 二人でまた歩き出す。 そこで、不意に―― 後ろを振り返る! 「……いないか」 「ど、どうしたんですか?」 「いや、なんでもないよ」 東儀先輩は、とりあえず見えなかった。 今日は、監督生室で仕事をしてるはずだし、大丈夫だろう。 相変わらず、にぎわってるな。 「街に来たいって言ってたけど、どこに行きたいんだ?」 「えっ」 「考えてませんでした……」 「夢だと、どこに行ったの?」 「えっと、お食事したりしていました」 まだ昼食には早いな。 「他には?」 「熊を見たりしました」 動物園? 「あ、あとライオンに餌をあげました」 飼育係だろうか……。 「あの、支倉先輩が行きたいところに、連れていって下さい」 「いいの?」 「はい。支倉先輩がどんな場所が好きなのか、知りたいです」 「じゃあ……」 ゲーセンの前に来た。 いいのか。これで。 「あの、ここは?」 「ゲームセンター。来たことない?」 「兄さまに、危険な場所だと聞いたことがあります」 「まあ、確かにそういう場所もあるけど」 「最近は女の子向けの店も多いから、大丈夫」 「そうなんですか?」 「ここなんかは、特に女の子向けだよ」 店を見て言った。 「あれは、なんですか?」 「どれ?」 「大きな箱の中に、ぬいぐるみがいっぱい入ってます」 「ぬいぐるみキャッチャーだな」 白ちゃんが、とことこと近寄っていく。 「うわあ」 きらきらした目で、ぬいぐるみを見た。 「あ、あのウサギ、雪丸みたいです」 入り口近くの落ちそうな場所に、白いウサギのぬいぐるみがあった。 「ほしい?」 「え、でも……」 「ゲームだから、取れるかわかんないけど」 コイン投入。 ボタンを押して、アームを動かしていく。 「それで、つかむんですか?」 「ああ」 神経を集中する。 こう見えても全国各地のぬいぐるみキャッチャーを見てきた男だ。 その経験が告げている。 ここのアームは強い、と。 「ここだっ!」 華麗にぬいぐるみが持ち上がる。 ただし、奥のなまこのぬいぐるみが。 「ひっ」 白ちゃんが怯えた。 するりっ なまこがアームから滑り落ちる。 それは、下のウサギに当たって……。 がちゃんっ 「……」 雪丸ゲット。 「わっ、わっ、すごいです。さすが支倉先輩ですっ」 腰にぎゅっと抱きつかれる。 「あ、ああ。喜んでくれて、嬉しいよ」 運も実力のうち、と思っておこう。 「はい、あげる」 ぬいぐるみを差し出す。 「あ、ありがとうございます」 「一生、大事にしますね」 幸せそうに抱きしめている。 「いや、そこまでは……」 否定しながら、悪い気はしなかった。 「あの、あれはなんでしょう?」 白ちゃんが、店の中を覗く。 人が入るボックスがあり、側面には「プリントマシーン00」と書かれている。 「あれは、写真取るやつ」 「写真、ですか?」 「小さなシールのね」 「よく女の子が手帳とかに貼り付けてるの、見たことない?」 「あ、あります」 「あれで撮るんですか……」 興味津々といった様子で、機械を見つめている。 「あの、わたし」 「支倉先輩の写真、ほしいです」 上目遣いで、言われた。 「中は、こんな風になってるんですね……」 「この画面で、操作するみたいだ」 「支倉先輩も、は、初めてなんですか?」 「いや、ずいぶん昔に撮った……ような」 案内に従って、画面を選択していく。 「じゃあ、撮るよ」 「は、はい」 すごく緊張しているな。 大丈夫だろうか。 「いい?」 「い、いつでも、来て下さいっ」 ボタンを押す。 「3、2、1」 パシャッ 「わっ」 画面に俺と白ちゃんの顔が表示される。 「……どう?」 「わたしの顔、固まってます……」 「もう一度、撮ろうか」 「え?」 「3回まで、やり直せるから」 「そうなんですか」 「準備はいい?」 「は、はははい」 さっきより緊張してないか? 「じゃあ、いくよ」 ボタンを押して―― 白ちゃんの頬にキスした。 「えっ」 「3、2、1」 「えっ、えっ!?」 パシャッ 画面に、俺と、慌てふためく白ちゃんが浮かび上がった。 「い、今、ほっぺにちゅっ、て、しました……?」 おろおろしてるのが、かわいい。 「緊張してるみたいだったから」 「ごめんね、嫌だった?」 「えっ、いえ……嬉しい、です」 恥ずかしそうにうつむいた。 「でも、びっくりして……変な顔になってしまいました」 「これ、かわいくていいと思うけど」 「だ、だめです。こんな変な顔の写真、見るたびに落ち込んでしまいます」 たしかに、本人にしてみれば嫌かもしれない。 「じゃあもう一度ね」 「はい」 取り直しのボタンを押す。 「3、2、1」 その瞬間、白ちゃんが背伸びして―― 「えいっ」 ちゅっ パシャッ 「!?」 画面に浮かび上がったのは、真っ赤な顔で俺の頬に口をつける白ちゃん。 それから、目を丸くして呆然とする俺。 「仕返し……です」 恥ずかしそうに、白ちゃんが言った。 「印刷を開始します」 門に着く頃には、夜になっていた。 「支倉先輩、バイクに乗れるんですね」 「ゲームならね」 「実際とは、勝手が違うんですか?」 ずいぶん昔に乗った時のことを思い出す。 「うーん」 「あのゲームは本格的だったから、操作はそこまで変わらないと思う」 「そうなんですか」 なんか尊敬の眼差しで見られている。 「すごかったです」 「そうでもない」 「一位でした」 褒められるとくすぐったい。 「今日はどうだった?」 「初めてのことばかりで緊張しました」 「でも、楽しかったです」 言いながら、白ちゃんが一枚の紙を取り出した。 二人で分けた、写真のシールだった。 「ふふふ」 嬉しそうに笑う。 恥ずかしくて、どこにも貼れない写真だ。 「今度、やっぱり撮り直そうか」 「それ、なかったことにしてさ」 「だ、だめです、これはお墓まで持っていきます」 東儀家一同がびっくりすると思うが……。 まあ、喜んでくれてるならいいだろう。 「今日は、ありがとうございました」 ぺこり、と丁寧に頭を下げた。 「こんなに、楽しかったのは初めてです」 「次は、もっと楽しいデートをしよう」 「はいっ」 嬉しそうに微笑んだ。 乗り越えなければいけないこともあるけど。 二人の時はせめて幸せでいよう、と思う。 「支倉先輩」 「ん?」 「あの、今日デートの帰り道に考えていたのですが」 「わたし、もう一度家に戻ろうと思います」 「お盆はもう過ぎたよな。なんで?」 「えと……」 「舞の練習を、しようと思いまして」 「おっ、いいんじゃないか」 「そ、そうですか?」 「ああ。ずっと気になってたんだろ?」 「はい」 「それに……今日、支倉先輩と一緒にいられたことで、なんだかいろいろ前向きに考えられるようになったんです」 「安心できる場所が、家の外にもできた感じというか……」 白ちゃんは、恥ずかしそうに言う。 「ああ。いつでも、何かあったら頼ってくれよ!」 ちょっとわざとらしく、胸をドンと叩く。 「ふふふ、ありがとうございます」 「いつくらいまで?」 「夏休みの終わりくらいまででしょうか」 「そっか」 「長いような気もするけど……逆に、舞ってそれくらいの練習で大丈夫なの?」 「初めてだったら、とても無理だと思います」 「わたしも、一人の練習だと二人での舞がどこまで練習できるかはわかりませんが……」 「きっと、なんとかなるさ」 「また、メールくれよ。俺も送るからさ」 「はいっ」 白ちゃんは、嬉しそうに俺の腕に抱きついてきた。 「私は7月中に終わらせたわ」 「俺は今晩なんとかする」 兄妹だというのに対照的な宿題の片づけ方を披露する二人。 口ではそんな話をしながらも、半月後に迫った文化祭の仕事をする手は動き続ける。 俺は、二人についていくのが精一杯のペースだ。 「7月中に終わらせるなんて、課題を解くのが重要なことみたいじゃないか」 「重要だから!」 「俺は全体的にぼちぼち進めてました」 「案外それはレアかもしれないよ」 「そんなもんスか」 「時に支倉君」 会長が、仕事の手を止めて俺を正面から見る。 「はい」 「征は今日来るかな?」 「俺よりも会長の方が詳しいんじゃないですか?」 「それが最近、征が俺につれなくてね」 「何か支倉君が知ってるんじゃないかなーと」 例の件について、東儀先輩がどこまで会長に話をしているのか、俺は知らない。 うかつなことを言ってはいけないような気がする。 ……難しい判断だ。 「いえ、俺も東儀先輩とはここ何日か会ってません」 「新学期が始まったら来るんじゃないですか」 「ん? なんの話だ?」 「ありゃ」 「打ち合わせより登場タイミングが早いぞ、征」 「打ち合わせとはなんのことだ」 「征一郎さん、さっき支倉くんがトイレに行ってるときに来たのよ」 だまされた。 これだからこの人は油断できない。 「つまらん小細工はするな、伊織」 「いや、支倉君の反応次第では、面白くなるかもしれなかったのさ」 「……」 東儀先輩がちらっと俺を見る。 「いや、まあ結果としては何も起こらなかったんだけど」 「俺の担当分は昨日進めておいたから、今日はもうあがらせてもらうぞ」 東儀先輩ガン無視。 「夏期休暇の課題を貸してくれる約束は?」 「約束とやらを捏造するな」 「残念」 「では」 そう言い残して去っていく東儀先輩。 危ないところだったな……。 「ほら、兄さんもさっさと手を動かす!」 「ごめん支倉君、もう一つだけ」 「最近、白ちゃんはどうしてるか知ってる?」 「ま、まあ、実家に帰ってるってことくらいは」 「実家で何やってるんだろう?」 む…… 白ちゃんが舞をしてることは知ってるだろうから、言ってもいいのか? うーん。 でも、あまり言いふらすようなことでもないような気がする。 「そこまでは、ちょっと」 「ふむ」 がちゃっ 「お久しぶりですっ」 「……ありゃ。久しぶり」 「やっぱり、白ちゃんの淹れるお茶はおいしいなぁ」 「うん、ほんとね」 「長い間仕事に関われなくて、申し訳ありませんでした」 「それは、事前に言っててくれたから大丈夫よ」 事前に、ちゃんと伝えてたんだ。 そりゃそうか。 「遅くなりましたが、これからはバリバリお仕事ができればと思います!」 「お、白ちゃんリフレッシュしたのかな」 「なんか、元気になったような気がするよ」 「じゃあさっそく、これお願いするわ」 ……こうして、白ちゃんが仕事に復帰。 監督生室に、いつもの面子が戻ってきた。 そのまま、暗くなるまで、たまっていた仕事を片づける。 「さて、私はそろそろあがるわ」 「明日から二学期だし、気合いを入れ直さないとね」 「瑛里華先輩はいつも元気いっぱいです」 「ええ。夏休みボケなんて、言ってられないわ」 「会長、課題って、本当にこれから手をつけるんですか?」 「そうだけど?」 「でも、どう考えても一晩じゃ……」 「なんとかなるさ」 この人は、本当になんとかしそうで怖い。 「じゃ、俺もあがるよ」 「ちなみに白ちゃん、課題は?」 「わたしは7月中に終わらせました」 「ほら」 「はいはい。俺が悪かったよ」 「それじゃお先ー」 二人が監督生室を去っていく。 室内には、俺と白ちゃんが残った。 ……。 「あの、支倉先輩、お久しぶりです」 「ああ」 「舞の練習は、上手くいった?」 「……ええと」 「頑張りはしたのですが、一人ではなかなか……」 歯切れが悪い。 やはり、東儀先輩と一緒でないと難しいのだろうか。 「うちの神社独特の舞なのだそうですが、男性と女性が一人ずつ舞うのではなく、一緒に舞うのです」 「父さまと母さまが舞っていたのを見ていたことがありますが、とても美しい舞でした」 「去年は、舞台の特別な空気に乗せられたのか、わたしも上手く舞うことができました」 「母さまに教えてもらった舞を、ちゃんと舞えたことが嬉しくて……」 一瞬だけ、嬉しそうな顔をする白ちゃん。 「やはり呼吸を合わせるのが大切なのだと思います」 「練習を一人でやっていても、どうしても限界が……」 「そっか……」 「でも、一段落つきましたので」 「今年の例大祭では、兄さまが一人で舞うのかもしれませんし」 「それは、東儀先輩が?」 「いえ、でも……」 「そうなっても、仕方ないと思います」 白ちゃんは、何かが吹っ切れたような顔で言う。 それは、もしかしたら、諦めなのかもしれない。 ……俺が何も言えないでいると、白ちゃんが、お茶を淹れ直してくれた。 「支倉先輩、前に『二人でもっとデートしよう』『楽しいことたくさんしよう』って言ってくれましたよね」 「お、おう」 「あの言葉、わたしの中でとても支えになってくれていたんです」 「だから、今も『監督生室デート』ということで……」 頬を染めながら、白ちゃんが言う。 「そうだな」 白ちゃんに、軽くキスをした。 「でも、今日はちゃんと仕事してから、な」 「そ、そうですね……」 「すみませんでした」 「いや、本当は俺も白ちゃんといろいろしたいけど……」 「そのせいで仕事が遅れて、後ろ指さされるのも嫌だしな」 「はい」 「正々堂々と、ですね」 「おう」 それから二人で仕事をし、無事、夏休み中までに終わらせておくべき仕事にけりがついた。 ちょうど、門限間際だった。 今日から二学期。 校舎に向かう並木道を歩く。 ……。 支倉先輩。 支倉先輩支倉先輩。 はせくらせんぱい。 はーせーくーらーせーんーぱーいー。 何度その名を呼んでも、 早く呼んでも遅く呼んでも、 顔がにこにこしてしまうのを止められない。 もちろん口に出して呼んではいない。 ……今は。 寮の部屋に一人でいた時には、口に出してみたことがある。 恥ずかしい。 思い出すだけで、顔が赤くなりそうだ。 でも、その名は、わたしにとって特別なものとなった。 だから、恥ずかしさよりも嬉しさの方が大きい。 「はーせーくーらーせーんーぱーいー」 周りに人がいないのを確かめて、そっと、ゆっくり声に出してみる。 ああ、名前を呼ぶだけで、なんでこんなに嬉しいんだろう。 支倉先輩と初めて会ってから5ヶ月。 まさか、こんな関係になるとは思ってもいなかった。 自分でもびっくりしている。 思わず足取りも軽くなる。 スキップしてしまいそうだ。 いや、いっそ走り出してしまいたくなるくらいだ。 だってこれから向かう校舎にも、放課後の監督生室にも、寮にも支倉先輩がいるのだから。 強い日差しも、イチョウ並木の揺れる葉も、熱い風も、輪唱している蝉の鳴く声も、 目に入るもの、耳に聞こえるもの、肌で感じるものすべてが、 わたしを、わたしたちを、わたしと支倉先輩を、祝福してくれている気分になる。 ああ。 これが幸せを感じている状態なんだ。 きっとそうだ。 間違いなくそうだ。 そう思うと、またにこにこしてしまう。 始業式が終わると、もう放課後だ。 今日は、兄さまに呼ばれて、図書館に向かっている。 夏祭りについて、話があるらしい。 少し前なら、こんな時、ちょっと重い気持ちになっていたかもしれない。 でも今は、支倉先輩がついてると思うだけで、強くなれる気がする。 きいっ あいかわらず、人気のない図書館。 兄さまは、学院の中でもここが一番落ち着くという。 古い本と、古い建物が醸し出す香りが好きなのだそうだ。 兄さまらしいと思う。 兄さまは、歴史とか伝統があるものが好きだ。 「白か」 「座りなさい」 「はい」 浮かれている気分を、頑張って落ち着かせる。 そして兄さまの前の席に、浅く腰をかけた。 「今日は、お祭りの話ですか」 「そうだ。それもある。が……」 兄さまがわたしの目をじっと見つめ続けている。 「夏休み中に何かあったか?」 「えっ」 「何か、変わった気がするのだが」 「そ、そんなことは……ないです」 兄さまは鋭い。 もしかして…… 何か、勘づかれてしまったのだろうか。 まさか。 「兄さまにお伝えするようなことは……何もないです」 「本当か?」 「ないです」 「本当だな」 「はい」 「……」 兄さまの視線が険しくなる。 こんなに、厳しい眼をされることはめったにない。 これは……。 わたしの生活や行動に、支倉先輩と結ばれたことがわかるような何かがあっただろうか。 不安になる。 食事、トイレ、お風呂、洗濯……。 妊娠すると、酸っぱいものが食べたくなったりつわりがあったり体の調子が変わるそうだけど。 男の人と一度ああいったことをするだけで、わたしの体は変わってしまうのだろうか? 「支倉とは最近どうしてる」 「それは……!」 「それは、すべて兄さまに報告しなくてはいけないことなのですか?」 「ふむ」 「ずいぶんとムキになるのだな」 「そんなことはありませんっ」 「ムキになるようなことがあったわけだ」 「それも、俺にも話せないようなことが」 「ちっ、違いますっ!」 頭に血が上る。 「なぜ兄さまは、そんなに勝手に疑って勝手に怒っているのですかっ」 「勝手なのはどちらだ」 「以前、一度言っただろう」 「支倉とのことは、早めに終わらせろと」 「兄さまは、兄さまだからといってわたしの恋愛にまで口を出すことができるのですかっ」 「俺の好き嫌いで話をしているわけでも、兄だからこんなことを言っているわけでもない」 「東儀家の当主として言っているのだ」 「……軽率な行動は慎めと」 「軽率……っ!」 「支倉先輩とのお付き合いは、軽率なんかではありませんっ」 「図書館だぞ」 「あまり大きな声を出すな」 「あ、は、はい……」 「しかし、軽率なんて……!」 「しきたりを破り、分家でもなく、ましてや島の外から来た支倉と男女の付き合いをすることは軽率ではないのか」 「しきたりを守るということは……」 「わたしたちにとって、どういう意味があるのでしょうか?」 「義務で守るようなものではない」 「自発的に、自主的に守るべきだと考えるようになるものだ」 「兄さまの言うことが……わかりません」 「いずれわかるようになってくれると思っていたのだが……」 わからないわたしが悪者のような雰囲気だ。 「しきたりの是非をここで議論するつもりはない」 「白」 「は、はい」 「二択だ。支倉と別れて、秋の例大祭で舞うか」 「支倉を選んで、二度と例大祭で舞わないか」 「祭りで舞うことも、分家から婿を取ることも、すべてが東儀家のしきたりだ」 「そ、そんな……」 「これは白が選ぶことだ」 「もう、俺からどうしろなどとは言わない」 「支倉と付き合うことを決めたときと同じように、自分で選べ」 「わかったな」 「あ……」 支倉先輩と、 毎年続けてきた、母さまから習った舞。 そんな…… 選べと言われても……。 「む、無理です」 「選ぶんだ」 「東儀家の人間がしきたりを破るというのは、東儀であることを捨てるということだ」 「東儀を捨てた人間には舞を舞わせることはできない」 「あの舞は、東儀のみに許されたものであり、東儀の責任だからな」 「……」 「おまえがやろうとしていることは、そのくらいに重いことなのだ」 「そのことを忘れるな」 「選べない、などという甘いことを言っているようでは、話にならない」 「う……」 「う……ううぅ……ひっく……うあ、うあぁぁ……」 「うああ……うわあああああ」 抑えようとしても抑えられない。 ここが図書館で、静かにしなくては、と思いながらも。 泣けば、また兄さまに迷惑をかけると思いながらも。 「白」 「にっ、兄さまだってっ」 「兄さまだって、父さまと母さまのことっ……う……うあぁ……」 「っ!」 「なんのことだ」 「っく」 キッと兄さまを見据える。 「ごまかされたりはしませんっ」 「何を言っているのか知らないが、それとこれとは話が別だ」 「べっ、別ではありません!」 「父さまと母さまのことを隠しておきながら、東儀という家に縛ろうとするなんて……」 「兄さまは、ひどいですっ!」 わたしは、兄さまに背中を向け、図書館の出口に走った。 振り返る。 兄さまは、追いかけてこない。 階段を転びそうになりながらも駆け下りる。 息が切れても走る。 全身の細胞が酸素を求めて悲鳴をあげても走り続ける。 走りたかった。 走ってどうなるわけでもないが、何かせずにいられなかった。 ……変だな。 強い日差しも、イチョウ並木の揺れる葉も、熱い風も、輪唱している蝉の鳴く声も、 全部が、輝きを失っている。 気のせい……ではないと思う。 新学期になってから白ちゃんの様子がおかしかった。 監督生室にもほとんど顔を出さず、顔を出してもすぐに帰ってしまう。 最初は「なんでもないです」と言ってたし、それを信じてた。 でも、だんだん心配になってくる。 理由に心当たりは無かった。 夏休みは、最終日までとても仲良く過ごしてたし。 悩んでいても仕方ないので、昨晩、白ちゃんに話してくれるようメールで頼んだ。 ……白ちゃんからの返事が来るまでには、ずいぶん時間がかかった。 『明日の放課後、千年泉でお話します』というメールをもう一度読む。 どんな話になるんだろう。 ……今日は、放課後になるのがやたらと遅い気がした。 ……。 白ちゃんの説明を聞いて、俺は言葉を失っていた。 「──兄さまは、そう言いました」 「そして『どちらか選べ』と……」 「それは……」 なんと言っていいか、とっさにはわからない。 「白ちゃん」 「辛い思いをしたんだな」 それだけを言って、ぎゅっと抱きしめる。 「う……うぅ……」 頭を撫でる。 俺にできることは少ない。 「……っ……っ」 嗚咽を漏らすまいと、白ちゃんが頑張ってるのが伝わってくる。 考えろ。 俺は白ちゃんのために何ができるんだ。 白ちゃんにとって一番いい結果ってなんだ。 ……。 俺と白ちゃんが手に手を取って逃げる──例えばこれも一つの結末だろう。 二人でどこか遠くの街で肩を寄せ合って暮らす。 まさに駆け落ちだ。 しかし……。 白ちゃんにとって、この問題は逃げれば解決するのか? 白ちゃんの両親の問題。 白ちゃんと東儀家の問題。 逃げれば解決するのではなく、解決しないまま逃げることになってしまう。 ……。 俺と白ちゃんが別れる。 これなら、俺と白ちゃんの気持ち以外のすべての問題は解決する。 白ちゃんは、東儀家の斎として生きていく。 だめだ。 何を考えているんだ。 これこそ逃げてるのと変わらない。 うぬぼれじゃなければ、これが一番白ちゃんを泣かすことになるだろう。 ──袋小路だ。 「は……支倉先輩?」 「ああ」 「もう少しだけ……こうしててもいいですか?」 「もちろん」 「ありがとうございます……」 心の底から、安心しきった声で囁かれる。 俺は……この白ちゃんの信頼を、裏切ってはいけない。 朝食を食べたあと、図書館に向かった。 ここに、何かヒントが転がってるわけではない。 本を読めば島の歴史はわかるけど、今現在どうするかの方が俺にとっては重要だ。 でも、この場所はなぜか落ち着く気がする。 椅子を引き、腰を下ろす。 一応、本を一冊だけ借りて読んでいるフリをする。 さて、考えよう。 これからどうすればいいのかを。 ……。 …………。 ………………。 だめだ。 考えても考えてもだめだ。 俺が何をしたところで、白ちゃんが二つに分裂でもしないかぎり、白ちゃんの心が二つに割れてしまう。 お母さんから教えてもらった舞を舞いたい白ちゃん。 俺といたい白ちゃん。 両立する方法は、ない。 「くそっ」 司書さんに怒られないくらいの声で小さく毒づく。 頭がウニになりそうだ。 ……一度、外の空気を吸った方がいいかな。 そう思って、図書館の外に向かった。 きいっ 「おっ?」 誰かが、外から扉を引いた。 そのため、扉はものすごく軽く開く。 「支倉か」 「東儀先輩」 「宿題か何かか」 「精が出ることだ」 「いえ、ちょっと考え事を」 「ふむ」 すれ違った東儀先輩は、図書館の奥へ。 俺は、外に出た。 暑い。 今日は一段と暑い。 遠くを見ると、陽炎が立ち上っているところもある。 もう立夏は過ぎたから残暑ということになるのだろうか。 残暑などとは名ばかりで、今が本番真っ盛りとしか思えない。 東儀先輩は、図書館に何をしに来ていたのだろう。 俺みたいに、島や東儀家の歴史を……って、そんなわけないか。 東儀先輩が俺より知らないはずは無いもんな。 祭についても、しきたりについても。 ……。 …………しきたりか。 そもそも、しきたりなんて大名家でもなければ本に載ってるはずがない。 白ちゃんだって、きっと両親や東儀先輩から口で伝えられたはずだ。 東儀先輩も。 そして、白ちゃんと東儀先輩の両親は亡くなっている。 少なくともそういうことになっている。 つまり、今、白ちゃんにしきたりを伝えているのは、東儀先輩だけだ。 もしかしたら東儀家にはそれが書き記されたものがあるかもしれないけど。 東儀先輩が許せば、白ちゃんはもっと自由になれるのではないだろうか。 ふむ。 そう考えると、東儀先輩との関係を良好にすることが、重要になってくる。 東儀先輩はそもそも敵じゃないんじゃないか? 白ちゃんと俺の関係を除けば、東儀先輩と白ちゃんのベクトルは近い。 白ちゃんと俺の関係を東儀先輩に認めてもらえるかどうかは別問題として…… 今、二人の間にあるそれ以外のわだかまりを解消できないだろうか。 両親のこととか。 ……思い立った俺は図書館に向かった。 まずは、話を聞いてもらわなくてはいけない。 まだ東儀先輩がいるといいが。 きいっ 図書館に戻ってみる。 ざっと館内を見渡しても、東儀先輩の姿はない。 机や椅子や書棚がずらっと並ぶ図書館内。 俺の他には、司書の人が一人いる以外には人の気配がない。 書棚しかない二階や、閉架の地下もあったはずだが…… 司書さんに話を聞くのが早いだろう。 ……無口な司書の人によると、東儀先輩も俺が出ていった後すぐに出ていったらしい。 それ以降は戻ってきていないとのこと。 なんとか、連絡は取れないだろうか。 東儀先輩は携帯にも出ない。 いつか、そもそもあまり携帯を見ていないのかもしれません、と白ちゃんは言っていた。 どこかで直接会わなければいけない。 東儀先輩との遭遇率が高いのは…… まずは監督生室だ。 そこには、千堂兄妹がいた。 「やあやあ支倉君、久しぶりじゃないか?」 そう言って握手を求められる。 今週は、白ちゃんがいないこともあってか、少し出席率が低かったかもしれない。 「兄さん、手を離しちゃダメよ」 「?」 「すまないね」 会長に、手を握られる。 「さて。いろいろお取り込み中なのかもしれないけど」 「一つクイズがあるの」 「はあ」 「この山はなんでしょー?」 楽しげな口調。 笑みを浮かべた表情。 しかし、こめかみがぴくぴくしている……ような。 「仕事?」 「惜しいっ、50点ね」 「全部『あなたの』仕事よ」 そりゃそうだ。 今は文化祭直前で、生徒会の仕事も山積みなんだった。 「支倉君には、とっておきのケーキをあげるから、頑張ってくれたまえ」 「冷蔵庫の中のケーキは私の買い置きだから!」 ……。 一箇所目で見事にキャッチされてしまった俺。 リリースされたのは、門限間近だった。 それでも、意地で仕事は全部片づけた。 会長と副会長からは、その鬼気迫る仕事ぶりを褒められた。 ……今日は終わってしまったが、その分、明日は心おきなく東儀先輩を探せる。 そう考えることにしよう。 めっきり人が少なくなった学食。 司と昼飯を食べていると、窓の外を東儀先輩らしき姿が横切った。 「っ」 「どうした」 「あ、いや、司はそのまま食っててくれ」 慌てて残りのメシをかっこむ。 東儀先輩は、どうやら本敷地への階段に向かったようだ。 追いかけなくては。 「嬉しい出来事……じゃあなさそうだな」 「いふぁ、ふぇっふぁひらいら(いや、結果次第だ)」 「いいからしゃべらず食え」 「食器は俺が下げといてやるから」 すまん恩に着る、とアイコンタクトで伝える。 「あ? 明日の昼飯をおごってくれる? 悪いな」 言ってねえ! デザートだけ司に残して、席を立つ。 ……とにもかくにも、東儀先輩を追いかけて外に出た。 どこに行ったのだろう。 監督生棟か、図書館の可能性が高いか。 あと可能性としては……礼拝堂くらいだ。監督生棟に向かう長い石段を駆け上る。 タッタッタッタッ だんだん息があがってきた。 苦しい。 はあ、はあ、はあ、はあ やっと監督生棟の玄関についた。 ……鍵が掛かっている。 しかし、後から人が入ってこないように、中から鍵をかけた可能性もある。 かちゃ ぎいぃ 扉を開け、2階の監督生室への階段を上る。 ばたんっ ……。 そこは、無人の監督生室。 淀んでいた空気が、もわっと廊下に出てきた。 ここにはいない。 戻ろう。 どこに行ったのだろう。ぎいぃ 図書館の扉を開ける。 ずらっと並んだ机と椅子と書棚。 本の香り。 図書館の中には、あいかわらず人の姿は無い。 かろうじて、カウンターに一人だけ司書の人がいる。 また、誰か来なかったか話を聞いてみよう。 ダメだ。 今日は俺以外の人は来ていないらしい。 ここにはいない。 戻ろう。 監督生室にも図書館にもいない。 こうなると…… とりあえず、礼拝堂に行ってみるしかないか。 ぎいぃ 図書館の扉を開ける。 ずらっと並んだ机と椅子と書棚。 本の香り。 図書館の中には、あいかわらず人の姿は無い。 かろうじて、カウンターに一人だけ司書の人がいる。 また、誰か来なかったか話を聞いてみよう。 ダメだ。 今日は俺以外の人は来ていないらしい。 ここにはいない。 戻ろう。 どこに行ったのだろう。監督生棟に向かう長い石段を駆け上る。 タッタッタッタッ だんだん息があがってきた。 苦しい。 はあ、はあ、はあ、はあ やっと監督生棟の玄関についた。 ……鍵が掛かっている。 しかし、後から人が入ってこないように、中から鍵をかけた可能性もある。 かちゃ ぎいぃ 扉を開け、2階の監督生室への階段を上る。 ばたんっ ……。 そこは、無人の監督生室。 淀んでいた空気が、もわっと廊下に出てきた。 ここにはいない。 戻ろう。 監督生室にも図書館にもいない。 こうなると…… とりあえず、礼拝堂に行ってみるしかないか。 礼拝堂に来るのも久しぶりだ。 誰かいるのだろうか。 がちゃ あれ? がちゃがちゃ 礼拝堂の入り口の扉には、鍵が掛かっていた。 これじゃあ、中には誰もいないだろう。 俺も礼拝堂の鍵は持っていない。 ……諦めるか。 そう思い、礼拝堂を離れる。 その時。 礼拝堂の裏手から何かの気配がした。 雪丸かな。 お盆の間は、シスター天池に世話を頼むと白ちゃんは言ってたけど、無事だろうか。 確認の意味を込めて裏に回る。 するとそこに、東儀先輩がいた。 すっと立ち上がったが、しゃがんでいたようだ。 雪丸のいるウサギ小屋を見ていたのだろうか。 東儀先輩とウサギの雪丸。 妙な取り合わせだ。 「東儀先輩」 「支倉か。どうした」 「あ、あのっ」 ずっと話をしようと決めていたのに、とちってしまう。 「あの、東儀先輩と話をしたいんです」 「白ちゃんについて、大事な話です」 ……なんだか“お嬢さんを僕に下さい”みたいなノリだ。 東儀先輩も、微妙な表情だ。 「大事な話、か」 「こちらも、いくつか聞いておきたいことがあったところだ」 東儀先輩が、正面から俺を見据える。 二人の視線が絡んだところで見えない火花が散ったような錯覚。 でも、視線は逸らさない。 「ここじゃ暑いですから、どこかに行きませんか?」 「そうだな」 「監督生室だと、伊織や瑛里華が来るかもしれんな」 「図書館はどうですか。いつも誰もいませんし」 「それがいいだろう」 二人、黙ったまま歩く。 図書館まで1分ほどだっただろうか。 一歩一歩が重い。 それでも、急ぎすぎることなく、遅れることもなく足を運ぶ。 とてつもなく長い時間に感じた。 例によって、奥のカウンターの司書さん以外は誰もいない図書館。 俺たちは、話している内容が司書さんに聞こえないよう、端の席へと進んだ。 向かい合って座る。 東儀先輩は眼鏡を外し、しばらく目を閉じて何かを考え、再び眼鏡をかけた。 「さて」 「どちらから話したものかな」 「支倉の話は長いのか」 「そこそこです。いや、ええと……」 白ちゃんの両親の話は、反応次第で長くなるかもな。 「もしかしたら、長くなるかもしれません」 「ふむ」 「では、先に俺の方から話すとするか」 「はい」 「支倉は……」 「白との仲はどこまで進んでいるんだ」 ぶほっ ストレートど真ん中だ。 あまりにもど真ん中すぎて、ちょっとうろたえる。 正直に言っていいものなのか、それともわずかの間だけでもごまかしていた方がいいのか。 「……」 「……」 だめだ。 この沈黙が、既に雄弁に語っている気がする。 「ええと……」 「男女としてのお付き合いを、させてもらってます」 ……。 …………。 沈黙。 空気が重い。 「……………………そうか」 「わかった」 ほっ 胸をなで下ろす。 機嫌が悪くなったりは……してなくはないだろうけど…… とりあえず爆発は避けられたようだ。 「で、そっちの話というのは?」 「お二人の、両親についてです」 「……ふむ」 「聞こう」 椅子を引いて、東儀先輩が姿勢を正した。 俺は東儀先輩に、これまで考えてきたことを語った。 白ちゃんと二人で話し合ってきたこと。 東儀先輩に伝えられなかったこと。 俺なりに解釈して、誤解をゆっくりとほどいていくように。 東儀先輩は、俺が話し終わるまで、じっと耳を傾けて聞いてくれた。 白ちゃんが、舞のことをとても大切に思っていたこと。 白ちゃんにとって舞とは、母親とのつながりの象徴であること。 白ちゃんが、決して東儀家のしきたりを軽んじてはいないこと。 そして── 白ちゃんは両親が本当に亡くなったのか疑問を持っていること。 隠し事をされていることに、白ちゃんが傷ついていること。 傷ついているのみならず、東儀先輩のことも信じられなくなっていること。 東儀先輩を信じられない自分も嫌いになりそうなこと。 ……。 「俺が、東儀先輩に伝えようと思っていたことは、以上です」 「俺と白ちゃんがどうなるにせよ……」 「東儀先輩と白ちゃんのわだかまりは、解消したいと思っています」 「白ちゃんが、悲しんでいるので」 「……」 「なるほどな」 俺の話を聞いていた時と同じ姿勢、表情のまま、東儀先輩は軽くうなずいた。 「……どうでしょうか、東儀先輩」 「今の件について、俺なりの見解を話しておきたい」 「少し長い話になるかもしれないが……」 「かまいません」 迷うはずがなかった。 東儀先輩の本音が聞きたい。 「さて、どこから話したものか」 「まず今の俺の率直な感覚として、自分の不甲斐なさに呆れている」 東儀先輩でもヘコむことなんてあるんですね、などと軽口を叩ける雰囲気ではない。 「ずっと面倒を見てきた、いや、俺としては面倒を見てきたつもりだった白が……」 「俺に言えないことを、支倉、おまえには言えていたとはな」 恐縮することしかできない。 「さきほどの話を聞いていても、やはり支倉はできる男だと思う」 「俺に白のことを話してくれたことも含めて、悪い人間ではない」 「公平に見て……白と支倉の交際には、喜んで賛成したいところだ」 ……。 「白が、東儀の人間でなければ」 俺は、何も言わずに東儀先輩の話の続きを待つ。 ──図書館には、あいかわらず誰も来ない。 冷房は、軽く効いている程度。 汗をかくほどではないが、涼しさは感じない。 館内の書棚で、島の時の流れを見つめてきた本の香り。 その香りが似合う先輩は、話の続きを口にした。 「俺の父は古風な人間だった」 「俺には、とても厳しく接していたものだ」 遠くを見るような目をする東儀先輩。 どんな感情を持って思い出しているのかは、わからない。 「東儀家の当主としてふさわしい人間になれ」 「一貫して、父はこう言っていた」 目を閉じる。 「俺は、幼い頃から文武に励み、それなりの成績をあげた」 「褒められなければ、さらに良い成績を修め続けた」 「だが、その程度で満足するなと、怒られることが常だった」 「そんな父に、反発したものだ。心の中ではな」 東儀先輩が、一瞬だけ自嘲気味に笑う。 その自嘲は、反発が心の中だけだったことに対してなのか、それとも別のことに対してなのか。 「父は、俺と白が仲良くしているときだけは機嫌がよかった」 「それが、嬉しかった。子供の頃の俺には」 「だから俺は、白を大切にするようになった」 「俺にとっては……」 「白を可愛がることが、父に褒められる唯一の道だったから、だろうな」 「……ふう」 淡々とした口調の中に、少し苦い響きを混ぜながら語る。 普通、自分の中に隠しておきたくなることだと思う。 なぜ、俺に話して聞かせてくれるのか。 俺のため? 白ちゃんのため? それとも。 どういう意味を持っているのかは、東儀先輩にしかわからない。 そして、この人は、それを語らないだろうという気がする。 俺が受け止め、俺が考えなくては。 「少し疲れたな」 「何か飲み物でも買ってくるか?」 「あ、いえ。俺は」 「東儀先輩さえ良かったら、話の続きが聞きたいです」 「……では、そうするか」 「父がいなくなってから、俺はさらに白の面倒を見るようになった」 「もう褒められたり叱られたりすることも無いのに、だ」 「恥ずかしい話だが、そこに自分の価値を見つけたせいだろう」 「……これでも、白には申し訳ないと思っている」 「傍から見ていると白が俺に支えられているように見えるかもしれないが」 「実際には、俺にとっても白が支えになっている」 「だから……本当に白のことを考えて面倒を見ているのかと問われるのが辛い」 「俺自身のためにやっているようなものだからな」 「そして、そんな生き方を変えられない自分の不甲斐なさに落ち込んでいる、というわけだ」 聞いているだけで、胸がわしづかみにされたように痛い。 淡々と語られているから、なおさらだ。 東儀先輩がここに考え至るまでの道のりは、きっと平坦なものではなかっただろう。 弱さや、醜さや、すべての目を背けたいものをじっと見つめて初めて至れる境地だと思う。 その強さに、迫力すら感じてしまう。 「しきたりとはどういうものだと思う?」 「長年、自分の家に伝わってきたしきたりだ」 「しきたり、ですか」 俺は、白ちゃんのこともあって、少し反発の意を込めて答えた。 「今に生きる者を縛るものだと思います」 「縛る、か」 「俺の考えでは、少し違う」 「しきたりというのは、生き方そのもののことだ」 「……」 眼鏡を直し、俺を見る。 「人が生きていく中では、誰でも、大切にすべきだと思うことがある」 「精一杯に生きること、他人に迷惑をかけないこと」 「知識や教養を身につけること、礼儀を守ること、口だけではなく行動を伴わせること」 「十人いれば十通りの『大切にすべきこと』と『忌避すべきこと』がある」 確認するように、東儀先輩は俺を見る。 俺はうなずいた。 「この考え方は、その人の人生に反映される」 「志の強さが際立っている人ほど、生き方は凜としている」 「その生き方を美しいと思い、志の強さを敬う者がいたら、考え方を受け継ごうとするのは自然なことだ」 「そして、敬う対象が自分の親であったとしたら、それはとても幸せなことだと思う」 「支倉はどう思う?」 「……その通りだと思います」 「それが、代々繰り返された中で残っているのが、東儀家のしきたりだ」 「自分の尊敬する人たちが守ってきた生き方が、そのまましきたりとなっている」 「良い悪い、正しい正しくない、というようなものではない」 「当然、縛るようなものでもない」 「祖先たちが代々守ってきた価値観を敬う気持ちが、しきたりを守らせるのだ」 東儀先輩から発せられる言葉と周囲の空気の重さに、みじろぎ一つできない。 これが、名家の当主が持つ信念か。 そんな空気がふと緩む。 「俺自身、子供の頃はあれほど嫌がっていたが……」 「もし将来、自分が跡継ぎを育てる立場になったら、父と同じことをする気がしている」 「実際、分家や島の人間からは、父に似てきたと言われるようになった」 「父は、俺にとっては大きな目標だ。東儀家当主としての」 「だから、似てると言われれば、嬉しく感じる」 「俺は今、東儀一族……家族を守ることが、使命だと思っている」 「自らを犠牲にしても、だ」 「学業やスポーツ、社会的な地位も、東儀家を守るための手段の一つに過ぎない」 「父は何も言わなかったが、東儀の当主として生きるというのは、きっとそういうことなのだろう」 「その厳しいまでの意志の強さを持った父を、いつしか俺は敬うようになっていた」 「もちろん、白も東儀の人間として、東儀の考え方を敬ってくれればと思っている」 「これは、俺の願望だが」 ……“東儀の人間でなければ”って言っていたのは、そういうことだったのか。 東儀先輩の言葉が重くのしかかってくる。 しかし。 それでも…… 俺は一つだけ聞いておかなくてはいけないことがあった。 「ご両親は、どうされているんですか」 「さっきは『いなくなって』と言ってたと思うんですが」 「……」 「そうだったな」 かすかに、苦渋の表情。 重苦しい沈黙の後、東儀先輩が口を開いた。 「一族の長たる父は……」 「しきたりに殉じた」 え? 「殉じたって……」 「死んではいない。ただ、生きているとも言えない」 「ただの、物言わぬ人形となっている」 「それは……」 「かつて俺が叱られ、島の人々に敬われた姿は見る影もない」 「あるのは、ただ光を失った瞳だけだ」 「父も母も、俺はおろか互いのことすらも認識できていない」 なんで…… そんな状態になってしまったんだろう。 「東儀家のしきたりとは関係があるんですか?」 「あるとも言える。厳密には違うかもしれないが」 「それは、東儀の問題だ」 そう言われては、俺には何も言えない。 「正直に言うと、俺は、その父の姿に深いショックを受けた」 「あれだけ父に叱られてきたが、父がそんな状態になっても楽になどならなかった」 「なんとか元に戻らないかと、四方手を尽くした」 「……が、すべて徒労に終わった」 「生きる意欲を失いそうになった時期すらあった」 「……白には、これを伝えていない」 ……。 途中経過を無視した正論がいくつか頭の中に浮かんでは消える。 自分が、いかに何も考えていなかったかを思い知らされ、打ちのめされる。 俺は……どうすべきなんだ? 「白は……支倉には心を許しているようだ」 「この話を、白に話すかどうかは支倉に任せる」 「俺は、支倉がどちらを選んでも、文句を言う立場にない」 「あ……」 「時間を取らせたな。俺の話は終わりだ」 そう言うと、俺の考えがまとまりきらないうちに東儀先輩は席を立ち、図書館を出ていってしまった。 精一杯張った虚勢。 支倉には、何か伝わっただろうか。 こんなに語ったのは、いつ以来だろう。 それも、あんな内容を。 思い出すと、羞恥に顔が歪む。 ……俺は、それを打ち消すように、監督生棟への階段を駆け上る。 監督生室には誰かいるかもしれない。 千年泉に行こう。 泉のほとりに立つ。 速まっていた鼓動は、すぐにいつもの落ち着きを取り戻した。 ──この泉はいつ来ても澄んでいる。 澄んだ水を見つめていると、心が落ち着く。 東儀家が私財を投じて行った事業としてよく紹介される東儀上水も、水源はこの泉だ。 自分の中に流れる血、そしてそのルーツを思うと、この場所には何か惹かれるものがあるのかもしれない。 ……。 白は、ここに来たときに同じことを思うだろうか。 東儀家の人間としての生き方をどう考えているのだろうか。 しかし。 白には幸せになって欲しいとも思う。 さっきは、白の面倒を見ていたのは親によく見られたいためだったと口走ったが…… もちろん、白のことを考えていないわけがない。 白が幸せになるために、そう思うばかりに。 俺は、俺の考える「白の幸せ」を押しつけているということだ。 面と向かって白にそう伝えられるだろうか。 いや、俺には難しいだろう。 それを支倉に託したのは、俺自身が逃げたと言うことなのかもしれない。 東儀家の人間としての生き方を白に忘れてほしくないということ。 白に幸せになってほしいということ。 これは、両立するのだろうか。 泉の水面をいくら眺めても、この疑問への答が出ることは無い。 出ないからこそ、なおのこと澄んだ水に心が惹かれるのかもしれない。 東儀先輩と話はできた。 白ちゃんには、まだそのことを話していない。 ここ何日か、どうすべきかを考えていた。 俺にとって、白ちゃんにとって、どうするのがいいのか。 そして、東儀先輩や、東儀先輩が聞かせてくれた東儀家の話も併せて考えたとき、どうするのが一番いいのか。 東儀先輩は、本心や、白ちゃんに隠していたことを話すのか、俺に任せた。 俺が東儀先輩の話を理解しないまま、白ちゃんに伝えることはできない。 何が最善なのか、真剣に考えなくては。 ……白ちゃんと東儀先輩の話を聞いていて強烈に思ったのは、二人の絆の強さだ。 あの二人は、互いに、互いの存在があってこその生き方をしてきた。 普通の兄妹とは比べられない。 もしかしたら、今の白ちゃんに聞けば「兄さまよりも大切なものがあります」と言うかもしれない。 でも、それは本心だろうか? 深層心理を表に出してないだけなんじゃないか。 そうじゃなければ、当たり前すぎて気づいていないのかもしれない。 白ちゃんが、東儀家や東儀先輩のことを大事に考えていないはずがないのだ。 俺は、その“表に出ない気持ち”を、大事にしてあげないといけない。 白ちゃんがしっかり自覚してないのをいいことに、その気持ちを無かったことにしちゃいけないと思う。 おせっかいだろうか。 一歩間違うと、「白ちゃんのために」自分のエゴを押しつけることになるかもしれない。 それは、東儀先輩と同じパターンだ。 だが……これは、たぶん正しいことだと思う。 白ちゃんが見失っていること、見失っているものを見つけること。 俺は、まずその手助けをしなくちゃいけない。 例え俺が何を失おうとも、白ちゃんのためにはそれが一番のはずだ。 白ちゃんと、東儀先輩の、仲直りが。 ──考えて、考えて、考えて、俺が出した結論だ。 「ラストスパートよ」 副会長の目の前には、文化祭関係の書類が山積みだ。 「これ、支倉くんの分ね」 「りょーかい」 「これは兄さんの分」 「やれやれ、征もいないし真面目にやるか」 気合いを入れて、書類のチェックを始めた。 文化祭直前、生徒会の仕事もフルスロットルだ。 ……白ちゃんは、今日から登校している。 ただ、ここ数日でローレル・リングの準備が遅れ気味とのことで、監督生室には来ていない。 今頃は、礼拝堂で準備をしているに違いない。 一方東儀先輩は、特例の休学をもらって実家で祭りの準備をしているそうだ。 珠津島神社の祭りまでに、白ちゃんと落ち着いて話をするタイミングが取れるかどうか……微妙だ。 「さ、ちょっと早いけど、そろそろ上がりましょう」 「今日までにできることはしたわ」 「そうだな」 「体を休めるのも仕事だ」 ……夏休みが終わってからは、あっという間だった。 毎日、文化祭当日に向けての準備をしているだけで、二週間が飛ぶように流れていった。 この間ずっと、門限ギリギリに帰っていた。 充実はしていたし、やりがいもあったけど、体はくたくただった。 「当日は、私たちが一番元気に迎えるくらいじゃなきゃだめよ」 「ほら支倉君、飲むかい?」 会長が、ドリンク剤を渡してくれる。 「いただきます」 「さて、じゃ、戸締まりして行きますか」 「あ、俺ちょっと、礼拝堂に寄って帰ります」 「ローレル・リングを手伝って徹夜とか、そういうのは駄目よ」 「私たちは、全体が上手く回るようにするのが仕事だからね」 「ま、そういうことだ。ほどほどにな」 「上手くやるのよ」 「上手くやれよ」 これは…… 二人が俺を励ましてくれたに違いない。 「じゃ兄さん、行きましょ」 「お疲れさまでした」 二人はそのまま階段を下りて行った。 ローレル・リングでは、バザーと、修智館学院での礼拝堂やローレル・リングの歴史の展示を行う。 展示の方は毎年ほぼ使い回しで済むそうだ。 バザーも、商品を並べて売るだけ。 準備と言えば、写真を並べることと、商品の値付けがほとんど。 そして、それらも昨晩にはほぼ形になったと、白ちゃんがメールで教えてくれた。 「ちわーす」 「あ、支倉先輩」 白ちゃんが、とてて、と走ってくる。 「白ちゃん」 「シスター天池は?」 「もう準備を終えられて、帰りました」 「白ちゃんはまだまだかかりそう?」 「あとは、値札をつけて終わりです」 「支倉先輩は?」 「ああ、生徒会も今日は早めに上がって、当日に向けてしっかり休めってさ」 「もしまだ手間取ってるようなら、手伝おうかと思ってきたんだけど……」 「あと5分くらいで終わります」 「じゃ、一緒に帰ろう」 「すみません、では雪丸の散歩をお願いできますか?」 「わかった」 ウサギ小屋に行き、おとなしくしてる雪丸にリードをつける。 おとなしいフリをしてるのは、学習の成果だ。 リードをつけるときに騒いでいると、散歩が無くなることを経験から学んだようだ。 ウサギ小屋から、雪丸を出す。 夕方だし、白ちゃんもそんなに遅くならないようだし、礼拝堂の周りをぐるっと回ればいいかな。 時計回りに、歩き始める。 ぴょこぴょこ 雪丸が、案外俊敏に歩く。 遠くの草が気になってみたり、俺の脚にまとわりついてきたり。 急に走ったかと思えば、丸くなってしゃがんでみたり。 「お待たせしました」 白ちゃんが礼拝堂から顔を出した。 「これで散歩は終わりだ、雪丸」 抱えて、ウサギ小屋へと入れた。 時間が少ないせいか、不満そうにも見える。 「また今度出してやるからな」 「ありがとうございました」 「いいよ。俺も雪丸の散歩好きだし」 「じゃあ、帰ろうか」 「はい」 空が、オレンジから紫色に変わりつつあった。 噴水まで来る。 「あ……」 この高さから見下ろすと、校舎がよく見える。 文化祭の前日ということもあって、まだまだ生徒が残って、作業をしていた。 今日は門限も緩くなる。 屋外でもライトを使っての装飾作業などが続いており、ここから見るととてもきれいだ。 「成功するといいですね」 「ああ」 これまで積み重ねてきた準備が花開く日。 最後の一瞬に華々しく命を燃焼させる蝉の一生のように、二日後には使命を終える展示や装飾。 今まさに、眼下で行われている営みは、地上に出かけている幼虫なのだ。 祭りというのは、そういうものだから美しく、楽しいのかもしれない。 祭り。 ……祭りといえば。 白ちゃんは、神社や舞のことを一度も口にしない。 どうするつもりなんだろう。 もう明後日だ。 行かないということにしたのだろうか。 それで本当にいいのか。 「白ちゃん」 「はい?」 「舞は、どうするんだ?」 思い切って、聞いた。 「舞は……」 「兄さまとは……結局、一度も合わせていません」 「兄さまからは、支倉先輩か舞かどちらかを選べと言われています」 「東儀家のしきたりを守れない者には、祭りで舞わせることはできないとも言われました」 「ここで兄さまと舞ってしまったら──」 瞳には、かすかに苦しげな色が浮かんでいる。 「支倉先輩より、しきたりを選んだことなってしまう気がして……」 そう言って、うつむいた。 「東儀家のしきたりを、破りたいわけではありません」 「でも、支倉先輩と離れるくらいなら……」 このまま、時間が過ぎるのを待つのか。 それが白ちゃんの選択。 「……そっか」 「はい……」 白ちゃんに、祭りのことや東儀先輩との仲直りについて話そうとした。 話そうとしたのだが…… 今にも泣きそうな顔を見て、それ以上何も言えなくなってしまった。 白ちゃんにとっては、とても大切な問題だ。 軽率には動けない。 「生徒会の仕事で忙しいかもしれませんが……」 「文化祭、一緒に回れるといいですね」 「ああ」 生徒たちの手作りの祭りを見る白ちゃんの横顔は。 今にも消えてしまいそうなほど、儚げに見えた。 早く寝て体調を整えなさいよ、と副会長に言われていたのに、なかなか眠れなかった。 ……。 白ちゃんが、苦しんでいる。 迷っている。 俺にできることは、せめて楽しい思い出を作ること……なんだろうか。 いや、違うはずだ。 諦めちゃだめだ。 白ちゃんの気持ちを、しっかり見極めなくちゃいけない。 「!」 これは……! 「くっ」 壁により掛かり、膝をつく。 何も、こんなときに。 あと二日。 あとたった二日でいい、なんとかもってほしい。 ここで、俺が抜けるわけにはいかないのだ……。 俺が止めるわけにはいかないのだ。 鉛のような脚を引きずり、部屋へ向かう。 一歩ごとに体力を削られているような感覚。 転ぶ。 立ち上がる。 誰かに見つかる前に、早く部屋へ戻らねば。 なんとか部屋にたどり着き、ベッドに体を横たえる。 しかし、こんな時に来なくても。 この感じだと…… あと二日、もつかもたないかギリギリといこうところだろう。 急速に意識にモヤがかかってくる。 「ふう」 秋季例大祭が迫っている。 二人で舞う舞も、今年は一人か。 しかし、それでもやらねばならない。 もう白はいない。 ……。 分家や氏子も、情けない当主と笑うだろう。 だが、たとえ一人でもやらないわけにはいかない。 それは俺にとって大切なもののために、許されない。 たとえ、胸に大きな穴が開いていても。 「ふっ」 自嘲気味の笑いが漏れる。 今まで、白と正面から向き合ってこなかった罰か。 白を心の拠りどころとして利用していたのだ。 白が自立したことで喪失感を覚えるのも当然かもしれない。 「は……」 目を閉じる。 暗闇の中、一人の人間の姿が像を結ぶ。 父さん。 申し訳ない。 俺は家を守れなかった。 貴方に教わったことを、結局果たすことはできなかった。 ……白は、東儀としての生き方を捨ててしまった。 つなぎ止めることができなかった俺が悪い。 貴方から受け継いだ、当主としての責務。 全うすることもできず、無為に過ごしている。 申し訳ない。 これでは当主失格だ。 ……結局俺は、貴方に褒められることはなさそうだ。 文化祭が始まった。 幸い、天候は開催にふさわしい晴天となった。 ぱんっ! ぱんっぱぱぱんっ! 早朝に打ち上げる音だけの花火が、決行の合図。 山腹にある学院で鳴れば、島内にもかなり聞こえたことだろう。 ちょっとわくわくしてきた。 「さあ、始まるわ!」 腕まくりでもしそうな勢いの副会長。 花火に点火して、盛り上がっているようだ。 今の花火を合図とするように、寮から生徒が登校し始める。 この時間だと、昨晩、準備をやり残したクラスか。 もしくは、最後の詰めの装飾に来た部活か。 いずれにせよ、わずかな疲労感と、それを吹き飛ばすくらいに輝いた瞳が印象的だった。 ──数時間後、校内放送による会長の華々しい開会宣言が、祭りの幕を開いた。 ちょうど昼あたりに、一度顔を出した東儀先輩も、神社の祭りの準備があるといって謝りつつ抜けていった。 白ちゃんも、今頃はローレル・リングで一日目のまとめと二日目の準備をしているはずだ。 「おっ疲れさまーっ!」 紙コップにジュースで乾杯。 「一日目は無事に終了したねえ」 「ああっ。僕が在学中の文化祭も、明日で最終日か」 「6年生は誰だってそうでしょ」 俺と同い年の副会長はともかく「人間だったら長寿新記録」という会長が今回初めての在学なのかどうかは、聞かないでおく。 「支倉君。覚えておいた方がいい」 「祭りというのはね、始まったときは既に終わっているようなものなんだ」 「はあ」 わかったような、わからないような。 「例えば一年間の農業の収穫を祝う祭り、というものがあったとしよう」 「豊作だったらその感謝を、凶作だったら来年の豊作を祈るわけだが……」 「本当に誰もが飢えて生きるか死ぬかという状態だったら、祭りなんてできないだろう?」 「どんな状態でも、せめて祭りを行える一年だったということが重要なのさ」 「……」 会長が、ほんの一瞬だけ、ちらっと俺を見た。 「文化祭の方がわかりやすいんじゃない?」 「日頃生徒が文化的な生活をしているから、文化祭が成り立っているわけだし」 「普段は非文化的なのに、文化祭の時だけ文化的に振る舞うのは無理ってものよ」 「なるほど……」 副会長はともかく…… 会長は一般論ではなく、俺に向けて話をしたように思えて仕方ない。 今日一日で疲れた頭を必死に回す。 つまり、この話を珠津島神社に置き換えると…… 普段から、神社を支えてくれている氏子さん。 神社を訪れる人たち。 神社を保守する人たち。 そういった、多くの人に支えられて東儀家は御輿の一番上に乗っている。 御輿を担ぐ日に、御輿の上に乗るかどうかよりも…… 御輿を担いでくれる人がいることが重要だということだろうか。 ……違うな。 違うような気がする。 「でも、普段積み重ねてきたことの成果が確認できるのも文化祭なんでしょうね」 「養分だけため込んで、花や実をつけない植物はないもの」 「花や実は次代を残すための生存活動だろう?」 「前期課程の子たちが、今日もたくさん来ていたじゃない」 確かに、ぞろぞろと連れだって歩いているのを見た。 「各部活動にとっては、来年の新戦力へのアピールの意味もあると思うの」 「それは生存活動に近いんじゃない?」 「クラスごとの出し物は?」 「それは……」 「徒花、とは言いたくないわね」 「そうだな」 「目標と到達すべきポイントが見えるからこそ、人は努力するものなんじゃないかな」 「あとは、非日常の共有体験が団結力を高めるとか」 「そう。神事じゃないフェスティバルの要素も重要だ」 「ま、なんにしても……」 「参加者がいい祭りだった、と思えるのが一番さ」 「無理矢理まとめましたね」 「あら、でも真実だと思うわ」 「祭りに外部から参加する人も、実際に祭りを執り行う人も、その上の御輿に乗ってる人もね」 「それはつまり、今日の開会宣言が楽しめたので良かったと」 「閉会宣言は更なる脱皮を予定中だ」 「だからあの案はボツだって言ったでしょ!」 「それは残念」 「いったいどんな案を?」 「校舎屋上から、サーチライトに照らされた兄さんがパラシュートでグラウンドに降臨」 「しかも真っ赤な服を着て歌いながらね」 「それは……やめた方がいいと思います」 「格好いいと思うんだがな」 「それにきっと盛り上がるよ」 「ダメったらダメ!」 固くなりかけた空気を、一発で溶かすことができるのは会長の特技だと思う。 そして俺は。 会長が何かを言わんとしてた内容を、完璧に理解できたとは言わないけど。 少し、背中を押された気がした。 二日目に向けて、ある集団は今日のミスを取り戻そうと、別の集団はより成功を膨らまそうと。 今晩も、教室棟周辺は遅くまで情熱のるつぼとなっているようだった。 俺たちは彼らに声をかけたりしながら、寮への道を歩いている。 ……そこに、見慣れた人影が現れた。 「白ちゃん」 「あ、皆さん」 「そっち、終わったのか?」 「はい」 「今そちらに行こうとしていたのですが」 「今日は、こっちも終わりよ」 「一緒に帰ろうじゃないか」 「はい」 〜♪ あ。 これは……楽器の名前は知らないけど、祭りでよく聞く笛の音色だ。 珠津島神社から、風に乗って聞こえてきたのだろうか。 明日の例大祭を前に、あちらでも準備が進んでいるようだ。 白ちゃんが、ぴくっと緊張したような気がする。 〜♪ 「篠笛だね」 「……そうですね」 「明日は……そうか、秋の例大祭だ」 「はい」 会長は、あまり気を遣っていないように、普通に切り出した。 俺と副会長は、こっそり安堵のため息をつく。 「こちらも向こうも、大盛り上がりだと一番いいね」 会長が、そう言ったところで寮に着いた。 部屋の窓を少し開けてみる。 すると、ときおりさっきの音色が聞こえてきた。 華々しい舞台の裏には、地道な準備がある。 今、珠津島神社の祭りもその地道な準備が結実しようとしているところなのだ。 ……。 白ちゃんだって、夏休みからずっと、舞の練習をしていた。 それも、地道な準備の一つのはずだ。 実を結ぶことを、許されない木。 想像してみると、それはとても物悲しい感じがした。 文化祭の二日目。 そして最終日。 今日は、関係者や前期課程の生徒だけではなく、島の内外からの多くのお客様に来ていただく日だ。 ぱんっ! ぱぱんっぱぱぱんっっ!! 昨日と同じ花火を鳴らす。 近くの森から、驚いた鳥が二三羽飛び立った。 心なしか、音が大きくなったようにも聞こえる。 「さっ、今日はおもてなし精神全開で行くわ」 そう気勢を上げながら、落ちているゴミを拾うのも忘れない副会長。 俺たちも後に続いた。 今日は、白ちゃんと一緒に校舎内を先に見て回る。 もちろん仕事だ。 ただ……俺はこのとき、今日俺がやるべきことを一つ、しっかりと胸に抱いていた。 でもそれは一時忘れて、文化祭を楽しむつもりで歩き始める。 ……。 喫茶店やお化け屋敷は、ありきたりなものでは人気が出ない。 そのため、良し悪しはともかく様々な工夫があって楽しめた。 執事・メイド喫茶はまだマトモな方。 延々と列車が走る音を流していたのはボックスシート喫茶。 窓の下に小さなテーブルがあるだけで、とても飲み物が置ききれないのが人気のようだ。 ちなみに冷凍みかんが一番売れたメニューだという。 ウェスタンバーカウンター喫茶は、カウンターの上で必ずコップを滑らせて注文品を出す。 当然のように、三回に一回はこぼすという有様。 しかし、わざとこぼして客が大喜びする図式ができつつある。 校外からの来場者を案内したり、出展中のクラスや部活のトラブルを解決したりしていると昼になった。 「白ちゃん、せっかくだから何か食べようか?」 「そうですね」 「どこかおいしそうなところはあったかな」 「昨日、かなでさんから『ここはやめとけリスト』はもらったけど」 「うちのクラスの激辛喫茶で出すロシアン・タコヤキと、某国からの留学生があまりに本格的に作りすぎた謎スープがS級なんだってさ」 「支倉先輩のクラスは、あそこですよね?」 行列ができている。 「あれ?」 「おかしいな。並んでみる?」 「リストをよく見た方がいいのでは……」 あ。 よく見ると『紅瀬仕様』のみがS級と注意書きがあった。 「うちのクラスに、紅瀬さんっていう人並み外れた辛い物好きの子がいるんだけど」 「彼女が作ったのだけがS級なんだってさ」 「あ」 「何か失礼なことを言っている?」 「わあっ」 背後に現れた紅瀬さん。 「クラスの手伝いはまったくしていなかったのに、陰口は叩くのね」 「いやっ、陰口とかじゃ……ってかほら、俺は生徒会が」 「一つ食べて行きなさい」 目の前に出される、ロシアン・タコヤキ(S級)。 ゴゴゴゴゴゴ タコ焼きに威圧されるのは初めてだ。 「食べなきゃ……だめか?」 「(にこっ)」 これは……食べないわけにはいかない流れだ。 「……いただきます」 爪楊枝を適当に突き刺し、口へ運ぶ。 「てやっ」 ままよ、とばかりに一つを口に放り込む。 「む……」 もしゃもしゃと咀嚼。……そして、飲み込む。 「む、むむむ、むむむむむっ、むぐわあああああああああああっ!!!」 舌から火が! 喉からも火が! 火と火で炎!! つか辛いというより痛い! 「残念。一番辛くないハズレを選んだのね」 これでかよ!! 「ほわわわわわあわあああああああっっ!!」 俺は水道の蛇口まで全力で疾走した。 すぐに、白ちゃんが不安そうに来てくれた。 「大丈夫ですか?」 「だっ、大丈夫」 「たぶん。もう少しで……」 俺は何十回目かのうがいをした。 「あ、白ちゃんは食べさせられなかったんだ」 「あ、はい」 「『あなたはいいわ』って」 「劇物だって知ってて人に食わせてるのか紅瀬さんは……」 「あ、でも」 「紅瀬先輩、残りは全部ご自分で食べていらっしゃいましたよ」 これがS級の実力か……。 「もう一つの謎スープは絶対に避けような」 「そ、そうですね……」 俺たちはリストの信憑性を学んだ。 学習の成果は生かさなくては。 「……さて、じゃあ何を食べようか?」 「あ、おいしそうな香りが」 「ほんとだ」 ハーブの混じったスパイシーな香りは、空腹への攻撃力が抜群だ。 ふらふらと引き寄せられていく白ちゃん。 ……こんな食べ歩きも、文化祭らしくて楽しいよな。 そんなことを思いながら、白ちゃんのあとをついていく俺。 『某国の謎スープ』 なんだこの看板。 「このリスト、名前をボカしてあるのかと思ったら、まんまなのか……」 「びっくりだな、白ちゃん」 ぽん、と白ちゃんの肩に手を置くと、振り返った白ちゃんは泣きそうな顔をしていた。 手には、いつの間にか何かの器を持っている。 それは……謎スープ!? 「なんで持ってんだ!!」 泣きそうな顔の白ちゃんが、看板を指さす。 そこには“無料サービス中”の文字が書いてあり、にこやかな顔をした留学生が通りかかる人みんなに謎スープを配っていた。 「悠木先輩のリストは、信憑性抜群なのに」 「でも、どちらも不意打ちで……」 「……ぅぅぅ……」 俺たちは、トラブル対応の待機と見回りを交代するため、監督生室に戻ってきていた。 胃腸と舌があまりにショックを受け、俺は机に突っ伏している。 「それも文化祭の醍醐味さ」 「それは、そうかもしれませんが」 俺を心配そうに見ている。 「……ぅぅぅ……」 だらしない俺。 「ごめんなさい。わたしが受け取ってしまったばかりに」 「いや、日本人として国際交流のためにもあのスープは完食する義務がゲホッゲホッ!」 むせた。 「まあいいわ。ここで閉会近くまでのんびりできるでしょ」 「そうだな。もう起こるべきトラブルはあらかた起きただろうし」 「俺の勇姿が必見な閉会式までには具合、治しといてくれよ」 「じゃ、行ってくるわね」 「りょ、りょうかい〜」 俺と、白ちゃんが残る。 「S級の二つは、すごかったな……」 「わたしは、タコ焼きの方は食べませんでしたが、謎スープだけでも泣きそうになりました」 二人で一杯のスープを分けて食べた。 普通なら、ちょっといい雰囲気でいちゃついてるカップルというシチュエーションだ。 実態はタッグマッチに近かった。 近くの流しにはデカデカと『謎スープ流したら風紀シール!』というかなでさんの文字。 トイレは行列。 似たような顔をして、似たような器を持った人たちが何人も戦っていた。 「でも、まあ、いい思い出にはなった……かな?」 「あはは……そうとも言えますね」 二人とも弱々しい笑顔。 「……思い出……」 小さい声で、白ちゃんがつぶやく。 その横顔は、様々な感情が交じり合った複雑なものに見える。 ──日が傾いてきていた。 開け放たれた窓。 そこから入ってくる風。 〜♪ ああ、そうなんだ。 かすかに、聞こえるんだな。ここでも。 「……」 それは、ほんの一瞬だった。 白ちゃんが、本当に悲しそうな顔をした。 ――舞いたい。 やっぱり、そうなんだ。 伝わってくる気持ちに、胸が締めつけられた。 「……ちょっと、涼しくなってきましたね」 そう言って、窓を閉めようとする。 「窓は、開けておいて」 「そ、そうですか」 一瞬だけ辛そうな顔をするが、すぐに笑顔を作る。 「じゃあ、お茶を持ってきます」 そう言って、白ちゃんは給湯室に行く。 何かから逃げるように。 「白ちゃん」 俺は、給湯室へ行こうとする白ちゃんを呼び止めた。 話を切り出すのは、今しかない。 「……はい」 白ちゃんは、振り返らない。 「白ちゃん」 もう一度呼びかける。 「……」 「白ちゃん……」 白ちゃんの肩に手を載せ、そっと、こっちを向かせる。 「は、支倉先輩……」 白ちゃんの瞳が、涙に沈んでにじんでいる。 下まぶたは、決壊寸前だ。 こぼれそうになるしずくを、必死に必死にこらえている。 「話があるんだ」 「そのまま聞いてくれ」 白ちゃんは、小さく、本当に小さくうなずいた。 「前に、東儀先輩と話をしたんだ」 「俺に何かできることはないかと思って」 「……」 白ちゃんは、少しだけ意外そうな顔をした。 「それを白ちゃんに伝えるのがいいのか悪いのかわからなかった」 「白ちゃんが、どうしても聞きたくないっていうなら、言わない方がいいとも思ってた」 「それに、本来は東儀先輩が白ちゃんに直接話すべきことなんだ」 「……」 「でも、ここ数日……」 「特に、祭り囃子が聞こえてきた時の白ちゃんを見ていると、辛かった」 「そ、それは」 「さっきだって、俺が初めて見るほど悲しそうにしてた」 「ぅ……そうでしたか……」 「だから、話した方がいいんじゃないかと思った」 「というより、話してほしいんじゃないかと思ったんだ」 「それがたとえ東儀先輩から直接じゃなくても」 「……はい」 白ちゃんは、もう泣きそうな顔をしてはいなかった。 代わりに、瞳に宿る強固な意志の光。 俺は、順に、東儀先輩から聞いた話を白ちゃんに聞かせていった。 白ちゃんが、東儀先輩に言えないことも俺に話していた──この事実に、東儀先輩が自分を不甲斐ないと思っていたこと。 古風で厳しい父親に、東儀家の当主としてふさわしい人間になれと言われて育ってきたこと。 文武に励んでも褒められず、そんなことで満足するなと逆に怒られたこと。 しかし、白ちゃんの面倒を見ている時だけは、父親の機嫌が良かったこと。 そして……その父親が亡くなってからも、東儀先輩は白ちゃんの面倒を見ることに自分の価値を見いだしてきたこと。 ──ここまでを一気に話す。 白ちゃんは、そんな東儀先輩の話があまりに意外だったのか、声も発せず聞き入っていた。 促されるように続きを語り始める。 「しきたり」というものに対する、東儀先輩の考え方。 大切にすべきだと思ったことを守る志の強さ、その凜とした生き方を美しいと思い、敬うこと。 それを代々繰り返していく上で研ぎ澄まされたものが、しきたりであること。 そして東儀先輩はいつしか父親を東儀家当主としての目標とするようになったこと。 今では、自らを犠牲にしても東儀家を守ろうと考えていること。 ……この話をしてくれた時の東儀先輩のことを思い出しながら、俺は白ちゃんに話した。 東儀先輩の思いが、ちゃんと伝わるように。 ……一度は泣くのをこらえた白ちゃんの瞳から、涙がこぼれた。 白ちゃんの両親のこと。 東儀先輩の苦悩。 その苦悩の大きさに白ちゃんが泣いている。 東儀先輩が、ちゃんと白ちゃんのことを考えていたことに泣いている。 「わっ、わたっ……し……」 「兄さまのおかげで……楽をして、生きていたんですね……」 嗚咽混じりの、白ちゃんの声。 「兄さまに迷惑をかけないように、かけたくない……と思っていました」 「なのに、もう……迷惑ばかりかけて……」 「……ぅ……っく……ぐす……」 「白ちゃんは、どうしたい?」 「え?」 「舞いたいか、舞いたくないのか」 「舞いたい……です」 白ちゃんが、そう望むなら。 舞台は、俺が整えよう。 生徒会で散々やってきたことだ。 「白ちゃん、行こう」 「え?」 「お祭りにさ」 「えっ? えっ?」 驚いている白ちゃんの手を引き、監督生棟を出る。 〜♪ 外に出ると、日が傾いているのに気づく。 祭り囃子もよりはっきりと聞こえる。 「祭りが始まるのは何時から?」 「あ、えと……5時です」 「でも」 きっと、着替えたりするのに、もっと時間が必要となるだろう。 そう考えると、もう時間はない。 いいとこギリギリだろう。 ……俺は、携帯電話を取り出した。 階段を駆け下りながら、呼び出し音をじれったく聞く。 「どうした」 「チャリを借りたい」 「俺が使ってるチャリってことか」 「ああ。原動機付きのやつだ」 「頼む」 「……わかった」 「あまり校門には近づけないから、曲がった角のところでいいか」 「できるだけ急いでくれ」 「おう」 通話を切る。 「?」 「すぐに、神社に着けるからな」 金角銀角のいる校門を駆け抜ける。 司が来てくれる警備員に見つからない位置まで、白ちゃんの手を取って走る。 「でも、もう」 「間に合う」 「間に合わせるから」 「よう」 ちょうど、司も到着したようだ。 バイト中だろうに、早い。 これで、なんとかなるかもしれない。 「特上原チャリ『コスタリカ号』お待ち。お代は時価だ」 「助かる」 「出前機は外したが、シートはない」 「ワイシャツでも丸めて座布団がわりにするさ」 何も言わずにバイト先の出前用原付を貸してくれた親友に礼を言い、またがる。 白ちゃんも司にぺこりと頭を下げた。 司は、今日の出前は普通の自転車で行うことになるのだろう。 「じゃ、恩に着る」 「おう。こかすなよ」 「あと、終わったあとでいいから事情を聞かせろ」 「わかった」 返事はしたものの、田舎の畑で親戚のに乗らせてもらって以来、数年ぶりの原付だ。 しかも2ケツ。 自信は無かった。 司のヘルメットは、白ちゃんにかぶせる。 俺は、グリップを捻った。 司がどんどん遠ざかっていき、すぐに見えなくなる。 俺たちは、学院から続く下り坂を疾走していた。 自転車とは明らかに違う速度で、景色が後ろに飛んでいく。 白ちゃんは、俺に必死にしがみついていた。 そもそも二人乗りするようには作られてないから、狭い。 幸い、学院から島の東の外れにある珠津島神社へ向かう道は、交通量がほとんど無かった。 おかげで信号なども無く、どんどん坂を下りていく。 パワーのない原付49ccエンジンでも、下り坂なら問題ない。 ──平地に降りてからは、小網代浜の脇の道を駆け抜けていった。 防砂用の松沿いに走るコスタリカ号。 夕焼けに海が染まっている。 静かな波。 〜♪ 祭り囃子が近づいてきた。 神社はもうこの辺なのか? 「白ちゃん、どこで下ろせばいい!?」 大声で叫ぶ。 「もうそろそろです!」 白ちゃんも叫んで返事をする。 その時、脇道から神社へ向かっていると思しき人の群れが現れた。 神社に近づけば、当たり前だが祭りに向かう人も増える。 こっちは無免許の原付に二ケツ。おまけにノーヘル。 あまり目立つところは走れない。 「次の左の脇道へ!」 「わかった!」 ハンドルを左に切る。 白ちゃんの指示した脇道は、すぐにまた砂浜沿いに出た。細かい砂利道だ。 がくがく揺れながらも疾走する。 神社らしき建物の屋根が見えた! 珠津島神社は、島の東の岬の先にあるとは聞いていた。 どうやら、海沿いに神社の裏手まで来たようだ。 「支倉先輩! ここで!」 「おう!」 ブレーキ。 滑る後輪。 「きゃああっ!」 危なく転倒するところだったが、なんとか止まる。 「はあ、ふう……危なかった……」 「ありが……」 「いいから早くっ」 「は、はいっ」 白ちゃんが、神社の裏手から鎮守の森をかき分けて、お社の方へと駆けていく。 時計を見る。 のんびり歩くと一時間近くかかる道のりを、わずか数分で走破したようだ。 これも司とコスタリカ号のおかげだ。 俺はこっそり原チャリを隠して駐め、神社へと向かった。 神社の祭りとしか聞いていなかったが、派手な露店や装飾はまったく無かった。 祭り囃子が鳴り響く。 学院の一番奥の監督生棟ですら聞こえたのだ。 島の旧市街側には、十分その音は届いているだろう。 人々が、神社に集まってくる。 その流れは、途切れることが無かった。 神社のさほど広くない境内は、やがて人で埋め尽くされた。 やがて、祭り囃子は止まり、集まった人たちのざわざわという声だけが聞こえるようになる。 ……はたして、白ちゃんは間に合ったのだろうか。 そして、白ちゃんは舞に出してもらえることになったのだろうか。 舞は、祭りの一番最初に行われるという。 大勢の人たちと一緒に、その舞の開始を待つ。 白ちゃんは、5時に開始と言っていたはずだ。 その5時を回った。 まだ始まらない。 少し、周囲もざわついてきた気がする。 その時だった。 響き渡る笛の音。 人々のざわめきに満ちていた境内が、一瞬で水を打ったように静まり返った。 神楽殿の幕が上がる。 楽器を持った人たちが並ぶ中、真ん中に立っているのは、東儀先輩。 幕がゆっくり上がりきるまで、東儀先輩は微動だにしない。 白ちゃんは……どうしたんだ? くるり 東儀先輩が音もなく回る。 すると、背中合わせに立っていたのであろう。 白ちゃんが、姿を見せた。 二人は、くるくると何度も立ち位置を入れ替えた。 これは……二人の呼吸が合ってないと無理な舞だ。 それも、かなりのテンポ。 二人の背中がくっついているとしか思えない。 もちろんくっついてはいない。 時に離れ、時に向き合い、そして背中合わせに回る。 地元の信仰と混じり合った、不思議な舞だと白ちゃんは言っていた。 白ちゃんが手に持っているのは鈴。 要所要所で、しゃん! と鳴らしている。 東儀先輩が手に持っているのは、よく神主さんが持ってる木。 これも白ちゃんの鈴とシンクロしているように、ばさ! と振られている。 ……これで、本当に今年は二人での練習をしていなかったのだろうか。 今ここで舞を見ている人に聞いても、誰一人としてそんなことは信じないだろう。 左回りに回っていたかと思うと、次の瞬間には右回り。 ふっと二人が離れたかと思うと、次の瞬間にはまた一体となった動き。 流れるような動きのなめらかさ、優雅さ。 ぴしっと動きを止めたり方向を変えるときの正確さ、きびきびした動き。 温かさや優しさを感じさせる動きと、荒々しい激しい動きのコントラスト。 指先までピンと伸ばされ、体の隅々まで神経の通った舞に、見ている者すべてが魅了されていた。 ……途中、何度も白ちゃんや東儀先輩と目が合ったような気がした。 これはきっと錯覚だろうけど。 ……。 徐々に音楽が緩やかになる。 二人の回転が、ゆっくり速度を落としていく。 名残惜しいと思った。 もっともっと、見ていたいと思った。 そして……余韻を残して、二人の動きが完全に止まる。 舞が終わる。 すべての楽器も音を止めていた。 物音が一切しない。 こういう時、こういう場所で「拍手」という行為が妥当なのかどうかわからない。 などと迷っている間に、境内からは万雷の拍手が巻き起こった。 俺も、夢中で拍手をする。 人が舞うのを見て涙が出たのは初めてだった。 まして、あの二人がこれまでに辿った心の軌跡を俺は知っている。 ちょうど、さっきまで舞われていたように。 相手を見ることなく、背中合わせでくるくると。 でも本当は、あの二人は、相手を見なくても相手のことなんかみんなわかっているのだ。 二人の舞を見て、強くそう思った。 ──驚いたことに、舞が始まってから一時間の時が過ぎていた。 5分くらいで終わってしまったような気さえする。 それだけ、密度の濃い時間、密度の濃い舞だったということなのだろう。 俺だけではなく、境内にいる人たちは一様に感激しすぎて呆然としていた。 祭りはどうやら夜半まで続くらしい。 俺は、学院に帰らなくてはならない。 それに、司に原付を返さなくてはいけない。 まだまだ続く祭りに背を向けて、境内を出ようとする。 と、後ろから俺を呼ぶ声があった。 「支倉先輩!」 振り返ると、白ちゃんと……東儀先輩だった。 「あ……」 「舞、とても良かったです。感動しました」 「そうか」 「今日は、本当に、ありがとうございました」 深々と頭を下げる。 「支倉先輩がいなかったら、わたし……」 「舞うことができて、ほんとうに……」 「し、白ちゃん?」 「俺からも礼を言わせてもらおう」 「今日は助かった。ありがとう」 「や、ふ、二人とも、やめてくださいよ」 ……二人とも、舞が終わってからも何らかの手伝いなどで、最後まで残るそうだ。 俺は戻らなくてはならないので、詳しい話はまたあとで聞かせてもらうことにした。 最後に、ちょっとだけ白ちゃんと話をする。 「東儀先輩には、すんなり舞うことを認めてもらえたの?」 「兄さまには、怒られました」 「これから舞おうとする巫女が、鳥居をくぐらずに来てどうする、と」 白ちゃんがにっこり笑う。 その笑顔を見て。 俺は、強引だったけど、白ちゃんを神社まで連れてきて良かったと、心底思った。 司から借りたコスタリカ号を押しながら帰る。 さっきは緊急中の緊急事態だったからともかく…… 今は、さすがに制服で無免許運転をする度胸はない。 ぷっぷー そんな、原動機付自転車を押す俺を、車のヘッドライトが照らした。 「支倉か? なにやってんだ」 思えば、うちの生徒の姿も神社でちらほら見かけたっけ。 うちの文化祭から神社へ流れることを、陽菜は「カップルの王道ルート」と言っていた。 まあ……先生もいるわな。 「話せば長くなるんですが、とりあえず寿司屋のコレだけ返してきていいですか」 「盗んだバイクで走り出したか?」 「オマエがそんな情熱的な青春を送っていたとはな」 「盗んでません!」 「夜の校舎のガラスは割って回るなよ」 「割りませんって!」 なんか、アオノリの変なスイッチが入ってしまったようだ。 「あーすまん」 「で、免許は?」 「……持ってません」 「乗ってったりして、警察沙汰にはなるなよ」 「じゃ、寮で待ってるからな」 アオノリの車が学院の方向へ遠ざかっていく。 2ケツノーヘル無免許速度超過の瞬間が見つかるよりは、遥かにマシではあるが。 寮でお説教タイムが待ってるかと思うと、少しげんなりした。 まず海岸通りまで行き、自転車で走り回って汗だくの司にコスタリカ号を返す。 「で、どうだった」 「ああ。おかげで間に合ってうまく行った」 「こっちは数キロ痩せた」 「すまん。本当に恩に着る」 「じゃ、いずれ少しずつ返済してくれ」 次に監督生室へ行く。 教室棟は、祭りの後という風情で、片づけが始まっていた。 「あーっ、やっと戻ってきた」 「すんません、遅くなりました」 「こっちは寂しい打ち上げだったんだ」 「もちろん、素敵なネタを持ってきてるんだろうね?」 「あ、ええまあ、一応」 俺は、白ちゃんと東儀先輩の舞が上手くいったことを話す。 すると二人は、我がことのように喜んだ。 「やるじゃない」 「あの二人のこと、どうしようかって兄さんと話してたのよ」 「いやいや。正直支倉君がここまでやるとは思わなかった」 「あとから、征に舞台裏の話を聞いてみるか」 会長の閉会宣言を見られなかったのは残念だが…… この二人も、東儀兄妹のことを心配しててくれたのがわかって、俺も嬉しかった。 その後寮に帰り、アオノリのお説教タイム。 原チャリに乗るなら最低限免許を取れとか、制服では乗るなとか、実践的なアドバイスをいただいた。 「ふう」 俺はベッドに横たわった。 ずっと、心に重くのしかかっていた問題が、ギリギリだったけどなんとか解決した。 本当はまだまだ問題は多い。 でも、珠津島神社の例大祭に白ちゃんが無事加われたことは、大きな前進だと思えた。 いろいろあった今日は、このまま疲れに任せて寝てしまおう。 〜♪ 夜風に乗って、神社から囃子が聞こえる。 祭りの熱気はまだ島を覆っているようだった。 今日は、文化祭の後片づけの日だ。 文化祭終盤、生徒会の仕事ができなかったので、今日はバリバリ働こうと決めていた。 監督生室は引き続きトラブル対応が集中する。 終わってからも、問題は絶えないものだ。 副会長も、片づけが終わるまでが文化祭! と気合いを入れていた。 「二階の椅子と机の移動指示が混乱してるわね」 「支倉くん、行って指示してきて」 「多分、四階に紛れ込んじゃってるから」 「わかりましたっ」 「産廃業者が来るまでに、教室棟前にゴミはまとまるかしら」 「運動部の出店組が少し遅れそうだな」 「じゃあ支倉くん、グラウンドに行って急かしてきて」 「ハンドマイク、持って行くといいわ」 「おう、任せとけ」 「5年3組激辛喫茶で、余った食材を食べた生徒が……」 「食中毒は困るな」 「あまりの辛さに悶絶」 「それは放っておいていいんじゃないか」 「そうね。どうせ紅瀬さんでしょ、作ったの」 「4年5組前の廊下、看板をつけていたテープがはがれないって泣きが入ったわ」 「じゃ、これ。シールはがしスプレー」 「行ってきますっ」 「○×△□!」 「#$%&……」 「イエッサー!」 あちこちから入る連絡を、二人が処理していく。 俺は、実際に出向かなきゃいけない用件を解決しに走り回った。 石段を何回往復したことだろう。 でも、それは心地よい疲れだった。 それはきっと、祭りに参加してる実感だったのだ。 夕方になって、東儀先輩が監督生室に来た。 「予定より、遅くなってしまったな」 「構わないさ」 「いろいろ落ち着いたみたいだね」 「大まかな話は、支倉君から聞いたよ」 「そうか」 「征も近いうちに、詳しい話を聞かせてくれよ」 「気が向いたらな」 「それより、文化祭も無事終わったようで良かった」 「人手が足りずに苦労したんじゃないか」 「大丈夫よ。今日は支倉くんが走り回ってくれたし」 「迷惑かけたし、あれくらいはしないとな」 「そういえば白から、不穏な話を聞いている」 「なんでも、白を乗せて違法な二人乗り、ノーヘル、速度違反、そもそも無免許での原付運転……」 「ほう!」 「目を輝かせないっ」 「その件については、アオノリにバレてこってり絞られました」 「白を危険な目に合わせたのではないかという話だ」 「……すみませんでした」 「ふう……征一郎さんも変わらないわね」 「完全復活だな」 「ところで、白は?」 「礼拝堂で片づけをしているはずだ」 「もうすぐ打ち上げするから、呼んで来た方がいいわね」 「支倉君、頼めるかな」 「わかりました」 うなずいて、監督生室を出た。 夕焼け色に染まった礼拝堂は、幻想的だ。 周りには生徒も先生の姿も見あたらない。 白ちゃんは、中にいるのだろうか。 そう思って扉を開いた。 ぴょこ 「うおっ!?」 「えいっ」 どんっ 「ぐおっ」 白ちゃんがいきなり俺に抱きついた。 「は、支倉先輩!?」 「すみません」 ばっと俺から離れる。 「雪丸、また逃げたのか?」 「はい……」 なんという脱走率だろうか。 今度、俺が小屋を直してあげるべきかもしれないな。 「捕まえるの、手伝うよ」 「あ、ありがとうございます」 「どこ行ったかな」 「とりあえず、逃げられないように扉を全部閉めよう。窓も」 「はい」 白ちゃんと手分けをして、換気用の窓からなにから、すべての窓を閉めた。 「あっ、いた!」 長椅子の後ろをぴょこぴょこ駆けていった。 「え? え?」 白ちゃんは見つけられていない。 「……なあ、誰かが来て扉を開けたら、そこから逃げてっちゃったりしないかな」 「な、なるほど」 「鍵を閉めた方が安全ですね」 白ちゃんがすべての扉の鍵を閉める。 「さて、じゃ、ゆっくり探すか」 「どこか、お気に入りの場所はあるのかな。雪丸」 「そうですね……強いて言うなら、祭壇でしょうか」 「でも、静かにしてて、雪丸の気配に耳を澄ますのがいいと思います」 「そか」 ……。 白ちゃんと二人、静かに耳を澄まして雪丸の気配を待つ。 ……。 「……支倉先輩、ありがとうございます」 白ちゃんが、小さな声で言った。 「気にするなよ。ウサギを捕まえるのには、慣れてきたし」 「ウサギを捕まえるの、お上手なんですね」 初めて白ちゃんと会った時に言われたっけ。 あの時は、恋人になるなんて思ってもみなかったな。 「その、雪丸のことだけではなくて……」 「至らないわたしを、選んでくださいました」 「いっぱいいっぱい、幸せな気持ちにしてくださいました」 「東儀家の中で結婚するはずだったわたしの運命を、変えてくださいました」 「兄さまとのことも……」 どこまでも深く澄んだ瞳が、俺に向けられる。 ふわり、と白い服が揺れた。 「だから、ありがとうございます」 そう言って、柔らかい微笑みを浮かべた。 「んっ」 吸い込まれるように、小さな桜色の唇に、唇を当てた。 「お礼なんか、いらない」 「白ちゃんだって、俺を幸せにしてくれただろ」 「支倉先輩……」 白ちゃんの頬が、朱に染まっていく。 恥ずかしそうに、俺の両腕に触れた。 そのまま、胸の中へと体をあずけてくる。 白ちゃんの柔らかさと、温もりと、匂いを感じた。 「そんなこと言われたら……」 「気持ちが……抑えられなくなってしまいます」 至近距離で俺を見上げ、つぶやいた。 「んっ」 白ちゃんが、俺の唇に自分の唇を触れさせた。 「大好きです、支倉先輩」 「俺も、好きだよ」 白ちゃんを抱き寄せ、ゆっくりとキスをする。 「んっ……」 ……やがて、ゆっくりと唇を離す。 「礼拝堂で、キス……してしまいました」 白ちゃんの服装も、ローレル・リングの正装だ。 「シスターに見つかったら、ものすごく怒られてしまいそうです」 「鍵はしめたから、大丈夫だけどね」 「って、そういう問題じゃないか」 「でも、止められそうにありません……」 切なそうに言う。 「止めない方が、嬉しい」 白ちゃんにもう一度キスをした。 白ちゃんは目を閉じて、それに応える。 「ん……ちゅ……う……ちゅっ……」 今度は、ディープキス。 鍵をしめたことで、白ちゃんも俺も、少し大胆になっているのかもしれない。 白ちゃんの体をぎゅうっと抱きしめる。 「んっ……んちゅ……ぴちゃ……ちゅぱっ」 どちらからともなく、積極的に舌を絡める。 互いの舌を吸い、互いに相手の口腔に舌を侵入させる。 上半身は抱きしめ合い、脚も交互に絡める。 白ちゃんの太腿が、俺の股間に当たっている。 俺も、右足を白ちゃんの股間に押しつける。 どれくらいの間、そうしていただろう。 「んんっ……ぷはぁ……はぁ……あぁ……」 唇が離れる。 白ちゃんの目が潤んでいた。 「ごめん。俺、我慢できそうにない」 白ちゃんを抱きしめる。 白ちゃんの手が、俺の背中を撫でる。 慈しむように。 小さくてしなやかな手に、愛情を込めて。 「それでしたら……座ってください」 白ちゃんが、俺を長椅子に座るように促す。 「し、白ちゃん……?」 白ちゃんが、俺の両脚の間にひざまづく。 「支倉先輩、お願いです」 そう言うと、白ちゃんは俺のズボンのチャックを下げた。 お願いって……。 「支倉先輩に気持ちよくなって欲しいんです」 「初めて、支倉先輩と……してから、ずっと」 「え、でも……」 「ごめんなさい……支倉先輩と、また……」 「抱きしめてほしくて……」 「白ちゃん……あっ」 白ちゃんが、チャックの中から俺のものを取り出した。 「気持ちよくなってもらえるように、あの……す、少し勉強してきました」 「勉強?」 ちゅっ 白ちゃんが、亀頭にキスをする。 そして、両手でそっと俺の肉棒を包むように持つ。 「あ……硬くなって……」 白ちゃんの可憐な指でいじられたら、そりゃ勃つ。 そのまま白ちゃんは、不思議なもののように俺の屹立を見つめた。 肉棹が、きゅっと握られる。 「くっ」 握る手が、小刻みに上下に動く。 そして、時々亀頭がキスされたり舐められたり。 これは…… 「支倉先輩、気持ちいいですか?」 「あ、ああ」 礼拝堂で、シスター服の白ちゃんに、ペニスを舐められている。 すごく、どきどきしてしまう。 「ちゅっ……ぺろ……すごい……」 白ちゃんが舌でちろちろと亀頭を刺激する。 徐々に、白ちゃんの手の動きも大きく、早くなる。 「あ……」 「何か……出てきました」 先走りだ。 白ちゃんの唾液と混じって、肉棒をつたう。 くちゃくちゅと、湿っぽい音が礼拝堂に響いている。 「くっ」 白ちゃんが、肉棒を下から上まで舐めあげる。 舌の熱が、さらに俺を硬くする。 白ちゃんが手を動かし続ける。 両手の指が蠢き、揉まれる。 「し、白ちゃん……」 「んちゅっ……ちゅっ……」 白ちゃんは、俺が催促したと思ったのか、再び舌を肉棒に這わせた。 きゅきゅっと包まれるように握られる。 その動きが速まっていく。 もう、俺の肉棒はべとべとだった。 「支倉先輩、どうすれば……気持ちよくなってもらえますか?」 「う……」 「え、遠慮なく言ってください……」 「な、舐めるだけじゃなくて、その……」 「くわえた方がいいですか?」 俺は期待しながら、うなずいた。 「お、おおきいです……」 俺の亀頭をくわえようとした白ちゃんだが…… 白ちゃんの小さい口では、本当に大きく開かないといけないようだった。 「あ、無理しなくても」 「いえ、やってみますね」 大きく息を吸って、俺の肉棒を口に入れる。 「ん、んん……」 屹立が、白ちゃんの口の中に飲み込まれていく。 熱い。 これは…… 手でされるのと比べて、気持ちよさが段違いだった。 「く……ぁ……」 「んん……?」 俺の口から思わず漏れた声に、白ちゃんが反応する。 上目遣いで俺を見る、俺の肉棒をくわえた白ちゃん。 まずい。 高ぶっていく。 「んんっ……んむ……ぢゅ……」 白ちゃんが、限界まで呑み込む。 舌が、白ちゃんの口の中で俺の肉棒を舐める。 「う……あぁ……」 気持ちよすぎる。 「ん……っ」 白ちゃんの指は、根元から陰嚢へと伸び始めた。 「ん……んん……んんっ?」 気持ちいいですか? という顔だろう。 「あ、ああ……」 「すごく、いいよ」 白ちゃんが、嬉しそうに頭を動かす。 「んく……ぅんんっ……んぢゅ……っ」 唾液でべとべとの肉棒をくわえた白ちゃんの頭が上下する。 その動きが、どんどん速くなる。 指と舌の動きはぎこちなかった。 けどそれが、一生懸命やってくれてる感じがして、余計に愛おしさを増す。 「んちゅぱっ……ちゅっ……ずちゅっ……ちゅぱっ」 腰回りが……あまりに気持ちよくてふわふわしてきた。 「んくっ……んむぅ……んふ……んんっ……」 一心不乱に、しゃぶり続ける白ちゃん。 舌が、カリ首のあたりに絡みつく。 「くっ」 俺が反応すると、白ちゃんはそれが気持ちいい動きなんだと学習しているようだ。 今のカリ首のあたりへの舌の絡みつきは、それから何度も繰り返された。 「はむ……んふっ……んぢゅっ……れろっ……」 白ちゃんの鼻息が、根元のあたりにあたってくすぐったい。 指がそこを握り、小刻みに根元に打ちつけてくる。 ま、まずい。 白ちゃんの口、やばいくらいに気持ちいい。 懸命さにも胸が打たれる。 奉仕されている、という単語が頭に浮かぶ。 下半身が熱くなる。 「んっ……んん……んちゅっ……んくっ……」 一番奥まで口に含んだ白ちゃん。 これまでで、一番深い。 そして……頭を小刻みに動かす。 「あぁ……ぁ……」 射精感が一気にこみ上げてくる。 「んーっ……んく……む……ぢゅうっ」 白ちゃんが肉棒を吸い上げる。 「んあ……ぅ……あ……」 ぞくぞくと腰が震える。 「んんっ!……んぢゅっ、んむ……んく……っ」 白ちゃんの指の動きも速まる。 「あ……白ちゃん……出る……」 白ちゃんが頭をさらに小刻みに動かした。 「んっ、んんっ、ぢゅっ、んくっ」 「あ、あ、あぁ……っ」 歯を食いしばる。 一秒でも射精を遅らせ、一秒でも長くこの快感をと願って。 「んくっ、ちゅば、んんっ、んぢゅ、んっ」 しかしそんな努力も無駄に終わった。 ぞくぞくっ 俺は、こらえていたものを一気に白ちゃんの口にはき出した。 どくっ……びゅっ……びゅくっ……どくんっ…… 「んっ、んんっ〜〜?」 驚いた白ちゃんが、動きを止める。 喉の一番奥に、発射してしまった。 「んく……けほっ、けぷっ……けほっっ」 喉の奥に射精された白ちゃんが、咳き込む。 びゅくっ……どくっ……どっ……びゅっ…… 白ちゃんの前髪に、俺の精液がかかってしまった。 「白ちゃん、大丈夫?」 「ん、あ、は……はい」 鼻でしか呼吸できてなかった白ちゃんが、口で息を吸う。 「はぁ……はぁ……」 「白ちゃん……とても、気持ちよかった。やばいくらいだった」 「よ……かった、です……はぁ……」 「支倉先輩……ん……ぺろっ……」 俺の精液と白ちゃんの唾液でぬらぬらとしている肉茎に、白ちゃんが舌を這わす。 慈しむように。 「あっ……し、白ちゃん……?」 白ちゃんの手が蠢く。 ぐちょぐちょといやらしい音がする。 その動きが、どんどん速くなっていく。 柔らかくなりかけたペニスが、白ちゃんの手の動きに反応した。 「わっ……また、こんなに……」 白ちゃんの手の動きに、すっかり参っている。 「もっと……もっと、したほうがいいですか?」 硬さを取り戻したペニスを握ったまま、小首をかしげる。 「いや……白ちゃんを抱きたい」 「……はい」 こくん、と小さくうなずいた。 現実感の薄い光景だった。 俺は白ちゃんを立たせると、スカートを白ちゃん自身に持ち上げてもらった。 そして、その下に身につけている下着をずりさげた。 白ちゃんの下半身が、俺のすぐ目の前で、全部露わになる。 「あ……」 白ちゃんが羞恥に身をよじる。 パンツから右足を抜かせた。 そして、ブラウスのボタンを一つひとつ外していった。 ブラウスの裾をスカートから引き抜き、ブラは上にたくし上げる。 下半身も胸も、俺の目の前にある。 「白ちゃん、いつでも」 「お、お願いします」 礼拝堂の長椅子に座ったままの俺。 白ちゃんを俺の下半身の上にまたがせた。 両脚を、目一杯開かせる。 頭がくらくらするくらい、淫靡だ。 白ちゃんの両手が、俺の肩に置かれる。 再び硬く屹立した俺のものが、白ちゃんの割れ目の入り口に触れる。 「白ちゃん、座って」 「はい……」 白ちゃんは一度目を閉じ、深呼吸をした。 「……く……あふ……うぅっ!」 ぐっ…… ぐぐぐっ…… 白ちゃんが、ゆっくりと腰を下ろしてきた。 「はああぁぁ……、はあ……ふはあ……」 白ちゃんのまだ狭い穴をこじ開けて、俺の肉棒が突き刺さる。 いや、白ちゃんが自らに突き刺した。 「ああああっ……あっんっ……ふぁぁくあぁっ」 白ちゃんから溢れる蜜は、十分な量があったと思う。 それでも、白ちゃんの呼吸は荒い。 俺のもののサイズは、白ちゃんにはまだ大きいのかもしれない。 「白ちゃん、無理しなくても……」 「無理は、してないです……」 白ちゃんは、さらに深く腰を落としてきた。 「ああああぅぅん……んううっ……はあぁっ……くうっ……」 硬くなっている肉棒が、体重をかけて腰を下ろしてくる白ちゃんの最奥へと進入していく。 「あ、あー、あぁ……」 必死な白ちゃんに申し訳ない気もするが、ものすごく気持ちいい。 下半身から広がる快感が、背骨を伝って脳を直撃している。 こつん 「んくっ」 一番奥に届く。 俺の屹立は、ほとんど根元まで埋まっていた。 狭くて、熱い。 密着する俺たちの腰。 溶け合う俺たちの粘膜。 完全に一体化した俺たちの性器。 俺と白ちゃんはまさに結合していた。 「はあぁ……っんくっ……はあぁ……っ」 白ちゃんが、呼吸を整える。 「んんっ、く……んんんっ」 白ちゃんが動く。 両脚に力を入れ、腰を持ち上げる。 「うっ……ぁ……」 思わず、声が漏れる。 肉棒にどくどくと血が通っているのがわかる。 白ちゃんの中に埋まっていたものが、引き抜かれていく。 「うあぁ……はぁうぅ……ああぁぁ……んっ……」 抜けてしまうぎりぎりで白ちゃんは腰を止め、再び腰を下ろしてきた。 ずっ ずぶぶぶ…… 白ちゃんの膣が、再び俺のものを最奥部まで呑み込む。 膣壁は、ぴくっぴくっと俺を不意に締めつける。 「はああぁぁ……くはぁ……んんっ……はあぁ……ぅぅ……」 再び白ちゃんが腰を持ち上げ、下ろす。 少しずつペースが上がる。 そのうち、リズミカルな動きになってくる。 「っああぁ……はあぁ……んあぁ……うぅ……んくっ……」 腰の動きは、白ちゃんのぬめりの量と比例して、自然と加速していく。 俺は一度、思いきり白ちゃんの腰を持って、俺の腰にぐっと引き寄せた。 「やああぁぁ……っ、はあっ……んんんっ!」 白ちゃんの顔は上気し、二人の結合部分からは、淫液がどんどんにじみ出してくる。 白ちゃんも、我慢できなくなってきているようだ。 「あっ、あああ、ああんっ、はっ、あはぁぁっ!」 じゅぷっ、じゅぷうっ! 淫らな音がする。 白ちゃんの腰の上下運動が激しくなっていく。 こちらからも白ちゃんを攻めないと、あっという間にいかされてしまいそうだ。 「うぅんっ、うあぁっ……んあぁっ、ああぁんっ!」 大きく白ちゃんが脚を開いているので、結合部がよく見える。 その割れ目の上の端に、かすかな膨らみがあった。 白ちゃんのクリトリスが、そこの包皮からちらっと出ていた。 そこに指を当てる。 「んっ、あはああああぁぁぁっっ!!」 白ちゃんが、切羽詰まった悲鳴をあげる。 さらに、乳首をつまみ、舐め上げる。 「ふああっ……はあぁぁ……んんっ……支倉先輩……すごっ……」 「白ちゃん……白ちゃん……っ」 「ああぁんっ……あぁ……、あぁっ!……はぁ……んっ!」 だんだん、互いの動きに法則性が無くなってきた。 俺も白ちゃんも、本能に従って動いていく。 「ああっ!…はぁっ、ああっ!…んうぅっ」 「く……っ」 耐えきれずに、うめき声が漏れた。 白ちゃんは、夢中で腰を動かしている。 「支倉先輩……っ、支倉先輩……っ!」 うわごとに近い言葉を口から発する白ちゃん。 体全体を弓なりに反らせ、足を震わせている。 頭の中が真っ白になってきた。 きっと、白ちゃんも一緒だ。 お互いをむさぼるように、腰をぶつけ合う。 「あっ……あっあっ……あ、あ、あ、あ……あっ、あっ、あっ」 白ちゃんの腰を持って、小刻みに動かす。 「え……あっ!……うああああああぁぁぁぁっ!」 俺が、下から白ちゃんの一番奥まで突き上げる。 白ちゃんの全身が、ぷるぷると震えていた。 「っああぁ! はあぁ! んっ! うぅ……っ」 もう、息をするのも苦しい。 ただひたすら、全身が快感に支配されるまで、密着を繰り返した。 「っ! あっ! んっ!……んんっ、あああ、や、あ、あ、ああっ!」 「白ちゃん、もうっ」 「ああっ……わっ、わたしもっ、あっ、あっ、あっ、あああああぁぁぁぁぁっ!!」 熱い愛液が、白ちゃんから溢れてくる。 白ちゃんの膣壁が収縮し、きゅううっと俺のものを締めつけてきた。 「うあぁ……ああぁ……っ! あっ! っ! っ! っ!」 俺は、白ちゃんの腰をぐうーっと引き寄せ、肉棒を一番奥へと差し入れた。 きつく、白ちゃんを抱きしめる。 「ああ…っ、ぁあああああああぁぁぁっっ!」 びゅくうっ! びゅくっ! びゅうっ! 二度目とは思えないほどの量の精液を、白ちゃんの膣内に放った。 「あっ、はっ、あ、あ、ああぁ……ぁ……ぁぁ……」 どくっ! びゅくっ……びゅっ……っ…… 白ちゃんは、放心状態だった。 俺は白ちゃんの背中に両腕を回す。 そっと、震え続ける体を抱き寄せた。 そのまま、二人が離れるのを惜しむように、しばらく動かない。 華奢な白ちゃんの体。 抱きしめると、両腕の中にすっぽりと収まってしまう。 俺のものが、徐々に力を失いつつも、まだ白ちゃんの膣内にある。 「白ちゃん……」 「支倉先輩……」 唇を重ねる。 白ちゃんの中に精を放った余韻を味わいながら、濃厚なキスをする。 白ちゃんは、まだ未練がありそうだったけど。 俺は唇を放し…… 白ちゃんの腰を持ち上げて、俺の下半身との結合を解いた。 ぬるうっ ぽたぽたと、二人の体液が混じり合ったものが礼拝堂の床に垂れた。 「こんなに……汚してしまいました」 情けなさそうな顔で、床をふいている。 俺は、ぞうきんをバケツの上で絞った。 「ごめん、俺がキスしたせいだ」 「いいえ、わたしがいけないんです」 「頭がぼーっとしてしまって」 「支倉先輩しか見えなくなって……」 「我慢すればよかったのに……できませんでした」 情けなさそうにつぶやいた。 すごく後悔してるようだった。 「……ごめん、もうしないようにする」 白ちゃんの手が、ぴたりと止まった。 泣きそうな顔を、俺に向ける。 「……」 「礼拝堂では、もうしないってこと」 その顔を見て、補足した。 「あ……」 「そ、そうですよね、わたしも気をつけます」 恥ずかしそうにうなずいて、再び手を動かし始めた。 「ん?」 丸くて白い物体が、椅子の下に落ちている。 雪丸か。 寝てる……。 簡単にゲットした。 なんか忘れてる気がするな。 「あ、打ち上げ」 「はい?」 外に出ると、もう暗くなっていた。 「おそーいっ!」 「すまん」 「準備はとうにできているぞ」 「お、お待たせしました」 「何してたのよ、もう」 言えるわけがなかった。 「あ、あの、それは……」 白ちゃんがおろおろした。 「雪丸が逃げ出して、捕まえてたんだ」 嘘ではない。 「ふーん?」 「まあ、いいじゃないか。きっと二人だけの打ち上げをしてたのさ」 「……」 黙秘した。 「くだらないこと言ってないで、始めましょ」 「じゃあ、みんな飲み物を持ってくれ」 ジュースの入った紙コップを持つ。 「あーこほん、じゃあ、ちょっとここで小話を一つ……」 「文化祭、お疲れさまでした。かんぱーいっ!」 「乾杯」 「かんぱいです」 「乾杯!」 「……乾杯」 いじけている人がいた。 打ち上げが終わり、久しぶりにのんびりと大浴場に入った。 外で涼みつつ解放感に浸っていると、白ちゃんが来る。 「支倉先輩」 「白ちゃん」 「本当に、いろいろとありがとうございました」 「いや、良かったよ。白ちゃんが祭りで舞うことができて」 「そうじゃなかったら、俺が後悔するところだった」 「わたしもです」 そっと体を寄せてくる白ちゃん。 俺はその頭を撫でる。 「あ、雪丸に餌を……」 「出る前にあげといた」 「いつものでいいんだろ?」 「はい。すみません本当に……いろいろと」 「東儀先輩とは、話はできたの?」 「あ、いえ……実は祭りでごたごたしていて、これからなんです」 「でも、きちんと話が聞けると思います」 「兄さまも、ちゃんと話をするよと言ってくれました」 「そっか。良かったじゃないか」 ……少し考える。 「俺から、両親の話を聞いたことは、黙ってた方がいいかもな」 「東儀先輩も、本来は俺から言うべきことだって言ってたし」 「わかりました」 「そうしようと思います」 「わたしも、兄さまから直接聞くべきだと思います」 「聞いたあとどうするかは……」 「白ちゃん自身に、決めて欲しい」 口にするのは、苦しかった。 でも、そうしなければ何も解決しないだろう。 「……はい」 「白ちゃんが、これからは、いろんなことを自分で決めなくちゃいけなくなると思う」 「ちゃんとした事情を聞くってことは、それだけどうするかを決める責任を負うってことだろ」 「そうですね」 「……ちゃんと、考えて、決めたいと思います」 俺がお膳立てをしても、白ちゃんのためにならない気がしている。 俺も、東儀先輩も、白ちゃんも。 誰だって、人間、どこかの時点で一人で踏み出して行かなくてはならない。 そうでなくては、何も得られない。 白ちゃんにもそうしてほしい。 きっと、その先で、本当に得られるものがあるはずだ。 「東儀の人間としての義務を果たすことは、わたしにとっても、ひとつのけじめになったと思います」 「ああ」 「兄さまや、多くの方たちのお世話になったことを忘れることは、情けないですから」 「……そうだな」 「ここにいたか」 東儀先輩がゆっくり歩いてくる。 「支倉には、改めて礼を言わなくてはならないな」 「白が舞に来るよう、支倉が背中を押したのだろう?」 「なんといいますか……」 「その通りです、兄さま」 「ああ、そうだよな白」 「支倉にいろいろ話して、重荷を負わせてしまったことは申し訳ないとも思っている」 「俺もまだまだ子供だということかもしれないな」 「そんなことは」 「いや、そういうことだ」 「結果的に、最後まで支倉に頼ってしまったわけだからな」 「白」 「はい」 「これから、きちんと話す」 「うちのこと、両親のこと」 「はい、兄さま」 「っ!」 東儀先輩が少しふらついた。 「だっ、大丈夫ですか?」 「……例大祭の疲れがまだ残っているようだ」 「今晩、これから話そう。白」 「でも兄さま、お疲れなのでは?」 「いや、今の方がいいだろう」 「じゃ、俺は戻りますんで」 「すまない」 「では、支倉先輩、また明日」 「ああ」 俺は、先に部屋に戻ることにした。 寝る前に、白ちゃんに一通だけメールを打った。 白ちゃんと東儀先輩の二人で話し合って。 それから、白ちゃんが考えて。 結果、どういう選択肢を白ちゃんが選ぶのかはわからない。 だけど、白ちゃんが選んだやり方は尊重したいし…… 何より、白ちゃん自身が選択したことを祝福したい。 ──そんな思いを込めて。 兄さまから、父さまと母さまの話を少しだけ聞いた。 二人がまだ生きているということ。 でも、二人は互いのことも、わたしや兄さまのこともわからない状態だということ。 支倉先輩に聞いていた内容ではあったものの、兄さまから直接聞くことの重みはわたしを打ちのめした。 原因は「東儀のしきたりに殉じたため」とのことだった。 詳しくは近いうちに、と話は遮られてしまったけど。 しかし……次の日から兄さまが学院をお休みしたことには、さらにショックを受けた。 特例で実家に帰った兄さま。 確かに、体調は悪そうだったけど。 往診を頼んだかかりつけのお医者様は、しばらく安静にしますとだけ伝えてきた。 命に別状があったりはしないそうだけど…… わたしも見舞いに行ってはいけないという。 どうなっているのだろう。 兄さまは大丈夫だろうか。 病気? 怪我? もしかして、わたしのせいなのかな…… そんなことも考えて、押しつぶされそうになっていた。 支倉先輩も驚いていた。 でも、押しつぶされそうなわたしを支えてもくれた。 わたし自身が考え、そして選ぶこと。 それは多分、支倉先輩との恋愛の話ではなく、 卒業後の進路の話でもなく、 これからのわたしの人生を、わたしが選ぶということなのだろう。 兄さまに話を聞いてから五日後。 携帯に兄さまからのメールがあった。 『家に来なさい』 内容はたったそれだけ。 兄さまからメールが来ること自体、とても珍しい。 何がわたしを待っているんだろう。 いいことだろうか。 それとも悪いこと? まったくわからないまま、放課後、外泊の手続きを取って家に戻ることになった。 伊織先輩と瑛里華先輩も、励ましてくれた。 最後には支倉先輩が、きっと大丈夫、と背中を押してくれた。 そして、何があっても待ってる、とも。 生徒会の役員や、寮長などの役職の人は、9月末で交代となる。 そのための準備で生徒会も少し忙しかったため、帰るのは夕方となった。 「ただいま帰りました」 「白か」 「はい」 兄さまが、玄関まで来てくれたのには少し驚いた。 「あがって、まずはゆっくり体を休めろ」 「兄さま……兄さまはもう大丈夫なんですか?」 「ああ。すっかり元通りだ」 「心配をかけたな」 「心配しました!」 「すまなかった」 「さあ」 わたしは、修智館学院に入学してからほとんど家具の入れ替わったことのない、自室に荷物を置く。 兄さまの用事は明日にするという。 その日は、分家の方たち数人と夕食を取り、あまり遅くないうちに床についた。 修智館学院の寮に入って初めてベッドで寝たときは、はしゃいだものだ。 それでも、ベッドに慣れてしまった後で布団に寝ると、なぜか落ち着く気がする。 そんなことを考えながら、眠りに落ちていった。 この家に戻ると、早起きになる。 布団のせいなのか、建物のせいなのか、それとも他の何かのせいか。 それでも、目覚めはとてもすっきりしていた。 ……朝食の後、兄さまが思い立ったようにわたしについてくるように言う。 直角に曲がる廊下を、何度か曲がる。 普段は使う者のいない客間を横に見ながら、さらにまっすぐ廊下を進む。 この先にあるのは…… ほとんど入ったことのない、東儀家の離れ。 そこに足を運ぶことに気づいた時。 そこに着くまでの短い間。 わたしの心臓は早鐘のように鳴った。 雨戸や障子が開け放たれ、風が通されている。 兄さまが、今朝、そうしておいたのだろう。 ここに来るのは、何年ぶりだったか。 ぼんやりと記憶に残る光景と、ほとんど変わっていない。 庭から部屋に差し込む日も、床の間の掛け軸も、鴨居も、ふすまも。 「こっちだ」 ……室内に踏み入れるのには勇気が必要だった。 この奥に、父さまと母さまがいるのではないかと思ったから。 しかし…… そこには、誰もいなかった。 少しほっとする。 互いのことも、兄さまやわたしのこともわからないという両親。 東儀家のしきたり。 わたしが踏み入れていいのか。 「ここに来るのは、久しぶりか」 「はい」 「多分、十年近く、来ていなかったと思います」 「ふむ」 「では、ここで少し待っていてくれないか」 兄さま…… わたしは、正座をしたまま考えた。 兄さまが、わたしに見せたいものとはなんなのか。 それを見たわたしは、見る前とどう変わるのか。 選べる選択肢にはどういうものがあるのか。 わたしは、何をしたいのか。 ……。 数分して、兄さまが戻って来る足音が聞こえてきた。 離れに少しずつ近づいてくる。 ゆっくり、 ゆっくりと。 「白」 「兄さま」 父さん、母さん。 今では人形のように物言わぬ存在となってしまった二人。 俺のことを俺だとわからないようではあるが、離れに連れてくることはできた。 白が今のこの二人を見たら、どう思うことだろう。 俺が、まず部屋に入り、白に声をかける。 「白」 「兄さま」 俺の呼びかけを遮って、白が立ち上がる。 こちらに背を向けて歩む。 裸足のまま、ゆっくりと庭に下りた。 そして、舞の時に使っていた鈴を取り出す。 しゃん 「わたしも、ずいぶん舞が上手くなりました」 白が、舞う。 庭で舞っている。 鈴の音が、静かに響く。 白が、回る。 正確な脚さばき。 伸びた指先。 ……。 白は、なぜ舞っているんだ? なんのために? 誰に対して? ……そうか。 白は、気づいたのだな。 俺が父さんと母さんを連れてくることに。 ──俺と白は、両親から舞を教わっていた。 教えは厳しかった。 しかし、それは家族が一体になる時間でもあった。 父さんにとって、自分が守る家族が仲むつまじくしている様子は、もっとも大切な光景だったに違いない。 そして、母さんにとってもそれは同じ。 ……白も、本当は両親に会いたいだろうに。 白が部屋を出て、あえて庭で舞っている。 両親が実際にどんな状況なのか話そうとしたことを察したに違いない。 その上で、部屋に入るのを拒んだ。 つまり……父さんと母さんについての話は聞かない、ということなのだろう。 白はおそらく、真実を知ったのだ。 その上で、会わないことを選択したのだ。 ……。 父さんと母さんを、奥の部屋から招き入れる。 そして、白からは見えない位置に座らせた。 鈴の音が柔らかく響く。 幼かった頃の白ではない。 成長した白が舞う。 成長したことを二人に報告するかのように、白が舞う。 ……。 そうか。 これは、俺へのサインでもあるのだ。 両親のことを、これまでずっと白に伝えられなかった。 その、俺の気持ちを察したというサインなのだ。 そして察した上で、自分はもう一人でも大丈夫だと言っているのだ。 もしかしたら……いや、間違いなく、支倉から聞いた話でもあるのだろうが。 俺にはそれを悟られないようにしたいという思いも込められている。 ──ふふ。 いつも俺の後ろに隠れている気がしていたが、ずいぶん成長したものだ。 もう、大人なのだな。白は。 白の努力もあったろう。 支倉が、きっといろいろと心を砕いてくれたこともあったろう。 俺は、もう白をいつまでも子供扱いするわけにはいかないようだ。 ……。 とんぼが空を飛んでいる。 視界に入るだけでも、無数のとんぼが空に浮いている。 白と支倉のことは、認めてあげたいと心底思う。 支倉は、それに足る男だ。 だがしかし。 俺は東儀の当主である。 白の幸せを願うと同時に…… 分家や、氏子や、東儀と共にここでの歴史を支えてきたすべての人々との関係も守らなくてはならない。 最後は、俺が決断をしなくてはいけないな。 ここしばらく、あの二人にばかり決断をさせていたように思う。 当主として、俺にしかできないことがある。 しゃん ──何年かぶりに、家族全員がそろっている。 人形になってしまった両親は、ただ虚空を見つめるだけ。 なんの反応もない。 二人はもう、子供のことも、互いのことも覚えていないのだ。 おそらくこの鈴の音も、父さん母さんの耳には届いていないのだろう。 ……。 庭から入った風が、俺に触れる。 俺は、心の中で、白は大人になったと両親に報告した。 目の錯覚かもしれないが、母親の頬を涙が伝った気がする。 ……そういうこともあるかもしれないな。 穏やかな気持ちで、白の舞に見入った。 いつか過ごした、家族の時間。 静かな時が過ぎる。 しゃん 果てなく高い空。 その、深い青色の中へ 鈴の音が凜と響き渡っていった。 9月末で引退する6年生に代わり、生徒会役員の代替わりと信任投票が行われた。 とりあえず、副会長が順当に会長、俺が副会長、白ちゃんが財務となった。 なんと三人体制だ。 「有望な人がいたら、スカウトしたいけどね」 「三人じゃスリムすぎるよな」 「ま、去年もこんなもんだったわ」 「でも……兄さまと伊織先輩と瑛里華先輩って、ゴールデントリオでしたよね」 「俺たちもシルバートリオくらいは目指したいが」 「目指していきましょうよ。全員信任されたんだし」 「どきどきしました」 「そうだな。形だけとは言っても、ありゃ心臓に悪い」 「それより……ラブラブな二人の邪魔をする私って構図が問題よねー」 「いや、監督生室ではちゃんと仕事一筋だ」 「そうです。公私混同はしないつもりです」 「コンビネーションも抜群だし」 「あ……うあ」 「やあやあ諸君。元気に仕事をしているかい?」 「兄さん、手伝いに来たの? それとも邪魔をしに?」 「うーん、なんて言うのかな、ほら、あれだ。激励?」 「なんで疑問形なんですかっ」 「ほら白ちゃん、お土産だ。『さゝき』の最中」 「わあ、ありがとうございますっ」 「簡単に餌付けされるなっ」 「いやいや、今日は伝言があってね」 「伝言?」 「ああ。支倉君と白ちゃんに」 「征が、仕事が終わったら図書館に来てくれって」 「わかりました」 「なんでしょう?」 「行ってみれば、わかるさ」 「お疲れー」 「お疲れ、副……いや、会長」 「まだ慣れないわね」 「お疲れさまです」 瑛里華会長と別れ、俺と白ちゃんは東儀先輩が待つという図書館に向かう。 「来たか」 「すみません、遅くなりました」 「俺と伊織が抜けて、仕事はどうだ?」 「一応今はなんとかやってます」 「でも、何か起きたときの対応力は少し不安かも知れません」 「少し寂しい気もします」 「新人を入れることを考えていかないとな」 「はい」 東儀先輩は、多分俺の気のせいだろうけど、少し角張った部分がなくなったというか…… 落ち着いたような印象を受ける。 「で、今日二人に来てもらった件についてだが」 「はい」 「はい」 「二人が付き合うことを、認めようと思う」 「東儀家の当主として。また、白の兄として」 「!」 「ほ、本当ですか」 「ただし」 「白には東儀家と縁を切ってもらう」 「兄さま……!」 「それって、えっ……?」 「東儀家からは追放という形にして、分家の養子に出す」 「当然、以後『東儀』を名乗ることは禁ずる」 「ちょっと、それはつまり……」 「白ちゃんを追放するってことですか?」 「そういうことだ」 「卒業後は、家に戻ることも禁止する」 「なっ……」 言葉を失った。 どういうことだ。 東儀先輩は何を……? 「白ちゃんと付き合うには、それくらいの覚悟を持て、という意味ですか?」 俺と比べて、白ちゃんの方がよっぽど落ち着いている。 まさか、こうなることがわかってたってことはないだろうけど……。 「覚悟、とは違うな」 「これは、二人を応援するために、俺ができるただひとつのやり方だ」 応援するって言っても。 ……縁を切るって話だぞ。 これのどこが応援なんだ。 「わかりました」 白ちゃんはゆっくりうなずき…… そして、明るくも決意を込めた顔を上げた。 「兄さまのお気持ちは、わかったつもりです」 「ありがとうございます」 「……といっても、支倉先輩次第ですけど」 「えっ」 二人の顔を交互に見る。 東儀先輩の表情には、まったく険しさがない。 最初に持ってた印象の通り、落ち着いた顔をしている。 口調もそうだった。 話の内容に気を取られてたけど、むしろ優しい声だ。 「つまり、ええと」 「東儀先輩は、俺たちを応援してくれると」 「で、そのために東儀先輩が選んだのが、白ちゃんを東儀家の外に出すこと」 「……ということですか?」 「まあ、そんなところだ」 東儀先輩は、本当にギリギリまで様々な手を模索したに違いない。 その中で、これが最上のやり方だと考えたのだろう。 俺には、東儀家のしきたりや分家、氏子など周りの状況はわからない。 だから、東儀先輩が選んだやり方が、一番良いのだろうと信じることしかできない。 ましてや、白ちゃんが納得しているのなら、これが唯一の方法なのかもしれなかった。 「白が自ら選んだ道なら、俺は、できるだけサポートしたいと思う」 「ただ、実質はともかく、形の上では今言ったことはすべて行わないと納得されないだろう」 「だから、白は……」 「東儀、という苗字ではなくなるのですね」 「そう……なるな」 二人の間に、少し寂しげな空気が流れる。 確かに、俺と白ちゃんが駆け落ちしたりということを考えたこともある。 でも、それは立つ鳥が後を濁しまくる行為だ。 先日の祭りを見て、それに気がついた。 この島で『東儀』が持つ役割は、俺なんかが想像するより遥かに重く、深いのだろう。 「……ただ」 「まあ、このまま放っておいても、白の苗字が変わることは十分あり得るのだしな」 「……そう、かもしれません」 二人が、じっと俺を見る。 ……その意味するところに気づいた俺は、次の瞬間、頭が沸騰した。 学院から東儀さんちまで来たのも、何回目だろう。 今日は、東儀先輩と白ちゃんと三人で、墓参りに行くそうだ。 「こんにちは」 「支倉先輩」 「時間ちょうどだな。行こうか」 東儀先輩の後ろをついて歩く、俺と白ちゃん。 旧市街にある、小さく古ぼけた花屋で花と線香とマッチを買う。 そのうち中心街から逸れて坂道に入った。 道は細くなり、舗装もなくなった。 収穫を終えた畑には、坊主がたくさんついたネギだけが残っている。 その中を、三人で坂を登った。 道の両側の畑に、人の姿はなかった。 ……この話を最初に聞いたときは、何かの冗談かと思った。 白ちゃんと東儀先輩の両親は、そのお墓には入っていないはずだからだ。 だけど、必要なことだと東儀先輩は言った。 区切りとして、そして東儀先輩の中のけじめとして必要なのだそうだ。 もちろん俺は初めてだが、白ちゃんもつい先日行っていたはず。 そこで、どんな区切りがあるのだろうか。 道の突き当たりには、斜面に這うように墓地があった。 墓地の入り口の小屋で、俺は桶に水を汲み、それを運んだ。 白ちゃんは、ホウキとちりとりを持っている。 墓地の中の石段を最上段まで登る。 勾配がきつく、少し息が上がった。 最上段の石で作られた囲いの中にある墓石には、何個も「東儀」名義のものがある。 その中心に立つ、風格を感じさせる墓石が目的のお墓らしい。 白ちゃんはその墓石に一礼すると、その周囲をホウキで掃き始めた。 掃除をし、新しい花を差し、桶の水を墓石に掛けて清める。 「白」 「あ、はい」 白ちゃんがマッチをする。 折れた。 2本目をする。 また折れた。 「俺がやろうか?」 「いえ、わたしがやります」 3本目。 やっと火がついたマッチで、白ちゃんは線香の束ごと火を点ける。 それを、墓石の前にそっと立てた。 二人が手を合わせるのを見て、俺も一緒に手を合わせる。 東儀家のお墓に、俺は何を祈ればいいのだろう。 祈るのではなく、報告だろうか。 それとも、まずは挨拶だろうか。 はじめまして、支倉孝平です。 お嬢様をかっさらおうとしている悪党です。 ……シャレにならない。 目を開けると、二人は手を下ろしていた。 ほとんど会話がないにも関わらず、明るい顔をしている。 「白」 「はい」 「今日は、これをお前に」 東儀先輩がポケットから取り出したのは、布だった。 飾り紐のようなものがついている。 「これは……袱紗(ふくさ)ですね」 白ちゃんが広げた袱紗には、家紋が入っていた。 あの家紋は……確か。 「その家紋、神社にもあったよね」 「はい」 「桔梗だ。東儀家の家紋でもある」 「東儀家を出るわたしが、これをもらっても良いのですか」 「だからこそだ」 「……はい」 「ありがとう……ございます」 籍は変わっても、自分たちは世界にたったふたりの兄妹。 同じ両親の子供だ。 ……そういうメッセージなのだと思った。 「俺は、父の言っていた理想の当主にはなれないようだ」 「そんな……そんなことはありません」 「どうだろうな」 俺も……白ちゃんの言うように、そんなことはないと思った。 東儀先輩はきっと、幾晩も考え続けて、今回のやり方を決めたはずだ。 家族の利害──白ちゃんの選択と 一族の利害──東儀家のしきたりの折り合いをつける方法を。 もちろん、その折り合いのために白ちゃんや東儀家も代償は払っている。 だけど言い分が通ったという意味では、白ちゃんも東儀家も、結果は悪くない。 いや、悪くないどころか、かなりの主張が通っていると言ってもいいくらいだ。 ……東儀先輩に比べたら。 東儀先輩は、一人だけ喜びのない結末を得ている。 貧乏くじを引いたと言ってもいいくらいだ。 最愛の妹である白ちゃんと縁を切ることになる苦痛は、きっと、俺などには想像もできないものだろう。 でも。 東儀先輩は、穏やかに微笑んでいる。 その視線の先には、袱紗を握りしめて、嬉しそうに笑う白ちゃんがいた。 家族──白ちゃんの幸せ。 そして東儀家が東儀家であり続けること。 それが、きっと今の東儀先輩にとっての喜びになっているのだろう。 その境地に至っている東儀先輩。 一人の男として、本当にすごいと思う。 そんな東儀先輩が、俺にはすばらしい当主に見える。 ……もしかしたら、東儀先輩自身が気づいてないのかもしれない。 「東儀先輩は……」 「ん?」 いや……。 俺は、東儀先輩をそんな風に言えるほど、積み重ねてきたものも磨いてきたものも無い。 まだまだ、ちっぽけな男だ。 俺に言えるのは、せいぜい── 「俺は、なにがあっても、白ちゃんを守っていきます」 「支倉先輩……」 「さ、そろそろ帰るぞ」 石段を下りかける。 「それをご先祖様に聞かせられただけでも、来た甲斐があった」 そう言って、多分、東儀先輩は笑った。 ……。 まだ強い日差しの下を、秋の冷気をはらんだ風が吹き抜ける。 線香の煙を追って空を見上げる。 空の青は明らかに夏より高く、雲の白は千切れて細く流れていた。 ……東儀先輩はあと半年で卒業する。 それから一年経てば俺も。 さらに一年経つと白ちゃんも。 楽しい時間は、きっとあっという間に過ぎて行くに違いない。 ──それでも。 寮で過ごす日々。 学食で食べるご飯。 勉強したり寝たりしている教室。 放課後の大部分を過ごしている監督生室。 修智館学院で過ごしたこの間の記憶は、時を経れば経るほど、鮮やかな色彩を放つことだろう。 渡り鳥のような生活を送ってきた俺が、羽を休めることができた場所。 親友ができた場所。 そして、白ちゃんと出会った場所。 俺にとってふるさとであり、人生が変わる場所。 色あせない、にぎやかな思い出に彩られる、この島、この学院。 目を閉じれば、きっと── 風に乗って聞こえてくる祭り囃子が、いつだって、ここへ魂を呼ぶ。 ばんっ。 黒板を見ていた生徒たちが、一斉に教室の扉へと視線を移す。 数学の授業も中盤に差しかかろうとしているこの時分。 遠慮のない音を立てて教室に入ってきたのは── 「すみません、遅刻しました」 ──やはり、紅瀬さんだった。 「おい、今何時だと思ってるんだ」 ただ今、午前10時20分。 俺だったら、こんな時間に目が覚めたら確実に学校を休む。 少なくとも、授業の途中で堂々と登場することだけはしない。 「紅瀬、聞いているのか」 紅瀬さんは、黒板の上の時計をチラ見した。 ……だけで、特に何も答えない。 非常にいたたまれない空気が教室を支配する。 「席に着いてもいいですか」 すげえ。 相も変わらずマイペースな発言。 「Zzz」 お前もな。 「……まったく。早く席に着け」 「はい」 紅瀬さんの席は、俺の真後ろ。 席に着くと同時に、張りつめていた教室の空気が少しだけ和らいだ。 ……。 今日もお咎めナシか。 恐れられているのか、もしくは諦められているのか。 なにせ、新学期初日から遅刻してきた大物だ。 先生方が扱いに困るのも無理はなさそうだが。 「……」 背後から、ぺらりと教科書を開く音がする。 その日は授業よりも、背後のクラスメイトの方が気になってしまった。 授業終了。 「ふわあぁ〜、よく寝た」 「チャイムが目覚まし代わりなのかよ」 「違うのか?」 ……何も言うまい。 寝ぼけ眼の司を捨て置き、俺は背後を振り返った。 「体調でも悪かったのか?」 「え?」 窓の外を見ていた紅瀬さんは、視線だけこちらによこした。 「それとも低血圧? だったら俺も仲間だ」 「いいえ」 まるで冷却スプレーのような、冷え冷えとした視線。 このタイプは詮索しないのが一番だが、あえて突っ込んでみる。 「わかった。昨夜、マンガ全巻一気読みでもしたんだろ」 「10巻以上続くマンガは週末に回した方がいいぞ。平日は危険だ」 あくまで冗談だったが、紅瀬さんは大真面目な顔で、 「全40巻だったわ」 「え」 ビンゴなのか! しかも大長編! 「嘘よ」 嘘だった。 「俺にも貸してくれよ」 だから嘘だっつーの。 「なんだ、寝坊じゃなかったのか。それじゃあ……」 司を無視して続けようとすると、紅瀬さんは立ち上がった。 「お手洗いに行っていいかしら」 「あ、ああ」 漆黒の長い髪をなびかせながら、教室を出て行ってしまう。 「……」 読めない人だ。 とりあえず、俺と長話する気がないことだけはわかった。 「はあ……」 「もしかして、落ち込んでる?」 隣の陽菜が、俺の顔を覗き込む。 「あのね、あまり気にしなくていいと思うよ」 「紅瀬さん、昔からずっとあんな感じだし」 「そうなのか」 すると、陽菜と話していた女子が身を乗り出してくる。 「そーそー。ホント変わってるよね、紅瀬さんって」 「トイレも移動教室も、いつも一人で行っちゃうし」 「俺も一人で行くけど?」 もしかして、変わり者だと思われてたのか? 「んー、そこらへんは、男子と女子とでは違うんだってば」 「とにかく、なんか誘いづらいんだよね」 「ふーん……」 「紅瀬さん、クールだもんな」 「クールを通り越して、フリーズドライだよ」 「まぁそういうとこ、ちょっとカッコイイけどさ」 「あはは……」 フリーズドライか。 たしか司もそんなこと言ってたな。 あの凍てついた視線、確かにそれぐらいの効力はありそうだ。 「じゃあ、あの遅刻癖も昔からなのか?」 「うーん、そうかも」 「よく欠席もするみたい」 こりゃ、かなりの問題児だ。 「すごいな。誰も怒らないのか」 「千堂さんは、よく注意してたみたいだけど」 「なんで副会長が?」 「千堂さんと紅瀬さん、去年は同じクラスだったから」 「ああ、そうだったな」 なんとなくイメージできた。 クラスの足並みが揃わないと納得できないであろう、副会長。 それにあの人の性格からすると、紅瀬さんのような存在は放っておけないはず。 一方、紅瀬さんはというと……。 「何か?」 「そう」 「で?」 ……まあ、そんな対応だろうな。 あの二人の関係性が、一瞬にして読めた気がした。 「ふああぁ〜」 「俺も次の授業、サボろうかな」 「サボってどこに行くんだよ」 「それはトップシークレットだ」 「だが、焼き肉定食次第では教えないこともない」 ずいぶん安いトップシークレットだ。 「どうせ部屋に戻るんだろ?」 「まさか」 「寮監の管轄下でサボるヤツがいると思うか?」 そりゃそうだった。 どうせサボるなら、目立たないところで堂々とサボりたいのが人情だ。 例えば屋上とか体育館裏とか、そういうところ。 きっと司にも、そんな秘密の場所があるのだろう。 「その場所、教えてくれよ」 「タダで」 「清々しいくらいに図々しいヤツだな」 「しかし、断る」 「いいだろ別に」 「ダメだ」 「だいたい、サボりポイントってのは競争率が高いんだよ」 「これ以上ライバル増やしたくないしな」 そんなもんか。 「じゃ、ちょっくら行ってくるわ」 そう言って、司はさっさと出て行ってしまった。 入れ替わるようにして、今度は紅瀬さんが戻ってくる。 「次は世界史だよね」 「孝平くん、プリントやってきた?」 「ああ」 「……」 ふと窓ガラスを見ると、外を見つめる紅瀬さんの顔が映っていた。 ……。 紅瀬さんにもあるのだろうか。 とっておきの、秘密の場所が。 「何読んでるんだ?」 休み時間、俺は後ろの席にいる紅瀬さんに声をかけた。 彼女は、こうやって一人で読書していることが多い。 実は前々から、どんな本を読んでるのか気になっていたのだ。 「……」 鋭利なまなざしがこちらを向く。 紅瀬さんは無言のまま、本の背表紙をこちらに見せた。 『谷崎潤一郎』 ……聞いたことはあるが、読んだことはない。 「なんかカタそうな本読んでるんだな」 「そうでもないけど」 淡々とした口調で答える。 俺の中では、教科書やテストで取り上げられてそうな作家のイメージだ。 「純文学ってやつ?」 「そう言われてるみたいね」 「でも今読んでいるのは、探偵小説に近いものよ」 探偵小説……要はミステリーってことか。 「それならちょっと興味あるな」 「その人、ほかにはどんなの書いてるんだ?」 紅瀬さんはちらりと俺を見た。 ……俺は、厳密に言うとその作家に興味があったわけではない。 紅瀬さんの興味の対象に対して、興味があった。 クラスの誰ともつるまず、一匹狼を決め込むクールビューティー。 俺ならずとも、そのミステリーに迫りたくなるはずだ。 「読んでみたいの?」 「まあな」 「そう」 紅瀬さんは、鞄の中から二冊の本を取り出し、 「どちらでもいいわ」 そう言って、机の上に並べた。 ……これって、貸してくれるということか? 「いいのか?」 「ええ」 なんだか意外だった。 まさかここまでレスポンスが返ってくるとは思わなかったからだ。 「こっちはどういう系の内容なんだ?」 俺は二冊の本を交互に見てから、青い表紙の方を指さした。 「歴史小説」 ……日本史はそんなに得意じゃない。 「じゃあこっちは?」 「官能小説」 思わず咳き込んだ。 「どういう趣味だよ」 「官能小説」 「繰り返さんでいい」 紅瀬さんは至って冷静だった。 古今東西、性愛をテーマとした純文学小説などたくさんある。 別に紅瀬さんは、俺をからかってるつもりなど毛頭ないのだろう。 「好きな方を選んで」 「好きな方って」 「?」 「い、いや」 「じゃあ、こっちで」 俺が選んだのは、歴史モノの方だった。 気持ちとは反対の選択をしてしまう自分が情けない。 「ありがとな」 「返すのはいつでもいいわ」 「何かお礼をしたいんだが」 「結構よ」 「そうは言われても、俺の気が済まない」 「それは貴方の都合でしょう」 紅瀬さんは、ぺらりと本のページをめくった。 一瞬だけ、近づいたと思ったのに。 どうやらそう感じたのは、俺だけのようだった。 「……フリーズドライ」 「そうらしいわね」 俺のつぶやきを、さらりと流す紅瀬さん。 だからどうしたと言わんばかりの、相変わらずのクールフェイス。 きっと彼女は、周囲にどう思われているかなんて気にならないのだ。 ……。 少なくとも。 席が近いという理由だけでは、そう簡単に親しくはなれないのだろう。 「支倉くん、これコピー取って」 「うん」 「それが終わったら、こっちの書類整理してね」 「ああ」 「あ、その前に花瓶の水を替えておいて」 「うむ」 「あ、やっぱりその前にプリンターのトナーを」 「なあ、ちょっといいか?」 言葉を遮るように、挙手をした。 「俺、もしかして雑用係?」 「何言ってるの? そんなわけないでしょ」 「ねえ白?」 「は、はい」 「瑛里華先輩の言う通りだと、思います」 なぜ語尾が弱まる。 ──放課後。 監督生室には、副会長と白ちゃんと俺の三人がいた。 体育祭が終わってから、俺にはこれといった仕事がない。 結果的に、大方の雑用を一手に引き受けることになる。 「えっと……」 「悪いわね、いろいろ頼んじゃって」 「まあいいよ、どうせ暇だし」 「あ、そう? じゃあお言葉に甘えて」 副会長は笑みを浮かべながら、俺に書類を手渡した。 このぶんだと、のんびり読書というわけにはいかなそうだ。 「なあ、そう言えばさ」 「何?」 副会長は書類にぺたぺたと判子を押しながら答える。 「副会長と紅瀬さんって、去年同じクラスだったんだよな?」 「紅瀬……さん?」 とたんに、副会長の眉が吊り上がった。 「ミドルネームが『遅刻魔』の紅瀬さんで間違いないかしら?」 「それは初耳だが、まあその人で間違いはないだろうな」 「だったらよーく存じ上げてるけど、彼女がどうかしたの?」 気のせいか、副会長の口調におだやかでないものを感じる。 そういやこの二人、因縁の関係だったんだよな。 主に、数学の成績順位の件で。 「いや、どうってこともないんだけどさ」 「何か問題でも起こしたんじゃないでしょうね」 「問題ってほど大げさなもんでもないけど」 「彼女、新しいクラスではうまくやってるの?」 とたんに、問題児の妹を心配する姉のような口調になった。 副会長として、なんだかんだで気にかけているのだろう。 「まあ、それなりに」 歯切れの悪い返答になってしまった。 すると副会長は、ふぅとため息をつく。 「まったく、しょうがないわね」 「相変わらず授業をサボっているんでしょ」 相変わらずということは、やはり去年もそうだったのか。 陽菜の言ってた通りだ。 「紅瀬さん、いつもどこでサボってるんだろう」 「さあ」 「本敷地に行ってることはわかってるの。でも情報はそれだけ」 「風紀委員が何度か尾行したけど、いつも撒かれちゃうみたい」 風紀委員にもマークされているとは。 そして、捜査網をかいくぐるその逃走スキル。 「やるなあ、紅瀬さん」 「あのね、感心してる場合じゃないわよっ」 きぃ、と副会長は噛みついてきた。 ……もちろん、比喩的に。 「ぜっっったい、居場所を突き止めてやるんだからっ」 「ほっとけよ、個人の問題なんだし」 「……個人の問題?」 「それは、クラスの調和を図ることよりも大切なものなの?」 「いや、ええと」 「そこらへんは、本人に取材してみないとわからないな」 「だったら、取材してきてくれない?」 「はぁ?」 「本人をとっつかまえて、聞いてきてほしいの」 「いつもどこで貴重な学院生活を無駄にしてるんですか? って」 「誰が?」 「支倉くんが」 「なんで俺!」 かちゃっ。 スパークしかけたところで、白ちゃんがティーカップを俺の前に置いた。 「お、お茶、淹れました」 キャラメルとミルクの匂い。 ……甘いお茶でも飲んで落ち着いてください、ということか。 「白ちゃん、ありがとう」 「ありがとう、白」 「それで、紅瀬さんのことだけど……」 「だからー」 「あ、あのっ」 遮るようにして、白ちゃんが声をあげる。 「実はその、シスターが……」 「? どうかしたの?」 「はい、その、ちょうど昨日のことなんですけど」 「5年3組に遅刻常習犯がいる、という話をしていたんです」 俺と副会長は、顔を見合わせた。 「シスター天池が?」 「はい」 それはかなりの高確率で、紅瀬さんのことを指しているのだろう。 やっかいな人に目をつけられたもんだ。 「それで、このままでは他の生徒たちに示しがつかない、ということで」 「生徒会と協力して、遅刻常習者を捕まえたい、と……」 「……」 「……」 「そう」 「じゃ、決まりね」 「なぜ俺を見る」 「今から、遅刻撲滅キャンペーン名誉会長に任命するわ」 「お断りします」 「彼女のサボリ現場を押さえるだけでいいのよ」 「なんでそんなスパイみたいなことしなきゃならないんだ」 「……スパイですって?」 副会長は、じろりと俺を睨んだ。 「ねえ、私たちを悪の秘密結社かなにかだと誤解してない?」 「学院のルールを守るのは、生徒として当然の義務でしょ」 「その義務を守れない理由を知りたいと言っているのよ」 「何か問題があるかしら?」 「問題ありません」 「そうよね? あーよかった」 「じゃ、よろしくっ」 「待て待てっ」 さわやかな笑顔を残して立ち去ろうとする副会長を、慌てて引き留めた。 「副会長の言うことは正しいけどさ」 「でも、俺はやるとは言ってないからな」 「そうねぇ。でもあなたは、もう生徒会の役員なのよ」 「この意味がわかるわよね?」 「……」 わかりません、とは言えない雰囲気。 「……気が向いたらな」 「上等よ」 そう言って、副会長は極上のスマイルを浮かべる。 ……面倒なことになったな。 まあいい。 気が向いたらと言っただけで、快諾はしていないのだ。 「あ、あの」 「が、がんばってください!」 ふと、白ちゃんが手を差し出した。 激励の握手でもしてくれるのか? 「なんだか照れるな」 「?」 「その、大したものじゃなくて、すみません」 ……。 豆大福を手渡されただけだった。 昼休み。 春の陽気が、教室を適温に保っている。 ほどよく腹も満たされ、後は寝るだけという状態。 クラスメイトたちのしゃべる声が、耳に心地いい……。 ……。 「みゃあ」 …………ん? 明らかに人間ではない声がして、俺は起き上がった。 そして、窓の外を見る。 「……」 「みゃあ」 中庭には、紅瀬さんがいた。 その足下に、小さな黒猫。 「……ふ」 笑って……いるのか? ここからではよく見えない。 「紅瀬さ……」 声をかけようとして、やめた。 猫を驚かせてしまうかもしれない。 猫が驚く→猫逃げる→犯人は俺→紅瀬さん怒る。 その図式だけはなんとしてでも避けたかった。 「みゃっ」 紅瀬さんの足にまとわりついていた猫が、トコトコと歩き出した。 その後を追うようにして、紅瀬さんも歩いていく。 どこに行くんだろう。 あっちは本敷地だ。 「本敷地に行ってることはわかってるの。でも情報はそれだけ」 「……」 一瞬考えてから、俺は急いで教室を出た。 「あれ?」 ダッシュで中庭に来てみたものの、すでに紅瀬さんの姿はなかった。 「にゃー」 ……が、かすかに猫の鳴き声がする。 まだそんなに遠くには行ってないのかもしれない。 さて、どうする。 急げば追いつけるかも。 でも、追いついてどうするんだ? 彼女の秘密の場所を暴くのか? 「……」 深く考えるのはやめよう。 紅瀬さんだって、ただ単に散歩してるだけかもしれない。 だったらちょっと様子を見に行くくらい、問題ないだろう。 「よしっ」 そんな言い訳めいた思いと好奇心を抱えながら、俺は本敷地へと向かった。 「って、いねえし」 結局、ここに来るまでに紅瀬さんを見つけることはできなかった。 噴水の前に立ち、ぐるりと周囲を見渡す。 そこに人の気配はない。 生ぬるい春風が通り過ぎていくだけだ。 ……途中で森の中に入ったのか? それとも、もともとこっちに向かっていなかったのか? 「だーれだ♪」 「うぉっ!」 突然背後から目隠しされ、俺は悲鳴をあげた。 それまで、まったく人の気配がなかったからだ。 「や、やめてくださいっ」 「うっふふ〜っ」 「当ててくれるまで放さないんだから☆」 当てるも何も、この声はまぎれもなくあの人だ。 「やめてくださいよ、会長っ」 「ブブー。は・ず・れ♪」 「大当たりだろうが」 「うあ」 急に手が外され、視界が明るくなる。 振り返ると、そこには案の定、会長と東儀先輩がいた。 「あーあ。バレちゃった」 会長は心底残念そうにつぶやいた。 というか、バレないとでも思ったのか? 「何してるんですか」 「何って、デート中に決まってるだろう」 「監督生室で打ち合わせをしていたんだ」 会長の台詞を遮るようにして、東儀先輩は言った。 「支倉は?」 「俺は、その……」 そうだ。 もしかすると、東儀先輩たちなら知ってるかもしれない。 「あの、ここらへんに黒髪の女の子いませんでした?」 「黒髪?」 「はい。ロングで、こう、スラッとしてて」 「たぶん黒猫と一緒にいたと思うんですが」 「……黒猫」 「ええ。同じクラスの、紅瀬桐葉って人なんですけど」 「紅瀬ちゃんがどうかしたの?」 ──紅瀬ちゃん。 たぶんその時の俺は、ものすごく奇妙な顔をしていたと思う。 「知り合いか?」 「あんな美人を知らないヤツなんてモグリだよ」 「ねえ支倉君?」 ……まさか。 俺の中で、さまざまな疑惑が芽生える。 まさか、まさかまさかまさか── 「へえ、珍しいな」 「ははは、支倉君もそういう顔する時あるんだ」 「伊織、からかうな」 「ああ、ごめんごめん」 小さく笑ってから、会長は俺を見た。 「俺は、彼女に指一本触れたことがないよ」 「そう言えば安心かな?」 「……」 なんと返事していいかわからなくて、俺は曖昧な角度でうなずいてみせた。 安心。 ……したんだろうな、きっと。 「支倉君は、彼女みたいな子がタイプなのかい?」 「は?」 話が飛躍した。 会長は試すような目で俺を見る。 「だって、あれほどの美人は他の学校にもいなかったろう?」 「それはまあ、そうかもしれませんけど」 ……。 いや、本当にそうかもしれない。 副会長も相当な美人だけど、紅瀬さんは、なんというか……。 「隙がないというか、完成されてる美しさだよね、彼女」 「あれほど独特な雰囲気を持った子は、そういないな」 そう、それだ。 なぜか妙に納得してしまった。 俺はこれまでの転校人生を通して、いろんなタイプの女の子を見てきた。 目立ちたがり屋な子、委員長タイプの子、強気な子。 人と接するのが苦手な子、引っ込み思案な子、集団行動が苦手な子。 でも、紅瀬さんはどのタイプとも違う。 周囲と馴れ合うことをせず、徹底的に孤高を貫いている。 なのに、なぜか目立つ。 教室の隅で、その存在が際立っている。 つい目を向けずにはいられなくなる──。 「……」 「それで、質問の続きですが」 「ああ、なんだっけ?」 東儀先輩は会長を制し、一歩踏み出した。 「支倉の言うような女子生徒なら、俺たちは見ていない」 ……やっぱりか。 こっちの方に行ったと思ったけど、俺の勘違いだったのかもしれない。 それとも……。 「風紀委員が何度か尾行したけど、いつも撒かれちゃうみたい」 ……まさかな。 「ところで」 「その子、黒猫と一緒にいると言ったか?」 「はい。俺が見かけた時はそうでした」 「そうか……」 「?」 東儀先輩は、神妙なまなざしを地面に落とした。 どうしたんだろう? 授業が終わり、教室棟から寮へと向かう。 街灯が点いているとはいえ、少々寂しい道のりだ。 夕方だからまだいいものの、夜の一人歩きはちょっと怖いかもしれない。 ……。 しかも、けっこう長い。 巡回バスが出たらみんな喜ぶと思う。特に遅刻常習犯。 そう生徒会に提案してみようか? と思ったが、財務担当の冷ややかな顔が思い浮かんだのでやめた。 まあ、月とのんびり追いかけっこするのも悪くない。 無事、ゴールに到着。 ささやかな達成感とともに、何気なく寮を見上げると。 「……」 見知った顔と目が合った。 2階の部屋から、紅瀬さんがこちらを見下ろしていたのだ。 あそこは談話室か? 「……」 思わず、手を振ってみたり。 「……」 反応なし。 今度は手を振りながらジャンプしてみたり。 「……」 駄目か。 ここでバック転でも披露できればいいのだが、生憎そのスキルはない。 俺は諦めて、ひとまず玄関へと急いだ。 「よう」 談話室に入り、俺は窓際にいた紅瀬さんへと近寄った。 「こんにちは」 相変わらず素っ気ない。 こっちは走ってきたというのに。 いや別に、走る理由などないのだが。 「何してるんだ?」 「何も」 視線は、窓の外を向いている。 寮の玄関を見下ろしているのだろうか。 見ててそこまでおもしろいものとは思えない。 「……」 談話室には、珍しく誰もいない。 いつもは取り合いになるテレビも、静寂を保っている。 ……。 しかし、静かだ。 耳が痛くなるくらい静かだ。 彼女には、この沈黙をどうにかしようという気はないのか? 「……」 まったくもってなさそうだ。 と、諦めかけた瞬間、紅瀬さんはくるりと俺の方を向いた。 「ねえ」 あ、しゃべった。 「なんだ?」 少し嬉しくなって、俺は身を乗り出した。 すると、紅瀬さんはわずかに眉根を寄せる。 「どうしてこっちを見ているのかしら?」 見てたか? ……見てたな。 「いや、だってさ」 「ここ、談話室だろ?」 「……?」 「ええ」 「談話する部屋だから談話室だろ?」 「だったら、談話しなきゃいけないんじゃないかと思ってさ」 「……」 理解不能、といった顔だ。 だんだん表情の変化がわかるようになってきたぞ。 「そう」 「言われてみれば確かにそうね」 「だろ」 「だから、ここはひとつ俺と」 俺と談話してみないか? などと冗談ぽく言おうとしたその時、 ばたんっ 「まいどーーーっ!」 「わっ!」 はりきって登場してきたのは、かなでさんだった。 「あっれー。こーへーときりきりだ」 「なになに? なんの悪だくみ?」 「いきなり入ってきて決め付けないでください」 「えへへー」 「やっほ! きりきり!」 「こんにちは」 軽く会釈してから、紅瀬さんは俺を一瞥した。 「よかったわね、談話相手が現れて」 「……まあな」 そりゃまあ、確かにそうなんだけど。 「あ、ごめん。もしかして邪魔しちゃった?」 「何がですか」 「えー。だってぇー」 かなでさんは、思わせぶりな表情で俺と紅瀬さんを見る。 もしかして、思いっきり誤解されてないか? 「かなでさん、違いますって」 「別にそんなんじゃ」 「あれでしょ? きりきりの悪事を暴いてるんだよね?」 「は?」 俺はぽかんと口を開けた。 「しらばっくれても駄目だよっ。遅刻撲滅キャンペーン名誉会長殿っ」 ……その件か。 「で、どーなの? ホシは吐いたわけ?」 「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ」 さすが風紀委員、情報が早い。 だが、本人の目の前でそんなこと言われても。 「……」 横顔辺りに視線を感じた。 違う。 そうじゃないんだ。 俺は何も企んじゃいない。 だが、今更大げさに否定するのも、かえって嘘っぽくなる気がした。 「ふっふっふ」 「きりきり、今度こそ御用だーっ。覚悟しろーっ」 「ちょっと、かなでさん」 「現行犯逮捕して、おでこに風紀シール貼ってやるーっ」 「……ふ」 「それはどうかしらね」 「おおっとー! 敵は余裕のスマイル!」 「大胆不敵だよ! 恐れ知らずだよ! 魔性のオンナだよ!」 「じゃっ! こーへー、後はよろしく♪」 「あっ」 ばたんっ ……。 何もかもを投げっぱなしにして、かなでさんは出ていってしまった。 「……ふぅ」 紅瀬さんが小さくため息をつく。 困る。 あんな話を振った後で二人きりにされるのは、かなり困る。 ばたんっ 「失礼しまーーす!」 「わっ!」 「なんなんですか、もう」 「あの、今私と同じ人がここに来ませんでしたか?」 「は? ……来ましたけど?」 意味がわからん。 するとかなでさんは、ニヤリと微笑んだ。 「どうやらその子、今年のミス修智館優勝候補らしいぞ☆」 「帰って寝ろ」 ばたんっ 「やれやれ……」 俺はため息をついた。 とりあえず、今日もかなでさんは元気だということだけは了解した。 そしてその元気の塊がいなくなった後は、より部屋の静けさが際立つ。 ……。 紅瀬さんの方をちらりと見る。 さっきと同じ姿勢で、窓の外を見つめていた。 「あのさ……」 話しかけようと思った。 主に、遅刻撲滅キャンペーンのこととかいろいろ。 だけど。 「……」 いったい、その黒い瞳に何を映しているのか。 少なくとも、もう俺の方に意識が向いていないことだけはわかる。 ここではない、どこか別の場所に向いているのだ。 それがわかったから、声をかけることができなかった。 「じゃあ次の問題は、出席番号17番」 「うがっ」 「うがっ、じゃない。ほら、前に出てやってみろ」 「はーい」 数学の授業が滞りなく過ぎていく。 カリカリとシャーペンが動く音。 眠気を誘う、読経のような先生の声。 「……俺、今日当てられそうな雰囲気」 「かもな」 「寝てるから、いないって言っといてくれ」 言えるわけねえ。 しかし、司は机に突っ伏した後、ものの数秒で寝息を立て始めた。 後のことは自己責任だぞ。 「……」 俺は、ちらりと教室のドアを見た。 紅瀬さんはまだ来ない。 もう四時間目も終わろうとしているのに、一向に来る気配を見せない。 こりゃ遅刻じゃなく、欠席か? いつものこととはいえ、なぜか今日は背後の空席が気になる。 ……。 副会長から、あんな指令を受けてしまったからだろうか。 遅刻撲滅キャンペーンなんて、俺にはどうでもいいことなのに。 「こら! 八幡平!」 「Zzz」 ……すまん。友よ。 結局、ホームルームが終わっても紅瀬さんは現れなかった。 家主のいない机が、妙に寂しく見える。 「来なかったね、紅瀬さん」 陽菜が俺の顔をのぞき込む。 「ああ、そうだな」 「でも、大丈夫だと思うよ」 「去年も出席日数はギリギリ足りてたみたいだし」 「へえ」 確かにそういうとこ、ぬかりはなさそうだ。 最低限やることやってれば文句ないでしょ? みたいな。 「ふふふ」 「大変だね、孝平くん」 「何が?」 「お姉ちゃんから聞いたよ。あれ」 「あれ?」 「えっと……なんだっけ」 「ほら、その、えっと」 「がんばれ」 「あの、だからその、なんとかキャンペーン……」 「もっとがんばれ!」 「ううぅ」 「ううううぅぅ〜ん」 ……。 「ま、いっか」 「いいのかよ」 「なんかほら、捕まえるんでしょ?」 「しゃーって」 「熊が鮭を?」 「もう、違うってば」 「孝平くんが、サボリ魔を」 「あー」 かなでさんから伝わったのか。 俺の知らないところで、話が一人歩きしている気がしないでもない。 「別に捕まえるとか、そんなんじゃないけどな」 「そうなんだ」 「お姉ちゃんは、江戸始まって以来の捕物帳だって言ってたけど」 「どんなだよ」 俺はため息をついた。 そんな華々しい活躍を期待されても困る。 どっちかというと俺は、この件に関しては消極的なのだ。 そりゃ、興味がないわけではないけど。 「みゃあ」 ……? 俺は立ち上がり、窓の外を見た。 「みゃあ」 あの黒猫は……。 たぶん、この前紅瀬さんと一緒にいた猫だ。 まるで誰かを呼んでいるかのように、小さく鳴き続けている。 「あ、珍しい。黒猫だ」 「ここらへんでは見ない子だけど、どこから来たのかな?」 黒猫は、ずっとこちらを見上げている。 紅瀬さんを待っているのか? ……。 「陽菜、俺、ちょっと先行くわ」 「あ、うん」 「がんばってね」 「おう」 何をがんばるのかわからないが、俺は鞄を取り、急いで教室を出た。 「はぁ……はぁ……」 「みゃあ」 意外なことに、黒猫はずっとその場所にいた。 俺が着く頃には、とっくにいなくなっているかと思っていたのだが。 「……おい、残念なお知らせだ」 「今日はご主人様は留守だぞ」 小声で話しかけてみたものの、黒猫は当然なにも答えない。 ただじっと俺を見つめている。 腹でも減っているのか? そうは言っても、もちろんキャットフードなど常備しているわけもなく。 売店に餌になりそうなものなんかあったっけ? などと考えていると、黒猫は突然てくてくと歩き出した。 「あ、こら」 「みゃあ」 どこに行くんだろう。 俺はしばらく、黒猫の行方を目で追っていた。 あっちは……。 本敷地だ。 「みゃあ」 結局、ついて来てしまった。 「お前んち、ここらへんにあるのか?」 ……。 もちろん無視だ。 しかし、やけにのんびりペースで歩くんだな。 俺の歩調に合わせてるのだろうか? ……なわけないか。 「おーい、どこに行くんだよ」 猫に誘われて森を目指すなんて、まるでお伽話だ。 金髪碧眼の美少女ならまだしも、俺じゃ主人公には役者不足だろうけど。 黒猫は、さらに奥へと進む。 「おーい……」 勾配が急になるにつれて、だんだん不安になってきた。 空が茜色に染まり、草木の色が少しずつ濃くなっていく。 風でざわめく木々。 湿り気を帯びた土の匂い。 先を行く一匹の黒猫。 お伽話を通り越して、今にもホラーなBGMが流れそうだ。 ばさばさばさばさっ 「うわっ」 見たこともないような大きな鳥が、すぐそばを横切る。 食われるかと思った。 別にもう、これ以上先に行く必要はないんじゃないか? 日が落ちたら、ここは真っ暗になるだろう。 そうなったら、軽い遭難気分に浸れること間違いなしだ。 でも……。 「みゃ」 ちらり、と黒猫が俺を振り返る。 「……」 まあ、一応ここも学校の敷地内だ。 いざとなったら、きっと誰かが来てくれるだろう。 たぶん。 「はぁ……はぁ……」 それから約15分ほど歩いただろうか。 森の小径を抜けると、いきなり視界が開けた。 「わ……」 いつのまに、こんな高いところまで来ていたのか。 目の前には草原が広がっている。 なだらかな坂の向こうには、一面の大海原が見渡せた。 遠くで、赤みがかった水面がキラキラと輝く。 強い潮風が吹き、煽られそうになった。 まさかあの暗い道の奥に、こんな丘があるとは……。 ……。 しばらくその風景に見とれた。 気づけば、黒猫がいなくなっている。 「あれ?」 さっきまでそこにいたのに。 不思議に思って、周囲を見回すと── ──彼女が、いた。 緑の絨毯に腰を下ろし、潮風に黒髪をなびかせている。 なんでこんなところに? ……。 遠くを見つめる瞳。 髪を押さえる細い指。 きつく結ばれた唇。 どこか寂しそうで、でもどこか穏やかに見える表情。 教室の中では、決して見せることのない顔。 ……。 綺麗だ。 しみじみとそう思った。 その場から、にわかに動けなくなってしまうほど。 まばたきする一瞬も惜しいくらい。 俺は馬鹿みたいに、目の前の彼女を見つめ続けていた。 ……。 「……?」 ふいに、目が合う。 俺も驚いたが、さすがの紅瀬さんも驚いているようだった。 だが、すぐに元のクールフェイスに戻る。 「……」 さて、これはどうしたものか。 意外なところで意外な人物に会うと、リアクションに困る。 邪魔しに来たと思われるのだけは避けたい。 が、この状況はどう見ても、サボリ現場を押さえにきた生徒会の手先。 しばし、「両者睨み合い」の時間が続く。 ……。 俺は仕方なく、一歩踏み出した。 「こんなとこでサボってたのか」 そう言うと、紅瀬さんは遠くへと視線を戻した。 「そうね」 あっけなく認められてしまった。 今初めて、先生の気持ちがわかったような気がする。 紅瀬さんは、かなりやりづらいタイプの生徒だ。 「貴方は、どうしてここに?」 「副会長様の命令で、風紀指導をしに来た」 「と言ったらどうする」 すると紅瀬さんは、肩をすくめた。 「どうもしないわ」 「では、ご指導賜りましょうか」 アホか。 そんな風に開き直られたら、指導し甲斐がないというものだ。 「ここ、よく来るのか?」 一瞬間を置いてから、紅瀬さんはうなずいた。 ここまで来たら隠しても仕方ないと判断したのか。 ……。 ゆっくりと、雲が動いていく。 ここはとても空が近い。 サボリポイントとしてはなかなかのものだ。 紅瀬さんじゃなくとも、秘密の場所にしたいと思うはず。 「あの黒猫、名前なんていうんだ?」 「え?」 「この前、一緒にいたとこ見たんだ」 「かわいがってるんだろ?」 「普通」 「普通ってなんだよ」 「中の上くらい」 けっこうかわいがってるよな、それ。 「で、名前は?」 「ネコ」 「猫にネコはないだろう」 「じゃあ、ネネコ」 「……」 どう突っ込むべきか。 間合いの計り方が難しい相手だ。 「そのネネコだけど、ここらへんに住んでんの?」 「さあ。知らないわ」 「ふうん」 「まだ知り合い以上友達未満ってとこか」 「ねえ、その質問も風紀指導に関係あるの?」 紅瀬さんは、至極まっとうな質問を口にした。 もちろん、特に関係はない。 「聞きたいから聞いてみた」 「悪いか」 「悪いわね」 「貴方のせいで、夕焼けが一番綺麗な時を見損ねてしまったわ」 そう言いながら、紅瀬さんは視線を空に移した。 見れば、雲の隙間から星が瞬き始めている。 もう夜はすぐそこだった。 ……それは確かに、悪いことをしてしまったかもしれない。 「邪魔してすまん」 素直に謝った。 「じゃ、帰るわ」 「……」 「できれば一緒に帰ってもらえると、いろいろ安心なんだけどな」 あの道を一人で帰らせるのは、さすがに心配だ。 それに、俺も一人だとちょっと怖い。 「それで、どうするの?」 「ん?」 「私がここにいることを知って、どうするつもりだったの?」 「……」 どうするつもりだったのだろう? 俺が知りたいぐらいだ。 ひとしきり悩んでいると、紅瀬さんはため息をついた。 「このまま答えを待っていたら、明日になってしまいそうね」 「……まったくだ」 帰ったら、副会長に報告するのか? シスター天池にも? そしたら、この場所は間違いなく秘密の場所ではなくなってしまう。 下手したら、封鎖されてしまう可能性もありだ。 ……。 「……」 「帰りましょう」 「あ、ああ」 紅瀬さんは立ち上がり、歩き出した。 これは、一緒に帰るという意味として受け取っていいのか? 「あのさ」 紅瀬さんの隣を歩く。 「ここ来る時、すげーでかい鳥がいたんだけど」 「知ってるわ」 「タカコでしょう」 「タカコ?」 「シロオオタカのタカコ」 紅瀬さんは、大真面目な顔だ。 というか、なんでメスだってわかるんだ? 「そのネーミングセンス、どうかと思うけどな」 「……」 「じゃあ、タカシ」 適当だったのかよ。 ……。 相変わらず、よくわからない人だ。 しかし、ここに来て、彼女に1歩近づけた気がする。 いや、0.5歩ぐらいか? でもそれは、大きな半歩だ。 「じゃあ次のページ、支倉読んでみろ」 「はい」 「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね……」 「へくしゅっ」 くしゃみが出た。 教室に、クスクスと小さな笑い声が広がっていく。 「なんだ、風邪か?」 「はあ」 今朝から喉に違和感を覚えていた。 風邪とは思いたくないが、そんな予感がなきにしもあらず。 まあ、今日一日ゆっくりしていれば治るだろう。 「ふむ。声もちょっと変だな」 「じゃあ続き、後ろの紅瀬が代わってやれ」 「……はい」 「ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ……」 「これ、さっきのお詫び」 「?」 昼休み、俺はひとりで食事を取っている紅瀬さんを捕まえた。 「さっき、俺の代わりに教科書読ませちゃっただろ」 「大したもんじゃないけど、とっといてくれ」 そう言いながら、大きな袋を差し出す。 「……国産……徳用いりこ」 「裏ルートで手に入れたんだ」 「ネネコにどうかと思ってさ」 裏ルートとはもちろん、司からだ。 いつ紅瀬さんに渡そうかと思っていたが、ちょうどいいタイミングだった。 「……」 紅瀬さんは、しばらく無表情のまま袋を見つめていた。 ……。 もしかして、迷惑だったか? というか、キャットフードの方がよかったんじゃないか? しかも冷静に考えると、なんであんなかさばるものにしたんだろう? などと、今更後悔してみる。 「どうも」 やがて、紅瀬さんはつぶやいた。 突っ返される覚悟だったが、意外にも素直な反応に面食らう。 「いや、俺の方こそ、ありが……」 「へくしょっ」 「……」 「す、すまん」 俺は慌てて、司のいる席へと戻った。 「へっくちょっ」 「あんまりかわいいくしゃみをするな」 「ドキドキするだろうが」 「うるせぇ」 鼻水をすすりながら、上海風焼きそばを食らう。 体調は悪くないのだが、どうにもくしゃみが止まらない。 「保健室で薬もらってきたらどうだ?」 「そうするかな」 転校という環境の変化もあって、実は疲れがたまっていたのかもしれない。 薬をもらうついでに、一時間ほど仮眠を取らせてもらおうか。 などと考えていると、 「これ」 突然、紅瀬さんが俺の横に立った。 「あげる」 「……へ?」 差し出されたそれは、ネギだった。 よくスーパーで、3本1束で売っているあの長ネギだ。 「なんだこれ?」 「ネギ」 「うん」 「いや、それはそうなんだけどさ」 「風邪ひいているんでしょう?」 「首に巻くと、治るわ」 紅瀬さんは、かなりマジな顔だ。 確かに、ネギが風邪に効くという話は聞いたことがある。 しかし、なんでまたそんな昔懐かしい方法を採用するのか? それ以前に、このネギどっから持ってきたんだろう。 「あとこれ」 今度は、白い器を差し出された。 中を見ると、何やら緑色のドロドロとした物が入っている。 ……スラ○ム? 「アロエをすり下ろしたものよ」 「喉の痛みに効くわ」 「……」 紅瀬さん、いったいどうしたんだ。 なぜ俺に、そこまでしてくれるんだ? そんな俺の気持ちを読み取ったのか、彼女はぼそりとつぶやいた。 「いりこ、もらったから」 「ああ……」 そういうことだったのか。 なんだか不思議な気分だ。 紅瀬さん自ら、俺にお礼をしてくれるとは。 「おい、なんだこの局地的な自然食品ブームは」 「ありがとな、紅瀬さん」 司のつぶやきをスルーし、紅瀬さんからネギとアロエを受け取る。 「別に」 いつも通りそっけない。 ところで。 「このアロエ、食べんの? それとも塗るの?」 「食べるの」 「……」 マジか。 よくヨーグルトとかに乗ってるアロエは、透明な葉肉の部分だけだ。 だがこれは、それと一緒に、緑の葉の部分もすり下ろされている。 お世辞にも、さわやかなルックスとは言えない。 「……」 見てる。 紅瀬さんが俺を見てる。 こりゃ食べないわけにもいかなそうだ。 俺は意を決し、その緑の物体を口内に流し込んだ。 ……。 「にがあああああああーーーっ!」 青々しい風味。 えぐみたっぷりの固形物。 それらがブニブニとした果肉と一緒になって、俺の舌と喉を直撃した。 「苦い苦い苦い苦いっ」 「良薬は口に苦し」 って言っても限度があるっ。 俺は口直しをするべく、一気にかけうどんの汁を飲み干した。 それでもまだ、口内にイガイガとしたえぐみが残っている。 「な、なあ」 「紅瀬さんも風邪引いた時、これ食べたりするのか?」 「そうね」 けろりとした顔で答える。 「でも普通は、水や蜂蜜でジュースにするみたいね」 「……それがいいと思う」 俺はネギをぐるりと首に巻いてから、テーブルに突っ伏した。 しばらく歩いていると、道路の反対側に見知った人物を見つけた。 「……」 あれは、紅瀬さんだ。 歩道に立って、道行く人を眺めているようだ。 何をしてるんだろう? 紅瀬さんに向かって、人が歩いていく。 それを見つめる。 また歩いていく。 見つめる。 犬が駆け寄っていく。 にらむ。 とても脅えた。 飼い主らしき人が紅瀬さんに駆け寄ってくる。 そして、ぺこぺこと頭を下げた。 きっと、リードを放して犬が逃げてしまったんだな。 で、捕まえてくれてありがとう、と。 一方紅瀬さんは、 「別に」 という反応だ。 飼い主と犬が去り、紅瀬さんは再び道行く人を眺め始める。 「……っ!」 紅瀬さんが急に、遠くを見た。 視線の先を追うと、杖を持ったおばあちゃんが交差点をふらふらと歩いている。 その途中で、信号が赤に変わった。 「あっ!」 クラクションが鳴り、バイクはおばあさんのすぐそばを走り抜けていく。 慌てて交差点を目指して走る。 しかし、俺が辿りつくよりも早く紅瀬さんが交差点を疾走。 おばあちゃんを素早く助けて、こちら側に渡ってきた。 ……。 紅瀬さんはおばあちゃんにひたすらお礼を言われていた。 小さく首を振っている。 なんか微笑ましい光景だな。 と考えていると、じっとにらまれた。 紅瀬さんが、まっすぐこちらに歩いてくる。 「何を見ているのかしら?」 「……紅瀬さんがおばあさんを助けるところ」 「貴方も飛び出してたじゃない」 そんなとこまで見てたのか。 「やっぱり、運動神経いいんだな」 「どうかしら」 曖昧に答えて、少し不機嫌そうに俺を見た。 「それより、私をずっと見ていたようだけど」 気づいてたのか。 「何か用?」 「いや、用は……無いが」 「用もないのに、見てて楽しいの?」 犬をにらんだり。 さっそうと老人を助けたり。 「これが案外楽しかった」 「できれば、放っておいてほしいわね」 「見られているのは、いい気分ではないわ」 「そうだな。ごめん」 素直に謝った。 「さよなら」 短く言って、踵を返す。 そのまま交差点を渡って、元の位置に戻っていく。 怒らせてしまったようだ。 悪気はなかったんだけどな。 俺は近くの店でクレープを購入。 急いで紅瀬さんのいた場所に戻る。 ……。 よかった、まだいた。 「紅瀬さん」 「放っておいてと言ったはずだけれど」 買ってきたクレープを紅瀬さんに差し出した。 「……これは?」 「いちごクレープ」 「なんのつもり?」 「せめてものお詫び」 「お詫びの好きな人ね」 「ちゃんと謝りたいだけだ」 紅瀬さんがじっといちごクレープを見つめる。 少し考える間があった。 「もしかして、クレープは嫌いか?」 「食べたことがないわ」 紅瀬さんの視線が、いちごクレープから外れる。 そして、俺のもう片方の手にあるものを見た。 自分用に買った、キムチクレープだ。 腹が減ってたので、思わず買ってしまった。 「こっちはキムチが入ってる」 「辛い物もあるのね」 「レアだけどな」 もしかしてキムチクレープの方がいいのだろうか。 そっと差し出してみた。 「どうぞ」 少しだけ首を傾ける。 艶のある髪が、かすかに揺れた。 「……いただくわ」 俺の手からクレープを受け取る。 薄い唇をクレープに近づけ、一口。 「……」 無表情で、キムチクレープを見つめる。 「言っとくけど、生地は甘いからな」 「そう」 再びクレープを食べる。 「案外、おいしいわね」 「それは単純にキムチがうまいんじゃないか」 「そうだとしても、気に入ったわ」 少しだけ、嬉しそうな顔をした。 辛い物の方が好きなのかな。 ぐー 見てたら、お腹が鳴ってしまった。 手元にはいちごクレープ。 しかし、キムチクレープも一口食べてみたい。 「なあ、一口だけもらっていい?」 「ええ」 あっさり渡してくれる。 受け取って、食べてみた。 「うまいな」 「でしょう?」 む。 後からじわじわと何かが訪れる。 こ、これは……。 「辛っ!」 慌てていちごクレープにかぶりついた。 「そうかしら」 俺の様子を見て、少しだけおかしそうに言った。 「大げさよ」 平然と、キムチクレープを食べている。 大げさじゃないと思うんだが……。 俺、辛さにそれほど弱くないはずなんだけどな。 やっと戻ってきた。 紅瀬さんと、街で人を眺めながら話してたら夜になってしまった。 「こんな時間まで付きあうなんて、物好きね」 「そうかもな」 「待って」 門に向かって歩く俺を紅瀬さんが制止する。 「どうした?」 「門が閉まっているわ」 「マジか!」 慌てて、門を見る。 ぴったりと閉じてしまっていた。 その前には、二人の屈強な警備員。 一人は背が高く、もう片方は小太り。 ――彼らの二つ名は、金角、銀角。 普段は優しいが、違反者には厳しいことで知られている。 「……門限ぎりぎりアウトか」 「そうね」 「素直に怒られに行くしかないな」 「こっちへ」 紅瀬さんはそれだけ言って、門から遠ざかる方向に走り出す。 「どこに行くんだ?」 「静かに」 「見つかると面倒だわ」 塀沿いにしばらく走ったところで、紅瀬さんが止まる。 そして、塀に足をかけ一気に乗り越えた。 慌てて俺も塀をよじ登る。 暗い地面を警戒しながら、塀から飛び降りる。 「紅瀬さん?」 辺りが真っ暗で何も見えない。 ここは、寮の裏手の森なのか? 「こっちよ」 手を捕まれる感触。 紅瀬さんが引っ張ってくれるままに、歩く。 ……。 「おおっ」 森を抜けると、そこは寮の前だった。 「こんな裏道があったのか」 そして、寮の玄関は見事に閉まっていた。 「……」 「どうした?」 「閉まってるわ」 「門限だからな」 「どうすればいいかしら」 ちらり、と俺を見る。 「知らないのか?」 「インターホンを鳴らして、先生に怒られる」 「ふう……」 「もしくは、知り合いに裏手の非常扉を開けてもらうんだ」 そう言って、携帯を取り出した。 司の番号を探す。 「裏手ね」 クールに言って、歩き出す。 あんな裏道を知ってるのに、寮への入り方を知らないなんて。 いつもは、どうしているんだろうか。 俺に教えたくない入り方でもあるのかな。 ずっと、見ていた。 この部屋の中から、ずっとお前を見ていた。 それは誰も知らない、密やかな愉しみ。 長きにわたって繰り返された、二人だけのルール。 「……今回は、ずいぶん早かったのだな」 お前は、予想以上に早くこの島にたどり着いた。 遊びの時間は、もうすぐ終わるのだ。 ……。 「……いや、まだだ」 まだ、遊び足りない。 この遊びを終わらせるには、まだ時間が早すぎる。 ……。 そうだ。 遊び仲間をもう一人増やそう。 二人よりも三人の方が楽しいはず。 お前もそう思うだろう? ……。 新しい遊び仲間は、あの男。 お前を探しに丘までやって来た、あの男だ。 あいつを使えば、まだまだ愉しみは続くだろう。 残された時間は千万無量。 少しぐらいの遠回りも悪くはない。 ……。 ……だが、ゆめゆめ忘れるな。 お前に課せられた任を。 探せ。 追え。 たどり着け。 主のもとに── 「……答えは、√(2+X)=X」 四時間目は数学。 相変わらず、紅瀬さんは絶好調だった。 どんな問題でも、即座に解答。 しかも全問正解。 クラスメイトたちが、そこはかとない尊敬のまなざしを向ける。 もちろん、俺もその中の一人だ。 「あー、コホン」 「じゃあ次の問題はー……」 ……紅瀬さんのサボリポイントである、あの丘。 俺はまだ、あの場所のことを誰にも話していない。 副会長にも、風紀委員にも、シスター天池にも。 ……。 さて、どうするべきか。 いまだに答えが出ないでいる。 「支倉、次の問題解いてみろ」 「はい」 ……。 いまだに答えが出ないでいる。 例えばマンガでは、よくこういう時。 後ろの席の女の子が、小声で答えを教えてくれたりするんだよな。 「……」 「…………」 幻想でした。 四時間目までは、確かに教室にいた紅瀬さん。 しかし、午後はまったく姿を現さなくなってしまった。 「……またいない」 「え?」 「いや、紅瀬さんが」 「ん? そう?」 陽菜はひょいと紅瀬さんの席を見る。 「みたいだね」 「気になる?」 「え?」 「紅瀬さんのこと」 「……」 「そりゃまあ、いろいろとな」 「一応、俺の肩書きは遅刻撲滅キャンペーン名誉会長らしいし」 「ずいぶん出世したねえ、孝平くん」 「羨ましいなら、代わってやってもいいぞ」 「ふふふ」 陽菜は俺の提案を天使のような笑顔で受け流した。 「やばっ。もうすぐ授業始まるじゃん」 「ねぇねぇ、トイレ行こうよ」 「行く行く! ちょっと待ってぇ〜」 「あたしも行く〜」 ……。 紅瀬さんは今頃、あの場所にいるのだろうか。 たった一人で。 「紅瀬さんって、不思議な人だよね」 ぽつりと、陽菜は言う。 不思議と言えば不思議。 異質と言えば異質。 俺の豊富な転校人生の中でも、かなり希有なタイプ。 「きっと、学院生活とは別のところにあるんだろうね」 「紅瀬さんの、大切なモノ」 陽菜は言葉を選ぶように言った。 「大切なモノ?」 「あ、今のは、なんとなくそう思っただけ」 「私たちが見ているところより、もっと遠いところを見てるのかなーって」 「なんとなく、そう思ったの」 俺たちが見ているところよりも、もっと遠いところ。 俺はふと、思い出した。 あの丘で見た、夕焼けに染まる彼女。 穏やかで、どことなく寂しげだったあの表情を。 その日の放課後、俺は例の丘に出向いていた。 口実なら、ある。 いつか紅瀬さんに借りていた本を返すためだ。 空が、茜色から群青へとグラデーションに変化している。 風が静かに緑を揺らす。 「やっぱりここだ」 案の定、紅瀬さんはそこにいた。 「……」 無表情のまま、俺を見る。 もう少し派手なリアクションがあると、俺としてもやりやすいのだが。 「あのさ」 「どうして授業をサボるんだ?」 「なんとなく、かしら」 なんとなく、って。 「俺が風紀委員を連れて来るとか思わなかったのか?」 「さあ」 まるで興味がなさそうに、紅瀬さんは言う。 ……。 あれ? なんで俺、フツーに風紀指導みたいなことしてるんだろう。 他人の事情には首を突っ込まないのが基本だったのに。 「でも、この場所のこと、誰にも知られたくないんだろ?」 「だったらどうなの?」 紅瀬さんはじろりとこちらを睨む。 「貴方がどうしようと、私には関係ないわ」 「それに、今は放課後よ。とやかく言われる筋合いはないでしょう」 「……」 そこまで言われたら、俺としても返す言葉がない。 ……。 いやでも、そんな言い方しなくてもよくないか? 別に、愛想よくしてくれとは言わない。 歓迎してほしかったわけじゃない。 ただ、俺は。 ……ごくフツーに、会話したかっただけだ。 でも紅瀬さんは、それを望んでいない。 「……」 俺は去り際に、そっと紅瀬さんの横顔を盗み見た。 遠くを眺める、静かな瞳。 きっと俺が見ている景色とは、まったく違うものを見ているのだろう。 ……。 あ。 本、返しそびれた。 彼の後ろ姿が、だんだん遠のいていく。 私はその背中が森の小径に消えるのを、最後まで見届けていた。 「……」 彼はどうする気だろう。 生徒会の人間なら、風紀委員や教師たちに報告するのが道理だ。 私は、それを止めることはできない。 彼には彼のルールがあるのだろうから。 ……。 この場所が、もし人目につくようになったら。 誰にも見つからない場所がなくなるのは、困る。 この場所が、もしなくなったら……。 「……教えて」 時々わからなくなる。 私は、どうしたらいい。 ……。 どこにたどり着けばいいの。 「屋台風焼きそば紅ショウガ抜き一つ。特盛で」 「あとジャンボ餃子一枚」 昼飯を注文し、レジの人に学生証を渡す。 「ヤケ食いか?」 「ただ腹が減ってるだけだ」 俺はそそくさと、近場の席を取った。 学食は今日も大賑わいだ。 「あ」 「エビチリカレー、売り切れだ」 「またエビチリカレーかよ」 「焼きそば星人のお前に言われたくない」 「ヒレカツカレーにすれば?」 「今はエビがアツいんだ」 「くそ、テンション下がった」 「元気出せ。そして諦めろ」 結局、司は妥協してヒレカツカレーをオーダー。 席に着いた瞬間、東儀先輩がすぐ横を通りかかった。 「こんちは」 「ああ、支倉か」 「あ」 司の視線が、東儀先輩の持つトレーに留まる。 トレーの上には、まごうことなきエビチリカレーが君臨していた。 「なんで俺のエビチリカレーが」 「? どうした?」 「なんでもないです、それじゃまた、放課後に」 「……放課後に」 東儀先輩は怪訝そうな顔をしながら、立ち去った。 「おい、落ち着け」 「俺はいつも落ち着いてる」 「あの人、確か生徒会の役員だったか?」 「そうだけど」 「やはり」 「……利権の匂いがするな」 「どんだけセコいんだよ、うちの生徒会は」 俺は呆れながら、出来たての焼きそばに取りかかった。 さすが特盛。3玉、いや4玉ぐらいは余裕でありそうだ。 早くも後悔しかけたが、今は黙々と何かに立ち向かいたい気分だった。 「お、紅瀬だ」 俺は、司の目線の方を見る。 レジのところに紅瀬さんがいた。 どうやらメニューを吟味しているようだ。 「なんか久々に見た気がするな」 「……」 「何食うのかね」 「さあ」 ……。 「じゃあ……」 「キツネそば一つ」 「へえ、意外な選択だ」 司は小声で言う。 「な?」 「別に、普通だろ」 意外も何も、俺には紅瀬さんのことはよくわからない。 知らないことばかりだし、接点も皆無。 せいぜい知っていることと言えば……。 愛読書は谷崎潤一郎。 得意科目は数学。 友達は黒猫。 好きな場所は、あの丘。 これだけの情報じゃ、とても理解などできないのだ。 ……。 俺はまだ、昨日のことが引っかかっているのかもしれない。 特に何をされたというわけでもないのだが。 「お、すげえ」 「?」 司は少し離れた席を指さした。 席に着いた紅瀬さんが、キツネそばに七味唐辛子を振りかけている。 ……。 それも、かなり激しく。 まるで、カクテル世界選手権を目指すバーテンダーのようなシェイキング。 その異様な光景に、思わず凝視せずにはいられなかった。 「恐ろしいまでの辛党だな」 「そういうレベルじゃないだろ」 スナップをきかせ、淡々と七味のビンを振る紅瀬さん。 すでにキツネは真っ赤っ赤だ。 完全に致死量を超えていると言っていい。 「誰か止めろよ」 「止めるっつったって……」 その時。 唐突に、七味のビンのフタが外れた。 「!」 ざざざざざざざっ 重力に従って、七味がどんぶりへと大量流出する。 俺と司は、唖然としたまま紅瀬さんを見守っていた。 「うわ……」 「……っ」 声を聞かれたのか、紅瀬さんと目が合う。 お? 目つきは鋭いが、心なしか頬が赤いような。 まさか、あの紅瀬さんに限って。 ……。 恥ずかしい、のか? 「……ふぅ」 小さくため息をついてから、紅瀬さんは激辛そばを見つめた。 さすがの辛党もためらうほどのHOTなビジュアルだ。 「さて、食えるか?」 「どうだろうな」 「『食えない』にヒレカツ一個」 「『食える』に餃子一個」 互いにメインを賭け合う。 司の目は真剣だった。 ヒレカツカレーからヒレカツを取ったら、ただの素カレーになってしまうからだ。 「こんなにヒリつく賭けは久しぶりだぜ」 俺はそうでもない。 「……」 緊迫の一瞬。 俺たちは息をのむ。 やがて、紅瀬さんは。 割り箸を、手に取った──! 「おおっ」 ──ずずずっ。 七味をそばに絡めながら、涼しい顔で喉に流し込んでいく。 自業自得の結果とはいえ、実に潔い姿勢だった。 「……こほっ、こほ」 むせたけど。 「すげえなあ」 「あ、ヒレカツいただきます」 俺はすかさず、司の皿からヒレカツを奪う。 「くっ」 「いや、むせたから半分だな」 半分奪い返された。 どういう理屈だ。 放課後。 いつものように、監督生室の扉を叩く。 中に入った瞬間、仁王立ちしている副会長と目が合った。 「こんにちは」 「ういっす」 監督生室には、すでに生徒会メンバーが勢揃いしていた。 会長と東儀先輩は、何やら打ち合わせをしているようだ。 白ちゃんがお茶を淹れながら、俺ににっこりと会釈する。 「……」 熱い視線を感じた。 「なんだよ」 「べっつにー」 「ただ、何か報告することないのかなーと思って」 「何かって?」 「ったく、紅瀬・遅刻魔・桐葉さんのことに決まってるでしょ」 「ああ、そのことか」 俺は席に着き、副会長を見上げた。 すぐそばで、白ちゃんがこちらの様子を窺っている。 「で、どうなの? 進捗状況は」 「進捗状況は……」 「……」 「?」 「?」 「ええと……」 「??」 「??」 激辛そば食って、むせてました。 なんて、そんな報告を期待してるわけじゃないよな。 ……。 森の小径を抜けた、あの丘。 その言葉が喉まで出かかるのと同時に、彼女の横顔を思い出す。 教室では、決して見せることのない表情。 穏やかで、それでいて憂いを秘めた瞳。 ……。 たぶん、声をかけない方がよかったのだ。 なのに俺は、黙ってその場を去ることができなかった。 謎めいたクラスメイトに、少しだけ興味があったから。 秘密を共有した気がして、どこかで優越感を覚えていたのかもしれない。 だけど。 昨日、もう一度あの丘に行って気づいてしまった。 「貴方がどうしようと、私には関係ないわ」 俺と彼女は、決して秘密を共有したわけじゃない。 紅瀬さんにとっての俺は、きっと── 秘密の場所に土足で上がり込んだ、不躾な侵入者に過ぎないのだ。 そう思われていることが、寂しかった。 寂しい? そんな言葉で言い切りたくはないが、他の表現が見あたらない。 ……。 …………。 「だぁーーーっからなんなのよっ」 副会長がバンと机を叩き、俺は我に返った。 間近に、大きな瞳が迫っている。 「ちょっと、何ボケっとしてるの?」 「まあまあ、瑛里華」 「きっと支倉君は、お前の美貌についつい見とれてしまったんだよ」 「はあ?」 「な? そうだよな? 支倉君」 「え?」 「そうだと言っておけ。面倒だから」 なんと無責任な応酬だ。 俺はコホンと咳払いをしてから、副会長をまっすぐに見つめた。 「実は、言いづらいんだけど」 「収穫ゼロなんだ」 「ゼロ?」 副会長は、訝しげな目で俺を見下ろす。 「ふうん……」 「手ぶらでやって来るなんて、いい度胸してるわね」 「それとも、締め切りがないとがんばれないタイプ?」 「かもな」 「でもこの件に関しては、正直言うとあまり口出ししないでもらいたい」 「……はい?」 「だって俺、名誉会長だし」 「うわー。どっかーん」 「ねえみんな聞いた? 今の殿様発言」 副会長は目を吊り上げながら、周囲に同意を求める。 「ははは、聞いた聞いた」 「まったくもって支倉君の言う通りだ」 「なんですって?」 「だってそうだろう?」 「彼を遅刻撲滅キャンペーン名誉会長に任命したのは、他でもない瑛里華だ」 「そこであれこれ口出しするのは、越権行為以外の何ものでもない」 俺の詭弁をそこまでフォローするか。 「あーーーそう。わっかりました」 「じゃあいいわよ。大人しく支倉くんの出方を待とうじゃない」 そう言って、副会長はじろりと俺を見た。 「……期待してるからね。一応」 「う、うん」 「じゃ、この話はおしまい。あーもう喉渇いちゃったわ」 「あ、お茶入りましたっ」 ……。 俺としたことが、どうしたものか。 とっさに嘘をついてしまった。 嘘つく必要なんてなかったのに。 「……」 副会長は、どことなく物憂げな表情で窓の外を見る。 ……。 俺、ちゃんと、嘘つけたよな? なんだかんだで、帰りが遅くなってしまった。 玄関の前で立ち止まり、ふと頭上を見上げる。 ──やっぱり、いた。 いつものように、談話室の窓から紅瀬さんが見える。 そしていつもと同じく、目が合っても特に反応はない。 「……」 ほっときゃいいのに。 どうして俺は、あの部屋を目指してしまうのか。 紅瀬さんは、お茶を飲みながら窓の外を見つめていた。 「よっ。何やってんだ?」 「貴方、人のことこそこそ観察するのが趣味なの?」 出し抜けにそんなことを言われた。 明らかな非難の台詞だった。 「こそこそしてるつもりはない」 「でも、気を悪くさせてしまったなら、謝る」 ぺこり、と小さく頭を下げた。 すると紅瀬さんは、わずかに眉根を寄せる。 「それで、なんの用?」 「特に用があるわけじゃないけどな」 正直に言った。 ただ紅瀬さんの姿が見えたから、来てみただけだ。 「貴方、よっぽど暇なのね」 「談話をしに談話室に入って何が悪い?」 「でも残念ながら、ここに貴方の談話相手はいないみたいよ」 紅瀬さんは無人の室内を見渡す。 なるほど、俺と話す気はないということか。 そんな紅瀬さんの意向は無視し、はりきって手を挙げた。 「じゃあ質問」 「なんでいつも外見てるんだ?」 「見てたら悪い?」 「悪くはない。ただの素朴な疑問だ」 「誰か探してるとか?」 俺の何気ない言葉に、紅瀬さんはまばたきで反応する。 ……あれ? 氷点下のまなざしが、焦点を失ったかのように見えた。 「……探す」 「え?」 「……」 「何?」 「?」 なんだろう。 今、なんか変だったよな。 「紅瀬さん?」 「まだ何か用?」 「……」 気のせいか。 ていうか、質問に答えてくれてないし。 まあ、いいけど。 「そういや、あの丘のことだけど」 「俺、誰にも話してないから」 「そう」 紅瀬さんはしばらく俺を見ていたが、やがて窓の外に視線を戻した。 信用してもらえたかどうかは、微妙なところだ。 ……。 「じゃ、おやすみ」 そう声をかけてから、談話室を後にした。 伝えたいことは伝えたのに、なぜかもやもやした気分が残る。 俺は昔から、人との距離感を見極めるのは得意な方だと思っていた。 というより、誰に対しても近づき過ぎないように接してきた。 なのに。 どうして紅瀬さんに対しては、距離感を見誤ってしまうのだろう。 どうして迂闊にラインを越えてしまいそうになるのだろう。 それは、彼女がもっとも嫌がることだとわかっているのに。 なんでだ。 ……。 「あ」 また本を返しそびれてしまった。 彼が部屋を出ると、再び静寂が戻ってくる。 「ふぅ」 思わず、ため息。 彼は、あの丘のことを誰にも話していないと言った。 本当かどうかはわからない。 嘘をつく必要性があるとも思えないけど。 ……。 でもなぜ? 風紀指導が目的なら、しかるべき対処をして当然なのに。 どうして彼は、口をつぐむのか。 私には、他人の考えていることはわからない。 「……っ」 ぐらり、と視界が揺れる。 頭が重い。 呼吸が浅くなっているのがわかる。 また「あれ」がやって来たのだ。 「早く……」 早く、部屋に帰らなければ。 帰らなければ── 四時間目終了のチャイムが鳴った。 「メシ、行くか」 「おう」 立ち上がった瞬間、教室のドアが勢いよく開く。 「支倉くん、いる?」 副会長だった。 クラス全員が、そちらに注目する。 「支倉くん、いないの?」 「おい、副会長だぞ」 周囲がざわめき始めた。 冷やかされたり、睨まれたり、羨まれたり。 改めて、校内における副会長の注目度の高さを思い知らされる。 好奇の目をかいくぐり、俺はドアの方へと歩いていった。 「なんだ? メシでもおごってくれんのか?」 「誰がよ」 「あと、紅瀬さんいる?」 「は?」 「なんで紅瀬さんも?」 「いいから」 「紅瀬さん! ちょっとこっちに来てくれる?」 クラスメイトたちの視線が、今度は紅瀬さんに集中する。 俺は動揺を隠しきれなかった。 手のひらが汗ばむ。 鼓動が速まる。 やがて、紅瀬さんがゆっくりとこちらに歩いてきた。 「何?」 「あなたたちに大事な話があるの」 「悪いけど、放課後二人で監督生室に来てくれない?」 副会長は、よどみない口調で言い放った。 大事な話。 しかも、俺と紅瀬さんに。 理由を考えるまでもない。 きっとバレたんだ。あの丘の存在が。 「そんなにもったいぶるような話なの?」 「はい?」 「今この場で話してもらえないかと聞いているのよ」 明らかにわずらわしそうな顔。 副会長は引きつった笑顔で答える。 「できれば来てもらえると助かるわね。長くなりそうだし」 「それとも何? 監督生室に来るのが嫌な理由でもあるの?」 「好きに取ってもらって構わないわ」 「ほ〜お……」 「やっぱり、令状か何か持ってきた方がよかったかしらねえ、支倉くん?」 「えっ」 副会長のこめかみから、今にも血管が切れる音がしそうだ。 つか、令状って。 やっぱり丘のことがバレたに違いない。 「とにかく、二人とも絶対に来るのよ」 「特に支倉くん、忘れないでね」 どうやら、異議を申し立てられる立場ではなさそうだ。 俺は黙ってうなずいた。 「じゃ、よろしくっ」 なんとかスマイルをキープしたまま、副会長は去っていった。 「……」 何やら、非難混じりの視線を感じる。 「貴方、昨日は誰にも話してないと言っていたけど」 「今日になって気が変わったの?」 「違う。俺は断じてバラしていない」 きっぱりと言い切った。 「いいわよ、別にどちらでも」 「あのなー。お前、絶対信じてないだろ」 が、だからといって、例の場所がバレてないかどうかは別の話で。 もしかしたら、俺の嘘が副会長に見破られていたという可能性もある。 ……。 どちらにせよ、俺がシロだと証明する手だてはまったくないのだが。 放課後、俺と紅瀬さんは監督生室に向かっていた。 「……はぁ」 知らず知らずのうちに、ため息が漏れる。 これからどう副会長たちに締め上げられるのか。 説教ぐらいで済めば御の字かもしれない。 ……。 例によって、紅瀬さんは終始無口だ。 密告者(?)である俺とは、口もききたくないと思っているのか。 ここは思いきって、沈黙の打破を試みる。 「なんか意外だな」 「紅瀬さん、当然ばっくれるかと思ってた」 「どうして?」 まっすぐ前を向いたまま、紅瀬さんは言った。 「なんつーか、体制に屈しないタイプ?」 「ずいぶん大げさね」 「私はただ、面倒なことは早く片づけたいだけよ」 「なるほど」 怒っているのかと思ったが、紅瀬さんはいつも通りだった。 そう。彼女はいつだってクールフェイスを崩さない。 この人を感情的にさせる人間なんて、いるのだろうか? いるとしたら、ぜひともお目にかかりたいものだ。 「いらっしゃい、二人とも」 監督生室では、副会長が仁王立ちして俺たちを待っていた。 会長も東儀先輩も白ちゃんもいる。 特に会長は、珍しい客人を前に好奇心を隠しきれない様子だった。 「やあ、ようこそ我が生徒会へ!」 「さっそくだけど、君を会長秘書にスカウトしようと思ってるんだが……」 「兄さんは引っ込んでてっ」 妹に一喝され、会長は下唇を突き出した。 この悔しがり方は、半ばマジだったに違いない。 「あの、新しい茶葉があるので、お客様にお茶を……」 「悪いわね。そうしてもらえる?」 「結構よ。長居するつもりはないわ」 紅瀬さんの一言で、瞬く間に室内の空気が変わる。 白ちゃんは困惑した様子で、副会長と紅瀬さんを交互に見た。 「あ、あの」 「遠慮することないでしょ。白の淹れるお茶、けっこうおいしいのよ?」 「それならなおさら、無駄にするわけにはいかないわ」 「で、用件は?」 「……まあ落ち着きなさいよ」 「私はね、紅瀬さんに話したいこと山ほどあるの」 「では交渉決裂ね」 「私にはあなたと話したいことなんて一つもないわ」 「むっ」 副会長の額に青筋が走る。 この二人、やはり好相性ではないらしい。 俺はどうすることもできず、ただ時が過ぎるのを待っている。 「ちょっと、何他人事みたいな顔してるのよ」 「すみません」 「まったくもーっ」 ばんばんっ 苛立たしげに机を叩く副会長。 これはいわゆる八つ当たりというヤツだろうか? とばっちりはご免だと言いたいところだが、立場が立場だけに強く出られない。 「いいわ。じゃあさっそく用件に入るけど」 ごくん。 俺は唾液を飲み込んだ。 「あなたたち二人に、生徒会の文化祭実行委員を引き受けてもらいたいの」 ……。 「はい?」 「聞こえたでしょ? 文化祭実行委員よ」 「体育祭と違って、文化祭は生徒会全員で取り組むのが通例なんだけど」 「人手が足りなくて困ってるの。お願いできるかしら?」 俺は、額ににじんだ汗を手でぬぐった。 副会長の申し出は、まるで予想外のものだった。 てっきり、あの丘のことをとがめられるかと思っていたのに。 「生徒会の文化祭実行委員は、正直かなり地味な仕事だ」 「クラスごとの実行委員とは違い、書類整理や資料作成が主な仕事だからな」 東儀先輩は淡々と説明する。 「事務関係の統括は俺の担当なんだが、一人では手が回らないのが現状だ」 「できればサポート役がいると助かる」 「そこで白羽の矢が立ったのが、あなたたちというわけ」 「ちなみに支倉くんは生徒会の人間だから、当然やってもらうけど」 「やっぱ強制なんだ」 「無理にとは言わないけど、ねえ」 副会長は曖昧な笑みを浮かべる。 それにしても。 なぜ俺と紅瀬さんなのだろう。 俺はともかく、紅瀬さんは生徒会とは関係のない人だ。 「それでね、支倉くん一人じゃちょっと頼りないでしょ?」 「悪かったな、頼りなくて」 「だから、すごーーく頼りになりそうな紅瀬さんに声かけたのよ」 すると、黙っていた紅瀬さんが大きくため息をついた。 「……はあ?」 思いっきり不機嫌そうな口調。 俺は驚いて、紅瀬さんを見た。 良くも悪くも、彼女がここまで感情をあらわにするのは初めてだったからだ。 「もちろん、タダでとは言わないわ」 「もし引き受けてくれたら、あなたのサボリ癖を不問にしてあげる」 「おお」 なんという太っ腹な提案。 というか、そこまで人員不足に悩まされているのか? 「あ、そうは言っても限界はあるわよ?」 「そうね、せいぜい五分くらいの遅刻だったら……」 「お断りします」 紅瀬さんは強い口調で言い放った。 冗談じゃない、といった様子だった。 「どうして断るの? 悪い条件じゃないはずよ」 「引き受ける理由もないし、やる気もない」 「それとも貴方たちは、やる気のない生徒に強制させる権利があるの?」 「むうぅぅぅ」 「まあまあ、落ち着いて」 「俺からもお願いするよ。どうか引き受けてくれないかな?」 「嫌です」 「了解!」 「あ、あのぅ、その」 「わたしもできる限りお手伝いしますので、えと」 「無理です」 「はいぃっ」 「ちょっとちょっと、もっと強気で行きなさいよー!」 「支倉くんもボケーッとしてないでなんか言ったらどう?」 「う」 そうは言われても。 副会長の目が、今にも深紅に変わりそうで恐ろしい。 だけど。 「まあ、嫌ならしかたねーだろ」 「こらーーーっ」 ばんばんばんっ 机を叩く音がいっそう大きくなる。 「ったくもう、これだから人情派は困るのよねっ」 「人情派?」 「……ふん」 副会長が、じろりと俺を見る。 え? どういうこと? ……。 なんだか、すべてを見透かされてたような気がしないでもない。 いや、気のせいだなきっと。そういうことにしておこう。 「話は終わったようね」 「1ミリも終わってないわよ」 「そろそろ帰らせてもらうわ」 紅瀬さんはすたすたと出口に向かい、ふと振り返った。 「千堂さんもイライラしてないで早く帰ったら?」 「本の一冊でも読んだ方が、遥かに有意義に過ごせるわよ」 「なんですってーっ?」 ばたんっ 「おい、ちょっと」 「早く追いかける!」 「お、おう」 「いってらっしゃ〜い」 「健闘を祈る」 「お気をつけて……」 みんなに見送られながら、俺は監督生室を出た。 紅瀬さんは、やたらと足が速かった。 すぐに追いかけたつもりなのに、いつの間にか大きな差がついていた。 「紅瀬さんっ」 「……何?」 俺の声で立ち止まり、振り返る。 それは、いつも通りの紅瀬さんの表情だった。 副会長の前で見せたような、強い色はない。 「監督生室に戻ってくれ」 「って言っても無駄だよな」 「そうね」 歩調が弱まる。 どうやら俺に合わせてくれているらしい。 「紅瀬さんと副会長って、いつもあんな感じなのか?」 「あんな感じとは?」 「ほら、犬猿の……」 「別に。普通でしょう」 「普通じゃないだろ、あれは」 「普通よ」 「下の上くらい」 また微妙なところだな。 しかし俺は、少しだけ驚いているのだ。 紅瀬さんは、なぜか副会長に対して感情的になる。 あまり変わらないように見えて、言葉の節々に反抗的な色がにじむ。 本人は自覚していないのだろうか? 「悪かったわね」 「は?」 「貴方のこと、疑っていたわ」 「あの丘のこと、秘密にしていてくれたんでしょう?」 「あぁ」 紅瀬さんは、かすかに頭を下げた。 「まあ、隠し方に問題があったみたいだけど」 「……」 やはり、彼女も気づいていたのか。 副会長に見透かされていたということに。 「副会長の誘い方はちょっと強引だったけどさ」 「あの人も、悪気があったわけじゃないと思うぞ」 何も答えない。 しばらくして、紅瀬さんは俺を見た。 「貴方は、委員を引き受けるの?」 「たぶんな。どーせ断り切れないだろうし」 「そう」 大して興味のなさそうな反応だ。 「でも、やっぱりもう一人ぐらいいてくれると、助かるっていうか」 「嫌よ」 あっさり断られた。 ま、当然だよな。 「用事があるから、先に失礼するわね」 「ああ、わかった」 「またな」 「……」 「? どうした?」 「いえ」 短く言ってから、紅瀬さんは足早にその場を去った。 私は足早に彼のもとから去った。 文化祭実行委員だなんて、何を考えているのか。 千堂さんだって、私が引き受けるはずがないとわかりそうなものだ。 余計なことに巻き込まないでもらいたい。 不特定多数と関わるのは、とてもリスキーな行為だ。 もし、「あれ」がバレたら。 もっと面倒なことになるのは明白だ。 「……まったく」 ……。 だけど。 彼には、申し訳ないことをしたと思う。 証拠もないのに、一方的に疑ってしまった。 でも、どうしてだろう。 どうしてあの丘のことを、千堂さんに黙っていたのか。 私のことを、監視していたんじゃなかったのか。 わからない。 「支倉……孝平」 私には、彼の思考パターンが読めない。 月曜日の体育はだるい。 なのに体育教師ときたら、おかまいなしに殺人アタックを繰り出してくる。 「おらー! 次!」 バシッ! 「グフッ」 よそ見をしていた司が、不意打ちのアタックを受けて唸る。 「もっと気合い入れんかー! 次!」 月曜日から気合いの入ってるヤツなんていない。 やる気がないのは司だけじゃないのだ。 ……いや、約一名、例外がいた。 「行くわよーっ」 バシッ! 「瑛里華、ナイスアタック!」 「どーもどーも♪」 体育館の半分向こうでは、2組と3組の女子たちがバレーの試合をしている。 中でもとりわけ目立つのは、年中無休で絶好調な副会長だ。 「いやー、千堂さんのクラスと合同体育でラッキーだったぜ」 「制服姿もいいけど、体操服姿もきれい……」 男子たちの視線は、ほぼ例外なく彼女に注がれている。 相変わらずすごい人気だ。 「瑛里華ー、魔球よろしくっ」 「任せといて!」 「そりゃっ!」 バシッ! 「わわっ」 陽菜がボールを追った。 しかし、あと一歩というところで魔球が決まってしまう。 さすが副会長、何をやらせても上手い。 「みんな、ごめんね」 「ドンマイドンマイ!」 「ナイスファイトだよ、陽菜!」 3組は若干苦戦しているようだ。 でも、陽菜はなかなかガッツがある。 あの剛速球に食らいつこうとするだけ大したものだ。 「……」 ふと体育館の隅を見ると、紅瀬さんが立っていた。 試合に参加するでもなく、遠巻きにみんなを眺めている。 一応体操服には着替えているが、授業に参加する様子はない。 あんなとこで、何をしているんだろう? 「紅瀬さん!」 試合が終わると、副会長は真っ先に紅瀬さんを呼んだ。 「あなた、いつも試合に参加しないのね」 「よければ、その理由を聞かせてくれない?」 「怪我したくないから」 「は?」 「二度も言わせないで」 「なっ」 「そんなこと言って、ホントは運動が苦手なんでしょ」 「悔しかったら、私の魔球を受けてみなさい!」 「遠慮しておくわ」 「あーら、ずいぶん謙虚なのね」 「おかげさまで」 「ぬっ……」 ここからでも、血管の切れる音が聞こえてきそうだ。 あの調子じゃ、文化祭実行委員なんて夢のまた夢だろう。 「あと1点! はりきって行こうぜー!」 クラス対抗試合、第3セット目。 3組男子チーム、いよいよマッチポイントだ。 「はぁ……はぁ……」 「コーラ飲みてーな」 「飲みたい」 「1,5リットル一気で」 だが、ここが正念場だ。 なぜなら、隣のコートで女子たちが試合を見学しているからだ。 特に我がクラスの男どもは、副会長が見ているので気合いを入れまくっている。 「司、そろそろ行くか」 「俺たちのダブル回転アタックを」 「一人でやれ」 そうこうしているうちに、2組の攻撃! 「どああああああああ」 バシッ! 「うおおおおおおおお」 2組の稲妻スパイクを、クラスメイトが果敢にレシーブ。 すかさず司がトスに回る。 「行け孝平!」 「おりゃあああああ」 ここは見せ場だ! 女子たちの歓声がひときわ大きく響いた、ような気がした。 バシッ! 「げっ!?」 「出た、消える魔球」 鋭角を狙うはずだった俺のボールは、軽々と相手コートの白線を越えた。 勢いに乗ったまま、隣のコートを目指していく。 先生と話している、女子たちのグループへと。 「陽菜、危ない!」 「?」 俺の声に反応し、陽菜がこちらを振り向いた。 その顔面に、ボールが── 「っ!」 バシッ! 「!」 「きゃあっ!」 思わず、目を覆いそうになる。 だが、悲劇は直前で食い止められた。 素速く走り込んできた紅瀬さんが、ボールを受け止めたからだ。 「……ふぅ」 すごい。 半端じゃない反射神経だ。 俊敏なカットインに、驚きを隠せない俺。 「すごーい! 見た見た?」 「紅瀬さん、動き速っ!」 女子たちが、紅瀬さんに群がっていく。 そんな様子を横目に見ながら、俺は陽菜へと駆け寄った。 「ごめん。大丈夫か?」 「う、うん。私は大丈夫だよ」 「ちょっとびっくりしただけ」 「そっか」 俺はほっと胸をなで下ろした。 陽菜に少しでも怪我させたら、かなでさんに呪い殺されるだろう。 紅瀬さんには感謝しなくちゃいけない。 「紅瀬さん」 「ボール受け止めてくれて、ありがとう」 「……」 紅瀬さんはこくりとうなずいた。 それより何より、急に人が集まってきて動揺している様子だ。 「紅瀬さん、隅っこにいないで一緒にバレーやろうよ!」 「そーだよ、うちのチーム入ってよ!」 「私は、別に」 「ね、一緒にやろう?」 「うちのクラス、2組にけっこう押され気味だったりするし」 そう言いながら、陽菜はちらりと副会長を見る。 その時、副会長の目がきらりと光った。 「そうよ、かかって来なさい!」 「それとも何? この期に及んで逃げる気?」 「……逃げる?」 「ええ」 「ここで勝負を断ったら、逃げたものと見なすわ」 「嫌だったら、勝負を受けるか文化祭実行委員を引き受けるかのどちらかに……」 「1セットだけでいいかしら」 紅瀬さんは、陽菜を見た。 「も、もちろん!」 まさか、勝負を受ける気なのか? 意外とアツイ性格だったり。 「ちょっと、人の話聞きなさいよっ」 副会長の声が響く。 ……つか、実行委員の件、まだ諦めてなかったのか。 ピ――――ッ ホイッスルが鳴り響き、女子のクラス対抗試合が始まった。 副会長VS紅瀬桐葉。 因縁の対決に、男子たちの目は釘付けだ。 もちろん、俺もその一人。 「これは見物だな」 「どっちに賭ける?」 「……わからん」 言わずと知れたエースアタッカーの副会長。 対するは、未知のポテンシャルを秘めた紅瀬さん。 順当なのは前者だが、後者も見過ごせない。 どちらかというと、俺としては後者に票を投じてみたい気もする。 副会長には怒られそうだが。 「紅瀬さん、がんばれーっ」 「副会長ーっ!」 「瑛里華行けー!」 「頼んだぞ、紅瀬!」 まるで日本シリーズ最終戦かと思うような歓声だ。 まさかのニューフェイスの参戦に、場が色めき立っている。 先生たちも、興味津々といった様子だ。 「とあああぁっ!」 バシッ! 「えいっ!」 2組のサーブを、3組の女子が受ける。 ちょうど陽菜の頭上にボールが飛んだ。 「行くよ、紅瀬さんっ」 陽菜が高くトスを上げる。 紅瀬さんに打たせるつもりだ。 「……っ」 膝を曲げ、床を踏みしめる。 そのしなやかな身体が、ボールに合わせて宙に舞い上がった。 バシッ! 「はいっ!」 紅瀬さんの鋭いスパイクを、副会長が受ける。 しかし当たり所が悪かったのか、ボールはあさっての方向へと飛んでいってしまう。 「紅瀬さん、ナイスアタック!」 「今の何!? すごすぎーー!」 「やったね、紅瀬さん」 「別に。大したことないわ」 長い黒髪を手で払いながら、紅瀬さんは悠然と答える。 ……なんだ? 今の。 現役バレー部に引けを取らない跳躍力。 柔軟性のある体躯。 的確なスパイクコントロール。 エース扱いされてないのが不思議なくらいの運動神経だ。 しばし、無言で見とれてしまった。 「ちょっと、紅瀬さん」 「そんなスパイク打てるくせに、なんで今までサボってたのよっ」 「怪我したくないから」 「あのねぇ……」 「いいわ、ウォーミングアップはここまでよ! 本気で行くからね!」 副会長の闘争心に火をつけてしまったようだ。 「みんなー、どんどん行くよー!」 みんなの視線が、紅瀬さんを追う。 ここに来て、一気に注目度がアップした。 もともと紅瀬さんは、美人でスタイルもいい。 その気になれば、副会長と互角に戦える素材だろう。 端正な横顔。 白い肌。 すらりと伸びた長い脚。 体操服の中で揺れる、豊かな……。 ……。 って、どこ見てんだよ。俺は。 「紅瀬さん、行きまーすっ」 「……っ!」 バシッ! 紅瀬さんの快進撃はまだまだ続く。 小気味よいスパイクの音。 ボールは風を切り、白い弾丸となって相手コートに着弾した。 「とああああぁっ」 と思いきや、現役バレー部の女子が滑り込んでレシーブ! 「あっ!」 「あっ!」 レシーブに力が入りすぎたのか、ボールが司へと一直線に向かってきた。 俺は条件反射で、司の前に飛び出す。 「……いってぇ」 手をグーにして、なんとかボールを弾き返すことに成功した。 「ご、ごめんなさい!」 「あー、うん、大丈夫」 さすが破壊力のあるレシーブだぜ、現役バレー部。 まだ手がジンジンしている。 「……」 「悪りぃな、孝平」 「いや、いい。俺が勝手に飛び出しただけだ」 「でもわかってると思うが、今日の昼飯はお前のおごりな」 「ああ」 「いつものカップ焼きソバでいいな?」 ……せめて生麺にしてくれ。 女子によるクラス対抗試合は、結果的に僅差で2組の勝利。 紅瀬さんが宣言通り第1セットで抜けてしまったので、後は副会長の独壇場だった。 試合には負けたものの、3組の女子たちの表情は晴れやかに見える。 それに対し、紅瀬さんはどことなく居心地が悪そうだ。 みんなから憧れのまなざしを受けて、困惑しているのだろう。 「紅瀬さん」 授業が終わり、俺は紅瀬さんに声をかけた。 「さっきはありがとな」 「なんのこと?」 「ほら、俺のボール受けてくれただろ。おかげで陽菜が怪我せずに済んだ」 「別に。貴方がわざとやったわけではないでしょう」 「そりゃまあそうだけど、目覚め悪いから一応礼を言っておく」 すると紅瀬さんは、わずかに眉根をひそめた。 「……貴方に礼を言われたら、私も言わなくてはならないわ」 「は? なんで?」 「さっき、八幡平君に飛んだボールを受けてくれたでしょう」 「あぁ」 「あれだって、別に誰が悪いわけでもないじゃないか」 「とにかく、私だけ礼を言われるのは癪ね。こっちからも言わせてもらうわ」 「いいって、別に」 「いいから」 「ホントにいいんだって」 「では、聞かない振りをして」 「なんだそりゃ」 「……」 紅瀬さんが、真っ正面から俺を見る。 その黒い瞳が俺の目をとらえた。 吸い込まれそうな瞳とは、こういうことを言うのだろう。 「ありがとう」 「……」 紅瀬さんは、足早に体育館を出て行った。 彼女の素っ気ない一言が、いつまでも鼓膜に残っていた。 五時間目が終了。 今日は、朝からどんよりとした天気だ。 雨が降るのは時間の問題だろう。 こういう時のために、俺は傘を常備している。 といっても、生徒会の置き傘を借りっぱなしにしてるだけだけど。 ……。 ポツッ ポツポツッ 窓ガラスに水滴がつく。 いよいよ降ってきた。 大降りにならなければいいが。 ザ――――ッ 六時間目になると、本格的に雨足が強くなってきた。 「じゃあ次の問題は、紅瀬」 しーん。 「紅瀬はまたいないのか?」 背後を振り返る。 そういえば、五時間目の休み時間から見ていない。 また例のサボリ癖が出たのだろう。 ……雨なのに? 「しかたない。紅瀬の代わりに支倉、答えろ」 「えっ」 「さっさと答える」 割を食ってしまった。 後で本人に、一言ぐらい文句を言わせてもらおう。 放課後になっても、雨の勢いは止まらない。 「この分だと、しばらくやみそうにないね」 「傘持ってるか?」 「うん。折りたたみがあるから」 陽菜はバッグからピンクの傘を取り出した。 さすが用意がいい。 「なんか女子のバッグってさ、いろんなもん入ってそうだよな」 「そうかな? 必要最低限の物だけだよ」 「財布と携帯とか?」 「うん。あとは……」 「教科書とノートと筆記用具と、あと手帳と」 「リップクリームとハンカチとティッシュと傘と」 「目薬と鏡と日焼け止めと裁縫セットとペットボトルのお茶と」 「わかった、もうだいたいわかったから」 「あっ」 「なんだ?」 「のど飴もあったよ」 バッグの中を覗き込みながら、陽菜は嬉しそうに付け加える。 それだけ持っていれば、三日ぐらいは遭難しても大丈夫そうだ。 遭難。 「……」 気がかりなのは、紅瀬さんのことだ。 まさかこの天気で、あの丘にいるとは思えない。 では、どこに行ったんだろう? 他にもサボリスポットがあるのか? 「……にゃあ」 ──え? 俺は窓の外を見た。 雨の中を歩いているのは、ネネコだ。 どこかで雨宿りするでもなく、のんびりとうろついている。 ときおり、こちらを見上げながら。 「この間の猫ちゃんだね」 「雨なのに、何か探してるのかな?」 そうだ。 確かに以前も、同じようなことがあった。 ネネコを追って、たどり着いたその先に、あの丘があった。 そこには、彼女がいたのだ。 「……俺、ちょっと行ってくる」 「うん。気をつけて」 「廊下を走ると、お姉ちゃんに風紀シール貼られるからね」 「おう」 俺は傘を取り、急いで教室を出た。 「待て待て〜、御用だ〜!」 「すみません、マジで急いでるんです!」 「問答無用!」 「受けよ! 風紀委員のトールハンマー!」 「うりゃっ」 ぺたしっ 「あうっ」 陽菜の忠告を素直に聞くべきだった。 「はぁ……はぁ……」 「にゃあ」 ぺりっ、と額の風紀シールをはがす。 中庭では、ネネコがずぶ濡れのままこちらを見ていた。 まるで俺を待っていたかのようだ。 やがてネネコは、以前と同じように本敷地の方へと歩き出した。 「まさか」 まさか、紅瀬さんはあの丘にいるのか? ふと、そんな気がした。 確証はない。 ただの直感だ。 「紅瀬さんっ」 丘に着き、紅瀬さんの名を叫ぶ。 だが、雨の音にかき消されてしまう。 まだ夕方前だというのに、辺りは暗い。 遥か向こうには、鉛色の海に白波が立っているのが見える。 とても景色を楽しめるような状況ではない。 「ネネコ?」 先を歩いていたはずのネネコが、一瞬のうちに消えてしまった。 毎度のことながら、神出鬼没な猫だ。 「ったく、びしょ濡れだな」 傘を差していたのに、ローファーの中が浸水している。 雨を吸い取った制服が、ずっしりと重い。 どう考えたって、こんなとこに来るヤツなんか……。 ……。 「紅瀬、さん?」 俺は目をこらした。 丘の上に、誰かが倒れている。 長い黒髪の、彼女だ。 「紅瀬さん!」 ぬかるみの道を駆けていく。 この丘で一番眺めのいい場所に倒れていたのは、やはり紅瀬さんだった。 横たわったまま、全身で雨を受け止めている。 「紅瀬さん、しっかりしろ!」 ひとまず顔の近くに傘を置き、肩を揺する。 まるで反応がない。 気を失っているのだろうか? ずいぶん体温も下がっているみたいだ。 「紅瀬さん、紅瀬さん!」 どうしたらいい。 彼女を背負って丘を下りるか? いや、携帯で誰かを呼んだ方が早いか? 突然のことで、頭の中がパニック状態だ。 一刻一秒を争うかもしれないっていうのに。 「紅瀬さん!」 「……っ」 肩がぴくりと反応する。 やがて、紅瀬さんの目がゆっくりと開いた。 その時の俺は、きっと間抜けな顔をしていたことだろう。 目覚めたばかりの紅瀬さんも、かなり驚いた顔をしていた。 雨の中、しばし見つめ合う。 「なぜ」 「なぜここにいるの」 「同じことを聞こうとしてたところだ」 「つか、大丈夫なのか?」 紅瀬さんは何も答えず、ある一点を凝視している。 彼女の肩を掴んでいる、俺の手だ。 「あ、すまん」 即座に手を放した。 「マジで死んでるのかと思ったぞ」 「なあ、大丈夫か? どこか悪いのか?」 「問題ないわ」 紅瀬さんは身体を起こし、いつもの調子で言った。 「昼寝をしていただけ」 「はあ?」 「この雨の中?」 「最初は晴れていたの」 「お前、どんだけ眠りが深いんだよ」 いくらなんでも、馬鹿げた返答だ。 小雨ならまだしも、このどしゃ降りで呑気に昼寝なんかできるわけがない。 体温もかなり下がっていた。 大げさじゃなく、下手したら命に関わる問題だと思う。 「とりあえず、保健室に行こう。な?」 「その必要はないわ」 「いや、必要なくはないだろ……」 「必要ないと言ってるでしょう」 紅瀬さんは頑なだった。 わけがわからない。 普通だったら、大事を取って保健室に行くぐらいはするよな? なのに紅瀬さんは、この状況を少しも疑問に思っていないようだ。 ……。 おかしいって。絶対。 普通じゃない。 どう考えても、普通の人の反応じゃない、気がする。 「頼む」 「一緒に保健室に行ってくれ」 「お断りするわ」 「行ってくれたら、この傘やるから」 「俺のじゃないけど」 「ねえ、ありがた迷惑という言葉を知ってる?」 紅瀬さんは立ち上がった。 「急に立ち上がるなよ、危ないだろ」 「しつこい」 「しつこいのが嫌なら、心配させるようなことするな」 紅瀬さんは奇妙なものと対峙したような目つきで、俺を見る。 気づけば、雨足が少しだけ弱まっていた。 雲の隙間から、ほんのりと夕焼けが覗いている。 雨に濡れた髪が光に縁取られ、きらきらと輝いていた。 「私のこと、心配なの?」 「……」 「悪いかよ」 「……」 思わず、予定外の台詞を口走ってしまった。 何を言わせるんだ。 じっと見るな。 だんだん恥ずかしくなってきたじゃないか。 「にゃお」 「わ!」 ネネコが足下にいた。 俺と紅瀬さんをじっと見つめている。 「ほら、ネネコだって心配してるじゃないか」 「こいつが俺を、ここまで連れてきてくれたんだぞ」 「たまたまよ」 「猫は心配なんてしないわ」 「そういう夢のないこと言うなよ。命の恩人だぞ?」 「私は大丈夫だと言ってるでしょう」 「貴方こそ、そんなにずぶ濡れだと風邪引くわよ」 そう言って、紅瀬さんはさっさと歩いていってしまった。 俺のこと、心配してくれたのか? なわけないか。 「ったく……」 俺はネネコの頭を撫でながら、彼女の後ろ姿を見ていた。 あの調子じゃ、紅瀬さんは保健室になど絶対に行かないだろう。 意地になっているからじゃない。 たぶん── 行く必要がないと、自分でわかっているからだ。 その理由は、俺にはよくわからない。 何か特別な事情があるのかも。 「でも……普通じゃないよな」 あの日。 生徒会に入った時から、俺は過敏になり過ぎているのかもしれない。 「普通じゃない」、と思うことに対して。 ……。 その時。 ふと、副会長の顔を思い出した。 あの紅に染まった瞳のことを。 私は窓の外を見上げた。 雨が上がり、夜空には大きな月が出ている。 「……失敗だわ」 今日の自分は、どうかしていたと思う。 よく考えれば、彼があの丘に来ることも予想できたはずなのに。 迂闊だった。 一番見られたくないところを、見られてしまった。 どうして彼は、あれほどまでに私に関わろうとするのだろう? 彼は── 私の敵? それとも……。 「……ふっ」 思い出し笑いなんて、久しぶりのことだ。 「私のこと、心配なの?」 そう尋ねた時の、彼の顔といったら。 私の体調なんて、心配するだけ無駄なのに。 おかしな人。 わずらわしいだけの存在なのに、なぜか思い出してしまう。 支倉孝平。 私は窓ガラスを見つめる。 そこには、口元に笑みを浮かべた自分の顔が映っていた。 微笑むお前の顔が見える。 そんな表情を浮かべるのは、何年ぶりだ? 5年。 いや10年。 思い出すのも難儀なほど、遥か昔のことだろう。 面白い。 お前が、第三者の存在を気に留めるとは。 お前を探しに、雨の中やって来たあの男のことを。 「……ふふふっ」 馬鹿な子だよ、お前は。 期待など捨て去れ。 希望は潰える。 お前の道は、此処にしか繋がっていないのだから。 ……。 現の夢は、やがて終わる。 手の鳴る方に来るがいい。 夢から醒めるその刹那。 お前は、絶望の意味を知るだろう。 「……あと少し」 あと少し── 翌朝。 「おはよう」 「ういっす」 「ういー」 平和な一日が始まろうとしていた。 昨日の雨のおかげか、今日の空は澄み渡っている。 教室には、見慣れたクラスメイトたちの顔。 その中に、紅瀬さんの顔もあった。 「紅瀬さん、おはよっ」 「おっはよう! 紅瀬さん!」 「おはよう」 淡々と返してから、席に着く。 例のバレーボールの一件からだろうか? 紅瀬さんに対する、女子たちの対応が少しだけ変わったように見えた。 以前はもっと、腫れ物に触れるかのような扱いだったはず。 そんな微妙な空気感が、少しだけ和らいだような気がするのだ。 もちろん本人は、そういった変化などお構いなしだろうが。 「おはよう、紅瀬さん」 俺は背後を振り返り、さっそく挨拶をした。 「おはよう」 「で、体調はどうだ?」 「どう、とは?」 「頭が痛いとか寒気がするとか」 「特にないわね」 「ほんとかよ」 「こんなことで嘘をついてどうするの?」 「それは、ほら」 「俺に心配をかけたくないから……とか?」 「ふっ」 鼻で笑われた。 「貴方、よく珍奇な人だと言われない?」 「ちんき?」 「おめでたい人だということよ」 「残念ながら、言われたことないな」 「そう」 「では、私がもう一度言ってあげるわ」 紅瀬さんは、真っ正面から俺を見た。 「支倉孝平は、珍奇かつ脳天気なお節介」 「余計ひどくなってるな」 そう答えると、紅瀬さんはかすかに笑った。 確かに、笑った。 俺は平静を装いながらも、実は少し動揺している。 紅瀬さんに、初めて名前を呼ばれた。 というより、俺の名前を知っていたということが驚きだった。 「マジで、無理しない方がいいと思うぞ」 「無理なんてしていないわ」 「ああいう風に倒れること、よくあるのか?」 「……」 何も答えない。 いつだってそうだ。 紅瀬さんは、あと一歩というところで口を閉ざすのだ。 昼休み。 俺は外を眺めるふりをして、窓ガラスに映る紅瀬さんを見た。 いつものように、一人で本を読んでいる。 今日はサボらないのか。 なんだか、紅瀬さんの所在を確認するのが癖になってしまった。 「なあなあ、孝平」 「ん?」 クラスメイトが話しかけてきた。 「お前さ、前の学校にいた頃の写真とか持ってねえの?」 「写真?」 「……うーん、ないな」 「はぁー、そっか」 「なんだよ、突然」 「いや実はさ、密かに他校との親睦会を企画しててさ」 「孝平に、前の学校の友達を紹介してもらえたらいいなー、と」 「主に女子か」 「まあ、女子が多いに越したことはないな」 クラスメイトは大真面目な顔でうなずいた。 ……この企画が、シスター天池にバレて頓挫しないことを祈る。 「俺、前の学校には短期間しかいなかったんだ」 「クラスメイトとは、友達になる前に転校しちゃったしな」 「じゃ、その前の学校は?」 「その前も、その前の前も同じ」 「だから、みんなの顔とかあんま覚えてない」 「へえー。そりゃ友達どころか、彼女作る暇もないな」 「残念ながら。力になれなくて悪い」 「いやいや、そんなのはいいんだけどさ」 「でもそれ、かなり寂しくないか? 思い出とかほとんどないんだろ?」 「ああ」 「そういうのが嫌で、全寮制のここに入ったってワケだ」 「なるほどなー。意外に苦労してんじゃん!」 ばしばしと背中を叩かれた。 転校は慣れっこだったから、別に苦労でもなんでもないけどな。 「なあなあ紅瀬さん、今の聞いた?」 「こいつ、実は苦労人なんだよ」 やつは冗談めかした口調で、背後の紅瀬さんに声をかけた。 そこで話を振るのかよ。 すると紅瀬さんは、ちらりとこちらを一瞥し……。 再び、本に視線を戻す。 「……失礼しましたー」 読書の邪魔をするなと言わんばかりの目つき。 予想通りのリアクションだ。 活字を追う、目が滑る。 いつしか私は、本を読む振りをしながら、彼の言葉に耳を傾けていた。 転校ばかりの日々。 記憶にないクラスメイト。 残らない思い出。 彼がそんな生活を送っていたとは、知らなかった。 周囲と溶け込むのに長けた性格は、転校生活の賜物なのかもしれない。 まるで、渡り鳥のよう。 ……。 私も似たようなものだ。 ただ彼と違うのは……。 人と関わるかそうでないか。 思い出を作るか作らないか。 彼は前者で、私は後者だ。 「ではこうしよう」 「プール開きのメインイベントは、新作水着のファッションショー」 「……兄さん?」 「ダメだってさ、支倉君」 「俺の企画みたいに言わないでくださいよ」 放課後。 監督生室では、千堂兄妹が今月のイベントについて話し合っていた。 もう6月か。 始業式が遥か昔のことのように思える。 「時間ないんだから、どんどん詰めていかないと」 「やれやれ、夏は毎年大忙しだね」 書類に次々とハンコを押しながら、そんなことをぼやく。 確かに最近は、いつも以上に忙しそうに見える。 ぶつぶつ言いながらも、手早く仕事を片づけるところはさすがだ。 