«――そこに立っている一年のあいだにつくづく思いました» «なによりもなくしちゃいけなかったのは、心をつかさどる心臓だったってね» «恋をしているあいだ、ぼくは世界一幸せでした。けれど心がなければ、恋をすることはできません» オズの魔法使いでブリキの木こりがドロシーへと語りかけた言葉 恋をしているあいだが、世界一幸せだったと きっとブリキの木こりも恋が叶わないことを知っていたのだろう 私も叶わぬ事を識っている だが、私たちの想い出の曲“虹の魔法”を歌い上げる彼女を―― その声を 彼女の白く、金色に浮かび上がる姿を見て、強く迸る感情が沸き立ち、伝えずにはいられない ネレイデスの貴女へ 私が、どんなに貴女を愛しているのかを ずっと、幼い頃から変わらぬ想いを―― うしろめたい ハロウィンパーティに騒ぐ級友たちの声を耳にしながら、こんな気持ちに為ったのはいつぶりだろうか、と思った。 昔は幾度も味わってきた思いだ。 彼女と比較されるたびに感じてきた思い。 背を、容姿を、学力を、幾度も幾度も比べられるたびに生まれた感情。 自分を偽るたびに感じてきたことだけれど、いつしか思いはすり減り摩耗してしまった。 だから、 ――うしろめたい と思うのは久方ぶりの感覚なのだ。 遠く――食堂からハロウィンの喧噪が聞こえる。 幻聴だろうか、彼女の声が耳朶に届く。 いつもとは逆だわ、と笑んでしまう。 そう、わたしの〈姉妹〉《きょうだい》も欲しているあの人。 此からあの人の元へ向かう事を思うと、ぎゅっと胸の奥を握られているような感覚を覚える。 身体の芯の熱さから逃げるように、ロビーの片隅にある大きなアクアリウムへと向かった。 アクアリウムに仄かに浮かび上がる自分の像を見詰める。 彼女と同じ衣装。 水色を基調にしたドレスにどこかおかしなところは無いかと目を細めた。 だけれど、灯りの点いたアクアリウムは輪郭をうっすらと描くだけで役には立たない。 いや、 「…………っ」 影で塗りつぶされていた顔が、〈姉妹〉《きょうだい》の――彼女の貌を写す。 いつもの幻だと己に言い聞かせ、後ずさり、己の像を消した。 小さく、長く息を吐いて己を取り戻すと―― 喧噪の残るロビーを後にした。 森から待ち合わせの場所へ向かっている間、懐かしい感情を抱いたことに感傷的な気分になっていた。 初めて、うしろめたい――と思ったのはいつだったろうか? 双子だから比べられるのは道理だ。だからその事について思うところはない。 でも、 彼女よりもわたしの方が“出来”が佳かったのだ。 わたしと比べられるのを見て、傷ついていく彼女を見て、わたしは比べられるなら、比べることができなくなればいいと思った。 だから“学力”を、“習い事”を、彼女に合わせ落とした。 初めはそれで佳いと思った。でも……。 全てを合わせるという行為が、うしろめたいと何時しか感じるように為った。 傷つけないために振る舞ったその行動が、 彼女を〈貶〉《さげす》んでいるように思えて。 そうだ。明確にうしろめたいと〈苛〉《さいな》まれたのは―― ふっと顔をあげると、森の小道から、桜並木を抜けいつの間にか学院まで歩んでいたらしい。 暗がりに浮かぶ学院は巨大な男が蹲っているように視えた。 わたしは感傷的に為っているな、と額に手を当てる。 冷えた手が心を落ち着かせ――代わりに胸の痛みに気付く。 「……急がないと」 呟き、足早に学院を横切っていく。 そして、学院の少し先――聖堂へと辿り着いた。 胸の痛みはさらに強く、わたしの身体を熱くさせていた。 これからすることを考えると、知らず足が――身体が震える。初めての経験だ。 聖堂への扉へと一歩近づく毎に、上擦っていく自分を感じながらも、歩みを止めなかった。 僅かな明かりの下で、聖堂内は幻想的な雰囲気に包まれていた。 俯いていた瞳は怖々と赤い絨毯を這い、顔をそろそろと上げ、ステンドグラスの幾何学模様に照らされた壇上へ。 「……ぁ」 ずくり、と心臓が跳ねる。 壇上には呼び出したあの人が既にきていた。 これは裏切りだろうか? そう思い悩みながらもあの人の元へ。 先に来ていたかと思ったよ――と涼やかな声音がわたしを捕らえる。 また、心臓が跳ね苦しくなった。 ――彼女が好きなあの人。 「…………」 無言で対峙して見詰めるわたしに何かを察したのだろう、微笑みから戸惑うような表情へと変わった。 美しいと思う。 聖書の中で紡がれている天使のようだ。 だけどわたしは、ただ清廉で美しいということで好きになったのではない。 わたしは―― 名を呼ばれ、もう一歩あの人へと歩み寄る。 こんな場所へ呼び出した理由を尋ねられ―― 「……わたし、わたしは、」 気持ちを告げようとするも、感情が喉を伝ってはこない。 そうだ。 わたしも好きに為らなければならない。それなら比べられる事はない。 此で同じなのだから。 ――沙沙貴君、 と、そして続く名を呼ばれ――ああ、わたしをわたしだと認めてくれるのだと、笑みをこぼしてしまった。 “わたし”が“わたし”だと区別されること。 何故だかやましい感情が生まれず、鳴り続ける煩い胸に手を当て、 震える唇であの人へと想いを告げる。 「わたしは――貴女が好きです」 オズの魔法使いという童話がある 物語は孤児であったドロシーが農夫のヘンリー夫妻と暮らし始めたところから始まる カンザスの広大な平原。照りつける太陽に大地も、家も、作物さえも灰色に染まり―― ドロシーが色を無くさずにいたのはトトという黒い子犬がいたお陰だと紡がれた しかし、オズの魔法使いの始まりは、“竜巻”によって崩壊し始まる 家ごと竜巻に呑まれ羽のように運ばれていくドロシー。しかし彼女は恐れない 時間が経てばたつほど揺りかごのようだと落ち着いていく 竜巻に遭い災厄に見舞われる筈の未来を――あるがままを受け止める彼女に、幼い私は酷く安堵したことを覚えている 変化を恐れないおとぎ話の主人公 これから始まるお話は“変化を恐れない少女”と“停滞を望む少女”のお話 白い〈匣〉《はこ》を眺め、秋が来たのだな、と呟いた。 アルファベットで“八代譲葉”と書かれた私宛の匣を前に、暦が十月と為ったのを実感した。 季節が巡るたびに送られてくる白い匣。春には春の、夏には夏の制服が送られてくる。 そして秋を迎えた十月に――やはり秋の制服が匣に入れられ送られてくるのだ。 白い匣が六つ並んでいるのを凝っと眺める。 個数は季節によって変わるが、代わり映えしない無機質な白い匣だ。 無機質な匣は、入る事は簡単でも出ることは容易ではない堅固な病院を連想させた。 「……いや、この匣は学院」 何故そんな連想をしたのかと自問するとおのずと答えは出た。この学院と通じるもの。 それは―― 高い壁をもって私たちを“庇護”しているということだ。高い壁に囲まれた学院。 だが、その実―― 自分が考えすぎていることに私は小さく息を吐き、中央にある匣に手を掛け開ける。 匣の中には皺一つない清潔な制服が折りたたまれ入っていた。 白く、下ろし立ての香りのするブラウスだ。 どんどん匣を開け中を改めると、 ボレロ、黒のスカート、ストッキング、そして靴が一式揃えられていた。 一年前にも袖を通したが、秋の制服が一番私好みだ。 春を基本として――夏の制服は身体の線が出過ぎるし、冬は私のセンスからやや外れている。 女性らしさと中性的なセンスが混じり合う秋服が佳い。 規定の数、秋服が揃っていることを確認すると、私はナイトウェアを脱いだ。 下着姿に為った私を鏡の中に認め、凝っと見詰めた。 鏡の中の私は知らぬ他人のように視えた。 身体の線が露わになると、まるで自分でないように思える。 朝の鋭く、瞳を細めずにはいられない眩しい光を一身に浴び―― 肌は抜けるように白く、腰回りも、胸も女性だということを強調されていた。 一年前よりも成長した胸を眺め、私の脳裏には親友と――もう一人の知人が浮かぶ。 料理部の後輩いわく、1年生では“一番”らしい。 悔しそうな顔つきで話す後輩と――それに付随するように、胸の豊かな後輩がいつか彼女のアミティエへ言った言葉が思い出された。 『汚い言葉は残るけど、綺麗な言葉はすぐに消えてしまう。だから忘れないようにとっておくのよ』 ノートを付けながらアミティエへ言った台詞。たまたま盗み聞いた言葉だったが、彼女の意見が面白く耳に残っていたのだ。 「……消えた夏の想い出」 呟き、白を基調とした制服を取り出す。 ブラウスをあてがった私は鏡越しに“私”を見詰める。 ふと、彼女は私の姿を見てどう思うだろうか、言ってくれるだろうかと夢想した。 博愛主義者の我が親友はきっと佳く似合っていると口優しく言ってくれるだろう。 ……だが、それはたとえ似合っていなくても吐かれる言葉だ。 優しい私の親友。 いや、私でなく誰に対しても同じことを―― ……どうにも今朝はペシミストな感覚を引き摺っているなと鏡へと笑いかけた。 いつものオプティミストらしい自分がなりを潜めている。 どうにも秋という季節は人を物憂げにさせるな、と苦笑った。 いつもの自分に立ち返るために自嘲気味な笑みからシニカルな笑みに換える。 調子が戻ってきた私は、ひんやりとしたブラウスに袖を通した。 「相変わらず憎らしいほどぴったりだな……」 S・M・Lとざっくりしたサイズではない。身体測定で測っている寸法通りだ。 肌に張り付くようにフィットする私自身の為の制服。 制服を着ると己が定まった気がした。 聖アングレカム学院ニカイアの会、会長としての自分。 「さて、」 靴も二足。 これも寸法通り。 真新しい靴は、初めよそ行きの顔を見せややきつく感じたが……。 「これも履いている内に馴染むだろう」 言い、足りないものはないかチェックする。カーディガンが二着。マフラーが二つ。手袋が二つ。 室内なら今のままでも十分だが、秋でも時折酷く肌寒く感じるときがある。 各々で判断し、それらを身につけるのだ。 空いた六つの匣を確認すると―― 私は匣を収納に収め、制服に皺がないか、おかしな着こなしに為ってはいないかを視る。 確認した後―― ふっ、と吐息を漏らし、私はいつもの己であることを認めた後、鏡に映る鋼色の瞳を見つめると、朝食を摂るため大股で部屋を後にした。 ――朝食を済ませ、 朝のお祈りを済ませると―― 学院へ。 道中幾度となく降り掛かる挨拶の雨に答えながら、我が学舎を眺めた。 中秋の学舎は少しばかり寒々しい。 そういえば、と思う。 初めてこの学院――聖アングレカム学院に入学した折もそう思ったなと唐突に記憶の蓋が開いた。 親友の後を追い、自らこの学院に来ることを望んだというのに何故そう思ったのだろう。 疑問符が浮かぶ。と、 (いや……。季節が巡ることで別れを意識したからかな……) 一年生の折はただ周りに流されていただけだったように思う。 親友がニカイアの会(生徒会組織のようなものだ)を目指すと告げた時も、私もそれに流され乗った。 彼女と離れ離れになるという選択肢はなかったからだ。 だが、何故か望み、努力していた親友よりも――私は高い評価を得、会長職へと選ばれた。 羨むような性格ではない、心根の優しい親友とニカイアの会を盛り上げてきたが……。 (そして彼女たちと出会った……) 我が師である白羽蘇芳君とそのアミティエである花菱立花君。 そして料理部の同輩として沙沙貴苺君と林檎君。 最近、顔見知りになれた八重垣えりか君、そのアミティエの考崎千鳥君も面白い。 だが、 そう。彼女だ。 ――匂坂マユリ君が学院を去ったのは春の終わり。 春から夏へと季節が巡り、彼女は消えた。 別れを意識してしまったのは彼女の所為だろう。そして、 「蘇芳君……」 彼女は消えたアミティエを追うために、学院の謎を―― 「ごきげんよう、八代先輩」 不意に呼び掛けられ、反射的に挨拶を返す。 そして自分がいつの間にかエントランスに居ることを知った。 (……どうも一つのことに集中し過ぎると周りが見えなくなるな) 「あ、あの……」 「あ、ああ、ごきげんよう。制服、とても似合っているね」 ――頬を染め、下級生の子は謙遜すると同じく衣替えした私を褒めてくれる。 嬉しくなり、ついバレエのターンで廻って見せた。途端に上がる嬌声。 (可愛いと言ってくれた方が嬉しいんだがね……) いつの間にか周りを囲まれていた私は、生徒らの感想にやや不満を抱きつつも、 笑みを浮かべ、バレエのレヴェランス……頭を下げる挨拶をし、クラスへと向かったのである。 先ほどは“別れ”巡る季節を想っていたが……。 「She cuddled up by the window……」 席を立ち、柔らかで涼やかな声音の彼女を見、変わらないなと独りごちた。 清楚な印象の白い秋服に身を包んでいる親友――小御門ネリネを視てそう思う。 変わらない、ということは得てしてマイナスに受け取られることが多いがそうではない。 元々、美徳を備えた我が親友が変わらずにいてくれるのは一つの奇跡だ。 白を基調とした制服に流れるようなブロンドの髪、青磁色の瞳は生真面目に英語の教科書に向けられていた。 人柄は知り合った頃からまるで変わることはない。 小御門ネリネに対してだけは、変わらぬ事は私の中で正義なのだ。 そう、変わらなくていい。 指示された箇所を読み終え、机に向かう彼女に我が師を思いながらそう思った。 授業が終わり―― 私の机の周りにはいつもの如く級友が集まってくる。先の授業で分からなかったことを聞きたいのだ。 「あの、譲葉さん。ここの問題なんだけれど……」 「ああ。この英文はね――」 授業で習った通りに教える。さっきもさっきの事だ。出来て当たり前。だが、 ――譲葉さんは何でも分かるのですね。 賛美の声があがる。褒められて悪い気はしない。だが、 「あの、それじゃ此は――」 と、幾つもの声が上がり質問の波にさらされる。頼られることは嬉しい。だが、 (相変わらずだな……) 一人次の授業の教科書を開いているネリーを視る。 私とは違い、彼女の周りには誰も居ない。 ……いや、遠巻きにして見守る視線は幾つもあったのだけれど。 「……人当たりはいいと思うんだけどね」 何です? とクラスメイトに尋ねられお茶を濁す。当然、無視されている訳ではない。 小御門ネリネはニカイアの会の副会長であり、合唱部の部長だ。一目も二目も置かれている。 だが、 (おそらく蘇芳君と似た性質のものなのだろう) 料理部で肩を並べる彼女も、ネリーと同じく遠巻きにされ誰とも触れあうことはない。 ネリーと蘇芳君は、美しくはあるが――綺麗ね、で終わらないどこか望郷の念を抱かせるような、心の弱い部分を掴まれるような美しさなのだ。 だから憧れられはしても、友人に囲まれるようなことはない。 「……沙沙貴君たちは別のようだけどね」 「え?」 ――だから私が沙沙貴君たちのように為らなくてはならない。 「英語は僕よりもネリーが得意なんだ。聞いてみるとしよう」 言い、彼女の元へ。 「あら、譲葉。どうしたの?」 「さっき出た英文を尋ねたいそうだよ。教えてあげて欲しいんだ。いいかいネリー?」 「勿論」 にこりと人好きする笑みをこぼす彼女へ、私は質問してきたクラスメイトを促したのだ。 ――いつもありがとう、 お昼の〈一時〉《ひととき》。 昼食にサンドウィッチを注文した私たちは気持ちの佳い秋空を楽しむため―― 東屋でのランチと洒落込んだ私へと彼女がそう呟いたのだ。 コーヒーを淹れながら呟いた言葉に、何がとは問わなかった。 「いつも気を遣わせてしまっているわね」 級友との間を取り持っていることを言っているのだ。私は何のことだかわからないと首をすくめてみせる。 ネリーもそれ以上は何も言わず、コーヒーに砂糖を2杯。そしてミルクを入れた。 「サンドウィッチに合いそうだから甘くしてみたわ。嫌だった?」 「いや。たまにはブラック以外も佳い」 紅茶よりもコーヒー。 対外的にはそういうことに為っている。 「ふふ、佳い香り……」 (甘いのは有り難い) だが本当は苦いものはコーヒーに限らず苦手だ。 私が好きなのは……好きだと言うことに為っているのは、ネリーがコーヒーを好んでいるから。 「さぁどうぞ」 「猫舌じゃないんだけどね」 「冷まさないでいつも一気に飲むのですもの。ヤケドしないか心配なの」 心配されることに面映ゆく思いながらも、カップを傾ける。 甘くも奥行きのある苦みと酸味が舌の上で踊る。暫しコーヒーを味わうと昼食のサンドウィッチに手を伸ばした。 だが、 「はい。どうぞ」 「ありがとう。頂くよ」 気を利かしてかネリーがサンドウィッチを取ってくれる。それだけなら、いつも通りなのだが。 「はい。あ〜ん」 「……随分今日は積極的じゃないか」 「そう? いつも通りじゃない?」 確かに。 確かに二人きりの時は、私を妹に見立てたように世話をしてくれることが多いが、 「ほら、早く口を開けて」 (積極的なのは嬉しいけどね……) 促されかぶりつく。ベーコンとレタスとトマト。そしてマヨネーズ。 頭文字通りの正しいBLTサンドだ。 「ん……むっ……ん……っ」 「ふふ、美味しい?」 「ああ、最高だよ。ベーコンは好きな具合にカリカリに調理されているし、レタスやトマトもしゃっきりとして実に美味い。それに――」 「うん?」 「ネリーに食べさせて貰ったんだ。不味いわけがない」 鈴が鳴るように笑うネリー。お返しと私もサンドウィッチを手にするも、 「んむ……んっ。確かに美味しいわ」 自ら手に取り上品に食べると笑む。わたしは行く宛てをなくしたサンドウィッチを頬張った。 「神は言った。ベーコンがあれば何でも美味しい」 そう、気恥ずかしい真似をしそうだったことを誤魔化す。 「ふふ、相変わらずなんだからもう」 可愛らしく頬を膨らませるネリーは私が一口囓ったサンドウィッチを凝っと見詰めて、 「譲葉のサンドウィッチってBLTサンドじゃないの?」 「ああ。一種類だと飽きるかなと思ってたまごサンドも作って貰ったんだ」 「たまごサンドも美味しいわよねぇ。一口頂けるかしら?」 え、と囓りかけのサンドを見、少しだけ躊躇してしまう。新しいのを取ろうかとも思うも、 「うん?」 朗らかに笑む彼女に“気にしている”と思われるのも少しばかりの羞恥を覚える。 私は何でもない風を装い、自分の手にあるたまごサンドをネリーの口元へと差し出した。 「ありがとう譲葉。んっ……んむっ」 小鳥を餌付けしているような気分。 顔を近づけたことでネリーが好む香水の匂いと、美しくも艶めかしい紅梅色の唇が食むのを見、胸の中で何かが蠢いた気がした。 「んっ……。このたまごサンド、ハム入りなのね。美味しいわぁ!」 交互に食べなくちゃと手に持つBLTサンドを完食するために小さな口でついばみ始める。 (……やれやれ、そんな年でもないだろうに) 私の食べかけを食べさせてあげたことも少しばかり動揺を覚えたが――今の状態も動揺を誘う。 ネリーが食べた箇所を見、ジワジワと変な熱が沸いてくる。 なるべく隣のネリーを意識しないようにすると、彼女の食べた箇所に刹那唇を合わせた後、一口で頬張った。 たまごとハムとサニーレタスの味はしなかったとだけ言っておこう。 「……苦いコーヒーでも飲むか」 既に空になっているカップへコーヒーを注ぐ。 ポットから出る湯気。それに乗せ香ばしい香りが漂う。 この匂いは好きだ。おかしな熱は一段下がり、いつもの私に為る。 苦くも酸味のあるコーヒーを飲みながらバスケットからサンドウィッチを掴み、BLTサンドを頂く。 ――しばし何も言わず食に情熱を傾ける。 本来何も言わぬ食事……。沈黙は苦手だがネリーと二人だけの沈黙は嫌ではない。 親密な空気が安心をくれるからだ。 「そういえば今月末にあるハロウィン、そろそろ用意した方がいいわよね?」 「……ハロウィン。ああ、ニカイアの会主催の。もうそんな時期か」 「先代の先輩方は十月に入ってからすぐに用意してなかったかしら?」 「ハロウィンは学院主体ではないからね。先んじて許可を取った方がいいか……」 学院の催し物は2種類ある。ひとつは学院が行う年間行事――聖母祭や収穫祭などがそれに当たり、 オリエンテーリングや合唱会、そしてハロウィンパーティなどはニカイアの会が催すのだ。 当然、自分たちで各所の許可を取らなければならないし、使う物をあらかじめ用意しなくてはならない。 「私たちは衣装を用意すれば済む、という話ではないし」 「まぁ各部活動からの協力の取り付け。パーティを開く場所を開放して貰うため許可を得なくてはならないしね」 「会場は、前回と同じくダイニングルームでいいかしら?」 「パーティに花を添える料理などの用意の手前もあるからね。代わり映えしないが致し方ないだろう」 「今回も料理部の方たちにはお世話になってしまうわね」 「なに料理部としては晴れ舞台だからね。面倒とは思っていないよ。飾り付けは手芸部。後は有志と我々とで――」 大真面目に熟考していた私は、ふふっと手で唇を隠すネリーを見遣った。 「特に面白いことを言った覚えはないんだけどね」 「ふふ、いえ違うの。一年生の時、料理部だった譲葉がハロウィンに料理を振る舞ったでしょう?あの時――」 「やめてくれ」 「全然そんな気はないのに、ケーキの飾りがハロウィン用だと間違われて――」 「あの時のことは忘れてくれ。頼む」 会心の出来だと思ったチョコケーキを、おどろおどろしく禍々しい素晴らしいデコレーションだと褒めちぎられた私は……。 (そのまま賞賛を受けた……) 大真面目に作っていたという事実を唯一ネリーだけが知っていたのだ。 「ふふ、ごめんなさい。つい思い出してしまって……ふふっ」 「いつまで笑っているんだか。だが今回は笑えないような、素晴らしい出来の料理を作ってみせると約束しよう」 「今度は白羽さんのご指導があるものね」 ――蘇芳君の名前を聞き、 「どうしたの?」 「いや……」 先月の――聖堂でのやり取りを思い出す。 「そういえば最近、料理部の方……沙沙貴さんたちと仲が佳いわよね?」 「ああ、それは……」 自分としても戸惑っていることなのだ。 「ふふ、譲葉は相変わらず後輩に懐かれるわよね。特に仲が佳い後輩とかはいるの?」 君以外に特別は作らないよ 面白い後輩が多くてよりどりみどりだね 不意に尋ねられ、 「……ネリー以外に特別は作らないよ」 そう答えた。 ネリーは一瞬惚けたような顔をし、次いで破顔した。 「嬉しいわ。でも私と居る時くらいはいつもの貴女でなくていいのよ」 「……そうだったね。つい何時もの癖が出た」 「でもありがとう。譲葉」 ネリーの問いに幾つかの後輩の顔は浮かぶが……。 「面白い後輩が多くてね。よりどりみどりで選べないな」 「まぁ! まるでお野菜を選ぶみたいよ。ああ、でも――」 青磁色の瞳を中空に飛ばし、 「新しく知り合った一年生たちは……本当に佳い子たちですものね。選べない理由も分かるわ」 と言った。 微笑んだまま私を見遣るネリーに、君は特別な後輩は出来たのかい? と尋ねた。 彼女は顎に指をやると小首を傾げつつ、 「仲良くなりたい子はいるわ。でもなかなかお会いする機会がなくて」 「お、今の言い方だと同じ合唱部員の花菱君はお呼びじゃないということだね」 「あ、ち、違うわ! 花菱さんとは仲良くしていただいているけど、他の子とももっと話したいと思っているだけよ」 「ふふ、分かっているさ。これはさっきのケーキのお返しだよ」 もう! と手を挙げる真似をするネリー。わたしはサンドウィッチが空になっているのを見、 「そろそろ戻ろうか。食器を置いてこなくちゃならない」 「そうね。あ、でもコーヒーをもう一杯だけ」 言い、ポットから湯気たつコーヒーを注ぐ彼女を眺めながら、 (同じ部屋ならいつでもネリーの為にコーヒーを淹れてあげるのにな……) そう思ったのだ。 放課後と為り―― 少し早めに料理部へ。 部室に誰もいないことを確認すると、水差しを手に私は日課を行うために〈彼〉《・》〈女〉《・》の元へ向かった。 「ごきげんよう。今日も元気そうだね」 言い、花瓶にいけてある花に話しかける。薄紫色の可憐な花。孔雀草だ。 花弁に触れ香りを嗅ぐ。しばし美しい花を眺めながら、そういえば孔雀草の花言葉は何だったかなと思う。 「確か……」 水差しで水を足しながら思い出した。“いつも愉快”だ。私に相応しい花言葉。 もう一つも、 (一目惚れ……) 「ごきげんようです。八代先輩」 不意に背なに呼び掛けられ、 (蘇芳君を笑えないな) 一つのことを思量すると周りが見えなくなる我が師を思い浮かべる。そして、 「ああ、ごきげんよう。林檎君」 と、聞き知った声にそう告げると、料理部の後輩に向き直ったのだ。 「おおっ。お花のお世話ですか。いつの間にかお水を換えられていたのは先輩がしていたことなのですね」 「あ、ああ。もともと僕が持ち込んだものだからね……」 「そうだったのですか。新しいお花に為っていたりしたのも?」 「……僕だ」 面映ゆく顔を伏せてしまう。イメージにない私。 なるべくなら隠しておきたかったのだが……。 「桜木先輩とかが持ってきたと思っていましたが意外でしたねぇ」 (……当然だな) 「でも八代先輩なのは意外ですけど納得です。先輩お花好きですものね」 「え?」 「だってガーデニングの選択授業で御一緒したとき表情が柔らかかったですよ。それに――」 用意してきた手に持つエプロンを見、 「花柄お好きですよね?」 と問われた。そこまで硬く秘密にしてきたことではないが……。 実は花を育てるのが趣味なんだ 多くの趣味の一つさ 彼女になら打ち明けてもいいかと思った。 「実は……花を育てるのが趣味なんだ。らしくないだろ?」 「? そんなことないですよ。八代先輩がお花を世話するのってすごく絵になります」 「そ、そうかな?」 「はい。お花を世話している優しい顔、わたしとしては好きです」 率直に言われ、腹の底がムズがゆく嬉しくなる。私は、 「そう言って貰えて嬉しいよ林檎君」 と素直な笑みを返した。 「花は嫌いではないが、そうだね……多くの趣味の一つかな」 やはり柄ではないと、シニカルな笑みをたたえ言った。 「そうなのですか……? でも、趣味の一つですか……」 「ん、何かな?」 「いえ。好きなものがたくさんある事はいいですよね」 そうどこか寂しげに呟いたのだ。 林檎君は一歩私の元へ歩むと、花瓶の花を凝っと眺めた。 「このお花って、何て名前なんですか?」 「孔雀草だよ。秋は華美ではないが慎ましくも愛らしい花が多い」 「そういえば小御門先輩もお花の名前で、秋の花ですよね?」 心の中を覗かれているようで身体の芯が微かに動揺する。だが、ただの繋ぎの会話だったのだろう。 小首を傾げ眠たそうな瞳が私を見上げていた。 「ネリネ……。ダイアモンドリリーだね。陽の光を受けると花弁がきらきらと輝き美しい花だ。慎ましやかな愛らしさではないけどね」 「小御門先輩らしい花ですね」 眠たそうな瞳をさらに細め、孔雀草の花弁に触れ撫でる。 「林檎君。僕が花の世話をしていることは――」 「はい。二人だけの秘密にしますね」 柔らかく笑んでみせる。生き方がクラゲのように思える彼女だが、その実、私の見立てでは計算高く頭の回転が速いように感じていた。 (ま、だからどうしたという訳ではないがね) 私と近しいように思えるというだけだ。 ありがとう、と言い水差しを置いた瞬間。 「あ〜! やっぱり先に来てた! 待っててって言ったのに酷いよ林檎!」 おそらく遠からず来るだろうと思っていた騒々しい声音が響いたのだ。 軽やかな足音が聞こえ、 「ごきげんようです譲葉先輩! わぁ! 制服似合ってますねぇ!」 つま先から頭まで――後ろ姿にいたるまでチェックをし、 「格好いいですね! 譲葉先輩!」 まるで大型犬にでも抱きつくようにしがみつき私の腰に手をまわした。 ――沙沙貴苺君。料理部の後輩であり、林檎君の双子の姉。いや、しかし―― (以前と比べてスキンシップが多くなっている気がするな……) そして、夏から秋に移り変わったのはスキンシップだけではない。 (……譲葉先輩か) 名前呼びに変わったのは彼女なりの親愛の証なのだろう。私も嬉しいのだが……。 「譲葉先輩。柔ら温かいです。スタイルもいいし憧れますよぅ」 「ふふ、君もあと一年ほどすればすぐに追いつくさ。それに苺君も似合っているじゃないか。以前の制服も佳かったが白い制服も可憐に見えるね」 「そうですかぁ、実はわたし的にも似合っているな、って思ってたんですよぅ!」 両手を広げくるりと一回りしてみせる彼女に素直に愛らしいと目を細めた。 「当然、林檎君も可憐だよ。まるで深窓のご令嬢のようだ。ダンスを申し込みたいところだよ」 「足を踏みつけてしまうかもですけど、嬉しいですよ」 珍しくにんまりとした笑みを見せる林檎君を見て、苺君は不満げな顔を見せた。 「林檎の方が褒められてる気がするっ! 不公平ですよぅ!」 「おやすまない。そんな気はなかったんだけどね」 「ぅぅ、で、でも譲葉先輩からセクシーになれるお墨付きを貰ったし! 今でも充分大人っぽいってことだよね!」 モデルのような“しな”を作る姉を、妹は生温かい目で見詰め、 「今のでお分かりになったと思いますが、姉は少し目が悪いのですよ」 「何でだよぅ! 目凄くいいよ、両方とも2.0だよ!」 抗議する苺君の頭を撫でながら――面白いさすがは沙沙貴君たちだと褒め称える。 「何だか釈然としない褒められ方なんだけど……」 「おおぅ、八代先輩に頭を撫でて貰えるとかレアですね」 「あ、うん。えへへ。頭を撫でられるのって子供っぽいから嫌だけど、譲葉先輩になら嫌じゃないかも」 「それは重畳」 「むぅ、さすが学院一の人気者です。女生徒の手懐け方を知っていますね」 「譲葉先輩モテるもんね。あ、そうだ! ずっと聞きたいと思っていたんですけど、譲葉先輩はどんな女の人が好きなんですか?」 なぜ女の人なんだ…… 苺君のような子がタイプかな 何故女の子限定なのかと動揺してしまったが……。 「……確かにいつも口説いていますけど、女の人限定はどうなのですかね」 「え? だってこの学院って女の子しかいないじゃん?」 「いや、ですから……」 (なるほど、いつもの調子からそう思われただけか) 私はほっと胸をなで下ろし、双子のやり取りを見守ったのだ。 突飛な質問に少しばかり動揺はしたが……。 「そうだね。僕としては苺君のような乙女が好きだよ」 「えっ、えっ!? ほ、本当ですか!?」 「可愛らしいし、直接的に好意を示してくれるからね。僕はコヨーテよりロードランナーの方が好きなんだ」 「え? あっ? どういう意味なの?」 「追うよりも追われる方が好きだって意味ですよ」 古いアニメーションを知っていた林檎君へウインクすると、 「素晴らしい」 そうシニカルな笑みを送ったのである。 沙沙貴君たちが語らうのを耳にしつつ、私は部屋の時計を一瞥した。 (遅いな……) 「時計を気にしているようですが、どうかしたですか?」 「いや他の部員がこないな、と思ったのさ。今日はもしかして休みなのかと思ったのだが――」 「あ〜〜! そうだ! わたしたち譲葉先輩を呼んでくるよう頼まれたんですよぅ!」 「おおぅ、そうでした。わたしとした事がついうっかり」 (うっかりと言うには随分ゆっくりと喋っていたじゃないか) とは言わなかった。彼女には私の秘密を守ると約束した恩義がある。と、苺君が私の手を取りグイグイと引っ張った。 「今日は食材の調達に行くんです! 皆、農場で待っているんですよ! 急いで急いで!」 「そうです。のんびりしている暇はないんですよ」 色々と突っ込み甲斐のある言葉だが――シニカルな笑みを浮かべ二人の頭を撫でた。 「大丈夫だ、のんびりと行こう。主役は最後に来ると皆は分かっているだろうからね」 珍しい顔を見た、と声を掛けられた私は―― 声の主に視線を合わせるため、自分の胸ほどに目線を落とした。 そう、此処最近話すようになった八重垣えりか君である。 「図書室で見かけるなんて珍しいですね。白羽は居ませんよ」 「知っているよ。今の今まで一緒にいた。今日は料理部に顔を出していたよ」 主役の登場を待っていた部員の中に、白羽蘇芳は――彼女は一人佇んでいた。 私を認めると、〈緑青〉《ろくしょう》色の瞳は私の目を凝っと見詰め―― 「そうですか。からかいに来たが失敗だったかな」 猫の笑みを浮かべる彼女に私は肩を竦めてみせた。 「あの制服で図書室の司書をしていたら、まじで妖精かゴシックホラーな感じだったのにな」 「ああ。怖ろしいほど決まっていたよ。この制服は線の細い子ほど似合う気がする」 確かに、と八重垣君は口の端を歪ませ私を値踏みするように眺めた。 「その理論からいくと八代先輩はあまり似合わないことになりますね」 「僕が太っているということかい?」 「スタイルがいいってことですよ。まぁ……確かにバスキア教諭がこの制服姿だと……少しいかがわしい店を連想しますね」 「ふふっ……! 相変わらず君は面白い発想をするね!」 「でもこの制服に替わってほっとしましたよ。前より少しばかりスカート丈が長いでしょう?」 「大事な部分が見えそうで困った?」 私の率直な意見に動じることもなく、顎に手を当て苦い顔をした。 「自分は別にどうでも構いませんけどね。ただ目を合わせなければ、わたしの目線は大体相手の腰辺りになるんですよ」 私との視線を切り、前を向くと―― 「……確かに目のやり場に困るか」 「八代先輩は腰の位置が高いでしょう。今までのやつだと割とハラハラしてましたよ」 「そうか。迂闊にターンも出来ない」 言いながらも、バレエのピルエットを披露する。プリーツがふわりと浮き上がると八重垣君はやや鼻白むようにして赤面した。 「ふふっ! ようやく動じたね」 「先輩がやるとシャレに為らない。噂を立てられたら拙いでしょうに」 「僕は構わないよ。君はお気に入りだ」 「わたしが構うんですよ――」 続いて、アミティエがどうだと呟くのを耳にしたが―― 八重垣君はこほんと咳をすると仕切り直しをするように、私の手にある本を眺め、読書とは珍しいですね、と問うてきた。 「料理の本だよ。ハロウィンに出す料理を研究中でね」 「ハロウィン?」 「うん? 知らないのかい? 最近は日本でも割とメジャーに為りつつあると思ったんだけどね。お菓子を貰いに家々を――」 「いやハロウィン自体は知ってますよ。じゃなくて、八代先輩がパーティを開くのですか?」 ――どうやら、ハロウィンパーティが開催されることを知らなかったらしい。 思わずからかってみようかとも思うが……真面目な顔つきに連続でからかうのは可哀相かと一つ咳をし、学院の年間行事だよと答えた。 「ああ、収穫祭のような?」 「どちらかというとオリエンテーリングにカテゴライズされるね。収穫祭は学院の主催。ハロウィンはニカイアの会が催すものだ」 全部言わずとも察しのいい八重垣君はなるほどと頷き理解する。 彼女は私のレシピ本を指さし、料理部にも協賛させるってわけですねと言った。 「その通り。ハロウィンに相応しいものはないか探していたところさ。そうだ。八重垣君はパーティで食べてみたい料理はないかね?」 私の質問に猫の笑みを浮かべ、揉み手をしてみせた。 「食い道楽なんでそういう質問をされると悩みますね。そうだな……一度映画で見たバターボールを食べてみたいですかね」 「バターボール? それは……飴だろ? パーティには向かないような……」 「え? ああ、普通はそっちか。わたしのいうバターボールは揚げバターといった方がいいですかね」 「バターに衣をつけて油で揚げたものなんですよ」 聞いただけで胸焼けしそうだ。 「うむ。尋ねておいて何だが、乙女的にカロリーの観点からいって難しそうだな」 「そうですか。それじゃあ……と、その前に八代先輩が好きな料理はないんですか? それにすればいい」 私の好きな―― 正直特に好きな食べ物はない パンケーキかな 好きな食べ物と言われ――熟考してみるも、 「……特別好きな食べ物というのはないな」 と答えた。 「え、それは……何のために生きてるんだって話ですよ……」 思った以上に引かせてしまったらしい。 「あ、いや食べ物に敬意を払っていない訳ではないよ。ただ好き嫌いなく何でも食べるってだけなんだ」 「……なるほど。うちの千鳥に近い感じですね」 落とし所が見付かったらしい。腕を組みうんうんと頷いてみせた。 問われ八重垣君を眺めると―― 「パンケーキかな」 と答えた。 「おっパンケーキですか。確かに飾り付けしやすそうだしハロウィンに合いそうだ。それでいて美味い」 「八重垣君のお墨付きがでたね」 「また料理部で味見に呼んでくださいよ」 いつもの猫の笑みでない年頃の少女の微笑みを見、私はいいともと答えたのだ。 会話が途切れたことでふっと図書室の時計を目にし、そろそろ時間が押し迫っていることを確認した。 「待ち合わせでも?」 「ああ。これからニカイアの会で会議だよ。くだんのハロウィンのことでね」 「部がある時でも休めないんですね。年中無休か」 「このご時世、定休日なんてあったらやっていけないからね」 軽口へ乗った私へ猫の笑いを浮かべる。 「そうだ。もう一つ質問しよう。ハロウィンでの演し物だがどんなものがあったら面白いと思う?」 「演し物……。お化けの格好して、料理を食べてお菓子を貰いに廻るだけじゃないんですか?」 「基本、寮のダイニングホールを借り切って行われるんだけどね。去年は個人で占いの館をやっている者もいたな……」 「へぇ。なら、そうだな……」 存外人がいいのか真剣に悩んでくれているようだ。と、意識が一瞬逸れたことが幸いしてか、忍び足する微かな足音に気がついた。 足音の主は―― 「怪談ね」 「うっわ……!?」 八重垣君の押し手を握りながら、満悦の表情でそう彼女は告げた。 「考崎君の意見は怪談の披露か。確かにハロウィンパーティには合いそうだ」 ――八重垣君のアミティエである、考崎千鳥。 先月、バレエ発表会で圧巻の演技を魅せた編入生。 「お久しぶりですね八代先輩」 「最近は忙しくてバレエ談義はできなかったね」 「……おい。人の事を脅かしておいて無視か?」 「無視をしていたのはえりかでしょう。エントランスで待っているって言ったのに全然来やしないのだもの。迎えにきたのよ」 「そうか。悪い、先輩と盛り上がっちまってよ」 二人の話を耳にしながら、随分と雰囲気が和らいだな、と思った。八重垣君も、考崎君もだ。 変化は好まない私だが、こういった変化は望ましい。 「それで八重垣君の意見は?」 「そうですね……。パーティなら賑やかしは必要か……」 「バンドみたいな?」 「ガールズバンドか? 今更、何十番煎じだよ。乗り遅れるにも程があるぞ」 「天国への階段を唄うえりかが見られると思ったのだけど……」 考崎君の言葉で八重垣君がレッド・ツェッペリンが好きなのだと知った。好きな楽曲も。 「僕は移民の歌が好きだ。ブロディを思い出す」 「クク、ハハハッ!」 幾つなんですか先輩と笑われ、次いで――八代先輩は個人的な演し物とやらはやらないのですか?と問われた。 「そうだな、僕は……」 考崎君の意見に乗ってみる バンドもいいかもね 「怪談話というのはいいかもね。時期外れなことを除けば」 「八代先輩、怪談が夏だけのものというのは浅はかですよ。怪談は夏よりも秋冬の方が多いのです」 どうやら考崎君は怪談話が好きなようだ。嬉々としてウンチクを語り出す。 「寒い時期の怪談は夏とは別種の趣があって――」 「……ネリーといい林檎君といい、女の子はホラー話が好きなのだな」 「……その言い方だとわたしたちが女じゃないって言ってるみたいですよ」 「それで、ここから――ここからが興味深いんですよ!」 ぐっと身を乗り出す考崎君に仰け反ってしまう。熱が篭もった演説だが……。 「……勘弁してくれ」 一列に並んだ格好になっている私たち――位置的に最後尾の八重垣君は、身を乗り出す考崎君のお尻を目の前にしていると言うことになる。 「私のお薦めは雪山のお話で――」 「雪山登山をした大学生二人の話なの。頂きを踏破することは出来たのだけど、下山する途中に一人が足を捻挫してしまって――」 「その日の内に山を下りることが出来なくなってしまったの。日が暮れそうな時、ようやく山小屋を見付けて――」 (目のやり場に困ると言っていたものな……) アミティエの後ろ姿を目の前に、瑞々しい腿とプリーツが上下に揺れるのを見せられている八重垣君へシニカルな笑みを送ってしまった。 「そうだな……。考崎君の提案も面白いかもしれない。そうかバンドか……」 「え。冗談ですよね?」 「私は『胸いっぱいの愛を』が好きだわ」 お前には聞いてないんだよ、と素気なく言う八重垣君へ、笑える楽曲を思いつき―― 「よし、それでは『エリカ行進曲』はどうかな?」 と言った。言ってしまったのだ。 「先輩……ダジャレを言うとか末期ですよ」 「……すまん」 思いつきを反射的に言うものではないと反省したのだった。 「いや、だからな――」 「それはえりかの考え方が古いのよ」 私からの意見を元に、何の憂いもなく親密にやり取りしている二人を感慨をもって見遣ってしまう。 互いを信頼しているやり取り。 (いつか私もあんな風に……) 「八代先輩」 「先輩、話聞いていましたか?」 「ん、あ、ああ……。八重垣君と考崎君の意見。とても参考になったよ」 聞き逃していた私はそうお茶を濁した。 「それは佳かったです」 言い、親密に視線を交わす二人を見ていると―― 「……そろそろ向かわないと拙いな」 私はわざとらしく時計を見、そう告げた。何? と視線で問う考崎君へ、 「ニカイアの会の会合だよ。年中無休だ。店長は大変ですね」 「定休日が欲しいがそうもいかない」 首を竦めシニカルな笑みを浮かべる。二人へ時間を割いてくれたことに有り難うと言い手を振ると、図書室を後にしたのだ。 「本当に考崎君の案が通るなんて――」 ニカイアの会にてハロウィンの催しの議題は紛糾し、幾つもの提案が為されたのだが―― 「怪談話大会とはね」 清廉で善良なニカイアの会のメンバーでも、“女子”という業からは逃れられないらしい。 冗談で述べた怪談話だが、それは面白そうですね!との言葉を皮切りにほとんどのメンバーが冗談を本気に取ったのだ。 いやニカイアの会のメンバーだけなら盛り上がった後、有耶無耶になっていただろう。 だが、 『それは佳いわ! 是非催しの一つに入れましょう!』 と副会長殿が喜色満面に手を叩いたことで決と相成ったのだ。 「……まぁ、ネリーの喜ぶ顔を見られるのは結構なことだが」 「感謝しているわ、譲葉」 「きゃ……っ」 不意打ちを受け、驚き自分の上げた少女のような声に赤面してしまう。 背中から抱きしめられた感触、そしてこの香水の匂いは―― 「……やめてくれないかネリー、心臓が口から飛び出すかと思ったよ」 「ふふ、譲葉を驚かせられたわ」 背なを抱きしめたまま彼女は弾んだ声をあげる。 何だか今日は不意打ちばっかり喰らっているな、と苦笑いしてしまった。 「まったく……ハンガーゲームじゃないんだぞ」 「何?」 「映画だよ。不意打ちばかりされているなってことさ。それより肌着じゃないか、まさか僕が来るまでじっと潜んで待っていたのかい?」 「違うわ。譲葉ったら服を脱ぎながら考え事をしていたじゃないの。それに肌着なのは一緒でしょ」 「そ、そうか……」 考え事をしていたとはいえ無意識の内に制服を脱ぎ終えていたらしい。自分も肌着なのを知り―― (……此奴は) お互いに露出が多い中、密着していることでネリーの肢体が手に取るように感じられた。 背中に当たる豊満な胸。長くさざ波たつような美しい髪は私の肌をくすぐる。 元々体温が高いネリーの肢体は私の身体の芯をジン、と熱くさせていく。 (拙い……) 躊躇いがちに振り向いたことで背中に押しつけられた胸の谷間が覗け、動悸が激しくなる。 昂ぶっていることに気付かれてしまいそうだ。 「ふふ、背、大きくなったわね」 「あ、ああ。ネリーも大きくなったよ」 「本当?」 ――胸が、とは続けられなかった。 「そ、そろそろいいだろう。服が脱げないよ」 「ん、残念」 ようやく身体を離したネリネは悪戯っ子のように手を後ろで組むと微笑む。 彼女の笑顔に少しばかり上擦ってしまう。 「悪戯ばかりしているとニカイアの会のメンバーに示しが付かないぞ」 「二人だけの時しかしないわ。譲葉は甘えさせてくれるから好きよ」 「……親バカな父親に為った気分だよ」 ドキリとする物言いに動揺を隠し流す。 私は――風邪を引いてしまうから早く湯船に浸かろうと言い、平静を装い肌着に手を掛けたのだ。 時間が遅いからか、広い湯船を独り占め――いや二人占めした私は、 (やっぱりおっぱいは大きくないとな) そう率直な意見を胸に抱いた。 彼女の腿に手を掛け見上げた私へ、 「何を悪巧みしているの?」 と言った。 「そんなこと考えていないさ。ただ素敵な光景だなってね」 「素敵? 目が何か企んでいる感じだったわよ」 ――げに恐ろしきは幼なじみだ。 自分の胸、そしてネリーを見上げながら、 「……八重垣君も魅力的だが、これだけは唯一無二の弱点だな」 と呟いた。 「八重垣さんがどうしたの?」 私やネリーとは違う大草原の小さな……を思い浮かべるも妄想を消し、会に出る前に図書室で八重垣君に会ったことを告げた。 「そうだったの。このところ行き会えてないから、またお話がしたいわ」 「図書室ではハロウィンパーティでの議題について意見を聞いたよ」 「そうなの。ああ……! だから怪談の話が出たのね」 合点がいったという風に手を叩く。同好の士を得、実に愉しそうだ。 「怪談は八重垣君の意見ではなくてね、考崎君の方なんだよ。彼女は怖い話に目がないらしい」 「まぁ! そうなの。ふふっ、お話が合いそうだわぁ」 目を細め感激した素振りを見せた。動くたびに湯浴み着の中の胸が動く。 互いにすべてを晒し、識っているが故の無防備さ。 「八重垣さんも怖い話を嫌いではないと聞いているし、今度お二人を誘ってお風呂で語り合いたいわ」 (それは……どうだろうか) 考崎君の気質はまだ掴みきれていないが、存外乙女なところもある八重垣君はいやがるだろうなと思いそう口にした。 「そうなの? もしかして恥ずかしがり屋さんなのかしら?」 「それもあると思うがね。とある情報通から聞いた話だと八重垣君は胸が小さいのを気にしているらしい」 「え?」 「僕やネリー、そして一年生の中では一番だろう考崎君の三人に囲まれて、湯船で語らうのは酷というものではないかと思うね」 「あ、そ、そうなの。お胸が……」 今までは気にしていなかったが、胸という単語が出たことで身をよじり恥じらう。 だが私に対して隠そうとまではしないようだ。あからさまな態度を取って気を悪くしないかとでも思ったのだろう。 「……思いやりのある幼なじみと知り合えて僕は嬉しいよ」 「え、な、なに?」 「いや、やはりニカイアの会の会長はネリーがなるべきだったと改めて思ったのさ。何で僕なんかが選ばれたのか……」 「…………」 真実思うこと。 いつもの軽口のように言ったのだが、真意に気付いた彼女は私の目を凝っと見詰め、 “自分が仕事を選ぶのではない。仕事に自分が選ばれるのだ” と告げた。 「神の御言葉かい?」 「違うわ。お父様が以前そう仰っていたの。でも私も言葉通りだと思うわ。譲葉、貴女は会長という職に選ばれたのよ」 「でなければ学院の皆が賛同してくれる訳ない、でしょう?」 ニカイアの会のメンバーに選ばれるのは、各役職、副会長までならばそれほど難しいことではない。 だが、会長に選ばれるのは数多の試練を乗り越えなければ為らない。自身が乗り越えたことだ、それは理解している。 「……やっぱりネリーの方が向いていると思うけどね」 「ふふっ、度量が広いのは会長にとって必須よ。ハロウィンパーティでの怪談大会も許してくれたし」 「あれだけなら考えものだが、他の催しの案も通った後だったからね。料理と同じだ。紛れてしまえば何てことはない」 笑い合う二人。私が大好きな親友。 親友との言葉が口の端から漏れていたのだろう、ネリーは唇に指を当て言う。 「でも考崎さんと八重垣さん、お二人とも佳く一緒に居るのを見掛けるわ。本当に仲が佳いのね」 「初めは反発していたようだけどもね」 「そうなの?」 「似たもの同士だから反発するのさ。だが、きっと何か繋がりを深める出来事があったのだろうね」 「何かって……。あ、」 かっと頬を染める。少女のようにパチパチと瞳を瞬かせると、彼女は唇に置いた指をなぞり私へと問うた。 「ねぇ、あの……。もしかして八重垣さんと考崎さん、お二人って交際しているのかしら?」 「それは……」 会長としての自分はどう答えるべきか刹那悩むも、ネリーの話しぶりから個人として問うているのだろうと――ああ、と頷いて見せた。 「面と向かって聞いちゃいないが、恐らくは」 「……そう。ねぇ、譲葉。貴女は女性同士が付き合うという事をどう捉えているの?」 (それは――) 基督教的には赦されないだろうね 羨ましくはある 何げない言葉、だが胸に痛い言葉だ。 「基督教的には赦されないだろうね」 「貴女個人の考えは?」 「……さぁね。考えたことがない」 「そう。そう……よね。御免なさい変な質問をしてしまって……」 何故かネリーは俯き、私へとそう呟いたのだ。 公人としてでなく、私人として答えることにした。 「そうだな……。率直に言って羨ましくはある、かな」 「そう……なの?」 分かり易く身体を引くような事はないが、訝しげな表情になるのは隠せない。私は、 「ああ。腹を割って話せる友人――いや、親友というのは大切だ。彼女たちの密な関係が僕には羨ましく思えたよ」 「え、ぁ……。そう言う意味合いなのね……」 「うん? もしかしてネリーは僕がもっと即物的なことを言うと思っていたのかい?」 胸を凝っと見詰め、分かり易く両手で掴むジェスチャアをすると、身をよじり豊満な胸を隠すように腕を交差させたのだ。 「も、もう! 胸が大きいのはコンプレックスだって知っているでしょう……!」 「ククッ、八重垣君が聞いたら猫の笑みを浮かべながら嫌味を言われそうな言いざまだね」 「ううっ、そ、そういう意味で言ったのではないわ……」 隣の芝生は青いというやつだが、真面目な彼女は苦悶の顔つきで眉根を寄せた。 困る仕草が愛らしく笑ってしまう。 「ぅぅ……意地悪だわ」 頬を赤らめ恨みがましい目で見詰める彼女へ、済まない冗談が過ぎたと告げ、拝み倒すとようやく赦しを得ることができたのだ……。 私の見解を述べ終え―― 「――それで、」 女性同士の交際をネリーはどう思う? と問い返す。 彼女は困ったように眉を曇らせ、唇に手を当てると小首を傾げた。 「……そうね。胸襟を開く相手が欲しいと言っていた私だもの。親密な相手は欲しいわ」 でも、と淡い紅梅色の唇が動く。私は続く言葉を聞きたくないからか、 「お付き合いを受け入れることは出来ない――だろ?」 「――譲葉は私の心が読めるのね」 「いや、相手の記憶が読めるんだよ。バルカン人みたいに」 私の愛するスタートレックを見たことがない彼女は淡く微笑みを返しただけ。 今だけは親友の微笑みを受け、ほんの少しだけ悲しくなった。 「幸せになる秘訣だ。一番大切なものを決して手放さないこと」 「オスカー・ワイルド?」 「いや、父の言葉さ。僕もそう思う」 だが、父は手放してしまった。それが運命だったとしても。 「……白羽さん」 手放した、という単語から我が師を想起したのだろう。 刹那、痛ましい表情に変わった。 「長湯してしまった。湯あたりしてしまいそうだ。そろそろあがるとしよう」 「……そうね」 「肌が白いから余計に茹だってみえる。タコみたいだぞネリー」 「肌が白いのはお互いさまでしょう」 曇っていた表情が明るくなり、ほっと胸を撫で下ろした。 (交際か……) 幼なじみの言葉が小さく、だが確かに胸に突き刺さり―― 私はこの棘はしばらく抜けることはないだろうなと、まるで他人事のように思ったのだ……。 何故だか良く誤解されるが、地味な作業というのは嫌いではない。 むしろ小さな作業をコツコツ行うことは元来得意な方だし―― 地味な作業が報われ実を結んだ時などは心地好い充足感に浸れ、心躍る。 だから、 「ご免なさいね。急に頼んでしまって」 「いえ。面倒だなんて思ってませんよ」 「秋用の制服は白いから汚れが目立つし、頼むにしても急じゃなければ用意できたのに……」 「替えの服がない訳じゃなし大丈夫ですよ。さっさと終わらせてしまいましょう」 地味な作業が好きな私としては収穫の手伝いは面倒なことでも何でもないのだ。思い出したように何度も感謝の言葉を掛けられる方が心苦しい。 むしろ―― (昨日のやり取りを思い出さずに済むものな) 昨夜の話を思い出して―― 「っと……」 他のことで気もそぞろになっていたからか、収穫していたニンジンの根が割れているのを見、掘り出すのを失敗したなと眉を顰めた。 「……食べ物に対する礼儀がなっていない。食い道楽の八重垣君が見たら怒らせてしまいそうだ」 「どうしたの? 八代さん」 考え事をしていた所為で、収穫を誤りニンジンの根が欠けてしまったことを告げる。と、 「あ……。これは収穫時期が少し遅れてしまったみたいねぇ」 「時期? 何です?」 「収穫が遅れると裂根……根の一部が裂けて割れてしまったりするの。まだ大丈夫だと思っていたけど急いだ方がいいわねぇ」 「なるほど、奥が深い」 学院の生徒は皆が畑の栽培管理を当番制で務め、収穫にも携わっているが、一年以上行ってきた私でもいまだ識ることが多い。 (コレはコレで趣味にしたら面白そうだ) 先が割れたニンジンを手のひらで弄びながらそう思う。 「形が悪いだけで食べられない訳ではないんですよね?」 「ええ、大丈夫よ」 「なら後でスムージーにでもしてみよう。でかいストローでも使って健康家を気取ってみます」 「ふふっ八代さんは恩寵のことを佳く理解しているのね」 「神のお恵み、ですね」 きっとこの学院へ来ることがなければ耳にしなかったろう言葉。 恩寵は、神のお恵みと同義の言葉だが……。 「どうにも僕らしくない、な……」 昨夜の言葉が引っかかり後ろ向きな考えばかりが浮かぶ。 どうしたの? と尋ねるバスキア教諭へ、何時もの調子を戻すべくシニカルな笑みを浮かべた。 「秋野菜が収穫できる頃合いになったという事は、そろそろお楽しみのアレを掘っても佳いという事ですよね?」 「掘る? ああ、はいはい。サツマイモのことね?ふふ、天ぷらにすると美味しいわよねぇ」 「個人的にはもっとシンプルに焼き芋の方が好みですけどね。収穫祭でのメニューに入っていれば最高なんですがね」 「時期が違うのが残念よね」 人好きのする笑顔を浮かべる。私は――告解にも似た気分で、この善意の塊の人が何と答えるのか気になった。 悩みから目を逸らし、考えまいとしていた事柄。 「先生は――」 今まで好きに為った人はいますか? 女性同士の恋愛についてどう思いますか? 「今まで好きになった人はいますか?」 前置きなしの率直な言葉に目を丸くし、そして、どこか困ったような嬉しいような複雑な顔をした。 「八代さんが恋の相談とは珍しいですね」 「らしくないですか?」 いえ、と首を振り視線をつま先に投げかけ、どう語ろうか悩んでいるのが見てとれた。 (シスターのバスキア教諭に何を訊いているんだ、私は) よくよく考えないでも基督教の敬虔な信者であり、シスターの彼女にしていい質問ではなかった。 考えのない、無神経な質問。 「……昨日の自分じゃないんだぞ」 「――好きな人はいたわ」 「え」 「……私がまだ覚悟を決めていない時に、ね。私は――」 「バスキア教諭、すみません。不躾な質問をしてしまって……」 「いいのよ。ねぇ八代さん、私はこう思うの。生きることには目標が必要だって。例えそれが愛でも憎しみでも、つまらない賭けでもいい」 彼女らしからぬ言に口を挟めず、悲しげな微笑みをたたえる姿を見詰めるだけ。 「空っぽには為らないで、八代さん。貴女は――」 (――私のように為らないで) そう続いた気がした。 「女性同士の恋愛についてどう考えますか?」 そう、語るまいと思っていた言葉を吐露してしまった。 バスキア教諭は初め驚いたような顔をし、次いで――とても悲しげな表情をみせた。 (考え無しだったな……) 季節が巡り生々しい傷跡とは言えなくなったが、まだこんな事もあったなと思い出話にできる程、時が過ぎ去っている訳ではない。 「……匂坂さんのことを仰っているのですね」 「あ、いや……」 私の問いから当然の帰結のように匂坂マユリを連想したバスキア教諭へ、何を言うべきか詰まってしまう。 「八代さん、彼女の事は――」 「そうじゃない、違うんです。昨日友人と女性同士の恋愛で議論になりましてね」 「バスキア教諭にはシスターとしての見地から話を聞きたいと思っていたのです」 言葉尻を取り何とか取り繕った言葉は、 「そう、なのですか」 「ええ」 「確かに難しい議題だわ。分かりました。それではゆっくりと論じましょう」 そう、虎の尾を踏んだのである。 ――久方ぶりにバスキア教諭と論じた私は少しだけ肩の荷が下りた気がした。 (告解じゃないが……) 相談女のような真似をしてしまったな、と苦笑ってしまう。 「どうしました?」 「いや、今更ながら思ったんですよ。自分が悩みなんておかしいってね。柄じゃない」 「そんなことはないわ。ねぇ八代さん、悩みが大きすぎる事はいけないけれど、少しくらいはあった方がいいのよ」 悩みに耳を傾け、解決するように尽力している彼女らしからぬ言葉に目を瞬かせた。 ……だが、恐らくは悩みを糧とするようにと訓育する為の戒めが吐かれるだろうと予測した。 「……確かに、そうですね」 「ええ」 「悩みがない人生なんて詰まらない。何でも叶うとおかしくなる。過去のロックスターを調べれば分かることだ」 「あの、そういう事ではないんですよ?」 冗談を真に受けたバスキア教諭が困った風に眉根をひそめるのを見、愛らしいなと思った。 「話し込んでしまいましたね。そろそろ収穫に戻りましょう」 言い、語ったことで幾分軽くなった身体で次のニンジンへと狙いを定めたのである。 ――猫だ、 と聞き逃せない言葉を耳にした私は、 「あの毛並みはヨゴロウザですね」 「名前付けてるの!?」 うさぎ小屋の前で騒ぐ料理部の後輩を見付けたのである。 「君たちも餌遣りに来たのかい?」 「譲葉先輩! 遊びに来たんですか!?」 「何、ニンジンの収穫をしたからね。少しお裾分けってやつさ」 収穫の際欠けてしまったものと、そしてこちらがメイン。ニンジンの葉を持ってきた私は持参してきた野菜を見せる。 「それよりも聞き逃せない名前が出たな。この辺りには猫が出るのかい?」 「ヨゴロウザです」 「そうか。片目の猫の仲間が居るとみた」 察しの佳い林檎君は私の言葉から、かの児童文学書を読んでいた事が分かったのかにんまりと微笑む。 「え? なに? 何のこと?」 「“ひげよ、さらば”だよ。それよりこの辺にも野良猫がいるのだね」 「森深いですから。たくさん野生動物はいますですよ」 「あ! 前、イタチとか見ましたよ!」 「僕もアナグマやハクビシンなら見掛けたことはあったんだがね」 正直、猫は町中でしか生息できないものと思っていた。だから、森深いこの学院で見掛けたという事実に驚いたのだが……。 (元々、野生の生き物だものな) ペットとしてカテゴライズした彼等しか知らない私の先入観というやつだ。 「あ、でも大丈夫です。ウサギさんを襲ったりはしないですよ」 それはどうして、と顔に出ていたのだろう林檎君は私が渡したニンジンの葉を金網越しに与え、 「ウサギさんを狙わなくとも餌はたくさんあるからですよ」 と答えた。 連想すると生臭くはあるが、ウサギが襲われなくとも済むと分かり神妙に頷いた。 「うん? あれぇニンジンあんまり喜ばないですね」 「葉の方がお好みのようだ。イラストやなんかでニンジンが好きだという先入観があるから大好物なんだと思ったんだがね」 ニンジンの実の方は見向きもせず、差し出した葉を無心で囓る彼等。 しばし眺めていると、 「もう少し来るのが早かったら蘇芳ちゃんも居たんですよ」 と苺君が言った。 「そうか。蘇芳君が……」 「前は鬱ぎ込んでましたけど、元気になって……!ハロウィンパーティでの話もしてたんです」 友達思いの言葉に微笑むと、餌を与え終えた苺君は私へと向き直り、蘇芳ちゃんと何にしようかって話していたんですと言った。 「ハロウィンパーティでの衣装のことです。あまり裁縫は得意ではないので早くどんな衣装にしようか決めようと話したのですよ」 「凝った仮装をするなら早く取りかからなきゃですし! 譲葉先輩はもう決めたんですか?」 「そうだな。僕は……」 正直、まだ決めてはいないが……。 なるべく面倒でないのを選ぶよ それよりも苺君の衣装が気になるな 「前回は用意する手間を考えていなくてね。大変な目に遭った。今度は面倒でない仮装をすることにしようと思う」 「確かに凝れば凝るほど大変ですね」 「あの! あの! 前回の衣装って何だったんですか!?」 「うん? 何故だかクラスの皆の推薦でね、海賊船の船長だったよ」 「フック船長! わぁ! 格好いいだろうなぁ、見たかったです!」 言うは易く行うは難し、というヤツだ。 (帽子の制作が特に苦労したな……) 帽子もだが服のディティールもこだわればこだわる程、時間を費やしていく。最後は連日徹夜作業だったことを思い出した。 「……今度のはもっと流用できるデザインのものにしよう」 騒ぐ苺君を尻目に呟いたのだ。 「僕もまだ決めかねていてね。それよりも」 ぐっと身を乗り出し、彼女の手を取ると―― 「苺君の衣装の方が気になるな」 と言った。 「え、え。わ、わたしですか、ええと……」 赤くなる彼女に微笑ましい気持ちになる。いつも通りの私。 「ま、まだ決めてないんです。その……林檎と同じものにしようと思って……」 「そうか、双子なのだものね。同じ衣装で合わせた方が佳い。となると悩ましいな……」 双子の怪物や妖怪などいたかなと考えを巡らす。と、 「その辺で」 「うん? どうしたんだい?」 「苺姉ぇがわたしのように真っ赤になってますですよ」 「あ、はい……」 林檎のように真っ赤になっている彼女を見て、済まないねと握っていた手を離した。 「八代先輩は何を着ても嵌まりそうで羨ましいです。わたしとしては似合う仮装が少ないので難しいですよ」 「そうかい? 林檎君は恐い話が好きなのだろう。なら直ぐに思いつきそうなものじゃないか?」 「お化けや怪物、妖怪などは知ってますけど……。双子で尚且つ可愛いのは少ないのです」 「……それは確かに、中々難儀しそうだね」 調べれば双子の怪異自体は居そうだが、可愛いものを選ぶのは難しいだろう。 (背丈や、彼女たちのキャラクターで怖ろしいキャラのものは嵌まらなそうだしな) 私が思い当たったことは当事者である彼女たちは既に理解しているだろう。 だからこそ、自分たちに似合う双子の怪異を探しているのだ。 「譲葉先輩は何でも似合うから佳いですよね」 「恐い系の衣装と男装系はね。だが、女性らしいのは嵌まらないだろうな」 自分の妖艶な魔女スタイルを想像してみる。 ……ダメだ。 自分の事ながら想像すら出来ない。 「男装系が似合うのは美人だからですよ! 格好いいし、憧れます!」 随分と率直に言ってくれた事から――私も彼女のように瞳を輝かせていた昔のことを思い出す。 「憧れを抱かれるなんて、僕はそんな大層な者ではないよ。今の自分は真似から入ったものだしね」 「真似? 譲葉先輩にも誰か、その、憧れの人とか居たんですか?」 刹那浮かぶは親友と―― 「……子供の頃、親友が入院し鬱いでいた時にとある映画を見たんだ」 「映画ですか?」 「ドキュメント映画さ。マドンナのワールドツアーのものだった。映画ではそのツアーがいかに過酷かが描かれていてね」 「その息抜きにスタッフ皆でカードゲームをしていた場面があった。罰ゲーム付きのやつさ。もし負けたら“告白”か“実行”を選ぶというね」 「……つまり秘密の吐露か、やりたくない事柄を選ばされる?」 「その通り。例えマドンナでも例外はない」 「ドキュメントの中でスタッフが負け、二択から秘密の“告白”をする場面や、キツイ“実行”を選び行われる場面もあった」 「そしてマドンナも負け秘密の吐露か実行で――彼女は告白を選んだ。それは一番愛した人の名前を挙げるといったものだったよ」 「何かあまり罰ゲームって感じじゃないかも……」 「彼女はその時離婚したてだったのさ。僕もスタッフのお題にハラハラして見守ったものさ。そうしたら――」 「私が一番愛しているのはショーン・ペンよ。と、離婚して直ぐの元夫の名前を挙げた」 「それは……何というか凄いですね」 「ああ。カメラが廻っている中で堂々と言い切ったんだからね。僕は大勢の前で動じない信念を持つ彼女に感銘を受けたんだ」 「……誰の前でも動じない自分」 かつての弱い自分。 「親友が退院して戻ってきたとき、頼れる自分に為っていたかったのさ」 模倣から今の自分に為った。だから小説や映画に己を投影していた蘇芳君を近しいと感じていたのだろうか。 「誰かに為りたい、か……。わたし的にはない発想ですね」 「……分かる」 小さく呟く林檎君の声を聞き、双子とはいえ考え方の相違はあるのだなと思った。 昨夜のことがあったとはいえ、話しすぎたなと思った私は、 「――餌も与え終えたようだし、ニカイアの会に向かうとするよ。年中無休の店長は辛い」 言い、双子たちから見送りの言葉を受け、私は学舎へと足を向けたのである。 バスキア教諭の訓話を受け、 沙沙貴姉妹と話したことで―― 沈んでいた私の心は平素へと近づいた。だが、 ドアの隙間から差し込まれていたのだろう手紙を見付け―― 「――此は」 手に取り、差出人の名前を見た私は、更なる懊悩が増したことを識ったのだ……。 ――〈秋天一碧〉《しゅうてんいっぺき》、 と言うのだったか、と雲一つない秋空を眺めた。 何処までも高い夏空とは違い、青一色の秋空はどこか優しく親密に思える。 高くもなく低くもない中庸。 気温もこの季節が一番佳い。春も似てはいるが何か新しいことを始めなくては為らない強迫観念に駆られる。好意的に為れない。 秋の成熟した空が好きだ。 (何も考えなくて佳い) 汗をひかせるために眺めていた空だが、余計な台詞を思い浮かべたばかりに昨夜の手紙が思い出された。 ――恋文、 最近、時代小説に嵌まっていた所為で古風な言い回しで思い浮かべたが、所謂ラブレターというやつだ。 この学院に入学した当初は随分と送られたものだが、親友との親密な空気から誤解したのか手紙は少なく為り―― 此処最近は送られることは無かった。 だが、 「……さてさて、どうしたものかな」 好意を寄せられて嬉しくない訳がない。だが、私には―― 「譲葉」 耳元で突然声がし、首を竦め反射的に身をひいた。 背後に目をパチクリとさせた親友が立っていた。 「ごめんなさい。驚かせてしまったようね」 「いや……。つい物思いに耽ってしまっていたからね。ああ、そうか足音がしない訳だ」 ネリーもまだバレエ衣装から着替えていない。つま先だって歩くよう習慣づけられるバレエシューズでは足音が聞こえないのも道理だ。 「もうそろそろ、シャワー室も空いたと思うけれど――」 言葉を切り、親友は私の顔の中心で何か大切な印を見付けたかのようにマジマジと見詰めると、 「何かあったの?」 と尋ねてきた。 「特に何も。佳い秋空だなと眺めていただけだよ。ああ、そうだ。今はお昼は何を注文しようかな、と思っているけどね」 「譲葉が嘘を吐いているのは私、分かるのよ」 「……まいったな。お見通しか」 小学校からの付き合い。下手な言い訳では煙に巻けない。 「もしかして一年生の時のプリンシパル事件のようなことに為っている訳ではないわよね?」 「人をマイリー・サイラスのように言わないでくれ。僕はそこまでお騒がせ女じゃない。ただ、」 「どうしたの?」 「ハロウィンパーティでの演し物の件。それと個人での衣装が中々に凝っているやつでね。ここの所、寝不足なのさ」 「もう衣装の用意を始めているの? 早すぎないかしら?」 「去年の事を忘れたのかい? 帽子、眼帯、意匠を凝らしたデザインと船長服を作るのに死ぬ思いだったのを知ってるじゃないか」 「それは、そうだけど……」 人を疑うことをしないネリーには珍しく未だ疑いの目を向ける。私は、 「譲葉さん! 先生がお話があるそうよ!」 レッスン室のドアからお呼びが掛かり、 「……救いの神だ」 「え、今」 「バスキア教諭のお呼び出しだ。行ってくるよ」 言い、心の中でバスキア教諭に感謝しつつその場を後にしたのである。 だが、 ネリーに心配された時に理解するべきだったが、 「……譲葉さん」 「…………」 「……譲葉さん!」 「ん、あ、ああ。どうしたんだい?」 目を前に向けると白墨を手に持ち、こちらを訝しがるように見詰める担任教諭の目が。 「……分かっています。ええ、その英語を訳せばいいんですね?」 「ごきげんよう」 「……ああ。ごきげんよう。食事中に話しかけてくるなんて珍しいね。僕に興味があるのかな?」 「あ、いえ興味というか……」 「興味がない? それはおかしい。熱でもあるんじゃないかね?」 夢から醒めた気分の私はC調を気取り言う。と、花菱君は眉を顰めつつ私の手元を指さした。 「うん?」 「さすがに……ペッパーソースをかけ過ぎじゃありません?」 心此処にあらずだった所為か、注文したタコライスが朱く染まっているのを見、 「……辛党なんだよ」 そう、つまらない返事しかすることができなかった。 ――極めつけは、 「……っ」 料理部で指を切ったことでネリーに指摘された通り、平素の自分ではないとようやく理解した。 料理は苦手だがこんなヘマはしたことがない。いや、一度やってしまえば二度とは起こさない。 余程、懊悩に耽っていたのだろう。 (ネリーの言葉が尾を引いているのか……) 恋文だけならばそう思い悩むことはない。経験し、やり過ごしてきたことだ。 だが、 親友の言葉が悩みを二乗させていた。常なら浮かばない考え。 (いっそ付き合ってみたらどうだ?) 現実逃避からそんな考えまで浮かぶ。代替案。己に嘘を吐き、相手にも失礼なこと。 分かっている。しかし―― 「譲葉先輩! 血、ポタポタしてますよ!?」 大声で喚かれ我に返る。 「ん? ああ、そうだな。指を切ってしまった」 「早く保健室に行きましょう。治療して貰わなくちゃ!」 「深く切ったわけじゃない。舐めれば治るさ」 「そ、それならわたしが舐めます!」 手を上げる苺君に微笑ましく口の端を歪めてしまう。 「やれやれ。まるでジェリー・ルイスの喜劇だ」 「じぇりー?」 「――勿論、幾度も間抜けさ加減を指摘された自分が、ということだがね」 人差し指を咥え舐めると鉄の味がした。 酷く苦く感じる。 「八代先輩、行きましょう」 「っと。心配しすぎだよ。これくらいなら――」 「苺姉ぇ、そっちの手を持ってくださいですよ」 「よしきた!」 「ちょ……!」 左右を沙沙貴姉妹に挟まれ有無を言わさず連行されてしまったのである……。 ――保健室にて治療が終わった後、料理部に戻ろうかと歩き出した私へ。 「少しだけ付き合ってください!」 と、高らかに宣言した苺君に気圧された私は承諾してしまった。 してしまったのだ。だから、これは―― 「……励ますつもりだってことは分かるけどね」 「ふふふふっ! 落ち込んだら焼き芋ですよ! 焼き芋!」 ――確かに焼き芋は好物だが。 「火を使うことは了承を得てきていますですよ」 水の入ったバケツを指さす林檎君。 私はそういう意味ではないのだけどね、と心の内で呟きつつパチパチと音を立てるたき火を眺めた。 「……燃える火を眺めるだけでも落ち着くか」 「ふふ、何故か燃えている火を見てると穏やかな気持ちになりますよねっ!」 「暖炉で火が燃えているだけの光景をずっと流している番組もあるらしいですよ」 流石にと〈枕詞〉《まくらことば》を付け加えつつ苺君は、それって見る人いるの? と問うた。 「視聴率はなかなか高いらしいです。音が無くて寂しいだとか、何となくテレビを付けていたい人には受けるのかもですね」 深いのです、と林檎君は小さく何度も頷いた。 「……それと心が疲れている時は佳いのだろうね。ぼうっと眺めてしまう気持ちが分かるよ」 父が稀に旅番組を見ることがあったが――子供の頃は何が愉しいのか分からなかった。 レポーターが電車に乗り、風景を眺め、名跡を歩き、旅館の料理に舌鼓を打つ。 自分が行く訳でも、向かう予定がある訳でもないのに、何故そんな詰まらないものを見るのか。 (逃避先を探しているんだな……) 年を取ったことで分かる。 忙しく旅に出られないからこそ、遠く旅をしている自分を想うのだろう。 たき火の向こうに優しかった父の横顔を思い浮かべた。 「……いや、死んでる訳でもないってのに」 「譲葉先輩?」 「感傷的な気分に為って癒やされた。この上、焼き芋まで食べられるんだ。誘ってくれて嬉しいよ」 「えへへ……」 照れ、熱くなった頬を撫でる。私が微笑ましく見詰めていると、そうだ、用意していたのでしたと傍らの林檎君が立ち上がった。 「これ以上は貰いすぎだ。遠慮するよ」 「せっかく淹れてきたので飲んで欲しいですよ」 林檎君は芝生の上に置いてあったポットを手に取ると用意してきたカップへと注ぐ。 離れていても薫る、苦く芳醇な香り。 「どうぞ。お芋にはお茶かと思いましたが、八代先輩はコーヒー党ですものね」 「ああ、ありがとう」 そう見えるように振る舞っていたのは私だ。カップを粛々と受け取り飲む。 「……苦いな」 「苦いのが美味しいのではないのですか?」 「たくさんミル回したんだけどなぁ」 と、火の番をしながら呟く彼女へ細挽きにし過ぎたのだなと言う。 「ホソビキって何ですか?」 「粗挽きというのは聞いたことがあるだろう? あれは字のごとく粗く挽いた豆のこと。細挽きは細かくなるまで挽いた豆のことだよ」 なるほどと頷く双子姉妹へ、 「粗挽きはドリップした時、抽出され難いのですっきりした味で酸味が少ない。細挽きは抽出するので濃く酸味が強い」 「砕きすぎたから濃くなり過ぎてしまったのですね」 「それと恐らく火に掛けすぎたんだな。煮詰めてしまっている」 「そう……ですか」 落ち込む林檎君へ、慌てて手を振った。 「いや別段悪いことじゃない。これから甘い物を頂くんだ。多少苦い方が有り難みがわくってものだろ」 「そうだよ林檎。はい、出来ましたよ! 熱いですから舌ヤケドしないようにしてくださいね!」 既に剥いてくれている焼き芋を渡され、その甘くも芳醇な匂いに口角が上がってしまう。 息を吹きかけ冷ますと、一口頬張る。 「ん……。むっ、此奴は美味い……!」 「でしょう! お婆ちゃん直伝ですから!」 口中にねっとりとした甘み、そして焼き芋特有のやや焦げた香りが鼻腔に感じる。 一口、二口と食べ進める。 「ふふっ……ねっ、わたしが言ったとおりでしょ、林檎」 「脱帽ですよ苺姉ぇ」 「んっ……む。何が言った通りだって?」 「焼き芋は幸せの味。食べたら譲葉先輩が笑ってくれるって苺姉ぇが言ったのですよ」 「姉は常に正しいのです!」 えへんと胸を張る苺君に笑んでしまう。口中が甘さで飽和した私はコーヒーを一口。 「んっ。思った通りだ。なかなかに合うよ」 「それは佳かったですよ」 「こっちも焼けたみたい! わたしたちも食べよう!」 林檎君へと頃合いになった焼き芋を半分に割り、差し出す。妹へ多い方を渡すのを見て、流石お姉ちゃんだなと微笑ましく見詰めた。 しばし、蜜がたっぷりと詰まった焼き芋を三人で頬張る。美味しい物を美味しく食べられる喜び。 (ネリーだけじゃない。彼女たちまで心配させていたんだな) 目に入ってはいなかったが級友たちにも。 「譲葉先輩っ。バターを塗ると、ひと味違いますよ!」 「……ありがとう。苺君、林檎君。心配を掛けたようだね」 「べ、別に心配とか……!」 「もしかして進路のこととかですか?」 「り、林檎!」 どうやら、私の抱えている悩みをその辺りだと推察したらしい。 学生が悩むなら学業が一番前に並ぶだろう。次いで、本当の悩み“恋”も入るだろうが。 「……そうだ。担任教諭に進学のことで話をされてね。まだ一年以上あるが少しナーバスになってしまったよ」 「そ、そうなのですか……」 真実を語らなかったのは見栄とエゴだ。彼女たちには綺麗でいて欲しい。そして、彼女たちの中の“私”を崩したくはない。 林檎君はバターを塗った焼き芋を私の口元へと差し出してくる。面映ゆい思いはするが、唇を開き囓った。 「んむ……。少し気恥ずかしいな……」 きらきらとした大きな瞳が私を見詰めている。吸い込まれそうな真剣な美しい瞳。 「八代先輩。わたしの好きな本の中で、道を悩む若人にこう説いた言葉があります」 「“そんなに偉くなる必要はない。週に一度好きなモノが食べられるくらい稼げればそれでいいんだ”と。わたしとしてもそう思います」 真剣な目に――ああ、そうだねと安堵し頷くことが出来た。 私を励まそうとしてくれた気持ち、それが嬉しい。 「本当に大切なものは目に見えない」 「あ! 知ってる、星の王子様ですよね!」 「見えない物は、沙沙貴君たちの気持ちだ。だが――だからといって見えている物を適当にあつかっていい筈がない」 「ぁ……」 有無を言わさず林檎君の持つ焼き芋を食べる。さっきまでは平気だったのに私が芋を咥えているさまを見て、動揺し頬をさっと赤らめた。 「ぅぅ……」 「ん……んむ。これは見えている友情の証。二人の気遣いはとても甘くて美味しい」 私の表情を見て何かを察したのか、顔を見合わせる二人。 「ふふふっ!」 そして破顔し朗らかに笑い合う。 「――ありがとう。僕は佳い後輩を持った」 いつしか心の中にあった澱は消え失せ―― 〈秋天一碧〉《しゅうてんいっぺき》。 秋の空のような、わだかまりの雲が消えた心持ちと為った。 (前を向き答えを出そう) そう決めた私は、苦くも優しい味のコーヒーを飲み干したのだ。 「――さやかに星はきらめき」 だったんだな、と私は呟いた。 皆で歌い終わった後、ピアノ伴奏者がタッチを確認するため再び独奏しているのを耳にして、私は今まで自分が唄っていたことすら忘れていた。 そう昨夜の―― (恋文か) 時代劇に嵌まっていたせいか古風な言い回しで思い出したが、昨日ドアの隙間に挟まっていたのは所謂ラブレターというやつだった。 入学して直ぐの頃は散々送られたことから今更目新しくはない。只、ネリーとの親密な空気から察したのか、この頃は手紙は送られなくなった。 だから、 「……いや、そうじゃない」 久しぶりだからだとか、どう断るかだとかでここまで懊悩しているのではない。 親友との話から―― 「心此処にあらずみたいね」 「秋空だからさ。それに女心となんとやらと言うだろ?」 「使い方が少しズレているわよ」 その親友に思料していた気持ちを破られ、冗談だよと笑って見せた。 「……今朝から何か変よ、譲葉」 「親友だから擁護してくれるのは嬉しいがね。おかしくない僕なんて僕じゃないだろう?」 「そういうことを言っているのではないわ」 だろうね、と口の中で呟く。幼なじみである彼女だ、私が何かを隠していることは既に気付いているだろう。 しかし、何故悩んでいるのかなんてことは言えるはずがない。 「私が信用できないの?」 「何を言っているんだい、ネリー。僕は……」 「貴女が煙に巻こうとする時は一人で何かを抱え込もうとしている時だわ。親友の私にも相談できないことなの?」 合唱部の皆へと視線を投げかけ、誰の目もないことを確認してから私へと一歩迫る。 ネリーの香水が香った。 「……相談する程のことじゃないんだよ」 「それなら口にできることよね?」 常にない積極的な態度に戸惑う。と、彼女の背後におさげの救いの神を見、シニカルな笑みをこぼした。 「ここは笑うところでは――」 「あの……」 「え、あ」 「救いの女神だ」 「めがみ? あの?」 トレードマークのおさげを揺らし小首を傾げる彼女へ、女神のように制服が似合っているってことだよと言った。 「夏服も佳かったが、今の制服も佳い。まるで画家が描き起こした一人娘の肖像画のようだ」 「それは……褒めているんですか?」 勿論、と笑む。花菱君は何故だか胡散臭いものを目にしたように眉根を寄せるも、 「……あの、もしかして何か〈諍〉《いさか》いをなさっているのでは」 と問うた。私はともかく、ネリーは瞳をパチクリとさせ、頬を染めると違いますと言う。 「譲葉に、その、問いただしたい事があって……。皆に聞こえないよう話していたつもりだったのだけど……」 「大丈夫です。聞こえていません。ただ、わたしは八代先輩の様子がいつもと違うので様子を見ていましたので……」 そうなのですか、とネリーは頬を染めたまま頷く。 (後輩にも気付かれるくらいには懊悩していたのか) 自分が思っていたよりも己を逸していたことに腹の中でため息を吐く。そして同時に嬉しくもある。花菱立花という〈隣人〉《となりびと》に。 「ありがとう花菱君。心配して声を掛けてくれるなんて嬉しいよ」 「そんな! おせっかいな性分なだけで……」 「いや。声を掛けてくれなければ、惨事になるところだった」 「はい?」 「ネリーはなかなかにバイオレンスでね。問いただす際に肉体言語を使ってくるのだよ。また頭を殴られちゃかなわない」 「え、そんな……!?」 大げさに首を竦める私へ、花菱君は信じられないようなものを視る目をネリーに向けた。 ネリーは目をパチパチとさせるとみるみる内に頬と言わず耳まで染め、 「や、やめて、譲葉はもう!」 抗議するように拳を握り叩くふりをする。長年付き合っているからこそ解っている彼女の癖。 「ね?」 「あ……!」 つい出てしまった癖に恥じ入るように身を竦めた。 「あ、あの今のやり取りで冗談だったって解りましたから……」 「そう、そうよね。ありがとう花菱さん……」 しょんぼりしているネリーを労る花菱君。彼女はニヤついている私を見、小さく嘆息する。 「もう大丈夫なような気もしますけど……。八代先輩、合唱部の活動が終わりましたらお時間を頂けますか?」 小御門先輩も、と言われ、巫山戯ようとした私だが―― 「構わないよ。花菱君の招待を受けよう」 誘われたネリーが嬉しそうな表情を浮かべたため冗談を飲み込み、私は恭しく彼女の招待を受けたのである。 何だか後ろめたい。 私は出された紅茶を飲みながら頭を掻いた。 「たくさん用意していますからどんどん食べてくださいね」 にこりと笑みさつまいものパウンドケーキを勧める花菱君に後ろめたい気持ちはない。 「しっとりとしていて美味しいわぁ。作るの大変ではないの?」 「ホットケーキミックスを使っているのでそこまで難しくはないんですよ。こちらのさつまいものクッキーもどうぞ」 頂くわ、と満悦の表情でクッキーを頬張るネリーも同様だ。後ろめたい気持ちは……無いわけではない。が、 「お気に召しませんでしたか?」 「いや……」 ――白羽蘇芳、 彼女だけは特別だ。 「紅茶の味を堪能していただけだよ。花菱君の紅茶を味わう機会はなかなかないからね」 「私たちのお部屋に来ていただければ何時でもご馳走します。ねぇ立花さん」 「ええ。お二人なら何時でも」 嬉しいわ、とネリーは喜ぶが――私は対面に座っている蘇芳君の視線に耐えられない。 いや、 (八重垣君が話していた――妖精か、ゴシックホラーな感じとの批評だったが……) 後ろめたい私には後者のように思えた。 彼女の容姿はネリーと同じように美しいが故、近寄り難いものだ。 それは完成されたものへの――己が手を加えたことで台無しになってしまうかもしれないという恐れ。 しかし、今は―― 「このパウンドケーキは立花さんと一緒に作ったものなんです。どうぞ」 私の主観も相まってか凄みのある美人だと捉え、どうにも気圧されてしまう。 「頂くよ」 切り分けたパウンドケーキを私の皿へ移し、フォークで更に切り分けて食す。 卵と……おそらく蜂蜜を入れたことでしっとり感が増し、秋の味覚であるさつまいもも適度な正方形の大きさでカットされ、実に美味い。 美味いが。 「どうですか? お口に合いましたか?」 「ああ。最高だ。また腕を上げたね」 「有り難う御座います」 目を細め艶笑する。秋服の白さと彼女の黒黒とした長い髪が相まって鬼気とした壮麗さだ。 (そう感じるのは私の所為だろうけどね……) 料理部でも避けていた彼女。 そう、其れは―― あの日、白羽蘇芳へ告げた真実。 其れは彼女が欲した事柄でもあったが、全てを明かしはしなかった。 意地悪をした訳ではない。 只、私の口から言える事柄ではなかったのだ。 この学院で過ごすのなら――真実からは目を逸らす他ない。 何故なら―― 「お注ぎしますね」 「……ああ、ありがとう」 夢から醒めたような気分でカップに注がれる琥珀色の紅茶を眺める。 (後ろめたいのは秘匿したが故) 真実を口にしない私へ、蘇芳君が咎めていると感じているから。 「あの……」 「ん? 何だい?」 「八代先輩……。何か隠しているのではないですか?」 彼女の率直な物言いに聖堂での夜を思い返していた私は、ドキリと心臓が跳ねたのが解った。 「そうですよ。合唱部でもぼうっとしていて……何をそんなに思い悩んでいるのですか?」 「仰ってください」 ――どうやら、 「ふふっ、佳い後輩ね」 「ああ。自慢の友人たちだよ」 花菱君も蘇芳君も、 真実私を心配しお茶会を開いてくれたらしい。 「八代先輩。何か悩んでいるなら……。私、力になります」 恨んでもおかしくないと言うのに。 (好きになってしまいそうだ) ぐっと胸が熱くなる。 「済まない。花菱君にも蘇芳君にも心配を掛けてしまったみたいだね。僕の抱えている悩みというのは――」 ……だが、此処で私が悩んでいる事柄を吐露する訳にはいかない。 「ハロウィンパーティでの衣装のことなんだよ」 「衣装ですか?」 「ああ、そうなんだ。悩みのように見えたのは、連日の徹夜作業でぼうっとしていたからさ」 「それで心此処にあらずに見えた?」 そうだ、と答えると後輩二人は分かり易く肩を落とした。 「はぁ――」 「ん? 何だいそのリアクションは? 何だか重い悩みが無いといけないみたいじゃないか?」 「い、いえ。そういう訳ではないんですよ?」 「ええ。ほっとして……」 顔を見合わせる二人。気を回しすぎたとおさげを萎びさすアミティエへ、髪を撫で労る蘇芳君の様子が愛らしい。 「……本当なの?」 「ネリーは知っているだろう? 昨年のことを。船長服を作るのに死ぬ思いだったろ」 「それは……知っているけれど」 「船長? あ、あのハロウィンって恐い衣装でなくてもいいんですか?」 打開策を見付けた参謀のように目を輝かせる彼女へ、 「船長と言っても幽霊船の船長だよ」 と、答えると再びおさげが萎びた。彼女の期待には添えなくて済まないが。 「以前の船長服は、眼帯はともかく帽子――意匠を凝らしたデザインにしたお陰で死ぬ思いだったんだよ」 「解っているなら今度は違うものを、と考えているのですよね?」 前の轍を踏んでいないなら、何故寝不足になるのかと問うているのだ。 「だからだよ。以前のことがあるから冒険はしたくない。だが、前年度のことがあるから適当にもできない」 「適当な衣装だと前と落差がありすぎだって、がっかりされちゃいますものね」 その通りと紅茶を飲みつつ頷く。 「……ぼうっとしていたのは眠気の所為だったのね」 「誤解させて済まなかったね。お三方には詫びるよ」 立ち上がりマジシャンのような礼をする。何時もの私に戻ったと思い和やかな雰囲気へと変わった。 (嘘を吐いてしまったな) だが、 ――匂坂君のことで胸を痛めている彼女に恋愛相談なんて出来るものか。 「さ、誤解もとけたところで美味いスイーツに舌鼓といこう。僕はさつまいもには目がないんだ」 パウンドケーキを大きく切り分けると一口で頬張る。 秋空の元、朗らかな笑いが東屋に響いた――。 あの時は大変だったわよね――と彼女が言った。 食事を済ませ、そろそろ風呂にでも……と思っていた私の元へノックと共に現れた親友は、子供に語りかけるようにそう告げた。 「あの時とは?」 「去年の今頃だったわね。女の子を泣かせてしまったって落ち込んでいたでしょう」 全てを見透かしているかのように私へと哀しみを湛えた瞳で告げる。気取られないようシニカルな笑みをこぼした。 「もしかして誤解しているのか?」 「誤魔化さなくていいの。私には譲葉が嘘を吐いていたのは解っていたのだから」 長い付き合いだ。互いに互いの癖は理解している。だから尚更解らぬように……。 「……そうか。コロンボテクニックの時か」 私の呟きに小首を傾げるネリー。言葉の意味を知らぬ彼女へ、 「名前の通りさ。かの刑事が始めに何げない世間話を振ってから、相手が気を緩めた帰り際に重要な用件を切り出すやり方だよ」 急な問いかけに焦り正直に答えてしまうやり方だ、と告げた。観念した私へ、ネリーはその時よと頷く。 「白羽さんがお茶会が終わって戻り際の貴女へ耳打ちしたでしょう? その時に後ろ髪に触れ弄った。譲葉が嘘を吐く時の癖よ。子供の頃のね」 帰り際、蘇芳君は“友人の言葉ですけど、悩みは打ち明けた方が楽になりますよ”と耳打ちしたのだ。 不意を突かれ素になった私は―― 「――見抜かれていたか。流石は幼なじみだ」 親友と探偵の二人がかりだ。白旗を揚げる他ない。 「その様子だと……またあの時のように?」 「いや、あの時よりはマシだよ。少し前に恋文を貰った。それで……どうするか考えていたのさ」 「そう……」 女性同士の交際を尋ねられ“受け入れることは出来ない”と答えたネリーは思うところがあるのだろう、眉根を寄せる。 「どう答えたらいいか悩んでいたのさ。いっそ受け入れるのも佳いかもしれない。相手を作ったら頭を悩まされる事はなくなるかもってね」 「それは……」 何かを言いかけ言葉を飲む。続くのは“相手に失礼”か“基督教徒として赦されない”どっちだろうか。 親友は凝っと私の目を見詰めると、ややあって己のつま先へ視線を落とした。 可憐な彼女が俯くさまは、思っていた以上に私の心を鬱いだ。 「……冗談だよ。断る腹づもりだったさ」 「譲葉……」 「昨日はお気に入りのエチオピア・ネキセを飲みながら、映画史で最高傑作のパーフェクト・ワールドを見ながら泣いていたよ」 私の軽口に一握りの真実を感じ取ったのか愁いを帯びた表情を浮かべる。 「大丈夫……?」 「あの時は僕が幼かった所為で傷を作ってしまった。今度は……もっと上手くやるさ」 「違うわ。貴女の事」 平気だ、と言いかけるも言葉が出ない。親友は私の元へと近づき―― 「ネリー……」 「頼りないと思っているでしょうけど、もっと頼っていいの」 彼女の温かな指が私の髪を、頭を撫でた。 (あの時もこうして――) ――いや、子供の頃からずっと慰めてくれた彼女。 幾度となく泣き虫だった私を助け、慰めてくれた。 「……ありがとう」 幼い頃の自分を思い出し悩んでいた心が晴れやかになった。 悩む事なんてない。 私は、優しい指使いに耽溺し、ゆっくりと瞳を瞑ったのだ……。 ――気持ちが定まったからだろうか。 「くっ……ぁ」 大きく伸びをし、秋空を眺めた。 「……綺麗だな」 西日に照らされたうろこ雲をしばしうっとりと眺めた。 恋文を貰ってからこっち、これ程穏やかな気持ちで空を眺めてはいなかった。 ゆっくりと流れていく朱に染まったうろこ雲を眺め、私は一緒に眺めようじゃないかと誘った。 ええ、と遅れてきた彼女が言い、私の隣で秋天を望む。空から視線を切った私は、青磁色の瞳が優しい茜色に染まっているのに見惚れた。と、 「う……ん」 長い会議に私同様、身体が凝り固まったネリーは大きく伸びをし私へと向き合う。 「会議随分長く掛かってしまったわね。もうこんなに日が落ちている」 「秋の日はつるべ落としというからね。ついこの間までは暑さでへばっていたというのに、季節が巡るのは早い」 「ええ。もうハロウィンパーティだもの。大分話も定まったし、後は用意するだけね」 何事も終わりが定まっていれば後は簡単だ。ただ事を為せばいい。 「定まったから、か……」 「なぁに?」 秋空を眺め、気持ちが落ち着いた旨をつい口に出してしまった私は、ハロウィンパーティの催しだよと告げた。 「用意する手筈は大方済んだし、後は個人個人の問題だな」 「譲葉は、今年はどんな衣装を用意するつもりなの?」 「……そうだな。ん、僕だけ言うのもアンフェアだ。先ずはネリーの衣装を教えてほしいな」 私の問いに親友は口を開き掛けるも、何かを思いついたのか人差し指で淡い色の唇を撫でた。 「そうね。ただ教えるのじゃ詰まらないから……。譲葉当ててみて」 悪戯っ子のように笑む親友。刹那見惚れながらも推察する。 「うむ……。そうだな、ネリーなら……外国の王妃の幽霊、とかじゃないか?」 「え……!」 大きく目を見開き、私の顔をマジマジと見詰めた。 「驚いた。譲葉、貴女超能力でも持っているの?」 「ふふ、そんな能力があればベガスにでも行って一儲けしているよ。僕がしたのは只の推理さ」 長く付き合いのある彼女が裁縫が苦手なことは知っている。針仕事で凝った衣装なぞは作れないだろう。なら、 (既存の衣装を使ったものにするに違いない) ゴーストならドレスを破き、血で染めたら後は己にメイクすれば終いだ。 「ねぇ、何で外国の王妃の幽霊をするって分かったの?」 「ネリーの顔つきで和風の幽霊は似合わないだろ?それと王妃なのはドレスに説得力を持たせるためさ」 「! ドレスなのも分かっているの?」 「だからそんな目で視ないでくれよ。様式美ってだけさ。外国の幽霊だからってジーンズにパーカーじゃあまり怖くはならないからね」 ついでに言うと、彼女はゾンビは好まない。二択には為らないのだ。 「そう。そうやって聞くと確かにそれしかないって分かるわね……」 「幽霊王妃か。きっと綺麗だろうな。ハロウィンパーティが楽しみだよ」 「ふふ、褒めても何もでないわよ。はい」 言いながらも飴を渡す。有り難く頂く。 「それで、譲葉はどんな衣装にするの?」 「うむ……んっ。ベタなチョイスだよ。今回はドラキュラだ。前回使った幽霊船長の衣装も再利用できそうだしね」 「ヴラド3世ね! 譲葉に似合いそうだわ!」 頭の中で私の衣装姿を想像しているのだろう、スケッチするように指で四角を作ると片目をつぶった。 (ヴラド3世。確かドラキュラのモデルだった人物か) 幽霊譚にはそれほど興味がなかった私だが、ネリーと語らうことでその方面の知識が自然と増えていた。 まぁ私の方も、彼女を喜ばせようと少しは勉強したのだが。 「……うん。そうね。やっぱりドラキュラの衣装なら、あの生地は映えるかも」 何が、と尋ねる間もなく、 「行きましょう!」 腕を掴まれ、親友の奇行に付き合うことにしたのである。 相変わらず独特の匂いがするな―― 寄宿舎の二階にある――被服室。 普段出入りしないこの部屋は換気を十分にしていないからだろうか、空気が少しばかり澱み冷やとした異質な空気を肌に這わせた。 (あまり佳い思い出がある場所ではないんだよな) 幽霊船長の衣装の兼ね合いで缶詰し、先輩からこの部屋にまつわる怪談で脅かされた思い出が蘇る。しかし、 「ねぇ、この生地をみて。これマントに合いそうじゃない?」 棚に収納されていたビロード生地を見せ私へと喜色満面に告げた。 「ああ、確かに佳さそうだ」 「でしょう。やっぱりドラキュラならマントは必須よね」 怪談なぞ何のその。今は衣装に夢中のようだ。私はネリーを相手にしつつも、部屋に置かれているマネキンを眺めた。 「……流石に夜の作業中は佳い気分はしなかったな」 「うん? なぁに?」 「いや、何故、被服室なのに鏡が置いてないのかってね。マネキンを置くなら先ずは姿見だろ」 試着した感じ、寸法を測るためのマネキンを用意するなら、その前に大きな姿見を用意しろと思う。 ネリーは私の言葉にコクコク頷くと生地を置き、血のように染まるマネキンを注視した。 「鏡……。そうね、私も疑問に思ったわ」 「だろ?」 言う私へ、マネキンを眺めていたネリーは別人のように歪んだ笑みを見せ、 「ねぇ知ってる? ある時期にモーテルで自殺者が急増したって話」 「……急な話題転換だな」 鏡で思い出したのよ、と言うとネリネは物言わぬマネキンを見詰めながら続けた。 「急激な増加をした自殺者にどうしてだろうって、とある機関が調査したそうなの」 「すると、その当時大人気だった備え付けの……。ある物の所為だと分かったの」 「話の流れからすると、鏡かい?」 「ええ。鏡張りの部屋に“独り”というのは精神的に耐えられないそうなの。だから――」 「――被服室には置いていない? まぁ、根を詰めて独りで作業している時……」 想像してみる。暗がりの中、背後に人の気配を感じ振り返ってみた自分を。 「鏡の中に自分以外の何者かが見えたら絶叫してしまうだろうね……」 「自分が少しだけ変わって見えるというのも嫌ね。真顔で見詰めているのに鏡の中の自分は笑っているとか」 やめてくれ――想像し身震いしてしまう。正直怖い話は得意ではない。 (お話としては好きだが……) 実体験と名が付いたやつはダメだ。己の身に置き換えてしまうと風呂に入るのが憂鬱になる。 「譲葉は鏡で怖い話を何か知らないの?」 「僕が知っているのはベタなやつだけさ。鏡に向かって“お前は誰だ”と言うヤツとかね」 「聞いたことがあるわ。鏡に向かって話しかけたりするのよね」 「……細かくはしらないが、そんな感じの話だったな」 何かの人体実験というていでのお話だったかとうろ覚えの記憶を探った。と、 彷徨う視線は血の色に染まるマネキンを見、背筋に嫌な冷たさを感じた私は、話題を変えるためにシニカルな笑みを浮かべた。 「それはそうと知っているかいネリー。化け猫が行灯の油をなめるって描写があるだろ? あれは蝋燭が好きだからじゃないんだ」 「当時は安い魚油を使っていたからの描写なんだよ。一般市民は蝋燭なんて高級品でとても手が出なかったんだ」 「当時の食生活は野菜が主だったからね。その残りを餌として与えられるネコも、魚――タンパク質に飢えていたんだろう」 「そうだ。魚といえば川だが、川にも怪異譚は多いね。川の怪異といえば――」 そう、話を少しずつスライドさせていくことにした。かつて怪異があったと言われる場所で、そのものズバリの怪談話はちと辛い。 