――わたしの心に渦巻いたものは熱狂、そして強烈な嫉妬だった 舞台の上で演じられる“眠れる森の美女” 彼女の演じるオーロラ姫は情熱を持ってターンを繰り返し 情欲を煽るかのように――その手を優美に突き出し踊った 「何故――」 何故、こんなにも胸が締め付けられるのだろう 彼女の踊るオーロラ姫、そのフェッテ・アン・トゥールナンを見て 自分の動かない足を恨めしいと思うのだろう まるで羽が生えているような演技を見せつけられ、わたしは―― 胸の裡に尊敬にも似た畏怖の念すら抱いていることに気づく いつしか自分の腕で身体を抱きしめ、震えを抑えていることに ああ、そして―― 激しい嫉妬の裏側に、確かな情愛を抱いていることも わたしは呟かずにはいられない ――願わくば 「願わくば、わたしも、あの舞台で共に――」 «ヒーローはどこにでもいる。それは上着を少年にかけ、世界の終わりではないと励ますような男だ» ――ふと、 ふと、“ダークナイトライジング”の言葉が思い浮かんだ。 だがそれは、まったくの対極を思ったからだ。 「暑い……こんな日に上着なんて掛けられたら怒鳴りつけちまうぜ」 窓から覗くは陽光を一身に受けた青々とした木々。 放課後だというのに強い日差しに目を細めてしまう。 目を細めた視界に遠く聖堂が映った。 豪奢で年代を感じる聖堂。まぁ、そりゃそうだ。此処は明治三年だかに建てられた由緒正しいミッションスクールなのだから。 「……聖アングレカム学院」 深い森と高い壁に囲まれた学院。此処に来てからどれくらい経ったのだろうかと、視線を窓から廊下の天井に移した。 「――まだ三ヶ月ほどしか経ってないのか」 全寮制のこの学院に途中編入したわたしは、随分長いことここに居ると思ったが、まだそのくらいしか時は経っていない。 そのことに酷く驚いた。 「生家からこの学院にぶち込まれて――」 脚の事もあって、教室での授業に出られなかった頃――。 わたしは図書室から拝借した本を返す際にちょっとした悪戯を仕掛けた。 「それを解き明かしたのがあいつだった」 書痴仲間。図書室の妖精のようなあいつの顔が浮かぶ。 解き明かす――“推理”というキーワードが浮かんだことで、伝え聞いた七不思議の顛末を思う。 「七不思議――血塗れメアリーの話。あれは最高に笑えたな」 大山鳴動して鼠一匹、ということわざを思い出してしまうほどの笑える顛末だった。 いつも巻き込まれるわたしの書痴仲間。 そうだ。あの変わり者の生徒会長が襲われた事件の時は、わたしも手を貸したんだった。 この平和な学院に似つかわしくない殴打事件の真相を究明するために手を貸した。 調べた結果―― 「これも笑えたが、鼠一匹だったか」 天井を見上げていたわたしはにんまりと笑う。$事件解決のため探索していた時のことを思い出してしまったからだ。 生真面目な顔つきの書痴仲間。 そして真剣に間抜けな推論を立てた我がクラスの委員長。 そしてもう一人―― 「ちっ」 春に消えたクラスメイトが浮かび舌打ちする。 残された者の気持ちを考えずに消えた女。 わたし自身はどうにも思っていないのだが、あいつが―― 「……さっさと向かうか」 苛立つ顔を思い浮かべた所為でますます暑さを感じ、ハンドリムに手を掛け車椅子を進ませる。 いつものゴムタイヤが軋む音を耳にしながら廊下を行く。 膝の上には図書室から借りた本が置かれ、スカート越しに腿に密着し汗を掻いてしまっていた。 (伝記なんざ借りるんじゃなかったな) 人生を暇つぶしと考えているわたしは、その暇つぶしの記録が書かれている伝記ものだけは借りないと決めていたのだが……。 あまりに書痴仲間から面白いと勧められ、つい借りて読んでしまった。 マイケル・ギルモアが記したノン・フィクション。 物騒なタイトルで、読み進めるとひとつの家族にこれだけの不運が降りかかるのかと、最後には哀れみを越え、呆れにも似た感情を抱いた。 (あいつも佳い趣味しているよな) 見た目は〈手弱女〉《たおやめ》のような印象だってのに、随分な本を勧めやがる。 まぁ、雑食なだけなのだろうけれど。 同じく本ならば、伝記以外何でも読むわたしと似ている。と―― 気がつくといつの間にか図書室前に着いていた。背もたれから体を起こしドアノブへと手を掛ける。 ――ざぁ、と。 窓が開いていたのだろう、ドアが開いて風の通り道ができたことから、髪をなびかせる程の通り風が吹き抜けた。 心地好い風。埃と湿気と年月の混ざり合ったわたしの好きな匂いだ。 ドアを閉め、借りた本を返すために執務机へ。 すると、最初は気づかなかったが―― 凝っと――まるで初めて時計の中身を覗き込んだ少女のような顔をして、メトロノームを見詰めている書痴仲間を見つけた。 (……白羽蘇芳) 物事の裏側に初めて気づいたかのような顔つきで、物憂げに見詰めている彼女の名を心の〈裡〉《うち》で呟くと、そっと車椅子を向けた。 ざぁ――と再び通り風が吹き、長く美しい髪が揺れる。 白く透き通るような肌。そしてある種の繊細さを感じさせる美しい顔立ちは、物憂げに俯いていることで、さらにその印象を増させていた。 (誰かが図書室の妖精といったのも頷けるな) 半ば冗談で言った言葉だろうが、確かにこうしてみると非現実的な美しさだと思う。 まるで文学少女という文言から切り出された存在のような―― (……わたしも髪を伸ばしてみるか) 風に揺れる長い黒髪についそう思ってしまう。 同性の顔立ちを羨ましいと思ったことはないが、白羽の髪は見るたびに溜息を吐いてしまいそうだ。 女性らしさの象徴とも言うべききめ細やかで艶やかな黒髪。 つい髪を伸ばした自分の姿を想像してしまうも、生来のクセっ毛から神話のメデューサのような頭になるのを妄想し、苦笑いしつつ頭を振る。 「あら――えりかさん」 身動きしたことで鳴ってしまった車椅子の音に、夢から醒めたかのように瞳を瞬かせると、白羽はにこりと笑みを作った。 「遊びに来てくれたの?」 「そっちの名前で呼ぶのはやめてくれ。呼ばれ慣れてないんだ」 ふふ、と口元をほころばせると、 「八重垣さん」 わたしの名――“八重垣えりか”を呼んだ。 かつて彼女に解き明かされたわたしの名。 目で用件を尋ねる白羽へ、 「勧められていた伝記だよ。読み終わったから返しにきたんだ」 「あら、早いわね。どう? 面白かった?」 物憂げな表情が嘘のように自然な笑みを作り尋ねてくる。 わたしは文庫本を執務机の上に置くと、 「夢中で読んだからな。まぁ面白かったんじゃねぇの。でも、次は鬱にならない冒険活劇が読みたい気分だ」 「冒険活劇……。シェークスピアはどうかしら?リア王はお勧めよ」 「そっちも悲劇メインじゃないかよ」 「ふふっ……」 珍しく冗談を言う白羽に突っ込むと、手のひらで口元を押さえ上品に笑った。 「しかも四大悲劇のひとつを勧めるなよな」 微笑む白羽の美しいきめ細やかな黒髪が、肩にスルスルと音を立てるように滑っているのが見て取れた。 つい目で追っていると、 「あ……肩に埃でもついていた?」 と尋ねてきた。 「いや。いつもながら長い髪だなってさ。梅雨もようやく明けてもう夏だろ。首回り暑くないのかよ」 「そうね。でも夏服になったから……」 以前は見えなかった二の腕に触れ寂しげに微笑む。 わたしは白羽の身を包む夏服に、不自然な笑顔に、時が過ぎてしまったことへの哀しみを視た気がした。 あいつが消えてから過ぎてしまった空虚な日々への苦悩を。 本来は共に過ごす筈だったアミティエを―― 「……いや、がらじゃないよな」 「え?」 「自分らしくない真似をしちまうところだった。どうもお前と一緒に居ると調子が狂っちまうな」 「それってどういう……」 「言葉通りの意味だよ。とりあえずめぼしい本でも見つけるかね」 それなら――と本棚へ向かおうとする白羽を制し、 「適当に自分で探すよ。お前のお勧めは次の機会にするさ」 わたしは思わず口に出しかけていた慰めの言葉を飲み込むと、近代小説が置いてある棚へと車椅子を向けた。 自室の窓を開けると夕日が射し込み、ようやく涼しさを感じる外気が部屋に流れ込んできた。 「暑くはあるが、湿気が少ないのが救いだな」 学院は森の中にあるお陰か湿気も少なく、からっとした暑さだ。 しばし窓を開け、茜色に染まる空を眺めていると暑くなっていた部屋も落ち着いてきた。 さて、どうするかね。 「風呂の時間ももう少し後だしな……」 時計を見遣り、風呂の介助をしてくれるバスキア教諭が来るにはまだ時間があることを確認する。 なら、 (借りてきた本でも読むか) ベッドに投げ出した文庫本を見るも、まだ前に読んだ伝記の余韻が残っている。 もう少し間を置いて愉しみたい。 文庫本の装丁を眺めていると、ふと―― 小さな悲鳴のような響きに気づいた。 鏡を爪で引っ掻いたような―― 音が聞こえる方へ車椅子を向ける。$開けた窓の外。 いや、この声は―― 「……合唱部が歌っているのか?」 耳を澄ますと、どうも人の歌声だということに気づく。 ラジオのボリュームを絞ったような音量。$しかし、その歌声はわたしの耳に、心に響いた。 悲しげな旋律、だからだろうか? (いや、流石に合唱部じゃないよな) 夏になって自室の窓は部屋を空ける時以外、開けている。 なのに今まで歌声が届いたことはない。大体、 「ここまで届くってのはおかしい」 呟き、にんまりと笑ってしまう。$書痴仲間が言うところの猫のような笑みだ。 「時間を潰しがてら見物にでも行ってみるか」 歌声の主を一目見るため、わたしは耳を頼りにハンドリムに手を掛けた。 ――どうも、 どうも、歌声を頼りに車椅子を進めていくと妙な心持ちになった。 小さく、だが確かに聞こえる歌声は悲しげだが、可憐で――つい足を止め聞き惚れてしまった。 だが、この歌声は……。 春に消えた書痴仲間のアミティエ、 ――匂坂マユリを思い出す。 聖母祭で披露した独唱のトータプルクラ。 あの歌声は鬼気迫るものがあった。凄みというやつだ。 消えた理由は分からない。知りたいとも思わない。 だが、あいつは―― 「……どうにもいけないな」 頭を振り声を頼りに先を急ぐ。 ――どうも寄宿舎の裏手のようだ。 正門からの桜並木と比ぶべくもないが、裏手にも数本植えられていたその辺りから―― (この声――。いや、まさかな……) 歌声に誘われ裏手へ、 刹那、わたしの目には匂坂マユリが映っていた。 血のような朱い夕日に照らされ歌う少女。 髪の長さも、背格好も、雰囲気も似ていると思った。 いや、だが―― 非現実的だと評した白羽だが、唄う少女も負けぬほどに美しく、まるで映画のワンシーンを覗いているような気分に為った。 年上か、大人びた顔つきは造形が素晴らしくまるで創り物めいて見える。 (……桜に棲む魔物) いつか読んだ本の一節が浮かぶ。 どうにも現実感がない。 胸が締め付けられるような歌声。 しかし唄っている少女の顔には何も浮かんではいない。 感情を読み取れないからだろうか? 只、唄うということだけを使命としたような―― 哀切を感じた。 壮麗な情景ゆえに何処か禍々しさを、 落ちていた桜の枝を踏んだ音は澄んだ空間に響き、少女の唄を止めてしまった。 そして、ゆるゆると現実に戻ったかのように少女はわたしへと向き、 「――誰?」 と、歌声とは真逆のワイヤーの先端のような声音で尋ねた。 「わたしは……ここの生徒だよ。人に尋ねる前に自分から名乗るのが礼儀だぞ」 凝っと真意を覗き込むように見詰めてくる少女。 声から判断していた人柄と――こいつの目を視た瞬間、つい強い口調になってしまった。 「そう、盗み聞きをしていたのね」 わたしの問いには答えず、詰まらないモノを見るような瞳で凝っと見詰めてくる。 (イヤな目つきだ) 苛立っていることに苛立っているような目。 どうにも昔の自分を思い出させて妙な気分にさせる。 「……勝手に聞こえてきたんだよ。ここはわたしの帰り道だ。それよりわたしの質問が聞こえなかったのか?」 まるで声が聞こえなかったかのように、桜の幹に立てかけられた荷物に目を向けた。 「おい」 「初日からイヤな気分にさせられるわね。この学院は優秀な者が集まると聞いていたのだけど……」 その呟きはしっかりと耳朶に届いている。わたしはいつも以上に腹が煮え、 「自分が優秀な人間気取りか。盗み聞きだと見下げているようだがな。言っておくが、はっきり言って大した歌じゃなかったぜ」 わたしの言葉にようやく感情らしきものを顔に乗せる。こっちの方がずっといい。わたし好みの顔つきだ。 だが直ぐに感情を呑み込むとバッグを手に取ろうと屈む。 「お、どうした。無視かよ」 「程度の低い相手とは話さないようにしているの」 明確に向けられた久しぶりの悪意に思わずにやけてしまう。 「決めつけか。O・J・シンプソンを有罪だと言い切るタイプだな。此処へは恨まれて逃げてきたのかい?」 言うと、明確な感情が瞳に灯った。 創り物めいた目に確かな苛立ちが浮かんだ。 そして、わたしの眼を、顔を、身体を、車椅子を、動かない足を順に眺め、 「――貴女は卑怯者ね」 耳元でそう言った。 続け――甘えている、と。 「――ッ」 腹が煮え、振り返った先には、既に振り返りもせずに去っていく少女の姿があった。 逢魔が時に呑まれていく人陰。 「――悪かったな、匂坂」 わたしは春に消え去った級友へ呟く。 「あいつと比べたらお前は聖人だよ」 グリム童話に�かえるの王様�と呼ばれる一篇がある 日本ではかえるの王子様として知られる物語だ 王女が感謝の印としてかえるにキスをして魔法使いの呪いがとけ―― かえるは人の姿に戻り、王女と結ばれるというもの しかし――本来の話の筋は、知られている物語ほど優しくはない 王女が泉に金の鞠を落とし、かえるは友達になってくれるのなら拾ってこようと申し出る 王女はその条件を飲むも、かえると友人になろうとせず城へと去ってしまう これから始まる物語は――去った者を待つ、哀れなかえるのお話 ――まぁ、騒ぎたくなる気持ちは分かる。 わたしを見詰めるたくさんの好奇の目。 いつも授業に参加しないわたしが珍しく教室に鎮座しているのだから。 (ま、自分の席が一瞬どこだか分からないくらいには来てなかったものな) 己の席につくと、机に突っ伏す。動物園のパンダになった気分だ。 有象無象の級友たちが見詰める中、あら――と遅く教室のドアを開けた少女が微笑み駆け寄ってきた。 「ごきげんよう。珍しいわね、教室で八重垣さんを見るなんて」 人好きのする笑顔で挨拶をする少女。 花菱立花、クラスの堅物委員長だ。 「それでどうしたの? 何か困ったことでもあったの?」 加えてお節介焼きでもある。 「別に相談するために来たんじゃないっての。只バスキア教諭から顔を見せろって頼まれてさ」 「ダリア先生から?」 「ああ。無視してもいいんだが、バスキア教諭には世話になってるからな。恩知らずにはなりたくない」 わたしの言葉に委員長は眼鏡越しに目を丸くさせた。 「何だよ?」 「お茶会にも来てくれたものね」 その言葉で何となしに意味を悟った。 「他人に興味を抱かないわたしが意外だなって思ったってことか」 「どこかの会長じゃないが、義理が廃ればこの世は闇夜ってやつだよ。世話になってりゃ別だ」 真ん中の姉が口酸っぱく言っていた言葉だ。恩には行動で返せ。刷り込みじゃないがわたしもそう思う。 「ふふ、そうね」 おさげを揺らし微笑む委員長の態度に少し辟易する。 彼女が好意を抱いてくれていることは分かるが、わたしはそういった感情に触れるのが苦手だ。 (さて、どうしたものかね) どうも委員長はまだわたしと話したりないらしく、自分の机に鞄を置いてもいない。 朝礼前の時間はわたしとのお喋りに使う気のようだ。 (読みかけの小説でも出せば察して――) そう考えた刹那、 「ああっ!? 八重垣ちゃんだぁ!」 と、騒々しい声が響き、さらに辟易としてしまう。 同い年の一年生の中でも小柄な双子は一直線にわたしの元へ駆け寄ってくると、 「どうしたの! 教室に八重垣ちゃんが居るなんてヘンだよ!?」 ほくろが二つと髪を結っている方が、姉の苺。 「……珍しい光景ですね」 ほくろが一つと髪を結っていない方が、妹の林檎。 どうにもごっちゃになってしまいそうな双子を、本人推薦の見分け方で思い出すと、 「お前らたいがい失礼だよな」 と言った。 「え、だって珍しいじゃん!」 「それはわたしも思うけどね。でも気の弱いやつなら教室から回れ右するような言い方だぞ」 「そうかな?」 「……苺ねぇは勢いで話すクセがあるから気を付けないと」 いや、お前も含めて珍獣扱いしたんだからな。 「――ごきげんよう」 内心突っ込みを入れていると、涼やかな声音が頭の上から振ってくる。 聞き知った声。 双子の言葉で回れ右する代表だ。 「おう。随分遅い登校じゃないか」 「図書室に寄ってからきたの」 急いできたのだろう、胸を押さえながら微笑む。こいつは面倒なことを聞いてこないから佳い。 「で? どうして八重垣ちゃん教室にいるの?」 こいつは白羽の爪の垢を煎じて飲んでほしいところだ。 ――そうだ。 (少しからかってやるかな) 最後の挨拶にきたのさ 悪戯し過ぎて呼ばれたんだよ 興味津々顔を覗き込んでくる双子へ少しからかってやるかと、大げさにため息をついてみせる。 「あれあれ? 本当に深刻な問題だったり?」 「普段教室に顔を見せないわたしがいるって事は相応の訳があるのさ。実は……」 ごくり、とのどを鳴らす双子。間近で見ると可愛いな、おい。 「今日でこの学院を去るんだよ」 「え、ええええええっ!?」 「…………嘘」 思った以上のリアクション。理由を既に話した委員長は呆れたか目を細め、白羽が何故だか、随分とショックを受けたように見えた。 「そ、そんなぁ……わたし的にまだお部屋にも遊びに行っていないのに……!」 (誘ってないからな) 「……寂しくなる」 目が潤み本気で悲しそうな二人を見て驚く。 たかだか出会って三ヶ月くらいしか顔をつきあわせてないってのに……。 「……八重垣ちゃん」 小さな手がわたしの手に添えられた。小さくて温かい可愛らしい手だ。 「わたし……お手紙書くからね」 「……忘れない」 真剣に見詰める目に……。 「これ以上は悪趣味になるわよ。八重垣さん」 「……あ、ああ。そうだな」 重ねられた手の上にわたしはもう片方の手で触れ。 ――冗談だよ、と笑って見せた。 距離感ゼロで詰めてくる双子。わたしはまともに返すのをやめ、 「実は、な」 「……うむ。実は?」 「悪戯をやり過ぎて呼び出しくらったんだよ」 「え」 「いや、笑えるレベルの悪戯だって思ってたんだけどさ。まぁ繰り返ししたらどんな聖人でも怒るわな」 「バスキア教諭に呼び出しくらってさ。どんな懲罰くらうか戦々恐々なわけよ」 「そ、そうなんだ……」 身に覚えのある双子姉は呟き、手を合わせもじもじと指を遊ばせている。 (冗談のつもりだったが……) そんなに困るほど余罪があるのか、こいつは。 「……どうしよう、蘇芳ちゃん」 「え? あ、そ、そうね……」 書痴仲間が高速で頭を働かせているのを見、頃合いを見計らうと、 「ま、冗談だけどね」 と言った。 ――酷い、と抗議の言葉を受け流しつつ、バスキア教諭から呼ばれた旨を白羽に話す。 書痴仲間はあごに手を掛け、 「八重垣さんを呼ぶだなんて、何か特別な理由があるのかしら」 と熟考に入った。こいつは小さい事でもすぐに解答を求める。 まぁ、それが面白いところでもあるんだが。 「ま、さっさと義理を果たして部屋のベッドに転がりたいよ。いつもなら寝てる時間なんだぞ今は」 「それはダメよ。生活習慣は正しくするべきだわ」 わたしの軽口に対して真面目に反論する委員長だが――はいはいと適当に受け流す。 ぐっと身を乗り出したことで彼女の甘く軽やかな香りを感じた。 (こいつも笑ってればかなりの美形なんだけどな) すまし顔になると魅力が半分になる。いや、それが佳いってやつもいるかもしれないが……。 「ごきげんよう。はい、皆さん。席に着いてくださいねぇ」 優しげだがどこか間の抜けた声が聞こえ、皆――白羽たちもわたしへ一声掛けると一斉に席へ着く。 わたしは突っ伏した顔を上げ、のんびりと声の主を見た。 相変わらず美人だな、と思った。 毎日、足のお陰で介助を受けているが、そのたびに思う。 細面の輪郭にトパーズのような瞳――髪は輝くほどに艶やかで上質の絹のようだ。 (ま、比べるだけ無駄って分かっちゃいるが……) 身体つきもこの学院には珍しく豊満な女性らしいスタイルだ。正直羨ましい。 クセっ毛で痩せっぽちの自分を思い、ついため息がこぼれた。 「あら、八重垣さん。ちゃんと来ていますねぇ。嬉しいわぁ」 「どうも」 子供相手のような言いざまに小さく手を挙げ答える。含み笑いが聞こえ、赤面したい心持ちになった。 「今日は皆さんへ素晴らしいお知らせがあるの。なので――」 やや垂れ目がちな黄金色の目がわたしを見詰める。 「八重垣さんにも教室に来て頂いたの」 「はい! ダリア先生。お知らせって何ですか?」 「ふふ、そうねぇ。待たせてしまっても悪いから入ってきて貰いましょう」 バスキア教諭はドアの向こう側に声を掛ける。$と――何の返事もなく、 ドアは開き、待ち人とやらが入ってきた。 「もしかしてこれって……」 「……だと思う。でも」 この前振りの仕方だ。正直、予感めいたものはあった。 バスキア教諭が“素晴らしいお知らせ”と口を開いた瞬間に、だ。 しかし―― (あいつ……!) 転入生が多いという事も気になりはするが、わたしの目にはあいつしか入っていない。 (あの女――) 苛立っていることに苛立っているような目。 「さぁ、皆さん。級友の方々へお名前を教えてあげなさい」 言われ、生真面目な顔付きの転入生らが一人、また一人と挨拶をする。 そして、最後にあのイヤな目の女の番になり―― 「――転入生の考崎千鳥です。よろしく」 そう冷ややかに告げた。 桜の木の下での出来事を思い出すような尊大な態度。 バスキア教諭が、何か一言を……とうながすも、 「特にありません」 と切って捨てた。 しかし、こいつ―― (大人びた顔つきだから上級生だと思ってたが、タメだったのかよ……!) 「――だったらもっと煽ってやりゃよかったぜ」 呟き声が聞こえていたのか前の席の級友が驚き振り向くとわたしを見詰めた。 わたしは視線を無視し、考崎千鳥を睨む。 「あの、そうね。私からお話ししようかしら。考崎さんはお仕事の御都合でバレエとお歌がとても上手だそうなのよ」 ――お仕事、という言葉に皆疑問を抱いたのだろう。 教室の中が少しだけざわつき、小さく手を挙げた委員長は、 「あの、ダリア先生。お仕事というのは?」 と尋ねた。 「あら、そうねぇ。そうでした」 今まさに気付いたという様子で手を叩く。 「話すのを忘れていましたが、考崎さんは芸能のお仕事をされていたそうなの。だから知っている人もいるのではないかしら?」 転入生がタレントだと聞いてクラスメイト等は興味津々のようだ。 わたし個人の感想としては、 (芸能人はやっぱり性格悪いんだな) という印象だ。裏表があるイメージ。 「ああ……! 考崎千鳥、聞いたことがあるよっ」 「有名人なの?」 「歌番組とかで見たことあるよっ」 その言葉が呼び水のようにざわめきは大きくなり、あいつ――考崎を熱の篭もった視線で見る生徒が増えた。 そして矢のように質問が浴びせられる。 いわく――一時的にじゃなくここの生徒になるのか。 いわく――芸能活動は続けるのか。 いわく――サイン頂いてもいいかしら。 矢のように受ける全ての質問に―― 「この学院は気に入りました?」 「分からないわ」 「そ、そう……」 困惑した委員長の顔つきは皆の顔つきだ。 何故なら、考崎は委員長へ答えた“分からない”という単語一つで全て切って捨てていたのだから。 (こいつ白羽以上に人付き合いに難ありなんじゃねぇの?) いや、そもそも誰とも仲良くするつもりはないのか。 「……そこだけは気が合っているみたいだが」 「あ……質問はもうないようね……」 教室にいる全員が考崎千鳥という個人が、どこかおかしいと気づいたようだ。 熱は過ぎ去り、妙な空気が漂っている。 馬鹿が騒いで場を白けさせたような空気。 「それでは皆さん。新しい転入生の皆さんと仲良くしてあげてくださいね」 はい、との声が白々しく聞こえる。 「ああ――、それと転入生たちのアミティエですが……」 その言葉にクラスの――特に沙沙貴姉妹と委員長の顔付きが変わった。 (あいつ等はアミティエが辞めているからな……) 順当に考えれば辞めていったアミティエらの中に補充されてゆくのだろうか。 そう疑問を抱くと、 「彼女たちは昨日アミティエ選考試験を受けて貰っています。そこで――」 皆を一瞥し、 「彼女たち同士で組んで貰うことになったの」 と言った。$当たり障りのない落としどころに少しばかり拍子抜けしてしまった。 (考崎が白羽の班になったら面白そうだったのによ) 生真面目な委員長と、真面目で神経質な白羽にはあの変人は荷が重いだろう。 だからこそ面白そうだと思えてしまうのだが。 ま、上手く付き合えそうなのは……。 (沙沙貴姉妹のところか) あそこも二人だけのアミティエ編成だ。 物怖じしない性格の二人なら変わり者でも自分のペースに巻き込めるだろう。 転入生たちへの説明が終わったのか言葉を結ぶと――考崎の肩に手を当てたバスキア教諭は、ぐるりと教室内を見回した。 そして、何故だかぴたりとわたしの目とあった。そしてにっこりと笑顔を作る。 「ごめんなさいねぇ。そういえば、ひとつだけ例外があったの。アミティエ選考試験だけど――」 「このクラスの生徒で考崎さんと非常に気質が合う子がいたの」 おい、まさか―― 「だから転入生組みは、三名と二名で分かれることになるけれど、それで構わないわよね考崎さん」 困惑した顔付きの考崎は――ただ小さく首肯した。バスキア教諭は笑顔を浮かべて手をパンと打ち、 「それじゃぁ考崎さんのアミティエですが――」 おいおい、冗談だろ? 「八重垣さんに頼みたいと思っています。よろしいですよね。やえが――」 「異議ありっ!」 悪い予感は嵌まり、わたしは恥も外聞もなく手を挙げた。 「どうしました、八重垣さん?」 「何でイレギュラーな決め方をするんですかっ。転入生が六人なんだから、三人と三人でアミティエを組めばいいんじゃありませんか!?」 「ええ。だけど先ほども説明したでしょう。考崎さんはアミティエ選考試験を受けて貰い、そこで厳正な審査の結果決まったことなの」 そう結ぶ。 わたしと気質が合うと判定された?$嘘だ。 「いや、それは……」 「ふふ。大丈夫よぉ、ちゃんと選考した上で八重垣さんなの。二人ともきっと気が合うわぁ」 優しげな声音。だが今は黒板を引っかかれる音よりも気に障る。 「アミティエとして仲良くしてあげてくださいね」 あくまでおっとりと決定事項を口にする彼女へ、 勘弁してくださいよ ひとりきりがいい 「勘弁してくださいよ……」 思わずこぼれた本音。 だが静まっていた教室には存外に響き、人の良いバスキア教諭は眉根をよせ困った表情を見せた。 「何か不安な点でもあるのかしら?」 「いや、不安な点というか……」 善意でくる相手には弱い。どうにも胸の弱い部分を突かれている気分になる。 「え……ぁ、そうだ。わたしはその……介助が必要な身なんで、アミティエになる考崎さんが負担に感じるんじゃないですかね……」 「ええ、それは私も考えました。しかしこれから社会に出ていく上で人に頼るということも覚えなくてはなりません」 「自分の出来る事と出来ないことの区別を付ける為にも、アミティエは必要なのです」 ――そう、 「……ですか」 正論を正論で返されてしまった手前頷くよりほかない。 (クソ……ッ) バスキア教諭に見えぬように拳を握る。と、 「…………」 黙したままだが、考崎の目がほんの少しだけ笑っているように見えた。 「……お前も気が合わない相手と共同生活するってことを忘れるなよ」 呟き声は今度は届かず、 「それではホームルームの後、学院内の案内をしてくださいね」 そう朗らかな声で結ばれたのだった……。 「……ひとりきりがいいのに」 と偽らざる本音を漏らしてしまった。 声は静まっていたこともあってか、バスキア教諭の耳に届いてしまった。 「八重垣さん……」 黄金色の瞳は寂しげな陰を映し、わたしの元へと歩んでくる。 「え、あの……」 女性を感じさせる甘い匂いと柔らかな手がわたしの手のひらを包む。 「……大丈夫、先生は分かっていますからね」 「え」 「……これからは寂しくありませんよ。きっと毎日が愉しく、安寧に充ちた生活になります」 (何か勘違いされてる……!) 孤独な少女が強がりを言っているとでも思ったのか、わたしにしか聞こえない程の声音で幼子に呼びかけるように言う。 「いや、あの、そういう事ではなくてですね……」 「なぁに?」 「……いえ、何でもないです」 完全な善意でくる相手を苦手だと言ったが――さらに苦手意識を感じる相手がいる。 (どうにも次女を思い出して仕方ないんだよな) 容姿、性格とも全然違うのにバスキア教諭はわたしの二番目の姉を強く思い出させる。 「……分かりました」 温かく包まれた手を離そうと引くも、 「それではホームルームの後、学院内の案内をしてあげてくださいね」 握ったまま離さない彼女へ、はい――と答えるしかなかったのだ……。 何か聞きたいことはあるかしらと委員長が問うと、特にないわと考崎は答えた。 (こいつもめげないねぇ) 無表情で隣を歩く考崎へ、委員長は愛想を崩さずに学院の案内を続ける。 諸施設の案内は当然。知っておくと得する情報、クラブハウスから教室へと戻る最短ルートやお手洗いの場所などもだ。 熱心に説明する委員長に考崎は相づちを一切うたない。 聞いているのかいないのか分からない考崎へ、イヤな顔ひとつせず説明を続ける。できた女だ。 「ま、こいつが同行を求めてこなきゃ、愛想なし女を持て余してただろうしな……」 そう。 アミティエとなる考崎に学院を案内するようにとバスキア教諭から頼まれ―― 二人きりの空気に耐えきれないと考えた私は、 「……頼む。白羽、学内の案内一緒に付いてきてくれないか」 「え、私が……?」 そう書痴仲間に救援を頼んだのだ。 私の頼みに書痴仲間は刹那、困惑した表情を浮かべたものの、 「私で……佳ければ……」 と、何故だか頬を赤らめ了承してくれた。 そして、 「蘇芳さんが行くならわたしも!」 と、委員長も付いてきてくれることになった。$今思えばこれは値千金の申し出だった。 「……何せ委員長以外は人嫌いと、重度の人見知りだもんな」 「うん? 何か言った、八重垣さん?」 「いや、自分たちはいらないなって話さ」 「あ、ええ……そうね」 学院内の案内はすべて委員長が仕切っている。というよりも、わたしはする気がないし、白羽は口下手だ。 (他の五名は風紀委員が案内しているって話だよな) だったらこいつも一緒に行きゃいいのに、と心から思う。 「それとこの学院で紹介すべき所は――」 歩いている方角で何処へ行こうとしているのか分かる。バスキア教諭の紹介が確かなら、この能面女が唯一興味を引かれそうな場所だ。 しばし暖かな日差しを浴びつつ歩むと、ドアの前で委員長が立ち止まった。 「ここがバレエのレッスン室よ」 部屋に足を踏み入れた考崎は――能面のような顔つきから少しだけ感嘆の表情を見せた。 「……本当にバレエのレッスン室があるのね」 「ええ。この学院の体育の時間はすべてクラシックバレエなの。考崎さんは経験者なのよね?」 「ええ」 珍しく意思の疎通が取れ、委員長が意気込んで話しかけようとするも―― 考崎は勝手に室内を検分すると、レッスンバーをまるで赤ん坊を撫でるようにそっと触れた。 「……ふふ、気に入ったようね」 「そうみたいだな」 正直、どこに喜ぶ要素があるのか分からない。$経験者だけが分かるポイントでもあるのだろうか? (鏡がフランス製だとか、かね) 自分の思いつきに無いなと、苦笑ってしまう。 「――ねぇ」 「え、はい、何かしら?」 「バレエの授業は専門の指導者がいるの?」 「あ、それは――」 答えようとするも、委員長は何故だか言葉を切り、熱気の篭もった室内に閉口していたわたしを見遣る。 「八重垣さん。考崎さんの質問に答えてあげて」 「はぁ? 何でわたしが」 「だってこれからアミティエとして共に行動するのでしょう。早く仲良くなっておいた方がいいわ」 善人のお節介に断ろうとするも、 「早く答えて」 考崎の〈権高〉《けんだか》な声音が響き、わたしはハァと長いため息をついた。 わたしだよ バスキア教諭に決まってるだろうが 気に入らない目つきをしばし正視すると――指導者はわたしだよと答えた。 「貴女が?」 「そうだ。車椅子に乗っているからっておかしいかい? サッカーの監督がすべて元選手だってわけじゃないだろう」 適当についた冗談に、無表情な顔つきは変えずにわたしの前へと歩んでくると―― 「なんだよ」 「…………」 マジマジと顔を覗き込まれた。 黒い制服から覗く白磁のような肌。そして薫る白桃のような香り。 わたしが好きなタイプの香水だ。いや、コンディショナーか? 何となしにむかついてくる。 「おい」 「嘘つきの顔をじっくり確認しておきたかったのよ。お芝居の研究になるでしょ」 「お芝居だぁ?」 「そうよ。貴女みたいなタイプはいなかったから興味深いわ。変わり者ね」 「そうかい。お前も御同類だよ」 「ゴッホやジミヘンも変わり者だった」 ジミ・ヘンドリックスの名が出たことに純粋に驚く。 ま、最高の音楽はレッドツェッペリンだが。 「あの……そろそろちゃんと答えてあげれば?」 顔をつきあわせ言い合うわたしたちへ、呆れた委員長の言葉が機を与えてくれた。 興が削がれたわたしが指導者はバスキア教諭だよとだけ告げると、考崎はいつもの無表情に戻った。 腕を組みこちらを〈睥睨〉《へいげい》する考崎へ、とある人物を連想したわたしは、 「OK、クラリス。何が聞きたい?」 と声真似をしつつ答えた。$言った途端、後ろに控えていた白羽は吹き出し、慌てて口元を抑える。 「…………」 「おい、乗っかってこいよ。わたしが馬鹿みたいだろうが」 「何を言っているか分からないわ。“みたい”じゃなくて、本当に馬鹿じゃないの?」 久しぶりのストレートな嫌み。$だがそれよりも。 「互いに情報交換をしあう有名な場面だろ。てか、そもそも知らないって本当かよ?」 クラリスの名だけではなく、稀代の殺人鬼の名を挙げるも小首を傾げるばかり。$私は頭を振ると、 「……お前はもっとカルチャーの勉強をしとけ。80年代から始めろ」 と告げた。 あわせてバレエの指導者がバスキア教諭だと伝えると、考崎はいつもの無表情に戻った。 「そろそろ案内は終わったんじゃねぇの」 帰ることを暗に促すと、 「まだ、学舎以外の説明が終わってないわ」 と委員長が答えた。$こちらの意図が分かっていない。 「校舎の外となると――」 学院生が知っておくべき場所は、東屋、聖堂、農場、温室あたりだろうか。 (車椅子で出歩くには面倒な場所なんだよな) 聖堂の前などは土が剥き出しになっているから、出来る事ならば遠慮したいところだ。 (寄宿舎に戻るときは土を落として入らなくちゃならないしな) 面倒臭さが出ていたのか白羽は気ぜわしげな顔を見せるも、 「そうだわ」 愉しげに手をパンと打った。 「とっておきの場所があるの。考崎さんも、八重垣さんも気に入ると思うわ」 ――わたしの想像通り、 外へ出ると隣接している聖堂へ行き―― クラスメイト等がお茶会を催す東屋、 そして、 少し遠くなるも白羽に車椅子を押されて温室へ。 最後に持ち回りで野菜の世話をしている農場へと行き、案内は終わった。 そう思っていたが―― どう、可愛いでしょう? と弾む声をあげる書痴仲間に―― 正直興味のないわたしは、ああ……とだけしか答えることが出来なかった。 農場からの帰り道、温室にまた戻ろうとするルートを取ろうとする白羽へ、案内を理由にサボタージュかよとからかうと―― 「これからとっておきの場所に行くのよ」 と返された。 そこでようやく、外の案内に出る前そんなことを言っていたなと思い出した。 車椅子を押しているのは白羽だ。わたしはされるがままに案内され、そして―― 「とっておきってこれかよ」 「そう。とっても可愛いでしょう」 白羽は子供をあやすようにうさぎの額を撫でる。 白羽に撫でられたうさぎはうっとりと目を細め、指の感触に酔っているように見えた。 小動物がじっとしてられるものなんだな。 「それにしてもうさぎ小屋かよ。小学校じゃ定番だが、この学院にもあったんだな」 「私も最近知ったの。農場で廃棄される野菜をどこに捨てたらいいか上級生に聞いたら、この子たちにあげるんだって聞いて……」 「へぇ」 キャベツだか白菜だかの葉物野菜を無心に食べるうさぎを眺める。 割と大きいのな、うさぎって。 「ほら、こっちよ。ニンジンがあるわよぉ」 「…………」 「ほらほら、美味しいわよぉ」 「……全然懐かれないのな、委員長」 「うさぎはニンジンが大好きなんじゃないのぉ」 呼びかけど見向きもされずがくりと肩を落とす。萎びたおさげが痛々しい。 「お前も餌やったらどうよ」 「……ぅぅ」 委員長が動物に懐かれ難いタチなら、考崎は真逆だ。 餌も何も持っていないというのに、足下にはうさぎたちが集まり一歩も動けない状態になってしまっている。 「どうしたらそんなに懐かれるの?」 「……分からないわ」 困惑しつつも、わたしが手渡した葉物野菜をうさぎたちへと差し出す。 我先にと奪い合う光景を見て、 「……食べてる」 そう呟くと、考崎は少し笑った――ように見えた。 (なんだ、笑えるんじゃんか) そう思えた瞬間、少しだけ考崎が自分の中で血肉を得た。 出遭いがまるで非現実だったからか、わたしの中でこいつは夢で視た登場人物のようだった。 「考崎さんはお家で何か動物は飼っていたの?」 「何も……。仕事以外では初めて触れたわ」 委員長はその言葉にショックを受けるも、会話が続けられる事に喜んでかうさぎを構うことをあきらめ、 「そう。あまりに馴れているから御趣味で動物を飼っているのかと思ったわ」 と言った。 「趣味……」 「あの……何か変なことを聞いてしまった?」 「趣味は持ったことはないわ。私、無駄なことはしない主義なの」 切って捨てられる言葉。わたしは無駄、という言葉に反応してしまう。 「無駄なことはしないって、人生なんてその無駄を愉しむものだろ」 「人生を切り開くのなら無駄な要素は省くものよ」 切って捨てる考崎へ、 「バレエが趣味だって言ってたじゃないかよ。趣味ってのは暇つぶしの代表だろ」 「趣味は自分にとって益かどうかで決めるものだわ」 「趣味に意義を見いだしたら、それは習い事だろうがよ」 何か琴線に触れたのか、考崎は真意を確かめるように萌葱色の瞳を細め、わたしを凝っと見詰めた。 苛立っていることに苛立っているような目。$こいつは本当に―― 「そ、そろそろ教室へ戻りましょう。うさぎさんたちも余り構い過ぎると疲れてしまうでしょうし」 「……そうだな」 「ええ」 「バイバイ」 委員長の取りなしに視線を外すと、うさぎたちへ手を振る書痴仲間を顧みた。 (お……) 人嫌いの自分ではうまく表現できないが、うさぎたちへ手を振る姿が以前の白羽のように感じたわたしは、ほんの少しだけ頬を緩めた。 「どうしたの八重垣さん?」 「いや……」 問いかけつつも、名残惜しそうに飼育小屋を見遣る白羽。 「早くして。じゃないと置いていくわよ」 委員長とともに先へ行く考崎へ言われ、わたしは書痴仲間へと猫のように笑うと、 「な、佳いアミティエだろ」 そう皮肉を言ったのだった。 ヘミングウェイの小説の一節にこうあった。 «この世は素晴らしい。戦う価値がある»と。 「……後半の部分は賛成だ」 匂坂を思い出させる髪、萌葱色の瞳に、白桃の香り―― 「思ったよりも小さい部屋ね」 入るなり悪態をつく同居人を睨みながら、 「窓際はわたしのベッドだ。お前はドア側だ。分かったな」 と考崎千鳥へ言った。 案内を終えて、全部済ませたつもりになっていたが―― (アミティエになったからには、同じ部屋になるんだよな……) 放課後になってこいつが部屋に来たところで何の不思議もない。 「…………」 苛立つことに苛立った目で部屋を〈睥睨〉《へいげい》してまわる考崎を見、わたしはハァとため息をつく。 「……かの文豪も戦えと言っているしなぁ」 「貴女独り言が多いわね」 「お前が吐かせているんだよ。おい、勝手に本棚のものに触れるなよ。そこにあるのはすべて私物だ」 「この本全部が?」 「そうだよ。読書が趣味なんだ。令嬢然としたわたしに似合う佳い趣味だろう?」 「…………」 失礼なことに突っ込まず、使っていない机に自分の荷物を載せると荷ほどきを始める。 「……此処にある本、すべて読んでいるの」 「ああ。当然だろ、それが何か?」 「ふぅん……」 考崎は本棚を眺め、背表紙を目で追った。 「一貫性がないわ。本なら何でもいいと言った風ね。やはり変わり者だわ」 「それはお互い様だろ。なぁ考崎。お前途中編入だけどさ、何をして此処へ飛ばされたんだ」 背表紙を目で追っていたときも作業していた手が止まる。 「……貴女も途中編入組だと聞いたけれど」 「へぇ、誰に聞いたのかね。お喋りな双子姉妹か?まぁ、そうだ。わたしも途中編入組だよ」 「なら想像がつくでしょう」 「わたしと同じ理由だってことかい」 考崎は歪に笑ってみせる。 どちらとも取れる笑みだ。わたしを嘲笑っているとも、同じ境遇を持つ身として苦笑っているとも取れる。 「まぁいいさ。同じ“ホテル・カリフォルニア”にチェックインしたんだからな」 「仲良くとは口が裂けても言えないが、お互い境界線だけは守っていこうぜ」 「チェックインするのは容易くても、決して立ち去ることはできない」 どうやらアメリカンロックは少しは知っているらしい。 「歌詞じゃ退廃的な滞在者に嫌気がさして飛び出そうって話だが、住めば都ってやつだ。それも互いにプライバシーを守るのが大前提だがね」 「……こんな所さっさと出て行くわ」 ポツリと呟く。 何かを思い詰めた表情――目をしているから気になるが……。 (さっきからお互いの私生活には踏み込まないって言っていたけど、聞いてるのかね?) どうにも掴みづらい奴だ。 不意にノック音が聞こえ、どうぞ――とわたしが告げると、 もう一人の掴みづらい相手が来た。 「ごきげんよう。あらあら荷ほどきをしていたのねぇ」 「はい」 「八重垣さんも協力してあげたのね。ふふ、もう仲良くなったみたいねぇ」 向かい合っていたから勘違いしたのか、上品に口元を抑え微笑む。 (……さすがに何処に目を付けてるんだと言いたくなるぜ) 委員長よりも年季の入った善意の塊に面と向かって言えはしないが。 「どう? 八重垣さんに学院内を案内して貰って。此処は気に入ったかしら」 「…………」 「ふふ、考崎さんは恥ずかしがり屋さんなのねぇ」 相変わらず佳い方へと判断するバスキア教諭。 (ま、この人は性善説の人だからな) 勿論、わたしは性悪説論者だが。 「それで……バスキア教諭、何か御用があるのですか?」 「あ、そうそう。そうなのよぉ、言い忘れたことがあって伺ったの」 胸の前で手を組み微笑む。豊満な胸が潰れたようになり、わたしは何故だか妙な心持ちを覚えた。 「八重垣さんと同室になった考崎さんには心得て貰いたいことがあるの」 心得? と復唱する考崎へ、バスキア教諭も心得よと自分の言葉をなぞった。 「八重垣さんとアミティエになったからには――はい。少し前屈みになってね」 「え、あ、ちょ――!」 ――抵抗するまもなく、 いつものように身体を抱え上げられる。 「ベッドに移動する時や、移動の時はこうして抱き上げて」 「せ、先生……ッ」 「ふふ、ほらダメよ。暴れたら危ないわぁ」 まるで子猫をあやすように少し身体を揺らした。豊満な胸に頬が当たり、かっと首から顔にかけて熱を感じてしまう。 バスキア教諭の甘い香りに包まれながら優しくベッドへと寝かされた。 「……つまりは私が八重垣さんの介助を行うと?」 「そう。ほとんど八重垣さん一人で行えるけれど、大変なところは協力してほしいの」 「例えば、食事をこの部屋に持ってきたり――」 「……バスキア教諭?」 「後はお着替えとかかしら。そうね。それじゃパジャマへ着替えるのを私が実演するわね」 「いや、本当に勘弁してください……」 ――考崎へ視線をやるも、 (笑っては……ないか) いつもの苛立っていることに苛立っているような目つきだ。 嘲笑っているようなら相応の報復をくれてやるところだが……。 「そう? まぁ、お着替えは実演しなくとも分かるわよねぇ。それじゃ今度は車椅子に移動する時の介助を見ていてね」 車椅子をベッドの脇に移動させると、わたしへ前屈みになるように促してくる。 バスキア教諭の性格上、拒んでも無駄だ。さっさと済ませるために従った。 「こうして体重を任せて貰えば随分と楽になるの。それと腕力で体を引き起こそうとしてはダメ。直立した姿勢でなく腰を落としておくの」 「何故です?」 「力だけで移動させようとすると腰を痛めてしまうからよ。体全体を使って介助するの」 そう言って脱力したわたしの体を抱えると、ベッド脇の車椅子へと移動させた。 されるがままのわたし。 (……世話になっている以上、無碍には出来ないしな) 二人共に大真面目な雰囲気から照れる方が恥ずかしいと察した。 「分かったかしら?」 「はい」 自分の鞄からノートを取り出しメモを書き付けると頷いた。 バスキア教諭は、唇へ人差し指を当て、 「後は――そうね。お風呂だけど」 前言撤回だ。 「本当にそれだけは勘弁してくださいっ」 照れる方が恥ずかしいとは思ったものの、考崎に裸をさらすのは抵抗がありすぎる。 正直、死んだ方がマシだという気分だ。 「あら……」 何故だかバスキア教諭は照れ、珍しく頬を染めると、 「八重垣さん。お風呂の介助は、その――私が佳いの?」 そう尋ねてきた。 一人で大丈夫ですから 先生じゃないとダメなんです 頬を染め恥じらうバスキア教諭に何故だか次女の陰を見てしまい、 「いえ……。そうじゃなく一人で平気だと……」 つい嘘をついてしまう。 「あら、強がりはダメよ。お風呂だけは介助がないと大変でしょう?」 ――確かにそうだ。 (そうだけど、察してくれよぅ) 足が動かないとはいっても、無理をすれば生活のあれやこれやは大体の事は適う。 だが入浴は難しい。 睨むようにして鉛筆を片手に窺う考崎を見て、深く長いため息を吐いてしまった。 「八重垣さん?」 「……すみません。お風呂だけは先生でお願いします」 そう力なく言葉を吐くしかなかったのだ。 元々肌が白いからか赤面しているのが手に取るように分かる。 恥ずかしがっているバスキア教諭には非常に言い辛いのだが……。 「先生の方が……いいかなって……」 ――そう答えるしかなかったのである。 「あら、あらあらあらあら……っ!」 「へぇ」 「おい勘違いするなよ。そんなんじゃ……」 「…………」 喜びから一転、しゅんとしてしまう彼女を前に、 「いや言葉の通りなんだけどさ……」 強い言葉は吐けなかった。 (別に消去法だってのに……!) 考崎はイヤだからバスキア教諭を取る。 何もおかしなことはない。 「ふふ、人に選ばれるって嬉しいものねぇ」 手を合わせご満悦のバスキア教諭を前に、わたしは無言を貫いたのだ。 「あら? 八重垣さん、疲れているみたいだけど大丈夫?」 「アイスを抱えてやけ食いしたい気分ですけど、平気です……」 「ダメよぉ。そんなことをしたらお腹が冷えてしまうわ」 わたしの皮肉はまったく効いておらず、 「それじゃ少し早いですけど行きましょうか」 バスキア教諭はにこりと天使のように微笑むと、車椅子の押し手に手を掛けたのだ……。 気恥ずかしい。 羞恥を感じたのは久しぶりだった。 恥を掻かされて恥ずかしいと思うことや、無知を相手に知られ赤面してしまうのとも違う。 純粋に性的な恥ずかしさ、だ。 「どこかお痒いところはありますか?」 「……今日はいつも以上に愉しげですね」 どうしても目に入ってしまう、日本人では考えられないほどの真白い肌。 ――そして、 いつものローブのような服では目立たないが、バスタオルごしに確かなふたつの膨らみが見て取れる。 (凄いよな……) バスキア教諭を見ていると何故だか次女を思い出すものの――こればかりは想起されない。 わたしの一族は皆、平坦な身体つき……スレンダーなのだ。 「ふふ。いつもより八重垣さんとたくさんお話しできているからかしら」 動かない足を洗ってくれる度にふくよかな胸が揺れるのが見え、わたしは慌てて視線を逸らした。 ――風呂の介助なんてされ馴れているのに。 家では長女、次女。この学院に入ってからはバスキア教諭が行ってくれていた。 初めは気恥ずかしさを感じたが、“介助”という行為だからか、二度三度とこなしていくうちに羞恥心は消えた。 「……筈だったんだけどなぁ」 「うん? 強くし過ぎたかしら?」 「いいえ。丁度良いくらいです」 「そう。ふふ、上手になったかしら」 考崎千鳥の所為で、風呂での介助をまた意識してしまった。 わたしは、熱の篭もった気持ちを抑えるため、小さく息を吐いた。 「……今日は、随分念入りにやるんですね」 「少し早めに来たから念入りにしましょう。女の子ですものね」 「はぁ」 学年ごとに入浴時間は決まっているが、わたしは身体の事情もあって一番早く入浴している。 特に急かされている事もないがゆっくり入っている訳でもない。 「……世話を掛けてすいません」 「あらあら今日は随分と素直なのね」 にこりと笑みをこぼす。$いつも隠れている黄金色の髪が揺れ、思わず見とれてしまう。 「……素直ついでに聞いてもいいですか?」 「なぁに?」 「どうして考崎とアミティエにしたんですか」 髪を見ていたわたしは視線をバスキア教諭の穏やかな瞳へ向けた。 黄金色の目はまっすぐにわたしを見詰める。$その目に書かれているのを読み取ったわたしは、 「いや……。頼ることを学ぶ為でしたね」 わたしの言葉にバスキア教諭は口元をほころばせ、 「それもだけれど――考崎さんと気が合うと思ったの」 「……正直、合わないと思います」 「そうかしら? 二人ともとても似ているわ」 どこが――と叫びたかったが、彼女の顔を見て止めた。 本当にそう思っている表情だったからだ。 ため息を吐くわたし。今日は嘆息ばかりだ。 「ふふ。可愛いわぁ八重垣さん。私が同級生だったらアミティエになりたかったわ」 わたしもそう思う 一人の方が気楽 気まぐれかもしれないが……バスキア教諭の言葉に少しだけ嬉しさを感じたわたしは、 「わたしもバスキア教諭だったら佳かったと思いました」 と告げた。$途端に首元から頬にかけてぱっと朱を散らしてしまう。 「本当に……?」 「ええ」 「そう。本当に嬉しいわ」 「わっ……!」 不意に抱きしめられ、らしくない悲鳴を上げてしまった。 わたしのとは比較にならないほど大きな胸が押し当てられ、かっと頬を染めてしまう。 「せ、先生……」 「ふふ。八重垣さんは本当に人を喜ばせるのが上手ねぇ」 ――嫌みではないんだよな、この人の場合。 「大丈夫よ」 「え、何が……ですか?」 「私を思いやって言ってくれたのでしょう? 八重垣さんは人へ優しさを与えられる人ですもの」 「だからきっと上手くいくわ」 「……そうですね」 本心を明かさずにそう答える。 確かに感じる親愛の情を無碍に捨てることはできない、そう感じた……。 思いつきの言葉だろうが――この状況で言われるのは具合が悪すぎる。 「わたしとしては一人の方が気楽ですけどね」 答えになっていない答えを口にしてしまう。ちらりとバスキア教諭を盗み見ると、 「……そう」 (思っている以上に凹んでいる……!) 小娘の軽口なぞ笑い飛ばしてくれると思っていたのに。 「あ、あの……」 「…………」 「別にバスキア教諭がいけないって話じゃないんです。只、個人主義だと言うか、その……」 「……私がいけないという訳ではないのね?」 「あ、当たり前じゃないですか」 そう告げると、胸に手を当てほっと吐息を漏らす。 思ったよりも面倒臭い人なのかもしれない。 「ほっとしたわぁ。あ、でもね八重垣さん。一人が佳いということだけれど……」 「はい」 「介助のことだけではなくて、誰か――自分の気持ちを明かせるようなお友達を作った方がいいわ」 「……考崎とそうなれると思いませんけどね」 いや、誰ともだが。 「せっかくアミティエになったのだから、そうなってほしいけれど……」 鏡越しの彼女は、 「私の言葉を少し考えてみてはくれないかしら」 そう言って微笑んだのだ……。 予想が外れたな、と思った。 目の前には黙ったまま朝食をとる考崎。 昨日バスキア教諭から説明を受けた介助だが―― 正直、担任教諭の前だけ、はいはいと頷き、実際は無視するだろうと思っていた。 しかし、 まず早朝、考崎がわたしを起こすと、さも当たり前のように着替えの介助を申し出た。 わたしが断ると、大人しく着替え終えるのを待っていた。$その後、 昨日バスキア教諭が披露したようにベッドから車椅子へと介助され―― 「食事を持ってくるから待っていなさい」 言い捨て、苛立っていることに苛立っている目をしたまま出て行った。 ――そして、 「やっぱり朝はパンだよな」 「…………」 二人きりの朝食と相成った訳である。 朝食は基本バイキングとなっているため、この朝食は考崎のセンスだ。 ハチミツがたっぷり乗ったハニートーストに、ふわっと仕上がったスクランブルエッグ。 海藻サラダにカリカリに焼かれたベーコン。$なかなかにそそられるラインナップだ。 いつも朝食を持ってきてくれるバスキア教諭よりもボリュームがあるのは褒めてやりたい。 「お前、朝はパン派? それともごはん派?」 「…………」 「ん、その顔はシリアル派か。ま、どちらかというと外人顔だしな」 「黙って食べられないの」 「冗談だよ。朝からサラダしか食ってないやつをからかったんだ」 これだけで足りるのかと首を傾げるほどの量。 皿に彩りよく盛りつけてはいるが、レタスとトマトだけがメインでお昼まで乗り切れるのかと見入ってしまう。 「あのさ。もしかしてお前ベジタリアンとか?」 言い、学院から出されている錠剤を口に含み冷えた水で呑む。食前用だ。 そしてお楽しみのやや焦げ目のついたベーコンを頬張る。$口中に広がる確かな幸せ。 好みの厚さのベーコンを食べていると考崎は睨むような目をしながら、 「違うわ。でもサラダ以外は食べないようにしているの」 と答えた。$ベジタリアンではないにしても、 (芸能人ゆえのスタイルへの気遣いってとこかね) だとしたら自分は芸能活動は出来ないな、と思う。食べるのは数少ない道楽のうちの一つだ。 これを手放すのは辛い。 ハニートーストをかじりながら切実に思う。 しばし沈黙が食卓を包む。 考崎が詰まらないサラダを食べている間、わたしは手付かずのスクランブルエッグにフォークを向けた。 溶きほぐした卵に生クリームを混ぜるという、きちんとした調理法で作られたスクランブルエッグだ。 トマトケチャップなどという無粋なものをつけて食べることはせず、そのまま何も付けずにフォークを使って口の中へ。 生クリームの甘みとバターをひいたほどほどの塩気。 パン→ベーコン→スクランブルエッグ→サラダと三角食べをしていくとすぐに皿は空になった。 腹八分目というところだが朝には丁度良い。 「下げるわ」 ゆっくりと食事を摂っていたくせに、わたしよりも早く食べ終わっていた考崎は、身を乗り出し自分のとわたしの食器を重ねた。 近づいたことで白桃の香りが薫る。$部屋の匂いが少しこいつので染まった気がする。 「戻ってくるまでに用意をしておいて」 「はぁ?」 「鞄に教科書を詰めるのよ。これから授業でしょ」 ――何の変哲もない授業風景。 この学院に在籍する大多数の生徒は、教室の一時限目、己の机に座り、授業を受ける“今”を聞かれたらそう答えるだろう。 だけれど、 「……わたしにとっては日常じゃない」 呟き、教室の窓から空を眺める。$夏の陽光が降り注ぎ瞳に眩しい。 雲の足が速く一雨くるのかもしれないな、と思った。 (普段は寄宿舎の部屋で本を眺めてる時間なんだけどな……) 考崎はわたしが普段から授業を受けているものだと思ったのだろう。 自室で個人学習だと言ってはみたものの、軽口だと判断したらしく問答無用で教室へ連れてこられてしまった。 二日続けての出勤に驚く級友たち。$周りの雰囲気で察してくれるかと思ったが、考崎にそんな高尚な機能はついていない。 わたしを机まで連れてくると自分の席にて授業の用意を始めたのだ。 (そして今に至る、か) 雲から目をそらし、教科書にかぶりつくようにしながら英語を読みあげる考崎を見た。 長い旅に出るジョンのくだりをたどたどしく読み上げている。どうやら英語は苦手のようだ。 ま、芸能生活とやらで勉強している暇はなかったんだろう。 わたしのその想像は―― 二時限目の数学でも、 三時限目の物理でも、 覆ることはなかった。 どうやら成績は中の下、いいとこ中の中と言ったところだろう。 しかし―― 「――確かにこいつは中々だ」 バーレッスンを――いわゆる基礎練習を終えてからフロアでの練習。 センターレッスンを行う考崎。 ポール・ド・ブラ、腕の動きの練習をしてから、バットマン・タンジュ、足の動きの練習。 そしてシャンジュマン・ド・ピエ、ジャンプの練習をした後。 ピルエット――門外漢だったわたしがバレエと聞いて初めに思い浮かべた回転の練習を始めた。 まるで天井から吊られているように姿勢を崩さずピルエットを続ける。 「大したものねぇ」 隣で熱心に説明をしていた委員長が感嘆の息を吐いた。 (まぁ説明されなくても、ある程度は知っているんだけどね) 長女がバレエをやっていた兼ね合いで、専門用語は何となしに覚えている。 気分転換だとか言われて、いやいやながらも練習光景を眺めに連れ出されたり、バレエの発表会すら付き合わされたりした事がある。 狭い審美眼だが……。 「……確かにちょっとしたバレエ教室じゃお目にかかれないレベルだな」 「うん? 何か質問があるのかしら」 わたしが初心者だと思い込んで説明を続けてくれていた委員長へ、わたしは踊る考崎を指さし、 「腰回りのあれチュチュっていうんだろ。あれが揺れる姿はそそるな」 と言った。 「ふふ、何を言っているの。あれはチュチュじゃなくてスカートでいいのよ」 はぐらかすことが一番の目的だったが―― 思わず軽口を叩かなくては正視できない程、惹きつけられてしまったことも事実だ。 いつもは冷たく思えるあの目も、今ばかりは真摯な光を湛えているように見える。 「ああして回転の軸をぶれさせないで回るのは大変なのよ」 「だろうね。想像しかできないけどな」 「……ぁ」 大した意味はない軽口だったのだが、委員長は肩を落として大げさに落ち込む。 (……やっちまったな) ここの所、自虐を言っても逆に嫌みを返される考崎と話していた所為でつい口が滑ってしまった。 「あ……の……ごめんなさい、わたし……」 「そんなに暗くなる話題じゃない。なぁ委員長、あの動きは何て言うんだ?」 「あ……あれはシェネよ」 「へぇ、小気味良いリズムで踊るんだな」 「シェネは速い動きが綺麗なのよ。だから八重垣さんの感想で正解」 微かに笑んでくれて少しばかりほっとする。いつまでも気にされた方が面倒だ。 「そろそろ締めかね」 「あれはグラン・ワルツ。最後に〈レヴェランス〉《reverence》で終了ね」 グラン・ジュッテ――跳躍やピルエットを交えたグラン・ワルツをし、ぴたりとフロアで立ち止まる。 そして、 「ああ、あれは見たことがある。演技の最後でお辞儀することが〈レヴェランス〉《reverence》っていうのか」 「お辞儀、敬意を表す言葉だそうよ」 「へぇ」 初心者を装い感心し大きく頷いてみせた。 優雅に腕を伸ばし礼をする考崎へ――羨望の視線を投げかける級友たち。 変わり者として知られていても、純粋な演技の美しさに余計なものは含まれないらしい。 それほど、考崎のバレエは人を惹きつけるものがあった。 「…………」 苛立つことに苛立っている目でわたしを見るも、 「次は何を踊るんだい」 この時ばかりは気にならなかった。 だがそれもバレエの時間のお話―― ドンドンとドアが騒々しい音をたて、わたしは読んでいた本を中断し、抗議をあげているドアへと向かった。 やかましい音にうんざりとしながらも鍵をあけ、ドアを開く。と、 「――遅い」 そう、いつもの――変わり者のアミティエが言った。 どうやらふさがっている手ではなく足でドアを叩いていたようだ。 「ちゃんと注文通りの品を持ってきたみたいだな。感心感心」 わたしの軽口には付き合わず、昼食をのせた盆を両手にさっさと脇を通り抜けてゆく。 鼻先に白桃のような薫りがする、良い香りだと思ったことが酷く不快だ。 考崎は、折り目正しくテーブルの上に料理を並べると、 「――早く食べて」 とだけ告げた。$冷ややかな声だと思った。もう夏だってのに。 「お前な……」 文句を言いかけるも、テーブルに並んだ料理から香ばしい匂いが鼻を、腹を苛んだ。 むかつくが今は腹が減っている。文句は食べてからだ。 「へぇへぇ。それじゃ頂きますかね」 言うと車椅子を定位置につけ、フォークとナイフを持つ。 仔牛のカツレツ、わたしの好物だ。 「おっと、忘れるところだった」 食前用の錠剤を飲んだところで改めてフォークとナイフを持った。 カリッと揚げられたころもを、食べやすいよう均等に切り分ける。 そして半分はそのままに、もう半分は付け合わせのレモンを搾って振りかけた。 「イタリア料理はどうも好みじゃないが、こいつだけは別なんだよな」 まずはレモンを搾っていないカツレツを口に放り込む。 オリーブオイルとバター、そしてきつめに振られた塩こしょう。 それらと渾然一体となった柔らかな仔牛の肉が舌の上で踊った。確かな幸せを感じる。 「ん……っ、む……」 しばし無言で至福を堪能した後、焼きたてのパンを手に取り三等分にカットすると、私物のサワークリームをフォークですくいパンへ。 かぶりつくと爽やかな酸味とミルクのこくが口内に広がる。これも美味だ。 カツレツ、パン、カツレツと堪能したところで、余裕ができたわたしは目の前のアミティエへと声を掛けた。 「……で、お前はまたサラダなのかよ」 「そうよ」 考崎は、生真面目な顔つきでサラダに向かっていた。まるで難解な数式を相手にしている数学者のように。 わたしが見ている限り、こいつは今までサラダしか食っていない。 「ベジタリアンじゃないって言ってたけど、よっぽどサラダが好きなんだな」 「…………」 「もしかして前世が虫とか?」 「……黙って食べられないの」 サラダに向けられていた目がようやくわたしへと向けられる。 バレエの時は感じられなかったが、いつも通りのイヤな目だ。 「今朝から同じメニューだろ、気にならない方が嘘だ。……もしかしてそういう戒律とか?」 「基督教にはそんな戒律はないでしょう。これは“必要”だから食べているのよ」 ――おかしな言い回しをするやつだ。 「必要。必要だからねぇ。ま、野菜を食わないと肌に悪いってのは聞くけど……」 「でも、わたしたちくらいの年齢ならこいつも食わなきゃなぁ」 フォークでカツレツをひと突きにし、一口どうぞと考崎へ差し出してみる。 わたしの悪ふざけに切れ長のキツイ目が……困惑しているように見えた。 そして―― 「――頂くわ」 「お……」 リップも塗っていないのに鮮やかな薄桃色の唇がわたしの好物を奪った。 直接食べさせたという事実に、ジワジワと頬が染まってしまいそうになる。 「ん……」 「ど、どうよ?」 赤面を抑え尋ねるわたしへ、考崎はしばし几帳面に咀嚼すると、おもむろに席を立ち自分の机へ。 書棚からノートと鉛筆を取り出しテーブルへとついた。 「…………」 静かな食卓に鉛筆が軽やかに踊り、さらさらという音が流れる。 「…………」 気に入らない相手ではあるが、何をしているのかは気になる。 「おい、いきなり何を書き出しているんだ? もしかしてレシピとか割り出して書き留めているわけ?」 「…………」 「おい」 「自分ノートよ」 「はぁ?」 「自分ノート」 一度鉛筆を止め、それだけ言うと再びノートへ向かう。 今のやり取りだけで理解できるだろうって態度だ。いやいやいや。 (それだけじゃ、白羽だって分かるわけないっての) 気になったわたしは―― 閻魔帳とか? ポエムとか書いてるわけ? 「もしかしてそれって……閻魔帳じゃないだろうな」 さらさらと何かを書き留めていた考崎は鉛筆を止めると、怪訝に眉をひそめて見せた。 「エンマチョウ? 何それ」 「閻魔帳ってのは閻魔大王が死者の生前の行為や、罪悪を書きつけておくという帳簿のことで……」 「それをなんで私が持っているの。馬鹿?」 「物知らずに馬鹿って言われるのはムカつくな、おい」 「もう一つの意味で教師が成績だとか素行とかを書き付けておく帳面って意味もあるんだよ」 考崎はさらに怪訝な顔付きで、 「……私が教師に見えるの?」 と言った。 「だから比喩だよ比喩! わたしを見て腹が立ったことを書き付けとくノートだと思ったんだよ」 「もしかして……ポエムとか書いているわけ?」 「ポエム? ああ、詩のこと」 考崎は鉛筆を止めず喋り、違うわ――と首を振った。 肩に掛かる程の髪が揺れわたしの好きな匂いが薫る。 「詩を書く趣味はないわ。読みたいのならクラスの……双子の姉妹に頼んだらどう」 「沙沙貴姉妹に?」 「名前は覚えていないけれど、机の上に可愛らしいかえるの置物を置いていたわ。そういうの好きそうな外見じゃない」 ――考崎の指摘に、 (同じ事を考えるとはね……) 以前、沙沙貴姉妹の姉の方に絵本が好きそうだと話したことがあった。 それも外見によるところが大きい。 「あいつは可愛いもの好きだが、俗物的な意味での可愛いもの好きなんだ。夢見がちな系統じゃないよ」 「そう」 刹那、予想が外れたわという顔をした。 ……少し可愛いと思ったことは不覚だ。 考崎は鉛筆をテーブルの上に置くと、わたしへとノートを差し出した。 プライベートを見せないタイプだと思っていたわたしは一瞬驚くも、ノートを受け取る。 「うん? バレエ……英語の授業……仔牛のカツレツ、ってなんだこりゃ?」 「言ったでしょう。自分ノートよ」 「だからそれが分からないって……。うん? もしかして、これって好き嫌いを書いたノートなのかよ」 だからそう言っているでしょう――と小馬鹿にした表情を浮かべると、わたしの手からノートを奪う。 「芸能活動で今までプライベートがなかったから好きか嫌いかなんて考える暇がなかったわ」 「だから自分が何が好きで、何が嫌いなのかってことをノートに書き記しているの」 平素と変わらぬいつもの顔。$わたしは考崎の顔をマジマジと眺めると長い吐息をつき、 「変わっているな、お前」 と言った。 「そうかしら」 「そうさ。わたしよりも変わり者だよ、お前は」 ノートを閉じ、再びサラダを食べ出す考崎へ、 「で、そのサラダも好きってわけだ。ずっとそればかり食べてるもんな」 言うわたしへ、切れ長の目を細め、 「好きなわけがないじゃない。スタイルを維持するために食べているだけよ。こんなものは虫が食べるものだわ」 と言った。 (……はあ) 「何を呆れた顔をしているの。貴女が虫だって言ったんじゃない」 「そりゃ……そうだけどな」 生真面目な顔でサラダを――否、話を聞いた今となっては嫌々食べているように見えた。 (こいつ、なかなか面白いやつなのかも) レモンの利いたカツレツを食べながら、わたしは自分の口元がほころんでいるのを知ったのだ。 意外な一面を知った昼食を終え、食器を片付けると、やはり問答無用で授業を受けさせられた。 しっかり六時間の授業を受け終え―― 疲れ切ったわたしは、 「……何でこんな場所にいるんだ」 以前、見物に来たうさぎ小屋を訪れていた。 「八重垣さん。ほら、こっちよ見て」 弾む声、 いつもなら相手にしないが愉しげな声音に、 「足下が覚束ないんだよ。ちょっと待ってくれ」 そう、書痴仲間である白羽に声を掛けた。 「あっ――ごめんなさい」 と慌ててわたしの元へと駆け寄ってくる白羽。 馴れない授業を受け、気疲れしたわたしを気遣ってか、此処へ連れてきたようだけど……。 (個人的には図書室の方が佳かったけどな) 面と向かっては言わないが。 「押すわね」 「ああ」 車椅子の押し手に手を掛け、うさぎ小屋の側へ。 「で、何が見てだって?」 「ふふ、ほら黒いうさぎの側、藁の中を見て」 言われ凝っと目を凝らすと―― ……藁の中にモゾモゾと動く物が見える。 「もしかして赤ん坊が生まれたとか?」 「そう! そうなの。可愛いわよねぇ」 白羽はうっとりと目を細め子うさぎを見詰める。 正直、 (小さい鼠の赤ちゃんかと思ったぜ) 赤黒い物体がモゾモゾと動くさまを見て可愛いと思える乙女心に感服した。 白羽も女だったんだなと可笑しな感心の仕方をしてしまった。 しばし言葉もなく子うさぎを見詰め続け―― 「――ねぇ、八重垣さん」 不意に白羽が口を開いた。 「何だ?」 「アミティエはやっぱり佳いものでしょう?」 その問いは純粋に考崎との共同生活を聞いているとも取れたし、春に消えた白羽のアミティエを暗喩しているとも取れた。 「……さぁね。まだ実感できるほど知り合っちゃいないよ」 「そう……よね。昨日の今日だものね」 子うさぎを見詰めたままに呟く。 そしてちょっとの間を置き、 「仲良くなれそう?」 そう尋ねてきた。 変わり者同士だから反発するだけさ お前がアミティエなら佳かった 白羽が望む答えを考えて見るも、 (人嫌いのわたしに分かる訳ないよな) 素直に諦め、いつもの軽口を叩くことに決めた。 「あいつも変わり者だからな、同じ気質同士、合わなきゃ反発するだけさ」 「ふふ。考崎さんと八重垣さん似ているものね」 (え、嘘だろ?) ――バスキア教諭もそう言っていたが。 バスキア教諭だけなら博愛主義者の妄言と聞き流せばいいが、白羽までそう思っているとなると話は別だ。 「ふふ、眉間に皺が寄っているわよ」 「お前が可笑しなことを言った所為だ」 笑う白羽の表情は柔らかく、わたしは少しだけほっとしていた。 アミティエを、考崎との仲を尋ねてきた時、あいつ――匂坂マユリを気に掛けていると思ったからだ。 「そろそろ戻ろうぜ。日が暮れちまう」 そうね――と呟いた書痴仲間の顔を視て時は確かに過ぎているのだな、と思った……。 書痴仲間の問いに浮かぶは―― アミティエを、考崎との仲を尋ねた白羽は匂坂マユリの事が陰を差しているのではと思った。 春に消えた少女。 「……無理だな」 「え?」 「性格的にとかじゃなく、生理的にってやつだ。正直、仲良くはなれないだろうな」 「そんな……」 昔のわたしに似ているあいつと向き合うのは、ある種の痛みと向かい合うということだ。 気ぜわしげにわたしを見遣る白羽へ、 「――お前がアミティエなら佳かった」 と言った。 「え、ぁ……八重垣さん……」 「趣味は合うし、余計なことは喋らないしな」 ぱっと頬を朱に染め、書痴仲間は微笑む。 「ありがとう、八重垣さん。でもね――」 「でも……、お部屋が本だらけになってしまうわ」 「理想の空間だ」 笑い合う二人。$久々に声を出して笑い晴れ晴れとした気持ちになった。 白羽も――笑顔に陰りはない。 わたしは笑い声に驚いている親うさぎに心の内で謝り、高い入道雲を見上げた……。 「ん……ふわぁぁぁ……」 大きく欠伸をしてから何となしの違和感を覚えた。 神経を軽く掻かれるような小さな違和感。 今まで視ていた風景が鏡映しな事に気づいたかのような……。 「いや……。此奴は……」 以前耳にした違和感にわたしは、 とりあえず起きる 二度寝に決まっているだろ (もう少し寝ていたいんだけどな……) 腹具合からすれば大分早く起きた勘定になるけれど、 くぁ、と欠伸をかみ殺し腕の力でベッドの端まで行くと、車椅子の座面に畳まれて置かれている制服を手に取った。 「……このままだと気持ち悪くて眠れないしな」 制服に着替えながら、いつもの介助がないことに、もう一週間経ったんだなと思う。 着替えを手伝ってくれていたバスキア教諭に代わり、アミティエ――考崎千鳥が介助を行うようになっていた。 この七日の間、考崎は朝わたしを起こし介助すると教室へ連行し、食事時には三食この部屋へ用意し共に食事を取った。 風呂以外のすべての介助を行っているアミティエ。 (あいつは……) 神経を掻かれる違和感の正体に察しが付いていたわたしは隣のベッドを見る。 予想通りもぬけの殻、だ。 プリーツに皺ができないよう気を付けて着替える。 自分としては皺ができようが構わない。 余りにみすぼらしいのは嫌だが、基本服は着られれば佳いと思う派だ。 皺なんざ生きているなら当然できる。そう少し前までは思っていたが、 「……っと」 制服を着替え終え、制服を見遣る。$皺ひとつない制服。 以前家族旅行で行ったイタリアを思い出す。 彼の地に限らず、〈欧羅巴〉《ヨーロッパ》の高級レストランなどでは着ている服によって扱いに明確な差が出る。 幾ら肩書きがあろうと“決まっていない格好”をしている相手は満足なサービスを受けられない。ずぼら過ぎると追い出される。 不条理に感じるも、その潔さに感銘を受けたわたしは、見られる程度には礼儀として身だしなみは整えておこうと決めているのだ。 「慎重にっと……」 車椅子に乗り移ると、自分の机へと向かった。$ここからなら時計が見えるからだ。 「やっぱりか。随分早起きしちまったな……」 もうひと眠りできそうな時間。二度寝しようかと逡巡するも、 (皺になっちまうしな) そう思い違和感の正体を明かすため、微かに開いている窓に手を掛け―― 「ふぅ……」 窓を開けたことで部屋の中の空気が一気に動き、朝のヒンヤリとした風が額を撫でた。 心地の良い空気と時間、しばし朝露に濡れる木々を眺める。 「ん……」 囁くような声音。違和感の正体。 ――此は、 「やっぱりあいつが唄っているのか……」 耳を澄ますときちんと音程の取れた歌声だという事が分かる。 寂しげでどこか心の弱い部分を引っ掻くような歌声。 だが、 (悪くない……) しわぶき一つない静かな朝に、遠くから聞こえてくる儚げな歌声。 異界のような情景に思わず聞き入ってしまう。 今の今まで気づかなかったが、わたしを起こすまでの朝明けの間、歌の練習をしていたのかと思い立つ。 (変わり者め) 初めは面倒な日常の変化だと思った。 だが、人生は暇つぶしだと考えている自分だ。別に平穏を望んでいるんじゃなし、と。 たまの暇つぶしにイレギュラーも悪くないと思った。 「――ま、詰まらなくなったら追い出しゃいいんだしな」 歌声が止むまでわたしはまぶたを閉じ、ともすれば途切れてしまいそうな微かな歌声を愉しんでいだ……。 (やっぱ二度寝の誘惑には逆らえないわな……) 神経を引っ掻くような違和感も、眠気には敵わない。 うつぶせになり頬をひんやりとしたシーツに押しつけたらもうダメだ。 二、三度頬をシーツへとこすりつけ、わたしは―― 「……お休みなさい」 誰に言うともなく呟き睡魔に導かれるまま、まぶたを閉じたのだ……。 「――起きて」 顔の見えない誰か……。遠く望郷を抱かせるような声に、 「起きなさい」 布団を引っぺがされ、夏になったとはいえ朝の冷ややかな空気が肌着一枚の肌に触れ、重いまぶたを開けさせた。 「……もう時間なのか」 「そうよ。早く着替えて」 制服を手に急かされ、わたしは着せ易いように身を縮めた。 (何だかこうして着替えを手伝われるのも馴れてきたな……) 小さい子へするように小声で指示を出しながら、袖を通させる考崎の声を聞き――あれからもう一週間が過ぎたんだな、と思った。 今まで介助を手伝ってくれていたバスキア教諭に代わり、お風呂以外の介助は考崎が行うようになっていた。 この七日の間、考崎は朝わたしを起こし介助すると教室へ連行し、三食―― 「朝食、貰ってくるから待っていなさい」 そう、この自室へと三食とも用意し、共に食事を取っていた。 「了解。今日はパンよりご飯の気分だな。大盛りで頼むぜ」 「今日のバイキングはパンよ」 感情の加味されていない簡潔な答え。 「分かってるよ」 わたしは顔を洗うためのタオルを手にしながら答える。 「そんなに食べたいのなら山盛りにしてくるわ」 声を掛ける間もなく、部屋の外へ。 「……冗談かそうでないか、まだ分かっちゃいないか」 わたしは出て行った考崎の陰を見遣ると、欠伸をかみ殺し顔を洗うため、車椅子の車輪へと手を掛けた。 すっかり日常となった授業風景。 ――聖堂内に聖歌アヴェ・マリアが響き、皆はその荘厳な歌声に陶酔したように聞き入っていた。 唄うは――考崎千鳥。 (雰囲気に呑まれていただけじゃないか) 初めて耳にした桜並木での歌声。 あの時はムカつきが先行したが、こうした畏まった場所で聞くと優れているのがはっきりと分かる。 「……ま、芸能人様だ。唄と踊りができるのは仕事のうちだもんな」 「え……?」 呟いた言葉は白羽の耳に届いていたのだろう、わたしを怪訝な瞳で見詰め―― 最後の一音が聖堂内の壁に吸い込まれていくと、 わっと歓声があがる。$確かに拍手の一つでも送りたくなる腕前だ。 「……終わりました」 「はい。とってもお上手でした。ありがとう御座います考崎さん」 本来は聖書の授業だが、聖歌を唄うことも多い校風から聖書の時間の内、少しの授業時間を割り振り聖歌の練習にあてているのだ。 バスキア教諭は歌い終わった考崎を下がらせると、アヴェ・マリアの歌詞の意味を皆へとそらんじた。 「……流石、お歌がお上手で」 「私の歌声なんて、大したものじゃないんでしょう?」 初めての出遭いでの言葉を覚えていたのか、平常運行のように嫌みを言う。 「皮肉だよ」 そう返したわたしを苛立つことに苛立った目で凝っと見詰めてきた。 「でもすごいよ! 初めて唄ったんでしょ? それであんなに歌えるなんて、なかなかできないよ。ねぇ?」 「……そうね」 「蘇芳さん……」 促され、頷く白羽。$委員長は気ぜわしげに此方を見た。 白羽を気遣ってか、小声で雑談するわたしたちを注意したいのか。その両方か。 「ボーカルレッスンは受けていた。後は、譜面通り唄えばいいだけ」 「それはできる人理論だよぉ。シューティングゲームでコツを聞いたらこの面はとりあえず避けろ、とかいう」 「それができたらコツを聞いたりしませんよ」 双子は何やら思う所があったのかうんうんと頷いて見せた。 「確かにお上手でしたけど、わたしとしてはマユリさんの方が佳いと思いましたけどね」 「ああ、確かにあの聖母祭での聖歌は凄みがあったよね」 言った後――しまったと言う顔をする両人。$当然、 (失言だな) 白羽がその場に居たからだ。$消えてしまった白羽のアミティエ。 ――いや、白羽の恋人だった少女。 いつもなら気まずい空気を委員長が取りなしてくれるが、授業中に割って入るのを躊躇ったからか、 「そのマユリと言う人は誰?」 空気を一切読まない考崎に後れを取ってしまった。 他の転入組も知らぬ名前が出た事で、怪訝そうにこちらを見遣っていた。 「ぇ……その、ユリは、ええと……」 「ユリ? マユリという名前ではない?」 「……それは」 双子姉妹は困り、白羽へと視線を投げかけた。$考崎はそれを察知し、 「白羽さんはマユリという人を知っているの?」 と尋ねた。 「ぁ……」 尋ねられた刹那、戸惑うような、痛みに耐えるような、羞恥を覚えているかのような、複雑な顔をすると胸を押さえ、ただ押し黙ってしまった。 「? 貴女が知っているのでしょう。誰なのかしら」 「っ……匂坂……マユリさんは私の、アミティエで……」 「そうなの。それで、どの方が匂坂さんなの?」 胸に手を当て痛みに耐えるようにして答える白羽へ、 授業中だぞ 白羽が困ってるだろ 痛ましさを感じたんじゃない。 優しさからなんてのはもっとない。 ただ、 「おい、授業中だぞ」 自分でも分からない感情の発露から考崎を止めていた。 「貴女がそんな真っ当なことを言うなんて」 「可笑しいか? バスキア教諭には世話になってる。煩わせたくない」 「へぇ」 この作り物のような女にしては珍しく笑った――ように見えた。 しかし、 「ねぇ、私はマユリさんと話してみたいだけなの」 制止を無視すると再び白羽へと質した。 ――らしくない、というのは分かっちゃいたが。 「おい」 何故だか体は勝手に動き、 「何」 考崎の腕を掴むと、 「白羽が困っているだろ」 と、気遣うような言葉が口をついてしまった。 「えりかさん……」 「別に困らせるような事はしていないわ。ただ、人を尋ねているだけ」 「お前にとっちゃそうだが、人には事情ってものがあるんだよ」 事情、と呟き眉根を寄せる。 「こいつは友人じゃないが書痴仲間なんでね。仲間の事情にずかずか入らないでくれるか」 「八重垣ちゃん……!」 何故だか双子姉妹は感極まったかのような顔をしてわたしを見た。 が、考崎は意に介さずわたしの手を払うと、 「事情があるなら教えてほしいだけ。匂坂マユリの事情って何なの?」 ずい、と白羽に詰め寄る。わたしは止めようとして―― 「そこまでよ」 小さくだが決然とした声音が考崎の背を叩いた。 「今は授業中よ、考崎さん」 「ええ、そうね。なら、貴女は真面目に聞いていればいい」 歯牙に掛けぬ言葉。だが、委員長は珍しく怒りの篭もった目で〈睥睨〉《へいげい》すると、 「わたしは授業中だと言ったの。貴女も含まれるわ。雑談は後回しにして」 「おかしな人ね。ああ……もしかして触れてはいけない話題だったの?」 「…………」 「そう。もしかして故人とか?」 消えたことに――もう会えない事には変わりない意味合いだが―― 委員長の顔はかっと怒りの熱で染め上がり、感情の発露を堪えるように拳を握った。 「あら、その顔――」 「……彼女は辞めたわ」 「そう。なら、早くそう言えばいいのに」 考崎は睨む花菱の視線を無視すると、白羽へ向き直り苛立つことに苛立った目を向け呟く。 「ただ辞めただけだというのに――おかしな人」 そう、言い捨てた。 「そ……う……です、よね……」 一文字口にするたび、浮かび上がってくる涙。 唇を噛みしめ堪えるが、膨れあがった感情を止めることは出来ず、一筋の涙が頬を伝った。 「――今の言葉を取り消して」 「何を……」 「取り消しなさいっ」 潜めていた声音をやめ、声を荒げたことでバスキア教諭の訓話は止まり、周りのクラスメイトが一斉にこちらを見遣った。 (泣いている白羽に怒っている花菱。こいつは――) 分かり易い構図だったのだろう。 白羽を守るようにして虎視している委員長の姿は正しく正義の図、だ。 自然、クラスメイトの非難の目は考崎に注がれる。 (こっちはこっちで分かり易いしな) 困惑しているのだろうが、目を細めて花菱を見る姿は、一見睨んでいるようにも見える。 わたしがそう思うのだから、他のクラスメイトはその通りに受け取るだろう。 「何か――あったのかしら」 バスキア教諭は聖職者の顔のまま二人へと尋ねる。だが、考崎は言うに及ばず、花菱も感情が先に立ち言葉が出てこなくなっている。 「八重垣さん?」 バスキア教諭の目に促され、 公明正大に話す 考崎をフォローする 「考崎が唄ったアヴェ・マリアから、クラスで誰が一番唄が上手いかって話になりまして……」 「ええ、それで?」 「話の流れから、聖母祭での匂坂の話になったんです……」 バスキア教諭はわたしの言葉で大体のところを察したのだろう。痛ましい顔つきをした。 「考崎は匂坂のことを知らなかったので、匂坂の話を白羽に尋ねて、それで――」 「そうですか……」 わたしの手を握ると、バスキア教諭はありがとうと耳元で呟いた。 (ま、知らなかった事だしな) 空気は壊滅的に読めてはいなかったが、悪気はない……と思う。 「何というか、お互いの行き違いからといいますかね……」 「……八重垣さんは考崎さんの味方をするのね」 思った以上に頭に血が上っているらしい、委員長の言葉に内心驚きつつも、 「考崎が唄ったアヴェ・マリアからクラスの中で誰が一番上手いかという話になったんです」 と、答えた。 嘘でない言葉に花菱もそれ以上は言えない。 「そこで匂坂の名前が出て、事情を知らない考崎が白羽に誰だと尋ねまして……」 「そうだったのですか……」 刹那痛ましい顔つきをする。 委員長を見遣ると感情の持って行き場がないのだろう、目をそらした。 「事情は分かりました。お互いに少しの行き違いから事が大きくなってしまった。ですから互いに赦し合いましょう」 「…………」 「……赦すも何も、私には意味が分かりません」 「貴女ねぇ……!」 再び憤然とする花菱へ、赦すのです――凛とした声音が二人の背を正した。 有無を言わさぬバスキア教諭の佇まいに、 「……声を荒げて悪かったわ」 「いえ……私も」 消え入りそうな声で形ばかりの謝罪をし合う。 「ふふ、寛容は美徳です。赦すということは人にしかできません」 胸に手を当て歌うようにバスキア教諭は訓話を行う。 彼女はもう済んだ事と思っているようだ。だが、 (尾を引きそうだな、こいつは……) 本気で謝った訳じゃない。考崎もそうだし、委員長ですらそうだ。 火種はクラスメイトたちの中にも、小さく、だが確実に燻っているのが分かる。 分かっていないのは訓話をしているバスキア教諭だけだ。 「――お互いに赦し合いましたが、聖堂内での諍いには罰を与えなければなりません」 「罰……ですか?」 「あの……あまり酷い罰は……」 「ふふ、花菱さんは今日から一週間の間、私とともに温室での作業を手伝って貰います」 思ったよりも楽な罰に双子姉妹は大げさに吐息をもらして見せた。 ……一応は自分たちが余計な一言を口にした所為からだと分かっているらしい。 「そして考崎さんには……そうね。そうだわ。飼育係をして貰おうかしら」 「飼育係ですか? 何を」 「知っているかしら。温室の少し外れにうさぎ小屋があるのを」 「はい。学院の案内で」 「そう。少し前に子うさぎが生まれたそうなの。生まれてすぐの動物は間違いが起こりやすいから面倒を見てほしいのよ」 「……分かりました」 不承不承という文字が顔に書いてあるのが分かるような面相だ。思わず笑ってしまうと、バスキア教諭と目が合った。 「アミティエなのだから八重垣さんも、考崎さんと一緒に面倒を見てくださいね」 「え」 思いも寄らぬ方向から殴りつけられたように一瞬呆気にとられ、考崎を、バスキア教諭を見た。 (おい冗談だろ……!) アミティエ同士の連帯責任なら、何故白羽は委員長と一緒に罰を受けないのか。 そもそも車椅子のわたしが何を手伝えるというのか、反論する言葉は浮かんでくるものの……。 「…………」 いつの間にか隣に立ち憮然とした表情を浮かべているアミティエ。 目を腫らしている白羽。気ぜわしげにわたしたちを見遣る双子姉妹。 いまだ〈憤懣〉《ふんまん》やるかたなしとおさげを逆立てている委員長を一瞥し――肩を落とすと言葉を呑んだ。 「……ねぇ」 「何だ」 「怒鳴られたわ」 いまだに意味が分からないと首を傾げるアミティエ。 「……そりゃそうだ」 「何でよ」 「……あのな、いきなり急所を殴られたら、ガンジーだって反射的に殴り返すだろうがよ」 「殴ってないわ」 「……心の急所だよ。気づけ馬鹿」 端的に分かり易く伝えた答えにも、やはり納得していないようだ。 「……大変ですね」 内緒話が聞こえていた双子姉妹の片割れにそう労われ、わたしは自分でも意外なほど素直に感謝していた。 「嬉しいよ。ハグしてくれ」 つい出た軽口に双子妹は目をぱちくりさせると、わたしをいたわるかのようにしっかりと抱きしめてきたのだ……。 ――水。 「水、って水を持ってこいって意味か」 「それ以外にどう聞こえるの」 と冷ややかな声音を浴びせかけられ、 「こんなにうさぎの世話が面倒だとは思わなかったよ」 と、吐き捨てた。 ――一週間前、 “アミティエなのだから八重垣さんも、考崎さんと一緒に面倒を見てくださいね” そうバスキア教諭に言われ、生まれたばかりの子うさぎの世話をすることになったのだが……。 「早く持ってきなさい」 ベースとなる餌、干し草を大量に抱えた考崎が言い、うさぎ小屋と温室のちょうど中間ほどにある水道を顎で指した。 整備されていない路面に渋面を作ってしまう。 車椅子のゴムタイヤではちと荷が重い。 「それぞれ役割ってのがあるだろ、わたしは頭、お前は手足だ」 「暑さで頭がダメになったの?」 「水を汲んだジョウロをどうやって持ってくるんだよ。膝の上に載せてか? 制服が濡れちまうよ」 「……貴女」 何かを言いかけるも、小さく嘆息し、 「本当に役立たずね」 そう言い捨てると、干し草を置き、ジョウロを手にすると大股で水を汲みに行った。 入口の傍に置かれた干し草の束の一つを手に取って扉を開け、興味深げにこちらを凝っと見詰める親うさぎに差し出す。 「ま、クラスメイトの連中が用もないのに遊びに来るくらいには愛らしいか……」 沙沙貴姉妹や白羽以外にも、“手伝い”という大義名分をひっさげてクラスメイト等が遊びに来ていた。 きちんとした世話ではないが、干し草を与えるくらいの事はしているようだが……。 「何だか寝ている以外はずっと食べてる感じだよな」 熱心に干し草を食べる姿に、つい口元が緩んでしまう。 途端にビクリ、と身を竦ませる親うさぎたち。 「何だよ、とって食おうってわけじゃないぞ」 猫のようだと言われるわたしの笑み、警戒してか食べるのを止めて様子を窺っている。 ……やはりこういう世話は、 「沙沙貴姉妹や白羽あたりが適任だと思うんだけどなぁ」 わたしたちが飼育係だと任命されてから一週間、 初日から他のクラスメイトら――沙沙貴のところの面白姉妹、そして白羽がほぼ毎日様子を見に来てくれたのだ。 (委員長は来やしなかったが……) 考崎と言い合った手前、白羽が様子を見に来ていても尚、顔を出しにくかったのだろう。 避けているのは飼育係の時だけではない。学院生活すべてにおいてだ。 新しく転入してきた生徒たちにはかいがいしく世話を焼いていたが、その中に考崎は含まれてはいなかった。 