«私が欲したモノは決して手に入らない» ――彼女との約束からつま弾いた 聖母祭での伴奏―― でも……私は彼女の期待に応えられるだろうか 失敗作の私が、 ――家族からの愛情を受けず 義母に呪いを受け―― 何も掴むことができない私が、 どうかこの一時だけ アングレカムの花言葉を私に―― 祖父は辛いときほど笑えと教えてくれた。 でも、 笑えない程辛く怖ろしいものはあるのだと、私は識った。 森はひたすらに深く、闇は指先が見えなくなりそうな程に暗い。 木々へ寄り添うように等間隔で佇んでいる外灯がなければ、とても歩き出せそうもないくらいに。 ――ううん。 今は立ち止まることが怖い。 一度足を止めてしまったら最後、怖さで押し潰されそうだから。 どうして化け物が出そうな夜の道を―― 私――〈白羽〉《しらはね》〈蘇芳〉《すおう》がとぼとぼと歩いて行かなければ為らないのかを、恐怖から逃れるために思い返してみた。 (そうだ。今日初めて一人で乗った電車やバス……) 乗り継ぎはうまくできた。事前にしっかりと準備していたお陰。 でも、 「……バスが廃線になったなんて知らなかったもの……」 これから私が通うことになる全寮制の女子校、 “聖アングレカム学院” 明治3年に建てられた、由緒正しいミッションスクール。 良家の子女が通う、いわば花嫁修業のような場所。 これから3年間、その学院で学び生活するために向かっていたのに……。 「調べてきた直通のバス、まさか二年も前に無くなっていたなんて書いてなかったし……」 学院直通のバスはなく、学院に通じるこの薄暗い一本道を見つけるのにも相当時間が掛かってしまった。 車の轍を睨みながらきっとこの道で正しいのだと進む。 ――帰りたい、 祖父と私だけの生活。本当に二人だけの。 学校には通っていなかったけれど、私には本や映画が友達だったから何の不自由も―― 「……ダメ。友達が欲しいからアミティエ制度のある学院に通いたいって私から言い出したんじゃない……」 引っ込み思案な自分、私は内気な性格を自覚している。 だから祖父の家から学校に通ってはみたけれど、辛くなって……自宅学習に……。 祖父と二人きりの生活は穏やかで、このままでいいと思っていたけれど、 私が好きな小説や映画、ドラマの中では主人公の周りには素敵な友達がたくさんいた。 憧れた。友達のいる生活に。 でも、内気な私が新入生として、ただ学校へ通ったのでは友達は得られない。そう思った。 (祖父から教えて貰った学校、聖アングレカム学院) この学院には全寮制の学院に早く馴染むために、学校側が“友人”をペアとして作ってくれる独自のシステムがあるのだという。 そこでなら私も素敵な友達を作れる、そう思った。だから祖父に頼んでこの学院に―― 「綺麗……」 「え、わわっ」 顔を上げた先に急に人が現れ驚いた私はつまずき、相手へと寄りかかってしまう。 「ご、ごめんなさい。足下ばかり見ていて……」 「い、いいの……」 戸惑った声音。$その困った声に抱きついているような格好になっている自分に赤面し、声の主を見上げた。 「すごい……こんな綺麗な人初めて見た……」 「ぁ、あの……」 「あ、聞こえて……ぅ、じゃなくて、大丈夫? あ、あの足とかくじいていない?」 「は……い。平気です……」 抱きしめられている身体から香る仄かな柑橘系の薫り。 (香水を使っているのかしら、大人だわ……) 「……やっぱり綺麗」 頭の上から呟く声が聞こえ、私はようやく自分が置かれている立場、抱きしめられている格好に気づく。 そして現実と自分の認識が追いつき、猛烈な恥ずかしさを感じた。 (初めて会った人と、こんな……) じわっと内側からこみ上げる熱、顔は赤く染まり、消えて無くなりたくなる。 「ぁ、どうしたの?」 気遣ってくれる声音に、私は、ごめんなさい――ともう一度謝った。 身体をようやく離すと、対面に立った少女は、 「あ、あのっ……わたしの方こそ、ごめんなさいね。倒れてしまうと思ったから抱き留めてしまって……」 「だ、抱き……」 「ち、違うの! 確かに見たこともない美人で、髪なんてすごく綺麗で、抱きつかれて嬉しかったのは本当だけど……」 ――綺麗、美人? 一体何のことを話しているのだろう。 私と同じ制服を着ている彼女は―― 艶やかな黒髪を結っている姿は愛らしく、眼鏡の奥の瞳はとても優しげだ。 ただ其処に佇んでいるだけだというのに可憐……。 「ぁ……ぅ……私は何を考えて……」 「ど、どうしたの? ぁ……そ、そうよね。こんな暗い道で名乗らないなんて、不審がられても仕方がないわよね」 「わたしの名前は、〈花菱〉《はなびし》〈立花〉《りっか》。たぶん、貴女と同じ新入生で……」 慌てた様子で名乗る彼女。$私の所為で困らせているんだ。 そう思ってしまったら、身の置き場もないくらいに――。 「ほ、本当にごめんなさいっ」 たくさんの感情が身体を巡り支配し、耐えきれなくなった私は、頭を下げると一目散に逃げ出してしまった……。 (何で私はこうなんだろう……) 友達が欲しくて新しい自分になるために、全寮制の学院に入ろうと決心してきたのに……。 「……あの人気を悪くしている……わよね」 せっかく向こうから声を掛けてくれたっていうのに、抱きついてしまったことが恥ずかしくて、彼女を慌てさせたことが申し訳なくて、 何年振りかで同い年の子とあんなに話せたことに感情が追いつかなくて……。 (気がついたら逃げ出してしまった……) これじゃ友達なんてできる訳がない。 祖父の家に預けられてから、家のそばの学校へ通ってはみたけど……。 (……そうだ。あの時だって最初は話しかけてくれる人はいた) でも、私があまりにダメで、迷惑ばかりを掛けるから……。 いつの間にか、私の周りには人が居なくなってしまった。 ――自分を変える為に来たのに。 「っ……」 鼻の奥が熱く、じんわりと視界が歪み滲んでくる。 泣いちゃダメだと思えば思うほど、自分のふがいなさが情けなくて……。 滲む視界の先に、薄い朱色の何かが……。 「ん……っ」 涙を袖で拭い、足下を舞うそれを見詰めると、 「――桜」 桜の花びらが私の靴へ――$道道へとまるで雪のように降り注いでいた。 俯いていた顔を上げると其処は―― ――綺麗、と素直に私はそう思った。 暗夜に亡霊のように浮き上がって見える桜の木々、その下に鳶色の髪を持つ少女が佇み、私を凝っと見詰めていた。 吸い込まれそうな瞳、 髪よりもやや暗色の瞳は純粋な光をたたえ、只私を見遣っている。 挨拶をしなくちゃ、とは思うけれどまるで魂が抜かれてしまったかのように私の身体は自由を奪われていた。 「――桜の妖精、いや……そんな筈はないか」 「ぁ……」 「夜更けに驚かせてしまったみたいだね。$あんまり桜が見事だったから、つい見惚れていたんだ」 少女は両手を組むと背伸びをし、う……んと唸り、散る桜を観る。 「こういう景色を万景……煙景というのだったかな。まるで桜の雨が降っているようだ」 君もそう思うかい――と尋ねられ、私は操られているように頷く。 「そうか。なら君も一緒に観よう。こっちへ来ると佳い」 桜の色に照らされ、まるで春の日だまりのような笑みで呼ぶ少女へ―― 蜘蛛の糸で手繰られるように少女の元へと歩んでいった。 ざわ、と通り風が花弁を揺らし、 ――散り散りと、桜の雨を一層降らせた。 通り風に〈蹌〉《よ》〈踉〉《ろ》めいた私は、 彼女の腕へと抱きかかえられる。 「そそっかしいんだね、君は」 笑う少女、彼女は微笑みを湛えたまま、挨拶が遅れたねと言う。 「――私の名前は、〈匂坂〉《こうさか》マユリ」 彼女はそう名乗り、私に笑みを向けたのだ―― �四月� と、いう言葉から連想されるものは何だろう 春、おろしたての制服、桜、穏やかな日和 冷たさが消えた暖かな風 いいえ、それよりも ――出会い この学院で新しい出会いを得られるだろうか 友人を作れたことのない、私は ここで �アミティエ�を。 美しく荘厳で――だからこそ圧迫感を受ける聖堂に幾重もの声が重なり響いていく。 美しい波となった歌声は春の陽を受けて輝くステンドグラスに反射し、緊張のためこわ張り着席している私たち新入生へと届いた。 (本当にミッションスクールなんだわ……) 聖堂の壇上から上級生たちが聖歌を唄うのを聞いて……。 ようやくミッションスクールである、この聖アングレカム学院に入学したという実感がふつふつと湧いてきた。 (聖者の姿を模したステンドグラスに、十字架に磔にされた〈基督〉《キリスト》像……。映画で見た通りだわ) 夜、学院についた私はすぐ学生寮に通されて……。 規定の時間が迫っているということで就寝を強制されてしまった。だから、 「……すごい」 ここへ来るまでの道すがら、まるで異国のような石畳に煉瓦作りの建物。 そして通されたこの聖堂……礼拝堂と言うのだろうか? 外国映画で見たとおりの宗教学校の光景が、目の前に広がっていることにただただ感動していた。 「ふふ……」 微かな笑い声が聞こえ、少しだけ振り返り後ろの席を見遣る。と、 「ぁ……」 私を見、くすくすと笑い合う同級生の姿を目にした。 (何で――?) 