そして―― 「――川の怪異ねぇ」 「そうだ。川と言ったら、吸血鬼は川を渡れないという伝承もあったね」 「ええ。ヴラド3世――」 そう言ったところで、そうそうマントだわ! と、当初の話題に戻った。スライド成功。 「裏地が赤のビロード生地なんだけど、表は黒地なの。これってマントにするのにぴったりじゃない?」 「うむ、確かに。これなら手直ししてマントにするのも大分楽ができそうだ」 ビロード生地を手に取り滑らかな触り心地に、いいなと呟く。 「そうでしょう!」 どうやら怪談話から話題は衣装へと完全に取り戻せたようだ。 ネリーは生地を持ち、私へとあてがい―― 「…………っ」 彼女の手が寸法を測るために私の肩に触れ――目測を誤ったのか胸に触れた。 「どうしたの?」 「……いや何でもないよ。生地は十分かな? マントならせめて膝くらいまでは欲しいからね」 「そうね。少し見てみましょう」 ネリーの香水が鼻腔をくすぐり、手が私の肢体に触れ少しばかり拙い心持ちになる。 (今が夕暮れ時で佳かった……) 顔が赤くなっているのがバレないで済む、と心の中で付け加える。だが、 「……譲葉」 私の想いに気付いたのか、ネリーは青磁色の瞳で訝しげに私を見上げた。 頬を染めていたことに気付いたのかと、どう言い訳したら佳いかと臍を噛む。 「ふふっ」 「ど、どうしたんだいネリー」 「以前もこんなことがあったなって思い出したの。あの時はこの生地がタオルで――」 ふわっと柔らかな生地で首を愛撫する。 「譲葉はずぶ濡れだった」 首元をくすぐられ――私はそんなこともあったなと呟いた。 「小学校の時、急な雨に降られ二人でずぶ濡れになって……ネリーの家で服を借りた」 「一緒にお風呂に入ったわよね。今じゃ絶対に一緒にお風呂なんて無理ね」 この前も一緒に入ったじゃないかと言うと、家のお風呂でよ、と返された。 「……お互い成長したものな」 「ふふ、そうね。私の家のお風呂では無理。昔は私の方が背、大きかったのにね」 「そうだな。服も借りられない」 そこまで差はないわよ、と拗ね頬を膨らませる。二人きりの時だけ見せる昔からの癖。 (そうだ。私は子供の頃から――) 己の気持ちを再確認する。 子供の頃から潜めていた想い。 うん? と小首を傾げ私を見上げる親友に、頬がこれ以上染まっていないか見破られぬよう、ビロード生地に顔を埋めた……。 «立派に死ぬことは難しいことではない。立派に生きることが難しいのだ» 映画、“無防備都市”での言葉を思い出す。 昨日と地繋ぎのような夕映えを前に、首に触れた。 親友からビロード地越しに首へと触れられた感触が蘇ったからだ。そして、 (幼い頃から抱いていた気持ち) それを再確認した。思い出された瞬間だった。 虚ろな――どこか諦観した心持ちに為っていた私は―― 「――お返事を返して貰えるとは思っていませんでした」 恋文を送ってくれた相手、下級生のその子に、 「真摯に向き合ってくれた。だから僕も真摯に向き合わなくては為らないと思った」 そう上っ面の言葉を吐いた。 彼女は一度怯んだような表情を作り、次いでぎこちない微笑みを浮かべた。 「きちんと――断ってくださってありがとうございます」 嗚呼、彼女は……。 「私は……どうしても気持ちを伝えたかった。だから、」 ありがとうございます、と再度告げる。 (私とは違う。卑怯者ではない) ここ数日での出来事から己の気持ちに相対しなければ為らないと思った。 そして己の真意を伝えなければと。 手紙には、返事はなくとも佳い旨が書かれていた。しかし、私は伝えずにはいられなかったのだ。 「最後にひとつだけ答えてくださいますか。八代先輩は――誰か想う人がおられるのですか」 縋るような瞳。その双眸はひたむきで口を閉ざすことなど出来なかった。 「――居ないよ」 閉ざすことが出来ない唇は――嘘を吐く。 彼女は一瞬だけ信じられないほど悲しい顔をした。 私は恥じた。 自分がどれほど酷いことをしたのか思い知ったのだ。 「ありがとうございます。八代先輩」 彼女の足音が聞こえなくなった事に気付いたのはそれから暫く経ってからのことだった。 (時として嘘の方が幸せなことがある) どこかで耳にした安い言葉が浮かぶ。 今更自己弁護かと乾いた笑いを口元に浮かべた。 「……やっぱり臆病者だ。変わらない」 ネリーと出逢う以前のままだ。 己に自信がなく、臆病で、卑怯者だった自分。 彼女と出逢って変わったのだと思っていた。 だが、三つ子の魂百までというやつだ。人の性質なぞ、そう変わりはしない。 そう、変わりはしないのだ。 ――否、 「……蘇芳君」 夕映えの中に彼女の姿を視た。 おどおどとし、確固とした己がなく、流されているように思えた少女。 私は白羽蘇芳に己を観た。 ――過去の自分と重ねていた。 だが、 小心者だった蘇芳君は―― ――匂坂マユリの為に変革した彼女は私へと迫った。 聖堂に呼び出された私へと彼女は滔々と語った。 夏月に起きたフックマン騒動を己が始めたことだと告げ、それは匂坂マユリが消えた理由を探るためである、と。 そして、 『――三ヶ月程前、温室で頭を負傷する怪我をしましたよね』 『え、あ、ああ……。あの時は迷惑を掛けた。僕が起こした事故だったというのに、匂坂君にも迷惑を掛けてしまった』 『あの時の事故は、本当に事故だったのですか?』 『…………』 『――この学院には聖母以外のマリアがいるのですね。“真実の女神”が』 磔にされた哀れな基督を睨み告げる少女。 黙したまま刻は過ぎ、蘇芳君は緩慢に視線を私へと戻す。覚悟の決まった視線に私は射竦められた。 『八代先輩は知っておられるのでしょう。どうかお願いです。真実を私に教えてください』 瞳とは裏腹に言葉は懇願するものだった。 『……そうだ。君が推察した通りだ。この学院には神がいる。もう一人の女神がね』 『やっぱり……。マユリはそのことを伝えて、彼女は私に助けを求めているんだわ――!』 嬉しそうな、しかし、悲しそうな――複雑な表情を浮かべた彼女は私へとすがりつく。 私が知る真実を教えてくれ、と。 だが、 だが――彼女へすべてを明かす事はできない。 『知らない方がいい』 そうだ。この時も、脳裏にあの文言が浮かんだ。 “時として、嘘の方が幸せなことがある” しかし、弱い心を継ぎはぎした私とは根本的に違う――変革した彼女は諦めきれないのだと激しく迫った。 だから私は、想い人がいないかと下級生に問われた先刻と同じように、このときも嘘を吐いていた。 否、嘘ではない。 出来ぬだろうと高を括ったからだ。 『――謎を解く鍵なら教えてやってもいい』 真実を伝えることは出来ない。 だから、一筋の希望だけでも与えてやろうと―― ――引き継ぎだよ そうさ、僕の役職を君が引き継ぐんだ ニカイアの会の会長と為れたら―― 真実の扉の鍵を与えよう 会長を引き継ぐ際の――代々伝えられる文言に“真実の女神”へと至る鍵が在る 白羽蘇芳は私とは違う。 出来ぬと高を括った言葉に、条件を呑み、行うと誓った。 真っ当な心を持つ少女。 「僕はどうしたらいいんだろうね。ネリネ」 呟く言葉は夕映えに消え、私は酷く心許ない幼子のような己に立ち返っている事を識ったのだ……。  静かな温室で告白をするあの人――八代譲葉を盗み見て、わたしは困ったことになったと思った。  盛夏に転入してきた同じクラスの子が、八代先輩に告白するのを見て。  二人が語らうのを盗み見て、わたしの中の凪いでいた水面が、風に吹かれじょじょに大きな波紋を広げていくのを感じた。  姉が好きだと明言したときには感じなかったもの。  この心の動きには覚えがある。だから――  $(この気持ちは――)  わたしは残映に瞳を細めながら、少しずつ凪いだ水面が揺れ、小さな波を立て始めた予兆を思い返していた。  初めて八代先輩に本当の意味での親しみ――いや、親密な気持ちを抱いたのは彼女が花瓶の水を入れ換えているのを見付けた時だった。  八代先輩は中性的で、女性的な事柄からは一歩引いているのだと思っていたわたしは驚いたのだ。 「ごきげんようです。八代先輩」  そう呼び掛け挙動不審になる彼女へ問いかけると、いつも水を入れ換えていたこと。  そして、時期がきたら新しいお花に生けていたことを聞いた。  ガーデニングの授業でお花を前にした時、穏やかな顔つきになるのを知っていたけれど――  失礼ではあるけれど、こんなにも女性的な細やかな機微を持っているとは思っていなかった。  そして自分が女性的なもの、ことをするのを恥じていると知った。  わたしはその感性に――�自分と似ている�そう共感した。  誰にも吐露できない、隠すべき感情を持っている。ただそれだけなのに。  恥じらう彼女の素顔が好ましく思えた。  $ そして――  姉と二人でウサギ小屋に餌をあげに赴いた時、同じく餌を持ってきた八代先輩と話したことでまた一つわたしの心に小さな波が立った。  わたしがあげた児童文学を知っていてくれた事も嬉しかったし、わたしと姉のハロウィンの衣装を真剣に考え悩んでくれた事も嬉しかった。  だけれど、明確に心の水面に波紋が広がったと感じたのは八代先輩が憧れの人物を語ってから述べた言葉。 �大勢の前で動じない信念を持つ彼女に感銘を受けた�のだということ。  それはわたしが目指す、誰の前でも動じない自分という個を持つことに類似し――  次いで語られた�頼れる自分に為っていたかった�という言葉。  これもわたし以外の誰かに為りたいという感情をずっと抱えていた自分に強い親近感を持たせるものだった。  ……そう、わたしが持っているのは親近感だけの筈だった。  でも、告白を受けている彼女を見て――心に明確なさざ波が立った。  その感情というさざ波の所為で鼓動が速くなり、視野は滲んだり、明瞭になるのを繰り返した。  二人の会話は聞こえてはいなかった。  けれど、告白した子が丁寧なお辞儀をし、八代先輩の前から立ち去ったのを見て――彼女の恋が成就しなかったのが察せられた。  でも、わたしの視野は変わらず、鼓動は早鐘を打ったまま。  $�困ったことに為った�  $ その気持ちは変わらない。  何故ならわたしは姉が好きなあの人の事を、  あの時と同じように好ましく思っている。  いや―― �わたしは八代譲葉のことが好きになりつつあるのだ�と頭でなく心で理解していた。  自分の心へと語りかける。以前と同じように自分の気持ちに蓋をしよう、と。  $「――どうして」  だけれど、さざ波だったわたしの心に声は届かなかった。風の強い日に対岸に向かって声を掛けあっているみたいに。 オズの魔法使いという童話がある 竜巻に遭いおとぎの国であるオズの地へと降り立ったドロシー 偶然に怖ろしい東の魔女を退治し、マンチキンの国を救った彼女は―― その場に居た優しい北の魔女から、家に帰るためにはエメラルドの街に行かねばならぬと教えられた 父母の元へと帰る為、決意したドロシーは黄色い煉瓦敷きの道を頼りに歩き出す その旅の途中最初の同行者と出会う。“かかし”だ かかしはどうにかして木の棒に括り付けられた身体を外し、脳みそを得る為に旅の同行者として共にいけないかと懇願する 熱意の篭もった演説の反面ドロシーは物語の中であっさりと同行を許した。簡単に仲間に迎え入れた事に、私は酷く動揺したのを覚えている かかしにとって世界が変わるほどの選択。それが出逢い、語り、ものの数分で拓けていく感覚 これから始まるお話は“選ぶべき道を軽率に選んだ愚か者”のお話 ――父の気持ちが分かるな 餌をついばむ熱帯魚を眺めながら酷く落ち着いた心持ちに為った。 転勤族だった父は引っ越しのことを考え、家にほとんど趣味のものを持ち込むことがなかった。 だが、唯一アクアリウムだけは幾度となく引っ越しを繰り返しても止めることはなかったのだ。 初めは水草だけを育てていたようだったが、私が極彩色の魚に興味を持ったことから熱帯魚を飼うことにしたようだった。 家に帰るのが遅い父の代わりに水槽のメンテナンスをし、熱帯魚の世話をした。 実際は――熱帯魚が主役の映画を観て興味を持っただけなのだが。 (可愛いとは思っていたが……) 動きの読めない熱帯魚を俯瞰で眺めていると、驚くほどに心が落ち着いていくのが分かる。 父は激務の仕事と家庭を守る合間、アクアリウムを愛でることで癒やされていたのだろう。 「……僕も疲れが溜まっているのかな」 十月も初旬を過ぎようとしている。 ハロウィンの準備も本格的に始動していたのだ。 各所への進捗、クラブでの催しはそれほど手は掛からないが―― 個人で用意する催し物などは、請われればニカイアの会でも手を貸さねばならない。 そして衣装の制作。これは全ての学院生徒に課されている。 「……お前たちは幸せだな」 のんびりと泳ぎ、喰い、寝る。その動物的な明快な生活が羨ましく口の端を歪め呟いた。熱帯魚は危険を察知したように身をひるがえす。 何だよと水槽を突いていると、ガラスに影が映るのが視え、 「ごきげんよう。今日は珍しく一人のようだね」 言い、背後に立つ彼女へと向き直った。 「ごきげんよう……というのでしたね」 学院の挨拶にまだ慣れていない考崎君は美しい眉を顰めつつも挨拶を交わし、いつも一緒にいるわけではありませんよ、と弁明した。 「そうかい? 見掛けるときは八重垣君と常に一緒のような気がするのだけどね」 「介助をしていますから。それで八代先輩は……熱帯魚のお世話ですか?」 「実家でも飼っていたからね。寮長に頼んでたまに餌をやったり水槽の掃除をさせて貰っているのさ」 「へぇ」 「なんだい?」 「いえ、八代先輩はあまり動物が好きではない方だと思っていたので」 「ん……。そう見えるのかな。蛇以外なら大概の動物は好むのだけどね」 以前級友から動物好きに見えないと言われたことを思い出す。そんなにらしくないのだろうか。 腕を組み唸る私を見てか、考崎君は微かに笑んだ。 「八代先輩のお気持ち分かります。私も動物嫌いに思われるので」 言われてみれば……。そう見えないこともない。 泰然とした――己を持っている考崎君は動物と戯れているイメージは湧きづらいのだ。 「……自分も同じように思われているのかな」 唸る私に、考崎君も水槽を白く長い指で突き、熱帯魚を愛でた。 「八代先輩はペットを飼ったことがあるのですね。少し羨ましいです」 「考崎君は飼ったことがないのかい? ん、ああ、芸能のお仕事をされていたのだったね。そんな暇はないか」 「ええ。正直少し前までは何とも……好きでも嫌いでもありませんでした。でも――」 「そういえば一時、ウサギの世話をしていたね」 「はい。初めは義務感からだったのですが、触れると壊れてしまいそうな感触だとか、私が世話をしないとダメなところとか――」 自分が語っていることに今気付いたのか、微かに頬を赤らめ、 「――世話をすれば応えてくれるのが嬉しいかも、です」 と言った。熱の篭もった話し振りに、なるほどまたぞろペットを飼ってもいいかもしれないな、と呟いた。と、 孝崎君は微かに頷くと、夏の時分にウサギの世話をしていたことを言い、出来るならば飼ってみたいのだと続ける。 「八代先輩は飼うならどんなペットが欲しいですか?」 やはり犬かな 鳥なんかはどうだろう 珍しく突っ込んだ質問に、内心驚きつつも、 「うむ……。やはり犬かな」 と答えた。 「王道ですね」 「王道か。猫派の者に石を投げられそうだが、やはり分かりやすく懐いてくれる動物がいいな」 「それなら熱帯魚は違うのでは?」 「世話をしている者の顔は覚えてくれるものだよ。挨拶をすれば寄ってくるくらいにはなる」 「なら、お魚もいいですね」 「ああ。だが分かりやすく甘えてくる動物も飼ってみたい。顔を舐められたり思い切りお腹を撫で回してみたいからね」 長く抱いていた願望に、何故だか考崎君は瞬きすると微笑み、 「何だか可愛いですね」 と言った。 「え、あ、犬がかい。そうだろう。君も犬派になりたまえ」 「違います。八代先輩がです。可愛い」 「ぅ、ぁ、ありがとう……」 率直な意見に思わず頬に熱を感じた私は、誤魔化す為にこほんと咳を一つした。 二人きりでの個人的な会話は初めてだな、と思いながらも小学校で世話をしていた鶏を思い出した。 「以前、小学校で鶏を世話していたことがあったが、あれもなかなか愛らしかったな……」 「……鳥、ですか?」 「ああ。ああ見えて賢い。今は鳥インフルエンザなどで飼っている学校は少なくなってきたらしいが――」 「名前を呼ぶと駆け寄ってくるくらいにはなる。手乗り文鳥とかも昔憧れていたな」 以前通っていた学校での手乗り文鳥ブーム。手の上で餌をついばむ姿が愛らしいと語るも、考崎君は表情を強張らせていた。 「…………」 「もしかして……。鳥が苦手だとか?」 「……えりかには言わないでくださいね。他の動物は平気なのですけど、どうしても鳥だけは苦手なんです……」 「そうなのか。珍しいね」 「目も感情が計れなくて苦手なのですが、特にクチバシが苦手で。視ていると目を突かれそうな気分になって……」 「名前に“鳥”が入っているのにねぇ」 「知った人は皆言いますね、それ」 そう、苦い物を口にしたような顔つきで言ったのだ。 「――それで放課後のこの時間に熱帯魚の世話をするなんて、ハロウィンパーティの準備の方は順調に進んでいるんですね」 「順調だよ。スイス時計のように動いている」 熱帯魚を横目で見ながら、だが――と口を開いた。 「事も無し、にさせる為にはそれなりに苦労が多い。だからこうして心の平穏を欲して熱帯魚と戯れているのさ」 「そうなんですか。あまり疲れた風には見えませんけど……」 容姿の所為かしら? と生真面目に眉をひそめる彼女へ、 「クォーターはクォーターなりに容姿の悩みがある」 「ぁ、そうですね。済みません……」 恐縮する彼女へ首を竦めて戯けて見せる。 「なに。名所、旧跡へ旅行に行くと必ず観光客に共に写真に写ってとせがまれる。外国人然とした顔つきが珍しいのだろうね」 「外国人とかではなく、八代先輩だからだとは思いますけど……」 小声で呟く考崎君を見て――これ程言葉を交わせるような間柄になるとは思わなかったなと心の内で呟いた。 つい微笑ましくなり彼女の線の細い美しい顔つきを眺めてしまう。 「あの……。何ですか?」 「いや、随分と穏やかな表情になったものだとね。初め会ったときは硬い顔つきだったからね」 私の言葉に何かを言いかけるも、言葉を飲んだ。 「やはり八重垣君との出逢いが変えたのだろうね。新しい道に乗ることが出来た」 「――そうですね。えりかのお陰です」 頬を仄かに朱に染めながら囁くように告げる彼女へ、指で熱帯魚をからかいながら――対等の立場だと言うのが佳い、と口にした。 「対等、ですか?」 「そうさ。互いに同じくらいの気持ちであることが望ましい。どちらかが強く依存しているカップルは破綻してしまう」 「そうですか……。私としては少しくらい頼りあう関係の方が佳いと思いますけど」 それは今が健全だからだよ、と口にしそうになり言葉を飲み込む。口に出すつもりではなかったのに、彼女と八重垣君を思い……。 否、あの日――下級生に見抜かれた私のいびつな想いをつい吐露してしまったのだ。 私は取り繕うために、適当な言葉を口にする。 「対等というのは5対5ってことだろ。力関係が崩れていくと6対4、7対3となっていく――」 「いいかい考崎君。こいつを掛けてみると5×5は25だ。6×4は24。7×3は21。徐々に歪み弱まっていく」 「……一瞬頷けましたけど、それってこじつけなんじゃないですか?」 〈牽強付会〉《けんきょうふかい》だと分かったようだ。私はシニカルな笑みを浮かべ、 「健全な関係はそれだけ尊いということだよ。失ってからでは遅い、今の関係を大切にしたまえ」 最後の最後まで余計なことを言った私は、はいと頷く彼女のはにかむ表情から避けるように、ニカイアの会へと向かう旨を口にしたのだ……。 図書室からの帰りなんですと花菱君は言った。 「八代先輩はニカイアの会ですか?」 「ああ。少し前に終わったところさ。その後――」 考崎君に余計なことを言った所為でまたぞろあの日の出来事を思い返し、現実逃避をしていた。 とはいえず、 「校内を少し見回っていたんだよ。しかし僕としたことが見逃しがあったとはね」 私より後に校舎から出てきた花菱君を指さし言う。彼女は笑い、 「八代先輩を出し抜いたなんて、ふふ、名誉ですね! あ、そうです寄宿舎まで一緒に帰りませんか?」 「ああ、構わないよ。と、いうか……蘇芳君とは一緒ではないのかい?」 暗に彼女は待たなくていいのか、との問いにおさげを揺らし言う。 「今日は図書委員の日ではないんです。わたしが個人的に本を読もうって……」 「アミティエの趣味に合わせてみたってわけか。花菱君は本当に佳いアミティエなんだね」 いえ、と照れおさげを弄る彼女を微笑ましく見遣る。手に持つ書籍が気になった私は、 「それでどんな本を借りたんだい? アミティエの趣味に合わせるなら実用書系ではないのだろ?」 「え、ああ。これです」 言い差し出した本は―― (三島由紀夫の『仮面の告白』か……) 「八代先輩?」 「いや、以前読んだことがあるが面白かった。目の付け所が佳いね」 再度照れる彼女を横目にしながら、今の気持ち。そして、仮面の告白を読んだときの感情が蘇り、 「出来すぎだな……」 そう呟いてしまった。 「八代先輩は何をプレゼントされると嬉しいですか?」 寄宿舎までの帰り道、不意に出た話題に道すがら考えていた悩みが漏れ出たのかと思い、純粋に驚いてしまう。 「急な話題だね。誰かにプレゼントでもするのかい?」 「ええ。級友のお誕生日は必ず祝うようにしているので……。八代先輩は今まで頂いたもので特に嬉しかったものはありますか?」 「そうだな……」 バースディカードでも送ったらどうだい 花菱君が迫るのはどうだろう 父から貰ったものは大体がサッカーボールや野球一式のセットなど実用品が多かった。 だが、 「バースディカードかな」 病床の母から貰ったカードを思い出しつい素直に言葉が零れ出てしまった。 「え? バースディカードですか? それは嬉しいですけど……。どちらかというと――」 「……すまない。そうだな、カードはオマケみたいなものだ。もう少し考えてみるよ」 言い、何かないかと眉を掻いた。 眼鏡の奥の真摯な瞳を視――ついからかいたくなってしまった。 「……あまり深く考えすぎなくてもいいんじゃないかな」 「え? 何がですか?」 「プレゼントだよ。こういうものは古来から贈る気持ちが大切と相場が決まっているだろ?」 そうですね、と無垢な笑みを浮かべる花菱君へ、 「え、きゃっ!」 「自らがプレゼントだと迫ったらいい。きっと蘇芳君も喜んでくれる筈だ」 「なっ――何で蘇芳さんの事になっているんですか……!?」 「花菱君がプレゼントするのだろう? なら相手は蘇芳君に決まっているじゃないか」 「ちっ、違いますっ! 蘇芳さんの誕生日は三月で……。ああ、八代先輩、そんなに近づかれたら、は、恥ずかしいです……!」 「ふふ、そうだね。花菱君のハートは蘇芳君だけのものという訳だ。残念」 言い、鼻の頭まで真っ赤に染まった愛らしい後輩から離れたのだ。 夕日に照らされ朱く染まっている後輩を眺め頭を悩ませていると――涼秋に首元を撫でられ背筋を震わせ竦む。と、 「……そうだ。そろそろ寒くなる頃だしマフラーや手袋なんてのはどうだろう」 「マフラー、手袋ですか? 少し前に届きましたけど……」 「そうではなくて手編みさ。乙女チックでプレゼントには最適じゃないか?」 「確かに……。蘇芳さんから貰ったら死んじゃうくらい嬉しいですけど……」 やはり蘇芳君じゃないか、とにんまり笑ってしまう。 そうか。マフラーか。 「……考えが読まれたかと思って焦ったが」 「はい? 何ですか?」 「いや、悩むくらいなら動いてみようと決めていたところだったのさ」 「ハロウィンのことですか?」 (ネリーの誕生日プレゼントのことだよ) 十月十七日―― 期せずして花菱君に後押しして貰った気分に為った私は、彼女の背を叩くとありがとう、と伝えた。 「はい、いえ、どういたしまして?」 どうするかはその時次第。 だが、親友の誕生日を祝えたその時何かが変わると――変化を嫌う私が確かに期待を抱いたのだ。 当てが外れたな、と頭を掻いた。 昨日、花菱君との会話からネリーへの誕生日プレゼントを編み物にしようと決め、虎の巻を探しに来たのだが―― (遅きに失する、というやつだ) よく考えなくとも今はハロウィンの準備中。 衣装制作の為に洋裁の――その手の本は貸し出し中がほとんど。 「……こういうことなら編み物も修めておくんだったな」 当然、編み物の本も貸し出されたままだ。 父のコートのボタン付けから始まり、弟が破いたズボンへの針仕事。そこを間口として洋裁のやり方は学んだが編み物は手付かずだった。 小学校の頃、一時期流行ってはいたが何となしの気恥ずかしさから学んでいなかったのだ。 「……蘇芳君は」 ちらりと執務机に視線をやってみるが座していない。当番の日ではないのだ。 ニカイアの会の会長に成れと焚きつけてから、気まずさを感じていた私は少しばかりほっとする。 居て欲しいが、対話することに緊張する。相反する思い。 「さて、どうしたものか……」 虎の巻が見付からない以上、誰かに教えを請うにしても内緒にしてくれる口の堅い者を選ばなければ為らない。 いや口が堅くとも、身近な相手ならついネリーへ漏らしてしまう可能性がある。 なら、ニカイアの会の者は……いや、そもそも同級生は拙い。だとすると消去法で―― 「望みの本が見付からないみたいですね」 不意に背にかけられた声音にびくりと身を竦ませた。声の主へと私は向き直り、 「やった。初めて驚かせた」 そう――猫の笑みを浮かべた八重垣君がいたのだ。 「……蘇芳君を笑えないな」 「何がです?」 「頭がいっぱいで周りが見えなくなっていた。後ろを取られるとは一生の不覚だ」 最近嵌まっている時代劇を真似、指で剣道の構えを取る。八重垣君は猫の笑みを浮かべたまま、 「猫のように抜き足差し足って具合で驚かそうとしてましたからね。ああ、足がコレだから、勿論比喩表現ってやつですがね」 自分の腿をぴしゃりと叩き言う。 「で、八代先輩は何を探しているんです? 最近、よく此処で会いますが今日も料理本捜しですか?」 「いや――」 編み物のと口にしようと開くが、“らしくない”かと気恥ずかしく、 「――『仮面の告白』でも置いてないかと思ったのだけどね」 と呟いた。 「ああ、三島由紀夫ですか。少し前、千鳥が嵌まっていたな」 こちらも昨日、花菱君がくだんの本を持っていたからとの連想だったが――もしかしたら考崎君から薦められたのかもしれないなと思料した。 私は素知らぬ顔で彼女も書痴なのかい? と尋ねる。 「いやそういう訳ではないんです。ただわたしと同じ物を知っていた方が話題が合わせやすいだろうって事で……」 「そいつはアミティエ冥利に尽きるね」 「……まぁ、有り難いですかね」 微かに頬を赤らめそっぽを向く。そうしていると年相応に見える。 「三島由紀夫もいいが、折角だ。八重垣君のお薦めを読んでみるとしよう」 「わたしは特にコレが好きって本はありませんよ。小説も実用書も辞典だって隔てはない。暇がありゃ何でも読みます」 「そいつは――」 確かに書痴だ、と告げる。八重垣君は猫の笑みを浮かべ、 「逆に八代先輩のお薦めってやつを知りたいですね」 「書痴に薦められるものはないが……」 国語辞典はどうだい? オズの魔法使いは…… どんな書物、辞典においても愛情に隔てがないと話してはいたが……。 「それじゃ国語辞典はどうだい? 八重垣君なら楽しめるんじゃないか?」 意地の悪い質問を投げかけてみた。彼女は私が想像したとおりに顎を指で扱きながら眉を寄せる。 「辞典、辞典ですか……」 「ふふ、済まない。じょう――」 「有名どころはもう読み終わっているんですよね。八代先輩のお薦めなら新しい国語辞典かもですけど。どこが出しているやつなんです?」 冗談だよと言う前に目を輝かせて問う彼女へ――私は素直に済まない、と頭を下げた。 「は?」 「君の書痴振りを聴いたというのに試す真似をして済まなかった。愛を比べようとした僕が愚かだったよ……」 謝罪に八重垣君は目をぱちくりさせると、首を傾げ曖昧に頷いたのだ。 ふと、 「オズの魔法使い……」 子供の頃に愛読していた本をつい口に出してしまった。 「ん、オズの魔法使いですか。ライマン・フランク・ボウムだ。八代先輩にしては随分と可愛らしい本を読むんですね」 「……いやお薦めなんかじゃない。気にしないでくれ」 過去の柔らかい部分に触れてしまった。疼痛を堪え、いつもの笑みで何気なく振る舞う。 「可愛いといったことが気に障りましたか?」 「え?」 ――八重垣君は蘇芳君と同様、心の機微を読むのが上手い。私の弱点を突いたのだと察したのだろう。 「なに、最近友人が読んでいたのを目にしていたのでね。つい口に出してしまったのさ。それだけのことだよ」 「ですか」 「ですです」 林檎君の口癖を借りるとようやく軽やかな笑みが口元へ広がる。私はどうにも感傷的になっているな、と自分を戒めた。 「それでは別の訊き方をするとしよう。八重垣君が選ぶお薦めでなくて、僕に薦めるならどんな本が適していると思うかね?」 先ほどの質問と近いようで差異がある問い。悩むかと思ったが―― 「そうですね。八代先輩にぴったりの本がありますよ」 と、きっぱりと既に決めていたかのように告げる。 「――例えば編み物の指南書とかね」 「……もしかして随分前から見ていたのかい?」 「その口ぶりからすると当たりのようですね」 「引っかけられたのか、君も探偵のような真似をするね」 「白羽に鍛えられましてね。ま、消去法ですよ。八代先輩がうろうろしていたのは洋裁の図書が置かれている場所だ」 「だが、意匠の凝ったドレスを一人で作れてしまう八代先輩が今更洋裁の本を読むとも思えない。だから――」 「編み物の本というわけか。季節を考えたら更に選択肢は狭まるものな」 してやったりと笑う八重垣君は、親指で自分を指さし、 「編み物ならわたしが教えましょうか」 と言った。 「……いいのかい?」 構わないと猫の笑みを向ける。警戒すべき表情だ。 「――何だか、犯罪者の手口を思い出すな」 「へぇ、どんなです?」 「初めは気の佳い振りをして小さい恩をどんどん売っていく。そして溜まりに溜まったところで仕事を頼む」 「断りづらい状況を作るんだな。そして裏の仕事を手伝わせ自分の一味に引き入れるんだよ」 私の言葉に呵呵と笑い、 「学院のカリスマに貸しを作っておくのも一つの手かと思いましてね」 と〈嘯〉《うそぶ》く。幼い頃に培ってきた人間観察からすると、冗談半分本気半分といったところか。 (蘇芳君と同じ、私と同じ気質を持っている相手だ) 借りを作るのも関係を密にするためと割り切るなら悪くない。 「――恥を忍んでお願いするよ」 愛らしい猫に、私は手を合わせ頼み込んだのだ。 驚いたわ、と考崎君が言った。 「まるで女の子みたい」 編み方を指南する八重垣君へ、切れ長つり目をまん丸にして告げる。言われた当人は、クセ毛をガリガリと掻き、 「ん? 何だ、もしかしてわたしに言っているのか?」 「両方よ」 どうやら私にまで飛び火しているらしい。 「ま、僕自身似合わないことは自覚しているけどね。確かに八重垣君が編み物ができるのは意外だったな」 「そうですか? 根暗なインドア派女が先ずやりそうなことでしょう」 そう嘯くも、考崎君の強い目力に押されたように語り出す。 「――以前、バスキア教諭にプレゼントをしてから物作りに目覚めたんだよ」 「そうなの。隠すことないじゃない」 「今みたいにからかわれるからだよ。お前はどうなんだ、編み物できるのかよ」 「趣味がなかった私に訊くの? 相変わらず嫌味なのね」 「性分なんでね」 言葉だけ聞けば嫌味の応酬のようだが、どうやら此が二人のコミュニケーションの取り方のようだ。 二人の間に角はない。猫同士がじゃれついているのを連想した。 「さて、大体の説明は済みましたが、八代先輩は何を編むつもりなんですか?」 「マフラーに挑戦してみようと思うのだが……」 「それなら間に合うか……。いや、手袋とか言われたらなかなかに難易度があるので初心者には難しいんですよ」 「貴女も始めたばかりの初心者じゃない」 「むかつく事しか言えないのか。マフラーなら教えやすいと思ったんだよ。ほら、でかい身体を横にどけろ」 考崎君の腰の辺りを叩くと、車椅子を繰り、収納扉を開け中の段ボール箱を取り出した。 「それって……」 「編みかけのマフラーだよ。こいつで練習と行こう」 言い、私へと笑いかけたのだ。 ――考えるな、感じろ 思わず、“燃えよドラゴン”の名台詞を思い出すほどに。 「何というか……。ひたすら反復作業なのだね」 「まっすぐ編んで縫い続けられるから初心者用なんですよ。反復作業が嫌いな人は苦手なのかもですけどね」 手ずから編み方を教えてくれる八重垣君の繊細な指が、吐息が、私をくすぐる。 赤くならないように注意しなければ為らない。 「そ、そうか。先ほどから手ほどきを受けているがなかなか進まないものだね。これは時間が掛かるのではないかな……」 「この毛糸の太さは“合太”ですが、この太さの毛糸で長さ140センチくらいのマフラーを編むとなると……」 「一日10センチくらいずつ進めるなら、14日くらい掛かりますかね」 (14日! それじゃ間に合わない!) 「――なので毛糸の太さで“極太”を選び、ざくざく編むことにすれば一週間くらいで間に合うかもです」 「そうか……。それなら何とか間に合うか……」 八重垣君には私の考えが既に分かっているのだろう。そう付け加えてくれた。 「今回は1目ゴム編みでなくガーター編みにしたのも“時間”をネックに置いたからです」 「編み方もいろいろあるのだね?」 「さくさく編むには1目ゴム編みの方がいいですが、ガーター編みは表編みだけでいいから間違えにくい」 「1目ゴム編みとやらは違うのかい?」 「そっちは表目裏目と交互に編まなくちゃ為らない」 「ぼうっとやっていると誤って裏目裏目と編んだりするので、間違った場合のリカバリーが大変なんですよ」 「――随分と僕のことを考えて選んでくれているんだね。ありがとう、八重垣君」 「べ、別に……。ただ受けたからにはきちんとやりたいだけですよ」 照れ顔を背ける姿が愛おしいと思う。すると、教えて貰う為に指を絡めているのも扇情的に感じるから不思議だ。 (もしかして役得だったのもしれないな) 「……羨ましい」 聞こえない程の恨みがましい呟きだったが、私が思っていたことは考崎君も同意だったようだ。 「今度、考崎君も教えて貰うといい。同好の士が増えるのはいいことだ。だろう?」 「え」 「まぁ教えて欲しいっていうなら教えないではないですけどね」 やや赤味を帯びた頬のまま告げる彼女へ、考崎君はにこりと笑むと、 「八代先輩は佳い人だわ」 と言った。単純だなお前は、と嫌味を言う八重垣君も満更ではないよう。 「どうにも二人には当てられるよ」 「クク、白羽ならこの機会を逃さずに恋バナをしましょうとか言うタイミングですね」 「コイバナ? ああ、恋愛のお話ね。八代先輩は豊富そうだから後学の為聞いておきたいわね」 「恋愛話と言ってもねぇ」 八重垣君に促され編む手を止めぬままに考える。 ウンチクで煙に巻く 考崎君をからかってみよう 「殿方と付き合ったことがないから何ともねぇ。そういえば“告白”という行為が日本独特のものだというのは知っているかい?」 「告白って、付き合ってくださいって伝えることですよね?」 「ああ。好きだ、愛しているは外国でも言うが、恋愛関係になる為に付き合おうと“告白”するのは日本だけらしい」 「それじゃ外国はどうやって付き合うんです?」 「何となく一緒にいて、この人と共にいると安心する。そのうち何となく恋人となり夫婦になる、という流れらしいよ」 「これから恋人になろう、と宣言する考え方はないそうなんだ」 「へぇ、勉強に為りますね……」 「まぁ、な……」 二人押し黙り何かを考え込んでいるようだ。何を、と尋ねるのは羞恥の表情から野暮というものだが。 ――少しばかりからかってやろうか、 二人に当てられた私は意地の悪い考えがよぎり、シニカルな笑みを口元にたたえ言う。 「告白は受けるが、付き合ったことはないから考崎君の後学には為らないだろうね」 「お付き合いしたことがないんですか。意外です」 「なかなかタイミングが合わなくてね。そういえば知っているかい、八重垣君」 「はい?」 「以前耳にした俗説でね。首にほくろがあるタイプは押しに弱いという。聞いたことはあるかな?」 「え、や……っ」 慌てて首元を押さえる考崎君に、八重垣君も、 「いや……聞いたことがありませんね」 羞恥を抑え込もうと表情を消す努力をしているのを見、 (思った以上のことをしているのかな) そう考えるも、これ以上のからかいは野暮天だなと、すまない冗談だよと告げた。 ――しばし、黙々と指を動かす刻が過ぎ、 「そういえば以前の白羽さんたちに似た話があるって聞いたわ」 と、恋バナの続きだろう事を考崎君が口を開き言う。 「へぇ、それは――」 「その話題はデリケートなんだよ。もう少し考えて喋れ」 「あ、そうね……」 「それで書痴仲間がどうしたって?」 「結局訊くんじゃない。私と同期の転入生。あの中の三人が何でも三角関係だそうよ」 (三角関係) 言葉におかしみはないが、考崎君が口にすることで奇妙な疎外感を受けた。 「……で、白羽は首を突っ込んでないんだな?」 「似た話があると言っただけでしょう。白羽さんは関係ないわ」 なら佳し――とばかりに私への指導に切り替わる。世は全て事も無し、だ。 ただ、八重垣君のアミティエは面白くないようだが。 「三人ひと組のアミティエか。僕の時は二人組で佳かったよ」 「何故です?」 「隣でイチャイチャされたら適わない。実は今もそんな気持ちを抱いているよ」 「ぁ……」 ウインクしてみせると彼女は分かり易く頬を染めた。 機嫌は直ったようだ。 (アミティエか……) 思わず自分とネリネがアミティエ同士だったらと、少女のような妄想をしそうになり、首を竦め編み物の師匠の言葉に耳を傾けた……。 ――師匠、お願いします ケーキ、と言われれば誰もが想像する王道。 苺のショートケーキを載せた皿は我が師の元へ運ばれ―― 「頂きます」 〈厳〉《おごそ》かにフォークを入れ、生クリームを割りスポンジを裂いた。 丁寧に切り分けたショートケーキを見惚れてしまいそうな美しい唇へと運び―― 「ん……何だか、その……。味がしないです……」 「そう、か……」 やはりダメだったか、と肩を落とした。 「――先輩」 少し前から始めたマフラー制作。 らしくない真似とは分かっているが、出掛ける際、自室の椅子の上に編み棒と編み玉が置いてある情景を見て笑ってしまった。 (さながら少女漫画の一場面だったな) 所謂女性らしい事、物は好きだが自分に似合わないことを理解している。だからこその失笑。 しかし、 (毒を食らわば皿まで、だ) 割り切った私は、誕生日を祝うとなった際、必要な物を考えた。プレゼント……これは鋭意製作中だ。 「失敗は誰でもあります。気にしなくても……」 そして招いた祝いの席にケーキがなければ立ち行かないだろうと思いついたのだ。 だからこそ、プレゼントと一緒にケーキも渡そうと―― 「譲葉先輩! 聞いてますか!?」 揺すられ我に返る。どうやらあまりに上手くいかず現実逃避していたようだ。 「……ん。ああ、済まない。超話半分だったよ」 「超って……」 「どれくらい話半分だったんですか?」 「100をMAXとしたら2か3くらいだな」 「超話半分じゃないですか!?」 すまないと言い頭を振る。集中していた為、寝起きのようなふわふわとした心持ちに為っていた。 「しかし、これ程練習しても上達しないとは……。何か呪いでも掛けられているのかね」 「でもスポンジは上手に焼けるようになったじゃないですか」 ――その通り。 クリームでデコレーションする前の段、土台であるスポンジを完成させるまでにも頭を抱えたくなる紆余曲折があったのだ。 「後は生クリームだけだというのに、上手くいかないものだな」 自分の作ったショートケーキを食べてみる。スポンジは練習の甲斐があってかしっかり膨らんでいる。問題ない。だが、生クリームが。 「甘くない……。まるで僕の人生のようだ」 「だ、大丈夫ですよ。初めて作って上手にできる人なんていません。一歩ずつ着実に上達しています!」 そうだろうか、と問うと苺君が追従し、林檎君も大きく頷いた。 「でも何で今ショートケーキなんですか? 今日は――」 「イタリア月間ですよ」 料理部のタイムスケジュールでは今月はイタリア料理の習得。それは分かっている。 ネリネの誕生日にケーキを贈りたい私は、部長の桜木君に無理を言い頼み込むとケーキ制作の許可を貰ったのだ。 「それは――」 「どうしてですか?」 沙沙貴姉妹と蘇芳君の目が私の真意を探った。長く口ごもっていれば双子は〈謀〉《たばか》れても、蘇芳君は無理だろうと、 「弟の誕生日が間近なのだよ。手作りのケーキを送ってやりたくてね」 と言った。 「そうなんですか!」 「弟さん思いですね」 頷きつつ、ダシに使ったことを弟に詫びた。 (家に戻った時にマッサージしてやるからな) 「それじゃ弟さんの為にも頑張らなきゃですね!」 「そうだね。スポンジの残りはあるし――」 「生クリーム制作をしましょう! 今度はわたし的にも手伝います!」 ボウルを手に取る苺君に困った目を向けるも、 「生クリームの作り方はそう変わりませんし、苺さんに教わってはどうでしょうか?」 我が師の推薦もあり、 「そうだね。では再度挑戦するとしよう」 生クリームと真っ向から向き合うことに決めたのだ。 生クリームの作り方はシンプルだ。 用意する物は生クリームの素にグラニュー糖。 ボウルの底を冷やすための氷水を入れた大きめのボウル。それだけ。 冷やしながら掻き回すのは、温度が高いと脂肪分が分離し過ぎてボソボソになってしまう為。 前回の失敗点。甘さが足りないのは、グラニュー糖が足りなかったこと。 そしてボソボソ感。あれは掻き回し過ぎたことが理由だ。温度が高い以外でもそうなってしまう。 「そろそろかな……?」 六分立ての状態。泡立て器ですくってみると、生クリームがするする流れ落ち表面に跡がつくが直ぐに平らになった。 「まだまだですね。もうちょっとなのでファイトですよ、譲葉先輩!」 「うむ。やり過ぎないように注意してかき混ぜていこう」 再び掻き回し続ける。 六分立てまではボウルを斜めにして、泡立て器を左右に動かしかき混ぜる。 が、とろみがついた今の状態からは、楕円を描いて空気を含ませるように泡立てる。 我が師の教え。 しばし生クリームとの格闘が続く。 このくらいかな? と隣の苺君に確認をとる。 「ですね。七分立てまでになったらスポンジの周りに塗りましょう!」 前回と同じく、やや固形化した生クリームをスポンジの壁面へと塗る。こういった作業は得意だ。 数分と掛からず塗り終えてしまう。 そして再び始まる生クリームとの対話。 「弟さん確かサッカーが得意なんでしたよね?」 「ああ、勉強はあまり振るわないがスポーツは得意のようでね。特にサッカーは好むようだ。進学もスポーツ推薦を望んでいるそうだよ」 「へぇ、凄いですね! スポーツが得意っていろいろ試してサッカー一本にしたんですか?」 「ふふ」 以前、聞いた嘘のような理由に笑ってしまう。 「夢の中でダビド・ルイスに一緒にプレーしようと説得されたからだと言っていたな」 「へぇ! そういうのも理由になるんですね」 「何を目指すだとか、好きになるとかは些細なことさ」 九分立ての状態だ。 「生クリームの完成。後はペストリーバッグに入れてデコレーションするだけだ」 だが、その前にボウルから指ですくい生クリームを舐める。 「……甘い」 「成功ですか!?」 私に続き、苺君も生クリームを指ですくい舐める。途端に顔を顰めた。 「あ、あまい……ですね」 「ああ。グラニュー糖を入れすぎたらしい……」 きちんと量って入れたのにと肩が一段重く為った。 「でも! 今度はボソボソになってません! 進歩ですよ!」 「まぁ……。そうだね」 励ましてくれていることが嬉しく疲れを肩に感じてはいたが微笑みを返した。 苺君は再度、生クリームをすくい舐めると、 「あ、あのさっきは甘く感じましたけど、実はそれほどでもなかった……ような気がします!」 言い、またボウルから指で生クリームをすくい、私へと人差し指を向けた。 「ん。そうかな……むっ」 「ぁ……」 苺君の可愛らしい指を舐めると――やはり甘みが強い。 「ど、どうですか?」 気ぜわしげな、私を気遣う繊細な声音に、 「悪くない」 そう答えた。 「……八代先輩」 「ん?」 我が師に袖を引かれ、彼女の目に促され周りを見遣ると―― (少し軽率だったな) 料理部の者たちが頬を赤らめ、私たちを横目にしている。 (最近苺君が積極的に為っていると感じていたのに) 軽率な行動だったと再度、心に思った。 ――夕映えの温室の中、嘘を吐き傷つけたあの子と同じような真似は二度としたくない。 「あの……譲葉先輩?」 「だいぶ形に為った。苺君……。いや三人にはお礼をしなくては為らないね」 「お礼ですか……。別にそんなつもりじゃ……」 「苺姉ぇ」 林檎君が手招きし、耳打ちをする。途端にパッと輝く顔つきに何を助言されたのかと気になった。 「あ、あの! 一つお願いがあるのですけど!」 気恥ずかしいです、と蘇芳君は言った。 メジャーを片手に採寸する私へと肌を朱に染めながら蘇芳君は身じろぎした。 彼女たちのお願いというのは、慣れない衣装作りを手伝って欲しい――というものであった。 型紙を作ってはいたが、まだ採寸をしていないと聞き、二人一組でできる採寸を行うことになったのである。 「いいなぁ蘇芳ちゃん。わたし的にも早く測って欲しいよ」 「ぅぅ……。あの、採寸は一人では出来ないのですか?」 「通常採寸は二人一組でないと無理だが、一人でも遣りようはある。でもそれは元の服を着た上で測るから、そもそもの服がないとダメだね」 「そう……なのですか」 似た服の持ち合わせがないのだろう。蘇芳君は残念そうな顔をした。 「僕としては学院一の美人に、大義名分が立ちつつ触ることができて幸運だけどね」 「八代先輩……! ぅぅ……!」 「おっとあまり身動きすると本当に拙い部分に触れてしまうよ。次はヒップだ」 「お、お尻ですか……」 「採寸ではヒップは腰のことを言うのさ。む、凄いな……。流石にこのくびれは嫉妬してしまうよ」 腰の一番太い位置を測っていても尚この細さ。戦慄に値する。 「あの……。もう宜しいですか」 「うむ――皆が見守る理由も分かるというものだ」 ハロウィンに向けて学院生徒等は放課後、被服室に集まっている。そして、その視線はスタイルの佳い蘇芳君に一身に注がれているのだ。 「いや、それもあるとは思いますけど……」 「八代先輩に採寸されているのが羨ましいということもあると思いますですよ……」 「ふふ。とりあえずお楽しみのバスト・ウエスト・ヒップは此でお終いか」 「も、もう終わりなのですね!」 「当然まだだよ。後は着丈やそで丈、股下も測らないとね」 何故だかある種悲壮な表情に変わる蘇芳君の背に触れた。 「ひゃ!?」 「ん、動かないでくれよ。着丈はこの……首の突き出た骨からウエストまでを測るんだ」 華奢な背に触れ、微かに震えている肢体に笑みが零れてしまう。 私でなくとも嗜虐心がくすぐられる。 着丈を測っている私へ、楽しげな視線を注いでいた林檎君はそういえば、と口を開いた。 「八代先輩はこの被服室である噂が流れているのを御存じですか?」 「噂? いや、聞いたことがないな」 「ハロウィンに向けて針仕事が苦手な生徒は遅くまで作業しているのは知ってますよね?」 「ああ。一年前にも消灯の時間が過ぎても作業していて注意されていたことを覚えているよ。ん、次はそで丈だ。軽く肘を曲げてくれ」 ゆとりを持たせるよう蘇芳君に指示を出し、瞳で先を促した。 「夜遅く一人で被服室にて作業している生徒……。ふっと人の気配に視線を上げると自分と同じ姿を視た――という噂が広がっているのですよ」 「いや、それは鏡に映った……」 自分で言いながら気付く。被服室に鏡は無いのだ。 「わたし的にも聞いたことがあるよ。何だかドッペルゲンガーみたいな話だよね」 「おお、苺姉ぇもドッペルゲンガーを知ってるのですね」 姉妹二人で盛り上がるのを横目に、もう片方のそで丈を測る。 「ふむ。どっぺる……。聞いたことがある名だな」 「八代先輩も知っているですか?」 芥川龍之介の小説で読んだな 自転車で聞いたことがあるな 採寸の手を止め、記憶を探る。と、 「……確か以前、芥川龍之介の短編で読んだな。あれは確か――」 「二つの手紙、ですね?」 「そうだ。さすが佳く覚えているね。主人公の大学教師が何度も自分と妻の姿を目撃するという筋だった」 「芥川龍之介自身も、自分のドッペルゲンガーを視たと話していますよ。一度は帝劇、一度は銀座に、と」 「流石に怪談の舞台でそのものズバリの話をするのは佳い気分がしないね」 「きゃ!?」 笑いながらも気分を変えるため、股下を測るために腿の際どい部分に触れた。 「あ、せ、先輩……!」 焦り蘇芳君は抵抗するように身をよじるが――余計に際どいところに指が当たってしまう。 刹那、びくんと身体を竦ませる彼女へまったくの他意がないように笑って見せた。 「股下の採寸は股の付け根から足首までなんだ。済まないね」 平静を装い股下を測る。 賢い我が師は微かに震えるも身じろぎすることはなくなった。 さっさと済ませられる作業なのだが、嗜虐心が生まれた私は目を細めなかなか上手く測れない風を装う。 蘇芳君は生真面目に震えながらも凝っとしているが―― 彼女の表情をそっと盗み見ると、顔を――耳まで真っ赤に染め羞恥に耐えていた。 きっと素直な彼女のことだ。真面目に採寸をしているのに急かしたり拒んだりするのは失礼だと思っているのだろう。 役得だと思っていたが、流石にやり過ぎかと苦笑し採寸を手短に終わらせたのだ。 件のドッペルゲンガーについては知っていたが、怪談譚のある場所で話したくない私は――煙に巻くことにした。 「ああ、聞いたことがあるよ。確か……自転車のブランド名じゃなかったかな?」 「え、あ、違いますですよ?」 「そんな怖い名前の自転車ってあるの?」 沙沙貴姉妹は耳覚えがなかったのか戸惑い双子会議を始めた。 (少し意地が悪かったかな) 適当な嘘を吐いた訳ではないが、採寸の手を止め休憩がてら沙沙貴姉妹の話に付き合うことにした。 「しかし被服室で己と同じ姿を視る、か。何だか、七不思議めいた話だね」 手を止めた私へ我が意を得たりと、林檎君は指を立て言う。 「そうです。被服室……寄宿舎で己と同じ姿を視る、とのことで噂の怪異は寄宿舎のシェイプシフターではないかと言われているのですよ」 「寄宿舎のシェイプシフター……」 蘇芳君は何か思うところがあったのか、遠くを見詰める表情をした。 「七不思議の一つだ。確か――」 「どんな姿にも姿を変えられる幽霊、悪魔だと諸説ある存在ですね」 「なるほど。どんなものにでも化けることができる。だから、自分の姿にも化けられるという発想になったと言うことか」 「ですです」 確かに理屈は合うな、と頷く。 「ねえっ! わたしたちで寄宿舎のシェイプシフターの謎を解き明かしてみない?」 「苺さん……」 盛り上がる彼女たちをよそに、私は夜の被服室で作業をする己の姿を思い浮かべた。 (己と同じ姿か。自分の目に私自身はどう写るのかな……) ふと表情を無くした己自身を思い、自虐的な思いからシニカルな笑みを口の端に作った……。 「塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら何によって塩味が取り戻されようか」 ルカによる福音書の言葉が説かれる。 ――だが、説かれたのは説法の場面ではない。 「夜食ってのはどうしてこんなに美味いんだろうね」 夜の寄宿舎――八重垣君たちの部屋にて再度、編み物の指導を受けている私。 「先輩も一つどうです?」 厚めに切ったポテトをバターで炒め、そこに塩コショウと青のりを掛けている。シンプルだが味が想像でき食欲を沸き立たせた。 頂こうと言い、編んでいた手を止め、爪楊枝をさし一口で頬張る。 じゃがバターに似た味わいだが、塩を強く利かせているのが熱くホクホクとしたジャガイモの味を際立たせている。 なるほどルカの福音書を説きたくなる美味しさだと言った。 「私も頂こうかしら」 「食え食え。お前が用意してきたんだからな」 夜食が欲しいと訴えた八重垣君の注文に、嫌味を返しつつも部屋を出、つまめる夜食を持ってきたのだ。 どうやらこの二人には食堂の調理師との間に強固なパイプが存在しているらしい。 「頂いた手前言うのも何だが、よく用意できたね」 「食事は時間通りに席に着いていないと食べられないですよね。でも育ち盛りだ。どうしたって我慢できなくなる」 そう告げるとポテトを美味しそうに頬張り、笑みを作った。 「食堂のおば……調理師さんたちもその辺は理解してくれているから、こっそり融通を付けてくれているんですよ」 なるほどと頷く。食事の時間に遅れた事がないからか、そういった事情は知らなかった。まだまだ私が知らぬことは幾つもあるようだ。 考崎君ももう一つ頬張り――微かに笑む。微笑んでしまうのは食事の功徳だ。 「お腹が空くのはサラダばかり食べているからだって叱られたわ」 「千鳥は痩せすぎなんだよ。肉を食え肉を。サラダなんて年取ってからでいいんだよ」 「前もそう言っていたわね」 そうだったっけ? と首を傾げる彼女へ、そうよと澄まし顔で断言する。 二人の優しい関係に思わず笑みが零れた。 「羨ましいやり取りだ。この部屋に来ると独り身の寂しさで身が凍えそうになる」 「はぁ? 何を言ってるんですか?」 「嫌味しか言われてないと思うのだけど」 「あのな、言われてないって被害者ぶるのは止せ。お前がわたしへ攻撃してくることの方が多いだろうが」 「今のを聞きましたか? 性格が悪いのは仕方ないと諦めていましたが頭も悪いんですよ。上手に付き合っていく方法を聞きたいくらいです」 いがみ合っているようで此が二人のコミュニケーションなのは分かっている。私は編んでいたマフラーの手を止めず答えた。 「ある作品の中で、“年上の女房は年下のように。年下の女房は年上のように接するように”円満の秘訣はそうする事だと言っていたね」 「同い年はどうればいいんです?」 「ん……。それはお互いの努力しかないんじゃないかな」 シニカルな笑みで答えた私へ、八重垣君と考崎君は互いの顔を見合わせ、少しだけ照れた表情を見せると首を竦ませた。 「またぞろダシにされた気分だが、編み物の師として僕のマフラーの進捗はどうかな?」 ここ数日の努力の結果、タオル程の大きさに為ったマフラーを見せる。 八重垣君は編み棒を受け取り、表面・裏面の編み目を注視すると私へと返した。 「さすがに覚えがいい。問題ないですね。このまま行けば間に合うでしょう」 「佳かった。努力自体も美徳だが、努力するなら報われたいからね」 「ニカイアの会の運営もこなしながら、マフラー制作、ハロウィンの衣装作りまでやっているんだ。大したものです」 「本当に。えりかも八代先輩の爪の垢を煎じて飲んで貰いたいものだわ」 「お、何だまたいちゃもんか?」 「そうじゃなくて、ハロウィンパーティでの衣装作りよ。そろそろ取りかからないと間に合わないわよ」 「後でやるさ。手先の器用さ、千鳥も知ってるだろ?」 「後でとお化けには会ったことがないって言葉があるの知ってる?」 軽口を躱され苦虫を噛み潰したような顔をする。と、 「――お化けと言えば最近噂になっている七不思議知っていますか?」 「寄宿舎のシェイプシフターだろ。林檎君から聞いたよ」 「何だ、情報元は同じですか……」 「寄宿舎のシェイプシフター? シェイプシフターってなぁに?」 「お、怪談好きでも知らないか。まぁ、シェイプシフター自体マニアックな怪異だからな」 「僕もこの学院に来るまで耳にしたことがなかったよ。どちらかというとゲームで取り扱われることが多いそうだね?」 「わたしは映画で知った口ですが……。シェイプシフターってのは何だ、ミミックみたいなやつさ」 「それって宝箱に化けたモンスターじゃないの?」 「ミミックってのは擬態を意味している言葉なんだよ。別に宝箱に限った話じゃないんだ。本来はね」 そうなの、と考崎君は素直に頷いた。八重垣君は顎をさすりながら、でもこの学院のシェイプシフターもミミックっぽいよなと呟く。 「どうして?」 「そりゃ……。情報元が同じなら八代先輩も御存じなのでしょう。一つこいつに教えてやってくだいよ」 素直に教える ミミックらしく噛みつくのさ 「又聞きだが、寄宿舎のシェイプシフターはミミックのように、本来変幻自在が売りな筈なのに一つしか変身しないらしい」 「一つ? 宝箱?」 「ふふ、変身するのは見付けた者にさ。同じ自分を視てしまうらしいよ」 「そうなんですか……。何だかドッペルゲンガーみたい」 苺君と同じ感想を抱くのを聞いて、ほんの少しだけ懐疑心が沸いた。 (確かに自分と同じ姿を視るのが怪異なら、寄宿舎のドッペルゲンガーでも佳かったんじゃ……) 悪戯っぽい言いざまに、私はにこりと笑み八重垣君の意志を受け継いだ。 「ミミックに似ているとのことだが、其れは――」 「それは?」 「――寄宿舎のシェイプシフターは噛みつくからさ」 「――っ!」 色っぽいホクロのある首元へと噛みつく真似をする私へ、刹那驚き目をぱちくりさせるも、 「それは……確かに怖ろしいですね」 羞恥も何もなく、真剣な眼差しで瞳を細めた。 「あ、ああ。そうだろ?」 「噂に為っているというのだったら、噛みつかれた被害者がいるのですよね? だったら捜した方がいいのではないですか?」 真っ当な視線――吊り目の強い目力に負け、私は後退ってしまった。 「負けたよ……」 「ふふ、天然物が一番強い」 猫のように笑う八重垣君は、首を傾げる彼女へとミミックと近いと告げた真意を伝えたのだ……。 「自分と同じ姿、ですか……」 元々怪談話が好きだと言う考崎君は興味深いのか、髪を弄りながら何度も頷いた。 「まぁ深夜に規則を破って作業する罪悪感が視せたものだと思うよ。怪談が旬の夏も過ぎた。噂もじきに立ち消えするだろう」 私の言葉に残念そうな表情を作る、が。 「どうも、そういう流れには為らないようですよ」 と八重垣君が言った。 「……どうしてだい? 娯楽が少ないこの学院とはいえ、そう長続きする話題でもないと思うのだけどね」 「実は此処最近のことですがね、シェイプシフターを視たって生徒がまた現れたんですよ」 「別におかしくは――」 「もう一人の自分に驚いたその生徒は、慌てた拍子に転んで怪我をしてしまったそうなんです」 ――軽い冗談で話されていた怪談が、怪我人が出たことで肉付けされてしまったということか。 「怪我……酷いの?」 「いや――軽い捻挫だよ、大した怪我じゃない。でも幽霊を視て怪我したっていうんで、大分ショックを受けたらしいけどね」 「ふむ。情報元は生徒からでなく養護教諭かね?」 ご明察通りです、と手を広げるも――情報元を当てた事へ疑問符を顔に張り付けた考崎君に気付き、再度口を開いた。 「純粋な事故や不審者なら、ニカイアの会の会長――八代先輩の耳に入らない訳がないだろ。だから情報元が絞れたんだよ」 「ああ、そういうこと……。まぁ、幽霊を視て自爆したって話を皆へ話してまわるのもおかしな話だものね」 彼女の見解に頷き、養護教諭から聞いた後、当人とその友人にカマを掛けて詳細を引き出したのだと語った。 「と、ま、そんな訳でまだまだ消え去る話題ってな訳じゃないようですよ」 「――怪我人が出るような話になっているなら、どうにかしないといけない、か」 私の呟きには返答もなく、夜の静寂に溶けていった……。 溶けていったと思われていた言葉は―― 「ええ、どうにかしないといけないわ」 日を跨ぎ、そう返されたのだ。 寄宿舎のシェイプシフターの件を伝えた――喜色満面の小御門ネリネに、である。 「私の方でも噂になっていると耳にしたわ。被服室にシェイプシフターが出たのだって!」 「ああ、そう聞いているね」 「1年生の時にも調べたけど、何の手掛かりも掴めなかった……。夜中に寄宿舎中を歩き回ったりしたのに……」 (そんな事をやっていたんだな……) 「でも何人もの生徒が目撃したということは、シェイプシフターさんが被服室に戻ってきたってことよね?」 「まぁ……。目撃者は多いそうだが……」 「ふふ! これは1年生の時のリベンジができそうだわ……!」 ネリーには珍しい強い横文字に内心突っ込みを入れつつも、 (あまり面倒事には首を突っ込まないでほしいんだが……) 夜出歩いて怪我をしたらと思い心配に為る。だが、 「早速、調べましょう!」 (こうなったネリーは止められないしな……) やはり心の内で深々とため息を吐いた。 「ねぇ譲葉。一緒に調べてみない? これはニカイアの会としても調査するべき案件だと思うの」 こじつけだとは分かっているものの―― (ネリーを喜ばせたい) この七不思議騒動に付き合うのも手だが、今彼女の為にしているケーキ制作、マフラー編みを一時止める事になる。 それは本末転倒なのではないだろうか。 浮かれる親友を前に私はどう答えるべきか、口ごもったのである……。 ――結局のところ、 (ネリーには勝てない) 「シェイプシフターについての文献って少ないのねぇ」 彼女の為にしているケーキ制作・マフラー編みと天秤に掛けてみたものの――お願いするネリーに私が勝てる筈もない。 図書室の棚を睨む彼女を横目にしながら、私は本当にネリーに甘いのだなと心の内で苦笑ってしまった。 「うん? どうしたの譲葉?」 「ちょっと愉しくなってきてね。僕としては、逆にほんの少しでもシフターに関する図書があったことが驚きだよ」 八重垣君等と話したが、そもそもとしてシェイプシフターの知名度は低い。名を見付け拝めただけでも重畳ものだと思うが。 「この学院の七不思議にも為っているのだから、少しは図書室にもシェイプシフターの文献が残っていると思ったのだけど……」 「なるほど。火のない所に煙は立たぬ、というやつだね」 「ネリーは此処でシフターについての文献を読んだ生徒が、七不思議の怪異に名を付けたと考えたわけだ」 「ええ……だからもう少しはあると思ったのだけど――」 探し当てた図書は二冊。そのどちらとも詳しく書かれてはいなかった。名と二、三行の特性だけ。 「姿を変える以外で特に得られた情報はなかったわね」 「せめて弱点でも書いてあれば佳かったんだがね。例えば銀のナイフが有効だ、とか」 ナイフを構えるポーズを取った私へ、まぁと秋の陽射しのような穏やかな微笑みを浮かべた後、 「ふふ、ウエストサイドストーリーを思い出したわ。決闘の場面よ」 と珍しく映画になぞらえた。 「ネリーも映画に詳しくなったね」 「白羽さんの影響かしら。あんなに愉しそうに話されていると観たくなってくるのよねぇ」 確かに、と頷く。視聴覚室に古い映画は置かれているが人気はなかった。だが、 「この図書室もそうだが、蘇芳君のお陰かどちらも活用する生徒等が増えているそうだよ」 「目にしただけでも嬉しくなる美人さんだものね」 「僕も今、目の保養をしているけどね」 凝っとネリーを見詰めるとコロコロと笑った。冗談ではないのだが。 「せっかく譲葉を誘ったのに無駄足になってしまったわね」 「ネリーと共に過ごせているんだ、僕にとって無駄足なんかじゃないよ。それとシフターについて一つ思いついたことがあるんだが……」 「なぁに?」 「イズニクに付き合って貰えないか?」 聖アングレカム学院の生徒による自発的、自治的な組織である«ニカイアの会»。 そのニカイアの会の議場、会のメンバーが集う生徒会室が、かつてのニカイア公会議が行われた土地の名にあやかり―― «イズニク»と呼ばれている。 もっとも此は通称――愛称のようなものだ。 入学したての一年生たち以外の生徒にはイズニクで通るように為っている。 そのイズニクにて―― 「此で全部だ」 「それって――」 「かつてのニカイアの会の会長が記した年鑑――日記のようなものだよ」 日記と聞いたネリーは手に取っていた本を〈躊躇〉《ためら》いがちに執務机の上へと置いた。 「この中にニカイアの会が行った行事、そして記憶に残るような出来事が記されている。僕が言っている意味が分かるね?」 「つまり七不思議で事件となったものが此処に記されていると?」 「そうだ」 でも、と躊躇う。日記、という言葉が引っかかっているらしい。 「本来、会長だけが閲覧できるものだが、副会長だけの年では副会長も記している。ネリーが目にしても問題あるまい」 「そう……かしら」 「年鑑は一冊じゃない。手伝って貰わないと夕食に間に合わないよ」 執務机へ重ね置かれた年鑑を見詰め――ややあって、そうねと呟いた。純粋に興味があるのだろう。 「それじゃネリーは古いものから頼むよ。僕は新しいものからだ。事件・事故だけ抜き出してみよう」 毎年毎年、事件があるわけではない。 (思ったよりも早く終わったな) 流し見していたとはいえ、七不思議についての記載はそれほど多くなく、日が暮れる前に目を通すことができた。 見終わった筈の年鑑を開き、文字を追う親友へ結果を告げる。 「シェイプシフターについての記載もあったが、それほど詳しくは書かれていなかった」 「何故、自分と同じ姿で現れる怪異がシフターと呼ばれたかは謎のままだ。解決をみないで謎のまま収束している」 「ええ。でも二点ほど発見があったわ」 「それは?」 「一つはシェイプシフターは被服室だけでなく、寄宿舎のシェイプシフターという名の通り、寄宿舎の至る所で見掛けられていたということ」 「そういえば……。最近現れているシフターは被服室で目撃されることが多いな」 「噂話が出た当初は他の場所でも視られたそうだけど、此処最近は被服室にしか現れていないわ」 「だから、そもそもの始まりは被服室なのかと思ったのだけど――」 「年鑑では特別、被服室で多く目撃されたという記載はなかった」 確かに今回に限っての相違点。違和感は残る。 「それで残り一つは?」 「これはシェイプシフターのことではないけど、年鑑に書かれているペン字のこと。すべて緑色のインクで書かれているわ」 言われ気付く。正直気にしたこともなかった。 「……そう言われればそうだ。お決まりなのかと思って、僕も緑色のインクの万年筆を使っていたよ」 「緑色のインクを使って文字を書くのは悪霊に消されない為のお呪いなの。最初にこのインクで記した会長は何を恐れていたのかしら……」 親友の物言いに、 (笑えないな……) 冗談がきついと笑い飛ばすことが出来なかった。 以前、始まりの年鑑に目を通した際、初めて七不思議が顔をみせた箇所……その頁が途中から破られていたのだ。 不自然な破られ方に初めて目にした時、背筋に嫌な寒気を感じたことを覚えている。 (古い年鑑を紐解いていたんだ。目にしているだろうしな) 親友へ嫌なモノを目にさせてしまったか、と眉根を寄せる彼女を盗み見る、と。 「ねぇ譲葉。お願いがあるの」 「OKだ。構わないよ」 「……まだ何を頼まれるか分からないでしょう?」 「今日はとことんネリーに付き合うと決めているんだよ」 シニカルな笑みを浮かべる私へ、ネリーはありがとうと手を合わせ、私が思っていた以上の無体な事柄を頼んできたのである。 「……ありがとう。我が儘を聞いてくれて」 「神かネリーのどちらかに頼まれたのなら、僕はネリーを選ぶよ」 暗くうち沈んだ被服室。 親友が告げた私への頼み事は、深夜シェイプシフターが頻繁に目撃される場所――被服室を調べようというものだった。 (マフラーの完成が遅れるな) 時間との闘いであるプレゼントの品だが……泣く子と地頭には勝てない。ネリーに頼まれてはそれこそ神ですら脇に置くしかないのだ。 「冗談だろうけど、そういう物言いはダメよ?」 「はいはい。分かっていますよ。肝に銘じます」 冗談めかした物言いに、刹那眉を顰めるも、独特の雰囲気を醸し出す被服室の室内に目を輝かせた。 「なかなかの雰囲気だ」 「本当にそう……! ねぇ譲葉。あのマネキン今にも動き出しそうじゃない?」 「何が愉しいのか理解不能だな」 夜、しかも電灯を点けていない室内は怪異の一つや二つ起きてもおかしくない様相だ。 (七不思議が起きているという先入観もあるのだろうが……) 元々オカルト系が得意ではないということも大きい。 「シェイプシフターを目撃したという話では、この椅子に座って作業に没頭していたら……という話が一番多いのよね」 言い、真ん中の椅子に座り、室内を見回す。正しくその目は怪異を捜していた。大した度胸だ。 「……何かおかしいモノは発見できたかい?」 「この位置から探ってみれば何か分かるかと思ったのだけど――」 「鏡に為るような物はないわね」 (完全にオカルトだけだと考えてはいないのか) 建前上、ニカイアの会として生徒の安寧を守る為という考えで動いてはいたが―― 建前でない事も確認でき、私も弱気の虫を殺し、瞳を細めながら部屋の隅々を眺めた。 「……特に隠れる場所もないか」 「隠れる場所って?」 「姿格好を真似て驚かせた、という考え方もあるだろ? 作業に没頭していたという前提はあるとはいえ、扉を開ければそれなりに音はするしね」 「隠れて脅かす……。この学院の生徒でそんな子がいるかしら?」 (深く悩まないでも三名はいるな) 〈姦〉《かしま》しい後輩たちを思い浮かべる。 「……ごめんなさい。零ではないわね」 親友も誰かの顔が思い浮かんだのだろう。 夏に起きたフックマン騒動のときも物見遊山で訪れた生徒は少なからずいた。考え過ぎという事でもないだろう。 「隠れていて脅かすことも考えたが、姿を隠す場所はない。なら、やはり――」 「本物の怪異?」 「まだ早計だがね。とはいえ調べるとしても――」 生地が収納されている棚を引いてみる。当然、人間が隠れられるような広さはない。 ネリーも席を立ち部屋のあちこちを開き、覗き、調べる。が、何も得られないようだ。 二階の窓から外を眺め、何やら悩んでいるよう。 「まさか悪戯者が壁を登って脅かしにきた、と考えているのではないだろうね」 「違うわ。ただ――」 窓から視えるのは――寄宿舎裏の桜並木だ。 否、ネリーは空を眺め、少し外に出てみましょうと微笑みをたたえ告げたのだ。 寄宿舎裏へ私を誘ったのは―― 二人星空を眺めるためだった。 彼女なりの気遣い。丸一日付き合った私への礼の意味もあるのだろう。 (隣人、か) そう、隣人――となりびと、というのだったかと心の内で呟く。 星を見に行こうと誘われた私は、それならばと用意してきた保温ポットを手に、 詰めてきたコーヒーをカップに注ぎながら、熱心に夜空を見上げている彼女を見詰めた。 金糸の髪が、真白い輪郭が、まるで燐光を放つような肢体は闇に縁取られ、季節外れの蛍のように輝いて見えた。 彼女の美徳が内から溢れ出すかのように。 夜空の星なぞお呼びではない。私は――小御門ネリネにしばし魅入ってしまった。 「ねぇ、譲葉。見て――アンドロメダ座が見えるわ」 「星には詳しくないんだ。どこだい?」 「私の指先を辿ってみて。ペルセウス座の隣よ」 子供のようにはしゃぐ彼女の青磁色の瞳は星々が舞い踊っていた。美しい瞳を視、寒空の下だというのに温かなぬくもりを感じる。 ――カシオペア座くらいしか分からないよ、と温かな心持ちのまま答えると、湯気たつコーヒーのカップを差し出す。 ありがとう、と言い両手で持つと薄桃色の唇を細め、吐息を吹きかけた。 「とっておきの豆なんだ。味わってくれよ」 「ふふっ、譲葉ではないのだから一気になんて飲めないわ。ヤケドしてしまう」 言い、幼子が飲むように冷ましながら少しずつ少しずつ口に含んでいく。薄桃色の鮮やかな唇を眺めながら、私も一口啜る。 (……苦いな) やはりコーヒーよりも紅茶にしとくべきかと思った。酸味や苦みを美味しいと判断するほど私の舌は大人ではない。 だが、 「美味しいわ。苦みが強くて、濃厚な味わい……。マンデリンかしら?」 「正解。コロンビアと間違えると思ったんだがね」 人好きのする笑みを向け、大事そうに飲む。この表情が見られただけで私の苦悩なぞ大した問題ではない。 「……カフェラテならまだ好きな部類なんだがね」 「うん?」 「いや、コーヒーを飲みながら観る天体観測もオツなものだなとね」 「ええ。秋の星空も見応えがあるでしょう」 再び夜空を見上げる彼女の目を盗み、自分のカップにミルクをひと垂らし。これで大分飲みやすくなる。 「私、秋の夜空の星が好きなの。この季節は地味だって言われるけど、星座の物語に参加する役者が一堂に会して――まるで物語のようだわ」 「そうなのか。僕はせいぜいさっき言ったカシオペア座、それとオリオン座、後は冬の大三角形くらいしか覚えがないよ」 そう告げる私へと彼女はそっと寄り添い、白魚のような指で空のキャンバスへと星座をなぞった。 「さっき話したペルセウス座とアンドロメダ座。ギリシャ神話で彼女を助け出したのがペルセウスなの」 「物語を知っているとすごくドラマチックでしょう?」 彼女の言葉に確か映画で見たことがあるな、と思い浮かべた。 だが、今はそれよりも……。 (ネリネの香り――) 寄り添ったことで彼女の身につけている香水――スズランの芳しい香りに包まれ、寒い夜空の下だというのにうっとりと〈耽溺〉《たんでき》してしまった。 「ペガススの四辺形を辿るとすぐに分かるの。ほら」 「……ああ、そうだね」 説明を聞き流し、コーヒーの香りよりもネリネの香りを楽しむ。 彼女の人柄と交わって優しく、落ち着く香りなのだ。 ――私が好きな愛しい隣人。 「ねぇ譲葉」 「え、あ、何だいネリー」 まるで夢から覚めたような気持ちで尋ね返す。 「譲葉のコーヒーも飲んでみたいわ」 ミルクを垂らしていたのを知っていたのだろう。無邪気な笑みをこぼす彼女に、勝てないなと苦笑うと自分のコーヒーを彼女へ。 「ミルクを入れるとまた香りが変わるわね……」 コーヒーの匂いを楽しむと、私が持ったままのカップに小鳥のように唇をつける。 「美味しいわ」 「そいつは佳かった」 幾度もしている親友同士の他愛ないやりとり。だが何度しても慣れることはない。 それは彼女が……。 「隣人か……」 「うん? どうしたの譲葉?」 〈隣人〉《となりびと》という言葉は、人間としての助けを必要とする、弱く貧しい者を意味するそうだ。 だが、私の尊敬するある人は言った。 “となりびと”とは、辛い人や苦しい人に寄り添うことのできる者だと。 私が好きな彼女は――小御門ネリネは私が辛く、苦しい時に常に傍らにいてくれた。 「譲葉?」 「手が凍えそうだ」 彼女の柔らかな手を握る。私の冷たい手とは違いネリネの手は温かく、冷えた私の心を癒やしてくれた。 「冷たい……。暖まるまでこうしていましょう」 「ああ、ありがとうネリー」 結んだ手、ネリーは親指で私の手の甲をくすぐるように撫でた。 犬が鼻と鼻を擦り合わせるような親愛の情のサイン。 だが、私は―― 「ずっと――親友でいましょうね。譲葉」 心の内が温かく、そして冷える言の葉。 「ああ。ずっと一緒だ」 寄り添う彼女の身体が私へと預けられ――頬に柔らかな金糸の髪を感じる。 温かな充足感と、鼻腔をくすぐる優しい香り。 (七不思議も悪くない) 苦手な怪異譚巡りも、変わらぬ友情を確かめられたのだから。 隣人の温もりを感じ刹那、微睡む。 こうこうと夜の鳥が啼いた。 彼女を喜ばせるため―― 結果、ケーキ制作・マフラー編みを優先することにした。 後ろ髪を引かれる思いはしたが、シェイプシフターは脇に置き、プレゼントの為の制作に尽力することにしたのだ。 した、のだが―― 「此処がイズニクか」 ニカイアの会の終わり、シフターの謎に迫ろうと年鑑を紐解いていると……。ここ最近聞き慣れた声が耳に入り、 開いたドアへと視線を向けると、生徒会室――イズニクの内装を興味深げに眺めている八重垣君を目にしたのである。 「初めてきた。なかなか品の佳い内装ですね」 「名前負けしているけどね」 「イズニク、ニカイア公会議が行われた場所ですね」 そう、 聖アングレカム学院の生徒による自発的、自治的な組織である«ニカイアの会»。 そのニカイアの会の議場、会のメンバーが集う生徒会室が、かつてのニカイア公会議が行われた土地の名をあやかり―― «イズニク»と呼ばれている。 正式なものではなく、聖堂内地下劇場の“ヨゼフ座”のようなものだ。 会のメンバー以外でも入学したての一年生たち以外は浸透し、学院生徒にはイズニクで通るように為っている。 「盛夏あたりならこの部屋の通称も知らなかったし……。イズニクに置いたとか手紙が置かれてたらまたぞろ一騒動あったところだな……」 「何かな?」 「いえ、こっちの話ってやつでしてね。……本に囲まれている。最高の環境だ」 ニカイアの会の歴史、年輪を思わせるようにたくさんの書物が壁を囲む棚に収められている。 視線は四方の棚を彷徨い、私の執務机の上に無造作に積まれる年鑑を視、うっとりと目を細めた。 「今日はどんな用があってきたのかな?」 「最近、お見限りじゃないですか。マフラーの進捗を見せに全然訪れない。だから、これ――」 図書室で借りたものだろう膝の上に載せた本を指さし、 「借りるついでに八代先輩の顔と、噂のイズニクを拝ませて貰おうと思って来たんですよ」 「心配させてしまったようだね。マフラーは大分コツを掴んだから、伺うまでもないかなと思ってね」 「そいつは薄情だ」 「独り身には辛いと言っただろ?」 互いの軽口に人の悪い笑みをこぼし合う。八重垣君は瞳を細め、 「で、今は何の作業なんです? 大変なら手を貸しますよ」 「以前も言ったが犯罪者の手口を思い出すな。小さな恩を売っていく――」 「溜まりに溜まったところで仕事を頼んで、一味に引き入れるですか? 単純に執務机の上の本が気になるんですよ。随分と年季が入っている」 指をさされ、年鑑に目を落とした。 「これは歴代のニカイアの会の会長が記した年鑑――日記のようなものだよ」 「ニカイアの会の歴史ですか。そいつはそそられますね」 「別に大したことは記されていない。ニカイアの会で行った年間行事の顛末が書かれているだけだよ」 「ならどうして初期から後期まで調べているんです?」 彼女の視線は、時がきっちりとその取り分を奪っていた事が見てとれる陽に焼けた表紙に注がれていた。 当然、今私が付けている記帳と比べ、順々に色濃く焼けている。時が速やかに経過したことを記したように。 ……隠すほどでもないか、と世話になっていることも含め正直に話すことにした。 「シェイプシフターについて調べていたのさ。年鑑ではあるが日記の側面もある。記憶に残るような出来事は記されているからね」 「なるほど。それなら七不思議を調べるには最適だ。それでシフターのことで新しい情報は掴めたのですか?」 「年鑑には始まりのシェイプシフターから、ここ数年前に現れたシェイプシフターについてまで記されていたよ」 「少なくない記載があった。それじゃシフターの弱点が分かったとか?」 八重垣君の冗談に笑い、 「それはなかったが気になる点はあった。シェイプシフターの冠に“寄宿舎”と付くだろう」 「その名の通り、寄宿舎の“何処”という特定の場所に現れる怪異ではない」 「……やはり、そうなのですか」 「うむ。今のシフターは初めの頃こそ他の場所にも現れたが、今は被服室ばかりに現れる。だから僕は被服室が発祥なのではないかと考えた」 「被服室で非業の死を遂げた女生徒の霊が、とかですか?」 「怪異を視てしまう為の土台だね。だが特にそういったものはなかった。シェイプシフターは満遍なく寄宿舎に現れるものなんだよ、本来はね」 奇妙なズレ。八重垣君も今回に関して被服室に目撃例が頻発することに違和感を持ったのだろう。 眉間を掻き顔を伏せた。 「まぁ怪我人が出たとはいえ、ネリーが固執するから気になった程度だ。別に――」 「八代先輩」 何かを決意した声色。 伏せていた顔を上げたその表情は―― 「わたしたちで深夜の怪奇スポット巡りと行きませんか?」 猫の笑みを浮かべ、そう告げたのだ。 「凄いロケーションだわ……!」 暗くうち沈んだ被服室。 皆が寝静まった時間に嬌声をあげる声音は、不吉な夜鳴く鳥を思わせた。 「……名前通りだけどね」 何処で目撃されたのでしたか? と声を掛けてきたのは、 「早く探索しましょう、八代先輩!」 考崎千鳥君であった。 「……すみませんね。付き合わせてしまって」 「いや……」 小声で耳打ちする彼女。そう、イズニクにて怪奇スポット巡りを進言してきた八重垣君だが、ただの物見遊山ではなかったらしい。 「マネキンだわ……! 何か今にも動き出しそうじゃない? あ、こっちにもあるわ……!」 「……一人で此奴のテンションに付き合うのがきつくて」 「……理解しているよ。僕も似た友人が居るからね」 以前から考崎君は寄宿舎のシェイプシフター探索の為に夜中の被服室へ忍び込みたかったらしい。 興味はあるが其処までは……と二の足を踏んでいた八重垣君だったが、私の話を受け毒を食らわば皿まで。 否、飲む毒も二人ならば薄まるだろうと進言してきたのだ。 「八代先輩、シェイプシフターが目撃されている場所はどこなのですか?」 「確か、その真ん中の席だったかな」 言うが早いか考崎君は、真っ直ぐにその席へと向かい躊躇わずに腰掛けた。 「……恐れを知らねぇな」 「この位置ですか……」 「そこで作業に没頭していて、不意に顔を上げたら己の姿が、という流れが多いらしいよ」 私の言葉に熱視線にて周りを見回す考崎君。注視しているようだが、彼女の目にも何も写らないようだ。 「おい、満足したか」 「ええ、満足したわ。だってシェイプシフターの噂は本当だったのだもの」 自信満々言い切る彼女へ私は呆れ――八重垣君は何故だか酷く気ぜわしげな顔つきをした。 「……おい大丈夫なのかよ、お前目がまた……」 「そうじゃないわ。この部屋をよく視て。どこにも鏡がないのよ」 「あ? ん、ああ、そうか……」 得心したように頷く。私もややあって、 「単純に己の姿を、鏡を見て驚いたわけじゃないという訳だね」 「そうです。被服室なのに鏡がないなんて……何だか本物のような気がしますよね」 確かにそれは気になっていた点だ。そして、 「何処か潜める場所はないか捜したが、どうも人一人隠れる場所はなさそうだね」 「此処は二階ですし、登ってくるってのも考えづらい」 私も、八重垣君も同様に、悪戯の線で考えていたようだ。悦に入っていた考崎君は私たちの言葉を聞き、しばしの間を置いてから、 「もしかして悪戯だって思っているの?」 苛立っていることに苛立っているような目で八重垣君を見遣り声を上げた。 「そこがお前の駄目なところなんだ。何でも信用する。わたしは疑ってかかる。わたしの長所」 「普通は短所よ」 「今の御時世だと長所だよ。だが、ま、今回は千鳥に分があるな。此処で本当に視たというなら悪戯の線は薄い」 「でしょう」 胸を張る彼女に、八重垣君は憎々しげな視線を豊かな胸へと投げつけた。 話し声が消え、しばし静寂が支配する室内へ、 「ならば本物か……」 黙していた私の言葉は奇妙に響いたのだ。 (さすがに気味が悪くなってきたな……) 深夜に“出る”と言われている場所だ。しかも確率が高くなってきた。 同行者がいるとはいえ、股がすかすかしてくる。 黙っていることに耐えられなくなった私は、何か話題を捜すと―― 「……そういえば白羽に似てるっていうあの三角関係の転入生の話はどうなっているんだ」 八重垣君も同様だったらしい。唐突に話題を振った。 「……特に進展はないみたいだけど。えりかから恋愛話を振るなんて珍しいわね」 「沈黙が嫌いなだけだよ。沙沙貴姉妹に聞いたんだったか? それにしちゃ広まってないな」 「沙沙貴さんたちも口が堅い人にしか話していないみたい。気を遣っているのよ」 (気の使い方がおかしい) だが、苺君の性格を考えると黙っている事の方が不自然に思う。 「ま、白羽の耳に入ってなきゃいいがね」 彼女の呟きが何故だかくっきりと耳に残った。 (匂坂マユリ……) 私の脳裏にあったシェイプシフターの像は、匂坂マユリの貌に変わった。 三角関係の、悲恋のもつれから命を絶った少女。 死してはいないが、 消えてしまった匂坂マユリを連想させたのだ。 (まさか、な……) 酷く嫌な妄想が浮かび、私は頭を振り無理やりに彼女の像を消した……。 ――目の回るような忙しさだが、 日々はその取り分をきっちりと払わせていった。 気が急く私のことなぞ構わず過ぎゆく日常は変わらない。 勉学に勤しみ、 スポーツに励む。 「譲葉さん。グラン・フェッテの時どうしても上体がブレてしまうの。観てくださらないかしら」 「ああ、構わないよ」 数日後に迫った、親友の誕生日。何とか間に合う算段はついていても、どうにも焦ってしまう。 元々せっかちで慎重な性格だ。当日間に合わせだと気が気ではない。 「どうかしら?」 「……すまない。もう一度踊ってくれないか」 見逃してしまったが、より慎重を期す為と思ったのだろう。彼女はグラン・フェッテを舞い、私は幾つかの修正点を看破する。 「振り足のタイミングがやや遅くなっていること。それと顔が少しついていないね。その部分を鏡の前で観察しながら踊ってみるといい」 「分かったわ。ありがとう譲葉さん」 笑みを送り練習へと戻る。私はしばし彼女の後ろ姿を見詰め―― 「きちんと指導しているわね。偉いわ」 今一番心を悩ませている相手からの声を背に受けたのだ。 「いつもクラスメイトの相談には真摯に対応しているじゃないか、ネリー」 「そうかしら。以前相談してきた相手に腹筋の鍛え方を教えると、お部屋に伺おうとしていたのを知っているのよ?」 「それは誤解だよ。腹筋を鍛えるのはフェッテだけじゃない。プリエもタンデュもすべてにおいて必要だ。だろ?」 「それは同意だけど、女の子の部屋に上がり込んではダメよ」 (拙いな) 此処最近、八重垣君たちの部屋に上がり込んでいた私は笑いで誤魔化した。 「……その表情」 さすが親友、一瞬の表情の変化も見逃さない。 「譲葉」 「こうなったら告白するけどね。シェイプシフター絡みで気になったことがあったから、少し調べていたんだよ」 「シフターを?」 表情が綻んだ。あと少しだ。 「その兼ね合いで、部屋に上がる必要もあったってことさ。不埒なものじゃない」 「そう、譲葉もシェイプシフターを……」 黄金色の髪を弄り頷くネリー。譲葉も、という言葉には引っかかるが―― 「はい。それでは次の班です。フロアへ」 バスキア教諭の声に遮られ疑問符は消え、難を脱したのだ。 ――いや、 バスキア教諭に救われたというのは早計だった。 彼女の一言は追求を両断してくれたが、 バスキア教諭の一言によって懊悩は増すことに為ったのである。 «ハロウィンパーティは中止にした方が佳いかもしれないわね» 秋の朝の柔らかな陽光が射し込む部屋の中で―― 「怪我人を出してまでパーティを行うのはニカイアの会としても不本意だと思うの」 私を呼び出したバスキア教諭はそう告げたのだ。 「済みませんバスキア教諭。お話が見えないのですが――」 戸惑い告げた言葉にバスキア教諭は瞳を瞬かせると、そうね、そうだわと頬を赤らめた。 「ごめんなさい。急に言われても分からないわよね。問題が起こったのは昨夜の事なの」 「怪我人が?」 痛ましい表情で頷く。 「ええ。昨日被服室で、ハロウィンの衣装を制作している最中に怪我人が出たのよ」 ――調べていたシェイプシフターの像が浮かぶ。春に消えた彼女。 「……どういうことです?」 「昨夜、被服室で怪我をし気を失っていた生徒を寮長が保護したの」 (気を失っていた……) 思っていたよりも大事のようだ。 「寮長が生徒を保護した。と、いうことは見回りの際に被服室で倒れているのを発見した、ということですか?」 「それが――」 問う私へ、バスキア教諭は俯き話すべきかどうかを悩んでいる様子をみせた。彼女の口が開くのを待っていると、 「白羽さんが発見者だということは黙っていてほしいの」 白羽蘇芳の名を吐いたのだ。 「蘇芳君が第一発見者だということですか。それは何故?」 「これは白羽さんと、寮長の〈方喰〉《かたばみ》さんの双方から聞いたお話なのだけど――」 「消灯の時間を過ぎた頃、白羽さんは被服室に忘れ物をしたことを思い出したそうなの」 「明日の授業に使う物だったらしく、急いで被服室へ向かったのだけど――」 「被服室に鍵が掛かっていたそうなの」 「……ええ。そう、何時もは鍵は掛かっていない。だからおかしいなと思いながらも、鍵を開けて貰う為に方喰寮長の部屋へと行き――」 「寮長を伴い、再び被服室へと。そして扉の前で何度かドアを叩き、中の生徒へと呼び掛けたそうだわ」 「ええ、私も何故かは訊いたわ。そうしたら被服室は内鍵を掛けることができるわよね?」 「だから、もしかしたら生徒が中に居るのかもと、ハタと思いついたのだと話してくれたわ」 「閉ざされたドアへ呼び掛けるも、何の反応もなかった為、方喰寮長に鍵を開けて貰い中へ――」 「――そこには生徒が倒れ、その傍らには裂かれたドレスがあったそうよ」 「まるで誰かに襲われたかのような情景に――」 「慌てて駆け寄ると倒れている生徒へ呼び掛けるも答えがない。怪我をしているのを確認した白羽さんたちは――」 「気絶したままの生徒を担ぎ、養護室へと連れて行ったそうなの」 「……怪我の具合はどうなんです?」 「怪我自体はそれほど酷いものではなかったわ。裁ちばさみで手を少し切った程度、でも――」 「シェイプシフターを視た、と」 私の言葉にええ! と何度も頷くバスキア教諭。彼女は十字を切ると話を続けた。 「その生徒……私の受け持ちの生徒なのですけど、彼女が言うにはハロウィンパーティでの衣装制作が思うように捗らず――」 「消灯が過ぎてもこっそり被服室を使っていたそうなの。規則を破っていることが後ろめたくて鍵を閉め作業していた」 「そしてシェイプシフターを視た」 「ええ。目の前に、自分自身が佇んでいたそうよ。この学院にそんな邪悪な者が這入り込む余地なんてないのに……」 「……エルヴィスだって毎年世界中で見付かっている」 え、と私の呟きに顔を上げた。 「有り得ないモノというのは“有り得ない”から視てしまうものなのですよ。この事を他の生徒等には?」 「話していないわ。方喰寮長と白羽さんだけしか知らない筈よ」 「そうですか……」 口止めはしていないのか、と心の内で呟く。方喰寮長も白羽君も口は堅い方だが、被害者が出ている以上、この件は明るみに出るだろう。 人の口に戸は立てられぬ、というやつだ。 (このシェイプシフターは本物か、偽物か?) 本物は―― 噂が広まったことで、不安からシェイプシフターという“像”を己で作り出してしまったと考えるのが一番分かり易い解だ。 (私たちの年代にはままあることだ。だが、) 偽物――悪戯を行った者がいる可能性はないかと悩む私へ、再度『ハロウィンパーティは中止にした方が佳いかもしれないわね』と呟いた。 「……バスキア教諭。此の件、僕に預けて貰えませんか」 「何か考えがあるのね?」 「ハロウィンパーティは学院の規定行事ではない。ですがニカイアの会主催で毎年続いている歴史ある行事です。途切れさせたくはない」 凝っと私の目を見詰め、瞳の色から逡巡を見た。が、 「分かりました。少しの間だけ待ちましょう。会の長として判断に過ちがないように願います」 立ち去るシスターの背中を眺め、不意にビートルズの曲を思い出した。デイ・トリッパーだ。 (泡の夢か) 少し前まで親友へのプレゼントでヤキモキしていた状況が懐かしくなる。 「感傷に浸っていても仕方がない」 泡と消えぬように行動をするしかない。私は、縛っていた髪を幾度か手でしごくと年鑑へと視線を移した。 「ま、そんなに簡単には見付からないよな」 以前、シェイプシフターの噂から被服室を調べたことがあったが、得た情報はその時と代わり映えしなかった。 (基本鍵は掛けてなく外鍵は寮長が持っている。そして内鍵として室内からなら鍵が掛けられる。此を踏まえると――) この状態で“悪戯”をした者がいると考えるならば―― 「……作業中に脅かすため、密室の中に侵入しなければ為らない」 鍵は方喰寮長が持っている。ドアから侵入したとは考えられない。なら、外から? 「被服室は二階だ。雨樋などの足場になる箇所もない」 折りたたみの梯子を使っては? ……いや、それも難しい。庭木の剪定に使われる梯子はあるが、使用した後は鍵付きのキャビネットにしまわれている。無理だ。 (なら、事前に潜んでいた?) だが、此も難しいと思われる。以前、被服室へ赴いた時も感じたことだが被服室には人一人隠れられるような場所はなかった。 被害者生徒が後ろめたくて電気を消して作業する――ということを事前に知っており闇に紛れようとしたと考えても……。 「……忍者のように似た布で壁と一体化か、馬鹿馬鹿しい」 第一に電気を消すことを知る必要がある。 そして第二に来る時間も。悪戯した当人が鋼のような精神で暗闇の中ずっと待ち続けようと決めていたなら別だが……。 そして最後の三つ目が難問だ。 「被害者生徒は己の姿を視たと証言している……」 驚かすというバカをやる為に全身が写る大きな姿見を持参してきた? 想像するだに愚かしい。 悪ふざけをする生徒がいない訳ではない。だが、此奴は行き過ぎている。 「ともかく方喰寮長にも話を聞いてみるとしましょうかね……」 バスキア教諭の言葉を信用していない訳ではない。だが、話というのは人の口を介すると主観が入るのだ。 ドアの内側から、はい、と応える言葉を聞き、失礼しますと告げ寮長室のドアノブを回した。 (バスキア教諭が話したことと代わり映えしないか……) 小用を終え、教室へと戻りながら昨日の方喰寮長との会話を思い返す。 視点は蘇芳君から変わった事でやや変化したものの、語り手が変わっただけで代わり映えしないものだった。 方喰寮長が夜自室に居ると蘇芳君が訪ねてくるところから始まり―― 被服室が鍵が掛かっている旨と部屋の中に忘れ物があることを言われ、二人連れだって被服室へ。 目的地へと着き、蘇芳君が室内へと呼び掛けるが反応はなく、方喰寮長は蘇芳君を制しドアの鍵を開ける。 室内へと踏み込むと中には気を失った生徒が―― 「特に齟齬はない、が……」 一つだけ思っていたのと違う点があった。それは、 ドレスの破れ具合だ。 バスキア教諭から話を聞いた際に気を失った生徒の傍らに破れたドレスが、と聞かされ無茶苦茶に破かれているものとばかり思っていた。 だが、方喰寮長が預かっていたドレスを見た際、襟部分から縦一直線に破かれてはいたがそれだけ。 裁縫が得意な身としては十分修復可能だなと思ったものだ。シェイプシフターが憎しみから破いたのだとは写らなかった。 「……自殺した霊が恨みから、か。ネリーじゃないんだぞ」 呟くと頭を振る、と廊下の奥に見知った友人を見掛け手を振った。私を見付けた彼女は小走りで駆け寄り、 「奇遇ですね! 譲葉先輩!」 苺君は子犬のように私の元へと来ると勢い抱きつきそうになりながらもそう言った。 彼女の朗らかさに救われ、階が違うことから次はバレエの授業かな、と尋ねた。 「はい。これからバレエです! 譲葉先輩も、そうだったんですか?」 「ああ。着替え終えて小用を済ませて教室に戻るところだよ。苺君はレオタードは忘れてきたのかね?」 「先に済ませておきたかったんで、林檎に持っていって貰ったんです」 「一度着替えてから、催したらことだからね」 笑う私に、やや照れた素振りを見せる。どうやら思っていたよりも乙女のようだ。 「あ、あの、何か考え事をしていたみたいですけど……」 「そうかい?」 「あの、もしかしてシェイプシフター事件を調べているのですか?」 ――刹那、言葉を飲み込むも、 「捻挫とはいえ、驚いて怪我をしたとあってはニカイアの会の会長として動かざるを得ないからね」 少し前の件だと当たりを付け話す。が、苺君は可愛らしく小首を傾げ、 「あの、それではなくて。昨日、手を怪我したって聞いたのですけど……」 (バスキア教諭は口止めしておくべきだった) 噂好きで耳が早いとはいえ話が広まっていることに額を押さえたい衝動に駆られる。 「うちのクラスの転入生の子、〈石蕗〉《つわぶき》さんが怪我をしたんです。譲葉先輩は聞いていませんか?」 「……そっちの事か、勿論聞いているよ。話が大きくなる前に調べておこうと思っている次第さ」 「怪我もそうですけど、ドレスが破かれていたってことも拙いですよね。ハロウィン中止にとかならないですよね?」 大丈夫だと言いながらも、 (ドレス? 確かに被害者のツワブキ君は衣装がないと制服での参加となるが……) 優しい彼女が怪我よりもドレスに重きを置いていることに違和感を覚えた。 「確かにハロウィンの衣装がないと締まらないが、無ければなくとも構わないよ」 「此の行事は学生が催しているものだからそこまで厳粛ではない」 「そうなんですか佳かった! もし衣装がなかったら参加できないって事だったら石蕗さん可哀相ですもんね」 「彼女は関係ないですけど、ええと、その、相手の子が可哀相っていうか……」 苺君の言葉が引っかかり、“相手の子が可哀相”との意味合いを考える。と―― 「破かれていたドレスはツワブキさんのものではない?」 「? はい、そうですよ? シフターが破いてしまったですけど、参加できないのは可哀相ですものね!」 (私としたことが固定観念だったな) 倒れた彼女の傍らにあった裂かれたドレス。 話を聞き、当然のように彼女が制作していたモノだと思っていた。 「……此奴は一から考え直してみないと為らないな」 「先輩?」 「ありがとう苺君。貴重な話を聞かせて貰ったよ」 「ぁ……」 頭を撫でると頬を朱に染め、うっとりと私を見上げた。 