今のところお互いに関わろうとしないスタンスのようだが……。 「ま、なるようにしか為らないよな」 クラスでの居心地は微妙に悪くなってきている。 だが、本当に面倒臭くなれば別に教室くんだりまで行かなければいい。只それだけのことだ。 「〈退〉《ど》いて」 頭の上から冷水のような言葉を浴びせられ、わたしは肩を竦めると飼育小屋の扉から身を引いた。 「逃げ出さないよう見張っていてよ」 わたしが答えるよりも早く木製の扉から飼育小屋の中へ。 扉を開けっ放しにしてうさぎが逃げ出すのを考慮して、だ。 ジョウロへ汲んできた水を備え付けの器へ入れると、親うさぎが群がって美味しそうに水を飲みはじめる。 「……うさぎって水を飲んだら死ぬって噂があったよな」 「そうなの? こんなに美味しそうに飲んでいるじゃない」 「いや、野菜の水分だけで充分だとか何とか。実際飼わなくちゃ分からないことってあるよな」 季節柄というのはあるだろうが、思った以上に水をたくさん必要とするようだ。 舌を出し水を飲むうさぎを見ながら思う。 「それとちょっと前に寂しいと死ぬみたいな話もあったよなぁ」 「……待って」 わたしの言葉に渋面を作り、外に出るとネコ車へ置いてあった本を手に取ると頁を捲る。 「お、何だ自分ノートですか?」 「貴女、目も悪かったのね」 素っ気なく言い返され、しばし頁を繰る音だけが聞こえた。 「……寂しいと死ぬだなんて書いてないじゃない」 「クク……! 多分、専門書には書いてないと思うぜ」 ――イヤイヤながら引き受けた飼育係。 わたしもそうだし、考崎もそうだと思っていたのだが―― 意外なことに我がアミティエは図書室からうさぎの飼育方法が載っている専門書を見つけ出し、熱心に世話をしていたのだ。 「しっかし、うちの学院にその手の本置いてあったんだな。確かに実用書の類いもあったけど、もっと堅いやつばっかりだったしさぁ」 「探すのにかなり手間が掛かったわ。白羽さんも一緒でないともっと時間が掛かったでしょうね」 視線を専門書に張り付けたままそう告げる考崎。 「白羽に探すのを手伝って貰ったのかよ」 ――と頓狂な声をあげてしまった。 「言っている意味が分からないわ。白羽さんは図書委員なのでしょう。なら図書のピックアップを手伝うのは仕事のうちじゃない」 「……空気が読めないやつってのは得だよな」 「なに?」 「いや、白羽に頼んだのなら合点がいったよ」 図書室の妖精のような書痴仲間だ。砂浜で無くした指輪を探すような仕事もうまくこなしたのだろう。 「まだ、自分ではごはんは食べられないのね」 専門書を見ながら小屋に入った考崎の視線は――話の流れから子うさぎを注視しているようだ。 愛玩する対象へ、苛立つことに苛立った目を向け―― (うん? もしかして……) 「この専門書が正しいのなら、今は生後十日あたりね。毛は生え揃い、うさぎらしくなってくる……」 考崎の笑える言いざまに疑問符を横にどけ、うさぎらしくないうさぎって何だよ――と言いそうになるも、 「ま、確かに生まれたばかりは鼠の赤ちゃんかと思ったしな」 「ねずみ? 貴女字も読めないの」 軽口に真剣な目をした考崎はずい、とわたしへ本を突きつけた。 「此処にそう書いてあるでしょう」 (近い、近いって……!) 屈み、本を半開きにし『成長過程』と銘打たれた箇所を指さし睨む。 近づいたことで白桃の香り、そして華奢な鎖骨と、無防備な膨らみが―― 「ねぇ、話聞いているの」 「き、聞いてるよ。暑いから離れろ」 ならいいけど――と眉根を寄せながら離れる。 変な汗を掻いたわたしは一つ空咳をして自分を取り戻すと、本をしまう考崎に尋ねた。 「んっ――それで、後どれくらい世話をすればいいんだ?」 「どれくらいとは?」 「いや、だからさ、ずっと世話する訳じゃないだろ」 不思議な顔をするな。 「バスキア教諭が言ってただろ。生まれてすぐの動物は間違いが起こり易いから面倒を見てほしいのよ、ってさ」 「だからある程度、成体ってのか? 手が掛からなくなるくらいに成長したら世話しなくてもいいんじゃねぇの?」 わたしの言葉に頷くとペラペラと頁を繰り言う。 「離乳期はおおよそ一ヶ月くらいだそうよ」 「一ヶ月か、そりゃ……」 刹那毒を吐きそうになるも、 (モノによれば、成体になるまで半年くらい掛かるやつもあるか……) そう考えれば一ヶ月くらいなら我慢してもやむなしか、そう考えを改めた。 「……まぁ世話をするっていっても、餌やりと水替えと掃除くらいだし面倒はないか」 「病気も気を付けなくちゃいけないわ」 「うさぎも病気とかするのかよ? 中耳炎になったりとか? 立派な耳してるもんな」 「…………」 わたしの軽口に付き合わず、考崎は頁を繰る。 「有名なところでは不正咬合と毛球症があるそうよ」 「有名っていっても飼ってないんだから聞いたことないっつうの」 「うさぎの歯はずっと伸び続けるのよ。だから囓るものを用意してあげないと、噛み合わせが悪くなるのだって」 「へぇ。サメみたいだな」 「あれは生え替わるのよ」 考崎は律儀に答えるとさらに次の頁へ進む。 「毛球症は毛繕いした時に自分の毛を飲んでしまう事によっておこるの」 「毛の塊が胃の出口を塞いでしまい、お腹を壊すだけでなく、様々な疾患の原因となってしまうらしいわ」 「あー、何か前に見たことがあるな。確か猫とかがそうじゃなかったっけ?」 「猫は毛を自分で吐き出せるわ。貴女微妙にずれた覚え方をしているのね」 「興味ないことはなるべく脳のストックに入れたくないんだよ。元々動物とは相性が悪い」 にこりと笑んでみせるが、やはり親うさぎは怯えたように警戒した。 「不正咬合は硬いものを。毛球症は食物繊維が多いものを与えればいいと書いてあるわ。どちらも干し草で佳いらしいけど」 「他にも、鼻風邪や目の病気も気を付けた方がよさそうね」 意外と面倒なんだな、と考崎へ言った途端、 「くしゅん!」 狙ったようにくしゃみが聞こえ、吃驚したように耳を立てるうさぎをマジマジと見詰めてしまう。いや、 「遊びに来ましたですよ」 聞き知った声が聞こえ、わたしは手を振る双子姉妹を見遣った。 「お前等……。手伝いにきたっていう建前を言うのは止めたんだな」 「そんなことないよ。お手伝いに……くしゅん!」 「おい。今更花粉症か? うさぎに〈伝〉《う》〈染〉《つ》すなよ」 「花粉症はうつらないよぉ」 「苺ねぇなら頑張ればあるいは」 「……困るわ」 咎め立てする目つきに沙沙貴姉は慌てて手を振った。$まあ、妹は笑っていたが。 「ま、手伝ってくれるなら構わないけどな」 双子姉妹に連れられ来たのだろう、わたしへと穏やかな笑みを向ける書痴仲間を見、一つ眉を掻いたのである。 死は避けられない あんただって死ぬし、俺だって死ぬ みんないつか死ぬ 以前見た映画“バトルシップ”での台詞がふと頭に浮かぶ。 何故、そんな物騒な台詞が浮かんだか。 そりゃ―― 「居なくなってしまったなんて、そんな――!」 昼食後、寄宿舎から教室に戻ったわたしの耳に、知り合いの切迫した言葉が飛び込んできたからだ。 ……居なくなる。 まさか、また消失……。 「どうした、何があった?」 「あ、八重垣ちゃん……」 沙沙貴妹が向けてきた目はおどおどと――否、言葉を選んでいるように見えた。 まさか、 「……おい、まさか考崎のやつ辞めたんじゃないだろうな」 「え?」 「だから消えたって……」 「あ、八重垣ちゃん!」 沙沙貴姉はぶつかるようにしてわたしの元へ来ると、勢いよく肩に手を掛け、 「何処にいるか知らない?」 と尋ねてきた。$その言葉にいよいよ―― 「……考崎のやつ辞めたのかよ」 そう呟いていた。 「え? え? 考崎さん学院辞めちゃうの?」 「いや、居なくなったって……」 「勝手に退学者扱いにして貰っても困るわ」 背後から掛けられたのは、いつもの冷ややかな、ワイヤーの先端のような声だった。 消えて――辞めていなかったことに小さくだが確かに安堵の吐息をつきそうになって、妙な心持ちになった。 (ようやく馴れてきた日常がまた変わるのが面倒なだけだ) そうわたしは自分へ言い聞かせた。と、 「何があったの?」 尋ねる考崎へ、沙沙貴姉は大きく身振りをつけ言う。 「あの、あのね! うさぎがいなくなっちゃったんだよ!」 消えてしまったのが人ではないと分かった途端一段気分はもり下がり、で? と問い返したい気分になった。 (いや……そうも言ってられないのか) 飼育係を任されていたのはわたしたちだ。$消えたとなれば……。 「ねぇ、考崎さん。貴女、ちゃんと監理はしていたの?」 「……どういうこと?」 「きちんと鍵は掛けていたかということよ」 委員長の言葉に教室内の空気が冷える。 尋ねているのではない、糾弾の声色だからだ。 (ま、責任の所在になるよな) 「――朝、夕の食事の際に世話をしているわ。今朝も世話をしてきちんと鍵をかけてきた」 「本当なの、八重垣さん?」 そう居丈高に聞かれ―― あまり意味のない質問だぞ 確認に行くのが先じゃないか? 「あまり意味のない質問だぞ」 とつい言葉を吐いてしまった。 「……意味がないってどういうこと」 「そう気色ばむなよ。飼育小屋の鍵は南京錠とかきちんとした施錠が必要なものじゃない。誰でも開けられる簡易錠だ。知ってるだろ?」 わたしの説明で委員長は納得して頷いた。 「で、うさぎが居ないって見つけたのは――」 双子がソロソロと手を挙げる。 「うさぎは基本隠れているんだし、居ないって言うからには飼育小屋の中に入って調べたんだろ?」 「うん……」 「そうです……」 頷く両人。 鍵の掛ける掛けないの議論は不毛だと分かり、どうやら少しは疑問を払拭できたようだ。 「とにかく見てみなきゃ話にならない。とりあえず現場に行ってみようぜ」 「確かに鍵をかけていたと思うが――」 「なに?」 「それよりも消えたっていうのが本当かどうか見に行くのが先だと思うけどね」 言った途端に双子姉妹が気色ばむ。 「ええっ! それってわたしたちが嘘を吐いているってことぉ!?」 「見間違いじゃないですよ」 「別に嘘だとか言っている訳じゃない。只、世話してたから知ってるんだけどさ。あいつら草の中だとか姿を隠すだろ?」 わたしの言葉にクラスの雰囲気は和らいだ。見間違いかもしれないと思ってくれたようだ。 「――そうね。まずは飼育小屋まで行ってみましょう」 ――クラスの主だった者たちとともに、 庭園を越え、 飼育小屋を訪れた。 「開けるわよ」 扉の鍵が掛かっているのを確認し、外して中へ。 主だった者だけとはいえ、全員が入れる程中は広くない。 発見者である沙沙貴姉妹、委員長の花菱、疑いを掛けられている考崎。$そして、白羽蘇芳。 わたしは開けられた扉を塞ぐようにして陣取る。 「…………」 白羽は悲しげに目を細め親うさぎを見詰めた。 委員長は考崎へと向けた怒気を抑えつつ、気ぜわしげに己のアミティエを見遣った。 (考崎に強く出たのも白羽絡みだろうしな……) アミティエを――匂坂マユリが消えた心の隙間をうさぎの世話をすることで癒やしていたのは委員長も知るところだ。 それ故、感情的になったのだろう。 「……ちゃんと七羽いるじゃない」 頭数を目で追い調べてた考崎が言うと、違うよ――と沙沙貴姉が声をあげた。 「親うさぎが居なくなったんじゃないんだってば!子うさぎだよっ」 「四羽いるはずが二羽しか見付からないのですよ」 そっちかよ、と心の中で突っ込みつつ、わたしも目で追い探す。 委員長や白羽は一転蒼い顔をすると、慌てて積まれている干し草の中を探し出す。 「お願い、皆も探して」 委員長の頼みに外で経過を待っていたクラスメイトが中に入ってくる。 邪魔にならぬようにわたしは後ろへ下がった。 「……どうしてあんなに焦っているの」 「っ……と、脅かすなよ。お前は屈めるんだから探してこいよ」 「あれ以上は飼育小屋の中に入れないわ。それより私の質問に答えて」 慌てた理由が分からないのか、眉をひそめ委員長を眺めていた。 「……世話してたから分かってるだろうが、子うさぎはまだ満足に動けるような状態じゃなかっただろ?」 「ええ。だから?」 察しの悪さにため息を漏らし、 「これが親うさぎなら、鍵が掛かってなかったから逃げ出した――で済むが、よちよち歩きの子うさぎが連れだって逃げ出す訳がないだろ」 と言った。$考崎は何故だか感心したように手を叩く。 「つまり、誰かが逃がしたと考えているのね」 「ま、持ち出したか……最悪、野犬にやられたとか想像しちまったんじゃねぇの」 もし干し草の中にいた場合を考え、そっと――だが急ぎ干し草をかき分け探している。 急く委員長の姿を視て、此奴は見付からないなと思った。 (さすがにこれだけの数で探して居ないんじゃ……) 白羽の手前、希望は捨てたくはなかっただろうが昼休みの終わりの時間も迫っている。 暫しの捜索の後、委員長は苦渋の顔つきでクラスメイト等へ声を掛け、飼育小屋から出てきた。 「ダメね、どこにも居ない……」 「でしょ!? わたしの言った通りだったよね」 「ええ……」 勢い込むも、委員長の落ち込む素振りに空気を読んだのか沙沙貴姉は口を閉ざした。 ――沈黙が横たわる。 「……考崎さん。今朝世話をしてからこの飼育小屋へは来ていないわよね?」 「ええ。それが何?」 (おいおいおい) 委員長らしからぬ決めつけだ。 暗に考崎が鍵を開け――いや、子うさぎをどこかに持ち出したのではないかという疑いも孕んだ言葉。 強すぎる疑惑の声にクラスメイト等も意図が伝わったのか、考崎を――わたしを注視する。 (考崎がどうとかよりも……) 身に覚えのない、痛くもない腹を疑われるのがこんなにもイヤなものだなんて。 (花菱があれだけ憤っていたのも、今なら分かる気がするぜ) 嫌われるのは構わない。わたし自身人嫌いだからだ。 自分が嫌っておいて人から好かれようなんざ虫の良いことは思っていない。 だが、 「――本当に考崎さんが?」 「――元々押しつけられた役だもの」 クラスメイト等の囁き声を聞いて、 「――なぁ、委員長」 「何? 八重垣さん」 「別に責任を感じたわけじゃないが……」 否、 クラスメイトの視線にムカついたんじゃない。 彼女たちの後ろ、物憂げな彼女の表情が。 「…………」 白羽に誤解されたのかもしれない、そう考えた途端、〈腸〉《はらわた》が煮えくりかえる思いがした。 (こんな詰まらない真似をするやつだと思われたくない) 業腹だ。 「この――子うさぎが消えちまった件、わたしに預けてくれないか」 「八重垣さんが犯人を捜すというの?」 問う花菱へ、一つ頷き、 「今回はわたしが白羽役だ」 そう宣言した。 〈猿猴捉月〉《えんこうそくげつ》――という四字熟語が頭を過ぎった。 猿が水に映る月を取ろうとして溺死したように、身の程を知らぬ望みを持って失敗することをいう。 身の程とまでは言わないが―― 「面倒な望みってのは確かだよな……」 開かれた窓から青々とした月を眺めながら呟く。 クラスメイト等が見ている前で宣言した、子うさぎの件を預かるという事。 ……正直、わたし自身は子うさぎはもう見付からないのではと思っている。 だが、探して見付かりませんでした、では委員長――いやクラスメイト等が許さないだろう。 「適当な落としどころを見つけないといけない、か……」 子うさぎの消失に誰かが関わっているならば犯人を。 ただの事故なら、それを招いたもの、或いはその原因を解き明かすことが分かり易い落としどころだ。 だが、どちらを特定するのもかなり手間が掛かるだろう。 「クソ……自分が白羽役をするだなんて言わなきゃ佳かったぜ」 物憂げな白羽の表情。 わたしはその顔つきの中に失望の陰を感じ、つい自分が解決すると口に出してしまった。 あの時に感じた妙な感情。 わたしは―― ノックの音に疑問符は消し飛ばされた。 「……どうぞ」 「ごきげんよう八重垣さん。お食事は済んだかしら」 そう何時もの穏やかな表情を湛えたバスキア教諭が入って来た。 変わらない彼女の態度に幾分苛立っていた気持ちは落ち着きを取り戻す。 「はい、もう既に」 「そう。あら? 考崎さんは?」 「食器を下げに食堂へ」 告げるわたしへ何処か残念そうに小首を傾げた。 「そうなの。折角だからご一緒にと思ったけれど……。それではお風呂に行きましょうか」 さらりとまたぞろ頭を抱えそうなことを言うバスキア教諭に、白羽のように映画の文言が浮かんだ。 “オースティン・パワーズ”のキャッチコピー、«バカも休み休みyeah!»だ。 「うん? どうしたの、八重垣さん?」 「いえ……」 浮き世の面倒臭さに辟易していたわたしは言葉を飲み込み一つ頷いたのだ……。 「――きっと見付かるわ」 不意にそう言われ、 「知っているんですか?」 と問うた。 丁寧に足を洗ってくれるバスキア教諭と瞳が合い、次いで豊満な胸に目がいってしまう。 撫でるように洗ってくれる動きに、バスタオルの下の双丘が揺れ動いていた所為だ。猫のように目がつい追ってしまう。 「ええ。沙沙貴さんが教えてくれたわ」 今となっては馴れた介助だが、此処最近変に意識してしまう時がある。 (羨ましいってだけだろうが……) 自分の薄い胸を一瞥すると小さく溜息を吐き、 「そうですか」 そう呟いた。 「バスキア教諭から注意していてくれと頼まれていたのに、申し訳ありません」 「話は沙沙貴さんたちから聴いたと言ったでしょう。誰が悪いという事でもないわ」 責める気はないらしい。 「そうですが……」 「花菱さんに自分が見つけ出すと言ったのよね?」 「はい」 「私は――私はね。その言葉を聞いて感動したの」 「は?」 「花菱さんと考崎さんが剣呑な雰囲気になって、それを止めるために見つけてみせると言ったのですもの」 「ふふ、アミティエ選考試験での結果は間違ってはいなかったのねぇ。考崎さんの為に身を挺して庇えるだなんて」 「それは……!」 「はい?」 にこりと人好きのする笑みでわたしを見詰める。どうにもバスキア教諭相手に悪態をつける気がしない。 (真ん中の姉に似てるんだよなぁ) 性格はまるで違うが、醸し出す雰囲気というか、有無を言わせない雰囲気が似ているのか? 今日で何度目かになる溜息が零れる。 「ふふ、でもアミティエお二人で探すのでしょう。これを機会にもっと仲良くなれれば佳いですね」 「ぁ……いえ、多分わたし一人で探すことになると思いますよ」 部屋に戻ってからも、夕食中も話に出ていなかったし。 「え、それは……」 何故、と続けようとしたのだろう。気ぜわしげにわたしの瞳を見詰めた。 黄金色の目が憂い瞬くのを見て、バスキア教諭が望んでいるだろう言葉を選んだ。 「……委員長にはわたしに預けてくれないか、と頼んできたんです。だから、アミティエの手を借りるのは少し違う気がしまして」 「そう……ですか。でも危ないわ」 「いや、危険な場所には行きゃしませんよ」 「でも探すとしたら……」 学院周りの深い森の中を連想したのか、美しい眉をひそめた。 どうにも子供扱いしてくるバスキア教諭に苦笑うと、 「それじゃバスキア教諭が付いてきてくださいよ」 と、つい軽口を叩いてしまう。 目をぱちくりさせる彼女に向かい、冗談ですよと口を開こうとするも―― 彼女は頬を紅潮させて手を叩き、 「そうだわ! 八重垣さんの頼みですもの。私も子うさぎを探す件、お手伝いします!」 と言った。 「いや……あの、ほんの冗談で……」 「ふふ、不謹慎だけれどワクワクしますね。ねぇ八重垣さん」 まるで童女のように微笑むバスキア教諭に―― 「……お願いします」 そう答えるほか無かったのである……。 「それでは、まいりましょう」 夏の緑風が草花を揺らし、微笑むバスキア教諭の前髪を揺らした。 (昨日の付いてくるって話、冗談じゃなかったんだな) いや、そもそも冗談を言う人ではないと分かってはいたけど。 針のむしろではあったが授業の合間にちょこちょこと情報を集め―― 放課後になって本格的に動こうとした矢先、教室を出る際に笑顔のバスキア教諭に捕まったのだ。 「それで何処を調べるの八重垣さん?」 「そうですね……」 今さっき行くアテがありそうな台詞を吐いたところだというのに尋ねるバスキア教諭へ、分からぬよう嘆息すると、 「とりあえず第一発見者に話を聞いてみようと思います」 と告げた。 少女はやや口ごもりつつも話し始めた。 「あの、それで――子うさぎさんが居なくなった時のことを話せばいいんだよね?」 沙沙貴姉がわたしを――否、わたしの隣にて笑みをこぼすバスキア教諭を気にしながら尋ねてきた。 「ああ。あの時は只、居ないって騒いだだけだからな、細かく教えてくれ」 「う、うん。分かったよ。あの、一つ質問して佳い?」 「ダメだ」 「え」 「わたしも何でこうなっているか説明しにくい。お互いさっさと済ませようぜ」 微笑むバスキア教諭を見、何となく察しが付いたのだろう。 奥で様子を窺っていた妹を手招きし、耳打ちする。 「了解ですよ。わたしとしても早く見つけて欲しいですからね。では居ないと分かったときの事を話します」 「昨日の朝、苺ねぇはうさぎのお世話に行くことが出来たのですが、わたしは出来ませんでしたので――」 「お昼は苺ねぇよりも早く食事をし終え、お世話をしに向かったのです」 遊びにだろと突っ込みたくなるも、生真面目な沙沙貴妹の顔とバスキア教諭の手前、大人しく聞きながら先を促す。 「急いで昼食をとってから向かったので、飼育小屋にはわたし以外まだ誰もいませんでした」 「あら? その言い方だと他の生徒もよく来ているように聞こえるわ」 「その捉え方であっていますよ。沙沙貴姉妹だけじゃなくクラスメイトたちが様子を見に、ちょくちょく来ていましたからねぇ」 「そうなの……」 小首を傾げるバスキア教諭。 今度は彼女の態度が気になったのだろう、沙沙貴姉が首を突っ込んできた。 「何か気になるんですか?」 「以前、飼育小屋のあたりを巡回していてもクラスの皆さんはあまり見かけたことがなかったので……」 「それは今まで二年生が担当だったからですよ」 「はい?」 「うさぎさんが居ることは知っていたんですけど、二年生の人たちが世話をしていると聞いて、その……言い方は悪いですけど萎縮していたんです」 「知っている部の先輩なら佳いですけど、違う場合は怒られるかもって。それで……」 わたしの目を見、 「罰則で八重垣ちゃんたちが担当になったので敷居が低くなったといいますか……」 変わり者より知らぬ上級生の方がハードルが高かったのだろう。 バスキア教諭は感覚が分からないのか、小首を傾げていたが。 「脱線したな、続けてくれ」 「はい。うさぎさんたちの食事がまだだったので、飼育小屋の隣にある干し草を抱えて、中へ入ってうさぎさんたちの相手をしていると……」 「わたしが来たってわけ。そこであそ……世話をしていたら、あれ? って……」 「頭数が少ないって事に気づいたのか」 「うん。四羽いる筈なのに、二羽しかいなくて。だから探していたんだけど……」 「見付からないのでこれはおかしいと……」 「で、教室に駆け込んできたって訳か」 うん、と頷く二人。 何か思案している風に眉をひそめるバスキア教諭を見る。 「あ……いえ。ただ生まれた子うさぎが四羽だったんだなぁって」 ――頼んでおいて詳細を知らなかったのかよ。 思わずそう思うも、 (ま、これは世話してるからこそ把握してるってやつか) 正直、関係ない立場だとしたら子うさぎが産まれたと聞くことはあるだろうが、頭数などさらに突っ込まないと知り得ぬ情報だろう。 「あの、他には?」 聞かれ、 「……実はお前たちも独自で子うさぎの件を調べてるって聞いたんだが」 「え」 詰まる沙沙貴姉。$おや、此奴は―― 「独自情報を持っていたら提供して貰いたいんだ。頼む」 「……でも」 沙沙貴姉妹なら首を突っ込んでいると思って鎌をかけてみたが、どうやら正解を引き出せたようだ。 わたしが凝っと沙沙貴姉の目を見詰めていると、 「お願い、沙沙貴さん」 そうバスキア教諭も頭を下げた。 「ぅぅ……」 (おかしいな……) 普段なら独自情報なんてものを持っていたら、自慢げに言ってくる筈だ。 話せないということは……。 「……すみませんバスキア教諭。この後、現場を見て回るときに使おうと思っていた道具を忘れてしまったんです」 「まぁ!」 「わたしの鞄の中に入っているのですが、取ってきて貰えますか? 話は先に聞いておくので、待ち合わせは十分後に学舎前ってことで」 「分かったわ。何だか探偵の助手みたいですね」 笑顔を向けるバスキア教諭。それに比例し顔を強張らせる沙沙貴姉妹を見て、どうにも面倒になってきたな、と心の〈裡〉《うち》で呟いた。 「先ずは現場を探してみようということですね」 妙に張り切るバスキア教諭を尻目に、飼育小屋の周りを見回した。 「ここまで来て網に穴が開いてるとかだったら笑うんだが……」 「八重垣さん?」 「いえ、野犬が襲ったって可能性もありますからね」 言い、バスキア教諭に押し手で補助して貰いつつ、持ってきて貰った鞄に入っていたルーペを使い飼育小屋を子細に検分する。 (しかし……予想通りだったな) 沙沙貴姉の言い出しにくそうな表情から、友人を慮ってか―― 若しくはわたしか、バスキア教諭のどちらかに言い難いことだと考えたが、正解を引き当てた。 (まさかバスキア教諭に疑いが掛かっているってのは予想外だったよな) 笑顔を向けたバスキア教諭を見て強張っていたのを視た時から、バスキア教諭絡みで言い辛いことがあるのだろうとは思っていたが―― まさか子うさぎ消失の犯人候補だとは。 (とは言っても――) 「――つまりお前たちは子うさぎがあんまり可愛いから、誰か自室へ持って帰ったと考えたわけなんだな?」 「うん。連れて行って酷いことをするような人は居ないだろうし、だからついお部屋へ連れ帰っちゃったんじゃないかな、って思ったの」 「です」 「変質者がストレス発散で……ってとか思わなかったのか? よく聞く話だろ」 「人里離れている場所ですし、この学院の生徒でそんな悪さをする人はいないですよ」 「うん。だからわたし的に聞いてまわったんだ。部屋にうさぎを隠してる人はいないかって」 ――それは、 「見付からなかっただろ」 「……うん」 「……です」 当然だ。$隠している当人に行き当たったとしても、貴女が犯人? なんて聞かれて頷く馬鹿はいない。 「でもね! 林檎が訊ね方を変えようって言ったんだ。“絶対に部屋に入れてくれない生徒っている?”って」 どうやら、妹の方は少しは頭が回るらしい。 「それで話を聞いていくうちに生徒じゃなく……」 「バスキア教諭が絶対に部屋を見せないって噂に行き着いた、と?」 「そう! ダリア先生なら部屋に招いて教義の話だとかしそうなのにおかしくない?」 「ま、確かにやりそうな感じはするわな……」 ありそうな光景だけに頭の中でもパっとイメージが浮かんだ。 唸るわたしへ、沙沙貴妹は辺りを見回すとそっと唇をわたしの耳へと寄せて、 「……それと噂ですけどね。ダリア先生の部屋の前で羊の鳴き声を聞いた生徒が居るらしいのですよ」 「――つまり、うさぎと言わずバスキア教諭は動物好きで、部屋に引っ張り込んでるって話か?」 「信じるか信じないかは八重垣ちゃん次第ですよ……」 「妙な台詞で締めるのは構わないけどな、この話、他の生徒たちに広めてないよな?」 「……いやですねぇ」 「……そうだよ、信用してよ八重垣ちゃん」 明後日の方向を眺める沙沙貴姉妹にわたしは思わずため息をついて―― 「破損した箇所はないようですね」 バスキア教諭に耳元で話しかけられ、料理部での話を打ち消すと、そうですねと頷いた。 「穴が開いてたり破損している箇所はなさそうだ」 「ええ」 頷く彼女へ、問い質したい気持ちが浮かぶ。 だが、 (貴女が犯人ですかなんて、考崎みたいな真似はできないしな) それに個人的な見解からしても――もしも本当に動物好きで部屋に連れて行ったとしてもだ。 バスキア教諭の性格なら話を聞いた時点で皆へ打ち明け謝るだろう。 ……いや、 「……もしかしたら言えない理由でも」 「何の理由ですか?」 呟き声が聞こえていたのか、わたしは曖昧に笑みを浮かべて誤魔化す。 (……面倒だな) 今更ながら幾つもの謎を解いてきた白羽に同情した。 よく投げ出さずに調べたもんだ。 「何か分かりましたか?」 「先ほどの沙沙貴姉妹の証言から、わたしたちが世話をした朝七時半から、昼食を終えた沙沙貴妹が訪れた十二時半頃まで――」 「この間に子うさぎが消えたという事になりますが……」 「ほぼ午前中の間の時間すべてですか」 時間から犯人を絞り込むことは難しいと、悩む瞳は暗にわたしへと告げていた。が、 「ああっ、そうです! 学舎からこの飼育小屋に向かうなら中庭を通らなければいけませんよね」 「そうですが、何か……」 「昨日は庭師の方が中庭の剪定をなさっていたのです。一日中作業していたそうですから――」 「午前中誰が通ったか聞けば絞れる、と」 ええ――と喜色満面手を合わせ頷いて見せる。 確かにふるい分けるのは有効な作戦だ。 「お手柄ですね」 「そ、そう? お役に立てたかしら……」 「ええ」 頬を紅潮させ、わたしの手を握ると、 「佳かった」 と呟いた。 近づいたことで匂う濃密な女性の香り。 異性を意識するように同性を意識しているのではと思い立ち、ジワジワと発汗してしまった。 (風呂場じゃないってのに……!) わたしと同じ目線に屈んだことで膝が肉感的な乳房を持ち上げ、視覚的に拙いことになっている。 ――白羽じゃないんだぞ。 春に消えた少女、 匂坂マユリと付き合っていた白羽の顔を思い浮かべると、熱をもっていた肢体が落ち着く。と、 不意に可愛らしくも小さいくしゃみの音が聞こえ、バスキア教諭をマジマジと見詰めてしまった。 「わ、私ではないですよ!」 「いや、別に恥ずかしがる事じゃないでしょう。生理現象ですし」 「ほ、本当に違いますっ」 赤面するバスキア教諭に可愛らしいな、と思ってしまった。 思ってしまった自分に気恥ずかしくなる。 (年上に可愛いってどうよ) と、 再び聞こえるくしゃみに、 「ん?」 「あら?」 二人して顔を見合わせてしまった。 互いに互いの顔を見遣っていた、だからくしゃみをしたのは―― (……まさか、森を彷徨うウェンディゴとか言わないだろうな) 小さなくしゃみがした方をそろそろと注視すると、 親うさぎが鼻を鳴らしているのを見付けた。 「ふふ、ふふふふふっ!」 「せ、先生?」 「い、いえ、ふふ、ごめんなさい。うさぎもくしゃみをするのだなぁって」 ツボに入ったらしく口元を抑え笑い続けるバスキア教諭。 確かにうさぎのくしゃみなんざ初めて聞いたな、とわたしも―― 鼻を鳴らす親うさぎを眺めていると、自分の裡の――何かが引っ掻かれたような気がした。 とても大切な、 「ふふ、んっ、はぁぁ……ぁ、八重垣さん? どうしたの、怖い顔をして……」 「……何でもありません。先生、その庭師の方に話を聞きたいのですけど」 「あ、そう、そうねっ!」 褒められた意見を思いだし、嬉しいのか手を合わせ微笑む。 身に纏うは次女を思い浮かべる雰囲気。 いつもなら大して懐かしくもない故郷を思うところだ。 だが、 (何とか落としどころを見つけられそうではある、な) 裡を掻いた答え、高速で自分が推測した解に誤りはないか検算する。 委員長が探せと言った犯人とやらだ。 わたしの推察が正しいなら――意趣返しにもなるし佳い案だ。 しかし、正しいなら正しいで据わりの悪い結果にもなる。 「それでは行きましょうか」 バスキア教諭に車椅子を押され、夕立がきそうな高い入道雲を見上げ、どうあいつに切り出したらいいかを考えていた……。 “白昼の死角”という同名の小説を映画化したキャッチコピーがふと浮かんだ。 «狼は生きろ、豚は死ね!»――だ。 (古い邦画だが……) あからさまにヒソヒソと悪評の噂話をされては、さすがに佳い気分ではない。 「……ま、流されるのがムカつくだけで、死ねとまでは思わないが」 わたしよりも明らかに敵視されているアミティエの背を眺める。 「…………」 周りに人はなく明らかに浮いている。 まぁ考崎は歯牙にも掛けてないようだが。 (どうしたもんかね) 人の噂も七十五日とは言うが、単純計算で二ヶ月以上だ。 さすがに二ヶ月もこの状況が続くのは勘弁してほしい。面倒だ。 「ごきげんよう」 優雅に手を挙げ朝の挨拶をクラスメイト等にする彼女。 わたしへ気づくとにこりと人好きする笑みを向け、ごきげんようと言った。$しかし、 左隣に座る考崎へは一瞥しただけ、朝の挨拶とやらも口にしてはいない。 「委員長様がこの態度じゃな……」 花菱は意地悪をしているつもりはないのだろう。 只、出した矛の収め方が分からず意固地になっているだけだ。$だが、彼女は級長。 (影響力のあるやつがそうしているなら、私たちも構わないって心理は働くよな……) 委員長の態度故に、声を潜めた噂話は長く止むことはなかったのだ……。 「なぁ、このままで佳いと思うか?」 「何が」 「お前には耳が付いてないのかよ。ヒソヒソずっとやられてたじゃんかよ」 いつものサラダまみれの皿を睨み、哀れなトマトを串刺しにしつつ、 「別に構わないわ」 と言った。 「まぁ、我関せずって態度ではあったけどさ」 「あの程度なら可愛いものだわ。仕事をしていた時はもっとえげつない真似をされたしね」 「へぇ」 正直言うと、そのえげつない真似とやらに興味はあったが、自重しよう。$今は噂話の件だ。 「あのさ、黙っていれば噂は立ち消えると思っているなら、見込みが甘いぜ」 「噂?」 「お前が子うさぎを消した犯人だと思われているやつだよ」 「別にそう思われてもかまわないと言っているの」 分かっていない考崎へ、はぁと一つ吐息をつき、切り分けておいた仔牛のカツレツを一つ頬張る。 「ん……んむ……いいか、お前が“アメリカン・サイコ”のパトリック・ベイトマンだと思われようが、わたしは構わない。だが、」 刹那、白羽の陰が脳裏に浮かぶ。 「わたしも同列に思われるのはゴメンだ」 「では花菱さんに言ったように、勝手に一人で探せばいいでしょう」 「探すには学院内を這いずり回らなくちゃならない。わたしは足がこれだ。自由にできる手足が欲しい」 「興味ないわね」 言い、不味そうにレタスを囓った。 「私にとってここは映画のセットのようなものよ。モブが何を言っていても興味がないわ」 一顧だにしない考崎へ、興味を引くための話題を思料する。 「……お前の好きな唄だけどな。もし合唱部に入ったとしても噂があったんじゃ面倒なことになるだろ」 「唄は一人でも研鑽が積めるわ、問題ない」 「指導者がいた方がいいだろ」 「そもそも私の“唄”と此処の聖歌とではジャンルが違うわ。指導されて変な癖が付くのは嫌よ。それに――合唱部には入る気は元からないわ」 考崎はそう言い切った。 (唄がダメなら……) 「ならバレエはどうだ? 何か戯曲を演じる時、組んで貰えないとかありそうだろ」 「…………」 微かに、だが確かに切れ長の眉が動いたのが視えた。もうひと押しだ。 「そうだな、噂の弊害だと――」 思案するかのようにわたしの昼食を睨む姿に思いつき、レモンを搾っておいたカツレツをフォークで刺し、彼女へと向けた。 「何?」 「一番拙い弊害は、食堂のおばちゃんなんだよな。うさぎを可愛がっていて、よく野菜の切れ端なんかを与えてたよ」 「もしお前が噂の犯人だって分かったら、カツレツにありつけなくなっちまうかもしれない」 「嫌よ」 「お」 「せっかく知った好きなものだもの」 言うと、差し出したカツレツを口にした。 少しだけ緩む表情につい赤面してしまいそうになる。 「よし、契約成立だ」 放課後、話を聴きに行く旨と、現場を見に行く旨を話す。 頷く考崎へ、 「……ま、犯人が見付かりゃいいが」 と懸念していた事を呟いた。$わたしを睨みつつ小首を傾げる彼女へ言う。 「“人”っていう犯人がいない場合もあるだろうが。野犬や突発的な事故からってのも考えられる」 「人でないと拙いの?」 「落としどころとして厳しくなるな。噂を消すには分かり易い犯人が必要だ。事故なら証明は難しいし、野犬は捕まえるのなんざ無理だろ」 軽口を叩くわたしへ、考崎はサラダを弄っていたフォークをわたしのカツレツへと向けた。 「おい」 人の料理に手を出すという無礼な行為に声を荒げると、わたしの言葉を無視し、カツレツをフォークで刺した。そして、 「――もし犯人がいないのなら、こっちででっち上げればいい。貴女そういうの得意そうじゃない」 ミッションスクールで何の気負いもなく背徳の言葉を吐いた。 カツレツを刺したフォークをわたしへと向け、同意を誘う為か初めての微笑みを向ける。 アミティエの言葉にわたしは、 「――ようやく気が合いそうな気がしてきたよ」 そう言うと、差し出されたカツレツを平らげたのだ。 初めて互いの利害が一致したわたしたちは―― 先ずは事件現場と為ったうさぎ小屋の周囲を念入りに探索し、 一番近い施設である温室を調べ、次いで、あの日の足取りを逆に、庭園へと抜ける長い煉瓦通りを抜け―― 学舎前へとたどり着いた。 「どう、何か分かったかしら」 「分かったよ」 刹那、珍しく驚いた顔を見せるアミティエへ、 「何も分からないことが分かった」 と言った。 「何それ、バカみたい」 「現状確認を怠るのはバカのやることだぞ。特にわたしは白羽とは違うしな」 「白羽さんと?」 推理力……というよりも発想力の差だ。 わたしは手持ちのカードからしか考えを巡らせられない。 無いものを在るとして想像できるのは一つの才能だ。 「とにかく概要が掴めただけでも良しだ。それに〈彷徨〉《うろつ》いていたお陰でうさぎ小屋の管理だとかは大体分かってきたがね」 「ああ、上級生へ話しかけていたものね。貴女愛想が良い振りもできるんじゃない」 温室で作業していた上級生へ話を聞いていた時のことを言っているのだろう。 「そりゃ出来るさ。弱者は自分の有効な使い方を先ず知らなくちゃいけないからな。ただお前等には使う必要がないってだけの話さ」 「ふぅん」 鼻に抜けたような声で返事をする考崎。$思うところがあるような態度だが無視だ。 「それと、一応耳より情報ってのは聴けたな。昨日は庭師が一日中、中庭の剪定をしていたんだそうだ。だから――」 「午前中誰が通ったか絞れるかもしれない、ってわけね。重要な手がかりじゃない」 此も重要な要素ではあるが、これだけで犯人が分かるかと言えばそうはならない。 中庭経由で無くとも、うさぎ小屋へは行けるからだ。 「それともう一つ、沙沙貴姉妹と会えたことも嬉しい誤算だったな」 放課後――つまり今だが、料理部の活動が終わってから話を聞きに行こうと考えていた。 (休み時間に聞けるって空気でもないしな) 沙沙貴姉妹は性格上気にしないかもしれないが、委員長を筆頭にピンと張り詰めた緊張感のある中、堂々と事件の話を振る度胸はない。 「先ずは沙沙貴姉妹が事件当日の足取りを話しただろ。それを復唱してくれ」 私が――と不満な顔つきになるも、捜査に協力すると言った手前、嫌だと言えなかったのか考崎は顔をしかめつつ語り出す。 「――まず飼育小屋に最初に赴いたのは沙沙貴林檎。昼食を早くに終え、世話をしに向かった。その時、飼育小屋には誰もいなかった」 「そして彼女はうさぎたちの餌である干し草を抱えて飼育小屋の中へ。食事を与えていると、沙沙貴苺が到着した」 「そこで異変に気づいたんだったよな」 「ええ。子うさぎの頭数が少ないことに気づいた」 ふっと息をつく考崎。そしてもう一つ、と言い微かに笑った。 「有力な犯人候補を得たわ」 望む犯人が浮上したことで嬉しいのか声を張った。 「犯人候補なぁ」 「どうしたの。でっち上げないでも犯人候補が出たのよ。悦ばしいでしょう」 言う考崎へわたしは、 「どうにも眉唾なんだよな」 と言った。$そう、沙沙貴姉妹が話した犯人候補とやらの話だからだ。 責任を感じていたのか定かではないが、自発的に子うさぎの行方を捜していた沙沙貴姉妹。 彼女たちが話してくれたことは―― 「――つまり事故によって逃げ出したと考えたんじゃなく、誰かが子うさぎを持ち出したと考えたわけだ」 そう切り返すと沙沙貴姉は、苦いものを飲んだかのような顔をして頷いた。 「そう。だって子うさぎさん可愛かったでしょ」 「だからつい自分の部屋で飼ってみようって、連れて帰ったんじゃないかって思ったのですよ」 「……ま、ストレス発散で殺して埋めた、とかよりはありそうな話か」 「ぅぅ……! 発想が怖いよぉ!」 「割とよくある話なんだが、ま、いいか。それで……」 「だから聞いてまわったんだ。部屋にうさぎを隠している人はいないかって」 (おいおい) わたしの顔を見て察したのか、しゅんと肩を落とした。 「見付からなかったんだけどね……」 「……ですね」 当たり前だ。隠している当人に行き当たったとしても、貴女が犯人? 何て聞かれて頷く馬鹿はいない。 「でも、今度は訊ね方を変えたのですよ。部屋に絶対に入れてくれない人はいないかって」 「なるほど。それなら当人が嘘をついたとしても、他のやつから聞き出せるもんな」 「でしょ! それで話を聞いてまわっているうちに生徒じゃなく――」 「――ダリア先生が絶対に部屋を見せないという噂を耳にしたのですよ」 ――バスキア教諭への疑い。 「何だか怪しいでしょ? ダリア先生なら率先して部屋に招きそうな感じだし」 「確かに追試がてら教義の話とか、とくとくと話されそうな気もするけどな」 「ですです」 確かに怪しくはある、しかし、 (バスキア教諭が、ねぇ) 善意の人である彼女が……とは考えにくい。$と、沙沙貴姉は辺りを見回すと顔を近づけ、 「……それと噂だけどね。ダリア先生の部屋の前で羊の鳴き声を聞いた生徒がいるらしいんだ」 と言った。 「――それって、バスキア教諭は無類の動物好きで、うさぎと言わず部屋に引っ張り込んでるってことかよ?」 「引っ張り込んでるってちょっとエッチな響きだね」 沙沙貴姉の言葉に、羊を使って肉欲を解消するポピュラーな話を思い浮かべた。 「……いや、アレは男オンリーの話だよな」 「何? 男の子がどうしたの?」 いや、何でもないと手を振る。$そして、ある事を思いついたわたしは、 「一応確認だけど、バスキア教諭が怪しいって話、他の生徒には広めてないよな?」 双子は一瞬、拙いと視線を逸らしながら―― 「お散歩? 仲が良いのねぇ」 唐突にかけられた言葉に、脳裏に浮かべていた沙沙貴姉妹との会話は途切れ、 「ああ、すっかり仲良しさんでね」 と、こちらを見る委員長へ軽口を叩いた。 「そう。アミティエ同士、仲が良いのは佳いことだわ」 「どっちかというと、アミティエでの仲の良さじゃなくて、恋人同士としての仲の良さだよな、ハニー?」 「え」 「貴女は何を言っているの」 煙に巻こうとした意図に乗ってこず、渋面を作りわたしを見詰めてきた。深い吸い込まれそうな緑色の瞳だ。 考崎は場の雰囲気を読もうとすらせずに委員長へ向き直る。 「今は子うさぎを探していたの」 「そ、そう。出任せじゃなかったのね」 勢いで発した言葉だと思っていたようだ。 当然だろ、と思いつつも―― (ま、勢い70、本気30くらいの割合だったけどな) 「……それでどうするの。バスキア教諭を尋問しに行くの?」 「え、なに?」 委員長との話が終わったと思ってか、再び沙沙貴姉妹がもたらしてくれた情報を語り出す。 迂闊な言動もだが、空気の読めなさに、此奴らしいと笑ってしまった。 「クク……! 今まで調べていた事件のまとめをしていたんだよ」 「そ、そうなの」 「ねぇ」 「尋問は後回しだ。現場百遍っていうだろ。とりあえず飼育小屋に穴でも開いてないか調べてから考えよう」 「そんなものあるかしら」 此奴の言いざまはもっともだが、 (現実は詰まらないもんなんだよな) 想像の枠はそう簡単に越えてはいかない。$ありそうな事ってのが一番重要で確実だ。 バスキア教諭のことも疑わしいが、それは後回しで佳い。 (小説みたいな事件なんて実際そうないからな) かつて新聞を賑わせた事件で、殺人事件の現場にとある団体のバッジが見付かった。 いわゆる動かぬ証拠というやつだ。しかし現職の刑事も、記者も犯人がこんなミスを犯すはずがない。これはミスリードだと考えた。 その団体も、事件現場にバッジがあったのは弾圧を掛ける為だと声高に言い、皆その言葉を信じた。 しかし――結果はやはりその団体が冒した事件だった。 (単純明快な推論ってのは、つい穿った目線で視ちまうが、実際は正しいんだよな) わたしは白羽とは違う。 調べた事柄の中で重要だと思うことに付箋をしておく。 温室で上級生から得た情報、そして沙沙貴姉妹の話から得た重要だと思う言葉に付箋を置いていく。 ――犯行時間はわたしたちが世話をした七時半から、昼食を終え沙沙貴妹が訪れた十二時半頃まで。 (ほぼ午前中いっぱい子うさぎを隠す時間があったって事か) 事件、事故の両方の可能性を悩み、地面を睨んでいると、 「ダリア先生に聞きに行っても無駄よ。居なくなった子うさぎの頭数も知らないのだから」 そう背へと言葉を投げつけられた。 「はぁ? 何だって?」 急な言葉に推論をたてるのをやめ、尋ね返してしまう。 「え、聴きに行こうと話していたでしょう。だから無駄足させちゃ悪いと思ったし、その……」 ゴニョゴニョと指を合わせながら上目遣いに言う委員長へ二つの疑問が浮かぶ。 (まだバスキア教諭が怪しいって噂はそれほど広まってはいないらしい) それが一つと、 「……あの人、自分から世話してくれって言っといて子うさぎの数も知らなかったのかよ」 その二点。$天然のバスキア教諭の顔が思い出され、がっくりと肩に重力を感じてしまった。 「あの……。でも他の先生方も生まれたとは聞いても数とかは知らないみたいなの。だから……」 人の良い委員長は、バスキア教諭だけが特別間が抜けている訳ではないと続けたいのだろう。 しかし、 「ま、仕方ないかもしれないか……」 自分も世話をしているからこそ、知っていただけのことだ。 正直、関係ない立場だとしたら子うさぎが生まれたと耳にするまではあるだろうが、頭数など更に突っ込まないと知り得ぬ情報だろう。 そう思い直すも、 「失礼」 不意に頭の上で起きたクシャミに呆気にとられ、わたしも委員長も考崎を見遣った。 「……肌寒くなってきたわね」 「今は七月で一般的には真夏なんだぞ」 「ぁ……でも、確かに肌寒いわよ。ほら、うさぎの話をしてたけど、子うさぎもクシャミしていたじゃない?」 「そうだったっけ?」 言われ―― (待てよ、確か……) 頭の中で付箋をしていた情報が次々と嵌まる箇所を変え、整合性を得るためにシャッフルされる。 そして―― 「……考崎、ちょいと頼みがあるんだけどさ」 「何」 「図書室に行って白羽から頼んでいた本を借りてきてくれないか。わたしは小用があってさ」 「調べ物なら付き合うと約束したでしょう」 「そうじゃないっての。小用って言ったら花摘みだよ、分かるだろ?」 「……?」 「そ、そうね。確かに介助といっても恥ずかしいわよね。考崎さん、わたしも蘇芳さんに用があったの。だから一緒に行きましょう」 「……佳いけど」 考崎への不信よりも乙女のピンチを察してくれる方が強かったのか、押し手を持つ考崎をせっつき、学舎へと急がせた。 「それじゃ頼むぜ、ハニー」 何かを言いたそうな考崎を無視し、車椅子を進ませた。 押されていた時よりも明らかに重さが違う。当たり前か、いや……。 腹の底に詰まらないものが溜まっている所為だ。 頭の中の付箋をまとめると目指す場所へ向かった。 自室にて、望む本を手に入れ、もしかして――と考えていた項目を読み進める、と。 「予想通りか……」 必要な情報を抜き出し、繋げ合わせた結果、自分の推測が正しいと識る。 (だが、ま、どうしたもんかね……) この答えではあまり嬉しくない結末だ。なら、 意趣返しを考えてもいい。 「どこかの犯罪心理学者が言っていたな、突発的な犯行でも男は計画的。計画を練った犯行でも女はどこか感情的だって……」 そしてこれも感情的な流れが視える犯行だ。 「面倒臭くなってきやがったな」 日が傾き、長い影が部屋の中に伸び、わたしを包む。 肌寒さを感じたわたしは、涼風にそよぐ木々を眺めると、そう呟いたのだ……。 犯人の当たりをつけた翌日、 昼食前の一番腹が減る時間に空腹を我慢しながら、車椅子を繰っていた。 次の授業、聖書の授業の為だ。 「……ちょうど佳い時間がこの時間だったから、しょうがないけどな」 呟き、聖堂へ向かう。 これから一仕事しなければ為らないのに、空きっ腹でやるしかないことに辟易はしていたが。 エントランスを抜け―― 学舎を出る。 中天の太陽はさっぱりとした強い日差しで、緑を照らしていた。 反射からか日差しに当てられ輝く学舎を眺め、ふと―― 「八代譲葉の事件を思い出すな……」 もう大分前のことだと思うが、まだひと月も経っていない、八代譲葉殴打事件。 あの時と似たような状況に長い吐息を漏らす。 親友の汚名を晴らすために、小心者ながら皆を前に引かなかった書痴仲間を思い浮かべた。 猫のようだと人には呼ばれる笑みを浮かべる。 (さて、本番に入る前に、一つリハーサルと行くかね……) そもそもとして、事件の起こりを考えてみよう。 これを明確にしておかないと、クラスメイトの前で事件解決を披露する、しない以前の問題だ。 わたしは――真実よりも、この件を治めることを大前提としている。 となれば尚更、真実を確認しておく必要がある。 «うさぎの消失は事件、事故?» 意図的に起こした事件 人が起こした事故 動物または自然が起こした事故 そう――そして治める方向としてとある人物がミスをした、という事にしなければ為らない。 いや、ミスは犯していたのだ。自らが知らないだけで、うさぎの消失で虚偽の申告をしていた者。 その者を糾弾し、場を治めなくては為らない。 «うさぎの消失で虚偽の申告をしている者は?» 沙沙貴姉妹 バスキア教諭 考崎千鳥 頭の中で付箋をたぐり、もう一つ納得させる為の、重要な説得力を持たせなければ為らないと考えた。 うさぎの消失を論じ場を沈めるには、等分の痛みを――猛毒ならばそれを薄めさせ、精々腹が壊れるほど程度の微毒に替えなくては為らない。 «うさぎの消失に関わっているのは?» 以前世話をしていた上級生 野犬 この中には含まれない バスキア教諭 「――とりあえず話の筋はこんなものか」 何も徹頭徹尾、真実である必要もない。$ある程度は出たとこ勝負といこう。 わたしは遠く聖堂を眺め、車椅子を繰った……。 「――ま、こんなところか」 頭の中で組み立て終えると、わたしは中天の太陽を一つ睨み、聖堂へと向かった……。 考崎が唄うアヴェ・マリアの最後の一音が聖堂内へと染み渡り―― 「ありがとう御座います、考崎さん」 以前あった事と同じ言葉を、バスキア教諭は一言一句違えずに言う。 (あの日の繰り返しみたいだな) 考崎があいつ――匂坂マユリの名を聞き、訊ね、拗れたすえに飼育当番にさせられた日だ。 違うことは、 拍手の数と、憧れから敵視に変わった目だ。 歌声を披露していた考崎は壇上からわたしたちの元へと戻り、訓話をするバスキア教諭の顔を視た。 苛立つことに苛立った目。 (こいつがさっさと打ち明けていたら) そう思うも、自分の想像で決めつけているのだと思い、苦笑った。 「……何を笑っているの」 「……笑っていない、嗤っているんだよ」 意味が分からないと眉根を寄せる。$そりゃそうだ、ニュアンスの違いだからな。 「――では、何か質問のある人は居ませんか」 バスキア教諭の声にパラパラと挙手する生徒たち。わたしも手を挙げ、 「あら、嬉しいですね。それでは八重垣さん」 善意の塊である彼女へ、手を挙げたままわたしは、それでは――と声をあげ、 「子うさぎが消えた件が解決しましたので、ここで述べさせて貰っても佳いですか」 と宣言した。 暫しの静寂の内、 聖堂内に常とは違う昂ぶった声音が響く。 「――静まりなさい。神の御前ですよ」 小さくだが、決然と言うバスキア教諭の言葉にぴたりと声は静まる。が、 「子うさぎが見付かったのっ?」 そう詰め寄ってきた。$彼女が昂ぶっているのは―― (白羽……) 自分のアミティエがわたしの報告によって救われると思ってのことだろう。 バスキア教諭の叱責で委員長は口を閉ざすものの、わたしを見る目はどこか縋っているようにも視えた。 「この場を借りて、事の次第を話しても宜しいでしょうか、シスター」 わたしの言葉に、バスキア教諭は珍しく眉根を寄せ、一度十字架のキリスト像を見上げるも―― 「――分かりました。了承します」 と頷いた。 わたしは、バスキア教諭のいる壇上とクラスメイト等が居る中間程まで車椅子を手繰った。 沙沙貴姉妹、書痴仲間、花菱立花、考崎千鳥、新しく転入してきたクラスメイトたち―― そして敵視しているようにも愉しい玩具を見詰めるようにも思えるその他のクラスメイトらの顔を眺め、 「――そもそも、」 「そもそも、この事件に明確な犯人は居ないんだ――」 と告げた。 「それって……どういうこと?」 「……もしかして、野犬に襲われちゃったってこと?」 沙沙貴姉の言葉にざわつくものの、手を欧米人のように大きく開き、違うとジェスチャーすることでざわめきは止まった。 「飼育小屋で真相を明かすと約束してから、沙沙貴の言うように野犬の仕業かもと飼育小屋の周りを調べてまわったり――」 「生徒ら、そしてこの学院に従事している者たちから色々と話を聞いてまわったよ」 「何か……分かったのね?」 委員長の言葉を聞き流し、とりあえず事件の起きた日の出来事を振り返ってみようと告げた。 沙沙貴姉妹から聞いた事件当日の流れを皆に伝える。 静まった聖堂内に、場にそぐわない異質な語りが響く。 「――おおよその流れは分かったわ。朝世話をした八重垣さんたち、そして昼食後に様子を見に行った沙沙貴さんたち……」 「つまり八重垣さんたちが世話をし終わった七時半過ぎから、沙沙貴さんたちが行くまでの十二時半までに子うさぎが消えたという事ね?」 まとめてくれたことに、感謝の印として軽く拍手をする。 巫山戯ていると思われたのか、やや目はきつくなったが。 「それって……あの日、午前中の間に飼育小屋に行った人が犯人だということ?」 クラスメイト皆、休み時間を利用しては遊びに行っている。 互いに疑惑の目を向けるのも仕方がない。 だが―― 「……誰が行ったのか、もう少し絞れそうなんだ」 「え、どういうこと……?」 「調べてまわった結果分かったんだけどさ。うさぎが消えた日、学舎前の庭園で剪定――庭師をしていた人がいたんだよ」 「ん……あっ、そういえば確かに作業してたね!」 昼休み、皆は慌てて学舎を出、庭園を抜け、飼育小屋へと向かった。 その時に目にしていたのだろう、クラスメイト等も興奮気味に頷く。 「つまり、その庭師の人に聞けば誰が通ったか分かるし、犯人が絞り込めるという訳ですね」 「凄いじゃない! これで一気に解決ね!」 再び起こるざわめきとともに、委員長は興奮気味に言うものの―― わたしは悲しげな顔をしている白羽を眺め、小さく首を振る。 「確かにあの日、世話をしていた者から絞り込めるかもしれない。話通りならね」 「? なら……」 「だが、そいつは沙沙貴が話してくれた話が本当だという大前提のものだ。嘘をついていないというお約束の元での話なんだよ」 「え、ちょ、八重垣ちゃん!?」 「わ、わたしたちは嘘を吐いてなんかいないですよ」 喚く双子を無視し、子うさぎが居なくなった理由はくだらないほど単純なんだ、と告げる。 「単純、ですか?」 今まで話に入ってこなかったバスキア教諭は沙沙貴姉妹を宥めながら尋ねてくる。 「はい。これは故意的な事件ではなく、野犬が起こした事件でもない。人が悪意なく起こした事故だったんですよ」 「事故、なのですか……?」 「ええ。此処にいるクラスメイトの大体の者が、飼育小屋へ世話をしにきてくれた。だよな?」 クラスメイトを端から端まで眺めると、下を向くものや神妙な顔、怪訝な顔つきをするもの、気分を害したように睨むもの、多様な目が視えた。 (重度の人見知りの白羽が、よく耐えたもんだ) 多勢に無勢ってのは結構くるものだなと感想を抱くも、白羽をふと思い浮かべ、つい笑みを浮かべてしまう。 「八重垣さん――」 委員長は急いているのかおさげを弄りながら促してくる。 「世話と言っても大体のことは考崎とわたしで行っていたので、皆は餌を……干し草を飼育小屋の中へと持っていってあげてた」 「それで間違いないよな」 わたしの言葉にクラスメイト等は思い思いに頷く。 「で、干し草を持っていった皆は、全員が全員、わたしが知っているだけでも、こうごっそりと持ち運んでいった」 「全員って……」 「全員は全員だよ。別におかしいことはない。皆は二年生が世話をしていた時はこなかった。わたしたちが世話をしてから来だしただろ?」 「その時、考崎が干し草をやっているのを視て、皆、ああ、そういうものかって真似したのさ」 ジェスチャーで表現するとクラスメイト等は頷く。頷いていない者もいるが黙っている所を見ると承知したのだろう。 わたしはもう一度皆の顔をゆっくりと見渡すと、 「そして〈干〉《ヽ》〈し〉《ヽ》〈草〉《ヽ》〈を〉《ヽ》〈や〉《ヽ》〈る〉《ヽ》〈際〉《ヽ》〈に〉《ヽ》〈子〉《ヽ》〈う〉《ヽ》〈さ〉《ヽ》〈ぎ〉《ヽ》〈が〉《ヽ》〈紛〉《ヽ》〈れ〉《ヽ》〈た〉《ヽ》」 と告げる。$刹那、時が止まる。$呆気にとられ、そして各々逡巡の時が過ぎ―― 「……え、なんで? それっておかしくない?」 分かっていたことだが、そう反論が為された。 「です。紛れるなんてこと……だって、飼育小屋の隣に置いてある干し草をあげて? どうして……」 「言ったろ、単純なことなんだよ。考崎の餌のやり方をみて、皆真似をした。でもな、干し草が湿ると食いつきが悪くなるっていうんで――」 「食べ残った干し草は、また飼育小屋の隣へと日干しさせてたんだよ。つまり……」 「何度も干し草を飼育小屋へ、余ったらその都度外に出して日干しさせる……を繰り返していたことで、子うさぎが紛れてしまったってこと?」 「ああ。あいつら大きく為ったっていっても、まだ手のひらサイズだろ。湿った干し草を乾かすんだから、ごそっと奥から掻きだして――」 「飼育小屋の隣へと干し草を移動した」 居なくなった事が自分たちのミスだと分かり、皆蒼い顔をし黙り込む。 (元々、飼育小屋から干し草を持ち出し乾かしたのは考崎だから……) 責任の所在で言えばやや考崎に非があるとはいえ、自分たちも関わっていたと知ってしまえば糾弾する事もできなくなる。 「……人が起こした事故。あ、でも、干し草を入れて出して……を繰り返して起きた事故なら、誰が起こしたか分かると思うわ!」 「子うさぎが消えた日の、朝から午前中に飼育小屋へ行った生徒を割り出せばいいってことだろ。庭師の証言も得られそうだしな」 「そう! そう……よね……」 悦びが尻すぼみになる。 早い話がこの中で“事故”を起こした犯人捜しをしようと宣言してしまった事に気づいたからだ。 委員長は気まずそうにし、泰然とするバスキア教諭を見遣った。 バスキア教諭は――トパーズの瞳でわたしを見詰める。 糾弾する空気を治める為にわたしは意図して笑ってみせた。 「――ま、そこで沙沙貴が話したことが大前提になっている。朝から午前中での事故が間違いだって話をしたのさ」 「え、だって……」 「此処は空気を読むところかもしれないですけど……やっぱり嘘は言ってないですよ」 だろうな、とわたしは頷く。$肩すかしを食らった双子姉妹は、え、と惚けた目をわたしへと向けた。 そして、当事者と名指しされても尚、我関せずの構えを取っているアミティエへとわたしは顎で指したのだ。 「嘘を吐いていたのは、此奴――考崎千鳥だからな」 「それって、あ、もしかして……」 「さっきの話なら、世話をするのが面倒でわざと干し草に紛れさせて……ということに」 「そんな、酷い……」 「…………」 否定も肯定もせず只凝っとわたしを、わたしの向こう側の何かを見詰める考崎。 ざわめきが徐々に起きつつある事を確認すると、わたしは、此は事故だって言っただろ――と委員長へ、皆へ呼びかけるように告げた。 「此奴……考崎は嘘を吐いてたって自覚がなかったんだよ。そう思い込んでいただけなんだ」 「……ごめんなさい。わたしたちに分かるようにいってくださる?」 「嘘を吐いていたってのは、大前提となった時間、朝七時半から正午――十二時半の間っていう消えてしまった時間だ」 「実際はうさぎが消えたのは、朝から正午ではなく――ずっと前に消えてしまっていたのさ」 委員長だけではなく、沙沙貴姉妹を含めた皆も苛立つことに苛立った目を向けている考崎を見遣る。 「それは、その……朝、子うさぎが居たって証言が嘘で、もうその時には居なかったってことだよね?」 「そうだ」 「居たわ」 こちらを睨め付けてくる考崎へ、小さく嘆息して見せた。 「違うね。“居たように見えた”が正解だろ」 「…………」 わたしはバスキア教諭がいる壇上へと向かいながら、わたしも最近気づいたことなんだけどな――と誰とも無しに言う。 「此奴は、考崎千鳥はかなり目が悪いんだよ」 重い告白をすると思っていたのか、委員長は刹那、呆けた表情を見せた。 「皆も、此奴、随分目つきが悪いやつだなって思ったことなかったか? 何ていうか睨むのが基本みたいなやつだって」 「それは、まぁ……」 委員長の言葉に皆も同じ事を思っていたのか、互いに顔を見合わせ頷き合う。 ――苛立つことに苛立った目。 「わたしもそう思ったよ。取っつき難いやつだなってさ。考崎、此奴が何本に見える?」 壇上から片手を挙げ、指を突き出す。$考崎は睨み――いや、目を細め、 「四本」 と、三本指を立てているわたしへと告げた。 「――ま、こういうことだ。乱視だか遠視だかしらないけどな、此奴の言う“居た”が信用できないのは分かっただろ」 「…………」 苛立つことに苛立った目、いや、今となっては真意を探るように窺っている目を感じながら、壇上から皆の元へと車椅子を進ませた。 「目が――目を細めていた? それじゃ、思い違いをしていたってこと?」 「本人は嘘を吐いていたとは思っちゃいない。こいつは本当にそう思っていたんだ」 独白めいたわたしの言葉に、シ……ンと聖堂内に静寂が充ちる。$ややあって、 「朝、確かに居たという発言が覆るのだとしたら……」 「もう誰が直接の犯人だとかは調べられないってことさ」 「それは……」 「その方が佳いだろう。分かるよな、委員長」 言葉の真意に気づいたのか、委員長は苦虫を噛みつぶしたような顔を見せるも、頷く。 (子うさぎを消してしまう原因を作った犯人は分からないままの方が佳い) 事故とはいえ、結果死なせているかもしれないという重みには“個人”では耐えられないだろう。 (だから、全員の責任として“罪”を薄めれば佳い) わたしの意図を察したのか、委員長やバスキア教諭は目を伏せながら頷いた。 ようやく面倒も終わったか、そう思い小さく、だが深い吐息を漏らすと―― 「……子うさぎ死んじゃったのかな」 そう囁くような声音が静かな聖堂内に響いた。 「ぁ……ぅ、苺さん……」 罪悪感から吐かれた言葉。 その台詞は皆の胸に突き刺さる。 確かに生後間もない小動物だ。順当に言えば―― 「お前は心配性だなぁ」 「え?」 「動物モノのテレビとかで見たことないのかよ。草食動物は敵に狙われやすいから、生後すぐ独り立ちするんだよ」 「そうじゃないと野生では生きられないんだ。分かる?」 「そう……なのですか?」 「おおよ。世話してたんだから知ってたっての。考崎が首っ引きで飼育マニュアル読んでただろ。本好きとしてはわたしも熟読したからな」 「そう、なんだ……。それじゃ……」 「ああ、生後十日もすれば離乳もするし、それに飼育小屋の近くは草もいっぱい生えてるだろ? 今は夏場だから食い物には困らねぇよ」 「案外、狭い小屋暮らしより、のびのびやってるかもしれないぜ?」 「佳かった……」 誰かが声を上げた途端、霧が晴れるように重苦しい雰囲気は打ち払われた。 安堵し顔を見合わせる沙沙貴姉妹。両手で手を合わせ祈りの言葉を呟く委員長。 バスキア教諭も瞳を閉じ祈りを捧げているようだ。 「……白羽」 子うさぎが消えたことでショックを受けたのではないか、と思っていた書痴仲間は―― 「――ありがとう」 小さく、だが、確かにそう聴こえた。 何故だか赤面し、車椅子の向きを変えると、 「…………」 黙したままわたしを注視するアミティエと目が合った。 「……黙ってろ」 空気の読めないアミティエは――ふっと視線を外すと、黙したまま十字架の殉教者を見上げたのだ……。 ――結局の所、 わたしは白羽には為れなかった。 いや、為ろうとしなかったのがいけなかったのか、と考える。 自分の考えた推論はある程度は正しかったのだろう。だが、完全に解を導き出してはいなかったのだ。 聖堂で子うさぎの消失は考崎のしたことではなく、場を納める為、皆が一様に罪を背負うべきだと話を持っていったのだが……。 蟻の一穴というやつか、小さなボロを突っ込まれクラスメイト等の意識を誘導することはできなかった。 「それでは考崎さん。続けて読んでください」 「はい」 バスキア教諭に促され、考崎が英語をたどたどしく読んでいく。 考崎が指名されてから、そして音読している間の教室の空気は、静寂とは別の静けさが広がった。 (台風の前の、か……。やすい喩えだぜ) 「はい。ありがとうございます。では、次は手島さん。今考崎さんが話した文を訳してください」 授業は滞りなく進む。$あいつが好きな英語の授業。 だが、 「……ちっとも面白くねーし」 これまで考崎に無理矢理連れられてきた授業だが、わたしはこれから二度と受けないことを決めたのだ……。 ロシアの劇作家チェーホフの言葉で、«物語の中にライフルが出てきたら、それは発射されなくてはならない»というものがある。 此奴は、物語の中で必要のない小道具は出すなという意味合いで使われる言葉だ。 わたしも―― 先を行くやつを追いながら、自分の行動があまり意味のない事だと分かっていた。 だが、チェーホフの言葉としてなら、 «もしそこにライフルが出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある» と言うことだろう。 謎を幾つか残したままで終わった子うさぎの消失。 収まるところには収まったし、拭うべき誤解も拭えた。 だから、此は―― (自分に対する、いや、動かした舞台に対するけじめってやつかね……) 誰に、何に対してなのかはわたしにも分からない。 只、寄宿舎を抜け出し先を行くあいつに、拳銃の所在を問い質したいだけ。 一定の距離を取り、尾行を続ける。 わたしの予想通り、あいつは寄宿舎から学院側でなく、街へと続く小道を行った。 木を隠すなら森の中との言葉もあるが、人の目に触れない場所の方が佳いに決まっている。 先を行くあいつを視、わたしは何故こんな真似をしたのかを考える。 皆のミスから起きた消失だと推論したわたしの推理。 ――あれはブラフだ。 等分の痛みを皆に負わせるための推論。 本当の理由、 実際に起きた子うさぎの消失の真相は――裡を掻くような引っかかり、とある疑問から浮かんだ。 そしてその疑惑は確かな像を結んだのだ。 «うさぎの消失が起きた理由» うさぎが病気に罹っていたから バスキア教諭が拐かした 花菱立花が拐かした そう――そう考えれば、話の筋道が見えてくる。 動機は未だ曖昧模糊として分からないが、あいつが子うさぎを消す理由にはなる。 そう、やつだ。 «うさぎの消失の犯人は?» 考崎千鳥 バスキア教諭 花菱立花 ――はじき出された解は、何かが足りない気がする。 だが、此はわたし自身が欲しているけじめというだけだ。収まるべき所には収まった。 すっきりする解が欲しいだけ。 わたしは小さく吐息を吐くと夕映えの林道を眺めた……。 頭の中の像が明瞭になる。 何故こんな真似をしたのか問わなければ為らない。 予想通り脇道へと抜けていく姿を見、わたしも脇道へと逸れるために、車椅子の車輪を繰った……。 巨木に寄り添うようにしてあいつは佇んでいた。 夕日に照らされ巨木の根元を見詰めるあいつの表情は―― やはり、苛立っていることに苛立っているように見えた。 目をこらしているのではなく、自分が行っている事について感情が割り切れずに、戸惑い苛立っているように。 「――考崎」 わたしが呼びかけると、考崎は古い友人と出会ったかのように瞳を細めた。 (いや、それこそ感傷が視せているだけだ) 呼びかけたわたしは凹凸のある地面に気を付けながらアミティエの元へと行き、 「ライフルの回収に来たぜ」 と告げた。 「何を……言っているの?」 「いや、それこそこっちの話ってやつか。ま、何だ。据わりが悪いからさ。何であんな真似をしたのか聴きにきたんだよ」 木に寄り添うように佇んでいる考崎は何も答えない。 只、わたしの顔に書いてある真意を読み取ろうと凝っと眺めるのみだ。 「此処にわたしがいる時点で分かるだろ。お前がさらった子うさぎの件だよ」 「あの話は――済んだことでしょう」 「ああ、対外的にはな。あの結末はわたしが望んだことだ。でも、真相ってやつも明かしておかないと据わりが悪い」 「なぁ、考崎。居なくなった二羽の子うさぎはもう――亡くなっているんだろう?」 「…………」 既に終わっている事として語る気はないらしい。わたしは黙したままの考崎へ、宿題として残った“ライフル”について話す。 「クラスメイト等へ話した、外に出した干し草に紛れて子うさぎが逃げてしまったってのは出鱈目だ」 「だとすると、何時いなくなったかって事がやっぱり気になるよな」 「…………」 「正直、何時消えたかなんて確かなことは分からない。でもな、頭の中の付箋を手繰っていった結果――」 あることが気になった、と結ぶ。 そして西日に照らされた膝の上にのせた“本”を撫でた。 「わたしたちが疑われる事となってから、学院内に何か手がかりになるものはないか探した。そこで――くしゃみを聴いた。うさぎのだ」 「飼ったことはないから、初めはそんな事もあるんだなと思っていたが、とある示唆を得た」 膝の上に置いておいた本を考崎へと掲げる。 やつが首っ引きで読んでいた動物飼育マニュアルの本だ。 「うさぎのくしゃみについてだがな、スナッフルという症状の項目でこうあったよ。パスツレラという細菌による感染症――」 「副鼻腔に感染すればくしゃみを起こし、内耳に感染すれば斜頸を起こす。更に内臓に感染すれば死に至るような病態を示す……」 掲げた本の内容に考崎は何の感情の変化も視せず、わたしは本を膝の上に置くと、小さく、だが長い吐息を漏らす。 「成体なら元気になれば症状が治まる事はあるらしいが、老体や子うさぎのような幼体ならどうだ?こいつは感染症だ。なぁ考崎――」 「お前、消失の前日に子うさぎが亡くなっていたのを見付けて埋葬したんだろう?」 「…………」 わたしの言葉にも、やはりアミティエは沈黙を守ったままだ。 まるで黙っていればこの件が解決するだろうと考えているように。 「今思えば、くしゃみをしだした親うさぎと子うさぎを離して、隔離していたし……」 「……バスキア教諭」 「あ?」 「バスキア教諭の件はどうなったの? あの人が怪しいという噂もあったじゃない」 当然問われるだろうな、と思っていた話題。$むしろクラスメイト等を丸め込んだ時に聖堂内で訊かれるかと思っていた話だ。 (……さすがに面と向かって担当教諭が怪しいなんて言えなかっただけだろうが) 当然、バスキア教諭の件も調べた。調べた結果、 「あまり面白い話じゃないんだがね……」 「へぇ。どんな詰まらない話なのかしら」 件の話を沙沙貴姉妹から聞いた後、わたしは直接その目で確かめに赴いた。 シスターの部屋はわたしたちの部屋よりも年季が入っていたのか、ドアの鍵が古く解錠することは容易かったのだ。 「呆れた……勝手に入ったの。泥棒みたいに」 「雑貨屋に置いてある金庫の錠前のようなチャチな作りだったからな。楽勝だったよ」 芸は身を助くというが、一時鍵開けに嵌まっていたことが功を奏した。 「部屋の中に踏みいって直ぐ、部屋に招きたがらない理由ってやつが分かったよ」 「羊でも飼っていたわけ?」 彼女も鳴き声のことを知っていたのだろう。$だがわたしは首を振り、只恥ずかしかったんだろうなと口にした。 「何が?」 「うん……その……こいつはプライベートなことだ。他言無用だぞ」 「問答無用で踏みにじっている貴女に言われたくないけど、黙っているわ」 表情を変えない考崎へ、バスキア教諭の部屋一面にテディベアのぬいぐるみがあったことを告げる。 「何ですって?」 「何度も言わせるな。ま、年齢の事を考えると招いてバレるのも恥ずかしかったんだろうよ。それと、羊の鳴き声は……」 「……グロウラー」 知っていたことに説明が省けほっと安堵する。 「ああ。何でか知らないが熊のくせにこう体を傾けると羊の声で鳴くんだよな。つい落とした時に鳴かれたんで肝を冷やしたぜ」 正直、グロウラーという知識がなかったわたしは大いに驚いた。考えてみたらぬいぐるみを一つも貰った覚えがないような……。 「……とにかく、バスキア教諭の疑いはお前の言う詰まらない話ってやつだったよ」 「ま、わたしから言わせれば変わって見える事件も偶然が積み重なってそう見えているだけ……」 「一つ一つ明かしてみたら、そりゃ詰まらない話になるだろうさ。で、だ――」 今度こそ訳を話してくれるだろうな――そうアミティエへと切り出す。 考崎は苛立つ――否、視力の悪い目を細め、巨木の根元へと視線を向けた。 「スイートピーか、たむけの花だな。花言葉はお前らしいが……」 「花言葉……?」 尋ね返すアミティエに、つい笑ってしまった。$意味は知らないらしい。 猫のような笑みは動物を怖がらせる。 考崎は詰まり、刹那年相応の臆病な少女の目をするも、直ぐにいつもの無感情な顔を見せた。 「――貴女の言う通りよ」 「そうか。此処に眠っているんだな」 しばし巨木の根元へと黙祷する。$神なんざ信じちゃいないが、これくらいの融通は利かせて貰えるだろう。 「……で、訳を話して貰えるか? 本当にパトリック・ベイトマンになっちまった訳じゃないだろ」 「――ったからよ」 「何? 聞こえないぞ」 「白羽さんを悲しませたくなかったからよ」 「お前……」 考えていた幾つかの理由から一番遠いものを提示してきた。$白羽を悲しませたくないからだって? 「そんなに可笑しいかしら」 「そりゃ……そうだろ。お前、人の事なんざどうだって佳いってやつじゃないかよ」 「ええ、そうね。間違ってないわ。でもね、私だって罪悪感くらいは受けるのよ」 人間なのだから、と続けた気がした。 「聖堂の、聖書の時間の時、辞めちまった匂坂マユリを尋ねたことか……?」 「今でも何が悪いかは分からない。どんなに親しくても同級生が居なくなったくらいのことだし。でも、」 ふっと強張った相好を崩し眉をひそませた。 「白羽さんが悲しんだのは事実なのでしょう。だから、その上――」 「あいつが可愛がっていた子うさぎが死んだなんて言えなかったってことか」 思ってもいなかった理由に頭を掻き、元々ざんばらな髪をクシャクシャにする。 (自分の不手際で、病気で死なせたから黙って埋めたとかだったら……) 墓の前で謝らせた上で、脅してこれからの学院生活をやり易くしようと思っていたが……。 「……ま、亡くなったと分かるよりも、今のまま、元気でいるかもと思わせておいた方が佳いよなぁ」 「ええ」 嘘で押し通すことに異存はないのか頷く。$わたしは、スナッフルのことは報告しとくぞと告げた。 「それはもう寮監に告げたわ。きちんと対処もしてくれるって」 すべきことはした。もう行き場のなくなったライフルに弾丸は入っていまい。 そう考えた刹那、 「――それに」 斜陽の陰に紛れたアミティエは、終えた話を続けた。 「あ?」 「もう一つの訳よ。美人が悲しむ姿はあまり見たくない。でしょ」 「美人って……」 「初めて見たときは驚いたわ。同世代であんなに綺麗な人みたことがなかったもの」 微かに笑みを浮かべるアミティエへ、わたしは狼狽していた。 こいつでも美醜について思うことはあるのかと。いや、アミティエの口から白羽への評価を聞いたからだ。 (確かに……) 書痴仲間の姿を浮かべ思う。 白羽蘇芳と同程度の顔立ちのやつはこの学院にもいる。八代譲葉しかり小御門ネリネしかりだ。 だが、白羽の美しさは毛色が違う。心の中で大切にしている原風景に触れるような、何処か切ない気持ちにさせる美しさなのだ。 だから誰もが目を惹かれるが、触れ、話しかけることを許さない。 「真相を皆へ話さないのね」 アミティエの言葉に、白羽の幻想を消されたわたしは、ああ、と首肯する。 「自分で自分の立場を悪くすることもない。知らぬが仏ってやつだよ。クラスメイト等も知れば、こっちを非難するやつもいるだろうが……」 「自分たちが信号を見逃した所為だって苦しむやつも多いだろうしな」 流されやすくはあるが、人は佳い……のだと思う。全員に薄い毒は飲ませた。これで充分だろう。 わたしから視線を外し、また巨木の根元、スイートピーの切り花を見詰めるアミティエに、 (初めて此奴の人間的な部分に触れた気がしたな) そう感じた。$表情を変えない、空気を読めない、押しつけられたアミティエ。 「何?」 「ん……。いや、お前も人間だったんだなってさ」 「…………」 再び呆れてみせるアミティエへ、わたしは手を差し出す。 「何?」 「見て分からないか、片手じゃ握手はできないだろ」 「……そうね」 残日に照らされたアミティエの表情は陰を作り、何も見えなかった。 「二人だけの秘密だ」 軽口を叩くわたし。$手を握る考崎千鳥の表情は―― そうか、そうだな。 悲しくないわけがないよな。 握る手に、〈慚愧〉《ざんき》の念を感じながら、わたしは白羽には為れないなと思った……。 君の話すことは、全部本に書いてある。君から学ぶことは何もない 映画“グッド・ウィル・ハンティング”での台詞だが、この言葉には大いに賛成する。 本を読み、熟知すれば大概のことは上手くいく。此は経験則だ。 だが、 「……一つだけ本にも書かれてないことがある」 わたしはそれを訊ねに向かったのだ。しかし、彼女は何も語らず、本心を何も明かそうとはしなかった。 「物語の中にライフルが出てきたら、それは発射されなくてはならない、か。今はそういう時代じゃなくなっているのかもな……」 収めるべき所に収めようと思った行為だが、何も解決するだけが正しいことではないと顔を叩かれた思いだ。 チェーホフの時代とでは小説作法も変わってきている。当然の帰結かもしれない。 「つまんねーこと聞くなよ」 そう、真実を訊ねにいった彼女へ言われた気分だ。 不思議げに覗き込むうさぎを猫の笑みで怯えさせると、わたしは詰まらない日常へ帰っていった……。 グリム童話に�千匹皮�と呼ばれる一篇がある 王妃が息を引き取る間際、自分と同じような美しい女性でなければ再婚しないでほしいと遺言を残した 王は王妃のような美しい女性を見付けることが適わず再婚せずにいたが、王妃によく似た娘と会い、再婚相手にと決める 娘は王との婚姻を避けるため、月のドレス、星のドレス、太陽のドレス、そして―― 千種類の動物の皮で作った毛皮のコート、千匹皮を作らないと結婚はしないと難題を突きつけた しかし王はその難題を解決し、婚姻を迫る。娘はドレスの力を使い幾度も難を逃れるものの―― 最後は千匹皮のドレスに着替える時間をとれず王の后となってしまう どれほど厭うていても、思考を巡らしても、覆ることがない結末 これから始まる物語は――終わった物事を覆そうと心に決める、哀れな娘のお話 ――子うさぎの消失事件から数日が経ち、 変わらぬ日常を送っていた。 わたしにとってはまだ馴れぬ日常だが、 (真面目に授業に出てるなんてな……) 考崎が風呂以外の介助を行い、教室までわたしを連れて行くのも日常化した。 初めは驚いていたクラスメイト等も、今ではわたしが教室にて授業を受けていることが当たり前なのだと受け入れていたのだ。 「……マクベスの三人の魔女」 シェイクスピアの戯曲、マクベスの冒頭で語る三人の魔女。 まるで世界という版画の中に溶けてしまったかのように唐突に消えてしまった魔女たち。 子うさぎたちも魔女たちと同じように存在を忘れられていた。 (いや、それで健全なのか) いつまでも囚われていると心を病む。$そう、白羽の―― 「調子はどう?」 軽やかな言葉に物思いをやめ、 「マラソンは無理だがまずまずだよ」 と返した。 「そ、そう」 「おい、ちょっとした軽口だよ。真面目に受け取るな」 レオタードに身を包んだ委員長は渇いたような笑みを作る。 最近は口の悪いのを相手にやりあっているから、これが普通になっていた。$気を付けるとしよう。 「なぁ、それより一つ質問があるんだが……」 「なぁに?」 「わたしのアミティエがおろしたてのトゥシューズをハサミで傷つけてるんだが、暑さでついに頭にキたのかね?」 「ふふ! 違うわ、あれは滑り止めの為にやっているの。新品の爪先は滑りやすいのよ」 「へぇ、佳かった。自分のアミティエがおかしくなったんじゃないって分かったよ」 「ふふっ、やだわ」 委員長がわたしの肩に触れ笑う。 長女が家でやっていたのを見たことがあるから、きちんとした理由があるのだろうなとは思っていたが……。 妙な空気を飛ばすくらいにはなったらしい。 軽い雑談を続けていると、先生遅いね――と話に混ざってくるやつが。 「皆、着替え終わってからけっこうたつのに」 沙沙貴苺である。$目を細めてにこりと笑うと、ねぇ? と同意を求めてきた。 「かもな」 「そうねぇ。何か御用があって手間取っているのかしら?」 「蘇芳ちゃんも見かけないですから、蘇芳ちゃん絡みですかね」 いつの間に忍び寄ったのか、沙沙貴妹が車椅子の押し手を握りつつ言う。 分かり易く眉根を寄せる委員長へ、 「単に花摘みとかだろ。レオタードを着替えてから催したら面倒臭そうだもんな、それ」 「え、やだ……八重垣さんったら!」 委員長がかっと頬を染める。$成る程と頷く沙沙貴妹だが、ふっと……鼠を前にした猫のようにある一点を見詰めた。それは、 「宜しかったらバレエのレッスンをご一緒に――」 「結構よ。私は一人でやりたいの」 クラスメイトから誘われているのをすげなく断る考崎を注視していたのだ。 「……何というかクールですよね」 「蘇芳ちゃんとは別の意味でのクールさだね。でも、変わらないよね考崎ちゃん」 子うさぎの消失の件が解決した後、少しばかり風向きは佳くなったものの……考崎はその風に乗らなかった。 (わたしとは別種の人嫌いだよな) 生き辛そうなやつだと思う。 わたしのように理由があって人嫌いなら分かるが、女の園で只態度が悪いのは面倒事になる。 火を見るより何とかだろうに。 「…………」 どうやら委員長も同意見のよう。 わたしは困ったような、心配しているような彼女へ向かって―― 委員長として誘ったらどうだ? その態度はなんなの! とか怒ってくれば? 「なぁ、そんな顔をするなら一緒にどうって誘ってみたらどうだ?」 「え?」 「技量が低いやつとは一緒に踊らないとか思っているなら、同程度の委員長なら一緒にやるんじゃねぇの?」 「ぅ……そういう……理由なのかしら?」 元々善人の委員長は心動かされたようだが……。 「冗談だよ。きっとただの人嫌いさ」 「え?」 「技量で付き合いを求めてるなら、もっと早く委員長にお声が掛かるだろ?」 「もう、八重垣さん!」 頬を膨らませ迫る。$白いレオタードが目に鮮やかだ。確かな膨らみも望める。 (こいつ……春より膨らんだんじゃないか?) ちっとも成長しない自分の身体を思い、意地悪心が起こるも、 「クク、あんまりくっついてると白羽に誤解されるぜ」 「えっ、えっ、蘇芳さん!?」 慌てて辺りを見回す委員長を眺め、嘘だと気づき頬を染める姿に呵呵と笑ったのだ。 「なぁ委員長」 「え、なぁに?」 「そんなに気に掛かるなら、“その態度は何なの!考崎さん!”とか忠告してきたらどうだ?」 「八重垣さん、あのねぇ……」 声真似するわたしに沙沙貴姉妹は喜びはやし立てる。騒ぎにこちらへ視線をやる考崎を数瞬見遣ってから委員長は目をそらすと、 「……もう少し、その、冷静になってから話すわ」 と言った。 「へぇ」 「な、何よ」 「いや、やっぱりお前は佳いやつだなってさ」 どんな態度を取られようとも見捨てる事はない。 「褒めても何もないわよ?」 満更でもない顔つきで言う委員長へ、こいつにしとけば問題なかったのによ、と書痴仲間を思った。 一方、一人屈伸を続ける考崎。 勇気を出して誘ったクラスメイトが目の前で玉砕したのを見ていた他の級友等は、怖々と考崎を窺っていた。 まるで確かな熱を身に持つ炭火に触れるのを恐れるように。 (このままだと孤立するよな、此奴……) 白羽とは別種の意味での独りぼっちになってしまうか、と心の〈裡〉《うち》で呟いた。 人嫌いはそもそも人から好きに為って貰おうとは思ってない。自分から嫌っているのに好きに為って貰おうなんておこがましいにも程がある。 だが、こいつの人嫌いは―― 「ま、なるようになるか」 「え、何? 何が成るの? わ、きゃ!?」 やかましい沙沙貴姉の脇腹を摘みつつ、わたしは鏡に映る自分自身を眺めたのだ。 つい腹が減ったと零すと、昼食は摂らなかったのですかと言われた。 「昼はアクアパッツアを食べたんですけどね」 アミティエがパンもご飯も持ってこなかったから、それだけなんですよとため息混じりに答えた。 「そう。確かにお魚料理だからご飯が欲しくなるわよねぇ」 「ですよね」 言いつつも、 (思い切り外国人顔のバスキア教諭からご飯がないと、ってのは違和感だな) 出自がいまいち分からない担当教諭に疑問を抱く。そういえば、父親が神父だと言っていたような……。 (確か、神父は妻帯できないんじゃ……) 「ねぇ八重垣さん。そんなにお腹が空いているのかしら?」 「え、あ……」 疑問符で黙っていたのを勘違いされたらしい。バスキア教諭は形のいい顎に手を添え、しばし熟考すると、 「今ならまだ……いえ、それだと規律違反になるわ。なら……」 「あの、そこまで空いてるわけじゃないんで平気です。むしろ少し減ってた方が神の恵みってな具合で、夕食に感謝できるかもですしね」 「そう? 無理はしないでね?」 小さい子に言い聞かせるようにトパーズの瞳を細めるバスキア教諭。 それじゃ部屋で何かご馳走してくださいよと思わず言いたくなるも、ぐっと〈堪〉《こら》えた。 テディベアだらけの部屋。 口の端があがるのを我慢していると、バスキア教諭が愁眉を寄せているのに気付いた。 「……どうかしましたか?」 「そのね……。八重垣さんにお願いがあるのだけど……」 「はぁ、ま、借金以外のお願いなら聞きますよ」 「本当! ふふ、本当に八重垣さんは素直でいい子だわぁ。あのね、考崎さんのことなの」 ――考崎ってだけで嫌な予感がする。 「学院に編入して、そろそろクラスの皆と打ち解けてもいい頃だと思うの」 「他の編入生組は上手くやってますよね……」 「ええ。でも考崎さんだけ、誰とも口を利こうとしないでしょう。あ、八重垣さんは別ですけど」 わたしも必要な事以外はほとんど話はしていないが。 「だから八重垣さんから他のクラスメイトの方々を紹介してほしいの」 考崎は望んでないでしょう バスキア教諭の頼みだからやりますがね 少し前、共に昼食を取った考崎のことを考える。 「……本人は独りが気楽と考えてるんじゃないですかね」 「そうかしら……」 自信なさげに呟くバスキア教諭へ、そうですよと畳みかける。 「でも、白羽さんも独りを望んでいるように見えたけれど、今はたくさんの友人に囲まれているし……」 「白羽は……」 確かに人を寄せ付けない雰囲気を持っている。だが、 (不器用ながらも仲良くなろうって努力していた) 自分から何もしようと思っていないやつをどうにかするなんて無理だ。 ――正直、面倒だが。 「……ま、バスキア教諭の頼みなら」 「本当! ありがとう、八重垣さんっ」 柔らかな手に触れられ思わず身を引いてしまう。 「ちょ……っ」 屈んだお陰でバスキア教諭の肢体が、香りが迫ってきたからだ。わたしには無い女性らしい肢体。 「あ、ごめんなさい。不躾だったかしら」 「……いえ、驚いただけです」 「そう。ふふ、でも本当に佳かった。二人とも仲良くやっているようだし。アミティエになって正解ねぇ」 (勘弁してくださいよ) 心の裡では言うものの、面と向かっては言えない。世話になっている者には礼を払え、次女の教えだ。 「ありがとう」 握っていた手へ、バスキア教諭の細い指がわたしの手の甲を撫でた。 それはとても親密で、愛撫のようにも思え、わたしは頬が赤く染まるのを止められなかったのだ。 「お願いね、八重垣さん」 この世界に悪意なぞ欠片もないような笑顔で言われると――何も言えなくなってしまう。 他のやつの頼みなら切って捨てるのになと思うも、手を振り去っていくバスキア教諭の背を複雑な思いで見送った。 一応善処はしてみようとは思ったが、 「え、本気で言っているのか?」 「うん。うちに来たらいいよ」 委員長へついこぼしたバスキア教諭とのやり取り。それを聞いていた沙沙貴姉がこともなげに言うと無い胸を叩いた。 「お前が考崎の友達になるってのか? 本気で?」 「そうじゃなくて、今日料理部で定例の試食会があるんだ。そこに連れてきたらどうかなって話」 「ああ、うちにってのはそういう事ね……」 ま、率先して面倒なやつと友達になろうだなんて……。 「今日の定例の試食会にはゲストが来るのですよ」 「ゲスト?」 「小御門先輩ですよ。それに――」 「八代会長も居るって訳か……」 小御門ネリネは良識枠だが、 八代譲葉は―― 「成る程。毒をもって毒を制すってやつか」 「それだと共倒れになっちゃうよぉ。でも、何か仲良くなれそうな気がしない?」 ――変わり者同士、気が合うかも……か。 「ま、一応やることはやりましたって言い訳もたつしな」 「お、何やら面白いものが見られそうですな」 「愉しみ」 お前等もなかなか良い性格してるよな、と独り教科書を捲る考崎の背を眺めつつ呟いた。 