何か自分が失敗してしまったのだろうと思い、昨日の……せっかく呼び掛けてくれたのに無様な返答しかできなかった出来事を思い返した。 私は何をしでかしてしまったのだろうか? もしかして、考えていたことが声に出ていた? 祖父からも物思いに耽った時の癖だと指摘されたことがある。 私は―― 「――っ」 頬がかっと熱くなってゆくのを感じ目をふせる。 可愛らしい学院の制服に身を包んだ自分。$でも、私自身はあの時から、何も……。 耳朶に響いていた美しい波の音が消え、顔をあげる。 壇上にて聖歌を披露していた上級生の姿はなく、私たちを包むように左右に二年生三年生等が着席していた。 そして、いつの間にかシスターだろうか、肩にかけているローブを引き摺るようにして女性が壇上へと上がり、見事な所作で一礼をした。 「新入生の皆さん。ご入学おめでとうございます。私は皆さんの担当教諭を任されましたダリア=バスキアと申します」 担任となるダリア教諭を見、やはりここは宗教学校なのだという思いを強くした。 金色の瞳に同色の髪をベールに包んだ修道服の女性……という出で立ちは、ここが基督教の学院だということを端的に示している。 〈柔和〉《にゅうわ》でまさしく聖母と形容したくなるようなダリア教諭は、入学の祝いを述べると品良く私たちへと微笑みかけた。 (優しそうな人だ……でも、なんだろう。私には……) 校訓を述べ、次いで学院の成り立ちを話すダリア教諭を見ていると、ざわとした胸騒ぎを覚えた。 一体……。 何か……嫌な思い出が浮かびそうな予感がした私は、ダリア教諭から目を逸らし代わりに前に立つ生徒の背を見詰めた。 目の前には紺色のドレスのような制服。 華奢で清楚なこの学院の制服は私も気に入っている。ほっそりとした線の細い身体を見詰めていると、 (あら、これって……) 肩で切り揃えられた栗色の髪に、桜の花びらが付いているのが目にとまり思わず手を伸ばしかけてしまった。 (……いけない) つい反射的に取ろうとしてしまったけれど……。 相手に失礼だわ、そう思った。 いや、でも……。 (引っ込み思案で誰とも触れ合わない生活から抜け出すために、祖父の家を出たんじゃないの……) 幼い頃から学校にほとんど通わず自宅内学習で済ませていた私は、当然友人と呼べる者はいなかった。 だから祖父も心配してアミティエ制度のあるこの学院に通わせることにしたのだ……。$それに、 (これって親切よね?) 人間関係が希薄な私には断言できないけれど、趣味で見ていたたくさんの映画や、小説の中では、思いやれる主人公には友人ができていた。 なら、 取ってあげた方が良い いや逆に失礼に当たらないか (やっぱり取ってあげた方がいいよね) 何千本と視た映画の主人公たちに後押しされ、そっと気付かれないように目の前にある栗色の髪へと手を伸ばす。 私の指が艶やかな髪に近付くと、どきどきと胸が鳴ってしまう。 心臓の音で気付かれやしないかと背中に汗を感じながらも……。 一度決めたことだと己を奮い立たせ、そっと――髪についた花びらを摘む。 (やったわ!) 無事達成したことについ声をあげそうになる。と、 「あの……」 か細いながらも私に呼び掛けられた声音にどきりと身が竦んだ。 「貴女は……」 文字通り硬直してしまった私は、 身体を少しだけ振り向かせた彼女を視て―― ――昨日の桜の人だ、 と、乱れ咲いていた桜の木の下で抱き合ってしまったことを思い出し、瞬間的に頬が、いえ、耳まで熱く染まっていく。 「……貴女は昨日の……白羽さんだったかな?$何を……」 怪訝な目で私を見遣ると、次いでまだ私が指で摘んでいた桜の花びらを見た。 「……ああ。花びらを取ってくれてたんだね。有り難う」 誤解を解こうと喉元まで出掛かった言葉を飲み、再び固まってしまった。 にこりと笑んだ表情がとても綺麗で朗らかで、私が友人にしたいと願っていた雰囲気そのものだから。 「……どうしたんだい? 何か、その……驚かせてしまったようだけれど」 「あ、いえ! そんなこと……ないです」 「そう。なら良かった」 髪に手をかけくすりと笑む彼女。 癖なのだろうか、髪を弄る仕草に私は何故だか胸をぎゅっと締め付けられながら、彼女の笑みから目を外せないでいた。 (……でもこれって不躾じゃないかしら) 手を伸ばしかけたまま、はたとそう思い至り止めてしまう。 (親切とはいえ許可を取らずに髪に触れるだなんて、友人というよりも家族の領分のような気もするし……) 知らない人から髪を触られたら嫌な気分がするかもしれないかも、と考えてみる。 私は親切にされたら嬉しいけれど、でも……ずっと身内以外の人と触れ合っていない感覚だし、自分が正解だとは言いきれない。 なら……。 「……あの」 「え、ぁ……!」 手を伸ばしかけ考えに耽っていた私。 そんな私へ、栗色の髪の生徒は振り返り私へと怪訝な目を向けていた。いや、 「……桜の人」 昨日の夜、私が粗相を働いてしまった人だ。$名前は確か、 「……うん? 貴女は確か昨日の……白羽さんだったね。何を……」 言い、癖だろうか髪を弄び始めると――髪に付いていた花びらがはらりと舞った。 床に落ちた桜色の花びらを見付けると、ああ、と得心し頷いて見せる。 「……花びらがついていたのを取ってくれようとしたんだね。有り難う」 目を細め快活に笑む彼女を見て、私は何故だか胸がぎゅっと詰まる思いがした。 一体……。 「気を遣って貰って悪いね。昨日も挨拶したけれど、もう一度。私の名前は匂坂マユリ」 「貴女は白羽蘇芳さんだったね。間違っていないよね?」 「え、ええ。はい」 「そうか。良かった。人の名前を覚えるのが苦手で、間違えたかと思ったよ」 「白羽さんって呼び掛けてから、ずっと困った顔をしていたからね」 「ぇ、嘘……」 ペタペタと顔を触ってみせる私に、マユリさんは吹き出しそうになり慌てて手で口を塞いだ。 「ぁ、な、何ですか?」 「ごめん。知的で少し冷たい感じのする美人だなと思っていたけど、随分子供らしい真似をするんだなって思って。ふふ、本当にごめんね」 まだ顔を触っていた私は、恥ずかしさから額に汗をかきつつも、そろそろと手を下ろした。 そのさまを見て、マユリさんはまたごめんと謝る。 私も慌てて、胸の前でいえいえと手を振った。と、 「ぁ……」 マユリさんが眉根を曇らせたのを見て私は彼女の視線の先を見た。と、 「……少し内緒話が過ぎるんじゃありません?」 マユリさんの隣に座っている生徒が、横顔だけを向けこちらへ非難じみた視線を送っていた。 「……今はシスターの訓話をお話している最中よ。お喋りは控えて」 「す、すみません……」 抑えた声で言う生徒……あれ、彼女は……。 「昨日の……!」 軽やかに結ってある髪、生真面目そうな縁取りメガネの彼女を見て……。 昨夜、学院へ向かう途中怒らせた人だと気付き、私はもう一度頭を下げた。 「ぁ、そ、そんなに……」 「そう何度も頭を下げなくてもいい。白羽さんは悪いことをしていた訳じゃないからね」 「……開き直るの」 眼鏡の奥のまなじりが強くなっているのを感じ、私は……。 黙り込んでしまった 自分から話しかけたのだと言う 誤解を解こうとした。でも、 「……っ」 静かに怒っている姿が――過去のあの情景を思い出させてしまう。 もう何年も前のことだというのに。まだ、私は、 「……そう目くじらをたてないで欲しいな。ほら白羽さんが怯えているじゃないか」 「ぅ、わたしは、その……」 一転、オロオロとした彼女はおさげを揺らし、私に向かい済まなそうに小さく頭を下げた。 「……ご免なさい。そんなに強く言うつもりはなかったの」 「いえ……」 「そうそう。素直なことは美徳だよ」 「……貴女ねぇ」 強いまなじりにあの時の情景が浮かび、怯んでしまいそうになるけど……。 (ここは私が誤解を解かないと……!) せっかく気遣ってくれたマユリさんの思いを無下にしてしまう。 「開き直るとか、そういう事じゃないんだけどな」 「貴女……」 「あ、あの!」 「ぇ、な、なに?」 「マユ……匂坂さんは悪くないんです。私から声をかけて……だからうるさくしてしまったのは私で……」 「そ、そう……」 言い掛けた言葉を飲み込んだ風の彼女へ、私はもう一度腰を折って謝る。 「今日のこともそうだけど、昨日はごめんなさい。いきなり話しかけられたから驚いて、その……つい逃げてしまって……」 「え、逃げてって……。あっ!」 「あ、ちょっと……」 「貴女、昨日の……! ぁ、ぅ、わたし、いきなり走って行ってしまったから、何か気に障ることしたんじゃないかと思ってたの。貴女……」 「白羽蘇芳です……」 「そう、昨日はわたしだけ名乗って……」 「ちょっと、まずいって……」 そうだ。彼女は怖がらせないように名乗ってくれて……。 「ぁ……その、ええと……はな、はな……」 「そう。はな?」 「花……さん?」 「ち・が・い・ま・す! 花菱立花です! 忘れてしまったのぉ!?」 名前を間違えると白い頬がさっと赤く染まり、立花さんは名前を噛んで含めるように言い放った。 私は忘れないようにちゃんと覚えます、と言うとようやくおさまったのだけど、その彼女の袖をひく手があった。 