頼りになる後輩へもう一度感謝の言葉を吐くと、“彼女”へ話を聞かなければ為らない、そう決めたのだ……。 明日に控えた誕生日の仕込みを終え、 探偵にお伺いを立ててみようと―― 夕食を終えたばかりの彼女たちの部屋へと伺ったのである。 「紅茶しかなくてすみません」 薫り高く琥珀色の紅茶が運ばれ、私と、 「ありがとう、立花さん」 探偵役の彼女へと紅茶を手渡したのである。 「八代先輩はコーヒーの方が佳かったですよね?」 「なに、たまには紅茶もいいものだ。花菱君の淹れてくれる紅茶は格別だしね。これはアッサムだね?」 「ふふ、ダージリンですよ。クッキーの作り置きもありますけど」 「頂こう」 言い、花菱君お手製のクッキーを頬張る。アーモンドクッキーだ。 サクサクとした食感、スライスされたアーモンドが香ばしく紅茶と実に合う。 「それで蘇芳さんに相談というのはシェイプ……シフターというお化けの件なんですよね?」 「ん……む。そうだ。花菱君も聞いているようだね?」 「はい。級長としてクラスメイトのことは知っておかなくてはなりませんから」 気ぜわしげに蘇芳君を見遣る。どうやら情報元は言わずもがなのようだ。 「では、昨日の石蕗君が発見されるまでの流れは此処にいる皆は了承しているということだね」 頷く二人へダージリン……オレンジペコだったか紅茶で舌を湿らすと、今度の事件をどう思う? と二人へ問うた。 「どう、とは?」 「被害者の石蕗君が言うようにシェイプシフターが起こした怪異かってことさ。先ず花菱君の見解を聞こうか」 「わたしは……お化けなんて居ないと考えています」 「なら誰かの悪戯だと?」 「いえ、そうでなくて……。お化けはいないですけど……その、石蕗さんには見えたというか……」 「なるほど、花菱君はエルヴィス派のようだ」 「え?」 きょとんとする彼女。おさげを弄り、怪訝に私を見遣るも、 「八代先輩はどう思っているのですか?」 と問い返してきた。 「被服室には鍵が掛かっていた。そうだね?」 「はい」 「中からは掛けられるが外からは鍵がなければ掛けられないタイプだ。だから、状況を作るためには石蕗君が気を失っていなければ為らない」 「中からは鍵が開けられるからですね?」 「そうだ。養護教諭から聞いたが、石蕗君が自分自身を視、驚き倒れたおおよその時間と、蘇芳君たちが駆けつけた時間――」 「それらを考えると、方喰寮長の部屋から鍵を拝借して驚かして戻す、というのは無理のようだね」 「ならやっぱり彼女の目には――」 「まぁまだ早計だがね。鍵なぞなくとも錠前開けが趣味の女生徒がいるのかもしれない」 冗談を言ったのだが、花菱君、蘇芳君とも何やら神妙な顔つきをしたまま。 私は、続けてこの慎ましやかな女の園にいる筈がないがね、と付け加えた。 「それと状況が複雑化する要因がもう一つ加わった。訊かなかった僕が悪かったのだけど――破かれたドレスは石蕗君のものではないらしい」 「そう、なのですか?」 沙沙貴苺君は知っていたが、どうやら周知の事実ではないようだ。若しくは、 「ええ。私も後から知りました」 沙沙貴苺君の誤りでもないらしい。 概要を語り終えた室内に、沈黙が横たわる。 しばし爽やかな紅茶の香りと思考の心地好い時間が流れた。 と、今まで冬ごもりするリスのように凝っと私の話を聞いていた蘇芳君は、 「――こう考えてはどうかしら」 と口を開く。 「昨日のシェイプシフターの事件は……事故だったのではないでしょうか」 「事故? え、え? どういう意味なの?」 「シェイプシフター事件での“犯人”と言われる人物はいなかった。被害者が……同時に加害者だと考えてはどうでしょうか?」 我が師の問いかけに、軽く瞳を閉じ言葉の真意を探る。 それは、つまり―― 「……あのドレスは被害者である石蕗君が誤って破いてしまったということかな?」 そう結論づけた。 「え、石蕗さんが? だって密室で……彼女は気を失って倒れていたのでしょう?」 瞳を瞬かせ問う花菱君へ、我が師は、そもそもこの事件で密室だということに意味はないの、と言った。 「密室を作る意味合いのほとんどがアリバイを作ることだわ。だけど、この場合の密室はそんな深い意味合いがあってのことじゃない」 「どういうこと?」 「時間外の作業をするということの後ろめたい気持ちから、被服室の内鍵を掛け作業していただけなの」 密室を作ることで他の生徒に疑いが掛かるという事はなかったでしょう? と蘇芳君が言うと花菱君がおさげを揺らし幾度も頷いた。 「鍵を掛け衣装作りに没頭している際、シェイプシフター……己の姿を視て驚き慌てふためいた」 「気が動転した彼女は裁ちばさみで怪我をし、さらに狼狽した彼女は立てかけられたドレスを掴み転んだ際に破ってしまった」 そう考えてはどうかしら、と言った。 「すごい、すごいわ! 確かにそれなら筋は通るわ……!」 「……なるほど」 シェイプシフターを視たという心霊体験を認めれば、後は辻褄は合う。 「八代先輩、石蕗さんには会いましたか?」 「いや、実は話を聞きたくて何度か足を運んだが、会えなかったよ」 「きっとシェイプシフターを視たことのショックもあるのでしょうけど――」 「クラスメイトの衣装を事故とはいえ破ってしまったということで、動揺しているのではないでしょうか」 「……そうよね。わたしだったら、会わせる顔がないわ」 生真面目な顔でおさげを弄ると、 「その破いてしまった子と仲直りできるように働きかけなくちゃいけないわね!」 そう力強く頷いた。 「……八代先輩」 訴えかける我が師の視線に、 「ありがとう。バスキア教諭へ佳い報告が出来そうだよ」 筋は通る、だが奇妙な違和感を覚えた私は、冷めてしまった紅茶をひと息で飲み、違和感の正体を探るためそっと瞳を閉じた……。 あまり佳い状況だとは言えなかった。 「……だが最悪ってほど拙い状況でもない」 被服室の電灯を点けては消しを繰り返し、私は独りごちる。 「昨日、蘇芳君が披露した推理……」 恐らく彼女が話した推論が一番佳い落としどころだろう。 ハロウィンパーティの中止を促したバスキア教諭に弁明するには可もなく不可もなし、といったところだ。 「怪我を負ってしまった騒動は、〈怯懦心〉《きょうだしん》から自分の姿を視てしまい慌てた所為で怪我をし、クラスメイトのドレスを破ってしまった……」 (事故と言うことで大事には為らず、ドレスに関しても級友にも同様の言い訳が立つ) だが、 「……何かが引っかかる」 理路整然とした推論だった。何故私は奇妙な違和感を覚えたのか。 被服室を進み、シェイプシフターがよく視られるとされる椅子に座る。 周りを見渡すと―― 「黒板、カーテン、マネキン、窓……」 己の姿が視えたという。 映るとするならばやはり窓だろう。 昼間はカーテンが開けられ、窓からは朝の清らかな陽射しに照らされた桜並木と個人部屋の窓が仰望できる。 「だがカーテンは閉めきられていた……」 なら尚のことシェイプシフターを視る機会は失われる筈。 「もう一度ドレスを見せて貰いにいくかね……」 違和感がこの部屋でないのだとしたら、破かれたドレスの方にあるのかもしれない。 まとめ髪を扱くと、方喰寮長の部屋へと足を向けた。 「危なかったな……」 方喰寮長の部屋へと向かった私の行動は空振りに終わり―― 昼休みを利用し、再度寮長の元へと向かったのだが、 (あともう少しで雑巾、いや、茶巾袋になっていたぞ……) 元々方喰寮長は“捨てる”という行為に罪悪感を覚えるタイプだ。だからこそ直ぐ捨てられるという事はないと思ったのだが……。 「……危うくリサイクルされるところだったよ」 アクアリウムへと向かい、熱帯魚へと話しかける。 あわや布袋にされる前、ドレスは証拠物件として確保した。今は私の部屋だ。 心を落ち着かせ、得た情報を整理するために不規則に泳ぐ熱帯魚を眺めた。 「収穫は裂かれ方だ」 初め話を聞いた時点ではボロボロにされたと思っていたドレス。だが、一度検分した結果、襟から一直線に裂かれていることが分かった。 これは蘇芳君が推論立てた、慌てて転びそうになった際ドレスを掴み裂いてしまったと符合する。だが、 「二度目の検分で分かったことは、切り裂かれた襟に、刃物……おそらくハサミで少しだけ裂いたところが見受けられた」 (まるで此処から裂いてと言わんばかりの切り口のように) 心の内に今まで集めた情報の欠片が浮かび上がる。 被服室で多く視られた寄宿舎のシェイプシフター。裁ちばさみで手の平を怪我した生徒。裂かれたドレス。 動揺し、いまだ部屋から出られない被害者。 「今までの経験則から紐解くために必要な要素は、犯人の目星をつけること、次いで犯行方法、そして動機……。動機……?」 奇妙な違和感の正体に気付く。そうだ、私はすっかりその部分だけを逸していた。 アクアリウムに近づき凝っと藻を眺め、思いついた可能性を精査していく。と、 手がスイッチに触れてしまったのだろう。灯りが消え、水槽に薄ぼんやりと真白い西洋風の顔が浮かび上がった。 「……必要な〈欠片〉《ピース》が集まったな」 知り得た情報から一つずつ紐解いていこう。 先ず被服室で起きたシェイプシフター騒ぎ、手のひらを裁ちばさみで怪我した件だ。これは―― «被害者の石蕗君が――» 誤って起こした事故 誰かを陥れようとした狂言 脅されて起こした事件 ああそうだ。そう筋道を立てれば全体像が視えてくる。 次はどうしてドレスが裂かれたのか、だ。 今まで得た情報の中から推理してみよう。 «ドレスが裂かれた意味は?» シェイプシフターに驚いたから 恋敵が憎くなり破いた 間に合わず癇癪から 奇妙な違和感を覚える。 動機に気付いたときのどこか据わりの悪い違和感のような―― 「……いや、必要な〈欠片〉《ピース》は揃えている筈だ」 どうにも腹の据わりが悪いが、今は持っている手札で勝負するしかない。 私は真相を知る彼女の元へと向かった……。 「――こんなところか」 組み立てた推論に心の内でため息を漏らした。 変わらないことを美徳とする私と、変化を望む彼女たち。 「今更ながら――ネリーの誕生日は今日なんだよな……」 誕生日を祝うのは、放課後……夕食が終わってから私の部屋へ呼び出してからでいいか、と考えていたが……。 (後顧の憂いをなくすために先に済ますべきだな) 心は決まったものの、アクアリウムに映った私の顔は分かりやすく、相手と己を騙すためにシニカルな笑みを作っていた……。 「嘘だろ」 秋晴れの東屋に、 始まりの鐘の音が鳴り―― 「それでは小御門ネリネ先輩のお誕生日会を始めます」 そう花菱君が音頭を取ったのだ。 「お誕生日おめでとうございます。これはわたしとしてのプレゼントです」 「わたし的にはイチオシのカエルの置物です! 何とカエルさんが朝起こしてくれるんですよぅ!」 「ふふ、ありがとう。今日は私の為に、こんなに素敵な催しをしてくれて嬉しいわ。プレゼント大切にするわね」 下級生、そして同級生らからもプレゼントを手渡され微笑みを返す。と、いうか―― (サプライズパーティを計画してたのか……ッ!) 発案者は花菱君だそうだが、一枚噛ませて貰いたかった。 「あの、これプレゼントです。詰まらないものですけど……」 「わぁ! 私のお花の押し花ね。栞に為っているのね。本好きの白羽さんらしいわ」 「佳かったら使ってください」 プレゼントを貰い礼を言うネリーに頬を染める蘇芳君。この絵面は―― 「……僕だけがプレゼントを用意していない不心得者みたいじゃないかッ」 「ごきげんよう、八代先輩」 「あれ? 先輩、プレゼント持ってきてないんですか?」 「……サプライズパーティをすると聞いていたなら持ってきたよ!」 「ははっ! 話したらサプライズに為らないでしょうに」 「僕にサプライズしてどうするんだ……! お陰で――」 「あら、八重垣さん、考崎さんも来てくださったのね」 「委員長に誘われましてね。先輩とは知らない仲じゃない。祝いに来ましたよ」 言いながら包装した袋を手渡す。何だ、その手頃だが高級感のある大きさは? 「私は合唱部ということでデジタルのメトロノームです。リズム感のトレーニングに最適ですよ」 「あら、初めて見るわ。デジタルでもメトロノームってあるのねぇ」 「私も使っています。予備ですみませんがどうぞ」 「八重垣さんも考崎さんもありがとう。こんなたくさんの人に祝われるなんて嬉しいわ」 「小御門先輩の人徳ってやつですよ。こんなにたくさんのプレゼントを貰える人は学院にもそうはいない。ですよね八代先輩?」 (振るな) そう心の内で叫んだが、人好きのする笑みをむける親友へ何も言わないわけにはいかず―― 「……誕生日おめでとう、ネリー」 「ふふ、ありがとう譲葉。今年も祝って貰えたわね」 ――二人きりの時に言いたかった。 「あ、小御門先輩こっちに居たんですね! 今日は先輩が主役なんですからケーキを切り分けてくれないと!」 「その前に蝋燭を吹き消す大仕事がありますですよ」 「あらあら、私の為にあんなに大きなケーキを?」 「りっちゃんさんが手がけた大作です。さぁずずいと」 双子姉妹に両脇を取られ、中央に。 私が用意したのとは比べられない程の立派なバースデーケーキだ。 「……その、茶化して悪かったですね」 「すみません。性格が悪いだけで悪気はないんです」 ネリーを慕う級友、後輩たちを観て―― 「……何、構わないさ」 と言った。 「あの……」 気ぜわしげに私を見詰める緑青色の瞳。この可愛い後輩は根っこのところで面倒見が良く人が佳い。分かっている。 「計画とは違ってしまったが、ネリーが……親友がこれ程慕われているのを観られたんだ。純粋に嬉しいよ」 「……計画、サプライズならまだ立て直しできますよ」 「そうだな。ありがとう。その線で考えてみるよ」 シニカルな笑みで応える。気ぜわしげな顔つきはようやくいつもの人を食ったような顔つきに戻った。 「八代先輩は佳い人だわ」 「できるならもっと人が多いところで大声で褒めて欲しいね」 私の言葉に考崎君もいつもの調子を取り戻したよう。 蝋燭の火をひと息で消し歓声が上がる。喝采に親友の白い頬がパッと赤く染まるのを見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。 「コーヒーを持ってくるが、二人ともいるかい?」 「はい。頂きます」 「わたしも。それじゃアメリカーノで」 「ふふ、エスプレッソは置いてないよ」 アメリカンとは違うの? と尋ねる考崎君へ、エスプレッソをお湯で割ったものだと八重垣君はざっくりとした説明をした。 二人を尻目に、飲み物が用意されている卓へ。と、 「どうぞケーキです」 切り分けたケーキを配っている我が師から声を掛けられた。私は心の内で嘆息すると、コーヒーを取りに行く足を止め彼女へと向き直った。 「――蘇芳君。今日時間が取れるかな?」 「はい?」 「二人きりで話がしたい」 夕食を終えたら指定した場所に来るようにと耳打ちし、私はコーヒーを汲んでくるため卓へと向かった……。 事故なんかじゃない、と私は言った。 中秋のロビーは冷え、足から冷気が忍び寄ってくるように思えた。 夜明け前が一番暗い――とは誰の言葉だったか、日が落ちて直ぐのロビーは死人のように静まり返り、私の言葉を飲み込んだ。 「…………」 アクアリウムの傍に佇む彼女。 だが瞳は不規則に揺れる熱帯魚には注がれず、かといって私を視てもいなかった。 薄暗い足下を……。いや、俯いたその姿は己の抱える病魔に嘆いているようにも思えた。 「事故なんかじゃない」 もう一度吐かれた言葉にも揺るがない。だが彼女は何が、とも問わなかった。彼女、白羽蘇芳も理解しているのだ。 「被服室でのシェイプシフターの件だよ。あれは事故なんかじゃない」 「私の……推論が間違っていましたか?」 「いや、行動自体は間違いではないよ。一人きりで被服室で作業していたことも。被害者自身が鍵を掛け密室だったことも」 「そして友人のドレスを破ってしまったことも、だ」 「でしたら……」 「言っただろう、これは事故じゃない」 私の告げた言葉に黙り込む。夕食が終わり寮生は皆部屋へと戻り祈りを捧げている。ぽっかりと空いた空白の時間。 じんわりと肌にしみ込んでくる寒さは、私と彼女、二人きりしかいない間を寒々としたものにさせていた。 「行動は変わらない。だが、僕は此に動機を付け加えてみた。推理の基本だ。何故、彼女を、殺したのか? 当たり前の事だが――」 「寄宿舎のシェイプシフターという七不思議が絡んでいたことから、そいつは枠外へと捨て置かれていた。幽霊に動機なんてものはないってね」 「だが事故でない以上、怪異は退かしておく。枠の外へポイだ。幽霊でないなら人が犯したことなのだからね」 「シェイプシフターは居なかったと?」 そもそもの怪異についてではない。石蕗君がシェイプシフターを視てはいなかったかと問うているのだ。 「ああ。蘇芳君はシェイプシフター……己の姿を視て驚き慌てふためいたと言ったが、そもそもシフターは彼女の前には現れなかった」 寄宿舎のシェイプシフターは利用されたのさ、と続ける。 「蘇芳君も知っての通り、被服室には鏡はない。時間外の作業をするため窓にはカーテン、だ。だから己を視ることなんて真似はできない」 「臆病な気持ちから幻を視てしまうことはあります」 「ああ、そういう事もあるだろうね。だが彼女の場合は違った。何故ならそんな臆病な虫が疼くような心境じゃなかったからさ。ここで動機だ」 動機、との言葉に彼女の顔が陰る。石蕗君を庇っている理由。 「僕はこの件を調べるときに違和感を得たのはそのものズバリ動機なんだよ。今回の件には其奴が全くなかった」 「だが、動機を加味すると途端に分かり易く見えてくる」 今朝、方喰寮長に会い破かれたドレスを検分したことを告げる。そして、その破かれ方が妙だとも。 「ドレスは襟から一直線に裂かれていた。蘇芳君が言うようにバランスを崩して倒れ込む際、襟に手を掛けたなら頷けない話じゃない」 「なら……」 「だが、切り口が無かったら、だ。検分した結果、破かれたドレスの襟にはハサミで破きやすいように切り込みが作られていたんだよ」 「そう……だったのですか……」 突きつけられた証拠に、小さくだが重い吐息を零す。彼女は、白羽蘇芳は全て分かっていた。分かっていたが―― 「そう、誤って破かれたのではない。友人のドレスは石蕗君が望んで破り裂いたものだったんだよ」 石蕗君の犯行だと知り得ていたが黙っていた彼女は、私でなく――やはり足下を見詰めた。 「以前、興味深い話を聞いたことがあった。君のクラスに転入してきた子たちだ。その子たち――アミティエが三角関係になったと聞いているよ」 「それは……噂です」 「火のない所に煙は何とやらさ。残念ながら裏付けも出来ている。石蕗君は、その三角関係とやらのアミティエの一人だそうだね」 頷きは――ない。心苦しいが此処で止めるわけにはいかない。 「そして此処のところ、その三角関係が進展したようだ。石蕗君が恋破れる、という形で、だ」 おそらく、 「で、調べてみると分かり易いことに破かれたドレスの持ち主というのは好きな相手を奪った――石蕗君のアミティエだという話だ」 おそらく彼女は、 「深夜の作業中、恋敵のドレスが目に入り、石蕗君の心には静かだが強い嫉妬の炎が生まれた。そして、ハサミで切れ込みを入れ――」 石蕗君に。いや、三角関係となった転入生たちに、過去の己を投影しているのだろう。 「――引き裂いた」 元々破くつもりがなかった石蕗君は慌てたのだろう、と続ける。 「計画的でなく突発的だった筈だ。破くだけなら露見しにくい方法は幾らでもある。悩んでいた其処へ――君が被服室へと訪れた」 「タイミングを考えれば蘇芳君が方喰寮長を伴い来たときに初めて気付いたのだろう。蘇芳君の話では、最初はドアノブを回して確認しただけ、」 「この時に室内の石蕗君は自分の犯した過ちに気を取られ、ドアノブの音に気付いていなかった」 「蘇芳君が初めて中へと呼び掛けたのは、寮長を伴った時だったね?」 「はい。ただ鍵を掛けているのでなく、内鍵で誰かが閉めているとその時思い立ちましたから……」 「ドアを叩き呼び掛けた。この時ようやく己が追い詰められている事に気がついた石蕗君は――」 「被服室で頻繁に見掛けられているシェイプシフターに罪を被せることを思いついたのさ」 長く語りふっと息を吐く。蘇芳君は足下を見ず、私へとその美しい目を向けていた。 愁いと諦観が混じり合った濡烏色の瞳。 「君は被服室に入って直ぐ、気を失った振りをしていた石蕗君の姿を見て狂言に気付いたのだね?」 頷く。 「そして誰も傷つかないように、僕へ己の推論を語った」 花菱君とともに私へ聞かせたのは故意的な誘導だ。 「私は……石蕗さんに……彼女たちに自分を観ていたのです」 訊かないでおこうと決めていた心の内を吐露する彼女へ、私は――何も語ることが出来ない。 「三角関係となったアミティエを私たちに……。互いの気持ちが昇華できなかったら、石蕗さんのように彼女も、と」 誰を指しているかは野暮だろう。蘇芳君は縋る瞳で私を凝っと見詰める。 そして、潤む瞳で私を縛ったまま身体を寄せた。 「だから、八代先輩、どうか、どうか……」 華奢な肢体、闇と同化してしまいそうな程の美しい黒髪、見上げるその目に、人形細工のような整った顔立ちに、心を奪われ掛けた。 「――報告はしなければ為らない」 「八代先輩……」 「ハロウィンパーティが催せなくなってしまう。ニカイアの会の会長として其れは避けなくては為らない」 「そう、そうですよね……」 「だが、」 言い、蘇芳君の髪に手を掛けた。繊細で美しい黒髪。私が羨んでいる彼女の美徳の一つ。 「バスキア教諭への報告は、蘇芳君が話した内容にしようと思う」 「佳いの……ですか?」 「勿論拙いさ。だが真相を話せばバスキア教諭も黙っていることは出来ないだろう。石蕗君たちは矢面に立たされることに為る」 髪を弄ぶ。蘇芳君は意に介さず私を凝っと見詰めた。 「生徒を守るのもニカイアの会の会長としての務めだ。もっとも石蕗君、そしてそのアミティエ等には僕から釘を刺させて貰うがね」 「ありがとうございます、八代先輩……!」 背に手を回されぎゅっと抱きしめられる。思わず鼓動が怪しくなる。そんなつもりはなかったが学院一の美少女に抱きつかれるのは役得だ。 「……このまま蘇芳君の抱き心地を堪能し続けたいが、そろそろ寮生らも部屋を出てくる頃合いだ」 言い、そっと彼女の身体を離す。私の物言いにパッと頬に朱を散らした。可憐だ。 「僕はこの足でバスキア教諭へ報告に向かうよ」 「よろしくお願いします」 「ああ、この件が済めばシェイプシフターも現れ難くなるだろうからね」 「完全に居なくなるのではないのですか?」 「僕の私見だが被服室にシェイプシフターが出るとの噂が出たのは、被服室での深夜作業から人を遠ざけたい者たちが流したものだと考えている」 言い、アクアリウムへと足を向ける。 「シェイプシフターは“寄宿舎の”と付けられていただろう。本来寄宿舎なら何処にでも現れる怪異だ。始まりは被服室じゃなかった」 熱帯魚は私の元へ何事かと集まってくる。餌をくれるのかと寄ってきているのだ。私は、水槽の表面をコツコツと指で叩くと、 「知っているかい、以前父から教わったのだけどね。熱帯魚も寝るそうだよ」 と言った。急な話題の転換に怪訝な表情になるも、彼女も私の元へと歩み水槽の熱帯魚を眺めた。 「眠る、のですか? お魚が眠っているところを見たことがないです」 「ふふ、眠らせる際、電灯を消すのだそうだ。別に夜に為ったらすぐ消灯するわけじゃない」 「規則正しい時間に消してやるのが重要なのだそうだよ」 「そうなのですか……」 「この熱帯魚も規則正しい時間に消灯している。方喰寮長が夜の見回りをする11時半丁度、このロビーに寄った際に電気を消す」 言い、スイッチに手を掛けた。 「ぁ……!」 「水槽が鏡に早変わりだ。シェイプシフターの発端なんてこんなものだと思うのだけどね」 水槽にくっきりと映った私を驚き注視する蘇芳君へと、水槽越しにシニカルな笑みを返したのだ。 いろいろあるからこそ、この世はおもしろい。いろんな連中がいるから、ほかのやつとつきあうのが楽しいんだ 石蕗君の部屋に赴き、アミティエら三人へと言い含め―― バスキア教諭へ調査の結果、幾つかの不幸が重なった“事故”だと説いた。 被服室で頻繁に目撃されるシェイプシフターは時間外作業をする生徒が広めたものであり―― 見回りの強化、朝礼での訓戒で立ち消えていくだろうことを報告した。 ――分かりました。問題なく開催できそうですね。 そう言質を取ったところで私は何故だか愛読書、“オズの魔法使い”の臆病ライオンの言葉が脳裏に浮かんだのだ。 「色々あるからこそこの世は面白い、か」 喉元過ぎれば何とやらだが、今さっきの難事に素直に頷ける気分ではなかった。なら、一体何故、この言葉が思い浮かんだのか。 自室へ戻る中、疑問符が浮かぶ。続く言葉―― 「色んな連中がいるから、他のヤツと付き合うのが楽しいんだ、か」 そちらかと考える。難事には確かに遭うが、愉快な仲間とは知り合えたなと思う。 幾つかの心を赦す友人の顔を思い浮かべ、そして同じ数だけの思い出したくない知人の顔も浮かぶ。 幼い頃、知り合った顔が大部分だ。気弱で内気な私へと向けられた貌。 (やれやれだ……) 中秋の暗闇は過去と今を曖昧にしているなと口の端に笑みを浮かべ、己の部屋の前についた私はドアノブを回す。 そういえば鍵を閉めていたのにと、警戒の音色が頭の中で響くも、 「――お帰りなさい、譲葉」 私の欲している声音が耳朶に響き、なるほど、臆病ライオンの言う通りだと思った。 「付き合うのが楽しい、か」 「遅かったわね譲葉。先に始めるところだったわよ」 何が、と口に出すよりも私の目がテーブルにあるバースデーケーキを見、理解した。 「……サプライズで驚かそうと思っていたんだけどね」 「残念だけどそれは無理よ」 「え?」 「譲葉が私の誕生日を祝ってくれないなんてことないでしょう?」 茶目っ気たっぷりに言う親友へ違いない、と認める。持参してきたのだろうポットからコーヒーを注ぎ私へと手渡した。 「……佳い香りだ」 「ふふ、私の秘蔵の豆なのよ飲んでみて」 香りを愉しみ、口中全体で味わう。柑橘系の酸味が何処か気怠かった私の脳髄を覚醒させた。 「ラ・メサだ。そうだろう?」 頷きネリーもコーヒーを味わう。そして、 「ぁ……」 「ふふ、譲葉が作ってくれたバースデーケーキ頂くわね」 私が作った出来損ないのケーキをカットし食す。微笑み食べるのを見詰め、 「美味しいわぁ。腕を上げたわね」 そう世辞を言ってくれたことに胸が熱くなった。美味しいと言ってくれる喜び。 「そ、そうかな。まだ人前に出せるほど上手ではないと思っていたんだが……」 「そんなことないわ。とても美味しい」 「いや、でも――」 「ダメよ。幾ら譲葉でも譲葉への侮辱は赦さないわ。大好きな友達が卑下するのはイヤよ」 「ああ、そうだ。そうだね……」 冗談だ。だが私を思いやっての冗談はどうしようもなく胸を熱くさせる。 鼻の奥がツンとするのを堪え、私は机へ歩むと用意していたプレゼントを取り出した。 「もしかして――」 「もしかしてだ。プレゼントだよ。おめでとう」 包装されたプレゼントを受け取り瞳を瞬かせると、開けていい? と尋ねる。頷く私。 「わぁ……! マフラーじゃない。ぁ、もしかしてこれ譲葉の手作り?」 「素人っぽさが味だろ?」 「ふふ、最高に嬉しいわ! ありがとう!」 頬をマフラーに付け感触を味わうと、着けてみていいかしらと問う。勿論断るわけがない。 「……温かい。冬が来るのが待ち遠しいわ」 「そこまで喜んで貰えて嬉しいよ」 「嬉しくない訳ないじゃない。ありがとう譲葉」 マフラーを身につけくるりと廻って見せる。 蜂蜜色の髪が踊り、戯けてみせる行為に胸が熱くなり―― 「ネリー……」 無邪気に抱きつく親友。暖かく柔らかな肢体に、胸の奥がずくりと疼く。 「貴女は無二の親友よ」 胸の痛みを揺さぶるように敬虔な彼女はそう告げた。 ――〈隣人〉《となりびと》との文言を思い出す。 (子供の頃から……) 弱い私をずっと支え続けていてくれた。隣人とはまさしく小御門ネリネのことだ。 ああ、そう、そうだ。 だけれど―― 「……子供の頃を思い出すよ」 「ふふ、小さい頃は譲葉が私に泣いて抱きついてきたんじゃない」 屈託なく微笑む彼女を前に――違うんだよと語りかけたかった。 (君が抱いている、親友に向ける真っ当な愛情とは違う。私は君へ劣情を抱いているんだ) そう、 そうだ。私は、 「……好きだよ、ネリー」 異性を好きになったことは一度たりともない。 幼い頃からずっと君を愛していた。 «同性愛者»としての、八代譲葉としての告白は、 「私もよ譲葉」 純粋な愛情を注ぐ親友の言葉によって、暖かな部屋の中に千々と散ったのだった……。 愛のために仕事を投げだすようなやつは、真の男とはいえん “オズの魔法使い”での庭師の言葉が蘇る。 「どちらも得ようとしたのが間違いだったか……」 親友へのプレゼント。そして寄宿舎のシェイプシフター事件。 どちらも解決しようと望んだのだが……。 「まだ此処にいたの」 慮る親友の声が聞こえ、執務机に向かっていた私は目だけ彼女へと向けた。 「そろそろ下校時間よ」 「ああ、分かっているよ。ハロウィンでの催しについて少し、ね」 シニカルな笑みで応える私。しかし、ネリーは私の嘘に気付いたのか蜂蜜色の眉をひそめて見せた。 「譲葉……。被服室での事件のことは……」 「分かっている。もう済んだことだ」 「――ええ。ねぇ譲葉、貴女は努力したわ」 だから自分を責めなくていいのと、幼子へ告げるように語りかける彼女。 「彼女たちは可哀相だけれど……。しでかした事への代償は払わなくては為らないわ」 「ああ、分かっているさ」 そう、私が捻りだした推論は―― (誤りだった) 彼女の前で無様に散ってしまった。提示してくれた真意が汲み取れなかった私は、散った後も無様に動いて―― (落としどころを見誤ってしまった) 「さぁ、帰りましょう」 促されるも、悔やんでいる顔を見られたくない私は、窓から強く射す残日を眺め、長い嘆息をこぼしたのだった……。 ――10月31日 「うむ……。まずまずかな」 ヴラド3世の衣装に着替えた私は、鏡の前で幾度も見返してみる。縫製のほつれもサイズ感の違いもない。 自分がデザインした紙の中からそのまま取りだしたかのような造形に心が躍った。 「本当は……うむ。女の子らしい服装の方がいいのだが」 自分のことながら決まって見える。男装の麗人、というのは烏滸がましいが。 (いや、男装以外でも案外似合うだろう。……似合うんじゃないかな?) 女の子らしい服という連想から、お姫様が着用するようなドレスを自分に着せてみる。妄想は得意だ。 頭の中で純白のドレスに身を包んだ―― (ネリー……) お姫様の自分はさすがに荷が重かったか、妄想の中のお姫様は、私の理想とする少女――小御門ネリネへと変わった。 愛する彼女に。 「……気の迷いだ」 親友の誕生日、変わらぬ事が美徳だと信じている私は、親友――小御門ネリネへ好きだと告げた。 いや、 (卑怯なやり方だった) 相手はそう思っていない“友達”としての愛情の確認のように装った告白。愚かだ。 「……好きになってくれる事なんてないのにね」 ――初めて人を好きになったのは幼年の頃だ。 初恋はよくある保母のお姉さんだった。まだ性差の境が曖昧な時分だ。“好き”だと口にしても何ら〈憚〉《はばから》れることはなかった。 そして、 次に恋心を抱いたのは、小学校の養護教諭だった。 元々病弱な私は保健室の世話になることが多かった。 だから、何くれとなく世話をしてくれる保健の先生を好きになることをおかしい事だとは思わなかった。 だが―― 「どうぞ」 「ふふ、衣装似合っているわね、譲葉」 彼女の声、そして目を奪われる美しい姿に悩んでいた心は千々に散った。 「パーティ会場が開く前に最後の準備をしに行きましょう」 ハロウィンパーティは夕食を兼ねる。彼女が言うように最後の準備を―― 「どうしたの譲葉?」 「いや、美しすぎて見惚れてしまったんだよ」 「ふふ、ありがとう」 ふわりと裾をひるがえしながら廻ってみせる。 白を基調としたドレスは蜂蜜色の髪と合い、血で汚れた箇所ですら私の目には意匠に観えた。 壮麗な彼女を見、同性を好きになってしまっても仕方がない事ではないか、と思う。 (……ダメだ。あの日のことを引きずり過ぎだ) いつものニカイアの会の会長。トリックスターの八代譲葉の仮面を被る。 「私が薦めたマントはどう?」 「ああ、佳い具合だよ。裏地が赤なのが実に映える。ほら、」 「ドラキュラ伯爵もかくやだろう?」 マントを翻す私へそうねと笑みをこぼし、ネリーもドレスの裾を摘んで淑女然とした礼を返した。 「私も王妃に見えるかしら?」 「――いや、残念ながら見えないね」 「え……」 「王妃でなく姫に見えるよ。僕たちはまだそう年を取ってはいまい?」 「ふふ、そうね」 口元を押さえるネリーへ、マントを一つなびかせると恭しく腰を折り、〈美姫〉《びき》へ頭を垂れた。 「会場へエスコートする名誉を与えてくれませんか、お姫様」 「ええ。お願いするわ」 姫の手を取り、ハロウィンパーティの会場へと向かったのだった。 “トリック・オア・トリート!” 聞き覚えのある声音で背なに呼び掛けられた私は、緩慢に振り返った。 其処には―― どこか不思議の国のアリスを思わせる衣装に身を包んだ沙沙貴姉妹が、悪戯めいた視線で私を見上げていた。 ――話は少しだけ遡る。 ハロウィンパーティの下準備を終え、パーティの開催を高らかに宣言した。 始まりを告げると私の周りには衣装を賛美する生徒等が押し寄せた。 “愛らしい”“美しいよ”“素敵だ” 私を賛美する皆へ同じだけそう彼女たちを褒め称え、 ようやく一区切りがついたところで―― 「――こいつは困ったな。まだお菓子は用意していないんだ」 友人の声に少しだけ肩の荷が下りた気分に為った。 「やっぱり!」 「だったら、悪戯の方ですね」 悪戯できる状況になるまで待っていた彼女たちは、姉妹仲良く目配せしジリジリと距離を詰める。 だが――私は去年の経験から学んでいるのだ。 「仕方ない。あまり激しくしないでくれたまえよ」 言い、両手を広げる。存分に弄んでくれとの意思表示。 「ぅぅ……!」 「卑怯ですよぅ……!」 途端に及び腰になる彼女たち。 (こちらが嫌がると盛り上がるが、応じると二の足を踏むのだよな……) かつての経験から分かっていたことだが――自分ならば了承済みなら存分に揉みしだくのに、と思う。 「で、苺君と林檎君の衣装は何なのかね? 不思議の国のアリスかい?」 空気がおかしくならないタイミングで腕をおろして尋ねると、何だと思います? と、胸を張り尋ね返された。 「うん? その言い方ではアリスではないようだね。なら――」 刹那、昔の想い出がよみがえり、胸の奥が小さな針で突かれたように微かに痛んだ。 「――オズの魔法使いのドロシー」 「ふふ、違いますよぅ。銀の靴は履いていないでしょう?」 可愛らしくかかとをあげ言う彼女へ、確かにと告げる。 「この衣装は映画«シャイニング»の双子からイメージしたものなんです。可愛いでしょ!」 ふわりと身をひるがえしはしゃいでみせる。 「――なるほど、シャイニングか。作品を知っていたのに気付かないとは残念。だが、こうやって見ると――」 にこにこと無邪気に笑みを浮かべる苺君と、両手を後ろに組みはにかむ林檎君。 「――同じ衣装でも受ける印象は随分と違うね」 「そう、なのですか?」 「ええっ頑張って同じデザインにしたのにぃ!?」 「林檎君の衣装は実に清楚に思える。水色がベースの配色に白いフリル。初めに不思議の国のアリスを思い浮かべたようにね」 「……照れますねぇ」 「そ、それじゃ、わたし! わたし的には!?」 「苺君は同じデザインでも……喩えるなら嵐が丘のキャサリンだ。幼少期のね。実に活発そうに思える」 「ぅぅ、あんまり褒められているような気がしないんですけどっ!」 拗ね腕を組む彼女を微笑ましく見守る。彼女を、苺君を見ていると幼い頃のネリーを思い出す。 無邪気で、快活で、憧れた彼女。 私とは正反対の―― 「孔子の逸話だよ」 追憶は言葉とキィと蝙蝠が鳴くような車椅子の音に阻まれた。 「孔子の逸話だ」 そう、二度繰り返す八重垣君に小首を傾げる両名。八重垣君は(恐らく魔女の変装だろう)魔女の帽子を被り直すと、 「孔子の論説の中にあるのさ。――二人の高弟が同じ質問をして、孔子はそれぞれ違う答えを高弟に説いた」 「で、お付きの従者が同じ問いに何故、異なることを仰るのかって尋ねると、“一人は慌て者だから慎重に行動するように”」 「“もう一人は逆に慎重すぎるから大胆になれ”と答えたのだってね」 「それって……」 「欲しい言葉は人それぞれってことだが……八代先輩は、お前たちには服じゃ隠せない個性があるって伝えたかったんだろうよ」 帽子のツバをあげ見上げる猫の君に、その通り、と首肯する。 「そうかぁ。褒められているならいいけど……。でも、やっぱり感想だって一緒の方が良かったな。ね、林檎!」 「う、うん……」 (おや……?) どこか戸惑っている表情に疑問符が浮かぶ。 一体……。 「や、八代先輩の格好はヴラド3世の衣装ですよね?」 「ああ。なかなか様になっているだろう」 「ぶらど? 吸血鬼の衣装だよね?」 「ヴラド・ツェペシュ。通称、串刺し公。吸血鬼ドラキュラ伯爵のモデルになった人物だよ」 「へぇ! 格好佳いですね!」 言われ、マントを広げてみせる。裏地は血のように赤いビロードだ。 己の銀糸の髪と合い気に入っている。 三人の視線は私に集まり、感嘆の瞳へと変わる。女らしい部分“裁縫”を褒められたと誇らしくなった。 なった。 なった、が。 (何だ……?) 感じ入った瞳は、初め猜疑に変わり、そして徐々に歪み、恐怖へと色を変えていった。 そして私は――ようやく、マントへと向けていた瞳が私の背後へと釘付けられていることを知ったのだ。 「どうしたんだ。まるで、本物の幽霊でも視たような顔をして――」 振り返った私の目に、 「ごきげんよう」 サム・ライミ、ジョージ・A・ロメロの映画から這い出てきたゾンビが眼前に現れたのである。 ――10月31日、新たな怪異が生まれた瞬間であった。 料理部の演し物の手伝い――ゾンビメイドとして私たちの眼前に現れた花菱君だったが、 「八代先輩、小御門先輩、お待たせしました。どうぞ」 「……頂くよ」 テーブルへと紅茶を給仕してくれる花菱君だが、種はバレている……いや違うな。見慣れた、これも違う。 「どうしました?」 「いや、何でもない。何でもないよ……」 給仕している料理部の部員は皆ゾンビメイドで統一している。だから手伝っている花菱君が同じ衣装を纏っているのは分かる。 だが、 (……どうして花菱君だけクオリティがバカ高いんだ……!?) 他の生徒は精々、メイド衣装に顔を青白く塗っているだとか、血糊を付けているくらいのものだ。なのに、何故―― 「美味しいわ、この紅茶花菱さんが淹れてくれたの?」 「はいっ。わたし一人がお茶係という訳ではないのですけど、先輩たちにはお世話になっているので……」 「心遣い嬉しいわ」 ネリーは何故、何事もないように話せるのか。 「ひっ……」 通りすがりの生徒が花菱君の特殊メイクを視て小さな悲鳴を上げるほどなのに。 「小御門先輩の衣装可愛いですね。ドレスって憧れます」 「花菱さんのメイド姿も可愛いわ。メイクの方も、随分と凝っているのねぇ」 (ついに突っ込んだ……!) おぞましいメイクを問われていると言うのに、何故だか当人は恥じるように身をくねらせた。率直に怖い。 「ふふふっ、凝ってますかぁ? このメイク蘇芳さんがやってくれたんですよぅ」 「そう。アミティエ同士仲が佳いのねぇ」 またもおさげを弄り悶えるゾンビを視界に入れるのが辛く、目を逸らす。と、 「すみません。お待たせしました」 そう鈴が鳴るような声音が聞こえ―― 「パンプキンパイお持ちしました」 (普通かよッ!) 料理部部員の給仕たちと変わらぬ愛らしいゾンビメイド姿に心の内で突っ込む。 「あ、ごめんなさい。わたしもお手伝いしなきゃいけないのに」 「いいの。立花さんは仕込みの時たくさん手伝ってくれたし。今度は私の番だわ」 「優しいのね蘇芳さん……!」 見た目がアレな花菱君へたじろぎもせず会話を続ける。さすがはアミティエ同士の絆。いや、 「……蘇芳君のメイクは自分でやったものなのかい?」 「え? あ、いえ、このメイクは立花さんにして貰ったんです」 「お互いにメイクしあったんですよ。我ながら会心の出来だと思うの!」 「ふふ、私も頑張ってメイクしたけど、どうかしら?」 「怖い映画が好きだって言っていた蘇芳さんだもの。きっと上手に違いないわ!」 (うま過ぎです) ホラー映画では特にゾンビものが好きなの、とカミングアウトする我が師。さもありなん、だ。 (お互いにメイクし合ってあの言いざまだってことは……花菱君は自分の顔を視ていないんだな) 「さぁどうぞ召し上がってください」 言われジャック・オー・ランタンの顔を模したパンプキンパイを勧められ、フォークにて目の部分をカットし頬張る。 カボチャの程よい甘さと細やかな舌触り、そしてシナモンの佳い香りが鼻腔に抜け唸った。 「ん……む。こいつは中々だ。ネリーも相伴すると――」 「あむ……んっ。なぁに? 譲葉」 「いや、何でもないがね」 既にジャック・オー・ランタンの顔半分が消え失せているのを視、言葉を呑む。 「あの、沙沙貴さんたちを見ませんでしたか?」 「ん……む、どうされたの?」 「いえ、私特製のパンプキンパイをご馳走すると約束していたので……」 ジャック・オー・ランタンの顔へ双子姉妹の髪型を模した特別製だと語る蘇芳君へ、ネリーは私へと悪戯めいた視線を向け、 「特製のパンプキンパイを食べられるのはもう少し後になりそうね」 と言った。 「それはどういう……?」 「ふふ、沙沙貴苺さんが譲葉へデートを申し込んだの。それで譲葉ったら――」 「トリックオアトリートだ」 「そう宣言してお菓子を20個集めたらデートするって約束したのよ」 「そうなんですか……!」 頬を赤らめ私へと吃驚したように瞳を瞬かせた。 (丁度佳い具合の無理めな注文だ) 今回のデートの申し込みもそうだが、此処最近、沙沙貴苺君のアプローチが多いように感じる。 (……目を掛けている後輩を悲しませたくはない) 気のある振りをして最後にハシゴを外すような真似をするなら、初めから種を蒔かなければいい。 「それで姿が見えないのね。苺さんたちも給仕とか調理の仕事もあるのに……」 「そういう理由なら仕方ないわ。私たちが頑張りましょう」 「蘇芳さんはやっぱり優しいわ……! わたしも頑張る!」 感動し打ち震える花菱君へ、ネリーはパンプキンパイのお代わりを申し出る。 どうにも食欲が失せた私は、残りのパンプキンパイをネリーへ押しつけ席を立った。 「……もういらないの? 今日の夕食の代わりなのよ?」 「ダイエット中でね。それとニカイアの会の会長として他の生徒等の演し物を見回らなくちゃ為らない」 「そうね……! まって直ぐ片付けるわ!」 さほど早くないものの変わらぬペースで哀れなジャック・オー・ランタンを消し去っていく。 「それじゃ急いで持ってきますね!」 「ああ、花菱君」 「はい、何ですか?」 「前髪が少し乱れている。厨房へ行った際に整えてきたまえ」 前髪をパッと押さえるところはさすが少女。微かに頬を赤らめると、ご指摘ありがとう御座いますと足早に厨房へ向かった。 そして、ネリーがジャック・オー・ランタンを二つ消し去る程の時が過ぎ、 「きゃあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁ!?」 鏡を視たゾンビ少女の悲鳴がハロウィンパーティに花を添えたのである。 「お、ちょうど佳い時に来ましたね」 ネリーを伴い各部、個人の演し物を巡っている際、聞き知った声音に振り返ると―― 「ごきげんよう、小御門先輩」 まだ顔を合わせていなかったネリーへと頭を下げる。 「おっと! いちいち気を付けなくちゃいけないな。この帽子」 「ふふ、魔女の衣装ね。可愛いわ」 「お褒めにあずかり光栄ですがね。皆に可愛いと言いまわっているのでしょう?」 「ええ。でも八重垣さんの衣装は特別可愛いと思うわ。ずっと眺めていたいもの」 「そ、そうですか。どうも……」 視線で助けを求める。どうだ、天然物は扱いが難しかろう。 「そうだ。ちょっと抱きしめても佳いかしら?」 「うえ……!?」 「ダメですよ小御門先輩。ソレは私のものです」 ワイヤーの先端のような声が耳朶に届き、 「あ、語尾を付けなくてはいけないんだったわ。ソレは私のものです。うがー」 語尾といい衣装といい、恐らくフランケンシュタインの衣装に身を包んだ考崎君が八重垣君とネリーの間へと立ち塞がる。 間抜けさが先に立つがこれはこれで愛らしい。 「ふふ、そうね。考崎さん失言だったわ」 「いえ、分かって頂ければそれで佳いのです。うがー」 「っ、誰が誰のモノなんだよ……!」 「…………?」 「不思議そうに首を傾げるな!」 「そういえばニカイアの会の冊子では、考崎さんは何か個人で催しをなさっているとか?」 「ええ。占いの館を」 あ、と戸惑い、うがーと付け加える。フランケンシュタインを演じるに当たっての必須事項らしい。 「以前、怪談話をするとか聞いていたが……」 「……それなのですが、うがー」 「こいつの話す怪談話は本格的過ぎるんで、リハーサルの時点で中止ですよ。怪奇系ならまだしもグロ系まで入れやがりましたからね」 「残念です、うがー」 切れ長の瞳を不服そうに臥せる。どうやら趣味に限っては突っ走ってしまう性格のようだ。 新しい知人の性格を知り得て微笑ましい気分になった。 「なるほど、ちょうど佳いところで、と言ったのは客足が途絶えたからかな?」 「より正確に言うなら、盛況すぎて休む為に一時休業ってところです。ニカイアの会とは違うのでね」 以前、ニカイアの会での仕事を年中無休と言ったことへの返しだと察した私は、シニカルな笑みを浮かべ頷く。 「休むのだったら料理部で給仕をして貰うといい。ジャック・オー・ランタンのパンプキンパイは中々だったよ」 「パンプキンパイか……ちょっと食べてみたいわね……!」 「うがーを忘れているぞ」 言いながら、小声で、 「……八代先輩も人が悪いですね」 「……そこを取ったら大部分の僕はなくなってしまうよ」 そう悪戯者の同士は笑い合った。 「早く行きましょう。ふんがっ」 「お、新しい語尾だな」 「小御門先輩から教わったのよ、ふがっ」 言い、私たちへと一礼すると仲睦まじく料理部の演し物の方へと、車椅子を押しながら行く。 「仲良しさんで見ているだけで笑みが零れてくるわね」 「ああ、違いない」 零れてくるのは悪戯を仕掛けたことへ、だが。 「見付けた!」 背なへ呼び掛けられ、袖を掴まれ振り返ると、 「おお、苺君じゃないか。それは――」 「うふふっ! そうです、20個しっかり集めてきたのです!」 「頑張りました」 無理だと思い約束したデートだが、 高らかに宣言した声音と、おそらく花菱君をみたのであろう考崎君の悲鳴が被ってしまい、私は上手く断る台詞が思いつかなかったのである……。 ――苺君にしては意外な申し出だな、と思った。 「彼女なら二人で演し物をまわりたいと言ってくると思ったのにね」 聖堂内の燭台に灯った火へと誰ともなしに囁いた。 そう、お菓子を集めた彼女が言い出したデートの条件は―― (二人きりでの聖堂内デートとはね) 彼女が私へ懐いているのは、自分で言うのも烏滸がましいが学院の人気者を独り占めしようという心理からだろうと推測していた。 だから普段私へ寄ってくる子らのように、ひとしきり相手をすればやがて飽きてくるものだと。 「どうにも拙いな……」 二人きりとの条件は、夕映えの温室での彼女を思い出された。 己が欲するものを自分だけの所有物にしたい。 (私には十二分に分かる心理だ) ふと子供の頃に読んだ“オズの魔法使い”を思い出す。 子供の頃の自分は、親友である小御門ネリネの事を“ライオン”であると喩えていた。 臆病ライオン。 (だが勇気ある者だ) ライオンは自分でない者のために身を投げ出すことができた。 では、私は? ドロシー? 主人公を名乗れるほど厚顔無恥ではない。 「僕はブリキだ」 心の無いブリキ、 では―― 苺君をオズの魔法使いの登場人物へなぞらえようとした途端、聖堂の重い扉が開き――閉まる。 “シャイニング”の双子の幽霊の衣装に身を包んだ彼女は、一度立ち止まり小さく声を上げた。 そして緩慢な足取りで壇上で佇む私の方へとやってくる。 何処か夢のような情景に、ただ彼女を見詰めた。 私は―― 水色の幽霊と相対した。 「待たせなくて佳かった」 出るのが遅かったから先に来ていたかと思ったよ、と私が告げるも―― 「…………」 苺君は黙し私を凝っと見詰めたまま。 (これは――) 残映が射す温室での出来事が思い浮かぶ。胸の中心が掴まれ酷く苦しくなる。 「どうしたんだい、もっとこちらへ来ないと話もできないよ」 心とは反比例するように言葉は彼女を受け入れた。 見詰める苺君は私の元へと歩み寄る。 「夜更けに聖堂で逢い引きなんてロマンチックだね。此処を指定したのもそのつもりなのだろ?」 「……わたし、わたしは、」 言葉を紡ごうとするも喉から伝ってはこない。幼い頃同じ経験をしたことがある。彼女は―― (苺君じゃ、ない) 人を観察する癖が付いている私は、衣装を、髪型を、装ってはいるも彼女が林檎君だということに気がついた。 活発な姉に隠れている妹。 「――林檎君」 呟くと静寂が支配する聖堂内へ驚くほどに言葉は響き、弾かれたように彼女は私を、八代譲葉の鋼色の瞳を射竦める。 沙沙貴林檎。 作り物のような娘だ。改めて視た私はそう思った。 燭台の灯りに照らされた彼女は中身が透けてしまうのではないかと思う程、儚く視えた。 生まれたての蛹のような少女は、唇を〈戦慄〉《わなな》かせ震える手で胸を押さえた。 そしてその唇から―― 「わたしは――貴女が好きです」  初秋とはいえなくなってきた頃、視聴覚室にて映画を観た。  古い映画だ。白黒の映画。モノクロームの映画はいつも、とある感覚を抱かせてくれる。  画面の中の俳優が生きる時代、それがカラーの映画よりもまざまざと息づいて見えるのだ。  映写機の中の物語でなく、四角い窓から相手の人生を覗いているような気分にさせられる。  そしてその窓から延長線上として置かれたわたしへと繋がり――とても親密な空気を感じる事ができた。  映画�紳士協定�を観ながら、わたしは八代先輩のことを思った。夕暮れ時の温室での告白。  あの時感じていたわたしの心の内は何だろうと。  彼女を、八代先輩を好きだという感情は、厚意でなく好意なのだろうか、と。  姉が好きだと明言する彼女を。 「……わたしはどうしたら」  $«善良だけでは足りない。何もしないで傍観しているのは愚劣なルールへの同調だ»  $�紳士協定�の台詞がわたしの胸に響く。  視ているだけでいいのだろうか、と。あの時と同じように気持ちを抱えたまま、腐り落ちさせていいのかと。  結論は出ないまま、時はただ均等に流れていく。 「弟の誕生日が間近なのだよ。手作りのケーキを送ってやりたくてね」  $ 料理部でショートケーキを蘇芳ちゃんに習う八代先輩はそう告げた。  でも、さかしいわたしはその嘘が分かってしまう。  小御門ネリネ先輩の誕生日が近いのだ。  八代先輩が小御門先輩を大切に想っていることは分かっている。それはきっと友のためでなく、愛情であろうと。  小御門先輩の為に骨を折る姿を見、そして姉がクリームのついた指を差し出し舐めとる姿を目にすると――  身体の中心が捻れたような感覚を覚えた。  まるで硬く蛇口を捻ったみたいに。  困ったことになった。  そう想いながらもわたしは自分の気持ちがどんどん分水嶺を越えてきていると感じていた。  ハロウィンの衣装の針子仕事を教わっている時も。  たまたまバレエの授業に向かう途中、姉と八代先輩が話しているのを見て、声を掛けようとした時――  姉の頭を撫でているのを目にしわたしは身の内の堰から黒い感情が少しずつ、だけれど確かに溢れ出しているのを感じた。  だからこそ、わたしは――  なるべく八代先輩と話さぬよう、彼女を好きな姉と話させるよう促した。  でも、  八代譲葉を前にした途端、また堰が崩れた。  ヴラド3世の衣装に身を包んだ中性的な彼女を前に、抗えるような子がこの学院にいるだろうか?  健やかでパートナーを得ていない女性なら誰でも頬を赤らめ目を伏せてしてしまうだろう。  姉もそうだったし、わたしもそうだ。  $�抱きしめてくれたまえ�  そう冗談めいて手を広げたとき、わたしは――  自分が赦されざることをしていると理解していた。  姉を裏切り騙しているのだと。  でも、  どうしても、  わたしは、八代譲葉を試さないではいられなかったのだ。  姉と同じ衣装、わたしたちを見分けるほくろも消してしまっている。父や母でさえ見抜くのは困難だ。  この遊戯を見抜けなかったら、その時は――潔く身をひこう。そう決めた。  重く軋む音の後に足音が続く。  聖堂内に響く足音は奇妙に高く、捻れているように聞こえる。今のわたしのように。  線でひいたように躊躇いなく、わたしは一直線に八代譲葉の元へ。  足音は止まり、キリストが見下ろす中――彼女はわたしを凝っと見詰める。  鋼色の瞳が硬く捻った蛇口を弛め、堰は分水嶺を〈際〉《きわ》で保つ。  そして、 オズの魔法使いという童話がある 魔法使いのオズへ会うため、エメラルドの街へと急ぐドロシー 街へと続く黄色い煉瓦敷きの道を行く途中、ドロシーは怖ろしいうめき声を耳にし飛び上がるほど驚く 声に誘われるように道から外れ、森に分け入ったところで出会ったのは――二人目の同行者“ブリキの木こり”だった 錆び付き動けなくなったブリキの木こりへ油を差し助けてあげると、彼は同行を願い出た エメラルドの街にいるオズから、無くした〈心臓〉《ハート》を貰う為に 互いの身の上話から、かかしの同行する理由を聞き――それでも脳みそより心臓が欲しいとブリキの木こりは答えた 彼は言う。“一年の間たっぷり考えた結果、もっとも大きかった損失は心を失ったことです。心がなければ恋ができない” かかしはそれでも脳みそが欲しいと告げる。だが、ブリキの木こりはきっぱりと言う“私は心をとります”と “脳みそは人を幸せにしないし、幸せこそ、この世でもっとも価値のあるもの”だと。ブリキの木こりの言葉を聞いて、私は―― 酷く悲しくなったことを覚えている。“心がないという事は幸せではないのだ”辛い現実を忘れるため心を消そうとしていた私は何なのだと これから始まるお話は“失った心を愚かにも取り戻そうとするブリキ”のお話 嘘は愛を殺す。しかしバカ正直が、ますます愛を殺してしまうのだ アーネスト・ヘミングウェイの言葉が浮かぶ。 (そうだ。馬鹿正直に私自身の気持ちを伝えてどうする?) 十一月となり陽射しが完全な秋に移り変わり、肌を刺す光が幾分弱く、それでいて清廉になった気がする。 私は青から、黄や赤に変わりつつある木々を眺め、薄い雲を眺めた。 (嘘は愛を殺す、か。だが嘘を吐いてでも本心を明かすことはできない) ――ハロウィンの日、私は聖堂で告白を受けた。 «わたしは――貴女が好きです» 沙沙貴林檎君から愛の告白を。 嬉しくない訳がない。彼女のような愛らしく、教養を持ち、他人を思いやる心を持つ子から告白を受けたのだ。 だが、 率直な感想は、困惑だ。 「……どうしたものかね」 夜の聖堂内で告白を受けた私は―― (返事は少し待ってほしい、か。我ながら臆病なことだ) 臆病ライオン。ネリーを心の内で思い出し、そう告げて聖堂から逃げ出した己を自嘲する。 下手に希望を与えた後、ハシゴを外すような真似はしたくない。そう思っていたのに。 (林檎君の悲しい顔を見るのは嫌だ……) 誰にでも佳い顔をすることは出来ない。それは分かっているのだ。だが……。 「そろそろ教室を出ないと間に合わないわよ」 優しい声音が聞こえ、 「礼法の授業に遅刻なんてしたらおかしいでしょう?」 「……ああ。確かにそうだ。本末転倒だな」 言い、席を立った。教室内を見回す。 「僕たちが最後か。皆も声を掛けてくれればいいのに」 「声を掛けようとはしていたわよ。でも、あまりに物憂げだからできなかったのよ」 言われ、 「――ただ、面白い小説を読んでいたら朝方になってしまっただけだというのにね」 「眠っていないの?」 「完徹だよ。さすが我が師。図書室の妖精だ。僕にぴったりの時代小説を薦めてくれた」 侍を気取り刀を持つポーズをする。ネリーは美しい眉根を寄せると、 「そう。それなら佳いのだけど……。何か悩み事があるなら相談して。私たちは親友でしょ?」 「ああ」 (出来る訳がない) 敬虔な基督教の信者である彼女へ、“同性愛”を相談するなぞ、ガンジーの前で子供をひっぱたくようなものだ。 「ひたすら眠いが急ぐとしよう。考崎君のような足取りになったら揺さぶって起こしてくれよ」 「え? ああ、ふふっ! 千鳥足ということね」 口元を押さえころころと笑うネリー。何とかシニカルな笑みを浮かべると親友とともに礼法室へと向かったのである。 “人生について書きたいなら、まず生きなくてはならない” 好きな外国人作家はと尋ねたのが始まりだった。 ヘミングウェイの名を上げた彼女に、親和性を感じた私は、なら好きな言葉は――と問うたのだ。 悩む彼女へ先ず私が答えると、彼女―― 「私が好きなのは“愛していない人間と旅に出てはならない”ですね」 そう告げた。 蘇芳君の言葉で始まりの懊悩が蘇る。図書室へ足を向けたのは、沙沙貴林檎君のことをしっかりと考えるためだ。 だが蘇芳君と会い、対話したことで―― 「あの、どうしました。どこか御加減でも?」 「いやそうじゃないさ。なかなか含蓄のある言葉だと思ってね」 「はい。いつか友達みんなで旅行に行きたいです」 (友達か) 初めて会った時はとても希薄で、密な関係を作るのは難しいのではと思った。だが、 「そいつは佳い。きっと沙沙貴……苺君が盛り上げてくれるだろうね」 「ええ。皆で……立花さんと私でたくさんお菓子を作って――」 彼女が努力した成果が実っている。不器用ながらも真摯に行動した結果だ。 「真摯、か……」 「八代先輩は一緒に旅に出るなら、やっぱり小御門先輩とですか?」 蘇芳君とがいい ネリーとなら食べ歩きだな 成長した彼女を見、 「そうだな……。一人選ばなくちゃ為らないとなったら、蘇芳君かな」 そう答えた。 「え、わ、私ですか?」 「何だい、随分と嫌そうじゃないか。いたいけな僕の胸がショックで縮んでしまうところだよ」 「え、ち、違うんです。私なんかと行っても愉しめないんじゃないかって思って……」 見当違いな優しさだ。だが彼女らしい。 「なに気が合う仲間が一番さ。列車で向き合いながらあだ名で呼び合って、いざ温泉へ! 何てのも佳い」 「あだ名……」 「ふふ、そうだな。八重垣君ならエリーとかかね」 「名前から……。それなら八代先輩はユズリハだから、ユズユズ?」 「蘇芳君!」 「わわっ! す、すみません。冗談です……」 「いや、そいつは佳い! 二人きりの時はそう呼んでくれないか。親密に為った気分だよ」 「え、え」 慌て頬と言わず首まで真っ赤に染める。彼女と一緒にいると気持ちが穏やかになる。 「さぁ早く」 「あ、ぅぅ……!」 瞳を潤ませ逡巡する彼女を抱きしめたいと思った。庇護欲と同時に嗜虐心も浮かぶ。 「は、恥ずかしい……」 「大丈夫、今は僕と蘇芳君の二人きりしかいないんだ」 「よ、余計に恥ずかしいのですけど……」 頬を染め視線を逸らしていた蘇芳君は、さぁと私が促すと視線を交合わせ―― 「ゆ、ユズユズ?」 「――っ」 「せ、先輩」 「ふふ、あだ名で呼ばれることがこんなに嬉しいなんてね」 嬉しさから抱きしめてしまった蘇芳君の身体は華奢で――嗜虐心よりも、庇護欲が勝った。 愛すべき友人。 「あ、の……恥ずかしい、ですから……」 「ふふ、そうだね。堪能したし、これくらいにしておこうか」 「憂さが晴れたよ。ありがとう蘇芳君」 蘇芳君に問われ、 「……そうだね。一人を選ぶならネリーかな」 と答えた。 「やっぱり! 既にお二人で旅行なさっているような気もしますし」 「さすがに二人で旅行はないが……。だが旅に出ても結局、食べ歩きになりそうな気がするね」 ああ、と得心したように頷き、次いであっとばかりに唇を手で押さえた。 「あ、私失礼なことを……!」 「なに、食は大切だ。軽んじていたら八重垣君に蹴り飛ばされるよ」 「ふふ! えりかさん食い道楽ですものね」 笑みをこぼす蘇芳君を見、少しだけ鬱いでいた胸が軽くなった。 「さて、せっかく図書室の妖精が居るのだ。お薦めの時代小説でも借りてみるとしようかな」 「司馬遼太郎の本は読破されているのですよね?」 「さすがに全部は無理だよ。有名どころだけさ」 それなら、と顎に手をやり悩む蘇芳君を見て、 (相談するなら、と行き着いた場所が誤りだったな……) 誰かへ渦巻く気持ちを吐露したいと彷徨ってはいたが、 「……よりによって彼女はないよな」 「はい? か、か、風の武士ですか?」 恐らく司馬遼太郎の作品を挙げたのだろう。 私は笑みを向け、では風の武士を借りよう! と彼女の元へと歩み寄ったのだ……。 話せる訳もないと分かっているが―― だが、苦しい胸の内を懺悔したいと言う気持ちは治まってはいなかった。 だからだろうか、 「どうぞ」 「ふふ、八重垣君の部屋でコーヒーが飲めるとは思っていなかったよ」 「わたしが淹れたんだ。味わって飲んでくださいよ」 ここの所懇意にしている彼女たちの部屋に足が向いてしまったのは。 「流れるように嘘を吐かないで、私が淹れたのよ。お砂糖いりますか?」 結構、と言いブラックのまま飲む。酸味と苦みが舌の上で踊る。今の心持ちのようだ。 「それでどうしたんです。今度はセーター編みを習得に?」 「いや……」 「理由がなきゃ遊びに来ちゃいけないって事もないだろ。先輩はお疲れなんだよ」 (まさか……) 「シェイプシフター事件を解決したり、少し前のハロウィンパーティでも八面六臂の大活躍だったみたいですからね」 「はちめん? 貴女日本語で喋りなさいよ」 「学院の女生徒から、もてて大変だったなってことだよ」 コーヒーを啜り口の端を歪め言う。 どうやら沙沙貴君のことではないようだと安堵した。軽口ではあるが疲れているのを気遣っているのだ。 「まぁ、それなりに面倒ではあった。八重垣君的に言うなら2002年のアスレチックスくらいは追い込まれていたかな」 「そいつはキツイ。だが、そのあと奇跡の20連勝。最後は11点差追いつかれて駄目かと思ってからのサヨナラホームランじゃないですか」 「どういうこと?」 「華麗な逆転劇だよ。だが無理をしたんでボロボロってことさ」 シーズン終わりの選手をもじり告げた八重垣君は、再度砂糖を勧める。今度は有り難く受け取る私。 「疲れている時は糖分か。まぁ……」 (見てとれるくらいには顔に出ているのだろう) 八重垣君の観察眼も多分にあると思うが、ここの所私自身おかしいと思う。 (同性からの告白なんて、今までだって何度も通ってきた道だというのに……) 「ん……。これ少し挽きすぎたんじゃないか?」 「そう? 私は気にならないけど」 言い、考崎君は八重垣君が持っていたカップを奪い飲む。 アミティエが飲んでいた箇所に唇を付けるのを見て、普段は何とも思わないのに、気恥ずかしい気持ちに為った。 「粗挽きなのだもの。あっさりめになっているでしょう?」 「そうか? わたし的には濃いめな気がするけどな」 沙沙貴さんの口癖の真似ね、との言葉にどきりとする。次いで考崎君は何か重要な見落としに気付いた裁判官のように凝っと目を細めた。 「……何だ。どうした、部屋の中で幽霊騒ぎは勘弁だぞ」 「そうではないわ。後ろ髪、寝癖がついているわよ」 「寝癖? もともとクセっ毛なんだ。どこが寝癖なんだか分からねぇよ」 「また寝転がって本を読んでいたのでしょう。仕方のない子ね」 机へと向かい引き出しを開けると櫛を手に八重垣君の元へ。 「おい、ちょっと……」 「大人しくしなさい」 「いいって、止めろ」 少女のような羞じらいをみせ抵抗する八重垣君へ、眉根を寄せ小さくため息を吐いた。そして、 「八代先輩の髪って綺麗ですよね」 切れ長の瞳が標的を八重垣君から私へと移り変えたのである。 髪を梳いて貰うなんて久しぶりだな、と思った。 「とても佳い気持ちだ……」 呟き声に頭上から微かに笑う声が聞こえ、考崎君の手は熱心に私の髪を梳いた。 「八代先輩の髪、とても滑らかなのにさっぱりとした指通りで……何だか変わっていますね」 「髪もその者に似るのかな?」 「ふふ、でもこうして梳いていると本当に綺麗。髪ではないみたい……」 言い、すっ……すっ……と規則正しく櫛が髪を整えていく。 髪を通し頭を愛撫されているような心地好い感触に、うっとりと目を細めてしまう。 「人となりが髪に現れるってのは嫌味か、ん?」 「えりかの髪はえりからしいわよ、ふふ」 「クソ……伸ばそうかな、髪……」 前髪を弄る八重垣君へ、長くなると手入れも大変だよ、と告げる。 「やっぱり面倒なんですか?」 「一日でもサボると途端にヘソを曲げてしまうからね。それと髪を洗うと――率直に乾くまで時間が掛かる」 「ああ……毎日だと大変そうだ」 言いながらも私の髪を羨望の目で見る。八重垣君の珍しい態度に笑んでしまった。 「……えりか、髪にコンプレックスを抱いているようなんです」 「……僕は八重垣君の髪質と髪型、好きだけどね」 「ん? 何だ、密談か。やらしいなぁおい」 「ふふ、そうよ。女の子同士の大切なお話」 言い、唐突に櫛でなく手櫛で髪を梳いた。 「ん……はぁ……」 櫛とは違う、血の通った柔らかな指先の感触は、鋭く刺激的で変な心持ちになる。 「こうして手で梳いてみると、本当に髪ではないみたい」 「はぁ……んっ。僕の髪で遊ばないでくれたまえよ」 「本当に美しいわ」 「ん……ぅ」 髪を梳く指がうなじに触れ、痺れるような電流が背筋を這った。仮面を被るのが難しくなる。 「おい」 「なに? えりかも触ってみたいの?」 「やめろ、八代先輩が困っているだろうが」 「そうかしら。手櫛も髪を整えるのに有効ですよね」 「ああ、んっ、はぁぁ……そうだね……」 「ほら」 「いいから、止めろって」 うっとりと陶然とした心持ちで八重垣君を視やると―― 「……僕をダシに使ったね」 「……ふふっすみません、八代先輩」 「何だよ、また密談かよ」 「成功したって話したのよ」 「あ?」 「えりかを拗ねさせるのが成功だって」 「な……っ」 絶句した八重垣君はみるみる顔を朱に染めていく。明確に目で見える変化。 「たまにはえりかに嫉妬して貰いたいから、八代先輩に協力して貰ったのよ」 「ふふ、妬いたえりかも可愛いわ」 「お前……っ」 何か言いかけるも、 「もう……やめろよな」 視線を明後日へと向け呟く。私はありがとうと言い、膝の上に置いていたシュシュを手に取った。 「いつもは自分でやるが、人にやって貰えるのがこれ程心地良いものだと改めて知ったよ」 「ふふ、今度は小御門先輩にやって貰ったらいいですよ。きっと私よりも素晴らしいと思います」 「……そうだね」 言い、髪をまとめるとシュシュで後ろ髪を飾る。 「……ほらよ。コーヒーでも飲んで一休みしたら、次はわたしの髪も梳いてくれよ」 「いいわよ。ならその次は私の髪も梳いてくれる?もちろん手櫛ありでね」 「え、あ、そいつは――わわ!?」 「あ、もう。シーツがコーヒーまみれじゃない」 「お前が変なこというからだろうがっ」 「これじゃ今日寝られないわ。罰としてえりかのベッドで一緒に眠らせてもらうわよ」 「一緒にって――!」 頬と言わず首元まで朱で染め、考崎君を、次いで私へと救いを求める瞳で見詰めた。 「……コーヒーで染めてしまったシーツは方喰寮長の元へ持って行くこと。そうすれば後日、新しいシーツと交換してくれるよ」 “後日”のところに力を込めて告げる。その言葉に八重垣君は絶望と困惑がない交ぜになった表情を見せた。 「それでは僕はこれで」 「八代先輩っ!」 声を上げるも、 これ以上“当てられ”ては適わないと、友人たちの部屋を後にしたのである。 「ダメね。こんなものは料理じゃないわ」 親友の一言に料理部の部室にピリとした空気が張り詰める。ネリーは一口だけ口を付けたモンブランの皿を目の前から退かし、 「こんなものはモンブランとは言わない。子供の粘土遊びと一緒だわ」 と言った。 「……っく」 調理した彼女――沙沙貴苺君は親友の一言に膝をつく。 「そんな……上手に出来たと思ったのに」 「思った? もしかして味見もしていないのかしら。あら、御免なさいね。味見をしてこのレベルならもっと可哀相だもの」 「ぅぅ……!」 上品ではあるが嫌みな高笑いをあげるネリー。うずくまる苺君を見さげるように見下ろすと―― 「そこまでですよ、小御門先輩」 そこまでです、と二度告げる。 手にハロウィン仕様のパンプキンパイの皿を手に、いつもの眠たい眼差しでなく炎を瞳に映した彼女が現れた。 「姉を侮辱するのはわたしとしては赦しません。文句を言うのなら、このパンプキンパイを食べてからにして貰いますですよ!」 鼻で笑うネリーの前に勢いよくパンプキンパイを置く林檎君を視て、 (ああ、これは夢か……) 基本過去にあった事実だけを夢に見る私は―― 珍しく過去のお〈復〉《さ》〈習〉《ら》いでない夢を見ているな、と夢の中で呟いた。 「さぁ、食べて貰いましょうか! 小御門先輩!」 林檎君もいつもの気怠い雰囲気でなくいつになく熱血だし、 「貴女のような穢れた者の手で作られたデザートなんて、食す気にも為れないわね」 我が親友は性格が悪すぎる。 「穢れた手? ちゃんとおトイレに行った後に、しっかり手は洗っていますですよ!」 「そういう意味ではないわ。私の親友をたぶらかした人が作ったものなんて食べられないって言っているの」 「そんな……!」 ネリーの言葉に衝撃を受け、林檎君は私へと縋るような視線を送った。彼女の瞳に夢の中だというのに罪悪感で身が竦む。 「悪夢だと分かっているが謝罪しよう。僕が気のある振りをしたからだ……」 「……ええ、その通りですよ」 「え」 「そう、気の多い貴女の所為よ」 私を責める林檎君の苦悶の瞳。腕を組み睨み付ける親友の〈貶〉《さげす》むような視線に私は狼狽えた。 「譲葉、貴女はね。私の言うことだけを聞いていればいいの」 「赦してくれ、ネリー。裏切ったんじゃない。僕は――」 「僕は何ですか?」 「……苺君か」 イズニクへと向かう放課後の廊下―― 背中から抱きしめられた私は身体の向きを変え、沙沙貴苺君と向き合った。 「どうしたんだい。随分と積極的じゃないか」 「譲葉先輩が落ち込んでいるみたいだから、わたし的に元気を注入しているんです!」 回された腕にぎゅっと力を込められる。今朝方の夢の中の彼女を思い出し笑ってしまった。 「あ、脇とか触っちゃってましたか? くすぐったいですか?」 「違う、いや、こそばゆいのは確かだけどね。元気が出たよ」 夢の中で林檎君に……ネリーに責められ気落ちしていた。 朝、くだんの夢で目を覚ましてからこっち、勘の鋭い級友から気を遣われていたのだ。 (少し前にも気を遣って貰っていたというのに、二度目だな) 「あの……大丈夫ですか?」 「……以前も気を遣われたがシリアスな問題じゃないんだ。ただ時代小説に嵌まりすぎて寝不足なだけさ」 「そう……なんですか?」 「ああ。本当かどうか知りたいなら蘇芳君に聞いてみるといい。最近、本の貸し出しを佳くしていると証言してくれるだろう」 そうだったのですか、と頷き、身体を離す。 子供のような熱い体温が消え失せ、少しばかり寂しく思う。 「ううん。それじゃ、ちょっと失敗したかもなぁ」 呟く苺君を見遣るも――廊下の先に見知った顔を見付け、大きく手を振った。 私を捜していたのだろうか、彼女にしては大股で駆け寄ってくる。 「ぁ……!」 「捜していたんですよ八代先輩」 言い、手に提げていたバスケットを私へと突き出した。 「これは?」 「クッキーを焼いたんです。どうぞ」 「おや、いいのかい?」 「八代先輩の為に焼いたのですもの。どうぞ遠慮なく」 そう言われては受け取らないわけにはいかない。それにクッキーは好物だ。口の中の水分が一気に奪われる感覚が佳い。変わった私の嗜好。 (苺君……?) ホクホク顔で受け取るも――花菱君へ目配せしている苺君を見て、小首を傾げてしまいそうに為った。 「あ、え、でも、喜んでくれているし……」 (何だ……?) ウインクしようとしているのだろう。上手く片目だけをつむれない苺君のサインを受け、花菱君は強張った笑みを私へと向けた。 「わ、分かったわ……!」 そう言い戸惑った顔つきから、決然とした表情に変わる。 そして私の前で自前のおさげを掴むと口元――いや、唇の上へと寄せ、 「おひげ!」 ……そう高らかに声を上げたのである。 互いにどうすれば佳いのか分からない状況が暫し、いや数瞬続き―― 「ぅ、ぅぅ……!」 唸るような声音をあげ全身を朱に染めた。1年生の中でも最も信頼される彼女が硬直したのだ。 「ああ〜やめていいって合図送っていたのにぃ」 「……苺君、これは?」 「譲葉先輩が落ち込んでいるようだったから、クッキーだけじゃなく一発芸……冗談でもして笑わせてみたらって話になって――」 「それで此の状況か……」 根が真面目な委員長である花菱君は抜いた矛の収め方が分からないのだろう。いまだ、固まったままである。私は高速で頭を回転させ、 「映画“アニー・ホール”でウディアレンがこう言っていた。人生は酷いか、悲惨であるか、その二つのうちどちらかだと」 そう彼女へ語りかけたのだ。 「あの、譲葉先輩……」 「もし何か酷い目にあったとしても安堵しなければ為らない。酷い目に遭ったくらいで佳かった。悲惨じゃなくて助かったってね」 ホリブルか、ミゼラブルかの違い。私のフォローに、花菱君でなく苺君があの、と躊躇いがちに声を上げた。 「譲葉先輩、それフォローになってないです……」 「だろうね」 「ぅ、ぅぅぅぅ……!」 八重垣君のように上手くはいかない。私は苦笑うと、励まそうとしてくれた優しい後輩の頭を撫でたのである……。 花菱君の行動は私へとある示唆を運んでくれた。 今置かれている状況は、ホリブルか、ミゼラブルのどちらかとして考えてみてはどうかという事だ。 「……酷い目に遭うかもしれないが、悲惨な状況ではない」 後輩に愛の告白を受けた。 ――悲惨という言葉で片付けるのはいかがなものだろう。それに、 「本当に悲惨というのは此だ」 考崎君から髪を梳いて貰ったことから、伝言ゲームのように発想の転換を繰り返し、気分転換に髪型を変えてみようと思ったのだが……。 率直に似合っていないと思う、悲惨だ。 「花菱君の三つ編み、素敵だと思っていたが……」 やはり私には彼女のような可憐さが足りないようだ。 「これは優等生しか似合わない髪型なのかもしれないな……」 自分を慰めつつ、鏡を前に三つ編みにしたおさげを弄る。 花菱君がやったように、鼻の下におさげを持ってきてひげ! をやってみたりもするも―― 「次だな、次」 あまりにあまりな情景に、鏡の中の自分へシニカルな笑みで牽制しつつ次の髪型へと試してみることにした。 「次は、うむ……」 髪の長さを利用できるような私に似合う髪型を想像し、シュシュを使いまとめていく。 ん? 此はなかなか似合っているんじゃないか? 「ふむ……」 いわゆるサイドポニーにした私自身を鏡にて返す返す眺めてみた。 「……いや。何だか間違ったロッカーのようにも見えるな」 一瞬似合うかと思ったが、眺めてみれば見るほどパンクロッカーの趣を感じる。 「……ふふ」 無いな、と思いながらも髪型を弄っていると心にあった重いものが軽くなった気がした。 現実逃避だが、少しくらいは髪……神も赦してくれるだろう。 (本当は可愛い髪型にしたいんだが……) 学院に入った当初、今までとは違った自分にしてみようかとストレートだった髪型をいろいろと試行錯誤していた時期があった。 今のように変則のポニーにしてみたことも。 「びっくりするくらい不評だったな……」 級友は可愛い髪型は似合わないと今の髪型を推した。“格好佳くないとダメ!”と散々言われたものだ。 「僕自身は可愛い髪型がいいのだけどね」 女性らしい自分。 髪をほどき、一番らしくないと言われた髪型へ。シュシュを使い、左右髪を束ねていく。 『譲葉の髪は綺麗だわ』 『女の子なのだから、しっかり手入れをしないとね』 病床の母の言葉を思い出す。病院のベッドの上で髪を梳いて貰った親密な刻を思い出した。 「……母さん、僕に求められているのは可愛さではないみたいです」 一蹴されたツインテール。いやツインテールの中でもホーステールという種類の髪型だが……似合ってはいない。 だが、 「可愛い……可愛いよな?」 誰も言ってくれないから自分で呟いてみる。皆が言うほど悪くないじゃないかと。 本当の自分は可愛いもの、ことが好きだ。 おままごとも、お人形遊びもしたかった。だが、 (そんな状況じゃなかった) 転勤族だった父に付いていったお陰で親しい友人なぞできなかった。おままごとなんてしてくれる者はいない。 そして父は人形を買ってきてくれるような人ではなかった。 愛されていない訳ではない。今なら分かる。仕事も病床の母のこともある、父も余裕がなかったのだろう。 「……父が見たら笑うかな」 呟き結った髪を撫でてみる。銀糸の髪はまるで自分のものではないように思えた。 偽りの自分。本当の私。 「……ネリーが見たらどう思うかな」 囁くように呟く私へ、 「可愛らしいと思うわ」 不意に耳に聴こえた聞き知った声音に、振り返ることなく、私は鏡越しに声の主を見遣った。 「愛らしいわ、その髪型にすればいいのに」 「ネ、」 「ね?」 かっと頬に感じた熱は瞬時に全身へと巡り―― 声なき悲鳴が寄宿舎へと響いたのである……。 舞台だと仮定してのヴァリアシオン。 私はかつてバレエ発表会で彼女が踊ったグラン・フェッテを真似した。そう、白鳥の湖“オディール”が舞う三十二回のグラン・フェッテだ。 悩みを吹き払うように踊る。不純なものをすべて身体の外へと追い出すために。 いつになく熱が入った私は、オディールを憑かせ――踊りきった。 「ハァ、ハァハァ――ま、こんなものかな」 すごい、と夢中で手を叩く級友たちへレヴェランスで答えた。ただの憂さ晴らしだったのだが。 「すごい……! やっぱり譲葉さんが一番だわ。そう思わない?」 「ええ。先だってのバレエ発表会の下級生も上手だったけれど、譲葉さんには及ばないわね」 それは誇張しすぎだよ、と否定しようと口を開きかけたが。 「お水、持ってきたわ」 親友に水筒を渡され有り難く頂く。秋も深まりつつあるとはいえこれだけ動けばさすがに暑い。 喉を鳴らし飲むと、 「相変わらずバレエ上手ねぇ。この学院に来てから習い始めたのでしょう?」 「ん……。ハァ、ありがとう。ま、そうだが大抵のものは少し触れればある程度こなせるようになるからね」 (料理以外は) 「ある程度の枠を越えていると思うけれど、譲葉って天才肌なのね」 「器用貧乏なだけだよ。級友はああ言ってくれているが、実際のところ考崎君と僕とでは技量は同程度じゃないかな?」 「ずっと習ってきた人と同格というだけで凄いわ」 存外に褒めてくれる親友へ、微笑みで返した。 女性らしい事、真似をするのを躊躇う下地がある自分にとって、バレエは大手を振って習練できる女性らしいジャンルだ。嵌まらない訳がない。 私にとって珍しいことに飽きずに続けられたものの一つなのだ。 ネリーは自らも水筒で喉を潤すと、でも、と呟いた。 「本調子ではないようね」 「そうかい? グラン・フェッテの回転速度も一定だったと思ったが――」 「そうでなくて愉しくなさそうだったわ。……もしかして、昨日勝手に部屋に伺ったから?」 「――ッ」 「その顔……ご免なさい。お部屋の鍵が開いていたから……。ノックはしたのだけど、不躾だったわね……」 「い、いや、そうじゃないんだ」 「昨日のことを怒っているわけじゃない? それなら何で不機嫌になっているの……?」 昨日、髪型を変えているのを見ただろう…… 料理部で目当てのデザートが売り切れたからさ 率直な物言いに、 「それは、その……」 「うん?」 「き、昨日、僕の部屋で髪型を変えているところを見ただろう。アレをからかわれるんじゃないかって……」 「からかう? どうして?」 「いや、どう考えたって似合わないだろ? 昨日だって罰の悪い顔をしてすぐ退散したじゃないか」 「すぐお暇したのはあんまり驚いた顔をしていたからよ。驚かせてしてしまって悪かったって……」 ……そうか、 (こういうやつだったよな) 悪意なんてものは存在しない、私の一番の親友。ネリーはようやく大輪の花が咲き誇るような笑顔を見せてくれた。 「そんなことを気にしていたの。おさげを二つに結って……可愛かったわぁ。今日もその髪型にすれば佳かったのに」 「そ、そんな恥ずかしい真似出来るわけがないだろう……!」 「どうして?」 「ぅぅ……女装した男みたいな目で見られるからだよ……」 自分の口で言いながらもダメージを負う。 男って……。 「そんなことないわ。譲葉は優しくて素敵な女の子よ」 「ぅ……」 「もし馬鹿にする人がいたら私が赦さないわ。譲葉も卑下してはダメ」 親友の暖かな言葉に腹の奥から込み上げてくるものを感じた。 だが、ニカイアの会の会長である八代譲葉の仮面を被っている私が、女々しく涙をこぼすわけにはいかない。 「ありがとうネリー。君の一言はいつも僕を救ってくれるよ」 「それは、その……」 「なぁに?」 「料理部で摘もうとしていた目当てのデザートが僕の前で売り切れたからさ。アレは返す返すも残念だった」 「嘘ね」 ばっさりと断言するネリーの迫力に負け―― 「……昨日の髪型を変えていたのを見られたことだよ」 そう正直に答えるしかなかったのである……。 「ふふ、いつもの澄まし顔も佳いけれど、女の子をしている譲葉も可愛いのに。残念だわ」 「勘弁してくれ、あの髪型で人前に出られる程まだ成熟してはいないんだよ」 聞くたびに恥ずかしくなる、可愛いのにをまたも口にしそうになるネリーへ八重垣君のように煙に巻くことにした。 「――ヘミングウェイは真の男に成るためには四つのことを成し遂げなければ為らないと言った」 「小説家の?」 「ああ。一つ、木を植えること。二つ、闘牛すること。三つ、本を書くこと。四つ、息子を得ること、だ」 「僕はまだ一つしか事を成していない。未熟者なんだよ」 「ふふ、譲葉ったら」 ころころと鈴が鳴るように笑う。話題を変える事ができたようだ。次は―― 「くしゅん!」 「おいおい、大丈夫かい? 長く話し込んで体が冷えてしまったんじゃないか?」 「平気よ、髪と言えば――くしゅん!」 「ほら君は昔から身体が強くないんだ。無理をしてはいけない。月末の合唱会に参加できなくなるなんて事になりたくないだろう?」 言い、彼女の手をそっと握った。 「さ、シャワーを浴びて着替えよう」 話題を変えることよりも、先ず汗を拭い着替えさせることだと、ネリーの手を引きシャワー室へと向かった。 「何だか調子悪いみたいですね」 言われ、 「ん、ああ、焦がしてしまったか……」 秋茄子を使った料理がお題とのことで、私は麻婆茄子を作ろうとしていたのだが……。 「合い挽きのお肉も焦がしちゃってますね」 「食材を無駄にしてしまった。神に懺悔しなければ」 フライパンを下ろし十字を切る私へ、もしかして風邪ですか? と苺君は顔を覗き込む。 「問題ないよ。ただいつも通りの僕というだけさ。苺君の方は目を離していて大丈夫なのかい?」 「わたし的な料理は、秋茄子と若鶏のトマト煮ですからね。煮込んでいる最中なんで大丈夫です! それに――」 自分の鍋を一顧する。 釣られて私も視線を追い―― 「林檎と合作なんで、今は林檎がお鍋を見ている番なので平気なのです!」 「…………」 視線が混じり合い、私の方から視線を外した。 (さすがに何と言えばいいか……) 告白の返事は後で佳いと為ってはいるが、結論を遠からず出さなくては為らない。 「……決心がつかないよな」 「けっしん? 何がですか?」 「……焦げた秋茄子だよ。棄てるには勿体ない。表面だけ削って何かできないものかね」 「う〜ん……。何か打開策が……ちょっと蘇芳ちゃんに訊いてきますね!」 止める間もなく我が師の元へ。 蘇芳君は苺君とやり取りした後、調理の手を止め私へと微笑み掛け楚々とした足取りで助っ人に来てくれた。 「焦がしてしまったそうですね?」 「何か棄てる以外で生かす方法はあるかい?」 「焦げたのは表面だけみたいですから、刻んでパスタの材料にとか……」 「あ! わたしたちが作っている秋茄子と若鶏のトマト煮。パスタのソースにしても美味しいと思うよ!」 想像しただけで唾液が滲む。それは美味しそうだねと笑んだ。 「さすがは秋の味覚! 何でも合いますなぁ。譲葉先輩は秋の味覚……風物詩といえば何を思い出しますか?」 「うん? そうだな、秋の風物詩ねぇ」 読書かな 食べ歩きかな ふと思いついたのは読書だ。読書の秋という標語?もあることだし。 「読書かな。本を読むのに佳い季節だしね」 「そうですよね!」 「っと!」 「今、図書室では秋の読書週間を行っているんです。好きなジャンルを伝えていただければ好みの一冊を捜すお手伝いをしているんですよ!」 「そ、そうなのか。それじゃまた図書室に寄らせて貰うよ」 「是非。八代先輩が来ていただけるのなら、他の生徒さんたちも寄ってくれると思うので」 十分客寄せには為っているじゃないかと図抜けた美しさを持つ図書室の妖精を見詰めた。 (睫毛が長いな……。肌も素晴らしくきめ細かい……) 近くで注視できるが故に再発見できる美徳。 凝っと見詰めていると魂を抜かれてしまいそうだ。 「……蘇芳ちゃん。そろそろ」 「え、苺さん? あ、きゃ!」 昂ぶりに任せ大胆な接近をしていたことに、図書室の妖精は今更ながら気付いたのである。 「……食べ歩きかな」 かつてこの学院に入る前、親友の趣味に付き合わされた苦い思い出が浮かんだ。 「おおっ食べ歩きですか。食欲の秋ですからね!」 「……ネリーの食べ歩きは、秋はいつもよりも酷いんだ。付き合って5キロ太ったのを思い出したよ……」 「ごっ!?」 思わずこぼれた生々しい数字に引き攣る。 「店に入って〈麦酒〉《ビール》を頼むみたいに、ケーキとパイとパフェを頼むんだ。その3点を知れば店の技量が分かるそうでね……」 麦酒って? と問う苺君へ、 「とりあえずってことだと思うわ。技量を計るって何だか、お寿司屋さんのだし巻き玉子みたいですね」 「……勿論、その一件だけではないからね。秋は食欲の秋だからか訪ねるお店も多いのだ。君たちの考えている2倍は多いよ」 私の言葉に絶句する二人を尻目に意図せずシニカルな笑みを浮かべてしまった……。 「ま、まぁ、いろいろ秋の風物詩はあるけれど、わたし的には紅葉狩りかな」 「紅葉狩り……随分と渋いところを突いてくるね」 「苺さんならもっとパーティのようなものを言うと思っていたわ」 「ええ? わたしの清楚なイメージとぴったりじゃない。それで提案なのですが――」 手を叩き、料理部皆へ、今度の安息日に紅葉狩りに行かないかな、と提案した。 「紅葉狩りか、別段行くことは構わないが、料理部としてはどうだろう」 「ハイキングな感じでお昼用のお弁当を凝るなら、料理部の野外活動と言ってもオーケーだと思うのですけど……」 私に視線を送り次いで、部の長である桜木君を見遣る。少し逡巡したものの、料理部の良心は愉しそうだわ、とにこやかに了承した。 「佳かった! 紅葉狩りと言ったら、栗や柿やまつたけ……!」 そういうつもりだったのか、と苦笑いしてしまう。私が笑っていることに気付いた苺君は頭を掻くと、 「それだけじゃなくて、最近譲葉先輩元気がなかったみたいだし、その……」 「そうか……。気を遣って貰ってすまないね」 「それに林檎も元気がないみたいだったので遊びに連れ出そうって。ハイキングみたいで気分転換になりますよね!」 「……ああ、そうだね」 不意に、予想もしていなかった所から殴りつけられたような感覚に襲われた。 そうだ。私が悩むのなら、彼女も悩んでいる事に気付かなくてどうする。 (自分ばかり、私は……) 何をお弁当として作っていくか、話し込む後輩たちを見遣って私は気付かれないように、長く重いため息を吐いた……。 ――恐らく、気弱な犬が公園の隅で用を足すような表情をしていたのだろう。 「そんな申し訳ないなんて顔をしないで。譲葉がうつしたわけじゃないのだから」 「身体が弱いことを知っていたのに気遣えなかった、僕の所為だ」 「汗を掻いたまま話し込んでいた私が悪いのよ。だからそんなに困ったワンちゃんのような顔をしないで。ね?」 どうやらネリーと感性は同じのようだと微かに笑みを浮かべた。 すると罪悪感が消えたと勘違いしたのか、気遣われすぎると逆に困ってしまうわ、と戯けた。 「ふふ、僕の本性は犬か。猫の八重垣君とは相性が悪そうだ」 「グレートピレニーズに懐いている黒猫もいるでしょう」 「……そこまで大女じゃないだろ?」 傷ついた顔をして問う私へ、ネリーは珍しく歯を出して笑った。 「ふふっ、譲葉と話していると風邪をひいたことを忘れてしまいそうだわ」 「薬になっているなら重畳だけどね」 微笑み、黄金色の髪をいやいやするように振るとようやく気付いたのか、萩原さんは? と尋ねた。 「ネリーのアミティエなら夕食に向かったよ」 「もうそんな時間になるのね……。あ、それじゃ譲葉は?」 「僕は一緒に食べようと思って持参してきたんだ」 部屋に入ってきた際、両手が塞がっていたのだが……寝起きでウトウトしていて気付かなかったのだろう。 私の視線で気付いたのか机の上の二つのトレーを見て、ありがとうと呟いた。 「私の分も持ってきてくれたのね」 「病人の前で一人で食べるほど鬼じゃない」 言い、机の上に置いたトレーから涼やかな椀を手に取った。 「食欲が落ちてるだろうからフルーツヨーグルトにして貰ったよ。……食欲、もしかしてあるのかい?」 「もう、そんなに食いしん坊じゃないわ。身体が火照っていたから冷えていて美味しそう」 「キウイとイチゴとミカン、ブルーベリー付きだ。体にいいぞ」 スプーンでキウイをすくいネリーの口元へ。熱で鮮やかさが増した唇は、ひな鳥が餌を貰うかのように啄んだ。 「ん……はぁ……美味しいわ」 「そいつは佳かった。ヨーグルトさえしっかり取っておけば風邪なんてひかなくなる」 言い、今度はイチゴをすくい親友の口元へ。何やら母性本能が疼いてくるな。 「ん……む……はぁ、昔からそう言っているわよね」 「父が佳く言っていたよ。ヨーグルトさえ食べておけばこの世は万事うまくいく」 「サラダ教のようなものかしらね」 熱で弱っているとはいえ、食べるスピードは変わらずすぐに持ってきた夕食を平らげた。 水の入ったグラスを渡し、風邪薬を飲ませると自分の食事へ。 「同じ物なのね。気を遣わなくていいのに」 「ダイエット中でね。大義名分ができてあり難いよ」 言いキウイを食す。酸味と仄かな甘みが舌の上で踊った。日の光をたくさん浴びて育った果物には敵わない。 「譲葉は背が高いのだから、多めに食べても平気よ?」 「グレートピレニーズで止めておきたい。グレートデーンまでいくのは女子として抵抗があるんでね」 笑い声を噛み殺すのを聞きながらミカンを。これまた柑橘系だ。春に消えた少女を思い出す。 「香水か……」 「あ、気になるかしら?」 臥せってはいても身だしなみとして付けていたのだろう。香りが強すぎたかと眉を顰めた。 「いや……少し思い出したことがあってね。ネリーは変わらず素敵な香りがするよ」 「ありがとう。譲葉は香水あまり好きじゃないのよね?」 確かに好まない 僕から甘い香りがしたらおかしいだろ 親友の言葉に少し戸惑いながらも、 「……確かに目もくれなかったものな。部屋にすら芳香剤を置かないくらいだ」 「今度私からプレゼントしようかしら」 「ネリーと同じものかい? 二人して同じ匂いがしたら誤解されてしまうよ」 「誤解?」 「同衾したのかって邪推されるってことさ」 常にないアダルトな話。だが、ネリーは穏やかな表情のまま、 「子供の頃は一緒に寝たこともあったでしょう。何もおかしくないわ」 そう言って朗らかに笑ったのだ。 (あまりに脈なしだと凹むな) 心の裡で呟きながらも、彼女の清らかな部分を愛おしく思い、言葉ほど落ち込んだりはしなかった。 香水を付ける――女の子らしさの象徴だ。 だから付けてみたいとは思っていたが……。 「僕から甘い香りが漂ってきたらおかしいだろ?」 「そうかしら?」 「そうさ。それに甘い香りをさせていたら、服にお菓子を仕込んでいると思われるだろ?」 「ふふ、そうね。譲葉らしいわ」 だろうと言い大げさに仰け反って笑ってみせた。 「でも残念、今度譲葉のために香水を選ぼうと思っていたから」 「それは……。嬉しいが……」 「私と同じものはどう? こんな感じなのだけど」 ベッドから少し身体を持ち上げ首筋を晒した。首元を嗅げと言っているのだ。 「い、いや……」 「いや? 私と同じ物はダメ?」 そうじゃない、と反射的に言い、躊躇いがちに彼女の首元へ鼻先を近づけた。 (ネリネの香り……) 香水のスズランの香りとネリーの体臭が混じり合い、うっとりする程に甘く、だがさっぱりとした女性を感じる匂いが香った。 「どう?」 「あ、ああ……。僕も付けてみよう」 佳かったと、ころころと笑う親友へと頬を染めぬように自制しつつ微笑み掛けた……。 「ん……っ、冷た――」 「ふふ、頭を動かしてはダメだ。タオルが落ちてしまうよ」 食事を終え、温かくなったタオルを交換した私へと――でも行きたいわ、拗ねた風に口にした。 「何が?」 「もう、はぐらかさないで。譲葉が話してくれた紅葉狩りよ」 タオルを交換する際に何となしに話した週末のイベント。 「ネリーが個人的なイベントに行きたいなんて珍しいじゃないか」 「料理部で開催するということは白羽さんも来るのでしょ? 最近お話をしていないのよ」 (さすが我が師、人気者だ) 「それに沙沙貴さんたちも。特に林檎さん。最近お話をする機会があったのだけど、どこか鬱いでいたの」 不意に出た林檎君の名前に胸の奥がぎゅっと掴まれた。 「何か悩みがあるのなら助けになりたいわ。元気になってほしい……」 「――元気を出すのは、まずは君からだよ」 言いネリーの頭を撫でる。幾度かその柔らかな髪を撫でると、陶然とした面持ちで瞳に睡魔を宿した。 「行くのは構わないが、まずは風邪を治すことだ」 「参加してもいいの?」 「ああ。部外者の参加を禁ずとは言ってなかったしね。部長の桜木君には僕から言っておこう」 「ふふ、愉しみだわぁ。譲葉のお弁当」 「おい、僕は作るとは言ってないぞ」 「え? 私の為に作ってくれないの?」 「……上目遣いは卑怯だぞ、ネリー」 かくして、 週末の何げないイベントが気の重い宿題に変わったのである。 ……火を見るよりも明らか、という言い回しがあるが―― 「僕がお弁当を作るなんて、まさにソレじゃないか……」 目の前には器と食材、 いまだ“お弁当”のビジョンが浮かばず手を付けられもしない。 (定番でよいとは思うが――そもそも定番とは何だ?) 母は病弱、父は料理ができる人ではなかった。作って貰ったことのない“お弁当”をリアルに想像するのは難しい。 「あの――」 背なに呼び掛けられ、 「すまない。まだ何を作るかイメージが湧かないんだ。先にやってくれていいよ」 週末の紅葉狩りのため、料理部でも“お弁当”が調理のお題となった。そして、そのお題に私には心強い味方―― 「いえ。料理のことではなく――」 調理の相方として我が師が指導してくれる事となっていた。 「なら、僕への愛の告白かい?」 「小御門先輩、風邪を召してしまったと聞きましたけど、大丈夫ですか?」 「元々ただの風邪だからね。すぐに佳くなるさ」 「それなら佳いのですが……」 「蘇芳君にそれほど心配して貰えるなら、今度僕もひいてみようかな」 馬鹿なことを言わないでください、とぴしゃりと怒られた。どうも“病気”は彼女の中では繊細なキーワードらしい。 (ま、僕もだが……) 「心配ですね……」 「体温が高いから風邪はひかないと豪語していたが、元々あまり身体は強い方じゃないからね」 「……そうなのですか」 しんみりした空気につい本音を吐露してしまった。 「だが、さっきも言ったがただの風邪だ。美味いものを食べてぐっすり眠ればすぐ回復するさ。食べるのはネリーの十八番だろ?」 「ふふ、そうですね」 言い十人が十人共に魅了される微笑みを向ける彼女。私もシニカルな笑みで返すと、調理台にある食材へと向き直る。 「失敗すると分かっていて挑戦しなければ為らない気持ちというのも、なかなかに来るものがあるね」 「ぁ、その……。私も夏に葉物野菜を収穫するときは、なかなか手が出ない時があります」 虫が苦手な我が師。 「そういう時はどうするんだい?」 「今の自分は自分じゃない。物語の人物……例えば嵐が丘のキャサリンだって思い込んで、えいやって手を付けます」 蘇芳君らしい話に重々しく頷いた。 「あ、あと、祖父は何でも仕事だと割り切れば楽になるって話してましたけど……」 「最後に台無しな一言だが、確かにそういう割り切り方は大切なんだろうな……」 だが、と以前何の気なしに読んだビジネス書を思い出した。仕事=お金と仮定すると――と前置きし、 「ダン・アリエリーの本だと、仕事に向かうためにインセンティブはお金だけでは無理だと書いていたな」 「与えられるインセンティブがお金だけだとモチベーションも頭打ちになるんだってね」 「それは……?」 「仕事と割り切るのでなく、やはり料理に傾けるのは愛情でなくてはいけない。