「やぁ僕は八代譲葉。ニカイアの会の会長、そして此処料理部の部員を兼務している。君は考崎千鳥君だったね?」 「私は小御門ネリネと言います。ニカイアの会の副会長をしているの。ダメよ譲葉。考崎さんが困っているじゃない」 初見ということで軽い挨拶をしたのだが―― (相変わらず図抜けているな) 白磁のような肌に鋼の瞳。$銀糸の髪はきめ細やかでまるで作り物のようだ。 見た目と違い、立ち居振る舞いが中性的なのも個性を際立たせている。 そして、対になる金色の少女も図抜けていた。 ビスクドールを連想する端正な顔立ち、豪奢な金色の髪、青磁色の瞳は凝っと見ていると吸い込まれそうになる。 隣り合って佇んでいる姿はまるで一枚の宗教画のよう。 「…………」 白羽を評価していた考崎だが、書痴仲間と同程度の容姿の二人を前に驚いているようだ。 「……ま、初見じゃこっちの方が派手だからな」 「うん? 八重垣君。何が派手だって?」 「先輩たちの見た目ですよ。左右に金と銀に囲まれて豪華な屏風に挟まれてる気分ですよ」 「ふふっ! ねっ、八重垣さんって面白いでしょう?」 「ああ、話では聞いていたが僕好みだ」 会ったことはあるが、きちんと言葉を交わすのは初めてだ。 八代先輩は、わたしを見、シニカルな笑みを浮かべる。$白羽が気を付けろと教えてくれたやつだ。 「さて、それでは試食しながらゆっくり話そうじゃないか。ねぇ八重垣君、考崎君」 アミティエと共に腕を掴まれ、つい気弱な笑みを浮かべてしまった……。 定例試食会は進み―― 「うん? どうしたパンケーキはお気に召さないかい? 僕はこれにオレンジジュースが最高の相性だと思うんだがね」 「そう……ですか」 「朝は炭水化物を取らないとねぇ。そろそろ夕食だが、何、構うまい。君くらいの年頃なら食べ盛りだろう」 「あら、ダメよ譲葉。無理矢理押しつけたら可哀相だわ。考崎さんはパイが好きなのよね? どうぞ、このアップルパイも美味しいわよぉ」 どうやら今月はデザート月間だったようだ。 体型を気にしてか少量しか食べない考崎へ、気を遣っていると勘違いした二人の先輩は次々とデザートを運んできた。 「ぅぅ……」 「クク……ご愁傷様だな」 「……貴女ねぇ」 「うん? 八重垣君の皿も空だな。今、パンケーキを取ってやろう」 「っく……!」 ドサリと擬音が付くほど積まれたパンケーキに、流石に笑えなくなってくる。 たとえ好物であっても、これだけあると嫌いになってきそうだ。 「ホットケーキは好物ですが、こんなには……」 「ほう、八重垣君はパンケーキが好物なのか。ならもっと用意しておくんだったな」 「いや……」 「――違うわ、気づかないなんて迂闊ね譲葉」 「うん? 僕を迂闊と言ったのかネリー」 「ええ。八重垣さんはパンケーキでなく、ホットケーキが好物と言ったのよ? そのニュアンスの違いが分かる?」 刹那、鋼色の瞳が逡巡し、はっと大きく瞳が開かれる。 そして八代先輩は大げさなジェスチャーで手を開くと、自分の額をぴしゃりと叩いた。 「そうか! 本来パンケーキの名が示す通り、糖分を抑え厚みのあるまさにパン代わりに食事を進める主食だった。だが、今は……」 「ええ。今はパンケーキの方がデザート化し、ホットケーキの方が“パン”の名を冠してもよい存在になってしまった……」 「八重垣さんはね。〈憂〉《うれ》いているのよ……」 「深いな……」 言いながら八代先輩は自分のパンケーキを鋼色の瞳で睨め付け深々と頷いたのだ―― いや、パンケーキのパンはフライパンが元だろうがと内心突っ込んだ。 「……変わっているわ」 「……お前に言われたくないだろうが、同意だ」 反論する元気もなくなったわたしは大人しく山盛りのパンケーキをフォークでカットし食べる。 ふわっとした口触り、そして噛んだときの弾力感。バナナにチョコクリームがたっぷり乗っていなければ好きな味だった。 「ホットケーキはシロップとバターでいいんだよな。この味付けならスフレみたいな食感の方が佳かった気がするぜ……」 定例試食会という手前、渡されていたプリントへ味の採点を付ける。 総合点は3点。食感に難あり、と。 「……ちゃんと付けているのね」 「後でいちゃもんつけられてもイヤだからな」 「……私は後で言わせて貰うわよ」 “バレエの事でバスキア教諭が話があるんだってさ、行こうぜ相棒”と連れだし料理部に来させた件に納得していないらしい。 「お前も案外しつこいな」 「……バレエのことで呼び出されたらこれよ? 文句が出ない方がおかしいでしょう」 「いいじゃんかよ。タダで美味いものが食べられるんだぞ」 「無理矢理でしょう。それに私は体重制限をしているから……」 「あらあら? フォークが進んでいないみたいね?私のモンブランと交換しましょうか?」 「いえ……。大丈夫です。その……」 アップルパイを一口食べ、ぎこちなく微笑んだ。 「とても美味しいです」 「そう。佳かったわぁ」 モンブランと交換しないで済んだ事に安堵したのか、小御門先輩は瞳を細め柔和な笑みをこぼす。 微笑むとまるで向日葵が咲き誇っているかのようだ。わたしとは違う、御伽の国の住人。 「そうだ。考崎君は芸能のお仕事をしていたそうだね。寡聞ですまないが僕はそのへん疎くてねぇ」 「芸能というと、どういった事をやっていたのかな?」 「え……あ、劇や歌が主で……」 「まぁ! シェイクスピアのような?」 「いえ、新劇の方で……」 「進撃? 物騒じゃないか……」 交互に代わる代わる質問され狼狽える。$慌てる考崎は珍しくはある。が、 (初見でこの先輩二人はキツイよな……) いつもの調子で“別に”や“無視”が許される相手ではない。 一人一人ならまた別だが、二人が揃うことで醸し出す独特な雰囲気は、ある種の圧を持っているのだ。 「…………」 無言でわたしを一顧するアミティエ。$わたしは―― 助け船を出すことにした 当然見捨てる (自分が連れてきたとはいえ、流石に気の毒かもな……) ニカイアの会の会長と副会長、どちらかならまだ対処できるが、二人がかりはきつい。 わたしは熱心に話を聞き出そうとする小御門先輩へと声を掛けた。 「小御門先輩は合唱部で活躍されていますが、将来は音大に進まれるんですか?」 「あら、進学のお話? 私はまだそこまで考えていないわ。趣味でやっていければ佳いとも思っているし……」 とりあえずの話題逸らしに、先輩は白魚のような指先をあごに添え、真剣に悩んでいるようだ。 ちらりと視線をアミティエへ遣ると八代先輩の質問攻めにあいながらも、感謝しているような微かな笑みをみせた。 「八重垣さんは考えていらっしゃるの?」 「わたしは――そうですね」 跳ねている前髪を摘むと、 「将来は司法試験を受けて弁護士でも目指そうかな、と」 「まぁ!」 「企業弁護士よりも環境問題を取り扱う弁護士になりたいですね」 「ちゃんと考えているのね。立派だわぁ!」 白魚のようだ、と思った手がわたしの手の甲へとそっと触れる。 重ねられた手。 信じ切った瞳に僅かばかりに残った罪悪感が疼く。 (適当に合いそうな話を振っただけなんだけどな……) 頑張ってね、と薄紅色の唇が紡ぐ言葉に曖昧な笑みを浮かべ、わたしはもう一方の先輩へ身体を向けた。 ま、アミティエの友人候補を見繕う為の場だものな、と見捨てることにした。 感情の起伏があまり見られないこいつには、八代先輩のような相手は理想のような気もするし。 「成る程。バレエが上手だと聞いていたが、劇をやる上でも重要なのだね」 「ええ。そうです……」 「身体が柔軟というだけでも怪我はしにくいだろうしねぇ」 「あの……私がバレエが得意だと誰に聞いて……」 「ああ、それは沙沙貴苺君にだよ。彼女が教えてくれたんだ」 「……そうですか、沙沙貴さんが……」 瞬間宿った視線は鋭く、料理部の良心こと桜木先輩と話す沙沙貴姉が、天敵の気配を察したうさぎのように直立してしまった程だ。 (あいつは知らずに敵を作るタイプだな……) 思わずそう感想を抱くも、 「――おっと、」 沙沙貴姉へ向けていた視線をわたしへもくれていた事に少しだけ怯み、助け船を出すために、 指を鳴らし、二人の先輩をわたしへと振り向かせたのだ。 「小御門先輩とは何度か話していますが、八代先輩ときちんと話すのは初めてですよね」 「おや? そうだったかな。蘇芳君と話していると君の話題がよく出るのでそんな気がしなかったが、確かにそう言われるとそうだねぇ」 「白羽とはよく話されるのですか?」 「彼女は僕の師だからね。料理部で教えて貰っているんだ。今日は……」 ぐるりとポニーテールを振るい、分かり易く部内を見回すと、 「図書委員の当番日とかち合ってしまって残念だよ」 そう、この世の終わりとばかりに嘆いてみせる。 書痴仲間にはうまくやりやがったなと思うも、周りの料理部の部員が八代先輩を羨望の眼差しで見詰める目を見れば―― 構われるのは悦ぶべきことなのかもしれない、と少しばかり思う。 「……此処でも白羽さん」 「八重垣君と考崎君は部には入ってないそうだね。どうだい、料理部に入っては? 今なら年会費無料だよ」 誘って貰えること自体は嬉しいが……。 「自分は食べる一辺倒なので」 「そうか……。うむ、ならば今なら僕とお揃いのエプロンを付けよう!」 「え、あ、私はこの……八重垣さんの世話をしないといけませんので……」 自分のアップルパイを切り分け、フォークで刺すとわたしへと差し出す。 分かり易い介助役としての意思表示だ。 「ありがとう、ハニー」 「いいのよ」 目の奥が笑っていない考崎から勧められたアップルパイを一口で食べきる。 サクサクのパイ生地と甘煮の林檎。シナモンが利いている。これは及第点をくれてやっても良いだろう。 「仲が佳いのねぇ」 「このアップルパイは林檎君が作ったのだよ」 「共食いネタか……」 「ふふふっ」 以前お茶会で披露した共食いネタを思い出してか、小御門先輩は両手で口元を押さえ、笑いを堪えている。 ふっと沙沙貴妹がいるテーブルを見遣ると、 「――ふっ」 ピースサインをこちらに向けている。$分かったから座ってろ。 「残念だな……。そういえばバレエもだが、歌声も素晴らしいと耳にしたが本当かい?」 「仕事の兼ね合いでボーカルレッスンも受けていましたから」 「おおっ、料理部は断られたが、こいつは合唱部の期待のホープになるんじゃないか!」 「がっしょう部?」 たどたどしく尋ねられ、 合掌部。仏教徒を集めた部だ 普通に答える 両手を合わせてみせ、 「合掌部っていうのは、合掌――つまりは仏教徒を集めた部だよ。皆が基督教って訳じゃないからな」 「……貴女の二枚舌には二度と騙されないわよ。合唱部でしょ。知っているわ」 「何だよ。それじゃ何が疑問だってんだ」 「期待のホープになるぞって言っていたから……」 誰がそれを求めているのかと問いたいのだろう。 「……話の流れから分かるだろうが」 「ふふ、ふふふっ」 ツボに入ってしまった小御門先輩を指さしたのである。 「合唱部って知らないのか。聖堂で何度も聖歌を唄っただろう。あれの部活版だよ」 「それは知っているわ。でもホープって……」 ホープを誰に向けての言葉だと疑問に思ったのか?そりゃ、 「嫌みか? 話の流れからお前に決まってるだろうが。歌の善し悪しは分からないが、お前上手いじゃないかよ」 「そ、そう……」 「何だよ?」 「……前に大したことないって言ったでしょう」 「お前も大概根に持つやつだな。あの場面は相手がアリアナ・グランデでも文句をいう状況だろうが」 「……そう」 (……何で嬉しそうなんだよ。おい) それきりアミティエは黙り込み、わたしはまだ口元を抑えている小御門先輩へと呼びかけた。 「そうだ。せっかくだし合唱部の見学でも行ったらどうだ? 見学ってできますか、小御門先輩」 「ふふ……! はぁ……ん、こほん。え、ええ、見学者はいつでも歓迎よ」 だってさ、と少しばかりの意地悪さと、バスキア教諭の頼みもここまですれば顔は立つだろうとの腹づもりから頼んでみる。と、 「…………」 苛立つことに苛立った目……ではなく、真意を探る目つきでわたしを見るも、 「明日伺っても宜しいでしょうか」 と告げた。 「ええ、ええ! 是非来て頂戴。興味を持っていただけて嬉しいわぁ」 白魚のような指を頬にあて微笑む。 (おい、マジかよ……) 悪のりした冗談に本気で乗られたことに戸惑ってしまった。 こいつの真意はどこにあるのかと、わたしは虎の子のモンブランを分けて貰う考崎の目を凝っと窺ったのだ……。 ――小さいが確かな幸せと感じることが三つある。 夜中に食べるクリスピーチキン。 生意気な相手の弱みを握った瞬間。 そして、穏やかな午後の日和にお気に入りの小説を読むこと、だ。 ベッドに寝転がり、エルロイの“ブラック・ダリア”を読む。 一度読んではいるが、バスキア教諭が担任となったことで――もう一度読み返そうと思っていたのだ。 小説は実際に起きた事件、ブラック・ダリア事件をモチーフに描かれているものだ。 当時の事件記録を元にしたプロットに膨大な量の取材を基にした推察、そして〈巧緻〉《こうち》な心理描写が描かれている。 情報過多に思える文だが、外国人作家の特徴であるさっぱりとした文章構成から苦もなく、するすると読み進められた。 物語に入り込み、頁を繰る。 時折、かすかに開けた窓から微風が頬をくすぐり通り抜けていく。 本とわたしだけしか存在しない空間。 だが、暖かに部屋を照らす陽射し、ベッドのシーツから香る洗い立ての清潔な匂い。 それらがわたしを包み込み一人ではないと感じさせた。 確かな幸せ、 次々と掘り起こされる新しい謎に胸を躍らせ頁を繰る、と、 親密な空気はドアを開ける音に破られた。 ずかずかと大股でベッドに近づいてきた闖入者は―― 「――おい。何のつもりだ」 「何のつもり? 貴女こそ何のつもりなの」 「質問を質問で返すなよ。今はささやかな幸せを満喫していたんだぞ」 「私のささやかな幸せを壊したくせに」 ドキリとする言い回しに考崎の顔を凝っと視た。 アミティエは何も言わず、わたしを介助し車椅子へと乗せた。 「おい」 「昨日のことよ」 「はぁ?」 「呆れた。忘れてしまったの。昨日約束したでしょう。放課後、合唱部に伺うって」 ようやく考崎の振る舞いに合点がいき、ああ、と頷いた。 「確かに約束してたな」 「そうよ。放課後約束していたから行こうと思ったら……まさか部屋に戻ってのんきに本なんて読んでいるなんてね」 「わたしが何やってたっていいだろ。っていうか、約束したのはお前だけだろうが。一人で行ってこいよ」 「場所」 「あ?」 「合唱部が活動している場所を知らないわ」 「聖堂だよ」 続けて、勝手に行けと言おうと口を開くも、 「…………」 真実、苛立っている目を前にして飲み込んだ。 まぁ……昨日嘘を吐いて引き合わせたのはわたしだ。多少の責任はあるのかもしれない。 「分かったよ。案内する」 押し手で動かすよう促すと、 「わたしは一切歌わないからな」 と念を押したのだ。 ――来てくれたのね、 そう柔和な笑みを浮かべ、小御門先輩はわたしたちへと駆け寄ってきた。 軽やかだが生真面目さを感じる早足に、可愛らしいダックスフントを連想してしまった。 「どうされたの? 私の顔に何かついているかしら?」 「……いえ、思い出し笑いです」 ペタペタと顔や髪を触る小御門先輩へそう告げた。 「そう。でも来てくれて嬉しいわぁ」 にこにこと微笑むさまに、お尻にしっぽが見えるようだとまた口の端が緩んでしまう。 持ち直す為にわたしは咳払いをすると、 「よろしくお願いします。考崎が」 と言った。$考崎は目を細め、周りを威圧しながらも聖堂内を見遣った。 「八重垣さんも見学していってね。気に入れば是非入部してほしいわ」 「……考えておきます」 「ふふっ。それでは説明を……あっそうだわ」 青磁色の瞳をパチパチと瞬かせ手を合わせると、こちらを見詰める少女を呼ぶ。 彼女は戸惑いながらもこちらへやってくると、 「何でしょうか」 そう、 久しぶりに委員長がわたしたちと向き合ったのだ。 「八重垣さんと考崎さんに部の案内をお願いできるかしら?」 「え、あの……」 「私よりも同じクラスの花菱さんの方が、気が置けずに話せると思うのだけど、ダメ?」 懇願する愛らしいダックスフントに敵うわけもなく、 「……はい」 不承不承、頷くしかなかったのである。 「……合唱部の活動はこんな感じよ」 「へぇ、思ったよりも規則だって練習してるんだな。なぁ考崎」 「ボーカルレッスンもしているのかしら?」 考崎の問いに委員長は眉根を寄せると困った表情になり―― 「他に何か質問はあるかしら」 そうわたしへと話しかけた。 (こいつも不器用だからなぁ……) 子うさぎの消失事件の折り、考崎を犯人扱いしてしまってからこっち謝罪はしたものの、 感情の持って行き場が見付からないのか、相変わらず考崎には話しかけられないでいたのだ。 いや、考崎を避ける余り、最近わたしにもお見限りなのだが―― 「質問、質問ねぇ。実はここ最近胸を痛めている事があるんだけどさぁ」 「え、そんな深い悩みがあるなんて……。早く相談してくれればいいのに……!」 「それじゃ相談だがね。前は部屋に遊びに来たりお茶会だ何だと誘ってくれたりした相手が、わたしを無視してるんだよ」 「え、ぁ……」 「今じゃ電話も手紙もクッキーすら送ってきやしない。もしかして嫌われたのかね、なぁ委員長?」 「ぅぅ……意地悪しないで……。悪かったと……思っているわ」 しょげかえり合わせた手は胸の前でぎゅっと握られている。 眼鏡の奥の大きな瞳から涙が滲むのを認めて、慌てて委員長のプリーツの裾を掴んだ。 「じょ、冗談だって。そう真に受けるなよ。こいつが部屋に居たら来づらいってのは分かってるからさ」 「私が?」 「ぁ……その……」 自分から振っておいて何だが、気を遣いすぎるやつと、遣わなすぎるやつが一緒だとこんなにも面倒だとは思わなかった。 「私がいると何故、部屋に来にくいの?」 本気で分かっていない考崎へため息を一つ吐くと、 わたしと委員長は特別な関係だからさ 先だって犯人扱いしたからだよ 「……お前は本当に空気が読めないな」 「空気?」 煙に巻くのが佳いと思ったわたしは、しょげかえる委員長の白い腿を軽く二度三度叩くと、 「わたしと委員長は深い仲ってやつなのさ。部屋にお前が居ると……やりにくいだろ?」 「――成る程」 「え、え?」 「何、鳩が豆鉄砲を食らったような顔してるんだよ。考崎に言ってやれ。お前が部屋に来るまでは蜜月だったって」 「な、何を言っているの!? 八重垣さんっ、わ、わたしたちは、そんな……!」 「確かに照れているわね」 「だろ? これが普通の反応ってやつだ。お前も見習えよ」 「ひゃっ!?」 腿でなくお尻付近を叩いたことで変な声をあげる。指導している小御門先輩がこちらを一顧する。 「や、八重垣さんっ!」 顔を真っ赤にさせ、びしりとわたしを叱る。いつもの委員長だ。 「クク、冗談だよ。嫌われてるかもしれないって気にしてるってのもさ。でも、」 「――でも、お茶会に呼ばれなかったのを残念に思っているのは本当だぜ」 「ぁ……」 「わたしは委員長の淹れる紅茶が気に入ってるんだ。だからお見限りってのは無しにしてくれ」 空気が読めないやつには、単刀直入に言った方がいいだろうと考えた。 「あれだよ、ほら――先だって子うさぎの件でお前を犯人扱いしただろ、だから顔を合わせにくいんだって話だよ」 「っぅ……!」 涙は引っ込んだものの、胸を押さえ気ぜわしげに考崎を見詰める。 考崎は苛立つことに……いや、瞳を細め熟考すると、 「――ああ、そういう事もあったわね」 と、何の感慨もなく言った。 「え、あの……怒っているんじゃ……」 「怒る? 何故? あの状況なら疑われても仕方がないわ。貴女に落ち度はないわ」 (へぇ……) 空気が読めない変わり者という印象だったが、案外度量が広いのか……。 「そ、そう……。ありがとう……」 感謝の言葉を継げるも、まだ陰りはなくなっていない。 犯人扱いは、状況から述べたことだけでなく白羽への無遠慮な質問攻めから出た言葉だったからだ。 「ま、何だ。互いにしこりは無くなったって事で。そうだ、お茶会には誘ってくれよ」 「八重垣さん……」 「委員長の淹れる紅茶はなかなかだからな。またロシアンティーにして飲みたい」 「そうね。ふふ、今度淹れるわね」 「活動の説明は終わりましたか?」 「あ、は、はい!」 「そう。ふふ、仲直りできて佳かった……」 「あの……?」 「いえ、ふふ、考崎さん。これから皆で斉唱をするの。是非参加を……」 「独唱は聴けないのですか」 「はい?」 「部の長の独唱を聴いてみたいのですが」 相変わらずの空気の読めなさで小御門先輩へ唄うことを請う。 他の部員の視線が目に見えて厳しくなるも、 「そうね。久しぶりに独唱するのも佳いわね」 当の本人は気にしていないようだ。$伴奏をしてくれるようにピアノの伴奏者へ声を掛ける。 弾く曲は、 「トータプルクラ……」 あの日の、 聖母祭を思わせる曲に、 「そう、この曲を匂坂マユリが唄ったのね」 つい、消えたあいつの名を呟いていたらしい。 「そして伴奏者は白羽蘇芳」 呟き声に、委員長の目が険しくなる。聞きたくない言葉を吐くかもしれないと思っているのか、それとも―― 「用意が出来ました。八重垣さん、考崎さん。此方へどうぞ」 冷えた空気を裂くように朗らかな声が聖堂内に響き、わたしはアミティエの腰を叩くと、小御門先輩の待つ壇上へと向かった……。 ――結局のところ、 考崎は合唱部には入部しなかった。 小御門ネリネのトータプルクラは普段隠れている魂の弱い部分を疼かせるような独唱だった。 捻くれる前のわたしがあの唄を間近で聞いたならば、間違いなく入部していただろう、それほど響く歌声だった。 だが、聞き終えたアミティエは、見学を終えた後、入部を勧める小御門先輩へ、 “自分の目指す唄とは違う” と答えた。 そう考崎が答えることを解っていたように、小御門先輩は何時ものように柔和に微笑み頷くと、 『――貴女は一人の心を動かしたいのね』 そう言った。 彼女が考崎に何を視たのかは分からない。$わたしは―― 「――わたしには唄はよく分からない」 ベッドに寝転んだままで居ると、少しだけ開けた窓から小さく囀るような歌声が聞こえてきた。 開けた窓から聞こえる歌声を聞く 眠気には勝てない 歌声だと知らなければ分からない程の小さな旋律。 まだ朝のまどろみから覚醒していないわたしは、ベッドを這うと車椅子に手を掛け、 窓辺へと向かった。 窓の隙間から聞こえる旋律。 以前耳にしたときと同じく、どこか悲しげに聞こえる曲。 「聖歌のように万人に向けての唄じゃない。だが」 悪くない。 耳に心地好い調べを聞くためにわたしはそっとまぶたを閉じたのだ……。 耳に聞こえる悲しげな旋律、いい曲だ。 「……子守歌みたいだ」 朝のまどろみの中、覚醒していないわたしは、耳元で囁かれるような心地好い感触に、そっとまぶたを閉じ眠りについた……。 バスキア教諭の申し出による、考崎千鳥をクラスに馴染ませるということは―― 週末に控えた期末試験が追いやってしまった。 「ねぇ蘇芳ちゃん。これってどういう意味?」 「ちょっと苺ねぇ。先に質問していたのはわたしですよ」 「二人ともまだ休み時間は残っているから」 双子の質問攻めに遭い、白羽は困ったように、そして何処か愉しげに微笑む。 頼られることが嬉しいのだろう。 一方、勉強云々を教えることに適している委員長は―― 「ちょ、ちょっと順番ですから! だから押さないで……」 今や、どこぞの会長のような人気振りだ。 (実際、白羽と委員長の学力はそう違わないんだが……) 高嶺の花――いや、以前思ったような意味合い、儚いものに触れて壊してしまいそうな雰囲気からか―― やはり白羽には話しかけ辛いのか、相談するのは沙沙貴姉妹だけだ。 「こっちは――」 「……絶対値と正負の数の大小……正の数でも負の数でもない数を答えよ……」 ブツブツと呟きながら鉛筆を走らせるアミティエ。勿論周りにクラスメイトの姿はない。独学だ。 「ま、そりゃわたしも同じだけどさ」 必死で勉学に勤しむクラスメイト等を見て、まぁ仕方ないかと思う。 (試験がダメだったら安息日がまるまる補習になるって聞いちゃねぇ) 土日は休みだが、土曜日は朝から昼にかけて礼拝があるため実質半ドン。 丸一日休みが取れるのは、安息日である日曜だけ。 「……絶対値とは何か……何か? 私が知りたいわよ……」 貴重な休みが、補習を受ける数によって幾日も削られる可能性があるのだ。本気にもなるのだろう。 目を細め凝っと教科書を睨む考崎の元へと行くと、書き込んでいるノートを覗き込む。 「絶対値? 今更、お前……」 「何」 「……いや、仕事で忙しかったろうしな」 初歩の初歩でつまずいているアミティエについ優しい言葉を掛けてしまった。 考崎は人を殺しそうな目で、 「余裕そうね」 と呟く。 「本の虫だからな。御多分に漏れず、勉強はそこそこできる方だよ。このクラスじゃ三番手くらいだ」 「三番手?」 「ああ。花菱、白羽の次くらいだよ。数学をやってんのか、なら委員長に教えて貰え。あいつ理数系が得意だからな」 わたしの提案に、硬く、怖くなったまなじりを揉みほぐすと、考崎は小さく首を横に振った。 「……花菱さんは私に苦手意識を持っている。差し向かいで教えて貰える訳がないわ」 「お、少しは相手が見えるようになったんだな。だが、委員長は性善説の人だからな、頼めば頷いてくれるだろうよ」 「せいぜんせつ?」 おかしなところに食いつく。$識らないのかよとわたしはぼやきながらも説明を始めた。 「〈孟子〉《もうし》っておっさんが、人間の本性は基本的に善であるって決めたんだよ。儒教の中心概念」 「へぇ」 「へぇ、って興味ないのかよ、お前が聞いたんだろうが。もう一つ対になるのが性悪説。〈荀子〉《じゅんし》が唱えた。人の性は悪なりってさ、こいつは――」 「そう。私は〈荀子〉《じゅんし》の方に一票だわ」 最後まで説明を聞かずに答えやがった。$ま、わたしも性悪説論者だが。 「だから委員長に……」 そう言いながら委員長を一瞥するも、クラスメイト等の人壁を崩すのは難しそうだ。 「ま、独学で学んだ方が早そうか」 「ええ。だから邪魔しないで」 断り、教科書を睨むアミティエ。わたしは―― 「面倒臭い空気を部屋に持ち込まなければ何も言わねぇよ」 そう告げたのだ。 だが、やはりというべきか――重苦しくも面倒臭い空気は持ち込まれたのだ。 「なぁ」 「…………」 「なぁおい」 「何」 「今、昼食中だぞ。教科書なんて無粋なものは持つな」 食事を(正しい意味で)選べるのは昼食だけだ。愉しい食の時間に学業なんぞという詰まらないものは持ち込まれたくはない。 「放っておいて」 「お前は詰まらない教科書を開いて、詰まらないサラダを食ってるんだからいいけどな。こっちは久しぶりの天ぷらなんだ。愉しみたいんだよ」 目の前には揚げたての海老に白身魚、いんげん、桜海老と玉葱のかき揚げ。それに味噌汁、香の物。 そして輝く白米が鎮座している。 陰気な空気で料理を台無しにしたくない。 「貴女は貴女で勝手に食べればいいでしょう」 「お前有名な言葉を知らないのか? 何を食べるかじゃなく誰と食べるか、だ。陰気なやつと食べたら何食っても美味しくなくなるぜ」 言い捨てると、白身魚の天ぷらに箸をつける。$まずは塩も天つゆもつけず、そのままの味を愉しむ。 サクリ、と厚すぎず薄すぎず揚げた衣は魅力的な音をたて鼻腔へと香ばしい香りを届けた。 十全に揚げられた衣と白身魚のほろほろとした食感、そして甘みが口の中に広がる。$至福だ。 「いや悪い。やっぱり何を食べるかが重要だ」 「美味しそうじゃない」 恨みがましい目がわたしの天ぷら御膳を捉える。 非常に後ろ髪を引かれる思いではあるが、複数個ある海老をひとつつまみ、抹茶塩を少し掛け箸を向けた。 遠慮なしに何も言わずかぶりつくアミティエ。 「ん……むっ、これ美味しいわね」 馴れてはきたが、食べさせる行為に気恥ずかしさを感じてしまう。 薄く朱を入れたような唇が食べ物を食むさまは、何処か扇情的に映る。 (しかも海老だしな、フランクフルトなら……いやマッチョイズム的過ぎるか) 自分の連想に笑ってしまう。笑みを向けられて怪訝な顔をするも、ノートを取り出す。 さらさらと書き付ける。自分ノートだ。 「お気に召したようだな。何だ、天ぷらも食ったことないのかよ。確かに油はスタイル維持の天敵かもしれないけどさ」 「あるわ。只、前に食べたものより美味しかったから加えたのよ。……ん?」 鉛筆が止まり首を傾げる考崎へどうした、と香の物で口内をリフレッシュしながら声を掛ける。 「今食べたものだけど……それって養殖?」 食事に無頓着だとは思ったがあまりにあまりな言葉を吐かれ、一瞬呆気にとられてしまう。 「はぁ? ふふ、はははっ。お前馬鹿じゃねぇの。洋食なわけないだろ。どうやったら勘違いできるんだよ」 「? そう、違うのね」 「当たり前だっての。はははっ、洋食って! 和食に決まってるだろうがよ、クク!」 「! 勘違いだわ。私は養殖か聞いたの」 「クク、はははっ! もうやめろって」 「笑うのをやめて」 「ククク……!」 「やめなさい」 恥ずかしさから顔を真っ赤にした考崎が睨む。が、タネが明かされた以上、普通の眼光だ。何とも思わない。 「勝手に笑ってなさい」 「あ、お前それは虎の子だぞっ」 考崎がしゃくしゃくと小気味のいい音をさせながら桜海老のかき揚げを食べる。 音だけで食欲を誘う一品だ。 「あまり桜海老は好きな味ではないわね」 「食い物の恨みは怖ろしいって言葉を知らないのか」 自分ノートをとじると、自分の皿の四等分に切り分けてあるゆで卵を突き刺し、わたしへと食べるように促した。 等価交換とのつもりだろうが。 (食べさせるのはよくても、逆は……) 甘えているようで抵抗がある。 こういうことは勢いが大切だ。余計なことを考えてしまった時点で……。 「そう。卵は嫌いなの」 すげなく自分の口へと放り込んだ。 意味もなく動悸が速くなった心臓を押さえ込んでいると、考崎は水を飲み、 「貴女はテスト勉強はしなくて佳いの」 と尋ねてきた。$一度答えた質問に眉根を寄せるも、これよ、と教科書を突きつけられる。 「聖書、か」 「そう。五教科は得意のようだけど、こちらも堪能なのかしら」 正直得意じゃない 二人でやれば何とかなる ――正直、得意ではない。 興味がない分野に弱いのは仕方がないことだと思う。だが、 「聞いているのだけど」 素直に答えるのも業腹だ。 (いや、こいつ結構しつこいところがあるからな……) 適当に煙に巻こうとしても突っ込んでこられたら面倒だ。わたしは溜息を吐き、 「投手が怪我しているのに、9回裏のベンチにお前しかいなかったくらいだよ」 「どういう意味よ」 「絶望的ってことさ。聖書は苦手だ。ま、テスト前日には無理矢理記憶させるがね」 正直――忘れていた。 (そうか、五教科だけじゃないんだよな……) 聖書の時間にて学んだことだが……これが笑える程に記憶にない。 興味のない事に脳みそを使うのは罪だと常日頃から思っているが、流石にこれは拙いような気がする。 「うちの二番目の姉が言っていたよ」 「何?」 「さえない時間を一緒に過ごしたやつが友達だってな。至言だよな」 「それって一緒に勉強しようってこと?」 訝しがるような表情。$だが、何故だか手はノートへと伸び落ち着きなく鉛筆を弄っている。 「二人でやれば何とかなる」 言葉に出すも、一人は学業不振で、もう一人は何処が試験範囲だと言われたかも覚えていない。 「無理か……」 そう呟くしかなかったのである。 その後は沈黙が続き、諦め、思い出したかのように考崎はサラダを頬張る。 わたしも愉しみにしていた海老に手を付けたが、やや冷めてしまっていた。 冷えた天ぷらは油がベトつき味が数段落ちる。$溜息がこぼれた。 「«まだ死ぬ気はない。だが、もし死ぬとしたら、時と場所は自分で選ぶ»」 「どうしたの、おかしくなったの?」 「“鷲は舞いおりた”っていう映画の台詞だよ。時と場所を選ぶ為にも戦わなくちゃならないもんな……」 誰かに教えを請うしかないか――と呟き考える。人にものを頼むのは苦手だが、致し方ない。 わたしは冷めた天ぷらに箸を付けながら誰が適任か、頭を働かせだしたのだ――。 苦手科目ゆえ、誰かに教えを請うしかないかと思ったのはわたし自身だ。 人にものを頼むのが苦手だから―― 声を掛けやすい書痴仲間に頼んだのも道理だ。何もおかしなことはない。 只、 「うん? どうしたね。難しい顔をしているぞ。もしかしてあの日なのかい?」 自然とセクハラ発言をしつつも厭味にならないという特異な雰囲気を持つ上級生が快活に微笑んだ。 「自分は重い方なんで、あの日ならもっと人相が悪くなってますよ。っていうか何でいるんですか」 暑がりなのか夏服の襟元をパタパタと空気を入れる八代譲葉先輩に尋ねる。 「はははっ、可笑しなことを言うな君は。八重垣君が聖書の教科が苦手だからと教えを請うてきたんじゃないか」 「先輩には一つも……」 「うん? それとも何か。聖書を教えてくれというのは建前で、僕と秘密の勉強をしたいということかい? ん?」 胸元を扇ぐ八代先輩は意味ありげに微笑むと、そのまま前屈みになり―― 「やめてくださいよ。沙沙貴姉妹じゃないんだ。先輩がやったら洒落にならない」 夏服の襟元から覗く二つの双丘から目を逸らし、わたしは何故こんなことになったのか少し前の出来事を反芻した……。 そう、昨日の放課後―― 図書委員として従事している白羽へ、聖書の教科を教えて貰えるように頼んだ。 「ええ。私でよければ」 「そうか。佳かった。お前に断られたらどうしようかと思ったよ」 「えりかさんの頼みを断るなんてしないわ」 「おい、また……」 「ふふ、八重垣さんには八代先輩の時に貸しがあるって言われていたものね」 そうだ。確かに協力する際にそう言った。 八代譲葉殴打事件。 犯人と目されていたのは、 (匂坂マユリ) わたしと同じ事を連想したのだろう。 「…………」 平素と変わらぬように振る舞っていた白羽の表情は、一転――例えようもない程に切なく悲しげに視えた。 吸い込まれそうな濡色の瞳は今にも潤み、涙がこぼれ落ちそうで、わたしの胸は酸素を失ったように苦しくなる。 「あいつの事は――」 「これは――十八歳未満には見せられない状況かな?」 頓狂な声が湿った空気を吹き飛ばし、 「放課後の斜陽の図書室で見つめ合う乙女たち。絵にはなるが、なるべくなら人目に付きにくい場所でやった方がいい」 「何も……しようとしてませんよ」 「本当かい? 僕は性差別者ではない。相談してくれていいんだよ」 苦しくなった胸を押さえながら、勘ぐる八代先輩へと話した結果―― 「君から頼んできたんじゃないか」 (……思い違いですよ) 調子が狂わされていたわたしがそう取れる言い方をしたのは確かだ。 だから、切なげな白羽を抱きしめ、悲しい顔をなくしたいと思ったことも、 「……思い違いだ」 「うん? 何を呟いているんだい。もしかして僕の胸を盗み見ることに夢中なのかな?」 「……先輩と一緒だと佳いことが一つだけありますね」 「何かな」 「落ち込む暇もない」 「ははっ、そりゃ傑作だ!」 呵呵とした先輩の笑い声に、何事かと同室で勉強する白羽らが見てくるも、 「白羽さん。この一文だけど、これは誰に対して告げた言葉なの?」 「あ、はい。それは……」 気ぜわしげにわたしを見遣るも、考崎の質問に丁寧に答える。 ――わたしたちの自室で勉強するとなったはいいが、机が足りず空いている部屋から失敬してきた。 わたしたちはベッド側。白羽たちは本棚寄りの奥だ。 つい考崎と角突き合わせ、机を共にしている白羽を目で追ってしまう。 わたしとしては書痴仲間の方が……。 「どうしたね八重垣君。気もそぞろじゃないか」 「いえ、こちらも勉強に戻りましょうか」 教科書を手に、試験に出る範囲の場所を開く。$聖書での言い回しは面倒臭く受け取り方によってはさまざまだ。 だが試験とする以上、一つの正しい解があるのだろう。$わたしは先輩に見解を聞こうと顔を上げ―― 「……何か顔に付いていますか」 「いや、君と君のアミティエは面白いなと思ってね」 端から見れば変わり者同士だ、それは笑えるのだろう。 「ですかね。こちらとしては面白いだけじゃ済まない。共同生活だから色々と大変ですよ」 「そうなのかい?」 「一度料理部で話した感じで察しているんじゃないですか。性格的に合わないってのは」 素直なわたしの気持ちに、ふぅんと気の抜けた返事が戻ってくる。 「――僕はそうは思わないな」 銀色の前髪を弄りながら言葉を続けた。 「バスキア教諭にも言われましたけどね、わたしとしては違和感しかありませんよ」 「違和感、違和感か。ふふ、八重垣君。違和感というのはね、似ているからこそ感じるものなんだよ」 「はい?」 「違和感というのは何かしら共通する部分が多くあるから感じるものなんだ」 「似ているからこそ、同じじゃない部分が気になるのさ」 言い得て妙だ。$だが、集中してこちらの言葉が届いていないアミティエを見て頷くのも業腹だ。 「まぁ何だ。せっかくのアミティエ同士なんだ。上手に付き合うと佳い。だが、生々しい関係までいくと面倒臭いことになるだろうけどね」 「…………」 先輩の軽口に、鉛筆を走らせる白羽をつい視てしまう。 「……八代先輩は性差別者でないと言ってたと記憶してますが?」 「僕個人はそうだ。だが此処は基督教の学舎だからね。デリケートな問題なんだよ」 正直、その辺りは詳しくない。基督教は処女性を重んじると耳囓りで聞いているだけだ。 「まぁ近年では不当な扱いを差別だとしているところもある。だが、まだ難しい問題だろうね」 と誰とも無しに呟く。 躁気味の先輩が珍しく気を落としたことで、わたしは奇妙な引っかかりを覚えた。 (いや、白羽と匂坂のことを想っているんだろう……) 八代先輩も事の顛末は知っている筈だ。いや、なら、声を潜めつつも白羽と同席しているのにこんな話題を……。 「……疲れた顔をしているね」 「え、いや、八代先輩の方が……」 「指導してかれこれ一時間あまりだ。リフレッシュする必要があるな。よし!」 勢いよく立ち上がり、驚く白羽たちをよそにわたしへ近づくと、 「せ、先輩っ!?」 いきなり抱き上げられ、悲鳴に近い声を漏らしてしまう。 「おっ、ようやく年下らしいところを見せたな」 にんまりとわたしのお株を奪う猫のような笑みを向け、お姫様だっこをした状態でベッドへと向かう。 「……まさか、予行練習でもするっていうんですか」 「まさかと言ったら?」 この人は冗談か本気は分かりづらい。$おい、そんな目で視るんじゃない。 白羽、考崎へと頬に熱を感じながらも睨み付けた。と、 ベッドの上に寝かされ、そのままわたしへと覆い被さる。 「さすがに笑えなくなってきたんですけどね……」 「へぇ、ならどうする?」 「このまま蹴り上げますよ」 そりゃあいい、と自虐風冗句がお気に召したのかしばし笑った後、ベッドと脇腹の隙間へと手を差し込み、 「ちょ、」 「俯せになって貰うよ」 俯せにされ、太もも辺りに陣取られる。確かに感じる二つの柔らかな重み。 「ふふ、地の利を得たぞっ」 「な、何のつもりなんです……!?」 「乗ってくれないんだな。マッサージだよ。疲れた顔をしていたじゃないか」 不埒な行為でないと分かりほっと胸をなで下ろす。いや? マッサージ? 「よくサッカー終わりの弟へマッサージをやっていたんだ。僕の腕はなかなかのものだよ」 「別に凝ってなんか、ひゃっ!?」 おもむろに手が肩へ、肩胛骨へと触れ、ググ……と力を込められる。 「む、だいぶ凝っているね。読書で目を酷使しているのだろう」 「いや、そりゃそうなんですが、ぅ……く!」 肩胛骨の下あたりに拳骨を押しつけ、震わせるようにして解す。 凝っていないと思っていたが絶妙な力加減に、 「はぁ……こいつは、なかなか……」 恍惚とし肯定的な言葉を吐いてしまった。 「だろう。僕のマッサージは好評なんだ。たまにネリーにもしてやっていてね」 「小御門……ん、先輩にもですか?」 「ああ。あいつも気苦労が多いからね」 「っ……!」 肩、肩胛骨を解し終え、背中から脇腹へ。 広義の意味では胸に触れそうになり、思わず身体を緊張させてしまった。 「はぁ……! そっちはあまり凝っていませんから……!」 「いや、上半身の筋力が並とは違うね。やはり下半――おっと、此は微妙な話題だったか」 「今更気にしちゃいませんよ」 そうか、と言うと背骨を中心に上から腰までを入念に解していく。 ぐっ、ぐっ、と親指が押されるたびに筋肉が癒やされていくのが分かる。$それと、 (どうにも落ち着かないんだよな) 目を丸くし、いきなり始まったマッサージを見詰めている白羽と考崎の目。そして、腿に当たる八代先輩のお尻にだ。 薄いプリーツははっきりとした感触を腿に伝えてくる。瑞々しくも柔らかで弾力に富むお尻の感触。 女性同士だろうが、と思うも少し前に話していた同性愛の言葉が思い出され―― 「そ、そろそろいいです。大分楽になりました」 「うん? そうかい、まぁ背筋は解したが……」 お尻が持ち上がり、感触が消えたことでほっとする。 「足の方もやっておこうか」 「っ……!」 腿の、いや付け根辺りに触れられ慌てて背を逸らす。 「いや、本当に大丈夫ですから……!」 「そうかい? 存外凝っている気もするんだがね」 悪気はないのだろうがそう漏らす八代先輩。$わたしは、はっとし白羽を、考崎を見遣った。 白羽は頬を染め、指の間からこっちを見、考崎は目を細め、凝っと注視していたのだ。 「……わたしを視るな」 「…………」 「〈瞬〉《まばた》きしろ」 「あ、あの!」 「うん? どうしたんだい? もしかして僕と八重垣君の仲の良さに妬いたのかい?」 「そ、そうじゃなくて……」 「そうじゃないとは寂しいな。蘇芳君は僕にとって特別な存在なんだがね」 「……先輩。人の上で口説くのはやめてくださいよ」 そうだなと、呵呵と笑う。再び腿へと掛かる柔らかな弾力。 おろおろとする白羽を制し、 「次は講師を変えて指導するというのはどうでしょう」 と考崎が言った。 「ほう、蘇芳君の教えでは不服かね?」 「いえ、せっかくなのでニカイアの会の会長にも教えて貰いたいのです」 「成る程。多面的な捉え方もできるようになるか。採用しよう」 あっさりと意見を取り入れ、わたしの上から身体を起こす。 体重が、腿に感じていた柔らかな熱が去ったことで安堵の息を漏らした。 余計なことをされる前に自分で起き上がり、ベッドの端まで移動する。 いつものように車椅子を持ってきたアミティエへ、 「……初めてお前がアミティエで佳かったと思っているよ」 そう力なく告げたのだ……。 映画“ジュラシック・パーク”の中で、 «科学は農薬を生み出すが、それを使うなとは言ってくれない» という言葉がある。 だが今は―― 手には大量の干し藁、目の前にはむせ返るほどのバラたち。 そして花の手入れをするためか、マントとベールを脱ぎ薄着になったバスキア教諭。 「さぁ、手入れを始めましょう」 にっこりと微笑むが、わたしとしては農薬でも何でもいいから手間を省こうぜという気持ちだ。 「……ま、病害虫対策のため農薬は撒いているみたいだけどさ」 「どうしました? まずはマルチングをしましょう」 と、手に藁を持ち可憐に微笑む。$わたしが言いたいことは―― (何でこんなに手間暇かけて、勉強を教わらなくちゃいけないって事だよ……!) 始まりは単純な話だった筈だ。 苦手科目を知人……書痴仲間に教えて貰おう、それだけのことだった。 だが―― 「え? 私がお二人に教える……んですか?」 「ああ。予定が先までびっしりってんじゃないなら頼みたいんだが」 「お願いするわ」 「教えるのは構いませんけど……」 「何か不都合でも?」 「私一人というのが……お二人とも進んでいる箇所は違うでしょうし」 「ああ、そりゃ大丈夫だ。進捗具合も何も、わたしと考崎の出来はどんぐりの背比べってやつでね」 「そう……ぁ、なんですか……」 「恥ずかしい話テストの範囲すら知らないってな具合なんだ。ま、聖書の授業なんざ興味ないから仕方がないけどさぁ」 「あの……。それ以上は……」 「宗教学校の学舎で不敬ってか? 別に馬鹿にしてるわけじゃない。ただ、授業に興味がそそられないってだけで……ん?」 どうにも態度がおかしい書痴仲間に首を傾げる。考崎は何故か、押し手から手を離すと、逃げるように白羽側へと早足で向かった。 「おい、お前からも頼めよ。詰まらない教科だからって……」 車椅子に軽い揺れを感じる。そして一拍置いて感じるは甘い香水の薫り。$此は……。 「ごきげんよう、八重垣さん」 背後から感じる言いしれぬ重圧。 夏だというのに冷えた空気を破る為、後ろを振り返ると……。 「ひぃ!?」 「そう。テスト範囲も知らないのですね。興味がないのなら仕方がありませんよねぇ」 いつもの物腰に、いつもの微笑み。 柔和な印象は変わらない、変わらないが―― それが何より怖ろしい。 「あの、バスキア教諭……?」 「聖書の授業が苦手だったのですねぇ。なら私がつきっきりで指導してあげますわ」 善意――だと思う言葉に抗えず、そして、 「さぁ、手早くマルチングを済ませてしまいましょう」 満面の笑みを浮かべるバスキア教諭に促され、干し藁を手に教諭に続いた。 (講義する代わりにバラの手入れを手伝えってのはなぁ……) 正直草花に興味がないわたしからすれば、此だけ手間暇掛けて、“お花が綺麗”だけじゃ意味がないと思ってしまう。 労苦に対して益がないのだ。$だから面倒臭さが勝る。 「うぁ……先生。跪いて服が汚れますよ」 「お手入れをしているのだから仕方がないわぁ。八重垣さんもうさぎ小屋でお手伝いをしていた時は汚れるのを厭わなかったでしょう?」 「いや……ま、そうですが……」 うさぎの世話をほとんどアミティエに押しつけていた手前、から笑いで誤魔化した。 その間にも、バスキア教諭は藁をバラの根元へと敷き詰めていく。 「その、一つ質問なのですけど」 「なぁに?」 「屋根付きで暑いのに、何故わざわざバラの根元に藁なんてひいて、さらに熱くさせているんですか?」 藁を手渡しつつ問うと、額からうっすらと滲む汗をハンカチで上品に拭いながら説明を始めた。 「根元をこうして藁で覆うことをマルチングというの。こうすることで乾燥を防いだり――」 「地面の温度の上昇や雑草の繁茂も抑えられるのよぉ」 「へぇ。素人考えだとますます熱くなってしまいそうな気がしますけどね」 「ふふ。高温期に入るから、乾燥しないことが一番重要なの」 「本当は早朝に水を遣るのだけど、あまり気温が高い時には乾燥しないよう、また水遣りをするのよ」 わたしが頷いた事に気をよくしたのか、バスキア教諭は堆肥を追加で入れる――追肥と言うのだそうだが、それを月一回を目安に行うこと。 そして、ハダニや黒点病対策に予防薬の散布をマメにすることなども話した。 「……めちゃくちゃ手間ですね」 「ふふ。でも手間を掛けた分だけ返してくれるの。だから嬉しくて」 やはり今ひとつ分からない理屈だ。$クセっ毛の頭を掻くと、手分けをしてマルチングをしている白羽・考崎ペアを一顧した。 「基本理念と創世記、ここまでは分かった?」 「ええ。教え方が上手ね。白羽さん」 「そんな……」 作業をしつつ、上手いことやっているらしい。 (クソ……白羽と組めば佳かったぜ) 心の裡で毒づいてしまうも、 「……こうして見ると本当にそっくりだな」 遠目で考崎を見遣ると、初め桜並木で見間違えたように――匂坂マユリを思い出す。 髪は考崎の方がやや長いが、 「……面倒臭さなら二人とも一緒か」 呟き、わたしにとって同じくらい面倒を起こしてくれた相手を思い苦笑ってしまう。 そして――凝っと見ていると、考崎へ話しかけている白羽の瞳に嬉しさと悲しさが同居しているように視えた。 ……いや、それは考え過ぎ、 「ふふ、面倒臭い作業もお終いですよ」 「え、あ……」 「藁もひき終わりましたし、後は少し湿らせましょう」 普段の緩慢な動作はどこにいったのか、軽やかな足取りで水場へと向かう。 途中、もう少しで分担した箇所を終える白羽らへと水を遣るように声を掛け、ジョウロに水を汲むとわたしの元へ戻ってきた。 「さぁ、水遣りなら退屈しないでしょう、八重垣さん」 「手入れの花形作業ですものね」 「ふふ、そうよぅ。分かっているのねぇ」 冗談を言ったつもりが当たりを引いたようだ。 バスキア教諭はわたしへとジョウロを手渡すと、さぁと促す。 (何だか小さい子にバスの降車ボタンを譲ってるみたいな感じだな……) 引っかかりを覚えないでもないが、世話になっている手前、愛想笑いを浮かべ手渡されたジョウロで素直に水まきを始めた。 「存外重いんだな……ジョウロ」 片手では持てず両手を使い水を与える。 以前うさぎ小屋の世話で考崎が持ってきていたやつよりも容器自体が大きい気がする。 (片手で軽々持ってたし、意外とバスキア教諭、力があるんだな……) 白羽ほどではないが〈手弱女〉《たおやめ》な雰囲気を持つ教諭の意外な特技? に、戸惑いつつも順々に水を与えていく。 品種名は分からないが、分厚い花弁を持つ白バラや紫色のバラへと水を与える。 ん? 紫のバラって珍しいとか、どっかで聞いたような……。 「八重垣さんは水まきがお上手ですねぇ」 「え、あ、そうですか? っていうか、水まきに上手い下手ってあるんですか? 傘を差すのが上手いくらい聞いたことがないですよ」 「ふふっ、八重垣さんは冗談がお上手ねぇ」 ――結構本気の意見だったのだが。 バスキア教諭はわたしへ一歩近寄ると、 「っ……! せ、先生」 「上手だって言うのは本当よ? ほら、八重垣さんは根元へ水を掛けているでしょう?」 「え、ええ」 「乾燥を防ぐためにマルチングをしたのだから正解なの。早朝、気温が高い時は葉にも水をかけるのだけどね」 「そう……なんですか」 這わされた手はしっとりと冷ややかで、バスキア教諭らしからぬ印象を受けた。 いや、それよりも……。 (何だかすごい佳い匂いがするんですけど……!) わたしの手に自らの合わせているという事は――背に、車椅子の背あてに覆い被さるようにして説明をしているということだ。 密着したことでしっとりと背に感じる体温。 汗ばんでいる所為かバスキア教諭の匂いが濃密に感じられた。 「ふふ、後でもっと詳しく教えてあげますねぇ」 (詳しく教えて……?) 言葉の意味に思わず勘ぐってしまい、 (いやいやいやいや……!) 男のような感性になっている事に戦慄した。 「……冗談じゃないぞ、委員長じゃないんだからな」 「花菱さん?」 声に出ていたことに慌て、手を、身体を離そうとする。 「ぁ……」 途端に、おしゃぶりを取り上げられた赤ん坊のような哀切の瞳でわたしを見詰めた。$わたしは―― 「水遣り終わりました」 いつの間にかジョウロを手持ち、こちらへと来ていたアミティエの声が手を、体温を遠ざけた。 「そう。ありがとう、考崎さん」 「いえ」 二人会話を続ける背を眺め、 (勘弁してくれよ……) 白羽が受けている痛み、それが少し理解できたなんて……。 「ぅぅぅ……!」 クシャクシャの頭をクシャクシャに掻き回すと、バスキア教諭の姿を盗み見たのだ……。 「――ティーロワイヤルって知ってる?」 お気に入りのロシアンティーを傾けていたわたしはそう尋ねられ、首を振った。 「紅茶の飲み方の一つでね。こうやってスプーンに角砂糖をのせて……」 実演する委員長にわたしも、お茶会に招かれたクラスメイト等も注目する。 「そして、角砂糖の上にブランデーをちょっぴり注ぐの。そしてマッチで火をつけると綺麗に青い火がついて――」 「後はお砂糖が溶けたら紅茶に溶かして飲むのよ」 実際にブランデーをかけて火をつけた訳ではないが―― 「面白そうな入れ方だな」 「ええ。紅茶にブランデーの香りを加えて愉しむ飲み方なの。大人よね、憧れるわ」 暗に酒を飲むのを肯定しているような言い方に、こいつも期末テストを終えて高揚しているんだな、と思った。 「酒で酔っ払って紅茶の味なんて分からなそうだけどな」 「火でアルコールは飛ぶからその心配はいらないらしいわ。コーヒーでも同じ事ができるそうよ。そっちはカフェ・ロワイヤルと言うそうなの」 「へぇ。わたしとしてはそっちの方が好みかな」 紅茶党の委員長はもう! と言い叩く真似をした。 「その調子じゃ、テストの結果佳かったみたいだな」 「ふふ、ええ。受け取るときに慌てないくらいには。八重垣さんはどうなの?」 ――期末テストを終え、既に採点された答案は戻ってきている。 思わず考崎の姿を探すも、 「何とかなったよ。聖書だけが難だったが赤点は免れた」 共に期末対策をした考崎もギリギリ赤点には為らなかったようだ。五教科も同様に。 「で、沙沙貴姉、妹とも大人しいが、お前等はどうだったんだ。赤点とって補習ざんまい確定か?」 「……いきなり何をいうのかね」 「そうです。人権蹂躙ですよ」 「お前等の何を蹂躙したってんだよ」 「蹂躙! エッチな響きだねっ!」 身体をくねらせる沙沙貴姉にクラスメイト等から笑い声が起きた。 嘲笑でなく他意のない温かな笑い声だ。$得な奴である。 「赤点は取っていないですよ」 「うん。蘇芳ちゃんと一緒に勉強してたんだからね!」 「むしろ成績はあがりました。八重垣ちゃんは何故、赤点を取ったのだと思ったのです?」 「そりゃぁ……」 沙沙貴姉妹の前に置かれている色とりどりのマカロンを一つ摘み口の中へ放り込んだ。 「ん……む……犬が餌を食べないときは病気に罹っているっていうだろ?」 「おおう、犬扱いですか」 「? わんちゃんは可愛いからいいけど、勉強に根を詰めすぎたから、終わった今でも調子が悪いんだよねぇ」 「なにせ、口を開けたら英単語がこぼれ落ちそうで」 双子の物言いにクラスメイトの幾人かが頷く。 沙沙貴妹はようやく鮮やかなオレンジ色のマカロンに手に取って頬張った。 途端に零れる笑顔。$甘いものは人を豊かにさせる。 「ぅぅ……。でも、期末テストも終わったし、週末には収穫祭もあるからそこまでには復調しとかないとね……」 「収穫祭?」 初めて聞く単語に、わたしと同じく聞いていないクラスメイトもいたのだろう、一斉に委員長へ視線を向けた。 「七月のこの時期に行われる学院の年間行事の一つよ。学園祭を収穫祭と呼ぶところもあるけど、この学院の収穫祭は文字通りの意味なの」 「収穫した野菜を食べるってこと?」 「ええ。今でも農場で収穫した野菜を頂いているでしょう? だから食べ物に対する感謝の心、命の大切さの理解――」 「食の意義や大切さの理解を目的に開催されるの」 「へぇ。まぁご立派なこったが、愉しいのかねぇ」 結局訓話を聞いた後、皆で野菜を食べるということ以外に意義を見いだせない。 沙沙貴姉が愉しみにする程なのかと疑問に思ってしまう。 わたしの疑問符を察したのか、沙沙貴妹は大きく手を広げると言う。 「収穫祭では、とうもろこしが振る舞われるのですよ。焼いてよし茹でてよしです」 「ああ、焼きとうもろこしは確かに美味そうだな」 以前、姉に連れられ夜店で食べた焼きとうもろこしの味が舌に浮かぶ。 何ともいえない甘い香りに、醤油と焦げ目がついたとうもろこし。かぶりつくと香ばしい―― 「そう! それについにスイカ様まで食べられるんだよっ」 かぶりつく手前で邪魔をされ、沙沙貴姉の前のマカロンを奪う。$今度は抹茶色のやつだ。 「んむ……そういえば農場での世話にスイカも入ってたっけな。ようやく食べられるところまできたのか」 「自分で育てたスイカを食べられるとか贅沢だよ。とうもろこしも愉しみだし、体調を戻した上でお腹を減らしとかなきゃ!」 言いながらも調子を取り戻してきたのか、マカロンを一掴みにしまとめて頬張る。$再び笑い声が起こった。 (ま、考崎のやつにも後で教えておいてやるかね) そう思い、不参加と分かってはいてもお茶会の席を順繰りに眺める。と、 「白羽……」 「…………」 少しばかり離れた場所で一人紅茶を傾ける書痴仲間を見つけ、わたしは車椅子を向けた。 紅茶のカップを手に、愁いを帯びたまなざしを冷めた琥珀の水面へ向けている少女。 口元が何かを形作るのを見、耳をそばだてる。 「コーヒー……そう、あの時も……」 囁くような声音ゆえ、すべてを聞き取れなかったが、 「よぉ、彼女。暇だったら一緒にお茶でもどうだい?」 「え、ぁ……八重垣さん……」 詰まらない軽口を流し……いや、聞き逃したのか今さっき夢から覚めたかのようにわたしを見詰めた。 「……収穫祭の話で盛り上がってるみたいだぜ。白羽も混ざってこいよ」 「ええ、そうですね……」 心此処にあらずといった風の書痴仲間に―― (やっぱり、此奴……) “あの”懊悩に苦しめられているだろう白羽を見て、わたしは何を口にしたらいいのか分からなかった……。 時は諾々と流れ、週末―― 沙沙貴姉妹が心待ちにしていた収穫祭が始まった。 収穫するものはお茶会で話していたように、目玉であるとうもろこしとスイカ。 そしてナスやタマネギ、ピーマンなども収穫するのだと言う。 此は夕食に振る舞われるバーベキューでの付け合わせとしてのものらしい。 食べ物に対する感謝の心、命の大切さの理解――とお題目を掲げているのだし、肉類が含まれたとしても問題ないのだろう。 ナスやピーマンの収穫をしている沙沙貴姉妹らを見て、 「……わたしもあっちの方が佳かったな」 「はい? どうしました?」 呟いた言葉を拾い、夏の陽射しを受けても尚涼やかな笑みを崩さないバスキア教諭が尋ねかけてくる。 「あ、いえ、食べるのが楽しみだなって……」 「ふふ、そうねぇ。私も収穫祭はいつも愉しみにしているのよぉ」 羞じらい頬を手で押さえ言うバスキア教諭を横目に、愉しげに笑いながらナスを剪定ハサミで切り取り、収穫を続ける沙沙貴姉妹らを見遣った。 (あっちは楽そうで佳いよなぁ) バスキア教諭に収穫を付き添われ、とうもろこしの収穫を続けているものの。 「これ、意外と重労働ですよね……」 房を持ち、根元からへし折るようにして収穫するのだが、これが随分と腕力を必要とする作業なのだ。 一つもぎるたびに気合いを入れないといけない程に。 ――見た目と違って力のあるバスキア教諭は簡単にへし折って収穫しているが。 「コツを掴めばそうでもないのよ。あ、それはダメ。もう一つ隣のものをもぎって頂戴」 「順番に収穫していくんじゃないんですか?」 「旬になったか、そうでないかの見分け方があるの。実の上の毛が茶色くなっていたら収穫時期なのよ」 「へぇ、そういう見分け方があるんですね」 頷き、房が茶色のとうもろこしに手を掛ける。$腹に力を込め、全力を入れなければもぐことはできない。 「っ……とぉ!」 小気味よい音が鳴り、大きなとうもろこしが手におさまる。$ま、一応愉しくはあるか。 「よし、ちゃんとやっているわね」 皮を剥こうとするわたしの手元を覗き込む目。 「お、サボりかい?」 「違うわ。皆が遊んでいないか見回っているのよ。ダリア先生、ごきげんよう」 挨拶し合う二人を尻目に、皮を剥いていく。と、 「あら、虫に食べられちゃったのかしら?」 「粒が歯抜けになっちまってるな……」 収穫時期だと教えてくれたのにこの体たらく。 わたしの視線に気がついたのか、バスキア教諭は頬を染めワタワタと手を振った。 「こ、これは仕方がないことなのよ。これは虫が食べたのではなく、受粉させるのを誤ってしまった結果なのっ」 「受粉?」 沙沙貴姉ならエッチな響きだとでも言うところだ。 だが、バスキア教諭は頬を染めたままだが生真面目な顔つきで、わたしの手に持つとうもろこしを指す。 「〈雄穂〉《ゆうほ》が開花したら、その穂を切り取って〈雌穂〉《しほ》に直接花粉を付け受粉させるの」 「この時、上手にやらないと八重垣さんが持ったとうもろこしのように、粒が均等でない歯抜けのような状態になってしまうのよ」 「そうなんですか……! お家で戴いたときに、たまに粒が揃ってない不揃いなものがあったけれど、それって受粉に失敗したものだったのねぇ」 感心しおさげを揺らし頷く委員長。$わたしは、 「意外だな」 「え、何が?」 「委員長の家は佳いとこっぽいから、粒が揃ってないとうもろこしなんて食べたことがないと思ったぜ」 「祖母が家庭菜園をしていたから知っているの。夏はよく戴いたわ」 イメージとして、白羽よりもお嬢だと思っていた委員長の言葉に少しだけ親近感を持つ。 「ま、勿体ないからこれはこれで収穫しておこうか」 食べられない訳じゃないからな、と籠へ。 「ふふ、八重垣さんは収穫祭の意義を理解しているわねぇ」 (単に貧乏性なだけってのもあるんだがね……) 食べられるのに捨てるというのはどうにも抵抗があるのだ。 「あ、ほらこっちの食べごろみたいよ」 実が一際大きいのを指さし言う。 だが、ヒゲのような房はまだ茶色にも為っていない青いままだ。 「……わたしのところはいいから、他のやつらのところを見回ってこいよ」 「わたしも八重垣さんと収穫祭を愉しみたいのに」 「こっちは二人で充分だよ。見回りするなら、そうだな……」 クラスメイト等を見回すと、 (最近一緒にいやがるな……) 考崎と白羽が、隣り合いピーマンを収穫しているのを見付けた。 仲が佳い雰囲気ではないが……。 「ん? どうしたの?」 「白羽のところにでも見回りに行ったらどうだ?」 「え、あ……」 考崎と隣り合い収穫しているのを見、たじろぐ。 「苦手意識があるのは知っているけどな。顔を出しとかないと、お前の元カノ取られちまうぜ」 「元カノって……! もう……!」 かっと耳たぶまで朱に染め、首を傾げるバスキア教諭とわたしを見遣る。 おさげを忙しなく弄るも、 「い、行ってくるわ……」 素直に従い白羽の元へ。 アミティエを取られるとかの考えでなく―― (またぞろ、心ない言葉で白羽が傷つかないか心配なんだろうな) 大股で二人へと近づく委員長の背を眺めながら思う。$しかし、 「……どうにも気になるな」 「さぁ、収穫を続けましょう」 バスキア教諭の言葉に頷きながらも、白羽に暗い影を感じたわたしは、モヤモヤとする気持ちを抱えたまま、一つ頭を掻いたのである……。 「――聖書の中に収穫祭のことが記されています」 バスキア教諭の言葉が収穫を終えた農場の中に響いた。 「出エジプト記23章16節にて、主がモーセに仰せになりました。“あなたが畑に種を蒔いて得た、勤労の初穂の刈り入れの祭と――」 「年の終わりには、あなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行わなければならない”と」 昼を回り強い陽射しに照らされながら、朗々と歌い上げるように収穫祭の意義の講義を続ける。 陽光を浴びながらも汗ひとつ掻かずに皆へと語りかける姿に、感動すら覚える。 「……いつもは間の抜けた感じなのにな」 「……何? どうしたの?」 ちゃっかり隣に陣取っている沙沙貴姉妹らへ、いいから講義を聴けよとバスキア教諭へ目を向けさせた。 「神は、荒野の中にいた民に、彼らを乳と蜜の流れる土地に導き入れられることを約束され――」 「その収穫物をもって主に対して祭を持つことを命令されました。春には、大麦の収穫時期に、初穂の祭を行います」 久しく見ていなかった宗教者としての顔と――やはり直接手の届く議題は興味深い、いつもは詰まらないと切って捨てる講義も面白く耳を傾けた。 「……お腹すいちゃったね」 「……ま、それには同意だ」 美人の講義には一見の価値ありだが――先んじて調理してある茹で上がったとうもろこしの匂いが腹を鳴らそうと悪戯をしていた。 「――こうして、流浪の民は約束の地で主が収穫をもたらしてくださる事を認め、主に感謝をささげ喜び祝うのです」 「……充分に主に感謝をしたくなりましたよ。とうもろこしをこの世に作ってくれて」 「……スイカもだよ、アーメン」 宣言通り事前に腹を空かせておいた沙沙貴姉妹は、朗々と講義を続けるバスキア教諭を恨みがましい目で見詰めていた。 二人の言葉に吹き出しそうになり、やめろと小声で注意しつつも、確かに有り難い言葉もそろそろお仕舞いにしてほしいと願う。 もう空腹に耐えられそうにない。 最後に、とバスキア教諭が締めに入る口上をあげた時にはつい口角が上がってしまった。 「――収穫祭は、我々だけでなく神御自身が祝福される祭でもあるのです」 バスキア教諭の訓話は続くが、宗教学に関しての本を読まないわたしにとっては、暗喩を含む観念の話か? と首を傾げたくなる。 そして、口上は終わるとシスターは生徒皆の顔を一人一人総覧する。と、 「では、主のお恵みを戴くとしましょう」 そう収穫祭の本番を告げたのだ。 収穫祭の本番、皆で収穫した果実を味わう儀になり―― 「あらあら、箸が進んでいませんね、八重垣さん」 「うん? 本当じゃないか、そんなことでは大きくなれんぞ」 「八代先輩に言われると食べなきゃいけない気分になりますね……」 上級生下級生の隔てなく収穫祭は始まり、銘々に夏の実りを愉しんでいた。 あえて役割分担はしていないようだが、スイカを切る者、とうもろこしを焼く者と、調理を買って出る生徒。これは委員長や、白羽が。 そして調理したのを食べる専門の者はわたしや沙沙貴姉妹。 そして交互に行っているのは――何故だかわたしの隣に陣取っているニカイアの会の会長殿と副会長殿だ。 「確かに、譲葉は大きいわよねぇ。私ももう少し欲しいわ」 「へぇ、小御門先輩でもそういうことを思うのですね」 「譲葉はもう少しで170台ですものね。私も160台には届きたいわ」 そっちだったかと二人を見遣る。$一年では白羽が一番大きいがそれでも160センチとちょっとだ。 ん? 考崎も同じくらいか? いや、初めに考えていたあっちの方も……。 「ククク……! ネリー、八重垣君が話していたのは背の話ではないよ。僕たち乙女のマストな話題だよ」 「マスト? 帆船?」 八代先輩はスイカを持ったままやれやれと手を広げた。 「女子力が足りないんじゃないか? 胸の話だよ、バストさ。ねぇ、八重垣君?」 「……まぁ、そうだったんですけども」 ひと噛みひと噛み味わっていた小御門先輩は、元々が白い肌だからか、分かり易いほどに頬を朱に染め、とうもろこしで顔を隠した。 「こ、こんな明るい場所で、そんな破廉恥な話をして……!」 「クク、いいじゃないか。胸襟を開いて話をすることに憧れていると以前言っていただろう」 「ぅぅぅ……!」 (女子力とハレンチって、会話で初めて聞いたぞ……) 羞恥で頬を染める小御門先輩へ、羨ましいですと吐露した。 「八重垣さん……! ぅぅ、もういじめないで……」 「ははっ! この中で一番大きいのはネリーだからなぁ、自慢しておきたまえよ。そういえば――」 考崎君もなかなかじゃないか、とそちらへ視線を向けた。 「そういえばそうですね……」 正直興味がなかったからか気にしていなかったが、思い返してみると白羽よりもあるのかもしれない。 (だとするとクラス一か。ますます嫌いになりそうだぜ……) 目線は自ずとわたし自身の大草原の小さな家に……。 溜息を吐く代わりに茹でたとうもろこしにかぶりつく。 甘みがぎゅっと濃縮された大地の味だ。$此なら感謝しても佳い。 「考崎さんは何処に?」 「確か……」 ぐるりと見回すと、沙沙貴姉妹の側でとうもろこしを無心で頬張っていた。 どうやら自分ノートに書かれる程に気に入ったらしい。 「食べるのに専念してますよ。小御門先輩は……」 質問をしようと振り向いた途端、 「あ、の……?」 「じっとして……」 間近に迫った小御門先輩に驚き立ちすくむ。$勿論、比喩だが。 「まつげが頬に……。さぁ願い事を掛けて」 「あの……」 「まつげのおまじないってやつさ。どうぞお姫様」 仕方なしに、願い事を思いながら口の中でゴニョゴニョとお題目を唱える。 「ふー、って、まつげを飛ばすの」 言われるがまま小御門先輩の指に摘まれたまつげに吐息を吹きかける。 「ふふ、これで願い事が叶ったわ」 そう先輩は微笑むと、 「ごめんなさい。驚いたかしら?」 「いえ、昔映画で見たことがありますから。まさか自分でやるとは思っていませんでしたけどね」 「抜けた乳歯を枕の下に入れておくと、妖精がきてコインに換えてくれる――と似た俗信の一つだね」 「歯の妖精ですね。家では昔ながらの縁側や、屋根の上に投げてってやつでしたけどね」 やはりハーフやクォーターは育ちが違う、と感心する。 八代先輩はスイカを素早く平らげると新しいスイカを手持ち、 「そっちの方が僕には興味があったな。うん? ああ、ダメか……。歯の生え替わりの頃は、マンション住まいだったものな……」 何故だか暗い表情に変わる彼女が気に掛かるものの、わたしはリスのように可愛らしく焼きとうもろこしを食む小御門先輩へと話を向けた。 「迷信繋がりですが、七不思議の新しい話は分かりましたか?」 「ん……。七不思議! そうね、以前話題にあがってたからまた調べてみたの。今まで判明しているのは四つだったでしょう?」 「血塗れメアリー、彷徨えるウェンディゴ、寄宿舎のシェイプシフター、そして真実の女神……」 真実の女神――冗談のような迷信が言葉通り真実と為った。 「ふふふ、実はね、新しい七不思議なのだけど、それは〈碧身〉《へきしん》のフ……」 「……ちょっといいかしら」 不意に肩を掴まれ、七不思議を話していたわたしは内心、冷やっとする。と、 「……何だよ、お前から話しかけてくるなんて珍しいじゃないか」 アミティエが生真面目な顔つきでわたしを見詰めていることに奇妙ないづらさを感じる。 「あら、考崎さんもご一緒にどうかしら?」 「……いえ、アミティエに話があるので」 すげなく断ると、押し手に手を掛け、人気のない場所へと。 「もしかして、今から口を塞がれるのか?」 「…………」 「どうせなら森より、海が見える場所が佳い」 ようやく人が捌けた場所を見付け、押し手を止める。そして、わたしへと向き直り、 「貴女は鈍感だから気づいていないでしょうけど……」 「あ?」 「彼女、無理をしているように思えるわ」 突っ込み待ちかとも思うが、アミティエが言う無理をしている者、といえば―― 「……まさかお前から忠告されるとはね」 ――いつか話そうとは思っていた。 だが、いつかは今なのだ。 わたしはアミティエへ手を振ると、彼女の元へと車椅子を向けた……。 「――此処でいい」 そう告げて、役目を終えてから久しぶりに見る無垢な瞳を眺めた。 どうにも責められている気分がし、瞳から目を逸らすと、同じくうさぎを熱心に見詰めている彼女へと声を掛ける。 「知ってるか、トマトって八千種類もあるんだってよ」 「そうなの」 「ああ。最近やたらと勧められるから知ったんだけどな」 「――そう」 微笑みわたしを見遣る。 長い髪がざぁ、と通り風に煽られ、羨ましくもある緑なす黒髪を手で押さえた。 (どうにも切り出しにくいな……) 今まで幾人も彼女へ話を切り出そうとしたに違いない。 だが、結局は口を閉ざし時が過ぎるのを待つことを選択したのだ。 「どうしたの、八重垣さん」 髪をおさえ問いかける白羽の瞳には、どれほど上手に隠そうとしても隠しきれない哀切が覗いていた。 それは彼女と向き合い言葉を掛けようとすると、より強く見えてくる痛切な嘆きの感情なのだ。 「沙沙貴姉妹……苺と林檎だったか、あいつら愉しそうだったな。収穫祭なんて初めてだってよ」 「ええ。そうね。微笑ましかったわ」 「ああ、わたしも存外に愉しかったよ。ま、上級生に囲まれて鬱陶しくはあったが……」 軽口を叩くと白羽は酷い、と冗談めかして笑う。 だが、笑っているようで笑えてはいない。空虚な彼女の仕草に胸が鬱いだ。 「私もそうだった。この学院に入ってから……何でも初めては愉しいものだわ」 「――でも、今のお前は愉しそうじゃない」 わたしの言葉が切っ掛けとなり、ピリとした沈黙が横たわった。 誰にも、何も言ってほしくないという空気。 「そんな事ないわ。愉しんでいるわよ。とっても美味しかったし……」 「自分は焼いてばっかりだったろうが、口を付ける気なんてなかったんだろう」 「…………」 瞳は逸らされ、うさぎ小屋へと視線は再び投げかけられる。 わたしは白羽に見えぬように大きく息を吸い自分を鼓舞した。 「お前も知っているだろうが、わたしは嘘を吐くのが得意でね。だから相手の嘘も見抜けるんだ」 「…………」 「なぁ、白羽。お前、匂坂が学院を去ったことから立ち直っていないんだろ」 己を鼓舞し、ようやく吐けた言の葉。 白羽は痛みを堪えるように瞳を細めると――笑ってみせた。 「――違うわ八重垣さん。私はもう彼女のことは忘れたの。だから八重垣さんが気にするようなことはないわ」 「そうかい」 「そうよ」 気丈に微笑み告げるも、わたしには泣くのを我慢している童女のようにしか視えなかった。 「“人間の価値は、絶望的な敗北に直面して、いかに振る舞うかにかかっている”――誰が言った言葉か分かるかい?」 戸惑いつつもヘミングウェイの名をあげる書痴仲間へ、より言葉が届くよう車椅子を彼女へと向けた。 「お前の振る舞いは大人だよ。とうが立った女が言う分には異論はない。だが――わたしたちはまだ子供なんだ」 「こ……ども?」 「ああ。物わかりが佳すぎる。子供のように駄々をこねたって佳いんだ」 「そんな……だって……」 「だって? 何だ? 匂坂が戻ってこないか? だから無駄だってのか?」 「そう、そうよ……! だから、私は、」 「黙って口を塞ぎ忘れるか? 悪いがそいつは悪手だぞ」 感情が高ぶり、引き込まれそうな双眸がわたしを凝っと見詰める。壊れかけの子供へと接するように言葉を和らげた。 「だって、お前があいつを忘れられる訳がないだろう」 わたしは語りかける。$聖母祭での伴奏を、共に奏でたトータプルクラの情景を。 二人が確かに通じ合っていたことを。 肩を震わせ口上を耳にしていた白羽は、 「――何故、なんで私に黙って消えてしまったの」 ようやく本心を吐露した。 「だよな、やっぱり納得なんかできないんだよ。理由も言わずに消えたんだろ。……なぁ白羽」 泪を流す白羽へと笑う。猫のようだと評された笑いだ。 「だったら真相を暴いてみないか?」 「暴く……? 真相って……」 「前にも言ったが、ゲイリークーパーだ。真昼の決闘だよ。白か黒かはっきりさせなくちゃ為らない」 「理由を知ろうと……言うの?」 「そうだ。何も言わず消えたから気になるのさ。訳を知ったら本当に忘れたくなるような、くだらない理由かもしれないぜ?」 「えりかさん……」 ようやく――空虚でない本当の笑みがこぼれた。 「私――マユリが何故学院を去ったのか調べてみる。悲しむのは、それからよね」 「ああ。物足りないだろうが、泣くならわたしの胸を貸してやるよ」 「――ありがとう」 呟き、泪を拭った。 わたしは驚きこちらを見遣るうさぎたちへ笑いかけると、まつげに祈った甲斐があったなと、そう思った……。 グリム童話に�ラプンツェル�と呼ばれる一篇がある 長年子をなせなかった夫婦がようやく子を授かる。しかし妊娠した妻は食が細く、魔女の庭に生えるラプンツェルという野菜が欲しいと請う 夫は願いを聞き入れ盗みに入るも……魔女に見付かり、生まれた子と交換することでラプンツェルを与えることを承諾した やがて生まれた子を魔女は約束通りに貰い受け、子をラプンツェルと名付け森の中の高い塔へと閉じ込める。そして長い月日が経ち―― 偶然、森の中を歩いていた王子が歌声に導かれラプンツェルを見付ける。二人は何度も逢瀬を交わし、やがて愛し合い彼女は妊娠する 事実を知った魔女は怒り、ラプンツェルの髪を切り荒野へと放逐した。何も知らず訪れてきた王子も―― 魔女から罵られ事の顛末を知り絶望し、塔の上から身を投げ失明する 物語は、盲目のまま森を彷徨う王子とラプンツェルは再会し、奇跡から視力を取り戻し王国へと戻り末永く幸せに暮らしました、で終わる だが、わたしにはこの話を聞かされ腑に落ちなかったことがある 他の教訓を含む寓話とは違い、正直者が困難に遭うも難を逃れ報われた――という話ではないからだ 夫婦は願い、魔女は対価を払う。しかしラプンツェルだけは何の代償もなかった 労苦を味わってはいるが、それは身から出た錆なのではないのか、と ――これから始まる物語は、対価を払うことなく願いを叶えようとする道化者のお話 ――昼食の時間、食前の錠剤を喉へと流し込み、麺を一房箸で掴むとつゆにつけ、勢いよく啜る。 「やっぱり夏はこれだよな」 つめたい冷や麦が喉を抜け、腹から体を冷やす。 シンプルなめんつゆだけの味もさっぱりとして夏本番の今の時期には有り難い。 「それだけだと栄養が偏りそうね」 「相変わらずサラダだけのやつには言われたくないね」 わたしと同じように錠剤を飲むと、サラダへ手を付ける。一概にサラダといっても夏野菜がふんだんに使われたものだ。 パプリカやキュウリやトマト、学院で採れた野菜は青々と元気が良く、確かに体には良さそうだ。 「でも、涼やかで佳いわね」 目にも冷ややかな透明な椀に、氷の入っためんつゆ。 表情を変えないアミティエだが、流石に夏の盛りとなった今の気温は耐え難いらしい。 しばし物欲しげに見詰めてきた。 「収穫祭を過ぎてから一気に暑くなったよな……」 今や昔と言った風だが、あれからそれほど経っていないというのに気候は随分と変わった。 暑いとはいえ木陰で一休みすればしのげる暑さも、今や何もしなくとも汗が浮いてくる始末だ。 ま、変わったのは―― (……白羽) 収穫祭で掛けた発破が効いたらしく、目に力が戻り、かつての書痴仲間へと戻っていた。 共にいる時間が長い、花菱立花。そして気にしていた沙沙貴姉妹も察したのだろう、わたしへと一々お礼に来たのだ。 面映ゆかったわたしは礼もそこそこ追い返したのだが、八代先輩まで馳せ参じられ遠回しに礼を述べていった。 わたしは書痴仲間が皆から本当に愛されていたのだなと識った。 わたしには無いもの。 「氷、溶けてしまうわよ」 「……ああ」 しばし、食事の音だけが響く。$サラダを食す、小気味の良い咀嚼音。 そして日本人だけの特権、麺を啜る音だ。 「……ん」 「どうした?」 「……まつげが目に入ったのよ」 そう言って目を瞬かせる。 しかし不器用なのかまつげは取れず、擦っていた瞳からうっすらと涙が滲む。 「取ってやるよ」 「貴女が?」 「嫌なら断れば佳い」 言うも、お願いするわとフォークを置きこちらへ。 「ちょっと待ってくれよ」 ベッドに座って待っているように告げると自分の机へ行き、目薬を持ってくる。 「目薬なんて持っていたの?」 「読書家にはマストアイテムだろう。ほら使えって」 手渡すも、目薬を凝っと見詰める。 まさか……。 「……お前、目薬さしたことないとか言うんじゃないだろうな」 「あるわ。只、自分でやったことがないだけよ」 本を……いや教科書か? 読んでないやつは基本としてやらないものなのか。 一日に二、三度は使うものだろう。 「……分かった。さしてやるから待ってろ」 いつもの介助とは逆だなと思いつつ、考崎の元へ。 「……目力強いな」 「早くして」 そう促され、目薬を受け取ると、考崎へ―― 「目を閉じるな」 「信じて佳いのね」 「そういう言葉はここ一番に取っておくもんだぞ」 「……分かったわ」 怖々と目を開ける。 怒っているような睨んでいるような目。 「そのままだ」 「……ん」 点眼するとビクリ、と身体を竦ませる。 震えるさまは少女のようだ。$少女だけれど。 「パチパチさせてみろ」 「……手じゃない。目を、だ」 「そう」 目を瞬かせる考崎へハンカチを差し出す。 変わったもの―― 初夏を過ぎ、盛りとなった夏。 白羽、そして―― 「あの……バレエのことで聞きたいのだけど……」 「何かしら」 ひと月前の硬質な空気は抜け――いや、程々となり、声を掛けるクラスメイトも数えるほどだが現れてきた。 (変わったのは白羽だけじゃない、か) 今まで避けられていたアミティエにも佳い変化が生まれてきたようだ。 「あいつ……絶対独りぼっちキャラのままいくもんだと思っていたんだけどな」 「意地悪をしている訳ではないからですよ」 呟き声が聞こえていたのだろう。$いつの間にか隣に陣取った沙沙貴妹が訳知り顔で言う。 「初めは怖い人かと思っていましたけど……」 熱心とは言わないまでも質問に答えている考崎を眺め、 「突き放すような言い方も、悪意や面倒だからでなく、ああいう話し方の人だと分かったからです」 「そうか? 実際面倒くさがりだと思うぞ。お前みたいにさ」 「ふふふ。八重垣ちゃんもわたしのことを知ってくれているのですね」 貶されたというのに嬉しそうだ。訳が分からない。 「……ま、わたしとは違うんだ。一人くらいは友達ってやつを作っても罰は当たらないよな」 「八重垣ちゃんは……」 「お?」 「……八重垣ちゃんは特別な友達って居るのですか?」 特別居ないな お前だよ 随分な質問だが、確かに壁をつくって付き合うわたしには相応なものだ。 「さてね……」 ふっと―― ようやく己を取り戻した書痴仲間を浮かべるも、 「……ないない」 と、口に出してしまった。 「何がないのですか?」 「特別なんていないってことだよ。わたしはこいつが友達だ」 自分の机の上に置いてあった小説を沙沙貴妹へ差し出す。 何故だか珍しくにこりと微笑むと、 「わたしとしても一緒ですよ」 そう言った。 (白羽がされたらショックで白目剥きそうだ) 友達が居るかって随分な質問だな、と思わず苦笑ってしまう。 「あ……マズイことを聞きましたかね?」 「いや、そうじゃない。そうだな……友達ねぇ」 と、心配げにわたしを見詰める彼女をからかいたくなったわたしは、 「友達なら目の前にいるだろ」 と言った。 「はい?」 「お前だよ。わたしはそう思っていたんだけどな。嫌かい?」 八代先輩のようにシニカルな笑みをこぼしつつ決めてみせる。沙沙貴妹なら分かってくれる。冗句だ、と。 「嬉しいですよ。えりかちゃん」 「お、おお……?」 沙沙貴妹にしては珍しく生真面目な顔つきでわたしの手を握ると、 「書痴仲間の一人に加えてくれたのですね……!」 静かに昂ぶる彼女へ、今更冗談だとは言えず、今度面白い本を貸してやるよ、と口約束で逃げたのだ……。 沙沙貴妹の相手をやめ、ふと、熱心に話しているアミティエの席を見遣った。 「ありがとう、考崎さん!」 「ええ」 熱心だったのはクラスメイトだけだったが、以前とは違い如才なく答える姿に、どこか置いてけぼりをくらった気分に為る。 (こいつとわたしは違う、分かっちゃいるが……) 「どうしたの?」 「八重垣ちゃんと話し込んでいたのですよ」 「へぇ、珍しいこともあるんだね」 そして、沙沙貴妹は姉に考崎がクラスメイト等に認められつつあることを、わたしが意外だと話していたと告げた。と、 「林檎も言ってたみたいだけど、おかしくないよ。だって――」 聖書の時間における聖歌の調べ。 唄の仕事もしていたのか、流石の度胸で臆することなく皆の前で朗々と歌い上げる。 匂坂マユリを思い出す容貌で。 「――初めて歌ったんでしょ? それなのに凄く上手だし」 「バレエは言わずもがなってやつだもんね」 「一目置かれるのはさもありなんてやつか……」 バーレッスンを終えてからフロアでの練習。 いつだったかと同じようにセンターレッスンを行う考崎を眺めた。 確かに姿勢が佳いやつだなとは思っていたが……。 「バレエの時は背骨に鉄骨でも入ってるみたいだな……」 「鉄骨って! ふふっ、でも確かにすごいよね。立ち方からして違うもんね!」 スポーツで身体のキレが違う、という表現があるが、他の生徒が比較対象としてあるからか、それが如実に分かる。 他のクラスメイト等は体重を感じるが、考崎の動きや踊りは重力を感じさせない。 まるで一筋の糸の上を辿るようにそっとリズミカルに舞い踊っているようだ。 「対抗馬は委員長くらいか」 我らが花菱立花委員長も経験者として長く踊ってきたからか、考崎と比べるとやや劣るものの、表現力は彼女の方に分がある、ように思える。 「……門前の小僧の意見ってやつだがね」 「え、なに? コゾウって?」 目をぱちぱちとさせ纏わり付いてくる沙沙貴姉のレオタード姿を、上へ下へと見遣り、 「お前の体型だよ。小僧っていうか、少年みたいだなってこと」 「酷いっ!? 八重垣ちゃんだって同じくらいじゃんかぁ!」 言われて詰まる。$大草原の小さな家の話ではそうだ。 だが、 「――身長は?」 「え」 「身長だよ、何センチだか言ってみろって」 「ひゃ、ひゃくごじゅう……」 「はい、ダメ。わたしは保健室の養護教諭と仲がよくてね。クラスの主だったやつらの体型は知ってるんだわ」 「うそ……!?」 「お前、140台だろ? が、わたしは151センチだ。残念ながら明確な開きがあるのだよ」 「ぅぅ……! 負けた……!」 お前座ってるから身長関係ないだろ、と言われればぐうの音も出ないが、沙沙貴姉も考崎とは違い、ある程度の空気は読める。悔しがるのみだ。 わたしは羨望のまなざしで見られるアミティエを眺めると、 「ま、性格に難ありなんだ。これくらいは特技がなくちゃなぁ」 と呟いた。 「へぇ。特技、特技ねぇ」 「何だよ」 「それじゃ八重垣ちゃんはどんな特技を持っているのかね?」 大体の事はできる 特にない 「今の話の流れだと、わたしの性格が暗に悪いって言ってるようなもんだぞ」 「いやぁ、そうは言ってないけどね」 「ま、自分でも悪いとは思うがね。で、特技か、特技ねぇ……」 しばし熟考する。速読や鍵開けなどが思いつくが、考崎と比較してこれだと誇れるものがない。$わたしは、 「そりゃ……全部だよ。全部。わたしにできないものはないね」 そう〈嘯〉《うそぶ》いた。 「本当にぃ?」 「今からバレエ踊れってのは無理だけどな」 「ぁ……」 繊細な話題だとでも思っているのか眉を曇らせる。 「おいおい、気にするなよ。ブラックジョークさ。お前も割と繊細なんだな」 「わ、わたし的には繊細だよぅ!」 「悪かったよ」 そう言いつつも悪ふざけを続けようと思い、以前沙沙貴妹へも頼んだ事を告げる。 「仲直りの証だ。ハグしてくれ」 「え?」 戸惑う表情。笑いながらそれこそ冗談だよ、と言いかけるも。 「ふふ、仲直りだよっ」 「……ああ。そうだな」 バレエの薄い生地越しに沙沙貴姉の熱い肢体が感じられ妙な気分に為る。 子供特有の妙な体温の高さ。そして壊れそうな柔らかさだ。 「そろそろ離せ。委員長と同類だと思われるぞ」 「残念。八重垣ちゃんと仲良くするのってレアなのに」 人の目がなければずっと続けたいような意味合いに聞こえ、頬が赤くなりそうになる。 ごほん、と咳を一つし、華奢な肩に手を掛けハグを外した。 今の言い方だと性格が悪いって言ってるようなもんだぞ、と言いながら特技は何かを探す。 (速読、解錠技術……ダメだ。あいつの特技には負ける) バレエと歌の腕前を知っている以上、鍵開けの技術を誇ったところで恥を掻くだけだ。 「ん? どうしたのかね、八重垣ちゃん」 「……クソ。ないよ。何もない。特別、特技って言えるものはないね」 「そうなんだ。負けてるねぇ」 「ぐっ……」 何となしの呟きだろうが、胸にグサリと突き刺さる言葉だ。 あの変わり者に負けてるだって? 「――ともかく、あいつに負けてるってのは気にくわないな」 「え?」 「なぁ、お前にしか頼めないお願いってやつがあるんだが、聴いてくれるかい?」 「べ、別にかまわないけど……」 どこか不安げな表情をしている沙沙貴姉を呼び、耳に口を寄せるとわたしはお願い事を耳打ちしたのだ……。 気もそぞろだった。 窓から容赦なく浴びせられる陽射しも、 車椅子を漕ぐたびに首を撫でる湿気を含む生暖かい空気も、 向かう先でのことを思うと、特に気にならなく為っていたのである。 (自分で頼んでおいて今更なぁ……) 沙沙貴姉へしたお願い事。 それは勢い――あの時のわたしを突き動かしていたのは、 「……変わり者より下と思われるのは面白くない」 只、その一点だ。 他人の評価なんざ気にしないが、他人でないアミティエから下に見られるのは我慢がならない。 沙沙貴姉妹から煽られて、いや、自分の心の〈裡〉《うち》でも思っていたのだろう。 だからあいつと向き合ったときに、対抗できる特技を身につけておこうと思ったのだ。 ……思ったのである。 だが、 「……着いちまったか」 頼み事を叶える先に来たはいいが、勢い頼んだ時と比べて放課後と為った今――大分熱意は薄れている。 教えを請う面倒臭さと気恥ずかしさに、比重は同程度に為ってきてしまっているのだ。 「図書室で白羽でも弄ってる方が……」 「おおっ! 久方ぶりに部を訪ねてみたら面白い顔に逢った」 聞き知った声音、耳にした刹那から帰ろうと思っていた比重は更に重みを増し、杯を一気に傾けた。 只の通りすがりですと言おうと口を開けた途端、 「僕に会いに来たのだろう。さぁ、入ってくれたまえッ」 躁気味のテンションの高さに押され、押し手を掴まれるとされるがまま、わたしは料理部の一室へと押し込まれてしまったのである……。 ――そう、 確かにアミティエの特技に対抗するため、料理を特技としたらどうかと沙沙貴姉に頼んで一日体験入部を申し込んだ。 だが、 ――中華鍋を振るい、幅広の大きな中華皿へと麻婆豆腐を移す。 「ハハハハッ! ダメだな、これは。一目見てとろみがないと分かる」 心底愉しげな声に苛つく。そう、 「僕と同じ程度の腕とはね。ふふふ! 同輩同士、仲良くやろうじゃないか!」 相手をすると面倒臭い筆頭の八代先輩に拉致され、特技の取得なんぞという戯言は地平の彼方に消えてしまっていたのだ。 「……そういうそっちも辛いだけなのが見てとれますよ」 意気揚々と作っちゃいたが……。 「これは痛いところを突かれたね。僕は料理が不得意なんだよ」 「……そいつは意外ですね」 料理部に所属していたのは知っていた。 稀に顔を出すだけだとも聞いていたが、要領の良いこの先輩なら簡単にできるものだと思っていた。 「君の言いたいことは分かるよ。だがね、料理というのはセンスなんだ。努力が無駄とは言わないが、〈所謂〉《いわゆる》カメの進みというやつでね」 「へぇ」 水に溶いた片栗粉を入れるときに手間取ったのか、豆腐と分離して固まった自分の麻婆豆腐を見ては、先輩を笑うことはできない。 