「これが終わったら、次はこっちの申請書を……」 「はいこれ、コピー取っといた」 「あら、ありがとう」 「一段落したら、ちょっと休憩すれば? ぶっ倒れるぞ」 「心配には及ばないわ」 「そう簡単にはぶっ倒れないの。私」 「でもなぁ」 「瑛里華の言う通りだよ」 「俺たちの身体は、そう簡単には壊れないようにできてるんだ」 そう言って、会長はウインクした。 簡単には壊れない。 それは、単に二人が頑張り屋さんという意味だけではなく。 人間と吸血鬼の、身体能力の差を言っているのだろう。 そうだ、危うく忘れそうになっていた。 彼らは普通に見えて、普通とは違う。 オリンピックで金メダルを取るぐらいのことは、朝飯前。 むしろ、力をセーブしなければいけないぐらいなのだ。 「……」 ふと、バレーボールの授業を思い出した。 大活躍だった副会長。 あれでも、だいぶ力を抑えていたのだろう。 必要以上に運動神経が良すぎても、困るかもしれない、と思う。 「平均」を上回ると、良くも悪くも目立ちすぎる。 特に、集団生活を送る上では。 ……そういえば。 あの日は、紅瀬さんも大活躍だったな。 彼女は、実はすごく運動神経が良かったのだ。 本人は試合に出るのを嫌がってたようだけど。 ……。 「まあとにかく、いろいろと普通じゃないんだよ。俺たちはね」 普通じゃない。 そうなのだ、この人たちは── 「あの、質問なんですけど」 「なんだい?」 「例えば……」 馬鹿馬鹿しい質問だと思う。 ただの思いつきだ。 「この島に、会長と副会長以外の吸血鬼っているんですか?」 「……?」 「?」 二人は作業の手を止め、俺を見た。 「なんで?」 「いや、なんとなく」 「私の知っている限りでは、いないと思うわよ」 「島の外のことはわからないけど」 「そっか」 だよな、やっぱり。 聞くまでもないことだ。 「どうしてそんなことを聞くのよ」 「ただの興味本位」 「あらそう」 「おう」 俺は書類を揃える作業を再開した。 ……だよな、やっぱり。 「支倉君、帰った?」 「ええ。今外に出たところよ」 「そうか」 「……気になるねえ、彼の発言」 「何か見つけたのかな?」 「兄さんたら、すぐ面白がるんだから」 「好奇心旺盛と言ってくれたまえよ」 「度を超してるから手に負えないの」 「名探偵は、えてして周囲からの理解を得られないものさ」 「要するに、探る気満々なのね?」 「そういうことだ」 「はぁ……」 「止めはしないけど、何かあったらすぐに教えて」 「わかってる」 寮に着くと、辺りは真っ暗だった。 のんびり歩き過ぎていたらしい。 そして俺は、いつものように寮を見上げる。 「……」 やっぱり、いた。 俺のいる玄関辺りを、無表情で見下ろしている。 紅瀬さんも、俺に気づいたようだ。 会釈をしようとすると、先に向こうが小さく頭を下げた。 ……ように見えた。 「よう」 「こんばんは」 ぶっきらぼうな挨拶がすぐに返ってきた。 俺がここに来るのは、当然のようにお見通しか。 「なかなかいい月だな」 「そうね」 「あれから体調はどうだ?」 「またその話なの?」 目からブリザードビーム。 しかし、めげない。 「だって昨日は、どう考えてもおかしかっただろ」 「私は普通よ」 「何度も言わせないで」 ぷい、と窓の方を向く。 今日の談話タイムはここまでか。 「……」 紅瀬さんは、ため息混じりに外を眺めている。 人待ち顔とでも言うのだろうか。 なんだか、やけに気になる。 ……気になる。 以前にも尋ねたことのある言葉を、俺は再度口にした。 「誰か捜してるのか?」 「別に」 即答するところが嘘っぽい。 なんて、考えれば考えるほどキリがない。 だけど俺には、彼女が誰かを捜しているように思えてならないのだ。 いったい、誰なんだろう? 紅瀬さんに、こんな遠いまなざしをさせているヤツって。 ……。 まあ、俺ではないことは確かだ。 その事実が、妙に悔しい。 「おやすみ」 俺は、そうつぶやいてから談話室を出た。 「……はぁ」 馬鹿か俺は。 悔しいって、なんだ? それじゃまるで、俺が嫉妬してるみたいじゃないか。 いるかどうかもわからないような相手に。 そんなの、妄想もいいところだ。 「早く寝よ……」 俺はとぼとぼと自分の部屋に向かった。 「……ふうん」 「彼が気にしていたのは、紅瀬ちゃんのことか」 「なるほどねえ……」 翌日。 俺は会長から呼び出しを受けていた。 会長の隣には、難しそうな顔をした副会長がいる。 東儀先輩と白ちゃんは不在だ。 「単刀直入に聞こう」 「君、紅瀬ちゃんのことで何か気になってるんじゃないか?」 「は?」 俺は、副会長を見た。 あ、目をそらされた。 「なんでですか?」 「俺はね、そういうのがわかっちゃうタチなんだよ」 「特に、思春期の少年特有の、心の機微に敏感っていうかさ」 「?」 なんで会長が、紅瀬さんのことを言い出す? そんなの唐突過ぎるだろ。 確かに気になることはたくさんあるけど。 でも、だいたいなんで会長がそんなことを知って……。 「ちなみに、たまたま通りかかっただけだよ?」 「別に盗み聞きしてたわけじゃないからね」 「……あっ」 「昨日、談話室で」 「うん、偶然ね」 素知らぬ顔で会長は言う 紅瀬さんと談話室で話してたこと、聞かれてたのかよ。 「本当に偶然ですか?」 「もちろん」 あえてシラを切り通すつもりのようだ。 ならばこちらも、受けて立つしかない。 「で、どうなんだい?」 「何も気になってません」 「あーあ、素直じゃないな」 「兄さんの切り出し方に問題があると思うわ」 「そりゃ悪かった」 「でね、支倉君。真面目な話なんだけどさ」 会長は真面目な顔になった。 「君の昨日の質問が、ちょっと引っかかっててね」 「なにか気づいたことがあれば、正直に話してほしいんだ」 「俺たちも、何か力になれるかもしれないだろ?」 誠実そうな表情で、会長は微笑む。 そんなこと言われても、と思う。 何をどう気づいたって? 紅瀬さんのことを? 会長たちに話して、何がどうなるとも思えない。 「話してもしょうがないって顔してるなあ」 「だって、本当にしょうがない話なんです」 「だからなんだよ、っていう」 「聞かせてヤバイ話じゃなければ、気軽に話せばいい」 「違うかい?」 そう言われると、確かにその通りなのだ。 だんだん、会長の術中にハマってきてるような気がする。 「……実は」 まあ、ここで話しても紅瀬さんには差し支えないはず。 「この前、紅瀬さんがとある場所で倒れてまして」 「とある場所?」 副会長が反応する。 「本敷地内の、屋外のどこかです」 「その日はどしゃ降りで、なのに揺すってもぜんぜん起きないし」 「でもしばらくしたら、急に目を覚ましたんです」 「……ほう」 「それで? 紅瀬さんはどうした?」 「別に、何も」 「何も?」 「はい。なんの問題もないって言われました」 「普通、どしゃ降りの中で昼寝なんかしませんよね?」 「普通はね」 「だから俺、体調でも悪いんじゃないかって言ったんです」 「でも彼女は、なんでもないの一点張りで……」 「?」 副会長は思案顔だ。 だから言わんこっちゃない。 「サボってたにしては変ね」 「変だね」 「気になった点ってのは、それだけなんです」 「すみません、とりとめのない話で」 「いや、実に興味深い話だったよ」 「はあ」 ……。 …………。 会長は、しばし沈黙した。 ティーカップから立ち上る湯気を、じっと凝視している。 何やら話しかけづらい空気だ。 「うん」 やがて会長は、顔を上げた。 「あのね支倉君。ちょっと説明しづらいんだけどさ」 「はい」 「しかも、まだ断定はできないんだけど」 「紅瀬ちゃんは、もしかすると眷属なのかもしれないな」 「は?」 「えっっっ」 俺よりも、副会長の方が猛反応した。 「それ、本当に?」 「だから断定できないって」 「な、なんですかそれ? ケンゾク?」 わけがわからない。 俺は二人を交互に見た。 「ああ、ごめん」 「まあ簡単に言うと、俺たちに近い存在というかね」 「……は?」 「紅瀬さんも、吸血鬼ってことですか?」 「いや」 「言い方は悪いけど、従者みたいな位置づけになるかな」 頭の中が真っ白になった。 なんだそれ? 従者? 「例えば……」 「今君が、俺の血を飲んだとする」 呆然とする俺に、会長は続けた。 「そしたら、君はめでたく俺の眷属だ」 「主は俺。でもって、君は主の命令には逆らえない」 「この契約は、永遠だ」 「永遠……」 「そう」 「眷属は不老不死の身体を手にする。何十年、何百年だって肉体は滅びない」 「俺たちと同様にね」 俺はこめかみを押さえた。 吸血鬼の血を飲む? 不老不死? 落ち着け、俺。 これは仮定の話だ。 会長は仮定の話をしているんだ。 「あの、さ」 「副会長は、この島には二人しか吸血鬼がいないと言ってただろ?」 「ええ」 「じゃあ、どっちかの……」 「違うわ」 副会長は言い切った。 「私たちは眷属を持っていない。おそらく島外の者でしょう」 「もちろん、これは仮定の話だけど」 副会長は小さくため息をついた。 彼女も少なからず動揺しているようだ。 「話を戻そう」 「眷属は、俺たちとは違って血を吸う習慣はない」 「だがその代償として、ときどきどうしようもなく眠くなってしまう」 「それを俺らは、強制睡眠って呼んだりするけどね」 「強制睡眠?」 「自動的なスリープ機能がついていると言えばいいかな」 「個体差はあるが、一定の周期で活動が停止する」 「とても深い眠りだ。本人にはどうすることもできない」 「それって……」 あの、どしゃ降りの雨の日を思い出す。 雨に打たれながら眠っていた紅瀬さん。 あれが「強制睡眠」なのだとしたら。 「彼女が眷属じゃないかと思ったのは、これが主な理由だよ」 「今度は、俺から支倉君に質問がある」 「……なんですか?」 「眷属にはいくつか特徴があってね」 「俺たちほどではないが、それなりに身体能力は高い」 「怪我をしても、すぐに治る」 「あと、味覚が鈍い」 「この中で、どれか心当たりはあるかい?」 「……」 ……あっ。 また思い出してしまった。 あれはいつのことだったか。 キツネそばに、執拗に七味を振りかけていた彼女。 あの時は、司と「恐るべし辛党」なんて笑っていたけど。 「……紅瀬さん、辛党だったと思います」 「それも、かなりの」 「そうか」 「やれやれ、だいぶ信憑性が増してきたね」 会長の面持ちは、複雑そうだ。 それに、副会長も。 「じゃあ……紅瀬さんは、強制睡眠のために授業をサボってたってこと?」 「そうなるね」 「ある程度予兆はあるだろうから、それに合わせて抜け出してたんだろう」 「人目のあるところで、ばったり倒れるわけにもいかないだろうし」 「……そうよね」 副会長は深々と考え込んでしまう。 俺も、頭の中が混乱してきた。 「俺は、俄然紅瀬ちゃんに興味がわいてきたよ」 「なんとかして生徒会に入ってもらえないものかな」 「兄さん、面白がってる場合じゃないのよ」 「わかってるさ」 「でも、瑛里華だって彼女を文化祭実行委員に引き入れようとしてただろ?」 「それは、本当に人手が足りなかったからでしょ」 「オーケー、わかった」 「とりあえず、善は急げだ。紅瀬ちゃんに聞きにいってみよう」 「何をですか?」 「君は誰の眷属なんですか? って」 「ちょっ、ちょっと待ってください」 俺は慌てて、会長の前に回り込んだ。 「もし違ったらどうするんですか。思いっきり怪しまれますよ?」 「その時は、ちょいと記憶を消させてもらえばいい」 「またそんなこと言うんだから」 「合理性を追求したまでだ」 「あのねー」 「わかった、こうしましょう」 俺は、颯爽と手を挙げた。 「俺が聞いてきます。それでいいですか?」 「支倉君が?」 「はい。同じクラスだし、席も近いし」 「……無理しなくていいのよ」 「どうしても確かめなきゃいけないってわけじゃないんだから」 「そりゃまあ、そうなんだけどさ」 俺自身が、確かめたいのだ。 これだけは、人任せにはできない。 「よーし。じゃあこの件は、支倉君に任せるとしよう」 会長は笑顔を浮かべた。 この人は、いったいどちらの結果を望んでいるのだ。 「それじゃ、今日はこれで失礼します」 「報告、楽しみにしてるよ」 「焦らなくていいから」 「無理に聞こうとしなくても、いいからね」 「ああ」 俺は一礼してから、監督生室を出た。 勢いよく監督生室を出たものの。 実はまだ、考えがまとまらない。 ……。 紅瀬さんは、「眷属」だった。 確定したわけじゃないが、かなりの高確率でクロだろう。 強制睡眠。 高い身体能力。 鈍い味覚。 これらの要素を、すべて偶然だと片づけることはできる。 でも、俺は。 あの丘で、普通じゃない彼女の様子を目の当たりにしてしまった。 彼女は、何か大きな秘密を持っている。 前々から感じていたことが、ここに来てようやく合致してしまったのだ。 ショックではないと言えば嘘になる。 だが、吸血鬼の存在を知った時ほどの衝撃はない。 「……」 ややこしいことに首を突っ込んでしまった気がする。 なのに、不思議と後悔の気持ちはない。 なんというか……。 また一歩、紅瀬さんに近づけたという思い。 紅瀬さんの秘密を知ることができた。 あの丘を見つけた時よりも、もっと大きな気持ちだ。 どうかしてる。 こんな気持ちを彼女が知ったら、「珍奇な人」で片づけられるのがオチだ。 紅瀬さんのもとへと急ぐ。 ……でも、いったいどう切り出せばいい? 「あなたは眷属ですか?」 「あなたの主は誰ですか?」 冷静に考えたら、馬鹿馬鹿しい質問だ。 まともじゃない。 「そうよ。私は不老不死の身体を持つ眷属なの」 なんて、彼女が素直に答えてくれるとも思えない。 「はぁ……」 不老不死、か。 まったくもってピンとこない単語。 ……。 つか、紅瀬さんって何歳だよ? 俺と同い年? もしかすると、俺より長く生きてる可能性もありうる。 なんてったって不老不死だ。 永遠に生きなきゃならないんだから、俺たちとは成長スピードが違うかも。 そう考えると、いろんなことがすごい。 紅瀬さんに言わせりゃ、俺の人生なんてセミぐらいのものだろう。 良くて百年やそこらで死んでしまう俺なんて。 永遠に生きることに比べれば── ……。 でもどうして、紅瀬さんは眷属なんかになったんだろう。 永遠に生きて、この世の享楽を味わいつくしたかったのか? でもそのわりには、人生に対してポジティブではなさそうだ。 人と関わることを、あまり望んでいないように思える。 わからない。 何か目的があるのか? 「目的……」 そう。 例えば、何かを捜しているとか。 誰かを捜しているとか── 「あー、ダメだ」 頭を振り、ひとりごちた。 一人であれこれ考えたって答えは出ない。 真実の答えは、本人に導いてもらうしかないのだ。 談話室のドアを開ける。 それだけのことなのに、やけに緊張した。 窓際には、いつものように紅瀬さんがいる。 そちらに一歩踏み出すと、涼しげなまなざしが俺を向いた。 「こんばんは」 「こ、こんばんは」 我ながらうわずった声だ。 俺の動揺など気にもせずに、紅瀬さんは視線を戻す。 拍子抜けするぐらい、いつも通りの対応だった。 「……」 言葉が出ない。 あれこれ考えてきたつもりなのに、どう切り出せばいいかわからない。 だって目の前にいる紅瀬さんは、どう見たっていつもの紅瀬さんだ。 牙が生えてたりツノが生えてたりするならともかく。 普段となんら変わりのない、俺のクラスメイトがそこにいる。 ……。 聞けるわけがない。 だいたい俺自身だって、眷属がなんなのかよくわかってないのだ。 理解したフリをして、ほんとはまったく心が追いついていない。 「黙ってるなんて珍しいわね」 「え?」 「いつもあれこれと詮索するくせに」 「そんなつもりじゃねーよ」 いや、そんなつもりで来たんだって。 紅瀬さんのことが知りたい。 紅瀬さんに近づきたい。 ただその一心で、俺はこの部屋に来たのだ。 だけど。 紅瀬さんに言わせりゃ、それはきっと「貴方の都合」なんだよな。 「じゃ、帰るわ」 「?」 「おやすみ」 俺は談話室を出た。 やっぱり、会長たちへの報告は、もう少し待ってもらうようにしよう。 もう来週には夏至が迫っている。 心なしか、日差しも強くなってきたようだ。 隣の席では、陽菜が腕に日焼け止めを塗っている。 窓際は紫外線が怖いとかなんとか。 そんな陽菜をぼんやり見ていると、 「? 孝平くんも塗る?」 「いや、いい」 「そう? 日焼けしちゃうよ」 「男がそんな軟弱なことできるか」 「でも、シミができちゃう」 「シミなんかできたって死にゃあしないだろ」 「女の子にとっては切実な問題なんです」 陽菜は苦笑した。 男に比べると、女子は何かと大変だと思う。 美白の心配をしないでいい分、男に生まれてラッキーだ。 「ねえ、紅瀬さん」 「紅瀬さんは化粧水とか、何使ってるの?」 急に、陽菜が紅瀬さんへと話を振った。 本を読んでいた紅瀬さんが顔を上げた。 どきり、と心臓が反応する。 今日はまだ、彼女と一言も会話していない。 彼女が背後にいるというだけで、なんだかドキドキする。 「へちま水」 「へえ〜」 へちま水? へちまを搾るのか? 「他には? 乳液とか美容液とか」 「特に何も」 「そうなんだ」 「すごいね。シンプルケアなのに肌キレイ」 キャッチコピーのようなことをつぶやく陽菜。 そのまなざしには、どこか羨望の色が浮かんでいた。 「夏も冬もへちま水一本だけ?」 興味があるのか、なおも食い下がる。 「ええ」 「ほんとに? 乾燥しない?」 「……」 「たまにキュウリでパック」 キュウリでパック? また青臭そうなキーワードが出た。 「それ、どうやるの?」 「教えるほど大したものでもないわ」 「えっ、でも」 「聞きたい聞きたい!」 「私にも教えて〜っ」 「お願い、紅瀬先生」 いつの間にか、紅瀬さんの机の周りに女子が集まっていた。 「ね、ちょっとだけ」 「……っ」 少し困惑気味だ。 しかし、諦めたように小さくため息をつく。 「新鮮なキュウリを一本、用意するの」 「それでそれで?」 「それを輪切りにして……」 「輪切りにして?」 「……ぁ」 「?」 ふと、言葉が途切れる。 その眉根に皺が寄り、紅瀬さんは深々と息を吐いた。 「ごめんなさい」 「ちょっと失礼するわ」 「あ、紅瀬さ……」 紅瀬さんはスッと立ち上がり、まっすぐに教室を出て行く。 あまりに突然のことで、残された女子たちは呆然としていた。 「やば、もしかして怒らせちゃった?」 「ど、どうしよ〜」 「違うよ、たぶん、具合でも悪かったんじゃないかな」 「ね? 孝平くん」 「ああ、たぶん」 生返事しかできなかった。 紅瀬さんの、あの様子。 なんだか急いでるっぽかった。 もしかして── 例の、強制睡眠というヤツか? あと少しで五時間目が始まるというのに。 「紅瀬さん、大丈夫かな」 「大丈夫だろ」 「この分だと、五時間目はまたサボりだろうな」 わざと軽口を叩いてみたり。 しかし、紅瀬さん大変だな。 どんな周期で眠くなるのかは知らないが、日常生活に支障をきたしまくってる。 サボリたくてサボってるわけでもないだろうに。 ……。 仮に、彼女が眷属だったらの話だが。 「紅瀬さん、待ちなさいっ!」 その時。 外から大きな声が聞こえてきた。 俺は条件反射で窓を開け、外に身を乗り出す。 「今日という今日は許しませんよーっ」 中庭を走るのは、シスター天池。 どうやら紅瀬さんを追いかけているらしい。 「ど、どうしたの?」 クラスメイトたちも窓の方に集まってきた。 なかなか珍しい光景だけに、みんな驚きの声をあげる。 中には、紅瀬さんに声援を送るやつもいた。 「紅瀬さん、足早っ」 「総体出場決定だな」 「シスター天池、ぜんぜん追いついてないし」 そういや以前、白ちゃんが言ってた。 シスター天池が、遅刻常習犯を捕まえたがってるって。 始業のチャイムは鳴ったばかり。 彼女にしてみれば、現行犯逮捕のまたとないチャンスのはず。 「こら、止まりなさーいっ!」 二人の差は開く一方だ。 シスター天池も、無謀なチャレンジに出たものだ。 あの紅瀬さんに追いつくわけがないじゃないか。 などと思った瞬間、 「にゃっ!」 「……っ!」 突然、黒猫が紅瀬さんの前に飛び出してきた。 あれは、ネネコ? 避けようとしてバランスを崩し、紅瀬さんは勢いよく転倒する。 まさかの展開に、俺は息を呑んだ。 「ちょっとあなた! 大丈夫なの!?」 「くっ」 シスター天池が駆け寄る。 紅瀬さんはそれでも逃げようとするが、腕をつかまれてしまった。 「安心しました。まだ逃げようとする元気があるのですね」 「さあ、生徒指導室に参りましょう。もう逃がしませんよっ」 「……っ」 ずるずると引きずられるようにして、教室棟に戻っていく。 シスター天池の大逆転劇に、周囲は騒然としていた。 「つ、捕まっちゃったね」 「だな」 いや、これはかなりまずい展開なんじゃないか? シスター天池の説教は、恐ろしく長いものになるだろう。 推測通りだとすれば、紅瀬さんはこれから強制睡眠に入るはずだ。 もしそうなったら? いろいろとまずいことにならないか? 俺があの丘で、彼女のことを「普通じゃない」と感じたように。 まずい。 まずいって、絶対……。 「にゃあ」 って、呑気に鳴いてる場合じゃないぜ。ネネコ。 俺は考えるよりも先に、教室を飛び出した。 「あれ」が来るのを感じる。 私は細く息を吐き、下唇を噛んだ。 どうにかこの場を、無事に切り抜けるために。 「前々から、あなたには話したいことがたくさんあったのです」 「いいですか? そもそも学院生活というのは……」 どうする。 「あれ」はもうすぐそこまでやって来ている。 このままでは、彼女の前で意識を失うことになるだろう。 そうなったら、かなり面倒だ。 もし寝ている間に病院にでも連れて行かれたりしたら……。 「紅瀬さん、聞いているのですか?」 「はい」 手のひらに汗がにじむ。 どうする? いっそのこと、強行手段に出てしまおうか。 人間を気絶させる手段なら、いくつか知っている。 「あれ」が来る前に、この部屋を出ることができればそれでいい。 ……。 だけど。 そんなことをしたら、問題になるのは避けられない。 私はもう、この学校にはいられないだろう。 退学処分になること自体は構わない。 学生を演じる以外にも、方法ならたくさんあるだろうから。 そう。 捜す方法はいくらでもある。 もともと私は、この学校に未練なんて── 「……ですから、一秒でも時間を無駄にしてはいけないのです」 「学生時代は、毎日が思い出の積み重ねなのですよ?」 未練なんて、ない。 なのにふと、彼の顔が頭をよぎった。 あの丘まで、私を捜しに来た彼。 ずぶ濡れだった私に、傘を差しだした彼。 なんでこんな時に思い出したりするのだろう。 どうでもいいことなのに。 「紅瀬さん、ちゃんと聞きなさい!」 「紅瀬さん?」 私の顔をのぞき込む。 眠い。 意識が途切れそうだ。 決断するなら今。 今。 決めないと……。 「く・ぜ・さ・んっ」 彼女が私の肩に触れようとした、その時だった。 ガッシャーン! 「!」 「きゃああああっ!」 突然、生徒指導室の窓ガラスが割れた。 シスター天池は耳をふさぎ、その場で身を屈める。 いったい、何が起こった? ガッシャーン! 「きゃあっ、な、なんですかっ!」 ガッシャーン! 「きゃーーーー!」 立て続けに、窓ガラスが三枚割れた。 外から石を投げられたようだ。 「だ、誰、こんなことを……!」 シスター天池は血相を変えて、廊下へと飛び出していく。 「……っ」 ──今しかない。 どの道、逃げ出すなら今だ。 あれこれ考えている暇はない。 私は立ち上がり、走り出した。 「はぁ……はぁ……」 早く、早く。 早くあの場所に行かなければ。 「はぁ……はぁ……」 早く。 早く行かなければならないのに。 思うように足が動かない。 こんなところで倒れては駄目だ。 誰かに見つかったらどうするの。 「あぁ……っ」 ドサッ 全身から力が抜けた。 その場に、顔面から倒れ込む。 頬が痛い。 土と血の混じった味がする。 どうやらタイムリミットが来たようだ。 あと少し。 あと少しで、あの丘にたどり着いたのに。 ああ── 鼻先に、風の気配を感じた。 指先から少しずつ感覚が戻ってくる。 「ぅ……」 最初に目に入ったのは、黄金色の光だった。 懐かしい色。 胸を締めつけられるような色。 やがて、緑の匂いが少しずつ濃くなっていく。 私はゆっくりと目を開けた。 肌を撫でる風が気持ちいい。 このままもう少し、眠っていたいような……。 ……。 「よう」 「!」 私は目を見開いた。 視界の中に、唐突に彼が現れたからだ。 「……どうして?」 「ここ、どこ?」 「いつもの丘」 「ったく、あんなとこで寝るなよ。迷惑なヤツだな」 遠くで波の音が聞こえる。 そう、ここはあの場所だ。 私だけの秘密の場所。 おそらく彼が、私をここまで運んできてくれたのだ。 「……」 安堵したことで、また身体の力が抜けた。 まぶたが熱い。 私は涙がこぼれないように、大きく息を吸い込んだ。 「はぁ……はぁっ……」 背中に感じる重み。 死体を運ぶのって、こんな感じなのかもしれない。 などと不謹慎なことを考えてみる。 女の子とはいえ、背負いながら山道を登るのはけっこう骨だ。 あの丘までもう少しなのに、なかなか辿り着けない。 「……なんでこんなとこで力尽きてんだよ」 小径の真ん中で、彼女が倒れているのを発見した時は驚いた。 顔から突っ伏した状態で、全身泥だらけだ。 もうちょっと場所を選べよ。 まあ、そんな余裕もなかったんだろうが。 「も、もう着くからな」 だんだん道が開けてきた。 あと少しだ。 さすがにシスター天池も、こんなところまでは追ってこないだろう。 ガッシャーン! 生徒指導室の窓ガラスめがけて、思いきり石を投げた。 もっと他に、いい方法があったのかもしれない。 でもその時の俺は、それしか考えつかなかったのだ。 「きゃああああっ!」 シスター天池の甲高い悲鳴が聞こえる。 よしっ。 ここまで来たら、大サービスだ。 ガッシャーン! 「きゃあっ、な、なんですかっ!」 ガッシャーン! 「きゃーーーー!」 立て続けに三枚も割ってやった。 端から見れば、キレやすい現代っ子の典型例だろう。 五時間目の授業が始まったばかりだから、周囲に誰もいなくて助かった。 「だ、誰、こんなことを……!」 首尾は上々。 もうしばらくしたら、シスター天池がここまで降りてくるだろう。 その隙に、なんとか生徒指導室から逃げ出してくれればいいが。 ……。 …………。 まだ来ない。 だんだん不安になってきた。 額に汗が滲み始めたその時。 ばたばたと慌ただしく走る音が聞こえてくる。 「成敗ーーーー!」 「ひっ」 顔を真っ赤にしてこちらに向かってくる。 すまん、シスター天池。 でも今はこうするしかないんだ。 罰なら、あとでたっぷり受けてみせる。 俺は本敷地とは逆の方向に向かって、一目散に逃げ出した。 「よいしょっ」 倒れ込むようにして、丘に辿り着いた。 いつも紅瀬さんが座っている場所に、そっと身体を横たえる。 彼女はぴくりとも動かない。 その白い頬が、土と血で汚れていた。 顔面から倒れたのか? 俺はハンカチを取り出し、汚れを取り払ってやることにした。 「あーあ、女の子が顔に傷なんか作っちゃ駄目だろ」 すりむいた頬をぬぐう。 痕にならなけりゃいいけど。 ……。 「あ……っ」 汚れをぬぐう手を止めた。 いや、動けなかった。 紅瀬さんの頬にできたすり傷が。 ……嘘だろ? 少しずつ、ゆっくりと消えていく。 血が止まり、なめらかな皮膚が蘇る。 やがて痛々しかった傷は、ほとんどなくなってしまった。 「……マジかよ」 カラカラに乾いた唇でつぶやいた。 もう、疑う余地もない。 「眷属にはいくつか特徴があってね」 「俺たちほどではないが、それなりに身体能力は高い」 「怪我をしても、すぐに治る」 「あと、味覚が鈍い」 「この中で、どれか心当たりはあるかい?」 紅瀬さんは── 眷属だったんだ。 この尋常でない治癒力が、何よりの証拠だ。 もしかすると、とは思っていたけど。 こう目の当たりにすると、かなりショックだ。 俺は深くため息をつきながら、紅瀬さんを見下ろす。 ……。 そっと、手を伸ばす。 安らかな寝顔。 大人びていて、でもどこかあどけない表情。 頬についた泥を再びぬぐった。 一刻も早く、もとの綺麗な顔にしてやりたかった。 ……。 紅瀬さんが起きたら、なんて言おう。 聞きたいことがたくさんある。 まず、どうして眷属になったんだ? とか。 何年生きてるんだ? とか。 いくつサバ読んでんだよ、とか。 ……。 家族は、いるのか? 今までどんなふうに暮らしてきたんだ? 辛いことも悲しいことも、いっぱいあったんだろう。 たくさんの人と出会い、別れを繰り返してきたはずだ。 俺の転校人生なんか、比べものにならないくらい。 ……。 どれほどの思い出を抱えているのか。 その一つひとつを、紅瀬さんはちゃんと覚えているのだろうか。 俺は── これまで、思い出の上書きを繰り返してきた。 昔のクラスメイトたちの顔なんて、ほとんど覚えちゃいない。 でも。 この学校のことは、忘れたくないと思う。 転校してきてから、毎日とんでもないことばかりだけど。 忘れたくない。 日に日にその思いは強くなった。 紅瀬さんと話すようになってから。 紅瀬さんのことを一つ知るたびに。 「紅瀬さん……」 どうしようもなく目が離せない。 やっぱり俺は、紅瀬さんのことを……。 「ぅ……」 やがて、紅瀬さんがゆっくりと目を覚ました。 「よう」 「!」 俺を見て、目を見開く。 驚くのも無理はない。 「……どうして?」 「ここ、どこ?」 「いつもの丘」 「ったく、あんなとこで寝るなよ。迷惑なヤツだな」 そう言うと、紅瀬さんは困ったような顔をした。 いつもの冷ややかなまなざしが、潤んで揺れる。 唇が震えている。 なぜか、とても心細げに見えた。 「……」 「おい、大丈夫か?」 俺は、信じられないものを見た。 紅瀬さんの目から、大粒の涙が溢れたのだ。 「くっ……」 「おいおいおいおい」 予想外のリアクションにうろたえる俺。 あのクールで一匹狼でブリザードビームを放つ紅瀬さんが。 こらえきれず、といった様子で泣いている。 その姿は、まるで小さな子供のようだ。 思わず抱きしめてしまいたくなるから困る。 「……どうして、助けたの」 「たまたま通りかかっただけだ」 「嘘」 「貴方が窓ガラスを割ったんでしょう?」 「無謀にもほどがあるわ」 「そうかもなあ」 「真面目に答えて」 紅瀬さんは身体を起こし、俺に向き合った。 真剣な目だ。 なんで助けたかって? 俺は本能のままに、自分の気持ちに対して正直に動いただけだ。 「本当に真面目に答えていいのか?」 「かなりとんでもないことを口走ることになるけど」 「どういうこと?」 「だからさ」 「俺の気持ちを正直に話したら、それを受け止めてくれるのかって聞きたいんだ」 「……」 紅瀬さんは沈黙した。 俺はいたたまれなくなって、頭を掻いたり咳払いをしてみたり。 「つか、まだわかんない? 俺の気持ちっていうか、言いたいこと」 「……っ」 「わ」 「わ?」 「わかってるわ。それぐらい」 わかってんのかよ!? いや、絶対わかってないだろ。 むしろ、そんな簡単にわかられてたまるか。 「……」 恥ずかしさのあまり、脇に変な汗をかいてきた。 紅瀬さんはふいと目をそらし、地面を見つめる。 とても気まずい時間が流れていく。 「あの」 「私をここに運んできた時のことだけど」 紅瀬さんが口火を切った。 「顔に怪我、していたでしょう」 「意識を失う前に顔から転んだの」 「ああ……」 いきなり核心を突いてきた。 本人も薄々気づいているのか。 ならば、正直に答えるしかない。 「怪我してた」 「でも、すぐに治った」 「……!」 紅瀬さんの顔に、あからさまな困惑の色が浮かぶ。 そこにはポーカーフェイスなど皆無だ。 「紅瀬さん?」 よく見ると、その細い肩が震えている。 短い呼吸の音。 まるで怯えているみたいだ。 この俺に対して。 「お……驚いたでしょう?」 「そうだな」 「気持ち悪いと思ったわよね」 「そんなことは……」 「私、人間じゃないのよ」 潤んだ目と、確かな声で紅瀬さんは言った。 人間じゃない。 言葉にすると、ずしりと重い。 「こんなこと言われても、信じられないとは思うけど」 「私には寿命がないの。永遠に生き続ける化け物なのよ」 どこか自虐的な物言いだった。 俺には、眷属というものがなんなのか、今ひとつよくわからない。 でも、化け物なんて言い方はするな。 そう言いたかった。 「心配しないで」 「危害を加えるつもりはないわ」 「そんな心配してないだろ」 「そうかしら」 伏し目がちにつぶやいてから、紅瀬さんは立ち上がった。 「できれば今の話は忘れて」 「……私のことも」 くるりと背中を向け、丘を下りていく。 俺も立ち上がった。 「ちょっと待てって」 「そんなに忘れてほしいのかよ」 「……っ」 「忘れて、ほしいわ」 じゃあなぜ声が震えている? 俺には、彼女が嘘をついているようにしか思えない。 本当に忘れてほしいなら、そんな悲しそうな横顔を見せないはず。 俺は信じたいのだ。 紅瀬さんと同じクラスになって、これまで積み重ねてきたことを。 俺たちは、ちゃんと関わることができたはずだ。 たった二ヶ月やそこらの短い期間だったけど。 「俺は忘れない」 「紅瀬さんとの思い出を、そんな簡単になくしてたまるかよ」 「これからだって、もっともっと紅瀬さんのことを知りたいんだ」 「貴方、何言ってるの?」 「私は貴方とは違うの。人間じゃないと言っているでしょう」 「二回言われなくてもわかる」 「だけど、別に今まで通りだっていいじゃないか」 「現に俺は、他のやつらともそうやってきた」 そう言うと、紅瀬さんはわずかに首を傾げた。 「どういうこと?」 「他の?」 「……」 あ。 紅瀬さんは、会長たちの正体を知らないのか? 「貴方、何を知っているの?」 紅瀬さんはつかつかと俺の方に戻ってきた。 言ってもいいのだろうか。 ま、ここまで来たら今更だよな。 「実は、他にも人間じゃない友達がいるんだ」 「いわゆる吸血鬼って呼ばれてる友達が」 「えっ……!」 これ以上ないというくらい、驚いた顔。 今日は紅瀬さんの意外な顔ばかり見ている気がする。 「実は彼らの正体を知った時、記憶を消されそうになったんだ」 「でも俺は、消さないでくれと頼んだ」 もう切り捨てるばかりの生き方は嫌だったからだ。 「それで……?」 「それで?」 「今は別に、何も変わらず普通に付き合ってるけど?」 「……」 紅瀬さんは唖然とした様子だ。 そんなに驚くことか? 「さらに言うと、紅瀬さんのことは前から少し疑ってた」 「?」 「ひょっとすると吸血鬼なんじゃないかって」 「もしくは、それと似たような……」 「そうなの?」 「だからあまり驚かなかったのね?」 「まあ、そういうこと」 「なっ……」 さっきまで涙を見せていた瞳が、氷点下の鋭さを取り戻す。 怒ってる、のか? 「いや、確信があったわけじゃないんだ」 「疑問に思ったのも、つい数日前のことで」 「私はまったく知らなかったわ」 「貴方がそんな風に私を見てたなんて」 「そりゃしょうがないだろ」 「お前が俺に注目してなかったのが悪い」 「……見事な開き直りね」 「事実を言ったまでだ」 「それで? 私のことを知ってどうするつもりだったの?」 「どうもしない」 「やった、紅瀬さん情報ゲット!」 「以上」 「ばっ……」 馬鹿じゃないの? 紅瀬さんはきっとそう言いたかったんだろう。 だが、そう毒づく代わりに、彼女はその場に座り込んだ。 へなへなと、脱力したように。 「おい、しっかりしろ」 「私、とても驚いたのよ」 「あなたに傷が癒えたのを見られて、混乱して……」 「そうだよな。悪かった」 「もっと早く、紅瀬さんに確かめておけばよかったよな」 「談話室で聞こうと思ったんだけど、なんか切り出しづらくて」 ドゴッ! 「いでっ!」 弁慶の泣き所をグーで殴られた。 的確なパンチだ。 「本当に驚いたのよっ」 「寿命が縮んだわっ」 「はぁ?」 「お前、寿命なんて……」 「……」 ……。 ツッコミ待ちかよっ。 「とにかく」 「私は、考えを変えるつもりはないの」 「考えって?」 「だから……」 「私のような、人外の者には関わらない方がいいということ」 「それが貴方のためでもあるわ」 淡々と、真面目な口調で紅瀬さんは言う。 「そりゃ無理だ」 「もう十分関わっちまった」 「今からでも引き返せる」 「いいえ、引き返してほしいの」 「どうして?」 俺もその場に座り、紅瀬さんと向き合った。 「だから言ってるでしょ? 人間じゃないからよ」 「そんなの関係ないだろ」 「関係あるから忠告してるのよ」 「私がもし人間だったら、こんなことは」 「……っ」 そこで言葉を切った。 悲痛な声だった。 風が、紅瀬さんの前髪を揺らしている。 膝を抱えて座り込んでいる彼女はとても弱々しかった。 「……今までみたいな付き合いでも、駄目か?」 「今までと同じ、鬱陶しいクラスメイトとして」 ……。 リアクションがない。 「本当はそれ以上になれたら、嬉しいけどな」 「……それ以上」 やっと反応があった。 「貴方の気持ち、わからないわけじゃないのよ」 「だけど、これだけは確か」 「人間は、人間同士で付き合うのが一番幸せになれる」 「断言できるのか?」 「できるわ」 「俺は構わない」 「俺は紅瀬さんのことが……」 「言わないで」 言葉を遮った。 とても強い声だった。 「本当は、私がつらいのよ」 「貴方は……いえ、人間はいつか……」 「私を置いていくから……」 自分に言い聞かせるように、紅瀬さんはつぶやく。 俺も、その言葉の意味をゆっくりと噛みしめた。 そうか── 残す者より、残される者の痛み。 今になって気づいた。 俺はいつも、残していく方だったから。 これまで繰り返してきた紅瀬さんの痛みなんて、わかるはずがない。 ……。 だけど。 引き下がれない自分がいる。 ここまで往生際の悪い男だと思わなかった。 一縷の望みに賭けたいと思う相手は、紅瀬さんだけなのだ。 「俺は……」 「紅瀬さんが眷属だと知っても、気持ちは変わらなかった」 「ちょっと驚いたけど、それだけだったし」 「不老不死って聞いた時も、すげえなって思っただけで……」 「紅瀬さんのことをまた一つ知ることができて、嬉しかったぐらいだ」 一つひとつ、言葉を連ねていく。 そういや俺、人間だとか人間じゃないとか、そういう風に思ったことはなかったな。 命が有限かそうでないか。 人間と眷属の最たる違いなんて、要はそれぐらいだ。 まあ、その部分が一番でかいわけだけど。 「じゃあ、こう考えてくれ」 「仮に、俺と紅瀬さんが付き合ったとする」 「……」 「例え話だよ」 「そうなったとしても、紅瀬さんが俺に愛想を尽かさない保証はないだろ?」 「一ヶ月もしないうちに、やっぱこいつ駄目だってなるかもしれない」 「むしろ、そうなる可能性の方が高い」 自分で言ってて悲しくなってきた。 「……もし」 「もしも、愛想を尽かさなかったら?」 「そりゃ最高のパターンだな」 「少なくとも、俺は幸せな気持ちであの世に逝ける」 「では、私は?」 「紅瀬さんはどうだろうな」 「あんな馬鹿と無駄な時間を過ごした、と思うかもしれない」 「不摂生してたわりには長生きしやがって、とかな」 「無責任な妄想ね」 「無責任にならざる得ないだろ。何十年先のことなんてわかんねえよ」 「それでも、俺と一緒にいてほしいんだ」 「……」 ああ、ついに言ってしまった。 でも後悔はしない。 俺はたぶん、この気持ちを伝えるために、今日ここに来たんだ。 「……貴方、本当に勝手な人ね」 「だよな」 俺はうなずいた。 「でも、考えて考え抜いた末に、こういう結果が出た」 「だから紅瀬さんも、もう一度よく考えてくれ」 「この先苦労するかもしれないけど、俺は紅瀬さんと一緒に苦労したいんだよ」 正直な気持ちを言い切った。 紅瀬さんは長い髪を手で押さえ、俺を見上げる。 相変わらず温度の低いまなざし。 でもその中に、わずかな揺らめきを見た。 ……。 しばし見つめ合う。 恥ずかしくて目をそらしたいのに、そらせない。 俺はいつの頃から、この瞳に囚われてしまったんだろう。 この無謀な恋に飛び込んだのは、どの瞬間だったんだろうな。 「……ふぅ」 紅瀬さんは小さく息を吐いた。 「ごめんなさい。まだ混乱してるの」 「そりゃ悪かった」 「俺、紅瀬さんを追いつめるつもりはないんだ」 「わかってるわ。そんなことは」 「伊達に二ヶ月間、貴方の背中を見てきたわけじゃないのよ」 「……」 「へ、変な意味ではないわ」 「ただ単に、席が後ろだったというだけ」 「ああ」 それだけでも、十分に嬉しい。 俺は、少なくとも紅瀬さんの視界の中に存在していたんだ。 紅瀬さんは少し憮然とした様子で、続けた。 「貴方に、一つ聞きたいことがあるの」 「なんだ?」 「その、さっき言ってたでしょう?」 「吸血鬼の友達がいる、と……」 「うん」 「この学院の人なの?」 「そうだ。紅瀬さんもよく知ってる人」 「……え?」 「まさか、悠木さん?」 そう来たか。 俺は静かに首を振った。 「会長と副会長だよ」 「おそらく、近日中に向こうからリアクションがあると思う」 「あの人たちはかなり紅瀬さんのこと怪しんでたから」 「千堂さんたちが……」 やっぱり知らなかったのか。 なんだか複雑そうな表情だ。 「気になる?」 「……そうね」 「とても説明しづらいのだけど、私には主と呼んでいる人がいるの」 「その人は、吸血鬼」 「おそらく私の近くにいるはず……」 「?」 俺は首を傾げた。 「おそらく」とは、どういうことだろう。 紅瀬さんは、自分の「主」を知らないのか? 以前会長は、吸血鬼と眷属は主従関係にあるような説明をしてた。 だとしたら、従者が主のことを知らないなんておかしな話だ。 「ちょっと話がよく見えないんだけどさ」 「紅瀬さんは、その主とやらを知らないのか?」 紅瀬さんは一瞬間を置いてから、こくりとうなずく。 「貴方にこんな話をしても、しかたないと思うけど」 「私は、ずっと自分の主を捜しているのよ」 「この島に主の存在を感じている。だから私はここにいるの」 「この島に?」 ますます謎が深まってきた。 この島には、二人しか吸血鬼がいないはずだ。 「でも紅瀬さんの主は、会長たちじゃないだろ?」 「あの二人は眷属を持っていないって言ってたし」 「え……」 その時の、紅瀬さんの落胆ぶりといったら。 見ていてこっちが苦しくなるほどだった。 「……そう」 「千堂さんではなかったのね」 「相手が主かどうか、会っただけじゃ判別できないのか?」 「どうなのかしら」 「相手が本当の主なら、何か感じるものがあるかもしれないけど」 他人事のような口ぶりだ。 想像以上に落ち込んでいるのかもしれない。 「く、紅瀬さん?」 「……」 駄目だ、反応なし。 彼女をここまで一喜一憂させる主とは、いったい誰なんだ。 もったいぶらずに、とっとと名乗りでてやればいいのに。 何か事情はあるのかもしれないけど。 「……そろそろ、学院に戻りましょう」 「私も貴方も、今頃逮捕状が出ているかもしれないわよ」 「あっ」 すっかり忘れてた。 それから俺たちは、二人で大人しく学校に戻った。 生徒指導室の窓ガラスは、生徒会の指示ですでに入れ替え済み。 処置が早かったせいか、大した騒ぎにはならなかったらしい。 だが、当然のようにシスター天池の説教タイムが待ちかまえていた。 「蜂の巣を石で落とそうとしたら、窓ガラスにあたってしまいました」 こんな馬鹿げた言い訳が、さらに彼女の逆鱗に触れたのだと思う。 「不届き千万です!!」 「罰として今日から1週間、放課後の奉仕活動を命じます!」 ちなみに奉仕活動とは、校内の草むしり、ゴミ拾い、礼拝堂の清掃などなど。 ボルテージの上がるようなイベントでないことは確かだ。 不幸中の幸いなのは、紅瀬さんはお咎めなしだったこと。 説教だけで済んでよかった。 ただ、学校に戻るなり、クラスメイトたちには大いに冷やかされた。 あの、五時間目が始まる直前。 紅瀬さんを追って、俺が教室を飛び出したのをみんなが見ていたからだ。 「紅瀬さんをかばいに行ったんだって? やるなあ」 「紅瀬さん、愛されてるぅ〜」 「彼女を叱るなら俺を倒してからにしろ! って言ったらしいよ」 「マジで? 名言じゃん」 「カッコよすぎるだろ孝平! 俺もパクろ」 この短時間で、噂は尾ひれをつけまくっていた。 すでにカップル認定してくる輩もいたり。 誤解を受けて、紅瀬さんもかなり迷惑していることだろう。 ……いや、あの人は周囲のノイズに惑わされるタイプじゃないな。 結局、冷やかされてどぎまぎしてるのは俺だけなのだ。 悲しいことに。 「疲れたあぁぁ」 奉仕活動を終え、俺は転がるようにして談話室に辿り着いた。 自業自得とはいえ、なかなかハードな仕事だ。 礼拝堂の周りを掃除していると、白ちゃんが水ようかんをくれた。 明日は梅が枝餅をくれるという。 このささやかな喜びを胸に、明日もがんばっていこう。 「はぁ……」 やけに長い一日だった。 あの丘での出来事が、夢のことのように思い出される。 紅瀬さんが吸血鬼の眷属だったこと。 俺が、紅瀬さんに自分の気持ちを告白したこと。 まさかこんなに早く、告白することになるとは思わなかった。 紅瀬さんも戸惑っているように見えたし。 いや、俺自身が一番驚いているのかもしれない。 ……。 でも。 改めて自分の気持ちを確認した。 俺は紅瀬さんが好きだ。 人間だとか眷属だとか、そういうのはひとまず置いとくことにする。 無責任かもしれないが、今はこの気持ちだけを大切にしたい。 「こんばんは」 「わっ!」 突然声をかけられ、ソファーから滑り落ちそうになった。 いつのまにか、紅瀬さんがいた。 「いつ入ってきた?」 「今」 そう言いながら、俺の向かいに座る。 いつもの紅瀬さんの特等席だ。 「……」 「……」 紅瀬さんはいつものように、外を見下ろす。 俺の存在など、まるで気にも留めていないかのように。 あまりにもいつも通り過ぎて、逆に清々しいくらいだ。 ……。 ここにいると邪魔か? 帰った方がいいんだろうか。そろそろ。 「貴方……以前私に聞いたわよね」 「へ?」 腰を浮かしかけたところで、紅瀬さんが話しかけてきた。 「ここでいつも何してるんだって、私に聞いたでしょう」 「ああ、聞いたな」 誰とも談話したがらない人が毎日ここにいるから、ずっと不思議に思ってた。 「ここからは、寮の玄関がよく見えるの」 「毎日大勢の人々が行き交うでしょう?」 「それを見てたのか?」 「ええ」 「その中に、私の主がいるんじゃないかと思って」 淡々と紅瀬さんは言う。 そういうことだったのか。 何かを捜しているように見えたけど、実際その通りだったんだな。 「でも、紅瀬さんはその主が誰だかわからないんだろ?」 「そうね」 「唯一わかるのは、主が女だということだけ」 「女……」 男じゃなく、女だったんだ。 なぜかほっとした自分がいた。 「だから私は、貴方の話を聞いて、千堂さんが主かもしれないと考えたの」 「でも、彼女は眷属を持っていないのでしょう?」 俺はうなずいた。 「がっかりさせちゃったみたいで、なんか悪かったな」 「貴方が謝る必要はないわ」 「私もそう簡単に見つかるとは思っていないの」 「でも……いつか必ず」 声が、少しだけ低くなる。 膝の上に置かれた手が、ぎゅっとこぶしを握った。 「いつか必ず、見つけてみせるわ」 ぞくり、とした。 主に対する強い感情。 それはおそらく、好意と呼べるものではない。 むしろ正反対の感情に近いはずだ。 まなざしの奥に揺れるものを見て、直感的にそう思った。 二人の間にいったい何があったんだろう。 ……。 でも、こうやって外を眺めているだけで見つかるものなのか? 人捜しの方法としては、あまりアクティブではない気がする。 どう捜していいのかわからないだけかもしれないけど。 「貴方、怖くないの?」 「何が?」 「吸血鬼よ」 「血を吸われるかもしれないでしょう」 「はは、そりゃ向こうがお断りだろ」 「俺はよくわかんないけど、やっぱ美女がいいんじゃないか?」 「ずいぶん呑気なのね」 「まあ仮に吸われたとしても、そんなに害はなさそうだし」 できれば吸われたくないけど。 「紅瀬さんだって、血は吸わないんだろ?」 「そうね」 「私は吸血鬼ではなく、吸血鬼の眷属」 「似て非なる者よ」 「じゃあもっと怖くないな」 「……はぁ」 「そんなこと言う人、貴方が初めてよ」 「やっぱり普通じゃないわね」 「それをお前が言うか?」 「もう少し警戒心を持った方がいいと思うけど」 「いつガブッとやられるかわからないわよ」 「大丈夫だろ、きっと」 「紅瀬さんも副会長たちとゆっくり話してみればわかる」 「それに、あの人たちなら力になってくれるかも」 そうだ、副会長たちなら、何かヒントを持っているかもしれない。 「主」に一番近いのは、この島の中であの二人しかいないのだ。 「明日、監督生室に来てみないか?」 「こうやって外眺めてるよりはいいと思うぞ」 「……」 少し考えているようだ。 断らないということは、了承したものと取るぞ。 「でも……」 ばたんっ 元気よくドアが開き、そちらを振り返った。 「あ」 「あっ」 陽菜とかなでさんだった。 「おーやおやおや、噂のこーへー君じゃない」 「お姉ちゃんってば」 「聞いたよ聞いたよ、窓ガラス割って逃げたんだって?」 「君、もう少しで賞金首になるところだったんだからねっ」 「す、すみません」 「よーし、わかればよろしい」 「で、なになに? これが今流行の談話室デートってやつ?」 かなでさんは、にやにやしながら俺たちを見た。 完全に誤解されている。 「別に、ただ話していただけですよ」 「ここは談話室ですから」 「ほ〜お?」 「もう、お姉ちゃん」 「わかってるわかってる。お姉ちゃんに任せなさい」 「はい、きりきり。これ使って」 そう言って差し出したのは、例の風紀シールだった。 「は?」 「あ、誤解しないで。これはきりきりのペナルティじゃないよ」 「もしこーへーがヘンなことしようとしたら、おでこにぺたっと……」 「かなでさーんっ!」 「あはははは、じゃあね〜んっ」 「姉がお騒がせしました」 「お姉ちゃん、待ってよもうー」 ……。 行ってしまった。 微妙な沈黙。 紅瀬さんは、じっと風紀シールを見ている。 「……ないから」 「そのシールを使う機会なんてないから、安心してくれ」 「そう」 そっけない返事。 信用されてなさそう。 訂正。 どうでもよさそう。 「あ」 「?」 「い、いや」 そういや俺、紅瀬さんに告白したんだよな? 返事もらってないんだけど。 そこらへんのことって、どうなってるんだろう。 翌日。 俺はせっせと奉仕活動に励んでいた。 今日は礼拝堂の窓ふきと草むしり。 蒸し暑さと相まって、汗が噴き出してくる。 まあここなら人目も少ないので、からかわれることもない。 ストイックに任務を遂行するまでだ。 「今日もおつとめご苦労様です」 礼拝堂から、白ちゃんが出てきた。 「これ、よかったら食べてください」 差し出されたのは、アイス抹茶と梅が枝餅。 疲れた身体に染み渡るラインナップだ。 「ありがとう」 「でも、こんなことして怒られないか?」 「罪を憎んで人を憎まず、です」 「それに、人は甘いものを食べないと元気が出ません」 白ちゃんはにっこり笑う。 「では、がんばってくださいね」 「おう」 再び礼拝堂へと戻っていく。 白ちゃんの笑顔で、十分疲れが取れた気がした。 作業を中断し、おやつタイムを設けることにする。 「はああぁぁぁー」 こんな重労働があと五日間。 運動不足の解消になると思えばいいか。 ……。 ん? アイス抹茶を飲んでいると、誰かが向こうから歩いてくるのが見えた。 少しずつ大きくなる人影。 見慣れたロングヘア。 「紅瀬さん?」 ぴんと張った背筋をキープしながら、こっちに向かってくる。 やがて、俺の前で立ち止まった。 「こんにちは」 「……ちわ」 「礼拝堂に用か? 珍しいな」 「貴方に用があるのよ」 「貴方と、生徒会の人たちに」 「それって……」 副会長たちと話してみる気になったのか。 そういうことでいいんだよな。 「ちょっと待っててくれ、もうすぐ終わるから」 俺は大慌てで立ち上がった。 「急がなくていいわ」 「これ、草むしりのゴミ?」 紅瀬さんは、そばにあったゴミ袋を持ち上げた。 「そうだけど」 「捨ててくるわね」 「あ……」 髪をなびかせ、来た道を戻っていく。 手伝ってくれるのか? それから三十分後。 奉仕活動が終わり、俺たちは監督生室に向かった。 紅瀬さんは玄関で立ち止まり、小さく息を吐く。 少し緊張しているように見えた。 「大丈夫」 「いきなりは噛みつかないって」 「そんなこと心配してると思ってたの?」 「冗談だよ」 緊張をほぐそうと思ったのだが、失敗に終わったようだ。 「おぉ、来たれ若人!」 その時、聞き慣れた声が頭上から響いた。 監督生室の窓から、満面の笑顔の会長が身を乗り出している。 「待ってたよ! ほらほら上がって上がって!」 なんでそんなに嬉しそうなんだ。 監督生室には会長と副会長がいた。 東儀先輩は出かけているようだ。 陽気な会長に比べ、緊張気味な面持ちの副会長。 顔を合わせると、いつも敵対心に近い感情をあらわにする二人なのに。 紅瀬さんも副会長も、今日は妙によそよそしい。 ……。 それから俺は、紅瀬さんのことについて、二人に説明した。 会長の見立て通り、紅瀬さんは眷属だった。 主は女性というだけで、他は一切わからない。 紅瀬さんはその主をずっと捜している。 おそらくこの島か、島の近くにいるような気がする。 そこまで話すと、会長は興味シンシンといった顔でうなずいた。 「そうか。そんな事情があったのか」 「でも残念だったね。瑛里華が君の主じゃなくて」 「いえ……それは……」 「逆に安心したかな? こんな生意気なのが主とか言われてもねぇ」 「兄さん!」 「しかし不思議だな。どうして主は君の前に姿を現さないんだろう?」 「それじゃ眷属にした意味がないのに……」 「意味?」 俺は首を傾げた。 「すみません、素朴な疑問なんですけど」 「そもそも吸血鬼は、どうして眷属を作るんですか?」 確か、人間が吸血鬼の血を飲むと眷属になるという。 眷属になったら、主の命令は絶対だ。 その契約は、未来永劫続く、らしい。 「その理由は吸血鬼によっていろいろだと思うけどさ」 「吸血鬼って、寂しがりやなんだよ。たぶん」 自嘲気味に会長は言う。 「仲間が欲しいんだ。永遠を一緒に歩いてくれる仲間がね」 「身体は頑丈でも、心は脆弱なもんさ。人間と同じだ」 「で、紅瀬ちゃんはどうして眷属になったの?」 「私は……」 それは、俺も気になっていたことだ。 聞きたかったけど、なんとなく聞くのがはばかられたのだ。 「よく……覚えてないんです」 「え」 「?」 「記憶がないんです。主のことも、自分が眷属になった時のことも」 「それ以外にも、ところどころ記憶が抜け落ちているみたいで」 「ふうん、そうか」 大して驚きもせず、会長はうなずく。 いやいや、驚くところだろ。そこは。 謎が謎を呼ぶとは、こういう状況を指すのか? ……。 紅瀬さんの力になりたい。 そう思って、ここまで来た。 でも、事態は俺の力じゃどうこうできない次元にある。 今の会話を聞いて、その事実をまざまざと見せつけられた思いだ。 なんだか、自分がひどく場違いなところにいるような気がしてきた。 「ここまで打ち明けてくれたなら、手ぶらで帰すわけにはいかないな」 会長は素直な笑顔で続ける。 「実はさ、俺に心当たりがあるんだ」 「え?」 「兄さん?」 「いるんだよ。この島にもう一人吸血鬼が」 「!」 「ちょ、ちょっと……!」 予想外の発言に、みんなの動きが固まる。 俺もそのうちの一人だ。 「だ、だって」 「この島には二人だけだって」 「うん。あれは嘘だ」 「ははは、悪い悪い」 会長はメキシコ人みたいに陽気に笑う。 そんなに明るく開き直られても。 「な、何言っちゃってんのよ……っ」 「違うのよ支倉くん、騙すつもりはなかったの、ホントに」 「これにはその、ちょっと事情があるのよ」 副会長がわたわたと弁明する。 心底すまなそうな様子だ。 「ごめんなさい。本当に」 「いや、事情があったんならしかたないし」 「うん。あのね、その人ちょっと難しいタイプなんだ」 「人見知りで、加えて愛想も悪いときた」 「まあ、俺たちの母親なんだけどね」 「母親?」 驚きの連続だった。 会長たちの母親が、この島にいる。 普通に考えれば、吸血鬼の親だって吸血鬼だ。 「この島の、どこにいるの?」 紅瀬さんは一歩踏み出した。 真剣な表情だ。 「ごめん。今は言えない」 「でも折を見て、母親と会えるようにセッティングしてみようか?」 「なっ!」 「もちろん、あっちがいいと言えばの話だけど」 「……っ」 紅瀬さんはためらっているようだ。 少なくとも、俺にはそう見えた。 「まあ、君としては、断る理由はないよね?」 「……はい」 「よし決まりだ。今度会う時に聞いてみるよ」 「さっきも言ったけど、あの人ちょっと特殊でさ」 「俺たちが真相を追求するより、紅瀬ちゃんが実際に会った方がいいと思う」 「兄さんっ」 「大丈夫大丈夫」 副会長の様子を見る限り、あまり大丈夫そうじゃない。 が、会長なりに算段はついているのだろう。 あれは何か企んでいる時の顔だ。 「話がまとまったところで、今度は俺から紅瀬ちゃんにお願い」 「文化祭実行委員の件、もう一度考え直してくれないかな?」 「え?」 「えっ」 「え」 話がかなり飛躍した。 つーか強引だろ。 紅瀬さんは怪訝そうに眉根をひそめる。 「それは、交換条件?」 「まさか。そんなのエレガントじゃないだろ?」 「もし実行委員を断っても、俺は君に対する協力の姿勢を崩さない」 「でも、そのためには俺たちのそばにいてくれた方が何かと助かるなぁー」 「ってだけの話」 強引なこじつけっぽくもあったが、まあ一理ある。 この件に関しては、一匹狼でいるのは不利だ。 会長たちが近くにいることの恩恵は、それなりにあるはず。 「……でも、文化祭に出る気はないわ」 「いいよ。できる範囲でやってくれれば」 「私が力になれるとも思えないけど」 「わからないことは、支倉君がばっちりフォローするよ」 「そうだよね?」 「はあ」 そう言わざるを得ない流れだ。 ふと、紅瀬さんはちらりと俺を見た。 目が合う。 反射的に、うなずく俺。 「どう?」 「……」 「どうどう?」 「…………」 「悪い話じゃないだろ?」 「……じゃあ」 「やります」 「マジ?」 「うっそ」 「やったー! Vゴーーーール!」 場が色めき立つと、紅瀬さんは戸惑いの表情を見せた。 いくら会長の口がうまいからといって、こんなに早く了承するとは思わなかった。 どんな心境の変化だ? 「なあ、ほんとにやんのか?」 「きっとすげー面倒だぞ? めいっぱいこき使われるぞ?」 「貴方がフォローしてくれるんでしょう?」 「そりゃそうだけどさ」 「それに、貴方には借りもあるし」 「それに……」 「?」 「……とにかく、決めたからにはやるわよ」 前向きな響きを持った返事だった。 俺にはそう聞こえた。 こんなこと、二ヶ月前の自分に想像できただろうか? クラス一取り扱いの難しい女の子に恋をした俺。 その彼女と、今度は文化祭実行委員をやることになった。 ……。 さっきからずっと、胸が高鳴っている。 今日ばかりは、会長の取り計らいに感謝だ。 「……許せんっ」 最初は、少しからかってやるだけのつもりだった。 そのためにあの男を利用した。 真実を知れば、必ず逃げていく。 それは長い間繰り返された予定調和。 絶望の淵は、すぐそこまで見えていた。 ……。 だが、逃げなかった。 あの男は、禍々しいはずの真実を受け入れた。 こんなことは筋書きにはなかったはずだ。 「おのれ、逃がすものか」 「主はあたしだっ」 鬼ごっこをやめることは許さない。 いつまでも幻影を追い続けるがいい。 それがお前の使命だ。 放課後。 俺と紅瀬さんは監督生室にいた。 文化祭実行委員の仕事が少しずつ具体化してきたのだ。 「準備期間はあと三ヶ月だ」 三ヶ月。 それが長いのか短いのかはわからない。 なにせ、この学校では初めて経験する文化祭なのだ。 「君たちの仕事は、主に書類作成や備品の在庫管理などだ」 「難しい内容ではないが、仕事量は少なくない」 「勉学に支障をきたさない程度に頑張ってくれ」 「はい」 とはいえ、俺たちだけで本当に大丈夫なのだろうか。 かなり心配になってきた。 「いきなりこんなことを頼んで悪いな」 「役所や商店街への挨拶回りが多くて、そこまで手が回らないんだ」 「え? そんなことまでやってるんですか?」 「もちろん」 「文化祭の成功には、地元の協力が必要不可欠だ」 「パンフレットに掲載する広告は、一つでも多い方がいい」 「ちなみに私は、もう5つも広告取ってきたわ」 副会長はちょっと得意げだ。 「そう言えば、『スーパーまつい』さんからも連絡があったのよね」 「広告掲載と烏龍茶のペットボトル300本、バーター取引でどうかって」 「それはありがたいな」 「さっそく契約書を届けておくわ」 二人は広告営業のようなことまで担当しているらしい。 実にマルチな活躍ぶりだ。 「あれ?」 「今日は、会長はどこに行ったんですか?」 「伊織は、理事会の方に交渉しに行ったんだろうな」 「理事会……ですか」 「ああ」 「大きなことをやるには、それなりの許可が必要だ」 「自由な校風だからといって、何をしてもいいわけじゃない」 実感のこもった口調で東儀先輩は言う。 会長も副会長たちも、責任のある仕事をしているのだ。 とてもじゃないけど俺にはこなせそうにない。 「本当なら、兄さんにもこっちの仕事手伝ってほしいのよね」 「征一郎さんの方からもなんとか言ってくれない?」 「あまり期待はできんだろうな」 「あの男は、派手な仕事以外では戦力にならない」 「はぁ〜、それもそうね」 諦め顔の二人。 なんとなくうなずいてしまう俺。 「ところで、紅瀬」 「はい」 「念のために、携帯番号を教えてくれないか?」 「その方が急な時に連絡を取りやすい」 「ありません」 「なに?」 「持っていません」 「えっ」 「ええっ」 そういや、紅瀬さんが携帯を操作してるところは一度も見たことがない。 「持たない主義か?」 「必要がないだけ。触ったこともないわ」 「嘘だろ?」 「嘘をついてどうするのよ」 「メールとかするだろ。普通は」 「しないわ」 「しないのかよ!」 「触ったことがないと言ったでしょう」 「でも、不便じゃないか?」 「別に」 まるで興味がなさそうだ。 「そうは言うけど、メールって便利だぞ」 俺は携帯を取り出し、メールボックスを開いた。 適当に文章を作成してから、送信ボタンを押す。 ちゃらちゃちゃーちゃらちゃちゃー♪ 「ひゃっ、私?」 メールの宛先は副会長。 いぶかしげな顔で、副会長は携帯を開いた。 「えーとなになに?」 「ランチは焼きそばですか? 歯に青ノリがついていますよ……?」 「って嘘っ!!」 「とまあこんな風に、言いにくいことも間接的に伝えることができる」 「今日のランチは焼きそばじゃなくてドリアだったわよっ」 「ただの例文だよ、例文」 「もう、まぎらわしいことしないでよね」 「はは、悪い」 「どうだ? 便利だろ」 そう言うと、紅瀬さんは俺の携帯をちらりと見た。 「直接電話した方が早いわ」 「そりゃそうなんだけどさ」 「まあ、持っていないならそれでも構わない」 「紅瀬への連絡は、支倉を経由することにしよう」 東儀先輩がその場をまとめた。 「ところで書類を作る時は、ここにあるパソコンを使ってくれ」 「紅瀬も、好きに使ってくれて構わないからな」 「使えません」 「なに?」 「触ったことありません」 「パソコンに?」 「はい」 携帯のみならず、パソコンもか。 紅瀬さん、とことんアナログ派だな。 「ふむ。そうか」 「まあ、支倉が教えてくれるから大丈夫だろう」 東儀先輩は同意を求めるように俺を見た。 どうやら丸投げする気らしい。 それから急遽、紅瀬さんのためのパソコン教室が開催された。 インストラクターは俺だ。 「で、この絵に矢印を合わせて、もう一度、左を二回押してみて」 「……っ」 カチッ ……。 …………。 カチッ 「ちょっと遅いな」 「さっきは速いと言ったわ」 「さっきと今の中間ぐらいで頼む」 「では、貴方がやってみて」 「おう、任せろ」 俺は素早くマウスを奪い取り、アイコンにカーソルを合わせた。 カチッ カチッ 即座にワープロソフトが立ち上がる。 「どうよ」 「……む」 紅瀬さんは悔しそうにディスプレイを見つめた。 再びマウスを手に取り、カーソルを動かす。 カチッ ……。 カチッ 「……くぅっ」 「これ、壊れてるわ」 「んなわけねーし」 思わず苦笑してしまう。 ここに来て、紅瀬さんの弱点を見つけてしまった。 彼女はかなりの機械音痴だ。 まるで不発弾処理でも行うような手つきで、マウスを操作している。 「ほら、もう一回」 「俺がやったみたいに、リズミカルにな」 「あーあ、ダブルクリックできただけでずいぶん偉そうねえ」 副会長が呆れたように言う。 俺は胸を張った。 「偉そうにしてるわけじゃない」 「実際、偉いんだ」 「はいはい」 「これでいいの?」 「え?」 ディスプレイに目をやると、表計算ソフトが立ち上がっている。 「……できたのか?」 「ええ」 「なかなかやるな」 「では、教え方がよかったんでしょう」 「……ふっ」 得意げな笑みだ。 実は嬉しかったのかもしれない。 「じゃ、ちょうどいい。次は表計算ソフトを使って明細書を作るぞ」 「表計算?」 「ああ。機能を使うといろいろ便利なんだよ」 俺は簡単に表組みを作り、体裁を整えた。 「いちいち電卓で計算して書き込むのは面倒だろ?」 「だからこうやって……」 セルに数字を入力する。 だが、うまく合計が出ない。 「あれ?」 操作を間違えたか? 実はうろ覚えだったり。 などとまごついていると、 「255……342……」 紅瀬さんの指が、机の上で動く。 そろばんを弾く動きだ。 「合計は128994」 「ぬう」 デジタルがアナログに負けた。 30分後。 紅瀬さんは少しずつパソコンの使い方を覚えていった。 キータッチはおぼつかないが、時間をかければ慣れるだろう。 「手が空いたら、封書の宛名書きを頼む」 「たった五通だから、パソコンを使うまでもないだろう」 封筒と筆ペンを手渡された。 はっきり言って、字にはまったく自信がない。 紅瀬さんにバトンタッチすることにする。 「俺が読み上げるから、そのまま書いていってくれ」 「いつでもどうぞ」 「じゃあいくぞ。潮見市浜美町4丁目3番地1番……」 「渡辺太史様、と」 さらさらと筆ペンを走らせる音。 ものすごい達筆だった。 達筆というか、今時の若者にはないこなれた崩し方だ。 まるで祖父母の手紙を見ているような感覚。 しかも、旧漢字とか使ってるし。 「これでいいかしら」 「完璧だ」 「どうも」 「では次も頼む」 「はい」 ビジネスライクなやり取り。 愛想のなさと無駄を嫌う点では、けっこう似てる二人なのかもしれない。 ……。 ところで。 紅瀬さんって、本当は何歳なんだろう? その字面だけ見ても、俺より遥かに長い年月を生きているような気がする。 知りたい。 が、女性に面と向かって年齢を聞くのははばかられる。 一応同級生なのに。 「何?」 俺の視線に気づいたのか、紅瀬さんは顔を上げた。 「あ、いや」 「綺麗だな、と思って」 「?」 「……っ」 「!!」 空気が固まった。 「ちょ、ちょっともう、やーねえ」 「そーゆー会話は、二人きりの時だけにしてくれない?」 「へ?」 「支倉、伊織のキャラが移ったんじゃないか?」 「ああいうタイプは一人で十分なんだがな」 「え……」 なんか、ものすごい誤解を招いている予感。 「あ、ち、違う! 綺麗っていうのは、字のこと!」 「字が綺麗だって言いたかったんだっ」 「いいのよ、照れ隠しなんて」 「まったくだ」 「しっかし知らなかったわ〜。意外なカップルね」 「だから違うのに!」 「またまた」 「じゃあ紅瀬さんはどうなのよ」 なかなか食い下がる。 すると紅瀬さんは、手を止めてちらりと副会長を見た。 「どうかしら」 ……。 「微妙ね」 「微妙だな」 「もういいから、仕事してくださいっ」 そう言うと、二人は肩をすくめてから持ち場に戻った。 まったく。 うっかり墓穴を掘ってしまった。 「次、読んで」 「お、おう」 でも、なぜ紅瀬さんは否定しなかったんだろう。 やたらと気になってしまい、その日は仕事に集中できなかった。 実行委員の仕事が終わったのは、夜になる直前だった。 俺と紅瀬さんは、二人で寮への道を歩いている。 何か話題を探したが、うまいこと見つからない。 話したいことはたくさんあるにも関わらず。 隣を歩いているだけで、胸がいっぱいになってしまう。 こんなことは初めてだ。 「えっと」 自然な口調を作った。 「ネネコ、元気か?」 「最近はあまり見ていないわね」 「そうか」 ……。 終了。 うまく話がつながらない。 別の話に切り替えてみよう。 「会長たちのお母さんに、会えるといいな」 「でもって、お母さんが主だったらもっといいな」 「……そうね」 どこか迷いのある肯定だった。 会いたいのか、会いたくないのか。 ずっと捜していたわりには、あまり乗り気ではないようにも見える。 以前から、その部分が引っかかっていた。 「なあ、聞いていいか?」 「ええ」 「紅瀬さんは、どうして主を捜しているんだ?」 そう尋ねると、紅瀬さんの歩調が遅くなった。 やがて、噴水の前でぴたりと止まる。 言葉を選んでいるようだ。 「……私も、よくその理由について考えるの」 「でも、いつも答えは見つからない」 「どういうことだ?」 俺も立ち止まる。 捜している理由が、自分でもわからないなんて。 「うまく説明できないけど……」 「私は、もう長い間鬼ごっこを続けているのよ」 「鬼ごっこ……?」 「主に命令されているの」 「私はこの命令に逆らうことはできない」 なんだ、それ? わけがわからない。 「私が主を捜す理由は、そう命令されているから、ということよ」 「捜し出すこと自体が目的なの」 ますます意味不明だ。 「いや、でも」 「紅瀬さんは、主についての記憶はないんだろ?」 「ないわ」 「私にあるのは断片的な過去の記憶と、意識の中にすり込まれた命令だけ」 「でも鬼ごっこを続けるうちに、少しずついろいろなことを思い出してる」 「……例えば?」 「例えば……主は女だったということ」 「そしてこの島は、私の故郷だったということ」 ここが、紅瀬さんの故郷。 俺は、あの丘で見せる紅瀬さんの表情を思い出した。 懐かしいような、切ないような、寂しいような。 あれは無意識のうちに、郷愁に浸っていたのかもしれない。 「まだあるわ」 「この鬼ごっこは、どうやら初めてではないということ」 「過去にも何度か主を捜して、見つけ出しているはず」 「は?」 思わずすっとんきょうな声が出る。 「ちょっと待ってくれ」 「その鬼ごっことやらを、何度もやり直してるってことか?」 「おそらく」 「主を見つけ出すたびに記憶を消されて、振り出しに戻るのよ」 「なんだそりゃ」 「意味ないだろ、それじゃ」 「そうね」 「……意味は、ないでしょうね」 ゆっくりとつぶやく。 完全に、俺の理解の範疇を越えていた。 永遠に繰り返される鬼ごっこ。 やっとのことで主を見つけたご褒美が、記憶を消されることだとは。 不毛だ。 あまりにも非生産的だ。 そんなものに紅瀬さんが囚われているのが、悔しくてならなかった。 「なんとかならないのか」 「その、鬼ごっこをやめる方法とか」 「私にはどうすることもできないわ」 「ただ主の気配がする方へと進むだけ」 「……」 本当に、どうすることもできないのか? 俺は紅瀬さんの中に、迷いを見ているのだ。 命令に突き動かされている、という風でもない。 どちらかというと、ライフワークのようにのんびり構えている向きがある。 その矛盾の正体が、俺にはわからない。 ……。 なんとかしてやりたい。 主のくだらない命令から、紅瀬さんを解放してやりたい。 具体的にどうすればいいのかなんて、俺には見当もつかないけど。 もし会長たちの母親が、紅瀬さんの主だったとしたら……。 その時、俺はどうするんだろう? 「なあ」 「俺、何か力になれないか?」 「……」 「特殊な能力なんてないから、どう役立てるかわかんないけどさ」 「そう言われても、私だってわからないわ」 はっきり言われた。 「まあ、そうだよな」 「ええ」 「だから……」 紅瀬さんは、俺を見つめた。 「……そこにいてくれれば、いいと思うわ」 「え?」 「だから」 「近くにいた方が、何かといいでしょう」 「同じ実行委員でもあるのだし」 「あぁ……」 心なしか、紅瀬さんの頬に赤みが差したように見えた。 都合のいい幻覚と言われればそれまでだが。 「要するに、そばにいてほしいってこと?」 「……っ」 「貴方、どういう翻訳機能を持っているの?」 「なかなか高性能だと思うけどな」 「一度点検した方がよさそうよ」 「容赦ないな、相変わらず」 「ふっ」 わずかに見せた微笑み。 でも、俺だけに向けられた笑顔。 俺の居場所は、紅瀬さんのそばにある。 そう思ってもいいんだろうか。 「孝平、メシ」 「おう」 昼休み。 俺たちは学食に行くために、席から立ち上がった。 「今日は鉄人の夏季限定メニューが登場する日だ」 「マジか?」 「インド風激辛チゲ」 「清涼感ゼロだな」 夏季限定というより、紅瀬さん限定メニューだ。 でもこれで、せっせと七味をかける手間もなくなるかもしれない。 「支倉君」 「ん?」 振り返ると、ちょうど紅瀬さんが立っていた。 どこかぼんやりとした、焦点の定まらない顔。 「午後、抜けるわ」 「一応報告しておこうと思って」 「え? なんで……」 あ。 例の「強制睡眠」か。 「もう行くのか?」 「ええ」 「せめて昼飯食べていけよ」 「食べたいだろ? インド風激辛チゲ」 「食べている途中で、鍋に顔を突っ込むことになるわ」 「それじゃ」 そう言って、紅瀬さんは行ってしまう。 かなり急いでいる様子だ。 また以前みたいに、途中で事切れていなければいいが。 放課後、俺は大急ぎで丘に駆けつけた。 一番小高い場所に、彼女が座っているのが見える。 どうやら睡眠は終わったようだ。 「駄目よ、爪を立てちゃ」 「にゃー」 「そう。いい子ね」 足元でじゃれついているのはネネコ。 無邪気に遊んでいる様子を見て、紅瀬さんは笑顔をこぼしている。 ネネコに嫉妬すら覚えてしまいそうな、レアな表情だ。 「紅瀬さん」 「……っ」 声をかけると、紅瀬さんはすぐに笑顔をしまい込んだ。 無防備なところを見られて、少し気まずそうだ。 「来たのね」 「ああ」 「それで、用件は?」 絶対言うと思った。 「用件ならあるぞ」 「まずはこれだ」 そう言いながら、俺は制服のポケットから文庫本を取り出した。 それは、以前紅瀬さんから借りていた谷崎潤一郎の本だった。 「悪い。ずっと返しそびれてた」 「意外と面白かったぞ」 「そう」 紅瀬さんは本を受け取った。 「よかったら、また貸してくれよ」 「……そうね」 「今度貸すわ」 「どんな話?」 「とても悲しい恋愛小説」 その長いまつげに、陽の光がともる。 さらさらとなびく美しい髪。 触れたい。 衝動的な感情を、抑えるだけで精一杯だった。 「よしネネコ、俺と遊ぶか」 ごまかすようにしてしゃがみ込み、ネネコに手を伸ばす。 しかし、当人はどこかそっけない。 「どうしたー?」 「にゃっ」 「いてっ!」 手の甲に痛みが走る。 いきなりネネコが引っ掻いてきたのだ。 「大丈夫?」 「まあ、大丈夫」 「今日は機嫌が悪いのかな」 かなり気合いを入れて引っ掻いてきたらしく、少し血が滲んできた。 ちょっとだけショックだ。 「触っちゃ駄目よ。待ってて」 紅瀬さんは立ち上がり、周囲をうろうろと歩き始めた。 やがて何かを見つけたらしく、しゃがみ込む。 何やら植物を摘んでいるらしい。 「今、消毒するわ」 葉の部分をつぶしてから、紅瀬さんは俺の手を取った。 意外と温かい手だった。 「なんだそれ?」 「この周辺に自生している、殺菌作用のある植物よ」 「大した傷ではないけど、念のため」 傷の部分に、すり込むようにして塗っていく。 俺は緊張のあまり、ごくりと唾液を飲み込んだ。 紅瀬さんが近い。 以前、紅瀬さんを背負って運んだりしたことはあったけど。 あの時は運ぶことに一生懸命で、余裕なんてまったくなかった。 でも今は、紅瀬さんの存在を間近に感じることができる。 まっすぐに通った鼻筋。 きりりとしたアーチ型の眉。 艶やかな薄い唇。 細い手首。 その洗練された造形の一つひとつに、ため息が出そうになった。 「……手が、熱いわ」 「ああ」 「手のひらに汗をかいてる」 「そっちだって」 「……」 紅瀬さんは、ぱっと俺の手を放した。 「はい、これでいいわ」 「もう終わり?」 「大した傷ではないと言ったでしょう」 かわされてしまった。 でも、俺にはわかった。 紅瀬さんも、俺と同じように緊張してるということを。 「ずいぶん変わった治療法を知ってるんだな」 「そう?」 「昔は誰でもやっていたことよ」 「紅瀬さんの言う昔って、どれくらい昔だよ」 「昔のこと過ぎて忘れたわ」 「ちょ、ちょっと待ってくれ」 「率直に聞く。紅瀬さん、生まれたのいつ?」 すると紅瀬さんは、眉間に皺を寄せた。 一生懸命思い出そうとしているらしい。 「おそらく、250年くらい前だと思うわ」 250……。 250! 「江戸時代……っすか」 「たぶん」 くらくらと眩暈がした。 もう年上とかそういうレベルじゃない。 「前にも言ったけど、あまり記憶がないの」 「だから断言はできない」 「あのさ、それって眷属では普通のことなのか?」 「さあ。他の人のことはよくわからないわ」 「でも、理論的に考えればもっと長く存命してる人もいるでしょうね」 「そうか……」 ぐるぐるぐるぐる。 頭の中がメリーゴーランド状態だ。 「あ、でも、なんで見た目がそんなに若いんだよ」 「スギの木なら世界遺産に登録されるぐらいだろ」 「250年くらいじゃ無理ね。千年は越えないと」 紅瀬さんは冷静に言う。 「眷属は、自分の意志で外見年齢を決めることができるのよ」 「ただ、一度決めたらその年齢から若返ることはできないけど」 またまたショッキングな答えだ。 「じゃあ、今の紅瀬さんは、本当の紅瀬さんの姿じゃないのか?」 「それは定義づけの問題ね」 「眷属の肉体は、何年生きても衰えない」 「逆に言うと、何歳の姿でもそれが実年齢となり得るのよ」 「……なるほど」 納得したようなしてないような。 要は、決めたところから年を取らなくて済むということか。 「驚いたみたいね」 「そりゃ驚くさ」 「どう思う? 私、貴方の何倍も長く生きてるのよ」 「どう思うって、すごいとしか言いようがないだろ」 だって、他になんて言えばいい? 彼女にしてみりゃ、俺なんて若造もいいところだ。 「それだけ長い時間を生きるってのは、俺にはぜんぜん実感できない」 「でも、知りたいとは思う」 「紅瀬さんが見たものとか、聞いたこととか……」 一つでも多くのことを分かち合いたい。 俺自身にそれだけの容量があるかどうかはわからないけど。 「少しでも、話してくれると嬉しい」 「……」 小さくうなずいたように見えた。 「ここ、私の思い出の場所なの」 「この丘が?」 「ええ」 遥かな水平線を見つめる、涼やかな瞳。 「ずいぶん昔、ここにいたような気がするの」 「景色はかなり変わってしまったけど……」 少し寂しそうに言う。 「この丘にいると、断片的に記憶が戻ってくるのよ」 「主が女だということも、ここに来るようになって思い出した」 この丘には、そういう意味があったのか。 ただ単に、睡眠を邪魔されないための場所なのかと思ってた。 「俺にとっても思い出の場所になりそうだな」 「初めてここを見つけた時は、実はすげー嬉しかった」 「どうして?」 「紅瀬さんと、秘密を共有したからだ」 「……まあそう思ってたのは、俺だけみたいだったけど」 「そうね」 「私は、失敗したと思ったわ」 「はっきり言うなあ」 「でも、貴方でよかったとも思った」 「貴方でなければ、この場所を守り通せなかったかもしれない」 紅瀬さんはまつげを伏せる。 そんなことを言われたら、どう返事していいか困るじゃないか。 「……」 「……」 会話が途切れた。 紅瀬さんは、俺の視線から逃れるかのようにうつむいたままだ。 「……あ」 「貴方、ずるいわ」 「私にばかりしゃべらせないで」 「じゃ、もう一つだけ聞いていいか?」 「まだ何かあるの?」 「これが一番大事な用件だ」 「あの時の返事、聞かせてくれ」 「……っ」 視線が絡まった。 もう逃がさない。 今すぐに、紅瀬さんの本心が聞きたい。 「あの時って……」 「俺が、紅瀬さんをここに運んだ日」 「言ったよな? ずっと一緒にいたいって」 勢いづいたら、止まらなくなった。 結果的に、紅瀬さんを追い詰めていることになるのかもしれない。 それでも。 知りたいんだ。紅瀬さんの本当の気持ちを。 ……。 …………。 沈黙が続く。 「……」 「……」 ……。 「……なあ」 「そろそろ何か言ってくれ」 「でないと、緊張しすぎてやばいんだけど」 「言う必要なんてないでしょう」 「……はい?」 俺はとっさに身構えた。 次に放たれる言葉を、覚悟して待つ。 「嫌なら嫌と言うわ」 「女が嫌だと言わないのは、そういうことよ」 ……。 その発言について、しばし考えてみる。 ん? つまり。 そういうこと? 「ちょっと待て。いいのかホントに」 「俺、その言葉をものすごくポジティブに受け取るぞ?」 「それは貴方が決めて」 「俺が勝手に決めることじゃないだろ」 「できればはっきり言ってくれ。つか、聞きたい」 「ではまず、貴方から言うのが筋でしょう?」 突き放した物言いだった。 まさかそう来るとは。 「よし」 「じゃあ言うぞ」 「俺は……」 大きく息を吸い込む。 そして、吐き出した。 「俺は、紅瀬さんが好きだ」 「俺と付き合ってくれ」 なんのひねりもない、ど直球の告白だった。 気の利いたことなんか言える余裕はない。 ただ、この気持ちを受け取ってほしい。 その一心だった。 「言ったぞ」 「次はお前の番だ」 「……ふ」 ……。 …………。 「って、なんか言えっ」 「言う必要はないと言ったでしょう」 「それが私の返事よ」 「卑怯だぞお前」 「俺、今すげー恥ずかしかったのに」 「そう」 「くうぅっ」 ずるい。 なんか俺ばっかり好きみたいじゃないか。 実際その通りだけど、不公平だ。 俺にだって、そのポーカーフェイスを崩す権利はあるはず。 「紅瀬さん」 俺は意を決して、紅瀬さんの両肩に手を乗せた。 「目、閉じて」 「え?」 「開けたままでもいいけど」 「……っ!」 無我夢中だった。 遠慮のないキスだった。 その柔らかい唇に唇を押し当てた時、世界の音が消えた。 俺は今、紅瀬さんとキスしている。 そのとんでもない事実に、押しつぶされてしまいそうだ。 どうしよう。 少し強引だったか? 嫌がってたりして。 ……。 俺は、なんてことをしてしまったんだ。 「……」 その薄い唇から、小さなため息が漏れた。 こわばった細い肩から、ゆっくりと力が抜けていく。 なぜ抵抗しない? 俺のこと、嫌じゃないのか? ……。 そうか……。 紅瀬さんは、嫌なら嫌と言う人だったよな。 少なくとも、嫌がられてはいないんだ。 よかった。 「……」 心が少しずつ穏やかになっていく。 俺は、その細くしなやかな肩を抱き寄せた。 「ん……っ」 俺の腕の中に、すっぽり収まる彼女。 さらさらの長い髪。 この髪に、ずっと触りたいと思ってたんだ。 どんな手触りだろうとか、どんなシャンプーの匂いがするのかとか。 ……そんなことを考えてた。 「……はぁっ」 「んんっ」 息継ぎする間も与えない。 しっとりと湿った唇に、小さなキスを繰り返す。 キスをしながら、そのつるつるとした髪を撫でた。 なめらかな指通り。 どこか懐かしいような、花の香りがする。 ジャスミンだ。 これが紅瀬さんの香りなのか。 「……はぁ」 「やっぱ好きだ」 そうつぶやくと、彼女は少しだけぶすっとした表情になった。 なのに顔は赤い。 「怒ってるのか?」 「別に」 相変わらず、何も言ってはくれないけど。 きっと彼女は、俺以上に照れ屋なのかもしれない。 そう思った。 今日も一日が終わっていく。 雲は風に流され、漆黒の闇に星が瞬いていた。 このぶんなら明日は晴れそうだ。 そう思ったら、なぜか心が浮き足立った。 ……。 今までは明日の天気なんて、どうでもいいことだった。 晴れようが雨が降ろうが、私にはなんの関係もないこと。 あの丘にいる時だけは、雨が降ると少し困ったけど。 でも、それだけのことだ。 「……ふぅ」 なのに、今の自分は違う。 明日はどんな天気だろう? 明日はどんな一日になるだろう? 気づいたら、そんなことを考えている。 懐かしい感覚。 おそらく……。 私が人間だった頃、当たり前のように持ち合わせていた気持ち。 毎日が楽しかった頃の記憶だ。 かつて自分がどんな生活をしていたのか、ほとんど覚えていない。 でも私には、確かに幸福だった時代があった。 家族や、仲間に囲まれていた時間があった。 今はもう、誰も生きてはいないけれど── ……。 不思議な手触りだ。 主を追うだけが目的だった日々に、新たな光が生まれた。 すぐ目の前に、誰かの温度を感じる。 いつも見ていた背中。 彼の体温が、私の中に染み渡るのを感じるのだ。 ……。 窓ガラスに映る、自分の唇。 彼が触れた瞬間のことを思い出した。 不意を突かれたわけではない。 避けようと思えば、避けることができたタイミングだった。 でも私は。 ……。 違う。 「私も……」 望んだのだと思う。 彼の示した、新たな光へと向かうことを。 彼とともに。 カタッ カタカタッ 監督生室に、キーを叩く音が響く。 お世辞にもあまりスムーズとはいえないリズムだ。 タッチタイピング攻略は、かなり難航しているとみた。 「……っ」 「くっ」 キーを叩いたりクリックしたりするたびに、小さく唸る。 本人は気づいていないっぽい。 しかし、紅瀬さんがここまで機械音痴だとは。 「あ」 ジャンッ パソコンからエラー音が鳴った。 「……?」 首を傾げながら、マウスを手に取る。 カチカチカチッ すると、いきなり画面が真っ暗になった。 ヒューン 「!」 「あっ!」 ……。 電源が落ちた。 「今、何をした?」 「何もしていないわ」 「適当にクリックしただけ」 「クリックする前だよ」 「絶対なんかしただろ」 「……」 「ほら!」 紅瀬さんと実行委員の仕事をするようになって、数日が経った。 実際、彼女はとてもよく働いてくれている。 字は綺麗だし、計算も早い。 俺なんかよりよっぽど優秀な人材だ。 ……が。 機械音痴な上に、どうもこのパソコンとは相性が悪い。 もともと安定したマシンのはずなのに、紅瀬さんとはケンカばかりだ。 「とりあえず、もう一回起動してみよう」 紅瀬さんは恐る恐る、電源のボタンを押す。 しばらく沈黙した後、見慣れた起動画面が表示された。 「……ふぅ」 「よかったな」 「もう少しでマシンクラッシャーと呼ばれるところだったぞ」 「ちょっと調子が悪かっただけよ」 紅瀬さんは肩をすくめた。 そうは言いつつ、どこか悔しそうだ。 「宛名書きをするから、そっちをお願い」 「ああ」 俺は表計算ソフトを立ち上げ、数字入力を開始する。 ……。 静かだ。 俺たち以外のメンバーはみんな出払っている。 つまり、二人きりということだ。 なのに。 いつも通り真面目に働いている俺たち。 紅瀬さんも通常営業といった様子で、普通にそっけない。 この人は、本当に俺がキスした相手なのだろうか? だんだん心配になってきた。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ その時、ポケットの中で携帯が鳴った。 ディスプレイを見ると、かなでさんからのメールだった。 『今からへーじに、茶葉の買い出し頼むよ』 『どくだみ茶とゴーヤ茶どっちがいい?』 「ぶっ」 その二択しかないのかよ。 健康番組か何か見たんだろうな、きっと。 俺は手早く、『つぶつぶオレンジジュース希望』とだけ打って返信した。 「これでよし、と」 「……」 視線を感じて、そちらを見た。 「ん?」 紅瀬さんの視線は、俺の手元に注がれている。 携帯を見ているらしい。 「携帯、触ってみる?」 「いいえ」 「でも、ちょっとは興味あるだろ?」 「別に」 「メールとか、してみたいと思わない?」 「思わないわ」 「する相手もいないし」 ……。 「いや、ちょっと待て」 「いるだろ、ここに」 「? どうして?」 どうして、ときたか。 本気で悲しくなってきたぞ。 「俺とメールなんて、したくないか?」 「する必要ないでしょう」 「遠く離れて住んでいるわけでもないし」 「……?」 「じゃあ、遠くに住んでたらメールするのか?」 「そうね。便利そうだもの」 ……。 どうやらお互いのメールの概念に相違がありそうだ。 「なあ、一つ提案があるんだけどさ」 「今度一緒に携帯買いにいかないか?」 「二つも必要なの?」 「俺のじゃないだろ。今の話の流れだと」 「紅瀬さんの携帯だよ」 「……私?」 奇妙なものに出会ったような顔で、俺を見る。 「いらないわ」 「そう言うなって」 「東儀先輩も言ってただろ。あった方が何かと便利だぞ」 「メールもしたいし」 「私と?」 「もちろん」 「それに、声も聞きたい」 「主に夜とか。寝る前とか」 「……私と?」 「うん」 「そう……」 黙ってしまった。 嫌だったのか? ……違うな。嫌なら嫌というはずだ。 それなら答えは一つ。 単に恥ずかしがっているのだ。 「……使いこなせるかどうか、わからないわよ」 「俺がちゃんと教える」 「メール早打ち選手権で優勝を狙えるぐらいの腕前にしてやる」 「なんて打てばいいのかしら」 「いろいろあるだろ」 「支倉君大好き、とか」 「……」 「調子に乗りましたすみません」 「では、貴方はなんて打つの?」 「俺?」 「俺は……」 少し考えてから、言った。 「会いたい、とかな」 「……っ」 紅瀬さんは耳を赤くしてから、わざとらしく窓の外を向いた。 「……ほう」 「なかなか男前な台詞を繰り出すねえ。支倉君は」 「しーっ」 「感心してる場合じゃないでしょっ」 「どうするのよ、これじゃ入るに入れないじゃない」 「まあまあ、いいじゃないか。邪魔するのも悪いだろ」 「ったく、なんで私たちが閉め出されなきゃならないのかしら」 「はは、それはね。罰だよ」 「罰?」 「お前、紅瀬ちゃんを自分の部下にしたかったんじゃないか?」 「なっ!」 「いつも数学で負けてるんだって? よほど悔しかったんだろうな」 「だから文化祭実行委員という大義名分を使った。そうだろ?」 「ち、違うわっ」 「声が大きい」 「くっ……」 「私はただ、優秀なライバルと切磋琢磨したかっただけよ」 「そのためには、いつも近くにいた方がいいでしょ」 「ふーん」 「模範解答ではないが、まずまずだな」 「じゃあそういうことにしておこうか」 「いちいちむかつく言い方ね」 「そりゃ親譲りだなあ」 「じゃ、そろそろ入ろうか」 「あっ!」 ばたんっ 「ただいまー!」 「わ!」 いきなり会長が入ってきた。 後ろには副会長もいる。 「び、びっくりした」 「ご、ごめんなさいね。その……」 「もう、ノックぐらいしなさいよね、兄さん」 「ああ、すまないすまない」 「実は、紅瀬ちゃんにビッグニュースがあってね」 「早く伝えたくて、ついついノックを忘れてしまったよ」 「ビッグニュース?」 「うん。ビッグかつフレッシュなニュースだ」 会長は満面の笑みを浮かべた。 「うちの母親が、紅瀬ちゃんに会ってくれるってさ」 「え!」 「……!」 紅瀬さんの目が、わずかに見開いた。 「日程は7月5日の土曜日。期末試験の翌日だね」 「どうする?」 「……」 「……私は」 ためらっている様子だ。 いつか紅瀬さんが言ってた言葉を思い出す。 「主を見つけ出すたびに記憶を消されて、振り出しに戻るのよ」 もしも、もしも会長のお母さんが主だったら。 紅瀬さんはどうなるんだろう。 また、いろんなことを忘れてしまうのか? 「会います」 「会わせてください」 はっきりとした口調で、答えた。 「うん、わかった」 「詳しい時間なんかは、また今度伝えるよ」 「近々、携帯買うんだろう?」 「え……」 「……?」 「兄さんっ」 「いや、前に征が言ってたんだ」 「紅瀬さん携帯持ってないから、何かと不便だなって」 「支倉君もそう思うだろ?」 「はあ」 「じゃあ、次の日曜日にでも二人で買いに行くといい」 「他に用事がなければの話だけど」 俺は、ちらりと紅瀬さんを見た。 携帯を買うには、街の方に出る必要がある。 紅瀬さんがそんなことオッケーしてくれるのか。 「とりあえず、店頭で見てくるといいよ」 「買う買わないはその時決めればいいさ」 「はい」 ……。 「え?」 「今、はいって言った?」 「言ったわ」 「日曜日に携帯買いに行くってこと?」 「まだ買うとは決めてないわ」 「見るだけ見てみようと思っただけよ」 それだけでも十分だ。 次の日曜日、二人で外出する。 要するに、それってつまり……。 「やったね支倉君。初デートだ」 いともたやすく、会長はその言葉を口にした。 その笑顔と白い歯が、まぶしかった。 「じゃ、行こうか」 「ええ」 日曜日。 俺たちは二人そろって校門を出た。 制服ではなく、私服で。 ……。 緊張する。 二人の間の微妙な距離。 手をつなぐ勇気も出ず、俺は歩き出した。 珠津島は観光資源が多く、マリンスポーツも盛んだ。 海岸通りは地元の人や観光客などで賑わっている。 海開きはまだだが、十分暑い。 こんな日に海に入れたら最高だろう。 一方、紅瀬さんはというと。 歩きながら、物珍しそうに周囲を見渡している。 「なんか珍しいものでもあったか?」 そう尋ねると、紅瀬さんは我に返ったように俺を見た。 「何?」 「どうかしたのかって聞いたんだ」 「別に」 「まるで初めて街に来たみたいな顔してたぞ」 「いつもは人だけを見ていたから」 「街並みをじっくり眺めるのは、初めてかもしれないわ」 「そっか」 「こうして見ると……ずいぶんにぎやかなのね」 紅瀬さんはまぶしそうに目を細めた。 もしかすると、記憶の中にある昔の光景と比べているのかもしれない。 百年前は、もちろんデパートもゲーセンもなかっただろうし。 「そうだ、後でゲーセンでも寄っていこうか」 「げーせん……?」 「……」 ひとまず携帯ショップに急ごう。 携帯ショップはすぐに見つかった。 店頭に最新機種がずらりと並んでいる。 「どれがいい?」 「え……?」 カラフルな携帯たちを前に、紅瀬さんは途方に暮れていた。 「どれでもいいの?」 「ああ」 「今人気なのはここらへんじゃないかな」 TVチューナー搭載の薄型携帯を手渡した。 「これならテレビも見られるし、テレビ電話だってできるぞ」 「?」 まるで生まれたてのハムスターに触れるような手つきだ。 この機種はちょっと敷居が高すぎるかもしれない。 「じゃあこれは? 海外でも通話可能だってさ」 「??」 「こっちは? なんと700万画素」 「???」 いかん。 固まってる。 「やっぱり、私には必要ないんじゃないかしら」 「それを言っちゃおしまいだろ」 「機能はとりあえずおいといて、まず見た目で選んでみようぜ」 「見た目……」 紅瀬さんは腕を組んだ。 ……。 …………。 えらく長考している。 ……。 …………。 かなりの慎重派だ。 やがて紅瀬さんは、奥に陳列してある携帯に目を向けた。 「これ」 「え?」 「これにするわ」 それは、タダ同然の投げ売りコーナーにあった二世代前の携帯だった。 っていうか、俺のと同じだ。 「ホントにこれでいいのか?」 「ええ」 「画面も小さいし、解像度も低いぞ」 「メールはできるんでしょう?」 「そりゃできるけどさ」 「だったら十分」 興味がなさそうに紅瀬さんは言う。 まあ、いいけど。 「俺とおそろいだな」 「あらそう」 「偶然かな?」 「でしょうね」 まったく素直じゃない。 「ちなみに、黒と白どっちがいい?」 「黒」 「すごい偶然だな。俺のも黒だ」 「そう」 「白の方が女の子に人気みたいだぞ?」 「黒」 なんだかな。 まあ、偶然ということにしといてやるか。 契約の手続き完了後、無事紅瀬さんの手元に携帯がやってきた。 歩きながら、紅瀬さんは手提げ袋の中をちらちらと覗いている。 実はちょっと気になっているらしい。 「喉渇かないか?」 「そこらへんのカフェにでも入ってみるか」 「カフェ」 紅瀬さんは、確認するようにリピートする。 「喫茶店とも言うけど」 「わかってるわ」 「じゃ、決まり」 それから俺たちは、海浜公園内のオープンカフェに入った。 こじゃれた感じの、女の子が喜びそうな店だ。 席に着くと、紅瀬さんはやはり珍しそうに店内を眺めている。 「何頼む? いろいろあるぞ」 「エスプレッソとか、キャラメルマキアートとか」 「こんなにたくさんの種類があるの?」 「みたいだな」 とは言いつつ、俺もよくわからない。 「スムージー」とか「フラペチーノ」とか言われてもな。 「じゃあ……」 ……。 …………。 「コーヒーで」 「普通だ」 「だってわからないのよ」 「こんなお店、入ったことないもの」 紅瀬さんは少しだけ申し訳なさそうに言う。 「誰かと街で買い物をするのも初めてだったわ」 「もちろん、こうやって向かい合ってお茶を飲むのも」 「……そうか」 俺は、これまで紅瀬さんが歩いてきた道のりを思った。 主との鬼ごっこだけに費やされた日々。 それ以外のものは、すべて切り捨ててきたのだろう。 いや、本人が必要としなかったのだ。きっと。 「……やっぱり、こっちにするわ」 そう言って、紅瀬さんはメニューの写真を指さした。 「豆乳アズキカプチーノ仕立て」と書いてある。 「なんだこりゃ?」 「さっぱりわからないわ」 「わからないのに頼むのか」 「ええ」 「でも、普通じゃつまらないでしょう」 紅瀬さんは決意したようにうなずいた。 「冒険、というやつか」 「そう」 「大冒険よ」 「なるほど」 「じゃあ俺はこれにしよう」 その隣の写真を指さした。 「トロピカル黒糖ラテ」と書いてある。 「何それ?」 「わからん」 「大冒険ね」 「だろ?」 「しかも、バニラシロップもトッピングするつもりだ」 「……っ」 「では、私はアーモンドシロップをトッピングするわ」 「あとタピオカも」 どんだけカオスだよ。 数分後。 「えー、豆乳アズキカプチーノ仕立て……」 「アーモンドシロップタピオカトッピングラージサイズのお客様」 「はい」 どーん! と豆乳アズキなんちゃらがテーブルに置かれる。 でかい。さすがラージサイズ。 「これは何かしら」 「俺に言われてもな」 紅瀬さんはそのブツを前に、かなり動揺しているようだ。 ドリンク一つで、ここまで盛り上がれるのもある意味すごい。 「まあ、飲んでみなよ」 「……いただきます」 恐る恐るといった様子で、一口飲む。 「……」 「甘くておいしいわ」 「そりゃよかった」 味覚が弱いはずの紅瀬さんが、おいしいと言ってくれた。 その気持ちだけで、嬉しかった。 「いただきまーす」 俺もトロピカルなんちゃらを飲んでみる。 意外なことに、なかなか悪くない。 冒険してみるもんだ。 「風が気持ちいいな」 テラスから海を眺めた。 日差しは強いが、ときおり吹く潮風が爽やかさを運んでくれる。 「じゃ、さっそくだけどメールを送る練習してみようか」 「……」 露骨に嫌そうだ。 「今、だりーなって思っただろ」 「思ってないわ」 「ちょっと面倒だとは思ったけど」 「同じことだろ、それ」 「なんで運動や数学はできるのに、機械関係は駄目なんだよ」 「駄目ではないわ」 「ちょっと苦手なだけ」 ちょっとどころじゃないだろ、と思う。 紅瀬さんはしぶしぶといった様子で、手提げ袋から携帯を取り出した。 「はい」 俺に手渡す。 「貴方の番号入れて」 「おう」 メモリーの1番が俺になるのか。 ちょっと嬉しかったり。 「……おっけ。他は?」 「他?」 「他にもあるだろ、登録したい番号が」 「ないわ」 「ないって、一件もないのか?」 「ええ」 「他は必要ないもの」 ドキリとした。 計算づくなのか、そうでないのか。 後者な分だけ、罪作りな人だと思う。 かなり付け焼き刃なメール講座を終え、カフェを出た。 特に行く当てもなく、ぶらぶらと街を歩く。 さて、どこに行こう。 ゲーセン、ボウリング、カラオケ、映画。 見せたいものや、一緒に楽しみたいものはたくさんある。 でも。 こうして歩いているだけでも、けっこう楽しいもんだ。 「疲れてないか?」 「いいえ」 「どっか行きたいところは?」 「……」 「ここでちょっと待ってて」 「え?」 返事を待つでもなく、紅瀬さんは小走りに行ってしまう。 トイレか? ……。 …………。 なかなか戻ってこない。 だんだん心配になってきた。 ぴりりりっぴりりりっ ポケットの中で携帯が鳴る。 ディスプレイには「紅瀬桐葉」と表示されていた。 「もしもし」 「……っ」 「もしもーし?」 「……あ」 「紅瀬さん? もしもし?」 「も、もしもし」 「……通じた」 聞こえてるし。 「今、どこにいるんだ?」 プツッ 「いきなりガチャ切りかよっ」 わけがわからない。 その後、すぐに紅瀬さんが戻ってきた。 「お待たせ」 「お帰り」 「今のイタ電はなんだったんだ?」 「実験よ」 「結構離れてても通じるのね」 「そりゃそうだ」 「糸電話の時代からずいぶん進歩しただろ?」 「ええ、驚いたわ」 「もう糸が切れる心配をしなくていいのね」 「ほんとに糸電話使ってたのかよ!?」 「そんなわけないでしょう」 冗談だったらしい。 「でもこれ、便利ね」 「ようやくわかってくれたか」 「俺の声が聞きたい時は、いつでも電話してくれ」 「……っ」 じわじわと耳が赤くなっているのがわかる。 それを悟られたくないのか、俺に背中を向けてしまった。 「駄目か?」 「駄目よ」 「どうして?」 「……」 「言わないわ」 「言わないとたいへんなことが起こるぞ?」 「たいへんなことって?」 「こういうの」 ぎゅっ。 無防備なその右手を、しっかりと捕まえた。 「!」 「な?」 「……」 手をつないだまま、街を歩く。 とても誇らしい気持ちだった。 同時にとても恥ずかしくて、離れがたくて。 同じ場所を何度も歩いたりして。 時間は刻々と過ぎていった。 「なんだかんだで、けっこうな時間になっちゃったな」 「……そうね」 あっという間に過ぎた一日。 またこの場所に戻ってきてしまった。 俺たちは、手をつないだまま校門を見上げる。 この校門をくぐったら、もうデートは終わり。 ……寂しい。 また明日会えるのに、今日が終わってしまうのがたまらなく寂しい。 「そろそろ帰らないとな」 「ええ」 なのに、紅瀬さんは手を放さない。 ずっと同じ力で、俺の手を握り返している。 紅瀬さんも、帰りたくないのだろうか。 俺と同じ気持ちでいてくれたら嬉しいけど。 「……」 「……」 見つめ合う。 抱きしめたいな、と思う。 でも今抱きしめたら、もっと帰したくなくなってしまう。 シスター天池に目をつけられるような行動は、避けなくては。 「じゃ、行こうか」 「……っ」 一歩踏み出した俺を、紅瀬さんの手が引き留めた。 ような気がした。 「紅瀬さん?」 「……帰りましょう」 手が、離れた。 紅瀬さんは校門をくぐり、歩いていく。 俺はしばらく、その凜とした綺麗な背中を見送っていた。 その夜。 俺はベッドに横たわりながら、携帯をいじっていた。 紅瀬桐葉。 俺の携帯のメモリーに、新たな名前が加わった。 着信履歴を見てニヤニヤしてる俺は、傍から見るとかなり危ないかもしれない。 「さて、どうするか……」 こんな時間に電話したら、迷惑だろうか。 それとも、もう寝てるかもしれない。 「さっき別れたばかりなのに、しつこい」と思われるのも嫌だ。 ここは無難に、メールにしておくか。 俺はさっそくメールボックスを開いた。 ……。 『今日は楽しかった』 『また一緒に出かけよう』 『今度は激辛ラーメンを食べに行こうぜ』 『じゃ、また明日』 「送信、と」 我ながら芸のないメールだ。 まあ最初はこんなもんだろう。 返事をくれるだろうか? 一応、メールの読み方は教えたはずなのだが。 ……。 ぴりりりっぴりりりっ 「おわっ」 手の中で鳴り響く着信音。 メール受信画面ではなく、電話番号が表示されている。 紅瀬さんからだった。 「もしもし?」 「もしもし」 「どうした?」 「食べるわ」 「……はい?」 「激辛ラーメン、食べに行くわ」 ……。 「なあ」 「何?」 「なぜそれをメールで返信しない?」 「だって」 「電話の方が早いでしょう」 まあ、そりゃそうなんだけど。 メールの返事はメールでしなきゃいけない決まりもないのだが。 「せっかくなんだから、メールで返してみようぜ」 「……」 「嫌か」 「嫌ではないけど」 「素直に面倒だと言え」 「違うわ」 「ボタンがいっぱいあって、よくわからないのよ」 潔く認めたな。 さっきの教え方じゃ、ちょっとわかりづらかったかもしれない。 「じゃあもう一回教えてやる」 「なんて打とうとしたんだ?」 「……」 「もしもし?」 「……あ」 「あ?」 「最初が『あ』でいいのか?」 「そう」 「次は?」 「……っ」 「もしもーし? 電波悪いのかな」 「……い」 「『い』でいいんだな? 次は?」 「た」 「『た』」 「……い」 「……」 あいたい 俺の幻聴でなければ、確かに彼女はそう言った。 その言葉をもう一度噛みしめた時、身体の奥が熱くなるのがわかった。 「なあ」 「……何?」 「今の言葉、口に出して言ってみてくれないか?」 「む、無理よ」 「そこをなんとか」 「駄目」 「わかった。じゃあいい」 「?」 「俺が代わりに言う」 「会いたい」 会いたい。 紅瀬さんに、会いたい。 俺は携帯を握りしめたまま、部屋を飛び出していた。 薄暗い廊下を走る。 なるべく音を立てないように。 誰にも気づかれないように。 それでも、足が急いてしまうのを抑えられない。 「はぁ、はぁ……」 走って、ひたすら走って。 ようやく俺は、廊下の突き当たりにある扉に辿り着いた。 「はぁ……着い……た」 のはいいものの。 俺は馬鹿だ。 こんなところまで来てどうするんだ。 男子フロアから女子フロアには移動できないんだ。 今の今まで、そんなことすっかり忘れていた。 ……。 いや、それ以前に。 女子フロアに移動できたとして、どうする気だった? こんな真夜中に忍び込んだら、ただの変質者だ。 風紀シール10枚では済まされないだろう。 どっと冷や汗が出る。 「馬鹿だ……」 そうつぶやいた時。 目の前の扉が── ガチャッ ──ゆっくりと、開いた。 「あ……」 扉の向こうにいたのは、紅瀬さんだった。 薄闇の中で俺を見つめている。 「どう……して?」 「……会いたい」 「貴方がそう言ったから」 恥ずかしそうに目を伏せた。 「そちらからでは、扉は開かないわ」 「だから開けに来てくれたのか」 「……」 紅瀬さんは頬を赤らめたまま、小さくうなずいた。 さまざまな思いがこみ上げてきて、全身が熱くなる。 俺は無我夢中で、紅瀬さんを抱きしめた。 「あ……」 か細い声が耳元で聞こえた。 どうしてもっと早く、こうしなかったんだろう。 手をつないで嬉しかった。 でも、それだけじゃ満足できなかった。 俺はずっと、紅瀬さんをこの腕の中に閉じこめたかったんだ。 力ずくでも。 「紅瀬さん……っ」 「……駄目よ」 「誰かに見られるわ」 「だったら、俺を突き放せよ」 「……っ」 紅瀬さんの腕が、俺の背中に絡まる。 離れられない。 俺たちは今、同じ気持ちでいる。 これだけは本当だ。 ぱた……ぱた…… 「!」 「!」 背後から物音がして、驚きのあまり飛び上がった。 足音だ。 男子フロアから見回りがやって来たのだ。 やばい。 絶対やばい。 こんなところを寮監に見られたら……。 「……こっちに来て」 「え?」 「早く」 紅瀬さんは俺の腕を引っ張り、フロアを遮る扉を静かに閉めた。 ガチャッ 「はぁ……はぁ……」 見回りから逃げ、辿り着いたのは紅瀬さんの部屋だった。 とっさのこととはいえ、こんなところに逃げ込んでしまった。 「紅瀬さん」 「……静かに」 紅瀬さんは人差し指を唇にあてた。 ドアの鍵をゆっくりと締めてから、俺の横を通り過ぎようとする。 その腕を握り、引き留めた。 「紅瀬さん」 もう一度、名前を呼んだ。 その黒く潤んだ瞳が俺を見上げる。 細い腕が、ほのかな熱をたたえていた。 「……見ないで」 「どうして?」 「どうしてもよ」 「それじゃわからない」 「駄目なの」 「これ以上は、私」 「んっ……」 言葉を遮るように、唇をふさぐ。 緊張していた彼女の腕が、とたんに力を失った。 膝がガクンと落ちるのを、寸前で抱き留める。 「んぅ……んっ」 紅瀬さんの唇は、とろけるように熱かった。 しっとりとした、艶やかな感触。 それを味わうようにして舌を這わせる。 「はぁ……ん……っ」 甘い唾液。 つるりとした歯茎の裏。 臆病だった彼女の舌が、少しずつ俺に応えていく。 ふわりと漂うジャスミンの香り。 この香りが、俺の思考回路を乱していく。 「……んくっ……あ」 唾液を絡めるようにして舌を愛撫すると、紅瀬さんは俺にしがみついてきた。 「あふ……ぁ」 「だから……駄目だと言ったのよ」 「どうして?」 「もう、自分を止める自信がないわ」 俺なんか、とっくにそんな自信をなくしてる。 好きの気持ちが溢れすぎて、どうすることもできない。 ただただ、紅瀬さんを求めることしか。 「紅瀬さん、好きだ」 その二の腕に指を這わせた。 「はぁっ……」 すべすべとした、真珠の光を放つ肌。 手のひらに吸いつくような感触に、身体の芯が震えた。 もう何も考えられない。 「紅瀬さん……」 俺たちは唇を重ねながら、ベッドに倒れ込んだ。 「あ……っ」 その猫のような妖しいまなざしが、俺を射すくめる。 なんて淫靡な表情を浮かべるんだろう。 あの凍てついた瞳は、いつのまに氷解してしまったのか。 彼女を組み敷く俺は、とてつもない罪を犯しているみたいだ。 俺は手を伸ばし、その鎖骨に触れた。 「ふぅ……うっ」 ぴくん、と肩が跳ねる。 そのまなざしに、少しだけ警戒心が戻った。 本当に、猫のようだと思う。 高貴な彼女を手なずけることなんて、きっとできないのだろう。 「あ……はぁっ……」 鎖骨から、ゆっくりと指を下ろしていく。 襟元から見える、なめらかな胸の谷間。 ボタンとボタンの隙間からは、薄紫色のブラが覗いている。 とても豊かな乳房だ。 その右側のふくらみを、手のひらでそっと包んだ。 「んっ……!」 「うわ……」 柔らかくて、温かい。 ちょっと押しただけで、その若い弾力を感じることができる。 「紅瀬さん、俺を見て」 「……っ」 恥ずかしくて、目を合わせることができないらしい。 「紅瀬さん」 優しく囁きながら、乳房を揉み上げる。 「はぁっ……ぁ、駄目……」 まばたきをしてから、その瞳が俺をとらえた。 ほのかに上気した頬。 幼い少女のような、愛らしい表情だった。 こんな素直な表情を、今までずっと隠してきたのか。 「ドキドキしてる?」 「……すごく」 「俺も」 そう言うと、紅瀬さんは少しだけ微笑んだ。 すべてを肯定されたような笑みだった。 「あ……はぁ、んっ」 ぷちんっ ブラウスのボタンを一つ、また一つ外していった。 「あぁっ……!」 すべてのボタンを外し終えると、ブラに包まれた二つの乳房がこぼれ落ちた。 シンプルな薄紫のブラだ。 ぷるぷるとした大きな双球を、窮屈そうに支えている。 「紅瀬さんの胸、ほんとに大きいんだな」 「なっ」 真っ赤になった。 「すべすべで、白くて、すごく綺麗だ」 今度はブラの上から、乳房をたっぷりとつかむ。 指が吸い込まれてしまいそうだ。 紅瀬さん、すごくドキドキしてる。 「ま、待って」 「うん、待ってる」 なめらかな胸の質感を、手のひら全体で味わった。 「それ以上は、本当に……」 「自分がどうなるか……わからないの」 「そういう紅瀬さんも見てみたい」 「……駄目よ」 「駄目じゃない」 「駄目……私、普通じゃないの」 「普通じゃないくらい……」 「感じているのよ……」 甘やかな吐息が俺の耳元に絡みつく。 ゾクゾクとした快感が、背中を駆け抜けていく。 乳房を優しく揉みながら、下腹部へと手を下ろし、ズボンのボタンを外した。 その身体にわずかな緊張が走ったが、またすぐに力が抜ける。 「……腰、少しだけ浮かして」 「……ぅ」 耳元に温かい息を吐きかけると、紅瀬さんは逃れるようにして首をすくめた。 その隙を狙って、ズボンをグッと引き下げる。 「あ……んっ」 紅瀬さんは恥ずかしそうに目を閉じた。 シンプルなレースが施された、ブラとお揃いの薄紫ショーツ。 そのしなやかなお尻に、ぴったりとフィットしている。 「お願い」 「その、電気を……」 「駄目」 「ぇ……っ」 子供みたいな困った顔 普段とはまるで違う反応に、なぜか興奮してしまう。 あのそっけなさは、いったいどこにいってしまったのか。 「明るいところで、紅瀬さんのすべてを見たい」 「……嫌」 「嫌って言われてもな」 「嫌よ」 「貴方に、見せられるようなものではないわ」 「そんなの見てからじゃなきゃわからない」 「だろ?」 「ぅ……っ」 「それは屁理屈というものだわ」 一瞬だけ、いつもの紅瀬さん節が戻った。 だが、そのふくらみを撫でているうちに、すぐ覇気を失ってしまう。 「んっ……ふぅ……」 吐息で濡れた唇。 俺を誘うかのように、なまめかしく輝いている。 「すげー綺麗だ……」 俺はブラに手をかけ、一気にたくし上げた。 「やっ」 窮屈だった布から解き放たれた乳房が、ぷるんとあらわになる。 思わず息を呑んだ。 ボリュームはあるのに、トップの位置は高い。 ハリのある双丘の上には、薄ピンクの小さな乳首が備わっていた。 成熟した芳香と、みずみずしい輝きをまとっている。 「あ……だ、駄目……」 恥ずかしそうに顔をそむける。 どんなしぐさも愛らしくてたまらない。 俺はその豊かな乳房を、手で持ち上げるようにして包んだ。 「ふぅっ、んんっ」 すごい重量感だ。 もちもちとした感触が心地いい。 愛撫を続けていると、少しずつ乳首がふくらんでくる。 その先端を、人差し指と中指で挟んでみた。 「あぁっ……! はあぁっ」 声がひときわ高くなる。 「もう硬くなってるな」 「は、恥ずかしいことを言わないで」 「恥ずかしいんだ?」 「……っ」 こくり。 素直にうなずいた。 くそっ、なんてかわいい人なんだ。 指を動かし、乳首に刺激を与えていく。 突起が薄ピンクからコーラルピンクへと赤みを増していった。 「やぁ……ふぁっ、はうっ」 苦悶を浮かべるその表情が、なんともなまめかしい。 こんなことをされると、さすがにクールフェイスを保つのは難しそうだ。 俺は十分に硬くなったそれに、しゃぶりついた。 「やぁっ、あっ、ああぁっ」 唾液を絡めた舌で、乳首全体を湿らせていく。 肌から立ち上る甘い匂い。 ほんのりと汗の味が舌に乗った。 「ちゅっ……ちゅぅっ、ちゅぷっ」 「んくっ、くぅ、だめぇっ」 紅瀬さんの息づかいが荒くなる。 乳首に吸いつきながら、もう片方の乳房を強く揉みしだいた。 熱を持った素肌は、しっとりと濡れている。 ぷにぷにと弄ぶようにいじると、紅瀬さんは小さく首を振った。 「……どうしたんだ?」 「な……なんでもないわ」 「でも、顔が赤い」 「んっ、はあぁっ……!」 舌で乳首を小刻みについばみながら、薄紫色のショーツに手を伸ばした。 大事な部分を覆っていた、小さな布地。 その最後の砦が取り払われると、うっすらとした茂みが見えた。 「やぁ、あ……そこは……」 蛍光灯の下、陰部が明るみに出る。 もっとよく見えるよう、脚をさらに高く掲げた。 「くっ……!」 まるではちみつを塗ったかのように艶めく、紅瀬さんの大切な秘部。 鮮やかな桃色のヒダは、左右対称の綺麗な形をしていた。 無言のまま、その造形をじっくりと眺める。 丸みのあるお尻は、羞恥に堪え忍ぶように小さく震えている。 「そんな風に、その、じろじろと見るものではないわ」 「うん」 「き、聞いてるの?」 「聞いてる」 ぬるっ 縦スジに沿わせるように、人差し指をあてがう。 「はうぅ……っ!」 人肌に温まった蜜が、指にまとわりつく。 肉ヒダがひくひくと震えていた。 ここが紅瀬さんの、一番恥ずかしい部分。 達成感にも似た感動がわき上がる。 「ぬるぬるしてる。それに、すごく熱い」 「だめ、だめなの……あぁ、ふうぅっ」 ぬちゅっ、ぴちゃ……ぺちゃっ 指を前後に動かしていると、奥から蜜がさらに溢れてきた。 「わ、すご……」 俺の動きに応えるかのように、陰部が潤う。 甘さの中に、わずかに酸味のある匂いが鼻腔を漂った。 たぶん、紅瀬さんは感じてるんだと思う。 でなきゃ、こんなに濡れるはずがない。 「ここ、気持ちいいか?」 「……っ」 「女は、そんなことを口にしないものなの」 どうやら古風な考え方の持ち主らしい。 でも、そんなこと言われると、余計言わせてみたくなる。 俺はさらに指の動きを速めた。 「ひぁ、あぁっ、ああっー……!」 「これでも言いたくない?」 「ひ、ひどいわ……」 ちょっとだけ泣きそうな顔になった。 いじめすぎたかもしれない。 ぬぷぷっ 膣口に、指の第一関節まで沈めてみた。 「あぅ、あぁっ」 「熱い……」 とろとろに蕩けた肉壺が、俺の指に吸いついた。 「は、入って……る」 信じられないことのように、紅瀬さんはつぶやく。 太腿とお尻は、流れ出た愛液でてらてらと光っている。 人差し指を沈めながら、親指で充血した突起に触れた。 プラム色に染まった、小豆大のかわいいクリトリスだった。 「ひぅ、あん、あ、脚が……」 「ふ、震えて……っ」 全身を制御できないらしく、紅瀬さんはすがるような目で俺を見る。 まるで猫が主人を見上げているような目だ。 「ひぁ、あふぅ、あぁ、中が……あぁっ」 とても狭い内部は、俺の指を締めつけて放さない。 つやを帯びたクリトリスは、親指を押し返すかのように勃起している。 差し込んだ指を少しだけ回転させると、陰部全体がヒクヒクと反応した。 「紅瀬さん、感じてる」 「んっ……」 「俺の指で、こんなに濡らして……」 俺のトランクスの中では、すでにペニスが破裂しそうだ。 これ以上我慢できるかどうか、自信はない。 落ち着け。 俺は奥歯を噛みしめた。 快楽に飲み込まれ、我を忘れてしまわないように。 「あ……動いて……る……あくっ、くふぅ」 「うっ……」 きゅう、と膣が強く指を締めつけた。 それだけで意識を失ってしまいそうだ。 俺は半ば無意識のうちに、ズボンのベルトを外しにかかっていた。 紅瀬さんと一つになりたい。 一番深いところでつながりたかった。 「あ……」 トランクスからペニスを取り出すと、紅瀬さんは目を丸くした。 「そ、それは……?」 「それはと言われても……」 見たままの通りだ。 勃起しすぎて恥ずかしい。 「あの……」 「それを、どうする予定なの?」 どうする予定、ときた。 「入れたい、と思う」 「実は、もう我慢できないところまで来てるんだ」 正直に言った。 すると紅瀬さんは、呆然とした顔で、 「……そう」 と言った。 これは肯定と取っていいんだろうか? ていうか、取る。 俺はペニスを手に取り、紅瀬さんの陰部にそっと先端を押し当てた。 「えっ……!?」 驚愕の顔。 現状をよく理解できていないのかもしれない。 「……嫌か?」 「そ、そうではないけど」 「びっくりして、その……」 「あぁっ……はあぁっ!」 ゆっくりとペニスを挿入していく。 膣口は十分に濡れているが、かなり狭い。 紅瀬さんの全身にも、かなり力が入っている。 「ゆっくり息を吐いて」 「俺を見るんだ」 「んっ……あぅっ……ああぅ」 眉間に皺が寄る。 必死に痛みをこらえているのだ。 「つらいか?」 紅瀬さんはうなずいた。 「でも……いいのよ」 「貴方と、乗り越えたいの……」 「貴方と……っ」 「……紅瀬さんっ」 さらに腰を押し進める。 硬い壁のような何かが立ちはだかった。 この先に進むのは、なかなか困難だ。 「あぁっ……奥に、来て……っ」 懇願するように言う。 俺のために我慢してくれているんだ。 ここで諦めるわけにはいかない。 「あと少しだから」 もう少し。 あと少し……。 「いっ……あぁ、くっはあぁっ」 ミリミリとペニスが柔肉に食い込んでいく。 ひたすら狭いが、前進している手応えはあった。 「はあぁっ、ああぁーっ……!」 やがてペニスの根元までが、すっぽりと紅瀬さんの中に収まる。 1ミリの隙もない一体感だった。 「紅瀬さん、入ったよ」 「う……」 何度も何度もうなずいた。 痛すぎて声が出ないのかもしれない。 「……ありがとう」 「俺、今、すっげー嬉しい」 「わ、私も……」 「こんなに近く、貴方のことを感じられて……」 そのアーモンド型の瞳が、濡れたように光る。 涙? 「……かわいい」 意外と涙もろいタチなのかもしれない。 「……からかわないで」 「本心を言っただけだ」 「くっ……」 「私にこんな格好させるなんて……ひどい人ね」 「大丈夫」 「俺しか見てないから」 「……当たり前よ」 「他の人に見られたら、舌を噛むわ」 俺だけにしか見せない表情と、俺にしか見せない場所。 この気持ちを、優越感と呼ぶのだろうか? 「……動いても、いいのよ」 「私はもう、大丈夫だから」 きっと大丈夫ではないだろうに。 でも、そう言ってくれる紅瀬さんの気持ちが嬉しかった。 「少しだけ、動くぞ」 ペニスを半分くらいまで引き抜き、再び沈めていく。 「くっ……くはぁ、はああぁ」 ……やばい。 ぬるぬるした感触と締めつけが、ペニスを大いに刺激する。 こんなに気持ちいいなんてずるい。 「う……くっ」 「はぁ、はぁっ……あぁっ」 愛液と破瓜の証が混じり合い、滑りをよくしている。 一定のリズムで腰を動かしていくと、紅瀬さんは首を仰け反らせた。 「ひぁ、あ、奥に、来てる……あぁ、はぁっ」 腰の動きに合わせて、声がだんだん大きくなる。 ……隣の部屋は誰だったっけ? こんな状況をシスター天池に知られたら、切腹モノだ。 「紅瀬さんの中、ビクビクしてるよ」 「だ、だって……貴方の、すごく熱くて……」 「あぁ、やぁ、こすれて……る……ああぁっ!」 相変わらずすごい締めつけだ。 ペニスを吸引する力も半端じゃない。 少しでも気を抜いたら、たちまち連れていかれてしまうだろう。 「だめ……あぁ、私、あふぁあぁ」 「これ以上……私、どうなってしまうの……?」 とろんとしたまなざしで俺を見ている。 長い髪が首や乳房にまとわりついているのが、妙に扇情的だ。 俺はさらに脚を高く上げさせ、最深部に亀頭をねじり込む。 「ふああぁっ! あーっ……!」 額から汗がボタボタと流れ、紅瀬さんの太腿に落ちていく。 彼女を汚しているみたいな感覚。 「くっ……」 グラインドすればするほど、膣奥が狭くなっていく。 ペニスはもう痛いほど腫れ上がっていた。 俺は深くゆっくりとペニスを動かしながら、その乳房をわしづかむ。 まるで鞠みたいに、たぷたぷと手の中で弾んでいる。 「くはぁ、はう、お腹が、熱い……」 「あぁ、しっかり、捕まえていて……っ」 「俺は、ずっと紅瀬さんのそばにいるよ」 「ずっと、ずっと……」 「うぅ……」 こんな切なそうな顔、誰にも見せたくない。 俺だけのもの。 俺だけの……。 「桐葉……」 「……っ」 名前を呼ぶと、奥の方がきゅっと反応した。 「名前……」 「ん?」 「名前……呼んでくれた」 「嬉しいのか?」 紅瀬さんは、じっと俺を見つめる。 素直に認めるのが恥ずかしいのか。 「かわいい名前だな、桐葉」 「んっ……」 「大好きだよ、桐葉」 「う……あぁっ、あぁ……!」 一番奥に亀頭が触れた瞬間、紅瀬さんの腰がガクガクと震えた。 大量の蜜が、シーツに大きな染みを作っている。 「あぁ、私……はあぁっ、私……っ」 下腹部に雷のような快感が走る。 ぱっくりと割れた陰部にペニスが埋まっているのがよく見えた。 ペニスにこすられた小陰唇は真っ赤に充血している。 「あぁ……」 すぐそこに限界が来ていた。 俺はがっちりと太腿を抱え、小刻みに腰を打ちつけていった。 「ひぁ、ひゃぅ、うぅ、あっ……あああっ……!」 頭の中が真っ白になる。 「うぅっ……」 「はぅ、すごい……あぁ、熱い……ぁ……ふああぁっ」 「もう、俺……」 「はあぁ、いいの……よ……あぁ、貴方の好きに……」 紅瀬さんの腰も、俺に合わせて動いていた。 何かが破裂する予兆を感じる。 「はあぁ、くっはぁ、あああ、あっ……やはあああぁっ」 ただひたすらにペニスをこすりつける。 「ひぁあぁ、んくっ、ああ、ふううあぁあぁっ」 視界がだんだん狭くなっていった。 互いの性器と性器を、これ以上ないほど密着させる。 「うぅ……いくっ……!」 「あはぁ、はああぁ、はうあああああぁっ……!」 膣がぎゅっと締めつけてくる。 びゅくびゅく! びゅくううう! 「ああああぁっ!」 動くこともできずに膣の中へと射精していく。 出しても出しても、まだまだ精液が出てくる。 失神するかと思うほど、激しい射精感だった。 「うぁ……あっ……」 「あぁ……はあぁ……」 愛液にまみれた太腿が、ぷるぷると震えている。 ペニスを抜いたばかりの陰部から、とろとろの白濁液が流れ出ていた。 「はぁ、はぁ……」 「だ、大丈夫か……?」 「だ……いじょうぶ……」 ちっとも大丈夫そうじゃないぞ。 目の焦点は定まっていないし、声も切れ切れだ。 「はぁ……はぁ……」 「熱いのが……いっぱい」 「す、すまん」 自分でも驚くほど出てしまった。 それもこれも、紅瀬さんがよすぎるからだ。 「あの……」 「その、気持ち……よかったのかしら?」 「そりゃ、もちろん」 正面から聞かれると、かなり気恥ずかしいものがある。 「そう……」 「紅瀬さんは?」 「……」 俺の問いに、何も答えない。 「紅瀬さん?」 「……」 無視。 かなりご不満だったのか。 たちどころに動揺しまくる俺。 「あのー……」 「……さっきは、そう呼ばなかったわ」 「へ?」 ……。 「あぁ、名前?」 「……そう」 「下の名前で呼んだ方がいいってこと?」 「どう取ってもらっても構わないけど」 なんじゃそりゃ。 「桐葉」 「……っ」 「って呼んでほしいなら、正直に言いなさい」 「私は、別に」 「正直に言わないと……」 「えいっ」 ぴたっ 俺はいまだに硬いままのペニスを、陰部にくっつけた。 「ひゃんっ」 ぺたっ 「ひあぁっ」 ぺちゃっ 「はああぁっ……!」 声に甘い響きが含まれる。 陰部はまだ濡れっぱなしだ。 「……」 いたずらしてると、またヘンな気持ちになってくるから困る。 俺はどこまで欲深いのだ。 「ほらほら、言わないか」 ぺちゃぺちゃっ 「やっ……そんなこと……っ」 恥ずかしそうに身をくねらす。 悪いお代官様になった気分だ。 「言わないと、また入れちゃうぞ」 「ぁ……」 「?」 「い、いいけど……」 いいのかよっ。 「え……ほんとに?」 「何度も言わせないで」 ぴしゃりと言われた。 紅瀬さん……いや、これが桐葉流の照れ隠しなのだ。 「じゃあ、いくよ」 「桐葉」 「……あぁっ」 耳元で囁くと、桐葉はとろんとした顔でうなずいた。 俺は桐葉の身体を起こし、腿の上に乗せて向かい合わせに抱き合った。 「くうぅ……!」 ぬぷっ、ずぷぷっ ペニスを膣口にあてがうと、すぐに亀頭が内部に収まった。 ていうか、感度よすぎだろ。 実はすごくいやらしい子なのかもしれない。 普段はあんなにツンツンしてるのに。 「自分で入れられる?」 「んっ……んんっ……」 ぎこちなく、でも確実にペニスが沈んでいく。 俺は桐葉の身体を思いきり抱きしめた。 あったかい。 幸せなぬくもりと重みを噛みしめる。 「キスは?」 「……ぅ」 ためらってから、おずおずと舌を絡めてきた。 ぎゅっと抱き合い、濃厚なキスを交わす。 「あん……んちゅ……ちゅっ」 口内を探るように、舌を差し込む。 さっきよりはずっと積極的に求めてくる。 「んんっ……くぅっ……! あむぅ……!」 ずぶぶっ! 桐葉の腰が沈み、一番深い部分で性器がつながった。 再び訪れる快感に、腰が自然と震えてしまう。 「あ……深いっ……あぁ、ちゅっ、んぷ」 俺の胸で押しつぶされる乳房。 乳首をつまみながら、ペニスで陰部を突き上げる。 「はむぅ、んっ……あぁ、はぁっ!」 「声、大きい、かも」 「わ、わかってるわ……で、でもぉっ」 どうしたらいいのか自分でもわからないようだ。 俺も、腰を動かすのをやめられない。 もう身も心も桐葉にハマっている。 つい数ヶ月前までは他人だった彼女に。 「好きだよ……桐葉」 「んっ……わ……わた……しも……」 恥じらいながらも、そうつぶやく。 気持ちよくなると、いつもより素直になるのだろうか。 なんて指摘したら怒られるだろうけど。 「あっ……あぁ、こすれ……てる、んくぅ、ふあぁっ」 「そんなに、動かしたら……はふあぁっ」 呼吸するたびに、あそこがきゅっきゅと締めつけられる。 さっき出したばかりなのに、もう限界に到達しそうだ。 俺は下腹部に力を入れ、爆発しそうなものを押しとどめた。 「腰、動かしてみて」 「くっ……は、恥ずかしいわ……」 「大丈夫、見てないから」 「……嘘つき」 ずぷっ、ぬぷぷっ、ずちゅ……! 桐葉の腰が動き、いやらしい音が部屋に響く。 そのリズムに合わせるように、膣奥をノックした。 「もう、ヘンになりそう……っ」 「俺も」 「桐葉、すげーやらしいから」 「あ……貴方がそうさせてるんでしょう」 人のせいにしてるし。 お仕置きとばかりに、ズンズンと膣内を突きまくる。 「ひぁ、あああっ、だめぇっ」 駄目と言いながら、腰が揺れている。 そのたびに乳房がたぷたぷとバウンドした。 首筋に黒髪が絡みつく姿に、さらなる興奮を覚える。 「お願い、もう……少し、ゆっくり……」 「こう?」 意地悪して、さらに激しくグラインドさせてみたり。 「はううううっ! あっ、ああーっ」 全身を震わせながら声をあげる桐葉。 クラスの誰も、桐葉がこんなにやらしい子だとは思わないだろう。 俺だけの秘密だ。 「だめ、もう……ヘンなの……あぁ、奥がっ……」 内腿が痙攣し、桐葉は背中をしならせた。 絶頂が近づいているのか? 「ひう、あふっ……あぁ、奥が、熱いのっ……」 うわごとのように喘ぎながら、俺に強くしがみついた。 「あぅ、く、来る……あぁ、ああっ、はふああああっ」 びくびくと膣内が収縮する。 容赦ない締めつけに、俺も限界寸前だ。 「あぁ、来るっ、あああぁ、抱きしめてっ……んくああぁっ」 「俺も、一緒に……っ」 ベッドがきしむほど、腰と腰を打ちつけ合った。 肉がこすれ、接合部からとめどなく蜜が溢れる。 「ひああああっ、あ、んはあああぁ、あふああああっ」 強く抱き合い、二人で一緒に昇りつめていく。 視界が真っ白になった。 ……駄目だ。 こんなに締められたら、もう爆発する……! 「はああぁっ、あっ、来る……! はふあぁ、んああああああぁっ!」 「桐葉……っ!」 俺は最後の力を振り絞り、膣奥にペニスを叩きつけた。 びゅくうううっ! びゅびゅびゅびゅっ! 「あああぁーっ! んくううあぁぁっ」 腰が爆ぜ、すべての精液を桐葉の奥に注ぎ込んでいく。 二回目だというのに、まるで衰えを知らない勢いだった。 「はぁ、はぁ、はぁ」 ドクドクとペニスが脈打っている。 「あぁ……っ」 内部は愛液と出したばかりの精液とで、とても熱い。 「はぁ……あぁ……はぁ」 桐葉は全身を弛緩させ、俺に寄りかかってきた。 「……桐葉?」 「はぁ……あっ、動かさないで……」 「すごく、敏感に……なってるみたい」 やっぱり、いっちゃったんだろうか? 内部がまだビクビクしてる。 「身体が急に、ふわっとして……」 「お腹がとても熱くなって……」 「……後は、よく覚えてないの」 「私……どうしちゃったの……?」 「俺も、桐葉と同じような感じになった」 「たぶん、すごく自然なことなんだと思う」 「そうなの……?」 不思議そうに首を傾げた。 「ようするに……」 「よかった、ってことでオーケー?」 「……」 また黙り込んでしまった。 ちょっといじめてみるか。 「嫌ならもうしないよ」 「桐葉には絶対に嫌われたくないからな」 「……ぅ」 「またしたい? それとも、してほしくない?」 「……くっ」 桐葉はしばらく唸っていたが、急にぎゅっと抱きついてきた。 「おわっ」 「…………したい」 それは、とても小さな声で。 ほとんど聞き取れないぐらいの音だったけど。 まあ、これで勘弁しといてやるか。 にやにやしてしまうのを隠すように、その髪に顔を埋める。 「……何笑ってるの?」 「笑ってない」 「変な人ね」 「そうかもな」 「……ふん」 鼻で笑われた。 だんだんいつもの桐葉が戻ってきた気がする。 さっきまであんなに喘いでいたくせに。 なんか悔しくなってきた。 「……んっ!」 わざとらしく、つん、と腰を動かす。 桐葉はびくんと肩を揺らし、俺を睨んだ。 「な、何するのよ」 「ちょっと動いただけだろ」 「今度動いたら許さないわよ」 「ほう」 つんっ。 「あぁっ……!」 「すまん、不可抗力だ」 「くぅっ」 さて、どうする紅瀬桐葉? 反撃を待っていると、桐葉は俺の顔を両手で挟み込んだ。 「スキあり」 「んっ!」 唇をふさがれた。 舌を押しつけるような、激しいキスだった。 「んちゅ……んっ、ちゅぅっ」 「う……っ」 頭の中がぼーっとする。 もう、されるがままだ。 「んん」 「許さないと言ったでしょう?」 「はい……」 「許さなくて、いいです」 「ふっ」 二人で笑い合う。 心から幸せだと思った。 俺の人生には、まだまだこんなに幸福なことがあるのだ。 「う……」 桐葉は腰を上げ、ゆっくりとペニスを引き抜いていった。 ぬぷっ。 「あぁ……」 性器同士が離れると、中にたまっていた体液がどろりと流れ出す。 俺はそばにあったティッシュで、陰部やその付近をふき取った。 「い、いいのよ、そんなこと」 「いいって」 優しく陰部をこする。 桐葉は恥ずかしいらしく、うつむいてしまった。 「ふぅ……」 そういや、ここは桐葉の部屋なんだよな。 じっくりと中を観察する余裕もなかった。 俺は改めて、周囲を見渡してみる。 ……。 なんというか。 よく言えば、ものすごくシンプルだ。 悪く言うと殺風景。 まるで一人暮らしを始めたばかりの部屋みたいだ。 執着のなさを、如実に表している。 「……?」 唯一女の子らしいアイテムといえば、机の上にある猫の置物くらいか。 緑色の石でできた、高価そうな品だ。 よっぽど猫が好きなんだろう。 本人は認めないだろうけど。 「綺麗好きなんだな」 少ない語彙の中で見つけた、精一杯の褒め言葉だった。 「何も置いてないだけよ」 「ただ眠る場所があればよかったの」 桐葉はベッドに横たわり、どこか一点を見つめている。 少し疲れたのか、目が眠たそうだ。 俺も隣に横たわり、髪をそっと撫でた。 気持ちよさそうに目を細める。 本当に猫みたいだ、と思う。 「なあ」 「何?」 聞こうとして、詰まった。 「どうしたの?」 「いや……」 「どうやって男子フロアの方に帰ろうかと思って」 寸前になって、そんな台詞が出た。 「もう大丈夫よ」 「この時間なら、見回りはいないはず」 「詳しいんだな」 「さすがサボリのプロ」 「プロは捕まったりしないわ」 例の、シスター天池に捕まった時のことを言ってるのか。 「猿も木から落ちる、ってやつだな」 「釈迦にも経の読み違い、と言って」 どっちも似たようなもんだろ。 「私……貴方に、ちゃんとお礼を言ってなかった」 「え?」 「わざと窓ガラスを割ってくれた時のこと」 「気にするな」 「駄目よ」 「あ……」 桐葉は、何度かまばたきをした。 「どうした?」 「あれが、来る」 「あれ?」 「眠りが……」 ──あ。 強制睡眠だ。 「……嫌よ」 「嫌ったって、しょうがないだろ」 「まだ眠りたくない」 「私、まだ……貴方と」 「話したいこと、あるのに」 ぎゅっ。 その小さな手が、俺の腕をつかむ。 心細げな顔。 「大丈夫だよ」 「桐葉が起きるまで、どこにも行かない」 「……本当?」 「ああ」 「ずっとこうやって、髪を撫でてやる」 「リクエストがあるなら、歌ってやってもいいぞ」 「ふふ……」 「ありが……とう」 ゆっくりとまぶたが落ちていく。 「私……」 「貴方のこと……が……」 「……」 「あ……」 完全に、落ちた。 後は静かな寝息だけが聞こえてくる。 「なんだよ。最後の気になるじゃねーか」 俺は苦笑した。 まあ、いいか。 言葉に出さなくても、彼女の思いが伝わってくる。 俺に気を許してくれてるのだと感じる。 これが絆というものなのかもしれない。 俺は安らかに眠る彼女の髪を、ゆっくりと撫でた。 どうか、彼女の目覚めが幸福なものでありますように。 そう願いながら。 俺と桐葉は、二人して監督生室へと向かっていた。 携帯で会長に呼び出されたからだ。 今日で期末試験は終わり。 後の日程は、夏休みまでの消化試合みたいなものだ。 クラスメイトは皆一様に、晴れ晴れとした顔をしている。 なのに、俺としては複雑な気持ちだった。 「もうすぐ夏休みだな」 付き合い始めてまだ一ヶ月。 初めて結ばれてから、また幾日も経っていない俺たち。 普通だったら、このラブラブ期を満喫しまくってるはずだ。 いや、俺だって十分に満喫してきた。 毎日のように電話だってしてるし、実行委員の仕事だって順調だ。 時には二人で丘に登り、夕焼けを眺めたりする。 だが、いつだって頭の片隅にはあのことがあった。 「主」の存在だ。 「どっか行くか。携帯買いに行った時みたいに」 「そうね」 「でも、実行委員の仕事があるわ」 「あんなに嫌がってたくせに、急に真面目だな」 「引き受けたからにはきちんとしたいの」 「へえー」 俺は、桐葉の横顔を見た。 何度見ても綺麗だ。 まばたきする間も惜しいくらいに。 「……何?」 「お前の横顔を、脳内フォルダに保存してるんだよ」 「くだらないわね」 「あのな、渾身の決めゼリフを一刀両断するなよ」 「そんなことしなくても、横顔なんていつでも見られるでしょう」 ほんのりと頬を染めながら、桐葉は言う。 やっぱり素直じゃない。 「じゃあ代わりに、俺の横顔もいっぱい見ていいぞ」 「結構よ」 「そう言うなよ」 「ちゃんと見とかないと、忘れちゃうかもしれないだろ」 「……」 俺の言葉に、桐葉は黙り込んでしまった。 深い意味はない、と言えば嘘になる。 俺は、桐葉に忘れてほしくないのだ。 俺自身のことを。 「面会は明日だろ?」 「ええ」 「でも、まだ主だと決まったわけではないわ」 俺の考えを読み取ったのか、桐葉はそう付け加えた。 「もし主だったらどうする?」 「……わからない」 「でも、会わないわけにはいかない」 覚悟を決めた目で、桐葉は言った。 ああ……そうだったな。 俺だって、わかってた。 どんなに俺が桐葉を好きでも。 どんなに二人で思い出を重ねても。 決して避けられないことがある。 それが、眷属である桐葉と付き合うということなのだ。 「いよいよ明日だね」 監督生室には、会長と副会長がいた。 東儀先輩と白ちゃんの姿はない。 「紅瀬ちゃんは午後六時に校門に来てくれ」 「そこから先は、瑛里華が案内するよ」 「はい」 「よろしくお願いします」 桐葉は殊勝に頭を下げた。 「そ、そんなに大したことじゃないからいいわよ」 「それより、いい? 遅刻厳禁よ?」 「私よりも遅く来たら、置いていくから」 「ええ」 「……っ」 皮肉の一つも返ってこないので、副会長もやりづらそうだ。 「あの」 俺は勇気を出して、手を挙げた。 「なんだい?」 「俺も、一緒に行っちゃ駄目でしょうか」 「?」 みんなの視線が集まる。 「駄目だね」 あっさり却下された。 「どうしてですか?」 「母様が望んでいないからよ」 「母様が会うのは紅瀬さん一人だけ。それが条件なの」 副会長は言い切った。 母様。 昨今ではなかなか聞かない呼び方だ。 「家の前で待ってるだけでも駄目か?」 「絶対駄目」 「余計なことで母様を刺激しないで」 「そうか」 冗談では済まされない雰囲気だ。 千堂家において、母親の言うことは絶対らしい。 そんな空気を感じた。 「紅瀬ちゃんのことが心配?」 俺はうなずいた。 「はは、大丈夫だよ。きっと」 「あの人も、いきなりガブリとやることはないさ」 そうじゃない。 俺が心配してるのは、そういうことじゃないんだ。 桐葉を見た。 できることなら、「行くな」と言いたかった。 もし会長たちの母親が主だったら── 俺たちの過ごした時間が、すべてリセットされる。 何もかもをゼロにして、鬼ごっこが再開されるのだ。 何もかもをなかったことにして。 そんなの嫌だ。 是が非でも引き留めたかった。 でも── 「……」 桐葉は、会うことをやめないだろう。 いや、やめることができないのだ。 それが「主」からの命令なのだから。 彼女が何百年も背負ってきたもの。 たかだか二桁しか生きていない俺には、この流れをどうすることもできない。 ……本当に、どうすることもできないのか? わからない。 まだ主だと決まったわけじゃないのに、胸騒ぎが収まらない。 「話は以上だ」 「今日は実行委員の仕事、パスしていいよ」 「お互い、試験明けぐらいは羽伸ばしたいよね」 とてもじゃないけど、羽を伸ばすような気分にはなれそうになかった。 その夜。 俺は一人、談話室で窓の外を眺めていた。 桐葉の特等席に、彼女の姿はない。 明日は主かもしれない人に会いに行くのだから、当然か。 ばたんっ 「おう」 談話室に入ってきたのは、司だった。 風呂上がりらしく、髪が濡れている。 手にはタオルとペットボトルだ。 「おいっす」 「お、誰もいないな」 司はテレビの前の席を陣取り、リモコンを操作した。 どうやら野球中継が見たかったようだ。 「やっぱ夏は野球と麦茶だな」 「だな」 「どっち勝ってる?」 「5対1で読海」 「うお、頑張れよ北武ー」 俺たちはしばらく、野球観戦に興じていた。 なんてことないこの時間。 司とのくだらないやり取りが、妙に楽しかった。 「あれ、紅瀬は?」 ふと、窓際の方を見ながら司は言う。 「今日はいない」 「へえ」 「いつもいるの、知ってたのか?」 「たまたまな」 「バイトから帰った時、外からお前らがいるのが見えた」 「そっか」 「おう」 司は再びテレビに視線を戻す。 そういや俺、桐葉とのこと、司には何も報告してないんだ。 わざわざ報告するようなことじゃないけど。 ……でも。 この学校に来て、最初に友達になったのはコイツなんだよな。 「なあ司ー」 「ん?」 「あ、くそっ。打てよ今のは」 「俺さ」 「おお」 「好きな子できてさ」 「おおお?」 「なんだ、ファールかよ」 聞いてないし。 「で、振られたのか?」 あ、聞いてた。 「いいや」 「へえ」 「じゃあこれやる」 そう言って、司は俺にペットボトルを差し出した。 「なんだこれ?」 「彼女ができた祝いだ」 「飲みかけの麦茶で祝うなよ」 「麦100パーセントだぞ?」 だからなんだ。 せめて新品が欲しかった。 「おめでとう」 「さんきゅ」 「愛想尽かされんなよ」 「おう」 司はそれ以上、何も突っ込んではこなかった。 興味がないのか、もしくはすべてお見通しだったのか。 理由はその両方だろう。きっと。 部屋に戻り、何をするでもなくベッドに寝転がっていた。 桐葉からの電話はない。 きっと今頃、一人でいろんなことを考えているんだろう。 何年、いや何十年もかかってやっと辿り着く明日。 いろんなことを考えないはずはない。 だから俺も、あえて連絡はしないでおいたのだ。 「ふぅ……」 携帯を見る。 ……。 メールぐらいなら、してもいいよな? 読む読まないは、向こうの勝手だ。 メールどころじゃなければ、放っておくだろうし。 「よし」 俺はさっそくメールボックスを開いた。 『明日、戻ったら連絡くれ』 『電話でもメールでもいいぞ』 『じゃあな』 送信。 またセンスのないメールだ。 でも、いろいろ考え始めると、とんでもない長文になってしまう。 これぐらいで抑えておこう。 ……。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 約十分後、携帯が鳴った。 桐葉からのメールだった。 何気に初めてのメールじゃないか? 俺はウキウキしながら、受信ボックスを見た。 『りようかい』 ……。 「りようかい?」 なんだそりゃ。 難易度高すぎだ。 俺は思わず桐葉に電話しようとして、やめた。 ……。 「りょうかい」だ。 了解と言いたかったんだ。 「マニュアル読めよー」 俺は返信ボタンを押した。 メッセージ欄に、「ょ」を出す方法を書く。 これで送信、と。 ……。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 再び十分後、桐葉からメールが届いた。 『りょうかい』 「おしっ」 どうやら克服できたようだ。 って、喜んでる場合じゃない。 次は漢字変換の方法を教えなければ。 俺は携帯と格闘する桐葉を思い浮かべ、笑みをこぼした。 ぶっきらぼうな「りょうかい」の文字。 このデータは、俺が消去しない限り消えることはない。 失うことのない確かなもの。 一文字一文字が、とても愛しく見えた。 ……。 大丈夫。 桐葉はきっと、帰ってくる。 もしも記憶をなくしたとしても、俺がすべてを取り戻す。 取り戻してみせる。 それが、俺の覚悟だ。 彼からのメールは、謎に満ちていた。 文字を打つだけで精一杯の私に、さらなる難題が降りかかる。 「漢字変換?」 携帯片手に固まってしまう。 メールなんて便利なようで不便なものだ。 電話をかけた方がよっぽど早い。 声を聞いた方が安心できる。 でも、ここで投げ出してしまうのは癪だ。 私は彼のメールをもう一度読んでから、文字を打った。 十分後。 『了解』 なんとか漢字変換に成功した。 私はさっそく送信ボタンを押す。 少しだけ誇らしい気持ち。 これでもう、機械音痴なんて言わせない。 ……。 ピルルルル ピルルルル♪ メールが来た。 すぐに受信ボックスを開く。 『ミッション完了報告ご苦労』 『次回からはもう少し長めに書くように』 『おやすみ』 「……」 また新たな課題ができてしまった。 私は携帯を握ったまま、窓の外を見る。 彼は今、何をしているのだろう? 電話をかけてみようか。 声が聞きたかった。 こんな夜だからこそ。 ……。 いや、やっぱりやめておこう。 彼の声を聞いたら、何かが揺らぐ。 私の宿命は、眷属になった時から決まっていたのだ。 すべてが無になるかもしれないとわかっていても。 私には、どうすることもできない。 主を捜すことが、私のすべてだった。 ……。 なのに。 どうしてだろう。 明日会う人が主でなければいいと、どこかで願っている自分がいる。 記憶を消されるかもしれないことが怖い。 彼と話したことも。 彼と目が合った時のことも。 彼に初めて触れた時のことも── すべてを失ってしまうのは、とても怖い。 ……。 でも、それだけではないのだ。 私は主を捜しながら、主が見つからなければいいと思っている。 彼と出会う前から、その矛盾した思いは漠然とあった。 なぜ? なぜ私は、手の鳴る方へと足を踏み出すことができないのだろう。 私はいったいなんのために、主を捜しているの……? 「……明日か」 ようやくあの子が辿り着く。 何年ぶりの再会になるだろう。 ……忘れた。 時間の概念など、もう無きに等しい。 あの子ははたして、主である自分を思い出すだろうか? いや、思い出すに決まっている。 自分たちはそうやって生きてきた。 この膨大な時間を、追って追われることでやり過ごしてきた。 必ず思い出すはず。 そうなれば、あの小僧との仲は終わりだ。 これが眷属の宿命。 夢を見るから絶望するのだと、そろそろわからせてやる。 ……。 早く、あたしを見つけろ。 あたしを思い出せ。 もう一度、鬼ごっこを始めるのだ。 午後五時四十五分。 待ち合わせの15分前に、校門に到着した。 今日はまだ、眠りの兆候はない。 それどころか、いつも以上に頭の中が冴えている。 「……」 ため息混じりに校門を見上げた。 この島に来て、5年が経つ。 主の存在を感じながら、今まで過ごしてきた。 学校やクラスメイトのことなんてどうでもよかった。 私にとっての修智館学院は、宿付きの便利な場所でしかなかった。 今までは……。 「早かったじゃない」 背後から声をかけられ、振り返った。 「そうでもないわ」 「1分でも遅れたら、本気で置いていこうと思っていたのよ」 「でも、来ちゃったのね」 妙な物言いだった。 来ない方がいいとでも言いたげな顔。 「私は」 「会わないわけにはいかないの」 いつか彼に言った言葉と、同じ言葉を繰り返す。 「それが主の命令だからよね」 「無駄話をしている時間はないんでしょう?」 「ええ……そうだったわ」 「私について来て」 そう言うと、彼女は校門を背に歩き出した。 何分くらい歩いただろうか。 複雑な道程だった。 どうやら私たちは珠津山の裾野を歩いているらしい。 徐々に人の姿が減っていった。 だんだんと日が落ち、空気がより濃密になっていく。 「もう少し歩くわよ」 彼女は慣れた足取りで先を急ぐ。 私は何も言わず、その後をついていった。 一歩。 また一歩。 まるで現実味のない足取り。 同じような風景がずっと続いている。 空を染める、燃えるような赤。 足下に落ちる影。 そこかしこに、森に棲む者たちの気配を感じた。 私はかつて、この道を歩いたことがあるのだろうか。 何十年前も。 何百年前も。 私は必死に、記憶の糸をたぐり寄せる。 その糸は、この道の先につながっているのか。 この道を抜けたら、思い出すことができるのか。 一歩。 また一歩── ──やがて、道が開けた。 「着いたわ」 鬱蒼とした森を抜けたそこに、大きな洋館があった。 細部に手の込んだ装飾が施された、重厚な佇まい。 ひとめで歴史的価値の高い建築物だということがわかる。 「ここが私の実家よ」 「今は母様が一人で住んでいるの」 私は館を見上げた。 ふいに、郷愁にも似た感情にとらわれる。 この館に見覚えがあるのか? ……いや、わからない。 見覚えがあるような気もするし、ないような気もする。 昔はこんな建物が多かったから、そう思っただけかもしれない。 「私が案内できるのはここまで」 「この館を抜けた奥に、母様のいる離れがあるわ」 「ありがとう」 私は頭を下げた。 「い、いいわよ。お礼なんて」 「貴方に世話になったのは事実だわ」 「そんなことはどうでもいいのよ」 「それより私、あなたに謝らなきゃいけないことがあるの」 「?」 「……えっと」 「あなたのこと、ずっと誤解してたのよ」 「強制睡眠のこと知らなくて、サボリ魔だなんて決めつけたりして……」 「何度もあなたを責めたことがあったと思う」 「そのことを、ずっと謝りたくて……」 「どうでもいいわ」 彼女の言葉を遮った。 「……はい?」 「どうでもいい、と言ったの」 「あ、あなたねー」 「人が謝ってるんだから、素直に聞きなさいよ」 「興味ないもの」 「興味あるとかないとか、そういう問題じゃないでしょっ」 「だいたいあなたは、いつもそうやって人の話を……」 「……」 「って、説教してる場合じゃなかったわね」 「まあいいわ。続きはあなたが帰ってきてからにしましょう」 「楽しみにしてるわ」 「ぜひそうして」 「……」 「……」 「じゃあ、私は先に帰るわね」 「何度も言うようだけど、母様はとても気難しい人なの」 「機嫌を損ねるとやっかいだから、気をつけて」 「ええ」 「それじゃ、また」 そう言って、千堂さんは来た道を戻っていった。 彼女がいなくなると、急に闇が深くなったような気がする。 私はもう一度、館を見上げた。 大丈夫。 私は冷静だ。 私はポケットの中の携帯を握り締め、一歩踏み出した。 館の内部は、静寂に包まれていた。 人の気配はない。 薄暗い廊下を、静かに歩いていく。 いつの間にか呼吸が短くなっていた。 緊張が高まる。 鼓動が速い。 それでも私は、まっすぐに奥の離れを目指す。 廊下に沈殿する重々しい空気が、足にまとわりつくようだ。 やがて廊下の突き当たりに、外に通じる扉が見えた。 この向こうに、離れがあるのだろう。 「ふぅ」 扉の前に立ち、ドアノブをひねる。 外に出ると、そこには薄闇の降りる庭園が広がっていた。 いつのまに、こんなに暗くなっていたのか。 ……。 あの建物だ。 私は一歩ずつ、和風の小さな建物へと近づいていく。 だんだんと人の気配が濃くなるのを感じた。 呼吸が乱れる。 足が震えて、芝生の上を歩いている気がしない。 ちゃんと歩かなければ。 小さく息を吐いてから、扉を目指していく。 どこかで虫の鳴く声が聞こえた。 「……」 扉の前に立つ。 手を伸ばし、ノックする。 ……。 返事はない。 私は取っ手を握り、ゆっくりと観音扉を開けた。 ギイィ…… バタンッ 大きな音をたてて扉が閉まる。 ぬるりとした、湿った空気。 部屋の真ん中には、大きな御簾のようなものがかかっている。 その向こうに、誰かの気配を感じた。 「……」 思うように声が出ない。 膝が震えていた。 ……この人が? 私の主なのだろうか? 「……よく来たな」 「……っ」 よく通る声だった。 ここからは、彼女の姿を見ることはできない。 影絵のようなその姿が、御簾に映るだけだ。 私は意識を集中し、その影を見た。 「伊織から聞いておる」 「あたしに何か用事があるのだろう?」 この声。 この匂い。 この温度。 思い出せ。 私を無間に導いた主の正体を。 「……わ」 「私は……」 「なんだ?」 「私は」 ……。 大きく深呼吸をした。 手に持った携帯を、さらに強く握り締める。 体温であたたまったそれは、高ぶる気持ちを自然といさめてくれた。 呼吸が整っていく。 心が、風のない日の海面みたいに静かだった。 ここに来るまでの葛藤や覚悟が、夜陰にまぎれていく。 「……もっと近くに寄れ」 「そこからでは、あたしの顔は見えんだろう」 「いいえ」 「わかります」 「?」 私は小さな影を見据えた。 「……」 知らず知らずのうちにため息が漏れた。 この人は、私の主かもしれない、と思う。 声も、匂いも、空気も。 どこか懐かしいような手触りがしたからだ。 ──でも。 それは確信ではない。 だから私は、少なからず落胆したのだ。 ひとめ会えば、すべてがわかると思っていたから。 ……。 この曖昧模糊とした手応えはなんだろう。 私は、彼女が主だと断言することができない。 「どうした」 「近くに寄れと言っているのだぞ」 「……いいえ」 これ以上は進めない。 例えこの人が、私の主であったとしても。 主でなかったとしても。 ……。 どちらにせよ、不確かな幻影だったのだ。 私は携帯を胸に押しあてた。 「帰ります」 「……っ」 顔を上げ、はっきりと告げた。 ここは、私のゴールではない。 いや、まだゴールはできないのだ。 「失礼しました」 一礼してから、私はまっすぐに部屋を出て行った。 外に出ると、辺りは真っ暗だった。 私は駆け足で帰路を急ぐ。 「はぁ……はぁ……」 学校を目指し、ひたすら走る。 足場は暗いけど、月明りがなんとか先を照らしていてくれた。 帰らなきゃ。 ここではない場所に帰らなきゃ。 主を捜すことが、すべてだった私。 存在するかもわからない幻影を、ずっと追い求めていた。 でも、今の私にはこんなに確かなものがある。 鬼ごっこ以外、何も持たなかった頃の私とは違うのだ。 「はぁ……はぁ……」 帰らなきゃ。 彼が手を鳴らす方へ。 私の帰るべき場所へ。 午後八時。 もうディナータイムの頃合いだ。 空には満天の星空。 恋人たちにしてみれば、さぞかしロマンチックな夜だろう。 さっきから、外出先から帰ってきた生徒たちがじろじろと俺を見る。 俺は変質者か。 それとも、待ちぼうけを食らう男を哀れんでいるのか。 「……遅いな」 彼女が千堂家に出向いて、二時間が経つ。 見送りには行かなかった。 そんなことをしたら、確実に引き留めてしまうからだ。 その代わり、俺はずっとここで彼女の帰りを待っていた。 今頃、彼女は何をしているんだろう。 やっぱり会長たちのお母さんは、主だったのだろうか。 主に記憶を消され、森を彷徨っている桐葉を想像した。 ……。 悪い方向に考えるのはやめよう。 俺はポジティブにとらえることにした。 きっと今頃、千堂家で夕食でもごちそうになってるのかもしれない。 寿司の出前がなかなか来ないせいで、帰りが遅いのだ。 きっと── 「……」 駄目だ。 そんなしょうもない仮定じゃ、自分を納得させることができない。 しびれを切らした俺は、ポケットから携帯を取り出した。 ……。 なんてメールしよう。 いや待て。 記憶をなくしたら、携帯の使い方も一緒に忘れちゃうんじゃないか? その可能性はあり得る。 いやいや落ち着け。まだ記憶がないと決まったわけじゃないし。 「あーもう、どうすんだよ」 「何が?」 ……。 「はい?」 「道端でぶつぶつうるさいのよ、貴方」 ──あ。 「あああっ」 顔を上げると、そこに桐葉が立っていた。 氷点下のまなざしを俺へと向けている。 「桐葉……?」 「お前、いつ帰ってきたんだよ?」 「見ればわかるでしょう」 「今」 「今って……」 「つか、どうだったんだ? 会ってきたんだろ?」 突然のことで、パニックになる俺。 それに比べて、桐葉は至って冷静だ。 「会ってきたわ」 「でも、わからなかった」 「は?」 「だから、そのまま帰ってきたの」 「……はあ」 ものすごく普通だ。 「八百屋に大根買いに行ったけど、なかったわ」 そんなテンション。 「じゃあ、記憶は?」 「俺のこと、ちゃんと覚えてるのか?」 「ええ」 「本当に?」 「貴方は、支倉孝平」 「という名のホモサピエンス」 桐葉は淡々と言う。 「違った?」 「大正解」 「そう」 「よかったわ」 ……。 俺たちは見つめ合った。 言いたいことは山ほどあったけど、どれも些末なものだ。 桐葉が帰ってきた喜びに比べれば。 でも、これだけは言いたい。 「俺、言ったろ。帰る時はメールしろって」 「ええ」 「そしてお前は、了解と言った」 「言ったわね」 素知らぬ顔で桐葉は答える。 「そうか。でもおかしいな」 「俺の携帯には、さっきからスパムメールしか届いてないんだが」 「すぱむ?」 「桐葉からのメールが届いてないってこと」 そう言うと、桐葉は肩をすくめた。 「メールより、走った方が早いわ」 「私の場合はね」 「そりゃそうかもしんないけどさ」 「ただいま」 彼女は俺を見上げた。 前髪が全開になったおでこ。 汗ばんだ首筋。 全力で走ってきたのが窺える姿。 そうか。 この一言を言うために、走って帰ってきてくれたんだ。 「おかえり」 「……」 俺は、桐葉を抱きしめた。 ありがとう、帰ってきてくれて。 俺を覚えていてくれて。 「人に見られてるわ」 「いいよ、見られても」 「……ふぅ」 「呆れた?」 「そうね」 即答された。 しかし彼女は、俺の肩にちょこんと顎を乗せ、 「抵抗しない私に、呆れてるわ」 いつもの調子で、そうつぶやいた。 「……なんてことだ」 あたしは強く拳を握りしめた。 なんたるざまだ。 主にここまで近づいておきながら、あの子は気づかなかった。 あたしを、思い出さなかった。 ……。 こんなことは、今まで一度たりとてなかった。 あたしを見たら、そこでゲームは終わるはずだったのだ。 「……許さん」 親指の爪を噛む。 ギリギリと歯が軋んだ。 「爪を痛めてしまいますよ」 「……誰が入っていいと言った?」 銀髪の侵入者は、何も答えない。 生意気な男だ。 いつから闇に紛れる術を覚えたのか。 「お戯れが過ぎるから、このようなことになるのです」 「ふっ」 「お前はあたしが悪いと言うのか?」 「いいえ」 「ですが、もう正体を明かしてもよい頃合いでは」 「……なんだと?」 「あの娘は、ようやくここまで辿り着いたのです」 「その努力は認めるべきでしょう」 「努力?」 「あれは伊織の手引だ。努力であるものか」 「あの娘の幸せは、そう長く続くものではありません」 「所詮は人と眷属。寄り添える時間はわずかなもの」 「何が言いたい?」 「ここは、寛大なご処置を」 「たわけ者が」 「飼い犬が手を噛めば、しつけをするのが当然だろう」 「……」 ……許さん。 主に背いた罰をくれてやる。 主から逃れられないということを、身をもって知ればいい。 ゲームを終わらせるのはあたしだ。 お前は一生、鬼であり続けるのだ。 私は見知らぬ場所に立っていた。 灰色の空と、どこまでも広がる草原。 冷たい風が肌を刺す。 少しでも気を抜けば、吹き飛ばされてしまいそうな強さだ。 私は一歩踏み出した。 どこかに行かなければならない。 でも、どこに行けばいいかわからない。 ……誰か。 誰か教えて。 私はどこに行けばいいの? びゅうぅぅぅぅっ 「……っ!」 風に煽られ、倒れそうになる。 「……歩け」 「歩き続けろ」 どこからともなく声が聞こえた。 聞き覚えのある声。 「……お前の旅に終わりはない」 「最果てを目指せ」 「くっ……」 私は耳を押さえた。 言い様のない不安が襲う。 私は今、どこにいるのか。 どこから来たのか。 どこで生まれて、どこを目指しているのか。 自分という存在が、どうしようもなく危うい。 今にも吹き飛ばされてしまいそうなほどに。 「……助けて」 「助けて……っ」 大きな声で叫ぶ。 なのに、声は風にさらわれて、自分の耳にも届かない。 ──怖い。 怖い。 誰か。 誰か── ……。 「あ……」 ふと、右の肩が温かくなる。 風はやみ、少しずつ空が明るくなってきた。 誰かの気配を感じる。 誰かが私のそばにいる。 誰かが私を見守っている。 やがて、右手に誰かの手が重ねられた。 このぬくもり。 この匂い。 貴方は── 「……ありがとう」 私は彼の大きな手を握り返した。 顔を上げ、もう一度前を見据える。 灰色だった景色が、しだいに色づいてきた。 鮮烈な緑の色。 降り注ぐ光の恩恵に、目がくらみそうになる。 ありがとう。 私の、大切な人。 貴方がいれば、私はどこまでも歩いていける── 目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。 ……ここは、私の部屋だ。 額ににじんだ汗をぬぐう。 「ふぅ……」 やたらと喉が渇いていた。 頭も痛い。 ずっしりとした疲労感がまとわりついている。 夢を見るなんて、どれくらいぶりだろう。 ……。 私は、見知らぬ場所にいた。 途中で、誰かの声を聞いたような気がする。 あれは誰の声だったか。 思い出そうとすると、余計に頭がズキズキと痛んだ。 ただの夢だ。 私は身体を起こし、ベッドから下りた。 テスト休みが終わり、夏休みに入った。 実家に帰る者、旅行に出る者、部活動に励む者。 そんな中で俺はといえば、いつもと同じように登校している。 なぜなら、文化祭実行委員なんてものを引き受けてしまったからだ。 「だから、さっきから言ってるじゃないか」 「ミラーボールを回すのはこのタイミングしかないんだよ!」 「いらないでしょ、ミラーボールは!」 「いいじゃないか。後夜祭のスピーチくらい派手にやったって」 「……わかったわ。じゃあこうしましょう」 「打上げ花火かレーザービームかミラーボール」 「この中のどれかに絞ること」 「ええー! 絞れないよそんなの」 「少しは譲歩しなさいよねっ」 さっきから二人は、なにやら後夜祭の件で揉めているらしい。 いったいどんな後夜祭になるのか、皆目検討もつかない。 「白、例の備品リストは?」 「あ、はい。これです」 そんな騒ぎを横目に、淡々と仕事をこなす東儀兄妹。 特に東儀先輩は、まったく自分のペースを崩さない。 「紅瀬、先月分の明細書はどうなってる?」 「ここに全部あります」 「そうか」 「それと手が空いたら、備品の追加リストを作ってもらいたいんだが」 「作りました」 紅瀬さんはプリントアウトしたばかりの書類を東儀先輩に渡す。 さっき、ちょうど二人で備品のチェックをしておいたのだ。 「ふむ。だいぶ仕事にも慣れてきたようだな」 「レスポンスも早いし、入力ミスもない」 プリントを眺めながら東儀先輩は言う。 「そりゃヘッドハンターの腕がよかったんだろう」 「なあ瑛里華?」 「……まあね」 「って、おだててもダメなものはダメよっ」 「はぁ、厳しいねえ」 会長はやれやれと肩をすくめる。 「まあカリカリしないでさ、お茶にしようよお茶に」 「白ちゃん、今日はとっておきのスゥイーーーツがあるんだろ?」 「は、はい」 「本日のおやつは、左門堂本店の肉球まんじゅうです」 「猫の肉球をモチーフにした、かわいいおまんじゅうなんですよ」 「へえー」 「……」 俺は見逃さなかった。 「猫」という単語が出た瞬間、桐葉の眉がぴくりと動くのを。 「あの……」 「紅瀬先輩が猫好きだとお聞きしまして、それで探してきたんです」 「お口に合うといいんですけど」 「そうか。そういや紅瀬ちゃん、猫好きだったよね!」 「いえ、私は……」 「あ、そうだ!」 「征、あれを紅瀬ちゃんにあげようよ、あれ」 「……あれか?」 「そう、あれだ。早く早くっ」 会長に急かされ、東儀先輩は机の引き出しから何かを取り出した。 「……じゃあ、これを紅瀬にやろう」 どさっ 桐葉の目の前に、猫のぬいぐるみが置かれた。 首輪がおもちゃの真珠でできている、正直あんまりかわいくない猫だ。 「これがかの有名な、珠津島のイメージキャラクターだ」 「名前はパル子ちゃん」 「すっっっごいだろう、これ」 「この前、町内会の会長にもらったんだよ。特別に!」 会長は声高らかに力説した。 珠津島に、こんなイメージキャラが存在するとは知らなかった。 「へー、じゃあレアものってやつ?」 「レアもレア。超レアだ」 「もう絶滅寸前と言ってもいい」 「……」 要するに、あまり世間には知れ渡ってないということか。 「そんなお宝を、机の中で腐らせとくのはどうかと思うだろ?」 「だから、猫好きの紅瀬ちゃんにあげるよ」 「私は、別に」 「よかったなーパル子! 今度の飼い主はきれーなお姉さんだぞー」 ずずいっ。 半ば強引にぬいぐるみを押しつける会長。 「あ、肉球まんじゅうもどうぞー」 ずずいっ。 続いて、笑顔で肉球まんじゅうを差し出す白ちゃん。 そして追い詰められる桐葉。 「はは、猫まみれだな」 「うっ……」 「すまんな」 「けっこうかさばるんだ。それ」 やっぱり邪魔だったらしい。 桐葉はしぶしぶといった顔で、ぬいぐるみとまんじゅうを受け取った。 どこからどう見ても、猫マニアといった様子だ。 「ところで、もう一つ素敵なお知らせがあるんだ」 「支倉君もね」 「俺もですか?」 「ああ」 「君たちの働きぶりを見込んで、ある企画を任せたいと思う」 「企画?」 嫌な予感がしてきた。 「軽く主旨を説明しておこう」 「こほんっ」 「えー、未来の日本を担う我々はー」 「時代の潮流に流されず、物事の本質を見極めなくてはならない!」 「陋習を改めるをいとわず、優れた文化は私財を投げうっても継承する!」 「よって、ここに『ミス修智館コンテスト』を行うことを宣言しよう!」 「……はい?」 「はぁ」 「まったく」 「……」 「というわけだ」 「え?」 「ギャグじゃなくて?」 「俺はいつだって真面目だよ、支倉君」 「超マジだ」 会長の目がきらきらと輝く。 そうだ。 この人は、いつだって冗談のようなことをマジにやる人なのだ。 「忙しいとは思うけど、まあよろしく頼むよ」 「ね、紅瀬ちゃん」 「そんな話聞いてません」 書類を整理しながら、桐葉は言う。 予想通りのリアクションだ。 「あ、納得いかない?」 「一応、そのパル子が報酬のつもりだったんだけどね」 「……」 「どう? やってくれる?」 「……はい」 って、決断早すぎ! 「どんだけ安く買収されてんだよ」 「借りは作りたくないのよ」 「そういう問題か?」 「買収って、失礼だね支倉君」 「これは正当なる取引だよ」 どこが? なんてことは、オトナの俺は言わない。 ってか、そんなにパル子が欲しかったのか……? 「はい、じゃあ決まりだね」 「みんなで力を合わせて、イベントを成功に導こう!」 「おー!」 「……」 「……」 「……」 「おー……」 俺は力なく、拳を上げた。 実行委員の仕事が終わり、俺と桐葉は寮に帰ってきた。 それにしても忙しい一日だった。 事務仕事だけでなく、ミスコンの運営も引き受けてしまったしな。 「今年の夏休みは、あまり遊んでいる暇はなさそうだな」 「……」 「桐葉?」 「え?」 我に返ったように、俺を見上げる。 「どうかしたか?」 「……いいえ」 「ちょっとぼんやりしていただけ」 淡々と答える。 具合でも悪いのだろうか。 眷属は、人間より丈夫だと言うけれど。 「疲れがたまってるんじゃないか?」 「そんなにやわじゃないわよ」 はたしてそうだろうか。 最近忙しかったのは事実だし。 「そういや俺の部屋に、疲労回復に効くお茶があったな」 「ちょっと飲んでくか?」 「……」 なぜか桐葉は渋い顔で俺を見た。 ……。 なんか、いろんな意味で誤解を受けているような気がする。 「いや、違うんだ」 「俺は別に、やましい気持ちがあったわけじゃ……」 べしっ 「うおっ!」 いきなり額を叩かれ、のけぞってしまう。 「こういう風に使うのね」 額に何か貼られていた。 風紀シールだった。 「なんでこんなの持ってるんだっ」 「前にもらったのよ。覚えてないの?」 「思わぬところで役立ったわ」 「ぬうぅ」 えらい扱われようだ。 どうやら信用されてないらしい。 まあ、しかたないけど。 「……ふ」 「では、ごちそうになろうかしら」 「はい?」 「お茶」 「……」 最初からそう言ってくれ。 「あのさ、マジで散らかってるけど気にしないでくれ」 「そう」 「あと、必要以上にベッドの下を探ったりしないように」 「ええ」 そしらぬ顔で桐葉は答える。 なんか、だんだん緊張してきた。 とりあえず、ヘンな物は出してない、と思う。 俺は部屋の前に立ち、カギを差し込んだ。 ガチャ 「?」 あれ、ドアが開いてる。 ……なんかいやーな予感がするな。 俺は不審に思いながら、ドアを開けた。 「おっかえりーーーー!」 部屋に入った瞬間、大きな声が俺たちを出迎えた。 「やっぱり!」 「やっぱりとは何よー」 「わたしもひなちゃんもへーじも、ずーっと帰りを待ってたんだからねっ」 「お帰りなさい、孝平くん」 「ちーす」 見れば、すでにティーセットや茶菓子がテーブルの上に並べてある。 タイミングとしては、最悪だった。 「俺のいないときに部屋に入るのって、禁止にしてませんでしたっけ」 「わ……忘れてた。てへー」 「てへー、じゃないですよっ」 「ごめんっ」 ぺこりと頭を下げるかなでさん。 「でもさー、どうしたの焦っちゃって?」 「まさか、部屋に見られちゃ困るようなものが」 「……あれ?」 「あ……」 二人の視線が、一点に留まる。 俺の背後から、ひょいと桐葉が顔を出したのだ。 「あれれれれれれ?」 「えっ、なに? そーゆーこと?」 「おーまいがーっ」 「ちょ、ちょっとお姉ちゃん、落ち着いて」 「ひゃ〜、やっぱそうなんだ! うわぁ〜っ」 「……」 「悪ぃ、お邪魔してるぞ」 「……おう」 俺は諦めのため息をついた。 こうなってしまったものはしょうがない。 今はこの状況に甘んじることにしよう。 「まあ、とりあえず入って」 「お邪魔します」 言われた通り、桐葉は部屋に入っていった。 かなでさんと陽菜は、その様子を凝視している。 司はマンガに夢中だ。 「狭いけど、そこらへんに座ってくれ」 「司、お前のざぶとん回せ」 「おう」 「生あったかいけど、どうぞ」 ばさっ。 桐葉は黙って、そのざぶとんに座った。 ……。 さて、これからどうしたものか。 「ねえねえ、こーへーときりきりって付き合ってんの?」 「いきなりですかっ」 単刀直入に聞かれた。 前置きなんておかまいなしなところが、かなでさんらしい。 「ねね、やっぱそーなの?」 「そーなの?」 「はい」 「わぁーっ」 「わわっ」 桐葉が素直に答えるので、二人とも驚いた様子だった。 というか、俺も驚いた。 本人にしてみれば、ただ聞かれたから答えただけだろうけど。 そうか。俺たち、付き合ってるんだ。 彼女の口から聞いて、今更実感してみたり。 「そっかそっか。あのこーへーに彼女がねえ」 「いやー、お姉ちゃんとしては感慨深いよ」 「よかったね、孝平くん」 「孝平くんの気持ち、通じたんだね」 陽菜はさらりとそんなことを言う。 その言い方じゃ、まるで俺がずっと片思いしてたみたいじゃないか。 確かにそうかもしれないけど。 「……まあ、いいだろ。俺たちのことは」 「よくないよ! 超ビッグニュースだよ!」 「とりあえず乾杯しようよ乾杯!」 かなでさんは唐突にグラスを掲げた。 それにつられて、俺たちもそこらへんにあったペットボトルを掲げる。 「ほらほら、きりきりもジュース持って!」 「え……」 「いいからほらっ」 ぐいっ。 半ば無理矢理、「ゴーヤ茶」と書かれたペットボトルを持たされる桐葉。 あまり乾杯向きではないドリンクだと思う。 「おーしっ、じゃあ何語で乾杯する?」 「……何語でもいいっす」 「おけ! じゃあロシア語でみんな一緒に!」 「ザヴァーシェ、ズダローヴィエ!!」 いや、言えないし! 「ザヴァーシェ、ズダローヴィエ」 言えてるし! 「んぐっ、んぐっ、んぐっ……」 「ぷはー!」 「やっぱめでたい席でのゴーヤ茶はおいしーねっ」 かなでさんはグラスの中身を一気した。 いつものことだけど、かなりハイテンションだ。 「そういえば、ケーキがあるよ」 「今日、お姉ちゃんと街で買ってきたの」 「あー、そうだった!」 「じゃあ次は、夫婦初めての共同作業ってやつだね♪」 「だ、誰が夫婦ですか」 不覚にも顔が赤くなってしまう。 隣を見ると、桐葉は興味なさそうにあさっての方向を向いていた。 と思ったら、心なしか頬が赤い。 「はーい、ここできりきりに突撃インタビュー!」 「前にわたしがあげた風紀シール、もう使ったんですかぁ〜?」 「なっ!」 「使いました」 「ついさっき」 「えええええっ!」 「ええっ」 白いまなざしが俺に集中する。 まるで痴漢でも見るような目つき、と思うのは俺だけか。 「違う違う違う、誤解だ」 「もう、このヤンチャ坊主めっ」 「ちーっとばかり手が早すぎなんじゃないの〜?」 「だから違いますって」 「司、なんとか言ってくれ」 「ふっ」 鼻で笑われた。 「まあ、でも、仲良さそうで何よりだよね」 陽菜がよくわからないまとめ方をする。 絶対に誤解されてるし。 「じゃあ話もまとまったところで、ケーキ切ろうか?」 「うん」 一ミリもまとまってない。 でも、話題がそれたのでよしとした。 「きりきりも食べるでしょ?」 「私は、遠慮しておくわ」 そう言って、桐葉は立ち上がった。 「えー? 遠慮しなくていいんだよ?」 「……いいえ」 桐葉はちらっと俺を見る。 どこか所在なげな様子だ。 このアットホームな雰囲気に戸惑っているのかもしれない。 さっきから冷やかされっぱなしだし。 「用事があるので、先に失礼するわ」 「お茶、ご馳走様」 「そっかぁ」 「じゃあまた今度、ケーキ大会やろーね」 「ええ」 桐葉は小さく微笑んでから、部屋を出て行った。 「……きりきり、大丈夫かな?」 「何がですか?」 「いやーわたし、珍しいお客さんだからテンション上がっちゃってさっ」 「ちょっと調子に乗っちゃたかな〜、なんて」 「大丈夫ですよ」 「あははは、そう?」 「じゃあこーへー、今からわたしの代わりに謝ってきてくれない?」 かなでさんは言った。 「え? 今ですか?」 「うん。フォローは早めの方がいいでしょ」 「大丈夫。ケーキはちゃんととっといてあげるから」 にっこり。 かなり怪しい笑顔。 いや、かなでさんなりに、いろいろ気を遣ってくれてるのかもしれない。 「じゃ、ちょっと行ってきます」 「行ってらっしゃい」 「ごゆっくり〜」 「達者でな」 みんなにニヤついた顔で見送られ、俺は部屋を出た。 さて。 桐葉はもう、自分の部屋に戻ってしまっただろうか? 俺は携帯を取り出し、桐葉の番号を呼び出した。 プルルルル……プルルルル…… 「もしもし」 「おう」 「どうしたの?」 「いや、今どこにいるのかなーと思って」 「今は本敷地に向かってるわ」 部屋に戻ったんじゃなかったのか。 「あの丘に行くのか?」 「ええ」 「さっきはごめんなさい」 「急に席を立ってしまって」 「気にするな。こっちこそ悪かった」 「まだ、慣れてないの」 「その、いろいろと……」 「わかってる」 「俺も、今からそっちに行くよ」 「え?」 「あいつらに追い出されちゃったんだ」 「……そう」 「では、向こうで待っているわ」 「すぐに行く」 ブチッ 俺は電話を切ってから、駆けだした。 「桐葉!」 丘にたどり着くと、桐葉が横たわっているのが見えた。 俺は驚いて彼女に駆け寄る。 顔が泥だらけだ。 どうやら、俺を待っている間に、強制睡眠に突入したらしい。 「また派手にすっ転んだなあ」 俺は苦笑しながら、彼女の顔を手でぬぐった。 本当に難儀な体質だと思う。 「よいせ、と……」 俺は彼女の隣に、ごろりと横たわった。 あと一時間かそこらで彼女は目を覚ますだろう。 それまで、隣にいてやることにするか。 ……。 ゆったりと流れる雲。 BGMは桐葉の寝息。 実に平和な時間だ。 こんなにのんびりとした気持ちになったのは、久しぶりだ。 ……。 彼女が、会長たちの母親と面会したあの日。 あれから桐葉は談話室に来ることをやめた。 教室の窓から、ぼんやりと外を眺めることもなくなった。 その理由はわからない。 俺には、彼女が鬼ごっこをやめたように見えた。 もしくは中断しているか、そのどちらかだ。 どうしてだろう? 主が見つかったわけでもないのに。 「……」 桐葉には、桐葉なりの考えがあるのだろう。 俺にできるのは、こうやってそばにいることぐらいだ。 それが彼女にとって、助けになってるかどうかはわからないけど。 頬に、何かがあたる。 さらさらとした感触だ。 後頭部がやけに温かい。 俺は、ゆっくりと目を開けた。 「……」 「?」 桐葉と目が合う。 ものすごい至近距離だ。 「起きたの?」 「……桐葉?」 視界が明瞭になり、ようやく自分の状況を理解した。 俺は今、桐葉に膝枕されているのだ。 その、柔らかい太腿の上で。 「お前、いつ起きたんだ?」 「さっきよ」 「隣に貴方がいたから驚いたわ」 俺だって驚きだ。 こんなに都合のいい夢があるだろうか? 「……じろじろ見ないで」 「んなこと言われても、目の前に顔があるし」 「では、もう一度寝て」 ぎゅっ。 桐葉は手で俺に目隠しをした。 その体温が、じわじわと心地いい。 「なんかさ」 「こうしてると、恋人同士っぽいな」 「そうかしら」 桐葉はそっけなく答える。 そこは肯定してほしいところだった。 「じゃあお前は、恋人じゃないヤツにも膝枕するのか?」 「……」 こんなに間近にいたら、頬が赤いのもごまかせないだろう。 風とともに、ジャスミンの香りがした。 この匂いが鼻腔をくすぐるたびに、胸をぎゅっと締めつけられる。 泣きたくなるぐらいに、切なくなる。 「桐葉」 「何?」 「キス、してくれないか」 「……っ」 ぴくん、と桐葉の身体が反応した。 「嫌か?」 「……嫌なら嫌と言うわ」 「前にもそう言ったでしょう」 ぶちぶちと言ってから、桐葉はそっと目をつぶった。 その長いまつげが接近してくる。 俺も目を閉じて、彼女の唇を受け止めた。 「……ん」 しっとりとした感触。 甘い吐息を舌先に感じた。 舌を伸ばし、温かい口内を探索してみる。 「……んっ……くっ」 俺の動きに応えるようにして、桐葉も舌を差し出した。 こくん、と唾液を飲み込む音が聞こえる。 緊張からか、少しだけ唇が震えていた。 ……。 やばい。 さっきから、桐葉の胸が顔にあたっている。 ちょうど耳のあたりが、その豊かな乳房に挟まれている。 そんなことをされたら、当然のように下半身が反応してしまうではないか。 俺はぶっとばされるのを覚悟で、その胸に手を伸ばした。 「……」 桐葉はキスをやめて俺を見下ろした。 そのまなざしには、案の定冷ややかなものが含まれている。 「……要するに」 「下心があるのね?」 「その通りです」 直球に対して、直球で返した。 今更ごまかしてもいられない。 なぜなら、俺の下半身はぱっと見てわかるほど勃起しているからだ。 それはもう、恥ずかしいほどに。 「すまん」 もう謝るしかない。 「……謝らなくていいのよ」 「私も、下心がないわけではないわ」 ……。 「え?」 「要するに、桐葉も……」 「それ以上言うと、痛い目を見るわよ」 桐葉は突然手を上げた。 俺に向かって、人さし指と中指を突き出してみせる。 「ピース?」 「目潰し」 「ちょ、ちょっと待て! 落ち着け!」 俺は慌てて立ち上がり、後ずさった。 「冗談よ」 淡々と桐葉は言う。 「あんまり冗談に聞こえないんだよ」 「せめて笑って言ってくれ」 すると、桐葉はわずかに口端を上げてみせた。 ……誰が不敵に笑えと言った。 「……」 ふと、桐葉の視線が一ヶ所に留まる。 ちょうど、俺の下半身あたりに……。 「あ……」 思わず手で隠す。 しかし、桐葉はその部分を凝視したままだ。 「……つらいの?」 「まあ、そうだな」 「様子を見た方がいいのかしら」 恥ずかしそうに、そんなことを言う。 「見るに越したことはない、と思う」 「そう」 「どうやって?」 「それは……」 これは暗に、希望を聞かれているのだろうか? ドキドキした。 いったいどうしたものか。 「……ここを、開ければいいのかしら」 桐葉は手を伸ばし、俺のベルトに触れた。 おぼつかない手つきでベルトを外し、ジッパーを下ろす。 とたんに、トランクスを突き破るような勢いでペニスが飛び出した。 「っ!」 桐葉は目を見張る。 まさかここまで怒張を極めているとは思わなかったのだろう。 「……お願いがあるんだけど」 「え?」 「俺のだけじゃなく、桐葉のも、見せてほしい」 「あ……」 「できれば、胸を……」 しばしフリーズする桐葉。 「……わかったわ」 やがて首もとのリボンをほどき、ゆっくりとブラウスのボタンを外した。 「……こういうことかしら」 「おあっ!?」 桐葉は何を思ったのか、ブラウスからこぼれた乳房を使い── ペニスを挟み込んできた。 いったい、俺の言葉をどう解釈したのだろう。 「違った?」 「い、いや」 「大正解」 「そう」 桐葉は納得したようにうなずいた。 これは……。 この状況は、なんなんだ。 夢の続きなのだとしたら、ぜひとも醒めないでいただきたい。 「それで……」 「どうしたらいいの」 「ええと」 「胸で強く挟んだり、動かしたり」 俺もたいがい図々しいヤツだ。 しかし桐葉は、何も言わずに、両脇から乳房をぎゅっと押し上げた。 「くぅ……!」 柔肉にプレスされ、亀頭が赤く充血する。 あまりにも気持ちよくて、気絶しそうだった。 「これでいいの?」 「ああ……」 ぎゅっ。ぎゅぎゅっ。 ほんのりと汗ばんだ肌が、竿に密着している。 まるでつきたてのお餅みたいな感触だ。 「んっ……んんっ……」 乳房を抱え、持ち上げるようにしてペニスを刺激する。 口から漏れる吐息が、ときおり先端にかかるのがたまらない。 強い風が吹き、桐葉の髪がペニスに絡まる。 空には太陽。 丘の向こうには青い海。 誰もいない草原で、いやらしいことをしている俺と桐葉。 こんなとこ、誰にも見られない保証はないのに。 それでも俺は、この快感を中断する気にはなれない。 「……ふぅっ……んっ」 「うぅ……」 圧迫された亀頭から、ちろちろと先走りの汁が漏れる。 透明な汁は亀頭を伝い、白い乳房に落ちていった。 ぬめぬめと輝く肌。 柔肉に、木洩れ日が影を作っている。 「痛く……ない?」 「ああ」 「でも、赤くなってる」 「それは気持ちいいからだ」 「……こすると、気持ちよくなるのね?」 「まあな」 「そう」 桐葉は亀頭を見つめ、さらに激しく乳房を揺らしてきた。 「あっ……」 ぎゅぎゅっ……ぬちゅっ……ぬちゅぅっ。 先走りの汁が絡まり、水気を帯びた音がする。 乳房にもみくちゃにされた亀頭は、ぴくぴくと身を震わせていた。 俺は汗だくになりながら、桐葉の髪を手でかき上げる。 汗の匂いとジャスミンの匂いが混じり、さらなる興奮を催す。 「汁が、たくさん出てきたわ」 「ブラウスがもうベタベタよ」 「すまん」 「洗って返す」 「私に裸で帰れと言うの?」 「まさか」 「桐葉の裸を見られるのは、俺だけだ」 「……わかってるならいいわ」 ぬちゅっ、ぬちゅうううっ……! 強い力で、搾るようにして乳房を持ち上げられた。 「だ、ダメだっ」 「どうしたの?」 「そんなことしたら……」 「いろんな意味で、たいへんなことになる」 「……たいへんなこと?」 桐葉は首を傾げた。 「だから、このままだと……」 「んっ……」 俺の言葉を遮るように、突然温かい物が俺の亀頭に触れた。 「ううぅ!?」 俺は呆然と、その光景を見つめる。 桐葉の愛らしい唇が、俺のペニスを含んでいるのだ。 もしここで夢が醒めたら、俺は発狂するかもしれない。 「んちゅ……ちゅぅ」 「あ……っ」 先端を、舌全体で舐め回される。 その甘美な感触は、俺の理性をあっけなく吹っ飛ばしていく。 「だ、大丈夫か?」 「んん……少し、苦い」 「それに、とても熱いわ」 実況されると、ものすごく恥ずかしいものがある。 大事な部分を支配され、俺はもうどうすることもできない。 「……ぅっ……んぷ、ちゅっ」 今度は、舌先がピンポイントで割れ目を突いてきた。 ねっとりとした質感に、腰がビクビクと震えてしまう。 桐葉は舌を動かしながらも、乳房を揺らすのをやめない。 俺が触れてもいないのに、だんだん乳首が膨らんでくる。 ペニスをくわえて興奮しているのだろうか。 あのクールな桐葉が……。 「桐葉も、硬くなってる」 俺は、チェリーピンクに染まった乳首にそっと触れた。 「あ……んっ……!」 熱く充血したそれは、ぴくんと自己主張して応える。 ころころと指で転がすと、桐葉は苦悶に顔を歪めた。 ちょっと触れただけで、こんなに感じてる。 それを表に出さないようにしている様子が、なんとも愛しい。 「んぷ……ちゅ、んちゅぅ」 俺に負けじと、やみくもに亀頭を舐め回してくる。 こんな時も負けず嫌いな性格が出るらしい。 俺は少しだけ力を入れて、乳首をつねった。 「ふぅ……っ!」 桐葉は全身をこわばらせ、呻く。 やがて唇が弛緩し、口端から唾液が垂れてきた。 俺の彼女は、なんていやらしい顔をするんだろう。 こんな場所であられもなく胸を出して、おまけにペニスまでくわえて……。 「だ……駄目よ」 「何が?」 「そこは……膝が震えてしまうわ」 哀願するような目。 桐葉にこんな顔をさせられるのは、きっと俺だけだろう。 「だって、すごくかわいいからさ」 ぷにっ。 ボタンを押すみたいにして、乳首を突く。 「やはぁっ……」 ペニスをくわえながら、声にならない声を漏らした。 唾液でべとべとになったペニスを、必死に乳房で挟み込みながら。 「……何度見ても綺麗だな」 「本当……?」 「ああ」 こんなに美しいものを、汚しているような罪悪感。 なのに、もっともっと汚してしまいたいと思う。 そんな俺は、かなり倒錯してるのかもしれない。 「あむっ……んんっ、んぐっ」 桐葉は息を吸い込んでから、さらに深くペニスを飲み込んだ。 全体があたたかい粘液に包まれ、思わずよろめいてしまう。 その攻撃は反則だ。 「うわ……熱っ……」 だんだんと桐葉の舌が、激しさを増してくる。 ただ舐めるだけでは飽きたらず、今度は強めに吸いついてきた。 「ちゅうぅ、んちゅぅ」 「ちょ……ちょっと、あぁっ」 身体の中心に、甘いしびれが走る。 眩暈がするのは、この暑さのせいだけではないはずだ。 「あふ、ぁ……ビクビクしてる……」 乳房で柔らかく包みながら、熱い息を吐きかけられた。 意識が遠のきそうになり、奥歯を噛みしめる。 「んく、じゅるっ……ちゅぷうぅ」 唾液と先走りの汁が混ざり、俺の怒張したものを熱く包囲する。 波打つ粘膜の中で、それはぱんぱんに腫れ上がっていた。 「……苦しくないか?」 「ん……」 「でも、大丈夫」 「無理しなくていいんだからな」 「無理ではないわ」 「……私の意志よ」 胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。 同時に、股間もさらに熱をもった。 桐葉の胸元は、もう漏れた唾液でべちゃべちゃになっている。 濡れた髪が頬や首筋に絡みついているのが、妙に淫靡だ。 「んぐ、んちゅ……ちゅるっ……んむぅ」 「あぁ……桐葉……」 あまりの気持ちよさに、足下がぐらぐらと揺れる。 なんとか自分を保つのに精いっぱいだ。 やたらと下腹部がしびれる。 もう、かなりやばいところまで来ているのだ。 「あむぅ、んぷ、んちゅっ、じゅる……っ」 「駄目だ……そんなに激しくしたら……」 「んん? ……んぷぅ、んくっ、ちゅるぅっ」 桐葉は、より激しいストロークを繰り出した。 頭を前後に激しく振り、喉奥へと亀頭を吸い込む。 これは、本気でまずい。 俺は桐葉の頭を抱え、深く息を吸い込んだ。 目の奥がチカチカする。 内臓がせり上がる感覚。 絶頂はもうすぐそこだった。 「じゅぷ、んぷぅ、んっ……んぷぷぅ」 「あっ……くぅっ」 唾液と粘膜が亀頭に絡まり、もう何も考えられなくなっていく。 「……じゅぷぅ、ちゅぱっ、はぁん……んぐっ」 「あぁ……もうっ……!」 桐葉の頭を掴み、俺も激しく腰を動かす。 喉奥へと突き刺すようにして、やみくもにグラインドさせた。 桐葉は苦しそうにしながらも、深くペニスを飲み込んだ。 最深部に到達した瞬間、股間がぶるぶると震える。 「んくぅ、んぐっ、あむぅぅっ」 「も、もう……いくっ……!」 ……びゅく! びゅくううぅ! びゅびゅっ! 「んん……っ!」 俺は、桐葉の喉奥目がけて思いきり射精した。 堪えきれなくなったのか、途中で桐葉が口を離す。 膝から崩れそうになるのを押しとどめるので精一杯だ。 ペニスはドクドクと脈打ち、たまった精をそのまま吐き出し続ける。 まるで遠慮のない、大量の精液だった。 「はぁ……あぁ……」 いきなり熱いものを吐き出され、桐葉はかなり驚いたようだった。 顔や髪に、白い液体を付けたまま、呆然としている。 「んっ、んぐ……」 やがて口に受け止めた分を、ごくりと一気に飲み干した。 「……ふぅ……んっ」 頬についた白濁液が、とろりと口端へと垂れていく。 それを舌でぺろりと舐めとってから、もう一度ゴクリと嚥下した。 「びっくりしたのか?」 こくり。 桐葉はうなずいた。 「急に出てきたから」 「……残りは、飲んじゃったのか?」 「……飲んではいけないものだったの?」 「い、いや……」 いけないわけではない。 むしろ、男としては嬉しいことだ。 ……。 ふつふつと、感動にも似た思いが胸に染み渡る。 もちろん、桐葉の献身的な行為に対してだ。 「あぁっ……!」 桐葉は、先端に滲んだ精液をぺろりと舐めた。 敏感な部分を粘膜で刺激され、くすぐったいような感覚が走る。 「まだまだ出てくるのね」 「……そうみたいだな」 「止められないの?」 「俺に聞かず、こいつに聞いてくれ」 俺は、一向に勃起が収まらないそれを手に取った。 たっぷりと舐められたペニスは、恥ずかしいほどにてかてかと輝いている。 呼吸を整えても、ちっとも硬さは衰えない。 まるで、まだまだ役割を全うしていないと誇示するように。 ……。 俺は、桐葉をちらりと見た。 自分ばかり気持ちよくなるのは、はたして紳士的な行為と言えるのか。 答は、否だ。 「桐葉」 「?」 「俺、桐葉にも気持ちよくなってほしい」 「え」 ぽかんと口を開ける。 素で驚いているようだ。 「いいか?」 「それは……」 恥ずかしそうにうつむいてしまう。 「女が嫌と言わないのは、そういうこと」 彼女の言葉を、頭の中で反芻した。 「……立ってくれ」 「ぁ……」 戸惑う桐葉を立たせ、近くの木に手をつかせた。 その背後に回り、制服のスカートを脱がせる。 「ま、待って」 俺の暴挙に、桐葉は弱々しくストップをかけた。 腰を突き出すような恥ずかしいポーズ。 薄紫のつるりとした生地がまぶしかった。 シンプルなデザインだけに、余計いやらしく映る。 欲望を吐き出したばかりのペニスが、再び奮い立った。 「駄目……あぁっ」 俺は剥き出しの股間を、桐葉のお尻にこすりつける。 薄布越しに、性器と性器が重なり合った。 「熱い……あふっ……」 ペニスの先端に、湿り気のようなものを感じる。 見れば、ショーツにうっすらと染みができていた。 もうあそこが濡れてしまっているのだ。 俺はペニスに手を添え、陰部のあたりをぐりぐりと刺激してみる。 じゅわ、とさらに愛液が滲んだ。 「やぁ、あぁ……」 ふるふると頭を振り、背中を仰け反らせる。 ピンと張った脚は紅潮し、玉のような汗が浮かんでいた。 俺は彼女のショーツに手をかけ、ゆっくりと下ろしていった。 「あっ……はあぁっ」 あらわになったお尻が、俺の目に飛び込んでくる。 きゅっと締まった形のいいお尻だ。 その白い柔肉の真ん中には、とろみを帯びたピンク色のあそこが見える。 たっぷりとした愛液で濡れた陰唇は、恥ずかしそうに身を縮こまらせていた。 「桐葉……行くよ」 俺はとろとろになった膣口に亀頭を差し入れ、そのまま腰を押し進めた。 「あ……あああぁっ!」 やはり中はキツイ。 侵入者を拒むような堅さが残っている。 だが、潤いは十分だ。 ノックするように腰を動かすと、少しずつ性器が中に収まっていく。 「くはぁ……あ……奥に……っ」 下半身を震わせながら、桐葉は高らかな声をあげた。 ぱっくりと割れた陰部は、完全に俺のペニスをくわえ込んでいた。 ここからだと、お尻の穴まで丸見えだ。 その小さなすぼまりも、快感に喘ぐようにヒクついている。 「もうこんなに濡らしてたんだな」 「……し、知らないわ」 「貴方がそうしたんでしょう」 人のせいにされた。 自分で勝手に濡らしたくせに、ずるい人だ。 俺は、下から突き上げるようにして腰を揺らした。 「くぅ……うぅ、はぁ、あぁっ」 ヌチュヌチュと性器がこすれ合う。 内部はみっちりと締まり、粘膜が絡みついている。 思わず白旗をあげたくなるような感度のよさだ。 「も、もっとゆっくり……」 ずぶぅっ! 「はぁんっ!」 一番深いところを突くと、桐葉は身体をしならせた。 俺は背後から覆い被さるようにして、両手で乳房を揉みほぐす。 「あふ、んくっ、あぁ……」 手に収まりきらないほどの双球を、たぷたぷと愛撫した。 乳首はこれ以上ないほど硬く尖っている。 膣内は少しずつほぐれ、粘膜が一斉に収縮を始めた。 俺は桐葉の背中にむしゃぶりつき、快感の波が通り過ぎるのを待つ。 ……今のは、かなり危なかった。 「奥に、来てる……あぁっ」 桐葉はこらえきれないといった様子で、木に爪を立てた。 ブラウスの上から肩甲骨のラインにそって舌を這わす。 「ふうぅ、あふぅっ」 びくん、と膣壁がうねり、さらに締めつけが強くなる。 「桐葉の中、ビクビクしてる」 桐葉は潤んだ瞳で、ちらりと背後を向いた。 「ねえ……お願い」 「ん?」 「私をふしだらな女だと、思わないで……」 ずっぽりとペニスをくわえ込んだまま、そんなことをつぶやく。 「この格好は、どこからどう見てもふしだらじゃないか?」 「う……っ」 「でも俺は、そんな桐葉が好きだ」 「だからもっと、ふしだらになってほしい」 「……ふぅ」 「もう、どうにでもして」 その言葉で、火が点いた。 俺は桐葉の腰をがっちりと抱え、ずぶずぶとペニスをねじ込んでいく。 「あっ、はぁ、ふはぁ、あぁっ」 ペニスの出し入れによって、蜜壺から愛液がとろとろと溢れだす。 桐葉もリズミカルに腰を動かしてきた。 陰唇は赤く腫れ、さらに俺の怒張したものを飲み込んでいく。 「あぁ……も、もっと……」 「来て……あぁ……っ」 お尻の肉を揉みながら、縦横無尽に腰を動かす。 以前よりも、もっと素直に俺を求めているのがわかった。 桐葉も、自分を解放しようとしているのだ。 さらなる高みへと昇るために。 「はぁっ、はふぁ、いいっ……あふぅっ」 ぬぷっ! ずぷぷぷっ、ずぷぅ! 亀頭まで引き抜き、一気に奥へと腰を進める。 激しいグラインドに、桐葉は髪を振り乱して声を上げた。 「やぁ、あふぅ、壊れちゃう……あぁ、ひはぁっ!」 内部の収縮が、だんだんと激しくなる。 下半身が断続的に震え、その長い脚がさらにピンと張った。 絶頂に近いところまで来ているのかもしれない。 「くはぁ、はぁっ、あん、もう、立っていられな……いっ」 「私、あぁっ、奥が、ヘンなの……はあぁっ」 ぶるぶると痙攣する腰を抱え、小刻みに膣内を突きまくった。 二人の制服は、お互いの体液ですっかりびちょびちょだ。 ここが外だということも忘れて、ただひたすらにラストスパートを駆け上る。 「はふん、はうぅ、あっ、私、もうっ……んふううっ」 それにしてもよく締まる。 おかげで、俺もいっぱいいっぱいだ。 もうこれ以上は我慢できそうにない。 「ふうぅ、はふぅ、あふっ……来る、あああああぁっ」 最後の力を振り絞って、激しく腰を揺らす。 桐葉もまた、俺に思いきり腰をぶつけてきた。 互いの性器は一体化し、意識が遥か上空へと導かれていく。 「くぅっ……!」 「あっ、あふぁっ、来る……んくぅ、あぁ、はああぁっ」 「俺も、一緒に……っ」 「一緒に……あぁ、お願い、あふぁ、中にっ……あああぁっ!」 腰に指を食い込ませ、俺は強くペニスを前後させた。 最深部を亀頭がえぐった瞬間、下腹部が暴発する。 「あ……桐葉ぁ……っ!」 「あああぁ、いくぅ……! はふああああああぁっ……!」 びゅくううっ! びくっ! びゅくくくっ! 「ひああぁっ、ああぁっ……!」 膣奥をめがけて、たまりにたまった欲望をぶちまけた。 二度目とは思えないほど、力強い射精だった。 激しすぎる快感に、頭の中がぐるぐる回る。 俺は息を切らせながら、ゆっくりとしたグラインドを続けた。 「うっ……はぁ……はぁっ……」 「はぁ、あぁ……はあぁ……」 桐葉は絶頂の余韻を噛みしめるように、きゅっきゅとペニスを締める。 内部は愛液と精液とで、マグマのように熱くなっていた。 「くぅ……」 ほんの少しだけ、ペニスを引き抜く。 内部からどろりと、半透明の液が垂れた。 「ま、まだ駄目……」 「……すごく、敏感なの」 「ごめん」 陰唇は小刻みにヒクついている。 その小ぶりな花弁は、お互いの体液ですっかりねばついていた。 「貴方の……中で動いてる」 「ずいぶんたくさん出したようね」 「……ああ」 言い訳の余地はない。 どこにしまってあったんだというくらい、大量に出してしまった。 桐葉の中で。 「その……」 「申し訳ない」 「いいえ」 「悪い気はしないわ」 「えっ」 桐葉は俺をちらっと見てから、すぐにうつむいた。 いいのだろうか。 少なくともこの反応を見る限りでは、大丈夫らしい。 「……もう、抜いても平気よ」 「あ、ああ」 俺は息を吐いてから、ゆっくりとペニスを引き抜いた。 「んっ……」 案の定、中にたまっていたものがトロトロと地面に垂れていく。 中途半端に下げたショーツは、もうべちゃべちゃになっていた。 ……これは、いったいどうしたものだろう。 途方に暮れていると、桐葉は身体を起こし、するりとショーツを脱いだ。 次にポケットからハンカチを取り出し、ショーツをくるんで再びポケットに戻す。 「……あれ?」 「はかないのか?」 「もうはけないわ」 「でも」 「このまま帰るわよ」 ……。 それってつまり、ノーパンということか? 「だ、ダメだ」 「は?」 「もし何かあったらどうするつもりだ」 「風に吹かれたり、転んだりしたら」 「そんなヘマしないわ」 「いや、わかんないだろ」 「とにかくパンツをはけ」 「なんなら俺のを貸してやる」 「遠慮しておくわ」 さらりと言ってから、桐葉はポケットティッシュを取り出した。 数枚取り出し、俺のペニスをそっとくるむ。 「私のせいで、汚れちゃったわね」 「汚れてなんか……うぅっ」 俺もまだ敏感になっているらしい。 テッシュ越しに触れられているだけで、下半身がガクガクしてしまう。 桐葉は亀頭から根元までふいてから、丁寧にトランクスまではかせてくれた。 なんだか気恥ずかしい。 「じゃ、今度は俺の番だ」 「い、いいわよ」 「ダメだ」 隙を突いてティッシュを横取りし、そっと彼女のスカートをまくり上げる。 桐葉は観念したのか、少しだけお尻をこっちに向けた。 まだ愛液で湿っている陰部にティッシュを添え、優しくこする。 「んっ……」 とたんに覇気をなくし、フツーな女の子の顔になる。 ホントに感じやすくできてるのだ。 くちゅつ……ぬちゅ……。 ティッシュに愛液が染みる。 桐葉は泣きそうな顔になって、身をよじった。 「も、もういいの」 「いや、まだ奥の方が」 「駄目」 「遠慮すんなって」 「……叱るわよ」 氷河期を予感させるような目。 「どういう風に?」 「どうもこうもないわ」 「こっぴどく叱るだけよ」 それはちょっと体験してみたい気もする。 だが、彼女を不機嫌にさせるのは得策ではない。 俺はそっと陰部から手を放した。 「はい、完了」 「……ふぅ」 桐葉は手早く身だしなみを整えた。 きりりと背筋を伸ばせば、いつもの桐葉のできあがりだ。 ノーパンだということを除いては。 「やっぱり心配だ」 「うっかり誰かにスカートめくりされたらどうする」 「されないように、貴方が守って」 「……ったく」 しっかりしているようで、実は危なっかしいんだ。この人は。 自分が男にどう見られているかなんて、まったく気にしてないのだろう。 桐葉を見てると、時々不安になる。 こんなに綺麗で魅力的な女の子が、本当に俺を好きでいてくれるのか? ただの気まぐれじゃなくて? ……なんて、乙女なことを考えてしまう。 これが、惚れた弱みというヤツか。 「さて、そろそろ帰るか」 「思わぬ長居だったな」 などと言いながら、俺は一歩踏み出した。 しかし、桐葉はついて来ない。 その場で立ち止まったままだ。 「どうした?」 「……別に」 「ん?」 「いいから先に行って」 「はぁ?」 「いいから」 「何度も言わせないで」 「……はい」 殺気のようなものを感じ、俺はてくてくと歩き出した。 何か怒らせるようなことをしてしまったのか。 心当たりは、あるようなないような。 「……」 歩く。 すると、後から桐葉がついてくる。 止まる。 すると、桐葉も止まる。 いったい何をしてるんだろう? 不思議に思いながら、俺は再び歩き出した。 ……。 桐葉も歩き出す。 やがてすぐ背後に、彼女の気配を感じた瞬間── 俺の左手に、温かいものが触れた。 桐葉の手だった。 「……」 「……」 俺は何も言わず、その手を強く握り返す。 きっと彼女は、今頃真っ赤に顔を染めていることだろう。 だから俺は、あえて振り向かない。 彼女が誰よりも照れ屋だということを、知っているからだ。 草原は続く。 もうどれくらい歩いただろう。 爽やかな風が吹いている。 私は隣を歩く彼を見上げた。 彼も同じように、私を見る。 つないだ手は温かい。 ……ねえ、聞いてくれる? このままずっと、どこまでも一緒に歩けたらいいのに。 なんて、恥ずかしくていつも言えないけど。 心からそう思う。 貴方と二人で。 どこまでも。 いつまでも── ……。 びゅうぅぅぅぅっ 「……っ!」 強い風が吹き、吹き飛ばされそうになる。 私は彼の手を強く握りしめた。 はぐれてしまわないように。 なのに── 彼の手が、ふと軽くなる。 熱を失っていく。 まるで紙でできているかのように、存在が薄くなった。 「駄目……」 私は彼の名を呼んだ。 何度も何度も呼んだ。 「お願い」 「お願いだから……」 行かないで。 私を一人にしないで。 ずっと手をつないでいて。 お願いだから……。 「あぁ……」 彼のぬくもりが、手のひらから消えていく。 絡めていたはずの指が、透明になる。 その笑顔が、灰色の空に消えていく。 「行かな……いで……」 私の声は、風に吹き消された。 彼の残像とともに。 どれだけ手を伸ばしても。 もう、私の手を取る人はいない。 いない……。 ……。 誰か教えて。 彼は、どこに行ってしまったの。 どこに消えてしまったの? 「……死んだよ」 「あの男は、お前を残して死んでしまったよ」 ……死んだ? 私を残して? 「最初からわかっていたはずだ」 「お前の大切な人は、いつかお前を残して消えることを」 「なのに、お前は自らそれを選んだ」 私が、選んだ。 その通りだ。 先のない恋だとわかっていても。 私は選ばずにはいられなかった。 「……お前は悪くない」 「ただ、選択を間違っただけだ」 「お前は幸せになるための選択を間違ったのだ」 「間違ってなどいない!」 間違いであるはずがない。 彼と過ごした時間を。 彼にもらったぬくもりを。 ……人を愛する気持ちを。 間違いだなんて言葉で、片づけたくはない。 例え、彼がいなくなっても……。 「……そんなものが何になる?」 「……っ」 「もう一度よく考えろ」 「お前は、誰を選ぶべきだったかということを」 「……思い出せ」 びゅうぅぅぅぅっ 「くっ……!」 声の主は、どこかに行ってしまった。 灰色の世界で、今度こそ私は一人になる。 ……。 誰もいない世界。 彼は、もう戻らない。 どれだけ名前を呼んでも。 手を伸ばしても。 彼は戻らない。 もう二度と── ……頬を何かが伝う。 その感触で、私は目覚めた。 無機質な天井の模様が、しだいに明瞭になる。 「夢……」 私は涙をぬぐい、つぶやいた。 夢。 ただの夢だ。 なのに涙が止まらない。 体中の水分が流れ出るよう。 ……どうして。 どうしてこんなに不安になるの? 今まで、一度だってこんな気持ちにならなかった。 不安なんて、とうの昔に忘れた感情だった。 ……。 彼に出会うまでは。 彼と出会ってから、毎日が楽しくて。 嬉しくて。 幸せで。 私は、その先に待つものから目を逸らしてきた。 「うっ……うぅ……」 喉奥から嗚咽が漏れる。 私は、この身体の震えを止める術を知らない。 灰色の喪失感が、心を支配する。 ……。 これは、私が選んだことだ。 最初からわかっていた。 なのに……。 「だから、このサイズじゃ駄目なんだって」 「直径30センチもあるのよ? いったい何が不満なのよ、もう」 「お前、文化祭をホームパーティーか何かだと勘違いしてないか?」 「直径3メートル。せめてこれぐらいはないとね」 「あのね〜〜〜」 文化祭まであと一ヶ月半。 もう、一ヶ月半しかないのだ。 大枠はほぼ固まっているが、それでもトラブルがないわけではない。 急遽スケジュールを変更したり、イベントを差し替えたりと、生徒会は大忙しだ。 当然、余裕もだんだんなくなってくる。 「征一郎さん、ちょっといい?」 「なんだ」 「うちの兄が、直径3メートルのミラーボールをほしがってるんだけど」 「ふむ」 東儀先輩は素早く電卓を叩いた。 「予算オーバーだ」 「はい終了〜」 「くーーーっ!」 あっけなく一蹴される会長。 普段はバリバリと仕事をこなすくせに、たまに妙なこだわりで副会長を困らせる。 今回は、それがミラーボールだった。 「ああ、困ったな」 「ねえ支倉君。君の親戚にミラーボール工場の人いない?」 「いません」 「だよね」 「手作りすればいいんじゃないの?」 「アルミホイルとかで」 すかさず東儀先輩が電卓を叩く。 「予算内だ」 「ラッキー♪」 「私も、お手伝いしますっ」 「よーし、じゃあみんなでDO IT YOURSELFだ!」 「おー!」 「おーっ」 「……」 「……」 「……」 「あ……」 白ちゃんはバツの悪そうな顔で、掲げた拳をゆっくりと下ろした。 「なんだいなんだい、みんなノリが悪いね」 「あと一ヶ月半しかないんだから、笑顔で乗り切っていこうよ」 「ねえ紅瀬ちゃん?」 「……」 「……?」 「もしもーし? 紅瀬ちゃーん?」 「え?」 会長に耳元で話しかけられ、桐葉はようやく我に返った。 どこか焦点の定まっていない目。 俺は、桐葉の顔を覗き込む。 「どうした?」 「どうもしないわ」 いつもの調子で、そう答える。 強制睡眠が来たわけでもないらしい。 ……。 ここ最近、桐葉はずっとこんな感じだ。 以前にも増して、ぼんやりすることが多くなった。 顔色も悪い。 眷属は頑丈にできてるだなんて、前は言ってたのに。 「紅瀬」 「体調でも悪いのか?」 「いいえ」 「兄さんがこき使うからでしょ」 「俺?」 「いや、俺だな」 「今日はもう帰ってもいいぞ。二人とも」 「え?」 東儀先輩は、俺を見てゆっくりとうなずいた。 「今日の仕事はほとんど終わっているからな」 「紅瀬を送ってやれ」 「はい」 何やらお許しが出たようだ。 「また明日〜っ」 「お疲れ様」 「お気をつけて」 「それじゃ、お先に失礼します」 俺は桐葉を伴い、監督生室を後にした。 桐葉は、終始無口だった。 もともと口数は多い方ではないが、それにしたってしゃべらない。 心ここにあらず、といった様子だ。 ただの夏バテならいいのだが、もちろん彼女にその可能性はない。 「桐葉」 俺はぼんやりと歩く桐葉の腕を掴んだ。 「ちょっとそこに座ろうぜ」 「どうして?」 「俺が座りたいんだって」 半ば強引に、そばにあったベンチに座らせた。 周囲に人の気配はない。 太陽の光が、俺たちを容赦なく攻撃する。 実に夏らしい午後だった。 「……疲労回復には何が効くんだったかな」 「土踏まずにニンニクを貼るの」 無表情のまま、桐葉は言う。 あいにく、ニンニクは持ち合わせていない。 「他になんかないのか?」 「バナナ」 バナナも、ない。 「わかった」 「俺が後で、ニンニクとバナナを調達してくる」 「疲れているの?」 「俺じゃなく、お前だ」 そう言うと、桐葉は首を傾げた。 「私は……」 「私は疲れない、とか言うんだろ」 「でも、おかしいって。特にここ最近」 「……」 桐葉は黙りこくってしまう。 「何かあったのか?」 「別に」 「嘘つけ」 「嘘なんか……」 桐葉はかぶりを振ってから、ため息をついた。 「本当になんでもないのよ」 「ただちょっと、あまりよくない夢を見るだけ」 「夢?」 俺は桐葉の顔を覗き込んだ。 「……そう」 「ただの夢よ」 夢、ときたか。 こればかりは、俺もどうすることもできない。 「添い寝してやろうか?」 「……」 「いや、冗談です」 「冗談なの?」 「え」 「……ふ」 こつん。 桐葉は、俺の肩に寄りかかった。 小さなつむじが見える。 これは、甘えているのだろうか? 「それじゃ寝づらいだろ」 「なんなら膝枕のサービスもつくけど」 「そう」 ごろん。 本当に、俺の太腿に頭を乗せてきた。 俺は思わず周囲をきょろきょろと見回す。 オーケー。誰もいない。 「寝心地はどうだ?」 「硬い」 「は!?」 「脚が硬い」 ……びっくりした。 「でも、悪くないわ」 ゆっくりと目を閉じる桐葉。 髪がさらりと落ち、ぷっくりとした耳たぶが見える。 卵のようにすべすべした頬。 つやつやの長いまつげ。 何度見てもドキドキする。 そういや、前に膝枕してもらったことがあったよな。 逆の立場も、なかなか悪くない。 「暑くないか?」 「平気」 「ジュースとかいるか?」 「いらない」 「あまり気にしないで」 「でも」 「……あまり、優しくしないで」 小さな声でつぶやいた。 なんでそんなこと言うんだろう。 「優しくしたくなるだろ、そりゃ」 「好きなんだから」 俺は桐葉の手を取った。 なんでそんなに、寂しそうな顔をするんだ。 俺がそばにいるのに。 「もっと頼ってくれてもいいんだぞ」 「……」 桐葉は何も答えなかった。 ただ、俺の手を一瞬だけ強く握り……。 ゆっくりと、放した。 私は、どこに向かっているのだろう。 風が冷たい。 震える膝が、もう一歩も歩けないと訴えている。 全身が鉛のようだ。 それでも、一歩前に踏み出す。 つま先から引き裂かれるような痛み。 鋭利な刃物のような草が、容赦なく私の脚を傷つける。 ……。 彼がいなくなって、どれくらいの時間が流れたのか。 何時間? 何年? 何百年? 時間の感覚など、もうない。 悲しみも、喜びも、孤独も。 すべての感覚を置き去りにしてきた。 私には、もう何もない。 朽ち果てることも許されず。 諦めることも許されず。 ただ歩き続けるだけの亡骸だ。 私は、亡骸だ── ……。 「……?」 やがて、草原の向こうに何かを見た。 なんだろう? わずかな光をまとうもの。 この強い風に吹かれても、微動だにしない。 ただそこに、必然のように存在している。 ……。 私は痛む脚を引きずった。 あともう少し。 もう少し。 ……。 「……」 それを前にして、私は歩みを止めた。 大きな六角柱だ。 私の背丈ぐらいはあるだろうか。 とても厳かな微光を放っている。 「……綺麗」 一点の曇りもない、美しい石だ。 水晶の結晶かもしれない。 心まで透き通るような透明度だった。 ……。 涙がにじむ。 言いようのない感情が湧き出る。 混じりけのないその石が、私を映している。 この石は、いつからここに在ったのか。 他者を必要とせず。 何かを求めるでもなく。 何にも混じらず。 ただそこに在り続けたのか。 ……。 私は、手を伸ばした。 触れたい。 汚れのない、この美しい石に── 「……よく来たな」 触れようとして、手を止めた。 あの声だ。 ここに来るまでに、何度も聞いた声。 「疲れただろう」 「お前を歩かせるのは忍びなかった」 優しい声だった。 まるで、私自身をねぎらうかのような。 ……この石? あの声の主は、この石だったの? 私をここまで導いたのは、この石だったの? 「さあ、触れてごらん」 「遠慮することはない」 「……でも」 一瞬、戸惑う。 触れたい。 でも、触れたらもう二度と、戻れなくなる気がする。 確証はないけど、そんな気がした。 「迷うことはない」 「さあ……」 目をそらせなかった。 その石から。 清らかな光から。 もう二度と、戻れなくても── ……。 私は手を伸ばした。 「……!」 氷のように冷たい。 触れた場所から、石が発光する。 柔らかな光が私を包んでいく。 全身の痛みが薄れていく。 ……どうしてだろう。 少しずつ心がほぐれていく。 どうしてこんなに、満たされた気持ちになるのだろう。 私は、ずっと。 ずっとこの石を捜していたのかもしれない── 「……っ」 目を開けた瞬間、飛び起きた。 空一面の茜色。 青々しい草の匂い。 額の汗を手でぬぐった。 「夢……」 夢だったの? 本当に? ……。 「もう……やめて……」 私は膝を抱えた。 身体が重い。 身動きできないほど疲弊していた。 だったら、夢から醒めなければよかった。 あんなに満ち足りた気持ちでいたのに。 すべての苦痛から解放されたのに。 もう、疲れた。 夢と現を行き来するのは……。 ……。 私は顔を上げ、草原の向こうを見つめる。 そこに、あの石はない。 私を呼ぶ声も聞こえない。 ……。 今、ようやくわかった。 あの石は、私の主だ。 主が私を呼んでいるのだ。 私たちの鬼ごっこは、まだ終わっていなかった。 いや、終わらせることはできない。 だって……。 そうでなければ、私たちはこのあり余る時間をやり過ごせない。 人は何か目的がなければ生きられない。 私は常に、主の存在を感じていた。 誰といても。 彼といても。 私の意識の奥底には、常に主がいた。 私がこの世に在り続ける限り、主もそこに在るのだ。 永遠の生命を持つ者同士として。 そうやって、私たちはこの長い時間を生きてきた。 ……。 それが、私と主のルールだ。 永遠に終わることのないもの。 結晶のように確かなもの。 混じりけのない、透明な。 透明な、世界。 「……行かなければ」 手の鳴る方へ、行かなければ。 私は── ……。 ピルルルル ピルルルル♪ 「……っ!」 携帯の着信音が鳴り、我に返った。 私は慌ててポケットから携帯を取り出す。 ……彼からのメールだ。 わずかに震える指で、受信ボックスを開いた。 『ういっす。何してる?』 『来週から、学食でトムヤムクン祭りが開催されるぞ』 『辛いもの食って疲れを吹き飛ばそうぜ』 『じゃ、また明日』 私は時計を見た。 もう六時だ。 いったい、何時間ここで眠っていたんだろう。 そんなことも思い出せない。 ……。 今日の私はどうかしている。 どうして、夢から醒めなければいいなんて思ったりしたんだろう。 夢の中に、彼はいない。 でも、この世界には彼がいる。 それは本当だ。 私は「了解」とだけ打って、メールを返信した。 彼はどこにも行かない。 今はまだ、私のそばにいてくれる。 今は、まだ……。 プルルルル……プルルルル…… 「……」 プルルルル……プルルルル…… ……。 出ない。 珍しいこともあるものだ。 いつもならすぐに出るのに。 俺は時計を見た。 午前九時五十分。 だいたいこの時間に連絡を取り合い、下で待ち合わせる。 それから一緒に、監督生室に向かう。 夏休みに入ってからはずっとそうだった。 ……風呂にでも入ってるのかな。 午前十時半。 桐葉からの連絡はない。 もう一度電話してみるが、やはり桐葉は出なかった。 どうしたものか。 俺はしばし考えてから、携帯を手に取る。 プルルルル……プルルルル…… 「もしもし」 「おう、俺だ」 「おはよう」 「どうしたの?」 「今、部屋か?」 「そうだけど」 「いや、大した用事じゃないんだけどさ」 「今日、どっかで桐葉見たか?」 「……紅瀬さん?」 「見てないけど、何かあったの?」 「いや、何もない」 「ただ、電話に出ないからどうしたのかと思って」 「へえ〜。意外と心配性なのね」 ひやかすような声だった。 そう思われてもしかたない。 ただ、妙に心配だったのだ。 ちょっと電話に出ないだけで不安になるのも、おかしな話だけど。 「すまん。つまんないことで電話しちゃって」 「いいわよ」 「今ちょうど出るところだったから、紅瀬さんの部屋に寄ってみるわ」 「ありがとう」 「じゃ、また後でね」 ブチッ 電話が切れた。 ……。 冷静に考えたら、強制睡眠に突入しただけかもしれないじゃないか。 俺はため息をついた。 どちらにせよ、ここで携帯を眺めてたってしかたない。 とりあえず、外に出よう。 夏休みのせいか、寮内はいつもより静かだった。 明らかに人の気配が少ない。 そういえば司は、毎日のようにバイトだと言ってた。 かなでさんは夏期講習で忙しそうだ。 陽菜も友達と遊んだり自習したり掃除したりで、何かと多忙らしい。 みんな、それぞれの夏休みを過ごしているのだ。 「……?」 立ち止まる。 そして、数歩戻った。 談話室のガラス窓から、見慣れた人影を見つけたからだ。 俺は慌ててドアを開けた。 「桐葉!」 「……」 部屋に入り、桐葉を呼んだ。 しかし、彼女は俺には気づかず、ぼんやりと外を眺めている。 強い既視感に襲われた。 ……これは、つい一ヶ月前までの彼女の姿だ。 あてもなく、何かを捜していたあの頃の彼女。 「桐葉?」 「……?」 桐葉はゆっくりとこちらを振り返った。 ひどく顔色が悪い。 昨日会った時よりも疲れているように見える。 「こんなとこで何してたんだ?」 「私?」 「私は……」 俺をゆっくりと見上げる。 「私、どうしてここにいるの」 目が虚ろだ。 すぐには言葉が出てこなかった。 「覚えてないのか?」 桐葉はこくりとうなずく。 ……そんな。 そんなの、どう考えたって変だろう。 「あ……」 「今、何時?」 「もう11時になる」 「もう?」 桐葉は弾かれたように立ち上がった。 が、ぐらりとバランスを失う。 「きゃ……」 「お、おいっ」 俺は慌てて桐葉のもとに駆け寄った。 倒れそうになるところを、身体を支えてなんとか阻止する。 「おい、大丈夫か?」 「ごめんなさい」 桐葉は俺にしがみついた。 とても強い力だった。 まるで振り落とされまいとするみたいに。 「もう、平気だよ」 「心配するな」 長い髪を撫でながら囁く。 桐葉は小さく震えていた。 こんなに弱々しい彼女を、いまだかつて見たことがない。 「歩けるか?」 「ええ」 「でも……もう少しだけ、こうしていて」 「行かないで」 「桐葉……」 俺は桐葉を抱きしめた。 どうしたらいいかわからない。 そんな自分が歯がゆかった。 ついこの前までは、背筋をぴんと伸ばして歩いてたじゃないか。 俺を凍てつかせるような目で、皮肉を口にしてたじゃないか。 俺が手を握ったら、同じ強さで返してきただろう? なのに。 桐葉の中で、何が起こっているかがわからない。 俺には、桐葉が弱っていくのを止めることができないのだ。 「桐葉」 「今日はずっと一緒にいよう」 俺は笑顔を浮かべた。 「何かしてほしいことがあるなら、なんでもしてやる」 「何かほしいものがあるなら、パシリに使ってもいい」 「怖い夢を見たら、すぐに起こしてやる」 「……」 「な? そうしよう」 そう囁くと、桐葉は小さくうなずいた。 窓の外を、じっと見つめながら。 それから俺たちは、桐葉の部屋に向かった。 桐葉がこんな調子では、とても実行委員の仕事を進められそうにない。 副会長にその旨を連絡すると、すぐにOKが出た。 「仕事なんていいから、ゆっくり休んでって伝えて」 「後のことは、征一郎さんと支倉くんがきっとなんとかするわよ」 ……ということらしい。 桐葉の寝息が聞こえてきたのは、部屋に来てだいぶ経ってからだ。 ベッドに横になっても、なかなか寝つかなかった彼女。 むしろ、眠りに入ろうとするのを拒否しているように見えた。 「すぅ……」 さすがに疲れたのか、今では安らかな寝顔を浮かべている。 そこに、不安の色はない。 どうやら今は、「あまりよくない夢」とやらを見ていないようだ。 俺は息を吐いてから、窓を眺める。 四角に切り取られた夕暮れの空。 夏が少しずつ通り過ぎていくのを感じる。 ……。 そうだ、夏休みが終わる前に。 桐葉ともう一度出かけよう。 海に行こう。 映画を観よう。 浴衣を着て花火大会に繰りだそう。 楽しいことは、まだまだいっぱいあるはずだ。 俺たちにはたくさんの時間があるのだから。 ……そしたら、きっと元気になる。 そうだろ? 「……」 桐葉のまぶたが、少しずつ開いていく。 俺は彼女のかたわらで、その様子を見守っていた。 よかった。 このまま二度と起きなかったらどうしよう、なんて考えてた。 「気分はどうだ?」 「……まっくら」 「あ、ごめん」 部屋の明かりをつけるのも忘れていた。 「私……寝てたの?」 「ああ」 「そりゃもうぐっすり」 「そう」 何度かまばたきをしてから、俺を見上げる。 汗ばんだ額に、前髪がまとわりついていた。 そばにあったタオルで汗をふいてやると、桐葉は深く息を吐く。 そんな彼女が、妙に小さく見えた。 「ちょっと疲れてるんだよ、お前」 「実行委員なんて、慣れないことするからさ」 そんなことで桐葉が弱ってるんじゃない。 もっと別のところに理由があるはずだ。 でも俺は、その理由を導き出すことができない。 