使い古された言葉だがそう思うよ」 食材を前に、親友の好きな食材は何だったかと頭を捻る。これも愛情だ。 (ネリー……) 私の前では堪えていたが部屋を出た途端、咳が長く続いたのを耳にした。 「……人間得手不得手というものがある」 ネリーを喜ばせる為にお弁当作りを成功させるか、 親友の身体を気遣い看病するか、 (さて、どうしたものかね……) 心の裡で己へそう問いかけたのである……。 親友の願いを叶えるためのお弁当作りか、親友を気遣っての看病か。 その二択を熟考した上で―― 「――勝手を言っているのは分かっている」 「あの、でも……」 「君の負担になることも重々承知している。だが、僕の願いを聞きいれてはくれないだろうか?」 「私も小御門さんの助けに為るなら――」 清楚な彼女の瞳は揺れ、逡巡しているのが見てとれる。少しの間を置き、 「私は――」 「お帰りなさい――」 譲葉? と枕を持参してきた私へ戸惑い親友が呼び掛ける。 「僕と萩原さんを間違えるなんて酷いじゃないか」 「それは――そうじゃなくて、その枕は?」 「お、目ざといね。今日からネリーの風邪が佳くなるまで寝泊まりして看病するんだよ」 「え、あ……。だってここは二人部屋だし、萩原さんは――」 「彼女には許可を貰ったよ。ネリーの体調が戻るまで僕の部屋と交換して貰った」 驚き瞳をぱちくりさせる親友へ、枕を撫でると、 「僕のアミティエは学院を去っているからね。交渉はし易かった。萩原さんも快くオーケーしてくれたよ」 本当は何故だか赤面し通しの彼女から了承して貰うのは骨が折れたのだが……それはここで明かす事柄ではない。 「譲葉……」 「僕の心配をしてくれるのかい? なら大丈夫、18歳未満が見てはいけないものはちゃんと目の届かない所へ隠してきたからね」 「そうではないわ。私の看病なんて風邪がうつって――」 「昔は立場が逆だったが、今や僕の方が頑健な身体だ。栄養をため込んだ僕の身体に風邪菌なぞ這入り込む余地はないよ」 それでもと難色を示す優しい副会長様へと、こうでもしないとニカイアの会を優先するだろう? と告げた。 「え?」 「会の者に聞いたよ。会の進捗管理や指示をこの部屋からしていたとね」 雨に濡れた老犬のようなしょぼくれた顔をした。私は意図して笑い、 「君でないといけない用件もあることは確かだが、今でなくても佳い。大きなやつは……そうだな。月末の合唱会くらいだがそれも後でいい案件だ」 「でも私の所為で皆の手が止まるなんて……ごほごほっ!」 咳き込む彼女へと歩み、背を優しく撫でる。熱を持った肢体。 「週末、紅葉狩りに行くんだろ? しっかり休まないと治るものも治らない」 「でも、っこほこほっ!」 「“分け合えば喜びは二倍に、悲しみは半分に”友達は素晴らしいものだ。そうだろう?」 バスキア教諭を真似し英語のことわざを使って説いてみせた。親友は逡巡するも―― 「――そうね。私たちは親友だものね」 そう、安堵する笑みを浮かべたのだ。 「ああ、週末は愉しく紅葉狩りと洒落込もうか。――さて、それじゃこの枕は萩原君のベッドへと置いて――」 「そろそろ夕食だ。ネリーは何が食べたい?」 「ご馳走様」 「お粗末様――って僕が作ったわけじゃないけどね」 言いながら食器を片付けていると、横になったネリーが常にないグラスを指さして、でもこれは?と訊ねてきた。 「頼んで作らせて貰った僕特製のアサイーのスムージーさ。ヨーグルトジュースを混ぜたから飲みやすかっただろ?」 「ヨーグルト。ふふ、ヨーグルトさえとっておけば万事うまく行くものね」 「その通り」 これでヨーグルト教が二人になったと笑い、粉の風邪薬を渡す。新しい薬に眉を顰めるネリネ。 「いつものやつじゃないから勘ぐってるのかい?大丈夫、睡眠薬じゃない。寝ている間に悪戯なんてしないよ」 「そうじゃなくて――」 ネリーにしては珍しく眉根を曇らせ、 「子供みたいなことを聞くけど、これって苦い?」 と言った。 「ふふ、ああ、粉末の薬は何だか苦いイメージがあるよな。でも、ま、良薬口に苦しってことわざも昔からあるだろ?」 苦いのね、とまさに苦い顔をして呟く。 「えいやと口に放り込んで一気に水で流し込めば大丈夫さ。覚悟が出来ないなら鼻を摘んでやろうか?」 「ぅぅ……分かったわ……」 言い冷えたグラスを渡すと覚悟を決め――〈嚥下〉《えんげ》する。 「佳し。ちゃんと飲めたご褒美に何でも一つ願いを叶えてあげよう」 「ん……ハァ……この薬を甘くして」 率直な言葉に笑ってしまう。ネリーも釣られ微かな笑みをこぼした。 「ふふ、ならそうね。汗を掻いてしまったの。背中を拭いて貰えるかしら?」 ご褒美と言った手前、断る訳にはいかなくなったのだ。 二人きりの部屋の中―― 「佳いわよ」 そう静かに告げた声音に呼ばれ、私は彼女へと向き直った。 ――眼前には白く艶めかしい姿態が浮き上がっていた。 沁み、いや、傷一つないまっさらな彼女の背は酷く眩しく目に映えた。 「……恥ずかしいわ」 ほのかに頬を染めたネリーがこぼす。 背中の汗を拭うためにはナイトウェアをまくりあげる必要がある。 ネリーもやる段となって思いついたのだろう、なら―― 身体を拭くついでに、汗を掻いて湿ったナイトウェアを新しいものと変えようと判断したのは当然の成り行きだ。 だが、 「――さすがハーフは肌つやが違う」 「ふふ、譲葉も同じじゃない」 冗談で気を紛らわそうとしたのだろうと察したネリーは笑う。ただの緊張からの本音だったのだが。 「ハーフとクォーターの違いはあると思うけどね。さて、それじゃ始めて佳いかな?」 「ええ、お願いするわ」 請われ程々に水気を切ったタオルを拭きやすいように畳むと、真白い背に向き合う。 (看病すると決めた時、こういう事もあると覚悟を決めただろう) ともすれば悪さをしそうになる己を戒め、タオルを艶やかに輝く背へと触れさせた。 「ん……っ」 「す、すまない。強すぎたか?」 「違うの、ただ思っていたよりも冷たかったから……続けて」 「あ、ああ……」 丁寧に、繊細なネリーの肌を恐る恐る拭っていく。 タオル越しに触れている彼女の背は、力を入れるたびに柳のように揺れ、反復する行為に何故だか扇情的な想いを強くしていった。 「ふふ……」 「ど、どうしたんだい、ネリー」 「昔一緒にお風呂に入ったことを思い出したのよ。あの時は譲葉、すごく恥ずかしがっていたわよね」 「ち、父以外の人と一緒にお風呂なんて入ったことがなかったからね……」 「そうだったの?」 「ああ、友達と一緒に入った経験なんてなかったから、何を言われるか想像して緊張していたんだよ」 「あら八代さん、お胸が小さいですわよ、って?」 「ふふふっ! クォーターの割に色白だったからその辺を言われるのかってさ。転校して学校が変わるたび、髪と肌はいつも弄られたからね」 「それなら私も一緒だわ」 ころころと笑う親友。謙遜するがネリーは今も昔も学院の華だった。病気に罹るあの日までは―― 「弟さんとは一緒にお風呂に入ってはいなかったの?」 「ネリーと入った頃はまだ小さかったからね。ある程度大きくなってからは面倒を見てやったけれど――」 「あいつは風呂嫌いなんだ。押さえつけて入れてやっていたから姉弟仲良くって感じではないね」 「そう。私姉弟が居なかったから憧れていたのよ」 「別に佳いものじゃない。騒がしくはあったから退屈することはなかったけどね。この頃は生意気に一緒に風呂に入るのを嫌がるんだよ」 「ふふ、可愛いじゃない」 「ま、成長を感じられて姉冥利に尽きるがね」 家族のことを話していたからだろうか、初めの緊張からは遠くだいぶん解れてきた。 「はぁ……」 「お痒いところはございませんか、お嬢様?」 「ふふ、そうね。それじゃ脇の方をお願いできるかしら」 了解、と言い敏感な脇腹を刺激しないように拭いていくが―― 「ん……はぁ……」 (落ち着け、私) 慎重にするも敏感な部分だからか、妙に艶めかしい吐息を漏らしそのたびに妙な気分に為る。 身体の奥の繊細な部分を掴まれているようだ。 「少し上の方も拭かせて貰うよ」 「ええ、ん……っ」 脇から上、腕の付け根の方へと移動させると、 (ぅぅ……!) ネリーの豊かな膨らみに微かに触れ、顔中に熱を感じてしまった。 「どうしたの譲葉? もうお終い?」 「い、いや、もう直ぐ終わるよ」 そう、と何でもないかのように告げる親友へ、大きく息を吸い吐き心を落ち着ける。 そして首を振り、いつものシニカルな己へと戻していく。 「時間を掛けてしまい済まないね。風邪をひいているのに長々と肌を晒させてしまって」 「平気よ。随分と汗を掻いていたみたいだから気持ち佳いわ」 そりゃ佳かったと無理をして笑みをこぼす。 「こうして拭いていると分かるが、だいぶ熱もひいてきたようだ。佳かったよ」 「譲葉のお陰よ」 「ふふ、あまり長引くようならお守りでも作ろうかと考えていたけどね」 基督教の学舎で“お守り”という日本的な発想に背を振るわせるネリネ。 「ふふ、おおっぴらには出来ないけれど、譲葉が作ったものなら欲しいわね」 「そうかい? 幸運が続くってことだから佳いと思ったんだよな。西洋じゃ古くから伝わる由緒正しいお守りだ」 「そんなものがあるの?」 「ああ。先ずはウサギの足を失敬してきて――」 「やめて」 怪奇好きの親友は“ラビットフット”の逸話を知っていたらしい。 「蘇芳君や八重垣君に聞かれたら怒られそうな話題だよな」 ウサギは多産であるから繁栄のシンボルだとか、目を開けたまま生まれるので邪眼に対する力が備わっている。 そして穴を掘る習性から地下の佳き霊と交流があると――縁起物として好まれているのだ。 「ダメよ。可愛いのだから、そんな想像してはダメ」 可愛くない動物はいいのか、と邪推し歯を見せてしまった。笑っているのが気配で分かるのだろう、もう! と再び批難の声を上げる。 「冗談だよ。ん……よし、これで背中は拭けた」 汗を拭き新たに水で絞ったタオルをネリーへと手渡した。“前”は自分で拭くのだ。 「後はゆっくり寝るだけだな」 「そうね。あ、そうだわ」 何だい、と問うとタオルを持ったまま身体を傾け艶めいた瞳で私を見つめた。 「ご褒美ついでにもう一つお願いをきいて欲しいの。私が眠るまで本を読んでくれないかしら」 褒美は一つだけと言っただろう、や、何も身につけないまま振り返ろうとするんじゃない。 様々な思いは生まれたのだが、 「――ああ、それじゃ何の本を読もうか」 ネリーには勝てない、その想いがすべてに勝ったのである。 “四月になってから、節子の病気はいくらかずつ〈恢復期〉《かいふくき》に近づき出しているように見えた” “そしてそれがいかにも遅々としていればいるほど、その恢復へのもどかしいような一歩一歩は――” “かえって何か確実なもののように思われ、私達には云い知れず頼もしくさえあった” 少し前に八重垣君から薦められた本、堀辰雄の中編小説«風立ちぬ»をネリーへと語って聞かせていたが、 (話の筋的に病人に聞かせるものじゃなかったかな) 「…………」 そう思うも、ネリーは鮮やかな青磁色の瞳を私ではない何処かへと向け、ただ凝っと耳を傾けていた。 「もう眠りそうかい?」 「いえ、まだ平気よ」 「それじゃもう少し続けようかね。“そんな或る日の午後のこと、私が行くと、丁度父は外出していて、節子は一人で病室にいた”」 「“その日は大へん気分もよさそうで、いつも殆ど着たきりの寝間着を、めずらしく青いブラウスに着換えていた”」 「“私はそういう姿を見ると、どうしても彼女を庭へ引っぱり出そうとした”」 語る私へ、陶然とした瞳を向ける。 一体、何を、誰を、見詰めているのか。 「ねぇ譲葉……」 「何だい?」 「子供のようなことを言うのだけど……」 「本日二度目、だな」 「――手、握って貰ってもいい?」 陶然とした瞳に一抹の陰りを見た私は――縋る彼女を振り払うことなぞ出来なかった。 「君が言わなければ、僕から言い出していたところだよ」 「ぁ……」 「冷えていて気持ちいいだろう。僕は体温が低いのが自慢なんだ」 「ええ、譲葉。とても安心するわ……」 青磁色の瞳に不安の陰は消え、いつもの彼女の瞳へと戻った。 温かみのある、優しくて、とても美しい瞳だ。 「眠るまで手を握っておくよ」 「ありがとう。譲葉……」 親友はようやく充たされたかのように瞳を閉じ、穏やかな眠りについた。 (替わってあげられたらいいのに) 穏やかではあるが熱で額に汗を浮かせる彼女を視て、心から思った。 子供の頃の私たち。 互いの立ち位置なんて、変わらなくて佳かったんだ。 守ってくれるライオンはネリネで、 庇われる心ないブリキは私。 だけれどあの日を境に―― 「お休み、ネリー」 刹那苦しげな表情を見せた親友へ、私は雑念を棄てた。 そして手を握ったまま、本を膝の上に置いた私は、空いた手で額の汗を拭い、私の信じる神へと祈ったのだ……。 ――女人は地獄の使ひなり、〈能〉《よ》く仏種子を断ず、〈外面〉《げめん》は菩薩に似て内心は夜叉の如し―― 嵌まっている時代小説に出てきた言葉。 意味は女性は悟りの道からもっとも遠い忌むべき存在であると告げている“〈華厳経〉《けごんきょう》”での一文、らしい。 「……ま、確かに悟りを開ける状況ではないよな」 焦がしたカボチャ入り卵焼きを前に苦々しくそう呟いた。 ネリーの風邪も快方に向かい週末の紅葉狩りには参加できる旨となった。悦ばしいことだ。だが、 (親友に出せるレベルにはまだ及ばない) 甘い卵焼きを作ろうとしっかり砂糖を入れたのだが、どうも失敗のようだ。焦げ焦げだ。それに、 (林檎君は来ていないのか……) 彼女の告白の答えも出していない。悩みは尽きぬ。悟りなぞ開ける状況じゃない。 「……気分を下げてても仕方ない。もう一度、」 卵焼きに彩りを与えるためのカボチャを刻もうと、野菜を置いてあるボウルへ手を伸ばすが――カボチャがない。 「そんなに使ってしまっていたのか……」 「あ、あの!」 私の前で同じくお弁当作りの実習をしていた下級生が必死の面相で声を掛けてくる。何だい? と問うと、 「の、農場で料理部が栽培している分のカボチャがありますから、わたしが採ってきます!」 と、言ってくれた。この学院には優しい娘が多い。 「ありがとう。だが、僕が不甲斐ない所為で多く使ってしまったのだしね。自分で採ってくるとしよう」 「ぁ……」 ありがとう、ともう一度親切な下級生へと告げるとエプロンを取り、首を振った。頭を切り換える為だ。 (悩みは一つ一つ解決していけばいいさ。先ずはお弁当作りだ) 秋のさっぱりとした空を眺め―― 豊穣な秋の実りを前にした。 「さつまいも、ニンジンに、お目当てのカボチャ。別に食い道楽じゃないが、野菜を前にすると気持ちが踊るな」 目に青葉、というのが佳いのかもと思う。夏には及ばないが秋野菜も青々として、元気を周りへと振りまいているようにも見える。 「ん……? こっちは、ジャガイモか……。刻んで潰してハッシュドポテトにでもしたらいいか」 一時期弟が嵌まっていたのを思い出した。冷凍の物だが。 ハッシュドポテトならそう高度な手順は入らないだろう。 刻んで潰して、繋ぎに……何だかを入れて、混ぜてから、油であげれば、佳かったの、だと、思うが―― 「くしゅん!」 「きゃ……!?」 ネリーの風邪が感染ったかクシャミをした私の背後から可愛い声が上がり、慌てて後ろを振り向く。と、 沙沙貴林檎が困ったような恥ずかしそうな表情で佇んでいた。 「ぁ……」 「林檎君じゃないか、どうしたんだい?」 「あ、の……。お手伝いをしようと思って……。料理部で収穫にきたのですよね?」 ああ、と頷く。農場で作物たちを前に唸っている私を見掛けたのだろう。事情を知っている彼女はすぐ察したのだ。 「カボチャを少しばかり収穫しにきたのだが……」 大した手間ではない。手伝って貰うほどのことではないのだが……。 「…………」 「ハッシュドポテトも作ろうかと思っていたんだ。林檎君はジャガイモを少しばかり収穫してくれないかな?」 彼女の物憂げな表情に知らず口がそう告げていたのだ。 「知っているかい、キュウリは世界で一番栄養のない野菜としてギネス認定されているのだってね」 「そうなのですか」 そうなのですよ、と返したかった。 気まずさから私から話しかけてはいるがオウム返しをされ、どうにも気まずさは拭えない。だが、 「今日も佳い秋晴れだね。そうだ、今日のような青空に草原の絵の壁紙が――」 とあるパソコンのウンチクを語るも、 「…………」 (ただ集中しているだけだと思うが) 頼んだジャガイモ掘りを黙々と続けている。 私は―― 「――っと」 「どうしたんです?」 叫ぶほどではないが慌てた空気が伝わったのか、林檎君は手を止め、こちらへと歩み寄ってきた。 「それ……」 「カエルだよ。けっこう立派なカエルだね。殿様ガエルかな?」 カボチャに乗っていた殿様ガエルは驚き、葉から土の上へと移動していた。そして不思議なものを見詰めるような目で私たちを見上げている。 「カラフルで綺麗だな。ふむ……」 キョロキョロと如才なく辺りを見渡すカエルに顔を近づけ凝っと眺める。と、 「あ、ダメですよ」 「うん?」 「あれはグリム童話ですから、キスをしたら病気になってしまいます」 どうやら彼女の中の八代譲葉は、私自身が思っているよりもファンキーな人格らしい。 「……そうか、そうだね。残念だが止しておこう。それに彼はヒキガエルではないようだしね」 「ですです」 ほっと胸をなで下ろし言ういつもの台詞に、思わず口角が上がった。 「苺君はカエルの置物を集めるのが趣味なんだろ?持っていってあげたらどうだい?」 「う〜ん。苺姉ぇなら喜びそうですけど……。最終的なお世話がわたしにまわってくる気がするですよ」 「ああ、姉妹の力関係としてありそうだな。僕も採ってきたカブトムシを弟に世話させてたことがあったよ」 「悪いお姉ちゃんですね」 「ふふ、佳い姉は弟を尻に敷くものさ」 笑う私に釣られ、林檎君も笑った。 「週末の紅葉狩り愉しみだね」 「はい。苺姉ぇも張り切っていました。栗や銀杏、キノコを採れるといいなって」 「ふふ、紅葉はあまり関係ないんだね」 「わたしとしてもまだまだ食い気なのです」 食い気の前に“色気よりも”と付くのが思い浮かび少しだけ心に冷水が浴びせられた。だが、 「僕も紅葉よりはそれかな。それよりお弁当を作るので精一杯だしね」 気付かぬふりをした。 「苺姉ぇは八代先輩の好物、肉じゃがをプレゼントするつもりですよ」 「お弁当に肉じゃがか……。汁でエライことに為りそうだな……」 ですです、と笑顔で頷く彼女へ、私も笑い反す。秋風が頬を撫で、空を眺めると心が少しだけ晴れやかになった。 「――佳かったです」 「何が?」 「ずっと……ずっと怖い顔をしてたですから、今の八代先輩は愉しそうです」 「……ありがとう」 感謝の言葉を吐きながらも、 (この〈娘〉《こ》はどうして私なんかを好きになったのだろう) そう空を眺めながら心に問いかけていた。 「ジャガイモ持ってきますね」 彼女の遠ざかる足音を耳にしながら、 かつて幾度も脳裏を過ぎった事柄が心に浮かんだ。 月並みな表現だが―― (人は平等じゃない) と。 もし、私が私でなく、 男性として生まれていたのなら、ネリーに焦がれることも、たとえ告白しようと考えたとしても躊躇わなかったろうし―― 林檎君の告白を受け、これ程深くは思い悩むことはなかっただろう。 (ネリー……) 困った時、必ず助けてくれた臆病ライオンの笑顔を秋の空に思い浮かべ、私は―― 「〈部〉《へ》〈室〉《や》へ戻りましょう」 そう朗らかに告げる彼女の顔を、私は卑怯にも見返すことはできなかったのだ……。 “瞬間”は旧漢字の読み方だと“たまゆら”と読むのだという。 「さぁ皆さん。忘れ物はないかしら?」 週末、待ちに待った紅葉狩りの日。 風邪から復帰したネリーが率先し、寄宿舎前に集まった料理部の皆へと呼び掛け音頭を取っていた。 「率先してリーダーシップを執るネリーか、久しぶりだな」 幼い頃を思い出し、カメラの被写体として彼女を捉えた。 病で床に臥せっておきながらニカイアの会の雑事を指示していた親友。 しかし、紅葉狩りに行けなくなるぞ、と私からの忠告を素直に受け入れたお陰か、今日この日までに体調を戻すことができた。 そして悩みの種だったお弁当も―― (ま、形には為ったか) 「譲葉。ぼうっとしていないで、桜木さんから開会の言葉があるそうよ」 たしなめられ、 (愉しそうで何よりだ) 桜木君のスピーチを生真面目な顔で受け親友の、いや部員たちの瞬間――たまゆらを押さえる為にカメラのファインダーを再び覗いたのだ。 森の小道を行き、秋をけりけり歩いていくと、 「きゃ!?」 獣だろうか、茂みが揺れる音に気付いた蘇芳君が悲鳴を上げ、皆の注目を集めた。 「い、今の音……」 「どうしたの白羽さん?」 「そこの茂みに何か動物がいるみたいで……」 「それはタヌキだね」 「え?」 「いえイタチですよ」 「え? え?」 「聞いたことがあるわ。この森は野生動物が多く住んでいるのだって。稀に学院へきて餌付けされた話を耳にしたことがあるもの」 「そんな面白い話が! ペットにしてたとか!?」 「その動物って何です?」 「確かキツネだとか、シカだとか――」 「おおっどっちも可愛い! 嘘じゃなくて本当に出てきたらいいのにねっ!」 ですです、と頷く双子姉妹。蘇芳君は眉根を寄せ、 「え、あの……嘘じゃなくて、って……?」 「うん? ああ、音の正体はこれだよ、これ!」 落ちていた手頃なサイズの石を拾うと、森の茂みへと投げ入れた。 「あ……! もう苺さん騙したのね!」 「うふふふっ! 蘇芳ちゃんから一本取ったってチドリンやえりかちゃんに自慢できるよ」 「もう本当に止めてね? 私、驚くのって苦手なの。胸がドキドキして……」 「分かったよぅ。嫌な思いをするイタズラはわたしとしても不本意ってやつだしね。それじゃ今度は蘇芳ちゃんの左右の靴の紐を縛りあって――」 「それって軍隊でやるイタズラよねぇ!?」 逃げる苺君に追う蘇芳君。珍しい光景に微笑ましくも見守ってしまう。 「――ま、彼女もまだ少女なのだしな」 普段見せない蘇芳君の、幼い少女のような振る舞いについ言葉に出してしまった。 「何が少女なの?」 「僕のことさ。秋の紅葉の中を行く可憐な少女といった風情だろ」 くるりとターンして見せる私。 「ふふ、そうね。でもくるくる廻るのは止した方がいいと思うわ」 「うん? どうしてだい?」 「せっかく作ったお弁当が台無しになってしまうでしょう?」 そうだった、と手に持つお弁当の重さを確認し、怖々と持ち上げてみた。 「大丈夫……だよな?」 「一回だけだから酷くなってないわよ。考崎さんのようなオディールのグラン・フェッテを踊ってなければね」 バレエ発表会で見せた白鳥の湖“オディール”が舞うグラン・フェッテ。お弁当を持ちながら舞う己を想像し笑ってしまった。 「あんなに廻ったらお弁当の中身がバターになってしまうよ」 「それは困るわ。愉しみにしているのですもの」 互いに秋の空のような笑みを交わし合うと、 森の匂いと、隣を歩く親友の香水の薫りを感じながら歩んだ。 絶景ですね、と瞳を細めた蘇芳君が言い、私も赤や黄色に変わりゆく森を眺め頷いた。 「森深いからだろうか、この辺りは秋が深く感じるね」 「場所柄、気温が低いのでしょうか。他よりも季節が移ろっているように感じますね」 紅葉狩りの起点となる場所―― 道々秋を愉しんできたのだからこの表現は誤ってはいるのだが、ベースポイントへと着いた私たちは銘々に秋を愉しんだ。 「そういえば秋を愛でるのは久しぶりなのか……」 去年の今頃は面倒臭い事件が起き、それの解決に時間を取られてしまった。終わってすぐ、ニカイアの会で―― 「譲葉先輩っ!」 「っと」 背に重さと柔らかな弾力を受け、 「栗とれましたよ、ほら!」 苺君の小柄な身体を受け止めた。 「ほう、見事な栗じゃないか。この辺りに生えているのかい?」 「はい。ちょっと奥に行ったらたくさん栗の木がありましたよ!」 親に褒めて貰うのを待つ子供のようにキラキラとした瞳で私を見上げた。 「それは魅力的だ。是非収穫しないとね」 この言葉は嘘じゃない。紅葉狩りで秋を愛でるのも心愉しいが、食欲の秋という格言もある。 収穫した新鮮な栗は美味しそうだ。さすがの私でも茹でるだけなら失敗はしまい。 「それじゃ栗拾いに向かいたいから、そろそろ離してはくれないか?」 と、栗拾いの言葉を受けたのは最近、とみにボディタッチが多くなった苺君を引き離す為でもある。部員の子たちの視線が痛い。 「あの、栗拾いをゲームにしたらどうですか?」 素直に身体を離した苺君は私を、周りの部員を見遣り言う。 「誰が一番多く採れるか競うんですよぅ! それで多く採った人は好きなお弁当を自分のと交換できるとかどうですかね?」 「ふむ。例えば僕のお弁当と蘇芳君のと交換できるといった風にだね」 「せっかく競うならゲームにしたら面白いかなって!」 部員の反応は――上々のようである。 「面白そう。私、やってみたいわ」 「……お友達と一緒にゲーム」 「皆が佳いなら構わないが……」 林檎君と目が合うと彼女も目を細め愉しげに頷いた。 「それじゃペア制はどう? 二人で協力してやった方が白熱しそうだし!」 「そうね。お友達同士で競うのは愉しそうだわ」 にこりと笑むネリーの追従に反対意見はない。提案者は手を上げ、 「それじゃわたし的には譲葉先輩と組むのを希望します!」 と、高らかに宣言した。 「ペア……。ふふ、それじゃ私は白羽さんと組みたいわ。お喋りしたい事たくさんあるの」 「え、わ、私と組んで貰えるのですか……?」 「ええ」 「夢みたい……ペアを組んで貰える!」 何故だか感動している我が師は置いておくとして、 (露骨なアプローチは面倒なことになるな) 無邪気さゆえか好意を隠さない苺君の行動はいらぬ火種になる。料理部は比較的大人しい性格の生徒が多いからまだ佳いが……。 「確かにペア制は白熱しそうで面白そうだ、了承しよう。だが、早い者勝ちだと差が出すぎてしまう」 僕と組んだ人は優勝してしまうからね、と巫山戯て笑いを誘った。 「此処はフェアにするためクジにしたいと思うが、桜木君構わないかな?」 「ええ……!?」 蘇芳君と苺君の対照的な抗議の声を流しつつ、人好きのする笑みで部長は承認してくれた。 苺君が不満なのは分かるが、蘇芳君はなんだと言うのか? 「うむ。皆納得してくれたようだね。それでは愉しいクジ引きを始めるとしよう」 秋の夕間暮れを眺めた。 うろこ雲から漏れるようにして射す黄金色の光の筋が酷く美しく目に映り――私は寂寥とした心持ちを抱いた。 世界中に私以外いない。 ひっそりとした深い森に抱かれ、星の輝きが増していくのを眺めていると己が絵画の中へと切り取られた気分に為る。 「確かあれがカシオペア座だったかな……」 子供じみた妄想を抱いた私は、意図して言葉を唇からこぼした。 ――自分が知る秋の星座はそれくらいだ。 天体観測が好きな我が親友ならもっと愉しめるのだろうな、と笑う。 「……っぐ」 仰け反り笑った所為で痛めた足を動かしてしまった。 瞬間、足首から脳髄へと激しい電流が走り、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。 「っく、はぁぁぁ……!」 お弁当箱を入れてきたバスケット。 その中にはこうなってしまった理由の一つ、収穫された栗が溢れんばかりに顔を覗かせているのを視、私は―― 「――冗談じゃないぞ」 現実逃避するため、少し前の出来事を思い返したのである……。 「ふぅ、ここなら採り放題じゃないか」 昼食の後、厳正なクジをひいた結果―― 「はいです。ここならわたしとしても一番になれると思うのですよ!」 ペアを組むことに為った林檎君が胸の前で拳を握り闘志を漲らせた。 「優勝賞品があまり大したものではないから適当でいいと思うよ」 「いえ。料理部で3回誰でもペアを組める券は魅力的ですよ!」 ――結局、 (結局、優勝者がお弁当を選び放題はなくなったしなぁ) 紅葉狩りのベースに着いたのがお昼を過ぎた時分、栗拾い後にお弁当――では、さすがに力が出ないと判断されたのだ。 「……公開処刑だったな」 「はい?」 「いや、こんなに見事な栗の木を見付けたのは我々だけだろうってね。優勝は間違い無しだ」 意気軒昂といった具合で大きく頷く林檎君を尻目に、私はお弁当を自信満々ネリーへと見せたことを思い浮かべた。 やはりターンしたことが拙かったのだ。 「さぁ、早く始めましょう! 急がないと他の人に採られてしまうですよ!」 「この方角を選んだのは僕たちしかいなかっただろう。だから大丈夫だよ」 「しかしですね。敵はうっかり者の姉だけではなく、あの切れ者の蘇芳ちゃんもいるのです。油断はできませんよ!」 「ふふ、よほど誰かとペアを組みたいとみえるね」 言って、 (馬鹿か、私は) 条件反射的についた軽口に思わず額を押さえようとして――とどまった。林檎君に言っていい軽口じゃない。 「はい。絶対負けられないですよ!」 朗らかに告げる林檎君へ私は、 「そうだね。僕も我が師を独占するために頑張るとしよう」 彼女の鈍感さに感謝し、そう告げたのだ。 「ッ……! さすがに軍手なしじゃ手で剥くのは無理か」 効率よくイガを剥くため試行錯誤してみたが、 「大丈夫ですか? 血、出ていませんか?」 絆創膏を持った彼女は気ぜわしげに私の手元を見た。 「数が数だからね。手早く剥く方法をいろいろ模索してみているのだけど……」 「やっぱり基本に忠実が一番です。こうですよ、八代先輩」 落ちているイガ付きの栗を軽く踏みつけ固定し、もう一つの足で裂けている箇所から器用に剥いていく。 「うむ。見事だ」 「お婆ちゃん直伝ですからね。先人の知恵ですよ」 「基本に勝るものはないか。以前話してくれた料理教室を開いている方だね?」 「はい。父や母は買い付けで日本より外国にいる方が長いですから、祖母に教わることが多かったのです」 複雑な家庭の事情に親近感が湧く。 「そうだったのか。海外じゃないが、僕も似たようなものかな」 「そうなのですか?」 「祖父母に預けられていた訳ではないが、母は身体が弱く、父は転勤族で忙しい。あまり家族には恵まれなかったのかな……」 最後は呟きになってしまった。 「…………」 「すまない。やはり僕の事情と林檎君では違うな。御両親は何をなさっているんだい?」 「宝石商です」 思った以上に佳いとこのお嬢様らしい。同じ質問を返され、銀行員だよと答えた。 初め気まずくなると思われていた栗拾いも―― 〈恙〉《つつが》なく過ぎていった。 集中しすぎて約束の時間が過ぎているのを忘れるほどに。 「そろそろ戻らないとな」 弁当箱を入れてきたバスケットは収穫した栗でいっぱいに為っている。これなら私たちの勝利は間違いないだろう。 (林檎君は――) 栗並木――この使い方で合っているのか、土手の斜面寄りに連なっている栗並木へと落ちているイガ栗を拾っていた彼女へと声を掛けた。 「分かりましたぁ!」 帰る旨を告げた私へと言葉を返し、此方へ―― ああ、そうだ。この時確かに思った。 近道するため斜面側を歩いていたことを危ないと感じたこと。 そして“私の嫌な予感は外れたことがない”のだ。 私からあと十歩ほどだろうか、手を振った林檎君の身体がグラつき、斜面に足を取られ―― 「きゃ……っ」 小さな悲鳴を上げる彼女へと、 一直線に駆けた私は―― 「――此のざまってわけだ」 林檎君を救えたのは佳かったが、代わりに足首を酷く挫いてしまった。 彼女の肩を借りて戻ろうかと思ったが―― (距離がある上、林檎君とでは身長差で無理だ) 罪悪感で死にそうな顔の彼女に頼み、ベースに戻って助けを呼んできて貰う事に為ってはいたが……。 「森深いところまで来ていたしな……。迷っていなければ佳いが……」 徐々に空は朱色でなく、葡萄色に染まりつつある。星を確認できる程に。 「暗くなってしまったら、見付けるのは無理だろうな……」 幼少期の悲観的な性格が出たか、嫌な想像ばかりが浮かぶ。 最悪一晩此処で過ごさなくては為らない。 タイミング良く夜啼く鳥の声が聞こえ、苦笑い、そして―― 「っ、ぅぅぅ……!」 動かした所為で電流と、鈍器の洗礼を再び受けたのだった……。 “どんな場所でもそいつ次第さ。笑えるかどうかは気持ち次第だろ” 父の言葉を思い出す。いつ言った言葉なのだろうかと記憶を探った。 父はたとえ相手が幼い相手であっても、娘であっても、敬意を払った言葉遣いをする人だった。 だからこんなフランクな言葉を何時言ったのか、疑問を抱いた。 「……さすがに笑えなくなったきた。そう思っただけだったんだがね」 朱色の光線は遠く地平線の彼方へと消え失せ、かわりに濃密な闇が森を、肢体を包んでいた。 「さらに雲間も怪しい……」 人工的な灯りなぞない確かな“闇”だが、月明かりが照らしているお陰で目は慣れ木々の輪廓が見てとれた。 だが、言葉に出したとおり、不吉な黒い雲が遠く張り出してきつつあるのが確認できる。雨雲だ。 (秋とはいえ、夜は冷えるってのに雨とかシャレにならないぞ) 助けを呼びに行っている以上、場所を移すなんてことは愚策以外なにものでもない。 だが、もし見付けられなかったら? 普段来慣れていない場所。そして既に暗夜だ。一日此処で過ごす可能性の方が高く思える。 「――っぐ」 立ち上がろうとしただけで、堪えきれない痛みが身体を這った。 痛みをねじ伏せるために奥歯を噛みしめる。長い息を吐きながら額に触れた。肌寒いというのに額にはうっすらと脂汗を掻いていた。 動かさなければ問題なかった痛みは、いまや目に見えない薄い膜で身体を覆っているかのように鈍痛を与えていた。 「……上着を破って足首に巻いたら歩けるようになるか?」 固定する木の枝はそこらじゅうにある。 「力には自信があるが、さすがに素手で上着なんて破れないよな……」 ならばスカートなら? と夏よりも丈が増したスカートを見遣る。 「……ダメだ。想像したらセクシー過ぎて笑ってしまう」 屈んだらショーツが見えそうに為る程に破かれた秋用の制服。〈男女〉《おとこおんな》のそんなざまなんて見付けたくもあるまい。 自虐に深く長い息を吐き、 「ようやく八重垣君の気持ちが分かったよ」 そう呟いた。軽口を叩いてなければやってられない。雲に遮られそうに為りつつある哀れな月を見上げる。 「……こんなに心細いと思うなんてね」 幼い頃はいつもこんな調子だった。 己としての〈実〉《じつ》がなく地面から数センチ浮き上がっているような心持ち。地に足が着いていない。 結局のところは昔と何ら変わっていないのだ。 (こんな私を何故彼女たちは求めていたのだろう) 随分前に思えるが、ひと月ほど前に私へと恋文を渡してくれた彼女。 好いているという想いを隠そうとしない沙沙貴苺。 そして、勇気ある告白をした沙沙貴林檎―― 恋心を向けてくれることは嬉しい。それは私を認めてくれているという事だ。 だが、 (彼女たちは私が同性愛者だとは知らない) 向けられている恋心が〈麻疹〉《はしか》のようなものだったら? もし私が本気になった時、彼女たちは私を、そのままの私を受け入れてくれるのだろうか? 「……ネリー」 浮かぶはずっと――ずっと焦がれていた小御門ネリネ。 無二の親友でも、いや親友だからこそ、私を受け入れないことを識っている。 なら、 憧れからの発露だとしても、 恋心だったとしても、 (思いを断ち切り、別の誰かと……) 考えただけでもジンとした痛みが襲った。足の痛みとは別種の息苦しくなる痛み。 「……助けてくれネリー。幼い頃のように」 いつもの尊大な心は失われ、心臓は頼りないほどに小さく萎みきっていた。 泣きながら帰った夕間暮れのあの時―― 親友は私へ、 「……困ったら靴のかかとを、」 心の内側を軽く引っ掻かれたような気分、 遠雷を耳にしたかのような、 此は、 澄ませていた耳へ確かな人の声が届く。 いや、 此の声は―― 「ネリー……」 声に出した瞬間、確かにそうだと解った。どれだけ遠くであっても、かすれていても解る彼女の声音。 「ネリー」 彼女の名を呟くと、身の〈裡〉《うち》が掻かれ大きく笑い出したくもあったし、泣き出したい気持ちにも為った。 だが、私は彼女の足音が、呼ぶ声が近づいてくるのを耳にして――感情は中間に佇んだままどちらにも重心を移せずにいた。 そして、 一際大きく茂みが揺れ、 「譲葉……!」 彼女の姿が月光に照らされ青白く輝きながら現れいでた時、 「やっぱり来てくれたんだね。ネリネ」 泣きながら帰った夕間暮れのあの時、 心を、幼い頃の自分へと立ち返っていた私は、自分を抑えることが出来なく為りつつある事を識ったのだ。 ――とある友人と夢の話をしたことがある。 友人は佳く視る夢が三つあると語った。 一つは極彩色の蝶や鳥が舞う大きな円柱形の温室を俯瞰で視る夢。 そしてもう一つは何もない只真白い部屋の中、裸のままガタガタと震えている夢。 三つ目の夢は脅してもすかしても(実際には頼み込んだだけだったが)頑として教えてはくれなかった。 嫌な気分に為る、とただ一言話してくれただけ。 私は人から夢の話を聞くたびに自分とは違うな、と思った。 夢の話を聞くと大体それは日常とはかけ離れた支離滅裂な荒唐無稽な世界だ。 自分が他の誰かになったり、空を飛んでみたり、映画の中のキャラクターと冒険してみたり。 私の視る夢とは違う。 私の視る夢は―― 基本として過去の回想だ。 ビデオテープに焼き付いている記憶を巻き戻して観るといった風に。 時たまおかしな夢を見るが(普段、そんな言動をしないような相手が奇妙な言動をとるなど)自分が足を運んでない場所―― 直接話したことのない相手は夢に登場したことはない。私が視るのは経験、なのだ。 ――だから、 夢を視るとき、私は少なからず悲しい気持ちに為る。 父の仕事の都合で転校が多かった私。 初めはすぐに別れるとは分かっていても“馴染もう”と努力したが、ごく短い期間で出会いと別れを何度も繰り返し―― いつしか私は消極的な性格に為っていた。 すぐ離れてしまう同級生と仲良くなっても無駄だし、別れが辛くなる。とある友人のように本が唯一の友達になった。 家庭環境も恵まれているとは言いにくかった。 私が低学年の折に弟が生まれ、出産を機に元々身体が強くなかった母は病床に伏せることが多くなった。 当然転勤の多い父に付いてくることなんて無理な相談だ。母の生家に程近い病院のベッド。母を思い出す時、その画角が浮かぶ。 転校先からたまに見舞いに行く〈道程〉《みちのり》。 普段顔を合わせることが少ない父との小旅行は愉しかったし、母と会うことも嬉しい事柄だった。 ベッドの上の母。 彼女はとても優しく思いやりに溢れた女性だったが、必要な物事をわざと言い残したような喋り方をした。 それは幼い私にとって酷く不安にさせた。 『大丈夫、心配しないで。とても優れた外科の技術を持ったお医者様だもの(でも他の事柄に問題がある)』といった風にだ。 ある時、母の見舞いの帰り道で、父がとある質問をした。言葉の細部までは覚えていないが、今まで貰った“寄せ書き”についてだ。 転校する際に、クラスメイトから一言ずつ書き綴ってもらった色紙。 私は何枚もの寄せ書きを大切に保管してあると言い、父は何故だかとても悲しい表情をした。 ――そして、その日を境に転校する事はなくなった。 だが、その時既に私の性格には消極的という資質と新たな資質、“内気”という性格が備わっていた。 内気になったことを誰かの所為にするなら、これは母由来の性質の所為だと思う。 私は記憶とそれを再現することに秀でていた。一度聞いた事柄、視た物は決して忘れない。此は母もそうだったという。 そして基礎を学ぶ低学年では、それはとてもずば抜けて見えるのだ。 「なぜそんなことができないのだろう?」 そして優秀であることが〈徒〉《あだ》になることは往々にしてある。 最後の転校先である学校に転入した私は、酷く陰気でオドオドとしたいけすかない子供だったのだろう。 小学校の低学年というには首を傾げ、かといって高学年というにも難しい、という微妙な年頃。 そんな時分に私は、あの子と出逢ったのだ。 ――小御門ネリネ。 彼女は私とはまるで真逆、 いや失ってしまった己を思い起こさせた。 活発でありながら温柔。年上が相手でも己の意見を貫き、芯といえる確かなものが存在する。 クラスの皆も初めは私へ何くれとなく気遣ってくれた。だが、私と会話を交えるたび潮が引くように私から離れていった。 だから私は初め小御門ネリネを避けた。 彼女も私と触れあうことでいずれ避けてしまうのではないかと。 私にとって彼女は冬の夜空のようだった。 清廉で時が経つのを忘れ見惚れるほど美しいけれど決して手に届かない。そして何処かきっぱりと己と他人の間に線を引いているということも。 だが線を引いていると思っていたのは私の思い違いだった。 転入してしばらく経ってから遠足の行事があった。 ペアを組み散策することになっていたが、私は一人きりで――運悪く手酷く転び膝を擦りむいてしまった。 ひりつくような痛みと、 一人で耐えなくては為らない孤独な自分。 悲しくて、辛くて、 独りぼっちで静かに泣いていた私へ、 「大丈夫、痛くないよ」 言い、丁寧に水筒の水で傷口を洗い、絆創膏を貼り終えると手を差し出してくれた。 「私は小御門ネリネ。知らないかもだから、もう一度自己紹介」 「……八代譲葉」 オドオドとした私は、彼女の手を十分に握ることができなかった。 「正しい握手ができないと一人前って認められないって、お父さんが言ってたよ」 「ぅぅ……」 「私の目を見てしっかり握手するの」 「八代譲葉……。よろしく、小御門さん……」 「ネリネでいいよ、譲葉ちゃん!」 「ネリネちゃん……」 頭に焼き付いた過去の回想。 今度の夢は哀しみよりも嬉しさの方が勝った。 ああ、そうだ。 私は彼女と握手を交わしたこの時からきっと魅了されていたんだ。 彼女は冬でなく春の日に開け放たれた窓のような笑顔で―― “目が覚めた?”という声は夢の続きだと思った。 暖かな温もり、微かな揺れ、そしてスズランの香りが、此は夢でなく現実なのだと報せた。 小御門ネリネに背負われているのだと。 「ネリネちゃん……」 「あ、起きたのね。ふふ、まだ眠っていてもいいのに」 振動と暖かさに睡魔はいまだ近しい。だが、 「……肩を貸してくれ。歩けるよ」 「ダメよ。今は平気かもしれないけど、歩いたら後で酷くなるかもしれないわ。だからダメ」 「……重いだろ」 「全然。譲葉はもっと食べた方が佳いわ。軽すぎて心配になるくらいよ」 言いながらも、足取りは怪しい。無理をしているのだ。 「よく見付けられたね……」 「大体の方角は林檎さんから聞いていたから。ずっと走り通しだったから休んで貰ったの。これ以上走ったら死んでしまう程だったのよ」 そうか、と呟きネリーの背の上で深く感謝する。 「残念だけれど栗は持ってこられなかったわ」 「構わない。こっちの方が貴重だ」 鼻先を親友の首元へと付け幾度か頭を振った。くすぐったそうに背が揺れる。 「ふふ、今日は甘えたがりね」 「そうかな」 「そうよ。だって私のことを“ネリネちゃん”って」 まだ夢と現の境界が曖昧だった時に口走っていたのか、とパッと頬が朱に染まった。 「そ、そんなこと言った覚えは……!」 「しっかり聞いたわよ。ネリネちゃんって。前は私のことをそう呼んでいたわよね」 どうして呼び方を変えたのかしら、と問われ彼女の背の上で戸惑う。 (あだ名で呼んだ方が親密な気がしたなんて……) 「ふふ、私はちゃん付けも好きだったのよ。譲葉ちゃん」 「……勘弁してくれ」 俯き、再びネリーの首筋に鼻で触れた。小御門ネリネの匂い。 暫し、彼女の足が土を、草を踏む音だけが耳朶に届く。 「――以前にもこんなことがあったわ」 そう誰ともなしに呟いた。私へ語るでもなく自分へ言い聞かせるように。 「森の中で……あれは遠足だったかしら? 譲葉が怪我をして、水筒の水で膝小僧を洗ったの」 私の視た夢、 「ジュースは飲んではいけないって言われてたからお水だったのよね。本当は残念だったけど、でもそのお陰で譲葉の怪我を癒やせて佳かった」 遠足で初めて友達と“正しい握手”をした、 「それで肩を貸して歩き出そうとしたら、痛くて譲葉が泣き出して。その時もこうして背負ったのよ、覚えている?」 忘れた事なんてなかった。 「……ああ、覚えているよ」 「そう。ふふ、まだ私、譲葉を背負えるわ。頼りになるでしょう?」 そんなこと当たり前じゃないか。 私にとって小御門ネリネはヒーローだ。そして、 「……最高に頼れる親友だよ」 涙で視界が滲んだ。 堪えようとすればする程、涙は浮かび抑えていた堰を破ろうとする。 私は、 八代譲葉は、 胸に刻まれた想いに改めて気付かされた。 (どうしようもなく小御門ネリネが好きなんだ) と。 爆発しそうな想いを抑え込むため奥歯を強く噛みしめる。鼻の奥がツンとした。 彼女は立ち止まり、遠く祭の音を確かめるように前を向いた。 そして、 「――佳かった。皆来てくれたわよ」 心配し駆けつけてくれた料理部の皆を見遣り、さっぱりとした冬の夜空のような笑顔を私へと向けた。 涙を見られまいと俯き、頷く。 手を振る親友の肩から、料理部の皆を、白羽蘇芳を、沙沙貴苺を、そして沙沙貴林檎を見付けた。 彼女の顔を視、私はどうしようもないほど物悲しく為った。 “どんな場所でもそいつ次第さ。笑えるかどうかは気持ち次第だろ” 父の言葉。だが、これが母の言葉だったら? 付け足されるべき言葉は―― 心がなければ笑える訳もない。 私は気持ちを押し殺し彼女へと笑いかけた。 消えてしまった夢を、遠く眺めるみたいに。  告白したことに後悔はない。  あの日聖堂で八代譲葉へと気持ちを伝えなければわたしの気持ちは立ちいかなくなっていただろうから。  でも、相反するように心は痛んだ。  伝えた事で気持ちが晴れると思っていたけれど、スッとする筈の心は捻られ、明確な痛みを感じた。 「どうしたら――」  告白の答えは少し待っていてほしい。  そう言われたけれど、その言葉にほっとする感情もあり――反面、早く答えを知りたいというジリジリとした欲求もあった。  自分が自分ではないような感覚。皆に気取られないように振るまっていたわたしへ――  姉から八代先輩が元気がないのだという事を聞かされた。  $「どうしたらいいと思う?」  $ そう相談を受けたけれど、わたしは――何も答えられなかった。  まさか自分が彼女を悩ませている元凶だとは姉に吐露できない。  言える筈がない。横恋慕しているなんて。  $「明日の部活で話を聞いたらいいよね」  $ そう朗らかに笑う姉。  姉の笑顔をみるたびに、わたしの中の捻れが大きく、そして強く絞られているのを感じた。  くだんの料理部であの日以来に彼女を見た。  姉の言った通り、八代先輩は隠してはいたが空虚な空気を身に纏っていた。  それは恐らくある種の痛みを味わってきた人にしか分からない孤独のようなものだ。  わたしたちはそれが分かるし、蘇芳ちゃんにも分かったのだろう。言葉の端々に、態度にも気遣いがみえた。  凝っと見詰めるわたしの目を恐れたのか、火に触れたようにさっと顔を背けられた。  仕方ないことだと思う。気まずく感じるのも分かる。でも、その態度はわたしの心を強い力で容赦なく捻った。  姉が�紅葉狩り�を提案するのを気付かないほどに。  $「佳い考えだよね」  $ そう追従を求められ、ようやくわたしは気持ちを取り戻すことができたのだ。  提案があった週の終わり、安息日に紅葉狩りへと出掛けた。  気持ちは鬱々としていたが、気持ちの佳い秋空の元、森を散策していくうちに気分はじょじょに晴れやかなものに為っていった。  秋風の香りと、色付く木々の葉。耳には軽やかな笑い声が響く。  姉と、友人と話していると、今が秋だということに今更ながら気付いた。  そして、その気分のお陰だろうか――朗らかな気持ちで八代先輩とも語らうことができた。  だけれど、  物事というのはそう上手くはいかない。  目的地に着き、そこで姉の提案から栗拾いの競走をすることに為った。  クジでペアを組む。  わたしは運良く八代先輩と組むことができた。これは物事の上手くいった表層。  けれど、  夕刻に為りそろそろ帰ろうと声を掛けた彼女へ答え、急な傾斜だということを頭から抜けていたわたしは駆け――  最悪の結果を招いてしまった。 「大丈夫、大したことはない」  捻挫した足を叩きそう嘯いてくれる彼女。わたしの心は千々に乱れ、どうにかしなければと逸る。  八代先輩へ助けを呼びに行ってくると告げ、わたしは皆の元へ駆けた。  運動は苦手だけれど必死で走った。これ以上がないというほど必死で。  心臓は早鐘を打ち、どくどくと血管から熱い血液が流れる音が聞こえる。  吐く息で喉が痛くなってきた頃、皆のいる目的地の少し手前で小御門先輩と会った。  わたしは彼女へ事の次第を伝えると、躊躇いなく自分が捜しに向かうことを告げ、わたしへこの事を皆にも伝えるように言い走り出した。  一度立ち止まったことで、どっと疲労が背へのし掛かったが、棒に為った足を引きずり皆の元へと戻ることができた……。  $ そして――  姉や友人、皆で今までわたしが駆け戻ってきた道を急いだ。 �物事というのはそう上手くいかない�  幸せだった刻は過ぎ去り、非情な現実が顔を覗かせる。  暗闇の中、枯れ葉を踏む足音が聞こえ――  $(何で)  $ ――何で、彼処にいるのがわたしではないのだろう。  小御門ネリネが背負うのは、足を挫いた八代譲葉。  親密な二人の姿を視て嫉妬したのではない。  彼女の、八代譲葉の表情を視て、胸が哀しみと諦観で溢れたのだ。  その顔つきは憧憬に充ち、まるで母に寄り添うように安心しきっていたから。  ――わたしは目を瞑り幸福そうな二人の像を消そうとした。  でも像は消えることはなかった。  蛍が暗闇に描く光の筋を、瞳の奥にとどめておくことができるように。 オズの魔法使いという童話がある 魔法使いへ会うためエメラルドの街へと急ぐドロシーたちの耳に怖ろしい咆吼が聞こえてきた 猛々しい咆吼の主はライオン。カカシを、ブリキをなぎ倒し、ドロシーの飼い犬“トト”を噛み殺そうとする ドロシーは我が身を省みずトトを救い、ライオンの鼻先をぴしゃりと叩いた 勇敢なドロシーへライオンは自分が臆病者だということ。小さい犬が向かってきたことで驚き、噛み殺そうとしたのだと告げる ライオンは己の臆病さに苦悩しドロシーたちへ同行を願う。オズへ己の臆病さを消して貰いたいが為に 私にとっての重要なキャラクター。3人目の仲間、臆病ライオン この章でドロシーは言う。“あなたに脅されちゃうなんて、私に言わせれば他の野獣たちの方があなたより臆病だわ”と しかし“だからといって僕は勇敢な気持ちにはなれない。自分が臆病だって自分が知っている限り、僕は不幸せなんだ”とライオンは告げた そう。大勢の者から勇敢だと讃えられていても、本人が得心していなければそれは確かな不幸なのだ これから始まる物語は“自分の気持ちを偽り続ける臆病ライオン”のお話 「大分寒くなってきたな……」 はぁ、と息を吐くも――まだ白く変わりはしなかった。まぁ、 「衣装が衣装だからだろうけどね」 夏だろうが冬だろうが踊る際の衣装は替わらない。踊る前や、踊り終えた後、カーディガンなどを羽織るときはあるが……。 「はい、次は3班の方、中央へ」 遠からず私の番にまわる。カーディガンを羽織るのには中途半端な〈暇〉《いとま》だ。 (十一月も中旬だものな……) 秋深く……というより体感的には初冬といった心持ちだ。私が寒がりなこともあるのだろうが。 レッスンを見るともなく見詰め―― 「はい。次は4班の方」 次か、とストレッチでもしようかとレッスン室の隅へ。と、 「譲葉さん。ちょっといいかしら」 先ほどまで踊っていた同級生が息を弾ませ私の元へ。もちろん尋ねることは決まっている。 予想通りにバレエについて尋ねられ、 「君の踊りを見ていたけど、欠点らしい欠点はなかったよ」 「そう……」 「……ただ、そうだな。ジュテの際に十分に手首、足首に力が入っていないように見えた。怪我の元だし見栄えも悪くなるからね」 私の忠告に手を叩き幾度も頷く。どうやら私の指摘は彼女の得心を射たらしい。 「さて、それじゃ、こほ……!」 咳き込む私へ大丈夫? と心配そうに見上げた。 「空気が乾燥しているのかな。……さて、そろそろ――」 5班の方、中央へ―― バスキア教諭の声が響き、踊ってくるよと彼女へウインクした。 バレエの授業も終わり、 「大丈夫?」 との声に眉根を潜ませた。 「大丈夫とは酷いじゃないかネリー。僕が肥満体型に見えたってことかい?」 ちょうど衣装を脱ごうとしている際に吐かれた言葉。親友はえ、っと瞳を瞬かせると、 「ち、違うわ。そういう意味で言ったのではないの」 と言った。 「確かにバレエの踊り手だったら、体重は身長から110〜120引いたくらいが好ましいと聞く。なら僕はギリギリOKじゃないかな?」 「あの、だから――」 「それにねネリー。体重をあまりに減らすと生理が減ってしまうのだよ? 健康上良いとは言えないんじゃないかな?」 「だから違うの!」 羞恥から頬を染め訴える親友へ、足はもう治ったよと笑った。 「え」 「それが聞きたいんじゃなかったのかい?」 紅葉狩りにて負った捻挫。手酷く挫いたと思っていたが、動かさなかったことが佳かったらしい。 背負ってくれたネリーに感謝だ。 「それも、そうなのだけど……」 「うん?」 「もしかしたら私の風邪をうつしたのかと思って。今日、何度か咳き込んでいたでしょう?」 ――本当に佳く見ている。 「空気が乾燥しているからね。喉がいがいがしているだけさ。大したことはない」 「本当に?」 「本当さ。疑うならブリッジして見せようか?」 両手を挙げる私へ、頬を染め分かったわ、と告げる。 (バレエで推奨されているストレッチの一つなんだがね) バレエを習い始めた当初からブリッジには抵抗があるようだった。 背筋と腹筋を鍛えるのに有効なストレッチだ。恥ずかしがる理由が分からない。 シニカルな笑みを浮かべる私へ、私に気遣っているなら――と呟く。 「私に気遣っているなら、もう平気なのよ? だから保健室へ行きましょう。付きそうから、ね?」 遠足の時に私を背負ってくれた彼女。 私は彼女に守られていた。 だが、あの時から―― 「もしかして僕の様子がおかしいと思っているのかい?」 「それは……」 「おかしくない僕を見付けるのは宝くじを当てるより難しいってネリーも知っているだろう?」 笑う私をしばし見詰め、 「そうね」 と微かに笑んだのだ。 猫は絶対的な正直さを持っている アーネスト・ヘミングウェイの言葉だが、秋の味覚、秋刀魚の塩焼きを前にして――だから思った訳じゃない。 (紅葉狩りでのネリーの背……) そして答えぬままの沙沙貴林檎君への返事。 私の想いを八重垣君に聞いて貰おうかと思ったのだ。そう、猫の笑みを持つ〈君〉《きみ》に。 「根っこのところは真面目で面倒見が佳いが――」 (その前に死ぬほどからかわれる) 思いつきは止めておこうと心に誓った。 「冷めないうちにがマナーだったな」 これも八重垣君からの教え。食い道楽の彼女がいう料理への最低限の礼儀だそうだ。 「……最近では頭と尻尾を落としておくことが多いが……」 骨をキレイに取りながら呟く。 「個人的にそいつは邪道だ。尾頭付きが嬉しいのは日本人の性だよな」 醤油をひと垂らしし、付け合わせのすり下ろし大根と一緒に口の中へ。脂ののった旬の秋刀魚は喩えようもなく美味い。 ほろほろとした赤身魚の味を愉しみつつ白米をかき込む。これ以上の至福はあるだろうか。 「ん……むっ。そうそうワタだ」 秋刀魚のいわゆる内臓、火をよく通して貰ったワタは程よい硬さを残している。箸でワタを取り白米の上へ。 「あむ……ん……」 ほろ苦さと塩味が利きこれも美味だ。醤油をひと垂らしするのがポイント。これで苦みが絶妙となる。 本来苦みは得意ではないが、父が食べているのを真似し食べれるように為った。父から得た佳きことの一つ。 しばし秋刀魚との格闘を続けていると、微かなざわめきが起こりダイニングルームの入り口へと目を向けた。 (蘇芳君と花菱君か) 図書室の妖精と今や上級生にまでシンパを増やしつつある花菱君に皆一目置いているようだ。 私とは違う、また別種のざわめき。 自分で言うのも烏滸がましいが、私への視線やざわめきは敬慕の念だ。だが彼女らへのまなざしは羨望。 羨むもどこか嫉妬の視線が潜んでいる。そう観えた。 二人は昼食のトレイを手に持つと、 「八代先輩!」 微笑みながら私の元へと歩み来たのである。 「ごきげんよう八代先輩。御一緒しても宜しいですか?」 「構わないよ。おっ、蘇芳君も秋刀魚とは気が合うね」 「祖父の好物だったので」 旬の物は旬の内に食べるに限る。テーブルへ着く二人を見遣る。と、 「花菱君はサラダだけかい? 珍しいね」 「え、ええ。まぁ……」 毎回観ているわけではないが、花菱君はしっかりと昼食をとる派だ。考崎君とは違う。 「考崎君の真似かい?」 「八代先輩もそう思いますよね?」 「ちょっとした願掛けよ。考崎さんのように踊れるように」 素直に頷く蘇芳君だが、私は花菱君のつま先から頭までを返す返す眺め、 「なるほど」 と頷いた。 「何がなるほどなんです?」 「うむ。花菱君はダイエ――」 「あああ、その! 八代先輩、調子が悪いと聞きましたが大丈夫なのですか?」 「立花さん?」 ダイエットをしているのをアミティエに知られたくない花菱君はそう問うてきたが、 (ま、気になる彼女の前だ。後生だな) 「ネリーに聞いたのかい?」 と、すり替えた話に乗ることにした。 「は、はい。何でもお風邪を召したようだと。ですが――」 ほぼ完食した皿を一目し、 「お粥ではないのですね」 と呟いた。ネリネの早合点だと思ったらしい。だが、 「風邪でも食欲が落ちないことはあるわ。先ほど咳き込んでいたみたいですし、ひき始めですか?」 蘇芳君には嘘がつけなさそうだな 美人二人に囲まれて熱が出ているだけさ 真摯な気遣う瞳を私へと向ける彼女へ、 「蘇芳君には嘘がつけなそうだね。そうなんだ。少し風邪気味でね」 「まぁ」 「昔から風邪をひきやすい体質でね。季節の変わり目なんかは大敵だよ」 意外です、と言う花菱君。彼女のアミティエは何故だか身を乗り出して、 「……ぁ」 「熱は……微熱のようですね」 「……ああ。大したことはないよ」 近づいたことで間近に図書室の妖精の容貌を目にし、感嘆のため息を吐きそうになった。 瞳は吸い込まれそうな濡色で、鼻梁はすっきりと整っている。唇は彼女の繊細さを現しているよう。 妖精とは佳く言ったものだと惚れ惚れとして見詰めてしまった。 「す、蘇芳さん……!」 「なぁに?」 「み、皆見ているから……」 いつの間にか衆目を集めていたらしい。生徒等の視線が自分に注がれているのを知ると、 「……不躾でした。すみません」 「いや、役得だったよ」 小さくなり音なく座った彼女へそう笑ったのだった。 二人の心配する視線を受け、 「もしかして赤くなっているのを見て言っているなら勘違いだよ」 「え?」 「美人二人と同席しているんだ。顔が赤らんでも仕方ないことだろ?」 いつもの軽口。二人は―― 「相変わらずですね、八代先輩は……」 「ふふ、ありがとうございます」 冗談だと思ったようだ。本音なのだが。 (どちらも自分を低く見ている節があるな) もう一度、大丈夫ですかと問われ、風邪の引き始めというところだよ、と答えた。 「……率直にいうと、体質として体温が低いきらいがある。風邪をひきやすいんだな」 「ぁ、私も一緒です」 「蘇芳君もらしい感じがするね。体温が低いとウイルスへの抵抗が弱く、病気に罹りやすいと父に聞いたな」 これも母由来の遺伝だ。 「そうなの? 蘇芳さん気を付けて頂戴ね」 「ええ、ありがとう、立花さん」 「僕を心配して御機嫌伺いに来たんじゃなかったのかい?」 最後の秋刀魚のワタを堪能しつつ、見つめ合うアミティエ同士へと声を掛ける。と、 「そうでした」 舌を出し、花菱君はセロリをフォークで口に運んだ。 「身体を冷やすのだけは避けてくださいね。すぐ悪化してしまいますから」 「体温が低い同士、お互いに気を付けよう。この時期は体温調節も難しい」 「最近朝晩は寒くなってきましたものね」 キュウリを注意深く刺しながら言う。 蘇芳君はサラダだけだと身体に悪いと思ったのか厨房でロールパンを貰い、かいがいしくバターを塗り手渡した。 体重に気を付けているアミティエだが、蘇芳君からの心遣いの方が嬉しいのだろう朗笑をたたえ受け取った。 「仲睦まじい限りだ。妬けてしまうよ」 「ふふ、八代先輩も食べますか?」 「頂こう」 言いロールパンを受け取るも、すぐ蘇芳君へと手渡した。察しが佳い後輩はたっぷりのバターを塗ってくれる。 バターのないパンなんてヒレル・スロヴァクのいないレッチリのようなものだ。 「はい、どうぞ」 「ありがとう、頂くよ」 しばし食事と向き合う時が流れ―― ロールパンをすっかり平らげ食後のコーヒーを飲んでいると、 最後にとっておいたプチトマトを指でつまんで食べた花菱君はナプキンで口元を上品に拭いた。 「合唱会までには風邪治しておいてくださいね」 冗談めいた言いざま。すると、合唱会? と耳にしていなかったのか蘇芳君が尋ねてきた。 素直に答える 蘇芳君の歌声を聞いてみたいね 学院で行われる年間行事の――と、前置きをしておきつつ、 「月末に開催される合唱コンクールのようなものだよ。1年生から3年生まで競い合う」 聞いた事はないかい? と尋ねるも小さく首を振った。 「……クラスでは聞いていませんでした。立花さんは――」 「わたしは合唱部で聞いていたから。でも、そうね、クラスではまだ話していないわね」 (相変わらずおっとりした教諭だ) バスキア教諭の太平楽とした笑顔を思い浮かべる。 「学年対抗の合唱会だし、時期も時期だからそろそろ話題に上るんじゃないかな」 そうなのですか、と何やら熟考している様子の蘇芳君。が、何か思いついたように顔を上げ、 「あの、先ほど立花さんが合唱会までには風邪を治しておいてと言ったのは、合唱部も別枠として参加するのですか?」 察しの佳い後輩はそう尋ねてきた。私は言葉尻から正解を引き当てられ、手を上げその通りと巫山戯た。 ――聖アングレカム学院の年間行事であり、ニカイアの会主導の会であることを説明した。 「合唱会があることは年鑑で知っていましたが、この時期なんですね……」 「1年生から3年生まで競うのよ。ちょっとした合唱コンクールみたいでしょう?」 合唱部員として楽しみなのか熱を入れ説明する。微笑ましい情景。 「そうか、1年生も参加するのだから……蘇芳君も唄うのだね」 「え」 「きっと蘇芳君の歌声は、夏の白靄の煙る森の中から細く長く聞こえてくる妖精のような〈妙〉《たえ》なる調べなのだろうね」 「あ、あの……」 「ああ、済まない。無理やりにハードルを上げてしまうところだったよ」 私の言葉にほっと胸をなで下ろす。が、 「蘇芳さんの事ですもの。きっと目が冴えるような素晴らしい歌声だわ。早く聞きたいです、ね?」 「ああ。期待しているよ、蘇芳君」 誤解を解こうと指を戦慄かせる彼女へ、済まなかったと笑うと、確かに合唱会までには喉の具合を整えておかないとな、と呟いた。 「――つまり、合唱部は各学年の歌唱とは別に唄うのですね?」 探偵役として優秀な彼女が問う。私は言葉尻から正解を引き当てられ、手を上げその通りと巫山戯た。 「最後のトリを合唱部が行うのが伝統なのさ。だから花菱君としては僕の喉の具合が気に掛かるというわけだ」 「純粋に身体の事も気遣っていますよ」 「どうも。そうだ、なら部屋に来て看病してくれるかい?」 僕としては小さな悪戯。だが、 「ええ、わたしは構いません。病気の時はお互い様だもの。佳いわよね、蘇芳さん?」 「ええ」 思っている以上に無垢で、優しい世界に生きている彼女たちには私のフシダラな冗句は通用しなかったみたいだ。 「……冗談だよ。まだひき始めだ。看病されるほどじゃない」 「大丈夫ですか?」 ああ、と頷く。言いながらも軽く熱が出てきたようだ。 「伝統のある一番だ。責任重大なことは分かっている。大会までには万全にしておくさ」 トレイを持ち席を立つ。冗談抜きで熱が上がってきた。食事を摂ったからか? 「放課後、合唱部でまた会おう。今日は課題曲決めだ」 まだ唄う曲も決まっていない。 思っていた以上に気怠くなった身体に気を張ると、気遣い見上げる後輩たちに手を上げ、ダイニングルームを後にした。 後輩の忠告を受け―― どうにも火照った身体を抱え廊下を歩んでいた。 「嫌な熱の出かただな……」 いつもの瞬間湯沸かし器のような熱の上がり方ではない。ジワジワと耐えられる温度を探ってくるかのような嫌らしい熱の出方だった。 元々体が弱いからこそ対処法は分かっている。御飯を食べて布団にくるまってたくさん寝る。急に上がった熱はそれで大体片が付く。だが、 (ネリーに心配をかけたくはないからな) 我が事のように親友は心配してくれる。なるべくならそんな顔を見たくない。だからこそ普段余り用のない場所へと足を運んでいるのだ。 ――歩きながら窓の外を見る。 葉の散った桜の枝が風を受け物言わぬ亡者のように音もなく揺れていた。秋から冬へと移り変わろうとしているのだ。 「ん、あれは……」 ドアが閉まる物音に窓から視線を切り、音のする方へ。目指す場所、保健室から出てくる生徒を見とがめ、私は手を上げ名を呼んだ。 名を呼ばれた彼女は、 「ごきげんよう、八代先輩。久しぶりですね」 そう猫の君は、いつもの猫のような笑みを浮かべ言ったのだ。 「此処最近、ニカイアの会絡みと部の絡みで忙しくてね。うん? 何だい、もしかして僕が恋しかったのかな?」 「冗談。ただ久しぶりに八代先輩が淹れたコーヒーが飲みたくなっただけですよ」 苦手ではあるが親友のために磨いた技能を褒められニンマリと笑ってしまった。 「……何ですか。何か企んでいるんですか」 「いや純粋に嬉しかっただけさ。それで八重垣君はどうしたんだい? 保健室の前だが……。そうかアレが重くて薬を貰っていたんだね?」 「――驚いた。正解ですよ。自分は重い方なんで絶不調ってやつです」 痛みを和らげる薬だろう包みを力なく見せた。素直に答えたことに珍しいな、と思う。 いや……。 (元々八重垣くんは律儀な性格だったか) 質問の応答だが、私はこれが一番人間性が出るものだと考えている。 自分の中に絶対的な分水嶺を持つ者は、質問に答えないことが往々にしてある。 まるで言葉が耳に届かなかったように。私やバスキア教諭がその代表格だ。 だが、八重垣君はそうではない。初め私と同じタイプの人間だと思っていたが、彼女はたとえどんな質問であろうと何かしらの答えを返す。 誠実な答えではないかもしれないが、それも答えだ。 きっとそれは生まれ持った資質というものなのだろう。 「そうかい。僕は軽い方だから君の痛苦は想像できないが、佳かったら……そうだ。お腹をさすってあげようか?」 「クク……。調子悪い時に笑わせるのは止してくださいよ。腹なんてさすって貰っているのを千鳥が見たら――」 言いかけ、さっと鮮やかに頬を染めた。 「ま、其処は言わぬが花ってやつです――で、」 「それで八代先輩は保健室に何の用なんですか?まさか悩み相談?」 「悩みは常に抱えているよ。皆のハートを奪いすぎているからね」 「……下腹だけでなく頭まで痛くなったんで、それじゃ」 「ふふ、冗談だよ冗談。今、八重垣君が言ったそのものズバリさ」 「なるほど、腹痛ですか。こいつは忠告ですが廊下に落ちている物は食べない方がいいですよ」 さっきの意趣返しか猫の笑みを浮かべる彼女へ、そいつは難しいな、と答えた。 「は?」 「廊下に落ちているもの、今なら君がそうじゃないのかな?」 口を開け彼女の首筋を狙おうと顔を寄せた。途端に顔を赤らめる彼女。 「せ、先輩。マジで勘弁してくださいよ」 「何が?」 「さっきも言ったでしょう。自分は面倒臭い相棒を抱えているんですよ」 相棒、佳い呼び方だ。私には得ることができない愛称。 「……そうだね。尻を蹴られたくない」 ゆっくりと身体を離すと、安堵した八重垣君はふっとため息のような吐息を漏らした。 「……八代先輩には敵わない」 「一年の生まれの差はなかなか厳しいものがあるのだよ。で、正解を言うと僕がここに来たのは頭痛だよ」 風邪ですか? と目をぱちくりさせる彼女へ、そうだと答える。 「へぇ……。八代先輩でも風邪なんてひくんですね」 「それは君のクラスの委員長様からにも言われたよ。僕は存外デリケートなのさ」 「知ってる中で繊細なのは白羽だけかと思ってましたよ」 「それも言われた」 にこりと笑う私へ、八重垣君は小首を傾げると顎に手をやり、 「熱のない風邪なら風呂に入るのも手ですよ」 と言った。 一緒に入ってくれるのかい? 心配してくれてありがとう 風邪をひいた際、お風呂に入って体を温める事で免疫力があがるとの民間療法を聞いた事がある。 だから嫌味ではないと分かっていたが……。 「風邪なのにお風呂に入れとは……つまり僕と入浴したいということだね?」 恥ずかしがる顔をみたいという欲求に逆らえなかった。 「うん? どうなんだい?」 「……はぁ。想像通りの返しで気が抜けちまいましたよ」 「え」 「何でも風邪のウイルスは熱に弱いので、お風呂に入る事でウイルスが弱る効果が期待できるとかどうとかって耳にしたことがあるんです」 「そ、そうなのか、へぇ……」 理路整然と話す彼女へ今更知っているとは言えなくなってしまったのである……。 熱がないタイプの風邪の場合は、お風呂に入ることで身体の免疫力が上がると聞いたことがある。 だから意趣返しではないと分かっている。 「そいつは……」 「ん? もしかして騙されてるとかって思ってます? さすがに病人相手にタチの悪い嘘はつきませんよ」 「いや、ちゃんとではないが僕も耳囓ったことがあったんだよ。だから知っていたのさ」 そうですか余計だったかな、とガリガリと頭を掻く彼女に、 「でも、心配してくれたんだろう。ありがとう」 と答えた。 「え」 「どうしたんだい?」 「い、いや。八代先輩らしくないなって……」 何故だか頬を染め明後日の方を向く。 大丈夫、明日戦場に赴くわけではないよ、と“お約束”を告げると虚を突かれたような顔をし、いつもの猫の笑みが浮かんだ。 「何だか真ん中の姉と話してるようです」 そう笑う彼女へと、光栄だよと告げたのである。 「さっきの話に戻りますが、人の体は37度台の時に、最も免疫力が強くなるって話なんです」 「だから熱が高くなければ10分から20分くらい入るといいって話ですよ」 長い入浴は拙いんですと続けた。 「随分と詳しいんだね」 「長女が繊細だったんで対処法は何となく覚えたんですよ。千鳥のやつも――」 一瞬話してもいいことかどうか逡巡したようだったが、 「相棒も身体が弱いってことはないんですが、季節柄喉を痛めないか話してましてね。部屋で金魚でも飼えないかって話してたんですよ」 と言った。金魚のくだりを問い返す間もなく答える。 「水槽があると湿度がぐっと増すんです。加湿器いらずってやつなんですよ」 「そいつは佳いことを聞いたな」 湿度が高ければウイルスの増殖が抑えられる効果もある。父が熱帯魚をずっと飼っていたのも私に対してなのかもしれないと思った。 「僕の部屋でも熱帯魚を飼えれば、面倒な薬を貰いにいかなくても済んだのかもしれないね」 「……もしかして養護教諭が苦手なんですか?」 「そんなことはない。ただ、そうだな。相性は悪いのかな」 「顔を見ると喧嘩でもしちまうとか?」 「そうではなくて純粋に行き会えないんだよ。メジャーリーガーの打率くらいの割合でね」 「別段、養護教諭もフラフラと席を外す癖がある訳ではないのだけどね」 純粋に運が悪いんだな、と結ぶ。 「そうなんですか。必要なときに会えないってのはキツイですね。わたしも一度だけありましたけどあれは往生したな」 今のように鎮痛剤を貰いに来た時だろうか、と下腹をさする彼女に同情してしまった。自分にはない痛み。 「養護教諭が見付からないときは方喰寮長から貰うといい」 「寮長からですか?」 「養護教諭が不在の時も当然あるだろうから、急な病気に対応できるよう方喰寮長がひと揃い薬を持っているんだよ」 「つまり飛行機のパイロットみたいに保険で機長と副操縦士が居るわけですね」 頷く。資格の問題で本当はいけない事なのだが、と前置きをし、 「急に症状が現れた場合、一人だけだと不測の事態に対応できないからの措置だ。真夜中困った時は部屋を訪ねるといい」 「佳いことを聞きました。だけど夜中はなぁ……」 何かあるのかい? と尋ねると、 「以前夜中に伺ったことがあるんですけど、プライベートなことをしている最中にかち合ってしまいまして」 (まさか) 未成年には見せられないことか、と息を呑んだ。と、 「針仕事をしている所ですよ。裁縫をしている時にドアを開けたものだから慌てて指を刺してしまって。らしくないって思ってるんでしょうね」 「方喰寮長の裁縫好きは、公然の秘密なのだけどね……」 私と同じだ。女性らしいことは好きだが、らしく思われないから隠すしかない。 「そうなんですか?」 「ああ。女子力ってやつが高いのさ。ダメになった端切れを集めてテーブルクロスにしたりとかね。まさしく女子力だ」 「どちらかと言うと母親力ってな感じじゃないですか?」 そう言われればそうとも言うなと頷き、確かに、と笑い合う。 「おっと、養護教諭のお出ましだ。早く行かないと逃してしまう」 「打率を下げるために」 猫の笑みで送ってくれる彼女へ、 「そうだ。月末の合唱会愉しみにしているよ」 と告げた。 「わたしの嫌いな語句は一番目が“淑やか”で二番目が“合唱”なんですよ」 猫の笑みを崩した彼女は、猫のように素早くしなやかに去っていったのだ。 「静養してなさいって言ったじゃない」 そう言われてはいたのだが、 (此奴は職分ってやつだ) 合唱部員としての私だけなら部屋でゆっくりさせて貰っていただろうが、ニカイアの会の長としての職分もある。 合唱会のトリを収める合唱部で、何を歌唱するかの会議に出席しない訳にはいかなかったのだ。 「――では、皆の意見から新しく転入した方たちの為にも分かり易く歌唱しやすい賛美歌に致しましょう」 なるほどそうきたかと他人を思いやる気持ちを持った彼女の采配に唸る。私なら学んだ歌唱の技術を存分に見せつけようと思ってしまうところだ。 頷く皆の顔に何かの印を見付けるように見渡すとネリーは鍵盤奏者……〈外間〉《ほかま》さんへと声を掛けた。 「私たち合唱部は三曲歌唱することになっています。二曲は聖歌を。そして一曲はいわゆる通常の合唱曲を歌うのが伝統です」 ピアノの前への椅子へと座し、鍵盤へと指を添えた〈外間〉《ほかま》さんはネリーが頷くのを見、 「此は――」 懐かしくも心の奥底が温かくなる音色。 幼い頃に何度も―― 「有名な曲なので聞いたことがある方もいるでしょう」 やはり皆の表情から何かを探すような瞳を投げかけ、そして――私へと視線を定めた。 「譲葉」 楔のように放たれた彼女の言葉に。 「――此は、“虹の魔法”じゃないか」 そう上擦った声で呟いたのだ。 父はよく作り話を聞かせてくれた。 幼い頃――特に母が弟を生むために入院していた時期だ。 父方の祖母の家に預けられてはいたが、大きな梁のある藁葺きの――古民家作りの家は怖ろしく、夜眠ることが上手くできないでいた。 だが、たまに私の就寝前に父が帰ってきた折には、布団を優しくたたきながら“お話”を聞かせてくれたのだ。 父と居る時は恐ろしさは消え失せ、お話の中でうっとりと眠りにつくことが出来た。 父が語るお話はよくある昔話であったり、現実を少し捻ったというものではなかった。父が独自で作った“おとぎ話”だった。 其れは目が覚めてしまうほど愉快な話であったり、枕を濡らしてしまうほど物悲しい話でもあったりした。 子供心に呆然としてしまうほど荒唐無稽な話もあったが、其れは全て私の心の中で大切な滋養となったのだ。 だから―― 私が本好きになったのはそれほどおかしい帰結ではなかったと思う。 消極的で内気な私は一人クラスの中で本の頁を繰っていた。読んでいた本は父の影響から幻想小説が主だった。 ルイス・キャロルの“不思議の国のアリス”や、チャールズ・キングスレイ“水の子:陸の子のためのおとぎばなし”などだ。 だが、特にお気に入りだったものが―― ライマン・フランク・ボウムの“オズの魔法使い”だった。 私はこの物語の中の登場人物が自分のようだと自己投影していた。 心のないブリキの木こりを私だと。 そして、臆病なライオンを小御門ネリネだとも。 遠足の一件から仲良くはなったものの特別親しくは為れないでいた。 理由は単純だ。小御門ネリネには友人がたくさんいた。私ばかりにかまけていられないのだ。独りぼっちの私とは違う。 彼女もそうだが、私も、他の友達と一緒に居るときは話しかけずにいた。彼女が一人の時に勇気を持って話しかけ二言三言話す。 そして――これは幸運なことだったが、彼女と私の家は近く帰る道が一緒だったのだ。 登校する時間と、下校する時間。その時が私のもっとも幸せな時間だった。 彼女と一緒に居られない時間はひたすら本に没頭していた。そして目が疲れた折に彼女をそっと盗み見た。 クラスの中心であり級友らと笑い合う彼女。 だが私の目には小御門ネリネが何処か怯えているように見えていたのだ。 嗤ってはいたが笑っていない。観ていたが視ていないように見えた。 臆病ライオンとだと感じたように、彼女は何か、“か弱いもの”を隠しているように見えた。 そして―― 何時だったか嗤うことに飽きた彼女は皆の輪の中から外れ、私の元へ来ると“何を読んでいるの?”と尋ねた。 皆と居る時に話してくれたことは初めてで言葉を失っている私へ、本の背表紙を見遣ると、 “オズの魔法使い? 私も好きなの” と言った。 そして、私が読んでいる頁を眺め、 “いいわよね。銀の靴って。何処へでも行ける” そう告げたのだ。 オズの魔法使いが好きだった理由は3つあるが、その内の一つが“銀の靴”の存在だった。 銀の靴があれば入院している母の元へ一瞬で行ける。幼い私は絵空事だと分かっていても、そうできたらどんなに素晴らしいだろうと思っていた。 だから小御門ネリネが私と同じ感想を抱いていたことに酷く驚いた。 彼女は頁を眺め、私の顔を何かの印を見付けているかのように凝っと眺めると、 “三度靴のかかとを鳴らしてごらん” そう言って―― 飴色の壁がぼんやりと目に映った。 輪廓がまだはっきりとしていない。 (夢を視ていたのか……) ネリネから初めて“オズの魔法使い”について訊かれた教室での出来事を夢として思い返していた。 ――オズの魔法使い? 仄暗い部屋のベッドに横たわっていた私は、ようやく自分が何故今こうして臥しているのか理解した。 「……気分が悪くなって寝入っていたんだな」 額に手をやると冷えたタオルに触れた。 「無理をして部に顔を出すからよ」 冷たさでぎょっとしたのではない。不意に吐かれた言葉に私は瞳を瞬かせながら声のする方へと視線を送った。 「気分はどう?」 眉根を寄せ私の顔色を見る親友を見上げて―― (そうだ。放課後――) 合唱部で、合唱会に唄う歌唱曲の選曲をし終え、帰る段になったところで自分の足が自分のものでないような感覚に陥ったことを識ったのだ。 足裏が地面を掴んでくれない。足だけでなく全身が気怠く力が抜けてしまった私は、ようやく本格的な風邪をこじらせたことを理解した。 親友は私の肩を抱き、寄宿舎へと――。 「……吐き気はない? 大丈夫なようなら、お薬飲める?」 「……昔と逆だな」 「え?」 「子供の頃さ。よくネリーを看病した」 「ふふ、もっと前は譲葉の方がよく風邪をひいていたじゃない。それに、」 それだけ喋れるならお薬飲めるわね、と水の入ったグラスとカプセル2錠を手に言う。 「これだけ汗を掻けば後は下がるだけさ。ありがとう、んっ……」 風邪薬を飲み干す。カラカラの喉に冷えた水は暴力的なまでにしみ込んだ。熱で火照った身体に冷えた水は有り難い。 大きめのグラスで渡されたがひと息に飲んでしまった。 「お水もっといる?」 頂こうと告げ、汗の浮いた水差しからグラスへと注ぐのを飢えた目で見詰めた。 「どうぞ」 「んっ……んっ……んっ。はぁぁぁ……! やっと落ち着いたよ……」 水をまたもひと息で飲み干した。大量に発汗し身体は水分を求めているようだ。 「そんな身体で部活に出ていたのね」 「熱は大分引いたみたいだ。で、ニカイアの会から何か報告はないかい?」 呆れた、と声を上げるネリネ。彼女は私の鼻を摘むと、 「1年生の子が農場に来ていたキツネ? タヌキかしら、それを餌付けしてたって報告があったくらいだわ」 「そいつは大事だ」 「怪我をしていたそうだから可哀相だけど……。バスキア教諭が対処してくれたそうよ」 「なら問題ない、か」 鼻声の私に朗笑をこぼす。世は事も無し、というやつだ。 私がいなくともネリーが回してくれる。心配しなくとも佳いという笑顔。 私が一つ頷いたことで余計な気を回さないよ、という意思表示を認め鼻から手を離してくれた。 「……何だかお腹が減ってきたな」 言い、部屋が、窓の外が真っ暗なことに今更ながら気付く。 「此奴は……夕食には間に合わなかったか」 「ふふ、食欲が湧いているなら風邪もこれ以上酷く為らないわね」 「食べ逃したと分かったら俄然食欲が湧いてきたよ」 「大丈夫よ。とある先生が夜食を持ってきてくれることに為っているから」 先生? そんな気の利いたことをしてくれる先生なんて―― バスキア教諭? 方喰寮長か バスキア教諭か、と思わず声を上げてしまったが、 「え? バスキア教諭? お料理を作って貰ったことがあるの?」 そう問い返されてしまった。 「……いや、優しげだから名前を挙げただけさ。それに、よく考えたら彼女は料理はからきしだったね」 私と同じだ、と笑う。 「お菓子作りなら相当の腕だって聞いたことがあるのだけど……」 バスキア教諭の名誉のためそう付け加えたのだ。 「方喰寮長か」 言い、忍び笑いを零してしまう。女子力の化身。 「どうしたの? お腹が痛いの?」 「いや失礼な話なんだが、思い出し笑いだよ」 少し前のことなのにずっと前のことのようにも思える。私と同じ“らしくない”と思われる女性。 「あ、ほらあんまり動いたらタオルが落ちてしまうわ」 額からずり落ちた水タオルを取り、私の冷えた額を繊細な指が慈しむように触れた。 「ネリー……?」 「熱はだいぶ下がったのかしらね。でも今日一日は大人しくしないとダメよ」 言い綺麗に折りたたみ直したタオルを私の額へと乗せた。 「もう少ししたら方喰寮長がお手製の栄養たっぷりの海の幸入りお粥を持ってきてくれるそうよ」 「貝柱でダシを取るとかかな。楽しみだ。方喰寮長の料理上手は耳にしてるからね」 「一度、料理部で講師に来て貰うのもいいかもしれないわね」 裁縫が得意で、ガーデニングの授業を受け持ち、料理の腕も確か。だが、 (男勝りで女子らしいことが似合わない、か。私のようじゃないか) 「うん? 譲葉、今失礼なことを考えていたでしょう?」 「ネリーには敵わないな」 自虐していたことを知られたくない私はシニカルな笑みを浮かべた。ネリーはそっと私の髪を撫でる。 「方喰寮長が来るまでもう一眠りしなさい」 「さっき起きたばかりだ。寝付けないよ」 そうね、と顎に手をやる飴色のネリーを見詰め、 「唄を歌ってくれれば眠れる気がする」 と言った。 「唄? 聖歌とか」 「そこは子守歌で頼むよ。そうだな……」 ――オズの魔法使い そして――もう一つの心の中に深く根付いた想い出―― 「虹の魔法を唄ってくれないか」 「え? まだちゃんと練習していないから……」 「聞きたいんだよ。頼む」 気持ちが幼い頃の私へ戻っている。熱心に見上げ見詰めると、親友は奇跡のように微笑んで、 「いいわ。でもミスをしても笑ったら嫌よ」 言い、静かに佇んだ。私は隣に立つネリネの静かな息づかいを感じた。ゆっくりとした深く静かな呼吸。 そして、 初めの一音を耳にしながら、私は静かに瞳を閉じた……。 基本的に練習と名のつくものをしたことが無かった。 母から受け継がれた資質から一度観たもの・ことは、複写するかのようにそっくりそのまま模写することが出来たからだ。 それは例えば学院の勉強でも、聖書の授業でも、ヴァイオリンの習得、バレエについても、だ。 そして“合唱”に関しても―― (だが、こいつは一度視たからそれで終わりという類いのものじゃない) すべて“模写”することは出来ても、喉ばかりは刃物と一緒だ。手入れをしなければ錆び付いてしまう。 風邪はようやく治ったというのに―― 「此処なら、まぁ問題ないだろう」 完全に復調していないのではと心配しきりの親友は、合唱部への参加を赦してはくれなかった。 自室で大人しくしていろと言う。 (合唱に関してはある程度練習しておく必要がある) 人を惹きつけるような歌唱を〈諳〉《そら》んじるなら調整が必要だ。一日でも休めば喉の開き具合に支障が出る。 “ある程度”で佳いなら今のままでも十分だ。 だが、 私にとって此の合唱会はある程度ではダメなのだ。 ――虹の魔法、 トリを飾るこの楽曲は私にとって大きな意味を持っている。 一人で唄うとしても、ある程度という妥協は赦されない。ネリーと共に唄うなら尚更だ。 「さて、」 まずは発声練習からだ。 姿勢はやや前傾姿勢を取る。足は肩幅ほど開き、左右どちらでもいい。体重を少しだけかける。 かかとに重心をかけないようにし膝を柔軟にしておく。そして腰が曲がらぬよう胸を張る。 そして次に意識するのは腹式呼吸だ。 みぞおち辺りに力を入れ横隔膜を下げるイメージ。この際、力を入れすぎて身体を強張らせてはいけない。 習った手順を踏み、私は口を開いた。いや、口の中にある口を開け空洞にし響かせるイメージ。 一度聞いたフレーズは忘れない。 幾度も耳にした歌詞はするすると私の口から、喉から湧き出でてくる。 リズムも音程も間違っていない。 (だが、) ネリーには遠く及ばない。 声量も、技量も、それ程差はない筈だ。 声質? そんな好きずきの話ではない。 これは生まれもっての資質なのだ。一つの樹から仏像を彫り起こせる才能や、餌をやらずに動物を調教できる才能、それと同列の資質。 小御門ネリネの体内には音楽が流れているのだ。流れている者といない者がある。 それが有ると無いとでは“唄”という世界で決定的で明確な隔たりが起こる。 (肩を並べなくとも、足を引っ張る訳にはいかない) 今は喉を馴らすことが第一だ。 技術はその後でも―― 「ごきげんよう、八代先輩」 ワイヤーの先端のような声に背を叩かれ振り返ると、 「隠れて練習ですか、小御門先輩が悲しまれますよ」 もう一人、体内に音楽が流れている者が眉根を寄せそう言ったのだ。 「えりか、ちょっと佳い?」 「お前は佳いところで毎度毎度邪魔しやがって。ペッパー警部かってんだよ」 ベッドに寝転び本を読んでいた彼女はそう言うと、気配を察したのか顔を上げ考崎君を、私を見、首の骨を馴らすとベッドの上に本を投げ出した。 「コショウ警部?」 「悪かったよ。古いボケで。それで今日はどんな用件なんですか、八代先輩?」 ベッドの上から尋ねられ私は―― 故あって合唱部に出られないこと。 それならばと、一人月末の合唱会の為に自主練習をしていたところ考崎君に会い、自由曲“虹の魔法”について相談した。 すると、“それならボーカルレッスンの練習曲で何度も唄ったことがあるので教えられるかもしれません”との事になったのだ、と伝えた。 「千鳥が八代先輩をナンパしてきた理由は分かったが、どうして森でなんて――」 言いながら、八重垣君は考崎君が手に持つスイートピーを目にして言葉を飲んだ。 私に声を掛けた時、既に手に持っていたスイートピーの切り花。 「……意外と義理深いじゃねぇかよ」 「義理が廃ればこの世は闇夜、でしょ?」 言葉の意味、そして発信元としては何を意味しているのか聞いてみたくはあったが……。 「――ということで、この部屋で歌唱の指導を受けるという事に為ったんだが、構わないかな?」 表情から尋ねるのは野暮だと判断した私は、簡潔に頼みを切り出したのだ。 「まぁ別に佳いですけど、声は抑え気味でやった方がいいですよ。防音設備完備じゃないですからね」 家主にOKを貰え、ほっと胸をなで下ろす。 「それでは始めましょう」 「無理を聞いて貰って悪いね」 「バレエでは私の方がお世話になっていますから。お互い様というやつです」 珍しく個人的な笑みを送られ私も微笑んだ。 「それでは先ず発声練習から行いましょう」 「……発音は丁寧で美しいです。鼻濁音、子音、抑揚に気をつけ唄えています」 「でも?」 その後に言葉が続きそうだったので先を促す。 「気になったのはフレーズ……まとまりでのブレスの際、前の音が短くなっているきらいがありましたので其処を注意すると佳いと思います」 「なるほど……」 完璧に模写できていると思っていたが、自分の都合佳いように置き換えていたようだ。 「有名な曲だからわたしも聞いたことがあるけど――完璧だと思ったけどな」 「唄に完璧はないのよ。完璧を追い求めるのが歌唱なの」 「カトリックの園で禅みたいな答えをしやがって。キリストにぶん殴られるぞ」 笑う考崎君。八重垣君は車椅子を繰ると、私へカップを差し出す。 「コーヒー通の先輩に出すのは恥ずかしいですが、どうぞ」 「心遣い嬉しいよ」 言い温かなコーヒーを啜る。渋みと苦みで頭がクリアになっていく。悪くない。 「悪魔のように黒く、地獄のように熱くってな具合にはいかないですね」 渋い顔をしていたのだろう、仮面を綻ばしては為らない。 「フランスの政治家だね。いや僕好みの味だ。八重垣君が淹れてくれただけはある。天使のように純粋で、愛のように甘い」 八重垣君が言った台詞の続きを口にし煙に巻いた。だが彼女にはちと甘すぎたか顔をしかめ、照れくさそうに頭を掻いた。 私は羨ましそうにコーヒーを見遣る考崎君へ、 「僕としては完璧を求めたい。他には何か注意点はないかな?」 と言った。 「そうですね……。後はイメージですかね」 フレーズに対する? 歌手本人になったつもりで? 「それはつまり歌詞の内容を膨らませて唄うということかな?」 「はい。イメージして唄うのとそうでないとでは歌の表現が変わります。豊かなものと、そうでないものとに」 「本当かよ。野菜にクラシックを聞かせると佳く育つくらい胡散臭いぞ」 「その曲の言葉、台詞からくるイメージを大切にする・しないとでは、声の広がりや説得力が全然違うものになるわ」 考崎君の意見は基本だがおろそかにしがちなところだ。特に上手くなったと過信している私のようなものには。 「何故効くのか分からないまま行われている全身麻酔の例もあるし、そういう事もあるんだよ。注意することにしよう」 言い、ありがとうと考崎君へお礼を言った。 そいつはつまり、と唇を湿らせた。 「虹の魔法を唄った歌手に為りきって演じるということかい?」 「え、ぁ……」 言った後で失敗したと思った。彼女の言っていることは精神論であって演劇論ではないのだ。 「っく、くく……! 八代先輩があの歌手に? 虹の魔法の歌手は清楚系の美人だぞ。男装の麗人ってな具合の八代先輩とはミスマッチだよ」 「…………」 「えりか……!」 「いや、済みません。ふふっ、つい想像してしまって」 「構わないよ。人には似合う似合わないというのは存在するのだしね」 「……そうだ。せっかくだから八重垣君にも唄って貰おうか。どうやら虹の魔法には詳しいみたいだしね」 「え?」 「それ、佳い考えですね!」 「だろう。そういえば僕は八重垣君の唄を聴いたことがない。是非、聞きたくなってきたね」 「え、いや、その……」 「何、虹の魔法の歌手に為りきって唄えと無体なことを言っているのではない。ただ君が唄っているのを聞いてみたいだけだ」 「私もえりかの虹の魔法、聞いてみたいわ!」 「ひ、人前でなんて歌えませんよ! 悪かったです、笑ってすみませんでした! これでいいでしょう!」 弄ることは馴れていても弄られることに馴れていないのか、赤面し手を顔の前で振るう。 「ま、これで手打ちにしよう」 ――考崎君の告げたイメージの話を反復していると話を変えるためにか、そういえば、と八重垣君が句読点で切り取ったような声を上げた。 「最近また面白い話が持ち上がっているんですけど、聞いていますか?」 以前何処かで耳にしたことのある前振り。 「……またぞろ笑えない話じゃないだろうね」 「なかなか佳い勘をしてますね。七不思議の話ですよ」 七不思議。最近というよりは前だが、正直連続して顔を逢わせたくない話題だ。 「またお化け騒動でもあったのかい?」 「え、本当なの?」 「食いつきいいなぁ、おい。話す前にストーリーテラーの喉を湿らせてくれ」 素直に従い考崎君は八重垣君へコーヒーを淹れ、自分にも、そして少なく為った私のカップへも注いでくれた。 「どうも。さてそれじゃお楽しみの七不思議の話だが、今学院を賑やかせているのは“ウェンディゴ”の話なんだよ」 「ウェンディゴか……」 「そう、正式名称は“森を彷徨うウェンディゴ”。だから森で千鳥と出くわしたって聞いた時――」 「私が噂の真相を探りに行っていたと思った?」 「まぁな。あ、聞いたからって一人で探そうと思うなよ。この季節の森は危険が多い」 分かっているわ、と考崎君はいうものの、瞳を見れば分かる。解っていない。 「しかし、ウェンディゴか。一番眉唾な七不思議が出たな……」 「眉唾ってどういうことです?」 「この学院の七不思議は大本の設定通りじゃない。歪んで伝わっているのさ。考崎君はウェンディゴのことを知っているかい?」 「確か、精霊ですよね? どことかの……」 「そうだ。カナダのネイティブアメリカンに伝わる精霊の名だよ。非常に狡猾で、人に姿を見せない」 「旅人の背後に忍び寄って気配だけは悟らせるが、振り向いても驚くほど素早く姿を見ることはできない。だが、何度となく気配はやってくる」 「そして、精神的に疲弊したところで姿の見えないウェンディゴが話しかけてくるのさ」 言いコーヒーを啜った。考崎君は眉根を寄せ前髪を弄ると、 「……眉唾。それってつまり姿が見えないから何とでも言えるってこと?」 「正解。学院のウェンディゴも姿は見えない。過去の騒ぎでは素早く移動する白い影が見えたという目撃談が多かったね」 「白い?」 「ウェンディゴはカナダの厳しい冬の象徴としても描かれている。だから白い、と変化したものだと思っていたよ」 なるほど、と頷き思い出したようにコーヒーを飲んだ。放っておくと地獄のように熱くなくなってしまう。 「僕は初めてウェンディゴの話を聞いたときビッグフットのようなイメージを持ったな」 「わたしも似たようなものです。ゲームの影響からですけどね。ま、出典通りなら白い影の方がらしい感じですよね」 頷く彼女へ、本題である先を促すように猫の目を眺めた。 「七不思議の話が出たのは此処最近、十日ほど前くらいからですかね。森の散策に出た生徒が木々を横切る白い影を視たって話です」 「何だか幽霊譚みたいね」 「その話はどれくらい噂になっているんだい?」 「知ってる人は知ってるってくらいですかね。遠からず皆の耳に入るくらいにはなるでしょう」 直接な被害はなく、噂話程度なら合唱会に支障はないだろう。ほっと胸をなで下ろした私は温くなったコーヒーを啜った。 「ねぇえりか、相談なんだけど……」 「ウェンディゴ捜しならパスだぞ。冬も間近だってのに森なんて〈彷徨〉《うろつ》きたくない」 「可愛いアミティエの頼みでも?」 嫌だって、とすげなく断る八重垣君だが、彼女のアミティエも頑なだ。 どうにかして探索の約束を獲得しようと語りかけている。二人のやり取りを眺め笑みが零れてしまった。 「ほら、八代先輩にも笑われているだろうが」 「おっと“〈彼処〉《あそこ》のお兄さんに怒られるから騒ぐのを止しなさい”みたいなダシに使うのはよしてくれよ」 鼻白む八重垣君へ、 「まぁ僕個人としても森の散策は危ないからね。止した方がいいと思う。だから――」 「何です?」 「視聴覚室で恐怖映画なんかを観て発散させるのはいいんじゃないか? 妥当な落としどころだろ」 元々映画好きな八重垣君もそれなら文句はないと頷く。 彼女のアミティエは私の提案が存外にお気に召したようで滅多に魅せない笑顔を浮かべた。 「えりかと映画……! あっ、それじゃせっかくだから雪に由来のある恐怖映画が観たいわ!」 「雪、雪なぁ……。恐怖映画で、となると直ぐに思いつかないが……」 腕を組み悩む。 ――が、一転猫の笑みを浮かべた。 「それじゃシベリア超特急でも観るか。お薦めだぞ」 「聞いた事がないけど、何だかロマンチックな響きもあるわね!」 「それは……八重垣君……」 「……シッ」 唇に人差し指を当て制する彼女へ憐れみの視線を投げかけてしまった。 (どっきりとはいえ体を張るな……) 只では転ばないことを証明するために九十分間の苦悩を抱えることに苦笑ってしまった。 「さて、」 コーヒーを全て飲み干した私は、 「もう一度練習に付き合って貰えるかな」 満悦の表情を湛えた仕掛けられ人へそう告げたのだ。 完全に復調した私は、 「……ふぅ」 御覧の通り、バレエも合唱部にも参加できる運びとなった。 「秋深しとはいってもさすがに暑いな……」 久方ぶりのバレエということでみっちり踊り込んでみたが、汗が噴き出してくるのが止まらない。 まぁ、風邪の熱とは違う心地好い汗だが。 「完全に回復したみたいね」 「動きのキレを見て言ってくれているのかな? だとしたら正解だ」 「ふふ、佳く廻る口を利いてよ」 ネリーにしては珍しく冗句で返され私はシニカルな笑みで返した。 「授業は受けさせてくれたが、バレエと部活動、ニカイアの会の活動も止められていたんだ。実際、鈍っていないか心配だったんだけどね」 「でも、心配はいらないみたいね」 「そうでもない。