「え、なによ?」 「何じゃなくて、ほら……」 「あ……」 額を手で押さえ、小さく指で指し示した方向へ、立花さんと私は目を向けると―― 促された指先の方向、視線は壇上へと到達する。 そこには、超然とした微笑みをこぼし此方をじっと見詰めるシスターの姿があったのだ。 「あ、わ、わたしは注意して……」 「“お三方”お静かに願いますわね」 聖堂での恥ずかしい一幕を何とかやり過ごし―― 俯いたまま一路学院校舎へと向かい、無事に教室へと辿り着いたのだけど、 「中は普通の学校と変わらないのね……」 教室内をぐるりと見渡し私はそう思った。 (……以前通っていた学校とそう変わらないみたい) 教室の間取りは通常の学校のものと変わらず、少しだけ拍子抜けしてしまった。 いや、でも、 「この机と椅子、すごい年季よね……」 教室内の作りは“木”をテーマにして作られているのか、ドアの取っ手や、机の足――。 黒板の縁など普通金属が使われている場所にも、“木”を使っており、暖かな温もりや優しさが感じられた。 湿度の高いこの国では、適度に湿気を吸ってくれる木材を使う方が何より効率が良いのだろう。 「ふふ、こんなところに傷……」 机には、かつて使っていた人の残り香のように小さな傷が残っていた。 その傷に、まだまともに通えていた頃の……。一年だけ通った学校生活を思い出し懐かしさが込みあげてくる。 (今になって思えば嫌な思い出ばかりじゃないのかも……) 机に残った斜線の傷を指先でなぞっていると、 「楽しそうだね」 と、不意に呼び掛けられた。 「え?」 声を掛けられ、自分だよね、とおそるおそる前を向くと―― 「わぁ……!」 前の席の生徒……呼び掛けてきた相手は、何故だかひどく驚いているようだった。 「あ、あの、何か?」 「え、ああ、ごめん。何だか楽しそうだったからつい話しかけたんだけど……。すごい美人さんだったから、驚いちゃったんだ」 美人と、はな――花菱立花さんに続いて言われ、瞬間的に顔中が赤く染まるのが分かる。 (また社交辞令!?) 言われ慣れていない言葉に、いえいえそんなことないです、と頬を染めたまま胸の前で手を振る。 「ええ? 謙遜だなぁ。同じ一年生ってことは同い年なんでしょう?」 「同い年でお姉さんみたいな落ち着いた美人、ちょっと見ないと思うけどな」 (ぅぅ……落ち着いてるって……年を取って見えるってこと?) 祖父にも、年齢より老けて見えると言われたことがあった私は、いまだ熱い頬を、額をぺたぺたと触る。と、 「こっちも……負けてるなぁ」 彼女は何故だか制服の上から自分の胸を触っていた。 リボンでもほどけ掛かっているのかしら、と怪訝に見詰めた。と、 「あ、ごめん。名乗らないとかダメダメだよね。私の名前は〈沙〉《さ》〈沙〉《さ》〈貴〉《き》〈苺〉《いちご》。ササキは少し難しい字だけど、苺は、苺だよ!」 机から筆入れを取り出し、自分の手の平に名前を書くと、私に突きだして見せた。 「沙沙貴……苺さん」 にこりと無邪気に微笑む姿が眩しくて目を細めてしまう。華奢で屈託なく、髪を結っている姿も愛らしい。 よくよく見ると右の目の下に、ほくろが二つ並んでいるさまも幼さを感じるポイントだ。 (苺さんになら、落ち着いているって言われても佳いのかしら) つい失礼なことを考えていると、苺さんは突きだした手を子ぶたさんのようにすると、器用に何度も閉じたり開いたりをしてみせた。 「それでお姉さんの名前はなんて言うのかな?」 「あ、ご、ごめんなさい。名乗るのが遅れてしまって。私の名前は白羽蘇芳です」 「しらはね、すおう?」 小首をちょこんと傾げ尋ね返す苺さんに、私も手の平に自分の名を書いて見せた。 「へぇ! 蘇芳ってこういう字を書くんだ。難しいね。あ、ちょっといい?」 「え、何……きゃ!」 名前を書いた手を掴まれ、動揺から恥ずかしい声をあげてしまった。 先生の到着を待つクラスメイトの何人かが私たちを見、顔から火が出る思いをする。 「あ、あの、苺さん。何を……」 「せっかくの紹介だから林檎にも教えてあげようと思って。$あ! ほら林檎また寝ちゃダメだって!」 苺さんは私の手を持ったまま、眠っている前の席のクラスメイトの背をバンバンと容赦なく叩いた。 手首を握られて恥ずかしいよりも、叩かれている生徒が怒らないかとひやひやしてしまう。 「ほらほら、早く起きる!」 「……ぅぅん。分かった。分かったよぅ」 「うんうん。分かれば……って、ちょっと!」 睡魔に負け、ゆっくりと机にしなだれかかる生徒の背を再び手の平で叩いた。 「……ぅぅ……ふわぁ……分かったから、お姉ちゃん……」 気怠そうに頭を振り、振り返ったその子は―― 「……同じ顔」 「そう! 双子の妹なの。ほら、挨拶」 「……沙沙貴、〈林檎〉《りんご》です。ええとササキは、」 「もう説明したよ」 「……そう。それじゃ名前の林檎は、林檎ですよ」 おそらく姉の名前から食べる林檎の方だろうと、うんうんと頷く。 と、再びぐいと手を引っ張られ、 「で、こちらが白羽蘇芳ちゃん。蘇芳ちゃんでいいよね? 難しい字だからちゃんと覚えてあげてね」 「……うん。分かったぁ」 まだ眠り足りないのか寝ぼけ眼をこらし、席を立つとずいと私の手の平に顔を近づけてくる。 頬が熱くなるのを感じながらも、注意が逸れていることを幸いと、私は林檎さんの顔を盗み見た。 ――苺さんと変わらない華奢な身体付き、 双子だからか顔の造詣は変わらないけれど、どちらかというと苺さんよりも穏やかな顔付きのような気がする。 意図してお姉さんと分けているのか、髪をしばってはおらず、代わりに可愛らしいお花の髪留めをしていた。 苺さんは活発で無邪気な人柄なら、林檎さんはどこかつかみ所がないけれど、穏やかで優しそうな感じがする。 それと、 「林檎さんは一つ……」 「うん? ああ、ホクロのこと? 初心者的には簡単な見分け方の一つだね」 もう一つの特徴である髪を揺らしながら、目の下に二つ並んだほくろを指差す。 「一つの方が妹の林檎。二つの方が私って覚えておいて。寝起きとか、お風呂に入ってるときは流石に髪は結ってないしね」 なるほど、と頷く私へ林檎さんもこくりと頷くと、ゆっくりとした足取りで自分の席へと戻った。 「これから席も近いんだし、よろしくね!」 「よろしく」 「は、はい! 私の方こそ、ご指導ご鞭撻のほどお願いします!」 この学院に来て初めて“よろしく”と言われ、お腹の底からぐぐっと熱がせり上がるような昂奮を覚えた。 (もしかして友達第一号が作れるんじゃない!?) 「ふわぁ……苺ねぇ、ごべんたつってなぁに?」 「ううん。わからないけど、多分蘇芳ちゃんの元いた学校で流行った挨拶とかじゃない? いっとき流行ったおっはーみたいな」 「なるほど」 「あ、あの! 沙沙貴さんにお願いがあるのですけど!」 「なに?」 「わ、私と……」 ここまで来たら勢いだ。 「私と……」 「うん?」 「と、友達になってくれないでしょうか……」 「ともだち? ともだちね、う〜ん……」 尻すぼみな声になってしまい耳に届いていないかもと思ったけど……。 しっかり聞こえていた苺さんは腕を組み、ううんと唸ってみせた。 (悩むってことは……) 「う〜ん。ごめんね。考えてみたけど、ともだちって……ねぇ?」 「……もっとたくさんお喋りしてからだと思う」 「ああ、別に蘇芳ちゃんが気に入らないってことじゃないんだ。すごい美人さんだし。こっちから頼みたいくらいなんだけど……」 「でも“ともだちだよね”って口に出してから、ともだちになるのって、本当のともだちじゃないっていうか……」 ――やっぱり私じゃ無理なんだ。 (そうよね……映画のように上手くいくわけないわ……) 「……登校していた一年で思い知らされていたことじゃない」 「うん? なに? どうしたの蘇芳ちゃん」 「……もしかして眠っちゃってるのかも」 「林檎じゃないんだから目を開けたまま眠るわけないでしょ。す・お・うちゃん?」 「……はい。何ですか?」 手の平で頭を軽く叩かれ、私は自分を取り戻した。 心配そうに覗き込む苺さんに気付かれないように、小さなため息をつく。 「急にぼうっとするからびっくりしたよ。あ、それより蘇芳ちゃんに聞きたいことがあるんだけどいいかな?」 「私に……ですか?」 「うん。蘇芳ちゃんのお家って、やっぱりキリスト教なの?」 え、どういう……。 (……いいえ、質問の内容よりも) 苺さんの質問にどう答えるべきか。いや、どう答えた方がベターなのかが重要な気がする。 気に入りそうな受け答えをしよう 素直に話すべき (やっぱりって……言ったからには期待されているのよね?) なら、嘘でも基督教だと言った方がいいのかも知れない。 「わ、私……」 「やっぱりって言い方はおかしいと思う。うちも違うんだし」 「え、ああそうか……」 「確かに見た感じだとそんな気もするけれど……」 林檎さんの気怠そうな目に、私は何故だか嘘をついてはいけない気がして―― 「……生家は仏教だと思います」 と答えた。 「そうなんだ! 逆に良かったよ。ほら入学式の時に上級生が聖歌を歌ってたでしょ?」 