「だが、我が師に仰いでハンバーグは作れるようになったんだ。大したものだろう?」 アレはアレで面倒そうだ。 素直に頷くと八代先輩は快活な笑みを見せた。 「しかし我が師――蘇芳君は教えるのが上手い」 「あいつから習ったんですか? ああ、そういえば料理部だったか……」 「今日は図書委員の仕事でいないがね、料理の腕も大したものだ。そういえば沙沙貴君たちもいないようだね」 (今日は来るなって言っておいたからな……) 幾度か失敗するだろうと思い武士の情けだと、来ないように頼み込んだ。知人に情けない姿を見せるのはわたしの矜恃が赦さない。 「まぁ、彼女たちが休みだったのは重畳だったかな。こうして八重垣君を独り占めできるからね」 「……先輩ってそっちの気があるんですか?」 「そっちの気とは? どういう質問か分からないな」 「く……っ! 笑えない冗談は冗談じゃないですよ……!」 「ふふ、そうか。残念。君は蘇芳君の次に面白そうなんだがね」 「先輩は友人に順番を付けるタイプだったんですね」 「ふふ、妬いているのかい?」 近づき恋人つなぎをしてくる手を水面下であらがう。冗談なのか本気なのか分からない人だ。 「……僕はね、感謝しているんだよ」 「何を、です?」 「蘇芳君の目に以前と同じような輝きが戻ったことさがさ。僕にはできなかった。だから感謝しているんだ」 「もう感謝は聞き飽きましたよ」 委員長や沙沙貴姉妹を、そして以前遠回しながら同じ事を言ってきた八代先輩のことを告げると、 そうだね、とにっと唇をひくように笑みを作り、身体を離した。 「同じ話を繰り返してしまうとは僕も年を取った……。さぁ、此奴をかたづけたらもう一度作るとしよう」 「――麻婆豆腐ばっかりで口の中が馬鹿になっちまいそうだ」 「初志貫徹というやつだぞ、八重垣君。では交換っこだ!」 と互いの麻婆豆腐を交換すると、愉しげにわたしのダマばかりになった麻婆豆腐に手を付けたのだ。 「何とか……形には為ったか?」 流石に普通の味に飽きたわたしは、新しく豚こま肉の麻婆豆腐を作ってみたのだが……。 後入れのねぎの匂いも素晴らしい麻婆豆腐が――作れた気がする。 「どれ、味見をしてやろう」 言うが早いか、直接中華鍋へとスプーンを入れ湯気たつ麻婆豆腐をすくうと口の中へ放り込む。 口の中が断熱処理でもされているのかと思うものの、評価が気になり見詰めると……。 「ん……。なかなかだ。今度は片栗粉がダマになっていない。上達したじゃないか」 言われ自分も味見をしてみる。$隠し味で入れた紹興酒が風味を増し、納得の出来になっている。 「大したものだ。此なら特技に入れても佳いのかもしれないな」 「はぁ……」 アミティエに負けない程度の特技を身につけるため、が原動力ではあったものの――。 都合、何度目の麻婆豆腐だかの失敗を考えると向いていないと考えた方がいいのかもしれない。 「どうした? 折角成功したんだ。もっと喜んだらどうだね。僕なんか、またぞろ失敗だ」 呵呵と笑う八代先輩だが、周りの部員らの視線が痛い。 (体験入部でこんなに食材を使われちゃなぁ……) わたしだけでも幾度も失敗をしている。$それに加えて八代先輩の分もある。 視線に耐えつつ、何とかできたというだけでこれじゃ特技とは言えないよなと、思わず溜息がこぼれた。 「しかし此だけの特訓で食べられるものを作るとは大したものだ……。八重垣君は家では食事を作っていたのかね?」 嫌みかと思える言動。だが、この人は―― 作っていませんよ 先輩と一緒に作ったから励みに為ったんです 「いや、基本的に料理はやってませんね。何せ足がこうですから」 と、自分の太腿をぴしゃりと叩いて見せた。 すると先輩はふむ、と難しい顔をし、 「……そうか。君もできる側の人間だということだね」 と呟いた。 「え。いや、これだけ失敗してるんですけど……」 「だが、モノにしたじゃないか。うむ……麻婆豆腐も鉄板料理と聞いていたから修めておきたかったんだがね……」 悔しそうに顔をしかめた。$本当に羨ましいと思っているらしい。 さすがに不憫に思えたわたしはフォローすることにした。 「定番料理こそあまり出来なくてもいいかもと思うのですけど……」 「ほう……。訳を聞こうじゃないか」 「あの、よくある料理は普通の料理屋やスーパーとかでも売ってるじゃないですか? だから変わった料理の方が、と……」 かなり無理のあるフォローに難しい顔をしたまま、前髪を弄り思案する。 「……ベタなのは罪か。今時文化祭で臆面もなくメイド喫茶をやるようなものだな」 「はい?」 「いや、気を遣わせてしまってすまないね。どちらが上級生か分からない」 にこりと快活な笑みが戻り、わたしはらしくなく、ほっと安堵したのだ。 自分を卑下してしまっているのだろう、と察した。 「家では包丁を触らせて貰えませんでしたよ」 そうか、と落ち込む顔を見せる八代先輩へ、 「うまくいったのは、八代先輩と一緒に作れたからです。励みに為った」 と言った。 「八重垣君……」 「自分は何というか……どうも考えすぎるタチで……。量、計算がきっちり出来ていないとダメなんです」 「だから、正確に調節している間に料理を失敗してしまった」 「目分量ではなかったね」 「ええ。でも八代先輩を見習って適当な分量でやってみたら成功したんです。先輩のお陰ですよ」 そうか、と言い銀糸の柳眉を歪ませた。さすがに雑な世辞だったか? 「――ソクラテスは考えない生き方を否定した。だが、料理は哲学ではない」 ようやく快活な笑顔が戻った八代先輩の麻婆豆腐をスプーンですくい食べる。 確かに辛みが強いし、にんにくが効き過ぎるきらいはしたが、これも好きずきの味だ。 「ありがとう」 謝意を伝える彼女へ、水を飲むのを我慢し猫の笑みを返したのである。 「――それでは試食会を始めよう」 そう告げる八代先輩の声に、料理部の部員等は、はいと輪唱し答えた。 皆、自分の作った料理を批評され生真面目にメモを取る。 その姿を視ながら―― (八代先輩の手前……) 何とか成功にこぎ着けたが、特技と言っていいところまで持っていくのは無理だろうな、と結論づけた。 どうやらわたしには料理を作るセンスはないようだし、料理部の部員たちのように情熱を傾けている訳ではない。 極めるにはどちらかの素養が必要なのだ。 「美味しい……」 部員が作った回鍋肉を食べながら小さく嘆息した……。 特技として誇れること、 そう考え合唱部の練習風景を盗み見たが―― 「いやいやいやいや……」 好きこそものの上手なれ、とはいうが、わたしには……。 刹那、合唱部に交じり唄う己の姿を想像するも、ないないと声に出してしまった。 「……帰るか」 呟き、一路、寄宿舎へと戻ったのである……。 「何かあったようですね」 と言われ、 「何のことですか?」 そう嘯いた。$バスキア教諭は軽やかに笑うと、わたしの足を洗う手を止め、 「ふふ、八重垣さんに何かあったのなんてすぐに分かります。教師なのですよ」 と言った。 「……あまり顔に出ない方だと思っていたんですけどね」 「いいですか八重垣さん。嘘を吐いてはいけません。教義としても、私個人としても悲しくなります」 (だが、嘘が上手いやつが大統領になれる) そう返したいところだが、バスキア教諭相手に軽口を叩く気にはなれず、曖昧に頷いた。 「それで何があったのですか? ふさいだ顔をしていましたけれど……」 そんなに落ち込んでいたかと、つい顔をペタペタと触ってしまう。$バスキア教諭は上品に手で唇を隠し笑うと、 「聴かせていただけますか?」 と尋ねてきた。 わたしは――今朝の沙沙貴姉妹の話から特技の話となり(考崎の件は伏せておいたが)一つ身につけておこうかと為ったのだと話した。 「……そうですか。でも八重垣さんは読書家ですし」 「それを特技とするのは違う気がするんです。趣味ならそうでしょうが、そもそも技とは違いますしね」 ニュアンスの違いに柳眉を顰め、足を洗う手は再び動き出し、気がそぞろだからかやや際どい箇所に触れた。 「ぅぅ……」 「そうだ。なら、朗読はどうかしら?」 「はい?」 ニュアンスの違いを理解してくれたかと思っていたバスキア教諭の発言に素で聞き返してしまう。 「あら、聴いたことがないかしら。朗読なのだけど」 読書と変わらない気が…… バスキア教諭も一緒なら 「……いや、聞こえてましたけど、それって市の図書館とかで職員がやってるやつですよね?」 「ええ。そういうところもあるわねぇ」 以前長女の付き合いで行った、ボランティアでの読み聞かせの会を思い出し、うへぇと舌を出してしまう。 (この年で幼児相手に話を聞かせるみたいな真似はなぁ……) 「八重垣さん?」 「勧めて貰って悪いのですが、多分わたしには合わないと思います」 「そう……」 残念そうに瞳を伏せるも、人には向き不向きがある。$迂闊にやってみようとは言えない。 わたしはバスキア教諭へそろそろ上級生の入浴時間が迫っていることを伝え話題を変えたのだ……。 やんわりと否定したが伝わってはいなかったか、と刹那思いを巡らし―― 「……バスキア教諭も付き合ってくれるなら」 と言った。 「まぁ! それは佳い――」 「なんて、朗読とか子供への読み聞かせでしょう?あれは特技とは言いませんよねぇ」 「え、ぁ……はい……」 「どうしたんです?」 「いえ……」 分かり易くしょんぼりと肩を落とす彼女へ首を傾げた。何か拙いことを言っただろうか? 「……一緒に学べると思ったのに」 呟き声は小さく何を言っているか聞こえなかった。何です? と問い返すも無理やりに笑顔を作るばかりだ。 「ま、長いスパンで考えてみますよ」 そうわたしは告げたのだ。 ――唄、か。 朧気な意識が小さく、だが確かなリズムを拾いのろのろと覚醒していった。 暑さから窓は少しだけ開けられ、そこから気持ちの佳い涼風と、意識して聴かなければそうとは分からない歌声が聞こえた。 「熱心なやつだな、まったく……」 寝ぼけ眼で目を擦ると、昨日特技を身につける為に、聖堂へ行ったことを思い出す。 布団を被って寝ちまおう わたしも上手に歌えたらな…… 「くっ……!」 自分が合唱部定番のお揃いの可愛らしい服を着て歌っているのを想像し、かっと頬に熱を感じた。 「やめだ、やめやめ……!」 らしくない想像に恥ずかしさで悶えながら、布団を被り歌声を耳から遠ざけた。 湿気が余計に暑さを感じさせたが、頭の後ろに痺れるような眠気はまだ残っていたのだろう。 暗く、静けさを感じるとまた穏やかな眠りについたのだった……。 らしくもない妄想。 自分が合唱部の一員となり唄っているところを想像し――逃げ出してしまった。 「あんな風に唄えたらな……」 匂坂マユリの、 いや、考崎千鳥のように唄えたらどんなに気持ちが佳いだろう。 晴れやかな気持ちになれるだろう。 欲しても届かないものを相手が持っていることに、わたしは嫉妬しているのだろうか? 朝の微睡みの中で、素直に自分の気持ちを測っていた。 わたしの持ち得ない――軽やかに踊る足と、聞き惚れて仕舞う程の美声。 耳をそばだて微かに聞こえる唄に聞き入る。 「――――」 耳優しい歌声を聞きながら、わたしは自分が鼻歌を口ずさんでいることに暫く気がついていなかったのだ……。 遠く望む森の上に猫のような形の雲が浮かんでいた。 空は青く青く澄んでいて、猫の頭を持った入道雲がくっきりとその稜線を際立たせていた。 日差しのきつすぎる空に今日も暑くなるのだな、と窓の外を眺めていたわたしの耳へと―― 「今日は皆さんにお願いがあるの」 朝礼を終えたバスキア教諭がそう告げたのである。 前を向きバスキア教諭を見遣ると、両手を前に組んでとっておきの宝石を持ってきたように微笑んだ。 「来週末に朗読劇があるのだけど、やってみたいと思う人はいないかしら?」 ――困惑に包まれた沈黙が教室内を漂う。 「あの……ダリア先生。それだけでは何を仰っているのか……」 クラスメイト等の代表として手を挙げ委員長が尋ねると、手をパンと合わせ照れたようにはにかむ。 「ああ、そうねぇ、そうだわ。朗読劇というのは朗読よぉ、八重垣さんには話したわよね?」 「え、あ、はい」 振られると思っていなかったわたしは慌てて頷く。委員長は代わりに説明を求める顔つきをしていたものの、 「朗読劇は夏と冬の年に二度ほど行われる学院の行事なの。古くからある伝統のある行事なのよ」 との説明でようやく納得のいった風に頷いた。 「朗読はただ小説や詩歌を音読するものではないの。感情を込め、その言葉の意味を理解し耳にしている相手へと響かせる――」 「聖書を読み解くためにも推奨されているの」 「そうだったのですか……。学院案内のパンフレットには〈記〉《き》されていなかったので何かと……」 「伝統のある行事だけれど、規模はそれほど大きくないから〈記〉《しる》されてなかったのではないかしら。でも――」 「この技能を修めていると市職員や看護など就職する際にも有利なのよ」 割と生臭い話になったが、技能という言葉に委員長はおさげを揺らし何度も頷く。$どうやら納得したようだ。 「先生! 来週末に開催するって話ですけど、それって全員参加なんですか?」 「いいえ。人数は特に決まってはいないの。何人でも参加できるわ」 クラスメイト等の囁き声は面白そうが大半だが、やはり恥ずかしいとの声が大きい。 良家の子女が多い学院では率先して前に出るような人間は少ないのだ。 「あ、でも何人でも大丈夫なのだけど、読む本は一つなの。だから役が多い場合、振り分けられるけれど――」 皆の顔を見回し、 「一人で何役も演じられる場合は一人で参加しても佳いのよ」 瞳を細め笑むも、つまりは少人数で舞台に上がらなくては為らないと分かり、喧噪は一気に尻すぼみになる。 「貴女は立候補しないの」 「はぁ? 何でわたしが?」 「貴女、本好きじゃない」 見当違いなことを言う考崎へ、 お前がやれよ、佳い声してるだろ 音読してるとこ一度でも見たことあるか? バスキア教諭を警戒しつつ声を潜め、 「……お前がやれよ。佳い声してるだろ」 と言った。$刹那、呆気にとられたような表情を見せ、 「……馬鹿じゃないの」 と呟く。 「……こっちが言いたい台詞だっての」 「……あのな。部屋の中で一度でも音読してるとこ見たことあるかよ」 と言う。$考崎は刹那、唇を横にひいたような笑みを見せるも、 「……可愛いから今度してみなさいな」 と、返す。 「……間抜けなだけだろうっての」 「困ったわねぇ。ああ、そうだわ。この朗読劇は一年生だけでなく二年生とも合同なの。普段は触れ合えない上級生たちとも仲良くできるのよ」 愉しげに言うもやはり二の足を踏むクラスメイトたち。 (ま、そういう反応になるよな) 以前、子うさぎの消失事件の折に上級生が世話をしていた所為で、遊びに行けないでいたとの意見があった。 同じ趣味同士で集まる、部やクラブのようなものならよくとも、よく知らない相手では二の足を踏んでしまうのだろう。 困り切った表情を浮かべていたバスキア教諭は、閃いたとばかりに手を打つ。 「そうだわ。推薦して貰うことにしましょう。これなら皆さん、手を挙げやすいわよね」 「それは……」 悪意がないことが悪意である意見に、委員長が声を上げるも―― 「ねぇ花菱さん、誰が佳いかしら?」 そう訊ねられ、鉛を飲んだように押し黙ってしまう。 「だったら――」 声を上げるわたしにぎょっとクラス中の視線が集まる。悪くない気分だ。 「白羽を推すよ。本好きだし、図書委員だし、朗読くらいお手の物だと思うしね」 「え、え」 「落ち着いた佳い声だ。なぁ委員長」 「え、ええ。蘇芳さんなら佳いと思うけれど……」 「わ、私は無理よ。そんな大役……!」 前向きになった試運転に丁度いいかと推薦してみたが、やはり白羽は白羽のようだ。 「そうそう。伝え忘れていたけれど朗読劇で読む本は既存の作品でもいいし、自分で作ったお話でもいいのよ」 「へぇ、なら適任じゃん? 白羽、小説とか書いてそうだしさ」 「ぅぅ……! そんな、書いてないわ……!」 今にも泣き出しそうな書痴仲間の姿がほほえましくて笑ってしまう。委員長も、沙沙貴姉妹等もだ。 常を装っていた彼女でなく、以前と同じ白羽の姿だったことが嬉しいのだろう。 「以前、既存の作品を自分流にアレンジして朗読した生徒もいたわ」 「はいはいっ! アレンジってどういうことですか?」 「その時はとある童話だったのですけど、モチーフはそのままに話の筋を所々替えていたの。面白かったわぁ」 「だってさ。それくらいなら出来るんじゃねぇ?」 わたしの言葉に一瞬恨みがましい目を向けてくるも―― 「あ、あの……既存の作品を手直しする、脚本ならいいです……」 真っ赤に頬を染めながら答えた。 「クク、うまく躱しやがったな」 立ち上がり拍手に一礼すると着席し、顔を伏せた。 「ふふ、佳かったわね八重垣さん」 「そうですね、面白くなりそうだ」 「ええ。白羽さんが脚本を書いてくれるのですもの。八重垣さんも頑張らないといけないわね」 「……は?」 「え? 白羽さんの脚本なら朗読劇に出るということでしょう?」 空とぼけながら言われたのだ。 「え、いや、違……!」 「おおっそうだったんだ! だから蘇芳ちゃんが佳いって推薦したんだね」 「おい、待、」 「成る程、それなら納得できるですよ」 一瞬のざわめきの後、 「愉しみだわ、お願いね八重垣さん」 委員長の言葉が契機とばかりに採決の拍手が鳴り響く。 そうなってしまってはもう項垂れるしかない。 「……ご愁傷様」 「……映画の“スティング”みたいだ」 「なに?」 「……うまく騙された気分だよ。クソ」 項垂れるわたしへ、珍しく笑みを湛え、 「……人を呪わば穴二つよ」 とほくそ笑んだ。 「……ああ、そうかい。それじゃ――」 まだまばらに拍手が残る教室内へと手を挙げ、 「……穴はもう一つ残っているんだよな」 そう、猫の笑みを向けた。 「え」 「どうしました、八重垣さん。まさか、辞退するのでは……」 「いえ、そうではなく、考崎さんも読み手として推薦したいのですが、如何でしょうか」 「考崎さんを、ですか?」 「はい。わたしとしても介助してくれるアミティエが付いていてくれると心強いです」 愁傷な言葉に、顎に手を掛け熟考するバスキア教諭はややあって、一つ頷く。 「そうですね。委員会や部にも参加していないようですし、時間は空いているでしょうしね。では、八重垣さんと考崎さん。お願いできますか?」 速やかに外堀を埋めた私へ、苛立つことに苛立った目を向けるも、 「……はい」 挽回は無理だと察した考崎は小さく、だが確かに了承の言葉を吐いた。 放課後、 「酷いわ、八重垣さん!」 「分かった。悪かったって」 顔を真っ赤に染めた白羽がなじるのを聞き流しつつ、車椅子を押し、白羽と調子を合わせながら頭をポンポン叩く考崎へも謝罪を述べる。 「これは貸しよ」 「へいへい」 「……分かっているの」 「今度、カツレツ食べさせてやるって」 「……いいわ。休戦しましょう」 暫し考えつつも了承する考崎へ適当に頷くと、変な真似をしたらすぐ開戦よと念押しされる。 白羽もわたしが困っているのを見、溜飲が下がったのだろう。 「待ち合わせ場所は聖堂よね」 本を胸に押し抱きながら、初めて拗ねる以外の言葉を吐いた。 「ああ。朗読劇に出る上級生と御対面ってやつだな」 「……怖い人でなければいいのだけど」 「この学院に気性が荒い生徒はいないでしょう」 「只、黙っているタイプでも圧迫感を受けるものなんだよ。お前が代表例だ」 「……そう」 わたしの軽口に沈んだ声で答えられ、それを察したのか白羽が袖を軽く摘まんできた。 「私は考崎さんのこと怖いと思ったことはないわ。気遣いのできる優しい人だと思う」 「……そう」 満更ではなさそうに微かに笑む。$頬が赤いのは暑いだけではなさそうだ。 「……この人たらしめ」 「え?」 「何でもないよ。さ、着いたぞ」 元々学舎に隣接している聖堂。 重厚な建物が望めると、すぐ重々しい扉が目に入った。 「……あの先輩だけはやめてくれよ」 最近とみに会う確率の高い、躁気味の上級生の陰を追いやり、わたしは扉を開けてくれと白羽に頼んだ……。 「……当たりだったか」 え、と白羽から尋ねられたものの首を振り誤魔化す。と、 「あら、貴女たちが一年生の読み手なの?」 と、バスキア教諭と話していた上級生は愛らしいダックスフントのように小走りで此方へ駆け寄ってきた。 「ご縁があるのねぇ」 「二年生は、小御門先輩が読み手なのですか」 「ええ。私一人よ。そちらは三人なのね」 「いえ、私は違うのですけれど……」 「え?」 「白羽さんは脚本を書いてくれるの」 「そうなんですか」 すぐに納得したということは、かつて童話をアレンジして披露していたのを知っていたのだろうか。 「二年生は小御門先輩が読み手か。豪華な朗読劇になりそうだ」 「ふふ、ありがとう。白羽さんが脚本なら、読み手は八重垣さんと、考崎さんが?」 「よろしくお願いします」 「ま、なっちまったものは仕方がないんで、恥を掻かない程度には頑張ります」 笑うわたしへ冗句だと思ったのか、まぁと上品に笑みをこぼす。考崎は冷ややかな目で見ていたが。 「朗読劇ですが、小御門先輩は何を読まれるのですか」 「私はまだ決めていないの。八重垣さんたちは?」 「いや……」 自然、脚本の白羽に視線が集まる。書痴仲間は頬を染めながら何やらわたわたと慌て、胸に抱いていた本を突きだした。 「きゃ、脚本を書くのだから、私なりに何にしようか考えてきたの」 「それは……童話?」 装丁から発言した小御門先輩に大きく頷くと、栞をしていたのか本を開き、小御門先輩へと差し出す。 「これは……髪長姫の話ね」 グリム童話、と次いで呟くのを聞き、ああと頷く。と、 「……ねぇ」 「あ?」 「……カミナガヒメってなに?」 ラプンツェルだよ 怖い話だよ 思わず、からかってやろうかとも思ったのだが……。 (声を潜めるって事は黙って教えてほしいって事だろうしな) 「……ラプンツェルだよ。ほら、あれって塔の上から髪をロープ代わりにするくらい長かったろ」 そう言うと、ああ! と一度大きく頷いた後、何度も頷いてみせた。 「……そうか。そうね。言われてみればそうだわ。貴女物知りなのね」 「……伊達に書痴じゃないからな」 面と向かって褒められたことは稀だ。つい恥ずかしくなり顔を背けてしまう。 「……ありがとう」 小さく呟かれた言葉にも聞こえないふりを続けたのだ。 珍しく興味のある素振りをみせる考崎へもしかして恐いもの好きなのか、と疑問符を抱いた。 (ま、こいつも女ってことかね) 「……ねぇ、ちょっと」 「……お前が思っている通りの作品だよ。髪長姫、長い髪を持った幽霊の話さ」 「……怪談話を朗読劇で聞かせるの? 百物語みたいじゃない」 「……時期的に丁度いいってことじゃないか。納涼には佳い季節だろ」 「……それはそうだけど」 興味があるも腑に落ちないと言った複雑な顔で俯く。と、 「ラプンツェルですけど……少し子供っぽいですかね?」 白羽の言葉に、考崎は目をパチパチとさせる。 するとカミナガという言葉から本当の内容を察した考崎は、苛立つことに苛立った目でわたしをじっとりと視た。 「……幽霊より怖い」 「……覚えてなさい」 「ラプンツェル……。佳いと思うわ。これなら皆も知っていますしね」 「何故、皆が知っていると佳いのです?」 「原本をアレンジするって言っただろ? 元々筋を知らなきゃアレンジしたところも伝わらない」 「笑い所が分からなきゃ聞く側も混乱するってこと」 わたしの解説に成る程と、一つ眉を掻いてみせた。 覗き込むわたしへ、小御門先輩は手に取っていた本を手渡してくれる。 流し見で読み進めると―― 「……ああ、そうか。グリム童話の原本ってこういう感じだったよな」 「何、私にも見せて」 「十八歳未満には渡せないな」 そう言いつつも奪われるままにした。 生真面目な顔つきで読む考崎を尻目に、不安そうに眉根を寄せる白羽へ言う。 「ま、きつい表現はアレンジするだろうから問題ないんじゃないか。物語の長さ的にも聞き手側が飽きないくらいだしな」 「佳かった……!」 手を合わせる白羽へバスキア教諭が肩に手を掛ける。だが、 「でも、ラプンツェルって、役が……夫婦。魔女、王子、ラプンツェルの五人必要だろ?」 「わたしたち二人しか居ないんだし、どう振り分けるんだよ?」 「夫婦役は、地の文と一緒にわたしがやろうと思っているの。もう一人は……」 困り視線はバスキア教諭の元へ。 何を言われるか察したのだろう、童女のように胸の前で手を振った。 「わ、私は無理よ。教職者は参加できないの。生徒でないと……!」 「そうですよね。それじゃ……」 「あの」 バスキア教諭が手を振る横で、小御門先輩が頬を赤らめながらそっと挙手する。 「私も御一緒するというのはダメかしら?」 「小御門先輩が?」 「ええ。読み手に選ばれてからニカイアの会の記録を調べたのですけど、一年生と二年生合同での朗読劇の記録もありましたし――」 「私としても皆でやった方が愉しいと思うの」 小御門先輩の意見に――大きく頷いたのはバスキア教諭だった。 「そ、そうね。合同で行ったことも幾度かありますし問題はないわ。只、合同となると少しお話を長くする必要があるけれど――」 大丈夫? と視線で問いかける。$白羽が頷くのを見て微笑みを浮かべた。 「八重垣さん、考崎さんはどう? 佳いかしら?」 「こっちは構わない」 「ええ」 「それでは、宜しくね」 頭を下げる小御門先輩に考崎は少し戸惑った様子をみせた。 白羽は、考崎から返して貰った本を開くと眉間を撫で呟く。 「配役については、夫婦役は私がやるとして、魔女と王子、そしてラプンツェルだけど……」 「それなら初めに読み手として決まったのは八重垣さんだから、主役は八重垣さんがするべきだと思うわ」 「わたしがラプンツェル役ですか?」 うへぇと舌を出したいところだが、冷静に考えると残りは魔女に王子。どちらも演技力がいる、練習が必要そうな役だ。 「……ま、いいけどさ」 「珍しいわね」 「佳いんだよ。それでお前は魔女と王子、どっちの役がやりたいんだ」 「私は……」 目を細め――見た目、剣呑な目つきになり熟考しだす。と、 「……貴女は私にどちらの役を選んでもらいたいの?」 剣呑な目つきのまま、そう訊ねてきた。 魔女かな。らしいだろ 王子だな 「そりゃ魔女だな。お前にぴったりの役だ」 「……そう」 なら呪い殺してやるわ、とでも言われると思っていたわたしは拍子抜けしてしまう。 「いや、何だ……。王子役ってカボチャパンツ履いているイメージがあってさ。それでつい、な」 「小御門先輩ならカボチャパンツが似合うと?」 「いや……」 刹那、王子様風カボチャパンツを身につけた小御門先輩をイメージし吹き出しそうになってしまう。だがすんでの所で堪え、事なきを得た。 「そうだな。役を決めるなら……」 「……ま、どちらかと言えば王子役なんじゃないか」 「そう。私が王子役……」 どこか嬉しそうに笑むのを見て怪訝に思うも、 「髪の長さ的にお前だろ。小御門先輩が王子じゃ髪が長すぎて何か柄じゃないしな」 「……そう。髪の長さからなの」 一転、悲しげな顔つきになるも意味が分からない。 ともかく、 「役を決めるってのなら、朗読劇なんだ、一番手っ取り早い方法があるだろ」 そう告げた。 「役を決めるなら?」 白羽に訊ね返され、書痴仲間が持つ本を指さし、 「二人で王子役をやってみたらいい。魔女は老婆とはいえ女だけど、王子は男だろ?」 「声を作らなくちゃいけないんだから、とりあえず二人の声を聞いてみないとじゃないか?」 そう指摘する。白羽はうんと頷き、 「確かにそうね……。お願いできますか小御門先輩。考崎さん」 言われ、気恥ずかしそうにだが頷く二人へ、本の中の一文を挙げ、読むように頼む。 先ずは小御門先輩、 『――ねぇラプンツェル、この塔から抜け出し外の世界へ行こう。二人で旅立てばどんなに愉快だろう』 本を手持ち、恥ずかしそうにしていた風から一転、物怖じせずに台詞を口にする小御門先輩に皆呆気にとられた。 「ど、どうかしら?」 「素晴らしいです」 はにかみ戻る小御門先輩は、考崎へ原本を渡した。 「一発頼むぜ」 軽口を無視し、一歩二歩進み、本を手にすると、少しだけ悩ましげに眉根を寄せ、 『――ねぇラプンツェル、この塔から抜け出し外の世界へ行こう。二人で旅立てばどんなに愉快だろう』 言い切る。$言い切った後、ジワジワと頬が染まり、 「魔女役が決まったな」 わたしの声は聖堂内に無情に響いたのである……。 朗読劇の為、練習を――となるところだが、 グリム童話、ラプンツェルに手を加えアレンジしたものを朗読する事になった為、台本が出来上がるまでサボれるかと思ったのだが……。 バスキア教諭の指導の下、台本が出来上がるまでの期間を、朗読のイロハを教わる為の時間と相成ったのである。 初めは、台本ができてからやればいいじゃないかと考えていたのだが……。 「さぁ、小御門さん。読んでみて」 「おっかさん。いま帰ったよ。具合、大丈夫なの」 銀河鉄道の夜、ジョバンニを演じる小御門先輩、そして、 「――ああ、ジョバンニ、今日は涼しくてね。わたしはずうっと具合がいいよ」 病んだ母親役を考崎が演じる。と、 「すいません、一度止めましょう」 そして、イントネーションや声の強弱、間の取り方などを注意し、練習用の台本に書き込むように指示した。 台本に書き込む行為、書き込まれたものを“朗読譜”というらしい。 朗読譜とは声の強弱や間の取り方、視点の変更、台詞での強調すべき箇所などを記号にて書き込んだ、いわゆる設計図のことをいうそうだ。 音楽家にとっての楽譜と近しいモノだと考えていいとの事だが。 「八重垣さんも聞いているだけではなく、耳で稽古をしてくださいね」 「分かりました」 台本がなくとも練習することが多分にあるのである。 「真っ赤で何が何だか分からないな……」 自分で書き込んだとはいえ、わたし自身の朗読譜も赤線、赤マルで占められている。 今は銀河鉄道の夜の三章、家の場面ゆえ、ジョバンニと母の場面が続きわたしの出番がないだけ。 バスキア教諭は小御門先輩の朗読譜を指しながら、感情の入れ方や台詞が重ねによって強調される場合は―― だんだんと訴えたい言葉を強く言葉に出すようにと指摘していた。 随分と熱心だ。 「……思った以上に大変ね」 「……ああ。朗読なんて、ただ音読すればいいだけだと思ってたんだけどな」 熱心に指導するバスキア教諭を二人とも暫し眺める。 「……こんなに繰り返し一つの小説を読むのなんて初めてだわ」 「……わたしだって間を置かず何度も繰り返し読むってのは久しぶりだよ。親父のお宝本以来だ」 出るのは軽口ばかり、こうして台本が出来上がるまでの特訓は過ぎていき―― ラプンツェルの台本が完成したのは練習が始まって四日目の事だった……。 「そこの美しい人」 聖堂を合唱部が使うとのことで初めての声あわせは放課後の教室でと為ったが―― 「君に会いに来たんだ。こっそりと城を抜けてきた」 朗々と見目麗しい王子の姿が見えるような声音。 「可愛いお前が、野蛮な外界の人間にさらわれでもしたらどうするというの」 そして、考崎は―― 「いい子だ、分かったのなら決して塔の外には出てはいけないよ」 魔女――白羽のアレンジした魔女は年若い容貌をしているとのことで、 古めかしい喋り方はするものの、声はそれほど作らなくとも佳いということに落ち着いた。 「では、次は八重垣さん」 読むように促され―― 「おばさま……」 「分かってくれたかい、ラプンツェル」 「そうね、心配させてごめんなさい。おばさまの言うとおりだわ……」 「そこまで」 ……分かっている。 「どうしたの八重垣さん? 一人で音読しているときは上手にできるのに」 「何ででしょうね……」 困り顔をみせるバスキア教諭。$何故できないのか、自分で理由は分かっているのだ。 (女言葉がこんなに馴れないなんて……!) 普段は意識せずに男性口調と為っているわたし。 しかし――白羽が書いてきた脚本のラプンツェルはお姫様もかくやとう古風な喋り方。嵌まるわけはないのだ。 それに、 「八重垣さん。もう少しだけラプンツェルになったつもりで話せないかしら?」 「努力……しているつもりなんですけどね」 「そう……。まだ初日ですものね。これから上手くなっていけばいいわ」 手を胸の前に合わせ微笑む。しかし、 「……しっかりやりなさい。主役なのでしょう」 「……分かってるよ」 分かっている。 分かっているのは、わたしは相手の気持ちに為るという事ができないということだ。 人との間に壁を作って接してきた人間が、物語の中の人物とはいえ、想像し、相手に添えるものか。 「こいつは……まいったな……」 「あ、八重垣ちゃん。早く行かないと次のバレエの授業遅れちゃうよ!」 「ええ、分かっていますわ」 「あ、でも八重垣ちゃんはレオタードに着替えないから……え」 「どうしましたの、苺さん?」 只疑問符を投げかけるわたしへ、どう猛な肉食動物を見咎めたように勢いよく後ずさり、 「八重垣ちゃんが……壊れた」 と言った。 「早く行きましょう。ほら林檎さんも御一緒に」 「これは……新たな七不思議の匂いがしてきたですよ」 「はい?」 「乗りうつられるタイプの怪異……。まさか一番警戒心がありそうな八重垣ちゃんが……」 「何を仰っているのか……」 「そうだよ。ま、まずいよ。これって高い熱出てるよ絶対!」 言うが早いか熱を測るために額をくっつけて―― 「ね、」 「ね? 熱? あれ、熱くないような……」 「熱なんかあるかぁっ!」 「わわっ! 怒った、なんで!?」 ――やっぱり、 (普段から女言葉に慣れれば何とかなるかと思ったけれど……) 「……辛いことがあったら相談してほしい。ね、八重垣ちゃん」 「……ああ」 柄にもない真似は無理だ。 押し手を沙沙貴妹に押されるがまま、わたしは長いため息を一つ吐いたのだ……。 役を掴めないまま稽古は進み―― 「どうしてもラプンツェルの気持ちが掴めない」 そうバスキア教諭に弱音を吐いた。 吐いてしまったのだが……。 あまりに近く――寄り添うようにして台本を読むわたしとバスキア教諭。 「今日も君に会いにきたよ。夜のとばりを越えて」 男性口調でわたしを見詰め囁く彼女の声に、背中を……いや身体の内側におかしな痺れのようなものを感じた。 厭なものではない、心地好い痺れだ。 「嬉しいわ。貴方を待っていたのよ」 怖々と呟かれるわたしの声。それは繊細な少女のようでまるで自分自身の口から出たのではないようだった。 「ラプンツェル。今日はどんなお話が聴きたいんだい?」 体温を感じるほどに寄り添った身体からは大人の女性特有の甘い香りがする。 しかし、吐かれる言葉は男。その背徳さにうわずり、台本を読もうとしても文字が上滑りしてしまう。 「……落ち着いて」 いつもの口調に戻ったバスキア教諭が耳元で囁く。 「今のところちゃんとラプンツェルができているわ。演劇風にしたのは正解だったわね」 ――そう。弱音を吐いたわたしへと、声合わせはやめて個人レッスンにしましょうと提案され、しばし稽古を行った。 しかし、 (演劇風にやったらどうかって言ったのはわたしだけど……此奴は) 王子役をバスキア教諭にやって貰い演じてはみたものの―― 「……先生がこんなに乗りやすい人だったなんて」 「ふふ、そろそろ落ち着いたようね。続けますよ」 「あ、はい。え、ぁ……!」 さらに身体を近づけわたしの腰に手をまわすと、王子役に為りきったバスキア教諭は情熱的な視線で瞳を見つめた。 「ねぇラプンツェル……君は此処から出た方がいい」 「ぇ、ぁ……なぜ?」 「君も世界が知りたいと言っていたじゃないか。こんなところでは息が詰まってしまうだろう」 情熱的に説き伏せようとする王子の顔が――誰かに視える。 「それは……きっと愉しいでしょうね。見たことのない新しい出来事が満ちあふれて……」 「なら、行こう。わたしとともにたくさんの街を巡り、そして城で暮らそう」 ふ、っとこの台本を書き上げた白羽の顔が浮かんだ。 殻の中に閉じ篭もっている自分は彼女自身。 解き放ってくれようとしているのは……。 「私は……私は、おばさまを置いてはいけないわ。きっとおばさまは……」 そして殻の中に篭もっていたとしても守ろうとしてくれる、絶対的な保護者。 それは……。 「悩むのもいい。だが考えていてほしいんだラプンツェル……」 台本にはない行間。それを読み取ることも朗読では大切だと教わった。 きっとこの台詞を言った後に、王子はキスを……。 「え、ぁ……!」 不意にバスキア教諭の唇がわたしへと迫り、かっと熱が頬に、顔に集まる。 「せ、先生……!」 「佳かった。ちゃんと役を掴めたようね」 「は、はい……?」 「心ここにあらずといった風でしたよ。それほど役に入れたのなら、もう問題ありませんね」 近づいたまま囁かれ、いつもの軽口を叩く元気はなく、黙って頷く。 そんな様子をみてか、ふっと相好を崩すと優しげに語りかける。 「――ねぇ、八重垣さん。何故赤ちゃんの声が大きく誰にでも届くか分かる?」 「い、いえ……」 「それはね。伝えたいという気持ちが純粋だからよ。赤ちゃんは言葉を喋れないでしょう」 「だから喋れない分、その言葉を泣き声にして響かせるの」 素敵な考え方だ。だが、わたしは……。 「天の邪鬼なわたしには無理な理論ですね……」 「いいえ。最後のラプンツェルの言葉。その声には誰かが居たわ。その人を思い、話せばきっと伝わる」 彼女が書いた台本。 わたしは―― 「――頑張って彼女に為りきってみます」 馴れない口調も、為りきれないと思っていた人物像も、 綺麗に晴れ渡った心情のわたしは、覗き込むバスキア教諭の笑顔を見詰め、そう告げたのだった……。 朗読劇の為、練習を――となるところだが、 グリム童話、ラプンツェルに手を加えアレンジしたものを朗読する事になった為、台本が出来上がるまでサボれるかと思ったのだが……。 バスキア教諭の指導の下、台本が出来上がるまでの期間を、朗読のイロハを教わる為の時間と相成ったのである。 初めは、台本ができてからやればいいじゃないかと考えていたのだが……。 「さぁ、考崎さん。読んでみて」 「わたしたち、捨てられてしまうんだわ。今夜きりで、家なしっ子になってしまうんだわ」 同じグリム童話の一遍、ヘンゼルとグレーテル。 女の子のグレーテルを演じるアミティエ。そして、 「グレーテル、泣かなくてもいいんだよ。僕がついているからね」 兄のヘンゼルを小御門先輩が演じる。と、 「ごめんなさい。一度ここで止めましょう」 そして、イントネーションや声の強弱、間の取り方などを注意し、練習用の台本に書き込むように指示した。 台本に書き込む行為、書き込まれたものを“朗読譜”というらしい。 朗読譜とは声の強弱や間の取り方、視点の変更、台詞での強調すべき箇所などを記号にて書き込んだ、いわゆる設計図のことをいうそうだ。 音楽家にとっての楽譜と近しいモノだと考えていいとの事だが。 「八重垣さんの出番もすぐだから、自分なりに役を掴んでおいてくださいね」 「夫婦の二役ですよね……」 木こりの旦那とその妻、二人の役を命じられたものの……。 「赤線ばっかりで、ごちゃごちゃになってきたな……」 考崎や小御門先輩のものと同じく、わたし自身の朗読譜も赤線、赤マルで埋め尽くされている。 ラプンツェルと違い、ヘンゼルとグレーテルは機転を利かし家に戻ってくるため、夫婦の役もそこそこ台詞があるのだ。 「いいですか。ただ漫然と演じてはいけません。この時兄はどんな心持ちでいるか、地の文の行間から察するのですよ」 バスキア教諭は小御門先輩の朗読譜を指しながら、感情の入れ方や台詞が重ねによって強調される場合は―― だんだんと訴えたい言葉を強く言葉に出すようにと指摘していた。 随分と熱心だ。 「……朗読って意外と大変なのね」 「……ああ。正直、演劇と違って、演じる必要なんてないと思ってたしな。音読すればいいってさ」 問いかける小御門先輩へと、頷き熱心に指導するバスキア教諭を二人ともしばし見遣る。 「……私、こんなにも一つの物語を繰り返し読むのは初めてだわ」 考崎の言葉にわたしも――と力なく吐息を漏らしつつ、 「……間を置かず繰り返し読むってのは久しぶりだよ。こんなに読んだのは、親父のお宝本以来だ」 軽口を叩くと笑いもせずに離れ、再び指導に加わる。こうして台本が出来上がるまでの特訓は過ぎていき―― ラプンツェルの台本が完成したのは練習が始まって四日目の事だった……。 「……外の世界の人だわ、恐ろしい人だったらどうしよう………」 「……ちょっと」 「……私、この塔からは出られないのです。外の世界は恐ろしいからとおばさまが………」 「食事中にやめて」 わたしの手から台本を奪い、ベッドの上にほうり投げる。 首っ引きで台本を睨んでいた目は、届けられたままの冷製パスタへと移された。 「作ってくれた人に失礼だわ」 「あのな。いや……まさか料理云々でお前に説教される立場になるとはね」 苛立ちが起こるも確かにその通りだと、トマトと梅の冷製パスタに手を付けた。 味は文句の付けようもない。オリーブオイルと鰹節、だし醤油に梅干しを絡めた日本人好みの味は食欲をそそった。 「ん……む……。お前はいいよな。意地悪な魔女役。しかも年取ってる魔女じゃないから、まんまのお前を出せばいいんだしな」 「男言葉のお姫様が負け惜しみ?」 「……そうだよ。悪いか」 ラプンツェルの台本が完成し読み合わせの練習と為った時の事―― 「ラプンツェル、また外ばかりを眺めているのだね」 「ぁ……ご、ごめんなさい。おばさま……」 「外の世界はね、争いの絶えない、恐ろしい世界なんだよ。女も子供も関係ない。そんな場所になぜ憧れるのだい?」 「わ、私は……。いえ、そうですね、もう外に行きたいなどとは思いません……」 「そこまで」 当然、止められる。 「一人で朗読する時は大丈夫なのに、読み合わせをすると途端に……」 「……ダメになる」 気を遣い言葉を飲むバスキア教諭の先を言った。 何故、できないのか理由は分かりすぎるほど分かっている。 (普段、こんなにも男口調だったなんて……!) 意識していなかったが、自分で思っていた以上に中性的な話し方に為っていたようだ。 お姫様言葉――いや、女言葉がこれほど難しくものとは思わなかった。$台詞だと分かっていても嵌まらないのだ。 「八重垣さん、自分が話しているという感覚でなくて、登場人物が話しているつもりで演じてみてはどうかしら?」 「最初から……そうしてるつもりなんですけどね」 「そう……なのですか……」 絶句し胸の前で十字を切る。$いや、そこまで絶望的じゃないだろ。 ……ないよな? 「大丈夫よ。物語を読んでいる数ならこの中で八重垣さんが一番多いはずだもの。感情移入するなんて簡単よ。すぐに追いつくわ」 「……ええ。何とかしますよ」 何とかする、とはいうものの―― 小御門先輩の意見は見事に外れていたのだ。 わたしは一度だって物語を自分に重ねたりしたことがない。 物語は物語なのだ。 そして現実のわたしは、相手の気持ちに為るという事が上手な人間でない。 人との間に壁を作って接してきた人間が、物語の中の人物とはいえ、想像し、相手に添えるものか。 「クソ……どうしたもんかね……」 「受けるんじゃなかった……」 心から出た言葉だが、 「…………」 引っ張り込まれた考崎が怒るかも、とサラダを食し口元をナプキンで拭う彼女を見遣った。 「練習に付き合ってあげるわ」 「え?」 「いつまでも同じ部屋で、辛気くさい顔をされるのはいやなの」 「お前……」 「それに同じ舞台に立つのよ。貴女の失敗は私の失敗でもあるの」 切れ長の目は真摯なまなざしのまま。$わたしは頭をがりがりと掻くと、残ったパスタを勢いよくかき込み、 「ん……む……付き合って貰うぜ、ありがとうよ、たかさ……」 「お涙は勘弁。貴女ならそういうわよね」 「分かったよ。クソッタレ」 互いに笑むと、昼休みの自主練と相成ったのだ……。 「……ダメね」 「どうしても感じが掴めないんだよな……」 冗談や軽口なら、お嬢様ぶった言葉を吐くときもある。だが、いざ朗読になると……。 「朗読と考えるからダメなのかも。そうだわ」 「ん? おい、どうした。ちょっ!」 台本を持ったまま唸っていたわたしは問答無用で抱きかかえられると、 「おい、八代先輩の真似か? やめろ」 「あんな不良上級生を真似しているわけじゃないわ。これから行うのは演技よ」 「はぁ?」 ベッドへと寝かされ、わたしの隣へ当然のように座るアミティエ。 「本家のラプンツェルには十八歳未満が見たらまずいシーンが入っていることは知っているけどな」 「なに」 「わたしたちは女同士だ。真似をしても本家のようにはいかないだろ」 巫山戯た口調も取り合わず、わたしの腰に手を回し、熱の篭もった視線で見詰めた。 「お、おい……」 「……なんて美しいんだ。君の瞳はまるで星々の光が舞い散っているようだ」 あまりに臭い台詞にいつもなら吹き出すところだが、 「ああ、ひと時だけの逢瀬では物足りない。このまま君を奪ってしまいたい……」 腰にまわされた手でぐっと引き寄せられ、軽口を叩く暇すらない。 息を吐けば掛かるほどまで近づく。 鼻をくすぐる白桃の薫り。 じっくり視たことはなかったが、肌が驚くほどにきめ細かいこと、そしてまつげが思っていた以上に長いことなどをとっくりと注視してしまった。 「…………」 「お、おい……」 「……台詞」 「せり、ん、何を……」 「台詞よ。演技仕立てでやってみようって言ったでしょう」 身体を離し、台本を指さす。 一瞬呆気にとられ―― 「そうか。そうだよな……。演技だ。演技」 台本をよく見れば、王子役の台詞だとすぐに気付いた。 わたしは自分の中の熱を下げるため大きく息を吸い吐く。と、 「ん? 何してるんだ?」 「これを朗読だと思って読んでみて」 自分の台本に、赤ペンで«あの時、僕はお姉ちゃんと呼んだ»と記したものを見せる。 わたしは――只、 「あの時、僕はお姉ちゃんと呼んだ」 と、書いた文字を読んだ。すると、 「やっぱりね」 「おい、何がやっぱり何だか言ってみろよ。ちゃんと朗読しただろうが」 「いいえ。ちゃんと朗読をしていたら読めないのよ。この文は」 「あ?」 「«あの時、僕はお姉ちゃんと呼んだ»この文で貴女はどう想像したの? 黙読なら読めるけれど、朗読するなら圧倒的に情報が少ないのよ」 「あの時というのはどんな状況? 僕は、とはどんな年齢の男性若しくは女性? お姉ちゃんとの間柄は?」 「呼んだ、そのときの状況。そして呼んだ際の感情は? 朗読にとってイメージは重要だわ。貴女はそれができていない」 ――そうだ。 「朗読をしているなら、読めないというのが正解。でもイメージすることを行っていない貴女は、只の文として読んでしまったのよ」 分かってる。 相手の気持ちに為る、人の気持ちに添えない自分に朗読、演技なんて……。 台本を睨む。白羽が書いた台本、ラプンツェルは……。 (閉じ篭もっていた塔に居るラプンツェル。そこから抜け出そうと告げる王子……) 白羽が書いた? 殻に篭もるラプンツェル……。 「もう一度、イメージを膨らませて台本を読んでみて、もう一度やるわよ。いい?」 促す考崎へ、何かを掴みかけているわたしは頷き、この部分を朗読してくれと頼む。 王子がラプンツェルを塔から――外の世界へと誘惑する箇所だ。 「ねぇラプンツェル……君は此処から出た方がいい」 「……なぜ?」 「君も世界が知りたいと言っていたじゃないか。こんなところでは息が詰まってしまうだろう」 白羽の書いた台本。 情熱的に外の世界へ行こうと説き伏せる王子の顔が――誰かに視える。 「それは――きっと愉しいでしょうね。見たことのない新しい出来事が満ちあふれて」 「なら、行こう。わたしとともにたくさんの街を巡り、そして城で暮らそう」 役に為りきれない、人に添えないと思っていた自分。 でも、これは……。 殻の中に閉じ篭もっていた彼女を思い、 「私は……私は、おばさまを置いてはいけないわ。きっとおばさまは……」 その思いを口にする。 「悩むのもいい。だが考えていてほしいんだラプンツェル……」 余韻を残し、真摯な瞳がわたしを見詰める。$すると、じわじわと演技は崩れ微かに笑みをこぼし、 「それよ。やればできるじゃないの」 と言った。 「……ああ」 「聞き手に伝えるのは、自分の気持ちでなく登場人物の気持ち」 「心から伝えたいと思えば緊張して間違える暇なんてない。その調子でやれれば大丈夫よ」 そう考崎は結ぶ。だが、 (登場人物の気持ちではない) わたしが語る、ラプンツェルの気持ちは……。 「ありがとう、な」 何も言わず、微笑み返す考崎へわたしは朗読劇を成功させる為にもう少し努力してみよう、そう心に決めたのだ……。 ――二人きりの演劇に見立てた特訓の甲斐があってか、ラプンツェルの朗読は飛躍的に向上した。 「ふふ、すごく上手だって聞いているわ。朗読劇愉しみにしているわよ」 「任せておけって。朗読劇では度肝を抜いてやるよ」 そう軽口を叩けるくらいには上達した。 本職とまではいかないが、小御門先輩や考崎の足を引っ張るほど酷くはない。 「本当に楽しみだわ」 空いたわたしのカップへ水出し紅茶を注ぐ。 放課後の練習が始まる合間をぬってお茶会に参加していたが、さすがにこの夏の盛りに熱い紅茶を出されていたなら回れ右をしていたところだ。 「前は変な女言葉になってたもんね。今はもう平気なんでしょう?」 「ええ。心配を掛けてしまったわね。苺さん」 「っ、ぅぅ……!」 「どうしたの? 私なにかおかしなことを言ってしまった……?」 「……なんだろう。役だって分かっているのに背景が歪むような違和感があるね」 「ですが、しっかりとお姫様言葉になっていますし、〈明明後日〉《しあさって》の朗読劇愉しみですよ」 生徒を一堂に集めて披露される朗読劇は、通称 «朗読〈夜〉《や》〈話〉《わ》»――というらしい。 「そういえば朗読劇のこと、朗読夜話って言ってたけどどこで朗読するの? もしかして寮とか?」 「何で寮なんだよ」 「え? だって部活動が終わって……原則六時には寮に戻ってなきゃでしょ。だから夜話っていうくらいだから遅い時間だろうし」 「そういえばそうねぇ。聞いてる? 八重垣さん」 「いや……ずっと聖堂で練習してるから、そこでやるんだと思ってたよ」 「聖歌の合唱での際も、どう反響するか考えて楽器や唄での調節をするらしいですしね」 そう、それも踏まえて聖堂で練習しているのだと考えていた。 沙沙貴妹は言い終わると、ごろごろと実の入ったブドウゼリーを一口。 「そっちのブドウゼリーも美味しそうだな」 「八重垣ちゃんのリンゴゼリーも美味しそうです。交換っこしますか」 頷き、沙沙貴妹のブドウゼリーをスプーンですくい一口。 冷えたブドウゼリーは食感がとても柔らかく口の中で溶けた。しかし一緒にすくったデラウェアの果実がころころとして、これもまた美味い。 「ん……また共食いをしてしまいました」 「小御門先輩がいたら、また笑いのツボに嵌まりそうだな」 「小御門先輩と言ったら……八重垣さんはゆっくりしてていいの? 練習があるんじゃないの?」 「白羽はもう向かったのか?」 「大分前に出て行ったわよ」 「真面目なあいつらしいな。十五分前行動ってやつかね」 尻の下にひいていた懐中時計を取り出し時間をチェックする。そろそろ稽古が始まる時間だ。 「十五分前行動なら、そろそろ始まるんじゃないの?」 心配する委員長へ、だな、と言い残りのリンゴゼリーをかき込むと、水出し紅茶をあおる。 「それじゃそろそろ出勤してくるよ」 言い、委員長へカップを渡すと車椅子のハンドリムに手を掛けた。 雰囲気で察するということは〈怏々〉《おうおう》としてある。 悪事がバレて叱られる直前の空気だとか、誰にも晒したくはなかった事柄を打ち明けられる前だとか、だ。 聖堂内の空気が一段重く、いや、小御門ネリネ、考崎千鳥、白羽蘇芳の顔を視た瞬間に心へと重圧が掛けられたのだろう。 ろくでもない事が起きたと察してしまった。 「どうした、浮かない顔してるじゃないか」 「ぁ……八重垣さん」 「もしかして重い日か? 悪いがポーチを持ち歩いてないから貸せないぜ」 「…………」 軽薄な銀髪の上級生を真似してみたが嵌まらないようだ。下世話な台詞で笑顔を引き出すのも相応の技量のいる技術のようである。 「で、マジでどうしたんだ? 暗い顔をしてないで説明してほしいんだが……」 「台本を無くしたそうよ」 「は?」 「朗読譜を無くしたと言っているの」 「――ごめんなさい!」 頭を下げ、声を震わせる白羽へ、小御門先輩が気遣い背中をさする。訳が分からないわたしは、再度アミティエへと訊ねた。 「昨日――手直しするから白羽さんへ台本を渡したでしょう」 そう考崎は事の次第を語り出した。 昨日、放課後いつものように稽古を行った後、白羽が台詞と物語の流れを少し変えたいとの申し出があり、少しの改編だったので皆了承した。 白羽に台本――朗読譜を全員が渡したのである。 その後、しばし聖堂にて暗記した台詞でかけ合い稽古をした後、生真面目な顔で台本を睨む白羽を残し、わたしたちは帰路についた。 そして―― 「本当にごめんなさい……」 涙を滲ませ頭を下げる白羽の背を小御門先輩が優しくさすりながら慰める。 「で、昨日自分の台本に書き込みをして、納得のいく脚本になって意気揚々と部屋に戻った後――」 「自分以外の台本を、聖堂へ置き忘れた事に気づいたってわけか」 平素の白羽なら絶対しないようなミスだ。だが、 (一つのことに集中すると周りが見えなくなるきらいがあるものな……) 書痴仲間の集中力の凄さは知っているが、それは欠点でもある。 「それで聖堂内に置き忘れたなら、此処にあるだろ? 探せば……いや、当然探したのか」 「自室に戻り思い出してすぐ此処へとって返したらしいの。でも既に無くなっていたそうよ」 遺失物として届いてないか何度も確認しに行ったという。 「……わ、私、なんて謝ったらいいか……」 「いいのよ。台本は白羽さんのものを複製すれば問題ないわ」 「でも……」 「ええ、そうね。白羽さんの言う通り、問題ないという訳にはいかないわ」 首を傾げる小御門先輩の視線に、考崎は刹那、眉根を寄せるも、 「各自台本は、各々自分の台詞や地の文の注意すべき箇所、そしてどんな感情を抱き朗読するのかを朗読譜に書き込んでいますよね」 「ただ新しく直した筋は一緒だからと、白羽さんの台本を複製すればいいという問題ではありません」 確かに――そうだ。 台本を受け取ってからこっち、自分だけの朗読譜になるようにびっしりと書き込んでいる。 だからこそ白羽も無くしてしまった事実に此ほど衝撃を受けているのだ。 「無くした台本は、手直しで渡すために置いておいた椅子の位置から移動させてなかったのか?」 「え、ええ……」 壇上から向かって、右側の二つ手前の木椅子へと向かう。 「八重垣さん……?」 昨日、木椅子に積まれていた台本は当然置かれていない。 わたしはそれを睨み、猫のような笑みを浮かべた。 「何を笑っているのよ」 「此奴は紛失事故じゃない」 「は?」 「誰か悪意を持ったやつが故意に盗んだって言ってるんだよ」 わたしの言葉は静まった聖堂内に響き、一時の沈黙を得てからその言葉がしみ込むと、空気が硬質なものへと変わった。 「そんな……。犯人なんて……ただ遺失物に気づいた方が拾ってくれただけでしょう?」 「遺失物が届いてないか何度も確認したと、白羽は言っていましたよ」 「それは……」 反論を口にしかけるも黙り込む。 「朗読劇が行われるのは学院内で承知の事実だ。たとえ誰かが拾っていたとしても、今の今まで届けないのは考えづらい」 「聖堂内で落とし物に気づいたのなら、学舎に戻らなくとも、寮に戻った際に届けるわね」 そう。学院の職員室に遺失物として届けなければ、寮にて寮長に預けるのが普通だ。 それをしていないとなると……。 「でも、何でそんなことを……。台本を隠すなんて何の得にも為らないでしょうに……」 「…………」 かつて何の得にも為らないのに同じ“本”を紛失させ騒動を起こした出来事を思い起こしたのか、白羽がわたしを複雑な目で見詰めた。 「本の紛失なら任せておけ。わたしなら隠すのも、見つけ出すのもお手の物だ」 この朗読劇云々で溜めたストレスを盗んだ犯人で発散させようと、わたしは犬歯を見せ猫の笑みでそう告げたのだ。 「それで」 これから私たちはどうするの? とアミティエは言った。 指導に訪れたバスキア教諭には台本の筋を変更するため、今日は各自自主練するとの旨を告げ戻って貰い、 小御門先輩と白羽には再度、遺失物として職員室、そして寄宿舎に届けられていないかを調べておくように指示を出していた。 「古来からこういうときは現場百遍と決まっているんだよ」 「以前にも同じ言葉を聞いたわね」 「あの時はお前が真犯人だったがな」 わたしが考えている以上に繊細な話題だったのか、言い返してこない。 いや……変わり者のアミティエは問いかけを無視し、適当に辺りを見渡していた。と、 「何故、バスキア教諭へ黙っていることにしたの」 わたしはその問いに、壇上へと向かうため車椅子を繰りながら答える。 「あの時は悪意を持った者が故意に盗んだ、と言ったけどな。違った場合を考えたんだよ」 「善意で預かっているということ?」 「そうだ。もしそうだったら、バスキア教諭に話して大事になったら可哀相だろ」 「へぇ。だから遺失物を聞いてくるときにも、盗まれた事は言うなって付け加えたわけ」 そうだ。と前から順に木椅子の隅を検分し答えるが、冷ややかな視線を感じにやけてしまう。 「ま、それは表向きってことだ。実際は騒ぎにせず、確実に弱みを握りたいってことだよ」 「やっぱり。悪趣味ね」 「此処であと二年と少しは奉公しなくちゃならない。生きやすくするためさ」 嘯いたわたしの言葉を信じたのか考崎は嘆息した。こちらの真意は気づかれない方がいい。 「で、今は何をやっているの」 「白羽が見逃してないかを調べてるのさ。こっちに来て手伝えよ」 「……稽古時間の間だけよ」 木椅子と床との間を覗き込んで調べるよう考崎に告げる。 「こいつじゃ屈めないからな」 「倒れ込んだらどうしようもないものね」 考崎は軽く肩を竦めしゃがみ込む。 「それで此に何の意味があるの? 椅子と床に少しの隙間はあるけど、台本が差し込まれるほどは空いていないわよ」 「意味はあるさ。這いつくばるお前が見られるのと、可愛らしい下着が拝める」 「……巫山戯ているならやめるわよ」 立ち上がり切れ長の目で睨む考崎へ、冗談だよと手を広げてみせた。 「白羽はこの聖堂を探したとは言っていたが、下校時刻を過ぎて――校則違反を犯して探しに来ていた。微に入り細に入りとはいかないだろ」 「だから――そうだな。右側の二列目と三列目の箇所を重点的に調べてくれ」 冷ややかな視線を送られるも具体的だったことが功を奏してか、考崎は子細に調べてくれているようだ。 「……此は」 「何を見付けた」 台本が置かれていた椅子から少し離れたところで考崎は顔を上げ、指に挟んだ紙片をこちらに見せてきた。 「これはメモ帳の紙片ね」 手渡された一枚の紙片をとっくりと眺める。 急いでいたのか走り書きで、大きく“聖ヨゼフ”と書かれ、その下に本3つと記され、最後に記号で“↓”と書かれていた。 「これ……どういう意味かしら」 「さてね。ピザ屋の注文ってわけじゃなさそうだ」 思った以上の収穫に内心驚きながらも紙片を睨む。 考崎も同じようにその紙を注視し、 「これって……合唱部の人のじゃないの?」 「どうしてそう思う?」 「この本というのは譜面のことじゃない? 譜面を一冊二冊と呼ぶこともあるでしょう。だから本、と書いた」 「この聖ヨゼフってのは?」 「それは分からないけれど、聖歌の中でそういう曲のタイトルがあるのではないかしら」 「だから此はメモ帳を一枚破って、譜面……本を三つ置いておいたわと伝える為にあったものじゃないの」 普段は部活動で合唱部がこの聖堂を使っている。確かにそう考えるのが自然だ。しかし、 「……わたしはそう思わない」 「どうしてよ」 「この二週間近く――合唱部の皆には悪いが、放課後この聖堂はわたしたちが朗読の稽古に使っていた」 「あ……」 「もし昼休みの合間に熱心な部員が練習に使っていて、このメモを残したとしても――」 「放課後こいつが椅子の上に置かれていたのなら、わたしたちの誰かが見付けていただろうよ」 「……でも、私たちの練習以前に書かれていたもので、風に飛ばされて椅子の下の隙間に挟まっていたということは?」 「その可能性もある。だが、わたしはメモ帳に書かれていた個数が気になるんだよ」 オウム返しに訊ねる考崎へ、 「お前も言っていたが、この本が譜面だったら、3“枚”若しくは3“冊”って書かないか?」 「お前は合唱部員が書いたものだと言ったが、それだと個数に疑問符が出てくる。なぜ普段譜面を扱っている部員が3つと書いたのか」 「わたしは本は、台本の“本”だと思う。だから3つと書いたんじゃないかってね」 そして普段台本に触れない相手とも。$走り書きの文字を見ると急ぎだったというのが分かる。 普段使う立場にあるなら、台本を“冊”と書いてあるだろうが、すぐには思いつかず、急ぎで3つと単純に記してしまったのだろう。 「わたしはこのメモ帳の頁は台本を持っていった者が置いていったものだと思う。そして此奴は我々に向けた挑戦だと、ね」 「誰が……どうしてそんな真似をするの」 「それはそいつに聞いてくれよ。只、こいつは何かを意味し、指しているのだけは確かだ。順当に考えれば宝の地図って感じかね」 「見付けてみろって?」 胡散臭げにメモ帳の紙片を眺める。 わたしの本意とは別に、正直この挑戦に昂ぶる気持ちが湧いたのも確かだ。 真っ向から解き明かし相手の鼻っ面をへし折る。愉しくてたまらない。 「とりあえず台本探しに出向くとしようぜ」 白羽たちを待たず、 わたしたちは学舎のエントランスへと赴いていた。 「此処に台本が隠されているっていうの?」 「探してるものとは違うが、目立つのはこの階段なんだよな……」 車椅子を繰りながら、階段を子細に調べる。 「何をしているのか教えてくれてもいいんじゃないの」 「メモ帳にあった聖ヨゼフだけどな」 裏側に回り見上げるも望むものはない。苛立つことに苛立った目を向けるアミティエへ言う。 「聖ヨゼフと聞いて閃いたのが、階段なんだよ」 「怪談? 聖人なのに化けてでるわけ?」 「違う。“聖ヨゼフの階段”という、奇跡の階段があるんだよ。支柱をつくらずにグニャグニャととぐろを巻いたような階段がさ」 「へぇ。そんなものが……さすが書痴ね」 珍しく感心したような声で返す考崎へ、詳しく説明する。 「“聖ヨゼフの階段”は、アメリカのサンタフェにあるロレットチャペルという修道院に実在する螺旋階段なんだ」 「内側にも外側にも支柱がなく、どうやって螺旋階段が存在できているか未だに分からないミステリー物件ってやつさ」 「それを知っていたから此処へ来たってわけね」 「学院で一番見事な階段は此処だからな」 ここへ来た理由が分かり、考崎も台本の手掛かりがないか調べるが、それらしいものは何も見付からなかった。 「落書きもないな……」 「……捻らずに、本を隠すなら本なのじゃないかしら」 言われ、図書室へ行ってみるか、と考崎の案に従ったのである。 ――聖ヨゼフの書物を紐解き、 聖ヨゼフをモチーフにした立像、絵画はないか探し回ったが……。 「台本も、手掛かりも見付からなかったわね」 「労多くして功少なし、ってやつか。ま、すぐに見付かるとは思ってないよ」 「へぇ」 強がりだと見抜かれたか、乾いた声で返される。 「一つ質問佳いかしら」 考崎は伸びをしてから言った。 「そもそも聖ヨゼフって何をした人なの? 宣教師とか?」 アミティエの問いにどっと疲れが肩にのしかかる。 「少し前に授業でやっただろうが、聖母マリアの夫の聖ヨゼフだよ。キリストの養父だ」 「そうなの。マリアって処女受胎したのだから、夫はいないと思っていたわ」 確かに赤子のキリストを抱えた聖母マリアや、個々としての絵や立像は珍しくない。 だが、家族でありながら聖ヨゼフの作品はあまり見かけないから仕方がないとは思うが……。 (高名であるが見かけない……) 立ち止まり何か心の裡を引っ掻かれた気がしたわたしは、何か忘れているのかと記憶の中の付箋紙を探す。と、 「――もういいんじゃないかしら」 と、残映を浴びた考崎が呟いた。 「……何がもういいんだよ」 「台本探しをすることがよ。本番まであと三日。確かに朗読譜がないのは痛いけれど、白羽さんの台本を複製して進めた方がいいわ」 「ダメだな」 「自分に自信がないわけ」 「そうじゃない。だが、台本探しは続ける」 萌葱色の瞳がまるで真意を見抜こうとするように、わたしの目の奥を凝っと覗き込んできた。 「……犯人を見付けて弱みを握ることが本意とは思えない。貴女はこの朗読劇を失敗させたくないと思っている。そうでしょう」 「少しは人の心が分かるようになってきたじゃないか」 「なら、」 「だが断る。あの台本じゃなきゃダメなんだよ」 苛立つことに苛立った目、初めて遭ったときのような雰囲気を身に纏いだした考崎は、真っ赤な残映に身を染め言い放つ。 「――何を意固地に為っているかは分からないけれど、此は対価を貰っていない以上お遊びと同じ。貴女の言う趣味と同じよ」 「暇つぶしか。違いない」 「だったら相応にやればいい。貴女の恥は私の恥だと言ったけれど、今のままなら恥にはならないわ」 お互いの信条をぶつけたあの日を思い出す。 わたしはあの時と同じく猫のような笑みを向けて、 「わたしは厭だ」 と告げた。切れ長の瞳は刹那、歪み―― 「そう……付き合いきれないわ。勝手にすればいい」 冷ややかな眼差しと声音を残し、足音だけが消えていったのである……。 一夜明け―― 考崎の協力が望めなくなったわたしは、休み時間の合間に、聖ヨゼフが関連するような物、事を調べた。 台本が無くなったことは秘密にしておくということになったので、それと気づかれないようにだ。 だが、昼休みの時間を費やし、瞬く間に放課後となり―― 「まったく進展なしってのは流石に凹むな……」 今日のお茶会の茶請けは、冷やしたわらび餅だ。洋菓子が続いていたので此も悪くないと頬張る。 「何が進展しないの?」 「……そりゃ、お前の胸だよ。春からこっち成長してないよな。全然」 「そ、それは八重垣ちゃんもでしょう! 意地悪する人には黒蜜とってあげないよ!」 「悪かったよ」 素直に謝る。黒蜜の掛かってないわらび餅に魅力はない。 「佳し! ではかけて進ぜよう!」 わらび餅へ黒蜜を掛ける沙沙貴姉へ、聖ヨゼフで思いつくものはないかを問うた。 「せいよぜふ? それって何?」 ……どうやら、考崎を笑えないやつが此処にもいたようだ。 「有名なのは聖母マリア様の夫じゃないかしら。授業で習ったでしょう?」 そうだっけ? と惚ける姉へ妹は、膝に落ちたきな粉を払いながら言う。 「苺ねぇは授業でも間違えていましたしね。でもわたしとしては、聖ヨゼフの階段が気になります」 「怪談!」 びくり、と背を震わす委員長へ、沙沙貴妹が昨日、わたしが考崎へ説明したように語って聞かせた。 「そう……。どちらかというと奇跡の方なのね」 「奇跡?」 「委員長の言う奇跡は、聖人として認定される為の奇跡っぽいが……」 認定って? と、オウム返しに訊ねる沙沙貴姉へ、 「カトリックとして最高の崇敬の形が聖人認定だ。それには2つ奇跡を起こすことが必要なんだよ」 「そうだな……。歴史でおなじみのフランシスコ・ザビエルとかも聖人認定されているんだぜ」 へぇと感心しきりの沙沙貴姉へ、妹はにやりと笑みを浮かべ、 「フランシスコ・ザビエルの遺体は腐らなかったとしても有名ですよ」 と言った。委員長のおさげが萎れる。 「ええ!? そうなの!」 「理由は知りませんが、死後五十年以上経ってから右腕を切断した時、鮮血がほとばしったという話ですよ」 「お茶会に怪談話は禁止です!」 ポットを荒々しく置き会話を中断させる。$聖人の逸話を怪談呼ばわりはどうかと思うぞ。 「あ、ザビエルと言えばさぁ」 「苺さん……?」 「違うよぅ、怖い話じゃないってぇ。前の学校の先生でザビエルってあだ名の先生がいたなって」 「ぁぁ……」 それだけでその先生の容姿が想像できてしまう。 「最近は、フサフサで容姿も格好良かったって説もあるけどな」 「そうなの? で、ね。あだ名といえば小御門先輩のネリーってあだ名可愛いよね」 その発言にお茶会に参加していたクラスメイト等は苦笑いを浮かべつつも頷く。 わたし同様、話の流れとしてどうよ、と思ったのか。 「そういや以前、同じ事を言っていたような気がするぞ」 「いやぁ、そろそろほんとに打ち解けたと思うのですよ。だからあだ名とか欲しいかなって」 面白そうだとクラスメイト等が話すも、やはりこの学院に来るようなお嬢様育ちはあだ名を付けたことがないのだろう。 古いものだったり、頓狂なセンスだったりしたのだ。 「そういえば、料理教室をしている祖母ですが、料理に使うパティナイフに、パティちゃんという愛称を付けて使ってましたよ」 「へぇ……道具に名前を付けているのね。可愛いわぁ」 私物のポットやカップに愛着がある委員長は目を輝かす。他のクラスメイト等もだ。 この辺の感覚は理解できない。 「物に愛称ねぇ。本の栞にしおりちゃんとか言うわけだろ。わたしはなぁ……」 「ねぇねぇ八重垣ちゃん。わたしにあだ名、付けてみてよ!」 「お前ら姉妹にはササ一号二号ってあだ名が、あ……」 そう言った途端、硬直してしまう。 「ぁ……」 気ぜわしげにわたしを見遣る彼女。だが、わたしが固まってしまったのは、匂坂マユリの話題が出た所為ではない。 (あだ名、愛称ねぇ……) 呼びかける委員長の言葉は遠く、わたしは深い思考の泉へと誘われていた……。  基督教の建築物はどうしてこうゴチャゴチャとしているのだろうと思う。  柱に、壁に、窓に、意匠が施され煩雑な思いをする。  遠近感が掴めないのだ。  何度か目を細め、睨むのを繰り返すと――  $ 乱雑に反響した厭な音色が響き、靴音が鳴り、そして、あの――と頼りなげな声が耳朶に届いた。 「何」  振り向かずに尋ねると、おずおずとした声で、八重垣さんはと問うてきた。 「今日も自主練だそうよ。少し前にバスキア教諭も、小御門先輩も同じことを聴きにきたわ」  そう、なのですか――と耳を澄ませなければ聞き取れないような声音で呟いた。  ――駄目だ。十字架の大きさがはっきりとしない。  視線を壇上から外し、振り返る。  真正面に白羽蘇芳の姿が映る。  伸び縮みしないことに安堵し、凝っと白羽蘇芳を視た。  長い黒髪と、白く細くしなやかな腕。襟から覗く肌は大理石よりも白く映る。  一歩、二歩進み、彼女の顔を眺めると、端正な――という月並みな表現が浮かんだ。  普段隠している心の弱い部分を揺さぶるような美しさだ。  ――同室のアミティエが必死になるのも分かる。 「あ、の……何か?」 「八重垣えりかと仲が佳いのね」 「えりかさんと……ですか。仲が佳いと言うより私が勝手に書痴仲間扱いをしているだけで……」 「名前で呼ぶくらいには仲が佳い」  そう指摘すると、桜の花びらが散ったように頬が染まった。何故だか、胸が鬱ぐ。 「彼女も無駄なことはよしたら佳いのに」 「え?」 「台本なんて諦めて稽古をすべきだわ。後、二日しか稽古できる日取りはないのだもの」 「そう……ですね」  胸に手を当て痛みを堪えるような表情を造った。白羽蘇芳の仕草は何故だか、幼い頃の純粋な感情を呼び覚ます。痛切な痛み。 「何故、あれほど固執するのかしら。初めは朗読なんて厭がっていたのに」  私の言葉は気持ちの悪い反響を残し、聖堂の隅々へと消え去っていく。  打てども響かないこの人へ何をしているのだろうと、立ち去ろうと思った。 「きっと、皆で作り上げてきたこの朗読劇を成功させたいと思っている筈です」  それは私も感じていたこと。成功させたいと願っている筈。  其れは―― 「貴女の為に」 「私の?」 「そう。稽古をせず台本に固執しているのが佳い証拠よ」  何処かで私もそう思っていたのだろう。犯人の弱みを握るだとか、失敗をした姿を晒したくない、と言っていたがそれも全て―― (何だっていうの……)  目の前の白羽蘇芳を視ていると苛立ちが募った。こういう時こそ歪んで見えればいいのに。 「私の為にだったら嬉しいけれど……それはきっと違うわ」 「……どういうこと?」 「私も、小御門先輩も、考崎さんも――皆で作る劇を壊したくないと強く思っているからだと思う」  再度告げる彼女へ、それなら台本に固執しなくとも――と声を上げそうになった私へ微笑み掛け、 「それに――何よりアミティエと共に作ってきた劇を成功させたい、そう願っている筈よ」  そう告げた。  互いに反駁し合っていた昨日の言葉を思い浮かべ―― 「……ないわ」 「アミティエが大切でない人なんていない」 「私は……」  反論しようと口を開くも、白羽蘇芳の吸い込まれそうな黒黒とした瞳を前にして何も言えなくなった。  彼女は私を通して誰かを視ている。そう思った。  いや、私もそうだ。  八重垣えりかへあの子を―― 「もう少しだけ待ってみましょう」  彼女の声に私は壇上を見上げた。  縋るように見上げた十字架は――やはり歪んだ像を目に映していた。 生きている鳩を久しぶりに見たな、と思った。 廊下の窓から覗く細い枝に鳩が一羽とまっているのが見える。 聖ヨゼフを調べる際に目にした絵画の中の鳩と違って不気味に思えた。 妙にテカテカした質感も、鳴き声も、動きも、だ。 特に目が気味が悪い。何を考えているか分からない。 ギョロギョロと所在なく動き回るさまを眺め、よくこれで平和の象徴と呼ばれているなと独りごちた。 気に入らない目。 わたしは昨日仲違いをしてしまったアミティエを思い浮かべた。 いや、そもそも仲違いをするだけの関係性など結べていなかったか。そう嘯くも、 「……何だよ」 眺めるわたしへ気づいた鳩は小賢しくも時が止まったかのように注視し、 猫の笑みを浮かべた途端、羽ばたき去っていった。あいつのように。 いや、逃げているのはわたしか。家から――家族からも。 どうにも陰鬱なことばかりが浮かぶ。わたしは頭を振って、頭の中の付箋紙を選りすぐった。 これから行うちょっとした謎解きのリハーサルというやつだ。 「確か子うさぎの消失の折りにもしたな……」 真犯人だったあいつの顔が浮かび―― クセっ毛の頭を振ると、消えた台本について思考する。 事件の起こりをしっかりと定義しよう。 わたしはこの台本の消失を、悪意のある第三者の犯行だと考えていた。 果たしてそれは正しかったのか―― «台本の紛失は事件、それとも事故?» 悪意ある犯人が起こした事件 人為的でない事故 善意から起こった偶発的な事故 だと考えるなら、何故こんなことになったか、だ。 そしてもう一つの謎。 あのメモ“聖ヨゼフ”の意味は―― «聖ヨゼフの意味するものは?» 台本を置いた場所の愛称 螺旋階段 キリストの父親 ――何かが足りない気がする。 解決する為にはもう一つ何かのワードが。 「……今更つまんねーこと考えるなよって話か。もう呼び出してるんだしな」 咳払いを一つし、頭を切り換える。 持っているカードで勝負するしかないのだ。 鳩の消えた枝葉をひと睨みし、聖堂へと向かった……。 頭の中で整理し終え、鳩の消えた枝葉を睨むと、聖堂へと向かった……。 騒々しい音をたてて開いた扉の先――壇上へ向けられたわたしの目に、呼び出しておいた二人の姿が映る。 白羽蘇芳と考崎千鳥だ。 白羽はどこか困っているような微笑んでいるような表情を浮かべ、考崎は苛立った目をこちらに向けていた。 処女受胎を告げるガブリエルの宗教画のようだ、と思った。 神の子の受胎を祝福する大天使と、子を身ごもった事実を告げられ、戸惑い動揺する聖母の絵画だ。 「呼び出したってことは犯人を見付けたってことよね」 「それはちょっと違うな」 「なら謝罪でもするのかしら。小御門先輩を呼んでない所をみると、大口を叩いて駄目だったことを私たちにとりなして貰いたいとか?」 「今日は随分と口がまわるじゃないか。何だ、ムカついてるのか?」 別に――と、別にという顔でない表情の考崎は言い、顔を背けた。 「台本、見付かったのですね」 まるで最初から在処を知ってたような顔つきで言う白羽へ、ああと頷く。 「貴女、さっきは違うって言って――!」 「犯人は見付からなかったって言ったんだよ。こっちとしても不本意だがな。此奴は――」 演壇の上方、十字架を見上げ、 「八代譲葉殴打事件の時のような話なんだよ」 そう告げた。 「意味が分からないわ」 そうだろう。人と極力関わらない生活をしている考崎が、転入前に起きた事件の顛末を知っている筈もない。 「大山鳴動して鼠一匹、ってやつだよ。大騒ぎして、結果大したことがないって事さ。この台本紛失事件もそういう類いの話だったんだ」 台本を置いてあったとされる木椅子を眺め、 「そもそも――この紛失事件に犯人はいないんだ」 「犯人がいない……? まさか自然に起きた事故、とでも言うの? 鼠が台本を咥えて逃げたとか?」 「そりゃいい。笑えるが、勿論動物がどうこうとか言わないよ。風が吹いて飛んでいったとかもな」 「いい加減、はぐらかすのはやめて」 考崎にそう言われ、顛末を語る前にクシャクシャの頭を掻き、リハーサルしてきた付箋紙通りに言葉を並べる。 「さっきも言った通り、犯人という悪意を持った“人”はいない。だが、善意を持った人ならいたんだよ」 「善意……?」 不意に思いも寄らぬ方向から殴られたような顔をした。珍しいアミティエのリアクションに頬が緩む。 「そうだ。簡単に言えば、白羽が其処の木椅子の上に置いておいた台本を、忘れ物だとして善意から、ある人物が届けようとしたのさ」 「……ちょっと待って。なら、遺失物として」 苛立った目のまま白羽を見遣る。$書痴の友人は視線を受け止め、首を横に振った。 「職員室にも、寄宿舎にも届いていなかったわ」 「とんだ善人がいたものね。結局台本は拾ったかもしれないけど、そのまま届けなかったという事じゃない」 敵意を込めた視線に疑問を抱くも、 「なあ、“ハリー・ポッター”の映画を観たことがあるか?」 そう尋ねる。 「……何を言っているの」 「ん? ないのか? お前映画、興味なさそうだもんな」 「見たことくらいあるわ」 唸るように告げるアミティエ。 「――よく映画の番宣や、コマーシャルで流れる曲あるだろ。不思議の国に紛れ込んだようなBGMだよ」 「あれって、わたしは映画そのものを指した曲、若しくは主人公のテーマ曲だとずっと思ってたんだ」 「だが、後で知ったんだが、あれってペットの白フクロウ、ヘドウィグのテーマなんだってな。知ってたか?」 「え、そうだったの? 知らなかったわ」 黙ったままの考崎に代わり、白羽が驚きの声を発して目を丸くさせた。 「……だから、どうしたっていうの」 「つまり固定観念を捨てろってことさ。わたしはお前が見付けてくれたこのメモ帳――」 指に挟んだ紙片を二人の眼前でひらひらさせる。 「これを宝の地図だと思っていた。台本を指し示すメッセージだってな」 「こんなものがあったなんて……」 白羽はメモ帳の紙片をマジマジと見詰めている。 このメッセージを見ても気づいていないということは、こいつも耳にした事がないのだろう。 「この“聖ヨゼフ”って名前――わたしはこれが台本の場所を示すものだと思っていた」 「だから聖ヨゼフと関連するような物、場所を捜索した。……だよな」 「聖ヨゼフの階段、とか?」 「ご明察。学院の階段も探したな。だが、結局何も見付からなかった」 「無駄足だったわ」 「違いない」 笑いながら自分の足を叩いてみせるとアミティエは苦い顔をみせた。 「この聖ヨゼフが台本の場所を示している――それは間違いない。だが、名前と縁のある場所を探しても意味がなかった。そんな時――」 益体のない話をしている時に、あだ名の話をしたことを話す。 「あだ名、ですか?」 「ああ、そこで物にあだ名を付けるって話を聞いたんだよ。愛着の湧いた品に特別な名前をね。わたしにはない発想だ」 人やペットに付けるのは分かる。 だが、愛称ってのは生き物だけに付けるっていう固定観念があったんだな、と苦笑った。 白羽は――わたしが何を言うのか察したのだろう。大きく目を見開き、辺りを見回した。 だが、未だ理解していない考崎は苛立ち、だから何だっていうの、と言い放つ。 「日本でもあるが……海外は特に建物に愛称を付ける文化があるんだよ。オペラハウスなんかにな。例えばドイツにあるザクセン州立歌劇場は――」 「元々ドレスデン国立歌劇場っていったんだが、建物の建築に携わった建築家ゼンパー氏にちなんで“ゼンパー・オーパー”とも呼ばれてる」 「それ以外でも、最寄りの通りの名から愛称が付いたり、初めて公演された演劇の演目から付けられたりする例もある」 「それって……」 ようやくわたしの言いたいことが分かったのか、苛立つ目は幾分険が取れ、言葉を待つ。 「そう。わたしはこの“聖ヨゼフ”が場所――建物を指す愛称だと考えたのさ。そして、図書室で学院の沿革を調べた」 「そうしたらあったんだよ。“聖ヨゼフ劇場”若しくは“ヨゼフ座”がね」 車椅子を繰り――聖堂右側の、常に閉めきりだった扉へと向かう。 開かずの扉。曰くなんてモノを感じてたりはしない。わたしは只の用具室だと思っていた。 戸惑う二人へと一顧し、告げる。 「さぁ、行こうぜ。地下劇場へ」 向かうための手段が階段だけだと思っていた“劇場”へと続く道は、階段とスロープの半々に分けられていた。 お陰で車椅子のわたしでも介助なしで進むことができた。 仄かな電灯に照らされた道は徐々に異界へ向かう道程を連想させる。 夏だという事を忘れさせるしっとりとした冷ややかな空気と、先の見えない仄かな暗闇。 初めて行く道は長く感じるも、実際それほど深くは潜っていないのだろう。 行きと同じ型の扉が浮かび、わたしは真鍮製の取っ手に指を掛けた。 そして―― 「――此処が聖ヨゼフ劇場なのね」 考崎が呟いた言葉に無言で頷くと、まるで映画のセットのような地下劇場を睥睨した。 「――何の因果かしらないが、この地下劇場で初めてやった演目もグリム童話の一篇だったんだよ」 「演目の名は“森のなかのヨーゼフ聖者”。この劇場を指すとき、聖堂内の地下劇場じゃ語呂が悪かったのか――」 朧な灯りがともる劇場内をゆっくりと見渡し、 「最初の演目から聖ヨゼフ劇場、若しくはヨゼフ座と呼ぶようになった」 そう告げた。 メモ帳に書かれた意味、 それは――只、地下劇場へ台本三冊を運んでおくという意味だったのだ。 矢印は察しの悪い手合いだった場合の相手へと向けた“地下”だと印象づける為のもの。 「学院にこんな場所があったなんて……」 苛立ちは消え去り劇場内を見渡す考崎、と、小さな悲鳴のような声が聞こえ振り向く。 「……小御門先輩?」 劇場の奥から幽鬼のように姿を現した彼女の手には、紛失していた三冊の台本を携えていた。 それを見た考崎が気ぜわしげにわたしへ視線を向ける。 「――違う。犯人はいないと言っただろう。小御門先輩には先に台本を確保して貰っていたのさ」 「八重垣さんの言うとおり、此処に置かれていたなんて……」 「持って来た人は誰か分かりませんが、善意からだったんですよ。朗読劇の日にちも迫っている」 「本番を行う前にリハーサルを当然していると思ったんでしょう。だから此処へ置いておいた」 「そう……だったの。そう。確かにそうね。本番前に此処で一度合わせておかないとね」 「どういうこと……?」 「バスキア教諭が言ってたろ。朗読劇は年に二度行われるって。わたしたちは初めてだが、上級生――」 「小御門先輩は既に朗読劇の経験がある。此処で朗読劇が行われることを知ってたんだよ」 暫しの沈黙の内、じゃぁ……と気の抜けた顔を向ける。 ま、それにはわたしも同意だ。 「……ああ。初めからメモ帳を小御門先輩に見せておけば、直ぐに此処に台本が置かれていたというのは分かっただろうね」 「上級生は皆、この地下劇場の愛称は知ってたんだからな」 「愛称? ヨゼフ座のことですか?」 当然のように聖ヨゼフの名を口にした小御門先輩へ、分かってはいたが肩の力が抜けてしまった。 「それじゃ私たちがしたことは……」 問題を難しくして遠回りさせてしまったって事さ――告げるとやはり考崎も力が抜けたように肩を落とす。 「でも、台本が見付かって佳かったわぁ。此で本格的に稽古ができるわねぇ」 「ええ、本当に佳かったです」 白羽は小御門先輩から台本を受け取り、考崎へ、わたしへと台本を手渡していった。 「台本を見付けてくれてありがとう、えりかさん。私本当に嬉しいわ……!」 「よせよ、お前の為じゃない」 切って捨てた言葉にも動じず微笑む。どうにも気勢が削がれ髪をクシャクシャに掻き回した。 「……佳かったじゃない。白羽さんの為に、台本探したのでしょう」 耳打ちされ、反論しようとするも苛立っている目でなく、生真面目な瞳を向ける考崎を見て―― 「……ああ」 逡巡した後、そう頷いた。 「そう……やっぱり白羽さんの為よね」 そう呟くアミティエの横顔が、達観したように見えてその実激情家だった次女の横顔とかぶった。 仲違いしたまま離れた家族。 「……お前、魔女の役上手に為ってただろうがよ」 「え?」 「対価を得られない以上、遊びと同じだと言ったけどな。わたしには真摯に取り組んでいるように視えた」 瞳を細め、考崎は何を言っているのと呟く。 わたし自身も何を言っているのか漫然としか分からない。 だけど、誤解させておくのは駄目だと思った。自分の気持ちを素直に吐露すべきだと。 「中途半端は嫌なんだよ。わたしはお前の最高の演技が観たいんだ。特等席で相棒の演技を見させてくれよ」 困惑した表情から、次いで呆気にとられた表情。だが、 「――観てなさい。アマチュアとプロフェッショナルの違い、見せてあげるわ」 そう変わり者のアミティエは、年相応の少女のような無垢な笑顔を晒し、明言したのである。 ――つまるところ、見切り発車をしては為らないということだ。 物事はきっちりとまとめてから勝負しなければならない。 朗読譜の紛失はわたしが考えていたような帰結ではなかった。 分かったら最後、何だそりゃと肩の力が抜けるような結末。 映画のラストで後生大事にこれが真実ですと差し出されたら、迷わず席を立つたぐいのもの。 「立てないけどな……」 「あ、またまた八重垣ちゃん発見! 最近よく見るね!」 「……人を珍しい昆虫みたいに言うんじゃない」 「連続三回目です。あと二回見かければ豪華商品ゲットですよ」 「妹は妹で人をポイントカード扱いするなよ。昼飯を食べに来ているだけだろうが」 そう、今まで昼食を考崎に自室へ運ばせていたが……。 二人で食べるにはきつい雰囲気なのだ。 「……食事は自由であるべきですからね」 「分かってるじゃないか」 呟き、素麺を啜った。この時期には外すことの出来ないものの一つだ。 (くそ、味なんてしないぞ……) 料理と同じく日常が無味なものに、少しずつ変わっていくのをわたしは感じていたのである……。 ――朗読劇当日。 新しく筋を変更した台本でリハーサルを繰り返し、この日を迎えた。 劇場にはまだ人が入っていないが、後数刻もすれば満員となるだろう。 地下劇場――聖ヨゼフ劇場は緊張を孕んだような、いや、怠惰な面差しを見せているような奇妙な空気を漂わせていた。 学院自体異国のようではあるが、此処は一段とその趣が増している。 まるで中世の〈欧羅巴〉《ヨーロッパ》にでも紛れ込んでしまった気がした。 ――背後に月を隠した雲のように、ぼうっと黄色く照らされている劇場内。 闇に食われているように視える照明を只凝っと眺めていると、 「似合わないわね」 そう背後から声がした。 頭を掻きながら振り向くと、 「なに」 朗読劇の衣装に着替え終えた考崎が佇んでいた。 長い萌葱色の髪に花冠を被り、清純なワンピース姿を晒している。 薄闇に白く浮かび上がるような婉美な姿はやはり異国に紛れ込んでしまったかのように思えた。 「同じ衣装を着てもこうも違うんだなと驚いてね。お前の言うように似合ってないな」 同じ衣装に身を包んでいるものの、わたしはお遊戯に出る幼児のよう。$まさに服に着られていると表現した方がいい。 似合わないのは納得済みだが、考崎はわたしが同意したことに動揺したのか眉を曇らせる。 「何だよ、自分で言った事だろうが」 「それは……」 「ところで、今一番セクシーな朗読者はお前だな」 「冗談はやめて……」 「冗談なもんか、明日の昼飯を賭けてもいい」 軽口に怒るかと思ったが、何故か照れたようにそっぽを向いてしまう。 照れる? まさか、ね。 「貴女も……似合ってないことはないわ」 「そりゃ、どうも」 凝視しているわけではないが、衣装を眺められていると落ち着かないのか、裾の辺りを押さえて悶えるような仕草をした。いや、 (小用なら済ませておけ……ってのは余計なお世話か) 開演時間には充分間がある。演劇をやっていた考崎には釈迦に説法だろう。 「? どうしたの、含み笑いなんかして」 「いや、基督教の学舎で可笑しな言い回しだなってさ」 首を傾げる考崎。と、 「あら、似合っているわねぇ」 振り向くまでもない聞き慣れた温和な声音。 わたしたちと同じ衣装を纏った小御門先輩が、白羽を連れてやってきた。 「先輩もお似合いですよ」 「そう? ふふ、少し丈が短くて恥ずかしいわ。でも素敵な衣装……」 「以前の朗読劇ではなかったのですか?」 「ええ。学院の制服で行っていたから。八重垣さんもとっても素敵よ」 「ありがとうございます」 お世辞にも如才なく答える。 恥ずかしそうに身悶えをしている書痴仲間にも、 「お前もなかなかだ。綺麗な足で悩殺されそうだよ」 「もう……! 恥ずかしいこと言わないで……」 「委員長辺りが見たら釘付けになること間違いなしだ。図書室でもその格好でやったらどうだ。使用者増えるかもしれないぜ」 笑うわたしに釣られ皆も笑う。