急に動いたから明日には筋肉痛で湿布が必要かも」 腰へ貼るジェスチャアをする私へ、手の甲に唇を当て上品に笑った。 「大丈夫? 上手に貼れる?」 「おい、僕を幾つだと思っているんだ。もう生理用品だって扱える歳だぞ」 「そうではなくて、手が届くかってこと」 「分かってて言ったのさ」 さすがにこのネタでは親友の様子は窺えなかった。ネリーは私の元へと来ると、 「ん……っ」 「汗、随分掻いているわね。風邪ぶり返してはいない?」 持っていた自分のタオルで私の額を拭った。芳しいスズランの香り。 「昨日、保健室へ二人で風邪薬を貰いにいったじゃないか。もう治っているのに駄目押しだって」 「譲葉、行くの嫌がっていたわ」 「元々薬とは相性が悪い。保健室の先生ともね」 肩をすくめる私へ眉根を寄せ呆れた顔を見せる。 「保健の先生、相変わらず苦手なのね」 「何故だか一人で行くと行き会えないから面倒なだけだよ。昨日は二人で寄ったから一発で会えた」 「この時期は風邪をひいている生徒が多いから、一人で行っても会えたでしょう」 確かに、昨日伺った時も幾人かの先客がいた。 「結果論としては。まぁ、僕としては保健室ですごい美人に会えたのが役得だったけどね」 「へぇ、譲葉のお眼鏡にかなう生徒もいたのね。ふふっ、だったらその子をエスコートして帰ったら佳かったのに」 「その子は目の前に居るよ」 「え?」 「一緒に帰れて役得だった」 ネリーのタオルで彼女の汗の浮いた胸元を拭う。 紳士を気取るため彼女の魅力的なふくらみに目をやらないようにするのには努力が必要だ。 「いつもの調子が戻ったみたいで安心したわ」 「どうも」 言いながらも冗談ではないのだけどね、と口の中で付け足す。 親友はそんな私の素振りを知らぬように遠く先を眺めた。バレエの順番が回ってくるかどうか計っているのだ。 「……これで会の方も順調なら佳かったのだけど」 「僕がいない間に面倒事が起きたのかい?」 タオルを返し尋ねる私へ、愁眉を寄せ事件とまではいかないけれど、と枕詞を付けた。 「此処最近、七不思議の話が出ているの」 「――森を彷徨うウェンディゴ」 「さすがに耳が早いわね。最近くだんの七不思議の話が出て、森へ探検する生徒がいるそうなのよ」 「肝試しするには少し遅いんじゃないか?」 「私もそうは思うけど――」 (ま、娯楽の少ない学院だ。七不思議を娯楽の一つとして遊びに行くのも分からなくはない) 会の長としての手前ネリーには言わないが気持ちは分かる。 「正直、七不思議の一つ、森を彷徨うウェンディゴの目撃情報があったのだもの。調べたくなる気持ちは分かるわ」 「……口に出しても佳かったか」 「なぁに?」 「いや、続けてくれ」 「秋も終わりに近づいているけど紅葉狩りを愉しむのも佳いと思う。でも、気分を出そうと暗くなってから出歩く生徒もいるらしいの」 「なるほど。ニカイアの会としては黙ってはいられない。校則を破る不届き者は火あぶりの刑にするって訳だな」 「生徒に注意を呼び掛けるにしても大事にはしたくないし……」 タオルに頬を付け憂う彼女へ、 「今のところどれくらい広まって居るか把握しているのかい?」 と、尋ねた。 「細かいところまでは。でも話を聞くと森の奥、あの秘密の泉の方で見掛けた子が多いそうなの」 (多い、か) 多い、という言葉が出るということは一人二人の目撃例ではないらしい。 「……合唱会前だってのに勘弁してくれよ」 外れたことのない、“嫌な予感”がした私は、そう呟いたのである。 合唱部の帰り道―― 「譲葉先輩!」 可愛らしくも活発な声音に足を止められてしまった。 「苺君じゃないか」 「お久し振りです!」 「それと林檎君も」 「ごきげんようです……」 姉妹の名を呼ぶ際に、声の調子に違いが出ないよう気を付ける。 (告白の返事を延び延びにしている手前、顔を合わせづらいが……) そして、気にしちゃいないが足を挫いた経緯もある。 「足と頭、もう大丈夫みたいですね!」 「ふふ、その言い方だと僕がヤバイやつに聞こえるじゃないか」 「“サイコ”のノーマン・ベイツみたいに、ですか?」 「蘇芳君の〈薫陶〉《くんとう》が生きてきたと見える」 映画好きの蘇芳君と話を合わせるため、この心優しい双子は自分の趣味に“映画”も追加したのだ。私のコーヒー通のように。 「あの……風邪の時、顔を出さなくて……」 「僕が後輩……いや、どの学年からも見舞いは断っていたんだ。気を遣わなくて佳い」 「先輩、人気者だからお見舞いだけで寝る時間なくなっちゃいそうですもんね!」 「その通り、もてる女はつらい」 笑う私へ苺君は朗笑を、林檎君もややほだされたようだ。 「足の方はもう?」 「そっちの方のご機嫌伺いはして貰っただろう?とっくにだよ。ここで白鳥の湖を踊って見せようか?」 「ぁ、ぅ……。平気なら、佳かったです」 「ああ。だが残念、ここでクルクル廻ってお気に入りのショーツでも披露してやろうと思ったんだけどね」 下品な笑いで様子を見るも、どうやら苺君はともかくとして――林檎君ももう大丈夫なようだ。 動揺するとき人は無防備になる。瞳を通して窓から家の中を覗くみたいに。 今まで覗けなかったのは一人だけだ。曇ったガラス窓。内側を見通すことが出来なかった。 「で、こんな時間にどうしたんだい? 二人して森を彷徨うウェンディゴを捜しに行っていたのかい?」 「い、いやですよぅ、そんなわけないですって!」 「…………」 いつもの精神分析なんぞをしなくても態度でバレバレだ。 「別に咎めたてする気はない。ニカイアの会でも問題になってはいるが、夕方以降や夜半に探検に行くのは推奨しかねるといった具合だからね」 「そ、そうなんですかぁ。佳かったぁ!」 「苺姉ぇ……」 語るに落ちたとはこのことだ。自分が自白したことを数瞬の間の内に気付き、はっと髪を逆立てる。 「だ、騙しましたね……!?」 「クク……。君はいい友人だったが、君のお父上がいけないのだよ」 「ち、父上? 何のこと……!?」 父の影響から古いネタを使ってしまった。素直に反省し、自前のポニーテールを弄ると冗談だよ、と告げた。 「だが、さっきの話は本当だ。ま、ニカイアの会で大っぴらに了承できないから暗黙の了解というやつだと思ってほしい」 夕方までには戻ってきているようだし、大目に見ようと付け加える。 「ぁ、そ、それじゃ何か罰とか……」 「方喰寮長にでも言いつけようか?」 「それだけは勘弁してくださいぃ……!」 (さすが鉄の修道女、方喰寮長だ) 生徒からの恐れられ方は尋常じゃない。 「……付き合ってみると人情家で佳い人なんだがね」 「せ、せんぱい……!」 「……平素の表情が怖いってのは損だな」 「あの!」 「ああ、冗談だよ。二度続けるのはタチが悪かった。そうだな……。見逃す代わりに君たちに質問していいかい?」 二人して小首を傾げる可愛らしい彼女らへ問う。 「森を彷徨うウェンディゴだが、噂になっている広がり具合と、どんな風に広まっているかを尋ねたいんだ」 萎れている苺君へ質問 頬を赤らめている林檎君へ質問 苺君の名を呼ぶと萎れていた表情から一転、得意げな顔つきに変わった。 「噂話ならお任せあれですよ! ウェンディゴの話は1年生がデモトなんで大体皆知っているんじゃないかな?」 「まさか……」 「わ、わたしたちじゃないですよ! 森に散策に行った子たちが白い影を視たって。それで――」 「七不思議の一つ、ウェンディゴと合致したというわけだね」 頷く彼女へ、1年生が噂話の発生源なら口止めしておけば何とかなるか、と思考を巡らす。 (いや人の口に戸は立てられない、とやらだ。飽きて収束する方が早いか……) 「教えて欲しいんだ。林檎君」 「は、はい。その、そもそも噂となったのは――」 真摯に目を見詰め窺うと、 「ぁ……ぅ……」 夕映えだけでは説明が付かない朱が射した。 「……どうやら風邪をひきそうだ。話は後にしよう」 「林檎?」 「あ、いえいえ。平気です! そのウェンディゴの噂なのですが、うちのクラスの子が森を散策していたところ白い影を目撃したらしいのです」 「1年生が噂の元と為ったのか……」 ポニーテールを弄っていると、 「その……白い影からウェンディゴの話を持ち出したのはわたしなのです」 と、彼女が自白した。 「あ、う、その、違うんです! 林檎もだけど、わたし的にも似てるって話して……!」 「佳いんだ。誰が言い出したなんて犯人捜しをするつもりは毛頭ない」 美しい姉妹の友情を見、落ち着かせるよう微笑んだ。 「この学院の怪異は出遭うと攫われるのが常だが、今のところそんな事態には陥っていないようだし、少し釘を刺しておくだけで――」 「あの……」 「なんだい?」 「ぜんぜん無害というわけではないのです……」 申し訳なさげに指を弄る彼女へ、私の嫌な予感は外さないなと、心の中で大きなため息を吐いたのだ……。 ああ、それなら聞いたよ、と最近よく顔を合わせる友人が言った。 「ウェンディゴ絡みで怪我人が出たって話なら白羽から聞いたな」 「蘇芳君が? 彼女もこの事件を追っているのかい?」 「事件とは穏やかじゃないですね。白い影に驚いて転んで怪我したって話でしょう?」 言い、私へとコーヒーを手渡した。そして、私を指導してくれるアミティエへも。 「ありがとう。その話は私も耳にしたけど、私は襲われかけて怪我をしたのだと聞いたわ」 「そりゃ話を盛ってるんだよ。襲われかけたってのは主観だろ?」 「実際の所、白い影を視て襲われると思い込んで慌てて転んだってのがオチじゃないのか?」 「……確かに怪談話に尾ひれが付くのはよくあることだ」 「そういうこと」 「でもそれだとおかしいわ」 休憩中の我がコーチは琥珀色を睨みながら小首を傾げた。 「何がだよ?」 「だってこの学院の怪異はすべからく“攫う”のでしょう? 足を挫いた獲物がいたのなら格好の的じゃない。何故、逃がしたの?」 「それは……」 「――それはこの事件を、七不思議の一つ、“森を彷徨うウェンディゴ”だとして話しているからだよ」 「はい?」 「前提として怪物の所為だとしている。誰かの悪ふざけだと話していない。少し前のフックマンのようにね」 「…………」 動揺させるつもりはなかったのだが、八重垣君の“窓”から隠したい秘密が覗けた。彼女もまた誰かを庇っているのだ。 「……そうですね。そうでした。確かに、誰かの悪ふざけなら納得だわ」 「だが、悪ふざけとなると疑問が残る」 「何がですか?」 「この寒い中、森の中で誰が来るとも分からないのに驚かそうと待ち構えている馬鹿が居るってことになるからだよ」 八重垣君の率直な意見に私も、考崎君も考え込む。 「……そんな効率の悪いイタズラ、沙沙貴さんたちでもしなさそうね」 「だろ? だからわたしとしては見間違いや弱気の虫から視せているんだと思っていたが――」 「複数の目撃情報からそれも怪しく為った。一件二件だけなら僕も『幽霊の正体見たり枯れ尾花』的な話かと思ったんだけどね」 ――だが、幾つも目撃情報があるなら、白い影とやらは確かに存在しているのだろう。 「ウェンディゴか、愉快犯か」 「浪漫としてはウェンディゴを推したいところだが、ニカイアの会としてはどうするつもりなんです?」 「怪我人が出ているとの話は耳に入れてなかったからね。遅い時間の森への立ち入りは控えるようにする、というのが落としどころだった」 「が、実害が出た今となっては、ですか?」 「僕から会に注進するつもりはないが……合唱会に水を差されたくない。後顧の憂いは絶っておきたいところだね」 言い、今更ながらだが1年生からウェンディゴの話が出たということは、と彼女の顔が浮かんだ。 「今回の件、バスキア教諭は何と言っているんだい?」 「特には。暗くなってから森に近寄らないようには言ってましたけどね」 (何だ……?) 寄宿舎のシェイプシフターと事件の様相は違うとはいっても、素っ気のない態度が気に掛かった。 「……書痴仲間も気にしていたようだしな」 「今、何か言った?」 「何も。どうです八代先輩、いっちょウェンディゴ退治といきますか」 「沙沙貴君たちからも誘われたよ。ウェンディゴの森の探索をね」 アイツ等らしいな、と八重垣君は猫の笑みを浮かべた。 (さて、どう動くとするか) 「八代先輩、愉しそうですね」 合唱会を前にして嫌な予感が当たった事に知らずシニカルな笑みを浮かべてしまっていたのだ……。 「ウェンディゴの捜索か」 口に出してみると腹の底から小さな笑いの渦が込み上げてくる。 “森を彷徨うウェンディゴ” 化け物を本気で探しに行くなんて、一体どれだけの人がやることだろうか? (赤飯を炊かれた女がすることじゃないよな) 自嘲気味に笑う私へ、 「譲葉先輩! 遅いですよ! 早く行かないと暗くなってしまいます!」 温かな指が私の手を握り、 「ですです」 もう片方の手も握られた。 「……君たちは迎えてないかもしれないから、ロマンを追う資格があるのかもね」 何です、と沙沙貴姉妹が興味深そうな瞳で見上げた。 「……失礼なモノの考え方をしたな。非礼を詫びるよ」 「え、は、はぁ……?」 手を繋いだまま困惑する彼女らの顔を眺めながら、今朝方の出来事を思い返していた。 安息日の今日、二度寝を愉しむ私の部屋に訪れた無粋なノックの音。 夢を途中で切り上げさせられた私は、気怠い身体を抱え、ドアを開けると―― “さぁ! 七不思議の探索に行きましょう!” バスケットを抱えた沙沙貴姉妹が満面の笑みで私へと微笑みかけていたのだ。 「……まぁ、合唱会前に後顧の憂いを絶っておこうと思っていたしな」 「こ〜こ?」 「誘って貰って佳かったってことさ。自分一人だと尻が重たくてフォークリフトでもなければ動かせないところだった」 「わたしたちがフォークリフトですか?」 「そういうこと。悩んではいたんだけどね」 「ふふ、今日はわたしが作ったお弁当を食べて貰いますよ!」 「探索じゃなくて、ハイキングがてらかい? 遊びに行くノリなのかな」 「せっかくなら愉しいことはたくさん詰め込んだ方がいいですからね!」 握っている手に力が込められた。率直な気質に微笑ましくなる。 「せっかくの安息日を部屋でダラダラしていても無為な休日だったろうしね。気持ちを切り替えていこうか」 「そうですよ。さすがにもう栗拾いは出来ませんけど、色々観て――」 「……うさぎさんだ」 林檎君の手が私の手を強く握った。釣られ彼女の視線を追う。 「何処に……」 茂みが揺れる音がし、私の、苺君の目は暖色と暗色の多い森の中、場違いな白を見付けた。 「あれって……もしかして夏に逃がしちゃったウサギさん!?」 「ぁ……!」 声に驚いた白ウサギは弾けるように後ずさりし森の奥へ。 「わたしが大きな声を出したから……」 「いやいや今のはわたし的な所為だよ。ああ、うまくいけばモフれたのかもしれないのに……!」 「野生動物だから手懐けるのは中々難しいと思うよ。姿が見られただけでも運がいい」 「さい先佳いってことですかね! 話ではこの森ってたくさん動物さんがいるって聞いてましたけど」 「キツネやタヌキ、ニホンジカなども生息しているそうだよ。僕は森に行くことが少ないから見たことはないけどね」 「そんなに多くの種類の動物が……」 「おおっ! 餌付けとかしたい!」 「大きなイノシシも見られるそうだ」 「やっぱりいいです……」 萎れる苺君を見、仰け反って笑ってしまう。初め怒っている風を見せたが、苺君も、林檎君も嬉しそうに手を握りかえしてくれた。 「それじゃ早く行きますですよ」 「お昼を食べに!」 ――物見遊山だな、と思った私の感想は、 「どうぞ! わたし的な自信作です!」 白い影を見たと言われる場所に着いて早々、広げられたお弁当が物語ってくれた。 「まずウェンディゴを探すんじゃないのかい?」 「探すのが遅くなってもウェンディゴは逃げたりしません。でも、お昼時は刻一刻と過ぎ去っていきます!」 確かに出発が遅かった所為か、お昼をだいぶ過ぎてしまっただろう時刻だ。だが、 「わたしとしても用意したデザートが入っているんです……」 姉のバスケットに便乗して貰ったらしい林檎君お手製のデザートもあると聞き私は―― 「僕が欲しいものはその鞄の中に何でも入っているみたいだ」 「“メリー・ポピンズ”みたいでしょ!」 今やだいぶん古い映画も網羅しているらしい。 (ま、逃げないってのは道理だな……) 実際のところ昼を抜いて出発した所為で、腹の虫も抗議の声を上げている。 広げられたお弁当の鮮やかな色彩と香りが、少しくらいの休憩は必要だとせかしていた。 「それじゃ頂こうかな」 はい、と唱和される声。私は、いつものように、 「父よ、あなたの慈しみに感謝して、この食事をいただきます」 「ここに用意された物を祝福し、私達の心と体を支える糧としてください。私達の主イエス・キリストによって。アーメン」 そう祈ったのだ。 「外でもしっかりお祈りするなんて、何だか基督教の信者みたいですね!」 「しっかり洗礼も受けた教徒だよ、僕は」 そうでしたっけ、と驚く彼女ら。確かに、私自身、自分が信者なことに違和感を覚えないではないが。 「さて、それではどれから頂こうかな……」 「はい!」 すかさず渡されるサンドウィッチ。勧められ素直に手に取り頬張る。この……臭い、食感はツナだ。 「む……」 「美味しいですか!?」 「んっ……むっ、ああ。僕の好きな具材をよく知っていたね」 「最近、八重垣ちゃんと仲いいですよねっ。だから八重垣ちゃんから教えて貰ったんです!」 「そうか……」 唯一、サンドウィッチの中で苦手な具材がツナだ。臭いといい妙な食感といい苦手とするもの。 「……八重垣君の前で告白したのは間違いだったか」 「どうしたんです?」 「いや、こっちの具材は何だい?」 「BLTサンドです」 暗がりの中ただ一つの光明を見付けた気分だ。手を伸ばすと、 「それはわたし的に食べようと作ってきたものですよ?」 「ツナサンドも美味しかったからね。色々な味を試してみたいんだよ。ダメかい?」 いえいえどうぞ! と差し出され食す。これほど引き立つ食べ合わせもあるまい。 「林檎君が作ってきたものは何かな?」 「プリンと、その……ドーナツです」 「そいつは美味しそうだ。量もたっぷりある。こちらも頂くとしよう」 気付かれぬようにツナを苺君の方へと寄せ、BLTサンドの最後の一口を頬張るとドーナツへ手を伸ばした。 「ぁ、それは食後のデザートですよ」 「ん……む……。僕は美味しいものはいちどきに食べたいタイプなんだよ」 言い、シュガーパウダーをふんだんに振ってあるドーナツを一口囓ったのだ。 寝転がり見上げる空は、いまだ鱗雲が頑張っている秋空だ。夏ほど遠く高くもなく。冬ほど透き通ってもいない、穏やかな秋空が私は好きだ。 「食べて直ぐ寝るのはよくないですよ」 「食休みだよ。君たちもどうだい」 心地よさからか、つい出てしまった言葉。だが、 腕に温かさと心地好い重さを感じた。 「……林檎君」 「譲葉先輩から誘われたんじゃ乗らないわけにはいかないよね、林檎」 「……はい」 瞳を閉じ気持ちよさそうに顔を天に向けている彼女を見て、安息日だものな、と独りごちる。 「行儀の悪い真似だが、今日くらいは主もお見逃しに為られるだろう」 「安息日だものね」 「ふふっ」 「どうしたんです?」 「いや、君たちと知り合えて本当に佳かったと思っているよ」 「え、いやぁ……そう言って頂けると嬉しいですなぁ」 「……わたしとしてもです」 「あ、わたし的にもですよ」 誰の心にも添うことができる。それが彼女らの美点。 「お腹が一杯になって眠くなってきたな……」 「さすがに眠るまでいくと太っちゃいますよ?」 「林檎君のデザートは格別だった。あれだけ甘い物を食べたからね」 「フォークリフトでもないと持ち上がらない」 「ふふっ、そうだね」 「ああっ、わたしの! わたしのサンドウィッチは!?」 「勿論、最高だった」 ――神もお休みだ。欺くことになってもお許しくださるだろう。 「次はプレッツェルが食べたい」 「ラプンツェル?」 「ふふ、八重垣君も美味しそうだけどね。最近映画の中で食べているのを観てね、美味しそうだなって」 「では今度用意することにしますです」 「愉しみにしておくよ」 「譲葉先輩って意外と甘い物とか好きですよね」 「意外か、別に嫌っている風なところを見せた事はないんだけどね」 「多分、コーヒー好きだからだと思いますですよ」 ああ、と得心し頷く。豆をしっかり味わうためにブラック以外は飲んでいないからだ。 「でも、そういえばお茶会の時でもパンケーキ普通に食べていましたもんね」 「甘党と言えるほど好きではないけど、普通の女子と同じ程度には好んでいるよ。だがそうか、ネリーと共にしているから印象がないのかもな」 「確かに。そっちに目が行っちゃいますもんね」 目をつぶりネリーを想う。甘い物なら底なしの親友。 「……基督教徒的には、大食は七つの大罪だな」 「譲葉先輩は将来、ダリア先生みたいにシスターを目指すのですか?」 「ふふ、勘弁してくれ禁欲だぞ。キスも満足にできない」 冗句だと思ったのだろうか、彼女たちの朗笑が両腕から聞こえた。 彼女と――いや、彼女らと向き合っていると一瞬自分を見失ってしまうことに気付いた。 頭の中に強い風が吹いて大切な言葉を失わせるように。 しばし鱗雲を眺めつつ、失った言葉を探していると―― 「眠ってしまったのか……」 「ん……」 「……すぅ……すぅ……」 規則正しい寝息をたてている双子を見て笑んでしまう。 (眠ると太ってしまうと言ってただろうに) 彼女たちでなかったら失笑するところだが、愛らしい彼女らの寝顔を見てはそんな気にも為れない。 確かに午睡を取るなら佳い日よりだ。 私も彼女たちの寝息に誘われ瞳を閉じた。 鼻を、頬にそよぐ風はやや冷たさを帯びている。 風に初冬の匂いを嗅ぎ、私は温かさと冷たさの中、柔らかな眠りへと誘われた……。 (さすがにゆっくりし過ぎたか……) 午睡をとったことで、ウェンディゴ捜索を始めてそれほど時間を掛けていないというのに、日が傾き始めていた。 (最近は日が落ちるのが早くなったとはいえ……) のんびりし過ぎたかとも思う。 ……いや、別の視点で考えてみよう。白い影と言われるウェンディゴの目撃例は日が落ちかける今の時分が一番多いとされる。 今集中して探す、というのもそれほど悪いわけではないのではないだろうか? 「佳かった捜し、か。“ポリアンナ物語”じゃないんだぞ」 ――そろそろ戻ろうか、 そう口にしかけた時、 「ぁ――ッ」 と、不意に思いも掛けないところから頭を殴られたような声を聞き、反射的に彼女の元へと駆け寄った。 「此は……」 「食べ残し、か……」 「鹿さんとかが食べたんですかね!」 愉しげに苺君はそう呼び掛けるも、一目見て私はこの場にそぐわない、と違和感を覚えていた。 (ニンジンにジャガイモ? おかしいぞ、此奴は……) 食い散らかされているニンジンにジャガイモだが、この森に自生していると聞いたことがない。 だとしたら学院の畑を荒らして咥えてきたことになるが……。 (ニカイアの会で、そんな報告は受けていない) 「へぇ、鹿さんってニンジン食べるんですねぇ」 のんびりとした彼女の声音に気を抜かれそうになるが、 「苺君。君は学院の畑が――」 情報通の彼女へ尋ねようとした私は息を呑む。 そういえば、 “そういえば”なんて枕詞をつけなくとも当たり前なのだ。苺君が驚いた声を上げたのなら、彼女が駆け寄ってこない方がおかしい。 ふっと林檎君を探した私の目線の先には、彼女が。 そして沙沙貴林檎君は、強張った顔つきで指をさしていた。夕映えが木漏れ日と為って舞っている木々の合間を。 「? なに急に黙って――」 指がさされた場所、木々の合間を揺らめく、白い影が―― 「う、ウェンディゴ……ッ!?」 苺君のあげた大声が契機となり、 「待て――!」 木々の合間から消え失せたウェンディゴとの競走が始まったのだ。 どれほど走っただろうか、 「クソ……ッ!」 「八代先輩!」 「先輩!」 学院へと通じる道まで出たところで、完全に見失ってしまった事実に立ち止まって辺りを〈睥睨〉《へいげい》した。 「はぁはぁはぁ……! せ、先輩、ウェンディゴは!?」 「ハァハァ……見失ってしまった。情けない……」 「はぁ……はぁ……八代先輩よりも足が速いなんて本物の怪異かも……」 「いや、言い訳だがこいつが足に絡みついたお陰で取り逃してしまったんだ」 「……これって、袋?」 そう、ズダ袋に足を取られ視線を切った瞬間、まるで煙のように消えてしまった。 「七不思議の怪異は攫うと聞いています。このズダ袋は攫った生徒を入れる為の……」 「や、やめてよ……!」 二人のやり取りを耳にしながら、私は薄暗くなりつつある森へと視線を投げかけた。 (まさか、な……) 私の想像を嘲笑うように、ようやく姿を現しつつある月が静かな森を照らしていた……。 幽霊退治を頼んだのは―― 「どうしました。八代先輩」 八重垣君たちだった。 週末の安息日、お昼を取ったら直ぐウェンディゴの待つ森へ出発しようと、寄宿舎を後にしたのだが……。 「どうしたもこうしたもないって八代先輩は仰っているのよ。顔を見たら分かるでしょう」 「おっ、相手の顔色が分かるようになったなんて進歩じゃないか」 「…………」 「……すまん」 「八重垣君……」 「分かっています。言いたいことは重々承知なんです。でも――」 「あら、もう剪定の方は終わったのかしら?」 朗らかな悪意の全くない声音に――腹の中に如何ともしがたい感情が渦巻く。 「あ、いや、もうちょっとですかね。バスキア教諭の方は終わりましたか?」 そう、 「木々の方は皆に任せて私の方はバラの剪定に集中できたので、今日やろうと思っていたところはもう少しですね」 簡潔にいうと私たちはバスキア教諭に捕まってしまったのだ。 昼食を取り終え―― いざ出発という折に―― 「困ったわぁ」 寄宿舎の前で、大きなハサミを手にしたバスキア教諭を目にして……私は嫌な予感がしたし、それは八重垣君らもだろう。 「…………」 考崎君は露骨に目をそらし、私も声を掛けようかどうか躊躇した。だが、 「何かお困りなんですか、バスキア教諭?」 「まぁ八重垣さん……! そうなの、今日、たま――方喰寮長と温室で剪定をしようと約束をしていたのだけど……」 「方喰寮長に用事が入った?」 「ええ。バラの剪定は一人でもできるけれど、木々の剪定は……」 この時、薄い胸を叩く八重垣君に考崎君が口を開きかけた。今となっては“やめておけ”と言おうとしたのだと分かる。 だが、その時は―― 「だったら、その木々の剪定はわたしたちに任せてください」 「え?」 ――八重垣君がバスキア教諭へ何かしらの親愛の情を持っていたのを知らなかった私は出遅れたのだ。 「バスキア教諭には世話に為っているんです。こういう時が恩を返す時ですよ。なぁ千鳥? 八代先輩?」 「ぅ、ぅん……」 「まぁ本当にいいの!? 皆さん何処かへお出かけだったのではないのですか?」 「ええ、そう――」 「野暮用はありましたが、ちょっとしたお手伝いをするくらいの時間はありますよ。ねぇ八代先輩」 猫の笑みを向け、私へ要求していたのだ。そして固まる私たちへ、車椅子を繰ると、 「……勝手に決めて悪いと思ってます。ですが助けてください」 「……何で自ら進んで火の粉を浴びに行くんだ」 「……バスキア教諭には恩がある。困らせたくない」 「……本当にダリア先生には甘いんだから」 考崎君の呟きに佳く見なければ分からない程頬を染めた八重垣君を見て、私はこの時点でようやく得心したのだ。 「……お願いします。この恩はいつか返しますから」 「……はぁ……分かったわ……」 かくして、 「二人とも快くオーケーしてくれましたよ!」 ウェンディゴ退治の前に、温室の枝退治と為ってしまったのである。 八重垣君の珍しい、申し訳のなさそうな表情を汲み、 「しかし……秋に剪定とは、こういうのは春にやるものじゃないですか?」 剪定を続けながらそう尋ねた。 「サツキやツバキなどの常緑広葉樹は春が適しているけど、今刈って貰っているハナミズキやヤマボウシなどの落葉広葉樹は秋が適してるのよ」 「それはどうしてです?」 「理由は単純。落葉樹はこの時期なら葉がなくて枝ぶりも分かりやすいでしょう?」 それは確かに道理だ。 「それに芽の状態も確認しやすいから、花芽と葉芽を見分けて剪定し易いのよ」 なるほどと頷く。枝を切るのにもそれぞれ時期があるのだ。 (代替わりの時期とか、ね) 「バスキア教諭はガーデニングに詳しいですね」 「下手の横好きよぉ。方喰寮長の方が詳しいから尋ねてみるといいわ」 朗らかに答えるバスキア教諭へ、八重垣君も朗笑で応えた。 「……しかし驚いたな。八重垣君は、蘇芳君や君以外とは打ち解けていないと思っていたんだけどね」 「……えりかが言ってましたけど、恩知らずには為りたくないですって」 (そういえば、考崎君の前はバスキア教諭が八重垣君の介助をしていたのだったか……) なら言葉の意味も分からなくはない。 「……それだけじゃないようですけど」 「……なんだって?」 「おい、口だけじゃなく手も動かせよ。いつまで経っても終わらないぞ」 「…………」 考崎君のワイヤーの先端のような目を前にして、バスキア教諭を背にした八重垣君は、声は出さず口だけ動かし“すまない”と告げる。 「……仕方ないわねぇ」 (蹴りを入れられたくなかったら黙れ、くらいは言い返しそうだと思ったんだが……) 八重垣君のバスキア教諭よろしく、彼女も八重垣君に相当甘いらしい。 「ま、付き合っているのだものな」 言い、冬も間近だというのに当てられた私は、一本だけ伸びた枝を見付けるとため息の代わりにハサミを入れたのだ。 ――随分遅くなってしまったわ、 木々の合間から茜色がこぼれ射しているのを見、そうだねと呟いた。 「そうかな。こういう風には考えられないか?」 「一応言ってみて」 「森を彷徨うウェンディゴの目撃例では、昼日中視たっていうのは少ない。大体が今のような夕間暮れだ。だから――」 「…………」 「お前が言うなってことだよな、ごめん」 素直に頭を下げる八重垣君。 それもそのはず、剪定が終わりようやく出発と為った折、“ちょうどおやつの時間ね。御一緒できないかしら” そう告げたバスキア教諭の申し出を、“断るわけないじゃないですか”と八重垣君は安請け合いしたのだ。 お陰でくだんの現場到着が随分と遅れてしまった。 「やっぱりアルバカーキで左に曲がっときゃ良かったんだ」 「はい?」 「とあるウサギが主人公のアニメでの定番の口癖だよ。地下経由で旅行に出ると、大抵アルバカーキで道を間違えちまう」 「まぁ、彼のように道を間違えてなかったんだから、佳しとしようじゃないか考崎君」 「心の広い先輩で佳かったわね。感謝しなさい」 「もちろん、もちろん」 「二回続けて言うのはね、本心で思ってない証拠なのよ」 気の合わない猫のようにいがみ合う二人を横目に、木々の幹や根元などを注視する。 「……さすがに幹に爪でマーキングしてるってことはないか」 「幹に爪痕があったら間違いなく回れ右ですよ。ウサギよろしく左の出番なんてない」 「どういうこと?」 「幹に爪痕は、熊が此処を縄張りにしているっていう証なんだよ。爪痕に背をこすりつけて臭い付けするのさ」 「その爪痕とこすりつけた臭いで縄張りにきた他の熊は大きさまで分かるそうだぜ」 「二人ともどこでそう言う事を覚えるの?」 呆れた声音に笑いながら、木々の合間を注視しつつ、 「僕の場合は父だな」 と答えた。 「お父さん、ですか?」 「忙しい人ではあったが、誕生日プレゼントは欠かしたことがなかった。誕生日にキャンプ旅行へ連れて行ってくれたよ」 そこで“森”についての作法を教えて貰ったと続けた。 「……普通、誕生日プレゼントって何か品物じゃないですか? アクセサリーとかぬいぐるみとか」 「そうか? わたしも10歳の誕生日に野球を観に連れて行ってくれたよ。それから野球が――」 「……へぇ」 途切れた言葉にどうした、と問い返すも答えがない。どうやら触れられたくない話題のようだ。 「――と、なかなか面白いものを見付けたな」 「ウェンディゴの牙でもありましたか?」 「いや、食べ残しさ」 「これって野菜……? ウェンディゴってお野菜が主食なのかしら」 「そんなわけないだろうが、お前とは違うんだよ。順当に考えればこの森に住む動物たちが食い散らかしたんだろうよ」 木の根元にはジャガイモやニンジンの欠片が散乱し、食い散らかされている。 「学院周辺の森にはさまざまな動物が生息している。キツネやタヌキ、ニホンジカなども生息しているそうだよ」 「熊、とかもですか?」 「さすがに熊が生息していたら森自体の立ち入りを禁じているよ。危険生物でいえばイノシシなんかは出るそうだね」 「イノシシ!」 話しながら私は何と無しの違和感を覚えていた。 食い散らかされている野菜だが、ニンジン、ジャガイモ……どれもこの森に自生しているとは聞いていない。 なら学院の畑を荒らして持ってきたとなるが……。 (荒らされているならニカイアの会で報告がある筈だ) だが、そんな報告は受けていない。なら、 私が熟考していると、ふと八重垣君の姿が視界に入ってきた。 その時はただ“目に入っただけ”と思っていたが、気になったのには必ず理由があるのだ。父の教えの一つ。 少しでも腹の内側が掻かれたのなら、原因を追及しなければ為らない。 「……八重垣君?」 彼女にしては珍しく、まるで猫のように目をまん丸くさせ一点を凝視している。 だからこそ、彼女が目に留まったのだ。 私は釣られるように、八重垣君の視線を追い―― 「うん? えりか何を視て――」 考崎君も私と同じモノを見付けたのだろう。木々の合間、夕映えが光を射す間を、白い影が―― 「う、ウェンディゴ!?」 彼女のあげた大声が契機となり、 「ッ――!」 まるで消失したかのように姿を消したウェンディゴとの競走が始まったのだ。 “やっぱりアルバカーキで左に曲がっときゃ良かったんだ” そう愚痴りたくなりそうな気分を抱え、整備された長く長く続く道を睨んだ。 (追い詰めたかと思ったが……!) 整備された道に出た瞬間姿が拝めるかと思ったが、私よりも遠く先を行っていたらしい。 「先輩!」 「や、八代先輩……!」 道を睥睨し、辺りを窺っているとようやく追いついた後輩の声を聞き、視線を切った。 「先輩、ウェンディゴは?」 「すまない。逃げられてしまったよ」 「はぁはぁ……あんなに足の速い八代先輩から逃げ切るなんて……はぁぁぁ」 車椅子の八重垣君を気にしながらできるだけ急いで来たのだろう息も絶え絶えの考崎君はそう言い、胸に手を当てた。 「僕も後もう少しというところまでは追い詰めたんだけどね……」 「毒液でも吐いてきましたか?」 「毒は吐かないが、こいつに足を取られて転びそうになったんだよ」 言い、転びそうになり視線を切ってしまった結果、逃がしてしまう事となった汚れたズダ袋を見せた。 「ズダ袋? おいおい、この学院の七不思議は攫うって聞いているが……」 「はぁはぁ……袋に生徒を詰めようとしていたってわけ?」 不吉な言葉に刹那、森が〈戦〉《おのの》いたような気がした。 (冗談じゃないぞ……) 私の想像を嘲笑うように、暗くなりつつある森が一つ体を揺らしたように見えた……。 森を彷徨うウェンディゴの探索から数日―― 「まいったな……」 ニカイアの会の日誌に目を通しながら呟く。 ――人の口に戸は立てられない、とのことわざ通り、私たちがウェンディゴと遭遇したという話は学院内へと漏れ伝わっていた。 連れだって向かった時点で人の口に上がるのは致し方ないと思う。 同行者の誰が漏らしたなど詮議するつもりはない。だが、 (……まさか幽霊譚ではなく“不審者”との噂話に変わってしまうとはね) 白い影までは今までのウェンディゴ譚と相違なかったが、 私が拾ったズダ袋が“幽霊”というロマンを駆逐し、“不審者”という生々しい現実を引き出してしまったのだ。 (まぁ、幽霊が袋持参でウロつくのもおかしな話だしな……) 白い袋を持ってうろつくのはサンタクロースだが、ミッションスクールとしては聖人とされているものを不審者とはしたくなかったのだろう。 (確かに学院周辺に不審者がうろついているのは由々しき問題だ。だが、もっと問題なのは――) 目が滑り文字がまったく頭に入ってないことに気付き、日誌を放り投げた。 寄宿舎のシェイプシフターと同じく面倒な事になってしまった。 「……合唱会の一時延期か」 決定事項ではない。 今現在は生徒らが噂話をしている程度だが、以前寄宿舎のシェイプシフター事件の折、 ハロウィンパーティを中止したらどうでしょうかとバスキア教諭は進言してきた。ならば今度もと思うのが当たり前だろう。 「……ネリーとの合唱を邪魔させるものか」 事件を早期に解決させる決心を呟くと、持参してきた昼食のホットドッグに齧り付いた。 事件解決の足しになるかと思って足を伸ばしてみたが―― 「二人で密会かい?」 「八代先輩……!」 「ごきげんよう」 変わらぬ図書室の妖精と、何故だか必要以上に驚き身を竦ませた花菱君、両人を見遣った。 「なんだい、もしかして本当に密会かい? ここは公の場だ。弁えてくれたまえよ」 「ち、違いますよ! 少し調べ物をしていて……」 「調べ物? 一体、何の――」 首を伸ばすも花菱君に身体で防がれテーブルの上に無造作に置かれている書物を確認することができない。 数十冊とはいわないまでも、何かを熱心に調べていたとわかる冊数だ。 「花菱君。別に恥ずかしがることはないんだよ」 「はい?」 「僕たちくらいの年頃の娘が興味を持ったとしたって何ら恥ずかしくないんだ。だから性の不思議についての本を見せてごらん」 「ち・が・い・ま・す!」 此は――と勢いタイトルを口にしそうに為った。が、 「…………」 黙したまま語らずの蘇芳君を横目にしたのか、気勢は削がれ頬を染めただけで終わってしまった。 沈黙を守ったままの図書室の妖精。 「――まぁ確かにタダで対価を得ようというのはフェアじゃない。一つ条件を出そう」 「条件?」 「ああ。花菱君たちが調べていたものを教える代わりに、僕も抱えている秘密を教えようじゃないか。それでどうだい?」 「秘密……」 喉から手が出る程、私の持っている情報を欲している彼女からすれば垂涎の条件だ。 「……うむ。そうだな、フェアに名字があいうえお順から真実を吐露していくことにしよう」 「あいうえお? うん? あ!? 卑怯ですよ、八代先輩っ!」 呵呵と笑う私へ冗談だと分かったのか蘇芳君もぎこちない笑みを見せた。そして、 「クラスの中で噂に為っているウェンディゴのことを少し調べていたんです」 と、本の表題が私に見えるように掲げ、告げた。 「これは……精神病理について書かれた本だね?」 「はい。精霊としてのウェンディゴを調べていく過程で、“ウェンディゴ憑き”という精神疾患を見付けたんです」 その頁を開き、私へと手渡す。そしてその記述がされている箇所を指さし、 「この精神疾患は特定の文化依存型の精神病で、発症のメカニズムは不明のようです」 「ただ、冬場の発症率が高く、気候によるストレスや、食材の偏りから来る栄養不足などが原因ではないかと考えられています」 「へぇ、どういった症状が現れるんだい?」 「初めは気分の落ち込みと食欲の低下が見られるそうです。次に、ウェンディゴにとり憑かれたという思いが頭を占めるようになり――」 「ウェンディゴに変貌してしまうという強い恐怖と不安感とともに、次第に周りの人間が食べ物に見える様になり、そして――」 「言わなくていい、解った」 随分と剣呑な内容のようだ。調べて既に知っている筈の花菱君が隣で青くなっているのが見てとれた。 「それにしても何故、ウェンディゴを? もしかして怪我をしたという生徒は君の――」 「いえ、そういう訳ではなく、その……」 頬を染め、隣に佇む花菱君を顧みた。 「立花さんが合唱会が中止になってしまうかもしれないって、それで……」 「――そうか。花菱君、君は素晴らしいアミティエを持ったね」 「はい!」 「り、立花さん……」 手を握られ頬を染め恥じらう姿に、笑みを浮かべてしまう。友人の為。私もそう言い切れればどんなにか佳いだろう。 「それで――蘇芳君は犯人に目星はつけているのかい?」 私の言葉に何故だかとても複雑な表情をした彼女は、長い逡巡の後、おそらくは――と言った。 「え、え? 犯人が分かっているって本当なの?」 「もしかしたら彼女と同じように病から起こしたことなのかもと調べてみたのですが……」 「その様子では空振りだった」 「……八代先輩。ウェンディゴが落としたという袋は御自分で預かっているのですよね?」 「ああ、証拠品として残しているよ」 「ならその袋をもう一度佳く調べてください」 «よい人とは、悪くない人のことである。したがって、よい人であるには、悪いことをしてはならない» 図書室の妖精が告げた謎かけのような言葉を考えると、“オズの魔法使い”の台詞が思い浮かんだ。 もしかして、 私も蘇芳君と同じ犯人を―― 「譲葉」 ふいに声を掛けられ、 「ネリーか……」 自分が学院前まで歩き着いたことに気がついたのだ。 「もう、先に行っちゃうなんて。待っててって言ったのに」 「ああ、そうだったね。すまない」 謝るも、約束なんてした覚えがない。私は、縛っている後ろ髪を撫で、小さく息を吐いた。 (まるで魔女の謎かけに悩む勇者のようだな) 「ねぇ譲葉。今、悩んでいることって七不思議のこと?」 「さて、どうだろうね」 「きちんと答えて。私になら話せるでしょう?」 「……何も心配することなんてないんだよネリー。僕たちの合唱会にケチは付けさせない」 「私は――」 「あら、珍しいところで会いますね」 背なに呼び掛けられた声音は、 「今まで合唱の練習をしていたのですか?」 「え、ええ。そうです」 「遅くまで偉いわぁ。合唱会、愉しみにしてますねぇ」 飽くまで朗らかに続ける彼女へ、私は疑問符が浮かぶ。 寄宿舎のシェイプシフターの時とは随分態度が違うじゃないか、と。 「バスキア教諭。一つ質問があるのですが」 「伺いましょう」 「七不思議の一つ、森を彷徨うウェンディゴの件ですが、教諭方の耳には入っているのですよね?」 「譲葉……!」 虎の尾を踏む話題に親友は眉根を寄せ、暗に私を批難した。確かに上策ではないが確認しなければ為らない。 「ええ。学院の森に不審者が現れたという話は聞いています」 「それに驚き怪我をした生徒がいることも?」 バスキア教諭は私の言葉に刹那息を呑んだ後、ええと神妙に頷いた。 「諸般の事情を考えれば、合唱会は中止。延期でもやむなしだと思うのですが」 「中止だなんて……!」 バスキア教諭は視線を外し、夕映えに染まる校舎を眺め、そして改めて私の瞳を凝っと見詰めた。 (苦手な目だ) 私と同じように目という“窓”から部屋の中を覗かれているような心持ちに為る。 「合唱会の中止はあり得ません」 「え……」 「不審者の話は看過できる話ではありません。ですから教諭、学院に従事するスタッフ皆で見回りを強化することにしました」 「……ニカイアの会の頭は素通りですか?」 「こと不審者に生徒は近づかせません。この件は私たち教諭でしっかり対処をするので、合唱会では憂いなく存分に力を奮ってください」 そう、バスキア教諭は告げたのだ。 「はい! 佳かったわね、譲葉」 朗笑をこぼし私の手を取る親友へ微笑み返す。だが、 (どうにもオズの魔法使いの言葉が浮かびやがる) 胸につかえている疑問符を抱えたまま、私は、ありがとう御座いますとシスターへ頭を下げたのだ。 「さて、魔女……いや図書室の妖精のお申し付けだったな」 ベッドに寝転びながら、ウェンディゴが落としたズダ袋を眺めた。 何と言うことはない。ただの汚れたズダ袋だ。 (既製品ではないようだが……) 袋を返す返す見る。注視し、精査するもただの袋だ。血がべったりと付いていたり、メッセージがかき込まれていたりはしていない。 「――だが、蘇芳君は無駄な注進はしない」 私はあの後輩を“かっている”のだ。意味のないことを言う筈がない。袋を片手で持ち、頭を働かせようとヒラヒラと振っていると、 「わ……っぷ」 袋から少量の土とカスがパラパラと落ち顔の上に降った。反射的に目を瞑らなければゴミが入っていたかもしれない。 「何だってんだ……」 ベッドのシーツに落ちていたカスを拾う。と、 「これは……葉っぱ、か?」 小さく判別し難いが、私の顔を襲ったのは、土と野菜の切れ端のようだった。 茎の破片や、皮の破片、そして葉の破片を見、これらは野菜のものだと結論づけた。 「……ウェンディゴが野菜泥棒?」 つい攻撃的なシニカルな笑みを浮かべてしまう。だが、 「いや、今となってはウェンディゴはロマンを失い不審者だ。野菜泥棒ならズダ袋を持っていた理由が付く」 呟く。だが、 “ならその袋をもう一度佳く調べてください” 私はまだ十分に調べていない。 ズダ袋を開き、中身を検める。 ……以前、見たものと同じ土の付いた汚い内側だ。 「土が付いていて正解なんだよな。野菜を盗んでいたんだから……」 やや潔癖症なところがある私は、抵抗はあるがズダ袋の内側を、手を使い検分してみた。 最初あらためた時は見逃していたが、土に紛れて野菜の破片が見られた。全てゴミだと判断していた私の見落とし。 私は後輩の言葉に導かれるように、内側に付いた汚れに触れ、何か見落としがないか探していく。と、 「これは……」 おそらく水気を帯びた土が袋にこびり付いたものだろう。それが落ちた部分に―― 「血……か?」 泥や土の“黒”とは違う、明らかな黒い沁みを見付けた。 黒い沁みを何度か指で撫でると――不揃いだったピースが音を立ててパズルを組み立てていった。 「……ああ。なるほど、そういうことか」 図書室の妖精が与えてくれた謎かけで、全てのピースが揃った。 それではこの、森を彷徨うウェンディゴの事件の起こりをしっかりと定義することにしよう。 この事件は人の起こしたものだと判断した。おそらく“七不思議”はたまたま起こした“行動”が嵌まってしまったことだと……。 問題はこの犯人だが、これまでの情報を咀嚼し、吟味すればその姿が見えてくるはず。 最初に図書室の妖精が指摘し、私が見付けたピース。その答えは、2つある。 «1つ目のピース» ズダ袋が白であること ズダ袋が人の入る大きさであること ズダ袋に残された沁み ズダ袋に残された野菜のくず «2つ目のピース» ズダ袋に残された野菜のくず ズダ袋が人の入る大きさであること ズダ袋に残された沁み «2つ目のピース» ズダ袋に残された野菜のくず ズダ袋が白であること ズダ袋に残された沁み «2つ目のピース» ズダ袋に残された野菜のくず ズダ袋が白であること ズダ袋が人の入る大きさであること «2つ目のピース» ズダ袋が白であること ズダ袋が人の入る大きさであること ズダ袋に残された沁み それと――以前に八重垣君たちの部屋で起こったある出来事と、私が臥せっていた間に学院内で起きたあることが関係している。 そして現場に残された食べ残しの野菜。これらは無関係のようでいてある行為に結びついている。 «その行為とは一体?» 再利用 いたずら 隠蔽工作 そうだ。これまでに何度か噂や実際に目にしているはず。何気ないことなので云われないと気づきにくい行為だ。 そして最後に気になるのはバスキア教諭の言った言葉。 「合唱会の中止はあり得ません」と言い切ったあの発言。あの発言から読み取れる真意は? «中止にならない合唱会» 真実を知っている バスキア教諭が犯人である 犯人から脅されている 結論づけた答えに、何となしに胸の内が小さく引っ掻かれたような気分に為った。 間違い探しの問題で、8つ見付けるところを9つ見付けてしまった時のように。 「……だが、今更やめるってわけにもいかない」 “かっている”後輩からの忠告を得た上での判断なのだ。 私はベッドから起き上がると“彼女”の元へ向かった……。 組み立てた推論が正しいかもう一度精査する。 いや、出た結論はあまりにも単純だ。だが、きちんとしたピースがないと辿り着けない答え。 今までの私は揃っていないピースを渡されてパズルを作っているようなものだった。 その状態で完成させられるのは蘇芳君くらいのものだろう。私も八重垣君と同じ、きちんと揃えた材料からしか答えを導き出せない。 「さて、シェイプシフターの時と同じだ」 先ずは言質を取りに行かなくては為らない。そして次は―― どう事件を収めようか、と天井を眺め、私は彼女を思った……。 深夜の寄宿舎のロビーはシンと静まり返り、水槽を泳ぐ熱帯魚と私しかこの世にいないような錯覚を覚えた。 あまりの静けさに耳は途切れることのない高音を響かせていた。気に障る程の音量ではない。だが一度意識し出すと煩わしくなる耳鳴り。 (きっと八重垣君ならそのままにしたのだろう) 沙沙貴姉妹から、ネリーから聞いた八重垣君の活躍。おそらく彼女は自分の都合の佳いように事件を改編し作り替えている。 だが、 「……蘇芳君はそれで佳しとしている」 真実を明かす彼女が呑んでいるのなら、きっとそれは自己保身の為でない、優しい嘘なのだろう。 自分も八重垣君のように振る舞った方が佳かっただろうか? “彼女”を呼び出しておいて今更ながらそう思う。 しかし―― (ネリー……) 親友の顔が思い浮かび、次いで父、母の顔を思い浮かべた。 何故なのだろうか、そう考えようとした刹那―― 「……足音を消すのが得意なんですね」 アクアリウムに影が差したのを見、私は緩慢に振り返る。 振り返る私の目に、 薔薇のような肌が、 鮮黄色の髪が、 そして白いローブを着た彼女は私を悲しそうな瞳で見つめていたのだ。 「こんな夜更けにお呼び出ししてしまい申し訳ありません。シスター」 「いえ。何か重要な話があるのですね?」 どこか怯えているかのように見える。そうだ、私は彼女の秘密を握っているのだから。 「ええ。とても重要な案件です。バスキア教諭は承知していますよね」 「…………」 瞳が後悔に滲む。だがそちらじゃない。見逃してもいい部類の話だ。 「――森を彷徨うウェンディゴの正体が解りました」 「それは……不審者よね」 「いいえ。バスキア教諭も御存じでしょう」 「え?」 「ウェンディゴの正体ですよ。正体を知っているからこそ貴女は合唱会を中止することはないと断言した」 沈黙が二人の間に横たわる。 〈静閑〉《せいかん》とした部屋には物音などしない。ただあるのは耳に煩い高音だけだ。 「私が……ウェンディゴだと仰るのですか」 その言葉を無視し、私は此処最近、野菜が盗まれているという報告は受けていますか? と尋ねた。 「えっ? いえ、そのような報告は受けていませんが……」 「ニカイアの会の頭を素通りしてそちらに話が通っているかと思っていましたが、それも違う」 「なら、やはり野菜は破損したものや、余りを与えていたようですね」 「与えて……?」 これは言質を抑えてありますが、と前置きをしバスキア教諭の瞳を覗く。カーテンが掛かり見通せない彼女の部屋。 「寮生が数週間前、怪我をした野生動物、タヌキを寄宿舎傍で見付けたんです。彼女たちは手当をし、農場で育てている野菜の余り物を与えた」 「まぁ……」 「世話をし怪我も徐々に回復してきた。しかし完治する前に教職員に見付かってしまったのです」 「…………」 「原則、寮で動物を飼うことは禁止されている。だからその教職員も原則通り動物を森へと帰した」 だが、と付け加える。 「元々優しいあの人は、怪我が完治していない動物を見捨てられなかった。彼女は決まった時間に、森へ餌と薬を届けに行っていたのです」 俯くバスキア教諭へ、私はアクアリウムの傍らに置いておいたズダ袋を手に取り、彼女へと見せた。 「伝え聞く«森を彷徨うウェンディゴ»は“素早い白い影”だ。初めに白い影を視た生徒は、木々の合間からこの白いズダ袋を見たのでしょうね」 「白い袋に野菜を詰めて……」 「ええ。中身を検分しましたが、野菜の欠片がありました。……優しい人だ」 私の言葉に俯いていた顔を上げ、黄金色の瞳を微かに揺らした。 「……そこまで分かっていたのですね。ええ、そう、私が――」 「いや違います。貴女はある人を庇っている」 この期に及んで自己犠牲をしようとする彼女へ、私はウェンディゴの名を告げた。 「森を彷徨うウェンディゴの正体は“方喰寮長”です」 「ぁ、たま……方喰さんは、」 「初めは僕もバスキア教諭が正体なのではないかと思いました。何故なら、野生動物を飼っているのを見付け注意したのは“貴女”だから」 これは言質を取った生徒から既に聞き知っていること。だが、此処からは証拠品からの推理。 「だが、その後世話をしたのは方喰寮長です」 「……何故、そんなことが言い切れるの?」 「此は忙しいバスキア教諭より、方喰寮長の方が自由が取れるからです。学院からより寄宿舎からの方が件の森へ近い」 「そんな――」 「勿論、それだけではない。この袋、何か気付きませんか?」 バスキア教諭は受け取ると、やはり悲しい顔をした。 「そう既製品ではない。これは方喰寮長が作ったものだ」 「何故、そう言い切れるのですか」 「この袋の内側、見てください。黒い沁みがある。これはコーヒーの沁みです」 私の言葉を繰り返すバスキア教諭。 「少し前に八重垣君の部屋に遊びに行った際、不注意からシーツの上にコーヒーを零してしまった」 「処分するよう方喰寮長の元へと持っていきましたが――」 「方喰寮長は捨てるという事が苦手な上、裁縫が得意だ。リサイクルしようと考えるのが自然でしょう。例えば野菜用の収穫袋にするとか」 黒い沁みを凝っと見詰めていたバスキア教諭は、長い逡巡の上、ふっと吐息を零した。 「――やはり八代さんには嘘はつけませんね」 「此はついて佳い嘘です。ただ黙っていたままでは据わりが悪かった」 「…………」 「神のみぞ知る、というのでは協力して貰った手前、収まりがね」 神、との言葉に一瞬背を震わせた。 「皆には――」 「言う必要はありません」 「ぁ、ですが……」 「先ほども言いましたが、此はケジメのようなものなんですよ。合唱会にも支障がないのだし、取り立てて〈大事〉《おおごと》にするつもりはありません」 ただ、と心の裡で付け加える。 (あの唄を――幼い頃ネリーとともに歌った“虹の魔法”を穢されたくなかっただけだ) 「八代さん……」 「方喰寮長にはバスキア教諭からもう餌付けは行わないように伝えてください」 「治療していた期間を考えると、そろそろ完治している頃合いでしょうしね」 「それで……佳いの?」 「ええ。それでウェンディゴの噂は下火になり消えるでしょう。僕は憂いなく合唱会が行えればそれでいい」 真意は伝わったのだろう。私からズダ袋を受け取ったバスキア教諭は、十字を切ると、丁寧なお辞儀をし――去っていった。 「はぁぁぁぁぁぁぁ…………っ」 長い長い吐息を漏らすと、自分が思っている以上に疲労していることに気付いた。 自分と似た性質を持つ相手と対峙したことで、疲弊し、身体が怠く重い。 「八重垣君の言う重い生理のようだな」 罪のない熱帯魚に笑いかけると、私を避けるように泳いだ。 何度引っ越しを繰り返してもアクアリウムを手放さなかった父。 父は、熱帯魚を、水草を眺め何を思っていたのだろうか。 瞳をゆっくりと閉じ、耳に煩い闇に身体を浸した。 耳に聞こえていた高音のノイズは徐々に小さくなり、無音と為る。 この静かな空間に独りだけに為った私は、酷く母に会いたくなった。話す言葉はまるで見付からなかったけれど。 どうしたの、乗れていないみたいね、と彼女は言った。 「そんなことはないさ。僕はいつでもノリに乗っている。サーファーみたいにね」 「その言い方からして乗れていないわ」 確かに、と言葉に出さず呟く。 ネリーは合唱部の皆へ、10分の休憩を告げると私へと向き直った。 そして私の顔を何かの印を探しているかのように凝っと見詰める。 「そんなに熱く見られると、その、何だ、照れるね」 「ねぇ、そんなに自分一人で何もかも背負わなくていいのよ」 「……何のことか分からないね」 「森を彷徨うウェンディゴのこと」 此処最近避けていた話題を口に出され思わず口ごもってしまう。ネリーは私の肩に手を掛け、 「バスキア教諭も、解決しようがしまいが合唱会は開催するのだと約束してくれたわ。だからそれだけでいいじゃない?」 ――よくなんてない。 「……ああ、そうだね」 「でしょう。最近は噂も聞かなくなりつつあるし、気にしないでいいの」 「それよりも、合唱会のことを考えろ。だろ?」 「そういうことよ」 笑みをこぼし休憩している花菱君へと歩む彼女を見、心の裡でもう一度、よくなんてないと呟いた。 (せっかく蘇芳君から得た情報が……) 後輩の期待を裏切ったような気分に為っていたのだ。 私はネリーと同じく、何故だか蘇芳君の前では頼れる先輩でありたい。そう強く思っていた。 「八重垣君風に言うと、ダサイやつには為りたくないってやつだが……」 機会を逸してしまった私は、大きなため息を吐き――磔にされたキリスト像を眺めたのだった。 「次はソプラノ班から始めます。他の班も漫然と休むでなくどう合わせるか耳で稽古をしてください」 はい――と輪唱される声音。 (流石にあのネリーも気合いが入っているな) ウェンディゴ事件を解決し、時は〈怜悧〉《れいり》な高利貸しのように正確にその取り分を奪っていった。 いまや秋というよりも初冬といった方が早い季節を肌に感じていた。 一歩外に出ると、秋の穏やかな空気はなく、冬特有の清冽な冷ややかさは鼻の奥が寒さからツンと痺れるような季節の香りを運んでいた。 「いったん歌を止めてください。若宮さん、少しだけ音程がずれているわ。人に合わせようとせずに自分の声で唄ってみてください」 (ウェンディゴもあれ以来現れていない。合唱会も憂いなく行えそうだ) バスキア教諭へと進言した通り、方喰寮長の餌付けはなくなり――直ぐとはいえないもののウェンディゴの噂は立ち消えた。 白い影を視ることはなくなり、ウェンディゴが出る時刻、夕間暮れに森を探索する物好きも減った。 秋深い頃なら紅葉狩り気分で行けたろうが、冬へと移り変わっていく時分に夕方歩き回る物好きは少なかったのだ。 「……ま、八重垣君たちは詰まらなかったろうがね」 ロマンを求めていた彼女らは何と無しにウェンディゴの正体を気付いたのだろう。ある日を境に口に出すことは無くなった。 それは蘇芳君らもだが……。 (沙沙貴林檎君……) ウェンディゴについて噂話を聞かせてくれた彼女らを思い浮かべ、心が重くなる。 告白を受けたまま保留にしている自分。そして、 「譲葉?」 「ん? 何だいネリー。僕たちの班の番かい?」 アルトを担当している私は訝しげな彼女へ笑いかけるも、 「いえ。少し休憩にしようって」 「そうか……」 「でも、明日の合唱会での二重唱をもう少し詰めておきたいの。休憩の間、練習に付き合ってくれないかしら」 無邪気に微笑むネリー。私は、 (林檎君に向き合うなら、私もネリーへの想いに向き合わなくては為らない) 手を取り朗笑する彼女へ、そう強く思ったのだ。 ――空振りか、 そう呟いた声音は誰もいない図書室内に拡散し消え失せていった。 (ま、後輩に悩みを聞いて貰おうなんて後ろ向きの考え方だが……) それに、と心の中で続ける。 (匂坂君のことで口を閉ざしている私が背を押して貰おうなんて虫のいい話だ) 思っている以上に乙女な自分を笑ってしまう。随分と気弱になっているらしい。 メランコリックを気取れる季節は終わりつつあるというのに。 執務机まで行くと――机の上に花が飾られていた。花瓶にマーガレットの一輪挿しを見付け口の端を歪めてしまう。 「心に秘めた愛、か。出来すぎた花言葉だな」 だが、秘めたまま――今のままではきっと花弁は腐り落ちてしまう。 私は―― ドアを開ける音に驚き、図書室入り口を見遣ると、 私を見付けた彼女は猫の笑みを見せ、 車椅子の推し手を持つ彼女も私を見、小さく手を上げてくれた。 「久しぶりですね八代先輩。最近お見限りだから、わたしたちのことを忘れてしまったのかと思っちまいましたよ」 「ふふ、すまない。明日に控えた合唱会の練習・運営もニカイアの会の長としてしなくては為らなかったからね。身体が二つ欲しいよ」 「ドッペルゲンガーのようにですか……!」 「夕映えの射す雰囲気のある図書室で、妙な興奮の仕方をするんじゃない。ま、」 「用が済んだら鼻紙みたいに丸めてポイ、ってのも、八代先輩らしくてそれはそれでクールですがね」 猫の笑みを浮かべ笑う八重垣君へ、私は後ろ髪を撫でてみせた。 「そこまで義理に廃る人間じゃないよ。多少の心ってヤツはある」 言いながら、刹那、心ないブリキが浮かび笑みが凍り付いた。 「クク、冗談ですよ。浮き世離れしちゃいますが、そんなに悪い人じゃないってのは分かってますよ」 ――どうやら、素の表情は見逃してくれたらしい。 「ありがとう」 「うん? あら……」 「どうしたんだい?」 「本を借りに来たのですけど……図書委員の白羽さんが居ないようですね」 「さっき僕も来たばかりだが、蘇芳君の姿はその時から見えないね。トイレにでも行って席を外しているのじゃないかな」 「そうですか」 「……白羽でもトイレなんて行くんだな」 「えりか? 何か言った?」 「あ、いや、何でもない。さっさと本を見繕っちまおう」 ええ、と頷き外国人作家の棚へ。私は、何とも無しに彼女たちの姿を追うと、 「で、明日の合唱会ですが、ソロのパートは完璧ですか?」 本の背表紙を愉しげに眺めながら八重垣君が言った。 「ソロ……。ああ、最後の曲だね。あれはソロではないよ、僕とネリーの二重唱で行うんだ」 「へぇ、合唱っていうと皆で歌うやつ以外は知らなかったんですが、二人で唄うものなんてのもあるんですね」 「ああ。それにソロなんて怖いことを言わないでくれ。一人で唄うなんて怯えて声も出せない」 じゃれ合うような会話にくぐもった笑い声が図書室に響く。 彼女の部屋で散々練習した曲だ。分かっていて話している。ただのくだらない冗句としてのやり取り。 「“虹の魔法”――懐かしくも美しい曲。えりかが唄うのも聞いてみたいわ」 「ジョン・ライドンなら、ここで“くたばっちまえ”って言うところだぞ」 苦虫を噛み潰したような顔をして告げる。彼女は私の顔を視て、何故だか困ったような戸惑ったような表情を見せた。 「……遅いな」 「月のもの?」 「八代先輩の十八番を奪うんじゃない。白羽だよ。なぁ、千鳥。少し様子を見に行ってやってくれ」 彼女の言葉に、驚くも嫉妬心を顔に浮かべ言う。 「化粧直しをしているだけよ。気の回しすぎだわ」 「あいつはわたしと同じで病弱なんだよ。いいから見てきてくれ、頼む」 小さく、だが頭を下げる八重垣君に戸惑いながらも、分かったわ、と図書室を後にした。 「随分と蘇芳君に対して過保護じゃないか」 「…………」 私のからかいに乗らず、しばし俯きながら頭をガリガリと掻く。目を覗かなくとも分かる、逡巡し言葉を選びあぐねているのだ。 「僕と二人きりに為りたかったんだね」 「……ええ。そうです、千鳥には聞かれたくなかった」 (まさか……) 彼女も蘇芳君と同じく頭が切れる。要注意人物だ。 あのことを話そうとして――? 「――八代先輩」 「何だい……?」 問う私へ、俯き髪を掻く手を止めた彼女は顔を上げる。 と、その頬は、顔は、耳は真っ赤に染まっていた。 「大丈夫、上手く行く」 「え……?」 「明日の合唱会……いや、最後の曲。その……何か想い出の曲なんでしょう? だから絶対に失敗したくない。ですよね?」 「あ、ああ……そうだ。僕とネリーとの想い出の曲さ」 「あれだけ練習したんだ。そんな顔をしなくとも大丈夫ですよ。わたしが太鼓判を押します」 (この子は私のことを気遣って――) 凍り付いた顔を、虹の魔法の名を耳にしたときの私の顔も見ていたのだ。 「……嬉しいよ。八重垣君が励ましてくれるなんて」 「わたしは――わたしは貴女のことが気に入ってるんです。個人的にね」 初めは面倒な先輩だと思いましたが、と猫の笑みで付け加える。ひねくれ者のようで素直な後輩。 「考崎君やバスキア教諭、蘇芳君の次に?」 軽口に付き合うようシニカルな笑みを浮かべ言う。だが、八重垣君の瞳はひたすらに真摯だった。 「――若いだとか年を食っているだとか、女、男の境なくわたしはそれほど多くの相手を気に入るわけじゃない」 「……そうだったね。すまない」 私を力づけよう、鼓舞しようとするのがありありと彼女の瞳から見てとれた。窓から覗く彼女の部屋は暖炉が燃え温かな感情で充ちていた。 «人間は、人生を失敗する権利がある» 「映画、“アメリ”の言葉だね」 言葉だけを捉えれば失敗を望む台詞に聞こえるかもしれない。だが、彼女の真意は其処ではない。 (勝負をしなければ為らない時が必ずある、ということだ) 挑まなければ為らないことが。 「……ありがとう。心は定まったよ」 「そいつは佳かった」 猫の笑みを見せる彼女へ、私は明日、合唱会を終えた後、小御門ネリネへ気持ちを伝えよう。 ともすれば吐き出しそうになる心臓を押さえ、そう心に決めた。 釣れないときは、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい “老人と海”でアーネスト・ヘミングウェイが記した台詞。 その台詞が浮かんだのは暇を持て余していたからではない。むしろ逆だ。 「各学年の合唱も終わり――」 「合唱部の課題曲も歌い終えた」 私は何故だか、本当の事とは真逆のことを思い、言う時がある。そいつは概ね緊張した時だ。 あがって吐きそうな時には、余裕を持った表情で“飲み物を貰えるかな?” 面倒な物事を前にすると笑みを浮かべ、“愉しくなってきやがった”と〈嘯〉《うそぶ》く。 (魚が考える時間を与えてくれるなんて“間”じゃない) 舞台袖から今か今かと私たちを待っている観衆を前に、身体は驚くほど冷え、硬く強張っていた。 ただの緊張からではない。八重垣君から背を押された、ネリーとの想いに決着を付ける刻が迫っているからだ。 「準備はできた?」 柔らかな声音が背を叩き、 「ネリー……」 白を基調としたガウンに身を包んだ親友を視、身体がさらに硬直した。 (綺麗だ……) 豪奢でありながら、清楚な気品を失わない親友の着こなし。 白いガウンにたおやかな金色の髪が映え、私は知らずため息を漏らした。 「ふふ、どうしたの譲葉。貴女、随分緊張しているみたいよ?」 「緊張? そんな感情は母親の腹の中に忘れてきたよ」 本当の事とは真逆のこと。弱音を吐きたくとも私は硬く堅牢なブリキを演じる他ない。 「いつからかしら……」 「え?」 「貴女が私に本当を見せてくれなくなったのは」 耳元で囁かれる言の葉。私は今、小御門ネリネに抱かれているという事実が信じられなかった。 まるで白昼夢を観ているようだ。 ネリーは私の背を強く抱き、そして幼い子にするように頭をポンポンと叩くと、慈しむように髪を撫でた。 「ネリー……」 「私では頼りないかもしれないけど、たまには身体を預けてくれてもいいの」 全てを受け入れてくれるかのような笑み。そして、 身体を離すと、親友はまるであの頃に戻ったかのように悪戯っ子めいた笑みをみせた。 そして――私へと真白く美しい手を差し出したのだ。 「譲葉、手を出して」 「何を……」 「さぁ」 恐る恐る差し出した震える手、 「握手よ」 言われるまま、彼女の手を握る。だが、私の手は強張り、固まったままだ。 「ふふ」 「な、何だい?」 「譲葉は子供の頃から変わらないわ。ここぞと言うときに意気地がない」 「……ああ。ああ、そうだね」 「もっとしっかり私の手を握って」 言われるも、血が通っていないような強張った手は彼女の手をきちんと握れない。 「握手の作法よ。ねぇ、譲葉。私たちが友達に為った時のことを覚えている?」 ――忘れたことなんてない。 「……きちんと友達になるにはしっかりとした握手をしなくちゃいけない」 そうだ。私はあの時から、いや、ずっと前からネリーのことを―― 「こんなに頼りになる友達が傍にいるのだもの。何も怖がることはない。平気でしょ?」 「――ああ。早く唄いたくてしょうがない」 いつしか強張りは解け、身体を、手を覆っていた氷は溶け、力強く彼女の手を握りかえした。 「さぁ唄いましょう譲葉。私たちの“虹の魔法”を」 軽やかなピアノの伴奏から始まる。 耳に届く伴奏は、ゆっくりと――だが確かに私を幼い頃の自分へと立ち戻していった。 そして二重唱が始まる。 ネリネの歌声は静かに、そして徐々に声量を増し、軽やかに劇場内へと響く。 伸びやかな声音に劇場内の観衆は、瞳を釘付けただ彼女を見詰めた。 (さぁ、私の番だ) 高く透き通る軽やかな歌声に負けぬように、だが互いの存在を打ち消さぬように伸びやかなアルトを響かせた。 (母が私へと聴かせ――) 私がネリーへと伝え教えた曲 “虹の魔法” かつて私はネリーを身体に音楽が流れていると評した。音楽が流れている者と、流れていない者がいると。 やはり私のネリーは―― 音楽に選ばれた存在なのだ。 彼女の歌唱の素晴らしいところは楽曲が心象風景をありありと伝えるところだった。 ネリーの歌声を耳にした聴衆は、深い眠りにつき――目覚めた後、魂を少しだけ置いていってしまったような貌を見せた。 そして、私は―― (彼女が唄う度に心が幼い頃に引き戻されていく。引き波が足を攫い、深い海へと誘うように) 海に誘われるたび、私は“オズの魔法使い”の物語が心に浮かんだ。 家ごと竜巻に呑まれ羽のように運ばれていくドロシー。 しかし彼女は恐れない、時間が経てばたつほど揺りかごのようだと落ち着いていく。 “幾度も変化を受け入れ、摩耗していった私” (そして最初の同行者“かかし”) 脳みそを得るために同行を申し出たことに面白さを感じたのではない。 物語の中であっさりと同行を許したドロシーへ恐怖に近い戸惑いを覚えたのだ。 “かかしにとって世界が変わるほどの選択。それが出会い、語り、ものの数分で拓けていく。そう、小御門ネリネとの出会い” (そして次は“私”だ) 錆び付き動けなくなったブリキの木こり。 彼は言う。エメラルドの街にいるオズから無くした心臓を貰うために同行したいのだと。 “一年の間たっぷり考えた結果、もっとも大きかった損失は心を失ったことです。心がなければ恋ができない” ――私は私という存在を持っていない。 私という個は、父が望み、母が身体の芯に己の願望を植え付けた、ブリキの人形だ。 (最後に“臆病ライオン”) ライオンは己の臆病さに苦悩しドロシーたちへと同行を願う。オズへ己の臆病さを消して貰いたいが為に。 ライオン――小御門ネリネも己の臆病さを、秘めている心を隠し持っていた。 決して、それを外に出そうとはしなかった。 ライオンは言う。 “だからといって僕は勇敢な気持ちにはなれない。自分が臆病だって自分が知っている限り、僕は不幸せなんだ”と。 小御門ネリネは己が罪を背負っていることを知り、それをひた隠しにしている。 私はそれを卑怯だとは思わない。ただ臆病なのだと思う。 だが、臆病なことの何が悪い? 踏み出せない、勇気がなく口に出せない事なんて誰だってある。 だから私は―― (怯えないようにすむよう、彼女の目に為りたい) 父がかつて教えてくれた。フィンセント・ファン・ゴッホの目は色を視ることが叶わなかったと。 鮮やかで、奇妙で、少しだけ私たちとは違った世界を観る画家の目。 唄う彼女の目も、私とは全く違った世界を観ているのだろう。 敬虔で正しくあらんとしている臆病な親友。 彼女の目に―― (ネリー……) 一心に唄う彼女。 小御門ネリネの目に私はどう映っているのだろうか。 私の愛する彼女は―― 臆病さをねじ伏せ私の手を握った。こんなにも大勢の観衆の前で私を気遣ったのだ。 幼い頃、小御門ネリネは私のヒーローだった。 そして、彼女が損なわれた日。彼女の為に私がヒーローにならんとした。 でも、 (あの時からずっと変わっていない) ――握手を交わしたあの日から。 最後の一音が劇場内に吸い込まれると、一拍の後、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。 「譲葉……!」 「上々だ」 吸い込まれそうな青磁色の瞳に答える。 私は、ネリネとともにゆっくりと腰を折り礼をし、聴衆に応えた。 再び起こる祝福の雨。 私は、 「……ネリー。君に話したいことがあるんだ」 彼女にしか聞こえない程の声音で告げた。聞こえたはずのネリーはどこか戸惑っているようにも見えた。 だが、もう一度告げることは出来ない。再度言葉にするとニュアンスが消えてしまう類いの言葉だった。 私は皆へ手を挙げ応えると、雲間に隠れた月のような照明を目にすると再度、腰を折りお辞儀をしたのだった―― あの時と同じだな、と考えていた。 磔にされた基督の下、呼び出された私。そして告白するは沙沙貴林檎。 だが、 (状況は近しいが、立場が違う) 呼び出したのは私で、告白するのも私だ。 ――小御門ネリネへ愛を囁く。 どうにも文字として、言葉として、心で思うとその非現実感に首を傾げそうになる。 今までずっと隠し通そうとしてきた私の想い。 親友のままで、胸襟を開くことのできる一番の親友という立場で佳いと思っていた。 でも、 (彼女たちが私を変えた……) 叶わぬと分かっていながら想いを伝えてくれた下級生。 率直な、素直な愛を伝えてくれた沙沙貴林檎。 彼女たちが私の背を押したのだ。 «人生はチョコレートの箱、開けてみるまでは分からない» アメリの言葉でなく、“フォレスト・ガンプ”の言葉を思い浮かべた。 敬虔な基督教の信者である彼女を思ったとき、アメリの言葉は私の心を温めてはくれないからだ。決心はつかせてくれたが。 聖堂の重々しい扉の音が響き、子供のようにビクリと身体を竦ませた。 暗がりだが、私の目には麦の穂のような美しい髪が、白磁のような肌が、慈愛に満ちた瞳が見てとれた。 いや―― 「ネリー……」 近づくと彼女の瞳は、此から何が行われるか察しているかのような戸惑いを見せていた。 その表情が私の決意を鈍らせる。 「――こんな夜更けにどうしたの、譲葉?」 だが、言わなくては為らないんだ。夜更けに星を見ようなどと、今更戯けるような真似はできない。 「……合唱会の祝杯を二人で挙げたかったんだよ。誰にも邪魔されないところでね」 「祝杯? 葡萄酒はどこかしら?」 基督像の前だからか、戯け言うネリネ。だが瞳を覗かなくとも分かる、無理をしていることが。 「……昔を思い出したよ」 「ええ。子供の頃譲葉と一緒に佳く歌ったわ……」 「僕にとって“虹の魔法”は母を思い出す特別な曲だ」 「…………」 親友は苦いものを含んだ顔をした。私の母が亡くなった経緯を知っているからだ。 悲しげな、痛みを堪えるような表情を見せる彼女へ、ありがとう、と告げる。 「え?」 「舞台袖で勇気をくれたことさ。あの日と同じように握手をしてくれた」 「譲葉……」 「僕と君が初めて互いを互いに知った日だ。忘れたことはない」 「遠足の時……。私だって忘れたことはなかったわ」 微笑むその表情に何故だがチクチクと胸が痛む。だがあえて笑みを作った。 「初めて出逢った時、僕たちはまだ子供だった」 「どうしたの? 昔のことばかり話すのね」 「……今が充たされていないと昔を懐かしむのさ。ネリー、僕はね。君に救われたんだよ」 「譲葉……?」 「君と出会う前の僕は何者でもなかった。自分というものを持っていなかったんだ」 「そんなこと――」 いや、と私は首を振った。 「ネリーも分かっていた筈だ。だから僕へ手を差しのべてくれた。君にとっては何げない親切心だったかもしれないけど――」 「僕にとってそれは色のない世界が初めて鮮やかに映った瞬間だったんだ。世界が色づいて見えた」 熱病に冒されたように言葉が止まらない。胸から沸き立つ想いが喉を伝い口から零れだす。 「二人で初めて遊びに行った時のことも。食べ歩きをしていて補導されそうになったことも。ネリーの家に初めてお呼ばれしたことも」 「すべてが〈私〉《・》にとって特別だった」 「私にとっても譲葉とともに過ごした日は特別だったわ」 そうじゃないんだ、と言い募った。私にとっての特別と、ネリネの特別の意味は違う。 瞳を揺らすネリネへ、私は彼女の手を取った。自分でも笑ってしまう程、震えている手。 「――初めて出逢った時はそばかすが残る三つ編みの少女だった。その時から恋している」 ようやく、 やっとの思いで口に出せた偽らざる気持ち。 ネリネは始め信じられないように瞳を大きく瞬かせて―― 次いで、私の背後にある基督像を見上げ、悲壮な目に変わった。 「譲葉……」 声の響きで分かる。彼女は、小御門ネリネは―― (まるで底の空いた船だ) 沈むのを待つ悲観主義者の船長のように、 「ネリー……!」 「――ダメ」 自棄になった私の行動を読み彼女は顔を背けた。 「……そうか。それが君の答えなんだね」 内臓をバターナイフでえぐり取られるような痛み。拒絶される鋭い心の痛みは、酷い痛苦を伴って私を自暴自棄にさせた。 「私はネリネのことが――!」 再び、無理やりに奪おうとした唇は―― 「ご、ごめんなさい。でも、」 でも、の後は続けられることはなかった。 去り際に、ステンドグラスに描かれた基督を見上げた事から明白だった。 “小御門ネリネは基督教信者という一点において誰とも愛し合うことはできない” 「……分かっていた。分かっていたさ、そんな事は……」 敬虔な信者である彼女が私を受け入れられないということを。 だが、だけど、 (告白しなければ私の心は張り裂けていただろう) 誇張なく、親友へ、ネリーを想う気持ちはもう限界だったのだ。 でも、 後悔だけが心を覆い押しつぶす。何も言わなければ今までの通り、親友ではいられたのに、と。 「……困ったら靴のかかとを三回鳴らして」 合唱会で過去を想うたびに浮かんだ、オズの魔法使い。 私は銀の靴が欲しかった。何度も引っ越しを繰り返し、遠い地から、故郷の母の元へと直ぐに戻れる銀の靴が。 そして、二人、ネリーと読んだオズの魔法使いで、彼女は“銀の靴”を―― 「…………」 いつの間にか床へと蹲っていた私は、のろのろと頭を上げ、足音の主を見上げる。 見上げる刹那、親友が、小御門ネリネが戻ってきてくれたのだと冷えた胸が温かさを取り戻していった。 「……林檎……くん……」 酷く痛ましそうな顔をして私を見下ろす彼女を目にした時、自分がまったくの孤独だということに気がついた。 寄りかかる場所なぞ何処にもないのだと。 「…………っ」 彼女は私の目を視ると息を呑み、 「…………」 無言のまま私の身体を抱いた。強く自分の身体を私へと刻むように。 「……林檎……」 「……譲葉、先輩……」 ネリネに張られた頬を撫で、そしてまるで我が子にするように優しく頭を撫でた。 小さな手は母を思い出すことはなかったけれど、温かく、私を労ろうとする気持ちが伝わってくる。 「……いいんだ。もう、やめてくれ」 「――わたしは貴女を拒絶したりはしない」 「……ッ」 それは私が最も欲しい言葉だ。 何もない、がらんどうな私が欲した。 「沙沙貴林檎は、八代譲葉のすべてを――」 “受け入れる”彼女が発した甘美な言の葉は私の耳朶に、心に染みいった。 そして――ずっと秘めていた思慕の情は、この仄暗い闇と静寂の中で消え失せてしまったのだと知った。とても静かに。  モヤモヤとした心の薄雲は長く居座り晴れることはなかった。  小学校に入りたての頃に重い肺炎を患い入院したことがあるが、その時と同じく瞳は現実を映してはくれなかったのだ。  粗いガラス越しに世界を観るような薄ぼんやりとしたぼやけた情景しか目には映らなかった。  あったのは要領の得ない世界と、何度も手の甲に突き立てられた点滴の針。  それは今の状況に似ていた。  曇った目と明確な痛み。  ――八代譲葉が小御門ネリネに背負われていたのを視た時と同じだ。〈暈〉《ぼ》けた視界と苦痛。  自分の所為で酷い捻挫を負わせたことも心苦しかったが、それ以上に幸せな彼女を視ることが辛かった。  今も瞼を閉じると、母へ身体を預けているような様子の彼女が浮かぶ。嫉妬という野火が心を焼き、痛苦を与えた。  どうしようもなく捻れてしまった自分。  好きな人の幸せを祈れないだなんて。  秋も終わりに近づいた頃、煩悶としているわたしへ、八代先輩が風邪で寝込んだことを姉から聞いた。  今度こそと、見舞いに行くことを心に決めたけれど―― 「お見舞いは断っているんだって」  足の捻挫の時と同じく見舞客は断っているらしい。  姉いわく、一人許すと、学院の花である八代先輩の元に見舞客が殺到するからだろうと言った。頷ける話だ。  わたしが俯いていたからだろう、 「林檎が好きそうなお話があるんだ」  そう言って、最近噂になっている七不思議の話を聞かせてくれた。 �森を彷徨うウェンディゴ�  $ 噂される七不思議の名だ。  名前は以前から知ってはいたが、姿を現し始めたのは此処最近のことらしい。  怖い話や不思議な話が好きなわたしを、姉が気遣って連れ出してくれたのだろう。  それが分かっていたから、目は未だぼやけながらも森を散策した。  色付いた葉は落ち、木々は寂しい姿を晒していたが――森の散策は、紅葉狩りでのことを思い出さないではいられなかった。  空元気を出し、地面に積もる落ち葉を踏み踏み歩いていると――  不意に視界が開けた。 「林檎君じゃないか」  $ そう八代先輩が笑いかけてくれたのだ。  彼女の笑みは明瞭に瞳へ映り、相変わらずの冗句で笑わせてくれると――胸を苛む痛みも消え失せていた。  八代先輩が話す冗句は動揺するような語りも含んでいたけれど、それはどうやら相手の本音を見抜く意味合いを持っているみたいだ。  わたしも姉に対して同様のことをしていたからこそ気付けたこと。  わたしのものとは精度も修練も積んだ別物だったけれど、自分と同じだということに後ろめたくはあったけれど嬉しさを感じた……。 �森を彷徨うウェンディゴ�の話は広がり、一時、合唱会が延期になるという噂話が出ていた。  だけれど、ウェンディゴは森をうろつく野生動物を見間違えたものだと、学院から説明があった。  合唱部に在籍する八代先輩の歌う姿が見られる。それだけで合唱会の日取りが楽しみに為った。けど、それと同じくらいに抵抗もあったのだ。  それは八代先輩が小御門先輩とともに最後の楽曲で二重唱を歌うと聞いていたから。  ――二重唱は本当に素晴らしく心に響いた。  そしてその歌声は、再び心に粗いガラス窓と捻れるような痛みを感じさせようとした。  ともすれば幼い頃肺炎を患っていたあの時と同じような様相をまた晒してしまいそうに為ったのだ。  けれど、自分の気持ちに区切りをつけよう。  そう強く想ったことから瞳は粗いガラス窓のように曇ることはなく、心臓は苦しかったけれど、自分と向き合うことができた。  合唱会が終わり、姉が眠ったのを見計らい、告白の答えを聞く為に八代先輩の部屋へと向かった。と、折良く彼女が部屋を出るのを見掛けた。  そのまま声を掛けようとしたわたしの口は固く閉ざされた。彼女の表情に覚えがあったから。  ある種の予言のような想いがわたしの胸を〈過〉《よ》ぎり、寄宿舎の廊下を行く彼女の後をそっと追っていった……。  予言通りに八代譲葉は聖堂の重い扉をくぐり、その後に――小御門ネリネがくぐった。  夜空を見上げ、わたしは聖堂内で何が行われているかを考えた。いや、考えるまでもない。八代先輩の表情を視れば分かる。  あの顔つきは、ハロウィンパーティを抜けだし告白したわたしと同じものだったからだ。  一つの星に目星を付け懊悩していると星が明滅していることに気付いた。一定の明かりで夜空を照らしているのではない。  ロウソクの火が風に吹かれて弱くなったり、消える直前に一際大きく輝くように星も時間を置き、その輝きを変えていた。  幾度、星の明滅を眺めていただろう。気を紛らわせるため見上げていたわたしは走り去る足音で我に返り、聖堂を見遣った。  暗がりではあるけど、あの明るくも黄金色の髪を見失うことはない。小御門ネリネが小走りで聖堂を後にしたのだ。  $「……八代先輩」  $ 気がつくとわたしは彼女の名を呼び、聖堂内へと足を向けていた。  暗闇を纏った小御門先輩の雰囲気から察せられていたことだけれど――  磔にされた基督の前に佇んでいた八代譲葉の姿は酷く弱々しいものだった。  あの日、背負っていた姿をみたわたしは出口のない想いに囚われていた。  恋い焦がれてもこの気持ちの出口を見付けられることは叶わない、と。  $ でも、  弱り切った彼女を視て、わたしの中の邪心が囁く。此で彼女を手に入れられるかも知れない、と。  二人の間に咲いた横恋慕という花が出口を見いだせるのかも知れないと。  癒やしてあげたいと想う慈悲の気持ちと、弱った彼女へつけ込もうとする邪な気持ち。  それは夏の道路を濡らす夕立のように速やかに心を塗りつぶしていった。 「――わたしは貴女を拒絶したりはしない」 「沙沙貴林檎は、八代譲葉のすべてを――受け入れます」 オズの魔法使いという童話がある 魔法使いに会うためエメラルドの街へと急ぐドロシーたち かかしは脳みそを貰う為に。臆病なライオンは勇気を貰う為に。ブリキのきこりは〈心臓〉《ハート》を貰う為に ドロシーはカンザスへと帰るため、街へと続く黄色い煉瓦の道を進む 街へ続く道を進むも幾度も困難に阻まれる。崖に阻まれ、熊の身体と虎の頭を持つ化け物に襲われ―― 大きな河を渡る道程で取り残された哀れなカカシ。ヒナゲシの花の香気による睡魔に倒れる臆病なライオン これらの困難に知恵と勇気ある行動、慈悲をもって乗り越えていく ――そしてようやくエメラルドの街へと着き、ついにオズと面会することが叶う 一日に一人しか面会を赦さぬというオズは、ドロシーには大きな頭だけの異形の姿で カカシにはこの上なく美しい婦人の姿に。ブリキのきこりには世にも怖ろしい怪物の姿をとり―― 臆病なライオンには猛々しく燃える炎の玉と為って現れた オズは願いを叶える代わりに、皆へ“邪な西の魔女を殺す”ことを命じたのだ 私はその理不尽な要求よりも――何にでも変化できるオズを羨ましいとも、悲しいとも思った 見る者によって様々に変わる姿。それは“決して本当の姿を知られず、本当の自分を知ることもない”のではないかと これから始まる物語は“己の姿と心すら知らぬ愚昧な娘”のお話  ――舌が痺れるような苦い珈琲を飲みながら、親友の顔を思い浮かべていた。  告白してきたあの子。  八代譲葉は私へと秘めていた想いを伝えてきた。出会った頃を思わせる縋り付くような目で。  そして私の態度から察したあの子の目は――  $ ふっとため息を吐き、カップを机の上へと置くと――私の目は机の上の本へと注がれた。 (オズの魔法使い……)  幼い頃、譲葉と夢中になって読んだ本。  そう、私たちが出会ったあの遠足―― «八代譲葉と友人に為ったのは親切心からではなかった»  $ いつも独りぼっちでいたあの子と仲良くなったのは、子供ながらに打算があったのは間違いない。  何故なら私は、折り目正しい、佳い子でなくては為らなかったから。  別に私自身佳い子でいようと思ったことはない。ただ、普通の人が普通にやるような善行をしていただけ。  他のクラスの子が教科書を忘れたと駆け込んできたら貸してあげ、床にゴミが落ちていたら拾う。誰でもするであろうことだけ。  でも、私が当たり前のことをすると過剰に持ち上げられ、佳い子だと褒められた。  佳い子でなくては為らなかったのは私自身ではない。周りが望んだこと。  そして、おそらく――それは私の容姿が関係していたのだろう。  私自身、自分の外見が人好きのする柔和な容姿だという事が分かっていた。  自分で言うと嫌味だが、幼く――天使のような私が不道徳なことはしないだろうと。  そしてもう一点、父の存在だ。  誰よりも熱心に神に仕える者の子が、品行方正でない筈はないと。  だから遠足で膝を擦り剥き、泣いていたあの子に特別に親切にしたという覚えはない。  ただ当たり前の事をしただけ。父がするような当たり前の善行だ。  でも、当たり前のことなのにあの子はすごく喜んでくれて――私は、ああ、またかと思った。  容姿の所為で過剰に佳い方にとられているのかと。  家が近所だったからか、学校への登下校を一緒にした。私の後ろを離れまいと付いてくるあの子は可愛かった。  遠足でのことから皮切りに――いえ、違う。  クラスの子たちとの話に飽きた私は、たまたま譲葉が私の好きな本、«オズの魔法使い»を読んでいることに気付き話しかけてからだ。  その日から登下校の時だけでなく、学校でも話すようになった。  話してみるとたくさんの本を、知識を持っていた譲葉との話は面白く、すぐ仲良くなった。  そして互いのことを知る内に、譲葉の家が複雑なことを知り、私へとすごく懐いてくれることに合点がいった。  彼女にとって私は特別な友人なのだと。  $「……イヤな女」  特別な私へと依存している彼女を見て、幼い私はどれだけ――私という�友人�に尽くしてくれるかを試した。  初めは子供らしく給食のデザートを譲ってくれるかどうかから始まり、互いに揃いの文具を使うこと。  同じ習い事に通うことと要求の段階を上げ、ついには――私の他に友人を作らないことを守らせた。  八代譲葉は私の言うことを諾々と聞きいれ、そのたびに私は高揚した。  そして、私はもっとも神聖な部分まで冒すことに決めた。  $「……どこまで私の言いなりになるか、友情を試した」  $ そう、八代譲葉へ私と同様、�洗礼�を受けさせたのだ。  基督教徒として生きることを選択させた。いや選択ではない、友情を秤に掛けた強要だ。  $「あの頃の私はどうかしていた……」  幼い頃から、父から“神聖”とは何であるかを常に問われたたき込まれた。信仰にとって根幹を為すもの。  それを私は、幼い好奇心と征服欲から、己の信仰心を冒し、あの子をも犯したのだ。  冷めた珈琲を飲む。中途半端に冷めた珈琲は苦く泥の味がした。  $「……本当は珈琲が苦手だった筈なのに」  私に合わせ飲んでいく内に馴れたのか、今は進んで飲むようになったけれど……これも私があの子を変えてしまったこと。  苦い泥の味は――思い上がっていた私の心へ冷水を浴びせ掛けたあの場面を思い返させた。  そう、遠く病院で長期入院してたあの子の母親が、一時帰宅を許され家に戻った時のこと。 �お母さんに友達を紹介したいんだ�  そう朗らかに乞われた私は愚かにも了承して、お見舞いの花束を手に彼女の家へと伺った。  背の高いマンションへと導かれ、あの子に腕を引かれた私は一番奥まった部屋へと通された。  ほとんど何も置かれていない部屋に―― 『貴女が小御門ネリネさんね。譲葉から聞いているわ』  病気で痩せ窶れてはいたけれど、怖い印象はなかった。笑顔で迎え入れてくれたから。 『譲葉と仲良くしてくれていると聞いているわ。ありがとう』  あの時、私は厚顔にも謙遜し、いかにあの子と仲が良いかを語った。おばさんは笑顔で満足そうに何度も頷いてくれた。  飲み物取ってくるね、  そう言って出て行った彼女の背を見送った私は、手に花束を抱えたままだと気付き、部屋に花瓶はないかと辺りを見回した。  と、  $『ねぇ、ネリネさん』  あの子が部屋から出て行った途端、おばさんの顔から笑みは消え、酷く悲しげな顔つきで私を凝っと見詰めたのだ。 『本当は、譲葉を友達とは思っていないのでしょう』  吐かれた言葉に、頭からすっと血流が足先へと落ちていくのを感じた。私は初めて、私の作られた品行方正を見抜かれたのだ。  黙っている……いや、肝を潰され言葉が吐けない私へと、おばさんは身を乗り出し告げた。 『今が嘘でもいい。でもお願いです、どうか、どうか――』  間近で吐かれた息づかいはまるで底深い井戸からたち上るような声音で、私へと懇願した。  $『あの子と、譲葉と――』 �約束�の言葉に耐えきれず頭を振って想い出を消す。  いつしか小さく震えている身体を両腕で抱え、風で揺れる窓から四角に切り取られた闇を見詰めた。  $�本当は、譲葉を友達とは思っていないのでしょう� �今が嘘でもいい。でもお願いです、どうか、どうか――� �あの子と、譲葉と――�  $ 桜の梢を揺らす風は、井戸の底から聞こえるあの人の声のように聞こえた。  過去の私を悔い、私は――八代譲葉の名を呟いた。 「……〈咎人〉《とがびと》の私があの子へ言えることなんて」  呟き声は風の音に消え、私は静かに目を閉じる胸の上で十字を切った……。 空を眺め、随分と遠い場所へきたような心持ちになった。 穏やかな秋空は遠く、淡い青がより深みのある蒼へと変わっていると感じた。 空は高く、遠く、突き抜けるほどに透き通り、見ていると押しつぶされそうな感覚に襲われる。 深く息を吸うと鼻の奥が鋭角な寒さを感じ取った。冬が来たのだ。 「……ま、暦の上じゃとっくに冬なんだけどね」 「美味しくないですか?」 空を眺めていた私は問われ、朗笑で返すことができた。 「不味いわけがない。林檎が作ってくれたんだぞ」 「嬉しいです……」 仄かに頬を赤らめる彼女を見て、空だけでなく私の周りの世界ががらりと変わってしまったという事実を改めて感じた。 「以前とある映画で“カーディガンを着るような男は信用しないことにしてる”という台詞があったが……」 秋服の上にカーディガンを羽織る林檎君を眺め、 「あ、ぅ……」 「カーディガンを着るような女の子は信用に値する。何て言ったって可愛いものな」 「譲葉先輩……」 恥ずかしげに身をよじる彼女へ、作ってきてくれたクッキーを頬張る。私の周囲の変わった世界。 小御門ネリネに告白し、恋破れてから―― そう、私は林檎の告白を受け入れたのだ。 断ろうと決めていた沙沙貴林檎への返事。 ――正直、代償行為なのではないかと問われれば唸らざるを得ない。 親友に振られたという結果が、 底の抜けた船のように沈み行くだけの私へ手を差しのべてくれたのが、彼女だったから―― 葛藤がなかったと問われれば嘘だ。 でも、 「……おかしくはないかな」 「何がです?」 「僕が女の子らしい髪型にしてみたいと言ったことがさ」 こんな男女なのに、と続けようとした私へ、 「おかしいことなんてないですよ。譲葉先輩の髪をみるたび、もっと可愛い髪型があるのにと思っていましたです」 「そう……かな……」 「はい。髪の毛をただ下ろしただけで、すごい美人さんですよ」 「嬉しい、な……」 私の部屋で髪を梳いて貰った日のこと。 遠く母にやって貰った記憶と重なり酷く心が穏やかに為った。 あの聖堂の夜でのことで摩耗していた心が少しずつ癒やされていった。 「わたしの前では……もっと女の子をしていてほしいです」 「……そんなに率直に口説かれるとは思わなかったな」 「ぇ、あ、く、口説くとかわたしは……!」 「ありがとう、林檎」 ――聖堂の夜から、ゆっくりと時間を掛け、 沙沙貴林檎との逢瀬を重ね、深めていった。 (……古風だが、憧れていたシチュエーションだ) 手紙でのやり取り。 恋文ではない。 いや、その側面もないではないが……二人の関係を露見させないための手段としての“手紙”だ。 私が言い出したことではなく、互いにこの関係を秘密にしておこうと自然と為ったこと。 私たちが付き合っていることを明かすのは面倒事を呼び込むだけだと互いに判断したのだ。 私には大勢の熱烈なファンが居るし―― 林檎は苺君へ私たちのことを切り出せずにいたからだ。 林檎と付き合いながらも、私へと愛情を向けてくれる苺君と向き合うのは心が痛んだ。 何度も明かそうと思った。でも、 (関係が崩れるという事に臆病になっていた……) 告白の後、ほとんど言葉を交わさなくなってしまった親友との関係を思い、苺君へ打ち明ける勇気は持てなかった。 ――逢う時間、場所を決めた手紙を受け取り、他の生徒から見付からないような場所を取り決める恋文。 女性が好きだと――同性愛者だと自覚している私が、初めて愛情をさらけ出せる彼女を得たことに高揚を禁じ得なかった。 今まで流木や瓦礫によってせき止められていた川があるべき流れを取り戻したように。 「……本当にいいのですか?」 二人きりで深夜の映画鑑賞をしていた私へそう問うた。 「……こんなに幸せでいいのかって?」 「……こんな夜更けに視聴覚室に忍び込むことがですよぅ」 膝の上で睨む彼女。 私は、“本当にいいのですか?”という言葉の後に―― “わたしと付き合う事に後悔はないのですか?” そう、付け加えられているような気がしていたのだ。 (必ず、最後に一語文つけ加え忘れるような物言い……) そう、母の心ない言葉に怯えるように。 「……見回りに来る時間は分かっている。何も心配することはない」 「なら……いいのですけど……」 私の膝の上で身じろぎする。 膝は彼女の瑞々しいお尻の感触を感じ取り、誰もいないこの視聴覚室でメチャクチャにしたい衝動が沸き上がった。 抱きしめても、 愛の言葉を囁いても、 口づけたとしても、 「……私を受け入れてくれる」 「……譲葉先輩?」 「……すまない。映画の途中に話しかけるのはマナー違反だったね。名作だ。集中しよう」 「映画好きの蘇芳先生がいたら殴られてしまうです」 「ああ、違いない」 我が師が薦めてくれた映画“コクーン”を見ながら、林檎を後ろから抱きしめ、彼女の肩に顎を置いた。 「……先輩」 「……巫山戯ていないよ。この方が集中できる。佳い映画だ」 「渋い名優が出る映画を教えてくれと頼んだが、彼女の選定眼に間違いはない」 SFは趣味ではないからと見なかったことを後悔するような映画だ。 養老院に住む老人たちと交流するエイリアン。 「……ふふ」 「……別に笑い所はなかったですよ?」 「……いや、何だか自分の身に置き換えさせられてね」 純粋培養の女の園へ紛れ込んだ異物である私。 往年の名優の素晴らしい演技を見ながらシニカルな笑みをこぼしてしまう。 ――白羽蘇芳は分かっていてこの映画を薦めたのか? 勘の鋭い後輩なら、私の抱えている闇も、未だ思い惑う私を思慮しこの映画を薦めてくれたとも思える。 「……分かり易くスーパーマン3とかの方が好みだったな」 「それ知ってます。