「やっぱさ、夏休みは休まないといけないんだよ」 「だから遠慮なく寝てていいんだぞ」 「……駄目よ」 「戻れなくなる」 「え?」 「……」 答える代わりに、桐葉はそっと目を閉じた。 小さく持ち上げられる顎。 胸の奥が、ぎゅっと鷲掴みにされる気持ち。 「……」 ベッドに手をつき、ゆっくりと唇を重ねる。 触れるだけの、優しいキスだ。 「……もっと」 唇を離してすぐに、催促された。 なんか、いつもの桐葉じゃないみたいだ。 こんなに素直にせがまれるとかなり調子が狂う。 「んっ……」 舌が触れ合い、ぴちゃぴちゃと音がする。 背筋が甘くしびれた。 キスだけで果ててしまいそうだ。 「……こら。甘えん坊め」 そう囁くと、桐葉は甘い吐息を漏らしながらうつむいた。 「なんでもしてくれる、と言ったわ」 言った。確かに。 「それは、あれだ」 「コーラ買ってこいとか、クリーニング出してきてとかそういうやつ」 「もっと簡単なことでいいの」 「私を、見て」 桐葉は顔を上げた。 「近づいて」 鼻先がくっつくほど、近くに寄る。 「……触れて」 言われるまま、触れた。 その温かい唇に。 「ん……ふぅ……」 桐葉の手が、俺の首に回る。 初めてキスした時よりも緊張した。 主導権を握られっぱなしで、焦る。 すべてを忘れてしまいそうなほど、桐葉の唇は甘かった。 ……これは、いかん。 俺はもう一度唇を離し、桐葉の顔を両手で挟む。 「ほら、桐葉、腹減ってるだろ?」 「今日一日飲まず食わずじゃないか」 「減ってない」 「なんか食わなきゃ駄目だって」 「メシ買いにいってやろうか? それとも学食行く?」 「……」 「トムヤムクン祭りはまだだけど、担々麺ならあるぞ」 「……わかったわ」 桐葉はゆっくりと起き上がった。 ベッドから下り、不安定な足取りでバスルームの方へと歩いていく。 今にも転倒しそうで、俺は慌てて桐葉に近寄った。 「おい、危ないって」 「無理に外出なくてもいいんだぞ?」 「平気」 そう言って、桐葉は上目遣いに俺を見た。 「その前に……シャワー浴びたいの」 「え……」 桐葉が俺のシャツをつかむ。 少しだけ恥ずかしそうな顔。 だがそのまなざしは、熱にうかされたように潤んでいる。 「……手伝って」 俺は、ごくりと唾液を嚥下した。 桐葉はシャツから手を放し、バスルームのドアを開ける。 大きく息を吸い込んでから、俺はその後に続いた。 何かしゃべらなきゃ、と思えば思うほど言葉が出ない。 心臓が早鐘を打っている。 この狭いバスルームで二人きり。 手の届く場所に、裸の桐葉がいる。 もちろん、俺も服を脱いだ。 「……」 桐葉は俺に背を向けていた。 俺はシャワーヘッドを持ち、そのなめらかな背中にお湯をかける。 脇からチラチラと見える、豊かな胸。 ウエストから腰にかけての、優雅なライン。 どうして桐葉は、俺を招き入れたのか。 今日の桐葉は、いつもの桐葉じゃないみたいだ。 「やっぱり、その」 「俺がいると狭いだろ?」 「いいの」 「ここに、いて」 「私に触れて」 「……っ」 そんなことしたら、俺は自分を止められない。 明らかに体調の悪い彼女に、無理を強いてしまう。 なのに、桐葉の背中は、俺が来るのを待っている。 「お願い」 なぜそこまで、俺を求める? 嬉しい気持ちと同じくらい、不安が募る。 ……でも。 桐葉の気持ちに応えたい、と思う自分がいる。 それほど強く、俺を必要としてくれるなら。 「……ぅ」 俺は彼女の背後から、首筋にそっとキスをした。 水を弾く、綺麗なうなじだ。 シャワーのせいか、肌が火照っている。 今度は首筋から肩に沿って、舌を這わせた。 「はぅ……っ」 桐葉の声がバスルームに響く。 脳髄までとろとろになってしまいそうなほど、甘い声だった。 俺は我慢できず、桐葉をこちらに向かせ、抱きしめる。 二人の濡れた身体が、ぴったりと触れ合った。 「……あったかい」 桐葉の鼓動が伝わる。 彼女の腰がもぞもぞ動くのは、俺の下半身があたっているからだろう。 でも、こればかりはどうにも収めようがない。 肩にキスを繰り返しながら、そっと胸に触れる。 「……あ……ぁっ」 ツンと上向いたバストを、下から揉み上げた。 もぎたてのフルーツみたいな弾力がある。 もうすでに乳首は硬く尖っている。 興奮してたのは、俺だけではなかったようだ。 そんな彼女が愛しくて、骨がきしむほど抱きしめてしまいたくなる。 「ふぁ、あっ……んっ」 俺は右の乳房を揉みながら、左手をそっと下腹部に伸ばす。 薄い茂みに隠れた三角の部分を、指で撫で回した。 「んぁ、あ、やぁっ」 軽い抵抗を見せるが、俺の手を振り払わない。 それをいいことに、割れ目へと指を滑らせた。 「……あっ……はあああぁっ……!」 粘膜に指が触れた瞬間、桐葉の身体がビクビクと震える。 人差し指に、とろりと愛液が落ちるのを感じた。 「……桐葉?」 「はぁ……あ……はぁっ……」 肌がじわじわと熱くなる。 もしかすると、軽くいってしまったのかもしれない。 俺は痙攣する陰唇を指でかき分け、膣口を中指で刺激した。 「んっ、ま、まだ……あぁっ」 腰がぶるぶると震える。 まだ敏感になっているのだ。 ぷっくりと腫れたヒダが指に絡みついてくる。 「こんなに感じてるんだ」 「くっ、あっ……」 くちゅっ……くちゅぅ、ぬちゅっ 大きく円を描くようにして、いやらしい蜜壺を愛撫する。 中にはたっぷりと愛液がたまっていた。 それをかき混ぜるようにして、くちゅくちゅと音を立たせる。 「やぁ、あっ……いい……っ」 膣口がきゅっきゅと収縮運動を行う。 まるで指を飲み込もうとするみたいに。 俺は硬くなったペニスを、桐葉の太腿に押し当てた。 もう痛いほど先端が膨れている。 「あ……あたってる……んっ、はぁんっ」 人差し指を膣口に沿わせ、くい、と第一関節まで挿入した。 溶けてしまいそうなほど熱い粘膜に迎え入れられる。 たまらなくなって、小刻みに人差し指を動かした。 「んんっ、ふうっ、あっ……いい、あぅっ」 湯気の中に、桐葉の声が舞う。 自然と腰を、俺の股間へと押しつけてきた。 彼女も俺を求めている。 とても激しい何かを、この身体に秘めている。 だから俺を、このバスルームに誘ったんだろう。 「……もっと奥に、いいか?」 「ぅ……来て……」 ゆっくりと回転させながら、指を押し進めていく。 絶頂を迎えたばかりの内部は、俺の指を激しく締めつけた。 ものすごい密着感だ。 「んぁっ、あぁ、もっと……あぁっ、はあぁっ」 濡れた髪が、肩や乳房に貼りつく。 その素肌は、熱気で艶やかなピンクに染まっていた。 余分な肉はついていないが、腰のあたりは女らしい丸みがある。 思わずかぶりつきたくなるような、みずみずしい肢体だった。 「やぁ、あっ、ひぁ……っ」 親指でクリトリスを探し当て、先端をクニクニと突く。 ねっとりと蜜を含んだそれは、さらに尖って自己主張をした。 「ひぁ、指がっ……あぁ、もう、そこは……っ」 クリトリスを押しつけるようにして、腰を沈めてきた。 いったい、この身体はどこまでいやらしくなってしまうのか。 「もうやめた方がいいか?」 「いやぁっ、やあっ……駄目……っ」 身体をしねらせ、泣きそうな目で俺を振り返る。 「もっと、奥に来て……」 唾液で濡れた唇。 俺は膣内に入れた指を、前後に激しく動かした。 「んはぁ、あっ……! 奥に、ああぁっ」 ぬぷぅっ! ぬちゅっ、ぬぷぷっ! 愛液が奥から大量に流れ、もう手はべちょべちょだった。 ぷるっとしたお尻が、手の動きに合わせて揺れる。 重量感のある乳房も、ゆさゆさと手のひらの上で弾んだ。 「はぁ、あふぁ、気持ち……いい……あふぅっ」 我慢できないといった様子で、俺に抱きついてくる。 ふっくらとした乳房が、俺の胸でぷにっと潰れた。 苦悶の表情が、狂おしいほどに綺麗だ。 いつもとのギャップに、興奮も増してくる。 「貴方の……とても大きくなってる……」 桐葉は耳元で囁いた。 「桐葉がそんな風に俺を誘うからだ」 「……私のせい?」 「違うか?」 「違うわ」 「私をふしだらにしたのは、貴方」 そう言って、俺の耳に口づけた。 身体の芯が熱い。 俺は桐葉の太腿を、ぐいっと持ち上げた。 「もう、我慢できない」 立ったまま、ペニスを陰部にあてがう。 しっとりとした粘膜が亀頭に吸いついた。 「あぁっ……!」 ずずっ……ずぶぶぶっ……! 腰を突き上げ、膣内を目指す。 ゆっくりとペニスが埋まっていく。 「あんっ、あ、来てる……あふぁっ、ああっ」 さらに高く太腿を掲げ、陰部を開かせた。 深いピンクのヒダが割れ、ずぶずぶとペニスを飲み干していく。 たっぷりと濡れてはいるが、キツすぎてなかなか奥まで届かない。 俺は勢いをつけて、ペニスを差し込んだ。 「くぁっ……! あっ、太い……はあぁっ!」 ずぶぶぶぶっ……! 一番深い部分に辿り着くと、結合部から愛液が溢れ出した。 下腹部から、一気に脳天へと快感が押し寄せる。 「やぁっ……いっぱいになって……る……あぁ、はふぁっ」 俺の首に手を回し、力いっぱい抱きついてくる。 さらに性器の密着度が高まり、桐葉は全身を震わせた。 ただ入れてるだけで、こんなにも気持ちいい。 少しでも動いたら、すぐに絶頂を迎えてしまいそうだ。 「う……ぅ……っ」 「……?」 気づけば、桐葉の瞳に涙が滲んでいる。 俺のことを、強く抱きしめている。 「桐葉?」 「もっと、強く抱いて……」 「もう、私を離さないで」 子供みたいな、健気な目だった。 こんなに強く抱き合っているのに。 それでもまだ、彼女の中の不安は消えないのか。 何が彼女をそうさせているのか。 「……離さない」 「ずっと桐葉のそばにいる」 俺は桐葉のお尻を掴み、ゆっくりと腰を動かした。 「あっ……」 「これからも、もっともっと桐葉を抱きたい」 「もっと桐葉を気持ちよくさせたい」 カリ部分が膣壁に引っかかり、目の奥に火花が散った。 内部はさらに波打ち、道を狭めていく。 「私を……味わって」 「あぁっ……」 桐葉は腰を少しだけ引いてから、一気に沈めた。 不覚にも、ガクガクと膝が震えてしまう。 「そんなことしたら、いっちゃうだろ……」 「……駄目」 ずぶうううぅっ! 「くぁっ……!」 桐葉は同じように、リズミカルに腰を動かす。 俺の事情などおかまいなしだ。 「こんなにいやらしく腰を動かして……」 反撃を企む俺は、がっちりと桐葉の腰を固定した。 「やっ……動いて……っ」 「駄目だ」 「お願い、あぁ、じらさないで……っ」 じりじりと腰が動く。 俺はその姿勢のまま、柔らかな胸を揉みしだいた。 指の間から、ぷるっとした肉がはみ出ている。 手のひらの中心に、乳首がコリコリとあたっていた。 「お願い……おかしくなりそう……」 桐葉は執拗に腰を押しつけてくる。 こんなに強く求められたのは初めてだ。 抱けば抱くほど、新たな桐葉の素顔が見つかる。 俺は思いきり腰を引いてから、勢いをつけて最深部にペニスをねじ込んだ。 「くっはぁっ……! はああぁっ!」 愛液がかき出され、太腿を伝っていく。 中はぶるぶると震え、ペニスの根元をぎゅっと締め上げてきた。 「はぁ、ふああぁっ、すごい……んはあぁ、やぁっ」 濡れた髪を振り乱し、大きく身体を仰け反らせる。 たまらなく淫らな姿だ。 こんなに狭い場所で、こんなに大きな声を響かせて……。 「ひあぁっ、あっ、奥に、もっと来てっ……ああっ」 自ら脚を高く上げ、ぴったりと性器を合わせてくる。 半開きになった口元から、透明な唾液が喉へと伝っていく。 「あぁ、貴方を、感じてる……一番、深いところで……」 「すごく……つながってる……あぁっ、はあぁっ」 「俺も、桐葉を感じてるよ」 「桐葉のあそこが、気持ちいいって泣いてる」 「そ、そんなこと……っ」 わざと卑猥なことを言うと、膣内がきゅうっと締まった。 俺は下腹部に力を入れ、神経を集中する。 快感の波が押し寄せてくるのを感じた。 俺は目をつぶり、激しくペニスを突き上げた。 「ひあっ、あ、駄目っ……ああぁ、駄目、あああっ」 「もう、立っていられな……あぁ、ひあぁ、何か、来る……っ」 ずぶっ! ずぶぶ、ぬぷっ! 「はぁっ……桐葉っ……」 「来る……あぁ、もう、もう……ああぁ、んはあああぁっ」 俺の頭をかきむしり、腰を揺らしてくる。 俺の下腹部は、摩擦で泡だった愛液で濡れていた。 「んんぁっ、はぁ、来る、来る、ああああぁ、ふああああああっ」 「もっと、強く、あぁ、来て、あああぁ……いいっ、ひああああああっ」 頭の中が、だんだん白くなっていく。 すべての意識が性器に集中している。 俺はただ、腰を激しく揺らすことしかできない。 つま先がしびれ、内臓がぎゅっと上がっていく。 もうこれ以上は、我慢できなかった。 「ああああ、いくっ……あああぁ、あぁ、いくぅっ……はあああああっ」 「俺も、一緒に……っ」 「一緒に、お願いっ……あぁ、いく、んはああぁ、もう……あああああっ」 「桐葉っ……!」 亀頭が膣奥にあたった瞬間、全身が燃えるように熱くなった。 「はああぁ、いくっ……ああぁ、んはあああっ、あああああああああっ!」 びゅくびゅくっ! びゅびゅっ、どくんっ! 全身を貫く快感の後、俺はすべての精液を桐葉に放った。 白濁液は飛び散り、桐葉のお尻や腹部を白く染めていく。 外気に触れたペニスは、いつまでも震えるのをやめなかった。 「……っ」 もう、立っているだけで精一杯だ。 「ああああぁ……はぁっ……はぁ……」 俺に全体重を預け、桐葉は息を切らせていた。 恍惚とした表情が、快感の大きさを物語っている。 「はぁ……あぁ……っ」 「私……身体が、あぁ……動かないわ……」 「……いっぱいいっちゃったから?」 「う……」 反論できないようだ。 桐葉は唇を尖らせてから、俺の肩を甘噛みした。 「い……痛いんですけど」 「んん」 痛いけど、愛しい痛みだ。 身も心も、桐葉に求められているのを感じる。 もしこのまま噛みちぎられても、この気持ちは変わらないだろう。 「……お腹が熱いわ」 桐葉は、精液まみれになった下腹部を見た。 「汚しちゃって、悪かった」 ここが風呂場なのをいいことに、思いきり精液をぶちまけてしまった。 それにしても、すごい量だ。 「……」 「中を……」 「ん?」 「中を……汚してもよかったのよ」 ……。 桐葉は、少しすねたように言った。 PTAが聞いたら激怒しそうな問題発言だった。 「んなこと言うと、本当に出すぞ」 「構わないわ」 「貴方が望むなら」 なんだって今日は、こんなにしおらしいんだろう。 そのくせ、男の欲望をうまい具合に焚きつけてくる。 俺は、彼女の手の中で踊らされてるだけなのか。 ……まあ、俺自身が喜んで踊ってるわけだけど。 「桐葉……」 俺は桐葉を抱きしめてから、その場に優しく押し倒した。 「あぁ……」 風呂場の床は、シャワーで十分に温まっていた。 まだ硬さを失っていないペニスを、そっと陰部に押し当てる。 「キス、して」 「ん……」 かぶりつくように、唇を奪う。 とろけるように熱い舌が、俺の口内にするりと入ってきた。 「ん、んん……んちゅぅ、ちゅっ」 絶え間なくキスしながら、膣口に亀頭をねじ込む。 ゼリーみたいにぬるぬるとしたそこは、すでに愛液が溢れている。 「……行くよ」 両脚を抱え、腰を沈めていく。 ペニスは硬さを増し、さらに奥を目指していった。 「んく、んっ……あぁ、はぁ……」 桐葉の脚が、俺の腰に絡む。 彼女の舌が歯茎を伝い、たっぷりと唾液を残していく。 「身体、つらくない?」 「いいえ……」 「もっと……もっと来て」 ぬぷぷぷ……ずぶっ…… この角度だと、さっきよりも深く入る。 すでにペニスは、桐葉の中で快感に身を震わせていた。 さっきはあれだけ出したくせに、まるで衰えないところが恐ろしい。 「う……気持ちいい……」 「私も……」 「あ……すごく熱い」 まだ全部入っていないのに、桐葉の腰は早くも動いている。 「かわいいな……桐葉は」 じっと顔を見ると、桐葉は恥ずかしそうにそっぽを向いた。 「そんな風に、じろじろと見ないで」 「嫌だ」 「見ていたいんだ、桐葉が感じてる時の顔を」 「……っ」 「悪趣味だわ……」 「悪趣味でけっこう」 ずぶずぶと腰を押しつけながら、じっと見つめる。 どういうわけか、あそこがビクンビクンと反応してきた。 「……やっぱり感じてる」 「し……しかたないのよ」 「ああんっ……!」 最深部に辿り着いた瞬間、俺は大きく腰をグラインドさせた。 狭い膣内を、俺のペニスがぐりぐりとかき回していく。 こすれて充血した秘肉は、さっきよりもきつく俺を締め上げた。 「はぁ、ひゃんっ、やっ……あぁ、ひあぁっ」 腰の動きとともに、乳房もたぷたぷと揺れる。 その双丘を、強くわし掴んだ。 「ひあっ、あん、ああぁっ」 「もっと、もっと強く抱いてっ……」 桐葉は飽くことなく、俺を求め続ける。 今までにない激しさだった。 身も心も、すべてが無防備だ。 「あ……お腹に、あたって……あぁ、やぁっ」 「桐葉の中、すごく……ぐちゅぐちゅしてる」 「だって……感じてしまうの……貴方に、触れられると……」 「んく、あぁ、はあぁっ、あふん……っ」 誰かに求められると、こんなに満たされた気持ちになるんだ。 今までずっと、孤独だったわけじゃない。 なのに、桐葉といると、二人でいることの喜びを強く感じる。 この人を好きになって、本当によかったと思う。 「桐葉、大好きだ……」 ちゅっ。 ちゅぱっ。 その濡れた唇に、何度もキスをする。 この溢れる気持ちを、どうやって表現すればいいのか。 「好きだ」 「……どこにも行くな」 「……っ」 桐葉は俺の首もとに顔を埋めた。 背中に回した手に、ぎゅっと力を込めて。 「う……うぅ……あぁっ」 「お願い……私を……つかまえていて」 「貴方のそばで……」 「絶対に離さない」 「ずっとずっと、お前のそばにいるから……」 「ああぁ……っ」 桐葉の切ない声が、耳もとに浮遊した。 これ以上ないほど強い力で、抱きしめ合う。 密着した性器をこすりつけ合い、二人で同じ高みを目指していく。 「あぁ、また……あふぁ、ひあああぁつ」 ぬぷううっ……ずぷっ! ぬちゅぅ! 腰を打ちつける音が響いている。 ペニスが奥に届くたびに、下腹部がジンジンと熱くなる。 「くぁっ……」 膣口が一定のリズムで締まり、俺は思わず呻いた。 こんな風にされたら、もうどうやったって辛抱できそうにない。 「桐葉、もう少し力を抜いてくれ」 「で、できない……っ」 「息を吐いて、力を抜くんだ」 「だって……できないの……あぁ、はあぁっ」 力を抜くどころか、膣内はどんどん狭くなるばかりだ。 俺は歯を食いしばって、腰を動かすことに集中した。 「はぁぁっ、あぁ、貴方の……動いてる」 「私の中で、いっぱい、動いて……るっ……」 さらに密着させようと、桐葉の脚が強く絡みついてくる。 結合部が熱い。 だんだん視界がぼやけてきた。 全身の血が、下半身へと集まっていくようだ。 「ねえ、熱い、ああぁ……あぁ、かき回されてるっ……」 「お願い、私の中で……お願い……」 「……わかった」 俺は息を吸ってから、ずぶずぶとペニスを激しく出し入れする。 高みはもうすぐそこだった。 「はあぁ、いい、ああぁっ……すごく……あああああぁっ」 「ふあああぁ、また、来る……んはぁ、あふああああっ」 全身が快感で支配される。 腰を突き上げ、さらに奥の奥へと突き進む。 「はああぁ、来ちゃう、あぁ、ねえ、ああああぁっ、来るうううっ」 「俺も、俺もだ……っ」 「ねえ、一緒に……あぁ、一緒に、いきたいのっ……ああああんっ」 「……一緒に行こう……っ」 「んはああぁ、ふあああぁ、あっ、いくっ……いくうぅぅっ、ああっああああっ」 汗に濡れた腰を打ちつけ、一気に絶頂へと向かう。 強く強く、桐葉を抱きしめた。 「あぁ……!」 「い、いく……っ……あああああっ……ひあああぁ、くっはああああぁっ!」 びゅるうう! びゅくっ、ずぴゅうううう! 「あ……ああああ……んはあぁ、ふあああぁ……っ」 激しい射精感が俺を襲った。 中を目がけて、たまっていた精を思いきり放出する。 さっきよりも長く、力強い射精だった。 「うぅ……はぁ、はぁ……」 二人はつながったまま、しばらく抱き合う。 桐葉の中は、ビクビクと動き続けていた。 まだゆるやかに絶頂が続いているらしい。 「ん……はぁ……あっ……」 俺の背中に絡まっていた脚が、少しずつほどけていく。 だが、依然として桐葉は、俺にがっしりとしがみついていた。 その力はますます強くなるばかりだ。 「桐葉、大丈夫か?」 「ん……」 「そんなに強くしがみつかなくても、どこにも行かないから」 「……」 ぎゅっ。 首が絞まりそうだ。 「私の中……貴方ので溢れてる」 「またいっぱい出しちゃったな」 「……ええ」 膣内は、精液と愛液が混ざってたいへんなことになっている。 少しだけペニスを引き抜くと、二人の体液がどろりと漏れた。 「まだ駄目」 「まだこうしていて」 桐葉は俺を放さない。 まるで、雷に怯える子供のように。 「大丈夫だって」 「今日はずっと一緒にいるって約束したろ?」 そう言うと、桐葉は小さく息を吐いた。 「でも……ずっとはいられないわ」 「そりゃまあ、いつかは帰らなきゃいけないけど」 「……」 「もちろん、俺だってずっと一緒にいたい」 「今は無理かもしれないけどさ、いつか……」 近い将来、学校を卒業して寮を出たら。 桐葉と一緒に暮らしたい。 同じ時間をもっと共有できたらいいな、と思う。 いつ叶うかもわからない、小さな夢だけど。 「……わかってる」 桐葉は遠くを見た。 俺はそのまなざしに、不安の陰影を見たような気がした。 これ以上ないほど、近くにいるのに。 こんなにきつく抱き合っているのに。 どうしてだろう。 彼女の不安が、俺の心にも入り込んでくるようだ。 幸せなはずなのに。 ずっと、何かが引っかかっている。 何度肌を重ねても、その染みのような何かは払拭されない。 「桐葉、身体を洗ってやろうか?」 俺は努めて明るい声を出した。 「今日は大サービスで、髪も洗ってやるぞ」 「ありがとう」 小さくつぶやいてから、桐葉は俺を見た。 そして、キス。 「んっ……ちゅ……」 「ちゅ……んっ、ふぅ」 触れ合うだけのキスから、貪り合うようなキスへ。 何度も何度も舌を絡め合った。 足りないものを補い合うかのように。 二つを一つにするかのように。 俺たちはつながったまま、ずっとキスを繰り返していた。 翌日。 今日も朝から実行委員の仕事。 相変わらず忙しいが、この山を乗り切れば後は楽だ。 順調にいけば、残りの夏休みをしっかり満喫できるだろう。 「これで広告枠は全部埋まったわね」 「招待客への手配は?」 「だいたいメドがついています」 「よかった。助かるわ」 「伊織。理事会の方は?」 「問題ないね」 「近々、向こうから特別予算編成の提案があるはずだ」 みんなろくに休憩も取らず、仕事に励んでいる。 つくづく、彼らの集中力はすごいと思う。 俺は、ふと隣を見た。 桐葉はいない。 東儀先輩の判断で、昨日に引き続き、休みを取るように伝えてあったからだ。 「支倉、そっちはどうだ?」 「はい、もうすぐ終わります」 「一段落したら帰っていいぞ」 「ところで、紅瀬の調子はどうだ?」 東儀先輩は俺の背後に立った。 「ちょっと疲れてるみたいです」 「本人は、寝てれば大丈夫だと言ってますけど」 無難にそう答えておく。 俺だって、原因はよくわからないのだ。 「では、睡眠はちゃんと取れているのか?」 「たぶん」 「他に気になったことは?」 ……他に気になったこと。 俺は考え込んだ。 でも、なぜ東儀先輩がそんなこと聞くんだ? 「俺にも、よくわかりません」 「そうか」 「仕事なら、俺がきちんとやりますんで」 「それはいいんだ」 「なるべく、一緒についていてやれ」 「はあ」 東儀先輩は自分の席に戻っていった。 かなり心配をかけちゃってるみたいだ。 後で桐葉に電話しておこう。 二時間後。 俺と副会長は、一緒に寮へと帰っていた。 「はーあ」 「もうすぐ夏休みも終わりね」 「いや待て」 「あと一ヶ月弱もあるから」 「そんなのあっという間よ」 諦めたように副会長はつぶやく。 「文化祭の準備なんかしてたら、あっという間」 「悲しいこと言うなよ」 「ふふっ、いいのよ。好きでやってるんだから」 「お祭りって、当日よりも準備してる時の方が楽しいと思わない?」 「そういうもんかな」 「そういうもんでしょ」 「あなたは、休み中どこか行く予定でもあるの?」 「うーん」 行きたい気持ちはやまやまだが、今は桐葉の体調の方が心配だ。 「ただ今計画中ってとこだ」 「あらそう」 そう言ったきり、副会長は黙ってしまった。 しばらく無言のまま、帰路を歩く。 「ねえ」 「紅瀬さん、あれからどう?」 「あれから?」 「ほら……母様と会ってから」 「まだ、主を捜してるんでしょう?」 副会長は俺をゆっくりと見上げた。 「どうだろう」 「あまり捜してるそぶりは見せなかったな」 「捜すのやめたのかな、って思ったぐらいだし」 「それはないと思うわ」 「彼女の一存でやめられるものじゃないのよ」 確信のこもった口調だった。 「どうしても、か」 「どうしても、よ」 「主が命令を解除しない限りはね」 「……」 「ごめんなさい」 「貴方を不安がらせるつもりはないの」 「ああ」 「ただちょっと気になってただけ」 「私も、兄さんもね」 「そっか」 「あんまり心配しないでくれって、会長にも伝えてくれ」 「俺も、なるべく桐葉についていようと思うし」 「ええ」 「何かあったら相談しにいく」 「そうしてほしいわ」 「あなた、本当に紅瀬さんのこと大切にしてるのね」 「な、なんだよ急に」 「ふふ」 「それだけ思われたら、紅瀬さんも幸せでしょうね」 「……そうかな」 「そうよ」 「だから自信持ちなさい」 「ほら、胸張って!」 びしっと言ってから、副会長は笑った。 入学式のスピーチで見たような、とても頼もしい笑顔だった。 部屋に戻り、ベッドに座る。 俺はさっそく、桐葉に電話をかけた。 プルルルル……プルルルル…… 「……」 プルルルル……プルルルル…… なかなか出ない。 寝てるのかな。 「もしもし」 ようやく出た。 「すまん。寝てたか?」 「……そうね」 「寝てたのかもしれないわ」 「なんだそりゃ」 「具合はどうだ?」 「いつも通りよ」 それにしては、ひどく気怠い声だった。 「仕事はどうだったの?」 「問題ないよ、何も」 「迷惑かけてごめんなさい」 「いいってそんなの」 「それより、今日はちゃんとメシ食ったか?」 「……ええ」 「本当に?」 「本当よ」 「明日はちゃんと仕事するわ」 「無理するなよ」 「無理なんて……」 言葉が途切れた。 「桐葉?」 「……え?」 「本当に大丈夫か?」 「今から見舞いに行くよ」 「心配しないで」 「横になっていれば大丈夫だから」 「でも」 「本当に、大丈夫」 これ以上は食い下がらせてもらえないようだ。 「わかった」 「じゃあ、また明日の朝にでも電話する」 「10時くらいでいいか?」 「ええ」 「じゃあ……お休み」 「お休みなさい」 「にゃぁ」 ブツッ 電話が切れた。 あれ? 今、猫みたいな鳴き声が聞こえたような。 気のせいか? 気のせいだよな── ──その夜。 俺は夢を見た。 色のない草原を、桐葉が歩いている。 彼女の名を呼ぶが、その声は届かない。 走っても走っても、いつまで経っても追いつかない。 そうだ。 これは夢だからだ。 だから、こんなに足が重いのだ。 一瞬、桐葉がこちらを振り返った。 「桐葉っ」 大きく手を振る。 しかし、彼女は再び前を向き……。 灰色の景色の中に、消えた。 「……桐葉っ」 叫びながら、飛び起きた。 まぶしい光が差し込んでいる。 俺はゆっくりと周囲を見回した。 夢か。 あまり覚えていないが、よくない夢だった気がする。 なんとなく目覚めがすっきりしない。 「あ」 時計を見ると、もう10時前だった。 昨夜はうまく寝つけず、朝方になってようやく眠れたのだ。 俺は大急ぎで身支度をしてから、机の上の携帯を取る。 桐葉は起きているだろうか? プルルルル……プルルルル…… 「……」 プルルルル……プルルルル…… 出ない。 もう一度かけ直してみたが、やはり同じ結果だった。 着信に気づいて、かけ直してくれればいいが。 俺はごろんとベッドに横たわった。 ……。 駄目だ。 なぜか気になる。 たまたま席を外しているだけかもしれない。 または、例によって強制睡眠に入っているのかも。 そうは思うのだが、なぜか落ち着かないのだ。 変な夢を見たせいかもしれない。 午前11時半。 相変わらず電話は鳴らない。 何度もかけ直すのは気が引けたが、もう限界だった。 プルルルル……プルルルル…… 「……」 プルルルル……プルルルル…… やっぱり駄目だ。 俺はベッドから起き上がり、副会長の番号を呼び出した。 プルルルル……プルルルル…… 「もしもーし」 「悪い。ちょっといいか?」 「何? どうしたの?」 「頼みがあるんだ」 「今から、女子フロアに入れてもらえないか」 「ええ?」 「桐葉が、電話に出ないんだ」 「心配性って言われるかもしれないけど……」 やけに胸騒ぎがする。 もうあれこれと考えてはいられなかった。 「わかったわ」 二つ返事だった。 「今から鍵を開けるから、ドアの前に来て」 「すまん。恩に着る」 「そんなこといいから、早くね」 「じゃ」 ブツッ 電話が切れた。 俺は携帯を握りしめ、部屋を出た。 「はぁ……はぁ……」 女子フロアへと続くドアに辿り着いた。 その瞬間、ちょうどドアが開いて副会長が顔を出す。 「早く」 「ああ」 お礼を言わせる間も与えず、副会長は踵を返した。 その後を無言でついて行く。 俺たちは桐葉の部屋の前に立った。 「ここよ」 「ありがとう」 さっそく扉をノックしてみる。 コンコン ……。 …………。 反応はない。 副会長も扉を叩く。 コンコン ……。 結果は同じだ。 まだ強制睡眠から目覚めていないのかもしれない。 だが、なぜか冷や汗が止まらなかった。 俺と副会長は、顔を見合わせる。 「電話に出なかったの?」 「ああ」 「だいぶ前から何度もかけたんだけど、出ないんだ」 「そう」 副会長は下唇を噛んだ。 「しかたないわね」 「部屋の鍵を開けましょう」 「えっ」 「それ、まずくないか?」 「いやその前に、不可能だろ」 じゃらっ。 副会長はポケットから鍵の束を出した。 「これ、マスターキー」 「さっきシスター天池に借りたの」 「……嘘だろ?」 「それぐらいの信頼関係は築いてるつもりよ」 そう言ってから、副会長は鍵をさした。 さすが、としか言いようがない。 「……あなた、紅瀬さんの部屋に入ったことある?」 鍵を回しかけて、副会長は手を止める。 ドキッとした。 「ま、まあ」 「そう」 「じゃあ、ここから先はあなたに任せるわ」 「何かあったら連絡してね」 「わかった」 ガチャッ 鍵を回す。 俺はゆっくりとドアを開けた。 身体が、温かい。 母なる手で抱きしめられているよう。 このまま眠ることができたら、どんなに気持ちがいいだろう。 まるでゆりかごにいるみたいだ。 「……お前は、今までよく歩いてきた」 「もうつらい思いをすることはない」 私は、ずっとつらかったの? 「お前はもう、一人ではない」 私は、ずっと一人だったの? 「これからは、ずっとそばにいてやろう」 「お前はただ、あたしだけを思えばいい」 「あたしもお前だけを思おう」 「今までも、そうやって生きてきただろう?」 ……そうだった。 私はこの長い道のりを、主を思うことだけで生きてきた。 私がずっと、主を追い……。 主は私が来るのを待った。 そうでなければ、生きられなかった。 私は人間ではない。 眷属だ。 永遠の命を持つ、人外なのだ。 「さあ、目を閉じるのだ」 目を閉じる。 身体の感覚が、少しずつなくなっていく。 音も。 色も。 匂いも。 痛みも。 悲しみも。 何もない世界。 すべてが、石に同化していく。 私が石になっていく── ──そうだ。 私たちは、石になりたかった。 鉱物のような存在になりたかった。 久遠の中で形を変えず。 意思を持たず。 ただそこに在り続けたかった。 有機体としての時間を失った私たちは、 どこまでも純粋な無機質になりたかった。 それが、無限を生きる私たちの、最後の理想だったのだ── ドアを開けた瞬間、身体がひやりとした。 まるで、冷蔵庫を開けた時のような感覚。 冷房が強すぎる。 そう思った。 だが、部屋に入ってドアを閉めた瞬間、俺は違う意味で凍りついた。 「きり……は?」 真っ暗な部屋。 ベッドに桐葉が寝ている。 その傍らに、青白い何かがあった。 青白い炎に包まれた── ──黒猫? 息を呑む。 膝から崩れ落ちそうになる。 「……ね」 「ネネコ……?」 ネネコがこちらを、ゆっくりと振り返った。 全身が粟立つ。 それは、ただの黒猫ではない。 この世のものではなかった。 これ以上近づくのはまずいと、本能が告げている。 だけど。 ……。 桐葉が、連れていかれる。 ここではないどこかに、連れていかれてしまう。 「……駄目だ」 自分でも、どうしてそんな行動に出たかわからない。 俺は反射的に、ネネコに飛びかかっていた。 「……っ」 「くぅっ!」 しかし、すんでのところでかわされてしまう。 俺の身体は、そのまま派手に壁へとぶつかった。 「あっ……」 熱い。 手が焼けるように熱い。 見れば、ネネコに触れた部分が火傷していた。 「……無駄なことだ」 「っ!」 身体がびくんと跳ね上がる。 しゃべった。 ネネコが、確かにしゃべった。 「お前、誰だ」 やっとのことで声が出る。 「知りたいか?」 「誰なんだよっ」 「あたしは、桐葉の主だ」 「お前たちのことは、ずっと見ていたぞ」 「っ!」 こいつ……。 さまざまな情景が、頭の中で駆け巡る。 ネネコを初めて見たのは、教室の窓からだった。 中庭で、桐葉と仲良く遊んでいたネネコ。 別の日に、俺はネネコの後を追った。 そこで辿り着いたのが、あの尾根にある丘だった。 ……。 そうだ、こんなこともあった。 突然の雨に見舞われたあの日。 俺はネネコに誘われるようにして、丘に向かった。 そこには、強制睡眠中の桐葉がいた。 俺が桐葉の正体を知ったのは、あの出来事があったからだ。 ……。 まだある。 桐葉が、シスター天池に追われていたあの時。 桐葉の前に、いきなりネネコが飛び出してきた。 そのせいで桐葉が転び、シスター天池に捕まってしまったのだ。 すべては、ネネコが仕組んだこと。 ……いや、桐葉の主の仕業だったのだ。 「……なぜだ」 「なぜ、俺をあの丘に引き入れた?」 「ただの気まぐれだ」 「そうした方が、より遊技が面白くなると思っただけのこと」 「なんだって?」 「お前のおかげで楽しめたよ」 「途中まではな」 ネネコの目が、俺を睨む。 「だが小僧、お前は出しゃばり過ぎた」 「この遊技は、あたしと桐葉だけのものだ」 「たかが人間が決まりを変えることは許さん」 「遊技って……なんだよ」 「そんなの、ただのお前の暇つぶしじゃないか」 永遠に終わらない鬼ごっこ。 主を見つけるたびに、また記憶を消される桐葉。 なのに、彼女は鬼役を降りることは許されない。 それが主の命令だからだ。 「愚か者が。これは桐葉も望んだことだ」 「人間のお前にわかるものか」 「……桐葉が望んだだって?」 俺は横たわる桐葉を見た。 確かに俺には、わからないことなのかもしれない。 でも。 それでも。 記憶を消され、何かもなかったことにする生き方が、桐葉の望んだことなのか。 俺には、そうは思えないのだ。 「理解した気になるなよ、小僧」 俺の考えを一蹴するように、ネネコは続ける。 「所詮お前と桐葉は、生きている時間が違うのだ」 「お前はいつか必ず、桐葉を置いて死ぬ」 「お前たちが幸せな結末を迎えることは不可能だ」 「だから……だから付き合うなって言うのか?」 「……?」 「お前に言われなくても、俺だって何度も考えたよ」 「俺はどうやったって、桐葉を置いて先に死ぬ」 「桐葉につらい思いをさせてしまう」 「だったら……最初から付き合わない方がいいんじゃないか」 「出会わない方がよかったんじゃないかって、そう思った」 「だけど……」 胸の奥から、何かがこみ上げる。 悔しかった。 俺たちが積み上げてきたものを、否定されたような気がした。 壊れないように、崩れないように。 二人で必死で守ってきたもの。 見えない未来を照らそうとしてきたもの。 そんなものたちを、踏みにじられたような気がした。 だから、悔しかった。 「お前に言われなくったって、わかってる」 「でも……否定することに意味があるのか?」 「無駄だからって切り捨てることで、桐葉は救われるのか?」 「だったらなんで、無限の命があるんだよ」 俺は顔を上げた。 「桐葉は石じゃない。感情があるんだ」 「生きたいんだよ」 だから。 だから俺たちは、惹かれ合った。 生きているから。 そこに、感情があるからだ。 そうだろ? 桐葉── 白い世界の中で、ゆらゆらと身体が浮いている。 あたたかい。 羊水の中みたいだ。 私はもう、歩き続けなくていい。 一人で歩かなくてもいいのだ。 それは、なんて幸せなこと。 ……。 「……愚かな」 「どれだけ御託を並べても、無意味だ」 「……?」 どこからか声がする。 なんだか怖い。 せっかくいい気分でいたのに。 「置いていく者に、置いていかれる者のつらさがわかるか」 ……置いていく者? なんのこと? 私にはわからない。 私は、石だ。 ただの石だ。 石には、感情なんて── 「……っ」 世界が、突然点滅を繰り返す。 まぶしい。 目を閉じているはずなのに、まぶしくてしかたない。 いったい、何が起こったの? この安らかな世界を壊すのは、誰? ピルルルル ピルルルル♪ 「……?」 ピルルルル ピルルルル♪ この音。 ひどく聞き覚えがある。 懐かしい音だ。 とても、好きな音だった。 この音が鳴るたびに、胸が華やいだ。 この音が鳴るのを毎日待っていた。 私にいつも、嬉しい知らせを運ぶ音── ああ……。 貴方なのね? あれほどメールは、難しいから嫌だと言ったのに。 電話にしてと、何度も言ったのに。 ピルルルル ピルルルル♪ 身体が、動かない。 腕も、指も、石のように動かない。 貴方からのメールを見たいのに。 どうして? 私は。 私は── 私は、何? 「うぅ……っ」 「桐葉っ!?」 桐葉の口から、呻き声が漏れた。 微動だにしなかった寝顔に、苦悶の色が見える。 「桐葉!」 「くっ」 「お前、邪魔だな」 「血を吸ってやろうか?」 「な……」 俺は桐葉の方に、にじり寄った。 ネネコ……いや、主の目が殺気をはらむ。 どうやら冗談で言っているわけではなさそうだ。 脚が震える。 腰が抜けているのかもしれない。 でも。 死んだって、桐葉のもとを離れない。 「殺したいなら殺せ」 「でもその代わり、桐葉を解放しろ」 「なんだと?」 「もう、桐葉の記憶を消すのはやめてくれ」 「頼む……」 俺は、拳を握りしめた。 記憶がない。 それは、生きていなかったと同じことだ。 誰と話したかも。 誰と会ったかも。 嬉しかったことも。 頭に来たことも。 悲しかったことも。 笑ったことも。 俺は今まで、全部なかったことにして生きてきた。 それが、転校生の処世術だと思ったからだ。 「……俺には、なんの思い出もない」 「嫌な思い出もなきゃ、楽しい思い出もない」 「人と関わると、別れる時につらいから……」 傷つかないように。 苦しまないように。 別れに痛みを伴わないように。 その結果、俺は無味無臭な過去を手に入れた。 「でもそんなの、生きてるって言えないだろ」 「嬉しいことも悲しいことも、全部ひっくるめなきゃ意味ないんだ」 「でなきゃ……なんで生まれてきたのか、わからない」 「そうだろ?」 誰に言うでもなく。 俺は、自分にそう言い聞かせていた。 戯れ言かもしれない。 綺麗事かもしれない。 でも俺は、俺を好きになってくれた桐葉を信じたい。 一緒に生きていくと誓った桐葉を、信じたいのだ。 「……そうだ」 「俺たちは誓ったんだ」 「一緒に生きていこう、って……」 忘れない。 あの丘で誓い合った日のことを。 この思い出こそが、俺の生きている証なのだ。 「そうだろ? 桐葉」 俺は手を伸ばし、桐葉の頬に、触れた。 ピルルルル ピルルルル♪ 「……っ!」 少しずつ感覚が戻ってくる。 私は必死に腕を動かそうとした。 だけど、動かない。 身体の中心を、引き裂くような痛みが走る。 全身がきしむ。 まるでヒビが入っていくようだ。 ……。 そうだ。 私は石なのだ。 動いてはいけないのだ。 ピルルルル ピルルルル♪ 「くっ!」 駄目。 動いたらいけない。 このままでは砕けてしまう。 もう右腕には、大きなヒビが入ってしまった。 でも。 でも……。 彼が私を呼んでいる。 メールを見なければ。 この腕が砕けようとも。 「あぁ……っ!」 ようやくポケットの中の携帯に手が届く。 その代わり、人差し指が砕けてしまった。 あまりの痛みに、ふっと意識が遠くなる。 それでも、やめるわけにはいかない。 私は親指で、ボタンを押そうとした。 「あっ……うああぁっ……!」 親指が、あっけなく砕けた。 どうしよう。 私はどうしたらいいの? 「無駄だ。すべての指が砕けるだけだ」 「えっ……」 今度は中指が砕けた。 泣きたいのに、涙が出ない。 主の言う通りだ。 もう私は、彼からの言葉を受け取ることができないのだ。 「自分の立場がわかったか?」 「これは命令だ」 その声に、全身が硬直する。 主の命令。 それが、私にとってのすべてだった。 今までは。 そしてこれからも。 私はその命令があるから、生きることができた。 でも── 私は、残った指を懸命に動かした。 「やめろ」 「お前は、石でいい」 「ああああぁっ!」 根元から小指が砕ける。 それでも── ──桐葉。 俺は、桐葉と出会ったことを後悔していない。 桐葉との思い出を、なかったことにするつもりはない。 一番つらいのは、きっと……。 今まで積み重ねてきたものを、なくしてしまうこと。 桐葉と話したことや、桐葉が俺に見せた表情。 桐葉の声や、桐葉の赤く染まった頬や、桐葉の体温。 桐葉の髪が、風に揺れる姿。 ジャスミンの香り。 つないだ手の、桜色のかわいい爪。 そういうの全部を、記憶から削除されてしまうことだ。 ……俺は、なくしたくないよ。 「……なくしてほしくない」 桐葉に語りかける。 二人で積み重ねてきたもの。 それは俺にとって、清らかで美しいものだ。 水晶のように純粋な、宝物だ。 「桐葉。目を醒ましてくれ」 桐葉の前には、無限の時間がある。 その時間を、俺は見届けることができないけれど。 それでも。 それでも── 「やめろ」 「主の命令だ」 私は、あの日誓ったのだ。 この先きっと、つらい思いをする。 胸が張り裂けそうな思いを強いられる。 あの人の後を追いたくても、私にはそれが叶わない。 一生、抜け殻のような気持ちを抱えていくことになるかもしれない。 それでも── ピルルルル ピルルルル♪ 「くううぅっ……」 奥歯を噛みしめる。 激しい痛みに、涙がにじむ。 ──涙? 私には、まだ流せる涙があったのだ。 私には、感情がある。 生きているのだ。 「うぅ……あああああぁっ……!」 私は、生きている。 「なっ……!」 残された、たった一本の薬指。 私は力を振り絞り── 最後の指で、携帯のボタンを押した。 ああ── それが、貴方からの言葉だった。 あの丘で誓った大切な言葉。 私の、宝物……。 ねえ……待っていて。 今、すぐに行くから。 貴方のもとに。 貴方にメールで、返事をしに行くから。 待っていて。 待っていてね── 「う……」 「桐葉?」 桐葉の頬に、赤みが差す。 まぶたが小さく揺れる。 俺はその頬を、両手で挟んだ。 「桐葉っ。桐葉っ!」 「……ふん」 「あっ」 主はつまらさなそうに鼻を鳴らしてから、消えた。 まるで最初からそこにいなかったかのように、あっけなく。 気づけば、冷気は消えていた。 重苦しい空気はなくなり、部屋も明るさを取り戻している。 「桐葉? 大丈夫か?」 「ん……」 まつげが揺れる。 目の端が、きらりと光った。 ゆっくりと、涙が頬を伝っていく。 その薄い唇が、わずかに動いた。 「桐葉っ?」 「……」 「え?」 今、何かつぶやいた。 俺は口元に、耳を寄せる。 「……了解」 「……」 了解。 桐葉は、確かにそう口にした。 俺はこみ上げてくる思いを、どうすることもできない。 視界がぼやけ、桐葉の顔がよく見えなくなった。 「ったく」 「返事するのがいつも遅いんだよ、お前は」 「……」 かすかに浮かんだ笑顔。 俺だけに向けられた、笑顔。 その言葉を俺に伝えるために、どんな道のりを歩いてきたんだろう。 どんな決断を、自分に下したのだろう。 どんな痛みを、伴ったのだろう。 「桐葉……っ」 俺は、桐葉を抱きしめた。 思い出ごと、桐葉を抱きしめた。 俺に出会ってくれて、ありがとう。 俺を好きになってくれて、ありがとう。 俺を覚えていてくれて、ありがとう。 桐葉が目覚めたら。 たくさんのありがとうを伝えるんだ。 ありがとう。 俺と一緒に生きてくれて、ありがとう── 畳に散らばった、翠の小石。 一刻前まで、猫をかたどっていた。 慣れ親しんだ物であったが、こうなればただの小汚い砂利でしかない。 「……」 「おい」 「はい」 「さっさとこのゴミを片づけるのだ」 「承知しました」 「ぬぅ……」 「どうやら、振られてしまったようですね」 「口を動かさず、手を動かせ」 「両方動かしていますから、どうぞご安心を」 「……以前にも申し上げましたが」 「あの二人の時間は、そう長く続くものではありません」 「わかっておる」 「長くとも、せいぜい百年が関の山だ」 「仰る通りかと」 「ふん」 「まあよい。この一世紀は、あたしを楽しませた褒美にくれてやる」 「犬のしつけは、飴と鞭が肝要だからな」 「はい」 「どうせあの子は、またあたしと遊びたくなる」 「あの小僧が逝くのを、楽しみに待つことにするか」 「……ふぅ」 「……ない」 「招待客用のパンフレットがどこにもないわ!」 「えええっ!」 「なに?」 「えっ」 「え!」 「……」 「ちょ、ちょっとどうするのよ」 「どうすると言われてもね」 「あのね、文化祭は明後日なのよっ」 副会長の声が、監督生室にむなしく響いた。 早いもので、夏休みはあっという間に過ぎ去り。 俺たちは文化祭を二日後に控えていた。 もちろん、準備はほとんど完了している。 と思うのは大間違いだった。 おそらくどこの学校でもそうであるように、この時期は地獄だ。 徹夜組が後を絶たず、売店の栄養ドリンクは連日完売。 どこを見ても阿鼻叫喚の図が広がっている。 寮が近くにあるだけ、うちはまだマシなのかもしれない。 「早く、早く捜してっ」 「まったく、どこ行っちゃったんだろうねえ」 「さっきまでそこにあったのよ」 「でも、ちょっと邪魔だったから横にどけて、それから……」 「困ったもんだねー、うちの妹は」 「捨てたんじゃないか?」 「そんなこと絶対に許さないわ」 「こうなったら、連帯責任よ」 相当テンパッているのか、わけのわからないことを副会長は言う。 「あーもう、どこ行っちゃったのよー」 「あの……」 「何?」 「もしかすると、これじゃないでしょうか」 白ちゃんは桐葉の横に立った。 そして、桐葉の机の上にあった書類を、ひょいと持ち上げる。 「あ!」 みんなの視線がそこに集まる。 書類の下に、まんまとパンフレットの束があったからだ。 「ど、どういうこと?」 「ちょっと紅瀬さん、どうして黙ってるのよ」 「気づかなかったわ」 「なんですって?」 「貴方がここに移動させたんでしょう?」 「ええ、そうよ」 あ、開き直った。 「でも、人間誰でもミスはあるものだわ」 「……人間?」 「ものの例えよっ」 ばんばんばんっ。 副会長が机を叩く。 相変わらず絶好調な二人なのだった。 「まあまあ」 「ところで支倉君、ミスコンの準備はどうだい?」 「はあ」 俺は進行表を会長に手渡した。 ミス修智館コンテストの本選に残ったのは、全部で15人。 明後日、この中でグランプリが決まるのだ。 「ふむふむ。いい感じだね」 「あの」 「会長、本当に司会進行やるんですか?」 「あったりまえだろう」 「俺はこの時のために、生徒会長を引き受けたと言っても過言ではないからね」 どんだけ志が高いのだ。 「でも、リハーサルぐらいはやらないとまずいですよ」 「大丈夫大丈夫」 「ええー」 「支倉、無駄だ」 「そいつはリハーサルをやっても意味がない男だからな」 東儀先輩の指摘に、目からウロコが落ちた。 そりゃそうだ。 この人が、進行表通りに動いてくれると思えない。 「ははは。俺は本番で実力を発揮するタイプだからね」 そういうことじゃないと思う。 「で、紅瀬ちゃんのエントリーナンバーは?」 「はい?」 「あれ? 出るんだろう?」 会長は、俺と桐葉を交互に見た。 「出ませんよ」 「だいたい、予選にすら出てないし」 「え、そうなの?」 「せっかく水着審査を設けたのに?」 大真面目な顔だ。 「……兄さん?」 「あーあ、残念だなあ」 「紅瀬ちゃん、特別ゲストで出る気ない?」 「出ません」 にべもなかった。 「支倉君、なんとか説得してよ」 「無茶言わないでください」 「そこをなんとか」 「無理なものは無理です」 「いや、わかるよ?」 「紅瀬ちゃんの水着姿を誰にも見せたくないって気持ちは、よーくわかる」 「ぐっ」 「だが、世間には独占禁止法という法律があって……」 ぽかっ 「いてっ」 「気にしないで作業を続けてちょうだい」 副会長の拳が飛んだ。 ちょっとだけホッとしてみたり。 「じゃあ水着を着ない代わりに、こういうのはどうかな?」 まだ食い下がる。 「紅瀬ちゃんには当日、俺のアシスタントをしてほしいんだ」 「アシスタント?」 「イエース」 「舞台で俺の隣に立って、進行の手伝いをしてほしい」 「それぐらいならいいだろ?」 俺は桐葉を見た。 「……」 「難しいことはさせないからさ。オーケー?」 「はい」 しぶしぶといった様子だ。 「やった!」 「じゃあ、衣装は当日渡すからね」 「衣装?」 嫌な予感。 「そりゃそうさ」 「ジャージ着て舞台に立つわけにはいかないだろ」 「……水着はNGですよ」 「わかってるって。マネージャー様」 ぽんぽん、と肩を叩かれた。 どうも信用できない。 まあ正直、俺だって、桐葉の水着姿が見たい気持ちはある。 だが、やはりそれを公衆の面前にさらすわけにはいかない。 「水着ねえ……」 「見たいの?」 「え」 桐葉が、俺をフローズンな目で見た。 「見たいのかと聞いているのよ」 「見たくないと言えば、嘘になるな」 正直に言った。 「そんなに楽しいものとは思えないけど」 「いや」 愉快だろう、いろんな意味で。 俺はビキニ姿の桐葉を想像し、すぐに邪念を打ち消した。 「では、考えておくわ」 「……はい?」 「貴方が、見たいと言うのなら」 そう言って、桐葉は入力の作業に戻った。 俺は信じられない思いで、その横顔を見る。 「水着って言ったら、やっぱり海かな」 「そうね」 「山や森で着る人は、あまりいないでしょうね」 「だよな」 「海じゃなく、プールでもいいけど」 「行ったことないからわからないわ」 「じゃあ、プールにしよう」 「雑誌で見たんだ。すごいウォータースライダーがあるとこ」 「そう」 「じゃ、いつにしようか?」 「いつでもいいわ」 「でもその前に、水着を買わないと」 「それなら、俺も付き……」 「……」 「……」 「……」 「……」 「あ」 みんなの視線を感じ、俺はただちに居住まいを正した。 「よし、決まりだ」 「これからこの部屋でいちゃついたら、一回につき100円罰金」 「賛成ー」 「賛成」 「えっと……」 白ちゃんは俺を、子ウサギのような目で見てから微笑んだ 「わたしも、賛成です♪」 いよいよ文化祭当日。 雲一つない、見事な晴天だった。 満を持してのイベントだけあって、いまだかつてない盛り上がりを見せている。 まずオープニングセレモニーは、ダンス部によるリオ風カーニバル。 大きなダチョウの羽をつけた会長が出てきた時は、心臓が止まるかと思った。 スピーチ後、講堂が大きなダンスホールと化したのは言うまでもない。 ちなみに、3メートルのミラーボールはきっちり設置してあった。 やはり、あの人にはかなわない。 「ういっす」 パイプ椅子を運んでいると、司にばったり会った。 「仕事か?」 「ああ」 「なんだかんだで、人手が足りなくてな」 「お前は何してんだ?」 「アオノリのパシリ」 「はあ?」 「職員室でメイド喫茶やるんだと。その助っ人」 「へえ……」 アオノリもメイドやるのか? 見たいような、見たくないような。 「じゃ、また後でな」 「おう」 司はのんびりとした足取りで行ってしまった。 お互い、ぶらぶらと文化祭を満喫してるわけにはいかなそうだ。 「孝平くん」 「よう、陽菜」 「お前もメイド喫茶か?」 「ええ?」 「私は違うよ。これからホットケーキを焼きに行くの」 「なんでもギネスに挑戦するらしいよ」 「ギネス?」 「うん。何段重ねられるかやってみるんだって」 いろんなイベントがある。 「そうか。がんばれよ」 「うん」 「後でミスコン見に行くからね」 「おう、待ってる」 陽菜は小走りに行ってしまった。 周囲にはさまざまな出店が並んでいる。 呼び込みの声が飛び交い、ついそちらへと引き寄せられそうになる。 「……」 そんな俺を、そばで誰かさんが見ていた。 「いや、違うぞ」 「決してさぼってたわけでは」 「私は何も言ってないわ」 「ただタコ焼きの匂いにつられる貴方を見てただけ」 「それはそれは」 「で、何やってんだよ」 「別に」 桐葉は背中に何かを隠した。 匂いでわかるぞ。 「キムチたっぷり激辛お好み焼き」だ。 「……頼まれたのよ」 「俺は何も言ってない」 「ふん」 そっぽを向いた。 小さく尖った唇が、妙にかわいかった。 「後で時間が空いたら、一緒に回るか」 「……本当?」 「もちろん」 「手をつないで、いろんなところを見よう」 「……」 桐葉は頬を染めてから、小さくうなずいた。 「ちょっといい?」 「あ」 背後を振り返った。 半ばあきれ顔の副会長が、いた。 「そろそろミスコンの準備しないといけないみたいよ?」 「え? もう?」 「ええ、そうなのよ」 「ほら、戻った戻った」 そう言いながら、副会長は俺と桐葉の背中をぽんと叩いた。 やはりこうなるのか。 まあいい。 桐葉と一緒なら。 「行きましょう」 「ああ」 俺たちは、講堂へと走り出した。 「野郎ども、準備はいいかーっ」 「おーっ!」 「キレイなお姉さんは好きですかーっ」 「おーっ!」 「水着姿のお姉さんはもっと好きですかーっ」 「おおおーっ!」 会場は大歓声の渦だった。 回るミラーボール。 飛び交うレーザー光線。 合図と共に、舞台の左右から噴き上げ型の花火。 ここは夏のロックフェスか。 「……はぁ」 舞台の袖で、副会長はため息をついた。 それでも、この盛り上がりを前に満足げではある。 「さすがカリスマだな」 「あはは」 「あのミラーボールの請求書、どこから来るのかしらね?」 俺に聞かれても困る。 「あ、そろそろね」 「だな」 俺は進行表を見た。 舞台上に、予選通過者たちが整列する。 一人ずつ自己アピールタイム。 「おげおげ、じゃあアピールタイム、行ってみよーっ!」 割れるような歓声が返ってきた。 会長が舞台のそでに、ひょいと顔を出す。 「照明と音響の方は大丈夫かな?」 「問題ないです」 「そうか。ありがとう」 「紅瀬ちゃんは?」 「今着替えてます」 俺は、すぐそばの簡易更衣室を指さした。 さっき会長から、アシスタント用の衣装を渡されていたようだ。 「じゃあ準備ができ次第、俺の隣に来てって伝えてくれ」 「わかりました」 「よし」 「あ〜エントリーナンバー1、悠木かなで〜っ」 「おーっ!」 「あ、どもども〜」 歓声とともに、舞台に上がるかなでさん。 彼女がエントリーしてたと聞いた時は、驚いた。 本選に残ったのは、まあ妥当な結果だろう。 十分立派な素材をお持ちだしな。 「みなさんこんにちはぁ、悠木かなでですぅ」 「なんかぁ、妹に勝手に応募されちゃいましてぇ」 「わたしはいいって言ったんですけどぉ」 ……絶対、嘘だ。 かなでさんに続き、続々と候補者たちが上がっていく。 会場のボルテージは最高潮だ。 「行ってくるわね」 「うん」 ……。 ん? 今、何か幻覚を見たような。 俺は目をこすり、もう一度前を見た。 ……。 え? おおおおおお!? 「エントリーナンバー16、紅瀬桐葉〜っ!」 「おおおーっ!」 俺はにわかに、その光景を認識することができなかった。 スポットライトが桐葉をとらえている。 ネコミミにメイド服姿の、桐葉を。 「あぁっ!」 しまった。 見事にはめられた! 「……?」 が、時すでに遅し。 もう、完全に観客たちからは候補者の一人として見られている。 俺は舞台袖から、会長に中止するよう合図した。 もちろん、そんなことは今更不可能だと承知でだ。 「それでは、紅瀬桐葉ちゃんのアッピールターイムッ!」 「……」 桐葉も、状況を悟ったのだろう。 半ばあきらめ顔だ。 「ったくもー! 何やってんのよ!」 「もうめちゃくちゃじゃない!」 「……」 俺もため息をついた。 でも、会場はこれ以上ないほど盛り上がっている。 「では、ここで紅瀬ちゃんに質問ターイムッ」 「まずは身長と体重を教えてくださいっ」 ベタな質問だ。 「……」 いきなり無視ときた。 しかし会長はへこたれない。 「じゃあ、スリーサイズは?」 「言いにくかったら、みんなの代表である俺だけに教えてくださいね?」 「ブー、ブー」 ベタベタすぎる質問展開だ。 無礼講な雰囲気が漂いまくってる。 やがて桐葉は、じろりと会長を見た。 「……ねえ」 「はい、なんですかー?」 「好奇心は猫をも殺す、という言葉を知ってる?」 凍てついた目で、一瞥した。 一瞬、会場が静まりかえる。 が、歓声がさざ波のように起こり始めた。 「おおお〜〜〜っ」 桐葉を称えるようなまなざしが、舞台に集中する。 「まー、すっごい人気ねえ」 「……だな」 「オーケーオーケー!」 「それじゃみんな、候補者たちに盛大な拍手〜っ!」 大きな拍手が響く。 「……」 舞台上のネコミミメイドと目が合った。 ──やれやれだな、まったく。 俺としては、ちょっとだけフクザツだ。 これじゃ、桐葉の評判が全校生徒に広まってしまうではないか。 それでも。 やっぱり、誇らしい気持ちはあるわけで。 俺は舞台の上で不機嫌そうに立つ桐葉に、ずっと見とれていたのだった。 文化祭が終わり、片づけを終えた火曜日。 俺と桐葉は、副会長から呼び出しを受けていた。 何やら大事な話があるらしい。 「ちょっと支倉くん、何嫌そうな顔してるのよ」 「いや、そんなつもりは」 俺は取り繕った。 大事な話、というものが朗報である可能性は、全国的に低いと思う。 「まだお祭り気分が抜けていないんじゃない?」 「紅瀬さんも、ミスコンで好成績を取ったからって調子に乗らないこと」 「そんなに大した順位でもないわ」 「あら、そう」 副会長は大げさに肩をすくめた。 文化祭で行われた、ミス修智館学院コンテスト。 その結果は、誰もが驚くものだった。 なんと、桐葉は飛び入りにも関わらず、4位を獲得。 ネコミミメイドの演出があったとはいえ、水着なしでこの得点はすごい。 ちなみにかなでさんは、3位というハイスコアだ。 本人は優勝じゃなかったのが不服のようだったが。 「まあいいわ」 「今回のイベント成功を踏まえて、私決めたの」 「紅瀬さん。あなた、私の右腕になって」 「は?」 「?」 副会長の発言は、かなり唐突だった。 そんな様子を見ていた東儀先輩が、立ち上がった。 「支倉も経験があると思うが……」 「新役員は、現役役員の指名制なんだ」 「そう」 「だから紅瀬さんを指名してるわけ」 俺と桐葉は、顔を見合わせた。 「うちの妹は、紅瀬ちゃんラブだからねえ」 「俺からも頼む。妹の愛を受け取ってもらえないかな?」 「兄さんは黙っててっ」 「で、どうするの? やる? やらない?」 「……」 「ど、どうする?」 「貴方がいいと言うのなら」 桐葉はそんなことを言う。 「副会長の部下になるってことだぞ? 嫌じゃないのか?」 「別に」 おおおおお。 俺は驚きを隠せなかった。 「そう。じゃあ決まりね」 「いいわね? みんな」 「異議なし」 「異議なし」 「異議なし」 みんなが声を揃えた。 そんな様子を見て、桐葉は小さく微笑む。 とても素直で、やわらかい笑顔だった。 「支倉くん。あなたは?」 「俺は……」 もちろん、答えは一つだ。 俺は桐葉を見つめた。 そして彼女の手を取り、はっきりと口にする。 「異議なし!」 「孝平くん、こっちこっち」 校舎の前で、陽菜が手を振る。 そこにはすでに、司と副会長……いや、会長もいた。 「おっそーい」 「まだ撮るのか?」 「記念なんだから、何枚あってもいいでしょ?」 「まあなぁ」 「はい、紅瀬さんは真ん中ね」 「……私は、いいわ」 「遠慮しないで。ね?」 しぶしぶといった様子で、桐葉は真ん中に入る。 陽菜はさっそくデジカメのタイマーをセットした。 「紅瀬さん、笑ってね」 「記念なんだから」 「お前、そればっかだな」 「だってそうでしょ?」 「卒業式なんて、そう何回も味わえるものじゃないもの」 「ぶわっくしょいっ」 カシャッ 「あ」 「あ」 「あ」 「……」 司の豪快なくしゃみが、シャッターの合図となった。 今日は、俺たちの卒業式だ。 修智館学院に転校して、早いもので二年の月日が過ぎたことになる。 学校のあちこちでは、別れを惜しむ生徒たちで溢れかえっていた。 ……。 もちろんこの場には、かなでさんはいない。 元・会長もいない。 東儀先輩もだ。 あの人たちは、俺たちより一年早く新しい生活を始めていた。 そして俺たちも、その後に続こうとしている。 慣れ親しんだ部屋も、すっかり片づいた。 約束をしなくても、俺たちは同じ時間、同じ場所に集まる。 お互いの行動パターンなんて、お見通しだ。 それほどの時間を、一緒に過ごしてきた。 「卒業しても、たまにはみんなで会おうね」 「そういうこと言うやつに限って、一番疎遠になるんだよな……」 「ひどい。そんなことないってば」 「支倉くんが同窓会の幹事やればいいのよ」 「げっ」 「頼んだぞ、孝平」 「頼んだぞー」 「頼んだぞー」 まったく他人事だ。 ま、いっか。 俺は生徒会役員の経験を通して、すっかり仕切り上手になってしまった。 その実力を発揮するのは、やぶさかではない。 ……。 俺たちは、その場で別れた。 みんな、バラバラの方向に歩いていく。 ずっと一緒だった仲間たちが、違う方向を向いて歩いていく。 寂しいけど、悲しくはなかった。 俺には、二年間分の思い出がある。 そして、隣には── 「行きましょう」 ──桐葉がいる。 「どこに行くんだ?」 「内緒よ」 そう言って、桐葉は歩き出した。 毎日歩いていた場所なのに、今日は何もかもが新鮮に見えた。 黒猫を追いかけたこの道。 桐葉と帰ったこの道。 日々の一つひとつが、きらきらと蘇っていく。 ここでもいろんなことがあった。 俺が生徒会に入るきっかけとなった場所だ。 転校した頃は、まさか吸血鬼たちと友達になるとは思わなかった。 今なら思う。 やっぱりあの時、記憶を消さないでもらってよかった。 それだけは、はっきりと言える。 なるほど。 そういうことか。 「なあ、いったいどこに連れていくんだ?」 白々しく聞いてみた。 「もうすぐわかるわ」 桐葉も白々しく答える。 慣れた道なのに、少しだけわくわくした。 初めてこの道を通った時みたいに。 「着いたわ」 桐葉は丘の上に立った。 遠くには大海原。 絶え間なく吹く潮風。 揺れる木々。 すべてが、変わらずそこにあった。 桐葉は目を細め、水平線を見つめる。 「最後に、ここに来たかったの」 「貴方と一緒に」 「俺も」 「俺も桐葉と、ここに来たかった」 この二年間、いろんな思い出を作ってきた。 教室で。 校庭で。 寮で。 監督生室で。 でも一番思い出深いのは、やはりこの丘なのだ。 これから先。 俺の命が尽きるまで。 一番多く思い出す場所が、ここなのだと思う。 「なんか、本当にお別れの日みたいだな」 俺たちは4月から、同じ大学に進学する。 一段落ついてアルバイトを始めたら、一緒に暮らすつもりだ。 なのに、なぜ切ない気持ちになるのだろう。 ずっと一緒にいられる道を選んだのに。 ……。 幸せなのに、怖い。 俺は、いつか桐葉を置いていくだろう。 生きるということは、その日に向かって歩くということだ。 逃れられない別れが、俺たちの向かう先に横たわっている。 怖い。 桐葉を置いていくのが怖い。 その日のことを考えると、たまに震えが止まらなくなる。 桐葉に悲しい思いをさせるのが、何よりもつらい── 「……私」 桐葉は髪を耳にかけ、俺を見上げた。 「今までずっと、自分の身の上を呪っていた」 「みんな、私を置いて逝ってしまう」 「残された者が、どれだけ悲しいかも知らないで……」 目を伏せる桐葉。 だが、すぐに顔を上げた。 「でも……私思うの」 「本当は、置いていく方がつらいんじゃないかって」 「大切な人を残して逝く方が、悲しいかもしれないって」 「そう思ったの」 「貴方に出会ってから」 「……」 俺には、わからない。 どちらの悲しみが大きいかなんて、そんなことはわからない。 ただ……。 いつか俺の死が、二人を分かつ時。 桐葉に降りかかる悲しみが、なるべくささやかなものであるように。 安らかなものであるように。 彼女の未来につながるように。 そう、祈るだけだ。 「二人で一緒に生きていこう」 「ずっと、ずっと一緒だ」 「……」 桐葉は目を閉じる。 まつげの先が、日差しを浴びて光っている。 形のいい唇が、少しだけ震えている。 世界で一番かけがえのないもの。 水晶のように確かなもの。 「……了解」 俺は彼女の手を握り、そっとキスをした。 この丘に、また一つ大切な思い出が、生まれた。 「孝平くん」 夜。 廊下を歩いていると陽菜が話しかけてきた。 「おう、陽菜」 「お姉ちゃん見なかった?」 「かなでさん?」 「そういや、今日はまだ見てないな」 「そっか。困ったなあ」 「携帯に電話した?」 「うん。でも出ないんだよね」 「もし見かけたら、連絡してって言ってもらえるかな?」 「了解」 「ありがとう」 陽菜は女子フロアの方へと向かう。 かなでさんに何か大事な用事があるようだ。 暇つぶしがてら、捜してみるか。 俺は踵を返し、談話室へと向かった。 談話室に入ると、司がテレビを観ていた。 「ういーす」 「ういっす」 「かなでさん見なかったか?」 「いや」 「ふうん」 「今、何観てんだ?」 「春一番ドラマスペシャル」 「ほー」 真剣な目つきだ。 特に興味のない俺は、早々に立ち去ることにした。 ……いない。 ここにもいない。 どこにもいない。 いったい、どこに行ってしまったのだろう? ……。 俺はふと、廊下の窓から中庭を見た。 「すくすくのび〜ろおまえさん〜♪」 「わたしの元気をくれてやるったらくれてやる〜♪」 「なんですか、その歌は」 「うわっ!」 中庭に出て声をかけると、かなでさんは仰天した様子で俺を見た。 「び、びびび、びっくりしたぁー!」 「いきなり声かけないでよもうー」 そんなこと言われても、困る。 「じゃあこれから声かける時は、『今から声かけますね』って宣言してからにします」 「うむ。そうしてくれたまえ」 いや、おかしいからそれ。 って、そんなことはいいとして。 「陽菜が捜してましたよ?」 「携帯もつながらないって」 「あっ!」 かなでさんは慌ててポケットから携帯を取り出した。 「しまった、ぜんぜん気づかなかったよ」 「なんか大事な用事があったみたいでしたけど」 「そーなのそーなの」 「『湯けむりバナナケーキ殺人事件』、二時間スペシャル!」 「はい?」 「春一番ドラマアワー、知らないの?」 「……」 そんなものは1ミリも知らない。 司が見てたのは、春一番ドラマスペシャルだしな。 「ひなちゃんと一緒に観る約束してたんだ」 「とりあえずメール打っとこ」 陽菜の用事ってのは、それか。 まあいいけども。 「ところでかなでさん、そこで何してたんですか?」 「ん?」 「見ての通り、ケヤキにお水あげてるんだよ」 夜だというのに、じょうろで木の根元に水をかけている。 中庭にそびえる、「穂坂ケヤキ」と呼ばれる大きな木。 この寮の、シンボルマークのような存在でもあった。 「ケヤキって、水あげないといけないんですか?」 「ううん、そんなこともないんだけどね」 「ケヤキは乾燥に強い木だし」 ちょっと寂しそうな顔で、かなでさんは続ける。 「ただ、ここ最近雨降ってなかったでしょ?」 「ちょっと元気なさそうだから、潤いをあげようと思って」 「なるほど」 俺はケヤキを見上げた。 とても大きくて立派な木だが、葉っぱが生えていない。 もう春だというのに、元気がなさそうだ。 「もう寿命なんですかねえ」 「こらっ、めったなこと言わないのっ」 「ケヤキって、場合によっちゃ千年でも二千年でも生きるんだから」 「それに比べたら、この子なんてまだまだ子供だよ」 ちょっとムキになってかなでさんは言う。 かなり大切にしているようだ。 「それにね、この木には言い伝えがあるんだよ。知ってた?」 「あー、なんかチラっと耳にしたことが」 言い伝えというか、七不思議というか。 この学校に入学した当初に、誰かから聞いたことがある。 「夜中に失恋して自殺した女の霊が現れて、シクシク泣くんでしたっけ?」 「ちーがーうーっ!」 かなでさんはぷっくりと頬を膨らませた。 「そんなガセネタつかまされるなんて、こーへーもまだまだヒヨっ子だね」 「七不思議ネタに、ガセも何もないでしょう」 「あのね、これは七不思議じゃないのっ」 「この木にお願い事をすると、なんでも叶うんだよ」 「特に、恋の願い事♪」 「へえー?」 どこの学校にも一つはある、ロマンチックな言い伝えだ。 どちらかというと、女の子が好みそうな話。 でもそんなんで願いが叶ったら、誰も悩まないと思う。 なんて夢のないことは、もちろん口にしない。 「で、かなでさんはなんか願い事したんですか?」 「わたし?」 「それはナイショです」 そうか、ナイショか。 「じゃ、聞かないことにしておきます」 「あれ? もっとツッコんでくれないの?」 「どっちがいいんですか」 「うーん、オンナゴコロはフクザツなのだよ。わかる?」 そんなこと言われても。 俺ごときに、オンナゴコロなどわかるはずもなく。 ちゃーちゃちゃちゃーらちゃっ♪ 「あ、やばっ。ひなちゃんからメールだ」 「こーへーも一緒に春一番ドラマアワー観る?」 「い、いや、俺は遠慮しときます」 「……あ」 「そういや、さっき司がテレビ陣取ってましたけど?」 「えっ? 何観てた?」 「確か、春一番ドラマスペシャルとかなんとか」 「むむぅ?」 眉をつり上げ、身を乗り出す。 「それはもしや、裏番組の『野菜ソムリエ探偵の事件簿』ではっ!?」 「そこまではわかりませんが」 「くぅ、やられた!」 「へーじのヤツ、寮長であるわたしを出し抜いたなーっ」 むちゃくちゃなことを言っている。 「テレビなら部屋にもあるんでしょう?」 「談話室の大きいテレビで観るからいいんじゃない」 「そりゃまあそうですけど」 とりあえずこの時間は、チャンネル権の熾烈な争奪戦が行われるということだけはわかった。 「こーへー、さらばだっ!」 「あっ」 かなでさんは、一瞬で目の前から消えた。 まったく、騒がしい人だ。 今日も、放課後は生徒会のお仕事。 会長に頼まれ、俺は各委員会の活動報告レポートをまとめていた。 ほかのメンバーはみんな出払っている。 「……ふむ。放送委員会は活発に動いているようだね」 「美化委員会はちょっと弱いかな」 「活動自体が、生徒たちに浸透してないっぽいですね」 陽菜の所属する美化委員は、知名度でいうとやや低い。 真面目にがんばってはいるのだが。 「美化委員会については、抜本的な改革が必要だね」 「さて、お次は風紀委員会か」 「はい」 「……ふむふむ」 レポートを読みながら、会長は神妙な顔でうなずいた。 「素晴らしい」 「非の打ち所がない」 「ファンタスティック!」 大絶賛だ。 会長の言う通り、風紀委員会の活動内容はなかなかどうして優秀だった。 まず、風紀委員の「遅刻撲滅キャンペーン」により、遅刻者の数が減った。 校則違反者による地域の社会奉仕活動も、島民の皆さんに好評らしい。 「社会奉仕活動を仕切ったのは、悠木姉か」 「いやはや、彼女はパワフルだな」 「まったくです」 あの人のパワーは、いったいどこから沸いてくるのだろう。 朝から晩まで動き回っているように見える。 「風紀委員の仕事はもちろんだけど、寮長の仕事もがんばっているようだね」 「みたいですね」 「昨日も、中庭のケヤキに一生懸命水をあげてましたし」 「……ツキに?」 会長の眉根に皺が寄る。 「ツキ?」 「ああ、悪い」 「ケヤキの別名を、ツキと言うんだ」 「そうなんですか?」 どちらかというと、ケヤキという呼び方のほうがメジャーに思える。 「昔はツキって呼ぶ方が一般的だったらしいよ」 「事実、古事記や万葉集ではそう詠まれているからね」 俺の考えを悟ったのか、会長は付け足した。 「まあ、そんなことはいいんだ」 「なぜ悠木姉は、ケヤキに水なんかあげてたのかな?」 「最近雨が降ってなくて、元気がなさそうに見えたからって言ってましたけど」 「……ふうん」 「そんなことをしても無駄なのにな」 「え?」 会長の口調は、そっけなかった。 それが少し意外で、俺は会長の顔を見る。 「……あ、いや、無駄ってことはないかもしれないが」 「樹病に蝕まれている可能性が高いってことさ」 「やっぱり、そうだったんですか」 春だというのに、あのケヤキから新芽の息吹は感じられなかった。 中庭にある他の木は、どれも濃い緑を茂らせているにも関わらず。 ……かなでさんは、樹病の可能性があるってことを知っているのだろうか? ケヤキを慈しんでいた様子を見ているだけに、少し胸が痛かった。 「会長、そう言えば」 「ん?」 「あのケヤキにまつわる言い伝えって知ってます?」 「恋の願いが叶うとかなんとか」 「さあ」 俺の問いかけに対して、会長は無表情に答えた。 生徒会の仕事が終わり、寮に帰ってきた。 今日もたっぷりと働いてしまった。 風呂に入って疲れを取りたいところだが。 「……」 廊下の窓から、中庭を見る。 そこには、一人の女子生徒がいた。 夕焼け色に染まるケヤキに寄りかかり、何やらつぶやいている。 「…………くれますように」 少し開いた窓の隙間から、そんな声が聞こえてきた。 姿勢を正し、ケヤキに向かってパンッと拍手を打つ。 やがて満足そうな顔をしてから、どこかへと立ち去っていった。 ……なんだありゃ? 「くぉらぁーーっ!」 「わっ!」 いきなり背後から叫ばれ、心臓が飛び上がった。 振り返ると、かなでさんがにんまりとした顔で立っている。 「やっほー。今帰り?」 「やっほー、じゃないですよ。心臓に悪いから驚かせないでください」 「ごめんごめん」 「それより今、覗き見してたでしょ?」 「はい?」 「恋する乙女の、聖なる儀式を!」 ビシイィィィッと、かなでさんは俺を指さす。 恋する乙女の、聖なる儀式。 その時俺は、例のケヤキにまつわる言い伝えとやらを思い出した。 「今の彼女、願い事をしてたんですか?」 「うん」 「こーへーはこの寮に住んでまだ日が浅いから、馴染みがないんだね」 「これからもっと、あーゆー光景を見ることになると思うよ」 確信を持った口調でかなでさんは言う。 「特に、クリスマスとかバレンタイン前」 「あぁ、なるほど」 イベント前の神頼みというヤツか。 「しっかし、女の子ってホントにそういう話好きですよね」 「おや? 言い伝えを信じてるのは、何も女子だけじゃないんだぞ?」 「ケヤキの精は、老若男女すべての人々に幸福をもたらすのです」 やけに芝居がかった調子で言う。 逆に怪しく感じるのは気のせいか。 「というわけでこーへーも、必要とあらば願掛けしてみるといいよ」 「もし見掛けても、見て見ぬふりしてあげるからさ」 「はあ」 俺にそんな必要に迫られる日が来るのだろうか。 来たとしても、そういったロマンチック方面には走らないと思う。 「さーて、今日もケヤキのお世話をしなくっちゃ♪」 「世話って、何するんですか?」 「今日はね、雑草抜き」 「たまに害虫駆除をすることもあるよ」 かなでさんの手には、軍手とゴミ袋があった。 あまり楽しそうな作業ではなさそうなのに、本人はとても楽しそうにしている。 「あのケヤキ、ホントに大切にしてるんですね」 「そりゃそうだよー」 「歴代の寮長たちが大事に世話して、守ってきたんだもん」 「このケヤキの世話をするのは、とっても名誉なことなんだ」 底抜けに明るい笑顔で、かなでさんは言う。 ……とても名誉なこと、か。 パワフルでお祭り騒ぎが大好きな、かなでさん。 いつも目立つことばかりしてるように見えて、地味な仕事もきちんとこなしているのだ。 それも、楽しく前向きに。 「……たいした人だなあ」 「はい?」 俺は再び、中庭に目をやった。 依然として新芽は芽吹かず、精彩を欠いたままのケヤキの木。 いつか、かなでさんの愛情が伝わればいいのだが。 夜。 俺は大浴場から談話室へと向かっていた。 そのついでに、廊下の窓から中庭を見る。 なんとなく、こうやってケヤキの様子を確認するのが癖になってしまっていた。 相変わらず新芽が生える気配はない。 薄暗いせいか、その佇まいがいつもより寂しげに見えた。 「孝平くん」 「おう」 玄関から、陽菜がひょっこりと顔を出す。 「今帰ったのか?」 「うん。美化委員の仕事で遅くなっちゃって」 そう言ってから、じっと俺を見る。 ものすごく、見てる。 「な、なんだ?」 「……もしかして」 「今から、ケヤキにお願い事するつもりだったのかな?」 「なんで俺がっ」 「だって、思いつめた顔でケヤキ見てたから」 「いや、あり得ないし」 そう答えると、陽菜は小さく息を吐いた。 「そっか。びっくりした」 「俺の方がびっくりだよ」 「あはは、ごめんね」 「孝平くん、そういうのあんまり信じるタイプじゃなさそうだもんね」 俺は深々とうなずいた。 「陽菜は信じるタイプか? 言い伝えとかそういうの」 「うーん、私は……」 「完全に信じてるわけじゃないけど、否定はしたくないタイプかな」 「神様にお願いしても、どうにもならないことって確かにあるもの」 意外な返答だった。 「実はリアリストなんだな」 「否定してるわけじゃないってば」 「でも、すごくロマンチックな言い伝えだよね」 「鬼に見初められた女の子の魂が、このケヤキに宿って願いを叶えてくれるなんて」 「そんな話だったのか?」 「私が聞いたのは、こんな話だったよ」 「ふうん」 他にもいろんな説を聞いたけど、この説が一番ロマンチックだ。 しかし、鬼か。 そんなのに見初められたら、実際問題、何かと大変そうだ。 「じゃあ私、部屋戻るね」 「ああ。また明日な」 陽菜は手を振ってから、女子フロアへと向かった。 ……。 「……じぃ〜〜〜」 「?」 ふと、背中に視線を感じた。 「じぃ〜〜〜」 振り返ると、柱の影からかなでさんがこっちを見ている。 「何やってんですか?」 「はっ!?」 「な、なんでわたしが見てるってわかったのっ!?」 「声に出てるんですよ。じぃ〜〜〜って」 「ありゃ、失敗失敗」 かなでさんは、自分のおでこをペチンと叩いた。 「相変わらず神出鬼没ですね」 「それはこっちの台詞ですー」 「わたしの行く先々に、こーへーが待ち構えてるんだよ」 そういう言い方もある。 妙なところでシンクロしているようだ。 「それよりキミたち、なかなかいい雰囲気なんじゃないのー?」 「はい?」 「んもう、いっちょまえにテレちゃってこの子は!」 「?」 かなでさんは、肘をグリグリと押しつけてくる。 いったい、なんなんだ。 「ところでかなでさんは、どこに行くとこだったんですか?」 「私? 談話室だよ」 「へえ。奇遇ですね」 「えっ? こーへーも談話室に行くんだったの?」 「はあ。テレビでも観ようかと」 「何観るのっ?」 身を乗り出して聞いてきた。 「何って……ニュースとか?」 「え〜〜〜」 「ニュースはいいから、一緒にドラマ観ようよ」 「7時から『どすこい! 横綱刑事』が始まるからさっ」 「またヘンなドラマだ」 「ヘンとはなによぉー」 「『野菜ソムリエ探偵の事件簿』のスピンオフ作品なんだからねっ」 そんなこと自慢されてもな。 俺はあまりドラマ事情に詳しくないから、よくわからない。 「正直ぶっちゃけますと、あんまり興味ないんですが」 「よし、決まり!」 「いざ談話室へ! れっつごー♪」 「あっ、ちょっと!」 かなでさんは俺の腕をつかみ、グイグイと引っ張った。 人の話をぜんぜん聞いてないし。 「スーツの下に〜まわし〜を〜締めて〜♪」 「男と〜女の〜猫だまし〜♪」 「ぶはっ」 「なんですか、そのヘンな歌は」 「え? こーへー知らないの?」 「横綱刑事の主題歌、『ちょんまげダンディズム』じゃんっ」 「知りませんよそんなの」 「ひゃー!」 「こーへーって、世の中のこと何も知らないんだねえ」 しみじみと同情された。 「まーでも、わたしが一話からきちんとストーリーを教えてあげるからさっ」 「今日からキミも、横綱刑事マニアだっ!」 「いや、別に俺は」 「土俵と〜いう名の〜テリトリ〜♪」 ……ぜんぜん聞いてないし。 やれやれ、と俺は苦笑した。 かなでさんに会うと、いつもペースを乱されてしまう。 それはそれで、楽しいからいいけど。 いつものように始まった、恒例のお茶会。 その途中で、突然かなでさんが立ち上がった。 「第一回! 6月は何して遊ぼうか会議〜!」 「どんどんぱふぱふー! どんどんぱふー!」 「6月は何して遊ぼうか……会議?」 「いえーす!」 「6月ってさ、プール開きぐらいしかイベントがないでしょ?」 「しかも、祝日もないしつまんないと思わない?」 「そこで、寮主催の愉快なイベントを開催したいわけなんです!」 「イベント、ですか」 「土日にやるの?」 「うん、そのつもり」 「みんなのスケジュールはどう?」 「土日はバイトがけっこう入ってる」 「あー、土日は稼ぎ時だもんな」 「こーへーは?」 「俺は……」 「生徒会は、文化祭絡みの仕事が入ってくる頃ね」 「ねえ? 白」 「は、はい」 「土日も?」 「その予定です」 なんと。 俺の知らないところで、勝手にスケジュールが決まっていたらしい。 「うーんそっかー。残念だなあ」 「まあでもさ、アイデアだけでも協力してくれると嬉しいな」 「できれば大勢で楽しめるような企画とか」 「……そうですね」 「海浜公園の清掃活動なんてどうですか?」 「公園はキレイになるし、地域のみんなも喜んでくれるし」 「それもいいけど、もうちょっとレジャー感がある方がいいんじゃないか?」 「清掃活動、ってなると、構えちゃう人もいるだろうし」 「うーん、やっぱり?」 「じゃあこの企画は、改めて詰めることにするわ」 「あ、あの」 「修智館学院七不思議めぐりツアーなんてどうでしょう?」 「ほう?」 かなでさんの耳が、ピコンと反応する。 「学院に伝わる七不思議の舞台を、みんなでまわるんです」 「夜、ひとりでに鳴る音楽室のグランドピアノとか……」 「勝手に動き回る、理科室の人体模型……とか……」 「……」 白ちゃんの顔色が、だんだん悪くなってきた。 そりゃもう、見てて不安になるほどに。 「や、やっぱり、今の話は忘れてくださいっ」 「えっ、けっこうおもしろそうだったのに」 「その、もう少し暑くなってからの方がいいような気がしましたので」 「そっかぁ」 「そう言われると、確かに夏向きの企画かもしれないね」 「うーん」 「ね、へーじはなんかない?」 「……サバイバルゲームは?」 「寮を舞台に、エアガンで撃ち合うイベント」 「却下」 副会長は腕を組んだ。 「もし怪我人が出たらどうするつもり?」 「器物破損の可能性だって大いにあるわ」 「あ、じゃあさ、弾を使わないでやればいいんじゃない?」 名案とばかりに、かなでさんはぱちんと指を鳴らした。 「弾を使わないで、どうやってサバイバルゲームするんですか?」 「撃つ時は、自分でバキューンとかズゴーンとか言うの」 「で、撃たれた人は自己申告」 「自分が撃たれたかどうか、どうやったらわかるんでしょう」 「それは……」 かなでさんは首を傾げた。 「フィーリング?」 なかなか難易度の高いゲームになりそうだ。 「でも、よく考えたら人数分のエアガンなんて揃えられないね」 「というわけでへーじ、申し訳ないけど却下」 「へい」 司はあっさりと身を引いた。 「じゃあ指鉄砲でやろう」とかかなでさんが言い出さなくてよかった。 ……。 「あ、みんなでキャンプするってのは?」 「どこで?」 「そこらへんで」 「すぐそこの、池のある公園とかでもいいけど」 「人数分のキャンプグッズ、どうやって集める?」 「……」 「今の話、忘れてください」 「いやいや、もちろんわたしもキャンプとかしたいけどさ」 「なにぶん、コッチの方が」 そう言いながら、かなでさんは親指と人差し指で円を作った。 すると陽菜が、ぽんと小さく手を叩く。 「ねえ、バーベキュー大会はどうかな?」 みんなの視線が、陽菜に集まった。 「場所は孝平くんの言った通り、池のある公園でもいいし」 「材料は、海岸通りの激安スーパーを使えば安く済むんじゃない?」 「なるほど、いいかもしれないわね」 「すごく楽しそうです」 「肉があるなら、参加者も多そうだな」 俺もうなずいた。 まさに、休日にぴったりのイベントだ。 参加したい人も多いことだろう。 「それだよそれ! それしかないっ!」 「でかした! ひなちゃん!」 かなでさんがパチパチと手を叩き、やがて拍手の輪が広がっていく。 陽菜は恥ずかしそうに顔を赤らめた。 「あ、ありがとう」 「でも、そんなに褒められるようなことでも……」 「いや、褒められるようなことだって」 「きっと寮生たち全員から拍手喝采されるぜ」 「あはは、すごい」 「よしよし、でかしたぞ」 俺は、ぽんぽんと陽菜の頭を軽く叩いた。 陽菜は子犬みたいに人なつっこい顔で笑う。 「……」 「ちょっと、そこの若夫婦」 「いちゃつくのは二人きりの時だけにしてくれるかなー?」 「お、お姉ちゃんっ」 「……誰が若夫婦ですって?」 「そりゃー、誰かさんと誰かさんしかいないでしょ」 ニヤニヤしながらかなでさんは言う。 何をわけのわからないことを。 「やだなーもう、図星さされたからって怒らないっ」 「はいぃ?」 「まあまあまあまあ」 「えーっと、バーベキューだとやっぱり主役はお肉だよね?」 「あとはお野菜と〜、シーフードと〜」 「焼きおにぎりもおいしいですよ」 「おにぎり作って、その場でお醤油を垂らして焼くんです」 「くっはぁ〜っ、最高!」 「だったら、事前におにぎりだけ作っておいた方がいいよね?」 「それなら私も手伝えそう」 「おおっ、いいねえ〜」 「ひなちゃんの作るおにぎりはプロ級だもんねっ」 「そうなのか?」 俺が尋ねると、陽菜はぶんぶんと首を振った。 「そ、そんなに大したことないの。お姉ちゃんいつも大げさなんだから」 「大げさじゃないよ。ほんとだよ」 「ひなちゃんって、すっごく料理上手なんだから」 「へえー」 確かに、陽菜は昔から何をやらせても器用だった。 いわゆる「お嫁さんタイプ」というやつなのかもしれない。 「俺も、陽菜の作ったおにぎり食いたい」 「……え?」 「だってプロ級なんだろ?」 「そうとも! 楽しみに待っていてくれたまえ」 なぜかかなでさんが、得意げに胸を張る。 「かなでさんは?」 「へ?」 「かなでさんの料理の腕前は?」 「……」 さっきまでの威勢はどこへやら、黙り込んだ。 「あれ?」 「お姉ちゃんだって、お料理上手だよ」 「ね?」 「そ、そりゃまあ、普通にはできるけどさ」 「ひなちゃんに比べたら、その、なんていうか」 「……ま、まあいいでしょ、わたしのことは!」 かなでさんは豪快に笑い、みんなの顔を見た。 「とりあえずバーベキュー大会ってことで、細かいこと進めとくね!」 「協力できることがあれば、いつでも言ってくださいね」 「わたしもお手伝いします」 「うんうん、ありがとう」 そう言って、ウインクをする。 なんだか強引に話を逸らされたような気もするが、まあいいか。 夜、俺はいつものように談話室に向かっていた。 今日は宿題もないので、のんびりできそうだ。 司でも呼んで、コーラ飲みながら馬鹿話でもするか。 それとも、クラスメイトから借りたDVDを観るか。 映画を観るとなると、やはり談話室の大画面テレビがいい。 などと思いながら談話室の前に辿り着くと、 「……だよねえ、やっぱり」 少しだけ開いたドアの隙間から、かなでさんの声がした。 「足りない分は、オークションの売り上げでまかなえないかな」 「のりぴーにお金を預けてあるんだよね」 「のりぴー?」 「青砥先生のこと」 「……なるほど」 かなでさんと東儀先輩がいるようだ。 珍しい組み合わせだな。 「それでも、多少は足が出ると思うが」 「うーん、そこなんだよね問題は」 「できれば、参加費はあんまり多く取りたくないんだ」 「懐に余裕がある人だけのバーベキュー大会ってのも、なんか寂しいでしょ?」 ……バーベキュー大会? そこまでの会話の流れを聞いて、考える。 かなでさんは、東儀先輩に予算について相談中なのではないだろうか。 「しかし、なぜそこまでイベントにこだわる?」 「悠木にとっても負担だろう」 「うーん……」 かなでさんは、しばし考え込んでいた。 「わたし、ゴールデンウィーク中に思ったんだよね」 「?」 「休みが続けば、実家に帰ったり旅行に行ったりする人も多いでしょ?」 「でも、逆のパターンの人も少なくないんだよね」 「みんながみんな、帰れる場所がある人ばかりじゃないんだなって」 どくん、と胸が反応する。 一瞬、俺のことを言ってるのかと思った。 俺には、すぐに帰れる場所がない。 親が海外を転々としているので、いわゆる実家らしい実家がないのだ。 「そーゆー人がさ、つまんなそうっていうか寂しそうにしてるの見てて……」 「なんか、いてもたってもいられなくなっちゃったんだ」 「せっかくみんなで暮らしてるんだから、みんなで一緒に楽しみたいじゃない?」 「……わからんでもないが」 「寮生全員が、悠木のような考え方をするわけではない」 「え?」 「個人主義を貫きたい者もいるということだ」 「……うん。わかってる」 「でもっ、それでも、やってみる価値はあると思うんだ」 「……」 かなでさんの声は、いつになく真剣だった。 いつもみたいに、茶化してる雰囲気はまったくない。 ……部屋に入るタイミングを、完全に失ってしまった。 「わかった」 「?」 「潤沢な予算を提案できるわけではないが、協力はしよう」 「バーベキューに使う鉄板や燃料関係は、生徒会の方で用意する」 「えっ! えええっ!」 「大きな声を出すな」 「だ、だって、せいちゃん太っ腹すぎなんだもん!」 「せいちゃんはやめろ」 「ありがとう、せいちゃんっ!」 「……」 「その代わり、贅沢な設備は期待するな」 「前代未聞だからな、こういったイベントは」 「もちろん、贅沢なんか言わないよっ」 「ほんとにほんとに、ありがとねっ」 「礼を言うのは、イベントが成功してからにするんだな」 「じゃあ、俺はこれで」 東儀先輩が立ち上がった気配がした。 俺はすかさず、柱の影に隠れる。 「おやすみ〜、せいちゃん♪」 「おやすみ」 ばたんっ 東儀先輩が部屋から出てきた。 そのまま、向こう側へと歩いていく。 ふぅ、なんとか気づかれずに済んだ。 俺は東儀先輩の姿が見えなくなるのを見届けてから、談話室の前に立つ。 ガチャッ ドアを開けると、ソファーにかなでさんが座っていた。 「こんばんは」 「あ、こーへーだ」 「なになに? テレビ観に来たの?」 「まあ、そんなとこです」 「かなでさんは?」 「わたしは今、せいちゃんと話してたんだ」 「バーベキュー大会のことで、ちょっとね」 「……ふうん」 「それで、決着はついたんですか?」 そしらぬ顔で、そんなことを聞いてみる。 するとかなでさんは、ぱぁっと顔を輝かせた。 「うんっ。おかげでなんとかなりそう」 「よかったですね」 「ふっふっふ」 「わたしのお色気作戦に、せいちゃんノックダウンの巻だったよ」 「……ぶっ」 思わず噴き出した。 「こら、なぜそこで笑うー? 嘘だと思ってるんでしょっ」 「思ってないですよ」 「思ってるっ」 「まあ、嘘だけど」 「でしょうね」 「やっぱり思ってるしっ!」 「わはははっ」 大笑いすると、かなでさんは渋い顔をした。 「じぃ〜〜〜っ」 「すみません、笑いすぎました」 「はぁ、あまりのショックでコーラ飲まなきゃ立ち直れない……」 暗に、おごれと言っているのだろうか。 ……きっとそうに違いない。 「あとでちゃんとあげますから」 「ごっつぁんですっ」 「あ、これ『横綱刑事』のモノマネね」 「わはははっ」 「ぜんぜん似てねえっ」 「なんですとー!?」 妙にツボにハマってしまい、笑いすぎて涙が出てきた。 「くうぅ、似てると思ったのに」 「また特訓しなくちゃ!」 「期待してます」 「おうっ」 かなでさんと一緒にいると、いつも笑いが絶えない。 それはかなでさんが、人を楽しませたいという気持ちを常に持っているからだ。 誰かの笑顔を見ることが好きだからだ。 この人以上にサービス精神が旺盛な寮長は、他にいないだろう。 ……ちょっと、真面目に尊敬した。 夜9時。 ようやく宿題も一段落した。 寝るにはまだ早い時間だ。 俺はベッドに寝そべり、そこらへんにあった雑誌を手に取る。 ……と、ベランダから物音が聞こえた。 起き上がって、ベランダの窓を開ける。 「ちぃーっす」 かなでさんが、非常用はしごで下りてくるところだった。 「こんばんは」 「……で、何してんですか?」 「うん」 「こーへーに、ちょっと大事な用があってさ」 大事な用? なんだろう。 疑問に思っていると、かなでさんははしごを下りて部屋に入ってきた。 「まあ、座りたまえよ」 「はあ」 言われるまま、かなでさんの向かい側に腰を下ろす。 いったい、どうしたんだ。 「いやー、今日は暑いね」 「そんな前置きはいいんで、本題に入ってくださいよ」 「んもう、せっかちだなぁ」 「実は、この件なんだけどね」 そう言いながら、かなでさんは持参したビニール袋から何かを取り出した。 カップラーメンだった。 鮭の絵が描いてある、あまり見かけないタイプのものが二つ。 「これが何か?」 「見ての通り、石狩ラーメンです」 「小腹が減ったので、一緒に食べようかなと思って」 「もしかして、それが大事な用?」 「そうだよ」 「……」 眉間に皺を寄せると、かなでさんは唇を尖らせた。 「だって、小腹が減っちゃったんだよ?」 「そんなの緊急事態じゃない」 「俺は減ってませんが」 「減るって、絶対。賭けてもいいね」 「このラーメンの匂いを嗅いだら、お腹の虫がよさこいダンスを踊り出すから!」 熱弁された。 そこまでうまいのか、この石狩ラーメンってヤツは。 「だいたい、これどっから仕入れてきたんですか?」 「それは秘密だよ」 「まあ、国家絡みのルートとだけ言っておこうかな」 ぴらりっ。 ビニール袋から小さな紙が落ち、拾い上げる。 「珠津ストア、428円」 「ああ、そういえば物産品フェアやってますよね」 「あ!」 かなでさんは身を乗り出し、俺からレシートを取り上げた。 「国家機密だって言ってるのに!」 どこがだ。 「今、お湯沸かしますから」 「ありがと♪」 満面の笑顔。 俺は電気ポットに水を入れて、スイッチを押した。 お茶会用のティーコーナーからフォークを二本取り出す。 「でも、ほんとに俺が食っちゃってもいいんですか?」 「国家絡みのルートでしか手に入れられない、貴重な品なのに」 「いーのいーの。一人で食べたっておいしくないし」 「じゃあ、今度は俺が何かごちそうしますよ」 「そんなこと気にしなくていいってば」 「あ、お湯沸いた!」 かなでさんは立ち上がり、意気揚々とカップラーメンにお湯を注いでいく。 味噌のいい匂いが、周囲に漂った。 「わ、マジで腹減ってきた」 「ほら、わたしの言った通りでしょ?」 鬼の首を取ったかのような口調だ。 ちょっと悔しい。 「あと2分です」 「やわらかめが好きな人は、さらに延長1分でーす」 「俺はやわらか派です」 「おおっ、奇遇だね。わたしもだよ」 「さて、ラーメンができるのを待っている間に……」 かなでさんは、ビニール袋から四角いものを取り出した。 保存ケースに入れられたバターらしきものだ。 それと、キムチ。 「このセットをトッピングしていきたいと思いまーす」 「題して、ピリ辛石狩バターラーメン♪」 「おおお」 まさか、そんな隠し球があったとは。 「かなでさん、何気にカップラーメン通?」 「通ってほどじゃないよ」 「一人分の食事作るのが面倒な時、たまに作ってたんだ」 「でも普通に作るんじゃつまんないから、よくトッピングの研究してたの」 「ふうん……」 それは、俺にも身に覚えのある話だった。 親が留守がちだったので、作るのが面倒な時はだいたいカップラーメン。 バターを入れたり、牛乳を加えてみたりと、あれこれアレンジしたくなるのだ。 ……てことは。 かなでさんも、実家にいる時は一人で食事することが多かったのだろうか? 「はい、お時間です」 「フタを開けて、大胆にトッピングしちゃってください」 「うぃーす」 勧められるまま、バターとキムチを投入していく。 何気に、かなりうまそうだ。 「いっただっきまーす」 「いただきます」 ずずずずずっ。 「おおっ?」 「なんかうまいんですけど」 石狩フレーバーの中に、ピリリとした辛み。 バターの風味がコクを引き出している。 「うーん、大成功!」 かなでさんは満足げだ。 「どう? わたしの手料理、まんざらでもないでしょ?」 「……手料理?」 俺は首を傾げた。 「バターとキムチを入れただけにしか見えませんでしたけど」 「だってしかたないよ。キッチンないんだもん」 「限られた設備でここまでのものができるってことを、知ってほしかったの」 「はあ」 わかったような、わからないような。 「ねえ、偉い?」 「はい?」 「もう、偉いかどーか聞いてるの」 「まあ……どちらかといえば、偉いんじゃないですかね」 「あはっ、そう?」 「じゃあ、ご褒美お願いしまーす♪」 かなでさんは嬉々として、俺に頭を向けた。 ……。 これは。 頭を撫でてくれ、という解釈でいいのか? 「よ、よしよし」 「よくできました」 「ふっふふ〜っ」 頭を撫でると、まるで子供のように笑う。 俺より先輩なのに、ぜんぜん先輩っぽくない。 むしろ、妹みたいだ。 「やっぱさ、カップラーメンは一人より二人で食べた方がおいしいね!」 「ですね」 それから俺たちは、「うまい」を連呼しながらカップラーメンを完食した。 一人より、二人で。 その言葉をしみじみと噛み締めながら。 「もがっ!」 いきなり背後から鼻と口を塞がれた。 なんだ、誘拐か!? 「だ〜れだ?」 明らかにかなでさんの声だ。 かなでさん、と答えようと思った。 しかし、口は塞がれている。 「あれ、わかんないかな?」 「もごもががっ! (←かなでさんです、と言っている)」 「何言ってるかわかんないよ?」 なんだこの理不尽な拷問はっ!? ……く、苦しい。 思わず、両手を振り払って振り向く。 「ぶはっ」 「殺す気ですかっ!?」 「誰が?」 かなでさんが後ろを振り向いた。 「かなでさんです!」 「え!」 「驚く意味がわかりませんっ」 「後ろから『だーれだ』ってやる時は目を塞ぐのが基本でしょう」 ジェスチャーを交えて講義する。 「口と鼻閉じたら答えられない上に死にますよっ!」 「だってこーへーは背が高いから」 「いや、かなでさんが小さいだけで……」 「必殺かなでくすぐりっ」 「ぶははははっ」 思わず身をよじる。 脇の下は、やばい。 「こーへーが大きいよね?」 「は、はい……」 やはり、この人にはかなわない。 何をするか予想がつかん。 「あのさ、こーへーは暇なの?」 「ええ、まあ」 「じゃあお姉ちゃんと買い物しよう」 「いいですけど、何を買うんですか」 「うーん」 人差し指を口許に当てて考え込む。 「こーへー、クッション欲しいって言ってたよね」 そんなこと言ったっけ。 ああ、ずいぶん前にお茶会でそんな話をしたような。 「俺の買い物でいいんですか?」 「うんっ」 小さな手で、俺の手をつかむ。 「さあ、レッツゴーっ!」 かなでさんに引きずられるようにして歩いていく。 そして、雑貨屋の前でぴたりと停止。 「お、クッション見っけ」 店の前にあるカゴに、クッションが山積みになっていた。 カゴには「セール品」と書かれている。 ひよこやカエルの形をしたものなど、多種多様な品揃えだ。 「こーへー、わたしが選んであげるね」 「じゃあ、お願いします」 クッションにこだわりがあるわけでもないので、かなでさんに任せてみる。 「どれかな〜」 ごそごそ カゴの中に手を突っ込んでいく。 右手が根元まで埋まった。 「ん?」 「どうしました?」 「これ、すごくいい手触りだっ」 「おお」 「むむむ」 右手を突っ込んだまま、ふるふると震えている。 「なんで小刻みに震えてるんですか」 「取れないの……」 「こーへー、手伝って」 ちょっと泣きそうな声で言う。 なんか子供みたいだな。 「ちょっと待ってくださいね」 上にあるクッションをどけるか。 そう思い、隣のカゴに移していく。 やがて、かなでさんの手が見えてきた。 その手が掴んでいるクッションには―― 「俺を踏み台にして強くなれ!」という文字がプリントされていた。 これをケツに敷けというのか。 なんか気軽に座れない気がするぞ。 「男気溢れるクッションだね」 「うーん」 こだわりはないが、これはどうなのか。 「文字が気になる?」 「まあ、そうですね」 「ふむふむ」 「こーへー、ちょっと触ってみて」 「は、はい」 「うおおおっ!?」 なんだこの手触りは。 癖になりそうだ……。 「ね?」 「同じ素材で、無地なのを探そうよ」 かなでさんが、嬉しそうに探し始めた。 見事かなでさんが、無地のクッションを見つけ出し、俺がそれを購入。 かなでさんのおかげで、いい品が手に入った。 帰って座るのが楽しみだ。 「で、かなでさんは何か買う物はないんですか?」 「特にないよ」 「あーでも、服をちょっと見たいかな」 「じゃあ、そうしましょう」 「いいの?」 「もちろん」 ……。 というわけで、女性服専門店へ。 なんかお洒落な店だな。 今まで、女性向けの店に入る機会なんかなかったので、ちょっと緊張する。 「こーへー、これなんかどう?」 かなでさんが、スカイブルーのワンピースを自分の体に当ててみせる。 非常に大人向けの品な気がする。 「夏はこんな感じがいいかなあ」 「かなでさんにはまだ早いような……」 「今年の夏までにはナイスバディーになるもん」 俺は、かなでさんの肩に手を置いて首を振った。 「なんで無言で否定なのっ?」 「言葉にすると悲しいので」 「わたしだって、ちゃんと背は伸びてるんだからね!」 「はあ」 「なんか気の無い返事だっ」 「わたしの身長が伸びて、ナイスバディーになっても甘えさせてあげないよ?」 どんな脅し文句だ。 「理想はどれくらいなんですか?」 「んー」 「こーへーよりちょっと低いくらい」 ぽにっ かなでさんの帽子を取って、頭に手を載せてみた。 「何してるの?」 「いや、今どれくらいなのかと思って」 「く、くすぐったいよ」 頬を染めて身をよじる。 なんか微妙に色っぽい気が。 これでもし、かなでさんが奇跡的に成長したら……。 うーん。 まったく想像できん。 「なんで渋い顔してるの?」 「大きくなったかなでさんが、うまく想像できなくて」 かなでさんの頭に、帽子を載せながら言う。 「する必要ないよ」 「きっと、今年の夏あたりに見れるから」 「今年の夏にこだわりますね」 「そりゃそうだよ」 小さな胸を大きく張ってみせる。 「夏と言えばプールや海で水着になるでしょ」 「はあ」 「で、わたしは来年卒業なの」 「そうですね」 「だったら、今年じゃないとダメじゃんか」 唇を少しだけ尖らせて、上目づかいで俺を見る。 「……」 これは、俺に見せるためだと言ってるのだろうか。 だとしたら、ちょっと嬉しい。 「じゃあ、期待してます」 「でも今年の夏じゃなくていいと思いますよ」 「そう?」 「そんないきなり変わったら怖いですよ」 「じゃあ、控え目に成長しよう」 調節できるのかよ。 「とりあえず、この服はやっぱ買いだね」 「いえ、それは大きくなるまで我慢したほうがいいです」 「むー、やっぱりそっか」 二人で、今のかなでさんに似合う服を探すことにした。 かなでさんと寮に戻った時には、もう日が暮れていた。 「たっぷり遊んじゃった」 「いいんじゃないですか。たまには」 「そうだね」 「……」 かなでさんが、無言のまま俺をじっと見た。 髪が、風に揺れている。 「どうかしましたか」 「……大きくなったなーと思って」 「んじゃ、またね」 ひらひらと小さな手を振って、寮に駆けてゆく。 俺の手には、大きなビニール袋。 かなでさんの選んでくれたクッションがその中に入っていた。 「おっはよー」 「今日もいい天気だよ?」 朝起きたら、まずケヤキにご挨拶。 寮長になってから、一度も欠かしたことのない日課。 もちろん、ケヤキは何も答えてくれない。 それどころか、日に日に元気がなくなっていくように見える。 ……。 祈るような気持ちで、大木を見上げた。 去年は葉がついている枝も何本かあったはず。 なのに、今年は一枚も生えないままだ。 いったい、どーしちゃったんだろう。 わたしの愛情が足りないのかな。 ねえ、先輩? 「……あなたに、すべてを託すわ」 「寮を見守るこの木を、守ってあげて」 わたしは、先輩と約束したんだ。 このケヤキは、歴代の寮長たちが大切に守ってきたもの。 寮生たちの宝物。 なくすわけにはいかない。 わたしが絶対、守らなきゃ── 昼休みになり、俺たちは学食に来ていた。 日替わり定食が売り切れていたので、焼きうどんをオーダーする。 と見せかけて、やはり焼きそばをオーダー。 鉄人の料理はなんでもうまいが、どうしても焼きそばに戻ってきてしまう。 「孝平くんって、本当に焼きそばが好きなんだね」 目の前に座っていた陽菜が言う。 「そっちこそ」 陽菜の昼食は、味噌ラーメンだった。 俺の見ている限り、陽菜の味噌ラーメンオーダー率は高い。 「私は毎日食べてるわけじゃないよ?」 「たまにはパスタだったりパンだったりすることもあるんだから」 「そうだっけ?」 「そ、そうだよ」 ちょっとムキになって陽菜は言う。 「はは、冗談だって」 「もう、意地悪」 「……あれ?」 陽菜は首を傾げ、一点を見つめた。 俺の、胸元辺りだ。 「孝平くん、シャツのボタン取れそうだよ?」 「え?」 見ると、糸一本だけでつながったボタンがぶらぶらと揺れていた。 ぜんぜん気づかなかった。 「あとでシャツを貸してくれたら、夜までに直しておくけど」 「いや、いいよ。悪いし」 「でも孝平くん、自分でできる?」 「……」 言葉に詰まる。 ボタン付けなんて、ほとんどやった記憶がない。 「すみません、お願いします」 「うん」 「そのボタンなくすといけないから、取っちゃってね」 「わかった」 陽菜はにっこり笑ってから、味噌ラーメンに取りかかった。 その日の夕方。 かなでさんと副会長と司が、お茶菓子片手に俺の部屋へとやって来た。 「ちーす」 「ちっす」 「あれ? 白ちゃんと陽菜は?」 「白は宿題やってるわ」 「ひなちゃんは美化委員の仕事で遅くなるって」 「ふうん」 「あれれ?」 「何か気になるのかな?」 かなでさんが意味深な表情で聞いてきた。 「ただ聞いただけじゃないですか」 「ふーん、そう?」 ニヤニヤしてるし。 「?」 「白? それとも悠木さん? どっち?」 「副会長までそんなことを……」 「こーへー、お姉ちゃんはね、二股はよくないと思うな」 「なんでそうなりますか」 からかわれてるだけだとわかっていても、リアクションに戸惑う。 もっとさらりと受け流すことができればいいのだが、まだまだ修行が足りない。 「さて、今日はわたしがお茶を淹れようかな」 「みんな、ホットのウーロン茶でいいよね」 「そこに選択肢はないわけですね?」 「ないっ」 「なぜなら、ティーバッグで楽ちんだからだっ」 「なるほど」 茶葉から淹れる紅茶は、それなりのテクニックがいる。 お茶会メンバーの中で一番上手に紅茶を淹れられるのは、陽菜だった。 「へーじ、そういえば8日どう?」 「あー」 「バイトが早番になったんで、なんとか」 「ほんと?」 「よしよし、でかしたぞへーじ」 かなでさんは手を叩いて喜んだ。 6月8日。 寮主催の、バーベキュー大会が行われる日だ。 「8日、楽しみにしててね」 「すっごいバーベキューコーナーを作ってもらったんだから」 バーベキュー大会のバックアップを提案したのは、東儀先輩だった。 もちろん、そんな楽しげなイベント情報を聞いて、会長がスルーするわけもなく。 あらゆる方面から、鉄板や鉄アミやコンクリートブロックなどを調達。 有志の男子生徒たちであっという間に簡易バーベキューコーナーを設営し、今に至る。 大変な作業ではあったが、なかなか楽しかった。 「参加希望者も増えてるみたいですね」 「えへへ、おかげさまで」 「あとは8日を待つだけか」 実は俺も、バーベキュー大会を楽しみにしていた。 生徒会の仕事は、8日までに前倒しでやればなんとかなるだろう。 コンコン 「おっ? ひなちゃんかな?」 ノックの音がして、かなでさんは玄関へと急いだ。 ガチャッ 「ただいまー」 「おっかえりー♪」 「お帰りなさい」 「ういっす」 「お疲れ」 「美化委員の仕事、終わったのか?」 「うん。すっかり遅くなっちゃった」 最近の陽菜は、いつもこんな感じだ。 今は美化週間なので、何かと忙しいらしい。 「あ、そうそう。孝平くん」 「ん?」 「ボタン、直しておいたよ」 そう言って、陽菜は持っていた紙袋からシャツを取り出した。 「おお、早いな」 帰る前に、Tシャツに着替えてから陽菜に託したことを思い出す。 「念のため、他の取れそうだったボタンも補強しておいたよ」 「ありがとう。忙しいのにごめんな」 「ううん。簡単だったから気にしないで」 「他にもやってほしいシャツがあったら、いつでも言ってね」 「うん、わかった」 シャツを受け取ると、ほのかに温かい。 どうやらボタン直しだけでなく、洗濯して乾燥機にもかけてくれたらしい。 気が利きすぎるぞ、陽菜。 「……」 「……?」 「支倉くん、悠木さんにいつもそんなこと頼んでるの?」 「そんなこと?」 「ボタン直しとか、洗濯とか」 「いやっ、そういうわけじゃ」 「ううん、私が勝手にやっただけなの」 「今日、たまたまボタンが取れそうだったから、ついでにね」 「ふ〜ん」 副会長の口角が、くいっと上がる。 「なんだ?」 「いえ、なんでも?」 にやにやにやにや。 これ以上突っ込まなくても、なんとなく考えていることはわかる。 だが俺は、あえて気づかないフリをした。 ここであれこれ言い訳すると、逆に疑わしくなるのは目に見えている。 「ところで、バーベキューの話だけど」 強引に話題を戻した。 「かなでさん、買い出しは午前中に済ませとけば大丈夫ですよね?」 「……」 「かなでさん?」 「え?」 弾かれたように立ち上がった。 その拍子にテーブルにぶつかり、マグカップが派手に倒れる。 「ああっ! ご、ごめん!」 「八幡平君、そこのティッシュ取って!」 「おう」 「お姉ちゃん、大丈夫?」 「火傷しませんでした?」 「うん、テーブルにこぼれただけだから大丈夫」 「ほんとにごめんね〜。ちょっとボーッとしてたよ」 「働き過ぎで疲れてるんじゃない?」 「まさか。毎日8時間睡眠を心がけてますから」 「寮長は身体が資本!」 こぼれたお茶をすべてふき取り、かなでさんは笑ってみせた。 ぼんやりしてたみたいだけど、どうしたんだろう。 いつも元気な人だけに、ちょっと気になる。 バーベキュー大会当日。 今日は朝から晴天だった。 買い出しを終え、有志たちがさっそく準備に取りかかっている。 午後三時。 バーベキューが始まるまで、あと二時間だ。 「お疲れ、支倉君」 「あ、会長」 さわやかな顔で会長が現れた。 脇に大きな黒い物体を抱えている。 「それ、なんですか?」 「バーベキューには欠かせないダッチオーブンだよ」 「食後に、シナモンをたっぷり振った焼きリンゴを作ろうと思ってね」 「アツアツのリンゴに、バニラアイスを添えるんだ。うまそうだろ?」 「へえ。なんかおしゃれですね」 「まあね」 「男は肉があればいいけど、女子はいろんなものをちょっとずつが、原則だからさ」 さすが会長、サービス精神旺盛だ。 会長にデザートをサーブしてもらったら、女子たちも喜ぶだろう。 「ところで、悠木姉は?」 「かなでさんなら、そこに」 いない。 さっきまで、ハイテンションで食材を分けていたように思うのだが。 「あ、来た」 「?」 会長が大きく手を振る。 その視線の先には、大量のビニール袋を下げているかなでさんの姿があった。 「お〜、いおりん!」 「かなでさん、どうしたんですかそれ?」 「もう一度買い出しに行ってきたの」 「当日になって参加人数が増えたから、食材が足りないかと思って」 テーブルの上に、どさっと荷物を置いた。 ビニール袋の中には、たくさんの肉、肉、肉。 しかも米まで入ってる。 「これ、一人で運んできたんですか?」 「うん、そうだよ」 けろりとした顔で言う。 「なんで声かけてくれないんですか」 「言ってくれれば、荷物持ちしたのに」 「だって、お供を連れていくほどの量じゃないもん」 「それにわたし、こう見えても力持ちなんだよ?」 などと胸を張るが、その小さな手は荷物の重みで真っ赤だ。 「悠木姉」 「ん?」 「トップに立つ人間は、人を動かしてナンボだよ」 「自分が苦労してちゃ、なんのためにトップになったのかわからないだろ?」 「誰がトップ?」 「君だよ君。『寮』の後ろに『長』がついてるじゃないか」 「君は寮長、俺は会長。つまり今は、首脳会談の真っ最中ってことだ」 「ええっ? そうなの!?」 「いや、俺に聞かれても」 「もしかして今、歴史的瞬間だったりする?」 「その通り!」 「伊織」 冷ややかな顔をした東儀先輩が、声をかける。 「うろうろしてないで、火を起こすのを手伝ってくれ」 「はいはい」 「……火起こしも悪くないが、俺はもっとエレガントな仕事がしたいな」 などとぼやきながら、会長は東儀先輩の方へと歩いていった。 エレガントな仕事ってなんだろう。 肉をフランベしたり、ロブスターを盛りつけたりするような仕事だろうか。 「いおりんってデキる人だけど、地味な仕事嫌いだよねえ」 「ですね」 そう思うのは、俺だけではなかったようだ。 「さーて、そろそろご飯でも炊いちゃおっかな」 「あ、持ちます」 米袋を抱えようとするかなでさんを制して、俺はひょいっと自分の肩に乗せた。 10キロの米袋なんて、女の人にはかなりの負担だろう。 というか、こんなに小さな身体でよくここまで運んできたな。 「……あ」 「?」 かなでさんは不思議そうな顔で俺を見上げた。 「それ、重くないの?」 「まあ、軽くはないですけど、普通に持てますよ」 「そうなんだ」 「簡単にひょいって持ち上げるから、ちょっとびっくりした」 「そりゃ、これでも男ですから」 「それはわかってるけどさ」 「子供の頃のこーへー知ってるから、なんか不思議な感じ」 「昔は確か、わたしよりも背低くなかったっけ?」 親戚のお姉さんみたいなことを、かなでさんは言う。 「俺もかなでさんと6年振りに再会して、びっくりしましたよ」 「なんでなんで?」 「あんまり変わってなかったから」 「え〜そんな〜、照れちゃうなぁ」 「……あれ? それ褒め言葉?」 「も、もちろん、いい意味で」 かなでさんは昔からチビっ子でした、とは言わないでおこう。 「とか言ってさ、こーへーぜんぜん気づかなかったくせに」 「わたしが名乗らなかったら、一生他人のままだったよね」 「そんなことは……」 正直、否定はできないかもしれない。 何かきっかけがなければ、簡単には思い出さなかっただろう。 「すみませんでした。昔はいろいろ世話になったのに」 「あはは、やだなあ。急にかしこまらないでよ」 「無理もないって。こーへー、この島には一年しかいなかったんだから」 「そうですけど、かなでさん、よく俺と遊んでくれましたよね」 かつてこの島にいた頃のことを思い出す。 俺と陽菜と、かなでさん。 放課後はこの三人で遊ぶことが多かった。 山を探検したり、虫をつかまえたり。 山奥の池に俺が飛び込んで、大人にこっぴどく叱られたこともあったっけ。 率先して無茶な遊びをするかなでさんと、それをたしなめる陽菜。 俺はそんな二人を見るのが好きだった。 こんな楽しい日々がずっと続けばいいと思ったけど、やはり願いは叶わなかった。 「まあいいって。結果的には思い出してくれたんだからさ」 「それに、わたしの願いも叶ったことだし」 「え?」 「え?」 「……あはは、なんでもない!」 「それより、ほんとにお米重くないの? だいじょうぶ?」 「大丈夫ですって」 「なんなら、かなでさんも抱えて運びますけど」 「ええっ、無理無理!」 「そんなことしたら、こーへーの腰が再起不能になるって」 「まさか。かなでさん軽そうだし」 「ところがどっこい、そうでもないんだなあ」 「でもそーゆーサービスはさ、特別な子だけにやるもんだよ?」 「はあ?」 かなでさんは肩をすくめた。 「だからさ、誰にでも優しくしちゃダメってこと」 「そんな風に、わたしの代わりに荷物なんか持たなくていいんだから」 「いや、持つでしょう。普通は」 「でもそんなこと言ったら、かなでさんだってみんなに優しいじゃないですか」 「それは寮長だからであって、わたしは……」 「そういう意味で言ったんじゃ、ないっていうか」 「え?」 よく聞こえなかった。 するとかなでさんは、あははと笑ってみせる。 「やっぱこーへーって、昔とぜんぜん変わってないかも」 「はい?」 「なんでもありませーん」 「??」 鼻歌を歌いながら、スキップするかなでさん。 ……わからん。 「肉焼けたよ肉ー!」 「おおお、うまそー!」 「いただきまーすっ!」 バーベキュー大会が始まり、公園にはかなりの人数が集まっていた。 網の上に、大量に投じられる肉や野菜。 学食からカニやエビなどの魚介類も差し入れしてもらった。 食欲をそそる匂いが周囲に立ちこめている。 「こっちも焼けたわよ」 炭火の上に並べられた焼き鳥の串を、くるくると回している副会長。 「……」 「何?」 「いや、ものすごく貴重なビジュアルだなあと思って」 副会長with焼き鳥。 写真でも撮っといた方がいいだろうか。 「何よ、私の焼き鳥が信用できないってこと?」 「そうじゃないって」 「とりあえず、モモをタレで一本頼む」 「はーい」 「通は塩を頼むんだけどね」 もっともらしいことを言いながら、俺に焼き鳥を渡した。 「……うまい。ジューシーだ」 「普通に店を出したら儲かりそうだな」 「ありがとう」 「でも、そういうこと兄さんの前で言わないでね」 「本当にやりかねないから」 「了解」 一方、会長といえば。 「焼き加減はどのように?」 「ミディアムレアでお願いします」 「かしこまりました」 女子たちに囲まれながら、鉄板でステーキを焼いている。 実に楽しそうだ。 「支倉くんもちゃんと食べてる?」 「手伝いばっかりしてると、あっという間になくなっちゃうわよ」 「ああ、それなら心配ご無用……」 あれ? さっきまでここで焼いていた肉がない。 隅の方で、個人的にじっくりと育てていた肉が、ない。 「お、俺の肉が」 「?」 「どしたの、こーへー」 「ここで焼いてた肉が、一瞬のうちに神隠しに遭ったんです」 「!」 かなでさんの顔色が変わる。 「それはもしや……骨付きカルビ?」 「そうです。脂ののった大きめの」 「!!」 崖っぷちに追いつめられた殺人犯のように、狼狽する。 こんなにわかりやすいホシもそうそういないだろう。 「そ、その肉は」 「何か心当たりでも?」 「スタッフがおいしくいただきました」 「なるほど」 「つまり、かなでさんが食べたんですね」 「ごめん!」 手と手を合わせて、深々と頭を下げる。 「悪気はなかったんだよ! ちょうど焼けてたから、つい……」 「いやいや、冗談です」 「名前書いてたわけじゃないし、誰の肉ってもんでもないし」 「え〜でもさ、育ててた肉取られるのってショックじゃない?」 「わたしだったらバックドロップお見舞いするね」 力強く言う。 俺としては、そこまでの情熱はない。 「じゃあお詫びに、わたしが肉焼いてあげるよ」 「さっきハラミのおいしそうなところ見つけたんだ」 「お、ラッキー」 「ちょっと待っててね。今やるから」 かなでさんはにっこり笑って、網に肉を載せる。 「孝平くん」 「おう、陽菜」 その時、皿を持った陽菜がぱたぱたとやって来た。 「これ、よかったら」 「ん?」 皿には、おにぎりが3つ乗っている。 醤油の香ばしい匂いが立ち上る、焼きたてのおにぎりだ。 「え? 俺に?」 「うん」 「前に、おにぎり食べてもらう約束したでしょ?」 「約束……」 したようなしてないような、したような。 「律儀だな、陽菜は」 「ふふ、そう?」 「じゃ、ありがたくいただきます」 「どうぞ、召し上がれ」 おにぎりを取り、かぶりつく。 まさに見た目を裏切らない味だ。 「最高」 「ほんと?」 「ああ。プロ級って噂は本当だな」 「それは言い過ぎだけど」 「よかった。がんばって作った甲斐があったよ」 「わざわざありがとな」 「ううん。足りなかったらもっと作るからね」 「ふふふ」 陽菜が嬉しそうに笑うので、俺も笑った。 裁縫も料理も上手だなんてすごすぎる。 陽菜は将来、きっといいお嫁さんになるだろう。 「……」 「あ、あのさ、ひなちゃん」 「え?」 「こーへーったら、どーしてもハラミが食べたいんだって」 「だから、ひなちゃんが焼いてあげてくれない?」 「うん。いいけど」 「だって。こーへー、よかったね!」 「え、でも」 ばんばん、と背中を叩かれる。 「こーゆーのは、やっぱプロに任せなくちゃ」 「はあ」 「じゃ、あとよろしくね〜」 ひらひらと手を振って、かなでさんは行ってしまった。 「……」 「孝平くん、まだまだたくさん食べられそう?」 「ああ、うん」 「じゃあ、いっぱい焼いちゃうね」 「サンキュ」 返事をしながら、考える。 なんか今、違和感を覚えた。 その違和感の正体がわからなくて、俺はずっと、かなでさんの行方を目で追っていた。 「今日は、ほんとにありがとう」 「いえいえ、どういたしまして」 「悠木も疲れたんじゃないのか?」 「ううん。ぜーんぜん」 バーベキュー大会は無事終了。 すべての片づけが終わり、寮に帰ってきた。 生徒会のみんなには、何度お礼を言っても言い足りない。 今日のイベントの立役者は、いおりんたちだ。 「そーいや、焼きリンゴおいしかったよ」 「だろう?」 「あれさ、お店出したら絶対人気出ると思うな」 「やはりそう思うか?」 「実は今、学食に第一号店を出そうかと画策中なんだ」 「なあ、征?」 「初耳だな」 「というわけで、オープンしたらぜひ常連になってくれ」 いおりんはきらりと歯を光らせた。 隣でせいちゃんが苦々しい顔をしてる。 「あ、あはは、うん、楽しみにしてるよ」 「ところでさ」 「ん?」 「今日、みんな楽しんでくれたかな?」 そう尋ねると、二人は一瞬きょとんとした顔になった。 「見ててわからなかったのかな?」 「みんな喜んでたじゃないか」 「そ、そう?」 「ああ」 「成功と言ってもいいだろう」 「……そっかぁ」 嬉しい。 心があったかくなる。 寮長になってよかったと思うのは、こういう時だ。 「それならいいんだ」 「あーよかった。安心した」 「悠木姉でも、不安になることなんてあるんだ」 「あのね、それって失礼じゃない?」 「半年に一回ぐらいはあるっつーの」 「あははは、そうか」 「じゃああと半年は、心穏やかに暮らせるな」 「うん、きっとね」 「それじゃ、今日はお疲れ様!」 「ああ、お疲れ」 「お疲れ」 「おっやすみ〜」 わたしは二人に手を振って、寮に入っていった。 「う〜〜ん」 「なんだ?」 「今まで、あまり気にしたことなかったけどさ」 「悠木姉の血って、けっこうおいしそうな……」 「……不謹慎なことは言うな」 「何が不謹慎なものか」 「吸血鬼として、率直な褒め言葉を述べようとしたまでだ」 「それ以上言うと、支倉に殴られるぞ」 「ああ、そうだったな」 「しかたない、他をあたるか」 「……」 「はぁ〜、楽しかった」 中庭に来て、ケヤキを見上げる。 夜空にはまんまるのお月様。 しんとした空気の中で、ひとり余韻に浸っていた。 ……。 わたしが寮長でいられるのは、あと三ヶ月。 9月になったら、次の代の寮長にすべてを引き継ぐことになる。 それまで、わたしには何ができるのかな? あと何回、みんなで楽しいことを共有できるのかな。 あと何回、思い出を作ることができるんだろう。 一年なんて、ほんとにあっというまだ。 来年の3月には卒業だなんて、ぜんぜんピンと来ない。 「卒業か……」 卒業式の日は、きっと泣いてしまうかもしれない。 ひなちゃんと離れて暮らすのは寂しい。 クラスのみんなと別れるのも寂しい。 もうあんな風に、気軽にお茶会できなくなるのも悲しい。 それに。 こーへーと離れるのも── ……。 ふと、ひなちゃんの顔が頭をよぎる。 こーへーにおにぎりを渡す時の、あの幸せそうな横顔。 どこからどう見たって、恋する女の子だった。 ひなちゃんの幸せは、わたしの幸せ。 ひなちゃんを応援することが、姉の務めだ。 それに、わたしは一足お先にこの学校を離れる身。 遠い場所から見守るって決めたんだ。 あの二人のことを。 ……。 それが、わたしの幸せ。 放課後。 監督生室では、生徒会メンバーが忙しく働いている。 俺も9月の文化祭に向けて、少しずつ準備を始めていた。 備品管理やパンフレット制作など、やることはいくらでもある。 この調子でいくと、夏休みもフル出勤となりそうな予感がして怖い。 ジリリリリリ ジリリリリリ 「はい、監督生室です」 「……はい、千堂ですね。少々お待ちくださいませ」 「伊織先輩、樹木医の武田先生からお電話です」 「ああ」 樹木医? 俺は作業の手を止め、会長を見た。 「はい、お電話代わりました。千堂です」 「いえいえ、こちらこそありがとうございます」 「はい、診察の件ですよね」 「?」 俺は近くにいた副会長に、小さな声で尋ねた。 「なあ、診察って?」 「うちの学院の造園業者に、樹木医の先生を紹介してもらったのよ」 樹木医とはその名の通り、樹木専門のお医者さんだ。 「なんでまた」 「ちょっとね、前から気になってる木があって」 「ほら、寮の中庭にある穂坂ケヤキ」 「……ああ」 願いが叶うとされている、あのケヤキ。 歴代の寮長たちが大切に守ってきた木だ。 「しばらく様子を見てたんだけど、春になっても芽吹かなかったでしょ?」 「だから、この機会にちゃんと診てもらおうって話になったの」 「そうだったのか」 俺もここ最近、一日一回は必ずケヤキの様子を見るようにしていた。 毎日見てると、だんだん愛着が湧いてくるから不思議なものだ。 祈るような気持ちで芽吹くのを待っているのだが、なかなかその気配を見せてくれない。 「診察してもらったら、原因とかはっきりするよな」 「たぶんね」 「そしたら、病気も治るってことだろ?」 「そう願いたいわ」 「寮生たちにとっても、思い入れの強い木だし」 「だよな」 かなでさんの顔が思い浮かぶ。 専門医が来ると知ったら、かなでさんもきっと喜ぶだろう。 早くこのニュースを知らせたい。 とりあえず、この仕事をさっさと終わらせよう。 生徒会の仕事が終わり、寮に帰宅。 部屋に戻る前に、中庭に寄った。 ケヤキは相変わらず元気がない。 比較的、強くて寿命の長い木だと聞くのだが。 「孝平くん?」 出入口のドアから、陽菜がひょっこりと顔を出す。 「よう」 「そんなところで何してるの?」 「いや、ちょっとケヤキの様子を見に来ただけ」 陽菜もこちらに来て、ケヤキを見上げる。 「……やっぱり、元気ないよね」 「うん」 「でも、近々樹木医が来て、診察してくれるらしいぜ」 「そうなの?」 「ああ」 「ところで、かなでさんもう帰ってるか?」 「まだみたいだけど」 「そっか」 あとで俺の部屋に茶でも飲みに来るだろうから、その時に報告しよう。 「そういえば、談話室にバーベキュー大会の写真が貼り出されてるよ」 「写真部の人が、希望者に焼き増ししてくれるんだって」 「へえー」 「孝平くんも、けっこう写ってた」 「ヘンな顔で?」 「そ、そんなことないってば。すごくいい顔してたと思うよ?」 「ははっ、じゃああとで見てみるよ」 写真か。 そういや、俺は自分が写ってる写真というものをあまり持っていない。 思い出なんか残しても、無意味だと考えていたのだろうか。 ……。 今になって、写真でもなんでも、ちゃんと形に残しておけばよかったと思う。 以前は、こんな風に考えたことなんてなかった。 この学校に来てから、俺は昔のことを少しずつ思い出そうとしている。 ろくに口も聞いたこともないクラスメイトの顔や、思い入れのない行事。 そんなものの一つひとつが、今の俺を形成してるのだ。 なかったことにしたくない。 今までも、これからも。 「……」 「な、何?」 俺は陽菜の顔をまじまじと見た。 「陽菜、背伸びたな」 「えっ?」 「6年前に比べると」 「当たり前じゃない。伸びなかったら困るよ?」 「そりゃそうだ」 俺は笑った。 「今、身長何センチぐらい?」 「155.9センチ」 「……実は、あんまり伸びてないんだけどね」 俺との身長差は20センチ弱といったところか。 昔は同じくらいだったような気がするのに、いつのまに差がついたんだろう。 「私も、あと10センチくらいは伸びたかったな」 「そうしたら、ジーンズやロングスカートだってかっこよく着こなせたのに」 「そうか? 今ぐらいでもいいと思うけどな」 「うーん、そうかな」 そう言いながら、陽菜は俺に向かい合ってつま先立ちをした。 「これぐらいが理想かな?」 陽菜の目線が上がり、ぐっと顔が近づいた。 「う、うん」 「いやでも、やっぱ今ぐらいでいいと思うぞ」 「もしくはヒールの高い靴履くとか」 「それでもいいんだけど、足がすぐに痛くなっちゃうんだよね」 「じゃあ、今からがんばってカルシウム取るしかないな」 「間に合うかどうかわかんないけど」 「……間に合わないよね、きっと」 「間に合わないだろうな、たぶん」 陽菜はちょっと悲しそうにため息をつく。 とその時、出入口のドアがばたんと開いた。 「こーへ……」 「っ!」 入ってきたのは、かなでさんだった。 俺たちを見るなり、驚いたように目を見開く。 「あ、かなでさん」 「……あ……えと……」 「ご、ごめんっ!」 「お姉ちゃんっ!?」 かなでさんは何を思ったのか、逃げるようにして中庭を出て行ってしまう。 俺と陽菜は、顔を見合わせた。 「ど、どうしたんだろ、お姉ちゃん」 「さあ、わからん」 「……」 「……」 しばし、見つめ合う。 俺は冷静にこの状況を分析した。 向かい合い、つま先立ちをして俺を見ている陽菜。 傍から見れば、かなり意味深なポーズにとられるかもしれない。 例えば……。 例えばだが、キスする寸前のポーズのような。 そう取られてもおかしくないような、誤解を招く体勢ではあった。 「どうしよう」 「え?」 「かなでさん、俺たちのこと誤解してるかも」 「えっ? ええっ?」 陽菜は慌てた様子で、俺からズザザザーッと離れる。 そんなに勢いよく離れなくても。 「どういうこと? どういうこと?」 「いやまあ、その、なんだ」 「たぶん大丈夫だろ」 「だ、大丈夫じゃないよ」 「だってお姉ちゃん、孝平くんのこと」 「……っ」 言いかけて、やめた。 「え?」 「う……とにかく、大丈夫じゃないと思う」 「私、ちょっとお姉ちゃんのところに行ってくる」 「おい、待てって」 ドアに回り込み、陽菜を制した。 「とりあえず、ちょっと落ち着け」 「俺が話すよ、かなでさんに」 「孝平くんが?」 「ああ」 「話して、誤解を解いてくるから」 言いながら、考える。 でも、はたして何を話せばいいのだろう? 「俺と陽菜はなんでもない」って? だいたい、かなでさんが本当に誤解してるかどうかもわからないのに。 ここで必死になると、逆に不自然な気がしないでもない。 だけど。 「とりあえず、話すよ」 「話すっていうか、様子を窺ってみる」 「うん。わかった」 「がんばってね、孝平くん」 「ああ」 がんばるって、何をがんばればいいのか謎だ。 とりあえず俺は、中庭をあとにした。 さて、どうしたものか。 ひとまず部屋に戻って考える。 携帯を取り出し、かなでさんの電話番号を表示させた。 ……まではいいが、そこで躊躇した。 もしかすると、かなでさん怒ってるかもしれない。 かなでさんにとって、陽菜は大事な妹だ。 そんな妹に手を出した不届き者、イコール俺。 いや、手なんか出してないけど、とにかく怒ってる確率は限りなく高いだろう。 やっぱり、ここはなんとしてでも誤解を解いておかねば。 俺は意を決して、かなでさんに電話をかけた。 プルルルル……プルルルル…… 「あ、もしもし、孝平ですけど」 「ただいま電話に出ることができません。ご用のある方はピーーーーッという音のあとに」 「いや、バレてますから」 「……」 携帯越しに、憤りが伝わってきた。 やっぱり、怒ってる。 「何? なんか用かな?」 「ええ、ちょっと話が」 「ひなちゃんなら、ヨメにはやらないよ」 「なぜなら、わたしのヨメだから!」 「それはわかってます」 「ほう、わかってるんだ」 「わかってるのに手を出したのか、おのれはーっ」 「だから〜」 俺はため息をついた。 どうやら盛大に誤解されてるようだ。 「とにかく、ちゃんと話させてくださいよ」 「今、忙しいですか?」 「忙しいよ」 「今から、友達に借りてるマンガ読まなきゃいけないんだ」 「めちゃめちゃ暇じゃないですか」 「忙しいったら忙しいのっ」 「そこをなんとか」 「むぅ……」 「じゃあ、10分だけだよ」 「10分経ったら、カラータイマーが点滅する仕様だから」 「はあ」 「それじゃ、ベランダの窓開けて」 「え?」 ブツッ ……切れた。 すると、すぐにベランダの方からガタガタと物音が聞こえてくる。 非常用はしごを使ってくるようだ。 俺は立ち上がり、窓を開けた。 「とああああーーーっ!」 「うわあっ!」 突然、かなでさんが俺を目がけてジャンプしてきた。 逃げるのも間に合わず、二人してベッドに倒れ込む。 「いたたたたた」 「お、重いっ……」 「げほっ、げほっ」 「ごめん! 大丈夫?」 俺の背中に乗っていたかなでさんは、転がり落ちるようにしてベッドから下りた。 「ちょっと待って? 重いって失礼じゃない?」 「人間が一人乗ったら、重いに決まってるじゃないですか」 「むぅ」 納得したようなしてないような顔で、かなでさんはちょこんと床に座る。 「で、話って?」 「あー……」 「さっきのことなんですけど」 「さっき?」 「ほら、中庭で」 「中庭で?」 「……」 なんて言ったらいいんだろう。 「キスなんかしてませんよ」ってのも、ちょっと露骨すぎる。 「とにかく、何もありませんから」 「俺と陽菜は、そういうんじゃ……」 「別に、言い訳なんかしなくてもいいのに」 「はい?」 かなでさんは、言葉を選んでいるようだった。 「あのさ」 「さっきの、ヨメにやらない! っていうのは冗談だから」 「わたしは、ひなちゃんが幸せになってくれればそれでいいんだ」 「……はい」 俺はうなずいた。 そりゃ俺だって、陽菜には幸せになってもらいたいと思う。 友達として。 「だから……」 「こーへーは、姉のわたしに遠慮なんかしなくていいんだよ」 「ひなちゃんを幸せにしてくれるんなら、わたしは、それで……」 「……」 「以上!」 「へっ?」 かなでさんは立ち上がり、ベランダへと向かった。 「わたしからの話はそれだけ。じゃあね」 「ちょ、ちょっと待ってください」 「待てないよ。マンガ読まなきゃいけないんだってば」 かなでさんは、はしごに足をかけた。 俺は慌ててそのあとを追い、がしっと腕をつかむ。 「あの、俺の話は終わってないんですけど」 「わたしは終わったもん」 「俺は終わってないんですって」 ぐいっ。 「ちょっ、ちょっと」 「わああぁっ!」 「あっ!」 腕を引っ張った瞬間、かなでさんはバランスを崩した。 俺はなんとかその身体を受け止め、再びベッドに倒れ込む。 「いてっ……」 「だ、大丈夫ですか?」 「……っ」 ベッドに仰向けになり、かなでさんは俺を見上げている。 図らずも、俺はかなでさんを組み敷くような姿勢になっていた。 一瞬だけ、時が止まる。 お互いの息があたるほどの距離。 みるみると、かなでさんの顔が赤くなっていく。 「ぁ……」 小さく、唇が動く。 俺はなぜか身動きを取ることができなかった。 いつも元気なかなでさんの目が、やけに弱々しく震えている。 初めて見る表情に、どきっとした。 「う……」 「ごめんっ……!」 「かなでさんっ」 かなでさんはするりとベッドから抜け出し、逃げるようにはしごを上っていった。 翌日。 いつものお茶会メンバーが俺の部屋に集合していた。 が、一番元気な人の姿がない。 「ねえ、悠木先輩は?」 「お姉ちゃんは、用事があるって言ってたけど」 「ふうん、そうなの」 「……」 別に、かなでさんがこの場にいないことは、不自然でもなんでもないはずだ。 ただその時ヒマな人が、適当に集まってるだけのお茶会だ。 ほかのみんなは気にしてないようだが、今日はいつもより静かに感じた。 お茶会が終わったあと、部屋を出て談話室に向かった。 今日は「どすこい! 横綱刑事」の日だ。 かなでさんと一緒に観てからというもの、続きが気になって毎週追いかけてる俺。 まんまとかなでさんの思惑に乗せられた気がしないでもない。 談話室のドアを開けると、かなでさんが立っていた。 こちらに背を向けているので、まだ俺には気づいていない。 いったい、何を見ているのだろう? 「かなでさん?」 「っ!!」 かなでさんは、恐る恐るといった様子で振り返った。 「あ……こーへー」 「そんな、人を化け物みたいに」 「?」 俺は、壁に目をやった。 たくさんの写真が貼り出されている。 写真部が撮った、バーベキュー大会のものだ。 「写真見てたんですか?」 「う、うん」 「かなでさん、けっこう写ってますね」 どの写真も、かなでさんはみんなの真ん中にいる。 かなでさんを中心にして、笑顔の輪が広がっている感じだ。 寮生たちから慕われているのが、写真を通して伝わってきた。 「今日、なんか用事あったんですか?」 「え?」 「いや、お茶会来なかったから」 「あぁ、ケヤキの世話とか、いろいろあって」 「そうなんですか」 「うん」 ……。 会話が途切れた。 なんか、いつもの雰囲気じゃない。 今日のかなでさんは元気がないように見えた。 もしかして昨日の陽菜の件、まだ引っかかってるのか? 「かなでさん、そろそろ『横綱刑事』が始まりますよ」 「確か先週は、野菜ソムリエ探偵との一騎打ちで終わったんですよね」 ドラマは佳境に差しかかっていた。 先週も二人で、わーわー言いながら観ていたのだ。 「えっと……」 「今日は、ちょっと用事があって観られないんだ」 「えっ」 「でも、あんなに楽しみにしてたのに」 「うん、そうなんだけどさ」 「あ、でも大丈夫。ちゃんと録画してるから」 「というわけで、ごめんね」 そう言って、かなでさんは足早に談話室を出て行ってしまった。 「……なんだよ」 つい、ひとりごちる。 かなでさんは用事があるのだから、しかたがない。 わかってはいるのだがモヤモヤしてしまう。 「ふぅ」 俺はソファーに座ってテレビをつけた。 別にドラマなんて、部屋で観ればいい。 でも俺は、談話室に来た。 理由は一つ。 かなでさんと一緒に観た方が楽しいからだ。 二人であーだこーだ突っ込みながら観ることに、意味があるのだ。 でも、どうやらそう思っていたのは俺だけだったらしい。 ……なんて、これじゃただの駄々っ子みたいだ。 俺はテレビを消して、立ち上がる。 「……」 ふと、バーベキュー大会の写真の前で足が止まった。 得意げにステーキを焼いている会長。 仲良く野菜を切っている白ちゃんと副会長。 真剣な顔で火を起こす東儀先輩。 その隣で、前髪を焦がして慌てる司。 おにぎりを握っている陽菜。 ……。 肉を焼いているかなでさんと、その隣に立つ俺。 写真の中の俺は、馬鹿みたいに楽しそうだ。 こんなに笑ってる俺の写真って、けっこうレアかもしれない。 俺はしばらくその写真を眺めてから、談話室を出た。 昼休み。 学食に行こうとすると、陽菜が俺を呼び止めた。 「孝平くん、ちょっと話があるんだけどいいかな?」 「話?」 「うん。すぐ済むから」 みんなの前では話しづらい内容のようだ。 俺はうなずいて、陽菜と一緒に教室を出た。 売店に寄ってパンを買い込んでから、公園にやって来た。 野外ランチを楽しんでいるグループがちらほらと目につく。 「ごめんね、急に」 「俺は構わないよ」 「たまには外で食べるのもいいもんだ」 俺たちは、池から少し離れたベンチに腰を下ろした。 今朝雨が降ったせいか、少し蒸し暑い。 しばらく世間話をしながら昼食を取っていたが、やがて陽菜は本題に入った。 「ねえ、最近お姉ちゃんとしゃべってる?」 「……ああ」 やはり、かなでさんの話だ。 陽菜も気になっていたのだろうか。 「まあ、しゃべることはしゃべるけど」 ただし、本当に最低限の会話だけだ。 朝の挨拶とか、夜の挨拶とか、それぐらい。 お茶会には参加するけど、顔を出すだけですぐに帰ってしまう。 最初は気のせいかと思っていたが、やはり気のせいではなかったのか。 「陽菜から見て、かなでさんの様子はどう?」 「元気がなさそうとか、悩んでる様子とか」 「うーん……」 「私には、わりと普通に見えるけど」 「そっか」 ということは。 やはり、俺だけ避けられているのだろう。 あまり認めたくなかったけど、そう認めざるを得ない。 心あたりがあるとすれば。 陽菜と二人で中庭にいるところを見られたあの日。 あの日を境に、かなでさんの俺に対する態度が変化したように思う。 もちろん、あからさまに無視するようなことはしない。 それでも、今までと決定的に何かが違うのだ。 「かなでさん、やっぱりまだ怒ってるのかな」 「怒る? ……孝平くんに?」 「お姉ちゃんは、何かを根に持つようなタイプじゃないよ?」 「だよな」 かなでさんの性格は、多少なりともわかっているつもりだ。 あの人は怒りをため込んで、ねちねちと嫌味な態度を取るような人じゃない。 さっぱりとしていて、どちらかというと切り替えの早い性格だ。 じゃあ、なぜ俺と今までみたいに接してくれないんだろう? ……。 わからない。 嫌われたのならしかたないけど、はっきりとした理由がほしい。 「悪いな、なんか気を遣わせちゃって」 「ううん」 「でももしかしたら、私にも理由があるのかなって……」 「え?」 陽菜は言葉を切った。 その横顔からは、真意はくみ取れない。 「……私ね」 「誰よりも、お姉ちゃんに幸せになってもらいたいの」 「お姉ちゃんの幸せが、私の幸せなの」 「わたしは、ひなちゃんが幸せになってくれればそれでいいんだ」 「ひなちゃんを幸せにしてくれるんなら、わたしは、それで……」 かなでさんも陽菜と同じことを言ってた。 陽菜の真摯なまなざしに、姉妹の絆を感じる。 「もし、私のせいでお姉ちゃんが悲しむようなことがあったら……」 「陽菜のせい?」 「陽菜は何もしてないのに、なんでかなでさんが悲しむんだよ」 「……」 陽菜は答えに困っているようだった。 何か心当たりがあるのだろうか? 「とにかくさ、様子を見てもう一度かなでさんと話してみるよ」 「ひょっとしたら、単に機嫌が悪かっただけかもしれないしさ」 かなでさんに限ってそんなことはないと思うが、とりあえず言った。 「あんまり心配するなって。な?」 「うん」 「ありがとう、孝平くん」 陽菜は視線を落としたまま、笑った。 「なーんか湿っぽいんだよなあ」 下敷きでぱたぱたと自分を扇ぎながら、会長はぼやく。 「それ、誰に言ってるんですか?」 「気候だよ気候」 「やだねえ、梅雨ってさ。気分も滅入るよ」 放課後。 監督生室には会長と副会長がいた。 また雨が降るのか、室内の湿度は極めて高い。 今ひとつ仕事に集中できないのは、この気候のせいだったのかもしれない。 「じゃんっ。見てこれ」 パソコンのディスプレイが、会長の取り出した写真で遮られる。 「なかなかよく写ってると思わないか?」 バーベキュー大会の時の写真だ。 女子たちに囲まれ、得意げに肉を焼いている会長の姿。 そんなに嬉しかったのだろうか。 「見せびらかしてどうしたいわけ?」 「見せびらかしちゃいけない理由なんてないだろ?」 「ええと、いい写真だと思いますよ」 「やっぱりそう思うか。じゃあ特別に、支倉君にもあげよう」 胸ポケットに差し込まれた。 今更いらないなんて言えない。 「いやあ、楽しかったね。バーベキュー大会」 「はあ」 「またやろうって、悠木姉に言っといてくれよ」 「……はあ」 確かに、バーベキュー大会は楽しかった。 低予算であそこまで充実した内容にできたのも、かなでさんの努力と人徳によるものだろう。 都合が悪くて参加できなかった生徒たちからの、リクエストの声も多いと聞く。 「楽しかったですよね、本当に」 しみじみとつぶやいた。 あの時は、まだかなでさんと普通に会話できてたんだよな、と思う。 ひどく昔の出来事のように錯覚した。 「この写真もあげるよ」 会長はもう一枚、俺に写真を差し出した。 それは、かなでさんと俺が一緒に肉を焼いている写真だった。 「これ、どうしたんですか?」 「写真部の人に、間違って焼き増し頼んじゃったんだ」 「俺が持っててもしかたないから、進呈しよう」 「……」 じっと写真を見る。 「あれ? いらないのか?」 「だったら俺が持っていてもいいんだけど」 会長は、俺からさっと写真を取り上げた。 「悠木姉ってさ、なかなかいいよね」 「……いろんな意味で」 会長の牙がきらりと光る。 俺は反射的に立ち上がり、会長から写真を奪った。 「ありがたく進呈されます」 「ははっ、欲しいなら欲しいって素直に言えばいいのに」 ドゴッ! 「ぐあっ!」 「いいから仕事に戻るっ」 極厚の辞書を片手に、副会長が眉をつり上げた。 角は、痛いだろ。 仕事が終わり、監督生室から寮へと向かう。 並木道は夕暮れ色に染まり、木々が長い影を作っていた。 「?」 ひとけのない道の前方に、不審な物体を発見する。 茶色のでっぷりとしたそれは、明らかに人間ではない。 ……タヌキ? タヌキが二足歩行している! 俺は慌てて、その世にも珍しい動物に駆け寄った。 「う……うぅっ……」 「……」 「重っ……」 「……」 タヌキの正体は、かなでさんだった。 正確に言うと、バカでかいタヌキの置物を運んでいるかなでさん。 信楽タヌキと呼ばれる、酔っ払いの茶色いアレだ。 「……なんの修行ですか?」 「ひゃっ!」 俺に気づくと、かなでさんの表情がこわばった。 が、すぐに笑顔を作る。 「あ、こーへー、今帰り?」 「はい」 「で、なんなんですか? それ」 「うん、これね、用務員のおじさんにもらったの」 「寮のイメージキャラクターにどうかなと思って」 いったいどんなイメージなんだ、白鳳寮は。 どちらかというと居酒屋チックになると思う。 「それ、持ちますよ」 「え?」 「あっ、いいよいいよ。すごく重いから」 「だから俺が持つんじゃないですか」 俺は、タヌキを抱いてぐいっと引っ張った。 しかし、かなでさんはなかなか手放してくれない。 「ほんとにいいって!」 「よくないですから」 「いいんだってば!」 「駄目です」 男の力にかなうはずもなく、タヌキ奪取に成功。 「ぐうっ……」 これは、想像以上の重さだ。 腰にきた。 「よくこんなの、ここまで運んでこられましたね」 「……うん」 「こんなの運んで転んだら、洒落になんないですよ」 「かなでさん、ただでさえ小さいんだし」 「……」 いつもならここで、かなでさんの鋭いツッコミが入るはずだ。 「こらー! 誰がコロボックルだってーっ?」 とかなんとか、そういうやりとりを期待していた。 しかし、かなでさんは居心地が悪そうにうつむくだけだ。 まるで張り合いがない。 ……。 しばし、無言のまま歩く。 もちろんタヌキも黙ったままだ。 空気を読んで、冗談の一つでも披露してくれればいいのに。 「どうもありがとう」 「どういたしまして」 なんとかタヌキをかなでさんの部屋に運び込んだ。 死ぬほど重かったが、余裕の表情をキープする俺。 「これ、お礼」 コーラの缶を渡された。 「あとこれも」 「石狩ラーメン」と書かれたカップラーメン。 「いいんですか、もらっちゃって」 「うん。まあ大したものじゃないけどね」 「……かなでさん」 「え?」 俺は、かなでさんをじっと見た。 案の定、すぐに目を逸らされる。 「最近忙しいんですか?」 「お茶会でもあんまり見ないですけど」 「えーっと、まあ、うん」 目が泳いでる。 「ほら、わたし一応受験生でしょ?」 「それに風紀委員の仕事もあるし、なにげに多忙なんだよ」 「だからさ、お茶会は若い人たちで楽しんでよ。ね?」 「あーもちろん、たまには顔出すけど」 一気にしゃべった。 まるで、自分に言い聞かせるみたいに。 「そうなんですか」 「忙しいなら、しかたないですよね」 「うん、ごめんね」 「逆に、わたしからお願いがあるんだけど」 「え?」 「わたしが忙しくなると、ひなちゃん寂しがっちゃうからさ」 「だから、そのぶんこーへーが構ってあげてほしいんだ」 「……」 どう返事をしていいのかわからない。 陽菜は友達だから、普通に会うし普通に話す。 そこに義務は発生しない。 友達って、そういうものだと思うからだ。 かなでさんだって、ただの希望として言ってるだけであって、強要してるわけじゃない。 なのに、なぜ違和感を覚えるのか。 俺は。 俺は、かなでさんに、そんなことを言ってほしいんじゃなくて── 「じゃあ、今日は本当にありがとね」 「おやすみ〜」 「おやすみなさい」 ばたんとドアが閉まる。 ……。 …………。 帰ろうとして、やっぱり足を止めた。 五秒考えてから、かなでさんの部屋のドアをノックする。 「は〜い」 「……あれ? どしたの?」 「かなでさん、俺のこと避けてません?」 単刀直入に、言った。 これ以上、思い悩むのはうんざりだ。 「え……?」 「俺のこと、気にくわないならはっきり言ってください」 「マジで、遠慮とかしなくていいですから」 「さ、避けてなんか、ないよ」 「嘘だ」 「かなでさんは嘘が下手すぎる」 「なっ」 真っ赤になった。 「嘘なんかついてないもん」 「それに、気にくわないところなんてないっ」 「じゃあなんで避けるんですか?」 「だから……避けてないってば」 「本当に?」 「……っ」 かなでさんは言葉を詰まらせた。 「避けてない」と言われて、やっぱり避けられていたことを悟った。 かなでさんは嘘が下手だ。 だったらいっそのこと、完全に無視されてた方がよかった。 「こーへーなんか大嫌い」と言ってもらった方が、どれだけよかったことか。 こんな風に、少しずつフェイドアウトされるくらいなら。 無性に悲しくなる。 なんでこんなことになってんだろう。 「かなでさん」 「俺、なんかつまんないみたいなんですけど」 「えっ?」 「『横綱刑事』ですよ」 「一人で観たって、ぜんぜん盛り上がらないんです。なんとかしてください」 自分でもよくわからないことを口走っている。 だが、止められない。 「な、なんとかって言われたって困るよ」 「かなでさんの解説とツッコミがなきゃ、つまんないんですよ」 「し、知らない、そんなの」 「そうだ、ツッコミ役ならへーじに頼みなよ。毎週観てるんだから」 「あいつに? ツッコミ役を?」 どう考えても無理だと思う。 そんなマメなことを、かなでさん以外の誰がしてくれるものか。 「とにかく、わたしはもうドラマなんか観ないの」 「なんでですか」 「受験生なんだってば!」 「そういうことじゃないでしょうっ?」 「……ぁ」 「あ……」 ふと気づくと、周囲がざわついていた。 部屋着姿の女子たちが、俺たちを遠巻きに見ている。 「あれ? 5年生の子じゃない?」 「生徒会の男の子だよね?」 主に6年の先輩方が、からかうような、微笑ましいような視線を投げかける。 かなりいたたまれない。 たまに「年上キラー」なんて単語も耳に入ってくる。 「ちょ、ちょっとみんなっ」 「なんでもないから! ほら、解散!」 ざわめきは収まらない。 みんなだんだん、子供の成長を見守るような目になってきている。 「がんばれ〜」 「応援してるぞ〜」 ……何を? 「孝平くん?」 「あ、陽菜」 「!!」 騒ぎに気づいたのか、いつのまにか陽菜が来ていた。 「ど、どうしたの?」 「いや、それが実は……」 「なんでもない! ほんとに、なんでもないの!」 「あっ」 かなでさんは陽菜の腕をつかみ、部屋の中に引き入れた。 「おやすみ!」 ものすごい勢いでドアが閉まった。 「……」 周囲の人々が、ぞろぞろと部屋に戻っていく。 いったい、なんなんだ? 不完全燃焼の気持ちを抱えたまま、俺はドアを見上げていた。 「お姉ちゃん……」 「あは、ごめんね、うるさくしちゃって」 反射的に、ひなちゃんを部屋に引き入れた。 まさかあんな騒ぎになると思わなかったから。 どうしよう。 みんなに誤解されたら困る。 ヘンな風に取られなきゃいいけど。 特に、ひなちゃんには。 「こーへーに荷物持ってきてもらってさ」 「ほら、そこのタヌキ。かわいいでしょ?」 「タヌキ?」 「……わぁっ!」 すぐ隣に立っていたタヌキに気づき、ひなちゃんは飛びのいた。 「な、何これ?」 「いいでしょ。もらってきたんだ」 「もらってきたって……」 「大丈夫? 床抜けないかな?」 「だいじょうぶだいじょうぶ」 「床が抜けたって、どうせ下は」 ……こーへーだった。 「抜けたら、困るでしょ?」 ひなちゃんはじっとわたしを見る。 痛いくらい、見る。 耐えきれずに目を逸らした。 「お姉ちゃん、最近ヘンじゃない?」 「お茶会にもあんまり来ないし」 「今はちょっと忙しい時期なだけ」 「本当に?」 こーへーと同じ目で詰め寄られる。 「お姉ちゃん、孝平くんのこと避けてる」 「ええっ、わたしが?」 「あはは、そんなわけないって!」 「嘘つかないで、お姉ちゃん」 「わかるよ、私には……」 「……」 ひなちゃんが、真面目に話をしようとしている。 わたしの本心を読み取ろうとしている。 それがわかったから、目を見ることができなかった。 「お姉ちゃん、私ね」 「お姉ちゃんには幸せになってもらいたいの」 「だからそのために、私に遠慮することなんて……」 「やだな、遠慮なんかしてないってば〜」 「じゃあどうして、お姉ちゃんはつらそうなの?」 「ほかのみんなは気づかなくても、私にはわかるんだよ?」 「お姉ちゃん、本当は孝平くんのこと……」 「違うからっ」 思わず、大きな声を出してしまう。 自分の声の大きさに、自分が一番びっくりしてる。 「お姉ちゃん……」 「ほんとに、違うから」 それだけは、認められない。 認めたらダメだ。 わたしの努力が水の泡になってしまう。 これ以上、こーへーに近づいたら。 これ以上、こーへーと仲良くしたら。 これ以上、こーへーのことを考えたら……。 ……。 絶対に、好きになる。 こーへーのことを思わずにはいられなくなる。 それだけは、なんとしてでも阻止しなくちゃいけない。 だって。 ひなちゃんも、こーへーのことを── 「あっ、もうこんな時間だ!」 「わたし、そろそろお風呂に入ってくるね」 「……うん」 「それじゃっ」 適当にタオルや着替えをかき集め、逃げるようにして部屋を出た。 わたし、何やってるんだろう。 だけど今は、ひなちゃんの顔をちゃんと見ることができない。 ひなちゃんを、裏切ってるような気分になる。 裏切る? どうして? ……。 もう、こんな自分は嫌だ。 「はぁ……最近、じめじめしてるわよね」 「この雨、いつまで続くのかしら?」 お茶会タイムで、副会長がぽつりとつぶやく。 ここ数日ずっと雨が続いている。 梅雨真っ最中なのでしかたないといえばしかたない。 「ぱきっと晴れたら、海とか行きたくない?」 「行きたい行きたい」 「いいですね」 「ああ」 俺もうなずいた。 海か。悪くない提案だ。 青い空と青い海のコンボで、きっと気分も上向くことだろう。 「じゃあ、悠木先輩も……」 「誘いたいけど、忙しいかしら?」 「う、うん。どうかな」 「大変よね、寮長と風紀委員の仕事を掛け持ちしてるんだもの」 「それに受験生だし」 「うん……」 「じゃあ、期末テストが終わったら日にちを決めましょう」 「そうだな」 7月に入ったらすぐに期末テストだ。 テストが終われば夏休みまであと少し。 早いもんだな、と思う。 もう何年もここで暮らしているような気分になる時がある。 ……。 ここ1週間ほど、かなでさんの姿を見ていない。 以前は短時間でも顔を出してくれたのに、それすらもなくなってしまった。 事実、忙しいんだろう。 みんなもそう思ってる。 俺も、そう思いたかった。 お茶会終了後、一人で談話室へと歩き出す。 廊下の窓の外を見ると、雨はだいぶ小降りになっていた。 この分なら明日は晴れるかもしれない。 「……」 中庭に、かなでさんがいた。 傘も差さずにケヤキを見上げている。 何をしているんだ? 小降りとはいえ、あんなところにいたら風邪をひいてしまう。 ……。 十メートルほど歩いて、立ち止まる。 ここで声をかける理由もないが、通り過ぎる理由もなかった。 「かなでさん」 「ひゃっ」 中庭に入ってきた俺を見て、かなでさんはたいそう驚いた。 髪も肩も濡れている。 かなりの時間、ここにいたんじゃないだろうか。 「雨だってのに、何してんですか?」 「な、何もしてないよ?」 「最近雨がずっと続いてたから、ケヤキの様子が気になって見に来ただけ」 「だったら、傘ぐらい差してくださいよ」 「ごめん……降ってたこと、気づかなかった」 そう言って、ふいと目を逸らす。 気まずそうな表情。 俺には、そう見えた。 ……。 やっぱり、もう駄目なのかな、と思う。 俺がこうやって話しかけること自体、かなでさんにとっては迷惑なのかもしれない。 なんでこんなことになったのかよくわからないけど。 これ以上しつこくして、かなでさんに嫌われるのはいやだ。 かなでさんに嫌われるのは……。 かなり、こたえる。 自分が思っていた以上に、つらいかもしれない。 困惑しているかなでさんを見て、そう痛感した。 同時に、ひとつだけわかったことがある。 俺が、どれだけかなでさんとの時間を大切にしていたか。 どれだけ元気づけられていたか。 どれだけ励まされていたか。 そういったすべてのものを、どれだけ愛おしく思っていたか。 ……今になって気づいてしまった。 気づかなければよかったのに。 「かなでさん」 「え?」 「さっきみんなで、テストが終わったら海に行こうって話してたんです」 「そ、そうなの?」 「でも、わたしは……」 「俺、忙しくて行けないんですよ」 かなでさんの言葉を遮った。 「7月になると文化祭の仕事とか入ってきて、バタバタしちゃうんで」 嘘ではない。 「うちの会長、人使い荒くって大変ですよ」 でも、まったく休みが取れないほどではなかった。 「だから、俺のぶんまで楽しんできてください」 これは本心だ。 俺がいることでかなでさんが遠慮してしまうのは、よくないことだ。 お茶会メンバーにとっても、かなでさんの存在は大きい。 みんなから、かなでさんを遠ざけてしまうことはできない。 「こーへー……」 「たまには、みんなに元気な顔見せてあげてくださいよ」 「かなでさんいないと、やっぱなんか寂しいですって」 「俺、これからあんまりお茶会に顔出せなくなっちゃうんで、頼みます。マジで」 「え……なんで?」 「いやほら、生徒会の仕事が9月ぐらいまでギッチリなんです」 「というわけで、約束ですからね」 俺はなるべく明るい口調で言った。 たぶん、いい笑顔ができたと思う。 作り笑いは得意な方だ。 これまでの転校人生が、俺にさまざまな処世術を身につけさせた。 「……」 なのに。 なぜかかなでさんは、下唇を噛み締めてうつむいてしまう。 「かなでさん?」 「……ごめん」 「え?」 「ごめん」 はっきりと、そう言った。 「わたし……こーへーに気を遣わせてるよね」 「ひどいよね、こんなの」 雨のしずくが、かなでさんの頬を伝う。 そのしずくを指でぬぐってあげたかった。 でも、できなかった。 「俺、別に気なんか遣ってないですけど」 かなりしらじらしい。 だけど、ほかになんて言えばいいかわからない。 沈黙が下りる。 かなでさんはいつも明るくて元気なのに。 その笑顔を、俺が奪っているのだろうか? 「こーへー、ぜんぜん悪くないんだ」 「こーへーのことが嫌いで、避けてるわけじゃないの」 「じゃあ、どうして」 「……それは」 再び沈黙。 俺は少なからず混乱した。 嫌いじゃないのに、避ける理由なんかあるのか? 「かなでさんは、俺のこと嫌いじゃないんですよね?」 「う……ん」 「頼むから、嘘つかないでください」 「嘘じゃないっ」 「わたしは、こーへーのことが」 「……っ」 「え……?」 かなでさんの顔が真っ赤になる。 「なんでもない!」 「じゃっ!」 「あっ、ちょっと待っ……」 出入口へと走り出すかなでさん。 俺は条件反射で、逃れていくその腕をつかんだ。 そして、そのまま引き寄せて── 「あ……っ!」 ──かなでさんを、抱きしめた。 「……」 自分の行動に、自分が一番驚いている。 俺の腕の中には、かなでさんの小さな身体があって。 かなでさんもこれ以上ないほどびっくりしていて。 でも、抱きしめる力をゆるめることができなくて。 身動きできないまま、二人でその場に立ちつくしていた。 「……」 うわ。 俺、何やってんだ。 そんなつもりじゃなかった。 じゃあ、どんなつもりだったんだ? かなでさんを引き留めたかった。 かなでさんの気持ちを知りたかった。 それで……。 やっぱり、抱きしめたかったんだと思う。 抱きしめて、安心したかったんだ。 俺自身が。 「こーへー?」 「な、何してるの?」 「何って……」 「好きだから、抱きしめてるんですよ」 「は!?」 驚愕、といった面持ちで俺を見上げた。 「好きだから、抱きしめてるんです」 「すみません」 ひとまず謝った。 「す……き?」 「う、嘘だよ」 「だって、こーへーはひなちゃんが」 「陽菜は、すごくいいヤツです」 「友達として、大切に思ってます」 素直に言った。 陽菜は、俺にとってある意味恩人であり、特別な人だ。 とても大切な友達だ。 その気持ちと、かなでさんに対する気持ちは違う。 かなでさんもいい人で、いい先輩でいい友達だ。 でも、俺にとってはそれだけじゃないんだ。 「……だ」 「ダメだよ」 「どうしてですか?」 「俺は、かなでさんのことが」 「言わないで!」 「とにかく、ダメったらダメなの!」 かなでさんは小柄な身体を活かし、するりと俺の拘束から逃れた。 「かなでさん!」 ばたんっ まるで俺を拒絶するかのように、勢いよくドアが閉まる。 「かなでさん……」 あとに残されたのは、俺と傘だけ。 そして、かなでさんの冷えた身体の感触が残っている。 ……。 「ダメだ」と言われた。 これは、フラれたということか? そういうことだよな。 やっぱり。 「はぁ……」 ため息をつき、しばらくぼんやりとしていた。 すると、出入口のドアが開いて誰かが入ってくる。 「……孝平くん」 「陽菜?」 笑っているような、泣き出しそうな。 なんともわかりづらい表情だった。 「どうした?」 陽菜は何も言わない。 不思議に思って、尋ねた。 「もしかして、見てた……?」 「……うん」 「うわあ」 俺は頭を抱えた。 恥ずかしすぎる。 いろいろなことが。 「ごめんね。廊下の窓、開いてたから」 「孝平くんの声が聞こえて、それで……」 「いや、いい。俺が悪い」 「場所とか状況とか、いろいろとわきまえてなかった俺が悪い」 「そんなことないよ」 陽菜はきっぱりと言った。 「私、よかったと思って」 「孝平くんの本当の気持ち、知ることができて」 「え?」 「孝平くん、お姉ちゃんのこと好きなんだよね?」 陽菜はまっすぐに俺を見た。 いまさら、隠すことはできない。 「うん」 「俺、かなでさんのことが好きみたいだ」 「そっか」 「でも、フラれたけど」 「……え?」 陽菜は怪訝そうな顔になった。 「フラれてないよ」 「そんなわけないもん」 なぐさめてくれているのだろうか? 「でもなあ……」 「お姉ちゃんも、孝平くんのこと……好きだよ」 確信を持った口調で、陽菜は言った。 さも当然の事実とでも言うように。 「私、知ってるの」 「お姉ちゃんが孝平くんのこと、好きってこと」 念を押すように言う。 俺は首を傾げた。 「そりゃどうかな」 「俺、どっちかっていうと今まで避けられてたんだけど」 「それはね、避けてたんじゃなくて……」 「お姉ちゃんが、私に遠慮してたんだと思うんだ」 「遠慮?」 「そう」 「お姉ちゃんって、その……私がね、孝平くんのこと好きだって思い込んでて」 「だから、自分が身を引こうとしたんだと思う」 俺はさらに首を傾げた。 いつかここで、俺と陽菜が一緒にいるところをかなでさんに見られた。 あの時のこと、やっぱり誤解したままだったのか? 「でも、そうは言ってもさ」 「身を引くってのは、やっぱちょっと考えづらいよ」 「私がこんなこと言っても、ピンと来ないよね」 「じゃあ、最後の切り札」 「?」 陽菜はいたずらっぽく微笑んだ。 「談話室に貼り出されてたバーベキューの写真、見た?」 「ああ、見たけど」 写真部の人が撮ったスナップ写真。 俺も会長から、なぜか二枚もらったのだった。 女子たちに囲まれて肉を焼いている会長の写真。 それと、俺とかなでさんが二人して楽しそうに笑ってる写真。 「お姉ちゃん、すごく大事に持ってるんだよ」 「孝平くんと二人で写ってる写真」 「……」 なんで? 一瞬、意味がよくわからなかった。 なんでかなでさんが、俺と写ってる写真を大切に持ってるんだ? 「……それは、あれだろ」 「単に自分が写ってるからだろ?」 「単に自分が写ってる写真を、写真立てに入れてベッドの下に隠したりしないでしょ?」 俺は黙った。 確かに、しないかもしれない。 あまりかなでさんらしいとは言えない行動だ。 うまく考えがまとまらない。 どうしたらいいのかよくわからない。 「私ね」 「子供の頃、病気で入院してたことがあるんだ」 陽菜は突然そんなことを話し始めた。 「病気って……初耳だな」 「昔の話だし、そんなに大した病気でもなかったんだけどね」 「でも、しばらく入院生活が続いて、親がずっとつきっきりで看病してくれてたの」 懐かしそうに目を細める。 どことなく、寂しそうなまなざしにも見えた。 「私、お姉ちゃんがずっと羨ましかった」 「元気で、自由で、好きなことができるお姉ちゃんが」 「……もっと正直に言うと、憎んでた」 陽菜の口から、およそ陽菜らしくない単語が出た。 ちょっと、いや、かなり驚く。 「憎んでた」なんて、この姉妹にはもっとも縁遠い言葉に思える。 「私はその頃、ほとんど学校に行けなかったの」 「だから不公平だと思ってた。私ばっかり不幸だって、そう思って……」 「ある時ね、お姉ちゃんとケンカしたの」 「陽菜とかなでさんが、ケンカ?」 「うん。お互い言いたいことぶつけあった」 「それからかな。わだかまりが消えたのは」 「なんでも言い合える、友達みたいな姉妹になれたんだ」 「……でも」 そこで言葉を切った。 しばらく、つぎの言葉を探している。 「仲はいいけど、なんでも言い合えるっていうのは違ったみたい」 「今、そう思った」 「あのケンカ以来、お姉ちゃんずっと私に遠慮し続けてきたんだよ」 「病気がちだった私に遠慮して、いろんなこと我慢して」 「……好きな人まで、譲ろうとして」 好きな人。 陽菜はそう言うけど、やっぱり俺にはピンと来ない。 「私、お姉ちゃんにひどいことしてきた」 「お姉ちゃんにいろんなこと我慢させたり、諦めさせたりしてきたんだよ」 「……そういうこと、ぜんぜんわかろうとしなかった」 「陽菜……」 俺は、陽菜になんて声をかけていいのかわからなかった。 でも、少なくとも「ぜんぜんわかろうとしなかった」っていうのは違うと思う。 なんとなく、そう思った。 「ごめんね、孝平くん」 「お姉ちゃんが素直に自分の気持ちを認められないのは、私のせいなの」 「だから、孝平くんは、お姉ちゃんと……」 「俺のことはいいんだって」 陽菜の言葉を遮った。 そう。俺のことはいい。 今は俺のことなんて問題じゃない。 「あのさ」 「え?」 「俺には、こんなこと言う権利ないかもしれないけど」 「陽菜が『私のせい』って思っちゃうのは、かなでさんの本意じゃないと思うぞ」 姉妹の事情について、俺は詳しいことはよくわからない。 でも、陽菜が自分を追い詰めるような真似は、かなでさんの望むところじゃない。 それだけは確かなはずだ。 「陽菜がそんなこと思ってるなんて知ったら、たぶんかなでさん悲しむと思う」 「そうじゃないか?」 陽菜は、かなでさんにいろんなこと我慢してほしくない。 ……でもかなでさんは、自分が我慢することで陽菜が幸せになると思ってる。 それじゃ、わだかまりが消えたとは言えない。 第三者として見るなら、そういうことになる。 「そう……なのかな」 俺はうなずいた。 「私たち、まだちゃんと仲直りしてないんだよね、きっと」 「たぶんな」 「陽菜は、ちゃんと仲直りしたいと思うんだろ?」 「もちろんだよ。私、お姉ちゃんには好きなように生きてほしいの」 「だから……ちゃんと話さなきゃダメだよね」 「お姉ちゃんと、孝平くんのためにも」 「違う違う」 俺は首を振った。 「俺じゃなく、陽菜とかなでさんのためだ」 もし陽菜が、かなでさんに距離を感じているなら。 できることなら、距離を縮めてほしい。 俺だけでなく、きっとお茶会メンバーも同じことを思うだろう。 俺たちはみんな、陽菜もかなでさんも大好きなのだ。 みんな、姉妹が仲よくしているのを見るのが好きだった。 「……わかった」 「ちゃんと話してみる。私とお姉ちゃんのために」 陽菜は、力強くそう言った。 「……ふぅ」 テレビを観ても、音楽を聴いても。 何も頭に入ってこない。 ただ雑音として、耳をすり抜けていくだけ。 ……。 こーへーが、わたしを好き。 わたしのこと、好きだって言った。 嘘みたい。 さっきからずっと、胸がどきどきしてる。 でも、ダメだ。 嬉しいなんて思っちゃいけない。 思っちゃダメなのに。 ……。 自分でも嫌になるほど、わたしの心は正直だ。 頭の中がばらばらになりそう。 もう、こーへーの顔をまともに見られない。 ひなちゃんのことも── コンコン 「っ!」 誰かがドアをノックした。 どうしよう。 今は、誰にも会いたくない気分だった。 「お姉ちゃん」 「……ひなちゃん」 あぁ、どうしよう。 どんな顔をしてひなちゃんに会えばいいの。 「お姉ちゃん?」 「あっ、ちょ、ちょっと待ってね!」 深く息を吸ってから立ち上がる。 普段通りにしなくちゃ。 いつものわたし通りに。 「おーっす!」 「どーしたの? ひなちゃん」 スマイルを作ってドアを開けた。 大丈夫。 ちゃんといつも通りにできてる。 「ごめんね、急に」 「ちょっと話があって」 「なになにー? 話って」 「もしかして、恋バナってヤツ?」 冗談めかして言った。 でもひなちゃんは、笑わなかった。 「うん。そういう話かも」 「え……」 「入ってもいい?」 「あ、う、うん、どうぞ」 なんだろう。 またどきどきしてきた。 普段通りにしなきゃと思えば思うほど、緊張する感じ。 しっかりしてよ、わたし。 「どーしたー? 真面目な顔しちゃって」 ひなちゃんの向かい側に腰を下ろした。 「お姉ちゃんでよければ、相談に乗るけどさ?」 ……本当に? 相談なんて乗れるの? こうやって作り笑いをしてることに、罪悪感を覚える。 なんでも言い合える姉妹になりたいって、ずっと思ってたはずなのに。 本当のことが言えない。 本当のことを言ったら、ひなちゃんが悲しむ。 「……」 「ひなちゃん?」 思いつめたような顔をしている。 だんだん心配になってきた。 「ひなちゃん、ほんとにどうしたの?」 「……もしかして、こーへーとなんかあったんじゃ」 「どうして、孝平くんだと思ったの?」 ひなちゃんは、ぱっと顔を上げた。 「それは……」 言葉に詰まった。 「お姉ちゃん、わたしが孝平くんのこと好きだと思ってるの?」 「そうなんだよね?」 ひなちゃんが、まっすぐにわたしを見据える。 わたしは相変わらず、言葉に詰まったままだ。 「だからお姉ちゃんは……わたしに遠慮してるんだよね」 「本当は、お姉ちゃんが一番孝平くんを好きなのに」 ──違う。 違うってば、ひなちゃん。 わたしはどっちかっていうと、年上が好みなの。 年下の男の子なんて、興味ないんだから。 ましてや、こーへーなんて弟みたいなものだし。 「……っ」 あれ? おかしいな。 頭の中ではスラスラと言葉が出てくるのに。 どうして何も言えなくなっちゃうんだろう。 自分を偽るための言葉は、たくさん用意しておいたはず。 「……違うよ」 やっとのことでそう言った。 でもひなちゃんは、首を振るばかり。 「違わないよ」 「自分の気持ち隠したって、バレバレなの。お姉ちゃんの場合」 「えっ……」 「お姉ちゃん」 「私ね、孝平くんのことが好き」 はっきりと、笑顔でひなちゃんは言った。 迷いのない声だった。 「でもね、最近になって思ったの」 「好きっていう気持ちにも、いろんな種類があるんだよ」 「私の、孝平くんに対する『好き』は……」 「一番仲のいい友達に対する、『好き』」 「お姉ちゃんが思ってるような気持ちとは、ちょっと違うんだ」 ゆっくりと、言い聞かせるように言う。 わたしの手を握り締めながら。 「もしかしたらこの気持ちが、いつかは恋愛感情になるかもしれない」 「でもそんなの、誰にもわからないでしょ?」 「そんなあやふやなものより、お姉ちゃんの今の気持ちを大切にしたいの」 「……大切に、してほしいの」 「ひなちゃん……」 わたしの、今の気持ち。 一生懸命隠し通してきた気持ち。 でも、隠し通してきたと思っていたのは、わたしだけだったのかな? ひなちゃんは、とっくに見抜いていたのかな。 ……。 だとしたら、余計に自分が情けない。 気の利くお姉ちゃんの役回りを、全うすることができなかった。 ああもう、わたしのバカ。 誰よりもひなちゃんに気を遣わせてたのは、このわたしなんだ。 「お姉ちゃん」 「今まで我慢させちゃって、ごめんね」 「でももう、我慢なんてする必要ないからね」 「どうしてひなちゃんが謝るの」 わたしはただ、ひなちゃんに笑っていてほしかっただけ。 謝らせたかったわけじゃない。 幸せになってほしかった。 ……。 でも、この思いこそが、ひなちゃんにとって負担になっていたとしたら? ひなちゃんを追いつめていたとしたら……? 「……ごめん」 もう、それだけしか言えなかった。 「お姉ちゃんは、何も悪いことなんかしてないでしょ」 「お姉ちゃんはいつも、私の幸せだけを考えてくれてた」 「私が子供の頃に入院した時から、ずっと……」 ──ふと、思い出す。 ひなちゃんが入院してた日々のこと。 あの頃、両親はつきっきりでひなちゃんの看病をする毎日だった。 両親の愛情を独り占めするひなちゃんが、許せなかったわたし。 元気で自由で、何不自由のないわたしが羨ましかったひなちゃん。 お互いの不満をぶつけ合って、仲直りしたあの日。 あの日を境に、なんでも言い合える仲良しな姉妹になったと思ってた。 でも、本当は……。 なんでも言い合えるなんて嘘だった。 一番大切な気持ちを、ずっと隠してた。 ……。 こーへーを好きだって気持ちを、ずっとずっと隠してた。 「私の幸せはね、お姉ちゃんが幸せになることなの」 「だから、これからは自分が幸せになるために生きて」 「……ね?」 「ぅ……」 泣くな。 泣かないでよ。 「ごめん……」 「ごめんね、ひなちゃん」 「わたし、ずっと……」 「こーへーのこと……好きだったみたい」 だから泣くなってば、わたし。 そう言い聞かせてるのに、目からぼろぼろと水が流れてくる。 気持ちを言葉にしたら、もう止められない。 ──好き。 こーへーのことが、好き。 これがわたしの、本当の気持ちだ。 「うっ……うぅ……ひな……ちゃんっ……」 「もう、泣かないでよお姉ちゃん」 「だって……だってぇ……ううぅっ」 みっともないぐらいに泣いてしまう。 こんな姿、ほかの人には見せられない。 ひなちゃんにしか見せられない。 「ふふふ」 「お姉ちゃん、本当は私よりも泣き虫なんだよね」 「みんなは知らないだろうけど……」 ひなちゃんの温かい声が耳に届く。 わたし、泣き虫だったかな? 自分ではそんなつもりなかったんだけど……。 ひなちゃんが言うなら、そうなのかもしれない。 わたしの一番近くにいてくれたのは、いつだってひなちゃんだった。 「ほら、そろそろ泣きやまなくっちゃ」 ひなちゃんは手を伸ばし、わたしの涙をぬぐった。 まるでお母さんみたいな動作だ。 「わかってるんだけど、わかってるんだけど……ひっく……」 「そんなに泣いたら目が腫れちゃうよ」 「孝平くんだって、びっくりしちゃう」 「……こーへー?」 「うん」 「だって、お姉ちゃんは今から孝平くんに会いに行かないといけないんだよ」 「ね?」 ひなちゃんは、満面の笑顔でそう言った。 陽菜がかなでさんのところに行ってから、かれこれ一時間が経つ。 俺はといえば、テレビをつけたり消したり、布団に潜ってみたり。 何をしても落ち着かない。 かなでさんを抱きしめた時から、ずっとドキドキが続いている。 「私、知ってるの」 「お姉ちゃんが孝平くんのこと、好きってこと」 いや、やっぱりありえない。 そんなはずはない、と頭が否定している。 もちろん、陽菜の言うことが本当なら嬉しいが。 ……。 結局は、自分で予防線を張っているだけなのだ。 もしかなでさんが、本当に俺のことを嫌っていたら? 好きでもなんでもなかったら? 本当のことを知った時、ショックを受けるのが怖い。 だからさっきから、「ありえない」と頭の中で連呼しているのだ。 いざという時、傷つかないように。 「……はぁ」 俺は、後悔しているのだろうか。 かなでさんに告白したことを。 ……いや。 後悔なんかしていない。 たとえ、この気持ちが報われなかったとしても。 ガタガタッ 「?」 ベランダから不審な物音がした。 ……まさか。 俺は急いでベッドから立ち上がり、窓を開ける。 「……早く、お姉ちゃんっ」 「い、嫌だよ、困るよ」 「ダメだってば、もう」 「だってだって、心の準備が〜っ」 「大丈夫。行けばなんとかなるから」 「むりむりむりむりむりですっ」 「ひああぁっ、落ちる落ちるっ!」 「……何やってんですか?」 「!」 「!!」 非常用はしごにしがみついているかなでさん。 そんなかなでさんを、半ば強引に下へと追いやろうとしている陽菜。 これはいったい、どういう状況なんだろう。 ぼんやりとそんなことを考える。 「孝平くん、ちょうどよかった」 「あのね、お姉ちゃんが話あるんだって」 「えっ?」 「なっ!」 「ない! なんにもないから!」 「あるでしょ?」 「あ、あるけど……ない!」 どっちだ。 「むぅー……」 陽菜は眉根に皺を寄せた。 まるで、いたずら好きな子供に手を焼いている母親のような。 「えいっ」 何を思ったのか、陽菜は突然はしごをつかんで左右に揺らし始めた。 「ほらほら、早く下りないと危ないよ?」 「ひ、ひなちゃんっ!?」 ガタガタガタガタ はしごが揺れている。 かなり、揺れている。 「ほらほら〜」 「ひあぁ、やめてぇっ」 「……」 とりあえず、助けた方がいいんだよな。 俺は手を伸ばし、かなでさんの身体をひょいと持ち上げた。 「わあぁっ!」 「暴れないでください、危ないですから」 「はなしてー」 「ありがとう、孝平くん」 「じゃあ、あとよろしくね」 陽菜はにっこりと言ってから、手際よくはしごを引き上げる。 ばたんっ あっけなく扉が閉められた。 ……なんだったんだ。 ふと、「獅子の子落し」という言葉が頭をよぎる。 「ひ、ひどい、ひなちゃん」 「追い出されるようなことでもしたんですか?」 「陽菜のおやつに手を出したとか」 「そんなことしないよ!」 「そうですか」 「うん」 「……」 「……」 ひんやりとした沈黙が舞い降りる。 俺はひとまず、かなでさんをその場に下ろした。 なんとも言えない微妙な空気。 告白した手前、ものすごくやりづらい。 俺だけでなく、かなでさんもいたたまれない様子だった。 「とりあえず、入ります?」 「あ……う、うん」 ここで立ち話というのもなんだ。 かなでさんを部屋に通し、テーブルを挟んで座る。 「……」 「……」 相変わらずの沈黙だった。 話ってなんだろう。 聞いてみたい気持ちと、聞きたくない気持ち。 圧倒的に後者が勝っている。 「その……」 「さっきはすみませんでした」 「へ?」 「ほら、ですから」 「中庭で、こう……」 抱きしめるジェスチャーをしようとして、やめる。 そんな不審な動作を見て、かなでさんも思い当たったようだった。 「あ〜、その、えっと」 「き、気にしないでいいよ」 「わたしも、気にしてないから」 「……はあ」 なんだ、気にしてないのか。 少しは気にしてくれよ、なんてことを思ってみたり。 勝手かもしれないけど、多少は動揺してほしい。 「で、話とは?」 俺は努めて冷静に尋ねた。 話を聞きたくないからといって、この場から逃げ出すわけにはいかない。 だったら、なるべく早めに結論を出してほしかった。 俺にとってはとどめになるかもしれない、その結論を。 「えと……」 かなでさんは、泣きそうな顔でうつむいた。 そんな顔されたら、ますますつらい。 そんな顔をさせるために告白したんじゃないのに。 なんてことを、ぼんやりと考える。 ……。 …………。 何十秒か、何分か、何十分か。 会話のない時間が続く。 だんだん胃が痛くなってきた。 もう、これ以上の沈黙は耐えられそうもない。 「あの」 「こーへー!」 口火を切ったのは同時だった。 俺は驚いて、かなでさんを見やる。 「わ、わたしと」 「わたしと……」 「はい?」 「わたしと、付き合ってください!」 ……。 …………。 「はい?」 もう一度聞き返した。 かなでさんの顔は真っ赤だ。 その赤が、じわじわと耳たぶまで侵食していくのがわかる。 「な、なんか言ってよ」 「なんか、とは?」 「だからその、いいとか悪いとか」 いいか悪いか。 そりゃもちろん前者に決まってる。 驚き過ぎて、嬉しさがまだ気持ちに追いついていないだけだ。 でも、その前に。 なんで俺、かなでさんに告白されてるんだ? 「俺……さっき、かなでさんに言いませんでしたっけ」 「何を?」 「だから、好きだって」 「言った」 深々とうなずいた。 「間違いなく、聞いた」 「だったら、答えは言わずもがなというヤツでは……」 「そ、そうなんだけど! いろいろあるんだよ、順序ってものが」 「順序ですか」 「うん」 「さっき、わたし逃げちゃったでしょ?」 「せっかくこーへーが告白してくれたのに」 言葉を切ってから、続ける。 「すごく失礼なことしちゃったよね、わたし」 「でもね、本当は嬉しかったの」 「嬉しかったから……逃げた」 そう言って、視線を落とした。 「お姉ちゃんって、その……私がね、孝平くんのこと好きだって思い込んでて」 「だから、自分が身を引こうとしたんだと思う」 やっぱり、陽菜の言った通りだったのだ。 かなでさんは陽菜のことを思うあまりに、俺から逃げた。 「あの、しつこいようですけど」 「陽菜とのことは、誤解ですから」 「うん……ひなちゃんにもそう言われた」 「もっと、自分の気持ちに素直になれって」 「もう我慢しなくていいんだよ、って」 かなでさんは、ぱっと顔を上げる。 「だからわたし、こーへーにちゃんと気持ち伝えようって思った」 「自分の言葉で、今度はわたしから告白しなきゃって思ったの」 大きな瞳が、俺をまっすぐに見つめている。 目をそらさずに、俺だけを見てくれている。 「こーへー……」 「わたしと、付き合ってください」 「お願いします」 ぺこり。 かなでさんは小さく頭を下げた。 「かなでさん……」 指先から、身体がじんわりと暖かくなってくる。 ようやく嬉しさが実感として湧いてきた。 張りつめていた気持ちが、ふっと楽になる。 ……よかった。 これから毎日、かなでさんと一緒にいられるんだ。 以前みたいに、一緒に笑うことができるんだ。 その事実が何よりも嬉しい。 「俺の方こそ、よろしくお願いします」 かなでさんに倣って頭を下げた。 「い、いえいえ、こちらこそ」 「いろいろとご迷惑おかけすると思いますけど」 「それはもうお互い様で」 なぜか、お互いかしこまってしまう。 きっと照れ隠しだ。 つい一時間ほど前までは、絶望的な気分で中庭に立っていた俺。 それが今では、ベランダの窓を開けて叫びたいほどハッピーになってる。 かなでさんを好きになってよかった。 こんなに満たされた気持ちを知ることができたから。 「……あは、あははは」 「なんか、告白するのって緊張するね」 「でしょう?」 「うん。口から心臓飛び出るかと思った」 「でもよかった。ちゃんと言えて」 「……そのわりには、いやいや俺の部屋に来たように見えましたけど」 はしごにしがみついていたかなでさんの姿を思い出す。 あれはどう見ても、陽菜に無理矢理下ろされている構図だった。 「あ、あれはね、違うんだって」 「わたしとしては、もっと時間が欲しかったの」 「心の準備とか、いろいろあるでしょ?」 「はあ」 「なのにひなちゃんったら、絶対今じゃなきゃダメだって言うんだよ」 かなでさんはため息をついた。 俺は陽菜に感謝しなければならない。 陽菜がけしかけてくれなかったら、眠れない一夜を過ごすハメになってただろう。 「でも、ひなちゃんのおかげだよね」 「ひなちゃんのおかげで、こーへーと普通に話できるようになった」 かなでさんは笑顔になった。 久しぶりだな、と思う。 最近はずっと、困ったような顔しか見てなかった。 「これからはちゃんとお茶会にも来てくださいよ?」 「きっとみんなに冷やかされるだろうけど」 「うぅ」 「人のこと冷やかすのは好きだけど、自分が冷やかされるのは慣れてないんだよね」 「たまには逆の立場になってみるのもいいんじゃないですか?」 「他人事みたいに言うねえ」 「俺はもう、とっくに覚悟してますから」 しばらくは、お茶会のネタにされるのは免れまい。 こうなったら、思いっきりのろけてやる。 みんなの前でいちゃいちゃしまくってやる。 ……ごめん。やっぱ無理。 「あ!!」 かなでさんは突然大きな声を出した。 「今日、何曜日だっけ?」 「火曜日ですけど」 「うああ、『横綱刑事』の日だよっ」 「危ない危ない、すっかり忘れるところだった」 「大丈夫ですよ、忘れても」 「ちゃんと全部録画してますから」 「え? そうなの?」 「そうですよ」 「いつか、かなでさんと一緒に観ようと思って録っておいたんです」 一人で観る気にならなくて、ずっと録りためておいたのだ。 「今、一緒に観ません?」 「ここ数週間くらい観てないんで、そこからでよければ」 「観る観る!」 俺はリモコンを取り、テレビのスイッチを入れた。 ハードディスクのライブラリから、まだ観ていない回の『横綱刑事』を選択する。 おなじみのテーマ曲『ちょんまげダンディズム』が流れ始めた。 「スーツの下に〜まわし〜を〜締めて〜♪」 「男と〜女の〜猫だまし〜♪」 かなでさんの、やや調子っぱずれな歌声。 その歌声がなんとも心地いい。 「ん? 何ニヤニヤしてるの?」 「してました?」 「うん」 「それは、あれですよ」 「かなでさんがかわいいからです」 「!!」 驚き、そして真っ赤になる。 わかりやすい反応だ。 「かなでさんがかわいいからです」 「二回言わなくていいから!」 「うああぁ〜〜〜〜」 呻きながら、ゴロゴロとのたうち回っている。 「腹でも痛いんですか?」 「恥ずかしがってるんだってば!」 そうだったのか。 俺はこみ上げる笑いを噛み殺した。 この人は、本当に見てて飽きない。 反応がいちいちかわいくて、もっといろんなことを言ってしまいたくなる。 「もう、ちゃんとドラマに集中してよね」 「すみません」 「つぎにヘンなこと言ったら、デコピンするから」 「ヘンなことって、例えば?」 「例えば、その……」 「かわいい、はダメなんですよね?」 「だ、ダメ」 「じゃあ……」 「かなでさん、大好きです」 「っ!」 「一番好きです」 改めてそう思う。 いつまでも、隣でずっと見ていたい。 そう思える程度には好きになってしまった。 我ながら重症だ。 「デコピンしないんですか?」 「す、するよっ」 「はい」 素直におでこを差し出した。 「言っとくけど、わたしのデコピン痛いからね」 「後悔したって遅いんだから」 「後悔なんかしません」 「好きです、かなでさん」 「う……」 デコピンの形を取るその手を、しっかりと握った。 大きな瞳がゆっくりとまばたきする。 緊張しているのが伝わってきた。 俺の緊張も、きっと伝わっていることだろう。 「わたしも……」 「好き」 「一番好き」 そう小さく言ってから、笑った。 ぎゅう、と胸を締めつけられる。 息苦しくなるほど幸せだった。 「あはは、こーへーにつられて、わたしまでヘンなこと言っちゃった」 「デコピンしてもいいよ?」 「じゃあ、遠慮なく」 渾身のデコピン。 「あっ」 ……をすると見せかけて、キスをした。 不意打ちのキスだったのに、かなでさんは怒らなかった。 温かい唇。 震えるまつげ。 細い手首。 何もかもが愛おしい。 「んっ……」 BGMが男臭いテレビドラマってところが、ちょっとムードに欠けるけど。 俺は、この人の前でなら楽になれる。 本当の自分でいられる気がする。 気取らずに、同じ歩幅で歩いていける。 一緒に歩いていきたい。 心からそう思った。 翌日。 久々にお茶会メンバー全員が集まった。 なぜかテーブルには、大きなホールケーキが一つ。 ご丁寧にロウソクまで刺さっている。 「今日、誰かの誕生日だっけ?」 「いいえ?」 「でも、おめでたいことには変わりないわよね」 「そうですね」 「うん」 司もうなずく。 「……ふうん」 「じゃあ、ロウソクの火は悠木先輩に消してもらいましょうか」 「えぇっ、わたし!?」 「孝平くんと一緒でもいいよ?」 「俺?」 なんで? 「あ、その方がいいわね」 「カメラの準備はばっちりです」 「クラッカーもな」 「オーケー。じゃあ、せーのでいくわよ?」 「えっ、ちょ、ちょっと」 「せーのっ」 「支倉くん、悠木先輩、おめでとうございまーす!」 「おめでとう!」 「おめでとうございます!」 「おめでとう」 クラッカーが乱れ飛び、カメラのフラッシュがばしばしと光る。 「お二人とも、カメラに目線をください」 「え? えぇっ?」 「ほら、火消さないと!」 「あ、ああ」 慌ててロウソクに息を吹きかけ、火を消す。 盛大な拍手が部屋に響いた。 ……どうやらみんな、俺とかなでさんのことを祝っているらしい。 ある程度の反応は覚悟していたが、ここまで華々しく祝われるとは。 「驚いた?」 「驚くよ!」 「ふふ、それなら大成功」 「ちなみに、発起人は妹さんですよ?」 「で、ケーキを買ってきてくれたのは八幡平君」 司もグルか。 学校では、そんな素振りをまったく見せなかったのに。 「……やられた」 「おめでたいことは、みんなで共有しないとね」 「そうそう」 「本当は、学食を貸し切ってパーティーでもやろうかと思ったんだけど」 「それだけは勘弁してくれ」 「って言うと思って、こじんまりとやることになったわけ」 「そうだったんだ……」 かなでさんの目が、感極まったように少しだけ潤む。 が、すぐに笑顔になった。 「いやー、わたしは学食パーティーでもよかったけどね?」 「俺は無理です」 「なんで? 恥ずかしい?」 恥ずかしくないわけがなかった。 「芸能人じゃなくて一般人なんですよ、俺たち」 「でも悠木先輩は、この学院では有名人です」 「そうよ。それに、支倉くんも十分有名だと思うけど?」 「んなわけないし」 名物寮長に比べれば、俺など無名中の無名だ。 というか、それでまったく問題がない。 「もう、照れない照れない」 「照れてない」 「またまた。顔赤いわよ」 「ねー、みんな?」 「うん。赤いかも」 「ちょっと赤いです」 「赤いな」 「あはは、真っ赤だ!」 あんたが言うなっ。 俺は頭を抱えた。 ……恥ずかしい。 やっぱ恥ずかしすぎるぞ、この状況。 「ごちそうさまでした」 小さなパーティーが終わり、そろそろお開きの時間となった。 「じゃあ、また明日ね」 「おやすみなさい」 「おやすみなさいませ」 「お疲れ」 「また明日ー♪」 「ういーっす」 「って、悠木先輩も帰るんですか?」 「へ?」 かなでさんはきょとんとした顔になった。 「あ、いえ、だってほら」 「ねえ?」 副会長はちらりと俺を見た。 いやいや、そんな目で見られても。 「お姉ちゃんは、もうちょっとゆっくりしてったら?」 「二人とも忙しいから、なかなか会う時間も取れないだろうし」 ズバリと陽菜は言う。 「えっ……あ、いや、その」 「わたし、これから寮の仕事しなくちゃいけないんだ」 「え? これから?」 もう七時過ぎている。 「うん。備品関係のチェックを済ませとこうと思って」 「明日でいいじゃないですか」 「今日できることは今日済ませておくのが、わたしのポリシーなわけよ」 「っていうか、一度寝ちゃうと全部忘れちゃうんだよね」 「でも……」 やっぱり、かなでさんは働き過ぎだと思う。 そのうち倒れちゃうんじゃないかと心配になる。 「はぁ……寂しそうな顔しちゃって」 「そ、そういうわけじゃ」 「さーて帰ろ帰ろ」 「また明日ね」 「それでは」 「じゃ」 ばたん 無情にもドアが閉められた。 俺とかなでさんだけが取り残される。 「あはは……置いてかれちゃった」 「なんか照れるね、こういうの」 「気を利かせてくれてるんでしょうけどね」 俺は肩をすくめた。 「ごめんね」 「ホントは、もうちょっとゆっくりしたいんだけど……」 「ええ、大丈夫です。わかってますから」 かなでさんは、自分の仕事を疎かにする人じゃない。 だから俺も引き留めない。 例え、もうちょっと一緒にいたいと思っても。 「……」 「どうしました?」 「う、うん」 「こーへーは、わたしのことわかってるんだなーと思って」 「そりゃそうですよ。ずっと見てたんですから」 堂々と言った。 すべてを理解してるとまではいかないけど、それなりにはわかってるつもりだ。 わかってるから、好きになった。 「……こーへーって、そーゆーキャラだったっけ?」 「そーゆーキャラとは?」 「なんていうか、こう、ほら」 「全体的にあまあまキャラになってない? 全体的に」 言いながら、両手で自分の頬を押さえた。 ものすごく恥ずかしがっているようだ。 「俺のせいじゃないです」 「かなでさんが言わせるんでしょう、いろいろと」 「ああっ、人のせいにした」 「だって本当のことだし」 「わたし悪くないもんっ」 「誰も悪いなんて言ってないし」 「くうぅっ」 「もう帰る」 「またすぐ逃げる」 「逃げてなんか……っ」 ムキになるかなでさんの腕をつかみ、こっちに引き寄せる。 ぎゅっと抱きしめてみたりして。 「わっ、わわっ」 「もう、逃げないでください」 「置いていかれるのはあんまり好きじゃないんです」 「う……」 「やっぱり、あまあまだ」 「そーゆーキャラは嫌いですか?」 「き、嫌いじゃない」 「……好き」 小さくつぶやいてから、俺の胸に顔を埋めた。 ふんわりとやわらかい髪が顎に触れる。 俺の腕にすっぽりと収まってしまう小さな身体。 「も……もうそろそろ行かなくちゃ」 「ひなちゃん、待ってるかもしれないし」 「すみません、引き留めて」 「ううん」 「……またね」 そう言って、頬にキス。 小さく手を振ってから、部屋を出て行った。 ……引き留めないつもりだったのに。 そばにいると、すぐに抱きしめたくなってしまう。 俺というヤツは、まだまだ修行が足りない。 期末テストが終わり、ようやく勉強漬けの日々から解放された。 梅雨明けはまだだが、空には晴れ間が覗いている。 なんの申し分もない清々しい一日だった。 ……目の前に積まれた大量の仕事を除いては。 「支倉、リストはできたか?」 「はい、あともう少しで」 「それが終わったら、悪いがこっちのリストも頼む」 「了解です」 試験疲れの身体を休める暇もなく、次から次へと舞い込む仕事。 なぜこんなに忙しいのか。 それは、文化祭まであと二ヶ月しかないからだ。 俺だけじゃなく、当然会長たちも慌しく働いている。 「報告書は一丁あがりっと」 「はい、ご苦労様」 「じゃあ次は、こっちに目を通してね」 どさっ 会長の机に、たちまち書類の山ができる。 「ははは、すごいな」 「エンドレスループだ」 「大丈夫よ兄さん。明けない夜はないわ」 「というわけで、今日中に頼むわね」 「やれやれだね。まったく」 さすがの会長も少々お疲れのようだ。 疲れたというより、「飽きた」といった方が近いかもしれない。 真面目に仕事をしている俺へと、にやにやした目を向けてくる。 「いい天気だね、支倉君」 「はあ」 「こんな日は、さぞかし天の川が綺麗に見えることだろうね」 「でしょうね」 そういや、今日は7月7日だ。 すっかり忘れてた。 「ふむ……そうか」 「君は愛よりも仕事を取る男なんだな」 「なんですかそれは」 「だって、今日は七夕だよ?」 「恋人たちのラブラブ記念日だよ?」 「はあ」 としか言えない。 「えっ、まさか、ノープランなのか?」 「ご明察です」 「あちゃー」 「あちゃー、と言われましても」 誕生日やクリスマスならともかく。 七夕って、そんなにビッグなイベントでもないだろう。 少なくとも俺は、これまであまり重要視したことがなかった。 「なあ瑛里華、聞いたか?」 「聞いたけど」 「どう思う? 彼の淡泊な発言を」 「さあ。普通じゃない?」 これまた淡泊な反応だった。 というか、仕事でそれどころじゃないといった様子だ。 「なんだかなあ」 「最近の若者は、みんな冷めてるな」 「年寄りみたいなこと言わないでくださいよ」 「ははっ。実際年寄りなんだけどね、俺は」 「まあ、頑張って早く仕事を終わらせたまえ」 「でないと、彼女に愛想尽かされちゃうかもしれないからね」 そう。問題はそこだ。 ようやく仕事が終わり、寮に帰ってきた。 マジで、このままだとかなでさんに愛想を尽かされかねない。 というのも、ここしばらく試験や生徒会の仕事で忙しかった俺。 加えて、かなでさんも寮長と風紀委員の仕事で多忙を極めている。 おまけに向こうは受験生だ。 そんな二人に、ゆっくりと会える余裕があるはずもなく。 せっかく付き合い始めたのに、ろくに顔を合わす間もないまま今に至る。 「駄目だよな、このままじゃ……」 俺はワーカホリックなサラリーマンではないのだ。 もっと学生らしい日々を謳歌しなければ。 俺は携帯を取り出し、かなでさんに電話をかけた。 「おーっす」 談話室のドアを開けると、かなでさんの元気な声に出迎えられた。 毎日電話で話しているのに、ものすごく久しぶりなように感じる。 「こんにちは」 「……で、何してるんですか?」 そこには、かなでさんの背丈の二倍はあると思われる笹があった。 葉っぱのあちこちに、色とりどりの短冊が飾られている。 「何って、今日は七夕だよ?」 「一年に一度の大イベントじゃない!」 「はあ」 「はあ、って!」 「やれやれ、最近の若者は冷めてるよね」 どっかで聞いたような台詞だった。 「もしかして、七夕を楽しみにしてたんですか?」 「あったりまえだよ」 「みんなに短冊書いてもらったから、今飾りつけしてるんだ」 ああ、そういえば。 1週間ほど前から、大量の短冊がこの部屋に置いてあった気がする。 あれはかなでさんが用意したものだったのか。 「ところでこの笹、どっから持ってきたんでしょう」 俺はそのバカでかい笹を見上げた。 「裏の山だよ」 「あ、言っとくけど、ちゃんと許可はもらってあるからね?」 そりゃそうだ。 「まさか、一人でここまで運んで来たんじゃないでしょうね」 「えへへ、すごいでしょ?」 得意げに返事をするかなでさん。 俺は深々とため息をついた。 「……どうして、俺に声をかけてくれないんですか」 「え?」 「力仕事は男の役目でしょうが」 「で、でも、そんなに重くなかったよ?」 「そういう問題じゃないんです」 どうしてこの人は、なんでも自分一人でやってしまうのだろう。 もう少し頼ってくれてもいいのに。 いや、俺自身が頼りないのか? 確かにその可能性は否定できないが。 「かなでさん」 「ん?」 「これからは、俺にもかなでさんの仕事を手伝わせてください」 俺は、かなでさんの手を取った。 小さな手。 華奢だけど、働き者の手だ。 「寮長の仕事でも、風紀委員の仕事でもなんでもいいです」 「一人じゃ無理だと思ったら、遠慮なく言ってください」 「全力でかなでさんをフォローしますから」 そう言うと、かなでさんはじっと俺を見上げた。 「でも、こーへーだって、いろいろ忙しいし」 「そんなに負担かけられないよ」 「えーと、つまりですね」 なんと説明したらいいものか。 少し考えてから、続けた。 「要するに、俺は」 「仕事の手伝いにかこつけて、かなでさんに会いたいだけなんです」 「……え?」 「そういう不純な動機なんで、遠慮なく使ってください」 「いいですね?」 まったく、なんてことを言わせるのだ。 この人を前にすると、つい柄にもないことを口走ってしまう。 結果的に、赤面を余儀なくされることとなる。 「わ、わかった」 「わかってくれましたか」 「うん」 「こーへーの気持ち、すごく嬉しい」 「じゃあこれからは遠慮なく、こき使っちゃっていいんだね?」 「そこまでは言ってません」 「あれ?」 かなでさんは首を傾げた。 「……まあ、いいですけどね。こき使っても」 どうせかなでさんに頼まれたら、断れないのだ。 これが惚れた弱みというやつなのか。 「冗談だよ、冗談」 「こーへー、恥ずかしいこと平気で言うんだもん」 「本心ですから」 「ま、またそーゆーことをっ」 ばしばしばしばしっ。 平手で背中を連打された。 「はあ……」 「わたし、一応年上なのにぜんぜん余裕ないよね」 「俺だって余裕なんかないですよ」 そんなもん、1ミリもない。 俺が大人なら、もっといろんなことをスマートにできるのだろうか。 俺が、かなでさんより年上だったら……。 大して年なんか変わらないのに、しょうもないことを考えてしまう。 「ありがとね、こーへー」 「でもこーへーだって、仕事忙しい時はわたしを呼んでくれていいんだからね?」 「はい」 うなずいた。 お互い、助け合える関係。 支え合う間柄。 そうなれたらいいと思う。 「じゃあとりあえず今は、短冊の飾りつけをやっちゃいますか」 「手伝ってくれるの?」 「もちろん」 俺は胸を張って言った。 ……七夕か。 今日の天の川は、さぞかし美しいことだろう。 現金にも、そんなことを思う俺だった。 七夕の飾りつけが終わった頃には、もう夜になっていた。 頑張った甲斐あって、談話室を訪れた寮生たちには大好評。 かなでさんも嬉しそうだった。 部屋に戻る途中、ふと立ち止まって窓の外を見る。 夜空には、綺麗な天の川。 「……?」 そして、中庭に人影があった。 会長だ。 薄暗い中庭で一人、ケヤキを見上げている。 「会長?」 出入口のドアを開けて、声をかけた。 「ああ、支倉君」 「どうしたんですか? こんなところで」 「あっ、まさか……」 ケヤキに願い事でもしてたとか。 だとしたら、とんだ邪魔をしてしまった。 「なんだ?」 「俺が誰かと両思いになれますようにって、願い事でもしてたかと思った?」 「はい」 「ははははっ」 思いっきり笑われた。 「そうか。俺が神頼みか」 「そんなに切羽詰まった人生を送ってるように見えるんだ」 「いや、見えないですけど」 「会長が中庭にいるのなんて、珍しいから」 「あぁ、そういえばそうだね」 会長は笑いを噛み殺しながら言う。 「ちょっとね、調査してただけだよ」 「調査?」 会長はうなずき、ケヤキの根元を指さした。 「ほらここ」 「根元部分が腐朽して、空洞化しちゃってるんだよ」 薄明かりの中で目をこらす。 確かに、あまり栄養が行き渡っているようには見えない。 腐っているように見える部分もある。 「あの、けっこう深刻な状況なんでしょうか?」 「楽観視できる状況でないことは確かかな」 「とは言っても、素人判断だ。プロの意見を聞いてみないことにはね」 「プロって、樹木医さん?」 「そう」 「来週に診てもらえることになったんだ」 「その時に、結論が出るってこと」 結論。 会長はそう言った。 ケヤキの病気が治るのか、そうでないのか。 ……もし、そうでなかったら? その時、このケヤキはどうなるんだろう。 「やっほーーーーーーーー!」 青い空と白い雲。 そして、見渡す限りの大海原。 海水浴日和となった今日、お茶会メンバーたちは海に来ていた。 いつか副会長が企画したイベントが、ようやく実現の運びとなったのだ。 「うーん、気持ちいい」 「晴れてよかったわね」 「だな」 日曜日なので、ビーチはそこそこ賑わっていた。 沖の方には白い帆が並んでいる。 ようやく夏が来たという感じだ。 「じゃ、荷物はここらへんに置こっか」 「はい。シート出しますね」 レジャーシートを敷いて、陣地を確保。 海の家でパラソルも借りてきた。 「更衣室ってどこかな?」 「あっちにあった」 「じゃあ、行きましょうか」 「うん」 「やっほーーーーーーーー!」 「……」 沖に向かって雄叫びをあげている悠木かなで。 謎の行動だ。 「いくら呼んでも、やまびこは返ってきませんよ」 「わかってるもん。試しただけ」 なんだそりゃ。 ますます謎。 「お姉ちゃん、着替えに行くよ」 「了解!」 「それじゃ女性陣の皆さん、かなで隊長に続けーっ」 荷物を持ち、意気揚々と歩いていく。 「そっちじゃないよ、お姉ちゃん」 「ありゃ、失礼」 「こっちです、悠木先輩」 「おっけー!」 「みんな、えりりん隊長に続けーっ」 「おー!」 「お〜っ」 「おーっ」 ……。 「寮長、テンション高いな」 「いつものことだが」 「まあな」 きっと、今日という日をめちゃくちゃ楽しみにしていたのだろう。 昨日はあまり寝ていないに違いない。 充血した目が何よりの証拠だ。 「腹減ったな」 「昼飯何食う?」 「まだ10時だぞ」 「もう10時だ」 「えばるなよ」 「昼になったら起こしてくれ」 「あ」 司はシートに横になり、目をつぶってしまった。 なんて不健康な男なんだ。 ……。 まあいい。こいつに荷物番を任せてしまおう。 「おっまたせー!」 しばらくして、女性陣が更衣室から戻ってきた。 「あれ? へーじ寝てるの?」 「荷物番をしてくれるらしいです」 「おおー、感心感心」 「でも、いいんでしょうか?」 海に学校指定水着で来るとは、やるな白ちゃん。 「昼まで寝てるらしいから、いいんじゃないか」 「あとで、みんなでお昼ご飯おごってあげましょ?」 「うん、そうだね」 ということで話がまとまった。 ……。 いや、それにしても。 水着姿の女子が四人。 なかなか贅沢なシチュエーションではないだろうか。 副会長は非の打ち所がないスタイルだ。 周囲の男たちの視線を、一身に集めている。 だが、隣の陽菜も負けてない。 副会長ほどグラマラスではないが、すらりと均整の取れたスタイルだ。 対する、白ちゃん&かなでさんは……。 「何?」 「はい?」 「今、心の中でグループ分けしたよね? 明らかに」 「しないですって」 堂々と嘘をついた。 「つまり、お子様だって言いたいのかな?」 「誰もそんなこと言ってないじゃないですか」 「怪しい!」 「ガルルルルル」 「お、お姉ちゃんっ」 「かなで先輩っ」 やばい、怒ってる。 別の話題にシフトしなければ。 俺は慌ててそばにあったビーチボールを手に取った。 「かなでさん、ほら」 「ビーチバレーやりましょう、ビーチバレー」 「やるやる!」 あっさり食いついてきた。 「いっくぞ〜」 俺からボールを奪い取り、砂浜をダッシュする。 まるで子鹿のように機敏な走りだ。 「受けてみよ、かなでタイガーアタック!」 「とあああっ!」 バシッ! って、もう始まってるのかよっ。 「私に任せて!」 副会長が鋭いアタックへと走り込む。 バシッ! 副会長の驚くべき反射神経により、ボールは宙へと大きく飛んだ。 「千堂さん、ナイス!」 「ナイスフォローですっ」 「ふふふっ」 「ぬうううう、敵ながらあっぱれ!」 「悠木先輩、行きますよ!」 副会長はボールを高く頭上に投げ、しなやかにジャンプ! 「とあっ!」 バシッ! 「わわわっ」 ボールが鮮やかな軌跡を描いて飛んでいく。 必死で追いかけるかなでさん。 その時、大きく風が吹き、ボールが波打ち際へと煽られる。 「わーーっ!」 ざっばーんっ! 「かなでさん!」 「お姉ちゃん!」 かなでさんはボールもろとも、頭から海に突っ込んだ。 ワイルド過ぎるダイブだ。 「悠木先輩、大丈夫ですか?」 「あはは、大丈夫大丈夫」 にっこりとVサイン。 水に濡れた肌が、光を浴びてきらきらと輝いている。 ……確かに、小柄で幼い身体つきではあるけれど。 決して色気がないわけではなくて。 髪をかきあげるしぐさや、ちらりと見える胸の谷間。 白いうなじなんかに、どうしても目を吸い寄せられてしまう。 「みんなもおいでよ、気持ちいいぞ〜」 「行こうか?」 「うんっ」 「はいっ」 「おう」 みんなで一斉に走る。 俺もかなでさんに負けじと、ダイナミックなダイブを披露した。 ざっばーんっ! 「わあぁっ!」 大きな水しぶきが、かなでさんを襲う。 「こら、こーへー!」 「あ、すみません」 「小さいから気づかなくて」 ざばばばっ! 「げふっ、げふっ」 激しく水をかけられた。 「なんか言った?」 「いえ、何も」 笑顔に笑顔で返す。 「似合ってますよ、水着」 「ほんと!?」 「……ほんとに?」 「かなでさんにお世辞言ってもしかたないでしょう」 「でも、ちょっと子供っぽくないかな」 「そんなことないです」 俺は首を振った。 本当に、よく似合ってると思う。 似合ってなかったら、こんなにドキドキしない。 「えへへ」 「やだなーもう!」 ばしばしばしばしっ。 かなでさんは容赦なく俺の背中を叩く。 「痛い痛い痛い」 「えへへへ、こーへーったら」 ばしばしばしばしっ。 「痛いです、かなでさんっ」 「……」 「……」 「……」 「な、なんだ?」 気づけば、みんなが俺たちを見ていた。 とても生温かい視線だ。 「私たちのことは気にしないで、続けて?」 「邪魔はしないよ?」 「そ、そーゆーんじゃないからっ」 「じゃあ、私たちはこっちでボートに乗って遊びましょうか」 「そうしましょう」 「お供します」 「待て待て待て待て〜っ」 なぜか背泳ぎで、みんなを追いかけていくかなでさん。 ぜんぜん違う方向に流されてるし。 「いたたたたたた」 「あーあ、真っ赤になっちゃってるよ?」 日が傾き、海が夕焼け色に染まる頃。 俺たちは海浜公園のカフェでお茶をすることにした。 かなでさんは日焼け止めを塗り忘れたらしく、全身真っ赤だ。 歩く火ダルマ状態になっている。 「日焼け止め塗らずに泳ぐなんて、自殺行為ですって」 苦言を呈すると、かなでさんは口を尖らせた。 「でも、みんなだって塗ってなかったよ」 「みんなは寮を出る前からばっちり塗ってるの」 「海に行くんだもの。普通はそうするでしょ?」 「うぅ」 「寮に帰ったら、ちゃんと冷やした方がいいですよ」 「八幡平君もね」 「まったくだ」 司の足も見事に赤い。 それも、膝から下部分だけがくっきりと。 ビーチで居眠りする時は、気をつけないとダメだ。 「やったねへーじ、おそろいだ」 「はあ」 ぜんぜん嬉しそうじゃない。 「あいたたたたた」 「かなで先輩、アロエジェルお貸ししましょうか?」 「日焼けしたところに塗ると、ひんやりして気持ちいいですよ」 「おおぉ、ありがとうしろちゃん」 「どういたしまして」 「あとで、支倉先輩に塗ってもらってくださいね」 「え?」 「?」 ……。 微妙な間があった。 おそらく白ちゃんは、ただ何気なく言っただけなのだろう。 それはわかっている。 だが、ドキリとさせられたことは事実で。 「あは、あははは」 「うん、えっと、ひなちゃんに塗ってもらおうかな?」 「? はい」 「その前に、水風呂に入らないとね」 「やだよ、冷たいもん」 「冷たくても入らなきゃ駄目」 「ええぇ〜」 「だーめ」 「ふふふっ」 みんなが笑い、俺も笑った。 まだドキドキしてることを悟られないように。 「はぁ……今日は楽しかったねえ」 「またみんなで来られるかな?」 夕日を見つめながら、しみじみとかなでさんは言う。 「もちろんです」 「でも、たまには二人で遊びに来てもいいんじゃないですか?」 「二人?」 みんなの視線が、俺とかなでさんに集まった。 「俺と司か?」 「なんでだよ」 「わたしとひなちゃん?」 「違うでしょ」 「はいはい、二人とも照れない照れない」 「失礼しました」 「失礼しました」 「デートとか、しないの?」 真顔で聞かれた。 もちろん、したいに決まっている。 だが、なかなか時間が取れないというこの現実。 かなでさんは俺に輪をかけて忙しい身だ。 今日だって、たまたま二人の予定が合ったから出かけることができたのだ。 だけど。 「近々するよ」 「ねえ、かなでさん?」 「え……」 「いいの?」 「ええ。どこへでも」 「ハワイでも?」 「国内でひとつ」 「できれば島内で」 「おっけー!」 とびっきりの笑顔で答えた。 「よかったね、お姉ちゃん」 「うんっ」 「デ〜ト〜デ〜ト〜♪」 「ハワイでデ〜ト〜♪」 だから、ハワイは無理です。 夜。 誰もいない談話室で、写真を眺めていた。 先日の海水浴で撮った写真だ。 みんながはしゃいでる姿や、司の寝顔。 それに、水着姿のかなでさんと俺のツーショット。 我ながらなかなかいい写りだ。 「……」 俺はポケットから生徒手帳を取り出した。 中には、バーベキューの時のツーショット写真が挟んである。 実はこっそり持ち歩いてたり。 なんてことは、かなでさんには恥ずかしくて言えないけど。 「支倉君」 「!?」 いきなり背後から話しかけられ、俺は慌てて写真を隠した。 振り返ると、紅瀬さんが立っている。 ……びっくりした。 まったく気配がなかった。 「これ、そこに落ちてたけど貴方の?」 「え?」 一枚の写真を手渡された。 得意げに肉を焼いている会長の写真だ。 そういえば、この写真も生徒手帳に挟みっぱなしだったことを思い出した。 「ああ、俺のだ」 「どうもありがとう」 「……」 「どういたしまして」 そう言って、紅瀬さんは窓際の席に座った。 今、妙な間があったよな。 なんだろう。 ……。 …………。 「あっ」 俺はソファーから立ち上がった。 「紅瀬さん、違うから」 「この写真、そういう意味じゃないから」 「そう」 短く返された。 「誤解してないか?」 「何を?」 何を、と言われても。 「この写真はたまたま持ってただけで、その」 「安心して」 「誰にも言わないから」 「だからそーじゃなくてっ」 ばたんっ 「あーよかった、テレビ空いてるよ」 「ラッキー♪」 その時、女子たちがわらわらと談話室に入ってきた。 「やっぱさ、大画面に限るよね」 「部屋のちっちゃいテレビじゃ観た気しないもんね」 リモコンを取り、テレビの電源を入れる。 紅瀬さんは興味なさそうに、ぷいっと窓の外を向いた。 ……はたして誤解は解けたのだろうか。 だが、念を押すのもはばかられる雰囲気だ。 俺は諦めて、談話室から出ようとした。 ばたんっ 「あれ? テレビ」 と、その時、今度は男子たちが談話室に入ってきた。 「今週は俺たちの番だったじゃないか」 「え?」 「今週は私たちの番だよー。先週そう言ったでしょ?」 「言ってないし聞いてない」 「ちゃんと言いました。それに、私たちの方が先に来たんだから」 「待て、そりゃないだろー」 一気に殺伐とした雰囲気になってきた。 談話室では、たまにチャンネル権を巡る言い争いが起こる。 大きなテレビで好きな番組を観たい気持ちは、みんな同じだからだ。 「素直に諦めてよー、もう」 「不公平だっつの、それじゃ」 「どこがよ」 ばたんっ 「ちょっと待ったーっ!」 突如として現れたのは、我らが寮長。 悠木かなで、その人だった。 制服姿ということは、今学校から帰ってきたばかりなのだろう。 「寮長!」 「聞いてください寮長ー、この人たちひどいんです!」 「ひどいのはおまえらだろ?」 「そうだよ! いつもテレビ独占しやがって」 「なんですってー?」 「はいはい、みんな落ち着いて!」 「そんな風にケンカ腰で言い合っててもラチあかないでしょ?」 まったくもってその通り。 でも、この状況をどうやって収めるつもりなんだろう? ジャンケンなんて平和的な手段では、両者共に納得してくれなさそうな雰囲気。 「ねえ、何時からの番組が観たいの?」 「5時です」 「5時……あと15分か」 かなでさんは少し考えてから、ぽんと手を叩いた。 「よし、じゃあこうしよう」 「みんな、いったん廊下に出てくれる?」 「廊下……ですか?」 「いえーす」 「ほらほら、早くしないと5時になっちゃうよ。急げ〜!」 かなでさんに急かされ、みんなぞろぞろと廊下に出て行く。 いったい何をするつもりなんだ? 「こーへーもぼけっとしてないで、廊下に出る!」 「え、俺も?」 「そうだよ」 「あと、きりきりもね」 「……」 明らかに迷惑そうな顔。 「お願い、手伝って! すぐ終わるからさ」 「……はい」 紅瀬さんはしぶしぶといった様子で立ち上がった。 それから三分後。 「第一回! 寮長杯争奪☆廊下ぴかぴかリレー大会!」 「どんどんぱふ〜っ」 廊下には、早くも野次馬たちが集まっている。 かなでさんの提案した方法とは、こうだ。 直線で約40メートルの廊下を、男女にわかれてホウキ型のカーペットクリーナーでリレーする。 賞品は、もちろん5時からのチャンネル権。 ちなみに女子チームには、5メートルのハンデが与えられた。 スタート地点には俺、そしてゴール地点には紅瀬さん。 第三者にジャッジを任せることで、公平が保たれるというわけだ。 「え〜、妨害行為に及んだ場合は、その場で反則負けとなります」 「スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と勝負してください」 「押忍!」 「押忍!」 「がんばれ男子〜!」 「女子ー! 負けるなー!」 なんだか異様な盛り上がりだ。 俺が参戦するわけでもないのに、必要以上に力が入ってしまう。 「それじゃスターターの支倉こーへーくん、合図をお願いします!」 「了解」 よくわからないうちに重要な役割を任されてしまった。 俺はスタート地点に立ってから、深く息を吸う。 火花を散らす男子と女子。 緊張の一瞬だ。 「位置について」 第一走者がカーペットクリーナーを構える。 「用意」 まっすぐに前を見据え、腰を落とす。 「ドン!」 「うおおおおおおお」 「はあああああああ」 戦いの火蓋は切って落された。 鋭い走りを見せる女子を、ぐんぐんと追いつめていく男子。 勢い余って、女子の軌道がわずかにぶれてしまう。 「行ける行ける! 諦めるな!」 そうこうしているうちに、男子のカーペットクリーナーが第二走者に渡った。 女子、危うし! 「とあああああああ」 ようやく第二走者の女子にカーペットクリーナーが渡り、ぐんぐんと追い上げていく。 「おおお、速い! 女子速いぞ!」 「これはわからない展開になってきた〜っ!」 「ぐはぁっ、頼んだ!」 「任せとけ!」 いよいよ男子のアンカーにカーペットクリーナーが渡る。 その直後に、女子のアンカーにもカーペットクリーナーが渡った! 「行っけえええええ」 二人が並ぶ。 これは本当に読めない展開だ。 「おりゃあああああ」 「くはああああああ」 「……っ!」 紅瀬さんが身構える。 あと3メートル。 あと2メートル。 あと1メートル。 デッドヒートを繰り広げた二人が、いよいよゴールへと到達! 「ゴーーーーーール!」 「はぁ、はぁっ」 「はあぁ、はぁ、はー、疲れたーっ」 俺の位置から見ると、ゴールはほぼ同時だった。 やがて歓声が止み、視線が紅瀬さんに集まる。 「紅瀬審判、勝敗はいかに!?」 「……」 「僅差で女子チーム」 「なんと! 優勝は女子チームうぅぅっ!」 「やったーーーー!」 女子たちが抱き合って歓声をあげる。 まるでオリンピック決勝のような盛り上がりを見せていた。 「はい、というわけでチャンネル権は女子チームに渡りまーす」 「キミたち、異存はないね?」 「……ありませーん」 男子たちは、打ちひしがれたように崩れ落ちた。 「まあ、今回の勝負は女子に軍配があがったわけだけど」 「キミらも足腰鍛えて、次回のリベンジに備えるように!」 「押忍!」 自然と拍手が広がっていく。 なんだかよくわからないテンションだ。 ……しかしすごいな、かなでさん。 かなりの力技だが、無事に争い事が収束してしまった。 両者納得した上に、廊下が綺麗になるというオマケつき。 見事な大岡裁きと言えよう。 「こーへー、きりきり、協力してくれてありがとうね」 一仕事終えたかなでさんが、駆け寄ってきた。 「俺は別に、大したことしてないですよ」 「そんなことないよ。だいぶ助かった」 「もう帰ってもいいですか?」 「うん。お疲れ様」 「では」 長い髪をなびかせ、紅瀬さんはその場を去っていく。 ほんの少しだけ、微笑んで見えたのは気のせいだろうか。 「お疲れ様でした、かなでさん」 「さすが寮長、ナイスな判断でしたよ」 「あはは。でもちょっと騒がしくしちゃったかな」 「大丈夫でしょう。まだそんなに遅くないし」 それに、寮生みんなが一緒になって楽しめた。 もちろん、俺も楽しかった。 「……本当に、かなでさんはすごい人です」 「違う違う。みんなのノリがよかったからだって」 「あ、そうだ。協力してくれたお礼しなきゃね」 「いいですよ、そんなの」 「だめだめ。わたしの気が済まないの」 「細かい仕事終わったら部屋に持って行くから、ベランダの鍵開けといて」 「はあ」 「じゃ、あとでね〜♪」 かなでさんはスキップしながら去っていった。 なんだろう、お礼って。 以前もらった石狩ラーメンだろうか? 「ふわあぁ〜」 本日の課題はこれにて終了。 窓の外は、もう暗くなっていた。 俺は大きなあくびをしながら、テレビの前にごろりと横たわる。 ……。 かなでさん、まだ来ないな。 仕事が立て込んでいるのだろうか? 忙しい時は手伝うから声をかけてくれと言ったのに。 それでも一人で頑張ってしまうところが、かなでさんらしいと言えばそうなのだが。 できれば、もっと頼ってほしい。 俺はかなでさんより年下だし、秀でた能力があるわけでもないけど。 ……。 俺が唯一誇れるのは、かなでさんを好きだという気持ちぐらいだ。 今はこの気持ちが、一番大切なもの。 強く強くそう思う。 ……。 横になっていたら、だんだん眠くなってきた。 かなでさんが来るまでは起きてないと。 起きてなきゃ。 ……。 …………。 深い眠りの中で、誰かの気配を感じた。 目を開けなくても、誰かがすぐそばにいるのがわかる。 温かい気配だ。 そこにいるだけで、心が凪いでいくような。 誰? 俺の髪を撫で、頬にキスをするのは── 「……」 少しずつ目を開ける。 ぼやけた視界が、だんだんと明瞭になっていく。 「……」 「……」 かなでさん? 寝起きでうまく頭が回らない。 ここは、たぶん俺の部屋だ。 どうしてかなでさんがここにいるんだろう。 ……。 ああ、そうだ。 お礼を持ってくるとかなんとか言ってたっけ。 「こーへー……」 もう一度、頬にキスされる。 触れた場所が熱を帯びていく。 心がとろんと溶けていく感じ。 気持ちいい。 俺はゆっくりと手を伸ばし、かなでさんの頬に触れた。 「あ」 「ご、ごめんね。起こしちゃった?」 離れようとするかなでさんの腕をつかむ。 そのまま引き寄せ、キスをした。 「ん……」 背中に手を回し、抱きしめる。 じんわりと染み入るような温かさだ。 このまま、ずっとこうしていたいと思う。 「ん……くっ……」 どちらからともなく、唇を開いていく。 舌先が触れ合った。 頭の芯が、ぎゅっと絞られるような感覚。 「ふぅ……んんっ」 「かなでさん……」 逃げる舌を追い求めるようにして、キスを繰り返す。 熱い口内はたっぷりとした唾液で潤っていた。 舌で歯茎をなぞり、唾液を絡め取る。 小さくついばみ、吸いついていく。 「こ、こーへー……?」 かなでさんの唇が、戸惑い震えていた。 でも、抵抗はしない。 それをいいことに、さらに唇を貪っていく。 ……やばい。 思考回路もろとも、脳髄が溶けていきそうだ。 もう何も考えられない。 「ん……んぅ、んちゅ」 「かなでさん……好きです」 キスをしながら、首筋を撫でる。 耳たぶが熱い。 ドキドキが伝わってくる。 俺の心臓も、もう爆発寸前だ。 「あふ……っ」 耳たぶをそっと甘噛みする。 切なげな声をあげながら、かなでさんは俺に体重を預けてきた。 「だ……だめ」 「これ以上は、だめだよ……」 わかってる。 これ以上触れたら、もう自分を制御することなんてできない。 俺はただ、かなでさんにキスしたかっただけだ。 キスして、抱きしめて。 それだけのつもりだったのに── 「あっ」 床に、かなでさんを押し倒す。 かなでさんは驚いたように俺を見上げていた。 「ど、どうしたの?」 本当に、俺は何をしているのだ。 自分で自分が謎だ。 寝惚けてるのか? なぜかなでさんを組み敷いている? 「……すみません」 謝ってはみたものの。 かなでさんに触れただけで、どうしても反応してしまう。 このまま帰らせることなんてできない。 物わかりのいい振りなんて、できそうになかった。 でも……。 「こーへー?」 俺は唇を噛み締めた。 頭のどこかで、自分を制止する声が聞こえる。 衝動に走るな。 かなでさんが困ってる。 ……いったい、どちらの声に耳を傾ければいい? それがわからなくて、俺は再びかなでさんの唇に唇を重ねた。 「んく、んふぅ……はぅ」 差し出した舌に、おずおずと舌が絡んでくる。 抵抗するべきなのか、受け入れるべきなのか。 かなでさんの逡巡が手に取るようにわかった。 迷っているのは、俺だけではないのだ。 このままだと、どうなってしまうのかわからない。 わからないけど、その先にあるものを見てみたい。 そんな裏腹な気持ちで揺れている。 俺も、かなでさんも……。 「ちゅ……ふぅ、んはぁ」 「はぁ、んっ……こーへー……んくぅ」 「かなでさん……」 小さなキスを繰り返しながら、ベストのボタンを外す。 「……っ」 ぴくん、と細い身体が震えた。 かなでさんの甘いため息が、俺の理性をどうしようもなく乱していく。 「え……あっ……?」 ブラウスのボタンを外すと、小さなブラに包まれた胸が見える。 それほどボリュームはないが、愛らしい乳房だ。 俺はごくりと唾液を飲み込んだ。 「み、見ちゃだめ……っ」 「見せてください」 「だめっ」 恥ずかしそうに片手で胸を隠そうとするが、あまり意味をなさない。 頬がみるみると染まっていくのが、なんともかわいらしい。 「……ちっちゃいの」 「見ても、そんなに楽しいものじゃないの」 「いや、俺としては楽しい気が……」 かなでさんは気にしているようだが、俺にはサイズなんて関係ない。 ここにいる人が、かなでさんだということが大切なのだ。 かなでさんを形成する、何もかもが愛おしい。 「もっと、よく見せてください」 「かなでさんの全部が見たいんです」 「で、でも」 「わっ……ぁ……っ」 その小さなブラをたくし上げてみる。 ほどよい二つのふくらみに、薄桃色の突起。 想像以上にかわいい乳房だった。 「わ、わわ……っ」 「だめ、見ないで。恥ずかしくて爆発しそう」 「爆発されたら困ります」 「でしょ? だから、見ないでってば」 「かなでさん、着やせするタイプでしょう」 「もう、人の話を聞いてよぉ」 ブラから解き放たれた乳房は、みずみずしいハリを保っていた。 本人が気に病むほど小さくはない。 少なくとも、服の上から見るよりは立派な印象がある。 「あ……ひぁっ」 右側のふくらみを、手で包んだ。 くらくらするほどやわらかい。 指先が肌に吸いついていく。 「んぁ、はぁっ」 聞いたこともないような艶やかな声が鼓膜に届く。 女の子らしい、恥じらいの表情。 寮長としてのかなでさんからは、考えられないような色っぽい顔だ。 「こーへーの指、えっちだ……」 「触られると、ふにゃふにゃってなる……」 乳房を優しく撫で回し、突起部分を指で突いた。 控えめだったその部分が、少しずつ硬くなっていく。 「ひぅ、あぁ、あんっ」 肌全体がうっすらと汗ばむ。 よく目をこらすと、日焼けの跡があった。 先日の海水浴の時にできたものだろう。 「こーへー、電気を……」 消すわけにはいかない。 もっともっとよく見たいのだ。 「こーへー、今日はいじわるだよ?」 「好きな子には、いじわるしたくなるんです」 「うぅ、ずるい」 「あっ……んふぁ、あっ」 乳首をつまみ、コリコリと刺激を与え続ける。 俺の下半身は早くも熱く憤っていた。 欲望をぶつけてしまいたい気持ちを押えるために、深呼吸。 「……ひぁっ、ちょ、ちょっと待って」 「そ、そこは無理……!」 脚を抱え上げ、下着に手をかけた。 ためらいもなく、足首まで一気に剥ぎ取っていく。 「あぁ……!」 白い太腿とお尻があらわになった。 それに、ぽってりと充血した陰部。 乳房への愛撫で、すっかり潤っている。 「うぅ……無理だって言ってるのに……っ」 泣きそうな顔になった。 そんな顔すらもかわいいと思ってしまう俺は、ひどいヤツだ。 「綺麗ですよ」 「嘘」 「本当です」 「……本当に?」 「神様に誓って、本当です」 俺は、その小さな膝小僧にキスをした。 そのままふくらはぎへと、舌で線を描いていく。 「ふぁっ、くすぐったいよ……ひうぅっ」 つるりとした肌は、少しだけ汗の味がした。 表側から裏側まで、丹念にぺろぺろと舐める。 「ふぅ、んぁ、だめぇ」 「あの……シャワー浴びてから、再スタートっていうのは」 「却下」 「うぅ」 「このままがいいんです」 言いながら、じっとかなでさんの大切な部分を眺めた。 左右対称の陰唇の中心に、クリトリスが隠れている。 蜜にまみれたそれは、恥ずかしそうに身を震わせていた。 「やんっ……そんなに近くで、見ないで」 「あぁ、あくぅっ」 人差し指を、濡れそぼった割れ目にあてがう。 熱い。 感動すら覚えるほど、その部分は熱を持っていた。 「あっ、はあぁっ……!」 かなでさんは我慢できないというように腰をくねらせる。 俺はしっかりと脚を押さえ、指を動かしていった。 「ひぅ、あっ、だめ、恥ずかしいから、ほんとに」 少し動かしただけなのに、愛液がトロトロと流れ出してくる。 照明の下で粘膜が妖しく光り、目を離すことができない。 かなでさんって、感じやすいんだ。 まだ大して触れてもいないのに、もうぐちゅぐちゅになっている。 わざと、クチュッと音を立たせてみたり。 「ひああぁんっ」 陰唇に埋もれていたクリトリスが、だんだん膨らんできた。 愛液の甘酸っぱい匂いが鼻腔を漂い、下半身が熱くなる。 ゆっくりと指を上下に動かしながら、半開きになった唇にキスをした。 「ん、んぅ……ちゅ」 臆病な舌に舌を絡ませ、口内をすみずみまで探っていく。 キスをすればするほど、あそこの感度も上がっていくようだった。 溢れた愛液が太腿を伝う。 「あむ……こーへー……あぁ、んくぅ」 唾液を交換し合い、飲み込み、また舌を絡ませる。 緊張と興奮で、お互い汗びっしょりだ。 「うっ、んぁっ……ああぁっ……」 蜜壺に中指を少しだけ入れると、かなでさんの全身が震えた。 ……すごい。 粘膜が絡みついてくる。 「だめ……音、立てないで、ああぁっ」 「だって、こんなに濡れてるんですよ」 クチュゥッ 「やぁんっ!」 「ずるいよ……ずるいよこーへー」 「わたし、こーへーよりお姉さんなんだよ?」 「お姉さんの言うことは、ちゃんと聞かないといけないんだから」 こんな時だけお姉さんぶるのは、ずるくないのか? かなでさんには悪いけど、今は言うことなんか聞けない。 「あっ、こら……あふぁ、んんっ」 クリトリスの包皮を開き、先端を親指で刺激する。 俺の指に応えるようにして、どんどん硬さを増していった。 「ど、どうして言うこと聞いてくれないのよぉ……っ」 うっすらとピンクに染まっていく肌。 かなでさんに気持ちよくなってもらいたい。 その一心で、小刻みに蜜壺を愛撫していく。 「怒るよ、もう……あぁ、はあぁっ」 「いいですよ、怒っても」 怒るよと言いながら、こんなにあそこを濡らして俺の動きに応えてくる。 感じてくれているのだ。間違いなく。 「くっはぁ、ああ、やっ……あぁっ」 第二関節を少し曲げ、引っかけるようにして前後に動かす。 中にたまっていた蜜がトクトクと流れていく。 「ひあぁ、あっ、待って、ああぁっ、あっ」 鼓膜にやわらかく響く、かなでさんの声。 この声も吐息も肌も、全部俺だけのものだ。 「んぁ、あっ、こーへ……あぁ、あっ」 「ひうっ、んはぁ、ああぁっ、やんっ、んはぁっ」 かなでさんの声が少しずつ高くなっていく。 俺はさらに指を動かし、その熱と感触を味わった。 「ひんっ、あぁ、奥が、ヘンになってるよ……ああぁっ、あっ」 「やん、中が……あぁ、こーへー、ああぁっ」 内部の潤いが増し、太腿がガクガクと震える。 たまっている愛液を掻き出すようにして、中を弄っていく。 「あん、あぁっ、だめ、ねえ、待ってってば……はあぁっ……ひゃぅっ」 「待って、あぁ、だめぇ、ほんとに……ほんとに、ねえ、ああぁっ」 陰唇が痙攣し、赤みがよりいっそう鮮やかになる。 かなでさんは身体をしならせ、あそこにぎゅっと力を入れた。 「ふあぁ、ヘンなことに、なってるよっ……ああぁっ、やはぁっ」 「も、もう、あぁっ、やあぁっ、こーへー、んはあぁっ」 「ひあぁっ、だめぇ、あふあぁっ、んあぁ、も、もう、あああぁあぁっ……!」 全身がこわばり、秘所から愛液が噴き出す。 びくん、びくんと内部が蠢いた。 「ああぁ……あっ、はあぁっ」 締めつけが一瞬キツくなり、ゆっくりと力が抜けていく。 ……絶頂に達してしまったのだろうか? 陰部から指を引き抜き、かなでさんの顔を覗き込む。 「はぁ……あぁ……」 「大丈夫ですか?」 「う……」 「だいじょうぶ……じゃないかも」 放心した様子で、かなでさんは俺を見上げた。 「わたし、今、どうなってるの……?」 何がどういう状況になっているのか、自分でもよくわかっていないようだ。 「いっちゃったんですよね?」 「?」 「そ、そうなの?」 俺に聞かれてもわからないけど、客観的に見るとそういうことだと思う。 「なんか……身体がぎゅっと熱くなって」 「ふわって浮いて、どーんと落とされて」 「気づいたら、ここにいたの」 「それは……たぶん、いったってことではないかと」 「そうなんだ……」 はぁ、と息を吐いた。 「……すごいね」 「身体、つらくないですか?」 「うん、平気」 「ちょっとふわふわしてるけど、平気」 そう言いながら、かなでさんはわずかに上半身を起こした。 「……わ」 目を見開いて、固まる。 その視線は、俺の下半身辺りに注がれていた。 俺はとっさに、前屈みになる。 「なっ……えっ、えぇ?」 「見ないでください。恥ずかしいから」 「み、見るよ」 「そんなになってたら、見ちゃうよ」 そこは見て見ぬふりをしてほしいところだ。 俺の股間は、もうどうしようもないほど勃起してしまっている。 というか、この状況で勃起しない方がおかしい。 すこぶる健全で健康な男子の証だ。 「かなでさん」 「え」 「俺、かなでさんと……」 深くつながりたい。 かなでさんのすべてが欲しい。 本能の欲求を押し留めることは不可能だ。 「こーへー……」 かなでさんは潤んだ目を俺に向けた。 慈愛に溢れた、優しいまなざしだった。 そのまま小さいかなでさんを抱え、そっとベッドに運ぶ。 「……っ」 かなでさんの脚を大きく開かせる。 小さくヒクついた秘肉が、白日の下に晒された。 俺はズボンのベルトを外し、中からペニスを取り出す。 怒張を極めたそれは、先走りの汁で赤黒く光っていた。 「わ、わわ……」 ペニスを間近に見たかなでさんは、驚きを隠せない様子だった。 そんなに猛反応されると、ものすごく照れ臭い。 「こーへー、た、大変なことになってるよ?」 「そりゃまあ……男ですから」 ペニスに手を添え、先端を膣口にあてがう。 ぬちゅ……という音と共に、亀頭が半分ほど蜜壺に埋まった。 「くぅっ……!」 「う……ぁ……」 熱く潤ったそこに触れただけで、意識が遠のきそうになる。 ぬるぬるとした性器は、亀頭をむっちりと包んでいった。 「あ……入って……あぁ……っ」 かなでさんの腰がずり上がる。 きっと、痛くて痛くてたまらないのだろう。 「くぅ、うっ……んっ」 眉間に皺を寄せ、シーツをつかんでいる。 かわいそうになるぐらい、つらそうな顔だ。 「かなでさん……痛いですよね?」 「う……だ、だいじょうぶ……」 いや、絶対大丈夫じゃなさそうだ。 これ以上進んだら、壊れてしまいそうで。 「……だめ」 「やめちゃだめだよ」 「でも……」 「乗り越えたいの……こーへーと一緒に」 「こーへーのこと、好きだから」 涙ぐんだ目で、かなでさんはつぶやく。 「好きだから、もっと……」 「お願い」 ……そうか。 かなでさんは、もうとっくに覚悟を決めてくれていたのだ。 その気持ちに応えたい。 「うっ……」 腰を押し進め、さらに奥を目指す。 とても狭くて、これ以上は進めそうにない。 それでも、どうにか先に続く道を見つけていく。 「あぅ……うっ、はうぅ」 「かなでさん、力を抜いてください」 「あと少しですから」 「あぁ、ひぁっ、んっ……!」 じりじりとペニスを埋め込んでいく。 「ふぅ、んっ……あぁっ」 割れた陰部はとめどない愛液を流し、俺を受け入れる。 「……ああぁっ!」 やがて亀頭が、一番狭い部分を通過した。 腰と腰が密着し、ペニス全体がかなでさんの中に埋まる。 じんわりとした熱に包囲され、あまりの気持ちよさに一瞬声が出なかった。 「あぁ……、こーへー……っ」 「かなでさん、入りましたよ」 二人は完全に一つになっている。 喜びと達成感が、一気に湧いてきた。 「ふぇ……?」 「あ、あれが、入っちゃったの?」 「はい」 かなでさんは頭を少し上げて、自らの陰部を覗き見た。 「わ……っ」 「わたし、すごい格好してるよ……?」 真っ赤になって陰部を隠そうとするが、時すでに遅し。 もうすみずみまで、ばっちり見えてしまっている。 「うぅ……恥ずかしい」 「そろそろ観念してください」 「む、無理だよ」 「好きな人に、こんな恥ずかしい格好見られちゃうなんて……」 「好きな人って、俺ですか?」 「……ほかに誰がいるの?」 「いえ」 さらりと放ったその言葉が、やたらと嬉しかった。 好きな人。 かなでさんは俺のことを好きでいてくれる。 愛されているんだと、しみじみと思う。 「俺も、かなでさんのこと大好きです」 「一番……好きです」 「あぁっ……はうぁっ!」 ゆっくりとペニスを引き抜き、再びねじ入れていく。 愛液に混じって、一筋の血のようなものが流れた。 俺たちが一つになった証だ。 「ひぁ、あっ……動いてるよ……」 てらてらと光る陰部は、俺自身をぎゅうぎゅうと圧迫している。 二度と抜けないのではと思うほど、すごい締めつけだ。 こんな調子でずっと締めつけられたら、かなりやばいことになってしまう。 「こーへー、気持ちいい……?」 「はい……めちゃめちゃ気持ちいいです」 「気持ちよすぎて、困るぐらい」 「そ、そうなんだ……よかった」 「女冥利に尽きるってやつだね」 安堵したような微笑みを浮かべる。 まだ痛いだろうに、そんなことは口に出さない。 俺のために、痛みに耐えていてくれるのだ。 「動かして、いいからね」 「こーへーが気持ちよくなってる顔、見てみたいんだ」 「……はい」 かなでさんの優しさに応えるように、腰を前後に揺らした。 蜜にまみれたペニスを、リズミカルに秘所へと送り込んでいく。 「ふうぅ、うんっ……んっ」 苦悶の表情を滲ませながら、艶っぽい吐息を漏らす。 陰部はさらなる熱を持ち、蜜を溢れさせた。 「こーへーの、すごい……どんどん大きくなってるの、わかるよ」 ……不思議だ。 俺は、子供の頃からかなでさんのことを知っていて。 あの頃は、面倒見がよくて気のいいお姉さんでしかなかったのに。 今では恋人同士として身体を重ね合っている。 キスして、抱き合って、性器をこすりつけて。 お互い、すべてをさらけ出し合っている。 「あぁ、こーへー……あふぁっ、んんっ、あぁっ」 こんなにいやらしいかなでさんを知っているのは、世界で俺だけだ。 俺だけの、かなでさん。 「くぅ、んっ……はぁ、お腹の中、びくびくって、してる」 上下に揺れる乳房を、少しだけ強く揉み上げる。 やわらかなふくらみは、手の中で自由自在に形を変えていく。 「あっ……」 粘膜が棹部分にまとわりつき、絞り上げる。 さっきより、滑りもよくなってきた。 「ひぁ、はうん、んっ、ああぁっ、あぁっ」 ずちゅっ……ぬぷぅっ、ぬちゅっ…… 性器と性器のこすれ合う音が、少しずつ大きくなっていく。 額から流れた汗が、かなでさんの下腹部へと垂れていった。 「こーへー……ちゃんと顔見せて」 至近距離で見つめ合う。 「なんか、恥ずかしいんですけど……」 「我慢して」 「こーへーより、わたしの方が恥ずかしいんだからね」 「……はい」 「だから、こーへーもいっぱい恥ずかしくならないと不公平なの」 「ね?」 どういう理屈かわからないが、ひとまずうなずいておく。 「えっと……動かしてもいいんですか?」 「うん、いいよ」 「ねえ……わたしも、動かした方がいいのかな?」 ちょっと不安げにかなでさんは言う。 「いきなり無理しなくてもいいですよ」 「今は、俺に身を任せてください」 「ん……わかった」 「じゃあ、行きますね」 耳元で囁きながら、小刻みに腰を動かしていく。 「んっ、あっ……」 吐息で湿った唇が動いた。 「わ……奥まで、ちゃんと届いてるよ」 「ひぁ、あっ……くふぁっ」 快感が徐々に高まっていく。 全身が熱くなり、眩暈のような感覚を覚える。 「ぁっ……あぁ、わたし、ああぁっ、ひあぁ……っ」 「ねえ、わたしの中、すごいことに……なってるかもっ」 叩きつけるようにして、ペニスを最深部に押し込む。 背中をのけぞらして喘ぐかなでさんは、たまらなく淫らだ。 「んぁ、あぁ、あっ、ふああぁ……あっ、ひああぁっ」 「熱い……あぁ、こーへー、わたしどうなっちゃうの? あぁっ」 「力を抜いてください。その方が楽だと思います」 俺は奥歯を噛み締めて、ひたすらペニスを陰部にこすりつけていた。 「はん、ひあぁん、こーへー、すごく、気持ちよさそうな顔してる……」 「わたしの中に、入ってるから?」 「……そうです」 「かなでさんの中、すごくいいから……」 下腹部が燃えるように熱い。 限界が近づいている。 「こーへー、ああぁ、はあぁっ……あのね、なんか……」 「さっきの、来ちゃいそうだよ……んんっ、ふああぁっ、あふっ、んうぅ」 「かなでさん、俺も……っ」 「あん、んんっ……あああぁっ、あっ、あぁっ、ふああぁっ」 さらにかなでさんの脚を広げさせ、ずぶずぶと腰を前後させた。 「ふうぁっ、あぁ、一緒に……一緒がいいよ……あぁっ」 「俺も……一緒にっ」 「お願い、あっ、手、握って……ああぁっ、ふあああぁっ」 「ああぁ、あっ……んはぁ、やっ……ひあぁ、ああああああぁっ……!」 びゅくっ……びゅくうぅっ、びゅくううぅ! 快感が全身を駆け巡る。 かなでさんの内部へと、白濁液をぶちまけていく。 「はあぁ、ああっ……あふあああぁっ……」 かなでさんは荒い息を吐きながらベッドに沈んだ。 精液をすべて搾り取るかのように、膣内が締まる。 「はぁ、あ……はぁ……」 「はぁ、はぁ……かなでさん……」 まだペニスが、残った精を吐き出し続けている。 射精の余韻を味わってから、ゆっくりとペニスを引き抜いた。 「んっ……」 ペニスを抜くと、膣内からどろっと愛液が流れ出した。 けっこうな量だ。 「あ……シーツが……」 「ごめんね、汚れちゃった……」 「気にしないでください、そんなこと」 「いっぱい濡れたってことは、いっぱい感じてくれたってことですよね?」 「う……」 かなでさんは恥ずかしそうに目をそらした。 「あれ? 違いました?」 「ち、違くないけど」 「はあ……」 ぐったりとした様子で、ベッドに横たわる。 俺はそばにあったティッシュを取り、精液まみれになった陰部をそっとぬぐった。 「ひぁっ」 「ま、まだ、敏感になってる……」 ティッシュにはうっすらと破瓜の証が付着している。 かなでさんの初めてを、もらってしまった。 ……嬉しい。 俺にすべてを預けてくれたことが、何よりも嬉しい。 「ところでかなでさん」 「……え?」 「俺に、お礼するとかなんとか言ってませんでしたっけ」 「あー……」 焦点が定まっていない。 まだ絶頂の余韻に浸っているようだ。 「えっと……」 「忘れてきちゃったみたい」 なんだそりゃ。 「ごめんね」 「いや、それはいいんですけど」 一番大切なものをもらっちゃいましたし。 ……と返すのは、ちょっとオヤジっぽいのでやめておいた。 それにしても。 ちょっと性急過ぎただろうか、と思う。 なし崩し的に、こういう状況に持ち込んでしまった。 俺は本当に意志の弱い男だ。 「かなでさん……すみませんでした」 「……」 「かなでさん?」 「すー……すー……」 って、もう寝てるし! かなり疲れさせてしまったようだ。 俺は小さく息を吐いてから、かなでさんに布団をかけた。 ……。 じっと寝顔を見つめる。 長いまつげに、あどけない唇。 俺の隣で、安心したように寝息を立てている。 「かなでさん……好きです」 そうつぶやいて、目を閉じた。 かなでさんの寝息を、子守歌にして。 ピピピピッピピピピッ 「わっっっっ!!」 目覚し時計の音と、誰かの叫び声で目が覚めた。 俺は慌てて、ベッドから起き上がる。 「どこ? ここ、どこ!?」 「わぁっ、こーへー!」 「おはようございます」 あくびをしながら、朝の挨拶。 ……そうだ。 昨夜はあのまま、かなでさんと一緒に眠ってしまったのだ。 まさか朝までノンストップで寝てしまうとは。 「あああああ、どうしよう」 かなでさんは頭を抱えた。 「どうしたんですか?」 「どうしたんですか、じゃないよ」 「わたし、風紀委員なんだよ?」 「はあ」 「それなのに、それなのに……」 「男の子の部屋に、泊まっちゃうなんて!」 「……」 「黙ってりゃ、誰にもわかんないじゃないですか」 「こらー!」 ぺたしっ おでこになんか貼られた。 風紀シールだった。 「わたしにも貼って」 「はい?」 「いいからわたしにも、これ貼って!」 もう一枚、風紀シールを渡された。 これをかなでさんに貼れというのか? 「早く、早くしないと遅刻しちゃうよ」 「じゃあ、いきます」 「えいっ」 ぺたしっ 遠慮なくおでこに貼った。 「はあぁ〜」 「風紀委員が風紀シールもらっちゃうなんて、終わってるよ」 「白バイがスピード違反で捕まるようなものだよ」 微妙に間違ってるような。 「こうしちゃいられないっ」 かなでさんはばたばたと身支度を整えてから、ベランダの窓を開けた。 「邪魔してごめんね! さらば!」 「あっ」 非常はしごを下ろし、瞬く間に消えてしまった。 ……忍者かよ。 「ちわーす」 「あら、支倉くん」 放課後、いつものように監督生室にやって来た。 にっこにこの笑顔で俺を出迎える副会長。 「なんだ?」 「ふふふっ、ちょうどよかった」 「このリスト、全部データベース化してもらえる?」 「全部……」 20ページはありそうな書類を渡された。 頭がくらくらする。 「ごめんなさいね、急に」 「ほかに仕事が入っちゃったのよ」 「わかったよ。いつまで?」 「今日」 「はあ?」 副会長はスマイルを崩さない。 「厳密に言うと、あと4時間くらい」 「超特急コースじゃねえか」 「そこで支倉くんに白羽の矢が立ったわけなのよ」 「私もあとで手伝うから。頼んだわよ」 「……了解」 副会長の命令には逆らえまい。 なにせ、生徒会役員の中では俺が一番下っ端なのだ。 俺はさっそく席につき、パソコンの電源を入れた。 ……。 今日はやけに監督生室が静かだ。 と思ったら、俺と副会長しかいない。 「ほかのみんなは?」 「白はシスター天池のお手伝い」 「兄さんと征一郎さんは、穂坂ケヤキを見に行ってるわ」 「ケヤキ?」 「ええ」 「樹木医の武田先生がいらっしゃってるのよ」 「あぁ」 そういえば会長が、今週診てもらうと言ってたような。 「俺も行きたいな」 「その仕事が終わったらね」 「10分だけでもいいんだけど」 「却下」 「じゃあ15分」 「息の根止めるわよ」 副会長の目が赤く光った。 俺は大人しくパソコンに向き直り、ストイックに数値を入力していく。 ……。 「なあ」 「何?」 「あのケヤキ、大丈夫なのかな」 「大丈夫じゃないと思うわよ」 さらりと返された。 「もう生命力が感じられないもの」 「生きようとしてないのよ、あの木」 副会長はそう言って、再び書類に目を落とした。 結局、帰りはとんでもない時間になってしまった。 でも、残業手当代わりに晩飯をごちそうしてもらったからよしとする。 「……はぁ」 日に日に仕事量が増えているような。 夏休みもこんな感じなのだろうか。 忙しいのは構わないが、かなでさんと会えなくなるのは正直つらい。 とはいっても、俺以上にあの人の方が忙しいわけで。 俺が暇になったところで、なかなか会えない現実は変わらないのだ。 ……。 まあ、しかたない。 自分の責任を全うする人だからこそ、好きになった。 俺を優先して仕事をサボるような人だったら、たぶん今みたいな関係になっていない。 だから俺も、自分の仕事を頑張ろうと思えるのだ。 部屋に帰る前に、中庭へと足を向ける。 さすがにこんな時間には、会長たちもいないだろう。 そうは思いつつも、ちょっと気になっていた。 「もう生命力が感じられないもの」 「生きようとしてないのよ、あの木」 副会長の口調は、諦めを多分に含んでいた。 確かに、あのケヤキには生命力がない。 それは素人目に見ても歴然だ。 では、どうするのだろう? あのケヤキに再び生命を与えられるような、いい方法があればいいのだが。 中庭へと続くドアを開ける。 すると、そこに見慣れた人の姿があった。 「かなでさん」 「?」 「あ、こーへー」 薄闇の中で、目が合う。 ……。 ふいにフラッシュバックする、昨夜の出来事。 かなでさんの肌の感触や、甘い吐息。 乱れた髪や、細い腰のライン。 そういったパーツが断片的に浮かんでは、消えた。 「……」 緊張からなのか、照れ臭いからなのか。 一瞬、声が出なかった。 「……ど、どしたの?」 「い、いえ」 言葉少なく、かなでさんの隣に並ぶ。 かなでさんも、言葉を探しているような様子だった。 なぜか無言になってしまう二人。 「今日、帰り遅かったね」 口火を切ったのはかなでさんだった。 「生徒会の仕事が立て込んでまして」 「そうだったんだ」 「はい」 ……。 ぎこちない空気。 でも、決して不快ではない。 恥ずかしくて、くすぐったくて。 大事な秘密を共有しているような感覚。 ちらり、とかなでさんの横顔を盗み見る。 ……耳が赤い。 かなでさんも、俺と同じような気持ちでいるのだろうか? 「身体、大丈夫ですか?」 「身体?」 「ぜんぜん元気だよ?」 「いや、そうじゃなくて、昨夜の……」 「……ぁ」 俺の婉曲な表現に、かなでさんはさらに頬を赤らめる。 「うん、大丈夫」 「まだちょっと……痛い感じもするけど」 「すみませんでした」 「平気平気。ほんとにちょっとだけだから」 破瓜の痛みばかりは、男にはわからない。 ひたすら申し訳ない気分になる。 「そういえば、会長たち来ませんでしたか?」 「いおりん?」 「どうだろ。わたしが来たのは10分前ぐらいだから」 「そうですか」 やっぱり、とっくの前に帰ったんだろう。 明日にでも診察の結果を聞いてみるか。 「いおりんがどうしたの?」 「あぁ、実は今日、樹木医の先生が来たんです」 「このケヤキの診察をしに」 「えっ、そうなの?」 かなでさんの顔が、にわかに輝いた。 「診察の結果はまだ出てないのかな」 「明日聞いてみますよ」 「もしかしたら、ケヤキを元気にする方法がわかるかもしれませんね」 「だよね?」 「ああ……よかった」 かなでさんは一歩踏み出し、ケヤキに触れた。 愛おしむような、温かい目だ。 「この子に何かあったら、寮生のみんなが悲しむもんね」 「絶対元気になってもらわなくちゃ」 自分に言い聞かせるようにつぶやく。 俺はケヤキをゆっくりと見上げた。 カラカラに乾いた幹と、丸坊主の枝。 腐朽によって生じた空洞化。 植物は、愛情を注げば注ぐだけ応えてくれるというけど。 かなでさんの愛情は、この木にちゃんと届いているのだろうか。 それとも── 「かなでさん」 「ん?」 「前から聞こうと思ってたんですけど、どうしてかなでさんは寮長になったんですか?」 俺は尋ねた。 正直、寮長という仕事は、みんなが進んでやりたがるような類のものではない。 雑用も多いし、寮生たちのクレームにも耳を貸さなくてはならない。 面倒といえば面倒なことばっかりだ。 少なくとも、俺なら立候補しないだろう。 「憧れてたからだよ。寮長の仕事に」 「えっ」 予想外の答えが返ってきた。 「おかしい?」 「いや、おかしくはないですけど」 「素敵な先輩がね、いたの」 かなでさんは微笑んだ。 「今年卒業した、前寮長なんだけどね」 「わたし、その先輩が大好きだった」 懐かしむようにケヤキを見上げる。 「こーへーは今年転校してきたから、知らないと思うけど」 「その先輩、身体が弱くて学院休みがちだったんだ」 「でも学院が大好きで、寮のみんなが大好きで……」 「このケヤキを、誰よりも大切にしてた」 ……かなでさんは、その先輩のことを本当に慕っていたんだろう。 話し方で、その思いが伝わってきた。 「先輩がいた頃は、葉っぱもついてたんだよ」 「でもぜんぜん元気がなくて、先輩も困っててさ」 「それでね、わたしも一緒に世話をするようになったの」 「世話っていっても、水あげたり掃除したりとか、それぐらいしかできないんだけどね」 「じゃあその仕事を、かなでさんが受け継いだってことですか?」 「まあ、そういうこと」 「大好きだった先輩の代わりに、この寮とケヤキを守りたかったの」 「寮で生活する、みんなのためにもね」 そういうことだったのか。 なんとなく、納得した。 誰に頼まれたわけでもなく、押しつけられたわけでもなく。 かなでさんはかなでさんの意志で、この役割を志願したのだ。 やりたいから、やる。 自分のやりたいことがみんなの幸せにつながるから、やる。 ただそれだけのこと。 「だからね、この子を枯れさせたくないんだ」 「歴代の寮長みんなの願いが、この子に込められてるから」 「……」 俺は、かなでさんの手を握り締めた。 幸いなことに、中庭に来る人はめったにいない。 ここは薄暗いので、廊下からもよく見えないだろう。 「あの、質問なんですけど」 「えっ?」 「……その先輩って、男ですか?」 「?」 かなでさんは不思議そうな顔をした。 俺という男は、なんて器量の狭い人間なのだろう。 かなでさんが真面目な話をしているのに、そんな些末なことが気になってしまう。 恋人同士になったというのに相変わらず余裕がない。 「女の人だけど、なんで?」 ……はぁ。よかった。 「だったらいいんです。気にしないでください」 「気になるよ」 「そこをスルーしてくれと頼んでるんです」 「むむ?」 かなでさんは俺の顔を覗き込んだ。 「むむむ?」 「や、やめて」 「むむむむ?」 「もしや、そなた妬いておるのか?」 「誰なんですか、いったい」 「ええい、こっちを向けーい」 にやにやにやにや。 絶対からかわれてるし。 「ほんとに勘弁してください」 「勘弁しないよ?」 「だってこーへーがヤキモチ焼いてくれるなんて、激レアな体験だもん」 「レアでもなんでもないですよ」 「俺、そんなにクールな男じゃないですから」 きっと、嫉妬深い方だと思う。 かなでさんを好きになって初めて、そういう部分に気づいた 「心配しなくてもだいじょーぶ」 「わたしはずっと、こーへーだけのものだよ」 ぎゅっ。 かなでさんも、強く手を握り返してくる。 「こーへーのことが好き」 「こーへーじゃなきゃ、だめ」 「……ずっと、愛してね?」 背伸びをして、俺の耳元で囁いた。 温かい息がかかり、膝から崩れ落ちそうになる。 「……」 「あらら? 赤くなった」 まったく、けしからん人だ。 たった一言で俺をとろけさせるとは。 「こっちだって、やられっぱなしじゃないですよ」 「へ?」 「……ぁっ」 不意を突いて、唇を奪う。 ケヤキの木に隠れるようにして。 「んん……」 舌で唇を割り、腰を引き寄せる。 「んっ……ぁ……んふぅ」 「だめ、誰か来ちゃうよ……」 そんなこと構わない。 いつでも、どこででも。 かなでさんと触れ合っていたい。 「はう……んっ、んちゅ……」 たくさんのキスを降らせて、髪を撫でて。 月が一番高いところで輝くまで。 俺はずっとずっと、かなでさんを抱きしめていた。 終業式が終わり、明日からいよいよ夏休みだ。 クラスメイトたちの顔は皆明るい。 遊びや旅行の計画に、心躍らせていることだろう。 俺にはあまり縁のない話だ。 「司ー」 「あ?」 「おまえ、夏休み何してんの?」 「バイト」 「だよな」 聞くまでもなかった。 「陽菜は?」 「私は、委員会の仕事とか夏季講習とか」 「女の子たちで、遊園地に行こうっていう話もあるよ」 「楽しそうだなあ」 「孝平くんだって、楽しい夏休みでしょ?」 「どう思う?」 「うーん……」 陽菜の目が泳ぐ。 「そうでも……ないかな?」 「まあしかたないよ。お姉ちゃん受験生だもん」 そうなのだ。 この夏休みは、6年生にとって一番大事な時。 進学を志す者は、うかうかと遊んでる場合じゃない。 「元気出してね。孝平くん」 「よかったら、一緒に遊園地行く?」 「女装して?」 「ふふっ。美化委員のユニフォーム貸してあげよっか」 「遠慮しときます」 美化委員のユニフォームは、すごくファンシーだという噂だ。 きっと俺が来たら通報される。 修智館学院の名を汚すわけにはいかない。 「孝平ー」 「ん?」 「生徒会長がお呼びだぞ」 出入口の方を見ると、会長が手を振っていた。 俺のクラスに来るなんて、珍しいこともあるものだ。 俺は立ち上がり、会長へと歩いていった。 「やあ、支倉君」 「どうしたんですか?」 「今日、監督生室に来るだろ?」 「そのつもりですけど」 「じゃあ、悠木姉も連れてきてもらえないかな」 「ちょっと話があるんだ」 「はあ……」 会長は真面目な顔をしていた。 なんだろう、話って。 「じゃあ、よろしく頼んだからね」 「はい、わかりました」 会長はひらひらと手を振ってから、去っていった。 なんだろう。 ……あ。 もしかして、あのケヤキのことか? 放課後。 「やっほーっ!」 かなでさんの元気な声が、監督生室に響いた。 部屋にいたみんなが、一斉にこちらを見る。 「こんにちは、悠木先輩」 「こんにちは」 「……こんにちは」 「やあ、よく来たね」 「支倉君、ご苦労様」 会長は笑顔で俺たちを出迎えた。 かなでさんは楽しそうに室内を見回す。 「監督生室って、なんか居心地いいよね」 「よかったら生徒会役員になる?」 「といっても、任期はあと二ヶ月くらいしかないけどね」 二ヶ月。 そう言われて、改めて気づく。 6年生の公務活動は9月末までだ。 会長が会長でいられるのも、かなでさんが寮長でいられるのも、あと約二ヶ月しかない。 「お誘いは嬉しいけど、ここにわたしは必要ないみたい」 「だってほら、こんなに優秀な若者がいるもんね!」 ばんばんばんっ。 背中を叩かれた。 「はは、確かに」 「支倉君は、今年一番の拾い物だったよ」 拾われたのか、俺は。 フクザツな気分だ。 「伊織」 「ああ、そうそう」 「悠木姉に、穂坂ケヤキのことで話があったんだ」 「?」 「あっ、そういえば樹木医さんに診てもらったんだよね?」 「うん」 うなずいてから、会長は続けた。 「あれね、切ることになったよ」 ……。 「え?」 俺とかなでさんは、呆然と会長を見つめていた。 何を言われているのか、理解できなかった。 「思った通り、樹病を患っていてね」 「樹木医の先生が言うには、もう手の施しようがないところまできてるんだってさ」 淡々と会長は話す。 かなでさんを見た。 肩が、唇が、震えている。 「このまま放置すると木が倒れる危険性があるから、早めに切った方がいい」 「いや、切らざるを得ない。寮生たちの安全のためにもね」 「そんな……」 「あの、ちょっと待ってください」 「ほかに、方法はないんですか?」 「幹を補強するとか、肥料をあげるとか……」 「無駄だよ」 断定的に言葉を遮られた。 「枯死してるんだ。見ればわかるだろ?」 「……っ」 何も言えなくなってしまう。 会長の言ってることは、たぶん正しい。 いや、全面的に正しい。 寮生たちに危険が及ぶ可能性のあるものは、排除しなくちゃならないのだ。 当然の選択だった。 だけど── 「寮長」 会長は腕を組んだ。 「わかってもらえるよね?」 「……わかる」 「わかるけど、でも……」 ぎゅっと、小さく拳を握る。 かなでさんの気持ちが、痛いほど伝わってきた。 歴代の寮長から受け継いできた、大切なケヤキ。 あのケヤキを元気にすることがかなでさんの願いだった。 寮長になる前から、ずっと。 「……」 「……」 「……」 沈黙が続く。 誰もかなでさんに、声をかけることができなかった。 「わたし……」 「それでも、切ってほしくない」 「切らないでほしい」 「……」 「あのケヤキは、みんなが大切にしてたものなの」 「願いの叶う木だって、ずっと言い伝えられてきて」 「困ったなー」 「こう言っちゃなんだけど、願いなんて叶うわけないじゃないか」 「女の子は、そういう噂とか伝説とか好きだけどさ」 「……」 会長は身も蓋もない言い方をする。 願いが叶うかどうかなんてことは、さして重要ではないのだ。 大切なのは、寮生たちの気持ち。 あのケヤキに思いを託してきた、みんなの気持ちだ。 「もう夏だってのに、今年は芽吹いてもないだろ?」 「いい加減、現実を見てほしいもんだな」 「兄さん、そんな言い方しなくても」 「ああ、悪い」 「でも、間違ったことは言ってないつもりだけどね」 間違ってない。 間違ってないんだ。 「でも、会長……」 「少し、時間をくれないかな」 かなでさんは、ぱっと顔を上げた。 決意を秘めたまなざしだ。 「時間? なんのために?」 「できる限りのことをするために」 「このまま何もしないで、ただ切られるのを待つなんてできない」 「お願い、もう少しだけ待ってください」 そう言って、深々と頭を下げた。 「……会長、俺からもお願いします」 「もう少しだけ時間をください。決断するのはそれからでもいいでしょう?」 「……」 会長は苦々しい表情を浮かべた。 それでも、すぐに断らなかった。 ということは、まだ可能性はあるってことだ。 「会長、お願いします」 「お願いします」 「ああもう、頭を上げてくれよ」 「これじゃ俺が悪者みたいじゃないか」 ため息をつき、俺とかなでさんを交互に見る。 「何をしても無駄だと思うけどね」 「わかんないよ。やってみなくちゃ」 「だって、願いの叶う木だもん」 「ああ、そうだったね」 棒読みで言った。 「言っとくけど、そんなに長くは待てないよ」 「それでもよければ、どうぞご勝手に」 「ありがとう!」 「ありがとう、いおりん!」 「ありがとうございます、会長!」 俺とかなでさんは会長に駆け寄った。 「わっ、来るな」 「さすがいおりんだねっ」 「さすが会長です」 勝手に会長の手を握り、ぶんぶんと振った。 ものすごく嫌そうな顔をされるが、気にしない。 「いいから。もうわかったから」 「ほんとなら、お礼のチューでもしたいところだけどさ」 「ごめんね、わたしにはこーへーという心に決めた人が……」 「……さりげなくのろけてるわね」 「そのようですね」 「ああそう、そりゃよかったね」 「君たちの愛情は十分伝わってきたから、もう帰っていいよ」 「ほんとにありがとね、いおりんっ」 「ありがとうございます、会長」 「やれやれ……」 やっとかなでさんに笑顔が戻った。 先のことはどうなるかわからないけど。 俺たちには、きっとやれることがあるはずだ。 だって、あのケヤキは願いの叶う木だから。 きっと── 「……二人とも帰った?」 「ああ」 「はぁ、まったく」 「無駄だって言ってるのに」 「そう思うなら、なぜ約束なんかするんだ」 「期待を持たせるな」 「俺は約束なんかしてないよ」 「ただ、待つと言っただけだ」 「……」 翌日から、本格的に「ケヤキ救出大作戦」が開始された。 シャベルやバケツを手に、俺とかなでさんは中庭に集合する。 「……とまあ、そこで考えられることは」 「まず第一に、水はけをよくすることだと思うんだ」 「なるほど」 中庭を見渡すと、水はけのよい高床の植物はすこぶる元気だ。 それに対し、ケヤキは比較的排水の悪い低床にある。 位置関係がすべての原因かどうかはわからないが、改善してみる必要はありそうだ。 「とはいっても、わたしたちじゃ植え替えまではできないもんね」 「でも、雨水がたまらないように工夫することはできるんじゃないですか?」 一日や二日では、決してできない作業だ。 それでも、何もしないよりはずっといい。 「……そっか。そうだよね」 「地面をならしていけば、少しはよくなるかも」 「はい」 力強くうなずくと、かなでさんは俺を見上げた。 「こーへー」 「ありがとうね」 「え?」 「こーへーだって忙しいのに、手伝ってくれて」 「そんなこといいんです」 「俺が好きでやってるんですから」 そう、誰に頼まれたわけじゃない。 かなでさんのことが好きで、かなでさんに悲しい思いをさせたくない。 それだけの単純な理由で、俺はここにいるのだ。 「二人で、できる限りのことはやっていきましょう」 「きっとこのケヤキも、かなでさんの気持ちに応えてくれるはずです」 「うんっ」 ……よかった。 今日初めて見る、かなでさんの笑顔だった。 ざくっ。ざくっ。 木の根を傷つけないよう、周囲の土を掘っていく。 水の流れを変えるために、溝を作るのだ。 ざくっ。ざくっ。 「ふぅ……」 中庭の地面は、まるで鉄板のように固い。 さっきから一時間ほど掘り続けているが、芳しい成果とはいえなかった。 これは思った以上に苦戦しそうだ。 「こーへー!」 中庭の出入口から、かなでさんが入ってくる。 「用務員のおじさんから、肥料もらってきたよ」 「ケヤキだったら、この液肥がいいんじゃないかって」 「おっ、いいですね」 かなでさんは、用務員のおじさんと仲がいい。 こういう時に助けてもらえるのも、かなでさんの人徳だと思う。 「それとね、おじさんが消毒もやってくれるって言ってた」 「素人が薬剤使うのは危ないらしいから」 「ですね。それがいいと思います」 「むやみに薬をまくと、害のない虫まで殺しちゃうかもしれませんし」 それに、これだけ大きな木となると、使用する薬剤の量も半端ではないだろう。 さすがに俺たちも、そこまで独断で手配することはできない。 「こーへー、土掘り代わろうか?」 「いえ、大丈夫です」 「かなでさんは、余分な土をバケツに入れてってもらえますか?」 「了解っ」 俺は土掘りの作業を再開した。 女の子の力じゃ、この仕事は無理だ。 もっと効率的な方法があればいいのだが。 ……まあ、ゆっくり考えていくことにしよう。 ざくっ。ざくっ。 「はぁっ……はぁ……」 午前中に生徒会の仕事を終わらせ、午後はひたすら土掘りの作業。 この生活パターンが日課になってきた。 相変わらず地面は固いが、なんとか溝っぽいものができつつある。 我ながら頑張った。 夏休みが過ぎる頃には、かなり素敵な上腕二頭筋に成長することだろう。 「孝平くん、お姉ちゃん」 しばらくして、中庭に陽菜がやって来た。 水筒とバスケットを抱えている。 「これ、差し入れ」 「紅茶とサンドイッチが入ってるから、食べてね」 「お、サンキュ」 「ありがとう、ひなちゃんっ」 「愛してる!」 かなでさんは子犬のように、陽菜へと飛びついた。 「お、お姉ちゃんってば」 「そういう台詞は、私じゃなくて孝平くんに言わなきゃ」 「え」 「あはは、あはははは、やだなーひなちゃんてば」 わかりやすく照れている。 そして、俺も。 「ケヤキの具合、どう?」 「……うん」 「今後に期待って感じかな」 俺たちはケヤキを見上げた。 まだ作業を開始して幾日も経っていない。 こんな短期間で結果など出るわけもないが、それでも期待せずにはいられなかった。 たった一つでも、新芽が出てくれれば。 希望が持てる。 寮生のみんなに、明るいニュースをもたらすことができる。 そのためなら、筋肉痛になろうが血豆ができようが構わない。 ……かなでさんさえ笑ってくれれば。 「うぃーす」 翌日。 今度は司がやって来た。 「あれ? へーじ」 「どしたの? バイトさぼり?」 「今日は休みです」 司の手には、大きなシャベル。 軍手も着用だ。 「暇だから手伝う」 「マジで?」 「時給出ないぞ」 「いらねえ」 「つか、わかめうどんおごってくれ」 「司……」 不覚にも感動した。 なんて無欲な男なのだろう。 ここは特製カツカレーぐらいねだってもいい場面なのに。 「ありがとな」 「トッピングで、イカ天つけてやるからな」 「ラッキー」 ラッキーなのかよ。 ザザザザ────ッ その日は朝から豪雨だった。 目覚めてから身支度もそこそこに、部屋を飛び出した。 「ひゃーーーっ!」 「かなでさんっ!」 壊れた傘を持ったかなでさんが、中庭でくるくる舞っている。 獅子舞の練習? いや、違う。 風に飛ばされそうになってるのだ。 俺は慌ててかなでさんの腕をつかみ、持参した雨合羽を頭にかぶせる。 「何やってんですか。危ないでしょう?」 「だって、心配だったんだもん」 「もしかしたら、ケヤキが倒れてるんじゃないかって……」 「気持ちはわかりますが、その前に自分の心配をしてください」 「うぅ……」 俺はケヤキの根元を見た。 俺たちが作った溝は、雨水でがっつりと溢れかえっている。 「大丈夫かなあ……」 大丈夫かどうかは、俺にもわからない。 だが、今は祈るしかなかった。 俺たちのやったことが、どうか無駄にならないように。 「……俺、ビニールシートで根元を覆います」 腐朽している部分は、とりあえずなんらかの処置をしておいた方がいい気がする。 確か物置にビニールシートがあったはずだ。 「かなでさんは、危ないから部屋に戻っててください」 「やだ、戻らない」 「わたしも一緒にやる」 「でも……」 「足手まといにならないようにするから」 「お願い」 まっすぐな目。 一歩も譲らないぞ、という決意が伝わってくるようだった。 実際、かなでさんがこういう目をすると、誰も意志を曲げさせることはできない。 「……わかりました」 「じゃあ、一緒に取りに行きましょう」 「うんっ」 ──二時間後。 嵐のようだった天気が、嘘のように晴れ渡った。 溝にたまっていた水も、少しずつ引いている。 そこそこ排水がうまくいっているのかもしれない。 「水……引いてるよね」 「はい」 「でも、まだ完全じゃないから安心はできません」 底の方にはまだ水が残っている。 この水が全部引かないということは、まだ掘りが甘いってことだ。 もしくは、水はけの悪い粘土層だったとか。 後者の場合だと、問題は根深いかもしれない。 「もうちょっと様子を見てみましょう」 「明日になっても水が引かないようなら、別の手段を考えます」 「……うん」 すぐに結果の出ない作業だけに、じれったくなるのは致し方ない。 はたして、俺たちのやってることに意味なんてあるのだろうか。 なんて、考えちゃいけないことを考えてしまいそうになる。 かなでさんの前では、せめて笑顔でいなきゃ。 一番ケヤキのことを心配しているのは、この人なんだ。 俺はかなでさんの添え木となる。 ……。 たとえ、結果が出なかったとしても── あの人は、いつもそこにいた。 ケヤキの木に寄り添うようにして。 まるで家族を見守るような、優しい瞳で。 来る日も、来る日も。 「……去年はね、もっとたくさん葉がついていたの」 「でも、今年はこれだけ。どうしてかしらね」 細い肩と、透けるような白い肌。 病気がちだった先輩は、夏でも長袖のカーディガンを欠かさなかった。 「先輩、ケヤキの心配してる場合じゃないですよ?」 「微熱があるんですから、早く部屋に戻って寝ないとだめじゃないですか」 「ふふ、そうね」 「でも私、この子が心配なのよ」 「わたしは先輩の方が心配です」 どうして先輩は、いつも自分のことを後回しにするんだろう。 見ていてハラハラしてしまう。 だからこそ、こうやって一緒にケヤキの世話をしてしまうのかもしれない。 「先輩、お願いですからあんまり無理しないでください」 「ありがとう。心配してくれて」 「でも、私にできることは限られているの」 「この寮にいられるのも、あと少し……」 学校を休みがちだった先輩は、寮での生活を何よりも大切にしていた。 どんな人でも、この寮にいる間は笑顔でいられるように。 外でつらいことがあっても、寮に帰ったらほっとできる空間であるように。 ……。 そして、大好きな寮を見守る穂坂ケヤキが、いつまでも元気でいられるように。 「先輩、わかりました」 「わたしが次の寮長に立候補します」 「……悠木さんが?」 「はい。あとのことは任せてください」 「そうしたら、先輩も安心して卒業できますよね?」 わたしなんかで、寮長がつとまるのかどうかはわからない。 でも、先輩の安心する顔が見たかった。 わたしは先輩が大好き。 いつでも人を思いやることのできる先輩の優しさを、尊敬してる。 その優しさを、少しでもわたしが受け継ぐことができたら……。 「悠木さんなら、素晴らしい寮長になれると思うわ」 「でも、もしかすると……あなたにつらい思いをさせてしまうかもしれない」 先輩は少しだけ寂しそうな顔で、ケヤキを見上げた。 つらい思いって、どういうこと? 「だけど……」 「……あなたに、すべてを託すわ」 「寮を見守るこの木を、守ってあげて」 そう言って、先輩ははかなげな笑みを浮かべた。 ざくっ。ざくっ。 今日も、ひたすら溝を掘り続ける。 8月の太陽は容赦なく俺を照りつけ、体力を奪っていく。 せめてケヤキの葉っぱが生い茂っていたら、もう少し涼しかっただろうに。 などと、ケヤキに八つ当たりしてもしかたがない。 ざくっ。ざくっ。 「はぁ……」 やれることはやってきた二週間だった。 溝を掘り、肥料をまき、土を変えた。 用務員のおじさんに頼んで消毒もしてもらった。 だけど……。 やはり、そう簡単に成果は現れない。 枝は枯れ、根元は腐朽し、樹皮も剥がれつつある。 この分だと、台風の季節が来たらどうなってしまうのだろう。 一抹の不安を隠しきれなかった。 ケヤキには元気になってもらいたい。 切られるなんてことだけは避けたい。 でも、もし倒れてしまったら? 寮生の誰かに被害が及んだら? そうなったら、かなでさんは……。 「こーへー、ジュース買ってきたよ」 出入口のドアが開き、かなでさんが戻ってきた。 「ちょっと休憩にしよっか?」 「はい。ありがとうございます」 ジュースを受け取り、二人してケヤキのそばに座る。 じっとしてるだけで、汗がぶわっと噴き出てくる。 「ごめんね、疲れたでしょう?」 「運動不足を解消するいいチャンスです」 「体脂肪も2パーセント減ったし、いいことずくめですよ」 「あはは」 「こーへーは優しいね」 かなでさんの横顔に、ほんの少しだけ疲労の色が見えた。 無理もない、と思う。 日中は寮の仕事やケヤキの世話をして、夜はいつも遅くまで勉強してる。 いったい、いつ寝てるんだろうと思うほどだ。 「こーへー、毎日わたしに付き合ってくれなくてもいいんだよ?」 「たまにはさ、へーじと遊びにいったりしなよ。夏休みなんだし」 「成果も出さずに、呑気に遊びにいったりできません」 「それに遊びにいくなら、かなでさんとのデートが優先です」 「前に約束しましたよね?」 みんなで海に行ったあの日。 俺は、かなでさんを好きなところに連れていくと約束した。 ただしハワイ以外で。 「……覚えててくれてたんだ」 「当然ですよ」 夏休みはまだまだある。 夏休みが無理なら、二学期が始まってからでもいい。 何も焦ることはないのだ。 「さて、もう一踏ん張りしますか」 俺は立ち上がり、再びシャベルを手に取った。 休憩が長く続くと、どうしても立ち上がるのがおっくうになってしまう。 「かなでさんは、もう少し休んでいてくださいね」 「もういっぱい休んだよ」 「休んでませんから」 「へーき。それに、わたしも体脂肪落としたいもんね」 言い出したら聞かないんだ、この人は。 かなでさんはバケツを取り、掘り返した土をどんどん入れていく。 ざくっ。ざくっ。 奥に進むにつれて、だんだんと土の質感が変わってきた。 より湿っぽく、重みが増してきたような気がする。 これはかなり手強い。 ガツンッ 「いてっ!」 「どうしたの!?」 シャベルが大きな石にぶちあたった。 骨がじんじんとしびれている。 「大丈夫です。石があっただけですから」 「怪我はない?」 「はい」 俺は手を押さえながら穴の中を覗き込んだ。 マジででかい石。 どーすんだこれ。 炎天下と相まって、意識が遠くなっていく。 でも、ここで悠長に意識を失ってる場合じゃない。 俺はシャベルを掲げ、果敢に立ち向かった。 ガツンッ ……予想以上にでかい。 これのせいで水はけが悪かったんじゃないか? ガツンッ 「くっ」 「こーへー、大丈夫?」 「はい、大丈夫です」 相手はたかが石一個なのに。 自分の無力さを痛感する。 所詮、おまえは何もできないんだと言われているようで。 ……石に自我があるわけでもないのに。 ガツンッ ガツンッ 「こーへー、もういいよ」 「手、痛めちゃう」 「あともう少しなんです」 「もう少しで、どかせますから」 なぜ俺は、こんなにムキになっているんだろう。 自分のやっていることが無駄だと思いたくないから? 本当は、心のどこかで諦めているから? かなでさんによく思われたいから? わからない。 わからないけど……。 ガツンッ! 「……っ!」 「こーへー!」 かなでさんが、俺の腕をつかむ。 ものすごい力だ。 咎めるような目で俺を見上げる。 やがて、その視線が。 ふと、俺の頭上に移った。 「あ……」 ひらひらと舞い落ちるもの。 ……羽根? 大きな鳥の羽根だった。 かなでさんはその羽根を受けとめ、さらに上へと視線を移した。 ばさばさばさっ 鳥のはばたく音がして、俺も空を見上げる。 ……。 「……あっ」 「こーへー、見て」 かなでさんは指をさした。 ケヤキの木の枝へと。 俺はシャベルを置き、その方向へと歩いていく。 「これ……芽だよね?」 「芽が出てるよね?」 それはよく目をこらさなければわからない、ささやかなものだったけど。 確かに、枝から芽が生えていた。 わずかに緑の葉が開いている。 以前までは、確かにこんなものは生えていなかった。 「こーへー、やったよ!」 「この子、ちゃんとまだ生きてるんだよ」 「まだ、生きようとしてるんだよ……っ」 かなでさんの瞳に涙が浮かぶ。 空から舞い降りた羽根を握り締め、真摯なまなざしでケヤキを見上げている。 ──本当だ。 まだ、生きてる。 生きようとしているのだ。 何がきっかけとなって芽吹いたのかはわからない。 たまたま偶然が重なっただけかもしれない。 それでも、俺は嬉しかった。 骨の痛みや筋肉痛や血豆が全部チャラになるぐらい、嬉しかったのだ。 翌日。 俺はさっそく会長に、昨日の一件を報告した。 たった一本の枝ではあるが、新しい芽が出たということ。 土壌を改善すれば、さらなる成長が見込めるかもしれないということも。 「そうだったのか」 「お疲れ様。大変だったろう?」 喜ぶでもなく、悲しむでもない。 会長はあくまで無表情だった。 「俺の方から、もう一度樹木医の先生に連絡してみるよ」 「君からの報告も、そのまま伝えておく」 「それでいいかな?」 「はい、ありがとうございます」 ぺこりと頭を下げた。 何はともあれ、これでまた可能性が広がった。 あとは専門の先生に、改めて診てもらうことにしよう。 ……。 俺たちがケヤキの世話をしているという話は、少しずつ寮に広まっていた。 中には、手伝いを申し出てくれる人もいる。 あのケヤキを大切に思っているのは、俺とかなでさんだけじゃないのだ。 それが実感できただけでも、大きな収穫だった。 「おっ」 寮に向かって歩いていると携帯が鳴った。 かなでさんからのメールだ。 『これからの相談をすることにしたので部屋に来るよーに』 『ベランダのハシゴを下ろしとくから、好きなときに入ってきて』 俺としてはまったく問題ないが。 なんでまた、かなでさんの部屋なんだ? 部屋に帰り、さっそくベランダへ向かう。 窓を開くと、金属製の避難はしごが下りていた。 使われているのはよく見るが、自分で使うのは初めてだ。 「……」 妙にドキドキする。 同意の上とはいえ、外から彼女の部屋に侵入するなんて……。 すたっ 無事に、かなでさんの部屋のベランダに到着。 ふふふ。 なぜか愉快で危険な気分だ。 「こーんにーちわー(小声)」 窓越しに室内を窺う。 窓際のベッドで、かなでさんは寝ていた。 人を呼んでおいて昼寝とは……流石だ。 静かに窓を開け中に入った。 「すぅ……すぅ……」 吹けば飛んでしまいそうな、か細い寝息が聞こえる。 目を覚ます気配はない。 「う……ん……」 苦しげな寝言が漏れた。 このところ、ケヤキのために働きづめだった。 かなり疲れてるんだろうな。 「……」 ふと、テーブルに積み上げられている本が目に入った。 植物に関する本のようだ。 試しに中を見てみると、活字ばかりの専門書だった。 こんなのまで読んで勉強してるのか。 「ん……もっと、掘らない……と……」 「諦めたらだめなのに……でも……」 「かなでさん……」 「もう……だめ」 夢の中でも溝を掘ってるらしい。 「と、諦めたそのときだった……」 「南側の壁面に、大きな横穴が現われた」 「は?」 「我々は、重機による発掘をやめ、手作業で慎重に掘り進む……」 「そして2時間……明らかに自然物ではない石組みが現われたっ!」 埋蔵金発掘かよ。 「かなでさん」 「果たしてこの先に、我々の求める……」 「か な で さ ん」 揺すってみる。 「ん……あ、あれ……」 「支倉、到着ですよ」 「お、おいしい……生活……」 「いや、あの」 「ぱたり」 また寝てしまった。 埋蔵金はともかく、疲れているのは確かそうだ。 少しこのままにしておいてあげよう。 かなでさんが自然覚醒するまで、テーブルの専門書を読んでみることにした。 「予防法としては、冬季に石灰硫黄合剤を散布……と」 「やっぱり、もっと早く対策を練るべきだったんだね」 「しかたないですよ、それは」 「ここまで前進したんですから、よしとしましょう」 「うん」 しばらくして……。 俺たちは今後の対策を練っていた。 机の上には、専門書が所狭しと広げられている。 「ここに書いてある薬剤関係は、素人には扱えないでしょうね」 「そうだね。専門の人に聞いてみないと」 「あ、お湯沸いた」 「今お茶淹れるから、待っててね」 「はい」 かなでさんは流しの方へと歩いていった。 ……。 こうやって二人でゆっくりできるのは、かなり久しぶりのことだった。 ケヤキが芽吹いたこともあって、気分も明るい。 肩の力がふっと抜けた感じだ。 「紅茶とチャホウキタケモドキ茶、どっちがいい?」 「……はい?」 「紅茶とチャホウキタケモドキ茶」 前者はいいが、後者がまったくわからない。 というか、飲みたくない。 「じゃあ、紅茶で」 「チャホウキタケモドキ茶ね。わかった」 「かなでさん」 「はい?」 「俺を実験台に使うのはやめてください」 「ありゃ、なんでわかったの?」 かなでさんはにこにこしながらティーセットを持ってきた。 一応、紅茶の香りが漂ってホッとする。 「わかるも何も、そのまんまじゃないですか」 「だってさ、よくわかんないお茶飲むの怖いでしょ」 「わたしの胃、デリケートだし」 「朝からカツ丼食べても余裕な人が、よくもまあ」 「失礼だなー。余裕じゃないよ」 「一応気を使って、ロースじゃなくヒレをチョイスしてるんだから」 気の使い方を間違ってると思う。 まあ、胃腸が元気なのはよいことだ。 「さて、そろそろかな?」 ポットの蓋を開けて、茶葉の開き具合を確認する。 最近、陽菜に紅茶の淹れ方を教わったらしい。 「えへへ、いい匂い」 「こーへー殿、お茶請けを用意したまえ」 「御意」 ここで満を持して、黒糖バームクーヘンが登場。 白ちゃんにもらったおやつだ。 「やったー!」 「ふふふっ、幸せ〜♪」 本当に幸せそうな顔で笑う。 紅茶とお茶請けで、しばしブレイクタイムと相成った。 「……」 「?」 「どうしたの?」 「いや、まつげ長いなあと思って」 「そ、そう?」 「はい」 久しぶりに二人きりだからか、ドキドキする。 なんとなく、言葉少なくなってしまったり。 俺は深く息を吸って、呼吸を整えた。 「こーへー? どーしたの?」 「なんか今日、大人しいね」 「そうですか?」 「熱でもあるんじゃない?」 「どれ、お姉ちゃんが計ってあげようか」 かなでさんは自らの前髪を上げ、おでこを近づけてきた。 反射的に、身を引いてしまう俺。 「なんで逃げるーっ?」 「す、すみません」 そんなにむやみに、近づかないでほしい。 もっとドキドキしてしまう。 「計ってあげるってば」 「いえ、けっこうです」 「遠慮しなくていいよ。ほら」 ずずいっ。 「や、やめてくださいっ」 「俺、今猛省中なんですからっ」 「もうせいちゅう……?」 かなでさんは小首を傾げた。 何言ってんだコイツは、という顔だ。 「どゆこと?」 「ええと……だからですね」 「その場の勢いというか、衝動に任せるのはよくない、と」 「前回、反省したわけです」 「???」 わからないのも当然だ。 これは、俺自身の問題だからだ。 ……前回、かなでさんが俺の部屋に泊まった時。 俺は、決して紳士的とはいえないことをした。 かなでさんは、俺が初めてだったのに。 本当なら、もっとムードとかを大事にしなきゃいけなかったのに。 勢いというか、なし崩し的にあんなことをしてしまった。 かなでさんには申し訳ないことをしたと思ってる。 「俺、もっといろいろ考えるべきでした」 「へ?」 「例えばホテルのスイートルームとか」 残念ながら、そんな金はない。 「海の見える別荘とか」 そんな金はない。 「とにかく、もっとムードとかシチュエーションを重んじるべきだったのに」 「……すみませんでした」 ぺこりと頭を下げる。 「こーへー……」 俺が言わんとしていることを、かなでさんも感じ取ったようだ。 いたたまれない時間が過ぎていく。 やがてかなでさんは、俺の手に手を重ねた。 「謝らなくていいよ」 「そっか、ムードかぁ。そんなこと考えてくれてたんだ」 にっこりと笑う。 「わたしも、一緒に考えてあげられればよかったね」 「いや、この前は俺が強引に……」 「強引じゃないよ」 「わたしだって、こーへーと、その……」 「そーゆー風になれればいいな、って思ってたし」 「そ、そうなんですか?」 こくん。 かなでさんは恥ずかしそうにうなずいた。 「だから、こーへーが謝る必要なんてないの」 「わかった?」 「……はい」 少しだけ、肩の力が抜けた。 失望されてたらどうしようかと思っていたのだ。 やっぱり、かなでさんは器の大きな人だ。 俺の未熟で浅はかな考えも、丸ごと全部受け止めてくれる……。 「……ちょっと、待ってて」 「? はい」 かなでさんは立ち上がり、流し場の方へと向かった。 どうしたんだろう? ひとまず二杯目の紅茶をカップに注ぎ、一息つく。 「こーへー?」 しばらくしてから、かなでさんの声が聞こえた。 流しの方から、かなでさんが戻ってくる。 「……」 「……」 ……。 …………。 「えっ!?」 時が止まった。 思考回路が止まり、呼吸が止まった。 森羅万象、世界中のありとあらゆるものが停止した。 かなでさんが、素っ裸にエプロン姿で立っている。 「か、かなでさん」 「そんな格好してると、風邪ひきますよ……?」 俺は何を馬鹿なことを言ってるのだ。 でも、驚きすぎてそんなことしかコメントできなかった。 「う……」 「そう思うなら、早くあっためて」 「はっ?」 「も、もう、ヘンなこと言わせないでよ!」 「こーへーが言ったんじゃない。ムードとかシチュエーションとか大事にしようって」 「確かに言いましたけど……」 俺、こういうことを言いたかったんだっけ? どちらかというと場所とか雰囲気とか、そういうことを言いたかったのだが。 「あ……れ?」 「わたし、なんか間違っちゃった?」 「……」 「……」 数秒ほど、見つめ合う。 かなでさんは「やっちまった」というような顔をしていた。 「ご、ごめん」 「すぐに着替えるから!」 「待ってください」 脱衣所へと逃げようとするかなでさんの腕をつかんで、引き留めた。 「……あ」 「かなでさん、間違ってないです」 「それで正解です」 ちょっとびっくりしたけど、嬉しいことには変わりない。 俺のために、かなでさんが試行錯誤してくれたのだ。 嬉しくないはずがなかった。 「触っても、いいですか?」 「う……うん」 「んぁ……!」 エプロンの上から、乳房に触れる。 布地を通して、かなでさんの体温が伝わってきた。 「あ……やっぱり、着替えてきた方が……」 「駄目です」 ここまで来たら、もう引き返せない。 このまま前進するのみだ。 「はぁっ、んっ……ぁ」 直に触るよりも、こっちの方がいやらしい気がするのはなぜだろう。 かなでさん、ナイスチョイスだ。 「このエプロン、どうしたんですか?」 「これは……掃除とかする時とかに使ってるの」 「あ、汚くないよ? ちゃんと洗濯したから」 「俺のために、洗っておいてくれたんですか?」 「そ、そういうわけじゃないけどっ」 「結果的には、そういうことに……」 快感をこらえているのか、だんだんと声が小さくなる。 そんなかなでさんが、たまらなくかわいらしい。 「んぁ、あぁ……っ」 人差し指が突起を見つけ、その部分を重点的に弄った。 しだいに突起は硬さを増し、ぷっくりと浮き上がってくる。 「……大きくなった」 「な、なってないっ」 「ほら」 乳首の根元をつまみ、きゅっと引っ張ってみる。 「ん……!」 「なってますよね?」 「なってた……みたい」 俺が手を動かすたびに、ふるふると身を震わせる。 自分から、こんなに大胆な格好をしたくせに。 「はぅ、ん……あぁっ、あぁ……」 乳房を手のひらですっぽりと包んで、円を描くように揉み回す。 同時に、その白いうなじに口づけた。 「ひぁ、あっ」 舌で首筋を往復し、耳たぶへと移動させる。 たっぷりと唾液を乗せて、口に含んだ。 「ひん……くすぐった……いよぉ」 「もう、今日はここまで……っ」 俺がここまでにできないことは、かなでさんもよくわかってるくせに。 「我慢してください」 「そ……そんなっ」 「あふぁっ、あふんっ」 浮き出た乳首を指で挟み、クニクニと刺激した。 ……やばい、めちゃめちゃ興奮する。 もっともっと、恥ずかしいことをさせてしまいたくなる。 「かなでさん」 「エプロン、自分でめくれますか?」 「え……」 ものすごく困った顔で俺を見上げる。 そんな表情も、さらに興奮を焚きつける火種となる。 「……めくるの?」 「はい」 「……ぅ」 少し迷っている様子だ。 だが観念したらしく、かなでさんはエプロンの裾をつかんで持ち上げた。 「うぅ、どうしてこんなことに……」 身体を抱く手を放したくないのか、口で裾をちょこんと咥えてみせる。 布地が取り払われ、なめらかな恥部があらわになる。 かなでさんは必死に脚を閉じて、その部分を隠そうとしていた。 「綺麗です……すごく」 「見なくていいからっ」 「そういうところって、あんまり見るものじゃないと思うんだよ、わたし」 「俺は見たいんです」 その場にしゃがみ、まじまじと陰部を観察する。 「だ、だめ」 「力、抜いてください」 両脚をつかみ、ゆっくりと左右に開いていく。 「ふぅ、んっ……」 脚の隙間から割れ目が覗いた。 わずかに濡れているようにも見える。 「やぁ……お願い……」 汗ばんだ太腿が手に吸いつく。 つるんとした、傷一つない綺麗な太腿だ。 顔を近づけ、膝からつけ根へと徐々に舌を滑らせた。 「あ……あんっ……ああぁっ」 「こーへーの息が、かかって……力が入らないよ……」 ほんのりと汗の味。 なめらかな舌触りが心地いい。 そのまま徐々に、秘所を目指していく。 「だめ……やぁっ……あぁんっ」 ふっくらとした陰唇を舌先で割り、中心を探った。 ぺちゃ、と蜜に舌が埋まる。 「ひああぁっ」 溢れた蜜を掻き出すようにして、舌を動かす。 ほんの少し潮気を帯びた、甘酸っぱい味が口内に広がった。 「そ、そんなとこ、だめだよ……っ」 「ちゅ……ぺちゃっ、ちゅっ」 舌を動かして派手な音を立たせると、かなでさんの膝がガクガクと震えた。 ぬめりを帯びた粘膜が舌を包んでいく。 内部はとても熱くて、俺まで一緒に溶けてしまいそうだ。 「んく、んっ、あぁっ……もう、立ってられな……い」 かなでさんの腰をしっかりと押さえ、ヌチュヌチュと秘所を舐める。 愛液は止まることを知らず、トロトロと口内に流れていく。 「んぷ……ちゅっ、いっぱい溢れてますよ」 「だって……そんなに舐めたら、そうなっちゃうよっ……」 ヒダ全体が震え、俺の舌を奥へ奥へと誘い込む。 包皮をまとっていた陰核が、ぷくっと充血して自らを誇示した。 「こーへーが、こんなにいやらしいなんて知らなかった……」 「俺も、かなでさんがこんなに感じやすいなんて知らなかったです」 「わ、わたしは、普通だよ……きっと」 「こんなに濡れてるのに?」 クチュッ、ジュルッ……ヌチュッ…… 「ひあん、舌が……そんなに動いちゃうの……っ? あああぁっ」 一気に蜜が溢れ、こくこくと飲み込んでいく。 膣口はきゅっきゅと収縮を繰り返し、俺の舌を離さない。 「ふあぁ、あっ、もう」 「き、気持ち……いいっ……」 素直に快感を口にした。 「って、なんてこと言わせるのっ……?」 嬉しくなって、もっともっと激しく舌を動かす。 「ひゃん、ちょ、ちょっと」 「んぁ、ずぶずぶって、入ってきてる……ああぁ、こーへー、んはぅっ」 今度は舌先を尖らせて上下に動かした。 膣道が蠢き、きつく舌を締め上げる。 俺の口と鼻は、かなでさんの汁でべちゃべちゃになっていた。 膣内を責めながら、指でクリトリスをつまんでみた。 「あぁっ! ああんっ、ふあぁっ……!」 かなでさんの声がひときわ高くなる。 かなり感じているようだ。 「だめぇっ、そこ触られると、ほんとにだめになっちゃう……!」 「あぁ、はふぁっ、あぁぁんっ」 指の腹でクリトリスの先端を突く。 クチュクチュと、蜜の中で浮き沈みを繰り返す。 「ねえ、一瞬待って、じゃないと……もうっ」 「んはあぁっ、あぁ、こんなところで……あぁっ、あくあぁっ」 内部全体が激しく震えてきた。 「あぁ、こーへー……あぁ、いき……そう……あぁんっ」 「どうしようっ……はあぁっ、あぁ、あぁ、ひああぁっ」 「いっていいですよ、かなでさん」 「ほ、ほんとに、いっちゃうよ……? ふああぁっ、はふああぁっ」 ヒダを掻き分け、舌を奥までねじり入れる。 愛液の分泌が増し、内腿がぶるぶると痙攣し始めた。 「はぁあん、いっちゃうから……ああぁっ、ひああぁ、あっ、んくはあぁっ」 「やはあぁっ、あっ、いっ……ちゃうぅ、あひぁっ、はああああぁあぁっ!!」 「あぁっ、あっ、ぁ……ああぁ……っ」 ビクン、ビクンと内部が動く。 かなでさんは荒い息を吐きながら、エプロンをぎゅっと握り締めた。 「はぁ、はあぁ……はぁっ……んっ」 噴き出した愛液を一滴もこぼさないように、コクコクと飲み干していく。 まだ絶頂が続いているのか、膣内の痙攣は止まらない 「はぁ……はぁ……っ」 「気持ちよかったですか?」 「う……。き、聞かなくても、わかるでしょ」 「かなでさんの口から聞きたいんです」 「そ、そういうのは、改めて言うことじゃないと、思う」 ちゅるっ。 もう一度舌を膣口に差し入れ、汁を舐め取った。 「はぁんっ!」 「いじわるしないでよ……っ」 そう言われれば言われるほど、いじわるしたくなってしまう。 それもこれも、かなでさんがかわいいのが悪い。 俺は舌を大きく出して、陰部全体をぺろぺろと舐め上げた。 「あぁっ……! やん、あぁっ」 「だ、だめ……あぁ、まだ、びくびくしてるのっ……あひぁっ」 逃げられないように、がっちりと腰を押さえつける。 幼い性器をすみずみまで探索し、小刻みに突いて刺激を与えていく。 「ひぁ……あぁっ、あっ、んふぁっ」 「わ、わかった、ちゃんと言うから」 「気持ちよかったですか?」 「き……気持ち……よかった……っ」 観念したように声を絞った。 羞恥心をあらわにした表情が、俺の欲望を煽る。 「はあぁ……あぁ、はぁっ……」 「かわいかったですよ、かなでさん」 「……もう」 唇を尖らせて、俺を見下ろした。 「どうしよう……」 「大きい声出しちゃったから、廊下に漏れてたかも」 「大丈夫ですよ。夏休みだから人も少ないだろうし」 「そ、そうかな」 「たぶん」 「たぶんって、それじゃ困っちゃうよ」 確かに困るだろう。 何せ天下の風紀委員が、真っ昼間にこんないやらしいことをしているのだ。 バレたら大変なことになる。 だが、そんなスリルも興奮を高める因子の一つだ。 「かなでさん、俺も……」 「もう、我慢できなかったりするんですけど」 「……ぇ」 かなでさんの視線が下りて、俺の下半身に留まる。 すでに猛り狂ったペニスが、ズボンを押し上げていた。 「すごいことに……なってるね」 「はい」 「正直、困ってます」 「じゃ、じゃあ……」 「……する?」 俺はにっこり笑って、立ち上がった。 「あ……こーへー……?」 ベッドに移動し、かなでさんに四つん這いの格好をさせる。 垂れ下がったエプロンの裾が、かすかに揺れていた。 ここからだと、潤った陰部がはっきりと見える。 「この格好は、恥ずかしすぎるよ……っ」 ぷるぷるとお尻を震わせて抗議する。 嫌そうな口振りのわりには、秘所からぽたぽたと愛液が垂れていた。 俺に見られているだけで、感じてしまうのだろう。 「ねえ、どうしてもこの格好じゃなきゃだめ……?」 「もっと、普通でもいいんじゃないかな」 「ど、どうかな……?」 自信なさげに、どんどん声が小さくなっていく。 「今日は駄目ですよ」 「う……あっさり言っちゃうんだ」 「んんっ、あっ」 開いた割れ目に、人差し指をあてがった。 そのまま前後にこすっていく。 「ひぁ、やはぁ、んんっ」 淡いピンク色の秘肉は、少し刺激しただけですぐに赤く色づいた。 中指も追加し、二本の指で膣口をクニクニと愛撫する。 「待って、あぁ、待って……ふあぁっ」 ずぷっ……! 「ひっ、ああぁっ」 二本の指を、第一関節まで入れた。 とろとろにとろけた内部は、火傷しそうなほど熱い。 じっくりと、ねぶるようにして指を動かす。 「くっ……ぁ……」 かなでさんの腰が妖しく揺らめく。 奥まで入れたいところをグッと我慢して、膣口周辺を優しく掻き回した。 「ぁっ……う……うぁ」 「も……もう、そんな風に、じらさないで」 か細い声で、かなでさんは俺に訴えた。 「このままじゃ、苦しいよ……」 言われるまま、第二関節まで指を押し込んだ。 「あぁっ……! あっ、ひあぁっ!」 かなでさんは腰を突き出し、大きく声をあげた。 もうお尻の穴までくっきりと見えてしまっている。 「わ……これから、どうなっちゃうの……ふああぁんっ、あっ」 「うぁ……っ」 膣全体がぎゅっと締まる。 すごい力だ。 その力に負けないように、ぐちゅぐちゅと指を回転させた。 「ひぁ、動いて……る……あぁ、ひんっ、あっ」 「やっぱり、もうちょっと手加減して……んくぁ、ああぁっ」 かなでさんは腰を揺らし、快感に身を委ねている。 汗ばんだお尻を撫で、その感触を味わった。 「ねえ、もっとゆっくり……あぁ、はぁっ」 言われた通りに動きをゆるめると、今度はかなでさんの腰つきが激しくなる。 「あ……ぅ……」 「どうしたんですか?」 「えっと……やっぱり……」 「やっぱり、もっと、動かしてほしい……っ」 わがままな人だ。 「あ……あぅっ」 指を引き抜くと、かなでさんの喉から切なげな声が漏れた。 俺の方を振り返り、物欲しそうな目で見る。 「今、入れますからね」 深呼吸して、高ぶった気持ちを落ち着かせる。 自らのベルトを外し、ズボンのジッパーを下げた。 トランクスの中のペニスは、これ以上ないほど硬くなっている。 「う……うん」 先走り汁が出て光ったペニスを取り出すと、かなでさんの顔が赤くなった。 その先端を、べとべとに濡れた陰部にグッと押しつける。 「あ……はぁ、あふっ」 「ひぁ、か、硬いよ……あぁ、んっ」 蜜壺に亀頭を差し入れ、棹に手を添えて円を描いた。 ジュプジュプと愛液が漏れ、ペニスに伝っていく。 「こーへー……すごい、一つになってくの、わかるよ……」 「奥に……来ていいからね」 俺はほんの少しだけ腰を押し進め、かなでさんの反応を窺う。 「あ……っ」 「もっと……っ」 「でも、そんなに締めたら、これ以上は……」 かなでさんの中は、俺のペニスでぱんぱんになっている。 身動きできないほどきつく包囲され、俺は息を吐いた。 「くっ……」 「ひあ……っ、あうぁっ……!」 ずぶぶっ……! 「やぁ……あああぁっ!」 腰を一気に進め、最深部に亀頭が到着する。 腹の中が急激に熱くなり、奥歯を噛み締めた。 ……今、かなり危ないところだった。 「あぁ、すごい……あくぁ、ああぁっ」 「この格好だと、こんなに奥に入っちゃうんだ……」 俺の懸念をよそに、かなでさんは全力でペニスを締めつけてくる。 「かなでさん、もう少しだけ力抜いてください」 「むり……むりだよ、そんなの……」 「自分でも、どうなってるかわかんないし……っ」 ペニスを飲み込んでいる膣口が、いやらしくヒクつく。 シーツには、二人の体液がいくつものシミを作っていた。 「んはぁ、あぁ、こーへー、あぁぁっ」 俺の名前を何度も呼びながら、少しずつ腰を動かしてきた。 俺はかなでさんの背中に覆い被さり、汗のたまった背筋に舌を這わせていく。 「ひあぁ、そーゆーことすると、ヘンな声出ちゃうでしょっ?」 「ヘンな声が聞きたくてしてるんです」 「やだ、恥ずかしいんだってば、ほんとにー……っ」 股間を直撃する快感に、我を忘れてしまいそうだ。 背中にむしゃぶりつきながら、ずぶずぶと腰をグラインドさせる。 一番奥で、二人がつながっているのを実感する。 「んくぁ、あぁ、こーへー、もう……」 陰部に手を回し、クリトリスを弄りながらペニスを前後させた。 「うぁっ、そこ……だめぇっ、反則だよ……っ」 内部がさらに熱くなり、滑りがいっそうスムーズになる。 「そこは、むずむずしちゃうから……ぁっ」 先端が子宮口をノックすると、かなでさんはお尻をさらに高く上げた。 「ひんっ……あぁ、もう……はあぁっ」 「こんなに気持ちいいこと知ったら……困る」 「……毎日したくなっちゃうよぉ」 頬を赤らめ、よだれを垂らし、思うままに腰を振っている。 いつもは元気いっぱいのかなでさんが、俺だけに見せる顔。 優越感に似た思いが胸いっぱいに広がってきた。 「くはぁ、あっ……あぁん、んんっ」 「かなでさん、あんまり欲張っちゃだめですよ」 「もっとゆっくり、楽しみましょう」 「こーへーだって、欲張ってるもん」 「わたしよりも、こーへーの方が……っ」 「じゃあもう、あんまり動かさない方がいいですか?」 「う……」 「そ、それは、困るかも」 本当に困ったようにつぶやいた。 肌を重ねれば重ねるほど、どんどん自分に正直になっていく。 そんなかなでさんが好きだ。 「うぅ……っ」 俺は膝に力を入れ、リズミカルに腰を前後させた。 かなでさんの期待には、精いっぱい応えたい。 こみ上げる快感をなんとか制御しながら、子宮口を何度も刺激した。 「うぁ、こーへーの、また大きくなったみたいだよ……?」 「ぶるぶるって、震えてる……ふぁ、あっ」 「エプロン、せっかく洗ったのに汚れちゃいましたね」 「かなでさんの蜜で、こんなにべちゃべちゃになって……」 「そ、そんなになっちゃってるの……?」 下から突き上げるようにして、陰部を貫く。 両手を乳房に回して、力強く揉みしだいた。 「あふぁ、あぁ、ああぁ、やあぁんっ」 硬くなった乳首をつまんで、きゅっきゅと力を入れる。 湿った肌が手のひらに吸いついていく。 「くっ……気持ちいいですよ、かなでさん」 下腹部に血がたまり、今にも爆発してしまいそうだ。 ただでさえ狭い膣道なのに、締めつけられたらたまらない。 「すごいね……一緒に気持ちよくなれるんだね」 「こんなに気持ちいいなら……もっと早くすればよかったのかな?」 恥じらった様子で、かなでさんは言う。 「その分、これからたくさん気持ちよくなってください」 「俺、頑張りますから」 「えへへ……ありがとう」 「わたし、こーへーとなら、どんなことしても……いいよ」 「かなでさん……」 俺はかなでさんの下半身を抱きしめ、がむしゃらに腰を動かした。 透明の汁が接合部から噴き出し、俺の下腹部を濡らしていく。 「ぁあっ、ひぁっ……あっ、あぁっ」 「さっきよりもっと深いとこに、あたってるよ……あぁんっ」 かなでさんも、俺の動きに合わせてせわしなく腰を使ってきた。 乳房がふにふにと揺れ、乳首を伝って汗がシーツに落ちる。 「ひあん、あぁ、はあぁっ……あっ、うぅ……んっ」 「こーへー、もっとして……あぁ、いっぱい、して……っ」 膣壁がざわめき、強弱をつけてペニスを絞ってきた。 頭から下腹部まで、一気に甘いしびれが駆け抜ける。 性器と性器を密着させ、小刻みに中をほじくっていく。 「あぁん……お腹の中、どんどん熱いのが広がってる……ああぁんっ」 ずちゅっ……ぬぷっ、ずぷぷっ…… 淫猥な音が絶え間なく繰り返される。 「熱い、あぁ、いい……んはぁ、あっ、あぁっ」 「くふぁ、あぁ、あっ……また……またみたいだよ、こーへー」 「さっき、いっちゃったばっかりなのに……ああぁ、また……っ」 膣内が激しく躍動し、その細い身体全体が震え始めた。 かなでさんは上半身をシーツに沈め、必死に何かをこらえている。 「あ……ふぁ……んんっ……はふああぁっ……!」 「ねえ、またいっても、いい? いっぱい、いってもいい?」 「……もちろん。俺も、一緒に……」 俺は精いっぱい力を振り絞って、最深部に亀頭を叩きつける。 下半身に電流のような快感が走り、頭の中が真っ白になっていく。 「あひぁ、あんっ、ああぁ、くっはああぁっ、あっ」 じゅぷ、じゅぷぷっ……ぬぷぅ…… 肉と肉が激しくぶつかり合う。 「ああぁ、こーへー、はふん、どうにかなっちゃいそう……あぁ、あっ」 「いく……あふんっ、あぁぁっ、くはああぁっ、ひふぁっ」 俺も、もう限界を迎えようとしていた。 かなでさんの腰をがっちりと抱え、奥へ奥へと突き進む。 「もう、あぁ、もう……いくぅ……ああぁっ、はひああぁっ」 「俺も……っ」 「んはぁ、あああぁっ、もう……ああぁっ、はふああああぁあっ」 「わたし、ああぁ、いく……んんんっ、あああっ、んっはあああああぁっ……!」 びゅくっ、どぴゅぅ……びゅくくっ……! 俺はペニスを引き抜き、その白い背中へと欲望を放った。 これ以上ないほどの快感の連続に、肉棒がびくびくと痙攣している。 「はぁ……はぁっ、はぁ……」 気の遠くなるような、長い射精感だった。 「ふあぁ……あ……はぁ……っ」 背中に熱い精を受けたかなでさんは、ぶるぶると身震いをする。 「熱い……。はぁ……あぁ……」 背中だけでなく、髪の毛にもべったりと精液が付着してしまった。 ……相当、たまっていたらしい。 まだ先端からトロトロと精液が垂れてくる。 「なんか……背中が、あったかい……」 「す、すみません」 「その……けっこう、出てしまいまして」 「……そうなの?」 かなでさんは自分の背中を見ようとして、ぐっと身体をひねる。 「あ、動かないでください。大惨事になりますから」 「えぇっ……」 かなでさんは全身を固まらせた。 俺はそばにあったティッシュを取り、背中からこぼれそうになる精液を受け止める。 「はあぁ……」 恍惚とした表情で、かなでさんはため息をついた。 「大丈夫ですか?」 「うん」 「早めにシャワー浴びた方がいいかもしれません」 「その、髪にもついちゃったんで、乾くと大変なことに」 「うん……でも」 「ふわふわして、すぐには動けないよ」 全身を弛緩させ、かなでさんはこちらに微笑みを向けた。 「こーへー」 「はい?」 「気持ちよかった。えへへ」 「……俺もです」 なんだかものすごく照れくさい。 「ねね、こーへー」 「ちゅーして。ちゅー」 かなでさんは唇を尖らせ、手足をばたつかせた。 いきなり甘えモードが発動したようだ。 「早く〜」 「はいはい」 精液をあらかたふき取ってから、俺はかなでさんの隣に寝そべった。 ツンと突き出した唇に、ちゅっと軽く唇を合わせる。 「もっと」 不満げに催促され、もう一度キスをした。 「もっと〜」 「かなでさんって、実は甘えん坊ですよね」 「そんなことないよ?」 「そんなことあると思いますけど」 「おかしいなー」 「これでもクールビューティー目指してるんだけど」 「誰が?」 「わたしが」 「ぶはっ」 遠慮なく噴き出した。 「ちょっと失礼じゃない?」 「だって、ありえないですもん」 「何よー、もう」 ふてくされた顔で、俺を見る。 その表情がかわいらしくて、再びキスをした。 今度は長めのキスだ。 「ん……ふぅ……」 舌を絡ませ、身体を抱き寄せる。 世界で一番幸せなキス。 二人の境がなくなり、一緒に溶けていく感じ。 「こーへー……好き」 「誰よりも、好きだからね」 「はい」 「俺も、世界で一番かなでさんが好きです」 そう囁くと、かなでさんは満足げな顔で抱きついてきた。 そのぬくもりを、大切に受け止める。 窓から射す温かい光に包まれながら、そのままずっとずっと抱き合っていた。 その日、俺とかなでさんは談話室にいた。 ケヤキの世話が一段落し、お茶を飲もうとしたところで勢いよくドアが開く。 「寮長、穂坂ケヤキが切られるって本当ですかっ?」 「私たち、絶対反対です!」 「はんたーい! 署名運動しましょうよ!」 女子たちがかなでさんに駆け寄った。 みんな真剣な様子だ。 「ありがとう、みんな」 「でもまだ、切るって決まったわけじゃないから安心して?」 「なーんだ、そうだったんですか」 「よかったー」 「危うく暴動起こすところでしたよ」 穏やかじゃない発言だ。 でもそれだけ、みんなもあのケヤキのことを大切に思っているということ。 何せ「願いの叶う木」だ。 伐採反対を唱える寮生の多くは、やはり女子。 恋の願いをあの木に託してきた人たちなのだろう。 「でもあたしたち、いつでも戦う準備はできてますから!」 「デモでもなんでもやりますから、いつでも呼んでください」 「絶対ですよ、寮長っ」 「おおー、頼もしいなあ」 「わかった。もしもの時はみんなの力を借りるからよろしくね」 「はーい♪」 ばたばたばたばたばたっ 風のように現れ、風のように去っていった。 「……今日はこれで3組目ですね」 「うん」 「なんか嬉しくなるよね。みんなも同じ気持ちなんだーって思うとさ」 ケヤキ伐採の噂は、日に日に広まっている。 中庭に顔を出す寮生たちも増えてきた。 枯れ枝がようやく芽吹いたことを話すと、みんな一様に喜んでくれた。 ……。 これで、もっと新芽が増えてくれれば。 時間が欲しい。 せめて、かなでさんが寮長を退任するまでは。 夕方。 いつものようにシャベルを持参し、中庭に向かう。 今日はケヤキ周辺の土に腐葉土を混ぜる作業だ。 「……あ」 中庭には、珍しい先客がいた。 東儀先輩だ。 「こんにちは」 「ああ、支倉か」 東儀先輩は一人、ケヤキを見上げていた。 まさか恋愛祈願をしに来たわけではないだろう。 俺はシャベルを置き、東儀先輩の隣に立った。 「東儀先輩、見てください」 「この枝に芽が生えたんです」 新芽を指さすと、東儀先輩は目を細めた。 「本当だ」 「ほかには?」 「いえ、これだけです」 芽吹いた箇所は一つだけ。 あれから毎日じっくりと観察しているが、それ以上の成長は見られなかった。 ……俺がずっと気にかかっているのはそれだ。 唯一生えた芽も、なかなか大きくなってくれない。 ただの気まぐれのように、ちょこんと枯れ枝を彩っているだけ。 「……これだけか」 駄目押しするようにつぶやく。 「まだまだ、これからですから」 「時間をかければ、もっと元気になります」 自分に言い聞かせるように言った。 だが、東儀先輩はそれ以上何も言わず、ただじっと新芽を見つめているだけだった。 夏休み中盤戦ともなると、生徒会の仕事は多忙を極めてくる。 文化祭は9月13日と14日。 あと一ヶ月くらいしか時間がない。 よって、毎日が修羅場状態だ。 「あら? どうしてこの広告スペースが空いてるの?」 「そこは、まだ承認待ちなんです」 「まずいわ、印刷所にせっつかれてるのよ」 「悪いけど、もう一度催促してもらえる?」 「わかりました」 「支倉、備品リストは?」 「今プリントアウトしてます」 「実行委員が追加で発注をかけたいんだそうだ」 「もう一度修正してもらえるか」 げげっ。 「悪いな」 「いえ、すぐ直します」 泣き言なんて言ってる場合じゃない。 俺以外のみんなは、俺よりずっと責任のある仕事をこなしている。 せめて足手まといにならないようにするだけだ。 「ただいまー」 「お帰りなさいませ」 外出していた会長が戻ってきた。 「あー疲れた」 「どうだった?」 「まあ、おおむねいつも通りだよ」 「お偉方が、今年の文化祭も期待してるからね、だってさ」 挨拶回りは延々と続いた。 副理事長、学院長、島の商工会会長……などなど。 たいそうな肩書きをもったおっさんに、次々と紹介され、挨拶していく。 そんな人たちと口を利いている自分にも驚いたが、一番驚いたのは── 会長の振る舞いだった。 少しも気取らぬ態度で敬語を操り、笑いを取り、相手を立て、場をきれいに収めていく。 目立つ仕事を会長に任せていた、東儀先輩の気持ちがわかった。 会長って人は、やっぱり並じゃない。 「あの会長は、おまえのことを買っているからな」 「まあね」 大して嬉しくもなさそうに言う。 「お偉方に気に入られるのは、悪いことではないだろう?」 「別に偉くもなんともないよ」 「忍法が使えたり、透視ができたりすればちょっとは尊敬できるけど」 「そうなると、世の中の大半が尊敬に値しない人間ということになるぞ」 東儀先輩は呆れたように言った。 「兄さん、そこの書類に全部ハンコ押してといてね」 「それが終わったら、広告主にお礼の電話を差し上げること」 「はいはい」 ジリリリリリ ジリリリリリ 「はい、監督生室です」 「……はい、千堂ですね。少々お待ちください」 「伊織先輩、武田先生からお電話です」 ……武田先生? 樹木医の武田先生のことだろうか。 「ああ、回して」 「お電話替わりました。千堂です」 俺はリストを修正しつつ、そちらにも耳をそばだてた。 先日、会長は武田先生にケヤキのことを報告してくれると言った。 何かいいアドバイスがもらえるかもしれない。 「……はい。そうですか」 「いえ、こちらこそ大変お世話になりました」 「では業者と相談して、日程を決めておきます」 「……はい、失礼します」 静かに電話を切る。 俺は会長を見た。 「……ふぅ」 「支倉君」 「はい」 立ち上がり、会長の席へと駆け寄る。 「樹木医の先生だったんですか?」 「うん、そうなんだけどね」 一度言葉を切ってから、会長はまっすぐに俺を見据えた。 「やっぱり切ることになったよ。あのケヤキ」 「……え?」 「……っ」 「……」 「……」 室内が、静かになる。 俺はしばらく言葉を発することができなかった。 「えっ、ど、どういうことですか?」 「言葉の通りだよ」 「あの木に回復の見込みはない。だから切る」 「悪いね。期待に沿えなくて」 「ちょっと待ってください」 俺は身を乗り出した。 そんな簡単に、結論を出していいことなのか? だって、ちゃんと芽吹いたじゃないか。 水はけをよくして、肥料をやって、消毒して。 元気になりますようにって、みんなで祈ってきたじゃないか。 なのに── 「そんなに怖い顔しないでくれよ」 「俺だって、切らないに越したことはなかったんだからさ」 「会長、本当に、ちゃんと先生に診てもらえたんでしょうか?」 「ちゃんと芽が生えたとこ、診てもらえたんでしょうか」 「やだなあ、俺がヤブ医者を連れてきたとでも?」 「そういうことじゃなくて……」 「これは決定事項なんだよ、支倉君」 静かに、でも断定的な口調で会長は言った。 「君たちがあのケヤキを大切にしてる気持ちはわかる」 「でも俺は、あのケヤキ以上に寮生たちの安全を守りたい」 「……倒れる、ってことですか?」 「そうだ」 「でも、今すぐにボキっと折れるわけじゃないでしょう?」 「まだ時間はあるはずです。きっと、回復の手立てだって」 「台風が来ても?」 俺の台詞を遮った。 「たとえば9月になって、戦後最大級レベルの台風がやって来たとしても?」 「それでも君は、まだ時間はあるはずだなんて言えるのか?」 「もし木が倒れて寮生に怪我人が出たら、どう責任を取ってもらえるんだろう」 「……っ」 言葉を失った。 そんなことを言われたら、何も言い返せない。 ……。 だが、会長の言葉がすべてだった。 何を最優先すべきか。 寮生たちにとって一番大切なことは何か。 それは、俺たちの意地じゃない。 ロマンチックな言い伝えでも、伝統でもない。 寮生のみんなが、安全な生活を送れること。 それが大前提だ。 ……。 かなでさんの顔がよぎる。 空から羽根が落ちてきて、顔を上げた時のあの表情。 初々しい緑の芽を見つけた時の、あの笑顔。 「ケヤキの世話は名誉なこと」だと話してくれた時の、あの誇らしげな声。 「あのまま放置しておくと、危険なんだ」 「わかってもらえるか」 「……」 ただ、うなずくことしかできなかった。 生徒会の仕事が終わり、中庭にやって来た。 腐葉土を混ぜた、新しい土を踏みしめる。 そして、ケヤキを見上げた。 せっかくここまで頑張ってきたのに。 ケヤキは確かに、俺たちの気持ちに応えてくれたのに。 「……」 朽ちかけた樹皮と、腐朽した根。 からからに乾いた枝に手を触れた。 本当は、もうどうしようもないところまで来ていた。 生命の灯火は消える寸前だった。 心のどこかでは、わかっていたのだ。 俺たちのやっていることは、延命措置でしかないということに。 完全にケヤキを蘇らせるなんて、不可能に近いということに。 俺は、最初から諦めていたのだろうか。 ……。 違う。 諦めの気持ちがあったことは否定できないが、それでも希望は持っていた。 もしかしたら、もしかするんじゃないかって。 かなでさんと俺の願いがミラクルを起こすかもしれないって。 ……だけど、結局はどうすることもできなかった。 すべてが無になってしまった。 「……ふぅ」 かなでさんには、なんて説明したらいいんだろう。 残酷な役割だと思う。 でも、俺自身が伝えなくてはならないのだ。 かなでさんの、恋人として。 いや……。 生徒会役員として、だ。 「あれ? こーへー?」 宵闇が迫り、外灯がともり始めた頃。 中庭にかなでさんがやって来た。 手にはバケツと肥料。 それに、シャベル。 こんなに遅い時間に作業を進めようとしていたのか。 「どーしたの? ぼんやりしちゃって」 「あれれ? もしかしてわたしのこと、待っててくれたとか?」 「はい」 その通りだった。 かなでさんが来るまで、ずっと一人で考えてた。 誰一人として傷つかない方法を。 みんなが納得できる方法を。 ……。 もちろん、答えは出ないままだ。 「あはは〜、ありがとね。待っててくれて」 「……」 「?」 「ねえ、ほんとにどーしたの?」 「親とはぐれたカルガモみたいな顔してるよ?」 そう言って、かなでさんは荷物を地面に置いた。 「そうそう、さっき、また女子たちにケヤキのこと聞かれちゃった」 「もう署名運動してるグループもあるらしいんだって」 「すごいよね、恋する乙女たちのラブラブパワーは」 かなでさんの顔をまともに見ることができない。 笑顔を浮かべているであろうその顔が、悲しみに染まるのを見たくなかった。 「……?」 「こーへー、ちゃんとわたしを見て」 かなでさんは両手を俺の頬に添えた。 大きな目が、俺をまっすぐに見ている。 そらすことも適わないほど、視線で射抜いてくる。 「ちゃんと言って」 「でないと怒るよ」 「……っ」 もうこれ以上、黙っていることはできない。 俺は、俺なりの責任を果たさなくてはならないのだ。 生徒会役員として。 「……生徒会からの、最終通告です」 「え?」 「8月中に、ケヤキを切ります」 はっきりと、そう言った。 「……」 かなでさんの手が、ゆっくりと俺の頬から離れる。 目はそらさない。 ただ、さっきまで見せてくれた人なつっこい笑顔は、そこにはなかった。 心臓が押し潰されるような痛み。 だが、どこか冷静な自分がいた。 冷静に、かなでさんの震える唇を見ている。 「どう……して?」 「もう、回復の見込みはないそうです」 「このまま放置すると、倒れる可能性が高い」 「台風シーズンが来る前に、早めに切り倒した方がいいということになりました」 「……嫌だ」 「回復の見込みがないなんて嘘だよ」 「だって、芽が出たじゃない」 「まだ生きようとしてるんだってば!」 俺だってそう思ってた。 でも── 「長い目で見れば、いつかは元気になるかもしれない」 「……でも、その前に倒れる可能性の方が高いんです」 「何かがあってからじゃ、遅いんです」 まるで他人事のような口振りだと思った。 昨日までは、あんなに二人で頑張ってきたのに。 かなでさんを裏切ってるような気分になる。 いや、事実そういうことになるのかもしれなかった。 ……。 長い沈黙が横たわる。 かなでさんは、失望しているのだ。 この俺に対して。 何もできなかった俺に対して。 「……わたし、やっぱり納得できない」 「みんなだって望んでない」 「みんなが望んでないことは、寮長として承認できないよ」 「かなでさん……」 「ごめん」 「今は、落ち着いてこーへーとお話できない」 「一人にして……」 そう言って、かなでさんは俺に背を向けた。 明らかな拒絶の意。 俺は、かなでさんに手を伸ばしかけ── 「……っ」 そのまま、中庭をあとにした。 翌日。 監督生室には、会長と副会長がいた。 「……ふうん。やっぱりね」 「まあ、そうなるんじゃないかとは思ってたけどさ」 かなでさんに生徒会からの最終通告をしたことを、会長に伝えた。 伐採に関して、寮長の返事としてはもちろんノーだ。 寮生たちの本意ではないことも、合わせて報告する。 「君には、嫌な役回りをさせてしまったね」 「いえ。自分で決めたことですから」 たとえ失望されても、拒絶されても。 俺以外の誰かに、この役回りを任せることはできなかった。 「さて、困ったな」 あまり困ってなさそうな口調で言う。 生徒会の意向は覆さないという、確固たる意志があるからだろう。 ……。 ああ、そうか。 一番嫌な役回りを買って出てるのは、この人なのかもしれない。 ふと、そんなことを思った。 「とにかく、8月中にはなんとか業者に切り倒してもらわないといけないんだ」 「俺としては、穏便に済ませたいところではあるんだけど……」 「支倉君はどう思う?」 「俺は……」 一番の懸念事項は、もちろんかなでさんのことだ。 もし正式に伐採が決まったことを寮生たちが知ったら。 最終的には、かなでさんに非難の声が集まる可能性がある。 「約束を守れない寮長」だとか、そんな風に責められるのだけは耐えられなかった。 じゃあ、どうすればいい? かなでさんが非難されず、なおかつみんなに納得してもらう方法。 考えろ。 きっといい手があるはずだ。 ……。 そう。 たとえば、非難が集まる矛先を変えるとか。 かなでさんさえ悪者にならなければいいのだから。 「……こうしましょう」 「俺が生徒会役員を代表して、寮生のみんなに伝えます」 「なんて?」 「生徒会主催のイベントとして、ケヤキ伐採式を行うと伝えるんです」 「寿命を迎えたケヤキを送り出す、記念式として」 「ふーむ……」 わかってる。 そんなのは、ただ言い方を変えただけのことだ。 どのみち、寮のシンボルがなくなることに変わりはない。 「それでみんなが納得するのかな?」 「それは、正直わかりません」 「でも……」 少なくとも、かなでさんに非難の目は向かない。 非難が集まるのは生徒会役員代表である、この俺だ。 俺の目的は、ただそれだけだった。 「……」 「よし、わかった。支倉君の案に乗ってみよう」 「明日の夜にでも、寮生たちを談話室に集めてくれ」 「わかりました」 「明日?」 「ずいぶん早いのね」 「早いに越したことはないだろ?」 「天気が安定しているうちに手を打っておかないとね」 「あ、ちなみに瑛里華は明日来なくていいから」 「……どうして?」 「大人数でぞろぞろ行ったって意味ないし、文化祭の仕事もあるだろ」 「明日は支倉君と俺だけで十分だ」 「ね? 支倉君」 「……はあ」 ていうか、会長も来る気だったんだ。 まあ、俺だけじゃいろいろと心配だろうから無理もないけれど。 しかし。 自分から提案しておいてなんだが、気が重かった。 話がどう転んでも、またかなでさんを悲しませることになる。 悲しませるために頑張ってきたんじゃないのに。 ……うまくいかないものだ。 「じゃあ俺、明日の件を寮長に伝えてきます」 「ああ、頼んだよ」 「……」 「支倉くんっ」 監督生棟を出たところで、呼び止められた。 副会長だった。 「どうした?」 「その……」 ゆっくりと俺のもとに歩いてくる。 長いまつげを伏せ、ためらいがちに口を開いた。 「力になれなくて、ごめんなさい」 「支倉くんたちが、あんなにケヤキのために頑張ってたのに」 「なんで副会長が謝るんだよ」 「……だって」 「誰がいいとか悪いとか、そういう話じゃないだろ?」 ケヤキの木が倒れそうだから、切る。 ただそれだけの一件だった。 「でも支倉くん、自分を責めてる」 「違う?」 なんとも返事できない。 「本当は、最後まで悠木先輩の味方でいたかったんでしょう?」 「悠木先輩のよき理解者でいたかったはずよ」 「そうすれば、あなたたちは仲良しのままでいられたんだもの」 副会長が一歩踏み出す。 「でも、支倉くんはそうしなかった」 「だから自分を責めてるのよ」 「……」 そうなのかもしれない、と思う。 俺はケヤキを切るのには反対だ。 そう言い続けていれば、かなでさんに失望されずに済んだのだろう。 じゃあなぜ、そうしなかった? なぜかなでさんを説得しようと思った? 「……自分が、生徒会役員だから?」 「生徒会役員としての責任を感じたの?」 「そんな立派な理由じゃない」 「俺はただ、どっちにもいい顔したかったんじゃないのかな」 「責めるとしたら、そんな中途半端な自分に対してだ」 そういうことにしてしまおう。 もう今となっては、自分を責める理由なんてどうでもいい。 ただ最後まで、役割を果たさなきゃいけない。 それが、かなでさんにできるせめてもの償いだった。 ゆっくり歩いたつもりだったのに、とうとう寮に辿り着いてしまった。 かなでさんは部屋にいるだろうか。 電話して聞けばいいのだが、その勇気が出なかった。 もし着信拒否されてたらどうしようとか、悪いことばかり考えてしまう。 ……。 玄関へと一歩踏み出した。 ドキドキする。 もちろん、あまりいい意味のドキドキではなく。 この緊張は、明日になるとさらに増幅するのだろう。 今夜は眠れそうにない。 ……廊下の窓から中庭を覗いて、足を止める。 やはり、というべきか。 かなでさんが立っていた。 「……」 静かにドアを開ける。 かなでさんはケヤキと向き合うように佇んでいた。 沈痛な面持ちだ。 かなでさんらしくない、悲しそうな顔。 「わたし、その先輩が大好きだった」 「このケヤキを、誰よりも大切にしてた」 今の俺と同じように、かなでさんは前寮長を見ていたのだ。 枯れゆくケヤキを慈しむように見つめる、前寮長のことを。 どんな気持ちで、かなでさんはここに立っていたんだろう。 どんな覚悟を持って、寮長になろうと思ったんだろう。 「かなでさん」 「?」 「……こーへー」 俺を見て、またすぐに目を伏せた。 胸の奥がちくりと痛む。 「かなでさんにお願いがあって来たんですけど」 「お願い?」 「はい」 「明日の夜、寮生のみんなを談話室に集めてもらえませんか」 「もちろん、出席できる人だけでいいんで」 「……なんで?」 俺はなるべく表情を崩さずに答えた。 「ケヤキのことで、生徒会からみんなに報告があるんです」 「詳細は、掲示板の方にも張り出しておきますけど」 「……っ」 何を報告するか、それはかなでさんが一番よくわかっていることだ。 悲しそうに、悔しそうに、唇を噛み締めている。 「かなでさんも、ぜひ出席してください」 「寮長として」 「……わかった」 そう言って、背を向けた。 かなでさんが遠い。 1メートルぐらいしか離れてないのに。 「心配しなくてもだいじょーぶ」 「わたしはずっと、こーへーだけのものだよ」 今抱きしめたら、かなでさんはどうするだろう。 抱きしめたい。 でも、俺はもうそんな権利も失ってしまったのだろうか。 その夜。 談話室には、多くの寮生たちが集まっていた。 もちろん、かなでさんもいる。 こうやって招集をかけるのは珍しいことなので、みんなどことなく色めき立っていた。 「……」 緊張は最高潮に達していた。 俺が発言することで、今はまだ和やかな談話室のムードは一変する。 大きな非難が集まるはずだ。 それでも。 やり通さなくてはならない。 俺が決めたことなのだ。 「そんなに緊張するなよ」 会長がぽんぽんと俺の肩を叩く。 「5万人の大観衆の前でスピーチするわけじゃないんだから」 「俺にとっては、それ以上です」 小声で答えた。 やっぱり会長がいてくれてよかった。 この人の前でみっともない真似はできない。 自然と背筋が伸びる。 「……」 かなでさんと目が合う。 そこに非難がましい色はない。 ただただ悲しそうで、だからこそ逆につらかった。 「そろそろ始めようか」 「はい」 まずは深呼吸。 それからテレビの前に立ち、みんなに呼びかけた。 「これより、生徒会から大事な報告があります」 喧噪がやみ、みんなの視線がこちらに集中した。 思わず気圧されそうになる。 呼吸を整えてから、続けた。 「……御存じの方もいるかと思いますが」 「かねてより樹病を患っていた穂坂ケヤキが、この度専門医から回復不能との診断を受けました」 みんなが顔を見合わせる。 まるで初耳だった人も多いようで、騒然とした空気になった。 「そこで、来る8月30日土曜日」 「生徒会主催による、穂坂ケヤキ伐採の記念式典を開催したいと思います」 「伐採っ?」 「ケヤキを切るってことですか?」 早くも質疑の声が飛んだ。 「穂坂ケヤキは、もうこれ以上成長を望むことはできません」 「よって、切ることになりました」 ざわめきが大きくなる。 非難をあらわにする人。 泣きそうな顔になる人。 無反応な人。 リアクションはいろいろだ。 「それって、絶対に切らなきゃいけないんですか?」 「なんとか残す方法ないのか?」 「……残す方法は、ありません」 「すでに倒壊の危険性があります。決定事項です」 「待ってください。寮長がかわいそうだと思います!」 「……っ」 「毎日毎日一生懸命世話をして、頑張ってきたんです」 「そういう努力を無駄にしちゃうんですか?」 「そーだよそーだよ!」 「寮長もなんとか言ってやってください!」 「……」 会長が一歩前に出ようとする。 それをそっと制して、俺はかなでさんを見た。 「寮長っ」 「……わ、わたしも」 「わたしも、反対です」 はっきりと、そう告げた。 「穂坂ケヤキは、寮に住むみんなが守ってきた木です」 「寮長として、伐採を認めるわけにはいきません」 声援の声が飛ぶ。 その声を聞いて、俺は安堵した。 よかった。かなでさんの味方はたくさんいる。 「生徒会としては、安全性が確保できないものを放置するわけにはいきません」 「ここで大切なのは、ケヤキそのものよりも寮生たちの安全です」 「……!」 かなでさんはじっと俺を見つめていた。 なんでこんなことになってしまったのか。 そう思っているのだろう。 俺だって、ずっと同じことを思ってる。 「あんなに大きな木が、そう簡単に倒れるわけないと思いますけど」 「だよな。まだ元気そうだし」 「そうかぁ? 葉っぱ生えてないぞ?」 「それは……そうだけど」 ……まずいな。 このままだと流れが変わってしまう。 「あとはすべて水掛け論だ」 「引き際を見極めた方がいい」 会長が小声で言った。 引き際と言われても、なかなか難しい。 「……もう一度繰り返します」 「8月30日土曜日、穂坂ケヤキ伐採の記念式典を開催する予定です」 「なるべく多くの人が参加することを望みます」 「以上」 簡潔にまとめてから、俺はその場から移動した。 この大人数を同時に納得させることは困難だ。 納得させることが第一の目的ではないにせよ。 ……本当に、難しい。 生徒会という仕事の複雑さを、初めて思い知った気がした。 「ごめんね、悠木姉」 「……」 会長は肩をすくめ、俺を見た。 「かなでさん、俺……」 「わたし、反対だから」 「絶対に反対だからっ」 「かなでさんっ」 ぱたぱたぱたぱたっ かなでさんは涙を浮かべて、談話室を出て行ってしまう。 みんなも何事かというような顔で、その姿を見送っていた。 「追いかけていいよ」 「あとは、俺がなんとかしとくから」 「会長……」 「よろしくお願いします」 人混みをかきわけ、走る。 かなでさんを追うために、走った。 あの人の行き先は、聞かなくてもわかる。 「かなでさん!」 中庭に続くドアを開け、叫ぶ。 やはりかなでさんは、ここに来ていた。 ケヤキに手をつき、背中を丸めてうつむいている。 「う……」 「だめ……絶対だめ」 「今こーへーの顔見たら、わたしひどいこといっぱい言っちゃう」 声が震えている。 嗚咽を必死にこらえているのだ。 「……いいです」 「ひどいこと、いっぱい言ってください」 そうされてもいいことを、俺はしたのだ。 「……っ」 かなでさんのそばに近づいた。 ただでさえ小さな背中が、よけい小さく見える。 「かなでさん」 「わかるよ……こーへーの立場だって」 「いじわるしてるわけじゃないって、わかってる」 「でも……」 かなでさんは、俺の方を振り返った。 「それでも、一緒に戦ってほしかった」 「最後まで一緒に戦ってほしかったよ」 頬を涙が伝う。 かなでさんは、傷ついてる。 傷つけたのは俺だ。 でも── 「何に対して戦うんですか?」 「自分の意地のために?」 「そうじゃないよ」 「みんなの気持ちだってあるでしょ?」 「卒業していった先輩たちの気持ちだって……」 「気持ちさえあれば、みんなが危険な目に遭ってもいいんですか」 「そんなこと言ってない!」 「こーへーは? こーへーはいいの?」 「このケヤキがなくなっても、こーへーはそれでいいの!?」 「いいわけないじゃないですかっ」 「……っ」 俺は、かなでさんの肩をつかんだ。 つい力が入ってしまうのを、なんとか制御しながら。 「かなでさんと一緒に、一生懸命世話したケヤキなんです」 「俺だってかなでさんに負けないくらい、毎日一緒にいたんです」 「そんなの、なくなって悲しくないわけないじゃないですかっ」 かなでさんにとって、このケヤキに思い出があるのと同じように。 俺にだって思い出がある。 このケヤキの下で、かなでさんに告白した。 あの時、俺は本当にドキドキしたんだ。 フラれたと思ったけど、自分の気持ちを伝えられて誇らしかった。 「……でも、このケヤキはもう生きようとしていない」 「もし木が倒れて、誰かが怪我をしたら?」 「この木のせいで、誰かが寮生活を送れなくなったら?」 「そうしたら……かなでさん、絶対に自分を責めるでしょう?」 「絶対に、後悔するはずです。自分が寮長になったことを」 「こーへー……」 俺は、そんなかなでさんを見たくなかった。 可能性としては限りなく低いのかもしれない。 でも、ゼロではないのだ。 事故が起こる可能性は。 「……かなでさん」 「本当に大切なのは、物でも言い伝えでも栄誉でもない」 「寮に住むみんなでしょう?」 「……」 かなでさんはゆっくりとまばたきをした。 大粒の涙。 まつげが光る。 「寮に住む、みんな……」 言いながら、ケヤキを見上げる。 「大好きだった先輩の代わりに、この寮とケヤキを守りたかったの」 「歴代の寮長みんなの願いが、この子に込められてるから」 「……わたし」 「この子がもう長くないこと、わかってた」 「前寮長の先輩も、きっとわかってたんだよね……」 「でも、先輩と、ケヤキを守るって約束したから」 「だから、わたしの代でケヤキを失うわけにはいかなかったんだ……」 手の甲で涙をふき、ゆっくりと続けた。 「自分勝手な理由だったの」 「約束を破る、いい加減な子になりたくなかったの」 「今、気づいちゃった……」 自嘲めいた口調で言う。 「こーへーのこと、責める資格なんてないよね」 「本当ならわたしがみんなにケヤキを切ること、伝えなくちゃいけなかったんだよ……」 だって、わたしが寮長だから。 そうかなでさんは続けた。 「……ごめん」 「こーへーに嫌な役割を押しつけたんだね、わたし」 「ごめん。本当にごめんなさい」 「謝って済むことじゃないけど……本当に、ごめんなさい」 「俺は、生徒会役員ですから」 「ただ自分の仕事をしただけです」 なんて言うと、ちょっとかっこよく聞こえるけど。 実際はドキドキだったし、吐きそうだったし。 あまりスマートとは言えない仕事ぶりだった。 ……それに、今になって思うのだ。 俺は、かなでさんの言う通り、最後まで一緒に戦うべきだったんじゃないかと。 それがいいことか悪いことかはわからない。 でも、かなでさんの恋人ならそうするべきだったんじゃないか、って。 思ってみたりもするのだ。 だが結果的に、俺はそうじゃない手段を選んだ。 責任なんてかっこいいものじゃなく、エゴを貫いた。 だからかなでさんが俺に謝る必要なんて、ないんだと思う。 「こーへー」 「わたしのこと、許してなんて言わない」 「……でも、償わせてほしいんだ。寮長としての、わたしのやり方で」 「え……?」 「自分の手で、ちゃんと最後の幕を引くよ」 「だから……見ててほしい」 「わたしが、この子を送り出すまでは」 揺るぎのない声で、かなでさんは言った。 もう、戸惑いや憂いは、そこにはない。 寮長としての決意だけがそこにあった。 「俺は、ずっとずっとかなでさんのことを見ています」 「かなでさんが卒業しても、ずっとです」 それが、俺の決意だ。 「……ありがとう」 「ありがとう。こーへー」 かなでさんは、俺の手に手を重ねた。 この手を、ずっとつないでいきたい。 たとえ離れてしまったとしても。 俺たちはいつでも、またつなぐことができる。 手を放すことを怖がらなくてもいい。 そう思えることが、嬉しかった。 夏休みも残りあと二日。 ケヤキ伐採を明日に控えた今日、かなでさんと数人の女子たちが談話室に集まっていた。 かなでさんは、真剣な姿勢を示すためか、制服を着込んでいる。 「……というわけなんだ」 「ごめんね、みんな。約束守れなくて」 「そんな、謝らないでください」 「そうですよ。寮長は一生懸命やってくれたじゃないですか」 ここ二週間、かなでさんは寮生たちに、ケヤキ伐採の必要性を説明して回っていた。 ケヤキを切るのは、とても悲しいこと。 でもそれは、この寮を維持していくために必要なことでもある。 ケヤキを排除するのではなく、みんなで送り出してあげよう。 かなでさんが断腸の思いで決断を下したことは、寮生たちもよくわかっていた。 ケヤキがなくなることで、一番悲しい思いをするのは寮長。 そんな共通の思いが、ケヤキを切ることへの理解を深めていったのだ。 「寮長、元気出してくださいね」 「私たち、明日は笑顔でケヤキを見送ります」 「みんな……ありがとう」 「かなでさん、お疲れ様でした」 寮生たちへの最後の説得を終え、かなでさんは少々お疲れ気味だ。 寮生たち一人ひとりに、納得してもらうまで話し合う。 それはかなでさん自身が決めた、寮長としての「責任」だった。 俺はそんなかなでさんを、ずっと見守り続けていたのだ。 「こーへーも、お疲れ様」 「いつも一緒にいてくれてありがとうね」 「いえ、俺にはそれぐらいしかできませんから」 ふっと、肩の力が抜けて楽になる。 あとは明日という日を迎えるだけだ。 「夏休み、早かったね」 「ええ」 「ちゃんと満喫した?」 「まあ、ある意味では」 遊び三昧というわけにはいかなかったが、それなりに充実していた。 欲を言えば、もう少しかなでさんと夏休みっぽいことをしたかったが。 「そういや、かなでさんにとっては最後の夏休みだったんですよね」 「あ、ほんとだ」 「すっかり忘れてたよ」 「忘れないでください」 「ふふ。でもこーへーのおかげで、めいっぱい青春できたよ」 「そうかな……」 彼氏としては、心残りを覚えてしまう。 本当に、このまま夏休みを終えてしまっていいのだろうか? ……。 「かなでさん、このあとの予定は?」 「ん? ……今日はもう、何もないかな」 「強いて言うなら、放置してる課題が気になるくらい」 「それ、もう数時間だけ放置してもらえませんか」 「え」 俺は立ち上がった。 夏休みはあと少し。 俺はまだ、かなでさんとの肝心な約束を果たしていない。 「かなでさん、デートしましょう」 「ふえ?」 「今まで頑張ってきたんだから、半日くらい遊んでもバチはあたりません」 「ね?」 「……う、うんっ」 「でも、どこに行くの?」 「どこに行きたいですか?」 逆に聞いてみた。 もう午後を回ってしまったので、行けるところは限られている。 「じゃあ、じゃあ」 「夏休みっぽいところがいい」 また抽象的な。 「墓参りとか?」 「ちーがーう」 「夏休みといえば!」 「夏休みといえば……?」 「そう! それ!」 「やっほーーーーーー!」 ……ということになるわけだ。 「ほら、こーへーも一緒にっ」 「いや、俺はいいですから」 8月下旬の海。 まだ暑いには暑いが、微妙にクラゲが気になる時期だ。 「こーへー」 「はい?」 「これ塗って」 小さなボトルを渡された。 日焼け止めだった。 「わたしも日々学習するわけよ」 「なるほど」 前回の失敗をふまえたわけだ。 「たっぷり塗っちゃってね」 「了解です」 かなでさんはビニールシートに座り、俺に背中を向けた。 まだ微妙に、日焼けの跡が残っている。 日焼け止めを手に出し、背中にたっぷりと塗っていった。 「ひぁんっ」 「どうしました?」 「く、くすぐったいんだけど」 「そんなこと言われても」 「……ふぁっ!」 「落ち着いてください」 「わざとくすぐったくしてるでしょ!」 「ただ塗ってるだけじゃないですか」 なのにかなでさんは、誤解を招くような色っぽい声を出してくる。 こっちまでドキドキしてくるのでやめてほしい。 「もうちょっと辛抱してくださいね」 「も、もういい」 「あっ」 まだ塗り終わってもいないのに、かなでさんは早くも脱走した。 そのまま、ざばざばと波打ち際まで走っていく。 「また日焼けしても知りませんよっ」 「そしたらアロエジェル塗ってねー」 ……まったく。 かなでさんはまさに水を得た魚のごとく、楽しそうに泳いでいる。 ようやく夏休みらしくなってきた。 波打ち際で遊んだあと、二人で砂浜を散歩する。 来る時間が遅かったので、もう日が傾いてきてしまった。 「おっ、カメノテ発見!」 「巻き貝だ!」 「待てー! フナムシ!」 「……」 俺は、昔のことを思い出していた。 この島に住んでいた頃のこと。 よくこうやって、一緒に海で遊んでた。 普通の女の子なら怖がるような虫や海生物も、かなでさんはへっちゃらだった。 カニも魚もカブトムシも、平気でつかむ。 一緒に男の子みたいな遊びができる女友達は、けっこう貴重な存在だった。 ……そう考えると。 かなでさんって、あの頃からあんまり変わってないかもしれない。 いろんな意味で。 「……何?」 「はい?」 「今、ヘンなとこ凝視してなかった?」 「してません」 胸は、ヘンなところじゃない。 「いっとくけど、これでも年々成長してるんだから」 「俺は何も言ってないのに」 「はぁ、ひなちゃんぐらいあればなあー」 「いや……えりりんぐらいあれば……」 「……」 副会長の水着姿を思い出す。 あれは、なんというか、確かに素晴らしいものだった。 「まあでも、人それぞれでいいじゃないですか」 「慰めてくれるの?」 かなでさんがシナを作る。 「そうじゃなくて」 「俺は、かなでさんがいいって言ってるんです」 「……」 てっきり、ばしばしと背中を叩かれるかと思ったが。 かなでさんは真っ赤な顔を隠すように、俺に背を向けた。 「どうしたんですか?」 「……困る」 「何が?」 「こーへーのこと、好き過ぎて困ってるの」 「なんとかしてほしいよ、もう」 ふぅ、とため息をつく。 なんとかしてほしいと言われても。 そんなの、俺だってなんとかしてほしい。 俺は、背後からかなでさんを抱きしめた。 「……っ」 「こーへー、熱いね」 「かなでさんも」 「日焼けしちゃったのかな」 「だからちゃんと、日焼け止めを塗れって言ったのに」 ここは大きな岩の影になっているので、人から見られる心配はない……はず。 おかげで、思いっきり抱きしめることができる。 火照った素肌が触れ合い、鼓動が速まった。 水着姿なので、かなり密着度が高い。 「キス、してもいいですか?」 そう尋ねると、かなでさんは何も言わずにうなずいた。 背後から抱きしめたまま、唇を重ねる。 「ふぅ……っ」 いきなり舌を絡め合う。 焦らす間もなく、かぶりつくように唇を求め合った。 「んちゅぅ、んふ……ちゅぅ」 「こーへー……今日はちょっと、せっかちだね」 自分でも、がっついてると思う。 だけど、抱きしめたら止まらなくなってしまった。 「キス、したかったの?」 「……はい」 「えへへ。わたしも」 「今、すっごくドキドキしてる」 「ん……ふっ……」 かなでさんも積極的にキスを求めてきた。 やけに興奮してしまうのは、どうしてだろう。 場所が場所だからか? 舌と舌が触れ合うごとに、下腹部がジンジンと熱を持つ。 もっともっと、欲しくなる。 「かなでさん、俺……」 今すぐに、かなでさんが欲しい。 そう耳元で囁いた。 寮に帰るまでなんて、我慢できそうにない。 自分でも滑稽なほどに欲望が高まっている。 「こーへー……つらいの?」 下半身のこわばりを悟ったらしく、俺を見上げた。 「はい……」 正直に答える。 こうなってしまったら、かっこつけたって無駄なことだ。 「そ、そっか」 「じゃあ……なんとかしてあげないとね」 「あぁでも、うまくできるかな……」 「?」 「う……わっ……!?」 かなでさんは俺の水着に手をかけ、ゆっくりと下ろした。 「初めてだから、あんまり自信ないけど……」 「痛かったら言ってね?」 上目遣いにそう言ってから、半勃起した俺のペニスを握った。 口を大きく開け、亀頭部分をぱくっと含む。 「うぅっ」 温かい粘膜に包まれ、思わず呻いた。 全身の力が抜けていくようだ。 これは、どういう状況なんだろう。 あまりに大胆な行動に、思考回路が停止する。 「んっ……ちょっとしょっぱいね」 「ふふ、大きい」 ぺろりと唇を舐めてから、再び亀頭をくわえる。 ぬめぬめとした舌がカリ首を一周した。 「はむぅ、ん、んちゅっ」 唇をすぼめ、亀頭をがっちりとキープしつつ舌を這わせていく。 荒削りな愛撫ではあるが、そのおぼつかない感じがまたいじらしい。 「んふぅ、あむ……んふ……ぺちゃ……ん」 俺のために、かなでさんは一生懸命舌を動かしている。 潮風が吹き、その栗色の髪をなびかせていく。 「ん……んくぅ、はむ、ちゅぱ」 舌のざらざらとした部分が、先端を何度も往復する。 不覚にも、俺の腰はがくがくと震えてしまう。 「んんっ……どうしたの?」 「い、いや、なんでもないです」 もうこうなると、俺に主導権はない。 されるがままになってしまう。 「じゅっ、んぷぅ、れろっ……ちゅっ」 亀頭を重点的に責められる。 だんだんと舌の動きが激しくなってきた。 「はむぅ、ん……わ、もっと大きくなってきたよ? ……んぁ、ぺちゃ」 唾液をたっぷりと乗せた舌が、先端にまとわりつく。 息が熱い。 俺はたまらず、かなでさんの頭を押さえた。 「あむぅ、ん……んちゅうぅ、んぐっ」 「あっ……!」 さらに深くペニスをくわえ込まれた。 棹全体が熱いぬめりに包まれる。 身体の中心がジンジンとしびれ、俺は唇を噛み締めた。 「ちゅるるっ、んむぅ、んっ、ぺちゃっ」 「はぁむ……んん、なんか出てきた……んぁ、ちゅぱぁ」 先端に舌をねじ入れ、先走りの汁をほじくり出している。 苦いのか、かなでさんはわずかに眉根を寄せた。 それでも、ちゅぱちゅぱと吸いつくのをやめない。 頭を前後に揺らし、ペニス全体を愛撫していく。 「ずっ……ずちゅ、ちゅぅ、れろっ……んんっ」 愛らしい唇が、俺の猛り狂った肉棒をくわえ込んでいる。 口端から唾液が垂れ、砂の上に落ちていく。 「ぁ……かなでさん……っ」 無意識のうちに、俺の腰も動いていた。 口内の粘膜が亀頭を撫で、みっちりと貼りつく。 「んぷぅ、んくぅ、あふ……あむぅ、ぺちゃっ、ぬふぅ」 「くぁっ……」 「ふわっ……ビクビクって、なった」 危うく達してしまいそうになり、下腹部に力を入れ直す。 「こーへー、気持ちいい……かな?」 かなでさんはやや不安げな顔で、俺を見上げる。 「やり方、ヘンじゃない?」 「ヘンじゃないです……最高に気持ちいいですよ」 「ん……よかった」 「ぺちゃ、んふぅ、あむ、じゅぷ……っ」 安心した様子で、再びペニスにむしゃぶりついてくる。 喉をコクコクと鳴らし、たまった唾液と先走りの汁を飲み干す。 「じゅるるっ、ずちゅ、じゅぷぅ」 頬の内側や舌の裏を使い、絶え間ない刺激を与えている。 やがてかなでさんは、激しく頭を前後に動かした。 「んぐ、ぐっ、じゅぷっ……じゅぽっ……じゅるっ」 「あ……あぁっ」 「じゅぷ、ずちゅ、ぺちゃ……じゅるるっ、んぷっ」 かなでさんの動きに合わせて、小刻みに腰を揺らす。 誰に見られているかもわからないのに、欲望を止めることができない。 「んっ、んっ、あふっ、んぷぅ、じゅぷっ」 充血して腫れあがったペニスが、かなでさんの口内を蹂躙する。 喉奥まで突っ込んで苦しいだろうに、必死に愛撫を続けてくれる。 その切ない顔を見ていると、ますます興奮してしまうのだ。 「んちゅ……我慢しなくても、いいからね……あくっ、んぷっ」 「こーへーの好きな時に、出していいから……」 「かなでさ……んっ……」 膝が震え、全身が熱を帯びる。 ひたすら腰を動かし、絶頂への階段を上っていく。 「じゅぷぅ、うぷっ、ん、じゅるるるっ、ぺちゃ、はむんっ」 「ぬぷぅ……くちゅ、じゅっ、ちゅぱ、ずちゅうぅっ、はぁむっ」 「あっ……ぅっ……!」 強く亀頭に吸いつかれ、俺は情けない声をあげた。 目の前が真っ白になる。 「じゅぷ、じゅっ、ちゅるっ、んぷ……ちゅうぅっ、じゅぷっ」 「うっ……出る……!」 びゅくくっ、びゅるるるっ……びゅるっ! 「……んっ!」 たまりにたまった精を、かなでさんの口内に放出した。 次から次へと精液が発射し、喉奥を汚していく。 「はぁ……あぁ……」 「ん、んく……んちゅ……」 かなでさんは、すべてを解き放ったペニスからゆっくりと口を離す。 目をつぶり、そのままゴクンと精液を飲み込んだ。 「……ぐっ……んふぅ」 一気に飲みきれなかったのか、口端からとろりと白濁液が漏れる。 自分でもびっくりするほど、出してしまったのだ。 「す……すみません」 「つい、我慢できなくて」 「んん?」 かなでさんはもう一度喉を鳴らしてから、俺を見上げた。 「我慢しなくっていいんだってば」 「わたしが、出してほしかったんだもん」 恥ずかしそうに言う。 「でも、こんなに出ると思わなかったよ」 「……さては、めちゃめちゃ興奮してた?」 お姉さんっぽい口調で言われ、素直にうなずいた。 あんなにおいしそうに舐めてくれると思わなかったのだ。 「ふふ、いけない子だね、こーへーは」 「あっ……!」 一度口から離したペニスに、再びちゅぱちゅぱと吸いつく。 全身にしびれが広がっていく。 「んく……まだ出てるみたい」 「ぅ……そんなに、刺激を与えたら……っ」 欲望を吐き出したはずの肉棒が、むくむくと頭をもたげていく。 さっきから主導権を握られっぱなしだ。 「ちゅぅ、ん……こーへーの、すごいね」 「……なんか、さっきよりも大きくなってるみたいだけど?」 かなでさんの頬が上気している。 情欲に潤んだ、とろんとした目。 興奮しているのは、きっとお互い様なのだ。 かなでさんだって俺を欲している。 それを証拠に、さっきからずっと俺のペニスを離さない。 「……俺、まだ全部出しきってないみたいです」 「え……」 「かなでさんの中に、入れたい」 「……今すぐに」 俺はその場に座り、かなでさんを抱き上げた。 「自分で入れられますか?」 「う……ふぅっ」 自分で股間の布地をずらし、亀頭を膣口にあてがう。 俺に背後からまたがる格好なので、恥ずかしい部分がしっかりと見えてしまう。 ところどころに砂のついたお尻が、少しずつ沈んでいく。 「こ、こんなところで、誰かに見られたら」 「もう、風紀シールどころじゃないよ……っ」 そんなことを言いつつ、ずぶずぶとペニスをくわえ込んでいく。 いつにも増して内部は狭く、俺は軽く身震いをした。 本当に、こんなところ誰かに見られたら大変だ。 だからといって、今やめる気はまったくないが。 「あ……入っちゃう……入っちゃうよ、こーへー」 「ええ、ちゃんと見えてます」 「やん……んっ、ふああああぁっ」 ずぶぶぶっ! 根元まで一気に入り、かなでさんは身体をのけぞらせた。 「はぁ……ぁっ、入っちゃった……の?」 「はい。こんなに深く」 腰をぐっと上げ、最深部に亀頭を突きつける。 「んくあぁっ!」 かなでさんの全身が、ぴんと張りつめた。 「あぁ、ぁ、んふぁあぁっ……」 「なんで、こんなに気持ちいいの……?」 俺の方を振り返り、かなでさんはつぶやいた。 接合部は愛液でぬるぬるになり、特有の匂いを漂わせている。 「こんなに気持ちよくなっちゃっても、いいの?」 「どーしよう……こーへー……っ」 ぬちゅっ、ずぷうぅ……ねちゃっ ゆっくりと味わうようにして、腰を上下に動かす。 ピンクのヒダが綺麗に割れ、ヌチュヌチュと棹部分を刺激していく。 「くぁ、あぁ、んふあっ、あぁっ」 「かなでさんの声、すっごくかわいいです」 「うぅ、んっ、声、出ちゃうの、勝手に……ひあぁぁっ」 最初は控えめだった声が、だんだんと大きくなる。 自分の快感を抑えることができないのだろう。 俺はかなでさんの股間に手を伸ばし、剥き出しになった陰唇を弄った。 「あひぁっ、触っちゃ……だめだよっ、そこはぁっ」 膣口周辺が、俺の肉棒によってぱんぱんになっている。 大量の愛液が俺の指を濡らしていく。 「んはあぁっ、だめだめ、もっと気持ちよくなっちゃうでしょっ……!」 妖しく腰を動かしながら、かなでさんは声を高らかにあげる。 「もっと気持ちよくしてあげたいんです」 「これ以上は、だめだよ……っ」 だめなんて言いながら、腰を動かしているのは誰だろう。 「うっ……! あくぅ、んっ……!」 どうやら、かなでさんは自分の気持ちいいツボを発見したようだ。 膣壁にペニスをなすりつけるようにして、細かく上下している。 「んぁ、やんっ……誰かに聞かれちゃうかも……」 「大丈夫ですよ、波の音が消してくれますから」 だから、もっと乱れてほしい。 そんなかなでさんが見たい。 「こーへー、お願い」 「う……動かしてっ……」 じらすような動きでは、物足りないらしい。 俺はかなでさんの腰をつかみ、勢いよく頂上を目指した。 ずぶうううぅっ……! 「くっはあぁぁっ」 勢いに乗ったまま、激しいストロークを続ける。 こすられて気泡を帯びた蜜が、内部から溢れ出した。 「はぁん、はぁ、んんあぁっ」 「中が、ぐちょぐちょになっちゃってるの……わかる?」 「はい……すごく、わかります」 ペニスを包む膣壁が絶え間なく蠢いている。 すぐにでも達してしまいそうな自分を、諫めるので精いっぱいだ。 「くぅ、ん……んんっ」 「んふうううぁあぁっ」 かなでさんはギリギリまでペニスを引き抜き、一気に腰を沈めた。 脳天まで電流のような刺激が走る。 それは、まずい。 そんなことをされたら、もういい加減抑えられなくなる。 「こーへー、ああぁ、はあぁんっ」 「わたしたち、一つになってるんだね……っ」 「そう……です、うぅ……っ」 かなでさんのグラインドは容赦がない。 ほとんど飛び跳ねるようにして、快感を貪っている。 「一つに……あぁ、はふん、んっ、あくんっ」 「どうしよ……あぁ、気持ちよくて……あん、もうっ……!」 大きな腰の動きから、今度は小刻みな動きへと変化した。 より締めつけが強くなる。 「はぁ、あん、なんか……来るよ……っ」 「やんっ、もう……あぅ、来ちゃうってばっ……!」 俺の太腿に指を食い込ませ、髪を振り乱す。 ペニスを搾り上げるようにして、内部が収縮を繰り返している。 「あ……あぁ、だめ、もう、あふん、んんっ」 「もう、いっちゃうよ……あぁ、ねえ、中に……あぁっ、くはあぁっ」 「俺も……かなでさんっ……」 弾みをつけて、性器にペニスを叩きつける。 全身が浮き上がるような感覚を覚えた。 「ひああぁん、あぁ、あっ、ふうぁっ、いくぅ……んんっ」 「いっぱ、出して……あぁん、あっ……はあぁ、ふううあぁあぁっ!」 「いくっ……!」 「わたしも……っ、ああぁ、はふん、あぁ、はぁ……んふあぁああぁぁっ……!」 どぴゅぅ! びゅくっ、びゅうううっ……! 「うっ……!」 一番奥に先端が到達した瞬間、俺は激しく射精した。 かなでさんの中に、思いっきり精を飛ばしていく。 「はああぁっ……ああぁっ」 陰部から、蜜と精液の混ざった汁が流れ出す。 その熱くドロッとした液体は、俺の下腹部から砂の地面へと伝っていった。 「んああぁ……いった……ったぁ……」 「いっちゃ……ったぁ……」 肉棒をくわえた陰唇が、ピクンピクンといやらしく痙攣していた。 びっしょりと汗をかいた肌が、夕焼け色に染まって綺麗だ。 「こーへー、またいっぱい出したんだね」 「びゅくびゅくって、奥にあたってたよ」 「う……っ」 いたずらっぽい表情でかなでさんは俺を見た。 かなでさんの中があまりにも気持ちよくて、また無茶苦茶な量の精液を出してしまった。 ……恥ずかしい。 「興奮しちゃった人、手を挙げてください」 「はい」 「はい」 同時に挙手をした。 「なんだ、やっぱりかなでさんも」 「しょーがないでしょ? こーへーがいっぱい動かすんだもん」 「動かしてって言ったのは、確かかなでさんだったような」 「言ってない」 「言いました」 「言ってな……あっ、んふあぁっ」 ほんの少しだけ腰を動かしただけなのに、かなでさんの肩がビクッと反応する。 どれだけ感じやすくできてるんだ。 「あぁ……動かしちゃ、だめなのにっ」 まだ膣内では、断続的な痙攣が続いている。 相変わらず締めつけがすごくて、達したばかりのペニスが再び反応してしまう。 「かなでさん……立ってもらえますか?」 「……えぇ?」 「ま、待ってよ……」 近くの木に手をつかせ、水着をずり下げた。 背後から足を掲げ、ヒクついた秘所に改めて亀頭を密着させる。 「待てません」 まるで興奮が収まらない。 熱く充血した陰唇に、ヌチュヌチュと先端をこすりつける。 「そ、そんなことしたら、また入っちゃうよ……?」 「また、入れたいんです」 「えっ……あぁ、待って、あぁっ!」 ズチュウゥ……! 「あっ……! やふああぁあぁっ!」 下から、一気に突き上げる。 かなでさんの声が、紫がかった空へと放たれた。 「すごい……さっきよりもキツイです」 「待ってって、言ったのにぃ……もう、あぁんっ」 「待てないって言ったじゃないですか」 ようやくイニシアティブを奪い返した。 背後から乳房に手を回し、存分に揉みまくる。 「あぅ、そんなにしたら、あぁ、だめっ」 「もっと……興奮しちゃうでしょ……っ?」 浮き出した乳首を強めにつねり、耳元に息を吹きかける。 すると陰部がきゅっきゅと締まり、さらに深く俺自身を飲み込んでいく。 「もっと、ゆっくり……じゃないと、あはあぁ、はふあぁっ」 優しくしてあげたいけど、勝手に腰が動いてしまうのだ。 いきなりトップスピードで、子宮口を責め立てていく。 「うぅ、んくぅ……あぁ、だめぇ、はふんっ」 「こーへー、そんなにたまってたの……?」 「かなでさんがいやらしいから、欲しくなるんです」 「責任、取ってください」 「そんなっ……」 「もう、これ以上気持ちよくなるの、怖いよ」 「きりがなくなっちゃう……っ」 腰に角度をつけて、出し入れしやすいように調節してくる。 かなでさんだって、欲しくて欲しくてたまらないのだ。 俺は陰部に手を伸ばし、陰唇を開いてクリトリスを剥き出しにした。 「ひんっ、あぁ、風が……あたって……ああぁっ」 「もう、立ってられないよ、足が震えちゃう」 「俺が支えてるから大丈夫です」 耳たぶを口に含み、甘噛みする。 かなでさんはくすぐったそうに身をよじらせ、荒い息を吐く。 首筋や肩に舌を這わせると、潮の味がした。 「こーへー、キスして」 「ちゃんと、抱きしめてて……」 かなでさんは切なそうな顔をこちらに向けた。 その口元にむしゃぶりつき、お互いの唾液を交換する。 「んく、ん、ちゅ……はぁむ、んっ」 口内のあらゆるところまで舌を伸ばし、吸いつき、舐め上げた。 再び下腹部に熱がたまっていくのがわかる。 「あむ……ちゅぅ、んくぁっ」 「こーへーとキスするの、大好きだよ」 「すごく幸せで、やらしい気分になる……」 恥じらいながら、そんなことを言う。 「俺も、かなでさんとキスするの好きですよ」 「毎日でもしたいくらい」 じゅぷっ、ずじゅっ、ぬぷううっ…… キスを繰り返しながら、膣道をペニスでひたすらこする。 だんだんと周囲が暗くなり、薄闇が俺たちを包んでいた。 二人の吐息と波の音だけが聞こえている。 「んぁ、あっ、気持ちいい、あぁ、はあぁん」 「こーへーも、もっと気持ちよくなってね」 「わたしのあそこで……もっと、気持ちよく……なってっ……」 哀願するようにつぶやいた。 俺は膝を軽く曲げ、さらに反動をつけて陰部を貫く。 硬く膨れあがったペニスは、まるで衰えることなくかなでさんの奥を目指した。 「ひああぁ、んっ、あぁっ、はああぁっ、あっ」 「こーへー、好きだよ……ああぁ、はんっ、ふああぁっ」 脚を高く掲げさせ、猛り狂った肉棒をねじ込む。 かなでさんの内腿はびっしょりと汗をかき、震えていた。 「こーへー、また、一緒に、いきたい……っ」 「いかせて……くれる?」 甘い声で囁かれ、俺はうなずいた。 残った力を使って、じゅぶじゅぶと腰を上下させる。 快感の大波がしだいに迫ってくるのがわかった。 「はぁ、んぁ、はああぁ、あふぁ、んっ……んぁっ」 俺の動きに応えるようにして、膣道がうねる。 苦悶に顔を歪ませながら、かなでさんは腰を揺り動かした。 「んぁ、すご……い、あぁ、いきそうに、なってる……あぁっ」 「もう、すぐに……あぁ、いっちゃいそう……だよっ」 内部のざわめきが激しくなった。 俺も、かなりやばい状態だ。 深く息を吐き、かなでさんの身体をぎゅっと抱きしめる。 「あひぁ、ああぁ、ひんっ、はぁ、あああぁ」 「やあぁ、もう……あっ、来ちゃうよ……あああぁっ、くはぁ」 俺の膝から上が激しく震えた。 絶頂がそこに見える。 やみくもにペニスを突きつけていく。 「いく、あひあああぁつ、あぁ、やんっ、はぁ、ああぁ」 「一緒に……いきたいのっ……ああぁ、あっ、ひゃあぁああぁっ」 「あっ……あぁ……っ」 お腹の中心がぐっと重くなる。 もう限界だった。 「う……いくっ……!」 「ひああぁ、あぁ、いくよ……ああぁ、一緒に、ああぁっ」 「んはぁ、ああぁ、はふあああぁっ、いっちゃううぅ、あああふあああぁっ!」 ずぴゅううう! どくっ! びゅくううう! かなでさんが達した瞬間、俺はペニスを引き抜いて射精した。 その全身に、大量の白濁液がかかっていく。 「くっはぁ……はぁ、あぁ……」 「はぁん、はあぁ……はぁ……」 快感に身を震わせているかなでさんは、がっくりと木にもたれかかった。 目の焦点が合っていない。 短く息を吐きながら、全身をビクビク震わせている。 「うぅ……また……」 「またいっちゃった……っ」 「嫌でしたか?」 「そ、そうじゃないの」 「そうじゃなくて……もう、こーへーが悪い」 「こーへーがわたしをこんな風にしたんだからね?」 俺のせいだったのか。 かなでさんが感じやすいせいもあると思うが。 「はぁ……」 「こーへーも、またたくさん出したね」 なぜか嬉しそうに言う。 「かなでさんがえっちだからです」 「あ、人のせいにした」 「それはお互い様」 「むー」 「身体、べたべたになっちゃいましたね」 「ふふ。いーのいーの。好きなだけべたべたにしちゃって」 「それにしても、こーへーは底なしだなあ」 「……」 かなでさんも、とは言わないでおく。 「ねえこーへー、もう一回泳ごうか?」 「え、もう暗いですよ?」 辺りはいつの間にか、夜になろうとしていた。 誰もいないビーチに、波が打ち寄せては引いていく。 「大丈夫だよ。ねっ?」 ……。 やがてかなでさんは、水着をつけ直して波打ち際へと歩いていった。 砂浜に小さな足跡が続く。 その無邪気な後ろ姿を、しばし眺める。 「こーへー! 早くー!」 「はーい」 かなでさんは、俺に大きく手を振った。 沈みゆく太陽と、頭上を横切る雲。 旋回する白い鳥。 夏の終わりを予感させる風が、かなでさんの髪をなびかせていた。 寮に着いた頃には、もう真っ暗だった。 「……ちょっと、ゆっくりしすぎましたね」 「あ、あははははは」 照れ隠しで大げさに笑ってみたり。 でも、つないだ手は放さなかった。 誰かに見られても構わない。 そのままぶんぶんとつないだ手を振りながら、寮に入っていく。 「……」 「? どうしました?」 廊下を歩いていると、かなでさんが立ち止まった。 視線は、廊下の窓。 薄暗い夜に佇む、ケヤキの姿。 「ちょっと、寄っていってもいいかな」 「……はい」 かなでさんはにっこりと笑って、中庭に続くドアへと歩いていった。 しんとした夜だった。 不思議と虫の声も聞こえず、静寂を保っている。 明日になれば、この場所もにぎやかになるだろう。 たくさんの人に見守られながら、ケヤキは最後の時を迎える。 ……今は、かなでさんがケヤキと過ごす最後の夜なのだ。 この学校に入学してからずっと一緒だったケヤキとの、別れを惜しむひととき。 「いろんなこと、あったねえ」 「筋肉痛になるまで穴を掘ったり、肥料まいたり……」 「こーへーとケンカしたり、いちゃいちゃしたり、いちゃいちゃしたり……」 「そ、そんなにいちゃいちゃしてないじゃないですか」 「……ここでは」 「はて、どうだったかな?」 すっとぼけた。 「でも、ちゅーはしたよ。ちゅー」 「さて、どうでしたっけ?」 「もー」 頬を膨らませてから、穏やかな顔になってケヤキに手をついた。 「……ごめんね。守ってあげられなくて」 さらさらとやわらかな風が吹く。 周囲の木々が、内緒話をしてるみたいにざわめいている。 「みんなの願い事を抱えすぎて、疲れちゃったのかな」 「ごめんね……」 「かなでさんは、この木に何か願ったことあるんですか?」 いつか聞こうと思って、なかなか聞けなかったこと。 するとかなでさんは、こくんとうなずいた。 「いおりんは、願いが叶うわけないなんて言うけどね」 「わたしは、この木には不思議な力があると思うなあ」 「……だって、本当に叶ったんだもん」 どんな願いなんですか、とか、聞いてもいいのだろうか。 気になる。 「気になる?」 「ええ、まあ」 「ふふふ」 「6年前だよ。まだこの寮ができる前の話」 「ここらへんは、こーへーともよく遊びに来たでしょ? 覚えてる?」 「なんとなく」 はっきりと覚えているわけではない。 あの頃は、まだ幼かった。 「仲のよかった男の子が、転校しちゃったの」 「だからひなちゃんと一緒に、このケヤキに祈ったんだ」 「もう一度、あの男の子が島に帰ってきますようにってね」 6年前に転校した男の子。 それは── 俺か? 「ね? 叶ったでしょ?」 「……」 知らなかった。 二人が、そんなことを願ってくれていたとは。 「この子がいなくなっても、みんなの思いはなくならないんだよね」 「ずっとずっと、在り続けるんだよね」 「こーへーのおかげで、それがわかったから……」 「明日は笑顔で、この子とさよならできる」 かなでさんは、ゆっくりと目を閉じた。 「今まで、本当にありがとう……」 声の一粒一粒が、夜空に溶けていく。 今までありがとう。 明日は笑顔でさよならできるように。 ……俺も最後に、そう祈りを込めた。 翌日。 秋晴れのような、さわやかな午後だった。 今日は、穂坂ケヤキ伐採記念式典の日。 早い時間から、多くの寮生たちが中庭につめかけていた。 今回、ケヤキ伐採を任された園芸業者の姿もある。 「こんなに人がいっぱい来ると思わなかったな」 意外に集まりがよくて、会長は複雑そうな顔になった。 「みんな、それだけケヤキのことが大切だったんですよ」 「……ふうん、すごいね」 「ただの木なのに」 会長は、この木の御利益に関してかなり懐疑的だ。 リアリストな吸血鬼っていうのも、どうなんだろうと思うが。 「こーへー」 「かなでさん」 出入口のドアから、かなでさんがひょっこり顔を出した。 「もうすぐ始まりますよ」 「うん」 記念式典といっても、別に理事長や学院長が出てくるわけではない。 寮生を代表して会長が斧を持ち、まずケヤキに一振り。 そのあとは、専門の業者におまかせして切り倒してもらうという、それだけの内容だ。 「なんか、緊張するね」 「はい」 俺たちが緊張したってしかたないのに、緊張してしまう。 あの木がなくなったあとの中庭は、いったいどんな景色なのだろう。 きっと、たぶん。 ここに足を踏み入れる機会は、かなり少なくなると思う。 もともと、転校当初はこんなとこめったに訪れなかったのだ。 なのにいつのまにか、日参するようになっていた俺。 ……今になって、じんわりと寂しさが広がっていく。 「紳士淑女の皆さん、ごきげんよう」 「ただいまより、穂坂ケヤキ伐採記念式典を始めます」 会長のスピーチに、盛大な拍手が起こる。 いつのまに、マイクなんか用意していたのか。 「えー、穂坂ケヤキは樹齢百年」 「なんと百年もの間、恋する乙女たちの願いを叶え続けてきました」 よく言う。信じてないくせに。 「百年目の今、残念ながら寿命を迎えてしまったわけではありますが」 「このケヤキと過ごした思い出は、みなさんの胸に残り続けるでしょう」 「……もちろん、ボクの胸にも」 静かな拍手から、大きな拍手につながっていく。 「……しらじらしい」 そばにいた副会長がぼやく。 多少しらじらしくはあるが、珍しくまともなスピーチだった。 「では寮生を代表して、俺が一太刀いかせていただきます」 「そのあとは、プロフェッショナルな方々にバトンを渡すことにしましょう」 隣にいた東儀先輩が、会長に斧を渡す。 ケヤキのそばにいた寮生たちが、ざわわっと離れていった。 ざわめきが止み、一瞬にして静かになる。 誰もが固唾を呑んで、会長とケヤキを見守っていた。 「では……」 「ま、待って!」 突然、かなでさんが大きく挙手をした。 みんなが一斉にこちらを向く。 「どうしたのかな?」 あからさまな笑顔で会長は答える。 どうしたんだ、かなでさん。 やっぱり、まだ納得できてないのだろうか。 などと考えていると、 「その役目、わたしにやらせてもらえないかな」 ……。 「えっ」 「え?」 俺と会長は同時に声をあげた。 あまりに予想外すぎる提案だった。 「いおりん、お願い。わたしがやりたいの」 「わたしがこの手で、この子を送り出してあげたいの」 「……」 会長は少し考えていたようだったが、やがてかなでさんに斧を手渡した。 「危ないから気をつけてね」 「ありがとう」 かなでさんは、ぎゅっと斧を握る。 そして、ゆっくりと振り上げた。 ……寮長としての、最後の幕引き。 ケヤキにしてあげられること。 自分の手で、送り出すことの意味。 ……。 たぶん、これがかなでさんにとっての、本当の別れなのだ。 これがかなでさんなりの、責任の取り方なのだ。 痛くないはずはない。 心が痛まないはずがない。 それでも、かなでさんは── 「……えぃっ!」 ザクッ……! 鈍い音を立てて、斧がケヤキに刺さる。 女の子の力では、それほど大きなダメージにはならない。 でも、痛かったはずだ。 かなでさんの心には、確実にそれ以上の傷が入ったはずだ。 俺には、それがわかった。 「……」 斧を握るかなでさんの瞳から、一粒だけ涙が落ちる。 笑顔なのに、涙。 その涙を見つけたのは、俺だけではなかったようだ。 「寮長、お疲れ様でした!」 「お疲れ!」 「ありがとうございました!」 「みんな……」 拍手とともに、声援が飛ぶ。 涙を浮かべている寮生もいる。 涙と笑顔の入り交じった、温かい空気が中庭に漂った。 「では皆さん、拍手で送り出してあげましょう」 会長の合図とともに、準備をしていた園芸業者がケヤキを囲んだ。 チェーンソーの電源を入れ、その刃先をケヤキにあてがっていく。 「……っ」 根元から、真横に刃が進入する。 容赦のない断絶だった。 百年かけて培ってきたものが、一瞬にして失われていく様。 「バイバイ……」 バイバイ。 さようなら。 でも、思い出はここに在り続ける。 この中庭に、心に、ずっと。 ……。 やがて、大きな音を立ててケヤキが倒れた。 「……なんだか締まらない風景だね」 「ですね」 ケヤキがなくなったあとの中庭は、ものすごく殺風景だった。 間が抜けているというか、何か足りないというか。 木一本で、これほどまでに違うのかと驚くほど。 記念式典が終わり、俺と会長と副会長だけが残っていた。 なんとか後片づけも終わり、一安心といったところだ。 「また新しい木を植える?」 「いいんじゃないか? このままで」 「それに、ここの土はガーデニングに不向きのようだ」 「やるとなったら、本格的に予算を立ててやらないとな」 副会長が苦々しい顔をした。 そんな予算はどこにもないと、表情が物語っている。 ……やっぱり、寂しいものだ。 ひたすら穴掘りを繰り返した日々が、遙か昔のことのようで。 まだ一ヶ月も経っていないのに。 俺ですらこんなに寂しいのだから、かなでさんの喪失感はよほどのものだろう。 表向きは元気に振る舞っていたが、かなり落ち込んでいるに違いない。 「悠木先輩は?」 「部屋に戻ってる」 「……大丈夫かしらね」 「どうだろう」 「やっぱり、代わりの木を植えた方がいいかな?」 「いや、それもどうかと……」 あのケヤキの代わりにはならないと思う。 新たに植えるにしたって、あの思い出のケヤキじゃなければ意味がないのだ。 どうにかして、かなでさんを元気づけたい。 いったい、どうすれば……。 ……。 「なあ?」 「?」 「そういや、あのケヤキって切ったあとどうなっちゃうんだ?」 「木材加工所に運ばれてるんじゃない?」 「まあ樹病を患っていたから、全部を再利用することはできないでしょうけど」 「……」 「てことは、使える部分は残されてるってこと?」 「ああ、そういうこと」 「それが何か?」 ……俺、いいこと思いついてしまったかも。 「な、何? どーしたのっ?」 「いいからいいから」 朝イチで、かなでさん拉致に成功。 問答無用で体操着に着替えさせ、どたどたと廊下を突っ走る。 「あ、あのねこーへー」 「わたしはね、こーへーのどんな要求にも応えるつもりではいるけどね?」 「朝っぱらから、その、体操着でっていうのはマニアックっていうか……」 何やら盛大に誤解されているらしい。 まあおもしろいから、誤解させたままにしておくか。 「でも、そうだよね。今日は夏休み最後の日だもんね」 「最後くらい、景気よくいこうぜーって気持ちもわからないではないよ?」 わけのわからないことを言い始めた。 俺は必死に笑いをこらえる。 「かなでさんが素直な人でよかったです」 「一緒に、景気のいい思い出を作りましょう」 「う……こーへーがそう言うなら……」 真っ赤になった。 「ねえ、ほんとにどこ行くの?」 「外です」 「外!?」 「朝から、外?」 「はい」 「む、むりだよ!」 「そんなの絵日記に書けないよ!」 「書けますって」 「ええぇえぇっ」 勝手にパニックに陥るかなでさんの手を握り、俺は中庭に続くドアを開けた。 「こーへー、ちょっとまっ……」 中庭に出た瞬間、かなでさんは足を止める。 わけがわからないといった顔。 両手を口にあて、ゆっくりと中央に歩いていった。 「これは……」 「穂坂ケヤキを加工してもらったんです」 中庭の真ん中に準備しておいたのは、いくつかの木材。 昨日、業者に頼み込んで、ケヤキの一部をカットしてもらったのだ。 時間がなかったのでおおざっぱなカットになってしまったが、それでも十分だ。 「この木材を使って、ベンチを作りましょう」 「中庭に置いて、みんなに使ってもらうんです」 「……っ」 かなでさんは、木材のそばにしゃがみ込んだ。 そっと指で触れ、俺を見上げる。 「こーへーが、用意してくれたの?」 「わたしのために?」 「俺はただ運んだだけです。カットしたのは業者ですから」 「でも、こーへーが考えてくれたんだよね?」 「まあ、そうです」 かなでさんを元気づける方法。 一度倒したケヤキは、もう二度と戻らない。 だったら、別の形でケヤキを蘇らせればいい。 いつでもそばにいられるように。 「……喜んでもらえました?」 「あたりまえだよ」 「こんなに景気のいいプレゼントが待ってるなんて……」 「ありがとう。こーへー!」 かなでさんに、ようやく笑顔が戻った。 ……そう。 俺は、この笑顔が見たかったんだ。 ずっとこの笑顔を見たいと思っていたのだ。 かなでさんが笑っていてくれるなら、俺はどんなことでもできそうな気がするから。 「……こんな感じでいいのかな?」 「たぶん」 二人して、手探り状態でベンチを組み立てていく。 「そっかー。だから体操着か」 「なんだと思ったんですか?」 「ふっふ〜、なんでもないよ?」 にやにやにやにや。 「ご機嫌ですね」 「おかげさまで」 「ねね、このベンチ、修智館学院の新名所になるよね?」 「でしょうね」 「きっとさ、また新しい言い伝えが生まれるんだよ」 「このベンチに座って告白すると、両思いになれるとか」 「このベンチに座ってキスすると、永遠の愛が約束されるとか!」 かなでさんの目がきらきらと輝く。 女の子って、ほんとにこの手の話が大好きだ。 「じゃあ、試してみますか?」 「……えっ?」 「ニスが乾いたら」 「……ぅ」 頬を赤らめ、俺を見つめる。 くりくりとした目に、吸い込まれそうになる。 「う、うぅ」 「乾くまで、我慢できない」 「へっ?」 「こーへー、ちゅーしよ。ちゅー」 「わっ、ちょっと!」 「ニスが、ああぁっ」 「あはは、えぃっ」 俺に飛びつき、ちゅー爆弾を頬にお見舞いしてくるかなでさん。 最高に恥ずかしくて、最高に幸せな時間。 そんな時間を俺にくれるのは、かなでさんだけだ。 ずっとずっと、いつまでも。 いつまでもそばにいてください。 ニスが乾いて、ベンチに座ったら。 俺は真っ先に、そう願いをかけるだろう── 「……」 どうしてこんなところに来てしまったのか。 特に用事もない、こんなところに。 「……なんだ、おまえもか」 「そういうおまえもか」 中庭には先客がいた。 シャツやカフスのボタンというボタンが、すべて剥ぎ取られてしまっている。 俺と同じく、追いはぎにでもあったような格好だ。 「へえ、意外ともてるんだな」 「くだらない」 「そう言うなよ。卒業式なんだしさ」 「なぜここに来た?」 「女の子たちから逃げてきたんだ」 「そうか。てっきり懐かしくなったのかと思ったが」 「冗談だろ」 鼻で笑ってやった。 「そういえば、なぜ支倉に言わなかったんだ?」 「何をー?」 「あのケヤキは、お前が植えたということをだ」 俺、そんな話を征にしたことあったっけ? 覚えていないということは、忘れてしまったということか。 「誰が植えたかどうかなんて、関係ないだろ」 「それに、あんまり覚えてないし」 「……ふっ」 「笑うな」 「女を口説き損ねたという話か」 「ちがーう」 人聞きの悪いことを言う。 口説き損ねたわけではない。 ただ、血を吸えなかっただけだ。 ……百年以上も昔のこと。 ここにはなんの建物もなく、見晴らしのいい丘だった時のこと。 「血を吸うなら、どうぞ」 ツキと名乗る少女は、俺に言った。 「どうせ私は、もう長くないの」 「死ぬ前に誰かの役に立てるなら、それでもいいわ」 不治の病にかかり、いつも死と隣り合わせにいた少女。 彼女は死を恐れていなかった。 だからこそ俺は、彼女に気圧されて血を吸うことができなかった。 「それなら、俺の眷属になればいい」 「俺の眷属になれば、君は死なずに済む」 丘で何度か会うようになり、顔見知りになった気安さでそう提案した。 しかし、ツキはただ黙って首を振るばかり。 ……。 俺と初めて会った頃から、彼女はとっくに死を受け入れていた。 それ以来、ツキの姿を見ることはなかった。 彼女がどうなったのか、俺は知らない。 彼女と同じ名を持つ木をここに植えたのは、単なる気まぐれだ。 あの頃は、まさか百年も持つとは思わなかった。 「……伝説の正体なんて、しょーもないことだったりするんだけどね」 「まったくだ」 こんな取るに足らない話が、なぜ百年に渡って伝聞してきたのか。 それも「願いが叶う」とのオマケつきで。 くだらないと思う。 命あるものはいつか死ぬ。 死なないのは、人ならざる者だけだ。 「でも、かわいい子だったな」 「タイプではなかったけど」 「そういう細かいところは覚えてるんだな……」 「悠木先輩! 卒業おめでとうございます!」 「大学行っても私たちのこと忘れないでください」 「たまには遊びに来てくださいねー?」 「もっちろん。抜き打ち風紀検査に来るからねー」 今日は卒業式。 名物寮長だったかなでさんの周りには、多くの後輩たちが集まっている。 中には、涙を流して別れを惜しんでいる者もいた。 かなでさんの人望の厚さを如実に物語っている光景だ。 学校を卒業したら、かなでさんは県内の大学に進学する。 決して遠くはないが、今までのように気軽には会えなくなる距離だ。 それに、かなでさんもこれからもっともっと多忙になることだろう。 だけど、あまり不安はない。 不思議なことに、二人の関係が駄目になる気がしない。 根拠のない自信だが、そもそも自信なんてもともと根拠のないものなのだ。 「寮長、シャッター押してもらえますか?」 「うん、いいよ」 「違います、悠木先輩はもう寮長じゃないですよね?」 「……たはは」 「そういうこと」 俺は寮生からカメラを受け取り、ファインダーにかなでさんたちを収めた。 「はい、ポーズ」 「いぇ〜いっ」 「ありがとうございます、寮長」 「どういたしまして」 寮長と呼ばれる俺こそが、新寮長。 かなでさんの後任として、寮の仕事を受け持っている。 生徒会との両立はなかなか厳しいが、かなでさんも掛け持ちでがんばってきたのだ。 たぶん、できるはず。 ここでも根拠のない自信に支えられている俺だった。 「こーへー」 「あのベンチのこと、頼んだよ」 「はい。任せてください」 かなでさんとの約束。 それは、あのベンチを守ること。 定期的に手入れをして、次の世代へと受け継いでいく。 それが、俺たち寮生の願いだった。 「……大学行っても、頑張るよ」 「こーへーがあのベンチを守ってくれるんだもん。私も頑張らないとね」 「たまには座りにきてください」 「うん」 「忙しくて来られない時は、これを」 「?」 俺はポケットから、キーホルダーを取り出した。 僭越ながら、俺が自作した羽根の形のキーホルダー。 あのケヤキの余材で作ったものだ。 「これ……あのケヤキの?」 「はい」 いつか、ケヤキが芽吹いた時。 俺たちの目の前に、鳥の羽根が舞い降りてきた。 何かつらいことがあったら、希望でいっぱいだったあの時の気持ちを思い出してほしい。 そんな意味も込めたつもりだ。 「こーへー、器用だね……」 「あんまりまじまじと見ないでください。アラが目立つんで」 「ううん。わたしの宝物だよ」 「ありがとう」 ちゅっ。 「なっ!」 ほっぺにちゅーされた。 「あーあー」 「すげぇ」 「……お姉ちゃんったら」 「仲睦まじいのはよいことですね」 「ふっふっふ。今日は無礼講なのだ!」 かなでさんは胸を張る。 まったく、この人にはドキドキさせられっぱなしだ。 たぶん、これからも。 「悠木先輩、お元気でー!」 「お姉ちゃん、ちゃんとご飯食べるんだよー」 「たまにはお電話くださいねー」 「りょうかーい!」 寮生たち全員が、かなでさんを拍手で見送る。 明日から、別の場所で暮らすことになるかなでさん。 きっと、俺たちは少しだけ寂しくなるだろう。 何かが足りなくて、その姿を無意識のうちに探してしまうかもしれない。 俺は、かなでさんのような最高の寮長にはなれないかもしれないけど。 寮に住むみんなに、少しでも楽しい気分で過ごしてもらうために。 全力投球するつもりだ。 かなでさんから教わった、大切なもの。 人と人とのつながり。 みんなで一つのことを共有する楽しさ。 約束を守るということ。 そんなものたちを、今度は俺が次の世代に伝えていく。 そうやって、たくさんの思い出たちが生まれていくんだろう。 「こーへーっ」 「愛してるよー!」 「ぐは……っ」 「ほら、返事しなさい」 「早く早く」 「お……」 「俺も、です!」 かなでさんは投げキッスして、にっこり笑う。 みんなの前で叫ぶのは、ちょっと恥ずかしいけど。 次に会う時は、今よりももっともっと大きな声で叫びたい。 ……俺も、愛してます。かなでさん。 ずっとずっと、いつまでも。 あのケヤキが生きた年月よりも、長く── 夜。 勉強をしようとしていたら、いつの間にか部屋の掃除を始めていた。 よくあるパターンだ。 まずは部屋の隅々まで掃除機をかける。 ついで、クローゼットからダンボールを引っ張り出した。 引っ越し以来、放置していた荷物だ。 いい加減、この辺で整理しておこう。 「お、あったあった」 ダンボールの中から、捜していた文具や生活雑貨がぼろぼろと発掘される。 お茶会で活躍しそうなコースターも見つけた。 さらに奥底を探り、ふと手を止める。 「……」 手紙の束だった。 ずっとずっと、捨てられなかったもの。 俺はその束を取り出し、かわいらしく整った文字を見つめる。 宛先には俺の名前。 そして、差出人は「悠木陽菜」。 俺と陽菜の、数ヶ月にわたる文通の記録だった。 ……。 陽菜と文通していたのは、7年ほど前だ。 文通が自然消滅してからも、俺はずっと大切にこの手紙を保管し続けていた。 俺にとっては、お守りのように強い意味があったからだ。 そういやこの手紙の束、以前陽菜に見られちゃったんだよな。 今みたいに、引っ越しの片づけをしていた時のことだったか。 出てきたのは、目薬、コースター、目覚まし時計…… それから、手紙の束。 「……」 やっぱ、同じ箱に入ってたか。 「どうしたの?」 「いや、なんでもない」 手紙の束を、箱の奥深くに押しこむ。 正直、見られたのは恥ずかしかった。 一瞬のことだったが、陽菜もきっと気づいただろう。 この手紙は、陽菜自身が出したものだということに。 「懐かしいな……」 懐かしくて、同時に胸が痛む。 大切に保管してるくせに、読み返す勇気はない。 この手紙の束を見て、陽菜はどう思っただろう? ……。 なんとも思わないか。 陽菜にとって、この手紙は「なかったこと」になっているはずだから。 「ん?」 なんだ? 俺はベランダの方に違和感を覚え、立ち上がった。 今、何かがこっちを見ていたような。 気のせいか? カーテンを開けて外を見ても、何もない。 やっぱり気のせいか。 「……」 ベッドの方に戻り、ちらりと外を見る。 何かが動いた。 どうやら気のせいではないらしい。 誰だ。 1.野良猫 2.野良タヌキ 3.野良かなで 答え。鉄板で3番。 いったい何を企んでいる? 俺は忍び足でカーテンの裏側に隠れ、好機を待った。 カタッ ギシギシッ 聞こえる、聞こえるぞ。 くせ者が侵入しようとしている音が。 俺は一気に窓を開け、ベランダへと躍り出た。 「こらあっ」 「ひゃーーーーっ!」 ベランダの柵から落ちそうになり、俺は慌ててその首根っこを押さえた。 予想以上の激しいリアクションだ。 「何やってるんですか、こんなところで」 「ご、ごご、ごめんね」 「あ、あのね、怪しい者じゃないの。ほんとに」 十分怪しいと思う。 「用事があるなら、もっと普通に来てください」 「うん、そうだよね」 「でもね、その、いろいろあって……」 「いろいろ?」 「あー、その、えーと」 「こーへーがね、普段どんなことしてるかチェックしようなんて、思ったり」 なんじゃそりゃ。 俺はかなでさんの首根っこを、ひょいと持ち上げた。 「わわわ、どこ連れてくのーっ」 「説教部屋」 「ええっ!」 「ひー! 堪忍してー!」 「人さらいー!」 「おうち帰るー!」 「心配しなくても、ちゃんと帰してあげますよ」 「ほ、ホント?」 「はい」 ただし、保護者に引き取りに来てもらうことにする。 俺は携帯を取り出し、電話をかけた。 プルルルル……プルルルル…… 「もしもし」 「俺だ」 「どうしたの?」 「悪いけど、かなでさん迎えに来てもらえるか?」 「えっ?」 「女子フロア前のドアにいるから」 「わ、わかった。すぐに行くね」 ブツッ 「わたしを売ったなーっ」 「お里に帰すだけです」 「ひどい……ひどいよこーへー」 うるうると目が潤む。 つくづく、見てて飽きない人だと思う。 だが、その手には乗らない。 そうこうしているうちに、ドアがガチャッと開いた。 「な、何してるのー?」 俺に首根っこを押さえられているかなでさんを見て、陽菜は目を丸くした。 「もー、お姉ちゃんは小動物じゃありません」 「ベランダから俺の部屋を覗いてたから、捕獲してみた」 「というわけで引き取り頼む」 「え……?」 「ぐっ」 かなでさんはバツの悪そうな顔でうつむいた。 「だ、ダメじゃないお姉ちゃん」 「うぅ、ごめんなさい」 さすがにしょんぼりとした様子だ。 ちょっとからかい過ぎたかもしれない。 「孝平くん、ごめんね。うちのお姉ちゃんが迷惑かけちゃって」 「いや、陽菜は謝らなくていいだろ」 「そうだよ、ひなちゃん悪くないもん」 「悪いのはぜーんぶわたし」 「だったらどうして、ベランダなんかに入ったの」 「それは、その」 「ひなちゃんのためなら、たとえ火の中水の中……」 「は?」 「は?」 「あ、いけない! サボテンに水やる時間だ!」 「じゃあね〜っ」 「もう、お姉ちゃんてばっ」 まるでくノ一を思わせるような俊敏な動きで、かなでさんは去った。 「ご、ごめんね」 「いや、いいよ。陽菜も何かと大変だな」 俺はねぎらいの笑顔を向けた。 元気印の姉と、フォロー役の妹。 その図式は、子供の頃と何も変わっちゃいない。 でもなんだかんだで仲良しなんだよな、この姉妹は。 兄弟のいない俺としては、ちょっと羨ましかったり。 「後でちゃんと叱っておくからね」 「お手柔らかにな」 「うん」 陽菜はうなずいた。 放課後。 生徒会の仕事が終わり、寮へと歩く。 今日はかなりヘビーな宿題をこなさなければならない。 とっとと帰って、とっとと終わらせよう。 ……と思ったが、教科書を机の中に忘れてきた。 一度教室に戻るか。 下駄箱に靴を入れ、廊下を急ぐ。 すると、見慣れた顔がそこにあった。 「よう、陽菜」 「あ、孝平くん」 陽菜は振り返った。 廊下の掲示板に、なにやらポスターを貼っているようだ。 「何それ?」 「美化月間のお知らせだよ」 「ほら私、美化委員だから」 「そうだったな」 足下にはポスターの束と画びょうがある。 これを全部貼って回るのか? 「他の委員たちは?」 「部活とか、いろいろね」 「私、ホントにジャンケン弱いんだ」 陽菜は笑う。 ジャンケンに負けて、ポスター貼り係をやるハメになったってことか。 つられて俺も笑った。 「そういや、陽菜って昔からジャンケン弱かったよな」 「……」 あ。 俺は頭を掻いた。 「ごめん」 「ううん。どうして謝るの?」 「孝平くんは、これから帰るところ?」 「まあ、そのつもりだったんだけど……」 俺はもう一度、陽菜の足下を見た。 やっぱり、これを一人で全部貼るのは大変だと思う。 それに、宿題があるのは陽菜も同じだ。 「なあ、小腹減らないか?」 「え?」 「早く終わらせて、味噌ラーメン食いに行こうぜ」 俺はポスターと画びょうを手に取った。 「孝平くん……」 「次はどこに貼るんだ?」 「えっと」 「二階の、廊下かな」 「おし」 「じゃ、行くか」 「うんっ」 二階の掲示板にポスターを貼り、次は三階。 それが終わったら今度は四階。 校内の掲示板をすべて回るのは、けっこうな作業だ。 「美化委員会って、地味に大変な仕事だな」 「そうかな?」 「どこの委員会も、それなりに仕事量は多いと思うよ」 「でもさ、掃除とかしなきゃなんないんだろ?」 「うん。そうだよ」 「草むしりしたり、ゴミ拾いしたり」 「うわー」 やっぱ大変だ。 言っちゃ悪いが、委員会に入ってまで掃除するのもなぁ、と思う。 だったら部活に入った方が、まだ青春してるっぽい。 「陽菜は偉いなあ」 「なんで?」 「なんでって言われても」 「美化委員は、ただ学校がキレイになるお手伝いをしてるだけ」 「私たちが頑張るより、みんなが少しずつ頑張った方がキレイになるんだよ」 陽菜はにっこりと言う。 やっぱり、偉い。 こういう作業を面倒臭がらずにやるのも偉い。 「手伝ってくれてありがとうね、孝平くん」 「おう」 何よりも、笑顔でできるところがすごいと思う。 ポスター貼りの仕事が終わり、俺たちは学食に来ていた。 ただいま午後4時半。 ピークタイムの前なので、生徒の姿もまばらだった。 「陽菜は味噌ラーメンでいいか?」 「いいよいいよ、自分で払うから」 「いいんだって。頑張ってる陽菜へのご褒美だ」 遠慮する陽菜を横目に、味噌ラーメンをオーダーする。 それとアイスティーを二つ。 「はい、お疲れ」 席に着き、小さく乾杯した。 「ホントに、おごってもらっちゃってよかったの?」 「ああ」 「おやつにしちゃ、ちょっとヘビーだけどな」 運ばれてきた味噌ラーメンを見て、陽菜は苦笑した。 さすが鉄人、今日も容赦なく盛ってくる。 「じゃ、じゃあ、遠慮なくいただきます」 「おう。たんと食え」 特盛り味噌ラーメンに取りかかる陽菜。 「うまいか?」 「うん」 満面のスマイル。 ステーキもラーメンも一流なのが鉄人のすごいところだ。 ……。 しかし、減らない。 一生懸命食べているにも関わらず、まったくかさが減らない。 陽菜は焦った様子で、額の汗をぬぐった。 「あの、孝平くん」 「よかったら、残り食べてくれない……かな?」 あえなく撃沈したらしい。 「んじゃ、いただく」 「ごめんね」 「まだ熱いから気をつけて」 そう言って、陽菜はハンカチを差し出した。 小花柄の、キレイにアイロンがかかったハンカチだった。 「おいしい?」 「ああ」 食べながら、陽菜のハンカチで汗をぬぐう。 ふと、昔のことを思い出した。 確か七年前も、同じようにハンカチを貸してもらった気がする。 たぶん俺が転んで怪我をしたとか、そんな理由だったと思う。 あの頃から、陽菜はまったく変わっていない。 アイロンのきいたハンカチも、その穏やかな空気も。 「……なあに?」 「ん?」 「今、笑ってた」 「思い出し笑いだ」 「なになに?」 「教えない」 「もう、意地悪」 陽菜は両手で頬杖をつき、俺を見る。 幼なじみだからか、陽菜といるとなんだかホッとする。 幼なじみといっても、一緒にいた期間はほんのわずかだ。 七年前に珠津島に引っ越して、一年後にまた転校した。 陽菜との思い出だって、特別多いわけじゃない。 ……。 俺は、陽菜に感謝しているのだ。 あれは、確か6年前。 俺が珠津島を出る数日前のことだ。 俺は、クラスメイトの何気ない言葉でひどく傷ついていた。 子供ながらに、もう二度と人を信じるまいと思った。 そんな俺を救ってくれたのが、彼女の手紙だ。 転校しても、俺には友達がいる。 俺を気に掛けてくれる人がいる。 そう思うだけで、失望せずにその後の転校人生を乗り越えることができたのだ。 決して大げさじゃなく。 「はぁ、食った食った」 「完食だね」 「じゃあ、今度は私がデザートおごってあげる」 「えっ、いいってそんなの」 「いいのいいの。ちょっと待っててね」 俺の制止も聞かず、陽菜はレジに行ってしまった。 相変わらず気遣い屋だ。 ……そう。 陽菜は昔からそうだった。 転校生だった昔の俺に、一番最初に声をかけてくれたのも彼女。 そして転校した後も、ずっと俺のことを気に掛けてくれていた。 もし、あの手紙のやり取りがなかったら。 俺は今頃どうしていただろう? これまで通り、浅い人間関係しか作れなかったに違いない。 お茶会するような友達には恵まれなかったかも。 風景に溶け込むようにして、無難な日々を演じていただろう。 だけど、今の俺は違う。 進んでこの学校に関わろうとしている。 そんなスタンスになれたのは、陽菜のおかげかもしれないと思ってる。 でも── 陽菜には、俺と過去に過ごした一年間の記憶がない。 俺のことだけじゃなく。 友達と過ごしたことも。 家族との会話も。 勉強した内容も。 一年間分の、すべての記憶をなくしてしまったのだ。 6年前に陽菜を襲った、交通事故によって。 逆行性健忘。 事故のショックで一定期間の記憶を失うことを、そう呼ぶらしい。 幸いなことに大きな怪我はなかったが、いまだに記憶だけは戻らないままだ。 ……。 陽菜の中には、俺が「元同級生」だったという事実だけがある。 俺が珠津島に転校してきた直後のことは、おぼろげに覚えているらしい。 でも、それだけだ。 陽菜はもう、俺と文通を始めた理由を忘れてしまった。 俺にかけてくれたあの言葉も、忘れてしまったのだろう。 彼女が悪いわけじゃない。 誰が悪いわけでもない。 だが、俺はこう思わずにはいられなかった。 ……なぜ失った期間が、俺と過ごした一年間でなければならなかったのか、と。 「はい、お待たせ」 「デザートは、新作の抹茶あんみつだよ」 「ありがとな」 「どういたしまして」 陽菜は柔らかい笑顔を浮かべる。 今でこそ、陽菜は普通に笑顔を浮かべることができるようになったけど。 それに至るまでの苦労は、計り知れないものがあったはずだ。 「どしたの? 真剣に抹茶あんみつ見つめちゃって」 「いや、食べるのもったいないなと思って」 「ふふ、ヘンなの」 そんな陽菜の笑顔を見るたびに、思う。 陽菜とまた会えて、よかった。 例え、陽菜が俺のことを覚えていなくても。 俺はもう一度陽菜に会えて、よかったと思う。 「みんな、教科書をしまってくれ」 「今から小テストやるぞー」 教室に阿鼻叫喚の声がこだまする。 俺も大げさにため息をついてみせた。 「陽菜先生、あてにしてるからな」 「えっ? えっ??」 「だ、ダメだよ。私、あんまり化学得意じゃないし」 「冗談だよ」 得意じゃないと言いつつ、過去の小テストでは平均点以上を獲得していた陽菜。 飛び抜けて秀才というわけではないが、なんでもそつなくやるタイプだ。 俺は、ひょいと司の様子を見た。 「Zzz」 寝てる。 後ろを見た。 「……」 ぼけーっと外を見ている。 誰もあてにできない今、自力で頑張るしかなさそうだ。 「じゃあ、呼ばれた者から答案を取りにくるように」 「青田ー」 「はい」 小テストの採点が返ってくる。 抜き打ちだったせいか、みんな軒並みブルーな顔だ。 もちろん、俺もその中の一人。 「どうだった?」 「まあまあ、かな」 「孝平くんは?」 「聞いてくれるな」 「おーい、こんな調子で大丈夫か?」 「そろそろ進路を考える時期なんだから、気合い入れていけよ」 「はーい」 進路か。 そんなこと言われても、あまりピンと来ない。 「そーいや、かなでさんって進路決まってるのか?」 「うーん、どうかな」 「私はまだ、はっきりとは聞いてないけど」 「ふーん」 「そういえばお姉ちゃん、寮長は9月いっぱいで交代だよ」 「ああ、そうだったっけ」 確か、会長もそんなようなことを言ってたな。 6年生は、9月いっぱいが公職の任期だ。 次は、誰が寮長をやるんだろう。 かなでさんに匹敵するような逸材なんて、なかなか出てこないと思うけど。 その夜。 俺と司は大浴場に来ていた。 司はバイトで疲れているのか、湯船に浸かりながら船を漕いでいる。 「Zzz」 ちゃぽんっ 「がぼっ」 「……」 「Zzz」 ちゃぽんっ 「がぼぼっ」 「なあ、いい加減溺死するぞ?」 「おう」 「Zzz」 ダメだこりゃ。 「なあ、司」 「がぼぼっ」 「なんだ?」 「お前、もう進路決めた?」 「ぜんぜん」 「そっか」 ちょっと一安心。 転校したばかりだってのに、そう簡単に進路なんか決められるか。 まあ順当にいけば、進学ってことになるんだろうが。 それにしたって、まったくピンとこない。 風呂上がりのクールダウンをしに、談話室へ。 司は眠いといって先に部屋に帰ってしまった。 「お、ラッキー」 珍しく誰もいない。 これでテレビを好きなだけ占領できる。 俺は大きなソファーを陣取り、リモコンを手に取った。 リモコンには「キレイに使うこと!」との注意書きシールが貼ってある。 かなでさんの文字だ。 そういやこのテレビは、かなでさんが寮長になってから設置されたと聞いた。 テレビだけじゃなく、あの本棚も。 更衣室にある体脂肪測定器も、マイナスイオンドライヤーも。 かなでさんがいろんな手段を用いて揃えたもの。 そう考えると、彼女の残した功績はでかい。 ガチャッ 「あ、孝平くん」 「うぃっす」 陽菜が入ってきた。 風呂上がりらしく、髪が少しだけ濡れている。 「ちょうどよかった。この番組見たかったの」 陽菜は嬉しそうに、俺の隣に座る。 手にはなぜか、小さな花瓶のようなものを持っている。 「何それ?」 「これ?」 「お姉ちゃんが、用務員さんからもらってきたの」 「談話室に季節の花を飾ったら素敵だよね、って」 「どんどん設備が豪華になっていくな」 「お姉ちゃん、任期終了まであと少しだからね」 「それまでに、できるだけのことはしておこうと思ってるみたい」 「さすがだなあ、かなでさんは」 9月で退任か。 なんとなく寂しい気もする。 あのオークション風景も見られなくなってしまうってことだ。 「なんかこう、かなでさんにしてあげられることってないかな」 「お疲れ様ー、みたいな」 「パーティーみたいなこと?」 「そうそう」 「いいと思う。お姉ちゃん、すごく喜ぶよ」 俺も、ものすごくいいアイデアのように思えてきた。 お祭騒ぎが大好きなかなでさん。 これはもう、喜ばないはずがない。 「とりあえず、お茶会メンバーで考えてみるか」 「あ、こういうのはどう?」 「お姉ちゃんには内緒で計画を進めるの」 「サプライズパーティー?」 「うん。びっくりさせちゃおうよ」 「よし、そうしよう」 いつも驚かされてばかりだから、たまには逆の立場になるのもいいだろう。 「じゃ、さっそく司にも相談だな」 「楽しみだね。料理はどうしよっか?」 「まあ、そこらへんも学食に相談するか」 「お姉ちゃんの好物っていったら……」 「鍋、か……」 9月に鍋とは、暑苦しいパーティーになりそうだ。 ガチャッ 「なになにー? わたしのウワサ話?」 「……っ!」 「っ!」 空気が固まった。 「な、なな、なんですかいきなり」 「なんかー、急に呼ばれたような気がして来てみたんだっ」 「ねえねえ、何話してたのー?」 かなでさんは無邪気な顔で俺のもとに駆け寄る。 ……恐ろしい。 恐ろしすぎる野性の勘だ。 「あはは、あれでしょ?」 「今年のミス修智館のトトカルチョでもしてたんでしょ?」 「はい?」 「うーんとね、わたしの予想ではねー」 「6年の悠木かなでがダークホースと見てるんだけどねぇー」 「……」 見当違いの第六感で助かった。 「あ、やばい。そろそろ宿題やんないと」 「わ、私も」 俺たちは立ち上がった。 「むむむ?」 「なーんか怪しいんだけどねえ、お二人さん」 「怪しくないから!」 いや、十分怪しいぞ陽菜。 「というわけで、ごきげんよう」 「こらー! 待ちなさーいっ」 「止まらんと逮捕だーっ!」 俺は陽菜の手を掴み、大あわてで廊下を走った。 「はぁ……はぁ……」 「どうしよう。気づかれちゃったかな」 「大丈夫だろ。そこまで深読みしないって」 「だよね」 「あ……」 陽菜はじっと一ヶ所を見つめている。 なぜか顔が赤い。 「あ」 俺は、ぱっと陽菜の手を放した。 「すまん」 「わざとじゃないんだ。つい、急いでたから」 「う、うん」 陽菜は何度もうなずく。 しばし沈黙。 陽菜は視線をさまよわせ、濡れた髪を耳にかける。 「それより、ほら、パーティーの計画」 「あ、そ、そうだね」 俺たちは歩きながら、パーティーの相談を再開した。 空いた右手が、なぜか熱かった。 その日の夕方、いつものようにお茶会が開かれた。 このイベントもすっかり恒例となっている。 「お茶のおかわりいる人ー」 「はーい♪」 「うーい」 「はーい」 一斉に挙手。 陽菜は優雅な手つきで、二杯目のオレンジペコを淹れる。 俺もだんだん茶葉の種類に詳しくなってきた。 「ふぅ……」 「どうした?」 「え?」 「今、ため息ついただろ」 「私?」 陽菜は小さく笑ってから、肩をすくめた。 「なになに? 悩み事?」 「恋の悩みなら、おねーちゃんが一手に引き受けるけど?」 「違う違う、そんなんじゃないの」 「悩み事っていうか、ちょっと心配なことがあって」 「言いづらい話か?」 「ううん」 「美化委員のことなんだけどね、ホントに大した話じゃないの」 「イジメ!?」 「イジメか」 「違うってば〜」 「あのね、今度、美化委員でユニフォームを作ろうって話になったのよ」 「ユニフォーム?」 「うん。前からそういう要望があったの」 「美化活動する時は、汚れてもいいような動きやすい服がいいでしょ?」 「そりゃそうだ」 「わかった!」 「要するに、ひなちゃんはそのユニフォームが気に入らないわけだね?」 「うーん」 お、否定しない。 「きっとさ、だっさいデザインなんでしょ?」 「白地のTシャツに太丸ゴシック体で『美化☆月間』とか」 「もしくは歌舞伎文字で『セーブ・ザ・修智館』とか」 「そりゃ着たくねーなあ」 「同感」 「えーと……Tシャツじゃないみたいよ?」 「ええっ」 「じゃあ、バニーガール!?」 「なんでそうなるんですかっ」 「そ、そんなわけないじゃないっ」 「イジメでバニーガールに……?」 「違う違う違う」 「デザインはまだ決まってないの」 「ただ、ちょっとその、恥ずかしい感じの服になりそうっていうか」 「やっぱバニーだ」 「バニーだね」 「バニーしかねえ」 「だから、違うんだってばっ」 真っ赤な顔になる陽菜。 一瞬だけ、バニーな陽菜を想像してみた。 うむ。悪くない。 「もう、この話は終わり」 陽菜は少しむくれながら、茶葉の入った袋を手に取った。 「孝平くん、はさみ貸してもらえる?」 「おう」 俺は棚から、小さな箱を取り出す。 確かここにまとめて文具を入れておいたはずだ。 「えーと、はさみはさみ」 「……」 「確かここに入れといたんだよな」 「あの、孝平……くん」 「ん?」 「それ……」 陽菜の視線が、俺の手もとに止まる。 厳密に言うと、箱の中にあった手紙の束。 宛先は「支倉孝平様」。 少し幼い、陽菜の字だ。 「あ……」 俺はとっさに、箱の蓋をしめた。 「ん? エロ本か?」 「ば、ばかっ」 「え、えろほんですとー?」 「そりゃー風紀委員としては、見過ごすわけにはいきませんなー」 かなでさんの手には、いつのまにか風紀シールが! 「違う、違うんですって!」 「出せ出せ出せ出せーっ」 「や、やめっ……!」 「お姉ちゃんっ」 飛びかかろうとするかなでさんを、陽菜が背後から止める。 「もう、勝手に決め付けないの」 「だって、あからさまに怪しいもん!」 「そんなの入ってなかったってば」 「それより、このクッキーみんなで食べない?」 陽菜はバッグからクッキーの袋を取り出した。 「今流行りのカレークッキーだよ」 「食べる食べる!」 「俺も」 「お、俺も」 うまいこと話が逸れた。 ひとまず、ほっと一安心。 「じゃ、ちょっと行ってくる」 「後片づけできなくて、悪いな」 「ううん、気にしないで」 「行ってらっしゃーい」 「じゃあな」 ばたんっ 急にバイト先から呼び出された司。 急病で休んだ人がいるらしく、代打を頼まれたらしい。 「そろそろお開きの時間かな?」 「そうですね」 「よーし、じゃあ給湯室でお皿洗ってくる」 「ひなちゃんはここの片づけやってもらえるかな?」 「うん、わかった」 「行ってきまーす」 ばたんっ 「これ、こっちに片づけていいのか?」 「うん。これと一緒に」 指示されるまま、片づけを手伝う。 茶葉の並べ方は、陽菜なりのこだわりがあるらしい。 日に日に種類が増えつつあるので、覚えるのは至難の技だ。 「……」 「あの……」 「ん?」 陽菜が何かを言いかける。 その視線は、棚の方に注がれていた。 「さっきの、箱に入ってた手紙のことだけど……」 来た。 俺は身構えた。 「あれって、私が出した手紙だよね?」 「私と孝平くんが、文通してた頃の」 「ああ」 「この寮に引っ越して来る時、たまたま荷物に入ってたみたいだ」 聞かれてもないのに、そんなことを口走る俺。 「そっか」 「うん」 陽菜の目は、ずっとあの箱をとらえている。 手紙が気になるのだろうか。 俺が珠津島を出てから、毎月交わされた手紙。 陽菜が事故に遭ったのは、文通を始めて数ヶ月後のことだった。 ……。 俺はかなでさんから来た手紙で、陽菜の事故のことを知った。 事故に遭って記憶を失ってしまったが、もう少しで退院するから待っててくれ、と。 退院したら、きっと文通を再開すると思うから、と。 そうは言っても、俺は当然、これで文通が終わるのだと思っていた。 陽菜はもう、俺のことを覚えていない。 覚えていないヤツに、普通は手紙なんか出さない。 だが、不思議なことに文通は再開した。 「孝平くん、元気?」 以前と何も変わらない調子で、陽菜から手紙が来たのだ。 俺のことなど、ほとんど覚えていないはずなのに。 ……。 陽菜がなぜ、文通を再開する気になったのか。 その経緯は知らない。 かなでさんに、「文通相手が心配してるよ」とでも言われたのか。 それとも、事故前にやり取りした手紙を読んだのかもしれない。 俺から届いた手紙を読んで、自分には文通相手がいたことを認識したのか。 どちらにせよ、律儀なヤツだと思う。 記憶を失ってまで、文通を続ける必要なんてないのに。 どの道、陽菜は文通を始めたきっかけすら忘れてしまったのだから。 「そういえば、あの文通って……」 「私から、始めたことなんだよね?」 「まあ、そうだな」 7年前、俺が珠津島を旅立つ前日。 「これから毎月、手紙を出すよ」 そう陽菜に言われたことを思い出す。 「……じゃあ」 「どうして孝平くんは、私と文通しようって思ったのかな?」 「……」 どうして、と言われても。 前にも陽菜に同じこと聞かれた気がする。 あの時は、なんて答えたんだっけ? ……たぶん、適当にはぐらかしたのだ。 だって、恥ずかしくて言えないじゃないか。 「あの当時、クラスメイトにひどいこと言われて落ち込んでたんだ」 「そんな時、陽菜が『ずっと友達でいよう』って言ってくれた」 「『離れていても友達だよ』って言ってくれたから」 ……なんてな。 とてもじゃないけど、照れくさくて言えない。 「さあ、なんだったかな」 「よく覚えてないよ」 「……忘れちゃったの?」 「まあ、昔のことだし」 そう、昔のことだ。 時が流れて、俺もいろんなことを受け止められるようになった。 当時は悲しかったあの出来事も、今では思い出の一つになっている。 ちょっとだけ苦みを帯びた、気恥ずかしい思い出として。 「そうだよね。昔のことだもんね」 「でも」 ガチャッ 陽菜が何か言いかけた時、玄関のドアが開いた。 「かなで隊員、無事帰還しました!」 「お帰りなさい」 「お、お帰り、お姉ちゃん」 「いや〜、命からがらの道中でしたよ」 「給湯室はすぐそこでしょーが」 「距離は関係ないのっ。ここは男子フロアだよ?」 「まるでオオカミの檻に、ウサギを放り込むようなものだよっ」 「……はあ」 「で、誰かになんかされたんですか?」 「いえ、特には」 「そりゃ何よりで」 「……」 それから片づけを終え、お茶会はお開きとなった。 陽菜は何か言いたげな様子だったが、かなでさんと一緒に帰っていった。 今日のお茶会は、久々にフルメンバーがそろっていた。 宴は盛り上がり、かなでさんのテンションも最高潮。 気づいたら「かなでのモノマネショー」が始まっていた。 「誰ですか! 談話室に日焼けマシンを持ち込んだのは!」 「名乗り出て懺悔なさいっ!」 「シスター天池?」 「ピンポンピンポーン!」 「やった♪」 「す、すごい……そっくりですっ」 似てるかどうかはさておき、さすが宴会部長。 場を盛り上げる芸には事欠かない。 「じゃあ次ー!」 「やあ、悠木姉」 「キミはいつ見ても相変わらず美しいねえ」 「?」 「?」 「?」 「?」 「?」 みんなの頭に、クエスチョンマークが浮かんでいるのが見える。 「ちょっと、なんでわかんないかなっ」 「これサービス問題だよー?」 「すみません、もう一回」 「お願いします」 「しょーがないなぁ。じゃあラストチャンス!」 「やあ、悠木姉」 「今年のミス修智館は、キミが優勝だよっ!」 「?」 「?」 「?」 「?」 「あの〜……」 「もしかして、うちの兄?」 「ピンポンピンポーン!」 「よくわかったな、副会長」 「まあね」 ちょっと得意げな様子だ。 「悠木姉って呼ぶの、うちの兄だけだから」 「判断基準はそこかよ」 「いやー、今日も絶好調だねえ! わたし!」 かなでさんは上機嫌だ。 自分でも、かなり満足のいくモノマネだったのだろう。 「あー、ひなちゃんや。冷たい飲み物をもらえるかのう?」 「はい、お姉ちゃん」 陽菜は氷のたっぷり入ったグラスに、アイスティーを注いだ。 そのグラスをかなでさんに渡そうとした時、 「あっ」 水滴のせいで、陽菜の手が滑る。 俺は慌てて、そのグラスをキャッチ! 「うわ!」 ……したつもりが、やはり手が滑って中身がこぼれてしまう。 「ご、ごめんなさいっ」 「ああ、大丈夫」 シャツにアイスティーがかかってしまった。 まあ、大した被害ではない。 「どうしよう、シミになっちゃう」 「いいよ、これぐらい」 「ダメだよ、早く洗濯しないと」 陽菜は俺を見上げた。 「脱いで」 「へ?」 「今すぐ、脱いで」 「お願いだから」 「う……」 陽菜は、なにがなんでもといった様子で食い下がる。 せっかくの厚意を、無下にする理由はなかった。 「じゃ、じゃあ」 「うん」 しかたなく、シャツのボタンに手をかける。 「……」 「……」 「……」 が、視線を感じて手を止めた。 「み、見るなよ」 「そんなこと言われたって、ねえ」 「そこで着替えられたら、嫌でも目に入るわ」 ごもっともだった。 「じゃあ、トイレ行ってきます……」 「行ってらっしゃい」 俺は着替えを取り、そそくさと立ち上がった。 「じゃあこのシャツ、洗濯しておくね」 「ホントにいいのか?」 シャツを受け取って、陽菜はうなずいた。 「乾かして、明日返すから」 「適当でいいよ、適当で」 「うん」 ピピピピッピピピピッ 「うん……」 聞き慣れた耳障りな音が、俺を夢から現実に引き戻す。 ゆっくりと目を開けた。 窓から入る、まぶしい光。 「……」 ピピピピッピピピピッ 目覚まし時計のある位置へと、手を伸ばす。 しかし、そこに目覚まし時計はなかった。 どこにいったんだろう。 「時計なら、床に落ちてるよ?」 「え……マジ……?」 寝ている間に、ぶつけて落としてしまったのか。 俺がベッドから上半身をずり落とし、手を伸ばす。 あった。 ようやくアラームを止める。 「おはよう」 「お……はよう」 だんだん視界が明瞭になる。 「……」 そこには、陽菜がいた。 「ごめんね、勝手にお邪魔して」 アイロンを持った陽菜が、俺を見る。 ほのかなスチームの匂い。 アイロン用の糊。 俺の部屋に、アイロンなんかあったっけ? 「それ……その……」 「あ、このアイロン?」 「私の部屋から持ってきたの」 「シワだらけのシャツじゃ嫌だろうなーって思って」 なるほど、納得。 てことは、あのシャツはアイスティーをこぼしたやつか。 洗濯してアイロンまでかけてくれるなんて、ホントに律儀だ。 俺はごしごしと目をこすった。 ベッドから起き上がり、伸びをする。 ……。 あれ? なんで陽菜がここにいるんだっけ? 「えっと……」 「ところで、どうやって部屋に入ったんだ?」 「お姉ちゃんに事情を話して、はしごを下ろしてもらったの」 そうか、かなでさん公認か。 「孝平くん、窓のカギかけないんだね」 「うーん、なんか面倒で」 「危ないなあ。ちゃんとかけなきゃ」 「私が言うのもなんだけど」 「まあ、考えとく」 「ふふ、孝平くんらしいね」 そう言って、陽菜は俺にシャツを渡した。 「はい、完成」 「おお」 アイロンかけたての、ぱりっとしたシャツ。 クリーニングに出したみたいだ。 「すげえ。俺のシャツが上等に見える」 「いつもはアイロンかけないの?」 「干す時に、手でシワを伸ばすぐらいだな」 「そうなんだ」 「あの、ちょっと着てみてもらえる?」 「おう」 パジャマを脱ぎかけて、止まる。 「あ……」 「あ、あっち、向いてるから」 「ご、ごめん」 どうも俺は、女の子に対する気遣いが希薄らしい。 そそくさとシャツを着て、ボタンを留めた。 うん、なかなかいい感じ。 背筋までピンとするような。 「ど、どう?」 「ばっちり」 「そう。よかった」 「言ってくれたら、またいつでもアイロンかけるからね」 陽菜はこちらを振り返り、微笑んだ。 学校に行く準備が完了し、最後に電気のスイッチを確認。 忘れ物はなし、と。 「じゃあ、そろそろ行くか」 「うん」 俺は靴を履き、玄関のドアを開けた。 二人で一緒に部屋を出る。 「……あ」 「あ」 「あ」 部屋の前を通りかかった司と、鉢合わせる。 しばらく無言の時間が続いた。 「ういっす」 「おはよう」 「ういっす」 「いや、あの、ちょっと司」 呼び止めるのも聞かず、司はすたすたと歩いて行ってしまう。 その背中が、「なにもかも了解」と俺に語りかけているようで。 ……違う。 違うんだ。 俺と陽菜は、そういうんじゃないのに。 だいたいいつも遅刻ギリギリなくせに、なんで今日に限って早いんだよ。 「孝平くん、どうしたの?」 「いや……」 まあ、見られてしまったものはしかたない。 今から追いかけて弁解するのも、逆に怪しいだろう。 機会を見て、事情を話すことにするか。 その「機会」が訪れぬまま、夜になった。 いつものお茶会メンバーが勢揃いし、思い思いの時間を楽しんでいる。 今朝の出来事などすっかり忘れかけてた頃、突然かなでさんが立ち上がった。 「えー、みなさんちょっとよろしいですかー?」 「最近、うちのひなちゃんとやけに親しい男子がいるようです」 「げほっ」 アイスティーを噴き出しそうになった。 唐突に、何を言い出すのだこの人は。 「そこで、ひなちゃんの保護者代わりであるわたしとしてはー」 「ひなちゃんのムコにふさわしいかどうか、今後チェックしていこうと思います」 「ムコって……」 「おや? お心当たりでも?」 「い、いえ」 即座に目をそらした。 俺は、司を見る。 「……」 なんだそのニヤけ面は。 「……」 副会長もだ。 「……?」 白ちゃんはおろおろ。 「……はぁ」 陽菜はため息。 なんだ、いったい。 なんなんだ、この微妙に生温かい雰囲気は。 「しっかし、その男子もなかなかいい度胸してますよねー」 「わたしのヨメに手を出そうとするなんて!」 違う違う違う。 俺は何もしていない、と言いたかった。 しかしその行為は、火に油を注ぐだけ。 俺は黙って、このいたたまれない状況に耐えるしかなかった。 「お姉ちゃん、考えすぎだよ」 「いーからいーから」 「ここはお姉ちゃんに任せなさいっ」 かなでさんは力強く言う。 ……ヘンな姉妹。 陽菜の保護者代わりだったり姉だったり旦那だったりと、かなでさんも忙しい。 それだけ妹思いだってことなんだろうけど。 しかし、かなでさんのチェックっていったいどんなんだろう? 「……フッ」 「……」 かなでさんの目が、「覚悟しろよ」と言ってるように見えた。 学食から教室に戻り、自分の席に着く。 五時間目は英語だ。 俺は机の中から教科書とノートを取り出した。 「孝平くん」 「ん?」 「ごめん、ちょっとだけ辞書見せてもらえないかな?」 「持ってきたつもりだったのに、忘れてきちゃったみたい」 「いいよ」 辞書を取り出し、陽菜に手渡す。 陽菜は辞書を受け取りながら、まじまじと俺の手を見た。 「孝平くんの手、ガサガサだね」 「洗剤か何か触った?」 「洗剤……」 思い当たるとすれば、昨夜の風呂掃除。 浴槽に始まり、排水溝や壁や天井まで徹底的に磨き上げた。 「そういえば、漂白剤使ったかも」 「ゴム手袋した?」 「しない」 「ダメだよ、肌によくないんだから」 陽菜はお姉さんみたいな口調で言ってから、ポーチを取り出した。 そして、チューブのようなものを俺に渡す。 「これ、よかったら使って」 「何これ」 「ハンドクリームだよ」 パッケージに桃のイラストが描いてある。 蓋を開けると、甘い匂いが漂った。 「おいしそうな匂いだな」 「でしょ? 最近のお気に入りなの」 「あとはこんなのもあるよ」 続けて、ポーチから二つのチューブが出てくる。 「こっちがイチゴで、こっちがラベンダーね」 「どれでも好きなのをどうぞ」 「コレクター?」 「気分によって使い分けてるの」 「ちなみに今日の気分は、ピーチの匂い」 陽菜はにっこりと笑う。 俺は3つのハンドクリームを机に並べた。 さて、今日の気分は? ……わからねえ。 「確か副会長も、こういうの好きだったよな」 「うん」 「千堂さんとは、香りの好みが似てるの」 香りモノって、いかにも女の子の趣味って感じがする。 男には、気分によって香りを使い分ける習慣はあまりない。 少なくとも俺の周りにはいないはずだ。 俺にとって一番身近なアロマといえば、トニックシャンプーの匂いぐらいか。 「ホントはアロマオイルを集めたいんだけど、ちょっと高いんだよね」 「高いって、どれくらい?」 「うーん、ものにもよるんだけど……」 「ダマスクローズのアロマオイルは、2ミリリットルで1万円とか」 「たかっ」 2ミリリットルなんて、スポイトでひと吸いできる量だ。 なんてセレブな趣味なんだろう。 「あ、そういうのばっかりじゃないよ?」 「ラベンダーやミントなんかは、数百円ぐらいで買えるし」 「そりゃまたえらい差だな」 「ね」 「今は、オイルじゃなくてこういう小さなものを集めてるの」 そう言って、陽菜はポーチからまた何かを取り出した。 リップクリームと歯磨き粉だ。 「このピーチはね、シリーズでいろいろ出てるんだ」 「ふうん」 「使ってみる?」 「……えっ」 固まる俺。 使ってもいいのか? 特に、リップクリーム。 「じゃあ、遠慮なく」 「どうぞどうぞ」 リップクリームを取ろうとする俺に、ハンドクリームを手渡す陽菜。 「……そういうことか」 「?」 「いや、なんでもない」 俺はスマイルを作りながら、ハンドクリームを塗った。 陽菜のお気に入りだけあって、いい匂いだ。 「ふふ、おそろいだね」 「……」 おそろいの香り。 なんだかくすぐったいような、照れくさいような。 でも、決して悪い気分ではない。 などと浸っていると、 「それ、ハンドクリーム?」 「うん」 「俺にも貸してくれ」 「あっ」 司は、机の上にあったハンドクリームを手に取った。 「八幡平くんの手もガサガサだね」 「バイトで水仕事あるから」 「うわ、すげえ甘い匂い」 よりによってピーチを選びやがった。 「……おそろいだな」 「あ?」 俺は、ぷいっと窓の外を向いた。 甘い香りが、妙に目に染みた。 しばらく歩くと、道沿いにスーパーが見えてきた。 台所用品フェア、と書かれた旗が揺れている。 フライパンや鍋セット、三角コーナーなどが店の前に並んでいた。 それらを物色する客の中に、知り合いを発見。 「……」 どう見ても陽菜だ。 真剣な面持ちで、調理器具を見ている。 「よう、陽菜」 「あれ、孝平くん」 「偶然だね」 にっこりと笑いかける。 いつも通りの、心が和むような柔らかい微笑みだ。 「孝平くんもお買い物?」 「ああ。もう済んだけどな」 雑誌の入った袋を掲げて見せる。 「料理道具を選んでるのか?」 「うん。買おうか迷ってたの」 「寮で使うやつ?」 俺の言葉にうなずいた。 「たまには料理しないと、腕が落ちちゃいそうで」 「料理、得意なんだっけ」 「得意ってほどじゃないけど、家ではそれなりにやってたから」 「手伝いか。偉いな」 「……そうでもないよ」 一瞬、俺から視線を逸らして答える。 謙遜してるのかな。 「家庭科の授業くらいじゃ、腕はキープできないか」 「調理実習は何度もあるわけじゃないしね」 「そっか」 「でもさ、寮で料理するならカセットコンロがいるんじゃないか」 寮には備え付けの調理設備が一切ない。 ガスの元栓もないしな。 「ガスボンベは消耗品だし、けっこう高くつきそうだな」 「そうなんだよね」 「あと、包丁とまな板と計量カップ」 「それから調味料も一式いるかな」 「やっぱり寮で料理をするのは大変だな」 「冷蔵庫も小さいのしかないしさ」 「そうだね。材料を買ったら全部食べちゃわないとダメかも」 「よし、余ったら俺と司で処理しよう」 「いいの?」 「いつでも呼んでくれ」 「うん。そうするね」 嬉しそうにうなずいた。 「みんなに食べてもらうなら、ちゃんとした道具を選ばないと」 冗談めかしに、腕をまくる仕草をしてみせる。 「安くて、いい道具だな」 「うん」 「それなら、この包丁がいいんじゃない?」 話しかけられたのかと思い、二人で声のした方を見る。 隣で商品を物色しているカップルが、会話をしていた。 「高くないわよ。結婚したばかりなんだから、貴方のために腕によりをかけた料理を作ってあげたいの」 「この包丁で、愛のこもった、あまーい料理を作ってあげる」 腕を組んで、べったりとくっついて頬を寄せる。 俺たち、というか回りをまったく気にしていない。 「……」 陽菜が、俺をちらりと見た。 頬が赤くなっている。 俺たちは隣の新婚さんと同じく、男女二人で料理道具を眺めているわけで。 あれだけベタベタされたら、誰だって意識してしまう。 二人でフライパンや包丁を選ぶのって、普通は一緒に住む人がすることな気もするし。 「……このセラミックの包丁、白くてかわいいな」 「う、うん。ちょっと高いけどね」 隣を見ないようにして、二人で調理器具を物色した。 カセットコンロの値段を確認して、二人で雑貨屋を出た。 「雑貨屋さんの方が品揃えは多いね」 「スーパーのが安いけどな」 「うん」 「でもフェアが終わったら、きっと値段も上がるよね」 「たぶんな。でもそこまで違わなかったし、無理に今日買うこともないさ」 「うん。もうちょっと考えてみる」 ぐー 俺のお腹が鳴った。 「それがいい、と俺の腹も言ってる」 「あはは、それじゃあゆっくり考えることにするね」 陽菜がちらりと俺のお腹を見た。 少し恥ずかしい。 「孝平くん、夕ご飯どうするの?」 「せっかく出て来たんだし、何か食べて帰りたい気分だ」 「陽菜は?」 「私もそんな感じ」 「じゃあ一緒に食べてくか」 「うん」 「何か食べたいものは?」 「えっと……」 ちょっと考え込む。 「特にないかも。孝平くんは?」 「そうだなぁ……」 特に思いつかない。 司にうまい店をいくつか聞いたことがあるから、その中から選ぶか。 この近くだと、人気丼物屋があったはずだ。 でも、丼物は学食でも食えるからな……。 「丼物はさすがにきついよな?」 「ううん、そんなことないよ」 嬉しそうに微笑む。 「孝平くんがよければ行ってみたいな」 「じゃあ、そうしよう」 丼物屋を出ると、外はすっかり暗くなっていた。 「あー、うまかった」 「学食のとは全然違ったね」 「どっちのが好みなんだ?」 「……両方とも、かな」 少し恥ずかしそうに言った。 「俺もだ」 「並んだ甲斐はあったかな」 「うん」 満足げに微笑む。 司の情報通り、うまい店でよかった。 「あ、孝平くん。門限もうすぐだよ」 陽菜が携帯を見ながら言う。 「マジか」 門限は、たしか21時だったはず。 「今、どれくらい?」 「8時半」 携帯を俺に見せてくれる。 「じゃあ、歩いても間に合うか」 「そうだね」 陽菜と並んで、二人で帰路につく。 クラスメイトや、授業のことを話しながら歩いた。 たわいのない話をしているだけなのに。 なぜか、とても貴重な時間のように感じた。 俺は、学校の廊下を歩いていた。 たぶん、放課後だったと思う。 ……そう、忘れ物を取りに、教室に戻るところだった。 珠津島で一年を過ごし、転校をあと1週間後に控えていたある日のことだ。 ガッシャーン! 突然、窓ガラスの割れる音がした。 俺のクラスの方からだ。 驚いて、廊下を走る。 教室にたどり着いたその時、俺はクラスメイトの話し声を聞いた。 「あーあ、割っちゃったよ」 「お前がヘンなところにボール投げっから悪いんだろ?」 「お前がちゃんと取らないから悪いんだっつーの」 「つか、どーすんだよ? 俺知らねーぞ」 「どーするっつったって……」 「あ! いいこと考えた」 「なんだよ」 「これ、支倉が割ったとこにしようぜ」 「支倉?」 「だってあいつ、もうすぐ転校するんだろ?」 「俺らのことなんて、どーせすぐ忘れるんだろーしさ」 「それもそうだな」 「決まり! じゃ、さっさと逃げよーっと」 「おい、待てよ! ずりーぞ!」 クラスメイトが教室から出て行くのを、俺はドアの影から見ていた。 ショックだった。 彼らに罪をなすりつけられたことはもちろんだが、それ以上に……。 俺はこのクラスでずっと、うまくやれていると思っていた。 敵を作らず、ケンカもせず。 人畜無害な転校生として、受け入れられていると思っていた。 誰とでも、調子よく合わせられる。 それが、転校ばかりだった俺の処世術だったからだ。 でも。 俺は思い上がっていたのだ。 彼らに受け入れられていたわけではなかったのだ。 それを証拠に、俺は過去のクラスメイトたちの顔を覚えていない。 連絡を取り合っている友達もいない。 思い出なんて、ほとんどない。 あと数ヶ月したら、ここでの生活もすべて忘れてしまうだろう。 その程度の、浅い付き合いしかしてこなかったからだ。 彼らは、そんな浅はかな俺の気持ちを見抜いていた。 ……。 もう、何も期待するのはやめよう。 誰とも仲良くなんてなれなくていい。 うまくやろうなんて無意味だ。 思い出なんていらない。 最初から望まなければ、落胆することもないのだから── 「それは違うよ、孝平くん」 「私は違う。私はずっと友達だよ」 「離れていたって、友達でいられるんだから」 珠津島から旅立つ前日。 傷ついていた俺に、陽菜は言った。 なんだよ、コイツ。 「友達」なんて安っぽい言葉使いやがって。 「これから毎月15日、孝平くんに手紙を書くよ」 「もし返事をくれたら、嬉しいな」 最初は、冗談はやめてくれって思った。 社交辞令なら、今まで耳が腐るほど聞かされてきたのだ。 ……なのに。 陽菜は本当に手紙を書いてきた。 たった一年しか一緒にいなかった、元同級生に。 嬉しかった。 いつの間にか、陽菜の手紙を心待ちにしている自分がいた。 俺のことを、覚えてくれている人がいる。 たった一人の友達。 俺にとって、陽菜はそういう存在だった。 ……。 陽菜が事故に遭い、記憶を失うまでは。 「……」 ゆっくりと目を開ける。 夜の二時。 眠れない夜は、いつも昔のことばかり考えてしまう。 ……。 あの頃から、俺は変わっただろうか。 変わったような気もするし、そうでないような気もする。 でも、少なくとも今は、腰かけ気分でこの学校にいるわけではない。 司という友達ができた。 千堂兄妹に出会い、生徒会に入ることになった。 後者はなりゆきっぽい流れだったけど、それだって俺の意志だ。 今ではお茶会と称して、くだらないことを笑い合える仲間がいる。 ……陽菜とだって。 また一から、新たな関係を築けてる。 元同級生として、そして今はクラスメイトとして。 それでいいと思う。 いつまでも、昔のことにこだわる必要なんてないんだ。 こうやって考えられるようになるまで、ずいぶんと時間がかかった気がする。 俺は再び、目を閉じた。 ようやく眠りに入れそうだ。 ……。 「私は違う。私はずっと友達だよ」 「離れていたって、友達でいられるんだから」 「いつまでも、ずっと……」 「へーじ、遅いねー」 「バイトが忙しいんでしょう」 「もうすぐ帰ってくるよ、きっと」 今夜のお茶会は、珍しく三人だけだった。 司はバイトで残業らしく、まだ帰らない。 副会長と白ちゃんは、他に用事があるようだ。 いつもより、少しだけ部屋が広く感じる。 「まさか、へーじのヤツ買い食いしてるんじゃないだろうね!」 「いいじゃないですか、買い食いぐらい」 「よくないっ!」 「左門堂の柚子タルト、楽しみに待ってるのに!」 「司とそんな約束してましたっけ?」 「してないっ」 「でも、へーじはデキる子だからきっと伝わってるはず」 「無茶言うなあー」 俺は苦笑した。 「でも、手ぶらで帰ってきたらどうするんです?」 「どうもしないよ?」 「勤労学生に、過度の負担はかけられないもんね」 すると陽菜は、ふぅとため息をついた。 「お姉ちゃん」 「ん?」 「今日は左門堂の定休日だよ」 「ありゃ?」 「じゃあ、ミドリヤのマンゴータルトでいいや♪」 思いっきり期待してるじゃないか。 司に届け、この思い。 「おっ! そうだ!」 「せっかく三人きりなんだから、とっておきの紅茶飲まない?」 「あの、いっちばん高いやつ!」 「だーめ」 「あれは、特別な日のためにとっておこうって決めたでしょ」 「ええー、いいじゃんいいじゃん」 「こっそり飲めばバレないってば」 「あの、少なくとも俺と陽菜にはバレますけど?」 「キミらが黙ってれば、完全犯罪さっ♪」 風紀委員のくせに、完全犯罪をもくろむとは。 そこまで人の心を狂わせる紅茶とは、いったいどのようなものだろう。 「あのねお姉ちゃん、茶葉の保管は難しいんだよ」 「封を開けたら、なるべく早く飲みきるのが鉄則なんだから」 「ちぇ〜っ、そっか」 「というわけで、残念だったねこーへー」 「はい?」 「ヴィンテージダージリンが飲めなくて」 ヴィンテージダージリン? それは、普通のダージリンとは違うのか。 「高いんですか、それ」 「喫茶支倉の中では、最高級レベルだよ」 「言うなれば、ホストクラブにおけるピンクのシャンパン」 「どーゆー例えですか」 「前にテレビでやってたのっ」 「つまり、学生のわたしたちにしてみればそれくらい敷居が高いのさ」 かなでさんは自慢げに説明する。 そんなセレブな飲み物が、俺のような庶民の部屋にあったとは。 「量り売りでね、ちょっとだけ買ってみたの」 「もったいなくて、なかなか飲む機会が見つけられないんだ」 「へえー」 そこまで言われると、俄然飲みたくなってくる。 陽菜たちのおかげで、俺も少しは紅茶の味がわかるようになってきたのだ。 「俺も、紅茶の淹れ方勉強してみようかな」 「ええーっ」 「ほんとに?」 俺はうなずいた。 コーヒーをうまく淹れられる男は多いが、紅茶を上手に淹れられる男は少ない。 それに、いつか何かの役に立つかもしれない。 「陽菜、教えてくれるか?」 「う、うん、いいよ。私でよければ」 「そーだよ、こーへーにはひなちゃんがいるんだから百人力だね!」 「そんなことないよ、私なんか独学だし」 「独学で、あんなに上手に淹れられるのか?」 それはそれですごいと思う。 陽菜にはそっち方面のセンスがあるのだろう。 「私は、ただ普通に淹れてるだけだよ」 「上手って言われたら、嬉しいけど……」 「頼んだぞ、師匠」 「お、大げさだってば」 「……」 「じゃあまず、このダージリンでも淹れてみる?」 「おう」 陽菜はにっこりと笑ってから、ティーセットを用意した。 「本当はガスで沸かしたお湯がいいんだけど、電気ポットで我慢ね」 「茶葉を入れる前に、ティーポットとカップをお湯で温めるの」 「こうか?」 「うん、そう。温まったらお湯は捨ててね」 「オーケー」 「……」 「じゃあ、次は……」 「あっっっ!」 「わっ、びっくりした」 「わたし、部屋に忘れ物してきちゃった!」 「ちょっと取ってくるから、待っててね」 「忘れ物?」 「うん、そう、すっっごく大事なもの」 「こーへー、サンダル借りるね!」 「はあ」 ばたばたばたばたばた。 かなでさんは慌ただしく部屋を出て行った。 「なんだろな、忘れ物って」 「ね」 「……」 「……」 急に部屋が静かになる。 そういえば、陽菜と二人きりになる機会って少ない。 こんなふうに改めて二人になると、何をどうしていいかわからなくなる。 「あ……」 「そろそろ、茶葉を」 「あっ、そうだ」 俺は缶を開け、スプーンで茶葉をすくう。 そしてティーポットの中に、どばどばと投入した。 「待って!」 「え?」 「中のお湯、捨ててないよね……?」 「うあっ」 そうだ。 すっかり忘れていた。 お湯を捨ててから茶葉を入れるはずだったのに。 「ご、ごめん」 「ううん、私がもっと早く言えばよかったの」 「じゃ、じゃあ、もう一回やってみよっか?」 「そうしてもらえるとありがたい」 茶葉を無駄遣いしてしまい、自己嫌悪。 どうも焦るな。 「給湯室でティーポット洗ってくるから、ちょっと待っててね」 「いや、俺が行くよ。俺のミスだ」 「ううん。私も悪かったし」 「いいからいいから」 「いいよ、私がやるから」 「いやいや、そこは俺が……」 ……。 俺は、ふと視線を感じて振り返った。 「じぃー……」 「……」 闇に浮かぶ、二つの光。 野生の光をたずさえた双眸。 またか。 また出たのか、野良かなで。 俺は立ち上がり、ベランダの窓を開けた。 「なにやってんですか、かなでさん」 「うわぁっ!!」 「び、びっくりしたぁ!」 そりゃこっちの台詞だ。 「白髪化するかと思った!」 「もうなってますよ」 「ヒイイィィィ」 「冗談です」 はぁ、とため息をつく。 毎度毎度、いったい何がしたいのだ、この人は。 「お、お姉ちゃんっ」 「いや〜ん、ひなちゃ〜ん」 「そんなところで何してるの?」 「いやぁ、ほら、なんて言うの?」 「こーへーが非紳士的な振る舞いをしたら、お仕置きしなきゃでしょ?」 「それで見張ってたっていうかー」 「はいぃ?」 かなでさんの手には、巨大な風紀シール。 ……危なかった。 いやいや、そーじゃなく。 忘れ物を取りに戻るくらいの短時間で、非紳士的な振る舞いなんかできないし。 「孝平くんは、非紳士的な振る舞いなんかしません」 「ね?」 「も、もちろん」 「それに、人の部屋を覗いたらダメだって言ったでしょ?」 「えー、言ったっけ?」 「言ったの!」 ガチャッ 「ただいまー」 「あ、へーじ!」 「お帰りお帰りお帰りお帰りー!」 司が帰ってくるや否や、子犬のように駆け寄るかなでさん。 うまいこと逃げた感じだ。 「お帰りなさい、八幡平くん」 「お帰りー」 「あー疲れた」 「忙しかったのか?」 「シャレにならん」 「おとーさん、お疲れ様でーす」 「で、おみやげは?」 かなでさんは、きらきらした目で両手を差し出した。 「あー、これ」 どさっ。 でかい紙袋だ。 「店長が、いっぱいあるからってくれた」 「寿司!?」 「店で使ってる紙おしぼり」 「うがーっ!」 「お、お姉ちゃんっ」 「けっこう便利っすよ?」 かなでさんのテレパシーは伝わらなかったらしい。 「ごちそーさまでした」 「じゃ、また明日」 「お休みなさい」 「お休みー」 「お休み」 気づいたら、もう9時を回っていた。 後片づけが終わって、今日のお茶会はこれにてお開き。 「じゃ、帰ろっか」 「うん」 「ってお姉ちゃん、ベランダから行くの?」 「そーだよ。こっちの方が早いじゃん」 かなでさんはすでに、はしごに足をかけている。 「ひなちゃんもどう?」 「私は玄関から帰るよ」 「おっけー」 「こーへー! さらばだ!」 「しゅたっ!」 効果音つきで、あっという間にはしごを登っていく。 やはり、野性だ。 「かなでさんって、けっこうシスコンだよな」 「うん。まあ、ちょっとね」 「でも、私の方がシスコンかも」 「そうかぁ?」 俺には、まったく逆に思えるが。 「じゃ、また明日ね」 「ああ」 「今日はいろいろありがとな」 「え?」 「紅茶の淹れ方、教えてくれただろ」 「あぁ」 「また仕切り直しさせて? 今度はもっと本格的にやるから」 「よろしく、師匠」 「うーん、師匠はちょっと嫌かも」 「じゃあ、師範」 「もっと嫌だよ〜」 「ははは」 「……」 ……。 ん? 陽菜は何か言いたげな様子で、うつむいたり顔を上げたりしている。 「どうした?」 「えっ」 「あの……」 「孝平くん、思い出したかなーと思って」 「何を?」 「私と、文通をしようと思った理由」 「前に、忘れたって言ってたじゃない?」 「あー……」 「……じゃあ」 「どうして孝平くんは、私と文通しようって思ったのかな?」 俺は不思議に思う。 どうして陽菜は、そんなことにこだわるんだろう。 本人は何気なく聞いてるつもりだろうけど、俺にはわかる。 「それは……」 陽菜にとっては、俺と文通してた過去なんて大きな意味はないはずだ。 意味もなにもない。なかったことと同じなのだから。 じゃあ、そこにこだわる理由はなんだろう? 「うーん……すぐには思い出せないな」 「まあ、思い出したら言うよ」 「あ、うん」 「悪いな」 「ううん、いいの。私こそごめんね」 「それじゃ……また明日」 陽菜は靴を履き、ドアノブを回した。 「お休みなさい」 「お休み」 ばたん 「ふぅ……」 がちゃっ 「忘れ物!」 「うわっ!」 出たと思ったら、急に戻ってきた。 驚きのあまり、後ずさる俺。 「お姉ちゃんの靴、置きっぱなしだったの」 「ごめんね、今度こそお休み!」 「おやす……」 ばたんっ 「み……」 ドアが閉まる。 俺は上げかけた手を下ろし、ベッドにごろんと寝転がった。 「私は違う。私はずっと友達だよ」 「離れていたって、友達でいられるんだから」 「いつまでも、ずっと……」 陽菜とは、事故についての話を一度もしたことがない。 なんとなく、触れづらい空気もあったから。 でも、一度くらいはちゃんと話してみた方がいいのかも。 うまく話せるかどうかは、わからないけど── 「……ふぅ」 部屋を出て、女子フロアに向かう。 孝平くんの顔を見ると、いつも何かを思い出せそうな気がする。 もちろん、そんな気がするだけで、実際に何かを思い出したことはなかった。 それでも、私は願わずにはいられない。 ……。 私の心の中に、小さな黒い箱がある。 大切なものがたくさん詰まった、小さな箱。 でも私は、いつしか箱の開け方を忘れてしまった。 「幸いなことに、脳に損傷は見られませんでした」 「しかし、事故のショックで記憶障害を起こしているようです」 トラック事故に遭い、意識を取り戻したあの日。 お医者様は、何かのきっかけで記憶を取り戻すことがあるかもしれないと言った。 私はその言葉を、ずっと信じてた。 あの箱に詰まった大切なものを、もう一度見たい。 取り出して、並べて、眺めてみたい。 だけど私の記憶は、依然としてすり抜けたまま。 友達と遊んだことも。 お姉ちゃんとの会話も。 お父さんとの会話も。 勉強した内容も。 何が好きで、何が嫌いだったかということも。 転校してきた男の子のことも。 一年分の出来事が、すべてなかったことになってしまった。 ……。 人生で二度目の入院生活が始まったあの日。 自分の境遇を悲観しなかったといえば、嘘になる。 私はどうやら、病院という場所とは腐れ縁みたい。 でも。 二度目の入院生活は、それほど長く続かなかった。 トラックに衝突したにも関わらず、奇跡的にほぼ無傷で済んだから。 逆行性健忘という症状を除いては。 ……。 私は、失った一年を取り戻すことに一生懸命だった。 