「だから全然知らない私たちはマズイんじゃないかって思ったんだ。私と林檎だけで歌う練習とかするのって恥ずかしいし」 「そうだったんですか……」 合点がいきほっと胸を撫で下ろす。苺さんの言い分なら基督教徒でない方が良いのだろうし。 「それでさ――」 ……いえ、素直に話すべき、と良心が勝る。 「うちは……その、普通に仏教だと思うけど……」 仏間には仏壇もあったし。 「ええ、そうなんだ! こういう学校に来る人はみんなキリスト教の人なんだと思ってたよ。ねぇ林檎?」 「うん。入学式でみんな聖歌うたっていたですしねぇ」 「そうそう。あの時マズイって思ったんだ! 私たちも歌わなくちゃいけないのかなって。でも全然知らないしさぁ」 「それで……」 尋ねてきた意味がわかり得心がいった。 確かに私も、ミッションスクールなのだから皆基督教徒なのだろう、と漫然と思っていた。 「蘇芳ちゃんも違うなら、みんなそうだから入ったってわけじゃないのかなぁ」 「どうなのでしょう……」 三人しか取れていない統計だ。はっきりと言えず口篭もる。と、 扉が開く音が聞こえ春の穏やかな空気が動き、修道服に身を包んだ女性が教壇へと登る。 待ち人であるバスキア教諭だ。 「お待たせしました。先ほど聖堂で挨拶をすませましたが、ダリア=バスキアと申します」 「貴女方の教諭として一年間共に学ばせて頂きます。よろしくお願いいたしますね」 お腹の前で手を組み綺麗な姿勢で礼をされ、私もクラスの皆も深々と頭を下げた。 (すごいな) 聖堂ではどことなく苦手な印象を受けたけれど、バスキア教諭が現れ、ただ礼をしただけで暖かでありながらも清涼な空気が張り詰めた。 これが本物の聖職者なのか、と感心してしまう。 「それでは何から説明致しましょうか……。先ずは……ああ、そう、そうでした。初めは自己紹介から始めましょう」 一転にこりと笑み、教室内は緩んだ空気になる。教室の方々からくすりと笑い声が起こる。 「それでは席順に自己紹介して貰おうかしら」 最初に指示された窓際の生徒が立ち、名前を名乗る。 そして、 「はい、後はご趣味と、みなさんに簡単な一言をどうぞ」 促され、女生徒は音楽鑑賞と好きな歌手を言い、これからよろしくと無難にまとめた。 「はい。それでは拍手」 ……そうだ。失念していた。 (自己紹介があったんだわ!) アミティエのことしか頭になかった私は、目の前の一大イベントに硬直してしまう。 「……あの失敗を繰り返してはいけない」 転校初日の自己紹介で噛んでしまった思い出。思えば上手くいかなくなったのはあれからなのだ。 (名前……趣味……一言……挨拶……ううん……どう言えば……) 名前はともかく、趣味はどう言えばいいだろう。 小説や映画が好きだけど、素直に言って暗い子だって思われないかしら? それに挨拶……これは無難な方が……。 頭を悩ませていると聞き知った声にはっと顔をあげる。 「ふわぁ……! 沙沙貴林檎だよ。好きなことは美味しいもの。特技は泳ぐことかなぁ。よろしくです」 (ええ、嘘……!) 気が付けば自己紹介は二つ前の林檎さんまで終わっていた。私は呆然として―― 「沙沙貴苺です。林檎とは双子で私は姉のほうなんだ。趣味はカエルの置物集めだよ。特技は林檎と一緒かな。よろしくね!」 苺さんが挨拶を終え、バスキア教諭に促され席に座るのを見て、混乱した頭で私は―― 無難に挨拶をしよう 初めが肝心 そつなくこなせばいい、 (まだ最初だもの無難でいいじゃない) 私はそう決め、バスキア教諭に促され胸の高鳴りを抑え椅子から腰を上げた。 「わ、私は白羽蘇芳です。$趣味は映画鑑賞で、その、よろしく――」 上手くいってる。これなら、 「お願いしましゅ!」 やって、 (やってしまった……!) 最後の最後で噛んでしまった私は、顔を青ざめさせながら、おそるおそる教室内を見渡す。 (あれ?) 誰も……苺さんでさえも笑っていない。 これは、これで……。 「はい。それでは次の方」 ――流されるのも辛いものが。 初めに受ける印象は重要なのだと聞いたことがある。 (クラスの皆に、私のことを知って貰う良い機会だわ) バスキア教諭に促され席から立つ。 一呼吸し、気持ちを落ち着ける。私が皆に知って貰いたいことは―― 「白羽蘇芳です。趣味は小説と映画鑑賞です。小説は恋愛ものから歴史もの、推理小説と、どんなジャンルも好きで読み込みます」 「映画も同様ですが最近はまっているのはホラー映画で、大体のものは観ています。特にお気に入りのジャンルはゾンビ映画で――」 「初期のゆっくり歩くゾンビの方が愛らしいと思います。最近のものは駆け足で追ってきますが、あれは趣がなくて――」 「あの、白羽さん」 「はい?」 「簡単な紹介でよろしいので、あとはご挨拶を」 「は、はい……」 発熱していた頬に手を当て周りを見渡すと、 (一人も笑っていない) 自分の予想では微笑ましく笑って貰える筈だったのに。 「よ、よろしくお願いいたします……」 ――私が恥ずかしさに頭を抱えている間も自己紹介は進み、知っている顔も紹介された。 まずは、匂坂マユリさん。 「匂坂マユリです。$趣味はお菓子作りと絵を描くことかな。これからよろしく」 さっぱりとした自己紹介に幾人かの親密な視線が集まった。その中には当然私も含まれたけども。 そして、花菱立花さん。 「花菱立花です。$趣味は紅茶の茶葉集めです。淹れるのも勉強中です。皆さんよろしくお願いします」 彼女らしく生真面目な挨拶。趣味が紅茶の茶葉集めということも女の子らしくて素敵だ。 しかし、 「あら? 花菱さんは先ほど聖堂で話された方ですわよね?」 「っく……!」 悪意のない言葉に詰まる立花さん。でも、 「花菱さんは入試試験で一番の成績を残されたのですよ」 「後で決めようと思っていましたけど、せっかくの機会だから、花菱さんに級長を頼めないかしら」 立花さんが優秀だとの言葉と、級長を任せる云々の事柄で差し引きゼロになったようだ。 頬を染めながらも請け負った彼女は、誇るように胸を張っていたことだし。 「さて、自己紹介も済んだことですし。簡単な授業内容を説明しますね」 バスキア教諭はプリントを回し学院の日程の説明を始める。 ――まずは五教科の説明。 これはミッションスクールでも変わらないようだ。 「それと我が校としての生徒として恥じることがないよう、礼法の授業も御座います」 プリントには只項目の一つとして“礼法”としか書かれておらず首を捻ってしまう。 「礼法とは立ち居振る舞いにおける正しい作法を覚えるものです。歩き方から座礼。正しいお食事の取り方。着つけの仕方などですね」 着付けという和の要素が出たことに驚いたが、郷に入れば何とやらなのだろう。 「ダリア先生。質問なんですけど、この聖書の時間っていうのは、聖書を読む時間なんですか?」 言ったままの質問になっていることに、くすりと笑い声が起こる。 「実は私も聞きたかったんです。実家がカトリックでないので、ぴんとこなくて」 「そうですね。聖書の授業と言われても分かりづらいですよねぇ」 「この授業は入学前に購入された聖書を字引に基督教について学んでゆきます。一年生時は理念や創世記など始まりの部分を」 「難しそうですね」 「いえ。ただ教義を覚える作業というわけではありません。聖書をただ読むでなく、教義を踏まえた上で現実での悲劇とどう対処するか」 「難病に苦しむ方との対話をどうすべきかなど、ディスカッションする場でもあります」 「道徳の時間に近いということですか?」 「考える力や他人の意見を聞く方法を学ぶ場として捉えても結構です。他には聖歌やお祈りの言葉なども、その時間に習得して貰います」 「……良かった。教えてもらえるみたいだね」 「……ええ」 聖歌とお祈りの言葉などをまったく知らない私たちは胸を撫で下ろした。 「他に授業で言うべき所は……ああ、はいはい。ありました」 「この体育となっている授業時間ですが、この学院では体育の授業はすべてバレエの練習となります」 「バレエ?」 つい言葉が出てしまい慌てて周りを見たけど……良かった。皆疑問符は同じらしく、バスキア教諭を見詰めている。 「バレエと一言で言いましても、クラシック・モダン・創作ダンスと分けられますが、授業で学ぶのはクラシックのみです」 「この授業も学院生徒たる気品、そして芸術性を磨くためのものです」 バレエ……。 ついレオタードとトゥシューズを履いた自分を想像してしまい慌てて打ち消した。 「こんな大女じゃきっと似合わないわ……」 バレエのレオタードは女の子の憧れだけど。 「……ねぇ、蘇芳ちゃん」 「……なに?」 「……私ってバレエの服、似合うと思う?」 不意の問いに、 女性なら誰でも似合う 苺さんなら似合う 「じょ……女性なら誰でも似合うんじゃないかな」 と答えた。 「女の子ならって……そうかなぁ」 無難な言葉を言おうとして意味のないことを言ってしまった。 「映画とかでしか見たことないけど、思い切り身体のラインが出そうだし。太っている子とかキツそうじゃない?」 「そうかも知れないね」 「あと身体が硬い子は大変そうだなぁ。