$唯一、笑っていない考崎の腿を叩くと、 「妬くなよ。お前が一番セクシーだってことは変わらないからさ」 「……今分かったわ、からかっているのね」 いつもの〈権高〉《けんだか》な目つきに戻り睨む。$緊張も解れたらしい。 叩く振りをする考崎と、それを微笑ましく見守る小御門先輩。$白羽は―― 「こんなに素敵な劇場……見せたかったな」 中世の雰囲気がある劇場内を見渡し、そう呟くのが聞こえた。 意匠の凝った建物が好きだと話していたか、と。 あいつを思い出す。 わたしは車椅子を繰り、一歩二歩前へと歩み出た書痴仲間の隣につけた。 (理由を探ろうと提案したのはわたしだけどな。今日はこっちに集中した方がいい) そう告げようとしたが、野暮天だなと思い、〈既〉《すんで》の所で言葉を呑んだ。 わたしはいつもの猫の笑みをこぼすと、物思いに沈んでいた白羽へと声を掛ける。 「緊張してるのか? なぁ、白羽――」 「――適当にやれよ。失敗したって命取られる訳じゃない、でしょ?」 聖母祭の前に鼓舞した言葉を覚えていたのか、白羽はそう言って微笑んだ。 わたしは肩を竦ませ、どこか悲しげに視えた微笑みに無理に笑ってみせたのだ。 「わぁ! こんなところあったんだぁ!」 「随分と立派な劇場ね……」 「これは……緊張してしまう場、ですね」 初めて地下の聖ヨゼフ劇場に足を踏み入れたクラスメイト等は興奮し口々に感想を言う。 次いで入ってきた上級生組は馴れたもので、静々と左右に分かれ自分たちの席へと腰を下ろした。 満員の観衆を前に、緊張が張り詰めてくる。 「……右脇腹が刺すように痛い」 「え、大丈夫? お薬貰ってきましょうか?」 「待ってください。いつもの軽口です。逃げ出したくなっているだけですよ」 「随分と見透かしたようなことを言うじゃんかよ……」 「私も似たような経験があるわ。でも始まれば弱気の虫なんて吹き飛ぶ」 「……なあ、あがらないようにするにはどうしたらいいんだ?」 半分は本当だったのだが、舞台経験者へ呑まれない為のコツを更に聞き出そうと訊ねた。 「……これは、舞台役者の間での秘密の方法だけど」 「ああ」 「手のひらに人という字を……」 「知ってるよ! 定番中の定番だよ!」 「うん? どうしたんだい、盛り上がっているようじゃないか」 そういえば入場してきた上級生の中にいないと思っていたが―― 「おおっ、皆美しいな、まるで絵本の国の住人のようだ。ネリーなぞアリスのようじゃないかっ」 一人見かけないと思っていた八代先輩は小御門先輩を、そしてわたしたちを返す返す見た。 「ネリーも素晴らしいが、考崎君も、我が師も妖麗だ。カメラを持ってこなかったのが悔やまれる」 「わたしのことは無視ですか、そうですか」 「うん? 八重垣君も綺麗だよ。そうだな、衣装を着た君は随分と幼く観える」 それは褒め言葉なのか? 逡巡するも満悦の表情だ。きっと賞賛する言葉なのだろう。 「しかし……いいな。こんな衣装が着られるなら僕も立候補すれば佳かったな……」 「八代先輩なら似合います。すごくスタイルがいいし……」 「そ、そうかな……」 「ええ。朗読劇が終わったら私のを貸すわ」 申し出に顔を輝かせる。女性的な物やそういう事を好まないと思っていたのだが……。 「……意外だな」 「うん? 意外だなとは?」 「え、いや……。八代先輩は女性的な格好は余り好まないと思っていましたので」 「僕も少女だよ。綺麗な服に憧れたりはするさ。だが……そうだな。股下を考えると下着が拙いことになるかもしれないか……」 凝っとワンピースの裾の際を見詰められ流石にばつが悪くなってくる。と、 「そろそろ開演ですよ。準備はできていますか」 バスキア教諭に言われ、八代先輩は舌を出し慌てる。 「激励しにきたのに関係のない話題で話し込んでしまったね。そうだ。君たちに一つ佳い民間伝承を教えよう」 「観客をカボチャに見立てると緊張しな……」 「知ってるよ、それも定番だよっ」 前振りが効いていた所為か、上級生という事を忘れつい突っ込んでしまった。しかし、 「そうか。ふふ、緊張は解れたようだね」 にこりと快活な笑みを向けると、バスキア教諭に一礼し舞台袖から捌けていった。 「さぁ、用意は佳いかしら。緞帳が開いたら始まりますよ」 頷き、わたしは脇に立つアミティエの腿を叩くと、 「失望させるなよ、プロフェッショナル」 「貴女も私に佳いところを見せなさい。アマチュアなりにね」 言い、静かに緞帳が開く瞬間を待ったのだ……。 これはドラマリーディングに似ているわ、と朗読の稽古を初めてすぐに考崎はわたしに告げた。 演劇の舞台役者が台本を手に持ちながらごく簡単な演出で演じることを指すそうで、 役に沿った役者がそれぞれ付いて朗読を行うスタイルは、今の自分たちと置き換えると――確かにドラマリーディングに近いな、と思った。 本来朗読は一人で行うもの。 物語の中の老婆、若者、幼児、犬、時には仮想の生き物などを想像し一人で作り上げていくものだ。 だから視点の転換というものが重要になる。 これは、語り手の視点を多面から見たもので、登場人物を俯瞰として捉えるか我が事として語るか、 更には描き手である作者の言葉を意識して語らなくては為らないと教えられた。 たった二週間程の練習時間で……否、幾ら時間を貰ったところで、わたしには物語の中の人物に感情移入することはできないだろう。 究極の朗読とは作品の心情を我が事のように相手へと語り伝えるというものだと思う。 なら、わたしにとって、語るべき心情とは―― «髪長姫» それは遠い遠い昔のお話です。仲睦まじい夫婦がおりました。しかしその夫婦にはなかなか子供が授かりませんでした。 気の優しい夫は妻を気遣い、子が授かるように神に幾度も祈りました。何度も何度も。そしてとうとう妻に子が宿ったのです。 しかし年を為してできた子供ゆえか妻は何も口にできず弱っていったのです。 『何か食べたいものはないか。私が取ってきてあげよう』 『……いいの。そんなことをしたら貴方に災いが起きるわ』 夫の身を案じた妻はそのように答えました。妻は知っていたのです―― 妻が唯一口にしてもいいと思ったのは、魔女の庭に咲くラプンツェルでした。 ――会場がざわつく。 ラプンツェルは日本ではノヂシャと呼ばれ、妊婦が食べるとよいとされている野草だということを地の文で説明する。 そして、いよいよ弱った妻へ、人の良い夫が悪いと知りながらも魔女の庭へと盗みに入り、ひと掴みラプンツェルを盗み妻へと与える。 ラプンツェルだけは口にでき、元気を取り戻し始める妻。夫は妻のために幾度も忍び込むが、やがて―― 『お前が私の庭から野草を盗んでいるのを知っていたよ』 『妻のために仕方なかったのです……』 『妻のため? それなら盗みを働いても佳いと言うのかい?』 『お前の言い分も分かる。だが、全ての物には対価が必要だ』 『対価を支払えば、ラプンツェルを頂けるのですか?』 『そう。そうだよ。お前の身重の妻にラプンツェルを与える代わりに、私に産まれた赤子を頂戴な』 考崎の“魔女”が朗読されると劇場内の空気が一段冷え、そして衆目が惹きつけられた。 それはまさに考崎千鳥という少女の口を借りて出た、“魔女”そのものだったからだ。 彼女の口から吐かれる取引に身を乗り出し、観客は息を呑んだ。 そして春が過ぎ、夏を越え、秋が間近になってきた頃です。約束の赤子が生まれました。 『ああ、本当に待ち望んだ子だというのに』 『私の為にこの子を手放さなければいけないなんて』 『別れを惜しむ暇くらいは与えて遣っただろう。約束通り連れて行くよ』 悲しむ夫婦を尻目に魔女は赤子を連れて行く。$初めは只の対価の筈だった。 ――だが、共に月日を過ごしていく内に魔女も赤子、ラプンツェルと名付けた子供に気を許し始めていたと続く。 そして夫婦がいつか取り返しに来るのではないかと恐れた魔女は、ラプンツェルが十四歳の折に出入り口のない塔へと閉じ込めてしまう。 小さな窓以外閉ざされた生活。だが父母をしらないラプンツェルには魔女が父であり母。 何の不自由も感じず、病気に、外界の理不尽な暴力に恐れることもなく日々を過ごしていったと語る。 そして魔女が塔の中に入りたいときは、塔の下に立って、決まってこう叫ぶのだ。 『ラプンツェル、ラプンツェル! お前の美しい髪を下ろしておくれ!』 『はい。おばさま』 『お前の髪はとても美しい。きっと神に愛されているのだね』 『でも私は、おばさまのような黒く瑞々しい髪になりたかったわ』 父母に似た髪を思い、魔女はラプンツェルに真実を語ろうか悩む。 �おばさま�と呼ばせているのと同じく、このまま家族として育てて佳いのか迷っていたのだ。 ラプンツェルをこのまま塔の中に閉じ込めておきたい。だが、それはラプンツェルの為にならないのではないかと切なくも悩む姿が描かれた。 『私はどうしたらいいのだろう。こんなに悩むのなら、赤子など貰い受けるのではなかった』 『私は……おばさまの子ではないの?』 自分が魔女の子でないと偶然聞いてしまったラプンツェルの苦悩。 塔の中で守られているだけで佳いのか悩む姿が描かれる。 ――そう、葛藤の心は踏み出せなかった彼女の気持ちだ。 『誰だろう、あの美しい人は……』 そんなある日、若い王子が塔の近くを通りかかり、ラプンツェルを見初める。 王子はラプンツェルの元へ行こうとしたけれど、入り口のない塔には入れず、見初めたあの人に逢いたいという想いだけが募っていく。 『ラプンツェル、ラプンツェル! お前の美しい髪を下ろしておくれ!』 幾度も塔へとラプンツェルを見に行くうちに、魔女が塔の中に入る一部始終を見てしまい、魔女が去ったのを見て、王子は例の言葉を叫ぶ。 『ラプンツェル、ラプンツェル! お前の美しい髪を下ろしておくれ!』 『誰? 外の世界の怖ろしい人間なの?』 『いえ、私は貴女に危害など加えません。是非、私と友人と為って欲しいのです』 ラプンツェルは外の世界の恐ろしさを魔女から聞いていたため、初めは怖々と―― しかし、いつしか会いに来てくれる王子のことを、大切な人だと感じるように為っていったのです。 王子は来るたびに外の世界の愉快な出来事を伝え、ラプンツェルも外の世界に興味を持っていったのでした。 『ねぇラプンツェル、この塔から抜け出し外の世界へ行こう。二人で旅立てばどんなに愉快だろう』 『……駄目よ。おばさまを残していく事なんてできないわ』 『ラプンツェル……』 魔女は王子とラプンツェルが密通していることを知る。 初めは激怒し、大切な者を奪おうとする王子をどう懲らしめてやろう、裏切ったラプンツェルをどう痛めつけてやろうか、 そう身体を震わせる描写がされた。 しかし、 『……おばさまは私の家族なのだもの』 おばさまを残して出て行くことはできない。$�家族�だと言ってくれたことで、ずっと抱えていた〈蟠〉《わだかま》りは消え失せていったと続く。 『……その者がお前をたぶらかす者かい』 『貴女が魔女か。頼む、彼女を解き放ってほしい。彼女とともに在りたいのだ』 王子がラプンツェルをかばう姿をみて、魔女は何処へなりとも好きに出て行くがいいと、激情した振りをして二人を塔から追い出しました。 ――そしてラプンツェルから視点が変わり、塔の中で魔女が哀しみの涙を流したことが描写された。 涙は自分に向けたものではなく、長く塔に閉じ込めてしまったことへの悔恨の涙。 生みの親でない自分がこれほど悲しいのだから、赤子を失った夫婦は如何ほどかと、涙を流したことが描写された。 魔女の一人語りは切々と胸に迫り、聴衆の涙を誘った。 朗読しているわたしも胸に熱いものを感じる。そうだ。これはあのアミティエの―― そして泣き悲しむ魔女の耳に、ある声が聞こえてきたのです。 『ラプンツェル、ラプンツェル! お前の美しい髪を下ろしておくれ!』 魔女は何事かと窓から外を覗きました。そこには――輝く笑顔のラプンツェル、王子、そしてあの夫婦の姿があったのです。 『……何をしにきたのだい』 『おばさまを迎えにきました』 『私はこの塔から出ない。出てはいけないのだ』 拒絶を続ける魔女。 そう、この魔女は彼女の――白羽蘇芳のアミティエ。 凝り固まった自分というものを強く持ちすぎてしまった為、頑なになり誤った方向へ進んでしまった彼女。 『貴女が私たちを想い、追い出したのは分かっています。彼女の父母もほら、赦してくれると仰っています』 道を外したことはあるものの、赦し赦されることを識った王子は、もう一人のアミティエだろう。 『だから、ずっとずっと一緒にいましょう。だって私たちは家族なのですもの』 ずっと一緒に居たいと願うラプンツェルは――白羽蘇芳。彼女そのものだ。 かつて白羽が望んだ理想が、この朗読劇――ラプンツェル。 ――こうしてラプンツェルは王子と魔女と、父母とともに幸せに暮らしました。おしまい。 割れんばかりの拍手が会場を包む。 拍手の渦に身を委ね、わたしは白羽の思いを受け――胸が詰まり震えた。 忘れるほど昔のことでわたしは其れに気づかなかった。 「――使って」 ハンカチを手渡されるも、わたしには何のことだか気づけない。考崎はハンカチをわたしの手から奪う―― 「こんなにも泣き虫だったなんてね……」 頬に一筋流れた涙の滴をそっと拭ったのだ―― 「――地下劇場の奥に人影があったことに気づいた?」 朗読劇の興奮が胸から抜けず、まんじりともせずにしていたわたしの耳にそんな言葉が入ってきた。 眠るのを諦め、頭だけを隣のベッドへと向ける。 「やっぱりまだ起きていたのね」 「真夏だぞ。寝苦しいんだよ」 昂ぶりを暑さの所為にする。 「――で、人影だって?」 「ええ。観衆の奥の紗が付いていた小さな部屋があったでしょう。彼処に人影があったのよ」 「バスキア教諭だろ。朗読している時姿が見えなかったろうが」 「そうなのかしら。でも二つ人影があったのよね……」 まるで人が変わったような演技をしていた状態で佳くそんなのに気がついたな、と内心舌を巻く。 わたしはラプンツェル――白羽蘇芳に為りきって演じるのがやっとだったのに。 「それで――まだ感想を聞いていないんだけど」 「感想?」 「特等席で最高の演技を観たいと言っていたでしょう?」 確かに言った。$あの時は素直に吐露しようという心持ちになっていたからだ。 だが、今は……。 (いや……今だからこそ言えるのか) 部屋に灯りはなく、目が慣れた所為だろうか薄ぼんやりとした暗闇が身を包んでいる。 自分と世界の境界が曖昧な今の方が、素直に感想を言える気がした。 「流石プロだって思ったよ。自慢して佳い」 「――そう。貴女もなかなかだったわ。ちゃんと心情を観衆に伝えようとしていた」 (白羽を思って演じたって言うのは野暮天だろうな) 「ねぇ、どうして台本を見付けようって為った時、あれほどムキになったの」 「だからお前の演技が……」 「それだけじゃないでしょう?」 そう言われ逡巡した。 白羽の思いに気づいたこと。 そして、新しく筋の変わった台本を読んで、仲違いしたままの家族を追想したことを思い浮かべた。 ラプンツェルのテーマだ。 「……家族の詰まらない確執さ。ラプンツェルの台本を読んでつい昔を思った」 「家族……」 呟いたその一言に、奇妙な重みと哀しみを感じ、佳く見えないアミティエの顔を覗いた。 「……家族と別れるのは辛いわよね」 「いや、そんなことはない」 「嘘」 「本当さ。今はとても晴れ晴れとしてるよ。家に居た時より、ここ数ヶ月の学院での生活の方がずっと佳い」 「本当――?」 そう囁かれる声音に笑みを返した。$顔は見えないだろうが。 「わたしは――ずっと家族に縛られていたんだ。向こうもだけどね。やっと一人に為れた」 「貴女は……強いのね」 そうじゃない。$ラプンツェルの台本に白羽を、家族を想ったのは捨てきれないものがあるからだ。 こうなりたかった理想。 白羽は足掻くことに決め、わたしは後ろを見ないことに決めた。 「そろそろ寝よう。明日も早い」 「ええ」 沈黙が仄暗い部屋の中に横たわる。 目を閉じ、女々しい思いを断ち切ろうとすると、 「――お休み、えりか」 優しげな声音でアミティエはそう呟いた……。 グリム童話に�歌う骨�と呼ばれる一篇がある 危険な猪を退治した者は王女を嫁にやろうというお触れに―― 貧しい兄弟は猪退治を買って出、弟はとある出会いから黒い杖を手に入れ、不思議な杖で猪を退治してしまう 弟は喜び勇み猪を抱え城へ向かうが、途中で泥酔した兄と会い、猪を仕留めたことを知った兄は手柄を横取りするために弟を殺してしまった 弟の亡骸を橋のたもとに埋め城へと向かい、猪を退治した褒美として王女と結婚する 兄は何不自由なく暮らしていた。しかし羊飼いが橋のたもとで亡き弟の骨を見付け、笛を作ると笛は吹いてもいないのに唄を歌い出す ――貴方が吹く笛は私の骨。兄に殺されて埋められてしまった。兄は王女と結婚したかったから、と 羊飼いが王様へ骨の笛を届け、真実を知った王様に兄は処刑され、弟は懇ろに葬られ――お話は終わる この話を読んだ折に感じたのは、勧善懲悪としての分かり易い感想でなく、橋のたもとでさえずった骨の笛のことだった さえずっても信じて貰えなかったとしたら――ずっと弟の無念は残り、唄はどこへ消え失せてしまったのだろうか、と これから始まる物語は――歌を唄うことを忘れてしまった哀れな少女たちのお話 匂いを表現するのは難しい。 視覚なら見たままを、味覚なら苦みや甘みなど直接的なものとして、これ以上なく分かり易い伝え方もある。 だが、匂いは基本として比喩しか存在しない。 夏の匂いや、雨上がりの匂い、病院の廊下を指している消毒薬の匂いなど、明確な“そのものではない”比喩として匂いは伝えられる。 なら、此は―― 汗の匂いとしか表現できないのだろうか。 暦では立秋とやらを過ぎたが、八月の太陽は容赦なく振り注ぎレッスン室を蒸し風呂のように熱していた。 バレエのレッスンを終えたクラスメイト等は滴る汗をタオルで拭っていた。 しかし、拭う先から汗は噴き出し、まるきり運動していないわたしまで発熱し蒸されている気分になる。 (匂っていないよな……) 鼻先を自分の鎖骨へと近づけ嗅いでみる。 汗の匂いしかしない事にほっとするも、自分の体臭は分からないというものな、と独りごちた。 汗の匂いとしか表現できないレッスン室内だが、何処にでも例外というのはある。 「えりか。タオル、貰えるかしら」 熱の入った稽古を続け汗をびっしょりと掻いたアミティエ―― 考崎がわたしの持つタオルを奪うと首筋を、頬を拭った。 近づくことで汗の匂い、いや考崎自身が持つ白桃の薫りが鼻腔をくすぐった。 「ありがとう」 (汗ですら〈芳〉《かぐわ》しいってか。女として負けてる気がするな) 汗を拭ったタオルを渡され、尚更白桃の薫りがし、何となしに落ち込んでしまう。 「ぅぅ……暑いよぉ。クーラーくらい付けてくれてもいいのにぃ」 「……お水、お水を貰えますか」 這々の体で来る沙沙貴妹へ、脱水症状にならないように持ってきている(クラスメイト等全員持参しているのだが)水筒を渡した。 喉を鳴らして水を飲む妹を恨めしそうに見るも、姉はタオル貸してと、わたしが承諾する前にタオルを奪っていった。 「ふぅ……汗ダラダラだよぅ。ん? 何だかこのタオル佳い匂いがするね?」 「何だ、焼き肉の匂いでもするのか?」 「お昼前だからってそんなにお腹すいてないよぉ。これ桃の匂いがする。香水をつけとくなんてオシャレだね、えりかちゃん」 「前も言ったが、名前呼びはやめろ」 「ええ〜でも、考崎ちゃんは呼んでるじゃない」 ――そうなのだ。 朗読劇を過ぎてから、今までの“貴女”呼びから“えりか”と呼び捨てで呼び始めたのだ。 やめろ、と何度も言ったが暖簾に腕押し糠に釘といった具合で、戻す気はないようだった。 仕方なく、なし崩し的に了承してしまったのである。 「貴女もえりかと呼びたいの?」 「そうだよぉ、だって仲良しだって気がするしね」 分かっているのかいないのか、ふぅんと鼻に抜けるような返事をするだけ。$わたしは、 「そういえば明日から授業が増えるらしいな」 と、面倒なことになる気がして話題をすり替えることにした。 「……礼法と第二外国語でしたね。ご馳走様でした」 「全部飲みやがったな。しかし、礼法ねぇ……ま、花嫁修業の場としてこの学院に入学させる親も多いっていうから仕方ないのかもな」 「礼法かぁ……。正直、自信ないんだよねぇ」 「確かにダメそうだよな」 「そういうえりかちゃんだって苦手そうじゃん!」 「八重垣、だ。確かに和式での作法とか言われても正座もろくにできないしな」 足を叩き笑う。 「……此処では西洋式の礼法でしょう」 困ったような顔を見せる沙沙貴姉へ、考崎が代わりに答えた。 「このクラスでは花菱さんが得意そうね」 確かに、と白羽と話しながら汗を拭う委員長を皆で見遣ってしまう。 すると視線に気づき、 「何を悪巧みしているの」 と、白羽を連れ立ち微笑んで見せた。 「新しく増える授業のことを話してたんだ。憂鬱だよぅ」 「そうなの? わたしは楽しみだけどなぁ」 「……語学も礼儀作法も、どちらもりっちゃんさんは得意そうですしね」 「語学? 何をいって……」 「沙沙貴さんたちは新しく増える礼法と第二外国語の授業のことを言っているのよ。立花さんは選択授業のことを言っているのよね?」 そう――選択授業というやつも新しく増えるのだ。 この学院では体育はすべてバレエ。礼法や第二外国語は必須と決められているが―― 「ガーデニングと弦楽器、どちらかを選ぶというものだったわよね」 「そうだ。どっちか選べとか横暴だよな」 選ばせれば佳いというものではない。 選択肢があれば自由にできる権利がありそうだが、どちらも興味がない場合は選ばされるだけ苦痛である。 「そう? どちらも初めての経験ができて楽しみだわ。八重垣さんはどちらを専攻しようと思っているの?」 楽器関係なら考崎に教えて貰えそうだ ガーデニングなら白羽が得意だったか ――真面目に考えるなら、まぁ弦楽器の授業だろう。 ガーデニングをするのにこの足じゃ面倒だ。 「ま、弦楽器かな。それに音楽系ならアミティエが得意そうだし、手取り足取り教えて貰えそうだ」 「私に教えて貰いたいの?」 「ん? ま、そうだが……」 取る足がないでしょう、と振ってくると思ったわたしは肩すかしを食らってしまう。 「……えりかがそう言うなら教えてあげなくもないわよ」 「何か、お前丸くなったな……」 「馬鹿……!」 かっと頬を染め、わたしの手からタオルを奪い、唇を頬を隠す。 可笑しなことは言ってないだろうと白羽を見遣ると、何故だか幼児を見守る母親のような顔をしていた。 「何だってんだ……」 「きゃ……っ!?」 前髪をクシャクシャにすると、にやにやと笑う沙沙貴姉の尻を叩いたのだ。 正直音楽関係はボロが出る可能性がある。あまり参加したくないが……。 「そうだな、ガーデニングがいいか。白羽が得意だし教えて貰えそうだしな」 「え?」 「もう、やぁねぇ八重垣さん。蘇芳さんもまだ選択科目を決めてないわよ」 そういやそうか、と頷くわたし。 委員長は何か思いついたのか、おさげを揺らし何処か遠くを見遣る。 「蘇芳さんとガーデニングなんて素敵だわ……!一緒に土いじりをしたら、きっととても愉しいわ」 (……そういうことかよ) と考えていると、袖を引っ張られ、 「八重垣ちゃんはガーデニングにするのですか?」 「ん……。よくよく考えれば足のこともあるしな。もう少し考えてみるよ」 「……そうですか」 何やら考え込む沙沙貴妹の肩を軽く叩いたのだ。 「……これって仲良くなってきた証拠なのかね?」 「……わたしとしてはそう思います」 コソコソと話す沙沙貴姉妹を尻目に、アミティエの横顔を眺めた。 (ま、合わせた方が遣りやすいんだろうが……) ――と、何げなく生活スタイルをアミティエに合わせるように考えている自分に驚く。 明確な線引きをして相手と付き合っていたというのに。 「……どうにも拙い、な」 いつしか境界線を越えかけている書痴仲間とアミティエを見遣り、わたしは小さな溜息を吐いた。 そして件の礼法の授業が始まったのだが―― 「――ナプキンを膝に置くときにもタイミングがあります」 白羽が合格し、意気揚々と沙沙貴姉が真似をした途端、鋭い叱責が飛んだ。 「え、あの……。どこが……」 「これから私がディナーを共にする主とします、と言いましたね。ナプキンを膝の上に載せるのはオーダーが済んだ後、これは正しい」 安堵する沙沙貴姉へ、しかし――と珍しく険しい目でバスキア教諭は続けた。 「招待客は主がナプキンを広げてから後に広げなくてはなりません。沙沙貴さんは私を待たずに広げましたね?」 「は、はい……」 思った以上に厳しい指導に皆、真剣に耳を傾ける。 (聖書を諳んじる時よりも真剣だな。こういうバスキア教諭は珍しい……) 新しい一面に驚きつつも、ナプキンの広げ方を説明するのを聴く。 叱責されるのは気にしないが、間抜けだと思われるのは心外だ。 「途中退席をしたい時には、ナプキンの真ん中を持ち、三角形にして椅子の上に置きます」 「こうすることで食事中だと給仕に知らせる合図になるのです」 「ダリア先生。そもそも食事中は途中退席をしてはならないと聞きましたが……」 「それはフランス料理の時ですね。途中退席はマナー違反です。席を立つことができるのは、デザート後のお茶の時間だけです」 へぇ、と頷く。$国が違うだけでまた違う作法があるのだな、と面白く感じた。 「……御飯を頂くときはフォークの背に御飯をのせるのよね?」 「……あれはイギリス式のマナーで、『フォークの腹を絶対に上に向けない』という作法から、結果的に背に乗せざるを得ないってだけなんだぜ」 「……そうなの?」 「……パスタの食べ方も作法は様々だしな。イタリアじゃスプーンの助けをかりて食べると子供だとからかわれるしさ」 「……私たちはまだ子供じゃない」 「そういうことを言っているんじゃないんだよ」 考崎とやりあっていると――冷ややかな声がわたしにかけられた。 「――詳しいようですし、次は八重垣さんにやって貰おうかしら」 「いや、出来れば席順通りで……」 「はい?」 無言の圧力を感じつつ、我関せずを気取るアミティエの脇腹を小突き車椅子を繰る。 「……“サウスパーク”のケニーみたいだ」 「何です?」 運がない、と口の中で呟きつつ、死んだ目をしながら入れ替わる沙沙貴姉の肩を叩くと、テーブルへ付いたのだ……。 次いで、第二外国語の授業と為ったのだが―― (イタリア語かよ……) バチカンでは母国語のラテン語に代わり、イタリア語が多くなっているとは聞いてはいたが……。 宗教学院とはいえ、こっちを選択したかったなと思う。 医者を目指すならドイツ語だとか、芸術家を目指すならフランス語とか習いたい言語もあるだろうに。 「さぁ、自己紹介文は書けたかしら?」 教材に書かれてあるのを応用すればいいだけなのだから、できてはいるだろうが……。 「……よりによって考崎かよ」 英語の授業でも好きではあるが得意ではない考崎が真っ先に当てられ、思わず祈ってやりたい気分に為った。 「Mi chiamo……」 たどたどしく名乗る考崎。$何とか自分の名を言い終わると何処かしら誇らしげな顔つきに変わる。 「では、貴女の生まれはどこでしょうか?」 間髪入れずに訊ねられ固まってしまう。元々出身地を言う型の自己紹介文ではなかったのだろう。 沈黙が続きながらも、教科書に顔を近づけ、ようやく声に出す。 が、生まれを意味する“Sono di”――ソノディと発音するところを、ソルトと言いクラスメイト等の忍び笑いが起きた。 しかし、 ソルト、塩と聞いた途端、塩をふり掛け甘みが増したとうもろこしを連想し腹が鳴ってしまった。 (まいったな……) 腹をさすりつつ、沙沙貴姉が疑いを掛けられ赤面しぶんぶんと手を振るのを見ながら、昼食を待ちわびた……。 「ん……むっ、はぁ……ようやく落ち着いたぜ」 待ちに待った昼食の時間、夏野菜をふんだんに使ったキーマカレーを食べながら独りごちる。 夏場はさっぱりした料理を食べたくなるが、カレーだけは別だ。食欲がなくても食べてしまえる料理の代表だ。 キーマカレーと言えば挽肉が肝だが、ナスをふんだんに使ったこのキーマカレーは料理人によるオリジナルなのか、 にんにくと生姜がオイスターソースの香りに隠れ、隠し味としてひと味加えられていた。 「後は、半熟の目玉焼きが乗ってりゃ最高だったんだが……」 味を乱したくなかったのだろう。マイルドには為るが元々の風味を隠してしまう。 ナスとトマトが多いルーをスプーンですくい白米と一緒にかき込んだ。 口の中に広がる至福。スパイスの風味だけでなくトマトの酸味がまた絶妙だ。 「む……っ、ん……おい、食事中だぞ、ノートを取るのはやめろ」 相変わらずのサラダを前に、考崎は自分ノートに何かを書き込んでいる。 首を伸ばし盗み見てみると、 「……英語は佳くてもイタリア語はダメか」 「ダメね。好きに為れないわ」 珍しく疲れた顔つきを見せ、言う。$書き終えたノートを自分の机の上に投げ置く考崎へ、 「元気そうだな」 と言った。 「えりかの目はふし穴なの……。ああ、そうね。今のはいつもの軽口か……」 「本当に苦手みたいだな。でも語学ってくくりなら英語もイタリア語もそう変わらないだろ?」 「そう? 私にはイタリア語の方が難しく感じるわ。特に発音が難しい……」 「お前、おかしな巻き舌になってたものな」 「…………」 言い返す気力もないのかサラダを詰まらなそうに食べる。レタスをまるで苦悩を食べるが如くに。 「明日は選択授業が始まる。もっと面倒事が増えるな」 「ガーデニングと弦楽器でしょう。そっちの方が全然佳い」 余程イタリアと気が合わないのだろう、気楽に言う。 「それで、えりかはどちらを選ぶの。ああ……私に気を遣う必要はないわ」 「承知しているよ。そうだな、わたしは……」 悩みつつ、カレーを一口。 ――ダメだ。悩みながら食べたらそれは食事ではなく、只の栄養摂取になってしまう。 片手間に何かをしながら食事を取るのは冒涜だ。栄養を取るだけの詰まらない行為。 わたしはスプーンを置き、きっぱりと告げる。 「お前と一緒の教科にするよ」 「何故私と一緒の教科にしたの」 不思議そうな顔をして訊ねる考崎へわたしは、 「……捻くれているからだよ」 と答えた。 「それは魅力的な理由ね」 一転、納得のいった表情で頷く考崎へ、人差し指を唇にあて弦楽器――ヴァイオリンの説明を続けるバスキア教諭を指した。 「……礼法の授業みたいに為るのはご免だ。だろう?」 そう、 天の邪鬼なわたしが決めたのはガーデニングではなく弦楽器の選択授業だった。 沙沙貴姉妹、委員長、書痴仲間と皆ガーデニングを選び、再三再四誘われたのだが、強く請われると抗いたくなるのが人の常である。 わたしはアミティエとともに弦楽器の授業を受けると決め、バスキア教諭からヴァイオリンの教えを受けることにしたのだ。 「……ガーデニングの授業は〈方喰〉《かたばみ》さんが行うそうよ」 「……寮長か。そういやバスキア教諭とダリアの花の品種改良を手伝っているとか言ってたものな」 以前自分が聞き出した話だが、たった二ヶ月程しか経っていないというのに随分前の話のような気がする。 感慨に耽っていると―― 「――それでは、此処の部位はなんと言ったかしら、八重垣さん」 いきなり指名され、 「ええと……ですね」 「もしかして聞いていなかったのかしら?」 首を横に振るも――アゴアテよと耳打ちされ、罠じゃないだろうなと思いつつも考崎の言葉に従った。 「はい。そうです。あご当ては付け替えることができます。これは木製のものですが、木製でも形状や色艶――」 「アレルギー対策などで樹脂製のものなどもあります。自分に合ったものを付け替えてくださいね」 説明を続けるバスキア教諭から目を逸らさず、隣に座るアミティエへ感謝を伝える。 「……別に素直に分からないと言っても怒らないと思うわよ」 「……話を聞いてないとなったら悲しむだろうが」 「……怒られるのが嫌なのではないの?」 この性格だ、叱責されるのは馴れている。$だが悲しまれるのは嫌だ。 「……もしかしてバスキア教諭が目当てで……」 「……何だよ。どうした」 「……何でもないわ。でも、ヴァイオリンもそうだけれど、譜面も読めないのでしょう」 「そうだがどうした」 と返すと、切れ長の目で一瞥し、 「……音楽に全く興味がなかったのね」 と、言い捨てられた。わたしは―― 全く興味ないね 少しはあるが…… 「……仕方ないだろ。人には向き不向きがあるんだよ」 「……でも、譜面も読めないなんて。私からすれば驚きよ」 どうも考崎家は音楽への造詣が深かったらしい。だがそれが普通だと思うなよ。 「……興味がない事なんてそんなもんだろ。全く知識がない事なんておかしくない」 「……そうかしら」 「……それじゃ、卓球の世界王者の名前知ってるか?」 黙り込む。沈黙が答えという奴だ。 「……な? 興味がないことなんて基本覚えてないものなんだよ」 「……少しはあるっちゃあるが」 「そうなの?」 「……声が大きい。抑えろ」 頷き――弦の呼び方、低い音がでる方からG線、D線、A線、E線と呼ぶのだと説明するバスキア教諭を盗み見た。 「このG線、一番太い弦ですね。このG線だけで弾かれる曲――G線上のアリアは有名ですねぇ」 小咄を交えながら弦の呼び方を教えるバスキア教諭の話を聞いていると、譜面が読めなくても問題ない音楽といったら――と隣で考崎が呟き、 「……もしかして、唄を歌うのが好きとか」 と言った。$動揺を隠し鼻で笑い違うと示す。 しかし考崎はわたしの唇を凝っと見詰め、 「……お、おい」 あごに指を掛け、口づけをするかのように顔を上に向けさせた。 「……じ、授業中だぞ」 「……こうして、やや上を向いて歌うと喉の開きが佳くなるの」 「……はぁ?」 「……今度やってみると佳いわ」 「……だから勘違いだと言っただろ」 素気なくアミティエの手を払うと、赤くなりそうな自分を落ち着けるため空咳をした。 授業は進み―― 「ようやく構えるところ迄きたはいいが――」 弓を持ち、少し弾いてみたわたしはげんなりとした気分に為り言う。 「そもそも音が全然出ないってのはどうなんだ」 自分でも強張っていると分かる表情筋を歪め恨み節を言うわたしへ、考崎は何故か弓をまじまじと見詰めると、 「……此は新品の弓なのね。松脂を塗ってないのだから幾らひいても音は出ないわよ」 「わたしのセンスの無さからじゃないのか」 「使い込んでいるものでも、三十分弾くごとに二、三回擦ってつけるのよ。私のを使ってみなさい」 言い、 自分の弓を持ってくると、わたしへと手渡した。 「さぁ。もう一度」 「……お前が最初にやってもいいんだぞ」 「私は基本は押さえているわ。さぁ」 言われ、考崎の弓を手に再度ヴァイオリンを構える。 「そう、あごと鎖骨で挟み込むように。まっすぐ前を見ながらそのまま」 「結構、この体勢辛いんだが……」 「先ずは正しいフォームを覚えなければ為らないの。ゴルフや野球でもそうでしょう」 「お前にわたしの愛するベースボールで説教を受けるとは思わなかったよ」 軽口を叩くも考崎は歯牙にも掛けず、構えているわたしを注視する。 「肩当て無しでも大丈夫そうね」 「さっき言っていたやつか。……なくても平気なのか?」 「単に体形として必要かどうかなのよ。必ず必要という訳ではないわ。肩当てなしの方が鎖骨に響いて佳いという人もいるし」 「隠された意外な才能ってやつかね」 「今の構えを覚えておけば佳い。その構えを体にしみ込ませれば、手を離してもあごと肩で挟んでいるからヴァイオリンは落ちないわ」 何と無しにだがヴァイオリンに安価な物はないと聞いていたわたしは頷くも、手を離す真似はしなかった。 「ちょっと」 余計なことを考えていたのが悪かったのか、構えが乱れると考崎が身を乗り出し、わたしの手を取る。 「お、おい……」 「下がっているわ。きちんとあごと、此処――」 「やめろ、変なところに触るな……!」 「何を言っているの? 鎖骨に当てて挟むようにして」 指導だと分かってはいるが、首元に考崎の指が当たり妙な気分に為る。 近づくことで体温を感じ、白桃の薫りが香る。 (胸も迫ってきてるしな……) 意識しないように考えようとするも、一度意識するとクラス一だと言う胸に視線がいってしまう。 羨ましい気持ちと、触れてみたいような―― 「ちょっと、話聞いているの?」 「え、ぁ……」 気が逸れていたわたしは空咳をして立て直す。 「な、何であごと肩でヴァイオリンを挟まなきゃならないんだ? 別に弾くだけならどんな姿勢でも構わないんじゃないの?」 「この姿勢――構えで重要なのは左手のネック、分かるわね? ネックを自在に移動させ小指まで動かして弦を押さえないといけないの」 「つまり左手の自由度が演奏の要となるから、その姿勢でなければ為らないのよ」 適当に訊ねた質問に意外な意味があったことに、へぇと頷いて見せると、 「あごを下げない」 と、すかさず指摘される。 「首を傾げすぎてもヴァイオリンの響きを邪魔してしまう。きちんとあごと鎖骨の二つの支点だけで押さえるのを覚えて」 「分かったよ……」 思わず、うへぇと舌を出したい気分になるも――何故だか嫌な気分ではない。 こいつに教えて貰うなんざ、少し前なら絶対ご免だった筈なのに。 「……ま、そんなに悪いやつじゃないしな」 「何?」 「いや、すぐに試験だってさ。無茶言うよな」 「ゴセック作曲のガボットでしょ。完璧に弾けって訳でなし、きちんと学べば大丈夫よ」 「そもそも曲名すら聴いたことないって話だぜ」 「ヴァイオリンでは有名な曲だから、耳にしたことがあると思うわ」 本当かよ、と言うも“白フクロウのヘドウィグ”の件を思い出し、そういう事もあるかもなと考え直した。 「互いに互いのヴァイオリンの持ち方を確認し合いましたか? それでは次は実際に音を出してみましょう」 バスキア教諭の声が響き、今度こそ弾けると少しだけ高揚しながら、弓を握り直したのだ……。 馴れない授業を幾つも受けた所為か、ついうとうとしてしまうも―― 足を洗う手が止まり、違和感に目を覚ました。 「あの……」 「……ぁ、ごめんなさいね。つい考え事をしてしまって」 一生懸命世話をしてくれているのに眠りそうになった手前何とも言えない。 (そういえば、考崎が風呂の介助もしてやろうかとか言っていたな……) 同級生に肌を晒す気恥ずかしさで切って捨てたが、忙しいバスキア教諭の手を煩わすのも考えものだ。 「あの」 かぶってしまい面映ゆい思いをしてしまう。 眉を曇らせたバスキア教諭は、わたしが口を開くよりも早く、告げ口するようで気が重いのだけど――と前置きし、 「白羽さんから何か聴いていないかしら」 と尋ねてきた。 的を射ていない言葉に首を傾げると、小さく嘆息し続ける。 「白羽さんから匂坂さんの事を聞かれたの」 「――匂坂のことですか」 「ええ、八重垣さんは、白羽さんと仲が佳いでしょう」 匂坂が学院を辞めた理由を探れと、けしかけたのはわたしだ。なら、 知りませんね 聞いてもおかしくないでしょう 間髪入れず、匂坂が辞めたことに納得がいってないのは当然でしょうと言おうと思うも、 「……聞いてませんね」 と、隠すことにした。 「そう、なの?」 「ええ。白羽がバスキア教諭の元に、訊ねに行ったのですか?」 「そうなの。どうして急に学院を去ることになったのかって。お家の事情か、それとも――」 刹那、酷く苦しそうな表情をする。 「……交際の所為かと訊ねたんですね」 「……ええ。でも、それは……」 歯切れの悪い言いざまに違和感を持つも、 (この態度からすると、釘を刺すくらいはしたんだな) と思った。 「別に……訊ねてもおかしくないでしょう」 「え?」 「あれだけ仲が良かったんだ。急に辞めたら理由を知りたくなるのは当然だと思いますけどね」 そうね――と呟き目を伏せた。思っていた以上に冷たい言いざまになってしまった事に慌てる。 「あ、いや、バスキア教諭が悪いって話ではないです。只、訊ねるのは当たり前だと……」 「そう、そうね。でも、何故今なのかしら……」 彼女の呟きにどきりとする。$わたしが唆したと耳にしたらどんな顔をするだろうか。 逡巡が態度に出ていたのだろう、バスキア教諭は謝ると、体を洗う手を再開する。 「こんなこと生徒に打ち明けるなんていけないわよね。八重垣さんとは一番お話し易いから……」 「そ、そうなんですか。委員長とかの方が……」 「ふふ、生徒を比べてしまうなんてダメね。聞かなかったことにして」 人好きのする笑顔をむける彼女へ、胸の奥が何かに掴まれたように苦しくなる。 (何だってんだ……!) “特別” そう言われて嬉しがるなんて、と篭もった熱をはき出すため長い溜息を吐いた。 「こんなことを頼むのはおかしいかもしれないけれど……」 真摯な訴える瞳に抗えずに先を促した。 「白羽さんのこと少し気に掛けておいて貰えないかしら?」 前を向かせる為に、匂坂の件を調べろと唆したのはわたしだ。 「注意してみますよ……」 進捗具合を確かめるのも悪くないと、バスキア教諭の頼みを引き受けたのである……。 「――礼法というものは恥をかくのを防ぐ為に覚えるのではありません。相手にたいして敬意を払えているかどうかなのです」 幾度も失敗し落ち込む沙沙貴姉へ諭し、緊張を持って訓諭に耳を傾けるわたしたちへと続ける。 「このような堅苦しい作法など、どうでも佳いと考えているのかもしれません」 「ですが、礼儀を弁えることにより貴女方、ひいてはご家族の名誉を守ることになるのです」 家族についての高説はわたしにとって何の意味も持たないが、他のクラスメイト―― とりわけ間違いを繰り返している沙沙貴姉には耳が痛い訓話だったのだろう、身を縮め拝聴していた。 「ではもう一度初めから。席に着くところから始めますよ」 再び指名され、沙沙貴姉は分かり易いほどに緊張してみせた。 (助け船の一つも出してやるかね) いや、余計なお世話か 恩を売っておくのも悪くない しょげかえる沙沙貴姉に代わりにやってやろうとも思ったが……。 (余計なお世話か……) いつもと比べると厳しいきらいがあるが、別段無体な理由で窘めているのではない。 「さぁ、では座る際に注意する点はどこだと説明しましたか?」 「は、はい。ええと……」 緊張している所為か、分かるものも分からないのだろう。 勉強かと見送った自分に少しの罪悪感を受けた。いや……。 「何だってわたしが罪の意識なんざ……」 「お静かに願いますね」 叱責を受け、らしくない自分を問うのは次回に持ち越したのである……。 恩を売っておくのも悪くない、と判断したわたしは手を挙げた。 「どうしました八重垣さん」 「手順を見て大体覚えたと思うので、一度、直にやってみて確かめたいのですが」 バスキア教諭は黄金色の目を細め、指名していた沙沙貴姉を一瞥するも、 「そうですね。では席に着くところから始めてください」 珍しさの方が勝ったのかそう告げた。 持久走を終えたていで、此方へ戻ってくる沙沙貴姉は、力なく微笑むと、 「……ありがとう八重垣ちゃん」 「……こいつは貸しだからな」 言うとバスキア教諭からは見えないようにわたしの脇腹に触れた。親愛の情なのだろう。 (座るときは腰を深くかけ、食卓との間を握りこぶし一つ程度あけるのが適当……だったか) 心の〈裡〉《うち》で復唱しながら、車椅子を繰った。 落ち込んでいるのは沙沙貴姉だけじゃない。 「発音ですが、サシスセソの“シ”は“〈Si〉《エスアイ》”でなく――“〈Sci〉《スィ》”と発音してください」 と、自らの口元を指した。 「は、はい……」 表情が変わらないように見えるも、衣食住を共にしてきたわたしには疲れ切っていることが分かる。 趣味を自分の益になるために学ぶことと言い切った考崎的には、語学の習得は苦手だから辞めるとは言えない。 苦手ではあっても真っ向から取り組んでいる。それが故の労苦なのだ。 「……苦手なものは苦手だって避ければいいのによ」 「――では先ほど教えました、子音が2つ重なる促音便の例を――考崎さん」 「それは、確か……」 苛立っている目で逡巡し、周りのクラスメイト等から怯えられる。$ただ目を細め考えているだけなのだが。 〈モッツァレラ〉《“Mozzarella”》や、〈スパゲッティ〉《“Spaghetti”》の“zz”や“tt”など、重なる例なんぞ幾らでもあるだろうが――そう思うも、 「……分かりません」 苦渋に充ちた顔つきで零したのだった……。 「珍しいわね」 と驚かれ、 「そう言われるのは委員長で三度目だよ」 醤油パスタを食べながら首をすくめた。 昼前の第二外国語の授業で疲弊したアミティエへ、昼食を持ってこいとは言いづらく、 アミティエと連れだってダイニングホールへとやってきたのだ。 「何だか随分と疲れているみたいだけど……」 「えりかの喩え癖で言うなら、今の私はプルトニウムを積んでいないデロリアンだってこと」 「えっ?」 「すっからかんって事だよ」 そう代わりに答える。 バターを絡めてある醤油パスタは実に美味いのだが……。 (物憂げな顔が真ん前にあると、味もしなくなるな……) 内心愚痴ってしまう。 「第二外国語よね……。わたしも正直あまり得意じゃないのよね……」 「珍しいな。委員長が勉強関連を苦手だって言うの初めて聞いたぜ」 「語学ってセンスが問われる気がするのよね。英語はまだ何とかなるんだけど……」 「……私も」 頷いた考崎へ思わず問いただしたくなる。$英語も五十歩百歩だろうと。 「そうだわ。八重垣さん語学が堪能みたいだし、わたしと考崎さんへ教えるっていうのはどうかしら」 「佳いことを思いついた的に言われてもな。ま、」 覇気なくサラダを食べる考崎を見遣り続けた。 「教えるのは構わない。こいつには弦楽器の授業で世話になっているからな」 「……いいの?」 何故だか驚く考崎。 「構わないよ。放課後、暇なときにでも相手してやるよ」 「そう……。ありがとう」 下を向きフォークを咥えるアミティエにやや戸惑う。 素直に返されるとどうにも違和感がある。 「わぁ、いいなぁ! ねぇ、八重垣さん、わたしも……」 「委員長は白羽に教わればいいだろう」 と、素気なく断った。 そう、白羽といえば―― ――バスキア教諭に気にかけて貰えないかと頼まれた手前、 様子を窺ってみるかと思っていたのは確かだ。 だが、 (この時間から外出か……) 料理部の活動がないため早く寄宿舎へと戻っていた白羽だが、他の部も終わりそろそろ外出して佳い時間ではなくなる頃合いに出て行った。 (これでトイレってだけなら笑えるだけだが……) どうやら笑える方向には話は進まないらしい。 白羽はまっすぐ寄宿舎を抜け出し、 学舎へと続く森の小道へと進んでいった。 (こりゃ薬が効きすぎたのかね) 白羽の背を眺めていると“匂坂が消えた理由を調べろ”とわたしが告げた言葉を思い出した。 元々小心者の書痴仲間が、逢魔が時に学舎へ向かう理由なんざ―― 小心者がゆえ勘が鋭いらしい。 暫し立ち止まり、辺りを睥睨している雰囲気が伝わってくる。 ようやく諦めたのか足音が遠ざかっていく。 「……つけていくのは無理か」 一度目は気の所為で流しても二度目は見逃しはしないだろう。 尾行するのが無理なら―― 先回りしておけば佳い――そう考えた翌日の同じ時間。 考崎の唄か…… 唄が聞こえるが今は無視だ 耳朶に、意識しなければ聞き逃してしまうほどの歌声が聞こえた。 「……考崎の唄か」 いつもは朝方唄うことが多いが、今日に限って夕闇も迫るこの時間に練習していたらしい。 「佳い唄だが……」 今はこっちである。 窓から書痴仲間の部屋を遠見する。 先回りすれば佳いとは思ったものの、先んじすぎて――学舎脇で待ち構えて誰も来ないでは笑い話にもならない。 だから、昨日と同じ時間、部屋を出てくるか外で待っていたのだが……。 「……どうしたの、こんな場所で」 声で分かる。面倒な相手に気づかれてしまった。 「夕涼みだよ、外にいたら悪いか」 「別にかまわないけど……」 自分の“唄”を聞いていたのか気になるのだろう。 どこか気恥ずかしいような怒っているかのような表情を向ける。 「そろそろ肌寒くなってきた。部屋に戻った方がいい」 「寒くないけど……。えりかは戻らないの?」 「わたしはもう少し夕涼みしていくよ」 「肌寒くなってきたのに?」 面倒臭いやつだと鼻白むも、考崎は頬を一つ掻くと、照れたように言った。 「約束の第二外国語の勉強だけど、これから教えて貰うのはダメかしら……」 約束? と思わず声に出しかけるも、アミティエの請う瞳に言葉を飲む。 「悪いがそいつは後にしてくれないか。ちょいと用事が詰まっていてね」 「……昨日もそう言って後回しにしたでしょう」 「そうだったか?」 苛立った目を向ける考崎だが、視界の端に望むもの、白羽が廊下に出てきたのを見付け―― 「話は後だ。それじゃ、な」 「ちょっと話は終わってないわよ。えりか!」 声を後ろに、急ぎ車椅子を繰ったのである。 耳朶に、早朝に佳く聞く歌声が聞こえ、つい笑みをこぼしてしまう。が、 「……今は相手をしてる暇はないな」 今日に限って逢魔が時が迫る時間に練習していたアミティエの歌声を意識して遮断し、寄宿舎の窓を望む。 「そろそろ頃合いだが……」 外から書痴仲間の部屋の窓を注視する。 先回りすれば佳いとは昨日考えたものの、先んじすぎて――学舎脇で待ち構えて誰も来ないでは馬鹿のやることだ。 昨日と同じ頃合いに、部屋を出てくるかこうして寄宿舎脇で待ち構えていたのだが……。 背後から足音が聞こえ―― 「……何をしているの」 と、意識から外していた声の主に見付かってしまった。 「カブトムシを探してたんだよ。悪いか」 「……共同生活だという事を考えて。私は虫はあまり好まないの」 虫嫌いと告げる考崎の言葉に白羽を思う。 こいつと話している場合じゃないんだが……。 「そうか。見付からなくて諦めていた所だから重畳だよ。そろそろ戻った方がいい。食事の時間だ」 「まだ夕食には大分あるでしょう。何か怪しいわね……」 「何も怪しい事なんてないだろ。ヴァイオリンの練習で腹が減っているんだよ」 「苦戦しているものね」 と愉しげに笑う。厭味な奴め。 ――と、 「そ、その……約束の第二外国語の勉強だけど、時間が空いているなら今から教えて貰えないかしら」 照れた素振りでそう続けた。 「約束? そんなことしてたか?」 「えりか、貴女……」 「冗談だよ」 「そういうところもあの子に……」 「お……っ」 白羽が廊下に出てきたのが視界の端に入り―― 「愚痴は後で聞いてやるよ。じゃ」 先回りする時間がなくなると、背後で喚く考崎を無視し、急ぎ車椅子を繰ったのである。 学舎の脇にて待ち構えていたわたしは、歩み来た白羽を望み、充分距離を取りながら跡をつけた。 廊下を行く書痴仲間を学舎の外から眺め、 教職員室へ向かう白羽を見送った。 「……成る程ね」 匂坂が自主退学した理由をバスキア教諭に聞いたものの、得心のいく答えが返ってはこなかったのだろう。 だからこその実力行使だ。 「真面目なやつほど思い詰めると怖いって知っていたが……」 教職員室へ、自主退学理由が記された書類を探しに行ったのだと推察すると――途端に儚くなった。 愚かな真似をしてでも逢いたいと思える人がいる事に、酷く羨ましい気持ちと、そして胸を鬱ぐような暴威を感じた。 大きく息を吸い、感情をはき出すように長く息を吐く。 幾分冷めた頭になると、いつもの自分に戻っていることを確認し、寄宿舎へと戻ることにしたのだ……。 来た道を辿り戻ると、茜色の空に視線を飛ばした。 高く、大きな入道雲を見上げる。 大きすぎて目がくらむ。スケール感が掴めない。儚い気持ちを抱えていたわたしは、家族を、次女を思い出し―― 「八重垣さん」 だからだろうか、白羽の声が背に届いても驚きはしなかった。 視線は茜色の雲から白羽の手に向かうも、 (証拠を残すような真似はしないか) と、何も持たない彼女の手を視て、心の裡で思った。 「こんなに遅くにどうしたの?」 「ちょいと散歩だよ。お前もどうした? うさぎのご機嫌伺いか」 「学舎に用があったのよ」 そう正直に返され動揺してしまう。$いや、 (白羽が嘘を吐くのなんて想像できないものな……) 苦笑いするわたしへ、楚々と小首を傾げた。 「……考崎もお前と同じくらいに分かり易いと有り難いんだけどな」 「考崎さん? 彼女と何かあったの?」 「第二外国語……あいつ苦手だろ? だから教えてやる約束をしてたんだが、ある事で……」 白羽を見、 「二度ほど反故にしたら睨みやがってさ。試験だってまだ先だろうに。別段、急ぐこともないってのにな」 「そういうこと……」 「何がそういうことなんだよ」 そう訊ねると白羽は茜色の中、柔らかに微笑んだ。 「考崎さんはね。拗ねているのよ」 「拗ねる? 何に対してだ。約束を破ったことにか?」 「それもあるだろうけど、勉強を教えて貰えないという事が原因じゃないわ。八重垣さんと一緒に過ごす事ができなかった所為よ」 「そんな少女みたいな理由で……」 と、口にするも年齢を考えたら順当なのか、と思い直す。$だが、 「反抗期まっさかりのガキじゃないんだぞ……」 「きっと――仲の佳いお友達と遊ぶ約束をしていたのに、その友達は約束に重きを置いてくれていなかったという事に拗ねているのよ」 あの考崎が? と、苛立つことに苛立った目を持ったアミティエを思い浮かべる。 「ちゃんと約束は守ってあげないと。お友達でしょう」 お友達、という単語に鼻白む。 「わたしの友人は――本だけだよ」 そう答えるも、考崎がわたし自身をどう思っているのか、茜色に染まる入道雲を眺め、ほんの少しだけ気に掛かったのだ……。 「白羽さんと一緒にいたの?」 と冷えた声音が問うた。 勉強机に座り教科書を広げたまま此方を一顧せず言う考崎の背は苛立っているように見えた。 ──何となしの気まずさから白羽と話し終わってからも、茜色から葡萄色に染まっていく空を暫し眺めてから部屋に戻ったのだが……。 「密会してするお喋りは随分と愉しいのでしょうね」 邪推し、さらに冷えた声音に本当に拗ねた所為かよ、と書痴仲間へ問い質したくなる。 「ちょいと図書室へ本を借りに行ってただけさ。お前は試験勉強中ってか?」 「誰かさんが教えてくれないから一人でね。図書室に行ったにしては本、借りてきてないじゃない」 「借りようとした本が貸し出し中だったのさ。何だよ、そんなに教えてほしかったのか」 広げているノートを見遣る。どうやら書き取りをしているようだ。 「書き取りならわたしが教える必要はなさそうだな」 ノートを取り上げ笑うわたしへ、無表情で取り返すと、 「……発音を教えて欲しいのよ」 と、下を向きゴニョゴニョと唱えた。 「うん?」 何を言ったのか一瞬分からず問い返すも、 「もう佳いわ」 素っ気なく答えられる。 「面倒なやつだな。お前は……」 自分のノートを貸してやる 腹を割って話そう 白羽の言う通り拗ねている――いや、意固地に為っているように思えたわたしはクシャクシャの頭を掻くと、 自分の机へ向かい第二外国語の授業で使っているノートを取り出す。 「教科書をやみくもに写していても仕方ないだろ。出題しそうな場所を抜き出しといたから参考にしろよ」 ノートを勉強机の上に投げ出すと、考崎は凝っとそれを見詰め、 「……いらないわ」 と、突き返してきた。 「何だよ。試験勉強の対策だろ」 「……えりかが教えてくれないなら、意味なんてないわ」 俯きボソボソと呟かれる言葉はこちらに届かない。 拗ねる云々を語った白羽の言葉が浮かび、わたしは考崎の対面へと座った。 「分かった、腹を割って話そう」 「は? 何を言ってるの」 「何か思うところがあるんだろ。話してみろよ」 「あのね……」 「そうだ。話しづらいなら委員長から紅茶セットを借りてくるとしようか。ロシアンティ―でも淹れてやるよ」 「ちょっと……」 「あとはそうだな、カントリーミュージックでもかけて……」 「分かったわ。えりかは茶化してるのね」 苛立つ目で睨むも……今や呆れているだけだと分かっているわたしは、ようやく気づいたかと笑った。 「……相手にしているのが、ばかばかしくなるわね」 口調は険しいものの、笑みが零れているのを視て、こちらも猫の笑みを浮かべたのだ。 「それじゃわたしもヴァイオリンの試験勉強をしましょうかね」 貸し出されているヴァイオリンを取り出し、考崎に教わった通りの構えを取る。 「……ちょっと、集中できないでしょ」 「BGM代わりだよ。耳に優しい音楽が流れていた方がお前もやりやすいだろ?」 「環境のことを考えてくれるなら、ベッドから床にこぼれ落ちている本を何とかして」 「神経質なやつだな。不潔で死んだやつはいないぞ」 「私が埃アレルギーだったらどうするの」 ぴしゃりと言い放たれ、ヴァイオリンを机の上に置いて渋々ベッドへと向かった。 「……白羽の推理も外れる事があるんだな」 溜息を吐くと、諦めて私物の本の整理を始めたのだ……。 頭痛の種だった各種試験を終え―― 晴れてお茶会に臨むことができた。 試験が終わったら皆でお茶会を開きましょう、とは委員長の言葉だが、そこへ“無事に”と暗に枕詞が付いていたのは想像に難くない。 基本的に試験をパスしなければ、合格できるまで安息日に無制限の補習が続く。 流石に落ち込んだ雰囲気のままでは、お茶会に来る気分にも為れないだろう。 だからこその無事に、なのだ。 「何とかヴァイオリンの試験パスできたみたいですね」 「まぁな。正直、課題曲のガボットを弾くのは相当苦労したぜ。ま、モドキだけどな」 「ガボット……聴いたことない曲ですね」 「ゴセック作曲のヴァイオリン曲なんだが、多分聞いたらああ、って分かると思う」 「ですか」 そうわたしに教えたアミティエを観た。 (詰まらなそうにしてやがるな) 独り、皆とは少し外れた場所でティーカップを傾けている。 基本、お茶会には参加しないやつなのに珍しいなと思っていると、肩を落とし疲れ切った顔つきの沙沙貴姉がわたしにしな垂れかかってきた。 「ぅぅ……! 八重垣ちゃぁん……!」 「おい、気安いぞ」 「ようやく礼法の試験に合格したわたしを〈労〉《ねぎら》ってよぅ! ずぅっと繰り返し繰り返しダメ出しされて泣きそうだったんだもん!」 「ま、確かにあれは同情するがね」 礼法と弦楽器は一発勝負ではなく、幾度かやり直しが利く試験だった。 リスタートが可能だったとはいえ……。 「大昔のゲームソフトみたいだったものな」 と、力なく呟いてしまう。 「どういうことです?」 「終わりがないってことさ。わたしも大分やり直しをさせられたからな……」 バスキア教諭の前でつっかえながらもガボットを披露した事を思い出し小さく溜息を吐いた。 沙沙貴姉はわたしの隣に陣取る妹のドーナツを奪うと実に美味そうにかぶりついた。 「糖分が脳にいきわたる……!」 「むぅ……。合格祝いということで赦しますよ。でも、意外ですね。八重垣ちゃんはゲームとかやらない人だと思ってました」 口にしたゲームソフトのくだりからだろう。$好きだと言うほど嵌まってはいなかったが……。 「ま、嗜むくらいはやったかな。姉が割と好きでその兼ね合いでね」 「お姉さんがいたのですね。でも羨ましいですよ」 「何が?」 と訊ねると身を乗り出し姉の皿からドーナツホールに指を突っ込み引っかけると小さい口で頬張った。 「ん……む……わたしとしてはゲームをやってみたかったんですけどね。お祖母様が赦してくれなかったのですよ」 「へぇ。お前の家、佳いところっぽいものな」 「そうそう。人を殺したりするゲームとかよくないって許してくれなかったよね」 頬を膨らませる沙沙貴姉を見て……ではなく、次女が母としたやり取りを思い出しつい笑ってしまった。 「どうしたの?」 「いや、同じ事を姉も言われてたなと思ってさ。だけど、そっちの祖母と同じ事を言った母に姉は、“絶対にそんなことないわよ”って言ったんだ」 「でも、そんな一言じゃ聞いてくれなくない?」 「ああ。だから続けて“私、男の子を攻略していくゲームをたくさんしたけど、一度も彼氏できたことないもの”って言ってさ」 だから、関係ないわと告げた姉。母の目を丸くした表情を思い出し呵呵と笑ってしまう。$釣られたか沙沙貴姉妹も笑った。 「何だか愉しそうね」 「身内の恥ずかしい話を披露したところだよ。委員長は、試験は――」 「何とか合格したわ」 そう謙遜してみせた。 「アミティエの……考崎さんも第二外国語、合格したようだし佳かったわねぇ」 「あいつにも取り柄がある」 「え?」 「見た目よりも頭がいい」 「それって初めはダメだって思ってたってことじゃない」 そう呆れられるも、わたしは硬い雰囲気のままアイスティーを飲むアミティエを眺めた。 「……一応羽を伸ばしに来たってことかね」 「ああ、そうそう! 羽を伸ばすで思い出したけど、蘇芳さんが皆へ提案があるそうなの」 委員長へ手招きされ白羽は楚々と立ち上がると、 「以前、小御門先輩から秘密の泉の場所を教えて貰ったことがあるの。今度の安息日に其処へ行くというのはどうかしら?」 と告げた。$クラスメイト等は愉しそうねと口々に言う。 「水遊びですか……愉しそうですね」 「うん! ねぇ、八重垣ちゃんも行くでしょ」 際どい水着を着ていくなら 泳げないのに行くわけないだろ はしゃぐ沙沙貴姉へ、 「それじゃ際どい水着を着てくるなら行ってやるよ。目の保養だ」 「え。水着、水着かぁ……」 一瞬、頬に朱を散らすと一転難しそうな顔をする。 「……仲良くなる為には同じ釜で食べ、お風呂に入って裸の付き合いっていうし……」 「際どい……。やはりセパレートのものでないとダメですよね……」 「おい、冗談だぞ……」 え、と弾かれたように顔を上げる二人。いや、 「委員長のような本格派じゃないんだ。同性の水着なんか見ても仕方ないだろうが……」 水遊び――と聞いて、 「いや、わたしが行っても泳げないしな」 と反射的に答えてしまった。 「あ、そう……だよね」 「……ごめん」 本格的に落ち込む二人へ、背中を叩くとお前等気にしすぎなんだよと笑った。 「ま、こっちは気にせずに楽しんでくればいいさ」 続けてパスだと告げたわたしへ、 「――いいじゃない」 と、冷えた声音が背を叩いた。 「水遊び、私も参加したいわ」 「お前絶対こういうの好きなタイプじゃないだろうが」 「私の何を知っているっていうの」 参加を表明するアミティエに委員長も、沙沙貴姉妹も……皆、呆気にとられた顔をした。 気持ちはわたしも分かる。何を考えて……。 「アミティエが参加するのだもの。えりかも参加するわよ。ねぇ?」 「いや、泳げないし無駄じゃ……」 「雰囲気だけでも愉しめるでしょ。いつも文句を言わず介助してくれる私を労いなさい」 強気な言葉に、反論を口にしようとするも、 「恩知らずには為りたくない、だったわよね?」 そうとどめを刺されてしまい、頷くしかなかったのである……。 水遊びとやらに参加したのはクラスメイト全員という訳ではなかった。 時期が暑中休暇と重なってしまったのである。 数日だけ与えられる帰郷。 学院から生家が遠い生徒は、帰郷できる期間が短いからと寄宿舎に残り―― 残りの――クラスメイト等の半分ほどは家に戻った。 クラスの半分……プラス、水遊びを魅力的だと思える者だけがこっそりと向かったのである。 「何だか愉しくなさそうねぇ」 「……お茶会での経緯を知ってるだろうが」 車椅子を押してくれる委員長にわたしはそう唸った。 「こんなに暑い中、延々と森の中を行きたくないって話だよ」 「ふふっ、だからわたしが押しているでしょう?」 「それでも暑いのは変わらないだろうが。お前は家に帰らなくて佳かったのかよ」 「わたしは家が遠いから戻ってもほとんど休めないし……。それに皆で水遊びって素敵じゃない?」 「そうかねぇ。わたしは寮でゴロゴロしてたかったよ。とある漫画家御大も大物は寸暇を惜しんで寝るものだって言ってたしな」 委員長が笑う。事実なのだが冗談だと思ったのだろう。 委員長は、前、後ろと視線をやり、先行し過ぎている者、遅れている者はいないかを確認する。 「でも、皆、参加してくれて佳かったわ」 「ま、女は縦じゃなくて横の繋がりだからな」 と呟く。わたしは枠外だが、水遊びに行かなかったことで話題を共有できないことを恐れているのだろう。 そして、 「お前等も参加してることは驚きだけどな」 「何が驚きなのですか?」 「そうだよぅ。遊びに行くっていったじゃん」 委員長へ交代と告げると沙沙貴姉は押し手を掴んで歩き出す。 やや速度があがり、小石を避けずにそのまま突っ込んで行くので揺れが大きい。$性格が出るのだ。 「お前等は家に戻ると思っていたよ」 「初めはそのつもりだったけど――」 「皆と一緒の夏はあと二回しか巡らないと思うと、勿体ない気がしたのですよ」 あと二回ねぇ、と一顧する。 五歩ほど後ろに離れたところを歩くは、考崎と白羽。 不機嫌な顔つきで行くアミティエへ、白羽は時々何かを話しかけていた。 (春頃には考えられない光景だよな……) 内気で小心者の書痴仲間が、誰かに率先して話しかけるなんて稀少な――いや、あり得ない光景だった。 あいつ、 負の遺産ばかりが目立ったけれど、成長する為には必要だったのかとも思う。 成長? 「……らしくない考えを巡らすところだったぜ」 きょとんとする沙沙貴姉妹を無視すると、後ろの考崎へ、 「機嫌悪そうだな」 と大声で呼び掛けた。 「面倒なら戻ってバレエの自主練でもしてたらどうだ」 「愉しみにしていると言ったでしょう」 声を張った訳ではないのにワイヤーの線のような鋭い声音は耳朶に届いた。 「……何で家に戻らないかね」 アミティエもわたしと同じで面倒な理由があるのかもしれない――睨むように目を細める考崎を視て、わたしは小さく溜息を吐いたのだった……。 秘密の泉とやらについたのだが―― 「思ったよりも佳いところじゃないか……」 緑が青々と茂り、夏の陽射しが光線のように降り注いでいるのは変わらないが、湖畔は見た感じ遠浅になっており、泳ぐには絶好の場所だ。 そして小さな桟橋にはボートが繋がれている。 (もしかして秘密のデートスポットだったりしてな) 小御門先輩から秘密の泉と聞いたそうだが、そういう意味合いの秘密だったのかと汗を拭いつつ、早速木陰に移動した。 木陰に入るとひんやりとした空気が首筋を撫でほっと安堵の息を漏らした。 暑いとはいえ湿気が少ない。避暑地としても通用する土地柄だ。木陰に入るだけで随分と過ごしやすくなる。 一息ついていると、 「着替えないの?」 と、声を掛けられ振り返る。 「うえっ!?」 思わずおかしな声を漏らしてしまった。 「何? どうしたの?」 「いや、まさか下着姿とは思わなかった。大胆だな、おい」 「八重垣ちゃんが野獣のような目で視てるっ!?」 「やはり八重垣ちゃんは選ばれし人間だったのですね」 「誰が委員長と同類だって?」 げんなりしつつ双子を見遣る。学院指定のインナーだ。キュロットのような色気のないショーツはともかくとして――。 「お前等を視ると落ち着くな……」 「何故か腹立たしさを感じる視線ですね」 「そんなに生暖かい目で胸を見られたら嫌でも気づくって」 自分とそう変わらない、大草原の小さな家を認め大きく頷いた。と、 「もう着替え終わったの、早いわね」 言いながら此方へ来る陰が。 ――委員長はいい、わたしたちと同類だ。だが、 「気持ちのいい風が吹くわね」 委員長と連れ立ちわたしたちの元へと歩み来た書痴仲間を視て、持つ者と持たざる者の悲哀を感じた。 「……同じ年でこんなに違うもんかね」 「え? どうしたの?」 幼児に語りかけるよう屈んで問いかけてくる白羽――中腰になったことで目の前には厭味な程に育った双丘が露わになる。 二人の姉も母も皆スレンダーだった。 家系だ。 仕方のないことだと分かってはいても、胸にぽっかりと黒い空洞が開いていくのを止められない。 「……どうしたの八重垣さん。何か心配事でもあるの?」 「自分の将来に……」 「え?」 「女は十四歳くらいで成長が止まるっていうけど、あれは上背だけだよな……」 「何があったの? 随分暗い顔をしているけど……」 「何か将来に関わることで悩みがあるそうなの……」 「……そう。ねぇ八重垣さん」 肩を強く揺すられ、現実逃避していたわたしは、間近に委員長の顔が迫っていることに気づく。 「将来のことに思いを馳せるのは素晴らしいことだけど、気にしすぎるのはダメよ。何事も中庸がいいのよ」 「同類のお前に言われたかないよっ!」 「え? えっ?」 何なの、と目をパチパチさせる委員長を見て我に返って謝る。 つい別の意味に聞こえてしまったのだ。 「八重垣さんは着替えないの?」 泳げないのに意味ないだろ それじゃ着替えさせてくれよ つい双丘に意識をやっていたからか、 「泳げないのに意味ないだろ」 と答えた。$この手の話題に弱い、沙沙貴姉妹や委員長は気まずい顔をみせた。が、 「そうかしら、肌着になるだけでも開放的で気持ちがいいわよ。こんな真似、学院ではできないもの」 自虐ネタに馴れていた白羽は言い微笑む。 ざぁと癖毛を風が撫で、それも悪くないかもな、と思った。 「ま、興が乗ったらな」 話しかける際、やはり屈み込み眼前に羨ましい双丘を見せつける書痴仲間へ、つい困らせてやろうと嗜虐的な思いがわき出してきた。 「それじゃ――脱がせてくれよ」 「え? 脱がせ……」 「そうだ。お前の手で脱がしてくれってことだよ。介助だ、できるだろ?」 脱がしてくれとバンザイしてみせる。途端にさっと頬を染めた白羽はたたら踏むように後ろへと下がった。 「どうした、ほら早く」 「そ、そんなこと恥ずかしいわ……!」 「介助だって。何も恥ずかしがる事なんてない、なぁ?」 委員長へ告げると、顔を真っ赤に染めて頷いた。 わたしは両手を降ろし、 「クク、冗談だって。気が向いたら自分でするさ」 そう、猫のような笑みを向け煙に巻いたのである。  木の葉の影が揺れている。  大きい影小さい影。濃い影薄い影。たくさんの影が別々の動きをし、情報量の多さに私は目を細めた。  木漏れ日は奇妙な模様を地面に描く。此は正しい絵なのかしらと凝っと地面を眺めた。  グニャグニャとして気持ちが悪い。自然よりも人工物の方がどれが正しいか分かるだけ佳い。  私は何故、こんなところへ来てしまったのだろう――と心の裡で呟く。  其れは――  遠くで級友等に囲まれているアミティエを遠望した。  あの子に似た私のアミティエ。  えりか、と名前で呼ぶように為ったのもあの子を思い出させたから。  一体、何処が似ていると思ったのだろう。  性格はまるで正反対。容姿も似ている訳ではないのに。  ざぁ、と通り風に吹かれ髪が乱れ、木々の枝が千々に乱れる。  影は小さくなり大きくなり、影も其の濃さを変える。目にしている情景が歪み私自身に迫ってくるように視え目を瞑った。  何故だか師事していたバレエ講師の声が頭の中に響いた気がした。  $ 力が抜け、手からノートが滑り落ちる。  $ 足下に落ちた自分ノートを拾いぱらぱらと捲った。こんなものが無ければ、好きか嫌いかも判断できない自分。  父母が興味を持ってくれるかだけを考え――詐病を繰り返し、バレエですら父母を振り向かす為の……。  私は、私自身とは何なのだろう。  草の匂い、水の匂い、グニャグニャとした地面。揺らぐ影に囲まれて、私は――酷く儚い気持ちに為った。  胸に虚を感じながらも頁を繰っていくと――私が書いたのではない文字を見付け戸惑う。 「此は……」  第二外国語の――イタリア語の注釈を交えた文字が羅列されていた。  $ 頁を捲ると、出題されるであろう箇所は丁寧な文字でそう書かれ、間違えやすい問題には分かり易く正解が記されていた。 「――えりか」  無条件で私を慕ってくれたあの子を――  いや、えりかへは、父母に向けていた幼い気持ち、あの子へ抱いていた依存とも違う感情が灯っていることに、  私は、此のざわざわと蠢く厭らしい場所で漸く気づいたのだ……。 「たまには怪獣映画もいい。童心を取り戻す」 「私は“ゴジラ対モスラ”が好き」 「分かってるな。姉はリバイバル版の方がいいって……」 「ええっ?」 白羽は苦いものを口にしたような顔をする。$珍しい顔を見せる白羽に、 「だよな」 と笑うと――委員長が書痴仲間の肩を叩き、少し離れた木陰へと連れていった。 「何だよ。乙女の語らいを邪魔する気か?」 「乙女のする会話じゃないでしょう?」 ぐうの音も出ないほどの正論を吐かれ、しばし委員長と小声で話をする書痴仲間を眺めた。 「……仲……り……をした方が……の」 「そう……私……賛成……」 何やら二、三言葉を交わすと白羽はわたしへと一瞥を向け、そのまま立ち去る。 代わりに委員長がわたしの元へ来た。 「お話ししましょう」 そう、胡散臭げに言った。 「心を閉ざしたサナトリウムの少女じゃないんだぞ」 「え。そんなつもりはないわ。ただ最近八重垣さんとお話していないなって」 「試験勉強があったからな。ブレインとしては試験落とせないものな」 「脳がどうしたの?」 ヒエラルキーでの話題を挙げたが、それを知らない委員長は目をぱちぱちさせた。 だよな、と小さく溜息をこぼし次の話題を探す。 「怪獣映画だが、委員長が好きなやつは……」 「かいじゅう? 何、何?」 「いや、すまない。無理を言うところだったよ……」 委員長がおさげを揺らし首を傾げる。$わたしは、 「何だって……ぅ、お……ッ」 肩を叩かれ、いつの間に着替えた……いや脱いだ下着姿のアミティエに思わず変な声を上げてしまった。 「水遊びしたいのよね」 「え、あ? 何を言って……」 「したいのでしょう?」 迫られ、白桃の薫りが強く香った。 白羽のように屈んで話すという気遣いがないアミティエはそのまま近付いてくる。と、 書痴仲間よりも豊満な双丘が眼前に迫りかっと頬が、身体が発熱する。 「ち、近いんだよ、お前は……!」 顔が赤くなるのを隠しつつ叫ぶも考崎は意に介さず、すぐにわたしの後ろへと回り、手を挙げるように促してきた。 「はぁ? 西部劇ごっこか? お前年幾つだと……」 「同い年でしょう」 いつも介助する時と同じように、無理やりに手を挙げさせられ、 「ちょ、待っ……!」 皆が視ている前で一方的な虐殺が始まったのである。 強引に脱がされ、 有無を言わさずお姫様だっこをされ、 水辺へと無理無体に座らされた。 「…………」 「…………」 怒りはあったが、飲み込んでしまった。 隣にいる考崎の遠くを見る目を視てしまったからだ。 (何か話したい事があるんだろうが……) かなり――拡大解釈し好意的に捉えた考え方だが、この不調法者のアミティエは謝ろうとしているのではないかと思った。 眉を顰め、唇をきつく閉ざしている姿に見覚えがある。 「……此奴に自分を視てるなんざ」 「水遊び、愉しんでいるかしら」 「……かなり強引に誘われはしたが、まぁ愉しんでいるよ」 「そう」 言いまた沈黙。 足先を湖に浸からせているという状況は妙な気分にさせる。 ホラー映画の一場面とも、恋愛小説の場面とも取れるが……。 風呂以外でぬるい水を足先に感じることは生まれて初めてで、何やらくすぐったく高揚する。 「……これだけ水温が高いなら泳いでも気分良さそうだな」 「泳ぐ……」 「え……。い、言っただけだ。足が着かない場所で水に浸かるなんざ、ゾッとしないぞ!」 立ち上がろうとする考崎を制す。 素直に従うさまに、今なら裸になれと言ってもするんじゃないかと苦笑いしてしまう。 生真面目な顔は、陽光を反射しキラキラと輝く水面を注視していた。 「お前は……」 水面から照り返す陽射しが考崎を映す。$整った顔立ちについ見蕩れてしまった。 「……お前は黙っていた方が可愛いな」 「そう……」 いつもなら厭味を返すか食ってかかるのが通例のアミティエが、ただ大人しく湖を見詰めているのを観て、どうにも落ち着かなくなった。 何か話しておかなくてはという心持ちになり、今日の陽気と、スタイルの話、そして小咄を考えた結果―― 「そ、そういえば少し前のことだけどな。小腹が減ったんで厨房へ食料を失敬しに行ったんだよ」 小咄となった。 「いつもは調理人に分けて貰うんだが、その時は誰も居なかったんだ。だから冷蔵庫を開けて何か食べられる物はないか探したんだよ」 相づちは打たないが聞いてはいるらしい。$ 様子を見るため少し間を開けると、こちらを見て首を傾げ、先を促してくる。 「……で、冷蔵庫の中を漁ってたら、ステンレスのボールにみじん切りしたタマネギがラップされて置かれてあってさ」 「そのラップの上にメモが置かれてあったんだよ。“もうお前を泣かせたりはしない”ってさ。冗談に気づいて大笑いしちまったよ」 夕食を支度する調理人の為に、気を利かした者がタマネギをカットしておいてくれたのだろう。 大笑いして気付かれた寮長に見付かり叱られたことまで話した。が、 「…………」 (反応なし、ね) こういう時こそ出てこいよ、とよく話に割り込んでくる沙沙貴姉妹や、神出鬼没の八代先輩を恨む。 「風が出てきたわね……」 「そうだな」 ようやく考崎が口を開くも、返す言葉が見付からない。 (白羽の口下手が移っちまったか?) 悪戦苦闘しながらも関係性を深めていった書痴仲間を思い浮かべ、今更ながら大したものだと思う。 わたしには真似できない。 「……何」 「いや、何でもないさ」 子うさぎの消失事件にて、真犯人はお前だと告げた折―― 片手じゃ握手はできないだろ、そう言って手を差しのべたことを思い出した。 「……どうにも遠く感じるな」 呟くと、考崎を真似し、憎らしいほど煌めく水面を睨み付けたのだ……。 「……珍しいわね」 何がだ、と視線を向けたわたしへ介助してくれている委員長が続けた。 「素直に下着姿になったってことよ」 「北風と太陽だよ」 脱ぎ終えた夏服を木陰に置いておくよう告げ、周りのクラスメイトを見回した。 「北風と太陽って、あのイソップ物語の?」 「そうだ。無理やり着替えろって命令されたら絶対に断るが……」 すでに脱いでいる委員長を指さし、 「涼しくて気持ちいいって、そんなに言われりゃその気にもなるって話さ」 薄い胸に指を突きつけ言った。 「そんなこと言ってた?」 「耳タコくらいにはな。ま、確かに気分は佳い。夏服って言っても汗を掻くと張り付いて気持ち悪いからな」 学院内は必要に迫られた場所以外、冷暖房を設置していない。 バスキア教諭の言うところの“自然の恵みを妨げてはなりません”というやつらしい。 「だけどバレエの授業とヴァイオリンの授業だけはどうにかしてほしいよな……」 「うん? ああ、汗すごく掻いちゃうものね。バレエを踊っている分には気が紛れるからまだいいけど、観ているだけだと大変そうよね」 「確かに自分も汗まみれに為れば気にならないかもしれないが、他人の汗の臭いは気になるしな」 わたしの言葉に委員長は慌てて自分の首筋を嗅ぐようにした。 「気にするな。委員長は佳い匂いだよ」 「ほ、本当……?」 「グルメなわたしの嗅覚を舐めて貰っては困るね」 料理の匂いと一緒にされても、と妙な顔つきになるも一転、そうだと手を合わせた。 「一度聞きたかったのだけど、弦楽器の授業って面白いの? さっき暑いから嫌みたいに言ってたでしょう」 「ああ。やってみると意外に面白いもんだよ。ただ夏場はこう……ヴァイオリンを顎に当てて弾くのだけど、その時汗で嫌な感触がね……」 ヴァイオリンあるあるというやつなのだが、ガーデニングを専攻している委員長としては今ひとつピンときていないらしい。 ざぁ、と吹く強い通り風にクセっ毛を千々に乱されながら、そっちはどうなんだと訊ねた。 「ガーデニングの授業も愉しいわよ。お花の世話は女の子は皆憧れるし好きだものね」 若干一名、女の子に当て嵌まらない者がいるのだが、曖昧に頷いておいた。 「寮長の……〈方喰〉《かたばみ》先生の指導も親切で分かり易いしね」 気むずかしい寮長の親切とやらが思いつかなく、へぇとだけ答える。と、 「ちょっといいかしら」 書痴仲間の声に振り向くと―― 皆と同じく下着姿に為ったアミティエがわたしを睨んでいた。 「…………」 「何? ……何か言ったらどうなの」 「いや……」 クラス一の双丘を持つ白羽を越える新たな頂きに、絶句し、黒い感情が湧き上がってくるのが止められない。 「どうしたの、八重垣さん?」 「……映画の“ハロウィン”を思い出したよ」 え、と小首を傾げる書痴仲間へ、ホラー映画の金字塔、“ブギーマン”を連想したわたしは一言。 「エグい」 白羽蘇芳、考崎千鳥が並び立つ姿は別の意味でエグかった。つい、委員長の胸を凝っと眺めこれが標準値なのだと言い聞かせるほどに。 「ど、どこを見てるのよ……!」 「ありがとう。心に平穏が訪れた」 「相変わらずおかしな子ね」 「お前にわたしの何が分かるってんだ。それより何、下着姿を晒してるんだよ。露出狂にでもなったのか」 「えりかもでしょう」 間髪入れず憎まれ口を叩く考崎を睨み、何で連れてきやがったと白羽へ目で問いかける。 「……水遊びへ一緒に来たってことは、きっと仲直りしたいからだわ」 耳打ちする白羽へ、わたしは自分のこめかみを人差し指で叩いて見せ、 「あのな。“カッコーの巣の上で”のマクマーフィーみたいに、頭看て貰えよ」 「何言ってるの。おかしくなっちゃうじゃない」 「看て貰ったら裏返って正常になるって話だよ」 拗ねたように眉根を寄せる白羽の額をチョップし、考崎を盗み見た。 「……泳がないの?」 「バタ足できるように見えるかよ」 「……そうね」 馬鹿にしているのかと思うも、考崎はわたしから離れず隣に立ち、湖を眺めた。 目は細められ苛立っているように見えるも――此は只注視しているだけだ。 (……本当に謝りにきたのか?) 白羽の戯れ言が浮かぶ。 「此処にいても暑いだけだろ。泳いでこいよ」 「……気が向いたらね」 やはり何もせず、隣に立ちキラキラと陽光が照り返す湖を仰望した。 整った顔立ち、汗を掻いたからか強く香る白桃の薫りにドギマギとしてしまう。 (わたしなんか放っておいて涼みにいけばいいのによ……) 委員長や、白羽とも話す素振りはなく、只、寄り添うようにして遠くを見詰めている。 シャーロック・ホームズは«可能性をすべて消した後、残った非合理が正解だ»と言ってはいたが……。 「まさかな……」 苦笑うとふっと空を見上げた。$強すぎる陽射しに目を細め、わたしは都合の佳い考えに文字通り目を逸らしたのである……。 ――ダメみたいね。$遠く言葉は聞けなくとも唇と顔つきからそう言っているのが読み解けた。 車椅子は進み、おさげを弄り困った表情を作る委員長、そして愁眉を寄せた書痴仲間の元へと辿り着く。 (英国王のスピーチのつもりか) セラピーの真似事をする書痴仲間へ、そうはっきりと口にしたくもあった。だが、 「考崎さん。少しいいかしら」 仲直りの第二弾を思いついた善人へ、放っておいてくれと言えなかったわたしは、気まずそうにおさげを弄っている委員長へ言った。 「何で人のためにあんなに一生懸命になれるのかね」 「え?」 「白羽だよ。別にあいつとわたしの仲違いなんていつもの事だろ。放っておいても時が解決する」 そうね、と呟くも委員長はボート付近で話し込む二人を慈しむように見遣ると呟いた。 「……きっと理由なんてものはないんだと思う」 「只のおせっかいってことか?」 「ふふ。ええ、蘇芳さんは自分を捨てて他人を心配できる人なの。わたしもそれで救われた」 破顔し告げる委員長に何も言うことはできない。 わたしもそうなのだろうとは思う。だが、 (人と人との間に線を引くわたしには耳が痛い話だな……) そう、いつの間にか引いた線をうやむやにしている沙沙貴姉妹を。何くれとなく世話を焼いてくれる花菱立花を。 共に此方へと向かってくる白羽蘇芳と、アミティエを遠見した。 「何で得意げな顔なんだよ」 「白羽さんは佳い人だわ」 すまし顔で言うアミティエへ思わず吹き出しそうになる。率直な物言いに白羽も驚き目をパチパチさせた。 「提案があるのだけど」 「言ってみろ」 促すわたしへアミティエは、リンカーンが解放宣言をするが如く指さした。$岸辺に繋がれたボートを、だ。 「ボート遊びがしたいわ」 「……すればいいだろ」 「えりかも一緒によ」 抜き身のカタナのような率直な言葉に、わたしは一つ頷くしかなかったのである。 「――ボートなんて初めて乗ったわ」 さらりと吐露した事実に、おい――と横になり青空を見上げているアミティエを非難した。 「お前、仕事で何回か経験があるから任せてって言っただろうが」 「嘘よ。初めて乗るなんて言ったら付いてこないでしょう」 当たり前だろ、と横目にてアミティエを睨むと、珍しく微笑みを見せた。 「湖の真ん中で妙な笑顔を向けるな。怖いだろうが……」 「大丈夫よ。突き落として見殺しになんかしないわ」 普段吐かぬ冗談に幾分肝が冷えた。 湖の真ん中で、“今度は落とさないでね”と生まれ変わりの子供から告げられる有名な怪談を思い浮かべ、背に厭な汗を掻く。 只でさえ先の見通せない巨大な山や、深さの底が知れない海は苦手だ。ゾッとする。 当然、深くて底が見えない湖の水面も、だ。 何と無しにわたしの不安を察したのだろう、唇の端を持ち上げると、 「この湖を……深い緑色の湖面を見て思い出したことがあるの。スティーブンキングの映画よ」 「……クリープショーの“殺人いかだ”だろ。こういうタイミングで思い出すんじゃねぇよ」 正体不明の藻に襲われる映画だ。わたしが以前言ったように80年代のカルチャーを学んでいるようだが、今は余計な知識だ。 あの映画でも、今のようにいかだに寝そべり甲羅干しをしている場面がある。意地の悪い笑みを浮かべている考崎を見、 「……行きたいって騒いでいた水遊びだ。堪能できたかい」 と、話をすり替えた。 「ええ。泳ぎはしなかったけど、森林浴ができて満足しているわ」 「この暑いのに森林浴もないもんだ。泳ぎはしなかったって……映画を思い出して臆病風にでも吹かれたのかい?」 軽口には答えず、考崎は自分の胸を一瞥する。 「……自慢かよ」 「え? ああ、そうじゃないわ。泳いでないって言葉で思い出したのよ。胸、また大きくなってないかって」 「へぇ……。そいつは宣戦布告としてみなして佳いいってことだな?」 「何を言っているの? バレエでは邪魔だから、これ以上はいらないって話よ」 「……見栄えが悪くなるってやつか」 バレエをしていた長女から得た知識を思い出した。 「胸が大きすぎるとサラシを巻いたりするって聞くものな」 「ええ。まだ其処までではないけど気を付けているの。それと肌を焼かないようにね」 事前に日焼けのケアをしているのだろう、二の腕に触れ言った。 「元々色黒だった場合も衣装で開いている胸元とか、二の腕とかを化粧で白くして誤魔化すとかも聞いたことがあるな。だが、お前は……」 要らないみたいだ、と告げると口元がほころんで見えた。気の所為かもしれないが。 「ま、水遊びよりこういう場所に来たならキャンプの方に食指が動くね。以前やった収穫祭みたいにバーベキューなんかもいい」 「キャンプ……。私も一度くらいなら経験してみたいわ」 「お前はキャンパーというより、グランパーってな具合になりそうだな」 グランパー? と訊ねる考崎へ、 「キャンパーもどきのことだよ。ワイファイを使って自然と親しむって輩のことさ。何しにきたんだおい、ってな具合でね」 「……必ず軽口を言うのよね」 苛立って……はいないが、咎めるような目つきに肩をすくめて押し黙った。 天空には突き抜ける青空と、時折流れる浮雲。 遠く聞こえる鳥の囀りと、ボートが揺れる微かな軋みしか耳に入らない。 だが、 「……ノート」 「あ?」 「私のノート……勝手に書いたでしょ……」 くすぐったそうな、戸惑っているような、怒っているような、複雑な声音が耳朶に届く。 わたしは――らしくない真似をした事に後悔しながらも、ああと頷く。 「勝手に私物に触っちまったな。済まない」 「……いいのよ。怒っているわけじゃないの」 同居することに為った折、本棚に置かれた書籍に触れるなと言った手前、何とも返せない。 考崎は遠く夏雲を睨み――沈黙に耐えかねたようにわたしへと顔を向けた。 睨むようにしっかりと見据えた目。頬を、耳までを真っ赤に染め、怖々と唇を開く。 「……今まで意固地になっていてごめんなさい。それと、ありがとう」 「…………」 「何よ」 「……いや」 白羽の推理は、やはり当たるんだなだとか、 何か裏があるんじゃないかだとか、 常ならそう熟考するところだろうに。 「……気にしてないさ」 他人と自分を隔てるラインを簡単に越えられ、頭が上手く回らなかった。 「佳かった。今日、ここへ来たのはそれだけ言いたかったの」 素直な言葉を吐ける考崎を羨ましく感じた。$わたしにはできない、いや……。 「――わたしも約束破っちまって悪かったな」 「え? 今、謝って……」 「っ……。わたしが謝ったなんて誰にも言うなよ」 血を吐くような言葉に何故だかアミティエは嬉しそうに笑んだ。 滅多に見られない笑顔につい見惚れてしまう。 わたしと同じように誰にも触れられないように壁を築いていた筈なのに、少女のような無防備な笑みを見せられ―― 「……唄が聴きたい」 そう――自分から境界線を越えてしまった。 「いいわ」 軽口も言わず、押しつけがましい言葉も吐かず、考崎は請われるまま―― かつて、哀切を感じた唄は―― 「佳い曲だな、千鳥」 夏の陽射しのようにわたしの心へ、強く確かに降り注いだのだ……。 グリム童話に�ホレおばさん�と呼ばれる一篇がある とある家に醜く怠け者の娘。そして美しく働き者の継子がおり、親は実の娘を可愛がり継子には辛く当たっていた ある日継子は井戸で糸巻きを洗っていたがうっかり落としてしまう。母に告げるも取ってくるように命じられ途方にくれてしまった 思いあまった継子は井戸に身を投げそのまま気を失ってしまう―― ふと気がつくと継子は美しい草原に立ち、歩み行くと一軒の家に辿り着く。そこはホレおばさんと呼ばれる者の家であった 初めて人として扱われ、幸せに奉公をする。