遅れを取った勉強も、努力してなんとか追いつけるようになった。 最初はぎこちなかった友達とも、時間をかけて溝を埋めることができた。 でも……。 いつだって、誰かの存在が足りなかった。 それが誰なのかはわからない。 絶対に忘れてはならない人だったのに。 それだけは、はっきりとわかるのに。 どうして忘れちゃったんだろう? ……。 「ひなちゃんには、月に一度だけ文通してた男の子がいるんだよ」 お姉ちゃんにそう言われたのは、退院してしばらく経った頃。 目の前が、ぱあっと開けたような気がした。 私はずっと、誰かに何かを伝えなければならないような気がしていたから。 コンコン ガチャッ 「あれ? ひなちゃん?」 「ごめんね、急に」 「いいよいいよ〜」 「なになに? お姉ちゃんに会いたくなったの?」 「これ、届けにきたの」 私はお姉ちゃんの靴を玄関に置いた。 「あ、ほんとだ!」 「そしてここにあるのは、こーへーのサンダル!」 「明日、ちゃんと返しておくこと」 「了解!」 お姉ちゃんはビシッと敬礼してみせる。 今の今まで、サンダルに気づかなかったわけだ。 念のため、一応明日も確認しておこう。 「……あ、お姉ちゃん」 私は部屋の中をひょいと覗いた。 「こんな時間まで洗濯物干しっぱなし?」 「ほえ?」 「あ、そうだ。取り込まないままお茶会行っちゃったんだ」 「もう、せっかく洗濯したのに湿気っぽくなっちゃうじゃない」 「えへへ、面目ない」 「私が取り込むから、お姉ちゃんは明日の準備でもしてて」 靴を脱ぎ、中に入る。 こういうことは、どうしてもそのままにしておけないタチなのだ。 「いいよいいよー、自分でやるよ」 「いいからやらせて」 「う〜」 「ひなちゃん、日に日にヨメ度が増してるね」 「この分だと、ほんとのヨメ入りも近いかもなぁ〜」 私は思わず笑ってしまう。 「相手がいなきゃ、嫁入りなんてできないんだよ?」 「いるじゃーん、相手なら」 「最近、ぐぐぐーっっと親密度を上げてきた男子が」 「?」 「あはは、なんでもない」 お姉ちゃんは、取り込んだ洗濯物をぱたぱたとたたんでいる。 そんな姿を見ていたら、なんだか切なくなった。 「私、お姉ちゃんがお嫁さんになるまで、嫁入りなんかしないよ」 「ちゃんと順序は守らないとね」 「なぁーに言ってるのかね、この子は」 「わたしは、ひなちゃんが幸せならそれでいーの」 「だから遠慮しないで、ヨメでもどこでも行っちゃいなさい」 「お姉ちゃん……」 違うよ、お姉ちゃん。 私の幸せなんかどうでもいいの。 お姉ちゃんこそ、一番幸せにならなきゃいけない人なんだよ……? 放課後、いつものように監督生室を訪れる。 「だから、どーしてこんなデザインになるのよっ」 「そんなこと言ったって、できちゃったものはしょうがない」 「しょうがなくないわよ、もうーっ」 兄妹ゲンカの真っ最中のようだ。 俺はなるべく関わり合いにならないよう、そっと自分の席に着く。 が、すぐに会長と目が合う。 「あ、ちょうどいいところに来たね、支倉君」 「はあ」 「このわからずやに、一言ビシッと言っておくれよ」 「誰がわからずやですって?」 「ちょっと征一郎さん! この暴走機関車に何か言ってやって!」 「伊織」 「ん?」 「あまり暴走するな」 「嫌だ」 「だそうだ」 「あのねぇ……」 額に青筋を立てる副会長。 いったいどうしたんだろう? 俺は一人でおろおろとする白ちゃんを見た。 その視線は、大きなダンボールに注がれている。 「この箱、なんですか?」 「うん、それね」 「ちょうどキミに手伝ってもらおうと思ってたところなんだ」 「捨てるんですか?」 「とんでもない。今から美化委員に届けるんだよ」 美化委員。 陽菜の顔が思い浮かんだ。 「誰が届けていいなんて言ったの?」 「その衣装、再考の余地があるわ。いったん保留にして」 「再考の余地なんてないさ」 「だいたい、作り直すにももう予算がない」 「なあ、征?」 「予算がないどころか、赤字だ」 「だそうだ」 「だから、なんでそこで開き直るのよっ」 俺は、ひょいとダンボールの中身を見た。 ビニールにエプロンらしきものが包まれている。 「ああ、これがそのユニフォームなんですか」 「どう? いいだろう?」 そーいや陽菜が「美化委員のユニフォームができる」とか言ってた気がする。 「ちょっと恥ずかしい」とかなんとか。 「バニーじゃなかったんですね」 「はぁ?」 「いや、その」 「で、なんでこれが監督生室にあるんですか?」 「生徒会が発注したからだよ」 会長は、ふふんと胸を張る。 「俺も以前から、清掃活動用のユニフォームが必要だと思ってたんだ」 「それで、この度めでたく予算が下りたというワケ」 「予算オーバーだがな」 「……まったく、勝手なことしてくれたわよね」 「人聞きの悪いこと言わないでくれたまえ」 「美化委員からの要望を受け、実現したまでだ」 「まあ、アドバイザーとして多少口は出させてもらったけど」 「それを勝手だって言ってるの」 「クリエイターに妥協は許されないんだよ」 ……ふむ。 だんだん話の流れがわかってきた。 要するに、このユニフォームをオーダーしたのは会長なんだ。 でもって、このユニフォームをデザインしたのも会長。 そりゃ副会長が怒るのも無理はない。 でも、ぱっと見る限り、そんなに奇抜なデザインには見えないが。 「じゃあ支倉君、行こうか」 「はい」 俺はダンボールを抱え上げた。 「じゃ、行ってきます」 「お気をつけて」 「あ、そうだ」 「白ちゃん、ついでだから着てみる?」 「えっ!」 「い、いえ、あの、わたしは仕事がありますので!」 「そうかぁ。残念だなぁ」 「……いいから早く行け」 「ほーい」 「?」 白ちゃんの反応が気になりつつも、俺たちは監督生室をあとにした。 「宅配便でーーーすっ」 会長の伸びやかな声が、美化委員会の部屋に響く。 それまで打ち合わせをしていた美化委員たちが、一斉にこちらを向いた。 「お待たせー! ユニフォームができたよー!」 「きゃーっ!」 みんながものすごい勢いでこちらに駆け寄ってくる。 よほど楽しみにしていたんだろう。 「こんにちは」 「あの、もうできたんですか?」 「早い安いうまいが生徒会のポリシーだからね」 「さあみんな、さっそく着替えよっか!」 「はーい!」 黄色い声がこだました。 周囲の反応とは逆に、陽菜の表情は微妙だった。 嬉しいんだか悲しいんだか恥ずかしいんだか、判別つきかねる顔。 「……」 「会長」 「なんだい?」 「今思ったんですけど、美化委員って女子ばっかですね」 「うん、そうだよ」 「それが何か?」 「いや、別に……」 「伊織様」 その時、女子の一人がきらきらとしたまなざしで会長を見上げた。 つか、「伊織様」って。 「どうしたのかな?」 「これを着て、さっそく中庭の清掃活動を行ってもよいでしょうか?」 「もちろんだよ」 「俺は、そんなキミたちの姿を見に来たんだから」 「キャーっ!」 黄色い声に、さらに磨きがかかる。 相変わらず会長の人気は絶好調だ。 「じゃ、俺たちは先に中庭で待ってることにしようか」 「はい」 「えっ」 「あの、孝平くんも中庭に行くの……?」 「まあ、とりあえず」 「そ、そっか」 「わかった。じゃあ、またあとで」 「……おう」 陽菜の戸惑った様子を見て、不思議に思う。 なんだろう? 俺がいると、あまり都合がよろしくないのだろうか。 なんてネガティブなことを思ってみたり。 中庭で、ぼんやりと美化委員たちを待つ。 熱い視線を投げかけてくる女子たちに、笑顔を返す会長。 人気者って何かと忙しそうだ。 俺がもし女子だったら、同じように会長に憧れたりしてたのだろうか。 ……ありうる。 などと思わせる会長、やはり恐るべし。 「ふぅ」 「あれ? どうしたんだい?」 「さっきから元気ないね」 「そんなことないですけど」 「やっぱ俺、監督生室に戻ります」 「なんで?」 「なんでって……特にいる意味もないですし」 「ないわけないだろ? キミも生徒会役員なんだから」 そりゃそうなんだが。 さっきの陽菜の様子が、どうしても気になってしまう。 「あれ、キミもしかして」 「自分が歓迎されてないって思ってる?」 「そんな、人をさみしんぼうみたいに言わないでくださいよ」 「特に、悠木妹」 「……」 なんとも返事しがたい。 「あはは、大丈夫だよ」 「向こうは恥ずかしがってるだけだから」 「恥ずかしい?」 「ああ」 「なんでですか」 「まあ、今にわかるよ」 会長はニヤリと笑う。 わけがわからない。 などと思っていると、突然向こうの方が騒がしくなってきた。 「はい、そこ道空けてくださいねー」 「写真撮影する方、くれぐれも通行の邪魔にならないように!」 あの声……かなでさんだ。 メガホンか何かを使っているようだ。 「あ、来た来た」 「え?」 向こうからやってくる一団を見て、俺は目を丸くした。 陽菜が、いる。 メイド服を身にまとった、陽菜が。 「な」 「なな、なんですかあれは」 「美化委員の清掃作業服だよ」 「ヴィクトリア朝におけるハウスメイドをモデルにしたんだ」 「……」 なんの事情も知らない人が見たら、びっくりするだろう。 事実、みんなびっくりしている。 事情を知っている俺ですら。 「みなさーん! 今月は屋外清掃強化月間でーす!」 「手の空いている人は、美化委員にご協力くださーい!」 「お、お姉ちゃんっ」 「そんな大きな声出したら、みんなに見られちゃうよ」 「あったりまえでしょ? みんなに見られなきゃ意味ないのっ」 「大丈夫大丈夫、ここはお姉ちゃんにまかせないっ」 メガホン越しに会話されてもな。 真っ赤になる陽菜と、ノリノリなかなでさん。 あとに続く、メイド姿の美化委員たち。 白いエプロンと赤いワンピース。 まるで一斉に花が咲いたかのように、鮮やかな光景だった。 というか、かなでさんはいつの間に現れたんだろう……。 「あっ! こーへーといおりんだ!」 声でかっ。 「やあ、悠木姉。ごくろーさん」 「この服、いおりんがデザインしたんだってー?」 「ナイスジョブっ」 親指を立てるかなでさんに、親指を立てて返す会長。 「ははは」 「悠木姉とは、美的センスが合うみたいだ」 「はあ……」 これは、副会長が怒るはずだ。 そして白ちゃんが、着用を遠回しに断るはずだ。 とにかく目立ちすぎる。 だんだんとギャラリーの数も増えてきた。 「おい、なんだあれ」 「中庭にメイド喫茶ができたらしいぞ」 「伊織様のプロデュースらしいわよ?」 「いや〜ん、私も働きた〜いっ」 「会長」 「ん?」 「思いっきり誤解されてるみたいですけど」 「うん、いいんだよ。それも狙いだから」 会長は満足そうに笑う。 「注目されないよりは、された方がいいに決まってる」 「美化委員会は今までが地味過ぎたんだ」 「……確かに」 よくも悪くも、あのユニフォームによって美化委員会の注目度は増した。 会長の言う通り、これならインパクトは十分だ。 「ねえ、あの衣装かわいくない?」 「美化委員に入ると着られるらしいよ」 「え〜っ、入りたい!」 「すみませーん、美化委員会ってどんなことをやるんですか?」 「えっ?」 「はい、中庭の清掃活動が終わってから説明会を開きまーす!」 「みなさま、奮ってご参加くださーい!」 「……ということみたいです」 「へえー、説明会だって」 「私も出てみよっかなぁ」 陽菜たちを取り巻く輪が、さらに広がっていく。 美化委員たちに習って、ゴミ拾いを始める生徒たちも出始めた。 ……すごい。 改めて、会長の企画力を痛感する。 「会長、大成功じゃないですか」 「俺はただ、女子たちの可憐なメイド姿を見たかっただけだよ」 「企画が成功したとしたら、それは彼女たちの美しさのせいさ」 そんなクサい台詞も、今なら素直に聞ける。 俺は陽菜を見つめた。 日の光を浴びた栗色の髪が、白いエプロンにとてもよく似合っている。 あの中でも一番似合ってるように見えるのは、幼なじみのひいき目だろうか。 ……かわいいな。 しみじみと、そう思った。 「……っ」 陽菜と目が合う。 俺はぎこちなく、手をあげた。 「孝平くん」 「よう」 「すごい人気だな」 「もう、お姉ちゃんたら、やたらはりきっちゃって……」 「宴会部長だからな」 「でも、宣伝効果はばっちりだろ」 「うん、そうだね。感謝しなくちゃ」 「あれ? 千堂先輩は?」 「え?」 隣を見る。 ……いない。 さっきまでここにいたのに。 「どっか行っちゃったみたいだな」 「そうなんだ」 「……」 「……」 うまく、言葉が出ない。 まともに目を合わせることができなかった。 今までは、そんなの普通にできたのに。 「あ……あの」 「ほんとはね、エプロンだけの予定だったの」 「でも、千堂先輩に言ったら、だんだん話が大きくなってきちゃって」 「だろうな」 「やっぱり……目立ちすぎるよね?」 「衣装はとてもかわいいと思うけど、私には、ちょっと……」 「いや、いいと思うぞ」 「え?」 「かわいい、と思う」 「衣装だけじゃなくて」 「ぇ……」 陽菜の頬が真っ赤になる。 たぶん、俺も。 なんて恥ずかしいことを口走ってしまったんだろう。 知らないうちに、会長に影響されてしまったのかもしれない。 「えっと……」 「ありがとう」 「孝平くんに似合わないって言われたら、ちょっと悲しいなって思ってたから」 「え……」 「でもよかった。ちょっと安心した」 「えへ……」 「あはは、大丈夫だよ」 「向こうは恥ずかしがってるだけだから」 「安心したのは、俺の方かも」 「え?」 「いや、なんでもない」 俺は笑った。 さっきは、なんであんな些細なことを気にしてたんだろう。 なんだかヘンだ。 陽菜の言動が、こんなに気になるなんて……。 「えー、一つ言い忘れましたー」 「メイドさんと仲良くなりたい方は、マネージャーを通してくださいねー」 「……」 「聞こえましたかー?」 「……俺も、ゴミ拾い手伝うよ」 「嬉しい。ありがとう」 俺と陽菜は、みんなの輪の中へと入っていった。 陽菜の足取りは、まるで雲の上を歩いているように軽やかだった。 「こーへー、ちょっといい?」 その夜。 談話室で司とテレビを見ていると、かなでさんがやって来た。 「なんですか?」 「ちょっとさ、運んでもらいたい荷物があるんだよね」 「女の細腕じゃ持ち上がらなくって〜」 「はあ。いいですけど」 俺は立ち上がった。 「俺も行くよ」 「おう、悪いな」 「だめっっっっっ」 「……はい?」 仁王立ちして司を食い止める、かなでさん。 なんだか必死な様子だ。 「ほ、ほら、へーじは多忙な身だからさ」 「超ヒマっすけど?」 「ヒマじゃないでしょっ」 「宿題は? 終わったの?」 「まだ」 「ほら!」 鬼の首でも取ったかのような口調だ。 それを言うなら、俺だってまだ宿題やってないけど。 「行くよ〜ん、こーへー」 「はい」 ……なんか嫌な予感がする。 ……。 「運んでもらいたい物っていうのは、これなんだよね」 「…………え?」 寮の外に連れてこられた俺は、それを見て唖然とした。 タヌキがいた。 厳密に言うと、1メートルほどのタヌキの置物だった。 居酒屋の前にあるような、徳利を装備したタヌキ。 「ど、どこから盗んできたんですか」 「失礼なこと言わないでくれるかなー」 「用務員のおじさんにもらったの。去年の文化祭で使ったらしいよ?」 「へえ……」 「で、どうすんですかこれ」 「わたしの部屋に運んでほしいのだ」 「は!?」 俺は後ずさった。 かなでさんの部屋は3階。 まさか、俺がコイツを背負っていくのか? 「ははは、ご冗談を」 「わたしはいつだって本気だよ♪」 「じゃあ、先に部屋で待ってるからね!」 「えっ」 俺が引き留めるよりも先に、かなでさんは寮に入ってしまった。 取り残される、俺とタヌキ。 「どーすんだよ……」 もちろん、タヌキは俺に慰めの言葉などかけない。 少し考えてから、携帯を取り出す。 ここは司に救援要請だ。 プルルルル……プルルルル…… 「あ、もしもし? 俺だけど……」 「留守番電話センターに接続します」 「留守電かよっ」 即座に携帯を切る。 ここでグダグダしててもしかたない。 とりあえず、持ち上げるだけ持ち上げてみよう。 俺は腰をかがめ、タヌキを抱えた。 「ぐっ……お……」 重い。 ハンパなく重い。 ずっしりと腰にくる。 「お……おぉ……」 一歩。 また一歩。 玄関を目指していく。 いったいなんの修行なんだ。 「うぅ……っ」 階段までやって来た。 これがまた、途方もなくキツイ。 日頃の運動不足が悔やまれる。 助けを求めたかったが、こんな姿誰にも見られたくない。 間違いなく、怪しいヤツだと思われてしまう。 「……」 「……」 「……」 「あ」 「その、違うんだ、これは」 「それ、どうするの?」 紅瀬さんは、ちらちらとタヌキを見た。 「え」 「今から、かなでさんの部屋に持って行くところなんだけど」 「悠木さんのお姉さん?」 「ああ」 「……そう」 紅瀬さんはもう一度タヌキを一瞥してから、一階に下りてしまった。 ……欲しかったのだろうか。 いや、まさかな。 「よし」 気合いを入れて、階段を上っていく。 ここまで来たら意地だ。 立派に完走してみせるぜ。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 なんとか女子フロアへの扉まで上がることができた。 そんな自分を褒めてやりたい。 俺は携帯を取り出し、かなでさんに電話をかけた。 プルルルル……プルルルル…… 「はい、こちら捜査本部」 「例のブツ、運んできました」 「今、男子フロア突き当たりにいます」 「了解。すぐ行く」 ピッ ガチャッ 「お疲れサマー!」 「早っ!」 まるで、俺を待ちかまえていたかのようなスピード。 かなでさんは満面の笑顔で、女子フロアへと手招きする。 「さあさあ、こっちこっち」 「は、はい」 ずしっ。 さっきよりも、一段とタヌキの重量が増した気がする。 呪いでもかかってるんじゃないだろーな。 「到着〜っ」 「と、とうちゃく……」 なんとか、かなでさんの部屋まで辿り着いた。 もう膝はガクガクだ。 腰も、かなりきてる。 「ふむふむ……合格、と」 「はい?」 「ん?」 「あは、こっちの話」 「?」 かなでさんは、ささっと背中に何かを隠した。 今、メモ帳みたいなのにチェックしてなかったか? 「ところで、質問なんだけど」 「こーへーって身長何センチだっけ?」 「……身体測定で測った時は、174.7センチでした」 「ほうほう。体重は?」 「えーっと……60キロを少しきったくらいだったかな」 「なるほど。標準体型、と」 「かなでさん」 「あい?」 「なんでさっきからメモ取ってるんですか?」 「……」 ペンを握ったまま、固まるかなでさん。 「しまった!」というような顔をしている。 「な、なんでもないよ?」 「なんでもないわけないでしょう」 「ただのマーケティング調査だもん!」 「だから、なんの調査ですかっ」 だいたい、最初から怪しいと思ったのだ。 こんな重い物を一人で運ばせるなんて。 いつものかなでさんなら、率先して手伝いを呼んだはず。 なのに、今回はあえて俺を試すようなことをした。 この展開が、怪しくないはずがない。 「正直に言わないと、このタヌキをドアの前に放置しますよ」 「そしたら、かなでさんは一生部屋に入れない」 「ひどいよ! 脅迫だ!」 「なんとでも言ってください」 「自力でなんとかするか正直に話すか、さあどっち!」 「うううぅぅぅ〜〜〜っ」 「だから、なんてゆーか」 「その、簡単なチェックみたいなものでさ」 「チェック?」 「そう!」 「こーへーがひなちゃんにふさわしいかどうか、チェックしてるのっ」 「へ?」 「えっ?」 ……。 振り返る。 ちょうど部屋から出てきた陽菜と、目が合う。 「孝平くん?」 「わっ、な、何そのタヌキ!」 「あううぅ……とにかく!」 「ひなちゃんとこれ以上仲良くしたいなら、わたしを倒していくのだ!」 「はああぁ?」 「お、お姉ちゃん?」 まったくもって謎の発言だった。 俺は、ぽかんとかなでさんを見る。 「お姉ちゃん、私と孝平くんはそんなんじゃないよ?」 「だそうだけど、こーへーは?」 「あ、あぁ、うん」 「まあ、そんなところです」 「……って、そうじゃなくて!」 なにこの、駆け落ちを企てる禁断のカップル状態。 俺は、かなでさんを倒しに来たわけでもなんでもない。 ただタヌキを運んできただけだ。 「だいたい、チェックってなんなんですか?」 「俺のことなんかあれこれ調べても、意味ないと思いますよ」 「意味はある!」 「ひなちゃんはわたしのヨメ!」 「っていうか、この学校ではわたしが親代わりなわけだし〜」 なんだそりゃ。 そりゃ確かに二人は姉妹なわけだけど、だからってそこまでするか? かなでさんの過保護っぷりは相当なものだと思う。 姉妹というより、まるで親子みたいだ。 俺はため息をついた。 「……ひとまず、タヌキを部屋に入れましょう」 「えぇ〜っ」 「えぇ〜って、かなでさんがもらってきたんでしょ?」 「そーだけど、これはあくまでも体力チェック用でして……」 「問答無用」 「うぅ」 かなでさんは下唇を尖らせた。 いろいろ問い詰めたいことはあったが、もうけっこうな時間だ。 タヌキを部屋に入れたら、帰らなければ。 「かなでさん、ドア開けてください」 「むー」 「スネたってダメです」 そう言うと、仕方なくかなでさんはカギを開けた。 「適当に、中に置いときますからね」 「へーい」 俺はタヌキを抱え、部屋の中に入った。 「お姉ちゃん、あのタヌキどうするの?」 「かわいがるよ? もちろん」 「まったくもう」 「孝平くんを困らせたらダメじゃない」 「んー……ちょっとやり過ぎたかな」 「でも、わざと困らせてるわけじゃないよ?」 「これはね、こーへーの資質を見極めるためのテストなのだ」 「そんなテスト、する必要ないでしょ?」 「わたしにはあるんだよ」 「わたしはね、ひなちゃんのためになることならなんでもするの」 「ひなちゃんを幸せにできる人じゃなきゃ、イヤだからさ♪」 「お姉ちゃん……」 お姉ちゃんたちと別れてから、部屋に戻る。 ……大丈夫かな。 孝平くんは、怒ってなかったみたいだけど。 お姉ちゃんは、私と孝平くんのことを誤解してる。 私たちは幼なじみで、今はクラスメイト。 ただそれだけ。 ……本当に? 本当にそう言い切れるのかな、私。 ただのクラスメイトだなんて、言い切れるのかな。 このまま一緒にいたら、私はもっと孝平くんのことを── ……。 私には、そんな資格あるのかな。 孝平くんの隣で笑う資格なんて……。 「……ふぅ」 気分を落ち着かせたい時は、カモミールティー。 私は棚から、茶葉の入った瓶を取った。 眠れそうにない日は、このお茶と決めてる。 お気に入りのカップで飲むこの時間が、一番好き。 ティーポットにお湯を入れ、器が温まるのを待つ。 ……。 孝平くんと再会した、一ヶ月半前。 お姉ちゃんに言われるまで、私はすぐに孝平くんだとわからなかった。 私は孝平くんの顔を、ほとんど覚えていない。 記憶の中にうっすらとあるだけ。 だから、とても驚いた。 どう反応したらいいかわからなかった。 でも……。 とても懐かしい気分になった。 孝平くんのことは、ほとんど覚えていないのに。 彼については、手紙に書かれていたことしか知らないのに。 ……。 私は、机の引き出しから一通の手紙を取り出した。 「悠木陽菜様」 少しだけ角ばった、丁寧な文字。 これが、孝平くんからもらった最後の手紙。 あの事故さえなければ、文通はずっと続いていたはず。 私が、記憶さえ失わなければ。 こんなに歯がゆい思いになることもなかった。 私は……。 どうして孝平くんと、文通しようと思ったんだろう? あの頃の私はどんな思いを抱えていたんだろう。 もう少しで、手が届きそうなのに── 翌朝。 筋肉痛の身体を引きずりながら登校する。 昨夜のタヌキのおかげで、身体がどれだけなまってたかを痛感できた。 文字通り、「痛感」だ。 「ういーす」 「ういっす」 「いててっ」 椅子に座ろうとした瞬間、太腿が悲鳴をあげた。 我ながら情けない。 「どうした?」 「どうもしない」 「つかお前、俺の着信に気づかなかったのか?」 「え?」 司はポケットから携帯を取り出した。 「あ、ほんとだ」 「おせーよ」 「わりぃ。あの後、速攻寝たんだ」 「宿題は?」 「あー」 「やってないのか」 「まあ、大丈夫だろ」 その根拠がわからん。 「おはよう」 俺は顔を上げた。 陽菜が立っていた。 「うぃーす」 「お、おはよう」 「今日、暑いね。夏服で来ちゃおうかと思ったよ」 「ははは」 ……。 陽菜が席に着く。 なんだろう。 妙に意識してしまう。 それもこれも、昨日かなでさんがヘンなことするからだ。 「こーへーがひなちゃんにふさわしいかどうか、チェックしてるのっ」 だいたい、俺はいつから「ムコ候補」になったんだ? 俺と陽菜は、幼なじみでクラスメイトだ。 そりゃ確かに、クラスの女子の中では、一番仲がいいと思う。 でもそれは、友達としてだろう? 友達として。 ……たぶん。 「孝平くん」 「え?」 「昨日、ごめんね」 「何が?」 「ほら、タヌキのこと」 「あぁ……」 「お姉ちゃんに、ちゃんと言っておいたから」 「孝平くんを困らせちゃ駄目だって」 「はは、気にするなよ」 「しっかし陽菜って、かなでさんのお母さんみたいだな」 「え……」 「?」 陽菜はまつげを伏せた。 が、すぐに笑顔を取り戻す。 「お姉ちゃんって、目を離すと何するかわからないし」 「どうしてもお母さん目線になっちゃうんだ」 「それもそうだな」 俺はうなずいた。 今、陽菜の表情が曇ったように見えたけど。 気のせいだろうか。 「でもあのタヌキ、どうする気なんだろうな」 「お姉ちゃんはかわいがるって言ってたけど」 「……マジか」 「タヌキがいるのか?」 司が話に入ってきた。 本物のタヌキと誤解しているのか。 「いるいる、いるぞ」 「山から下りてきたらしい」 「すげえな」 「今かなでさんが飼ってるから、今度見に行こうぜ」 「行く行く」 「えっ……でも……」 おろおろとする陽菜。 俺は人差し指を口にあて、「内緒」のポーズを取る。 「タヌキって何食うんだ?」 「なんだろうな」 「あっ」 俺はぽんと手を叩いた。 タヌキの好物と言えば、これしかない。 「そういや、左門堂の柚子タルトだって言ってたぞ」 「はぁ?」 「……」 「ふふ」 俺と陽菜は、目と目を合わせて笑い合った。 その夜。 風呂上がりに、談話室に向かう。 ドアを開けると、紅瀬さんが窓側のソファーに座っているのが見えた。 ぼんやりと外を眺めている。 「……」 ……なんか、話しかけづらい雰囲気。 静かに、端の方に座っていよう。 ガタッ 「いてっ」 「……?」 テーブルを蹴飛ばしてしまった。 紅瀬さんは怪訝そうな顔で振り返る。 「よ、よう」 「……こんばんは」 「そんなとこで何見てるんだ?」 「別に」 会話終了。 相変わらず素っ気ない。 紅瀬さんとは席が近いのに、実はちゃんと話したことがなかった。 話してみたいとは思うのだが、なにぶん共通項が見あたらない。 「なあ、紅瀬さん」 「何?」 「紅瀬さんの好きな食べ物ってなんだ?」 「……は?」 氷殺されそうな目で一瞥された。 「いや、深い意味はないんだけど」 「ただの好奇心っていうか」 「食べ物にはあまり興味ないわ」 なんと。 そんな返事は予想外だ。 「興味ないってことはないだろう」 「なんかあるだろ、一個ぐらいは」 「さあ」 「貴方に教える義理もないと思うけど」 まったくその通りだ。 「じゃあ、俺が教えたら教えてくれるか?」 「何言ってるの?」 「貴方の好みなんて興味ないわ」 「俺の好物は焼きそばだ」 「……」 「あと、最近は紅茶も」 「紅茶?」 「おう。おかしいか」 「別に」 「でも、意外ね」 「俺も意外だ」 「だけどさ、ありゃけっこう奥が深い飲み物なんだよ」 「そう」 「淹れ方を練習してるんだけど、なかなか上達しなくてさ」 「陽菜の淹れた紅茶には全然かなわない」 「……」 「……あ、ごめん。一人でしゃべってた」 「いいけど」 いいのか。 なんだかんだで、紅瀬さんは俺と会話してくれている。 まあ、ただ聞き流してるだけとも言えるが。 「そうだ、今度紅瀬さんもお茶会に来ないか?」 「お茶会?」 「お茶会っつっても、ただ単に俺の部屋で集まってるだけなんだけどさ」 「そこで、陽菜がいつもうまい紅茶を淹れてくれるんだ」 「そう」 あまり興味がなさそうな顔。 いきなり誘うべきじゃなかっただろうか。 「無理にとは言わないけど、気が向いたら」 「そうね」 「気が向いたら行くわ」 「……」 はっきりとは断らなかった。 紅瀬さんの性格だと、嫌なことは嫌だとはっきり言うだろうし。 ということは、多少は脈アリと見ていいのか? 最初は取っつきにくかったけど、意外と話せるヤツなのかもしれない。 ガチャッ ドアが開く音がして、振り返った。 「あ……」 陽菜だった。 「よう」 「こんばんは」 「こんばんは」 「……」 陽菜は、俺と紅瀬さんを交互に見る。 「……珍しいね、孝平くんと紅瀬さんが二人でいるのって」 「ああ。たまたま一緒になったんだ」 「そ、そうなんだ」 「……」 「今、好きな食べ物の話しててさ」 「あっ」 「そーいや俺、まだ紅瀬さんの好物聞いてないぞ?」 紅瀬さんは、ふっと立ち上がった。 「用事を思い出したわ」 「おい、ずるいなー」 そう言うと、紅瀬さんは一瞬だけ不敵な笑みを浮かべた。 ……ように見えた。 「彼、貴女の淹れた紅茶が一番好きなんですって」 「えっ?」 「お先に失礼するわ」 ばたんっ 「……」 「……」 部屋が、しんと静かになる。 なんか妙な空気になってしまった。 俺は必死に言葉を探す。 「あの、さ」 「さっき紅瀬さんを、お茶会に誘ったんだ」 「陽菜が紅茶を淹れてくれるから、って」 「そ、そう」 「私も、紅瀬さんとゆっくりお話してみたかったんだ」 「来てくれるといいな」 「うん」 「かなでさんは、一緒じゃなかったのか?」 「宿題があるからって、先に戻ったよ」 「そっか」 陽菜はほんのりと濡れた髪を、タオルで押さえた。 上気した頬。 風呂上がりの、いい匂いがする。 ……。 今まで毎日、隣の席で授業を受けていたのに。 今になって緊張している俺は、やっぱりヘンかもしれない。 「そうだ、孝平くん」 「今、ちょっと時間ある?」 「あるけど」 「いい茶葉が手に入ったから、試飲してみない?」 「いいのか?」 「もちろん」 「ありがとう。じゃあ、俺の部屋で……」 「……」 いや、待て。 俺の部屋じゃ二人きりになってしまう。 それはそれで、なんだかいろいろと問題がある気がした。 「やっぱ、試飲はまたの機会でいいか?」 「え?」 「今日はここで、かなでさんのお疲れパーティーの作戦会議しようぜ」 「お茶会の時じゃ、こんな話できないしさ」 「あ、そうだね」 陽菜は大きくうなずいた。 「私も、いろいろと考えてたの」 「会場のこととか、お料理のこととか」 「うん」 俺たちはソファーに座り、会議を始めた。 まずは参加人数について。 最初はお茶会メンバーだけで考えていたが、大勢で送り出してやりたい気もしてきた。 「きっとね、参加したい人はけっこういると思うの」 「そうなったら、孝平くんの部屋では難しいよね?」 「だな」 寮の部屋では、現行メンバーだけでいっぱいいっぱいだ。 そうなると、どこか会場を借りるしかない。 「どこがいいと思う?」 「人数次第だよな」 「講堂……はさすがに広すぎるし」 「教室ってのも味気ないな」 「うーん」 「そこらへんは、司や副会長にも相談してみよう」 「そうだね」 「あとは、出し物だよな」 花束贈呈に、みんなからのビデオレター。 やはり最後は、お涙頂戴系の企画で締めたいところだ。 「そうだ、陽菜が手紙を読むってのはどうだ?」 「手紙?」 「寮生たちを代表して、感謝の手紙を読むんだ」 「私が読むの?」 「その方が、かなでさんも喜ぶだろ」 だんだんイメージが固まってきた。 感動系のBGMをバックに、陽菜が手紙を読む。 思わず涙をこぼすかなでさん。 盛大な拍手。 そして花束&記念品の贈呈。 うん、なかなか悪くない。 「そんな大役、私にできるかな」 「けっこうあがり症だし……」 「大丈夫だよ、陽菜なら」 「それに、かなでさんを一番近くで見てたのは陽菜だろ?」 「……うん」 陽菜はうつむいた。 なんだか泣き出しそうな表情だ。 「どうした?」 「……え?」 「あ、うん、なんでもないの」 「ただ、来年になったら……お姉ちゃん、寮からいなくなっちゃうんだなって思って」 陽菜は無理に、明るい笑顔を作る。 よっぽど寂しいのだろう。 「かなでさんがいなくなると、この寮も静かになっちゃうな」 「……」 「まあ新入生が入ってくるから、そのぶんにぎやかになるだろ」 「……孝平くんは?」 「え?」 「孝平くんは、いなくならないよね?」 「転校したりしないよね?」 陽菜は、じっと俺を見た。 俺はその瞳の奥に、幼い頃の陽菜を見る。 俺が珠津島から引っ越す前日。 陽菜は同じような目をしていた。 「俺は、いなくならないよ」 「そのために全寮制の学校を選んだんだ」 「思い出ってやつを、ちゃんと作りたかったから」 「思い出……」 「そう」 渡り鳥のようだった日々。 上っ面だけの人間関係。 顔のないクラスメイトたち。 そんなのが嫌だったから、この学校に来た。 今度こそ、自分の居場所を作るために。 これから先、何年経っても思い返せるような思い出を作るために。 ……。 そう思わせてくれたのは、かつての陽菜だった。 俺はずっと、陽菜に「ありがとう」と言いたかった。 だけど、陽菜は事故に遭い……。 感謝の気持ちを伝えられないまま、今日まで来てしまった。 「孝平くん、私」 「私ずっと、孝平くんにちゃんと話さなきゃって思ってて」 「謝らなきゃいけないことも……」 「陽菜が俺に謝ることなんて、別にないだろ」 「あるよ」 遮るように、陽菜は言った。 唇が、わずかに震えている。 「……私、6年前、交通事故に遭ったの」 「うん。知ってるよ」 「事故のショックで、一年間の記憶をなくしちゃったの」 陽菜は続ける。 「孝平くんのことも、全部忘れちゃった」 「ごめんね。私、覚えてないの……」 胸の奥が、ずしりと重くなる。 そんなのとっくに承知だったのに、実際に言われるとけっこう堪える。 「だから私、驚いたんだ」 「退院してから、私に文通相手がいるって聞かされて……」 「私、どうしてこの男の子と文通を始めたのかなって思った」 「私が何を思って文通を始めたのか、どうしても知りたかった」 「……」 今まで何度か、陽菜に文通を始めた理由を聞かれた。 最初は手紙で。 次は、この学校で再会してから。 その度に、はぐらかしてきた。 気恥ずかしかったから。 もう昔のことだから。 でも、本当はそれだけじゃない。 それだけじゃなくて── 「ずっと、時間が止まったままなの」 「あの事故から、ずっと」 「いろんなこと、がんばって取り戻したつもりなのに……」 「何かが足りないの」 「その何かが、私にはわからないの」 「陽菜……」 ちゃんと話さなきゃいけないのは、俺の方だったのかもしれない。 「昔のことだから」なんて言葉で、片づけるんじゃなくて。 「……今までずっと、はぐらかしてごめん」 「なんか、フェアじゃないような気がしてさ」 「?」 「うまく言えないけど……」 ガッシャーン! 「これ、支倉が割ったことにしようぜ」 「支倉?」 「だってあいつ、もうすぐ転校するんだろ?」 「俺らのことなんて、どーせすぐ忘れるんだろーしさ」 「それは違うよ、孝平くん」 「私は違う。私はずっと友達だよ」 「離れていたって、友達でいられるんだから」 「これから毎月15日、孝平くんに手紙を書くよ」 「もし返事をくれたら、嬉しいな」 ……俺は、陽菜の手紙を毎月心待ちにしていた。 他愛もない日常が書かれた手紙。 家族のことや、友達のこと。 遠く離れた俺を、案ずる言葉。 近くにいなくても、ずっと友達でいることができるんだ。 俺には、俺のことを忘れないでいてくれる人がいる。 ……でも。 ある日、手紙は途絶えた。 代わりに届いたのは、かなでさんからの手紙だった。 『……先日、ひなちゃんは交通事故に遭ってしまいました』 『大きな怪我はないから安心してください』 『ただ、事故のショックで意識が混乱している状態です』 『特に、ここ一年間ぐらいのことをよく覚えてないみたいなの』 『こーへーのことも……あんまり覚えてないみたい』 『だけど、ひなちゃんはきっと手紙を書くと思う』 『もう少しだけ待ってあげてください』 ……。 陽菜を責めたってしかたがないことは、わかってる。 でも、悲しかった。 よりによって、なぜなくしたのが俺との一年なんだ。 俺は陽菜を、本当の友達だと思っていた。 でも陽菜にとって、もう俺は……。 ただの元同級生。 それ以上でも、それ以下でもない。 そんなヤツに、手紙なんて書くわけがないじゃないか。 そう思ってた。 でも、手紙は来た。 以前と何も変わりのない、他愛もない日常のこと。 家族や、友達とのこと。 ……なぜ? 陽菜にとって俺は、もう他人にも等しい相手なのに。 どうして文通を続けようとする? 『孝平くん、ごめんなさい』 『私、実は孝平くんが珠津島にいた時のことを、あまりよく覚えていません』 『一つだけ教えてほしいことがあるの』 『どうして孝平くんは、私と文通しようと思ったの?』 『私は孝平くんに、なんて言って文通を申し込んだの?』 陽菜から届いた手紙には、そう書かれていた。 俺はしばらく考えてから、返事を出した。 『文通をしようと思ったのは、たいした理由じゃない』 『クラスメイトだったよしみ。それだけだ』 『それより、無理して文通は続けなくていいからな』 ……。 今になって、少しだけ悔やんでいる。 なんであんなことを書いてしまったんだろう。 俺の手紙を境にして、手紙のやり取りは途絶えた。 結果的には、俺が陽菜を突き放したことになるのだ。 俺は陽菜に、6年前の出来事を話した。 クラスメイトに窓ガラスを割った罪をなすりつけられたこと。 上っ面の付き合いをしてた自分に失望したこと。 もうこれからは誰も信じない、と思ったこと。 何も期待しない、と思ったこと。 「これは、俺の想像だけど……」 「たぶん陽菜は、俺が窓ガラスを割った犯人じゃないってことを知ってたんだ」 「……え?」 「俺が濡れ衣を着せられたってこと、知ってたんだと思う」 「だから俺に同情して、文通を申し出てくれたんじゃないかな」 想像ではなく、確信に近い。 あの時、俺に唯一味方してくれたのは、陽菜だけだった。 「同情でもなんでもよかったんだ」 「俺は、陽菜に友達だって言われて嬉しかった」 「あの言葉があったから、ヘコまずに済んだっていうか」 「次の転校先でもうまくやれたのは、陽菜のおかげだと思ってる」 「……」 陽菜は何も言わなかった。 今ひとつピンとこないのだろう。 身に覚えのない話だろうから、無理もない。 「俺が文通を始めた理由を、陽菜に言えなかったのは……」 「陽菜に、友達の役目を押しつけたくなかったからだ」 陽菜は俺に、離れていても友達だと言ってくれた。 でもそれは、記憶を失う前の話。 記憶を失った陽菜に、友達という役目を継続させるわけにはないかない。 陽菜の意志でなければ、意味がないのだ。 「俺は、陽菜が気遣い屋で律儀な性格って知ってるからさ」 「俺が望めば、文通をずっと続けてくれたと思うんだ」 「でも、やっぱそれって、なんか違うと思うし……」 「ごめん、うまく言えないけど」 うまく言えない上に、自分でも細かいことにこだわってると思う。 友達の定義なんて人それぞれで、そこまで真剣に考えることじゃないかもしれない。 でも、俺は。 いい加減にしたくなかった。 初めて友達だと思った相手だからこそ。 無理につなぎ止めることはできなかったのだ。 「あの時は、ありがとな」 俺は笑顔で、言った。 「こんなこと言われても困ると思うけど」 「陽菜のおかげで、ずいぶん助かった」 「孝平くん……」 「文通が途切れた後も、なんか手紙捨てられなくてさ」 「それを陽菜に見られた時は、かなり恥ずかしかったけどな」 「……」 陽菜は、ゆっくりと瞬きをした。 大粒の涙が頬を伝う。 こらえていたものが、溢れ出したかのように。 「陽菜?」 「う……」 「お、おい、泣くなよ」 「……うん」 「泣かないよ」 「私には、泣く資格なんてないから」 「……」 涙が、ぽたぽたと膝に落ちる。 陽菜のこぶしに、ぎゅっと力が入った。 必死に声を押し殺しているのだ。 声をあげないことで、自分を戒めている。 そう見えたから、俺は声をかけられなかった。 「孝平くん」 しばらくしてから、陽菜は言った。 「お願いがあるの」 「私が出した手紙、読ませてもらえないかな?」 「え……」 「あの時、私が何を考えていたのか知りたいの」 「何を思って、孝平くんに手紙を書いていたのか……」 「お願い」 「……わかった」 断る理由はない。 俺は立ち上がった。 「……」 部屋まで手紙を取りに行き、談話室に帰ってきた。 陽菜は真剣に手紙を読んでいる。 記憶を失う前に書いたものだ。 陽菜は今でも、失った記憶の欠片を探してる。 あの事故に遭った日から、ずっと。 今日までの約6年間。 ……。 やがて陽菜は、読み終わった手紙を俺に手渡した。 「どうもありがとう」 「……どうだった?」 「何か思い出したり、とか」 陽菜はゆっくりと首を振る。 そりゃ、簡単に記憶が戻ったら苦労はしない。 「私、どうでもいいようなことばかり書いてたんだね」 「もっと気の利いたこと書けばいいのに」 ため息混じりに陽菜はつぶやく。 「俺にとっては、十分気の利いた手紙だったよ」 「陽菜のたわいのない日常が、俺にとっても大切だった」 ただ、つながっているだけで嬉しかった。 それぐらいあの頃の俺にとって、陽菜の存在は大きかった。 ……そうだ。 記憶を失ったかどうかは、関係ないんだ。 俺にとって陽菜は大切な友達。 あの頃も、今も。 俺がそう思っているだけでよかったんだ。 陽菜と共有した思い出は、俺の中にきちんと在り続けているのだから。 陽菜は俺の幼なじみで、クラスメイト。 そして、大切な友達。 大切な── ……。 「孝平くん」 陽菜はおだやかな笑みを向ける。 「話してくれて、本当にありがとう」 「昔のこと、思い出すことはできないけど……」 「それでも、自分のこと少しだけわかった気がする」 「そっか」 「俺も、陽菜と話せてよかった」 「文通を中途半端にしちゃってたこと、ずっと気がかりだったからさ」 「……」 「あの……」 「ん?」 「さっきの話だけど」 「ほら、私が孝平くんに同情して、文通を申し出たって話」 「ああ」 濡れ衣を着せられた俺に同情して、陽菜が文通を申し出てくれた。 と、俺は勝手に思ってるのだが。 「私、よくわからないけど」 「……たぶん、同情なんかじゃなかったと思う」 真面目な顔で陽菜は言う。 「何か思い出したのか?」 「ううん、そうじゃなくて」 「自分のことだから、なんとなくそう思うだけだけど」 「たぶん、同情なんかじゃなかったと思う」 「私はあの頃、きっと……」 「……」 陽菜は俺を見つめる。 俺も、その大きな瞳を見つめ返した。 「……きっと?」 「きっと……」 ……。 その目に、その唇に。 吸い込まれそうになる。 身構える間もなく。 一瞬にして、引き寄せられる感じ。 俺は息を吐いてから、目をそらした。 ドキドキする。 陽菜が、かわいい。 どうしようもなくかわいいと思ってしまった。 もう少しで、俺は── ……。 俺は、なんだ? いったいなんなんだよ。 「……そろそろ、部屋に戻ろっか」 「宿題、あったよね」 「そう……だな」 それから俺たちは、言葉少ないまま談話室を出た。 陽菜と別れた後も、ドキドキは消えなかった。 「お、おはよ、孝平くん」 「……お、おはよう」 陽菜が席に着く。 俺は平常通りを装いながら、一時間目の授業の用意をする。 何か話しかけようと思うのだが、うまい言葉が見つからない。 挨拶程度の世間話でいいのに。 「暑いね」とか「腹減ったね」とか、そんなんでいいのに。 なぜかきっかけをつかめない。 陽菜と談話室で話してからというもの、ずっとそんな調子だった。 「あの」 「今日、暑いね」 「……」 「ああ、暑いな」 「……うん」 俺のバカ。 話を終わらせてどーする。 どうして普通にできないんだ。 お茶会とか、みんなで一緒にいる時は普通にできるのに。 二人になると、とたんにヘンになってしまう。 ……。 違う。逆だ。 どうして今までは、普通にできてたんだろう。 隣同士に席を並べてきて、どうして普通にやって来られたんだろう。 こんなにそばにいて。 「……」 窓の方に顔を向けた。 俺、明らかに意識しすぎ。 陽菜も困ってるだろ。 わかってる。 わかってるのだが。 「……ふぅ」 ろくに陽菜と会話しないまま、夜になってしまった。 普通にしていればいいのに、そもそも普通ってのがよくわからない。 このままじゃいけない。 ちゃんと、いつも通り接しよう。 がんばって普通に振る舞おう。 いや、がんばっちゃ駄目だ。 普通に、自然体をキープしないと。 ……自然体をキープするってのも難しいな。 ぴりりりっぴりりりっ 携帯が鳴った。 かなでさんからだ。 「もしもし」 「あっ、こーへー?」 切羽詰まった声だった。 「どうしたんですか?」 「今から、寮の玄関に来てもらえないかな」 「ひなちゃんが……」 「陽菜が? どうしたんです?」 俺は強く携帯を握りしめた。 「ひなちゃんが……っ」 「かなでさん!?」 鼓動が速くなる。 足元がぐらぐらと不安定になる。 陽菜に何かあったのか? 「すぐに行きます!」 電話を切り、俺は部屋を飛び出した。 「はぁっ……はぁっ」 「か……かなでさんっ!」 転がるようにして玄関を飛び出す。 「かなでさんっ?」 辺りを見回しても、誰もいない。 と思ったら、木の陰からひょっこりとかなでさんが出てきた。 「あ、こーへー」 「ずいぶん早かったね」 「陽菜はっ?」 「陽菜はどうしたんですかっ」 「ひなちゃんなら、部屋にいると思うよ」 「ごめんね、急に呼び出して」 「え……」 全身から力が抜けそうになる。 さっきの切羽詰まった様子はどこへやら、かなでさんは至って普通だ。 さっぱり意味不明。 「……ど、どういうことなんですか?」 「俺、陽菜に何かあったと思って、すげー焦って」 「うん。正直、わたしも焦った」 「まさかこーへーが、そんなにものすごい勢いで来ると思わなくて」 「じゃあ、陽菜は無事なんですよね?」 「うん、無事」 「今頃、部屋で脚やせストレッチでもやってると思う」 「……」 はぁ。 よかった。 まずは安堵のため息。 「……で、さっきの電話はいったいなんの企みですか?」 「ああいう冗談は、あんまり感心できないと思いますよ」 「ごめん」 かなでさんは驚くほど素直に頭を下げた。 あまりにしょんぼりしてるものだから、こっちも申し訳なくなってしまう。 「こーへーの顔見て、反省したよ」 「ちょっとやり過ぎたね、わたし」 「いや、わかってもらえればいいんですけど……」 「そんなにしょんぼりしないでくださいよ。お願いですから」 元気のないかなでさんを見るのは、いたたまれない。 俺としては、陽菜が無事だっただけでもう十分だ。 「かなでさんだって、悪ふざけであんな電話したんじゃないでしょう?」 「何か理由があったはずです」 「うん」 「で、なんだったんですか?」 「もう、目的は達成した」 「へ?」 「どうもありがとう」 そう言って、かなでさんはスタスタと玄関に向かう。 その首根っこを、ひょいとつまみ上げた。 「こら、待ちなさい」 「わわっ、な、何するのーっ」 「俺の話はまだ終わってませんけど?」 「わたしはもう終わったもんっ」 「説明責任を放棄してるでしょーが」 「わ、わかったわよーっ。わかったから下ろしてっ」 ぽいっ。 手を放すと、かなでさんはじろりと俺を見た。 「お姉ちゃんは、小動物じゃありませんっ」 「つかみやすいんですよ、そこ」 「で? ちゃんと筋道立てて説明してください」 「うぅー」 「でもその前に、一つ用事済ましていい?」 「用事?」 「うん」 「できれば、こーへーにも手伝ってもらえるとありがたいなーなんて」 「……」 猛烈に嫌な予感がした。 「で、このタヌキなんだけどね」 「やっぱりだ」 俺は天を仰いだ。 手伝ってくれと言われた時点で、素直に辞退しとけばよかった。 かなでさんの部屋の玄関に、どーんと鎮座した例の信楽タヌキ。 「どうせ邪魔になったんでしょう」 「じゃ、邪魔じゃないよ! ちゃんとかわいがったもん!」 「クリスティーナって名前までつけたんだから!」 「なんですか、その名前は」 しかもメスじゃないだろ、どう見ても。 「ペットは最後まで責任もって飼わないと駄目ですよ」 「うえ〜ん、ごめんよクリスティーナ」 「新しい飼い主さんにかわいがってもらってね」 「新しい飼い主?」 「うん」 「この前談話室で、タヌキが邪魔だって話をひなちゃんとしてたらさ」 やっぱり邪魔なんじゃないか。 「たまたま近くにいたきりきりがね、話に入ってきて」 「邪魔なら私の部屋で預かってもいい、って」 「……紅瀬さんが?」 俺は首を傾げた。 「ホントにそんなこと言ったんですか?」 「言ったよ!」 「だからきりきりの部屋に運びたいんだけど、女の細腕じゃあねぇ〜」 「……」 そういうことなら、まあしかたないか。 紅瀬さんとかなでさんに運ばせるわけにもいかない。 「わかりました」 「じゃあ、助っ人を呼びます」 俺は携帯を取り出した。 筋肉痛に苦しむのはもう嫌だ。 「助っ人?」 「はい」 「前からタヌキを見たがってるヤツがいまして」 プルルルル……プルルルル…… 「あ、もしもし? 俺だけど」 「留守番電話センターに接続します」 「ってまた留守電かよっ」 力強く電話を切る。 「どうしたの?」 「助っ人、あいにく留守みたいで」 「あらまー」 「助けてほしい時にいないんじゃ、助っ人って呼べないね」 他人事のようにかなでさんは言う。 やっぱり俺が運ぶことになるのかよ。 「お待たせ〜♪」 「お……また……せ……」 やっとの思いで、紅瀬さんの部屋に到着。 クリスティーナを玄関に運び込む。 気のせいか、前より一段と重くなったような。 明日もまた、筋肉痛でのたうち回ることになるのだろう。 「適当に置いといて」 「う……」 どすんっ。 壁際辺りに下ろす。 ようやくタヌキの呪いから解放された。 「この子、クリスティーナっていうの」 「よろしくね♪」 「はい」 「よかったね〜クリスティーナ」 「あはは、嬉しそうだよこの子」 「きりきりが美人だから、ちょっと照れてるみたい」 かなでスコープではそう見えるらしい。 俺には、ただのメタボリックな酔っぱらいにしか見えないが。 「なあ、紅瀬さん」 「何?」 「ホントによかったのか? こんなでかいの」 「別に、構わないわ」 「スペースなら余ってるし」 俺はちらっと室内を見る。 確かに、紅瀬さんの部屋はかなりシンプルだ。 生活感がないというか。 「そっか。よかった」 「でも、まさか紅瀬さんがこんなの欲しがるとは思わなかったな」 そう言うと、紅瀬さんは眉間に皺を寄せた。 「勘違いしないで」 「ただ預かっただけよ」 「……」 まあ、そういうことにしておくか。 「じゃ、帰るわ」 「おやすみ」 「おやすみ〜っ」 「おやすみなさい」 ばたんっ ……。 「きりきりって……」 「絶対、動物好きだよね」 「はい」 俺は確信をもって、うなずいた。 「いや〜、お疲れお疲れ!」 かなでさんの部屋に着くと、冷えたコーラを手渡された。 「あの、お気遣いなく」 「まあまあ、くつろぎたまえ」 そうは言われても。 こんな遅くに、女子の部屋に入るのってどうかと思う。 俺は借りてきた猫みたいに、部屋の隅で縮こまった。 「あれ? どしたのそんなところで」 「いえ」 「もしかして、わたしに襲われるとか思ってる?」 「は!?」 「あははは、心配しなくても大丈夫だって」 なんでそうなる。 普通は逆の発想をするだろう。 俺はため息をついた。 なんか今ので、一気に力が抜けた。 「はい、かんぱ〜いっ」 「かんぱーい」 コーラの缶をぶつけ合う。 「んぐっ、んぐっ、んぐっ」 「ぷっはー!」 「いい飲みっぷりですね」 「で、今のはなんの乾杯ですか?」 「うーん、そうだなあ」 かなでさんはしばらく考え込んでから、にこっと笑った。 「ムコ入りおめでとう記念、かな?」 「……はい?」 コーラを飲みかけて、止まる。 「ムコ入りって、誰が?」 「こーへー」 「なんで俺!?」 「だってこーへー、ひなちゃんのこと好きっしょ?」 かなでさんは、まっすぐに俺を見た。 邪気のない、素直な目で。 「あれ? 違った?」 「いえ」 ……。 なんて言えばいいのかわからなくて、俺はコーラの缶に視線を落とす。 気持ちを言葉で表すと、そういうことになるんだろう。 俺は陽菜が好き。 たったそれだけの、短い言葉。 否定するつもりなんて、もちろんない。 偽りのない俺の思いだ。 ……なのに、言い淀んでしまうのは。 「んもう、どーしたのよ?」 「異論があるなら聞こうじゃない」 「いや、違うんです」 「……ただ、単純に言い切れないというか」 「言い切れないってどーゆーこと?」 うまく伝えられない。 「好き」という言葉だけじゃ、片づけられない。 そんな単純な気持ちじゃないのだ。 俺にとって、陽菜は……。 「陽菜は、一番大切な人です」 「友達としても、一人の女の子としても」 「好きよりも、もっと……」 もっと大きな気持ち。 言葉でなんか表したくないぐらいの気持ちだ。 「うーん。よくわかんないけどさ」 「こーへーは要するに、ひなちゃんにラブってことでいいんだよね?」 「ラブ、ですか」 「ラブだよ」 「愛。わかる?」 愛。 こっぱずかしいほどに使い古された言葉。 でもその言葉が、一番しっくりくるような気がした。 「……はい」 「ラブかもしれません」 「よーし、認めたね」 かなでさんは満面の笑みを浮かべた。 俺もつられて笑う。 恥ずかしいのと気が楽になったのとで、ヘンな笑い方になってしまう。 「わたしさ、こーへーのことチェックしてたんだよね」 「ひなちゃんにふさわしい男かどうか」 「はあ」 「前に、そんなようなこと言ってましたね」 「実は、今日も極秘でチェックが行われてたわけよ」 「こーへーが、ひなちゃんのことどれだけ思ってるか知りたくて」 「それって、さっきの電話……?」 「そう」 かなでさんはうなずいた。 陽菜の名を使って電話で呼び出したのは、そういう理由だったのか。 ……でもそれって、極秘でもなんでもないと思うぞ。 「さっきのクリスティーナも、実はチェック項目だったんだよ」 「タヌキも?」 「クリスティーナ」 言い直された。 「こーへー、なんだかんだで運んでくれたじゃない?」 「わたしのワガママなんだから、放置すればいいのに」 「放置なんて……できないですよ」 「あんなの運んだら、かなでさん潰れちゃいますから」 「あはは、やっぱ優しいね。こーへーは」 「まあ以上のチェックをもちまして、ムコ試験見事合格っと」 「おめでとうございます!」 握手を求められ、応じてしまう俺。 喜ばしいことなのだろうが、今ひとつピンとこない。 「まあわたしは、こーへーのこと昔から知ってるし」 「絶対ひなちゃんのこと大事にしてくれるだろうって、信じてるからさ」 「よろしく頼んだよ、こーへー」 「かなでさん……」 「ひなちゃんのこと、守ってあげて」 「でもって、いっぱいいっぱい愛してあげて」 「約束だぞっ」 ぽんぽん、と力強く肩を叩かれる。 「なんか……」 「ん?」 「親御さんと話してるみたいですよ」 「あははっ」 「まあ、あながち間違っちゃいないかな」 「ホント過保護ですよね、かなでさんって」 「まーねー」 「でも、昔はこんなに仲良くなかったんだよ」 「どっちかっていうと、いがみ合ってた。お互いにね」 「え……?」 初耳だった。 というか、冗談だろ? この二人がいがみ合ってたなんて、あり得ない。 「あはは、信じられない?」 「当然じゃないですか」 「だって……いや、やっぱあり得ないですって」 「だよねえ」 「でも、本当に仲悪かったんだ」 かなでさんは、しばらく言葉を探しているようだった。 やがて、顔をあげる。 「あのね」 「ひなちゃん、子供の頃からあんまり身体が強くなくてね」 「病気のせいで、しばらく普通の日常生活を送れなかったの」 「病気……?」 「あ、もちろん今は全快したんだけどね?」 「命にかかわるような、けっこう大きな病気だったの」 「あれは、私が学校に通い始めたばっかの頃だったかなあ……」 懐かしそうに目を細めた。 俺の知らない、陽菜の話。 そんな病気の話なんて、陽菜は一言もしなかった。 「病状がかなり深刻で、半年ぐらい入院したんだ」 「うちの親は毎日交代で、付きっきりで看病してね」 「その頃は、あんまり家にいなかった」 「わたしは毎日、誰もいない家に帰らなきゃならなかったんだ」 かなでさんは自嘲めいた笑みを浮かべる。 「……誰のせいでもない」 「一番つらいのはひなちゃんなのに」 「わたしは、両親の愛情を独り占めにするひなちゃんが許せなかった」 「……」 知らなかった。 二人にそんな過去があったなんて。 「わたし、頭にきたからあんまりお見舞いにも行かなかった」 「ひなちゃんも、わたしには会いたくなかったみたい」 「健康で、毎日元気に学校に行けるわたしが妬ましかったんだって」 「……っていうのは、後になって聞いた話なんだけどね」 俺は、ゆっくりとうなずいた。 対照的な姉妹。 健康で自由な姉と、病弱だが両親の愛情を独り占めする妹。 おそらく当時のご両親は、かなでさんの心のケアまで気が回らなかったのだろう。 まだまだ親の愛情が必要な年齢だ。 そこでかなでさんが、陽菜を憎む気持ちはなんとなくわかる。 そして、かなでさんを妬む陽菜の気持ちも。 「でもね、どうしてもお見舞いに行かなきゃいけない日があったの」 「うちの親は共働きで、その日はどうしても仕事が抜けられなくて」 「しょーがないから、わたしが代わりに行ったんだ」 「ああ嫌だなーなんて思いながら……」 「……あ、そうそう。病院の売店でマンガ買ったんだ」 「そのマンガ持っていったら、『もう読んだ』とか言われてさー」 「もう二度とお見舞いなんか来るか! って思ったんだけどね」 そこで、かなでさんは言葉を切った。 表情にやわらかさが戻る。 「……その日、初めて病室で二人だけになって」 「ほら、お互いヒマだから、いろいろ話すしかないでしょ?」 「それで、夜になって……」 「気がついたらわたし、ひなちゃんに思ってること全部しゃべってた」 「一人で留守番してるのが、どれだけ寂しいかってこととか」 「毎日お父さんとお母さんに会えるあんたが羨ましい、とか」 「そういうこと、全部」 「そしたらひなちゃんも、負けじと言うわけよ」 「好きで病気になったわけじゃないとか」 「お姉ちゃんと役目を代わりたい、とか……」 かなでさんは、少しだけ気恥ずかしそうな顔をした。 「でね、いろいろ言い合ったら、なんかお互い反省したっていうかね」 「自分のことしか考えてなかったんだなあって、気づいてさ」 「それで、なんとなくわだかまりが解けたの」 かなでさんは、努めて明るく話すけど。 こうやって話せるようになるまで、かなりの時間がかかったんだと思う。 いろんな痛みや、いろんな後悔。 そういうのを乗り越えた強さみたいなものが、伝わってきた。 「今でもよく覚えてる」 「ひなちゃんと朝まで、ずっと手をつないで寝たんだ」 「窓から見えた朝焼けがすごくキレイで……」 「わたし、あの時初めて、ひなちゃんを守らなきゃって思った」 「……」 「ごめんね、こんな話しちゃって」 「でも、ひなちゃんはこういうこと、口に出す子じゃないからさ」 「もしひなちゃんを守ってくれる人が現れたら、代わりに話そうって思ってた」 「……知っておいてもらいたかったの」 「ひなちゃんは、今までいろんなこと犠牲にしてきたんだってことを」 かなでさんの思いが、流れ込んでくるようだった。 陽菜を思う気持ち。 その重みとぬくもりを、俺はしっかりと受け止める。 かなでさんに託されたのだ。 託してもいいと、認めてもらったのだ。 誇りにも似た感情が、胸の中に広がった。 「……ありがとうございます」 「話してもらえて、よかった」 「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」 「えへへ」 かなでさんのおかげで、もっと陽菜を知ることができた。 陽菜と、ちゃんと向き合う気持ちになれた。 遠回しな言葉で、自分の気持ちをごまかすんじゃなくて。 ちゃんと言おう。 俺が、陽菜をどんなに大切に思ってるかを。 「わたしの話はここまで」 「じゃあ、そろそろ行こうか」 「え? どこにですか?」 「やだなあ。ひなちゃんのところに決まってるじゃん」 「ほら、ちゃんと告白しないと」 「え……」 「い、今からですかっ?」 「善は急げと昔の人は言いました」 かなでさんは、しれっとした顔で言う。 「こういうのは、勢いだよ勢い」 「で、でも」 「言い訳は後で聞くから、ほらさっさと立つ!」 ばしんっ 思いっきり背中を叩かれた。 俺は弾かれたように立ち上がる。 「ちゃんと、わたしの前で宣言してもらうからね」 「覚悟はいい?」 「……はい」 しかも、かなでさんの目の前でか。 恥ずかしくて気が遠くなりそうだ。 でも、ここまで来たらやるしかない。 それが筋ってもんなんだろう。 俺とかなでさんは、陽菜の部屋の前に立った。 「緊張してる?」 「まあ、それなりに」 「手のひらに人って三回書いて飲み込むと、緊張しなくなるんだよ」 「やってみ?」 とりあえず、言われた通りにする。 「どう?」 「効果ないっすね」 「あー、やっぱり」 やっぱり、って。 「じゃ、ノックするからね」 「はい」 かなでさんはドアをノックしかけて、息を吐いた。 「……ひなちゃん、余計な遠慮しなきゃいいけど」 「え?」 「ん?」 コンコン 「あっ、ノックしちゃった」 「こーへー、がんばるんだよっ?」 まるで受験直前の息子を見守るような目だ。 そんな目されたらこっちまで焦るというか、緊張に拍車がかかる。 俺は深呼吸をして、ドアが開くのを待った。 ガチャッ 「はーい」 ドアが開き、陽菜が出てきた。 俺とかなでさんを見て、目を丸くする。 「あれ? どうしたの、二人とも」 「うん、あのね、ちょっと話があってさ」 「主に、こーへーから」 「……?」 その目が、俺に説明を求めている。 ああもう、あれこれ考えたってしょうがない。 ここはバシッと言ってしまおう。 「実は俺、」 「ちょぉっと待ったあああっ!」 「!」 「!」 俺が言いかけたのとほぼ同時に、かなでさんが声をかぶせてくる。 「やっぱ作戦変更!」 「よく考えたら、こーゆーのは二人きりじゃなきゃダメだよねっ?」 「というわけで、あとは任せたっ」 「あ!」 脱兎のごとく、廊下を走っていくかなでさん。 風紀委員のくせに廊下を走っていいのか。 ていうか、こんな状況になって丸投げするのかっ。 「……」 「……」 「あの……とりあえず、入る?」 「あ、ああ」 俺は素直に、陽菜の申し出に甘えることにした。 陽菜は、わけがわからないといった顔をしている。 無理もない。 俺だって、急展開過ぎて頭がついていかないのだ。 「そこ、適当に座って?」 「今お茶淹れるね」 「……うん」 陽菜の部屋に、一歩足を踏み入れる。 きちんと整頓された女の子らしい部屋だ。 棚には紅茶の茶葉がたくさん並んでいる。 ……いい匂い。 テーブルの上の、小さなランプから香ってくるようだ。 「ゼラニウムのアロマオイルを焚いてるの」 ティーセットを運んできた陽菜が言う。 「ぜ……ぜら?」 「ゼラニウム。薔薇の香りに似てるでしょ?」 「そう言われてみれば、なんとなく」 「それと、ベルガモットも少し足してみたんだ」 「アロマオイルってね、いろいろ配合する楽しみもあるんだよ」 「へえ……」 それから陽菜は、アロマオイルの配合についてしばらくレクチャーした。 俺はそんな陽菜を、じっと見つめている。 いつもより饒舌だ。 まるで、会話が途切れるのを恐れているみたいに。 「それでね、このネロリっていう香りが……」 「陽菜」 陽菜の言葉を遮った。 「今日、俺がここに来たのは、陽菜に話があったからなんだ」 「……話?」 「そう」 「大事な話だ」 「……」 陽菜の視線が、テーブルの上でさまよう。 「えっと……」 「あ、そうだ、お湯沸かさなきゃ」 「いいから」 立ち上がりかけた陽菜の手を、ぎゅっと握りしめた。 「……ぁ」 「いいから、ここにいてくれ」 ちょこん。 俺に引き留められ、陽菜は素直に座り直す。 さて。 どうしよう。 勢いで手を握ってしまい、放すタイミングを失ってしまった。 俺の手、かなり汗ばんでる。 緊張しすぎて、だんだん息苦しくなってきた。 ぶっ倒れる前にちゃんと気持ちを伝えないと。 「陽菜……ってさ」 「うん」 「彼氏とか、いるのか?」 「……?」 陽菜は眉間に皺を寄せた。 「いるように見えたかな?」 「あ、いや……」 俺は何を言っているのだ。 これだけ一緒にいるんだから、改めて聞かなくてもわかるだろーに。 「でも、告白してくるヤツとかいるだろ?」 「……」 「どうして、そんなこと聞くの?」 「どうしてと言われても」 「……気になるから?」 「?」 俺は顔を上げた。 もう、まどろっこしい。 言葉で言えないなら、行動で示すまでだ。 俺は陽菜の手を引き寄せ、抱きしめた。 「あっ……!」 細い肩。 柔らかい髪。 熱いうなじ。 そのすべてが、俺の腕の中に収まる。 「こ、孝平くん……?」 「ごめん」 「でも、少しだけこのままでいてもいいか?」 陽菜は何も言わなかった。 だが、抵抗もしなかった。 俺は、そのかわいらしい耳たぶが紅潮するのを見つめている。 ドキドキした。 陽菜がここにいてくれて嬉しい。 いてくれるだけで、満ち足りた気分になる。 自分の中からこんな感情が生まれてくるなんて、ホントに不思議だ。 「俺さ」 「陽菜の彼氏になりたいんだけど、どう思う?」 「えっ!?」 びくん、と陽菜の肩が跳ねる。 「え? か、彼……えええっ?」 「嫌か?」 「嫌なんて、そんな」 「そんなことは、ない、けどっ」 「じゃあ、いいんだな?」 「えっ、ま、待って」 「待てない」 「今すぐ、陽菜の返事を聞きたい」 「……っ」 でないと、このまま部屋には帰れない。 こらえ性のない男だと思ってくれてもいい。 返事を先延ばしにされたら、頭がおかしくなりそうだ。 「……俺にとって、陽菜は大切な人だ」 「最初は、友達として」 「でも、今は……」 「友達としても、一人の女の子としても、大切なんだ」 「孝平くん……」 最初は友達として。 もちろん今でも、大切な友達だと思ってる。 でもそれとは別の部分で、陽菜の存在が大きくなった。 陽菜のことが好きだ。 ずっとそばにいてほしいと思う。 「返事、聞かせてくれないか?」 「う……」 「……駄目だよ」 「だ、駄目?」 「駄目……」 「だって、私の気持ちを打ち明けたら……」 「この腕、振りほどけなくなる」 「孝平くんのこと、好きだって認めたら」 「私……」 「振りほどかなきゃ、駄目なのに」 「陽菜……?」 俺はふと、かなでさんの言葉を思い出した。 「……ひなちゃん、余計な遠慮しなきゃいいけど」 あの言葉は、何を意味してるんだろう。 俺には、よくわからないけど。 「……陽菜の気持ちは、今、ここにはないのか?」 「……」 「ないなら、俺は黙って引き下がる」 「でももし、少しでも俺を思ってくれるなら……」 「俺を、陽菜の隣に置いてくれ」 「俺に陽菜を守らせてくれ」 「ぅ……」 「でも私……孝平くんのこと、忘れちゃったんだよ?」 「今の私は、孝平くんと仲良しだった頃の私じゃないんだよ?」 「それでもいいの?」 「昔の陽菜も今の陽菜も、どっちだって大切だ」 「俺にとっては、どちらも同じ陽菜だから」 「……っ」 陽菜は、俺に強くしがみついた。 その細い腕で、全身全霊の力を込めて。 「隣に置いてほしいのは……私の方だよ」 「でも……彼女になりたいなんて、望んじゃいけないって思ったから……」 「……」 「えっ、それって」 「俺の彼女に、ってこと?」 俺の胸に顔を埋めたまま、陽菜はゆっくりとうなずいた。 嘘。 マジか? 胸の奥が一気に熱くなる。 「望んでくれ」 「……望んでくれよ、頼むから」 「いいのかな……」 「私、望んでもいいのかな……?」 「駄目な理由なんて、どこにもない」 「……もう一度言うよ」 俺は陽菜の髪に顔を埋め、耳元で囁いた。 「俺の、彼女になってください」 「……」 「……はい」 とても小さな声だったけど。 陽菜は、確かにうなずいた。 俺の耳に、確かに届いた。 ……嬉しい。 こんなに嬉しいことが、世の中にあるんだ。 じんわりと感動が押し寄せてきた。 「あの、孝平くん」 「え?」 「ちょっとだけ……苦しい、かも」 「あっ、悪い」 喜びのあまり、陽菜をきつく抱きしめていた。 即座に2メートルほど離れる。 「そ、そんなに離れなくても、いいんだけど……」 「お、おう」 再び近寄ろうとして、止まった。 「やっぱやめとく」 「?」 「これ以上近づくと、また抱きしめたくなっちゃうし」 「……非紳士的な振る舞いに出ないとも限らない」 「えっ」 「というわけで、今日は帰るよ」 「おやすみ」 俺は立ち上がり、足早に玄関へと向かった。 恥ずかしくて全身から火柱が立ちそうだ。 こんな真っ赤な顔、これ以上陽菜には見せられない。 「ま、待って」 靴を履き、ドアを開けようとすると陽菜が駆け寄ってきた。 「あの……」 「?」 「その……」 「私を、彼女にしてくれて、ありがとう」 ぺこり。 陽菜は小さく頭を下げた。 「じゃあ、おやすみなさい」 「……おやすみ」 ばたんっ 「……」 誰もいない廊下で、俺はぼんやりとドアを見ていた。 陽菜の声がまだ耳に残る。 彼女。 彼女……。 陽菜は、俺の彼女。 その事実を、今すぐ大きな声で叫びたい。 世界中のみんなに教えたい気持ち。 俺は大きな声で叫ぶ代わりに、男子フロアに向かって廊下を走った。 一人ウイニング・ランだ。 今なら日本……いや、世界新記録を出せそうなほど、早く走れるような気がした。 翌日。 俺の部屋には、いつものお茶会メンバーが勢揃いしていた。 「……」 「……」 俺と陽菜は、目と目で合図し合った。 みんなに報告するにはいい機会だ。 軽く咳払いをしてから、俺は背筋をピンと伸ばした。 「……みんな、ちょっといいか?」 「え?」 「?」 「あ?」 「……」 一斉に視線が集まる。 緊張するじゃないか、おい。 「じ、実は」 「その、つまり」 「何? どうしたの?」 「いや、ええと……」 「はっきりしゃべんないとわかんないでしょ」 副会長のおっしゃる通りだった。 俺は深く息を吐いてから、みんなを見渡す。 「実は」 「この度、俺と陽菜が、付き合うことになりまして」 「一応、ご報告まで」 「……ご報告、まで」 ……。 「へえ〜、おめでとう」 「お、おめでとうございますっ」 「おめでと」 「おっめでとーっ!」 ぱちぱちぱちぱち。 拍手の音が、俺たちを囲んだ。 「……あれ?」 「なんか、あんまり驚いてなくないか?」 もっと激しいリアクションを予想してた俺。 いささか拍子抜けではある。 「まあ、意外性はないわよね」 「ああ」 「むしろ今更? って感じぃ〜?」 「わたしは、ちょっとだけびっくりしました」 「それで、結納はいつなんですか?」 「ゆ、結納っ!?」 「し、白ちゃんっ」 「あれ……? 違いましたか?」 「ううん、違くないよしろちゃん」 「まあ詳しい日取りは、新聞部の方からお知らせがあると思うけどね」 「そこ、話を大きくしないっ」 俺は身を乗り出した。 かなでさんのことだ、マジでやりかねない。 「号外」を出させることぐらいは、楽にやってのけるだろう。 「だぁーってさ、こんなにおめでたいことなんだよ?」 「わたしたちだけのネタにするのはもったいないじゃん!」 「お、お姉ちゃん」 「だいたい、この良き日にご馳走がないのはどーゆーわけ?」 「責任者出てきなさい、責任者ーっ」 責任者って誰だ。 「じろり」 俺かよ。 「ご馳走ったって、急には用意できないですよ」 「部屋じゃ料理も作れないし」 「そりゃそうだけどさー」 「でも、ホットプレートぐらいならなんとかなるんじゃない?」 「うちのクラスでも、それでお好み焼き作ってた子いたわよ」 「おお、なるほど」 「って、そーじゃなくて」 盛大にお祝いしてもらうつもりなんて毛頭ない。 第一、そんなの恥ずかしすぎる。 「まあ、今日のところはしょーがないか」 「いやーしかし、ホントにめでたいねえ〜」 「お似合いのカップルよ」 「わたしもそう思います」 「お好み焼きより、焼き肉の方がいい」 「あのなー」 「あはははっ」 「よかったね、ひなちゃん」 「お姉ちゃん……」 かなでさんは満面のスマイルで、陽菜の腕を組む。 心の底から喜んでくれているのがわかった。 ……よかった。 昨日、かなでさんにハッパかけてもらってよかったと思う。 でなきゃ俺は、今頃うじうじと悩んでいただろう。 自分の気持ちを持て余して、意味もなく苛立っていたかも。 本当に、かなでさんには感謝しなければならない。 「さーて、ここで突撃インタビュー!」 「悠木陽菜さん、今のお気持ちを聞かせてください!」 「えっ!」 かなでさんはポテチの缶をマイクに見立て、陽菜に迫る。 「気持ちって、あの、えっ」 「プロポーズの言葉はなんだったんですかぁ〜?」 「ぷ、プロポーズってっ」 「聞きたい聞きたい!」 「わ、わたしもっ」 「俺も」 「あ……あの、でもっ……」 「う……」 「言えないっ」 「はい、時間切れですっ」 「インタビューはここまでとさせていただきますっ」 「えーーーーっ」 「ぶーぶー」 「はいはい終了!」 ブーイングの声を一斉に浴びる俺。 これからは、しばらくこんなふうに冷やかされる日々が続くのだろう。 ……。 まあ、陽菜の照れる顔を見られるなら、それもまたよし。 放課後。 俺は生徒会の任務を遂行するため、中庭に訪れていた。 その任務とは、美化委員会の活動視察だ。 「雑草を抜いたら、このゴミ袋に入れてくださいね」 「はーい」 「はーい♪」 「……会長」 「ん? なんだい?」 俺はにやにやと美化委員たちを見守る会長に、声をかけた。 「俺たち、なんでここにいるんでしょう」 「なんでって、仕事に決まってるだろ?」 「各委員会の活動を視察するのも、生徒会の立派な任務だ」 「そのわりには、美化委員会ばかり視察してるような気もしますけど」 「気のせいだ」 「はあ」 だったらしかたない。 まあ、素直についてきてしまう俺もどうかと思うが。 「悠木先輩、ゴミ拾い終わりました〜」 「はい、ご苦労様でした」 「みんなも、キリのいいところで終わらせてね」 「はーい」 「はーい♪」 「いやぁ、いいねえ。実にいい」 「神がかったユニフォームだと思わないか?」 会長が自画自賛を始めた。 確かに、否定はできないところがあるけれども。 「このユニフォームのおかげで、美化委員の数も増えましたしね」 「だろう?」 「でも、まだまだ足りないよ」 「最終的には、委員数300人を目指してるからね」 「はい?」 「あ、もちろん女子限定だよ?」 そんなに集まったら、間違いなく他の委員会が消滅する。 東儀先輩が予算繰りで頭を痛める図が、ふと目に浮かんだ。 「さてと」 「支倉君、今日はこのまま直帰していいよ」 「え? いいんですか?」 「ノープロブレム」 「でもその代わり、ちゃんと悠木妹を寮まで送り届けるんだよ?」 「でないと、よからぬ輩にガブッ! ってされるかもしれないからね」 「……」 「あはははは! 冗談だよ冗談!」 「じゃあね〜っ」 ひらひらと手を振りながら、会長は本敷地へと去っていく。 あの人の冗談は、たまに笑えないから困る。 ていうか、なんで陽菜を名指しにするんだ。 俺と陽菜のことを知っているのか? ……。 まあ、バレバレか。 美化委員の活動が終わり、数十分後。 昇降口から陽菜が出てきた。 「孝平くんっ」 「おう」 「ごめんね、遅くなっちゃって」 「大丈夫だよ」 「じゃあ帰るか」 「うん」 「……」 俺はじっと、陽菜を見つめる。 「? どうしたの?」 「いや」 「あのユニフォーム着たままでもよかったのに、と思って」 「……っ」 「も、もう、知らない」 真っ赤になった。 夕暮れに染まる並木道を、二人で歩く。 陽菜と一緒に帰るのは、これで二回目だ。 一回目は美化委員のポスター貼りを手伝った時。 あの時は、まさか陽菜と付き合うことになるなんて思わなかった。 実は今でも、ちょっと信じられない。 付き合ってるっていっても、俺たちは相変わらずだ。 毎日机を並べて、一緒にランチして、夜はたまにお茶会を開く。 以前と変わらない毎日が続いている。 だけど。 まったく何も変わらないということはなくて。 例えばこうやって、二人で歩いている時。 「……」 「……」 ふと、手が触れる。 小指と小指がぶつかる距離。 確実に、以前よりも二人は近づいてる。 ほんの少しの距離ではあるけれども。 ……。 手を繋ぎたい。 でも、うまくタイミングを図れない。 あと数センチ手を伸ばせばいいだけなのに。 陽菜を好きになって、自分が案外意気地なしだったということを知った。 「……美化委員の活動、どうだ?」 「さっき見たら、けっこう人数増えてたみたいだけど」 「あ、うん」 「あのユニフォームがすごく好評で、入会希望者が殺到したんだよ」 「それに千堂先輩もよく見に来てくれるから、みんな喜んでるみたい」 「へえ……」 さすが、美化委員フィーバーの立役者。 なんにせよ、陽菜も喜んでくれているようでよかった。 「……あのね」 「ん?」 「千堂先輩だけじゃなくて、孝平くんもだよ」 「何が?」 「特に、4年生の女子たちに人気あるの知ってた?」 「……へ?」 思わず鞄を落としそうになる。 「俺……ですか?」 「うん」 「よく聞かれるよ、孝平くんのこと」 「誕生日とか血液型とか、好きな食べ物とかいろいろ」 「聞かれて、答えるのか?」 「うん、一応ね。隠すのもヘンかなと思って」 「そうか」 「あ、ごめんね? 勝手に教えちゃって」 「いやいや、それはいいんだけど」 「俺の誕生日とか血液型とか、陽菜は知ってたんだなーと思ってさ」 「ちょっと嬉しかっただけ」 「あ……」 ちらり、と陽菜を見る。 うつむいてしまったので表情はよく見えない。 でもきっと、恥ずかしがってるんだろうなと思う。 「あ、あのね、違うの」 「別に、探偵とか雇ったわけじゃないからっ」 「そこまで言ってないけど」 「一緒にランチしてるから、孝平くんの好物はわかってるし」 「誕生日や血液型は、お茶会の時に聞いたりして」 「俺に?」 「そう」 「俺、そんなこと聞かれたっけ?」 「聞いたよ」 「ほら、前にみんなで『深海魚占い』したことあったでしょ?」 「ああ」 かなでさんが友達から借りたとかいう、占いの本だ。 「あなたはどの深海魚タイプ?」とかいうやつ。 「確か、俺はシーラカンスタイプだったな」 「陽菜は?」 「私はコンニャクイワシ」 「なんだそれ」 「わかんない」 「いいなあ。シーラカンス」 とても残念そうに陽菜は言う。 交換できるものならしてやりたいが、こればかりはどうにもならない。 「いいじゃん、イワシ」 「うまいし、高級魚だぜ?」 「コンニャクイワシも?」 「うーん」 少なくとも、魚屋で見た記憶はなかった。 「とにかく、その時に孝平くんの誕生日と血液型を知ったの」 「こっそり調べたわけじゃないからね」 「なるほどな」 「……で、陽菜はずっと、俺の誕生日と血液型を覚えていてくれたわけだ」 「う……」 「まあ、そういうことに、なるかな」 「ほう」 なんだか無性に嬉しかった。 きっと、どうでもいいヤツの誕生日なんて普通は覚えない。 陽菜にとって俺は、誕生日を覚えてもいい部類には入ってたってことだ。 「じゃあ、ついでにもう一個聞いていいか?」 「何?」 「陽菜は、えーっと」 「俺のこと、いつから好きでいてくれたんだ?」 「……!」 陽菜の足が、止まる。 俺も止まった。 「えっと……」 「そういうのって、心の中に大事にしまっておくことだと思うな」 「大事なものを見たくなるのが人情ってもんだろ?」 「う……」 「だから、その」 「……やっぱり、言わない」 「いいだろ、ちょっとぐらい」 「ちょっととかそういうことじゃないの」 「ふーん」 「じゃあ、いつか教えてくれ」 「……うん」 「いつか、言う」 「約束だぞ」 「わかった」 そう言って、陽菜は小指を差し出した。 「指切りする?」 「……」 「いや、いいよ」 俺は小指を差し出す代わりに、その小さな手を握り締めた。 「あ……」 「指切りより、こっちの方がいい」 そのまま歩き出す。 一瞬遅れて、陽菜もついて来た。 通りすがりの同級生たちがチラチラとこっちを見るけど、構うものか。 俺は、陽菜と付き合っている。 堂々とすればいいのだ。 ……。 この並木道が、ずっと続けばいいのに。 握り締める手に、力を込めた。 寮に着いてしまった。 ……手、放さなきゃ。 そう思うのだが、なんとなく放しがたい。 陽菜も手を放さないまま、寮の玄関を見上げていた。 「あ」 「ん?」 「紅瀬さんだ」 ふと上を見ると、談話室の窓際にいる紅瀬さんと目が合う。 「……」 俺と陽菜は、同時に手を放した。 見られてしまっただろうか。 見られたっていいのだが、やはり恥ずかしい。 が、紅瀬さんは大して興味もなさそうに、そっぽを向いた。 「あの……孝平くん」 「今日は一緒に帰ってくれてありがとう」 「すごく、嬉しかった」 「俺も嬉しかったよ」 「ホントは、毎日一緒に帰れるといいんだけど」 なかなかそういうわけにもいかない。 俺には生徒会があるし、陽菜には美化委員がある。 活動拠点が離れてるし、仕事が終わる時間もバラバラだ。 「ううん、そんな贅沢言わないよ」 「私は毎日、隣の席で授業受けられるだけで幸せ」 「一緒にランチできるのも幸せだし、一緒に紅茶飲むだけでも幸せ」 「これ以上の幸せを望んだら、神様に怒られちゃう」 なんとまあ謙虚な。 そりゃ俺だって、十分幸せだけど。 「もっと大きな幸せ望んでも、神様は怒らないと思うぞ?」 「例えば、宝くじの2等を当ててくれとか」 「ふふっ」 「確かに、お金はないと困るよね」 「あるに越したことはない」 「……でも、私はそんなにたくさんはいらないかな」 「働いた分のお金があって、毎日暮らしていければそれでいい」 「欲がないヤツだなあ」 「そうかな?」 「私は、こうして毎日元気にしていられるだけで十分」 「……」 「ひなちゃん、子供の頃からあんまり身体が強くなくてね」 「病気のせいで、しばらく普通の日常生活を送れなかったの」 ……そうだ。 生まれた時から健康体だった俺には、きっとわからない。 普通に生きるということが、どれだけすごいことかなんて。 「欲がないヤツ」なんて言っちゃって、少し後悔。 「……私、こんなに幸せでいいのかな?」 「こんなに毎日楽しくていいのかな、って思う時があるの」 「楽しくて悪いことなんて、ないだろ」 「そりゃさすがに謙虚過ぎだ」 そう言うと、陽菜は曖昧に笑ってみせた。 幸せになることに、抵抗があるのか。 幸せになっちゃいけない理由なんてないだろうに。 ちゃーちゃーちゃちゃちゃー♪ 陽菜の携帯だ。 「あ、お姉ちゃんだ。ちょっとごめんね」 「うん」 「もしもし?」 「……うん、今帰ってきたところ」 「わかった。大浴場に集合ね」 「孝平くん? いるよ?」 「うん、ちょっと待ってね」 「孝平くん、お姉ちゃんが代わってだって」 「俺?」 携帯を受け取る。 「もしもし」 「あー、もしもし?」 「こちら、かなで隊長だ」 「はい」 「もしや今、大浴場と聞いて、よからぬ想像をしたのではあるまいな?」 「隊長、了解ですっ」 「ではまた」 「あっ、ちょっと!」 ぴっ 「え? もういいの?」 「ああ」 陽菜に携帯を返す。 「お姉ちゃん、なんだったの?」 「新作ギャグを披露したかったんじゃないか」 「?」 「中に入るか、そろそろ」 「あ、うん」 俺は玄関へと歩き出した。 一緒に帰ってきたなんて言ったら、また冷やかされそうだ。 やっぱり内緒にしておこう。 その日の放課後、俺はパソコンの前で悩んでいた。 かなで寮長歓送パーティー計画。 あれから陽菜と二人で企画を練っているのだが、なかなかまとまらない。 やりたいことがたくさんありすぎるのだ。 そろそろ絞り込まないとまずい時期なのだが。 眉間に皺を寄せていると、白ちゃんがやってきた。 「どうしたんですか?」 「うーん、ちょっと行き詰まってて」 「そういう時は、甘いものを食べるといいですよ」 「左門堂の抹茶ケーキです。よろしければ召し上がってください」 「お、ありがとう」 番茶と一緒に、緑色の愛らしいケーキが出てきた。 お茶会メンバーの中でも評判の高い、左門堂のケーキ。 「そういえばさ、左門堂ってケーキの注文受け付けてるかな」 「ホールタイプの、大きいやつ」 「はい、受け付けてますよ」 白ちゃんは、よくぞ聞いてくれましたというような口調で答える。 「三日前に予約すれば、好みのホールケーキを作ってくれます」 「へえ。詳しいな」 「その、実は……」 「わたし、いつか一人でワンホール食べるのが夢なんです」 「なるほど」 すでにリサーチ済みだったというわけか。 「ケーキを頼むご予定があるんですか?」 「うん」 「ほら、寮長の任期が9月いっぱいで終わるだろ?」 「はい」 「パーティーでも開いて、かなでさんを労おうかな、と」 「あ、そこでケーキを出すんですね?」 「喜んでくれるかな」 「もちろんですっ」 「わたしだったら、嬉しすぎて抱きついちゃいますっ」 「……俺に?」 「はいっ」 「……」 東儀先輩の視線が痛い。 「へえ〜、ケーキかぁ」 「いいなぁ、俺も食べたいなぁ〜」 いつの間にか、背後に会長が立っていた。 頼むから気配を消して近づかないでほしい。 「いや〜しかし、悠木姉は幸せ者だね」 「かわいい後輩たちに送り出してもらえるなんてさっ」 「兄さん、羨ましがらないの」 「いや、別に?」 ……あ。 9月で任期が終わるのは、かなでさんだけではないのだ。 会長と東儀先輩も、同じように生徒会役員を退任する。 決して忘れてたわけではないのだが、改めて気づかされた思いだ。 このままずっと、同じメンバーで生徒会が続いていきそうな気がしていた。 そんなわけないのに。 「どうせ兄さんと征一郎さんは、女子たちに盛大な歓送会してもらうでしょ?」 「それはそれ、これはこれだよ」 「なあ、せーちゃん?」 「その呼び方はやめろ」 「支倉」 「はい?」 「そのパーティーは、いつ開催するつもりだ?」 「一応、9月末を予定してますけど」 「そうか」 「悠木姉には、なんだかんだで世話になってるからねえ」 「なんだっけあれ、オークション?」 「ああ」 「なかなか合理的な手段だったよね」 「まあ……功罪両面あるがな」 「彼女には、いろいろと世話になったことは確かだ」 「うんうん」 「彼女は歴史に残る名寮長だったよ」 「ここは盛大に送り出してやらないと」 「やれやれ」 「……」 あれ? なんか、勝手に話が進んでるような気が。 「会長」 「ん?」 「まさか、飛び入り参加するつもりじゃないですよね」 「おいおい、飛び入り参加だって?」 「俺がそんなチンケな真似するわけないじゃないか」 「はは、ですよね」 「もっと派手に、堂々とやる!」 「……」 クラクラした。 俺としたことが、不覚だった。 パーティーと聞いたら、この人が黙っているはずがないじゃないか。 「う〜ん、場所はどこがいいかな」 「2000人ぐらいは集まるだろうから……」 「ちょっと待ってください」 「それ、全校生徒数よりも多いじゃないですか!」 「何か問題でも?」 「問題ありまくりですよ……」 いったい、この人は何をするつもりなんだ。 夏のロックフェスでも開催するつもりか? 「なあ、副会長」 「何?」 「俺、もっとこじんまりとしたパーティーを想像してたんだけど」 「諦めなさい」 一蹴された。 どうしよう。 ものすごく不安になってきた。 「はは、大丈夫だよ。そんなに心配しなくても」 「俺たちはあくまでも裏方の脇役だからさ」 「脇役……」 「そう」 「発起人である君たちの意思を、ねじまげるようなことはしないさ」 「当たり前だ」 「だいたい、2000人も呼んだら赤字どころの話では済まない」 「ええ〜っ、そうなの〜?」 「あ た り ま え だ」 俺は、ほっと胸を撫で下ろした。 東儀先輩がそう言ってくれるなら安心だろう。 俺じゃどうやっても、会長の暴走を止めることなんかできない。 「……え? タワー型?」 「はい。こう、三段重ねになってる、ウェディングケーキみたいな」 「あぁ、いいんじゃない?」 「では、さっそく左門堂さんに問い合わせを……」 ……。 今のは、聞かなかったことにしよう。 「に、にせんにん!?」 「いや、それはさすがに却下されたから」 その夜。 陽菜と電話で話していた。 今では寝る前の習慣となりつつある。 「はぁ、びっくりした」 「2000人っていったら、芸能人の結婚式よりすごいよね」 「ああ。テレビ中継されてもおかしくない」 「千堂先輩なら、それぐらいはしちゃいそうだけど」 「だから弱ってるんだよ」 俺は、ごろりとベッドに寝転がった。 かなでさんの歓送会は、予想外の展開を迎えそうだ。 力を貸してくれるのはありがたいが、まったく先が読めない。 「でも、9月は文化祭もあるでしょ?」 「生徒会の人は、そっちで忙しいんじゃないかな」 「まあな」 生徒会は、今の時期から文化祭関連の仕事でじわじわと忙しい。 みんながみんな、他のイベントに携わったら大変なことになる。 「まあ、基本は俺たちの企画で進めるみたいだからさ」 「そんなにとんでもないことにはならないと思う」 「……たぶん」 「ふふふ。大丈夫だよ」 「きっと千堂先輩なら、お姉ちゃんの喜ぶこと考えてくれるはず」 「……陽菜は、会長のこと信頼してるんだな」 今、胸の奥が少しだけチクッと反応した。 ああ、俺は本当に小さい男だ。 会長に嫉妬したってしょーがないだろ。 「うん、信頼してる」 「千堂先輩のおかげで、美化委員の入会者も増えたしね」 ずばりと言われた。 どこからともなく、会長の勝ち誇った笑い声が聞こえてくるようだった。 俺の中で、ちっぽけな対抗意識が沸いてくる。 「会長、すごい人だよな」 「そうだね」 「それに、格好いい」 「うん」 ……くっ。 「女の子たちにすごい人気だし」 「しかも、男からも人気あるんだよ。あの人」 「そうなんだ。さすがだね」 「カリスマって感じだよなー」 「うんうん」 「孝平くん、千堂先輩のことすごく尊敬してるんだね」 「えっ」 いや、そーじゃなくて。 そりゃ、尊敬の念はあるけれども。 「でもね、私は」 「え?」 「あ……えっと」 「その……」 「孝平くんだって、すごいと思うし」 「格好いい、と思うよ」 「前にも言ったけど、4年生の子たちも気になってるみたいだし」 「って、何言ってるのかな。私」 「……」 「い、今のナシ。気にしないで」 陽菜は早口で言う。 ああ……そっか。 些細なことで動揺したり不安になったりするのは、俺だけじゃなくて。 きっと陽菜もそうなんだ。 「……はは」 「?」 どうしてだろう。 お互いの気持ちは十分にわかっているのに。 どうして不安になったりするのか。 人を好きになるのって、ホントに謎だらけだ。 「……陽菜に、会いたいよ」 「えっ!」 「さ、さっき会ったばっかだよ?」 「あれだけじゃ足りない」 「ずっと一緒にいたい」 「孝平……くん」 電話越しだと、いつもより素直に言いたいことが言える。 本人を目の前にしたら、とてもじゃないけど恥ずかしくて言えない。 「ずっと一緒には……いられないよ」 「シスター天池に怒られちゃう」 「うん」 とても現実的な発言だった。 「でも」 「ちょっとだけなら……」 「?」 「待っててくれる?」 「へ?」 ブツッ 「おい、陽菜っ?」 ツーツーツー ……切れた。 俺は携帯を握り締めたまま、途方に暮れる。 今、「待っててくれる?」と言ってた。 来るのか? この部屋に? 即座に立ち上がり、周囲を見回す。 大丈夫、とりあえず見られてまずいものは置いてない。 本当にやばいものは、厳重にしまってある。 あとは……。 あ、そうだ、洗濯物! 俺は畳まずに放置してあった洗濯物をかき集めた。 そのままぐるぐると丸め、クローゼットの中に押し込む。 と、その時。 ガタガタッ 「わっ!」 ベランダの方から不穏な物音が聞こえてきた。 俺はカーテンを開け、窓の向こうを見る。 「ひゃああああっ」 「陽菜!?」 がらがらがっしゃーん! 空から陽菜が降ってきた。 俺のベランダ目がけて。 大あわてで、ベランダの窓を開ける。 「陽菜っ、大丈夫か?」 「う……いたたた」 涙目になった陽菜が尻餅をついていた。 どうやらはしごから落ちたらしい。 「ひなちゃんっ、だいじょう……」 「あ」 「!」 上から覗いていたかなでさんは、俺と目が合うと即座に引っ込んだ。 上の部屋の窓が、ガラガラとしまる音がする。 ……気を遣わせてしまったか。 「ごめんね、こんな遅くに」 「いや、それはいいんだけど怪我はなかったか?」 「うん、大丈夫」 「暗くてよく見えなくて、足滑らせちゃった」 陽菜は照れくさそうに笑う。 「な、なんでこっちから来たんだ?」 「すげーびっくりしたぞ」 「ごめんね、ホントに」 「こっちの方が早いなって思っちゃって……」 ……それって。 俺に、早く会いたかったと考えていいものだろうか。 考えてしまうぞ。 やばい、顔のニヤけが止まらない。 「とりあえず、部屋入るか?」 「えっ」 「あ、ううん! 顔、見に来ただけだから」 「じゃ、帰るね」 「もうかよ!」 いくらなんでも早すぎる。 せっかく来てくれて、嬉しかったのに。 「陽菜」 「え……」 ──帰るな。 帰らないでくれ。 このまま腕を掴み、無理に部屋へと引っ張り込んだらどうなるだろう。 陽菜に嫌われてしまうだろうか。 それとも、上の部屋にいるかなでさんが黙ってないだろうか。 それでも── 「……次からは、普通に玄関から来るんだぞ」 「危ないからな」 「うん」 「お騒がせしました」 「いえいえ」 って、挨拶してどうする。 強気に出られない自分が情けない。 「……」 「じゃあ、おやすみ」 陽菜ははしごに手をかけた。 その手を握り、こちらに引き寄せる。 「……っ」 おでこに、キス。 ……。 今は、これが精いっぱい。 「おやすみ」 「お、おやすみ……なさい」 「もう落ちるなよ」 「うん……」 真っ赤になった陽菜は、慎重にはしごを上っていく。 ……はぁ。 やっぱり、おでこにキスなんてしなきゃよかった。 次に会った時、きっとそれ以上のことをしたくなる。 どんどん自分を、止められなくなってしまう。 馬鹿だな、俺は。 「……という酸化剤に対し、他の物質を還元することができるのが還元剤」 「ここでいう半反応式というのは……」 五時間目は化学の授業だった。 黒板を走るチョークの音。 湿気っぽい空気が窓の隙間から入ってくる。 降りそうで降らない、微妙な天気だ。 ……。 授業中の陽菜は、とても真面目だ。 司のように居眠りもしないし、紅瀬さんのようにサボることもない。 俺のように、気が散ってることもなさそうだ。 ただ熱心にノートを取っている。 どうやら予習と復習も怠らないらしい。 俺なんて、宿題ですらいっぱいいっぱいなのに。 「?」 俺の視線を感じたのか、陽菜がこちらをちらりと見る。 目が合った。 うわ、恥ずかしい。 ずっと見てたのがバレてしまっただろうか。 「……」 陽菜はノートを俺の方に寄せ、なにやら余白に書き始めた。 「今日は、委員会がないんだ。孝平くんのお仕事が終わるの、待ってていい?」 「……」 俺もシャーペンで、返事を書く。 「いいけど、何時に終わるかわからないぞ?」 すぐに陽菜も書き込む。 「いいよ。教室で待ってるから、一緒に帰ろうね。」 俺は力強くうなずいた。 待ち合わせて、一緒に帰る。 それだけのことなのにドキドキした。 「……予算報告は以上」 「夏休みに入る前に、各自備品関係をもう一度チェックしてほしい」 「文化祭まで、あまり時間がないからな」 「了解」 放課後。 監督生室には、俺と千堂兄妹と東儀先輩がいた。 今日の仕事はようやく一段落。 文化祭まであと二ヶ月ほどしかないので、日に日に忙しくなってくる。 「ふぅ、今日もたくさん働いちゃったな」 「この分だと、夏休み中も激務になりそうね」 「おいおい、不吉なこと言うなよ」 「今年の夏は南国バカンスの予定が入ってるんだからさ」 吸血鬼が南国バカンス。 それもなんかすごい。 「何言ってるの? そんな暇ないわよ」 「兄さんには、これからみっちり働いてもらわなきゃいけないんだから」 「今でも十分働いてるじゃないか」 「理事会への報告書はもうできたの?」 「できてるよ」 「どこにあるのよ」 「はいこれ」 会長は、机の上にあったプリントを副会長に渡した。 「……ホントにできてるじゃない」 「そりゃそうさ」 「俺が本気を出したら、文化祭の仕事なんて3日で片付くね」 「あらそう?」 「じゃ、その調子で来賓リスト作成もよろしくね」 「それとパンフレットの入稿も頼んだわよ」 「ああ、ついでに後夜祭のスケジュール調整も頼む」 「やれやれ……」 墓穴を掘ったとばかりに、肩をすくめる会長。 手を貸したいところだが、なにぶん会長の仕事はハードルが高すぎる。 俺は今日の分の入力作業を終え、パソコンの電源を落とした。 「じゃあ俺、お先に失礼します」 「ああ、お疲れ」 「お疲れ様」 「じゃあ俺もそろそろ……」 「仕事が終わってない人はまだ!」 副会長に首根っこをつかまれる会長。 気の毒ではあるが、今日ばかりは情けをかけられない。 俺は慌しく監督室から脱出した。 ガラッ 「ごめんっ、遅くなって」 「あ、孝平くん」 夕焼けに染まる教室で、陽菜が待っていた。 俺を見ると、やわらかい笑顔を浮かべる。 「待ちくたびれただろ」 「ううん。そんなことないよ」 「お姉ちゃんの歓送会のプランとか、考えてたから」 「そっか」 「うん」 「じゃあ、帰ろっか」 陽菜は鞄を持ち、立ち上がった。 「孝平くんと一緒に帰るの、久しぶりだね」 「そうだな」 「生徒会のお仕事は大丈夫だったの?」 「ああ。ダッシュで片づけてきた」 教室棟から寮までの道のりは、わずか数分。 たったその時間のために、陽菜は俺を待っていてくれた。 もしうちの学校が、全寮制じゃなかったら。 帰り道にどこか寄り道できたのにな、と思う。 カフェでお茶したり、ゲーセンで遊んだり。 そういうデートっぽいことを気軽にできたはずだ。 しかし、当然のようにうちは違う。 寮までの道のりに、おしゃれなカフェなどない。 シンプルな並木道が延々と続くだけだ。 ここでデート感を盛り上げるのは至難の業だろう。 ……。 俺、だんだん欲張りになってる。 もっと長く、陽菜と一緒にいたい。 二人きりで、もっと── 「……陽菜」 「ん?」 「たまには、こっちの道から帰ってみないか?」 俺は並木道ではなく、霜星池の公園方面を指さした。 夕暮れの公園は、静かだった。 いつもはカップルがちらほらいるらしいのだが、今日は無人だ。 静かすぎて、逆に心細くなってくる。 「……孝平くん、よくここに来るの?」 「いや、ぜんぜん」 「ふうん……」 学校の中で唯一デートコースっぽい場所といえば、ここだ。 ひとけも少ないし、水辺という絶好のロケーション。 告白場所によく選ばれるというのも、納得がいく。 今までの俺には、ほとんど縁がなかったスポットだ。 ばさばさばさばさばさばさっ! 「きゃああああああっ」 「わあああああっ」 突然、大きな鳥が俺たちのそばを滑空した。 見たこともないような、でかい鳥だった。 「な、何っ?」 「鷹か? いや鷲か!?」 謎の生物に恐れおののく二人。 山の住人が、たまたま下りてきたのだろうか。 ……。 なんかあんまりロマンチックな雰囲気じゃない。 陽菜も、今の鳥のせいでかなり周囲を警戒している。 あと、蚊が多い。 眺めはいい場所なのだが、時間帯がよくなかったのかもしれない。 「……ごめん」 俺は素直に謝った。 「せっかく陽菜といるのに、すぐ帰るのももったいない気がしてさ」 「でも、ちょっとリサーチ不足だった」 どこでもいいから二人になりたかった。 そんな余裕のなさが、つくづく情けない。 「……謝らないでいいよ」 「私も、同じこと思ってた」 「え?」 「私も……もう少し一緒にいたいなって、思って」 「でも、寮までの道って、すぐ終わっちゃうでしょ?」 「だから、謝らないでほしいな」 「……そっか」 陽菜は、池を見つめている。 風が通り、水面をさざめかせる。 心地よい木々の音。 緑と土の匂い。 現金なもので、だんだんこの公園がすばらしい場所に思えてくる。 いや、陽菜と一緒にいられるなら、どこだってすばらしい場所だ。 だんだんテンションが上がってきた。 「今度さ、デートしないか?」 そう言うと、陽菜はものすごく驚いたような顔で俺を見た。 「デート?」 「そう」 「街の方に出て、買い物したりメシ食ったり」 「あと海辺で遊んだり……」 「あ、もちろん陽菜の希望に合わせるけど」 「ううん、それでいい」 「街に出て、買い物したりご飯食べたり海辺で遊んだりしたい」 「そんなもんでいいのか? 他には?」 「他には……」 「できれば、アロマショップで買い物したい」 「うん」 「後は……」 「……」 「あはは、言い出したらキリがないよ」 「いいよ。陽菜がしたいこと、全部やろう」 「全部やったらとても一日じゃ終わらないもの」 「その気持ちだけで嬉しい。ありがとう」 「……」 遠慮なんかしなくていいのに。 俺は陽菜の喜ぶことなら、なんでもやってやりたいのだ。 例え、現実的じゃなくても。 「だったら、二日あればできるのか?」 「?」 「一日じゃなくて、一泊なら……」 「……」 ……。 沈黙。 陽菜が困ってるのがわかる。 でも俺は、自分の発言に後悔などしていない。 決して開き直ってるわけじゃなく。 ……もっと、陽菜と一緒にいたい。 好きになったら、自然と湧いてくる気持ちだと思う。 「あの……」 「私、その……なんて言っていいのか……」 「いや、いい。言わなくて」 「ごめん。今の聞かなかったことにしてくれ」 やっぱり、自分の発言に後悔してる俺。 なんで俺は、こんなに焦っているのだろう。 陽菜を困らせて、追いつめるつもりなんてないのに。 「あれだ、ほら」 「よく考えたら、二人で一緒に外泊申請なんてできないよな」 「そんなの絶対、アオノリに怪しまれそうだし」 「……うん」 「ていうか、さっきの冗談だから」 「孝平くん……」 「普通に、日帰りってことで」 焦れば焦るほど口数が多くなっていく。 さっきまでいい雰囲気だったのに、それをぶち壊してしまった。 「とりあえず、日にち決めよっか?」 「しばらく生徒会の仕事で忙しいけど、夏休みに入れば……」 「……!」 頬に、温度を感じた。 それが陽菜の唇の温度だと気づくまでに、かなりの時間を要した。 すべての風景が停止して見える。 ほんの一瞬のことだったのに、一時間ぐらい経ったような感覚。 「ご、ごめん……ね」 「いきなりヘンなことして……」 「……ごめんなさいっ!」 あたふたしながら、ものすごい勢いで謝ってきた。 「私、何してるのかなもう」 「あのね、違うの、ホントに」 「ホントに、私……」 こんなに真っ赤になった陽菜は、初めて見た。 そんな陽菜が、かわいくてしかたない。 俺は喜びを噛み締めながら、頬を手で押さえる。 「私、あの、うまく言えないけど」 「孝平くんと、一緒にいたいって思うのは本当で……」 「その気持ちだけは、わかってほしくて」 「うん」 「嬉しかった」 「え……」 「すげー嬉しかった」 こみあげる喜びを抑えきれない。 俺は陽菜の頬に、そっと手を伸ばす。 一歩、近づく。 ……。 こうやって、距離を縮めるのは簡単なこと。 ただ一歩踏み出すだけでいいのだ。 なのに、いつもうまくできない。 俺も、陽菜も。 でも、そんなもどかしさも含めて、愛しいと思う。 「……お返し、してもいいか?」 「お返し……?」 「今の、キスのお返し」 「……っ」 返事を聞く前に、唇をふさぐ。 やわらかくて温かい唇。 頬を撫で、腰を抱き寄せる。 「ん……」 ドキドキが最高潮に達し、頭の中が真っ白になった。 俺、陽菜とキスしてる。 とんでもないことをしてしまった。 自分からしておきながら、そんなことを思う。 ……。 陽菜の身体はとても細くて、折れそうなほどだ。 ほのかに漂うピーチの香り。 やわらかい髪。 だんだん気持ちが落ち着いてきた。 ドキドキは相変わらずだけど、一番深い部分は穏やかだ。 陽菜がこんなに近くにいる。 誰よりも一番そばにいる。 空気すら介入できないほど近くに。 「……」 小さく何度かキスして、ぎゅっと抱きしめた。 しんと静まりかえった水面に、三日月が映る。 山の方からゆっくりと夜のとばりが降りてくる。 すべてがきらきらと光って見えた。 この世界に、俺と陽菜の二人だけしかいないような。 そんな夢みたいに、美しい時間だった。 終業式を迎え、明日からはいよいよ夏休み。 学生の中には、早くも帰省準備に取りかかっている者もいた。 もちろん俺は居残り組だ。 夏休みとはいえ、生徒会の仕事もたくさんある。 それこそ、南国バカンスなど企てる暇もないほどに。 「なっつやっすみ〜、なっつやっすみ〜♪」 「ヘイ! へーじ!」 「キミの夏休みの予定を聞こうじゃないかっ」 「バイトです」 「それだけ?」 「はあ」 「デートは?」 「ないっす」 「うーわーっ」 「ねえ、5年生の夏休みは一度しか来ないんだよ?」 「なのになんなの? その干物っぷりは!」 かなでさんは、ばんばんとテーブルを叩く。 夏休みということで、かなりテンションが上がっているらしい。 「かなでさんはどうなんですか?」 「何が?」 「デートの予定」 「ないよ」 あっさり言われた。 「ダメじゃないですか。6年生の夏休みは一度しかないのに」 「うわっ、余裕の発言っ」 「これだから彼女持ちは!」 「か、関係ないじゃないですかっ」 「お姉ちゃんってばっ」 真っ赤になる俺たちを見て、かなでさんは満足そうに笑う。 こうやって冷やかされるのも、今ではだいぶ慣れた。 「で、どーなのキミらは?」 「夏休み中は、やっぱデート三昧なのかな?」 「そ、そんなわけにもいかないの」 「孝平くんは、生徒会の仕事で忙しいんだから」 「あ、そうなんだ」 「まあ、本当に忙しいのは夏休み後半ですけどね」 「ふーん」 「じゃあ、7月中はひなちゃんといっぱい遊んであげられるね!」 「はい、できる限りは」 なんとかうまく調整して、陽菜と過ごす時間を作りたい。 かなでさんの言う通り、5年生の夏休みは一度しか訪れないのだ。 「あれ? そーいえば、えりりんとしろちゃんは?」 「なんかシスター天池の手伝いがあるとかで」 「ほおー……」 「じゃ、わたしもそろそろ失礼しよっかな」 「え? 来たばっかじゃないですか} 「うん、ちょっと用事思い出しちゃって」 「ね? へーじ?」 「は?」 「は? じゃないのっ。いーから来るっ」 かなでさんは司の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。 「それではお二人さん、ごゆっくり〜」 「えっ?」 「あ、ちょっと、かなでさん!」 ばたんっ ……行ってしまった。 あまりにも露骨すぎる退場に、思わず苦笑する。 「……ごめんね」 「いやいや」 「八幡平くんに、悪いことしちゃったかな」 「大丈夫だろ」 「きっと今頃、かなでさんがジュースでもおごってるよ」 なんとなくそんな気がした。 あの人も、陽菜に負けず劣らず気遣い屋だから。 「そ、そうだよね」 ……。 「あの」 「あのさ」 同じタイミングだった。 「え、何?」 「陽菜は?」 「私は……えっと、明後日のことで」 「俺もだ」 「俺も、明後日のこと話したくて」 「あはは、そうだったんだ」 二人で笑った。 明後日。 以前約束した、デートの日だ。 「時間はどうする? なるべく午前中の方がいいよな」 「うん、そうだね」 「6時くらい?」 「早っ!」 「あれっ? 早かった!?」 「私、デートとかしたことないから、よくわからなくて」 恥ずかしそうに言う。 「いや、いいよ6時でも」 「5時でも4時でも3時でも」 「あは、それはさすがに起きられないかも……」 「じゃあ、10時ぐらい、とか?」 「そうだな、そうしよう」 「10時に談話室で待ち合わせ」 「うん」 陽菜はにっこりとうなずいた。 不思議と、以前よりも距離が近づいてるのがわかる。 隣を歩くだけでいっぱいいっぱいだったあの頃よりも。 もっと陽菜の存在を身近に感じている。 とても安らいだ気持ちだ。 俺も以前よりは、余裕のある男になっているだろうか? ……。 答は、否。 こうして二人になってしまうと、すぐに陽菜を抱きしめたくなる。 そんな無垢な瞳で、じっと見つめられたら── 「孝平く……」 我慢できなくなって、抱きしめる。 陽菜は驚いたように身を固くした。 「陽菜……」 頬に口づけ、耳たぶを撫でる。 あの日、陽菜とキスしてから。 どんどん抑えがきかなくなっているようだ。 余裕が出るどころの話じゃない。 「ま……待って……」 キスしようとすると、陽菜はうつむいた。 身体はこわばったままだ。 俺はとっさに、陽菜から手を放した。 「悪い」 「ちょっと、急だったよな」 「う、ううん」 「そうじゃないの」 ふるふると首を振る。 「そうじゃなくて……」 「?」 陽菜は黙り込んでしまった。 陽菜とは、以前よりもずっと距離が縮まったように思うのだが。 まだどこか、距離というか壁を感じることがある。 俺を警戒してるのだろうか。 そりゃまあ、警戒されてもおかしくない行いに出たことは否めない。 でも俺は、陽菜の嫌がることを無理強いするつもりはないのだ。 ……と説明しようとすると、 「……ごめんね」 なぜか謝られてしまう。 「逆だよ、逆」 「謝るのは俺の方だって」 そう言うと、陽菜は小さな笑みを浮かべた。 どこかさびしげに見える笑顔だった。 「……くん。支倉くん」 「こら! 支倉くん!」 「えっ?」 顔を上げると、仁王立ちした副会長が目に入った。 「どうした?」 「それはこっちの台詞」 「備品のチェックリスト、もうできてるわけ?」 「……ああ」 俺はさっきプリントアウトしておいた書類を、副会長に渡す。 「何よ、できてるじゃない」 「さっきできた」 「もう、だったら早くそう言いなさいよね」 「すみません」 ぺこりと頭を下げる。 「どうしたのよ、ぼんやりしちゃって」 「え? 別に?」 「別に、って感じじゃなかったけど」 「寝ぼけてただけ」 言ってから、にっこりと笑ってみせる。 そう、何も問題はない。 俺はいつも通りだ。 「……だったらいいけど」 副会長は自分の席に戻っていく。 夏休みに入ったばかりなのに、生徒会メンバーは監督生室に全員集合。 文化祭の準備で今日も忙しい。 「……いや、ここは盛り上げるところだからさ」 「あれ作ろうよ、生い立ちビデオ」 「生い立ちビデオ?」 「そうそう。再現VTRにナレーションつけてさ」 「まるで結婚式だな」 「結婚式も歓送会も似たようなものだよ。そこにはドラマがあるんだ」 「あ! DVD化して一枚3000円で売るってのは?」 「商売っ気を出すな」 「なんで? そしたら生徒会の予算が潤うだろ?」 「せーちゃんだって左うちわじゃないか」 「だからその呼び方はやめろ」 「……」 なんだか不穏な企みが耳に入ってきた。 文化祭の準備をしてたんじゃなかったのか。 「ねえ、白」 「はい」 「例のケーキの件だけど」 「あ、はい。ばっちりです」 「高さ3メートルまでなら、追加料金なしでいけるそうですよ」 「そう。よかったわ」 「……あ、シャンパンタワーとかあった方がいいのかしら」 「もちろんノンアルコールだけど」 「それも用意できるかどうか聞いてみます」 「よろしくね」 「……」 こっちもだ。 俺は立ち上がった。 「あの、会長」 「ん?」 「今の話って、かなでさんの歓送会の件ですか?」 「!」 「!」 「!」 「!」 一瞬にして場が静まる。 「……うん、まあ」 「あたらずといえども遠からず、ってとこかな」 なんだそりゃ。 つか、バレバレだから。 「そんなに心配しなくても大丈夫だって」 「もうちょっとプランが固まったら報告するからさ」 「当然です」 「でもかなでさんには秘密にしてるんで、派手な動きは避けてくださいよ」 「もっちろん!」 ウインクしながら親指を立てる。 ものすごく心配だ。 ……。 ていうかこの人たち、文化祭より楽しみにしてないか? 翌日は、あいにくの雨だった。 せっかくの初デートだというのに。 天気予報では、午後から晴れると言っていたのだが。 「孝平くん、お待たせ」 談話室から外の様子を窺っていると、陽菜がやって来た。 「ごめんね、遅くなっちゃって」 「いいよ、ぜんぜん」 「でも……雨、残念だな」 「?」 陽菜は俺の顔を覗き込む。 「どうして残念なの?」 「どうしてって、いろいろわずらわしいっていうか」 「いちいち傘さして歩かなきゃなんないし」 「でも、台風ってわけじゃないし、外に出られないほどでもないでしょ?」 「まあな」 「だったら、私は平気だよ」 「孝平くんとのデートがなくなるわけじゃないもの」 そんなこと笑顔で言われたら、もうどうしていいかわからない。 俺は奥歯を噛み締め、顔がニヤけるのを阻止した。 「でも、靴濡れちゃうぞ?」 「いいよ。靴ぐらい」 「それに……」 「傘さしたら、手も繋げない」 「……ぁ」 「……大丈夫だよ」 そう言って陽菜は、外に出て傘をさした。 「一緒に、入ろう?」 「……」 俺は持っていた傘を、近くの傘立てに戻した。 身をかがめ、その小さな傘の中に入っていく。 「あれ……。傘、ちょっと小さいかな?」 確かに、二人で入るにはいささか窮屈だ。 ぴったりと身を寄せ合っていないと、濡れてしまう。 「小さい方がいいよ」 俺は陽菜の手から傘を取った。 「腕、つかまってくれてもいいけど」 「え……」 これみよがしに腕を差し出す。 すると陽菜は、おずおずと腕に手を絡めてきた。 「じゃあ……お借りします」 「どうぞどうぞ」 「それ、陽菜専用ですから」 「そ、そうなの?」 「ああ」 俺はうなずいた。 腕に陽菜のぬくもりを感じる。 俺が相合い傘をするのは、陽菜だけ。 ……できれば、陽菜も。 俺だけであってほしい。 隣を歩く男は、俺だけであってほしいと思う。 「……っ」 「? どうしたの?」 「いや、なんでも」 陽菜の胸が、腕に触れた。 ふいに訪れたやわらかな感触に、息が止まる。 俺、ピンチ。 いろんな意味で。 「まず最初は、どこに行こっか?」 「……」 「孝平くん?」 「あ、うん」 「天気がよければ海でもいいけどな」 「着くまでに晴れるといいね」 「……そうだな」 晴れた方がいいような、よくないような。 複雑な思いを胸に、俺たちは雨の中を歩いていった。 街に着く頃には、だいぶ雨も小降りになってきた。 雲の隙間から晴れ間が見え始めてる。 この分だと、小一時間もすれば雨は上がるだろう。 「あのね、ここなの」 「うん」 最初の目的地は、海岸通り沿いにある陽菜の行きつけショップ。 副会長もご愛用の、アロマショップだ。 「いらっしゃいませ〜」 店内に入ると、女性スタッフたちに笑顔で迎えられる。 お客さんも女の人ばかりだ。 この空間の中で、男は俺一人。 なんだか緊張する。 「こんにちは〜」 「あ、こんにちは」 しばらくして、店員の一人が話しかけてきた。 陽菜とは顔なじみらしい。 「あら〜? 今日は彼氏と一緒ですか〜?」 「っ!」 「!」 彼氏。 それは俺のことかっ。 「えっと……はい」 「まあっ、そうなんですか〜」 「男性向けのアロマグッズもいろいろあるので、見ていってくださいね〜」 「は、はい」 慣れないシチュエーションに、汗が出てきた。 でも、俺たちって一応カップルに見えるのか。 二人の仲を認めてもらったようで、ちょっと嬉しくなる。 「あはは……」 「あのね、男の人にはミント系が人気あるんだって」 「へえ、そうなんだ」 「男性にも人気!」とのポップがあるコーナーに移動した。 天然素材と銘打たれたスキンケアグッズがたくさん並んでいる。 「あ、シェービングジェル切らしてたんだ」 俺はチューブタイプのそれを手に取った。 「シェービングジェルって、髭剃る時に使うんだよね?」 「もちろん」 「ふうん……」 「なんで?」 「あ、ううん」 「孝平くんって、やっぱり男の人なんだなーって思って」 「え」 陽菜は物珍しそうな顔で、俺を見る。 それじゃ、今まではどう見られていたのだろう。 「……俺はもう、子供じゃないぞ?」 「うん、わかってる」 「ちょっとね、ドキっとしただけ」 そう言って、陽菜ははにかんだ。 なんでドキッとするんだ? よくわからない。 「それ、買うの?」 「あー、うん。そうしよっかな」 「じゃあ私も、このハンドクリーム買うね」 陽菜は、俺のと同じシリーズのハンドクリームを手に取った。 「ハンドクリームならいっぱい持ってるじゃん」 「うん。でもいいの」 「?」 「これは持っていたいの」 「初めての、おそろいだから」 とても小さな声で、つぶやいた。 店を出ると、雨はすっかり上がっていた。 雲間から青空が覗き、まぶしい光が射している。 12時前か。 「そろそろ腹減らないか?」 「うん、空いたかも」 「何食べたい? なんでもいいぞ」 「え? 私が決めていいの?」 「おう」 この日のために、事前にランチ情報はチェックしておいた。 「質より量」と言われた場合には、ランチバイキング。 「ダイエット中」と言われた場合には、有機野菜のサンドイッチ専門店。 「なんでもいい」と言われた場合には、無難にイタリアン。 シミュレートはばっちりだ。 「じゃあ、味噌ラーメン」 「えっ」 そう来たか。 「あっ、ワンパターンだった?」 「そんなことはないけど」 「いいのか? こう、おしゃれな店とかじゃなくて」 「おしゃれな店?」 「そうそう」 「なんていうかこう、雑誌のデートコース特集に出てくるような」 「もしくは25歳OLが、休日にプチ贅沢とか言いながら利用するような」 「そんなお店があるの?」 「いや、わからんけど」 かなり適当な説明だった。 まあいい。 彼女のリクエストに応えてやるのが、彼氏の役目だ。 「じゃあ、俺がたまに行く店でいいか?」 「すげー普通な中華の定食屋だけど」 「うん、それがいい」 「チャーシューつくかな?」 「基本だろ」 「コーンも?」 「当然」 「追加で角煮もトッピングできるぞ」 「うーん」 それは邪道らしい。 「ふふっ」 「想像してたら、どんどんお腹空いてきちゃった」 「じゃ、行こうぜ」 「うんっ」 それから俺たちは、定食屋で味噌ラーメンを食べた。 およそデートコースらしくないシチュエーション。 カップルの客なんて、俺たちぐらいしかいない。 それでも陽菜は、とても喜んでくれた。 なんのへんてつもない、普通の味噌ラーメンを食べてるだけなのに。 つくづく幸せのハードルが低いヤツだと思う。 「わー、キレイだね」 ランチを済ませたあとは、海浜公園に行った。 太陽の光をたっぷり浴びた海面が、まばゆい輝きを放っている。 弁当を広げている家族連れがいたり、日陰で昼寝しているカップルがいたり。 みんな思い思いの休日を楽しんでいるようだった。 「こんなに晴れるなら、水着持ってくればよかったな」 「水着……」 「できれば、あと一ヵ月後ぐらいだと嬉しいかも」 「なんで?」 「ダイエットが間に合わないよ」 「陽菜がダイエットする必要なんかないだろ」 「つか、それ以上痩せてどうするんだ?」 俺は改めて陽菜の全身を見た。 どちらかというと、細い方だと思う。 ダイエットをする理由なんか1ミリも見あたらない。 「うーん、あのね」 「世の中には、標準体重と美容体重というものがあってね」 「うん」 「……とにかく、ダイエットは女の子の永遠のテーマなんです」 「でも、細きゃいいってもんでもないと思うけどな」 「孝平くんが言うほど、私細くないよ」 「大浴場で大きな鏡を見るたびに、ため息出るもの」 「もう少し、ここのお肉がなくなったらなーって」 「ここってどこ?」 「どこって……」 「もう、どこでもいいでしょ」 陽菜は、ぽかっと俺の腕を叩いた。 「なんだよ、気になるじゃないか」 「そういう情報は知らなくていいんだってば」 ちょっと怒った。 膨らんだほっぺがかわいい。 「……なんで笑ってるの?」 「俺?」 「うん」 「そうだなー」 「陽菜と一緒にいるのが嬉しいから、かな」 そう言いながら、さりげなく陽菜の手を握った。 俺としては、かなりさりげなく握ったつもりだった。 しかし。 「……っ」 陽菜は驚いたように、俺の手から逃れた。 行き場を失った俺の手が、宙をさまよう。 「あ……」 「ご、ごめんね。ちょっとびっくりして」 「うん……俺こそ、ごめん」 俺はなんとか笑顔を浮かべてみせた。 浮かべてはみたものの、ショックは隠せない。 ……。 たまに、どうしてだろうと思う時がある。 俺の気持ちに、陽菜自身がついて来ていないのか。 それとも、俺が性急過ぎるのがいけないのか。 俺は陽菜のことが好きで、陽菜も俺を好いてくれていると思う。 でも、どこかで壁を感じるのは確かだ。 その壁がなんなのかはわからない。 「……」 しばらくしてから、今度は陽菜が俺の手を握ってきた。 「私……幸せ者だよね」 「幸せなのに、どうしてかな……」 波の音と風の音が、陽菜のつぶやきをさらっていく。 こんなに好きなのに。 こんなに幸せなのに。 俺は陽菜になれないし、陽菜も俺にはなれない。 どんなに手を伸ばしても、陽菜の深淵には届かない。 俺は何も言わず、陽菜の手を握り返した。 寮に着いたのは、七時を回った頃だった。 「今日はどうもありがとう」 「孝平くんのおかげで、すごく楽しかった」 「俺も、楽しかったよ」 「じゃ……またね」 「ああ、また」 小さく手を振り、陽菜は女子フロアの方へと歩いていく。 「ふぅ」 ……。 なんでため息なんかついてんだ、俺。 今日は楽しい一日だった。 ちょっと緊張したけど、初デートにしては上々だった。 一緒にいられて嬉しかった。 それは本当だ。 ……本当だけど。 「あ、こーへーじゃん」 通りかかったかなでさんと、目が合う。 「おっかえり〜♪ デートだったんでしょ?」 「はい」 「?」 「あれ? どうしたの?」 「もしかして……ひなちゃんとケンカでもした?」 「まさか。するわけないじゃないですか」 「そ、そうだよね」 「するわけないよねえ。ラブラブなんだし」 「はい」 「そっかそっかー。あはは、逆にノロケられちゃったわ」 「じゃ、またねー」 「……かなでさん」 「え?」 立ち去ろうとするかなでさんを、呼び止める。 「あのー……」 呼び止めてはみたものの、うまく言葉が出ない。 俺は何を聞こうとしたんだろう。 「やっぱ、なんでもないです」 「えー? なあに?」 「わたしのスリーサイズならトップシークレットだけど?」 「そんなこと聞かないですよ」 「あーよかった」 「もし聞かれたら、風紀シール10枚プレゼントするところだったぞ」 そう言って、かなでさんはにっこりと笑う。 「なんかあったら、いつでも話聞くよ」 「……はい。ありがとうございます」 「ひなちゃんと仲良くね」 「もし泣かせたら、刺客送るから」 「おっかないなあ」 「わたしはいつだって本気だよ☆」 「じゃねー」 かなでさんは、ぱたぱたと廊下を歩いていった。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 部屋に戻って着替えようとした瞬間、メールが届いた。 陽菜からだ。 『今日は本当にありがとうね』 『さっそくあのハンドクリームを使いました』 『すごくいい匂い。お気に入りだよ』 『今度、今日のお礼をさせてね』 『おやすみなさい』 俺はベッドに腰かけ、返事を打つ。 『今日はお疲れ』 『またどっか行こうな』 『ちなみに、お礼って何してくれるんだ?』 ……送信、と。 やがて、3分もしないうちに返事がきた。 『お礼は、ただいま考え中だよ』 『リクエストがあったら言ってね』 リクエストか。 これは悩む。 ものすごく悩む。 「よし」 さんざん長考してから、また返事を打った。 『陽菜の手料理希望』 彼女の手料理を食べるのは、男の夢だ。 ドキドキしながら返事を待つ。 ……。 …………。 来ないし! と絶望視しかけたところで、着信音が鳴った。 『焼きそばなら得意料理だよ』 『ただし、味の保証はしません』 「やった」 思わずガッツポーズ。 これで男の野望が一つ叶うわけだ。 が、メールにはまだ続きがあった。 『でも、どこで作ればいいのかな?』 ……。 それが問題だ。 まさか学食の厨房を借りるわけにもいかない。 そうだ、学校のどこかでバーベキューは? いや、やっぱり却下。 敷地内での火気の使用は、何かと問題がある気がする。 可能だったとしても、先生の立会いが必要になるだろう。 もしくは、匂いを嗅ぎつけた者たちが大挙して押し寄せてくるような。 そんなロマンのないプランは嫌だ。 「……」 その時、頭の中に天啓のような言葉がよぎった。 「でも、ホットプレートぐらいならなんとかなるんじゃない?」 「うちのクラスでも、それでお好み焼き作ってた子いたわよ」 そうだ。 それしかない。 俺はすぐさま、神のもたらしたアイデアを陽菜にメールした。 『今度、ホットプレートを買いに行こう』 『焼きそばの材料も一緒に』 返事はすぐだった。 『うん、いいよ。楽しみにしてるね』 「よっしゃ」 携帯を閉じ、ごろんとベッドに横たわる。 さっきまで心にかかっていた靄が、少しだけ薄らいでいく。 ……。 さっきまでずっと、引っかかっていたこと。 その正体がなんなのかわからなくて、少し悩んだ。 陽菜は俺の大切な人。 恋人でもあり、友達でもある唯一の存在。 俺は陽菜が好きで、どんな時でも陽菜の支えになりたいと思っている。 陽菜だけには、すべてを見せたいと思っている。 ……でも。 陽菜はたぶん、俺の知らない何かを抱えてるのだ。 陽菜に近づこうとすると、その何かが俺を阻む。 俺という人間は、陽菜にとってどういう存在なんだろう。 心の支えになりたいのに。 頼ってほしいのに。 ……。 陽菜の抱えているものが知りたい。 さっきかなでさんに聞こうかとも思ったけど、それでは駄目だ。 俺が、陽菜本人と話をしなきゃいけないのだ。 「……」 そう思い始めたら、いてもたってもいられなくなってきた。 俺はもう一度携帯を開き、電話をかける。 プルルルル……プルルルル…… 「もしもし」 「ごめん、俺だけど」 「ど、どうしたの?」 「今、忙しいか?」 「ううん。特には何もしてなかったよ」 「じゃあ、今から談話室に来られないかな」 「……ほら、かなでさんの歓送会の件で打ち合せしときたくて」 「うん、いいけど……」 「よし。今から談話室に集合な」 「わかった」 「じゃあ、後で」 ぴっ 電話を切った。 とっさに、かなでさんのことを言い訳に使ってしまった。 でも、その件で打ち合せが必要なのも確かではある。 俺は携帯をポケットに入れ、立ち上がった。 それから三十分後。 俺たちは、二人で歓送会の打ち合せを進めていた。 「……そうだね、ビデオを流すならこのタイミングだよね」 「でも千堂先輩、本当に生い立ちビデオなんて作るのかな?」 「あの人は、冗談みたいなことを本気でやる人だからなあ」 「うーん。きっと超大作になるんだろうね」 「無駄に予算かけてな」 「ふふっ」 陽菜は笑った。 あまりに明るい笑顔だから、切り出しにくくなる。 陽菜と話をしようと思ってここに来たのに。 ……そもそも、なんて切り出したらいいんだ? 「何か悩み事でもあるんじゃないのか?」とか? そんなの、「何もないよ」って返されたら話は終わりだ。 そもそも悩みがあるかどうかなんて、俺の推測でしかないのに。 「……どうしたの?」 「え?」 「ぼんやりしてるように見えたから」 「いや、えっと……」 「クリスティーナはどうしてるかなと思って」 とっさに、そんな言葉が口を出た。 紅瀬さんに引き取られた、信楽タヌキのクリスティーナ(♀)。 そういや、今頃どうしているのだろう。 「まだ、紅瀬さんの部屋にいるみたいだよ」 「そうなのか?」 「いい加減邪魔になって、粗大ゴミにしたのかと思ってた」 「お姉ちゃんも、邪魔なら捨てていいって言ったみたいなんだけどね」 「紅瀬さんは『預り物だから捨てられない』って」 「ふうん」 さては情が湧いたと見た。 本当にいい人に引き取られたな、クリスティーナ。 ふいに思い出し笑いをしそうになり、口元を手で隠す。 思えば、あれもかなでさんが俺を試したんだっけ。 「……実は、かなでさんのおかげなんだよな」 「何が?」 「かなでさん、俺が陽菜にふさわしいかどうか試してただろ?」 「あのおかげで、俺はどんどん陽菜のことを意識していった気がする」 「そう……なの?」 「うん」 陽菜への気持ちがまとまらなくて、ずっと悶々としてた。 そんな俺にきっかけを与えてくれたのが、あの人だ。 今となっては、かなり感謝してる。 「……お姉ちゃんらしいな。そういうとこ」 「まあな」 「でも、いくら妹思いだからって、普通はそこまでやらないよな」 「うーん」 「なんつーか、やっぱ悠木姉妹って変わってる気がする」 素直な感想を口にすると、陽菜は一瞬置いてから微笑んだ。 どっちつかずの、なんとも言えない笑顔だった。 「……どうかな」 「でも私は……私なんかより、お姉ちゃんに幸せになってもらいたい」 「そうならなきゃ駄目だと思うし……」 「?」 陽菜は、小さな二つの手をぎゅっと握り締めた。 一瞬だけまつげを伏せたが、すぐに顔を上げる。 何事もなかったような、元通りの笑顔だった。 ……そう、こういう時だ。 俺が陽菜に、ほんのわずかな距離を感じるのは。 「……陽菜」 「ん?」 「俺、ずっと思ってたんだけどさ」 「俺は、あんまり頼りにならないかもしれないけど……」 「もし悩み事とかあるなら、相談に乗るから」 「?」 「支えてほしい時は、いつでも力になる」 「いや、なりたいんだ」 「だから、そういう時は遠慮しないでくれ」 陽菜は俺を見つめていた。 突然何を言い出すのか、とでも思ったことだろう。 うまく伝わったかどうか、自信はなかった。 「ありがとう」 「孝平くんも、何かあったら私を頼ってね」 「私も、孝平くんの力になりたいって思ってるから」 「……」 俺の懸念など吹き飛ばすように、陽菜は明るく言った。 「それとも……私じゃ、頼りにならない?」 「いや、そんなことないよ」 俺は首を振った。 そんなことはないんだ、陽菜。 逆に、同じことを聞きたかった。 俺は陽菜にとって、支えに足るような存在なのかって。 立ち聞きするつもりなんてなかった。 談話室の前を通ったら、ふとクリスティーナって言葉が耳に入ってきて。 ドアの隙間から覗いたら、こーへーとひなちゃんがいた。 二人は相変わらず仲良し。 こーへーと話している時のひなちゃんは、とっても幸せそう。 恋してるのが一目瞭然って感じ。 わたしはすっかり嬉しくなった。 そんな二人を驚かせてやろうと、しばしタイミングを図る。 「……どうかな」 「でも私は……私なんかより、お姉ちゃんに幸せになってもらいたい」 「そうならなきゃ駄目だと思うし……」 ……。 その言葉を聞いて、わたしはドアから離れた。 それまでのほんわかした気持ちが、一瞬でどこかに飛んでいく。 ──ひなちゃん。 もしかしたらひなちゃんは、今でも自分を責めてるの? ずっと、立ち直ったフリをしていたの? ……お母さんのこと、ずっと自分のせいだと思っているの? 「……っ」 もしそうだったとしたら。 どうしよう。 わたしのせいかもしれない。 ひなちゃんは子供の頃からずっと、つらい思いばかりしてきた。 いろんな悲しいことを、一人で背負ってきた。 でも今度こそ、幸せになれると思ってたのに。 誰よりも幸せになってほしいのに……。 しばらく雨の日が続き、ようやく夏らしさを取り戻した今日。 俺と陽菜は、約束通りホットプレートを買いにやって来た。 電気屋の調理家電売場には、さまざまなタイプのホットプレートが並べられている。 「わぁ〜」 「見て見て孝平くん、タコ焼きプレートもついてるよ?」 「こっちはお肉の脂がよく落ちる、波形プレートだって」 最新機種を前にして、陽菜はやや興奮気味だ。 「どれがいいんだろうな」 「こんなにあると、決められないよね」 「タコ焼き……」 陽菜の目は、最新機種に釘づけだ。 「みんなでタコ焼きパーティーやったら、きっと楽しいよね」 「盛り上がるだろうな」 「タコだけじゃなくて、チーズとかお餅とか入れたり」 「餅なんか入れるのか?」 「入れないの?」 「とろっとろで、すごくおいしいんだよ」 目がキラキラと輝いている。 が、値段を見てすぐ苦々しい顔になった。 「13500円……」 「……」 学生の俺たちにとっては、少々痛い価格だ。 気前よくポンと買ってやりたいところだが、なかなかそうもいかない。 「あ」 「型落ちならもっと安いぞ」 波形プレートはついてないが、タコ焼きプレートはばっちりついている。 これなら半額以下だ。 「わぁ、ほんとだ」 「これにしよう」 もう買う気満々だ。 「今日は焼きそばとタコ焼きと、お好み焼きも作るね」 「嬉しいけど、そんなに食べられるかな」 縁日でも開くかのような勢いだ。 「あ、そっか」 「じゃあ、焼きそばとタコ焼き」 「うん」 「マヨネーズつける派?」 「もちろん」 「ふふ。気が合うね」 陽菜は嬉しそうだ。 ホットプレートを購入してから、スーパーに向かう。 焼きそばの麺や小麦粉、野菜などをどんどんカゴに入れていく。 「豚肉はこれでいいかな?」 「ちょっと待って」 「うーん……」 「こっちの方がお得かも」 豚肉コーナーをざっと見渡し、豚コマのパックを手に取る。 確かに、こっちの方が若干お得だ。 「なんか、すごいな」 「プロの主婦みたいだ」 素直に尊敬した。 俺なんて、とりあえずいっぱい入ってそうなのを適当に選んでしまう。 「家にいた頃は、よく買い出ししてたからかな」 「決められた範囲内でやりくりするの、けっこう向いてるみたい」 言われてみれば、陽菜の買い方には無駄がない。 瞬時に商品を比較し、素早くカゴの中へと入れていく。 とにかく意志決定が早いのだ。 ……思えば、スーパーに足を一歩踏み入れた時から、陽菜の目は鋭かった。 陽菜の戦いは、あの瞬間から始まっていたのかもしれない。 「はいっ、今から30分間のタイムサービス!」 「タマネギがなんと10個で50円!」 周囲にいた主婦たちの目が光る。 殺気を感じた俺は、思わず後ずさった。 「孝平くん、タマネギ取ってきたよ」 「へ?」 陽菜の手には、大量のタマネギ。 涼しい顔でそこに立っている。 ……いつのまに! 俺には気配すら感じさせなかった。 「……ハンターだ」 「え?」 「なんでもないです」 「ところでその大量のタマネギは、どう消費するんだ?」 「もちろん、焼きそばに入れるよ?」 にっこり笑う。 いったい、どんな焼きそばが出てくるんだろう。 寮に帰ってから、さっそくディナーの準備が始まった。 会場は、陽菜の部屋。 包丁や皿などは、料理好きのクラスメイトから借りてきた。 「うっ……」 「ぐすっ……うぅ……」 大量のタマネギに泣かされている陽菜。 目は真っ赤に充血している。 「……代わろうか?」 「ううん、だいじょうぶ……っ」 「うぅっ……ぐすんっ」 それでも、包丁を扱う手つきはなかなかのものだ。 キレイに切りそろえられた野菜たちで、ボールがいっぱいになっていく。 付け焼き刃では、到底成しえないクオリティだ。 「家事、慣れてるんだな」 「そ、そんなこと……ぐすっ……ないよ?」 「寮に入ってからは、ううっ……料理なんて、ぜんぜんしてないし」 涙ながらに陽菜は語る。 しばらくして、ようやくタマネギを切り終わった。 「では、ここで役割分担したいと思います」 「孝平くん、タコ焼きお願いね」 「えっ!」 いきなり重要なポストを任され、動揺する。 「ていうか、タコ焼き作るの楽しみにしてたのは陽菜じゃ……?」 「そうだけど、私はまだ焼きそばの下準備があるの」 「二ついっぺんにはできないから……お願い」 「うっ」 かわいい顔でお願いされたら、やらないわけにはいかない。 俺は意を決して、タネの入ったボールを手に取った。 「うんうん、いい感じ」 「タコ、チーズ、お餅の順に入れてね」 「タコ、チーズ、餅……」 プレートのくぼみに一つずつ具材を入れていく。 じゅくじゅくとタネが焼ける音。 なんか、だんだん楽しくなってきた。 「固まってきたら、竹串でちょいちょいっと」 「こうか?」 「もっと大胆にいっちゃってもいいかも」 陽菜が手本を見せる。 くぼみの中で、丸みを帯びた愛らしい物ができあがっていく。 「師匠、さすがです」 「慣れればすぐにできるってば」 「あとはおまかせしちゃうからね?」 「おう」 俺は姿勢を正し、タコ焼きに向かい合った。 ここらで、俺もいいところを見せておかないと。 数十分後。 テーブルには、ソース焼きそばとタコ焼きが並べられた。 厳密に言うと、ソース焼きそばとタコ焼きモドキだ。 球体になりそこねた物体が、皿の上に積み重なっている。 「申し訳ありませんでした」 「いえいえ」 「見た目よりも、味が肝心だよ」 聖母のようなスマイル。 しかし、タコ焼きってものすごく難しい。 甘く見ていたバチがあたったのだ。 「いただきます」 「……いただきます」 まず、陽菜の作ってくれた焼きそばをつまむ。 タマネギは多めだが、かなり期待できそうな見た目だ。 「うまっ」 「マジでうまい。鉄人にも負けてないよ」 「ほんと? よかった」 「最近作ってなかったから、実はちょっと自信なかったんだ」 「いやいや、まるでブランクを感じさせない出来だって」 「そう言ってもらえると嬉しい」 「ホットプレート買ってよかった」 「大正解だな」 さて。 お次はタコ焼きだ。 否、タコ焼きモドキ。 見て見ぬふりもできなかったので、思いきって口の中に放り入れる。 「……」 「どう?」 「タコ焼きっていうより、丸めたお好み焼き、みたいな」 「?」 要は、中まで火が通りすぎているのだ。 あの独特の、トロッとした感じがない。 陽菜は首を傾げながら、タコ焼きモドキを口に入れる。 「んー……」 「焼きすぎだね」 「その通り」 「でも、味はおいしいよ?」 「慰めてくれてありがとう」 軽く落ち込む。 俺は、満足にタコ焼きも焼けないような男なのだ。 「ねえねえ、これ食べてみて?」 陽菜は楊枝でタコ焼きを刺し、俺へと手を伸ばした。 「はい、あーん」 「……っ」 カウンターパンチを食らった気分だ。 俺は即座に口を開けた。 「もぐっ」 「どう?」 口の中に、もちもちとした感触。 っていうか、餅入りだ。 「あ、うまいかも」 「でしょ?」 陽菜は身を乗り出した。 まさに新食感。 焼きすぎたタネとも、いい感じにマッチしている。 「私の言った通りだった?」 「ああ」 「これからは、我が家の定番にするよ」 「ふふふ」 もう一つタコ焼きをほおばりながら、陽菜は笑った。 食事と片づけが終わると、陽菜が紅茶を淹れてくれた。 相変わらず、陽菜の紅茶はうまい。 ミルクやレモンを入れないで、そのままの風味を楽しみたくなる。 つくづく、陽菜はお嫁さん向きだなと思う。 ……お嫁さん。 実にいい響きだ。 陽菜は紅茶を飲む俺を、優しい表情を見つめている。 「……よかった」 「何が?」 「いや、陽菜が楽しそうでさ」 「最近、ちょっと元気なさそうに見えたから」 「……」 「やだ、そんな風に見えた?」 「うん」 「気のせいだよ」 陽菜は首を振る。 確かに、気のせいかもしれない。 というか、元気がないという言い方は少し違う。 何かを我慢しているような。 そう感じただけで、確証はない。 ただその思いは、依然として俺の胸に根づいていた。 「また、タコ焼きパーティーやろうね」 話題をそらした。 「今度はみんなを呼んでやろっか?」 「それもいいけど」 「今度も、二人きりでやりたい」 「……」 「嫌か?」 「う、ううん。嫌じゃないよ」 「嫌なわけ、ないよ……」 そう言って、うつむいてしまう。 俺は時計を見た。 もう、夜の9時だ。 そろそろ部屋に帰らなきゃ。 あんまり遅くなると、陽菜に悪いし。 そうは思いつつも、俺は立ち上がらなかった。 うつむく陽菜の、赤い耳たぶを見つめている。 「陽菜」 「ん?」 「顎にタマネギついてる」 「え? どこどこ?」 「ここだよ」 俺は手を伸ばし、陽菜の顎に触れた。 そのまま顎を引き寄せ、キスをする。 「ぅ……!」 卑怯といえば卑怯な手口。 だが、俺も自信がないのだ。 前に、陽菜にキスしようとした時のことを思い出す。 抵抗されたとまでは言わないが、陽菜の身体はこわばっていた。 いつだって性急すぎる俺が悪いのは、確かだけど。 「んっ……ぁ……」 舌を割り、つるつるとした歯を舐める。 もしかしたら、突き飛ばされるかも。 それぐらいの覚悟はしていた俺だったが、陽菜は拒まなかった。 積極的ではないにせよ、俺の舌を受け入れている。 「はぁっ……ちゅ……んっ」 「ぷはぁっ」 唇を放して、陽菜の目を見る。 陽菜も、俺をまっすぐに見ていた。 「謝らないからな」 「俺、陽菜とキスしたかったから」 「今日一日、ずっと……」 「え……」 陽菜は戸惑っている。 それでも俺は、続けた。 「俺、陽菜のこと、もっと知りたいんだ」 「悩んでたら、力になってやりたい」 「愚痴りたい気分の時は、話を聞いてやりたい」 「一緒にいる時は、いつも肩を貸してやりたい」 「前にも、確か言ったと思うけど」 「……うん」 ああ、駄目だ。 考えがまとまらない。 要するに俺は、緊張しているのだ。 「一緒にいる時ぐらいは、弱みを見せてくれたっていい」 「それに……もっと、甘えてほしい」 「……?」 「甘える?」 「そう」 強くうなずいた。 「でも、私」 「甘えるって……よくわからないの」 「……ごめんね。孝平くんの気持ち、すごく嬉しいけど」 「どうやって甘えたらいいのか、わからない……」 小さな子供みたいに、ふるふると首を振る。 陽菜は、甘え方がわからない。 ……そうだ、陽菜は昔からそうだった。 自分自身の気持ちを、表に出すことが苦手なのだ。 甘えることも、弱みを見せることも、泣き言を漏らすことも。 自分一人で飲み込むことが癖になっている。 誰にも頼らないんじゃない。 頼り方が、わからないのだ。 「悪かった」 「追いつめるつもりなんて、なかった」 「……追いつめてなんか、ないよ?」 「私こそ、ごめんね」 「孝平くんが私のこと、考えてくれてるってわかってる」 「一緒にいてくれて、感謝してる」 「もっと、孝平くんに……応えられたらって……」 「陽菜……」 陽菜は、ゆっくりと俺の隣に移動した。 ちょこんと座って、スカートを握り締める。 「なんて言ったらいいのか、わからないけど」 「孝平くんは男の人だから、きっと……」 「……っ」 真っ赤になって、言葉を止めた。 「……なんでもない」 「最後まで聞きたいんだけど」 「い、言えないよ」 「言えない……」 「じゃあ、聞かない」 「でもその代わり、こっちに来てほしい」 「え……」 二人でベッドの上に座り、向き合った。 「孝平くん……」 場所が場所なだけに、ものすごく照れる。 だが、陽菜を誘ったのは俺だ。 もっと陽菜のことを知りたかったから。 もっと深く、強く。 陽菜を求める気持ちがあったから。 「俺、陽菜を抱きたい」 「っ!」 「……抱いてもいいか?」 「それは……」 自分の鼓動が、うるさくてかなわない。 俺はまた、陽菜を困らせているのかもしれない。 でも、これ以上気持ちを抑えることなんてできなかった。 「……」 こくり。 陽菜は、うなずいた。 確かにうなずいた。 「いいのか?」 「うん」 「ちょっと、怖いけど……」 「孝平くんが、こんな私でもいいって言ってくれるなら……」 少しだけ、声が震えている。 ちょっとじゃなく、本当はすごく怖いのだろう。 それでも陽菜は、俺の気持ちに応えてくれた。 「……ありがとう」 そっとキスをする。 「ぁ……」 小さく開かれる唇。 すぐに絡み合う舌と舌。 はやる気持ちを抑え、何度も何度も口づける。 陽菜のことが、好きで好きでたまらない。 この唇も、舌も、吐息も。 「んくっ……んっ」 唇に吸いつきながら、胸元のリボンをほどく。 俺の手も、少し震えていた。 焦るな、深呼吸。 呪文のように心の中で唱えつつ、服を下ろしていく。 「あっ……」 服の中から、ブラジャーに包まれた胸がこぼれる。 シンプルなレースを縁取った、淡いピンク色のブラだった。 清楚なデザインが陽菜にとてもよく似合っている。 「あの……」 「電気、消してほしい」 「駄目」 「えっ」 「明るいところで、陽菜のことをじっくり見たい」 「そんな……恥ずかしいよ」 そんな風に、恥ずかしがる陽菜を見たいのだ。 なんて言ったら、きっと怒るだろうが。 「じゃあ、目をつぶって」 「そりゃ本末転倒だ」 「だって……まだその、心の準備が……」 言葉の途中で、白い鎖骨を指でなぞる。 「んっ……!」 すべすべの、艶っぽい肌。 女の子の肌って、なんてやわらかいんだろう。 自分のそれとは明らかに質感が違う。 「んぁっ……あっ」 唇から甘い声が漏れる。 脳髄がとろけそうな声だ。 「……もっと、見たい」 「あぁっ……!」 ブラの肩紐を下ろし、少しずつカップの部分をずらしていく。 「……っ」 形のいい、豊かな乳房が現れる。 ミルク色のまあるい双球の上に、桜色の突起。 小高い場所で、ツンと上を向いている。 陽菜は耐えきれないというように、目をそらした。 「お願い……あんまり見ないで」 「あ……そうだ、シャワー浴びないと……」 「いいよ、シャワーなんか」 そんなことしたら、せっかくの陽菜の匂いが消えてしまう。 「だ、駄目だよ」 「外に出て、たくさん汗もかいてるし」 「俺は構わない」 「私が、構うの……」 「もっと、キレイな身体を見てもらいたいのに……」 「今だって、十分キレイだけど?」 「う……」 嘘じゃない、本当だ。 尻込みしてしまうほど、陽菜はキレイだった。 「……」 口にたまった唾液を飲み込み、乳房へと手を伸ばす。 触れたい。触れずにはいられない。 どんな感触なのか確かめてみたい。 「ひぅっ……んぁっ」 乳房を、手でそっと包む。 ……やわらかい。 出来立てのマシュマロって、こんな感触なのかもしれない。 温かくて、触れたそばから溶けてしまいそうだ。 「はぁっ、あっ……」 ふにふにと、そのやわらかさを楽しむ。 力加減によって、自由自在にその形を変えていく。 「大きいんだな、陽菜の」 「ふ……普通だと、思うけど」 指と指の間に乳首を挟み、強弱をつけて刺激した。 ささやかだった突起が、わずかに硬さを増す。 「くぅ、んっ……はぁっ、はあぁっ」 「やぁ……あぁっ」 もう少しだけ力を入れて、乳房全体を揉み上げた。 甘美な手触りに、俺の下半身がズキズキと反応する。 陽菜って、こんなに色っぽい表情をするのか。 見たこともない新たな一面に、どきどきした。 「あぁっ、孝平くん……」 乳房を愛撫しながら、そっとスカートをまくり上げた。 あらわになる、真っ白な太腿。 もっと中がよく見えるように、スカートの裾を陽菜に持たせる。 「あぅ……っ」 秘部を隠す下着は、ブラとおそろいのデザインだ。 「うぅ……本当に、恥ずかしいんだってば……」 もじもじと腰を動かし、うつむく。 滑らかな脚と、お腹。 太腿の付け根に汗をかいている。 俺は、ふぅとため息をついた。 「脱がすぞ」 「えっ?」 「腰、浮かして」 下着に手をかけ、腰から脚へとずり下げていく。 陽菜は一瞬、何が起こったのかわからないような顔で固まっていた。 「えっ……あっ、えぇ?」 「ぬ、脱ぐの?」 「うん」 「そ、それは……えっと……」 「えええっ……?」 ものすごく動揺している。 無理もない。 とは思うが、ここで引き返すことはできない。 「全部、見たいんだ」 「ちゃんと見て、確認しておきたいんだ」 「確認……?」 「そう」 「いくよ」 「う、うん……」 納得したようなしてないような顔で、陽菜はうなずく。 俺はもう一度、下着をずらしていった。 「……っ!」 陽菜の一番大切な部分。 うっすらとした毛に守られたそこは、ほんの少しだけ濡れていた。 左右対称の割れ目から少しだけ覗く、サーモンピンクの秘肉。 とてもキレイな色だ。 「やぁ……もう、だめ、…恥ずかしい…っ……」 脚がふるふると震えている。 肌が汗ばみ、つややかに光っている。 その割れ目へと、指を伸ばした。 「ふぅっ……! ん、くぁっ」 ぬるりとした粘膜が俺の指を迎え入れる。 じっとりと湿って、熱い。 わずかに指を動かすと、ぴちゃ、と音がした。 「あっ、あんっ……んんっ」 「やぁっ、そこ、ちゃんと洗ってくるからっ……」 「このままでいいよ」 潮気を帯びたような、少し甘酸っぱい陰部の匂い。 その匂いで、興奮に拍車がかかる。 「陽菜のここ、ぬるぬるしてる」 「やんっ、あっ……はぁっ」 指の腹で割れ目の真ん中を、ゆっくりとこする。 潤った肉襞が、みっちりと指全体を包囲した。 もう片方の手で、乳房を優しく揉み込む。 「あぅ、んぁ、あっ、はああぁっ」 手の中で弾む乳房は、わずかに赤みを帯びていた。 かなり感じているらしく、乳首もすっかり硬くなっている。 「はうっ……ん……もう、力が入らなくなっちゃうよ……」 「これ以上、触られたら、私……」 これ以上触ったら、どうなってしまうんだろう。 その反応を知りたくて、わざとクチュクチュと音を立たせてみる。 「ひぁっ、ああぁっ……! はぁっ、はあぁっ」 「だめぇ……声が、外に聞こえちゃうよぉ……っ」 「じゃあ、静かにしないと」 耳元で囁くと、陽菜はくすぐったそうに身をよじった。 「孝平くん、いじわるだよ……」 そんな顔するから、意地悪したくなる。 もっともっと恥じらう陽菜を、見たくなるのだ。 「んぁっ、あぁ、んうぅっ」 刺激を与えるにつれ、クリトリスがぷくっと膨らんできた。 蜜に濡れた先端が、妖しく輝いている。 乳首とクリトリスを同時につまむと、陽菜は高い声をあげながら仰け反った。 「ああぁっ……! あっ、な、なにこれっ、ふうぁぁっ!」 熱い愛液がトロトロと流れ出る。 シーツに水たまりができ、大きな染みになって広がっていく。 「も、もう、ああぁ、はふんっ」 首筋から流れた汗が、細い鎖骨のくぼみにたまる。 太腿をぎゅっと閉じようとするが、それを阻止した。 「あぁっ、あっ、ひぁっ、んふううぅっ」 蜜壺に人差し指を差し込み、小刻みに動かしていく。 赤みの増した陰唇がヒクヒクと動き、指にまとわりついてきた。 「やん、あぁ、あはぁ、動かさないで……っ」 「お願い、もう、あぁっ、はふぁっ、ああああぁっ」 陰部から漏れる、ぬちゅぬちゅとした蜜の音。 内部はぬるぬるにとろけて、とても狭い。 もっと奥を目指そうとするが、ぎゅうぎゅうに締めつけられて簡単には進まなかった。 「はぅっ……」 半開きになった唇に、舌をねじ入れる。 歯の裏や歯茎までねっとりと舐めながら、乳房と陰部への愛撫も忘れない。 「んむぅ、んっ……ちゅぅ、んはぁっ」 陽菜も舌を伸ばし、俺に応えてくる。 唾液と唾液を混ぜ合い、吸いついていく。 「んっ……! んふぁ、んくぅ、あぁっ、あっ……!」 内部の締めつけがさらに強くなる。 俺は人差し指を少し曲げて、引っかけるようにしながらこすり続けた。 「あぁ、あっ、はあああぁっ、んあああぁっ」 「ひああぁっ、あ、あ、ふあああぁっああぁっ……!」 じっとりと湿った太腿が、ぎゅっと閉じる。 陽菜の肩が、ぶるぶると痙攣した。 「ひぁ、ああああああああぁっ……!」 「陽菜……?」 陽菜は下唇を噛み締めてから、脱力したように、俺へと身を預けてきた。 全身が熱い。 陰部からおびただしい量の蜜が溢れている。 「大丈夫か?」 「はぁ……はぁ……はぁっ……」 「わ、わかんない……」 もしかして、いってしまったのだろうか? この大量の愛液が、何よりの証拠だ。 俺は陽菜のおでこに、そっと口づけた。 「ん……」 「すごい、かわいかった」 「ううぅ〜……」 陽菜は照れたように、視線をそらす。 「……気持ちよかった?」 「そ、そんなこと、聞かないの」 「……聞かないで、恥ずかしいから」 俺は笑った。 ひとまず、肯定したものと受け取っておこう。 「陽菜……いいか?」 「え……」 俺はズボンのベルトを外しながら、ゆっくりと陽菜を押し倒した。 「こ、孝平……くん?」 俺のトランクスから飛び出たものを見て、陽菜は目を丸くした。 陽菜への愛撫で興奮し、猛り狂ったペニス。 自分でも恥ずかしいほど硬くなっている。 「えっ……えええっ?」 「そんなに反応されると、俺も恥ずかしいんだけど」 「だって、そんな風になっちゃうなんて……」 「えっ、もしかして、それを……?」 俺はこくりとうなずいた。 「……!」 「そ、そうだよね、そうなるよね」 「わ、わかってるから、大丈夫」 自分に言い聞かせるように、なにやらいろいろとつぶやいている。 きっと、驚くのと同時に、怖いのだと思う。 自分の身体がどうなってしまうのかわからなくて、不安を隠しきれないのだ。 「ひょっとしたら、ちょっと痛いかもしれないけど……」 「あんまり痛くならないように、がんばるよ」 「……うん」 「私も、がんばるね」 「きっと、孝平くんと一緒なら、大丈夫だから……」 「……ありがとう」 俺はペニスに手を添え、濡れた陰部に先端をくっつけた。 亀頭に蜜がまみれ、ぬらりと光る。 「んっ、あっ……」 そのまま身体を前後にゆらして、ペニスで割れ目をこする。 クリトリスがカリ首に引っかかり、ぞわぞわと快感が押し寄せた。 「くっ……あっ、ああっ」 さらに脚を大きく開かせると、肉襞の層が剥き出しになった。 わざとクリトリスを、亀頭でクチュクチュと刺激する。 「ひぁ、こんな格好……あぁ、あふああぁっ」 ぬちゅっ! 「はああぁっ!」 亀頭を膣口にあてがい、ぐっと身を乗り出した。 狭い蜜壺の中に、カリ首部分がずぶぶと入っていく。 「う……うぅっ、ぐ……」 「……っ」 みっちりとした陰唇が亀頭を包み、頭の奥がしびれる。 自分の身体を支える腕が、快感によって力を失いそうになった。 「いっ……あぁっ」 かなり痛むのか、陽菜は眉間に深い皺を寄せた。 シーツを握り締め、必死に耐えているようだ。 「あぁ、いっ……ああぁっ」 「もう少しだ……」 ずぶぶっ……! 少し勢いをつけてペニスを沈めると、内部がぎゅっと締まった。 その密着感に、思わず呻いてしまう。 「ひぁっ、ああぁ……! あっ、んはぁっ」 「痛いか?」 「う……」 「痛いけど……がんばる……」 「孝平くんと、一緒なら……」 陽菜の瞳から、大粒の涙がこぼれた。 その涙を指ですくい、俺はさらなる奥へと腰を押し進める。 陽菜、もう少しの我慢だ。 もう少ししたら、一つになれる。 「あぁ……っ」 「あ……くっはあああぁっ」 奥がはじけたような感覚のあと、ペニスがほぼ根元まで陰部に埋まる。 俺は、性器と性器のつながっている部分を見た。 割れ目から、じわじわと破瓜の証がにじんでいる。 「うぅ……んっ……」 「陽菜、もう大丈夫だぞ」 「え……?」 「陽菜の中に、入った」 「入った……の?」 陽菜はおそるおそるといった様子で、結合部に目をやった。 破瓜が済んだことを確認すると、泣き笑いのような顔で俺を見る。 「ほんとに、入ってるよ……?」 「ああ」 一つになった喜びが、胸に迫ってくる。 陽菜の泣きそうな顔を見たら、俺まで涙が出そうになった。 「がんばったな」 「……うん」 「孝平くんのおかげだよ」 そう言って、微笑んだ。 陽菜が呼吸をするたびに、中がきゅっきゅと蠢く。 じっとしているだけなのに、こんなに気持ちいいとは。 「くぅっ」 ほんの少しだけ、腰を引いてみる。 根元部分が締めつけから解放され、得も言われぬ快感が下腹部に走った。 「あ……くぁ……っ」 苦悶の表情を浮かべ、陽菜は俺の腕をぐっと掴んだ。 「大丈夫だから……」 「孝平くんの自由に……して……」 切なげな目で訴える。 本当は痛くてたまらないだろうに。 俺はもう少し腰を引いてから、ゆっくりと最深部に向かっていく。 「ふあぁっ、あくぅっ……!」 内部が一斉にざわめき、俺を迎え入れる。 粘膜がぴったりとペニスに張りつき、放さない。 「んふぁ……あぁっ、あふうぅっ」 静かに上下する乳房を掴み、揉みしだく。 乳首をコリコリと刺激してから、吸いついた。 「あっ……! ふああぁっ、くふんっ」 ほのかに甘い味のする乳首を、舌の上でコロコロと転がす。 突起の根元に軽く歯を立てると、陽菜は身体をしならせた。 「あぅ、あふんっ、くすぐったいよ……っ」 乳首に吸いつきつつ、大きく腰をグラインドさせる。 溢れた愛液で、俺と陽菜の股間はべたべたになってしまった。 「ああぁっ、ひああんっ」 だんだんリズムを掴んできた俺は、一定の速度で出し入れを始める。 かぶりつくように乳房に吸いつき、ペニスを奥へとねじ込んでいく。 「くぁ、あふっ、あああっ、あんっ」 さっきまで緊張でこわばっていた陽菜の脚から、少しだけ力が抜けたような気がした。 滑りもずっとよくなり、柔軟に俺を受け入れている。 痛みが薄らいできたのかもしれない。 「……あんっ、ひああぁっ、あっ、あたるっ……」 「う……」 陽菜の声があまりにもかわいくて、快感が増幅する。 俺は無我夢中で、陽菜の性器に性器を打ちつけていた。 「ひぁんっ、ひゃあぁっ、あん、ああぁっ」 ……まずいぞ、これは。 遥か遠くの方から、大きな波がやって来る。 股間へと血が集まるような感覚。 腹の奥の方が、急激に熱くなった。 「んぁ、あっ、はああっ、んふあああぁっ」 「くぅ……うっ……」 「はふぅ、んっ、あぁ……はうぁ、んはあああぁっ、あああぁっ」 「う……いくっ……!」 ドクッ! ビュクウゥ! ビュクビュクッ! 「あっ……!」 先端が一番奥に触れた瞬間、俺は陽菜の中で果てた。 ドクドクと、大量の精液を注ぎ込んでいく。 「あぁ……はぁっ……」 中から溢れた精液が、ジュブジュブと割れ目から流れ出る。 陽菜は驚いたような顔で俺を上目遣いに見た。 「孝平……くん?」 「ごめん、いっちまった……」 自分を制御することなんてできなかった。 気持ちよすぎて、欲望を吐き出さずにはいられなかったのだ。 「ど……どうだったの?」 「どう、とは?」 「その、気持ちいいとか、悪いとか……」 「男の人ってどうなるのか、よくわからないから」 「……まあ、気持ちよくないとこんなに出ないよな」 「あ……そうなんだ」 安堵したように、陽菜は笑みを浮かべた。 「んっ……」 「孝平くんのが、中で動いてるの、わかるよ」 「まだ……すごく熱いね」 陽菜の中で、俺のペニスはピクピクと息づいている。 すべてを出しきったと思ったのに、まだ十分な硬さを維持しているようだ。 「あっ、ふぁっ」 体勢を整えようとすると、陽菜は甘く喘いだ。 頬は上気し、潤んだ目をこちらに向ける。 「ん?」 顔を覗き込み、ずぶぶ、と腰を押し進める。 「な、なんでもな……あぁっ、んっ」 精液と愛液の混じった内部は、甘美なほどに熱を持っている。 膣壁が、ペニスを搾るような動きを始めた。 ぱんぱんになった陰部を、じっくりとこすっていく。 「ひん、あぁ、はあぁっ、くっはぁ……!」 さっきよりも艶を帯びた、高い声を出す陽菜。 悩ましい表情で、脚を大きく開いている。 「うぅ……さっきより、お腹の中が……」 「なんか、ヘンな感じに……」 こすられた陰部は充血し、クリトリスがぷっくりと顔を出す。 きっと、たぶん、陽菜も感じているのだ。 少しずつ腰も動いてきた。 「やん、ひあああぁっ、あふぅ、んふうぅ」 俺の汗が落ち、陽菜の全身を濡らしていく。 すべて出し尽くしたつもりなのに、どうして欲望は衰えることを知らないのか。 ずっとこのままつながっていたい。 「陽菜、大好きだよ」 「ぁ……」 「私も……」 俺は、陽菜をぎゅっと抱きしめた。 強くつながり合ったまま、じりじりと腰を前後に動かす。 「んっ……! あっ、ひああああっ」 滑りはいいが、締めつけは強くなる一方だ。 きつく絡む粘膜に、眩暈がしそうだった。 深呼吸をしてから、一気に動きを速めていく。 「んぐっ、んんっ、あっ、ひふああぁっ」 声をあげて、みだらな表情を俺に見せる。 求めれば求めるほどに、どんどん新しい顔を見せてくる。 「ひあぁ、あっ、ひゃふぁっ、あはああぁんっ」 女の子って不思議だ。 いつのまに、こんな大人びた表情を身につけるのか。 不思議で、もっと知りたくて、目が離せない。 「あっ、あぁっ……んふううぅっ」 「孝平くん……どこにも、行かないで……」 心細そうな目で、俺にしがみついてくる。 「ここにいて……ほしい……」 「俺は……ずっといるよ」 「陽菜のそばに」 同じ強さで、抱きしめ返す。 そばにいてほしいのは、俺の方だ。 「うっ……あぁ……あふんっ」 「あぁ、孝平くん、どうしよう……」 俺の腰に脚を絡ませ、囁いた。 「さっきの、また……来そう……」 「お腹が、ぎゅって、熱くなる……っ」 うわごとのように続けている。 とろんとした瞳。 限界が近づいているようだ。 「陽菜、身体の力を抜いて」 「ん……」 「俺も一緒に、いくから」 ちゅっと軽くキスをして、深々とペニスを差し込んでいく。 「ひう、あぁ、はあぁっ……んふああぁっ」 ぬらりと光る陰唇が、どこまでも深く棹部分を飲み込む。 内部のヒダが蠢き、絶妙な刺激を俺に与える。 「はああぁっ……あっ、あぁっ、んくあぁっ」 陽菜の爪が、俺の肩に食い込んだ。 そんな痛みすら、興奮を高めていく。 「あっ、はあぁっ、んふあああぁっ、はふぅん……っ」 これ以上ない一体感。 性器と性器が解け合い、結びついている。 「ふあっ、ああぁ、孝平くんっ、あああぁっ、ひふああぁっ」 「あくぅ……あぁ、いく……あぁああぁっ、ふううああぁっ……!」 体液にまみれて腫れたペニスは、もう限界を訴えていた。 俺は下腹部に力を入れ、その時を迎える。 「ひふぅ、うぁっ、あああぁっ……あっ、はあああぁんっ……!」 「いくぅ、ああああぁっ、はぁ、あっ、ひゃうあああああぁっ……!」 「うぁ……っ!」 ドクッ! ドピュウウッ! ドピュッ! 膣からペニスを引き抜いた瞬間、白濁液が陽菜の全身に飛んだ。 髪や顔、胸元や服を、白く染め上げていく。 「んあああぁっ、ふあああぁっ……」 射精はまだ終わらない。 快感が強すぎて、意識が遠ざかりそうになる。 「はぁ……はぁ……」 「わ……いっぱいかかってる……」 付着した液体を指で取り、陽菜は興味深そうに見ている。 かなり派手に飛ばしてしまったことに、やや罪悪感。 かわいらしい服が、精液まみれになってしまった。 「はぁ……ごめん……」 「俺が洗濯するよ」 「ううん、気にしないで」 「下着も、ちゃんと洗うからさ」 「だっ……駄目だよっ」 「絶対、駄目っ」 即座に却下された。 さすがに下着はダメか。 俺は苦笑しながら、そばにあったティッシュを取った。 「うぅ」 そっと陽菜の陰部に押しあて、愛液と精液をぬぐう。 かなり大量のティッシュが必要なほど、たっぷりと溢れている。 「……ありがとう」 「でも、ちょっと恥ずかしいね」 「そうか?」 「ふふ」 身体に飛び散った精液も、丁寧にふいてやる。 陽菜は放心した様子で、なすがままになっていた。 「もう痛くないか?」 「……うん」 「痛いの、通り越しちゃった」 「自分の身体があんな風になるなんて、ちょっとびっくりだよ」 ふぅ、と息を吐く。 まだ絶頂の余韻に浸っているようだ。 「なんか、安心したら眠くなってきちゃったみたい」 「寝てもいいぞ」 「陽菜が寝てる間に、部屋に帰るからさ」 「……帰るの?」 きょとんとした顔で言う。 「そりゃまあ、帰らないといろいろまずいしな」 「俺としては、朝まで一緒にいられたら嬉しいけど」 「……」 陽菜は、少し迷っているようだった。 ここで俺が「今日は帰らない」と強く主張すれば、陽菜はきっと断らない。 俺だって、本当はそうしたかった。 ……。 そうしたいけど。 陽菜の迷っている顔を見たら、強く言うことができなかった。 「見回りが来る前に、帰るよ」 「……うん」 「シスター天池に見つかったら、大変なことになるからな」 「あ、孝平くん……」 「ん?」 陽菜は起き上がり、俺の頬にキスをした。 瞬きする間の、ほんのわずかな時間の出来事だった。 「……」 「え……あっ……」 「その、お礼のつもりだったの」 「お礼?」 「うん」 「私の初めてを、もらってくれたお礼」 小さな声で、そんなことを言う。 「嬉しかったの」 「……私には、もったいないくらい」 「陽菜……」 俺は陽菜を抱きしめた。 「俺にだって、もったいないくらいの幸せだよ」 「……」 陽菜は俺に、強くしがみついた。 まるで、押し流されないようにするみたいに。 何も言わず、俺の胸に顔を埋めていた。 ざざーん ざざーんざざーん これでもかと砂浜を焼き尽くす太陽。 寄せては返す波が、心を躍らせる。 波の音は心を落ち着けるって言うけど。 まったくもって落ち着かない。 むしろ俺のテンションは上がる一方だ。 今なら、かなでさんの気持ちがわかる。 無意味に海へと駆けだしたい気分だ。 ──以前、何気なく陽菜と話した水着の話題。 それが、具体的に「海に行こう」という計画になったのが昨日。 そして、水着の陽菜が目の前に現れるまで、あとほんの…… 「孝平くん、お待たせ」 「あっ、いや……」 声に振り返る。 水着の上からパーカーを羽織っている。 その姿に、思わず言葉を失った。 いい。 もう死んでもいい。 いや、死んだら陽菜と会えないからやっぱダメ。 「ど、どうしたの?」 恥ずかしそうに、身体を抱えている。 「すごい」 「何が?」 「陽菜が」 「え?」 「思わず、この世に生まれてきた幸せを神に感謝したくなるくらい似合ってる」 「だ、だめだよ」 「そんなこと言われたら、ずっと水着でいたくなっちゃう」 恥ずかしそうにうつむいた。 陽菜との二度目のデート。 海に誘ってよかったとしみじみ思う。 「海に来てよかった」 「できれば、もうちょっとあとの方がよかったかな」 「どうして?」 「ダイエット、間に合わなかったから……」 そう言えば、前にそんなこと言ってたっけ。 「やっぱり必要ないと思うけどな」 「こうやって水着姿見ても、そう思うし」 パーカーがあるから、体のラインがすべて見えてるわけじゃないけど。 陽菜のすべてを見た時を思い出せば…… 「……」 「こ、孝平くん、何を考えてるの?」 じっと俺の目を覗き込んだ。 「いや、何も」 慌てて首を振った。 「あ、パラソル立てておいたぞ」 ごまかすように言う。 「日ざし強いから、とりあえず座って話そう」 「うん」 「さて、どうしよっか」 「孝平くんは、どうしたいの?」 「陽菜と目一杯遊びたい」 「私も、孝平くんといろいろなことして遊びたい」 そう言って、嬉しそうに微笑む。 「あのね、海に行くって言ったらお姉ちゃんがいろいろ持たせてくれたの」 「このバッグの中?」 傍らにある、やたら大きなスポーツバッグを見た。 「うん。私も何が入ってるのか見てないんだけど」 「開けてみようか」 「うん」 ジッパーを開けて中を覗き込む。 「これは浮き輪か」 それから、ビーチボール、水鉄砲、棍棒。 棍棒? 「謎だ」 「あ、たぶんスイカ割り用じゃないかな」 陽菜が、一緒にバッグの中を覗き込む。 「スイカ無いけどな」 「そうだね」 陽菜の柔らかい肩が俺の肩に触れた。 「ぁ……」 驚いたように陽菜の肩が少し離れる。 柔らかい感触が消えた。 「かなでさん、いろんなもの持ってるんだな」 「……オークションで残ったものだと思う」 そう言いながら、陽菜が少しだけ肩を触れさせる。 触れていたい、という意思表示なんだろうか。 「なるほどね」 相づちを打つものの、意識は触れあった場所に集中している。 パーカーの布地に触れてるだけなのに。 どうして俺の気持ちは、昂ぶってしまうんだろう。 「どうしよう……」 俺の耳の近くで陽菜が呟く。 「うん?」 気恥ずかしくて、陽菜の顔が見れない。 バッグを覗いたまま、聞き返す。 「私ね、こうしてるだけで充分かも……」 「俺もそう思う」 「でも、海に来て二人でバッグを覗き続けるわけにはいかないよな」 「そ、そうだよね」 赤く頬を染めながら、陽菜が座り直す。 俺も、バッグから浮き輪を取り出して座った。 「とりあえず、こいつを膨らましてみよう」 浮き輪に空気を入れていく。 「はぁ……はぁ……」 3分の2ほど膨らんだところで、小休止。 これくらいで疲れるとは……どういうことだ? 「だ、大丈夫?」 心配そうに陽菜が聞く。 「俺、肺活量少ないのかな」 「ほら、この浮き輪大きいから」 「きっと普通は道具を使って膨らますんじゃないかな」 「そっか」 バッグにはそんな便利アイテムは入っていないわけで。 「孝平くんが休憩してる間、私が頑張ってみるね」 「ああ、頼んだ」 陽菜に浮き輪を渡した。 「じゃあ……」 吹き込み口に、唇を近づける。 そこでなぜか止まり、ちらりと俺を見た。 「えっと、いくね」 恥ずかしそうに、俺に確認する。 なんで俺の許可が必要なんだろうか。 ……もしかして、俺が口をつけてたからか? 「……いい?」 「ど、どうぞ」 なぜか丁寧語になってしまう。 「ん」 「ふーーー」 「はぁ……はぁ……」 「どうして……なの?」 息も絶え絶えに言う。 パーカーに半分隠された胸が上下している。 「おかしいな」 浮き輪はむしろ小さくなった。 もしかして……。 「ちょっと貸して」 「うん」 浮き輪の蓋を閉めて、手で押してみる。 空気の抜ける音がした。 「やっぱり、穴が開いてるな」 道理で膨らまないはずだ。 「せっかく、二人で頑張ったのに……」 「準備運動だと思えばいいさ」 「そっか……そうだね」 「とりあえず、普通に泳ごうか」 「飽きたらボールでもなんでも気分で選ぼう」 「うん」 陽菜は明るくうなずいて、パーカーを脱いだ。 水着だけになった陽菜が立ち上がる。 夏の日ざしで輝くその姿を見て、くらりと眩暈がした。 一段と魅力的になった気がする。 今の陽菜のためならポセイドンとも互角に戦えるだろう。 「えっと……何か変かな?」 「うん?」 「じっと見てるから」 「いや、変じゃない」 「ほんとかわいいなと思って」 自然と、恥ずかしい言葉を口にしてしまった。 きっと暑さで脳の抑制が利かないのだ。 「も、もう」 「見てるだけで、どきどきする」 「私の方こそ、落ち着かない気持ちに……」 「どういうこと?」 「えっと……そういうこと」 恥ずかしそうに視線を逸らす。 陽菜も、俺を見てどきどきしてくれてるってことか? 「あ、あそこにあるのって砂の城かな」 「孝平くん、行ってみよ」 陽菜が、俺の手を取る。 二人で、海へと歩き出した。 パラソルをたたんでいると、着替えた陽菜が戻ってきた。 「ごめんね、一人で片づけてもらっちゃって」 「気にするな。こういうのは男の役目だろ」 「ううん、ありがとう」 ──ざざーん 夕陽をきらきらと反射しながら、波が静かに打ち寄せる。 「帰る前になんか食べてくか?」 「うん。お腹空いちゃった」 「いっぱい遊んだからな」 「そうだね」 「ちょっと、残念」 「時間、あっという間にすぎちゃった」 寂しそうな顔をした。 「よかった」 「え?」 「それだけ楽しかったってことだろ、それ」 「俺だけ短く感じてたらどうしようかと思った」 「……ありがとう」 「ん?」 「ううん、なんでもないの」 はにかんだ顔が夕日の色に染まっている。 幸せそうな笑顔。 きっと俺も同じくらい、いやもっともっと幸せそうな顔をしてると思う。 視線が絡み合った。 ……どちらからともなく、一歩ずつ近づく。 そして、吸い込まれるようにキスをした。 「んっ」 柔らかな感触。 驚いた顔をした陽菜から、顔を離す。 「ごめん、急に」 陽菜は小さく首を振った。 潮風に柔らかな髪が揺れる。 「私がお礼しなくちゃいけないのに……」 そう言って、そっと唇を重ねてきた。 「ん……」 ──ざざーん そのまま俺も陽菜も、動かなかった。 波が、何度寄せては返しただろう。 突き刺すような日差しもだいぶ傾いてきた。 楽しかった今日の海辺のデートは、この唇を離すのが終わりの合図。 そんなことをちらっと思った。 ……どれくらい、そうしていただろうか。 幸せな余韻だけを残して、そっと俺たちはキスを終えた。 陽菜が一歩離れる時に、鳴き砂がきゅっと鳴る。 「ちゃんと、お礼になってるのかな……?」 恥ずかしそうに呟く。 「ああ、もちろん」 どちらともなく手を握り合う。 夕日色の砂浜に足跡を残しながら、二人で歩き出した。 その日、俺と陽菜は監督生室にいた。 会長たちと、かなでさん歓送会の打ち合せをするためだ。 今日は生徒会メンバーが全員揃っている。 「ばばーんっ!」 「どうだい、俺たちのプランは!」 会長から、やたらと分厚いプリントの束を渡された。 表紙には「極秘」の判子が押してある。 「え……これ、なんですか?」 「だから、歓送会の計画書だよ」 「キミたちが考案したプランを軸にして、ちょっとだけ味つけしてみたんだ」 「……ちょっと?」 東儀先輩が意味深なツッコミを入れる。 絶対、ちょっとじゃないんだ。 まあこのプリントの厚さを見れば、それぐらいのことは予想できた。 「実はまだ、まとまってない部分も多いのよ」 「やりたいことがどんどん増えてきちゃって」 「特にお料理関係は、もうちょっと詰める必要がありそうです」 「ふむ」 「……参加予定人数2500名」 「は?」 俺は陽菜が見ていたプリントを覗き込んだ。 参加予定人数2500名。 確かにそう書いてある。 ていうか、前に言ってた人数より増えてる! 「ど、どーゆーことですか?」 「なんで500人も増えてるかわかんないし」 「2000人も2500人も変わらないじゃないか」 お前は何を言ってるのだ、というような顔で会長は言う。 「悠木姉って、人数多い方が喜びそうだろ?」 「ものには限度というものがあると思います」 「だいたい文化祭もあるのに、同時にこんな規模のイベントなんて無理ですよ」 「んー、無理かなあ」 「なんとかなるんじゃない?」 「あとは予算だな」 「ですね」 まるで動じない面々。 誰かが止めてくれると思ってたのに、なぜかみんなやる気だ。 「あ、あの」 「なんだい? 悠木妹」 「こんなに大規模な会になると、お姉ちゃんに勘づかれてしまう気が……」 「その点、ぬかりはないわ」 「過去にいくつもバレなかった実蹟があるもの」 副会長は誇らしげに胸を張る。 この人が大丈夫だと言うと、本当に大丈夫な気になってしまう。 「でも、こんなのシスター天池がなんて言うか……」 「それは、もう了承済みです」 白ちゃんも誇らしげだ。 「シスターも、かなで先輩のお仕事ぶりは認めていらっしゃいましたから」 「じゃあシスター天池はいいとしても、アオノリが黙っちゃいないだろ」 「青砥先生も、ぜひ参加したいらしいわよ」 「なっ!」 俺と陽菜はたじろいだ。 駄目だ、まるで隙がない。 この人たちは本気を出そうとしている。 「……すごいね」 「ああ……」 いろんな意味で、すごい。 だからこそ、ものすごーーーく心配になる。 「またそんな、心配しなくても大丈夫だって」 「今回の歓送会のテーマは『アットホーム』だから」 「2500人も集まって、どこがアットホームだって言うんですか」 「予定はあくまでも予定だ」 「まあそんなに悪いようにはしないから、安心してくれ」 「はあ」 でないと困る。 俺はため息をついた。 ……まあ、こうなってしまったものはしかたない。 こんなに最強のメンツを味方につけたら、あとは勢いに乗ったまま行くしかないだろう。 「よしっ」 「これからみんなで、力を合わせて歓送会を成功に導きましょう!」 「おー!」 「おーっ」 「おーっ」 陽菜もつられて、拳を掲げる。 その横顔は、どこかワクワクしているように見えた。 夏休み後半になると、歓送会のプランもだんだん明確になってきた。 陽菜が手伝ってくれるおかげで、文化祭の仕事も順調に進んでいる。 デート三昧とはいえない夏休みだったが、それでも陽菜に会えるのは嬉しい。 そして今日も、陽菜と生徒会メンバーたちは監督生室に集まっていた。 ちゃーちゃーちゃちゃちゃー♪ 陽菜の携帯が鳴った。 「もしもし」 「あ、うん。そうだよ」 「今? 今は……えーと……」 「そ、そう! 美化委員の仕事で、うん」 「ごめんね、夕方戻るから。また後で」 「……はぁ」 「どうした?」 「お姉ちゃんからだった」 陽菜は肩をすくめた。 「嘘つくのって、やっぱり胸が痛むね」 「まあな」 「でも、あと一ヶ月ちょっとの辛抱だ」 歓送会は9月末を予定していた。 今のところ、かなでさんに計画はバレてはいない……と思う。 だが、あの人もなかなか勘の鋭い人だ。 陽菜がしょっちゅう外出するのを見て、何も思わないはずがない。 このまま穏便に日々が過ぎてくれるのを祈るばかりだ。 「瑛里華、当日の飾りつけはどうなってる?」 「あー、それは」 「はい、買うものは決まってるのであとは手配するだけです」 「伊織、BGMのセットリストは決まったのか?」 「あ、今プリントアウトしてるので、ちょっと待ってくださいね」 「そうだ白ちゃん。さっき左門堂さんから連絡があったの」 「はい、ケーキの件ですよね」 「うん。サイズのことなんだけど……」 それにしても、陽菜はよく働く。 昼休憩以外は椅子に座ってないんじゃないだろうか。 おかげで俺は文化祭の仕事に集中できる。 東儀先輩も、陽菜のことを何かと頼りにしてるみたいだ。 「いやーしかし、悠木妹がいると助かるな」 「どう? 美化委員なんてやめて、生徒会に来ない?」 「……いや、やっぱ駄目だ。それじゃメイド服姿が見られなくなる」 会長の一人芝居が始まった。 大きな声では言えないが、俺も会長の意見にはほぼ同意だ。 陽菜と一緒にいられるのは嬉しいけど、あのメイド服もなかなか捨てがたい。 「ねー、ところで支倉君たちさあ」 会長は俺と陽菜を見て、スマイルを浮かべた。 「生徒会の仕事ばっかりで、デートとかしてないんじゃない?」 「たまには仕事サボって、どこか出かけてくれば?」 「……はあ」 そんなこと言われても、はいわかりましたとは言えない。 副会長が渋い顔で、会長を見てる。 「あのね、仮にも会長なんだから、サボれとか言わないの」 「だってかわいそうじゃないか」 「そうだ、がんばってる君たちにデート休暇をあげるよ」 「えっ、マジですか?」 「男に二言はない」 そう言って、会長はカレンダーに目をやった。 「えーっと、今週は忙しいから来週……」 「あれ、来週も駄目だな。となると再来週……」 「夏休み終わってますけど」 「あ、ほんとだ」 会長は俺の方をくるりと振り返った。 「というわけで、今の話は忘れてくれ」 「そんなことだろうと思いました」 俺は人知れず、がっくりとうなだれた。 「……会長って、あれですよね」 「日曜日は遊園地に行くって子供と約束して、うっかりゴルフに行っちゃうタイプ」 「なんだいそれは?」 「ただの例え話ですよ」 「支倉、違うぞ」 パソコンのキーボードを叩きながら、東儀先輩が言う。 「遊園地もゴルフも両方行く。それが伊織だ」 「……なるほど」 さすが付き合いが長いだけある。 会長は、自分が楽しむことに関してはとことん欲張る人だった。 「まあでも、確かに私たち、悠木さんに頼り過ぎよね」 「支倉くんはともかく、悠木さんは少し休んだ方がいいと思うわ」 「ううん、私は大丈夫」 作業の手を休めず、陽菜は答える。 「準備するのは楽しいし、ぜんぜん疲れてないから」 「でも……」 「お姉ちゃんのことは、あんまり手を抜きたくないの」 「だから、気にしないで?」 「……そう」 「姉思いなのはいいけど、倒れない程度にね」 「うん」 仕事が一段落し、俺と副会長はゴミ捨て場へとダンボールを運んでいた。 「ねえ、支倉くん」 「ん?」 「悠木さん、大丈夫?」 「ちょっとがんばりすぎじゃない?」 副会長は心配そうに言う。 それは、俺も少し気になっていたところだ。 「でも、陽菜って自分が納得するまでやっちゃうタイプだからさ」 「うーん、そうねえ」 「……悠木さんって、昔からそういう性格だものね」 「昔?」 「あー、昔っていうか、去年からの話だけど」 「すごく真面目で一生懸命よね、彼女」 「ああ」 「特に、かなでさんのことになるとな」 陽菜は、誰よりもかなでさんの幸せを願ってる。 時として、自分を犠牲にしてまでも。 「……でも」 「支倉くんがいてくれてよかったと思うわ」 「何が?」 「悠木さんのこと」 「今までずっとがんばってきて、これからもがんばり続ける人だから……」 「彼女には、支えが必要なのよ」 ゆっくりと、自分に言い聞かせるように言う。 まるで家族を案じるような、温かいまなざしだった。 「その支えが、支倉くんでよかったって言ってるの」 「彼女、あなたと付き合ってからすごくいい顔してるわ」 「ホントか?」 「ええ」 「恋をすると女の子はキレイになるって、本当なのね」 副会長は微笑んだ。 「支倉くん、お願いだから、悠木さんを幸せにしてあげてね」 「もし泣かせたら、ただじゃおかないから」 「かなでさんみたいなこと言うなあ」 「私だって本気よ?」 「どれくらい本気か、今見せてあげてもいいけど」 そう言って、副会長はキラリと牙を光らせた。 全身に戦慄が走る。 「……わかってるよ、俺も」 俺だってちゃんとわかってる。 陽菜は今まで、誰よりも悲しい思いを抱えてきた。 それなのに、自分の幸せはいつも後回しだ。 だからこそ、俺はもっと陽菜を幸せにしてやりたいと思う。 その気持ちはきっとみんな一緒なのだ。 俺だけじゃなく、副会長もかなでさんも。他のみんなだって。 ……。 歯がゆい。 俺は、ただ陽菜の隣にいるだけだ。 なのに、陽菜を支えてるだなんて言えるのだろうか? 夏休みも残りあと3日。 生徒会は、相変わらず慌しい日々が続いていた。 「瑛里華先輩、パンフレットの校正お願いします」 「はいはい、ちょっと待ってね」 「征一郎さん、広告スペースはこれで全部埋まった?」 「あと一つ、待ちがある」 「うーん困ったわね。間に合わないかもしれないわ」 「オーケー。とりあえずそれは後にしよう」 「今ある分だけでいいから、印刷所に回してくれ」 「わかりました」 文化祭まで約二週間。 準備もいよいよ大詰めを迎えていた。 みんなが文化祭にかかりきりになる一方、陽菜は歓送会の準備を進めている。 料理の注文や、照明機材の手配。 各テーブルに飾るアレンジメント等々。 さすがに2500人は招待しないが、それでもかなりの人数だ。 その日都合がつく寮生のほとんどが参加表明することだろう。 この大イベントを取りまとめるのは、かなり骨の折れる仕事だ。 「陽菜、こっちの仕事が終わったら、それ手伝うからな」 「うん。でも、大丈夫」 「あともう少しでメドがつくから」 陽菜はいつものように、笑顔で答える。 無理をしているようには見えないが、やはり心配だ。 寝不足なのか目も赤い。 部屋に帰ってからも、だいぶ根を詰めて作業してるのだろう。 「手伝いが欲しかったら、いつでも言ってくれ」 「ふふ、ありがとう」 「でも、孝平くんは文化祭のお仕事がんばらないと」 そう言われてしまうと、何も返せなくなる。 「ちょっとプリンターのトナーもらってくるね」 「あ、じゃあ俺が……」 「行ってきます」 小走りに監督生室を出て行く。 俺は、引き留めかけた手を引っ込めた。 「今日もがんばるわね、悠木さん」 「うん」 「大丈夫よ」 副会長は、ぽんと俺の肩を叩いた。 「彼女の気の済むまで、がんばってもらえばいいじゃない」 「……あれ? 前はもっと心配してたくせに」 「考え方を変えたの」 そう言って、腰に両手をあてる。 「彼女、きっと何か思うところがあるんでしょう」 「今をがんばることでしか、それを昇華できないんだわ」 「……」 わかるようで、わからない。 もう少しで手が届く感触はあるのだが。 「だったら、今あなたにできることは一つだけ」 「そばにいて、見守ること」 「……見守るだけじゃ、歯がゆいんだよ」 「なんかしてやらなきゃって思うんだ」 思わず本音が出てしまった。 副会長はしばらく黙ったまま、俺を見つめていた。 「……私、あまり偉そうなことは言えないけど」 「黙って見守るのって、けっこう大変なことだと思うわ」 「相手を信用してなきゃ、できないことだもの」 俺は顔を上げた。 相手を信用してなきゃ、できないこと。 その言葉が、妙に胸へと突き刺さる。 「ごめんなさいね、勝手なこと言って」 「とにかく今は、文化祭の仕事に専念しましょう」 「それが終われば、みんな歓送会の仕事に全力投球できるから」 「ああ……そうだな」 俺はうなずいた。 副会長の言う通りだ。 今はとにかく、目の前の仕事に集中しなければ。 自分のことをしっかりやって初めて、陽菜を支えてやることができるのだ。 結局、その日の仕事が終わったのは夜7時。 学食で夕飯を食べ、寮に着いた頃にはもう8時を過ぎていた。 「じゃあ、また明日ね」 「お疲れ様。ゆっくり寝ろよ」 「うんっ」 手を振り、女子フロアへと去っていく。 きっと明日も寝不足の目で現れることだろう。 俺も早く、文化祭の仕事を片づけなければいけない。 ……だがその前に、夏休みの課題だ。 「さて……と」 目の前には、ため込んだ夏休みの課題がある。 陽菜に力を借りたいところだが、さすがにそこまでは甘えられない。 まずは簡単そうな古典からいくか。 ……。 嘘です。ぜんぜん簡単じゃありませんでした。 これは明日やろう。 次。化学。 ……。 これもパス。 俺は頭を抱え込んだ。 どうして計画的に片づけてこなかったんだ、俺。 ガタガタッ 「……?」 その時、ベランダの方で物音がした。 椅子から立ち上がり、窓を開ける。 「おいっす」 「……おいっす」 非常用はしごを使って降りてくるかなでさんと、目が合う。 「何度も言いますけど、どうして玄関から来ないんですか」 「何度も言うようだけど、面倒なんだもん」 至極まっとうな答えだった。 「ちょっとそこ、どいて」 「?」 言われた通りにどくと、かなでさんはブラブラとはしごを揺らし始めた。 「ちょ、ちょっと何を」 「とあーーーっ!」 どすっ! 反動をつけ、アクロバティックなジャンプで部屋の中に着地する。 まさに、野生児。 俺は思わずパチパチと拍手をしていた。 「どう? すごくない?」 「めちゃめちゃすごいです」 「でも、床に響くんでやめてください」 「すいません」 ぺこりと頭を下げてから、かなでさんはその場に正座する。 「どうぞおかまいなく」 「はあ」 本当におかまいなかったら怒られそうだ。 俺は常温で放置してあったペットボトルのお茶を手渡した。 「わぁ、ありがとう♪」 「……ぬるっ!」 「文句言わないでください」 「なんだいなんだい、紅茶の淹れ方練習してたんじゃなかったの?」 「だからこそです。中途半端な腕前を披露なんかできませんよ」 「ところで、今日はどうしたんですか?」 「うん。ひなちゃんのことなんだけどさあ」 お茶をグビグビ飲んでから、かなでさんは続ける。 「最近みょーに帰りが遅くて、お姉ちゃんは心配してるわけよ」 「……っ」 見透かすような目で、かなでさんは俺を見る。 ここでバレるわけにはいかない。 俺は必死にポーカーフェイスを作ってみせた。 「すみません、俺のせいです」 「今、陽菜に文化祭関係の仕事手伝ってもらってて」 「あー、そうだったんだ」 「はい」 「備品のチェックとか、なかなか一人じゃこなしきれないんですよ」 「それでつい、陽菜に甘えちゃいました」 まあ、嘘ではない。 陽菜のおかげで、文化祭の仕事がスムーズに運んでるのは確かだ。 「そっか。それならいいや」 「わたしはてっきり、こーへーが夜の繁華街を連れ回してるのではないかと……」 「んなわけないじゃないですか」 「だよね。それはわかってるんだけどさ」 「最近、姉妹のコミュニケーションが少なかったから、寂しかっただけ」 かなでさんは肩をすくめた。 「で、どう?」 「キミらはうまくいってるわけ?」 「それは、まあ」 俺はうなずいた。 もちろん、うまくいっている。 ケンカもないし、ギクシャクすることもない。 話すことだっていっぱいある。 恥ずかしい言葉でいうなら、ラブラブというヤツだ。 ……。 でも。 「……あの」 「ん?」 「どうして、陽菜は……」 「どうして自分が幸せになることを、遠慮してるんでしょうか?」 「……」 かなでさんは真面目な顔で、俺を見た。 俺がずっと引っかかっていた疑問。 俺と陽菜の間にある、薄い壁。 その壁は、厚さで言うならプレパラートのガラス程度だ。 だが、俺はどうしてもその壁を打ち破ることができない。 「すみません」 「こんな抽象的な質問しても、よくわかんないですよね」 「ううん」 かなでさんはゆっくりと首を振る。 「わかるよ、こーへーの言ってること」 「たぶん、ひなちゃんは」 「まだ、お母さんのことを……」 「お母さん?」 「……っ」 じっと、床を見つめている。 今まで見たこともないような、思いつめた表情だった。 「やっぱり、なんでもない」 「えっ」 「でも、何か心当たりがあるんじゃないんですか?」 「うまく言えない」 「なんて説明したらいいか、わからないんだ」 「……」 どういうことなんだろう。 かなでさんはとても言いづらそうにしている。 「でも、それじゃ俺だって、もっとわからないですよ」 「……そうだよね」 「こーへーには、本当に申し訳ないと思ってる」 「ひなちゃんが立ち直ってないのは、全部わたしのせいなんだ」 かなでさんは、顔を上げた。 「……わたしのせいなのに」 「こーへーがこの島に戻ってきて、ひなちゃんと付き合うことになって……」 「それでずっと、安心しちゃってたのかもしれない」 そう言いながら、かなでさんは立ち上がった。 「こーへー、お願い」 「ずっと、ひなちゃんのそばにいてあげて」 「ひなちゃんの前から、いなくなったりしないで」 「かなでさん……」 「ひなちゃんが本当に心を開くのは、こーへーだけだと思うから」 「……ごめんね」 そう言い残して、かなでさんははしごを上っていった。 ……。 俺はぼんやりと、外を見つめる。 かなでさんと陽菜の間には、まだ俺の知らない何かがある。 かなでさんは、それを口にはしなかった。 おそらく── 自分の口から言うことではないと、判断したからだ。 「……」 俺はずっと、壁を感じたまま陽菜と付き合っていくのか。 そんなのは嫌だ。 陽菜に、話してほしい。 すべてを打ち明けてほしい。 でも、それは俺が強要することではないのだ。 陽菜自身が、話す気にならなければ── 「剣道部伝統の味、たこ焼きはいかがですかーっ?」 「本日限定チョコ焼きそば、あと10食ですよーっ!」 「タイムサービス! りんご飴が今ならなんと50円!」 夏休みが終わり、あっという間に文化祭当日がやって来た。 校庭は、各部活動による出店でにぎわっている。 生徒会の宣伝活動の甲斐あってか、かなりの人出だった。 家族連れやカップル、それに理事会関係のお偉方。 中にはナンパ目当ての他校生もいる。 いろいろな人々が、この大イベントを楽しんでいるように見えた。 「支倉くんっ」 校庭に設けられた運営テントから、副会長が俺を呼ぶ。 「ミスコンの準備、どう?」 「ほとんど終わってる。あとは決勝メンバーたちを集めるだけだ」 「今、会長が最終チェックに向かってるところ」 「そう。ばっちりね」 「じゃあ、キリのいいところで休憩取っていいわよ」 「副会長は休憩取ったのか?」 「ううん」 「先に休憩入れよ。ここは俺が見てるから」 「いいわよ。必要ないし」 こともなげに副会長は答える。 「あなたこそ、休めるうちに休んでおいた方がいいわよ」 「私や兄さんとまともに付き合ってると、まず体力持たないから」 「……なるほど」 副会長は、人間と吸血鬼の違いについて言っているのだろう。 ここ最近徹夜続きだったにも関わらず、確かに千堂兄妹は元気だ。 単に、疲れを見せないようにしてるだけなのかもしれないが。 「じゃあお言葉に甘えて、少し休むよ」 「でもそのあとは、副会長が休憩取る番な」 「私はいいんだってば」 「そうは言いつつ、気になってるだろ?」 「茶道部主催のスイーツバイキング」 「ぐっ」 やはり図星だ。 甘いモノが嫌いな女の子なんて、そうそういない。 「そ、そんなことはいいのよ」 「それより、早く悠木さんのところに行ってあげなさい」 「陽菜、今どこにいるんだ?」 ミスコンの準備をしつつ、ずっと陽菜を探していたのだ。 確か午前中は、副会長の仕事を手伝っていた。 そのあとは、歓送会の準備も進めていたように思う。 昼飯を一緒に食う時間もなく、今に至る。 「今は、美化委員の方を手伝ってるわ」 「大盛況で人手が足りないみたい」 「……マジか」 そんなに仕事を掛け持って大丈夫なのか。 さすがに不安になってくる。 「ちょっと様子見てくるよ」 「そうしてあげて」 「あとついでに、おから抹茶ドーナツ買ってきて」 「百人一首部の?」 「そう」 「……了解」 「何ニヤニヤしてるのよ」 「言っとくけど、私のじゃなくて白の分だからねっ」 「わかってるよ」 副会長に睨まれながら、俺は走り出した。 「1年2組、オカルト喫茶はこちらでーす!」 「いらっしゃいませ〜! ゲテモノキッチンへようこそ!」 校舎の中もすごい活気だ。 中には行列を作っている店もある。 すでに「完売」の看板を出している店もちらほらあった。 「美化委員によるメイドカフェ、最後尾はこちらでーす!」 「ただいま40分待ちとなっておりまーす!」 ……えっ? 人だかりの向こうで、メイド服姿の女子が叫んでいる。 俺は人混みをかきわけ、美化委員の教室を覗き込んだ。 「お客様! ちゃんと並んでいただかないと!」 「えっ、いや、俺は」 「あっ、支倉先輩!」 「すみません! 悠木先輩の彼氏に、なんて失礼なことを!」 「悠木せんぱーい、彼氏がいらっしゃってますよー!」 「そ、そんなデカい声で……」 案の定、周囲の人々が俺に注目する。 くすくすと笑い声が聞こえてきた。 ものすごく恥ずかしい。 「孝平くん?」 しばらくしてから、トレーを持った陽菜が現れる。 「よう」 「来てくれたんだ。ありがとう」 「でも、ごめんね。ゆっくりおもてなししたいんだけど……」 店内は大混雑だった。 メイド服姿の女子たちが、慌しく店を切り盛りしている。 美化委員のユニフォームが、こんなところで役立ったわけだ。 「いや、いいよ。ちょっと様子見に来ただけだから」 「それより陽菜……大丈夫か?」 「え?」 「朝からずっと働きっぱなしだろ?」 「昨日だってほとんど寝てないじゃないか」 「うん、でも大丈夫」 「忙しい方が、逆に疲れないみたい」 そんなことを、笑顔で言う。 「歓送会の準備も、もうほとんど終わりそうだよ」 「なんとか間に合いそうでよかった」 「……」 「じゃあ、後で会おう」 「後夜祭が終わったら、監督生室で」 「うん」 「悠木先輩、アップルパイ焼き上がりました〜っ」 「はーい、今行きます」 「それじゃ、仕事戻るね」 「ああ」 陽菜はぱたぱたと教室に戻っていった。 副会長たちに負けず劣らず、陽菜は元気だ。 少なくとも、表面上はそう見える。 「えー、生徒会より業務連絡〜」 「5年3組の支倉孝平君、至急講堂に来てくださーい」 げっ、俺だ! 後ろ髪引かれつつ、教室をあとにした。 「みんなー! 楽しんでるかーっ!」 「今夜はオールナイトだっ!」 校庭の真ん中には、大きなファイアーストーム。 それを囲むようにして、生徒たちが大きな輪を作っている。 二日間に渡る大イベントが、幕を下ろそうとしていた。 今日ばかりは、多少ハメを外しても無礼講だ。 この後夜祭が終わったら、あちこちで打ち上げが行われるのだろう。 「おう、孝平」 「お疲れ」 「今から特設ステージで、鉄人がマグロ解体ショーをやるらしいぞ」 「ホントかよ」 「お前、行かないのか?」 「……いや、いい」 「疲れすぎて食欲がわかねえ」 「そうか」 「じゃあ、行ってくるわ」 「健闘を祈る」 司は親指を立ててから、特設ステージへと駆けていく。 さてと。 撤収作業が始まるまで、とりあえず仕事はない。 俺は本敷地へと歩き出した。 誰もいない監督生室。 今朝もギリギリまで作業していたので、かなり散らかっている。 テーブルの上だけ片づけ、買っておいたコーラを並べた。 「ふう……」 遠くの方から、フォークダンスの音楽が聞こえる。 俺は一人でぼんやりと、祭りの余韻に浸っていた。 今年の文化祭は、大成功だった。 なんでも、学院創立以来の来校者数だったらしい。 休み返上でがんばってきた甲斐があったというものだ。 コンコン 「孝平くん?」 「おう」 しばらくすると、陽菜がやって来た。 「ごめんね、待たせちゃった?」 「ぜんぜん」 走ってきたのか、前髪が全開だ。 なぜか大きな紙袋を抱えている。 「これね、百人一首部のドーナツ屋さんで買ってきたの」 「孝平くんと一緒に食べようと思って」 「じゃあ、コーラで乾杯しようぜ」 「うんっ」 さっそくテーブルに紙ナプキンを敷き、ドーナツを並べる。 紙コップにコーラを注ぎ、二人きりの打ち上げのスタートだ。 「それじゃ、乾杯」 「乾杯」 紙コップを打ちつけ合う。 コーラはすっかり温くなってしまったが、そんなことは問題じゃない。 陽菜とこうやって会うのは、ずいぶん久しぶりなことのように思える。 実際は、毎日のように会っていたのだが。 「……はぁ」 「やっと落ち着いたって感じだね」 「ああ。これでしばらくはゆっくりできるだろ」 「歓送会の準備もほとんど終わってるし」 「そうだね」 「あとは、歓送会の日を待つだけかぁ」 「今まで、本当にお疲れ」 「陽菜ばっかりに負担かけてごめんな」 「ううん、そんなことないよ」 「私もみんなと作業できてすごく楽しかったし」 「それに、孝平くんとも毎日会えたし」 「毎日すごく楽しくて、すっごく幸せで」 「本当に、私ばっかりこんなに幸せでいいのかなって……」 「ずっと……思ってて……」 「……」 ガタンッ 「陽菜っ?」 突然、陽菜がその場に崩れ落ちた。 糸が切れてしまったかのように、その場に座り込んでいる。 「陽菜っ、どうした?」 俺は慌てて、陽菜のもとに駆け寄った。 肩を掴んで揺すると、陽菜はぼんやりとした顔をこちらに向ける。 「ぁ……」 「ご、ごめん……私……」 「気分でも悪いのか?」 「どっか痛むか? 苦しいところは?」 心臓が早鐘を打つ。 突然のことで、俺も軽くパニック状態だ。 掴んだ肩が、わずかに震えている。 「……大丈夫」 「なんか、文化祭終わったら、安心して……」 「ちょっと気が抜けちゃっただけ」 そう言って、弱々しい笑顔を浮かべた。 胸をぎゅっとわし掴まれるような感覚。 陽菜は今まで、どれほど気を張ってきたのか。 そんなことを知らしめられるような、痛々しい笑顔だった。 「ご、ごめんね、急に」 「謝らなくていい」 「でも、迷惑かけちゃって……ほんとに、ごめん」 「もう謝らなくていいんだ」 「頼むから……」 俺は陽菜を抱きしめた。 いや、抱きしめることしかできなかった。 「孝平くん……」 「なんでそんなに、一人でがんばっちゃうんだよ」 「大丈夫とか言って、ぜんぜん大丈夫じゃないくせに」 「一人でいろんなこと抱え込んで、押し潰されそうなくせに……」 俺は陽菜に、もっと頼ってくれと言った。 でも陽菜は── 一人で抱え込むことを選んだ。 俺はその決断を、決して責めているわけではない。 それも陽菜の意志だから。 自分の感情を、外に出すことが苦手な性格だから。 陽菜なりに、何か考えがあってのことだと思うからだ。 ……。 じゃあ、俺はいったい何がやるせないんだろう。 こんなに、陽菜のそばにいるのに。 こんなに強く抱きしめているのに。 俺は陽菜になれないし、陽菜も俺にはなれない。 どうしたって二人は、同じにはなれないのだ。 一番近い他人だから。 だからこそ、もどかしくてやるせないのだ。 「私……抱え込んでなんかないよ?」 「ただ、お姉ちゃんに喜んでもらいたいだけ」 「お姉ちゃんが幸せになることが、私にとって、一番の……」 「病気だった時のこと、まだ気にしてるのか?」 「……えっ?」 「かなでさんから聞いた」 「子供の頃、陽菜は重い病気を患っていたって」 「その病気が原因で、二人はしばらく仲が悪かったってことも」 「お姉ちゃんが言ったの……?」 陽菜は驚いたように俺を見た。 「ああ、そうだ」 「かなでさんは、陽菜が両親を独り占めしてるのが許せなかった」 「陽菜は、健康で元気に振る舞うかなでさんが妬ましかった」 「……っ」 「でも、もうわだかまりは解けたんだろ?」 「なのに、いったい何を気にしてるんだ?」 「お母さんのことは……?」 「え?」 「お姉ちゃん、お母さんのこと言ってた……?」 陽菜の目をじっと見つめる。 長いまつげが震え、たちまち瞳が潤んでいく。 「たぶん、ひなちゃんは」 「まだ、お母さんのことを……」 「……詳しいことは聞いてない」 「とても言いづらそうにしていたから」 「そっか……」 陽菜は小さく息を吐いた。 ──お母さんのこと。 俺は、今まで陽菜から両親の話を聞いたことがない。 両親のことも病気のことも、陽菜は話そうとしなかった。 陽菜は自分のことになると、とたんに口をつぐんでしまう。 いつだってそう。 自分に関することは、いつだって後回しなのだ。 「……私ね」 「幸せになっちゃいけないの」 ゆっくりと、陽菜は言葉を紡ぐ。 「本当は、幸せになる権利なんてないの」 「……」 俺は陽菜の両肩に手を置き、次の言葉を待った。 「私ね、子供の頃、血小板が減少する病気にかかったんだ」 「ある日突然出血して、そのまま入院して……」 「しばらく学校に通えなかった」 「お母さんとお父さんは、私にずっとつきっきりだった」 そこで陽菜は、言葉を切った。 俺には、涙がこぼれるのを必死にこらえているように見えた。 「私は、元気なお姉ちゃんがずっと羨ましかった」 「羨ましくて妬ましくて、仲良くなんてできなかった」 「でもある日、お姉ちゃんがお見舞いに来てくれて、ようやく仲直りして……」 俺はふと、かなでさんの言葉を思い出した。 「ひなちゃんと朝まで、ずっと手をつないで寝たんだ」 「窓から見えた朝焼けがすごくキレイで……」 「わたし、あの時初めて、ひなちゃんを守らなきゃって思った」 「ここまでは……お姉ちゃんから聞いた?」 「ああ」 「そっか」 「……でもね、まだ続きがあるんだ」 陽菜は、ぎゅっと拳を握り締めた。 「半年間入院して、病気は完治したの」 「でもね、私の病気が治ったのとひきかえに……」 「お母さんが……」 「お母さんが、脳梗塞で死んじゃったの」 「え……っ」 陽菜はまつげを伏せた。 爪が食い込んでいるのか、強く握り締めた拳が赤くなっている。 「……知ってる? 脳梗塞って、過労やストレスで発症するんだって」 「私のせいなの」 「ずっと私の看病をしてたから、お母さんが死んじゃった」 「私が、お母さんを……っ」 「陽菜っ」 俺はもう一度、陽菜を抱きしめた。 それ以上は言わないでほしい。 言ってほしくなかった。陽菜の口から、そんな言葉は。 「私ね、お姉ちゃんとお父さんから、お母さんを奪ってしまったの」 「だから、私が幸せになっちゃいけないの」 「幸せになる権利なんか……ないの……」 「違う」 「違うって、絶対」 俺は、陽菜の家族のことも病気のことも、何も知らないけど。 それだけは絶対に違う。 陽菜のせいなんかじゃない。 誰のせいでもない。 ……。 そうだ。 陽菜をずっと縛りつけていたのは、この思いだ。 母親が亡くなってから、陽菜はずっと自分を責め続けてきたのだ。 かなでさんと父親から、母親を奪ってしまったのは自分。 だから自分が幸せになることなんて、最初から望んじゃいなかった。 「これ以上の幸せを望んだら、神様に怒られちゃう」 「私は、こうして毎日元気にしていられるだけで十分」 「……私、こんなに幸せでいいのかな?」 「こんなに毎日楽しくていいのかな、って思う時があるの」 ずっと陽菜は、自分が幸せになることに遠慮してた。 俺と付き合ってからも、どこかで迷いを抱いていたのだろう。 それは罪悪感だ。 幸せになる権利がないから。 いつもどこかで、自分自身を抑えつけていた。 ……。 そんなの、違うだろ。 誰もそんなこと望んでない。 みんな、陽菜が幸せになることを望んでいるはずだ。 俺はどうにかして、その事実を陽菜に伝えたかった。 「……陽菜はこの先もずっと、そうなのか?」 「幸せにならないように、ずっと生きていくのか?」 「……」 「それで本当に、かなでさんが喜ぶと思ってるのか?」 陽菜は、小さく息を呑んだ。 自分だって、わかっているはずだ。 かなでさんが誰よりも、陽菜の幸せを祈っているということ。 姉として……時に親として、陽菜を見守っていたということ。 そんなの、陽菜自身が一番わかっていることだろうに。 「かなでさんは、自分が悪いんだって言ってた」 「陽菜が幸せになることを遠慮するのは、自分のせいだって」 「違うっ」 「そう思うなら、かなでさん本人に言わなきゃ駄目だ」 「俺に言ったって、陽菜の罪の意識はなくならない……きっと」 そう言うと、陽菜はわずかに首を振る。 「それは……違うよ」 「私は、救われたいなんて思ってない」 「ううん……救われちゃ駄目なんだよ」 「でなきゃ、どうやってお姉ちゃんに償えばいいかわからないものっ」 「陽菜……」 それは、むき出しの本心だった。 偽りのない陽菜の気持ち。 今、ようやく陽菜に触れることができたような気がした。 ……。 やっと、近づけた。 陽菜の深淵に辿り着けた。 今までより、ずっとずっと深いところに── 「……罪を償おうなんて、思う必要ないよ」 「だって、それは罪ですらないじゃないか」 俺の言葉は、陽菜に届くだろうか。 かなでさんの思いは、陽菜に届くだろうか。 そう思いながら、小さく震える陽菜の手を握り締める。 「かなでさんは、陽菜が立ち直れないのは自分のせいだと思ってる」 「でも陽菜は、立ち直らないことが贖罪だと思ってる」 「……そんなの変だろ。誰も幸せになれないよ、このままじゃ」 「でも……」 陽菜はうつむいた。 さまざまな思いが交錯して、考えがまとまらないのだろう。 「陽菜がもし、このまま動かなかったら……」 「かなでさんはずっと、自分を責め続ける」 「それでもいいのか?」 「……嫌。嫌だよ、そんなの」 「だったら、動かなきゃ」 「6年前、俺にそうしてくれたみたいにさ」 「……?」 陽菜はゆっくりと顔を上げた。 「確か前にも言ったよな。俺が無実の罪を着せられた時のこと」 「あの時、浅い友達付き合いしかしてこなかった自分がすげえ嫌になった」 「でもって、もう誰も信じない、誰にも期待しないって思ってた」 「だけど……」 「私は違う。私はずっと友達だよ」 「離れていたって、友達でいられるんだから」 「これから毎月15日、孝平くんに手紙を書くよ」 「もし返事をくれたら、嬉しいな」 「落ち込んでた俺に声をかけてくれたのは、陽菜だった」 「陽菜が友達でいようって言ってくれたから、俺はクサらずに済んだ」 「あの時陽菜が動いてくれなかったら、俺は今でも卑屈なままだったと思う」 「俺が立ち直ったのは、陽菜が動いてくれたからなんだよ」 俺はあの時の気持ちを、この先ずっと忘れない。 唯一、俺に味方してくれた陽菜の勇気。 ずっと友達でいようと言ってくれた優しさ。 例え、あの頃の記憶が陽菜にはなくても。 今も昔も、陽菜が陽菜であることに変わりはない。 「……陽菜。もう一度聞くよ」 「本当に陽菜は、自分が幸せになっちゃいけないと思うのか?」 「それは……」 「じゃあ、どうして俺の告白を受けてくれたんだ?」 「不幸になるためか?」 「違うだろ?」 「……っ!」 それは陽菜が、心のどこかで幸せになりたいと願ったからだ。 そうだろ? 陽菜……。 ……残像のような記憶。 名前も思い出せない同級生たちの声。 頭の引き出しにしまっておいたはずの一場面が、ぼんやりと蘇る。 「これ、支倉が割ったとこにしようぜ」 「支倉?」 「だってあいつ、もうすぐ転校するんだろ?」 「俺らのことなんて、どーせすぐ忘れるんだろーしさ」 ──ああ、そうだ。 きっと私はあの時、彼らがガラスを割ったのを見ていた。 同時に、肩を落として佇む孝平くんも見ていたのだろう。 その時、私は……。 ……。 私は。 孝平くんのことが好きだった。 はっきりとは思い出せないのに、確信だけはあった。 身体のどこかにいるかつての私が、訴えかけてくるようだった。 私は昔から孝平くんが好きなんだよ、って。 きっと、そのころの私は想いを伝えられなかったのだと思う。 だからその代わりに、孝平くんに文通を申し込んだ。 ずっとつながっていたかったから。 そうだ。 そうに違いない。 ……。 ねえ、孝平くん。 あの時の私と、今の私はきっと同じ気持ちだ。 あの時の私も、とても意気地なしだった。 文通しようって言うだけで、精いっぱいだった── なのに。 それでも孝平くんは、「陽菜に救われた」と言ってくれた。 私が動いたから。 私がつながることを望んだから。 意気地なしだった私の、ほんの少しの勇気で。 ……。 孝平くん。 お姉ちゃん。 私、どうなりたいのかな? 幸せになる権利がないと思う一方で、どうしてこんなに孝平くんを求めるの? どうして好きな気持ちを抑えることができないの? 私── 幸せになることを、受け入れたいのかな。 受け入れて、まっすぐに認めて。 あの頃のように、言い出せなかったことを後悔しないように。 「なぁーに言ってるのかね、この子は」 「わたしは、ひなちゃんが幸せならそれでいーの」 ……お姉ちゃん。 うまく話せるかどうか、自信はないけど。 私は、私よりもお姉ちゃんが幸せになることを祈ってる。 その気持ちに、変わりはない。 お姉ちゃんを悲しませたくない。 だからこそ、言わなくちゃいけないんだよね。 私の言葉で。 「……私の言葉で」 「ちゃんと伝えなくちゃ、駄目なんだよね」 そうつぶやくと、孝平くんは穏やかな笑顔を浮かべた。 とても、懐かしい笑顔。 ──そう。 私、孝平くんの笑顔を見るのが好きだった。 そのことを、ずっとずっと言おうと思ってたんだよ。 ずいぶんと時間が経ってしまったけど。 あの頃からずっと。 今でも……。 9月も残りあと二日。 かなでさんが寮長でいられるのは、今日と明日を残すのみだ。 そして歓送会は、いよいよ明日の夜。 陽菜のおかげで準備はほぼ完了していた。 あとは最後までバレないように、こっそりと当日の用意をするだけだ。 「はいはーい、次はこちらのぬいぐるみ!」 「知る人ぞ知る珠津島のイメージキャラクター、パル子ちゃんっ」 「レア中のレア! 今しか手に入らないよ〜っ」 「100円!」 「150円!」 「……500円」 「はい、売った!」 談話室では久しぶりにオークションが開催されている。 主に文化祭で使用したグッズを売っているようだ。 こんな光景を見るのもこれで最後。 かなでさんの退任が、だんだん実感として湧いてくる。 ……明日、か。 長かったようで、短かったなと思う。 まだ9月だけど、きっと卒業式もあっという間なんだろう。 「悠木先輩、はりきってるわね」 オークションを見ていた副会長が、ぽつりと言う。 「まあ、最後だからな」 「寂しくなるわ」 「ああ」 明日でお別れというわけでもないのに、妙にしんみりしてしまう。 「……さてと」 「そろそろ明日の飾りつけを始めたいところね」 「だな」 俺と副会長は、目と目を合わせた。 かなでさんには、歓送会の準備を気取られてはいけない。 飾りつけなどを円滑に進めるためにも、かなでさんを会場から離す必要がある。 だいたい消灯時間ぐらいまで身柄を拘束できれば、あとはなんとかなるだろう。 「飾りつけは私たちに任せて」 「悠木先輩の誘導、頼んだわよ」 「了解」 あらかじめ作戦は考えてある。 俺はかなでさんの方へと歩き出した。 「かなでさん」 「あ、こーへー!」 「ねえ見て見て! 今日の売上げ、過去最高だよっ」 カゴの中には大量の小銭が入っている。 なかなかどうして、けっこうな額になりそうだ。 「これで加湿器買えるかな?」 「冬になると、談話室って乾燥するんだよね」 「安いのならいけるんじゃないですか」 「そっかぁ〜、よかった」 オークションが終わり、生徒たちがぞろぞろと談話室を後にする。 そんな彼らを見送るかなでさんは、ほんの少しだけ寂しそうだ。 寮長でいられる残り少ない時間を、噛み締めているのだろう。 「かなでさん、今からお茶会しません?」 「へ?」 かなでさんは驚いたように俺を見上げた。 「今からって、もうけっこうな時間だよ?」 「いいじゃないですか、たまには」 「それに、スペシャルゲストもいることだし」 「すぺしゃるげすとぉ?」 俺は笑ってうなずいた。 歓送会は明日の夜。 それまでに、どうしても乗り越えなくてはならないことがある。 「お帰りなさい」 「あれっ? ひなちゃん?」 部屋に帰ると、陽菜が俺たちを出迎えた。 「もしかして、スペシャルゲストってひなちゃんのことだったの?」 「まあ、そういうことです」 「あはは、なーんだそっかぁ」 「わたしはてっきり、かっこいいメンズでも紹介してくれるのかと……」 「はは、そんなこと期待してたんですか?」 「おうとも!」 「だったらいつでも紹介しますよ」 「八幡平司ってヤツなんですけど」 「あっ! ミドリヤのパンプキンパイがあるーっ」 豪快にスルーされた。 「お姉ちゃんに食べてもらおうと思って、とっといたんだよ」 「いや〜ん嬉しい〜っ」 「でもこんな時間に食べたら太っちゃう〜かなで困っちゃう〜っ」 「じゃあ、代わりに俺が食べようかな」 「いただきますっ」 ぱくっ。 「……ひとくちでいきますか」 「だってお腹空いてたんだもん」 「あー今日もよく働いたっ」 満足げな様子で、かなでさんは笑った。 陽菜はゆっくりと紅茶を淹れる。 部屋に漂うアップルティーの匂い。 俺は陽菜の隣に座った。 「……」 軽い緊張が伝わる。 平静を装っても、かなり葛藤しているはずだ。 微妙に震える手つきが、陽菜の迷いを物語っていた。 「……そういえば、えりりんたちは?」 「せっかくだから呼ばない?」 「あー、えっと……」 「副会長たちは、まだ生徒会の仕事があるみたいです」 「ふーん」 「じゃ、へーじは?」 「あいつはバイト」 「あー、そっか」 「それならしょーがないね」 「はい」 しばし、沈黙。 陽菜はティーポットにお湯を入れ、砂時計をひっくり返した。 ……。 かなでさんに、陽菜が思っていることをきちんと話そう。 そう促したのは俺だ。 できれば、歓送会の日が来る前に。 陽菜があんなにがんばって準備した歓送会。 そんな大切な日を、わだかまりを残したまま迎えさせたくなかったのだ。 「……」 「なーんか、今日は静かだなー」 「あれ、もしかしてわたし、お邪魔だったんじゃない?」 「えっ」 「あはは、やだなもうー」 「恋人同士の時間を邪魔するほど、野暮な女じゃないよわたしは」 頭をかきながら、かなでさんは立ち上がった。 「かなでさん、あの」 「まあまあ〜」 「ここはお若い者同士、ゆっくりと語らいたまえ」 などと言いながら、玄関へと歩いていく。 俺は陽菜を見た。 「……っ」 どうする。 このタイミングを逃したら、陽菜は二度と自分の気持ちを打ち明けられない。 そんな気がした。 今を逃したら。 また今までみたいにずっと、後悔を引きずったままだ。 「かなでさ……」 「お姉ちゃんっ」 俺が呼び止めようとすると、陽菜の声が遮った。 「……?」 「どしたの? ひなちゃん」 「あ、あのね」 「お姉ちゃんに、話があって……」 「話?」 かなでさんは、説明を求めるような目で俺を見た。 「えっ、なになに?」 「ま、まさか、妹さんをくださいとか言うんじゃあ……!」 「お姉ちゃん」 「私……今までずっと、お姉ちゃんに謝りたいことがあったの」 「……」 かなでさんは、ゆっくりとこちらに戻ってきた。 そして陽菜の向かいに、腰を下ろす。 「そんな神妙な顔してどうしちゃったの?」 「ひなちゃんがわたしに謝ることなんて、なんにもないに決まってるじゃーん」 「あるの」 「ずっと言いたかったけど……言えなくて……」 陽菜はうつむいた。 もう、砂時計の砂はとっくに落ちてしまっている。 俺とかなでさんは、肩を震わせる陽菜をただ黙って見守っていた。 「お姉ちゃん、ごめんなさい」 「……ごめんなさい」 「ひなちゃん?」 「お姉ちゃんからお母さんを奪ってしまって、ごめんなさい」 「……」 かなでさんは息を呑んだ。 何も言葉が出ない。 陽菜は静かに顔を上げた。 「……ごめんね」 「私が病気にならなければ、お母さんだって元気でいられたんだよね」 「な、何言ってるの?」 「そんなの違うよ! 関係ないに決まってるじゃん!」 「言わせて、お姉ちゃん」 「私、ずっとずっと考えてた」 「どうして私じゃなく、お母さんだったんだろうって」 「どうしてお母さんが死ななきゃならなかったんだろう?」 「みんなからお母さんを奪ってまで、私が生きる意味なんかあるのかな……?」 押し留めていたものが、一気に溢れ出した。 陽菜の言葉が、俺の胸にも確かな痛みをもたらす。 陽菜はずっと、自分は幸せになる権利がないと言っていた。 幸せになる権利がない。 それはつまり、生きる権利がないと言うことだ。 俺はそんな風に、陽菜に思ってほしくなかった。 かなでさんだって同じ気持ちのはずだ。 ……でも、届かない。 届かないのだ、思っているだけでは。 ちゃんと伝えなくちゃ、届かない。 「私……子供のころ、交通事故に遭ったよね」 「記憶を失っただけで、命に別状はなかったけど……」 「あの時も思ったんだ」 「どうして私、まだ生きてるんだろう? って」 「……っ」 かなでさんは、小さく首を振った。 何か言葉を口にしたいのだろう。 だが、必死にこらえているように見えた。 「お姉ちゃん、私ね」 「ずっと自分のことが許せなかった」 「大切なお母さんを奪ってしまった私が、許せなかった」 「だから……ずっと、幸せになっちゃいけないって……」 「幸せになる権利なんかないって思ってたの」 陽菜の瞳から、涙が溢れる。 だが、もうかなでさんから目をそらそうとしなかった。 「……でもね」 「私、孝平くんのことを好きになった」 「あんなに、幸せになっちゃ駄目だって思ったのに」 「孝平くんを、好きになって……」 「幸せになりたいって、思ってしまった」 「孝平くんと一緒に、生きていきたいって思ってしまったの……」 胸の奥が熱くなる。 思いがけない言葉だった。 ……。 俺はいつも、陽菜に助けてもらうばかりだった。 自分からは、何もしてあげることができないのかと思ってた。 ただ見守るだけが、本当に正しいことなのか。 そう思ってた。 でも── 「私、孝平くんに言われたの」 「ちゃんと今の気持ちを、お姉ちゃんに伝えなきゃ駄目だって」 「……こーへーが?」 「うん」 かなでさんは俺を見た。 「お姉ちゃん」 「これが、今の正直な私の気持ち」 「今まで、ごめんね」 「私のせいで……ごめんね」 「……」 かなでさんは、しばらく黙ったままだった。 やがて、ゆっくりと陽菜に手を伸ばす。 「……ばか」 ぷにっ 「ふぁっ」 いきなり右頬をつねられ、陽菜は声をあげた。 「ばかだよ、ひなちゃんは」 「ひなちゃんのせいじゃないのに、そんなことずっと気にして……」 「もうホントに、ばかばかばかっ」 「お姉ちゃん……」 「お母さんはね、意識がなくなる寸前までひなちゃんのこと心配してた」 「あの子は身体が弱くて、人一倍いろんなことを抱え込みやすいからって……」 「だからわたし、お母さんと約束したの」 「ひなちゃんがお嫁に行くまで、ちゃんと見届けるって」 「ひなちゃんが好きな人と結婚して幸せになるまで、絶対に守るって」 「それなのに……」 「ひなちゃんが幸せになる気がないんじゃ、本末転倒じゃんっ」 「それこそお母さんがかわいそうだよっ」 陽菜の頬から手を放し、まっすぐに向き合う。 下唇を噛み締め、やがてかなでさんは俺を見た。 「こーへーだって……かわいそうだよ」 「ひなちゃんが幸せにならなきゃ、こーへーだって幸せになれない」 「それともひなちゃんは、こーへーの幸せなんか望んでないわけ?」 「そんなこと……っ」 陽菜は大きく首を振った。 「だったら、今すぐ誓って」 「こーへーと一緒に、幸せになるって誓ってっ」 「ほらっ!」 かなでさんは身を乗り出し、俺と陽菜の手を引っ張った。 その二つの手を、テーブルの上に重ねさせる。 「じゃあ、まずこーへーから!」 「えっ……!」 「い・い・か・ら・は・や・く」 くわっと目を見開くかなでさん。 そんなこと急に言われても、困るっていうか照れる。 「えーと、その」 「つまり……」 「早く!」 「早くしないと地球が爆発するよ!」 いつのまに、そんな大ピンチが……。 「わ、わかりました」 「つまり、俺は……」 「陽菜と一緒に、この先ずっと幸せになることを、誓い、ます」 「よしっ」 「次、ひなちゃん!」 「え……」 陽菜も戸惑ったように、俺とかなでさんを見る。 「ちゃんと誓って」 「わたしとこーへーだけじゃないよ」 「お父さんと、天国のお母さんにも」 「……っ」 俺の手に重ねられた陽菜の手に、ぎゅっと力が入る。 幼い頃から、悲しいことばかり経験してきた陽菜。 多くを望まず、ささやかな幸せを大切に紡いできた陽菜。 自分のことはいつも後回しにしてきた陽菜。 ──もう、遠慮しなくていい。 幸せになることに、後ろめたさを感じなくていい。 それはかなでさんの願いでもあり、俺の願いでもあり── 何よりも、両親の願いであるということ。 ……。 みんなの思いは、ちゃんと陽菜に伝わっている。 なぜか俺には、それがわかった。 重ねられた手のひらから、陽菜の気持ちが流れ込んでくるようだった。 「私……」 「うん」 「……」 「……誓い、ます」 「この先ずっと、孝平くんと幸せになることを……」 「誓います」 迷いのない声。 まっすぐな瞳で、陽菜は確かにそう言った。 確かに、俺とかなでさんの耳に届いた。 「ひなちゃん……」 かなでさんの顔に微笑みが戻る。 ……。 もし今、この場に陽菜のお母さんがいたら。 かなでさんと同じ顔で笑うだろう。 そんな風に思わせるような、慈愛に満ちた笑顔だった。 「こーへー」 「てなわけで、よろしく頼んだからね」 「はい」 「ひなちゃん」 「もう、シスコンは卒業だよ」 「え……?」 「わたしも卒業する」 「だってほんとに、来年にはこの学校を卒業しちゃうしね」 そう言いながら、かなでさんは立ち上がった。 「だから……あとはこーへーに託す!」 「責任重大だよっ、二人とも」 びしっ かなでさんの指が、俺たちの方を向いた。 「お姉ちゃん……っ」 「あーもう、困ったなぁ」 「こーへー、ちゃんと泣きやませといてね」 「えっ?」 