お婆ちゃんと一緒に見ましたよぅ」 「そうか。佳い映画だ……」 “スーパーマン3”でクラーク・ケントが頭の中で善と悪が戦う場面を思い返していた。 ――私の本当の心は、 「……集中しないとダメですよ」 頬ずりをされ私は、ああと答えた。 「……今を大切にしないといけないね」 凪いでいた私の心の水面は、彼女と触れあうことで静かな湖面が風で波紋を描くように少しずつだが確かに変化していった。 ゆっくりと確かに。 そして―― 彼女の優しい風に癒やされ、沙沙貴林檎と付き合うように為って二週間を数えたことを知ったのだ。 「合唱会からもう二週間が経ったんですね」 友人から喉に短刀を突きつけられたような心持ちで、え? と答えた。 友人――八重垣えりかは、珍しい形の雲を見付けたような顔をして私の目の中の真実を探るように凝っと眺めた。 「時が経つのは早いって話ですよ。もう十二月になっちまった。よくある話の枕ですが、おかしいですか?」 「いや……」 「……ふぅん。まぁ、構いませんがね。わたしが話そうとしたことは“生徒会選挙”のことです」 ――生徒会選挙。 消えた恋人の事が知りたいならと、私が提示した条件。 ニカイアの会の会長の引き継ぎ。 「巷じゃニカイアの使徒選びなんて呼ばれ方をしてますがね。まさか――」 「白羽さんが立候補するとは思わなかったわ」 言い、コーヒーを淹れてくれた考崎君は、私と八重垣君の前に湯気たつカップを置いた。 「熱いですから気を付けてください」 「何だよ、適温で淹れろよな。わたしは猫舌なんだぞ」 「カーディガンを着るほど寒いんでしょう?」 「寒がりなのと猫舌なのは別問題だろうが」 そうね、と頷き考崎君は湯気たつコーヒーを飲む。私は寒がりと聞いた彼女へ、お洒落に見えると世辞を言った。 「とても佳く似合っている。カーディガンは女の子を二割増しで可愛くさせるね」 「お前もこういう気の利いたことを言えるように為れよ」 「別に必要ないわ」 「あ?」 「だって何を着てもえりかは可愛いわ」 「……そういう恥ずかしい台詞を臆面もなく言うんじゃない」 どっちよ、と言われながらも赤面しつつ、ふーふーと熱いカップ冷ましている姿に愛らしさを感じ暫し魅入ってしまった。 「それで、八代先輩は聞かされてなかったのですか?」 「何がだい?」 「白羽さんが生徒会選挙に立候補するという話です。会長に立候補することを相談されていなかったのですか?」 ――真実を口にすることは出来ない。 「僕からしても寝耳に水ってやつだね。書痴仲間の八重垣君は聞いてなかったのかい?」 「そうみたいなんです。だから拗ねてしまって」 「拗ねてなんてない」 ようやく飲める温度になったのか、コーヒーを飲み酷く苦い顔をした。 「ただ、わたしもそいつを訊きたかったのは確かだ」 白羽蘇芳は誰もが目を奪われる程の美しさを持ち、気質は清廉、そして賢く聡明だ。 ニカイアの会の会長を目指したとしてもおかしくはない。 「でも、何だか変よね。白羽さんがニカイアの会なんて目立つことを自ら進んで行うなんて」 「だろ? だからわたしは八代先輩に何か聞かされてないか尋ねたかったんですよ」 首を振る。素っ気ない態度に八重垣君はコーヒーを飲んでいないのに苦い顔をし、私の目を探るように視た。 「花菱さんも生徒会選挙に立候補したのよね?」 「委員長が目指しているのは副会長の椅子だ。小御門先輩の椅子だよ」 ネリーの名を聞き、胸の下が軋むように疼く。 「白羽さんが会長を目指すのだものね。花菱さんがサポートする為に副会長を目指すのは道理だわ」 アミティエの言葉に八重垣君は、違いないと言い、続けて“副会長に成るのはそう難しくないが会長に成るのは難しい”と告げる。 「ニカイアの会の会長職は、文字通り選ばれし役職だ。そこいらの学校の生徒会選挙とは違う」 「そうなの?」 「立候補者に成るだけでも難しい。だからニカイアの会では会長が不在で、副会長が仕切る年度の方が多い。ですよね?」 「八重垣君の言うとおり、立候補するだけで4つの難関を越えなくては為らないからね」 私はそう告げると手のひらを突き出し、指を折り示して見せた。 「一つは、クラスで中間・期末試験どちらかにおいて最も優秀な成績を収めなくては為らない」 「二つは、現ニカイアの会のメンバー2名以上からの推薦を受けること」 「三つは教職員からも1名以上の推薦を受ける」 「そして最後の難関。教職員及びニカイアの会から選出された5名の審査員の前で討論会を行い、4名以上の支持を得なければ為らない」 指を折り説明した私は、喉を潤すために熱いコーヒーを飲んだ。 (人見知りする蘇芳君には無理だろうと突きつけた条件だが……) 「副会長の場合は違うの?」 「確か、生徒3名以上からの推薦があれば立候補できるって話だぜ」 「ま、立候補しても選挙で学院の2分の1以上の賛成票が入らなければダメだけどな」 「そう聞くと、会長って立候補するだけでも大変なのね……」 尊敬よりも怪訝としたまなざし。一年前の私がそれらを踏破したことを信じられないのだろう。 「僕が優秀なことに驚いたかい?」 戯ける私へ率直に頷く考崎君。 「いつも成績は花菱さんがトップだったけど、少し前にあった期末試験は白羽さんが一番だったものね」 「全教科でオールトップだったからな。わたしや委員長の立つ瀬がなかったぜ」 「えりかは永遠の三番手でしょ?」 「英語は毎回わたしの方が上だったんだよ」 猫のように瞳を細め睨む彼女は、アミティエから視線を外すと私へと向き直った。 「一つ目の難関はクリアだ。二つ目の難関、推薦を受けるためにニカイアの会のメンバーと交渉してるって話だが――」 本当ですか、と目が訴える。私はしっかりと彼女の目を見詰めた上で頷いた。 「僕が推薦するのは無しだが、他のニカイアの会の子たちへとロビー活動しているというのは聞いているよ」 「本気みたいだな……」 唸るように呟くと、しばし寒月を見詰めた。そして、 「……腹が減った」 「え?」 「千鳥が作ったサンドウィッチが食べたい」 呆れたような目を向ける考崎君だったが、 「……食材に文句を付けるのは無しよ」 「フルーツサンドじゃなかったら何でもいい」 「それが文句を付けるっていうのよ」 「文句じゃなくて注文だよ。ベーコンがあれば尚佳い」 仕方ないわね、と呟きつつも私にも必要かを訊き、首を振る私を見、部屋から出て行った。 「…………」 消えた考崎君の影を探すように私たちは、〈一時〉《ひととき》ドアを眺めた。 「僕に何か話があるんだね」 「分かりますか」 「こういうシチュエーションも二度目だからね。で、訊きたいのは蘇芳君のことかい?」 八重垣君は私の問いに、眉間に皺を寄せると中空を睨んだ。 「違うのかい?」 「……そいつも訊きたい所ですが、別に質問をするために千鳥を遠ざけたんじゃありません。一つ忠告をしておきたくてね」 忠告。以前にもこの部屋でしてくれたことだ。 「聴こう」 「沙沙貴林檎と付き合っているのでしょう」 まさかと思った。 予感が無いわけではない。 だが、隠してきた秘密を早々に見破られるだなんて……。 シラを切る 認める 「……何のことか分からないね」 「ククッ」 意地の悪い猫の笑みを向ける彼女へ、私は表情を変えずに睨め付けた。 「そう怒らないでくださいよ。ただ、まさか八代先輩がそんな詰まらない返しをするとは思ってなかったんで、不意を打たれたんですよ」 「…………」 「ま、ことは貴女一人じゃない。沙沙貴妹も絡んだことだ。分かり易い嘘を吐いたのは見逃しましょう」 顔はニヤついたままコーヒーを口に含んだ。今度は苦さを感じないようだ。 「で、君は何がいいたいんだい?」 猫の目を、彼女の部屋の中を覗き込み―― 「……君は本当に面白い友人だよ」 と言った。 「足はダメでも頭はそう悪くない」 自分の太腿をぴしゃりと叩く彼女へ、笑顔を浮かべ認めた。 (忠告か……) 警告ならば身構えもするが、忠告ならば彼女の厚意からなのだろう。 「うん? 今から面倒臭い話を聞かされるんですよ?」 「僕を思ってのことなのだろう。なら悪くない」 刹那、頬に朱が散ったように見えたが、すぐいつもの猫の笑みを取り戻した。 「わたしが沙沙貴妹のことを知っていて驚いているんでしょうが、こいつは皆が知っている〈流行〉《はやり》の噂話ってわけじゃない」 「……君だけが知っている?」 「いや、わたし一人じゃない。おっと、そう睨まなくとも千鳥でもないですよ。わたしの口はそう軽くないんでね」 なら―― 秘密を探り当てた相手を脳裏に浮かべる。と、 「沙沙貴苺君かい?」 そう尋ねたのだ。 「正解です。白羽あたりを言ってくると思いましたが、流石ですね」 (もし蘇芳君が、秘密を探り当てた相手なら――) 生徒会選挙に立候補する必要もない。 「……いや、それは彼女を冒涜しているか」 「うん? ま、一番身近な相手だ。気付かれないってのはなかなか難しい。沙沙貴姉はああいうやつだが、馬鹿じゃない」 「……どうしてと尋ねていいかい?」 「周りに二人での密会がバレないように手紙でやり取りしていたでしょう? 悪くないが証拠の残る連絡手段は悪手だ」 「……苺君が手紙を目にしたのだね」 彼女が――沙沙貴苺が手紙を読んだと耳にし、後悔がどっと胸にわき出た。 私へとアプローチを掛けていた苺君が手紙を目にし、付き合っていると知った時のことを考えると胸が鬱ぐ。 「わたしは様子がおかしいあいつから無理やり聞き出したんだが――遠からず皆へバレますよ」 「……君は責めないのだね」 「遠からずとは言ったが、なるべく上手くやった方が佳い」 私の質問には答えずそう結んだ。それ以上は何も口にする気はない。 コーヒーの味を思い出した顔が、彼女の身体から発せられる雰囲気からそう察した。 だが、 “なるべく上手くやった方が佳い” その言葉は以前の忠告と同じく、私を断じる宣告でもあったのだ。 友人の忠告を受け―― 林檎と接する機会を減らし、そして逢う場所を私の部屋に変えた。 私のアミティエは随分前に学院を去っていたし、熱心な私のファンも部屋に訪れるのは禁忌として行っていなかったから。 林檎には姉の、苺君に私たちの関係が知られているとは話していなかった。 それは林檎の気持ちを慮った結果でもあったし、私自身の汚い逃避によるものでもあった。 そして―― 「ぁ……」 逃避は、逃げようのない感情は、代償を要求する。 何が契機だったのかは覚えていない。 彼女との会話が止まり、二人の間で密な空気が流れたからだとか。 ティータイムを愉しんでいた私のまつげが頬についていたのを林檎が取ろうとした時に目が合っただとか。 小さな契機だ。 だが、理由は小さくとも構わない。林檎は私を見詰め、瞳を閉じ、可愛らしくも小ぶりな唇を少しだけ上へと向けた。 代償を求めていた私は、止める理由なんてものはない。 「林檎……」 陳腐な喩えだが蜜に誘われる蝶のように彼女の唇へと引き寄せられ―― ドアが開かれる音が聞こえ、のろのろと顔を上げ、部屋の入り口を見遣った。 そして、入り口に佇むは―― 「……譲葉」 審判の宣告のように聞こえた声音。 私も、彼女も長く沈黙を続けていた。そして自分の感情が吹き出すよりも、身体は額からうっすらと汗を滲ませたのだ。 “なるべく上手くやった方が佳い” 猫の君の声が私の耳へと呪いのように響く。 二人の間に薄くも確かな膜が、分かち難く存在し遮っているのを自覚すると、 「――ごめんなさい」 私は、ただ一人の親友を失ったことを知ったのだ。 冬の雨は静かすぎる。 「降っていたのか……」 作業を終え、窓から風景を眺めると石畳が濡れているのを見て、今まで雨が降っていたのだと知った。 深々と降る冬の雨は音もなく静かに降り注ぎ、地面を黒く染めながら、冷えたその身を沁み込ませていく。 知らずに浸透し凍えさせていく氷雨。 「あ、あの……」 背なに呼び掛けられ、振り向くと―― 「書類ここに置いておきます」 「ありがとう」 にこりと笑みを浮かべてみるも、書記はぎこちない愛想笑いを浮かべ、同輩の固まる部屋の隅へと逃げていく。 ――勿論、彼女へ不埒な真似をしていたなんて笑える話ではない。 (人の口に戸は立てられないとはいうが……) ネリネが漏らした訳ではないだろうが―― 沙沙貴林檎と私の交際は、学院の〈静謐〉《せいひつ》としたところから一滴の滴として零れ落ち、その滴は束ねられ一本の大河となった。 面と向かって尋ねられることはないが、今や公然の秘密というやつに為っている。 それは上級生の方々もそうだし、同級生も、下級生においてもだ。 そして、 「……ニカイアの会でも同様、か」 ……いや、ニカイアの会の同輩は私と、小御門ネリネと長く苦楽を共にしてきた友だ。 私と、“小御門ネリネ”と。 ニカイアの会の皆は私とネリーがいずれ付き合うものだと。 いや、大っぴらに口にしてはいないだけでこの学院に入った当初から付き合っているのではないかと考えている者もいた。 だからこそ、私のしたことに対して裏切られたような感覚を強く持っているのだろう。 同級生よりも分かり易いよそよそしい態度は“振られたように映る”小御門ネリネへと肩入れしている証拠なのだ。 (皆へ、私の方が振られたのだと釈明すれば話は早い) だが、 (忠告をくれた友人は、弁解は“ダサい”と切って捨てるだろうな……) 猫の笑みを持つ彼女を思い浮かべる。そして、執務机に置かれた書類に載っている彼女にも。 「……会計と監査の二人を口説き落としたか。さすがは我が師だ」 生徒会選挙の立候補者の書類に白羽蘇芳の名前を認め、苦笑う。 どちらも堅物で鳴らした同輩だ。私なら狙うのは愛嬌のある書記、庶務あたりを口説くが……。 (蘇芳君のようなタイプは人柄と熱意で口説ける相手の方がいいのか) 見た目だけでなく少し話せば裏表のない実直な気質は見てとれる。 同じ気質を持つ者同士、アポイントメントを取るまでは大変だが、そのハードルを越えさえしてしまえば彼女なら信頼を勝ち取れるだろう。 「……こっちは今にも崩壊寸前だけどね」 思わず浮かべてしまう自嘲的な笑み。 蘇芳君の動向も気になるところだが、私には自分よりも誰よりも気に掛けなければ為らない人がいる。 (林檎……) 自分との交際が皆へ伝わっていると知り得てから、林檎と逢うことを止めていた。 保身でなく彼女自身を守るために、だ。 私ですら居心地の良い状況とはいえない。なら沙沙貴林檎は? そう考えるといてもたってもいられない。 だが、私が軽はずみな行動を起こすことで――沙沙貴林檎はもっと拙い状況に追い込まれるだろう。 そう確信があった。 (偶然を装って……) 1年生の教室の前を通ってみるか? いや、そんな真似をしたら好奇の目は更に強くなり、些細な偶然は決定的な証拠として取られるだろう。 「……どうしたらいい」 呟き、私を助けてくれた彼女の姿が浮かび掛け、こめかみを強く親指で押した。 何度も林檎の部屋へと向かおうとした。 そのたびに理性は止めておけ、と〈踵〉《きびす》を返させ己の部屋へと戻させた。 手紙で彼女を呼び出したらどうだろう。と、以前のやり取りのように下駄箱へ手紙を忍ばせることも考えた。 だが、 (そいつで失敗したんだろうが……) 出てくるのは碌でもない思いつきだけだ。私の足は知らず、父が愛した―― アクアリウムへと向き、水草に姿を見え隠れする熱帯魚の影を追っていた。 「……どんな場所でもそいつ次第さ。笑えるかどうかは気持ち次第だろ」 父がかつて言った言葉を熱帯魚へと投げかけたが、答えは返ってこなかった。 返ってきたのは後悔と焦燥感だけ。 「……流石に笑えない。どうしたら佳いと思う、林檎」 呟き、アクアリウムにあどけない林檎の笑顔を浮かべた。 彼女の幻想を抱いたことで――私の腕に抱きしめたときの感触が蘇った。柔らかで華奢な身体。 香水も何もつけてない彼女の肢体からは心が沸き立つとても素敵な匂いがした。 まだ成長しきっていない女の子にしか発することのできない特別な匂いだ。私に残った彼女の残り香。 ――おまけに幻聴まで聞こえてきやがった。 アクアリウムの熱帯魚をみるでもなく眺めていた私は、はじめ気付かなかった。だが、 林檎に近い、未成熟な少年のような匂いを嗅ぎ、己を取り戻すと緩慢に背後へと振り返った。 「ようやく気がついた」 「――こんな美人が近くにいたって言うのに不覚だよ」 「軽口を叩けるならそこまで心配しなくても佳かったみたいですね」 八重垣君の言葉にほだされ、無防備な笑みをこぼした。途端に、 「……返しがこない。やっぱり重症だったか」 そう顔を顰めて見せた。 「ふふ、久しぶりのきちんとした会話だ。純粋に愉しいんだよ」 「人嫌いの根暗のインドア派女との会話が愉しいなんて、随分とヤラれているようですね」 孤独には馴れていた筈だが、今の自分との付き合いも長くなった。独りでいることに苦痛を感じやすくなっているようだ。 軽口を期待する八重垣君の言葉にも軽く笑みを返すのが精々に為っている。と、 「……ま、ヤラれているのは沙沙貴妹も同じようですがね」 そう言った。 「林檎が? 彼女はどうしているんだ!?」 「落ち着いてくださいよ。こんな場面を見られたらまた誤解されちまう」 「そんなことはいい! 話を聞かせてくれ!」 「そいつを話しに来たんです。話しますがね。でも、とりあえず肩の手を離してください。正直に言うとメチャクチャ痛い」 「あ、ぅ、す、すまない……」 肩を掴んでいた手を離すと、八重垣君は肩をさすった。力加減を誤った私はもう一度、すまないと頭を下げる。 「ま、それだけ沙沙貴妹のことが心配だったって事ですからね」 「むしろ、まぁそうなるだろうねぇとか冷静に言われたら、回れ右する所でしたよ」 「……すまない。それで林檎のことだが」 「強い言葉を使いましたが、実際のところそこまで酷い状態じゃない。分かり易いイヤガラセみたいなものはないですよ」 「まぁ、かなり余所余所しくされちゃ居ますがね」 僕と同じかと告げると、先輩よりもやや厳しめってところですと猫の笑みを浮かべた。 「教室では白羽と委員長の目が光っているから、ないがしろには出来ないですが……まぁ距離は取られていますね」 「そうか……」 蘇芳君と花菱君には感謝だ。幾分ほっと安堵した私へ、八重垣君は難しい顔をすると、 「わたしとしてはクラスのやつの態度よりも、驚いたことがあったんですけどね」 「……級友の態度に驚かない、か。良家の子女が集まるこの学院でも変わらないんだなと毒を吐くかと思ったよ」 「育ちがどうだろうが、基本女ってのは変わらないもんですよ。集団になれば驚くほど同じだ」 彼女の言葉に今までに転校してきた学校を思い浮かべた。 「わたしの私見ですけどね。女ってのは属するものを作りたがるんですよ」 「まんまの意味としての属。友達や部活、趣味、自分と繋がる属が」 「属、か」 「ええ。女の〈諍〉《いさか》いなんて大抵そいつが元で起きる。自分に属さないものは排除しようとする。そいつが少数ならもっと分かり易くなる」 達観している彼女へ頷き同意した。転校先で私自身の容姿から大小の差異はあれ、幾度となく経験したことだ。 「――それで驚くこととは?」 「こいつもあまり愉快じゃないことだ。まさかあいつが――」 口ごもる八重垣君へ不吉な影を視た。もしかして林檎を彼女が―― バスキア教諭が問題にした? 苺君も距離を置きだした? 浮かぶは敬虔な基督教信者の教師の姿。 「バスキア教諭が、問題として取り上げた?」 その言葉を口に出すのは勇気がいった。 バスキア教諭、学院側に交際が知られるということは即ち―― 「え? バスキア教諭は気付いちゃいませんよ。最近クラスの雰囲気が悪いなってくらいにしか思っちゃいないと思いますよ」 「そうか……」 「八代先輩なら愉快じゃないことにすぐ気付くと思ったんですけどね。わたしが忠告したのはどうしてだか覚えていますよね?」 林檎へ宛てた“手紙”を彼女へ見られたから。 「苺君、か」 「ええ。正直、少しくらいは仲違いするかもとは思っていましたが、あれほど露骨に避けるようになるとは思ってませんでしたね」 「沙沙貴苺君が距離を置きだした」 言葉じりを奪い告げると、少しは頭が冷えてきたみたいですね、と口の端を歪めてみせた。 「忠告をした時にこうなるような気はしていたんですが、あれほど露骨に避けるようになるとは思わなかった」 「そうか……」 私へ恋慕の情を示していたのは苺君が先だ。面白くない状況なのは分かる。だが、 「何だかんだ言っても姉妹だ。それに沙沙貴姉が八代先輩に向けていたのはもう少し軽い感情……憧れとかだと思ってたんですけどね」 「……人嫌いの割には佳く観ているじゃないか」 「人嫌いだからですよ。猫は自分に近寄ってくる相手が猫好きなのかそうじゃないのかしっかり観察している。自分の身を守るために」 彼女の言葉は私へ過去の自分と、小御門ネリネを思い出させた。今や手が届かなくなったものたち。 「あいつ等は同室だ。針のむしろなんじゃないですかね」 伝えられた情報に胸の奥が掴まれ、強く握られているようだ。息苦しい。後悔の念しかない。 「随分苦い顔をしているようですが、うちのクラスに顔を出すとか沙沙貴姉妹の部屋に押しかけようなんて真似はしないでくださいよ」 「……分かっているさ」 絞り出した声に、どうだかと言いたげな目つきで八重垣君は見上げていた。 「沙沙貴姉はともかくクラスでは白羽が上手くやっているんです。御破算にはしないでほしい」 「……林檎を庇っているのか。今は大事なときだろうに」 立候補もまだだが、上手くいけばこの後選挙となり投票が待っている。当然だが林檎を庇うのは大きなマイナスだろうに。 「……あいつは自分を卑下しますがね」 「うん?」 「白羽の長所は、貧乏くじを引けるところですよ。分かっていてそれが出来る」 「……自分の評価を下げると分かっていても?」 「そう。分かっていても、です。馬鹿だから熱いかまどに手を突っ込むんじゃない」 「分かっていて貧乏くじを率先して引くやつだから――」 特別なんだ、と続けた気がした。我に返った彼女は頬を赤らめ、頭をガリガリと掻き言葉を飲んでしまったが。 「八重垣君も大分、貧乏くじを引いているように見えるけどね」 「わたしのは面白がりなだけですよ。それでいて刹那主義なだけです。で、これもただの面白がりからの提案があるんですがね」 にっと意地の悪い猫の笑みを浮かべた彼女は、私を手招きした。 「悪巧みかい?」 「こいつは厚意ですよ。沙沙貴妹の憔悴しきった顔をみるのは忍びない。だから――」 耳打ちされた提案に驚き、緑青色の瞳を凝っと見つめた。 窓から真意を探った私は―― 「その提案。是非受けさせて貰うよ」 まるで“ハリーとヘンダスン一家”だと彼女は言った。 実に満足そうな表情を湛えつつ、声だけは揶揄を込めて。 彼女の発言の真意を知る為には、“ハリーとヘンダスン一家”という映画(後にドラマ化された)を説明しなければ為らない。 1987年に制作されたその映画は、平凡なアメリカの家庭“ヘンダスン一家”がキャンプからシアトルの自宅へ車を飛ばして帰る途中―― “何か”をはねたところから始まる。 轢かれたのは伝説の怪物、“ビッグフット”だった。 一家は轢き殺してしまったと思い家へと連れ帰るが、死んではおらず、蘇生したビッグフットは家で暴れ回る。 何とか意思疎通を図り、一家はその怪物に“ハリー”と名前をつけこっそりと面倒を見ることにした。 次第に親しくなるも、近所の住人に“ハリー”を目撃され―― 「つまりそれってどう言う意味なのです?」 説明する私へ、小首を傾げ尋ねる彼女へ言った。 「八重垣君は僕へとある提案をした。絶対に見付からない逢い引きの場所として、“彼女たちの部屋を貸し出す”と、ね」 そう、落ち込み針のむしろの林檎を気遣った八重垣君の申し出は、 「つまり八重垣君と考崎君が“ヘンダスン一家”で、僕と林檎が匿われているビッグフットの“ハリー”ってわけさ」 言葉通り、自分たちの部屋を提供するという申し出だったのだ。 「……本当にいいのですか?」 目をぱちくりとさせ、にやつく八重垣君を見遣り驚く彼女。 「構わない。ここであと二年以上やっていくのに貸しはできるだけ作っておいた方がいいからな」 「憎まれ口を叩かないの。気にしないでいいのよ。ゆっくりしていってね」 滅多に見せない考崎君の微笑みに、パッと表情を明るくさせた。この顔を見ただけでも申し出を受けた甲斐があるというものだ。 「夏頃は、お前の方が怪物役のハリーだったんだけどな」 「え?」 「ビッグフットのハリーはベジタリアンで野菜しか食べないんだよ。まさにはまり役だろ?」 「出会った頃を言っているならね。ヘンダスン一家みたいに匿うなんて優しいところ一つもなかったじゃないの!」 ワイヤーの先端のような目で腰を手にやり睨む考崎君と、いつもの猫の笑みを浮かべた彼女。 「ふ、ふふふっ!」 「お?」 「何?」 「クラスにわたしを気遣ってくれる人がいて……。本当に嬉しかったのです。ありがとう、八重垣ちゃん、チドリン」 「ぅ……」 二人の手を取り真っ向から感謝する林檎へ言葉を詰まらせ戸惑うも。 「気にするな、ただの気まぐれさ」 「ふふ」 純粋な感謝の意が伝わったのだろう。顔を背けつつ頭を掻いた。 「僕からも礼を言うよ、八重垣君。考崎君」 「わたしの真意は話したでしょう。別に構いませんよ。ただ――」 「うん?」 「ベッドを使うなら千鳥の方にして貰いたい。この足だとシーツを交換するのも骨なんでね」 「え、ぁ! ぅぅ……!」 意味を悟った林檎が名の通り赤面し恥じらった。私は、分かったそうするとしようと嘯く。 「えりか」 「何だよ、冗談くらい――」 「そう。八代先輩たちに私のベッドを貸すということは、えりかのベッドでアミティエ同士親密な触れあいをしたいということね」 「え、はっ?」 「遠回しに求めなくてもいいの。私はいつだって構わないのだから」 「な、何をだよっ!」 林檎の頬を染めていた朱が移ったかのように赤面した八重垣君が吠え、考崎君も、林檎も笑った。 (私は佳い後輩に恵まれたな……) 困った時に手を差しのべてくれる友が―― (……ネリー) 「それじゃせっかくだからコーヒーを淹れましょう。林檎さんはコーヒーは大丈夫かしら?」 「ミルクとお砂糖が入ってるなら……」 「ふふ。私も甘いコーヒーの方が好きよ。えりかはブラックよね?」 「分かっていて聞くな。わたしも甘いヤツに決まってるだろ。甘くないコーヒーなんてコーヒーじゃない」 注文を付ける彼女に考崎君は笑みをこぼし、ミルへと向かった。 「コーヒー通の八代先輩の前でいう台詞じゃなかったですね」 「何、僕はどんなコーヒーも愛している。僕の愛は広いのさ」 なるほど、と一つ頷き、 「ま、こんな状況になっているんだ。そうだよな」 と呟いた。 「…………」 「ぁ、いや、何だ……。別に煽ろうとか、からかってるわけじゃない。わたしも、ほら」 豆を挽く考崎君を顎で指し、 「な、分かるだろ?」 そう告げた。 (女性同士の恋、か……) 同性愛者だと自覚している私はともかく、八重垣君たちや、林檎はどうなのだろう? そう刹那想う。 此は、この感情は今だけの麻疹のようなものなのだろうか。学院を離れてからも続くものなのだろうかと。 「そ、そうだ。せっかく部屋を提供したんです。是非惚気を聞かせてくださいよ」 「惚気?」 「沙沙貴妹の何処が気に入ったかってことですよ」 僕を好きなところだよ 一緒にいて落ち着けるところ 困った末、振ってきた恋バナに、 「そうだな……」 「ぁ……」 「僕を好きになってくれたところだよ」 と言った。八重垣君に会わせた軽口だったのだが。 「…………」 唇を一文字に結んだ彼女を見て、しまったと胸の内で叫んだ。 「今の言い方だと告白してくれた相手なら誰でもいいって事になりますよ」 「ぁ、いや、そうじゃないんだ。今までだって随分と告白は受けてきたしね。その……」 「お、モテ自慢ですか」 「違う。僕も女だ。愛するより愛されたいってだけさ。お互い想っているのは大前提としての話だよ」 そう告げると、林檎の顔にも朱が戻り、はにかんだ。 「嬉しいです……」 「やれやれ、ご馳走様だ」 沙沙貴林檎の好きなところ―― (今更ながら……考えたことが無かったな) 顎をさすり熟考する。 「お、悩まないと出てこないとか?」 「え……」 「違う。改めて考えたことが無かったからだよ。好きなところはたくさんあるが……」 「……たくさん、あるのですね」 「これだというものは……。ううん……」 悩み、頬を染める林檎を見遣る。そうだ。 「――一緒にいて落ち着けるところだな」 「落ち着ける? 何だかありきたりな理由ですね」 「ありきたりという事は万人にとって大切な事柄だってことだろ?」 「……嬉しいです」 期せずして告白したような形になり、私も顔に、頬に熱を感じた。 ご馳走様です、と八重垣君が茶化すのを返せないくらいには。 頬を染める林檎は恥ずかしげに私を一目する。 見上げるその視線に刹那絆された。 (そうか、そうだな……) 私ですら、皆の目に疲弊していたのだ。林檎の小さな胸の内を思うと憐憫の情がわく。 「林檎……」 「…………」 何も言わぬまま見上げた目に引き寄せられ―― 「あら?」 コーヒーの芳ばしい香りに私は、此処が八重垣君たちの部屋だということに、少しの間本気で忘れ今更ながら気付き慌てた。 「自由に使っていいとは言いましたが、人目を少しは気にしてほしい」 「……すまない」 顔から火が出る思いだ。八重垣君はアミティエからコーヒーを受け取ると、 「実は、もう一つ提案があるのですけどね」 「何かな」 「鍵がニカイアの会預かりなら最高なんですけどね」 「そいつが前提でもう一つ、此処よりも気兼ねなくデートができるところがあるんですよ」 手招きする彼女の口元へ耳を傾けると―― ――結論から先に告げると、八重垣君の告げた部屋の鍵はニカイアの会預かりのものだった。 それはつまり―― 「やりたい放題できるってことだ」 「ふふ」 正直何故思いつかなかったのかと思う。 聖堂の地下劇場、ヨゼフ座は行事がなければまず開けることはない。 そして鍵は一ヶ月に一度の清掃を任されているニカイアの会の預かりだ。 「……初めから此処でデートをしておけば佳かった」 「でも、視聴覚室で映画を見たりとか、飼育小屋で一緒に餌遣りをしたり愉しかったです」 「思い出は何物にも代え難い」 私の膝の上に座った林檎が朗笑をたたえ頷く。 誰の目にも止まらず自分をさらけ出していい場所だからか、このヨゼフ座をデートの場所にする時の林檎は積極的だった。 「譲葉先輩の胸、すごく落ち着きます……」 「ふふ、そうかい。なら大きく実った甲斐があった」 膝の上に乗った林檎が背もたれになっている私へと身を預ける。彼女の小さな頭は私の胸の谷間に収まる。 「心臓、とくとくいってますですよ」 「緊張しているのだよ。僕も乙女だ」 腿に感じる小ぶりだが瑞々しい弾力を持つお尻の感触。そして未発達な少女特有の匂いも、このヨゼフ座という場だからか強く感じた。 「この体勢も素敵ですけど、向き合った方がもっと素敵な気がしますですね」 「向き合うって……」 彼女を抱えるようにして抱き合う形になってしまう。想像するだけで扇情的だ。耐えられない。 「……僕はこうして林檎の体温を感じているだけで幸せだよ」 「これくらいなら八重垣ちゃんの部屋でもできるですよ?」 「自分から貸し出す旨を言ってきたのだから文句はつけないだろうが……僕が耐えられないよ」 初めて自分の感情を大っぴらに出せるように為ったとはいえ、まだ私の中での抵抗がある。 簡単に口付けたり、抱きしめたりはできない。 「姉に――苺姉ぇに気を遣っているからですか?」 「それは……」 口ごもってしまう。何と言えば佳いか分からない。 鼓動を聴いている彼女に私の本心が漏れているような気がして身を縮込ませたい気分だった。 「……譲葉先輩は優しいですね」 (臆病なだけさ) そう言いたかった。臆病ライオン。私の脳裏に彼女の―― 「譲葉先輩は今まで好きに為った人はいたのですか?」 父かな、頼りになる人だった あまり喋りたくはない 浮かんだ虚像を消し、 「父、かな」 「奇遇ですね。わたしとしてもお父さんが初恋の相手でしたよ」 「女の子の初めて通る道なのかもしれないね」 嘘だ。父は尊敬しているが、私は意識してからずっと女性にしか恋心を抱いたことはなかった。 (私と林檎の差……) 異質なのは自身だと分かってはいても、どこかうら寂しい気持ちに為った。 脳裏に浮かんだ彼女の影が強すぎ―― 「あまり話したくはない、な」 と言った。 「ごめんなさい。話しづらいことでしたか……」 「……ごめん。僕がいいなと思うのは皆女性だったからね。あまり理解されないかと思って……」 「わたしとしても譲葉先輩が好きです。同じですよ!」 見上げ抗議する彼女へ、ありがとうと答えた。 「それに、その……。八重垣ちゃんが言ってました」 「女性同士の恋はおかしいものではないと。キリンの9割は同性同士で付き合っているのだって」 「あ、オットセイなんかも同じだって言ってましたですよ!」 (それは多分、励まし20、揶揄が80くらいのノリで言ったのだと思うぞ) とは思ったが口には出さなかった。 「慰めてくれてありがとう」 告げると、見上げていた林檎は微笑み、再び私の胸へと頭を埋めた。 「……こんなに満ち足りた日がずっと続けばいいですね」 ヨゼフ座での林檎との逢瀬は率直な言葉と態度。 八重垣君、考崎君の部屋では余所向きの顔を少しはすることになったが―― 私たちを理解してくれる者たちとの会話は愉しく、林檎の言う通りずっと続けば佳いと思った。 ……だが結局のところ、逃避は何も生み出さない。 逃げ回って先送りにしたツケというのは必ずやってくるものなのだ。 初めに交わした言葉は何だったか、 “噂話も七十五日という。もう少ししたら立ち消えるさ” そう私が軽口を叩いたことは覚えているから、林檎とのことだったのだろう。いや、 今私の頭の中で疑問符が浮かんでいる事はそれらとは別だ。落語で言えば、いわば話の枕に使われたようなもの。 思いがけぬところから頭を殴りつけられたような気分に為ったのは―― 「ウェンディゴだって?」 問い返す私へ、元々そういった話が苦手な彼女はおさげを萎びさせながら答えた。 「ええ。八代先輩の耳には何も入っていないのですか?」 お気に入りのトマトソースのラビオリが一段不味くなった気がした。 ほうれん草を練り込んだ鮮やかな緑色のラビオリには罪がないのだけれど。 「……あれはもう解決済みの案件じゃないか。また――」 「…………」 「その顔だとまたぞろ七不思議のウェンディゴが現れたようだね」 花菱君はどこか気まずそうにおさげを弄りながら、 「実はこの間、ニカイアの会の方と話していて、そこでウェンディゴのお話が出たのです」 と言った。おそらく会長へ立候補するための推薦を受けた相手、会計か監査との対話でのことだろう。 「……一時期噂にはなっていたけど、立ち消えていて……。でも目撃した人がまた現れだしたと憂鬱そうに仰って……」 (どういうことだ?) 七不思議の一つ、森を彷徨うウェンディゴの正体は方喰寮長だった。 そして噂の元となった子だぬきの怪我も治り、もう軽はずみなことはしないと言質をとった。なのに……。 「あの……」 「うん? どうしたんだい?」 「もしかしてわたし……何か拙いことを話してしまったのでしょうか……?」 「いや、情報提供、有り難いよ。最近は誰もまともに口を利いてくれない。ニカイアの会ですらこの通りだしね」 「八代先輩……」 緊急性を持たないこと故、私の耳に入れてこない。雑事だと思っているのだろうが……。 今までならこういう愉快なことは私へ、いの一番に伝えた筈だ。 「……そろそろ身から出た錆とはいえ、ニカイアの会だけでも正さなければ為らないかな」 「ぁ……」 「ありがとう。生徒会選挙うまくいくよう祈っているよ」 言い、フォークで刺したままになっていたラビオリを食す。だが、好物な筈のラビオリはどこか苦く感じたのだった。 「……やはり方喰寮長ではない」 花菱君から聞かされたウェンディゴの話。 気になった私はその足で――という訳にはいかなかったが、ニカイアの会が終わり次第、話を聴きに向かった。 (方喰寮長は否定していた。では誰がウェンディゴを演じている?) 廊下の窓から夕映えに染まる景色を眺める。窓からはよく手入れされた芝生と防風林の役割を果たしている桜の木が目に留まった。 枝には鳩が一羽止まり、散文的な瞳で辺りを見回していた。 「……ニカイアの会から得た情報だとまた“白い影”を木々の合間に視た、と。……だが」 あの白い影の元は方喰寮長が自作したズダ袋だ。では今度の白い影とは? (方喰寮長の瞳から〈部〉《・》〈屋〉《・》を覗いたが、嘘を吐いている節はなかった。なら――集団心理のようなものか?) 一度噂として流れていたウェンディゴ。 誰かが弱気の虫から再度視てしまった、という話が一人歩きし私も視たと連鎖していった……。 「娯楽の少ないところだ。そんなところかもしれないな……」 話を聞くも未だ事件性はない。噂は広まってはいるものの教諭たちから問題視はされていない。 「――僕の出る幕はなさそうだ」 害なきものとして判断する。大きくため息を吐き、茜色に染まった鳩を眺めた。平和の象徴。 だが――私の楽観的な考えは最悪の形で裏切られることと為ったのだ。 あの日、何時ものように聖堂前へと待ち合わせた午前零時。 “沙沙貴林檎が私の前へと来ることはなかった” 約束の時間ぴったりに聖堂前へと着いた私。 いつもなら私よりも早く聖堂前で待っている筈の彼女がいない。 少し前に短くはあったが強い雨が降っていたことで道はぬかるみ、待ち合わせの聖堂へと来ることが遅れているのだと考えたが……。 約束の時間を10分過ぎ、20分過ぎ、流石におかしいのではと胸騒ぎがした。 30分を過ぎたことで胃の腑が金具で締め付けられたような気分に為った。嫌な予感だ。 そして私の嫌な予感は外れる事はない。 ぬかるみに足を取られながらも寄宿舎へと急ぎ駆けた。 寄宿舎へ向かう最中、 “聖堂へ来る途中、雨に降られて戻った?” “いや、雨が降っていたのは9時頃から11時頃までだ。待ち合わせの時間を考えれば急な雨に降られるということはない” “まさかウェンディゴにでも遭遇して?” 幾つもの嫌な推測が浮かび、浮かぶほどに気は急き彼女の元へ急いだ。 そう、 生徒等の目が気になるという理由から、行くことを止めていた沙沙貴姉妹の部屋に踏み込んだのも嫌な予感に後押しされたからだ。 「ゆ、譲葉先輩……!?」 林檎と交際を始めてからまともに顔を合わせていなかった苺君の姿と声を聴き、少しだけ落ち着いた私は、 「林檎はもう寝てしまったのかい?」 そう彼女へと尋ねた。いつもの名前呼び。 頭が温かくなっていた私は言葉にだしてから、彼女へと酷く残酷な真似をしている事に気付き口ごもった。 「は、はい。もう寝ています……」 一瞬喩えようもない程、悲しい表情を見せた苺君は三段ベッドを指さす。指の先を見遣ると―― 「……攫われていなかったか」 一番下のベッドに寝ている林檎の姿を認め、ようやく胃の腑の金具が外れた気がした。 私の嫌な予感も外れるのだ。 つい寝入ってしまって遅れたのか、そう安堵するも……。 (何だ……?) 困ったような、どこか怖がっているような林檎の表情を視、違和感を覚えた。一度見たものは忘れない私の記憶。 ……そうだ。 (……林檎のベッドは下段じゃない) ……一番上を使っていた筈だ。 頭の中に浮かぶ間違い探しのピースが埋まり、私は誘われるように彼女の元へ。 寝台から身を起こそうとした瞬間、 「いっ、ぅぅ……!」 顔を顰める林檎へ、推測が当たってしまったのだと毛布を剥いだ。 「ぅ、く、ぅぅ……」 足首に巻かれた包帯。身じろぎしただけで痛みが襲うのだろう、唇を噛みしめていた。 「何があったんだ!?」 私はつかみかからんばかりの勢いで訊ねていた。 「そ、それは……その――」 「転んだだけ、ではないだろう? それだったら隠す必要などないからな。一体、何が――」 「お、襲われたんです……!」 「何……?」 「聖堂で譲葉先輩を待っている時に……」 怯えながら苺君が説明してくれた話はこうだ。待ち合わせの30分前に着くよう、聖堂へと向かった林檎。 ぬかるみに気を付けながら歩き、聖堂前の石畳で持ってきた本を読みながら私を待っていると―― 「……襲われた?」 「はい。それで足を挫いてしまったものの何とか寄宿舎まで戻ってきて……」 「わたしはたまたまロビーにいて、戻ってきた林檎を見付けて保健室へ――」 妹の為に肩を貸してやったのだろう。以前と変わらぬように姉妹の仲が戻ったのではないかという思い。 そして、 「大丈夫です、挫いただけで折れたとかじゃないですから」 気丈に微笑んでみせる林檎を見て、肌がざわざわと粟だった。寒気にも似た感覚に、私は己が怒っているのだと気がついた。 属するものを求め、林檎から距離を取った者たちへと。 想像の中の生徒らは――口だけ嫌らしく三日月を描き、目も、鼻も、眉もない、悪意の象徴だった。 「……待っていてくれ。僕がそいつを捕まえてくる」 腹が煮えた私は林檎の言葉を待たず、とって返した。 襲われた現場と為った聖堂前に着く前から、否、捕まえると林檎へ宣言する前から分かっていた。 「クソ……ッ」 林檎を襲った犯人がその場に留まっている訳がない。此処に戻ったところで何も得るものがないということも。 だが、 「畜生……ッ」 粟だった肌が、ささくれだった心が冷静でいさせてはくれない。 聖堂の周囲、中を探してはみたが、犯人は、証拠と為るものは何も見付けられなかった。 唯一、襲われた跡として残っているのは、聖堂前に残ったぬかるみの足跡だけ。 苛ついた気持ちを深い呼吸で全て吐き出すと、地面を注視する。 「……此奴は」 こちら――聖堂に向かう足跡が二筋、出て行く足跡が一筋。どれも同じ靴、同じ大きさ。 (やはりそうだ) 林檎との待ち合わせに出向いたとき。そして彼女が来ず、戻ったとき。そして今、此処へ来たときの――私の足跡だけが地面に遺されていた。 つまり―― 「……初めから計画的に林檎を襲うつもりだった」 逃げようとした林檎の足跡と一緒に付いてしまった“己の足跡の形跡を消した”のだ。 突発的ではない用意周到さにまた〈腸〉《はらわた》が煮えかえる。 「……クソッ」 発散することができない怒りに壁を叩くと、私は気落ちし寄宿舎へと戻ったのだ……。 肩を落とし寄宿舎へと戻った私は、暗く静まり返ったロビーを眺めた。 私の心を癒やしてくれるアクアリウムは電源が落とされ、熱帯魚も眠りについている。 己のふがいなさを宥めてくれるものは何もない。 私はふらふらと、林檎のよすがを求めるように下駄箱へと足を向けた。そして、 林檎の可愛らしい小さな靴は、左右ともに泥がべったりと付いていた。 ぬかるみの中、足を引きずり戻ってきたことを連想させるように靴底は泥が付着し、表面にも痛々しく泥がはねている。 「……僕の所為だ」 今は距離を取られ、ないがしろにされていたとしても、それも時が解決すると思っていた。 それまでは、八重垣君の提案通りにしていればいいと……。 (私の見込みが甘い所為で彼女を傷つけた) 手のひらに爪の跡が残る程に拳を握ると、私は懺悔を告げ終えたのだ……。 そう、数日前に起きた事の顛末。私の懺悔を耳にしていた相手は―― 「そんなことが……」 「……大体、耳にした通りだな」 活字に目を落としてはいたが、八重垣君はそう言うと本を閉じ、顎を撫でながら私を見詰めた。 「沙沙貴妹が襲われた話の流れは噂で流れているのとそう変わりない。泥で汚れた靴や足跡が消されてたってのは初耳ですけどね」 「……安楽椅子探偵は犯人が分かったかい?」 八重垣君は猫の笑みを浮かべ、ええと大きく頷く。考崎君も私も身を乗り出すと、 「犯人は七不思議の一つ“〈鐘楼〉《しょうろう》のルーガルー”ですよ。狼男が犯人だ」 そうにこやかに告げた。私は、 「そんなことは分かっているよ」 と言った。 “鐘楼のルーガルー” 今、もっとも学院で関心を持たれている話題だ。 「それって林檎さんが言っているのよね。自分を襲った犯人がオオカミのような毛並みを持った怪物だって」 「そう。いまやウェンディゴの影も形もない。 ルーガルーに取って代わられた。“鐘楼のルーガルー”新しい七不思議の一つだ」 そう、“寄宿舎のシェイプシフター”“血塗れメアリー”“物言わぬ真実の女神”“碧身のフックマン”“彷徨えるウェンディゴ” その中に新たな七不思議の一つとして、“鐘楼のルーガルー”という古い七不思議が持ち出されたのだ。 (だが勿論、狼男が犯人なわけはない) 沙沙貴林檎は庇っているのだ。自分を襲った犯人を。 嫉妬から自分を襲ったのが学院の生徒だと、優しい林檎は言えなかった。 だから、己の知識から知り得ていた“鐘楼のルーガルー”という化け物を作り出し犯人役とした。 「でも、聖堂にそんな怖い逸話があったなんて驚いたわ。聖堂にしか現れない七不思議の怪異なのでしょう?」 「まぁな。森を彷徨うウェンディゴよりも、鐘楼のルーガルーの方が襲われる場所にしたら頷ける。聖堂はもう“森”ではないしな」 笑みを浮かべながら言葉を返す八重垣君に、少しだけ違和感を覚えた。 「……君も林檎がルーガルーに襲われたと思っているのかい?」 「まさか!」 「それじゃ――」 何でそんなに笑っていられるんだ、と口を開き掛けた私へ、 「ただ、こいつは怪我の功名だと思っていますよ」 と続けた。 「……怪我を負って、何が佳い結果だと言うんだ」 「おっと、そんなに睨まないでくださいよ。ただ、今までとは空気が変わったってことを言いたかったんですよ」 「何を……」 「学院の皆もルーガルーに襲われたなんて本気で信じちゃいないでしょう。でも、状況から襲われたのは確かだ」 「今まで沙沙貴妹に辛く当たっていた者も、距離を取っていた者も、今度の一件で溜飲が下がった」 「いや、違うな。可哀相ってな風潮になった」 「怪我人に強く当たっていては自分が悪者に為るってことか……」 「ま、そういうことです。これで沙沙貴妹の状況も好転するでしょう。だから怪我の功名なんですよ」 なるほど、と考崎君は大きく頷く。私も―― (怪我させられたことには〈業腹〉《ごうはら》だが……) 八重垣君の言う通り、災い転じて何とやらというやつだろう。 だが、 (赦す赦さないは別の話だ) 林檎は庇っているが、現実として彼女を害した者が学院にいる。 被害者である林檎が“鐘楼のルーガルー”という怪異を持ち出したことで―― 犯人像が不審者ではなくなったことから学院側は様子を見るという立場を取るようだが、私はそいつを良しとしない。 「――狼狩りだ」 ――狼狩りだ と、犯人捜しに気合いを入れてみたはいいが……。 「まいったな……」 距離を取られているという事がこれ程、足枷になるとは思っていなかった。 話を聞こうとするも、そもそも私へ近づいてこない。まるで小魚が気性の荒いナマズに怯えるように、だ。 この学院に、いや……今の私でいようと心に決めた時から私の周りから人が絶えることはなかった。 だから少しばかり今の状況は堪える。 「……今まで特に自分から話しかけようとは思わなかったものな」 自重していたからこそ、避けられている現実を見ないで済んでいたのだ。 重要な物事や、日々の連絡事などは受けていた為、自分が見えていなかった。 寒々と身を縮こませている校舎を見遣る。重いため息を吐き―― 「何をやっているの」 自分の不甲斐なさを悔やんでいる私の背へ、彼女の声が叩き首を一つ掻くと緩慢に振り返った。 「分かっているよ。そんなに急かさないでも行くさ」 「急がないと皆、寄宿舎へ戻ってしまうわ」 「ああ」 「さ、早く向かいましょう」 分かったよネリー、と心の中で付け加えた。 そう――避けられていた。否、私からも避けていた彼女が何故、私の手を取っているのか? 時間は少しだけ遡る。 林檎が襲われた聖堂。 狼狩りを決意した私は、朝早くもう一度聖堂の周りを改めて精査してみた。 数日経っていることで私だけしか残っていなかった足跡はもう消えてしまっていたが……。 現場をカメラに収め、聖堂の周囲に犯人が残していったものはないかと目を皿のようにして探し回った。 林檎が襲われた日の――暗夜の捜索よりもはかどったが、結局の所、犯人を特定する証拠は得られなかった。 昼となり皆へ話を聞こうとしたが――思っていた以上に腫れ物扱いなことに気付かされた。 有効な手を打てないまま放課後を迎え、ニカイアの会の雑事を手早く済ませると、再び捜査へと戻った。 そこで―― (〈尾〉《つ》〈行〉《け》られているな……) 一定の間隔を置き、私を監視する目があることに気がついた私は、人目のない場所へと赴き、 「……姿を見せろ。尾行ているのは分かっている」 バラの茂みの奥に潜む相手へとそう告げた。しばし返答を待つも、 「僕を監視しているのは何のためだ」 相手からの応答はなく、 「林檎を害した者か」 付け回している者から反応は全くみられなかった。 (これで私の気の所為だったら、病気をこじらせたおかしなやつみたいだな) 自嘲しながら、花木の手入れに使いそのままにしておいた軍手を拾うと、裏返しにし二枚の軍手を一つにまとめ丸めた。 「一応言っておく。避けた方がいいぞ」 以前、八重垣君が熱心に語ってくれたマサカリ投法を真似、足を振り子のように振り上げ目算をつけていた茂みへと―― 「わ、わっ!?」 「――でもあの時は驚いたわ。急に投げてくるのですもの」 放課後、部活棟へ残っていた生徒等へ情報を聞き出し、次のクラブへと向かう道すがらネリーは言った。 「正直、常ならしない行動だけどね。付け回されて少し気が立っていたんだよ」 「付け回すだなんて……! 話しかける機会をうかがっていたの。だって、その……」 立ち止まり、何故だか頬をバラ色に染めた。 「譲葉の頬を叩いてしまったから、顔を合わせづらくて……」 ここでその話題を出されるとは思わなかった私は思わず硬直するも、 (……いや、此奴はこういうヤツだった) 常に私の心をかき乱す存在だったとシニカルな笑みを浮かべてしまう。 「ぁ、叩いたことやっぱり怒っているの、譲葉?」 「違う。変わらないことが嬉しいんだよ」 「変わらない?」 「温室で、僕へ林檎を襲った犯人を見つける為の手助けをしたいって言い出したことだよ。僕ならそんな申し出はできない」 「沙沙貴林檎さんが怪我をしたのは私の所為もあるのだもの。襲われたと聞いて黙ってはいられないわ」 胸の上で十字を切り、 「私が譲葉と沙沙貴林檎さんとの仲を認めると皆へ言っていれば、こんな事には為らなかったのだもの……」 悔やみ告げる。心から思っているのだろう。目の窓を覗くまでもない。 (仲を認める、か) ネリーの言葉が胸の奥にある何かを強く揺さぶる。油断すれば決定的な言葉を口の端にこぼしてしまいそうになる。 だが、 「ありがとう。正直、手を貸して貰えて助かる。今の僕は仇役だ」 わざと戯けてみせる。ネリーは口元を押さえ上品に笑った。 「別に仇だなんて思っていないと思うわ。ただ皆、戸惑っているだけよ」 「……属するものかどうか決めあぐねている」 私の言葉は耳に届かなかったのか、ネリーは私の袖を引くと、 「さぁ、林檎さんの為にも次のクラブへ向かいましょう!」 袖を引かれながら心が弾んでしまうことに、嬉しさと罪悪感を覚えながら手を引かれるままにしたのだった……。 ネリーの淹れてくれたコーヒーを受け取りカップを傾けた。 「……落ち着くな」 ブラックは好まないが、苦みと丁度佳い温かさが冷えた身体に染み渡り、頭と心を立て直してくれた。 「コーヒーは心を穏やかにさせてくれる」 「成分として」 「心の栄養としてよ。それで別れて話を聞き出すとなってから、誰とお話ししてきたの?」 私では情報を容易に聞き出せないと分かっていたから一緒の行動を提案してきたのだ。当然の質問。 「そろそろ養護教諭が帰ってしまう時間だったのでね。話を聴きに行ったのさ」 ネリーと行動を共にし、頭が冷えたからこそ思いついた事。 生徒等はともかく、学院に従事する“教職員・スタッフ”に関しては話を聞けるのではないかという事。 「そう、確かに先生方なら……」 「いち生徒の恋愛事情には首を突っ込んでこないだろ? で、養護教諭からは確かに襲われたあの日――」 「深夜12時近くに苺君に連れられた林檎を治療したと言質を取った。怪我の具合は酷い捻挫。しばらくは歩けない程、重症だそうだ」 「そう……。余程襲われた時慌てたのでしょうね」 「深夜の聖堂での待ち合わせ。ロケーション的にはゴシックホラー映画でありがちな一場面だものな。僕でも襲われたら肝を潰すさ」 だからこそ赦せない。 それで、とネリーへ水を向けると学院の年鑑が書かれたファイルを取り出し、机の上に広げた。 「私が調べたのは“鐘楼のルーガルー”の言い伝えよ。年鑑でも調べて見たけれど、ルーガルーについての表記はほとんどないわ」 「ああ、僕も調べた。確かに他の七不思議とくらべて驚くほど少ない」 「だから長く勤務されている教諭やスタッフの方に話を聞いてみたの」 「すると、話が聞けたのは聖堂に住む狼男で、出遭うと攫われるということ」 「今までの七不思議の怪異と一緒だ」 「ええ。でも、何というかお話のディティールが薄いの」 「ただ“出遭うと攫われる”とだけ。一人だけ、真夜中に鳴らないはずの鐘の音が聞こえる時にルーガルーが現れると聴いたけれど……」 「一人だけなら確かな要素でなく、佳くある怪談話の尾ひれのように思えるな」 「私もそう思ったわ。この鐘楼のルーガルーだけ骨子のようなものがない。どこか、おとぎ話のようにも聞こえる」 確かに、と頷く。 コーヒーを嚥下しながら、なら何故と疑問符を抱いた。 「何故、今更“鐘楼のルーガルー”という七不思議が現れたのかしら……?」 (確かに、林檎が狼男に襲われたと言ったとはいえ、噂が浸透するのが早過ぎる) 学院年鑑を紐解いてようやく見付けたような怪異だ。何故、こんなにも早く皆へ―― 「ねぇ譲葉。もう一度聖堂を見に行ってみましょう」 林檎と幾度となく逢瀬を交わした場へ、ネリーを伴い行くことに気が引けたが……。 「さぁ、検分を終えたらまたコーヒーを淹れてあげるから」 そう朗らかに告げるネリーに逆らえるはずはなかった。 「この石畳のところで譲葉を待っていて、襲われた……」 冷え冷えとした茜色の残映が目に沁みる。瞳を細め、聖堂を見上げた。 「鐘楼のルーガルー……。身を潜めると言っても、聖堂周りの森か、地下劇場くらいしかないだろうに」 「鐘楼には? 鐘を鳴らす機械はあるのだろうし、機械を置くスペースがあるのなら潜めないかしら」 かつて己の足跡だけ残した地面をかかとで叩き、 「無理だな。鍵は教諭方が厳重に保管しているし、鐘楼に通じる扉は年に一度、整備の際にしか開かない」 そう告げた。ネリネは何度も聖堂の周囲を検分し頬に手を添え瞳を細めた。 「……やっぱりおとぎ話のような印象ね」 「実がなさ過ぎる?」 「ええ。譲葉の話を聞くと、余計にそう思えてきたわ」 「例えば……そうね。夜遅くに聖堂で逢い引きするような人を咎める為に流したとか」 「耳が痛い」 「ごめんなさい。でもしてはいけないことを暗に咎める為の装置のような気がするの。夜爪を切ると親の死に目に会えない、とか」 「それって昔は灯りが薄暗かったから深爪しないようにするための方便だろ?」 「ええ。そのものつまり方便よ。別の例として挙げるなら、鐘楼に登ろうとする生徒が多かったので学院側で流したとか……」 陰謀論めいてきたな、と笑うと眉を顰め恨みがましい目つきに変わった。 「茶化しているわけじゃない。だが、実際として襲われたんだ。夜更かしをする子供にお化けが出るぞと脅かす話で済んでいない」 怪我人が出ている、と繋げる。そして、その犯人は現場に足跡を残していなかったとも。 「足跡が……?」 「用意周到な相手さ。まさか、足跡を消すことで幽霊が相手だと思う、とでも考えたのかね」 シニカルな笑みを口の端に作るも、 「……そう。譲葉の足跡だけが」 眉間に皺を寄せ、熟考する癖である耳に触れているのを見――嬉しさを感じた。 (こんなにも親身になってくれるなんて……) 変わらぬ親友の姿を視、私は少しだけ心の平穏を取り戻したのだ……。 単純な事件だと思っていた訳ではなかった。 ただ此程までに難航するとは思っていなかった。 “鐘楼のルーガルー”事件の為、解決しようと奔走してはみたが……。 「――まさか此処まで避けられているなんてね」 そもそも事件の情報を得ようと話を聞き出そうとしても、まともに取り合っては貰えなかったのだ。 今まで林檎とのことがあったから率先して皆と触れあおうとはしてこなかった。学院の雑事でのやり取りは必要最小限に抑えていた。 それ故――自分が距離を取られている実感を得ることがなかったのだ。 (まぁ、転校を繰り返していた時に比べれば大分マシだが) あの時と比べればどうという事はない。問題なのは情報を得るための会話がままならないという事だ。 どうしたものかと冷えた額に人差し指を添えた。 「……僕側にも問題がないとはいえない。だから脅して話を聞き出すのもナニだしな」 自分自身は探偵役として見込めない。となると私以外の目と耳になって貰う人物が必要だ。 (ネリー……) 思わず常に私を助けてくれた彼女を思い浮かべるも……助けてくれと言える立場ではないし、請う勇気もない。 ならば、 「探偵に頼むしかない、か」 私が一目置いている彼女。いや、彼女のアミティエの花菱君も多くの生徒らから信頼を得ている。助手として優秀だ。 「車椅子の友人なら、ダサイというところだろうが……」 林檎の為だと己へと言い聞かせ、足を放課後の図書室へと向けた。 正直、予想しないではなかった。 図書室を前にして、今まさに扉を開けた彼女を見て―― 「……蘇芳君の友人だものな」 「譲葉先輩!」 回れ右しようかと悩む間もなく、 「蘇芳ちゃんに会いに来たんですか?」 そう、沙沙貴苺君に捕まってしまった。 「ああ。少し野暮用でね」 「ニカイアの会の選挙のことで、ですか?」 生真面目な顔をして頷く。積極的に声を掛けてきてくれた彼女でなく、私は妹を選んだ。 八重垣君の話では分かり易い態度は取ってはいないまでも、姉妹の間によそよそしい風が吹いているという。私の所為だ。 「図書室にはいないのかい?」 「はい。わたし的にも用があったんですけど……」 そうか、と再度頷く。変わらぬ私への対応。妹のことで私への態度を変えるつもりはないようだ。 いつものニカイアの会の会長。トリックスターの八代譲葉の仮面を被る。 「そうか……。蘇芳君がいないのでは仕方ない。別のところを探すとしよう」 踵を返す。と、 「ニカイアの会の選挙のことで蘇芳ちゃんに用事だって言ってましたけど、本当は林檎のことで相談に来たんじゃないんですか?」 正解を引き当てられた。 「どうしてそう思うんだい」 「林檎が襲われた事件……譲葉先輩が黙っていることができない人だってこと分かっています」 「それで事件のことを調べようとしていることも」 「…………」 「でもお話を聞こうとしても避けられているのですよね? だから代わりに事件を調べてくれる人を求めている」 思っていたよりも聡明なことに驚きながら、概ね正解だよと答えた。 「僕だけでは手詰まりでね。代わりを探している」 「それ、わたしじゃダメですか?」 「え?」 「蘇芳ちゃんみたいになんてできないけど、お話を尋ねるなら知り合いが多いし、役に立つと思います!」 ――正直、彼女の申し出は意外だった。だって、彼女は、 「……僕と林檎のことを怒っているんじゃないのかい?」 心の声が漏れだし、そう苺君へと問うた。残酷な質問。 彼女は刹那、とても悲愴な顔をみせた。 「……わたしが選ばれなかったのは残念だったけど、」 が、 「大切な妹を怪我させた犯人のことが赦せないんです! だからわたし的に協力したいんです!」 意気軒昂に宣言する彼女へ――絆された。 「……“3人のゴースト”を思い出した」 「はい?」 「道に逸れてしまいそうな時にも君がいてくれるなら、きっと大丈夫だろうね」 「あの、それって……?」 姉妹間の確執があるのだと、勝手に思っていた。だが、双子の絆は私が思う以上に硬く、壊れることはない。 刹那、ずっと口を利いていない親友を思うも、 「よろしく頼むよ、苺君」 申し出を受けることにしたのである。 うさぎに餌を与える彼女を眺め、大分有益な情報が集まった、と呟いた。 「本当ですか!」 「さすが学院の事情通がいると話が早い。たくさんの示唆を与えてくれる情報を得たよ」 「佳かったぁ! 蘇芳ちゃんや八重垣ちゃんじゃないとダメかなって思ったんですけど……」 「探偵役が多すぎても難解になるだけさ。ま、生徒らだけでなく教諭たちにも話を聞けたのは佳かった」 さも当然とばかりに教諭たちへも水を向ける苺君へ、驚かされつつも失敗したと私は頭を抱えたものだ。 (生徒たちは距離を取られていたが、教諭たちまでそうだとは限らなかったものな) というよりも、いち生徒間の恋愛事情に首を突っ込むことがおかしい。私は、先ずそちらから話を聞き出すべきだったのだ。 「養護教諭の先生からは、何を聞いていたんですか?」 「怪我の具合と犯行時間さ。苺君の話からも聞いてはいたが裏を取る必要はあったのでね。12時頃に治療をしたと言質を取った」 「わたし的な言葉だけじゃ足りなかったですか?」 「身内の話は信用度で一段劣るからね。別に信じてないわけじゃない。それにしても酷い捻挫のようだね……」 「急に襲われて慌てて逃げたって……。雨でぬかるんでいたから、それで……」 「なるほど、滑ってしまって余計に酷く挫いてしまったか……。それで苺君。林檎は犯人を見てはいないのだろ?」 うさぎと遊んでいた彼女は動きを止め、私を見遣ると躊躇いがちに首肯した。 「“鐘楼のルーガルー”。七不思議の怪異が犯人ではない」 「犯人は見ていないと言っていました。でも――」 「心優しい彼女は襲ってきた者を“生徒”だと言う事で、犯人捜しをされることを由としなかった」 眉根を寄せ頷く。林檎の判断に了承したが納得はしていないのだろう。 だからこそ、私の犯人捜しに協力している。 「しかし狼男だと言ったからには“鐘楼のルーガルー”のことを知っていたのだろ? よく失われていた七不思議の名を知っていたね」 「林檎は元々怪談好きで、そっち方面のことを調べてましたから。小御門先輩ともよく七不思議について話していたみたいですし」 ネリーの名を出され刹那たじろぐ。だが、今はトリックスターの仮面を被った私だ。すぐに立て直した。 「それで庇うためにルーガルーを持ち出してきたのか……。僕も会の年鑑で調べてみたが、驚くほど出現数の少ない怪異だというのに」 「そうなのですか?」 「ああ。何というか、あまり実がない七不思議の一つだな。鐘楼の……聖堂に現れ遭遇したものを攫うとだけ記述されていた」 「それだけですか? 夜遅くに、だとか。悪いことをしたらとかは?」 「そういった表記はまったくない。唯一、深夜鳴るはずのない鐘の音が聞こえた時に現れる、とあったが付け足しくさいな」 苺君は眉根を寄せ、腕を組むと小首を傾げた。 「聖堂……聖堂……。何というか聖堂にお化けが出るって違和感ですよね。日本的な感覚だと神社に幽霊が出るってことですし」 言われてみれば確かにそうだな、と得心した。神聖な場所に現れる怪異。場違いだ。 そして詰まらない冗句も思いつく。 「ま、神社だけにお化けが出てもしょうがないってね」 「え? はい?」 「いや、その……。つい思いついてしまったものだから……。忘れてくれ」 「ん? あっ、ああ! ジンジャー!」 「神社がジンジャーで、しょうがないってショウガと掛かっているんですね! ふふっ、面白いですっ!」 ネリーを彷彿とさせる問いかけからの怒濤の追い込みに身をよじるほど恥ずかしくなる。 場を少し解そうかと思って言ったことだが……。 「ぅぅ……!」 「ふふっ! でも、聖堂にお化けって、何だか、夜更けに聖堂に行くような子たちを注意するために作られたお話みたいですね」 自分も同じ考察を抱いていた。頬に熱を感じていた私は、そいつが言いたかったんだよと誤魔化すのも込みで続けた。 「他の七不思議と違い、鐘楼のルーガルーだけ確かな骨子のようなものがない。苺君の言うような意味合いで作られたものだと思う」 特定の川に近づくと河童に引き摺り込まれる等、子供を怖がらせる為の作り話のようなものだ。 実際は川の流れが速いため、注意を促す意味合いを分かり易く子供に伝えるような。 「あの譲葉先輩。もう一度、聖堂を見に行ってみましょう」 「……そうだな。今なら合唱部も帰った頃合いだろう。行ってみよう」 苺君の申し出を受け、私は現場へと向かうことにしたのである。 「この石畳のところで林檎は襲われた……」 残映に映し出された聖堂は温かみよりも、どこか寒々しい印象を与えた。 凝っと眺めている私の、苺君の心象もあるのだろうけれど。 「あの夜、譲葉先輩は部屋を飛び出していきましたけど、犯人の姿は見付からなかったのですか?」 「襲われてから時間が大分過ぎていたからね。残念だが……」 そうですか、と俯く。 視線の先は石畳に向けられ―― 「あの日、この聖堂へ赴いた時、争った形跡そのものも無かった」 「え?」 「足跡が僕のものしかなかったんだよ。あの日は強い雨が降った後で地面がぬかるんでいた」 「襲われたのなら、林檎と犯人の足跡があって然るべきなのに、だ」 「それは――」 何を話しているのか理解できなかったのか、瞳を幾度も瞬かせる。窓から覗く彼女の部屋は荒れ、動揺していた。 「つまり鐘楼のルーガルーは突発的に襲った訳じゃない。用意周到に狙っていたのさ」 「自分と、林檎の足跡を消し証拠を隠滅する程度にはね」 意味が分かり、彼女は青白く表情を変えた。 “鐘楼のルーガルー”という像が想像していたよりも醜悪だったことにだろう。 「安心してほしい。僕が必ず報いを受けさせる、約束しよう」 約束を交わし、彼女と手を繋いだ。 その目から覗く先には―― やはり強い動揺と恐れが見てとれた。 (協力を申し出てくれたが、やはり私一人で行おう) 情報は揃いつつある。私は血のように染まる聖堂を眺め、小さく、だが長い吐息をこぼした……。 鐘楼のルーガルー事件に奔走し情報は得た。 そして幾つかの示唆も。 だが、それらの欠片がパズルのピースのように嵌まり、全体像を描くことはなかった。 否、“絵”が観えることはある。だがその絵は歪で手に取って見せられるものではなかった。 「んっむ……あむ……」 遅い昼食をとりながら糸口はないかを熟考する。幾つか嵌められそうな罠を思いついたが、大がかりすぎで現実味がない。 それに……。 「む……昼食に集中しないと八重垣君にどやされるな」 食事は神聖で独立したものであるべきだと語っていた彼女。 何かをしながら食べるのは礼儀が為ってないと言っていた。私もそう思う。 「せっかくのBLTサンドだ。しっかり味わっていただかないとな」 ベーコンとレタスとトマト。そしてマヨネーズ。基本通りの正しいBLTサンドだ。 安息日に時間を気にせずのんびりと東屋で昼食をとる。贅沢な一時だ。本来ならば。 (そういえば……) 秋に入ってすぐの頃、彼女と一緒にサンドウィッチを頬張ったことを思い出した。 カリカリのベーコンとしゃっきりとしたレタスとトマト。 そして香り立つコーヒー。 「コーヒー?」 芳ばしい香りに周りを見回すと―― 「やっぱり此処にいたのね」 柔らかで落ち着く声音が聞こえ、 「ネリー……」 「私も御一緒していいかしら?」 告白を断られたあの夜のことが不意に思い浮かび、気まずさに顔を背けそうになった。が、 親友は変わらぬ笑顔を向けて―― 「……ああ、食べ始めたところだ。まだたくさんある」 萎えかけていた心を溶かしてくれた親友へそう告げたのだ。 「すまないね。鐘楼のルーガルー事件のあらましを聞かせてしまって。神聖な食事中に無粋だった」 聖堂で待ち合わせている林檎へと会いに行くまでの道程。 何十分も待ちぼうけをし、林檎の部屋へと向かった私。そこで彼女が聖堂前で襲われたことを知った。 逃げる際に酷く足を挫いたことも。 おかしな点はないか、時系列から、林檎の靴に付いた泥。聖堂前で消されていた靴跡などをネリーへと聞かせた。 ――考えをまとめる際、人へ話した方が把握しやすい為、ついやってしまう私の癖だ。 まぁ、相手がネリーだからこそ話せる内容だが。 「足跡……」 と、そう呟き目を細め耳に触れる。深く熟考する時の癖だ。 「ルーガルーの正体は分かったかい?」 問いかけに今まで眠っていたかのような微睡んだ目で私を見遣ると、目を瞬かせ意識をしゃっきりさせ、 「ごめんなさい。少し気になることがあって……」 と言った。 「小さい頃はよく考えをまとめるときに、私の方が譲葉へ何度もお話を繰り返しきかせていたわね」 「誰かに概要を話すと客観的に観えるような気がする。今や君だけでなく、僕自身の癖のようなものに為っているよ」 気になることがあって、との言葉が引っかかったが、コーヒーを本当に美味しそうに飲み、 「神に祈ったらいいわ。きっと救ってくださる」 「…………」 心から告げた言葉に何故だかとても不快になった私は尋ねる気が削がれてしまった。 「……違うね。神様がすくうのは足下だけだ」 「譲葉……!」 敬虔な基督教徒の前で言う台詞ではない。だが私は撤回する気に為れなかった。 ネリーは私を咎める視線をそのままにコーヒーを飲む。そして、 「そういえばウェンディゴの件はどうなったの?」 と矛先を変えた。彼女も神について私と論じるのは時間の浪費だと気がついたのだろう。 「ウェンディゴ、ウェンディゴねぇ……。確かに、以前は佳く聞いた噂話だ。だがここ最近はとんとご無沙汰だね」 「まるで“鐘楼のルーガルー”に取って代わられて……食べられてしまったみたい」 頓狂な物言いに笑ってしまう。だが、 (森を彷徨うウェンディゴ、か。方喰寮長にはもう餌付けはしていないと言質を取った) 「ねぇ譲葉。時間があればだけど……ウェンディゴ捜しに出掛けてみない?」 「時間は……」 (ないと言いたいが、現状手詰まりなのは確かだ) 一瞬躊躇するも、 「……そうだね。頭を冷やすためにも、季節外れのハイキングといこう」 いまだ秋の様相を残す森林だが、肌に感じる空気は既に冬へと移り変わっている。 頬に受ける冷気は鋭く、指の腹で触れると驚くほど冷えているのが分かる。 (そろそろ冬服の出番だな……) 「ねぇ譲葉」 「何だい?」 「沙沙貴林檎さんの怪我、酷いの?」 「……そうだな。ただの捻挫、というよりは酷く痛めている。しばらくは教室でなく自室で自習するそうだよ」 「そう……」 右足を痛めたのよね? と続ける。 「足首の捻挫だな。僕の弟が以前サッカーの試合で同じ箇所を痛めただろう。具合でいえば同程度かな」 「そう……」 ネリーは目を細め耳に触れていた。熟考する時の癖。だが、歩いている際は流石にやめてほしい悪癖となる。 「つまずいて怪我をするぞ」 そうね、と同意するも親友は熟考するのを止めなかったのだ……。 私の予言通り―― 何度かつまずき掛けながら、親友と私はかつて方喰寮長が餌付けを行っていた場所まで赴いた。 一際大きな大木の根元、其処には、 「これって……」 「……誰かがここで野生動物へ餌付けをしているようだ」 同じ場所に学院で採れた野菜の切れ端が食い散らかされていた。 「確か、以前学院生徒が餌付けをしていると――」 「ああ。それは既に教諭方へ報告し注意済みだよ」 「なら言葉が届いていなかったようね……」 眉根を寄せ呟く。だが―― (此奴はどういうことだ?) 最初に傷ついたタヌキを世話していたのは生徒らだ。その後、無断で飼っているのを見咎められ、方喰寮長が森へと帰した……。 そして優しさから、傷が癒えるまでは此処で餌の世話をしていた……。 (方喰寮長が釘を刺されたことで自分では世話ができなくなった為、はじめに見付けた生徒等にやらせている……?) 「寮長がどうかしたの……?」 「え、」 「もしかして……餌付けを行っているのが方喰寮長だと言うの?」 言葉に出ていたのだろう。常にはない過ち。 思った以上に余裕がなくなっている。それが分かっていなかった私の落ち度だ。 「きちんと話して。私に話せないことなの?」 真摯に見詰められ―― 「……誰にも話さないと約束するなら」 強情な性格を知っている私は、手落ちした己に長いため息を吐きながら事情をネリーへと語り出した……。 「そう、方喰寮長が……」 「ウェンディゴの正体がロマンがないもので悪いが、この件は――」 「ええ。黙っているわ。きちんと反省してもう行わないと仰っているのだし、でも……だとするとあのお野菜は誰が?」 「〈目下〉《もっか》のところ其奴が問題になってくるな」 学院へと戻る道々、ザクザクと乾いた音をたてる足音だけが耳朶に届く。 「方喰寮長には再度尋ねてみるよ。寮長でなく生徒らが行っているのだとしても――」 「黙っていてほしい。今は〈大事〉《おおごと》にしたくない。よね?」 「ニカイアの会の選挙も迫っているからね」 「白羽さんに余計な心労をかけたくないものね」 ああ、と首肯する。ネリーは微笑むと、 「この選挙が終わって、ニカイアの会主催のクリスマス会を終えたら私たち2年生はお役御免ね」 そう告げた。 その言葉の響きは哀しんでいるようにも、安堵しているようにも聞こえ、私は何も答える事が出来なかったのだ……。 方喰寮長から再度話を聞いたが―― 「方喰寮長も寝耳に水、といった風だったな……」 いつも片手間で使う読心術もどきを最大限に使い“窓”から覗いてはみたが、方喰寮長の〈部〉《・》〈屋〉《・》に変化はなかった。 誰かの為に嘘を吐いているという形をとっていたとしても何らかの変化は出る。 変化が出すぎないというのも心を読む上で重要なことなのだが……。 (そいつもない) 心の中で呟き、もう一言付け加えた。 (……ウェンディゴがもう一匹いるということか) 別段大した悪事はしていない。むしろ学院の規律を省けば善行に当たることだ。 だが、私はこの善意のウェンディゴがどうしても引っかかっていた。 冬晴れのさっぱりとした空を眺め、身のうちを掻く違和感を探る。 と、微かな足音に廊下の先を見た。遠くから認めた人物は、胸辺りで小さく手を挙げ私へと楚々とやってきた。 「お久し振りです、八代先輩」 「久しぶりと言うには……いや、経っていたかもしれないな」 何ですそれ、と手のひらで口元を押さえ上品に笑う。 私と話しているところを見られると選挙に支障を来すかもしれないよ、そう告げると、 「そんなことで落ちるなら落ちても構いません。八代先輩と林檎さんは何も悪い事をしていないじゃないですか」 と言った。当たり前のように答える彼女へ、胸の奥がグっと掴まれた気がした。 「蘇芳君が頼りにするのも分かる。頼れる相棒だ」 「え、蘇芳さんがわたしのこと頼れるって言っていたんですか!?」 「や、いや、僕の感想だよ。客観的に観ても佳いアミティエ同士だと思うがね」 「そ、そうですか……」 落胆半分嬉しさ半分と複雑な表情を見せる彼女へ、寮長に何か用かい? と問うた。 「ええ。実は会長選に立候補する条件が、最後の討論会だけに為ったのを報告しようと思いまして」 「ほう、二つ目の難関を通った事は聞いていたが、三つ目も通っていたとはね。すると――」 「はい。教職員から1名以上の推薦を受ける。推薦状は方喰寮長から頂いたんです」 なるほど、と頭を振る。順当にバスキア教諭あたりに推薦状を書いて貰うのかと思っていたが……。 担任教諭という距離の近さから不正を疑われるのを嫌い、別の教諭――方喰寮長へ頼んだという訳か。 (寮長として注目されがちだが、2年生の礼法やガーデニングの授業の教鞭をとっているしな……) 「あのぅ……。最後の難関、討論会ですけど、過去どんな議題が挙げられたとか教えて貰うというのは――」 「ふふ、流石に其奴は無理な相談だ。僕の時も事前に何を議題にするか教えて貰えなかったし、過去問の提示もなかったしね」 「そうですよね……」 おさげを萎びさせしょげかえる花菱君へ、林檎を守ってくれているという恩もあってか不正に為らない程度に口を滑らすことにした。 「議題や流れは話せないが、審査するのは通例、教職員が2名。ニカイアの会の者が3名」 「その内4名が弁論を聞いて相応しいと認めれば佳い」 「5名中、4名ですか!? それってとても狭き門じゃ……」 「だから最後の難関なのさ。教職員もニカイアの会の者もランダムに選ばれる。ま、大丈夫だ。僕の時は5名共に認められた」 「えっ、ということは真面目に答えれば大丈夫なのですね?」 「三つまでの立候補要項を達成することができる生徒はままいるが……」 「最後の討論会だけは10人受けて1人くらいの難易度だったな」 「それって――全然大丈夫じゃないじゃないですか!?」 「議題は一つだけではないし……おっと口を滑らせた忘れてくれ。だが、まぁ平気だろう。蘇芳君は僕と同じ匂いがするしねぇ」 「蘇芳さんが?」 「一年前の僕よりも優秀だよ彼女は。以前は頼りなげな所もあったが今は確固たる芯もできた」 「そう……ですか」 喜ぶと思った私は肩すかしを食らうものの、視線を足下に落とす彼女へどうしたんだい、と問う。 「蘇芳さんが生徒会選挙に立候補すると聞かされた時驚いたんです。普段の蘇芳さんなら目立つことをしたくないって性格だし……」 (私との約定だ。生徒会長に為ったあかつきに、“学院の謎”を教える) 「でも蘇芳さんの意志は固くて……。わたし、彼女の、蘇芳さんの一番のアミティエでいたいから支えることにしたんです」 「副会長になって支えようとした」 「はい。わたしの立候補の理由は一緒にいたいから……。でも、蘇芳さんが会長職を求める理由が知りたくて、でも訊けなくて……」 問うた彼女は後悔するだろう。蘇芳君が答えなければ信用が置けていないのだと考え、答えた場合は―― (去ったアミティエの行方を知る為だものな……) 一番に為れない。 私は花菱立花という後輩に確かな共感を抱いてしまった。 「……それで佳いと思う」 「え?」 「尋ねたいけれど尋ねられないというのは臆病だからじゃない。君の優れた資質だ」 「問う事で蘇芳君を傷つけてしまうかも知れないと思っているのだろう?」 「……はい。でも、」 「自分に理由を吐露してくれない事に胸苦しさを覚える。それも分かる。君は――〈立〉《・》〈花〉《・》君はとても優しい子だ」 「八代先輩……」 「蘇芳君は聡明だ。今は語るべきではないと判断しているのだろう」 「そして話せる時がきたら、一番の親友の君へ想いを語ってくれるだろう」 「…………」 私の言葉を噛みしめるように〈一時〉《ひととき》瞳を閉じ、ひとつしっかりと頷いた。 「ありがとうございます。少し心のモヤモヤが晴れました」 「あれだけ話して少しかい?」 「ふふっ! やっぱり八代先輩は凄いです。大人だわ。わたしも年を重ねれば色々なことが見えてくるのかしら……」 「父が言っていたが、年を重ねて“四十にして惑わず”という言葉……。不惑とあるが、今が一番惑惑していると言っていたぞ」 「それってダメってことじゃ……! でも、ワクワクって、なんでそんな愉しげなんですかっ」 顔を見合わせ互いに笑い合う。久しぶりに声を上げて笑った。くさくさしていた気持ちが晴れていく。 「ふふっ。あ、そうだ、方喰寮長へ報告してから林檎さんのお見舞いに伺おうと思っているのですけど御一緒にどうですか?」 「そいつは佳い提案だな」 「えっと今くらいなら、大丈夫かな?」 「うん? 大丈夫とは?」 「足の怪我が酷くてずっと授業を休んでいるんです。それで今まで距離を取っていた子たちも悪いことをしたって、最近日参しているんですよ」 そうだったのか、と呟く。余所余所しく扱われていた林檎も和解できたのだ。また一つ気持ちが晴れていく。 「お、お化けに驚いて捻挫したという話ですけど、怪我の功名ですよね」 「ああ。だが、相手が怪異とはいえ赦せそうにない」 気の佳い委員長殿は噂を鵜呑みにしているのだ。襲ったのは人間でなく怪異だと。 「でも、毛むくじゃらの狼男って……。さすがにそんなお化けいるわけないですよね?」 「……さて、見間違いということもあるかもね」 「見間違い……。そ、そうですね! 毛むくじゃらとかなら、動物が突然現れたのを見間違えたのかもしれないですし」 動物という言葉に、傷を負ったタヌキ――ウェンディゴを連想する。 (襲うでなく、驚かせた、か。それなら罪は……。ん?) 「どうしたのですか?」 「いや……。見方を変える……?」 立花君の言葉が身のうちで引っかかっていた欠片をすくい上げてくれた。 (視点の変換……被害者と犯人、切り分けた捉え方をすれば……) 歪だったパズルのピースが整い、音もなく嵌まった。 そう考えれば……すべての辻褄が合う。だが、此奴は―― 「八代先輩?」 「……いや、済まない。ぼうっとしてしまった」 「保健室へ行きます?」 「大丈夫。低血圧だからたまにあるんだ。先ず方喰寮長への報告を済ましてきたまえ。僕はここで待っていよう」 おさげを気ぜわしげにいじりつつ、心配そうに見上げる立花君だったが……。 「分かりました。直ぐ済ませるので待っていてくださいね」 言い、小走りで方喰寮長の部屋へと向かった。 「さて、どうしたものかね……」 彼女の言葉から得た帰結。 まだ正しいかどうか裏付けできてはいないが、おそらくは私が描いた絵図の通りだろう。 解決の糸口を手に入れたはいいが、新たな厄介事に私は勢いよく頭をガリガリと掻いた……。 ――正直、 “鐘楼のルーガルー”の犯人を見付けるということに私は消極的に為っていた。 それは数日前に立花君と話したことで、ルーガルーの正体、そして犯行理由が察せられたことによってだ。 黙っていた方がいいのか、それとも“犯人”と相対した方が佳いか、判断が付かず悩んでいたのだ。 しかし―― (想像していたより、面倒なことに為ったな……) ニカイアの会が重い腰を上げ、“鐘楼のルーガルー”の犯人を捜すことを決定したのだ。 私が犯人を断罪するか否か思い悩んでいる内に。 「さぁ、八代さん。どうぞ、」 ニカイアの会の面々にルーガルー事件の子細を話すと私が言った事から、教諭代表としてバスキア教諭も席に腰を下ろしていた。 そして、 「…………」 憂い、私を見詰めるニカイアの会、副会長の小御門ネリネも。 「さて、何から話すべきか……」 勿論、迷っているという時点でルーガルーの全貌を明かすつもりはない。 八重垣君のように相手を納得させる情報と推測を提示し、煙に巻くだけだ。 「すべてはじめからお話ししてください」 促され―― 私はニカイアの会の面々の前で、林檎から聖堂へ呼び出され会いに行くまでの道のりから話しはじめ―― 聖堂で待っていたが、待ち合わせ時刻から何十分経ってもやってこない事を不審に思い林檎の部屋へ赴いたことを伝えた。 ――本来は聖堂で逢い引きをしていたのだが、バスキア教諭の前で吐露するわけにはいかない。 バスキア教諭も強く咎め立てする気はないのか、軽率な行動はしないようにと釘を刺され終えた。 そして話を戻し――彼女の部屋にて聖堂前で“ルーガルー”に襲われ怪我をしたことを知ったのだと語った。 意識を誘導するため事細かに、時系列の中から、逃げる際に酷く足を挫いたことも。 「襲われた……」 「悪意ある第三者がいるように聞こえますね……」 口々に己が見解を言い合う皆を見、私は手を広げ異人のようなジェスチャアをし、 「そして“鐘楼のルーガルー”と“森を彷徨うウェンディゴ”の事件は繋がっている」 そう告げた。 意識の誘導は上手くいったようだ。予想外の名を挙げたことで繋がりに対しての違和感を軽減することができた。 「それは……どういうことです?」 「晩秋に起きたウェンディゴの事件ですが、あれは怪我をした野生動物を傷が癒えるまでの間――」 「保護し餌を与えていたことが始まりであり理由だった」 犯人である方喰寮長のことは当然知り得てはいないが、発端である保護した生徒らのことは皆耳に入っている。 私は、七不思議のウェンディゴの姿が白い影だと言われていること。 野生動物が森へ帰された後も生徒らは餌を与えており、その際に白い袋に野菜を詰めていた事でその姿を見られ誤解されたのだと語った。 「そんなことが……」 「学院の規律においては批難されることだが、善行だ。それほど批難されることではない。ですよね、バスキア教諭」 「え、ええ……」 方喰寮長のことは黙っておくとの意図を察したのか、歯切れ悪くも答えた。 「この善行だが、一つ厄介なことを引き起こしてしまった。野菜を定期的に与えたことで餌付けしてしまったんだよ」 「餌付け?」 「この学院には冬に為っても食べられる餌があると野生動物は知ったのさ。食べ物の少ない冬の森で餌を探さなくともいいとね」 「まさか……」 「そう。沙沙貴林檎が言った、毛むくじゃら――というのは野生動物を見掛け驚き、」 足を怪我してしまった、と繋げる。 もっともらしい話に顔を見合わせ整合性を確かめ合うも、 (今の話が落とし所だということが分かるだろう) 私の話では咎める“犯人”はいない。 発端は善意の生徒で、襲ったと黙される犯人は野生動物だ。それも襲ったのではなく、見て驚いた、と。 誰も傷つかない仮初めの真実。 「一つ質問があります」 「どうぞ」 「沙沙貴さんの怪我ですが、拝見したところ随分と酷い捻挫でした」 「一歩間違えれば折れている程の……。その、驚いて挫いたにしては……」 口ごもる。その先を連想させたことでまとまり掛けていた帰結が遠ざかった。 「あの日は酷い雨が降っていました。驚き滑ったのならどうでしょうか?」 問い返す。バスキア教諭は小さくだが頷き、それともう一つ疑問点がありますと続けた。 「沙沙貴林檎さんは毛むくじゃらの狼男だと仰いました。毛に覆われていることに関していえば動物でも得心がいくのですが――」 やはり先は続けない。動物が人型に見えた、ということに疑問符を抱いたと暗に問いたいのだ。 (バスキア教諭が食い下がるのは予想外だが……) “鐘楼のルーガルー”の犯人捜しに為らぬよう、幾つか腹案を考えてきてある。そちらへ誘導すれば―― 小さなざわめきが生まれる。 私が沈黙したことで、疑問符が正しいことだと思いざわめいているのだ。そう思った。 ――いや、 小御門ネリネが、 座していた椅子から立ち上がり、私をどこか泣き出しそうな瞳で見つめていた所為だ。 「皆さんにお話ししておかなければ為りません」 親友が、 ネリーが口を開くと、 「八代会長が仰った沙沙貴林檎さんが怪我を負った事件ですが――」 私の頭の中で、何故だか酷く荒れ果てた荒野の幻が浮かんだ。 「今まで語ったことは優しい嘘なのです」 荒野の情景は移り変わり、曇天の空は、雨混じりの冷ややかな悪風が私の頬を叩き吹き荒んだ。 「沙沙貴林檎さんを突き飛ばし怪我を負わせたのは――」 ――やめろ 「醜い嫉妬に塗れた――私なのです」 身体をベッドに横たえたまま、寒風が窓を揺らす音をただ聞いていた。 ――悪い風邪をひいた後のような異常な倦怠感。 身体を動かす意思も湧かず、ただ凝っと部屋の天井を眺めていた。 こんなに身体というものは重いのだな、と意思をなくしてみて初めて気付く。 胴を、腕を、足を一つとってみても、空気が鉛のように纏わり付き寝返りをうつのさえ煩わしい。 こんなにも気怠く何一つ心が動かないのは―― 「ネリー……」 ――昨日イズニクで起きた茶番の所為だ。 小御門ネリネが、己が“鐘楼のルーガルー”事件の犯人だと名乗りを上げ―― 皆は驚くも理性的な会員は一つ一つ疑問をネリーへと投げかけた。 どうやって沙沙貴林檎を襲ったのか、犯行の流れ、そして犯人ならば何故すぐ名乗り出なかったのかを。 『……怖ろしかったのです』 そう切り出し、ネリーは自分が行った犯行を語った。 途中、違う、と止めようとした私の言葉は制され、ネリーは事細かに事件の真相を語った。 私が話したウェンディゴの件と絡めた真相ではあったが、事件をお〈復〉《さ》〈習〉《ら》いするために彼女へ語って聞かせたことが徒となり―― 犯人しか知り得ないと連想されるディティールを含んだ描写は、彼女が犯人であるという言葉を裏打ちするに値するものだった。 違う、と再度叫んだ言葉は宙に消え、 『私が無断で餌付けしていた動物を見られてしまったということが動機の一部ですが、一番大きな点は――』 親友は私を困ったような、どこか微笑んでいるような表情を浮かべ、 『親友を取られてしまったという私の浅ましい嫉妬心が生んでしまったことなのです。発作的に突き飛ばしてしまった……』 かすれるような声音でそう呟いた。 彼女の言葉がイズニクの壁に吸収され完全に消え去り、沈黙が横たわると、 『……分かりました。この告解は私が持ち帰らせて頂きます。小御門ネリネ副会長は沙汰があるまで謹慎を』 バスキア教諭の冷ややかな言葉を受け――ネリーは救われたような笑顔を私へと送ったのだ。 「自分がスイスを気取っていた所為で、取り返しの付かない事になってしまった……」 中立で居ようとしていた私の責任だ。 犯人を庇うのか裁くのか、天秤をそのままに傾けずに済むよう……。 いや、私自身も泥を被らないよう都合よく考えている間に、満ちていた潮は、遠く海岸線を望めるほどに引いてしまった。 天井に小御門ネリネの幻想を視る。 おそらく彼女は――“鐘楼のルーガルー”事件の犯人を庇っているのだ。 私が事件のあらましをお〈復〉《さ》〈習〉《ら》いとして話していたことで、ネリーは語った情報の中から犯人の目星を付けたのだろう。 そして私がしようとしていたように犯人を庇った。 だが、“庇う”という行為で私と違う点は、私は不可抗力に持っていこうとし、小御門ネリネは自己犠牲を選んだことだ。 「……イズニクで僕が犯人の名を挙げると思った」 ネリーは私の思惑は知らない。胸三寸で収めようとしていたことも。だから慌てて自分が犯人だと名乗りを上げた……。 「……馬鹿なヤツだ」 呟くと余計に身体が重くなる。鉛でできているかのように今にもベッドに沈み込んでしまいそうだ。 ノックの音が聞こえ―― どうぞ、と声を掛ける気力も萎えていた私はただ天井だけを見上げていた。 「失礼します……」 ドアが開く音と共に声が聞こえ、 「風邪、大丈夫ですか?」 沙沙貴苺君の声が耳朶に届いた。 「…………」 「あの……」 どこか怯えた声音だ。致し方ない。無気力な人形を視ればそうなる。 「眠れて……いないのですか……?」 「……ああ」 「そ、そうですか。病気早く治さなくちゃですけど、そんなに眠れませんよね」 声を出したことで安堵したように何時もの彼女に戻った。しかし、風邪? ……ああ、そうだった。 (仮病を使って休んで……後輩にまで心配をかけて) 「あ、あの、林檎もお見舞いに来たがったのですけど、まだ怪我が完治してないので――」 「無理はしない方がいい」 「ええ、でも」 「熱が出てつらい。相手をしてはあげられない」 ぴしゃりと有無を言わせぬいいざまに口ごもる。暫し言葉を探しているのか風が窓を揺らす音だけが響く。 「譲葉先輩……」 影が私の顔を覆い、私の元へ歩んだのが分かる。ブリキの私の顔を心配げに眺めていることも。 「……一睡もしていないのですね」 「…………」 「ちゃんと食事をとっていますか?」 「…………」 「〈窶〉《やつ》れていますよ……」 何も答える気力がない私へ身じろぎするのが空気を通し肌で感じられた。何か決意を固めた空気。 「――小御門先輩ですが」 「黙れ」 「え……」 「今は何も話したくない。帰ってくれ」 息を呑むのが分かる。道化を気取っている私が真っ直ぐな真情を吐露したことに怯え驚いているのだろう。 「……また来ます」 無慈悲な音をたて扉が閉まる。否、 「……鍵を奪って閉め出したのは僕だ」 何も考えたくない。私は瞳を閉じ、己の扉を閉め鍵を掛けた。 ――苺君が去ってから一日が過ぎ、 「昼食を持ってきましたよ」 そう、意地の悪い猫の声が聞こえた。 「……八重垣君か」 「今日の昼食は中華粥にしました」 「ちょっと、持ってきたのは私じゃない」 八重垣君のアミティエも付いてきたらしい。騒がしい声に安堵するのと苛立つ気持ちの二つが持ち上がった。 「お前の手はわたしの手も同じだろ。風邪をひいたって聞いてましたけど――」 「思ったより重症のようですね」 ベッドに近づきただ天井を見上げる私の顔を検分しているようだ。 「身体を起こすことは出来ますか? 少しでも食事を取った方が佳いですよ」 彼女が持ってきた中華粥の鶏ガラスープの匂い、そして薬味として乗っている生姜とねぎの香りが腹を刺激した。 「身体を起こすのが辛ければ食べさせてあげましょうか?」 ――こんな時にも空腹に為ることに苛立つ。 「……いい」 「え?」 「要らない。腹は空いていないんだ」 でも、と困惑した様子が空気で分かる。そして、 「食わないと気分が滅入る。どんな時でも食べないとダメだ」 子供に諭すようにして告げる言葉。 「…………」 だが、私は何も話したくなかった。何の行動もとりたくない。 「……小御門先輩の話、聞いてます。無期限の謹慎処分に為ったそうですね」 「…………」 「ニカイアの会での話がどうなって謹慎処分に為ったかは知りません」 「……ですが八代先輩が調べていた“鐘楼のルーガルー”の事で、ですよね?」 相変わらず聡しい後輩だ。察しは付いているらしい。 「謹慎処分に為ったことから、小御門先輩が疑われて――」 「裏が取れるまでのとりあえずの措置ということなのでしょう? だったら、」 「――だったら何だ」 「貴女が小御門先輩の無実を証明しないで誰がやるんだ」 ――そうだ。 その通りだよ。 だけどね、 親友に想いを伝え、林檎君を代替のように愛し、そしてまた自己犠牲を見せる親友を愚かだと、愛しいと感じている。 私は何だ? 何もかも中途半端じゃないか? “鐘楼のルーガルー”を天秤の針を傾けずに解決しようとしたように。誰彼となく佳い顔をしようとしているだけの半端ものだ。 「八代先輩」 「……どうでもいい」 「あ?」 「どうでもいいと言ったのさ。今まで僕はネリーのことだけでなく学院の皆が幸せに過ごせるように骨を折った」 「だが、もう心底どうでもいいって気持ちに為っているんだよ」 「…………」 「どうした? がっかりしたか? だが、こいつが今の僕の偽らざる気持ちだ」 「あの、八代先輩……」 「君も世話を焼くなら自分のアミティエにしたらいい。生憎僕は事足りてる。八重垣君と違って足りないのは心だけだ」 「………っ」 鼻白む考崎君に私は自分が嗤っていることに気付く。鏡を視なくとも分かる。厭らしい嗤いだ。 「……小御門先輩のことはどうするつもりだ」 「ネリーのことなんて知ったことじゃない」 そうかい、と聞こえた気がした。 車輪が不吉な蝙蝠のようにキィキィと音を立てる。怒気を孕んだ気配が遠ざかっていく。 「……下劣って言葉があって佳かった。あんたを表現するのにぴったりだ」 「……ツーアウト」 八重垣君に敬意を表し彼女の好きな野球で喩えた。苺君を遠ざけ、八重垣君の手を払った。 きっともう一つのアウトを取るために彼女は来るだろう。 私は口の端を歪めながら、そっと瞼を閉じた。 ――ノックの音が響き、私はゆっくりと目を開く。 眠れぬまま目を閉じていたがいつの間にか夜に為っていたようだ。暗がりに目を慣らす為、凝っと闇を見詰めた。 “怪物と戦う者はその過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない” “深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ” ニーチェの有名な文言が思い浮かぶ。 私を覗いているのは誰なのだろう、私自身? それとも―― 「入って佳いと言ってはいないのだがね」 辛辣な言葉を投げかけたが、意に返さぬよう暗くうち沈んだ部屋に足音が響き、 「――討論会を終えました」 と、白羽蘇芳が言った。 「…………」 「…………」 生きているのか死んでいるのか分からない程の気配。 だが決して無視できない幽鬼のような少女は、私を値踏みするように見詰めていた。 「結果は」 「5名全員から承認されました。会長選に立候補する条件が揃いました」 「……そうか。そいつは佳かった」 「佳くなんかありません」 呟いた言葉の響きが空恐ろしく私は初めて天井ではなく、ネリーの幻視でなく、訪問者を横目にした。 「……ッ」 闇を纏った白羽蘇芳はゾッとするほどに壮美だった。 いつもは見る者の大切に隠している原風景を揺さぶる美だが、傍らに立つ少女のそれは魂ごと引き抜かれてしまうほどの美だ。 「――貴女が私をけしかけたのですよ」 その言葉は私を批難しているとも、言葉通り私をけしかけているとも取れた。 八重垣君がそうしたように。 蘇芳君は、濡れ羽色の瞳をしっかりと私へ釘付けたまま鮮やかな唇を開いた。 「マユリを取り戻すための鍵を得る為に」 「……彼女はもういない。とっくに損なわれてしまった」 私の軽口に闇はもう一段濃くなり、恐ろしさとともに美しさも増した。魔性の美しさだ。 だが、 「八代先輩――」 「もし、亡くなった者と話せるとしたら、貴女なら何を話しますか?」 そう、怒りを露わにするでもなく、辛辣な言葉を投げかけるでもなく尋ねた。 「……思いつかない。話すことが多すぎる」 彼女の纏った空気も相まってか素直な言葉を口にしてしまった。 「私は――」 「――私は母に問いたい。ある言葉を」 「亡き母……」 私と同じだ。 「母は身体が弱く入退院を繰り返していました。さかしい子供だった私は我が儘一つも言えず、ただそんな状況を受け入れていた」 「病気は重く死が色濃い……。そんな母へ私は聞きたいけれど、どうしても尋ねることができなかった」 ああ、その言葉は……。 「問い、答えることで……否定されたらこの世から消えたくなる。肯定されても母を苦しめるだけだと思っていたから――」 私も最後まで訊けなかった言葉だ。父が代わりに言ってくれた……。 「“私を愛してくれていたのですか”と」 ――シンと部屋が静まり返る。 