しかし家が恋しくなった継子はそのことをホレおばさんに告げると―― 継子が落とした糸巻きを返し奉公した褒美として黄金を身に纏わせ継子を家へと戻させたのだ 大金持ちになった継子に嫉妬し、実の娘に同じことをするよう黄金を褒美として持ってこさせようとするも―― 元々怠け者気質の娘が奉公できる訳もなく、罰として一生取れることのないコールタール塗れにされ家に帰されてしまう ……物語は分かり易い寓話。正直者はいつか報われるという帰結だ。しかし、この世の常として正直者が報われるという保証はない どれほど真っ当に生きていても、他人を気遣える優しさを持つ者でも、報われることのない望みというものは存在する これから始まる物語は――正直者として生きた対価を得ようと藻掻く道化たちのお話 熱気と、強烈な陽射し。 八月も終わりだというのに、相変わらず太陽は猛り、薄手の少女を更に脱がせようとしているのかと錯覚するほど強烈な陽射しが降り注いでいた。 「まんま北風と太陽だよな……」 汗の臭いで馬鹿になった鼻は脱水症状対策で持参しているお茶の味も分からなくしてしまっていた。 魔法瓶の中に用意しておいたアイスティーも浮かばれないというものだ。 正直暑い思いをしてまでバレエの授業に参加する謂われはないのだが……。 「お水貰えるかしら」 レッスンを終え汗をタオルで拭き取りながら言う彼女へわたしの魔法瓶を渡す。 「ありがとう」 素直に為ったアミティエ。 そう、彼女に付き合わされてからこっち、見学することが日常風景として組み込まれてしまったのだ。 「暑いのにご苦労さんだな。見ているだけでバテちまうよ」 「……体調が優れないならバスキア教諭に話して此から見学は控えるように言ってきましょうか」 文字通りお前が連れてきているんだろうが、強制的に。 そう思うも、バスキア教諭の方へ向かおうとしたアミティエのスカートの裾を掴んで押しとどめる。 「いよいよとなったらわたしから言うさ。だから大丈夫だ、千鳥」 わたしの言葉に面映ゆい表情を見せる。 そう――あのボート遊びを経て、アミティエの呼び名を考崎から“千鳥”へと変えていたのだ。 (ずっと�お前�でも何だしな……) バスキア教諭と同じく、介助されている手前―― いや、千鳥が己の敷いた境界線を越えてわたしを迎え入れたように、わたしも彼女を認めることにしたのだ。 「やっぱり性悪説だったか……」 「何を言っているの?」 何でもないと答えようとした途端、背に熱く柔らかい感触を受け、同時に首元にて荒い吐息をかけてくる少女の頭を叩いた。 「汗まみれで抱きつくなよ。そういうのは委員長にしとけ」 「分かったよう」 緩慢に身体を離し、少女は額から滴る汗を拭った。 「同じ事をしたら怒られるよ。りっちゃんは潔癖症なんだよぅ」 「その言い方だとわたしが不潔症で、汚れにかまわない人間みたいに聞こえるぞ」 言いざまに笑い、笑い終えるとまたぐったりと肩を落とした。 千鳥から魔法瓶を取り返すと、萎れている沙沙貴姉へと差し出す。 「ありがとう!」 「不潔症の飲みさしでいいならどうぞ」 厭味を言うも構わず一気に煽る。わたしの分は無くなるが授業も終わりだ、構わない。 「ん……はぁ! 氷を砕いていれてたんだ。喉ごしにシャリシャリ氷が当たってすごく美味しかった!」 「細かい描写は止めろ。もうないってのに飲みたくなるだろうが」 「それでは、わたしのお茶をどうぞ」 いつの間に近寄っていたのか沙沙貴妹が自分の可愛らしい柄の魔法瓶を勧める。$断る理由もなし受け取ると一口飲む。 「……いつもの共食いネタか」 「ふふ。それが今度の肝ではないのですよ。八重垣ちゃんと間接キスを達成しました」 「おおっ! 知能犯だね林檎っ!」 分かり易くしなを作り顔を赤らめて見せる沙沙貴妹へ、ご馳走様と二重の意味を込め言うと魔法瓶を返した。 「それなら姉の方も間接キスとやらだな。もっともわたしじゃなく千鳥とだがね」 「え、ああ……! 言われてみればそうか!」 千鳥は何も語らず唇をそっと撫でた。$少女らしい仕草に沙沙貴姉も茶化せず火照った顔を更に赤らめた。 「そろそろシャワーでも浴びてこいよ。さっさと着替えないと注意しに……」 噂をすれば影というやつだ。委員長が白羽を伴い……いや、いまだレオタードのままのバスキア教諭とともに神妙な顔をして戻ってくる。 皆も常とは違う雰囲気に自然、彼女らの姿を目で追った。 「皆さん集まってください。皆さんへ御報告があります」 全員が集まったのを確認した後、クラスメイト等の顔を見渡すと、 「皆さんも知っている通り、今度バレエの発表会があります」 と宣言した。 寝耳に水の報告に、クラスメイトたちがざわつく。 「静かに。それで今日は発表会についてですが……」 「ダリア先生! バレエの発表会があるなんて聞いていませんっ!」 「あら? そうだったかしら?」 バスキア教諭は不思議そうに黄金色の髪に触れるも、気を取り直し続ける。 「ともかく一年生の皆さんはヨゼフ座にて発表会を行って貰います」 「一年生……というと上級生の方は発表会には出られないのですか?」 「ふふ。全学年が出たら発表会でなくバレエコンクールに為ってしまうわ」 口に手を当て上品に笑むバスキア教諭に、白羽は額縁がずれているのを見付けてしまったような表情をしつつ頷いた。 白羽の疑問をわたしも思う。上級生が出たとしても競ってなければ発表会でいいのでないかと。 「あの……発表会と聞きましたが、個人個人が踊りを披露するのですか? それとも何か一つの劇を演じるのでしょうか」 「ふふ、そのことを丁度お話ししようと思っていたの」 「バレエ発表会は個人個人で行うものではないの。舞台を一年生皆で作り上げるのよ」 「舞台の演目は――“眠れる森の美女”です」 チャイコフスキー三大バレエの名を聞き、面白いと思う反面、バレエ初心者には難しすぎるのではとも思った。 何より―― (男役がいないしな……) 以前行った朗読劇のように女性が男役を演じるという訳にはいかない。 演者を肩に乗せたり、身体を抱え上げるリフト系の技などは女性には無理だ。なら、 「……ねぇ、八重垣さん。眠れる森の美女っていばら姫のことかしら?」 「“いばら姫”はグリム童話で、バレエの元になっているのはペロー版の方だ。ま、大体グリム童話の筋通りと考えていいんじゃないか」 「やっぱりそうなんだ。ぅぅ……。私、裏方にして貰えないかしら……」 演出の方が合いそうだな オーロラ姫似合いそうじゃん バレエが必須科目のこの学院で、クラッシックバレエを習い四ヶ月……。 (こいつ、あんまり上達してないもんな……) 生まれつきのものか身体が堅いらしく、どうにも演技に柔らかさがない。 ま、他は文句の付けようがない程の美人だ。一つくらい欠点があった方が取っつきやすいってもんだが……。 「……八重垣さん、何も言ってくれないのね。ぅぅ……」 「あ、いや、そうだな……得手不得手は誰でもあるからな。白羽は演出とかいいんじゃないか。朗読劇の時みたいに」 「バレエの演目って筋を変えていいの?」 「……ああ、そうか、そうだったな。モダンバレエならOKだけど――」 「クラシックの場合は振付がほぼ決まっているから味付け程度だけだしな……」 眉を掻き、悩むわたしへ、 「八重垣さんってやっぱりバレエに詳しいのね」 と感心したように呟いた。 元々、身体が堅いことが災いしてか上達が芳しくない白羽だが……。 「……オーロラ姫なんか嵌まるんじゃないか」 と言った。瞬間白羽は眉を泣きそうな程に歪める。 「む、無理よ……! ヨゼフ座で披露することを考えたら泣き出してしまいそうになるわ……!」 「そうか? 朗読劇の時、威風堂々ってな具合だったけどねぇ」 「あれは……っ。その、八重垣さんが隣にいてくれたから……」 かっと頬を染め下目遣いにわたしを見遣る書痴仲間に――思わず鼓動が怪しくなった。 よくよく考えなくとも隣に立つ少女は、芸能界で働いていたアミティエからしてもちょっと見ない美人だと言わしめているのだ。 「……お前、自分ってやつを少し考えてから発言した方がいいぞ」 「え? 何か気に障ることを言ってしまったかしら……?」 (天然のたらしめ……!) 捨てられる子犬のような哀れな目で見詰められ、先ほどよりも鼓動が早く脈打った。 熱くなっていく頬を両手でごしごしと擦り、バスキア教諭がこっちを見てるぞと嘯いた。 「ダリア先生。あの、眠れる森の美女を上演するのは分かりましたけれど、配役はもう決められているのですか?」 「そう。今日はそのことも話そうと思っていたの。上演まで時間もあまりありませんから――」 「今日から三日後に配役を決める試験を行うわ」 再びあがる嬌声。だが、今度の声は嬉しいという昂ぶりが勝った声ではあったが。 (バレエがやりたくてこの学院に入ったやつもいるって話だし、盛り上がりはするか) バスキア教諭は練習を怠らないよう告げると、楚々とレッスン室を後にした。その姿を見送った後、またもわっとあがる嬌声。 「ねぇねぇ! 盛り上がってきたねぇ!」 「誰がオーロラ姫を演じるのか楽しみですよ」 お前等ではないだろうけどな、と素気なく言うと頬を膨らませいいもん! と腕を組んだ。 「わたし的には妖精役がやりたいんだよねっ。衣装も新しく作るだろうし、羽とか付けたら可愛いよね!」 「わたしとしても同意ですよ」 佳い役が欲しいというより、綺麗な衣装が着たいという方が大きいのだろう。 口々に可愛い衣装ならどの役が佳いか姉妹は言い合う。 「舞台かぁ……。久しぶりで愉しみだわ。どんな役を踊らせて貰えるのかしら」 「オーロラ姫を狙うって言うものだと思ってたよ」 「わたしは別に主役でなくても踊り甲斐のある役なら何でもいいの。それにオーロラ姫なら……」 バスキア教諭の話が終わり、バレエシューズを脱ぎ自前の袋へとしまう千鳥を委員長は一顧した。 「ま、確かに技量的には委員長と千鳥の一騎打ちだろうな」 「八重垣ちゃんは、考崎さんとりっちゃんさん、どちらが主役に相応しいと思うですか?」 千鳥かな 委員長のがらしいか 質問が聞こえていたのか、千鳥はシューズ袋を置き、妙に佳い姿勢でわたしを凝っと見詰めた。 「……答え辛いじゃないかよ、おい」 「どちらですか?」 「そうだな……。順当に考えるなら――千鳥かな」 「……佳し」 何故だか拳を握るアミティエを訝しがりつつも、理由について沙沙貴妹へ説明する。 「技量なら委員長と互角だしどちらが演じても佳いが……」 此方を注視しているアミティエを一顧し、声を潜め言う。 「……鉄面皮のあいつが微笑みながら姫役を演じるのを見てみたいだろ」 「……それは同意です」 委員長がにこにこと見詰めている手前、 「……姫役は委員長のがらしいんじゃないか」 と答えざるを得なかった。$思った以上に嬉しかったらしく、肩を叩かれおさげを振り回してみせる。 「ふふふっ! そんなに期待しているんじゃわたしも頑張らないとねっ」 「いや、その……」 今更どうでも佳いとは言いづらい。だが、 「……そう。そう思っているの」 アミティエが何やらブツブツ呟いているのを見、どうも此方は此方で拙い気がする。 「ま、まぁ実際の所、委員長と千鳥の一騎打ちになりそうだし、試験を愉しみにさせて貰うよ」 「でも試験かぁ……。何でも佳いって言ってたけど何を踊ろうかな」 「私は簡単なものにするわ。間違えないことが重要だと思うの」 堅実派の言葉に、委員長や沙沙貴妹は同意して頷いた。 一方、演技に関しては挑戦していく派の千鳥は、 「シャワー浴びてくるわね」 あくまでマイペースを崩さず、バレエシューズ袋を手に、わたしへとそう言いレッスン室を後にした。 「……ま、わたしの分もしっかり踊ってくれよな」 歩き去っていく背に、わたしは呟くように軽口を叩いたのだ。 ――バレエ試験が決まってからというものの、 稽古の熱の入れ様は凄まじく、人のやることに干渉しないタイプのわたしですら、少し休んだ方がいいぞとつい声を掛けてしまうほどだった。 休み時間、放課後と合間を見付けレッスン室で励む姿は上級生の口にも上ったのだろうか―― 「やぁやぁ久しぶりじゃないか。もしかして今から愛しのアミティエのお迎えかな?」 居残って練習をしていると耳にしていたのだろう。銀髪を夕日に染めながら愉しげにわたしの行く手を遮ったのだ。 「……図書室の帰りですよ。ほら」 言い図書室から借りてきた図書を掲げる。 「ふむ……首を突っ込んでいるわけではないのか」 そう呟いた。 訝しげに見詰めるわたしの目に気付いたのか、快活な笑みをこぼした。 「そうか。どおりで料理部に顔を出したら蘇芳君がいないわけだ。今まで話し込んでこんなに遅くなったということだね」 「見てきたように言いますね……」 だが、その通りだろうと続けられ言い当てられたわたしは、素直にはいと頷く。 「しかし試験を前に委員を優先……。我が師はバレエに興味がないと見えるね」 「苦手だと言ってましたよ。裏方がありならそっちをやりたいって言ってましたしね」 「ほう。今度の舞台は眠れる森の美女と聞いたが……。蘇芳君になら妖精や猫の役なんかをやってほしいものだね」 「……長靴を履いた猫か」 書痴仲間が猫耳としっぽを付けている絵を想像し、可愛いがこれは嵌まりすぎだなと苦笑した。 最高級のあんみつへコンデンスミルクを掛けるような無粋な行為。 「君のアミティエは随分張り切っているようじゃないか。主役のオーロラ姫狙いかい?」 「千鳥は分かり易い上昇志向ですからね。学院の行事の一つとしてでなく、自分のステータスにするつもりで参加していますよ」 「ふむ。僕にも挑んできた程だからねぇ。だがその意気や佳しというやつだ。ちなみに此処最近は下校時刻まで練習をしているのかい?」 つなぎの会話に少しばかり引っかかりを感じたわたしは、猫耳の白羽のイメージを消すと、ええと頷き八代先輩の表情を注視した。 「……そうか。ま、クラブハウスとは逆だ。関係ないだろうがね」 「何か問題でも?」 「いや、それよりもバレエ発表会、八重垣君は何で参加するのかな?」 あからさまな話題変えを不審に思いつつも、自分の足をぺしりと叩き、こいつで踊るのは無理ですよと笑った。 「ふふ。沙沙貴君たちの鉄板ネタを思い出すね。僕が言いたいのは以前、朗読劇で我が師が脚本を手がけただろう?」 「同じ事を八重垣君もやらないのかと思ってね」 「わたしには無理ですよ。白羽のような知識もない」 きっぱり告げるわたしへ、 「それは嘘だね」 ――と、ぐっと身を乗り出し人差し指を突きつけた。 「バレエ、詳しいのだろう?」 「そんな、わたしは今まで嘘を吐いたことがないのが唯一の誇りなんですよ」 「ふふふ、真顔で嘘がつける。君はいいねぇ。蘇芳君とは違う愛らしさがある」 「八代先輩、あの……」 「先ほど僕が眠れる森の美女の役柄で、蘇芳君なら妖精か猫の役をやってほしいと言っただろ?」 「それを受けて、八重垣君は“長靴を履いた猫”と呟いた」 ――ああ、そうか。まいったな。 「普通、眠れる森の美女と聞いてその名前は出てこないよ。別のおとぎ話の主人公の名だからね」 「だがバレエの演目の眠れる森の美女では、終盤オーロラ姫の結婚式のお祝いの席に駆けつけるため、他のおとぎ話のキャラクターも出演する」 「それを知っていたから詳しいのだと確信したのさ」 奇矯ゆえ偶に忘れてしまうが、ニカイアの会の会長だ。無能な筈がない。 降参するよう手を挙げ、上の姉がバレエを学んでいたので門前の小僧として詳しくなったことを告げた。 「成る程。なら、脚本……振付をやったらどうだい。クラスの催しだし、参加しなければね」 「振付なんて責任重大な役目、バスキア教諭が許してくれる訳がありませんよ。こと基督教の教義とバレエだけは厳しいんですからね」 言い終わった後に、礼法の授業もかと口の中で付け加えた。が、銀髪の君は眉を掻きながらそうかなと呟く。 「バスキア教諭は君を買っていると思うよ。それに僕も気付いたくらいだ。バレエに詳しいのも察しているだろう」 おっとりとした大らかな気質のバスキア教諭が気付いている訳はないと大げさに手を振り答える。 「まさか、気付いている訳がありませんよ。もし気付いていたなら目でピーナッツを食べてもいい」 そして――わたしは目でピーナッツを食べる嵌めになったのである。 「八重垣さん、バレエについてお詳しいのでしょう。今回の演目の振付を頼みたいのだけど、どうかしら?」 ――試験当日。 出席番号順で始まった選考試験を見学していると、休憩という水分補給の時間、わたしの元へと来たバスキア教諭はそう切り出したのだ。 「……以前、バレエ云々の話をしましたっけ?」 「いいえ。でも、考崎さんが初めて此処で授業を受けたとき、トゥシューズとバレエシューズを二つとも持参したでしょう」 記憶を探り、確かにそんなこともあったなと頷く。 「その時、練習の際にシューズを取って貰えると考崎さんから声を掛けられて、八重垣さんは迷いなくバレエシューズの方を手に取ったわ」 「映画やドラマでの見識なら見知ったトゥシューズを手に取るでしょう?」 「でもバレエの知識がある人なら、練習にはバレエシューズを使うのを知っていて渡した。そう思ったの」 始めたばかりの頃はバレエシューズを使い、慣れてきたらトゥシューズを使う―― といった(教室によっては違うかもしれないが)暗黙のルールがある。 しかし、稽古として学ぶ場合すぐ靴を履き潰してしまう為、トゥシューズを履ける年頃になってからも、 普段の練習はバレエシューズを使い、舞台稽古中、ゲネプロや本番にトゥシューズを使うというのが一般的なのだ。 「……偶々って事もあるんじゃないですかね」 「ええ、それだけならもしかしてだけど、滑り止めの松ヤニを渡したときも、かかとに付けすぎるなよって言っていたでしょう?」 「……そうですね。松ヤニならシューズの裏に塗るって考える方が当たり前ですものね」 グラン・ジュッテなど激しい演技が多い場合、靴が脱げるのを防ぐ為にかかとに塗ることがある。姉がやっていたのを見て知ったことだ。 白羽を彷彿とする着眼点に――いや、自分が知らず知らずヒントを出していたことに頭を抱えそうに為った。 いや……それほど強く隠し通そうと決めていた訳ではないのだけれど。 「それでどうかしら。私も協力しますし、振付をやってみない?」 白羽に頼んだらどうですか? バスキア教諭と一緒だと緊張して無理です 余程苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだろう、断る前からバスキア教諭は眉を顰めた。 「……いや、その、適材適所というやつですよ。幾ら詳しくとも今まで一度も参加してこなかったクラスメイトが振付をするなんて――」 わたしなら嫌な気分になる。 「そんなことないわ」 しかしバスキア教諭は首を振って答えた。 「このクラスにそんなことを言い出す生徒はいません。発表会は一年生皆で協力する催しものよ。全員が参加した方が佳いと思っているわ」 この人は性善説の人なんだよな、と苦笑う。$わたしは―― 「とにかくやれる自信がありません、辞退します。それより白羽が――踊るよりも裏方をしたいと言っていました。代わりに頼んでみては?」 「八重垣さん……」 捨てられる前の子犬のような目を、わたしは唇をぎゅっと結び、振り切ったのである。 (素気なく断るのも悪いしな……) 世話になっている手前、やんわりと断りたい。$刹那、熟考し―― 「い、いや……バスキア教諭と一緒ですと緊張して無理ですよ」 と言った。世辞だ。 「はい? どうしてかしら?」 が、伝わってなかったのか小首を傾げる彼女へ、 「協力して振付を行うなら、その……刺激的な格好のバスキア教諭とずっと一緒なのでしょう。こっちの理性が保ちませんよ」 「え、あ……!」 わたしは――思い違いをしていた事実に直面する。 吐いた軽口に、いやだわ、そんな! と謂わば中年女性的な返しがくるパターンと、 冗談はいけません! と、ことバレエに関して真摯なバスキア教諭は窘めるかどちらかだと考えていたのだ。 だが、 「い、いや、だわ……。刺激的だなんて……恥ずかしい……」 「え、先生……?」 「ぅぅ……最近、その、太ってしまって……だから……見ないでください……」 まるで十代の生娘のように羞恥に悶えるさまを見て、わたし自身も恥ずかしさで頬を染めてしまった。 (軽口なんだから冗談で返してくださいよ……!) 腕をクロスさせ視線から守るように胸を隠す仕草に、例えようもない淫靡さを感じる。 スタイルが扁平なわたしからすれば垂涎の的だというのに。 「す、済みません……冗談が過ぎたみたいです……」 どうにか場を収めるため、頭を下げたのである……。 とにかく済みませんと、再度頭を下げたことが契機だったのかバスキア教諭は漸くあきらめ、 休憩を終える合図を送ると再び試験に戻ってくれた。思わず小さくだが、深い溜息を吐くと、 「振付、やらないの?」 背に言葉を投げかけられ、吐き出していた息を、ぐっと止めてしまった。 「……足音を立てずに歩くんじゃない」 「はぐらかさないで」 「……面倒だ。そういうのはもっとマメなやつの仕事だろ」 わたしの性格を知っているからこそ言葉に詰まり、何か言おうと小ぶりの唇を開け閉めさせる。 余計なことを言ってほしくないわたしは、千鳥から視線を逸らす。と、 「――私はえりかの振付で踊ってみたいわ」 「え……」 再び視線を上げたときにはもう遅い。背を見せ姿勢良く試験の始まった場へと向かっていった。 「次は考崎さんね。始めて頂戴」 クラスメイト皆の視線が集まる中――考崎千鳥の選考試験が始まったのである。 結果だけを述べるなら、やはり考崎千鳥の踊りは群を抜いていた。 演技の凄さを他者へ伝える際、“回転の際、軸がぶれないこと”“跳躍した際に重力を感じないこと”などで伝えることができる。 だが、考崎千鳥の踊りを言葉にすることは難しい。 今上げた二点も当然できている事柄だが、一つ抜き出すなら、“目が離せない”ということだろうか。 完璧であるのに何処か危うさがあり、それ故目を離すことが出来ない。 終わった後に素晴らしいと手を叩けるものでなく、魂を少しの間だけ持って行かれてしまうような感覚。 わたしなら―― 「はい。ありがとうございます、花菱さん」 盛大な拍手の中、レヴェランスで応える。 (順当に行けば委員長で決まりか) 確かに千鳥の踊りは群を抜いていた。しかし、委員長もやや技量は劣るものの引けを取ってはいない。 そして拍手から分かるように安定感と――表現力は千鳥よりも勝っている。 「八重垣さんの目から見て、主役はどちらに為ると思う?」 その問いに、 順当に委員長だな 判官贔屓を言っていいか 「順当にいって……委員長だろうな」 「そう? 考崎さんもお上手だったのに」 「確かに技量だけなら委員長より上だが、安定感がない。見ていて白羽も感じただろ?」 技がどうこうより雰囲気で伝えた事が佳かったのか、確かにと頷く。 「……それにオーロラ姫は向かないだろうしな」 「判官贔屓に聞こえるだろうが……千鳥かな」 「え、別にどちらも上手だし、判官贔屓だなんて思わないわよ」 白羽の言葉にわたしが選ぶならだよ、と大前提での話を続ける。 「確かに技量だけなら千鳥が上だ。だが、危うい感じがするだろう?」 雰囲気から感じ取っていたのか、確かにと頷く。 「あの危うさと目を惹きつける演技は千鳥の表現力の一つだと思うが、悪い面をあげるなら抑える演技をしていないんだ」 「抑えて……いないって?」 「分かり易く言うなら、自分の技量より上の技に常時挑戦しているというのか……」 「常に攻めの姿勢なんだな。さらなる完璧を求めすぎている。そこが危うい」 「そう……。だから目を惹いたのね」 わたし個人は攻める姿勢が好きだ、と〈裡〉《うち》で呟く。だが、 「……ま、千鳥は主役には選ばれないだろうな」 「どうして?」 オーロラ姫に向かず、主役に選ばれない理由。 「例えば白羽がフィギュアスケートのコーチに為った場合、実力が同程度と仮定して――」 「常に全力の選手と、八割の力で演技する選手がいたとしたらどちらを選ぶ?」 「それは全力の選手の方が……」 口優しい言葉を吐こうとするも、真意に気付いたのか口を閉ざした。 「な、常に全力って言うのは聞こえはいいが、一発勝負のスポーツの場合失敗する危険性がつきまとう。だが、」 「八割の力で戦う選手なら、まずまずの成績で失敗は少ないだろう」 そういうことだよ、と締め、未だ続く試験を眺めた。 「まぁ、これは仕事じゃない。教育の一環だとするなら全力を傾ける生徒の方が望ましいだろうが……」 「何?」 言葉を切るわたしへ、ポニーテールを揺らし小首を傾げた。 もう一つの理由。 「そもそも眠れる森の美女の主役、オーロラ姫はステレオタイプのお姫様だ。純真で天真爛漫。つまり――鉄面皮では演技が難しい」 決定的な向かない理由。 バレエでは辛いときほど笑えと教わる。練習中に疲れた顔をするとその場で叱責される程だ。 たとえ足の皮が捲れたとしても、本番中では一切痛いという表情はしては為らない。笑顔の場面では笑顔を作る。 「そう……ね。オーロラ姫は笑顔で踊らないといけない」 劇の筋にもよるが、役柄上、笑顔で踊る場面が多いのは明らか。 ならば―― 「……バスキア教諭がどういう判断をするかね」 真摯に踊る演者に視線を移し、わたしはそう呟いたのだ……。 試験を終え、後日だと思っていた配役の発表が直ぐ為された。 「サファイアの精役、常磐さん。ダイアモンドの精役、有賀さん――」 名のある役を呼ばれ嬌声をあげ喜ぶ者。 自分の名を呼ばれるのを待ち、祈るように手を合わせる者。 「長靴を履いた猫役、沙沙貴苺さん。白猫役、沙沙貴林檎さん」 「やった! 猫ちゃん役だぁ!」 「衣装、愉しみですね」 互いに猫の手を真似、じゃれつく姉妹。ついクラスメイト等も〈朗笑〉《ろうしょう》をこぼす。 「赤ずきん役、白羽さん。オオカミ役、八坂さん――」 「え、わ、私が赤ずきん役……!?」 裏方を希望していた白羽が、可愛らしくもコミカルな演技が必要な赤ずきん役に選ばれ、わたしは思わず猫の笑みを浮かべてしまった。 (バスケットを片手に踊る白羽か。見物だな) 舞台を見たことがあるわたしは頭の中で眠れる森の美女の赤ずきん役を白羽に変え、笑っていると―― 「…………」 配役を告げる声が止まったことに気付き、眉根を寄せるバスキア教諭へと視線を向けた。 「残る配役――主役のオーロラ姫役とフロリナ王女役なのだけど、まだ決めかねているの」 残り二役となり――考崎千鳥と花菱立花が呼ばれていない以上、彼女たちの内、どちらを主役にするのか――という悩みなのだろう。 「……考崎さんの踊りも素晴らしかったですけど、りっちゃんさんも負けてなかったですよね」 「……わたし的にはりっちゃんの方が佳かったけど」 囁かれる声は花菱立花を押す方がやや多く、考崎千鳥の名前も少なからず聞こえた。と、 「おかしいと思います」 論争の中心であるアミティエが、悩むバスキア教諭の前へと進み出た。 「花菱さんと比べ私の方が技量は上です。悩む必要が感じられません」 相手を慮らない発言に、論争の声はやみ、代わりに視線はきつくなる。バスキア教諭は戸惑いながらも諭すように告げる。 「オーロラ姫の役はたくさんの感情表現が必要なの。豊かな感受性と、それを表現できることが重要。分かりますね?」 「…………」 諭され納得できる自分と抗う己がいるのだろう。 唇を噛み、俯く。 しかし、 「私と花菱さん、もう一度再試験をしていただけないでしょうか」 「考崎さん……」 「花菱さんも構わないわよね」 必死な声に押され、委員長は躊躇いがちに、だが確かに頷く。 「お願いします」 真摯な鋭い瞳に射すくめられ、 「――分かりました。ではもう一度踊って貰いましょう」 そうバスキア教諭は再試験を認めたのである……。 オッカムの剃刀という単語が浮かぶ。 無用な要因は排除し、必要以上に多くを仮定するべきでないとする法則のことだ。 この考え方はわたしの生き方に合う。$馴染むという言い方が正しい。 考え方はシンプルであればあるほどブレず、己に嘘を吐かずに生きられる。 再試験での出来事を思うとオッカムの剃刀を思い浮かべないわけにはいかない。 何故、再試験を望んだ際にアミティエを抑えなかったのか。 再度行った試験においても互いに譲らず―― 躊躇ったバスキア教諭にもう一度とアミティエが申し出たときに、後日でいいと何故窘められなかったのか。 幾度も踊り、目に見えて疲労していた花菱立花。そして、互いに何度も踊ったことで床に溜まった汗を見逃したのか。 ――幾つものこうすれば佳かったのにという仮定。 そう、わたしが思い浮かべたオッカムの剃刀はまるで真逆だ。無駄な仮定を積み上げてしまう。 何故そうしなかったのか、という悔恨の思い故に。 全ての選択肢を見過ごし――花菱立花が、アラベスク・シャッセ・アン・トルラッセを高く飛んだ刹那、 無慈悲なオッカムの剃刀は――運命の糸を断ち切ったのだ。  ――ああ、これは夢なのだな、と思った。  何度も何度も繰り返し視た夢。私自身が見続けることを望む悪夢。  役者として初めてバレエの舞台にて主演が決まり――珍しく父母が舞台を観に来てくれると云ってくれた。  両親の歓心を買おうと熱を入れ練習に励んでいた私。  そして私を唯一慕う劇団の後輩にもそれを強いてしまった。  具合が悪そうだと分かっていたのに。熱があると他の演者から聞いていたのに。  私は何でも云うことを聞いてくれる後輩へ甘えていたのだ。  ――夢の中の舞台は進み、あの日の劇へと移り変わる。  舞台袖から関係者が座る席に父母の姿を認め、舞い上がる私。  調子を崩している後輩のことなど頭にはなかった。 『辞めて……』  $ 演目はくるみ割り人形。  クララ役の私は没頭し――第一幕の終盤を迎え、 『また……』  $ 雪の精たちのコール・ド・バレエが始まる。  あの子は――いいえ、後輩の姿なぞ視界にも、気にも留めていなかった。 『あの光景を……』  $ 雪片のワルツを、  踊っていた彼女は倒れ――  立ち上がることが出来ない後輩へ、心配よりも苛立ちを抱えて彼女の元へ向かった。  ああ、私は知らなかったのだ。もう彼女が踊れなくなってしまった事を。  私の所為で。両親に縋りたいと薄気味悪い感情を抱いていた所為で。  慕ってくれていた後輩の不調を見過ごしていた。  夢の中の私は、彼女の肩を抱き、そして―― “貴女なんて誰も視てはいない” 「――はぁッ」  いつもの悪夢にはない。今さっき発したような声が耳朶に残っていた。  まるで眠っていた私の耳に、そっと呼び掛けたように。  夢の中の声音だと云うのに、その声は生々しく吐息が耳に触れたような熱を持ち、私は震える手で耳朶に触れた。  指は震え、手のひらは知らず頬に触れる。寝汗だけとは思えないほどの脂汗が滲み、緩慢にぐっしょりと濡れる額を拭った。  汗、そうだ。私は―― 「また……同じ事を繰り返して……」  自分の都合を優先させ、周りを観ていなかった。あの時の舞台と同じように私は……。 「…………ッ」  悔恨の情が胸に湧き出す。それは夜の静寂と同調するように深く静かに広がり、私を包んだ……。 招かれざる人物の来訪に、お茶会の席は妙な緊張感を孕んでいた。 「ま、わたしも望まれぬ来訪者なんだろうが……」 隣に佇むアミティエの存在が緊張の正体だ。このお茶会の主催者は花菱立花。 昨日――花菱立花へ無理を言い、意見を呑ませたことで彼女は怪我を負った。 軽い捻挫らしいが、足を抱え呻く委員長の傍らで、まるで今し方人を殺めてしまったかのような青い顔をした考崎千鳥の表情が―― その表情が、さらに一段事の重大さを増させたのだ。 (昨日の夜の言葉……同じ事を繰り返して、か) 常と変わらぬ鉄面皮のようだが、わたしには思い悩んでいることが分かる。 瞳は目の前のカップを睨んではいるが、その像を映していないだろう。 「ごきげんよう。主催者が遅れてしまって申し訳ないわ」 気を遣っていたわたしが聞き知った声に頭を上げると、 「あら、ちゃんと連れてきてくれたのね。ありがとう八重垣さん」 白羽に手を引かれ、頬を上気させながら嬉しそうに微笑んだ。 足を引きずる様は痛々しくも、体重のかけ方を視ると、それ程重傷ではないと……思う。 「皆さん。心配をお掛けして御免なさい。でも、軽い捻挫なので大したことがないの。だからそんなに悲しそうな顔をしないで」 「何だか、もっと大怪我をしなければいけなかったのかと思ってしまうわ」 戯ける委員長の言葉にクスクスと笑いが零れ、ようやく空気が緩んだ。 わたしは、隣に立つアミティエの尻を叩く。千鳥は顔を強張らせながら花菱の元へ、重たい足取りで向かった。 「考崎さん……」 「あ……その……」 「私……あの時は……」 何度も口を開こうとするも魔法を掛けられたように謝罪の言葉が出てこない。 何を躊躇うことがあるのだろうと、周りのクラスメイト等の目は訝しげに変わっていった。 「――いいのよ」 「え?」 「わたしが倒れた時、あんなに青い顔をしていたのですもの。悪いことをしたのだって思ったのでしょう」 「それは……私があんな事を言い出したから……」 「いいえ。転倒してしまったのは考崎さんの所為じゃない。自分の所為よ。着地の際足を開きすぎていただけ。貴女の所為じゃない」 母のように微笑む委員長へ、何か大切なものを見付けたかのように凝っと見詰める。 ややあって、 「ごめんなさい。花菱さん……」 囁かれるように言葉が零れ落ちた。$委員長が千鳥の手を取り笑んだことが契機か、お茶会の席に愉しげな声が響きだす。 「……一件落着か」 赦されたというのにいまだ表情が優れないアミティエを観、一応の、と心の中で付け加える。 お茶会の宣言をし、三々五々始める皆を避け、白羽の元へ行き、 「本当に只の捻挫か?」 と訊ねた。$白羽は驚いた顔をして答える。 「本当よ。大事を取って今日一日は保健室登校をしていたけど、明日からは教室に戻れるわ」 「付き添っていた白羽が言うなら大丈夫か。どうも勘ぐっちまうのが悪い癖だ」 「なぁに? わたしのことを心配してくれているの?」 茶請けのグレードが落ちてる気がしてね 保健室で白羽に手を出してないか聞いてたんだよ にこにこと笑っているさまに思わず、 「心配はそりゃしてるさ」 「え? 本当に、嬉しいわぁ!」 「怪我の所為でお茶会の菓子のグレードが落ちたんじゃないかってね」 「え……」 つい吐いてしまった軽口に分かり易くおさげを萎れさせた。 「ごめんなさい。今日は出来合いのものばかりになってしまって……」 「え、お、おい。冗談だよ。そこまで食い意地がはっちゃいないさ」 「ふふ……」 悲しげに萎れていた委員長の唇は綻び、 「わたしも冗談よ。やったわ。初めて八重垣さんから一本取れたわねっ」 喜び、跳ねようとして痛みに顔をしかめる委員長を見、笑うしかなかったのである。 恥ずかしげに瞳を瞬かせている仕草に、ついからかいたくなったわたしは、 「いや、今日一日保健室登校で白羽が付き添っていただろ。ベッドもあることだし、書痴仲間を襲ってやしないかってね」 「な……っ」 一瞬で委員長の頬が染まる。 「そんな事してないわよぅ! た、確かに、手を取って貰えたり、寄り添っていたからドキドキはしてしまったけど……!」 「ぅぅ……だってしょうがないじゃない。蘇芳さんすごく優しくて……なんか、もう……」 顔中赤面し、自分が拙いことを口走っていることを分かっていないようだ。 「立花さん……」 流石に白羽は照れて俯いてしまっているが……。 (匂坂はもう居ないんだ。委員長とよろしくやってくれた方がいいんだが……) 本来なら揶揄されるカミングアウトだろうが、委員長が白羽を好いていることは公然の秘密というやつだ。 他のクラスメイトからも温かい目で見守られていた。 暫し和やかなお茶会の時が過ぎると――スプーンでカップを叩く音が響いた。 「どうしたのりっちゃん? まさかまた恋人宣言……!」 「おおぅ、りっちゃんさん……」 「巫山戯ないの。個人的なことだけど、皆には報告しておきたいの。ここへ来る前にダリア先生と話し合ったのだけど――」 「バレエ発表会でのオーロラ姫の役は考崎千鳥さんに決まったわ」 歓声ではなく疑問符の声が響く。ざわめく皆を見詰め、収まった頃合いを見図ると続けた。 「怪我で稽古が出遅れてしまう事もあるけれど、わたし自身、オーロラ姫は考崎さんが向いていると思ったの」 「花菱さん……」 「言いたいことは分かるわ。でも決して貴女の思うような事だからじゃないの。考崎さんの方が姫役が映えると思ったからよ」 「それにフロリナ王女役も面白そう。オーロラ姫の結婚式で招かれるおとぎ話のお客様で、長靴をはいた猫と白猫」 「わたしたちですね」 「ええ。それに赤ずきんたちとも踊れるし」 白羽を見詰め微笑む委員長の姿に場の空気が戻った。委員長の白羽好きも役に立つらしい。 「そうそう。それでもう一つお話があるの。これは提案なのだけどいい?」 「赤ずきんと踊るオオカミ役を譲ってというのは無しだよ」 白羽とペアの生徒、確か八坂という生徒ははにかみつつ微笑んだ。 「ち・が・い・ま・す! 9月2日がダリア先生のお誕生日なのよ。だから皆でお祝いしたいと思ったの。どうかしら?」 「お誕生日会! 佳いんじゃないかなっ。お世話になっているしね」 「苺ねぇは特にお世話を掛けているですよね」 姉妹漫才が続き笑い合うクラスメイト等。彼女たちも口々にお祝いしましょうと提案を受け入れた。 「私も……構わないわ」 「八重垣さんは?」 問われるまでもない。$バスキア教諭には介助を含み世話に為っている。 頷くとおさげを揺らし、 「それじゃお誕生日会決定ということで! プレゼントを何にするか決めましょう!」 勢い余って跳躍し、着地した時の痛みに顔をしかめながら宣言したのである。 ――夜半に雨が降った所為か、窓から見える外の景色は白く靄がかっていた。 「変な時間に目が覚めちまったな……」 部屋に篭もる暑さの所為か、少しだけ開けている窓から靄が入ってきているようにも思える。 そして、微かに聞こえるは悲しげな歌声。 体を起こし隣のベッドを見遣ると、想像していた通りもぬけの殻だった。 歌声に耳を傾ける 物思いに耽る 「……随分と物悲しい声じゃないかよ」 意識し耳をそばだてていると聞こえるは物悲しい旋律。 初めて聞いた時の歌声を思い出す。$いや……。 「あの時よりも胸に迫るな……」 耳にした、“同じ事を繰り返して”という言葉。 オッカムの剃刀を使いシンプルに仮定するならば、自分の我が儘の所為で怪我をさせた相手がいる、ということなのだろう。 (あんなに青くなっていたものな……) おそらく同じバレエの舞台――練習で、だ。状況が同じ故、古傷を刺激されたというところか。 「……クソ」 耳朶に届いてくる唄がわたしの考えを肯定するようで、朝靄が這入ってくる窓から目を逸らした……。 唄を追いやり、わたしはあの言葉“同じ事を繰り返して”という呟きを思った。 オッカムの剃刀の法則から紐解くならば、花菱と同じようにバレエの舞台で己の過ちから怪我をさせた相手がいる、ということなのだろう。 「……あれだけ真っ青になっていたんだ。只の捻挫でしたって訳じゃないんだろうな」 下手をすれば二度と踊れないような……。 「……ッ」 自分に置き換えると胸が鬱ぐ。$他人に迷惑を掛けぬように生きようと決め、実践して今までやってきた。 わたし自身の所為で人生が狂うような事となったら……。 物悲しげな唄を聞かぬよう、枕で耳を塞いだ……。 「今日の朝食は大葉とシトラス風味のカッペリーニがメインか。カッペリーニを見るとそうめんが食べたくなるよな」 細いパスタをフォークに絡め食す。さっぱりした風味は朝食に、暑い盛りにはぴったりだ。 「食、進んでないみたいだな」 「別に」 食前の錠剤を喉に流し込むと、ようやくパスタに手を付ける。 珍しくサラダ以外のものを食うようになったと思うも、どうやら自分の中の規範を忘れるほどに思い悩んでいるようだ。 わたしは付け合わせのオクラのゴマ和えを食べつつ、アミティエの顔色を窺った。 いつもの鉄面皮ではあるが……。 「そういえば伝え忘れていたことがあるんだが……」 「何?」 「オーロラ姫役おめでとう。プリンシパルになったのに祝いの言葉を言ってなかったと思ってね」 「…………」 「バレエ発表会での踊り、期待してるぜ」 わたしの言葉に少しだけ反応するも暗い表情は晴れぬまま、いつものような軽口を期待していたのだが……。 別の話題で気分を切り替えてみよう。 「そういえば昨日、バスキア教諭の誕生日会の話が出ただろ? 千鳥は個人的にプレゼントとかするのか?」 「プレゼント?」 初めて聞いたような口ぶりに呆れ、フォークを振り答える。 「世話になっているから全員で用意しようってなっただろ。でも特に世話になっている者は個人的に渡してもいいって」 「そう……」 「当然、わたしは贈らなくちゃならないよな。これ以上ないって程面倒を見て貰ってるしさ。で、お前もこれから主役なわけだし――」 「しないわ」 「あ?」 「プレゼントなんて贈らないっていったの。心付けを贈って便宜を図って貰おうなんて安い考えだわ」 自分の行いを否定され、腹の底がちりと燃えた。だが、 (これは潔癖だってことで赦してやるよ) 自分に言い聞かせる。$だが、ワンストライク、だ。 「ま、そういう考え方もあるよな。だがわたしはわたしでやらせて貰うぜ。姉からも義理が廃ればこの世は闇夜って教えられてるんでね」 聞いていない風の千鳥は不味そうにカッペリーニを口に運んだ。ツーストライクだ。 わたしは美味い料理が不当に貶められているのは我慢為らない。 「……委員長の怪我のことだが」 「……何よ」 「気にしない方がいい。気にしなさ過ぎも角が立つが、心配しすぎるのも迷惑だ。そもそも委員長は役についてそれ程執着がないみたいだしな」 「向上心がないのね」 「違う。自分が規範だと思うなよ。自分にとっては必要かもしれないが、相手には大して意味が無いことなんざ腐るほどあるんだ」 千鳥はまた不味そうにパスタを食す。$わたしは逡巡するも、 「……委員長と誰を重ねているんだ」 そう訊ねた。$硬直したかのように止まる手。 「怪我をさせた時の千鳥は明らかに様子がおかしかった。それに、同じ事を繰り返してっていう言葉――」 「やめて」 「だけど、」 「勝手に人の事情に首を突っ込まないで」 苛立つことに苛立った目を向け、朝食をそのままにして部屋を出て行く。 「アウトを取られていたのはわたしの方だったのかもな……」 荒々しく閉められたドアを眺め、わたしは味のしないパスタを口にした。 「やっぱり誕生日会はサプライズの方が面白いと思うんだよね」 「でも、あれは失敗するとかなりの気まずさになりますよ」 食事をとるのを忘れ誕生日会の打ち合わせに興じる沙沙貴姉妹を見遣りながら、わたしは昼食のトレイを膝に乗せ空いている席へと向かった。 「おおっ……! 八重垣ちゃんじゃないですか」 「あれ? 今日はこっちでお昼するの? 珍しいねぇ!」 問答無用とばかりに車椅子の押し手を掴み、離れたところに座ろうとしていたわたしの意向を無視し、 クラスの主だった者たちが揃う卓へと足を向けさせられてしまった。 「おい」 「それじゃ八重垣ちゃんはこのお誕生日席ね」 「お膝の上、失礼しますよ」 椅子が移動できない形のため、椅子のないテーブルの先に車椅子ごと移動させられ、膝に置いたトレイを奪われるとテーブルへと置かれた。 「珍しいわね。いつもはお部屋でお昼をとっているのに」 「今日はこっちで食いたい気分なんだよ」 「そう。でもちょうど佳かったわ。ダリア先生のお誕生日会のことで話し合っていたの。八重垣さんの意見も聞きたいと思っていたのよ」 朗らかな笑みで告げる委員長の言葉に毒気が抜かれてしまった。 (辛気くさいやつと飯を食ったって美味くないしな……) 自室で食事をとっているアミティエを思い出し溜息を吐く。 面倒臭いことになったもんだ。 「……平気? えりかさん」 「何ともないよ。それと名前呼びに戻っているぞ」 勘の良い白羽はわたしと千鳥との間に何かあったという事に気付いたようだが……話す気はない。 「せっかくの烏賊のわた焼きが冷めちまうからな」 今日の昼食メニューは、シンプルな烏賊のわた焼きにお新香。そして炊きたての白米だ。 烏賊わたの――ほろ苦くて塩味が利いている大人の風味が食べたくなったのだ。 ちなみに烏賊のわた焼きだが、わたと烏賊は絡めておらず、わたはわた、烏賊は烏賊と分けて貰った。 輪切りにボイルした烏賊にそのままわたを絡める料理法もあるが、そいつは邪道だ。 わたはアルミホイルで火を通し、上から少々の塩を振る。 そして別個として輪切りになった烏賊焼きを、塩気の利いたわたを自分の裁量で付け、食べるのが至福なのだ。 やや硬くなったわたを箸で裂き、輪切り烏賊に乗せる。そしてそのまま口の中へと放り込むのだ。 烏賊の弾力のある食感と、口中にほろ苦いが濃厚なチーズのような味が広がる。 塩気の利いた苦みが口の中に残っている内に、湯気立つ白米を放り込む。 「ん……むっ……!」 これ以上の至福はない。落ち込んでいた気分がやや上がってきた。 「八重垣ちゃん、変わった料理が好きなんだねぇ」 「お前ももう少し大人になりゃこの味が分かるようになるよ」 わたを箸で裂き、沙沙貴姉へ差し出してみるが、一瞬見、首を振った。 見た目で嫌がるとは此奴もまだまだだ。 「で、誕生日会の子細は決まったのかい?」 「大体のところは、かな。後は皆であげるプレゼントなんだけど、八重垣ちゃんはどんなのがいいと思う?」 「そうだな……。花、を貰ったところでこの学院じゃ有り難みはないだろうし……。食べ物も残らない……」 「万年筆とかなら無駄にならないし、いいんじゃないか?」 「何だか、チョイスが男性的ですね」 確かに、と自分自身思いつつも箸を止めず昼食を頂く。 やはり熱いうちにいただくことが一番美味しく食べる秘訣なのだ。 「男性的って言葉で思い出したんだけど、この学院に男の人が現れたって話、聞いたことない?」 「ん……んむ……男? 全寮制の女の園だぞ? 昔はいざ知らず、教諭は当然、食事や消耗品の搬入の運転手まで気を遣って女性だって聞いてるぞ」 わたしの言葉を耳にしていたのだろう、委員長は眉を顰める。 「本当なの?」 と沙沙貴姉へ訊ねた。 「ふふん、この話のネタは本物だよ。何たってニカイアの会から聞いたことだからね」 刹那、ざわつく食卓。この卓はクラスメイト等しかいないが、話が広まるのは拙いんじゃないかと辺りを窺ってしまった。 「ちょ、ちょっと待ってください。男というのは、語弊があるんです。この話はフックマンの伝承から出たことなんですよ」 姉の迂闊な言葉に慌てたのは沙沙貴妹も同じらしい。$フックマン? フックマンと言えば……。 「ふっくまん? それってなぁに?」 「鉤爪男のことよね? 都市伝説の……」 「と、都市伝説ってまさか……」 「そうです。この学院の新たに判明した七不思議の一つらしいのですよ。〈碧身〉《へきしん》のフックマンと言われているそうです」 「な、七不思議……!」 怪談話が苦手な委員長は後ずさり、自分の椅子へと力なく座った。分かりやすい恐がり方につい猫の笑みを送ってしまう。 しかし、言われてみれば―― 「血塗れメアリー、彷徨えるウェンディゴ、寄宿舎のシェイプシフター、そして――真実の女神」 「今までの七不思議には、明確な男ってのは確かにいないな」 「そうなのですよ。八重垣ちゃんはフックマン伝承を知っているですか?」 本好きだからな わたしも乙女だぞ 「本好きだからな。そっち系の本も当然網羅しているよ。フックマンはアメリカの都市伝説だよな」 「手が鉤爪になっている男がアベックを殺し廻るって話だ。諸説あるがアベックの乗る車に轢かれて両腕を失った男が復讐するって話だろ」 「そ、その話はいいからお誕生日会の……」 「おおっ! よく知っていますね。さすがはわたしの見込んだ八重垣ちゃんですよ!」 何故だか感心したように沙沙貴妹は何度も頷いた。書痴の性というやつか、知識を披露するのは嫌いじゃない。 「――どうも」 と笑んでみせた。 「わたしも乙女だぞ、そっち系の話も当然知っているよ」 軽く答えた台詞におおっ、と声が上がる。頬が染まりそうになるのを抗いつつ、 「アメリカの都市伝説で手が片方鉤爪になっている男が、アベックを無差別で殺しまくるって話だろ」 「ええっ、無差別って何で!?」 「諸説あるがアベックの車に轢かれて両腕を失って悪霊化したから、だそうだ。他にも色々な説もあるが……」 ここでは話すと拙そうだなと笑う。笑みに含むところがあるのを分かったのだろう口を閉ざすも、他の疑問が出来たのか質問を投げかけてきた。 「でも諸説あるっておかしいよね。これだって理由が無ければそんなに広く流布しなそうなのに……」 「少し前に流行った血塗れメアリーだって、諸説あっても広く知られてる。あまりその辺は関係ないんじゃないか?」 「都合良く脚色されるのは都市伝説に限った話じゃないしな。例えば血塗れメアリーだって――」 「正体は魔女だとか、バラバラにされた花嫁、事故死した少女。正体だけでも五十以上の説があるんだ」 へぇ、と感嘆し頷く皆。すごいとクラスメイト等から言われ面映ゆい思いをする。 「大したことは言ってないぞ……」 「あっ! 八重垣ちゃん照れてるっ」 「……煩い」 と言いつつ頬を染めぬよう平常心を保つことに専念した。 「それで、フックマンがどうしたって?」 「そうそう。新しく七不思議に数えられた碧身の……これは緑色の服に身を包んでいたからだそうなんだけど、最近目撃者が出たっていうんだ」 「目撃者……ニカイアの会の人がそう言っていたの?」 「そうなんだよ。七不思議の中でも随分前に見られてからこっち、目撃者が居なかったから忘れられていたそうなんだ。でも……」 「碧色の衣服を着た男性の姿が目撃されたってことね……」 「手の鉤爪も、を忘れてますよ。碧色の服を着た男性なら、作業着を着たおじさんですよ」 沙沙貴妹の指摘にクラスメイト等はクスクスと笑った。だが、 「待って。な、七不思議じゃないってことは嬉しい考え方だけど、この学院に男の人が居るということは問題だわ」 そうなのだ。そもそもとして男性が足を踏み入れられる場ではない。 もし本当に見かけたのだとしたら、女の園だと知って忍び込んだ変質者なのかもしれないと考えたのだろう。 食べかけの昼食を前に押し黙った。 (実際は重い運搬物を持ってきた搬入スタッフとかなんだろうが……) 原則女性とは言っても、ベッドやシャンデリアなど、どうしても男手が必要な際は融通を利かせているのだろうと推察した。 「あ、でも大丈夫だと思うよ。ニカイアの会でも調査することが決まったんだって!」 噂を噂と断せず、調べるとのことにクラスメイト等は安堵した顔をみせた。$わたしは―― 「……面白そうだ。なぁ、わたしたちで〈碧身〉《へきしん》のフックマンとやらを調べてみないか?」 そう沙沙貴姉妹たちへと告げたのである。 ――千鳥の事でくさくさしていたから、フックマンの正体を暴こうと発言した面もある。 いや、クラスメイト等の不安を取り除いてやろうだとか、 女の園に不埒な考えで不審者がもしいるならばとっちめてやろうという道義的なことでもない。 気分転換。ただそれだけだったのだが―― 「さぁ早く聞き込みへ行きましょう!」 「ええ……そうですね……」 「ふふ! フックマン伝承かぁ……不謹慎だけど愉しいわね、八重垣さん!」 押し手から親しげに肩に触れるバスキア教諭へ、気分転換からこっち子供の世話のような状況になったのか、 わたしは少し前の状況を思い返していた……。 フックマンの謎を追うという話だが、怪談話を怖がる委員長は―― いや、そもそも捻挫が治っていないため不参加となり、白羽もその付き添いとのことで参加できなかった。 必然的に新たな七不思議を解明しようという物好きは、 「ほら早くしないと先に行っちゃうよ!」 「放課後まで待ったんです。もう我慢できませんよ」 わたしを含め、この三人と為った。 他のクラスメイト等も興味深げではあったのだが、踏み込む勇気はないらしく結果を教えてねといったスタンスだ。 「分かってるって。急がなくてもフックマンは逃げないよ」 「フックマンは逃げなくても、小御門先輩はいなくなるかもだよっ」 「です。授業が終わって放課後のこの時がねらい目なんですよ」 確かに、さっさと向かわなければ捕まえ損ねるか。 「さて、それじゃ目の保養にでも行くかね」 二年生の教室で先輩を探したが居らず、出遅れたことに気付いたわたしたちは、合唱部の練習があるかもと当たりを付け―― 学舎を抜けるところで、くだんの小御門ネリネに行き会うことができたのである。 「あら、ごきげんよう。沙沙貴さんたちと珍しいお友達に会えたわぁ」 「どうもご無沙汰してます。朗読劇からお見限りでしたね」 「ええ。ここのところ忙しくて怪談話ができなくて寂しかったわ」 はにかむように微笑むと周りが黄金色に包まれたような錯覚を起こす。 久しぶりに会ったからか、図抜けた美しさに少し引いてしまった。話していることは下世話なのだけど。 「そうです! 今日は小御門先輩に怪談のことでお話があるんです!」 「階段?」 エントランスの見事な階段、かつて聖ヨゼフの階段ではと調べた中階段を見上げる小御門先輩へ、沙沙貴姉はすかさず突っ込もうとするも、 「ここで安易に諭したら苺ねぇの負けですよ」 「ぅぅ……」 双子ならではの葛藤がみられた。 「そっちじゃなくフックマンの話ですよ。七不思議の〈碧身〉《へきしん》のフックマンのことです」 「ああ、そのことねぇ」 手を叩き愉しげに笑む。$特に笑わそうと思っていなかったと気付き双子姉妹は悔しそうに〈臍〉《ほぞ》をかんだ。 「ここ最近……といっても一週間ほど前からのことかしら。クラブハウスの方で不審な人影が見られるという話が出てきたの」 「おお……。それが?」 「最初は下校時刻になっても練習がしたい部の子が残っていて、その姿を見たのだとなったのだけど……」 「う……ん。幽霊でないのは詰まらないけど、ありそうな話かぁ。あれ? 八重垣ちゃんどうしたの?」 「……なんでもねえよ」 そう答えるも、この時点でオカルトにありがちなネタが含まれていることに、真面目に聴こうとする気分が一段下がった。 (怪談の結びでその幽霊に遭った者は死ぬ系の話を聞いた気分だな……) ――では見聞きした怪談は誰が話したんだ、となる結びだ。 下校時刻を過ぎたあとで見たというなら、〈碧身〉《へきしん》のフックマンを見た生徒は規則を破っていることになる。 体験した怪談話を話すにしても、意気揚々と規則破りを話すのはこの学院の生徒像からは想像しにくい。 「それでその数日後、七不思議の伝承と同じ――」 「何を語らっているのかしら」 不意に背中越しに呼びかけられた声に、皆びくりと驚いて振り返った。 「だ、ダリア先生……」 「あらあら、どうしたの? そんなに驚いた顔をして。まるで幽霊でも見たみたいですよ」 「い、いやですよ。この神聖な学舎にそんなものがいるはずがないです。今は、その……」 「そ、そう! 小御門先輩の時のバレエ発表会はどんなだったか訊いていたんですよぅ!」 双子ならではの連携で難を逃れた――ように見えたのだが。 「そうなの。バレエ発表会で七不思議なんて幕があるのを初めて知ったわぁ」 珍しく遠回りな言い方をしたバスキア教諭に言いしれぬ何かを感じたのか、二人は愛想笑いで応えた。 「――そういった事は教職員の仕事です。沙沙貴さんたちは……」 「戻ります!」 二人同時に高らかに宣言し、回れ右をすると学舎を後にする。 当然わたしも徐々に距離を空け―― 「それで小御門さん。ニカイアの会では、今度の事件はどこまで調べているのですか?」 事もなげに七不思議の進捗具合を訊ねるバスキア教諭に、車椅子のハンドリムに掛けていた手を止めた。 ……何だって? 「被害らしい被害は出ていないので……。直接調査しているのは八代譲葉会長だけです」 「あの……七不思議なんて噂話みたいなこと信じてるんですか?」 「この学院に男性の影があるということは由々しき事態です。ただの奇談にして終わりというわけにはいきません」 そういった心得の話かと納得しかけるも、バスキア教諭はわたしの車椅子の押し手に手を掛け、 「では、八代会長のところへ行きましょう」 と、告げた。 「え、さっき教職員の仕事だって……」 「ええ。だから私が責任を持ちます。手早くこの七不思議の謎を解いてしまいましょう」 暗に捜査協力しろとの台詞に、 「すべてはバスキア教諭の御心のままに」 そう軽口を返すしかなかったのである。 「さぁ早く聞き込みへ行きましょう!」 「ええ……そうですね……」 「ふふ! フックマン伝承かぁ……不謹慎だけど愉しいわね、八重垣さん!」 ――そして、時は今に戻る。 気炎を上げるバスキア教諭にどうにも呑まれているわたし。 ただの気分転換のつもりが妙な話になっているからだ。 「バスキア教諭と一緒なのが嫌ってわけじゃないが……」 「どうしました?」 「――そろそろ目的地ですよ」 愉しげな彼女へそう告げ、 (……噂をしたら影だ) クラブハウス付近に出没すると言われているなら、ついでと料理部に顔を出しているかもと思ったが、案の定。 「おや、珍しい場所で珍しい二人組に逢うものだ。どうしました、部の視察ですか?」 「いえ。八代会長へお話があって会いにきたのです」 「そうですか、ふむ。どうぞ中へ」 廊下へ出たばかりの彼女は、再び料理部へときびすを返した。彼女に従いわたしたちも料理部へと入る。 どうやら料理部は休みだったらしく、部員の姿はなかった。 いや、料理部の部員である沙沙貴姉妹が謎解きに付き合っていたことを考えるなら、休みなのだと入る前に気付いても佳かったのだが。 「バスキア教諭、八重垣君もコーヒーで構わないかい?」 頷くと既に用意してあったのか、サイフォンからフラスコを取ってカップへ注ぐ。 ローストナッツを思わせるような薫りが鼻腔をくすぐる。 「どうぞ、秘蔵の一品ですよ」 「ありがとうございます」 バスキア教諭に続けてわたしも受け取る。しばし薫りを愉しみ嚥下した。 紅茶よりもこっちの方が向いているようだ。目が、頭が冴える。 「美味しいな……。うちの委員長にコーヒーの淹れ方を教えてやってくださいよ」 「ふふ、親の仇のような目で見られてしまうよ。それで――お話というのは七不思議の事ですか?」 軽い態度だが流石にニカイアの会の会長、察していたらしい。バスキア教諭はハンカチで口元を拭うと、はいと頷いた。 「七不思議の……フックマンについて調べているそうですね」 「教職員へと話がいっていないのはまだ確定した事柄ではないからです。見間違いかもしれない」 「それでも構いません。子細が知りたいのです」 バスキア教諭の態度に、わたしを一瞥する。と、何か察したのかカップにコーヒーを注ぎ、湯気を眺めた。 「フックマンらしき報告があったのは実はここ数日のことなんです。それ以前は、どちらかというと幽霊談義のような話だった」 「幽霊、ですか?」 「ああ、シスターと魂についての語らいは話が長くなってしまうので、ここでは通常の女学校にありがちな幽霊騒動と考えてください」 「宵闇の静かな廊下を黒い影がすぅ……と現れ消え失せてしまうようなお話です」 頷くバスキア教諭。耳に痛い話だろうが、一応聞いておかなければと訊ねる。 「その幽霊騒ぎも、フックマンも誰が見たのですか? 又聞きって訳じゃないですよね」 意図がわかったのか、シニカルな笑みを向けると、 「目撃者の有無だね。下校時刻が過ぎても学院にいた不心得者が証言したのがおかしいという話だ」 「ぁ……」 「此には分かり易い解がある。目撃者はね、僕たちだよ」 「え、あ……ニカイアの会の皆さんが、ですか?」 「はい。諸業務に加えバレエ発表会も間近になってきていましてね。寮に戻る時間を遅らせて貰っているんですよ」 「バレエ発表会で使う小物がクラブハウスの物置部屋にある所為でメンバーの者に取りにいって貰っていたんです。その時に黒い影を視た、と」 成る程、とバスキア教諭は頷くが―― 「それだけではフックマンの噂にはならないでしょう」 「ふふ、そうだね。それだけでは弱気の虫から見た幽霊騒動で終いだ。だが、ニカイアの会のほぼ全員がフックマンの姿を視ているのだよ」 言うと、カップを傾け実に美味そうにコーヒーを愉しんだ。そして記憶を辿るよう中空を見詰める。 「――作業で遅くなった折、使った道具をクラブハウスの物置へとしまうため急いだ。皆で帰る約束をしていたからね、付いてきて貰ったよ」 「ところが物置部屋の鍵を忘れていたのを思い出し、皆にクラブハウスの玄関口で待って貰い、鍵を取りに学舎へ戻った」 「鍵を手にクラブハウスへ。とっぷりと日も暮れていたので真っ暗だったよ。黒い影の話があったから皆は怯えていた。そして――」 「あれは文芸部のあたりだったかな。そこで黒い影を見たのさ」 「フックマンでなく?」 「僕には黒い影が鈍色の凶器を持って歩いているように見えた。だが、他の皆は碧色の人影だと震える声で言った」 皆、碧身のフックマン伝承を聞いていたからね――と続ける。 「皆を怯えから醒まさせ、再び姿を観ようと廊下の奥を覗くも、そこには既に人影がなかった……」 語り終え、コーヒーを傾ける。$バスキア教諭は眉根をよせ思案顔をみせた。$わたしは、 「集団ヒステリーとかではないですかね」 そう問うた。 「僕もそう思った」 失礼な意見だが八代先輩はシニカルに笑った。 「一人が碧色の服だったと告げてから口々にそう言った。一人が見たモノの狂気が移る……僕もそうではないかと思ったよ」 「八代先輩には人影は黒く視えたのですものね」 わたしの言葉の真意が理解できたのかバスキア教諭は目を大きく開いた。八代先輩はカップを置くと続ける。 「だから次の日、皆には黙ってフックマンとやらを見に行ったのさ。クラブハウスにいる者たちが引き上げたのを見て、玄関口で待機した」 そして暫くして――と続け、 「廊下を行く碧色のフックマンを確かに目にした」 「八代先輩の目にも碧色の服を着ていたのが見てとれたのですね?」 「ああ、すぐに後を追ったが逃げられてしまったよ……」 長い怪談を聞き終えたような感覚。黙って話を聞いていたバスキア教諭は、 「フックマンの顔は視たの?」 と、訊ねた。$意外な質問だったのか八代会長は珍しく無防備な顔をさらし、 「……いえ。顔はフードで覆っていましたので確認できませんでした」 と答えた。 (マズイマズイ、バスキア教諭を見習うべきだな……) わたしも八代先輩もフックマンの話を“怪異”として語り、聴いていた。 しかしバスキア教諭は、顔を見たかという問いで、悪戯をしている生徒か、不審者ではないかという疑いを暗に伝えたのだ。 「ご馳走様でした。お話ありがとう御座います。それでは」 「いえ。何かあればまた訪ねてください」 八代先輩に頭を下げ、料理部の部室を後にした……。 八代先輩の証言を元に、目撃者であるニカイアの会のメンバーに話を聞き終え、ほぼ副会長が話した事柄と変わらぬ筋であることを確認した。 そして今日できることはここまでだな、と自室に戻ることを告げたわたしへ、 「フックマンを視たくはないのですか」 そう聖職者らしからぬ言葉を吐いたのである。 驚きつつも、下校時刻を過ぎてからも噂を追えることに一も二もなく飛びつき―― 八代先輩とニカイアの会のメンバーが言った夕刻から夜に掛けて、という情報からそれまで時間を潰す事と相成ったのだが……。 介助のときのようにバスキア教諭に抱えられ、わたしは落ち着かない気分で踊り場の絵を見上げていた。 「……これは」 なかなかに気恥ずかしいですね、とは言えなかった。 「どうですか、この絵画は我が学院の誇る聖遺物なのですよ」 かつて白羽たちが血塗れメアリーの儀式を行った絵画の前に、お姫様だっこをされながら鑑賞する奇妙な状況。 「……わたしが時間潰しに他の七不思議探索でもどうですか、って言ったのが悪かったんだけどさ」 まさか、いの一番に此処へ訪れるとは思わなかった。それに、 「……下から見て終了だと思ったんだけどなぁ」 「どうです、心が洗われるようでしょう」 うっとりと絵画を見上げるバスキア教諭を見遣りながら、正直気が気ではなかった。 暑い中、活動した所為で掻いた汗の臭いはしないだろうか。 下校時刻が迫っている所為か人影は見えないが、誰かに見られはしないか。 軽々と抱えてはいるが重くはないだろうか。 「あ、の……。重いようだったらそろそろ……」 「え? あ、気を遣わなくとも大丈夫よぉ。八重垣さんは羽のように軽いわ」 「そ、そうですか。どうも……」 「ええ。痩せていて心配になるくらいだわ。もっとたくさん食べた方が佳いと思うわよ」 バスキア教諭に言われると厭味に聞こえないから不思議だ。 不思議ついでに本来気恥ずかしいだけの行動だが、こうして長く抱かれていると安心しきってしまう。まるで……。 「でも何故、徳の高い聖遺物が七不思議の一つと数えられているのでしょうね? 不思議だわぁ……」 「え、ええ。本来、奇跡を与える物ですからね。リトルバスタードみたいなものとは違う……」 りとるばすたーどって? と目を瞬かせる彼女へ肩に触れる大きな胸を気にしながらも続けた。 「ジェームス・ディーンが生前乗っていた車です。今では呪いの品と言われていますが……」 「呪いの……」 「死後高値で取引されたそうですが、リトルバスタードを手にしたオーナーは次々と不審な死を迎えたんです」 「今や本物のリトルバスタードは何処にあるのかも分からないそうですが……」 そう、と呟き聖遺物である聖母を見詰める。呪いの品の話をした所為か、どことなく不気味に感じた。 「怖い絵だと思っているのね」 素直に頷くのも躊躇われたわたしは戸惑っていると、 「“世の中は美しい。それを見る目を持っていれば”」 そう囁く。その言葉は記憶の糸に触れ、 「“聖メリイの鐘”ですね。古い映画だ」 「名前に惹かれて一度見たことがあるの。佳い映画だったわ」 全てを語らずとも真意は伝わった。 「観る目を持っていれば、か」 怖ろしく感じた絵画も、余計な感情を加味せず鑑賞すれば慈愛に満ちた優しい絵に映った。 わたしは温かな胸に抱かれ、素直な気持ちで聖遺物を拝観したのだった……。 下校時刻となり、件のクラブハウスへと至る渡り廊下へと赴いていた。 身を潜めるようにして、バスキア教諭とともに開放された廊下、そして建物を見遣る。 初めはバスキア教諭と四方山話をしていたが―― 夕日が沈み、辺りが闇に包まれると――灯りが点いてからは言葉少なに為ってしまった。 (随分とムードたっぷりじゃないかよ、おい) 学院の電灯は、白熱灯で統一されていると思っていたが―― 此処の外灯だけは別で、血を連想させる赤い電灯がクラブハウスの入り口を照らしていたのだ。 バスキア教諭さえも雰囲気に呑まれたのか何も喋ろうとしない。 黙したまま注視していた視線を外し、緊張を解すため、隣へと佇むバスキア教諭へと話しかけた。 「八代先輩の話や、ニカイアの会のメンバーの話ではこんなに雰囲気があるとは言ってませんでしたね……」 ええ、と頷く彼女へ続ける。 「クラブハウスへはよく出入りしていましたが、こんな風になっているとは思ってませんでしたよ」 「下校時刻を過ぎたら普通寮に戻っているものね。クラブハウスの玄関口がこうなっていることを知ってる人は少ないわ」 わたしは赤い電灯を指さし、何故そんなものが使われているのかを尋ねた。 「……まさか泥棒避けですか?」 軽口に思っていた以上に真面目な顔をされ、すわ本当かと思うと、バスキア教諭はわたしの手を取り語った。 「これはね、虫除けなの」 「……は? 虫除けって、暗喩としての虫除けでなく本当の意味での?」 「? ええ、そうよ。この学院は森の中に建てられているでしょう。だから白熱灯だと虫がたくさん寄ってくるの」 ふむ、と頷く。$道理だ。$白羽は絶叫しそうだが。 「防犯のため、各所に電灯を点けたままにしているけれど、このクラブハウスの玄関口だけ、ほら――」 昔のエレベータのような隙間だらけのシャッターを指さす。 「扉が昔のままだから隙間から虫が這入ってきてしまうの。だから赤色の電灯を点けているの」 説明されたお陰か昔読んだ知識が呼び起こされ、ああと頷いた。 「そういえば黄色や赤色にすると人間の目には同じ明度でも、虫からすると見づらいって読んだことがあるな……」 以前、気味が悪いと思った、田んぼのあぜ道にポツンとあった、赤い電灯の電話ボックスの謎が今解けた気がする。 赤い電灯が不気味に見えなくなったのは佳いが―― 「やっぱり噂は噂ってやつか……」 夕方から夜に掛けて、と言われていた出没時間はとうに過ぎている。 幾ら冗談好きな八代先輩とはいえ――ニカイアの会のメンバー等が見たというのは嘘ではないだろう。だが、 (クレタ人のパラドックスを思い出すな……) クレタ人は嘘つきだ、とクレタ人が言った。さて真か偽か。 答えがないというのが答え、哲学的な解に猫の笑みを浮かべると―― 「……人影が視えたわ」 と、バスキア教諭が呟いた。 黙したまま車椅子を動かす。$キィと蝙蝠の鳴くような声を響かせ、バスキア教諭に押され、クラブハウスに入る。 未だ姿は見えないが、バスキア教諭の押すがままに後を追いかけ―― 美術室のドアの前へと辿り着いた。 室内からは微かな物音。 「…………」 互いに目配せをし、 ドアを勢いよく開ける、と。 薄暗い美術室の奥、 手には鈍色の鉤爪、 全身を外套で覆った怪異が在った。 真実だと語られてはいたが何処かで嘘だと、虚像だと考えていた怪異が其処に、 「――――」 シスターが腕を翻したその刹那、フックマンの外套が碧と黒に歪み、 碧身のフックマンはその身を翻し、消え去ったのだ……。 「〈LARP〉《ラープ》だよ」 ライブアクションロールプレイだ、と改めて千鳥へと答えた。 アミティエは目を細め凝っとわたしを注視する。その視線の鋭さに脇に控える沙沙貴姉妹が怯えるのが手に取るように分かった。 馴れてない者には千鳥の視線はちとキツイ。 「ふむ。成りきり遊びというやつだね」 アミティエと語らっていた銀色の麗人はシニカルに笑い、 「それで僕は何を演じたらいい?」 そう銀糸の前髪を払い言った。 フックマンの正体を突き止めようとの言葉は当然善意から出たものではなかった。 怯えるクラスメイト等の為でも、女の園に闖入した不埒者に鉄槌をくらわせてやろうなどと熱い正義感を燃やしていた訳でもない。 ただ、千鳥との関係でくさくさした心の持っていき場所を求めていただけなのである。 しかし、正体を探ろうと誘ったクラスメイト等は及び腰で(お嬢様学校ということを考えれば致し方ないだろう)手を挙げる者はいなかった。 ……いや、引き受けるだろうと見込んでいた白羽は捻挫した委員長の介助の為、不参加。 手を挙げたのは―― 「え? 知らないうちに何かゲームが始まっていたの!?」 「一人だけ愉しむなんてずるいですよ」 挙手し、連れと為った姉妹が口々に言う。 「只の一人遊びだよ」 そうため息混じりに告げる。 「自分でないキャラに成りきるんだよ。それがラープってやつさ。なかなか面白いもんだぜ」 「へぇ、成りきるかぁ。なかなか面白そうな遊びだね!」 「……今演じている役は何なのですか? 刑事とか?」 「刑事? それはわたしが一番嫌いな役だ。チャンネルを変えればどこもかしこも刑事ドラマ」 「死亡推定時刻は? 被害者は恨まれていましたか? 話す台詞も判で決まっているような事しか言いやがらない」 「わたしが演じているのは探偵役だよ」 「それってあまり変わらないんじゃないかなぁ」 沙沙貴姉の言葉を無視する。と、いうか今の言葉は詭弁だ。 単にフックマンの話を聴きに来た際に此奴と会ってしまったことから、何しにきたの? という問いに口から出任せを言ってしまったにすぎない。 「……それで、お前は何をしに来たんだよ。八代先輩と一緒なんて珍しいじゃないか」 凝っと黙っていたアミティエに話を振る。 「バレエの演技の為よ。質問したいことがあったの」 へぇ、と答え暫し沈黙が包む。食事の際の出来事は互いに微妙な琴線に触れる事柄だった。 「……口を利きたくないんじゃなかったの」 「そう思っているのはお前だと思っていたよ」 「……そうね」 「……今のわたしは八重垣えりかじゃない。お前もラープしたらどうだ」 その言葉に、此奴を佳く知る前であったならば後退るほどの目力で注視される。 だが、真意を覗いているのだと知っているわたしはたじろぎはしなかった。 「――さて、そろそろ内緒話は終わったかな?」 「あ、と、済みません。話があるといって宙ぶらりんにしてしまいましたね」 「いや、探偵に待たされるというのも一興だよ。僕は密告者の役だ。さて、それで何が聴きたいのかな?」 「はい。実は新しい七不思議のことでお話を伺いに来たのですが……」 「ああ、七不思議の一つ、〈碧身〉《へきしん》のフックマンか。耳が早いね。沙沙貴君からの情報かな?」 口の端を歪め、沙沙貴姉に視線を遣る。$亀のように首を引っ込めたが、 「その口ぶりだと八代先輩知っているんですか?」 と悪びれずに訪ねた。 件の先輩は愉しげに腕を組むと一つ確かに頷く。 「ああ。何せフックマンと遭遇した当事者だからね。僕のところに聴きに来たのは正解だったね」 「おおっ!」 気勢をあげる双子姉妹を余所に、 「七不思議なんて馬鹿らしい」 と千鳥は呟く。 「そう思うのも無理はない。だが、実はここ一週間ほど、クラブハウスで黒い人影を見たという報告があったんだ」 「……不審者ということなら分かります」 「僕もそう考えた。だから仕事ついでに見回りでも、と考えていたんだ」 八代先輩は皆の顔を見回すと、此は愚痴じゃないんだがと一言断りを入れ続ける。 「諸業務と一緒に君たちの踊るバレエ発表会が重なって、ニカイアの会は今現在なかなかに忙しくてね」 「許可を貰って下校時刻を過ぎても作業しているんだ。今は日が長い。皆は夕刻前に寮に戻るだろうが、その時間――」 「作業に必要な道具がクラブハウスに揃えている物置部屋にあるため、度々会の者に取りに行って貰っていたんだ。その折に……」 「フックマンを視たのですか?」 「いや、その時点での報告では黒い人影だった。それも視た気がする位のね。決定的な状況で目にしたのはもう少し後のことだよ」 八代先輩の語りに初めは馬鹿にしていた千鳥も呑まれ、先を促すように見詰める。中空を見詰め、記憶を辿るように口を開いた。 「初めての遭遇は先ほども告げたが諸業務で遅くなった折りのことだ。帰る段となった時、辺りはすっかり暗くなっていてね」 「会の者たちと寮へ帰る約束をしていた為、皆に付いてきて貰い、道具を戻すためクラブハウスへ急いだ。だが――」 「な、何?」 「物置部屋の鍵を忘れた僕は一度玄関口で皆に待って貰い取りに戻った。そして鍵を手に再び玄関口に戻ると皆不安げな顔をしていたよ」 「そして――薄暗い廊下を行き、確か文芸部あたりだったか、そこで黒い人影を視たのさ」 「フックマンですか?」 「いや、僕には黒い人影が鈍色の凶器を持って歩いているように見えた。だが、会の者たちは碧色の人影だと震える声で言ったよ」 皆、碧身のフックマン伝承を識っていたからね――と続けた。 「直ぐに捕まえるべきだったんだろうね。だが怯えている皆をそのままにしておく訳にはいかなかった。落ち着かせた時にはもう……」 消えていた――と沙沙貴妹が先を促す。先輩は悔しそうに頷く。と、 「何故……八代先輩だけは碧色の人影に見えなかったのかしら」 わたしと同じ疑問符を抱いたのかそう呟くと、八代先輩は顎に手をやり、それは僕も不思議に思ったと告げた。 「今のままでは碧身のフックマンではないからね。僕は自分の目がおかしいのかと――あの人影の正体を掴む為、張り込みをした」 「ひ、一人でですか?」 「前回は会の者たちを落ち着かせている間に逃げられてしまったからね。下校時刻を過ぎてから、玄関口で待機したよ」 「そして夜となり――暫くすると廊下を行く碧色のフックマンを確かに目にした」 「……八代先輩の目にも碧色の服を着ていたと視えたのですね?」 「ああ、すぐに後を追ったが――逃げられてしまったよ」 彼女の語りが上手だった所為か、夢から醒めたような、魂の尾を掴まれたような気分になり、暫し沈黙が横たわった。 「……不審者なら捕まえなければ為らない」 怪異の話を聞いていた筈なのに現実的な言葉を吐く千鳥を皆、呆気にとられ見遣る。 「今の話では幽霊のように消えた訳でも、足がなく浮いている訳でもない。悪戯をしている生徒とも考えられるわ」 ――確かに、と思う。 沙沙貴姉妹も、わたしも――怪異の話を好いている所為か、すっかり怪談として耳を傾けていた。 だが、おどろおどろしい語りを抜けば凶器を持った不審者という話に他ならない。 「この件が騒ぎに為ればバレエ発表会に支障をきたしますよね」 「これ以上の噂になれば、あるいは」 間髪入れず答える八代先輩の言葉に頷き、アミティエはわたしの肩に手を置くと、 「さっさと捕まえてしまいましょう、探偵さん」 そう声を掛けてきたのである。 かのシャーロック・ホームズは«可能性をすべて消した後、残った非合理が正解だ»と語っていた。 実際にはあり得ないと思われる怪異。 此は可能性を潰す行為だ。そう考え黙したまま、八代先輩の言葉通り、出没した場所で待ち構えているのだが……。 渡り廊下や建物を血で染めるように赤い電灯が辺りを照らし―― 「……鏡は真実を映し出すと言われているのです。嘘を吐いたものを罰するという言い伝えもあるのですよ」 「へぇ、面白いわね」 「他にはどんな話があるの?」 黙したまま……という言葉を取り下げよう。 妙な雰囲気が漂うクラブハウスの玄関口で、怪談話を続ける根性に呆れるばかりだ。 (呆れると言えば……) 「鏡は霊を捕まえるとも言いますよ。ですからお葬式の時など、家中の鏡に布をかぶせたりするのです」 「……興味深い話ね」 千鳥が怪談話を好んでいたというのが一つの発見であり、驚きだった。 初めは何を話しかけられても、“別に”で済ませていたのだが、怪談話を向けられた途端、少しずつだが会話が成立するようになったのである。 ……まぁ、話しかけられ続けることに音を上げた、とも考えられるが。 「霊を捕まえる繋がりなら、お葬式の時に御遺体の上に置かれる守り刀、あれは猫から守るためだそうですよ」 「猫? 何で猫が魂を奪うの?」 空間が赤く染められた中で怪談語りを続ける彼女たちを視て、三人の魔女を思い出した。 “きれいなものはむかつく。汚い者は素敵だ” そう唱えながらマクベスに邪な心を植え付けた魔女たちだ。 溜息を吐きながら三人を見遣っていた頭を上げる。と、 「……おい」 「今佳いところなのだけど」 「ならこっちも佳いところだよ。人影が見えた」 わたしの言葉に、魔女たちの話し声がぴたりと止まる。 話し声が途絶えたことで、この場は異界と為った。 「行くぞ」 声を掛け、車椅子のハンドリムに手を掛ける。 三人の魔女は黙したまま、わたしの背中を押すように後に続いた。 姿は逸してしまったが微かに気配が残る方へと車輪を漕ぎ―― 音が聞こえた方向――美術室の前へと辿り着いた。 ――居るね、とは誰が呟いた声だったろうか。 わたしたちは知らず知らずのうちに、目配せをし、 ドアを開け放つ。と、 目を凝らせば漸く輪郭が浮かぶ美術室の奥、 暗がりに蠢く怪人の姿が在った。 ――手には鈍色の鉤爪、 身体をすっぽりと覆う外套、 其の顔はフードによって閉ざされていた。 「おい、マジかよ……」 半ば虚像だと思っていた怪異を前にし、呟かれた言葉に、 フックマンは身を翻すと外套をはためかせながら音もなく消え去ったのだ……。 本当にフックマンを見たの? と問いかけられ、反射的に頷いてしまった。 途端にあがる嬌声。 昨日の出来事は黙っていようと釘を刺しておいた筈だ。何故―― 「ええ、どんな姿だったかってぇ? ええとそれはねぇ――」 (あいつら……) やっぱり沙沙貴姉妹に話したのは失敗だったか。 昨日の昼食で話題になった“〈碧身〉《へきしん》のフックマン”。 怪異でなく不審者かもしれないとの説に及び腰になっていたはずのクラスメイト等だが、 「碧色の服が黒にも視え、碧色にも視え――」 脚色し語る話しぶりは不審者という生々しい存在は消え、怪異譚として成立している。 まるで見てきたかのように語る話しぶりで、不審者という生々しい存在は消え、怪異譚として成立してしまっている。 (……確かに、幽鬼じみていやがったが) 碧身と伝承で語られているものの、昨日視たフックマンの姿は、沙沙貴妹が言うように時折黒と碧が混ざり合っているようにも感じられた。 それを目にしたわたしも、不審者よりも怪異寄りの考えに為ってしまっている。 だが、 「朝礼を始めます」 バスキア教諭が入ってきたことで声はぴたりとやんだ。流石はシスターというところか。 「……廊下にまで聞こえていましたよ」 誰ともなく釘を刺す言葉。沙沙貴姉妹は首を亀のように引っ込める。 「噂を流すようなことをしてはいけません。佳いですね?」 流石はシスターの面目躍如。反論異論はなく、沙沙貴姉妹ですら素直に頷いたのだった。 だが、 聖書の時間を利用した、雑草の駆除の時間でも―― 「でも、どこからクラブハウスに這入ったんだろうね?」 「噂話では玄関口で見張っていたって聞いたわ。他に出入り口はないから……」 発表会を控え熱の入ったバレエの授業ですらも―― 「やっぱり不審者じゃなくて幽霊さんなのですよ。だから急に現れたのです」 「バ、バレエに集中しなさい……! 林檎さんも役を貰っているのでしょう!」 「お休み中のりっちゃんさんが飽きないように話題を提供しているですよぅ」 表だってフックマンの話題は為されなかったが、小さく、だが話題が尽きることはなかったのだ。 ――放課後のバレエ稽古が終わり、三々五々寄宿舎に戻る生徒たちの中、 「……待っていましたよ」 「さぁ、不思議発見といこう!」 噂を語ることをやめなかった沙沙貴姉妹に捕まったのである。 「おいおい、バスキア教諭から釘を刺されただろ。噂を広めるのは無しだって」 「噂なんて広めてないよ。これからするのはロマンの探求だよ」 「……八重垣ちゃんも気になっているのではないですか?」 そう訪ねられ、 「……お前たち本当に佳い性格してるよな」 直接フックマンを視たわたしとしては頷かざるを得なかったのである。 辺りを窺い、 クラブハウスに通じる渡り廊下へ。 昨日も訪れた場所だが、随分昔のことのように感じる。 「どうしたの? センチメンタルな気分になっちゃった?」 「いけませんよ苺ねぇ。大人には語りたくないときもあるのです」 「幽霊憚のあるところで誰が黄昏れるってんだよ。何だか薄気味悪いなって思っただけさ」 「そう? 普段、部活に行くときに通る通路じゃない」 「昨日、もろに怪異を体験した身としては、思う所ってやつがあるんだよ」 車輪を回し、電灯の下へと赴く。 「小説や映画なら証拠となるやつが見付かってもおかしくないんだが……」 玄関口周りを調べるも大した収穫はない。羽虫がぱらぱらと落ちている程度だ。 「まだカブトムシが見付かれば嬉しかったですのにね」 「夏休みの小学生じゃないんだぞ」 「そうだよ。見付けるならオオクワガタくらいじゃないと」 打算的な意味合いで言ってないぞ、と呟こうとすると、 「同じ事を考えている者がいるとはね」 背中越しに呼び掛けられ、会うだろうなと思っていた彼女へと振り向いた。 「まぁ予想通りだったな。沙沙貴君たちと八重垣君が〈連〉《つる》んでいるというのもね」 「あ、あの、何か勘違いしてはいませんか……?」 「ほう、何がだい?」 「わたしたちは虫取りにきただけですよ」 階段のきわに見付けたカナブンを手に宣言する。八代先輩はシニカルな笑みを向け、 「別に隠す必要はない。フックマンの謎を解こうというのだろう? 僕も同じ理由さ」 と、腰に提げていたバッグからカメラを取り出しわたしたちへと見せた。 「何だ……焦って損しちゃった……」 「強く触ってしまってごめんですよ……」 言い、沙沙貴妹は芝生の上へとカナブンをそっと置く。そっちの心配かよ。 「雪辱戦ってやつですか」 「ああ、二度彼には逃げられているからね」 そう言うと随分と高級そうな一眼レフのカメラを撫でた。 そういえばカメラが趣味だとか言っていたような……。 「立派なカメラですね。カメラマンが持っているのみたいですよ」 「今はみんなデジカメ……とかじゃないの? 昔のやつだよね?」 「形は一眼レフでも、これもデジカメだよ。撮ったものが見られるようになっている。見てみるかい?」 沙沙貴姉妹はわっとばかりに八代先輩の元へ。$カメラで撮った画像を一々感嘆しながら見せて貰っていた。 (ま、夜になってからが本番だしな……) わたしもカメラを覗き込み画像を見る。 映し出された過去の映像は、この学院に来てからのもの、そしてわたしの知らない過去を知るものもあった。 「ん? これって……」 「どうした? もしや心霊写真でも見付けたのかい」 「この場所じゃ冗談になりませんよ」 沙沙貴姉は今見ている画像の一つ前を見、さらに一つ先を見る。 奇妙な行動に妹は呆れるも、何故か八代先輩は、実に愉しげに笑んだ。 「どうやら、僕の写真も満更捨てたものじゃないらしいな」 「どういうことです?」 問いには答えず沙沙貴姉を見守った。$二つあるほくろに触れつつ自信なさげに、 「……この前の写真と、この写真。仲の良い鳥さんと次は猫が写っているよね。それで最後に割れた卵が写っている」 「これって何かストーリーみたいなものがあるんじゃないかって」 そこまで言われ漸く、ああ、と気がついた。 「そう、正解だ。この写真は“組写真”に為っているんだよ」 「あの、組写真とは何ですか?」 「写真に起承転結、意味性を持たせるものをいうね。大別すると先ず物語性のあるもの。被写体に共通性を持たせるもの」 「モンタージュされているもの。時間経過を追ったもの、となる。今見せた写真は、物語性と時間経過を組み合わせたものだ」 「そういう撮り方もあるのですね」 と感心したようにコクコクと頷いた。 「確か……。二枚以上ならいいんですよね」 「八重垣君は知っているようだね。そうだ。まぁ分かりやすく起承転結の四枚か、序破急の三枚の方が意味性が強く出せて佳いと思う」 「まぁ此は僕の私見だけどね」 ありがとうございました、とカメラを返すと、まるで赤子を受け取るように抱えた。 カメラを手に、ファインダーで夕焼け空を一枚の絵画にすると、 「ニカイアの会の会長としては止めるべきなんだろうが……程々で帰りたまえ。僕は会わなかった事にしておくよ」 言い、カメラをバッグに収め大股で闊歩していった。 クラブハウスの裏側――沸いて出た正体を掴もうとしているらしい。 刹那、わたしも其方へ行こうとも思うが、 「……流石に車椅子で追うのは無理だしな」 そろそろ日が沈みそうな夕焼け空を眺め、腿を叩くと、玄関口を睨み付けた。 初めは見間違えたのだと思った。 クラブハウスの奥、森の中に青白い灯りがともっているのが見えた。 まるで蛍のように一瞬だけつき、暗闇が包むと、再び一瞬だけ青白く灯る。 「彷徨えるウェンディゴとかじゃないだろうな……」 双子は気付いていないのか、何も語らず凝っと玄関口と一階の廊下、そして二階の廊下を注視していた。 (もしかして八代先輩か……?) ハタとその可能性に気付く。怪異を写真に収めると言っていた。光が途絶え暫くしてからも、その可能性を考えていた。 あの青白い光はカメラの画像を見て―― 「……八重垣ちゃん」 「どうした」 「出た」 出たって何が、と呟き森からクラブハウスへと視線を戻す。と、 「――〈碧身〉《へきしん》のフックマンですよ」 沙沙貴妹の呟きとともに、黒い人影を――廊下を行くフックマンを見付けた。 行こう、と誰ともなく呟き、静まり返るクラブハウスへと向かった。 既に姿はないが、此処を通り過ぎたという臭い、濃密な雰囲気が残っていた。 押し黙ったまま、フックマンの後を追う。と、 (美術室……) 前回と同じく美術室にて微かな物音が聞こえた。 互いに目配せをし、美術室のドアを―― 闇を裂く悲鳴はわたしを、皆の心を千々に裂いた。 暗所で、誰もいない空間で聞く悲鳴の恐ろしさに心臓は煩いほどに鳴る。 「助けに行くよ」 一番早く我に返ったのは沙沙貴姉だった。 妹とわたしの手を握り、目をしっかりと見詰めると、悲鳴のあった方へと駆けていく。 ドアが開け放たれたままの教室を見つけると、沙沙貴姉は間髪入れず中へと飛び込んだ。 妹も其れに習い、わたしも一拍置き続いた。 暗く沈んだ空き教室。 奥に居る姉は何も発せずその場に立ちすくみ、妹は後ずさり蹌踉けた。 わたしは―― 気を失い横たわる人物を視て、初め、目は、脳は、彼女だと理解することを拒否した。 修道服に、乱れた黄金色の髪、 人好きのする笑顔、 わたしの憧れの人が、 「ダリア、先生……」 ――バスキア教諭が襲われたよ バスキア教諭について話したものの、そう――と素っ気ない台詞が返ってきた。 ぐらぐらと煮えるような身、 わたしはベッドに臥しているアミティエを一瞥した。 「――バレエ発表会に影響は出そうなの」 己のことだけしか考えていない台詞に、荒立ちそうな言葉を飲み込み、 「こういう時はな、先ずは具合はどうか聞くんだぜ」 と言った。 少しの間が空き――具合は、と問う声に無理矢理に怒気を払う。 「殴られただとかの外傷はない。見回りでクラブハウスに行った際、フックマンを間近で視てしまい気絶したんだそうだ……」 気を失ったバスキア教諭を視て肝が冷えたが、倒れた拍子にやや身体を打ち付けただけのようだった。頭も打っておらず一安心である。 だが、 「――フックマンを必ず捕まえる」 「今更?」 「ああ。正直本腰じゃなかった。いわく付きの廃墟に出掛ける馬鹿な大学生のノリで追っていたが……此からは本気で追う」 決意表明は空虚な闇が食べ尽くし、シンとした静寂だけが残った。 わたしと千鳥だけの規則正しい呼吸音だけが耳に残る。 「……えりかは」 「あ?」 「えりかはバスキア教諭のことが一番大切なのね」 子供のような物言いに怒るよりも呆れるよりも、真意が分からずただ千鳥を凝視してしまう。 