かなでさんはにやりと笑ってから、すたすたとベランダに向かった。 「あれ? 帰るんですか?」 「あったりまえでしょ?」 「寮長としての最後の日を、寝不足の顔で迎えるわけにはいかないのだ」 「……あははっ」 「そいじゃ、おっやすみ〜」 がたがたがたがたっ かなでさんは、そそくさと非常用はしごで帰ってしまった。 「……」 そうか。 かなでさんは陽菜に、泣き顔を見せたくなかったのか。 なんて図星を指したら、きっとかなでさんは怒るだろうけど。 どれくらい、そうしていただろう。 陽菜は手をつないだまま、俺の肩にもたれかかっていた。 もう涙は乾いている。 俺たちはしばしの間、無言の時間に身を委ねていた。 ……。 陽菜の髪を撫でる。 子供の頃と変わらない、小さなつむじ。 俺はふと、この学校に転校してきた時のことを思い出した。 最初は陽菜のこと、すぐにはわからなかった。 ただ、ものすごくかわいい子だな、と思っただけで。 まさかあの陽菜と再会できるとは、夢にも思わなかったのだ。 なのに、再び出会ってしまった。 目を見張るほどに美しく成長した陽菜と。 ……。 俺は、いつから陽菜に恋をしていたのだろう。 まさか、この学校で再会したあの瞬間から? 幼なじみに一目惚れだなんて、矛盾した話だ。 「……孝平くん?」 陽菜は不思議そうな顔で俺を見上げる。 「ん?」 「どうして、笑ってるの?」 「え? 俺、笑ってた?」 「うん」 それはさぞかし気味が悪かったことだろう。 「思い出し笑い?」 「まあ、そんなところだ」 「教えてほしい」 「やだよ、恥ずかしい」 「恥ずかしいことなんだ」 「ああ」 「例えて言うなら……」 「最初は、お互いヤマメの稚魚だったんだよ」 「?」 「なのにいつのまにか、片方だけがサクラマスに成長してしまった」 「って感じ」 「???」 クエスチョンマークがたくさん飛んでいる。 我ながら、よくわからない例えだった。 「すまん、なんでもない」 俺は陽菜の肩にそっと手を回した。 さっきまで緊張していた身体も、今ではすっかり力が抜けている。 かなでさんにすべてを話したことで、こわばりが解けたのだ。 ……よかった。 明日を迎える前に、話すことができてよかった。 これでなんのわだかまりもなく、かなでさんを送ることができる。 「孝平くん……ありがとう」 陽菜はゆっくりとつぶやいた。 「もし孝平くんがいなかったら、もっとお姉ちゃんのこと苦しめてたと思う」 「……そんなことない」 「決断したのは、陽菜だ。俺じゃない」 俺こそ、陽菜にお礼を言いたい気分だった。 陽菜は、俺との未来を信じてくれた。 大げさな言い方かもしれないけど、そう思う。 未来が見えなかったら、かなでさんに気持ちを伝えようとすら思わなかっただろう。 陽菜は、幸せになることを肯定してくれたのだ。 「さっき、かなでさんの前で誓ったことだけど……」 「無理に言わされたわけじゃないぞ」 「本気でそう思ってるからな」 「……うん」 「私も、本気だよ」 「もう迷わないから」 強さを持ったまなざしで、陽菜は言う。 さっきまでの消え入りそうな弱々しさは、もうない。 俺は陽菜の頬に手をあて、そっとキスをした。 「……」 すぐに唇を放し、もう一度キス。 小さな口づけを、何度も繰り返す。 愛しさが次から次へと溢れてくる。 それはもう、収拾がつかないほどに。 「んっ……」 舌先を伸ばすと、陽菜は小さく唇を開く。 それをいいことに、ちょっと強引に舌を差し入れた。 「……んくっ」 冷静になれ、俺。 こんな風に味わってしまったら、途中でやめることができなくなる。 そうは思ってみても、身体が先に動いてしまうのだから仕方ない。 「陽菜……」 この腕の中に、陽菜がいることが嬉しい。 陽菜がいることを確かめたくて、何度もキスをする。 頬を撫でる。 肩を抱きしめる。 ……よかった。 陽菜を失わないで、本当によかった。 今になって、じわじわと喜びが湧いてきた。 「ふぅ……」 唇を放し、潤んだ瞳をこちらに向けてくる。 上気した頬が、なんとも愛らしい。 俺は唾液で艶やかに濡れた唇に、しばし見入っていた。 ……陽菜を、抱きたい。 それは、抑えきれない衝動だった。 内からこみ上げるような、どうしようもなく強い感情。 「孝平くん」 「私……今、孝平くんにすごくしてあげたいことがあるの」 「え……」 「……しても、いい?」 「うまくできるかどうか、わからないけど……」 俺はうなずいた。 断る理由など、もちろんない。 「あの、立ってもらっても、いいかな?」 陽菜は恥ずかしそうに言う。 俺はゆっくりと立ち上がった。 戸惑いの表情を浮かべながら、俺の前にひざまずく陽菜。 その視線は、俺の股間に定まっている。 「えっと……」 救いを求めるような目を向けられた。 そんな目をされても、俺だってどうしたらいいかわからない。 というか、陽菜はどうするつもりだったのだろう。 「まず……」 かちゃっ 手を伸ばし、おずおずとベルトを外しにかかった。 続いて、ズボンのボタンも外す。 ……本気か? いつもの陽菜からは考えられない、積極的な行動だ。 手つきはおぼつかないが、覚悟のようなものが伝わってくる。 「わ……っ」 ジッパーを下げると、トランクスからペニスが飛び出た。 これがまた、恥ずかしいくらい勃起しまくっている。 陽菜が驚くのも無理はないというものだ。 「あの……」 「ど、どうしたの?」 「それはむしろ、俺が聞きたいぐらいで」 これじゃ、めちゃめちゃ期待してるのがバレバレだ。 レスポンスがよすぎる下半身を密かに呪う。 陽菜はペニスの先端を見つめ、棹の部分にそっと指を乗せた。 生温かい感触がダイレクトに伝わってくる。 「熱い……」 何度か瞬きをして、真剣なまなざしでじっとペニスを見ている。 今日の俺、どうかしている。 見られているだけで、ピクピクとペニスが反応してしまうのだ。 「そんなに見ないでくれ」 「でも……見ないと、よくわからないし」 「あんまりじっと見てると、噛みついてくるかもしれないぞ」 「えっ、そ、そうなのっ?」 「んなわけないだろ」 後ずさりしかけた陽菜だったが、再び姿勢を正した。 「もう、驚かせないで」 「すまん」 「……ふふ」 ちゅっ。 「あっ!」 いきなり先端にキスされて、俺は腰を引いた。 不意打ちの行為に、自分でもびっくりするほど感じてしまう。 ペニスの先から電気が流れたかのようだ。 「ご、ごめんね!?」 「その……口でしたら、気持ちよくなってくれるかなって思って……」 「いや、大丈夫」 「気持ちよくて驚いただけだ」 「そ、そう?」 「はぁ……よかった」 ほっとしたような顔で、再びペニスに向き合う。 「じゃあ、もう一回いくね」 「う、うん」 「ぁむ……」 口を大きく開け、陽菜は亀頭を含んだ。 ぬめっとした粘膜が敏感な部分にあたり、思わず身震いする。 すごく、いやらしい光景。 まさか陽菜が、こんなに大胆なことをしてくるとは。 「んぷ、んっ」 たどたどしく舌を絡めてくる。 陽菜の口内は熱く、柔らかい。 ただでさえ硬かった俺のペニスが、さらにむくむくと屹立する。 「んくっ……ちゅ……ちゅぅっ」 「くぅっ」 唇をすぼめ、亀頭を重点的に刺激する。 俺の反応を確かめるように、上目遣いでこちらを見ながら。 「ん……おっきいね」 「すまん」 「ううん」 「気持ちいいと、おっきくなるんだよね?」 「まあ、そうだな」 「だったら、いいの」 「はむぅ、んっ、ちゅうぅっ」 はにかんだ様子で、さらに奥へとペニスを飲み込んでいく。 艶やかなピンク色の唇。 ちろちろと動く赤い舌。 俺はごくりと喉を鳴らした。 「んくぅ、ちゅぱ、んぱっ、はむぅ」 ペニスの根元を押さえ、ゆっくりと頭を動かしていく。 蛍光灯の下で、唾液をまとった剛直がぬらぬらと光っていた。 「んぷぅ……」 「なんか、暑くなってきちゃった」 陽菜の額には、うっすらと汗がにじんでいる。 「……脱ぐか?」 試しにそう提案してみると、陽菜は素直にうなずいた。 「……そうしてみる」 言いながら、ブラウスのボタンを一つひとつ外し始める。 「ふぅ……」 ブラウスを脱ぎ、上半身はブラジャーだけ。 白いシンプルな下着だった。 よほど暑かったのか、肌が紅潮している。 「涼しくなったか?」 「うん」 「ブラは取らなくていいのか?」 俺は何を言ってるのだ。 「えっ、取った方がいいのかな」 「まあ、ついでだしな」 だから、俺は何を言っているのだ。 「そっか。そうだよね」 「じゃあ……取るね」 俺の意味不明な提案に対して、馬鹿正直に応える陽菜。 いいのか、それで。 陽菜は恥ずかしそうな顔で、背中のホックを外す。 「これで……いいかな」 ブラが取り払われ、形のいい乳房がぷるんと現れる。 下半身はスカートで、上半身は裸。 なんだかものすごくいやらしい。 「あの、恥ずかしいから……あんまり見ないで」 「それは、ちょっと無理かもしれない」 「やっぱ、見たいし」 「う……」 真っ赤になった。 「じゃあ、なるべく見ないで」 「わかった」 「たまにしか見ないようにする」 などと言いつつ、俺の目は陽菜の胸に釘付けだ。 まだ触れてもいないのに、乳首がぷっくりとしてくるのがわかる。 「ん……っ」 陽菜は再び、俺のペニスをくわえ込んだ。 「んくぅ、んぱ、ちゅ……んちゅっ」 一気に深く飲み込み、ぺちゃぺちゃと舌を這わせる。 唾液をたっぷりとなすりつけ、それを勢いよく吸い取っていく。 「んっ、ちゅっ……あ、なんか出てき……た」 ペニスはピクピクと脈打ち、口内へと先走りの汁を垂れ流している。 陽菜はおいしそうに、それをコクコクと飲み干した。 口から溢れた唾液が、顎を伝ってスカートに落ちる。 そんな姿を見ているだけで、かなりやばい。 俺は陽菜の頭を抱え、腰を突き出した。 「んくくっ……!」 奥へと差し込まれ、陽菜は苦しそうに顔をしかめる。 それでも俺は、もっと奥を目指さずにはいられなかった。 「あぁ、陽菜っ……」 「んぐ、はうぅ、んぱぁ、ちゅううぅっ」 苦しいだろうに、一生懸命ペニスにしゃぶりついている。 そんな健気さが、さらに俺の興奮をかき立てていく。 「はむ、すご……い、もっとおっきくなって……る」 「あむぅ、んちゅぅ、んぷっ」 まんべんなく舌が這い、快感が下半身を駆け抜ける。 陽菜が頭を動かすたびに、その柔らかそうな乳房が揺れた。 「ちゅぷぅ、んくぅ……孝平く……ん」 「私……上手にできてるかな?」 「ああ。めちゃくちゃ気持ちいい」 「つか……かなりまずいことになってる」 「?」 ペニスをくわえたまま、陽菜は不思議そうな顔をする。 その目が、もうやばいのだ。 そんな風に熱を帯びた目で見られたら、どうにかなってしまいそうで。 「うぅ……」 知らず知らずのうちに、うめき声が漏れてしまう。 「ちゅぅ、ちゅぷぅ、ちゅるるる、んんんっ」 頭を前後に動かすスピードが、だんだんと増してくる。 陽菜の口内にすっぽりと収まったペニスが、これ以上ないほど腫れあがっていた。 「ちゅぱぁ、んぱっ……ぺちゃ、んぷぅ、んぷっ」 あまりの快感に、つま先がビリビリとしびれる。 献身的に奉仕する陽菜を、汚しているという感覚。 この罪悪感にも似た気持ちが、俺を遥かな高みへと連れ去ろうとしている。 「はむぅ、じゅるっ……じゅぷ、んぷううぅ、はふぁっ」 「あぁっ、そんなに強くしたら……っ」 「んくぅ……ちゅぅ、ちゅぷううぅ、じゅぷぅ、はふうぅっ」 陽菜は夢中になってペニスにしゃぶりついている。 咽奥まで亀頭を差し込まれてもなお、必死に吸い込もうとしている。 その優しさに応えるようにして、俺も激しく腰を動かした。 「んっ、んんんっ……じゅぷぅ、んくぅ、ちゅぱぁ、んぷうううぅ」 「あ……もう……っ」 ふいに、下腹部が猛烈に熱くなる。 俺は歯を食いしばった。 絶頂が近い。 その湿った口内へと、小刻みに腰を前後させていく。 「じゅぷぅ、ちゅぱ、んくうぅ、じゅぷぷぷぷ……っ」 「う……出るっ……!」 びゅくうううっ! びゅく! びゅく! 「んぐうぅ……?」 下半身が爆発し、ペニスから大量の精液が発射される。 陽菜は驚いたように目を見開き、ペニスから口を離した。 「ふぁっ」 しかし、口内から解放されたペニスはまだ勢いを失っていなかった。 先端から精液が飛び出し、陽菜の顔にかかってしまう。 「あふっ……んっ」 ねばついた白濁液が、陽菜の綺麗な顔を汚す。 そんな困ったような顔を見ながら、俺は絶頂の余韻を味わっていた。 「はぁ、はぁ……」 「ごめん……いきなり出しちゃって」 「ん、んん……うんん……っん」 小さく首を振り、ごくんと喉を鳴らす。 「……飲んだ?」 「ん」 素直にうなずいた。 「大丈夫?」 「なんか、不思議な味がした」 「そっか」 としか言えない俺。 口から一筋の精液が漏れ、鎖骨から胸元へと垂れていく。 かなり、いやものすごく、出てしまった気がする。 いまだに続く快感のせいで、頭の中がぼんやりとしている。 「ふぅ……」 「いっぱい出たね」 屹立したままのペニスを眺めながら、つぶやく。 「私、こういうことするの初めてで、やり方とかよくわからなくて……」 「がんばったな」 「うん」 「でも、もっとがんばるから」 「次はもっと気持ちよくなってもらえるように、がんばるから」 「本とか読んで、もっと研究したり……」 「本?」 「どんな本?」 「う……」 言葉に詰まり、真っ赤な顔になる。 「そ、それは、いろいろだよ」 「女の子の企業秘密なのっ」 そんなこと言われたら、ますます気になってしまう。 「陽菜、おいで」 俺はベッドに腰かけた。 「え……」 「俺だって、陽菜にしてあげたいことがたくさんあるんだ」 「それは……その……」 「おいで」 唾液と精液で光るペニスを、ちらちらと見る陽菜。 ためらってはいるが、その瞳は熱にうかされたように潤んでいる。 「あの……」 「明かり消しても……いい?」 「ああ」 ぱちり、とスイッチの音が響いた。 暗闇の中、陽菜が一歩、前に踏み出す。 俺は陽菜のスカートの中に手を入れ、そっと下着を下ろしていく。 「孝平くん……」 ベッドに横たわり、陽菜をまたがらせる。 どうしたらいいのかわからないらしく、救いの目を俺に向けた。 「自分で入れられるか?」 「うん……」 腰を浮かし、ペニスを陰部にあてる。 亀頭にぬるっとした感触。 もう、陽菜も濡れているのだ。 「う……ぁ……」 愛液で滑ってしまうのか、なかなか入れることができない。 図らずも陰唇で亀頭をこすられる形となり、ぞわぞわとした快感が走った。 「んっ、あっ……はぁっ」 ぬぷっ。 「ああっ」 亀頭が蜜壺へと埋まる。 潤った内部は、ゆっくりと収縮運動を始めていた。 「あぁ、入っちゃう……あはぁっ」 陽菜は体重をかけ、腰を下ろしていく。 俺は手を伸ばし、その豊かな乳房を揉みしだいた。 「柔らかいな、陽菜の胸」 「ふぁ、あぁ、恥ずかしいよ……あんっ」 硬く尖った乳首をつまみ、コリコリと刺激を与えてやる。 肌はしっとりと湿り、手のひらに吸いついてくるようだ。 ぬぷぅ……ずぶぶっ……! 「ひあぁっ」 亀頭が奥へと届く。 スカートはまくれ上がり、充血した柔肉がぱっくりと割れて見えた。 陰唇の間からは、小豆大に膨れたクリトリスが覗いている。 「入ってるの、全部見えてるぞ」 「やぁっ、言わないで」 荒い息を吐きながら、さらに奥深くへと腰を沈めていく。 俺も腰を浮かし、熱い肉に包まれる感触を味わった。 「ふぅ、んくっ……んっ」 やがてゆっくりと、少しずつ。 陽菜は腰を動かし始める。 「ふぁ、はうん、あたる……んっ」 ペニスが膣壁をこするたびに、愛液がジュプジュプと溢れ出す。 身体が揺れるたびに乳房もぷるぷると揺れ、刺激的な光景を作っていた。 「あぁ、孝平く……ん、あふぁ、やあぁっ、んくぁっ」 腰の動きがだんだんと速くなる。 今日の陽菜は、いつになく淫らだ。 快楽に対して正直になっているように見える。 「ひぅ、すごく、硬いよ……あぁ、動いてるっ……」 「どうしよう……気持ちいいっ」 「好きなように動いていいぞ」 「う……でも……見ないでえ……お願い……っ」 恥ずかしそうに言いながらも、腰の動きはスピードアップする一方だ。 俺は陽菜の陰部に手を伸ばし、陰唇をさらに大きく開いてやる。 「はぁん、駄目っ……あぁ、そんなこと……んはあぁっ」 俺のペニスも陰毛も、陽菜の蜜でべちゃべちゃだ。 摩擦によって陰唇はぷっくりと腫れ、棹部分をみっちりと包囲する。 「う……締まる」 内部がぎゅうぎゅうと動き、根元まで締めつけてきた。 意識を集中していないと、あっという間にノックダウンしてしまう。 「陽菜、気持ちいいよ」 「……本当?」 「ああ」 「私、もっともっとがんばるから……」 「孝平くんに嫌われないように……がんばるから」 「ずっと、私だけを、見ててほしい……」 切なげな声で、陽菜はつぶやく。 「……お願い」 「他の人と、こんなことしないで……ね」 「私だけの孝平くんで、いてほしいの……」 懇願するような目を向けられ、ぎゅっと胸を締めつけられる。 そんなの、当然だ。 俺はこれからもずっと、陽菜だけを見つめている。 陽菜だからこそ、心と身体がこんなに反応するのだ。 「陽菜は、ずっと俺のものだ」 「もう陽菜以外考えられないよ」 「孝平くん……っ」 「好き……孝平くんのことが、好きなの……っ」 「あっ……あぁ、はあああんっ」 俺は陽菜の腰を押さえ、何度も何度も陰部を貫いていく。 ベッドがギシギシと大きな音を立てたが、そんなこと構っていられなかった。 「ひん、はぁ、あああっ、気持ちいいよぉ、はあぁっ」 汗で濡れた肌に、栗色の長い髪がまとわりつく。 スカートはすっかり愛液で汚れてしまったが、陽菜はまるで気にしていないようだ。 「くぅ……!」 少しずつ陽菜の腰を浮かせ、ギリギリまでペニスを抜いていく。 そして一気に、最深部を目がけて先端を突き刺した。 「ひああああぁっ!」 高らかに声をあげ、全身を震わせる。 快感に身を委ねる陽菜は、とても綺麗だ。 そして、とてもいやらしい。 初めて会った時は、もっと大人しい子だと思ってた。 なのに今は、こんな風に腰を動かしてペニスを味わっている。 この先も、抱けば抱くほどに淫靡な表情を見せるのだろう。 恋人同士になるって、そういうことだ。 陽菜の変化を見届けられるのは、俺だけの特権なのだ。 「孝平くん、もっと……」 「もっと、欲しいのっ……!」 跳ねるように動きながら陽菜は言う。 リクエストに応えて、激しいグラインドを繰り返す。 赤黒く腫れたペニスが、ビクビクと息づいているのがわかる。 もう今にもはじけてしまいそうだ。 「んはぁ、ひああぁ、くううっ、ん……はふああああっ」 「私……おかしくなっちゃうよぉ……!」 髪を振り乱しながら、貪欲にペニスを堪能する陽菜。 俺も無我夢中で、膣内に亀頭をねじり込んでいった。 「ひぁ、熱い……あぁ、なんか……あぁ、来る……」 「孝平くん、来ちゃう、ああぁ、ひあぁ、来ちゃうよぉっ」 膣内が激しくうねり始めた。 絶頂を間近に控えているようだ。 反動をつけ、小刻みに先端をこすりつけていく。 「あふぁ、ひああぁっ、あくぅ、いくっ……ああぁっ」 締めつけがどんどん強くなり、俺は下腹部に力を入れた。 意識を集中しようとするのだが、どうしても快感の方が勝ってしまう。 目の奥がしびれ、全身が熱くなっていく。 「ひゃんっ、いくっ、あああぁ、孝平く……んっ、ああぁっ」 「いっていいよ、陽菜……っ」 「あんっ、一緒に、一緒にいきたいのっ……ああぁ、お願い、んはああぁっ」 じゅぶぶっ……ずぷぅ……ぬぷっ……! 水気を帯びたいやらしい音が鼓膜を刺激する。 意識が少しずつ遠くなり、股間に血が集まっていくのを感じた。 「あっ……くぅっ!」 「ああぁ、いくっ……いっちゃうよぉ、はぁ、んはああっ」 「ひああぁっ、はあっ、あ……ふああぁっ、いくぅ、んっはああぁっ」 強く、強く性器を打ちつける。 最深部に亀頭が到達した瞬間、全身が浮遊するような感覚を覚えた。 「はあぁっ……んはああぁ、あっ、はふぁああああぁっ」 「んふぅ、はふああぁっ、あっ……あふぁ、ああああぁっ」 「孝平くんっ、あぁっ、一緒に……あああぁっ、いくっ、いくぅっ……!」 「陽菜っ……!」 「いくぅ、あああぁ、ひあああぁ、いくっ……ああああぁ、ふあああああああっ!」 びゅびゅびゅっ! びゅくううううっ! 「あああぁっ……いっ……ふあ……あああぁ」 俺は陽菜の膣奥へと、熱い精を放出した。 下半身が爆発するような、力強い射精だった。 「はぁ……はぁ……」 「熱い……中が……ああぁ」 射精はまだまだ続き、陰部から白濁した液体が流れ出す。 さっきあれほど出したというのに、まるで勢いは衰えない。 「はぁ、あぁ……はあぁ……」 絶頂を迎えたばかりの膣内は、ピクピクと痙攣していた。 陽菜はとろんとした目で、俺を見下ろしている。 「う……」 「いっちゃった」 「俺も」 「うん。またいっぱい出たね」 「その……中で……いってくれて、嬉しかった」 はにかみながら言う。 そんな陽菜が、愛しくて愛しくてしかたない。 「あっ……」 少しだけ腰を動かすと、陽菜の口から甘い声が漏れる。 「う、動かしちゃ駄目……まだ敏感になってる」 「そうなのか?」 もう一度、わざと腰を動かした。 「ひぁっ!」 「もう、いじわる……っ」 刺激を受けて、膣内がぎゅうぎゅうと締めつけを始めた。 まるで、まだまだ足りないとでもいうように。 「……抜くぞ?」 「う、うん」 「ふ、あっ……」 ほんの少しだけペニスを引き抜くと、陽菜は名残惜しそうに呻いた。 中から精液が流れ出し、スカートに大きな染みを作る。 「これ、脱いだ方がよさそうだな」 「染みになっちゃったけど大丈夫か?」 「うん……後で洗うから、平気だよ」 「あっ……あぁ、ひぁっ」 ペニスが抜け、ぷるぷると上半身を震わせている。 俺はたまらなくなって、起き上がった。 「孝平くん……?」 陽菜のスカートを脱がし、シーツの上に組み敷いた。 驚きと期待とで揺れる瞳が、俺を射抜く。 「俺の、まだ収まってないみたいだ」 「そ、そうみたいだね」 猛々しく勃起するそれを見て、陽菜はうなずいた。 左脚を高く掲げさせ、ペニスの先端でクリトリスをねぶる。 「ひぁん、あぁ、ま、ま、待って……」 充血して硬くなったクリトリスは、とても熱い。 クチュクチュとこすると、蜜壺に残っていた精液がどろりとこぼれる。 「まだ敏感になってて……あぁ、ふああぁっ!」 陽菜の言い分などおかまいなしに、亀頭を陰部に沈めた。 「あああっ、やはああぁっ」 さらに高く太股を持ち上げ、ずぶずぶとペニスを埋めていく。 もう十分に濡れているので、スムーズな滑りだ。 じらすこともせず、いきなり全力で腰を押し進めていく。 「んくぁ、はあぁ、孝平くんっ、あ……ああああぁっ」 シーツを掴み、快感をこらえている陽菜。 たぷたぷと揺れる乳房をわし掴み、上下に揺さぶる。 「駄目、駄目だよぉっ」 「また気持ちよくなっちゃうから……っ」 ずちゅっ……ずちゅぅ、ずぷぷぷぷっ……! ペニスで丹念に内部をほじくっていく。 今度は俺がイニシアチブを握る番だ。 「ひん、ふああぁ、ああぁっ」 「孝平くんっ、好き……好きだよっ」 「ずっとずっと、好き……だからね……っ」 「俺も……っ」 桜色に染まる陽菜の身体。 その一番大事な部分に、俺の欲望を叩き込む。 どんなに味わっても、この興奮は鎮まりそうにない。 一つになっている悦びが、俺を支配していく。 「はぁっ、はああっ、奥に、来てるぅ……あぁ、んはあぁっ」 「どうしよう……あぁ、気持ちよくて、あぁ、やああぁっ」 陽菜は強弱をつけてあそこを締めつける。 無意識のうちにやっているのだろうが、こっちのツボを的確についてくるのだ。 俺も負けてはいられない。 身を乗り出し、これ以上ないほど性器と性器を密着させる。 「んくうううっ……!」 「孝平くん、私、今すごく幸せだよ……っ」 「こんなに幸せな気持ちになったの、初めてっ……」 「これからも、もっともっと幸せにしてやるからな」 陽菜の髪を撫で、耳元でそっと囁く。 身体の一番深いところから、じわじわと幸せな気持ちが広がっていく。 陽菜を好きになってよかった。 俺の好きになった人が、陽菜でよかった。 今、本当に深いところでつながっているのを感じている。 「あぁっ、ひああぁ、んくぁ、はふああああっ」 自ら腰を動かし、俺に応えていく。 陰唇はヒクヒクと痙攣し、ぱっくりとペニスを飲み込んでいる。 次々と蜜が流れ、シーツはもうびちょびちょだ。 「あぁ、そんなに奥を突いたらっ……あひああぁっ」 「ま、また、おかしくなっちゃうっ……ああんっ」 内部の収縮が激しくなってきた。 いたずらに亀頭を締めつけられ、頭のてっぺんから爪先まで甘いしびれが走る。 「あんっ、孝平くんっ、好き……ああぁ、好きぃっ……!」 「また、ああぁ、また来ちゃうっ……あぁんっ、はああっ」 陽菜の内股がぶるぶると痙攣する。 俺もかなり極まってきた。 「あああぁ、ど……うしよ、う、んはあぁ、あああぁっ……!」 腰を打ちつけ合う、淫靡な音が部屋に響く。 額から流れる汗が、陽菜の胸元を濡らしていく。 「いっちゃう、孝平くん、あぁん、はぁっ、あああぁっ……!」 「一緒に……っ」 「ひああぁん、一緒に……っ、はあぁ、ふあああぁっ……はあんっ!」 「あぁっ……あっ、あぁっ、んふぁあああぁっ、ひぁあぁっ、ああぁっ!」 先端が最深部をノックすると、膣内全体が蠢いた。 頭の中が真っ白になる。 「うっ……!」 「はああぁっ、いくぅ、いくっ……! んはあああぁっ、ひはあああああああっ!」 びゅうううう! びゅく! びゅくうう! ペニスを引き抜いた瞬間、陽菜の全身に白いシャワーが降りかかる。 眩暈のするような感覚に、俺は身体を震わせた。 「ああぁ……はぁ……あっ……」 おびただしい精液を浴びた陽菜は、身体を弓なりにしならせる。 度重なる絶頂の波に、息も絶え絶えといった様子だ。 「はぁ……はぁ……また、いっちゃった……」 「……呆れた?」 「まさか」 快感を拒まず、素直に応えてくれるのが嬉しい。 白濁液にまみれた陽菜は、やっぱり綺麗だ。 どんなに汚されようとも、ずっと綺麗なままだ。 「孝平くんの、すごく熱い」 「私で、気持ちよくなってくれたのかな……?」 「ああ」 そう答えると、陽菜はとても嬉しそうに微笑んだ。 「でも……」 「また中で出してくれても、よかったんだよ……?」 「……」 この小悪魔、と思う。 そんな殺し文句を軽々と口にするなんて。 「……そんなこと言うと、また入れちゃうからな」 「え?」 俺はヒクついているペニスに手を添え、再び割れ目へと差し込んだ。 「んっはああぁっ……!」 ずぶ、ずぶぶぶっ! 硬いままのペニスは、元いた場所に喜び勇んで帰っていく。 「あん、あ……ああぁっ!」 ねっとりと潤った膣道は、ペニスをぎゅうぎゅうに締めつけて放さない。 果てても果てても、疼きが止まらないのだ。 この愛しい身体を前にしたら。 「んあぁっ、んくぅっ」 「ああぁ、孝平くんっ、もう私、これ以上はっ……!」 「でも、腰が動いてる」 「ち、違うの、勝手に、動いちゃう……はああっ」 打てばすぐに響く身体だ。 俺が考えていたよりも、陽菜はずっとずっといやらしくできていた。 「お願い……キス、してっ……」 言われるまま、唾液で濡れた唇にキスをする。 舌をねじ入れ、激しく吸いついてやる。 「んんっ……んくぅ、ちゅ……んふぅ」 舌と舌を絡ませ、唾液を交換する。 その間も、腰を動かすのをやめない。 畳みかけるように子宮口を攻めていく。 「んぷっ、あふぅ、ちゅぅ、んぷうぅっ」 キスで相当感じてしまったらしく、あそこがビクンビクンと震える。 まるで貪るように、積極的に舌を伸ばしてきた。 「んちゅぅ、んぷ……んくううぅっ!……」 「あっ、お腹が、熱い……あぁ、いいっ……」 声のボリュームも気にせず、思うままに欲望を口にする。 玉のような汗が浮かび上がり、やがてシーツへと染み込んでいく。 「あぁ……ぎゅって、抱きしめて」 陽菜は俺へと手を伸ばしてきた。 「ぎゅって、強く……っ」 腰を引き寄せ、抱きしめる。 汗ばんだ熱い肌と肌が密着する。 「あんっ、ヘンになりそう……あぁっ、はふああぁんっ」 摩擦によって気泡を帯びた愛液が、ペニスに絡みつく。 膣道は大きくうねり、逃がさんとばかりに根元まで食らいついた。 「うっ……すごい、動いてる」 力いっぱい締められ、あまりの気持ちよさに目が回りそうだ。 それでも最後の力を振り絞って、腰を動かしていく。 「あふぁ、あっ……ああぁ、も、もう……はぁ、あああぁ……」 俺の動きに合わせて、陽菜もリズミカルに腰を揺らす。 二人の動きがぴったりと合い、遥か高い場所へと上っていく。 「んはぁ、あぁ、いいっ……あああぁ、ふああああっ」 「あひああぁ、また……ああああぁ、ふああぁ」 俺は陽菜の内腿に舌を這わせ、さらに激しくペニスを出し入れする。 遠くの方から、一気に快感の大波が押し寄せてきた。 「ひふぁああ、いくっ……あふあああっ……ひあああぁっ」 「お願い、そのまま……そのままっ……!」 「陽菜っ……」 「いくぅ、んはぁ、いっちゃう、あぁ、お願い、あひあああぁっ」 「うぅっ……あっ……あああああぁっ……はあぁっ、ふああぁっ、あぁっ」 ずぶううぅ! ぬぷぅ! ずぶぶぶぶぶっ! 腰と腰を密着させてから、ずぶずぶと肉をこすりつける。 今にも失神しそうな、こみ上げる快感。 俺は歯を食いしばり、絶頂へと向かっていく。 「あっ、あぁっ、ふうぅっ……あぁっ、やはあぁっ、ひああああぁっ!」 「ひん、いくっ……いくううぅ、あはあああああっ、んふあああああああっ!」 「あぁっ……!」 ずぴゅぴゅぴゅぴゅ! どぴゅう! どぴゅううう! 「はあああぁっ……!」 残りの精液が、陽菜の奥へと放たれる。 俺は呻きながら、射精の快感を噛み締めていた。 「はぁ……あぁ……」 陽菜は力尽きたように、シーツへと身を投げ出した。 息は荒く、視点は定まっていない。 完全な放心状態だ。 俺も陽菜に覆い被さるように、倒れていく。 「はぁ、はぁ、はぁ……」 もう、頭が回らない。 すべてのエネルギーを使い果たしてしまった。 「陽菜……」 「好きだよ」 「ん……はぁ……私も」 「……すき」 「いちばんすき」 うわごとのようにつぶやき、陽菜は柔らかな笑みを浮かべた。 すべてから解き放たれたような、純粋な笑顔。 俺は陽菜の頬に、自分の頬をくっつける。 世界で一番好きな人。 ようやく俺のもとに帰ってきた。 ……。 髪を撫でながら、ゆっくりと目をつぶる。 心地よい疲労感が、俺を包んでいく── 目を開けると、孝平くんの寝顔があった。 安らかな寝息。 疲れ果てて、眠ってしまったみたい。 時計の針は、夜の11時を指していた。 いけない、早く帰らなくちゃ。 そうは思いながらも、孝平くんの寝顔から目が離せない。 ……。 心が凪いでいる。 こんなに穏やかな気持ちになったのは、何年ぶりだろう。 「孝平くん……」 起さないように、そっと名前をつぶやいた。 孝平くん。 大好き。 そう思うだけで、涙が溢れてくる。 幸せで涙が出てくることなんてあるんだね。 今までの私は、いつも失ってばかりで。 いつしか、失うことに慣れ始めていた。 大切な人も、大切な記憶も。 気づいたらすり抜けていく。 そんな日々だった。 ……。 あの頃の記憶は、まだ全部取り戻すことはできないけど。 私はやっぱり、ずっと孝平くんのことが好きだったよ。 それだけは本当。 覚えてもいない人を好きだったなんて、おかしな話だけど── 昔も今も、私は私。 一回目の出会いも、二回目の出会いも。 孝平くんと出会ってから、私はずっと恋する女の子だった。 ……。 いつか、もしすべてを思い出したら。 孝平くんに、手紙を見せよう。 大切にとっておいた、孝平くんからの手紙。 私の宝物。 ぶっきらぼうだけど、心のこもった孝平くんの手紙が好きだった。 何度も何度も読み返した。 あの手紙を、いつか二人で読むことができたらいいな。 幼い日の思い出を、二人で分かち合えたらいいな。 その時、きっと私は言う。 「私はずっと、孝平くんの友達だよ……」 「恋人になっても、他人になっても、ずっと友達だから」 あの頃の約束は、今も生きている。 孝平くんは、私の恋人。 そして、大切な友達。 どんな時も一番近い存在でありたい。 それが、私の幸せ。 翌日。 いよいよかなでさんの歓送会が始まる。 長きに渡って審議された結果、会場は談話室となった。 「寮長は寮内で送り出してやるべきだ」 とは、会長の弁。 参加人数を考えると手狭だが、ここは会長の意見に倣うことになった。 「さーて、これで準備はばっちりね」 「いい? くれぐれもバレないように連れてくるのよ?」 「りょーかい」 「了解」 俺と陽菜は、かなでさんの案内役を仰せつかった。 かなり責任重大だ。 「談話室に着いたら、三三七拍子のリズムでドアをノックしてくれ」 「それが合図だよ」 「はい」 「はぁ、なんだか緊張してきてしまいました」 「お前が緊張することはない」 「いつも通りに、心を込めて送り出してやればいいだけだ」 「はい、そうですね」 白ちゃんは笑った。 そう。いつも通りでいいのだ。 いつも通りに、かなでさんを温かく送り出してやろう。 「じゃ、行ってくる」 「行ってきます」 「行ってらっしゃーい」 この時間なら、かなでさんは部屋にいるはずだ。 俺と陽菜は、足早に女子フロアへと向かった。 「どうしよう、私まで緊張してきちゃった」 「そんなこと言うと、俺まで緊張してくるじゃんか」 「ここはポーカーフェイスを貫かないと」 「ふふ」 「孝平くんが一番苦手なポーカーフェイスだね」 「陽菜こそ」 お互い、笑い合う。 かなでさんの部屋に近づくにつれて、胸がドキドキしてくる。 同時に、少しだけ切ない気持ち。 6年生の代が終わって、明日から5年生の代になる。 いつまでも変わらないと思っていたものが、ある日突然姿を変える。 来年の今頃は、俺たちが送り出される番なのだ。 その頃は、もちろんかなでさんたちはこの学校にいない。 なんだか不思議な気分だ。 一年後の自分がどうなっているかなんて、まったく想像できなくて。 「おいーっす」 ……。 女子フロアに入ろうとしたその時、かなでさんが階段から下りてきた。 俺と陽菜は、その場でフリーズする。 「あれ? お姉ちゃん……」 「おや〜? 二人そろってどこ行くの〜?」 「もしかして、ひなちゃんのお部屋かにゃ〜?」 「か、かなでさんは、どこに行くんですか?」 「わたしは大浴場だよん」 「ひとっ風呂浴びて、一年がんばった自分を癒してあげようかと思ってさ」 俺と陽菜は、顔を見合わせた。 さて、どうしたものか。 「お姉ちゃん、あのね」 「ほえ?」 「えっと、その……た、大変なのっ」 「談話室に、ええと……そう、タヌキが現れたのよっ」 「タヌキー!?」 俺はぽかんと口を開けた。 「ど、どんなタヌキなのっ?」 「だからその、おっきくて、目がぎょろっとしてて」 「ほうほう!」 「お腹が白くて、爪がシャーッてなってて、尻尾がフサフサしてて」 「ほうほうほう!」 「と、とにかく、部屋中ちらかして大変なのっ。早く来て!」 「よしきたー!」 「あっ、ちょ、ちょっと!」 俺が止めるよりも先に、かなでさんは走り出した。 「御用だ御用だー!」 「かなでさんっ、待ってください!」 「お姉ちゃんっ」 「どこだどこだー! タヌキはどこだー!」 「かなでさんっ!」 猪突猛進とは、まさにこのことだ。 あと少しで談話室に到着、というところで、なんとかかなでさんを捕獲する。 正確には、首根っこをつまみあげた。 「いたたたっ、何するのよーっ」 「わたしはタヌキじゃないんだからーっ」 「似たようなものです」 しかし、危なかった。 かなでさんの誘導には成功したが、危機一髪だった。 「ご、ごめんね、孝平くん」 「とっさのことで、うまい言い訳が思いつかなくて……」 軽いパニックに陥った陽菜が、小声で言う。 「まあ、結果オーライだろ」 「なになに? どしたの?」 「いえ、こっちの話です」 俺はかなでさんをつまみ上げたまま、談話室の前に立つ。 「ねえねえ、早くしないとタヌキ逃げちゃうよー?」 「大丈夫です。逃げませんから」 「へ?」 「いくぞ、陽菜」 「うん」 「?」 俺と陽菜は目を合わせてから、ドアをノックした。 「かなで寮長、お疲れ様でしたーっ!」 ドアを開けた瞬間、大きな声が俺たちを出迎える。 耳が割れるようなクラッカーの音。 視界を彩る紙テープの嵐。 「え……?」 突然の歓迎に、かなでさんは呆然としている。 この状況が、にわかに飲み込めないらしい。 「な……何?」 「あれを見てください」 俺は、壁に貼ってあった垂れ幕を指さした。 「かなで寮長☆一年間お疲れ様でした会」 寮生たちのメッセージが書き込まれた、手作りの垂れ幕だ。 「わ……わたし?」 「そうだよ、お姉ちゃん」 「嘘ぉ!」 「ウェルカ〜ム! カナデ・ユウ〜キ!」 「今日のヒロインはキミだ!」 「オールナイトでめいっぱい楽しんでくれたまえ!」 「わっ、わわわ!」 大勢の寮生たちが、かなでさんを取り囲む。 ブラスバンド部たちが奏でる歓迎のテーマ。 会長がパチンと指を鳴らすと、入口から次々と料理が運ばれてくる。 「本日のディナーは、鉄人オリジナルのスペシャルビュッフェだ!」 「生徒会のおごりだから、みんな気の済むまで飲み食いしてくれ!」 学食でも見たことのないような、豪華なメニューの数々。 今回の企画を提案した時、鉄人は二つ返事で引き受けてくれた。 それもこれも、かなでさんの人徳によるものだろう。 「かなで先輩、寂しくなります〜」 「たまには遊びにきてくださいねっ」 「ちょっと、まだ追い出さないでよっ」 「卒業まであと半年もあるんだからねー」 「悠木ー、寮長やめるなよぉ」 「まだ引退には早いんじゃねーの?」 「もう、冗談言わないでよ」 「卒業までは、悠々自適に盆栽でも育てて過ごすんだから」 かなでさんを中心に、笑顔が広がる。 それにしても、ものすごい人口密度だ。 すでに乗車率120パーセント状態。 「ねえ、料理足りてるー?」 「うん、なんとか」 「……あ、やっぱり足りないかもっ」 「オーケー」 「白、第二陣の準備よろしくー!」 「了解しましたっ」 ばたばたばたばたばたばたっ。 裏方の人間は、いつだって忙しい。 しんみりとする暇もないまま、あちこちを駆けずり回る。 「支倉、照明の準備は?」 「はい、ただいまっ」 「きゃーっ、グラスが足りないっ」 「紙コップ大至急ーっ!」 「ちょっと待っててーっ」 ばたばたばたばたばたばたっ。 「これはこれは、大盛況だな」 「あ、先生」 チキン片手に、アオノリはご満悦といった様子だ。 「首尾はどうだ?」 「ばたばたですが、まあなんとか」 「そうか」 「悠木も嬉しそうだな」 「だといいんですけど」 「まったく、なんですかこの人数は」 今度はシスター天池が来た。 「すみません、騒がしくしちゃって」 「まったくです」 「後片づけはきちんとお願いしますね」 「もちろん」 呆れているシスター天池の口元には、ケチャップがついていた。 とりあえず、楽しんでいるようで何より。 「えーみなさん注目!」 「本日のデザートは、左門堂特製タワー・オブ・マロンケーーーーキ!」 「な、何あれえええっ!?」 入口からワゴンで登場したのは、高さ3メートルはありそうなマロンケーキ。 結婚式でよく見るタイプのタワー型だ。 「ここで主賓による、ケーキ入刀ーーー!」 「はい、シャッターチャンスです! 写真を撮る人は前に来てくださーい!」 みんなデジカメを構え、ケーキの前を陣取っていく。 かなでさんは大きなナイフを持ち、カメラに向かってよそいきのスマイルを浮かべた。 「いざ、ケーキ入刀ーーーっ!」 パシャッ! パシャパシャッ! まるで記者会見のようなフラッシュの量だ。 いったいなんの会なんだかわからなくなってきた。 「はぁ、はぁ……」 「とりあえずここまで来れば、あとは大丈夫そうだね」 「お疲れ」 「今日の立役者は、陽菜だよ」 「あはは、そんな」 陽菜は小さく首を振る。 「いや、陽菜ががんばったおかげだ」 「少なくとも生徒会のみんなは、それをわかってるから」 「……」 華やかなBGMをバックに、ミラーボールが回る。 繰り返される乾杯の音。 ひときわ大きく響く、かなでさんの笑い声。 ここにいる誰もが笑顔だった。 夢の中にいるみたいに、何もかもが輝いて見えた。 「……よかった」 「本当によかった」 「ああ」 涙ぐむ陽菜にグラスを持たせ、俺たちは小さく乾杯した。 夜も深まり、あれだけ大量にあった料理も底を尽きかけてきた頃。 おもむろに、会長がステージへと上がった。 「悠木かなでさーん、前にどうぞーっ」 「ふぁいっ?」 ケーキを頬張っていたかなでさんが、ゆっくりとステージに上る。 「えー、ここで花束贈呈の儀へと移りたいと思います」 「悠木妹、前に!」 スポットライトが入り口にあたり、陽菜が登場。 手には大きな花束を持っている。 「ひなちゃん……」 静かな拍手が、やがて大きな拍手へ。 みんなの視線がステージに集まる。 陽菜は少し恥ずかしそうな顔で、マイクの前に立った。 「……お姉ちゃん」 「一年間、お疲れ様でした」 ぺこりと陽菜が頭を下げ、再び拍手が起こる。 「えっと……」 「……一年前、お姉ちゃんは言いました」 「この寮で暮らすみんなを、幸せにしてあげたい」 「みんなにとっての故郷になるような、そんな寮にしたい」 「そのためにわたしは、できる限りのことをする」 「寮長になると決まった日、そうお姉ちゃんは私に言ったんです」 「そして、今……」 陽菜はかなでさんを見て、微笑んだ。 「お姉ちゃんは、目的を達成しました」 「私は、そんなお姉ちゃんを誇りに思います」 「お姉ちゃんの妹に生まれて、本当によかったって、思います」 「……っ」 かなでさんの瞳が潤む。 陽菜は微笑みながら、一瞬だけ上を向いた。 涙がこぼれないように。 「……この花束は、寮生全員からの気持ちです」 「お姉ちゃん、一年間どうもありがとう」 陽菜が花束を差し出し、大きな拍手が起こる。 窓ガラスが震えそうなくらい、大きな拍手だった。 「ありがとう……」 かなでさんはその花束を、慈しむように受け止めた。 花に隠れて、かなでさんの顔が見えない。 きっと、必死に涙を押し留めようとしているのだろう。 「……ふふ」 かなでさんを見る陽菜の顔は、とても穏やかだ。 まるで母親のような、そんなやわらかな表情。 「……えー、それでは」 「ここで重大発表があります!」 会長の言葉に、周囲がざわめく。 かなでさんは不思議そうに顔を上げた。 「それでは、はっぴょーします!」 「え〜、なんと! ここにいる悠木陽菜が!」 「次期寮長に立候補します!」 「えーーーーーっ!!」 再び、スポットライトが陽菜にあたる。 周囲は、クラッカーや紙吹雪の嵐だ。 大歓声の渦の中、かなでさんは大きく口を開けて陽菜を見た。 「ほ、ほんとに……?」 「うん」 「私も、お姉ちゃんみたいに素敵な寮長になりたいんだ」 「ひなちゃん……」 かなでさんは一歩、陽菜に近づいた。 涙が流れるのもおかまいなしに。 「私、なれるかな?」 「あたりまえじゃん。なれるよ、ひなちゃんなら」 「わたしよりも、もっともっと素敵な寮長さんに……」 「がんばるね、私」 「だから応援しててね、お姉ちゃん」 「うん……っ」 「ひなちゃんっ……!」 かなでさんは、陽菜に抱きついた。 割れるような拍手と大歓声。 俺と副会長は、顔を見合わせて小さく笑った。 会長も、東儀先輩も、白ちゃんも。 みんながかなでさんと陽菜を見守っている。 ──これが、今日一番のサプライズ。 妹から姉に贈る、最高のプレゼントだった。 「えー、今日の歓送会は無事に終了しました!」 「皆さん、お疲れ!」 日付も変わろうとする頃、ようやく歓送会の後片づけが終わった。 有志たちの力も借りられたので、予定よりも早く撤収できる雰囲気だ。 「それじゃ、お休みなさい」 「お休みなさい」 「悠木、今日はゆっくり休め」 「はい、ありがとうございます」 「おっやすみー♪」 一人ずつ減っていき、やがて俺と陽菜の二人だけが残る。 さっきまで満員電車みたいだった室内が、やけに広く感じられた。 「今夜は大成功だったな」 「うん」 「お姉ちゃん、喜んでくれたかな」 「そりゃ当然だろ」 「そうそう、当然だよ」 「……」 振り返ると、かなでさんが立っていた。 「……いつ現れたんです」 「やだなぁ、ずっといたよ?」 「そうですか」 「小さすぎて気づかなかったな」 「むかーっ!」 「なによぅ、片づけ手伝おうと思って戻ってきたのにぃ」 「主賓が片づけ手伝ってどうするんですか」 「いいんだもん」 「日付変わるまでは、まだわたしが寮長なんだから」 「そりゃそうですけど」 俺は肩をすくめた。 かなでさんらしい発想だ。 「まあとにかく、二人ともお疲れ!」 かなでさんは、ぽんぽんと俺たちの肩を叩く。 「しっかし、見事に騙されちゃったよ」 「まさかこんなに大きなパーティーを企画してたとはねー」 「気づかれないようにがんばったんだよ?」 「ね、孝平くん」 「そうですよ。めちゃめちゃ苦労したんですから」 「えへへ」 「……ありがとう。本当に嬉しかった」 かなでさんは、真面目な顔で言う。 「これでもう、思い残すことはないよ」 「臨終寸前みたいな言い方しないでください」 「だって、本当に感動したんだもんっ」 「そうだ、記念にアレ入れてー。ピンシャン」 「ピンシャン?」 「ピンクシャンパン」 「もう、風紀委員のくせにー」 「いいじゃん今日ぐらいー」 「駄目だってばー」 言い合いを始める悠木姉妹。 確かに、オトナだったらシャンパンでも開けたくなる気分だ。 ……。 「あ」 俺は、ぽんと手を打った。 ナイスなアイデアを思いついてしまった。 「どうしたの? 孝平くん」 「ちょ、ちょっとここで待っててくれ」 「へ?」 「いいから。すぐ戻りますっ」 俺は大急ぎで談話室を出た。 「ただいまっ」 「おうおう、おっそいぞー!」 「孝平くん、どうし……」 「?」 二人の視線が、俺の持っているトレーに集まる。 まあ、驚くのも無理はない。 突然、いつもお茶会で使っているティーセットを持ってきたのだから。 「何それ? なんでそんなの持ってるの?」 「よくぞ聞いてくれました」 「ここでいよいよ、ヴィンテージダージリンの封印を解いてしまおうと思います」 「え!」 「えっ!」 俺はにやりと笑う。 密かに、紅茶の淹れ方を研究してきた俺。 ここでコソ練の成果を発揮しようではないか。 「駄目だよ、もったいない!」 「もったいなくないですよ」 「こういう時のためにとっといたんじゃないんですか?」 「……そうかも」 「ええーっ」 「大丈夫です」 「俺、自信ありますから」 「……って、こーへーが淹れるの?」 かなでさんの表情がみるみる暗くなる。 気持ちはわかるが、ものすごく失礼だ。 「大丈夫だってば。お姉ちゃん」 「孝平くん、すごく練習してきたんだから」 「ううーん、そうかぁー」 「じゃあじゃあ、お願いしちゃおっかなー」 「まかせてください」 俺は力強くうなずき、テーブルにティーセットを並べた。 備え付けの電気ポットには、たっぷりとお湯が入っている。 「本当は、ガスで沸かしたお湯の方がいいんですけどね」 「それ、ひなちゃんの受け売り」 バレたか。 俺は苦笑しつつ、ヴィンテージダージリンの封を開ける。 たちまち濃厚な茶葉の香りが立ち上った。 「ほあぁ〜」 「ふあぁ……」 なんとなく、いつもの茶葉とはグレードが違うような気がする。 なんとなくだけど。 ポットを温めていたお湯を捨て、人数分の茶葉を投入した。 「ねえ、ちょっと多いんじゃない?」 「えっ、まだ入れちゃうの?」 「これぐらいがいいんですって」 「まあ、お湯の量を調節すればなんとか……」 だんだん不安になってきた。 「そ、そんな大胆にお湯を!」 「こ、こぼれそうだよ、大丈夫?」 俺という人間は、よほど信用されていないらしい。 なんとかポットにお湯を入れ、砂時計を引っくり返した。 あとは茶葉が開くのを待つだけだ。 「ふう……ひやひやするね」 「あはは……」 「そんなに心配しなくても大丈夫ですって」 「たぶん、うまいはず」 「たぶんかいっ」 やがてすべての砂が落ち、俺はポットを持ち上げた。 これでフィニッシュだ。 ゆっくりと、カップに琥珀色の液体を注いでいく。 「おおお〜っ」 「綺麗な色」 「さすがヴィンテージだね」 「さすがだね」 誰も、俺の腕がいいからだとは言ってくれない。 ちょっと寂しい。 「……よしっ」 最後の一滴まで注ぎ終わった。 俺たちは同時にカップを持ち、小さく掲げる。 「それでは、かなでさんの新たなる門出を祝して」 「かんぱーいっ!」 「かんぱーい」 「かんぱーい」 って、自分で乾杯の音頭を取るのかよ。 などと心の中で突っ込みつつ、そっと紅茶を口に含んだ。 ……。 …………。 「あれ?」 「意外と……」 「おいしい」 「意外って、失礼な」 「すごくおいしいよ?」 「わぁ、ヴィンテージってこんなに奥行きのある味なんだ」 陽菜は身を乗り出した。 渋くもなく、薄くもなく。 ふんわりと立ち上る高貴な香り。 難しいことはよくわからないが、それなりにうまいと思う。 「やるじゃん、こーへー!」 「免許皆伝だよ!」 カップを置き、かなでさんは俺と陽菜に抱きついてきた。 「るんららんらら〜ん♪」 「ほらほら二人とも、もっとくっついて!」 「お、お姉ちゃんっ」 「熱っ!」 俺も慌ててカップを置く。 「……かなでさん、酔ってます?」 「酔ってないもーん」 「こんなにかわいい妹と弟がいて、嬉しいんだよっ♪」 上機嫌な様子で、俺と陽菜をぐいぐいとくっつける。 「つか、弟って……」 「未来の弟でしょ?」 「もう、お姉ちゃんっ。孝平くんを困らせないの」 「いーじゃんいーじゃん」 「あ、ちなみにうちのお父さん、ちょっと怖いから気をつけてね」 「大事な娘に手を出したら、何するかわかんないよ?」 ……マジか。 たいがい手遅れなんだけど。 「へ、平気です」 「話せばきっと、わかってもらえるはず」 「孝平くん……」 「おー! よく言った!」 「それじゃ明日にでも、お父さんにこーへーのこと伝えとくからさっ」 「……勘弁してください」 「余計なことしなくていいのっ」 「あははははっ」 俺たち三人は、笑い合う。 紅茶の香りの中で、笑い声が広がっていく。 ……。 とても、とても幸せな一場面。 ありふれていてもいい。 ささやかでもいい。 ただこうして、笑い合える。 そんな幸せ。 「さあさあ、もう一度かんぱーいっ!」 「かんぱーい!」 「かんぱーい」 カップとカップが響き合う音。 極上の紅茶と、極上の笑顔。 多くは望まない。 すぐそばにある幸せを、これからも守っていきたい。 そう思う。 恋人でもあり、何よりも大切な友達でもある、陽菜とともに。 俺に幸せの意味を教えてくれた、陽菜とともに── いつのまにか、景色はすっかり秋めいていた。 紅葉に染まる山並み。 この学校に来て、初めて迎える季節だ。 「集めた落ち葉は、このゴミ袋に入れてくださいね」 「はーいっ」 今日も陽菜は、美化活動に忙しい。 最近、どんどんタフになってる気がする。 委員会と寮長の仕事を両立するなんて、俺だったら無理だ。 ……。 文化祭でメイド喫茶をやってからというもの、ますます入会希望者が増えてると聞く。 このままだと、会長の「女子生徒総メイド化計画」も夢ではないかもしれない。 まったく恐ろしい人だ。 会長の手掛けた仕事の中では、三本指に入るほどの功績だろう。 さて、会長の引退した今、副会長がその後を受け継いだ。 要するに、副会長はもう副会長ではなく、会長なのだ。 いまだ呼び方に慣れなくて、苦労している俺。 「支倉先輩、さようならー」 「さようなら〜」 「お疲れ」 寮に向かう後輩たちと挨拶を交す。 最近、いろんな人に話しかけられる機会が増えた。 特に、後輩の女子。 会長と一緒にいる機会が多かったせいか、知らぬ間に知名度が上がっていたらしい。 別にモテまくってるわけでもなんでもないが、声をかけてもらえるのは嬉しかった。 「……」 「わっ」 気づけば、学生服に着替えた陽菜がそばにいた。 「委員会、終わったのか?」 「うん」 「もう帰れんの?」 「うん」 「……はぁ」 ため息をついた。 「どうした?」 「なんかフクザツ」 「は?」 「なーんでもないの」 スカートをひるがえし、陽菜は寮の方向へと歩いていく。 俺もその後を追った。 寮へと続く並木道は、すっかり落ち葉で埋めつくされている。 ときおり吹く風に、肌寒さを感じた。 秋になって、あっというまに冬が来て。 また同じ春を迎える。 そうやって、時間はずっと続いていく。 「冬になったら、談話室でクリスマスパーティーをしようと思うの」 「おお、いいな」 「クリスマスツリーを飾ってね」 「七面鳥を焼いてな」 「みんなで讃美歌を歌ったりして」 「となると、やっぱりケーキは左門堂だよな」 「もう、食べ物も大事だけどね?」 「それがメインだろ」 「うーん、やっぱり?」 それから俺たちは、クリスマスパーティーの企画についてあれこれと話し合う。 寮に着くまでの、わずかな時間。 こうやって陽菜と過ごすのが好きだった。 「……となると」 「今年のクリスマスは、みんなで過ごすことになるんだよな」 「……」 「そんなことないよ」 「24日は、空いてるから」 「ふーん……」 俺は、ちらりと陽菜を見た。 陽菜も、ちらちらと俺と見ている。 「偶然だな」 「俺も24日は空いてるんだ」 「……っ」 「そ、そうなんだ」 「生徒会の仕事が入らなければ」 「うぅっ……」 陽菜はがっくりと肩を落とす。 思わず笑ってしまう。 陽菜は以前よりも、ずっと素直に自分の感情を出すようになった。 ストレートな言葉や気持ちに、時々戸惑ってしまうほどだ。 「……一緒に、いたい」 ……ぐっ。 「駄目?」 「駄目じゃ、ない」 「俺だって、陽菜と一緒にクリスマスを過ごしたい」 「……孝平くん」 まっすぐに俺を見つめてくる。 正攻法って、ずるい。 正面から受け止めざるを得ないのだ。 俺は抱きしめたくなる気持ちをなんとか抑え、歩を進める。 「なるべく、仕事入れないようにするよ」 「ていうか、クリスマス前に全部終わらせる」 「ほんと?」 「ほんと。プレゼントも用意するよ」 「なんか欲しいものあるか?」 「欲しいもの……」 そういえば、前にアロマオイルが欲しいとか言ってた気がする。 何万円もするようなのは無理かもしれないけど、できるだけ希望に沿ってやりたい。 「今言っていいの?」 「うん」 「でも……言ったら孝平くん、困るかも」 「えっ」 やっぱり、セレブが嗜むような高級アロマオイルなのか。 俺は少しだけ身構えた。 「よし、なんでもいいぞ」 「はっきり言ってくれ」 「じゃあ、言うね」 「おう」 「……」 陽菜は少し考えてから、頬を赤らめた。 「孝平くんの寝顔、朝まで見ていられる権利」 「……」 「はい?」 「……孝平くんの寝顔、独り占めしたいの」 「そういうプレゼントじゃ、駄目?」 言ってから、ふいっとそっぽを向く。 風が吹いて、赤い耳たぶがあらわになる。 俺は、前を歩く陽菜の手を握り締めた。 「いいよ」 「朝まで、ずっと一緒にいよう」 「朝になっても、ずっと一緒だ」 「……うん」 「ずっと一緒にいる」 指と指が絡み合う。 風は肌寒いけど、触れた場所はとても温かい。 ……。 ホントに、幸せのハードルが低いやつだと思う。 でも。 だからこそ、もっともっと幸せにしてやりたいと思ってしまう。 もう、失うことを恐れずに済むように。 失った記憶を埋めてもなお、あり余る愛情を。 陽菜に捧げたい。 陽菜を幸せにできる権利は、俺だけのものだ。 そして。 俺を幸せにできる権利は、陽菜だけのものなのだろう。 「孝平くん」 「ん?」 「……ずっとずっと、好きだったよ」 「ずっとずっと前から、好きだったよ」 「もし、また私が記憶をなくしても……」 「その気持ちだけは、忘れない」 確信を持った口調で、陽菜は言う。 「もし、孝平くんのことを忘れてしまっても……」 「何度も何度も、恋をするからね」 「絶対に……」 俺は、強く手を握り返した。 もし、陽菜が俺を忘れてしまったとしても。 もう諦めない。 大切な人を失わない。 心の深い部分で、つながっていることを信じてる。 そう教えてくれたのは、陽菜自身だから。 ……。 これから生まれる、たくさんの記憶。 これまで過ごしてきた時間より、もっともっと長い時間を。 陽菜とともに歩みたい。 ありふれていてもいい。 ささやかでもいい。 ただこうして、笑い合える。 そんな幸せを、二人で積み重ねていきたい。 門限前の午後8時52分。 並木道に人影はなく、街灯の明かりがぼんやりと石畳を照らしている。 俺は監督生室に忘れたノートを回収し、寮へ向かっていた。 「お?」 並木道の真ん中に猫がいる。 闇が凝り固まったように真っ黒な猫だ。 黒猫が道を横切るのは不幸の前兆と言うが、見つめられるのはなんの前兆なんだろう? そんなことを考えつつ進む。 「な〜ぉ」 1メートル程度まで近づいたところで猫が鳴いた。 話しかけるような声の調子に、思わず足を止める。 「なー」 「ん、どうした?」 屈み込んで手を出してみる。 猫は少しだけ俺の手を見て、ふいと顔を逸らした。 右前足で顔を洗い始める。 おいこら、と言いかけた瞬間、 背筋に悪寒が走った。 「っっ」 振り返る。 ……誰もいない。 気のせいか。 また前を向く。 「……」 猫がいなくなっていた。 ぽた、   ぽた、 石畳に、赤い水滴が落ちている。 「?」 差し出したままの手の甲から血が流れていた。 「おわ」 痛みはほとんどない。 猫にひっかかれたのか? ぜんぜん気がつかなかった。 とりあえずハンカチを当てる。 あとで消毒しとこう。 「あら、支倉くん」 上から副会長が下りてきた。 「よう」 「忘れ物あった?」 「バッチリだ」 「気づくのが遅かったら門限でアウトだった」 「間に合ってよかったじゃない」 「ま、もしアウトになったときは、言ってくれればノート貸してあげるから」 「さんきゅ。そんときは頼むよ」 じゃ、と別れかけたところで、 「支倉くん、どこかケガしてない?」 副会長が足を止める。 「ああ、ちょっとな」 手に巻いたハンカチを見せる。 少し血がにじんでいた。 「み、見せなくて……いいから」 副会長がじりっと後ずさった。 顔が真っ赤だ。 これは……あれか? 吸血鬼的な反応か。 「やっぱり、飲みたくなったりするのか?」 「な、ならないわよ」 その態度は肯定しているようなものだが。 「私は人から吸わないの」 「エレガントじゃないんだっけ?」 「そういうこと」 「だいたい、一緒に生活してる人から吸う気になんてならないでしょ」 「輸血用血液で十分」 「なるほどな」 代替品があるなら、わざわざ嫌な思いをして人間から血を吸うことはない。 「でも、それはそれで吸血鬼らしくないな」 「悪かったわね」 「支倉くんに、親みたいなこと言われるとは思わなかった」 「すまん、気に触ること言った」 「あ、気にしないで。こっちも言ってなかったんだし仕方ないわ」 よくわからんが、吸血鬼のご家庭にもいろいろあるようだ。 それこそ人間には想像もつかない苦労があったりするのだろう。 「それより、傷は大丈夫?」 「大したことない。野良猫にひっかかれただけだ」 「野良猫?」 「撫でようとしたらやられた」 「まったく……」 副会長が、呆れたように笑う。 「バイ菌入らないようにね」 「ちゃんと消毒しとく」 「じゃ、また明日」 「ええ、おやすみなさい」 軽く手を振って副会長と別れた。 あの人の呼び出しはいつも突然だ。 こっちの都合など気にせず、呼びたいときに呼び出す。 まあ、呼び出しだけではなく、あらゆる面でこっちに配慮しないのだが。 昼夜通して灯された明かり。 停滞した空気。 時間が流れていることを知らせてくれるのは、お香の煙だけだ。 もぞりと、御簾の奥で影が動く。 「お前のお気に入り、支倉と言ったか」 突然、しゃべりだした。 「誰がお耳に?」 「いいのに目をつけたな」 質問の答えは返ってこない。 「なかなかいい味をしている」 「っっ!」 全身が凍りつく。 まさか、 まさか……、 支倉くんの血を……。 そんな、いきなり。 「少し味見をしただけだ」 私の動揺を見透かしたかのように言葉を続ける。 少し安堵を覚えつつ、頭の中には寮でのやりとりが浮かんでいた。 ……手のケガに思い当たる。 なるほど。 体を傷つけ、味見をしたということか。 「……」 奥歯を噛む。 一瞬でも安堵した自分が恨めしい。 そもそも、傷をつけただけでも許せるものではないのに。 だが、ここは我慢するところ。 あの人の機嫌を損ねれば状況が悪化するだけだ。 「学院までいらっしゃったのですか?」 「自分の餌場に行って何か不都合があるか?」 「いえ」 「ふん」 「して、いつ眷属にするつもりだ?」 「今は様子を見ています。近いうちに必ず」 「どう様子を見るというのだ?」 「なにぶん学院でのことですから、慎重の上にも慎重を期さなくては」 ぱちりと、扇を畳む音が響いた。 「あれだけの上物だ。逃げられぬうちに眷属にしろ」 「それが貴様のためだ」 「はい」 何が私のためだと言うんだろう。 輸血用血液がある今、どこに眷属など作る必要がある。 「吸血鬼は吸血鬼らしく生きよ」 「……」 「返事をせい」 「……はい」 再び扇が鳴る。 「まあよい。眷属を作らねば屋敷に戻すだけだ」 「母としては、貴様にまっとうな吸血鬼になってほしいものだがな」 まっとう? 必要もないのに人を傷つけるのがまっとうか。 時代錯誤もいいところだ。 「わかりました」 「下がれ」 できるだけ速やかに立ち上がる。 一秒たりとも長くここにはいたくない── はずだ。 「失礼します」 自分の情動にかすかな違和感を覚えつつ、部屋を退出した。 「小賢しいことよ」 「……しかしあの血、どういうことだ」 朝。 いつもの時間に寮の玄関を出る。 お、あれは……。 前方に副会長発見。 「おす、副会長」 駆け寄って声をかけた。 「あ、おはよう……支倉くん」 「どうした、テンション低いな」 「ちょっと夢見が悪くて」 「前もそんなこと言ってたよな」 「どんな夢なんだ?」 「えーと……」 「あんまり覚えてないかも」 困ったように眉を曲げて言う。 「あるよな、起きたら忘れてること」 「ま、テンション上げていこう」 「ええ」 副会長に笑顔が戻った。 始業前の廊下を教室に向かう。 「ねえねえ聞いた?」 「え、なに?」 「昨日の夜、吸血鬼が出たんだって」 「っっ!?」 隣を歩いていた副会長が、びくりと硬直した。 「……」 問題発言をした女の子たちは、笑いながら通りすぎていく。 単なる噂話のようだが……。 「どういうことだ?」 「……」 副会長は答えない。 血が引いたように顔は蒼白になっている。 「副会長」 「え、あ、なに?」 やっと俺を見る副会長。 「もしかして、副会長が見られたのか?」 「違うと思うわ」 「そうすると、会長かな」 「直接聞いてみないことには何とも言えないわ」 「姿を見られるなんて自殺行為だし、おそらく兄さんじゃないと思うけど」 そう言いながらも顔は不安げなままだ。 「俺は、放課後までに情報集めてみるよ」 「噂の出所とか、何を見たのかとか」 「ええ、お願いね」 副会長がか細く微笑む。 自分が見られたわけではない── 副会長はそう言ったが、やはり不安なのだろう。 今回の噂がよくある怪談だったとしても、彼女にとっては辛い状態のはずだ。 実際に姿を見られたらどうなるか、リアルな実験を見せられてるようなものなのだから。 放課後。 監督生室には役員全員が集まっていた。 「例の噂については聞いてるわね」 「今日はどこに行っても、吸血鬼話だったからねえ」 「聞いてないほうがモグリだよ」 「支倉くん、詳細は調べてくれた?」 「ああ、一通りね」 今日の昼休み。 朝の宣言通り、俺は聞き取り調査を行った。 「目撃者は5年4組の女の子」 「昨日の夜9時半ごろ、礼拝堂近くで屋根の上に黒い人影を見た」 「その人影は、女の子に気づくと寮の方へ飛び去ったらしい」 「血を吸っているところを目撃したわけではないのだな」 「はい」 「飛び去った人影については何かわかってるの?」 「顔は見えなかったけど、体型は女の子に見えたと言ってる」 「長い髪で、マントを羽織ってたってことだ」 「瑛里華じゃないのか?」 「私が教会の屋根に上るわけないでしょ」 「そうだよねぇ……」 つまらなそうに言う。 「副会長が見られた方がよかったんですか」 「その方が面白いだろ?」 「面白いわけないでしょ、まったく」 「聞いた限りでは、人間離れした運動能力とマントという服装が、吸血鬼を連想させたようだな」 「でしょうね」 「しかも、目撃者が連想したのは映画に出てくるような吸血鬼でしょう?」 「本物の吸血鬼なら、わざわざ目立つ格好なんてしないと思うわ」 「でも、礼拝堂の屋根から飛び去るなんて普通の人にはできません」 「鳥かなんかの見間違いじゃないか?」 「礼拝堂なんていかにもな場所だし、先入観でそれっぽく見えたんでしょ」 副会長の表情にもかなり明るさが戻っていた。 とりあえずは一安心だ。 「ところで、人影が目撃された時間だが……」 「夜9時半といえば門限を過ぎている。なぜそんな時間に生徒が出歩いている」 「最近できた彼氏と、礼拝堂近くのベンチで語り合ってたんだそうです」 「あれだね」 「そのカップルは、ホラー映画だと真っ先にやられるタイプだ」 「仲良くしゃべってる程度なら大丈夫でしょう」 「それ以上進むと、第一被害者になる可能性大ですが」 「どういうことですか?」 「知らなくていい」 「?」 白ちゃんは、ほんと純粋だよな。 「で、どうする? いちおう調べてみるか?」 「そうねえ……」 「見間違いだとは思うけど、私たちの他に吸血鬼がいないとは断定できないし」 「というわけで頼むよ、征」 「わかった、夜の外出許可を取っておこう」 東儀先輩が席を立ち、部屋を出ていく。 「はあ」 副会長が大きくため息をつく。 「お疲れだな」 「自分には関係ないってわかってても、吸血鬼って単語が思わず気になっちゃうのよね」 無理もないと思う。 今日の学院は吸血鬼話で持ちきりだった。 笑う生徒、 怯える生徒、 吸血鬼の弱点を話し合う生徒、 本物の吸血鬼である副会長にとっては、どれも気持ちがいいものじゃないだろう。 そりゃ疲れもする。 「この程度で神経をすり減らすなんて、瑛里華も若いな」 「平気な兄さんがおかしいのよ」 「バレたら終わり、これは昔っから変えようのない事実だ」 「そのくらい、覚悟しておくべきことさ」 「その覚悟はできてるわ」 「ただ、みんなを騙してるみたいなのが心苦しくて」 吐き出すように言う。 「騙してなんかないさ」 「そうかしら」 「誰だって言えないことの一つや二つあるだろ? それと一緒だ」 「裏切ってるなんてことは絶対ない」 「……」 副会長が俺の顔を見る。 少しだけ驚いていた顔が、優しい笑顔に変わる。 「ありがとう、支倉くん」 「瑛里華先輩、元気を出してください」 「ええ」 そう言って副会長は笑う。 「ありがたいものじゃないか」 会長が席を立ち窓際へ移動し、外を見ながら口を開いた。 「大切にしたいな、支倉君みたいな良き理解者は」 「世の中には、裏切っていい人といけない人がいるからね」 「わかってるわ」 二人に持ち上げられ、こそばゆい気分だ。 「しっかり調査して、こんな噂はさっさとなくそう」 「はい、頑張りましょう」 午後9時。 生徒会役員が監督生室に集合した。 門限を過ぎているので、いちおう電気は消してある。 「征一郎さん、白は?」 「寮に帰した」 「こういう時、白は足手まといになる」 そうは言っているが単に心配だったのだろう。 「ほーんと、妹思いね」 からかうように副会長が言う。 「こほん、そういうことではない」 「支倉君」 「システム・コンフリクト、略して?」 シスコンと言わせたいらしい。 「シスフリ」 「ということだ、このシスター・フリークめ」 「違う」 拾われた。 「はいはい、ウダウダやってないで行きましょう」 五月も半ば。 闇夜を走り抜ける風が、濃い緑の香りを運んでくる。 「……」 副会長が軽く手を挙げた。 それにうなずき、俺たちは歩き始める。 隊列は、副会長、俺、東儀先輩、会長の順。 もしものことを考え、前後を吸血鬼が守る形だ。 噴水まで下りてきた。 周囲の建物の明かりは消えている。 暗い闇の中で、火災報知器の赤い非常灯だけが獣の目のように光っていた。 副会長が礼拝堂を指さす。 吸血鬼らしき人影の目撃地点だ。 礼拝堂へと続く階段は、暗い森に吸い込まれている。 足音を忍ばせて先へ進む。 苔に足を取られそうになりながら、一歩一歩石段を踏みしめる。 階段の両脇は鬱蒼と茂る広葉樹の森。 月の光は届かない。 「……」 その建物が現れた。 昼ならば歴史を感じさせる壁の黒ずみ。 だが今は、地面から這い上がった影がしがみついているようだ。 ぐるりと周囲を見回す。 ……。 不審なものは見当たらない。 副会長が歩きだす。 建物を一周した。 何も見つからない。 副会長に視線を送ると、軽く肩をすくめた。 ……次の場所へ移動だ。 2時間ほど見回りを続けてから、俺たちは寮を目指していた。 「空振りか」 「向こうにも都合があるのかもね」 「気長にいきましょう」 「そうだな」 吸血鬼らしき人物が実在するのかしないのか、 目撃されたのは偶然なのか故意なのか、 学院関係者なのかそうでないのか、 わからないことばかりだ。 となれば、しばらくは見回りを続けるしかない。 「見つからなければ、それはそれで構わないさ」 「生徒さえ危険な目に遭わなければ我々としては問題ない」 「そうですね」 このまま何事もなければ、噂もそのうち消える。 それならそれでいい。 「そこ行く四人組〜、止まりなさ〜い」 「あら」 「かなでさん」 「遅くまでご苦労」 「悠木姉こそ精が出るね」 「いおりん、それはお互いさま」 「で、首尾は?」 「異常はない」 「見回りしてるの知ってたんですか?」 「このわたしの情報網をもってすれば……」 「外出許可を取りに行った際に教えただけだ」 「せいちゃん……たまにつれない」 「いつもだ」 「きびしー」 「ほんと、お元気ですね」 「もち」 「元気も余ってるし、明日は風紀委員会も夜のお散歩に出ようかな」 「あんまりおおっぴらに動くと、噂が大きくなりますよ」 「ちっさいこと言わないの」 「支倉くんの言う通りです。ここは生徒会に任せて」 「ま、そういうことで」 「面白そうなのになぁ」 「まあまあ悠木姉、ここは抑えて」 「俺が女子大浴場ツアーに付き合ってあげるから」 「ほんと!?」 「……なんて言うかシーーール」 ぺたし 会長の額にシールが貼られた。 すかさず、ぺりっとはがす会長。 「おおっ、新しい絵柄だ!」 「昨日作ったの」 「俺のシールコレクションがまた充実したよ」 「ありがとう悠木姉」 「はっはっはっは」 「はっはっはっは」 ついていけねえ。 「貴方がた、門限が過ぎているのですから静かになさい」 鋭い声とともに現れたのは……、 「し、シスター」 左手にはフライパン、右手にはおたま。 神をも滅ぼす最強装備だ。 「今夜は外出許可を出していただいて、本当にありがとうございました」 場を取りなすように副会長が前に出る。 「おかげで、しっかり見回りができました」 「構いません、平穏な学院生活のためですから」 「ところで、外出は許可しましたが騒ぐのは許可していませんよ」 「早く部屋にお戻りなさい」 「了解です」 「千堂君、貴方は生徒会長でしょう?」 「生徒たちの規範にならないでどうするの」 「申し訳ない、志津子ちゃん」 「その呼び方はやめなさい」 「テレなくてもいいじゃない」 「千堂君」 フライパンを構えるシスター。 「ほら、行くぞ」 「ん?」 東儀先輩が会長の首根っこを捕まえる。 そして寮に引きずっていった。 「……えー、こほん」 「貴方がたも早くお戻りなさい」 「うん。じゃあね、まるちゃ……」 物騒なことを言いかけたかなでさんの口を塞ぐ。 「では、失礼します」 「失礼します」 「んー、んー」 俺はかなでさんを引きずって寮へ入った。 世話が焼ける。 門限が過ぎ── 俺たちは、また監督生棟前に集合していた。 「じゃ、行くわよ」 「おう」 小声で気合いを入れる。 少し歩くと、肌にじっとりと汗がにじんできた。 地球温暖化かなんだか知らないが、五月にしてはむっとした夜だ。 なんか嫌な感じだ。 「お、お姉ちゃん、戻った方がいいよ」 「みんなの夜を守るのは、風紀委員の役目」 「それにさ、吸血鬼なんているわけないじゃない」 「そ、それはそうだけど……」 「なんの音だろう?」 「あああぁぁぁひなちゃん、あれ、あれあれあれあれあれっ」 「え、あれって……」 「追いかけなきゃっ」 「お姉ちゃんっ」 礼拝堂に到着し、ぐるりと周囲を見回る。 怪しい人影はない。 ……今日も空振りか。 「瑛里華」 「ええ、来るわ」 二人の視線を追う。 見ているのは……、 空だ。 初めカラスだと思った。 すぐに誤りだと気づく。 急速に接近するそれは、カラスと呼ぶには大きすぎた。 俺たちの頭上を越え、影は礼拝堂の屋根に着地した。 銅板葺きの屋根が重い音を響かせる。 「マジか……」 人間にできることじゃない。 影がこちらに背を向けたままゆっくりと直立する。 不意に吹いた風が、まとっていたマントをひるがえらせた。 裾から覗く白い脚二本。 風に舞う長い髪。 女性だ。 「貴女、顔を見せなさい」 「……」 風がやみマントが静止する。 影も微動だにしない。 「見せないなら、見にいくわよ」 副会長の身体が沈む。 ガッと石畳を蹴る音。 「……」 次の瞬間、副会長の身体は屋根よりも高い位置にあった。 影の動きが人外なら、副会長のそれもまた同様だ。 副会長の高度が頂点に達したとき、影の重心が下がる。 「っっ」 副会長とすれ違うように、影が夜空に吸い込まれる。 その姿は、さながら放たれた黒い矢。 わずかに遅れて、副会長が矢の軌跡を追う。 「あーもー」 前方でひるがえるマントとの距離は、徐々に開いていた。 完璧に運動不足。 学院生活の中で、力をセーブする癖がついていたようだ。 「待ちなさいっ」 叫んでみたところで聞こえるわけがない。 空を切る音で自分の声すら聞こえにくいのだから。 「くっ」 身体が重力に引かれ始めた。 向こうはまだ力強く前進している。 早く次の跳躍に入らねば。 人間生活のカセを外して跳躍すれば、きっと追いつくはずだ。 着地地点を探す。 校舎の横。 よし。 スカートを押さえ、着地姿勢に入る。 「えっ」 誰かが着地地点に走ってきた。 あれは……、 ……。 悠木陽菜。 よりにもよって、悠木陽菜! 「最低」 「きゃあっ!」 着地の衝撃が足の裏から脳天まで突き抜ける。 靴のかかとが豪快にすり減る感触。 まあ、そんなことはどうでもいい。 問題は……、 目の前で腰を抜かしている、悠木さんだ。 「ぁ……ぁ……ぁ……」 元から丸い目をまん丸に見開いて、私を見ている。 後ずさることもできず、ただもじもじと手足を動かす。 膝が開かないあたり、育ちの良さが窺える。 「せせ……せんどう、さん?」 急いで階段を駆け下りた。 副会長が飛んでいったのは新敷地の方角だ。 一刻も早く追いつかなくては。 校舎の脇まで下りてきた。 「まずいな」 「何がです」 「ま、すぐわかる」 少し走ると人影が見えた。 副会長だ。 「え……」 ぎょっとした。 副会長の足下に誰かが座っている。 見慣れたその姿は── 陽菜だ。 陽菜がどうしてこんなところに? 黒マントの正体が陽菜? まさか、そりゃないだろ。 「……」 副会長は、呆然としている陽菜を沈痛な面持ちで見下ろしていた。 「副会長」 副会長がこっちを見る。 無言でまた視線を陽菜へ戻した。 「こ、こうへい……くん」 陽菜は涙目。 石畳にへたり込んだまま、俺たちの顔を順に見回している。 「見られたのか?」 会長が副会長に問う。 声はいつもと変わらない。 「……ええ」 対して副会長は、ようやくしぼり出したような声を出す。 「あ、あの……こうへい、くん?」 陽菜がすがるような目で俺を見る。 「何があったんだ、陽菜?」 「えっと……あの、あの……」 「大丈夫だ、落ち着いて」 「う、うん……」 「その……千堂さんが、空から突然……」 降ってきたのか。 ……なんてタイミングだ。 副会長はどうするつもりだろう。 俺みたいに記憶を消すのか? だとしたら、俺はそれを見過ごすのか? いろんな思考が頭の中を駆けめぐる。 「見たのなら、忘れてもらおう」 さらりとした口調で会長が言う。 「か、会長」 「え、なに? どういうこと?」 陽菜がおろおろと俺を見る。 放っておけば、会長は容赦なく記憶を消すだろう。 たしかに、変なことに巻きこむより忘れてもらった方が彼女のためかもしれない。 記憶がなくなる期間だって、きっと一日か二日だ。 だが。 その一日二日に、陽菜にとって大切な記憶が含まれていないとは限らない。 「時間かけても仕方ないし、さっさと済ませようか」 「待ってください」 「なんだい?」 「少し待ってもらえませんか?」 「待ってどうする?」 「陽菜に、俺と同じ立場になってもらうってのはどうです?」 「増えるなら誰でもいいってわけじゃないんだけどね」 「だからって、今すぐじゃなくても」 「けどねえ、それでもし俺たちが面倒な目に遭ったらどうする?」 「陽菜は、広めたりしないと思います」 「ど、どういうこと、広めるって何を?」 まったく状況が把握できていない陽菜は、ただきょろきょろと周囲を窺うばかりだ。 「悪いけど、ギャンブルはしたくないな」 「瑛里華、さっさと済ませてくれ」 「え?」 「子供じゃないんだし、自分のまいた種は自分で刈り取ってもらわないと」 副会長が唇を噛む。 苦渋に満ちた表情をしていた。 俺の記憶を消そうとしていたときと同じ表情だ。 まっとうな神経を持ってる人なら、他人の記憶を消せば相当な罪悪感に苛まれるはずだ。 会長みたいにさっぱり割り切れればいいが、副会長はそうではないだろう。 副会長に、そんな思いはさせたくない。 だが、副会長は一歩前に踏み出した。 やる気……なのか? 「副会長っ」 「……」 「こ、孝平くん、何? どうしたらいいの?」 陽菜が俺の脚にすがりつく。 副会長が、陽菜に向かって一歩踏み出した。 マジか。 「あー、いたいた」 本敷地の方から、聞き慣れた声が飛んできた。 かなでさんだ。 「どうして悠木が」 「あ、あの、吸血鬼を探しに行くって」 「止めたんですけど、どうしても聞かなくて……」 最低のさらに下を行く状況だ。 陽菜の記憶を消すのを目撃されれば、かなでさんの記憶も消さなきゃいけない。 こうしている間にも、かなでさんはこっちへ向かって走っている。 事態は急を要する。 「陽菜、よく聞いてくれ」 「う、うん」 「わけがわからないと思うが、ここであったことは絶対秘密にしてくれ」 「かなでさんにも内緒だ」 「え、えーと……」 「あとできちんと説明するから、頼む」 自信も根拠もないが、ここは勢いで押し切ろう。 「わ、わかった」 「すまん、陽菜」 「おいおい、支倉君」 「ここで被害者を増やしてもいいことないですよ」 「ふむ」 会長が腕を組む。 副会長がほっとしたように息をついた。 災いが福に転じたかはともかく、かなでさんには感謝だ。 「やあやあ、生徒会の諸君」 かなでさんが到着した。 「やあ、悠木姉」 「あれ? ひなちゃん、どうかしたの?」 「ああ、ちょっとつまづいたんです」 と、陽菜の手を取って立ち上がらせる。 まだ膝に力が入らないようだが、なんとか立ってもらう。 「あ、うん、暗かったからちょっと」 「ケ、ケガしてない?」 「うん、大丈夫」 「こーへー、ちゃんと注意してあげてね」 「もしものことがあったら、大変なことになるよ、こーへーが」 「気をつけます」 かなでさんに、大変な目に遭わされるらしい。 「しかしな、悠木」 「それ以前に、二人がここにいることが問題だろう? 何時だと思ってる」 「風紀委員長として、学院の夜を守るのは当然の義務」 胸を張るかなでさん。 「でも、どうして本敷地の方から?」 「並木道のとこで見たの、吸血鬼らしき人影を」 「ひなちゃんも見てるはずだよ」 「はい、私も見ました。黒い影が空を飛んでいたんです」 「本敷地の方に向かってたから、監督生棟まで探しに行ったんだけど」 「どうでした?」 「ダメだった」 渋面を作るかなでさん。 「俺たちは礼拝堂にいたけど何も見なかったね」 「ああ、特に変わったことはなかったな」 噴水広場を時計の中心とすると── 10の数字が礼拝堂、12が監督生棟に当たり、噴水広場とはそれぞれ別の階段でつながっている。 俺たちが礼拝堂からの階段を駆け下りていたころ、かなでさんは監督生室への階段を上っていたというわけだ。 「だったら、どこ行ったんだろ?」 「鳥と見間違えたんじゃ?」 「違うって。すごく大きかったんだから」 両手を大きく広げるかなでさん。 「ともかく大手柄だよ悠木姉。寮で詳しいことを聞かせてくれないか?」 「りょーかい」 会長が寮へ戻る流れを作る。 新敷地に消えた吸血鬼らしき人影も気になるが……。 まずは状況を落ち着かせるのが先決だろう。 「じゃあ、寮へ戻りましょう」 「そうだな。外出許可を取っているとはいえ、もう遅い」 「よーし、レッツリターン」 かなでさんが先頭に立って歩きだす。 次いで会長と東儀先輩。 「陽菜、とりあえずは寮に行こう」 「孝平くん……」 心配そうに俺を見る。 「大丈夫、悪いようにはしないから」 「うん、信じるね」 無理やり笑顔を作って、陽菜は会長たちのあとについていく。 最後にポツリと副会長が残った。 立ち尽くす姿には、覇気の欠片もない。 「さあ、副会長も」 「え、ええ」 表情は陽菜よりも暗く重い。 何かに怯えるような、不安に満ちた表情だ。 「大丈夫、何かいい方法があるさ」 「帰ってから、一緒に対応を考えよう」 自分で言っておいてどうかと思う。 何か策があるわけじゃない。 ただ、それしか言葉が思いつかなかったのだ。 「……ええ」 苦しげに答え副会長が歩きだす。 ふらつきそうになる肩を手でそっと支える。 「ありがとう」 「いや」 それっきり無言になる。 街灯に照らされた寮までの道程。 明るいはずの石畳を、俺たちは暗闇を歩くように進んでいった。 かなでさんからの聞き取りは三人に任せ、俺は陽菜のケアに回った。 といっても、明日の放課後に事情を説明するので、それまでは何も言わずにいてくれと頼んだだけ。 不安をぬぐい去るには遠く及ばないが、不確定な未来に放り出すよりはいいだろう。 部屋に戻り、俺は電話を取る。 プルルルル……プルルルル……  プルルルル……プルルルル……   プルルルル……プルルルル……    プルルルル……プルルルル…… なかなか出ない。 風呂にでも入ってるのか……。 プルルルル……プルルルル……  プルルルル……プルルルル…… 「はい」 「あ、俺。今電話して大丈夫?」 「ええ……大丈夫よ」 暗く落ち込んだ声だった。 相当まいってるな。 「かなでさんの話は終わったのか?」 「ついさっきね」 「新情報は?」 「例の吸血鬼が並木道の方から来たってことくらい」 「そうか」 重苦しい沈黙が訪れた。 互いに、吸血鬼らしき人物のことを話したいわけじゃない。 ただ切り出しにくかったのだ。 「悠木さん、どうだった?」 少しして副会長が口を開く。 「まだ混乱してるみたいだったけど」 「詳しいことは明日の放課後に説明することにして、とりあえず落ち着かせた」 「そう」 「支倉くんには迷惑を掛けるわね」 「構わないさ」 「それより、副会長……どうするんだ?」 「そ、それは……」 副会長が言い淀む。 再び彼女が口を開くまでには、しばらく時間がかかった。 「吸血鬼としては、忘れてもらうのがきっと……」 ため息混じりに言った。 言葉は煙のように受話器から這い出て、俺の胸をぎゅっと締めつけた。 「陽菜なら、大丈夫じゃないか?」 「記憶を消さずに正体を明かすというの?」 「そうだ。あいつは秘密を人に言いふらすタイプじゃない」 「……」 副会長の返事はなく、唇を湿らせる音だけが聞こえた。 「記憶を消せば副会長がいろいろ背負うことになる」 「会長みたいに割り切れないなら、やめた方がいいと思う」 吸血鬼の命に終わりはない。 一度罪の意識を背負ったら、どこまでも付き合っていくことになる。 それは自分の胸に抜けないトゲを刺すようなものだ。 消えない疼痛に、いつかは心が負けてしまう気がする。 「人ひとりの記憶を消すというのは、そういうことよ」 「記憶を消すのは自衛かもしれないけど、それで自分が辛い目に遭ったら結局一緒じゃないか」 「それでも、正体がバレて追い出されるよりはマシ」 「学院の様子を見たでしょ?」 「みんな怖がったり、面白がったり……バレれば私たちが矢面に立つのよ」 「……それは」 バレたとき苦しむのは俺ではない。 無責任すぎて、先を言えなくなる。 「しょせん吸血鬼は吸血鬼。どこまで行ってもこの学院の一員にはなれないのよ」 みんなの先頭に立って学院生活を盛り上げている副会長。 その彼女が、自分と生徒たちを別のものとして考えている。 理屈ではわかる。 でも、胸の中は哀しさでいっぱいになった。 「副会長、自分を含めたみんなが楽しめる学院を作るのが目標だって言ってたじゃないか」 「たしかにそうだけど……」 「今回みたいなことになれば、誰かの記憶を奪うことでしか私は自分の生活を守れないのよ」 「その私が自分も含めて楽しもうなんてズルいでしょ?」 「そんなことない」 反射的に否定する。 副会長にそんなことを言ってほしくない。 ただそれだけだった。 「奪わなければいいじゃないか」 「陽菜だったら大丈夫だって」 「でも……」 戸惑いを見せる副会長。 戸惑うってことは、心の中では受け入れて欲しいって気持ちがあるわけだ。 なら、あとは……、 「勇気出してみたらどうだ?」 「俺みたいに平気なヤツもいるんだし」 「失敗したらどうするのよ」 俺に責任を取れと? 「一緒に転校でもするか」 「ばっかじゃないの」 思いっきり言われた。 「それで何が解決するのよ」 「しないな」 「真面目な話してるんだけど」 「深刻に考えりゃ結論出るのかよ」 「結局、やるかやらないかの二択さ」 「それはそうだけど……」 「もし本当に陽菜が受け入れてくれなかったら、俺も一緒に付き合うよ」 「一人で転校するよりはいいと思う」 「むしろプレッシャーなんだけど」 「ははは、そのくらいの方がやる気出るだろ」 「もう、ほんとバカなんだから」 副会長が苦笑する。 「副会長には楽しくやって欲しいんだ」 「いつも頑張ってるんだから、そのくらい当たり前」 「ありがとう」 「でも、そんなに肩入れしなくてもいいのよ」 「支倉くんは巻きこまれただけなんだし」 「今さら言うなっての」 激しくツッコんだ。 「そういう配慮は生徒会役員になる前にしてくれ」 「もはや一蓮托生だろ」 くすりと、電話の向こうで副会長が笑う。 「支倉くん、お人好しとか言われない?」 「言われないな」 「誰にでも気をかけてるわけじゃないし」 一瞬の静寂。 かなり恥ずかしいことを言った気がするが……もう遅いか。 「……そ、そうなんだ」 「そうだ」 「へえ」 「なんだよ?」 「なんでもないわ」 「それじゃ、お風呂入るね」 「ああ、風呂でもなんでも入れ」 「なんで怒ってるのよ」 照れ隠しだ。 「ともかく、陽菜のこと考えてみてくれよ」 「……わかったわ」 気がつくと副会長の声はずいぶん和らいでいた。 「じゃあな」 「ええ……」 「電話してくれてありがとう、支倉くん」 その言葉を最後に電話が切れた。 携帯を持ったままベッドに転がる。 ディスプレイに汗がついていた。 副会長だって、正体を知った上で付き合ってくれる人が欲しいのだと思う。 ただ、リスクが大きいから躊躇しまくっている。 今回のことは俺が抱えていた問題と根っこは一緒だ。 俺は、転校でいずれ失ってしまうから親しい友人を作らなかった。 副会長は、受け入れられる可能性が低いから正体を打ち明けなかった。 本当は自分を知って欲しいのに、自分をさらけ出さない。 必要なのは勇気だ。 まあ、失敗した場合のリスクが違いすぎるし一緒にするのも失礼な話だが……。 だが、クサりかけてた俺を立ち直らせてくれたのは副会長だ。 彼女にはできるかぎりのことをしてあげたい。 私のことは気にしないで貴方は先に行って、みたいなのは御免だ。 さて、どうなるか……。 根拠はない。 根拠はないが、なんとなく副会長は勇気を出してくれる気がした。 放課後を告げるチャイムが鳴った。 さっそく陽菜に声をかける。 「陽菜、これから空いてるよな?」 「う、うん……もちろん」 ぎこちなく笑顔を作る。 見ていて痛々しくなる表情だ。 「行こうか」 「わかった」 陽菜は小さくうなずくと、教科書類を手早く鞄に入れる。 ぱちりと鞄の金具が止まる音が、妙に寂しく聞こえた。 噴水まで無言で歩いてきた。 陽菜はうつむきがちに地面を見つめている。 「なあ陽菜」 「なに?」 「昨日みたいなこと、俺も経験済みなんだ」 驚いたように陽菜が顔を上げる。 「孝平くんも?」 「ああ。詳しく説明できなくて悪いけど」 「いいの……少し、安心したよ」 「少し怖いかもしれないけど、大丈夫だから」 「うん」 この先どうなるかは副会長次第だ。 記憶を消すことを選べば、こうして交わした言葉もすべてなかったことになる。 とんでもない罪悪感だ。 すべてを投げ捨てて謝りたくなる。 直接手を出さない俺ですらこうなのだ。 もし陽菜の記憶を消したら、副会長はどれだけの苦痛を背負うのだろう。 建物を前にして、陽菜は緊張にこわばっていた。 「さ、行こう」 「……うん」 通い慣れた部屋。 室内には、白ちゃん以外の役員が揃っていた。 「こ、こんにちは」 「よく来たね、悠木妹。ま、かけてくれ」 「あ、はい」 陽菜が俺の顔を窺う。 俺は先に椅子へ腰を下ろし、隣の席を勧めた。 少し震える手でスカートを直し、陽菜は椅子に座る。 「昨夜は大変だったね」 会長が穏やかな表情で口を開いた。 「はい」 「話は広めたりしてないよね?」 「孝平くんにそう言われてましたから、誰にも」 「いい心がけだ」 「今日、詳しいことを説明してもらえると聞いたのですが」 「ああ」 と、会長は副会長に視線を送った。 副会長は、じっと陽菜を見つめている。 「あの……」 視線をさまよわす陽菜をよそに、副会長が立ち上がる。 「説明の必要はないわ」 必要がないって……。 「副会長っ」 「支倉、これは瑛里華の問題だ」 東儀先輩がいつもと変わらない調子で言う。 どうしてこんな時まで、いつも通りなんだ……。 「千堂さん?」 「悠木さん、お願いがあるの」 「な、なに?」 「私がいいって言うまで、目をつぶってもらえないかしら?」 陽菜に近づきながら副会長が言う。 「……でも」 「悪いようにはしないわ」 陽菜が何かを決心するように唇をかむ。 そして、目をつむった。 「副会長、考え直してくれ」 「支倉くん、悠木さんが心配するでしょ」 冷然とした声。 「……」 やる気だ。 「悠木さん……大丈夫よ」 言葉が切れたそのとき―― 空気がざわめいた。 「ほう」 紅い瞳を見るのは二度目だった。 内側からあふれ出す不可視の力が、髪を巻き上げその存在を示す。 陽菜も異変を感じているのか、膝の拳を強く握りしめている。 「考え直してくれ」 「決めたことだわ」 右手を伸ばし陽菜の額に触れる。 陽菜の柔らかな髪がかすかに舞った。 「千堂さん」 陽菜の唇が動く。 「なに?」 「信じてるから。悪いようにしないって言ったこと」 一瞬だけ、副会長の目が見開かれた。 「そう……ありがとう」 副会長の右手が光を帯びる。 「やめろっ」 腕をつかみ引き離そうとする。 だが、ぴくりとも動かせない。 「副会長が辛くなるだけだっ」 「どうかしらね」 副会長の口角が自嘲気味に吊り上がった。 「副会長っ!」 ぱしっ!! 静電気に似た音。 陽菜の上体が軽く反る。 そのまま、ゆっくりと椅子の背にもたれた。 「陽菜……」 今、目の前で人ひとりの記憶が失われた。 陽菜の数日間が消えたのだ。 「すぐに目を覚ますわ」 副会長が乱れた髪をなでつけながら言う。 「瑛里華、お前……」 会長が険しい視線を副会長に向ける。 「そうよ」 受け流すように副会長が微笑した。 なんだ? なにかあったのか? 「失敗したとか言わないよな」 「大丈夫」 「じゃあ……」 「見てればわかるって」 副会長が俺の言葉を遮る。 「ん……」 陽菜の口から声が漏れた。 「陽菜、おい」 「あ……あれ……」 目を開いた陽菜が、ぼんやりとテーブルの一点を見つめる。 そして、手を額に当てた。 「え、ええと……」 視線を上げ、周囲を窺う。 顔が副会長を向いて止まった。 「そんな、まさか……」 陽菜の目が見開かれる。 死人にばったり出会ったような顔だ。 「も、もしかして……」 「えりちゃんなの?」 「……」 えりちゃん? なんだそりゃ? 何が起こってるんだ? 「久しぶりね」 副会長の言葉には、少し寂しそうな響きがある。 「うそ……こんなの……」 陽菜が口を押さえた。 瞳からはポロポロと涙がこぼれる。 「これが瑛里華の考えか」 「ええ」 「昨日の記憶を消さないのに、昔のことは消したままなんて変でしょ?」 ふと、思い当たる。 陽菜は、過去の記憶の一部を失っていたはずだ。 副会長がそれを「昔のこと」と言ったとすれば── 「陽菜、昔のことを……」 「孝平くん……」 陽菜が俺を見る。 涙が次々と溢れ、膝の上ではじけていく。 「私……」 声を詰まらせる。 「思い出したのか」 陽菜がゆっくりとうなずいた。 「……」 監督生室に、陽菜のすすり泣く声が響く。 「副会長、陽菜と知り合いだったのか」 「ずいぶん昔の事よ」 で、何かあって記憶を消した。 副会長は二度も陽菜の記憶を消すところだったのか。 そういや、副会長はどことなく陽菜に遠慮していた気がする。 「いろいろあって、私が悠木さんの記憶を消したの」 「そうか……」 怒るべきなのかもしれなかった。 だが、そうするにはもう副会長の気持ちを知りすぎていた。 「孝平くん……千堂さんを責めないで」 ハンカチで涙をぬぐいながら、陽菜が口を開く。 「お礼を言わなくちゃいけないのは私なの」 「どういうことだ?」 「えっと……それは……」 辛そうに言い淀む陽菜。 ここは急がなくてもいいだろう。 「ま、教えてくれるのはもう少し落ち着いてからでいいさ」 「あ、うん」 「お茶淹れてくるわ。一息入れましょう」 副会長が給湯室へ消えた。 甘いミルクティーの香りが漂っている。 一息ついた後、吸血鬼の説明がなされた。 内容は、前に俺が聞いたものと同じだ。 陽菜はやや呆然としつつも、なんとか理解しようと必死に話に耳を傾けていた。 「ま、とりあえずはこんなところだね」 「は、はい」 「他の人に話す話さないは、悠木さんに任せるわ」 「おや、いいのかい?」 「いいのよ」 静かな表情で副会長が言う。 陽菜なら、興味本位で人に広めたりはしないだろう。 「千堂先輩、心配しないで下さい」 「無闇にしゃべったりはしませんから」 「ふむ……頼むよ、悠木妹」 「はい」 「千堂さん」 陽菜が副会長の方を向く。 「なに?」 「これからもよろしくね」 「ええ、こちらこそ」 少し間を置いて、副会長が答えた。 「では、私はこの辺で失礼します」 と、陽菜が立ち上がる。 「陽菜」 「ん?」 「ありがとうな」 「なんのこと?」 会長や副会長の素顔を受け入れてくれたのが嬉しかったのだが……。 たしかに、礼を言うのは的外れか。 「あ、いや……気にしなくていい」 「ふふっ、ヘンなの」 「それじゃ、また明日ね」 「送るよ」 「大丈夫、自分でも不思議なくらい元気だから」 「では、失礼します」 きれいなお辞儀をして、陽菜は監督生室から出ていった。 「支倉君、振られたね」 「そういうのじゃないですから」 軽く流しつつ姿勢を崩す。 ようやく緊張が解けた。 「まさか、正体を明かすとはな」 「それも、過去の記憶を復活させるおまけ付き」 「どういうつもりだ?」 「そうね……」 ティーカップで揺れる紅茶を眺めながら、副会長が言葉を探す。 「なんとなくかしら」 「受け入れてくれる人が増えたの、兄さんは嬉しくない?」 「俺にとっては今更だね」 「記憶を消す人が増えないことだけを祈るよ」 肩をすくめる会長。 「寂しいわね」 「お前ほど若くないってだけだ」 「しかし、今回のことをあの人が知ったらなんて言うかな」 副会長の表情が硬くなる。 「あの人っていうのは?」 「俺たちの親さ」 「伊織」 東儀先輩がたしなめるように口を開く。 「まあいいじゃないか」 口の端をゆがめて笑う。 犬歯がわずかに顔を覗かせた。 「極端に古風な人でね、人間は餌であり天敵であるってのが座右の銘なのさ」 「いいでしょ、あの人の話は」 副会長が紅茶を飲み干す。 なんだか、親子仲があまり良くないようだ。 「……」 ふと、気になることがあった。 吸血鬼って人間と同じように子孫を作るのか? 副会長の顔を見る。 直接、聞いたら絶対怒られる……つーかセクハラか。 「なに?」 「いや、なんでもない」 「ところで、陽菜は生徒会役員にしないんですか?」 「俺のときは、記憶を消すか生徒会役員になるか二択だったのに」 「彼女は既に美化委員で多忙だ」 「ああ、そうでした」 これ以上の委員会活動は無理か。 残念だけど仕方ないな。 「さてと」 副会長が立ち上がった。 「そろそろ帰るわ。久しぶりに力を使ったから疲れちゃった」 「そのほうがいい」 「じゃ、送るよ」 「あら、私も送ってくれるの?」 「まあね。吸血鬼騒ぎも落ち着いてないし」 「俺たちはもう少し残るよ」 「今日はゆっくり休んでくれ」 「例の吸血鬼探しは、また明日から再開しよう」 「わかりました」 使い終わった食器をお盆に載せ、片づける。 「それじゃ、また明日」 「お疲れさまです」 夕日の中を副会長と歩く。 「今回は大変だったな」 「そうね」 「でも、悠木さんの記憶を戻せて良かった」 夕日に照らされた横顔からは、安堵と疲労の色が見て取れた。 「記憶がないことで、すごく苦労したんでしょうね」 「ああ」 昔、陽菜と続けていた文通。 手紙を通じてではあるが、彼女が記憶を失うのをリアルタイムで見ていた。 「でも、副会長と陽菜が知り合いだったとは思わなかった」 「昔、少しだけ一緒に遊んだことがあるの」 「ひどいわよね、そんな友達の記憶を消すなんて」 「すまん、言葉が見つからない」 「簡単に慰めてくれるよりはいいわ」 「何があったか聞いていいか?」 副会長が眩しそうに西日を見つめる。 「悠木さんに聞いてみて」 「私が教えるのは簡単だけど、彼女がどう思っているかの方が重要よ」 「ああ、わかった」 ただ陽菜の言葉を待つ。 それが責任の取り方だと考えているのだろう。 何が副会長を赦すのか、俺にはわからない。 罪悪感を背負い続けていくのかもしれないし、もしそうなら寿命のない彼女には酷な話だ。 「陽菜が話してくれるのを待つよ」 副会長がうなずく。 男子と女子とを分ける階段まで来て、副会長がはたと足を止めた。 「支倉くんにはお礼を言わなくちゃね」 「なんのことだ?」 副会長が髪をなでつけながら言葉を選ぶ。 「昨日の電話がなかったら、勇気を出せずにいたと思う」 「ああ、そのことか」 「ありがとう、支倉くん」 「大したことはしてないさ」 「私にとっては重要だったわ」 「これから、なんだか変わっていけそうな気がしてしまうくらい」 副会長が穏やかな表情で言う。 それだけで、俺のしたことは無駄ではなかったと思えた。 「力になれてよかったよ」 「俺もほら、生徒会に入るときは副会長に気合い入れてもらったから」 「そうだったかしら」 「俺もあれで変われたってとこがあるんだ」 「だから恩返しみたいなもんさ」 「私はただ、言いたいことを言っただけだと思うわ」 「それは昨日の俺も同じだ」 「そう」 眼を細める副会長。 切なげな表情に、抱きしめたい衝動がわき起こる。 それは、彼女のこんな表情を初めて見たからかもしれない。 「……」 もしかして……、 副会長を好きになっちまったか? 「どうしたの?」 「いや」 心の火照りを、苦笑とともにかき消す。 「とにかく、今日はお疲れさま」 「お互いにね」 「ゆっくり休むんだぞ」 「ええ、わかったわ」 視線を合わせてから、俺は自室へと向かう。 「支倉くん」 呼び止められた。 振り返る。 副会長は、別れたままの位置で立っていた。 「どうした?」 「肩に葉っぱがついてる」 「ん?」 両肩を手で払ってみる。 何も落ちない。 「あはは、冗談」 「なんだそりゃ」 「ちょっと、からかってみたかったの」 「じゃ、また明日ね」 「おう」 俺が踵を返すより早く、副会長は階段を駆け上っていった。 どういう、からかい方だよ……。 だが不思議と、嫌な気分はしなかった。 「はぁ……はぁ……」 なんだろう、この感じ。 胸の中が、がらんどうになるような感覚。 暗く冷たい闇が胸から這い出し、体中を浸食していく。 こんなの初めてだ。 いつからこうなった? 「……支倉くん?」 そうだ、支倉くんと別れたときからだ。 支倉くん。 その名をイメージした瞬間、胸の空洞がふくれあがる。 なんて冷たい感覚だろう。 これが恋なの? だとしたら、世の人はこんなに冷え冷えとした感覚と向き合っているのか。 胸を押さえる。 深呼吸をする。 不意に、支倉くんの首筋がまぶたの裏によみがえった。 熱い衝動が後頭部にわき上がる。 まずい。 早く……部屋に。 鉛のように重い身体を動かし、部屋を目指した。 放課後。 吸血鬼探しに同行していなかった白ちゃんに、事の顛末を話した。 もちろん陽菜の件も。 「知ってくれる方が増えるのは、いいことだと思います」 一通りの説明を聞いて、白ちゃんは嬉しそうに言う。 「知らせるというのは背負わせる事でもある」 「彼女の心労も忘れないようにな」 「え、えと……はい」 よくわからないのか、戸惑いつつ返事をした。 「征はいちいち固いな」 「知らせた以上はどうしようと向こうの勝手だろ」 「何かあったとしても教える方が悪い」 「そういう片づけ方もあるが、好きではない」 「やれやれ」 「あ、もうこんな時間」 副会長が時計を見上げる。 門限の30分前だ。 「白ちゃんはそろそろ寮に戻った方がいいな」 「わかりました」 「寮まで送ろう」 「そんな。ただでさえお役に立てないのに、お手数をかけるわけには」 「例の吸血鬼、9時過ぎだけに現れるとは限らないよ」 「人気のない並木道を歩いていると、突然背後に……」 「ひ……」 カタカタ震えている。 「余計なことを言うな」 「白、伊織の言うことは気にせず、早く帰れ」 「は、はい」 なんか不憫になってきた。 「みんなで白ちゃんを送りましょう」 「今夜の捜索は寮から始めるってことで」 「そうね。どっちにしろ並木道方面も巡回しなきゃいけないし」 「おお、それなら征も安心だ」 「なぜ俺の名が出る」 「じゃ、決定」 「人の話を聞け」 消灯と施錠を確認したころには、門限20分前になっていた。 「さ、行きましょうか」 副会長の号令で、俺たちは歩き始める。 噴水広場への階段は相変わらず暗い。 月の明かりを頼りに注意深く歩を進める。 「誰か来る」 広場へ着くなり副会長が俺たちを制止した。 緊張が走る。 「おや、意外な人に会うもんだね」 会長が新敷地へと続く長い下り階段に視線を送る。 もちろん、俺にはまだ見えていない。 「……」 足音が先に聞こえた。 歩調は速くなく、革靴を履いているのか音質は硬い。 固唾を呑んで闇の彼方を見つめる。 「白、下がっていろ」 「は、はい」 白ちゃんが東儀先輩の後ろに回る。 「来るぞ」 やがて…… その人が姿を現した。 見慣れた学院の制服に、黒くて長い髪。 対照的に白い肌。 「紅瀬さん……」 紅瀬さんが、吸血鬼騒ぎの元凶? まさか、な。 困惑する俺をよそに、紅瀬さんは表情一つ変えぬまま近づいてくる。 「こんばんは」 「探したわ、吸血鬼さん」 「っっ」 「先日は挨拶もできなくてごめんなさい」 しれっと言った。 「今日はマントなしかい?」 「ええ」 「もう姿を隠す必要はないから」 マジなのか。 信じられないが……事実のようだ。 「まさか、紅瀬さんが吸血鬼だったなんて思わなかった」 「吸血鬼ではないわ」 「眷属よ」 「え」 白ちゃんが目を丸くする。 「ケンゾク?」 「知らないところを見ると、貴方は吸血鬼ではないのね」 「ああ」 紅瀬さんが少し残念そうな顔をする。 「すると、吸血鬼は……」 「私と兄さんよ」 「そう」 紅瀬さんが、二人をじっと見つめる。 どうするつもりだ? ……。 …………。 「ふう」 少しして紅瀬さんはため息をついた。 「人の顔を見てため息つかないでよ」 「あら、ごめんなさい」 「貴女、私たちをおびき出したのよね?」 「そうね」 「どういうことだ?」 「吸血鬼騒ぎを起こせば、本物の吸血鬼が黙っていないと思ったんでしょ」 「意外と頭が回るのね」 「ふん」 「それで、目的は何?」 「主を捜しているの」 「主を?」 「あいにく、俺にも瑛里華にも眷属はいない」 「そう」 小さくため息をつく紅瀬さん。 「俺たちを害するつもりはないようだな」 「主かどうかがわかればいいわ」 場の空気が少し緩んだ。 「副会長、ケンゾクとかアルジってなんだ?」 「あ、支倉くんには説明してなかったわね」 「じゃ、これから説明しよう」 「紅瀬ちゃん、聞きたいこともあるし監督生室へ来てもらっていい?」 「構わないわ」 「兄さま、わたしも同席させてください」 「む……」 「好きにするといい」 「はいっ」 白ちゃんは寮へ帰すものだと思ってた……。 判断基準がよくわからない。 「それじゃ、行きましょうか」 監督生室へ着いてからしばらく、眷属の説明に時間が割かれた。 眷属は吸血鬼の血を飲まされた人間のことだ。 ちなみに、主というのは血を飲ませた吸血鬼のことらしい。 あとは、細かい身体的特徴の話が続く。 「能力的には、血を吸わなくていい吸血鬼ってことか、変な話だけど」 「あとは、味覚が弱かったり、ときどき活動が止まったりするらしいわね」 と、紅瀬さんを見る。 「週に1、2回、どうしようもなく眠くなるわ」 「昼間でも?」 「時間帯はバラバラね」 「じゃあ、ときどき授業フケるのって」 「そういうことよ」 「私、謝らなくてはいけないわね」 「去年は、授業をサボるたびに注意してしまったし」 「気にしてないわ」 さらりとした調子の紅瀬さん。 「とにかく謝っておくわ」 「ごめんなさい」 「どういたしまして」 「人が謝ってるのに、どうして貴女はそうなのよ」 紅瀬さんの素っ気ない対応に、副会長がぶすっとした顔をする。 「気にしていないことを謝られても困るの」 「まあまあ」 副会長をなだめる。 「あと、説明し忘れたことはあるかな?」 「大事なこと忘れてるでしょ」 「眷属は主の命令に逆らえないってこと」 「おお、そうだった」 「そりゃ辛いな」 紅瀬さんを見てみる。 表情に変化はなかった。 「で、そんな眷属であるところの紅瀬ちゃんは、主を探してると」 「自分の主くらい見てわからないの?」 「記憶を消されているのよ」 「主の顔も名前も知らないわ」 「なんですって」 副会長が苦虫をかみつぶしたような顔をする。 先日、陽菜の件があったばかりだ。 記憶の話には敏感になっているんだろう。 「それは、探すなってことなんじゃないのか?」 「命令されてるの、探せって」 「な、なによそれ」 「顔も名前も知らないのに、どうやって探すんだよ?」 「主が意図的に記憶を消したっていうなら、マトモじゃないぞ」 「そうかもしれないわね」 「腹が立たないのか?」 「立つときもあれば、立たないときもあるわ」 「……」 紅瀬さんはまるで他人事のように流す。 熱くなってるこっちがバカみたいだ。 「わけがわからん」 「いいわ、それで」 まあ、当人にはいろいろ思うところがあるのかもしれないが。 「会長、紅瀬さんの記憶を取り戻すことはできないんですか?」 「記憶を封じた本人じゃないと、元に戻すのは難しいな」 「そうでしたか」 「残念ながらね」 「ところで紅瀬ちゃん、主がこの学院にいるのは確かなのかい?」 「おそらくは」 「先日、強く存在を感じたわ」 「それで吸血鬼騒ぎを起こしたわけか」 紅瀬さんが眉だけで肯定する。 「でも、これからどうするの? 私たちが主ではないわけだし」 「吸血鬼は貴方たちだけ?」 「いや、もう一人いる」 「伊織……」 東儀先輩が顔をしかめた。 もう一人っていうのは、会長の親御さんのことだろう。 「会わせてくれないかしら」 「話をしてみてもいいが……」 「その代わり」 会長が言葉を切った。 「なに?」 「生徒会役員にならないかい?」 「ちょ、ちょっと待ってよ」 「いいじゃないか、同族みたいなものなんだし」 「紅瀬ちゃんだって、吸血鬼が近くにいた方がいいことあるかもしれないぞ」 「どう?」 「……」 「紅瀬先輩、一緒にお仕事しましょうっ」 珍しく白ちゃんが大きな声を出す。 「……わかったわ」 「よし、決まりだ」 「よかったです」 満面の笑みの白ちゃん。 「白ちゃんって、紅瀬さんと知り合い?」 「あ、いえ、そういうわけでは」 「ただ、嬉しくて」 「喜んでるところ悪いけど、もう一人の吸血鬼に会えなければ、すぐ辞めるわよ」 「あ、は、はい……」 しゅんとしてしまった。 「じゃ、白ちゃんをガッカリさせないように頑張ろうかな」 「お願いします」 紅瀬さんが頭を下げた。 軽くだが。 「衝撃映像ね」 「ふん」 「それで、私は何をすればいいのかしら」 「放課後は顔を出してくれ」 「その場で必要な仕事をやってもらうことになるだろう」 「とりあえずは、中間試験が終わってからだね」 「はい」 短く答えて立ち上がる。 「帰るのか?」 「まだ何かある?」 「いや、門限過ぎてるぞ」 「窓から入るわ」 「それより、東儀さんの心配でもしたら」 「わ、わたしは窓から入れません」 紅瀬さんが少しだけ頬を緩める。 「それじゃ」 ぱたん 紅瀬さんが出ていった。 「伊織、どういうつもりだ?」 腕組みをしつつ会長をにらむ東儀先輩。 「いや、つい口から出ちゃってね」 「あの人に会わせて、もしもの事があったらどうするのよ?」 「さあ」 「少しは考えて発言したらどうだ」 東儀先輩が眉間に皺を寄せる。 副会長が「もしもの事」と言ったくらいだ。 やっぱりヤバい人なんだろうか。 「紅瀬さんって、親御さんの眷属なんですか?」 「可能性はあると思うね」 「あの人、眷属を何人も持ってるみたいだから」 「一人の吸血鬼につき、眷属は一人じゃないんですね」 「そうみたいだね」 「眷属を作れ作れってよく言ってる人だから、よっぽど好きなんでしょ眷属が」 「眷属って、そんなに重要なのか?」 「昔は重要だったかもね」 「今も大切だと思いますが」 「どうかしら」 「さ、もう遅いし帰りましょう」 この話は打ち切り、とばかりに手を振る副会長。 時計を見ると、もう10時半だった。 「結局、白ちゃんはどうしようか?」 「俺が抱えて部屋まで送ろう」 「い、いえ、それはちょっと」 「シスター天池へは俺が話しておく、心配するな」 腕組みを解いて東儀先輩が立ち上がる。 「さすが、兄さまは頼りになるね」 「はい」 会長のからかい言葉も、白ちゃんの前では褒め言葉になってしまった。 白ちゃん……大物だ。 「瑛里華は結局、女子生徒の記憶を解放しました」 「よくよくの出来損ないよな」 伽耶様が、脇息に左肘を置き上半身を預ける。 右手でもてあそぶ扇には、露草が涼しげに描かれていた。 「なぜあたしの言うことがわからんのだ」 「あれの入れ知恵か?」 「支倉という男子生徒の言葉に、何か感じるところがあったようです」 「支倉?」 「今年から生徒会の役員になった男子生徒です」 「ああ」 ぱちりと扇を閉じる。 「ご存じなのですか?」 「なかなか気の利いた血の味をしていてな」 「どうやら、混ざりものがあるらしい」 「まさか、伽耶様」 「お前も、支倉とやらに肩入れしているようだな」 喉の奥で、くつくつと笑う。 「安心しろ、少し味を見ただけだ」 紅瀬の言葉を思い出す。 たしか、主の存在を強く感じたと言っていた。 つまりは、支倉と接触するために伽耶様が…… 「学院にいらっしゃったのですか?」 「悪いか?」 「いえ」 悪いとは言えない。 学院はもともと伽耶様が創設されたものだ。 「支倉の血の味が変わっているというのは、どういうことですか?」 「わからん。ただ何やら隠し味があるようでな」 やはり、以前行った検査の結果は間違っていなかったようだ。 だが、いったいどうして支倉の血に混ざりものが。 「あの出来損ない、まだその男を眷属にしないのか?」 「今のところは慎重に様子を窺っているようです」 「ほう?」 伽耶様が俺を見る。 すべて見透かされるような視線だ。 実際のところ、瑛里華には眷属を作る気がない。 それに気づかれたとき、伽耶様はどうされるのか。 いや、もう気づかれているのかもしれない。 「まあよい」 「ところで、紅瀬桐葉という眷属をご存じですか?」 「……」 扇を持つ手が止まった。 「主を探しているということでしたが」 「ふん」 やはり伽耶様の眷属か。 「伊織が、近々、伽耶様に会わせると約束しました」 「あの男、余計なことばかりする」 扇を投げ捨て、親指の爪を噛む。 いつもの癖だ。 俺は棚の小箱からヤスリを取り出す。 「爪が痛みます」 「気に入らぬなら、お前が整えろ」 目の前に突き出された小さな手。 親指だけでなく他の指の爪も荒れていた。 「伸びが遅いのですから、お控え下さい」 「うるさい」 手を取り、親指から順に整えていく。 この桜貝のような爪は、何度血に濡れたのか。 「お会いになるのですか?」 「さて」 空いた手で、けだるげに髪をいじる伽耶様。 「やはり、ご自身から会われるつもりはなかったのですね」 記憶を消して探すよう命令するなど、悪趣味もいいところだ。 いや、伽耶様らしいとも言えるのか。 「これは鬼ごっこなのだ。鬼の前に自分から出ていくやつがあるか」 「むごいことを」 「ヤツも恨んでいるだろうよ」 愉快そうに伽耶様は言う。 「だが、長くやってゆくには必要なことだ」 「多くの感情は時の流れとともにすり減るが、そうでないものもある」 憎しみか。 伽耶様の仰ることは正しいのかもしれない。 だが、その果てに何があるというのか。 「紅瀬がここに来れば、記憶を解放されるのですか?」 「ヤツ次第だ」 「もともと記憶は弱くしか封じておらん。念じ続ければいつかは解ける」 「伽耶様、そちらのお手を」 無言でもう一方の手が出された。 「他の眷属は捨ててしまわれたのに、彼女は別なのですね」 「玩具をどうしようとあたしの勝手だ」 「そうだ……」 「せっかく桐葉との再会をお膳立てしてくれたのだ。あの男には礼を考えねばな」 そう言う表情は、玩具で遊ぶ子供さながらだった。 なぜ、こうなってしまったのか。 それが人智を越えた時の流れ故なら、俺に何ができるというのだろう。 放課後になった。 中間試験も昨日まで。 教室は平時の落ち着きを取り戻している。 「陽菜、調子どうだ?」 「ずいぶん落ち着いたよ」 「ならよかった」 「試験前にこんなことになるなんて、タイミング悪かったな」 「それがね、逆に勉強が気分転換になったみたい」 笑顔で帰り支度をする陽菜。 「もし気になることがあったら、いつでも言ってくれ」 「みんなにも伝えるようにするから」 「ありがとう、孝平くん」 「ああ」 「そうそう、今日って久しぶりにお茶会できるかな?」 「俺は構わないぞ」 「よかった」 「あと、できたらでいいんだけど千堂さんも……」 副会長をご指名だ。 何か言いたいことがあるんだろうな。 「わかった、声かけておくよ」 「じゃ、俺は監督生室行くから」 「うん、また後でね」 そのまま後ろを向く。 紅瀬さんは既にいない。 昇降口で、紅瀬さんに追いついた。 無駄のない動きで靴を履き替えている。 ちゃんと監督生室へ行くのだろうか……。 様子を見てみよう。 紅瀬さんに見つからないよう、少し遅れて昇降口から出る。 「……」 いない。 まさか、走って寮に向かったのか? 「何か用?」 「おわっ」 背後から声がした。 刑事ドラマよろしく手を上げてみる。 「恥ずかしいからやめて」 「銃を下ろさないと、手を上げ続けるぞ」 「意味がわからない」 腕を下ろして振り返る。 「今日から監督生室に来る約束だろ」 「ああ」 そんなこともあったわね、といった調子の紅瀬さん。 「やっぱ帰るつもりだったのかよ」 「これから時間あるか?」 「ええ」 「じゃ、行こう」 並んで長い階段を上る。 人気もなくなったので、突っ込んだことを聞いてみよう。 「主、見つかるといいな」 「さあ、よくわからないわ」 「どんくらい、主を探してたんだ?」 「覚えていないわ」 相変わらず気のない返事をする紅瀬さん。 「聞いちゃまずいかもしれないけど……紅瀬さん、何歳?」 「250歳くらいかしら」 危うく階段を踏み外しそうになった。 「この階段、人間が落ちたら死ぬわよ」 「おっと……」 「いや、そうじゃなくて250歳って」 「おかしい?」 紅瀬さんは眷属。 眷属は寿命がない。 わかってはいるが、やはりビビる。 「い、いや……」 そうすると、今見ている紅瀬さんの姿は昔のままなのか。 「ずっとその外見なのか?」 「貴方、質問が多いわね」 「すまん、どうしても興味が湧いて」 「大したものじゃないわ、眷属なんて」 自嘲気味に紅瀬さんが言ったとき、ちょうど監督生棟に着いた。 「……」 紅瀬さんが足を止める。 「どうした?」 「中が騒がしいわ」 耳をすましてみる。 「ですから、わたしが役目を果たせば丸く収まるのではないかと」 「いきなり何を言いだすのよ」 「最近、そう考えるようになったんです」 「やめてよ、あなたにとっていいことなんて一つもないでしょう?」 「それはそうですが……このままでは、支倉先輩も瑛里華先輩も」 「気持ちは嬉しいけど、自分のことは自分で解決するわ」 「それに……あの人だって、いらないって言ってるでしょう?」 「白は自由に生きなさいよ」 「で、でも……」 「しーろ、もうやめて」 ケンカまでは行かないが、けっこうヒートアップしている。 「盛り上がってるな」 「帰ろうかしら」 「まあまあ、とりあえず止めに行こう」 がちゃりとドアを開ける。 椅子に座った副会長に、お盆を胸に抱いた白ちゃんが詰め寄っていた。 「あ」 「え?」 二人が驚いた表情で俺を見る。 「外まで聞こえてるぞ」 「何かあったのか?」 「い、いえ、大したことじゃないの」 「はい、お仕事上のことで」 二人がそそくさと距離を取った。 「ケンカじゃないんだな?」 「もちろん」 「少し意見がぶつかっただけよ」 「そ、そのとおりです」 白ちゃんの焦りっぷりを見るに、それだけではないようにも思える。 ま、追及しないほうがいいだろう。 「いつもこんな調子なのかしら」 俺の後ろで紅瀬さんが口を開く。 「いや、レアなケースだ」 「あら紅瀬さん、来てくれたのね」 「支倉君に捕まったのよ」 「人聞きが悪いな」 「そっちこそ寮に帰るつもりだったんだろ」 「そうだったかしら」 「よくわからないけど、仲良くやってるようでけっこうね」 ティーカップを口に運ぶ副会長。 「心配しないで、支倉君を盗ったりしないわ」 「ごほごほっ」 「そ、そんな心配してないわよ」 副会長が顔を真っ赤にする。 「どうしてそういう流れになるんだ?」 「なんとなくよ」 咳き込む副会長を眺めながら言う。 「で、仕事は何をしたらいいの?」 「え?」 「そ、そうね、今日は書類整理をお願い」 「わかったわ」 「少し待っていて」 副会長がパソコンがあるデスクへ向かい、書類をまとめ始める。 「ま、座ろう」 「ええ」 「あの、お飲み物をお持ちしたいのですが……」 腰を下ろしたところで、白ちゃんが話しかけてきた。 「紅瀬先輩は何がよろしいですか?」 「なんでも」 興味なさげに答える紅瀬さん。 「で、でも、お好みくらいは伺っておきたいのですが」 「味、わからないから」 「あ……」 「し、失礼しました」 「気にしないで」 そういえば、眷属は味覚が弱いんだったな。 「あ、でも、香りはお茶によって違いますので」 控えめな白ちゃんにしては珍しく、食い下がっている。 「なんでも構わないわ」 「紅瀬先輩」 「しつこい子ね」 「ひう……」 ツンドラ級の視線に、白ちゃんが怯える。 「紅瀬さん、素人にその視線は危険だ」 「何を言っているの」 「ともかく、なんでもいいわ」 「うう」 空になったお盆を両手で抱える白ちゃん。 半分涙目だ。 「……」 気まずそうに顔を逸らす紅瀬さん。 カチカチと無言の時間が流れていく。 ……。 「日本茶よ」 顔を逸らしたまま紅瀬さんが言った。 「え?」 「どうせ同じ味なら日本茶をお願い」 「は、はいっ」 白ちゃんが満面の笑みを浮かべる。 「では、とびきり香りの良いお茶を用意します」 「好きにして」 白ちゃんが嬉しそうに給湯室へ入っていった。 「根負けね」 副会長が書類の束を手に戻ってきた。 「何がおかしいの」 「別に」 「じゃ、紅瀬さんはこの書類をお願いね」 と、書類の説明に入る。 俺も自分の仕事を片づけることにした。 白ちゃんのお茶を飲みながら仕事をする。 俺の隣では紅瀬さんが書類に向かっていた。 驚くべきは、その集中力だ。 口を開くことも顔を動かすこともなく、手だけをてきぱきと動かしていた。 姿勢がいいため、ひときわ動作に無駄がなく見える。 逸材かもしれない。 「終わったわ」 久しぶりに紅瀬さんが口を開いた。 「もう?」 「ええ」 副会長もちょっと驚いているようだ。 「確認するわね」 「どうぞ」 副会長が書類をぱらぱらとめくる。 紅瀬さんは確認の結果を気にするでもなく、湯飲みに残ったお茶を飲んだ。 「問題なしっ」 「早かったわね。正直驚いたわ」 「すごいな、紅瀬さん」 「それはどうも」 数学学年トップの頭脳は伊達ではないようだ。 「これ以上仕事がないなら……」 「ありがとう、助かったわ」 「お疲れ」 紅瀬さんが鞄を持ち、出口のドアに向かう。 「紅瀬先輩」 白ちゃんがぱたぱたと駆け寄る。 「何か用?」 「お茶、いかがでしたか?」 じっと白ちゃんを見る紅瀬さん。 「またお願い」 「は、はい」 ドアが閉まる。 「ふうん」 「白は、意外に紅瀬さんキラーね」 「あの、キラーというのは?」 「紅瀬さん、白ちゃんには押されてるから」 「そうでしょうか……」 「きっと相性がいいんだ」 「紅瀬さんに何か頼むときは、白に言ってもらおうっと」 「はあ」 よくわからない様子だ。 おそらく、その邪気のなさが紅瀬さんには扱いにくいのだろう。 「さて、仕事に戻りましょうか」 「おう」 白ちゃんが帰って、しばらく時間が経った。 「ふう、終わったあ〜」 副会長が向かいの席で背伸びをする。 「そっちは?」 「あと10秒……」 「っと、終わった」 背伸びをしつつ時計を見る。 午後8時。 「今日は紅瀬さんのおかげで早く終わったな」 「ええ、さすが数学ナンバーワンね」 「毎日来てくれるようになれば助かるんだけど」 「そこは白ちゃんの頑張り次第かな」 「期待しましょ」 「ああ」 「そうだ、今夜時間あるか?」 「大丈夫だけど、何?」 「久しぶりにお茶会しようって話があるんだ」 「それで、陽菜がぜひ副会長もって」 「悠木さんが?」 わざわざ副会長を指名してきたってことは、そういう話になるのだと思う。 とすれば、陽菜が望んでいるのは俺と副会長と陽菜だけのお茶会だろう。 「あれから陽菜と話はしたか?」 「廊下で挨拶するくらいね」 「今日しゃべった感じだと、陽菜はずいぶん落ち着いてたよ」 「心配しないで大丈夫だと思う」 「ええ」 そう返事をしながらも、やはり不安は隠せないようだ。 手を握ってやりたい衝動に駆られた。 自分が彼女の力になれたら―― 「俺も一緒にいるし、出てみないか」 「ここで引くと、きっとわだかまりが残るぞ」 副会長が考える。 「何かあったら相談に乗るから」 ……。 「支倉くんの言う通りね」 「ちゃんと最後まで責任取らないと」 副会長が表情を緩めた。 「そうだな」 「じゃ、今夜9時過ぎからってことで連絡しとく」 副会長の同意を得て、俺は鞄から携帯を取りだした。 俺と副会長が部屋に着いたのは、午後9時少し前。 程なくして入り口のドアが鳴った。 一度、副会長の顔を見る。 隣に座った彼女が、一つうなずく。 「どうぞ」 がちゃ ドアが開く音とともに陽菜が入ってきた。 「こんばんは」 「あ、千堂さん来てくれたんだ」 「こんばんは、お邪魔してるわ」 「こんばー」 「!!」 思わず声が出そうになった。 陽菜の後ろから、かなでさんが顔を出したのだ。 「悠木……先輩」 副会長がぽつりと呟く。 かなでさんをこの場に呼んだということは―― 記憶の話をするつもりがないのか、副会長の正体をかなでさんに告げたのか……。 俺は陽菜を見る。 陽菜が目を伏せた。 「お茶、淹れるね」 「ああ」 悠木姉妹が腰を下ろし、いつものように陽菜がお茶を淹れる。 テーブルの上を湯気が漂う。 食器とお湯の音だけが流れていく。 副会長の腕が俺に触れた。 それは、離れずそのままの位置で止まる。 かすかな震えが伝わってくる。 「大丈夫だ」 「ええ」 紅茶の香りが満ち、ティーカップ4つが用意された。 「千堂さん、どうぞ」 「ありがと」 副会長がティーカップを持つ。 「あの、先日のことだけど……」 陽菜が言葉を切り、副会長と俺を見る。 「お姉ちゃんに話したの」 副会長の体がぴくりと震える。 かなでさんは厳しい視線を副会長に送っている。 いつも朗らかな人だけに、堪えるものがあった。 「えりりん」 「はい」 かなでさんが、副会長をじっと見つめる。 一転、笑顔になった。 「ひなちゃんの命の恩人だったんだね」 「は?」 なんのことだ? 「お礼を言わせて」 「待ってください」 「仮にそうだとしても、私のせいで悠木さんは苦しんだはずよ」 「苦しんだよ。でも楽しいこともあったと思う」 「えりりんがいなかったら、どっちもできなかったんだから、やっぱりお礼を言っていいんだよ」 「でも……」 副会長が躊躇する。 「千堂さん、私は何も恨んでないよ」 「助けてくれて、ありがとう」 陽菜が微笑む。 「……」 「ほら、しゃきっとする」 かなでさんが強引に副会長の腕をつかみ、握手をした。 「えりりん、ありがとね」 「え、ええ」 ぶんぶん腕を振るかなでさん。 「でもね……」 「記憶を奪ったことは減点」 ぺしり 副会長の額に風紀シールが貼られた。 「お、お姉ちゃん」 「悪いことは悪い、いいことはいい」 「両方ちゃんとけじめをつけないとね」 かなでさんがにっと笑う。 副会長は額にシールを貼ったまま、硬直していた。 「まさか、副会長がシールを貼られるところを見られるとはな」 「ふふふ、そうだね」 「はっはっは」 「ホントね」 握手をほどき、副会長がシールをはがす。 下から現れたのは、泣き笑いみたいな表情だった。 「あのときは……ごめんなさい」 「うん。もう気にしなくていいよ」 「千堂さんも、辛かったでしょ」 副会長は首肯することなく、ただ笑った。 目尻からしずくが一つこぼれる。 本当に安堵しきった表情だった。 「ところで、さっきから気になってるんだけど」 かなでさんが俺を見る。 「なんです?」 「二人とも、なんでぴったりくっついてるの?」 「え?」 副会長と顔を見合わせる。 俺たちの腕は、ぴったりとくっついていた。 「ご、ごめん」 「お、おう」 さっと離れる。 「くっついたままでもいいのに」 「ゆ、悠木さん……これは、そういうことじゃないの」 「どういうこと?」 ニヤニヤと俺たちを見比べる。 「か、かなでさん」 「あははは、怒らない怒らない」 「ところで陽菜」 話題を変えよう。 「副会長が命の恩人ってどういうことなんだ?」 「あ、その話ね」 全員がもう一度姿勢を正す。 「千堂さん、話していいかな?」 「悠木さんに任せるわ」 「良かった」 「じゃ、遠慮なく話すね」 陽菜が嬉しそうに話し始める。 話はこうだった。 子供のころ、悠木姉妹と副会長は何度か遊んだことがあるらしい。 事件が起こったのは、何度目かの待ち合わせのとき。 その日、陽菜は一人で家を出た。 待ち合わせ場所近くで副会長を見つけた陽菜は、車道に飛び出してしまったらしい。 通常なら助からないタイミングだったという。 だが、副会長には助けることができるタイミングだった。 「あとは、きっとわかるよね」 「ああ」 正体を知られた副会長は、泣く泣く陽菜の記憶を消したのだろう。 「わたしも昨日初めて知ったの」 「事故の影響で記憶をなくしたって思ってたから、びっくりしたよ」 「なるほどな」 たしかに、副会長は命の恩人だ。 にもかかわらず、副会長は陽菜の記憶を消さざるを得なかった。 友人の命を守るために、友人を失わなければならなかった悲しみはいかほどか。 想像するだけでも辛いものがあった。 「だから今日はえりりんに来てもらったの」 「ひなちゃんの命の恩人にお礼を言わないなんて、姉として恥ずかしいからね」 副会長は無言で首を振る。 礼を言われるようなことはしてないと言いたげな素振りだった。 かなでさんの言葉を素直に受け入れられるほど、副会長の気持ちは単純ではないのだろう。 だがそれも、時間が解決してくれる気がする。 「そうそう」 陽菜がぽんと手をたたく。 「孝平くんのことも思い出したよ」 「そのころから、支倉くんと知り合いだったの?」 「前にも言ったかもしれないけど、昔、一年だけこの島に住んでたんだ」 「千堂さんと私が知り合ったのは、孝平くんがちょうど転校したころなの」 「もう少し早く知り合ってれば、孝平くんとも遊べたのにね」 「そうだったの」 俺が転校した後、副会長と陽菜の間に不幸な事故が起ったのだ。 前に説明されたが、吸血鬼は記憶の『内容』ではなく『期間』で記憶を消去するらしい。 副会長は、陽菜と出会ってからの記憶を丸ごと消したのだろう。 消された期間には、俺と陽菜が文通を始めた時期も含まれていたのだ。 「ところで、当時の支倉くんはどんな子だった?」 「んー、ちょっと斜に構えた感じだったかな」 みんながニヤニヤと俺を見る。 「……」 なんか、まずい風向きになってきた。 「俺がいないところで話してくれ」 「こーへー、テレテレだ」 「当たり前ですよ」 親戚にオムツを取り替えられた話をされてる気分だ。 「よく一緒に遊んだよね」 「ああ」 「かなでさんには、さんざん引っ張り回されたよな」 「えー、やんちゃだったのはこーへーでしょ」 どの口で言うか。 「俺のことイカダで島流しにしたじゃないですか」 「そうだっけ?」 マジで忘れてるのか。 「入っちゃいけない池で泳がされたこともあったような」 「あははは、あのときはすごく怒られたよね」 「おまけにおぼれかけた」 「冒険せよ、若人!」 サムズアップされても困る。 「それ、千年泉でしょ」 じっとりした目で見られた。 「いや、名前は知らないが」 「監督生棟の上の方だったから、そうだと思う」 「征一郎さんが聞いたら激怒するわよ」 「あそこ、島に古くから住んでる人にとって大切な場所だから」 「そうだったのか」 「ま、子供のころなら仕方ないけどね」 「ともかくかなでさんは今と変わらず無茶苦茶だったってこと」 「そういうまとめしない」 「あ、そうだ。とっておきの話があるの」 陽菜が俺を見る。 「……」 もしかして、文通の話か? あれはちょっと痛い。 それに他の人に話して欲しくないというのもある。 「なんだ?」 「子供のころね、孝平くんのこと好きだったみたい」 部屋に静寂が下りた。 ……。 なんだって? 俺のことが……? 「なんですとーーっっ」 かなでさんがテーブルに身を乗り出す。 「い、いきなり何を……」 無意識に副会長を見る。 「い、今は?」 「心配しないで、今はお友達だよ」 ちょっと紅潮しつつ、陽菜が顔の前で手を振る。 「そう言われると寂しいものがある」 「えりりんとひなちゃん、両方ねらう気かっ」 かなでさんが立ち上がる。 「冗談ですって」 「本気だったら、こーへーの口と鼻をシールでふさぐからね」 びしっと言って、かなでさんが座る。 「昔話はやめよう、恥ずかしすぎる」 「そうだね」 くすくすと陽菜が笑う。 「でもね、こういうこと思い出せて私は嬉しいの」 「記憶を戻すのすごく怖かったと思うけど……」 「勇気を出してくれてありがとう、千堂さん」 微笑みを崩さぬまま陽菜が言った。 おそらく心からの言葉だろう。 それを感じたのか、副会長が眉を悲しげにゆがませ── また笑顔になる。 「こちらこそ、悠木さん」 「よーし、一件落着」 冷めたお茶を飲み干し、かなでさんが立ち上がる。 「ではひなちゃん、引き上げ」 「まだ消灯まで時間ありますけど」 「いいのいいの、ひなちゃん」 「うん、そうだね」 示し合わせるようにうなずいて、二人は食器を片づけはじめる。 少しして、悠木姉妹は慌ただしく部屋を出ていった。 「なんだか、気を遣われてない?」 「かなでさんも好きだよな、こういうお節介」 そう言ったのは気恥ずかしさ半分だった。 「今日のこと、これで良かったんだよな?」 「うまく言葉が見つからないけど……良かったと思う」 「とても満たされてる気がするから」 「そっか」 「それじゃ、消灯も近いし帰るわ」 「ああ」 ドアを開き手で支える。 「おやすみなさい」 「また明日」 別れの挨拶を交わしながらも、俺たちの視線は絡まったままだ。 「どうした?」 「いいえ」 「それじゃ、また」 「お疲れ」 髪をひるがえし、副会長が廊下を歩きだした。 「……」 心のどこかが、もっと後ろ姿を見ていたいと主張する。 そんな色ボケした意見を理性で押し潰す。 また明日会えるさ、と。 立ち尽くしていた。 後ろ髪を引かれながらも振り切り、階段まで来たけど……、 そこで足が止まってしまった。 めまいに似た感覚が身体を走り抜け、動けない。 「なに、これ……」 無意識に胸へ手を当てていた。 崩れ落ち砂になる。 空洞が生まれる。 その虚ろに風が吹き込む。 胸の中が空虚に蹂躙されていく。 照明が落ちた。 それが消灯時間ゆえだと気づくのに時間がかかる。 恋の切なさなのか? 違う。 恋愛の狂おしい熱は感じない。 むしろ身体はつららを差し込まれたように凍てついていく。 どこまでも落ちていくような、世界から切り離されていくような感覚。 これを不安というのなら、あまりに絶望的すぎる。 膝を着き、闇へ落ちる喪失感をやり過ごす。 入れ替わるように赤い衝動が突き上げてきた。 情念の波が思考を飲みこむ。 波が引いた後に残るのは── 支倉くん。 支倉くん。支倉くん。 支倉くん。支倉くん。支倉くん。 埋め尽くされる。 一切が「支倉くん」に埋め尽くされる。 手で口を押さえる。 いつの間にか中指の腹が口に入っている。 ぶつり。 皮膚が裂け液体が溢れた。 味などない。 こんなもの水と変わらない。 早く、 早く部屋に戻らなければ。 支倉くんを傷つけるよりも早く。 朝。 いつもの時間に寮を出る。 梅雨前の空は抜けるように青く、見ているだけで気分が良くなった。 「支倉くん」 「?」 声のした方に目をやる。 玄関から少し出たところに副会長が立っていた。 状況から見て、待っててくれたのか? だとしたらかなり嬉しいが……。 「おはよう」 「おはよう」 安堵したような笑みを浮かべる副会長。 迷子の子供が親を見つけたような顔だった。 朝の挨拶としてはいささか場違いだ。 「なんかあったか?」 「なんで?」 「いや、なんとなく」 「ああ……」 「夢見悪かったの、顔に出ちゃったかな」 「そういや、前も言ってたな」 「ほーんと、嫌になっちゃうわね」 鼻歌を歌うように言う。 「ま、あんま気にしないことだな」 「そうするわ」 「さ、行くか」 副会長の表情がいつも通りに戻ったのを確認し、俺は歩き始めた。 「おはよ」 「おう」 「おはよう、孝平くん」 「副会長、落としたのか?」 いきなり危険球を投げてくる司。 「朝っぱらからやめてくれ」 「じゃあ、あの後……」 「違うっての」 「たまたま一緒に登校しただけ」 鞄を机に載せ椅子に座る。 「いい趣味とは言えないわね」 背後から冷たい声がした。 「余計なお世話だ」 小説に目を落としたままの紅瀬さんに言う。 「あ、そうそう」 「昨日は仕事速くて助かったよ」 「どういたしまして」 「なんの仕事?」 「ああ、生徒会の仕事さ」 「紅瀬さん、生徒会を手伝ってるの?」 「魔窟度が上がったな」 「臨時よ。長居する気はないわ」 「そう言うなよ」 「……」 無言の紅瀬さん。 「白ちゃんが悲しむぞ」 「一方的な好意は迷惑だわ」 「なんか、殺伐としてるね」 「紅瀬さんがな」 「普通よ」 読書の邪魔と言わんばかりに、紅瀬さんは文庫のページをめくる。 苦笑しつつ俺は前を向く。 「やれやれと思ってるでしょう?」 背中に話しかけてきた。 「どうだかな」 「ふん」 なんとなく紅瀬さんとのやりとりに慣れてきたかもしれない。 感情表現がストレートな分、意外に付き合いやすい人なのかもしれないな。 昼休みを告げるチャイムが鳴った。 「司、昼飯行こうぜ」 「遠慮しとくわ」 「予定ありか」 「いや、あれ」 と、顎で教室の入り口を指す。 「ん?」 見ると、副会長が立っていた。 「目つけられちゃたまらんからな」 「じゃ、悪いが」 「ああ、行ってこい」 「よう、どうした?」 「あ、特に用事はなかったんだけど……」 「そっか」 どうしたんだろう? こんなことは滅多にないのだが。 もしかしたら、陽菜とのことで何かあるのかもしれない。 「じゃ、昼飯でも食うか?」 「そうね」 歩き始める俺の隣に副会長が並んだ。 食べるものをトレーに載せ、テーブルに着いた。 俺は例によって焼きそば。 副会長は夏野菜のパスタだ。 2、3口食べてから口を開く。 「なんか仕事の話でも?」 「仕事の話なしじゃ、一緒に食事できない?」 「まさか」 「ただ、今まで一緒に食事することあんまりなかったから」 「心配しないで、生徒会はいつも通りよ」 生徒会は順調らしい。 ということは、副会長自身が何か問題を抱えてるのか? 「だったら、副会長のことか?」 「私? どうして?」 「朝も夢見が悪いとか言ってたし」 「昨日の夜のことで、スッキリしてないことでもあるのかと思ってさ」 副会長が、カチャリとフォークを皿に置く。 「昨日の夜か……」 口の中で呟き、食べかけのパスタをじっと見つめる。 俺は、彼女が再び口を開くのを待った。 「支倉くんになら、いいかな」 しばらくして、独り言のように言う。 「聞かせてくれれば、できる限りのことはするよ」 「放課後まで、待ってもらっていい?」 「ああ」 「放課後じゃなくても、副会長が話せる時でかまわないぞ」 「ありがとう」 副会長が再びフォークを手に取る。 「支倉くんって、優しいわよね」 「そうか? あんまり言われたことないな」 照れ隠しに焼きそばをすする。 「みんなにそう?」 「相手によるさ」 「そっか」 副会長はうつむき加減にパスタを食べる。 銀色のフォークにパスタが絡み、控えめに開かれた口へと運ばれる。 ものを食べる姿もきれいな人だ。 「ん?」 副会長と目が合ってしまった。 「どうかした?」 「いや、なんでもない」 俺の言葉に、副会長がくすりと笑う。 「食べてるとこ、あんまり見られたら恥ずかしいからね」 俺の視線に気づいていたようだ。 「すまん」 「ま、いいけど」 「じゃあ、凝視させてもらおう」 「ちょ、ちょっと」 「冗談だって」 「まったくもう」 ぷんすかしながら、副会長はパスタを口に運ぶ。 そんなところを可愛いと思ってしまう。 これはもう不可抗力だと胸の内で強弁しつつ、俺は焼きそばを平らげていった。 放課後。 俺と副会長は廊下で落ち合った。 「どうする? 監督生室に行くか?」 「二人きりの方がいいわね」 「屋上にでも行かない?」 「ああ」 並んで歩きだす。 二人きりの方がいい話か。 吸血鬼関連の話なら監督生室でもよさそうなものだが。 いったいどんな話をされるのだろう。 昼休みとは違い、放課後の屋上は人が少ない。 設置されたベンチは、一つを除いて空いている。 俺たちは、先客から一番離れたベンチに並んで座った。 「少し雲が出てきたみたい」 副会長が空を見上げる。 厚めの層雲が山際から海へと領土を広げていた。 「ホントだ。昼休みは晴れてたのにな」 「雨にならなければいいけど……」 副会長が足を組む。 つややかな太腿がスカートから覗く。 密着した脚の間には、スカートが上がらないよう組んだ手が置かれた。 「悪いわね、時間取ってもらって」 「構わないさ」 「話っていうのは、私の体調のことなんだけど」 水平線を見つめながら副会長がしゃべりだす。 声のトーンはやや低めだ。 「変な話になると思うけど、笑わないで聞いて」 「わかった」 副会長が真顔で俺を見る。 「支倉くんは、恋愛ってしたことあるわよね?」 そっちの話か。 予想してなかったな。 「まあ、それなりには」 「好きな人と離れた時って、どんな気分になる?」 「言葉にすれば会いたいってことになるけど」 「具体的にはどんな感じ?」 難問だ。 「なんていうか、その人のことで頭がいっぱいになって……」 「身体ってよりは、身体の中身が好きな人の方へ動きだそうとする感じかな」 「不安になったりはする?」 「多少は」 「嫌われてるんじゃないかとか、自分の勘違いなんじゃないかとか考えるしな」 「まあ会って確かめるしかないから、結局は早く会いたいってループになるけど」 「そっか。じゃあ……」 副会長が言葉を探す。 「そのときの気持ちを、熱いか冷たいで言ったら?」 「熱い、だな」 本当に変な話になってきた。 副会長は何が知りたいんだ? 「珍しいな、副会長がこんな話するなんて」 「私も乙女よ」 ニッと笑う。 「もちろんそうだけど」 今までの質問からすると、まるで副会長が恋愛したことないみたいだ。 「ごめんなさいね、変な質問ばかりして」 副会長が脚を組み替える。 戸惑っているせいか、さっきほど太腿は気にならない。 「最近ね……」 「支倉くんと離れると、どうしようもなく不安になるの」 「!?」 それって、好きと言ってるのと一緒だよな? いきなり、来たなぁ……。 飛びかけた思考の尻尾をつかんで引き戻す。 返事を考えなくては。 俺だって、副会長を嫌いじゃないというかむしろ好きだと思う。 とすれば── 「そんな風に思ってくれてたのか」 「え?」 副会長の顔に血が上る。 「あ、えーと……」 顔を伏せ、待ったの仕草をする。 「これは、そういうことであるというか、ないというか……」 「ろ、論点が違うのよ」 「どういうこと?」 「ちょっと待ってね」 すーはー深呼吸している。 さっぱりわからない。 「ええと……とりあえず聞いて」 「あ、ああ」 「最近というか、少し前から支倉くんと離れると不安になるのよ」 「この不安っていうのが問題で……」 「さっき支倉くんが教えてくれたものとは質が違うの」 「どう違うんだ?」 「熱いか冷たいかって話をしたでしょ?」 「私の不安はね……冷たいのよ、とてつもなく」 副会長は苦しげな表情で言う。 まるで、言葉とともに反芻される不安を押し込めているようだ。 「……」 つまりなんだ。 「言葉だけだと恋愛っぽいものに聞こえるけど、中身が違うかもってことだよな」 「ええ。だから支倉くんには、違うかどうか意見を聞きたかったの」 「気持ちの話だから難しいけど、聞いた限りだと違うな」 「そう」 言葉を切って、副会長が考える。 俺も何か考えようとするが、上手くまとまらない。 話が抽象的すぎる。 「もちろん感情の問題だから、私がそう感じるってだけなのかもしれないけど」 「一番気になってるのは、これが私たち特有のことなんじゃないかって……」 「それなら、会長に聞いてみた方がいいだろうな」 「同じような経験があるかどうか」 「そうよね」 「悪いな、力になれなくて」 「いいのよ」 「支倉くんには、私の感覚が普通かどうか教えて欲しかったんだから」 「そっか」 俺は、あいまいな笑いを浮かべる。 「この話ちょっと恥ずかしいじゃない」 「だから、兄さんに聞く必要があるか確かめたかったの」 「たしかに、会長にはからかわれそうだな」 苦笑する副会長。 「どうする? これから聞きに行くのか?」 「そうね」 「ただ、その前に」 「どうした?」 「もう一つ言っておかなくちゃいけないことがあるの」 「?」 副会長が俺を見た。 「私、不安の後には血が欲しくなるのよ」 血が欲しいってのは……飲みたくなるってことだよな。 「それって、俺の血?」 無言でうなずいた。 「それに、欲求は日に日に強くなってるわ」 「……」 改めて副会長が吸血鬼なのだと思い知らされる。 彼女には、理性ではどうしようもない血への欲求があるのだ。 やっぱり違う生き物なんだな。 「で、でも、輸血用血液を飲めば収まるから」 俺の考えを察したのか、弁解するように言う。 「心配してないよ」 「でも、もし本当に我慢できなくなったらいいんだぞ。吸ってくれても」 前に受けた説明では、血を吸われても目立った害はないらしい。 ま、献血みたいなもんだ。 「ありがとう……」 「と言いたいところだけど、私は人から血を吸わないと決めてるの」 「それが吸血鬼らしい生き方じゃないとしてもね」 「こだわるんだな」 「私が血を吸った方がいいって言うの?」 「いやまあ、無関係な人から吸うのはアレだけど……」 「俺みたいに同意している人からならいいんじゃないか?」 「もし、血を吸わないことで副会長が辛かったりするんだったら協力したいしな」 副会長は不機嫌そうにこめかみへ指を当てる。 「それでも、吸わないわ」 決意めいた声音だった。 副会長は、エレガントじゃないから血を吸わないなんて言ってたけど……、 実際はもっと深い理由がありそうだ。 「副会長の気持ちはわかった」 「悪いわね、好意で言ってくれてるのに」 「いや」 そう答えつつも、やはり副会長になら血を吸われてもいいと思う。 ただ、彼女がそれを望んでいないことはわかった。 「ともかく、事前に言っといてくれてよかった」 仮に副会長が突然かみついてきたとしても、さほど取り乱さずにすむ。 「これからも、もし話せることなら教えてくれよ。俺も心の準備ができるし」 「ま、吸血鬼の話だと、本当に聞くだけしかできないけどな」 「いいのよ」 隣に座った副会長の肩が、ちょんと俺に触れた。 接した部分に、ふわりと暖かな感触が残った。 「悠木さんの件があってから、少し考えが変わったの」 「できる限り、抱えてるものは打ち明けていこうってね」 「そっか」 優しい気持ちで副会長の言葉を聞いた。 吸血鬼に関する悩みは、簡単に打ち明けられるものじゃない。 今までの副会長は、いろいろと自分の中で処理してきたのだと思う。 話を聞くことで彼女が楽になるなら、力になっていきたい。 「それに……」 「本当は、支倉くんに聞いて欲しかったのかもしれない」 副会長が微笑む。 「光栄だな」 「でもね、これ以上付き合いきれないって思ったら、いつでも言って」 「言うわけないだろ」 ぽんと頭を撫でると、副会長が目を丸くした。 「見くびるなよ」 「そう簡単に音は上げないさ」 「……」 ぱたりと、副会長が組んでいた足がほどけた。 「……かっこいいこと言うじゃない」 「どうだかな」 気恥ずかしさに苦笑する。 「さて、監督生室行くか?」 「ええ」 二人で立ち上がる。 隣に並んだ副会長との距離は、少し縮まっていた。 「こんにちは」 少しして、俺たちは監督生室に着いた。 「遅かったね。どっかでデートでもしてたのかい?」 「さーて、どうでしょ」 部屋には他に東儀先輩と紅瀬さん。 白ちゃんはいないようだ。 「兄さん、悪いけど時間いい? 聞きたいことがあるの」 「いますぐ?」 「忙しくなければ」 会長が立ち上がる。 「征、ちょっと出てくるよ」 東儀先輩が視線だけ上げる。 紅瀬さんは反応せず、黙々と書類に向かっていた。 「わかった」 「俺はどうする?」 副会長に尋ねる。 「一緒に来てくれる?」 「了解」 「ああ、とうとう支倉君に義兄さんと呼ばれる日が来たか」 「違いますから」 三人揃って外に出た。 「場所はどうする?」 「人がいないところがいいわね」 「じゃ、旧図書館にでもしようか。立ち話もなんだし」 「そうね」 旧図書館。 行ったことがない場所だ。 噴水広場まで下り、古びた建物に入っていく。 「すげえな」 まるでヨーロッパの古い大学にありそうな図書館だ。 機能的な新しい図書館とは違い、本棚からして骨董的価値がありそうな造り。 机や椅子は、深みのある飴色の輝きを放っている。 「建物は文化財級ね」 「珍しい本や、ほとんど閲覧されない本が収められてるの」 「ここなら誰も来ないだろう」 「そうね」 俺たちの他に、人は一人だけ。 白髪頭の小柄な男性が、本棚の間でひっそりと本を整理している。 司書さんだろう。 俺たちは、入り口から一番遠い席を選んだ。 会長の向かい側に、副会長と並んで座る。 「さて、話を聞こうか」 「そうね」 副会長がテーブルの上で手を握り合わせる。 「恥ずかしい話をするかもしれないけど、茶化さずに聞いて」 会長がうなずいたのを見て、副会長が話し始める。 「とても親しい人がいるんだけど、その人と離れると不安になるのよ」 「ほう」 「その不安っていうのが、いわゆる恋愛的なものじゃなくて……」 さっき屋上で話したことを、副会長は順に説明してゆく。 会長は茶化すでもなく、といって深刻な顔もせず副会長の話を聞いている。 「なるほどね」 「つまり、瑛里華はその不安が俺たちに特有のものかどうか知りたいわけだ」 「そういうこと」 「どう? 兄さんは同じような経験ある?」 「いや、ないな」 ひと呼吸置いてから、会長は答えた。 「ずっと生きてきて、一度も?」 「悪いが、俺は特定の人と親しくはならないタチでね」 「そう」 「じゃあ、吸血鬼特有の問題じゃないってことですか?」 「そうとも言い切れないよ」 「単に俺が経験していないだけかもしれない」 「ま、吸血鬼は医学的に研究されているわけじゃないから」 「くしゃみ一つとっても、人間と同じ生理現象なのかそうでないのかはわからないのさ」 「たしかにそうですね」 人間なら、くしゃみをすれば風邪を疑ったりする。 それは、人間についての研究の成果であり、吸血鬼に当てはまるとは限らない。 もしかしたら、吸血鬼にとってのくしゃみは致命的な病気の兆候かもしれないのだ。 自分のことがわからない不安は、どれほどのものだろう。 「あの人はどうかしら?」 「聞いたことはないな」 「単に隠してるだけかもしれないけどね」 「そうよね」 副会長が小さくため息をつく。 「そうだ。試しに血を吸ったり眷属を作ったりしてみたらどうだ?」 「もしかしたら、治るかもしれない」 「バカ言わないで」 「そう感情的になるなよ」 「お前の症状が吸血鬼特有のものだとしたら、まずは吸血鬼らしく生きてみるのが先決じゃないか?」 「もしかしたら、血を吸わないのが原因かもしれないじゃないか」 「丁重にお断りするわ」 「私は人間から血を吸う趣味なんてないから」 憮然とした表情で言う副会長。 「ちょうどいい機会じゃないか」 「眷属を作れば、元の生活に戻らずに済むんだし」 「兄さんっ!」 副会長が立ち上がる。 不意に日が陰る。 遠くから、司書さんの咳払いが聞こえた。 「元の生活?」 副会長の顔を窺う。 俺と目を合わせたくないのか、副会長は前を向いたまま動かない。 「どういうことだ?」 「支倉君に言ってなかったのか」 会長が副会長を見た。 無言で唇を噛む副会長。 「どうして……今それを言うのよ」 「世の中には、裏切っていい人といけない人がいるって言ったじゃないか」 「確定した別れを黙ってるなんて、不実もいいところだ」 「……」 会長が立ち上がる。 「どういうことですか?」 「詳しいことは当人に聞いてくれ」 「……」 「こいつを話さなきゃ、結局何も言っていないのと同じだ」 「そうだろ、瑛里華?」 副会長は立ち尽くしたまま、テーブルを見ている。 奥歯を噛みしめているのがわかった。 副会長には、俺に話していない問題があるのだ。 それもとびきり重大なヤツが。 「そうそう」 「紅瀬ちゃんの面会の日が月曜日に決まったよ」 「……わかりました」 いいも悪いも、感想は浮かんでこなかった。 今は目の前の状況で精一杯だ。 「それじゃ支倉君、瑛里華を頼んだよ」 「はい」 白い歯を見せて、会長が立ち去った。 残される俺たち。 副会長は立ち尽くしている。 「副会長」 できるだけ優しく声をかける。 返事はない。 立ち上がり、彼女の肩に手を置く。 「大丈夫か?」 「……ええ」 「ごめんなさい取り乱して」 「気にするなって」 「外の空気でも吸うか?」 「そうね」 「よし」 副会長と図書館の出口に向かう。 外に出て、噴水のへりに腰を下ろす。 副会長は空を見上げ、大きく深呼吸をした。 いつの間にか青空は見えなくなっている。 「大丈夫、もう落ち着いたわ」 「よかった」 「さっきのこと、聞いていいか?」 「どうぞ」 「会長が言ってた、元の生活ってどういうことだ?」 「私が、この学院に来る前までの生活よ」 ……。 副会長が語り出す。 それは、にわかには信じがたい話だった。 副会長は、生まれてからずっと屋敷に閉じこめられて生活してきたという。 抜け出せたこともあるようだが、それも数回。 その数回に、悠木姉妹との出会いが含まれているらしい。 幽閉されていた理由は簡単── 母親の教えに従わなかったから。 ただ、それだけ。 「人間から血を吸え、眷属を作れって言うのが、あの人の口癖なのよ」 「それができない以上、外には出せないって」 「無茶苦茶だ。子供は玩具じゃないぞ」 常軌を逸してる。 これが人間の家庭だったら明らかに犯罪だ。 「血を吸うことがそんなに大切なのか? 別に輸血用の血液でもいいんだろ?」 「私だって何度もそう言ったわ。でも、聞いてもらえなかった」 「眷属ってのはどうなんだ?」 「前に言ったわよね、眷属は主の命令に逆らえないって」 「ああ」 「だから主はいつでも眷属の血を吸うことができるのよ」 「その上、寿命がないから、永遠に一緒にいてくれる血液タンクってことね」 「どっちにせよ、輸血用血液があれば問題解決じゃないか」 「その理屈が通用しないの、あの人には」 「だったら、いま学院に通ってるのはどういうことなんだ?」 「条件付きで出してもらってるのよ」 「条件?」 副会長が視線を落とした。 なにか言いだしかねるように、唇を2、3度湿らす。 「卒業までに眷属を作れってこと」 「そんな……」 「どうせ眷属を作るなら気に入った人にしたい」 「だから、たくさんの人と出会える学院に通わせてくれって説得したのよ」 積極的に眷属を作るように見せかけたってことか。 「当然のように条件をつけられたわ」 「でも、そうしなければ外に出してもらえなかった」 副会長の声が遠く聞こえる。 「眷属を……作る気はあるのか?」 「ないわ」 「自分のために、人ひとりの人生を壊せないでしょ」 「じゃあ……もし、眷属を作らなかったら」 半ば答えがわかりながらも尋ねる。 「兄さんの言った通り、元の生活よ」 「……」 俺は、無意識に天を仰いでいた。 副会長は最初から眷属を作る気がない。 眷属を作らねば館に戻される。 だから確定した別れなんだ。 「館に戻らなくて済む方法はないのか?」 「ないわ」 「ただ終わりを待つだけね」 副会長の言葉は静かだった。 おそらく、館を出る瞬間から覚悟を固めていたのだろう。 「私、一番大事なことを隠してた」 「できる限り、抱えてるものは打ち明けるって言ったばかりなのにね」 「不実だわ……本当に」 寂しげに笑う。 そのとき、雨が落ちてきた。 いつの間にか身体を濡らしていく、霧のような雨だ。 眼下の新敷地では、傘を持っていない生徒たちが慌てて寮へ走っていく。 そんな中、俺たちは動くことができずにいた。 目も合わせずに、お互い前をじっと向いたままで。 「館に戻ったら、もう出られないんだろ?」 「でしょうね」 「逃げ出せよ、従う必要なんてない」 「無理よ。輸血用血液は館でしか手に入らないの」 「逃げれば、いずれ人の血を吸うことになるわ」 そのせいで、館につながれてるのか。 「だったら、俺を眷属に……」 「できないわ」 副会長が強い語調で遮った。 そして、俺をにらむ。 「軽々しく言わないで」 「眷属になるっていうのは、人間をやめることなのよ」 「貴方の人生はどうするの? 家族は? 友人は?」 畳みかけるように言われる。 「だからって、このまま館に戻されるのか?」 「それでも……」 「それでも私は、貴方の人生を壊したくないわ」 「俺は人生が壊れたなんて思わない」 「いま眷属になったとしても、それは俺が選んだことだ」 副会長をにらみ返した。 「それが軽々しいって言うのよ」 「どうしろってんだ」 「お前が好きだから、人生かけても守りたいとでも言えばいいのか」 「だったら逆に、好きな人を眷属にできるわけないって言うだけよ」 視線がぶつかり合う。 副会長は主張を譲らない。 もちろん俺もだ。 平行線じゃないか。 「くそっ」 冷静に考えれば── 眷属になってもいいことはないかもしれない。 副会長が館に戻っても、卒業を期に離ればなれになったと思えばいい。 だいたい、ほとんどの生徒とは卒業すりゃそれっきりなんだ。 また転校したと思ってもいい。 いくらでも諦めはつく。 それが大人の判断かもしれない。 だが、 そんな冷静さなんていらない。 いや、一見冷静に見えるが、その判断は間違ってる。 身体を突き抜ける衝動が、間違いだと言っている。 「何か方法を考えよう」 「いいのよ、初めから館に戻るつもりだったんだから」 自嘲気味に言う。 「しっかりしろって」 副会長の両肩をつかむ。 「本当はどうしたいんだ? あるはずだろ理想の生活が」 「そいつをなかったことにするな」 「平気なフリするなよ」 「……」 副会長の口が真一文字に結ばれる。 「これは、副会長が俺に教えてくれたことだぞ」 副会長の言葉で俺は変われた。 その彼女が、かつての俺と同じような生き方をしてるなんてナシだろ。 「どうしろっていうのよ」 「足掻こう、まだ時間はあるんだ」 「無駄に終わるわ」 「それでもだ」 「バカね」 「バカでけっこう」 「何もしない利口よりはマシだ」 副会長が顔を上げる。 雨が降っていなかったら、頬を滑り落ちるものが見えただろう。 「呆れるわ」 「いくらでも呆れてくれ」 副会長の額が、俺の胸に当たる。 霧雨が風に乗り、ベールのように俺たちを覆った。 前髪を伝って雨粒が落ちていく。 「諦めってのは、牢屋みたいなもんだ」 「一度入ると、いつの間にか自分で壁に泥を塗るようになる」 「毎日毎日、自分で壁を厚くしていくんだ」 「そのくせ、明かり取りの窓はふさがないのよね」 「窓から入ってくる光が眩しくてイライラするっていうのに」 うめくような声。 それは、彼女自身に言っているように聞こえた。 「……」 副会長の肩をつかんでいた手を、彼女の背中に回す。 濡れた制服の下に彼女の体温を感じる。 「まだ時間はある」 「そうね」 副会長が顔を上げた。 「まだ時間はあるわね」 「その時まで、一緒に足掻こう」 「ええ」 どちらからともなく体を離した。 濡れそぼった副会長の髪から、ぱたぱたとしずくが落ちている。 何かを洗い流したような顔だった。 「身体冷やすなよ」 制服の上着を脱ぎ、副会長に着せた。 「私は風邪をひかないわ」 「いいから」 副会長に手を伸ばし、額に垂れ下がった髪を耳の後ろに送る。 彼女の唇が何か言いたげに動く。 それを、そっと塞いだ。 「あの二人、大変そうだよ」 「お前、こうなることがわかっていたのではないか?」 「まさか。人の恋愛感情なんて予想できるわけがないだろう?」 「どうだかな」 「第一、俺たちは何もわからないんだ」 「なぜ血を吸うのか、眷属を作るのか……なぜ生まれるのかすらわからない」 「瑛里華の不安とやらにしたって、もちろんわからない」 「全部、たまたまだ」 「何か対策は立てられないのか?」 「何もわからないんだ、対策など立てられるか」 「冷たいな」 「お前に言われたくはないさ」 「あの女に尻尾振るってことは、そういうことだろう?」 「自覚がなかったのか?」 「自覚ならある」 「ただ、これが俺にできる最善の策というだけだ」 「見捨てるのが最善とはね」 「何も背負っていないお前にはわからない」 「そうそう」 「瑛里華が苦しんでることをあの女に教えてやったらどうだ?」 「こういう話は大好きだからな、きっと喜ぶぞ」 「なぜ伽耶様をそこまで嫌う」 「またそれか」 「何度でも問うさ」 「ガキのころは違ったかもしれないが、今はもう憎しみしかない」 「わかるか?」 「時間ってヤツは、憎しみ以外の感情を押し流してしまうんだよ」 「伽耶様を刺激していいことはない」 「反抗した先に何があるというんだ」 「俺はお前ほど物わかりがよくない」 「ふう……」 「悪いが、今日はこれで帰らせてもらう」 「分家と打ち合わせがあるのでな」 「そうか」 「不実なものだな……お互いに」 「兄さま」 「白か」 「今日はもうお帰りですか?」 「ああ」 「そうですか……」 「何か言いたいことでもあるのか?」 「い、いえ……別に……」 「顔に出ているぞ。言ってみろ」 「あの……」 「支倉先輩に、東儀家のしきたりを説明してくださいませんか」 「しきたり?」 「千堂家との、しきたりです」 「それは、お前が気にする必要のないことだ」 「しかし、このままでは、吸血鬼に関係のない支倉先輩がつらい思いをすることに」 「本来役目を果たすべきわたしが何もしないというのは、心苦しいのです」 「だが、千堂家の誰も、おまえが役目を果たすことを求めてはいまい?」 「どうしてわたしだけが、役目を果たさなくてもよいのですか?」 「今まで求められなかったのは、兄さまがそのように取り計らって……」 「それは違う」 「でも」 「ともかく、この件はお前が気にする必要なはい」 「兄さま……」 「しかし、今になって、なぜしきたりを気にする?」 「紅瀬にでも影響されたか」 「そ、それは……」 「図星か」 「はい……でも、支倉先輩に申し訳ないというのは本当です」 「わかっている。お前は優しい子だ」 「さあ、この件はもう終わりにしよう」 「兄さまっ」 「白」 「お前は自由に生きてよいのだ」 「今まで通り、千堂家とのしきたりは忘れろ……よいな」 「……」 「あーーーー……」 身体を湯船に沈める。 芯まで冷えた身体が末端から温まっていく。 このまま溶けてしまいたいくらい気持ちいい。 と、 湯船の反対側から誰か近づいてきた。 「刺青がある方の入浴はご遠慮いただいております」 「そう言うな」 「目立つサイズじゃない」 「あるのかよ」 「ない」 ニッと笑って、司が隣に並ぶ。 「結局、落としたな」 「なんの話だ」 「噂になってたぞ」 「二人で帰ってきただろ」 「お前の制服着せて」 「ああ……」 鼻先まで湯船に沈む。 端から見たらそうなるか。 実際、雨の中で抱き合ってたわけだし、キスもした。 ただ……、 そういうことをした実感はまったくない。 くっついたというよりは、ぶつかったって感じだ。 それに、帰り道はほとんど無言。 付き合うとも付き合わないとも言ってない。 「よくわからん」 司のつま先が水面から出た。 「まともな告白してなさそうだな」 「なんでそう思う」 「今日は霧雨だった」 「長いあいだ外にいなきゃ、濡れ鼠にはならんさ」 言われてみりゃそうか。 「まともも何も、告白すらしてない」 「そうか」 「ま、焦らずにな」 司が立ち上がる。 「ああ」 「んじゃ」 じゃぶじゃぶと湯船から出ていった。 どうやら噂になってることを教えに来てくれたらしい。 「ぶくぶく……」 再び鼻まで沈む。 しかし、微妙な関係になったものだ。 見たところ、副会長もまんざらではないようだが。 なぜか、きちんとした形で告白したいという気持ちは強くなかった。 ぼんやりと、噴水での話を思い出してみる。 「……」 単に付き合ってくれと言っていないだけで、ほとんど告白に近いことも言ったな。 なかなか恥ずかしい男だ、俺。 でも、あのとき感じ、口にしたことが結局は本当なのだと思う。 その証拠に後悔はない。 なら、これからも気持ちの命じるままに動いていこう。 まだ時間はあるのだ。 入浴後。 部屋に向かっていたところで、ばったり副会長に出会った。 「お」 「あ……支倉くん」 安堵したような笑みを浮かべる副会長。 「お風呂?」 「ああ、じっくり温まってきたよ」 「そうだ、茶でも飲んでいかないか?」 「……そうね」 少し考えて副会長が答えた。 「どうぞ」 「お邪魔します」 副会長を部屋に招き入れ、俺は濡れたタオルを片づける。 机の携帯に目をやると、ダイオードが着信のあったことを知らせている。 「電話があったみたいだ」 「あ、それ、私」 「そうだったのか」 「悪かったな、出れなくて」 携帯を開くと、確かに着信履歴は副会長のものだった。 しかも3回、10分おきにだ。 「緊急の話?」 「そういうわけじゃないんだけど」 正座していた脚を崩す副会長。 答えにくいようなので、茶道具を広げながら彼女の言葉を待つ。 「ほら、言ったでしょ……不安のこと」 俺と離れると不安になるんだっけ……。 それも、冷たく暗い不安。 「……」 10分おきに3回という着信履歴が示していたのは、そういうことか。 辛かったんだろうな。 とすれば、階段での遭遇も偶然ではないのかもしれない。 出会った瞬間の、安堵したような表情ともつながる。 人に会いたいと思われるのは嬉しいことだが、副会長の状態を想像すると簡単には喜べない。 「今はもう、大丈夫なのか?」 「ええ、落ち着いたわ」 「そうか」 「でも、これからが心配」 「不安のこと?」 淹れたお茶を副会長に渡す。 「ええ」 ティーカップを受けとった副会長が、ふーふー冷ましながら口をつける。 「おいしい」 「よかった」 「で、何が心配?」 「不安がだんだん強くなっているっていうのは話したわよね」 「ああ」 「もし、特定の人と親しくなるほどに不安が強くなるのだとしたら……」 言いかけてとめる。 目が合う。 副会長が、慌てて目を逸らす。 「し、親しいっていうのは学術的な意味よ」 「あ、ああ、学術的にね」 キスしておいてなんだが、やっぱりテレる。 「ともかく、このままだと困るわ」 「不安になったら、ここに来ればいい」 「迷惑になるでしょ」 「俺は構わないよ」 「だいたい、副会長が辛い思いしてるのに何もできない方が辛い」 「いつでも電話してくれよ、夜中だって構わない」 「支倉くん……」 切なげな視線を送られる。 「でも、不安の後には血が欲しくなるのよ」 「我慢できなくなるリスクも増えるわ」 そのときはそのとき、だと思う。 だが、口にしたら怒られるのは確実だ。 「俺の部屋に来るときは、輸血用血液を持ってきたらどうだ?」 「そうね。他に誰もいないときはそうするわ」 「でも、もし私が正気を失うようなことがあったら、そのときは殴ってでも止めて」 「正気を失うことなんてあるのか?」 「わからないわ。だからもしもの話よ」 「そうならないことを祈る」 副会長がうなずいた。 「今だから言うけど、支倉くんの血はとても魅力的なの」 「え……」 魅力的って……なんだそれ? 「初耳だけど、どういうことだ?」 「おいしそうってこと」 喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。 「吸わなくてもわかるのか? うまそうとかまずそうとか」 「私にはわからないわ、血を吸ったことがないから」 「話がおかしいだろ、それ」 「理由ははっきりしないんだけど……」 「ただ、出会った瞬間に感じたのよ、この人の血は絶対おいしいって」 初めて出会ったときのことを思い出す。 握手しようとした瞬間、副会長の態度が変わった。 「じゃあ、初対面のときは……」 「そうよ」 「私も初めての感覚だったからびっくりしたわ」 「こっちはトラウマになりかけたけどな」 「ごめんなさい」 苦笑いを浮かべる副会長。 「体調がどうこうって言ってたのは嘘だったのか」 「吸血鬼だって打ち明けてない人に、ちゃんと説明できないでしょ」 「なんとか納得してもらえる理由を考えるの大変だったんだから」 「たしかに、いきなり血の話をされてもな」 「それにね、私はあまり生徒会に関心を持って欲しくなかったのよ」 「血がおいしそうな人が近くにいたら、その人に迷惑かけるかもしれないから」 「強引に引っ張られた気がするんだが」 「兄さんでしょ、無理やり引っ張ったのは」 「私が支倉くんのことを話したから」 「面白がって俺を入れたのか」 「それもあるけど、本当のところは謎ね」 「私が血を吸うのを期待したのかもしれないし」 「会長も副会長に血を吸わせたいのか」 「わからないわね、兄さんの考えてることは」 「あの人と同じようなことを言ったり、私の味方をしてくれたり」 「もしかしたら、一番わからない人なのかもしれない」 「たしかに、会長は謎だ」 前に聞いた話だと、会長の年齢は、人間なら長寿新記録になるほどらしい。 少なくとも百歳は軽く超えてるわけだ。 どんな人生を送ってきたのか……想像もつかない。 「そういえば、副会長って会長の他に兄弟いるのか」 「いないわね」 「ときどき言ってる、あの人っていうのは親父さん?」 「母親ね。うちに父親はいないから」 「そっか。まずいこと聞いたな」 「気にしなくていいわ」 「支倉くんが想像しているような話じゃないと思うから」 副会長の口調は、妙にさっぱりしていた。 「ずっと言わなかったけど、千堂家はそもそも血のつながりがないのよ」 「!?」 「じ、事情を……聞いていいか?」 「これを聞いたら、さすがの支倉くんも私たちをバケモノだと思うでしょうね」 自嘲気味に笑う。 「知りたい?」 吸血鬼に関することに、いまさら耳を塞いでも仕方がない。 副会長が館に帰らなくてもよくなるヒントが隠されているかもしれないし。 「聞かせてくれ」 俺の言葉を受け、副会長は少し寂しそうな顔をした。 「私たちは、人間と同じ方法で増えるわけではないの」 「ある日突然、東儀家にぽっこり生まれるらしいわ。突然変異みたいなものかしら」 「東儀家に?」 こんなところで東儀の名前が出てくるなんて思わなかった。 「正確には、いくつかある分家まで含めた東儀一族みたいだけど」 「じゃあ、会長も副会長も元は東儀家の人なんだな」 「ええ。といっても生まれてすぐに千堂家に入れられたみたいで、何も覚えていないけど」 「そうだったのか……」 出たのは、ため息。 理解するとかしないとかの話じゃない。 副会長の言葉通りに受け止めるしかないだろう。 「吸血鬼は、子供を作ることができないのか?」 「そのようね」 「寿命がないのは、その代償なのかもしれないわね。数が増えすぎたら困るでしょう」 愉快げに言う副会長だが、目は笑っていなかった。 「突然変異の原因は?」 「不明よ」 肩をすくめる副会長。 「東儀家ってのは特殊な家なのか?」 「江戸時代から続く名主の家柄よ」 「今でも島の重要なポストはほとんど東儀家の関係者で占められているはずだわ」 「そんな家に、人の血を吸う人間が生まれたとわかったら都合が悪いでしょ」 「だから、千堂家という家を立ててまとめてあるのよ」 「恨んだりしてるのか、東儀家を」 「特殊な感情はあまりないわね」 「さっきも言った通り、東儀家の記憶は何もないから」 「それに、目に見えないところで千堂家の面倒見てくれてるみたいだし」 持ちつ持たれつの関係か。 東儀家からしてみれば、罪滅ぼしみたいなところもあるのかもしれない。 「しかし……驚いたな」 「バケモノだったでしょ?」 「そういう言い方するなって」 「俺は今までと何も変わらないさ」 「ありがと」 「むしろ近づいた気がするよ」 「人間と吸血鬼は、まるっきり別の生き物じゃないわけだろ」 「そう言えるかもしれないわね」 「それに、もし生まれる理由がわかったら、いいことだってあるかもしれない」 「ええ」 そう答えた副会長だったが、あまり期待はしていないといった風だった。 「話は戻るけど、そういうわけで千堂家の家族構成は普通じゃないの」 「とりあえず話は理解した」 一息つくため、冷めた紅茶を飲む。 吸血鬼は本当に謎ばかりだ。 どうして生まれたのかもわからず、身体のこともわからない。 どれほどの不安を抱えて、副会長は生きているのだろう。 「暗い話になっちゃったわね」 「構わないさ」 「そう言えば、司に聞いたんだけど、俺たちのこと噂になってるみたいだぞ」 「どんな風に?」 「付き合ってるって」 「え……そ、そうなの?」 そわそわした仕草で、副会長が髪を撫でつける。 「今日帰ってくるとき、俺の制服着てたから」 「そうだったわね」 「迷惑?」 「まさか」 「むしろ、噂で終わらせたくないと思ってる」 副会長が俺の目を見た。 瞳には、わずかな驚きと戸惑いが浮かんでいた。 「卒業したら館に戻るのよ、私は」 「わかってる」 「ただ、その理由で副会長への気持ちをなかったことにしたら、俺は一生悔やむと思う」 「支倉くん……」 「副会長はどう思ってるんだ?」 「私は……」 「どうしたって迷惑をかけすぎる」 副会長はそう言ったきり黙り込んだ。 俺は副会長の隣へ座り、その手を握る。 「返事はしなくてもいい」 「俺と付き合えないなら、手を振りほどいてくれ」 「え」 「制限時間は10秒だ」 「そ、そんな……」 時計を見つめる。 秒針が進む。 あと5秒。 「さあ」 残り2秒。 …………。 ……。 副会長を優しく抱きしめる。 観念したように、副会長の身体から力が抜けた。 「ずるいわ……こんなやり方」 「今から振りほどいてくれてもいいぞ」 「バカ……」 「利口すぎて悩むのも損だろ」 「もういいわ、しゃべらないで」 つないでいた手をほどき、副会長の背中に回す。 彼女の熱が身体にしみこんできた。 この温かさを手放さないためにも、俺は抗い続けなくてはならない。 たとえ副会長の母親がどんな人であったとしても―― 吸血鬼がどんな存在であったとしても―― 解決の道があると信じて、進んでいこう。 放課後。 フルメンバーがそろった監督生室には、いつになく緊張した空気が流れていた。 「どうして、支倉くんまであの人に会わなくちゃいけないのよ?」 「そういう希望だ」 今夜は、紅瀬さんが副会長のお母さんと面会することになっている。 そこに俺も同席せよというのだ。 「何かあったらどうするのよ」 「ヤバいことでもあるのか?」 「大ありよ」 「最悪、命に関わるかもしれないわ」 「まさか」 「それが冗談じゃないんだ」 「あの人は人間をエサとしか思っていない。簡単に人を殺すよ」 そう言われても、さすがに実感が湧かない。 なんで、会うだけで殺されなくちゃならないんだ。 「私も行くわ」 「瑛里華は呼ばれていない」 「機嫌を損ねたら、それこそどうなるかわからないだろ」 「支倉は会いたいのか?」 じっと話を聞いていた東儀先輩が口を開く。 「……」 聞く限り相当危険な人だ。 だが……。 「会ってみたいです」 「支倉くんっ」 「自由になりたいと思ってるなら、いつかは説得しなきゃいけない人だろ?」 「それはそうだけど、説得が通じるような人じゃないのよ」 「なんにせよ、会ってみて損はないさ」 「つーか、俺が会ってみたいんだ。どんな人なのか」 「本当に何があるかわからないの」 「俺が付き添おう」 「征一郎さんが?」 「俺ならば、そう邪険にもされないだろう」 「東儀先輩は、お母さんと親しいんですか?」 「多少な」 「少なくとも、初めからけんか腰ではない」 そう言って、会長を見る。 会長は知らぬふりで窓の外を見ている。 「どうだ、瑛里華?」 少しの間、副会長は目をつむる。 「仕方ないわね」 「た だ し」 「絶対にあの人の機嫌を損ねるようなことは言わないで」 「わかった」 「紅瀬」 東儀先輩が紅瀬さんを見る。 我関せずといった調子で、黙々と書類整理をしていた。 「そういうことだが、かまわないか?」 「かまわないわ」 書類から目を離さずに言った。 ヤバイ人に会いに行くのは紅瀬さんも同じはずだが、まったく慌てたところがない。 「貴女の主かもしれない人に会いに行くのよ。緊張したりしないの?」 「緊張しても何も変わらないもの」 「はぁ、かわいげがないわね」 「あ、あの……」 ずっと黙っていた白ちゃんが小さく挙手する。 「わたしもご一緒してよろしいですか?」 「だめだ」 即答。 「うう」 しゅんとする白ちゃん。 「白ちゃんは、副会長のお母さんに会ったことあるの?」 「はい、伽耶様には何度かお目にかかっています」 かや。 副会長のお母さんの名前か。 しかし、様付けで呼ぶってのはどういうことだ? 「やっぱり怖い人?」 「変わった方だとは思いますが……」 「あ、紅瀬先輩に似ていらっしゃるかもしれません」 そりゃ変わってる人だ。 「会えばわかるだろう」 「伊織、面会の時間は決まっているのか?」 「いや、いつでもかまわんとさ」 「では、遅い時間の方がいいな」 東儀先輩が少し考える。 「支倉、紅瀬、出発は8時としよう。外出許可は俺が取っておく」 「よろしくお願いします」 紅瀬さんもうなずいた。 午後7時56分。 出発の時間が近づいた。 既に今日の仕事を終えた紅瀬さんは、ここ1時間ばかり窓の外を眺め続けている。 「そろそろ時間だな」 パソコンに向かっていた東儀先輩が口を開く。 「仕事の切りがいいようなら、そろそろ出発しよう」 「俺は大丈夫です」 「こちらも」 「では、準備をしてくれ」 俺は、手元に広げていた書類をまとめる。 「気を付けてね」 「何を言われても、食ってかかったりしたらダメよ」 「伽耶さんもただ顔を見たいだけらしいし、変なことにはならないだろう」 「そうだと、いいんだけど……」 「あの人の機嫌は、秋の空よりはるかに変わりやすいからね」 「気を付けるに越したことはないよ」 血のつながりはないとはいえ、家族にここまで言われるなんて。 いったい、伽耶さんってのはどんな人なんだろう。 「ともかく、何かあったら電話するのよ」 「そんなに心配するな」 「東儀先輩も一緒に来てくれるんだし」 「そうだけど……」 「ほんとよろしくね、征一郎さん」 「任せておけ」 副会長は心配で心配で仕方がないといった様子だ。 「それから紅瀬さん」 「なに?」 「母様が主だったとしたら、貴女も注意しなくちゃだめだからね」 「何に注意するの?」 「何があるかわからないの」 「それでは、注意しようがないわ」 「いいから、注意なさい」 やれやれといった調子で肩をすくめる紅瀬さん。 「もう準備はいいか、支倉」 「あ、はい」 「では、行こう」 鞄を持って立ち上がり、部屋を出る。 ドアで顔が見えなくなる瞬間まで、副会長の顔から不安は消えなかった。 校門からしばらく歩き、俺たちは森の中へ入った。 月は厚い雲に覆われ、荒れた山道は漆黒へと吸い込まれている。 こんなところに家があるのだろうか? 「支倉」 東儀先輩が突然口を開く。 「あ、はい」 「伽耶様に対する、伊織や瑛里華の態度をどう思う」 「二人とも伽耶さんが好きじゃないようですね」 「恨んでいると言ってもいいだろうな」 「聞いた限りだと、伽耶さんの言動に問題があるようにしか思えませんでしたけど」 「そうだな……」 独り言のようにつぶやく。 「東儀先輩は、伽耶さんが悪くないと思ってるんですか?」 「そうは言わない」 それっきり、東儀先輩は黙ってしまった。 何か俺に言いたいことがあったのだろうか。 山道を歩き続け、ようやく目的地に到着した。 歴史の教科書に出てきそうな洋館だ。 壁面が月明かりに照らされ、ほの明るく光っている。 「電気ついてないですけど」 「奥の建物にいらっしゃるはずだ」 そう言って、俺たちを先導する。 「陰気な建物ね」 「ああ」 古びてはいるが汚いわけじゃない。 庭もそこそこ手入れされている。 だがなぜか、人が楽しく生活している状況が想像できなかった。 こんなところに、副会長を閉じこめたくはない。 建物の脇を通り抜けて裏手に回る。 そこには、和風の建物があった。 温泉地の高級和風旅館のようなたたずまいだが、漂う緊張感は旅館とはほど遠い。 「ここだ」 東儀先輩はためらうことなく戸を開ける。 「征一郎です、紅瀬と支倉を連れてきました」 廊下の奥から声がした。 若い女性の声だ。 「……」 「行こう」 「はい」 玄関で靴を脱ぎ、ひんやりとした板敷きの廊下を進んでいく。 そこは広い和室だった。 お香を焚いているのか、甘い香りが漂っている。 「お座り」 部屋を仕切る御簾の奥から声がした。 奥のほうがこちらより暗いせいで、姿はほとんど見えない。 人と会うのに御簾を下ろしたままなんて、平安時代の貴族みたいだ。 「失礼します」 東儀先輩が座ったのを見て、俺と紅瀬さんも正座する。 「なぜお前が来た」 「伊織の都合がつきませんでしたので」 「……ふん、まあいい」 ぱちりと何かを叩くような音がした。 「お前が支倉だな」 突然話しかけられた。 「はい」 「瑛里華から話は聞いておろうの」 「どういった話ですか?」 「お前、瑛里華の眷属になるつもりはあるのか?」 単刀直入に聞かれた。 もちろん、眷属になる気はない。 と、口を開きかけたとき…… 「伽耶様、支倉はその件について聞かされておりません」 「征一郎には聞いておらぬ」 「失礼しました」 東儀先輩が頭を下げた。 「して、どうなのだ?」 再び水を向けられる。 監督生室で眷属の説明があったとき、俺も東儀先輩もそこにいた。 つまり、東儀先輩は嘘をついたことになる。 その目的はやはり、伽耶さんの機嫌を損ねないことだろう。 なら…… 「眷属というのは、なんですか?」 「知らぬのか」 「はい」 「あの……俺、何かされるんですか?」 「……」 「教えてください」 「征一郎、どういうことだ」 「瑛里華にも考えがあるようで、慎重に行動しております」 「あの出来損ないめ」 忌々しげな声が聞こえる。 人前で、自分の家族を出来損ない呼ばわり。 聞いていた通り、なかなかぶっ飛んでる。 だいたい、今夜の主目的は紅瀬さんと伽耶さんの面会だったはずだ。 俺から話を始めるあたりからして、紅瀬さんをないがしろにしている。 ちらりと隣の紅瀬さんに目をやる。 彼女は、微動だにせずに御簾の奥を見つめていた。 「瑛里華には急ぐよう伝えよ」 「さもなくば、こちらにも考えがある」 「わかりました」 「ときに……」 御簾の奥から衣擦れの音が聞こえた。 姿勢を崩したようだ。 「征一郎、御簾を上げよ」 「はい」 東儀先輩が立ち上がり、御簾に近づく。 どうやら、伽耶さんの顔を拝めるようだ。 ……。 するすると御簾が上げられていく。 「……」 現れた彼女の姿に、一瞬言葉を失う。 御簾の奥に座っていたのは少女だった。 脇息に肘を載せ、じっと紅瀬さんを見つめている。 その表情には薄い笑いが張りついていた。 「……」 紅瀬さんはじっと伽耶さんを見つめている。 二人とも口を開かない。 重い時間がじりじりと流れていく。 「……」 何事かつぶやいたかと思うと、紅瀬さんが立ち上がる。 そのまま、つかつかと伽耶さんに歩み寄った。 「紅瀬さんっ」 ぱしっ。 軽い音が部屋に響く。 紅瀬さんが伽耶さんの頬を打ったようだ。 薄笑いを浮かべたままの伽耶さんの口元から、一筋血が流れた。 「手癖の悪い女だ」 「伽耶」 「征一郎、血を」 「はい」 東儀先輩がポケットからハンカチを取り出し、伽耶さんの口元をぬぐう。 そんな光景を、紅瀬さんは立ったまま見下ろしている。 やがて、東儀先輩が伽耶さんの元から離れた。 「そんな若い子をかしずかせて、貴女会うたびにゆがんでいくわね」 伽耶さんの顔から表情が消えるが、すぐにまた人を見下したような薄笑いが浮かぶ。 「主への口のきき方まで忘れたか」 「主がまっとうなら、私もこんなことは言わないわ」 今までの紅瀬さんにはなかった、感情のこもった声だ。 「元の位置に戻れ桐葉」 「断るわ」 「命令だ」 その瞬間、紅瀬さんの身体が硬直した。 そして、俺の隣へと歩き始める。 これが主の命令ってヤツか。 紅瀬さんは、機械みたいな正確さで俺の隣まで歩いてきて止まった。 「桐葉」 伽耶さんが紅瀬さんを見つめる。 「結局、顔を見るまで思い出さなかったか」 「……嘘つきめ」 「試し続けることでしか安心できないのね」 伽耶さんの口の端が吊り上がる。 「お前には罰を与えよう」 紅瀬さんが、キッと伽耶さんをにらんだ。 「礼拝堂にいる、天池を襲え」 「!?」 「伽耶様っ!?」 なんでここでシスターの名前が? 「馬鹿なことを……」 「命令だ」 「くっ」 苦しげに顔をゆがめる。 「急げ、今すぐにだ」 紅瀬さんが、弾丸のように部屋を飛び出した。 これって…… 「マズいだろっ」 立ち上がる。 紅瀬さんの足音は、既に聞こえない。 「伽耶様、なんということをっ」 「伊織には礼をしなくてはなるまい」 俺はとっさに部屋を飛び出す。 「はははは、こういう鬼ごっこもたまにはいいだろう」 「ははははっ、あはははははっ」 背後から、さも愉快そうな笑い声が聞こえた。 外へ飛び出すが、紅瀬さんの姿は見えない。 なに考えてやがるんだ、伽耶って人は! 走りつつ、鞄から携帯を取り出す。 プルルルル…… 「はい、何かあったの?」 携帯に気を配っていたのか、副会長はワンコールで出た。 「大ありだっ」 「紅瀬さんが、今、礼拝堂に向かってる」 「はあっ、なんでまた!?」 「シスターを襲えって、伽耶さんが命令したんだ」 「紅瀬さんは伽耶さんの眷属だったんだ。命令には逆らえない」 「なに考えてるのよ、あの人っ」 「考えるのは後にしてくれ」 「俺の脚じゃ、紅瀬さんには追いつけない。副会長、頼むっ」 「了解」 「支倉くんは、兄さんにも電話して」 「わかった」 電話を切り、今度は会長に電話する。 プルルルル……プルルルル……  プルルルル……プルルルル…… プルルルル……プルルルル…… 出やしねえ。 「あー、くそっ」 電話を鞄に放りこみ、全力で走る。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」 心臓がバカみたいにはねている。 呼吸を整えながら礼拝堂を観察する。 見たところ特に変化はない。 紅瀬さんはここに来たのだろうか。 ガクガクする脚を動かし、入り口へ向かう。 ドアを静かに開ける。 「支倉くんっ」 「副会長」 祭壇の近くに副会長が立っていた。 「シスターは?」 「ここにいるわ」 副会長が下を見る。 まさか……倒れてるのか? 小走りに近づく。 「……」 一番前の長椅子の上に、シスターが横たわっている。 「呼吸はしているわ。気を失ってるだけみたい」 「何があったんだ?」 「私が到着したときには、こうなってた」 「他には誰も?」 「ええ」 紅瀬さんの仕業なのか、 それとも、まだ紅瀬さんは来ていないのか。 現状では判断できない。 「副会長はここにいてくれないか」 「紅瀬さんがここに来たら、人間の俺じゃ何もできない」 副会長がうなずく。 「兄さんには電話した?」 「出なかった」 「まったく、いざって時に使えないわね」 「ともかく、俺は紅瀬さんを探してみる」 「気を付けて」 「何かあったら電話する」 礼拝堂から出ると、雨が落ちていた。 踏んだり蹴ったりだ。 「くそっ」 学院は広い。 どこから探したものか。 カシャン 「……」 遠くで、何かが割れる音がした。 山の方だった気がする。 監督生室か? 再び走り出す。 雨に濡れた長い石段を駆け下りた。 休むことなく、監督生室へ続く階段を駆け上る。 「はぁ、はぁ、はぁ」 監督生棟は真っ暗だ。 異変がないか、端から観察する。 「……」 ……。 一階の窓が一つ割れている。 窓枠全体が内側にひしゃげているところを見ると、大きなものがぶつかったようだ。 もしかして、紅瀬さんがぶつかったりしたのか? 確認すべく、一歩一歩、窓に近づいていく。 ……。 …………。 割れた窓の下に、 誰か座っていた。 「やあ、支倉君か」 「会長っ!?」 会長はガラスの破片にまみれている。 シャツの所々には、赤黒い染みがついていた。 「ケガしてるんですか?」 「まあ、多少ね」 「大丈夫ですか?」 「血は止まってるし大騒ぎするほどじゃない。放っておけば治るさ」 「それより、紅瀬ちゃんを中に運んでくれないか」 「俺はもう少しここで休んでる」 と、茂みを顎で差す。 そこには、紅瀬さんが倒れていた。 「紅瀬さん、ケガしてるんですか?」 「気を失ってるだけだ」 「眷属をケガさせないように気絶させるのは辛いよ」 「いやー、参った参った」 いつものように笑う会長。 すごい苦労をしたんだと思うが……。 そこを突っ込むのは、きっと会長も喜ばないだろう。 「ここに来る前、礼拝堂に行ったんですけど」 「志津子ちゃん大丈夫だった?」 「ええ、今は副会長がそばにいます」 「ならよかった」 「気を失ってたみたいですが」 「ああ、紅瀬ちゃんが来る前に寝かせておいた」 「おそらく、何も覚えてないだろう」 「紅瀬さんが礼拝堂に行くこと、わかってたんですか?」 「細かいことはあとで話すよ」 「とりあえず、瑛里華を監督生室に引きあげさせてくれ」 「志津子ちゃんが目を覚まして瑛里華の姿を見つけたら、説明するのが大変だ」 「わかりました」 鞄から電話を取り出す。 「副会長、もうすぐこっちへ来ます」 「OK」 「あとは紅瀬ちゃんを頼んだよ」 「はい」 紅瀬さんのそばに行って様子を見る。 特に外傷はないようだ。 「そうそう。あの人は紅瀬ちゃんにどういう命令したんだ?」 「礼拝堂にいる、天池を襲えって」 「なるほど」 少し考える会長。 「なら、もし目を覚ましても大丈夫かな」 ぜんぜん考えてなかった。 命令が継続していたら、目を覚ました紅瀬さんはまた同じことを繰り返してしまう。 「一応襲ってはいるし、命令は遂行されてるってことですか」 「そう祈ろう」 「寝ている紅瀬ちゃんを椅子に縛りつけるのは嫌だろ?」 「ええ」 「じゃ、後は任せてください」 紅瀬さんを背中におぶる。 「頼んだよ」 「任せてください」 部屋に入り、紅瀬さんを椅子に座らせる。 「ふう」 なかなかヘビーだった。 力が抜けた人は重いってのは本当だ。 「お疲れさま」 副会長が礼拝堂から戻ってきた。 会長に肩を貸している。 「副会長もお疲れ」 「一人で運ぶの大変だったでしょ」 「まあな」 「紅瀬ちゃんをおぶるときの支倉君、嬉しそうな顔してたなぁ」 「あらそう」 怖い笑顔でにらまれた。 「会長も、ケガしながらよくそんな軽口たたけますね」 「ライフワークだからね」 「すまん瑛里華、座らせてくれ」 「はいはい」 副会長が、会長を椅子に座らせる。 「いたたたた……」 「大げさな声出さないでよ」 「冷たい妹だね、まったく」 苦しげに笑う会長。 「ところで兄さん、シスターの記憶を消したの?」 「いや、姿を見られないように気絶させただけだ」 「その辺はぬかりないさ」 「なら目を覚ましても心配ないわね」 安心したように言って、副会長は給湯室からタオルを持ってきた。 大きなタオルを紅瀬さんに掛け、残りを俺たちに渡してくれる。 「支倉くん、詳しく状況を説明してくれる?」 「ああ」 頭をふきつつ、伽耶さんに会ってからのことを説明していく。 途中から、副会長の表情は曇り…… 説明し終わったあたりでは、頭を抱えたそうな顔をしていた。 「何考えてるのよ、あの人」 「相変わらずいい趣味してるよ」 「で、どうして兄さんは礼拝堂に先回りできたの?」 と、会長を見る。 「虫の知らせかな」 「征一郎さんが教えてくれたんでしょ」 「どうして東儀先輩が?」 「あの人に一番近いのは征一郎さんだから」 「そうなのか」 「ともかく、俺の口からは言えないよ」 「それに、こういうのは密やかにやるのが男の美学ってものさ」 「ま、いいわ」 「で、どうしてシスター天池が狙われたのかしら?」 「あの人の考えなんて、俺にわかると思うかい?」 「あの人、嫌がらせに関しては天才的なんだから、理由がないわけないじゃない」 「一番嫌がることをしたってことか?」 「そう」 そういや、伽耶さんが最後に言っていたこと……。 「伊織には礼をしなくてはなるまい」 とすれば、シスター天池をねらえば会長が嫌がると知っていたことになる。 「伽耶さん、これは会長への礼だって言ってました」 「礼か……あの女」 「心当たりあるんでしょ?」 副会長が見据えると、会長は無言で腕を組んだ。 「昔、親しくしてたのさ」 「はあ!?」 「マジですか」 会長とシスター天池がそういう関係だったなんて。 なんつーか意外すぎる。 「志津子ちゃんの母親とね」 「いつの話よ」 「前にここの生徒だったときだから、35年くらい前かな」 「会長、前にもここの生徒だったんですか」 「そうだよ」 さらりと答えられた。 「志津子ちゃんの母親は生徒会長でね、ちょっとキツ目の美人だった」 「昨日、特定の人と親しくならないって言ってたじゃない」 「俺だって言いたくないことくらいあるさ」 「母様には何も言われなかったの?」 「言われたさ」 会長が天井を仰ぐ。 「正体を明かしたのなら、眷属にするか、さもなくば記憶を消すか殺すかしろってね」 「なんで殺すまでしなきゃならないんですか」 「俺たちの母親は、吸血鬼だと知られるのを極端に嫌ってるんだ」 「正体を知った人間は、自分たちを殺しに来ると思ってるらしい」 「そんな馬鹿な」 「ありえない話じゃないさ」 「とはいっても、被害妄想が過ぎると思うけどね」 「それで、会長はどうしたんですか?」 声が喉に絡んだ。 「忘れてもらったよ。そうするしかなかった」 「……」 俺も副会長も、口を開けなかった。 会長とシスター天池のお母さんの関係が、自分たちにだぶったからだ。 「俺は学院から消え、彼女は無事卒業した」 「その後のことはわからないが、ま、なるようになったんだろう」 そう言って会長は笑った。 すこし悲しみを帯びたその笑みには、なにか圧倒されるものがあった。 それは、彼が過ごしてきた百年を越える時間の重みだったのかもしれない。 「じゃあ、兄さんも感じたの? あの不安を?」 「少しだけね」 「彼女の記憶を消してすぐは不安で仕方なかったけど、それも次第に消えたよ」 「時間っていうのは、なんでもかんでも押し流してしまうものらしい」 「そう」 「兄さんも、辛い思いをしていたのね」 「ま、昔の話さ」 そう言って、会長は窓の外を見た。 「副会長も伽耶さんから言われてるのか、会長と同じこと」 俺の声に副会長が視線を落とす。 「まだ言われてないけど、時間の問題でしょうね」 「……」 もし同じことを言われれば── きっと俺の記憶を消すだろう。 眷属にする── 記憶を消す── 殺す── この中では、記憶を消すことが一番選択しやすい。 俺が逆の立場だったら、迷わずそうするだろう。 「君たちのことは応援してるよ」 「幸せな結末を迎えられるよう、できるだけのことはしよう」 「兄さん」 「ありがとうございます」 「二人を見てると、過去の自分が恥ずかしくなるよ」 「あっさり音を上げて、ホント情けない」 会長が自嘲気味に笑う。 「こほっ、けほっ」 突然、椅子に座っていた紅瀬さんが咳き込んだ。 「お目覚めだ」 「瑛里華、水を持ってきてやってくれ」 うなずいて、副会長が立ち上がる。 「紅瀬さん」 「ん……う……」 紅瀬さんがゆっくりと目を開き、周囲を見回す。 まだぼんやりしているようだ。 「調子はどうだ?」 「……平気」 やや遅れて反応が返ってきた。 「よかった」 「女の子を殴るのは、これでも心が痛んでね」 軽くウインクしてみせる会長。 「はい、お水」 「どうも」 副会長から受けとったコップに紅瀬さんが口をつける。 水を半分ほど飲み干して、紅瀬さんはコップをテーブルに置いた。 「迷惑を……掛けたようね」 「命令されたのなら、謝る必要はないわ」 「ありがとう」 「伽耶さんのことは、思い出したのか?」 「ええ」 「よかったじゃないか」 「もう、誰だかわからない人を探すなんて無茶苦茶なことしなくて済むんだ」 「そうかもしれないわね」 「どういう事情であの人の眷属になったか聞いていいかしら?」 「ごめんなさい、私の中でも整理できていないの」 「ま、記憶を取り戻してすぐじゃ仕方ないわね」 陽菜も記憶が戻った時はずいぶん混乱していた。 紅瀬さんはしっかり受け答えしてるけど、かなり疲れているに違いない。 「質問は後にして、今日は休んでもらった方がいいんじゃないか」 「それもそうね」 「俺も休ませてもらうよ」 「今日中に骨をくっつけないと、明日の生活に支障が出るからね」 さらりとすごいことを言っている。 「紅瀬さんは歩ける?」 「問題ないわ」 証明するように、紅瀬さんは立ち上がった。 「会長は大丈夫ですか」 「さっきよりはマシさ」 「りょーかい。それじゃ帰りましょう」 雨は上がっていた。 滑りやすくなった石段を、ゆっくりと下りる。 俺の隣には副会長。 寄り添うように歩いているが、監督生室を出てから一言も口をきいていなかった。 俺にとっても副会長にとっても、会長の話は重い。 俺たちと同じように誰かと恋をし、伽耶さんの前にあえなく壊れた。 それも、恋人の記憶を自ら消すという結末だ。 飄々とした会長の態度が、むしろそのときの悲しみの深さを物語っている気がして胸が痛い。 そして何より、俺たちが会長と同じ状況に置かれるのも時間の問題なのだ。 俺を眷属にするか、記憶を消すか、殺すか── そんな選択を副会長にさせたくない。 そのためには、何か伽耶さんを説得する方法を見つけないと。 「……」 そっと副会長の手に触れ、冷たいその手をしっかりと握る。 副会長も無言で握りかえしてきた。 この手を離したくない。 どんな状況になったとしても。 「おはよ」 「おう」 「おはよう」 二人に挨拶。 紅瀬さんは、頬杖をついて窓の外を見ている。 「おはよう、紅瀬さん」 紅瀬さんが俺を見た。 ひどく緩慢な動作だった。 「おはよう」 ぼんやりと言って、また窓の外に視線を戻してしまった。 なんか様子がおかしい。 急に記憶が戻ったせいで、体調でも崩したんだろうか。 「調子でも悪いのか?」 「……平気」 こっちを見もしない。 俺は諦めて席に着いた。 ホームルームが終わり、授業が始まった。 紅瀬さんは、いちおう教科書を出しているものの窓の外を見たまま。 心ここにあらずといった感じだ。 「……」 意識を背後の紅瀬さんに向けながら、授業を聞いているフリを続ける。 四時間目。 紅瀬さんは教科書を出し入れするとき以外、朝からほとんど動いていなかった。 隣の陽菜も紅瀬さんの状態に気づいたのか、気遣わしげな視線をたまに送っている。 「……」 昨夜の面会で記憶が戻った紅瀬さん。 伽耶さんが主と判明し、無茶苦茶な追いかけっこは終了。 てっきり紅瀬さんは喜んでいると思っていたが、どうやら違うようだ。 ぱきっ 背後から軽い音が聞こえた。 何かが折れたような音だ。 ちらりと紅瀬さんを窺う。 「!?」 相変わらず、頬杖をついたまま外を眺めている紅瀬さん。 その頬を涙が伝っていた。 机の上には、まっぷたつに折れた鉛筆が転がっている。 「……」 見てはいけないものを見てしまった気がして、俺は前に向き直る。 紅瀬さんが泣いていた。 周囲にほとんど関心を示さなかった紅瀬さんが……。 彼女は今、いったいどんな心境でいるのだろう。 俺には想像もつかなかった。 放課後になり、俺は監督生室へ向かっていた。 噴水広場に差し掛かったところで、見慣れた人影を見つける。 「やあ、白ちゃん」 「支倉先輩、こんにちは」 噴水の縁に座っていた白ちゃんが立ち上がる。 「どうしたの、こんなところで?」 「支倉先輩をお待ちしていました」 俺を? めずらしいこともあるもんだ。 「なんか用?」 「は、はい」 白ちゃんはもじもじしている。 「あ、あの……」 「支倉先輩は、瑛里華先輩の眷属になるつもりですか?」 「え?」 意表を突かれた。 「ど、どうしたの急に」 「いえ、ずっと伺おうと思っていたんです」 「そっか」 白ちゃんも東儀家の人間だ。 眷属だのなんだの、気にするのかもしれない。 「俺は眷属になるつもりはないよ」 「副会長にもその気はないみたいだし」 「よかった」 「わたし、支倉先輩と瑛里華先輩には幸せになって欲しいんです」 「あ、ありがとう」 白ちゃんの中では俺たちの関係がだいぶ進んでるみたいだ。 「ただ、眷属を作らないと瑛里華先輩は館に戻ってしまいます」 「そうらしいね」 「だから今、そうならなくて済む方法を探してるんだ」 白ちゃんがじっと俺を見る。 硬い表情はいつもの白ちゃんのものではない。 「あります、その方法」 一瞬耳を疑った。 「マジか!? 教えてくれ」 「わたしが瑛里華先輩の眷属になればいいんです」 ……は? 「ちょ、ちょっと待って。理屈はそうだけど」 白ちゃんが眷属になってどうするんだよ。 それは単に、俺が眷属にならなくて済むだけの話じゃないか。 「理屈ではないんです」 「これは、東儀家のしきたりですから」 おいおいおいおい。 初耳もいいとこだぞ。 あまりのドッキリ展開に、心臓がバクバク言い始めた。 「は、初めて聞いたんだけど」 「しきたり自体は昔からありました」 「ただ、千堂家からは何も言われていませんでしたので、お伝えしてなかったんです」 「急に眷属になれって指示されたの?」 「あ、いえ……」 「最近、そうするのがいいと考えるようになったんです」 なんでまた? さっぱりわけがわからない。 「確認するけど、しきたりっていうのは眷属になることでいいんだよな?」 「はい。東儀家は代々そうしてきました」 「白ちゃんのご両親とか、お祖父さんとかも?」 「はい、もちろんです」 眷属ってのは寿命がなかったはずだ。 とすると、東儀家ではご先祖様がみんな生きてるのか? 「じゃあ、白ちゃんちにはご先祖様がたくさん住んでるんだな」 「あ、いえ……それは……」 白ちゃんの表情が曇る。 「違うの?」 「はい……皆さん亡くなっています。伽耶様のお気に召さなかったようで」 「!?」 驚きで声が出なかった。 お気に召さないから亡くなってるって……、 「みんな……伽耶さんに殺されたとか?」 「はい」 白ちゃんが顔を伏せる。 全身に鳥肌が立った。 ありえない。 常軌を逸してる。 「あ、でも、わたしの両親は交通事故でしたから違います」 そんな、嬉しそうに言われても……。 「おかしいっつーか狂ってるぞ」 「そんなしきたり、やめちゃえよ」 「支倉先輩を眷属にするわけにはいきません」 気持ちは嬉しいが……。 「だからって白ちゃんがなることないだろ」 「わたしは元々、そういう家に生まれた者ですから構いません」 「支倉先輩が眷属になるよりはよいと思います」 しっかりとした口調で言う白ちゃん。 「それに、吸血鬼にはお友達が必要なんです」 「殺しておいて友達もへったくれもないだろ」 「そういう結果になったのは、友達として不十分だったからではないでしょうか」 「でも、眷属になったからって、いい友達になれるわけじゃないだろ?」 「いえ、眷属でなくてはダメなのです」 「吸血鬼は永遠の時を生きなくてはなりません」 「だから、ずっと一緒にいてあげられるお友達が必要なんです」 「そりゃそうかもしれないけど……」 今まで、眷属はただの血液タンクだと思っていた。 たしかに、白ちゃんみたいな考え方もあるよな。 「ともかく、眷属になるのは私の役目ですから、支倉先輩が無理する必要はありません」 「でも、副会長は白ちゃんを眷属にするつもりはないと思うぞ」 「それでも、わたしの役目ですから」 白ちゃんが、いつになく頑固だ。 ふと、脳裏をよぎるものがあった。 「ですから、わたしが役目を果たせば丸く収まるのではないかと」 「いきなり何を言いだすのよ」 「最近、そう考えるようになったんです」 「やめてよ、あなたにとっていいことなんて一つもないでしょう?」 「それはそうですが……このままでは、支倉先輩も瑛里華先輩も」 「気持ちは嬉しいけど、自分のことは自分で解決するわ」 「それに……あの人だっていらないって言ってるでしょう?」 「白は自由に生きなさいよ」 「で、でも……」 「しーろ、もうやめて」 そういや、前に副会長と白ちゃんが言い合いしてたよな。 もしかして、このことをしゃべっていたのか。 「支倉先輩からも、瑛里華先輩に言ってください」 「きっとダメだと思うぞ」 「うう……でも、支倉先輩から言っていただければきっと」 「とにかく、よろしくお願いしますっ」 勢いよくお辞儀をして、白ちゃんは走り去ってしまった。 「どうしろってんだ」 副会長に言ったところで、彼女が白ちゃんを眷属にするはずがない。 しかし…… 礼拝堂へと続く階段を見上げる。 白ちゃんがとてとてと上っていく。 あんな子が、眷属になる役目を背負ってるなんて。 千堂家と東儀家ってのは、いったいどうなってるんだ? ちょっと調べてみるか。 聞くところによれば、東儀家は江戸時代から続く島の名家らしい。 島の歴史について書かれた本なら、概要くらいはわかるだろう。 監督生室へ行くのを遅らせ、図書館へと足を向ける。 1時間ほどかけ、簡単に島の歴史を調べる。 自治体作成の島史によれば、東儀家は島にある神社の神職を長く勤めてきた家柄だった。 江戸時代には島の年貢を一括管理して藩に納めており、信仰と政治の両面で島のトップ。 明治の宗教改革で神職から離れたものの、政治力は持ち続けている。 商業面では、島名産の真珠を管理することで大きな富を得ていたらしい。 なにやら、秘密裏に原始的な真珠の養殖まで行っており、藩の目をかすめて都市部の商人と直接取引していたようだ。 といっても、強欲商人というわけではなく、疫病や飢饉で島がピンチに陥ったときには、財産を放出し島を救ったりもしていたらしい。 ちなみに、吸血鬼には一言も触れられていなかった。 「こんちは」 「あら、遅かったわね」 「ちょっと調べ物しててな」 部屋を見回す。 いるのは、千堂兄妹と東儀先輩だけだ。 「紅瀬さんは?」 「来てないわよ」 「そっか」 授業中に見せた涙が気になってきた。 「電話でもしてみる?」 「そうだな……って、紅瀬さんの電話番号知ってるか?」 「そう言えば……知らないわね」 「以前番号を聞いたが、携帯を持っていないということだった」 東儀先輩が言う。 歴史を調べた直後だけに、なんか偉い人に見える。 「さすが征は手が早い」 「ここに出入りしている人間の番号を聞いておくのは当然だろう」 「じゃ、明日どういうことか聞いてみます」 「記憶が戻ったばかりですから、まだ混乱してるのかもしれませんし」 「よろしくね」 「任せとけ」 「ところで会長」 「ん、なに?」 「ケガ、大丈夫ですか?」 見る限りいつもの調子に見える。 「一晩ゆっくり寝たし、もう平気さ」 「す、すごいっすね」 どういう回復力してるんだ。 「でも、痛覚はあるんですよね?」 「ははは、それは言わぬが華さ」 会長が明るく笑う。 「さて、今日の仕事をしましょうか」 「支倉くんには、紅瀬さんがやるはずだった仕事をお願いするわね」 笑顔で書類の山を渡された。 「チョモランマだな」 「あの子、事務処理能力は抜群だから、このくらい一日でやるわよ」 「明日は意地でも連れてこよう」 「支倉くんのためにもね」 椅子に座る。 どんな山もまずは一歩から。 俺は、一枚目の書類に手を伸ばした。 今日の仕事を終え、俺と副会長は寮に戻った。 「紅瀬さんの件、忘れないでね」 「わかってる、ちゃんと様子を聞いとくよ」 「じゃ、また明日」 「おやすみ」 そう言って、別れようとするが……。 副会長が俺から視線を外さない。 「ん? どうした?」 「な、なんでもないわ」 慌てた様子で笑顔を作る副会長。 どう見てもごまかし笑いだ。 「俺のチャックでも開いてたか?」 「アホかっ」 「気になることがあるなら言ってくれよ」 「ええ、大丈夫」 「おやすみなさい」 副会長が、ぱたぱたと階段を上っていく。 前にも同じようなことがあった気がするが……。 大丈夫かな、ホントに。 「はぁ……はぁ……」 ようやく部屋に着いた。 後ろ手にドアを閉め、床にうずくまる。 「く……う……」 自分の身体がどこにあるのかわからない。 喪失感の波が押し寄せては、私をさらう。 波打ち際に作られた砂の城のように、心は瞬く間に形を失っていく。 「はせくら……くん……」 支倉くんの背中ばかりが頭に浮かび、次々と遠ざかっていく。 助けて。 自分の声だったのか。 それすらわからない。 「血を……」 身体を引きずり、冷蔵庫へと向かう。 扉を開く。 照明に浮かぶ赤い液体。 手に取り、貪るように飲み干す。 ……。 10℃を下回る温度のはずなのに温かく感じる。 だがその温もりは、砂漠に降った雨のように消えてなくなり、底のない暗闇が胸に広がる。 「……」 もう一つ飲み干す。 ほんの少しだけ、闇が消える。 だがそれも一瞬。 「そんな」 もう一つ。 …もう一つ。 ……もう一つ。 ……。 …………。 9つのパックを空け、ようやく暗闇が薄くなった。 冷蔵庫のパックは残り3つ。 「効かなく……なってる」 口元に付着した血を手のひらでぬぐう。 その赤さを見ても何も感じない。 「人の生き血を吸え。それが吸血鬼らしく生きるということだ」 あの人の声が思い起こされる。 否定したいのに、心のどこかで受け入れ始めている。 輸血用血液が効かなくなってきているのは事実だ。 立ち上がり、ベッドに倒れこむ。 支倉くんに悟られてはいけない。 悟られれば、彼は血を飲ませようとするだろう。 彼の血を飲んでしまったら、私は負ける。 自分にも、あの人にも……。 そして何より、大切な人を傷つけてまで欲求を満たそうとする自分を許せそうもない。 隠し通さなくては。 朝。 いつもの時間に寮を出ると、副会長が待っていた。 「おはよう」 「おはよう」 安心したような笑みを浮かべる副会長。 「昨日も辛かったのか?」 俺の問いには答えず、副会長は手を握ってきた。 それが答えだろう。 「行こう」 「ええ」 副会長には、不安になったら電話しろと言っていたが、今のところ電話はなかった。 遠慮してるんだろうな。 「今日は夢見が悪かったの」 「何日か前にも言ってたよな」 「そうなのよ」 「なんだか最近増えてる気がする」 「吸血鬼騒ぎがあってからいろいろと忙しかったし、疲れてるんじゃないか」 「そうかもしれないわね」 体力面では優れている吸血鬼も、心は人間と同じだ。 ストレスも溜まるだろう。 「前も聞いたけど、どんな夢見てるんだ?」 「変な夢なのよ」 「暗い部屋の真ん中に椅子があって、そこに私が座ってるの」 「壁とか床は石造りで、古いお城の中みたいなところなのよ」 「副会長の家じゃないのか?」 「いいえ、見たことない場所だわ」 「それでどうなるんだ?」 「私の周りにはマネキンみたいな人がたくさん立ってるの」 「生きてるみたいなんだけど、しゃべらないし動きもしないのよ」 「結局なにも起こらないんだけど……」 「怖くて、不安になって、目を開けていられなくなったところで夢が覚めるのよ」 「不安?」 「ええ、支倉くんと別れた後に感じるのと同じようなヤツ」 「朝起きると、身体の中身がごっそりなくなったような感じがするわ」 悪夢100%だ。 俺がそんなの見たら、一日食欲なくすだろうな。 「しんどかったな」 副会長の手を温めるように握る。 「ほんと、たまにはいい夢見たいわ」 「今度、私の夢に出てくれない?」 「無茶言うな、おい」 「冗談、冗談」 「よく見る夢って誰でもあると思うし、気にするなよ」 「支倉くんは、どんなの見るの?」 「空飛ぶヤツかな」 「あ、それって欲求不満って話よ」 「マジか」 「支倉くん、いやらしい」 「彼女としては身の危険を感じるわね」 「夢で人を判断するなって」 「あはは、怒った」 副会長の顔に明るさが戻る。 やっぱり副会長は、笑ってる顔が一番だ。 できることなら、不安など感じさせずにずっと笑顔でいてもらいたい。 「紅瀬〜、いないのか〜」 滞りなく進んでいた出席が、紅瀬さんのところでひっかかった。 「また遅刻か。しょうがないヤツだ」 アオノリが、出席簿にチェックを入れる。 「帰りのホームルームで確認するから、紅瀬が出てきた時間を覚えておいてくれよ」 教室からぱらぱらと返事の声が上がる。 このクラスではよくあることだ。 何も気にする必要はない。 何も……。 結局── 帰りのホームルームが終わっても、紅瀬さんは姿を現さなかった。 昨日の涙を見ているせいで、どうしても嫌な想像をしてしまう。 ただの欠席ならいいんだが……。 早足で監督生室へ向かう。 「ちわす」 「あ、こんにちは」 部屋にはいつものメンバーしかいない。 「やっぱいないか」 「紅瀬さんのこと?」 「ああ。今日学校に来てないんだ」 昨日のうちに、紅瀬さんの涙について報告しとけばよかった。 ちょっと悔やまれる。 「また? ホントしょうがないわね」 「いやまあ、欠席自体は珍しくないんだが」 みんなに昨日のことを話すと、部屋の空気が変わった。 「紅瀬さんが涙を?」 「ああ」 「よろしくないね」 「兄さん、寮に紅瀬さんがいるか確認して」 「わかった」 「俺は伽耶様のところへ行ってみよう」 二人が部屋から出ていく。 「わたしも探してきます」 「手がかりもないのに、どこを探すのよ」 「え、えと……きっとどこかにいらっしゃいます」 白ちゃんが部屋を出て行く。 「俺たちはどうする?」 「まずは兄さんからの連絡を待ちましょう」 「そんなに時間はかからないはずだわ」 「わかった」 わきあがる不安を押し込め、じっと椅子に座る。 「でもあの子、紅瀬さんのことになると変わるわね」 「白ちゃんか……眷属ってことで意識してるんじゃないか?」 「あら、白のこと知ってたの?」 そういえば、まだ報告してなかった。 「前に白ちゃんに言われたんだ」 「自分が副会長の眷属になるから、支倉先輩は眷属にならなくていいって」 「はあ……とうとう言ってきたか」 「東儀家のしきたりなんだろ?」 「そうね。バカみたいに理不尽な話よ」 「でも、白ちゃんは嫌がってないみたいだったけど」 「あの子、眷属を友達かなんかだと思ってるのよ」 「そんないいものじゃないのに」 副会長が視線を落とす。 「白ちゃんを眷属にする気はないんだろ?」 「当然よ。あの子には自由に生きて欲しいもの」 憮然とした表情で言う。 「白ちゃんは、紅瀬さんから眷属になるヒントを聞きたいのかもしれないな」 「白にしてみれば、紅瀬さんがうらやましいのかもしれないわね」 白ちゃんがそう考えることすら、自分のせいだと言わんばかりの口ぶりだった。 「いまだによくわからないんだが、東儀家と千堂家ってどういう関係なんだ?」 「見る人によって違うわ」 「島の人には、東儀家の客分として見られてるわね」 「名主のお客様だから、無下にはできないって感じかしら」 「実際には、東儀家に生まれた吸血鬼を集めたのが千堂家なんだよな」 「結局は東儀家の保身のための処置だから、どこか後ろめたいところがあるんでしょうね」 「罪滅ぼしとして、眷属を差し出したり世間の目をごまかしたりしてくれてるわ」 「ただ、それを逆手に取ってるのがあの人」 「伽耶さんか」 「そう。東儀家が強く出られないのをいいことに、やりたい放題ね」 「東儀家の人間なんて、玩具としか思ってないみたい」 「私なんかは東儀家を対等だと思ってるし、兄さんもずっと友達みたいに付き合ってるわ」 「なるほどな」 「難しい問題ね」 「兄さんなんかはまた違った考え方をしているかもしれないし」 「征一郎さんや白も、違うことを言うかもしれないわ」 肩をすくめる副会長。 ちゃらちゃちゃーちゃらちゃちゃー♪ 突然、副会長の携帯が鳴った。 「はい……ええ、そう……了解」 ぱたりと電話を閉じる。 「兄さんだった」 「紅瀬さん、寮にもいないって」 「そっか」 嫌な予感が的中した。 「あとは征一郎さんね」 「ああ」 見つかるのはいいことだが、伽耶さんのそばにいるとすればそれはそれで心配だ。 「俺たちも探そう」 学院の敷地内にいるとは限らないが、街まで捜索するには人手不足も甚だしい。 まずは、手の届く範囲をしらみつぶしに行こう。 ちゃらちゃちゃーちゃらちゃちゃー♪ また携帯が鳴った。 「はい……了解」 「私たちは学院内を探してるわ」 「ええ、お願い」 「東儀先輩?」 「ええ。あの人のところにはいなかったそうよ」 「よし、手分けして探そう」 別れて捜索を始める。 しばらく歩き回ったが、紅瀬さんは見つからなかった。 副会長はどうだろう。 電話をかけてみる。 プルルルル……プルルルル…… 「もしもし」 「そっちはどうだ?」 「いないわ」 「こっちもだ。今どこにいる?」 「千年泉」 「千年泉? なんでまた?」 「途中で白に会ったんだけど、以前、山に入っていく紅瀬さんを見たことがあるって言うのよ」 「それで、これから山に入ってみようかと思って」 もうすぐ日が傾く時間だ。 「もうすぐ日が落ちる。一人じゃ危ないし、俺も行く」 「大丈夫よ」 「女の子を一人で山に行かせられるかって」 「もう、しょうがないわね」 少しくすぐったそうに言う副会長。 「じゃ、ちょっと待っててくれ」 監督生棟の裏手を進み、目的地に到着する。 「お待たせ」 「お疲れさま」 副会長の背後には、大きな池が見えている。 昔ここで遊んだはずだが、さすがに景色までは覚えていなかった。 「ここで遊んだことあるんだっけ?」 俺の視線に気づいたのか、副会長が言う。 「ああ。かなでさんのおかげで溺れかけた」 「よくこんなところまで来たわよね」 「子供は探検とか好きだからな」 特にかなでさんは。 「で、どこに行くんだ」 「この道を進んでみましょう」 副会長が先頭に立って山道へ分け入っていく。 山道を登り尾根筋に出た。 夕日に照らされる市街地、その先には金色に輝く海が一望できた。 「すごい景色だな」 「きれいね」 捜索中でなけりゃ、日が落ちるまでずっと見ていたいくらいだ。 見納めとばかり、端から端まで景色を眺める。 「あれ?」 「もしかして」 視界の隅に誰かの影が入った。 「見つけたわ」 「ふう……よかった」 まずは胸を撫で下ろす。 「さーて、事情を伺ってみましょうか」 二人で紅瀬さんに近づいていく。 紅瀬さんは草むらに腰を下ろして遠くを眺めていた。 視線は弱く、この美しい景色が目に入っているかは定かじゃない。 「紅瀬さん」 「……」 反応は返ってこない。 「なあ、返事してくれよ」 「ずいぶん探したのよ」 「おせっかいね」 「探してなんて頼んでないわ」 「だったら、心配かけるような消え方しないで」 「そういうのは子供のやることよ」 副会長の語調は強かった。 本気で心配していたのだろう。 「ともかく学院へ戻らないか? もうすぐ日も暮れるし」 「放っておいて」 そう言って、海の彼方に顔を向ける。 こいつは手こずりそうだ。 「記憶が戻ってよかったんじゃないのか?」 「どうかしら」 「もしかしたら、以前の方が幸せだったのかもしれない」 「せっかく自由になれたのに」 「鉱物に自由も不自由もないわ」 「ただそこにあるだけよ」 「どういう意味?」 「……」 「貴女、しゃべれないの?」 「少し一人にして」 「少ししたら戻ってきてくれるのか?」 「わからないわ」 「戻ってきてくれ」 「じゃないと、白ちゃんが悲しむ」 「……」 紅瀬さんの表情に、少しだけ感情が現れた。 「これ、渡しておくから」 紅瀬さんの脇に俺の携帯を置く。 「どうしろと言うの?」 「とにかく持っててくれ」 「もし何かあったら、副会長に電話を」 「あと、副会長以外からの電話には出ないで欲しい。誤解されると面倒だから」 俺の電話に紅瀬さんが出たら、いろいろヤバい。 「……」 紅瀬さんは、海を見つめたまま返事をしない。 もうどうしようもなさそうだ。 「じゃ、帰るから」 副会長が俺を見る。 軽くうなずいて応えた。 「紅瀬さん、あんまり心配かけないでね」 「それじゃ」 「またな」 反応のない紅瀬さんに別れを告げ、俺たちは学院へ戻る。 「紅瀬さん、大丈夫かしら?」 「わからん」 「ま、一人になりたい時もあるだろ」 「あのまま行方不明になるかもしれないわよ」 「だから携帯を渡したんだ」 「ちゃんと持っててくれればいいけど」 「そればっかりは祈るしかないな」 「ずいぶん優しいじゃない」 「もしかして、紅瀬さんのこと気に入ったりしてる?」 「妬いてるのか?」 「生意気言わないの」 そう言いながら、頬を膨らます。 「まあ、白ちゃんが悲しむってのもあるし」 「伽耶さんとのこと、もっと聞いてみたいからな」 「そういえば、眷属になったときのこと、まだ答えてもらってなかったわ」 「ああ。さっき言ってた鉱物ってのも気になるし」 「昔から伽耶さんの眷属をやってたなら、きっといろいろ知ってると思うんだ」 「あとはなんつっても、紅瀬さんがいないと書類整理が大変だからな」 「今となっては、貴重な戦力ね」 副会長が笑う。 「戻ってきてくれればいいけど」 「眷属は腹減るんだろ? そのうち戻ってくるさ」 「ええ、期待しましょう」 「そうだ、みんなに連絡しないと」 「頼んだ」 副会長が電話しているあいだ、俺の頭には紅瀬さんの言葉が蘇っていた。 「もしかしたら、以前の方が幸せだったのかもしれない」 顔もわからない主を、何年も捜し続けていた紅瀬さん。 しかも、主の記憶は伽耶さん自身が消したもの。 そんな冗談みたいな生活が幸せだったというのだろうか。 いったい、眷属ってのはなんなんだろう。 副会長は血液タンクだと言うし、白ちゃんは友達だと言う。 そのどちらも、紅瀬さんには当てはまらない気がする。 戻ってきたら、聞いてみなくちゃいけないな。 「わかった。お疲れさん」 「見つかったのか」 「ああ、山の中にいたとさ」 「ちなみに、今日のところは戻ってくる気はないらしいね」 「野宿する気か」 「みたいだね。志津子ちゃんへの説明よろしく」 「なんとかしよう」 「しかし、紅瀬ちゃんをどう思う?」 「興味深いな」 「そんなことはわかってる」 「眷属は何人も見てきたが、紅瀬ちゃんは誰とも違う」 「眷属をモノとしか思っていないあの女が、わざわざ嫌がらせをしているんだ」 「おそらく、かなり古くからの眷属なのだろう」 「うらやましいか?」 「なぜ俺がうらやむ」 「征もいずれはあの女の眷属になるんだ」 「代々の眷属みたいに使い捨てにされるよりは、紅瀬ちゃんみたいになったほうがマシだろ?」 「すべては伽耶様しだいだ。なるようにしかならん」 「それで尻尾を振ってるわけか」 「……」 「ま、そのおかげで今回は助かったわけだし、悪いことは言えないね」 「シスター天池のことか」 「ああ。征が教えてくれなかったら、志津子ちゃんはおそらく死んでた」 「感謝してるよ」 「今回は伽耶様もやり過ぎだ」 「部外者を巻きこむのは感心しない」 「バランスを取ってもらえて助かるよ」 「そう思うなら、もう少しマシに振る舞ってもらいたいものだな」 「俺が蒔いた種だって言うのか?」 「違うとでも?」 「仕方ないことさ」 「あの女がきっちり畑を耕してくれるんだからな。さあ種を蒔けってね」 「なぜそこまで嫌う」 「憎しみを憎しみで返しているだけさ」 「お前が生まれる前から、ずっと続いてきたことだ」 「あの女がどんなヤツか、お前が一番知ってるだろ?」 