私は意外と柔らかいから大丈夫かもだけど」 私は上背が高くそれに比例し……体重も重めなこと。 そして身体が硬く、屈伸がろくに出来ないことに胸を掴まれる思いだった。 「後でレオタードの寸法合わせするのかな。楽しみだね蘇芳ちゃん」 「苺さんならきっと似合うんじゃないかな」 「ほんと? そう思う?」 「ええ。体型とか顔立ちとか、やっている雰囲気があるというか……」 すぐにでも妄想できるほどだ。 「……ならわたしも似合うってことですね」 小声ながらもこちらを向きVサインをする林檎さんへ、私はこくこくと頷いた。 「初めは大変かなって思ったけど、バレエの授業楽しみだね蘇芳ちゃん」 ――大まかな授業内容を終え、これで説明は終わりです、とバスキア教諭が告げた。 「学院規則や授業の……ということですが、寮についてはまた後でしましょう。いっぺんに話しても頭に入ってこないでしょうし」 人好きのする笑みをこぼし言うバスキア教諭だが、私にはどうしても外せない質問がある。それは、 「ダリア先生。アミティエのことはいいんですか。初めに決める事柄だと思ったのですけど」 そう――アミティエの事だ。 私と同じ心持ちなのだと、アミティエ同士になるなら、やっぱりマユリさんが良いと強く思った。 「ええ。最後の結びで言おうと思ったの。$アミティエ試験はこれから行います。テストが終わった後――」 「本日からアミティエ制度を行って貰います。慣れるためには早いほうがいいですものねぇ」 「今日から……」 では、次の時間はアミティエ試験を行います。この場で待機してくださいと言われ―― 私は、 「――頑張ろう」 皆に見えないように小さく拳を握ったのだった。 あと何分ですかと問う立花さんへ、急がずにゆっくりと解きなさいとバスキア教諭が言った。 「皆さんの鉛筆が止まりましたら終わりにしますから」 と結んだのだ。 (急がないわけないじゃない……!) 鉛筆がさらさらと走る音に急かされ、焦らされ、答案用紙に向き合う。 つまり一番長考した生徒はクラスの皆を待たせてしまうということだ。 (急がなくちゃとは思うけれど) 全百五十問に及ぶテストは己自身を問う問題が多く、瞬間的に答えようと思えば答えられるけれど……。 【子供の頃すぐに文句をいわず言いつけを必ず守った】 はい いいえ どちらでもない 考えず答えてしまったら、自分が望んでない人と―― 気が合わない人とアミティエ同士になってしまう気がする。 (それは嫌だ……) 【空想に耽るのが好きだ】 はい いいえ どちらでもない 急ぎたいのに急げない。宙ぶらりんな状態に煩悶しつつ鉛筆を走らせる。 【行儀作法は気にしない方だ】 はい いいえ どちらでもない (ええと……) 行儀が良いと言われてたっけ……と思い出しつつ、鉛筆を動かす。 自分がどう感じていようとも、他人が評価してくれなければ意味がないからだ。 【異性の格好をしてみたいと思う。又はしたことがある】 はい いいえ どちらでもない おかしな質問に頭を捻りつつもマークシートを塗り潰す。 【神経科や精神病院で治療を受けたことがある】 はい いいえ どちらでもない この答えも困惑してしまう質問だけれど――共同生活をするのだし重要な事なのかもと考えた。 【今の自分は自分ではないと、奇妙な感情を持ったことがある】 はい いいえ どちらでもない 鉛筆を走らせる刹那、不意に―― 不意に、胸の奥に疼痛を感じた。 切ないような、恐ろしいような、おかしな感覚だ。 だけれど、 (――今は、早く終わらせないと) 寄った眉間を鉛筆で揉むと、私は残りのテスト問題へと向かった。 長い問いを答え終わり、最後の設問にあった―― “どんな友人を望むか”を書き終えた私は、ようやく一息つき、こっそりとクラスを見回した。 (思ったより終わってなかったんだ) 最後になるのが恥ずかしいからと急いで書いたけれど、どうやら私は早く書き終わった方らしい。 鉛筆を走らせている音は、まだ其処ここで聞こえてくる。 ――なら、もう少し書き込もうかな。 最後の設問。 “どんな友人を望むか”の問いに細かく性格やら何やらを指定したけれど、 (まだ付け加えることはあるのよね) これからの三年間、ずっと付き合う相手だ。やり過ぎるということはない筈。 片手で紙を手に取ろうとすると、 解答用紙を落としてしまい慌てて屈む。と、 「どうぞ」 マユリさんがテストを床から拾い、私へと差し出した。 「あ……」 「白羽さん?」 瞬間的に顔……いや身体中が発熱し、彼女が隣の席にいることに、なぜ? 何で? と疑問符が頭の中で踊った。 (え? 匂坂さんはさっきまで他の席で……) 一度トイレに立って、自分の席に戻って……え、だって……。 (苺さんじゃない!) 目の前の背は小柄な彼女でなく、別人の背だ。 ――つまり、私がトイレにたっていた間に休憩になった? 帰ってきた時、皆座ってテストを待っていたから、慌てて自分の席に戻ったけど……。 「……勘違いしてたんだわ」 「白羽さん。これ」 「え、あ……!」 マユリさんが隣に座っている事実をようやく理解した私は、震える手を押さえ差し出してくれているテストを掴む。 (全然書いていない……!?) つい視線がマユリさんの机の上にとまり、彼女のテストを目にしてしまった。 「これじゃ私が必死過ぎじゃない……!」 「あの……」 困った声が聞こえ慌ててマユリさんを見ると、彼女とは対照的なびっしりと書いた私のテストを目にしていたのだ。 「ぅぅ……!」 恥ずかしさで沸騰しそうな私は、 謝ってテストを受け取る どんな友人が欲しいと書いたか尋ねる 「……すみません」 とにかく謝り受け取るしかなかった。 「ふふ、はい」 差し出された用紙を手に取る際に、微かにマユリさんの指に触れ、 「ぁ……」 つい声をあげてしまった。白魚のような指先はしなやかで柔らかく、何故だか耳まで熱くなってしまう。 「随分、詳しく書いているんだね」 「ぁ……はい……」 「あ、違うんだ。白羽さんは真面目だなって思ってね。確かにこれから付き合う人なんだから、もっと真剣にやらなくちゃ駄目だよね」 自分の書いた二三行の答えを鉛筆で差し、マユリさんは苦笑した。 「うん。もう少し考えて見よう。ありがとうね、白羽さん」 「あ、あの。匂坂さんはなんて書いたの……ですか?」 そう尋ねた。尋ねてしまったのだ。 「え、私? う〜ん……」 当然のごとく眉根をひそめるマユリさんへ、私はなんて馬鹿な質問をしたのだろうと、さっと血の気がひいてしまう。 「あ、あの……」 「ああ、ごめんごめん。悩む必要もないくらい当たり前のことしか書いてなかったから……」 自分の二三行ほど書いた最後の設問をペンで示して見せ、 「こんなに真面目に書いている人に聞かせるのが恥ずかしいかなって思って」 差し出していたテストを私の机に置き、苦笑いをしながら言った。 「ぁ……こんなにたくさん書いて、その……!」 「うん。優しい人がいいとか人当たりがいいだとか……」 「当たり前のことばかり書いてないで、もう少しちゃんと考えてみるよ。ありがとうね、白羽さん」 優しく微笑まれ私は、はい――とだけしか返事を返すことが出来なかった。 (良かった……のかな) 恥ずかしい思いはしたけれどマユリさんが喜んでくれたなら良い。 誤字を見直している振りをし、私は発熱を抑えようと答案用紙に顔を埋めた……。 “どんな人がいいとかって聞かれるのかな?” アミティエを決めるため最後に面接があるのだと聞かされた私は、順番を待つため廊下にて並べられた椅子に座っていた。 「……どんな人がいい、か」 先に面接に向かった苺さんが言った言葉を口にし、心の中でも反芻する。 「やっぱり私は……」 先程落としてしまったテストを拾ってくれたマユリさんを思い浮かべてしまう。 「優しくて、頼りになるマユリさんが……」 いや、 「頼りになる……なら、立花さんもそうだよね」 一番勉強が出来、級長を任された立花さんもアミティエになれるなら嬉しい。 私は―― 花菱立花さんが良いかも 匂坂マユリさんが良いかも 生真面目で、面倒見の良さそうな彼女の姿が思い浮かぶ。 「……初めて話しかけてくれたのが花菱さんだものね」 優しく微笑み掛けてくれた彼女の姿が浮かぶ。 暗夜の桜の下、笑いかけてくれた彼女が……。 ――白羽蘇芳さん、 バスキア教諭に呼ばれ 立ち上がった私は、 今度こそ一緒に行きましょう、と彼女は言った。 緊張し通しの面接が終わり、ぐったりと廊下で休んでいた私へと立花さんが声を掛けてくれたのだ。 再度の申し出に疲れていたこともあり、素直に受けることが出来た私は―― 上級生が待つという学舎外へ向かっていた。 「わぁ! すごく綺麗ね。教室へ向かう際も思ったけれど、こういう西洋建築の建物って憧れだわ。白羽さんもそう思わない?」 吹き抜けの高い天井を見上げ立花さんが言う。 天井の上部は四方を凝った意匠のステンドグラスで張られ、様々な彩りの陽光が降り注いでいる。 急ぎ教室に向かう際はじっくり見られなかった、広々としたエントランスを見渡し、私はすごく綺麗だと言って頷いた。 