仄暗いながらも目は馴れ、輪郭から千鳥もわたしを見詰めていることが解った。 「悪いが、言っている意味が……」 「答えないのね」 「――彼女はわたしの憧れだよ。ああなりたい自分だ」 暗がりだから佳かったのだろう。真意を打ち明けることができた。$身体も、心も、正反対の聖女。 「……そう」 それきり黙り込むアミティエへ、彼女の真意を探ろうと言葉を選ぶ。 「なぁ、此処のところ、いや――配役の選考試験からこっちおかしいぞ」 「あの時は遮られたが――“また同じ事を繰り返して”という言葉はなんだ?」 「…………」 千鳥はその小さい頭で葛藤し、思案していることが暗闇を通しわたしへと如実に伝わってきた。 口を閉ざしたい過去。 「――私はね、私自身の手で慕っていた者の道を閉ざしてしまった過去があるの」 千鳥は吐露する。 仕事人間だった父母。 親子関係が希薄でそんな父母に振り向いてほしくてバレエの道へ進んだことを。 「初めは目を向けてくれたわ。でも物珍しく思うのは一時。すぐに相手にされなくなった……」 それでも尚、気に掛けて、視界に入れて欲しくて、仕事に打ち込んだと話す。 そして―― 「他の仕事はさほど興味を持ってくれなかったけれど、バレエだけは褒めてくれた。今思えば――」 仕事関係の人間に自慢しやすかったからかもね、と呟く。 「でも、私は両親が観に来てくれると約束してくれたことが嬉しくて、稽古にいつも以上に励んだの。他の言葉が耳に入らないほどに」 唯一自分を慕ってくれた後輩。 彼女が具合が悪いだとか、熱があるだとかの話は他の演者から聞いてはいたが、耳に入れど聞こえてはいなかったと語った。 「そして舞台当日。私は踊った。両親が観に来てくれていることに胸が震える思いだった」 舞台は進み――くるみ割り人形での一幕、雪の精たちのコール・ド・バレエが始まった。 あの子の見せ場よ、と聞き取れないほどの声音でささめいた。 「あの子は倒れ、私は立ち上がることのできない後輩を心配するどころか忌々しく思っていた。舞台を壊す気かって――」 「でも、立ち上がれる筈はないわよね」 と涙混じりで言の葉をこぼす。 「靱帯を切ってしまっていたのよ。それであの子のバレエ人生は終わり。病院で見舞ったあの子に――」 「また踊ることを勧めたの。でも“私には向いていなかったので佳い機会でした”そう言って笑ったの」 笑ったのよ、と繰り返す。嗚咽のような、さざ波のような震える声音が聞こえ――わたしは、そうかと呟いた。 (怪我をした委員長と、慕ってくれた後輩の姿を重ねていたんだな……) さざ波のような声音を耳にし、わたしはどう声を掛けるべきかを悩んだ。 「私はね、えりか。舞台に立ち続けなくては為らないの。あの子の為にも」 かつて言った、こんな学院さっさと出て行くわ――とは踊れなくなった後輩の為に、バレエとともに行く決意の表れだったのだろう。 本当は表の舞台で踊りたい、のだと。 「私は……えりか、貴女と出逢ってから少しずつ変わって、変われていると思っていた。あの子が私にしてくれたように――」 「他人を気遣える者になってきたのだと」 でも変わってはいなかったわ、と自嘲気味に告げた。自分の我が儘を通し、委員長を害してしまったと。 「本質はきっと変わらないのよ。あの頃の私のままだわ……」 話はこれで終わりだと、沈黙が部屋に横たわった。だが、静寂を破り、それは違う、とわたしは言い切る。 「なぁ千鳥。以前、性善説と性悪説の話をしたよな」 「……ええ。だから私は変わらない。性悪説を信じるわ」 「そうだな、わたしもお前も性悪説論者だ」 言うと、ベッドに横たわったままのアミティエが強張ったのを感じた。$あえて笑い顔を作り、 「いいか、性悪説ってのは――悪人は悪人、人は生まれながらに犯罪者、って意味じゃないんだよ」 「荀子が言った性悪説ってのはな。この場合の悪は勉強をしない、学ばない人間を指しているんだ」 「人は生まれた時から知識を持っているわけじゃないから最初は悪だけれど、自力で学び善人になってゆくべきだって考え方なんだよ」 今や目は馴れ、千鳥の顔がはっきりと観える。強張ったままの千鳥の瞳をしっかりと見詰め、噛んで含むように告げる。 「お前は学んでいるだろうが。ノートを取っているのだって知ってる。考崎千鳥は悪人じゃない、変わってないなんて悲しいこと言うなよ」 沈黙が続き、ややあって―― 「……私を信じてくれるの」 そう呟いた。 「人を信じるってのは理屈じゃないんだよ。これは真ん中の姉の受け売りだけどな」 「……そう」 ――漸く、硬直していた身体が、心が解れてきたような気がした。暗闇だからこそ伝わる確かな想い。 「……えりかが一番私のことを考えてくれているのだものね」 「何か言ったか?」 「何も。ねぇ、えりか。私もフックマンを見付けるのを手伝うわ」 「稽古はいいのか?」 「これ以上誰かが損なわれるのを視るのはもう厭なの」 わたしも同じだよ、相棒――そう呟き、親密な暗闇に抱かれるように、目蓋を閉じた。 ――放課後、千鳥を伴ってクラブハウスへと向かった。 幾度も怪異を目にした玄関口を抜け―― バスキア教諭が倒れていた教室へ。 案の定、ドアはしっかりと施錠されていた。 わたしはお尻の下に敷いていたツールを取り出し、鍵穴に差し込む。 「バスキア教諭の部屋の鍵よりは難易度が高いが、これも雑貨屋に置いてある金庫と変わらない。楽勝だな」 「鍵開けが趣味だって言っていたけど、本当だったのね」 「根暗なインドア派女の趣味の一つだよ。っと、開いたぜ」 ツールを仕舞い、ドアを開けて中へ。 「……血の海とかではないのね」 「面白い冗談だ。流血沙汰になってりゃ口止めなんかとてもじゃないが出来なかっただろうな」 バスキア教諭が倒れていた付近を微に入り細に入り調べる。 見つけた時は夜だという事と気が動転していたため殆ど調べられなかったが、日が出ている今なら、精査し調べられる。 「あの双子さんたちが一緒だったのでしょう? よく黙っていられたわね」 「あの双子はノリも軽いしお喋りだが、馬鹿じゃない。本当に拙いことは口を閉ざすさ」 沈黙の重要性を知っている……筈だ。 ともかく、昨日の一件を知っているのは、わたしと沙沙貴姉妹以外はいない。 気を失っていたバスキア教諭も、この空き教室で何度も呼び掛けたお陰か意識を取り戻した。 そして貧血という理由をつけ、床で打ってしまった頭への異常はないか養護教諭に診て貰ったのである。 (今日の様子じゃ、昨日の一件は黙っているつもりらしいな……) もっとも黙っているように切り出したのはバスキア教諭ではあるのだが。 倒れていた場所に何か違和感はないか注視する。 「殴られたわけじゃ……ないのよね?」 「空き教室から物音がして中に入って確認したところ、気がついたら目の前に居た――ってのが気を失った理由らしいからな」 「……本当に驚いて気絶する人っているのね」 「わたしや千鳥みたいに神経太いやつばかりじゃないって事だろ」 現場保存とやらは刑事ドラマではよく聞くお題目だが、わたしは探偵だ。関係ない。 空き教室に残されていたロッカーなどを動かして調べてみたが、特に目を引くものはなかった。 「次の場所へ向かうぞ」 「何か分かった?」 「何処にも異常ないことが分かったよ」 空振りってことね――と悪態を吐かれつつも空き教室を出る。 元通りにドアを施錠し、次の目当ての場所へと車椅子を向ける。と、 「どうした? 窓の外にフックマンでも見えたのか?」 「いいえ。庭師の人を見ていたの。あの人の作業着も緑色よね」 言われ窓の外を眺めた。$バラの手入れをしている庭師の姿が見える。$わたしは目を細め、 「流石にあそこの庭師とフックマンとを間違わねぇよ。緑色の服ってことしか共通点がないだろ」 「でも手には鉤爪じゃないけど凶器が、ほら」 指さす千鳥へ庭師の姿を注視すると、剪定ハサミが見てとれた。細めた目を千鳥へ移し、 「見間違うにしても、もっと長い獲物だったよ。それに緑色って言っても、あいつの服は何というか黒にも見えたし……」 「日参してくるとは随分熱心じゃないか」 引っかかりを整理しようと頭を働かせたところで声を掛けられ、つい恨みがましい目を向けてしまう。 「おっと不機嫌な顔をしているね。もしかしてあの日かな?」 「いえ。私は少し前に済みました」 「お前に言った台詞じゃないだろうが。前にも言いましたが重い方なんです。最中ならもっと人相が悪く為ってますよ」 八代先輩は快活に笑う。 明らかにセクハラ発言だがウエットでないからか、赦されてしまう希有な性格だ。 「それでまたぞろフックマンの捜査かい? 昨日は見付けられたのかな」 口ぶりからすると……。 カメラ持参でわたしたちよりも気合いの入っていた八代先輩が空振りだったことに驚く。 確かに悲鳴があがっても駆けつけてこなかったが。 「昨日は空振りですよ。先輩の方はどうだったんです?」 「僕の方も空振りさ。まぁ不心得者を捕まえることができたけどね」 「不心得者? フックマンではないのですか?」 「違う。夏場と言うこともあるんだろうけどね、肝試しさ。七不思議の噂を聞いて、見に来る者もいるのだよ」 肝試し? かつて血塗れメアリーの儀式を行った沙沙貴姉妹らが、儀式を肝試しと言っていたことを思い出す。 「フックマンの噂を聞いて夜のクラブハウスへ肝試し、ってな具合ですか?」 「ああ。人の口に戸は立てられないというやつでね。基本は明るい時間に訪れて雰囲気を味わうだけだが――」 「上級生の中にはもっと刺激が欲しいと夜忍び込む者もいるのだよ」 そう結ぶ。お嬢様学校らしからぬ話だと思うが、わたしや沙沙貴姉妹のような変わり種は何処にでもいるということだろう、と納得した。 「それで昨日はその上級生たちを見付けて寮に送り返していたってところですか」 「まぁね。見付からないように森を突っ切ってきたのだろうが、一人はちゃんと虫対策をして着込んでいたが――」 「もう一人の方は甘く見ていたのか随分と酷い有様だった。まぁ懲りただろう」 からからと笑う八代先輩に愛想笑いを浮かべつつ、森の中で視た青白い光はその生徒たちだったのかと独りごちた。 「で、だ。無体な話はしたくないが、上級生たちを指導した手前、下校時刻が過ぎてまで見張る……ということを看過できなくなった」 「そんな……!」 「……いや、一度目こぼしして貰っただけでも有り難いと思わなくちゃならない。ただ、」 うん? と腕を組みシニカルな笑みを浮かべる。どんな交渉を仕掛けてくるのか楽しみだという顔つきだ。 「美術室の中を覗かせて貰えませんかね? 下校時刻が来たならお暇しますので」 「見学するのを止める権利は……ああ、そうかそうだったな。今日は休みだったか」 大股で闊歩して美術室へ向かい、中を覗くとプリーツを翻し駆け足で戻ってきた。 「うむ。やはり部活は休みだ。誰もいないようだよ」 そうですか、と悩む……振りをする。居ないというなら好都合、会長が居なくなった後で解錠して中に入ればいい。 「どうしたんだい。まさか美術室にフックマンの謎を解く鍵があるとでも?」 「……実は、フックマンが目撃された際に美術室で物音を聞いたという情報があったんです。だから調べてみようと思いまして」 嘘を吐いてもいいが勘が鋭い人だ。虚実を混ぜなければ悟られる。 「それは面白い!」 躁気味に気炎を上げ、見に行ってみよう! と声を上げた。 「い、いいんですか?」 「なに。下校時刻前なら問題ない。それに可愛い後輩の頼みだ。此処は一つ頼まれてやるとしよう」 言い、許可と鍵をもぎ取ってこよう! と叫ぶと駆けていった。 「……頼んだ覚えはないんだけどな」 「変わり者ね……」 頷くも、そういえばわたしもよくそう言われていたかと思い、八代先輩と同じ括りなことに如何ともし難い感情が芽生えたのだった……。 今思い出したが、大掃除をするだとか言っていたな――と先輩は言った。 「大掃除、ですか? 年末でもないのに?」 わたしの問いに興味深げにイーゼルに立てかけられた油絵を眺めながら返す。 「大掃除は言い方が悪かったか。うむ……何というのかな。習作……あまり出来が良くなかった絵や〈彫塑〉《ちょうそ》を処分するらしい」 「チョウソ? 処分って捨ててしまうのですか?」 「基本は自分で引き取るらしいが、此処はほら全寮制だからね。相部屋で自分の絵画や彫刻で場所を取るのも迷惑な話だろう」 「本当に気に入ったもの以外は燃やしたり、彫塑なら壊して新しい作品の材料にするらしいよ」 もしかして君が聞いた物音とやらは壊す音だったのかもね、と続けた。 「結構良く描けているのに勿体ない」 教室の隅にまとめて床に置かれているのは恐らく処分する絵画だろう。私はそれらを一枚一枚見、キリストが描かれている油絵を持ち眺める。 「何だか、燃やすのが躊躇われる絵ばかりですね。宗教画が多い」 「学院の色というやつさ。うむ。この花の絵画はいいな。捨てるなら貰えるように頼んでみるか……」 キュビスムというのだろうか、ピカソが描いたような絵を持ち熱心に見詰めていた。わたしには馬の絵に見えるのだが……。 (八代先輩のペースに巻き込まれてどうする。調査をしないと……) 昨夜ここで耳にした物音。最初はここにフックマンが這入ったのだと思った。しかし、反対側の空き教室で……。 あの物音は……。 「おい」 「…………」 奇矯な八代先輩は仕方ないとしても、調査をせずに一枚の絵画をマジマジと視ている千鳥へ声を掛けた。 天使と――聖母の絵だ。わたしは凝っと注視している千鳥の腰を叩くと、少しは協力しようって気にならないのか、と毒づいた。 しかし、目は絵画に張り付いたままだ。 「そんなに気に入ったのか、その絵?」 「ガブリエルの絵よ。受胎告知の場面ね」 と告げる。 「知ってるよ。イギリス出身のミュージシャンだ」 「今は天使の話をしているのよ」 わたしのボケを歯牙にも掛けず頭を振ると、絵画を差し出した。 「この絵、描いたのは匂坂さんよ」 刹那、息が止まる。思ってもいない時に不意に殴られたような感覚。 「裏側に、ほら――」 カンバスの裏側に、日付と、名前が記されていた。 千鳥の言う通り、“匂坂マユリ”と記されている。 「確かに、匂坂の絵のようだな……」 白羽から匂坂マユリは美術部に在籍していたと聞かされていた。 なら彼女が描いた絵の一枚や二枚はあるだろう。 「何処にあった?」 訊ねると、処分されるのだろう別の区画にまとめられている場所へと向かった。 そして、ここよ――との言葉に従い、匂坂の作品を探す。 「――油絵は二枚か。ま、描くのに時間掛かりそうだものな」 「此が匂坂君の絵か。受胎告知だね」 千鳥が見付けた絵画は、右手に天を仰ぎ、左手に純潔のシンボルであり聖母マリアの花、 白百合を携えた天使がキリストを身ごもったことをマリアへ知らせる場面を描いていた。 そして、わたしが見付けたもう一枚の絵は、大工道具を持った老人の油絵だった。 「ん……。これは、恐らくナザレのヨセフの絵画だね」 「どうして分かるのです? 有名な絵画の模写なのですか?」 「この老人の手には、大工道具が握られているだろう。大工であったヨセフは労働者の守護聖人で、尚且つ――」 「聖母マリアの処女受胎を強調するものとして、夫のヨセフは老人に描かれることが多い。処女受胎の絵の後に見たから連想だけどね」 「へぇ、流石はニカイアの会の会長ですね。博識だ」 「ふふ、もっと褒めるといい」 八代先輩の言葉を聞いてから絵画を眺めると、なるほど以前調べたヨセフ聖者の絵画に似たようなものがあったな、と思った。 「“ダヴィンチコード”なら絵の中に秘密が隠されているところだが……」 「うん? そういう話なのかい? ならネタバレはやめてくれ、その映画はまだ観てないんだ」 小説、映画を嗜む者として迂闊な真似をしたことを悔やむ。が、 (何だ……?) またもわたしの中の何かが引っかかりを覚えた。 ネタバレ? いや違う。今まで蓄積したものの中から付箋していた箇所は……。 「絵の中に秘密が……」 「何か……分かったのね」 ああ、と頷くもこのフックマン事件は、ある意味わたしが起こした事なのかと、爪が手のひらに食い込むほどに握りしめた……。 誕生日を祝う歌をクラスの皆で合唱し―― バスキア教諭を招いたサプライズの誕生日会が始まった。 この日のために用意された、ケーキとデザートの数々。 料理が置ききれない為、机を複数運び入れなければならなかった程、多くのデザートが目と舌を喜ばせた。 サプライズに驚き、ややあってバスキア教諭は感極まったのか、涙を浮かべた。 厚意を喜ばれることは嬉しい。 祝おうという想いが届いたことに、バスキア教諭の誕生日会は和やかに進んだ。 しかし、 「……ええ、確かにこの目で」 「嘘なんか言わないよ。噂通り碧色の服を着て、手には鉤爪。フックマンの話は本当だったんだよ」 一言、ぽろっと零れた……フックマンと遭遇した出来事は、 「それで襲ったりはしてこなかったの?」 「追いかけたのですが、見失ってしまったのですよ……」 蟻の一穴、というやつだ。漏らした言葉を誤魔化そうとするも、更に情報を与え、そして与えた情報から更にその続きをせがむ。 (バスキア教諭が倒れていた事はさすがに伏せているようだが……) めでたい席だというのに、箝口令を敷いていたフックマンの話題が出たことで、場が妙な緊張感を孕んできた。 その空気に気がつかないクラスメイト等と、バスキア教諭がいる前で小声とはいえ話しているという事に気まずさを感じている組に別れた。 そして、 「この席にその話題は似つかわしくないわ。やめましょう」 委員長が一声掛けたことで場の空気が冷えていたことに気付いたのか、沙沙貴姉妹等は素直に謝った。 わたしは―― (ちょうどいい機会だな) フックマンは望むお目当てのモノを手に入れたようだし、じき立ち消えることになる噂だが―― バスキア教諭の為にもこれ以上噂を広げられるのは面倒だ。 わたしは“この状況を収めるための情報”を、頭の中の付箋紙から選ぶ。 解き明かすのはフックマン事件の真相ではない。 クラスメイト等を納得させられるだけの推論を立てることだ。 それは――〈始〉《ヽ》〈ま〉《ヽ》〈り〉《ヽ》のフックマンではない。 皆を納得させられる、都合の佳いフックマン像を考えてみよう。 «フックマンの正体に最適なのは?» 七不思議を調べていた小御門ネリネ 調査していた八代譲葉 肝試しに訪れていた生徒 集団ヒステリーによる幻覚 ――それを碧身のフックマンと信じ込ませる理屈を皆に語らなくては為らない。 さぁ此が真相だ、と手のひらに置かれて差し出されたとしても、真実味がなければ受け取っては貰えない。 そう、“碧身”がポイントとなる。 «碧身のフックマンと呼ばれた要因は?» 犯人が男性だから 着ていた服が碧色に視えた 正体不明だから 整理し終えた付箋を順番に組み替える、と――やや不自然な繋がりではないかと思う箇所があることに気付いた。 いや、真実を明かす必要はないのだ。 わたしは聞いてほしい話がある――と宣言し舞台へと進み出たのである。 整理し終えた付箋を順番に組み替えると、聞いて欲しい話がある――と宣言し皆の前へ進み出たのである。 車椅子を皆の視線が集まる中央まで進ませ、注目するクラスメイト等の顔を見回した。 かつて子うさぎの消失事件の折に見せたような、悪意のある顔つきはなく、ただ好奇心と怪訝な表情が順繰りに並べられていた。 それは沙沙貴姉妹しかり、委員長しかりだ。 只、三名。 (こっちが思っていた通りの顔つきをしてるな……) 噂話をやめるよう指示した憂い顔のバスキア教諭。 叱られる前の子供のような顔つきの書痴仲間。 そして何処か誇らしげなアミティエは、別だ。 バスキア教諭の為に始めたことだが、バレエ発表会を守ることにもなる。 わたしは少しだけ笑みをこぼす。猫の笑みだ。 そして、 皆の衆目を一手に浴び、わたしは笑みを浮かべ―― 「フックマンの謎は解けた」 と全員に告げた。 面白い見世物が始まったことへの期待への現れか、ざわめきは大きくなる一方でやむことはなかった。 ――だが、 「……本当なの、八重垣さん」 バスキア教諭の抑えた呟きが皆の声をやませた。わたしは頷き、 「今回の事件も、幽霊の正体見たり枯れ尾花ってやつだったんですよ」 も? と首を傾げられ、 朗読譜紛失事件を知らない者へ、知っている前提で語ったことに内心舌を出し、八代譲葉殴打事件と近いと言ったのです、と誤魔化した。 「え、八代先輩の事件は事故でしょう? でもわたしたち、ちゃんと目にしたよ!」 姉の言葉に妹は深く頷くも、はっと思いついた表情を浮かべ、 「……もしかして事故の前の“勘違い”とつくところでしょうか」 そう訊ねてきた。 「そうだ。妹の方が勘が鋭いじゃないか。わたしたちは確かにフックマンの現物を視た。だからあれを怪異として捉えていたが――」 「実際は怪異じゃない。“人”だったんだよ」 そう告げる。 一度やんだざわめきが戻り、なら不審者? 泥棒かもとの声が口々に上がった。$わたしは笑い、口を開く。 「皆が思うような不審者じゃない。だが、規律を破り勝手に不法侵入したという点でなら不審者かもしれないけどな」 「不審者かもしれない、でも皆が思うような者じゃない? ぅぅ、勿体つけないで八重垣さん……!」 怪異の話でないと分かっていてもフックマンを議題に挙げている。怪奇憚が苦手な委員長は怖々と口を開きおさげを萎らせた。 委員長の声に押され、わたしは皆が固唾をのむ中、しばしの間を置き口を開いた。 「それでは種明かしをしよう。わたしたちが目にしたフックマンは――“噂を聞いて肝試しに来た上級生たち”だったんだよ」 「え、え? 肝試し? 上級生の方たちが、そんな……」 「年を食ってるからって分別を弁えてるわけじゃない。少しくらいは変わり種っていうのはいるもんさ。わたしや此奴とかね」 千鳥を指すと委員長も皆も――少しの間を置き思い思いに頷いた。$いや、否定してくれよ。 「それに此は裏が取れている。ニカイアの会の会長から直々に聞いた話だ。フックマンの噂が出てから、夏の風物詩ってな具合で――」 「下校時刻を過ぎ、雰囲気が出るくらい暗くなってから、クラブハウスへ赴いた上級生がいたそうだ。ああ、お小言は済んでいるそうですよ」 委員長へと説明し、バスキア教諭へも一言断る。流石にわたし発で説教を喰らわせるのは後味が良くない。 「でも、それっておかしくない?」 「何がだ?」 「真っ暗な中、肝試しをしていて黒い人影だってなるのは分かるけど――わたしたちは碧色のコートにかぎ爪の姿をみたじゃない?」 「確かに……。肝試しをする人が気分を盛り上げるために暑い中服を着込んで、凶器を持ち歩いていたって話ですか? 不自然ですよ」 フックマンの外見を問われ、わたしはそれも解決済みだと答え、納得のいっていない沙沙貴姉妹へ逆に問う。 「いいか、寮からクラブハウスへ肝試しに行こうってなったら、どうやって校舎に忍び込む? スタッフの見回りもあると考えてだ」 「それは……」 「正門から行くのは見付かるかもだから、学院に来るときに通った小道から、校舎へ向かって森を突っ切っていく、かな?」 「そうだ。肝試しに来た上級生もそうした。だがこの季節、更に森の中だ。虫除けスプレーくらいじゃ焼け石に水だよなぁ」 望む答えを引き出すための呼び水に導かれ、沙沙貴姉妹等は、はっと顔をあげる。 わたしは隣へ控える千鳥へ、用意しておいた物を渡してくれと告げる。 千鳥から手渡された学院指定の黒いレインコートを手に取り、皆へ広げて見せる。 「そう。虫に刺されないようにレインコートを着込んで対策していたのさ。これがフックマンが顔を隠し、着込んでいたものだ」 「そして森の中を突っ切る為、枝打ち用の金属棒のようなモノを持っていた」 想像し――暗夜で見かけた際、外見だけならそう見えるかもしれないと沙沙貴姉妹等は頷く。 クラスメイト等も己が想像するフックマンと近いらしい。異議は唱えられなかった。 しかし、 「あの……でもこのレインコートって黒色よね?」 委員長がおずおずと手を挙げ問う。 “碧身”のフックマン。 「ぁ、そうよね。緑色じゃない……」 委員長の質問に同調し、確かにそうだと沙沙貴姉妹だけでなくクラスメイト等も訝しげな目を向けてくる。 わたしは頭の中で付箋した箇所から情報を抜き出し、クセっ毛を掻くと、猫の笑みを浮かべた。 「そうだな、確かに此奴は緑色には見えない」 「そうだ……そうだよ!」 沙沙貴姉の言葉にわたしはうんうんと頷いてみせる。 「え、それじゃぁ……」 「いや、此も理屈があったんだよ」 訝しがる皆へ初めてフックマンの話を八代先輩のところで尋ね――聞き出したことを披露する。 ――会の仕事で遅くなり、道具を戻すためクラブハウスへ急いだこと。 そして物置部屋の鍵を忘れ、玄関口でニカイアの会の者たちに待って貰い取りに戻ったこと。 その後、八代先輩は黒い人影を視たことを――。 「その話は聞いたわ。沙沙貴さんたちが詳しく話してくれたもの」 噂話が広まるのは早い。クラスメイト等も聞いていたのだろう銘々に頷いた。 「この話を初めて聞いた時は特に思うところはなかったが、ある示唆を得てから引っかかりを覚えたんだ」 「え、何が……?」 「八代先輩の話の続きはこうなる。『僕には黒い人影が銀色の凶器を持って歩いているように見えた――」 「――だが、会の者たちは碧色の人影だと震える声で告げた』ってね」 皆の顔を見回す。勘と知識のある者なら察するだろうと思ったが―― 書痴仲間は一言も発さず事の推移を見守っていた。バスキア教諭も、だ。 「此処で食い違いがあるのは、八代先輩は黒い人影に見え、ニカイアの会の者たちは碧色の外套を纏った怪異に見えた、ということだ」 「言われてみれば……確かにそう言っていましたね」 「ああ。そしてわたしも同じ経験をした。フックマンの姿を視たと言った沙沙貴姉妹だが、二人は碧色のレインコートを視たのだろう?」 けれど、わたしは黒い人影に視えた――と告げる。 「どういうこと? 八代先輩と、八重垣ちゃんの二人には黒い人影に見えたって……」 「わたしと八代先輩には共通点があるんだ。八代先輩は一度玄関口を離れてから、わたしは森の奥の光に気を取られていた」 そう、わたしたちの共通点。 「――赤い光だよ。通常では有り得ない色の光によって、感覚が狂わされ――ただの黒いレインコートが黒く見えなかった」 まさか、そんな――と声があがるも、 当然それだけではない。もう一つ心理的な要因がある――それは、思い込みというやつだ。 「“碧身のフックマン”という名前から、その姿が碧色であると思い込んでいた所為で一瞬だけ目に映った姿がそう見えて……思ってしまった」 人は見たくないものは目に入らず、視たいと願っているものの像を映してしまう。 「結果、事前に聞いていた碧身のフックマンという言葉による思い込みと、現場の異常な状況――赤い光によって怪異は本物に為ってしまった」 オカルトや心霊現象のほとんどが、脳が己を騙している所為だと考えていいだろう。浪漫はないが。 「錯覚……。思い込みがフックマンを作っていたなんて……」 ようやく強張っていた身体から緊張がとけ、安堵の吐息を漏らした。 「確かにこれは――幽霊の正体見たり枯れ尾花だわ」 皆の言葉を代弁するかのようにバスキア教諭が呟いたことが機転となり、フックマンの怪異はただの四方山話の一つとなった。 幾つか謎を謎としたままだが、丸め込むことが出来て内心ほっと胸をなで下ろした。 そして、 「驚いて失神するような生徒が出る前で良かったよ」 その台詞はわたしから沙沙貴姉妹へ向けての言葉。 バスキア教諭が気絶したのは肝試しの生徒を間近で見た勘違いからだと暗に伝えたのだ。 「上級生の方たちにも注意しますが、今度の話を受け肝試しには行かないように」 幽霊の正体が分かった以上、冷やかしに行くことはないだろう。 バスキア教諭の言葉を受け、ようやく碧身のフックマン騒動は一応の決着を迎えたのである……。 約束の場所へ向かう道すがら、“カラマーゾフの兄弟”の一場面を思い出していた。 ――荒野でキリストが修行しているのを悪魔が邪魔をする。石をパンに変えろと命じる場面だ。 しかしキリストは断る。“人はパンのみで生きるにあらず”と。なかなか素敵な返しだ。 だがカラマーゾフの兄弟では荒野の誘惑の解釈の中で“奇跡は悪魔の所業だから”とした。 わたしはその答えに賛同する。 ――だから奇跡は起こらない。 口の中で呟き、わたしはドアに手を掛けた。 夕映えが目に残り、瞳を細める。と、 ――そうしていると、本当に猫みたいね。 彼女が軽やかに声を発した。 そう、彼女が〈始〉《ヽ》〈ま〉《ヽ》〈り〉《ヽ》のフックマンだ。 クラスメイト等へ話したフックマン―― だがそれはいわば模倣犯、偶然の産物に過ぎない。 この事件のきっかけとなった〈始〉《ヽ》〈ま〉《ヽ》〈り〉《ヽ》のフックマン像を紐解いてみよう。 «〈始〉《ヽ》〈ま〉《ヽ》〈り〉《ヽ》のフックマンはどのようにして生まれたか?» 誰かが意図的に噂を流した 悪ふざけで扮装したものから噂が発生した 何者かがうろついている姿が目撃された さらにフックマン伝承を紐解いてみよう。 寄宿舎のシェイプシフターや、森を彷徨うウェンディゴなどのように、名前で“場所”を制限されている訳ではない。 それなのにフックマンは何故、彼の場所――クラブハウスにしか現れなかったのか、 そこに全ての謎が隠されている。 «何故クラブハウスにしか現れなかったのか?» 美術室を探る必要があった 人を驚かす為 一番逃走し易かった そして、最後に―― «〈始〉《ヽ》〈ま〉《ヽ》〈り〉《ヽ》のフックマンの正体は?» 白羽蘇芳 ダリア=バスキア 小御門ネリネ 勾坂マユリ どうにも気持ちの悪い収まりを感じながらも、わたしは彼女の名を呼び掛けたのだ……。 頭の中でたぐった付箋を確かめ、わたしは彼女の名を呼んだ―― 彼女は、誕生日会の時と同じく戸惑い、困ったような顔を見せ、 「夕映えがとても綺麗ね」 と呟くように言った。$書痴仲間の元へ車椅子を進ませ、初めからそんな気がしていたよと口火を切る。 「七不思議の一つ、碧身のフックマン。此も他の怪異と同じく、攫うタイプの怪異だ。だが、遭遇しても何の不都合もない」 むしろフックマンの方が消えてしまう、そう結ぶ。書痴仲間は変わらず困った表情のままわたしの言葉を待った。 「誕生日会で話したことが真実なら、間違われ、そう呼ばれても仕方のないことだろう」 「だが、そもそも噂になり肝試しに訪れる為には、〈始〉《ヽ》〈ま〉《ヽ》〈り〉《ヽ》のフックマンが必要だ。そして――」 「〈始〉《ヽ》〈ま〉《ヽ》〈り〉《ヽ》のフックマンは――白羽蘇芳、お前だな」 推論を建てたため分かっていたことだが、胸の大切な部分が萎み苦しみを覚える。 此奴だけには、こういう真似はしたくなかった。 ――だから奇跡は起こらない。 “カラマーゾフの兄弟”の一幕が蘇る。 「えりかさん――」 困った表情から優しげな顔つきに代わり、わたしの瞳をまっすぐに見つめた。そして、 「此は貴女が焚きつけたからではないわ。いずれこうしなくては為らなかったの」 そう告げた。 実に優しいこいつらしい言いざまだ。 そう―― 「いや、わたしが匂坂マユリの真意を探れと言ったからさ。だからこの美術室を調べたんだろ?」 戸惑いながらも微かに頷く。 残映とともに映える姿は、美しい幽鬼のようだ。 わたしはいずれ処分される習作の絵画たちへと向かい、カンバスの表面を撫でた。 「初めは繋がりが分からなかったよ。理由を調べろと焚きつけたのはわたしだったのにな。此処で――」 匂坂マユリが描いた絵画を手に取る。 「この絵を千鳥が見付けてくれなかったら、わたしはお前がフックマンだと気付かなかっただろうよ」 「……仲良くなれたのね」 心の大切な部分を掴まれる笑顔。 「まぁな」 わたしは八重歯を見せて嘯いた。 「お前がフックマンなんぞと間違われるような要因となったのは、二つある。それはこの絵画たちが近々燃やされてしまうことを知ったこと」 「ええ。マユリの絵が廃棄されてしまうなんて耐えられなかったから」 「そいつは違うね」 ばっさりと断ずる言葉に、え、と戸惑う声を上げる。此奴も役者だ。いや、わたしに迷惑が掛からないようにと考えているのだろう。 「フックマンに間違われる要因は二つあると言っただろ。もう一つは、お前が隠し持っている匂坂の絵の為だ。――だよな?」 「隠し持ってなんか……いないわ」 「そうかい。勾坂の絵が廃棄されてしまうなんて耐えられなかったって言ったよな。それにしちゃ、此奴には興味なさげじゃないか?」 わたしは勾坂の絵を撫でた。$受胎告知の絵だ。 「お前が必要だったのは絵の中に秘密が隠されていた絵画だけだった。だろ?」 「…………」 問いかけに沈黙を続ける。 此奴はわたしと同じだ。境界線を引き、そこから誰をも寄せ付けないと決めている。 迷惑が掛かってしまうから、と。 わたしは車椅子を漕ぎ、もう一枚の絵の元へと向かった。 「お前がフックマンと分かったのは千鳥のお陰だが、秘密を隠していると知ったのは八代先輩のお陰なんだ」 「八代先輩の……?」 「お、ようやく聞く耳を持ったか? あの人もフックマンの謎を追っていてな。色々と助言をしてくれたよ。そして――」 「カメラを持ってきて、フックマンを撮るんだと息巻いていた」 「まさか……私の姿が写って……」 「用意周到なお前だ。そんなミスは犯してないだろ? ただ八代先輩はわたしへある示唆を残してくれたのさ。……よし、此奴だな」 受胎告知の絵。そして、ナザレのヨセフの絵を机の上に並べた。 「上手だよな。あいつマジで絵の才能があったんだな」 「ええ……」 幼子を見詰める母親のように絵画を愛でる。$だが―― それほど大切ならば、何故この二つとも持ち去らなかったのか。 此奴は絵に興味がない。白羽が観ているのは絵の先の匂坂だ。 「それで話の続きだが――八代先輩のカメラはデジカメだったからな、今まで撮った写真を見せてくれたよ。そしてその説明の中で――」 「“組写真”の説明をしてくれたんだ」 写真に起承転結、意味性を持たせたもの。物語性を与え、被写体に共通性を持たせる。 若しくはモンタージュされているもの。時間経過を追ったもの、と大別される。 そう夕映えの中、組写真の説明を続けた。 「組写真は二枚以上あればいいと言っていたが、分かりやすく起承転結の四枚、若しくは序破急の三枚あれば表現できると言った」 わたしは身じろぎしない白羽の姿を視、こう訊ねる。 「――匂坂マユリが残したこの絵画、組写真のように物語を持たせてあったものじゃないのか」 残映の中、白羽の顔は影になり、何も映していない。あの時のフックマンのように。 「ナザレのヨセフ。これはキリストの養父であり、聖母マリアの夫の絵だ。そして受胎告知。これはその妻が身ごもった時の絵――」 「絵に物語性を持たせるなら、大切な人物が登場していないよな? そう――キリストだよ。物語の最後の一幕は聖家族の絵か?」 「それとも幼いキリストを抱く聖ヨゼフの絵か?忍び込み、残りの一枚をお前が持っていったんだろ、白羽」 顔は未だ視えない。貌のない白羽の姿を怖ろしいと感じた。 表情が分からないことが此ほど怖ろしいのか、そして悲しげに映るのか、と。 白羽は一歩、歩を進め―― 「私が持ち去った絵は、幼いキリストを抱く聖者ヨゼフの絵画だったわ。そして、その絵の中にマユリのメッセージが込められていたの」 「そう、か……」 明らかに為った白羽の表情は――哀切で歪んでいた。が、何処か嬉しそうだった。 歪んだ笑顔にわたしは怯え、そして喩えようもない程、胸が苦しくなる。 此奴の為に何かしてやりたいと思った。 「マユリからのメッセージは……」 「分かってる。まだ言えないんだろ」 「ええ。ごめんなさい。えりかさん……」 隠すという選択をしたならば、それはそのままの意味だ。 焚きつけたわたしへ、メッセージを見付けたときに報告してこなかったことが物語っている。 「……誰にも言わないよ」 物憂げな書痴仲間へそう告げる。 「え……」 「此奴はただ区切りをつけたかっただけだ。そしてできるなら、匂坂のことを話してほしいと思ったわたしの我が儘さ」 白羽はまなじりに涙を浮かべると、硬く握るわたしの手の甲へ、そっと自分の手を重ねた。 「――一つ私から伝えたいことがあるの」 「何だよ」 声が上擦る。 「バスキア教諭の件は私ではないわ」 不意に告げられた言葉。わたしは目を逸らしていた事実を言われ茫然とした。 口止めしていた筈のバスキア教諭の一件。何故、白羽が知って―― (いや、此奴ならそのくらい調べ上げているか……) 見詰める白羽へ、重ねられた手に触れ、ふっと猫の笑みを作って見せた。 「分かっているさ。バスキア教諭の件はわたしに任せてくれ」 強い残日に照らされた美術室で、わたしは大切な友人へそう答えたのだ……。 思いあがりは若者の特権だ 映画“ペリカン文書”の中での台詞だが、まさしくわたしは思い上がっていたのだろう。 フックマンには幾つかの隠された真実があり、それをすべて口に出す必要はないとは思っていた。 対外的に明かす真実と、ごく限定的に明かされる真実を分ける。 それが最上だと。 しかし―― 「お茶よ、どうぞ」 「……ああ、頂くよ」 委員長が水筒に入れていたのは水出しの紅茶。ここまでくると大したものである。 笑みがこぼれたのを見てか佳かった、と呟いた。 「ずっと八重垣さん、落ち込んだままだったから……」 言った後でしまったという顔つきをする。 相変わらず分かり易いやつだ。人に好かれる理由も分かる。 「わたしの所為で、バスキア教諭の誕生日会を引っかき回しちまったからな……」 フックマンの謎を解いたと大言壮語を吐いておきながら、想定していなかった問いに阻まれ、 “そういう事もあるかもしれない”止まりの話になってしまった。 結局、フックマン騒動は終結せず、じりじりと立ち消えするのを待つしかなかったのである。 「わたしたちは子供なのだもの。すべてが上手くいくわけではないわ」 そりゃそうだが、と力なく俯くわたしへ、 「子供の頃は失敗すべきなのよ。失敗をして糧とすべきなの。大人になってから取り返しのつかない失敗をして――」 「慌てて対処の仕方も分からないようじゃダメダメでしょ?」 「……そうだな」 彼女なりに励ましてくれているのだと思った。重く沈む心が少しだけ救われる。 だが、 「――千鳥」 バレエの授業に挑む彼女からは鬼気迫るものを感じた。 出逢った時に感じた隔たり――いや、あの時以上の壁を感じてしまう。 境界線を作っている自分が思う事ではないのかもしれないが。 「……何だか息苦しい日常になっちまったな」 わたしは千鳥の踊りを見て、そう呟いたのだ……。 ――いつもの古書の匂いと、変わらずに執務机に居る図書室の妖精。 「あら、今日は何の本を借りに来たの?」 書痴仲間を見遣り、わたしは小さく手を挙げた。 車椅子を繰り、彼女の元へと向かいながら、あの日―― 夕映えの美術室での対話は意味の無かったものになったな、と独りごちた。 呼び出された彼女は戸惑い、否定も肯定もしなかった。 もし突き止められたのなら、わたしが望むように心に抱えていたものを吐露したのかもしれない。 だが、不十分だった推察は彼女の心の裡を聞き出すには至らなかったのだ。 「何かお勧めはあるかい?」 「ふふ、そうね。面白い伝記が入ったのよ」 「それはわたしが唯一嫌いなジャンルじゃないか」 と眉を寄せてみせる。 「でも、このジャンルもたくさん面白いものはあるのよ」 困ったような拗ねるような表情をし言う書痴仲間へつい猫の笑みをこぼしてしまう。 (フックマンの事にはこれ以上首を突っ込まない方がいい……) 始まりのフックマンの謎を明かせなかったわたしにはもう一つの謎、 バスキア教諭の―― 「えりかさん?」 「うん? あ、ああ……ついぼうっとしちまった。っていうか前も言ったけど名前呼びはやめろ」 まるで手の掛かる妹を見守るように微笑む白羽に、わたしはこいつには勝てないのだと思った……。 ――変わらぬ日常。 ほぼ介助がアミティエに変わった今となっても、此だけは学院に訪れてから変わらぬ日常の行為だ。 二人だけの密な時間であり、空間。 だからこそ、わたしはあの事を口に出すならこの時しかないと思っていた。 白羽蘇芳が口にしたあの言葉の真意を。 「――フックマンの正体が分かりましたよ」 「――そう」 足を洗う手が止まり、バスキア教諭は呟いた。$そして、 「肝試しをしていた上級生のことよね。困ったものだわ」 と、笑みをこぼし言った。 わたしは―― 白羽を問い詰めた時と同じく、“カラマーゾフの兄弟”の一場面を思い出す。 荒野で修行を行っているキリストへ悪魔が邪魔をする。石をパンに変えろと奇跡を起こせるか試すのだ。 その場面に当て嵌めるなら、悪魔はわたしで、受難を受けるはバスキア教諭ではないかと。 彼女が誰かを庇っているのは分かっている。 秘匿しようとしている其れを白日の下に晒そうとしているわたしは、無意味で無体な事をしているだけではないかと。 「どうしたの、怖い顔をしているわね」 「いえ……」 「今日はすごかったわ。皆が注目している場で理路整然と……。まるで白羽さんみたいに」 「わたしは白羽には及びませんよ」 「そんなことは無いわ。八重垣さんのお陰で皆フックマンに怯えずに済むようになった」 「怪談話だと思っていた生徒たちも正体が分かった以上、むやみに下校時刻を破ってまで行くこともないでしょうしね」 微笑むバスキア教諭に、心苦しくなりつつも、頭を振り、再度言った。白羽には及ばないと。 「白羽は事件がどう転ぼうと真実を明らかにする。真っ当なやつです。わたしは自分に都合が良ければ真実なんてどうでもいい」 「八重垣さん……?」 「――フックマンは複数居たのです」 わたしがそう口火を切ると、理解できないのか小首を傾げた。 「それは……そうなのでしょう。肝試しに訪れた生徒は一人だけではないのでしょうし……」 「そうではありません。わたしがあの場で説明したのは全てではない。バスキア教諭、噂が広まる為には種は蒔かれてなければ為らないのです」 言葉の真意が分かったのか、驚き、そして何処か悲しげな顔を見せた。 「まだ……終わった訳ではないのですね」 「始まりのフックマンの正体は突き止めました」 顔を上げる彼女へ、首を振った。口にしたくない言葉だ。 「始まりのフックマンの名前は言えません。ですが、わたしが……あの日、バスキア教諭が倒れた事件の折、わたしはフックマンを視ました」 「ええ。気を失った私を助けてくれたわ」 「……フックマンを追っていたあの時、わたしは確かに美術室で物音を聞いた。中に人が居る気配を感じました」 そしてドアに手を掛けようとした時――悲鳴が聞こえたのですと続ける。 「私の……悲鳴ですね」 「はい。その足で反対側の空き教室へ。ですが、おかしいのです」 首を傾げるバスキア教諭へ頷く。 「あの日、肝試しに訪れていた生徒は八代先輩の手で寮へと戻されていた。だから噂を広げたフックマンはいない」 「なら――八重垣さんのいう始まりのフックマンでは……」 「それはあり得ないのです。何故なら始まりのフックマンは既に事を為していた。美術室に用はない。バスキア教諭――」 「貴女は、美術室にいた“〈別〉《ヽ》〈の〉《ヽ》〈者〉《ヽ》”から目を背けさせるため、わざと悲鳴をあげたのですね」 ――互いの空気は硬直し、時が進む速度が遅く感じられた。 緊張感が孕む空気とは別の、今まで味わったことのない空気。 「――人の倫を外れたら罰を受ける」 「…………っ」 「二番目の姉が、自暴自棄になっていたわたしを諭した時の言葉です」 バスキア教諭――と再度呼び掛け、 「隠していることは人倫に〈悖〉《もと》ることではありませんよね」 そう、問う。 始まりのフックマンを隠すと宣言したわたしが問うていい言葉ではない。 輝くような蜂蜜色の髪、 豊満な肢体、 すべてを赦せる太陽のような人柄、 わたしが望み憧れる人は悩み―― 「まぁ――というのは建前で」 背伸びしシャワーを手に泡を流した。 「え……」 「別に糾弾するつもりはないんです。ただバスキア教諭が何か困っているなら――わたしを頼って欲しかった」 「八重垣さん……」 「誰かを庇ってのことだというのは分かっています。それが善意なら構わない」 「だが、もしバスキア教諭が困って……もし脅されているようなら――」 全力で相手を叩き潰すと宣言する。彼女は心の裡を覗くようにわたしの目を見詰めた。 「……平気よ八重垣さん。何も困っていることなんてないわ」 「ならいいんです」 「いいの?」 「白羽とは違う。嘘でも未解決でも、それで皆巧く廻るならそれでいい。わたしがこんな真似をしたのは――」 琥珀色の瞳はあまりにも真摯で、わたしは勢い自分が心の裡を赤裸々にさらけ出していることを今更ながらに知った。 「なぁに?」 「……貴女が幸せならそれで佳いんだ」 呟く声は届かず、タオル一枚隔てた扁平な胸は煩いほどに高鳴った。 わたしの憧れ。 「私は……駄目な教師ね。生徒にこんなにも心配を掛けて……」 「確かに心配しましたし、柄にもない事をしましたけど……ダメなんかじゃないです。失格教師だったら誕生日なんて祝われないでしょう?」 そう、そうね――と笑んだ。 「たくさんプレゼントを頂いて……。考崎さんからも新しいバレエシューズを頂いたのよ」 あいつ贈らないと言っておいて――と歯がみするも、はっと胸を突かれた。個人的に渡そうと考えていたプレゼントを手渡せていない。 (フックマンのバタバタで失念してた……!) 「そう、花菱さんからは押し花を頂いたの。とても可愛いダリアの花よ」 そのつもりはないだろうが、催促されているような声に聞こえ、つい委員長を恨んでしまう。 乙女っぽい真似をするんじゃねぇよ、と。 気が利いたプレゼントをわたしが贈りたかった。 「長く教師を続けてきたけれど、今年の生徒は皆優しく勤勉で……この学院の教師で本当に佳かったと思うわ」 慈愛の零れるまさにマリア様のような微笑みに、わたしは静かに腹をくくった。 「せ、先生。心苦しいと思っているなら、一つ頼まれてくれませんか」 「え? ええ、私に出来ることなら是非」 「なら、」 かぁっと頬が、耳たぶが熱い。最高にらしくない真似をしている自覚がある。だが、 「なら、バレエ発表会での振付のやり方ですが……。詳しく教えてほしい。一人だと勝手が分からないんです」 「っ! まぁ! まぁ! 振付、引き受けてくれるのねっ。嬉しいっ!」 「せ、先生……っ!?」 抱きしめられ上擦った声をあげる。 柔らかな肢体を押しつけられ、顔といわず全身を赤に染めてしまった。碧色なんてお呼びじゃない。 「っ……はぁ! 先生、本当に苦しい、ですって……ぅぅ!」 「ふふふっありがとう、八重垣さんっ」 身悶えるも柔らかで温かな肢体は離してくれはしなかった。 (たまには甘えるのもいいか……) 母を思わせる温もりに、 抵抗するのをやめ、佳い匂いのするバスキア教諭の胸に頬を埋めたのだった……。 «自分自身以上に愛するものがあるとき、人は本当に傷つくのだ» 映画“グッド・ウィル・ハンティング”の言葉が浮かび、わたしは自嘲気味に頬を引き攣らせた。 (自分自身以上に愛する者か……) 眠れぬ頭に浮かぶのは、己の抱える闇を吐露した千鳥と、少し前までその胸の感触を味わっていたバスキア教諭だ。 (考崎千鳥……) 隣で静かな寝息をたてているアミティエ。 彼女を思うと微かに胸が痛む。状況は違えど、似たような傷を持つアミティエだ。 「……わたしは千鳥をどう思っているのだろう」 自分に問いかけてみるが答えはない。 それはそうだ。 只一つの答えではない。 わたしの胸に疼痛を与えているのは千鳥だけではないのだから。 (ダリア=バスキア……) フルネームで呼ぶと、ある種の気恥ずかしさが襲い、顔を、身体を熱くさせた。 此は―― 千鳥に抱いているのと同種の想いだろう。 「……委員長を笑えないな」 煩悶する想い。 比べる事などおこがましいだろうが、 わたしは―― アミティエのことが あこがれの人を…… より強く想うのはと煩悶し、浮かんだ顔にかっと身体が熱く、身悶えしてしまう。 (クソ……! 何でこんな乙女な真似を……) 隣で眠るアミティエを見、わたしは篭もった熱をはき出すように長い吐息を漏らしたのだ……。 目をつぶると、金色の髪、同色の瞳、わたしの憧れるあの人が浮かび……。 (ぐ……ッ! わたしってやつは……) 少し前に味わった、豊満な胸の柔らかさを思いだし、熱い身体がさらに火照ってくる。 赤面した頬に手をやり、そしてクセっ毛の頭をクシャクシャに掻き回すと、 「……まいったな。こんな感情、無縁だと思っていたんだけどな」 と呟いた。 そして、胸の中の想いを認めるため、反芻しようと目を瞑ったのだ……。 グリム童話に�マリアのこども�と呼ばれる一篇がある 貧しい家庭に生まれた女の子が、生活苦から3歳の時に、聖母マリアに引き取られ天国で幸せな生活を送る物語だ 女の子が14歳になった折に旅に出るマリア様から鍵を預かることとなった。そして13番目の扉を開けてはならないと言付けられる しかし女の子は好奇心から13番目の扉を開けてしまう。旅から戻ったマリア様が扉を開けたことに気付き問いただすも―― 女の子は開けていないと頑なに言い張る。言いつけを守らず嘘を吐いた女の子を、マリア様は赦さず口をきけなくし天国から追放した その後、身よりなく幾年か泣き暮らすも、通りかかった王子に拾われ結婚することとなる。仲睦まじくすごし、子供を授かった。しかし―― 子供が生まれた晩、マリア様が枕元にたち�13番目の扉を開けていないのだね�と問われ、お后となった女は頑なに開けていないと答えた 嘘の代償として子供を奪われるお后。その後二度、三度、子供が産まれ同じ質問をされるも嘘を吐いたため、そのたび子を攫われてしまう 物語の最後に改心したお后が嘘を恥じ、罪を告白したことで連れ去られた子は三人とも返され赦された 14歳の折に吐いた嘘で全てを失い、嘘を吐き続けた為大切な者を幾度も奪われる。このお話を聞き、わたしは大切な友人を想った これから始まる物語は――失ったものを取り戻そうとあがく、マリアのこどもたちのお話 遠く望む森の上に西洋の城のような雲が浮かんでいた。 空は青く青く澄んでいて、入道雲がくっきりとその稜線を際立たせている――と。 前にも同じ事を思ったことがあるな、と暑さから現実逃避していたわたしは、 水分補給用の水筒にスポーツドリンクを補充し持ってくると、ハードな稽古を続けているアミティエを眺めた。 この酷暑の中踊り続けている千鳥は汗をびっしょりと掻きながらも、 オーロラ姫の第二幕ラストの眠りから目覚め、踊りはじめる場面を密に稽古をしていた。 情景と終曲“オーロラ姫の目覚め”。 静かなテンポの曲ながら静と動の明瞭な踊りが必要となる。 ひたすら激しい踊りよりも、強弱のはっきりついた踊りの方がきつい――らしい。 (上の姉の受け売りだが……) いつもは涼しい顔をして踊る千鳥だが、今や胸元は汗が溜まり、沁みを作っていた。 一方溜まる場所がないもう一人の主役級は―― 「はぁはぁ……」 荒い吐息を吐き、フロアに座り込んでいた。 「怪我の具合はもういいのか」 「ええ。平気よ。ただ少し休んでいたから、体力が落ちてるのかも……」 委員長の役であるフロリナ王女はコミカルな動きが多い。確かに休み明けではキツイだろう。 「考崎さんはすごいわね。集中がずっと切れていない。腋もずっと落ちないで続けているわ」 「腋が落ちてるか、初めは何言ってるんだって思ったよ」 わたしの言葉に、目をぱちくりとさせ、少しだけ逡巡するとそれもそうねと笑んだ。 「廻る演技の時は腋を空けていないと上手に回れないから、腕が下がると講師の方から腋が落ちてるわよって、よく注意されたわ」 まぁ、独特な言い回しだよなと呟き、そろそろ潮時かと、チェックを再開するため、次に踊らせるべき生徒を見遣った。 「でも意外だったわ」 「何が?」 「振付の事よ。まさか引き受けるなんて思ってなかった。どんな心境の変化があったの?」 数日前の――浴場でのやり取りを思い出し渋面を作った。素直になった自分が恥ずかしい。 「義理だよ、義理」 ドリンクを口に含み言う。 「そう。ふふっ八重垣さんって優しいものね」 「けっ、いいから水分取っておけよ」 わたしの水筒を渡し水分補給させ、オーバーワークにならないよう、オーロラ姫の演技を続ける千鳥へ交代を命じた。 「……了解」 炎が緩やかに勢いを失い、平時へと戻っていく。だが、完全に消えた訳でなく残火は燻っているように見えた。 「お疲れさま。さっきの演技すごく綺麗だったわ」 わたしの水筒を千鳥へ。$喉を鳴らし実に美味しそうに飲むと、人差し指で艶やかに唇を拭い、 「ありがとう。貴女のピケ・ターンも佳かったわ。軸がぶれないところが素晴らしいわね」 「そ、そう……? ありがとう……」 ことバレエに関しては厳しいのは今まで通りだが、他人に目を向けることも覚えたようだ。 フックマン事件を越え――いや、かつて心に傷を負った後輩との出来事を打ち明けてくれた事も関係しているのかもしれない。 (ま、話してくれた事で少しは心の重荷が軽くなっていればいいんだがね……) そう簡単な事ではないと分かっていても、そう思わないではいられない。 次の生徒へ、舞台の流れ通りに踊るよう指示するも、 「八重垣さん、ここはどうしたら……」 男性の役が被っている。わたしは、 「え、ああ……と。技よりも、そこは男性役とともにオーロラ姫の結婚を祝福する場面だから、男性役が居る形でマイムで表現してくれ」 分かったわ、と頷き、踊りと彼女なりの表現を見せる。悪くない表現方法にOKを出した。 「しっかり監督をやっていますな」 言い、残り少ないスポーツドリンクを奪ったのは、 「こっちにもくださいですよ」 長靴を履いた猫と白猫を任される事となった沙沙貴姉妹である。 「やりたくない事は徹底的に抗うがね。一度引き受けたからには適当はできないさ」 「指示も的確だし、意外と監督役あってるよね」 「振付指導だよ。でも、高みからバンバン人に命令できるこの立場は天職かもな」 笑うわたしへ、弾けるように笑顔を向ける姉妹。冗談ではないのだけれど。 「でも、マイムかぁ……。わたしや蘇芳ちゃんは踊りよりも表現の方が多くなるよねぇ」 「お、流石に用語を覚えてきているんだな」 「それはそうだよ」 無い胸を張る沙沙貴姉。妹は踊るクラスメイト等で見取り稽古をしつつ言う。 「バレエは台詞がないですからね。台詞の代わりに表現する仕草をマイムという、ですよね?」 御名答と告げるとにっこりと笑った。 特に第三幕のデジレ王子とオーロラ姫の結婚式では、と続ける。 「パ・ドゥ・カラクテールではおとぎ話の仲間たちが祝うために歌い踊る。お前等の長靴を履いた猫と白猫、それに――」 「赤ずきん役の白羽はマイムが多い。あいつはバスケットを振りながら踊るしな。狼役とのやり取りのマイムをどうしようか考え中だぜ」 大人しい白羽へ、目立たせるために可愛らしい踊りを熟考する。つい頬が上がってしまった。 「おおっ、まさにオオカミの笑みですね……!」 「本性は猫なのに、イヌ科とはこれ如何にって感じだよね」 笑いながらフロアに女の子座りで座り込んだ。 (バスキア教諭の誕生日からこっち、熱も入ってきたしな……) わたしが振付をすると決まったことを皆へ伝えた日から、本格的な舞台の練習へと入っていた。 眠れる森の美女はチャイコフスキーの三大バレエ。今までに星の数ほど演じられている。 わたしとバスキア教諭は、踊られている舞台から男性の出番がなるべく少なく、そして皆に出番が回り盛り上がるだろう場面をピックアップした。 先ずは第二幕第二場“眠れる森の美女の城”のラスト、情景と終曲“オーロラ姫の目覚め”の場面。 そして、第三幕“デジレ王子とオーロラ姫の結婚式”から、“おとぎ話の人物たちの行列”を全てでなく部分部分、発表会としての形で流す。 そして最後の見せ場となる“オーロラ姫のヴァリアシオン”で幕とする。 基本となる踊りの演技は模倣するが、各々の腕を考えて少しのアレンジをするところが振付のミソだ。 先ずは基本となる踊りをやって貰い各自の腕を見、見栄えと舞台の物語性にあう振付を考える。中々に大変なのだ。 「佳し、それじゃ次のダイアモンドの精役、踊ってくれ」 言い、サファイアの精役の留意点と踊りの変更案を書き留めた。踊り出したクラスメイトの踊りを見つつも、 「おい、女の子座りはやめた方がいいぞ。委員長を見習え」 と忠告する。 「何で? 体育座りだと女の子の大切な部分が見えちゃうよ?」 「なっ!?」 慌てて床に面していたスカートを手で抱き上げるようにしておさえる。体育座りをしたまま頬を染め、睨んだ。 「いや、何でって言われてもな……」 足が太くなるぞと真面目に答える 体育座りなら覗けるだろ? 「ぅぅ……」 委員長が睨んでいる。真面目に答えるとしよう。 「バレエを学んでる者はな、座るときは体育座りか、足の裏をくっつけて座るあぐらモドキなんだよ」 「何で? あぐらとかって可愛くないよ?」 「理由は単純。お前がしているいわゆる女の子座りはな、足の形が悪くなるんだよ」 「ええっ、そうなの!?」 「だから基本、体育座りかあぐらモドキの二択になるんだ」 わたしの言葉に足の形が悪くなるのやだぁ……と素直に座り方を変えたのだ。 委員長の意趣返しということで、 「そりゃ苺先生のスカートから覗くおみ足を覗きたいんだよ」 「ええ!?」 「綺麗な足してるもんな。見習いたいくらいだぜ」 気恥ずかしくなって黙るだろう、そう思っていたのだが……。 「ふふっ、足が綺麗だなんて、やだなぁもう嬉しいじゃんかぁ!」 浪速のおばさんのように沙沙貴姉は肩を叩きつつ謙遜する。 「褒めても何も出ないよ、はい!」 いきなり飴を貰い、勢いに押され愛想笑いを浮かべた。 「姉は褒められ慣れてないですからね……」 呟く妹の言葉に、バレエ教室では女の子座りは足の形が悪くなると言われているのだと、残酷な言葉を口にすることは出来なかったのである……。 「ダイアモンドの精役、お疲れ。後は――」 不意に開けられたドアの音と、吹き抜けた微風に安堵し、動きを止める。と、 「お疲れ様。今日はここまでにします。それでは忘れ物のないように」 振付の打ち合わせのため、後で部屋に来るように――とバスキア教諭は告げると、そのまま部屋を後にした。 そして、 「…………」 一緒に入室した白羽は疲れ切った顔を見せていた。……いや、まだ白羽は踊ってない筈だ。 口には出していないが問われているのだと察したのか、力なく項垂れつつ、 「寸法を測られるのが大変だったの……」 と、息も絶え絶えに言った。 「え? え? どうして?」 「……衣装係の子たちの気持ちは分かるわ」 「確かに」 「ですです」 学院一……クラス一の美人を玩具にできるのだ。衣装係の力の入れようも違うのだろう。 白羽は採寸の最中を思い出したのか赤面し、顔を手で覆った。 「ふっ、ぷぷっ!」 思わず吹き出してしまうわたし。 「酷いわ、えりかさん!」 恨みがましい目で見詰める書痴仲間へ謝ると、気分を変えるのにシャワーを浴びるよう提案する。 皆が賛成する中、 「私はもう一度、通しで踊ってから戻るわ」 言い、クラスメイト等がレッスン室を後にする中、一人フロアへと進み出る。 「やっぱり考崎さんは考崎さんね」 「……ま、ゆっくり変わればいいさ」 以前の張り詰めた空気はなく、生真面目な顔つきで鏡に映る己の動きを確認するアミティエを見、わたしはそう呟いたのだ……。 当然だが、バレエの練習ばかりやっている訳ではない。 五科目は通常通り行い、選択科目も同様。 ただし、体育の授業が発表会に向けてのものとなり、放課後は部活動を一時休止し、バレエ発表会のため全員参加での稽古と相成っていた。 (ま、それだけじゃ時間が足りないって話なんだけどな) 英語の授業だが、皆の振付を考えるための時間としてノートを開き熟考する。 バランスを考えると―― 「……八重垣さん」 小声で呼び掛けられ、はいよと答える。何時もなら声を掛けてくることなどないお隣さんだが、 (……こう何度も呼び掛けられりゃ、用件は察せるってもんだ) 机の上に広がるはクラスメイト等からの手紙。 愛を伝えるもの――ではなく、不幸の手紙――でもない。 自分の踊る時間がもっと欲しい。見栄えのする技を見せたいとの要望書なのである。 (しかし、そんなに張り切るもんかね……) 一枚や二枚なら分からないでもないが、半数以上の者が“こうして欲しい”との改善要求を送ってきたのだ。 わたしの振付にセンスがない……という厭味ではない。純粋に自分の役での見せ場が欲しいだけ。 「……ま、バレエがやりたくてこの学院に入ったってやつも多いって話だしな」 だからか、大体の生徒が普通以上に踊れていた。最近、転入してきた者たちでバレエ経験者でない者は裏方にまわってもらったが……。 (これってオーロラ姫の目覚めの場面だろう。静まり返った場面で、モブがアラベスクしてどうするんだよ……) 悪目立ちする要求を却下。赤線を引き、捌ける場面でソテの演技を入れることを提案するのを記し、隣の席の生徒の腕をつつく。 手紙を渡すと差出人の元へ流れていく。 「……バレエ発表会も間近か」 「食事ってのはこうじゃなくちゃな」 ポークハワイアンソテーを前に舌なめずり。 スライスしたニンニクと一緒に豚ロース肉をしっかりと焼き風味をつけ、塩こしょうで底味をつける。 ソースは、ケチャップと中濃ソース。そして添えつけてあるパイナップルがポイントだ。 ケチャップと中濃ソースを混ぜ合わせたものに、パイナップルの果汁を入れ完成したのがハワイアンソース。 ニンニクで風味を付けてカリッと焼きあがった豚ロース肉に、黒い中にも高貴な赤味が残るハワイアンソースを掛ける。 渾然一体となった香りが、わたしの五感へ早く食べて血肉にしてと訴えかけているのだ。 「頂こう」 厚切りのロース肉にナイフを入れ、ソースをたっぷりと付け口の中へ。 ニンニクの風味が鼻腔を幸せにし、硬くも柔らかなロース肉が噛みしめるたびに至福を与える。 酸味のついた甘いソースだけでも白米を平らげてしまうほどに。 「早く食え。冷めた料理ほど不味いものはないぞ」 「発表会の前だからこそ、体を絞りたいのだけど」 「何言ってるんだ。この暑さでサラダだけなんて体がもたないに決まってるだろ。人一倍練習してるんだからしっかり食っておけよ」 「……見ているところは見ているのよね」 「何だ?」 と問うが答えずにフォークを入れ、ぱくり。 鉄面皮にみるみる驚きと歓喜がわき上がっていくのが見てとれた。 「美味いって感じるのは体が欲してるからだぞ。肉を食べろ、サラダなんざ年取ってからでいいんだよ」 「前半は同意だわ。後半は意見が分かれるところだけど」 言い、席を立つと、 机からノートを持ってきた。 「久しぶりに見たな……」 「最近は発見がなかったのよ」 さらさらと鉛筆の音が部屋に響き、 再び食事へと戻った。 机の上に放りっぱなしになっている自分ノートとやらを見て、 嫌いなモノも書いてるのか? わたしも日記を付けてみるか 「好きなものとかを書いているのは知ってるけど、嫌いなものってのは書いてないのか?」 ポークソテーを満悦の表情で食べる千鳥へと訊ねた。すると、アミティエは心底不思議な顔をして、 「いちいち嫌いなものを書くの? 感動して忘れたくないから書き留めるんじゃない」 頭大丈夫か? と言わんばかりの訝しがる顔つきに、だよなと小声で同意した。 だが、 「嫌いなものを書いてないって言われて安心したよ。わたしの名前は書かれてないんだな」 「え……」 「嫌われてないってだけで嬉しいよ」 「馬鹿ね……」 刹那照れた表情を見せるアミティエを見て、やり返したとにんまり笑ったのだった。 「わたしも日記でも付けてみるかな」 と呟いた。千鳥は食べる手を止め、 「やめた方がいい」 そう切って捨てる。 何でだよと抗議するわたしへと、まるで礼法の授業のように上品なフォークさばきを見せつけながら言った。 「えりかが日記を付けると、ホラーになるからよ」 「恨み辛みを書いてって、おい!」 「無くても捏造しそうよね」 確かにと自分でも納得することを言われ、理解あるアミティエを持って幸せだよ――と呟くより他なかったのである。 添えつけの四分の一にカットされたパイナップルを食べ、 「……何でも初めての体験は素晴らしい」 と呟いた。 「何、誰の言葉?」 「友人だよ」 さらりと答えたことに自分も、アミティエも虚を突かれたような顔をした。 友人――。 わたしがこんな言葉を何気なく口にする時が来るなんて――らしくない言葉に黙り込む。と、 ノックする音が聞こえ、どうぞ――と声を掛ける。 「あ、まだ食事中だったの。ごめんなさい」 「いや。それより急な用件か? もしかして白羽が泣きを入れたとか?」 恥ずかしいマイム(可愛らしい仕草)に赤面していた書痴仲間を思い出し猫の笑みを浮かべた。 「蘇芳さんは一度やると言ったら曲げない人よ。そうじゃなくてこの子たちなんだけど……」 委員長に促され、三名のクラスメイトが部屋に入って来る。 「バレエの振付のことで相談があるそうなのだけど……」 「……成る程。魔の巣に来るには、頼りになる青い鳥が必要だったってことだ」 呟くわたしへ委員長はおさげを揺らし怪訝そうな顔を浮かべた。変わり者二人の縄張りにきたことで級友等は緊張を強いられているように見えた。 「分かったよ。食事が済んだら話そう。そうだな……教室に戻るのも面倒だし、十分後に食堂で落ち合うってのは?」 「は、はい。それでお願いします!」 頭を下げると一目散に部屋を出て行く。$本当に魔の巣のようだ。 「走らない!」 と声をあげる委員長を横目に見ながら、 「アミティエ権限を行使するなら今だぞ。もっと楽な演技に変えてやってもいい」 「遠慮しておくわ。今のままで充分。いえ、もっと――」 ポークソテーを口に入れる寸前で止め、何かを呟く。 思い詰めたような顔つきにまたぞろ面倒なことを考えているんじゃないのか、そう第六感が囁いたろくでもない予感は―― 「――まさかな」 現実のものと為ったのである。 初めは――どんな言葉から始まったのだろうか。 “眠れる森の美女”―― 基本となる踊りは大言壮語を口にするだけあり完全にモノにしていた。 だからだろう、さらに観客を魅了する為にもっと高難度の技を、繋ぎの中に入れることを提案してきたのだ。 「欲を出すのは分かるがな……」 「白鳥の湖の32回のフェッテ・アン・トゥールナンを踊らせてと言っているわけではないでしょう」 「いいか。気候を考えろ、体力が保たない。倒れるのがオチだよ」 「役者で自分の体調を把握していない者はいないわ。踊れない貴女にはわからないでしょうけどね」 ――ああ、思い返してみればこの言葉だったのだろう。 「…………」 千鳥は自分でも迂闊なことを言ったと分かったのだろう。息をのみ――意見しようとクラスメイトが詰め寄るのを無視し、 真っ青な顔をしたまま、レッスン室を後にしたのだ……。  私の目は色を為していなかった。  窓から覗く空は白々しく、森は黒黒と〈戦〉《そよ》ぎ、行く壁は灰色で寒々しい。  寒い? いや――  これ以上ない程に発熱している。心も身体もだ。  後悔という名の薪が、どくどくと脈打つ心へとくべられる。 「今まではこんな気持ちになることはなかったのに……」  心ない言葉を吐いてしまった。それは認める。だけれど、此まであの子を嘲るような言葉は幾度も吐いてきたのに。  何故、此程までに胸が疼き、後悔の念に押し潰されそうなのだろう。  熱を身体から吐き出すようにして溜息をもらす。  戻ろう。  どう思っているかは分からないけれど、謝らなくては為らない。  私は歪みそうになる視界を――目蓋を指で圧迫すると自室へと足を向けた。 「――ようやくお姫様のお戻りだな」  そうえりかの軽口が、声が聞こえた途端、  $ 世界に色が戻る。  寒々しいと感じていた視界に色が戻り、張り詰めていた緊張と、零れそうだった熱が穏やかになっていく。 「あ、の……えりか……」 「前に言っただろ、湿っぽいのはなしだ。別に気にしちゃいないさ」 「そう、なの……」  姿を目にする勇気はなく、入り口に佇んだまま答えると、存外に朗らかな声は続けた。 「クラスメイトたちにも何時もの軽口の言い合いだって話は付けといたから問題ない。癇癪は治まったのか?」  ――ああ。バレエでの意見の衝突で怒ったと思っているのだわ、と気付いた途端、本当の意味で安堵した。  私の言葉で傷つけ――傷ついたのではないと分かったから。  赦される言葉を聞く前に姿を見ることを恐れていた私は、ようやく―― 「もう、平気よ。ごめんなさ――」  ドアに付けていた背を離し、彼女の元へ。と、  猫の笑みを浮かべるアミティエの隣に、バスキア教諭が佇んでいるのを見、立ち竦んでしまった。 「ぁ……」 「うん? どうした? いつものやつだよ。風呂の介助に来てくれたんだ。  まさかプライベートな話を聞かれて、恥ずかしいとか女々しいことを言うんじゃないだろうな?」  笑うアミティエに、話を聞かれたことよりも、私は……。 (何でこの人は特別なの?)  心の中に境界線を引き、誰も触れさせない、踏み込むことを赦さないと決めているのに―― (何故バスキア教諭だけは這入ってこられるの?)  私以外に心を開いている事が赦せない。バレエで難しい技に挑戦する時のような、いえ、それ以上の炎が胸に灯るのを感じる。 「おい、何だってんだよ。そんなに恨みがましい目で見て。まるで嫉妬に狂う委員長みたいだぜ?」 「……何を言っているのか分からないわ」 「ま、そりゃそうか。兎に角、わだかまりも解けたってことで風呂に行ってくるよ」  親しげに車椅子の押し手を握るバスキア教諭の手に、えりかの指が掛かるのを目にして―― 「――待って」  自然と口が開いた。 「何だよ。どうした? まさか三人一緒に入ろうってんじゃないだろうな」 「いいえ。三人ではないわ。私とえりかで入浴するのよ」 「考崎さん……?」  驚き呆れる表情のアミティエと怪訝な顔つきをするバスキア教諭に、常とは違う熱を持って意見する。 「私たちはアミティエ同士でしょう。お風呂以外の介助はしている。驚くことなんてないわ」 「いや、そりゃ道理だが、今まで……」 「バスキア教諭も怪我をするし、風邪を引くときだってあるわ。先だっても……バスキア教諭の誕生日の数日前、前例があるじゃない」  フックマン事件の真相を解き明かす数日前のことだ。何故だか、二人は顔を見合わせ、気まずい顔をした。  二人だけの秘密を持っているようで胸がざわつく。 「……そうね。確かに私に何かあったとき、誰にも頼れない状況があるのは拙いわね」 「え」 「道理よ。ほらお風呂、一緒に入りましょう」  意図して笑みを浮かべアミティエへ歩み寄っていく。と、 「……�カッコーの巣の上で�みたいな治療はされないだろうな?」  頓珍漢な物言いをし、何故だか酷く怯えてみせた。  ――自分から言い出したことだけれど、  服を脱がすという行為がとても恥ずかしく感じられた。  自室での制服の着替えを手伝うこともある。だから、着替えさせる……いや、脱がせることに抵抗はない筈なのに。 「乱暴に脱がせるなよ、皺ができちまう」  えりかは特に気にしていない様子でされるがまま服を脱がされ、浴場へ。  そこで身体を洗うときも―― 「前はいい。足と背中だけ頼むぜ」  そう、次いでの買い物を頼むかのように告げた。  私がどれほど緊張し、激しく鳴る鼓動を抑えているか知らない癖に。  そして、 「ちゃんと手を繋いでいてくれよな」  ヴァイオリンを奏でるような声音で私の手をしっかりと握ったのだ。 「――まさかお前とこうして風呂に入る事になるなんてな」 「……嫌なの?」  まさか、と少年のような笑みをこぼし言う。 「初めて遭った時を思うと感慨深いって話さ」  そう言い昔を懐かしむような目を向けた。  意志の強い〈緑青色〉《ろくしょういろ》の瞳。常とは違う穏やかな眼差しに、まともに目を合わせられない。 「……意外と神経細いんだよな、お前は」 「え、何?」 「……やっぱりな。あの言葉はグサリときたよ。踊れない貴女には分からないでしょうねってやつさ」 「ぁ…………」 「あの言葉はやり過ごせない。信用できなくなるぜ」  胸の奥が掴まれ、呼吸をすることすら難しくなる。私は――  支えている手が震え、何か言わなければと思うけれど何も口にできない。$ 何てことを―― 「こう言えば満足か?」 「ぁ、え……?」 「気にしてないって言ったのに、心此処に非ずって風だったからな。荒療治ってやつだよ。いいか、何度も言うが気にしてない。気に病むな」 「でも――」  言いかける私へ、首を小さく振り、 「気にされすぎる方が嫌なんだよ。お前くらいのスタンスの方が遣りやすい。何時も通りで行こうぜ、相棒」  少年のような快活な笑顔を向けられ、凍っていた心は解け、〈絆〉《ほだ》されていく。  えりかは私の手を強く握り、 「お前を背負ってはやれないが、お前の重荷は背負ってやれる」 「え……?」 「胸に秘めてた苦い過去ってやつを話してくれたろ。一人で抱え込むにはキツイが、二人でならそれ程じゃねぇ、だろ?」  私の瞳を〈緑青色〉《ろくしょういろ》の瞳がしっかりと捉えてくる。お腹の底から熱いものが込み上げ、身体はジンと痺れた。  何も言えない私へ、臭かったかと呟く。と、 「以前、�カラマーゾフの兄弟�って本を読んだんだが……」  そう言い、かつて読んだ小説を語って聞かせてくれた。  ――キリストが荒野で修行しているとき、悪魔が誘惑してくる。荒野の誘惑と言われる場面だそうだ。  悪魔は石をパンに変えろと、キリストが奇跡を起こせるか試す。  キリストは�人はパンのみで生きるにあらず�と返すが、カラマーゾフの兄弟では荒野の誘惑の解釈を�奇跡は悪魔の所業だ�としたという。 「奇跡が悪魔の……」 「作者の意図する意味ではないだろうけど、奇跡は悪魔の所業だって台詞が……わたしには心強い言葉に聞こえたよ」  小首を傾げる私へと、顎で私を指し、自らも指す。 「わたしたちには奇跡が起こるってさ。だってわたしたちは神を信じてないし、ろくに祈りもしない。だよな?」 「確かに……そうね」 「だから奇跡は起こる」  断言するえりかに私はようやく微笑みを返せた。 「おっ、ようやく笑いやがった」  心ない言葉を吐いたのに私を心配し、優しく接することができるアミティエに。  私は後輩に感じていた只一人の友人としての想いを―― 「バスキア教諭も心配していた。後で謝っておけよ」  不意に出た彼女の名に、激しく想いを迸らせていた私の気持ちは急速に萎み、代わりに胸が張り裂けそうな嫉妬が浮かぶ。 「……嫉妬?」 「うん? どうした?」 「……何でもないわ」  そう呟き、嫉妬と呟いた自分の心を探った。  バスキア教諭に唯一の友人を取られてしまうかもしれない、そう感じたから?  いえ、でも―― 「可笑しなやつだな」  朗らかに笑うえりかを視て、喩えようもない程の胸の高鳴りと、心が満たされていく充足感を得る。  この子の笑顔をもっと見ていたい。この子の秘密をもっと知りたい。  この子の全てを――  裸で向かい合っているのだ。その事実に今更ながら気付くと、 「――――っ」 「どうした。湯あたりか? 熱い湯が苦手なら最初から言えよ」  心配してくれるえりかへ、そうねと顔を視られずにそう呟いた……。  人は皆違っているのだから、どう見えているかなぞ人それぞれなのだろう。  自分の目になぞらえなくとも、一人一人性別や生まれ、立場が違えば、同じものを観たとしても其のものの本質や側面は変わる。  自分の机の前に立ち、鉛筆を握る私。  ノートに書いた名を見詰め、この想いは間違っているのだろうか。そう自問した。  皆、観ているものが別ならば、私のこの想いが誤りでない場があるのだろうか。  ――この学院では認められない。  教義に則るならば赦されざる想いだ。  いや、私の想いは――  バスキア教諭を思い起こし、ノートに書かれた字が歪む。  私がこの学院に来ることに為った病。  心を落ち着かせ、ノートに書かれたあの子を想う。  自分の想いに気付いても、  ああ、あの子の心は彼女に……。 「……えりか」  呟かれた声音は己が驚くほどに嗄れ、私は自分の抱く想いがいかに歪で醜いかを識ったのだ……。 ――目的に向かって進む日々というものは体感時間が短い。 病院での一日は進む速さが異常に遅く、引き延ばされたように感じるが―― バレエ発表会という目標に向かって進む日々はまるで、嘘だろ? と言ってしまいそうな程早く過ぎていった。 皆の意見をまとめ上げ、振付を施し舞台の精度を上げること。 それ以外にも、転入組のバレエ初心者が主となって作製する舞台で使う大道具。 父の日曜大工を手伝っていたこともあり、想像していた通りの工程だったが……。 裁縫が得意なクラスメイト等が指揮を執り、バレエのキャストも手伝っての一からの衣装作りの工程には舌を巻いた。 衣装製作の工程の流れは、まずは絵の得意なものがキャストの意見を聞きながらデザイン画を描く。 その後、白羽が玩具にされたキャストの寸法の測定。この時、現状のサイズよりもきつめに採寸するのがポイントらしい。 本番までに体を絞り込むため、だそうだ。 それから素材となる生地や装飾品を調達し、型紙を作成する。 それが終わり、トワルチェックまで済んだらようやく仮縫いが行われる。 ここで最終的な衣装合わせが行われ、サイズ調整が施される。 そして最後に本縫いが行われ、バレエの衣装が完成となる。 どうにも裁縫が苦手で、指を針穴だらけにしたわたしとしては頭の下がる思いだった。 踊ることのない裏方の者たちも、互いに最高の舞台にするべく作り上げていったのだ。 音楽も出来合いの音源を使うのでなく、ヴァイオリンとピアノが得意なクラスメイトが立候補してくれて、生演奏で花を添えてくれる事となった。 演技は当然、音楽から、衣装作り、振付まで全て一年生たちの手で行い、一丸となり発表会に向けての作業は終わりに近づいていった。 ――先ずは、舞台の書き割りの制作が終了し、次いで長く険しい衣装の合わせも済んだ。 一つの作業が済むことにより、発表会へと近づいていく。充実した日々が過ぎていったのだ。 そう。ある一点を除いては―― 最初はある種の違和感だった。 アミティエの以前と変わらぬハードな稽古。そんなに熱を入れなくとも、既に及第点以上の評価は得られるだろう。 皆、そう認めていた。しかし、踊りの精度を更に上げるための研鑽をやめようとはしなかった。 考崎千鳥の鬼気迫る稽古熱で、クラスメイト等の意識も高まり引っ張られたことに異議はない。 ここまでは佳い面だ。 しかし―― 「そこまで」 根を詰めすぎている千鳥へ制止を促すも、踊ることをやめない。 より高く、よりしなやかに、皆が見惚れるような舞台のために稽古を続ける。 が、 音楽を止め、稽古を中断させた。 「……ハァハァ、ハァ……ハァハァ……」 荒い息を吐き、どこか恨みがましい目でバスキア教諭を睨むアミティエ。 「根を詰めすぎだ。もう充分だろうが」 「……まだ、足りないわ」 「これ以上はオーバーワークです。これ以上続けたいのなら休みを取りなさい」 「…………はい」 思う所なんざないだろうに、妙な雰囲気を醸しながら千鳥は壁の花となった。 「何だか怒っているみたいね。彼女」 「怒ってる? 最近は喧嘩する暇もないくらい忙しかったんだぜ」 そう言い返すも、確かに今の千鳥は出遭った頃のツンケンとした鉄面皮に戻ったかのようだ。 それに―― 「何だかどんどん調子を崩してやがるしな……」 「ええ。まるで彼女じゃないみたい……」 そう。わたしが受けたある種の違和感。 それは、考崎千鳥の踊りの精度が徐々に落ちている、ということだった。 (正確にいえば安定感がなくなったってやつか……) より高みを目指すことについては演技者として非難することではない。 だが、自分の限界の一つ上どころではない、数段上の高みへ挑戦するのは、失敗する可能性がぐんと上がるということだ。 千鳥に風呂の介助をして貰い打ち解けたと感じたあの夜からこっち、あわや大怪我をしそうな状況は幾度もあった。 そのたびに止めはしたが―― 「蛙の面に小便ってな具合だしな……」 「まぁ、下品なこと言って」 歴としたことわざなんだが、知らないのか。 「八重垣さんは、考崎さんが怒っている理由本当に知らないの?」 そう問われ、わたしは―― 委員長の踊りを褒めたからかも 正直分からない 「覚えなら……ある」 と呟いた。 「え、どんな? また八重垣さんが軽口を吐いてそれで怒らせたとか?」 「いや……。唯一思い当たるって言ったら委員長の踊りを手放しで褒めたくらいだよ」 「え、わたしの踊りを?」 「ああ。正直一番直しが少なかったし、指示した通りに演じきる。褒めるところしかないしな」 「そ、そんな……。わたし、そんなに佳かったかしら……」 赤面しおさげを手に持ち、いやいやと首を振る。ちょいとした世辞で煙に巻こうと思ったのだが……。 「……いや、何かすまん」 「え、なぁに?」 問われるも何も言えぬまま黙ってしまったのだった。 「正直――分からないな」 そう嘘のない言葉を吐いた。$委員長にも伝わったのだろう。 「……そう」 難しい顔をして考え込む。 「以前から妥協しない踊りをすると思っていたけれど、最近の彼女は異常だわ。挑戦というより自暴自棄にも見えるくらいに」 「わたしもそう思うよ」 本気でクラスメイトのことを考えている彼女を見て、心から嬉しく思った。 花菱立花以外に、このクラスの委員長はあり得ないだろう。 「やっぱり面と向かって聞くしかないわ」 暫し思い迷った結果、彼女はそう決断した。 「悩んだ結果がそれかよ」 「でも二人のやり取りを見た限りだと……きちんと話し合ってはいないんじゃないかしら。どうなの?」 「……確かに話しちゃいないが」 「アミティエ同士なんだから腹を割って話すことも必要よ。膝をつき合わせて尋ねればきっと訳を話してくれるわ」 確かにそれは道理だ。だが理想論にしか聞こえない。 「真っ当に訊ねても口を割ってくれそうもないんだよなぁ」 「どうして?」 寝食を共にしているが故に分かる頑固さ。話す必要がないと決めたなら口を割ることはないだろう。 「……嘘でもついて罠に掛けてみるか」 「ダメよ。そんなこと! フェアじゃないわ!」 「残念だがフェアだとかはどうでもいい。一番嘘の上手いやつが大統領になれる世の中だぜ」 非難する委員長の声を聞き流しながらも、バレエ発表会を間近に控え、話さない訳にはいかないよなと口中で呟いた……。 ――クシャミが聞こえ、 「夏風邪は猫しか引かないっていうぜ」 沈黙を破るには佳い機会だと軽口を叩く。しかし、 「…………」 教科書に目を向けたまま何も答えようとはしない。 (委員長には嘘でも吐いて本音を引きだそうと言ったが……) 頑なな態度に嘘を吐いて引っかけるというのも憚れた。なら―― 「ゲネプロは明日だぞ」 バレエ発表会でのリハーサルを明日行うという――千鳥にとっては繊細な話題だろうことを突きつけた。 しかし、 「…………」 何も反応せず詰まらなそうな顔つきで教科書に向かっているだけ。 (正攻法でもダメじゃないかよ……) つい委員長へ恨み言を言いたくなる。わたしは、 「聞く耳をもたずって態度でも構わない。そのまま聴けよ。明日のゲネプロはヨゼフ座でやる」 「大道具係や衣装係が客として見学しちゃいるが……本番じゃない。流していい」 バレエの演技に鬼気迫る勢いで挑戦し続けるアミティエからは――何の反応もない。 千鳥を煽る為の台詞だったのだが。 「お前も本番前に無理はしない方がいいって分かってるよな。ま、バスキア教諭も見るんだ。あんまり恥ずかしい演技はできないが……」 「そう。バスキア教諭の前では恥ずかしい演技はできないわよね」 「あ、ああ……。まぁな、わたしたちの失敗はバスキア教諭の失敗になるんだし……」 一体何で喰いついたんだ? と困惑し千鳥を見遣る。すると、 「……えりかはバスキア教諭の為に振付を引き受けたの?」 義理を果たしただけだ 別に……関係ないだろ 久しぶりの会話は、わたしの弱い部分を掴む言葉で―― 「……義理だよ。以前話しただろ」 「義理が廃ればこの世は闇夜ってやつよね? そう、義理、義理ね……」 千鳥の苛立つことに苛立った目がわたしの目を捕らえる。 全てを悟られそうになり――目を逸らしてしまった。 呟かれるように吐かれた言葉は心の弱い部分を掴む。わたしは、 「別に……関係ないだろ」 そう反射的に答えてしまった。 「そう、そうね。確かに私には関係のない話だわ」 「千鳥……?」 「やめて、親しげに名前でなんて呼ばないで」 互いの間に気まずい時が流れる。 かつてアミティエが三人制だと上手くいかないのではないかと話を持ちかけられた事を思い出す。 (今程もう一人アミティエが欲しいと思ったことはないな……!) いかんともし難い沈黙。 「……此処は空気が悪いわ」 「あ?」 「今日は白羽さんの部屋に泊まることにするわ。それじゃ――」 声を掛ける間もなく、 「……何だってんだ」 打ち明け、わだかまりをなくそうと話した結果、更に亀裂を広げたわたしは―― 「正直者はダメだ。やっぱり大統領論で行くべきだったぜ……」 そう呟き、沈黙したドアを暫し眺めた。 と、乱暴に席を立った時だろうか床に教科書が落ちていたのを見咎めた。 「ったく……」 車椅子を動かし、千鳥の机へと向かう。 「介助者が手間を掛けさせるんじゃ――」 拾おうとした手が止まる。$今まで教科書を眺めていたと思っていたが、こいつは―― 机に置いてやろうと拾いあげた自分ノートは、折り目がついていたのかあいつが見ていただろう箇所で広がった。 「……まいったな」 わざとではないが、偶然目にしたアミティエの秘密を知り、ざわざわとした胸に広がる罪悪感と、ある種の柔らかな痛みが走り―― わたしは再度彼女が消えたドアを見詰めていた……。 ――クロスワードと女は似ている。難解なほど愉しい 映画“髪結いの亭主”の台詞だが、わたしはこの言葉に否、と宣言したい。 ドンファン気取りの男じゃあるまいし、面倒を抱えた女なんてただ気ぜわしく……心配するだけだ。 考崎千鳥は宣言通りに外泊し、朝も顔を合わせることはなかった。 朝食の折に遠く姿を見、午前中教室でも後ろ姿だけ、特に変わった事は――いや、 あまり会話をしているところを見たことがないバスキア教諭と廊下で長く話し込んでいるのを見かけただけだ。 そして、 午後一で始まったゲネプロ。 明日行われる本番前のリハーサルは―― 惨憺たる有様だった。 怪我なく終われたことが唯一の慰みと思える程に、千鳥の高みを目指す演技は失敗を繰り返し、観る者が痛々しく感じる程であった。 舞台で踊る彼女はわたしを複雑な目で見、そして舞台上にまるで誰かが居るように怯えた目を向けていた。 わたしは暗い目をしたアミティエへ、何の声も掛けてやることが出来なかったのである。 「勝手に自分一人で悩んでいるんじゃねぇよ……」 合わせる顔がなかったのか、発表会が明日に迫った中、昨日と同じくわたしたちの部屋に戻ってくる事はなかったのだ……。 ――手を、腕を使う演技は肩胛骨からを“手”と考えるのだったかしら。 今更踊りの基礎を頭の中で反復しながら、幕を隔てた客席に意識を向けた。 声から察するに、既に観客は席に座り幕が開くのを待っているのだろう。 今日は在校生だけでなく教職員、そして姿を見せたことのない学院長まで足を運んでいるとのことだ。 「……だからどうしたっていうのよ」 これ以上の客数の前で踊ったこともある。緊張なんてする方がおかしい。 でも、 私の歪んだ目には、舞台袖の奥に居るはずのない“後輩”を捉えていた。 俯き顔を伏せている少女。 私がえりかへの想いを認めた時から――舞台袖に現れるようになった過去の亡霊。 (……貴女からすれば認められないわよね) 踊れなくなったあの子の代わりに、バレエで一角の者と認められなくてはと心に誓った。 しかし、あの事故以来、私の目は――バレエを踊ろうとすればする程、歪み、踊ることができなくなっていた。 もどかしい思いをしたでしょうね、と後輩へ呼び掛ける。 ようやく目が治りかけ、またバレエが踊れるように為ったというのに、踊りを捧げる対象が貴女から、えりかに……。 「……私の前に姿を現してもおかしくないわ」 「考崎さん。そろそろ開演よ」 頷き、壇上の中央へ進み出でる。 私は、 私は――顔が見えないことが怖ろしい。 顔を伏せている後輩の顔は、 ――怒っているのだろうか、 嫉妬しているのだろうか、 ――それとも見舞いに行ったあの時のように、私を気遣い笑っているのだろうか。 怖気立つ両腕を強く抱き、意識を集中する。 そう、朗読劇の時と同じだ。役者としてアマチュアとプロフェッショナルの違いを見せつけてやろう。 オーロラ姫の衣装を確認し、胸の前に手を置き眠りを意味するマイムをすると、己を鼓舞し静かに幕が開くのを待った。 ――お前みたいな生徒、クラスに必ず一人はいるんだ。全部わかったような顔して、勝手にひがんで。 でも学校がつまらないのは、学校のせいじゃない。お前がつまんないのは、お前のせいだ 映画“アフタースクール”での名言を思い出す。 結局昨晩、千鳥は部屋に戻ってこなかった。 朝食の時間になっても現れず、仕方なしに車椅子を漕ぎ食堂に行くと、アミティエは白羽等と席についていた。 その顔つきは――わたしが昔観た“アフタースクール”での名言を思い出すものだった。 鉄面皮だが佳くも悪くも自分が信じた道を邁進するアミティエの顔つきは、迷い、どこか他人事のように思えた。 迷っているような癖に達観したような態度も人の神経を逆なでさせる。 話す機会を逸したまま時は過ぎ―― 午後一で始まったゲネプロ。 明日行われる本番を意識したリハーサルは―― 惨憺たる有様だった。 怪我なく終われたことが唯一の慰みと思える程に、千鳥の高みを目指す演技は失敗を繰り返し、観る者が痛々しく感じる程であった。 舞台で踊る彼女は時折舞台袖を気にし、そのたび調子を崩した。 