「だからこそ何度も言っている」 「もういい、時間の無駄だ」 「伊織、聞け」 「遠慮させてもらうよ」 「少なくとも、今のお前から建設的な意見が聞けるとは思えない」 「いや、これからもずっとだな」 放課後になった。 今日も紅瀬さんは顔を出していない。 腹も減ってるだろうに。 「こんちはー」 まず部屋を見回す。 いつものメンバーだけで、紅瀬さんの姿はない。 「紅瀬さんから電話あった?」 「ないわ」 「昼休みに、こっちからかけたんだけどダメだった」 「そうか」 ちゃんと携帯を持ってくれているのだろうか。 「ちょっと様子見てくるよ」 「その必要はないみたいだよ」 会長が窓から外を眺めて言う。 「紅瀬先輩がこっちに向かってます」 俺も窓際に向かう。 監督生室と噴水広場とをつなぐ石段を、紅瀬さんが上ってきていた。 「わ、わわ、わたし、お茶の準備をしておきます」 大興奮の白ちゃんが、給湯室へ飛び込む。 「どういう心境の変化かしら」 「お腹でも空いたんじゃないかな」 「だったら学食行くでしょ」 「いずれわかることだ」 「ま、そうね」 「大人しく待ってましょう」 そうは言われても、なんとなくドキドキしてしまう。 紅瀬さんは、どんなことを話すのだろうか。 「失礼するわね」 ほどなくして、紅瀬さんが到着した。 「やあ紅瀬ちゃん、よく戻ってきてくれたね」 「とにかく座ってよ」 会長が慇懃に椅子を引く。 「ありがとう」 紅瀬さんは大人しく腰を下ろす。 「お久しぶりです、紅瀬先輩」 すかさず白ちゃんがお茶を提供した。 「数日前に会ったと思うけど」 「そ、それはそうなんですが……なんとなく、気持ちの問題で」 「ずっと会いたかったんだって」 「そう」 素っ気なく言って、紅瀬さんはお茶に口をつける。 「いい香りね」 「あ、はい、ありがとうございます」 白ちゃんが嬉しそうに言う。 「戻ってきてくれてよかった」 「貴方のために戻ってきたわけではないから」 と、紅瀬さんは制服のポケットから何か取り出す。 机に置かれたのは、俺の携帯だった。 「これ、朝、いきなり音がして驚いたわ」 「鳴りやんでも、少しするとまた音がするのよ」 「何時くらい?」 「8時前かしら」 「それはアラームだ」 目覚まし設定を切り忘れていたらしい。 「アラーム?」 なにそれ? みたいな顔をしている。 「目覚まし時計だ」 「知らなかったのか?」 「新しい機械はわからないのよ」 部屋が静かになった。 「意外な弱点があるのね」 「はははは、紅瀬ちゃん機械音痴だったのか」 「使う必要がないのだから、仕方ないでしょう」 悔しそうな紅瀬さん。 しかし、アラームが止まらなくて焦っている紅瀬さんを想像すると、思わず笑ってしまう。 「ともかく、いきなり音が鳴るのは困るから返すわ」 「いや、ここのボタン押せば止まるぞ」 「教えてくれなくて結構」 「それじゃ」 「待った待った待った」 立ち上がりかけた紅瀬さんを止める。 「なに?」 「どこ行くんだ?」 紅瀬さんが、一瞬だけ迷うような表情を見せる。 「決まってないなら、少しここにいてくれ」 「特に用はないけど」 「では、仕事をしてもらおう」 「仕事を手伝うのは、伽耶と面会させてもらう交換条件だと思っていたけど」 「なら、その契約はもう履行されたということで、改めてお願いするよ」 「君の事務処理能力を高く買っているんだ」 「断るわ」 即答。 「今の君にはぴったりの仕事だと思うんだけどね」 「言っていることがわからないけど」 「急にすることがなくなって、どうしていいかわからないんだろう?」 「っっ」 紅瀬さんが明らかに動揺する。 彼女がここ数日悩んでたのは、このことだったのかもしれない。 「もし今後のことが決まってないなら、決まるまでここにいたらどうだ?」 「どうするか決まって出ていくって言うなら止めないし」 「手を動かしていれば気もまぎれるでしょうし、ゆっくり今後を考えてみたら?」 「また一緒にお仕事しましょう」 紅瀬さんは、湯飲みの中で揺れる液体を見つめている。 紅瀬さんの返事を待ち、唾を飲みこむ。 「わかったわ」 「ありがとうございますっ」 飛び上がらんばかりに喜ぶ白ちゃん。 「何がそんなに嬉しいの?」 「いえ、口で説明するのは難しいのですが……ええと……」 「いいわ、言わなくて」 「いやぁ、仲間が増えるのは喜ばしい限りだ」 「それが紅瀬ちゃんみたいな美人なら、なおさらだよ」 「それはどうも」 「でも、気が変わったらすぐに出ていくわよ」 「わかってる」 「ただ、その時は一言かけてくれ。昨日みたいにいきなりいなくなるのはナシだぞ」 「覚えておくわ」 「では、さっそく仕事を頼もう」 「ええ」 紅瀬さんが席を立ち、東儀先輩と書類棚へ向かう。 机に置かれた携帯を手に取る。 丁寧に扱ってくれたようで、汚れ一つ付いていなかった。 「携帯、役に立ったわね」 「想定してなかった活躍の仕方だったけどな」 携帯を開くと、副会長からの着信履歴が何回かあった。 紅瀬さんといがみ合ってる副会長だけど、かなり心配してたんだな。 「メッセージが入ってるな」 「再生しちゃダメ!」 「今すぐ消して、私の見てる前で、一秒でも早く」 「なにムキになってんだ?」 「い い か ら」 「残念」 仕方なくメッセージを消去する。 「消した?」 「ああ」 「よろしい」 満足げにうなずく副会長。 「あー、今日一番緊張したわ」 顔をぱたぱた扇ぐ。 まあなんだ……。 紅瀬さんを説得しようとして、真剣なトークでも入れてしまったのだろう。 「じゃ、俺たちも仕事するか」 「そうね」 「紅瀬さんが戻ったからって、楽はさせないからね」 「わかってるって」 副会長と笑みを交わして、俺たちは今日の仕事に取りかかった。 各自の仕事も終わり、監督生室にゆったりした空気が流れ始めた。 それを察した白ちゃんが、お茶の用意を始める。 「紅瀬は覚えが早いな」 「いや、年長者には失礼な言い方だったな」 「構わないわ」 「ところで、もう仕事がないなら帰るけど」 「白がお茶淹れてるから、飲んでいったら」 紅瀬さんは目でうなずいて、椅子に座り直す。 「そう言えば、紅瀬ちゃんっていつから生きてるんだい?」 「正確にはわからないけど、だいたい250年前くらいだと思うわ」 「おや、大先輩だね」 「だったら、伽耶さんもそのころから生きていたことになるな」 「紅瀬さんを眷属にした段階で、何歳だったかはわからないけどね」 「伽耶と私は、二、三歳しか離れていないの」 「私たちは幼なじみなのよ」 「おさな、なじみ?」 「ええ、よく一緒に遊んだわ」 俺は、なぜか紅瀬さんの言葉に驚いていた。 何に驚いたんだろう? 伽耶さんと紅瀬さんの歳が近いことか? 二人が幼なじみだったことか? いや、違うな。 伽耶さんに幼なじみがいたことに驚いたんだ。 この感じは、親が職場の同僚と話してるのを目撃したときの感覚に似ている。 親としてしか認識していなかったその人に、未知の顔があったことに驚くのだ。 「そんなに驚くことかしら?」 「いえ……別におかしくないわ」 なんとか笑顔を作る副会長。 会長は瞬きもせず、テーブルを凝視している。 完全に動きが止まっていた。 紅瀬さんは、そんな二人を冷たい瞳で見つめている。 「お茶をお持ちしました」 白ちゃんがお茶を配る。 「深刻なお話ですか?」 「紅瀬さんは、伽耶さんの幼なじみなんだって」 「ええっ!?」 「やっぱ驚くよな」 「はい……でも、よいお話だと思います」 「紅瀬先輩は、眷属になられる前から伽耶様とお友達だったのですか?」 「そうね」 「素晴らしいです」 感激しているようだ。 白ちゃんは、眷属を吸血鬼の友人だと言っていた。 元からの友人が眷属になることを理想にしているのかもしれない。 「漠然とした質問なんだけど、眷属って結局なんだと思う?」 「本当に漠然としてるわね」 「伽耶さんが眷属を作ることにすごく執着してるんだ」 「その理由を知りたくてさ」 「いざというときに血を吸うための存在でしょ?」 「伽耶に血を吸われたことないけど?」 「第一、彼女とは数十年に一回くらいしか会わないし」 「だったら、伽耶さんはどうして紅瀬さんを眷属にしたんだ?」 「知らないわ、本人に聞いて」 「私はずっと鬼ごっこをしていただけよ」 なら、どうして伽耶さんは眷属に固執するのだろう? 鬼ごっこをすることが重要なのか? さっぱりわからない。 「話は変わるが……」 紅瀬さんが目で先を促す。 「伽耶様には親がいたのか?」 「当然でしょう」 「コウノトリが運んでくるとでも?」 「それって、千堂家の人?」 「そのころ千堂家は存在していないわ」 紅瀬さんが眉をしかめる。 何を言ってるの? といった表情だ。 「伽耶は、マレヒトと呼ばれていた人の子よ」 「どこかから島に渡って来たようね」 「医療や農業の進んだ知識を持っていて、とても尊敬されていたわ」 「そのマレヒトと島の娘の間に生まれたのが伽耶よ」 「あの女は、生まれた頃から吸血鬼だったのかい?」 会長がようやく口を開く。 「知らないわ」 「私を眷属にした時に吸血鬼だったのは確実だけど」 紅瀬さんは言葉を切り、お茶に口をつける。 「あの、紅瀬先輩はどのような経緯で眷属になったんですか?」 「私がまだ子供だったころだけど……」 「伽耶は両親を亡くして、東儀家に引き取られたわ」 「亡くなった?」 「疫病が流行ったの」 吸血鬼は病気にならないはずだ。 だとすれば、両親は人間だったのだろう。 それに、吸血鬼は子供を作れないと副会長も言ってたし。 「それから、伽耶の性格が変わってしまったのよ」 「事あるごとに怒鳴り散らすようになって、周囲からは鬼の子だと言われたわ」 「友達も減って、最後に残ったのは私だけだった」 「そのうち眷属にされて、後はずっと鬼ごっこよ」 「初めて聞くことばかりだわ」 「貴方たち、伽耶のことを何も知らないのね」 「あの女が何も言わないからね」 肩をすくめる会長。 「貴方、伽耶をずいぶん嫌っているじゃない」 「それなりのことがあってね」 「紅瀬ちゃんだって、相当ひどいことをされてきただろう?」 「主の記憶を消してから自分を探させるなんて、嫌がらせ以外の何ものでもない」 「そうね」 紅瀬さんが窓の外を見る。 今までの生活に思いをはせるように、眼を細めた。 「でも、今になってみると、伽耶のおかげで生きてこられたようにも思うの」 「おや、意外な答えだ」 「貴方が一番実感していると思ったけど」 「あいにく同意できないな」 「長い間、伽耶と生きてきたんでしょう?」 皮肉っぽく口の端を吊り上げる。 「そのせいで、恨みしか残っていないのさ」 「バカね……」 「きっついなあ、紅瀬ちゃん」 会長が笑う。 だが、目は笑っていなかった。 「もう話し疲れたわ。帰っていいかしら?」 「ああ。引き止めて悪かったな」 「いいえ」 紅瀬さんが立ち上がる。 「そう……貴女」 紅瀬さんが副会長を見る。 「私?」 「いま気がついたけど、子供の頃の伽耶にそっくりよ」 「あの人に?」 「ショックなんだけど」 「褒めてるのよ」 「明るくて優しくて、いい子だってことだから」 「あ り が と」 ぶすっと答える副会長。 「だから、いじめたくなるのかもしれないわね」 「はあ!?」 そんな副会長をみて、かすかに笑う紅瀬さん。 「あの子のようにならないで」 涼やかな声を残して、紅瀬さんがドアの向こうに消えた。 部屋に静寂が訪れる。 誰もが戸惑っていた。 ……。 無言のまま、東儀先輩が帰り支度を始める。 それが合図となり、残りの全員も席を立った。 部屋に戻ってからも、俺は紅瀬さんの言葉を反芻していた。 ベッドに寝転び250年前に思いをはせる。 マレヒトという名の謎の人物。 どこからか島にやってきたという。 マレヒトは進んだ知識を持っていて、島で尊敬されるようになった。 そんな人と、島の女性の間に生まれたのが伽耶さん。 いったいどんな生活をしていたのだろう? 紅瀬さんを初めとした友達と、毎日かけっこでもして遊んでいたのだろうか。 しかし、島に疫病が流行り両親は亡くなった。 きっと島の人もたくさん亡くなったのだろう。 両親を失った伽耶さんは東儀家に引き取られ、性格が変わってしまった。 鬼の子と呼ばれ、友達も減り、最後までそばにいてくれた紅瀬さんを眷属に……。 細かいことはさっぱりわからないけど、伽耶さんもいろいろ辛い目にあったんだろうな。 「……」 冷蔵庫まで移動し牛乳を取り出す。 ラッパ飲みしてみた。 身体の中を冷たい液体が滑り落ちていく。 「ふう……」 そう言えば、伽耶さんがどうして眷属にこだわるのか、結局わからなかったな。 紅瀬さんの眷属としての人生を聞く限り── 彼女は血液タンクでも、ずっとそばにいる友人でもない。 伽耶さんはそこに、何を求めていたのだろう? 本人に確認するのが一番だが……教えてくれないだろうな。 ぴりりりっぴりりりっ 「お」 電話が鳴った。 副会長だ。 「もしもし」 「あ、いま電話大丈夫?」 「ああ、どうしたんだ?」 「今から部屋に行っていい?」 「構わないぞ」 「また不安になったのか?」 「今日はさほどじゃないわ」 「それより、紅瀬さんの話が気になっちゃって……」 「このままだと眠れそうもないから、少し話でもしようかなって」 「そういうことか」 「俺も、悶々としてたからちょうど良かった」 「じゃ、今から行くね」 電話を切る。 さて、部屋を少し片づけるか。 少しして、副会長がやってきた。 「悪いわね、急に来ちゃって」 「気にするなって」 「お茶、淹れといたから」 「さーんきゅ」 紅茶が並んだテーブル。 二人で向い合って座る。 「あ、やっぱり隣に座っていい?」 「ん? どうぞ」 「おじゃましまーす」 はにかみながら副会長が隣に座る。 「俺たち付き合ってるのに、あんまりこういうことできてないよな」 「仕方ないわよ」 「毎日毎日、息つく間もないくらいだから」 「そうだな」 思えば、吸血鬼の目撃騒ぎが起きてから、まだ2週間くらいしか経っていない。 気分的には、あれから2、3ヶ月は経ったような気がする。 「普通のカップルみたいなことはできてないけど……」 「支倉くんがいてくれなかったら、きっとわけがわからなくなっちゃってたと思うの」 「だから、今まで通りそばにいてくれるだけで嬉しいわ」 そう言って、副会長は俺の肩によりそってきた。 心地好い重みだ。 「しかし、今日の話は驚いたわね」 副会長がティーカップを口に運びながら言う。 「いきなり幼なじみだもんな」 「そうよね」 副会長が苦笑する。 「紅瀬さんの話を聞いてる間、なんだか不思議な気分だったわ」 「自分の知ってるあの人が、どんどん違う人になっていく気がして」 「それ、わかるよ」 「子供の頃、親父の仕事場を見にいったことがあるんだ」 「建設関係のお仕事だったっけ?」 「ああ、橋とか建ててる」 「それでさ、親父が俺の知らない人たちと話をしたり笑ったりしてるわけだ」 「なんか親父が別人になった気がしてさ、しばらく違和感が抜けなかったよ」 「たしかに、似た感覚かもしれない」 監督生室での出来事を思い出すように、副会長が少し遠い目をした。 「そういえば、伽耶さんの出生についてはどう思う?」 「私が想像していたのとはまったく違ったわ」 「伽耶さんも、副会長と同じように東儀家で生まれたと思ってたのか?」 「普通はそう考えるでしょ?」 「まあな」 「ともあれ、今日の話では、伽耶さんに両親がいたってのが大きな収穫だ」 「吸血鬼は子供を作れないんだろ?」 「つまり、伽耶さんの両親は人間だったんだ」 「そうすると、あの人がこの島最初の吸血鬼ってことになるのよね」 「ああ」 「とはいえ、結局あの人が吸血鬼になった経緯はわからないわ」 「生まれつきかもしれないし、ある時期から変わったのかもしれないし」 「紅瀬さんもわからないって言ってたしなあ」 ふと、頭に疑問が浮かんだ。 「そう言えば、突然変異だって聞いてたから、ずっと考えてなかったけど……」 「なに?」 「もしかしたら、副会長たちが生まれたのには何か理由があるんじゃないか?」 「伽耶さんは人間の間から生まれた。で、両親がなくなった後に東儀家に引き取られた」 「そして、兄さんや私が東儀家に生まれたのよね」 「ああ」 「もちろん偶然かもしれないけど、伽耶さんと東儀家の間になんかやりとりがあった可能性があるよな」 「母様も私たちと同じだと思っていたから、考えたことがなかったわね」 副会長が思案顔になる。 「歴史の本には書いてないだろうし、東儀先輩とか白ちゃんに聞いてみるか」 「もしかしたら、言い伝えとか残ってるかもしれない」 副会長がうなずく。 「伽耶さんが教えてくれれば早いんだけど……」 「あの人から昔の話なんて聞いたことないわ」 「そもそも、昔の話がどうこうって以前に、まともに会話が成立しない状態だし」 前に面会したときの印象しかないが、たしかに伽耶さんは居丈高な人物だった。 ただ、会話が成立しないほどではなかった気もする。 「俺が前に会ったときの感じだと、それなりに話はできそうだったけどな」 「征一郎さんがいたから、機嫌が良かったんだと思うわ」 「いつもはただ命令するだけよ。命令の目的も理由も告げずにね」 「意見も一切聞いてくれないし」 「そうか……」 会長ほどじゃないが、副会長の伽耶さん嫌いも相当なものだ。 もちろん、伽耶さんが普通の人ならこんな風にはならなかったはずだが……。 「今日の話を聞いて思ったんだけどさ」 「眷属のこととか知りたかったら、結局は伽耶さんと話していかなきゃいけないんじゃないか?」 「最終的には彼女を説得しなきゃいけないわけだし」 「無理」 即答だった。 「まあ落ち着け」 「落ち着いてるわ」 「あの人が話してくれれば済むことは多いと思うけど、現実的には不可能よ」 「それじゃ状況が変わらないかもしれないぞ」 「今更、話し合う気にはなれないわ」 副会長は少しイラついた様子でお茶を飲む。 子供の頃から館に閉じこめられてたところを考えれば、副会長の気持ちはわかる。 だが、今の俺たちに必要なのは現状を変えていくことだ。 伽耶さんはそういう人間として認めて、対応を考えなくちゃならない。 副会長を館に閉じこめるかどうかも、結局は伽耶さんの一存で決まるわけだし。 「そもそも、話し合えてれば初めからこうならないでしょ」 「そりゃそうだけどさ……」 「なに?」 にらまれた。 対話路線はなかなか難航しそうだ。 「支倉くんの言ってることは、理屈ではわかるのよ」 「相手が変わらないなら、こっちが譲るか、懐柔するのが大人の対応だと思うわ」 わかっているができないのだと、言外に言っていた。 第三者の俺から見れば、副会長は意固地になっている気がする。 彼女自身それに気づいているのだが、軌道修正できない。 親子喧嘩というのは、こういうものなのだろうか。 「でも、できないのか?」 「……」 問いには答えず、副会長は悲しげな表情で俺を見る。 「感情って生ものなのよ。すぐに使わないと腐ってしまうの」 「それが発酵ならいいけど、たいていは腐敗だわ」 副会長がふいと顔を逸らす。 その表情は、どこか助けを求めているようにも見えた。 「ごめんなさい、忘れて」 忘れろと言われても忘れるわけにはいかない。 自分にはどうしようもないと、彼女が言った気がしたからだ。 「……」 何も言わず副会長の手を握る。 彼女は、ちらりと俺を見て視線を落とした。 手を握ることで副会長が何を感じてくれたのか、俺にはわからない。 ただ、副会長自身がどうしようもないなら、俺がなんとかしたいと── そう伝わっていたのなら嬉しい。 放課後。 監督生室には、会長と東儀先輩を除いたメンバーが揃っていた。 もちろん、紅瀬さんも来てくれている。 「会長と東儀先輩は?」 「先生方と話があるって言ってたわ」 書類から顔を上げて副会長が言う。 「東儀さん、その書類はあっちよ」 「え、どこですか?」 「いいから貸して」 「すみません……」 紅瀬さんと白ちゃんは、何やら揉めながら仕事をしている。 「あんまり白ちゃんをいじめるなよ」 「人聞きが悪いわね」 「あ、いいんです。わたしがうまくお手伝いできていないのが悪いので」 「わかっているなら直して」 「しゅん」 まあ、言葉だけ聞いてるとひどいものだが、なぜかこの二人はうまくいっている。 「それでよく東儀家の当主がつとまるわね」 「い、いまの当主は兄さまですので」 「東儀先輩が」 紅瀬さんが怪訝な顔をする。 「東儀先輩が当主だとおかしいのか?」 「あ、うちはもともと女性が当主を務めていたんです」 「東儀家が執り行ってきたお祭りでは、女性が一番重要な役割を果たしてきました」 「ですから、女性を男性より下に置けなかったんです」 「面白いな」 「明治からは神職ではなくなりましたので、今は男性が当主ですよ」 「紅瀬さんの時代とは変わったわけだ」 「そうだったの」 「でも、舞は継いでいるのでしょう?」 「はい、ほとんどのしきたりはそのまま受け継いでいます」 「歴史がある家ってのも大変だな」 「慣れてしまえばそれほどのものでもありませんよ」 白ちゃんがほにゃっと笑う。 「白、一つ聞いていいかしら?」 「はい、わたしにわかることでしたら」 「東儀家では母様のことをどんな風にとらえているの?」 「ええと……」 白ちゃんの頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。 「昨日の紅瀬さんの話だと、母様はマレヒトさんが亡くなってから東儀家に引き取られているでしょう?」 「私や兄さんの生まれ方とか、貴女が抱えている使命を考えると、母様と東儀家の間に何か特殊な関係があるようにみえるんだけど」 「……」 白ちゃんが戸惑ったように考え込む。 「わたしには、難しいことはわかりません」 「一人二人ならまだしも、何人もの人が犠牲になってるわけでしょ?」 「それで、何もわからないってどういうこと?」 「す、すみません」 「しっかりしなさいよ、白」 「はい」 白ちゃんがうつむく。 「まあまあ、責めても仕方ないだろ」 「それはそうだけど」 副会長は納得できない様子で腕を組む。 「あ、でも、そのあたりのことは兄さまと伊織先輩がお二人で調べてらっしゃいました」 「兄さんたちが?」 「初めて聞いたな」 「それは……」 白ちゃんの表情が曇る。 「今は仲違いしてらっしゃるからだと思います」 「あの二人が?」 「仲がいいようにしか見えないが」 「昔はもっと仲がよろしかったのです」 「それが……わたしの両親が亡くなったころから上手くいかなくなったようで」 「貴女のご両親、亡くなっていたの」 「はい、7年前になります」 「もうそんなになるんだ」 副会長がため息を漏らす。 「あの二人、昔は兄弟みたいに仲が良かったわ」 「ただ、私は館にこもってたから、白の方が二人については詳しいと思うけど」 「伊織先輩は、うちに遊びにいらっしゃることが多かったですから」 「父さまとも懇意にされていました」 「そうだったのか……」 「調べてたってことなら、成果を聞いてみたいな」 「お二人一緒の時には伺わない方がいいかと思います」 「ああ。もちろん一人ずつ聞くさ」 「そんなことを調べてどうするつもり?」 ぼんやりと話を聞いていた紅瀬さんが口を開く。 「生まれた理由を知りたくなるのは変か?」 「貴方の生まれた理由なの?」 「いや……」 「支倉くんは私に協力してくれてるのよ」 「何か問題を抱えてるの?」 「それは……」 副会長がためらった。 「母様が、私が卒業までに眷属を作らないと館に閉じこめると言っているのよ」 「あの子、そんなことをしているの」 「無茶苦茶だろ」 「そうね」 「館に戻らずに済むようにしようと思ったら、伽耶さんを説得するしかない」 「ただ、正面から行っても取り合ってもらえないからな」 「伽耶さんが眷属にこだわる理由を知りたいんだ」 「それを材料に交渉しようってこと?」 「ああ」 「そう」 素っ気ない返事だった。 まるで、俺たちがやっていることをムダだと言うような調子だ。 「ムダだとでも?」 「意味はあると思うわ」 「ただ、眷属を作ることに正当な理由があったらどうするの?」 「それは」 「そんな不確定なことをするくらいなら、眷属を作ったらどう?」 「作りたくないのよ」 「なぜ?」 「なぜって……」 「私の事情で人の人生を台無しにしたくないわ」 「私の人生は台無しになっていないわよ」 「母様を恨んでないの?」 「記憶が戻るまでは恨んでたわ……」 「でも今は、そうでもないの」 記憶が戻った次の日、紅瀬さんは涙を流していた。 だが彼女の気持ちはいまだ俺にはわからない。 「あんな主の眷属で、よかったと思ってるの?」 「人の主をけなすなんて、眷属としては怒った方がいいかもしれないわね」 冗談めかして笑う紅瀬さん。 「あいにくだけど、私は貴女ほどあの子を嫌えないようね」 「でも……」 「貴女も吸血鬼なんだし、吸血鬼らしく生きてみたら?」 「さっきも言ったとおり、お断りよ」 「我がままに付き合わされてる支倉君のことは考えてるの?」 「それは……」 副会長が唇をかむ。 「別に付き合ってるわけじゃない」 「俺はやりたいようにやってるだけだ」 「支倉くん……」 副会長が切なげな表情を向ける。 「ごちそうさま」 うんざりした表情の紅瀬さん。 きついことを言われたが、彼女が言っていることに間違いはない。 実際、伽耶さんを説得する筋道が立っておらず、もしかしたらという可能性にかけているに過ぎない。 「紅瀬さんは何か知らないか?」 「伽耶さんがどうして眷属にこだわるかとか」 「もし私が真実を教えたとして、貴方はどうするの?」 紅瀬さんがじっと俺を見た。 その眼は、この質問が大切なものであると言っている。 だが、いかに重要な質問であったとしても俺の答えは決まっている。 「伽耶さんとしっかり話して、副会長を解放してもらうさ」 「そう」 淡泊な返事をして、紅瀬さんが立ち上がった。 表情からは、俺の答えが良かったのか悪かったのか読み取れない。 「仕事、もう終わってるから」 「は?」 「今日の仕事よ」 そう言って、鞄を手に取る。 「お疲れさまでした」 「東儀さん」 「は、はい」 「貴女の淹れるお茶、香りはよかったわ」 「あ……ありがとうございます」 きょとんとした表情で答える白ちゃん。 「それじゃ」 俺と副会長に一瞥くれ、紅瀬さんは部屋から出て行った。 「なあ副会長、さっきの紅瀬さん」 「おかしいわよね」 何か、別れを言うようだった。 「まさか……」 「紅瀬さんっ!」 遠ざかっていく背中に声をかけた。 紅瀬さんの足が止まり、振り返る。 「なに?」 「もしかして、またいなくなるつもりじゃないか?」 「どうかしらね」 少し間をおいて、紅瀬さんが言う。 「結局、人は孤独に勝つことはできないのよ」 「それが愛情であれ憎しみであれ、誰かとつながっていることは救いね」 「なんのことだ?」 紅瀬さんが寂しげに笑う。 「会長は駄目だと思うけど、千堂さんはまだ救いようがあるわ」 「頑張って」 「紅瀬さんっ」 俺が叫び終わる前に、紅瀬さんは漆黒の夜空へと跳躍する。 細くしなやかな身体は、あっという間に闇にまぎれていった。 「……」 紅瀬さんは何を言いたかったんだろうか。 「どうしたんだい、こんなところに呼び出して?」 「ちょっと聞きたいことがありまして」 消灯時間前。 俺と副会長は会長を呼び出した。 目的はもちろん、東儀先輩と調べていたことの内容を聞くためだ。 「妹はやらんぞ」 「そういう話じゃないです」 「とすると……」 顎に手を当てて思案する会長。 「余計なこと考えなくていいから」 「せっかちなカップルだね」 「とりあえずコーヒーでも飲みたいな」 「はいはい」 自販機で三人分の飲み物を買う。 「おごりでいいです」 「高いコーヒーになりそうだ」 苦笑いを浮かべて、会長がコーヒーを口にする。 副会長は例によって、ふーふー冷ましている。 「さっそく本題ですけど……」 「会長は、東儀先輩と二人で眷属や吸血鬼の調査をしてたんですか?」 「たしかに、調査はしていたよ」 「どんなことを調べたの?」 「吸血鬼の出生とか眷属を作る理由とか、そういったことさ」 「何か成果は?」 「これだ、と言えるものはないね」 「ただ、吸血鬼が生まれるのは偶然じゃないと思ってる」 「どうして?」 返事をせず、会長がソファを立った。 紙コップを持ったまま暗い窓の外を眺める。 窓に映る彼の表情は、硬く引き締まっていた。 「知りたいだろうな」 「そこまで言っておいて、聞くなって方が無理です」 「瑛里華」 会長が静かに言う。 「お前に俺以外の兄がいたとしたら驚くか?」 「え?」 副会長が硬直した。 「あ、あの……どういう……こと?」 「俺とお前の間には、男の兄弟が二人いたんだ」 「その人たち……今は?」 「この世にはいない」 談話室に静寂が訪れ、遠くから女子グループの嬌声が聞こえた。 それが、妙に現実味なく聞こえた。 「亡くなったって……吸血鬼じゃないんですか?」 「吸血鬼も不死身じゃない」 「そんなこと、知らなかったわ」 「教えていなかったからね」 「どうして教えてくれなかったの?」 「あの女は、弟たちをこれっぽっちも愛していなかった」 「それをお前に知られたくなかったんだ」 血が繋がってないとはいえ、母親が家族に愛情を持っていないと知ったら、子供は傷つくだろう。 ましてや、伽耶さんは家族を害しているのだ。 簡単に教えられることではない。 「弟がいたということも重要だが、とりあえずここでは置かせてくれ」 「吸血鬼は、東儀家に生まれる突然変異なんですよね?」 「おや、知ってたのかい」 「私が教えたわ」 「なら話が早い」 会長がコーヒーを一口飲む。 「俺が注目していたのは、弟たちの生まれた時期だ」 「二人目の吸血鬼が死んだ次の年に三人目、三人目が死んだ次の年に四人目……」 「つまり瑛里華が生まれているんだ」 「突然変異にしては少々タイミングが揃いすぎている気がしてね」 「偶然の可能性もあるでしょ」 「もちろん」 「規則性と言うほどのものは見当たらない」 「ただ、なんらかの意志が介在している気がして仕方がないんだ」 「……」 もし誰かの望んだタイミングで吸血鬼が生まれていたとするなら── 吸血鬼を作る方法が確立していることになる。 そんなことがあっていいのか? 「ま、俺が調べたのはそのくらいだよ」 「ほかにもいろいろ調べたが、成果はなかったね」 「そう……」 副会長の声は沈んでいた。 いきなり兄弟がいたとか言われたら、誰だって驚く。 しかも既に他界しているなんて。 「悪かったな、ずっと隠していて」 「気にしないで」 「元から謎だらけの家族だし、今さらどうと言うことはないわ」 「千堂家が家族と呼べるかどうかは微妙だね」 会長が笑う。 その表情は、窓に映っているせいか泣いているようにも見えた。 「中身は滅茶苦茶だけど、少なくとも私は家族だと思っているのよ」 「兄さんは?」 会長がうつむく。 窓には頭頂部が映り、顔は窺えない。 「もちろん、お前と同じ考えだ」 会長の言葉に、副会長は少し安心したように息をついた。 「東儀先輩は、この辺のことは知ってるんですか?」 「知っているはずだ」 会長がこちらを向く。 「東儀先輩とは、ある時期を境にうまくいってないって聞きましたけど」 「ま、そう言えばそうかもしれないね」 「俺から言わせてもらえば、征が勝手に離れていっただけさ」 「昔はカルガモの子供みたいに、俺の後ろをついてきて可愛かったんだけど」 「やっぱり、両親が亡くなったのがきっかけ?」 「ああ。当主になったとたん、やる気がなくなったみたいでね」 吐き捨てるように会長が言う。 会長には珍しく、マイナス方向の感情を表に出していた。 「何か考えがあるんじゃないの?」 「あったとしても、あの女を口説くプランじゃないか」 「伽耶さんも東儀先輩を気に入ってるんですか?」 「玩具としては気に入ってるんじゃないか?」 「ま、今までの眷属と一緒で飽きればポイってことは変わらない」 「ひどい話ですね」 「まあね」 「あの女の被害者という意味じゃ、同情の余地はあるけどな」 会長が紙コップを握りつぶす。 東儀先輩のことを、こんな風に思っていたとは……。 「ほか、何かある?」 「あ、もう一つ」 「なんだい?」 「兄さんは、シスター天池のお母さんと付き合ってたのよね」 「ままごとみたいなもんだが」 「その人の血、吸った?」 「デリカシーのない質問だねぇ」 「兄さんのデリカシーの基準なんて知らないから」 「で、吸ったの吸ってないの?」 俺を生徒会に入れるために、見ず知らずの人の血を吸った人だ。 ガンガン飲んでいたんじゃないか。 「吸ってない」 「他に吸える人がいるのに、彼女の血を吸うと思うか?」 「あら、意外ね」 「これでもけっこう、プラトニックカップルで有名だったんだよ」 にっと笑う。 「想像するだけで頭痛がするわ」 「失敬な」 「やり手の会長と、それをサポートするイケメン副会長といったら、ベストカップル5年連続受賞くらいの勢いだったんだぞ」 「そんとき副会長だったんですか?」 「あっちが先輩だったからね」 「想像できない……」 「そのときの経験を、いま存分に発揮しているわけさ」 犬歯をキラリと輝かせる会長。 普通の人は同じ学校に二回通わないんだが。 「さて、コーヒー分はしゃべったから、帰るよ」 「わざわざすみませんでした」 「いいっていいって」 手をヒラヒラ振りながら会長が去っていった。 「ふう」 手の中のコーヒーは、ほとんど口をつけないままだった。 冷めて濁りの増したそいつを、一気に飲み干す。 「知らない話ばかり出てくるわね」 副会長がぼんやりと天井を見上げる。 「今までが知らなすぎたのかしら」 「身内のこと知らされないってのは、辛いな」 いきなり兄がいたと告げられたらどういう気分になるのか。 俺には想像するしかない。 副会長の頭を撫でると、彼女は猫のように眼を細めた。 「ごろごろごろ」 「デカい猫だな」 「デカいって言わないで」 ふてくされた副会長の顔が妙に可愛く思える。 「ははは」 「なんで笑うのよ、こっちは傷ついてるのに」 「かわいいからだ」 「へ、変なこと言わないでよ」 言いながら、ぽうっと赤くなる。 「でも、少しずつ吸血鬼のことがわかってきたじゃないか」 「まあ、ほんの少しだけどね」 「今度は東儀先輩に話を聞いてみよう」 「会長とは違ったことを知ってるかもしれないし」 「ええ……」 副会長の表情が曇る。 「どうした?」 「兄さん、征一郎さんのことあんな風に思ってたなんて知らなかったわ」 「そのことか……」 「俺も驚いたよ」 あの二人は、どっからどう見ても息の合ったコンビだった。 俺だってショックだ。 でも、人に見せない部分があるのは決して責めるべきことじゃないとも思う。 「いつもは上手くやってるし、お互い割り切ってるのかもしれない」 うなずきつつも、副会長の顔は晴れない。 「なんだか最近、みんなが考えていることがわからないのよね」 「それぞれ思うところがあるのは当たり前なんだけど、生徒会がバラバラになってしまう気がして」 「そのきらいはあるけどさ、きっとみんな相手のことは考えてるさ」 「仲が悪いわけじゃないんだし」 「そうね、信じましょう」 副会長は60%くらいの、あいまいな笑顔を作った。 「さて、そろそろ部屋に戻るか」 副会長の紙コップを回収し、ゴミ箱に捨てる。 「ありがとう」 「みんながうまくいかなくなったら、俺たちがつなげばいいさ」 俺の言葉に、副会長は小さくうなずいた。 とりとめのない会話を交わしながら、分かれ道まで来た。 視線を合わせ、別れの雰囲気を漂わせた瞬間、副会長の瞳が切なげな色に染まった。 「……」 別れ際に不安になるなんて、クラスメイトに話したらニヤニヤされそうな話だ。 だが、副会長の不安は違う。 たとえて言えば、誰もいない深夜の繁華街に一人立っているような気分── 恋愛の対極にあるような、寒々とした気分なのだろう。 ほとんど意識することなく、副会長の手を握った。 「辛くないか?」 「ええ、大丈夫よ」 無理をして作った、痛々しい笑顔だ。 普通に学院へ通って恋愛をするだけのことで、どうしてこんなに苦しまなくてはならないのだろう。 「ほんと、大丈夫だから」 「無理するなよ」 「わかってる」 副会長が俺の手から逃れるように身をひるがえした。 「おやすみ」 「また明日」 小さく手を振って、副会長が上階に消えていく。 軽快な足音が胸に響いた。 なんとか間に合った。 「はぁ、はぁ、はぁ……」 部屋に着くなりうずくまる。 平衡感覚はほとんどなく、どっちが床でどっちが天井なのかもわからない。 どこまでも落ちていくかのように、喪失感が全身を包む。 「……」 声も出せない。 何かにすがらなくては、落下を止められない。 血。 血を……。 身体を引きずって冷蔵庫へ向かう。 たった数メートルの距離が、遠く感じる。 冷蔵庫を開く。 流れ出した冷気に悪寒が走った。 中には輸血用血液のパックが3つ転がっている。 「あと、3つ……」 前回のことを考えれば、3つで足りるはずがない。 かすかに震える手でパックを取り、飲み干す。 「ははは……やっぱり……」 今まで感じられていた血の温かさは、微塵もない。 「効かないんだ、もう」 恐れていた時が来てしまった。 引く血の気もない。 半ば惰性で、残りのパックを飲んでいく。 瞬く間に身体に吸い込まれ、なんの感慨もなく消えた。 「くっ……」 わきあがる不安に唇を噛む。 熱い液体が口内に溢れた。 その瞬間、胸の奥に何か衝動がわき起こった。 凍りついた身体に灯った火。 それは静かに身体を巡り、脳髄を焦がしていく。 「(まずいっ)」 直感があった。 この得体の知れない感覚に流されてはいけない。 立ち上がり、洗面所へ駆け込む。 「くっ……」 ためた水に顔をつける。 じゅっと音がするような錯覚があった。 頭の奥まで届きかけた熱が引いていく。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 顔を上げる。 鏡に映った顔は、これが自分かと思うほどひどい顔だった。 これから、自分はどうなってしまうんだろう……。 部屋には、流れる水の音だけが響いていた。 「えー、突然だが、紅瀬さんが今日から休学することになった」 「ご家族の都合だそうで、最低でも一ヶ月くらいは出席できないそうだ」 一瞬遅れて、言葉の意味を理解した教室がざわつく。 昨日の言葉は、やっぱり別れの言葉だったのか。 周囲の声はほとんど耳に入ってこなかった。 ただ、紅瀬さんの最後の質問が、何度も脳裏をよぎる。 「もし私が真実を教えたとして、貴方はどうするの?」 彼女の問いに、俺は伽耶さんを説得すると答えた。 嘘偽りない気持ちだったし、それは今も変わらない。 俺の答えは、紅瀬さん的にはNGだったのだろうか。 「孝平くん……孝平くん」 「おお、どうした?」 「紅瀬さんから何か聞いてなかったの?」 「はっきりとは聞いてないな」 「そう」 「なんだか最近、みんなが考えていることがわからないのよね」 「それぞれ思うところがあるのは当たり前なんだけど、生徒会がバラバラになってしまう気がして」 つなぎ止める間もないまま、いきなり一人欠けてしまった。 いったいどこへ行ったのか── 帰ってくるつもりがあるのか── 彼女が流した涙はどういう意味だったのか── 謎かけみたいな言葉ばかりを残し、紅瀬さんは消えてしまった。 「……」 このまま、生徒会はバラバラになってしまうのだろうか。 放課後。 俺はさっそく紅瀬さんの件を報告する。 「紅瀬先輩が……」 一番ショックを受けたのは白ちゃんだった。 まあ、無理もない。 「いやー、貴重な戦力だったんだけどねえ」 「そういう問題ですか」 「そうは言っても、出て行った理由がわからないんじゃ、どうしようもないだろ」 「その辺りは、今度聞いておこう」 「は?」 「居場所知ってるの?」 「伽耶様のところで生活するそうだ」 「そうでしたか」 「どういう経緯か知らないが、突然押しかけてきた」 「寮に許可も取っていないようでな、問題にならないよう休学の手続きをしておいた」 「そういうことは、早く言ってよ」 「すまないな」 「そう言うなよ」 「征はあの女を紅瀬ちゃんに取られて、心中穏やかじゃないんだから」 「つまらん冗談だな」 「伽耶さんはどういう反応してました?」 「あまり関心は持たれていないようだった」 「今は他のことに夢中なんだろ?」 と、会長が副会長を見る。 「あいにく、最近は会っていないわよ」 「なら、そろそろ呼び出されるのを覚悟しておいた方がいいかもしれないよ」 「ご親切にどーも」 副会長が無愛想に答える。 「で、でも、紅瀬先輩が伽耶様の元に戻ることができてよかったです」 フォローするように白ちゃんが口を開く。 「どうしてそう思う?」 「眷属は主のそばにいてこそ、役割を果たせると思いますから」 「ほう」 「白は、眷属の役割をどういうものだと考えている?」 「私はずっと、主の友人だと思っていました」 「でも、紅瀬先輩を見て、もう少し違うことを考えたんです」 「ぜひ聞いてみたいね」 「眷属は友人ではあるのですが、もっと大きな愛情が必要なのではないでしょうか」 白ちゃんが、一つひとつ言葉を確かめるように言う。 「白のご両親もご先祖も、母様からはひどい目にあわされているのよ」 「それが愛情を持って接した結果?」 「だとしたら、あまりにも報われないわ」 「最後にはいい結果を迎えられませんでしたが、それでも意味はあったと思います」 「それを吸血鬼が望んでいないとしても?」 「役目ですから」 「はあぁ」 副会長が芝居がかったため息をつく。 「なんにせよ、あの女にはもったいない話だ」 「私にしたってそうよ」 「白にそこまでしてもらう義理はないわ」 「うぅ……でも……」 しょんぼりとうつむく。 そんな白ちゃんを東儀先輩はいつになく真剣な目で見ていた。 「今の話は、白が自分で考えたのか?」 「あ、はい。すみません」 「いや、謝ることはない」 「立派だ、白」 「え、え?」 はじかれたように顔を上げる白ちゃん。 「おや、征が褒めるなんて珍しいじゃないか」 「どういう心境の変化だい?」 少しからかうように言う。 「悪いが細かく説明する気はない。これは東儀家の問題だ」 「ただ、白の言葉で新しいことがわかったとだけ言っておく」 「あ、ありがとうございます」 白ちゃんが恥ずかしそうに頬を紅潮させる。 覚えてる限り、東儀先輩がこんなに白ちゃんを褒めるのを初めて見た。 「しかし、眷属の役割が白ちゃんの言った通りのものだとして……」 「伽耶さんが眷属にこだわる理由はそこにあるのかな?」 「母様はそこまで考えていないと思うわ」 「まったく同感だね」 「あの人にとっては眷属なんてただの玩具だ」 なかなか一筋縄ではいかない。 「わたしの意見は東儀家の人間としての見方ですから、伽耶様にはまた違ったお考えがあるのだと思います」 白ちゃんの声には、今まではなかった芯が感じられた。 東儀家当主は女性だったって話があったけど、なんとなくその片鱗が窺えた気がした。 「結局、伽耶さんがどう考えてるかは謎のままか」 紅瀬さんならわかったかもしれないが、今はもう聞くことができない。 「さて、そろそろ仕事に戻ろう」 「紅瀬さんがいなくなった分、ペースを上げなくっちゃね」 「気持ちを切り換えてしっかりやろう」 部屋の空気は明るいとは言えなかったが、仕事は関係なく降ってくる。 やるべきことはしっかりやらなくちゃな。 この部屋に来たのは何年ぶりだろう。 正確には思い出せない。 そのとき交わした会話も遠い記憶の彼方だけど、毛が逆立つような緊張感は覚えている。 「伽耶様、お久しぶりでございます」 頭を下げる。 ややあって、伽耶様の声が聞こえた。 「東儀のチビか」 「はい、東儀白です」 ぱちりと扇の音がした。 「呼んだ覚えはないが」 「お願いがあって参りました」 「ほう」 それっきり、御簾の奥からは何も言ってこない。 先を促されているのだろうか。 「あ、あの……」 「え、瑛里華先輩を許していただけないでしょうか?」 また、扇の音が聞こえた。 「許すとは?」 「瑛里華先輩は、卒業までに眷属を作らなくてはいけないと聞きました」 「その期限をなくしていただけないでしょうか?」 「なぜ?」 「いずれ、わたしが眷属になりますので」 「期限を作って縛る必要はないと思います」 「ほう」 御簾の奥から視線を感じる。 「瑛里華先輩は、今の生活を楽しんでいらっしゃいます」 「これからも外で生活させてあげてください」 「卒業までに作れば、あたしは構わないぞ」 「ですから期限を作らなくても、わたしが……」 「やかましい」 どきりとした。 「キャンキャン吠えるな」 「す、すみません」 「ならば、明日眷属になれ」 「え」 「どうせ眷属になるなら、明日も百年後も変わるまい」 「そ、それは……」 いますぐには無理だ。 瑛里華先輩を説得できない。 「なれぬのか」 「うう……」 「では、いつ眷属になる?」 「必ず、いつかは」 「馬鹿か貴様は」 「本当です」 「もうよい」 「貴様がいくら望もうとも、瑛里華はお前を眷属にしない」 「う……」 伽耶様は、瑛里華先輩の気持ちをご存じだった。 「人間のままでいられるのだ、喜ぶべきことだろう?」 伽耶様があざ笑う。 役目を果たせないわたしを笑っているんだ。 「眷属になるのは、東儀家の使命です」 「いらぬと言われているのだ。好きに生きるがよい」 「でしたら、わたしは千堂家の友としておそばにおります」 「友だと?」 伽耶様の声色が変わった。 「おめでたいことだな」 「何も知らぬくせに、したり顔で使命だの友だのと……片腹痛いわ」 「どういうことですか?」 「お前の祖先は、あたしが殺してきたのだぞ」 「知っています」 「では、両親はどうだ?」 「父さまと母さまは事故で……」 「事故?」 「あはははは、事故か……あはははははっ」 どういうこと? なぜ、笑っているの? 「貴様、両親がどうなったか聞かされていないな」 「え……な、なんのことですか……」 「両親は生きているぞ」 「!?」 心臓が跳ねあがった。 や、やはり、父様と母様が生きていらっしゃる。 「どこにいるのですか!?」 「東儀家のどこかに閉じこめられているだろう」 「閉じこめる? どうして、どうしてですか!?」 「お前の親は、もう自ら動くこともなければ、考えることも、話すこともない」 「我が子の顔も覚えておらぬのさ」 「……」 何も考えられない。 頭が真っ白だ。 「お前の親を人形にしたのはあたしだ」 「眷属は血を大量に与えると人形になる。主の命令なしには瞬きすらできぬのさ」 「……」 かちかちと鳴る歯を、噛みしめて黙らせる。 無理やり喉を開く。 「に、兄さまは……そのことを……」 「知っているさ」 「貴様を哀れんで、伝えなかったのだろうよ」 「兄さま……」 薄々は感じていたけど、やはり隠していらっしゃったのだ。 それが兄さまの優しさなのだと思う。 でも、悲しい。 わたしは、いつまで兄さまに守られているのだろう。 「それでもまだ、あたしや千堂家を友と呼べるのか?」 口の端を歪めているのだと思う。 あざけりが混じった声だ。 「う……」 「どうした、答えられぬか?」 それ見たことか、といった口調。 「それでも、わたしはそばにおります」 「この程度で、わたしが見捨てるとお思いですか」 御簾の奥の空気がざわめく。 「消えろ」 「伽耶様……」 「さっさと立ち去れっ!」 部屋の空気が揺れる。 「失礼します」 頭を下げ、立ち上がる。 いったい自分は何をしに来たんだろう。 瑛里華先輩を許してもらおうと思っただけだったのに、伽耶様を怒らせてしまった。 でもなぜだろう? 次にここへ来るときは、今日のように緊張しないで済む気がする。 あんなに恐れていた伽耶様にも、これからは一人の人として接していけそうだ。 日曜日の夜。 昨日の会長に引きつづき、今夜は東儀先輩に来てもらっていた。 同じ生徒会役員なのに、こうして個別に当たらなくてはならないのはどこか寂しい。 「わざわざすみません」 「気にするな」 「で、用件は?」 さっそく本題に入る東儀先輩。 「その前にお茶を」 「そうか……ほうじ茶を頼む」 と、自分の財布から硬貨を渡してきた。 東儀先輩らしい。 「実は、聞きたいことがあって来てもらったの」 熱くて飲めない紅茶を遊ばせたまま、副会長が口を開く。 「何が聞きたい?」 「吸血鬼の出生や眷属についての話です」 「そうか」 いつもと変わらず、淡々とした調子の東儀先輩。 ソファの背にもたれない姿勢が、緊張感を誘う。 「以前、会長と二人でその辺を調べていたって聞いたんですが」 「たしかに、調べていた」 「だが、目立った成果は上がっていない」 「兄さんは、吸血鬼が生まれるのには、規則性があるかもって言ってたけど」 「千堂家の誰かが亡くなった一年後、東儀家に新しい吸血鬼が生まれるという話か」 「そう、それ」 「可能性は否定できないが、今のところ証拠になるものは見つかっていない」 「誰かの意志で吸血鬼が生まれるとすれば、なんらかの形跡が残るとは思うのだが」 「どんなふうに吸血鬼は生まれてくるんですか、具体的には?」 「妊娠から出産までの流れは普通の人間と同じだ」 「子供の瞳が青ければ伽耶様をお呼びする、それだけだ」 「じゃあ、生まれてみるまでは本当にわからないってことですね」 「そうなるな」 「生まれる家に決まりがあるのかしら?」 「東儀一族のどこかの家、というくらいか」 「ちなみに、私はどこの家で生まれたの?」 「興味本位で聞いているなら、知らないほうがいい」 「瑛里華を産んだ両親も、親の情を抑えて黙っているのだ」 副会長を産んだ両親は、吸血鬼だからという理由で子供を取られたことになる。 どんな気持ちでいるか想像するだけで胸が痛む。 「そう……そうね」 「すまないな」 「いいの、こっちこそごめんなさい」 「謝ることはない。瑛里華の気持ちはわかる」 わずかに微笑んで、東儀先輩はほうじ茶を飲む。 「さて、他に何かあるのか?」 「もう一つあります」 「単刀直入に聞きますが、どうして会長と疎遠になったんですか?」 東儀先輩の眉がぴくりと動く。 「そんなことまで話したのか、伊織は」 「はい」 初めに教えてくれたのは白ちゃんだが、黙っておいた方がよさそうだ。 「昔は一緒に調査していたのに、ご両親が亡くなられてから態度が変わったって」 「そうか……」 東儀先輩が目を閉じる。 「二人も知っているとおり、伽耶様はご気性が激しい方だ」 「その場で問題を解決できるなら別だが、先の見えない状況で伽耶様とぶつかるのは得策ではない」 「何かあったとき、悪影響があるのは東儀家なのだ」 言われてみればたしかにそうだ。 伽耶さんの機嫌を損ねたとき、とばっちりを受けるのは誰なのか? 今までは東儀家に向かうことが多かったのだろう。 先祖が一人も残っていないという事実が、それを証明している。 「伊織のように対立一辺倒の人間がいる以上、誰かが伽耶様のそばにいて緩衝材にならなければならない」 「こういう役回りは、家族には難しい」 「近すぎる分、関係を客観的に見ることができないからだ」 「……」 「じゃあ、東儀先輩が伽耶さんのそばにいるのは、被害を大きくしないためだったと」 「それが目的の一つではある」 「単純に、伽耶様がそこまで嫌いではないというのもあるが」 「マジですか?」 「初めは完全に敵視していた」 「だが、そばにいるうちに少しずつ変わってきた」 「東儀家は完全に被害者じゃない。どうしてそういう風に思えるの?」 「瑛里華には、わからないだろうな」 「なぜ?」 「伽耶様にとっても伊織や瑛里華は家族だ」 「他人には伝えられても、家族には伝えられないことがある」 「……」 伽耶さんが不器用な母親だというのだろうか? ふと、今まで伽耶さんを一人の人格として見ていなかった自分に気づく。 伽耶さんだって普通の心がある。 そんなのは当たり前なのに、俺は今まで彼女の気持ちを考えたこともなかった。 彼女を『敵』という血の通っていない存在としか見ていなかったことの証だ。 まずいよな、それじゃ……。 「それでも、あの人を好きにはなれない」 「私の知らないところで母様がどれだけいいことをしていたとしても、すぐに気持ちを変えるのは難しいわ」 「わかっている」 「ただ、自分でどうしようもないなら、誰かに頼るのも悪いことではない」 そう言って、東儀先輩は俺を見る。 「……」 副会長は無言でうつむいた。 「そう言えば、会長は東儀先輩の親父さんとも仲良くしてたって話でしたけど」 「ああ。吸血鬼に関することも、よく二人で話していたよ」 「父親はかなり詳しいことを知っていたようだが……今となっては聞き出す術もない」 「どんなお父さんだったの?」 「一言でいえば古いタイプの父親だ。厳格だった」 「あの兄さんと気が合うとは思えないんだけど」 「その辺りは俺にも謎だ」 「だが、週に2、3度は将棋を指していたな。よく泊まってもいった」 「へえ……」 会長にも意外なところがあるな。 「ところで話は変わるが……」 「支倉は、以前この島に住んでいたと聞いているが」 「はい、1年くらい住んでました。7年前の話ですね」 「そのとき、何か印象に残っていることはあるか?」 漠然とした質問だ。 印象に残っていると言えば陽菜との文通だが、ここで言うようなことじゃない。 「悠木姉妹と知り合ったのはそのころです。同じ学校だったんで」 「そうだったのか」 「二人はどんな子供だった?」 「あんまり今と変わりませんよ。特にかなでさんは」 「海に流されたり泉で泳がせられたり……サバイバルな思い出しかありません」 「千年泉らしいわよ、泳いだのって」 「泳いだんじゃなく、泳がされたんだ」 「支倉、あそこは島民にとって大切な場所なのだが」 「すみません」 「でも、なんでまたあそこが大切なんですか?」 「昔は島唯一の水源だったからだ」 「水道のない時代には、水源は神聖な場所として祀られる」 「千年泉も例外ではない」 「じゃあ、神社の泉にダイブしたってことですか」 「そう考えて差し支えない」 「今後は注意してくれ」 「いや、やりませんから」 真面目な顔で言われてもなあ。 「さて、俺からはこれだけだが、まだ何かあるか?」 「私はないわ」 「俺も」 「そうか、では失礼しよう」 東儀先輩に合わせて、俺たちも立ち上がる。 「時間を取ってもらってありがとうございました」 「気にするな」 じゃあと手を挙げ、東儀先輩が談話室から出ていく。 「あ、征一郎さん」 副会長が呼び止める。 「白のことなんだけど」 「白がどうかしたか?」 「あの子が自分の役割に自覚を持ったのは、いいことだと思うわ」 「でも、私は白を眷属にする気にはなれないの」 「やっぱり、普通の女の子として幸せになって欲しいから」 東儀先輩は、しばらく無言で副会長を見つめ── 「覚えておこう、おやすみ」 穏やかな笑みとともに、東儀先輩は部屋に戻っていった。 「征一郎さんの気分、悪くしたかしら?」 「いや、喜んでたと思うぞ」 「あんな顔見たことなかったし」 家族の幸せを真剣に考えてくれる人がいることは嬉しいことだと思う。 幸せを願った行動の結果として利害が衝突しても、それはまた別の話だ。 「しかし、東儀先輩の話を聞いちゃうと、会長と反りが合わなくなるのも納得だよな」 「真っ向からぶつかってるしね」 「征一郎さんにとっては、兄さんが爆弾に見えるんじゃないかしら」 「フォローしてるとも解釈できるぞ」 「自分がバランスを取っているうちに、会長に問題を解決して欲しいとか」 「兄さんを対立一辺倒って言ってたし、あんまり期待してないと思うわ」 「たしかに……」 「でも、副会長を対立一辺倒とは言ってなかったよな」 「私だって似たようなものよ」 「それじゃいけないとは思っても、どうしても反発から入っちゃうから」 「自覚があるだけいいんじゃないか」 ふと、ある言葉が頭をよぎった。 「会長は駄目だと思うけど、千堂さんはまだ救いようがあるわ」 「頑張って」 「どうしたの?」 「ちょっと思い出したことがあってさ」 「紅瀬さんと最後に話したとき、会長はダメだけど、副会長ならまだ大丈夫だって言ってたんだ」 「もしかしたら、このことを言っていたのかと思って」 「紅瀬さんが、そんなことを」 頑張ってというのは、俺へのメッセージだとするなら……。 俺と副会長で、伽耶さんと対話を進めろってことか。 「だから、少しずつでも冷静に話し合えるようになろう」 「向こうもそのつもりならいいけど」 「いや、だからそういう態度が……」 「あら」 苦笑する副会長。 「でも、紅瀬さんも素っ気ないようで周り見てるわよね」 「あの人の場合、人の考えがわかりすぎてつまらないのかもしれないな」 「亀の甲より年の功ね」 「本人聞いたら怒るぞ」 「あの人は怒らないわよ、ちょっと眉を吊り上げるだけ」 「こう見えて、紅瀬さん研究の第一人者なのよ」 「よく、いがみ合ってたじゃないか」 「ああでもしないと、彼女とは会話できないのよ」 「去年1年かけて学んだわ」 副会長がにっこりと笑う。 「さて、私たちも帰りましょうか」 「了解」 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 携帯が鳴ったのは、もう寝ようかと思った頃だった。 「メールか……」 携帯を見る。 送信者は東儀先輩だ。 珍しいな。 やや緊張しつつ、本文を読む。 『先ほどの千年泉で泳いだ話だが、伽耶様には知られないようにして欲しい』 『理由は折を見て話すので、今は聞かないでくれるとありがたい。よろしく頼む』 『征一郎』 「……」 どういうことだ? さっぱりわからないが、伽耶さんが絡んでる以上は東儀先輩の言う通りにしておこう。 「了解しました、と」 簡単にレスを返し、俺はベッドに寝転んだ。 千年泉がそれほど重要なのだろうか。 水源が島の人にとって大切なのはわかる。 でも、そこになぜ伽耶さんの名前が出てくるんだ? 泉で泳いだことを伽耶さんに知られたらどうなるんだ? 東儀先輩は、後で理由を説明してくれると言っているが…… 明日あたり泉について調べてみよう。 ふと、意識が浮上する。 眠ってから、どのくらい時間が経っただろうか。 部屋はまだ暗い。 なんだ、まだ眠れるじゃないか……。 再び、眠りの中へ落ちていく。 カーテンがはためく音がした。 あれ……窓が開けっ放しだったか……。 ふわりと何かの香りがした。 不意に、眠気が強くなる。 眠いな……。 窓は閉めなくていいか……。 ピピピピッピピピピッ ピピピピッピピピピッピピピピッ 「……」 手を伸ばし目覚ましを止める。 「ん〜〜」 大きく伸びをした。 少し頭が重い。 あまり体調が良くないようだが、気にするほどじゃない。 「よしっ」 気合いを入れ、ベッドから下りる。 「……」 ふと、窓に目が止まった。 カーテンがゆらゆらと揺れている。 そう言えば、開けっ放しだったんだ。 頭が重いのは、風に当たったせいだろう。 夏が近いからって油断しちゃいけないな。 カラカラと窓を閉め、鍵を掛けた。 放課後。 監督生室へ行く前に、俺は図書館に向かった。 千年泉について調べるためだ。 調べ物は1時間ほどで終わった。 得られた情報はさして多くない。 まず千年泉という名称は、干ばつの時にも枯れなかったことから付けられたようだ。 島唯一の水源で、島民から大切にされていたのは東儀先輩から教わった通り。 毎日水を飲めば病気が治ると言われていた時期もあったようだが、その時代の名残はもうない。 まあよくある話だ。 だた、気になるものが一つあった。 それは、千年泉関連記事の次頁に書かれていた鬼の伝承だ。 みんなにちょっと話してみよう。 「こんちはー」 「おや、遅かったじゃないか」 「体育館裏で告白でもされていたのかい?」 「モテモテじゃない」 「会長の冗談だからな」 「わかってるって」 「で、どうしたの?」 「図書館で調べ物しててさ」 「何の?」 東儀先輩がちらりと俺を見た。 メールの件を気にしているのだろう。 千年泉のことは言わないほうがいいな。 「ああ、島の歴史をちょっとね。マレヒトのこととか何か残ってないかと思って」 「何か面白いことでもわかったか?」 「一つ気になるのがありました」 「島に伝わってる、鬼の話って知ってます?」 「昔、老人から聞いたことがあるな」 「私は聞いたことないわね」 「吸血鬼の話なの?」 「いや、そうとは書いてなかったんだが」 俺は、伝承の内容を簡単に説明する。 むかしむかし、山奥に一匹の鬼が住んでいた。 鬼は、村人に怖がられているのを知っていたので、村に近づかなかった。 だが本当は、友達がいなくて寂しかった。 なんとか村人と友達になろうと思い、自慢の怪力を村のために使った。 その結果、鬼は村で暮らせるようになった。 「とまあ、こんな感じ」 「ふうん、面白いわね」 「鬼がマレヒトを指してるとして、怪力を進んだ技術にすれば、紅瀬さんの話とつながるわ」 副会長が腕を組む。 「支倉君、この話には続きがあっただろう?」 「これで終わりじゃないんだ」 伝承は続く。 村で暮らしていた鬼は、姫様に恋をした。 鬼は姫様に告白したが、姫様はそれを断ってしまった。 怒った鬼は、姫様をさらって山へと逃げた。 殿様は村人とともに鬼を探し出すが、鬼が暴れてたくさんの人がケガをする。 困った殿様が島の神様に祈ると、一陣の風が起こり、鬼を海まで吹き飛ばした。 「結局、鬼は退治されてしまうのね」 「恋ってのは人生を狂わせるねえ」 しみじみと言う会長。 「前半と違って、後半は事実と符合させにくいわ」 「そうだな」 「符合することを前提に考えない方がいい」 「特に権力者が絡んでいる部分は、都合のいいように変えられている可能性がある」 「表面上、東儀さんの鬼退治になってるからねえ」 「話半分に考えておくのがいいんじゃないかな」 「そうかもしれないわね」 副会長が肩をすくめる。 「何かわかればよかったんだけどな」 「気にすることないわ」 「あ、お茶淹れてあげるわね」 副会長が立ち上がる。 彼女手ずからってのは嬉しいが……。 「今日、白ちゃんは?」 その瞬間、部屋の空気が変わった。 「白は、当分ここへは来ない」 「は? どういうことですか?」 「白、一人で母様に面会したらしいわ」 「もしかして……ケガしたのか?」 「幸い無事よ」 「ただ、母様をかなり怒らせたみたいで……」 「事態が収まるまでの間、東儀家の屋敷で大人しくしていてもらうことにした」 「学院では、何かあったときに生徒を巻き込む恐れがあるからな」 「そうだったんですか」 可哀想な気もするが、仕方がないか。 「白ちゃんは、どうして伽耶さんを怒らせたんだ?」 「私のことを掛け合ったらしいの」 「いずれ自分が眷属になるから、卒業までに眷属を作らないと館に戻すっていう話を取り消して欲しいって」 苦しげに副会長が言う。 「白ちゃん、副会長を自由にしたくて一生懸命だったんだろうな」 「ええ……」 「ホントあの子、バカなんだから」 言葉の端々から、悲しみがにじみ出ていた。 「ま、あの女のことだし、すぐに忘れるさ」 「そう願おう」 東儀先輩が、小さくため息をつく。 内心は心配で仕方がないのだろう。 「俺も自宅から学院に通わせてもらうことにするから、そのつもりでいてくれ」 「わかりました」 「そのほうが白ちゃんも安心すると思います」 東儀先輩がうなずく。 「しかし、白ちゃんのお茶がしばらく飲めないっていうのも寂しいねえ」 「私のお茶じゃ不満かしら」 「味はいいんだが、何かこう……愛が感じられなくてね」 「初めから入れてないから」 じっとりした目で、副会長が言う。 「さて、仕事の分担はどうする?」 「白ちゃんが担当してた分は、俺がやるよ」 「大丈夫?」 「もちろん」 「すまんな、支倉」 「気にしないでください」 「じゃ、通常業務に戻ろうか」 「オーケー」 各自が、自分の仕事に取りかかる。 事情があるとはいえ、生徒会の仕事を止めるわけにはいかない。 夜半を過ぎ、私はいつもの部屋に正座していた。 部屋には、扇を開閉する音だけが響いている。 どう見ても不機嫌だ。 「突然の呼び出し、どういったご用ですか?」 ぱちり  ぱちり 返事はなく、扇の音が続く。 ……。 …………。 「まだ、支倉とやらを眷属にしないのか?」 ようやく声が聞こえたのは、私の質問から1分ほど経ってからだった。 「すみません」 「まだタイミングがつかめておりません」 自分で言って、しらけてしまう。 こんな嘘がいつまで通用するのだろうか。 「ずいぶんと待たせるな」 「彼を逃したくありませんので、時間をかけています」 「もう少し時間をください」 ぱちり  ぱちり ……。 ぱちっ 「よかろう。今少しな」 意外な言葉が返ってきた。 機嫌が悪いと感じたのは気のせいだったのだろうか。 「ときに……」 御簾の奥で衣擦れの音がした。 少しして御簾が上がり始める。 顔を見るのは何年ぶりだろう? 覚えていない。 「まもなく誕生日ではないか?」 「え? は、はい」 まさか、私の誕生日を覚えていたなんて……。 「ならばこれを持って行け」 目の前に、深紫色の風呂敷包みが投げられた。 「なんでしょう?」 「開ければわかる」 「失礼します」 立ち上がり、風呂敷包みを手に取る。 結び目をつまむ。 指先が震えていた。 恐れから来る震えではない。 喜びとも驚きともつかない感情から来る震えだった。 ……。 …………。 「これは……」 入っていたのは、輸血用血液が3つ。 鮮やかな赤が瞳を刺す。 「お前、最近血を取りに来ていないな?」 「はい」 慌ただしかったこともあるが、血の効果がほとんどなくなった今、輸血用血液は必要なかった。 目の前のパックだって、飲んだところで意味はない。 だが、胸にわき上がる温かな感情が、この血は今までとは違う味がすると―― そう告げていた。 私は……喜んでいるんだ。 「眷属を作る前に、潰れられてはかなわん」 「それでも飲んでおけ」 投げ捨てるように言って、母様は再び御簾に手をやる。 「母様」 「なんだ?」 「あの……」 言葉が喉に引っかかる。 「ありがとうございます」 母様が私の顔を見た。 まっすぐな視線が、私に向けられている。 「なぁに」 母様が背を向ける。 そのまま、御簾が下ろされた。 「下がれ」 「はい。失礼します」 立ち去りがたい感情を振り切り、私は立ち上がった。 学院を目指し歩を進める。 落ち葉が積もっているわけでもないのに、私の足取りはふわふわしていた。 思えば、この道を歩くとき私の気持ちはいつもよどんでいた。 それが今はどうだ……。 「はあ……」 自分は、いったいなんなのだろう。 母様をあんなに憎んでいたのに、こんなものをもらっただけで……。 バカなんじゃないだろうか? 小遣いをもらった子供でもあるまいに。 そう思いながらも、風呂敷をしっかりと抱いてしまう。 バカだ。 本当にバカだ。 そう簡単に懐柔されてはいけない。 今まで一緒に悩んでくれた支倉くんのためにも。 未明から降り始めた雨は、放課後になってもやまなかった。 梅雨を連想させる静かな雨だ。 「生徒会、頑張ってね」 「ああ」 「陽菜も今日は美化委員か?」 「うん。今日は雨だから備品の整理かな」 「そっか」 「じゃあ、また明日な」 「またねっ」 明るい笑顔を残し、陽菜が去っていく。 その後ろ姿を、しばらく眺める。 「なにじっと見てるのよ。いやらしい」 背後から声がした。 「おう」 「妬くわけじゃないけど、ちょっとしゃくよね」 それは妬いてるんじゃなかろうか。 「悪い悪い」 「誠意が感じられないわね」 くすっと笑って、副会長が歩き出す。 傘と鞄の他に、小さな紙袋を持っているのに気がついた。 「それなに?」 「あ、これ?」 副会長が、袋をちょっと掲げてみせる。 「内緒」 「監督生室に着いたら見せてあげるわ」 「お、じゃあ楽しみにしとくよ」 なんだか嬉しそうな様子だ。 中身に期待がふくらむ。 「ちわす」 監督生室では、会長が一人でコーヒーを飲んでいた。 「やあ、今日は嫌な天気だね」 「このまま梅雨入りしなければいいんだけど」 と、例の紙袋をテーブルに置いた。 「なんだいそれは?」 副会長が袋を開き、中身を取り出した。 テーブルに赤い物体が3つ並ぶ。 「輸血用血液だよな?」 「ええ」 「どうして持ってきたんだい?」 「昨日、母様にもらったの。突然呼び出されてね」 「機嫌悪いって言ってたけど、大丈夫だったのか?」 「それが、今までで一番機嫌よかったのよ」 まあ、機嫌がいいに越したことはないが。 「あの女が、これをな……」 会長の表情は一変していた。 朗らかな笑みは消え、目には厳しい光が宿っている。 「おかしいと思わないかい?」 「なんらかの意図があると思うべきだろう」 会長は、まるで毒物でも見るように赤い袋を見つめている。 「それはそうかもしれないけど、気が変わったのかもしれないわ」 気分を害したように、目をそらす副会長。 「そんな女じゃない」 「瑛里華に優しく接したのは、そうした方が面白いからだ」 「そ、そんなこと……」 「何かあってからでは遅いだろう?」 「調べさせてもらっていいか?」 「そうね……わかったわ」 会長が、血液を一つずつ調べていく。 光に透かし、 ふたを取り、 味を確かめる。 その様子を俺と副会長はじっと見つめていた。 やがて、会長が腕を組んだ。 「どうしました?」 「支倉君、血を少しもらっていいかい?」 「え? 少しって?」 「こいつで……」 会長が文房具入れからカッターを出す。 「ちょっと指を切ってくれ」 「えーと……わかりました」 必要なことだろう。 やってみよう。 左の人差し指の先に血が滴る。 「切りました」 「うっ」 副会長からせっぱ詰まった声が聞こえた。 そう言えば、副会長にとって俺の血は魅力的なんだった。 「だ、大丈夫か?」 「ええ、なんとか我慢できるわ」 額の汗をハンカチでぬぐい、副会長が深呼吸をする。 「さ、続けて」 「じゃ、さっさと済ませよう」 「支倉君、血をなめさせてもらうよ」 手を差し出した。 垂れそうな血液を会長が指で取り、口に入れた。 「ふむ……」 「こいつと同じ味だ」 と、血液の一つを指す。 「はあ!?」 「ま、まさか……」 「冗談で言ってるわけじゃない」 会長は、外見上区別がつかないそいつを脇によけ、ペンで印を書いた。 「その中に俺の血が入ってるってことですか?」 「おそらくは」 「献血した覚えないですけど」 生まれてこの方、献血はしていないし入院するような怪我もしていない。 「あの女のことだ、気づかれないように血を抜いたのかもしれない」 「んなバカな」 「それくらいは簡単にやる人だ」 気づかれずに血を抜くって…… 寝てる間に注射するとか、そういうことか? 「もういいわ」 副会長がすっと立ち上がる。 無表情にも見える顔には、冷たい感情がにじんでいた。 「母様は、私に支倉くんの血を飲ませようとした」 「私が人から血を飲まないのを知っているから、こういう方法を取ったのよね」 「支倉君の血を飲ませることで、踏ん切りを付けさせようとしたんだろう」 「あの女の考えそうなことだ」 「私の身体を気遣うようなことを言ったのも……」 「全部……全部、演技だったのね……」 うめくような声だった。 「こんなものを自慢げに持ち歩いてるお前もどうかしている」 副会長は嬉しかったのだろう。 母親から物をもらった喜びを、会長に知らせたかったのかもしれない。 「……」 副会長が、血液パックを投げ捨てるように紙袋へ放りこむ。 「どうするんだい」 「決まってるでしょっ!」 言うが早いか、部屋から出ていった。 俺も慌てて後を追う。 「さて……」 「そろそろ俺も、覚悟を決めなくちゃいけないのかな」 俺たちは、早足で学院の敷地を縦断していた。 副会長が走っていなかったおかげで、追いつくことができたのだ。 「無茶だけはするなよ」 「わかっているわ」 副会長はまっすぐ前を向いたまま。 怖いほどの顔なのに、なぜか今にも泣き出しそうに見えた。 「……」 副会長は、人の血を吸わないと固く誓っている。 俺が何度勧めても、ずっと断り続けてきた。 おそらくそれを知っていて、俺の血が入ったパックを渡した伽耶さん。 もし、副会長が飲んでしまっていたら…… 飲んだ後に、それが恋人の血だと知らされたら…… 副会長はどうなってしまったのか。 すべてを知って伽耶さんが仕組んだのなら、とても許せるものではない。 副会長が道をそれる。 「どこ行くんだ?」 「外出許可がないわ。校門は通れない」 「そうだったな」 言葉少なに草むらを進んだ。 学院の塀を乗り越え、山道を歩き、ようやく館に到着した。 副会長は立ち止まりもしない。 一直線に館の裏手を目指す。 副会長が、和室の襖を開け放った。 ばん、という大きな音が家に反響する。 「騒々しいな」 突然の訪問だったせいか、御簾が上がっていた。 一段高くなった座敷で、伽耶さんは扇を揺らめかせている。 扇に描かれたアジサイが、着物の色に映えた。 「何用か?」 「母様が一番よく知っているはずです」 副会長が紙袋を伽耶さんの前に放り投げた。 中から血液のパックが顔を覗かせる。 「これがどうかしたか?」 「ただの輸血用血液じゃないでしょう?」 副会長が伽耶さんをにらみつけた。 対する伽耶さんは、口元に歪んだ笑みを浮かべている。 「気がついたか」 「どうしてこんなことをするの?」 「その男を眷属にしかねているようなのでな」 「弾みをつけてやろうと思った」 「余計なお世話です」 「支倉くんのことは、私が自分で眷属にします」 副会長が俺を見る。 おそらく、伽耶さんの前ではこう言っているのだろう。 「瑛里華」 伽耶さんが姿勢を崩す。 片肘を脇息に載せ、半分横に寝るような姿勢だ。 「そんな子供だましが、通用するとでも思っているのか?」 冗談もたいがいにしろ、と言った調子で扇をもてあそぶ。 「お前は初めから眷属など作る気がない。そうだろう?」 「……」 「いつの時代も、子は親に嘘をつくものだが」 「どうも我が家は、その傾向が強いらしいな」 「自分のために、人の人生は壊せません」 副会長のきつい語調をかわすかのように、伽耶さんは姿勢を変える。 脇息を身体の前に移動させ、身を乗り出す格好だ。 「眷属を作る気がないのなら、館に戻ってもらおう」 ぴっと扇で副会長を差す。 「嫌です」 「貴様を遊ばせるために、あの狩り場を作ったわけではないぞ」 「狩り場ってどういうことですか?」 「うるさい、征一郎にでも聞け」 軽くあしらわれた。 「私は、館には戻りません」 「言うことが聞けぬか」 「はい、聞けません」 「眷属も作りませんし、館にも戻りません」 「どれもこれも、必要ないことです」 きっぱりと言った。 「出来損ないが、威勢のいいことよ」 伽耶さんが、閉じた扇の先を口元に当てる。 「ならば、輸血用血液は止めさせてもらう」 「なまじあんな物があるから、吸血鬼としての本質を見失うのだ」 「……」 輸血用血液を断たれたらどうなる? 副会長は、いつか人の血を吸ってしまうだろう。 「いつまで耐えられるか見せてみよ」 「……はい」 悲壮な表情で副会長が答える。 「支倉とやらも、血を吸われぬように注意した方がよいぞ」 「なにせ、隣にいるのは腹を空かせた吸血鬼だからな」 くつくつと喉の奥で笑う。 「考え直してください」 「こんな争いは不毛じゃないですか」 「吸血鬼らしく生きよといって何が悪い。これはただの躾だ」 「吸血鬼らしさだって、時代によって変わるでしょう」 「いいのよ」 身を乗り出しかけた俺を、副会長が止めた。 「現に、これは私のわがままなの」 「わかっているではないか」 伽耶さんは満足げに扇を開いた。 「ときに瑛里華」 「貴様、どうしてこいつの中身に気づいた」 伽耶さんが、顎で血液パックを示す。 「兄さんが注意してくれたんです」 「ほう、あの男がな」 「兄さんがいなかったら飲んでいたわ」 「あははははっ」 突然、笑い出す伽耶さん。 「なに?」 「あはははははっ……くくく」 伽耶さん的にツボに入ったらしく、うつむいて笑っている。 「なんなのよ」 「お前、あの男に担がれているんだよ」 「え?」 「どういうことですか?」 「本人に聞いてみるといい」 「あはははは……しかし、伊織め……想像以上に女々しいな」 また笑い出してしまう伽耶さん。 さっぱりわけがわからない。 「行きましょう」 「そうだな」 ここにいてもラチがあかなそうだ。 立ち上がり、開けたままだった襖に向かう。 副会長が、立ち止まり伽耶さんを振り返った。 伽耶さんは、こちらも見ずに扇で顔を扇いでいる。 副会長の眉が、少しだけ悲しげに歪んだ。 「行こう」 副会長の肩を抱く。 「そうね」 しばらくして、俺たちは学院の敷地に戻った。 傘を差してはいたが、靴下までしっとりと濡れている。 「副会長、これからどうするんだ?」 「今までと変わらないわ」 「眷属は作らないし、血も吸わない」 「吸いたくなったらどうするんだ」 「不安になった後は吸いたくなるんだろ?」 「大 丈 夫」 「我慢できないほどじゃないから」 にこっと笑う。 「そうか」 俺も笑顔で答える。 だが、副会長の笑顔はやせ我慢だとわかっていた。 「ただいま」 「無事だったか……よかった」 書類片手にコーヒーを飲んでいた会長が顔を上げる。 「どんな話をしたんだい?」 「眷属を作る気はないって言ってきたわ」 言いながら、副会長は椅子に座る。 俺も隣に腰を下ろした。 「おいおい、それは暴走じゃないか?」 「いいのよ、もう」 「向こうも初めから気づいてたみたいだし」 「で、館に戻るのか」 「戻らない」 「その代わり、輸血用血液の供給を止められるわ」 「なんてこった」 「まあ、俺のストックもあるし我慢できなくなったら言ってくれ」 「ありがと」 「ところで、東儀先輩は?」 「いったん来たけど、もう帰ったよ。白ちゃんが心配らしいね」 会長の言葉を受け、副会長が俺を見る。 輸血用血液の件を聞くつもりらしい。 「ともかく、お茶を淹れよう」 「この天気じゃ、身体が冷えただろう」 「後でいいわ。ちょっと座ってもらえる?」 「そうかい?」 浮かせた腰を、再び椅子に下ろす。 「実は、会長に聞きたいことがあるんです」 「例の血液パック、会長のおかげで飲まずに済んだって伽耶さんに言ったんですが」 「伽耶さんには、俺たちが会長に担がれてるって言われました」 「担がれてる、か」 「事情を聞かせてくれるかしら?」 「そうねえ……」 会長は背もたれに身体を預け、天井を見上げる。 そのまましばらく無言で呼吸を続け、また前を見る。 会長の表情からは笑顔が消えていた。 「簡単に言えば、俺も同じことをされたことがあるってことさ」 「兄さんも?」 「この椅子に、志津子ちゃんの母親が座っていたころの話だ」 そのころ、二人は付き合っていたんだっけ。 「彼女の存在を知った、あの女……つまり伽耶は、眷属にしないのなら殺すか記憶を消せと命令してきた」 「当然、俺は反発した。彼女の血を吸う気もなければ、眷属にもしないってね」 「私と同じか」 「ああ。不安が襲ってくるようになったのも同じだ」 「それでも俺は、彼女と別れなかった」 「前と話が違いますが」 「ウソついてたからね」 「ちょっと、どうしてよ」 会長が、副会長を手で制する。 「不安は日に日に大きくなるし、不安の後には血も吸いたくなる」 「とはいえ、彼女の血は吸わないと決めてたから我慢したわけだ」 「あの女は相変わらず眷属にしろとうるさかったけど、無視し続けた」 俺たちと同じ流れだ。 「あの女に呼び出されたのは、それからしばらく経ってからだ」 「お前には根負けした、まあ食事でもしようってな」 「怪しいとは思ったけど、断るわけにもいかないから出向いたわけだ」 「そこで俺は、食事と一緒に出た血を飲んだ」 「……」 「……」 「これが……とにかくうまかった」 「それまでに飲んだ、どんな血よりもうまかった」 会長がうつむいた。 そのときの気持ちを会長が反芻しているのなら、俺にかけられる言葉はない。 「それがきっかけで、俺は彼女の記憶を消したんだ」 「彼女を好きだなんて、恥ずかしくて言えなくなったからね」 「……」 自分の中に残っていた楽観が、跡形もなく消し飛んでいく。 どこか超然として、何があっても平気だと思っていた会長。 その彼が、かつて完全に打ちのめされていたのだ。 「それで……あの血が支倉くんのだって、わかったのね……」 「そうだな。また繰り返しになると思った」 「だったら、俺たちはお礼を言わなくちゃいけないですね」 担がれてなんかいないじゃないか。 「それは違う」 会長が静かに言った。 「瑛里華には、ここで潰れてもらっちゃ困るんだよ」 「不安と血への衝動の先に何があるのか確かめてもらわないとね」 「え……」 「吸血鬼ってのはなんなのか……俺が知りたいのはそれだけだ」 「終わりのない生命や強靱な肉体を持ちながら、人と恋に落ちるだけで不安に苦しむ」 「あまつさえ、恋人の血にこの上ない快楽を得る」 「自分がそんな生き物だなどと、断じて認められない」 一気に言って、会長は言葉を切った。 いつの間にか強くなった風雨が、バチバチと窓を叩いている。 ふと、嫌な想像が頭をかすめた。 かき消そうとするが、それは身体の中で止めようもなく膨張していく。 「つまり会長は、副会長に恋愛をしてもらわないと困るわけですよね」 「そうだ」 「誰かと恋に落ち、欲求や不安と戦ってもらわないと困る」 「一年待ってみたが、瑛里華は誰とも付き合わなかった」 「それじゃ、わざわざ伽耶に頭を下げてお前を外に出した意味がない」 「に、兄さん……貴方……」 これから語られる半ば確定した答えに、副会長は怒り震えていた。 「4月、瑛里華が支倉君に反応したときには、これだと思ったよ」 「だから、ちょっと無理して生徒会役員に……」 言い終わる前に立ち上がった。 会長の頬を、俺の拳が的確に捉えた。 椅子ごと吹き飛んだ会長が、床に転がる。 「……」 「く……」 上半身を起こした会長と目が合う。 静かな目だった。 殴られた不満を言うでもなく、ただ状況を見つめていた。 会長は血のにじんだ口元をぬぐうこともなく立ち上がる。 「担いだというのは、こういうことだ」 そう言って、会長は椅子に座り直した。 「副会長を実験台にしたんですね」 「言い訳もしないし謝る気もない」 「俺は、自分のためだけに瑛里華と支倉君を利用した」 「もういいわ」 副会長が大きなため息をつく。 緊張が緩む。 「私は兄さんのために支倉くんを好きになったわけではないし……」 「兄さんのためにデータを集めているわけでもないから」 「もちろん、それを否定するつもりはない」 「輸血用血液のことを教えてくれたのには感謝しているわ」 「おかげで、まだ諦めずに済むから」 一瞬だけ、会長が笑った。 「今となっては、兄さんの知りたいことも私が知りたいことも同じだけど……」 「これ以上は一緒にやっていけないと思う」 「そうだな」 そう言って、会長はポケットから何かを取り出す。 テーブルに置かれたのは、監督生棟の鍵だった。 「内輪もめで、生徒会の仕事を止めるわけにはいかない」 「必要なときだけ呼んでくれ」 会長が淡々とした口調で言う。 副会長は、鍵には手を触れずに口を開く。 「出て行く前に、知っていることを教えて」 「吸血鬼のことについて、これ以上何も知らないの?」 会長が考える素振りをする。 「一つだけある」 「吸血鬼の生まれ方についてだ」 「というと?」 「俺やお前は、あの女が意図的に作ったものだ」 「兄弟が死んだ1年後に、新しい兄弟が生まれるって話?」 「もっと具体的な話だ」 「これは、俺が生みの親から聞いたことだが……」 「生みの親……」 それは、東儀一族の誰かだ。 「俺が生まれてすぐ、あの女は俺に何か飲ませたらしい」 「何を?」 「詳しくはわからないが、何か石のようなものだったと聞かされた」 「生みの母親も、はっきりとは見えなかったそうだ」 「石のようなもの……」 人間に石のようなものを飲ませると、その人は吸血鬼になる。 そう考えていいのか? 「でも兄さんは、どうして自分を生んだ人を知っているの?」 「時間をかけて調べた」 「だが、同じことをしようなんて考えるなよ」 「どうして?」 「両親は、あの女の手によって不幸な最期を遂げた……」 「俺と接触したせいでね」 「そんな……」 空気がさらに重くなる。 「俺が知っているのはこのくらいだ」 「これ以上は、絞っても出てこない」 「ありがとう、教えてくれて」 「礼を言われる立場じゃないさ」 会長は自分専用のデスクに置かれた鞄を取った。 そして、年代物の椅子を見つめる。 会長の目には、ここで過ごした日々が映っているのだろうか。 もしかしたら、生徒会長だった彼女の姿が映っているのかもしれない。 「そう言えば、前に紅瀬ちゃんから言われたな……」 「俺と紅瀬ちゃんは一緒だってね」 「どういうこと?」 「俺も紅瀬ちゃんも、ずっとあの女を憎んできた」 「だがあるとき気づくんだ、自分が憎むために憎んでいることに」 会長が出口に向かう。 「俺にとってはね、憎しみだけが自分とあの女を結ぶ唯一の絆なんだ」 「だから今は……」 会長がゆっくりとドアを開いた。 「いつか、あの女を許してしまう日が来るような気がして……少し怖い」 ドアが閉まる寸前、 会長が見せたのは、障子越しの明かりのような、はかない笑顔だった。 俺も副会長もしゃべらなかった。 風雨の音だけが聞こえてくる。 「結局、人は孤独に勝つことはできないのよ」 「それが愛情であれ憎しみであれ、誰かとつながっていることは救いね」 「会長は駄目だと思うけど、千堂さんはまだ救いようがあるわ」 今やっと、紅瀬さんの言っていた意味がわかった。 千堂伊織という人は、憎むことで伽耶さんとのつながりを保っていたんだ。 だからこそ徹底的に嫌い続けていた。 許してしまったら、最後の絆が消えてしまうから。 そして紅瀬さんも……。 彼女と伽耶さんが続けていた鬼ごっこは、鬼ごっこ自体が目的だった。 あの日の教室で紅瀬さんが涙を流したのは、鬼ごっこが終わってしまったからだ。 「支倉くん」 副会長が手を握ってきた。 「すまん、言葉が見つからない」 「私も」 副会長の瞳が潤んでいた。 もしかしたら、俺も同じ顔をしているのかもしれない。 だが、何が俺たちをそうさせているのか、俺にはわからなかった。 外は嵐だった。 風に乗った雨粒が顔を叩いていく。 胸の芯まで冷えるような、冷たい雨だ。 支倉に殴られた口元に触れる。 もうほとんど痛みはない。 こんな痛みくらいは、長く続いてくれても悪くないと思ったが…… つくづく無粋な身体だ。 「どうした、傘も差さずに」 いつの間にか、目の前に征が立っていた。 「帰ったんじゃなかったのか」 「処理し忘れた仕事があってな」 「そうか」 「傘を差し出す甲斐性もないのかい?」 「濡れたくないなら喜んで差し出そう」 そうだ。 こいつはいつでも正解を知っている。 「監督生室で何かあったのか?」 「二人に全部話したよ」 「自分のために瑛里華を利用していたと」 「そうか」 「呼ばれたとき以外は、顔を出さないようにする」 「それで、お前はどうする」 「これからも、伽耶様に反発するつもりか?」 「大人しくすると言ったらどうする?」 征の目が俺を射抜いた。 「うちにでも来ればいい」 「昔は入り浸っていたのだ、勝手もわかっているだろう」 東儀家か……。 昔の情景が蘇る。 磨き上げられた廊下の艶、前栽の濃緑や水の香り、まぶしいほどに明るい障子の白。 静寂を保ちつつも、館のすみずみにまで染み渡った人の息づかい。 それは驚きであり憧れだった。 征の亡父母は、はるかに年長である自分を慈しんでくれた。 それが愛情か同情か、それとも東儀の義務だったのか、今なお判然としない。 だが、家庭の温かさの片鱗のようなものを感じさせてくれたのは事実だった。 同時に、それを生まれつき得ていた征に、嫉妬に似たものを感じたのも否定しがたい事実だった。 いま思えば、仲違いの種はそんなところにもあったのかもしれない。 「くくく……あははははっ」 「おかしいか?」 「お前を笑ったわけじゃない」 「ならば何を笑う」 「いや、忘れてくれ」 「それより、さっきの質問に答えよう」 征と目が合う。 この質問をされるのも答えるのも、これが最後だとわかった。 「あの女には憎しみしかない。どこまでも反発するさ」 いまさら譲れることじゃない。 それこそ、俺のやってきたことが無駄になってしまう。 「どれだけ言っても、聞いてはくれないようだな」 「ああ」 「わかった」 征が歩き出す。 そして、俺の脇を通りすぎた。 放課後の監督生室には、俺と副会長、そして東儀先輩だけがいた。 たった三人だが、今はこれがフルメンバーだ。 いつも明るい冗談を飛ばしていた会長も、 おいしいお茶を淹れてくれた白ちゃんも、 黙々と仕事をこなしていた紅瀬さんも── いない。 「寂しくなったわね」 「そうだな」 副会長の小さなため息が聞こえる。 「ため息の数だけ、幸せが逃げるって言うぞ」 「そうね……しっかりしないと」 副会長が笑顔を作る。 「そういう顔してたほうがいい」 会長も白ちゃんも紅瀬さんも、仕方のない事情があった。 それぞれが、置かれた状況やポリシーのために行動した結果だ。 思わず、もし全員が腹を割って話し合えていたなら…… なんてことを考えてしまう。 過去形のタラレバに意味はないし、そもそも理想論だ。 みんなが吸血鬼の問題に深く絡みすぎていたし、立場が違った。 どうしたって、言えることと言えないことがある。 思うままに振る舞ってきたのは、俺くらいだ。 「そう言えば、お前たち伽耶様に会ったらしいな」 キーボードを叩きながら、東儀先輩が口を開く。 「ちょっとトラブルがあって……」 副会長が、昨日のことをかいつまんで説明する。 「そんなことをしたのか、あの方は」 東儀先輩が眉根にしわを寄せる。 「血液については、兄さんが止めてくれたけど……結局……」 「あの後、伊織から話は聞いた」 「二人をよろしくと頼まれた」 「そう……」 「ところで、伽耶さんがこの学院を狩り場だって言ってたんですが」 「やっぱり、人間を狩るための場所ってことですか?」 「ああ」 副会長が、俺の隣で絶句する。 「ひどすぎる」 「それは、一面的な見方だ」 「たしかに、伽耶様は人間を狩る意図で学院を創られた」 「創られたって、伽耶さんが創設したんですか?」 「その通りだ。ほとんどの人間は知らないことだが」 「そんな……」 副会長がうなだれる。 驚きを通り越して、もはや絶望に近い表情だった。 「何してきたのよ、私は……」 「学院をより楽しくするだなんて言って……毎日、毎日……」 「……」 彼女の震える背中を撫でる。 幼い頃からあこがれてきた学院。 やっと入学することができて、副会長は学院生活をよりよくするために活動してきた。 生徒一人ひとりの生活が、価値あるものになることを祈って。 そんな学院すらも伽耶さんに創られたものだったのだ。 しかも、狩り場として。 「伽耶様は、長い時間をかけ人間社会で力を得てきた」 「潮見市の権力者の中にも、伽耶様の協力者は多い」 東儀先輩がパソコンデスクから、俺たちがいるテーブルに移動してくる。 「個人的感情は置いておいて、冷静に考えてみてくれ」 「なんのために伽耶様が学院を創られたのか」 副会長と顔を見合わせる。 狩り場って言うくらいだから、血を吸う人間を集めることが目的だろう。 きっと、いつでも人の血を吸えるようにしたかったんだ。 それだけじゃないのか? 「伽耶様はずっと、輸血用血液のない時代を生きてきた」 「それはつまり、日々、人の血を吸わなくてはならない時代であり」 「常に、死の危険と隣り合わせの時代だ」 「……」 そういえば、会長も言ってたな。 「極端に古風な人でね、人間は餌であり天敵であるってのが座右の銘なのさ」 「いつでも安心して血を吸える環境を作ることが、伽耶様の理想だったのだ」 「学院なんて、おあつらえ向きですね」 「社会からある程度隔離されているし、警察も入りにくい」 「何より、大人が少ないわ」 「全寮制ならなおさらだ」 「よく考えたものね」 声には軽蔑の色が浮かんでいた。 「個人的感情は置いておけと言ったはずだ」 「では、伽耶様は誰のために学院を創ったと思う?」 伽耶さん自身のためだ。 だが、それだけじゃない…… 副会長を見る。 目を見開いていた。 彼女も、気づいたのだ。 「子供たちのためですね」 「そういうことだ」 「子供たちが一人前になるまで、安心して血が吸える場所を作りたかったのだ」 もしかしたらそれは、吸血鬼にとっては、正常な親心なのかもしれない。 「そのために多くの危険を冒して協力者を増やし、学院を創ったのだ」 「だからこそ伽耶様は、人から血を吸うことにこだわる」 「いつかは、学院や輸血用血液に頼らずに自活できる吸血鬼になって欲しいからだ」 「そんなこと……言われなきゃわからないわよ」 副会長は泣き出しそうだった。 「言葉が足りないのは伽耶様の悪いところだ。だから瑛里華を責める気はない」 「ただ同様に、伽耶様を一方的に責める気もないがな」 そう言って東儀先輩は腕を組む。 学院創設の件は盲点だったが、だからといって伽耶さんの副会長に対する行為を容認することはできない。 「なんにせよ、伽耶さんを説得しなくちゃいけないことに変わりはないです」 東儀先輩が鋭い目で俺をにらんだ。 「どうしてそう思う?」 「親としての愛情があれば、すべて許されるわけではないでしょう?」 「少なくとも、副会長への仕打ちは許せないと思います」 「支倉の気持ちはわかる」 だが、共感はできない。 そんな口調だった。 「東儀先輩は何か知りませんか?」 「どんな小さなことでもいいんです。伽耶さんの説得につながるなら」 「あったとしても、今の支倉には教えられないな」 東儀先輩が席を立つ。 「どういうことですか?」 「自分で得た答えでなくては意味がない」 そう言って、東儀先輩はパソコンがある机に戻っていく。 「東儀先輩っ」 返事はない。 「……」 そう言われても、悠長に構えている時間はない。 副会長の中では不安が大きくなっているようだし、輸血用血液なしでどこまで我慢できるかは未知数。 こうしている間にも、見えない時計は進んでいるかもしれないのに。 一日の仕事が終わり、俺と副会長は監督生棟を出た。 副会長はしばらく学院の夜景を眺め、ポツリと口を開いた。 「この学院を母様が創ったなんて」 「驚くことばかりだ、最近」 副会長がうなずく。 「私は、ずっと狩り場の番をしていたのね」 「草を刈ったり、柵を修理したり……」 「生徒にとっては、伽耶さんの意図なんて関係ないことさ」 「それに、学院ができたのはかなり昔だろ」 「今も狩りをしているなら別だけど、実際はそうじゃない」 「ここは狩り場の跡地さ」 「でも……」 「しっかりしろ」 「あたっ」 副会長の背中を軽く叩いた。 「生徒会役員になったとき、こうやって喝を入れてくれたよな」 「その副会長がヘコんでてどうするんだ」 「う、うん」 「自分でも、無茶な励ましだと思うよ」 「でも、気持ちで負けたらいい結果は出ない」 「胸を張ろうぜ」 「ええ……そうね」 副会長が笑顔で胸を張る。 どう見ても空元気だが、空元気も元気のうちだ。 暗い顔しているよりはよっぽどいい。 「さ、行こう」 努めて明るい声を出す。 それで気づいた。 俺も空元気を振り絞ってるだけじゃないか。 ……ま、暗いよりはいい。 元気づけて歩き出したものの、時間が経つにつれ副会長は元に戻っていく。 ときおり校舎や建物に向けられる視線は、悲しげな色を帯びていた。 ここ一ヶ月ばかり、俺はずっと副会長を見てきた。 彼女の気持ちはわかっているつもりだ。 だが、そばにいながら、人の話を聞いて回るばかりだった自分が情けなくもある。 結局自分がしたことは、副会長を励ましたり慰めたり、それだけのことだ。 なんとかしたい。 なんとか、俺にしかできないことを見つけたい。 「また明日ね」 「部屋でお茶でも飲んでいかないか?」 「……」 どちらかと言えば、否定的な答えが返ってきそうな雰囲気だ。 「あーーっ」 「こーへーとえりりん発見!」 「あ、かなでさん」 「こんばんは、悠木先輩」 「遅くまでご苦労さんだね」 「そうだ、お茶会やろうよお茶会」 今日は副会長が疲れてそうだが……。 ちらりと副会長を見る。 少し迷ってから、俺にうなずいた。 「んじゃ、久しぶりにやりますか」 「あーあ、一人前にアイコンタクトなんかしちゃって」 「じゃ、みんなに召集かけてくるっ」 たたたたっとかなでさんは駆けていった。 「ふう」 腕組みをして息をつく副会長。 表情はいくぶん明るくなっていた。 「久しぶりだな、お茶会」 「ええ、楽しみね」 「あ、かなでさんが来る前に片づけないと」 最近は部屋を片づける余裕がなかったので、だいぶカオス度が増していた。 「だったら、私はいったん部屋に戻ってからまた来るわ」 「またね、支倉くん」 「おう」 階段を上がっていく副会長を見送り、俺は部屋へと向かった。 「こんばんは」 「おす」 「やっほー」 ギリギリ片づけが終わったところで、みんながやって来た。 「は、早かったですね」 「そう?」 「ていうか、なんで汗かいてるの?」 「いや、気にしないでください」 「あれ、千堂さんは?」 「いったん部屋に戻ったよ。またすぐ来るって」 「よかった。最近ゆっくり話してなかったから、すごく楽しみ」 「よーし、さっそく準備しちゃおう」 「男子諸君はテーブルクロスと食器、ひなちゃんはお茶お願いね」 「おす」 「了解です」 「おいしいお茶を淹れるね」 「じゃ、かなでさんはお菓子を」 「ういー」 みんなで準備に取りかかる。 「最近、お疲れだな」 テーブルクロスを広げながら、司が小声で話しかけてくる。 「ん、そうか?」 「気のせいならそれでいいが……」 「ま、無理はするな」 「ああ」 「なに、コソコソ話してるの?」 「秘密です」 「お姉ちゃん、男の子の内緒話は聞いちゃダメだよ」 「うわっ、いやらしいことなんだ!?」 「違いますって」 「こんばんは」 「わーい、えりりんだ」 かなでさんが、ぱたぱたと副会長のところへ走っていく。 相変わらずにぎやかな人だ。 でも、今日はそのにぎやかさが心地よい。 「準備に遅れちゃってごめんなさい」 「いいよ、気にしないで」 「わたしは気にするっ!」 ズバっと言うかなでさん。 「え、えーと……」 「二人でお菓子の準備しよ♪」 「あ……」 「はい、わかりました」 副会長が嬉しそうに微笑んで、準備に加わった。 1時間半ほどで、お茶会は終了した。 部屋には俺と副会長の二人。 しばし、にぎやかだった時間の余韻に浸る。 「隣に行っていい?」 「ああ」 向かいに座っていた副会長が、俺の隣に座る。 そのまま俺の膝の上に寝転んできた。 頭が、あぐらの上に載る。 「隣っていうか上だろ、これ」 「嫌?」 俺を見上げて言う。 この視線に抗える男は相当の猛者だ。 「ぜんぜん」 「よかった」 くてり。 副会長が寝る。 そのまま何もしゃべらないので、俺は副会長の髪を撫でた。 指先に触れた首筋の熱に、ちょっと驚く。 日頃は意識しないが、他人の体温ってのは本当に温かい。 自分で自分を触ったときとは、まったく別ものだ。 「こうやって撫でられてると、なんだか落ち着く」 つぶやくような声が聞こえた。 「俺も、こうしてると……」 「いやらしいこと考えたくなる?」 「バカ」 「あははっ」 副会長の身体が揺れる。 「幸せな気分になるんだよ」 「そっかそっか」 まだ、くつくつ笑っている。 「笑うなよ」 覆い被さり、滑らかな頬にキスをする。 「ん……」 「笑った罰だ」 「ふふ、ごめんなさい」 柔らかな声で言う。 副会長の熱と、花のような香りを楽しんでから身体を起こす。 「お茶会、楽しかったか?」 「ええ、とても」 「久しぶりだったしね」 さっきまでの光景を思い起こす。 笑ってはしゃいで、みんな本当に楽しそうだった。 今思えば、俺たちが落ち込み気味なのを知っていたんだろう。 かなでさんなんか、場を盛り上げるためか、いつもの3倍はにぎやかだった。 「監督生室を出たときにいろいろ言ったけどさ……」 「ん?」 「生徒にとっては伽耶さんの意図なんて関係ないとか、ここは狩り場の跡地だとか」 「ええ、覚えてるわよ」 「俺の言葉よりも、今日のお茶会の方が意味があると思うぞ」 「みんな学院生活を楽しんでる」 「……」 「なら、副会長がやってきたことも意味があったってことさ」 「ここがどんな経緯で創られたかなんて関係ない」 「そうね……そうかもしれない」 「だから、落ち込むことなんてないぞ」 「うん」 「支倉くんも、落ち込むことないからね」 「俺?」 「俺の言葉より、って言ったでしょ?」 「ああ」 「私にとっては、お茶会と同じくらい意味があるわ」 「比べることじゃないかもしれないけど」 そんな言葉だけで、満たされた気分になった。 お返しに副会長の頭を撫でる。 「支倉くんのこと大切に思ってる」 「ありがとう」 「なのに、巻き込んじゃってごめんね」 副会長がきゅっと身を丸める。 「謝るなよ。生徒会役員になってなかったら、副会長とこんな風にはなれなかった」 「だから、後悔なんてしてない」 「生徒会のこともあるけど……」 「結局、今起きてることって家族ゲンカじゃない」 「まあな」 「それに……」 副会長が言葉を切る。 何かを言いだしかねていた。 「兄さんが別れ際に言ったこと覚えてる?」 「憎むことでしか絆を保てないってやつか?」 副会長が肯定する。 「あれを聞いたとき怖くなったのよ」 「自分も兄さんと同じなんじゃないかって」 「母様に構って欲しくて喧嘩をして……」 「そんな、恥ずかしいことに支倉くんを巻き込んだんじゃないかって」 「……」 副会長の口から言葉が溢れる。 「母様から輸血用血液をもらったとき、嬉しかったのよ」 「今までされてきたことも、支倉くんが一緒に頑張ってくれていることも忘れて」 「もういいよ」 それでも副会長は続ける。 「バカみたいに喜んでたの、中身は支倉くんの血だっていうのに……」 声が切れ切れになり、副会長は俺の膝をぎゅっとつかんだ。 吸血鬼も人間も心は同じだ。 母親に求めるものが人間と同じであっても不思議はない。 「……」 吸血鬼という、あまりに特殊な境遇を持つ副会長。 彼女は、母親とのつながりという単純で根源的なものを求め、あがいていたのだ。 やるせなさでいっぱいになる。 悲しくはない。 かわいそうでもない。 ただ、鉛を飲み込んだように胸が重くなった。 「副会長……」 俺はただ、副会長の髪を撫で続ける。 利害関係の対立なら、解決のしようがあるかもしれない。 けど、心の対立は難しい。 おまけにプライベートな問題だ。 部外者である俺に何ができるのだろう。 「ごめんなさい、取り乱して」 副会長が身体を起こす。 潤んだ瞳が俺を見つめる。 「いいんだ」 「支倉くん、泣きそうな顔してる」 「俺が……?」 副会長が俺の頬に両手を当てる。 しっとりとして温かかった。 「私はもっと支倉くんを笑わせたい……」 「なのに辛い顔ばかりさせてる」 「だからって、別れようと思ったことはないぞ」 「たしかに今は辛いかもしれないけど、全部終わったら楽しいことを目一杯しよう」 「支倉くん……」 副会長の顔が近づいてくる。 キスが求められていた。 俺もそれを求めていた。 ふっくりとした感触が唇に伝わる。 副会長がさっきまで飲んでいたミルクティーの味がする。 「ん……ちゅ、支倉……くん」 副会長の息が顔にかかる。 紅茶の芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。 「嫌いになったりしないから、心配するな」 また口づける。 さっきより少し強く。 肩を抱き寄せながら唇を押しつける。 「ん……ふ……」 薄く目を開くと、わずかに上気した副会長が見えた。 少し不安げな表情に胸がときめく。 と、副会長が目を開いた。 「こら、マナー違反」 「ちゃんと目をつむって」 「かわいいんだから、見てもいいだろ?」 「バカ」 唇が押しつけられた。 隙間から、熱くぬめったものが滑り出て、俺の唇をくすぐった。 それに応じて、俺も舌を出す。 「んっ……ちゅっ、支倉くん、好き……」 一心に舌を動かす。 水音と溢れた吐息が、俺たちの間で絡み合っていく。 「ぴちゅ、ちゅっ……んっ……」 「くちゅ……んっ……ん、ん」 舌を副会長の口内に侵入させた。 歯茎や口蓋、舌の裏側まで、隙間なく這いずりまわる。 副会長への衝動は、破裂した水道管みたいに次々と溢れてきた。 「……んっ」 身体をぴくりと反応させ、副会長が離れた。 透明な糸が俺たちをつなげている。 「い、嫌だったか?」 もしかして、やりすぎたか? めちゃくちゃ緊張する。 「嫌じゃなくて、その……驚いたっていうか」 「?」 「だから……それ」 副会長の視線が、俺の顔から下へ移動してゆく。 「……」 硬くなっていた。 反応早すぎだ。 「すまん」 「それって、嬉しいってこと?」 「まあ、そうなるか」 「そ、そっか……」 副会長が顔を赤らめる。 意識したせいで、余計そいつに血が集まってしまった。 「苦しいよね、これ」 副会長の手が膝に乗り、内側に滑ってくる。 しなやかな指先がそこに触れたとたん、ぴくりと腰が反応した。 「きゃ」 「い、いきなり動かないでよ」 「そう言われても」 「あのさ……」 上目遣いに見てきた。 「男の人って、口でした方がいいのよね」 「え?」 副会長の手がベルトにかかった。 かちゃかちゃ……。 一生懸命にベルトを外そうとしている。 だが、その手は緊張に震えて上手く動いていなかった。 「と、取って……くれる?」 「あ、ああ」 ベルトを外す。 「あ、いや、バックルだけじゃなくて……ほら……」 副会長がうつむく。 つまり露出させろと? 相当恥ずかしいんだが……。 「俺だけ脱ぐのは不公平だろ」 「わ、私も!?」 「いいわよ、支倉くんだけで」 「脱がないで、どうやってするんだ?」 「どど、どうって……」 わけのわからない言い合いになった。 「もういい、脱ごう」 「え、ええ……そうね……」 俺は、ベルトを外しチャックを下ろす。 現われたトランクスは、隆々と持ち上がっている。 「……」 息を飲む音が聞こえる。 恥ずかしいが、ウダウダしてても仕方がない。 「副会長も」 「あ、うん」 副会長が、耳たぶを真っ赤にしながらベストのボタンを外す。 続いてリボン。 そして、ブラウスへと取りかかった。 俺も覚悟を決め、ズボンとトランクスを下ろし、足から抜いた。 「……」 馬鹿みたいに勃起したそれが、天井を指していた。 「あ……」 副会長は、ブラウスのボタンを半分ほど外したところで硬直していた。 刺繍の縁取りが入った可愛いブラが見える。 「す、すごいわね」 「……」 返答に困る。 「さっきしようとしたこと……してあげるね」 副会長が上半身を倒してきた。 顔が脚の間に近づき、左手が棹に添えられる。 「く……」 ぞわっと刺激が走った。 「硬いわね」 未知の物体を調べるように手が動く。 それが、快感をもたらすことも知らないようだ。 いよいよ硬度を増したそいつの先端に、透明な液が光る。 「ん……」 副会長の口から控えめに舌が出る。 それが、ちょんと先端をつついた。 すぐにざらりとした刺激が裏筋をこすり上げる。 「ぴちゅ……ん……くちゅ……」 ぬる、 ぴちゅ、 ちゅっ、 副会長の舌が、亀頭を舐めていく。 「痛く……ない?」 「ああ、気持ちいい」 「よかった」 「くちゅ、ぺろっ、ぴちゅ……ちゅっ」 俺の返事に気をよくしたのか、副会長の舌の動きが速くなる。 ほどよく唾液がまぶされ、ざらざらした感触が、ぬるりとしたものに変わってきた。 「ここ、弱点ね」 舌先が、ちろちろと裏筋を刺激する。 「くっ……」 「ふふふ、当たり」 彼女の好奇心がこんなところでも発揮されていた。 そして、弱点を集中的に責め立てる容赦なさ。 「くちゅ、んっ、んっ、ぴちゅっ」 舌の表面をぺたりと弱点に貼りつけ、頭を上下に動かしてくる。 ぬりゅ、 くちゅっ、 ぴちゅっ、 陰嚢が縮こまるような快感だ。 そのままの動きで、亀頭が口の中に収まった。 全方位が粘膜に包まれる。 「ちゅるっ、じゅっ……くちゅっ、ぴちゃっ」 「んちゅっ……ちゅっ、んっ、んっ、んっ」 副会長の頭がリズミカルに動き始めた。 舌は裏筋をこすり、粘膜がぬるぬると亀頭を包む。 左手は、棹を伝う唾液を馴染ませるように上下している。 「んっ、んっ……ぴちゃっ、くちゅっ」 「ずりゅっ、ちゅりゅっ、ぴちゅっ、ぬちゅっ」 信じられないような音が、副会長の口から聞こえる。 一心に頭を動かすその姿が、俺の征服欲を満たしていく。 副会長の頭が上がった。 「……」 情動が揺らめく瞳で、俺を見る。 「やめて欲しくないって顔してるね」 「ああ、続けてくれると……」 俺を見ながら、副会長の手が動く。 唾液でべとべとになった性器全体をゆっくりとマッサージしていく。 「くっ」 「いやらしい」 不規則な上下動に回転も加わり、腰がどんどん熱くなっていく。 「ん……ちゅ……」 副会長が、再び俺をくわえる。 「くちゅっ、ぴちゅっ……っ、っ、んんっ」 「あむ……れろっ、ぴちゃっ……ちゅっ、ぬりゅっ」 舌が乱暴に動き、硬い歯がときおりカリをこする。 「副会長……そ、そろそろ……」 全然聞いていない。 そればかりか、動きが激しくなっていく。 「ちゅっ、ちゅっ、ぴちゅっ、ぴちゃっ」 「ぴちゅ、ちゅっ、くちゅっ……じゅっっ!」 射精の予感が背中を突き抜けた。 「くっ……」 俺はとっさに腰を引いた。 びゅっ、びゅびゅっ 「きゃっ」 どくっ、びくっ、びくっ 意識を持っていかれそうなほどの快感。 白い液体が先端から飛びだし、副会長に降りそそぐ。 その光景がさらなる刺激になり、俺の腰は何度も震えた。 「……」 快感が走り抜け、俺はようやく息をつく。 「びっくりした、こんなに出るのね」 副会長が自分の身体を見る。 ちなみに、いつもはこんなに出ない。 気持ちよすぎたせいだ。 「すまん、暴発した」 「きれいにしてあげる」 「あ、おい」 再び副会長が上半身をかがめる。 伸びてきた舌が、ペニスについた精液をゆっくりと舐め取っていく。 副会長がこんなことまでしてくれるなんて……。 今までに見てきたどんなものよりも刺激的な光景だ。 「あら?」 「なんか、だんだん……」 大きくなってきた。 「元気で……すまん」 「いえいえ」 「すごく、気持ちよかったぞ」 「よかった、初めてだったから心配だったの」 「……」 これで熟練されたら、俺はいったいどうなってしまうんだろう。 「お返しするよ」 「え?」 副会長の身体を抱き寄せる。 「重くない?」 「ああ」 副会長の頬に手を当てる。 「さっきはありがとう」 「どういたしまして」 穏やかに笑う副会長にキスをする。 積極的に舌を伸ばすと、すぐに副会長の唇が開き舌が絡み合った。 「んっ、ちゅっ、ちゅぱっ」 目をつむって舌を伸ばす表情が、とてもかわいく見える。 顔にかかる息を楽しみながら、副会長の舌を弄ぶ。 「ぴちゅっ、くちゅっ……ちゅっ、ぴちゅっ」 ブーンという冷蔵庫の低音に、唾液の音が乗り、部屋に響く。 頭がぼんやりしてくる音だ。 「ぴちゅっ……」 いったん離れ、俺は副会長の首筋に顔を埋めた。 「んっ」 舌先が肌に触れた瞬間、副会長がはねた。 花のような香りが、彼女の身体から立ち上ってくる。 「ふふ、くすぐったい」 「嫌?」 「嫌じゃないわ」 舌を耳へ持っていく。 耳たぶを甘くかむ。 「あっ、やだ……耳なんて……」 「好きだよ」 「なんか、慣れてる人みたい」 「慣れてないさ。すごく緊張してる」 さっきはされるがままだったから、今度は俺が副会長を良くしてあげたい。 首筋や鎖骨に舌を這わせながら、手をブラウスの中に差し入れる。 「ひゃっ、いきなりはびっくりするから」 「あっ、んっ……くっ」 乳房に手が近づいただけで、副会長は反応した。 肌の温度が上がり、しっとり湿ってくる。 そのきめ細やかさは、男のものとはまるっきり別物だ。 「胸、触るよ」 「……」 副会長が無言でうなずく。 ゆっくりと乳房に手を当てる。 羽毛布団みたいにふかっとした感触。 「ん、あ、あ……支倉くんに触られてる」 「やっ、あっ、なんだか、不思議な……あっ……感じ」 手の動きに合わせ、副会長がもじもじと身体を動かす。 先端の突起が、徐々に頭をもたげてきた。 そこを意識しつつ、乳房全体をふるふるとマッサージする。 「あ……支倉くん……手が、いやらしい……」 「くっ、あっ、やっ」 膝の上で副会長が揺れ動く。 息が少しずつ荒くなってきた。 片手を胸から離して、スカートの上からお尻をさする。 「あ、ちょっと、こら」 「触っちゃダメか?」 「だ、だめじゃないけど……」 だめじゃないらしいので、お尻から太ももの裏側くらいまで手を往復させる。 スカートの上からでも、柔らかな感触が伝わってくる。 「く、くすぐったいから」 「もう、支倉くんは……んっ、あっ」 手をお尻から膝、そして脚の間へと滑らせる。 「こーら」 脚で手を挟まれた。 「じゃ、こっち」 乳房を少し強めに刺激する。 「きゃっ、あっ……んっ、んあっ」 マシュマロのような柔らかさの中に、ぽつんと固い部分がある。 それが感じている印かと思うと、嬉しくなった。 「やっ、そこはあんまり触られると……あっ、くうっ」 「ああっ、ぴりぴりして……ああっ」 びくびくと身体が反応する。 指先で乳首をさすりながら、もう一方の手はスカートの中に進める。 膝のガードはゆるんでいた。 「あっ、やっ」 指先が足の付け根に触れると、今更のように気づいた。 そこは他の部分より明らかに温度が高い。 「そこは、あんまり強くされると……痛いかも」 「このくらい?」 できるだけ優しく、指を這わせる。 「んうっ」 ぴくっと身体がはねる。 「大丈夫か?」 「うん、ちょっとびっくりしただけ」 「よかった」 優しく手を動かしながら、その部分の様子をたしかめていく。 上の方には茂みの感触。 その下は当然のように平らで、さらに下には熱がこもった部分がある。 そこに指をあて、ふるふると振動させる。 「ひゃっ……ちょっと、くっ、んんっ」 「そこは……ほんと……んっ、ああっ、あああっ」 切れ切れになった声の間に、荒い息が交じる。 指先にぬるりとした感触があった。 「ああっ、支倉くんっ……あああっ、んっ」 下着の脇からちょっとだけ指を入れてみる。 「ひゃうっ……ん……あ……」 濡れてる……。 粘液をすくい取るように、溝に指を這わせる。 「んっ……は、恥ずかしいよ」 「恥ずかしくないって」 「あうっ、ああっ……なんか、熱いかもしれない……あっ」 「そこ……だめだから……あっ、んっ、ん、んっ」 うわごとのような声だ。 ここぞとばかり、指の振動を早くする。 「ああっ、やっ、ちょっと……ああっ、うっ、ああっ」 「私、私……いっちゃ……う……あ、あ、あああっ」 「だめっ、だめだめ……ああっ、あああっ、ああああああっっっ!」 副会長が、ぎゅっと俺を抱きしめた。 ガクガクと身体が痙攣する。 「あ……あ……う……」 「だから……だめだって……」 副会長の身体から力が抜けた。 長距離走の後のように、副会長は大きく息をしている。 服の上からでもわかるくらい、肌には汗をかいていた。 「痛くなかったか?」 「ええ……平気よ……」 「支倉くんは?」 「俺?」 股間は見なくてもわかるほど硬い。 副会長を見ると、静かにうなずいた。 「ちょっと待ってて」 スカートの下に手を入れ、お尻の方から下着を下ろす。 副会長が俺の上から降り、もじもじしながらパンツを脱ぐ。 何度かスカートの中の暗がりが見え、興奮が高まった。 「この姿勢でいいのよね?」 副会長は再び俺の腰にまたがった。 かなりいやらしい格好だが、言わないでおこう。 「痛かったら、言ってくれよ」 「ええ」 副会長の腰を抱き寄せる。 カチカチのペニスを手で持ち、副会長の秘所にあてがう。 まくれたスカートの下で、俺と副会長の性器が密着している。 「いいのよね、私で」 「何をいまさら」 「副会長じゃなきゃ、ダメだよ」 「私も、支倉くんだから……」 副会長が腰を浮かせた。 ペニスに座るように体重をかけてくる。 「っっ」 副会長の眉がゆがんだ。 「そのままにしてて」 副会長の腰を抱える。 そのまま、ゆっくりと腰を突き出した。 「あ……あ……」 「く……」 強烈な抵抗の中を分け入る。 「くっ、ああああっ!」 腰と腰がぶつかり、副会長は身を固くする。 苦しげな彼女に対し、俺は溶けるような快感を味わっていた。 「もう、入ったよ」 「そっか……」 「よかった……ひとつになれたのね」 安心したような笑顔を見せるが、まだ表情は硬い。 副会長が慣れるまで、少しの間じっとする。 「もう、動いていいわ」 「無理しないようにな」 「大丈夫」 「わかった」 腰をゆらゆらと動かす。 突き上げるのでなく、揺する感じだ。 「ん……あ……」 「くっ……もっと、動いて……いいよ」 副会長が俺を気遣って言ってくれる。 「少し強くするぞ」 揺する運動に、少しずつ上下動を混ぜていく。 「ああっ、あっ、あっ……んんっ」 「支倉くん……支倉くん……くっ、あああっ」 背中に回された副会長の手に力が入る。 膣内は熱く、自分と彼女の境界線がなくなっていくようだ。 こんな感覚は味わったことがない。 「くっ、あっ……あああっ」 「うっ、ああっ……気持ち……いい?」 「すごく、いいよ」 「そう……遠慮しないで、くっ……動いて」 リズムをつけて、副会長を突き上げた。 肌がぶつかり合う音が部屋に響く。 「ああっ……やっ、だめっ」 「支倉くんっ、ああっ、んっ」 ぐちゅ、ぴちゅっ、ぐちゅ 俺が副会長に出入りしている。 溢れた潤滑油には、うっすらと血が混じっていた。 副会長とつながってるんだ。 そう思うと、ペニスはさらに力を増した。 「くっ、なんか……大きくなった、感じ」 「ああっ、くううっ、うあっ、だめっ」 リズムに乗って、副会長の髪が揺れる。 飛び散った汗が俺にかかる。 「ああっ、くっ、あっ、あああっ」 「なんか……なんか、じんじんして……ああああっ」 副会長の声が高くなってきた。 結合部からもれる音が一段と大きくなる。 「あっ、やっ、支倉くんっ」 「私っ、私っ、私っ……んああっ、くっ、うあああっ」 「副会長っ」 身体に力を込め腰を振る。 ぐちゅっ、ずちゅっ、くちゃっ 「ああっ、あっ、あっ、あっ」 副会長の秘所からはとめどなく蜜が溢れる。 ペニスを打ち込むたびに、強烈な締め付けが俺を襲う。 腰にモヤモヤとした感覚が集まってくる。 「あうっ、やっ、あああっ……」 「支倉くんの、好きなようにっ……あっ、あっ、あっ」 副会長の声はほとんど独り言だ。 こっちも、身を包む快感に言葉が返せない。 髪を舞わせながら、ぎゅっと俺に抱きついている。 「あああっ、やあぁっ、わたし、わたしっ」 「なんか、どこかにいっちゃいそうで……ああっ」 副会長を抱きしめ、渾身の力で腰を振る。 もう力をセーブできない。 くちゅっ、じゅちゅっ、ぐちゅっ! 「んあっ、支倉くんっ、支倉くんっ」 「ああああっ、あっ、あああっ……だめっ、わたし……」 副会長の爪が背中に食い込んだ。 男根を衝動が登り始める。 限界だ。 「副会長、いくぞっ」 「うんっ、いいよっ」 「あああっ、くっ……わたしも、もうすぐで……」 「くああっ、あっ、あっ、あっ……中でっ、中でいいから」 「うあぁぁっ、あああああっ……支倉くん……うああっ」 「くるっ……もう、来ちゃうから……あああああっ、あ、あ、あ、ああっ!」 「やだっ、やあっ……いくっ、いっちゃ……ああっ、あっ……あああああああっっっ!!」 副会長の声が一気に駆け上がった。 「くっ」 どくどくっ、びゅっ! びゅびゅっっ、びくっ!! 精液が次々と副会長の中に発射される。 体内に精液がぶつかる音が聞こえてきそうな勢いだ。 一瞬遅れて、全身を快感が突き抜ける。 「っっ」 声も出ない。 頭が真っ白になりそうだ。 「う……あ……」 副会長は、俺の上で痙攣していた。 意識がとぎれたように、身体だけを震わせている。 「はぁ……はぁ……」 快感が消え、俺はぐったりと力を抜く。 射精後の虚脱感が全身を支配していた。 「はせくら……くん……」 まるで長い眠りから覚めたように、ぼんやりとした声が聞こえた。 「ちゃんと……中で?」 「ああ」 「そう……」 穏やかな笑みを浮かべる。 吸血鬼は子供を作れないという。 だが、だからといって、中に出すことの意味がなくなるとは思えない。 現に今の俺は、なんとも言えない満足感に包まれていた。 「副会長」 無性に彼女が愛しくなって、強く抱きしめた。 「あはは……苦しいって」 「なんか、すごいな」 「何が?」 「すごく、幸せな気分になってる」 「こんなの初めてだ」 「私もよ」 「ありがとうね、初めてをもらってくれて」 「光栄だよ」 「誰かとこんな風になるなんて、思ってなかった」 副会長の頭を撫でる。 「こういう幸せが続くように、頑張ろう」 「ずっと一緒にいるよ」 「ありがとう」 副会長が額にキスしてくれる。 くすぐったい気分だ。 「ねえ」 「まだ、元気みたい……」 「え?」 下半身に意識を向ける。 副会長の中に入ったままのそれは、まだ硬かった。 「なんか恥ずかしいな」 「え……ええと……」 副会長が顔を赤らめる。 これはなんというか……かわいいな。 「もう一回、いいか?」 「き、聞かないでよ」 「よし」 「きゃっ」 副会長に覆い被さる。 そのまま、スカートをはぎ取りつつ、うつぶせにして腰を持ち上げた。 「こ、こんな格好で?」 「気分変わるだろ?」 「けっこう、恥ずかしいのよ」 副会長は、俺に向けてお尻を突き上げている。 お尻の穴から結合部まで丸見えだ。 「かわいいよ」 「も、もう……特別よ」 愛しさで胸がいっぱいになった。 副会長の腰をつかむ。 「いくぞ」 「ええ」 一気に腰を送り出す。 「ひゃうっ!」 副会長の身体をしっかりと固定し、腰をグラインドさせる。 すでに精液と愛液でいっぱいになった性器から、湿った音が聞こえた。 「んっ、あっ……」 「さっきと、違うところに……当たって……」 2回目のせいか、中の刺激もちょうどいい感じだ。 動きに緩急をつけ、単調にならないよう腰を振る。 「んんっ、恥ずかしいのに……なんか……」 「なんか、なに?」 「し、知らないわよ……」 「んあっ……あ、あ、あ……うあっ」 ペニスが現れ、埋没していく。 掻き出され濁った液体で、シーツにはすぐにシミができた。 めまいがするような光景に、俺の男根はいよいよ硬くなる。 「んっ、支倉くんっ……ああっ、あっ」 「すごくっ、熱くて、くっ、うああっ、あっ」 副会長の声には艶が乗っていた。 痛みも和らいできて、余裕が出てきたのだろう。 「んああっ、んっ……あああっ、あんっ」 「だめっ、うくっ、あっ……あ、あ、あ」 水音と肉がぶつかる音とが混じる。 「隣に聞こえてたら……どうする?」 「ええっ……それ、困る……よ」 「んっ……聞こえたら、怒られちゃう……」 「あああっ、あっ、ああ、あ……んんっ」 声は少しの間小さくなったが、結局また大きくなってしまう。 俺も遠慮するつもりなどない。 動きのペースを上げていく。 「あああっ、すごいっ……支倉くん、ああああっ」 「ぶつかって……あああっ、あっ、くっ、だめっ、だめだめっ」 鼻にかかった声が上がる。 欲望がわき上がってくる声だ。 「くっ」 快感に負けぬよう、腰をたたきつける。 「ああっ、うあっ……あああっ、あ、あ、あっ」 「好きっ……支倉くんっ、好き……ああっ、くううっ」 好きという声とともに、副会長の膣が締まる。 そこを突き進み、引き抜く。 からみついたヒダが、俺の身体から快感を引っ張り出す。 ぐちゅっ、ぬちゅっ! 結合部はもうどろどろだ。 部屋に満ちる淫臭に、頭がぼんやりしてくる。 「やああっ、あっ、あ、あ、あ……」 「わたしっ、わたしっ……あああっ、支倉くんっ」 身体の振動に合わせて、副会長の後ろの穴がひくひく動く。 腰を回していた手で、少しだけいじってみる。 「ひゃっ」 いきなり膣内がしまり、危うく出しそうになる。 「そっちは違う……から」 「あっ……あああっ、だめだって」 そう言いながらも、副会長の反応は悪くない。 指でそこをくすぐりながら、激しく腰を振る。 「ひうっ、あああっ、支倉くん……」 「わたし……すごく、感じて……ああああっ」 「もう……だめ……いっ、いっちゃう……んあっ、あああっ!」 副会長がガクガクと震える。 もう絶頂は目の前だ。 「く……」 こっちも限界間近。 腹筋に力を入れ、最後の力を振り絞る。 「くああっ、だめっ……うああああっ」 「もう、もう……ああっ、あ、あ、あ、あっ」 もう精液があふれ出しそうだ。 「一緒に、副会長」 「うくっ……一緒に、一緒に」 「ああっ、んんっ、わたしも、わたしも……」 「もうっ、もうっ……あああっ、いくっ、……うあああっ!」 「うあああっ、んっ、ああああっ……あっ、あっ、あっ」 「いく、いくっ、いくっ……ああっ、あっ、ああああぁぁぁぁっっっ!!」 副会長が突っ伏した。 「っっ!!!」 びくびくっ! どぴゅっ、どくどくっ! ペニスが痙攣した。 尿道のキャパシティーを越えた精液が噴き出し、痛みに近い快感が走る。 「く……すご……」 怖くなるほどの絶頂。 寿命が減った気すらする。 副会長は断続的な痙攣に襲われ、呼吸もろくにできていない。 「副会長……」 背後から抱きしめる。 俺も動けそうもない。 副会長の熱を感じながら、呼吸を整えていく。 「はぁ、はぁ……はぁ……はぁ……」 「支倉くんが……広がっていくの……わかる、よ」 「こんなに出たこと、なかったよ」 「よかったって……ことよね?」 「もちろんだ」 「そう言ってくれると……嬉しい」 女の子にそこまで言ってもらえるなんて、どれだけ幸せ者なんだと思う。 「あ……」 副会長が身体を動かすと男性器が抜けた。 こぽっ 閉じかけた割れ目から、泡だった液体がこぼれ落ちた。 俺は、ティッシュを取って秘所をふく。 「ありがとう」 「いいって」 きれいにするまでには、かなりのティッシュが必要だった。 それだけ副会長が魅力的だったってことか。 「消灯時間、過ぎちゃったわね」 「え? ああ……」 ぜんぜん気にしてなかった。 「泊まっていっていい?」 「ああ、一緒に寝よう」 副会長を抱きしめ、布団に潜る。 「副会長は真っ暗でも眠れる人?」 「小さい電気はつけておいて」 「わかった」 常夜灯を残して電気を消し、布団に戻った。 布団の中で副会長と向き合う。 「また明日ね」 「ドラマみたいに、朝起きたらいないってのはナシだぞ」 「じゃあ、捕まえておいて」 副会長が俺の手を握った。 女の子と寝るのは初めてだ。 副会長の身体は驚くほど温かい。 それは、体温だけではなく心も温めてくれるからだ。 会長の件もあり、今日の副会長はかなり辛い思いをした。 俺も、彼女の心まで温められればいいんだが……。 「不安になったりはしないか?」 「うん」 「そばにいてくれれば大丈夫」 「そうか」 副会長を優しく抱く。 「おやすみ」 「おやすみなさい」 副会長の穏やかな声を聞き、俺はまぶたを閉じた。 ピピピピッピピピピッ 「ん……」 枕元で目覚ましが鳴った。 むくりと身体を起こし、アラームを止める。 「おはよう」 隣から声がした。 そういえば、昨日はあのまま寝たんだっけ。 「あ、ああ……おはよう」 「どうしたの、きょとんとした顔して」 「こんな朝は初めてだから」 「え? ああ、そっか……」 まぶしい朝日を背に、副会長が微笑む。 そう、こんなに幸せな朝は初めてだ。 「私もよ……」 副会長が俺の額にキスした。 「いま何時?」 「8時前だな」 「そっか、急いで用意しないと」 「なんの?」 「学校行く準備に決まってるでしょ」 「ああ、忘れてた」 今日は平日だった。 あまりにいい朝すぎて、頭が溶けてた。 「いったん部屋に戻るわね」 副会長がベッドを下り、落ちていた服をまとってゆく。 俺も、とりあえずパンツをはく。 「あーあ、シワになっちゃってる」 「すまん」 昨日は着たままだったからな。 「部屋に戻るまでに見つかったらバレるかも」 「堂々としてれば大丈夫さ」 「どうかしら、女の子は敏感だから」 笑って副会長は部屋の入り口に向かう。 「ちょっと待て、外の様子を見てみる」 頭だけを廊下に出して、周囲を窺う。 幸運なことに誰もいない。 「チャンスだ」 副会長を手招きする。 ……。 返事がない。 いったん室内に引っ込む。 「どうしたん……」 振り返ってぎょっとする。 副会長の視線が俺に注がれていた。 だが、瞳には理性の輝きがない。 ただ、じっと俺の身体を見つめている。 もしかして……俺の血を…… 「副会長」 「……」 「おいっ」 「え?」 副会長が、やっと俺の顔を見た。 「大丈夫か?」 「あ、うん」 「大丈夫、我慢できるわ」 ぎこちなく笑顔を作る副会長。 額にはうっすらと汗が浮かんでいる。 「かなりヤバいんじゃないのか?」 「平気よ」 「部屋には、まだ輸血用血液があるから」 「そっか」 じゃあ、なくなったらどうなるのか? 副会長は耐えるしかない。 耐えられなくなったときのことは副会長にもわからないだろう。 「副会長、今日は一緒に登校しないか?」 「いいわね」 「玄関で待ってるよ」 「ええ、それじゃっ」 俺を避けるように、副会長が出て行った。 「……」 今まで、ここまでわかりやすい状態になったことはなかった。 本当に、タイムリミットが迫っているかもしれない。 「く……あ……」 なんとか部屋に転がり込んだ。 まったく言うことを聞かない身体を引きずり、ベッドに倒れる。 途中で何人かの生徒に心配された気がするが、何を言われたのか覚えていない。 叫び出しそうになるのを抑えるので精一杯だった。 「はぁ、はぁ……はぁ……」 支倉くん、支倉くん、支倉くん!! 今すぐ会いたい。 今すぐに抱きしめられたい。 できることなら、二度と離れられないよう彼を縛りつけてしまいたい。 そう、 彼を、彼を……。 身体の底から衝動がわき上がり、全身を包む。 「うあああっ」 気づいたとき、浴槽にうずくまっていた。 土砂降りの雨のように、シャワーが降り注いでいる。 自分は、まだ部屋にいる。 「よかった……」 支倉くんを襲わずに済んだ。 でも、こんなことはあと何回も続けられないだろう。 彼を好きになるほど不安が増すとすれば、理性が負ける日も遠くない。 頼みの綱だった輸血用血液も残りはゼロ。 まあ、今さら飲んだところで効果はないだろうけど。 ちゃらちゃちゃーちゃらちゃちゃー♪ 携帯の音が聞こえた。 びしょびしょのまま浴室を出て、携帯を取る。 支倉くんだ。 通話しようとして手が止まった。 電話を切ったら、また不安に襲われるのではないか。 そんな恐怖に一瞬動けなくなったのだ。 だが、電話に出なければ彼はここまでやってくるだろう。 「もしもし」 「どうした? そろそろ行かないと遅刻するぞ?」 時計を見る。 ぎりぎりの時間だ。 とはいえ、この格好で行けるわけもない。 「ごめん、教科書を探してたら遅くなっちゃって」 「悪いけど、先に行ってもらえる?」 我ながら苦しい言い訳だ。 「身体、大丈夫なんだよな?」 「もちろん」 「本当に教科書探してただけだから、心配しないで」 「……わかった」 少し間をおいて支倉くんが答えた。 あんな別れ方をした直後だ、おそらくだませていない。 「じゃ、先に行ってるぞ」 「ごめんね」 「気にするなって」 電話が切れた。 軽く不安が襲ってくるが……。 大きく深呼吸をして、やりすごす。 「よし……」 ちゃんとお風呂に入って、学校に行こう。 これ以上心配をかけるわけにはいかない。 1時間目が終わり、俺は副会長の教室へ向かう。 朝の様子はどう考えてもおかしい。 副会長の性格からして、遅刻しそうなら自分から電話してくるだろう。 「お……」 副会長が廊下に出てきた。 ひとまず安心した。 「副会長」 「あ、支倉くん」 副会長が小走りに駆け寄ってくる。 「教科書、見つかったのか?」 「あ、うん」 「ならよかった」 笑顔で副会長を見ると、彼女はわずかに視線を落とした。 教科書の話がやはり嘘なのだと、なんとなくわかってしまう。 「ごめんね、約束破っちゃって」 「いいって、怒ってないさ」 「よかった」 「それじゃ、また放課後ね」 「ああ」 軽く手を振って、副会長がきびすを返す。 「……」 授業が始まる。 だが、俺の頭の中は今朝のことでいっぱいだ。 問い詰めたところで、副会長は本当のことを教えてくれないだろう。 心配をかけないために嘘をついているとするなら、それだけ状況が悪いと見ていい。 「……」 時間はもうない。 だが、状況は八方ふさがり。 どうしたら伽耶さんを説得できるんだ? 初めは、眷属が必要なものではないと証明すればOKだと思っていた。 だから吸血鬼のことを聞いて回ってきたが、決定的なことはわかっていない。 それに、理屈で説明したところで、伽耶さんが納得するとは限らない。 彼女と副会長の間には、感情的な問題も横たわっている。 それも家族の愛情なんていう、一番プライベートな問題だ。 部外者の俺に何ができるんだ? いや、俺が部外者なのは何も家族の問題に限ったことじゃない。 吸血鬼問題でも俺は部外者だ。 俺以外の生徒会役員は、昔から吸血鬼の問題に深く関わってきた人ばかりだ。 そんな人たちですら、解決できなかったんだ。 副会長を助けたいという理由だけで、いろいろ聞いて回っていただけの俺に何ができる? ……。 待てよ。 ここはポジティブに考えよう。 みんな、それぞれ立場や考えがあったから、結果として生徒会はバラバラになった。 こんな時こそ、部外者が活躍するチャンスじゃないか? 当事者には複雑な問題でも、一歩引いて見ると答えがわかることもある。 いったん、問題から離れて考えてみよう。 誰が何を求め、どんな問題を抱えているのか。 みんなが納得できる理想像はどんなものなのか。 「……」 問題の中心にいるのは言うまでもなく伽耶さんだ。 彼女が行動を改めてくれれば丸く収まる。 そう断定しようとしたとき、東儀先輩の言葉が頭をよぎった。 「言葉が足りないのは伽耶様の悪いところだ。だから瑛里華を責める気はない」 「ただ同様に、伽耶様を一方的に責める気もないがな」 そうだ。 これは一歩引いた見方じゃない。 伽耶さんを一方的に責めている。 客観的に見るなら、伽耶さんも副会長たちと同列に見なくてはならない。 彼女は何を望み、何を理想としているのか? ……わからない。 それはきっと、伽耶さんを説得すべき敵としてしか見ていなかったからだ。 伽耶さんの説得方法を尋ねたとき、東儀先輩はこう答えた。 「あったとしても、今の支倉には教えられないな」 「今の支倉」っていうのは、つまり―― 伽耶さんを説得対象としてしか見ていない俺のことではないだろうか。 東儀先輩はずっと彼女のそばにいたし、彼女を嫌いではないとも言っていた。 そんな彼が、俺を許容できるはずがない。 とすれば……、 東儀先輩が俺に求めていたのは、伽耶さんも満足できる道を探す姿勢だ。 仮に伽耶さんが説得に応じてくれたとしても、彼女に不満が残っていれば、その後の千堂家はうまくいかないだろう。 それでは、親子関係は修復されない。 そうだ。 そうに違いない。 「……」 放課後、もう一度聞いてみよう。 それで東儀先輩が何か教えてくれるようなら、現状を打破できるかもしれない。 それに、俺は部外者だ。 多少無茶をしたところで、部外者の暴走で済む。 伽耶さんも目くじらは立てないだろうし、東儀家にも迷惑をかけない。 この状況でやんちゃができるのは俺だけなんだ。 昼休みになり、俺は監督生室へ向かった。 東儀先輩と二人で話をするためだ。 約束は、休み時間にメールで取り付けてある。 部屋には、すでに東儀先輩がいた。 「お待たせしました」 「構わんさ」 俺は向かい側のイスに座る。 「で、話とはなんだ?」 「伽耶さんの話です」 「突然だな」 「実は、あまり時間がないんです」 「副会長が、かなり参ってきてるみたいで」 「瑛里華が?」 「口には出していないんですが……」 東儀先輩の表情が少し引き締まった。 「わかった。話を聞こう」 やや緊張しながら、俺は口を開く。 「昨日、伽耶さんのことを聞いたとき、今の支倉には教えられないって言いましたよね?」 「あれから考えたんです。どういう俺なら教えてくれるのか」 「それで?」 「俺はずっと、伽耶さんを説得する対象として見てました」 「でも、それじゃダメだって思ったんです」 「伽耶さんが説得に応じてくれて副会長が自由になったとしても、伽耶さん自身は救われません」 「伽耶さんにしこりが残る状態だと、その後の千堂家がうまくいかなくなるし、東儀家にだって被害が出ると思います」 東儀先輩は目をつむって俺の話を聞いている。 「俺は当座の問題を解決することばかりを考えていました」 「でも、この問題を根本から解決するには、伽耶さんも含めて全員が喜べる方法を探さなくちゃ行けないんだと思います」 「なるほどな」 東儀先輩が目を開いた。 「たしかに、千堂家がうまくいくことは大切だ」 「学院創設の件でもわかったと思うが、伽耶様は決して子供を思っていないわけではない」 「だが、それを伝える術を知らないのだ」 「伽耶さんは、自分の気持ちを知って欲しいと思ってるんですか?」 「初めはそうだったろうが、今はわからない」 「満たされない欲求というものは、時間とともに人を蝕むものだ」 「……」 そう言えば、副会長も同じようなことを言っていた。 「感情って生ものなのよ。すぐに使わないと腐ってしまうの」 「それが発酵ならいいけど、たいていは腐敗だわ」 副会長も、満たされない欲求が自分の中で変質していくのを感じていたのかもしれない。 満たされない欲求というのは、人をゆがめる種のようなものなのだろう。 それは時間とともに成長し、いびつな花を咲かせる。 怖いのは、当の本人が水をやるのに精一杯で、種の正体に気づかないことだ。 本当は、育ててはいけない種なのかもしれないのに……。 「なんにせよ、伽耶さんをもっと知らなくちゃいけません」 「そうだな」 「東儀先輩はそのためのヒントを知ってるんですよね?」 「やっぱり、今の俺にも教えられませんか?」 「いや、支倉は俺の期待した答えを返してくれた」 そう言ったきり、黙り込んでしまう。 「これは的外れかもしれませんけど」 「俺なら、無茶なこともできます」 東儀先輩が目で先を促す。 「俺は結局、4月から入った部外者ですから……」 「独断で暴走したことにすれば、副会長や東儀家にも迷惑はかかりません」 「だから、副会長をここへは呼びませんでした」 「独断ってことにするなら、知ってる人が少ない方がいいですから」 「俺は、支倉を部外者などと思ったことはない」 「ずっと、誰よりも瑛里華のことを考えてきてくれた」 「何より、こんな馬鹿げたことでもがいている俺たちに、真剣に付き合ってくれた」 「感謝こそすれ、部外者などと思うことはない」 「東儀先輩……」 素直に嬉しかった。 「少し考えさせてくれ。答えが出たら知らせる」 そう言って考え込む。 俺が言ったことは間違っていなかったと思う。 東儀先輩が真剣に悩んでいるのが、何よりの証拠だ。 何か手がかりを教えてくれればいいんだが……。 「わかりました。返事待ってます」 そう言って、俺は席を立った。 帰りのホームルームが終わり、教室に喧噪が満ちる。 携帯にはまだ連絡がない。 「なんかあったか?」 いきなり司が聞いてきた。 「いや、特には」 「一日中、考え事してたよね」 「あー、まあ、生徒会の仕事でね」 「たいしたことじゃないんだ」 「そう?」 「何か力になれることがあったら言ってね」 「さんきゅー」 「ま、またお茶会でもしようや」 「おう」 「じゃ、生徒会行くわ」 「うん、頑張ってね」 二人に笑顔で別れを告げ、俺は教室を出る。 ちゃーちゃーちゃっちゃー♪ 昇降口を出たところで携帯が鳴った。 はやる気持ちを抑え、携帯を開く。 『詳しいことは、東儀家で話したい』 『本日18時に学院を出るので、そのつもりで頼む』 『征一郎』 『了解』と簡単に返信を出し、俺は監督生室に向かう。 時計が17時を回った。 「ちょっと先生方と打ち合わせに行ってくるわ」 副会長が立ち上がる。 「副会長が?」 「兄さんがいないからね」 「仕事の話だったら電話したらどうだ?」 「いいのいいの、たいした内容じゃないから」 「二人とも、待ってないで帰っていいわよ」 「頼んだぞ」 「よろしく」 「ええ、それじゃね」 副会長は書類を持って出ていく。 「追い出したわけじゃないですよね?」 「もともと予定されていた会議だ」 「俺はそこまであくどく見えるか?」 「あ、いえ」 「出発はメールの通りだ。それまでに仕事を片づけておいてくれ」 「わかりました」 手元の書類に目を落とす。 東儀先輩は、いったいどんな話をしてくれるのだろうか。 18時を過ぎ、俺たちは校門まで来ていた。 守衛の金角銀角に外出届けを見せ、敷地の外に出る。 「日が延びたな」 「もう6月ですしね」 「ああ」 監督生室を出てから、俺たちはずっとこんな調子だ。 口数少なく、黙々と歩を進める。 一歩ごとに胸が高鳴るのを感じる。 しばらく歩き、大きな屋敷に到着した。 目の前には瓦葺きの門。 そこから、白い塀が霞むほど遠くまで続いている。 純和風の「屋敷」といった雰囲気だ。 「さあ、入ってくれ」 「は、はい」 さすがにビビる。 大きな門をくぐる。 中には大きな建物がいくつもあった。 その中で一番大きな建物に入っていく。 料亭の仲居さんみたいな女性に案内され、俺たちは奥へ進んだ。 伽耶さんの部屋とは違い、人の息づかいが感じられる部屋だ。 ときおり聞こえるししおどしが、落ち着いた雰囲気を醸し出している。 「茶が出るまで少し待とう」 「あ、お気遣いなく」 「俺が気を遣わなくても、家の者が遣う」 苦笑する東儀先輩。 自宅にいるせいか、いつもよりリラックスしているように見えた。 ほどなくして、障子が控えめに開いた。 「お久しぶりです、支倉先輩」 現れたのは白ちゃんだった。 「こんにちは」 白ちゃんが持ったお盆には、お茶と和菓子が載せられている。 「部屋にいるように言ったはずだが」 「申し訳ありません」 「でも、どうしても支倉先輩に伝えたいことがあって」 と、俺たちの前にお茶を並べていく。 征一郎さんが俺を見る。 目で「構わないか?」と聞いてきた。 もちろんだ。 東儀先輩にうなずく。 「白、話してみてくれ」 「あ、はい」 白ちゃんが正座する。 「今回のことではご迷惑をおかけして、申し訳ありません」 「わたしの身勝手な行動で、生徒会を離れることになってしまいました」 白ちゃんが頭を下げる。 「謝ることはないよ。ちょっとびっくりしたけどね」 「俺や副会長のことを相談しに行ってくれたんだろ?」 「はい」 「伽耶様はお願いを聞いてくれませんでしたが……」 「でも、東儀家と伽耶様の関係が少しだけわかったんです」 「それをお伝えしたかったんです」 白ちゃんは意外なことを言った。 「どんなこと?」 「わたしはずっと、伽耶様は東儀家に眷属を求めていらっしゃると思っていました」 「違うのか?」 「はい」 「伽耶様は眷属に対してひどいことをされています」 「ですから、眷属を求めているとは考えられません」 「言われてみればそうだね」 「じゃあ、何を求めてるんだ?」 「それは……」 「こほっ」 勢い込んでしゃべっていたせいか、白ちゃんが咳き込んだ。 「これを飲め」 「あ、はい、すみません」 東儀先輩が自分のお茶を白ちゃんに渡す。 白ちゃんが湯飲みに口をつけて一息つく。 「失礼しました」 「いいよ、ゆっくりしゃべって」 「はい」 「伽耶様が当家に何を求められているかということでしたけど……」 「わたしは、ご友人を求めてらっしゃるのだと思います」 「友人を……?」 「だったらなおさら、ひどいことをするのはおかしくないか?」 友人を眷属にしたり、殺したりするのか? 「普通はそうなんですが……」 「伽耶様はご友人を作る際、まず眷属にされてしまうのです」 「それって順序がおかしくないか?」 「たしかにおかしいですが……」 「伽耶様の中では筋が通っているのだと思います」 「というと?」 「伽耶様は、紅瀬先輩を理想のご友人として見ていらっしゃいます」 「紅瀬さんを?」 「はい」 「紅瀬先輩は眷属になる前からのご友人だからこそ、今でも伽耶様のおそばにいるのだと思います」 「ところが伽耶様は、紅瀬先輩が眷属だからずっと友人でいてくれていると勘違いされているのではないでしょうか」 「つまり、人を眷属にすれば紅瀬先輩のような友人になるとお考えなのです」 「だから、順番が逆なのか……」 「そりゃ盛大な勘違いだ。まず普通の友達じゃないと、紅瀬さんみたいにはならないだろ」 「はい。なので東儀家の眷属がお気に召さず捨ててしまわれるのです」 「無茶苦茶だ」 白ちゃんは、自分が怒られたかのようにしょんぼりする。 「どんなに無茶苦茶でも、おそばにいるのが友人だと思いますし……」 「伽耶様が間違った方向に進まれるなら、それをお止めするのも友人の役目です」 「わたしは、紅瀬先輩を見ていてそのように考えました」 「……」 以前、白ちゃんが言っていたことが脳裏をよぎった。 「私はずっと、主の友人だと思っていました」 「でも、紅瀬先輩を見て、もう少し違うことを考えたんです」 「眷属は友人ではあるのですが、もっと大きな愛情が必要なのではないでしょうか」 白ちゃんの言う“もっと大きな愛情”っていうのは、こういうことだったのか。 そばにいるのはもちろん、友人が間違った道を進むのならそれを諫める。 それは、親友や家族といった人が持つ深い感情だと思う。 白ちゃんはそれを“もっと大きな愛情”と表現したのだろう。 「ですから、前にお会いしたとき、ひどいことをされても見捨てないと申し上げたのですが……」 「どうやら、それがお気に障られたようで」 さすがにちょっとストレートすぎか。 今の伽耶さんは、白ちゃんのような直球の好意を受け止められる状況ではないだろう。 「支倉先輩」 白ちゃんが改まった口調で言う。 「なに?」 「どうか伽耶様を責めないでください」 「たしかに、当家は悲しいことをされました」 「でも、だからといって伽耶様を恨んだり見放してしまっては、東儀家は本当の意味で役目を果たせません」 白ちゃんが、しっかりとした口調で言う。 「そうすることを、ご先祖様は願っている気がしますので」 まっすぐに俺を見る白ちゃん。 「わかった」 「俺も伽耶さんの力になれるように考えてみる」 俺の言葉に、白ちゃんの表情が明るくなった。 「よかったです」 「以前は俺も伽耶さんを憎んでいたけど、今は違う」 「伽耶さんにも、幸せになって欲しいと思ってるよ」 「伽耶様のこと、よろしくお願いします」 白ちゃんが深く頭を下げる。 しつけが行き届いているのだろう、きれいな仕草だった。 「白」 「はい」 二人が見つめ合った。 「いや、なんでもない」 「話はこれで終わりか?」 「そうです」 「そうか」 「なら、俺と支倉は大切な話があるから、悪いが外してもらえるか?」 「わかりました」 もう一度頭を下げ、白ちゃんが部屋から出ていく。 障子が閉まった。 白ちゃんの姿が見えなくなっても、東儀先輩は障子を見つめていた。 まるで、白ちゃんの残像を見ているかのようだ。 「白ちゃん、変わりましたね」 「ああ、頼もしくなった」 東儀先輩が、口元に柔らかな笑みを浮かべる。 「さて」 東儀先輩が姿勢を正した。 話が始まるようだ。 「これから話すことは、今まで誰にも話したことがない」 「……」 つばを飲み込む。 「初めに謝らなくてはならないが、伽耶様を説得する直接の方法は知らない」 「だが、吸血鬼の謎を解く鍵は提供できるかもしれない」 ししおどしの音が聞こえた。 長い余韻が、部屋の空気に染み込んでいく。 「俺の父親が、伊織と吸血鬼の生まれ方について調べたことは知っているな」 「以前聞きました」 「二人は、吸血鬼が伽耶様の望んだタイミングで生まれる……」 「つまり、伽耶様が意図的に作っているのではという推論を立てた」 「そのことについては、先日会長から新しいことを聞きました」 「なに?」 意外そうな顔をする東儀先輩。 「聞かせてくれないか?」 「はい……」 会長から聞いた話を、かいつまんで伝える。 「つまりは、石みたいなものを人間に飲ませると、吸血鬼になるんじゃないかって話なんですが」 「そうか……伊織がそんなことを……」 「何か心当たりはありますか?」 東儀先輩がじっと考える。 少しして、東儀先輩は立ち上がり、違い棚から小さな包みを取り出した。 「これを見てくれ」 と、畳に置いた包みを開いた。 中には、小指の爪ほどの大きさの石が2つ入っていた。 いびつな形をしており、まるでガラス玉の破片のようだ。 色は燃えるような赤。 光の加減か、中で炎が燃え立っているように見える。 「ルビーですか?」 「わからないな」 東儀先輩が、その一つをつまみ上げる。 「それが、会長の言っていた石だと?」 「その可能性がある」 「どういうものなんですか?」 「東儀家に伝わるもので、紅珠と呼ばれている」 「千年泉から引き上げられたものだという」 「千年泉?」 意外な名前が出てきた。 「支倉は、千年泉の伝承を覚えているか?」 「ええ、一通りは」 「伝承の中で、泉の水を飲むと病気が治るというものがあったな」 「あれは、どうやら事実だったらしい」 「はあ」 「証拠に、紅珠を泉から引き上げた時から、泉に病を治す効果はなくなったということだ」 「紅珠が水に溶けてたとか、そういうことですか?」 「そうかもしれないということだ」 「仮に、紅珠に病気を治す力があったとしても……」 「人を吸血鬼に変えるとは言えませんよね」 「言えるのは、泉の水に何らかの効果を及ぼしていた可能性がある、ということだけだ」 「ただ、他にも2つ考えるべきポイントがある」 目で先をうながす。 「まず一つ目だが、支倉の血は普通の人間とは違うようだ」 「えっ?」 「俺が以前調べたのだが、やや変わった反応があった」 「それに、伽耶様も支倉の血をなめたことがあるらしい」 「隠し味があると仰っていた」 「伽耶さんが……いったいどうやって?」 「手段についてはよくわからない」 「申し訳ないが、それを確かめるのは難しいだろうし、ここでは問題にしない方がいい」 「はあ……まあ、そうですね」 釈然としないが、疑問を引っ込めておこう。 「それで、支倉は千年泉で泳いだことがあると言っていたな」 「はい、ガキのころですが」 「泳いだときに、紅珠のかけらを飲んだりしたって話ですか?」 「まあ、これも可能性だ」 「支倉も、当時のことを細かく覚えてはいまい?」 「はい」 泳いでいて砂が口に入るなんて、珍しいことじゃない。 珠を飲んだかどうかなんて覚えているはずがない。 「そしてもう一点、これは瑛里華に関することだ」 「副会長に?」 東儀先輩がうなずく。 「瑛里華には絶対に言って欲しくないのだが……」 「血筋でいうと、瑛里華は俺の妹に当たる」 「っっ!」 さすがにリアクションが取れなかった。 吸血鬼は東儀家に生まれるってのは聞いてたけど……。 「すまんな、驚かせて」 「い、いえ……」 そう答えるのが精一杯だ。 「瑛里華は、生まれてすぐに千堂家へ引き取られることになった」 「さっきの伊織の話からすれば、伽耶様が珠を飲ませたということなのだろう」 「誰か、珠を飲ませるところを目撃したりはしなかったんですか?」 「いや、気づかなかったらしい」 「そうですか」 目撃者でもいれば、話は簡単だったのだが……。 「ただ、吸血鬼の生まれ方に疑問を持っていた父は、ある実験をしたらしい」 「瑛里華が引き取られる前に、紅珠を一つ飲ませたのだ」 「……」 実の娘を実験台にしたのか。 たしかに、副会長に打ち明けられることではない。 「結果、何かわかったんですか?」 「いや」 東儀先輩が首を振る。 「だが、最近になって一つ気になることが出てきた」 「瑛里華だけが、支倉の血にひかれているということだ」 「そうきましたか」 「支倉の血が吸血鬼にとって魅力的なものなら、伽耶様も伊織も同じ反応をするはずだが、そうではない」 「紅珠を飲んだ瑛里華だけが反応し、支倉もまた紅珠を飲んだ可能性がある」 「これがポイントだ」 「……」 なにか、モヤモヤとした可能性だけが浮遊している。 結局、紅珠には何か力があるらしい、ということしかわからない。 「これを伽耶さんに見せたことはあるんですか?」 「ないな」 「伽耶様の反応がまったく予測できない」 「紅珠から吸血鬼が作られるっていう証拠はないんですね」 「すまんが、そういうことだ」 また一つ、ししおどしが鳴った。 だが、とてものどかな気分にはなれない。 「代々、男の当主は伽耶様と距離を取り、秘密裏に調査を進めてきた」 「だが、それも父の代で行き詰まった」 「だから、俺は方針を変えて伽耶様に近づいたのだ」 「結果的に、確証らしいことは何も得られていないがな」 そう言って苦笑した。 こんな話で苦笑できる東儀先輩は、苦痛や悲しみを味わい尽くしてしまったのかもしれない。 「知っていることはこれですべてだ」 「八方ふさがりですね、結局」 「すまんな」 「責めてるわけじゃないです」 「ただ、このままじゃ何も変わりません」 副会長には、もう時間がないかもしれないのに……。 紅珠が視界に入る。 珠の中では、生き物のように光が揺れていた。 俺が試してみるか……? ふと、そんな考えが浮かんだ。 こいつを使って何が解決する? 実際にこれを飲んだという副会長に、どんな変化があったのか定かではない。 おそらくそれを確かめる術もない。 俺がこれを飲めば、少なくとも珠にどんな効果があるのかは確かめられる。 「……」 だが、飲んだら俺はどうなるんだ? 紅珠が仮に、人間を吸血鬼にするものだとしたら? 「支倉」 「あ、はい」 「これを試そうと考えているのか?」 「思いつくことが、それしかありません」 「副会長にはもう時間がないんです」 「ふむ……」 東儀先輩が黙る。 「東儀先輩も、俺が試そうとするのを知ってて話をしたんじゃないですか?」 そのままの姿勢で、しばらく東儀先輩は黙っていた。 否定しないということは、肯定と取っていいのだろう。 「すまない」 東儀先輩が、頭を深く下げた。 「……」 「兄妹として共に過ごした時間はないとはいえ、俺も瑛里華を救いたい」 「だが、白や一族のことを考えると俺が珠を試すわけにはいかないのだ」 「ご両親の結末を考えたら、東儀先輩が珠を使うのはよくないですよ」 もし俺に何かあったら、副会長はどう思うだろう? 海外にいる両親は? 友達は? だが、ここで何もせず、副会長にもしものことがあったら俺はずっと後悔するだろう。 それに、きっとこれは部外者にしかできないことだ。 「俺、試してみます」 「もし吸血鬼になったら、その時は……ま、諦めましょう」 なぜか俺は笑顔で答えていた。 不安すぎて、どこか壊れてしまったのかもしれない。 「支倉……」 「すまない」 また、頭を下げられた。 「謝らないでください、これは俺が選んだことですから」 「仕向けたのは俺だ」 「なんでもいいから教えてくれって言ったのは俺です」 苦笑する。 「試した結果がどうあれ、できる限りのサポートをしよう」 「どうも」 平静を装ってはいたが、胸の中は大混乱だった。 だが、これでいい。 少なくとも、後悔にまみれて生きる人生は回避できる。 唯一心残りがあるとすれば…… 副会長に何も告げず、無茶をすることだ。 本当なら、最後まで一緒に頑張っていきたかった。 でも仕方ない。 この場に副会長がいたら、こんな無茶はさせてもらえないしな。 「この珠を飲めばいいんですよね?」 「ああ」 「わかりました」 「ただ、飲むのは寮に帰ってからにします」 「ここでぶっ倒れでもしたら、東儀家に迷惑がかかりますから」 「気遣い、感謝する」 またもや頭を下げそうになる東儀先輩を制する。 「そうだ、俺にもしものことがあったら副会長には……」 なんと言葉を残すか。 ありがとうか、ごめんなさいか。 「……」 いや、彼女に残す言葉は決まってるな。 「この学院は最高だったと伝えてください」 「まあ、最悪でも吸血鬼になるだけで、死にはしないと思いますが」 悲愴な面持ちになる東儀先輩。 「紅珠はまず一つ試すってことでいいですか?」 「ああ、そうしてもらおう」 東儀先輩が紅珠を一つ俺の手に載せた。 副会長の瞳のように赤い珠。 内側では、ゆらゆらと光が揺れている。 そいつをハンカチに包んで鞄に入れた。 「それじゃ、俺はこれで」 「外まで送ろう」 「いえ、ここで。決心が鈍りますから」 「そうか……」 「わかった」 東儀先輩が、手元にあった鈴を鳴らす。 どこか遠くから、足音が近づいてくる。 「頼んだぞ」 「任せてください」 「といっても、飲み込んで寝るだけですが」 「笑いたいところだが、笑えん」 つらそうな顔をする東儀先輩。 「いいんですよ」 「お呼びでしょうか」 「支倉が帰る。玄関まで案内してやってくれ」 「はい、かしこまりました」 「じゃ、お邪魔しました」 「またな」 東儀先輩と視線を合わせ、互いにうなずいた。 白ちゃんは、東儀先輩との話の内容には触れず、俺を外まで案内してくれた。 「しかし、ほんと大きな家だよな」 屋敷を振り返る。 「はい、古い家ですので」 白ちゃんが、ちらりと俺を見る。 何か聞きたそうだが、あいにく話せるようなことではない。 「そう言えば……」 「白ちゃんから眷属の話を聞いた後、東儀先輩が何か言いかけたよな」 「あ、はい」 「何を言うつもりだったのかな?」 「よくはわかりませんが、怒ってらしたのかもしれません」 「わたしは、兄さまの思いを無にしてしまいましたから」 「そうなのか?」 白ちゃんがうなずく。 「兄さまは、伽耶様のおそばで、わたしが眷属にされないよう配慮してくださっていたのです」 「伽耶様も、わたしには好き勝手に生きろと仰っていました」 「瑛里華先輩にも、わたしを眷属にするつもりはありませんでしたから、実際は自由に生きることができたのです」 「でもわたしは、自分から眷属になるなどと騒いでしまいました」 「そうだったのか」 「でもどうして、眷属になるつもりになったんだ?」 「支倉先輩を見ていたからです」 「俺?」 「支倉先輩は、本来吸血鬼と関係がないのに、瑛里華先輩と頑張ってらっしゃいました」 「なのに、眷属になる家に生まれたわたしが自由に生きるわけにはいきません」 「それはさすがに、みなさんに甘えすぎだと思いました」 「白ちゃん……」 「それに、たくさんのご先祖様が東儀家の役目のために命を落としてきました」 「わたしだけが、役目から逃げてはいけないと考えたんです」 白ちゃんが静かな声で語った。 出会ったころの白ちゃんとは別人みたいに、しっかりとした意志が感じられる。 「東儀先輩は怒ってないと思うよ」 「そうでしょうか?」 「ああ」 「白ちゃんはたしかに、東儀先輩の思い通りには動かなかった」 「でもそれは、白ちゃんが東儀先輩の予想を越えて立派になったってことさ」 「だから、ちょっとびっくりしたんだと思う」 「支倉先輩」 「だから、自信を持って大丈夫」 「はい」 目尻にたまったものを、白ちゃんが指先でぬぐう。 「また一緒に、生徒会の仕事をしような」 「は、はいっ」 「楽しみにしてるよ」 「じゃ、今日はありがとう」 最後に白ちゃんの頭を撫でて、東儀家を後にする。 俺は俺のやるべきことをしよう。 部屋に戻ったのは夜9時前。 早々に入浴をすませ、就寝の準備をした。 あとは、紅珠を飲んで寝るだけだ。 テーブルの上に、水の入ったコップと珠を並べる。 みんなへ書き置きでも残そうと思ったが、やめた。 最悪、吸血鬼になっても死ぬわけじゃない。 話はできるだろう。 「よしっ」 あとは野となれ山となれ、だ。 左手に珠、右手にコップを持つ。 ……。 いくぞっ。 珠を口に入れ、水で流し込んだ。 「……」 ……。 10秒経過。 ……。 …………。 1分経過。 なんともない。 すぐには効果が出ないのかもしれない。 とりあえず、ベッドに入ってしまおう。 布団に入り、天井を見上げる。 なんだろう? 胸のあたりが少し熱い。 やがてその熱が、じんわりと全身に広がる。 ぬるま湯に浸かっているような気分だ。 ……。 気持ちいいな……。 だんだん眠くなってきた。 ……。 ちょっと……待て…… 普通の…… 眠気じゃ…… ない気が……する……ぞ…… 俺は、真っ暗な空間に立っていた。 周囲には何も見えず、ただ立っているという感覚だけがある。 「?」 ふと、遠くに明かりが浮かんだ。 とにかく、そっちへ向かってみる。 ……。 そこにあったのは、小さな木製の机だった。 天板には、一冊の分厚い本が載っている。 なんで机があるのか、本があるのか、さっぱりわからない。 少し緊張しながら、本を開いた。 1ページ目は白紙だった。 タイトルも作者の名前もない。 さらにページをめくる。 白紙、 白紙、 白紙。 何も書いていないのか? ぱらぱらとページをめくっていく。 「おっと」 本のラスト付近に、ようやく何か書いてあるページがあった。 日本語だ。 ざっと目を走らせてみる。 マレヒトさん、    マレヒトさん、  マレヒトさん、 島の子供たちが私の名を呼ぶ。 稀仁。 これが今の私の名前だ。 この国の言葉で「外の国から来た人」という意味らしい。 島に来た当初、私は大変怖がられたものだ。 だが今は、村一番の物知りとして私を大切にしてくれる。 永遠の命を得るために蓄積した知識が役に立った。 あの悲劇から百年、人との交わりを断ってきた私が再びこうして人の中で生きてゆくことになるとは……。 なぜ自分は、人の温もりを諦めきれぬのだろうか。 今度こそ、この身体に巣くう獣を飼い慣らしていかねば。 「……」 誰かの日記なんだろうか? 島という言葉が気になるところだが……。 東儀家には、美しい姉妹がいた。 東儀家はこの島の名主であると同時に、島の神殿を守る司祭の家でもある。 女性が代々の当主を務めるという変わった風習を持つのは、女性の方がよく神の声を聞く性質があるかららしい。 姉が病床に臥したのはこの冬のこと。 寒さによる衰えから胸を患ったようだ。 私の家に運び込まれたときにはかなり弱っていたが、夏が訪れる頃にはなんとか完治させることができた。 困ったことに、私は姉を愛してしまった。 姉もまた私の孤独を哀れんだのか、病が治ったにもかかわらずそばにいてくれる。 病による穢れが原因で当主の権利を失ったことも大きかったかもしれない。 だが私は人ならざる身。 死を持たぬ代わりに、生を紡ぎ出すこともない。 研究の果てに、生命の環からはずれた忌まわしき存在なのだ。 そして何より、私の身には獣が巣くっている。 どうして人と家庭を持つことができようか。 東儀家が出てきた。 どうやら、この島に住んでいた人の日記で間違いないようだ。 しかも「自分を人ならざる身」とか言っている。 おまけに寿命がなく、子もなせないという。 これを書いた人は、もしかして…… 祝言を挙げたのは、冬のある日のことだった。 すべてを打ち明けた私を彼女は受け入れ、私はその優しさに身をゆだねた。 だが、恐れていた通り、獣は夜な夜な赤い舌をちらつかせた。 獣をなだめるべくあらゆる方法を試し、やがて私は一つの答えを得る。 ああ、この身のなんたる浅ましさよ。 人の血をもってしか、獣をなだめられぬとは……。 彼女と所帯を持って三年。 私たちの間には子が授からなかった。 原因はもちろん私だ。 だが妻は自分を責めていた。 私が悪いと何度言っても、彼女は納得しなかった。 彼女の苦悩がいよいよ体調にも現れたころ、また一つ奇跡が起った。 生命が宿ったのだ。 このような奇跡が我が身に起ろうとは! 神からの賜り物だと彼女は言ったが、私は真相を察していた。 東儀家の当主である義妹が島の力を使ったのだ。 そもそも私は人ならざる身。 尋常な手段で子を得られるわけがない。 義妹は、このために相当の労力を割いてくれたはずだ。 感謝してもしきれない。 あとは、我が子が人間であることを祈るのみだ。 子供が生まれたのは、7月12日のことだった。 妻は産後の肥立ちが悪く、我が子を抱くことなくこの世を去った。 私は子供を伽耶と名づけた。 妻が命がけで遺してくれた伽耶。 どんな手段を用いてでも、彼女を幸福にしなくてはならない。 それが、こんな私を愛してくれた妻への供養だ。 やっぱりだ。 これは伽耶さんの父親―― つまり、紅瀬さんの言っていたマレヒトの日記だ。 どうしてこんなものがあるのか。 なぜ、俺がそれを読んでいるのか。 書いてあることは本当なのか。 わからないが、ともかく先が読みたい。 妻を失い悲嘆に暮れる私を癒やしてくれたのは、義妹だった。 彼女がいなければ、私は失意のあまりに、また道を踏み外していただろう。 東儀家の姉妹には、感謝してもしきれない。 義妹は妻の死に責任を感じていたようだ。 同じ家に生まれながら、普通の女性として幸せな家庭を営む姉。 彼女へのわずかな嫉妬が、神の怒りに触れたのだという。 傷心の私は彼女に惹かれ、罪滅ぼしのためか、彼女もまた私を慕ってくれた。 だが、私の心にはいつも亡妻がいる。 彼女もそれを知っていたのだろう。 親しい友人として時を過ごすことになった。 伽耶の成長は私の生き甲斐だ。 義妹が面倒を見てくれたこともあり、娘は明るい少女に育った。 たくさんの友人たちと、毎日遅くまで野山を駆けめぐっている。 特に桐葉という少女とは仲が良いようで、まるで実の姉妹のようだ。 いまのところ、伽耶は人間と同じように育っている。 できることなら、人間であって欲しいのだが。 しかし、私の不安は徐々に確信へと変わっていた。 伽耶の体力が、人間より遥かに早く増進しているのだ。 いまや、人間の大人も敵わないほどの力を備えている。 やはり彼女は、私の血を引いてしまったのだ。 彼女がどの程度、私の特徴を引き継いでいるかはわからないが、これからの人生は苦難に満ちたものになるだろう。 私のように、惨めで孤独な日々は送らせたくはない。 やはり…… 人外には人外の家族が必要だ。 もう二度と作るまいと思っていた、かの石。 それが本当の幸せもたらすものではないと知りつつも、私は過去の研究資料を広げてしまった。 異国の環境に苦労させられたが、数年をかけ、ようやく石の生成に成功した。 眼球ほどの大きさの蒼い珠。 人間を人外の存在に変える珠。 故郷とは異なる風土のせいか、色は違ってしまったが、効果に変わりはないだろう。 忌まわしいことだが、これさえあれば伽耶も永遠を共に生きる家族を作ることができる。 残念なのは、珠が二つしかできなかったことだ。 これでは三人家族しかできず、いささか物足りない。 いや、妻が生きていれば私たちも三人家族だ。 もしかしたら、これも彼女の意志なのかもしれない。 「……」 額に汗が浮かんでいた。 間違いない。 この蒼い珠というのが、人間を吸血鬼に変える石だ。 稀仁さんは、生まれながらにして子供を作ることができない伽耶さんを哀れんで、これを作った。 寿命を持たない伽耶さんが、ずっと一緒にいられる家族を得られるようにと。 だが、俺が飲んだものと色が違うのはどういうことだろう。 稀仁さんが作ったものは蒼い珠。 東儀家にあったものは紅い珠だ。 先を読めば答えがあるかもしれない。 勢い込んでページをめくる。 次のページは白紙だった。 最後のページまで確かめるが、何も書いていない。 「これだけか……」 そう考えた瞬間、不意に周囲が明るくなってきた。 「孝平くん……孝平くん、ねえ……」 「……」 あれ? ここって教室だよな? 部屋で寝てたはずだが……。 これも夢の続きなのか? 「なに、ボーっとしてるの? もう放課後だよ」 「は?」 周囲を見回す。 時計は午後3時過ぎ。 どう見ても放課後の教室だ。 「放課後?」 「そ、そうだけど?」 いったいどういうことだ? 携帯を見る。 日付は6月6日。 珠を飲んだ次の日だ。 おかしい、おかしいぞ。 必死に記憶を巻き戻す。 「……」 だめだ。 珠を飲んで、眠ってからの記憶がない。 いや、すべての記憶がないわけじゃない。 眠りながら見た変な夢は覚えている。 だが、目覚めた記憶も、登校した記憶も、授業を受けた記憶もない。 「今日は生徒会に行かなくていいの?」 「いや、もちろん行くぞ」 「ところで、変なこと聞いていいか?」 「うん、どうぞ」 「今日の俺、様子はいつも通りだったか?」 「えーと」 陽菜がちょっと考える。 「いつも通りだったと思うよ」 「飯も食ったよな?」 「一緒に食べたじゃない」 「大丈夫、孝平くん?」 「体調悪いなら、無理しないでね」 「体調が悪いわけじゃないんだ。気にしないでくれ」 「それならいいんだけど……」 「んじゃ、俺は監督生室に行くよ」 「あ、うん。気をつけてね」 かなり心配そうな目で見られてしまった。 モヤモヤした不安を抱えたまま校舎を出た。 今日の俺はいつも通りの生活をしていたらしい。 普通に挨拶したり、しゃべったり、飯を食ったりしていたわけだ。 といっても、俺は何も覚えていない。 「……」 俺は誰かに身体を乗っ取られていたんじゃないか? 朝から放課後まで、俺ではない誰かが俺の身体を動かしていた。 それも、陽菜に怪しまれないくらい自然に俺を演じていたのだ。 夢を見たまま俺が目覚めなくても、誰も気づかないだろう。 これは乗っ取りだ。 俺は消えかけたんだ……。 全身に鳥肌が立った。 周囲の喧噪が急に遠くなる。 その割に、遠くのものはよく見えた。 監督生室の窓枠まではっきり見える。 「おいおい」 走ってみる。 今までより速くなってる気がする。 身体能力が上がってるのか? 「……」 俺が消え、吸血鬼の新しい俺が生まれる。 しかも周囲は、俺が消えたことに気づかない。 そんなのありかよ……。 とにかく、東儀先輩に相談しよう。 「こ、こんにちは」 「支倉……」 部屋には東儀先輩だけがいた。 「無事でよかった」 「いやまあ、無事ってわけでは……」 東儀先輩が眉間に皺を寄せる。 「何があった?」 「珠を飲んで眠ってからの記憶がなくて、気がついたのはついさっきなんです」 「陽菜の話だと、朝からいつも通りだったらしいんですが」 「なに?」 「つまりは、俺の身体を誰かが動かしていたと」 「にわかには信じがたいな」 「自分も信じられないですから」 自分がいつの間にか動いていたなんて経験、したことがない。 とにかく何かにすがりつきたくなるような恐怖がある。 そう何度も味わいたいものではない。 「紅珠の影響と見ていいのだろうな」 「おそらくは」 「ただ、収穫もありました」 もちろん、夢の内容だ。 あれこそ一番に報告しなくてはならない。 「実は、眠ってから夢を見たんですが……」 階下のドアが開く音が聞こえた。 「瑛里華だな」 「みたいですね」 「続きは夜にでも聞こう」 「11時ごろに支倉の部屋に行って構わないか?」 「俺はともかく、支倉が連日外出するのは問題がある」 あの東儀先輩が、自分から消灯時間を破ると言っている。 本気なのだ。 「わかりました。じゃあ11時ってことで」 東儀先輩はいつもの表情に戻り、何事もなかったかのように椅子に座った。 「お疲れさま」 「ああ」 「お疲れ」 入るなり、副会長は俺をじっと見た。 「どうした?」 「なんか顔色悪いけど」 「そうか?」 「俺はいつも通りだぞ」 「そう? 疲れたら無理しないで休んでいいんだからね」 「わかってる」 「私、お茶淹れてくるわ」 テーブルに鞄を置く。 「瑛里華、俺はこれから会議で出かける」 「せっかくだが、お茶は遠慮しておく」 「おっけー」 明るく言って、副会長が給湯室に入った。 「戻りは何時くらいですか?」 「遅くなるだろうから、先に帰って構わない」 「わかりました」 東儀先輩は、俺をじっと見てから部屋を出て行った。 少しして、副会長が給湯室から出てきた。 「征一郎さん、今日は遅くなるって?」 お茶を並べながら口を開く。 「ああ、先に帰っていいってさ」 「そっか」 「なんの会議かな」 「この時期だと、文化祭関連じゃないかしら」 「ずいぶん早くから会議があるんだな」 「準備する方は大変なのよ」 「覚悟しとく」 「けっこうハードだけど、頑張りましょう」 ガッツポーズを作る副会長。 だが、表情には元気がなかった。 今は6月上旬。 文化祭は9月。 まだまだ時間がある。 それまで副会長が保つかどうか……。 「副会長……」 手を伸ばし、その手を握る。 「どうしたの?」 「なんとなく握りたくなった」 「甘えん坊なんだから」 そう言いながら、副会長は俺の隣に座り身を寄せてきた。 「監督生室でこんなことしてるなんて、バカップルね」 「嫌か?」 「嫌じゃないわ」 副会長が俺の頬にキスをする。 「はい、仕事仕事っ」 副会長が俺から離れる。 「もう終わりか?」 「お わ り」 ハートマークが付きそうな声で言って、副会長は書類を広げた。 そんな明るい様子を見て、少し安心する。 ぴりりりっぴりりりっ 「お、東儀先輩だ」 「あら、どうしたのかしら?」 電話に出る。 用件は簡単だった。 「会議で急に話が広がって、資料が必要になったらしい」 「なんの資料?」 「5年前の文化祭資料」 「5年前ね」 副会長が立ち上がり、書棚を探す。 「えーと……あ、あった」 副会長が分厚いファイルを引っ張り出す。 「俺、持って行くから」 「お願いね」 「すぐ戻るから」 携帯だけを持ち、俺は部屋を出た。 「く……」 「このくらいで不安になるなんて」 「もう、だめなのかな……」 今日の仕事を終え、俺と副会長は寮まで帰ってきた。 分かれ道となる階段で見つめ合う。 「あの……部屋、寄っていいかな?」 例によって、切なげな視線を向けられる。 これで断れる男はそうはいないだろう。 「構わないぞ」 「あ、でも、11時から来客あるんで、悪いけどそれまでってことで」 「女の子?」 「バカ言うなよ」 副会長の頭をくしゃっと撫でる。 「こら、髪の毛乱れるから」 「変なこと言うからだ」 「あはは、ごめんー」 じゃれ合っていると、下から来た女子生徒が俺たちを見て、そそくさと通りすぎていった。 絶対バカップル認定されたぞ。 部屋に入り、まずはお茶の準備をする。 「なんか、支倉くんの部屋って落ち着く」 クッションを抱きかかえ、ぺたりと床に座っている副会長。 すごく女の子らしい仕草だ。 「はい、紅茶」 「ありがと」 もはや指定席になっているのか、副会長が隣に座る。 そして、ティーカップに口を付けた。 「あち」 「またやってる」 「ゆっくり飲めって」 「初めからぬるくして、もう」 頬を膨らませながら、ふーふー冷ます。 「かわいいな、その顔」 「こうさせたくて、わざと熱くしてるんじゃないでしょうね?」 「そりゃいいこと聞いた。これから熱くしよう」 「ホントにやったら別れるからね」 「りょーかい」 苦笑して、俺はコーヒーを飲む。 「嘘」 「ん?」 「そのくらいじゃ別れないわよ」 「わかってる」 「ふふふ」 副会長が体重を掛けてくる。 「少しは焦ってくれた方が面白いかも」 「悪かった」 副会長に顔を近づける。 彼女もすぐに意図を察した。 「ん……」 甘いミルクティーの味を感じる。 すぐに副会長の顔が離れた。 「コーヒー苦い」 舌をぺろっと出す。 「あはははっ」 「笑わないでよ、もう」 また頬を膨らます。 そんな甘ったるいやり取りをしながら、夜をのんびりと過ごす。 こんな時間がずっと続けばいい。 何度もそう願う。 だが、願うたびに脳裏を悲しい想像がよぎった。 今はもう、甘い時間に浸ることすらできないのか……。 「あ、そろそろ時間ね」 時計を見ると、22時45分だった。 「悪いな」 「いいのよ、楽しかったから」 「片づけは俺やっておくよ」 「ありがと」 副会長が立ち上がる。 お別れを言おうと向い合ったところで、副会長がぴたりと動きを止めた。 「忘れ物か?」 「あ……く……」 副会長が床に膝をついた。 「おいっ!?」 「は、支倉……くん……」 全身を震わせながら、こみ上げる何かに耐えている。 不安に襲われてるのか? 「しっかりしろ」 膝立ちになり抱きしめる。 彼女の身体は火傷しそうなほど熱い。 それなのに、小刻みに震え続けている。 「大丈夫だ、ここにいるぞ」 他にすることも考えつかず、俺は抱きしめる腕に力を込める。 「く……」 副会長の身体がこわばった。 「に、にげ……て……」 「!?」 理由を問おうと思ったその瞬間、俺は床に組み倒された。 「おいっ」 馬乗りになった副会長の手が、俺の手首をがっちりと固定している。 ぴくりとも動けない。 「はぁ……はぁ……」 副会長の息は荒い。 瞳は悲しくなるほど切ない色を帯び、俺を凝視している。 「副会長っ」 名を呼ぶ。 聞こえていない。 「瑛里華、しっかりしろっ」 呼び方を変えても、副会長は反応しない。 このまま、俺は血を吸われてしまうのか。 血を吸われるのは、本当のところ嫌じゃない。 彼女が望むのなら、いくらでも吸わせてあげたい。 だが、彼女はそれを望んでいない。 俺の血を吸ったと知った副会長はどう思うのか。 「く……」 副会長が唇を噛んだ。 痛みで何かを紛らわそうとしているのか……。 尖った犬歯が唇に刺さり、溢れた鮮血が俺の顔に落ちる。 副会長の顔がゆっくりと俺に近づいてきた。 その速度は遅いが、決して止まらない。 「副会長……俺は恨まないからな……だから、自分を責めるな」 「……」 美しい顔が俺の首筋に近づいてくる。 「?」 いや、首筋じゃないぞ。 血が滴る彼女の唇が目指しているのは── 首筋より少し上── 俺の口だ。 キスでもするつもりか? 血の滴る口でキスされたら…… 「!?」 違う。 血を飲ませる気だ。 まずいっ!! 「支倉、東儀だ」 「東儀先輩っ!!」 「ん……?」 顔に副会長の息を感じた。 俺は固く唇を閉じる。 副会長からこぼれた血が、俺の唇にぱたぱたと落ちた。 「支倉っ!!」 派手な音がして、身体の拘束が解かれた。 東儀先輩が、副会長をはねとばしたのだ。 俺は、洗面所へ飛び込んだ。 大量の水で、口に付着した血を洗い流す。 何度も何度も、痛くなるまで唇をこすった。 「大丈夫か?」 背後から声がした。 洗面台から顔を上げタオルでふく。 鏡でもう血が付着していないことを確認した。 「はぁ、はぁ……俺はなんとか」 「それより副会長は大丈夫ですか?」 「気を失っているが、外傷はない」 「よかった」 床にへたりこみ、天井を仰ぐ。 「助かりました。ありがとうございます」 まさに間一髪だった。 「いったい何があった?」 「副会長とお茶を飲んでいたんです」 「別れ際に、不安に襲われたらしくて」 「いつも気を失っているのか?」 「いえ、理性を失ったのは初めてです」 「最近、不安が大きくなってるみたいでした。おそらく今夜リミットを……」 「……」 東儀先輩が無言で息をつく。 「ともかく、副会長を」 立ち上がり、リビングに戻る。 副会長はベッドに寝かせられていた。 俺はすぐ脇に腰を下ろす。 「……」 呼吸は整っている。 額には汗が吹き出し、きれいな髪が張りついていた。 ティッシュで汗をぬぐい髪を整えてあげる。 「ん……く……」 副会長がうめく。 気を失ってなお、何かと戦っているのか。 胸を鷲掴みにされたような気分だ。 「瑛里華が理性を失ったときの状況を聞いていいか?」 「……」 いや、ちょっと待て。 「会長も不安を感じたことがあるみたいですから、呼んだ方がいいと思うんですが」 「たしかにそうだ」 東儀先輩が電話を取る。 「久しぶりだね、支倉君」 「お久しぶりです」 「と思ったけど、喧嘩したのは三日前か」 言われてみればそうだ。 「さて、姫君の様子はどうだい?」 「落ち着いている」 会長が、ベッドの副会長を一通り眺める。 「支倉、説明してくれ」 「はい」 副会長が別れ際に不安を感じたこと。 いきなり押し倒してきたことを説明する。 「それで、血を吸われると思ったんですが……違いました」 「副会長は、俺に血を飲ませようとしたんです」 二人の顔色が変わった。 吸血鬼の血を飲んだ人間は眷属になるからだ。 「なんだって?」 「支倉を眷属にしようとしたということか」 「そうだと思います」 「で、飲んじゃったのかい?」 「いえ、口を閉じて飲まないようにしました」 「いい判断だ」 「不安の行き着く先は眷属化か」 会長は指先で顎を撫でながら、何かを考えている。 「まあ、筋は通ってるよね」 「別れるのが寂しいから、離れられなくしようって話だ」 「不安は会長も感じたんですよね?」 「感じたよ」 「だから、吸血鬼に共通した特徴と考えてもいいだろう」 「ま、サンプルは二人しかいないが」 「つまりはこうか……」 「吸血鬼は、特定の人物と親しくなると別離の不安を覚えるようになる」 「行き過ぎると理性を失い、眷属にして離れられなくするってわけだ」 「おまけに、血を飲ませすぎれば人形になるっていうおまけ付きだ」 と、会長が東儀先輩を見る。 「人形ってどういうことですか?」 「眷属っていうのは血を飲ませすぎると、主の命令なしには瞬きもできなくなるのさ」 肩をすくめる会長。 「そうでしたか」 実際に眷属を人形にしてしまった主はどういう気持ちになるのか……。 「話を逸らしてすみません」 「ところで、不安の後に血を吸いたくなるのはどう説明しますか?」 「そのままさ」 「血を飲むと不安が収まるんだ。これは俺が経験済みだ」 「特に好きな人間の生き血は、抜群に効く」 「つまり、吸血鬼が血を吸いたくなるのは不安を抑えるためってことですね」 「初めに吸血ありきだと思っていたが、実際は別離の不安が先にあるということだな」 「そうなるね」 「ただ、注意しなくちゃいけない点がある」 「なんだ?」 「輸血用血液は人間の生き血に比べて、あまり効果がないんだよ」 「瑛里華の症状は、俺が経験した一番悪い時期より遥かに進んでいる」 「経験上、輸血用血液は無意味だと思ったほうがいいね」 「そんな……」 「副会長はずっと血を飲めば治るって」 「そう言わないと、支倉君が心配するからだろう?」 「……」 だから副会長は、伽耶さんに血液の供給を止められたとき反発しなかったんだ。 どうせ飲んでも効かないから、と。 「ぜんぜん、気づいてあげられませんでした」 「いいじゃないそれで。瑛里華はだまされて欲しかったわけだし」 人間、言えることと言えないことがある。 改めて言うほどのことじゃない。 ただ、副会長の意図に気づけなかった自分がふがいない。 「精進します」 「その気持ちが大事だね」 会長が優しく笑った。 君が悔しいのはちゃんとわかっている。 そういう笑顔だった。 「ちなみに、ずっと眷属を作らず、血も飲まなかったらどうなるんですか?」 「不安経験者から言わせてもらえば、おそらく気が狂うんじゃないかな」 「そう……ですか」 話は大筋でわかった。 まず、吸血鬼は親しい人ができると極度に別離の不安を感じる。 不安を和らげる方法は血を飲むこと。 ちなみに、好きな人間の生き血は効果抜群らしい。(会長談) 血を飲まず不安が許容量を超えると、対象に血を飲ませ眷属にしようとする。 それでも眷属を作らないと、吸血鬼は発狂する。 「……」 知らずため息が漏れた。 どうして、会長や副会長は吸血鬼に生まれてしまったんだろう。 普通の人間なら、今までみたいな苦労はせずにすんだものを……。 「伽耶さんが眷属にこだわったのも、なんとなくわかりますね」 「眷属にさえしてしまえばトラブルは回避できますから」 「そうだね」 人の生き血を吸い、眷属を作る── 伽耶さんの言うように、吸血鬼らしく生きていれば、そもそも問題は起きないのだ。 「伽耶様の親心だったのかもしれないな」 「あの女のことだ、どうかわからないよ」 久しぶりに、伽耶さんへの皮肉を聞いた。 今になってみると、少し微笑ましくもある。 「ところで、ひとつ聞いていいかい?」 「なんですか?」 「どうして征がここにいるんだ? しかも消灯時間後に?」 「野暮用だ」 「なるほど、俺には言えないか」 「話せるときが来たら話す」 「聞きたいことだけ聞いて、こっちが尋ねたことには答えないなんてひどい話だ」 会長の気持ちはもっともだ。 だが、今の段階ではまとまったことは話せない。 俺自身、今日の報告すらしていない状況だ。 「後で必ず説明しますから」 会長が唇をとがらす。 「ま、支倉君が言うならここは引き下がろう。君には迷惑かけたからね」 「すみません」 「今日のところはいいよ」 「吸血鬼の欲求についてもわかったし。俺も多少は満足した」 「東儀さんちの秘密については、もうちょっと待とう」 「なんのことかわからんな」 「東儀さんは、ほんと秘密主義でいけないね」 そう言って会長は笑った。 本当は、あらかた知ってて、知らないフリをしているんじゃなかろうか。 「ところで、瑛里華をどうするつもりだい?」 「血を飲まない限り不安は消えないし、遠からずまた同じことになるよ」 「俺の血を飲ませます」 会長が意外そうな顔をする。 「瑛里華のポリシーを知らないわけじゃないだろう?」 「副会長にどれだけ恨まれても、これ以上苦しむのを見過ごせません」 「それに、誰かを眷属にしてしまうよりはマシでしょう?」 「ふむ……」 「仕方がないか……」 沈黙が落ちた。 二人は、瞬きもせずに床を見つめている。 時間が止まったような空気の中…… 俺は机に近づき、引き出しを開く。 カッターを取り出す。 鈍い銀色に光る刃を、手のひらで包む。 「っ……」 鋭い痛みの後に、焼けるような熱さが手から腕まで広がった。 ぽたぽたと、床に赤い点ができる。 「支倉君、これだけは知っておいて欲しい」 会長が俺の目を見た。 今まで見たどんな視線より力強く、悲しみに満ちていた。 「君の血は、瑛里華の心を壊す」 「……」 「好きな人の血はね……おいしいんだよ」 「自分の身を引き裂きたくなるくらいに」 会長が天井を見上げた。 かつて恋人の血を飲んだ人の言葉だ。 「自分の身体が、好きな人の血となり肉となる」 「これ以上の快感は、どこにもありません」 手を副会長の口の上に持っていく。 こぼれ落ちた血が、薄紅の唇に当たり、はじけ、口の中へと落ちていく。 副会長の喉が、なまめかしく動いた。 「ふぅ……」 東儀先輩が長く息を吐いた。 握った拳からは、絶え間なく血が落ちる。 赤いしずくが、次々と副会長の中に入っていく。 それはまるで、乾いた大地に雨がしみ込んでいくような光景だった。 しばらく血を飲ませ、俺は副会長の口をティッシュでぬぐった。 「会長」 「なんだ?」 「副会長を部屋まで運んであげてください」 「人使いが荒いね」 「すみません」 会長が副会長を軽々と抱きかかえた。 会長の指に、東儀先輩が副会長の鞄をひっかける。 「途中で目を覚ましたら、俺、どうなるんだろうね」 「簡単すぎてクイズにもならん」 「相変わらずつれない」 東儀先輩が部屋のドアを開く。 「これから何するか知らないけど、期待してるよ」 「はい」 東儀先輩は無言でうなずく。 「じゃ、グンナイ」 時計はもう12時を回っていた。 日は変わって6月7日。 副会長には、とんだ誕生日プレゼントになってしまった。 「東儀先輩、もう日付が……」 「構わん」 「それより手の処置をしろ」 「あ、忘れてました」 ざっと応急処置をしてから、俺はお茶を淹れた。 湯飲みを東儀先輩に差し出す。 「すまんな」 「真面目に粗茶ですが」 「ははは、大切なのは気持ちだ」 東儀先輩がお茶をすする。 「で、珠の話ですけど……」 俺は昨夜見た夢の内容を説明していく。 「なるほどな」 東儀先輩が腕を組む。 「しかし、夢の内容は興味深い」 「マレヒトと言ったか……」 「伽耶様の父親が作った珠と、支倉の飲んだ珠は違うもののようだな」 「はい。色も大きさも違います」 「稀仁さんの珠は蒼い色で、大きさは眼球大」 俺が飲んだ紅珠は、紅い色で大きさは指先くらいだ。 「稀仁が作った珠は蒼珠としておこう。その方がわかりやすいだろう」 「蒼い珠で蒼珠ですか?」 「そうだ」 東儀先輩がうなずく。 「蒼珠の効果に限ればいろいろわかりました」 「稀仁さんは蒼珠を二つ作り、これでは三人家族しかできないって書いてます」 「つまり、伽耶さんも一人と数えれば、蒼珠一つにつき吸血鬼一人ができるってことですよね」 東儀先輩が無言でうなずく。 「会長や副会長に使われたのは蒼珠で間違いないんでしょうか?」 「それを知っているのは伽耶様だけだが、今のところ他に候補はない」 「じゃあ、とりあえずはそういうことで」 「ああ」 短く返事をして、東儀先輩がお茶を飲む。 俺もそれにならうが、お茶の味はほとんどわからなかった。 「さて、次に紅珠の影響についてだが」 「少なくとも、吸血鬼になることはないようだな」 「ええ。現に俺が吸血鬼になってませんし」 「副会長も同じものを飲んでいるのなら、彼女は別の要因で吸血鬼になったと考えられます」 「蒼珠か……」 「おそらくは」 「単純に形から見た印象だが、東儀家にあるものは紅珠の破片なのかもしれない」 「見た目ではそんな感じです」 蒼珠は眼球大だが、紅珠は小指の先ほどの大きさしかない。 蒼珠の大きさを眼球にたとえたということは、形は球体と見るのが自然だ。 だが、紅珠はいびつな形をしている。 東儀家に伝わっているものが、紅珠が割れた破片だったとしても不思議はない。 「あと、紅珠の影響っていったら夢を見たことですね」 「支倉が見た夢は、稀仁の記憶ということになるか」 「紅珠に記憶が入っていて、それが俺に受け継がれたと……」 「結果から見ればそういうことになるだろう」 「朝から放課後までの記憶がないことについてはどうですか?」 「……わからないな」 少し考えて、東儀先輩が答える。 「……」 やはり、まだ推論の域を出ないものや不明なことが多い。 幸運と言っていいのか、紅珠はあと一つある。 「東儀先輩」 「まだわからないことも多いですし、もう一つ珠を飲んでみたいんですが」 「記憶がなくなっているんだぞ」 「次はどうなるかわからないだろう?」 「怖くないと言えば嘘になります」 「でも、ここまで来て試さないという選択肢はないです」 「俺は副会長を救いたいですし……」 「彼女の意志を無視してまで血を飲ませたんです。今さら退けません」 精一杯の熱意を込めて、意志を伝える。 「それに、一つも二つも変わりません」 「失敗する人間の典型だな」 東儀先輩が苦笑した。 「成功する奴は、一つ目から飲みませんよ」 「それに、俺は副会長の力になりたいだけですから」 「瑛里華も、なかなか困った男に捕まったものだ」 東儀先輩が鞄から包みを取り出しテーブルに置いた。 「頼んだぞ」 「また明日、会えることを祈っている」 「はい」 今日は、放課後までの記憶がなくなるだけで済んだ。 明日はどうなるのかわからない。 もしかしたら、何日間も…… いや、一生記憶が戻らないかもしれない。 だとしたら、俺は誰にも気づかれずに今夜消滅するのだ。 悲しいことだがどうしようもない。 「そうだ」 「どうした?」 「昨日、珠を飲む前に、副会長に伝えて欲しいって言ったことがあったと思うんですが」 「あれは伝えていない」 「今日のところは問題がないように見えたからな」 「そうでしたか」 「じゃ、今夜俺になんかあったら、そのときは伝えてください」 「わかった」 東儀先輩が立ち上がる。 「消灯時間、過ぎてますから」 「シスター天池に見つからないよう気をつけよう」 珍しく冗談めいたことを言って、東儀先輩は笑った。 彼なりに親愛の情を表現してくれたのかもしれない。 「じゃ、また明日」 「またな」 東儀先輩がドアの向こうに消えた。 「さて……」 今さら気負っても仕方がない。 昨夜と同じように風呂に入る。 就寝の準備を整え、テーブルに珠と水を置いた。 「よし」 珠を口に放り込む。 味はない。 右手にコップを持つ。 水面が揺れていた。 心は決まっていても体が怯えている。 これを飲めば、俺は消えるかもしれない。 そう思うと、頭の中を学院での思い出が駆け抜けていった。 まぶたの裏に副会長の笑顔が浮かぶ。 「……」 コップの水を口に流し込んだ。 間髪入れず飲みこむ。 「はぁ……はぁ……」 飲んだ。 飲みこんだ。 あとは神頼み。 昨日と同じ流れなら、すぐに眠くなるはず。 俺はベッドに潜り込んだ。 昨日と同じく真っ暗な空間に立っていた。 遠くに明かりが見えるのも同じだ。 小走りに駆け寄る。 ……。 予想通り、そこには小さな机と本があった。 震える指を伸ばし、ページをめくる。 日記に変化がなかったら、泣くに泣けない。 ぱらぱらとページをめくる。 昨日読んだ日記までは空白。 既読部分を飛び越し── 「……あった」 空白だったページに文字が浮かんでいる。 しかも、昨日の続きだ。 俺は貪るように目を走らせる。 村を流行り病が襲ったのは、珠が完成してすぐのことだった。 多くの村人が私を頼ってきたが、流行り病ばかりは手の施しようがない。 ただ死にゆく村人を看取ることしかできなかった。 絶望が蔓延した村に、その噂が生まれたのは必然だったのかもしれない。 病が流行したのは、東儀家が神への祈りを欠かしたせいだというのだ。 疲弊しきっていた村人たちはこの噂に飛びついた。 彼らは、家族を失った悲しみをぶつける対象が欲しかったのだ。 村人の間では、東儀家への憎悪が日に日に大きくなっている。 ひとたび暴動が起これば、東儀家の者たちは殺害されるだろう。 それが司祭の宿命でもある。 だが、伽耶のもう一人の母であり、失意の私を救ってくれた義妹を見殺しにするわけにはいかない。 私は覚悟を固め東儀家へ赴いた。 暴動の予感に浮き足だった屋敷で、ある提案をする。 私を流行り病の“原因”として処刑してくれ、と。 村人には、何より病の“原因”が必要なのだ。 私の見立てでは、あと半年もすれば病は治まる。 それまでは、稀仁がまいた毒が消えていないと説明すればよい。 だが、当主である義妹は首を縦に振らない。 そこで、私は準備していた見返りを彼女に求めた。 まず、伽耶を東儀家に住まわせ、安全を保証すること。 そして、友人として伽耶を大切にすること。 もし伽耶が家族を望んだ際には、同族となる人間を用意することの3つだ。 数日悩み抜いた後、義妹は私の提案を受け入れてくれた。 こちらが見返りを求めたことで、無理やり精神的な折り合いを付けてくれたのだろう。 次の日、私は伽耶を東儀家へ連れて行った。 事情を知らぬ伽耶は、久しぶりの外出に胸を弾ませているようだ。 思えば、明日、7月12日は伽耶の誕生日。 もしかしたら、お祝いがあるのだと思っているのかもしれない。 そもそも、この国には誕生日を祝う習慣がない。 だが、私は毎年伽耶の誕生日を祝った。 伽耶はそれをとても楽しみにしていたし、周囲に自慢をしてもいたようだ。 初めはいぶかしがっていた村人も、いつしか伽耶の誕生会に出席してくれるようになった。 だが今年は── いや、これから先は祝えない。 別れの時がやってきた。 状況がわからず笑顔を振りまく伽耶に、私は教えを残す。 友を作り、血をもらうように、と。 血液を飲んでさえいれば、『獣』を抑えることができる。 友人を眷属にするなどという、悲しいことを伽耶にして欲しくはない。 次いで、家族が欲しくなったときのために珠を託す。 一日早い誕生日祝いと勘違いしたのか、伽耶は喜んでいた。 そう。 明日は伽耶の誕生日だ。 私は一つ嘘をつく。 明日は── 盛大に祝おうと。 その日の夕刻。 異臭のする薬をかまどで燃やすと、次々と村人が集まってきた。 誰かが、病を撒いたのは稀仁ではないかと囁いた。 その憶測は、瞬く間に村中へと広がっていく。 やがて、東儀家の男たちが私の家を囲み、病の原因が私であると告げた。 家族を失った村人たちの悲しみが、憎悪となって私に向けられる。 今まで慕ってくれていた人たちが、私を殺せと叫ぶ。 仕方のないことだ。 憎むべきは病であり、誰も悪くはない。 私を捕縛しようと近づいてきた男たちをはねのけ、山に走る。 やがて私は、泉に張り出した崖の上まで追い詰められた。 無数のたいまつが私を囲む。 ふと懐かしさを覚える。 あれは何年前のことだったか── 館を焼き討ちにされたときも、私の眼前にはこんな光景が広がっていた。 逃げ出した私は、小高い丘の上から館が燃え落ちるのを見下ろしていたのだった。 燃え上がり、崩れる壁。 その奥では、かつての友人たちが私の指示を待ち、ただ立ち尽くしていた。 私の命令なしには、火から逃れることもない人形たち。 燃えて灰になるまでの間、声一つ上げることはない。 私は自分を呪っていた。 なぜ、友に血を飲ませることを思いついてしまったのか。 たしかに、彼らには永遠の命を分け与えることができた。 私を置いて、先に逝くことはない。 だが、引き換えに自由を奪ってしまった。 人形となった友人たちは、私に悲しみしか与えてくれない。 そんな状況になって、私は初めて気づいたのだ。 選ばれることの大切さを。 人の気持ちはわからない。 でも、だからこそ選ばれる喜びがある。 私は、選ばれない可能性に怯えていたのだ。 彼らに捨てられるかもしれないという恐怖に打ちのめされていたのだ。 長い年月のうちに、それは私の体に染みついた。 人と親しくなるたびに別離に怯え、血を飲ませたくなる衝動に駆られる。 それはもはや、考えることもなく湧いてくる── この身に住む獣だ。 緑の焦げる匂いに、ふと我に返る。 たいまつの輪はその半径を縮めていた。 先頭には、東儀家の当主がいる。 陰影濃く照らし出される顔。 その頬を何かが伝っている。 涙を見せてはいけない。 これが狂言だと、村人に気づかれてしまう。 私は短刀を取り出す。 愛する村人たちへ、思いつく限りの罵詈雑言を投げつけ── 白刃を心臓に突き込んだ。 硬い感触と共に、私を永遠の存在たらしめていた石が砕けた。 これで終わる。 崖から身が離れた。 泉の水面に落ちるまでの間、私の胸からは、粉々になった珠の欠片がこぼれだしていた。 それらは、たいまつの明かりに赤く輝き、私と共に泉へ落ちていく。 目に突き刺さる紅は、今まで吸ってきた血の色なのかもしれない。 思えば、多くの命を犠牲にしてきた。 そんな私にとって、この最期は身に余る光栄。 さらばだ、伽耶。 これから先、彼女の誕生日を祝ってくれる人が現われることを、切に願う。 それが、日記最後のページだった。 後には裏表紙のみがある。 稀仁は自ら胸を刺し貫き、泉に落ちて死んだ。 彼と共に泉へ落ちた珠の破片は、後に引き上げられ東儀家に残った。 そういうことだったのだ。 「……」 もう一度、表紙を表に向け、ぱらぱらとページをめくる。 「?」 前の方にも、新たに現われた日記があった。 なんだろう? ページをしっかりと開いた瞬間だった。 目に見えていたものがぐにゃりと歪んだ。 「……」 目を開くと、相変わらず周囲は真っ暗だった。 あれ? 目が覚めるんじゃないのか? 何度も目をしばたたいて見る。 ……。 景色は変わらない。 まずくないかこれ? このまま目が覚めなかったら……俺は……。 「くそっ!」 走る。 あてもなく走る。 「はぁ、はぁ……はぁ……」 景色は一向に変わらない。 ただ漆黒の闇が広がるのみだ。 どうする? どうしたらいい? どこからともなく、冷たい風が吹きつけてくる。 胸の中身が風に吹かれ、砂漠の砂のように形を失っていく。 残るのは暗い暗い虚無だ。 それは、じわじわと全身に広がっていく。 「あ……あ……」 わき上がる喪失感。 心と体を形作っていたものが、次々と崩れ落ちていく。 どんなに手で抑えても、指の間から砂のようにこぼれ落ちてしまう。 立っていられない。 震える膝からは力が抜け、俺は何も見えない地面に崩れた。 「くそ……」 これ以上、身体が崩れないよう、ぎゅっとうずくまる。 だが、外気に触れている部分から、次々と熱が逃げていく。 俺はまだ、みんなと楽しくやりたいんだ。 こんなところで寝転がっているわけにはいかない。 「?」 不意に喧噪が聞こえてきた。 どこからだ? 周囲を見回す。 何も見えない。 だが、たしかに声は聞こえている。 強いて言えば、闇の外側からの音だ。 昼休みか、放課後か。 明るい声が響き渡っている。 聞き覚えのある声が聞こえた。 司、 かなでさん、 陽菜、 紅瀬さん、 白ちゃん、 東儀先輩、 会長、 副会長…… 楽しい毎日だった。 様々な思い出が、空っぽの胸を走り抜けていく。 この学院は、俺に毎日を楽しむことを教えてくれた。 『もう満足だろう?』 頭の中に声が響く。 『どんなに楽しい生活を送っていても、いずれは別れねばならぬ友人たち』 『これ以上親しくなっても、辛い別れが待っているだけだ』 『ならば、今別れても支障あるまい?』 「……」 『彼らとて、お前を友人と思っているとは限らないぞ』 『心の底では、便利に使ってやろうと思っているのかもしれない』 『以前、お前も痛い目を見ただろう?』 「……」 ガキの頃の記憶が蘇る。 いずれ転校していく俺に、ガラスを割った罪をなすりつけた級友たち。 一時期は、俺もあいつらを友人だと思っていた。 だが実際はどうだ? 裏切られただけだった。 『何も、そんなところに好き好んで出ていくことはない』 『ここにいれば良いではないか?』 筋が通ってる気がしてきた。 『そもそも、お前は友人が欲しいのか?』 『友人などいなくても生きていけるだろう?』 「そうだ……ずっとそうやって生きてきた」 『いざとなれば、お前の血を飲ませればいい』 『そうすれば、裏切ることのない完全な友人が得られる』 『お前は、その力を手に入れたのだ』 そうか……。 そうだよな。 友人など時間が経てば消えていくもの。 なら、作らなくてもいいじゃないか。 死ぬわけじゃなし、それでいいじゃないか。 無理して頑張ることは……ないよな。 身体が、ふっと楽になる。 温かい泥に浸かっているような、心地好い感覚だ。 「ちょっと支倉くんっ」 「?」 「聞いてるの!?」 副会長の声だ。 「勝手に血を飲ませておいて、死ぬなんて許さないわよっ!」 そう言えば、そんなこともあったな。 手のひらを見る。 小指の付け根から人差し指の付け根まで、赤い線が一直線に走っていた。 拳を握る。 「っ」 ズキリと痛む。 かすかに周囲の闇が薄くなった。 同時に頭を覆っていたモヤが晴れていく。 傷口に爪を立てる。 「っっ!!」 本気で痛い。 だが、意識は鮮明になる。 「……」 さっきまで、ガキみたいなことを考えてなかったか? これじゃ、転校前に逆戻りだ。 あんなこと副会長に言ったらはり倒されるぞ。 「ぐっ!」 もう一度拳を握りしめる。 傷が痛む。 だが、怪我をしたことに後悔はない。 これは、俺が自らの意志でつけた傷だ。 そう。 これこそが、俺が生きていた証。 副会長を救いたいという欲求の証。 危ないものには近づかず、欲しいものさえうやむやにしていた昔の俺には、つきようもなかった傷だ。 俺に変なことを吹き込もうとしたヤツには、この傷の理由がわからないだろう。 いや、わかるはずがない。 自分の欲求をなかったことにしてる奴は、怪我なんてしない。 自分についた傷の理由もわからない奴に―― 懐柔されてたまるか。 「……」 そこは俺の部屋だった。 俺の顔を、涙で目を腫らした副会長がのぞき込んでいる。 「おう」 にっと笑ってみた。 「あ……」 「は……は……」 「支倉ーーーーっ!!」 副会長の手が消えた。 「ぶほっ」 頭が枕にめり込んだ。 ぐわんぐわんと、頭の中を星が回る。 どうやら殴られたらしい。 「マジ殴りは死ぬだろっ!?」 突っ込みつつ、上半身を勢いよく起こした。 「支倉くん……」 「支倉くんっ」 副会長が抱きついてきた。 華奢な身体をしっかりと抱きしめ、頭をぽんぽん撫でる。 「ま、無事目を覚ましてよかった」 「まったくだ」 ベッドの脇には、会長と東儀先輩も立っていた。 「すみません、心配かけて」 時計を見ると、午前10時過ぎだった。 「まず確認したいのだが、今の支倉は俺たちと一緒にやってきた支倉なのか?」 自分の左手を見る。 出血は止まっているが、まだ少し痛んだ。 この傷をつけたときの気持ちも痛みも、鮮明に思い出せる。 「はい」 「証明はできませんが、確信はあります」 「そうか」 東儀先輩がうなずく。 「ところで、会長と副会長がここにいるのは?」 「支倉が学院に来ていないと聞いてな、俺が様子を見に来た」 「支倉はベッドに寝ていたわけだが、ゆすっても目を覚まさない」 「だから、二人に事情を話して集まってもらった」 「あのねえ……」 副会長が俺から離れた。 目にはまだ涙がたまっている。 「なんで事前に言わないのよ」 副会長が、限界を迎えていることを俺に教えなかったように── 俺もこの計画は教えられなかった。 「すまん」 親指で副会長の涙の跡をぬぐい、髪を撫でた。 「身体は大丈夫なの?」 「ああ、なんともない」 「気分も悪くないし、いつも通りだ」 「よかった」 「副会長はどうだ?」 「私は……」 副会長がベッドから下りた。 目は悲しげに細められている。 「不安は、消えたわ」 かすれるような声だった。 昨夜、会長が言ったことを思い出す。 俺の血は副会長の心を壊す。 それを聞いた上で、俺は血を飲ませた。 「じゃ、俺たちは授業に出るよ」 「失礼する」 気を利かせて、二人が部屋から出ていった。 副会長は、微動だにせずうつむいている。 「俺は、副会長の気持ちを知っていて血を飲ませた」 「違うか……」 「あのときは、何も考えてなかったってのが正解だと思う」 俺の思いは純粋な好意だから許して欲しいとか、 恨んでくれてもいいから、君を救いたかったとか、 あのときの俺は、そんな小難しいことを考える余裕なんてなかった。 熱いものを触ったら手が勝手に動くように、血を飲ませたんだ。 どんな言葉も、もはや後付けでしかない。 「ただ、元気になって欲しかったんだ」 嫌われたな── そう感じつつ、まだそんなことにこだわっていたのか、という気もした。 副会長が元気じゃないのは、絶対的にナシだ。 どんな事情があろうと認められない。 それで嫌われるなら、そういうもんだと思う。 辛いも悲しいもない。 「だから今は、副会長が元気になって嬉しい」 副会長は返事をしなかった。 俺にも、もう言いたいことがない。 沈黙が流れていく。 ……。 …………。 ………………。 「すーーーーー」 「はーーーーー」 しばらくして、副会長が大きく深呼吸をした。 「やるせないわ」 独白のような言葉だった。 「どうしたらいいのかしら、この気持ち」 そう言ってから、何度か唇を濡らす。 「叫びたい」 「ほんっっと、叫びたい」 そしてもう一度深呼吸をした。 副会長はどんな気持ちなのだろうか。 飲まないと誓っていた血を飲んでしまったことへの挫折感、 俺の血をおいしいと思ってしまった、わが身の呪わしさ、 俺の前で理性を失ったことへの後悔、 再び目を覚ませたことへの喜び、 これらの感情が、文字通り渦巻いているのだろう。 それが、叫びたいという言葉に現われた。 俺に想像できるのはこのくらいだ。 「謝って済むならそうしたい」 「でも、できそうもない」 「私だって謝られても困るわ」 「今さらどうしようもないし」 「ああ」 「だから、なんて言えばいいか……」 「元気になってよかった」 「はぁ……」 副会長が目頭を押さえた。 「そんなこと言うから、こっちはやるせないのよ」 「まったく」 芝居がかったため息をつく。 「貴方のことは嫌いになれそうもないわ、悔しいけど」 不満げな顔でそう言った。 「そうか」 「ええ」 「あーあ、やんなっちゃう」 副会長が床の鞄を取る。 「廊下で待ってるわ。一緒に学校行きましょう」 俺の返事も聞かず、副会長が部屋を出る。 俺もため息をついた。 困ったもんだ。 どちらかが一方的に悪ければ楽なんだが……。 そう単純にはいかないか。 「さーて」 ベッドから下りる。 まずは学校に行かねばならない。 そのあとは、さっきまで夢に見ていたものの整理だ。 今日は土曜日だ。 授業は午前中で終わり、俺たちは早い時間から監督生室に集まっていた。 テーブルには、すぐに3つのお茶が並んだ。 「会長は呼ばないのか?」 「母様の問題は、話せるときになったら話すと伝えてあるわ」 「伽耶様の話をする際には仕方あるまい」 「そうですね」 「じゃあ、まずは今までの報告をしておきます」 副会長がいるので、2つの夢の内容をつなげて話していく。 東儀先輩はじっと腕を組み、副会長はテーブルを凝視したまま微動だにしない。 夢に出てくる伽耶さんと、今の彼女は似ても似つかないものだ。 そのギャップを埋めるのに、頭を使っているのだろう。 「大まかには、こんな感じです」 俺が話し終わったとき、監督生室には重い空気が広がっていた。 「話題が多くてわかりにくいわね」 「問題を切り分けて考えていきましょう」 「そうした方がいいだろう」 「じゃあ、最初は珠についてね」 副会長の提案に従い、俺たちは珠についての情報をざっとまとめる。 人間を吸血鬼に変える珠には、紅珠と蒼珠の2種類がある。 紅珠は、稀仁さん本人を吸血鬼にしていた珠だ。 彼が亡くなったとき、紅珠は粉々になり千年泉に落ちた。 後にその一部が拾い上げられ、東儀家へ伝わったのだ。 だから、東儀家に伝わっているものは、正確に言えば紅珠の“破片”になる。 もう一方の蒼珠は、稀仁さんが伽耶さんのために作ったものだ。 伽耶さんに託された蒼珠は二つ。 うち一つは副会長に、残り一つは会長に使われている可能性が高い。 「稀仁さんは、どこから紅珠を持ってきたのかしら?」 「自分で作ったんじゃないか? 作り方が書かれたノートもあったみたいだし」 「そう考えて問題なかろう」 「よし、珠の概要はわかったわ」 「そしたら次は、珠の効果についてだけど……」 二人が俺を見る。 副会長が蒼珠を飲んだのは生まれてすぐだ。 珠の色は違うが、飲んだときのことを覚えているのは俺しかいない。 「よかったことから言うと、まず、稀仁さんの記憶を見ることができた」 「あとは、身体能力が上がったみたいだ」 「そうなの? 気づかなかったけど」 「その程度しか向上してないってことさ」 「副会長みたいに、屋根からジャンプしたりはできないぞ」 「若干、吸血鬼に近づいたのかもしれない」 「だと思います」 「次に悪かったことだけど……」 「最初に珠を飲んだときは半日くらい記憶が途切れた」 「学校に行って授業を受けてたみたいなんだが、俺は覚えていない」 「あと、これは今朝のことだけど……」 と、今朝の夢を説明する。 真っ暗な場所で、変な声が聞こえてきた夢だ。 「不思議な夢ね」 「その変な声っていうのは、どんなことを言っていたの?」 「友達はいつかいなくなるとか、お前を裏切るかもしれないとか……」 「最後は、血を飲ませれば、裏切ることのない完全な友人が得られるって言われた」 「それ、眷属にするってことじゃない」 「興味深いな」 東儀先輩が腕を組んだ。 「支倉が聞いた内容は、稀仁が恐れていた『獣』の考え方に似ている」 「『獣』っていうのは『人と親しくなるたびに別離に怯え、血を飲ませたくなる衝動に駆られる』ことよね」 東儀先輩がうなずく。 「珠が意志を持つかはさておき、その声は『獣』の考え方を植えつけようとしたと考えられないか?」 「たしかに」 夢の声は、友人への不安を煽るようなことを言ってきた。 そして、血を飲ませるよう誘導してきたのだ。 「副会長は、俺みたいな夢を見たことある?」 「ないと思う」 「でも、結果から見れば『獣』を植えつけられてると見るのが妥当でしょうね」 「支倉くんとの別離に怯え、最後には眷属にしようとしてたわけだし」 「血を飲んで『獣』が治まったのも、稀仁さんの日記と符合するわ」 「稀仁さんは『獣』を抑える方法を探して、血を吸うことに行き当たったんだったな」 「ということは、そもそも『獣』がなけりゃ血を吸わなくていいのか」 「吸血鬼を吸血鬼たらしめているのは、『獣』の存在ということだな」 「ええ、だから珠が吸血鬼を作るっていうのは厳密には不正解ね」 「珠の効果ということでまとめるなら、不老不死や優れた能力と引き換えに『獣』を植えつける、ということになるわ」 副会長の言葉に、俺と東儀先輩がうなずく。 「しかし、俺はどうして『獣』を植えつけられなかったんだ?」 「飲んだのが破片だったからじゃないかしら」 「けっこう、偶然ですね」 「まあな」 「でも、あんな甘ったれた考え方が自分に染み込んでるとしたら、悔しいわね」 「副会長が悪いわけじゃないさ」 「それはそうだけど……」 唇を噛む副会長の背中を撫でる。 しかし── 『獣』がある限り、吸血鬼は普通に恋愛をすることも友達を作ることもできない。 どうやったら『獣』を取り除けるんだ? 珠を取り除けば消えるものなのか? 「ごめんなさい感情的になっちゃって」 「珠については、こんな感じかしら」 「あ、あと一つある」 「稀仁さんが最期に思い出してた館って、副会長の夢に出てくる館じゃないか?」 「瑛里華の夢というのは初耳だが」 「昔から、ときどき見る夢があるのよ」 と、副会長が夢の内容を説明する。 「私の夢は、燃える以前の館の状況だと思うわ」 「つまり、稀仁の記憶を見ていたということか」 「ええ」 「紅珠の影響か」 「ちょっと待って、どうして紅珠が出てくるの?」 思わず東儀先輩を見た。 副会長は自分の生まれを知らないのだ。 「瑛里華が千堂家に引き取られるときに、俺の父が飲ませた」 「当時から、父は紅珠の効果に注目していたのだ」 「そうだったの」 「すまないな、父が勝手なことをした」 「いいわ、今さら怒っても仕方ないことよ」 副会長の言葉に、東儀先輩が儚げな笑みを浮かべる。 彼は、副会長が実の妹だと口にしなかった。 本当のことを知ることができない副会長。 そして、真実を告げられない東儀先輩。 どちらが辛いのか俺にはわからない。 ただ、やるせない思いが胸に広がった。 「お茶冷めたな」 「新しいのを淹れてくるよ」 そう言って席を立つ。 ティーカップに新しい紅茶が注がれ、ゆらりと湯気が立った。 「さて、次の議題はどうする?」 「ちょっと母様について考えたいんだけど……」 「母様は『獣』の存在を知っているのかしら?」 「日記の内容からすると、稀仁さんは教えてなさそうだな」 「それに、伽耶様が珠を飲んでいないのなら『獣』を持っていないことになる」 「だったら、どうして母様は眷属を作るの?」 「伽耶さんと眷属については、白ちゃんの話が参考になると思う」 「白の?」 俺は、東儀家の屋敷で白ちゃんから聞いた話を伝える。 ……。 「じゃあ、母様は友人を作ろうと思って眷属を作っているってこと?」 「そういうことだな」 「本末転倒だわ……」 副会長が頭を抱える。 「どうして紅瀬さんがそばにいてくれる理由に気づかないのかしら」 「他の眷属が母様に懐かないのなら、紅瀬さんが例外だって気づくのが普通じゃない?」 「それを教えてあげる人がいなかったからだろう」 「疫病の件があってから、伽耶さんはずっと一人で生きてきたんだと思う」 「稀仁さんは、疫病の原因として犠牲になることで東儀家を救ったけど……」 「遺された伽耶さんは、病気を撒いた人の子供になってしまったわけだ」 「紅瀬さんの話だと鬼の子って呼ばれてたみたいだし、友人がいたとも思えない」 「でも、真相は違うでしょ?」 「俺が真相を知らなかったくらいだ、ほとんどの人には明らかにされなかったのだろう」 「だとしたら……針のむしろね」 「ああ」 「そんな中でも、人とのつながりは捨てきれなかったんじゃないかな」 「それで友人を作ろうと思って眷属を作った」 「でも、赤の他人を眷属にしても友人にはならない」 「で、気に入らなくて殺してしまうわけね」 「無茶苦茶だわ」 「無茶苦茶だけど……そういう人だと思うしかないさ」 「……そうね」 少し考えてから、辛そうにうなずく。 「補足になるが、伽耶様が東儀家に対して無茶をされるのには、もう一つ理由があると思う」 「どういう理由?」 「伽耶様が、憎まれることで人とのつながりを感じていることだ」 「憎まれている以上、少なくとも忘れられることはない」 「通常の友人を作れなかった伽耶様は、憎しみで人とつながる道を選んだのだろう」 それは、監督生室を出ていく会長が言ったのと同じことだった。 「俺にとってはね、憎しみだけが自分とあの女を結ぶ唯一の絆なんだ」 そして、会長は自分と紅瀬さんが同じだとも言った。 この二人だけではない。 付き合いが浅い俺にしたって、彼女を快くは思っていなかった。 その意味で伽耶さんとつながっていたのだ。 「今までの話が正しいとすれば、母様が私に眷属を作らせる理由も明確ね」 「『友人を作り、血をもらえ』っていう稀仁さんの教えを守らせたいからだな」 稀仁さんの教えは、伽耶さんに眷属を作らせないためのものだったはずだ。 それが、まったく逆の形になって副会長に届いてしまった。 「やるせないわね」 「どうしてここまで屈折してしまったのかしら」 「副会長が前に言ってたじゃないか」 「感情は生もので、すぐに使わないと腐るって」 満たされず抑圧された欲求は時と共に腐り、人を内側から歪める。 桁外れな年月を生きてきた伽耶さんは、歪みも大きいのだろう。 「伽耶さんの場合は、家族も友人も作れない境遇に生まれたのが大きいだろうな」 「伽耶さんは子供を作れないし、疫病の件の後じゃ友達もできない」 「そんな環境の中をずっと生きてきたんだ」 「言いにくいけど、ずっと館に閉じこめられてるようなもんだろ?」 副会長が無言で唇を噛んだ。 「稀仁さんは、そんな伽耶さんの生活を見越して蒼珠を作ったり、東儀家と取り引きしたりしたんだと思う」 「できるだけのことをしてあげたいって気持ちはわかるわ」 「母様が本当に可愛かったんでしょうね」 「問題があるとすれば、伽耶さんが蒼珠や眷属の意味を勘違いしてることだな」 「蒼珠っていうのは、単に同族を作るだけの道具だろ?」 「たしかに同族はできるし、同族を家族にすることだってできる」 「でも、どういう家族を作っていくかは伽耶さん次第だ」 「眷属も同じね」 「眷属にしたからって、その人と友達になれるとは限らないわ」 「ああ」 「家族も友人も一から少しずつ作ってくものだろ」 「簡単に言えば努力が必要だ」 「伽耶さんはそこを勘違いしてるんだと思う」 「たしかにそうね」 「私に対しても、ああしろこうしろとは言うけど、一緒に頑張ってくれたこともなければ相談に乗ってくれたこともないし」 「きっと、母様の中には理想の子供がいて、それに私が見合わなければ捨てるんでしょうね」 「生まれつき理想をかなえられる子供なんていないわよ」 副会長が苦笑いをする。 寂しげな笑顔だった。 「母様の理想がわかれば努力のしようもあるけど、それすらわからないし」 「家族にしろ友人にしろ、伽耶さんの理想は、おそらく稀仁さんが生きていた時代を再現することじゃないか?」 「そのときは、母様も子供でしょ?」 「今は親なんだし状況が違うわ」 「伽耶様はそう認識していないだろうな」 「それは、伽耶様の容姿にも現われているだろう」 「伽耶様なら、あらゆる年齢の容姿を選択できるはずだ」 「だが、あえて子供のままの姿でいる」 「まだ、子供でいたいのね」 「ああ、すべて与えられていた時代だ」 「だからこそ、家族や友人を努力して作っていくことを知らない」 もう、伽耶さんは親だ。 いつまでも子供ではいられない。 彼女には、愛情を注ぐべき子供がいるはずだ。 「まいったわね……」 部屋の空気は重かった。 珠のこと、眷属のこと、伽耶さんのこと── いろいろと話してきたが、積み重なったゆがみの大きさにため息が出るばかりだ。 「結局、母様を説得できそうな材料がないわ」 「説得する姿勢で話しても、解決は難しいな」 「じゃあ、どうしろと言うの?」 「副会長はどうしたい?」 「え?」 「最終的にどうしたいんだ?」 「私は……」 副会長がうつむく。 「母様と普通の家族を作れればいいわ」 「まずはそこから」 「もちろん『獣』もなくしたいけど」 つぶやくように言う。 ささやかな願いだった。 「伽耶さんといい関係を作ろうと思うなら、こっちが折れないとダメだと思う」 「でも……」 「伽耶さんは、親らしいことを何もしなかったかもしれない」 「でもそれは、伽耶さん自身、自分が親だって気づいていなかったからだ」 「だから、いきなり理想の親になれって言っても無理なんだ」 「伽耶さんの成長をゆっくり見守る気で臨まないと」 「……」 副会長が唇を噛んだ。 辛いと思う。 多くの人が当然のように享受する何不自由ない子供時代を、副会長は過ごせなかった。 だが、今さら嘆いても過ぎた時間は帰ってこない。 欲しいものは自ら作らねばならない年齢になってしまったんだ。 「悪いな、説教臭くて」 「いいのよ……頭ではわかってるから」 「俺からも頼む」 「今までのこともずっと見てきた。だから瑛里華の気持ちもわかるつもりだ」 「だが、伽耶様を救うのは俺には無理だ」 東儀先輩が頭を下げた。 「そんなことしないで」 「私より、征一郎さんの方が理不尽な思いをしてきたはずだから」 悲しく眼を細める副会長。 「母様には、いつ話をしに行くつもり?」 「早いほうがいいな」 「じゃあ、今夜?」 「そうしよう」 「わかった。それまでに覚悟を決めるわ」 「頼んだ」 「ええ」 「その代わり、おいしいミルクティーを淹れて」 副会長が笑う。 安心した。 東儀先輩も穏やかな笑みを浮かべている。 「よし、至高のミルクティーを淹れるぞ」 「期待してるわ」 「出発は夜9時過ぎにしよう。いいな?」 「おす」 「了解」 副会長が静かに視線を落とす。 様々なことが頭の中を駆けめぐっているに違いない。 今は何より、気持ちを整理する時間が必要だと思う。 夜9時過ぎ。 梅雨入りが近いせいか、空気がしっとりと肌に張りついた。 「では、行こうか」 「はい」 副会長は無言でうなずく。 静かな表情だった。 自分に愛情を注いでくれなかった親を許し、共に変わっていこうと説得する。 出会ったころの副会長には難しかったかもしれない。 だが、伽耶さんにどうして欲しいかわかっている今なら、きっとやってくれると思う。 それは、伽耶さんの苦悩にしても同様だ。 稀仁さんが吸血鬼である以上、そもそも彼女は生まれるはずのない存在だった。 孤独と悲しみにまみれた人生は、不可避だったのかもしれない。 稀仁さんもそれを察していたのだろう。 だから、蒼珠や東儀家との約束で娘を孤独から守ろうとした。 もしかしたらそれは、彼自身の罪滅ぼしで、本当の意味で伽耶さんを守るものではなかったのかもしれない。 家族も友人も自分で作っていくものだ。 道に落ちてはいないし、店で売っているものでもない。 伽耶さんが境遇ゆえにそれを知らないとすれば不幸なことだが── だからといって、副会長まで不幸になるのは違う。 学院の敷地を出て、千堂家へと向かう道に入った。 夏を控えていよいよ厚く茂った木々が、瞬く星を遮っている。 道を吹き抜けてくる湿った風に、薄く鳥肌が立った。 「こんな時間にハイキングなんて、いい趣味してるじゃないか」 背後から声がした。 「に、兄さん」 振り返ると、笑顔の会長が立っていた。 「どうしてここへ」 「たまたま君たちを見かけてね」 「嘘をつくな、ずっと俺たちを監視していたのだろう?」 「趣味が人間観察なだけさ」 「いつからそんな趣味になったのよ」 「ま、そんなことはどうでもいい」 会長がゆっくりと俺たちを追い越す。 少し歩いて振り返った。 「あの女のところへ行くんだろ?」 