「わたしの家は旧家で昔ながらの書院造りだったから、こういう西洋風のところに住むのが夢だったの」 「ドミトリーも同じような造りで素敵だったし」 ドミトリー? と疑問符が顔に出ていたのだろう、立花さんは笑むと、 「寄宿舎のことをドミトリーって言うのよ。ミッションスクールに入学するのだから調べておいたの」 胸を張り得意げに言う立花さんについ笑んでしまった。 「ふふ、やっぱり子供っぽいと思うわよね。大人な白羽さんに話したのは失敗だったかしら」 「ぇ、ぁ、ごめ……」 「ウソウソ! 冗談よ。やっと笑ってくれたからつい嬉しくなっちゃって」 「昨日は勇気を出して話しかけたのに、逃げられちゃったから気にしていたの。何か失礼なことをしたんじゃないのかって」 「そんなこと……!」 「そう? なら良かった。でも、どうして走っていっちゃったの? わたしそれが気になって……」 年代を感じる階段の手摺りを指で弄びながら問う立花さんへ、私は―― 驚いてしまって 素直に告白 「お、」 「お?」 「驚いてしまって……」 そう切り返すことしか出来なかったのだ。立花さんは、何故だか胸に手を置き大きな吐息をついた。 「……そう。良かったぁ」 「はい?」 「え、ああ、違うの! ただ変な子だとか思われていたのかと思って……」 「そんなことないです。ただ、夜で……暗かったし……」 「そう。そうよね。暗がりで急に話しかけられたら、お化け、」 「花菱さん?」 「…………」 急に苦い物を飲んだように渋面を作ると、眉間をほぐすように指で揉んだ。 「……それはともかくとして失礼が無かったのなら良かったわ。それじゃ向かいましょうか」 どこへ、と問う私へ立花さんは待ち合わせの場所よ、と手の平を差し出した。 正直に話した方がいい。 何故だかそう思った私は、不安げな彼女へ口を開いた。 「実は……私とある理由で学校に通っていなかったの」 「そう、なの?」 「ええ。自宅内学習という制度で勉強はしていたのだけど、だから同年代の女の子と話すのは慣れていなくて……」 「それで……話しかけられた時、どうしていいか分からなくなって……」 ――そう。 立花さんはぽつりとそう言い、大きく頷くと深刻そうに顔を伏せた。私はやはり黙っておくべきだったのかと、後悔してしまう。 「良かったぁ……」 「え?」 それって……。 「あ、白羽さんをバカにしたのではなくて、嫌われたのじゃなくて良かったって思ったの!」 「暗がりで急に呼び掛けたのだから失礼だったって思ったし……」 「そんなこと……」 「うん。だから良かったって。白羽さんは学校に通っていなかったことを気にしているようだけど大丈夫よ!」 「この学院にはアミティエ制度もあるし、クラスメイト皆良い子ばかりだったじゃない? だから直ぐに仲良くなれるわ」 ――そう、なのかな? 「今もこうして仲良くお喋りしているしね」 人懐こい柔らかな笑みにほだされ小さく頷いてしまう。立花さんは手の平を私へと差し出し、 「それじゃ行きましょう」 と言った。 「……これからどうしようかな」 人気のない校舎を見上げ、長いため息をつく。 ――あの時、 誤解がとけ立花さんが差し出した手には、先の面接終わりにて渡された番号札があった。 上級生が新しく入った新入生を案内するため、学舎の前で待っているから急ごうという意思表示だ。 自分の持つ番号と同じ番号札を胸に付けている先輩を見付け、立花さんとは別れたのだけれど……。 (あんな状況じゃ無理よ) 私を待つ上級生は――何故だかとても人気がある人のようで、周りに幾人もの生徒が取り囲み、彼女を中心に笑い合っていた。 まず、この時点で無理だ。 楽しく話している間に割って入る度胸はない。 (……それに途中から怒っていたし) 話が終わるまで待っていたのだけれど、なかなか来ない新入生に(私だけれど)彼女の周りの先輩たちは怒っているようだった。 待たされているのだから当然だけれど、ますます出て行けなくなった私は、ただじっと硬直していて―― 「……そして誰も居なくなった」 子供の頃に読んだ推理小説の名を言い、再度どうしたものかと考える。 「学院を案内して貰ってから教室に戻ってくる、だったわよね……」 教室に戻る時間は今から……1時間半。 さすがに一人で教室に居るのは嫌だ。 「……一人で見て回るしかないわよね」 時間を潰すために、私は校舎を見上げ、重い足取りで再び学舎へと歩き出した……。 うろうろと三十分ほど歩いただろうか、 ふいに、 ――白羽さん! と声をかけられ振り向いた。 「……ぁ」 廊下の奥から見知った顔が歩いてくるのが見えて、私は嬉しい気持ちが浮かび上がるのと反面、隠れてしまいたい気持ちにもなった。 (……一緒に行ったのだから分かっているわけだし……) 廊下から小走りで駆けてくる彼女へと頼りなく手を上げると、彼女――立花さんは笑顔で私の元へと駆け寄ったのだ。 「また会ったわね白羽さん!」 「え、ええ」 「ずいぶん早く案内が終わったのね。教室に戻るところかしら?」 早いと言うなら、そちらもそうじゃないのかしら―― 黙っていたことが疑問を雄弁に語っていたのか、立花さんは手をパンと合わせ、 「わたしの方は案内役の方が急な用事が入ったらしくてすぐに別れたの」 「恐縮されたのだけど、大体の間取りは入学前のパンフレットで分かっているし、分かりづらい部活棟の説明は受けたしね」 と、朗らかに言った。 「そう……なんだ」 蘇芳さんは? と口に出さないまでも小首を傾げ問われている。私は、 (……どうしよう。なんて言えば) 立花さんが言ったように私も急用で帰ったと言おう、そう考えた。 けど、 (また誤解させるのは嫌だな……) 昨日の――暗夜の時のように、また彼女を傷つけたくはない。 「じ、実は……」 「実は?」 「恥ずかしいのだけど……」 「白羽さん! こっちよ、こっち!」 「うわ……! は、花菱さん……!」 立花さんに手を引かれ、角部屋の教室の中へ。 「此処がレッスン室。バレエの授業に使われるそうよ」 鏡張りが印象的な一室へと案内され、私はそ、そう……と蚊の鳴くような声しか出すことができなかった。 「あら? どうしたの?」 (どうしたのって……!) ――上級生に話しかけることができず、途方に暮れとぼとぼと歩いていたのだと告白した私。 立花さんは嘲ることなく、 笑うでもなく、 「なら私が案内するわ!」 そう申し出てくれたのだ。それは嬉しい。涙が出るほどだ。 (でも……!) ――今の、この時の私には、繋がれた“手”が問題なのだ。 「あ、もしかして急ぎ過ぎて疲れちゃった?」 「い、いえ。そうじゃ……ないわ」 「そう。わたし嬉しくなるとつい夢中になっちゃう癖があって……」 「早足になってたのかなって思ったから。行き過ぎたところがあったら気にせずに言ってね?」 眼鏡の奥の優しげな瞳に見上げられ――なおさら汗をかいてしまう。 (まずい……まずいわ) 女の子同士なら当たり前のことなのかも知れないけれど……。 初めて同性の……同い年の子に手を握られ、発汗し、頬を染めぬようにするだけで精一杯なのだ。 「白羽さんはバレエをやったことがあるの?」 「いえ、やったことないです」 「そう。スタイルもいいし立ち振る舞いも背筋に芯が通っているように見えたから、もしかしたらと思っていたのだけど、違うのね」 お世辞に愛想笑いで返す私。案内する、と連れだってからこっち、ずっと手は繋いだままだ。 緊張しないでいようとすればする程、手のひらに汗が滲んでくる。 (大丈夫かしら、嫌だったりしないのかな?) 手を握っているのだから当然、吐息が届く距離だ。 私より背の低い彼女からは制服の襟元からだろうか、甘く柔らかな佳い匂いがする。 女性を感じるその香りに、私はなおさら発熱してしまう。 「学校でバレエを習うなんて不思議な気持ちだわ。クラスメートにレオタード姿を見られるわけだし」 屈託なく微笑む彼女の顔を見詰めて……私は眼鏡の奥のまつげが長く可愛らしいな、と見当違いのことを思っていた。 「ちょっと恥ずかしいわよね、白羽さん」 「え、ええ」 まともに話すことが出来ない。頬に熱を感じ顔を伏せると、 「日がよく当たるように作られてるのね。少し熱いわ。次はもう少し涼しげなところに行きましょう」 既に顔が赤くなっていることを知られていたのか、私は、 「……お願いします」 と、彼女の柔らかな手を意識しつつ、そう呟くしかなかった……。 ――次に彼女が案内してくれた場所は、 「わぁ……っ!」 目を奪われ、つい声を上げてしまう程の立派な図書室だったのだ。 「なかなかの蔵書よねぇ」 「すごい……」 少しかび臭い古書独特の匂い、本の傷みを軽減するために仄かに暗くした落ち着ける明度。 渋みがありながら重厚な木材で作られた本棚たち……。 私の理想の図書室が其処にある。 (本当に私が夢見た通りの図書室だわ……!) 私はまるで呼ばれたかのように中へと進み、本棚へと引き寄せられると、背表紙を指で撫でた。 (まるで映画の中の世界みたい……) いつか見た映画の中で同じくらい重厚な図書室を視、私もいつか行ってみたいものだと夢想していた。 それが……。 