ずっと吹いていた風は止み、小さく……だが確かな嗚咽を耳にした。 「母はそういった言葉を投げかけてくれる人ではなかった」 「でも決して愛していないわけじゃない。今の歳になってそう思う。でも――」 「あの時、幼いときに確かに愛されているのだという言葉が欲しかった……。私は我慢しないで訊ねたら佳かった……」 聡明な彼女は母が“愛している”という言葉を告げることで、いずれ訪れる別れが辛くなることを恐れたのだ。私とは違う。 「――八代先輩」 「貴女はまだ手が届くところにいるのです。訊ねたら答えてくれるところに」 静かに、まるで子供に語りかける母のように彼女は言った。 「“小御門ネリネ”は“匂坂マユリ”です」 「貴女が助けてあげなくてどうするんですか」 「僕は――」 苺君を遠ざけ、八重垣君の手を払い―― そして今、蘇芳君の言葉も、 「スリーアウトにはしませんよ」 「え……」 「えりかさんからも頼まれているんです。しょげている先輩の尻をわたしの代わりに蹴ってやってくれって」 涙が滲む。 遠ざけた私を救いにきてくれた。 そうだ。 いつだって小御門ネリネは私を救ってくれた。 「……ねぇ、蘇芳君」 「はい」 「君の話してくれた話。僕の境遇と酷く似ているんだ。病気がちな母、言えなかった言葉があることも……」 そして私は彼女へと語った。 幼い頃、転勤の多かった父に付いていったことで友人を作ってもすぐ別れてしまい、いつしか消極的に為っていったことを。 そしてすっかり臆病に為った私へ、新たな転校先で小御門ネリネと出逢ったことを。 「八代先輩が私と同じ……」 「僕は君にある種のシンパシーを感じていたのかもしれない……」 初めて親友というものが出来た。私を守ってくれる存在。自宅療養に為った母へ親友を紹介した出来事を話す。 そして数ヶ月後、ゆっくりと容態は悪化し続け亡くなってしまったことを。 「そんなことが……」 「そして――母の後を追うように小御門ネリネは大病を患い倒れた」 「え……」 「長く苦しい闘病生活だった。だが彼女は病に打ち勝った」 「そして復学した彼女は――以前のような快活さは消えうせ内気な性格へと変わっていた」 以前の私と同じ内気な気質に為った小御門ネリネから人は離れていき、男子がことある事に彼女をからかいの対象にしたのだと語る。 蘇芳君は似た経験があるのか眉を顰め、小さな拳を握った。 「僕は今までの消極的な自分でなく、彼女を守れるような者に為ろうと決めた。以前の小御門ネリネのような……」 「かつて自分を守ってくれたように」 「ああ」 私は強くあらねばならないと心に決めた。 私を守ってくれた彼女の為に。 「八代先輩――」 「もう大丈夫だ。尻を嫌と言うほど叩かれたからね。迷いは吹っ切れた」 八重垣君によろしく言ってくれ、とシニカルな笑みをたたえ言う。 「苺さんにもです」 「え?」 「励ましてやってほしいと、えりかさんに頼み込んだのは苺さんですから」 「それで次は八重垣君から君へ、か。僕は――」 本当に佳い後輩を持った、と口の中で唱えた。 「苺君にも頼む。僕はやることができた」 幽鬼のような様相は消え去り、いつもの清廉で清艶な白羽蘇芳に戻った彼女は頷く。 「――大好きな親友の無実を証明してやる」 蘇芳君が去るのを待ちかねたように眠りが訪れた。 イズニクでの一件から数日、睡眠を取れていなかった私は足を滑らせ崖から落ち深い谷底へ落下するような有無を言わさぬ眠りについた。 瞼が自然に落ち――再び開いた時、穏やかな自然光を前に頭は雲一つない海原のように澄み切っていた。 まず私は何をすべきかと自問する。 “小御門ネリネの無実を証明する” 今まで霞がかり見えなかった真意。 私を気遣い、叱咤し励ましてくれた後輩のお陰で見えた偽らざる心。 「――なら、先ずは何をすべきか」 ネリーへ自分が犯人ではないと前言を〈翻〉《ひるがえ》すように促す? そいつは無駄だ。親友が一度決めたらテコでも動かぬ精神を持っていることは十二分に知っている。 なら真犯人を突き出すか? 「此もノーだ」 なら、シンプルに考えよう。 イズニクで、ニカイアの会の面々が揃っている場で“小御門ネリネが犯人でない証明”をすればいい。 「ネリーが犯人でないと証明し、真犯人も隠し通す」 言葉にすると随分と困難なことのように思える。真実を明かしつつ嘘を吐く。 だが、困難ではあるが無理なことではないと感じていた。それは―― 「名探偵に真実の尻をあぶるのを手伝って貰う事にしよう」 手伝って貰う助手を決めていたからだ。彼女ならばどんな困難な謎も解いてくれる、そう確信していた。 「済まないね。生徒会選挙もあるのに、手を患わせて」 私が指名した探偵である彼女は、 「構いません」 と言った。昨夜の幽鬼を纏った空恐ろしい白羽蘇芳でなく、いつもの〈嫋〉《たお》やかで可憐な彼女はにこやかに口を開いた。 「頼まれたとはいえ、私が八代先輩のお尻を叩いたのですもの。最後までお付き合いします」 「悪い噂のある上級生と〈連〉《つる》んでいると、選挙に影響が出るかもしれないよ?」 構いません、とは言わなかった。だが私の目を視、しっかりと、 「この件が片付いたら以前と変わりない学院生活に戻ります。だから何の問題もありません」 そう告げた。 (大した自信だな……) 春の頃の彼女とは別人のようだ。 「それに……頼って貰えたのが私で嬉しいんです」 「え?」 「最近、えりかさんと仲良しだったので事件解決を私でなくえりかさんに頼むと思っていて……。だから、その、嬉しいんです……」 頬を上気させ見上げるように見詰める彼女に、思わず――グラつき掛けた。 「……やはり頼りになるのは我が師だからね」 「ふふっ、一緒に頑張りましょう!」 無防備に微笑む蘇芳君に、心拍数が上がった胸を悟らせぬように大仰に頷き、では道すがらイズニクでの話をしようと告げた。 「……そうだったのですか、自ら犯人だと名乗りを上げた」 「ああ。ネリーには以前、“鐘楼のルーガルー事件”の捜査の進捗を話して聞かせたことがあったんだ。だから――」 「ニカイアの会の皆さんを納得させられるほど細かく事件について語れた。まるで犯人にしか分からないことのように」 「そうだ」 己の失態に苦い顔をしてしまう。蘇芳君は私の眉間に人差し指で触れ、怖い顔になっていますよと笑った。 「蘇芳君……」 「大丈夫です。簡単な話ですよ」 「何を……」 「つまり小御門先輩のアリバイを崩せばいいってことですよね」 人好きのする笑みを送り、隙のない人なんかいませんと続ける。 「林檎さんが襲われたとされる11時半に、小御門先輩が何処にいたのかを突き止めましょう」 「不在の証明……」 人差し指を離した蘇芳君は、先ずは――と呟く。 「小御門先輩のアミティエの方に話を聞くとしましょう」 先ずはネリーと同室のアミティエに話を聞く、此は道理だ。 私と林檎が待ち合わせていたのは昼の11時半じゃない。真夜中だ。普通なら眠っている時間。 なら同室のアミティエなら―― 昼休みの時間を使い、蘇芳君へネリーのアミティエと接触して貰った。 未だ避けられている我が身を恨みながら、もどかしく蘇芳君を待っていると―― 「お待たせしました」 情報を得てきた我が師は、廊下の隅の私を見付けると小走りで駆け寄り、紙袋の包みを私へと手渡した。 「此は?」 「お昼とっていないと思って。軽食ですけど、どうぞ」 「さすが我が師は気が利くね。手軽に食べられるなら、BLT……」 「ブリトーです。手が汚れず本を読みながら食べられるんで佳いですよね。私大好きなんです」 サンドウィッチと言わないで佳かった。私は紙袋からブリトーを手に取った。 作りたてのトルティーヤの衣はクレープを連想させる。クレープほど柔らかくないが。 「食事の前に、情報を――」 「早く食べないと冷めてしまいますよ」 「……そうだね」 どうやら、食べないと話してくれないらしい。私は情報を聞くために熱々のブリトーにかぶりついた。 サルサソースに大ぶりのソーセージ、そしてふんだんに敷き詰められたチーズがそれらを包み込んでいる。 一口囓ると、ソーセージの小気味の佳い食感とともに口中に肉汁が弾けた。サルサソースの酸味と混じり合い至福だ。 「んっむ……んっ。ブリトーはあまり食べ慣れていないが此奴はいけるね」 「トルティーヤのもちもちした食感が佳いですよね」 「私はクリスピーを挟んだものが好きなんですけど、なかったのでソーセージにして貰いました」 「むっ……んっ、いや、実に美味い。サンドウィッチからこっちに鞍替えも考えてしまうよ」 自室で怠惰に過ごしていた数日の間、ろくに食事をとっていなかった。 その所為もあってかソーセージのブリトーを素早く平らげると、次のポテトとベーコンとチーズのブリトーに取りかかり―― 蒸し海老の入った海鮮風味のブリトー、三つすべてを平らげてしまった。 どれもソースが少しずつ違い、ブラックペッパーと少しの塩が振られ味に飽きることはなかった。 「オニオンスープも入っていますよ」 「最高だ」 たまねぎをバターでくたくたになるまで炒め、コンソメとコショウを利かせた正統派のオニオンスープだ。 温かくも滋養のあるスープを飲み終え、純粋な意味で人心地ついた気がした。 「あまり空腹は感じていなかったが、随分と腹が減っていたらしい」 「ちゃんと食事はとらないとダメですよ」 八重垣君に尻を蹴られてしまうものな、と続けると蘇芳君は屈託なく笑った。 「蘇芳君は昼食をとったのかい?」 「小御門先輩のアミティエ……萩原さんとはお食事をしながらお話を聞いたのです」 「人間、美味い食事をとると口が軽くなると言うものな。素晴らしい判断だ」 で? と訊ねる私へ眉を曇らせた彼女は、 「残念ながら、鐘楼のルーガルーに襲われた時のアリバイを証明する事はできませんでした」 「つまり――11時半の時点でネリーは部屋で就寝してはいなかった?」 「はい。11時に為る少し前に部屋を出たそうです。眠れないから少し出てくる、と」 そうか、と唸る。正直規則正しい生活をしている親友が夜、一人出歩くなどとは思っていなかった。 「……当然、小用ですぐ戻った、という話ではないんだね?」 「はい。萩原さんは目が覚めてしまって本を読んでいたそうなのですけど、11時半を過ぎても戻ってこなく――」 「……12時になる少し前にようやく戻ってきたと」 「林檎が襲われた時間に、部屋にいてくれれば単純な話だったのにな……」 それならば、同室のアミティエの証言だけでアリバイを崩すことができた。 自己犠牲からの犯人の名乗りは突発的な出来事だった筈。ならば簡単に穴が見付けられると思っていたが当てが外れてしまった。 「でも、そんな夜遅く小御門先輩は何処に行っていたのですかね?」 「ネリーに訊ねる訳にもいかないしな。アリバイを崩すつもりが犯人かもしれないという裏打ちをしてしまった」 「すみません……」 「え、や、何も蘇芳君を責めている訳じゃない。僕の耳になってくれているんだ。感謝しているよ」 春の頃とは別人のように上級生と話すことにも物怖じしなく為っているとは思っていたが、気遣いが過ぎるところは変わっていない。 「11時少し前に部屋を出たというなら、目撃者を見付けたいところだが……」 「襲った時刻の丁度でなくとも、少し前、若しくは後に小御門先輩を寄宿舎で見掛けたという情報があればアリバイを崩せますね」 「ああ。僕は寮長やスタッフに話を聞いてみる。蘇芳君は夜更かしをしそうな生徒から聞き込みを頼むよ」 はい、と頷くとすぐさまダイニングホールへと向かうのを見届け、私は方喰寮長の部屋へと急いだのだ……。 複数人に話を聞かなくてはならない事柄のため、昼休みでは時間が足らず―― 放課後の時間いっぱいを使ってしまった。 「すまない。待たせてしまったようだね」 「いえ。私も今来たところですから」 待ち合わせをしている恋人同士のような会話をしながら、進捗を訊ねられた。 「学院教諭、スタッフに話を聞いてみたが空振りだった。見回りをしている方喰寮長には期待していたがこちらも見掛けていないそうだ」 「そうですか……。私も立花さんや苺さんのつてで上級生の方たちにも話を聞きましたが、夜半小御門先輩を見掛けた人はいないそうです」 「うまくいかないものだな。犯人でない証拠を見付けるのがこんなに大変だとは思わなかった……」 普通に犯人を見付ける方が簡単だ、と肩を落とす私へ、 「小御門先輩の名誉を取り戻す為、真犯人の名をあげることは出来ないのですよね?」 と問うた。真剣なまなざしに、私はあえてシニカルな笑みを作ってみせる。 「そいつは無理な注文だ。それが出来るのなら、始めからやっている」 「……ですよね」 蘇芳君はネリーと同じ“鐘楼のルーガルー”の犯人の目星が付いているのだろう。だからこそ、私に協力してくれている。 「動機で崩すことはできない。使った凶器などもない……。確か、聖堂前の通路の土には足跡がなかったのですよね?」 「ああ」 高速で頭を回転させていることが分かる。彼女の小さな頭の中で様々な推論と反証を繰り返しているのだろう。 「やはり不在の証明を……。小御門先輩が日記を付けてくれているなら話は早いのですけど」 「――それだ」 「え?」 「どうして今の今まで気付かなかったのだろう。ネリーは子供の頃からずっと日記を付けているんだ……!」 一日も欠かさずに、と続けた。現場不在の証明を見付けられると蘇芳君も手を合わせ声を上げる。 「それじゃ日記を――」 「無理やりに奪う、というのは無しだ」 「イズニクで、皆の前で、ネリーが犯人でないと知らしめるためには有無を言わさぬ証拠と迅速さが必要だ」 「電撃戦のように、反証をさせる〈暇〉《いとま》を与えてはいけない」 頷く。日記を得ていると分かれば反論するだけの筋立てを用意できる。札遊びと同じ、手の内を隠し通せるかが重要なのだ。 「――部屋に忍び込むにしても、ネリーは自室で謹慎中。顔を合わせずに部屋に忍び込むことはできない」 「食事中はどうでしょうか? 朝とお昼は小御門先輩へ、同室の萩原さんが自室へ食事を持っていっているようでしたけど――」 「夕食はダイニングルームで共にお祈りをしてからとっています」 此処最近、朝食から夕食まで顔を出していなかった所為で知らなかった情報だ。 謹慎の理由はまだ明かされてはいないが、好奇の目で見られている想像は付く。腹が煮えた。 「……確かに話通りなら夕食時に部屋は無人になる。だがダイニングルームに向かう際、部屋を出る時に鍵を掛けるだろうしねぇ」 「――鍵」 一言だけ呟き、彼女は眉根を寄せながらも場違いな笑みを口元へ浮かべた。 奇妙な表情の変化に私は、どうしたんだい? と訊ねた。 「……鍵が掛かっていてもどうにかなる算段が付けられるかもしれません」 「算段? もしかして蘇芳君が女スパイみたいに鍵を開けられるとでも言うのかい?」 私の軽口に何ともいえない表情をたたえた彼女は、 「何とかできる人に心当たりがあります」 そう言ったのだ。 キィキィと蝙蝠が啼くような音をさせ―― 「こういう面白い話は早く相談して貰いたかったですね」 蘇芳君が心当たりがあると告げた彼女は猫のような笑みを浮かべると、 膝の上に何やら不穏当なツールを並べ、八重垣えりかは鋭い八重歯を見せた。 「……鍵開けが出来るというのは本当だったのだな」 「インドア派女の根暗な趣味の一つですよ。一時嵌まっていましてね。おい、千鳥。ちゃんと他の生徒が来ないか見張っていろよ」 「分かっているわ」 生真面目な顔つきで廊下の先を睨む。 手を払った八重垣君に頭を下げた際、考崎君は部屋での私の挑発が心に残っていたのか、あまり良い顔をしなかった。 だが、 『こういう時に頼みを無下にできるわたしをお前は好きか?』 『……ずるいわ』 甘いやり取りがあったことを此処に記そう。八重垣君、考崎君とのわだかまりもなくなった。だが、 「お前まで付いてこなくて佳かったんだぞ」 「蘇芳さんがやるっていうのだもの。アミティエのわたしが協力しないわけないでしょう……!」 清廉潔白を旨とする立花君まで協力してくれるとは思っていなかった。 「ま、以前八代先輩の部屋に無断で侵入した仲間だもんな」 「え、そ、そのことは……!」 「初耳なんだが?」 「八代先輩が頭を怪我されて、マユリが疑われた事がありましたよね。その時に……」 「す、すみません……」 「へぇ、花菱さんもやるわね」 感心する考崎君へ委員長殿は〈如何〉《いかん》ともし難い表情を作る。部屋を探った理由を聞き、何それなら構わないよと答えた。 「ほら八代先輩は心が広い。気に病むことはないんだ」 「おだてても何も出ないよ。それでまだ解錠には時間が掛かりそうかい?」 「もう済みました」 あっけなく開いたドアに驚き、八重垣君とドアの両方を返す返す見やってしまった。 「雑貨屋の金庫みたいな単純な作りです。そんなに時間は掛かりませんよ」 「……今度、ニカイアの会で部屋の鍵をもっと性能の佳いものに新調するよう進言しよう」 「手早く済ますぞ。戻ってくるまで10分を目安にする」 「分かったわ」 何だか手慣れているじゃないか、と内心ツッコミながらも先ずはネリーの机へ。 「教科書類とノートか……」 「此処が一番手間が掛かりそうだ。わたしも手伝いますよ」 八重垣君と二人、机の引き出しを開け、教科書やノートの置かれていた順番を頭の中に入れつつ探っていく。 置いてあった順番が違ったことで気付かれては元も子もない。 「小御門先輩はきちんとした日記帳に書いているイメージだが……」 「僕が子供の頃交換日記をした時はそうだったが……ノートの中まで見るのかい?」 「ノートを日記代わりにする知り合いがいますもんでね」 パラパラとノートを捲りながら言う。幼少期から今に至るまで〈変遷〉《へんせん》があるかもしれない。私も、微に入り細を穿ち調べる。 が―― 「日記……。何処にも見当たらないわ」 「八代先輩の方はどうです?」 「机の中はすべて調べたが日記らしいものはないね……」 探していないのは同室のアミティエ、萩原君の机くらいだ。皆、何と無しに萩原君の机へと視線をやった。 (アミティエの机に日記を隠す理由もないだろうしな……) 「日記を書いていたというのは子供の頃の話でしょう。もう書いていないってことはないかしら」 「そんな……」 「その可能性もあるっちゃ、あるが……」 髪をガリガリと掻く八重垣君は、おさげを所在なげに弄る立花君へと車椅子を繰り、 「なぁ委員長。委員長は恥ずかしいお宝本を隠すとき、いつも何処に隠しているんだ?」 「そ、そんなもの、ないわよっ」 「視線の先はベッドだ。千鳥、ベッドの下を探ってくれ」 「ちょ、ちょっと……!?」 抗議の声を上げるも、考崎君は無情にもネリーのベッドのマットを捲り中を検めていく。 「……何処にもないわね」 「アミティエの方のベッドも捜してみてくれ」 考崎君は萩原君のベッドも探るが―― 「こちらにも見当たらないわ。ねぇ、同室のアミティエの方の机も調べた方が佳いんじゃない?」 「どういう理由で自分の日記をアミティエの机に隠すんだよ。口を開く前に頭を使え」 「それじゃ、えりかはもっと足を使って探しなさい」 歯に衣着せぬ物言いに立花君はハラハラして見守るも、八重垣君は余裕の笑みで、 「何時も気に障ることを言ってくれてありがとう」 と軽口を返した。 「佳いアミティエでしょう?」 「羨ましいよ」 「……ねぇ、えりかさん。えりかさんなら本を隠すとなったら何処へしまう?」 「名前呼びに為っている気安いぞ。ま、そうだな、わたしなら――」 八重垣君は躊躇いがちに本棚へと視線を投げかけた。 「私も同じ。木の葉を隠すなら森の中ってことわざもあるし――」 「え、本棚はわたしがちゃんと調べたわ……」 「立花さんが見逃したとは思っていないわ。ただ整頓するだけなら本棚に日記を普通に置くでしょうけど、隠しているなら――」 蘇芳君は部屋を横切り本棚の前まで行くと、迷わずに立派な外箱の付いた聖書を手に取った。 「――そうか。しまった“ブラウン神父の童心”か」 狭い額をぴしゃりと叩く八重垣君へ、何? どういうこと? と彼女のアミティエが訊ねる。 「ギルバート・ケイス・チェスタトンの推理小説だよ。主人公のブラウン神父が探偵役だ」 「«折れた剣»の中で、名言“木の葉を隠すなら森の中”の原型が登場する。つまり――」 蘇芳君が聖書の外箱を傾けると―― 中から出てきたのは聖書ではなく、皮の表紙に «Diary»と記された日記帳だった。 「ダイアリーって書いてある! すごいわっ」 「ネリーもブラウン神父にちなんで、日記を聖書の中に隠していたという訳か」 大病を患い治癒してからすぐの頃、内に篭もるように為ったネリーは一時本の虫になっていたことを思いだした。 (怪奇小説だけじゃなく、推理小説も好んで読んでいたものな) 「よし、ひとつ小御門先輩の秘密の花園を拝んでみるとしよう」 「いけないわ。あの、八代先輩が確認してください」 蘇芳君に手渡され、親友の日記帳を前に酷く緊張した。 禁忌を前にして怯むも、此もネリーの為だと己を鼓舞し日記帳を開く。 「……思っていたよりも簡素だな」 「そうなんですか?」 ネリーの筆圧の弱い繊細な文字を目にし頷いた。 日記は私の想像を裏切り、年月日と天気。その日に摂った料理。そして印象に残った物・事を簡素な文章で記していた。 私は―― “鐘楼のルーガルー”事件のあった日を探す振りをして、林檎との接吻を見られたあの日の頁を探してしまった。 彼女が何と記しているかどうしても知りたかったからだ。 心臓は高鳴り、頬に、額に熱を感じる。 日付を見ながら、あの日へと―― 「どうしたんです? 本に呪いの文言でも書かれていたんですか?」 「何、冗談を言っているのよ」 「ブックカース」 「え?」 「ブックカース、本の呪いよ。中世の頃、書物の盗難を避けるために奥付に呪いの言葉を記載していたことがあったの」 「書物は当時とても高価だったから」 「の、呪いの言葉……。本当にそんなものがあったのね」 考崎君の説明に、怖い話が苦手な立花君は怯え私が手持つ本を怖々と見遣った。 (確かに、呪いじみていたな……) 呪いとは言っても、私に対する裏切られたなどの悪しき言葉はなかった。 ただ、 「……文字が震えていた」 「何です?」 「……いや、手早く済ませてしまおう」 接吻をしようとしていた情景を視たことが衝撃だったのだろう。文字は震え乱れていたことが彼女の心の内を雄弁に物語っていた。 震える文字を見た途端、胸の奥が掴まれ絞り上げられた。私にとっての呪い。 「……この日付だ」 “鐘楼のルーガルー”事件のあった日付を見付け、私は日記の文言を読み進める。 日付、天気、朝食、昼食、その合間にニカイアの会の友人と交わした言葉が踊り―― 「何と書いてありました?」 「……深夜外出した旨はこう書かれていた。“夜、寝苦しくなり目を覚まし部屋を出た。雲間に覗く星をしばし眺め――”」 「“それでも眠気が訪れず目が覚めてしまった私は、姿見で私自身の姿を長い間見詰めていた”と」 皆へ言って聞かせた言葉はまるで私自身が発した声ではなかったかのように部屋に響いた。 シンと静寂が部屋に充ち、沈黙は途端に初冬の寒さを運んでくる。 「……その文言だけではアリバイの証明に為りませんね」 「そう? 林檎さんを襲ったと書かれていなかったじゃない」 「犯行は確かに記されてなかったが、反面深夜外出したことは文言から確かとなった。どちらかというとマイナスだよ」 「時間や、星を眺めていた時に誰かとすれ違ったり、会って話したという記述があれば佳かったのだけど……」 (空振りか……) 「あ、あの、残念だったのは分かるけど、そろそろ部屋を出た方が佳いと思うの。戻ってくる頃合いだわ」 「まだ平気だろ。オドオドしなくても大丈夫だって」 「オドオドだってするわよ。ぅぅ……方喰寮長の深夜の見回りを思い出すわ」 「ああ。確か、沙沙貴姉妹と深夜のお茶会していた時に踏み込まれたことがあったって――」 「――今、何と言った?」 「は?」 「立花君に聞いているんだ。何をオドオドしているのだって……?」 「え、ぁ、その、深夜のお茶会は、もうしばらくやっていなくて……」 「そこじゃない。オドオドの後だよ」 「方喰寮長の深夜の見回りを思い出す……?」 唐突に天啓を得た。 ――そうだ。 方喰寮長は決まった時間に寮を見回って歩く。その時に―― 「流石は蘇芳君のアミティエだ。優秀な助手だね、君は」 「え、あの……」 親友が日記に書いていた文言。此ならアリバイを崩せるかもしれない。 「ありがとう立花君。君のお陰でネリーを救えそうだよ」 事を為す前に、方喰寮長へ話を通しておかなくては為らないが―― 「え? え?」 おさげを手に目を瞬かせる彼女へ、深々と頭を下げ礼をする。と、 カメラで小御門ネリネの日記を撮影したのだ。 会長権限により、ニカイアの会の会合を決めた。 会合の日取りは今宵。 皆が浴場で身を清め、祈りを終えた後に、だ。 親友が自己犠牲を気取ったあの時と同じく、バスキア教諭も呼び出した。 すべてあの夜と同じでなくては為らない。 足を止め、薄暗い闇の衣を纏った学院を見上げる。 秋の寒さと冬の寒さには明確な違いがある。 秋冷えも足底からじっとりと這い身体の芯を凍えさせる寒さだが、冬の寒さはそれに鋭さが付け加える。 纏った空気は冷え冷えとし、研ぎ師が丹誠込めて磨いた刃を思わせる。 肌に感じる寒さはカミソリのように冷たく尖っていた。 「……だが、物を考えるには重畳だ」 私は、夏よりも冬の方が好きだ。 湿気混じりのイヤらしい暑さは性に合わない。冬の清冽さを好む。 (イズニクで推理を披露する前に考えをまとめておこう) 親友の無実を証明することが掛かっている。出たとこ勝負という訳にはいかない。 さて―― 解き明かすのは“鐘楼のルーガルー”事件の犯人、真相ではない。 小御門ネリネの無実を証明することだ。 蘇芳君たちと調べた、不在証明――アリバイを崩す為には二つの証拠を提示すれば佳い。 先ず1つ目。 小御門ネリネは林檎が襲われた時刻、寄宿舎に居た。何故それが分かったのかは―― «襲われた時間、寄宿舎に居たという根拠は?» 方喰寮長がネリネを見ていた 日記帳に姿見を見ていたと書かれていた 同室のアミティエが教えてくれた そして2つ目。 そもそも小御門ネリネが聖堂前に行っていない証明は―― «小御門ネリネが聖堂にいなかった証明» 聖堂前の消された足跡 同室のアミティエの証言 雨が降って道がぬかるんでいた ネリーが自らかぶった罪を不可能だと認めさせ、最低限の〈疵〉《きず》で済むように新たな犯人を見繕う。 (……此で佳いはずだ。だが、) どうにも据わりが悪い。違和感を覚える。 だが、 呼び出し、既に場は整えた。ここで立ち止まっている訳にはいかない。 私は皆の待つイズニクへと向かった……。 初冬の鋭い寒さが思考を手助けしてくれた。冷えた頭は順序立て親友の冤罪を晴らす方法を照らす。 私は一度学院を一瞥し、彼女の腹の中へと這入っていった……。 皆の視線が集まる中、私は部屋を悠然と見回した。 疑心を顔に張り付かせたニカイアの会の面々。次いで、戸惑いの表情を見せるバスキア教諭の顔を順繰りに眺めた。 そして愁いに充ちた小御門ネリネを。 あの夜と違う、部屋の隅々まで視線が行くことに、頭が温かくなっていないことを確認すると―― 急な呼び出しをして済まない、と言い腰を折る。深々とした礼だ。彼女らの目を見なくても分かる。困惑しているのを肌で感じた。 「――今日集まって貰ったのは他でもない、“鐘楼のルーガルー”事件でのことだ」 頭を上げると、予想通りの表情が並ぶ。疑惑の目、困惑の面持ち、苦渋の色をなす顔。 「そのことは小御門さんが――」 「小御門ネリネは犯人ではない」 いつもの泰然とした口調で告げる。だが、その言葉には重いものが含まれていた。それを感じた皆の目に疑問符が浮かぶ。 「犯人ではないって……」 「言葉通りの意味ですよ、バスキア教諭。小御門ネリネは沙沙貴林檎を襲ってなんかいないってことです」 またも室内がざわめく。ネリーは私を見詰めてはいたが、その瞳は苦渋に満ちていた。 「あの、ですが、小御門副会長が自分がしたことだと仰っていました」 「そいつは自己犠牲だよ。実に基督教的精神だ。だが、度が過ぎると笑えなくなる」 「……私がしたことだわ」 「そいつは違うな。そもそもネリーは聖堂になんて行ってなかった」 私の一言に〈臍〉《ほぞ》をかむような表情を見せる。こんな顔を見たくはなかった。 「どういうことです?」 「以前、此処で申し開きをした通り、聖堂には足跡すらなかった。襲われた林檎や、突き飛ばしたというネリーの足跡すらね」 前回、ネリーの告白で有耶無耶になった箇所だ。胸に迫る動機の告白がそれ以外のディティールを必要としなかったが為に。 「確かに……それはおかしいですね」 「それは……突き飛ばした後、沙沙貴さんが立ち去るのを待って靴跡を消したのです。私の足跡から特定されてしまう気がして」 「どうやって?」 率直な私へ鼻白む親友。小さな頭で反証を探しているのだろう。少しの間の後、 「……木の枝を使ったのです」 と言った。 襲い足跡が付いたのは聖堂前の雨でぬかるんだ土が剥き出しの箇所だけであり―― 其処を枝でならしながら後ろ歩きで自分の足跡を消しつつ芝生の場所まで下がった、と告げた。 聖堂前の雨に濡れ、ぬかるみに為った地面の場所と芝生までの位置を考えれば確かに可能だ。 「その後は、すぐに寄宿舎へと戻りました……」 足跡がない理由は皆の納得を得たようだった。確かに頷けるやり方だ。皆の目を見れば言いたいことは分かる。 「納得して貰えたかしら……」 「ああ。なるほど、確かにその通りにやれば足跡の謎は解ける。恐らく足跡がなかったのはネリーの説明した通りだろう」 「だったら――」 「だが、君が話した真実は足跡を消した方法だけだ。ネリーはある者を庇っている」 「……っ」 静かに息を呑む。私が“彼女”の名を告げると思っているのだ。 「足跡を消した理由、それは……」 「待って譲葉――」 「――己の足跡を消そうとしたんじゃない。“野生動物の足跡”を消そうとしていたんだ」 “彼女”の名を明かすと思っていたネリーは惚けたような顔つきで私を見詰めた。 「え、あ、動物ですか?」 「ええ。以前にも餌付けした動物のことは話したでしょう? 動物の足跡を消すついでに残った己の足跡も消したのです」 困惑した空気が室内を覆った。私の言では、小御門ネリネが犯人ではないということには為らないからだ。 ネリー自身が餌付けをしたのを見られたことが発端となり、嫉妬という動機が重なったことで犯行に及んだのだと語ったのだから。 ――だが、前段階としてこの話をしておかなくては為らない。 「……犯人の動機は話しておかないとね」 「え?」 「いえ、そういえばバスキア教諭の御趣味はガーデニングだそうですね」 「え、ええ。それが何か?」 「佳い御趣味だ。僕の趣味はカメラでしてね。主に風景を撮っています。まぁ下手の横好きというやつですがね」 言い、イズニクへと持ち運んでいた私物のカメラを手に取った。 「佳い絵が撮れたんです。見て貰っても佳いですか?」 「それは……構いませんが……」 「譲葉、もう――」 「悪いが自室に踏み込ませて貰ったよ」 「え……」 「ネリー。君の部屋にだ」 カメラを操作し、親友の部屋で撮った写真の画像をピックアップしていく。 「部屋へ? だって訪ねてこなかったじゃない」 「僕に鍵開けの技術があることを知らなかっただろう?」 「そんな嘘を――」 「これは君の日記帳だろ?」 カメラの画像を見せる。ネリーが息を呑むのを視、皆は真実であると悟った。途端に批難の目が私へと注がれる。 「会長、其れは――」 「八代会長、友人とはいえ家人の赦しを得ず無断で入るのは正しくない行いですよ」 「僕もそう思います。だが、こうするしかなかった」 「不道徳な行いをすることが?」 「親友の無実を証明する方法は此しかない。日記帳を探った理由はお分かりでしょう」 私の言葉に事件当日のアリバイを得る為だと意味を悟ったバスキア教諭は押し黙り、ニカイアの会の面々も批難の言葉を飲む。 「“鐘楼のルーガルー”事件の日、日記帳にはこう書かれていました」 バスキア教諭へとカメラの画像を見せながら、ニカイアの会の者たちへと当日の日記を読み上げていく。 「…………」 「――最後の結びでこうあります。夜、寝苦しくなり目を覚まし部屋を出た。雲間に覗く星をしばし眺め――」 「それでも眠気が訪れず目が覚めてしまった私は、姿見で私自身の姿を長い間見詰めていた、とね」 「それで終わりですか?」 頷く私。自分が書いたもので間違いないかをネリーへと問う。 「ええ、間違いないわ。でも、」 「何だい?」 「この日記が何だって言うの? 確かに聖堂でのことは書いていないけれど、それは突き飛ばしていない証拠にはならないわ」 「……今、確かに日記帳の通りの行動をしていたとの発言を聞きましたね?」 親友でなく、バスキア教諭、ニカイアの会の者たちへと呼び掛ける。 「え、ええ」 「はい……」 「ネリーは今、林檎が襲われた11時半、聖堂に居なかったことを証明した」 「何を言っているの?」 「この日記帳には夜半に部屋を出たことが書かれている。そうだね?」 「だから、星空を見て……皆が本当に寝静まったかを確認してから向かったのよ」 「姿見を眺めていたのは?」 「それは……外に出る前に身だしなみを確認していたの」 言質を取った私は、“姿見”と声に出し冷えたイズニクを端から端まで見渡した。 「この姿見だが……ネリーはどこで己を見詰めていたのだろう」 「え?」 「姿見、というが寄宿舎で全身を写すほどの大きさの鏡はどこに置いてあるのか。君、知っているかな?」 「え、あ、私は、その……存じ上げません」 「壁掛け鏡なら、お部屋や御不浄にもありますけど……」 「上半身を写す程度の鏡じゃ姿見とはいわない」 日記帳に書かれた齟齬に違和感を得た皆は、ネリーを不審な目で見詰めた。 「それは――」 「確かにある。ロビーだよ」 「……ロビーですか?」 「八代会長、ロビーに鏡なんて置いてありません」 「いえ、あるんですよ、即席の鏡がね」 言い、私はイズニクのドアへと歩むと―― 「窓を御覧ください」 私の指さす先を見遣ると、薄ぼんやりと皆の顔が窓ガラスに映っているのを確認させた。 「確かに姿は映っていますけど、これじゃ……」 「鏡とまではいえない。だが、」 皆へカメラにて動画撮影した映像を回し見せる。 其処にはかつて、寄宿舎のシェイプシフター事件の折に蘇芳君へとして見せたように灯りの点いた状態の水槽と―― 消した状態の水槽を撮影したもの。 消した水槽にくっきりと映るのは私の姿。“鏡”と言っても差し支えのないもの。 「ロビーには水槽がある。縦長の水槽だ。電気を落としたらこうして大きな姿見に変わる。ネリー、君の言った姿見とはこれだね?」 「……ええ。確かにそうだけれど」 今までの話の持って行き方から寄宿舎にない“姿見”の事で追い詰めるだろうと思っていたのか、バスキア教諭、同輩は疑問符を浮かべた。 だが、私の思惑はそちらではない。親友から先ほどの言質を取るためだ。だからこその誘導した物言い。 「バスキア教諭。魚も眠ることは御存じですか?」 「え、ええ。以前、方喰寮長から耳にしたことがあります」 「なら話は早い。熱帯魚にも睡眠は必要だ。この睡眠だが、太陽が落ちたら電灯を消すというものでなく――」 「決まった時間に消すことが必要なんだ。生活サイクルをきっちり合わせることがね」 カメラの動画映像を回し見する皆へと続ける。 「だから就寝の時間は魚の都合でなく人間の都合に合わせることができる。例えば、寄宿舎の見回りのついでに消灯させるとかね」 「……っ」 察しの佳い親友、頭の切れる他の面々も気がついた者がいるらしい。狼狽した彼女らは私とネリーを交互に見遣った。 「熱帯魚の世話は方喰寮長の領分だ。そしてニカイアの会の面々は知っての通り、見回りは11時半から行われる」 「ぇ、ぁ……! それじゃ……」 「そうです。方喰寮長の部屋の位置からロビーは直ぐだ。ほぼ11時半に水槽のライトは切られる。ネリー」 無慈悲な声音と表情を意図して作り、親友へ告げる。 「11時半に林檎は襲われた。だから君が水槽を“姿見”として使うのは不可能なんだよ」 部屋に沈黙が横たわる。親友は眉根を寄せ唇を噛み、反証を何とかして生み出そうとしている。 「ぁ、そ、そう……! 聖堂に行って戻ってきてからロビーの水槽を見たの、だから――」 「同室のアミティエ、萩原君からも話を聞いている。12時に為る少し前に君が部屋に戻ってきたとね」 「…………」 「聖堂で彼女を襲い、負傷した林檎が足を引きずり姿が見えなくるまで身を潜め、足跡を消してから寄宿舎の自分の部屋に戻る? 不可能だ」 反証の暇を与えず、私は皆へと声を上げた。 「小御門ネリネはある者を庇っているのです」 「……譲葉ッ」 「そう――方喰たまき寮長をね」 今までとは一際大きなざわめきが起きる。 ネリーを横目にすると信じられないような顔つきで私を注視していた。 「先ほど足跡を消そうとしたことの有無を話した。“野生動物の足跡”を消そうとしていた、と」 ――私は語る。かつて“ウェンディゴ”の噂が出ていた時の事の次第を。 はじめ寮生がタヌキを保護し、そして方喰寮長がその後を引き継ぎ、規則から怪我が癒えていないタヌキを森へと帰すも―― 優しさから怪我が完全に治っていないタヌキを気遣い森へと赴き、餌を与えていたことを。 「八代さん……」 黙っていると約束した手前、バスキア教諭の視線は痛いが、“犯人”として泥を被る者が必要だ。 方喰寮長ならば最小限で問題にならない。株を落とさないだろうと判断し、寮長からも話を通した上で泥を被ることを了承して貰った。 「そんな……」 「それでは……方喰寮長が沙沙貴さんを襲ったということですか?」 「それは違う。襲ったのはタヌキだよ」 「え……?」 「林檎は方喰寮長が聖堂近くで餌を与えている事を知っていた」 「そして折悪く待ち合わせていた時に、タヌキに飛びつかれ驚き足を痛めてしまった」 「突き飛ばされたのでは、ない?」 「元々林檎は突き飛ばされた云々は言っていない。毛むくじゃらの獣を見て慌てた際に負傷したと言っていただろう?」 「それじゃ――タヌキをルーガルーだと勘違いして?」 此は推測だが、と告げ続ける。 「養護教諭に怪我をした理由を尋ねられ、方喰寮長が餌付けをしていたことを知っていた為――」 「タヌキだと言えず咄嗟に怪異の名を挙げたのだと思う」 「彼女も自己犠牲から……」 呟く書記へ、それだけじゃないと首を振る。善意だけではディティールが足りない。ひとさしの悪意があって真実味は増す。 「……何です?」 「彼女自身、襲われたことを己を守ることに使おうと考えたのだと思う」 「化け物に襲われたと為れば、自分の置かれた立場が回復すると考えたのではないかな」 「そんな……!」 「――事実、怪我をしたと聞き距離を置く生徒は絶え、級友は心配からお見舞いに来るようになったそうだよ」 私の言葉に清廉な書記も、ニカイアの面々も黙り込む。嘘を吐いていたと糾弾できないのだ。 そのつもりはなくとも、ネリーを振り林檎が選んだことで始めに批難の声を上げたのはニカイアの会の者たちだ。 生徒の鑑と為る組織が批難を由としたことで、余所余所しい態度を取ってもよいと言う空気を作り上げてしまった。 「…………」 嘘を吐かせたのは己たちの所為だと聡い彼女たちは理解した。 「ネリーは私に事件の進捗を聞いていた。そして真実を悟り、自分が泥を被ることを選択した」 林檎が嘘を吐いているのがバレ、再び白い目で見られるのを恐れたのだ。そう続けた。 「これが“鐘楼のルーガルー”事件の真相だ」 すべてを語り終え、イズニクは静まり返った。時折吹く初冬の風が窓を揺らす音だけが聞こえる。 「――話は承りました。八代会長のお話に間違いはないのですね?」 「…………」 沈黙を守る。答えれば偽ってしまうから。 「沈黙を持って是とします。しかし、そうですか……たまき、寮長が……」 「沙沙貴さんも、方喰寮長も、小御門副会長も、それぞれ善意から相手を庇い、嘘を吐くことになってしまったのですね……」 三方一両損のようだと呟く。硬い同輩だが私の時代劇趣味が移ったようである。 「バスキア教諭。ネリーへの謹慎は解いてくれますか」 「譲葉……」 「ええ。当然です、彼女は何の罪も犯してはいないのですから」 言い、バスキア教諭は皆へと慈愛に満ちた瞳を送った。皆も迷いなく頷く。 「“鐘楼のルーガルー”の件は、どうするおつもりですか?」 「この件に関わっていた者はそれぞれに互いを庇いあうことで嘘を吐いていました。私には裁くことはできません」 ただ、方喰寮長には餌付けを行わないようにきつく話しておかなければ為りませんが、と呟く。 「それについては僕の方から、止めて頂くよう話を付けておきました」 「そうですか。では――今度の一件は沙沙貴林檎さんが聖堂にて野生動物に驚き、それをルーガルーだと見誤った。佳いですね?」 バスキア教諭の言葉に誰も反対することなく、ニカイアの会の役員全員が肯定の返事をした。 元々人の佳い人格者の集まりだ。過ちではないとはいえ自分がしでかしたことで罪悪感を抱いていたのだろう。 賛同し、立ち上がると一斉に私へと腰を折り、礼を払った。 「……譲葉、私、」 「……黙っていろ」 後ろめたさからネリーは己のつま先を見詰めた。 今にも消え入りそうな小御門ネリネは――あまりにも美しく幻のように映える蝶のようだと思った。 触れてしまったら鮮やかさを失い消えてしまう夢の中の情景のようだと。 (子供の頃のようだ) 大病を患い、内気に為ったあの頃の彼女を思い出す。 「……守る、というのも僕のエゴなのかもしれないな」 呟き、壊れぬようにそっと親友の肩を抱いた……。 「どうやら上手くいったみたいですね」 来客にコーヒーを用意していると待ちかねたかのように私の背へと言葉を投げかけた。 湯気立つ香ばしいコーヒーを、八重垣えりかへと渡す。 「先輩の勝利だ」 「僕は勝利を得たいんじゃない。負けたくないんだ。微妙な差だが、其処が違う」 「含蓄のある言葉だ。流石はニカイアの会長。な、白羽?」 蘇芳君は受け取ったコーヒーの香りを愉しみ、ええと頷いた。 「“鐘楼のルーガルー”の正体を隠したままで矛を収めることができたのですね?」 「なかなかに危うい橋だったが渡り終えた。ネリーの謹慎も解かれることになったよ」 「佳かった……」 心から言っているのが分かる。素晴らしき後輩。 「此で千鳥や委員長に佳い報告ができるってもんだ。自分たちも結果を聞きに来たいって煩かったんですよ」 「連れてきても僕は構わなかったんだけどね」 「事を済ました後に、大勢で押しかけたら怪しまれるかもと思いましてね。わたしたちは代表ですよ」 そうか、と呟くように言いコーヒーを一口。 苦くも酸味の利いた味が口中に広がり、身体の中で張り詰めていた空気が一段下がった気がする。 苦手ではあるが寛ぐには最適だ。 「リラックス中の八代先輩には悪いんですが、一つ聞きたいことがある」 「何かな?」 「白羽は気付いているようで癪だが……ルーガルーの犯人は一体誰だったのですか?」 問われ逡巡する。 話していいものかと言う空気は伝染したのか、蘇芳君が露骨に慌てながら八重垣君へ口を開こうとする。が、 「騙しのプロを騙そうとするな。別に聞いたところで言って廻ったりはしないさ」 「ただ、白羽が知っていてわたしが知らないのがムカつくだけだ」 率直な言葉に笑ってしまう。 「八代先輩……!」 「いいんだ。八重垣君は値千金の活躍をして貰ったしね」 言い、頭の中でどう順序立て説明するかを悩む。 そもそも―― イズニクで語った犯人は私が作り上げたものだ。 “鐘楼のルーガルー”にも私同様、怪異を作り上げた明確な犯人がいる。 それは林檎を襲ったものではない。七不思議を利用した者だ。 何故、私が真相に気付いたのかは、聖堂前にあった足跡がブラフだと気がついたから。 では何故足跡から真犯人へと着想を得たのか―― «聖堂の足跡がブラフと気付いた理由» そもそも足跡を消す必要がなかったから 林檎の靴底が左右とも泥に塗れていたから 餌付けされた動物などいなかったから その証拠から指し示す、“鐘楼のルーガルー”を作り出した者は―― «鐘楼のルーガルーを創りし者は?» 方喰たまき ダリア=バスキア 沙沙貴苺 順をおって説く為の組み立てを終えた私はコーヒーを舌の上で味わった。 「一度、ネリーへと事件のあらましを話ながら整理していった時、妙に引っかかる箇所があった。聖堂前の足跡だよ」 「それって犯人が消したって話でしたよね?」 「ああ。初めは林檎を襲った後、自分の足跡という証拠を残したくない為に消したのだと思った。だが――」 「足跡を消す必要はないということですね」 「うん? ……ああ、そういうことか」 「そうだ。学院生徒は皆、学院指定の靴を履いている」 「余程足のサイズが大きいだとか歩き方が特徴的でないのなら、消す必要なんてないんだよ」 「なるほど……。ん? いや、でもタヌキの足跡は?それがバレたくなくて……」 聖堂付近の森にタヌキなんて居着いてないよ、と言った。八重垣君は眉を寄せるも、直ぐ、 「方喰寮長は随分と割を食った形に為りますね」 と、私の悪巧みを理解し、猫の笑みを浮かべそう言った。 「ウェンディゴの事件の折に、自分が噂の元に為っていた事を黙っていたのが随分と心苦しかったらしい。心根の優しい人だからね」 「だから餌付けをしていた事にしてくださいとの頼みも喜んで引き受けてくれたよ」 「悪党ですね。と、なるとタヌキはいなかった。沙沙貴妹が驚き怪我したっていうのは――」 「そう。真っ赤な嘘だよ」 真相が分かってきたらしい猫の君は八重歯を見せ愉しげに笑う。 「足跡を消す必要がないと解った後、幾つかの齟齬を拾うことが出来た。林檎はそもそも聖堂には行っていなかったんだ」 「聞かせて頂いた靴箱にあった林檎さんの靴からの着想ですね」 「御名答。事件当夜、僕は林檎の靴を視た。左右どちらもべったりと泥が付いていたよ、だがおかしくはないか?」 既に理解している二人へ問い、“右足”を怪我していた、と続ける。 「足を引きずって帰った。泥が付く部分は必然的に偏る」 「なのに、左右どちらの靴底にも均一に泥がべったりと付いていた」 「……アリバイ工作が裏目に出たって訳か」 「恐らく事件の流れはこうだ。林檎が足を挫いたこれは本当だ。養護教諭が診察をして診断を下している」 「騒ぎになっていないところをみると自室で――」 林檎のベッドは一番上だったから、梯子の途中で足を踏み外して挫いてしまったのではないかと続ける。 「そこで沙沙貴姉が一計を案じたって訳だ」 「ああ。距離を取られている妹を案じて、怪我を逆手に取り周囲の同情を買うため自作自演をすることにしたのさ」 「待ち合わせよりも早く聖堂に行ったことにして、そこでルーガルーに襲われたことにした……」 「足跡がなかったのは当たり前だ。そもそも行ってすらないんだからな」 「待ち合わせの時間に来ない事に僕が心配して部屋に来ることも織り込み済みだったのだろう。そこで――」 襲われたと言って負傷した右足を見せてきた。 「後は、八代先輩が話してくれた流れって訳ですか。妹の為に事件の絵図を描いた」 「“鐘楼のルーガルー”を創りだしたのは沙沙貴苺君だよ」 切って捨てた私の言葉に三人の間に緊張が漂う。空気が密度を持つ。 「……沙沙貴さんたちを糾弾するのですか」 「君はどうしたい?」 問いに美しい顔を歪ませた。私や八重垣君とは違う、真実を求める彼女には酷な質問だ。 「試すような真似をした。すまない」 「いえ……」 「……この件は僕たちだけの秘密にしようと思う。どうだろうか?」 「宜しいのですか?」 「三人も知っている秘密は秘密じゃないと思いますが……わたしも賛成です。真犯人を見付けたところで誰も得をしない」 彼女らしい言いざまだ。シニカルな笑みで受け入れると、蘇芳君も生真面目な顔つきでしっかりと頭を振った。 「立花君と考崎君にはイズニクでネリーの謹慎を解いた時の話を真実として語ってくれ」 分かりました、と頷く彼女らを視、ようやく事件を終えたのだと肩の荷が下りた。 「……冷めてしまったな」 話し終え飲んだコーヒーは生ぬるく、己の中途半端さを嘲笑っているかのように思えた。 事件の真実を隠し、とりあえずの解決を図ったことも。 沙沙貴林檎と付き合いながらも、未だ小御門ネリネへの恋慕を捨てきれないことも。 八重垣えりかに励まされ、白羽蘇芳から叱咤されたことで己の想いに改めて気付かされた。 (どうすれば佳いのか分からない。教えてください、母さん――) このオズの国でけんかはゆるさないわよ。ここではみんなが平和にくらしていて、おたがいを思いやっているの “オズの魔法使い”でのドロシーの言葉が蘇る。 授業の合間にくだんの本を読んでいたからではない。 それは―― いつもと変わらぬ面持ちで授業を受けるネリーを盗み見ていたからだ。 ニカイアの会のメンバー、バスキア教諭の前で披露した私の推論は、見事、着地点を見誤ってしまった。 小御門ネリネが犯人だということを覆すことができなかったのだ。 ネリーは長い謹慎の後、何のフォローもないまま再びこの教室へぽっと放り出された。 謹慎が林檎を襲ったことからだと学院側から通達があった訳ではなかったが、長い謹慎はクラスメイトの心の中に―― そして小御門ネリネに明確な分水嶺を作るには充分だったのだ。 (オズの国でけんかはゆるさないわよ。ここではみんなが平和にくらしていて、おたがいを思いやっているの) 心の〈裡〉《うち》で呟く。 幼い頃によすがとした愛読書。 好きだったからこそ想い出の中の台詞は漂白され、安っぽいものに為っていく。 同じ漂白されたような冬空を眺め、私は小さく、だが重い嘆息を吐いた……。 頭の中で組み立て終えた私は、犯人の名と犯行動機、そしてトリックを披露した。 私の話を聞く内に、八重垣君は怪訝な表情を。 蘇芳君は悲しげな顔つきに変わった。 そして、蘇芳君は躊躇いがちに、 「どうしてそんな嘘をつくのです……?」 と訊ねた。 「だよな。立て板に水ってな具合で話してたから、本当かと思って聞き入っちまったぜ」 ――つい、親友の汚名をそそいだ高揚感から吐いた言葉は、 「白羽の態度から名前を明かしたくないってのは分かります。でもね、」 「わたしは先輩を仲間として扱っていたんだ。それを嘘で煙に巻こうってのは赦せないな」 「違うんだ、八重垣君。それは――」 「えりかさん」 ちょっとした冗談で済ましてくれると思っていた。 だが、 仲間と言ってくれた彼女の心を裏切ってしまったと知り、 私は大切な友人を一人、失ってしまったことを識ったのだ……。  ――無力感が身体を〈苛〉《さいな》んでいた。  長く重い風邪をひいた後のような気怠さを伴った無力感。  まるで血や肉のかわりに藁を詰められたかのように、身体は言う事をきかない。  視野にも淡い霞が掛かり、無力感は私をベッドに釘付けにしていた。 「――譲葉」  親友の名を呼ぶ。  彼女の想いを拒み、私以外の誰かと結ばれたという事実に嫉妬した己が口に出して佳い名ではないというのに。  でも、 「また私を救ってくれた……」  あの子を取られたことに嫉妬し、沙沙貴さんが距離を取られ出しても私は弁明をしなかった。  その所為で彼女は苦しんでいたことを知っていたけれど――  私の中の暗い心が�私は気にしていないわ。お二人を祝福しましょう�と言葉を吐くことを由としなかった。  そして私の赦すことのできない暗い心が、彼女たちに罪を背負わせた。  $�鐘楼のルーガルー�事件。  ――あの事件は、おそらく林檎さんの姉、沙沙貴苺さんが狂言にて妹を救うことを思い立ち起こしたこと。  愚かな私は、ようやく状況が動いてから後悔に苛まれた。  私が赦す気持ちを抱かなかった所為で、沙沙貴さんたちに虚偽という罪を負わせてしまったことを。  ルーガルーの件が問題になりニカイアの会の会合で――  譲葉が語り出したとき、私は彼女が断罪の心を持って沙沙貴さんたちの罪を告発するのか―― それとも殉教者の気高い心のように己が罪を被ることで解決させるのだろうかと、成り行きを見守った。  だが、だけれど、  $「私が臆病者だったから……」  自己犠牲なんて崇高な想いではない。嫉妬し浅ましい気持ちを持っていた己自身を断罪されたくて犯人だと名乗りを上げた。  謹慎している間、初めは救われたような気持ちに為った。  でも、たっぷりとある時間の中で己を見詰めていくと――  私が襲った犯人だと広く知らしめることに為ったら、�私のように沙沙貴さんたちは苦しまないだろうか?�そう思い立った。  賢いあの双子の姉妹は私が庇ったという事実に気付くだろう。その時、罪の意識に苛まれないかと。  再び懊悩に包まれた私へ、  $「譲葉が救ってくれた……」  $ 先ほどの、イズニクでの譲葉の言葉を思い浮かべる。  彼女が話した言葉は詭弁だ。だけれど、誰も傷つけたくないことから吐いた優しい嘘。  そして――私も彼女の嘘に乗る事にした。  横になっていた身体をやっとの思いで仰向けにする。  仄暗い天井を見上げ、幼い頃は私があの子を守ってあげていたのに、と心の中で呟いた。  そっと瞳を閉じて、幼い頃の思い出を浮かべる。  目に浮かぶは真逆の絵だった。  大病を患い、病院のベッドに繋がれていた頃の私。  死んでしまってもおかしくない病を患い、譲葉の母から受けた言葉は、私を酷く臆病で気弱な娘に変えてしまった。  毎日お見舞いに来てくれる譲葉を前にしても、私の心は、依存するように仕向けた浅ましい自分を恥じる心。  そして相反するように未だ私に依存してくれる譲葉を好ましいと感じていることに罪悪感を抱いていたのだ。  $「早く佳くなってね。今度は私がネリネちゃんを守るから!」  $ 手を握り励ましてくれる譲葉。  臆病に為った私は、譲葉の気をひくような庇護欲を誘う影のある微笑みを向け続けた。 «よい行いや気持ちのいいふるまいをすることが、人から美しいと思われる条件だから»  $ 病床で微笑む小さな私の胸に、�オズの魔法使い�での言葉が浮かんだのを覚えている。  言葉の通りなら、今の私は醜いのだろうと。  $ 九死に一生を得、学校に復帰できた醜い私を、何故譲葉は好きで居続けてくれるのだろう。  長く学校を休んだこと、長く己を見つめ直した所為で昔の活発さは消え失せ内気に為った私は浮いてしまい、からかいの対象に為った。  $「ネリーを害するのは僕が赦さない」  $ かつて私がそうしていたように、気弱な仮面から活発な仮面に付け替え守ってくれたのは譲葉だ。  $�まるで私の影と譲葉の影が入れ替わったかのように� 「……転校したての譲葉はあの時の私のように心細い気持ちだったのね」  本当は心優しく気弱な譲葉が私を守る為に強くなってくれた。  今日――今また私を庇ってくれた譲葉の姿を見て、心が熱くなった。  $ ――此は恋慕の情なのだろうか?  $ 初恋に似た気持ち、  だが、その気持ちは――  $�本当は、譲葉を友達とは思っていないのでしょう�  $�今が嘘でもいい。でもお願いです、どうか、どうか――�  $�あの子と、譲葉と――�  病床で告げた必死の訴え。  娘を思う母の声は井戸の底から這い登り縋るように私の内側を掻き乱した。  $「……救いはない」  $ 拳を握りしめ、私は小さな声音で己へ言い聞かせるように、救いはない――と再度口にした。 寝静まった部屋の中でわたしは夜空を眺めていた。 窓から覗く上弦の月は清冽な明かりで森を皓々と照らしていた。 青白い森を眺めながらわたしは二人の〈女〉《ひと》を想う。 嫉妬から恋心だと自覚し、ついに結ばれることと為った八代譲葉。 そして―― 「苺姉ぇ……」 静かな寝息をついている姉を見遣る。 初めて姉妹の間で嘘を吐き、そして関係が拗れた。幾日も話さない日が続き、焦燥からわたしは彼女へと提案する。 “入れ替わり”を。 八代先輩との逢瀬を交代で行おうと提案したのだ。 初めて関係が拗れたことに混乱し、どうしようもなくなったわたしがした愚かな提案だ。 巫山戯ないでよ、と怒られると思った。でも、 (……苺姉ぇは受け入れた) むしろ面白そうな試みだと進んで受け入れたのだ。以前の血塗れメアリーの時に浮かべたような悪戯っ子な笑顔で。 入れ替わりがバレないよう八重垣えりかの部屋ではわたしが、聖堂内のヨゼフ座には姉がデートに行く算段と為った。 『ねぇねぇ、譲葉先輩こんなこと話してくれたんだよっ』 愉しげにデートでの話を打ち明ける姉を初め嫉妬も何もなく、ただ佳かったと思い耳を傾けていた。 天真爛漫な姉が哀しむ姿――憤った姿なんて見たくないから。 けれど、 何回目のデートだったろう。 ベッドに座り、得意げに語る姉の首筋に小さな赤いアザを見付けたのは、 『――その首のアザ、どうしたのですか』 『え、あっ、あと残っちゃってるんだ。まいったな、譲葉先輩ったら……』 わたしも知るあの痕だと、頬を染める姉に初めて腹の底が捻れるような嫉妬を覚えた。 (この感情は――) 初め、八代譲葉に向けたものだと思っていた。わたしだと気付かない恋人をお門違いにも責めたのだと。 わたし以外の者と親密な関係になったことを。 でも、 その後も逢瀬を続け、八代先輩と逢い、話し――屈託なく姉がデートで起きた出来事を語っているのを耳にしている。と、 「……わたしはどちらに嫉妬しているのだろう」 頬を布団につけ気持ちよさそうに寝息を立てる姉を視、わたしはそう自問した。 カップを片手に八代先輩とのデートを話す姉へと嫉妬で捻れる想いをしたけれど、その想いは両方へと向けられていたのだ。 わたし以外の子と仲良くしている恋人、八代譲葉。 わたし以外の子と仲良くしている姉、沙沙貴苺。 どちらにも同じくらいの嫉妬を抱いていた。 これは独占欲からくるものなのだろうか? それとも……。 「……っ」 姉の首元に赤いアザの幻視を視、胸が〈鬱〉《ふさ》ぐ。わたし以外の者……八代先輩と仲良くしているからだけではない。 この胸に感じる捻れは―― 「わたしは、一体どちらのことを――」 苺のことを想う 譲葉のことを想う オズの魔法使いという童話がある 魔法使いのオズに頼まれ、邪な西の魔女を退治するために旅立つドロシーたち 艱難辛苦を乗り越え、西の魔女を退治しオズに願いをかなえて貰おうとするも――彼がペテン師だと気付く きこりへ心臓も、ライオンへ勇気も、かかしへ脳みそも、与えてあげることは出来なかった。当然、ドロシーを故郷へ帰すことも 気落ちするドロシーたちへ、オズは優しい嘘で彼等へ望む物を与える。かかしは脳でなく小麦のふすまを詰め、きこりは絹でできたハートを ライオンへは勇気の入った水を与えた。皆、ドロシーたちとの冒険で物を考える頭を、いたわりの心を、立ち向かう勇気を既に得ていたのだ ただ彼のペテンではドロシーをカンザスへ帰すことはできなかった 仲間たちはドロシーを帰すために奔走する。そして南の魔女のグリンダならば可能性があると知った けんか好きの木々に襲われ、繊細な磁器たちの国を渡り、大蜘蛛が支配する森を抜け、ようやく南の魔女の住むお城へと辿り着いた 南の魔女から銀の靴を使い家に帰れると知り、きこりとかかしとライオンとの感動の別れの後、ドロシーは愛犬とともにカンザスへと戻る 私は物語の結末を見詰め羨ましいと思った。帰りたいと願う“故郷”を持つ彼女を 幾度も引っ越しを繰り返した私には寄る辺が、戻るべき故郷がなかったからだ いや、故郷は“地”でなくとも佳い。“人”であっても佳い。だが、私は―― これから始まる物語は“帰るべき故郷を探し求める少女”のお話 「クラブ関連の書類はこの棚に入っている。各式典類は、こちらの引き出しだ」 言葉を受け、ありがとうございます、と彼女は人好きのする笑顔を向け頭を下げる。 眩しい笑みにふっと視線を逸らし、窓を見るも、 「……もう冬だものな」 と呟いた。 十二月も半ばを過ぎ、部屋と外の寒暖差から窓は結露で覆われ何も見えなくなっていた。 (私の心のように、と言ったら気障すぎるか) ふっとシニカルな笑みを浮かべると、私へ笑いかけてくれた少女―― 「大丈夫ですか? お疲れではありませんか」 と立花君は言った。 「何、疲れてなんかいないさ。疲れているなら君たちだろう。立花君や――」 書類を持つネリーから熱心に話を聞いている蘇芳君を横目にし、 「蘇芳君の方が選挙演説で疲れただろうからね」 そう人の悪い笑みで応える。 「わたしは半数の賛成票を得れば佳いのですからそこまでは……。蘇芳さんは大変だったようですけど――」 「見事、“ニカイアの会の会長”と成った」 言い、結露に曇った窓を眺め数日前のニカイアの会の選挙、立会演説会でのことを思い返した。 壇上にて凛として佇む彼女は清冽で、白羽蘇芳の姿にざわめくのも致し方ないと思えた。 だが、 『ニカイアの会、会長に立候補しました白羽蘇芳です』 彼女が優雅に頭を下げ挨拶した途端、静かなざわめきは潮が引いていくように緩やかに消え失せていった。 以前、私が感じた己の中に密やかに隠してある原風景が自分へと囁いてくるのを―― 皆、そっと耳元で語りかけられた気分に為ったからだ。 『私がニカイアの会の会長に立候補した理由は、春入学したての私を現ニカイアの会、会長、八代譲葉さんが導いてくれたことです』 そう蘇芳君は言い、そのさり気ない気遣いにどれほど助けられたか感謝の念を禁じ得ないと語った。 私が面倒をみた多くの生徒らは彼女の言葉を聞き頷いている。 そして、私との出会いを切り取ると少しのユーモアを付け加えた。笑い声が聖堂に広がる。 『八代会長が目指していた学院運営を引き継ぐ形で、ある程度のリファインを行いたいと考えています』 『その上で3つの公約をお約束します』 言い、部活動のさらなる活性化の為の構想、現ニカイアの会にて行っている行事の新規立案。 そして挙げた二つをボランティアとして行えないかとの企画を語った。 『今述べた公約は今までのニカイアの会の運営とそれほどの違いはありません』 『ですが、一つ一つ先達の想いを繋げ、より良くしていきたいと考えています』 革新的な公約はない。だが、現状に沿うという形は悪手ではない。穏やかで革新を望まない校風を考えれば悪くない手だ。 しかし――会長職を得る為には、3分の2の票を得なくては為らない。無難では半数程しか得られないだろう。 だが、白羽蘇芳は揺るがない。 彼女は声を止め、誰かを探すように愛おしい瞳をもって聖堂の皆、一人一人へと視線を投げかけた。 そして、 『――私はとある理由から友人といえる者がいませんでした』 『ですから、アミティエ制度のあるこの聖アングレカム学院へと入学することを決めたのです』 『初めは不安でたまりませんでした。内気な私が友人を作れるのか、打ち解けられるのかと――』 『ですが、八代会長、小御門副会長ともに気に掛けて貰い――』 『会の行事を共に過ごすことで、クラスの皆とも打ち解けることが出来ました。それは、』 ――微笑み、 『私を支え受け入れてくれたアミティエのお陰です』 『アミティエの花菱立花さんは慈しみをもって私を受け入れてくれました』 『そして、今、副会長に立候補して支えてくれようとしている』 『もう一人のアミティエ――匂坂マユリさんは、私は此処に居てもいいのだと教えてくれました』 感情の堰を抑えるように、ほんの少し俯く。彼女を知っている者は皆、胸が張り裂けんばかりの思いで見詰めた。 『私は――この聖アングレカム学院を皆にとっての故郷としたい』 『卒業しても佳い思い出として、辛いときに思い出し心を温める、羽を休める場として』 『どうか皆の大切な故郷を守る責を私に与えてくれないでしょうか』 決められた3分間のスピーチ。 ――演説を終わります、そう言い、しっかりとした礼をした刹那、 温かくも大きな拍手が聖堂内に木霊した。 固唾を飲んで見守っていた1年生、そして新しく運営を任せられるのかと見定めていた2年生。 見極めようとしていた3年生たちからも絶え間ない拍手が送られた。 『……新しいニカイアの会の会長が決まったな』 かつて私がした演説と同等の拍手を聴き、そう確信した。 彼女のスピーチは言葉通りの意味と、 「……私に対する宣戦布告だ」 「え、あの……?」 「いや、演説会でのことを思い返していたのさ。なかなか堂に入った演説だった」 「はい!」 きっと大切な物事の一つとして己が取り上げて貰えたことが嬉しかったのだろう。 立花君は、眩しい光を前にしたように瞳を細め笑んで見せた。 「君の演説も素晴らしかった。副会長に成るのも難しいのに佳く成し遂げたね」 「1年生は皆、入れてくれるだろうし、わたしはクラブの付き合いがありましたから……」 謙遜するもそう簡単な話ではないことを知っている。ネリーも容易く副会長の座につけた訳ではないのだ。 「立花君はバレエ発表会での演技が皆の目を惹きつけたのかもしれないね。何せこの学院はバレエは必須科目だ。一目も二目も置かれる」 「ふふ、バレエで役職が決まるのでしたら、考崎さんが会長ですよ」 「考崎君が会長だとすると、必然的に副会長は八重垣君か。独裁政権が目に見えるようだ」 「公約は食堂で昼だけのメニューの選択を夕食にも適用させる、とかですかね?」 「そこは図書室での現代小説を増やすとかじゃないか?」 顔を見合わせ笑ってしまう。 どこぞの大学病院の院長の回診のように、車椅子を押した考崎君がニカイアの会の面々を引き連れ廊下を練り歩く場面を連想してしまった。 いや、今更ながら公約の中に図書室の事項を入れてないことを疑問に思う。と、 「愉しそうですね」 噂をすれば影ではないが、くだんの彼女に声を掛けられ、 「今、八重垣君と考崎君の公約について話していてね」 そう蘇芳君へ告げた。 「公約? えりかさんのですか?」 「ふふ、冗談でのお話よ」 二人で話していた軽口を蘇芳君に話すと、彼女も想像したのか口元を押さえ、笑いを噛み殺した。 「ふふ……! そんな羨ましい公約なんて……」 「いや、私欲に走ったっておかしくはない。大義名分があればいいのさ」 「大義名分ですか?」 「そうさ。蘇芳君の公約の中に図書に関することがなかったのが意外だって思っていたところだよ」 言われ、きょとんとした顔をしたあと目を瞬かせ、 「……思いつかなかったです」 と呟いた。 「私事過ぎてかい? 君は誠実だね」 「いえ、学院の為に役立つことを考えていて……。あ、あの、それで、その、」 口ごもりつつ身体を強張らせた。 そして凝っと私の目を見詰める。その目は私の卑しさを見抜いているように思えた。 「――八代先輩。約束覚えていますよね」 何のことか分からないね 一緒にお風呂に入る約束だね? 彼女の真摯な目は私の秘めた心の隅々までを見通しているかのようだった。 「……何のことか分からないね」 「八代先輩」 まなじりの圧力が一段上がる。一年前のあの事件を思い出す強すぎる目だ。 「ふふっ怖い怖い。立花君助けてくれないか、蘇芳君が僕を睨むんだよ」 「え、どうしたの?」 「…………っ」 〈臍〉《ほぞ》をかみ私から視線を逸らした。 強すぎる視線に私は、 「……ああ、覚えているよ」 「でしたらっ」 「一緒にお風呂に入る約束だろ? これから行こうじゃないか」 「せ、先輩っ」 かっと頬を染め私を睨むも――視線は幾分和らいでいた。 「……済まないね蘇芳君。約束はもう少し待って貰えないか」 「え……」 見上げる瞳を受け、私は自分が醜く酷く矮小な者に思えた。 (いや、そいつは間違っていない) 彼女に約束した“引き継ぎ”の文言。 これを伝える約束をしたことを今更ながら後悔していた。 (聡明な蘇芳君の事だ。あの文言から学院の謎に近づくことになるだろう) だが――謎に近づくということは、“天”ではなく“地”に近づくことだ。そうなれば―― 「八代先輩?」 「……何だい。見つめ合ったことで嫉妬したのかな?」 「ち、違います! そうじゃありません。あの、庶務の方がお呼びしていますよ」 指さす先は庶務と――小御門ネリネが。 「済まないね。少し外させて貰うよ」 話し込む二人の元へと行き、庶務から書類を受け取ると、何の用かなと問う。 「ぁ……」 「お話中にすみません。ですが、そろそろ差し迫った案件を片付けないと……」 「案件?」 「しっかりしてくださいよ。12月まではまだわたしたちが執行役員なんですからね」 引き継ぎの文言。 そしてそれを滞りなく行った場合、彼女へ降りかかるであろう難事を考えていたことで頭に余白を作る事ができないでいたようだ。 「……そうだった。月末にはお楽しみの行事が残ってる」 クリスマス――ノエルを祝う、ニカイアの会の祭典の中でも最も重要視される行事の一つ。 「前年度のノエルも素晴らしかった。今年はそいつを越えないとな。なぁ、ネリー」 「…………」 「エッグノッグの早飲み大会なんてのも面白いかもしれないな」 「…………」 「ネリー?」 「……え? あ、そ、そうね。それが佳いと思うわ」 「裸でシャンパンを浴びるのが?」 「え、ぁ、何を……」 「冗談だよ。エッグノッグの話さ。ネリー好きだったろ?」 温めた鍋に卵黄と砂糖を混ぜ、程よく泡だったら牛乳を入れ最後にシナモンで香り付ける。 主に北米で新年やクリスマスに飲む、祭事の定番の飲み物だ。 「ホイップクリームをトッピングにしたのが好物だった。だろう?」 「そうね……」 柔和に微笑もうとするも、強張った顔、身体は無理をしているのがバレバレだ。 私も、庶務の同輩も当惑した。 「あの、副会長?」 「……ごめんなさい。お二人で話して貰えるかしら」 「心此処にあらずという言葉を抜き出して擬人化したら、ああなるっていう見本みたいだったな」 「……わたしたちが犯人扱いしたからでしょうか」 「そいつは違う。博愛主義者の我が副会長様が疑われたくらいであんな態度になるわけがない」 そもそも犯人だと名乗ったのはネリーからだ。 「なら……」 罪悪感から同輩には見えていないようだが。 (庶務の子と話していた時は何ともなかった) ニカイアの会の皆に腹に一物を……ということではない。 私が話しかけた途端、余所余所しくなった。 (……どうしたって言うんだ、ネリー) 蘇芳君たちといつもの柔和な微笑みを浮かべる親友を見、己の身体の内で、何かがごとりと動き出すのを感じた……。 斜陽の聖堂にトータプルクラの唄が流れた。親友が指導のために、聖母様のために紡ぐ唄だ。 私は幾度となく耳にしたネリーの唄を聴きながら、変わらぬ曲調に、声質に、リズムに心の安寧を感じた。 母の特質を受け継いでいた私は、一度視て触れた大概のもの、ことを習得できた。 それゆえ、一度経験したことでも同じような新鮮さで興味が惹かれるという事はそれだけで価値があった。 料理やカメラ、そして声楽も。 (この声が聴きたいから合唱部に入部したようなものだ……) 簡単に習得できてしまったものは直ぐ飽き、醒めてしまう性分だが、彼女の唄は幾ら繰り返し聴いていてもまったく飽きが来ない。 同じ事をなぞる既視感を得ているというのに何時までも聴いていたいと思う。 「――では私の唄をなぞるように歌唱してみてください」 歌声がやみ、私が思っていた言葉と同じフレーズが出、口角を上げてしまう。 そして、残念と声に出してしまった。ネリーは私を横目にすると、 「少し席を外します」 言い、視線から避けるように聖堂から〈捌〉《は》けていった。いや、避けるようにじゃない。完全に距離を取られている。 「あからさまだったものな……。あの時も……」 クリスマスのミサに合唱部は聖歌隊として歌声を披露する。 必然的に唄の指導を得ようと、ネリーへ話しかけてみるも……。 『ここの音階だが――』 『ご、ごめんなさい。他の方に聞いて』 いや、此なら返事を受けただけいい。何か気に障ることをしたかと御機嫌伺いをした時なぞは―― 『ノエルを前にいつも以上に気合いが入っているね。歌声に胸が震えるよ』 『…………』 何も言わず物言いたげな目を向け、彼女は楚々と立ち去ってしまった。 「……かかとを三回ならして助けて貰いたいよ」 「何を助けて欲しいのですか?」 耳聡く聞いていた――背後にいた所為で耳にした立花君が瞳を瞬かせそう訊ねた。 「オズの魔法使いだよ。聞いた事がないかい? かかとを三度ならす」 「読んだことがあります。でも、銀の靴は確か、故郷に帰るための方法ですよね?」 疑問は当然だ。だが、私にとって、いや、私たちにとって“銀の靴”は庇護とイコールなのだ。 幼い頃の指切りした約束。 (今、かかとを鳴らしても助けに来てくれる者はいない) 「八代先輩?」 「ちゃんと聞いているよ。だが僕にも答えたくない質問もある」 「ぁ……そう、ですよね……」 ネリーが出て行った聖堂の入り口を顧みた。察しの佳い後輩だ。……いや、 「……ネリーとギクシャクしているのなんて周知の事実だな」 「小御門先輩と喧嘩でもしたんですか?」 押し倒した所為かもしれない 林檎のことかもね…… 率直な言葉に笑みがこぼれ、つい何時もの調子になってしまった。 「ああ、大喧嘩に為ったよ」 「そんな、どうして……」 「夜、僕の部屋に呼び出してベッドに押し倒したのが拙かったみたいだ」 「え」 「ムード作りを怠った罰だ。がつがつし過ぎて嫌われたかな?」 伊達男を演じつつ立花君のおさげを指で弄んだ。しばし放心していたが、 「あっ! 嘘だ、嘘ですね!」 「君は本当にからかい甲斐があるね」 もう! と、私の胸を叩く立花君に絆され微笑んだ。 何故、急に避けだしたかなんて……。 「林檎とのこと……」 そう呟いた途端気まずい顔を見せた。眉を〈顰〉《ひそ》められる。 (このことで眉を顰めない者はいないが……) 鐘楼のルーガルー事件も、林檎と私が付き合いだしたことが発端だ。 長年連れ添った小御門ネリネを振り、新しい恋人を作ったドンファンとして。 だが、 「あの、でも……」 「分かってる。怒るならもっと早くていい。時間が掛かりすぎだ。鈍感な恐竜並みだな」 態度に出すなら遅きに逸している。私が言うことではないが何故今更? 「……結局のところ、僕が悪いのだろうね」 「え?」 「鈍感で心の機微に疎い。だから怒らせてしまう」 「そんな、八代先輩は紳士ですよ!」 紳士、という言葉に笑みをこぼしてしまう。男性的な扱いと私にだけしか分からない皮肉に、だ。 「お、お世辞じゃないですよ。先輩は気遣いのできる紳士です。わたしや蘇芳さんも何度も助けて貰いました」 「そうかな、偽善者として優しく振る舞っているだけかもしれないよ?」 蘇芳君への約束も守っていない。反故にしようかと考えているくらいだ。 「優しくないなんて、そんなこと――」 擁護してくれる立花君へ微笑み掛けながら、それにね、と付け加えた。 「悪魔は紳士風と相場は決まっている」 と言った。 聖堂で告げるべき言葉ではない。彼女は戸惑い二の句が継げない様子だった。 「…………」 「すまない。意地悪だったね」 言い素敵なおさげに触れ弄ぶ。頬を染めるも、身をひくことも咎めることもない。気遣ってくれているのだろう。 (だが、確かに今更だな……) 林檎と付き合うことになった折、私たちだけしか分からない程の空気の淀み……。 乱れのようなものがあったが、ネリーは言葉に、態度にも表さなかった。 だからこそいじましいと、学院の皆から私や林檎に対する当たりが強くなったきらいもある。 ――何故今になって、避けだしたのか? 「懺悔したい気分だ」 瞳を瞑ったままの基督を見詰め、私は長いため息を吐いた。 “卵を割らなければ、オムレツは作れない” 映画«オール・ザ・キングスメン»の台詞を胸の中で思いながら、フライパンを振った。 (元ネタはフランスのことわざだったか……) 焼き上げるのに有効だという事で今度は卵をかき混ぜる際に、マヨネーズを入れている。 熱ですぐ固まらず、ふわふわとした食感に為ると言うが……。 「そもそも成功したらという話だ」 フライパンを揺すり、菜箸で絶え間なく卵と生クリームとコショウとバターとマヨネーズを混ぜたオムレツのタネを掻き回しながら―― 私の目は鮮やかな黄色を見詰めていた。だが、 (……ネリー) ともすれば心はネリーを想ってしまう。 避けている理由を考えていると、胸が苦しくなり居ても立ってもいられない気分に為った。 私の妄想の中でもっとも恐れたのは、このままネリーと緩やかな決別を迎えることだ。 仲の佳い友達が進学によって別々の学校に通うようになり、電話をする事が億劫になり、会うこと自体が減りいつしか自然消滅するように。 (こんなに胸が切なくなるなんて……) 落ち込む己自身へ、親友への思いを目減りさせようと、ネリーのネガティブな要素を数えてみたりした。 誰にでも優しく、優柔不断なところ。朝、髪のセットに時間が掛かりすぎる等々だ。 だが、マイナスな面に目を向けてみても、どれも彼女を損なわせることは出来なかった。 ネガティブな面も余計に彼女自身を引き立たせる要素として輝いたのだ。 「どうしたら……」 「先輩っ!」 「ぅ、わわっ!?」 耳元で声を掛けられ、視線はネリーからオムレツの元へと注がれた。 黄色だったものは焦げ、茶色と黒の中間ほどの色合いに変わっていた。 「……やってしまった」 フライパンを火元から下げ、焦げたオムレツだったものを皿へと移す。 焦げた葡萄色の其れから私の抱える懊悩の臭いがした。 「ぁぁ……もうちょっと早く声を掛けるべきでしたね」 背中から手元を覗き込む彼女へ、 「いや、大惨事には為らずに済んだ。ありがとう苺君」 と言った。 「卵焼きを作っていたんですね」 オムレツだよ、と言いいつもの人好きのする笑顔を、目を細め視る。 料理部に姉妹で顔を出している時点で察せられるが、互いの仲は既に修復されたようだ。 私の惨事に林檎が身を乗り出してこちらを窺っていた。 「先輩、うまく作れないみたいだから林檎が教えてあげなよ」 そう告げ、手招きして呼び込む。 「失敗したのは卵焼きですね」 「違うよぅ、オムレツだって!」 二人言葉を交わしていてもおかしな空気が漂うこともない。彼女たちが仲直りしたのは間違いないようだ。 そして、 (私が、林檎へ声を掛けても不穏な空気に為ることもなくなった……) 以前は人目があるところで声を掛けると途端に周囲の雰囲気が強張るのを感じたが、今や以前と変わりない。 (此を見越して鐘楼のルーガルー事件を起こしたとするならば……) 沙沙貴苺君はなかなかに頭が切れる者のようだ。 「認識を改めないとな……」 「譲葉先輩?」 「そんなに焦がしたことがショックだったんですか?」 「いや、何というか……どうやって食べようかなと思ってね」 「えっ……さすがにもう食べられないですよぅ!」 「いえ、でも……ケチャップをたっぷり振ればあるいは」 妹の進言にないないと顔の前で手を振る。益体のないやり取り。 (少しほっとするな……) 特技を使い苺君の目から〈部〉《・》〈屋〉《・》を覗く、と。 「隠し事を……」 「え、え? なっ何ですか?」 「いや、何でも――」 「そ、そういえば料理部でクリスマスのお料理を用意するんですよね!? 先輩はどんな料理が作りたいですかっ!?」 ルーガルーのことを言われると思ったのか、手を大げさに振りながら慌てて訊ねた。 「……そうだね。手軽に作れる軽食がいいかな」 と、私はあえて話題を逸らす彼女の質問に乗ることにした。 「け、軽食。それじゃその……サンドウィッチとかですか?」 「料理下手な僕でも何とか出来そうだしね」 「わたしとしては生ハムとアボカドのオープンサンドが好きです」 「僕はサンドウィッチなら何でも好きだ。貴賤はない。ただしツナサンドは除く」 軽口に破顔する二人。 笑い声に料理部の雰囲気は壊れることなく、己が課題の料理を仕上げていた。 ――いや、 「…………」 遠見した私の目にただ一人だけ強張った顔つきの者がいた。 「……ま、そりゃ怒るよな」 「先輩?」 「せっかくだからオムレツの作り方を教えて貰おうかな」 「いいですよ。あ、でも……」 私が一顧したのを見ていたのだろう、彼女も蘇芳君を顧みた。 「……蘇芳ちゃんでなくていいんですか?」 「――そうだ、先輩にとって料理の師匠ですものねっ!」 呼び掛けようとする苺君を制する。と、 「蘇芳ちゃんと何かあったのですか?」 そう勘の佳い林檎が尋ねた。私はどう話すか刹那悩むも―― 「とある事情から約束を一つ反故にしてね。僕が悪いのさ」 嘘ではないが断片的な情報を伝えることにした。 「約束……。わたし的に誤解を解くよう話してきましょうか?」 ……誤解だとかそういう意味合いの事ではない。 「こればかりは僕が自分で話を付ける。大丈夫だよ、ありがとう」 「でも……」 「理由は話せないが、蘇芳君にしたら僕が嘘を吐いたようなものだからね」 「嘘……」 林檎の一言が酷く耳に残った。 罰の悪い顔で互いに顔を見合わせる彼女ら。それよりもネガティブな色合いの瞳で私を見遣る蘇芳君を視て―― (……どうしたらいい) そう心の内にある親友へと呼び掛けたのだ……。 あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない アーネスト・ヘミングウェイの言葉が頭の中に浮かぶ。 熱気で曇った窓ガラスを指で拭い外を凝っと眺めていた。だが、私の目は景色を映してはいない。 ネリーへの思いで目の前に薄い膜が覆っている所為だ。 (どうしたらいい……) 私は小御門ネリネとどう向き合うべきなのか。 今までと違う態度を示されただけで心は千々に乱れた。 交際している林檎がいるというのに。 こんなにも心が動くということ自体裏切りではないのかとも思う。 だが―― (小御門ネリネと私は分かち難く繋がっている) 別の人間だからと切り分けて考えることができない。 私とネリーはある時点を過ぎてから双子同士の魂のように混じり合っているのだ。 バレエを踊り終えた身体は熱を失っている。汗も冷え、風邪をひいてしまうなと、どこか他人事のように思った。 月の裏側のように静まり返っていたレッスン室にひっそりと歩く音が聞こえ、瞳に張り付いていた薄い膜は急速に払われていった。 特徴的な足音の所為だ。 「……すみません、バスキア教諭」 鍵を掛ける為、声を掛けにきたのだと察した私は先んじて彼女へと声を掛けた。 「何故、謝るのです」 「余計な手間を掛けさせてしまった」 バスキア教諭は頭を振り、 「何か悩んでいることがあるのですね」 と言った。私のように目から部屋を覗いたのかと警戒するも、物憂げに窓を眺めるポーズを取っていた私自身に今更かと嗤った。 「悩んでいることなんてありませんよ」 「罪の意識で信仰を妨げてはなりません」 間髪入れず発した言葉に笑みを引っ込めバスキア教諭の瞳から部屋を覗いた。 ――変わらずカーテンが閉め切られたままの部屋だ。 「……私に黙っていると約束したのに口にしたことを心苦しく思っているのですね」 刹那、何を言われているのか分からなかった。ややあって、方喰寮長の件か、と気付く。 「約束を破ってすみません。親友の疑いを晴らす為にはどうしようもなかったのです」 「構いません。たま……彼女も黙って貰っていたことに心苦しさを感じていたでしょう」 「優しさからとはいえ規則を自ら破ってしまったのですから」 万人が万人見惚れる笑みを浮かべ言う。幼い頃なら〈絆〉《ほだ》されていた微笑だ。 (だが、部屋に招待してくれない者は信用できない) 瞳のカーテンを思い浮かべ苦笑う。 「ありがとうございます。心のつかえは取れました。では――」 「他にも懺悔したいことがお有りなのでしょう?」 「…………」 感情が読めない彼女の言葉に刹那狼狽える。私と似ているこの人は苦手だ。しかし―― 「僕と似ている、か……」 「八代さん?」 「バスキア教諭は誰かを真剣に愛したことはありますか」 「え……?」 戸惑う。瞳のカーテンに揺らぎが見えた。だが部屋はまだ覗けない。 「この人の為なら身を投げ打っても佳いと思える人です」 「私は……」 「私は――私には神がおられます」 瞳の奥にかかるカーテンから、神聖ではあるが何か怖ろしい尾が覗いた気がした。目にしてはいけないものだ。 「八代さんは――」 「いいのです。これは自分で答えを出さなくては為らない問題でした。おかしな質問をしてすみません」 「ぁ……」 頭を下げ、立ち去ると十字を切る姿が見えた。 私は彼女の姿に親友を被らせ、冷えた身体が更に凍えたような気がした。 「……愚かだな」 今まで撮ったカメラの画像を眺めながら呟く。 そもそも基督教徒のバスキア教諭に同性愛者の話を訊ねようとすること自体がお門違いだ。 頭が温かくなっていた所為で随分と失礼なことを考えてしまった。 撮りためていた風景写真を眺め、心の中で詫びる。そして―― (ネリー……) それらを撮った月日を思い返すように遡っていくと、ネリーとともに写った写真を見付けた。 ニカイアの会の選挙で会長職に当確した時の写真だ。庶務の子が気を利かせて撮ってくれた写真。 おそろしく昔のことのよう思える。たかだか一年前だというのに。 写真の中の私はカメラマンの後ろを気にしたように眉を顰め、ネリーもカメラマンの向こうに何を見たのか酷く愉しげに笑っている。 ……何だっただろう? 一度視れば忘れない性質だが、記憶にない。 「……ああ。そうだ……」 もっと寄ってくださいという言葉に顔には出さなかったけれど、酷く動揺していたのだ。 皆が見ている前で彼女の肩に、身体に触れてしまうことに。 二人きり部屋で語らうときは互いの身体の一部をくっつけながら話すのを幸せに感じていたというのに。 ――写真の中の親友を見詰め、夕映えが射す図書室の中、私は孤独なのだと感じた。 心のないブリキのきこりのように、胸にぽっかりと空洞が空いているのを感じたのだ。 「写真お好きなのですね」 不意に呼び掛けられた声に、私はいまだ夢から覚めていない幼子のような心持ちで声の方へと振り返った。 「……考崎君」 「ぁ……お邪魔してしまいましたか?」 「いや、何となしに眺めていただけだよ。八重垣君に図書を借りてやるのかい?」 「今日は私が読みたい本を選ぼうと思って」 「アミティエとの趣味を合わせる為に」 ええ、とてらいなく笑んで見せる。破顔するような笑い方をしないが、どことなくネリーの微笑みに似ていた。 「八重垣君は幸せ者だな」 「ふふ。八代先輩は本を選ばないのですか? 図書室でカメラを弄っているって……」 振り返り、遠い執務机を見遣る。 「白羽さんの当番じゃないですしね」 白羽蘇芳の名にどきりとする。彼女への問題も抱えているのだ。 「カメラで学院を撮っていて――此処へは少し休憩に寄っただけだよ。今は本を読む気分じゃない」 「そうなんですか」 言い凝っと私の持つカメラを見詰める。彼女へ差し出すと首を振った。 「八代先輩がカメラを好きだって何だからしい感じですよね」 「らしい?」 「何というか八代先輩って芸術家気質に思えるし、女流写真家みたいで」 微笑む彼女の姿にネリーを重ね、私はカメラをそっと撫でた。 「……実は、初めは写真を撮ることが好きではなかったんだ」 重いし、男性的な趣味だからね、と心の中で付け加えた。 「え? それでは何故カメラを手に取ったんですか?」 「母の存在だよ」 「お母さんの、ですか? お母さんが写真を撮るのが好きで、自分も、とか……」 私は斜陽の中、首を振り、逆だよと言う。 「母は写真が嫌いだった。撮るのも撮られるのも。ポートレートも、家族写真すら一枚も残してない」 「それじゃ――娘だったら撮られることに抵抗が少ないだろうから、八代先輩がお母さんを撮ることにした、とか?」 「いや……。母は幼い頃に亡くなった。写真を撮るようになったのはその後だ」 「…………」 「母の思い出は僕の頭の中だけだ。でも、そんなのってないだろ? 普通、後に残される娘に一枚くらい残してくれるものじゃないか?」 「八代先輩……」 「僕が写真を撮るのはね。僕自身が此処に確かに居たってことを少しでも残しておきたいからなんだ」 ――記憶の中の思い出は美化されるか、貶められる。そのどちらかだ。 一度視て、触れれば決して忘れない私でも其奴だけは変わらない。 「……湿っぽい話をしてしまったね。すまない」 斜陽の図書室が彼女をネリーに重ねさせてしまったお陰で余計なことを話してしまった。 誰にも話したことがないのに。 「――いえ。八代先輩のことが知れて嬉しかったです」 「考崎君……」 重い告白を受けたというのに、彼女はネリーを思わせる笑みのままそう言った。 「あの……八代先輩も告白してくれたから話しますけど……。私、この学院が嫌いだったんです」 「閉鎖的だから?」 「そうでなく……両親と離れてしまうのがイヤだったんです」 考崎君は心に秘めた事柄を話そうとしてくれているのだ。私は彼女の目を覗き、居住まいを正した。 「両親は仕事人間で……当たり前の家族ということが出来ない人たちだったんです」 父を思い起こさせる話だ。 「ないがしろにされていた?」 「以前はそう思っていました。だから両親の目を惹きたくて芸能の世界に入り、バレエで有名に成ろうとしたんです」 「……なのに、この学院へ転入させられた」 「ええ。初めは失敗をしてしまった私を落胆し、どうでもよくなったのかって……」 「だから早く病気を治して学院を出る。それだけを考えていました」 病気? 気になる台詞が浮かんだが、言葉を止めるのは野暮だ。聞かなかったことにした。 「でも、この学院で朗読劇やバレエ発表会……。たくさんの出来事を経て、考え方が変わったんです」 「両親はきっと病を治した上で、私に普通の学院生活を送って貰いたかったんだって」 夕映えに染まる微笑は穏やかで、私は知らず頷いていた。 そして彼女は告げた。『そう思えるのも、アミティエが教えてくれたからだ』と。 「八重垣君は君の守護天使なんだね……」 「はいっ」 朗らかに答える彼女の言葉に、態度に、私は考崎君が、私へと寄り添おうとしてくれているのだと気がついた。 かつて自分のアミティエが彼女へそうしたように。 自分の秘すべき過去を話したのはその証だ。 「……ねぇ考崎君。どうしても手に入れたいものが二つあったらどうする?」 「それなら両方――」 「片方しか手に入らないとしてだ」 考崎君は形のよい唇に人差し指を当て、真剣に悩んだ。 目が何時もより険しくなり苛立っていることに苛立っているような目つきに変わる。 「……それはどちらにも優劣は付けられないんですよね。価値は同じという前提ですよね?」 「優劣……」 ――どちらも大切で比べることなんて考えたことすらなかった。だが確かに私の問いは確かにそういう意味合いを含んでいる。 「私は、どちらかを必ず選ばないといけないと為ったら迷いません。自分の心に従います」 「それで……選ばれなかった方が損なわれたとしても?」 「私の好きなあの子の言葉を借りるなら“誰にでも佳い顔なんて出来ない”ということだと思います」 「…………」 「一歩を踏み出すのは誰でも怖い。でも、踏み出さなかったら、ずっと同じ場所でとどまってしまう――」 「それは選ぶ側も、選ばれる側も損なわれる行為ではないでしょうか?」 ――考崎君の言葉は私の好きな映画の台詞を思い起こさせた。 «人間は、人生を失敗する権利がある»と。 映画“アメリ”の中の言葉だ。 (悩むよりも行動せよ、か。思っているまま抱えていると、いずれ心が腐り落ちてしまう) ありがとう、と礼を言い考崎君に写真を撮っていいか尋ねた。彼女は是非にと頷いた。 「綺麗に撮るよ」 「汚いものを美しく撮ることは出来ますけど、美しいものを汚くは撮れませんよ」 彼女の物言いが八重垣君を思い出させシニカルな笑みを浮かべてしまう。残映に浮かぶ美しい少女をフレームに収め、シャッターを切った。 私のぽっかりと口を開いた空洞に一枚思い出が追加される。 一枚の写真は私自身を暖め、彼女たちと向き合う決心を付けたのだ……。 沙沙貴林檎をヨゼフ座に呼び出したのは、足の怪我が治ったお祝いと己の気持ちを語るためだった 暗夜の空気は冬特有の清冽さをもって頭を、心をクリアにしてくれた。 彼女へ語るべき言葉を反芻するには佳い夜だ。 頬に寒風を受けながらあの時と同じように聖堂に赴き、ヨゼフ座へ―― ステンドグラスで形作られたキリストを一瞥する。 ヨゼフ座へ続く地下階段の扉へ向かう途中―― 私の頭の中で、教会のステンドグラスに“絵”が描かれているのは理由があるのよ、と教えてくれた親友の声が響いた。 今と違って昔は識字率が高くなかったから、聖書を読んで学ぶということが出来ない人が大勢いた。 だから祈りにくる時、教会の中のステンドグラスを順に見ていけば、聖書の物語が分かるように為っている、と。 そう得意げに語った幼い頃の親友を思い浮かべ、微かに笑みをこぼす。 全ての教会のステンドグラスが“挿絵”になっている訳ではないだろうが、目の前のそれは正しくキリストの物語―― 私は立ち止まり、親友が話してくれた通り、それを上から順に眺めた。物語の結末は磔にされた基督。 復活の場面でもいいのに、と今から行うことに対しての皮肉にも感じた。 断罪される私。 いや裁こうとしているのは―― 冷え冷えとした冷気を頬に感じながら、私は扉のノブに手を掛けた。 ヨゼフ座の緞帳をただ眺めていると林檎は少し遅れてやってきた。 久しぶりに秘密の場所で会う彼女の表情は硬く、それは私の心を少なからず強張らせた。 だが、私の手作りの菓子を見た彼女はいつものように笑ってくれたのだ。 「美味しい……」 リスのように両手でクッキーを持ち頬張る彼女へ私は佳かった、と胸をなで下ろした。 「味見はしたのだけど自分の舌は信用為らないからね」 「譲葉先輩の勧めるものは全部美味しいですよ」 「そういってくれると有り難い」 言い私も自分の作ったクッキーを頬張る。おそらく美味しいのだと思う。 (正しい道を指し示してくれる我が師はもういない) 彼女の伺いをたてなければ確信できないほど私は依存していたらしい。 「譲葉先輩?」 「アーモンドを入れたのは正解だった」 微笑むと彼女も笑む。私は持ってきたコーヒーを淹れ、彼女に渡した。静寂のヨゼフ座に微かに食む音だけが響く。 「クリスマス会楽しみですね」 「ニカイアの会の会長として最後の仕事だ。学院の皆が愉しめるノエルにするさ」 「皆が?」 「ああ」 頷き、コーヒーを飲む。相変わらずただの苦い汁だ。これを好きこのんで飲むやつの気が知れない。 横に座る彼女を横目にすると、コーヒーの湯気を眺め口を付けていなかった。 「……紅茶の方が佳かったかな」 「いえ……。そうではないんです」 呟きアメリカーノを眺めた。だが、彼女の目はコーヒーにもカップにも注がれていない。 遠く望める雷雲を凝っと眺めているかのようだ。おおよその形はわかっても正確な輪郭は計れないといった風に。 「……何か、思い悩んでいることがあるのかい?」 「譲葉先輩――シェエラザードって知っていますか?」 唐突な質問に驚くも、 「アラビアンナイト……千夜一夜物語の語り手だろ? 寝物語を聞かせる」 と答えた。 「はい。わたし……シェエラザードのことをずっとシェラザードだって思い込んでいたんです。わたしそういう思い込みが多いんです」 「アボカドをアボガドだとずっと思い込んでいたり……」 気恥ずかしい顔つきで言う。 ヨゼフ座で、二人の密事の際に語られる他愛ない話。だが、僕もそういうことがあるよ、と返すことは出来なかった。 「――わたしはこうあるべきだって思い込んだら、そうとしか見えないんです。だから、」 痛みが走ったかのように言葉を呑む。 ――私は此に似た情景を見知っている。 丁度、この上で、今のように夜のとばりが落ち、密やかな告白を行ったことを。 「わたし……わたしは……っ」 彼女は私へ“告白”をしようとしているのだ。 そう理解した途端胸が苦しくなった。息苦しくなる、まるで周囲の空気が薄くなったみたいに。 「ぅ……く、わたしは……身をひいてくれた……ぅぅ、思うと、胸が苦しくて……」 「…………」 「いっぱい……責めて……ぅぅ、でも、赦してくれて……」 懺悔の言葉が私の周りの空気を薄くさせる。彼女の流す涙がコーヒーに波を立てた。 「り、林檎……は、なにも、悪くないのに……っ」 想いを絞り出す彼女へ、私は、ああ、やはりそうなのか――と得心した。 目から部屋を覗いてた時の違和感、どれほど似せていても“部屋は個性を持つ”のだ。 「――君は何も悪くないよ。苺君」 そう“沙沙貴苺”へ告げた。 涙を拭うとファンデーションが落ち、彼女を知る分かり易い印――泣きぼくろが一つ増えた。 「でも、わたし……! わたしが悪いんです……わたしが林檎へ辛く当たったから……!」 「わたしが勝手に取られた気になって……! だから林檎もあんな提案をして……わたしは受け入れて……」 いつ入れ替わっていたのかは分からない。 だが、奇妙な違和感を覚えていたのは確かだ。私は指摘すべき其れを親友と林檎との間で揺れている所為だと思い込んだ。 いや、考えないでいようとしていたのかもしれない。 (彼女たちと逢うことで胸のモヤモヤに蓋をしていたのは自分だ) 苺を責められない。彼女はずっと罪悪感に押し潰されそうに為っていたのだ。 「りっ、林檎はこれで一緒だねって笑ってくれて……でも、でも、本当は笑えるはずない……っ」 「お姉ちゃんなのに……ほんとうは、最初から応援してあげなくちゃいけないのに……!」 「…………」 嗚咽をこぼす苺君の背にそっと触れた。震える背をいたわり撫でる。 「――君は何も悪くない」 「で、でも……っ」 「苺君は何も悪くない。君が不実だと謝るなら僕こそ謝らなければ為らない」 緑青色の揺れる瞳が私を見詰める。私の目から部屋を覗くみたいに。 「人というのは時折、醜い顔を覗かせることがある。そいつがない人間なんていないんだ」 「バスキア教諭だって僕だって悪しき心を持っている。そいつを野放しにしている方が楽だ。自分の思い通りに振る舞えるのだから」 緑青色の瞳に私の部屋を開き言葉を紡ぐ。 「わたしは……自分勝手に振るまって……」 「だが、楽な方へ流れず悪しき心を押しとどめたじゃないか」 「ぇ……」 「安穏だった“今”を変えるというのは強い決意がなければ為らない」 「でも妹の為にこのままじゃいけないって思ったんだろ? それは凄いことなんだ」 「でも、わたしは騙して……っ」 涙が溢れ、零れ落ちる。