「話をしに行くだけよ」 「こっちがそのつもりでも、向こうがそうとは限らないからねえ」 「ここで議論するつもりはない」 「兄さん、一緒に行きたいの?」 「それもない」 「俺が行けば、100%喧嘩になる自信があるからね」 「じゃあ何よ?」 「征」 会長が東儀先輩だけを見る。 「なんだ?」 「お前は屋敷に戻ったほうがいい」 「今までならそうしただろう」 「だが、俺は今日を最後にするつもりだ」 「その意気は買うが、東儀家を守るのがお前の仕事だ」 「お前が瑛里華や支倉君に入れ知恵したと知れたら、どうなるかわかったものではないよ」 「あの女、飼い犬のしつけには一家言あるからね」 「いまさらだ」 東儀先輩が会長をにらむ。 「白ちゃんはどうする。お前の勝手に巻き込まれるぞ」 「覚悟の上だ」 「お前なあ……」 会長が眉間に皺を寄せた。 「俺がなんのために、あの女と派手にやってきたと思ってるんだ?」 「なに?」 「お前は今夜一晩、東儀家の人間を守れ」 「今さら何を……」 「命令だ、征一郎」 会長が東儀先輩の反論を遮った。 東儀先輩が硬直する。 「!?」 このやり取りって、まさか……。 「気づいて……いたのか」 「これ以上危ない橋を渡らせるわけにはいかない」 「それに、親父さんから、お前や白ちゃんのことを頼まれてるからね」 「ぐ……」 東儀先輩が苦しげに顔をゆがめた。 「早く屋敷に戻れ。命令に逆らうのは辛いだろ」 「いつから、このことに……」 「ずっと前からだ」 「何度お前に謝ろうと思ったかわからないが、それはできなかった」 「ふ……はは……」 「無様な……ものだな」 「俺もお前もな」 会長と東儀先輩は、少しの間、無言で視線を交わした。 「あとは、そっちの二人に任せればいい」 「征はもしもの場合に備えてくれ」 「わかった」 じりじりと東儀先輩が後退していく。 「支倉、瑛里華……見ての通りだ」 「そんな……征一郎さんが、兄さんの……」 「細かいことはいい」 「伽耶様のこと、頼んだぞ」 「わかりました」 俺の返事にうなずいて、東儀先輩は道を戻っていく。 視界から消えるまで、一度も振り返らなかった。 「兄さん、どういうこと?」 「見た通りだ」 「東儀先輩が会長の眷属ってことですか」 「ああ」 「いつから?」 「俺からは何も言えない」 「征に聞いてくれ」 会長は毅然と言った。 「じゃ、俺はこれで」 「え? 本当に帰るんですか?」 「俺が行っても喧嘩するだけだ」 「それが俺の仕事でもある」 そう言って、会長は穏やかに笑った。 「あとは、王子様とお姫様に任せるよ」 「ちなみに気を付けて欲しいことがあるんだが」 「なんですか?」 「征からいろいろなことを聞いたと思うが、すべて俺から得た情報ということにしておいてくれ」 「征の関与に気づかれるとまずい」 「わかったわ」 「よろしい」 「んじゃ、じいやはちょっと疲れたんで帰るよ」 そう言って、会長が俺の隣を通り過ぎる。 「あ、言い忘れた」 「?」 「あの女は、瑛里華のことをけっこう大切に思ってるぞ」 「え?」 「上の男三人が出来損ないだったろ」 「女の子ならきっと理想的な吸血鬼になると思って、お前を選んだんだ」 「……」 「お前を引き取ったときなんか、あの女、珍しく上機嫌だった」 「この子は、父様のような立派な吸血鬼になるってね」 父様か……。 伽耶さんは、稀仁さんをそう呼んでいるんだな。 当たり前のことだが、今はなぜか切ない気分になった。 「お前を館に閉じこめたのは、上の三人が人間と関わってロクな目にあわなかったからだ」 「あれで、大切に育ててるつもりだったのさ」 苦笑する会長。 「ところが、上の三人以上に難物だった」 「ま、うまくいかないもんだね」 「ほんと不器用な人よね、母様は」 「おや、驚かないのか……とっておきだったんだが」 「いろいろあってね」 「ふうん……今日は有意義な話ができたようだね」 「事態が落ち着いたらとっくり聞かせてくれ」 「はい」 「期待していて」 「よし、豪華クルーザーでパーティーの準備でもして待ってるよ」 そこまでされても……。 「んじゃ、せいぜい頑張ってくれ」 片手を軽く上げて、会長は学院の方向へ去っていった。 「相変わらず謎の人だわ」 「まったくだ」 「でも、東儀先輩とのやり取りからすると……」 「東儀家に伽耶さんの関心が向かないように、わざわざ喧嘩してたところもあるみたいだな」 「そうね……」 「ほんと謎だわ」 副会長が軽い笑いを浮かべる。 「さ、行きましょうか」 「ああ」 東儀先輩がいなくなって二人きりになったが、やるべきことは変わらない。 「な〜ぉ」 「あら」 草藪から黒い猫が出てきた。 見たことがある気もするが、あいにく黒猫の顔を個体識別するスキルはない。 「なー」 黒猫は短く鳴いて、屋敷の方へと走り去った。 「黒猫が道を横切るのはよくない知らせって言うけど……」 「走り去られるのはどうなんだろうな?」 昔、同じようなことを考えた気がする。 上り坂をしばらく歩き、俺たちは千堂家に到着した。 庭はきれいに手入れされているが、明かりは一つも灯っていない。 住人が突然消えた家みたいに、肌がざわつくような寂しさがある。 副会長は、感情の読めない顔で建物を見つめた。 やがて、何かを振り切るように視線を俺に向けた。 「いよいよね」 「ああ」 俺は、副会長の手を握る。 しっとりと汗ばんだ手が、彼女の緊張を伝える。 「うまくいくさ」 「うまくやるのよ、私たちが」 副会長が手に力を込めた。 「よし、行こう」 手を離し、館の裏手に踏みだしたその時── からん               ころん    からん          ころん 下駄の音だろうか。 こっちへ向かってくる。 「か、母様だわ……」 「……」 まさか、向こうから出向いてくるなんて。 息をひそめて、その人の姿が見えるのを待つ。    からん           ころん からん 背中を冷たい汗が伝った。 闇の中に、伽耶さんの姿が浮かびあがった。 肌は月光のように透き通り、瞳は溶鉱炉のごとく熱を揺らめかせている。 めまいがするほど鮮やかなコントラストだ。 着物の裾を手に持って歩くその姿は、どこか異界の美を感じさせた。 「母様……」 伽耶さんが歩みを止める。 黄金色の髪が風に舞い、月影に輝いた。 薄く紅の引かれた唇が動く。 「たまの月見だというに、邪魔が入ったな」 「なーご」 いつの間にか、黒猫が伽耶さんの足下に座っていた。 あれは……さっき見た猫か? 「お前はあちらへ行っておれ」 少し身をかがめ、猫に言う。 「にゃあ」 返事をするように鳴いて、猫は走り去った。 「どうした? 血がなくて苦しくなったか?」 伽耶さんがにやりと笑う。 「今のところは大丈夫です」 「それはよかった」 「せいぜい足掻くといい」 強がっているとでも思ったのか、伽耶さんが薄く笑う。 「伽耶さん、もうこういうのは終わりにしませんか?」 「お前たちに用はない、どこぞへと行け」 俺の言葉には答えず、伽耶さんは屋敷の裏手へと歩きだす。 「伽耶さんっ」 「待ってくださいっ」 俺たちは、伽耶さんの行く手に立ちふさがった。 伽耶さんの目がすっと細くなる。 その瞬間、総毛立った。 頭の中でアラームが鳴っている。 一刻も早くこの場を離れろと、本能が警告してきた。 「話を聞いてもらえませんか?」 「邪魔だ」 伽耶さんが俺たちの間を通り抜けていく。 「稀仁さんのことで話に来たんです」 ぴたりと伽耶さんが足を止める。 「なぜその名を知っている?」 そして振り向いた。 「稀仁さんの記憶を見たからです」 「世迷い言をっ!!」 夜気が震える。 全身の毛穴が収縮し鳥肌が立った。 「冗談もたいがいにしろっ」 伽耶さんが俺の目の前に来た。 長い髪が怒気に舞っている。 「お前……」 視界が揺れる。 いつの間にか、伽耶さんの顔が目の前にあった。 襟首を引っ張られたのだと理解するのに、しばらく時間がかかる。 「殺すぞ」 「母様っ!」 「がっ」 次の瞬間、俺は地面に叩きつけられていた。 顎から石畳に落ちたせいで、頭がぐらぐらする。 「い……て……」 伽耶さんの力は圧倒的だった。 抵抗できるものじゃない。 「支倉くん、大丈夫っ!?」 「ああ、なんとか」 カラコロと、下駄の音が遠ざかっていく。 せっかく興味を持ってくれたのに……。 頭の痛みを堪えつつ立ち上がる。 「吸血鬼は、人間に蒼い珠を飲ませることで生まれるんですよね」 伽耶さんがまた足を止め、こっちを向いた。 「誰から聞いた?」 「さっきも言ったとおり、稀仁さんの記憶を見たんです」 「誰から聞いたわけでもありません」 伽耶さんが俺をにらむ。 負けじとにらみ返した。 「とにかく話を聞いてみて下さい」 伽耶さんは返事をしない。 ただ、立ち去る気配もなかった。 「稀仁さんは、『友人を作り、血をもらえ』と伽耶さんに言いましたよね」 「なぜかご存じですか?」 伽耶さんは何も言わない。 まるで、子供の戯れ言を聞いているかのような顔だった。 「伽耶さんに眷属を作らせたくなかったからです」 「馬鹿なことを」 伽耶さんが静かに言う。 「稀仁さんには、親しい人を眷属にしたくなる衝動があったんです」 「だから、いつか家族や友人を眷属にしてしまうのではないかと恐れていました」 「衝動を抑える手段がないか探して、やっと見つけたのが血を飲むことなんです」 「くくく……」 伽耶さんが喉の奥で笑う。 「何がおかしいのですか?」 「よく考えるものだな」 「それで、瑛里華が眷属を作らなくて済むようにしようという腹か?」 「ち、違いますっ」 「父様の名を出せば信用すると思っているのだろう、馬鹿共め」 「おおかた伊織あたりの入れ知恵だろう?」 「これは作り話ではありません」 「支倉くんは、実際に稀仁さんの記憶を……」 「黙れっ!」 おそらく無意識に、副会長が半歩下がった。 「お前たちの口から、父様の名前が出ること自体不愉快だ」 「ここまで小細工をするとはな……」 「覚悟はできているのだろうな?」 まずいな。 このままでは、伽耶さんを怒らせただけで終わってしまう。 何か上手い方法は……。 「待ってください」 伽耶さんが無言で俺をにらむ。 「7月12日という日付は知っていますよね」 「伽耶さんの誕生日のはずです」 「う……」 「それで証明になりませんか、俺たちがしているのが作り話でないことの」 「……ふん」 伽耶さんがぶすっとした顔をする。 「俺たちは、伽耶さんや稀仁さんをからかってるわけじゃありません」 「ただ、彼の願ったことをきちんと伝えたいだけです」 「続けろ」 「母様……」 副会長が、ちょんと俺の手に触れた。 軌道修正できてよかった。 「さっきの続きですが……」 「血を吸うことは、親しい人を眷属にしたくなる衝動を抑える方法でした」 「だから稀仁さんは、伽耶さんに血を吸うよう言い残したんです」 「友人を眷属にするなんていう、辛いことをしなくて済むように」 「ふん……」 伽耶さんが不機嫌そうに鼻を鳴らす。 「彼は記憶の中で、自分と同じ衝動を伽耶さんが継いでいないか心配してました」 「知らんな、そんな衝動は」 「知らないはずです」 「伽耶さんだけは珠から生まれた吸血鬼ではありませんから」 「な、なんと言った?」 伽耶さんの顔に動揺が走った。 今まで見たことのない表情だ。 「母様は、稀仁さんと東儀家の女性の間に生まれた、まぎれもない吸血鬼なんです」 「私のように珠を人間に飲ませた存在ではありません」 「だからこそ、稀仁さんは伽耶さんの将来が寂しいものになるのを心配していました」 「寂しいだと?」 「はい」 「はははははっ」 「あたしには寂しいなどという感覚はない」 「ただ、口惜しいだけよ」 伽耶さんが憎々しげな目で副会長を見る。 「どういう意味ですか?」 「父様が作られた珠を使っておきながら、貴様のような出来損ないばかりできる」 「お前だけではない、伊織も弟たちも、一人として私の言うことを聞かない」 「なぜだ、なぜ父様の名前を汚す!?」 「っっ」 最低の罵倒だ。 副会長の手に触れる。 大丈夫とでも言うように、副会長は俺の指先をつかんで離した。 「稀仁さんの想いを無にしているのは伽耶さんですよ」 「なんだとっ!?」 「稀仁さんは亡くなるまでにできるだけのことをしたと思います」 「な、何を言う……」 「父様は死んでなどおらぬっっ!!」 伽耶さんが俺の服をつかんだ。 「でたらめを言うなっ!!」 「父様は、父様は、死んでなどおらぬっっっ!!」 伽耶さんが、俺をゆすりながら叫ぶ。 だがその手には、俺のバランスを失わせるほどの力もない。 「伽耶さん……」 伽耶さんの手を握る。 それでも、伽耶さんは俺をゆすり続けた。 「父様は吸血鬼だ、あたしを捨てて死ぬわけがあるまいっ」 「きっと帰ってくるっ」 「帰ってきて、共に生誕を祝うのだっ!」 痛切な声が響いた。 伽耶さんは、稀仁さんの帰りをずっと待っていたのか。 稀仁さんがついた嘘を信じて250年も。 自分は捨てられていないと心の中で繰り返しながら……。 言葉もない。 伽耶さんもまた、親の愛情を求める一人の子供だったのだ。 「母様……」 「伽耶さん……稀仁さんは亡くなりました」 「村に病気が流行って、東儀家は責任を取らされそうになっていたんです」 「その東儀家を守るために、稀仁さんは病気を撒いた張本人として名乗り出、犠牲になりました」 「嘘を……嘘をつくな……」 「嘘ではありません」 「稀仁さんは自ら胸を貫き、千年泉に落ちて亡くなりました」 「そのとき泉にこぼれた珠の破片が、今、支倉くんの中にあります」 「だから、稀仁さんの記憶を見ることができたんですよ」 「っっ」 伽耶さんが弾かれたように俺から手を離す。 そして、数歩後ずさった。 「お、お前に……父様の珠が……」 「伽耶さんは珠について勘違いしてます」 「珠は人間を吸血鬼に変えるだけのもので、何か素晴らしいものをくれるわけではありません」 「貴様っ! 父様が欠陥品を作ったと言うのかっ!」 「違います」 「稀仁さんは、吸血鬼を作った後のことは伽耶さんに託したんですよ」 「もし今、家族と幸せに過ごせていないのなら、それは伽耶さん本人の問題です」 「あたしの何がいけない!?」 「学院も輸血用血液も、すべて家族のために用意したのだ」 「あたしがどれだけの苦労をしたと思っている?」 「なぜそれがわからないっ」 伽耶さんが怒鳴り散らす。 「母様……」 「やはり、もとになった東儀家の血が悪いのか」 「東儀家を低く見ることは、稀仁さんへの冒涜です」 「だいたい、母様の中にも東儀家の血は流れているでしょう!?」 「伽耶さんは、稀仁さんと東儀家が信頼し合っていたからこそ生まれたんですよ」 「く……」 伽耶さんは絶句していた。 じっと石畳を凝視しているが、その目には何も入っていないようだった。 「もうひとつ……」 伽耶さんが、はっとしたように副会長を見た。 「稀仁さんは、自らが犠牲になる代わりに東儀家とある約束をしたわ」 「約束?」 「母様の家族と友人になる人間を提供することです」 「永遠を生きる母様が寂しくならないようにと」 「父様……」 「今の状況は、稀仁さんや東儀家が伽耶さんのために揃えてくれたものなんです」 「それをどう使うかは、伽耶さん次第ですよ」 伽耶さんは、無言でうつむいている。 さっきまで彼女から噴き出していた怒気は、もう消え果てていた。 「大変なことはたくさんあると思いますけど、これから会長や副会長とやり直してみたらどうですか?」 「やり直す?」 「はい。家族をやり直すんです」 「伽耶さんが、稀仁さんを素晴らしい父親だったと思っているなら、伽耶さんも副会長にとって、素晴らしい母親になってください」 「伽耶さんはもう、子供に愛情を注ぐ立場なんです」 伽耶さんが副会長を見る。 視線に応えるように、副会長は伽耶さんの前に立った。 「どうして、こんな出来損ないに……あたしが愛情を……」 「もし母様が、私を家族にしたくないのなら殺せばいい」 副会長は淡々と言った。 演技には見えなかった。 「母様は、私が怖いのね」 「!?」 「私に情を注いだ自覚があるから、嫌われるのが怖いのでしょう?」 「出来損ないが、知った風なことを」 「私は何をされても母様の娘です」 「これだけは、どうやっても変えることができない」 「だから私は、母様が少しでもいい方向に進んでくれるなら、絶対に見放したりしない」 「それが子供の務めだとも思う」 「でも、それができないなら……」 副会長が、伽耶さんの胸にあった錦の袋を取る。 中から出てきたのは、白鞘の短刀だった。 それを抜き放ち、伽耶さんの手に握らせる。 「これで胸を刺して」 「取りだした珠で、新しい家族を作ればいい」 「生まれつき母様を満足させられる子供なんていないと思うけど」 副会長が伽耶さんの手を取り、短刀の切っ先を胸に当てる。 「ここに珠があるんでしょう?」 「稀仁さんも、自らここを刺して死んだわ」 「できぬと思うのか?」 「あまたの眷属を殺してきた女だぞ、あたしは」 伽耶さんの口がつり上がる。 「貴女は、自分を冷血だと思いこんでるだけよ」 「そう思わないと辛かったのよね」 「本当は人を愛したくて仕方のないくせに」 「き、貴様……」 伽耶さんが副会長をにらむが、その視線にはほとんど力がない。 「ずっと愛されてこなかったから怖かったのよね? 誰かに愛情を注いで裏切られるのが」 「もう、もう口を開くなっ」 「稀仁さんも貴女を愛してくれたはず」 「なら、きっと母様の中には人を愛したい気持ちがあるはずよ」 「それをなかったことにしないで」 「う……」 伽耶さんの眉がゆがんだ。 それは、はじめて見る彼女の弱気な表情だった。 「伽耶、もう突っ張るのはよしたら?」 館の方から、突然声が飛んで来た。 静かな足音とともに現れたのは、紅瀬さんだった。 「紅瀬さん」 「久しぶりね」 紅瀬さんが伽耶さんに対する。 「伽耶、貴女はどうしたいの?」 「なんのことだ」 「夢に描いていた家族はどんなものなの?」 「遠慮しなくていいわ」 「怖がらずに、貴女の望みを言ってごらんなさい」 静かな千堂家の敷地に、紅瀬さんの声が響く。 「千堂さんは、きっと貴女の望みを叶えてくれるわ」 「ただし、貴女の希望をきちんと伝えられればだけど」 「桐葉……お前、眷属だろう」 「あら、私は眷属である前に友人よ」 紅瀬さんが髪をかき上げた。 「貴女が間違った方向へ進むのなら諫めるわ」 「主に刃向かうのか?」 「それは私が決めることよ」 「私は自分の意志でここにいるし、自分の行動は自分で決めるわ」 「気に入るように動かしたいのなら、命令でもしてみたら?」 「おのれ」 そう言う伽耶さんだが、ほとんど怒りは伝わってこなかった。 「母様、もう終わりにしましょう」 「今までは上手くいかなかったけど、まだいくらでも時間はあるわ」 「一緒に楽しい家族を作りましょう」 「母様が頑張ってくれているかぎり、私は絶対に見捨てませんから」 副会長が伽耶さんの手を放す。 伽耶さんの握っていた短刀が、乾いた音を立てて石畳に落ちた。 「……」 伽耶さんが2、3歩後ずさる。 「お前に、何がわかる……」 「あたしを恨むことができただけでも恵まれているのだ」 さらに伽耶さんは館の方へ後退していく。 「恨むことすらできない時間を、過ごしたこともないくせに……」 「本当の孤独も知らぬくせに……」 副会長は辛そうに眉をゆがめながら、伽耶さんの言葉を聞いている。 「だから、これからはせめて幸せになりましょう」 副会長が一歩踏み出す。 「く、来るな」 「近づけば……命をもらうぞ」 そう言いながら、さらに後ずさる。 「あたしは、家族など求めない……」 「つながりなど必要ない……」 「一人で生きていけるのだっ」 その言葉はすでに、すべてを吐露しているのと同じだった。 家族が欲しくて、つながりが欲しくて、一人では生きていけなくて…… ただそのどれもが、今までの伽耶さんには得られなかった。 だからこそ、それらの欲求が自分の中にあることを否定してきた。 そうしなければ、自分がすべて得られない存在だと明らかになってしまうから。 「母様」 副会長が距離を詰めた。 「き、桐葉っ、瑛里華を殺せっ」 「もういいかげん……」 「命令だっ!」 紅瀬さんの身体がびくりと痙攣する。 「っっ!?」 「くそっ!」 「くっ……」 紅瀬さんの口から苦痛の声が漏れた。 次の瞬間、石畳に落ちた短刀に手が伸びる。 完全に虚を突かれた副会長は棒立ちだ。 「あああっっ!!」 紅瀬さんが短刀を振り上げる。 命令に抵抗しているのか、その速度は人間をやや上回る程度。 紅珠を飲んだ俺なら── 踏み出す。 景色が流れる。 紅瀬さんの手が振り下ろされる。 白刃が月光をはね返す。 刃先が副会長の首を捉える直前、 紅瀬さんの腕を払った。 「っっ」 紅瀬さんの腹部に拳を突き込む。 「くっ」 小さな声が漏れ、紅瀬さんがゆっくりと崩れ落ちる。 「ふう……」 「は、支倉くん?」 めちゃくちゃ驚いた顔をされた。 まあ、自分でも信じられない。 「紅珠を飲んでたせいだ」 「それに、紅瀬さんも命令に抵抗していたみたいだし」 「あ、そうか」 「それより、紅瀬さんを頼んだ」 「うん」 俺は、伽耶さんに近づく。 伽耶さんは、呆然と俺を見ていた。 「いい加減にしてください」 「!?」 伽耶さんの頬を軽く叩いた。 「な……」 何が起こったかわからないといった表情で、伽耶さんはしばらく俺を見上げていた。 「貴女はもう母親なんです」 「いつまでも子供のままではいられません」 「……」 「今までの人生がどれだけ辛いものだったか、俺にはわかりません」 「でも時間は戻らない」 「貴女が幸せだった、あのころには戻らないんです」 「う……」 伽耶さんの表情が歪んだ。 「稀仁さんは貴女が幸せになることを願って珠を作ったんです」 「もし今、伽耶さんが幸せでないのなら、彼は悲しみますよ」 「そうさせないためにも頑張ってみてください」 「副会長……」 「いえ、瑛里華もきっと貴女と一緒にいてくれます」 そう言って、俺は伽耶さんの頭に手を載せる。 そして、柔らかな髪を撫でた。 「う……う……」 「うぅ……うあああぁぁぁ……!」 うつむいた伽耶さんが、堰を切ったように泣き出した。 子供のような泣き声が周囲に響き渡る。 ずっと孤独の中で生きてきた伽耶さん。 彼女がこんな風に泣くのは、何年ぶりのことなのだろうか。 「うっ……ううっ……おのれ……おのれ……」 泣きながら、まだ強がりを言っている。 「人の母親泣かせないでよね」 副会長が、紅瀬さんをおんぶして近づいてきた。 「すまん」 「ふふふ」 副会長が、穏やかな表情で伽耶さんを見つめる。 「子供みたいね」 「う、うるさい……出来損ないのくせに……」 「そうね。うちは親子で出来損ないだわ」 「これからさ」 もう一方の手で、副会長の頭を撫でる。 「さ、部屋に入りましょう」 「ああ」 「伽耶さん」 「うぐ……ひっく……」 泣きながらうなずいている。 ほんと世話が焼ける人だ。 「お疲れさん」 しばらくして、会長がやってきた。 伽耶さんが呼ぶよう指示したのだ。 「相変わらず軽い男だな」 「そちらこそ、相変わらず派手ななりで」 「ちょっと、兄さん」 「おっと、いけないね」 そう笑って、会長は俺の隣に座った。 「支倉君も、お疲れさま」 「大したことはしてませんよ」 「女の子を殴るなんて、大したことだよ」 「知ってたんですか」 「電話で聞いた」 「で、紅瀬ちゃんは?」 「他の部屋で休んでます」 「そうかい」 「こほん、話してよいか?」 一段高くなったところから、不機嫌そうな声が聞こえた。 いつもの位置にちょこんと座った伽耶さん。 なんだか小さく見えた。 「どうぞ」 「今回の件……」 伽耶さんが話し始める。 「納得したわけではない」 おい。 謝るとかじゃないのか? 「簡単に切り替えられるものならば、すでにそうしている」 「まったくだね」 「すみませんでした、これから仲良くしましょうってわけにはいかない」 会長も伽耶さんに同意する。 俺は、すがるように副会長を見る。 「私も同感です」 「ま、兄さんと違って努力はしますが」 「それでいいのかよ」 「何事も母様次第よ」 「いま場に合わせて嘘をつくと、出足からつまづくことになるわ」 それはそうかもしれないが……。 また対立が始まったら、俺たちがやってきたことは意味をなくしてしまう。 「だが、今できる償いはさせてもらう」 「ほう、何をしてくれると?」 会長が腕を組んだ。 「お前たちの珠を消す」 「消せる……珠が?」 伽耶さんがうなずく。 「人間に戻るってことですか?」 「そうだ」 「へえ……」 「だが、私が消せるのは父様からもらった珠だけだ」 「支倉とやらの珠は諦めろ」 「……」 マジかよ。 「それに合わせて、千堂家もこれで終わりにする」 「ちょっと、伽耶さん!?」 「黙れ」 ぴしゃりと言われた。 「残るも去るも自由だ」 「残った者で再び家族を作る」 「それが、あたしの考えた償いだ」 「母様……」 「た、ただ……」 急に口ごもった。 「これは、あたし個人の勝手な希望だが……」 「ふ、二人には……残って欲しいと思っている」 生まれて初めて告白をする女の子みたいに、伽耶さんはそんなことを言った。 今まで、素直に欲求を表現してこなかった人だ。 これでも、かなり頑張っているのだろう。 「ではまず、珠を消す」 伽耶さんが立ち上がり、こっちへ来た。 「質問がある」 「なんだ?」 「珠は消さなくてはいけないのかい?」 「え……」 「貴様の好きにしろ」 「なら、俺はこのままでいい」 「俺には俺で責任がある」 会長が真剣な表情で言った。 東儀先輩のことだと、直感でわかった。 「さもあろう」 「瑛里華はどうする?」 「私は……」 副会長が視線を送ってきた。 ずっと不安と戦ってきた副会長。 どんなに辛くても弱音を吐かず耐えてきた。 人と恋に落ちる。 ただそれだけのことに、筆舌しがたい苦労と悲しみを背負ってきた。 それが今、終わろうとしている。 だが、大喜びする気にもなれなかった。 それはなぜだろう。 ……。 …………。 ああ、そうか……。 俺も、副会長の苦しみを通して伽耶さんとつながっていたんだ。 副会長の敵として憎んだ伽耶さん。 ずっと、殴ってやりたくて仕方なかった伽耶さん。 彼女はたしかに、俺とつながっていたのだ。 そして、こんなつながりで孤独をいやしていた伽耶さんや会長、紅瀬さんを思うと、胸が潰れそうになった。 「支倉くん?」 「あ、いや……」 「消した方がいい」 「そうね」 「お願いします」 「わかった」 副会長の前に伽耶さんが立つ。 「母様……」 副会長が伽耶さんを見つめた。 紺碧の瞳が揺れている。 「瑛里華……お前には、苦労をかけた」 伽耶さんの目も潤んでいた。 「その一言で……私は……」 いびつな家族だった。 だが、それでも家族だった。 憎み合って憎み合って…… それでもつながっていた。 「さらばだ」 「母様の期待に応えられませんでした……」 「ごめんなさい」 伽耶さんが、口の中で何事か呟いた。 その瞬間、何か砕けるような音が聞こえた。 「うあ……うっ、あっ……」 副会長が嗚咽を漏らす。 大粒の涙が畳にはじけた。 「うっ、うっ……ううう……」 うつむき、背中を振るわす。 涙が落ちる音が、ぱたぱたと断続的に響いた。 「……」 家族だけにしておこう。 立ち上がり、部屋を出る。 外は雨だった。 雨粒が木々の葉を打つ音が、敷地を包んでいる。 傘も差さず真っ暗な空を見上げた。 これで終わったのだ。 副会長の蒼珠は消え、千堂家はようやくスタートラインに立った。 「……」 求めていた結末にもかかわらず、達成感は湧いてこない。 胸にあるのは、わずかな安堵と静かな悲しみだった。 顔を雨のしずくが滑り落ちていく。 そうだ、もっと降ればいい。 この島に染みついた、悲しい匂いを洗い流せるほどに。 「飾り付け完成です」 「よし、うまくできたな」 今日の監督生室は、きれいに飾り付けられていた。 一番目立つ場所には『伽耶様、お誕生日おめでとう』と書かれた看板がかかっている。 「いやしかし、あの女の誕生日会をすることになるとはね」 「ちょっと前までは想像つかなかったわ」 二人が感慨深げに看板を見上げる。 「これから毎年やることになりますね」 「瑛里華、俺の誕生日知ってるか?」 「13月49日だっけ?」 「惜しいなあ、ちょっと行き過ぎだ」 「あ、そう言えば支倉くん、私の誕生日覚えてる?」 「ああ、6月7日だろ?」 「ばっちりね」 「来年は期待してるから」 「任せとけって」 今年の誕生日は、俺の血をプレゼントする羽目になったんだっけ。 なんだか、ずいぶん昔のことのように思える。 「あ、そろそろ迎えに行かないと」 「よし、一緒に行こう」 「おっけー」 「じゃ、行ってくるわね」 俺と副会長は、連れだって監督生室を出る。 「瑛里華も人間になって、いよいよラブラブだね」 「自重して欲しいものだが」 「お二人は、あのくらい仲がよろしい方がよいかと思います」 「白ちゃんは、そういう人いないの?」 「わわわ、わたしはまだ、その……」 「伊織、白をからかうな」 「征、白ちゃんを墓まで連れて行く気じゃないだろうね」 「俺たちは墓に入らないだろう?」 「ははは、忘れてた」 「ところで、伊織先輩はどうして人間に戻らなかったんですか?」 「趣味だよ」 「は、はあ……」 「支倉と瑛里華が飲んだ、稀仁の珠は消せないのか?」 「無理だって言ってた」 「俺のとは種類が違うみたいだから」 「大丈夫なのか、あの二人は?」 「あの女の話では、大した影響はないらしい」 「若干、長生きするかもしれないとは言っていたが」 「そうか」 「結局、二人には迷惑をかけることになってしまったな」 「特に支倉には、申し訳が立たない」 「俺に言わず、本人に言ったらどうだ?」 「本人に言っても、気にしないでくださいと言われるだけだ」 「じゃあ、気にしなきゃいい」 「たまにお前の単純さがうらやましくなる」 「征がお気楽になったら、俺が困る」 「俺たち二人だからバランスが取れるんだろう?」 「ふふふ、お二人の仲のよさも、支倉先輩たちに負けませんよ」 「だよね?」 「はあ……」 校門に到着した。 伽耶さんはまだ来ていないようだ。 「誕生日会やるって言ったとき、伽耶さんどんな反応した?」 「まだ言ってないの」 「お祝い事はサプライズが重要でしょ」 「そうか……どんな顔するか楽しみだ」 「ええ、きっと驚くわよ」 こういう発想が出るあたり、千堂家の新生活は上手くいっているようだ。 「伽耶さんの母親業はどう?」 「やる気はあるみたいなんだけど、家事はからっきしなのよね」 「この前も、週末の夕食は自分が作る、なんて張り切ってるから任せてみたんだけど……」 「包丁使いから何から危なっかしくて、結局ほとんど私が作ったわ」 「まったく、困ったものよ」 文句を言う副会長だが、その表情は今までになく楽しそうだ。 本人は気づいているのだろうか。 からん         ころん     からん そんな話をしていると、下駄の音が聞こえてきた。 いよいよ主賓の登場だ。 「こんにちは、伽耶さん」 「お前もいたのか」 「しかし暑いな」 伽耶さんが扇で日射しを遮る。 「もうちょっと涼しそうな格好したら?」 「あたしは、これでいいのだ」 副会長は、いつの間にか伽耶さんにタメ口で話すようになっていた。 丁寧語よりはずっといいと思う。 「ときに、瑛里華が暮らしているのはどこだ?」 「寮ならあれだけど」 副会長が寮を指さす。 「部屋を見せてもらおう」 「娘が住んでいる場所を確認するのも母の務めだ」 なぜか俺を見て自慢げに言った。 ちゃんと母親やってますよ、というアピールだろうか。 「わかったわ」 「いいわよね、支倉くん?」 「もちろん」 「先に行くぞ」 「あ、母様っ」 ずんずん歩き始めた伽耶さんを、俺たちが追う。 「ふむ、なかなかよい部屋だった」 副会長の部屋から出て、伽耶さんが感想をもらした。 「こやつを連れ込んだりしていないだろうな」 伽耶さんが、扇でぴっと俺を指した。 「ちょ、ちょっと何言うのよ、まさか……ねえ」 「も、もちろんですよ」 「ほどほどにしておけよ」 伽耶さん……鋭いじゃないか。 「こーへーっ」 「お」 廊下の彼方から、元気な足音が近づいてくる。 陽菜と司も一緒だ。 「呼んだの?」 「ああ、さっき電話したんだ。せっかくの機会だからさ」 「なんだ、あいつらは」 「俺たちの友達です」 「よく一緒にお茶を飲んだりするの」 「そうか」 「ならば、母親として挨拶をせねばな」 伽耶さんが姿勢を正す。 「こんにちはー」 「はじめまして」 「ども」 みんなが口々に挨拶する。 「その方らが、瑛里華の友人か?」 「うん、えりりんの友達」 「えり……りん?」 「あー、忘れて忘れて」 「ふむ、まあよい」 「いつも、瑛里華が世話になっているようだな」 「お世話になっているのはこちらです」 「そうそう」 「えりりんは、学院のために頑張ってるから生徒全員がお世話になってるの」 「そうか」 伽耶さんが副会長を見る。 優しい視線だった。 「これからも、瑛里華をよろしく頼むぞ」 「まかせといて」 「千堂さんはこれからどうするの?」 「母を監督生室に連れて行くわ」 「そう。じゃあ、また今度お茶会しようね」 「ええ、喜んで」 「さて、行くぞ」 「じゃ、いきなり呼び出して悪かったな」 「気にするな」 寮を出て、俺たちは監督生室までやってきた。 「この建物は記憶にあるな」 「古くからあるからね」 入り口の扉が開いた。 「桐葉か」 「遅かったわね」 「ちょっと寮を見学してたんだ」 「そうだったの」 「みんな待っているわ、中へ入って」 「では、お前たちの仕事ぶりを見せてもらおうか」 紅瀬さんが先頭に立ち、ぞろぞろと監督生棟に入る。 「母様、部屋には先に入って」 「なぜだ?」 「いいからいいから」 「よくわからんな」 ぶつぶつ言いながら、伽耶さんがドアを開く。 ぱん、ぱぱんっ 破裂音が響き、リボンが舞った。 「伽耶様、おめでとうございます」 「おめでとうございます」 「おめでとう、母様」 みんなが口々に祝福する。 「これはなんだ?」 伽耶さんは、ぽかんとしている。 「誕生日というやつです」 「わかっておる」 「みんなで、伽耶さんの誕生日を祝おうってことになったんです」 「あたしの……誕生日を?」 「ええ、家族でしょ」 「そうか……」 「そうだな」 「伽耶、250年くらいぶりじゃない?」 「そんなことは、いちいち覚えておらぬわ」 伽耶さんが涙ぐむ。 いつか稀仁さんと祝えると信じていた誕生日。 それは、ついに叶わなかった。 だがこうして、新しい家族と伽耶さんは誕生日を迎えることができた。 稀仁さんが見ていたら、きっと喜んでくれることだろう。 俺は、そっと胸に手をやった。 「さ、とにかく座って」 「う、うむ」 伽耶さんはいくぶん緊張した面持ちで席に着いた。 テーブルの上には、様々な料理が所狭しと並んでいる。 それらの中央には、白いケーキの箱が置かれていた。 「では、ろうそくに火をつけようじゃないか」 「白ちゃん、電気を消してくれ」 「はいっ」 電気を消し、手分けしてカーテンを閉めた。 全員が席に着く。 「では、ケーキの登場です」 副会長が箱のふたを開けた。 ……。 …………。 ロウソク? ケーキの上には、無数のロウソクが立っていた。 つーか、ケーキが見えない。 「完璧だね」 「さあ、点火だ」 「火災報知器に気をつけて」 「よし」 ライターで、どんどんどんどん火をつけていく。 「最近の誕生日は、このようなことをするのか?」 「ええ。祝われる人がロウソクの火を吹き消すの」 「あちっ、熱いぞこれっ」 「あ、支倉くんが熱がってるのは関係ないわよ」 「あはははっ」 伽耶さんに笑われながら、火をつけていく。 やがて、すべてのロウソクに火がついた。 ほとんど、テーブルの上でたき火をやっている状態だ。 「美しいものだ」 伽耶さんは、うっとりとした表情で半ば炎上するケーキを見つめた。 瞳に炎が映り、揺らめいている。 「さあ母様、火を消して」 「そ、そうだな……」 伽耶さんが声を詰まらせた。 「こういうのは初めてで……き、緊張するな……」 「やれやれ、いい歳して困ったもんだ」 「う、うるさいっ」 怒鳴った拍子に、伽耶さんの目尻から涙がこぼれた。 「はは……だらしがないな……」 「母様……」 「け……消すぞ」 「ええ」 「よ、よし……」 伽耶さんが身構える。 俺たちも拍手に備えた。 「では、母様、だいたい250歳の誕生日おめでとうっ!」 「おめでとう」 「おめでとうございますっ」 「おめでとうございます」 「おめでとう、伽耶」 「おめでとうございます」 「ありが……とう……」 伽耶さんが大きく息を吸う。 「ふーーーーーっ!」 「……」 「あは、はは……」 一部が消えるが、すぐに周囲の火が燃え移ってしまう。 「き、消えぬではないかっ!」 「おかしいなあ」 「これだけロウソクがあれば、当たり前だ」 「おまえたち……少しは考えろ……」 「まったく、愚かだ……どうしようもない……馬鹿だ……」 何度も、何度も、息を吹きかける。 息にはいつしか嗚咽が混じり、炎はほとんど揺れなくなっていく。 「う……くっ……」 「消えぬ……ぐすっ……消えぬぞ……」 涙で顔をくしゃくしゃにしながら、息を吹き続ける伽耶さん。 そんな光景を見ながら、ここにいる全員が瞳を潤ませていた。 それぞれが、それぞれの立場で悲しみを抱えてきた。 ときにすれ違いながら、 ときにぶつかりあいながら、 俺たちはずっと歩いてきた。 この火が消えたとき、ずっとずっと昔から続いてきた物語が終わる。 「よーし!」 「みんなで消しちゃいましょっ」 副会長が鼻声で言う。 「そ、そうだ。お前らも見ていないで協力しろ」 「やれやれ」 伽耶さんを中心にみんなが集まる。 「では、せーのでいこうか」 「いくわよーっ」 「せーのっっ!」 大きく息を吸い、 渾身の力でロウソクを吹き消した。 学院を卒業した俺と瑛里華は、同じ大学に進学。 それぞれ職を持ち、結婚したのは数年後の春だった。 それから約1年。 紅珠が残っている俺たちに子供が授かるか心配だったが、幸運にもコウノトリが来てくれた。 飲んだのが欠片だったことが幸いしたのだろう。 今日は、長女の出産を終えた瑛里華が退院する日だ。 俺は荷物、瑛里華は子供を抱いて病院を出る。 梅雨前の、抜けるような空がまぶしい。 この季節になると、修智館学院での「あの一ヶ月」を思い出す。 「母様、今頃どうしてるかしら?」 「さて、どこをほっつき歩いてることやら」 誕生会が終わって半年ほど経ったある日、伽耶さんと紅瀬さんは島から姿を消した。 最後にすれ違った白ちゃんに、伽耶さんは言ったそうだ。 「少し出てくる」 永遠の命を持つ伽耶さんの“少し”が何年なのか、俺たちにはわからない。 そばには紅瀬さんがいるはずだから心配ないと思うが…… ともかく気の長そうな二人だ。 次にいつ会えるのかは、まさに神のみぞ知る。 「伽耶さん、結婚式も来てくれなかったしなあ」 「仕方ないわ。招待状をどこに出したらいいかわからないんだから」 二人でため息をつく。 「伽耶さん、なんで出て行ったんだろうな」 「あれからずっと考えてるけど、わからないわね」 「でも、家族が嫌になったからじゃないと思うの」 「少し休みたかったんじゃないかな」 「ほーんと、困ったおばあちゃんね」 瑛里華が子供に話しかける。 「お前のおばあちゃんは、吸血鬼なんだぞー」 「俺たちも若干、人間じゃないんだぞー」 「変なこと教えないでよ、もう」 「お、タクシー来たぞ」 病院のロータリーにタクシーが止まる。 開いた後部座席から、運転手に行き先の住所を告げた。 「じゃ、瑛里華が先に……」 体を起こしたその時、 ロータリーの向かい側に人影を見た。 「どうしたの?」 「あ、あれ」 「え?」 俺たちの視線の先には、和服の小柄な少女と、同じく和服の女性が立っていた。 女性は白い日傘を持ち、小柄な少女のために日陰を作っている。 「母様……」 運転手に謝り乗車をパスする。 タクシーが走り去り、俺たちと伽耶さんの間には何もなくなる。 二人がゆっくりと近づいてきた。 その姿は、学院に通っていたころとまったく変わっていない。 「久しぶりだな」 「どこをほっつき歩いてたのよ」 「そこらをチョロチョロとな」 「日本中を回っていたのよ。私たち旅行をしたことがなかったから」 「しかし、貴方たち……」 紅瀬さんが俺たちをジロジロ見る。 「老けたわね」 「はあ!?」 「普通だから」 といっても、紅珠を飲んでいる俺と瑛里華は少しだけ加齢が遅い。 職場の同僚の話では、普通の人よりけっこう若く見えるらしいが。 「して、この猿みたいのが孫か?」 「ええ、かわいいでしょう」 「猿だ、猿」 「千堂さんによく似てるわ」 「あのねえ」 「それにもう千堂じゃないから」 ダメだ……。 この人たちは、相変わらずすぎる。 「猿に名はあるのか?」 「え……」 「ええと」 瑛里華と顔を見合わせる。 「なんだ、言えぬのか?」 「か、伽耶です」 「かや?」 ……。 「ぷっ……くくく……」 「貴様ら……」 「あたしが帰ってこないと思っていただろうっ」 うがーと吠えた。 「いやいやいやいや」 「ふん、まあよい」 悪態をつきながらも、伽耶さんは嬉しそうな顔をしていた。 「さて、目的も果たしたし行くか」 「そうね」 「ちょっと、もう行っちゃうの?」 「家に寄っていってください」 「遠慮する」 「同じ名前のヤツがいたら、ややこしくてかなわん」 「じゃ、元気で」 二人は、近所へ買い物にでも行くような気軽さで立ち去ってゆく。 何年ぶりの再会だと思ってるんだ。 「母様」 瑛里華が呼び止めた。 伽耶さんが振り返り、二人はしばらく見つめ合った。 瑛里華は何か言おうとしているが、言葉が出てこないようだ。 「その子は……」 「え?」 「あたしに似て美人になるだろうよ」 瑛里華が笑ってうなずく。 「言えた義理ではないが……」 「瑛里華、母の務めを立派に果たせよ」 そう言って、伽耶さんはまた歩き出した。 「はいっ」 瑛里華が伽耶さんの背中に返事をする。 まるで姉妹のような二人が、ゆっくりと街へと消えていく。 姿が見えなくなるその瞬間まで、彼女たちは振り返らなかった。 「行っちまったな」 「そうね」 「次はいつ会えるかな」 「さあ?」 「いつ会えるかわからないけど……」 「寂しくはないわ」 二人が消えていった方角を見つめ── 瑛里華は眼を細めた。 「母様はね、ずっと昔から……」 「家族のことで、頭がいっぱいの人だから」 蝉時雨が聞こえる。 外はうだるような暑さだ。 監督生室の冷房は調子が悪いらしく、窓は開け放たれていた。 「それじゃあ、会議を始めましょう」 副会長がテーブルを囲んでいる生徒会メンバーを見た。 今日は大切な会議ということで、5人全員が顔を揃えている。 「で、なんの会議だっけ?」 「要望目安箱だ」 「ああ、あれね」 うんうん、とうなずいている。 「生徒からの要望を反映する、非常に大切な会議だ」 「全員、気を引き締めていこう」 「忘れてた人が何言ってんのよ」 呆れたように会長を見た。 「まあ、しっかり話し合わないといけないのは確かだけど」 「支倉くんと白は、この会議は初めてよね」 「はい」 「そうだな」 「よりよい学院生活を送るためにはどうしたらいいか」 「この中に、生徒みんなが考えてくれた意見が入っているのよ」 副会長が、テーブルの上に置かれた木箱に触れた。 「採用するかどうかは、毎回役員の多数決によって決めているの」 「一票が学院の未来を左右することもあるから、真剣に考えてね」 「ああ、わかった」 「は、はははい」 白ちゃんが、プレッシャーに震えていた。 「質問は?」 俺は首を振った。 「ないです」 「じゃあ、最初の意見は」 ごそごそ 副会長の手が、木箱の中を漁る。 そして、一枚の紙を取り出した。 「えっと、購買部の品揃えについてね」 「携帯の充電器を売って欲しい、ですって」 ずいぶん具体的な案だな。 「充電器、とはコンセントに差し込むタイプか?」 「書いてないわね」 「使い捨てのほうじゃないか」 「充電が切れた時、あると便利ですもんね」 「では多数決を」 「電源に差し込むタイプを、購買部に追加することに賛成なら挙手を」 誰も挙げなかった。 「使い捨てタイプの追加に賛成なら挙手を」 白ちゃん以外の四人が挙げた。 「……」 ちょっと不安そうな顔をした。 「白。いいのよ、ちゃんと考えたんでしょ。間違いなんてないんだから」 安心させるように微笑んでみせる。 「あ、はい」 白ちゃんもつられたように笑顔になった。 「賛成多数で可決」 「これは、私が担当しようかしら」 「いや、俺がいこう」 「購買部には他にも用事がある」 「じゃあ、お願いします」 テキパキとやりとりが行われていく。 ごそごそ 副会長が再び木箱から紙を取り出した。 「これは……」 一瞬眉をしかめて、手にした紙をテーブルの隅によけた。 「どうした?」 「いたずらよ」 「どれどれ?」 会長が隅に置かれた紙を見る。 「朝のHRでその日の語尾を決め、一日中その語尾で話す」 「語尾?」 「『ざます』とか『だもん』とか」 「ね、いたずらでしょう?」 なるほど。たしかにまともな意見ではない気がする。 「瑛里華」 会長がなぜか悲しそうな目をした。 「いたずらかどうかは、みんなで判断するべきことじゃないのか?」 「明らかに否決される意見は省いていかないと、今日中に終わらないでしょ」 「俺は、この生徒の意見に賛成だ」 「支倉君はどう思う?」 「さすがにその意見はないんじゃないかと……」 「これが年に一回だけの案だったら?」 「年に一回?」 「アオノリが授業中に『ここの正解は窒素だもんっ』とか言ったら面白くない?」 ……面白いとは思う。 「平穏な学院生活に、年に一回だけ冗談みたいな日がある」 「これは素敵なことじゃないかな?」 「少なくとも、話し合う価値はあると思うけど」 なんか、だんだんそんな気がしてきた。 「書いた本人だって、真面目にそう考えたかもしれない」 「そうだろう? 瑛里華」 「そうね。真剣に考えてくれたのなら、私のしたことは失礼よね……」 「わかったわ、話し合って多数決を取りましょう」 「待て」 「何よ」 「これは、話し合うより実践した方がいい」 「時間がないのよ」 「会議を進行しながらでもできるさ」 「語尾を変えるなんて、やったことないだろ?」 「たしかに無いが、それは……」 「やったことが無いことの楽しさを論じるのは、正確性に欠ける」 「できる限り一般生徒の言葉に耳を傾けるためには、これが一番だ」 なんだ、この無駄な説得力は。 「でも……」 「あの」 白ちゃんが手を挙げた。 「何?」 「語尾は、ぴょんがいいです」 そして、会議は次の意見へと移った。 副会長が次の意見を読みあげる。 「次は……」 苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。 「図書館規則第6条、借りられる本の上限は現在5冊だけど」 「この上限の増加について検討を」 「だぴょん……」 「くっ」 腹を押さえて笑いを堪える。 副会長が真っ赤になっていた。 「……」 キッとにらまれた。 何も声に出さないのは、語尾を言いたくないからだろうな。 「あの、その人は何冊ぐらいがいいって書いてないですぴょん?」 さすが白ちゃん。 自然な感じでぴょんって言ったぞ。 そして、答えるハメになる副会長。 「10冊よ……ぴょん」 「うぅぅ……」 屈辱に耐えるように、机の上に置いた手を握り締めている。 「ちょっと多いか、まあ採用されたら図書委員に数を決めてもらう方がいいぴょん」 さらりと言った。 なるほど、下手に意識しない方がいいのかもな。 「征はどう思うぴょん」 「……」 目を閉じたまま、静かに首を振った。 ――俺は何も言わないぞ、という殺意にも似たオーラが伝わってくる。 「では、多数決をぴょん」 副会長も、こんな語尾なんでもないわよ、という澄ました感じで言った。 でも耳まで真っ赤だ。 全員の手が上がり、可決された。 副会長は何も言わず、紙を自分の元へ。 自分が処理するということだろう。 ごそごそ 副会長は無言のまま、次の意見に目を通す。 「……」 監督生室に静寂が訪れる。 副会長は、意見の書かれた紙をテーブルの隅に置こうとした。 そこで思い直したように紙を自分の前に戻す。 「暑い日には全員水着で授業だぴょん」 呆れきった顔で言った。 「多数決しましょうぴょん」 話し合う気はないらしい。 そりゃまあそうだよな。 「待てぴょん」 「何ぴょん」 みんながウサギに見えてきた。 いつからここはお伽の国になったのだろう。 「生徒の出した意見には真摯なる対応をしなければならないぴょん」 「だからやってるでしょう!」 「ぴ、ぴょん」 白ちゃんが諭した。 「……やってるぴょん!」 「こいつも、実践してみなければわからないさ」 「ぴ、ぴょん」 「わからないぴょん」 会長が楽しみ始めている……。 こんな時、いつもならあの人が止めるのに。 「……」 ストッパーはモアイよりも無口になっていた。 「次の議題はこの紙でちゅっ!」 満面の笑みだった。 何かが吹っ切れたのだろうか。 会長に水着案実践を押し通され、語尾も「子供っぽい語尾」に変更された。 悟りでも開かないと、やってられないわな。 「次はなんなのか、どきどきでちゅ」 「いやあ、なんかお祭りみたいに楽ちいでちゅね」 「はいでちゅ」 「そうでちゅね」 素になったら負けだと思い、俺も陽気に答えた。 「……」 一人だけ無言。 一応、水着を着たのが最大限の譲歩なのだろうか。 「えーっと、寮のお風呂を男女混浴にしたらいいと思いますって……」 「できるわけないでちゅよょぉぉぉっ!」 ばんっ! 思いっきり紙をテーブルに叩きつけた。 不満が爆発したらしい。 「はぁ……はぁ……」 「いや、試しにやってみるでちゅ」 「はあ!?」 「えっ、あの、それは……」 「支倉先輩たちと、一緒に……でちゅか?」 なぜ俺を名指しなんだ。 「手始めに白ちゃんと支倉君で入ってきたらいいでちゅ」 ピキリ 空間がひび割れるような音が、聞こえた気がした。 夏なのに。 窓を開けているはずなのに。 魂を凍らせるような冷気が、部屋に充満した。 その冷気の原因へ―― 「……」 「……」 「……」 全員が、顔を向けた。 「……」 表情は浮かんでいないのに、伝わってくる怒り。 その大きさに、身体が震える。 鋭い視線が、会長を射抜いた。 「……伊織、いい加減にしろでちゅ」 律儀に、でちゅがついていた。 「ぶっ」 「くっ……あはははっ」 副会長がばしばしとテーブルを叩いた。 「くっくくく」 俺もつられて笑ってしまう。 「征一郎さんが……でちゅ……あははっ」 「グッジョブ」 「語尾をつけてないようだが、ルールはもういいのか」 笑い転げる俺たちを見て、憮然として言った。 「全員言ったし、もういいだろう」 「あ、あの、兄さま……かわいかったです」 フォローのつもりなのだろうか。 「くっ……」 傷ついたのか、顔をしかめた。 「ん?」 テーブルに叩きつけられた紙を見た。 「どうしたんですか?」 「これは、伊織の筆跡だな」 「あ、バレた?」 「謀ったな」 「たまには、征をターゲットにしないとかわいそ……」 がしっ 東儀先輩が、会長の首根っこをつかんだ。 「話をしようか」 「遠慮しておくよ」 「いいから来い」 ずるずるずる ばたんっ 会長を引きずって去っていった。 水着のままで、どこに行くんだろう。 「はぁ……はぁ……」 「お腹がよじれるかと思った」 「やっと笑い終わったのか」 「あの、会議はどうしましょう」 「二人がいないんじゃ、延期ね」 「あーもうっ。今日はちっとも進まなかったわ」 頭を抱えて机に突っ伏した。 水着姿だと、なまめかしい。 「元気出して下さい」 水着姿で慰める白ちゃん。 ちょっと幸せ。 「いいんじゃないか。たまにはこんな日があっても」 「何よ。楽しそうな顔しちゃって」 「ハメを外すのも、大事だろ」 「ふうん」 「……そういう考え方、悪くないわね」 俺の顔を見て、微笑んだ。 窓の外は、炎天下。 聞こえるのは蝉の声。 ――それから、会長の断続的な悲鳴。 修智館学院の夏、だった。 頭の中が真っ白だ。 これは日の光だろうか。 眩しくて、体の向きを変えた。 ノックする音と扉が開く音が、すごく遠くで聞こえた気がする。 「ほら、いつまで寝てるのよ。もう時間だから、起きて」 ゆさゆさと揺らされる。 なんだか心地良い。 余計に眠くなる。 「まったく、幸せそうな寝顔ね……」 「いたずらして起こしちゃうわよ?」 これは、瑛里華の声だ。 いたずらってなんだろう。 気になって、目を開けた。 「!」 びっくりした瑛里華の顔が目の前にあった。 「え、えっと、その」 「ううぅー」 なぜかかわいくうなりながら、真っ赤になっていく。 瞳に眠そうな俺の顔が映っていた。 「うりゃっ」 ぎゅ〜 いきなり、ほっぺたを人ならざる力で引っ張られた。 「いだだだあああっ!」 「入れふぎっ、力入れふぎっ」 「あっ、ご、ごめんなさい」 慌てて離す。 「ううう……」 「いくらなんでも、この起こし方はないだろ」 頬をさすりながら抗議する。 千切れるかと思った。 「しようと思ってしたわけじゃ……」 何かぼそぼそと呟いている。 「ん?」 「なんでもないわ」 「ほら、生徒会役員が遅刻だなんて許されないわよ。準備して」 真っ赤な顔で、ベッドに身を起こした俺の背中をばしばしと叩く。 時計を見ると、まだ時間には余裕がある。 頬の痛みを堪えながら、着替えることにした。 いったいなんだったんだろうか。 もうちょっと優しく起こしてくれてもいいのに。 放課後。 室内には俺と瑛里華、二人きりだ。 「これに不備がないか調べて、仕分けして」 俺は無言でうなずいた。 今日は、俺たちだけで目の前にある大量の書類を処理しなければいけない。 いや、別になんの文句もないけど。 「痛た……」 まだ頬が痛い。 「……」 瑛里華がちらりと俺を見た。 何か言いたげな顔をしている。 やがて、何も言わずに書類に顔を戻した。 静かな監督生室。 紙をめくる音だけが響く。 なんとなく、殺伐とした空気だ。 「えーっと……」 「お茶淹れるけど、孝平も飲む?」 瑛里華が空気を変えるような声で立ち上がる。 まだ、自分で淹れたお茶があるし。 俺は首を振った。 口の中が痛くて、あまり話す気になれない。 「そ、そう」 自分のを淹れに行くのかと思いきや、そのまま椅子に座る。 「気が変わったのよ」 俺が不思議そうに見ているのに気づいたらしく、そう言った。 俺は小さくうなずいて、書類の仕分けに戻る。 また沈黙が訪れた。 瑛里華がちらり、と俺を見た。 「……すごく、怒ってるでしょ」 俺は首を振った。 「嘘よ」 「さっきから口も聞いてくれないじゃない」 「話すと、痛いだけ」 「あ、そうなんだ……」 落ち込んだようだった。 「朝のことは、ごめんなさい」 「あれは、ちょっとイレギュラーだったから」 「力の制御ができなかったのよ」 申し訳なさそうに言った。 「イレギュラー?」 「な、なんでもないわ」 よくわからん。 「まあ、別に瑛里華に怒ってるわけじゃない」 「そうなの?」 「あれは起きなかった俺も悪かったし、しかも謝ってくれたし、もう全然気にしてない」 痛みを堪えて微笑んでみせた。 「よかった」 安心したように微笑みを返してくる。 立ち上がって、俺に近寄ってきた。 「ここが痛いの?」 俺の顔を覗きこむようにして、頬に手を当てた。 しっとりとした手の感触が気持ちいい。 「そうされてると、痛くないな」 「嘘ばっかり」 「ちょっとは痛いけど、和らぐのは本当だ」 「じゃあ、治るまでずっとこうしていようかしら」 魅力的な提案だ。 「そうしてほしいけど、仕事が終わらないだろ」 「そうね。でも少しだけ」 頬に当てられた手が、首の後ろに回された。 椅子に座る俺に覆い被さるように、瑛里華の身体が近寄ってくる。 もう片方の手は、背中へ。 ぎゅっと抱きしめられた。 俺の頬に、瑛里華の頬がそっと触れる。 「ど、どうした?」 少しかすれた声が出た。 「この方が、痛みが紛れるんじゃない?」 耳元に当てられた唇から、恥ずかしそうな声が漏れた。 目の前にある髪から、心地良い花の香りがする。 密着した体から、温かい体温とドキドキという心音が伝わってきた。 瑛里華が呼吸をするたびに、その音は速くなっているように思う。 痛みなんて忘れていた。 ――仕事中なのに、こんなことをしていていいのだろうか。 ――幸せだからいいんじゃなかろうか。 ――今誰か入ってきたらどうなるのかな。 いろいろ考えられるほど、長い間二人でそうしていた。 「はぁ……」 吐息が俺の耳を打つ。 「私が癒されてどうすんのよ……」 かわいい呟きが聞こえた。 ぬくもりが、ゆっくりと離れていく。 「少しは楽になった?」 自分でしておいて、照れくさそうに言う。 せめてもの償い、ということなのだろうか。 「かなりよくなった」 「もっとしてくれたら、完治するかもな」 冗談めかして言ってみた。 「完治はするかもしれないけど、仕事は終わらないわよ」 「どっちを取る気?」 微笑みながら、俺を見返す。 副会長殿は、ここで完治って言ったら怒る気がするな。 「残念ながら、仕事だな」 「そうよね」 「さあ、頑張りましょ」 満足げにうなずいた。 すっかり日が暮れていた。 俺は、確認した書類の束をまとめる。 そして、瑛里華の前にそっと置いた。 「すぅ……すぅ……」 瑛里華は珍しく、途中から寝てしまっていた。 こんなことは初めてかもしれない。 起こすのも忍びないので、瑛里華の分も俺がやっておいた。 さすがに門限も近くなってきたし、そろそろ起こすか。 「ぅぅ……ん」 ずいぶん幸せそうな顔をしてるな。 ケーキの夢でも見てるのだろうか。 「孝平……好き」 「!」 寝言でなんてこと言うんだ、この子は。 やばい、ドキドキしてきた。 もう時間もないし、起こさないと。 「瑛里華、帰るぞ」 「すぅ……すぅ……」 まったく反応がない。 どうしようか。よしっ。 ここは、キスで起こしてみよう。 自然だ、とっても自然。 俺と瑛里華は付き合ってるわけだしな。 ドクンドクン 「……」 かわいい寝顔に吸い込まれるように、顔を近づけていく。 瑛里華の吐息が、肌に当たる距離。 なんでちょっと古風な言い方なんだ、俺。 動揺か。動揺しているということか。 いや、これは自然なことなんだ。 だって、俺と瑛里華は付き合ってるじゃないか。 そう思って、瑛里華に近づいて行く。 マジか……。 それくらい勢いをつけないとキスできないということか? そうかもしれない。 とりあえず、椅子から立ち上がった。 部屋の隅に行き、腕を回し準備体操をする。 無言のまま駆け出し、決死のスライディング―― ずざざざざざっ がつんっ! 「ぐおぅっ!」 椅子に……足を……ぶつけた。 これだけ音がすれば、さすがに瑛里華は起きただろ。 「くー……すぅ……」 寝ておる。 じゃあ、予定通りにするか……。 艶やかな唇が目の前にある。 そっと、顔を寄せていく。 ドクンドクン あと少しで唇が重なる。 「ん……」 目が開いた! どうする、どうする俺!? とっさに瑛里華の頬を、つまんだ。 ぎゅ〜 「あっ……何? 痛た……っ!」 「な、何するのよっ」 「あ、いや、すまん」 慌ててぱっと手を離す。 「監督生室……?」 「そっか、私寝ちゃったんだ」 目の端に涙を浮かべて頬をさする。 「でも、ちょっとあんまりな起こし方じゃない?」 「もしかして仕返しなの?」 「ち、違うんだ、すまん」 「しようと思ってしたわけじゃ……」 「しようと思ってしたわけじゃ……」 ん。 なんか、朝の瑛里華と同じこと言ってないか? そういえば、俺が目を覚ました時も、瑛里華の顔が目の前に……。 まさか、瑛里華も俺にキスして起こそうとしたのか? 「急に黙って、どうしたのよ」 「もしかして朝、俺にキスしようとした?」 「なっ!」 みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。 「なんで知ってるのよ」 「あ、わかった。ほんとは起きてて私のこと見てたのね」 「違う違う。今気づいたんだ」 「は?」 「俺も、同じことしようとしてさ……」 「え?」 「私に、その……キスを?」 「ああ」 「ふうん」 意味ありげに見ている。 「なんだよ」 「……目を開けたくらいで、止めちゃうんだ?」 上目づかいで、そう聞いた。 「そ、そっちもだろ」 「一方的にしてるとこ見られるのって、なんか恥ずかしいじゃない」 「俺だってそうさ」 そしてお互い相手の頬を摘んだわけだ。 これからのことを考えて……確認しておいた方がいいよな。 「あのさ」 「何よ」 「今度同じ事をした時に、瑛里華が目を覚ましたら、そのまましてもいいか?」 「いいけど、私もそうするわよ」 頬を赤らめてそう言った。 「ああ」 俺の返事を最後に、監督生室が静かになった。 いい雰囲気な気がする。 ……だけど、俺たちにはもう時間がないことを思い出した。 「そろそろ門限だし、帰るか」 「あ、でも、私まだ仕事が」 「俺がやっといた」 書類の山を指差す。 「全部?」 「そうだな」 「やるじゃない……」 「借りはどうやって返そうかしら」 「頬つねったのでチャラだ」 「私だってつねったわ」 「あれは、ギューでチャラ」 「ぎゅー……」 腕を組んで何かを考えているようだ。 「そう」 納得したのか、小さくうなずいた。 瑛里華がそのまま自分の鞄を持つ。 書類提出は明日の朝だし、さっさと帰ろう。 俺も帰ろうと、鞄を持った。 「ねえ」 「ん?」 瑛里華の声に振り返る。 「さっきの話だと、今日は2回もしそこねていることになるのよ」 そう言って、じっと俺の目を見た。 ――しそこねている? 朝と夜一度づつ逃したこと。 「そうだな」 瑛里華はにっこりと微笑んでみせた。 一歩こちらにステップを踏んで、目の前に来る。 髪がふわりと揺れた。 「どうする?」も「しようか?」もなく。 監督生室を出る前に、 「ん……」 俺の唇に柔らかい感触が触れた。 土曜の夜。 いつもの面子が俺の部屋に揃っていた。 「やっぱり秋と言えばお茶会だねー」 「お姉ちゃん、春からずっとやってるよ」 「でもね、季節のお野菜がおいしいように、秋やるお茶会は格別なの」 「秋がお茶会のシーズンだなんて、初めて聞きましたが」 「そりゃそうだよ、今わたしが決めたんだから」 「冬には冬がシーズンとか言いそうですね」 「ブーブー」 「冬は〜鍋会の〜季節♪」 「鍋会、ですか」 「うん、サイコーだよ」 「みんなで一緒に食べようね」 「はい」 「鍋はいい」 司もかすかにうなずいている。 「あ、でも、これからはあんまりお邪魔しちゃ悪いんじゃないかな」 「どーして?」 「ほら、その……」 陽菜が口ごもり、俺と白ちゃんを見る。 俺たちが付き合ってることを気にしてるのか。 「俺は別に構わないけど」 「白ちゃんは?」 「えっ、わたしは……」 「むむ。やっぱりこーへーと二人の時間が多いほうがいいのかー」 「あの、それはそうなのですが、皆さんと過ごす時間も楽しいですから……」 さりげなく恥ずかしい告白をされた。 「今までと一緒が、いいです」 「ほへ〜」 「なんですかそのリアクションは」 「いや、なんか愛を感じるなーと思って」 「それで、最近どこにデートに行ったの?」 いきなりなんて質問をっ! 「海岸通りへ……」 少しうつむいて答える白ちゃん。 なんだこの羞恥プレイは。 「ど、どんなことしたの?」 「支倉先輩とまた夕日を……」 「わーわーわー!」 「言えないようなコトなのか〜」 やばい、なんか遊ばれ始めたぞ。 話題を逸らさなくては。 「あっ、そうだっ!」 「ん?」 「みんなこの間の休日は何してた?」 「それは、わたしたちに遊ぶ場所を聞いて、デートコースに組み込みたいってこと?」 無理矢理話を戻された……。 回避不可能なら、いっそ話に乗るか。 恥ずかしがってるよりマシだ。 「ええ、最近街ばっかり行ってるので他にないかな、と」 「どこがいいかな」 「街以外はわからん」 「あとは山とかかな」 「たまには二人で山に行くのもいいんじゃない?」 「えええっ!?」 いきなり大きな声で叫ぶ。 「ど、どうした?」 「あ……その、それは……」 若い男女で山に入るということは―― 男女の営みを行う、ということ。 隣に住んでいたお婆さまが、そう教えてくださいましたけど……。 いきなりそんなことを勧められるなんて……。 「うわ〜、しろちゃんが真っ赤だ」 「大丈夫? 熱でもあるの?」 「い、いえ、その恥ずかしくて」 「山に行くのが?」 「は、はははい」 「だって、支倉先輩と、その……」 ごにょごにょと語尾が消えていく。 「照れ屋さんなんだね」 「毎回こんな感じなのか?」 「いや、みんながいるからだと思うけど」 す、すごい。照れてるのはわたしだけだ。 これが年上の会話、というものなのかな。 「じゃあ、明日にでも行ってみる?」 「あ、明日ですかっ!?」 「まずいかな」 「い、いえ……支倉先輩が……」 「そう言ってくださる……なら」 ごにょごにょと口ごもる。 白ちゃんは、山に行くのがそんなに嬉しいんだろうか。 「あ、そうだ」 「山に行くなら体操服がいいよ」 「た、体操服っ!? あの体操服ですか?」 「うん。だって、汚れちゃうでしょ」 「よ、汚れ……そう、そうですよね」 白ちゃんの顔や耳、手まで真っ赤になっている。 「あの格好で外を歩くのは変でしょう?」 「学院の敷地内に行くなら変じゃないでしょ」 「敷地内、ですか」 「いい場所があるから教えてあげる」 「今の季節だと、木の実がいっぱい拾えると思うよ」 「食べられるんですか?」 「もちろん」 「熊に気をつけろよ」 「いないだろ」 「猪とか野兎ならいるかもね」 そうなのか。 「じゃあ白ちゃん、明日の朝、体操服で集合ね」 「……は、はい」 なぜか消え入りそうな声で呟いた。 日曜日。 待ち合わせの時間に行くと、白ちゃんが先に来ていた。 「おはよ」 「あっ、おはようございます」 「よろしくお願いします……」 ぺこり 「こ、こちらこそ」 なんでよろしくなんだろうか。 顔も赤いし、緊張してるのかな。 「……」 恥ずかしそうに俺を見つめている。 「じゃあ、行こうか」 「……山ですよね?」 「そうだけど。もしかして、嫌かな?」 「そんなことはありません。支倉先輩となら……嬉しいです」 「ちゃんと覚悟して来ました」 覚悟? 山にそんな危険な生物がいるのだろうか。 そういや、猪がいるとか言ってたな。 「心配しないで。俺がなんとかするから」 「は……はい」 「じゃあ行こうか」 「そ、そうですね」 「えーっと」 ナップサックから紙を取り出す。 かなでさんのくれた、手書きの地図だ。 「ここが礼拝堂だから……」 「礼拝堂の近くなのですか?」 とても不安そうな顔。 「もしかしてシスター天池に見られたくないとか?」 「はい、それはもうっ」 こくこくとうなずく。 たしかに男女二人で体操服姿だと、変に思われるかもしれない。 「大丈夫、この裏をずっと行ったところだから」 さっさと礼拝堂から離れよう。 「こっち」 「あっ」 白ちゃんの手を取って、森の中へと進む。 ……。 しばらく歩くと、木漏れ日の差す場所に出た。 「ここらへんかな」 「ここ……ですか」 白ちゃんは相変わらず真っ赤だ。 つないだ手も、少し震えているような。 「もしかして、体調悪い?」 「いえ、そんなことはないです」 「ひゃっ」 白ちゃんのおでこに、手を当ててみる。 「ごめん、驚いた?」 「少しだけ……」 「熱はないみたいだけど」 「大丈夫です」 「そっか。じゃあ、始めよう」 「!」 なぜそこでびっくりするんだ? まあいいか。 ごそごそ ナップサックを漁る。 「……」 なぜか真剣な顔で俺を見つめている。 手ぶくろと、木の実を入れるビニール袋を取り出した。 「あのさ、白ちゃんはどれが食べられる木の実なのかわかる?」 「えっ」 「もしかして、木の実拾いの後なのですか?」 なぜか、おずおずと聞く。 「先にすることあったっけ?」 「あ、いえ……」 「木の実は、有名なものならわかります」 「頼もしいな。俺ほとんどわかんないから、教えてくれると助かる」 「はい」 「支倉先輩の足下に落ちてるのが、クルミです」 「おおっ、これ全部か」 様々な木の実ですぐに袋がいっぱいになった。 「大量だな」 「それは全部、生で食べられます」 「じゃあ、学食の鉄人のとこに持っていかなくてもいいのか」 「はい。洗うだけです」 「お茶会で皆さんにお裾分けしますか?」 「白ちゃんがよければ」 「わたしもその方が嬉しいです」 「でもさ、こんなに簡単に採れると思わなかったよ」 「クルミは、木さえ見つければいっぱい拾えますから」 「その分、見つけるのは大変だそうです」 「じゃあ、場所を教えてくれたかなでさんにお礼を言わないとな」 「そうですね」 白ちゃんが微笑む。 「時間は早いけど、いっぱい採れたから帰ろうか」 「あ……」 「ん?」 このまま、何もせずに帰るんだ……。 支倉先輩は、男女で山に入る意味を知らないのかな。 あ。 もしかして、かなで先輩たちも知らなかったのかも。 だから、あんなに堂々と話をしていたんだ……。 皆さんは木の実拾いの話をしていただけ。 それなのに、わたし一人だけ変なこと考えていたなんて。 「……」 いきなり泣きそうな顔をされた。 「ど、どうしたの?」 「なんでも……ないです」 「やっぱり調子悪い? それとも、俺が何かしちゃったかな」 「違うんです」 「わたし、恥ずかしくて……」 「もしかして」 「体操服が?」 「違いますっ」 「いえ、それもちょっとはあるのですけど」 さっぱりわからん。 「あの、ご存じありませんか」 「若い男女で山に入る、というのは……を交わす、という話を」 「何を交わすの?」 「ち……ちちち……」 「ち……契りを」 「……」 「……」 鳥の鳴き声。 木々が風に揺れる音。 思わず木々の間の空を見上げた。 山に入る=H。 聞いたことない方程式だ。 この島のオリジナルルールなんだろうか。 「白ちゃんはそういう誘いだと思ってたの?」 「はい」 白ちゃんは恥ずかしそうに、小さくうなずく。 「やっぱり、知らないのですね」 「初めて聞いた。そんな話、どこで聞いたんだ?」 「隣に住む、お婆さまからです」 「もしかしたら、昔の風習なのかもしれないな」 もしくはただの冗談だったか。 白ちゃん、信じやすいからな。 「あー」 だから、あんなに恥ずかしがってたのか。 「じゃあ、明日にでも行ってみる?」 「あ、明日ですかっ!?」 「まずいかな」 「い、いえ……支倉先輩が……」 「そう言ってくださる……なら」 「……山ですよね?」 「そうだけど。もしかして、嫌かな?」 「そんなことはありません。支倉先輩となら……嬉しいです」 「ちゃんと覚悟して来ました」 やばい。かわいすぎる。 そんな想いで来てくれていたなんて。 ちょっと笑ってしまうけど―― その気持ちが、嬉しい。 白ちゃんの頭に手を伸ばす。 細く柔らかい髪を、ゆっくりと撫でた。 「あ……」 嬉しそうな表情で、こちらを見上げている。 「く、くすぐったいです……」 小さく身をよじると、それに合わせて左右で結ばれた髪が揺れた。 指先で前髪をそっとかきわける。 おでこに優しく唇で触れた。 「あっ」 何が起こったのかわからないのか、すぐに離れた俺を見て目を丸くする。 「……キスされました」 頬がゆっくりと桃色に染まる。 「もう覚悟は消えちゃった?」 「え?」 「もし、消えてないならお返ししてみて」 ドキドキしながら聞いた。 断られたら、とんでもなく恥ずかしい。 「ちゅ」 一瞬も迷うことなく―― 少し背伸びをして―― 俺に唇を重ねてきた。 ふわりとした感触を残して、唇が離れる。 「もう一度」 「はい」 俺は白ちゃんの高さに合わせて、少し屈んだ。 白ちゃんの唇が、俺の唇にそっと触れた。 「ん……」 また離れようとする白ちゃんの肩に、両手を置いて引き止める。 すごく細い肩だ。 こんなに華奢なのか、とあらためて認識する。 「んん……」 白ちゃんが小さな唇を押しつけてくる。 かすかな吐息を、肌に感じた。 「あ……あむ……っ」 薄い上唇を、挟んでみる。 ふにふにとしていて、和菓子みたいに甘い。 その白ちゃんの味が、心を溶かしていく。 そのまま舌で上唇をなぞった。 「ふぁ……はぁ」 目の前にある瞳が、潤んでくる。 「はむっ、んん」 俺のマネをして、上唇を唇で包み込む。 小さな熱い感触。 「ちゅく……ちゅ……はぁ」 白ちゃんの少し震える舌先に、俺の舌を絡ませていく。 「あ……はぁ……っ……ん」 温かい吐息が漏れた。 俺は肩に置いた手を背中に回し、白ちゃんをそっと抱いた。 「ん、んんっ」 「ちゅ……んっ、ぴちゅ……ちゅぅっ」 甘く深いキス。 白ちゃんは一生懸命、俺の口内に舌を入れてくる。 舌の裏をちろちろと舐められた。 「あ……はぁ、ふ……ちゅ」 白ちゃんの手が俺の背中に回る。 ぎゅっ しがみつくように抱きしめられる。 身体がぴったりと密着した。 薄い体操服越しに、控えめな胸の感触が伝わる。 「んっ、んんっ、ちゅ……あはぁっ」 白ちゃんが必死に舌を絡ませるたびに、お互いの身体がこすれ合う。 下半身が、むずがゆい。 血が集まっていくような感覚。 「あ……」 唇が透明な糸を引いて離れた。 白ちゃんはとろけたような表情で、俺を見つめている。 「あの……わたしのお腹にあたって……ます」 少し体を離して、潤んだ目で視線を落とす。 体操服の上からでもわかるほど俺のものが膨張していた。 「す、すごく大きくなってます」 「生理現象なんだ。前も見たろ?」 「はい」 「何度見ても不思議です」 小首をかしげて、まじまじと見られる。 は、恥ずかしい。 「白ちゃん、回れ右」 「え?」 「あ、はい」 素直にくるりと、その場で回転。 白ちゃんの身体を、抱きしめた。 「あっ」 体操服の上から胸に触れる。 ふわふわとして柔らかい。 優しくマッサージするように揉んだ。 「あ……なんだか、ぼーっとします」 「こういう感じがいい?」 「はい……そうされると、ん……」 「心が欠けたような、ふあっ……不思議な気持ちになります」 「よくわからないな。どんな感じか、教えて」 「あ、はい……」 「ああ……胸が……きゅっ、と寂しくなって……」 「足りなかった……っ、ものに、んんっ、気づかされるような」 「何が足りないの?」 小さく円を描くような動きに変えた。 「ふあ……足りないの、は……んっ、支倉先輩、です……」 「もっと、んん……してほしいです」 「ふぁ、あ……。キ、キスが……したい、です」 「あぁ……しては、ダメですか?」 俺の肩に小さな頭を預けて、せつなげに言った。 なんて、愛らしいんだろうか。 「いくらでも」 俺を見上げている白ちゃんの唇をそっと奪った。 「ん、あはぁ……ちゅ、ちゅぅっ……」 餌をねだる小鳥のように、俺に応えてくる。 白ちゃんに口内をちゅくちゅくと舐められるたびに、体が熱くなっていく。 唾液をたっぷりのせた舌を、白ちゃんの小さな口に運んだ。 「ちゅ……んんっ……ぅちゅぅっ、ごくっ、ふぁ……」 嬉しそうに俺の唾液を舌で受け取り、嚥下する。 「ふあぁ……」 白ちゃんが幸せそうな顔をした。 素直に俺に向けられた感情。 俺のことを好きでいてくれる。 その事実が、何よりも嬉しい。 「ふぁ、あ、……んんっ……ぁ」 胸を揉む手の動きを止めた。 「あ……」 切なげな吐息を漏らす。 「直接、したほうが寂しくないよね?」 「……はい」 こくん かすかにうなずいた。 太陽に照らされて、真っ白に輝く体操服。 胸を揉む手を下に移動し、上着の裾から内側へ、ゆっくりと指を忍ばせる。 内側を、俺の手がもぞもぞと這い上がっていく。 「ふ、あああっ」 ブラジャーを上にずらし、直に胸に触れた。 しっとりとして心地良い。 触れているだけで、幸せな気持ちになれる。 「あ、はぁ……温かいです」 「こうしていると満たされます……」 「でも……」 「ん?」 「わたしは、欲張りなのかもしれません」 「もっと……支倉先輩に満たされたくなってしまいます」 白ちゃんがドキドキしているのが伝わってくる。 「いくらでも、満たしてあげる」 指先で突起に触れた。 「んっ」 少しだけ固くなっている。 好きな気持ちを伝えるように、その部分を愛撫する。 「あっ」 「あ、ああ、あっ……あ、あああっ」 指を動かすたびに、甘い声が漏れた。 少しリズミカルに指先をかすらせる。 「あっ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ、ふぁ」 「楽器みたいだ」 「ち、違います……」 「もっと触った方が嬉しい?」 「それは……」 恥ずかしそうにうつむく。 「……はい」 「じゃあ……続けるね」 「あっ……ふぁ、ああ、あ」 「ふぁ、ふ、ああ、うあっ、や、ぁ」 白ちゃんが、快楽に悶えるように小さく首を振る。 空いていた手で、体操服の裾をまくりあげた。 「えっ! あ……ふぁっ、ああ」 白い肢体が晒される。 驚くほど華奢なライン、小振りな胸の上に輝く汗。 「は、はぁ、あ……はずか、しい、です」 「俺は、白ちゃんの身体が見れた方が、嬉しいな」 「で、でも……」 「じゃあ、恥ずかしくないくらいに、感じさせればいいかな?」 耳元で囁く。 「ぅ……」 顔を真っ赤にさせて、期待するような目で俺を見た。 ゆっくりと、白ちゃんの下腹部に手を持っていく。 「ど、どうするんですか?」 「どうしてほしい?」 逡巡するように視線を揺らし、それから上目使いで俺を見た。 「……は、支倉先輩の優しい手で」 「わ、わたしの、いろんなところに……触れて下さい」 俺の心音を一気に高める甘美な言葉。 理性が溶かされていく。 「わかった」 白ちゃんにうなずいて、お腹のラインに沿ってブルマの中に指を滑り込ませた。 「あっ……」 どんどん奥へと進んでいく。 ぴちょり 「ひああっ」 粘膜に触れた瞬間、びくりと白ちゃんの体が震えた。 白ちゃんの秘所は熱く、少し湿っていた。 胸に置いた手を再び動かす。 白ちゃんの柔らかさを味わうように、撫で回す。 「ふあっ? あ、ああ……」 陰部に触れた指を縦筋に沿って動かす。 「ああっ、……ふぁ、あっ」 白ちゃんの入り口にゆっくりと指を沈ませる。 「あっ!」 白ちゃんが小さな体をのけぞらせた。 第一関節まで指を沈めて、膣口を掻き回す。 「あっ、はぅっ、ぁああっ、ああ」 「ふぁ、ああ、ふぁ……あああっ」 「気持ちいい? それとも恥ずかしい?」 耳元に唇を寄せて囁いた。 「んんっ、んっ……りょ……りょうほうぅ、ですっ」 「じゃあ、もっとしないとね」 さらに指を沈めて、熱い肉壁の中で曲げたり伸ばしたりしてみる。 「ふぁ、えっ? あふっ、ふぁぁ、はああっ」 「ああ、ああぁっ、ひゃ、ふぅ」 指を動かすたびに、白ちゃんがかわいく喘いだ。 「どう?」 「へ、変な声が出ちゃうのが、恥ずかしいです……」 「それは、恥ずかしくても聞かせて」 「白ちゃんのかわいい声、もっと聞きたいから」 「ぁ……」 とろけるような恍惚の表情を浮かべる。 「また、胸が締めつけられるような感じが……」 「こうしたら、治るかな」 完全に固くなった胸の先端を、弄ぶように転がした。 「あっ、あ……は、はい」 「こっちは、どう?」 同時に反対の手で、秘所にある突起をいじった。 「ひゃ、ひゃうっ、は、あ、あ」 「はうっ、は、そこっ……触られると、ああっ、びりびりしますっ」 白ちゃんの震えが、体を通して伝わってくる。 蜜壷から溢れた愛液が、内腿を伝って流れていく。 美しく淫らな光景に、気持ちが高ぶってしまう。 もっと感じさせたい。 人差し指と薬指で、小さな陰部を開く。 「あぁ……っ」 たっぷりと濡れた中指を、再びちゅぷりと挿入した。 「ひゃ! あああっ、あぅ、う」 グラインドさせながら、小さな膣道にゆっくりと侵入していく。 熱い粘膜が絡みついてくる。 ずちゅ、くちゅ……ぴちゅ…… 「あ、はふあああぁ……そんなに……ああぁっ」 「音、聞こえる?」 「は、はい、死にそうなくらい、ふぁ、あ、恥ずかしい、です」 小振りな胸を揉み、逆の手で膣内から愛液をかき出す。 「ああっ、やっ……そんなにされると、ふぁ! あ、ああっ」 快楽に耐えられないのか、腰を小さく左右に振った。 陰部からは愛液が次々に溢れだしてくる。 ブルマの隙間からこぼれ、太腿を流れていく愛液が、キラキラと日の光を反射していた。 「やぁ……ああ、あふっ、ふぁああ……」 「ふぁ、ああああっ、せんぱい、はせ……くらせんぱいっ」 「ん?」 「キス、してっ……してくださいっ」 俺の肩に体を預け、とろんとした目で俺を見上げる。 キスを求めるように、小さく口を開いた。 その口に、唇を触れさせた。 まるで、砂漠で遭難した人が水を飲むように―― 激しく、俺の口を貪り舐めていく。 「ふあぁ、あむっ、ふ、ちゅっ、ん、んんっ、ちゅぱっ」 白ちゃんに触れて興奮していた体が、さらに熱くなる。 「ひゅ、……んん、ちゅうぅぅ……」 白ちゃんの、荒い吐息を感じる。 触れる唇が、舌先が、興奮のためか震えていた。 「ちぅ……んんんっ」 膣壁をこするように、指をグラインドさせる。 太腿が震え、膣がぎゅ、っと俺を締めつけながら蠢く。 「んくっ……ぷはっ、あ、あああ、ううっ、もうっ……ふぁああっ」 なまめかしい声を上げて、白ちゃんの唇が離れる。 「だ、だめですっ、た、立って……あぁ、いられないですっ」 がくがくと白ちゃんの太腿が震える。 俺の手に白ちゃんの体重がかかっていた。 「あ、あぅっ」 くちゅり、と白ちゃんの中から指を引き抜く。 崩れ落ちそうになる体をそのまま支えた。 白ちゃんの腰が、俺の股間へと押しつけられる。 「ひゃっ」 「ご、ごめん」 俺も、もう我慢ができないほどに高ぶっている。 「じゃあ、そこに座ろうか」 傍らにあった岩を指差した。 「は、はい」 俺は、岩の上に腰を下ろす。 「こ、こうですか」 「ああ」 俺の上に、白ちゃんが腰を下ろす。 小さな体を抱えるようにして支えた。 白ちゃんはびっくりするほど軽い。 「こんな格好、誰かに見られたら……」 大切な場所が露わになっている自分の肢体を見て、消え入りそうな声で呟く。 抱きしめたら、折れてしまいそうなほど細い体。 差し込む木漏れ日で白く輝く、きめ細かい肌。 おだやかなラインを描く身体には、幾筋かの汗が光っている。 目の前にある白ちゃんの髪から、桃の花の香りがした。 「いい?」 「……はい」 こくんとうなずく。 背後から、白ちゃんの淫らな場所に手を添えた。 くちゅっ 「んっ……」 卑猥な水音に、白ちゃんが小さな吐息を漏らす。 白ちゃんの割れ目に、先端を軽く触れさせた。 「あっ……ぁ」 ぬるりとした感触。 蜜壷の奥から溢れた愛液が、俺のものを伝っていく。 「また、心が欠けたような気持ちになってしまいました……」 俺の方に振り向き、せつなげに囁く。 俺にしか見せない、甘える顔。 こんな風に見られたら、どんな願いでも叶えたくなってしまう。 「は、支倉先輩」 もじもじと腰を動かす。 触れただけの粘膜がこすれて、しびれるような刺激をもたらした。 「んっ……ぁ」 「ど、どうぞ」 「ああ」 白ちゃんの中に、ゆっくり沈ませていく。 ずちゅぅ…… 「ひゃ、ああっ」 とても狭い膣口。 まだ先端だけしか入っていないのに、きつい。 白ちゃんの膣内が、異物の侵入を阻むように動いているのがわかる。 「あっ……はぁ……はぁ……」 「もっと、もっと……だ、大丈夫です」 熱に浮かされたような声で言う。 「白ちゃんが、そのまま腰を落としてみて」 「わ、わたしが……?」 「うん。俺からじゃ、これ以上は難しいから」 「わかりました。が、がんばります」 俺の上で位置を変えようと動く。 そのたびに、結合部がこすれ合った。 「んっ、ああ、あ」 急な快感に白ちゃんの足が震え、体がずり落ちて―― ずぶっ、ずぶぶぶっ! 「っ! ……か、ふぁ……ひはぁ、あああああぁぁっ!」 「くっ!」 一気に白ちゃんを貫いてしまう。 先端が行き止まりに触れた感触。 痛いほどの締めつけ。 急に走り抜けた快楽に、奥歯を噛み締めて耐える。 「あ、あああぁぁっ……あああぁ……っ」 「んくっ、ああ、あああっ……」 眉を寄せて声を上げる白ちゃん。 慌てて、白ちゃんの身体を少し持ち上げた。 亀頭が入り口まで戻った。 「あ、ああ……ぁ……はぁ……はぁ」 「だ、大丈夫?」 「ふぁ、あ、あ……」 「あの、あっ、て思ったら、おへそのあたり、まで……」 「だから、びっくりして、ご、ごめんなさい」 「落ち着いて」 柔らかい髪を撫でる。 「ぁ……は、はい」 「平気?」 「あ、あの、苦しいだけではなかったですし」 「あ、いえっ」 「その、大丈夫です」 かすかに呟いて頬を染めた。 「わかった」 「少し、そのままでいて」 撫でるように、白ちゃんの胸を揉む。 「あぁ……あ……」 「はぁあ……んんっ、優しい、ですね……」 甘い吐息を吐きながら、幸せそうな顔をする。 ゆっくりと、体の力が抜けていくのがわかった。 どうやら、リラックスしてくれたようだ。 「ちょっとだけ、動かすね」 「はい」 入り口で止まっていた怒張を、ほんの少しだけ動かす。 熱く柔らかい壁が、きゅっと俺を締めつけた。 「んっ……はぁ……」 「どう?」 「すごく、あったかいです」 「続けてもいい?」 「はい……」 強く腰を突き出したくなるのを堪えながら、ゆっくりと腰を上下させた。 くちゅっ……ずちゅっ 「はぁ……んっ……ぁっ」 白ちゃんは力を抜いたまま、俺の行為を受け入れる。 奥に行こうとするたびに、膣内がきゅっと収縮した。 「ふぅ……ぁ、あ……んっ」 肌を火照らせて、恍惚の表情を浮かべている。 ここが外だってことは、もう気にしてないみたいだ。 それだけ、感じてくれてるってことかな。 「胸も、するね」 「はぁ、い」 とろんとした目をして、子供のようにうなずく。 「ぁ……」 頭を撫でてから、胸全体を手のひらで包んで揉んでみる。 「ふぁあ、ああぁ……ぁあ」 「ああ……はぁあ、あっ、んんっ、んっ」 ずちゅ、ずちゅり 結合部から響く水音が、大きくなった。 見ると、白ちゃんが俺の動きに合わせて腰を小さく動かしている。 「もっと、合わせられる?」 「ふぁ、はぁい、ん、んんんっ、あぅ」 「こ、こうですか? ……ひゃ、あ、あん」 「うん、すごくいいよ」 ずちゅ、ずちゅ、ずちゅっ 白ちゃんの狭い膣内を、俺のものが上下する。 そのたびに愛液が掻きだされて、地面に黒い点を作っていく。 「あ、ああっ、んっ、はぁっ、あ、あぁあっ」 白ちゃんが、一心不乱に小さな腰を振り続けている。 最深部に到達するたびに、かわらしい口から艶を帯びた声が漏れた。 声に狂わされるように、俺の頭の中が熱くなっていく。 「ふっ、わっ、はぁ、あっ、んっ」 俺の頭に回された手に、力が籠もっていく。 下半身に血が集まっていくのがわかった。 「は、はせくら、先輩はぁっ……んんっ、き、気持ちいい、ですか?」 喘ぎながら、少し心配そうに聞いてくる。 「頭が、おかしくなりそうなくらいだ」 「なって下さいっ、でないと、わ、わたしだけ……はああぁっ」 「ああ……」 白ちゃんの中をかき混ぜるように、動かした。 「あぁ、あああっ、ひぃぅ、ひあああぁっ!」 大きな嬌声とともに、ぎゅっと締めつけられる。 じゅくじゅくとこすられて、俺のものが中でさらに膨張するのがわかった。 「ひゃう!? ああっ、あっ……んくぅ、ひゃ、あああぅっ」 「白ちゃん、俺、もうそろそろ……」 「はぁ、ぃいっ、ぁあああっ、あ、あのっ、わ、わたし、もっ、あぁあああっ」 「ふあああっ、あぁうっ、んくっ、んああああぁぁっ」 白ちゃんが、細い体を俺の上で跳ねさせる。 その落下に合わせて、激しく腰を突き出した。 「きゃ、きゃふ、ふぁあああっ、ひぃああああっ!」 愛液がぴちゃぴちゃと飛び散り、白ちゃんの身体がふるふると震えた。 膣内が俺をぎゅっと締めつけてくる。 「はぁああ……んんぅっ、ふぁんっ、あああぅっ」 勢いよく流れ込んでくる快楽に、一気に高ぶりを覚える。 白ちゃんの一番奥を何度も貫きながら、膣口の上にある突起に指で触れた。 「ひゃあっ! あくっ……きゃふ、はふぁああぁぁああっ!」 白ちゃんが汗に輝く体を仰け反らせて、悶えるようにいやいやをする。 「ひゃ、はせくらせん……ぱいっ、せんぱいっ…わたし、もう、あ、はああぁっ」 「かわいくいくところ、見せて」 「あっ、は、はいっ、ひゃぅ……ふぁああっ、あああぁっ」 「あああっ、真っ白、になりそうっ、ですっ、はくぅっ、あああぁ……っ!」 「せんぱいっ、せんぱいっ、い、いきます、ふ、やぁ、ひあっ、ぁあああああああっ!」 びくびくっと全身を震わせて、膣内全体が俺から搾り取るように蠢いた。 その動きに導かれるように、熱い塊を一番奥へ解き放つ。 びゅくっ、びゅくぅ、びゅくくっ 「ひっ、あっ、ひあっ、きゃふぅ、ふぁあああああああああぁぁぁっ!」 「あっ、……ああ、あ、ふぁ、だ、だめだめだめ、ぁあああああっ!」 ぷしゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ 「ひっ、いああっ、やぁあ、ああああぁぁっ」 「と、止まらない、ふぁああぁっ、こんなっ……ひふあぁっ」 ぷしゃぁぁぁぁぁ…… 「ひゃあ……あああぅ、見ないで、見ないで下さい、はぁあ、あああっ……」 「ふああ、あ、あ、ぁ…………」 ちょろちょろ…… 「いやっ、いやぁ……あぁ……」 びくびくと小さな体を震わせながら、羞恥に耐えるようにぎゅっと目を閉じた。 そんな姿がかわいくて、頭をそっと撫でた。 「あ……」 「大丈夫、恥ずかしくないよ」 「で、でも、わたし、こんな……」 「は、支倉先輩の前で、その……」 「お漏らし……を……うぅ」 「嬉しい」 「え?」 「これって、我慢できないほど、感じてくれたってコトだろ?」 「は、はい」 「あ、あの、でもわたしのこと、嫌いになったりしませんか?」 「嫌いになんてなるわけない」 「ど、どうしてですか」 「白ちゃんがしてるところ、すごくかわいかったから」 「ううぅ……」 両手で顔を覆って、小さく呻き声を漏らす。 まだつながっている部分が、きゅっと締まった。 「あぅ……」 白ちゃんの中からゆっくりと引き抜く。 とろとろになった秘所から、愛液と精液の混じり合ったものが、こぽこぽと溢れた。 「あ、こんなに……いっぱい」 「白ちゃんがかわいいから、たくさん出たんだ」 「……よかった」 嬉しそうに呟いた。 愛おしくなって、白ちゃんの頭をもう一度撫でた。 「ぁ……」 ぴちょり、と白ちゃんから溢れた体液が、俺のペニスを伝って落ちていく。 何か拭くものはあったかな。 辺りを見回す。 葉っぱ? 俺は一人で首を振った。 がさがさっ! 「なっ」 「えっ」 見ていた葉が、不自然に揺れた。 だ、誰か見てたのか!? 「誰だっ!」 ぴょこ 「ふわっ!?」 「ゆ、雪丸!?」 「……い、いえ、雪丸じゃないです」 たしかに、よく見るとちょっと違う。 ぴょこ ウサギが俺たちの前から姿を消した。 「びっくりした……」 「は、はい」 そういや、かなでさんが猪や野ウサギが出るって言ってたっけ。 まあ、ウサギでよかった。 猪でも困るが、人だったらどうしようかと思った。 ナップサックに、体をふいたタオルをしまった。 「じゃあ、帰ろうか」 「……はい」 なんだか、白ちゃんがしょんぼりしているような。 「どうしたの?」 「ウサギさんに、恥ずかしいところを見られてしまいました……」 「あのウサギさんは、いつから見ていたのでしょうか」 「たぶん、最後だけじゃないかな」 気にしているようなので、そう答えた。 「最後って、あの……」 ごにょごにょと言葉が消える。 「ぅー……」 顔を赤く染めて落ち込んだ。 お漏らしのことを考えているのかな。 なんと言って、慰めたものか。 「もうあのウサギに会うこともないだろうし、大丈夫だよ」 「そ、そうですよね」 「でも、雪丸に会うたびに思い出してしまいそうです……」 帰り道、必死に白ちゃんを慰めながら考えた。 俺も、雪丸を見るたびに思い出すだろうな、と。 夏休み最後の日。 監督生室には、俺と瑛里華会長と白ちゃんの三人がいた。 今は、文化祭の準備で忙しい時期だ。 去年やったことを思い出しながら、仕事を進めていく。 卒業した前会長や、東儀先輩は元気だろうか。 頭の端でそんなことを考えながら、キーボードを叩いていた。 「支倉先輩、冷たいお茶が入りました」 「サンキュー。もうすぐ一段落するからテーブルに置いといて」 「はい」 にっこりと俺に微笑んでくれる。 献身的で、かわいい俺の彼女。 仕事が忙しいときに白ちゃんの顔を見ると、とても癒される。 「あの……」 「ん?」 「お仕事、まだかかりそうですか?」 なぜか、少し言いにくそうに言った。 「まだまだ山積みだよ」 「そうですか。手伝えることがあったら言って下さいね」 「ありがと。でも資料作成の打ち込みだから」 「わかりました」 再び微笑んで言った。 「支倉くん。白と一緒に休憩したら?」 瑛里華会長が、書類に判子を押しながら言った。 話していても少しもスピードが落ちないんだから、頭が下がる。 「うーん。もうちょいキリのいいとこまでやるよ」 パソコンの画面に向き直り、仕事の続きを始めた。 やっと一段落だ。 テーブルに移動して、コップを手にする。 氷が溶けて、ぬるくなっていた。 「淹れ直しましょうか?」 「いや、大丈夫」 「私も休憩しようかしら」 「瑛里華会長もぶっ続けだろ」 「休んだ方がいい」 「そうね」 軽く背伸びをして、テーブルに突っ伏した。 猫っぽい。 「生徒には見せられない姿だな」 「いいのよ」 「休む時にはしっかり休むの」 「ま、メリハリは大事だな」 そう言って、右手で自分の肩を揉みながらお茶を飲んだ。 「そっちはどう?」 仕事のことか。 「今6割。今日中には終わらないな」 「でもその仕事、期限はもうちょっと先でしょ」 「早く終わらせたほうがいいだろ」 「……まあね」 なんか複雑な顔で言われた。 わかってないわね、とでも言いたげな顔だ。 「白は?」 「あ、わたしは、今日の分は終わりました」 「白、こっちに来て」 ちょいちょい、と手招きする。 「はい」 「白は偉いわね」 ぎゅーっ 白ちゃんを抱きしめた。 なんか彼女を奪われたような気分だ。 「わ、わたしはお二人より仕事が少ないですから」 「支倉くんにも褒めてもらったら?」 「ぎゅーって」 「あの、それは……」 ちらり、と白ちゃんが俺を見る。 頬が赤くなっていた。 「こんなとこで、できるわけないだろ」 「なあ、白ちゃん」 「そ、そう……ですよね」 「ふう」 やれやれ、と言った調子で肩をすくめられた。 意味がわからん。 「なんだよ」 「別に」 まあ、瑛里華会長も疲れてるのかもしれない。 「待たせちゃっても悪いから、先に帰ってていいよ」 「あ、はい」 白ちゃんは少し微笑んで、自分の鞄を持った。 「では、お先に失礼します」 「お二人とも、頑張ってくださいね」 ぺこり かわいく一礼すると、部屋を出て行った。 ……。 「まったく」 呆れたような視線が突き刺さる。 「さっきから、なんだよ」 「いいの?」 「何がだ」 「白、今日ずっと支倉くんのこと見てたわよ」 「へ? なんで」 「……ねえ、夏休みはどうだった?」 急に話題が変わった。 「知ってるだろ? ずっとここで文化祭の準備だ」 「そうね」 「で、白とどこかに行ったの?」 「いや……」 突き刺さる視線。 「二人で泳ぎに行こう、とか散々言ってたのに?」 「そうだっけ?」 「ここで話してたじゃない」 「でも……」 でも。 仕事だったんだから仕方がない。 ……わけないよな。 「私が白だったら泣くわよ、それ」 「泣くのか」 「ものの例えよ」 「もしかして俺、酷い?」 「彼氏失格ね。征一郎さんが知ったら、打ち首にされるわよ」 「そんな大げさな」 「大げさじゃないわ」 「学院生活の最後の夏休みなのよ」 「二人でどこか行きたいに決まってるでしょ」 「でも、白ちゃんは……」 そんな素振りはみせなかった。 今日もずっと俺ににっこり微笑んでいた。 あれ。 あの笑顔は、少しぎこちなくなかったか? やばい。 あれはきっと、仕事をしてる俺に気を遣わせないようにしてくれてたんだ。 「俺、アホだ……」 テーブルに突っ伏した。 ごつん、と頭が当たった。 「ここで落ち込むのが、貴方の今の仕事?」 「……戸締まり、頼んでもいいか?」 「もちろん」 礼を言って、監督生室を飛び出した。 外は真っ暗だった。 白ちゃんを追いかけて、寮に向けて走る。 白ちゃんに会わないまま、寮についてしまった。 もう、部屋に戻ってしまったのかな。 携帯電話を取り出して、白ちゃんにかけた。 すぐにつながる。 「はい」 「あ、支倉だけど」 「どうしたんですか?」 「ごめん」 「な、何がですか?」 「夏休み、どこにもいけなかったから」 「……」 迷うような、間があった。 「生徒会が忙しかったですから」 「支倉先輩のせいではないです」 「いや、せめて今日は……」 せめて今日は。 ――部屋で一緒に話すか? それは、夏休みの思い出に相応しくない気がする。 でも、この時間から街に出ても、店が閉まっているだろうし。 考えろ。 生徒会で散々企画を考えたじゃないか。 もっとましな場所が……。 「あ」 「どうしました?」 「あのさ、これから一緒に出かけないか?」 「でも、もう時間が……」 「大丈夫。今から言う物を準備して、寮の前に集まろう」 「わあ……」 更衣室で水着に着替えてきた白ちゃんが、感嘆の声を上げた。 プールにたまった水には、夜空の星が映り込んでいた。 水面全体がほのかに発光しているように感じる。 昼とはまったく違う、幻想的な光景だった。 「とっても、綺麗です」 嬉しそうに微笑んだ。 この笑顔が見れただけでも、危険を犯して忍び込んだ甲斐があったと思う。 「でも、本当にいいんですか?」 「見つかったら、俺が全責任を取るさ」 「でも……」 「久々に、シスター天池に怒られたいと思ってたところだし」 冗談めかして言った。 「そ、そうなんですか?」 信じられた。 「冗談だよ。でも白ちゃんとここで遊べるなら、それくらい安いもんだ」 「わたしも……」 「支倉先輩といられるなら、怒られてもいいです」 「それ、嬉しい」 「え?」 「その言葉」 「……は、支倉先輩といられるなら、怒られてもいいです」 恥ずかしそうに、もう一度言った。 「ありがと」 前髪をかきあげて、おでこにキスしてみた。 「あ……」 一気に頬が赤くなる。 「なんだか、ちょっと熱いです」 「じゃあ、さっそくプールに入ろうか」 「遊ぶ前に見つかって怒られたんじゃ、割に合わない」 「ふふふ、そうですね」 「俺と白ちゃんの最後の夏休み、存分に楽しもう」 「あ」 「ん?」 「今の言葉、伊織先輩の演説みたいです」 「……あの人なら、こんなこともしそうだな」 「うおおおっ!」 プールサイドを全力疾走。 プールの縁を蹴って全力でジャンプ―― 着水する前に、叫んだ。 「白ちゃん、大好きだーっ!」 ざっばーんっ! 思いっきり腹を打った。 「ぶはっ……いたた」 水の上に顔を出すと、俺を中心にして波紋が広がっていた。 映り込んだ夜空が、形を変えている。 「い、伊織先輩はそんなこと言わないです」 「それに、大きな声を出すと見つかってしまいます」 「言わない方がよかった?」 「……いえ」 月明かりの下でもわかるほど、頬を朱に染めている。 恥ずかしそうに、コンクリートの上でつま先をもじもじと動かしていた。 「ほら、白ちゃんもおいで」 両手を広げて、白ちゃんを呼ぶ。 「はい」 プールぎりぎりの場所から、目を閉じて鼻をつまみ、小さくジャンプ。 「は、支倉先輩だいす……」 ざぶんっ 小さな水柱が上がった。 「ぷはっ、くはっ」 顔が水面に飛び出す。 ふるふると左右に頭を振った。 水飛沫がいくつもの小さな波紋を作った。 「……い、言い切れませんでした」 「なんて言おうとしたの?」 わかっているのに、聞く。 「ひ、秘密です……」 「言わないんなら、こうしちゃおうかな」 ニヤリ、と口の端を歪めた。 「ど、どうするんですか?」 「うりゃっ」 白ちゃんの顔を目がけて、水をかけた。 ざばざばざばっ 「きゃっ……わぷっ」 「えいっ、えいっ」 ぱしゃ、ぱしゃ 控えめに反撃される。 「その程度、俺には効かんっ」 「じゃ、じゃあ……」 ちゃぷんっ 白ちゃんの顔が水面下に沈む。 浮かんだ瞬間に水をかけようと構える俺。 白ちゃんは水に沈んだまま、こちらに迫ってくる。 なんか、サメの映画を思い出すな。 ざぱっ 「つ、捕まえましたっ」 俺の首にかわいく両手でぶら下がる。 「効かないなあ」 「えっ、お、重くないですか」 ただでさえ軽い白ちゃん。 水の中だともっと軽い。 「ちっとも」 「よいしょ、よいしょ」 俺の背後に回って、背中におぶさる。 「こ、これでどうですか」 「軽い」 「うぅ……」 普通女の子なら喜ぶ所じゃないのか。 「背中、乗っててね」 「乗ってますよ?」 「うん。そのままで」 「……竜宮城へご案内」 白ちゃんを落とさないように、水下に潜る。 俺の背中に、白ちゃんがまたがるような体勢。 「あっ」 俺はそのまま、水中を泳いだ。 「わっ、す、すごいですっ」 ぬ、思ったよりきついな。 「あ、あ、下がっていきま……」 ブクブクと二人で沈んだ。 白ちゃんと二人、プールサイドで小休止することになった。 コンクリートの上にバスタオルを敷き、寝ころぶ。 満天の星が広がっていた。 少し疲れたな。 ちょっと、はしゃぎすぎたか。 「大丈夫ですか?」 「余裕だよ」 「夏、全然遊ばなかったから、パワーがたまってるんだ」 「だから……」 明るく言いかけて、言葉が途切れる。 唐突に、胸がぎゅっと締めつけられるような気がした。 全身を駆けめぐる、罪悪感。 二人で過ごす、最後の夏休み。 その最終日の日が落ちるまで、俺は白ちゃんの気持ちに気づかなかった。 瑛里華会長が言ってくれなきゃ、今日だって何もしなかっただろう。 白ちゃんに、どう償えばいいのか。 「どうして、そんなに辛そうな顔してるんですか?」 心配そうに、白ちゃんが俺を覗きこんでいた。 「ごめん」 「してあげたいこと、いっぱいあったはずなのにな……」 白ちゃんが俺の目をじっと見つめている。 月明かりに照らされた顔に、表情は浮かんでいない。 濡れた髪から、水滴がぽたぽたと落ちていく。 「白ちゃんが寂しいと思っていることにすら、気づかなかった」 「俺、すげえ馬鹿だ」 「……それは、わたしの方です」 「え?」 「わたしは、支倉先輩と海に行きたいと思いました」 「二人でアイスを食べながら街を歩きたいと考えました」 「この島ではない夕日を一緒に見に行きたいと願いました」 「……それは全部、わたしのわがままです」 「支倉先輩が忙しいのは、知っているのに」 「監督生室で一緒にいられるだけで、幸せなはずなのに」 「それでも、願ってしまいました」 「だから、わたしの方がおバカさんです」 俺に、微笑んだ。 俺を慰めるために言ってるんじゃない。 この子は、本気でそう思っているのだ。 そんな風に思わせてしまったことが、悔しい。 「でも、そんなわたしを支倉先輩はここに連れてきてくれました」 「感謝してもしきれません」 ゆっくりと―― 白ちゃんの顔が近づいてくる。 まるで現実感がない映像。 青白く輝いている白い肩。 月光に浮かぶ濡れた髪。 俺を見つめる潤んだ瞳。 お互いの鼻先が触れ合う。 「さっき、プールに飛び込む時には言い切れませんでした……」 夜空に消えてしまいそうなほど、かすかな声。 「支倉先輩……大好きです」 そっと、唇を重ねられる。 塩素と白ちゃんの甘い匂いがした。 頬に、吐息を感じる。 虫の音を聞きながら、俺は動けずにいた。 どれくらいの時間そうしていたのか―― 柔らかい感触が失われた。 「ご、ごめんなさい」 「わたし、勝手なことをしてしまって」 恥ずかしそうにうつむく。 不安そうに俺を見る白ちゃんを、思わず抱きしめた。 「ぁ……」 「ごめん」 「白ちゃんが考えていたことは、ちっともわがままなんかじゃない」 「これからは、ずっと……」 これから。 九月には生徒会を引退する。 俺は進学のためにさらに忙しくなるだろう。 残された時間は少ない。 「どんなお願いでも、わがままでも、聞くから」 「白ちゃんが思ったことを、言ってくれ」 「そんな」 「頼む。その方が、俺も嬉しい」 「……」 迷うように視線を逸らす。 やがて、何かを窺うように俺を見た。 「じゃあ」 「……しても、いいですか」 聞き取れなかった。 「何を……んっ」 押しつけるようにして、唇が合わさった。 「ぅんっ……ちゅ」 肩を抱くと、少し震えていた。 「ちぅっ、ちゅぱっ……ちゅく」 「んんっ、ごめん……なさい、んぅ、ちゅっ」 かわいらしい舌が、俺の唇を割って入り込む。 応えるように、舌を舐め合う。 「はむっ、ちゅくっ……ぴちゅ……はぁ、ぁ」 「ちゅうぅっ……くちゅ、ぷはっ、はぁ……んっ」 「ふぁ……はぁ……はぁっ……」 唇が重なっていた名残。 透明な水糸が月色に輝いていた。 「ごめんなさい……」 「謝ることなんてないよ。キスならいくらでも」 「違うんです」 「わたし、不安で……」 胸に手を当てて、切なげに俺を見た。 デートにも行かず、監督生室で仕事をする日々。 俺が不安にさせてしまったのだろう。 「抑えていたのに」 「どんなお願いでも、なんて言われたら……」 「抑えないで」 「本当に、いいんですか」 「ああ」 白ちゃんが、俺の頭を細い腕で抱えた。 潤んだ瞳が再び迫る。 「んんっ……ちゅく……ぁ……っ」 「ふぁ……ぁっ……はむぅ……んちゅ」 「好き、です……んぅ……ちゅぅ……っ」 「あ……はぁ……はぁっ」 唇が離れる。 至近距離で、二人の荒い吐息が混じり合う。 熱に浮かされた顔。 うっとりとした目で俺を見つめる。 「は……ぁ……」 白ちゃんはしなだれかかるようにして、俺の首筋に顔を埋めた。 濡れた髪が俺の肌に張りついて、冷たい。 バスタオルの上で絡み合う足と、首筋がやけに熱かった。 ちゅく かすかな水音がして、首筋がさらに熱くなる。 「ちろ……ちゅぅ……」 肌を吸われる感覚と、小さな舌のぬるりとした感触。 それが首筋から鎖骨へ移動していく。 「ちゅ……くちゅっ……ぁ……はむっ」 俺の身体に、印を刻みつけるように舌を這わせていく。 やがてその印は、俺の胸へと到達した。 首に回された手が外され、俺の肩に優しくつかまる。 「ちゅっ、ちゅぅぅ……はぁ……支倉、先輩……ちうぅっ」 俺の乳首に、まるで子供のように吸いつく。 「あっ……」 ときおり舌先で先端をねぶられる。 白ちゃんの口から溢れた透明な液が、俺の身体に一筋の線を作った。 「はむっ……ちゅ、ちゅ……ちぅ……」 白ちゃんの頭が、俺の腹を少しずつ滑っていく。 俺の水着に、白ちゃんの手が添えられた。 「し、白ちゃん……?」 「はぁ、んっ……はぁ、い?」 一心不乱に俺の身体を貪っていた白ちゃんが、顔を上げる。 頬は上気し、目は溶けたようにとろんとしていた。 「ダメ……ですか?」 寂しそうに上目遣いで呟く。 幼さと色気が混ざった、アンバランスな表情。 胸を締めつけられるような、愛しい気持ちになる。 「俺も、白ちゃんにしてあげたい」 「いいかな」 「はい……」 こくん、と小さくうなずいた。 白ちゃんが俺の上にまたがり、お尻をこちらに向ける。 女の子の身体を全身で感じる体勢。 白ちゃんの手が俺の水着をずらす。 すでに興奮で大きくなっていた怒張が解放された。 「あっ……」 驚きの声が上がる。 「興奮して、くれたんです……よね?」 「見ての通りだ」 間近でまじまじと見られると、恥ずかしい。 「……ちゅっ」 「んっ」 「あ……びくん、ってしました」 「かわいいです」 白ちゃんの子供のように小さな手が、俺の棹に触れている。 慈しむように指で撫でられた。 それだけで、身が震えてしまう。 「ちろ……ちゅ……ぴちゅ……」 俺の先端を、白ちゃんの舌がまんべんなく濡らしていく。 お腹を空かせた子猫が、ミルクを飲んでるような音が響いた。 「ちゅ……ぴちゃ、んっ……くちゅ」 ちろちろとした動きが、棹の部分に移動していく。 優しい刺激なのに、とても気持ちがいい。 目の前にある白ちゃんのお尻が、せつなげに揺れた。 まだ濡れているスクール水着。 そこから、月明かりに白く染まった太腿が伸びている。 「俺も触るよ……」 「はい……支倉先輩の……お好きなように」 甘い言葉に導かれるように、指先でざらりとした生地に触れる。 お尻の肉を両手で包み込んだ。 「ふぁ……」 白ちゃんの感触を確かめるように、優しく揉んでみる。 「れろ、ふぁ……んちゅぅ……ちゅく、んんっ、ふぁあ」 荒い息が、神経を丸出しにされたようなペニスに当たった。 まるで、じらされているような気持ちになる。 「白ちゃん」 「ちゅくっ……んっ、はい……?」 「もっと、してみて」 「わかりました。いっぱいします」 嬉しそうな声。 「その代わり、わたしにも……」 「こうかな」 お尻の谷間のラインに、上から指を滑らせる。 白ちゃんの大事な場所をなぞると、スクール水着から水が染み出した。 「ひゃっ……あうぅっ」 びくり、と身体が震えた。 「違ったかな」 「いえ、その……ぜ、ぜひ、お願いします」 恥ずかしそうに、少しだけお尻を突き出す。 割れ目を浮かび上がらせるように、優しく上下させていく。 「はぅ、はぁ……では、こちらも……ちゅっ」 棹の部分に口づけをした。 「んっ、ちゅぅう……ちゅうううぅっ」 こぼれた水を吸うように、口で刺激してくる。 小さな手で、亀頭を包んだ。 温かくて、気持ちいい。 「はふっ、こうされ、りゅと、んちゅぅ……いいんですよね? ……あぁっ」 「ちゅうう……はむぅっ……ちゅく、ちゅ……んぅっ」 白ちゃんが陰嚢の部分を口に咥え、飴玉のように口の中で転がす。 先端を包んでいたかわいい手が、棹の部分で上下した。 「ちゅぱ、はふっ、んんっ……ちゅぅ……っ」 「ぐっ、俺の弱点ばっかりは、ずる、い」 「ふぁ……支倉、先輩のことなら……わかってますから……はむっ」 びくびくと反応する亀頭を口で含んだ。 「ちゅく、ちゅぅ……ちゅぅ……ぁ……ちゅっ」 唾液をたっぷり含んだ舌で、先端やカリ裏を舐められる。 「ん、んんっ……ちゅうぅ、ちゅくくっ……んふぅ」 押し寄せる快感に負けそうだ。 目の前で揺れる白ちゃんのお尻。 水着の一番幅の狭い場所を、横にずらした。 「ふっ……ぁ……」 白ちゃんの俺にしか見せない場所が、外気に触れた。 左右対称の綺麗な陰唇は、キラキラと輝いている。 その上にある小さな蕾が、見られた恥ずかしさのためか、きゅっとすぼまった。 秘所から一滴のしずくが、俺の胸元にぽたりと落ちる。 「もう、濡れてるんだね」 「んくっ……うー? ……んんーっ」 俺のペニスを咥えたまま、恥ずかしそうに首を傾ける。 「プールに入ってたから?」 「ん……ぅ……うぅ」 わからない、というように小さく左右に首を振った。 どこまで濡れているのか確認するために、白ちゃんの中に指を沈めた。 くちゅり…… 「んうっ? ぷはっ、あああぁっ」 白ちゃんが、温かく迎え入れてくれる。 そのまま、ゆっくりと差し込んでいく。 「ああ……ぁ、はぁ」 「すごいね。もう奥から溢れてきてる」 「はぁっ、あぅ、先輩のをしているだけで……わたし」 「あぁ……ぅ……はしたない、ですよね、あぅ……っ」 「そういう白ちゃんのことも、俺は大好きだけど」 「うぅ……」 付け根まで指が飲み込まれてしまう。 「あ、あうぅ……」 「あの、あまり、中で動かさないで、下さい」 「どうして?」 「もっと……はしたなくなってしまいます」 「なったところ、見せて」 指で円を描くように、膣内を掻き回した。 「ひゃっ、あ……ふぁ、あっ」 「あっ、あううぅ……はぁあっ、やぁっ」 「気持ちいい?」 「は、はいっ、とっても、はあ……ぁ、んぁっ」 膣が、指を締めつけるように蠢きながら、愛液をどんどん溢れさせる。 まだ、そんなにしてないはずなのに。 どういうわけか、いつもより感じやすいみたいだ。 俺がした分だけ反応してくれるのが、嬉しい。 「あうぅ、ああぁっ、おかしい、です……うあっ、んんっ」 指をもう一本中に沈める。 愛液を掻き出すように、前後させた。 「あ、ああ、ぁっ……ふはぁっ!」 「だ、ダメです、ダメ、どうして、こんなっ、あ、あああっ」 「うぁ……あっ、わたしだけ、なんてっ、ま、待ってくださっ、ああぅ、いやぁっ」 「ああ、あっ、はむっ」 いきなり、白ちゃんが俺の股間のものを咥えた。 「くちゅっ……んんんっ、むぅうっ、ちゅうぅ」 「くっ」 貪るように、口内で舌を這わせてくる。 押し寄せる波に耐えるように、身体をもじもじと動かしている。 必死に俺を感じさせようとしているのがわかった。 「んんっ……はむっ、あむっ……ずちゅ」 「先に、いってもいいよ」 「んっ……んん、んっ」 いやいやをするように首を振る。 「じゃあ、我慢してみて」 「んっ」 こくんとうなずいた。 指の代わりに舌を差し込んだ。 「うむぅっ!?」 熱いうねりに舌を沈ませる。 温かくて粘り気のある蜜を、楽しむ。 甘酸っぱくて、ほんの少しだけ苦い。 「ちゅ……ちゅく、ごくっ」 飲むと、興奮が増したような気がした。 白ちゃんのそれは、俺にとっては媚薬みたいなものかもしれない。 「んっ、んんんっ……ぁ……んぐっ」 もしかしたら白ちゃんも、そう感じてくれているのか。 俺のを口に含むだけで、同じように身体が火照る。 だから、小さな泉からこんなに愛液を溢れさせているんだ。 「んっ、んっ、んぅ、ぐっ……ぁむ、んんんっ」 味わうほど、求めてしまう。 お互いに媚薬を与えあい、激しく貪る。 自分の意思では止めらないほどに、高まっていく。 「んむっ、ずちゅ……んぐっ、んんんんっ、あむぅっ」 白ちゃんの太腿が、ふるふると震えている。 俺は蜜を求めて、さらに奥に潜り込ませて、掻き回す。 「んぐっ……く、くぅ、むっ、んんんっ」 「むぅっ、んんぅっ……くぅんっ、きゅ、うううぅっ」 「ん、ん――――――――――――んんぅっ!!」 白ちゃんが棹を唇でギュッと締めつけ、がくがくと身体を震わせた。 陰部から、大量の分泌液が雨のように振り注ぐ。 「んぐ、くふっ……うう、うぅ……ずちゅっ」 いきながらも、白ちゃんは口を離そうとしない。 「か……はふ……ちゅくぅ、んちゅ、ずちゅぅっ」 ひくひくと膣を痙攣させたまま、小さな頭を上下させた。 「はっ、んんっ……ずちゅっ、くちゅっ……あふ、くふっ、ぢゅぅっ」 勃起しきった肉棒を、苦しそうな吐息を吐きながら根元まで口に収める。 喉の奥まで入っている感覚に、腰がしびれた。 「ダメだ、俺もっ」 「うくっ、んくぅっ、ちゅぐっ、ずちゅぅ、ぢゅくくぅっ」 俺の言葉に、さらにスピードを速めていく。 頭が真っ白になってしまう。 「くっ」 「んむぅ!?」 ドクッ! ドクドクッ!! 「くぐっ、……んんくっ、んん、ん……っ」 「ごくっ……ごくっ……んくぅっ……こくっ」 放たれたものを飲み干そうと、白ちゃんが必死に喉を鳴らす。 ドクッ! ドク……ッ! 「こふっ……わぷっ……ぁ」 収まり切らなかった白濁液が、口の端からこぼれた。 「あ……だめ……ちゅ、れろ……」 慌てて、頬や口元にかかった精液を舐める。 「ちゅ……ちゅぱ……ふあ、ぁ……」 まだ絶頂の余韻が頭を占拠している。 体が浮いているような、ふわふわとした感覚。 「ごめん……いっぱい、だろ」 「その方が、嬉しいです」 「まだ、残ってますよね……」 「ちろ……ちゅ……」 まだ敏感なそこに、熱く小さな舌が触れる。 まるで、神経が直に舐められているようだ。 「ちゅく、ちゅぅっ……ぢゅううぅぅっ……」 中に残った分まで、吸い上げられる。 うめき声を上げないように、奥歯を噛み締めた。 「こちらも、綺麗にしますね」 荒い白ちゃんの吐息だけで、感じてしまう。 「ん……ちゅく……、ぴちゅ、ぴちゃ……っ」 「くちゅ……ちゅっ……ちゅ、ちゅうぅぅ」 まんべんなく、舌を這わされ、吸われていく。 健気で卑猥な行為だ。 下半身が大きさを取り戻していくのがわかった。 「わ……」 「ダメだ、白ちゃん」 「ど、どうしたんですか?」 「俺、もう止まれそうもないかも」 「わたしも……です」 そっと、俺に寄り添うように抱きついた。 「幸せ、です……」 耳を俺の胸に当ててうっとりとする。 まだ火照っている華奢な身体を、抱きしめ返した。 「……ぁ」 少し不安そうな呟き。 「どうしたの?」 抱き合っていた体が離れた。 「あれは……礼拝堂ですよね」 遠くに見える、建物。 こんな時間に誰かいるのか、明かりがついていた。 「気になる?」 「……」 あそこまで声が届くわけもないし、目撃される距離でもない。 でも、一度気になったら、白ちゃんは不安になるだろう。 「わかった」 今すぐにでも白ちゃんとつながりたい。 でもそれは、白ちゃんもそう思ってくれるなら、だ。 「やめておこう。今日は遊びに来たんだし」 理性を総動員させて言った。 もやもやとした気持ちを落ち着けないといけない。 「あの、でも」 「白ちゃんが楽しくなけりゃ、意味がないだろ」 俺は怖いのかもしれない。 誰かに見られるコトが、じゃなくて。 卒業までの思い出が、白ちゃんの中でどう残ってしまうのか、が。 離れたくないから、離れた時のことを考えてしまう。 「ちょっと、行ってくるね」 白ちゃんの頭を撫でて、プールを見た。 少し泳げば、楽になるかな。 完全に凪いだ水面は、夜空を映す鏡のようだ。 頭から、プールに飛び込んだ。 そのままの勢いでゆっくりと水中を泳ぐ。 「ぷはっ」 顔を上げて、白ちゃんを呼ぼうとプールサイドを見た。 「あ……れ?」 いない。 慌てて回りを見渡す。 「白ちゃん?」 ざぱんっ 「んっ」 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 目の前に白ちゃんが浮かび上がったと思ったら―― 唇を、奪われていた。 「ん、んんっ……ちゅく……」 泣きそうな顔で、俺の背に手を回している。 押しつけるような、激しいキス。 「んくっ……んぅ、むぅっ」 「ぷは……はぁ……はぁっ……」 「ど、どうしたの?」 ぎゅっと、俺の頬に頬をすり寄せてくる。 バランスを崩さないように慌てて抱えた。 「置いて行かないで、下さい……」 「ここなら、きっと見えませんから」 「だから、どこにも行かないで下さいっ」 「お、落ち着いて」 「……して、下さい」 「お願いです」 細い足を俺の腰に絡ませてくる。 じっと俺の目を見つめた。 その瞳の中にあるのは、不安。 どうしてこんなに積極的なんだろう。 「白ちゃんが、望むなら」 抗いようがない。 俺だって、まだ中途半端なままだ。 「つかまってて」 「はい」 猛ったままだった肉棒を、水中で取り出す。 股間の部分の水着をずらして、入り口にあてがった。 「んっ……ああっ」 「えっ?」 白ちゃんが腰に回した足に力を込める。 必然的に、ずぶずぶと白ちゃんの細い肢体に飲み込まれることになる。 「あぁっ、うううっ、あくっ!」 「くぅ」 冷たい水から、熱い粘膜の中に包まれていく。 激しい温度差にうめいてしまう。 「白……ちゃんっ」 「は、はせくら、先輩っ」 「どうして……」 「んっ、ふぁ……あああぁっ」 一気に根元まで、入ってしまった。 熱い内部にぎしぎしと締めつけられる。 「はぁ、……ぁ」 ただ、幸せそうな吐息を吐いた。 「はっ……はぁ……ぁ……」 白ちゃんが落ち着くまで、待った。 「どうしたの?」 「ごめんなさい……」 「わたし、もう耐えきれない……です」 「支倉先輩がいなくなってしまうなんて」 憂いを帯びた表情。 悲しい声音が、鼓膜を振動させた。 「支倉先輩は、もうすぐ生徒会を引退してしまいます」 「卒業したら、兄さまや伊織先輩のように、ほとんど会えなくなってしまうかもしれません」 「離れてしまうのが……怖いです」 「俺も……同じこと考えてた」 でも、それはどうしようもないことだ。 考えれば考えるほど、不安になっていくだけでしかない。 だから、せめて思い出くらいはいいものにしておきたかった。 「こうしていると、とっても安心できるんです」 「だから……」 「いつでも支倉先輩のことを思い出せるように、して欲しいです」 「いっぱいいっぱい、愛して欲しいです」 白ちゃんの気持ちが流れ込むように、切なくなる。 「俺も、白ちゃんのことをいつでも思い出せるようにしたい」 「嬉しい……です」 白ちゃんの足が、少しだけ緩んだ。 数センチだけ腰を引き、想いを伝えるように再び沈めていく。 「あくっ……ふぁ」 俺に応えるように、膣内が収縮を繰り返す。 「あっ、はあぁ……この気持ちを、覚えていられるように……んぁっ」 願うように、呟いた。 ぎゅっと、胸が締めつけられるような気持ちになった。 こんなに愛おしいのに、どうして離れなければいけないのだろう。 「あっ、ああぅっ、せんぱいっ……ひあぁっ」 「強く、強くしていいですからっ」 白ちゃんの身体を腕で引き寄せる。 水の中は動きにくい。 その分、白ちゃんの一番奥を感じようと貫く。 「ひゃっ、ああぅ……ふぁっ、はぁああっ」 「変ですっ、お腹が、熱くて冷たくて……っ」 「ひうっ、やぁぁっ、……あ、あ、あ、んっ、はぁあぁっ」 「止めたほうが、いい?」 「だ、ダメです、やめちゃ、あふっ、ふあああっ」 悲しそうな顔で必死に訴える。 求められるままに、白ちゃんをかき乱す。 腰を打ちつけるたびに、白ちゃんが足でぎゅっと俺を引き寄せる。 心までつながっているような、そんな感覚に満たされていく。 「はふあっ、もっと、深くまで……一緒に……っ」 「あっ、はあぁ……ふあぁっ、はああああ……っ」 白ちゃんが、幸せそうな顔で喘ぐ。 愛されている、と感じる。 俺だって、負けない位に愛してる。 「あっ、ひあんっ、ふ、不思議です……」 「は、せんぱいの……気持ち、あぁ……っ」 「伝わる……つたわって、あああっ、胸が、いっぱいっ……ひあぅっ」 「白ちゃんと、このまま離れたくない」 「わ、わたしもっ、ですっ、ああっ」 「……大好き」 気持ちが溢れて、言葉になる。 「うくっ……はぁ、こ、こんな、時に、こ、困ります……ま、また、わたしっ」 「そんなっ、は、はせくらせん、ぱいっ……すき、だいすきですっ」 耳を打つ愛しい言葉が、心に刻まれていく。 水の中にいるのに、身体が馬鹿みたいに熱い。 下腹部に何かがたまっていくような感じがする。 「やぁぁっ……うぅっ、ふぁ、ああ、おかしく、ひぁう、なりそう、ですっ」 「一緒に、なろうっ」 「いっしょに、いっしょなら……はふあっ、ふぁああっ」 「ひぁあっ、き、きます、ひゃうぅっ、きちゃいますっ」 白ちゃんの身体が震え出す。 脳みそが沸騰したように、身体が制御できない。 ただただ、白ちゃんの一番奥を貫き続ける。 「ひゃあっ、くる、きちゃうっ、せんぱぁいっ、ふぁああああぁっ」 「はああぁっ、いく、いくいく、いくっ、ひぁん、あぁっ、きゅああああぅっ!」 「はふあっ、ううううんっ、くぅ、ああああっ、いっ…………あああああああぁっ!!」 ドクドクドクッ!! ドクドクっ!! 白ちゃんの膣内に、たまっていた想いをぶちまけた。 腰が抜けたのかと思うほど、しびれている。 「ひ、ゃあっ、あああぁっ、ふああぁ……あああぅっ」 ドクドクッ! ドクッ! ……ドクッ! 「あっ、あっ、あっ、あ……ふぁ、あぁ……」 奥歯を噛み締めて、意識が途絶えそうになるのを堪える。 精液が、注ぎ込まれていく感覚だけが鮮明だ。 「ふぁ……ぁ……ぁは……」 うっとりした目をしながら、身体を小さく震わせている。 秘所も同じように痙攣し、俺から搾り取ろうと収縮していた。 「くっ……」 白ちゃんの足が絡んだまま、動かない。 「白、ちゃん」 「ぁ……ふぁ、ぁ……あぅ……?」 焦点の合っていない目で、俺を見つめる。 「はぁ……ぅ……せん……ぱ……ぃ」 幼な子のような甘い声。 感じすぎてしまったのだろうか。 「だ、大丈夫?」 「ふぁ……ぃ」 こくん、と小さくうなずく。 「はせく……ら、せんぱ……ぃ」 「ん?」 白ちゃんは、とても幸せそうに微笑んで―― 「だいすき」 小さく呟き、目を閉じた。 「……ぁ」 「目が覚めた?」 「あの、わたし……プールにいたのに」 「意識、失っちゃったみたいだったから」 「俺の部屋まで連れて帰ってきたんだ」 「ご、ごめんなさい」 「大変だったのではありませんか?」 「白ちゃん、軽いから」 見つからないか冷や汗ものだったけどな。 「服も、着替えさせてくれたんですね」 「いや、まあ、その……プールで考えたんだけど」 「あの格好じゃ、帰る途中で見つかった時に、言い訳もできないかと思って」 「ふふっ、そうですね」 小さく微笑んだ。 それからベッドの上で、ちょこんと姿勢を正す。 「ありがとうございました」 「お礼なんかいらないよ。いつでも運んであげるから」 「いえ……その」 「今日のこと……ずっと、忘れないと思います」 「……よかった」 「あと、それから」 「ん?」 「今日はこちらにお泊まりしてもいいですか?」 恥ずかしそうに、頬を染めながら言った。 「もちろんさ」 かわいい彼女の小さな頭を撫でる。 残された学院生活は、ずっと一緒にいよう。 ――来年訪れる、二人で過ごせない時間のために。 窓の外に見えるのは、葉の落ちた木々。 すっかり冬になっていた。 「孝平」 「そろそろ始めましょう」 クッションに座り、こちらを見上げていた。 その姿は、雑誌に載ってるグラビアアイドルみたいだ。 思わず、見とれてしまう。 「何を見てるの?」 「桐葉を」 「り、理由を聞いてるのよ」 照れ隠しのつもりなのか、ちょっと怒ったように言う。 「綺麗だから」 「……」 頬が紅潮していく。 すぐに恥ずかしがるのが、かわいい。 フリーズドライと呼ばれていた頃とは大違いだ。 「遊ばないで」 と思ったら、少し冷たい目で見られた。 別に遊んでるつもりはないんだけどな。 桐葉は鞄の中に手を入れ、資料を取り出す。 さっさと生徒会の仕事の話をしよう、という意思表示だろう。 俺としては、もう少し恋人らしい会話をしていたいんだけどな。 「準備できたわ」 テーブルに資料を並べ、俺の目を見た。 桐葉もすっかり生徒会役員が板についてきた。 桐葉の隣に座る。 ジャスミンの匂いがした。 「さてと」 仕事モードに入ろう。 「昨日はゲームのネタ出しをしたんだよな」 「そうね」 「6年生よありがとうパーティー」と書かれた資料を見る。 卒業パーティーの内容はすべて、俺と桐葉に任されていた。 「案の一覧は、こんな感じよ」 俺の方に紙を移動する。 瞬間、肩と肩が触れあった。 心地良い感触だ。 桐葉をちらりと見る。 「私は、これがいいと思うわ」 紙を指差しながら言う。 まったく俺を気にしていない。 「どうしたの?」 「いや、なんでもない」 「そう」 そっけない……。 恋人同士で二人きりなのに、孤独を感じるのはなぜだろう。 かなでさんに島流しにされた時と同じ気分だ。 最近忙しくて、企画の話しかしてないからだろうか。 まあ、仕方ないこと……だけどな。 「有志でやる劇と、全員参加の体を張ったクイズ。学食の鉄人による空中料理ショーか」 一覧の中から、桐葉が指差したものにチェックを入れていく。 「いいんじゃないか。賛成だ」 「最後の一つは、孝平が選んで」 「じゃあ、これ」 俺が昨日提案したやつを指差した。 「気になっていたのだけど」 「これは、どういう遊びなのかしら?」 端整な指で「目隠しで相手を当てるゲーム」を差す。 「えっと、まず6年生に目隠ししてもらって、先生の顔を触ってもらう」 「で、先生の名前を当てられたら商品ゲットだ」 「面白そうね」 「ぐちゃぐちゃに触られて、先生が変な顔になるのが見どころでもある」 「でも、顔ではわかりやすいのではないかしら」 「あー、どうなんだろ」 「やってみて全員正解したらまずいよな」 賞品にも限りがあるし。 「他のにするか」 「待って」 そう言って、スカートからシンプルなハンカチを取り出した。 テーブルの上で丁寧にそれを折り畳んでいく。 目隠しにする気か。 「試してみましょう」 「なるほど。どっちが目隠しする?」 「私がしてみるわ」 「わかった」 長細くなったハンカチを、自分の目に当てる。 艶やかなストレートの髪をかき上げて、目隠しを背後で結んだ。 「真っ暗ね」 「そりゃそうだ」 「これで、触ってみればいいのね?」 「ああ」 桐葉が、座ったまま俺の方に体を向ける。 ちょっと右にずれていた。 そのまま空中におずおずと手を伸ばす。 手は俺の右側へと逸れていく。 「?」 白い指が俺を求めてさまよう。 そして、ようやく俺の腕に触れた。 位置を確かめるように、指先が胸元を這っていく。 「む……ぐ」 「どうしたの?」 「気にするな」 くすぐったいような、気持ちいいような。 「ここが、喉元で……顎ね」 さわさわと桐葉の指先が上ってくる。 女の子らしい、たおやかな手つきだ。 思わずドキドキしてしまう。 「個人の判別はできそうか?」 「まだ、わからないわ」 両手で顔をぺたぺたと触られる。 人差し指が俺の唇に触れ、そのまま口の中に進入。 とりあえず甘噛みして捕まえた。 「あ……」 「そういうゲームなの?」 「ひんや(←いんや、と言いたかった)」 「?」 「いや、入ってきたからつい捕らえた」 指を逃がして、普通に話した。 「罠があるのね」 「本番はないけどな」 先生がそんなことをし始めたら、大変なことになる。 再び桐葉が顔を触り出す。 ぺたぺた さわさわ ぺたぺた さわさわ ずぼっ(←口に指が入った) はむっ(←甘噛みでゲット) 「あっ」 2回目侵入の罰として、指先を舐めた。 「……」 驚いて指を引くかと思ったのに、動かない。 もう一度舐めてみる。 「ん……」 それでも引かない。 むしろ、指で俺の舌をつんつん、と突っつく。 「これは、舌ね」 「熱くて、ぬるぬるしてるわ」 「ひりゃほうだ」 「?」 ええい、しゃべりにくい。 桐葉の指から口を離す。 「あ……」 「そりゃそうだ、と言ったんだ」 「もう罠はおしまいなの?」 「なんで残念そうなんだ」 「別に」 少しだけ拗ねたような声。 そんな風に言われたら、もうちょっと続けたくなるだろ。 再び顔に伸ばされた桐葉の手をよける。 カウンターで耳たぶに触った。 「あっ!?」 すぐに手を離す。 桐葉が遅れて俺の手をつかもうと、何もない場所に手を伸ばした。 「くっ」 「どうした?」 「まるで子供ね」 いじけたように言う。 その隙に、胸に軽く触れた。 厚い布の上からでもわかるほど、大きくて柔らかい。 少しだけ感触を楽しんでから、手を引っ込める。 「なっ、どこをっ」 慌てて俺の手を探す。 「子供はこんなことしないだろ?」 「余計にタチが悪いわ」 今度は桐葉の唇を指で触る。 「はむっ」 「なっ!」 捕まった! ぎりぎりぎり 「痛たたたたっ! 悪かった! 噛むなっ!」 「わひゃれはいいろろ(←わかればいいのよと言ってるらしい)」 指が解放される。 「もう動かないで」 「あ、ああ」 桐葉が再び両手を伸ばす。 そして、なぜか俺の体をまさぐった。 「そこ顔じゃないんだけど……」 「あら、そう?」 「見えないからわからないわ」 さすがにわかるだろ。 もしかして、イタズラした仕返しなのか? 俺の胸に白い指が這う。 「む……ぐぅ……」 脇の下。 「ぶっあはははっ!」 そして、背中。 「むうぅ……」 桐葉が正面から抱きつくような体勢になった。 俺の胸に、桐葉の存在感のある胸が密着。 やばい、俺の存在意義が反応しようとしている。 思わず、腰を引いた。 「動いてはダメよ」 怒られた。 桐葉の両手が前面に戻る。 お腹から下がっていき―― 「あっ」 「何?」 「いや、なんでも……」 しなやかな指先が、ズボンの前面を撫でていく。 両足の内腿をくすぐるように触り、俺の足の付け根に到着。 「ここは、どこなのかしら?」 指が股の下に滑り込んで、思わず声を上げそうになった。 やばい、パンツの中でアレが膨張している。 なんだこの新手の拷問は。 こんなことされ続けたら頭がおかしくなってしまう。 頭の中にゆっくりと文字が浮かんでくる。 臨 臨界点 臨界点突破 臨界点突破(祝!) 目の見えない桐葉をぎゅっと抱きしめる。 「きゃっ」 そして、そのまま唇を押しつけた。 「んっ」 勢いに任せて、舌を口内へ差し込む。 一瞬、びくりと体を震わせただけで、俺を受け入れてくれる。 「ん、ちゅぅっ」 舌先で桐葉の舌に触れた。 「ふぅ……ぁ」 小さく息を吐く。 まるで「仕方のない人ね」とでも言っているようだ。 「んっ、ぴちゃ……ちゅぷ」 俺の舌に反応を返してくる。 互いの唾液が絡み合っていく。 「んぅ……んちゅぅ、ぴちゃ」 「ぅ……はぁ」 唇同士が、水糸を引いて離れた。 「すごい遊びね」 もう一度、とでも言うように顔を少し上げる。 薄い唇に吸い込まれるように、唇づけをする。 「はぁ、む……くちゅ、あはぁ……ちゅぱ」 さっきよりも激しいキス。 荒くなった呼吸と水音が部屋に響く。 「ぁ、ちゅぴ……ぴちゅ、んんむ……はぁ」 そのまま、服の上から胸に手を這わせた。 驚くほどの柔らかさと、桐葉の愛しいぬくもりが手のひらから伝わってくる。 「んぅ、ぁ……うぁ」 胸を揉む度に、びくりと体を震わせる。 桐葉の切なげな吐息が口から漏れていく。 「んあぁ……違う、わ」 「何が?」 「ん……見えないから、貴方がどうするか、わからな……くて」 む。 そんな事言われたら、もっといたずらしたくなるじゃないか。 ゆっくりと、桐葉から離れてみた。 「え、どうしたの?」 「これでおしまい?」 桐葉の手が目隠しを外そうと伸びる。 「ダメ」 「どうして?」 「こういうゲームなんだ」 「……わかったわ」 俺を追うように、前に手を伸ばす。 その手につかまらないように逃げた。 「いじわるね。目隠し鬼のつもりかしら」 四つん這いになって俺を捜している。 迷子になった子犬のような動き。 俺は、気づかれないように近づく。 処女雪のような首筋に不意打ちのキス。 「きゃっ」 「そこにいるのね?」 「はずれ」 あらぬ方向に向いた桐葉を、後ろから抱きしめる。 シャツのボタンを外し、その隙間から手を忍ばせた。 「あっ、どこか……ら」 しっとりとしていて柔らかい乳房の感触。 味わうように、ふにふにと揉んでみる。 「ん、あぁ」 そのまま手を、ブラの中まで潜り込ませた。 「あ……そんなっ」 指先に胸の先端が当たる。 指の腹で、弄んでみる。 「いっ、あぁ……ず、ずるい」 もどかしそうに、身体を左右に振る。 やばい。 なんか楽しいぞ。 「次は、どうして欲しい?」 耳元でそっと囁く。 「そんなこと言えないわ」 「言わないと、これでおしまい」 「……っ」 顔がだんだん赤くなっていく。 「終わる?」 「ぅ……」 恥ずかしそうに、小さく首を左右に振った。 「じゃあ、どうしてほしい?」 「……貴方の、好きにして」 「具体的に言わなきゃダメ」 「えっ」 耳まで真っ赤に染まった。 羞恥に耐えるように下唇を噛む。 「私の……触れてはいけないところに、触って」 恥ずかしげに呟いた言葉が、俺の鼓動をさらに早くする。 スカートの裾を持ち、ゆっくりとめくり上げていく。 禁忌を犯しているような感覚に指が震える。 ストッキングの下のショーツが見えた。 桐葉の秘所の形を示すように、皺がよっている。 綺麗な曲線を描くお尻が、丸見えになっていく。 「全部、見えたよ」 「ほ、報告しなくてもいいわ……」 こちらに突きだしたお尻が、恥ずかしげに揺れる。 誘われるように、露わになった箇所に手を伸ばす。 ストッキングの上から、指先で桐葉の大事な部分に触れた。 「ぅ……あぁ……」 「もしかして、見えない方が感じる?」 「そんなこと……ないわ」 「じゃあ、まだここは濡れてないのかな」 言いながら、縦筋を浮かび上がらせるようになぞった。 「ひぁっ、わ、わからないわ、見えない……もの」 「脱がして、確認していいか?」 「ぅぅ……」 羞恥から逃げるように、両手で顔を隠す。 「ダメ?」 「どうして……聞くの?」 「恥ずかしがってるのが、かわいいから」 「ぁ……」 照れたのか、小さな吐息を吐いた。 「脱がしても、いい?」 ほんとうに小さく、桐葉がうなずいた。 その反応を見て、ストッキングを脱がしていく。 この体勢だと……脱がしにくいな……。 びりっ 「あ、ごめん」 ストッキングに線が入り、白と黒のコントラストを作る。 黒い布の下から現れたきめ細かな素肌が綺麗で、一瞬見とれてしまう。 「お願い、気にせずに触って」 「貴方が触れていないと、不安なのよ」 愛しい女の子の甘える声に、脳がとろけそうになる。 「わかった」 破れたストッキングを脱がすのがもどかしい。 びりびりびりっ さらに破いて下着を少しずらした。 ぬらぬらと輝く秘密の場所に、指で直接触れる。 「あっ、あああっ」 一際大きな声が漏れた。 綺麗なピンク色の花びらの中心に、ずぶずぶと指を沈めていく。 「い……は、入って……き、てる……」 俺の動きに合わせて、ビクビクと背中が反応した。 うねりに誘われるように、狭い膣内を奥へと進んでいく。 溶けそうなほどの熱さに、指が包まれる。 「あ、あああっ、そこ、ダメっ」 「ここか?」 指を曲げて、桐葉が一番感じた場所を愛撫する。 くちゅっ、くちゅっ、ぬちゅっ…… 「あっ! ダメっ、って言ってる、んっ、あぁっ」 「ダメ、見えないからっ……余計に動いてるのが」 「だから……」 快楽に耐えるように下唇を噛み締める。 「だから?」 「あ、あまり……うぅぁっ」 もう一方の手で、ちょこんと突起した肉芽を弄った。 「いっ、そんな……ぁ、はぁ、ああぁっ」 背中をしならせて、ぎゅっと俺の指を締めつける。 溢れ出した愛液が、俺の手を伝って流れ落ちていく。 「あっ、んっあぁっ……うああっ」 ずちゅり 「あっ」 指を引き抜いた。 「はぁ……ぁ」 俺の指を求めるように、切なげに腰を突き出す。 その姿が、淫らでかわいい。 下着をずらしたまま、すべすべのお尻を押し開くようにした。 「あくっ……ぅ」 指にほぐされた割れ目が、くちゅりという水音を立てて、左右に開かれる。 桐葉の一番恥ずかしい場所が、惜しげもなく俺の目に晒された。 淡い桜色の粘膜が、俺を誘うようにきらきらと輝いている。 「丸見えだ」 「ほ、報告しなくてもいいわ」 「桐葉のここ、かわいい」 「そんなこと……」 言葉だけで、花びらがきゅっと反応する。 「あ、奥から溢れてきた」 「こ、こんなに恥ずかしい思いをしたのは、初めてよ」 ピクピクと震える花びらに舌を伸ばす。 「うあぁっ!」 触れたとたんに大きな声を上げた。 膣口からこぼれ落ちそうになる蜜を、舌で丹念に舐め上げていく。 「ひ、ぃやあぁ……熱……い……」 気持ちいいのか、白いお尻を左右に揺らす。 かわいく膨らんだクリトリスを、舌先で小刻みに叩く。 奥から、さらに甘酸っぱい蜜が溢れてきた。 「あ、ああっ……だめ、そこ、ばっかりっ、うぅ」 新しい愛液を求めて、舌先を源泉に差し込んだ。 たっぷりと濡れた膣内を、掻き回すように舐めていく。 「ふぁああっ、掻き回さな……あふあっ」 「んっ、ああぅ……あぁ」 ぬちゃ……ぬちゃ、ぴちゃり 「や、やだっ……音が……やああっ」 いやらしい水音が恥ずかしいのか、ふるふると首を振った。 奥からは、次々に愛液が湧き出てくる。 「いっ、あっ……ああっ、はあっ」 聞いているだけで、理性が破壊されていく桐葉の甘い吐息。 これ以上は、俺が我慢できない。 ずるり、と舌を引き抜いた。 蓋を失った蜜壷から、愛液がポタポタと落ちた。 「えっ、……どうして?」 荒い息と共に、切ない声を出す。 言葉では答えず、ズボンからペニスを取り出した。 自分でも驚くほど膨張し、びくびくと脈動している。 「孝平……どこ?」 物欲しげな声に、行動で答えた。 ぴちゃり 「あっ」 俺の先端が、桐葉の陰唇に触れた。 桐葉はびくりと体を震わせて、求めるように腰を突き出す。 亀頭が、にゅるりと飲み込まれる。 「んぅ……あああぁ」 体の中心に電気が走り抜けるような快楽。 「こんなに、熱い……」 「どうして欲しい?」 すぐにでも桐葉と一つになりたい気持ちを抑え、聞いてみる。 「言ってみて」 「いじわる……」 いじけた子供のようにボソッと言う。 そっぽを向き、恥ずかしそうに口を開く。 「一番、深くまで……して」 「これ以上待ったらどうにかな……」 「い、あっ!」 言葉の途中で、腰を突き出した。 ずず……ずずずぶっ…… 「うああっ、いじ……わるぅぅっ!」 火傷しそうなほど熱い膣内。 狭い粘膜が快感をもたらしながら絡みついてくる。 「くっ……」 「ああっ、入ってくるっ……う、ああああっ!」 それだけで達しそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。 一番奥を目指してさらに腰を前へ。 「すごい……奥、あ、はあぁ、ぁっ!」 髪を振り乱して、背筋を震わせる。 桐葉の一番深い場所に当たっているのを感じる。 「いっ、あぁあっ……っ……っ」 ぎゅっと締めつけられる。 危うく暴発しそうになり、動きを止めた。 「はぁ……はぁ……」 「全部、桐葉の中に収まったよ」 「見えなくても……わかる、わ」 「お臍の下が、とても熱いのよ」 「この体勢だと、ここまで入るみたいだ」 「この体勢?」 「丘でもしただろ? 犬みたいに、後ろから」 「あ……」 自分の痴態を想像したのか、かすかに首を振った。 「すごく、いやらしい」 「うぅ……」 恥ずかしそうに顔を伏せる。 「ず、ずるいわ」 「私だけそんな姿を見られるなんて」 そんなこと言われても、目隠しを外したくない。 ごまかすために、桐葉の中をかき混ぜるように腰を動かした。 「あっ、あああぁぁっ!」 ぬちゃ……くちゃ、ぴちゃ……くちゅっ つなぎ目からこぼれる愛液が、白い内腿を伝って落ちていく。 「ず、ずるい……」 「嫌?」 ずるり、と桐葉の中でペニスを引く。 「んくぅ、ぅ……」 今にも抜けそうな状態で、止めた。 「……嫌、ではないけど」 小さな声で言った。 「じゃあ、このままするよ」 こくり、とうなずいてみせる。 ずずずっ……ずっ…… 腰を突き出す。 さっきよりもスムーズに壁に到達した。 「あっ、またっ、奥まで」 「んっ……んっ」 桐葉が一生懸命、身体を前後に動かす。 その動きに合わせて、激しく打ちつけていく。 「ひあっ、ふぁっ、ああっ!」 「ふあっ……いぁああっ、あぁっ!」 後ろから抱きしめるように、覆いかぶさる。 揺れる胸に手を伸ばし、背後から揉みしだく。 「ふぁ……あぁあ、いいっ」 「そう、されると安心っ……するのっ」 「んっ、ぁっ……もっと、もっとぎゅって、してっ」 腰を打ちつけながら、桐葉の体を起こして強く抱きしめる。 桐葉の背中と、俺の胸が密着するように。 「あっ、あああ……」 安心したような、幸せそうな息を吐く。 「桐葉の身体、すごく熱い」 「貴方、が……そう、させてるの」 脳をとろかすような甘い言葉に身が震える。 どうして、こんなに愛しく感じてしまうのだろうか。 この気持ちを伝えたくて、口を開いた。 「好きだ」 想いを乗せるように、囁いた。 「ぁ……ぅあ……こ、孝平っ!」 応えるように、桐葉がぎゅっと締めつけてくる。 目の前が真っ白になりそうなほどの快感が駆け抜けた。 「くぅ……」 下唇を噛み締めて、桐葉とさらにつながろうと腰を動かす。 「いっ……ああっ……ぁあっ」 接合部から漏れる音が、早くなっていく。 腕の中で悶えるように桐葉が身をくねらせる。 「ん、ぁああ……すご、い、ひゃうぅ」 「ふあぁ……ああっ、孝平をいっぱい、感じるの……はああぁっ」 思考が快楽一色に染まっていく。 自分が立っているのか座っているのかさえわからない。 「んはあぁっ……お、お願い……ふぁっ」 「見えない、からぁあっ……ぎゅって、もっと、もっとっ」 力いっぱい抱きしめる。 俺の手を桐葉の手が握り締めた。 「あ、ああああっ……孝平っ……孝平……っ」 「く、桐葉」 「ふぁああ、孝平、くる、きちゃうっ!」 「俺もだっ」 頭が真っ白になる。 体中がしびれるような感覚。 さらに激しく下半身を動かす。 「ふあぁっ、はふあぁっ……んああああぁぁっ」 「や、ぁあっ、ダメ、ぅううぅ、ふあぁぁ」 びくびくと震える桐葉の体を抱きしめる。 「あああぁぁっ、ああっ……ぎゅっ、てっ……ふぁああぁ」 「だ、だめ、もうぅ……あっ! だめだめだめだめ、い、いくぅっ」 一際強く桐葉を貫いた。 「ひあぁっ! ……ああっ、ぁぁああ、やああぁぁっ!」 「はあぁあ、あああぁぁい、くっ……んくううううあぁぁっ!」 「ああああっ、好き、好き好き好きっ、ふうぁあああっ、ひああああああっ!」 「くっ!」 びゅくっ! びゅくぅ! びゅくっ! 「はあああっ……ぁ……あぁぁぁ……」 びゅくぅ! びゅくっ! 「ふぁあ、あぁ……いっぱい……出て……」 桐葉は体を震えさせながら、吐き出される大量の精液を受け止めていく。 最後の一滴まで絞りとるかのように、膣内が収縮を繰り返す。 「ぐ……ぅ」 下腹部から伝わる激しい快感に、そのままの体勢で身を任せる。 「ぁ……はぁ……」 桐葉は体を弛緩させ、荒い息をついていた。 艶やかな黒髪を撫でる。 「ん……」 くすぐったそうに身をよじった。 そっと、目隠しを取る。 透明感のある瞳が露わになる。 「あ……」 小さく呟き、目を細めた。 「まぶしい?」 「そう……ね」 少し目の焦点が定まっていないまま、俺を見つめる。 ふらふらとした手で、俺の頬にそっと触れた。 「貴方の顔」 「ああ」 「やっと見られたわ」 愛おしそうに撫でる。 「私、すごい格好ね」 「そうだな」 制服は皺だらけで、ストッキングが破れている。 下半身は二人の体液でベタベタだ。 「ん」 くちゅり、と音がして結合部が離れる。 泡だった白い液体が、とろりと溢れて落ちた。 「ふかないと……」 桐葉から視線をそらし、部屋を見渡す。 「いらないわ」 「また、汚れちゃうもの」 楽しそうに微笑む。 内腿に精液と愛液が混ざったものが伝っていく。 俺が見たこともないような、淫靡な絵。 思わず、下腹部が反応を示してしまう。 「それとも、もうおしまい?」 「まさか」 「よかったわ……」 安堵したように言った。 制服のボタンに手をかけて、上着を脱ぎ、続いてスカートを床に落とす。 ゆっくりと俺に近づき、肩に触れた。 「楽にしていて」 導かれるまま、床に寝ころぶ。 桐葉がその上にまたがった。 理想的なラインを描く肢体がすぐ目の前にある。 「やっと、貴方の顔を見ながらできるのね」 桐葉に愛されていることを、改めて実感する。 そんなことはわかっているはずなのに、嬉しい。 「あっ……」 思わず、桐葉に手を伸ばして引き寄せた。 抱きしめながら、目の前にある鼻にキス。 「口は?」 カーテンのように、桐葉の髪が外の世界を隠す。 その中で、小鳥のように互いの唇をついばみ合う。 「んぅ……ちゅ」 すぐにそれは、濃厚なキスへと変わっていく。 舌を絡め合い、お互いの唾液を嚥下し、味わう。 「ぁん、むぅ……はぁ」 桐葉のふくよかな胸が、俺の胸にぴったりとくっついている。 心地よい重さと、柔らかさを感じ、俺の欲望がむくむくと膨らんだ。 ぺちょっ 「あっ」 桐葉の剥き出しの秘所に、俺のモノが当たる。 「ふふっ」 小さく微笑んで、俺から身体を離す。 しなやかな手つきで俺の怒張に触れ、自分の陰部の真下に持っていく。 桐葉の蜜壷から、とろり、と白いしずくが落ちた。 「いい……かしら?」 口許にいたずらっぽい微笑を浮かべた。 「ああ」 「ねえ、お願いがあるの」 「私の目を見ていて」 うなずき、魅惑的な瞳をじっと見つめた。 ゆっくりと桐葉が腰を落とし始める。 「ん……ぁ……」 先端が、桐葉の秘所に触れたのを感じる。 桐葉はこちらを見ながら、恥ずかしそうに眉の形を変えた。 ずぶ、ずぶぶぶ…… 「うぁっ、あぁ……」 薄い唇を小さく開き、なまめかしい吐息を漏らす。 「く……」 思わず、下唇を噛んで耐える。 「ん、んんん……ああっ!」 ずちゅっ! 「ぐっ」 一気に腰が沈み、ペニスが根元まで飲み込まれた。 「ふぁ……ぁ……大きい」 幸せに満ちた表情をした。 「はぁ……はぁ……」 なぜかじっと俺の顔を見つめる。 「よかった、貴方が嬉しそうな顔していて」 「桐葉とつながってるんだから、当たり前だ」 「さっきは見えなかったから、不安だったのよ」 「今度はもっと、貴方の表情を見せて」 桐葉がゆっくりと腰を上げていく。 「う……あぁ」 桐葉のピンク色のヒダの間から、愛液と精液にまみれた俺のモノが現れる。 亀頭の部分だけが桐葉の膣内に残った。 「ん、んんっ」 今度は、ゆっくりと腰を下ろし始めた。 溶けるように熱い膣中へと、包まれていく。 「ぁ……」 再び根元まで入りきると、色っぽい吐息を吐き出した。 「こうしたほうが、いいのかしら……?」 深くつながった状態で、互いの秘所をこすり合わせるように前後に動かす。 くちゅ、ちゅく、ぴちゅ…… 桐葉が与えてくれる快楽に、身を委ねる。 上下するのとは違う感覚に、体中が熱くなった。 「ど、どう?」 「桐葉のが熱すぎて、のぼせちゃいそうだ」 「では、もっと……」 「ん……んっ、んん」 さっきよりも早く、腰をこすりつけてくる。 愛液と精液が、つながった部分からじゅくじゅくと溢れ出て、潤滑油となっていく。 変な声が出てしまいそうなほど、気持ちがいい。 「ぅ……ぁ……んぁ」 「いっ、ああっ……ん、んんん」 桐葉が耐えるように眉を寄せた。 艶っぽい表情に、よりいっそう下腹部に血が集まっていく。 「あっ、はあっ……まだ膨らむ、の?」 確認するためか、桐葉が腰を浮かす。 「んっ……」 ずちゅ…… 愛液でぬらぬらと光る棹が姿を現す。 辛うじて先端のみが桐葉とつながっている状態だ。 俺の鼓動に合わせて、どくどくと脈動している。 「すごい、のね……」 その様子を覗きこむために、動きが止まった。 「桐葉、動いて」 「止まってると、気が狂いそうだ」 「貴方がそう言うのなら」 嬉しそうに微笑んで、一気に腰を下ろした。 ずりゅううっ 「ぅう、ああっ!」 刺激の強い快感に、二人で身体を震わせた。 「あっ、くっ……ああっ」 日頃は絶対に聞けないような淫らな声を出しながら、上下に動きだす。 「んっ……あ、あっ……ぁ、はぁ」 「はぁっ……ああっ、んっ……ああ、あっ」 ずちゅずちゅという卑猥な水音が速くなっていく。 「ぁあっ、はぁっ、んっ、ぅあああっ!」 「ああっ、んんん……ふ、ぁあああっ、あああっ」 上下する度に、桐葉の胸が弾んでいる。 長い黒髪がリズミカルに舞う。 その度に、脳を快楽が支配していく。 「そんなに、速くしたら、まずい……」 「いいからっ、あぁっ、もっと、私でよくなってっ」 このままでは、すぐに達してしまう。 俺は反撃するために、桐葉の乳房に片手を伸ばした。 ぴんと立った突起を、指先でこねくりまわす。 「あっ、あああっ、そんなっ」 いやいやをするように頭を小さく左右に振る。 それでも、速度を緩めない。 もう片方の手を秘所に伸ばし、クリトリスを指で刺激する。 「ひっ! いいっ! あはああぁぁっ」 身体をのけ反らせて、震えた。 ぎゅっと膣内が収縮し、俺を締めつける。 「うああっ!」 気持ちよさに飲み込まれそうだ。 それなのに、桐葉は必死に俺の上で跳ね続ける。 「ひうっ、ぅああああっ……孝平っ、はぁっ、ぅあああぁぁっ!」 「んん、んぁあっ、もうっ、もう私っ……だからぁ……っ」 意識がおぼろげなのか、とろけるような目で俺に訴えかける。 「桐葉、一緒にっ」 「あぅう、はぁぁっ一緒に、あぅ……見てっ、私、を……はああぁっ」 「しっかり、見えてるっ」 互いを見つめ合いながら、上り詰めていく。 震える足に力を入れ、より深くつながろうと腰を突き上げる。 「ひああっ! ……だめ、もう、もう……ああぁああっ」 「あっふああああっ……もう、もういくの、いくいく、ぅあああぁっ」 「俺もっ……」 「一緒に、ぃああっ、中にっ、中に……ああぁっ」 「ひぁっ、んぁあっ、はぁっ……ふぁあ、あああぁっ!」 一番奥に届くように、力を振り絞って桐葉を突き上げた。 「ひうっ、あぁっ、ひぃあぁ、んあああぁっ!」 「ひぃあっ、ぁあ……んんんん、あ、はぁああぁぁっ!」 「ああっ! ひぃあっ、ぁあっ、ふぁっ、ダメっ……ああぁ、あああああああぁぁっ!」 びゅくびゅく、びゅくぅっ! 「あ、ふぁああああっ、んんんーっ!」 びゅく、びゅくっ、びゅくぅっ! 「うぁ……あ……ふぁ……まだあぁ……ああぁ……」 桐葉の膣内に、どくどくと精液を注ぎ込んでいく。 さっきあんなに出したはずなのに、止まらない。 「ぐっ、ううっ」 どくっ、とペニスが脈動する。 「あっ……はぁ……」 二度目となる体内への奔流を、桐葉は恍惚の表情で受け止める。 桐葉の中から、愛液と混ざりあった白濁液が溢れた。 「はぁ……はぁ……」 つながったままの体勢で、呼吸を整える。 「お腹が……破裂するかと……」 「それはさすがに……大げさ、だろ」 桐葉の下腹部に触れてみる。 しっとりとした肌が指先に吸いつく。 「く、くすぐったいわ」 俺の上で身をよじり、結合部がくちゅり、と音を立てた。 絶頂で敏感になっているお互いの秘所がこすれ合う。 「んっ」 「ま、まだ動かさないで」 「俺は動いてない。桐葉が動いただけ」 「貴方がくすぐるからよ」 かすかに拗ねたような顔をした。 何を思ったのか、少しずつ前に傾いてくる。 長い黒髪がさらりと俺の体に触れた。 く、くすぐったい……。 「くっ……はははっ」 思わず身をよじる。 「ん、あぁ……」 桐葉が甘い声を上げた。 それから艶のある表情で俺を見る。 「動かないで」 「今のはずるい」 断固として抗議した。 「私だって、目隠ししている時に散々ずるい事をされたわ」 「お陰で、ゲームの検証にならなかったもの」 「す、すまん」 「だから……」 いつの間にか、桐葉の手に目隠しが握られている。 「うおっ」 目隠しされた。 「次は、貴方が試してみて」 上から桐葉の声がした。 「むっ」 「ん……ぅ……」 いきなり唇を奪われ、押し倒された。 こ、これは、まさかの本日3回目突入!? 翌日の放課後。 「で、どうして仕事が遅れたの?」 まだ、頭がぼーっとする。 「3回の防御までしか、記憶になくて……」 「野球見ながら寝たわけ?」 「いや、なんでもない……」 「自分でちゃんと遅れを取り戻すこと」 「ああ」 「ねえ」 「ん?」 「今度は、仕事が終わってからいたずらして」 耳元で囁かれる。 「ああ……すまん」 反省するやら、ドキドキするやら、複雑な心境だった。 今日は休日だ。 そろそろ学食に飯でも食いに行くか。 そう思い部屋を出た。 何を食べようかな。 焼きそばは、昨日の夜も食べたしな……。 どんっ 「うおっ」 「きゃっ!」 壁を曲がったところで、衝撃が走った。 「あっ」 倒れそうになる相手の手をつかんで―― 思いっきり引っ張った。 くるりと体の位置が入れ替わり、俺のバランスが崩れる。 どががががががっっ!! どぐしゃ 「ぐうっ」 地面に激突。 追い打ちのように、女の子が俺に倒れ込んでくるのが見えた。 「ごふっ!」 「あ……」 ぶつかった相手が、俺の上に乗っている。 なんか柔らかい。 「こ、孝平くん!?」 「ごめんなさい、大丈夫?」 陽菜の顔が、目の前にあった。 「いや、俺がぼーっとしてたのが悪い」 「でも、孝平くんが下敷きに……」 「これくらい、なんともないさ」 「よかった……」 なぜか陽菜の顔が真っ赤になる。 「お、重いよね。起きないと……」 俺の上に乗っていた陽菜が、体を動かした。 「重くはないけどな」 「なんじゃこりゃああああっ!!」 かなでさんが現れた。 「お、お姉ちゃん」 慌てて身を起こす陽菜。 「寮内でなんたる破廉恥な行為っ!」 「ひなちゃんを襲うなんてどういうつもりなの!?」 「どう見たら、そうなるんですか」 体勢逆だと思うんだが。 「言い訳かっ、こーへーは男の子なのに言い訳するのかっ!」 「ひなちゃんを襲ったくせにっ」 「くわー!」 威嚇された。 「お姉ちゃん、落ち着いて」 「うん。落ち着く」 かわいく陽菜に微笑んで、ぴたりと大人しくなった。 「あのね、孝平くんとちょっとぶつかっちゃっただけなの」 「ほうほう」 「それは、どっちが悪かったの?」 「俺がぼーっとしてたんです」 「そっか。残念だね」 「風紀を乱したのは、わたしの愛する弟みたいにいつもかわいがって小さい頃も……」 「って、長いよっ!」 びしっと虚空に突っ込んだ。 ポケットから、風紀シールを取り出す。 安倍晴明が札を扱うような仕草だ。 まあ俺が悪かったのだから、大人しく貼られておこう。 「おめでとうっ! 累積10枚目っ!」 ぺたしっ 「ぐっ……うあぁ?」 シールが俺の頬に貼られたその瞬間―― 視界が歪み、平衡感覚が失われた。 思わず、足がふらつく。 「な、なんだ、今の」 「だ、大丈夫?」 「いや、なんか眩暈がしただけ」 「ふっふっふー」 「それはね、風紀シールを10回貼られた人だけが味わう感覚なんだよ」 「なんの呪いですか」 「北欧系?」 「ホントに呪いなんだ……」 「そんなモノを人に貼らないで下さいよ……」 「でね、こーへー」 「10回貼られた人には、きついお仕置きが待ってるの」 にやり、とかなでさんが笑った。 かぽーん というわけで、めでたく大浴場の掃除を申しつけられた。 ごしごし デッキブラシで、ひたすらこする。 ごしごし ごしごしごしごし ごしごしごしごしごしごし 「うがー!」 思わず雄叫びを上げた。 広すぎだろ、これ。 「まだ1割くらいか……」 学院の生徒みんなが入る風呂だもんな。 広くて当然なんだけども。 一人で掃除するには無理がある気がする。 でも、やるしかない。 せめて、もう一人くらいいれば助かるんだけどな……。 からからから 「ん?」 誰か入ってきたのか? 表には「掃除中」の札が掛かっているはずなのに。 ブラシを止めて、入り口の方を向く。 「孝平くん」 そこにいたのは、陽菜だった。 俺と同じ体操着姿だ。 「どうした?」 「手伝おうと思って」 そう言って微笑んでみせる。 「俺の罰なんだし、悪いだろ」 「でも、私とぶつかったせいでこうなっちゃったんだし」 「私、掃除するの好きだから、手伝わせて」 さすがというか、なんというか。 断ると逆に悪いんじゃないか、と思うような言い方を選んでくれる。 ほんと、いい子だよな。 「ありがと。助かるよ」 「とんでもない」 からからから 「やほーっ!」 「えええっ!?」 「なんでそんなに驚くの?」 「水着だからじゃないかな」 「だって、お風呂掃除を手伝うんだよ」 「濡れてもいい格好って言ったらコレでしょ」 「普通、陽菜みたいに体操服を選ぶんじゃないかと」 「まあ、どっちでもいいよ」 「わたしも手伝うから、さくさくやっちゃおう」 「かなでさんも手伝ってくれるんですか?」 「うん」 「ルールはルールだから、寮長として罰を無くすことはできないけど」 「かわいいこーへーに一人で掃除させるのは忍びないの」 おお、なんか優しさを感じる。 「助かります」 「んじゃ、三人で手分けしてやっちゃおう」 「うん」 しばらくして、かなでさんが寄ってきた。 「疲れた」 「早いです」 陽菜は遠くで楽しそうに床を磨いている。 ほんと、掃除が好きなんだな。 「こーへー、ちょっと真面目な話なんだけど」 じっと、俺の目を見上げた。 真剣な様子だったので、ブラシを止めて聞くことにした。 「なんですか」 「ひなちゃんのこと、好き?」 「は?」 「ちゃんと答えて」 「女の子らしいし、かわいいし、気が利くし」 「好き、なんだと思います」 正直に答えた。 少し気恥ずかしい。 「なるほどね」 うんうん、とうなずく。 「でも、かなでさんもかわいいと思いますけど」 「なっ!」 「お、お世辞はいいの」 真っ赤になって俺をにらんだ。 「お世辞じゃないです。好きですよ、かなでさんのことも」 頭を撫でてみる。 「こらっ、子供扱いするなーっ!」 照れながら怒るところが、やっぱりかわいい。 「で、なんでいきなりそんなこと聞くんですか?」 「ひなちゃんも、こーへーのこと好きなの」 「はい?」 「わたしね、実は手伝いに来たんじゃないんだよ」 「ひなちゃんと、こーへーをくっつけにきたの」 「はあ」 「何そのうっすいリアクションは?」 「なんでわざわざそんなことするんですか?」 「それは……」 一瞬寂しそうな顔をした。 「いいのっ。いろいろあるの!」 「おーい、ひなちゃーん」 「なあに、お姉ちゃん?」 「こーへーも、ひなちゃんのこと好きって言ってくれたよ」 「え……」 驚いたように、俺を見る。 「あ、あの、お姉ちゃん?」 「こうでもしなきゃ、二人は進展しないでしょ」 「ほら、こーへーもなんか言って」 いきなり振られた。 なんて、言えばいいんだろう。 「俺のこと好きだとか、冗談だよな?」 「あ……ぅ……」 真っ赤になってうつむいた。 まさか、本当に? 言葉を待つが、陽菜は何も言わない。 ただ、迷うように下唇を軽く噛んでいる。 「ひなちゃん、こういう時に必要なのは勇気だよ」 「でも、心の準備が……」 「わたしは、ひなちゃんに幸せになってもらいたいの」 「こーへーなら、ひなちゃんを幸せにしてくれるよ?」 「で、でも……」 「もう、しょうがないなぁ」 「わたしの勇気、あげる」 かなでさんが陽菜に唇を押しつけた。 「んっ!?」 「ちゅ……ちゅく」 目の前で起こったことが、うまく把握できない。 「はむっ……ちゅ」 「ん、んふぅ……あふぁ」 驚いた顔をしていた陽菜が、かなでさんの舌を受け入れていく。 「んっ……ちゅく、ぴちゅ……」 「あっ、ふあ……ぁ、おねえ……ちゃん」 ぴちゃ……ちゅくり……ちゅくっ 女の子同士の舌が絡み合い、卑猥な水音が響いた。 「んっ」 「ふぁ……」 甘い吐息を吐きながら、二人の顔が離れる。 陽菜は、少しとろけたような目をしていた。 「……こういうこと、こーへーにしてもらいたいんでしょう?」 陽菜は、視線を逸らすだけだ。 かなでさんが、力の抜けた陽菜をその場に寝かせた。 「ほら……こーへー、来て」 かなでさんが、陽菜に覆い被さる。 陽菜は足を大きく開かれたまま、抵抗しない。 二人の潤んだ視線が、俺に注がれている。 「何をする……つもりですか」 「聞かなくても、わかるよね?」 「でも、陽菜が嫌がってるんじゃ」 「そう見えるの?」 陽菜は、恥ずかしそうに顔を赤らめている。 嫌がっているようには、見えない。 それどころか、期待しているような……。 「してほしいように、してあげて」 「これ以上、女の子に恥をかかせちゃダメだよ」 そうか。 こんな格好のまま、待たせちゃダメだよな。 もし陽菜が望んでるなら、してあげないと。 嫌だったら、拒否すると思うし。 陽菜の顔に、顔を近づけていく。 「キス、するよ?」 「うん……」 消え入りそうな声で、呟く。 ゆっくりと、唇が重なった。 「んっ……ふぁ」 柔らかい陽菜の感触。 唇が濡れているのは、かなでさんとしていた名残だろう。 少しだけ舌を出してみる。 「んっ、ぴちゅ……くちゅぅ……あふっ」 陽菜も、おずおずと舌を出してきて応えてくれる。 「ふあっ! んっ……くふぅ……」 陽菜の体がびくん、と震えた。 見ると、かなでさんの手が陽菜の乳房を揉んでいた。 「ほら、ひなちゃんのおっぱいも……触ってみて」 言われるままに、空いている胸に手を伸ばす。 体操着の下にあるふわふわとした果実を、揉んでみた。 「んふぅ……ちゅくっ……あく、あぁ……」 口と口の間から、少しだけ苦しそうな息が漏れた。 「もっと優しくして、こういう風に」 かなでさんが、女の子らしい手つきでふくらみを揉みしだいていく。 その仕草をまねてみた。 「んっ! くふぅ……ちゅ、ちゅうぅ……」 陽菜が身体をくねらせて反応する。 「たぶんね、ひなちゃんはこの方が嬉しいんじゃないかな」 そう言って、体操服をまくり上げた。 下着のホックを外し、陽菜の乳房が露わになる。 「あふっ、やぁ、お姉ちゃん、恥ずかしいよ」 思わず口を離し、陽菜が声をあげる。 きめ細かで一点の曇りもない陽菜の肌。 形のいい二つのふくらみの先端には、かわいいピンク色の突起があった。 「ひなちゃんの胸、ほんときれいだよね」 「そう思わない? こーへー」 「ああ。陽菜の胸、とってもいいと思う」 「そんな……」 恥ずかしそうに、視線を逸らす。 「ちゅ、ちろ……」 「ひゃ、ああっ」 かなでさんが、陽菜の乳房にゆっくりと舌を這わせる。 「ふわふわしてて、柔らかいね……ちゅううう」 「あ、ああっ、そんなに吸っちゃ……」 かなでさんを見習って、空いている方の膨らみを舐めた。 びっくりするほど柔らかくて、優しい味がする。 「ひゃ、ああっ……孝平くんまで、子供みたいに……ふあぁっ」 「ちゅ、ちゅく、ぴちゅ」 かなでさんと一緒に、先端に吸いつく。 「ふぁ、あああっ、だ、だめだめ、胸が、おかしくなっちゃうよぉ」 「ひなちゃんはたくさん気持ちよくなっていいの」 「ちゅ、ちゅくっ、ぴちゅっ」 かなでさんが舐めている乳首は、硬くなっているようだ。 俺は、陽菜の右胸をかなでさんと共に攻めるべく、顔を近づけた。 「あ、ふぁ? こ、こーへーも、こっち?」 「ダメですか?」 「い、いいけど……ちゅ、ちゅく」 かなでさんと俺の舌が、陽菜の突起を挟んで絡み合う。 俺たちの唾液が、陽菜の白い肌をきらきらと輝かせていく。 「ああっ……あっ、そっちばっかり……なんて……はふぅっ」 「あ、あむっ……ふぁ……ああっ」 熱い舌が触れあうたびに、かなでさんの口から切なげな吐息が漏れた。 かなでさんが困ったように、眉の形を変える。 「も、もう、いいかな」 「ひなちゃん、気持ちよかった?」 「はぁ……はぁ……う、うん」 顔を真っ赤に染めながら、こくんと小さくうなずいた。 「じゃあ……」 かなでさんの手が、陽菜の股間へと伸びていく。 そのまま、ブルマをずらした。 「あっ……」 陽菜の秘所を覆う下着が、見えた。 陽菜らしい清楚なパンツは、少し湿っているような……。 「ねえ、ひなちゃんのここ、触ってみて」 「お、お姉ちゃん!?」 「嫌?」 「う……ううん、孝平くんに、なら……」 「ほら」 かなでさんに言われるまま、陽菜のそこに指で触れた。 「あぅっ」 じゅく、と下着に愛液が染みこんでいく。 「すごく、濡れてる」 「だって、あんなことされたら……」 指先で、割れ目をなぞってみる。 「ひゃ、ああっ」 陽菜がびくりと震えた。 かなでさんの小さな指が、下着をずらしていく。 陽菜の秘所が、晒されている。 濡れそぼった花びらは、俺に見られたせいか、きゅっと収縮した。 「孝平くんに、見られちゃった……」 「ほら、一方的に見るなんて失礼だよ」 「こーへーも……脱いで」 「はい……」 俺は、興奮を表すように大きくなった自分のものを取り出した。 「あ……」 「すごいね……」 二人にまじまじと見られると、恥ずかしい。 「それが、私の中に入るんだね……」 どこかうっとりとした様子で言った。 「ほんとにいいのか?」 「うん。孝平くんにしてほしいの」 「でも……」 「どうした?」 「あのね、お姉ちゃんにもしてあげて」 「ふえ?」 「お姉ちゃんも、孝平くんのことが好きなの」 「だから……」 「ひ、ひなちゃん」 「そうなんですか?」 「そ、そうだけど、でも、それは……」 「ね、お姉ちゃんも、孝平くんに愛してもらおうよ」 「うう〜」 「ダメかな……?」 陽菜が俺の目を見た。 「じゃあ、そうしよう」 「え……」 俺は、かなでさんの秘部を覆っている布をずらした。 かなでさんのそこも、すでに濡れている。 「あ、こら、こーへーっ」 「お姉ちゃん、一方的に見るのは失礼なんでしょ?」 「う……たしかに、そう言ったけど……」 「恥ずかしいよ……」 「みんな恥ずかしいなら、いいじゃないですか」 「うん……」 「そっか、そうだよね」 「じゃあ、いくよ」 ずず……ずずずずっ 陽菜の膣内に怒張を沈めていく。 「ふぁあ、ああああっ」 同時に、かなでさんの割れ目に指を沈めた。 「うあっ、ああぅっ」 「わ、わたしはいーのにっ」 かなでさんの抗議を無視して、指を蜜壷の奥へと進める。 それに合わせるように、陽菜の膣内にペニスを埋め込んでいく。 「うくっ……んっ、あはぁっ」 「あうっ……あっ、んんっ」 陽菜の中に、すべてが収まった。 動いていなくても、熱い粘膜がきつく絡みついてくる。 「ふぁ……ああぁ……孝平、くん……」 「ん、あは……ひなちゃん、嬉しそうだ」 「うん……なんだか、幸せな気分だよ」 「そっか」 少しだけ羨ましそうな顔をした。 慰めるように、かなでさんの狭い膣内で指を動かした。 「あっ、ふぁ、ど、どうして、うごか、すの……あうぅ」 手を入れて動かすぬいぐるみのように、敏感に反応する。 「かなでさんのかわいいところ、見たいじゃないですか」 「そ、そんな、はうっ、ああっ」 愛液で艶やかに光る肉芽と戯れるように、指先で転がす。 「ひゃああっ、こ、こーへー、そこ、そこだめ……んああっ」 「ひなちゃんに……ふぁぁ、して、あげてっ」 ふるふると小さな身体を震わせながら、陽菜の胸に吸いついた。 「ふぁっ、あふっ……お、お姉ちゃん……」 かなでさんの行為に、俺のものを包んだまま身をよじらせる。 ペニスが刺激され、しびれるような快感をもたらした。 「動かす、ぞっ」 「う、うん」 頭が沸騰したように熱くなって、我慢できない。 優しくしなければと思いながらも、腰は勢いよく引かれた。 「あっ……はうんっ」 そのまま、一気に突き出す。 「あくっ! ふぁあああっ!」 陽菜の背中がのけぞる。 「その調子だよ、こーへー……」 「ひなちゃんは、こうされるのずっと待ってたんだから」 「お、お姉ちゃんだって……んむっ」 かなでさんが陽菜の唇を口で塞ぐ。 ちらり、と俺に目配せした。 俺は応えるように、陽菜のお腹の中で前後した。 「んむっ、んくぅ、ぷはっ、ん、んちゅうぅっ」 陽菜の淫らな喘ぎ声が、かなでさんの口で封じられている。 ぢゅぷ……ぢゅくっ……ずぷぷっ 「んっ、んぐっ、ぷあっ、やだ、何かきちゃ……むぐっ」 なめらかな内腿がふるふると震えている。 結合部から大量の蜜が溢れ、お尻を伝って流れ落ちていく。 気持ちがよすぎるのか、陽菜は泣きそうな顔をして俺たちの行為を受け入れている。 かなでさんが、キスをしたまま愛おしそうに陽菜の頬を撫でた。 「俺も、もうすぐ……っ」 頭を支配する快感に、奥歯を噛んで耐える。 夢中で、陽菜の中を掻き回すのと同じように、かなでさんの熱い肉壁も刺激する。 「あっ、きゃ、ふくぅ……お腹、こすっちゃ、だめっ!」 かなでさんが思わず口を離す。 「あああっ……お、おかしいの、孝平、くんっ」 「身体が、ふわふわして……あぁんっ、ひゃうぅ、ああああっ」 「ふあぁ、あくっ、こーへーっ」 熱い陽菜の膣内を、こすりあげている感覚。 かなでさんの粘膜が絡みついてくる感覚。 二人の甘美な嬌声が混ざり合って、興奮が増していく。 「ふぁぁっ、だ、だめ、くるの……あっあああぁぁっ」 「んっ、くうううぅっ、ゆ、指で……とけちゃうよぉっ」 「お、お姉ちゃん……ふあああ、あぁんっ」 陽菜が、かなでさんの手を握った。 「ひ、ひなちゃん、一緒に……ふぁあっ」 それをぎゅっと握り返す。 二人が、俺のペニスと指をぎゅっと締めつけてきた。 圧倒的な高ぶりを覚え、腰がはじけそうになる。 「陽菜……かなでさん、もうっ」 「き、きて、孝平くん……あくっああぁっ」 「こ、こーへー、くふぅっ、こーへー……っ」 奥歯を噛み締めて、速度をあげていく。 「ああっ、んふうっ、あ、あああぁ……ふぁああああっ」 「はあぁっ、ひゃふぅっ、そんな、に、したらっ、ひぁううぅっ」 頭が真っ白になっていく中、夢中で二人の深い場所を掻き回した。 「ひああっ、あ、あたって、くふぅ……い、いくっ、いっちゃう、の、あああぁっ」 「あふぅっ、ふぁ、ふああああぁ、こー、へー、あー、あ、あああぁっ」 「ふぁ、はあああっ……ふはぁ、いく、いくぅ、うああぁっ、ひぃぁあああああっ!」 「あ、あ、あ、あ、ぁ……らぁ、め、なのっ……はふぁああ、きゅああああぁぁぁっ!」 姉妹が大きく身ぶるいした瞬間、爆ぜかけたモノを引き抜いた。 どぴゅっ! どぴゅぅっ! どぴゅぴゅぅっ! 怒張が、脈動しながら白濁液を飛ばす。 粘滑な白濁液が、二人の女の子らしい体やかわいい顔、栗色の髪に付着していく。 「ふぁ……ああぁ……」 陽菜が余韻に浸るように、息を吐いた。 「あ……ぁぁ、ぁ……ぁ」 かなでさんは焦点の合わない目で、ビクビクと小さな体を痙攣させている。 「孝平くん……抱いてくれて、ありがと」 「お礼なんて、言うなよ。俺だって、好きな子と結ばれて嬉しいんだから」 「それなら、お姉ちゃんともしないとね」 いたずらっぽく微笑んだ。 たしかに俺は、かなでさんのこともかわいいと思っている。 それこそ、陽菜と同じくらいに。 「……わかってるから、何も言わなくていいの」 俺の唇に、人指し指を触れさせた。 「おねえ……ちゃん」 「ぁ……ふえ……?」 ぼんやりとしたまま、不思議そうに陽菜の顔を見る。 「ほら、今度はお姉ちゃんの番だから……」 「ん……」 子供みたいに、こくんとうなずいた。 陽菜に導かれるままに、俺の上にまたがる。 「ひなちゃん……からだが、あついの」 「じゃあ、お姉ちゃんも脱ごっか」 ちらり、と陽菜が俺を見る。 「孝平くんも、お姉ちゃんの胸みたいよね?」 「ああ」 陽菜は俺に微笑むと、水着の肩の部分に手をかけた。 ゆっくりと、優しい手つきで、かなでさんを剥いていく。 ぷるんと揺れながら、小振りで形のよい乳房が姿を現す。 「あ……すずしい……」 「うん」 満足そうにうなずく。 「えっと……私は」 どこにいようか、迷うような仕草を見せる。 「こっちに」 陽菜の腰を引き寄せた。 布を取り去り、陽菜の秘部を目の前に持ってくる。 「あっ」 「この格好で、いいよな?」 「あ、息が……」 「陽菜のここ、ひくひくしている」 「やあぁ、そんな近くで、見ないで」 「それより、かなでさんにしてあげて」 「う、うん」 「ふえ……?」 俺のペニスが握られる感触。 ぎこちない手つきで弄られる。 陽菜に触られていると思うと、また身体が熱くなっていく。 「あ、大きくなってきたよ……」 「えっと……びくんびくんってなってるけど、へ、平気なの?」 「平気。あんまり言われると、恥ずかしいな」 「それは、お互い様だよ」 「お姉ちゃんに……入れるね?」 「ああ」 もぞもぞと動かされる。 「あ……ぅっ?」 ぴちょり、と先端が熱くぬるぬるしたものに触れた。 かなでさんの割れ目、だろう。 「お姉ちゃん、そのまま座って」 「う……ん……すわる」 まだ、呆然としているのか、甘えるような声が聞こえた。 そして――、 すとん ずずずっ……ずぷぷっ! 「ひぃっ、あ、あうううぅっ!?」 「うあっ!」 一気にかなでさんの体重がかかり、俺が飲み込まれていく。 狭い肉壁に、無理矢理分け入っていく感触。 思わず全身に力を入れて耐える。 「あくっ、あっ、ど、どうして?」 かなでさんが慌てたように腰を浮かす。 ずずずっと、吸い取られるように抜けていく。 「お姉ちゃん、逃げちゃだめだよ」 「ふえ、ひな……ちゃん?」 「そのまま、孝平くんを包んであげて」 「う、うん」 今度はゆっくりと、かなでさんの身体が降りてくる。 「ふああぁぁ……、また、とろけちゃうよぉ……」 とろけそうなのはこっちだ。 自分の意識とは別のところで、まだ敏感なそこにまとわりつくような快楽を与えられる。 「わたしも、してあげるね」 「あ、ふぁぁっ、おっぱい……そんなにっ」 「ひなちゃん、手がいやらしいよぅ」 「さっき、お姉ちゃんがこうしてくれたから……」 「あくっ……ひゃああぁっ、だめぇっ、気持ちいいようぅ」 「はむっ」 「ちゅぅ……ぴちゅ、ちゅぅ、ぢゅうぅっ」 「あ、あううぅっ、ひなちゃん、そこ何も、出ないからぁ」 「これも、お姉ちゃんがしてくれたんだよ?」 「だめ、だめ、これ以上すると、とけちゃ……うの、ふぁあんっ」 嫌がるようなことを言いながらも、俺の上で跳ね続けている。 陽菜が刺激するたびに、膣内がぎゅうぎゅうと反応するのだからたまらない。 目の前で揺れる陽菜の秘所から、愛液が太腿を伝っていく。 濡れた花びらの中央に舌を差し込んだ。 「ひゃっ……ああうっ」 「こ、孝平くん、そんなところ、ああぁ……」 「甘くて、酸っぱいような……陽菜の味がする」 「い、言わないで……」 逃げそうになる腰をつかみ、溢れる蜜を舌で舐め取っていく。 花びら一枚一枚をねぶると、奥からどんどん粘滑な愛液が湧き出てくる。 ずずっ……ちゅく……ぴちゅ……ずるる 「あ、ああっ、孝平くんっ、吸っちゃ、だめええぇっ、ひゃうぅっ」 「ふぁあ……ひなちゃん、気持ちよさそう……」 「わたしも……うくっ……んっ、んんっ、ふあ、ああぁ」 かなでさんが、激しく跳ね出す。 陽菜の蜜壷から口を離しそうになるが、手に力を入れて耐えた。 腰が俺に引き寄せられ、さらに奥へと舌が潜り込む。 「あ、あふっ、やぁぁっ」 「ん、むぅっ、ちゅううぅ」 かなでさんの胸を吸う音が聞こえた。 「ふぁあああっ……はうっ、くふうぅ」 俺が陽菜の中を舐めた分だけ、陽菜はかなでさんを攻め、かなでさんが俺を締めつける。 奇妙な一体感の中、全身がしびれるような感覚が高まっていく。 「ふぁ、あ……ぼーっとなってきちゃ……っ」 「ふあぁ……くる、きちゃうよ……ふぁ、はぁあああぁぁ……っ」 焼き切れそうな意識の中で、心底気持ちよさそうな甘い声が聞こえた。 腰の上に乗ってくるリズムが、速さを増していく。 「んんっ、はむうっ……んんんぅっ、い……くぅっ」 もやもやと腰にまとわりつくものが、爆発しそうだ。 「俺もう、やばいっ」 「ふぁあ、こ、孝平くん、私もっ」 「あふぅっ……ふぁああ、くるのぁ、ふあっ、いいよぉっ」 「ひゃふっ……うくぅっ、あ、あたるの、んふっ、ひああああっ」 とけきった甘い声を聞きながら、かなでさんの落下に合わせて腰を突き出す。 同時に、陽菜の割れ目にあるかわいい肉芽を、舌で押し潰すようにした。 「ひゃっ、ああっ、もうっ……ああああっ、ふぁああっ」 「はふあっ、ひっ、いっ、あ、あ、ああああぁぁっ」 陽菜の腰が痙攣し、かなでさんが搾り取るように収縮する。 「やゃあああっ、お、ねえ、ちゃ……こうへ、くぅん、ひっ、ぃくぅっ、ひぅああああぁぁっ!」 「ふああぁっ、あああぁっ、あっ、あーっ、あー……、い! ひやあああああぁぁーっ!」 どくぅっ! どくっどくっ! どくうぅっ! 「ひゃっ、はふ、ぁっ、うぁっ」 怒張が脈動するたびに、かなでさんが喘ぐ。 小振りなお尻を押しつけられ、一番奥に射精し続ける。 どくぅっ、どくどく……どくっ 「あふぅ……ふぁああぁぁ……ぁく……」 最後の一滴まで、かなでさんの熱く震える膣内に注いでいく。 温かいうねりに飲み込まれるような感覚に、身を任せた。 「おなか……いっぱいきたよ」 「ご、ごめん、かなでさんの中に……」 「はぁ……ふぇ? 謝ることないよ」 「わたし、こーへーの子供、ほしいもん」 なんてことを言うんだろうか。 「はぁ……はぁ……」 「いいな……お姉ちゃんだけ」 羨ましそうな声。 「今度、私にも……ダメかな?」 姉妹揃って、危険な発言だ。 「陽菜が、そう言ってくれるなら」 「よかった。孝平くんは、優しいから大好き」 「わたしも、大好きだよ、こーへー」 「俺も、二人とも大好きだ」 「でも……」 「これからは、ひなちゃんだけの彼女になってあげて」 「ど、どうして?」 「結婚できるのは、一人だけだから」 寂しそうに微笑んで言う。 その表情を見て、俺は決心した。 かなでさんの髪を、くしゃくしゃと撫でる。 「ふぁ……」 「大丈夫だよ」 「三人で、一夫多妻制の国に行けばいいんだ!」 「こーへー……」 「孝平くん……」 二人が潤んだ目で俺を見つめる。 「大好きっ」 「大好きっ」 あられもない姿で飛びついてくる二人を抱きしめたまま―― 足を滑らせた。 「はっ!?」 「あ……」 「孝平くんの目が開いたよ、お姉ちゃん」 「ほんとっ!?」 あれ、これは風呂場の天井……じゃない。 慌てて身を起こす。 「よかった……やっと起きたんだね」 俺の……部屋だ。 なんか、陽菜の顔がすごく赤い。 さっきあんなことをしたばっかりだし、無理もないか。 「こーへー、大丈夫?」 かなでさんも、真っ赤な顔で心配そうに俺を見つめている。 なんだか愛されてるのを感じて、照れくさいな。 「あれ」 俺はいつの間に、体操着から部屋着に着替えたんだろ。 「そっか、濡れてたから着替えさせてくれたんだな?」 「濡れる……って?」 「え、ほら、濡れてたでしょ。お風呂場で……」 気恥ずかしくて、鼻をこすってごまかす。 「……」 「……」 二人が、頬を朱に染めて顔を見合わせた。 「どうした?」 「あのね、孝平くん……」 陽菜が言いにくそうに口を開く。 「それは、夢だと思うの」 「は……?」 どういうことなんだ? あの出来事を、夢にしてくれってことなのか? 「やっぱり、三人で幸せにはなれないっていうのかよ……っ!」 「お、落ち着いて」 「こーへーはね、風紀シール貼ったとたんに倒れちゃったの」 「……シール?」 「おめでとうっ! 累積10枚目っ!」 ぺたしっ 「ぐっ……うあぁ?」 あ、あの時なのか!? ってことは、本当に全部夢? 「風紀シールのせいなのかな」 「そうとしか考えられないね」 シールで人が倒れるなんて聞いたことがない。 恐るべし、風紀シール。 「ごめんね、すごい罰になっちゃった」 「いや……罰っていうか、嬉しかったですし」 「……」 「……」 何この沈黙? 「こーへー」 「破廉恥な夢、嬉しかったんだ?」 「!?」 「わ、わたしだけならともかく、ひなちゃんにまでするなんて」 「なっ、なんで知ってるんです、夢じゃないんですか!?」 「あ、あのね、孝平くん」 「実は、孝平くんが倒れた後にね……」 「うぐー、こーへー重いよ……」 「さすが男の子、だね……」 「ベッドに寝かすね」 「うん」 「……むにゃむにゃ、キス……するよ?」 「ふえっ!?」 どさっ 「ど、どうしたの?」 「こーへーが……なんかやらしいこと言ってきたの」 「私には聞こえなかったけど……」 「ああ……陽菜の胸、とってもいいと思う」 「ふえっ!?」 「セクハラするならさっさと起きろアターックっ!」 びしっ 「お姉ちゃん!?」 「むにゃむにゃ……」 「まだ寝てる……」 「……むにゃむにゃ……」 「お礼なんて、言うなよ……俺だって、好きな子と結ばれて嬉しいんだから」 「……っ(←赤面中)」 「……っ(←赤面中)」 「すごい寝言だ……」 「お姉ちゃん、私たち聞いちゃダメなんじゃないかな?」 「でも、倒れた人を一人にはできないよ」 「そっか……そうだよね」 「ご、ごめん、かなでさんの中に……」 「……っ! (←耳を塞いで赤面中)」 「……っ! (←枕に顔をうずめて悶えてる)」 「俺も、二人とも大好きだ」 「三人で、一夫多妻制の国に行けばいいんだ!」 「はっ」 「あ……」 「孝平くんの目が開いたよ、お姉ちゃん」 「ほんとっ!?」 「……というわけなの」 「言わないのも、悪いかなって思って……」 恥ずかしい。 恥ずかしすぎて、わけがわからない。 「ふふふ、そっか」 さすがだな、風紀シール……。 俺をこんなに辱めたのは、お前が初めてだ。 「なんでさわやかに笑ってるの……?」 俺は無言のまま、かなでさんににっこり微笑んで立ち上がった。 がらがらがら ベランダの扉を開いた。 「こーへー?」 「ど、どうしたの?」 「今まで……ありがとう。俺、とっても楽しかったよ」 「は?」 「二人のこと、忘れない。でも俺のことは忘れてくれ」 「お別れだっ!」 笑顔を浮かべて、ぐっと親指を立てた。 そしてベランダへ飛び出る。 「だめ、孝平くんっ」 「うぐぐっ! ひなちゃんも捕まえてっ!」 「う、うんっ」 手すりを越えようとする俺に、二人がしがみついた。 「離せ、離してくれっ、俺を行かせてくれーっ!」 暗い夜空に、俺の悲痛な叫び声が吸い込まれていった。 朝の通学路。 秋風が吹き、木々が揺れた。 「ん〜……」 隣を歩く陽菜が、少し身を震わせる。 「寒い?」 「ちょっとだけ」 「私、寒がりすぎだよね」 照れたように少し頬を染めた。 「苦手なんだから、しょうがないだろ」 「でも、冬になったら大変そうだな」 「うんと厚着しないと耐えられないかも」 「ダルマみたいになったりして」 「さすがに、そんなには着ないよ」 「まあ、とりあえず今日はこれで」 陽菜の手をそっと握ってみる。 柔らかくて、俺より少しだけ冷たい。 「ん」 ぎゅっと握り返された。 それだけで、ドキドキしてしまう。 「孝平くんの手、あったかいね」 「これからの季節はカイロ代わりに使っていいぞ」 「じゃあ、お言葉に甘えようかな」 嬉しそうに微笑んだ。 今日も平和で、幸せな日になりそうだ。 「ん?」 「どうしたの?」 「いや、これ」 下駄箱を開けると、なんか入っていた。 「手紙だね」 封筒はピンク色だし、差出人は女の子っぽい。 果たし状? 「ラブレター……かな」 「開けてみないことには、なんとも言えないな」 「そっか。そうだよね」 そういや陽菜が、後輩の間で俺が人気だとか話してたっけ。 陽菜は少し落ち着かない様子で、手紙を見ている。 封筒を、この場で開けるべきか。 ここで鞄にしまえば、陽菜は気になってしまうだろう。 「よし」 シールを剥がして、開封する。 「ここで開けるの?」 「ああ」 手紙を開いて読んでみる。 陽菜は律儀にも、手紙を見ないようにそっぽを向いた。 「えーっと、なになに……」 「支倉先輩のことを考えると御飯も喉を通りま……」 恋文確定。 「こ、声に出さなくていいからね」 「ああ」 ラブレターか。 彼女がいるからといって、そのまま捨てるわけにはいかないだろう。 副会長……もとい、瑛里華会長がそうしていたように、ちゃんと本人に断らないと。 書きつづられたラブレターに目を通していく。 アイドルに送るファンレターみたいな内容だ。 実際の俺を、30倍くらいかっこよく美化してるんじゃなかろうか。 「先輩のことで頭がいっぱいです。先輩のせいで夜も眠れなくて」 「いけないコトをしてしまい……」 「いけないコト?」 「え?」 「いや……すまん。気にしないでくれ」 「う、うん」 思わず口に出してしまった。 いけないコトって……どんなことなんだろう。 いや、ダメだ。 無駄にいやらしい想像とかするなよ、と自分に言い聞かせる。 きっと、夜中に藁人形に五寸釘を打ちつけちゃう、とかに違いない。 続きを読む。 「こんなエッチな女の子のことは嫌いですか」 「ごふっ!?」 「ど、どうしたの?」 「いや、その、気にするな」 「顔、真っ赤だよ?」 「だ、大丈夫だ……」 動揺しすぎた。 とりあえず、心を落ち着けるために、目を閉じて深呼吸する。 すー、はー。 すぅー、はぁー。 「孝平くん」 「ん?」 「手紙、落ちたよ」 はい、と手渡される。 「あ、ありがと」 「ううん……」 「ごめんね、ちょっとだけ見えちゃった」 「孝平くんは、その……」 「エッチな女の子が、好きなの?」 少し不安そうな声。 じっと、澄んだ目で見つめている。 もしかして、俺がこの手紙の子に興味があるとでも思ったのだろうか。 「安心しろよ。俺は……」 陽菜に夢中なんだから、と言いかける。 なんだこの歯が成層圏まで浮きそうな台詞は。 「陽菜にまっしぐらなんだから」 「ふふ、なんだか猫みたい」 「俺が猫で、陽菜がまたたびみたいなもんだ」 「陽菜が、俺にだけエッチなとこ見せてくれるのは、歓迎だけどな」 陽菜にだけ聞こえるように、耳元で囁いた。 「も、もう……」 俺の言葉に、耳まで真っ赤になってしまう。 「手紙を読んだのだって、ちゃんと断るためだからさ」 「う、うん。わかってる……ありがと」 「でもさ、陽菜と付き合ってるのに、こういう手紙出されても困るよな」 「もしかしたら、知らないのかもね」 「そっか」 「でも、やっぱりフクザツ」 「何が?」 「孝平くんが人気があるってことは嬉しいけど」 「ちょっと、ね」 ちょっと、何なのだろうか。 陽菜はその先は言おうとせずに、壁に視線を逸らした。 「あ」 「ん?」 陽菜の視線の先を追う。 時計があった。 「孝平くん、急がないと遅刻しちゃうよ」 「うおっ、ほんとだ」 気づくと周りに生徒はほとんどいない。 急いで教室まで走った。 がちゃり 生徒会の仕事を終え、やっと部屋に戻ってきた。 今日は、いつもより精神的に疲れている。 とりあえず、鞄を机の脇に置く。 それから、ベランダに向かった。 がらがらがら 「ふぅ……」 手すりに両手を載せて、ぼーっと景色を眺める。 外はもう真っ暗だ。 冷たい風が、心地良い。 別に生徒会の仕事で疲れたわけじゃない。 放課後、手紙の差出人に会ったのが原因だと思う。 大人しそうな後輩の女の子。 結局彼女は、俺と陽菜が付き合っていることを知らなかった。 そのことを告げると、驚き、それから手紙を出して申し訳なかったと謝った。 こちらこそ、なんだか申し訳ない気分になってしまった。 どうしようもないことだけど、いきなり会った他人を傷つけるのは心が痛む。 瑛里華会長なんか、もっと手紙で告白されたりしてるわけで。 毎回断るのも、きっと大変だろうな。 こんこん ん、なんか部屋から音がしたような。 がちゃり 誰か来たのか? 「孝平……くん?」 陽菜かな? カーテンの裏から部屋を覗く。 「あれ、いないの?」 きょろきょろと部屋を見渡している。 俺がベランダにいるのに、気づいていないようだ。 「もう。玄関もベランダも開けっ放しで……」 「お風呂かな?」 一人で小首をかしげている。 俺の中でいたずら心が芽生えた。 せっかく気づいていないのだから、不意に現れてびっくりさせよう。 カーテンの裏で、出るタイミングを見計らう。 「あ、そうだ」 何かを思いついたのか、両手を胸の前でぽん、と合わせた。 「せっかくだから、びっくりさせちゃおうかな……」 どきりとした。 俺と同じこと考えてるのか。 陽菜にしては珍しい、いたずらっぽい表情を浮かべている。 陽菜は自分の鞄を開けて、布を取り出した。 あれは、美化委員会の制服? 今日は委員会があったのかな。 それを持って、こっちに歩いて来る。 ぬ。 陽菜が見えない位置に移動した。 床に、何かが置かれるのだけが見える。 ブレザーだ。 続いて、スカート。 って、何やってんだ!? まさか委員会の服に着替える気なのか? やばい、普通に覗きみたいになってきた。 こ、ここで出ていくとおいしいのか? いや、ダメだろ。落ち着け俺。 今出たら、それこそ下着姿の陽菜とご対面だ。 ぐうう……。 「ん」 俺が混乱している間に陽菜は着替え終わったようだ。 スカートの裾を軽く払ってから、床に座る。 脱いだ制服を丁寧に畳み始めた。 それが終わると、その場に立ち上がった。 口元に手を当てて、少し迷うような仕草をする。 「……よしっ」 意を決したようにうなずく。 「お、おかえりなさい。孝平くん」 いきなり誰もいない虚空に向かって一礼した。 リハーサルか? 「ちょっと違うかな」 小首をかしげて、考え込む。 それから、姿勢を正して壁にあるカレンダーを見つめた。 「おかえりなさいませ、ご主人様」 「!」 あ、あぶねえ。 あまりの衝撃に、声が出そうになったじゃないか。 「ぅ……」 陽菜が一人で真っ赤になっている。 「何やってるんだろ、私……」 こっちが聞きたい。 「やっぱり、やめておこうかな……」 小さく呟く。 やめちゃうのか。 まあ、こっそり堪能してしまったわけだから、いいけど。 陽菜が制服を取るためにこちらを向いた。 「……」 あれ。 じっと、俺の方を見ているような。 やばい、バレたのか? ……。 「で、でも、せっかく着替えたんだし……」 なぜか頬を赤らめて、自分の心音を確かめるように胸に手を当てた。 それから何かを決意するように、小さくうなずく。 「頑張ろう……かな」 なんだ、迷ってただけか。 陽菜は、長いスカートを手で整えながら俺の椅子に腰を下ろした。 「はぁ……」 緊張したような吐息を吐く。 そのまま、姿勢正しく椅子に座っている。 いつまでも、覗いているわけにはいかないよな。 どんな風に驚かせようかと一瞬考える。 その時、陽菜が動いた。 俺は思わず、入るのをためらう。 陽菜は右手を、自分の胸の上に当てた。 「……」 そして小さく息を吐いた。 耳まで真っ赤になっている。 「ん……」 自分の胸をぎゅっと、つかんでいく。 白いエプロンに皺ができた。 何をしているんだ? 「ちょっと、生地が厚すぎるのかな……」 呟くと、今度は胸元のリボンをするりと外す。 それからボタンを上から外していく。 「ん」 胸元が開き、下着に包まれた白い乳房が見えた。 双丘の間に陽菜が触れると、ぱちり、ブラジャーが外れた。 フロントホック、というやつだろうか。 柔らかそうな形のいい乳房が、シャツの中からちらちらと覗いていた。 「こっちも……」 膝の上に置かれた左手が布をつかみ、ゆっくりと―― スカートをめくり上げていく。 着替えるのか? 椅子に座ったまま? そんなことを考えているうちに、陽菜の美しい脚線がどんどん露わになっていく。 少し、椅子の向きが変わった。 玄関に背を向けるように、つまり、俺の方へと。 腰までたくし上げられる、厚い材質の布。 陽菜の白いパンツが丸見えになる。 「こう……かな」 震える声で呟く。 はだけた胸元に、白い手が差し込まれる。 もう一方の細い指先が、パンツの中に潜り込んだ。 「ぁ……」 何が起こっているのか、わからずにいた。 陽菜が、あらわになった胸を自らの手で揉んでいる。 股間に伸ばされた手は、その部分をこするようにもぞもぞと動いていた。 慣れていないのか、ぎこちない動きだ。 陽菜が、俺の目の前で、している。 やっとそう理解した。 「ふぅ……ぁ」 ほんの少しだけ甘みの交じった息。 「ん……ん……」 迷うように、手を動かし続けている。 陽菜の指の間で、柔らかなふくらみが形を変えていた。 「ん、んん……むずか、しいよ」 「ぁ……ふぅ、どうしたら、いいの」 「孝平くんなら……」 俺の名前を呟いて、目を閉じる。 陽菜の手の動きが変わった。 さっきよりも、なめらかな動きに。 弄ぶように、手のひら全体で乳房を揉みしだいていく。 パンツの中で闇雲に動いていた手も、優しく縦筋をなぞるような動きに変わった。 「あ……ふぁ、あぁ……あぅ」 「ふあ、ぁ……ああっ……孝平、くん」 俺のことを考えて、しているのか。 思わずごくり、と唾を飲み込んだ。 「あ、ああっ……さっきより、んんっ」 「ふぁ、ぁ、孝平くん」 陽菜の表情が、徐々にうっとりとしたものへと変わっていく。 「あくっ……あ、はぁあ、ふぁ、あああっ」 ぴちゅ 静かな部屋に、水音が響いた。 濡れてきたのか。 陽菜から、目が離せない。 いやらしい姿を見ているだけで、興奮してしまう。 「あ、うぁ……あ、あぁ……うああぁっ」 ちゅく、ちゅくと卑猥な音が大きくなっていく。 「やだ……こんなに……ふぁ、あくっ」 頬を染めながら、首を振った。 栗色の髪がふわりと揺れる。 「あ、あふっ、ひあっ……やあぁ、恥ずか……しいよぅ」 言葉とは裏腹に、秘所をこする指の動きは速くなっている。 胸の先端の突起を、指先でこね回す。 「あ、ああ、ぁ……孝平、くん、もっと、もっと……あはぁ」 「お願い……強く、触って……ふあぁ、あ、ああっ」 懇願するように。 切なげに震える唇を軽く噛んだ。 「あ……孝平くんの、匂い……」 近くに置いてあった俺の服を手にして、愛おしそうに頬をすり寄せる。 「私、これだけで……んんっ、駄目に……あふぁっ、ん、ああぁっ」 「ふあ、ぁ……孝平くんっ……うくぅっ」 恍惚と、羞恥の折り混ざった表情で喘ぐ。 愛液がパンツに染み出していた。 日頃の陽菜からは考えられないほど、乱れている。 その行為を正面から覗き見て、俺の下半身は熱くなってしまっていた。 「あ、ふああっ……やぁ、だ、だめっ」 「こんな、ひとりでなんて、やあああぁ、ふあぁっ」 「うぁ、ああぁっ……ふあぁっ、まだ、まだ、足りない……のっ?」 「うぅ……あふぅ、恥ずかし……くああぁっ」 陽菜が切なげな目をして、俺の方を見た。 もしかして、俺がいるのに気づいているのか? まさか、な。 「あああぅっ、んぁっ、もっと、もっといやらしいのが、好き? ……はぁあっ」 俺に話しかけてるのか? 「あっ、あくうぅっ……こ、こうすれば、いい?」 くちゅり 陽菜が自分で秘所を覆っていた湿った布をずらした。 一番大事な部分が、晒される。 まるで、俺に見せつけるように。 「う、ううぅぅ……も、もっと? ……そう、そうだよ、ね。んっ」 身体を小さく震わせて、再び粘膜を指でこすり上げる。 ピンク色の綺麗なヒダが、指先で掻き回された。 愛液が、奥からとろとろと溢れていく。 「くっ、あっ……や、やあぁぁっ」 「あ、ああ、あっ、こ、こうへい、くん……っ」 「もう、どうしたら……ああうぅっ」 目の端に涙を浮かべて、俺の方を見る。 その目は、ベランダにいる人間を意識しているものだった。 陽菜は、俺に気づいてたのか。 カーテンをめくり、部屋の中に入った。 「あっ……うぅっ……」 俺の姿を見ても、やはり陽菜は驚かなかった。 ベランダの扉を閉めて、淫らな姿の陽菜を見つめる。 「最初から、気づいてたのか?」 陽菜は、上気した顔のまま、こくんとうなずいた。 「見たいって、言ってたから……」 恥ずかしそうに呟く。 「な、何を?」 「私の、エッチな……ところ」 「だから、だけど……その」 「恥ずかしいし、どうしたらいいか、わからなくて……」 俺にすべてをさらけ出したまま、消え入りそうな声で言った。 身体が羞恥に震えている。 「これで、いいのかな。孝平くんは、こういうのが、見たいの?」 不安そうに聞いた。 「じゃなけりゃ、じっと覗いてないさ」 「ずっと見ていたいくらいだ」 「ほんと……に?」 「見れば、わかるだろ」 俺は自分の秘部をちらりと見た。 陽菜が俺の視線の先を追う。 「ぁ……」 そこは、ズボンの上からわかるほどに、強調されていた。 「じゃ、じゃあ……もっと、したほうが、嬉しい?」 上目使いでそう呟く。 今すぐにでも陽菜とつながりたい気分だ。 でも、陽菜が一人でしているところなんて、そうそう見れないんじゃないか。 「うん。俺の目の前で、してみて」 「孝平くんが見たいなら」 嬉しそうに、微笑んだ。 「でも、どうしたら……」 「さっきみたいに、俺のことを考えてしてみて」 「うん……」 かすかにうなずいた。 それから、指先を愛液できらきらと輝く花弁の中へと、沈めていく。 「はっ、あぁぁ……っ」 「孝平くんのこと……ん、くぅっ」 桜色にきらめくヒダの中に、女の子らしい指先が出入りしていく。 くちゅり、くちゅぅ…… 卑猥な水音が、陽菜の秘所から奏でられる。 「あ、ふぁ……あぁっ……はぁあっ」 水音は、甘くかわいい吐息と混じり合って、俺の理性を溶かしていく。 「ふぁ、孝平、くん……はぁ、あああっ」 俺の名前をささやいたとたんに、蜜壷から愛液がこぼれた。 それは湿ったパンツをさらに濡らし、わずかに見える白いお尻を伝う。 スカートの裏地に染みを作りながら、吸い込まれていく。 「すごいな、どんどん奥から溢れてくる」 「だ、だって……う、ぅぅ……ふぁ、あっ」 膣口がきゅっと閉じて、中に入っている白い指に絡みつく。 指はそれでも、動きを緩めなかった。 「うぅ、あああぁっ……ああぅ、ふぁああっ」 「陽菜のここ、指が出入りするたびにひくひく動いて、かわいいよ」 「やぁあっ、そんなこ、とっ……ああっ、はぁ……ひっ」 「ほら、胸も動かして」 「う、うんっ……あふっ、ああぅっ」 理想的な大きさの胸が、ぎゅっと握られた。 そのまま円を描くように激しく揉みしだかれる。 陽菜が感じていることを表すように、乳首がぴんと立っていた。 見ているだけなのが、辛くなってきた。 俺は、陽菜の胸の突起に指先で触れてみる。 「ひあっ……あああぁっ、さわっちゃ……」 陽菜の身体が、びくりと震えた。 すぐに指を離した。 「ぁ……」 「触っちゃダメ?」 「いい、いいの、孝平くんの……したいことなら、ふぁ、ああぁっ」 「じゃあ……」 ピンク色のかわいいクリトリスを、人差し指でこするように刺激した。 「ひっ! ……あ、ああああっ、やぁ、んはああっ」 陽菜が身体を仰け反らせる。 「ああぁっ、だめだめだめっ、孝平くんっ、こうへい……くんっ」 「やだ、やだやだ、あああっ……ふぁあっ……あくぅっ」 「あ、ああっ……うぅっ、だ、だめ、なの……ねがい……」 陽菜が、懇願するように俺の顔を見た。 俺は陽菜から指を離す。 「嫌?」 「はぁっ……はぁ……」 荒い息をつきながら、小さくうなずく。 「孝平くんと……がいいの」 脳がとろけそうな甘い声。 「だめ……?」 恥ずかしそうに下唇を噛んだ。 「もっと、いやらしく聞いたほうが、いいの……?」 顔を真っ赤にさせたまま、ぎゅっと目を閉じる。 そして俺を招くように、震える指で秘所を広げた。 くちゅ…… ピンク色のきれいなそこから、蜜がこぼれ落ちていく。 俺にじっと見られたせいか、ぴくりと、粘膜が収縮した。 そんな陽菜の誘いを、断れるはずもない。 俺は下半身に手をやり、自分のものを取り出した。 「あ……すごい、ね」 愛おしそうに俺の怒張を見つめる。 少し気恥ずかしい。 「いきなりでも、大丈夫?」 「わ、私はいつでも……孝平くんが……よければ」 期待するように、言った。 とろとろになっている陽菜の陰部に、亀頭をあてがう。 「ぁ……」 そのまま、ゆっくりと腰を前に押し出した。 ずぶっ、ずぶぶぶっ 「くっ」 「ふぁ……あぁああぁぁ……」 幸せそうな顔で、俺を受け入れていく。 陽菜の熱い体温に、包まれていく感覚。 それは、今まで刺激を与えられていなかった俺のものに、膨大な快楽をもたらした。 それだけで出してしまいそうなほど、気持ちいい。 「やぁ、あっ、うくっ、ああぁ……」 「こ、孝平くん……っ」 「ああぁっ、違うの……やっぱり、孝平くんじゃないとっ」 「陽菜の中に、全部入ったよ」 「ふぁ、あぁ……ほんとだ」 「一人でしてただけで、こんなに熱くなってたんだ」 「そ、それは……孝平くんに見られてたから……」 少し拗ねたように、言った。 その仕草が愛おしくて、頭を撫でた。 「ふぁ……あ……」 嬉しそうな吐息が漏れる。 「動くよ?」 「う、うん」 ゆっくりと前後に腰をスライドさせる。 「あっ……あっ……んっ……あぁっ」 「やっ、はぁあっ……こうへ……くんっ」 腰を突き出すたびに、陽菜の身体が椅子の上で淫らに揺れる。 陽菜の中は充分な潤滑油に満たされていて、どんどん動きが速くなってしまう。 「あああっ、はあぁっ、ひぁっ……あああぁっ」 「……感じやすくなってる?」 「う、うん……さっきっ、んうぅっ、してたからもうっ、あぁっ」 「や、やだ、ふぁぁっ、こうへい、くんも……きてっ」 ぎゅっと、陽菜の中が締めつけてくる。 背中にぞくりと快感が駆け抜けた。 「俺も、陽菜の見てたから……やばいかも」 「よかった、興奮してくれて……ん、あぁっ」 「当たり前だろ」 「はあっ、あぁっ……もしかしたら、嫌いになるかもって、だ、だから」 「そんなこと、絶対にない」 「こういう姿の陽菜、好きだよ」 「あ、あああっ……好き、わたしもっ、ひぁああぁっ」 つながった部分から、新たな愛液が椅子にこぼれていく。 陽菜は俺に突かれるたびに、艶やかな声を上げる。 絶頂が近いのか、きめ細かい太腿が小さく震えていた。 「あっ、ふぁあああ、ど、どうしよう、くる、きちゃうよっ」 「俺も、もう少しだから」 腰の辺りに、高まりを感じる。 ただ、陽菜の反応ほど早くは到達できそうにないかもしれない。 「もう少し、だけ……」 「あうぅっ、もたなっ……う、うくぅっ、うああっ」 びくんっ、と陽菜の腰が浮いた。 俺は欲望に身を委ねて、深く、一番奥にとどくように貫いていく。 ぢゅっ、ずちゅっ、ずちゅうぅっ! 「やああぁっ、いっ……く、いきそう、ひあんっ、あああっ」 「こ、こうへい、くっ……ごめん……いっ、もう、うあああぁっ!」 「あっ、ああああっ、ご、ごめんな……さっ、うああっ……やああああぁぁぁっ!」 大きな声を上げて、陽菜がのけぞった。 「あ……あぁ……ぁ……」 膣内が痙攣しているのか、びくびくと俺のペニスを刺激してくる。 「くっ」 中で動かしたい衝動をこらえ、陽菜が落ち着くのを待つ。 「ゃ……だよ……とめ、ちゃ……」 快楽に全身を震わせながら、陽菜が呟いた。 「さいご……まで、うごい……て」 泣きそうな顔をして、俺の頬を撫でた。 「わかった」 まだ絶頂の余韻の残る陽菜の内部を、こすり上げていく。 「ひっ……い、ぐ……ん………んんんっ」 陽菜が耐えるように眉をひそめた。 「痛い?」 「ちがっ……気持ち、よすぎ……だけっ、んんくぅっ」 「早く、しても平気か?」 「う、うん、きて」 ずちゅ、ずちゅり、ずちゅぅっ 「あくっ……ひはあっ……ああああっ」 陽菜が淫らな声を上げながら、ふわりとした髪を左右に振った。 奥からとめどなく溢れる液体が、結合部で泡をつくっていく。 「くあっ、ふっ、はふあっ、ああああぁっ」 「やっ、やあぁっ、またっ……うはあっ、やああああっ」 ぎゅうぎゅうと痛いほど締めつけてくる。 とろけそうな熱さが脳まで浸食してくるみたいだ。 限界が、近い。 「あふっ……ああぁっ、また……ひああっ、変に、へんになっちゃうよぉっ」 「今度は、一緒にっ」 「う、うんっ……こうへい、くんもっ……いっ、あああぁっ」 「ふぁっ、あああぁっ、また、またきちゃうっ、はぁあああっ」 「や、あ、あああっ……また、またいく、のっ……ひゃあああああああぁっ!」 「くぅっ」 収縮する膣内から、一気にペニスを引き抜いた。 どぴゅうっ! どぴゅぴゅう! どぴゅうぅっ! 解き放たれた白濁液が、肌を汚していく。 お腹や太腿、秘所へと飛び散った。 「あっ……ああ……ぁ」 「はぁ……ぁ……ぅ」 陽菜は身体を弛緩させ、とろんとした目で汚れた箇所を見つめた。 「ぅ……」 指先でそれをすくい、寂しそうな顔をした。 「どうした?」 「そのまましてくれて、よかったのに……」 くらりとした。 そんなこと言われたら、また抱きたくなってしまうじゃないか。 「ぁ……」 言葉に反応した俺のペニスを陽菜が見つめた。 「綺麗に、しないと」 「そ、そうだな」 陽菜は、ふらふらと立ち上がり、上着をさらにはだけさせた。 女の子らしい、華奢な上半身が現れる。 少し汗ばんだ乳房が、揺れた。 「全部、脱ぐのか?」 「ううん。こうするの」 俺の目の前で、ひざまづく。 「ん」 放出したばかりの部分が陽菜の乳房に挟まれる。 ペニスについていた愛液と精液が、べっとりと胸についてしまう。 すごく柔らかくて、温かい。 なんだか、幸せな気分だ。 「な、何をする気なんだ?」 「んー」 小首をかしげて、少し考えた。 「お詫び、かな」 「なんの?」 「それは……」 「途中で、孝平くんにお願いして……あ、ああいうことしてもらったりとか」 「なのに、私だけ先に……なっちゃったりとか」 恥ずかしそうに、もごもごと口ごもる。 「気にしなくていいのに」 「でも、私がしてあげたいの」 「……いい?」 潤んだ瞳で、見つめられた。 上目使いは、ずるい。 それに、こんな風にされたら思いっきり期待してしまう。 「俺も、陽菜にしてほしい」 「ちゅっ」 「くっ」 先端部分に唇が触れた。 それだけで、身体が少し震えてしまう。 「だ、ダメだった?」 「いや、まだちょっと敏感になってただけだ」 「じゃあ、優しくするね」 「ちゅっ……ちうぅ……ぴちゅ」 小さく舌を出して、ちろちろと亀頭部分を舐める。 剛直が再び、硬さを取り戻していく。 「あ……熱くなってきた……」 「これって、気持ちいいってことだよね?」 「そういうこと」 「はぁ、ぁ……もっと綺麗にするね……んっ、ぴちゃっ」 まだついていた精液を舌で器用に取り、飲み込んでいく。 ぬるりとした舌の熱を感じるたびに、腰にしびれが走った。 「まだ、残ってるのかな」 「はむっ、んちゅ、ちゅるるるるうぅ……」 「うあっ」 先端を唇で包み、尿道に残ったものまで吸い出される。 「ふあっ……綺麗に、なったよ」 「あ、ああ。ありがとう」 「じゃあ、次はね……」 陽菜がそっと目を閉じた。 「んっ……」 両手でつかんだ乳房を、上下させる。 ふんわりと包まれている幸福感に、快楽が混ざっていく。 「どう……かな」 「これも気持ち、いい?」 「ああ。陽菜の胸、すごく柔らかくて、幸せだ」 「幸せ?」 「なんだか頭がぼーっとしてくる感じ」 「ふふ、立ったまま寝ちゃダメだよ」 「気持ちよくて、寝られないさ」 「もっと、こうした方がいい?」 陽菜が、双つのふくらみをさらに両手で寄せる。 さっきよりも密着している感じだ。 こすられる刺激が、強くなる。 「さっきより、陽菜に包まれてる感じがする」 「そ、そうなんだ」 陽菜の頬が赤く染まる。 「じゃあ、これは……?」 「んっ……んっ」 陽菜が胸だけじゃなく、身体を動かしてこすりあげた。 「あ、気持ちいい……」 「よ、よかった」 陽菜の双丘の間から、棹が出たり入ったりしている。 膣内とは違ったふわふわとした不思議な感覚が、頭を真っ白に染めていく。 「こんなこと、どこで、覚えたんだ?」 「それは……女の子の、企業秘密」 前に聞いた言葉だ。 俺のために、勉強してくれたんだろう。 「んっ……ふぁ……はぁっ」 献身的に、俺を気持ちよくさせようと頑張っている。 こんなに健気でかわいい陽菜が、俺に尽くしてくれることが嬉しい。 「あぁ……ふああぁ……なんか、変な気持ちになってきちゃった」 うっとりとした目で、目の前にあるペニスを見つめた。 「はむぅっ」 「うっ」 亀頭の部分が、口に含まれた。 思わず、うめき声を上げてしまう。 「ちゅぅ、ちゅくっ……あむぅ、ちゅぷぅ、ぴちゅっ」 「陽菜、すごく気持ちいい……」 「んちゅ、ふあっ……そう言ってもらえると、嬉しいな」 「あむ……ちゅく、ぴちゅ、ちゅぷぷっ」 カリ首を舌でねぶり、激しく吸いついてくる。 「ちゅ、ぢゅくっ、ふぁ、あ……ここが、いいんだよね?」 「あ、ああ」 「んむっ、ぴちゅ……ちゅうぅ、ぢゅぢゅぅっ」 「そこは、や、やばすぎかも」 「じゃあ、もっとするね……ちゅく、ちゅぷっ、ぴゅうぅっ」 「は、ふぁ……んちゅう、ぴちゃ、はぁぁ……んむぅ、んんっ」 陽菜も興奮しているのか、荒い息がペニスに当たる。 ペニスをこする白い胸が、さらに形を変えてぎゅっと包み込んでくる。 同時に与えられる刺激に、下半身が熱くなっていく。 「あ、はむぅ……んぱぁ、ちゅぷっ、じゅるぅっ」 陽菜の口の端から粘滑な水の糸が伝った。 「ぢゅ、ぢゅくっ、はあっ、ぴちゅっ、ぢゅぷっ」 陽菜が必死になればなるほど、白い胸も怒張も唾液まみれになっていく。 「ぢゅるるぅ、あふっ、ぴちゅっ、はむう、んんっ」 透明な液が胸元に流れ込み、急にすべりがよくなった。 ぬるぬるとした快感に、全身がしびれる。 「あ……ちょっと出てきた……んちゅ、ちゅうぅ、ぢゅるるっ」 先走りの液を、陽菜がおいしそうに吸い取っていく。 「陽菜、もう……」 「いっぱい、出してね」 期待するように、優しく微笑んだ。 「あむぅっ……ぢゅくっ、ぴちゅぅ、くちゅぅっ」 陽菜が、一気に半分ほどくわえ込み、裏筋やカリ裏を舐め上げる。 声を上げそうになるのを、唇を噛んで堪えた。 「んくっ……ちゅうぅっ、ぢゅ、ぢゅるるぅっ」 容赦なく攻め立てられ、下腹部が爆発しそうになる。 「ちゅくぅっ、じゅぷぅっ、ぢゅくうううぅっ」 「はふっ、ぴちゅうぅ、くちゅ、ちゅぅぷっ、ぢゅぷぷっ」 「ぢゅっ、ずちゅうぅ、ぢゅ、ぢゅっ、ちゅるっ、ちゅるるるるぅぅっ!」 「陽菜っ!」 びゅくびゅくっ! びゅくくうううっ! 陽菜の口内に、次々と射精していく。 「んくぅっ!? ん……んぐっ、こふっ」 びゅくっ! びゅくびゅくぅ…… 「ん、んんんっ、あくぅっ、むううぅ」 ノドの奥に叩きつけるような感覚。 苦しいはずなのに、陽菜は恍惚とした表情を浮かべている。 大量の精液を、すべて口で受け止めていく。 びくびくと震える剛直が吐き出すのをやめるまで、そのままでいた。 「んっ……んむぅ……ちゅくっ」 ちゅぷっ 水音を発して、ペニスから口を離す。 「飲んだの?」 「んーんー」 左右に首を振った。 まだ口の中にたまってるのか。 「無理しないで出していいぞ」 「ん」 なぜか嬉しそうに俺の目を見つめた。 そして―― 「んっ……ん……」 こくり……こくり…… 陽菜の喉が、かわいい音を立てた。 「ん……んんっ」 全部、飲む気なのか? けっこう大量に出してしまったと思うんだが。 「はぁ……ふぁ、ぁ」 飲み終わったのか、幸せそうな息を吐いた。 「すごくいっぱい……だね」 「どんどん出てきて、口の中から溢れちゃうかと思った」 「ごめん」 「ううん、嬉しいの」 うっとりとした表情で言った。 「孝平くんのだって思うだけで、身体が熱くなって……」 そこで言葉が途切れた。 「どうした?」 「あのね……」 「こんなこと言うと、困っちゃうかもしれないけど」 「孝平くんと、ま、また……したく……」 恥ずかしいのか、語尾が消えていく。 陽菜の声は不思議だ。 愛おしさをかき立てて、いくらでも望むままにしてあげたいという気持ちにさせる。 「困るどころか、嬉しいよ」 頭をそっと撫でた。 「俺だって、何度でも陽菜としたいから」 「あ……」 「孝平くんって、優しいよね」 「素直なだけだ」 「私に一番、優しくしてほしいって思っちゃうのは……わがまま、だよね」 「彼女として当然の権利だろ」 「う……」 「ん?」 「大好き」 照れながら、でもはっきりとそう言った。 「俺もだよ」 「……こんな気持ちにさせてくれたお礼、しなくちゃ」 「はむ……」 まだ陽菜の胸の間にあったペニスを、咥えられる。 「ちゅく……ちゅるる、ちゅく」 「うあっ」 達したばかりで敏感なそこを、熱い舌で丹念に舐めていく。 神経を直に触られているみたいだ。 「んちゅ、ちゅるるるぅ……ふぁむ、くちゅぅ」 慈しむように、俺のものを刺激していく。 収まりかけていた欲望が、再び膨らんでくる。 これ以上してもらったら、またこのままいってしまいそうだ。 「陽菜」 「ん」 かすかに小首をかたむける。 「それ以上すると、まずいから」 「ほら、こっちに……」 陽菜をベッドに寝かせた。 委員会の制服は、もう身体を隠す機能を果たしていない。 陽菜の大事な部分が、明るい電光の下にさらけ出されている。 そこは、新たに溢れた愛液できらきらと輝いていた。 「孝平くん、あの、あんまり見られると……」 もじもじと足を動かした。 花びらが俺を誘うようにこすれ合う。 もう一度陽菜に包まれることを想像して、びくりとペニスが震える。 「じゃあ……」 怒張を手にして、陽菜の秘所にあてがった。 「あ……」 粘膜に触れると、甘い吐息を吐き出した。 「あ、あのね」 「うん?」 「孝平くんの好きにしてほしいの」 「好きにするって?」 「私に遠慮せず、思う通りに」 「いいのか?」 「そうしてくれた方が、嬉しいから」 「ああ。わかった」 陽菜らしい言葉だ、と思う。 たぶん、本心からそう言っているんだろうな。 陽菜が望む通り、俺の好きなようにしてみよう。 「いくよ」 「うん」 身構えるように、ほんの少しだけ陽菜の身体がこわばった気がした。 俺は、できる限り、優しくゆっくりと―― 陽菜の膣内へと亀頭を埋め込んでいく。 ずず……ずずず…… 「あ、あっ……あの、孝平、くん?」 喘ぎながら、戸惑うように俺を見た。 「好きにして、んんっ、いいのに」 「してるよ」 ゆっくりと、腰を押し出していく。 陽菜の花びらが、優しく絡みついてくるのがわかる。 「ふあっ、で、でもっ」 「陽菜に、優しくしてあげたいんだ」 「あ……」 「それとも、もっと強くしたほうがよかった?」 「ううん……」 「孝平くんに愛されてる感じがして、嬉しいの……ふぁっ」 少しずつ陽菜に包まれていく。 恍惚とした陽菜の顔を見ながら、根元まで沈めた。 「はぁ、ぁ……入っちゃった」 「したいようにしてみたけど、どう?」 「もっと……好きになっちゃうよ」 嬉しいことを言ってくれる。 「これ以上こんな気持ちにさせて、どうするの?」 「どうもしないさ、どんどん好きになってほしいだけ」 「私、おかしくなるくらい、愛してるのに……」 「そうか?」 「じゃなきゃ、孝平くんの前であんなこと……」 「一人でしたこと?」 「い、言わないで」 拗ねたように俺を見上げる。 「もっとおかしくなったところ、見せて」 陽菜の頬を撫でると、幸せそうに微笑んだ。 子猫のように俺の手に頬ずりしてくる。 「うん……」 「でも、嫌いにならないでね」 「当たり前だ」 とろけるように熱い陽菜の膣内で、ゆっくり前後を始めた。 「んっ……ああ、あ」 結合部からぢゅくぢゅくと卑猥な水音が響く。 新たに溢れた蜜が、シーツの色を変えていく。 「あ、ふぁっ、あ、あ……」 誘うように揺れる、たわわな胸をつかむ。 ふわふわとした、まろやかな感触。 「あっ、手が、あったかいよ……」 すでにぴんと立っていた乳首を指先で転がした。 「ひゃ、ああんっ」 ベッドの上で、身をよじらせた。 俺が与えた快楽に、そのまま反応を見せてくれる。 「ふぁあ……こうされてると、体がとけちゃいそう」 「困ったな」 「ど、どうして?」 「陽菜がとけていなくなったら、生きていけない」 「あぁ……くぅ……」 言葉に反応するように熱い肉壁が、ぎゅっと締めつけてくる。 「私も……孝平くんがいないとダメだよ」 「あっ、ひあぁ、あふ……なんか、孝平くんの、大きくなったよ……?」 陽菜が揺れながら、お腹に手を当てる。 味わうように、ペニスを前後させていく。 「陽菜がかわいいこと、言ってくれるから」 「だ、だめだよ、そんなこと言われたら……」 「あ、ああぁ……あはぁ……んんっ」 恥ずかしいのか、少しだけ膝を閉じた。 「もっと、足を開いてみて」 「う、うん……はぁっ」 俺の言う通りに、両足を広げていく。 より深くまで、陽菜を味わうように腰を動かした。 「ひぁあ、あ……孝平くんっ、あたって……あぁっ」 蜜壷がうねりを伴って俺を締めつける。 突くたびに陽菜がかわいい声を上げた。 「どうしよう、もう、おかしくなっちゃうよ……ふぁっ」 「こんな、まだゆっくりなのに……わ、わたし、はあああぁっ」 いやいやをするように首を振る。 「少し、速くするよ」 ずちゅっ、ずちゅう、ずちゅ…… 「ひくっ、はふぁあああっ、ふああっ」 陽菜が快楽から逃れるように、後じさる。 その腰をつかまえて、愛液まみれの膣口に怒張を出入りさせた。 「だ、だめだよ、また、私だけ、んくうぅっ」 懇願するような目で、訴える。 「大丈夫、陽菜が気持ちいいから、俺も」 「あ……ああっ、うんっ、一緒に……ふぁああっ」 安心したように身体の力を抜き、俺に身を任せる。 少し小首をかしげて、愛おしげに俺の目を見ていた。 こんな時でも可憐な仕草をして、俺を惹きつける。 「好き、好きだよ、孝平くん……くぅ、うあぁっ」 「ずるい」 「ああぁっ、ふあぁっ……な、何、が?」 「かわいすぎる」 「も、もうっ、だめ……ふぁあっ、あああっ」 「幸せすぎて、とけちゃう、からあっ……」 「ひあぁっ、へん、になっちゃうよぉっ……ああっ」 栗色の髪を乱れさせ、身をくねらせる。 乳房が踊るように弾んでいた。 淫らなその動きが、俺の胸の鼓動を速くする。 陽菜の膣を貫く速度が、勝手に上がっていく。 「ひぅっ! はふあ、すごいよぉっ……ああぁっ」 「奥までっ、こすれて……ひぁああああっ」 最深部に打ちつけるたびに、愛しい気持ちが広がっていく。 陽菜ともっと、一緒になりたいという想い。 それが、俺から制御を奪っていく。 「はふぁっ……あ、熱い、ああぅっ」 「来てる、来ちゃうのっ……あはああっ」 求めるように、腰を浮かす。 陽菜の白い太腿が、快楽に打ち震えていた。 膣内を、限界まで大きくなったペニスで貫いていく。 「ひゃふ、くはぁっ、ひああぁんっ」 「きて、もう、わたしっ……ふぁあああっ」 陽菜が、ぎゅうぎゅうと震えながら圧迫してくる。 全身がしびれ、目の奥に火花が飛び散った。 腰の辺りにたまった何かが、爆発しそうだ。 「ああああぁ、もうだめ、きちゃうぅ、きちゃうよおぉっ」 「孝平くんもっ、一緒にっ、ふぁっ、あひあああっ」 「俺も、もうっ」 「う、うん、ふぅあぁ、い、いいよ、そのま…おねがっ……いっ、はぁあっ、ふぁああぁっ」 甘い叫びに、身が震えてしまう。 制御を失った身体が、さらに激しく、濡れそぼった膣口に腰を叩き付けた。 「やっ、くはぁっ、ひぁああああっ、ふぁああぁっ!」 陽菜の身体がのけぞった。 つなぎ目から愛液がぴちゃぴちゃと飛び散っていく。 「あひあああぁっ、ああぁっ、あふっ、はぁああうううぅっ」 とどめとばかりに、陽菜の最深部を貫いた。 「ひぐっ、ふあああああっ、だめっ、いくっ、うああぁっ」 「やああぁっ、ひぁっ、あぁんっ、きゅああああぁっ、あふぁあああああっ!」 「いくっ、いくのっ、はあああっ……ひあああっ、あああぁ、ふああああああぁっ!」 ドクッ! ドククゥッ! ドクッ! 「あっ! あ、あ、あ、ぁ……」 俺の中から、どくどくと大量の精液が放出されていくのがわかった。 ペニスが脈打つたびに、陽菜がびくびくと全身を震わせる。 その身体を、つながったまま抱きしめる。 ドクッ、ドクッ……ドク…… 「あ……く……孝平、くん……」 朧気な表情で、俺の背に手を回してくる。 陽菜の膣内が、全部を受け止めようと収縮を繰り返す。 抱き合ったまま、最後の一滴まで陽菜の子宮に注いだ。 俺の脈動と、陽菜の震えが収まっていく。 お互いの汗と、陽菜の体温と柔らかさが心地よい。 「いっぱい……入ってきたよ」 嬉しそうに、呟いた。 「おかげで、すっからかんだ」 「そ、そうなの?」 「わかんないけど」 「もう」 「それだけ、陽菜がかわいかったってこと」 「も、もう」 ぎゅっと、背に回された手に力が入る。 お返しに、陽菜の身体を同じくらいの力で引き寄せる。 密着感が増して、陽菜と一つになっている気がした。 「こうしてると、幸せだ」 「私も……」 「じゃあ、朝までこのままでいるか?」 冗談めかして言ってみた。 「うん……いいよ」 嬉しそうに微笑む。 冗談のつもりだったけど。 その笑顔を見て、それも悪くないと思った。 「重くない?」 「重い方が、目を閉じても孝平くんがいるのがわかるから」 「それにね、とっても温かいの……」 「はは、陽菜は寒がりだもんな」 「うん……ごめんね」 「問題ないさ。辛かったら、言えよ」 「うん」 服も、体も、ベッドもぐちゃぐちゃだ。 明日の準備だってしないといけない。 ――でも、今だけは全部を忘れて。 二人で幸せを噛み締めることにした。 「むむむ……このV字は……」 「あら、にぎやかね」 「みんな勢揃いです」 「わぁ、すごいね」 「こりゃーもうやるしかないっしょ! アレを!」 「私はイヤよ」 「こうなったら仕方ないでしょ。いいから来なさいっ」 「ふぅ……」 「アレってなんですか?」 「お姉ちゃん、ホントに?」 「修智館学院に集いし、我ら美女5人っ」 「……清く、正しく、美しく」 「た、珠津島の平和を守りっ」 「愛と勇気と希望の学院生活を盛り上げる!」 「あ、えと、『ふぉーちゅんファイブ』っ」 「このゲームは、オーガストの提供でお送り……」 「って、みんな知ってるに決まってるじゃない」 「こらそこー、最後までちゃんとノってくださーい」