「……本当になるなんて」 「此処なら涼しいから良いかなって思ったのだけど……」 「……すごいわ」 「別の意味で良かったみたいね」 耳元で呼びかけられ夢から覚めた面持ちで振り向く。 立花さんはまるで玩具を見つけた子供のように私を見詰めていた。 「ぁ、つい夢中になって……」 「いいの。図書室を案内して正解みたいね。此処、なんていうか映画のセットみたいよね。雰囲気が出来すぎているというか……」 「私も……そう思ったわ」 「でしょ? でも案内してくれた上級生の話だとあんまり人気のない施設みたい。今時の本は置いてなくて古書ばかりらしいから」 「そうなんだ……」 撫でていた本を見やる。$背焼けし黄色くなった背表紙はどことなく寂しげに感じられた。 「お昼と放課後は解放されているそうだから、また来ましょう」 次の場所へと促す言葉に、後ろ髪が引かれる思いをした。けど、 (“また”来ようと言ってくれた) 今は……。 それだけでも充分に嬉しい。 「それじゃ次はわたしのお気に入りの場所を案内するわね。次の場所へ行きましょう白羽さん」 手を差し出され、私はようやく彼女の手を離していた事に気がついたのだった……。 ――彼女が言ったお気に入りの場所、 「調理室……?」 案内された部屋は今までの何処か時代を感じさせるものとは別の、近代的なキッチンが取り付けられた一室だった。 シンプルなタイル張りのシンク、二つ並んだガス調理器、清潔な収納にはきちんと行儀良く食器が並べられている。 キッチンがいくつも並ぶ中、立花さんは進み手を広げ、 「すごいでしょ!」 と言った。 「ここってクラブハウスが並んでいる場所よね?なら……」 「そう。此処もクラブの一つ、料理クラブよ」 確かに生徒皆の食事を作る場所というよりも……。 小さなキッチンがいくつも並んでいるさまは映画で見た料理教室のそれであり、確かに料理クラブと言われた方がしっくりとする。 「こんなに立派な設備があるなんて……」 「すごいわよね。これで正式な部ではないっていうんだから驚きよ」 「正式な部じゃない? それじゃこれって同好会なの?」 「ううん、同好会とは少し違うの。予算は出ているそうだし」 なら、部活とどう違うのだろうか? 「学院で公認されている正式な部は、合唱部、文芸部、天文部の三つだけなんですって」 「でもほかの生徒が学びたいって自発的に人を集めてクラブにしたものが、手芸クラブや美術クラブ。それにこの料理クラブなんですって」 彼女の言葉に得心し、ぐるりと見回した。生徒が自発的に始めたにしては本格的すぎる。 (さすがはお嬢様学校よね……) 得意げに胸を張る立花さんへ、私は料理好きなら確かに興奮するかも、と言った。 「え? わたし別に料理が得意だとか、好きだとかじゃないわよ?」 「はい?」 お気に入りの場所、と案内された筈。 狐につままれた気分になった私は顔にそう出ていたのだろう、違うの、と彼女は笑いぱたぱたと手を振った。 「わたしが気に入ったのはこっち」 キッチンから離れ壁際へ……調理器具などが置かれている棚へと歩んでゆく立花さん。私も連れられそばに行くと、 「どう。品が良いものばかり揃えていると思わない?」 「良いものって……」 棚にはまるで飾り付けられているかのように皿や、フォーク類、泡立て器、トングなど調理道具が置かれていた。 (確かに高そうではあるけれど) 皿や調理道具は鑑定眼がないため分からないが、フォークやナイフ類は鈍色に輝き銀細工のように見える。高価な品だ。 「……ええ。確かに細工や品質にこだわっているように見えるわね」 「そうでしょう。上級生に案内されていた時にはじっくり見られなかったから、もう一度見に来たかったの!」 「そうなんだ……」 十人十色とは言うが、食器集め? が趣味な人もいるのだなと感心した。 (こういうのはデザインだとか、使っている材質だとかで善し悪しがあるのかな?) 「ああ、やっぱりだわ。ちらっと見た時、そうだとは思ったけれど、まさかこんなに珍しい品が置いてあるなんて!」 「わたしも手に入れるのが大変だったのに……!」 「やっぱりこういうのって専門店で買われるの?」 「ええ。自分で比べて見て取り寄せるの。やっぱり品質が違うわ。匂いで分かるもの」 「――臭い?」 良い材質を使うと香りに表れるのだろうか? 嗅いだことはないけど、ステンレスのフォークと銀のフォークでは違うのかもしれない。 「ねぇ白羽さんならこの中でどれがお好み?」 「え……どれが……」 特別思い入れのある食器類はないけれど……。 「ええと……そう、ね。強いて言えば銀製のものを試してみたいかも……」 「銀?」 惚けたようにきょとんと小首を傾げるのを見て、銀細工の食器を選ぶのは“にわか”だったのかと恥ずかしくなった。 すると、ややあって立花さんは手を叩くと、 「ああ! シルバーで銘が書かれている缶のことね。ウヴァを選ぶなんて白羽さんも通なのね!」 ――乳母? いや、今、缶と……。 「ダージリンやアッサムみたいな王道を選んでいるのではないものね。ウヴァを選ぶところを見ると、ミルクティーが好みなのかしら」 「でも勿体ないのよね。ウヴァは綺麗な紅色なのにミルクを垂らしてしまうから……」 「……ダージリン?」 口に出してようやく―― 食器が置かれている棚の一段上、四角い缶が並んでいる事に気がついた私は、彼女が“紅茶”を論じているのだと理解した。 「食器マニアじゃなかったんだ……!」 「マニア……ふふ、そうね。そう言われるのは少し嬉しいかも」 にんまりと満悦の表情を作る立花さん。一方私は、勘違いしていたことに頬が熱くなっていたのだけど。 「でもさすがミッションスクールよね。専門店以外でこんなに種類が揃っているのを初めてみたわ。やっぱりお茶会とかあるのかしら」 「ぅぅ……そうね。あるのかも……」 いまだ勘違いしていた事実から立ち直れない私。 立花さんは茶葉の詰まった缶をきらきらとした瞳で見つめた後、パンと手を合わせた。 「そうだ! 同じクラスになった記念にクラス皆を誘ってお茶会を開いたらどうかしら!」 「家から茶葉をたくさん持ち込んだから、簡単な催しならできると思うし」 (お茶会か……) 小説赤毛のアンや映画マリーアントワネットでの場面が思い浮かぶ。 友人に囲まれてのお茶会は憧れだ。夢の光景と言ってもいい。 「……いいかも」 「でしょ! 良いアイデアだわ」 夢想する私へ、ねぇ、と耳元で呼びかけられ慌てて顔を上げた。すると、 「ぁ……!」 「白羽さん」 「ぁ、ぅ、なん……ですか?」 「お誘いしたら白羽さんも参加してくれる?」 再び彼女に手を握られ、私は―― 「――だめ?」 かっと首筋が発熱し、顔中に伝わるのを感じた。 立花さんの手に包まれている。そう意識しただけで、また汗が滲んできて―― (今度こそちゃんと伝えるのよ、私……!) 「……私で、良ければ……」 「本当っ!? 良かった。楽しいお茶会になりそうねっ」 弾んだ声音に私は何とか笑みを返すことが出来た。 (……可愛い) 小さく弾む彼女を見て、私に足りないのはこれなのだろうな、と思った。立花さんのように振る舞えば私にも友人が、 「これって……」 遠く、だがはっきりとした鐘の音が聞こえ、思わず天井を見上げた。 「確か終業のチャイムだわ。アミティエの選定が終わったのよ」 「アミティエが……」 沸き立っていた高ぶりは冷め、別種の昂ぶりが胸の奥をぎゅっと掴んだ。 「急ぎましょう。白羽さん」 差し出された手、 「……はい」 私は気恥ずかしさを追いやり、そっと彼女の手を取ったのだった……。 「――あら、白羽さんじゃないかしら?」 不意にそう呼びかけられ、私は声のした方へと振り向いた。 校舎を背に修道服を着た人が一人。 「やっぱりそうだわぁ。こんにちは、白羽さん」 いつの間にこんなにも側へと近づいていたのか、傍らに立つバスキア教諭は穏やかに笑んでいた。 「……はい」 なぜだかバスキア教諭だけに感じる、別種の苦手意識。それに……。 (……こんなところを見られたくなかった) 案内役の上級生に話しかけられず、とぼとぼと時間を潰している姿を見られたくなかった私は、力なくバスキア教諭へ挨拶を返した。 「もう施設の案内は済んだのかしら? ずいぶんと早いのねぇ」 「はい。要所だけを教えて貰いましたので……」 「そうなの。確かにクラブハウスの場所が分かり難いだけで、図書室やレッスン室は目に付きやすい場所にあるからすぐに分かるわよね」 「はい……」 時間を潰すにしても只ぶらつく訳にもいかず、学院内でこれから使うであろう場所は既に確認してきた。 (図書室にはもっと居たかったな) 仄暗く、古書独特の匂いする落ち着いた空間。 広々とした一室に天井近くまで本棚で埋まっている光景は私の思い描く理想の図書室だった。 でも、 「……他の子の案内を邪魔するのも悪かったし」 「うん? 何か言ったかしら?」 「いえ……」 図書室やレッスン室、他の多目的室も含め、当然ながら案内され見て回っているクラスメイトたちが居るのだ。 一人で見て回っている私が長々居座れる訳がない。 (もう行ってもいいのかしら?) 沈黙が横たわり―― 居心地の悪さについそう思ってしまう。 