私は頭上の基督へと黙礼し、強く肩を抱いた。 「騙されてたからって何だ。僕は君を赦す。神でも、教義的意味合いでもない、八代譲葉として」 涙がとめどなく溢れ出し私へと強い力で抱きしめた。胸に熱い感情が伝わり、己も声を震わせてしまう。 そして、彼女は何度も“ごめんなさい”と謝り、そのたび私は、赦すと言った。 「ごめんなさい……譲葉先輩ばかり大変な目に、辛い目に遭わせて……っ」 「いいんだ。僕はそういう星回りに生まれたんだよ。それに、」 「――苺君との蜜月は僕にとっても宝物だ」 車椅子の彼女を気取って彼女へとそう囁いた。泣き笑いの顔で苺君は、わたしも、と答える。 「林檎の元へ行こう」 「譲葉先輩……」 儚げに見詰め、数多の想いが頭に駆け巡っただろう。だが、彼女は確かに一つ頷いた。 私は―― 熱く、苦しい心に、父の言葉が浮かんだ。 “どんな場所でもそいつ次第さ。笑えるかどうかは気持ち次第だろ” 父らしくない言いざま。 だが、空気の薄くなったこの場で私はそうだと心から思った。 (父も、私や母と暮らす為に様々な取捨選択を繰り返した) そして己が心から笑える場所を探し求めたのだ。 「行こう」 彼女の手を握り、私は私の選択をしに向かった。 真夜中の訪問者は誰にとっても招かれざる客だ。 だが、 「――すべて話してしまったのですね」 そう言い、私を招いてくれた。 罪悪感から私を騙したことを暴露してしまったこと、自分の気持ちを押しつけ入れ替えを承諾させたことを苺君は謝った。 「佳いんですよ」 「でもっ」 「すべて分かっているです」 言葉だけでない、緑青色の互いの瞳が混じり合うとともに互いの想いも混じり合った。双子だけに許された赦し。 「――僕は彼女を赦した。君もだ」 「譲葉先輩……」 愛しい瞳が見詰めている。私の胸にぽっかりと空いた空洞を確かめるみたいに。 「僕は決めなくちゃいけない。その為に此処へ来た」 父の言葉が私の右の耳へと口を近づけ囁く。 居場所を求めろ、と。 「林檎は譲葉先輩が思っているよりも貴女のことを想っているんです。だから――」 苺君の声は届いていた。 だが、左耳に口を近づけ囁いているのは、考崎君が言った“誰にでも佳い顔なんて出来ない”との台詞だ。 二つの耳に囁きかける言葉。 其れは期せずして―― «内なる声に従い、己の求める場所へ行くこと» そう指し示していた。 私は―― 沙沙貴林檎を選ぶ 小御門ネリネを選ぶ 二つの声に耳を傾け、目を閉じ、そして瞳を開いた。 目の前には林檎だけが見える。他には何も視えない。 不思議な子だ、と私は思った。 小御門ネリネや白羽蘇芳のような誰もが認める美人だという訳ではない。 だが、凝っと林檎を見詰めていると心の奥底に小石を投げ込まれたような気分に為る。 酷く入り組んでいて誰にも、私自身にも触れられないような心の最も深い部分だ。其処へ彼女は触れることができる。 沙沙貴林檎の美しさは――美徳はそういう類いのものなのだ。 「……だから私を掴んで離さない」 彼女は、沙沙貴林檎だけはずっと私だけを見詰めてくれていたのだ。 「譲葉……先輩?」 私は彼女へ向かって告げる。決断した、と。 「僕は今まで心の奥底で迷っていた。このままでいいのか、ただ流されていただけじゃないのかと」 「…………」 二人の出会い方は特殊だった。林檎はそれを感じていたのだろう。顔を伏せる。 「僕自身、楽な方へと流されることを由とした。……だが、そいつはダメだ。自分自身にとっても相手にとっても敬意を払っていない」 「互いに損なわせてしまう行為だ」 「あ、あの! 林檎はずっと譲葉先輩を好きだって、想っていたんです! だから、だからっ、その――」 私は、妹の為に必死に口添えする姉の頭を撫でた。そして分かっているよ、と言う。 「“誰にでも佳い顔なんて出来ない”……僕は決断したんだ」 苺君の髪から手を離し、林檎の手を取る。温かく小さな手。 「――僕は沙沙貴林檎を選ぶ。そう決めた」 「ぁ……」 林檎は瞳を瞬かせた。目の前で起きた出来事をうまく飲み込めないように。 「苺君の言うとおりだ。ずっと僕を、僕だけを見ていてくれたのは君だけだった」 「わ、わたしと一緒に、選んでくれたのですか?」 「ああ。今までと同じように僕と共に居てくれるかい?」 返事は言葉ではなく態度だった。 彼女の瑞々しくも温かな肢体が私を固く抱きしめた。小さな嗚咽が聞こえる。泣いているのだ。 ――否、 (泣いているのは私の方か……) 己の涙が手の甲に落ち、知らず涙していたことに気付く。 私は一つの季節の終わりを知り、新しい季節を迎えたことを肌で感じた……。 二つの声に耳を傾け、目を閉じ、心の奥底を凝っと――覗いた。 殺風景な部屋の椅子に座っているのは――戸惑うような、痛みを堪えているかのような表情をした“小御門ネリネ”だった。 「――ごめん」 「ぁ、な、なんで――」 前に進み出る姉を制した妹が私を見詰めた。 「決めたのですね?」 「……ああ」 「佳かった……」 「え?」 「譲葉先輩がちゃんと自分の心の声に従ったことが嬉しいんです。可哀相だからってわたしを選ぶんじゃないかって思っていたから」 ……その気持ちもないといえば嘘に為る。 「わたしが好きな譲葉先輩は、“今”の譲葉先輩なんですよ」 そっと林檎の柔らかな手が私の頬に触れた。指は熱く、繊細で、震えていた。堪えきれないほどの情愛が胸に湧く。 「――僕は強くなるために父の喋り方を真似し、癖を模倣し、好きな音楽まで倣った。でも魂まで真似できなかった。弱い自分のままだ」 「譲葉先輩……」 「こんな私を、好きに為ってくれてありがとう」 林檎の身体を抱きしめた。 熱い肢体、首元から幾度も私を癒やしてくれた優しい香りが、胸を潰させた。 このままで佳いじゃないかと思う。 彼女の優しい香りに包まれていればいいじゃないのかと。 付き合った時間は少ないけれど、森で散策したこと。二人で語らいながら食べたサンドウィッチの味。手を握り共に観た映画。 大切な想い出たちが走馬燈のように浮かび、消えた。 「――ありがとう」 もう一度、私自身の区切りを付けるために礼を言った。 首元で頷いたのだろう、彼女の髪が私の喉をくすぐった。私は彼女の柔らかな肢体を離し、涙を浮かべ見詰める苺君へと微笑み掛けた。 たくさんの想い出を浮かべ、記憶は濁流のように部屋を流していったが――殺風景な部屋に残ったのは、椅子に座った小御門ネリネだった。 “誰にでも佳い顔なんて出来ない” 己の求める場所を見付けた私は、優しい双子の待つこの場所から永遠に立ち去る事を決めた……。 部屋をノックする前にふと窓の外が気になり、夕映えに染まる空を見上げた。 季節は紛れもなく冬に為ってはいたが、夕日を見るたびに夏の日を思い出す。夕日と夏は私の思い出の中でセットなのだ。 寒々しい葉の消えた木々の合間から猫のような輪郭をした茜色の雲が見えた。雲はピンで留められたかのように静止したままだった。 頑として動かない頑なな雲は、私へ今から会う彼女を連想させた。 (――猫の君) シニカルな笑みを作ると、私は彼女の部屋のドアをノックした。 部屋に招き入れてくれた彼女たちへ、安息日にゆっくりしているところを済まないと二人へ――八重垣君と考崎君の両名へ頭を下げた。 「本を読んでいただけなので気になさらないでください」 「別におかしなことをしちゃいませんでしたよ」 相変わらずの軽口に笑みを浮かべてしまう。考崎君は彼女の言葉を流すと、コーヒーを用意してくれた。 「ありがとう」 「保温ポットに入れておきましたけど、少し冷めているかもしれません」 「丁度いい、僕は猫舌なんだ」 私の軽口に、そいつはわたしの専売特許ですよ、と八重垣君が抗議する。 コーヒーは宣言通りやや冷めていたがどうでも佳い。突き詰めればただの苦い汁だ。 「……僕に飲み物を勧めてくれる厚意が嬉しい」 「あの……。どうしたんですか?」 「秋だからね、メランコリックな気分に為っているのさ」 「ふふっ、もう冬ですよ?」 そうだったと笑う。どうにも調子がでない。自分の中のゼンマイが少しだけズレている気がする。 「それで何の用なんですか? 不肖の後輩の顔を眺めに来たわけでもないでしょう」 「君たちと話したくなっただけだよ」 「ただの四方山話をしに?」 「まるで友達みたいだろう」 そう告げると眉根を曇らせた。私は昼食の後、部屋を訪ねたが不在だったと話した。 「お昼をとった後、視聴覚室で映画を観ていたんです」 「白羽とバスキア教諭も誘ってね」 「オールスターだ。何で僕も誘ってくれなかったんだ」 「先輩、合唱部の練習だったでしょう?」 「そんなの理由に為らない」 異議を申し立てる私へ、考崎君がくつくつと笑う。 「花菱さんも随分拗ねていたわ。今の八代先輩みたいに」 そりゃそうだろうと頷く。蘇芳君と映画を観られる貴重な機会を一度とはいえ逃しているのだ。 それで何の映画を観たんだい、と尋ねると、 「白羽の希望で、クリント・イーストウッドの、“奴らを高く吊るせ!”ですよ」 と言った。 話の筋より、約束である引き継ぎの文言を教えるとの旨を反故にしていたことを映画のタイトルが強く思い出せた。 “奴らを高く吊るせ!” 「……おっかない」 「恐怖映画じゃないですよ?」 言う考崎君へ程々の笑みで返した。相手にとって何とでも感じ取れる笑みだ。 「あいつクリント・イーストウッドが好みだそうですよ。相当な年上趣味だ」 「えりかもゲイリー・クーパーが好きじゃない」 「わたしの最も好きな映画は“真昼の決闘”でその時のゲイリー・クーパーは老齢だったけどな。若いときは凄い美男子だったんだぜ」 「でも年をとった時の方が好きだったんでしょう」 問われ、難しい顔をしたまま首を竦めた。私は笑いながら、 「年をとったで思い出した。昔から疑問に思ったことがあるんだが――」 「高名な小説家の著者近影は何故、老齢になってからの写真を使うんだろうね?」 「……ああ。そう言われてみればそうですよね。別に若いときの写真を使ってもいいのに」 「だろう? 幼い頃はあの人たちはああいう風にポンと生まれてきたのかと思っていたよ」 言い笑い合う私たち。何気ない夕間暮れの日常。 一頻り笑い合った後、考崎君は居住まいを正し私へ言う。 「――八代先輩。きちんと選べたみたいですね」 「……お陰様でね」 彼女の言葉も私の決断に大いに貢献した。 “誰にでも佳い顔なんて出来ない” その通りだ。 「何の話だ?」 「私と八代先輩だけの秘密の話よ」 その言葉に面白くないと腕を組む。八重垣君を見、次いで考崎君を見て私は微かに笑んだ。 「君に相談して佳かった。話してなかったら僕はいつまでも同じ所をぐるぐる廻っているだけだったろう」 「佳かったです」 朗らかに告げる考崎君。私は頷くも、 「……本当にそれで佳かったんですか?」 そう、猫の君は言った。 「…………」 「ちょっと何を言うの?」 「何の話をしてるかさっぱりだけどな。世は全て事も無しって顔をしていないぞ」 彼女の指摘に詰まった。私の部屋の中には沙沙貴林檎が住んでいる。 だが心の奥底にはもう一人、どうしても消しきれない彼女が〈棲〉《す》んでいるのだ。 「…………」 八重垣君は私と同じように部屋を覗き込む目で凝っと見詰めた。 「……八代先輩がそれで佳いなら、かまやしませんがね」 「えりか」 「今までの経験則から学んだことですが、本当に大切なことは痛みと引き換えでないと手に入らない」 「…………」 「耐えている痛みは必要なことだったのか、それとも――」 秘めやかに隠している私の傷を覗いた八重垣君は、野暮だったですねと言い頭を下げた。 「構わない。ただ考崎君にお礼が言いたかったんだ」 私は言い冷めたコーヒーを飲んだ。 読み取られた心の内の所為か、さっき口を付けたときよりも苦味が増した気がした。 “どんな場所でもそいつ次第さ。笑えるかどうかは気持ち次第だろ” 不意に父の言葉が浮かぶ。 (そうだ。八重垣君も父もどちらも正しい) 決断を下した癖に、未だに揺れる己が居ることを知り、私は苦いコーヒーをひと息で飲んだのだった……。 ――季節は巡り、春が訪れた。 春という季節はいつもめまぐるしく過ぎていく。桜のつぼみが膨らみ、暖かな陽気に誘われ花弁を咲かせる。 可憐な花弁は皆の気をそぞろにさせるも、夜の雨が感慨なくそれを散らせた。 新入生を迎え新学期が始まる。 すべてが移ろい、めまぐるしく流れていく。 だが、私は冬の日に視た猫の形をした雲のように静止したままだった。観念的な静止した雲。 春の微睡みの中、私は夢を視ていた。 私自身が夢だと自覚できる類いの夢。 夢の中の私は、父と母と弟と小御門ネリネに囲まれていた。 地平線が望めるような広い高原に私たちは居た。 父はシニカルでない優しい笑みを浮かべカメラを持ち、母は嫌いなカメラに写るのも〈厭〉《いと》わず朗らかに佇んでいた。 弟は写真に写る母に甘えちょっかいを掛けている。 私とネリーは家族の団欒を見て手を取り合い笑っているのだ。嫌なものがすべて昇華する程、胸の空くように笑いあっている。 (ああ、此は夢だ……) 笑う私自身を皆の少し上から眺めている私が呟く。 家族や小御門ネリネと笑い合う、私自身がこうでありたかった夢。 自分自身が誰でも想像出来るような分かり易い幸せを望んでいたことにシニカルな笑みを浮かべてしまう。 私は、私の真下で微笑んでいる自分自身へ話しかけた。 (でもこんな風には為らないんだよ) と。 自分がどれほど望んでいても理想には近づけなかったんだよ、と語りかけた。 観念的な笑顔を作っていた私の表情が、静かな水面に小さな小石が落とされたときのように微かに揺れた。 凝っと見詰めてなければ解らないほどの変化だ。 笑顔が少しずつ、だが確実に変わることが夢の中の私には分かった。 じょじょに笑みを無くしていく私へ、喩えようもない恐怖と、〈寂寥〉《せきりょう》とした気持ちが混在した。 そして見下ろしている私自身へと、ふいに身を切るような寒さが襲う。 のろのろと寒さの元を見付けようと視線を己へと移すと――自分の胸が、がらんどうだったことに気付き、夢を視ることをやめた。 夢から目を覚ました時、自分の周りの光の色や、空気の匂いが微かに――だが明確に変わっている気がした。 静かに息を吸い込むと私にはそれが分かったのだ。 「……怖い夢でもみたのですか?」 頭の上で囁かれ私は彼女が――沙沙貴林檎が私のベッドにもぐり込んだことを知った。 「涙を流す程に」 そして私が泣いていることにも。 「――あくびで涙が出ただけさ。それよりもベッドにはもぐり込まないように言った筈じゃないか」 一筋頬に湿った跡を残していることに気付いた私は、涙を人差し指で拭った。だが、 「こうしていると落ち着くですよ」 言い、林檎は私の頭を抱えるようにして抱きしめた。まるで林檎には私の夢が分かっていたかのように。 「…………」 確かに落ち着くな、と彼女の瑞々しくも温かな肢体を頬に、身体を通して感じた。 鼻腔は少女特有の香りを届けてくれる。 「こうしていれば怖くない」 「……ねぇ、なんで僕が怖い夢を見ていたって分かったんだい」 林檎は抱いた私の頭をピアノの鍵盤に触れるように繊細に触れ、撫でた。 「わたしは譲葉先輩を理解しようと決めているからです。だから分かるんです」 “理解しようと努めている” 「……そうか。僕を知りたいと」 「ええ」 「……ありがとう、林檎」 好きな人を知りたいという欲求に初めて気付く。私は愚かだ。 自分はいつも癒やされてばかりいて、彼女の事を――沙沙貴林檎を知りたいと求めたことはあったのか? 「ありがとう」 「大丈夫。もう怖いことなんてない。わたしがずっと一緒に居ます」 囁く声に私は耳を傾ける。 右の耳に、“誰にでも佳い顔なんて出来ない”と考崎君が囁く。 左の耳には、“どんな場所でもそいつ次第さ。笑えるかどうかは気持ち次第だろ”と父が言った。 僕は林檎の香りに包まれながら頭を振った。 その通りだと。 そして、 「――本当に大切なことは痛みと引き換えでないと手に入らない」 八重垣君の言葉を吐いた。 「譲葉先輩……?」 問う彼女へ心の中で感謝する。 (……ありがとう。こんな私を好きだと言ってくれて……) 「――ずっと共にいよう」 林檎へそう呼び掛けると彼女は泣き笑いの顔をみせた。私も知らず一つ涙をこぼし固く彼女を抱いた。 流れ落ちた涙は、私の理想と、心の奥に大事にしまっていた小御門ネリネの椅子を持ち去っていった。 確かな痛み。 沙沙貴林檎を得る為の引き換え。 深い部分を切り裂き摘出する痛みを抱え、私は彼女の温かな肢体を感じた。 窓から春の鳥が鳴く声が聞こえ、願わくば変わりゆく季節の中で、沙沙貴林檎と共に居られるよう私は神へと祈った―― ここに来たのは随分前の事のように思えるな、と室内を見回した。 部屋はシンと静まり返り、ミシンが余所行きの顔をして等間隔で並んでいた。そして其れを指揮しているのが顔のないマネキンだ。 「調子はどうだい?」 明るく問いかけるも、何も言ってくれない。当たり前だ。 馬鹿な真似をしているとシニカルな笑みを浮かべ、今日のトピックを思い浮かべた。 ギクシャクしていたネリネへと話しかけたこと。 あえて今まで話しかけていなかった所為で、教室にて席を立ちまっすぐに彼女の机へと向かい、話したいことがあるんだ。 そう呼び掛けた時の彼女は酷く驚いた顔をしていた。 教室中の注目を浴びていた私は事前に用意していた手紙を彼女へと手渡した。 手紙の内容は、“今日の夜10時、被服室にて待つ”というシンプルな言葉のみだった。 書くことは幾らでもある。 だが一度書き始めると紙が幾らあっても足らないし、手紙にして文字にすると話したい事柄の意味が変わってしまう気がした。 (もう10時はまわったか……) 被服室にある時計を眺め、次いで窓から林を見遣る。 彼女が来なかったとしても、しばらく此処に居るつもりだった私は、視力の調子を確かめるように木々の枝振りを一つ一つ眺め―― 次いでマネキンの細部を目でなぞった。音楽室に飾ってあるベートーベンの肖像画の目が動くのを期待しているみたいに。 と、 私の耳に、ひっそりとドアが開き、閉まる音が聞こえた。 「ごめんなさい。待たせてしまったわね」 待ち人の聲に、“いいんだ。次はミシンを眺めようと思っていたからね”という言葉を飲み、こちらへと歩んでくる彼女を見た。 「――お話というのは何かしら」 そう問いかける小御門ネリネを見詰め―― (綺麗だ……) 私はいつもと変わらぬ彼女の美しさに息を呑んだ。 高名な彫刻家が神経をすり減らして生み出したような精密な美しさだ。 ノミがほんの少しずれていただけですべてが台無しになってしまう繊細な類の美だ。 「譲葉……?」 「……すまない。少しばかり君の美しさに目を奪われていてね」 眩しく目を細める姿に冗談だと思ったのか、親友は怪訝な表情を私へと向けた。 おそらく――天秤を水平に留めておくことを旨とする私が、己の求める場所を定めたことで視界がクリアに為ったのだと思う。 だからこそ、幼い頃に受けた衝撃を今また受けているのだ。 「……此処へ呼び出したと言う事は誰にも聴かれたくない話なのでしょう。どうぞ話してください」 まるで懺悔を求める神父のような口ぶりに私は軽口を叩こうかと思うも―― 「聞いてくれ、ネリー」 彼女の真摯な目に私もいつもの調子を引っ込め、素直に語ることにした。本当に心を開いて一つ一つ丁寧に。 長い時間を掛け、凍結した二人の間の氷を溶かすように語った。 二人が出逢った幼い日のこと。 友達として初めての握手をしたこと。 ネリーが大病から入院し戻ってから私が彼女を守る為に仮面を被るようになったこと。 そしてそのことに私自身まったく後悔していないことを。 「――でも、ただ一つだけ後悔していることがある。僕は君との関係を壊したくない為、ずっと己を偽ってきたことだ」 「譲葉……」 「もう一度、君へ告白する。僕は小御門ネリネが好きだ。友人としてでなく、八代譲葉として」 感情が高ぶり涙が滲んでしまいそうだ。胸に当てた手は知らず知らずの内に、己の乳房を掴んでいた。 私は思う。触れ掴んでいるこの胸がネリネのものだったらいいのにと。私の身体すべてがネリネの所有物だったら、と。 「譲葉……。貴女の気持ちは嬉しく思う。でもね、貴女は逃避しているだけなのよ」 子供へ言い聞かせるような言葉に私は強い力で胸を掴んだ。 「いえ、私が貴女をそう仕向けたの。幼い私は貴女が縋ってくるのが嬉しくて、それで――」 「逃避して何が悪い」 言葉尻を奪い私は繰り返す、逃避して何が悪いのかと。 「ネリーにとっての真実と、僕にとっての真実は違う。同じ物でも視ている側にとって真実なんてものは別の顔をみせる」 「君は自分の行ったことを悔いているようだが、僕には救いだった。逃避? 違うね、天啓だよ」 「…………」 私の言葉を噛みしめるようにしてネリーは面を伏せた。ややあって顔を上げると、 「でも貴女は沙沙貴林檎さんとお付き合いしている」 と言った。 刹那、あの日の彼女の顔が浮かぶ。それを視たネリーは痛ましい顔つきに為った。 「……林檎とは別れたよ」 「え?」 「彼女と交際をやめた。僕はすべてを捨てるつもりでこの場にいる」 「……林檎さんと……そう、なの……」 互いの間に沈黙が横たわる。 私も、ネリネも何を口に出すか分からない。語ることが多すぎるのだ。 寒風が吹き窓を揺らす。カーテン越しの微かな音だったが、静まり返った室内には酷く大きく響いた。 「……ねぇ譲葉。私は洗礼を受けた基督教徒なの」 (その言葉が出るのは分かっていた) 当たり前の事だ。 小御門ネリネはその一点をもって己へ向けられた愛を受け入れることが出来ない。 よほど悲愴な顔をしていたのだろう。親友は唇を噛み、 「――もう少しだけ考えさせてほしいの」 と告げた。私は少しの間を置いて頷く。 「分かった。答えを待っているよ」 風が窓を叩く音が不吉な鐘のように鳴る音を聞きながら、私はそう答えたのだ……。 彼女との対話を終え、またいつもと変わらぬ学院生活が始まった。 クリスマス会を終えるまではニカイアの会の長として職務をこなし―― クリスマス当日のミサの為に、聖歌隊の一員として合唱部にて練習に励んだ。 日々は変わりなく進む。 ――そう、小御門ネリネとの関係も変わりなく。 ギクシャクした互いの関係は被服室の夜を越えても尚、変わることはなかった。 いや、小御門ネリネにとって懊悩は増しただけのようにも思えた。 だから私は―― また天秤を傾けてみることにした。 待つとは言ったが、今日のクリスマスのミサにて二人で唄った聖歌の終わりに、ネリーの耳元で、“話したいことがあるんだ”と囁いた。 11時に聖堂にて待つ、と。 居場所を求めると決めた以上、ずっとこのままではいられない。 ――廊下に出ると寒さがストッキングを這い腰を冷やした。外に出るのが億劫になる程に。だが、 (クリスマスに部屋を空けてくれ、なんてドンファンなこと萩原君には言えないしね……) 清楚で内向的な彼女。私が部屋を空けて云々を言った時に一拍の間の後、顔を真っ赤に染めてしまうのが想像できた。 かといってネリーを僕の部屋に招くのも違う気がしたのだ。 「さて、向かうとしよう」 カーディガンの襟を立てる真似をし、私は音を立てぬよう寄宿舎の廊下を歩いた。 外気は想像したとおり身を切るような寒さだった。 襟を立てる真似をしてみる前にマフラーを巻いてくれば佳かったと後悔した。 私は寄宿舎を見上げる。ほんの数時間前まではダイニングルームにてキリストの聖誕を祝っていた。 蘇芳君も立花君も、八重垣君も考崎君も、苺君も林檎も――揃ってサンタクロースの衣装に身を包んでいた。 サンドウィッチマンの格好ではない、スカートのやつだ。 衣装は変わらなかったが、それぞれに趣のある出で立ちだった。 勿論、ネリーも。 「……写真に収めておけば佳かった」 見上げる喉元が冷え、私はシニカルな笑みを作り、聖堂へと向かう。 風を避けるように足早に学院を抜け―― 聖堂へ。 思わず此処でも見上げそうに為ったが、 「鐘楼のルーガルーに襲われてしまうな……」 そう呟き、 風を避け聖堂の中へと這入った。 聖堂の中の気温は外とそう変わりない。ただ風がないだけでもひと息がつける。 静かに息を吐くと聖堂の壇上に既に彼女が佇んでいるのを目にした。 途端に遠くなる音。そして私の周りの空気が薄くなる。 私は気付かれないように何度か静かに深呼吸すると、彼女の元へと歩む。 一歩、二歩と彼女と私の距離が近づくたびに、周りの空気は薄くなり、耳は大きな音も、些細な音さえも拾えなくなる。 ただキンと硬い金属が弾かれた音が薄く伸ばされたように聞こえるだけだ。 自分の足音さえ聞こえない。 だが、 「……待っていたわ、譲葉」 微かな――風が吹いたら気付かない程の声音だったが、彼女の声が私の耳朶へと響いた。 まるで私の耳へ唇を寄せ呟いたみたいに。 「待たせてしまったみたいだね」 「いえ、私が早く来てしまっただけよ」 言い、何かの印を探すように聖堂内を見渡した。 「……ミサでの熱気が残っているような気がする」 「数時間前、此処で唄っていたのよね……」 ミサで唄われた聖歌を思い浮かべた。そして二人で唄ったことも。 「ニカイアの会の職務ともお別れだな……」 「そうね。佳い思い出だわ」 呟き、初めて私の目をしっかりと捉えた。 青磁色の美しい瞳で。 「――此処へ呼び出したのは、あの日の答えを聞くためなのでしょう?」 問うネリーへ、私は頷く。 「ああ。ニカイアの会の長でない。ただの八代譲葉に戻った。君の返事を聞かせて欲しい」 ネリーは瞳を閉じ何かを案じた後、再び美しい瞳を開いた。そして私は彼女の瞳を視、理解する。 小御門ネリネも天秤を傾ける決意をしてきたのだ。 「ねぇ譲葉。以前、一度だけ貴女のお母さんと面会したことを覚えている?」 「……ああ。僕が会ってくれとお願いした」 「私はあの日――貴女が席を立ち二人きりに為った時、こう切り出されたの」 「本当は譲葉を友達とは思っていないのでしょうって」 「幼い私の気持ちを見抜くようにそう告げた。そして――」 “今が嘘でもいい。でもお願いです、どうか、どうか――” “あの子と、譲葉と――” “私の代わりに、ずっと一緒にいてあげてください” 「そう告げ、頼まれたの……」 母とそんなやり取りがあっただなんて露ほども思っていなかった私は絶句し言葉を飲む。 (母は、私のことを思って……?) 「幼い頃の私は傲慢だった。貴女を私の思い通りにさせようとして……。貴女のお母さんは見抜いていたのよ」 「そんな……」 「そして私はその後、罰を受け大病を患った。でも――」 「私はそんなことで罪が赦されたとは思っていない」 彼女の目から覗く部屋はカーテンで固く閉ざされ何も見ることは叶わない。頑ななのだ。 「僕は気にしていない」 「……その言葉で絆されるほどの傷ではないの」 「もう一度言う。僕は気にしていないんだ」 永遠に続く冬の氷河を思わせる程頑なだということは分かっていた。だがそう口にするほかなかった。 しかしネリネは静かに首を振った。 「私はね、譲葉。あの時の言葉がずっと古い傷のように残っているの。貴女と親友になったのは私の偽らざる気持ちよ。でも――」 「冬の凍えるような寒い朝に鈍い痛みから思い出すような言葉なの。“私の代わりに、ずっと一緒にいてあげてください”」 小さくだが、長く重いため息をついた。 「ねぇ譲葉。私は貴女のことが好きよ。多分、今まであった誰よりも何よりも。でも、私は確信することが出来ないの……」 「貴女のお母さんの言葉があったから共に在ろうと決めたのか、を」 死刑宣告のように私の胸に響く。 言葉は遠く、周囲の空気は消えつつある。 私が瞳を細め、凝っと彼女の彫刻のような顔を見詰めると――笑んだ。 「――私は生涯基督教徒として生きます。だから貴女も私のことは忘れて幸せになってください」 違うんだ、と叫びたかった。 私は彼女と――小御門ネリネと出逢ったことで初めて生を実感できたのだ。 人の温もりが温かく、善意を当たり前のように信じることができ、季節の匂いは四季折々にあると知ったのだ。 (忘れることなんて出来ない) 胸を潰れるほど強く握り、私は磔にされた基督像を睨んだ―― ――季節は巡り、苛烈な冬が過ぎ春が訪れた。 穏やかで密やかでひっそりとした春だ。 桜がふくよかな蕾を膨らませ、木々の葉は目に見えて青さを増している。春が訪れたのだ。 私はお祈りを済ます為に早朝の聖堂へと訪れていた。 聖堂のステンドクラスから射す光から鋭さは消え、丸みを帯び柔らかくなっていた。頬に受ける光でも季節を感じることができる。 私は目を細め、祈る彼女を見詰めた。 朝の光に包まれ祈る小御門ネリネを遠望すると、小さく胸が痛んだ。 (冬の朝に思い出す古傷の痛み、か……) ――私の恋は破れた。 あの時受けた心の痛みは未だ消えることはない。春の暖かな朝でも、気がつけば痛みは其処にある。 胸の奥、誰にも触れられない場所に深く大きく裂かれた傷跡。 熱心に祈りを捧げる彼女を見るたびに疼き、思い出させる。 (私がしたことは愚かだったろうか) 磔にされたキリスト像へと問いかける。 居場所を求めず、天秤を傾けなければずっと彼女と一緒に在ることができたのか、と。 沙沙貴林檎を傷つけ、彼女を選んだことは間違いだったのか、と。 柔らかな光に包まれたキリストを見上げ、私は再度問いかけた。 沈黙を続ける彼へ。 (……間違いじゃない) 口を開いてくれないキリストに代わり自身で答える。間違いではないと。 (私は今まで次々とまわってくる役を諾々と演じていただけな気がする。私は結局何も選んではこなかった) (だが、私は初めて“役”ではない自分の意思で選び掴もうと手を伸ばすことができた) ――ただ、自分が選んだ物事、事柄は手からするりと逃げてしまう。 「……何時ものことだ」 小さく呟いた声音は静かな聖堂内に響く。ネリーの耳に這入ったかと思うも、熱心に祈る彼女は微動だにしなかった。 「……僕が望むものでなく、向こうからやってきたものなら何でも上手くこなせるのに」 父を真似たシニカルな笑みを浮かべる。 ――いや、もう真似は止そう。 私は歩み出す。祈る彼女の元へと。 傷を抱えても、それでも尚、私は小御門ネリネを愛することをやめはしないと誓った。 (恋は破れはしたが、恋心は散ってなんかいない) 傷は深く、未だ癒えてはいないがそんな事は知ったことじゃない。 (たとえ彼女が私を受け入れてくれなくても、私は彼女だけを愛そう。そして守る存在でいよう) 幼い頃、確かに差し出された手。 握手の仕方を教えてくれた、優しくて温かな手。 「そうだ。僕は――」 「あの時からずっと――」 祈る彼女を見詰め、私は小御門ネリネが健やかでいられるように、そして願わくばずっと共に居られるように神へと祈ったのだ……。 己の求める場所を語ったあの日から、幾つかの夜が過ぎた。 明確な日付というものは記憶していないが、駆け足で一気に寒くなった気がする。 ネリネの相部屋の萩原君を私の部屋に送り届け、帰路の途中、つま先から這うような底冷えを感じ唐突に思いたった。 廊下で一つ意識し息を吸う。 鼻の奥がツンと痛くなる。紛れもない冬の空気だ。 「……雪が降ってもおかしくないんだ。当たり前だな――」 窓から外を眺めると葉を失った木々が寒々しく幹を揺らしていた。 立ち止まり、しばし寒風に身をさらす桜の木を眺める。 廊下の寒さよりも衣を奪われ、肌を露わにした木々を視る方が、私へと本格的な冬が訪れたのだと告げていた。 「タイムリミットが近づいている……」 もう一度、大きく息を吸い冬の空気を肺に入れると私は彼女の待つ部屋へと足を向けた。 ノックをし部屋へと這入ったが―― ベッドに腰掛けた彼女は何かに目を落としていた。熱心に。 私は集中している彼女を見、持参してきたナイトウェアに着替える。 廊下とは違い部屋の気温は一定に保たれている。やや肌寒さを感じるも問題ない。今日の趣向はパジャマパーティなのだから。 手早くナイトウェアに着替え、私はネリーの傍に近づくと目を落としていたもの――ハードカバーの本を眺めた。 「此は――オズの魔法使いだね」 「ええ。二人の思い出の本……」 彼女が読んでいる頁に“かわってるかどうかなんて、友だちになったら気にしないものよ”との台詞が覗け―― ついシニカルな笑みを浮かべてしまった。 ネリーも私の目線で台詞を見詰め微かに笑むと、本を閉じ部屋の明かりを消しに向かう。 消灯時間はとうに過ぎていた。 「萩原さんはちゃんとエスコートしてきたかしら」 「王子はいないがお城には案内してきたよ」 言い、私も彼女の隣のベッドへと腰掛けた。 そう―― (今朝方、きちんと私と向き合って貰えるようネリーへと話した) あからさまに私を避けるように為っていた彼女。 林檎へと己の気持ちを正直に吐露してから直ぐ、ネリーと対話をしようとした。 だが、 (逃げ続けられ、きちんと話してくれるよう対話できたのが今日だものな……) 「譲葉?」 「勿論、萩原君におかしなことをしていないよ。きちんとエスコートしたさ」 「なら佳いのだけど……」 「部屋を変わることで仲直りしてくれるなら、三日だって一週間だって変わるってね」 「そう……」 私とネリーの様子がおかしいことはクラスメイトの周知の事実だ。ネリーのアミティエも気ぜわしく思っていたのだろう。 「……ごめんなさい。私の所為ね」 「そのことは今朝方、君が謝ってくれたことで決着がついた。問題ない」 「理由も聞かずに赦すの?」 「美しい女性に〈理由〉《わけ》を聞くのは野暮ってものだよ」 言い、ベッドから腰を上げると彼女の部屋にあるコーヒーポッドを手に取った。私が来る前に用意していたらしい。 部屋に漂う芳醇なコーヒーの匂いを嗅げば分かることだが。 手早くカップを用意すると私と彼女の分のコーヒーを注いだ。 「熱いから気を付けて」 「ありがとう」 君が用意してくれていたんじゃないか、と笑いコーヒーを飲む。 ネリーの挽いてくれたコーヒーは私とは明確に違う。 淹れるのも人柄が出るのか、彼女のとっておきの豆であるネキセのストロベリーのような風味と、もう一つ別種の温かみを味わった。 「美味しいね。僕が挽いたのとは訳が違う」 「譲葉が淹れてくれたコーヒーも美味しいわ」 言い、コーヒーに口を付ける。カップへ何かの印を刻むように口付ける飲み方だ。ネリーはしばしカップから立ち登る湯気を眺め、 「……久しぶりね。パジャマパーティをするなんて」 と言った。 「ああ。1年生の折は皆を集めて佳く開いた。でも、ニカイアの会のメンバーになることが決まって――」 「規則を守らせる立場の者が破るのはいけないと、自然と立ち消えてしまった……」 昔を懐かしむようにカップを眺める。私は心の中で、“やめてしまったことは此だけじゃない”と付け加えた。 幼い頃から互いに成長することで、諦め、切り捨ててしまった大切なこと―― 母との関係。 父との確執。 己を捨て今の自分に為ったこと。 そして―― 「……ネリネのことも」 「譲葉?」 問う彼女へ、私はコーヒーを飲み、苦みを舌の上でじっくりと味わうと己のざらざらとした内面と向き合った。 私は己の内面と対峙したまま、跪きネリーの手を取った。 「……僕は今までたくさんのことを諦め、取捨選択していった。弱い僕自身を捨て、ネリーを守れる強い自分を獲得し――」 「君とずっと一緒にいられるために“洗礼”を受けた」 「譲葉……」 「そんな顔をしなくていい。選んだのは僕だ。だが――」 「ニカイアの会の会長と為ったのも、選挙に出ると言った君の言葉があったからだ」 酷く痛ましい顔つきで私を見詰める。そうじゃない。同情だとか、後悔してほしいから話しているわけじゃないんだ。 「今話したのは僕が捨ててきたものだ。自分から望んで選んできたもの。後悔はしてない」 「私が……貴女を変えさせてしまった」 「ああ。だがさっきも言ったが後悔なんて塵ほどもしていない。何故なら――」 ぐっと己の身体が何倍も重くなった気がする。周りの空気が一段薄くなる。 「僕にとって、己を変えるほど、捨てるのを〈厭〉《いと》わないほどに君が好きなんだ」 「改めて告白させてくれ。僕は小御門ネリネが好きだ」 言葉に出すことにありったけの勇気が要った。 体中が発熱し、耳朶はキンと硬質な音を響かせ、私の中の世界が月の裏側のように静まり返った。 小御門ネリネは―― 「私も、」 「え?」 「……私も譲葉のことが好きよ」 どこか困った風な表情でそう口にした。博愛主義者らしい彼女の言葉。いつもならシニカルな笑みを浮かべ終いにしただろう。 だが、今日は退くことはできない。 「もう一度言うよ。友愛だとか、博愛だとかの好きじゃない。僕は小御門ネリネを愛している」 留保のない断定した言葉。ネリーは嬉しいような、困ったような、泣いてしまいそうな複雑な表情を浮かべ、 「でも貴女は沙沙貴林檎さんとお付き合いしている」 と呟いた。 私は、刹那、あの日の彼女たちを思い浮かべながら口を開いた。 「別れたよ」 「え……?」 「林檎とは別れた」 絶句するネリーへ声に出してはいないが、“だから君もきちんと応えてほしい”という空気は伝わったのだろう。 ネリーの〈嫋〉《たお》やかな手は微かに私の手の中で震えていたが、青磁色の瞳は震えることなく真っ直ぐに私を見詰めていた。 「譲葉……。貴女は私のことを慕って――幼い頃、内気だった自分を救ってくれたと恩に感じてくれているけれど……」 青磁色の瞳が飾ることなく私を捉える。 「本当は、それは優しいおとぎ話のようなお話ではないの。幼い頃の私は、傲慢だった」 「それは……」 「私に付いてくる貴女のことを友人と思うよりも、何でも言うことを聞く愛玩動物のように扱っていた」 「私が何を頼んでも受け入れてくれたから……」 ……そうだ。 「何でも言う通りにするのが嬉しくて、私は貴女に洗礼を受けるよう仕向けた」 「自分で選んだと譲葉は言ったけど、私がそう仕向けたのよ……」 当時、彼女が私をどう思っているか気付いていた。 「私の傲慢から洗礼を受けさせた直ぐ後、貴女のお母さんのお見舞いをして――」 最後の一語文だけを付け加えない母。 「貴女のお母さんは私の穢れた心を見抜いていたの」 「“本当は譲葉を友達とは思っていないのでしょう”って」 「“今が嘘でもいい。でもお願いです、どうか、どうか――”」 「“あの子と、譲葉と――”」 「“私の代わりに、ずっと一緒にいてあげてください”」 母とネリーが私がいない間に個人的な何かを話していたことは気付いていた。だが、 「…………っ」 母の想いを受け、感情が高ぶり視界が滲む。母は私を気遣ってくれていた。ただ、どう接して佳いか分からなかっただけだ。 それは私も同じ。 もっと甘えておけば佳かった。 「その後、私は病に罹って……。約束通り、ずっと一緒に……守ろうと決めていたけれど、私の方が――」 瞳から一筋の涙が零れた。悔恨の涙だ。一度犯した過ちは取り返しがきかない。 俯き、震える背に向け、私はネリーへと呼び掛けた。 「赦せる間違いは幾つもある。だが、赦せない過ちもあるんだ」 「…………ッ」 「こいつは――」 「赦せる方の過ちだよ」 「……え?」 惚けたような顔をして私を見遣る。いつもの――父親を模倣したシニカルな笑みを向けると私は、 「母が亡くなったのは今みたいな冬の時期だった」 言い、部屋の空気を吸い込む。 「冬の匂いだ。この空気が今も私に母を思い出させてくれる。季節が巡るたび母に会える。だから何も寂しくなんかない」 写真くらいは残して欲しかったけどね、と心の中で付け加えた。 「母は最後の一語文をあえて口に出さないような喋り方をした。『此処の病院の先生は名医よ“だけど治せない病もある”』といった風にね」 「…………」 「ネリーに告げた言葉も、きっと最後の言葉の後で、“本当の友達になってあげて”そう付け加えられる筈だった」 私はそう思う。 「譲葉……」 「始まりは確かにからかいや同情が含まれていただろう。でも、今でもそうなのか?」 「ち、違う! 違うわっ!」 頬を紅潮させ勢い込み否定するネリーの髪を撫で、 「今話したのは小御門ネリネにとっての真実。だが、私の真実はそうじゃない」 「でも、それは騙して……」 「私にとって小御門ネリネは出逢った頃から変わらない。憧れだよ。一番の親友だ。そして――愛すべき人でもある」 「私を……赦すと言うの……?」 「ずっとネリーが懊悩に苦しめられていたのは知っていた。僕にだけは心を開いてほしい」 彼女は酷く苦しく、そして喜びの表情をない交ぜにした混沌とした顔を見せた。 そして、 「……もう少し、もう少しだけ時間が欲しいの」 「分かった。ノエルまで待つよ。待つのには慣れている」 答えを留保したことで―― 複雑な感情が私とネリーの間に渦巻いていた。 彼女が私を見上げる目は不安で満ち、これから自分が何を失うのか疑う目を向けたとしてもおかしくはなかった。 だが―― 教室での彼女は以前と同じの屈託のない笑顔を向け、私へと話しかけてきた。 ギクシャクしていた関係が戻ったとクラスメイトは殊の外喜んでくれた。 それは、 料理部の皆も同様だった。 私のクラスメイトから話を聞いていたのだろう。部活仲間から祝福の言葉を受け、沙沙貴姉妹からも“佳かった”と言葉を貰った。 唯一手放しで喜んでいないのは蘇芳君だけ。だが此は仕方がない。そうさせてしまったのはこちらの責任なのだから。 そして、 「あら?」 最初に気付いたのは彼女だった。次いで、 「久しぶりですね」 と、車椅子をアミティエに押して貰いながら私へと猫の笑いを向けた。 「今日は三人で何の悪巧みだい?」 「悪巧みだなんて、本を借りに来ただけですよ」 「わたしも同様」 「以下同文です」 繋げ言う息の合った三人に笑ってしまう。 「……佳かった」 「ん? 何が佳かったってんだ?」 「八代先輩が笑えるようになったからよ」 相談していた考崎君へ微笑み掛ける。彼女は淡く微笑み返し、 「ちゃんと選ぶことが出来たのですね」 と言った。 「ああ。君のお陰だ」 「おい、頭の上でわかり合っているんじゃないぞ。何だ、もしかして浮気か?」 「ふふ、えりか妬いているの?」 「妬いているんじゃない。困惑しているんだよ。見ろ、委員長様はわたし以上にぽかんとしているだろうが」 「う、浮気……。八重垣さん最低だわ……」 「違うよ! 何でわたしがしたことに為ってるんだよっ」 噛みつく八重垣君に執務机から咳払いの声が聞こえた。立花君は、しぃと人差し指を唇に付け、 「今のは八重垣さんをからかったのよ」 と、胸を張って見せた。心なしかおさげも得意げに見える。 「クソ……。委員長に一本取られちまうとは一生の不覚だ……」 「えっ、一生って、わたしそんなに抜けてないでしょ。そうよね考崎さん?」 「ええ。だって花菱さんは次期ニカイアの会の副会長様だもの」 「ちょ、ちょっと棒読みじゃない。視線も逸らさないでっ」 あまり〈連〉《つる》んでいるところを見たことがない三人だったが、絶妙な立ち位置に私は笑んだ。 もっと早く彼女たちと話しておけば佳かった。 「立花君」 「え、はい。何です?」 「ノエルが終われば僕たちはお役御免だ。此からは君たちがニカイアの会の役員としてこの学院を牽引していかなければ為らない」 「はい。小御門先輩の後を引き継ぐのは簡単なことではありませんけど頑張ります!」 裏表のない率直な言葉に、眩しさを感じた私は瞳を細めた。 「……立花君。君に一つ質問してもいいかな」 「何でしょう?」 「冬が過ぎ、嵐がやってくる。そいつは酷い嵐で白羽蘇芳は倒れてしまうかもしれない」 「え……」 「強く身を裂く強風から、蘇芳君を支えてあげることが出来るかい?」 「え、ぁ、も、勿論です!」 「神に誓って?」 続けた言葉に一切怯まず――彼女は、にこりと快活な笑みを向けた。 「わたしは蘇芳さんのアミティエですから!」 そうか、と私は呟いた。 身を寄せる先に彼女のような大樹があるならば、あれを彼女へ引き渡してもいいかもしれない。 「あら、私たちだって白羽さんにはお世話になっているわ。何かあれば助けます。ね、えりか?」 「ま、そりゃそうだが……。どうしたんです、八代先輩? もしかして死ぬんですか?」 「ちょっと!」 「ククっ、大病を患っているわけではないよ。ただ、確認したかったのさ」 私の物言いに八重垣君は、意地の悪い猫の眼を細め眺めた。私のように部屋を覗く類いの目だ。 「……何か大事なことを隠しているんですね」 「何もないよ。僕は生まれてこの方、嘘と冗談を言ったことがないのが自慢なんでね」 「…………」 「ふふっ、えりかみたいなことを言うんですね!」 朗笑する考崎君へ彼女は一瞬私から視線を切った。私はその隙に、立花君の腰に手を掛け引き寄せる。 「きゃっ」 「……立花君へ頼みがある」 「ぁ、な、何ですか?」 「……蘇芳君への伝言を頼まれてほしい」 彼女と――白羽蘇芳と向き合う用意ができたのはノエルの当日だった。 純真で無垢な立花君に〈言伝〉《ことづて》て貰い、イズニクの新たな主人を呼びつけたのだ。 執務机から窓を眺める。 空は鉛色の雲が十全に覆っている。雨が……いや、雪が降りだしそうな天気だ。 「クリスマスに雪が降る、か。出来すぎているな」 シニカルな笑みを向け、灰と茜、どちらにも染まっている空を眺めた。中庸、私のようだ。 いや、今は―― ノックの音に物思いは遮られ、どうぞ、と告げる。ノックの主は何も言わぬまま部屋へと這入ってきた。 「1年生はダイニングルームの飾り付けだったね。もう終わったのかい?」 学年毎にノエルの準備を分担している。 「…………」 彼女は何も答えぬまま、私へと、執務机へと歩む。 かつてやる気を失いベッドに臥していた私へと向き合った時のようだ。 ――否、 彼女の瞳から〈部〉《・》〈屋〉《・》を覗き、あの時の幽鬼のような彼女ではないと判断した。 蘇芳君の目は“だまし絵”の正確な像を掴む為に目を細め、精査しているだけだ。そこにあるのは失望ではない。 「蘇芳君の家ではクリスマスを祝っていたのかい」 「…………」 「その様子ではないのかな? ああ、確かお祖父様と二人暮らしだったね。なら致し方ないのかな」 私は執務机から腰を上げ、コーヒーはどうだい?と告げる。 やはり何も語らない。 「どうやら真実の女神以外では口を利きたくないようだ」 私の言葉は彼女の一番柔らかい部分に触れたようだ。強張りを解き、 「約束を守って頂けるのですね」 そう言った。 私は大きく手を広げるジェスチャアをしながら、立花君から諭されたからだよと告げた。 「え、立花さん……? も、もしかして真実の女神のことを彼女にも――」 「話してはいない」 切って捨てる私に当惑した彼女はそっと己の唇に触れた。弱気に為っているサインだ。 「僕はね、君のことも買っているが、立花君のことも買っているのだよ。彼女は素晴らしい」 「……ええ、立花さんは私にはもったいないアミティエです」 そうだろうと、頷く。私は鉛色の空を眺め、続ける。 「思えば君の周りにいる者たちから僕は教えられることばかりだった。八重垣君からは勇気を。考崎君からは決断を」 「沙沙貴君たちからは慈しむ愛を。立花君には当たり前のように人を信じるという美徳を教えて貰った」 そして君には挫けぬ精神だと心の中で付け加える。まるでオズの魔法使いのようだ。がらんどうの心に託されたそれぞれの想い。 「八代先輩……」 「――正直、約束を交わしたが真実の女神に通じるだろう“あれ”を伝えることに抵抗があった」 「それは……何故です?」 「知らぬ者にはただの他愛のない文言だが、君のように聡い者にはこの学院の闇を覗く手掛かりになってしまうからね」 「…………」 部屋の空気が重く、硬質に変わっていく。遠雷が聞こえた気がした。 「そしてそいつを手掛かりにして探ることで、君は傷つくことに為る」 「構いません」 「僕が構うのさ」 「何故――」 問う彼女へ、私は猫の君を思い浮かべた。 「八重垣君の言葉を借りると、つまんねぇこと聞くなよ、というやつだ。僕は君の友人のつもりだったのだからね」 「とも……だち……」 「友人の蘇芳君が傷つくのを見たくない」 友人という言葉に思い入れのある彼女は戸惑い唇を噛んだ。 友人を欲してこの学院へ来た蘇芳君は、その言葉を吐いた者を易々と切っては捨てられないのだ。 彼女の目から〈部〉《・》〈屋〉《・》を覗くと気持ちを掻き乱され、不吉な雷雲が遠く地平線から姿を現していた。 「だが……。立花君と対話したことで考えを改めることにした」 「…………」 惚けたような顔つきで私を見上げる。 「彼女なら――君の友人たちなら、蘇芳君が倒れそうになってもきっと支えてくれるだろうからね」 「――はい」 「佳い返事だ」 彼女の目からは、雷雲の影は強い風に流されたように消えうせていた。私は微笑み、執務机の奥の棚からファイルを取り出した。 「此は……?」 「ニカイアの会の会長が連綿とつけてきた年鑑だよ。その年度の会が催してきた祭事、そして大きな事件があった場合記録している」 「で、ではその中に……!」 「命名されることと為った七不思議の始まりが記されている」 蘇芳君は顔を輝かせ、それが真実の女神へと至る鍵なのですね、と言った。私は首を振る。 「え、で、では……」 「確かにこの年鑑はある種の謎に迫る為の手掛かりとなるだろう。だが、会長に伝わる引き継ぎの言葉ではない」 瞳を細める彼女へ、私は心を決め、ファイルを開き破かれている〈頁〉《ページ》を見せた。 「今から話す引き継ぎの名は、かつて此処に記されていた名だ」 言い、彼女の元へと歩み寄った。忌むべき名。 〈何人〉《なんびと》にも聞かれる訳にはいかない。私は、蘇芳君の耳元に唇を近づけ囁く。 「匂坂マユリを求めるなら、君は真実の女神に近づくことになる」 「――はい」 「女神に辿り着く為の鍵は、“アガペのタルパ”」 「アガペ……それは、基督教の教えにある無償の愛?」 「ああ。神学で言うところの尽きることのない無限の愛だ。いや、不朽の愛かな」 神聖な文言に戸惑う彼女へ私は続ける。 「“アガペのタルパ”は、失われた“始まりの七不思議”だ」 「始まりの七不思議? それは――」 私は唱える、明かされている七不思議の名を。 「“寄宿舎のシェイプシフター”“彷徨えるウェンディゴ”“真実の女神”“血塗れメアリー” “碧身のフックマン”“鐘楼のルーガルー”」 そして、 最後であり、始まりの七不思議が―― 「――“アガペのタルパ”」 胸の深い部分へと刻むように名を唱える。私はかつて先代の会長へと伝えられたように彼女へ言う。 「――知っているかい蘇芳君。マリア像の足下はね、蛇を踏みつけているんだ。蛇は悪魔の象徴だ」 「タルパはマリア様が踏みつけている蛇だと思え。僕は先代からそう教えて貰った」 彼女の首元から香る素敵な匂いは分かち難かったが、身体を離し、強張った蘇芳君を見遣った。 「アガペのタルパ……蛇……」 小さな頭の中で得た知識から何かを生み出そうとしているのだろう。 私は、幾度も助けられた素敵な後輩へ最後の置き土産をしてあげたくなった。 私なりの礼だ。 「蘇芳君」 「ぁ、は、はい」 「此奴は老婆心からの餞別だ。僕が一年前に調べた、とある事件から得た情報を一つ教えよう」 「一年前の事件……?」 「引き継ぎの言葉と同じ、もう一つの鍵だよ」 引き継ぎの言葉以外に鍵……ヒントはないと思っていたのだろう。瞳を瞬かせ、次いで緊張した面持ちで私を見詰めた。 「其奴は――」 出て行ったドアを暫し眺めていた。 部屋の中には私が語った最後の鍵を聞き、当惑し、明確な動機を得た白羽蘇芳の存在としての空気が漂っていた。 (私がしたことは正しかったのだろうか……) 私が得ていた鍵をすべて彼女へ渡すという決断をしたが、それは蘇芳君を危険に近づけるということだ。 私がかつて経験した“蛇”は、近づく者に容赦はしないだろう。 「……取捨選択したというのにな」 言い、部屋の中に彼女の匂いを、存在を感じながら窓へと歩む。 空は相変わらず鉛色だったが、凝っと見詰めていると空からはらはらと白いものが降っているのを見咎めた。 雪が降り始めたのだ。 徐々に数を増やしていく粉雪を眺め、私は願う。 「――白羽蘇芳の行く道に神の御加護があらんことを」 クリスマスのミサ―― 聖歌隊の衣装に身を包んだ私たちがキリストの聖誕を祝う聖歌を歌い終えると、聖堂内が大きな拍手に包まれた。 皆、この日の為に修練を積んだ成果を認められ佳い笑顔を見せている。 最後の曲となり、私は一歩前に進み、次いで小御門ネリネも前に進んだ。 最後に歌う曲は、トータプルクラ。 聖母マリアを祝う聖歌だが、少し前に“真実の女神”をイズニクで話していたことが皮肉に感じられた。 思わずシニカルな笑みを浮かべてしまいそうになる。 隣に立つ聖歌隊の衣装に身を包むネリーを見詰めることによって平静を取り戻した。 ネリーは私の視線を受けると小さく頷き、伴奏者へ合図を送った。 厳かに前奏が始まる。 彼女の呼吸を感じながら、暫し演奏に耳を傾ける。 (聞き惚れているばかりではいけない) 前を向いて呼吸を整える。 さあ――始めよう、私たちの唄を。 (クラスメイト……ニカイアの会の皆……) 行き違いこそあれ、真剣に私たちへと向き合っていてくれた。 ネリネと私を友とみなしてくれたからこそ、互いに譲れないものがあったが、誤解は解け、佳き隣人を見守る目で私たちを見詰めている。 (考崎千鳥……八重垣えりか……) 彼女たちからも私は素晴らしい贈り物を受けた。それは――勇気と決断だ。 彼女たちが居なければ私は同じ場所をぐるぐると廻っているだけだったろう。 (花菱立花……白羽蘇芳……) 立花君には人を信じるという美徳を、蘇芳君には挫けぬ心を学んだ。 この二人が居なければ私の学院生活は無味乾燥なものと為っていただろう。 (沙沙貴苺……沙沙貴林檎……) ままごとのような密事ではあったけれど、私の心に温かくも消えることのない情景として刻まれている。 出逢えて本当に佳かった。心からそう想える。 (小御門ネリネ……) 私の初めての友人であり、初めて愛した人。 彼女の真実と、私の真実は違ったけれど、それは何の障害にもなり得ない。 聖母マリアへと捧げるための唄は、皆への感謝と、そして傍らの隣人への愛を誓うものだった。 最後の一音が聖堂内へと響き―― 大きな拍手が私たちを、聖歌隊を包んだ。 (ありがとう) 心の中で感謝を伝え、皆へと頭を垂れる。 一際大きな祝福の雨が降り、皆も礼をする。 傍らの美しい人も。 トータプルクラ――«御身はすべてが美しくあり給う» 曲の名の通りだと思った。 「――ネリー」 私は彼女の〈嫋〉《たお》やかな手を取ると、小首を傾げる親友の耳元へと唇を寄せた。 「僕の頼みを聞いてほしい。其れは――」 降る雪を眺めながら、森を行く私の身体は寒さを感じなかった。 処女雪を踏みながら私は、今も盛り上がっているだろうクリスマスパーティを思った。 ダイニングルームに飾り付けられた北欧を意識した凝った飾り付け。料理部が腕を振るった料理の数々。 「……エッグノッグとチキンだけはもう少し食べてくれば佳かったかな」 久しぶりに味わった季節限定の料理を思い出しシニカルな笑みを浮かべてしまう。沙沙貴姉妹と蘇芳君が作り、取り分けてくれた料理たち。 ケーキはやや甘すぎたがそれすらも愉しく愛おしい日常だ。 「……しまった。サンタクロース姿の衣装、写真に撮っておけば佳かった」 皆、気分を盛り上げるためにサンタクロースの衣装に着替えていた。当然、ミニまでとはいかないがスカート姿だ。 蘇芳君もだが、八重垣君のサンタクロース姿は中々にそそるものがあった。彼女の足は素晴らしい。 「ククッ……。立花君と考崎君に怒られてしまうな……」 二人の姿を写真に収めるのを想像すると、セットで睨む二人の姿が浮かぶ。 そこには口元を押さえたバスキア教諭と、わたしも写真を撮ってとせがむ沙沙貴姉妹も浮かんだ。 大切な守るべき日常。 ――だが、 「――守るだけではダメなんだ」 足を止め、雪を一心に降らせる空を眺めた。 この学院で築いてきた日常は代え難いものだ。自分の居場所を、ネリーと共にあるための居場所を得ようと、私は仮面を被り奔走した。 その甲斐あってかニカイアの会の会長として確かな地位を得ることができた。 ニカイアの会の面々は皆、優しく気の佳い者たちだった。私やネリーも穏やかな場所として身を横たえることができた。 「それで佳いと思っていた……」 変わることだけが佳いことではない。現状維持だって相応の努力は必要だ。しかし、 己を変え、突き進む彼女を思い浮かべた。 影響を受けなかったと言われれば嘘になる。私は彼女の真っ直ぐな想いに憧れたのだ。 「……だからこんな馬鹿な真似をしている」 聖堂内での最後の聖歌。トータプルクラを歌い終えた私は、彼女へこう告げたのだ。 (僕の告白を受け入れてくれるなら、今夜9時に秘密の湖への入り口に来てほしい) 戸惑うネリーの表情を思い出し私は自嘲の笑みを浮かべる。 小御門ネリネにとって私の告白を受けるという事はすべてを捨てることに等しい。 信仰を捨てるということは今まで培ってきたアイデンティティを一切合切放り出すということだ。 彼女が尊敬する父の教えに背き、積み重ねてきた信仰という努力を放棄することになる。 「私に選択を迫る資格はない」 まるで私に向かって降るかのような無情な雪を顔を上げて眺め、私は小御門ネリネを待った。 持ってきたバッグから腕時計を取ると時間を確認する。 「……ま、そりゃそうだよな」 時計の針は9時30分を過ぎている。 現実的な物差しでみなくとも、私のカーディガンに積もった雪がどれだけの刻が過ぎたかを教えてくれた。 今まで寒さを感じていなかったのに足下から這うような凍えが足裏を伝い、腿を這い、背へと悪寒を走らせる。 指が頬を撫でると氷のように冷たく為っている。だが、 (未練だな……) 凍える足を寄宿舎へと向ける気には為らなかった。 何故なら私の目にはいつも助けてくれた幼い頃の小御門ネリネの姿が浮かんでいたからだ。 内気で己の殻に篭もっていた私を連れ出してくれたネリー。彼女の差し出した手を忘れたことはない。 ――あの日、友達同士の握手を教えてくれた。 「……君が私を救いあげてくれたんだ」 大勢愉しく笑いあっているのに、私だけ居場所のない教室で―― 「……君は私へ話しかけてくれた」 オズの魔法使い。 小さな繋がりだけれど、友達になるにはその小さな切っ掛けで佳かったんだ。 「ネリー……。もう、私を助けに来てはくれないの……?」 森の小道を遠望する。 雪で煙った道は誰の姿も映ってはいない。 私は―― まるで自分の足ではない―― ――凍えた足をあげ、 幼い頃の想い出を抱えたまま、“銀の靴”を三度鳴らした―― ――待たせたわね、譲葉。 遠くで行われている秘めやかな祭の音色のような微かな人の声音に誘われ――緩慢に顔を上げた。 「ネリ……ネ……?」 白く煙る雪の中、頬を紅潮させた小御門ネリネの像が映る。 (都合の佳い幻だ) そう思うも私は手を伸ばさずにはいられない。私の大好きな親友へ手を伸ばすことを。 「――譲葉」 「ぅ、ぁ……」 握られた手は温かで――意識は緩やかに、だが確かな速度をもって覚醒した。 確かに彼女は私の手の中にいるのだ。 「ネリネ……どうして此処に……」 「かかとを三度鳴らしたら、助けに来る。そう約束したでしょう」 三つ編みだった幼い頃の彼女と、成長した彼女が私へと語りかける。交錯した像を目にしながら私は、ああ、そうだねと呟く。 「二人で交わした……大切な約束だ……」 「――ええ」 彼女の手が私の頬に触れる。冷たさから驚き指が刹那震えるも、氷を溶かすように優しく頬を撫でた。 凍り付いていた私の心が溶かされていく。 だけれど、 「ネリー……。君が来てくれて嬉しい。けれど、僕を受け入れてくれると言うことは――」 「――全てを捨てる決意をした」 目の前の天使は微笑み、膨らんだバッグを戯けるように掲げた。 「私は貴女と共に生きると決めたの。健やかなるときも、病めるときも」 彼女の決意を聞き、私の瞳からは熱いものが溢れ落ちた。 小御門ネリネも私と同じ想いでいてくれたのだ。 「――信仰を捨て。学院を捨て。全てを捨てる。残ったのは私と貴女だけ」 柔らかに微笑むネリネを見て、私は―― このまま死んでしまっても佳いとさえ思った。 胸から溢れる恋情を抑えきれず、彼女の腰を抱いた。 ほっそりとした――でも柔らかで温かな肢体。 私の好きなスズランの香りが二人を包んだ。 「――ネリネ、君が好きだ。どうしようもなく愛しているんだ」 「私も貴女のことが好き。誰よりも何よりも――」 瞳を閉じたネリネへ、出逢った時からの想いを刻むかのように互いを重ねた。 唇に触れる熱に互いに刻んだ年月が融け合い、分かち難く混じり合った。 青磁色の瞳が私へと注がれている。 喩えようもない多幸感に私は、もう一度彼女を求めた。 「……甘えたがりね。譲葉……」 瞳で答え、鼻先でネリーの鼻先をくすぐった。 「行こう。ネリー、二人で」 「ええ。二人でなら何も怖くない」 見つめ合う互いの瞳には只一つの感情しか浮かんではいなかった。 月のような真円を描く、互いを思い遣る愛だけ。 差し出された手を握り、八代譲葉と小御門ネリネは歩み出す。 いまだ足跡が付けられていない白雪を踏み、壁の外へと向かって。 ――たとえ二人の行く道に苦難が待ち構えているとしても、 二度と此の手を離さないと、八代譲葉は初めて心から神へと誓い祈った―― ――幼い頃のわたしはなにか大切な芯のようなものを持っていた。 だからだろう自分は何でも出来るという自信があったし、自信通りに振る舞えることが出来た。 学業、習い事、運動につけだ。 年齢があがるにつれ姉との差は顕著になり――父と母はわたしと姉に明確な差を付け始めた。 不出来な姉と佳く出来る妹といった具合に。 姉のことが好きだったわたしには二つの選択肢があった。 自分が姉を守るという選択。 身内からも外界からも起こりうる世の中の理不尽なことから姉を守る為に強くなること。 真っ当な考え方だ。だが姉の優しい性格を考えたわたしはそれを選ばなかった。 いつか姉が守られていることに息苦しく感じることは目に見えていたから。 「り……ご……」 だからわたしが選んだもう一つの方法は―― 「林檎っ」 目の前で手を振られ――わたしは意識が飛んでいたことに気付いた。 「どうしたの? ぼうっとして足まだ痛いの?」 「苺姉ぇ……」 心配そうに見詰める姉へ、わたしは浅い湖面から自分の仮面をすくいあげ笑顔を作った。 「平気です。バレエは無理ですけど普通に歩くならもう痛くないです」 「そう? 本当に?」 「はい」 「なら佳かったんだけどさ」 鐘楼のルーガルー事件で、聖堂前で足を捻挫した事になっているわたしは、椅子に座りながら捻挫した方の足をつま先で床を叩いてみた。 (もう大丈夫……) バレエであるような捻る動きをしなければ痛みはない。対面で食事を取りつつも笑んでくれる姉へとわたしも笑いかけた。 「お昼、いつも勝手に選んできちゃってるけどさ。美味しい? それで佳かった?」 「苺姉ぇと一緒でいいんです。ご飯をいつも持ってきて貰って悪いですね……」 「なに言ってんの。足、怪我してるんだからしょうがないじゃん」 「それに七不思議……ああ、もう動物の所為だっけ、それになってるけど、ダイニングルームに行ったら質問攻めになっちゃうよ?」 「……詳しく話してボロが出たら大変ですもんね」 「そういうこと。せっかくお姉ちゃんが上手くごまかしたんだからさ」 得意げに笑う姉。わたしも笑顔を作る。それで安心したのか姉は、オムライスを食べながらクラスでのことを愉しげに話す。 ルーガルーに襲われたという事からわたしたちを敵視する目はなくなったということ。 蘇芳ちゃんが会長選に立候補し、りっちゃんさんも副会長に立候補したなどだ。 そして、 「今のところ皆うまくいっているよ。不満なのは譲葉先輩と会えないことかな」 スプーンを口にくわえつつ言うも、すぐに失敗したと慌てて顔の前で手を振った。 「あ、い、今のは林檎が怪我したのを迷惑だとか思っているわけじゃないの! ただ会えないのが寂しいなってだけ!」 「分かっていますよ」 言い、感じの佳いだろう笑みを見繕って浮かべる。安心した姉は、ならいいんだけど、と言いつつオムライスをスプーンですくった。 ――そうだ。 八代先輩とのこと。 わたしの振りをして八代先輩と逢っている姉。 自分から提案したことだが、わたしの中で恋人を取られるかもという猜疑心と嫉妬が湧いた。 だが今わたしの中で比重が取られているのは―― (姉が――わたし以上に大切なものを作るということ) 「? どうしたの林檎。早く食べないと冷めちゃうよ」 オムライスを漫然と口の中にほうり込み自分の心へと問いかける。 わたしは――姉を守る為に強くなるのではなく、姉と同じに為ろうとした。 そうすれば父や母から姉妹同じように愛して貰えるように為ると思って。 姉と同じ程度に学力を落とし、習い事にも手を抜き、運動もわざと失敗を繰り返した。 初め変調を姉も両親も怪しんだけれど――成長するに連れ勉強が難しくなったことで化けの皮がはがれたのだと思ってくれた。 いわゆる子供の頃は神童だったというやつだ。 興味が薄れた両親は、父方の祖母の元へわたしたちをやったけれど、それに対しても特に感慨はなかった。 愛情を等分に注いでくれるなら嬉しいけれど、わたしだけでは嫌なのだ。 祖母がいつか、“幾ら美味しい食事でも飢えた人がいる前で取る食事は美味しくない”と言っていたがそういうことなのだ。 「あんまり美味しそうじゃないね。オムライスって気分じゃなかった?」 「そうじゃないんです。部屋に篭もりきりだから、食事の時間愉しむために時間をたっぷりかけているんですよ」 「ふふっ林檎は子供だなぁ。それじゃわたしの分もあげるよ、はいっ」 オムライスを乗せたスプーンを出されわたしは躊躇いなく頬張る。姉はそれを見て満足したようだ。 「苺姉ぇはいつまでもわたしのお姉ちゃんなんですよね……」 「なに言ってんの。当たり前じゃん」 天真爛漫に笑う姉を見て――この笑顔がわたし以外に向けられていることに嫉妬した。 (この嫉妬は……) 探ることに躊躇いを覚える。自覚していなかったわたしの想いはきっと―― トマトソースとコンソメで下味を付けられたチキンライスを見詰めた。卵を覆っていないそれは全く別物の料理なのだ。 一枚衣をはぎ取れば、別物の気持ちが表れる。 (いつまでわたしは嘘を抱えるのだろう) そう問いかける。輪郭をあらわにしていくこの感情を隠し通せるのだろうか、と。 だが、 嘘はどれだけ上手に隠しても明るみに出されるのだ。 こちらの準備など気には掛けてくれない。 唐突に真実はドアをノックする。 深夜に訪れた彼女――八代譲葉を前にして来るべきものが来たのだなと識った。 「話があるんだ」 そう告げた彼女の口調を聴くまでもなく、雰囲気がすべてを物語っている。八代先輩の後ろに控える姉の姿にもだ。 「……ごめんね林檎。わたし、譲葉先輩にあのことを――」 入れ替わりのことだ。いや、話す前からそれは分かっている。むしろ―― 「すみませんでした。欺こうと思っていた訳ではないんです。これは――」 「分かっている。苺君のことを僕は既に赦している。君もだ」 八代先輩は、そこでふっと息を切り、何かの印を探すみたいに部屋を眺めた。そして、 「僕も覚悟を決めた。林檎、君も決断しなければ為らない時にきているんじゃないか?」 そう訊ねたのだ。はぐらかしておきたい真実。 「……彼女へ告白すると決めたのですね」 「ああ。君とのデートは幸せな時間だった。きっと忘れることはない」 八代先輩の胸に秘められていた、あの人への想い――小御門先輩との関係を変える決心を付けてきたのだろう。 恋人の心変わりにわたしは――。 (何故だろう) どこかほっとしている自分が居た。何故なら、 「あ、あのっ入れ替わりのことはわたしが言い出したんです! だから、わ、わたしのことはいいから、林檎のことは――!」 「苺君、それは――」 「い、妹は本当に譲葉先輩のことが好きで、だから嫌いに為らないでくださいっ」 腕を掴み懇願する姉へ戸惑いながらも、八代先輩は頭を振った。嫌いに為ったわけじゃない、と。 「な、なら――」 「君たちのやったことで嫌いに為っただとか、好きな気持ちが陰ったわけじゃない。僕が自分勝手でエゴイスティックなだけなんだ」 彼女の表情から何かを掴もうと涙ながらに見上げる姉へ、わたしは肩へ手を掛け、もういいのと言った。 「わたしがそうであるように、譲葉先輩も大事な人がいることに気付いたんです。いえ、気付かないようにしていることに気付いた」 「林檎……」 八代先輩は姉へわたしへと順に優しく頭を撫で、 「信じてくれないと思うけど――」 「きっとそういう返事がかえってくるだろうと思っていたよ」 そう告げ、部屋を後にした。 消えた八代先輩の陰を追うように見詰める姉の背があまりにも寂しく見えたわたしは、何の躊躇もなく抱きしめた。 「ご、ごめんね。ごめん、わたしが……ぅ、うぅ……無理をいったから……」 「そうじゃないんです……」 「わ、わたしはお姉ちゃんなのに……っ」 そうじゃないと言い身体をきつく抱いた。姉の身体は熱病に罹ったように熱く、熱を帯び震えていた。 「きっと譲葉先輩が言い出していなかったとしても、わたしの方から別れを口にしていました……」 「え……?」 涙で濡れた瞳を瞬かせわたしを見遣る。つぶらな瞳がわたしだけを見詰めていることがたまらなく嬉しい。 わたしの中の明かしてはいけない想い。 「わたしは――」 でも、 「わたしは――嫉妬していたんです」 「譲葉先輩とわたしが逢っていることに……?」 小さく頷く。姉のまつげが震え心が刻まれた。 「そうだけど、それだけじゃないです。初めはわたしだけの譲葉先輩でなくなることが嫌なんだって思ってました。でも……」 明かしては為らない気持ちの蓋を開け、喉から言葉を紡ぎ出す。 「長く……譲葉先輩のように長く時間は掛かったけれど……そうではないと分かったんです。わたしが嫉妬してるのは――」 「……林檎?」 「譲葉先輩だったことに……」 困惑した姉は瞳を瞬かせ、どうして、と呟いた。わたしは、覚悟を決めたと告げた彼女に背を押されるようにして言う。 「わたしは……わたしは苺姉ぇと仲良くしている譲葉先輩に嫉妬していたんです」 「一番理解していて、一番好きなのに、なんでわたしが相手じゃないのかって……!」 わたしの中の秘めやかにしていた真意。 姉がわたし以外のものになると知り、まるで半身を削がれたような想いを抱いてた。 わたしは―― 己の最も秘すべき思いを吐露し、恐怖から顔を上げられなく為っていた。ただ感じるのは、姉の体温とわたしの煩く鳴り続ける鼓動だけ。 「……林檎」 「――林檎はばかだなぁ」 姉の手がわたしの背へと回され強く抱きしめられる。突き放されると想っていたわたしは、惚けた顔で姉を見詰めた。 「わたしが一番好きで、一番一緒にいたいのは林檎だよ」 「苺姉ぇ……」 「わたしも……初め譲葉先輩をとられたって気持ちはあったけど、譲葉先輩に林檎を取られたって気持ちもあったんだ」 「――ずっと、ずっとわたしを守ってくれてたんだもんね」 囁くような一言に、堪えていた堰が、目の奥が熱くなり涙が溢れ出した。 姉は、 わたしの好きな姉は、 「……知っていてくれたんですね」 「当たり前じゃん。お姉さんなんだよ?」 そう言って固く抱きしめてくれた。 涙がこぼれ落ちながらわたしは思った。姉と共に在ることでわたしの大切な芯のようなものは損なわれていってしまったと。 でもそれは違う。 勝手に損なっていると思っていたのはわたし自身だったのだ。消えてしまったと思っていたのは。 ――姉が、沙沙貴苺がわたしの失ってはいけない芯の部分だったのだ。 傍らにずっと在った。無くしてはいけないもの。 「ねぇ林檎」 「はい」 「ずっと、ずっと一緒だよ」 季節はゆっくりと継ぎ目なく過ぎていく。 穏やかな秋は過ぎ、苛烈な冬へ。 明確な区切りがあってもおかしくないくらいの気候だが、やはり季節は映画の暗転のように分かり易い区切りをつけることはなかった。 それはわたしたちも同じこと。 「林檎。お昼持ってきたよ!」 譲葉先輩にお尻を叩いて貰ったけれど。 「なんか最近、わたしがお昼担当みたいなんだけど」 「苺姉ぇが、じゃんけんに弱いのが悪いんですよ」 「……なんか最近、林檎以外にも負けてる気がする……。なんで勝てないのかなぁ」 「苺姉ぇは、かけ声の時に勝負する手が見えているのですよ」 「えっウソ!? 最近負けてるのは――」 「皆、気づき始めたからです」 わたしたちの関係はあまり変わってはいません。 何だよ、もう! と昼食をテーブルの上に大げさに置きため息を吐いた姉は、 「今度はクジを作って勝負するからねっ」 そう宣言し笑った。 変化したことといえば―― (譲葉先輩……) 答えを見付けた彼女は、小御門先輩と共に学院を去り―― 幾人かの級友たちも学院を辞めていった。 彼女たちのことを想うと胸が痛む。 そして、 「そういえば最近、わたしたちみたいに昼食をダイニングルームじゃなくて、部屋で取るのが流行ってるんだって」 「きっとそれの走りはチドリンたちですよ」 変わらないものは、足を捻挫してからの食事を持ってきて貰うことが習慣と為ったこと。 「今日のお昼はパスタですか」 「はまぐりのボンゴレだよ。やっぱり春ははまぐりだよね」 「特に春の食べ物だって気はしないんですが……」 お婆ちゃんに教えて貰ったじゃん、と姉は眉根を寄せた。 「わたしはあまり料理が得意ではなかったですからね」 「おやおや? 不出来な姉にあわせて努力を怠っていたのではないのかね?」 「……意地悪ですね」 以前は触れられなかった話題も冗談として言えるようになった。 「あっと、そうだ。林檎、食事の前にちゃんと用意してくれた?」 「淹れておきましたですよ」 言い、姉の為に用意したコーヒーを注ぐ。 以前はストレートのコーヒーは飲めなかったけれど、これは入れ替わった時に好きに為ったらしい。八代先輩の置き土産だ。 「正直、パスタにコーヒーは合わないと思いますよ」 「どんな料理にもコーヒーは合うよ」 「そうですかねぇ」 「えりかならきっとこう言うよ。『食事にコーヒーは欠かせないものだ。さながら海賊とラム酒のように』ってね」 最近とみに仲良くなった八重垣ちゃんの真似をし、意外なほど似ていたため笑ってしまう。 わたしが笑い、姉も笑んだ。 「それじゃ頂くとしましょう」 「あ、ちょっと待って」 制する姉にわたしは首を傾げた。 「八重垣ちゃんなら、料理は温かい内に食べるのが礼儀だぞ、って言いますですよ」 「えりかなら言いそうだけど……。そうじゃなくて、食事の前のお約束」 不意に受けた唇への感触。 それはいつもよりも長く―― ――親密で暖かだった。 春の訪れのように。 破顔する姉へ、わたしも偽らない素の笑顔を向けた。 そう、わたしたちにとって変わらないのはずっと一緒の、二人の関係。 でも少しだけ変わった。 変われたのは――きっと、 (譲葉先輩。貴女に教えられたように、わたしは大好きな姉さんとゆっくり――) (ゆっくり――大人になっていこうと思います) ――アガペのタルパ その言葉を――私が探し求めてる鍵の名を吐いたとき、胸の内側が爪で掻かれたような感覚を味わった。 酷く懐かしくも二度と会いたくないおぞましい何かの尾を踏んだような感覚だ。 ざらついた嫌悪感を押し込もうとしている私へ、八代先輩は続けた。 マリア像についての話だ。マリア様は蛇を踏みつけているという。毎朝見掛けるというのに気付かなかった。足下の蛇。 (……義母を思い出す吐き気) “アガペのタルパ” その文言を聞き悪心を味わった。吐いてしまった方が楽になるのか、このまま我慢したらいいのか。 義母を強く思い浮かべるたびに沸き上がる悪心。それと近い嫌悪感が沸き上がり喉を鳴らす。 額には汗がうっすらと滲み、身体からも汗がしっとりと覆った。 「蘇芳君」 八代先輩は私へと呼び掛ける。顔色を心配しているのかと思ったけれど、どうやらそうではなかったようだ。 彼女は私の顔を凝っと見詰めた。だが、その目は私ではない。何処か遠くへと投げかけられていた。 そして、私へと餞別をやると告げた。一年前のとある事件から得た情報を与える、と。 私の内側で何かが大きく爪を研いだ。再び顔を覗かせる悪心。 情報とは何かと問う私へ、 「引き継ぎの言葉と同じ、もう一つの鍵だよ」 そう告げた彼女の声は耳に酷く遠く聞こえた。そしてそれに比例するかのように、匂坂マユリの影が近づいていることを知った。 そうだ。 私は―― (あの聖堂での夜からマユリを取り戻すためだけに動いていた) 八代先輩はずっと遠くにある何か大切なものを見詰める目で私を注視していた。 言葉を紡ぐまでの束の間の時間、私は深い沈黙を意識した。それはまるで海の底にいるかのような深い沈黙だった。 (マユリ……) 沈黙が私の身体に重くのしかかった。発汗していた汗はひき、驚くほどの寒さが身体を苛む。 私は走馬燈のように決意した時のことを思い返していた―― ゆっくりと空を流れる雲のように夏が通り過ぎていった。 秋物の制服へ身を包んだ私は鏡の前で凝っと己の姿を見詰めていた。 鏡の中の私へと微笑んでみたが、鏡に映る彼女は何かを決意したかのように、笑顔はぎこちなく余所余所しかった。 「……笑える筈ないわよね」 そう、あの日――夜の聖堂で八代先輩から受けた言葉。 「この学院には神がいる。もう一人の女神が」 ニカイアの会――八代譲葉が匂坂マユリの消えた事情の一端を知りえていると推理した私は、あの日、夜の聖堂で請うた。 彼女の行方を教えてほしいと。 だが、八代先輩は“知らない方がいい”と答えた。 私はその言葉に絶望すると同時に歓喜した。彼女はマユリが消えた事情を知っているのだと。 だから私は激しく迫った。私はどうなってもかまわない。匂坂マユリがどうなっているのか教えてほしいと。 八代先輩は逡巡した後――私へある条件を提示した。 謎を解く鍵を与える代わりにニカイアの会の会長職に就けと。 (そんなことで怯むわけがない) 私が条件を承諾する旨を伝えると八代先輩は酷く驚いた顔をした。 内気で臆病な私が躊躇うか、受けるとしても時間を取るだろうと考えたのだろう。 だけど猶予なんてない。 一分一秒だって無駄にできない。早くマユリに会いたいのだから。 「――私はこの学院で一番強い女の子になるの」 映画の中のタフな主人公のように。 鏡の中の私が私であることを確認するとタイを直した。 そして秋の穏やかな朝の光の中、寝息をほとんど立てていない立花さんを起こしにベッドへと向かった―― 八代先輩が提示した条件をクリアする為、私はニカイアの会の役職に就く為の条件を探った。 それによると先ず会長職に立候補するだけでも、 � 級長の役職又は、中間・期末の成績において  高い評価を得なくては為らない。 � ニカイアの会のメンバー2名以上から推薦を  受ける。 � 教職員からも1名以上から推薦を受ける。 � ニカイアの会のメンバー及び教職員を含む討  論会にて4名以上の支持を得なければ為らな  い。 それらを経て初めて立候補者がニカイアの会の長として認めるかどうかの投票による選挙が行われる――らしい。 級長でない私は先ず試験勉強に取りかかった。学業においての高い成績という曖昧な定義は頭を悩ませた。 だから私は分かり易い……シンプルな物の考え方をすることにした。 すべての教科で一番を取れば佳い。 言うは易く行うは難しだけど、期末試験に向け私は深く静かに誰にも知られることなく学ぶことにした。 しかし―― ハロウィン前に起きた“寄宿舎のシェイプシフター事件”は熱くなった私へと冷や水を浴びせるような出来事だった。 クラスメイトから入ってきた情報、そして八代先輩からの話を聞き、犯人を――犯行動機を推測し、心の傷を掻き毟られたのだ。 私のあさはかな想いは八代先輩へと見抜かれ、彼女たちは裁かれることに。 だが、八代先輩は私の想いをくみ取り最大限の譲歩をしてくれた。 そのお陰で―― アミティエと共に笑い合いながらハロウィンの日を迎えることができた。 「あの……。随分と時間が掛かっているようなのだけど」 「すごく格好佳くしているから大丈夫、安心して」 そう、私のことを心から心配し案じてくれている花菱立花さんへと言った。 立花さんはメイク中だった顔をあげ、私へと微笑み掛ける。 「心配なんかしてないわ。ただわたしばかりに時間を取られて蘇芳さんの方がおざなりになっているというか……」 今夜のハロウィンの為に、私は既に立花さんの手で血の化粧をして貰っている。鏡で確認してはいないけれど十分な出来の筈だ。 「そんなことない十分よ。私の方がまだ上手くできなくて……」 「そ、そう? 何だか普通のメイク道具だけじゃないものも使っているみたいだけど……」 「せっかくだから立花さんを格好佳くしたいの!あ、時間が掛かりすぎて疲れちゃった?」 「そ、そんなことないわ! その……人に顔を触られているのって……その、心地いいし……」 それには同意見だ。メイクされている事がこんなにもリラックスできることだとは思わなかった。 「ふふ、私もよ。きっと立花さんにメイクして貰ったからね」 「蘇芳さん……」 友愛の篭もった目で私を見詰める。うん、目元のメイクもバッチリだわ。 「あとは額の方を……これを付け足すと蛇足かしら」 唸る私へ、立花さんが微笑む。 「なに?」 「ううん。何だか最近張り詰めていたみたいだから、愉しそうな蘇芳さんを見られて嬉しいの」 ――態度に出ないようにしていたけれど、アミティエには分かっていたのだ。 「わたし、ホラーやサスペンスものとか苦手だからハロウィンの行事を耳にしたとき本当はいやだったけど――」 「蘇芳さんが愉しそうにしているし、今は本当に佳かったって思っているの」 思い遣ってくれていることに鼻の奥が熱く涙腺が緩む。化粧が崩れないよう何とか堪えた。 「……私、立花さんがアミティエで本当に佳かった」 「わたしも……。八重垣さんと考崎さんみたいな関係になれればいいのに……」 頬を赤らめ呟く彼女へ、えりかさんたちと変わらないわと言った。 「え? そ、それはどういう――」 「私にとって立花さんは、えりかさん的に言うと頼りになる相棒だわ。何ていうかバットマンでいうロビンみたいな」 「相棒、相棒……。そうよね」 何故だか頬を赤らめ何度も頷く立花さん。私は笑み、一歩引くと彼女の全体像を眺めた。 「佳し。これくらいにしておきましょう。あんまり繊細な細工にすると給仕する時に取れてしまうかもしれないし」 「取れる? 細工?」 「さぁ準備は済んだわ。そろそろダイニングルームに行きましょう。料理部の皆が待ってる」 「あ、あの……。一度、鏡を見てもいい? 蘇芳さんを信用してないとかじゃなくて……」 ダメ、と私は澄まし顔で答えた。 「互いにメイクするときに鏡は見ないって約束したでしょう? その方が面白いって」 「それは……そうだけど……」 「皆の反応でどんな風だか想像した方が愉しいって話したでしょう。 大丈夫よ、立花さん格好佳いわ!」 「ほ、本当?」 「映画のマイ・フェア・レディを思い出すわ。メイクして見違えた」 「それって下町生まれのお花売りの娘を一人前のレディに育てるってお話よね?」 有名な映画の筋を今更確認する立花さんへ頷く。 ハロウィンの仮装はいかに怖ろしく化けるかを競うもの。以前祖父に聞いた時そう教えてくれたのだ。 何故だか納得していない表情の立花さんの背を押すと、ハロウィン会場であるダイニングルームへと足を向けた。 ――愉しかったハロウィンは過ぎ、秋は深まっていった。木々は色づき私の行動もそれに伴い進んでいった。 ニカイアの会のメンバー2名以上から推薦を受ける、という項目にチェックを入れる為の前準備だ。 ニカイアの会のメンバーの経歴――特に人柄を調べ上げた。 小御門先輩へと頼み、そのツテでという案もあったけれど、それは最後の頼みとした。 元々八代先輩と小御門先輩、両名と付き合いがある事は知られている。 現会長の八代先輩から推薦を受ける事はできないけれど、仲の良いことで談合のような性格をもって推薦されたのだと思われてはいけない。 立候補した後の全校生徒による投票を考えそう結論づけたのだ。 料理部主催のハイキングの話が出る少し前から、沙沙貴さんたちを通して二年生の先輩方との関係を深めていった――。 “森を彷徨うウェンディゴ” 森に七不思議の怪異が現れたという話題が上がったのは、秋も終わりに近づいた頃だった。そして合唱会も。 ウェンディゴの話が大きくなりすぎると、寄宿舎のシェイプシフターのような事態に陥るかもしれない。 合唱会での発表を張り切っている立花さんの為に調べた私は―― 此の七不思議の原因となった者を明かしても誰も幸せには為らない、そう結論を出した。 そしてこれ以上事は大きくは為らないだろうことも。そう判断した私は八代先輩へとすべてを託すことにした。 (そして判断は正しかった) 〈恙〉《つつが》なく行われた合唱会。 立花さんの歌に耳を傾け、先輩方が歌う虹の魔法を心ゆくまで楽しみながらそう思ったのだ。 勿論―― 七不思議の怪を解く間にも、ニカイアの会の会長と成るための努力を惜しんではいなかった。 期末試験での教科すべてトップをとり、推薦人として会計、監査のお二人から推薦を受けることができた。 そして立花さんの協力を得て教員の方からも。 『何故、ニカイアの会の会長を目指すの?』 そう問われてもおかしくはない。だけど、立花さんは何も私へ尋ねなかった。ただ、 『蘇芳さんが会長を目指すなら、わたしは副会長になって支えるわ』 疑問を投げ捨てそう言ってくれたのだ。だってそれがアミティエでしょう? と。 私はその言葉が本当に嬉しかった。 すべてを受け入れてくれる人がいる。そのことが私をどれほど救ってくれたか。 そして―― (林檎さん……) 粛々と選挙に立候補する準備を整えていた時に報された―― 八代先輩とお付き合いをしていたという事実は青天の霹靂だった。 学院の〈偶像〉《カリスマ》である八代先輩とお付き合いするということは、仲の佳いクラスメイトたちからもある種の嫉妬を誘った。 林檎さんを知らない他の生徒たちからは、もっと分かり易い妬みという羨望を。 クラスでは私と立花さんが皆を抑えてはいたけれど、 私の目の届かないところでは辛く当たられていたのだろうと思う。 そして、二人の交際は痛ましい出来事から崩壊した。 “鐘楼のルーガルー” 古い記憶の淵から蘇った怪物に林檎さんは襲われたのだという。 痛ましく赦せない事件だが、幾つかの示唆と怪我の功名ともいえるものもあった。 それは林檎さんが襲われたという事実から彼女へ向けられていた妬みは緩和されたということ。 だが新たな問題も発生した。 襲った犯人――“鐘楼のルーガルー”が小御門ネリネその人だと自白したことだ。 小御門先輩が犯人だと名乗り出たことは限られた者しか知らない情報だ。 裁判が行われた時にその場にいたニカイアの会のメンバー、そしてバスキア教諭だけ。 そして私はそのどちらとも交流があった。特にニカイアの会の特定のメンバーには。 ぐるぐると廻る抑え難い気持ちを抱えながら討論会を終え、晴れて立候補する承認を得た私は臥せっていた八代先輩へと対峙した。 ――彼女との対話は私の中にこんなにも怒りの感情が燻っていたのを己自身知ることに為った。 励まそうと思っていた。優しく諭そうとも。 でも私の口から出た言葉は叱咤だった。 『“小御門ネリネ”は“匂坂マユリ”です』 そう私は告げた。手が届くところで助けを求めているのに何故手を差しのべないかと。 涙ながらに告げた言葉。私と、えりかさんと、苺さん。皆の言葉が彼女を奮い立たせたのだ。 八代先輩は立ち直り“鐘楼のルーガルー”と向き合うと決めた。 そして―― いや、これ以上は蛇足だろう。 鐘楼のルーガルー事件は、私と八代先輩、そしてえりかさんの心の内にだけ真相を秘め、幕を下ろした。 そして私は後顧の憂いなくニカイアの会の長となるため、立会演説会へと臨んだのだ―― 心地好い冬の朝、目覚めの佳い私は暖かなベッドから離れ難く――そしてもう一つの心地よさに酔っていた。 立会演説会での公約が認められ、晴れて私はニカイアの会の長となることが出来た。 そう、マユリへとまた一歩近づくことが出来たのだ。 彼女の名を呼ぶたびに、心の内は静かに熱を持ち身体を熱く強張らせた。 緊張からくるものではない。ただの浅ましい私の想いからだ。 約束の“引き継ぎ”の言葉。それを得ることで彼女に逢える。 ――天に行われるごとく、地に行われるように。 求め得ようとした答えがすぐ傍まであることに私は満足した――。 永い眠りから目覚めたような気怠くも充実した気持ちで吐息を吐く。 己の熱を逃がした私はベッドに横たわったまま天井を眺めた。 (マユリに逢ったら何を話したらいいだろう……) 私に黙って学院を去ったことを批難する? それとも逢えなかった日の出来事を真っ先に伝える? 「……何も思いつかない」 話したいことが多すぎる。 私は冬の清冽な光を頬に受け、匂坂マユリを思い浮かべた。 春の日だまりのような素敵な笑みを持つ彼女。 きっと私はマユリの笑顔を見たら何も言えなくなってしまうだろう。 言葉は喉から唇へと上らず、ただマユリの身体を求めるだろう。 「――図書室でのあの夜、」 私とマユリは互いに互いの心を赦しあった。分かち難く惹きつけられる引力。 彼女を失った時、今までの想い出が消えてしまえば佳いと思った。 マユリが苦しむなら二人の逢瀬が消えてしまってもいいと。 (でも、今は違う) 心が、身体が、こんなにもマユリを求めているのだ。 きっと彼女も―― でも、 (もし……過去を断ち切った素振りをされたらどうしたらいいの?) 過去の事と既に想いを捨てていたら―― そう不吉な想いが過ぎった途端、身体が冷え、周りの空気が一段薄くなる。 「……悪い方へ考えるのは私のいけない癖だわ」 未だマユリと逢えていないのに、想像で一喜一憂していることに無理に笑みを作った。 「――馬鹿みたい」 そう口に出して言ってみる。部屋の時計を眺め、私は彼に馬鹿みたいよね? と問い掛けた。 時計は賢い。 何も喋らない方が正しいことだと知っているのだ。女の子のこういう面倒な質問には沈黙が金だと分かっている。 自分の中の時間と、現実の時間を重ねる為に時計の針を凝っと見詰めた。 ――起床の時間だ。 顔を洗い、髪を整え、制服に着替え、立花さんを起こす。 いつもの朝の定められた段取り。 軽やかな気持ちでベッドから起きる。 心に希望が灯っているとこんなにも身体が軽い。 でも、 そんなに上手くはいかないのだ。 私の前には常に新しい障害が阻む。 けつまずいてしまう程の床の段差から、奈落へと落とされる断崖まで。 深さと高さは違えど必ず起こる。 いえ、崖なんかじゃない。此は―― (――まるで使い勝手の佳いゴミ箱のように) 私の元へ様々な問題が投げ込まれるのだ。 そう、新しく起きた問題は、八代譲葉がマユリを取り戻す鍵である“引き継ぎ”の文言を口に出さないことだった。 八代先輩も何か考えがあるのだろう。 彼女は悪い人ではない。 そう分かってはいても――あの人を見る目は厳しくなり、 料理部で沙沙貴さんたちと仲佳く話している時でさえも恨みがましい目を向けてしまっていた。 どうしたら佳いかとざわついていた私の胸は―― アミティエである花菱立花さんが紐解いてくれた。 立花さんは煩悶とする私へ、 「八代先輩から伝言を頼まれたの」 と言った。 「クリスマスのミサの前に、イズニクへ来てほしいって」 私にはその言葉が天使の福音に聞こえた。 何かしらの事情が変わり、彼女の中の歯車が入れ替わったか新しくなったかしたのだろう。 たまらず立花さんへと抱きつき、クリスマスの日を指折り待ったのだ。 そう――運命が変わる此の日に。 「――蘇芳君」 「――蘇芳君」 遠雷を耳にするように、初めは何の音、声だか気付かなかった。 しかし、 金魚鉢を通して見たかのような朧気な像だったが、八代譲葉を目にすると私はゆるゆると今を思い出した。 私はマユリへと到達する鍵を得ていたのだ。 ――身体に張り付く嫌な汗を感じていると、八代先輩は脂汗が滲む冷えた額を撫でた。 「……酷い顔色だ。椅子に座るといい」 腰に手を掛け執務机へと誘われたが、首を振った。 「構いません。もうひとつの鍵の話をお願いします」 「しかし……」 お願いします、と頭を下げる。気分の悪さは未だ収まってはいなかったけれど、この機会を逸することはできない。 八代先輩は私の顔を凝っと見詰め、ややあって分かったと呟いた。 「僕が君へ与える餞別だが、以前聖堂で君があげた疑問――」 言い、己の後ろ頭を撫でた。 「温室で怪我をしたのを本当に事故だったのかを尋ねた問いだが――君の推測通り“事故”ではない」 「それは……誰に襲われたのですか」 「僕の口からは言えない」 またもはぐらかす言葉に唇を噛む。 八代先輩はシニカルな笑みを浮かべると執務机へと向かい、メモ帳を取り出すと、さらさらとペンを走らせた。 悪心を追いやりながら彼女の行動を見続ける。と、 「犯人の名を口にすることは出来ないが、アガペのタルパ……。匂坂マユリへと通じるもう一つの鍵は――」 メモ帳の紙片を差し出すと私へと手渡した。 「此処に在る」 メモ帳に記されたのは意味深な文言でもなく、犯人の名でもなかった。 記されていたのは―― メモ帳に記されていたのは“場所”だった。 私は逸る気持ちを押しとどめ、聖夜が過ぎるのを待った。 メモ帳に記された場所は気軽に足を伸ばせる距離ではなかったのだ。 ミサを終え、クリスマスを祝うダイニングルームから姿を消し、確認に行けるほど近くではなかった。 まんじりともせずに夜を明かし、いつも通り朝の段取りをし、学院へと登校し、イズニクにて起きた問題の対処をした。 そしてようやく私は、八代譲葉前会長が残したメモ帳の場所へと向かったのだ。 「……このまま、まだ真っ直ぐよね」 雪景色が目印を消している。私はメモ帳を注視し、立ち止まらずに雪で様相を変えている森を視た。 風がメモを揺らし喉を撫でる。私は冷えた首元を手のひらで擦ると、メモを頼りに進んだ。 頬にひやりとした感触があり空を見上げた。 鉛色の空から白雪がはらはらと舞い落ちていくのを見た。まるで儚く散っていく花弁のように。 風雪が激しく為る前に戻ろう――などとは欠片も思わなかった。 ただ、八代先輩が残してくれたメモの先を確認しなければ、その思いに駆り立てられていた。 ――だけれど、 正直、メモに記されていた“場所”については半信半疑だったと言っていい。 何故なら、鍵があると記されていた場所だが、そんな所があるのだろうかと疑問を抱いていたからだ。 けれど、迷いながらも行き着いた場所は―― 崩壊してはいるが、八代先輩が記した通りの“聖堂”跡だった。 学院からは大分外れたところにある。こんな場所に何故、と再び疑問がわく。 雪で視界が悪くなりつつある、私は凝っと目をこらし聖堂を注視した。 ……今在る学院の隣に建てられている聖堂は、この聖堂が何らかの原因で崩壊してしまったが故に後から建造されたのだろうか。 聖アングレカム学院の年鑑を調べたことがあるが、学院はずっとあの場所の筈だ。 なら何故、こんな遠い場所に聖堂を? (それとも、此処は――何かの祭儀で使っていたとか……) 普段は使用していない聖堂。 ――崩れた聖堂跡を検分すると、崩壊の理由は火事が原因だろうと推論を立てた。 漆喰の壁がところどころ煤で黒ずんでいたのだ。 雪で隠されてはいたけど、此処最近、一年二年前に火事で燃えたというという具合ではない。 十年……いやもっと以前に焼け落ちた風に感じられた。 「……此が何を意味しているっていうの」 焼け落ちた聖堂。 確かに足掛かりとなる一つの疑問は与えてくれた。 だが、此が“鍵”だなんて……。 「――何かを見逃している」 風雪は急速に強まりつつある。風切音が耳に煩い。集中できなく為ってきている。 音を無視し、瞳を細め雪に煙る聖堂跡を見詰めた。以前、此処で何があったのか? 何故この聖堂は、学院の年鑑に記されていなかったのか。 鼻の頭が冷え指で擦る。と、 手にしたままのメモ帳に目が行った。 「此は……」 メモ帳に記された聖堂跡に囲まれた丸印、だが、その丸の外に、チェックを入れているのが気になった。 (聖堂跡からずれているわ……) 聖堂跡は強調するように丸で囲われていた。さらにチェックとしての印を付けているのは強調してるのだと思っていたけれど……。 チェックがずれていることが気に為った私は、風雪から身を守るように手で目を守り、聖堂跡から少し外れた箇所を捜すことにした。 雪風は私を目指す場に行かせまいと強さを増していった。 これ以上は学院に戻る際に支障をきたす程に。 でも、熱病に罹ったように私はメモにある場所を探すのを止められない。 風は強く髪は千々に乱れるも構わずに聖堂跡の裏手を目指し雪を踏みつけ進む。 そして―― 聖堂跡の裏手に、目立つ一本の木を見付けた。 森の中に木があって何がおかしいのか。私の中に響いた違和感は、その木の種類だった。 「ニワトコの木だわ……」 園芸が趣味だった祖父に教えて貰ったことがある。 周りに樹木がなかったから直ぐ目に留まったのだけど、その木以外に、ニワトコは群生していなかった。 そして―― 木に隠れるようにして柱のような―― 「もしかして……墓標?」 初めは聖堂跡の瓦礫だと思ったけれど、雪化粧した木々の合間へと目をこらすと―― ニワトコの木に隠されていたのは十字架を模した墓標だった。 私は直感的に、 此が、 此の墓が、 八代譲葉が伝えたかった“鍵”だと理解した。 恐る恐る震える手で墓標についた雪を払う。 雪が払われると、刻まれた英語の文字が確認できた。 強い風雪に私は目を細め、幾度も英字の名を〈検〉《あらた》める。 ――だがその名は何度読んでも覆ることはなかった。 私は目の前の真実に抗い、墓標に刻まれている墓碑銘を唇に乗せた。 ――バスキア