通し稽古が終わり、おざなりの反省会が終わった後、誰も話しかけないアミティエへ、 ――部屋に戻ってこい。 苦渋の面相をしている彼女の肩を叩いたのだ。 ――こういう晩餐だけはしたくなかった。 本来個人オーダーは昼食だけだ。だが明日に発表会を控え、食堂のおばちゃんの厚意から仔牛のカツレツにありつける事となったが……。 (ま、笑い話に花が咲く夕食になるとは思っていなかったけどな……) こんなにも重々しく、食べる気の失せる晩飯になるとは思わなかった。 「……普通一晩たったら嫌なことは忘れるものだろうが」 浮かない顔つきのアミティエを前に、ナイフで薄くあげたカツレツをカットし頬張る。美味い。 やはり仔牛に罪はない。 「まぁ、何だ、折角好物を学食のおばちゃんが別メニューで作ってくれたんだ。冷めないうちに食べろよ」 「…………」 千鳥は何も答えずただフォークとナイフを持ったまま微動だにしない。 アフタースクールだ。つまらない顔になってやがる。 「自分ノートに書いているくらいお気に入りなんだろ。レモンを掛けるとひと味違うぞ」 笑いかけると、ようやくわたしへと顔を向けた。 「……呆れているのでしょうね」 「何だ? 冷めるのをじっと待っているって事か?なら正解だな。この世の料理で冷めて美味いモノなんて一つもない」 冗談を歯牙にも掛けず、じっとりとした女の目でわたしを注視した。 「貴女の忠告を聞かず、無謀な挑戦を続けたことよ」 「ああ。それか、ま、八代先輩風にいえば重い日だから荒ぶってるのかと思ったよ」 言いレモンを搾りカットしたカツレツを一口。口中に広がる確かな幸せ。 わたしの言葉の真意を吟味しているかの如く、苛立つことに苛立った目を向けた。だが、 「……私とはもう口を利きたくないって事ね」 言い、 立ち上がりかけた。 「座れ」 「……でも、」 「二度は言わない――」 千鳥が再び席に着き、わたしはフォークとナイフを置き、ナプキンで口元を拭ってから口を開いた。 「腹にモノが入ってないときってのはな。苛々して怒り易くなるもんだ。どんなやつだって同じだ。だから、とりあえず飯にしようって話だよ」 千鳥は眉根を寄せ、わたしを見遣るも、おずおずとカツレツを口にした。 ――わたしの目には少しだけ険が取れたようにみえる。 「お前が何に対して苛ついているのか分からない。それは当たり前の話だ。何も言ってくれないんだからな」 「…………」 「わたしの目には、何かを……打ち明けるのを躊躇っているように見える。どうだ?」 一口食べた後、腹が空いている事に気がついたのか、二切れ三切れと頬張った千鳥は逡巡し、フォークを止めた。 「今更、何を打ち明けられたって引いたりしない。特殊な性癖持ちだって受け止めてやるよ。だから話してみろ」 「……それは私がプリンシパルだからでしょ」 「あ?」 「明日のバレエ発表会で失敗ができない。バスキア教諭に恥を掻かせられないからよね」 叱られる童女のように皿へと一点を見詰め言い募るアミティエへ――笑ってしまった。 「……何が、可笑しいの」 「ふふ、く、くく……っ! 馬鹿だなお前。今更、ふふっ! わたしが自分の評価なんぞ気にするかよ」 「バスキア教諭は……」 「期待して貰ってるから下手を打てないってのはあるが、明日の本番前に必勝祈願でカツレツ頼んだり、恥ずかしい真似しているのは――」 「お前の為にやってることだろうがよ、相棒」 「――嘘」 笑うわたしへ小さく呟く。 未だ信じないアミティエへ罪悪感を持ちながらも、 「嘘なもんかよ。わたしがお前を思うくらいには……お前も私のことを思ってくれているんだろ?」 そう問うた。 千鳥は鉄面皮を崩し、困惑し、ようやく思い立ったのか羞恥に頬を染め、自分の机の上にあるノートを見遣った。 「――見たのね。最低だわ」 「ああ、最低だな。でも……嬉しかったよ。好意を向けられて嫌なやつなんていない」 千鳥は射殺す程に睨むも、それは一時だけ、ややあって目に力はなくなり、俯いた。 「もう一度言うぞ、何か抱えているなら話してみろ。抱きあげちゃやれないが、一緒に悩むくらいはできる」 私の言葉に緊張を孕んだ沈黙が続き―― 俯いていた千鳥は、顔をあげると無防備な顔を晒し―― 「……後輩がバレエをやめてから程なくのことよ」 と口を開いた。 「私の所為で怪我をし、バレエを辞めていった後輩。初めはとても踊る気には為れなかった。でも……」 「彼女から踊りを奪った私がバレエを辞めるなんて勝手ができる筈ないと思い至ったの。後輩の分まで私が踊るんだって……」 「今のところ佳い話だな」 そう告げると自嘲気味に笑った。 「バレエに今まで以上に熱を入れ、次の舞台の為に稽古をしているときに、自分の目がおかしいことに気付いたのよ」 「物が歪み……初めは只の疲れ目かと思った。でも、そのうちに私の目に映る人の顔、身体が小さく……大きく映るようになって……」 千鳥が言う症状を聞きかじった事があった。 「……アリス症候群か」 「ええ。正式には“不思議の国のアリス症候群”だそうね。可愛らしい名前だけれど一人だけで踊る訳ではないバレエでは致命的だったわ」 「人だけでなく物まで大きさが掴めない。歪んで見える時まである。私は――罰だと思ったわ」 目が悪いか若しくは乱視なのだろう――と子うさぎの消失事件の折に指摘したが……。 まさか、そこまで視界が覚束なかったのかとアミティエの労苦をしのんだ。 「バレエが踊れなくなり部屋に篭もった私を、父母は環境を変えてみたらいいと此処へ転入させたの」 「そうか……」 どう声を掛けたらいいか分からずそう告げ言葉を探す。と、 「症状が治まったら家に戻ってもいいと言ってくれたわ。此処へ来て暫くは、症状は治まらなかった。でも……」 「今は……もう治ってるのか?」 「ええ。環境を変えたことが佳かったのか徐々に……。後輩との事情を貴女へ打ち明けた時から、大分落ち着いてきた」 今は治まっているとの事に胸をなで下ろす。 だが、 「うん? いや、待てよ。最近は目の症状は治まっているんだよな? だったら、何で調子を落としてるんだ?」 わたしの問いに、腕を掻き抱くようにして縋るような目で言う。 「……舞台袖に、後輩の影が見えるようになったの」 「え。そりゃお化け……。いや、亡くなってないものな。だったら……」 後輩の為にバレエに身を捧げることを誓った千鳥。しかし追い詰めすぎた精神的なことが理由か、アリス症候群を患ってしまう。 環境が変わり、わたしへ過去の苦い想い出を語ったことで症状は治まってきたが――代わりに後輩の影を見るようになった……。 (……ダメだ。どうしてなのかさっぱり分からん) 例えばバレエを諦めたなら、良心の呵責から後輩の影を見ても筋は通る。 だが、目の症状が治まりバレエを踊ることができる……。 以前聞いた話では、後輩も千鳥が踊ることを望んでいるような話しぶりだったのに何故? 後輩の影が現れた訳が分からず、クセっ毛を掻きながら悩む。と、 「――気持ち悪いでしょ」 「あ?」 「今の話を聞けばそう思う筈よ」 じっと痛みに耐えるかのように俯き一点を見詰めるアミティエへ―― 呵呵と笑った。 「何を笑って……」 「さっきお前の悩みを聞いてやる。受け入れてやるって言っただろ。お前の重荷を背負ってやるって」 「でも、」 「ありゃ全部ひっくるめてって意味だぜ。今更、お化けモドキが見えるくらいで引くかよ」 「――えりか」 ようやく目を見詰め返したアミティエへ、 「わたしはフックマンを鎮めた立役者だぞ」 そう猫の笑みを浮かべてみせた。千鳥は一瞬呆気にとられ、馬鹿をみるような顔をし―― 「そう、そうね……。ふふ」 何故だか、愉しげに、お腹を押さえ、笑い崩れたのだ。 「……今の感動するところじゃないか?」 「ふ、ふふっ! そう、そうね、ふふっ! 何だかほっとして、ふふ!」 涙を浮かべ笑うアミティエの髪が揺れ、バレエを学んでいた姉をみて羨ましく思い、一度だけやって貰ったあることを思い出した。 確かに愛情を受けたと確信したあの時のことを。 (此奴には親だけじゃない。ちゃんと自分を思っている人がいるって事を教えなくちゃいけない) 髪を結ってやるよ いや、もう必要ないだろう ――髪を結ってやるよ、というわたしの提案は、 素直に受け入れられた。 初めは肩口まである髪を丹念に梳かした。そして髪を整えてからいつものバレエ姿の結い方ではない。 お姫様風の結い方に挑戦しているのだ。 「えっと……纏めるのはこうでいいんだよな……」 「ふふ。不安になるようなことを言うのね」 「髪を結ってやるなんて初めてなんだよ。見よう見まねってやつさ」 「お姉さんの?」 頷くわたし。千鳥は微笑むと、 「そう。初めてなのね……」 と言った。 「不安が増したかい?」 そう訊ねると小さく首を振る。 「いえ。私が初めてな事が嬉しいのよ……」 「……何だか随分と素直じゃないか」 「何を言っても受け止めてくれるのでしょう?」 軽口で返され、まぁなと猫の笑いで返す。 そして、考崎千鳥の髪を結っているという状況に、苦笑ってしまう。 「なぁに?」 「いや、初めて遭った時のことを思うと、髪を結ってやる間柄になるなんてとても思えなくてさ」 「えりか、すごく嫌な態度だったものね」 「それはお互い様だっての。それで無理やりアミティエにされて……」 「正直初めて介助するよう言われた時は面倒なことになったと思ったわ」 そうだろう。わたしが境界線を引く理由。 「……感謝しているよ」 「二人きりの生活……。でも、子うさぎの事件で私が犯人だと真相を明らかにされてからは、もう学院にいられないのではと思った……」 「強請られるとでも思ったか?」 からかいながら――どうにも髪がまとまらず、もう一度櫛を手に取った。 「……気持ちいいわ」 吐息が漏れるようにうっとりと呟かれる声音に、自分へ全てを委ねているのだと感じた。 「……でも朗読劇でのことで貴女を見直したのよ」 「うん? 特に何もしちゃいないと思ったが……」 「他人のためにあれだけ親身になれること……。自分自身が一番だと思ってなくては立ちゆかない世界にいた私には新鮮だった」 「世話になった相手だからさ。本当の他人なら見捨てたよ」 そう吐露するも、それでもよ、と続けた。 「ふふ、えりかは意外と面倒見がいいのよね。第二外国語の試験の時もノートへ出そうな問題を書いてくれたし」 「ヴァイオリンの試験でのお礼ってやつだ。義理が廃れば……」 「――この世は闇夜」 言葉を取られ頭を掻いた。 再び、髪をまとめるのに挑戦する。 「水遊びで、二人で乗ったボート……佳い想い出だわ……」 どうしたお前死ぬのか、と茶々を入れたくなるも千鳥の表情は晴れやかで――何も言えなくなってしまった。 「隠していた過去を話して……こんなにも穏やかな気持ちになれるだなんて思いもしなかった……」 千鳥の髪を梳かし結ってあげるなど、自分にとって訪れないであろう非日常だと思っていたが……。 今はこの状況を当たり前のように感じている。互いに互いを赦し、委ねているのを。 「……私、明日の発表会が成功したら――自分を赦すことができると思うの」 「成功したらじゃない。成功するに決まってるだろ。わたしがこれだけ骨を折ってやってるんだぜ」 軽口に笑い合う。屈託なく、腹がよじれる程に何故だか笑えてしまった。 そして――笑いが治まった自分は、何の〈蟠〉《わだかま》りもなく素直な自分だけがいた。 考崎千鳥も同じだったのだろう。 「ねぇ、えりか。お願いがあるの」 「言ってみろよ。わたしは今、とても佳い気分なんだ」 「明日、発表会の時に――」 思わず赤面してしまう申し出に、わたしは―― ――いや、もう必要ないだろう。 千鳥の飾らない笑顔を見ていたら不要だと思った。 「どうしたの?」 「いや、またらしくない真似をするところだったよ。っと、さっさと食べないと冷めちまうな」 急ぎカツレツを頬張る。まだ温かくはあるもののサクサク感はない。 ……ま、験担ぎだからな、と自分へ言い聞かせた。 「……ねぇ」 「何だよ。わたしの分はやらないぞ」 「その……。らしくない真似というの……。私、してみてもいいかしら……」 俯く千鳥。だが、苦悩というよりも、赤面して、 「お願いがあるの。明日の発表会で……」 確かに。 ――確かに、アミティエのお願いは聞いたわたしも赤面してしまうものであった。  ――手を、腕を使う演技は肩胛骨からを�手�と考えるのだったかしら。  今更踊りの基礎を頭の中で反復しながら、幕を隔てた客席に意識を向けた。  声から察するに、既に観客は席に座り幕が開くのを待っているのだろう。  今日は在校生だけでなく教職員、そして姿を見せたことのない学院長まで足を運んでいるとのことだ。 「……燃えるわね」  武者震いにも似た感覚が私の背を震わせた。  これ以上の客数の前で踊ったこともある。緊張なんてする方が可笑しい。  でも、  私の病んだ目には、舞台袖の奥にいるはずのない�後輩�を捉えていた。  俯き顔を伏せている少女。  私がえりかへの想いを認めた時から――舞台袖に現れるようになった過去の亡霊。 (……そうね。貴女からすれば認められることではないわ)  $ 踊れなくなったあの子の代わりに、バレエで一角の者と認められなくてはと心に誓った。  しかし、あの事故以来、私の目は――バレエを踊ろうとすればする程、歪み、踊ることができなくなった。  もどかしい思いをしたでしょうね、と後輩へ呼び掛ける。  ようやく目が治りかけ、またバレエが踊れるように為ったというのに、踊りを捧げる対象が貴女から、えりかに……。 「……私の前に姿を現してもおかしくはない。でも、」  本来、観客席で見守っている筈の彼女。  後輩から視線を切り、舞台袖の――私のアミティエを見詰めた。  $「……緊張しているみたいだな」  えりかには後輩のことを話している。気ぜわしげに私を見詰めた。  群青の吸い込まれそうな瞳。私が好きな美しい瞳が、私を見詰めている。 「あの時のお願い、きいてくれる?」  まるで穢れのない少女のように、パッと頬に朱を散らすと、本気かよと、と小ぶりな唇が呟きを漏らす。 「ダメ?」  囁く私へ、 「わ、わたしが背中を押さなくても、もう踊れるだろ」  顔中を真っ赤に染め、そっぽを向くアミティエを抱きしめたいと思った。  私の一番の親友。 「……ええ。大丈夫。踊れるわ」 「観客席で、お、応援しているからな……」  可愛い私のアミティエを見送り、一つ頬を張った。  応援してくれていると親友は言った。何も、もう怖くない。  オーロラ姫の衣装を確認し、胸の前に手を置き眠りを意味するマイムをすると、己を鼓舞し静かに幕が開くのを待った。 「や、約束だからな……」  顔中を真っ赤に染め、逡巡し、俯くも―― 「……こっちへ来いよ」  私へ手招きした。 「目、」 「め?」 「目を瞑ってくれって言ってるんだよ。察しろよ……!」  今にも泣き出しそうな私のアミティエ。  今すぐにでも抱きしめたいと強く思った。  でも、 (えりかを抱きしめるのは発表会が成功してから……!)  今充たされると踊れなくなってしまう。  $「お、おい。早くしろよ。周りに変に思われるだろ……!」 「はいはい。ふふ」  瞳をつぶり、 「ん……っ」  えりかの唇は薄く繊細で、少しだけ震えているように感じた。  少年のような少女のような不思議なえりかの匂い。  舞台が始まる前の雑踏の中、ざわめきは遠く、まるでこの場に二人だけしかいないように感じられた。  涙が滲んでしまう程の幸せな時間。 「ぅ……ん……はぁ……」 「ん……はぁ……も、もういいのかよ……」 「うん? ……もしかして、もっとしていたかったの?」 「ば、バカ……!」  唇を腕で隠し頬と、耳といわず赤くなるアミティエに微笑み掛けた。 (これ以上は幸せ過ぎて気が抜けてしまうわ) 「そ、それじゃ観客席で観てるからな……」  赤面したまま、舞台袖から観客席へと戻っていった。  充足感を胸に抱きながら、別の充足感を得る為に、一つ長く息を吐き、吸う。  えりかの為に、そして私の為に踊ろう。  オーロラ姫の衣装を確認し、胸の前に手を置き眠りを意味するマイムをすると、己を鼓舞し静かに幕が開くのを待った……。 第二幕・終曲が奏でられる。 いばらに覆われた城、 もや深い朝を――目覚めを思わせる密やかな旋律。 始まりは第二幕、情景と終曲“オーロラ姫の目覚め”から始まる。 しわぶき一つない静寂、 それは時が止まった城を、場を思わせる静寂だ。 耳朶は緩やかに強く、しなやかに変わる音色だけを拾う。 研ぎ澄まされた私は―― 舞台上の私は、瞳を閉じ横たわり、その時を待つ。 暗い舞台上でスポットライトが私にあてられる。下手側からデジレ王子が現れ――接吻を交わした。 (学院に転入したばかりの私――) 百年の眠りから目覚めたオーロラ姫が覚醒の喜びに打ち震えるさまをマイムで表現する。 (病に冒され、踊るのを諦めた私は自暴自棄になった) 自由への感動をプロムナードで表現する。えりかの振付。 散歩道という意味を持つプロムナード。アティテュードでゆっくりと回る表現。単純だからこそ難解な技。 (学院のバレエの授業でも、初めは納得できる踊りができなかった。でも、) ようやく動きのあるピルエット。観客の目が惹きつけられのが分かる。肌に感じる心地の良い緊張感。 (えりかと触れあい、自分自身を好きに為っていくことで瞳は正常に戻っていった――) 情景と終曲“オーロラ姫の目覚め”は動きのある踊りが少なく、大人しく幻想的な曲が続く。 その為、バレエを見慣れていない者は引き込めず飽きられてしまう恐れがあった。 (再び舞台の上で踊れるという喜び) えりかが私ならばできると、静かな踊りで構成されるこの〈一幕〉《ひとまく》を預けてくれた。 信頼されているという事実が、今までの不調が嘘のように、指先一つまで研ぎ澄まされ、緩やかな気品のある演技を可能にした。 観客の瞳は一時も私を外れはしない。 ああ―― (願わくばこの踊りを、私を案じてくれたアミティエに捧げたい) 静かな目覚めを悦ぶ独舞は続き、観客の目と意識は眠れる森の美女の世界へ。 情景と終曲―― オーロラ姫の目覚めはアラベスクをもって完成する。 静に位置づけられるアラベスクは揺るぎのない安定感をもって、片足に支えられていなければ妙味がない。 揺るぎのない安定感こそが優雅さを生む。 まるで縫い針で空間に留められたかのように私の身体は硬直し―― 最後の一音が仄かな暗闇に包まれた舞台に吸い込まれ、 始まりの〈一幕〉《ひとまく》を終えた。 拍手が消えぬ間に舞台袖へと捌ける。 奏者が新たな曲を弾く為、照明係を見遣る。 照明が踊りの時間を計っているのだ。 第三幕«デジレ王子とオーロラ姫の結婚式»ポロネーズを弾く為にヴァイオリンの弦へと弓をあてがい、照明係の合図の元、第三幕が始まる。 第三幕«オーロラ姫の結婚式»の見せ場は、おとぎ話の人物たちの行列だ。 鮮やかな衣装を身に纏う級友たちが行進し、習得したバレエの演舞を行う。 そして級友たちの中でも優れた技量を持った者たちが、 ――金の精のヴァリアシオン ――銀の精のヴァリアシオン ――サファイアの精のヴァリアシオン ――ダイヤモンドの精のヴァリアシオン と、演技を披露していく。 ヴァリアシオンとはバレエにおけるソロでの踊りを指す用語で、実力を持った者しか踊ることはできない。 一人で場を持たせることは難しいからだ。 ソリスト――準主役級が演じることが多い独舞。 そしてソリストたちが踊り終え、舞台にて見守る中、猫の入場が奏でられ―― パ・ドゥ・カラクテール«長靴をはいた猫と白い猫» 演じる沙沙貴苺、沙沙貴林檎姉妹が軽やかに舞台へと躍り出た。 まずは白猫のマイムが始まり、猫が優雅に歩く愛らしい仕草に皆が目を細める。 次いで、長靴を履いた猫が飛び出し白猫とじゃれつくように踊り舞う。 衣装の作りが愛らしく、猫耳を付け黒いシックな装いのコミカルな演技に観客は知らず知らずのうちに頬が緩んだ。 白猫の衣装はやや扇情的ながらも、彼女の気質もあってか、ふしだらにはみえない。 むしろ眠たい顔つきが功を奏してか猫の気まぐれを上手く表現していた。 ――互いの独舞を見せ、ようやく二匹の猫が抱き合い身体を寄せ合う。 双子ならではの息の合った演技、妹がアティテュードを決めれば、姉が支え―― 姉がアラベスク・パンシェを決めれば妹が支える。 そしてじゃれ合う双子の演舞は、ソテから妹が舞台を横切り――長靴を履いた猫が追いかけ舞台から捌けた。 幕が閉まっていないというのに起こる拍手。 教師が窘めるが、つい拍手をしてしまうのも分かる。キャストの功徳というやつだ。 このクラスで眠れる森の美女を再び行うにしても、猫の演技は沙沙貴姉妹以外はできない。 猫の役は彼女たちのものと為ったからだ。 舞台ではシンデレラが踊り―― 自分の幕と為るのを彼女は待ち構えていた。 私と競った彼女―― 青い鳥とフロリナ王女のヴァリアシオン ――青い鳥とフロリナ王女のヴァリアシオンが始まった。 技量は私の方が上だと言われた。しかし、表現力は彼女の方が上だと評された。 その花菱立花の“フロリナ王女”は――見る者を魅了した。 フロリナ王女がピルエットを決め、青い鳥がウエストを支える。 続けて美しいアラベスク・パンシェが決まり、会場の熱が一段上がる。 男性によるリフトが使えないため、アミティエが考えた締めは―― ローズ・アダージョのヴァリアシオンで最後に行う連続高速回転のピケ・ターン。 シングルとダブルのピケターンを交互に行う難技。 彼女が演じるフロリナ王女は、激しい演技の中でも笑顔を崩さない。 例え足の指の皮が捲れたとしても笑顔を作りなさいと教えられる通り、フロリナ王女は激しい演舞にも笑みを崩さずにヴァリアシオンを踊りきる。 青い鳥と協力した演舞は続き、ヴァリアシオンの終盤、二人が交互に独舞をする場面では―― チュチュに一枚一枚飾られた青い羽が鮮やかな残像を描き魅了した。 またも拍手が起こるが窘められることはなかった。 教職員も彼女の踊りが賞賛に値するものだと承知しているからだ。 舞台袖に下がった彼女は息も絶え絶えに、胸元に汗を滴らせながら、己のアミティエへと声を掛ける。 二人だけの睦言のように顔を寄せ話す白羽蘇芳の顔つきは今までの強張りはとけ、バレリーナのそれに変わっていた。 パ・ドゥ・カラクテール«赤ずきんと狼» 藤のバスケットに赤いずきんで身を包んだ彼女が舞台へと現れた途端、ザワと場内が色めき立つ。 衣装係が白羽蘇芳にあわせて作った衣装は、おとぎ話のままのシンプルなものだった。 しかしシンプルがゆえ映えるということがある。 バケットを振り、森を散策するが如く踊る彼女は、赤ずきんそのものだった。 微笑みながらチュチュを翻し、基本となる足のポジションを見せる。 行っている演技は基礎的なものだが、白羽蘇芳が演じる赤ずきんは可憐で、見る者を惑わし酔わせた。 つま先立ちで小刻みに後ろへ下がる踊りで童女を思わせるようなコミカルな演技も披露する。 踊りは進み――赤ずきんの前にオオカミが現れ、驚き逃げ惑う。 白羽蘇芳の基礎の足さばきだけの演技をフォローし飽きさせぬよう、オオカミはグラン・パ・ド・シャ、そしてグラン・ジュッテで追う。 アミティエの考えた二人の振付は愛らしく、コミカルで笑いを誘うも、踊り手の技量を確かに見せるものであった。 追い詰めたオオカミは赤ずきんを捕らえると、女性でもできる軽いリフトをし、自分の周りを回るように演舞させる。 回数を増すごとに大きくなる回転の演舞。 そして―― 赤ずきんは哀れオオカミに抱き上げられると、そのまま舞台袖へと消えていったのだ。 拍手を諫める者などもういない。 照明係が時間を計り―― 時間通りに音楽は終幕を迎えた。 「……最後の踊り、しっかりと視ていなさい」 舞台袖の“後輩”へと呼び掛けて息を吸い、吐くと、奏者へ一つ頷く。 ――私の最後の踊りが始まる。 (その瞳が彼女であれば佳かったのに) 自分の裡なる声に微かに笑むと――意識を針のように尖らせ最初のアティチュードを始める。 百年の眠りから覚めたオーロラ姫が結婚式で踊るヴァリアシオン。 静かに己の生を慈しみ、愛する喜びを表現し舞い踊る。 (たくさんの大切なものをアミティエから受け取ったように) 観客が見守る中、華やかなシソンヌ・フェルメを決め―― (私も彼女へ還し、与えたい) ク・ドゥ・ピエで愛の繊細さを表現し、その流れのまま、アン・ドゥオールで妻となれる嬉しさを一歩一歩表現する。 (そうだ。私はえりかへ自分の想いを伝えたいんだ) 踊りながら彼女を探す。 そうだ、彼女は―― (ずっとそこで私を見守っていたじゃないか) 観客席の一番前。特等席に陣取ったアミティエを見付け、初めて私は微笑んだ。 最後の振付は私から頼み込み、えりかも私を信じて許可を出してくれた演舞。 演目違いの――そう、これは白鳥の湖“オディール”が舞う32回のフェッテ・アン・トゥールナン。 (有り得ない演舞。でも、此が――) 「――考崎千鳥と八重垣えりかの踊り」 これが私の、愛する人たちへ向けた感謝の想い―― すべての想いをリヴェランスに込めて。 「……終わった。終わったのね」 やむことのない拍手の渦に包まれながら、アミティエを探す。 観客席には彼女の姿。いつもの済ました猫の笑みでなく、顔をクシャクシャにして喜んでいる。 我が事のように泣いているアミティエ。 ――佳かった。 例えようもない程の至福が身体を包み。 正常に戻った目で――駆け寄り崩れかけた私を抱くたくさんの手を見詰め、笑みを返した。 花菱立花さんの手が、沙沙貴苺さんの手が、沙沙貴林檎さんの手が、白羽蘇芳さんの手が、 クラスメイト皆が支えてくれていた。 「――私は、こんなにも」 たくさんの人の手に背中を支えられていたことを知り、嬉しさのあまり涙をこぼした。 後輩の名を呼び、舞台袖を見遣るも――涙で濡れた視界に、既に彼女の姿はなかったのだ……。 舞台袖の“後輩”へと呼び掛けて息を吸い、吐くと、奏者へ一つ頷いた。 ――私の最後の踊りが始まる。 (さぁ、アマチュアとプロフェッショナルの違いを見せつけてあげましょう) 意識を針のように尖らせ最初のアティチュードを始める。 百年の眠りから覚めたオーロラ姫が結婚式で踊るヴァリアシオン。 静かに己の生を慈しみ、愛する喜びを表現し舞い踊る。 (そう、確かに私はたくさんの大切なものをアミティエから受け取った) 観客が見守る中、華やかなシソンヌ・フェルメを決め―― (だからこそ、今こうして踊ることができる) ク・ドゥ・ピエで愛の繊細さを表現し、その流れのまま、アン・ドゥオールで妻となれる嬉しさを一歩一歩表現する。 (この踊りは彼女への感謝の踊り。そして決別の演舞) 観客席の一番前。特等席に陣取ったアミティエを見付けた。 新たな一歩を踏み出そうとする、プロフェッショナルの踊りを魅せつけようと私は笑んだ。 演目違いの――そう、これは白鳥の湖“オディール”が舞うフェッテ・アン・トゥールナン。 この学院に来る前の私なら、そもそも踊らなかっただろうが―― (――奇跡を起こすくらいしないと、一人でやっていけないのよ……ッ!) 足先から生温かい感触がする。爪が割れてしまったのかもしれない。 だが、そんなことは知ったことか。 花菱立花は踊りきったではないか。 32回のフェッテ・アン・トゥールナンが終わらないうちは、たとえ視界が歪んだとしても止めることはできない。 この学院を離れ、プロとして生きる道を選んだのだから―― 今にも崩れそうになりながらも微笑みを崩すことなく、踊りきることができた。 「……終わった。終わったのね」 例えようもない程の至福が身体を包む。 後輩の名を呼び、舞台袖を見遣るも――涙で濡れた視界に、既に彼女の姿はなかったのだ……。 ――窓から長方形に切り取られた空を眺める。 夏らしい入道雲は陰りをみせ、代わりに綺麗に並ぶ鱗雲が目に入った。夏から秋へと移り変わっているらしい。 変わり続ける日常。 膝の上に置いてある本の表紙を撫で、読み進めようかとも思う。 昼に為ったら彼女が昼食を持ってきてくれる頃合いだ。 「……授業なんて受けてらんないっての」 かつての日常。 毎朝、彼女の歌声で目を覚まし、着替えを手伝われ、洗顔を済ました頃には朝食を持ってくる。 二人で朝食を取った後、当たり前のように授業を受けるために教室へと連れて行かれた。 だが、 「……ずっとわたしの当たり前はこうだったろうが」 授業なんて受けずに、好きな本を好きなだけ読むだけの毎日。 図書室に入り浸って……。 どうにも本を読む気にはなれない。 変わっていく日常に嫌気がする。何が秋だ。 車椅子を繰り、アミティエの机へ。 私物の――物が全く置かれていない机を暫し眺める。 季節が巡ろうとする中、消えてしまったアミティエ。 ――考崎千鳥が残したものはたった一冊のノートだけだった。 そう、あのふざけた“自分ノート”だ。 わたしは自分の机の引き出しを開け、千鳥が残していった自分ノートを手に取った。 彼女が学院を後にした時に一度開き、それ以来目にしていなかったノートを。 ぱらぱらと捲っていくと、好きだった授業、英語や――あいつへ勧めたカツレツについて一言書き加えられていた。 ページを繰るたびに、短いながらも共に経験した日々が蘇る。 桜の木の下での出逢い、 うさぎを二人で世話をしたこと、 朗読劇の練習中に起こった事件、 弦楽器の授業でヴァイオリンを共に学び、 水遊びで出掛けたボートで他愛ない話をした。 「フックマンではあいつのお陰で事件の真相が分かったよな……」 そしてバレエ発表会。 あいつはあの舞台で、新しい道が生まれたのを見付けたのだろう。 ノートを見詰め、あいつの――千鳥の背に乗った重すぎる荷物を少しでも軽くしてやる事ができただろうか、と悩む。 思い悩みつつもページを繰る手は止まらず―― 好きなものの欄に、わたしの名前を見付け、指で、彼女が書いたわたしの名前に――そっと触れた。 «きっと愛してるから、赦してくれると思っているのよ。逆よ、愛してるから、嘘が赦せないって言うのにね» 昔読んだ恋愛小説の一文が浮かぶ。 嘘もついちゃくれなかった。 何も語らずに目の前から消えたアミティエ。 「――ああ、そうか」 今更分かったよ、と秋空を眺め呟く。 「白羽が感じていた痛みは、これ程、重くきついものだったんだな……」 誰もいない図書室でメトロノームを物憂げに眺めていた書痴仲間を思う。 そして、匂坂マユリのように、何も言わず消えてしまった考崎千鳥を―― 「――わたしは何も言わず消えてしまったアミティエの真意を探るなんてできない」 自分の名前が書かれたページに触れながら、考崎千鳥のように視界を歪めながらそう呟いた……。 ――九月も終わりを迎え、秋の気配が漂い始め、 バレエ発表会の時の記憶もやや薄れつつある日常。 しかし、 「ねぇねぇ! ピルエットを踊るとき綺麗に回れないんだけど、どうすればいいのかなぁ」 「ピルエット? そうねぇ……」 バレエ発表会で生まれた熱は未だ皆の中に燻っているようだ。皆が憧れたあいつの本気の踊り。 「グラン・フェッテやピルエットなんかの回転系は、わたしよりも彼女の方が得意だから――」 言い、見学しているわたしの前で委員長は、 「考崎さん。指導お願いできるかしら」 「ええ。構わないわ」 口数が少ないことは変わらない。感情が表情に出にくいことも変わっていない。でも、 「ごめん、チドリン教えてくれる?」 「いいわ。私の前でピルエットを見せてくれるかしら」 以前と決定的に違っていることは考崎千鳥の纏っている空気というやつだ。 沙沙貴姉がつま先立ちし、腕の回転力を持って廻るさまを生真面目な顔つきで注視した。 かつて観た映画“椿三十郎”で、 «貴方は鞘の無い刀のように良く切れます。でも本当に良い刀は鞘に入っているのですよ»$との台詞があったが、 本質は変わらずとも昔の抜き身の刀のような雰囲気から、温柔さという鞘で身を覆ったような空気を醸し出していた。 だからこそ―― 「どうかな?」 「そうね……。腕は回転を助ける為しっかり振れているわ。でも、頭が動いてしまっている。首をつけなくてはダメよ」 「首をつける? 首ちゃんとあるよ?」 のど元に手を当て小首を傾げる沙沙貴姉へ、目を細めながらも首を付けるというのは――と説明を続けた。 (皆も受け入れ始めている……) 今や千鳥を怖がり避ける者はなく、気軽に声を掛け、彼女もそれに応えている。 むしろわたしの方が変わっていないくらいだ。 「変わる、か……」 朝の着替えの介助や朝食の世話―― 毎朝教室へと連れて行かれ、授業を受け。 自室にて昼食をとり、また授業を受ける。 用があれば下校時間まで、お互いの用件に付き合い―― 寄宿舎へと戻り、夕食。そして、風呂の介助を受ける。 代わり映えのない毎日。いや、唯一変わったといえば風呂の介助がバスキア教諭から千鳥に変わったことだ。 そう、それ一点。 バレエ発表会が終わり、九月は余韻を残しながらもゆるゆると過ぎ去っていく―― 過ぎ去っていく時間。 代わり映えのしない日常。 ……いや、行動は代わりはしないが、過ぎ行く気持ちというものは変わっていくのだ。 己に問題を抱えていれば、沈滞という名の緩慢な時間の檻だと感じ、 希望を抱えていれば過ぎ行く時間は早く、掛け替えのないものと感じるのだろう。 代わり行く心と身体。 バレエ発表会を終え、 代わり映えしないわたしは檻の中で緩慢な時間を愉しみ、 千鳥は過ぎ行く時に焦りを感じていた。 初めて千鳥が変わろうとしていることに気がついたのは、発表会が終わってすぐの頃だった。 八代先輩経由からうさぎ小屋の世話の代わりを頼まれ、渡世の義理というやつで引き受けた。 千鳥が干し草をあげている間に、膝が濡れてしまうのは痛いが、ジョウロに汲んできた水を持ってきた。 ジョウロを渡し、千鳥は容器の中に新しい水を注ぎながら、 「――バレエに向き合おうと思っているの」 と言った。その時は言葉の意味が分からず、 「お前ほど熱心にバレエの授業をやっているやつはいないだろうが」 そう返した。しかし、アミティエは、 「――学院を出て、もう一度バレエと向き合ってみようと思っているの」 そう感情を消したように告げたのだ。 わたしはその言葉を受け止められず、口を閉ざした。 いや、唇は何度も開き掛けたが、逡巡のすえ閉じた。言葉を選びあぐねていたからだ。 しかし、 「……また秘密の湖へ行ってみないか」 答えを先延ばしにするため、反射的に答えお茶を濁したのだ……。 「できた! これできたよねっ」 「ええ。一点だけを見詰めるの。そうすれば酔ってしまうこともないわ」 幼子へ手ほどきするように言う千鳥。彼女は感覚を忘れないうちに何度か踊るように言い――わたしの元へと歩みきた。 「飲み物貰える?」 「ああ。どうぞ、お姫様」 軽口に笑み、わたしの手から水筒を取り美味しそうに飲み干す。 白い喉を眺め――そろそろ結論を出さなくちゃいけない、そう感じた。 「ありがとう」 差し出される水筒を受け取らずにいると、困ったようなどこか悲しそうな不思議な顔つきをみせた。 わたしはアミティエへ、 「例の秘密の湖なんだが、次の安息日に行かないか?」 何十度目かの寝返りをうった。 目を瞑り思うは明日、何と口を開くかだ。 (いい加減けりを付けようとしたが、明日でなくてもいいだろうよ……!) 次の安息日――考えなくとも明日の日曜日だと分かっていた筈。だが、焦燥から逃れるためつい口走っていた……。 (自分の気持ちに正直に為ればいいだけだ。簡単じゃないか) そう思う。 出遭った時はさっさと追い出しちまおう。 少し時を経てからは、飽きたら追い出しちまおう。 だが、今は―― (此奴と一緒でない学院生活なんて考えられない) 卒業を迎えるまでの間しか一緒にいられないかと思っただけでも胸が鬱ぐ。 なのに、辞めるだなんて……。 「……白羽の気持ちが分かっていたようで、本当は理解していなかったんだな」 さっさと忘れちまえ、女々しい奴だとやきもきしたが、白羽の立場になった今、彼女の気持ちがようやく解った気がした。 白羽には自分の気持ちに正直になれ、辞めた理由を探れと発破をかけたが、わたしとは状況が違う。 わたしは――正直に為っていいのか? アリス症候群の治療のため、転入したアミティエ。 だが、今や症状も治まり、後輩の影も見えなくなったという。 なら、この学院に居続ける意味はない。 ……ないのだ。 (わたしの我が儘を押しつけても……) 此が最善だという答えは出ている。だが、その答えは煩悶し、胸が鷲づかみされたように痛むものだ。 長く重い溜息を吐き――まんじりともせぬ中、夜は更けていった……。 決戦の日は憎らしいほどの快晴で―― 以前訪れた時と変わらず、碧色の湖畔は穏やかで木々は涼やかな木陰を作っていた。 「さすがにまだ暑いわね。水遊びに誘って貰えて佳かったわ」 いつも以上にはしゃぐ千鳥を見、胸が鬱いだ。 この時が永遠でないことを分かっているから。 「ねぇ、またボートに乗る?」 「いや、少し涼もう。九月とはいえまだ暑いしな」 そう告げて木陰に移動し、二人煌めく湖畔を眺めた。微風が千鳥の髪を揺らし、わたしの好きな白桃の香りを届けた。 湖畔から視線を切り、整った千鳥の横顔を眺める。 「どうしたの? 私に見とれたの」 「下着姿のやつが隣にいるとどうにも落ち着かないってだけさ。目の保養にはなるがね」 「そう。だったらたくさん見るといいわ」 くるりと廻ってみせるアミティエ。 木陰から漏れた光が彼女の上できらきらと瞬き、見惚れ、そして――どうしようもなく儚い気持ちに為った。 「――“ホテル・カリフォルニア”からの脱出おめでとう」 「え?」 「チェックインするのは容易くても、立ち去ることはできない」 もう少し時機を窺って話そうと思っていたが、つい口に付いてしまった。 「そう――聞こえていたのね」 「お前が前に話してくれたように、この学院に転入したことは不本意だったんだろう。目の病のこともあった」 「…………」 「だが症状も治まって、後輩のことも吹っ切れたようだし……。元々掲げていた目標に向かって邁進するのは正しい。お前が――」 「私、」 強い口調ではないが言葉尻を切られ、どこか思い詰めた風の千鳥を見上げた。 「私……。父母からこの学院に転入させられた時、見捨てられたのだと思ったわ。体のいい姥捨て山のようだって」 「ここの生活はまるで映画のセットのようだった。私の目には現実感がなかったのよ。そうでしょう。そうよね」 捨てられたと感じていたのだから――と目を細め呟く。 「でも、灰色だった学院生活を過ごしていく中で、徐々に色をなしていったの。それは――えりか、貴女と過ごせたからよ」 目を細め微笑むアミティエに感情が溢れ、何も口に出来なくなってしまう。 (だが、それはダメだ) 此奴は――鉄面皮だし、誤解されやすいし、人の事なぞ構わないように思われるけれど。 「だから、だからね。あの時は、外の世界でバレエと向き合ってみようと言ったけれど、ずっと考えてみて、それで――」 「――お前は優しいな」 優しいお前は、 「え?」 きっと残されるわたしを想い、本当の気持ちを隠し、土壇場で優しい嘘を吐くと思っていた。 「わたしの家族も優しかったよ。足がこれな上に皮肉屋なわたしの面倒を佳くみてくれた。だけどな、その優しさがわたしには辛かったんだ」 「……朗読劇を終えた日の夜に話してくれたことね」 「ああ。父母はわたしのことを佳く理解してくれた。ほとんど仕事で家に居なかったから、二人の姉が主に面倒を見てくれたんだけどな……」 「一番上の姉が介助を佳くしてくれて、二番目の姉は一人に為ってからも生きていけるように色々なことを教えてくれた」 そして、この学院に来る前の出来事。 長女と次女の内緒話。 わたしが学院に行くことになり、介助をしなくて済むことを安堵したと告げた長女。 長女の本音を、次女は批難してくれていた。 盗み聞いた、姉たちの本音の吐露。 「……酷いわ」 「その時は衝撃を受けたが、酷くなんかないんだよ。姉には姉の人生がある。わたしの所為で姉の夢がついえるのは――嫌だ」 あのまま理想の姉妹の振りを続けていたら、わたしも損なうし、姉の大切な部分も損なっただろうと続けた。 「わたしを甲斐甲斐しく介助する優しい姉という仮面を脱ぎ、自分の人生を選んでくれた事をわたしは嬉しく思う」 「だからな、千鳥――お前も自分に嘘を吐かなくていい」 「わ、私は嘘なんて……」 「わたしはもう諦めたけれど、家族と……両親と仲良くなりたいんだろ? バレエだって今以上に踊りたいんだ。そうだろ?」 「父母のことは……もう……」 「わたしみたいに諦めることはないんだよ。お前はよくやってる。娘が嫌いな親なんている訳がないだろうが」 泣き出し首元にかぶりつく千鳥の頭を撫で、わたしは笑った。 「お前を心配して転入させたんだよ。佳くなったって両親を安心させてこい」 「えりか、えりか。私は、私ねぇ……!」 つっかえながら何かを言おうと言葉を探す千鳥の髪を優しく撫でた。 わたしの大好きなアミティエ。 「わたしはきっと家族が欲しかったんだ。互いに全てを赦し、赦される家族が」 ――きっと此は初恋だったのだろう。 だけれど、 「お前のことを家族だと思っているよ」 家族という言葉で、気持ちに蓋をしよう。 でなければ、 「家族……」 「そうだ。本当は離れたくなんかない。でも家族なら――何をしていても、どの空の下にいても繋がっているだろ?」 きっとわたしは千鳥を束縛し、羽ばたけなくしてしまう。 「――卒業したら一番に会いに来てくれるのよね」 「当たり前だ。来るなって言ったって押しかけてやるよ」 笑い答える。おかしい、声が震えてやがる。 「ふふ、顔ぐしゃぐしゃよ、えりか」 「お前もだろうが」 抱き合い、子供のように泣き、そしてわたしたちは一つの約束を交わした。 それは―― 二人だけの秘密。 この学院から巣立ち、約束が叶ったなら、リコリスの花を手に彼女へ逢いに行こう。 わたしの大切な〈家族〉《アミティエ》の元へと。 男が妻に望むのはただの同棲者でもなく子供の母親でもない。世の中の荒波を共に乗り切る相棒なんだ 映画“紳士協定”の台詞を思い出す。 確かに――数日前のバレエ発表会を経てから、アミティエとわたしはクラスの皆も認める相棒として知られる事と為った。 演者と振付。 その関係性もあるだろうが、何かを吹っ切ったアミティエは今まで以上にわたしへと甲斐甲斐しく仕えたのだ。 それは皆の目にはまさしく相棒と、いや……。 「次のケーキを取ってきたわ。ティラミスアイスケーキよ。さぁ」 持ってきたバースディケーキを食べつつ思う。 これは相棒というより、雛に餌を与える親鳥じゃないか? そう辟易してしまった。 「どうしたの? あっちのアイスケーキチョコの方が佳かったかしら?」 「……いや、此奴で十分だよ。お前も落ち着いて自分のを食べてくれ」 そう、と眉根を寄せつつ席に着くとわたしを凝っと見詰めてくる。$何だ? と刹那思うも、 「ん……むっ。……お前が取ってきてくれたケーキは美味しいな。いいチョイスだよ」 「そう。ふふ、美味しかったのなら佳かった」 ようやく注視するのをやめ、自分のケーキを食べ始める。 「いやいや見せつけてくれますなぁ」 「さすがは仲良しアミティエトリオ」 「もう一人は何処に行ったんだよ。はぁ……、そうか、お前等には仲良しに見えるか……」 バレエ発表会を終えてからこっち、以前よりも胸襟を開いたというか……。 好意を隠さず直接的に表現してくるように為ったのだ。いや、当然わたしも千鳥は嫌いじゃない。 だが、以前のような距離感の方が……。 「どうしたの。沙沙貴さんたちに意地悪されているの?」 「ええ!? そんなことしてないよぉ。八重垣ちゃんとチドリンが仲良しさんで羨ましいなって」 「ですです」 「そう。仲良し……」 頬に手を当て満更でもない表情を浮かべる。 気恥ずかしさに視線を逸らすと、他のクラスメイト等は微笑ましいものを見るような目で鑑賞していた。 (悪くはないが勘弁して欲しいところだぜ……) どうにも居心地が悪くティラミスアイスケーキに全神経を向けた。 濃厚なクリームチーズアイスとココアパウダーがわたしの心を癒やしてくれた。 「どう? お口に合ったかしら」 「気に入ってるよ。九月とはいえまだまだ暑い。アイスケーキは佳い判断だった」 「振付の先生にお褒め頂いて嬉しいわ。このケーキたちはわたしとほら、」 奥を指さし、先輩方に捕まっている書痴仲間を示した。 「蘇芳さんと二人で作ったのよ。お誕生日おめでとう、八重垣さん」 正直誕生日会なぞくだらないと思っていたし、参加するのも義理が廃るかどうかで判断していたが……。 「……ああ。ありがとうな」 祝われるのは素直に嬉しい、と思った。 「ふふ、喜んでくれたなら佳かったわ」 善意の人である委員長に顔を覗き込まれ面映ゆい思いをするも、 「今日はお招き有り難う」 「素晴らしい誕生会ねぇ」 書痴仲間に絡んでいた筈の上級生が祝いの口上を述べに来たお陰で助かった。 「はい。開こうと言ってくれた委員長と白羽のお陰ですよ」 「そうか、流石は我が師。義を見てせざるは勇無きなりというやつだね」 「ふふ、譲葉ったらまだ時代劇に嵌まっているのねぇ」 その言い回しは時代劇なのか? 意味も微妙に違っているだろうと思いつつも、迂闊なことは口に出さない。 藪を突いて何とやら、だからだ。 「――お前もありがとうな」 「ええ」 白羽はしばしわたしの顔を見詰めると、 「大丈夫みたいね」 と呟いた。 何のことだと困惑するも、空いた皿を見たのだろう親鳥がわたしへと新しいケーキを持ってきた為に有耶無耶となった。 「今度はアイスケーキチョコを持ってきたわ。さぁ食べて」 「あ、ああ。分かったよ。いいから、自分で食べられるって」 フォークで切り取り雛へ食べさせようと口元へ持ってくるも断られた千鳥は悲愴な顔をした。 こちらが悪いことをしたような気分になる。 「……そうだな。今日はお誕生日会の主役だもんな」 自嘲気味に軽口を叩き、口を開けると千鳥は微笑みケーキを口元へ。 さすが白羽お手製、味は悪くない。恥ずかしさからあまり味わえなかったが。 「次は何をとってくる? 普通のアイスケーキも美味しいそうよ。色々なアイスがふんだんに乗っているの」 「幾ら暑いといっても体が冷えちまうよ。適当にやるから落ち着けって」 そう? と不承不承隣の席に座るアミティエ。 ――ニヤニヤしながらこちらを見るな。ニカイアの会め。 「成る程、素晴らしい踊りはこうした睦まじい関係から生まれたのか。羨ましいかぎりだね」 「ふふ。羨ましいなら私がドルチェを選んで食べさせてあげましょうか」 「光栄だが鞄を食べる趣味はないよ」 小首を傾げる千鳥へ、ドルチェはデザートの気取った言い方のこと。それをブランド物のメーカーになぞらえた冗談だよと解説した。 「むっ。沙沙貴君的に言えば、冗談を説明するのは鬼の所業だそうだぞ」 「説明させられるのはでしょう。っていうか、最近既存の名称を新しく付け替えるのって多いですよね」 「スパッツをレギンスとかかい? 僕はそれよりも微妙に変更した名称の方が気になる」 どんな? と問うと、ティッシュとティシュー。ファーストフードをファストフードと言うようなやつさ、とあげた。 「気がついたら名称が変わっていた。あれは何時くらいから変更したのかねぇ」 言われてみればと首を傾げる。と、気を利かせた千鳥が水出し紅茶を差し出した。 礼を述べて手に取ろうとするも。 「……本日の主役だからな」 抵抗せずに飲まされる。吐いた言葉は自分を騙す意味合いもある。 だが、 (まさか自分がこんなにも人と打ち解け合うなんてね……) この学院へ転入したての頃はそんな可能性なぞ塵一つもなかった。 「……いや、こいつもわたしと同じか」 「うん? 温かい紅茶の方が佳かった?」 問う千鳥へいや、と首を振った。 今の千鳥には少し辟易するも、頑なだった転入したての頃を考えれば決して悪くない。そう思う。 「佳かった。間に合ったみたいね」 おそらくプレゼントだろう大きな熊のぬいぐるみを抱きかかえたバスキア教諭を見て、 「……悪くない」 そう、もう一度呟いたのだ。 ――そう、悪くない日常。 九月も半ばを過ぎ、暑さも陰りを見せ始めていた。 (本を読む季節がやってきたって感じかね) 頁を繰りながら、窓から覗く鱗雲を見上げた。額に汗しながら読むのも一興だが、やはり集中できる秋、冬が好きだ。 「高名な小説家も北欧系に多いもんな……。やっぱり暑い国は小説を書いたり読んだりするには向かないのかね……」 独り言を呟き、ふっとベッドへと目を向けると、アミティエが真剣な顔つきで文字を追っていた。 教科書でも読んでいるのかと思い興味をなくしたが―― 「……それって、わたしの本じゃんか」 見覚えのある装丁に声を掛け、読んでいた本を膝の上に置くとアミティエの元へと行く。 ベッドに腰掛け生真面目な顔をして読んでいるアミティエ。 エルロイの“ブラック・ダリア”を読んでいることに驚き、どうしたと訊ねた。 「本なんて教科書くらいしか開かなかったじゃんか。それ、バスキア教諭の自伝ってわけじゃないぞ」 「さすがにそんな間違いはしないわ。実際にあった事件を基にした推理小説でしょう」 微妙に誤りがあるのだが、細かい突っ込みはやめて、小説を読むアミティエという珍しい光景を呆気にとられ眺めてしまった。 「そんなに……珍しいかしら」 「以前、趣味は自分の益になるものしかしないって言い切っただろ。どんな変節があったのかって驚いたんだよ」 「やめて」 わたしの言葉にそう言うと、恥ずかしそうに本で顔を隠した。 「あの時は……その、苛立っていたから……」 「いや別に貶めるつもりはないんだ。書痴仲間が増えるのは歓迎だよ。語らえるのは嬉しいからな」 「そう。そうよね!」 何故だか一気に調子を取り戻しわたしの手を取る。押されつつも頷く。と、 「そうだ。喉渇かない? 紅茶淹れてくるわね」 微笑みわたしの返事を待たずに立ち上がり、足取りも軽く外へと。 消えた先、ドアを眺めながら、もしかしたら千鳥はわたしのことを理解したいと考えているのかもしれないなと思った。 はじめ、家族がそうしてくれたように。 ベッドの上に置かれているエルロイのブラックダリアの表紙を撫でると、ベッドから今まで其処にいた温もりとアミティエの香りがした。 わたしが好きな白桃の香り。 今日は安息日だ。何の予定もない。 わたしは誘われるようにアミティエのベッドへ車椅子を寄せると―― 彼女のベッドへと身を横たえた。 自分と同じベッドの筈なのに、何かに包まれているような幸福感に充たされた。 少しの罪悪感を抱えたまま、仰向けていたわたしは体の向きを変え、シーツへと頬を寄せる。 アミティエの――考崎千鳥の白桃の香りがわたしを充たし、充足感に微睡んでしまう。 多福感からくる抗いがたい睡魔に負け、ゆっくりと目蓋を閉ざした。 ――目を瞑ると、ますます白桃の香りが強くなり、包まれているという想いが増した。 それは考崎千鳥であり、長女であり次女でもあった。 両親の温もりを感じ、バスキア教諭の、未だ味わったことのない書痴仲間の温もりも連想させた。 自分を守ってくれるだろう人の温かさを、包まれているという感覚に痺れたままわたしは深い眠りへと誘われていった……。 よく見る夢というのが三つある。 大きなガラス張りの円柱形の温室。見たことのない大柄な葉を持つ植物。 その温室を数え切れないほどの蝶が飛び回るのを観て、よく見る夢の一つだと識った。 夢の中で夢だと分かる夢は、明晰夢と呼ぶそうだが、わたしの夢では明晰夢にはない特徴がある。 自分の意志で体が動かせないのだ。ただ“これは何時も観る夢”だと理解するだけ。 三つの夢すべて関連する事柄に“流動”するという共通点がある。 移動と言い換えてもいいのかもしれない。とりとめもなく夢の中を移動し流動していく。 場所は変わらない。ただ時間が過ぎ、わたし自身の体も変わる。 ただあるがままを受け止め―― ――いや、常にはないどこからか香ってくる白桃の匂いが、夢の中のわたしをゆるゆると覚醒させていった。 ああ、そうだ。わたしを守ってくれる。包んでくれる、この香りは―― 夢の尾にしがみついたまま微睡んだ瞳を開ける。 青々とした巨大な葉も、 極彩色の蝶もなく、 ただ温かな陽射しと、清潔なシーツを目に捉えた。 そして――傍らで眠る千鳥も。 初めは此は夢の続きなのだと思った。 頭の芯が痺れ、夢の余韻が残っていた所為だ。 でも、 「ん……っ」 夢の続きのように無防備な彼女の髪に触れたことで、此は夢ではないと識った。 指通りも柔らかな、アミティエの美しい髪。 夢でないと分かった途端、かっと全身が熱く発汗し、鼓動が早鐘を打った。 「千鳥……」 呼び掛けるも呼吸音は規則正しく彼女が眠っていることを報せていた。 「綺麗な髪……」 短くクセっ毛の自分の髪と比べ、酷く羨ましい気持ちに為った。 わたしにはない美徳を彼女は幾つも持っている。 例えば、無防備な姿を晒し友人の隣で眠れるような気質。 心地の良い寝息をたてるアミティエの、透き通るような肌を見詰め、長い睫毛に縁取られたやや釣り目がちな瞼を見つめる。 そしてきゅっと閉じられた薄桃色の唇を。 (わたしはあの唇と……) 嵐のような舞台袖の喧噪の中、わたしは確かに――約束の証を残した。 そう、あの唇へ。 瞳は艶やかな唇に注がれ、誘蛾灯に惹きつけられるようにわたしは―― 「――えりか」 わたしの名を呟く彼女に驚き、引き寄せられていた自身を止める。夢の中でわたしの名を呟いたのだと―― 「――おはよう、えりか」 目を開け、悪戯っ子のように微笑むアミティエ。 わたしは“起きていた”という事実に羞恥から、大声で喚き、シーツにくるまれたいと願った。 けれど、 「ご免なさい、意地悪しちゃったわね」 そう穏やかな声で諭した。 「気付いて……いたんだな……」 「ええ」 囁き、充たされた顔つきで答える。 途中で止めたということは拒んでいるということ。 「違うわ」 まるでわたしの考えていることが分かっているかのように告げた。 「せっかくだもの。きちんと起きている時にしてほしかったの」 「して欲しいって……」 「さっき寝ている私にしようとしていたこと」 憧れた美しい髪、透明な肌、そしてわたしを見詰める萌葱色の瞳。 しっとりと濡れた目に見詰められ、世界にわたしと千鳥だけが切り取られた。 「この学院に転入して――落ち込むこともあったけれど、今は此処が私の家だわ」 「そしてわたしは家族」 問うわたしへ、千鳥は小さく、だが決然と首を振る。 「えりか、貴女は私の――」 呟かれた言葉は確かにわたしが望んだ言葉だった。 千鳥の濡れた薄桃色の唇が近づき、わたしもそれを迎えた。 彼女の吐息を感じるほどに近づくと――消えつつある一つの季節の匂いと、白桃の香りが分かちがたく混ざり合っているのを識った。 その香りを吸い込むと、心の奥が強く押し上げられていく感触がした。 自分の体ではないようだ。 鼓動がただの鼓動ではなくなっていく。 彼女を感じ、受け入れ、わたしはこの幸せな時間が長く続くよう、初めて神へ祈ったのだ……。 ――此も日常になったな、と、 少しだけ開いた窓から微かに聴こえる歌声に耳を澄ました。 とても美しく繊細な音色だ。 耳にするわたしの心を温め、そして心の中の大切な部分を掴むような歌声。 朝が明けて直ぐだからか、地に朝靄がほんの少しだけ煙った情景を目にしていると、ふいに僅かな期間だけ通った学校のことを思い出した。 小学校のクラスで一緒だった一人の少女。 成績が良く、綺麗で、思いやりがあり、上品で、ピアノがとても上手な子だった。 授業中によく眺めた背中。 話しかけた事もない少女のことを、歌声を耳にしたことで唐突に思い出していた。 心の大切な部分を掴まれる感覚。 朝靄の残った地上から顔をあげ、空を眺める。空は抜けるように青く高い。 今日も暑くなりそうだと呟き、幾度も聴いていた調べを口ずさんでいることに気付く。 覚えてしまう程耳にしていたのか、くすぐったい想いが溢れつい笑ってしまう。すると、 「なかなか上手じゃない」 ふいに耳元で吐かれた言葉に慌てて振り返る。 「声を掛けずにもっと聴いていれば佳かった」 桜の木の下で歌っていた筈のアミティエが悪戯っ子のような笑みをこぼし佇んでいるのを見て惚けてしまった。 ――どうやら、自分が思っていた以上に、幼い頃に見た背中を思い返していたらしい。 「……わたしが歌っているのを見て笑ってたんだろ」 「そんなことない。とても上手だったわ」 以前姉に笑われて以来歌うことをやめた。わたしの秘めやかなコンプレックス。 だが、千鳥は大真面目な顔をして、わたしの声を褒め、音程を外さなかったことを褒め、彼女の心に響いたのだと褒めた。 心を掴む、密やかな旋律。 「私は……えりかと一緒に歌いたい。今の私が私でいられるのは、えりか――貴女のお陰なのだから」 最悪の出遭いから始まり、幾度も衝突を繰り返したアミティエ。 そして、同じ数だけ苦難を乗り越えたアミティエ。 互いに、不可侵であった頑なな心を溶かし、赦し合った。 生真面目な顔つきでわたしへ唄をせがむアミティエを見、愛おしさから朗笑が浮かぶ。 「そうだな。一緒に歌おうぜ、相棒」 窓辺でアミティエが笑い、ざぁと通り風が森を撫で、窓から軽風が吹き込み、彼女の柔らかく繊細な髪を揺らした。 森の香りとともに香る白桃の香り。 涼やかな萌葱色の瞳に促され、わたしはこほん、と一つ空咳をした。 「さぁ、歌いましょう――えりか」 人生の半分はトラブルで、あとの半分はそれを乗り越えるためにある 映画“八月の鯨”の中での言葉を思い浮かべていた。 なら今はトラブルなのか、それとも乗り越えている途中なのかと、愉しげに舞台の上を闊歩するバスキア教諭を眺めた。 「横幅は歩いて十六歩程ね。一度に出せる演者はその半分と考えた方がいいかしら」 「結婚式に訪れた客役ならそれでいいでしょうが、踊ることを考えたら四人が限界でしょうね」 「そう。でも発表会なのだから〈一時〉《いちどき》に踊るよりも一人一人演技を見せた方がいいものね」 舞台の上を歩き大きさを測っていたバスキア教諭は、小階段を下りきるとわたしの元へと歩み、 「七歩だわ」 と言った。何がですと問いかけると、頬を少しばかり膨らませ、 「奥行きの話よ。確かに皆で絢爛豪華に踊るというのは難しそうね」 と唸った。皆が舞台で映えるようと真剣に考えているのだ。バスキア教諭の人好きのする朗らかな気質に触れ、 「……例えトラブルの途中だとしても悪くない」 そう呟いてしまった。 「え、あ、今私に質問したのかしら?」 「……見せ場のデジレ王子とオーロラ姫の結婚式ですが、祝いに訪れ一人一人踊りを披露するという形が一番しっくりきそうですね」 「そうねぇ。男性役はなるべく省かなくてはならないから、一人で各自披露する方がいいかもしれないわぁ」 皆が踊る舞台を夢想しているのだろう。うっとりと無人の舞台を見詰める。金色の瞳が舞台を映しているのを見て質問を投げかけた。 「バスキア教諭もこの舞台で踊ったことがあるのですか?」 「え、ええ。子供の頃にね。養父である神父様に手解きを受けたわ。厳しかったけど佳い想い出……」 金色の瞳の中で何かが陽光を受けたかのように輝くのを見た。昔の出来事を想い返しているのだ。 十何年も前の記憶だろうに、きっとバスキア教諭には昨日のような出来事として記憶されているのだろう。 「……少し妬けるな」 「え? ふふ、ご免なさい。また聞き逃してしまったわ」 大切な宝物を見るような目を視、亡き父上に嫉妬してたとは言えないわたしは、緊張してしまうと言ったのです、と告げた。 「振付は謂わば演出……監督するようなものだ。責任重大ですよ」 「八重垣さんならできるわ」 きっぱりと告げるバスキア教諭へ曖昧な笑みで応える。と、 「大丈夫。私が保証します」 腰を落とし、視線を同じ高さまで落とすと柔和な笑みをこぼし、自然な仕草で手を握られた。 柔らかな手の感触にかっと全身が熱くなる。 寄せられた肢体、近づいたことで女性を感じさせる匂いが鼻腔をくすぐり、どうにも落ち着かなくなった。 閉ざされた空間にわたしたち二人しかいないという事実は、数日前の浴場を思い出してしまう。 まるで母を思わせるような―― 「あら……。八重垣さん。信じてくれないの?」 話しかけられてはいるものの、上擦ったわたしの耳は素通りしてしまう。 バスキア教諭は熱心に語りかけてくれているが……。 「――ですから大丈夫。きっと上手くいきます」 「ぇ、ぁ……」 戸惑い声が上擦ったままのわたしは、目を細め見詰める金色の瞳をまともに見られない。 と、不意に繋いでいた手を持ち上げると―― 「せ、先生……!」 「ふふ、これは厄除けよ。私は強運なの」 悪戯っ子のように舌を出し艶笑した。 ――善意からの行動だ。分かっている。 責任重大だ何だと弱気を見せたわたしを励ましてくれているのだろう。 けれど、 (何だって、わたしの胸はこんなにも高鳴っているんだよ……) バレエ発表会の日は迫ってきていた。 それは即ち――幾度もバスキア教諭と時間を共有したということだ。 二人きりでこのクラスメイトにはどんな演技が映えるだろうか悩み。 送られた手紙、直談判からこのクラスメイトは此程やる気があるのだと伝え、情熱に添えないか二人で知恵を絞り合った。 そう――二人で。 「……参ったな」 発表会の稽古終わり――どうにもグルグルと治まらない、胸の〈裡〉《うち》の想いを沈める為、どこでもいい一人に為れる場所が欲しかった。 人気のない場所を求め車椅子を繰っていくと、辿り着いたのは此処だった。 木製のうさぎ小屋は夕陽に照らされ、まるで燃えているかのように目に映った。逃げ惑ううさぎたち。 ……いや、これも自分の心の持ちようが揺らいでいるからなのだろう。 瞳は餌として与える干し草にも、警戒し此方を窺ってくるうさぎたちにも向けられてはいなかった。 ただ深く静かに自分の心を視、語りかけていた。 ――わたしはバスキア教諭が好きなのだろうか。 好意を抱いているというならそれは是だ。 この学院に来てからこっち、世話になりっぱなしの恩人に好感を抱かないわけがない。 自分が猫のように気まぐれな気質を持っていると自覚していても、それくらいの義理を感じることはできる。 だが、 (好意と、愛しているかどうかは別問題だ……) わたしが真実として問うているのは胸の中に渦巻いている感情は情愛なのかどうかだ。 男性が女性を愛するように、身体を欲するような恋慕。 二人きりで振付を考えている際、思考は半分がバレエ発表会でのこと。そしてもう半分はバスキア教諭の存在に分けられていた。 偶に触れあう指や、確認するときにぴたりと合う目と目。 彼女がわたしの名を呼ぶたびに可笑しな気分に為る。 ――此は、 もしかしたら、わたしが未だ経験したことのない恋なのかも―― 「おや、珍しいところで珍しい人物に逢うものだ」 心の中を探る思考は千々に消え去り、わたしはうさぎ小屋と同じく朱に染まる人物を、目を細め睨む。 「うん? 返事がないということは八重垣君じゃないのかな?」 からかう声音に益々目を細め、 「ダニエル・クレイグにでも見えるのか」 と切って捨てた。言われた当人はシニカルな笑みを浮かべながら進み出で、 「どうやら今日はご機嫌斜めのようだ。重い日なのかい?」 そう軽口を叩く。八代先輩に言われ、そろそろ来る頃だと周期を数えていたわたしは答えるのに時間が掛かってしまった。 「ふむ。具合が悪い……。いやいや、ならこんな場所に足は運ばないだろう。なら、」 何か思い悩んでいる事でもあるのかね? とそのものずばり問いかけられ、やはり答えるのに窮した。 「どうやら予想が当たったようだ。ふふ、師のように探偵を気取る気はないが――」 「何です……」 「古来から、悩みは吐露すれば気が晴れるらしいと聴くよ」 どこかで聴いた言い回しだが、誰かに聴いて貰うという提案は魅力的だった。 自分が感じているこの感情は何か、この奇矯な先輩なら答えてくれるかもしれない。 「……相談できる事柄ではないんです」 しかし、ダメだ。 この相談はバスキア教諭が面倒なことになる事情を孕む悩みだ。言う訳にはいかない。 「そうか。君が言うならそうなのだろう」 八代先輩は言い、興味深げに此方を窺ううさぎの元へと行くと、いつから手にしていたのか草を差し出し、網の間から与えた。 わたしは何も言わぬ彼女の背を見詰める。 沈黙が横たわり、動くものは餌を求め首を左右に振るうさぎだけとなった。 「……此は余計なお世話だが」 「とある映画の中で、«人間は、人生を失敗する権利がある»と言っていた」 映画“アメリ”だ。わたしの好きな映画。 「何を思い悩んでいるにせよ。行動はしておいた方がいい。思っているまま抱えていると、いずれ心が腐り落ちてしまうからね」 諭しているのに自分へ言い聞かせているようにも聞こえ、わたしは否定も肯定もせず、ただ西日を受けた背中だけを見詰めていた。 バレエ発表会にむけての稽古は一層熱が入るものと為っていた。 大まかな振付も終わり、後は演者の踊りを見ながら微調整を行う、そういった段階にきていた。 地下劇場の硬い座椅子に座り、クラスメイトの演技を熟視する。 このまま続けていいのか、またはもう少し複雑な技をやらせ観客を沸かせるか。 クラスメイトの癖、弱点を見付け、演技の流れから一部抜き取りつぎはぎを行うか、それとも別の振付で補填するかの判断だ。 うん、うん。よし、よし。 頷き、持っているノートに書き記す。$ダイアモンドの精はこのままで佳し。 サファイアの精はジュッテに難あり。少しの修正が必要。 真摯に舞台を見詰め、精査を続ける。 しかし、気がついた時にはわたしの目は何故だか霞がかっていた。 薄い膜を通して世界を視ているような具合。 もしかしたら千鳥が視ているのはこういう景色なのかもな、と思った。 目を細め、踊る演者を熟視する。 うん、うん。よし、よし。 だが、 (こんなに霧がかって見えるなんて……) 瞳の表面にミルクを垂らしたようだ。 「もう一度、ピルエットを見せてちょうだい」 視界は危ういものの、バスキア教諭の声はクリアでわたしの耳と言わず劇場の隅々まで通った。 職業が人を作るのだな、と漫然と思う。 「……佳い匂いだ」 鼻腔は鋭敏になり、隣り合うバスキア教諭の体臭が香った。 強くはあったものの、それは酷く落ち着く匂いで、意識を匂いに集中するたび、濃く甘いミルクが瞳に膜を作った。 そして、 「――八重垣さん?」 遠い声とともに意識はそこでぷっつりと途絶えたのだ。 よく見る夢というのが三つある。 真っ白い部屋の中にいる自分。何も着ていない裸のままのわたし。酷く寒く、頼りなくガタガタと震えている。 車椅子の上で肩を抱いているわたしを観て、よく見る夢の一つだと識った。 夢の中で夢だと理解できる夢は明晰夢と呼ぶそうだが、此が明晰夢ではない特徴がある。 自分の意志で小指一本動かせないのだ。わたしはまるで映画の中の一場面を観るように、わたしを眺めるだけ。 しかし、三つの夢すべて関連する事柄に“流動”するという共通点がある。 場所は変わらない。ただ時間が過ぎ、わたし自身の体も変わる。 ただあるがままを受け止め―― ――いや、今までにない感覚。どこからか香ってくる懐かしい匂いが、夢の中のわたしを覚醒させていった。 お母さん――と、母の事を呼んだのかもしれない。 目を開け、微睡みながらも腰がけだるく、熱いものを感じた。生理がきたのだ。 そして風邪を引いたのだろう。熱を持った身体を起こそうとする。と、 ベッドに寝入っているバスキア教諭の顔を視て、理解した。 バレエ発表会の稽古の折、具合が悪くなり倒れたわたしを自室まで運んでくれたのだろう。そして看病してくれていたのだと。 バスキア教諭の顔を視た瞬間、胸が押しつぶされそうな想いが身体を襲った。 「ぅ……ふっ、ぐ……」 瞳は潤み、呼吸さえ困難になる。体中が発熱し焼けてしまいそうだ。 「――わたしは彼女のことが好きなんだ」 気持ちよく寝息を立てている穏やかで無垢な彼女を観て、自分の気持ちに気付く。 胸から何かが溢れ出すような激しい感情の波。抗いがたく止めようとしても涙が滲み、赦してはくれない。 バスキア教諭が好きだということを理解した途端、頭の中でドアが放たれ風通しが佳くなった気がする。 «人間は、人生を失敗する権利がある» きっとこの想いは叶わないだろう。 「――ダリア」 眠っている彼女の前髪を指に絡め、呼び掛ける。 彼女は指の感触で、声で浅い眠りから目覚めたのか、目蓋を震わしゆっくりと覚醒した。 「ぁ……八重垣、さん……」 目を覚まし童女のような目でわたしを見詰め、そして寝入っていたことを識る。 慌てて身体を起こすと、鮮やかに頬へ朱を散らした。 「ご、ごめんなさい。看病していたのけれど、寝入ってしまったみたいで……」 「ありがとうございます。先生が連れてきてくれたのでしょう?」 「ええ。ああ、そうだ。お薬を飲まないと!」 今まで寝入っていたからか、足取りもぎこちなく机へと向かう。 机には手を付けていないグラスが汗を掻き、コースターを湿らせていた。 グラスと薬の包みを持ち、 「さぁ、お薬を。あ、でも何か軽く食べてからの方がいいかしら……」 真剣に悩み眉根を寄せる彼女へ、わたしは聴いて欲しいんですと言った。 「どうしたの? 吐き気でも……」 「大丈夫。……先生、お願いです。こちらへ来てくれませんか」 困惑し、グラスと薬を机の上に置くと再びわたしの元へ。 わたしの様子が違っていることに気付いたのか、神妙な顔をして屈み、視線を合わせてきた。 (さぁ、言うんだ) バスキア教諭にわたしの想いを。 「……何か思い詰めているのね。何でも仰いなさい、先生が受け止めますから」 その言葉に涙が滲む。優しい言葉。 だが、 «人間は、人生を失敗する権利がある» 「――聴いてください」 八代先輩から聞いた言葉が脳裏に浮かぶ。呪いの言葉のように。 「わたしは、」 言葉を吐こうとするが、口元が身体が震える。自分が酷く弱くなっていることに気付いた。 わたしが自身の弱さを受け入れる前の事だ。 「……八重垣さん。もし私に言い辛いのであれば神に、」 神様なんてお呼びじゃない。 「バスキア教諭、いや、ダリア先生。わたしは、わたしは……貴女のことが」 吐かれる言葉をようやく察したのだろう、かっと頬を染め信じられない奇跡を目の前にしたように瞳を瞬かせた。 「ダリア=バスキアを愛しているのです」 ――千鳥が踊りきると万雷の拍手が会場を包む。 贔屓目なしに舞台を観たとしても、感想は多くを語れない。只素晴らしかった。それだけだ。 千鳥だけでない。大道具係の、衣装係の、照明係の、奏者の、演者の、皆の思いが実った舞台だったからだ。 言葉はちっぽけだ。この思いを伝えられない。 やむことの無い拍手にわたしも手を叩き続けた。 そして、隣に座るバスキア教諭も。 「佳かった……! 皆、とても頑張って……」 「ええ。ミスなく踊りきりました……」 感極まったのか涙を滲ませ頷く。そして、わたしの手を取り感動を分かち合う。 「ぁ……」 「あ、ご、ごめんなさい。不躾でしたね……」 手が重なった途端、淹れたばかりの熱したカップに触れて驚いたかのように手を離した。 今までとは違う仕草に、少しだけ心が冷える。 ――何を思い悩んでいるにせよ、行動はしておいた方がいい。思っているまま抱えていると、いずれ心が腐り落ちてしまうからね。 そう八代先輩が述べた言葉は、二つともに正しかった。 あの時、夕陽が射し込む部屋の中で彼女へ告白していなかったら、わたしの心は腐り落ちていただろう。 そして、 «人間は、人生を失敗する権利がある» その言葉通りに告白は――叶わなかった。 バスキア教諭は頬を染めたまま、気持ちは嬉しいけれども、自分はシスターであること。 その一点を持って、想いを叶えてあげることはできないと告げた。 留保のない答え。 (だが、それは分かっていたことだ) 敬虔な基督教信者であるバスキア教諭のことを想えば――識っているからこそ叶わない事は分かっていた。 それでもわたしは言わなくては、愛していると告白しないではいられなかったのだ。 「……八重垣さん?」 「行きましょう。最後のレヴェランスは皆と一緒にする約束だ」 幕がゆっくりと閉まっていく。そしてもう一度拍手とともに開かれるのだ。その時は演者の皆とともに成功を祝う、そう決めていた。 「ええ。皆が待っている」 差し出される手、 わたしはバスキア教諭の――ダリア=バスキアの柔らかな指の感触を識っている。 金色の瞳は温柔で、心は誰よりも温かく、そして母の匂いがすることを。 (諦めることなんてできない) ダリアの瞳がわたしだけを映すことを夢想し、夢が叶うよう、初めて神へ祈ったのだ……。 ――いつからあの人は、この学院の真実に気付いていたのだろう 夏の盛りは過ぎたとはいえ、夜が更けた寄宿舎の廊下は、昼間の余熱分を残したフライパンのような残火を肌に与えていた。 だけれど、残り火は思考を止める要因にはならない。 私は足を止めず、再びあの人が知っているだろう切っ掛けを推察した。 おそらくは、血塗れメアリーの儀式――三年生が一度に辞めたという出来事の際に疑問に思ったのだろうと推論づける。 彼女自身が調べていたと言っていた。$だが、尻尾は掴めど何の行動も起こさなかった。 いや、起こせなかったが正しい。$私の推論が正しいなら、彼女が大切に思っている者を損なわせる行為だから。 そう分かってはいても、真実を明らかにしなかった事に猜疑の念を抱かざるをえなかった。 不意に、 夜の森を行くと――この学院に来た日のことを思い出した。 私のことを気に掛けてくれた立花さんと出逢い、自分の小心さ故に逃げ出してしまった。 そして、この学院へと通じる桜並木で彼女と出逢ったのだ。 匂坂マユリ、と。 ――いや、いけない。 今は過去を想い、心を弱くさせては為らない。 此から私が対峙しなくては為らない相手は、弱い心では太刀打ちできない。 自分の全てをぶつけなければ、彼女の口から真実を得ることは出来ないだろう。 学舎から遠く影を望める聖堂を眺め、待ち構えているだろう彼女の姿を思い浮かべ――私はこの帰結に到達した経緯をゆるゆると思い返していた。 過去は安い本と同じ、読んだら捨ててしまえばいい                               ――映画“ヤングガン” ――静かな月曜日の朝が始まった。 いつものように六時に目を覚まし、冷たい水で顔を洗う。しっかりとブラッシングを済ませた後、朝が弱いアミティエを起こす。 着替えを済まし互いに髪を整え合った後、ダイニングホールへ向かう。 朝食を皆でとった後、聖堂へ。 寄宿舎から聖堂へ向かう林道で会うのはお馴染みの顔ぶれだ。そして朝のお祈りが始まり―― 変わらぬ日常が始まる。 そう、変わらぬ日常だ。 教室には仲良くして貰っている沙沙貴さんたちが居て、何でも話せる立花さんも居る。 クラスの担任は母のようなバスキア教諭。 教室外では私を気遣ってくれる八代先輩、小御門先輩。 だけど―― 貴女だけがいない。 匂坂マユリ、 互いに愛し愛される存在だと想っていた。 でも、 ――いや、彼女が私の前から消えた日。 私は彼女へ忘れてほしいと願った。$苦しむくらいなら、どうか。 だから、きっとこの胸の痛みも時が癒やしてくれるだろう。 今はまだ負ったばかりの傷だけれど、いずれ冬の冷えた雨の日に微かに痛む程度の古傷になる筈だ。 聞き慣れた車椅子の音がし、 (そうね。貴女を忘れてはいけないわ) あら、えりかさん――と私は猫の笑みを浮かべた友人を迎えたのだ。 そう――私がアミティエを忘れようと努力していた頃、新しい風が吹き込んだ。 学院を去った人たちの代わりを務めるかのように、新しく六人の転入生がクラスメイトと為った。 六名の転入生たちは皆素直で優しげに見えた。$友人になれるかもと思う。 いや、 窓側の彼女――後で名前を知ることとなった考崎千鳥さんだけは、自分と世界を薄い膜で隔てているかのように周囲を拒絶していた。 その様子が私にはありありと見てとれたのだ。書痴仲間……と言ってくれた八重垣えりかさんと似た雰囲気を持っている。 そしてもう一つ驚いたのは彼女の外見だ。どことなく――マユリに似ていたのだ。 忘れようと心に決めた私の元へ、影が忍び寄るように記憶を刺激した。 (時が癒やす? 時が病気だったらどうするの?) かつて観た映画、“ベルリン・天使の詩”での台詞を思い浮かべた。 考崎千鳥さんの転入は、忘れようとする私を止めるものとして起こったのだろうか? そう、夢想した。 ――転入生たちがクラスに馴染む頃、 子うさぎの消失事件が起こり、ほどなくして八重垣さんが解決した。 聖堂内で語られたことは半分が本当で、半分が嘘だろう。 うさぎの生態に関する書籍を貸し出した際に興味を持って私も読んだ結果、子うさぎにある症状が現れていた事に後になって気付いた。 しかし、彼女が黙っていたことは自身の保身のためではない。優しさからだと確信し私は何も知らない振りをした……。 暑さも本格的に為った頃、期末テストを迎えた頃だろうか。 マユリと似た考崎さんを前に、様子が違っていたのを察してくれたのか。 ずっと――マユリの事については何も言わなかった立花さんが、私の背を抱いてくれたことがあった。 「立花……さん?」 「ごめんなさい。こんな真似をして……。でも、あまりにも寂しそうで張り詰めていたから……」 立花さんの言葉は真摯で――私は確かにその時、酷く病んでいたのだと思う。 忘れようとしても忘れられない。傷は古傷になっておらず、考崎さんが新しく傷を負わせた。彼女の意志とは関係なく。 ありがとう――と呟くと、首筋に彼女のおさげが当たるのを感じた。$首を振っているのだ。 「わたしは……蘇芳さんが話すまではマユリさんの話はしないでおこうと決めていたの。蘇芳さんが……壊れてしまいそうだったから」 「でも、口に出させて貰うわ。蘇芳さんは耳を塞ぎたいでしょうけど……マユリさんの事はもう忘れた方が佳い」 憂えた上での言葉だろう。$だけれど、私の身体は刹那震えてしまう。 「ごめんなさい。酷いと思うわよね。でも、これ以上――」 立花さん、と私は彼女の言葉を止め、感謝の言葉を告げた。 「平気よ立花さん。私も、マユリのことは忘れた方が佳いと思っていたの」 「え――」 酷いと思っているのだろう。けれど、それで佳い。 「ただ……どうしようもなく彼女を思い出してしまう時があるの。その時は――」 「また――こうして貰ってもいい?」 躊躇いもなく立花さんは頷いてくれた。首に受けるおさげがそう教えてくれた。 (そうだ。私はマユリの為にも、立花さんの為にも忘れた方が佳い) そう、再度心に決めたのだ。 ――だが、本当に大切なものは消えはしない。$〈澱〉《おり》は残るのだ。葡萄酒の瓶の底のように。 自分がどうしたいのか、はっきりと理解したのは、八重垣えりかさんから心の中にある澱を指摘されたからだ。 ――収穫祭の折に、喧噪が耳に痛くなった私は場所を変えたいと思っていた。 八重垣さんはそんな私の気持ちを解っていたかのように、人気のないうさぎ小屋へと連れだち、トマトの種類について語った。 素敵な語り出しだ。 そして幾度かのやり取りの後――今のお前は愉しそうじゃない、と切り出した。 私は反論するも、何を言うのか解っているかのように、言葉は返され、私の心の底にあった触れてほしくない箇所を掘り起こした。 (何故、マユリは何も言わず学院を去ったのか) マユリの人柄からしても――私の事情を知っていた彼女が何も言わず立ち去ることなぞ有り得ない。 ずっと心の奥底で、蓋をしていた疑問をすくい上げてくれたのだ。 理由を知ろう、そう心に決めた私は自分にできる事を始めたのだ――。 マユリの今を知る為、先ずはもっとも単純で分かり易い行動を取った。 担任のバスキア教諭に訊ねたのだ。$シンプルで確実な案。 しかし、バスキア教諭は何も聞かされておらず、学院を去るという話は急に持ち上がった話だと告げた。 家庭の事情に口を出す権利はない。それは承知している。バスキア教諭は私にこう言って聞かせたのだ。 「彼女を失って悲しむ気持ちは分かります。でも、前を向いて進んだ方がいい。彼女もそれを望んでいるでしょう」 そうじゃないと心の裡で叫んだ。$理由を知ったところで意味はないかもしれない。大した理由ではないのかも。 それでも私は理由を知らなくてはならないと強く思った。理由を知ることで、バスキア教諭のいう先へ進めるかもしれない、と。 ――マユリの情報を得るために、彼女が学院を去る前に交流のあったクラスメイトや上級生から話を聞くことにした。 しかし、朗読劇の脚本兼読み手として任されたことで、話を聞くことは難しくなった。 私の所為で台本を紛失してしまう事件もあったけれど、八重垣さんが謎を解いてくれた。 朗読劇では難しい役、ラプンツェルを演じていたが、終幕間際に彼女の涙を観た気がした。 きっと己でなく誰かを思いやっての涙だったのだろう。 私は彼女と友人になれて本当に佳かったと感じた……。 八月も半ばを迎え―― 新しく礼法と第二外国語の教科が増えた。そして選択科目というものも。 弦楽器の授業とガーデニングの選択。 私は迷わずガーデニングを選んだ。庭木の扱いは祖父の教えで慣れているし、立花さんが望んだからだ。 彼女は殊の外、私の復調を喜んでくれた。親友が喜ぶ顔をみたいと思うのは当たり前の事だろう。 授業は愉しく、そして――マユリを知る作業も進んだ。 彼女の交友関係は広く、すべての人から話を聞くことは手間取った。 そして彼女が変節する理由――若しくは家の事情を探っていくと、ある事柄が私の琴線に触れた。 (美術部……) 当然マユリが所属していたことは知っていたが、それ程熱心だとは思っていなかった。 しかし、学院を去る前に彼女が油絵を何枚も描き上げていたと耳にし、違和感を覚えたのだ。 彼女が美術部に入部してから学院を去るまではあまり時間がなかった筈だ。 絵画に関してあまり興味のない私だが、油絵というものはカンバスに何重にも絵の具を塗り固め制作していくのだと読み知っていた。 短い期間に、何枚も? できなくはないだろうが、何か急ぐ意味はあったのだろうか。 ……いや、学院を去ることを分かっていた為、完成を急いだ? 疑問が膨らむ。 美術部に所属している者から、もっと詳しく話を聞かねばならない。そう心に決めた。 そして、この頃―― 友人である八重垣さんと考崎さんが仲違いをしていた事が気掛かりの一つになっていた。 しかし水遊びに二人で連れ立ち、考崎さんとボートに乗って話をしてみたらどうだろうという助言をしたことが一つの切っ掛けとなったのか―― 水遊びに行った日を機に、今までよりも更に仲が深まったように感じたのだ……。 バレエ発表会が開かれるということを、バスキア教諭がレッスン室で皆へ発表した頃。 ――美術部に在籍するクラスメイト、そして上級生たち全員から私はようやく話を聞き終えていた。 マユリは美術部の皆と友好を深めてはいたものの、自分の家に関することは硬く口を閉ざしていたらしい。 美術部は部としての規律が厳しく、部外者が部室へ入ることを固く禁じていた。 それ故、休み時間の合間と寄宿舎に戻ってからの短い時間しか取れず、聞き出すことに時間を要してしまった。 話を聞き終えたときに思ったことは、 (マユリが残した絵画を目にしたい……) 強くそう思った。$部外者は入室禁止のため、部の顧問である教諭に頼み込んだ。 しかし答えは否だった。規則は原則曲げられないと。 冷静さを欠いていたことで部の顧問教諭との強い問答があり、私は――特に私はということだ。 部室へ招待されるという機会は永遠に逸してしまった。 だが、諦めることはできなかった。 虫を防ぐ為の、学院指定のレインコート。 そして目立たぬよう青いフィルムを貼った懐中電灯を手に、夜が更けるのを待って部活棟へと忍び込んだ。 鍵の掛かった美術室のドアを前に試行錯誤したが、どうすることもできなかった。 現実は小説のように、運良く開いているというわけにはいかないのだ。 見回りの時間が迫ったことで退却し、私は自室のベッドで休みながら侵入する方法をいろいろと模索していた。 だが、ここで意外な方向に話が膨らんだことを知る。 どうやら部活棟を徘徊していたところを誰かに見られてしまっていたらしい。 見られた時の容貌が―― 〈碧身〉《へきしん》のフックマンという、かつて七不思議に数えられていた怪異と似ていたことから噂が広がってしまった。 幾度か隙を見て中に忍び込もうとするが―― そのたび、私と似た格好をした先客か、フックマンを捕らえようとする者がいた為、中止せざるを得なかった。 しかし何事も諦めなければ何かしらの結果は得る。 私は侵入に成功し、暗くうち沈んだ美術部室の中へと這入ることができた。 マユリの絵を探しながら、初めて“フックマン”の名を聞いた時、馬鹿な真似をしていると恥じたことを思い返していた。 “彼女を失って悲しむ気持ちは分かります。でも、前を向いて進んだ方がいい。彼女もそれを望んでいるでしょう” バスキア教諭の言葉が、まるで耳元で囁かれているようにくっきりと思い出せた。 ――だが、そうではないと強く思った。 私は理由を知らなくてはならないんだと。 そして、彼女の描いた三枚の連作を見て。 私は自分が正しかったことを知ったのだ。 幼いキリストを抱く聖者ヨゼフの絵画。 その絵画だけに、カンバスの裏側にとある文言が書かれていた。 “天に行われるごとく、地に行われるように” 彼女が書いた文字を見付けた途端、世界が縮まったりも広がったりもした。 これは私に向けてのメッセージなのだと、直感したのだ。 「――天に行われるごとく、地に行われるように」 長い長い追憶を終え、私はもう一度、同じ言葉を呟く。 ――天に行われるごとく、地に行われるように。 自分の口から吐かれたとは思えない声音に、不吉なものを感じながら呼び出した彼女の元へと急いだ。 夜の静寂を破る重々しい音に、私はあの日のことを思い出す。 聖母祭の終わり、彼女を受け入れた日のことだ。 あの記念すべき日と似た状況だということに、微かだが確かな怒りを感じていた。 昼間の暑さを宿した残り火のように。 聖堂の奥、祭壇に寄り添うようにして影が視えた。 どうやらきちんと約束を守ってくれたようだ。 足音は早くもなく遅くもなく、一定のリズムで聖堂内を反響し刻む。 目はとっくに暗闇に馴れている。 影が輪郭を露わにし、その見事な銀糸の髪と鈍色の瞳そして――シニカルな笑みを認め、私は彼女の名を呼んだ。 「――夜分にお呼び立てして済みません、八代先輩」 「何構わないよ。何せ我が師の呼び出しだ」 いつものシニカルな笑みをこぼし何のことはないと手を広げた。$そして、どんな用件かな、と訊ねてくる。 「もしかして告白を受けるのかな? まぁ、ロケーションとしてはまずまずだしね」 「……八代先輩にどうしても尋ねなくては為らないことが出来たのです。答えてくれますか」 構わないよ――と言い、やはりシニカルな笑みを浮かべた。 私は八代先輩へ、マユリが学院を去った理由を探していたこと。 そしてマユリの絵画を得る為に、フックマンの噂の元と為ったことを吐露した。 「……ふむ。鬱ぎ込んでいた蘇芳君が元に戻ったのは、そう言った理由があったのか。八重垣君もなかなかやるね」 「美術室に忍び込んで持ち出したことは――」 「ああ、あまり褒められた事ではないが問題にしようとは思わない。フックマン騒動はもう解決している。それに――理由が理由だ」 「美術部顧問の石塚教諭は頑なだ。真っ正面からでは、僕が頼んでも無理だったろうしね」 傘を忘れたのを許す程度の気安さで、構わないと笑ってみせる。そして、 「――それで、君が持っているという絵画には何が書かれていたんだい?」 そう問われ、私は“天に行われるごとく、地に行われるように”と口にする。 「天に行われるごとく、地に行われるように……。主の祈りの一節だね」 この文言がカンバスに書かれた意味は何だと思うかを問われる。 「マユリは救いを求めている――天でも地でも、等しく御心が届けられますようにと。この学院を天とするなら、今居るのは地――?」 「……今まで不自然に消えてしまった者たちも、同じように救いを求めているとしたら……」 頭の中で飛躍した論理が口をついて出た。 「……消えてしまった者とは、七不思議で消えた者たちのことかい?」 頷き、昨年八代先輩が調べていたという、彼女が一年生の時に辞めてしまった三年生たち。 そして今年、血塗れメアリー騒動の発端となった辞めていったクラスメイト等のこともあげた。 「それは……流石に〈牽強付会〉《けんきょうふかい》だと思うがね」 確かにこじつけに近い事だと思う。$しかし、私の集めた材料と直感は正しいことを示している。 注視しなければ見落としてしまいそうな、八代先輩の表情に浮かぶ微かな緊張もそれを裏付けていた。 「八代先輩は、以前この学院の怪異は攫うということに執着していると言いましたね」 「……ああ。確かに言ったがそれは、」 「碧身のフックマンはバスキア教諭の前にも現れていたのです」 私が“始まりのフックマン”であり、その後現れた“フックマン”は、肝試しに訪れた生徒たちであるからだ。 その中に、わざわざ教諭の前に現れて驚かすようなフックマンはいない筈だ。 「……何が起こっているというんだ、蘇芳君」 「私は、この件はフックマンという怪異を隠れ蓑にした者の犯行だと思っています。そしてその者がマユリを損なわせた」 銀色の瞳は何かを訴えようとある種の色をなした。しかし、その言葉を吐いていいのか逡巡しているようでもある。 私は―― 私は八代先輩をこの場へ呼び出し、問おうと用意していた言葉を吐く。 「――三ヶ月程前、温室で頭を負傷する怪我をしましたよね」 「え、あ、ああ……。あの時は迷惑を掛けた。僕が起こした事故だったというのに、匂坂君にも迷惑を掛けてしまった」 やはり、その声には注意しなければ聞き逃してしまいそうな緊張を孕んでいた。 「あの時の事故は、本当に事故だったのですか?」 「…………」 答えられない。彼女も“誰かを庇っている”のだ。 沈黙を続ける八代先輩へ視線を向け、次いで、磔にされたキリストを見上げ問う。 「――この学院には聖母以外のマリアがいるのですね。“真実の女神”が」