バスキア教諭は何故か困ったような表情で私を見詰めている。 沈黙に耐えきれず私が、それじゃと立ち去るを待っているのか。それなら、 「どう? この学院は気に入ったかしら」 「――はい。お花に囲まれた良い学院ですよね」 「ふふ。そうよね。私もお手入れをするのを手伝っているのよ」 そうなんですか、と頷く私。 「…………」 (ええと……) 再度訪れる沈黙。私は、 (そうだわ) 共通の話題で気になっていることを思い出した私は、にこにこと此方を窺うバスキア教諭へと尋ねた。 「あの……アミティエの選考はもう済んでいるのですか?」 「いいえ。そのことなのだけれど……」 「ぁ……」 (……こういうのって漏らしちゃいけない事柄じゃないの?) 少し考えれば分かることだ。話題選びに失敗し、沈んでいた私はため息をついてしまいたくなる。 「私は選考する係ではないから知らないの。でも、あと一時間くらいで済むんじゃないかしら」 「そうですか……」 「何か心配事があるようね?」 「いえ、そういう訳では……」 「そうね。当ててみましょうか? 白羽さんが心配しているのは……友達ができるか、どうか。違うかしら?」 そのものずばりを当てられ、 (――何で分かったのだろう) 呆気にとられた私は、得意げなバスキア教諭の顔を見詰めた。 「こう見えても教師であり、修道女よ。告解で人の悩みには精通しているの」 そうなんだ、と目を見開く私へ、しばし得意げな顔つきをしていたバスキア教諭だったが……。 「嘘よ、嘘」 と、破顔して見せた。 「ぇ、それって……」 「初めて遠く離れた地で一人暮らしをする女の子の心配事は大体決まっているの。それはこれからの生活のこと。特に初めての出会い……」 「白羽さんはアミティエの話を尋ねてきたでしょう。だから、友達が作れるかどうかを悩んでいるなって思ったの」 聞いてみれば単純な推察だ。私が好きな推理小説を紐解くほどでもない。 でも、 (分かり易い表情になっていたんだわ) 言葉だけでなく、表情からも察していたのだろう。沈んでいた自分を持ち直すために、皺が寄った眉間を指で揉んだ。 「ふふ。でも心配することはないわ。白羽さんは素直そうだし、美人だもの。きっと皆友達になりたがる筈よ」 ――また世辞だ。 辟易としてしまうが、顔に、言葉に出すとまた気を遣わせてしまう。 「ありがとうございます。バスキア教諭にそう言って貰えるなんて嬉しいです」 「ふふ、でも本当に綺麗よ。私はここに長く勤めているけれど――」 「白羽さんのような雰囲気を持った美人を受け持ったことがないわ。黒髪もすごく綺麗……」 (……嘘) 祖父が言ったカラスの濡れ羽色との言葉が頭から離れない。良い意味なのは知っている。 でも、重たい色の髪だと言われているようで嫌なのだ。 それに……。 「……バスキア教諭の方がお綺麗です」 「あ、あら。そう。ありがとう」 白い肌にさっと朱が染まり、バスキア教諭は前髪を恥ずかしそうに触れた。 ベールで包まれ前髪だけしか見えないけれど、癖のない金色の髪が見て取れる。ベールを脱いだ髪はそれは見事だろう。 (私の暗い髪とは大違いだわ……) 「白羽さん……?」 暗い顔を見せまいと努力してもやはり顔に出てしまったのか、バスキア教諭は気懸かりそうな表情で見詰めてきた。 (何か言わなくちゃ……) 気の利いた言葉を言って場を納めなければいけない。口を開こうとした私へ、 「そうだわ!」 修道服ごしにも大きいと分かる胸の前で手を合わせ、太陽のように笑った。 「早く案内が済んだのなら、これからお手伝いを頼めないかしら?」 「お手伝い、ですか?」 「そう。そんなに時間は取らせないから。駄目かしら?」 ――正直、苦手意識もあり噛みあわない相手だ。 でも、 「“鼠の気持ちではチーズしか得られない。大きい獲物を得ようとするなら狼の気持ちになれ”って台詞もあるし……」 私の好きな映画、“錨を上げて”を思い出す。小声で呟く私へと小首を傾げるバスキア教諭へ向かって、 「お手伝いします」 そう告げたのだった……。 ――鼠の気持ちではチーズしか得られない。 大きい獲物を得ようとするなら狼の気持ちになれ、そう思ってはいたけれど。 バスキア教諭に連れてこられた植物園。 ちょっとした体育館ほどもある植物園は全面がガラス張りで、360度、様々な緑に囲まれていた。 見たことのある観葉植物から、初めて見る奇妙な葉を持った草花。 亜熱帯を思わせる極彩色の花々までが咲き誇り、学院のパンフレットにもあった“植物園”との表記が何ら間違いではないと感じさせられた。 ――映画の言葉を引用してまで着いてきた甲斐があった。 更に、である。 「ああ、白羽さんも捕まったんだ」 手を土で汚しながらも笑いかけてくれた彼女を見つけた時、 「鼠じゃなく、狼だわ」 と呟いてしまった。 「何がオオカミだって?」 鉢植えを抱えたままできょとんとするマユリさん。 聞こえていた事に驚き、恥ずかしさから後ろに控えているバスキア教諭と彼女を交互に見やってしまう。 「まさか、ダリア先生が送りオオカミ……」 「何ですか、その面妖な言葉は?」 「ああ、冗談ですよ。ねぇ、白羽さん?」 にこりと笑みを送る彼女。私は慌て小首を傾げるバスキア教諭へ苦し紛れに言う。 「……あまりに見事な植物園だったので、神に祈りを捧げる言葉が出てしまって」 おお、神よ――とマユリさんが鉢植えを掲げおどける。 苦しい言い訳にも関わらず、バスキア教諭は納得してくれたのか、そうなのですかと私たちに向けて頷いた。 マユリさんは私へウインクをすると、掲げていた鉢植えをずらりと並べている列に置き、 「鉢植えの移動は済みましたけど、これで用向きは終わりですか?」 と言った。 「いえ、もう一仕事骨を折って貰いたいのです」 「骨をって……」 バスキア教諭が指さす先には、並べ置いた鉢植えと同じ数の大きな鉢植えがある。 私は、 (ああ、植え替えをやるのね) と、祖父の盆栽の手入れを手伝わされていた事からすぐに察しが付いた。 「え、もしかしてそこの新しい鉢植えに移し替えるんですか? 何の為に?」 「まさか前の鉢植えのデザインが気に入らないから、模様替え……とかじゃないですよね?」 「ふふ。そうじゃないの。匂坂さんに運んできて貰った鉢植え、底に根が出てしまっているでしょう?」 「それは根詰まりといって根が鉢いっぱいに広がって、底から出てきてしまったものなの」 「そうなってしまうと鉢の中の空気が少なくなって、酷くなると枯れてしまうのよ」 「へぇぇ、そうなんですか。空気が……」 置いた鉢植えを再び手に取り、物珍しげにしげしげと底を確かめるマユリさん。 (お花のお手入れとかしたことがないのかな) 柔らかで西洋風な外見だ。お花を育てるのが趣味なんて似合うのに。 「白羽さんは知っていた? 私、根詰まりとかって言葉初めて聞いたよ」 「え、ええ。聞いたことあるわ……」 「そうなんだ、大したものだね。でも白羽さんなら知っていてもおかしくないかも」 「バラ園とかで楚々としてガーデニングをしている雰囲気だし」 「そ、そうかな」 「そうそう。バラとか派手で綺麗な花が似合うよ」 (手伝っていたのは松とか梅とかの盆栽なのだけど……) マユリさんの想像と自分とのギャップに俯きそうになる私だけど、 「白羽さんはご自宅で植物を育てたことがあるのかしら?」 バスキア教諭に尋ねられ顔を上げると、はいと頷いた。 「春先は気温も最適ですし、根の生育が良い時期なので、この時期は祖父と一緒に植え替えのお手伝いをしていました」 「そう。詳しいようだし任せても大丈夫ね」 「え、あの任せるって……」 「必要な肥料はそちらにあるから、植え替えをお願いできるかしら」 バスキア教諭が指さすそこには肥料の詰まった大きな袋が重なり置かれていた。 いや、それよりも、 (二人きり!?) 「? やっぱり私も残って指導した方が良いかしら」 憧れのマユリさんと二人きりだと聞き、じわじわと首筋から赤くなってしまったけれど……。 おかしく取られないようにするため俯き、まぶたを一度ぎゅっとつぶり――水切れに弱い型の植物ではないですよね、と尋ねた。 「ええ特別、排水性のよい土を好むだとかではない植物だから、基本的な用土で大丈夫よ」 「専門用語ばかりで、ちんぷんかんぷんだ……。凄いな」 肥料に使ったことのある赤玉土を見つけた私は、感心するマユリさんを横目に任せてくださいと告げたのだった……。 「これでいいかな?」 「ええ。あ、でも根に付いている土はあまり払わずにそのまま植えた方がいいわ」 「そうなんだ」 軍手の甲でマユリさんは滲む汗を拭った。 (会話が続いているなんて進歩だわ……!) 必要事項だけとはいえ、同年代の女子と会話ができ、友人を作るのを至上の命題に掲げる私はつい笑みが零れそうになってしまった。 (昨夜、逃げ出したことを考えると頑張っているわよね) 自分自身を励まし、赤土玉が6、腐葉土が4になる割合で移し替えをする旨を再度伝える。 「了解。なんだか化学の実験みたいで楽しいね」 「そう……土いじりとか嫌じゃない? 手汚れるし……」 「別に平気かな。こういう作業好きなんだ。自分で作って、それが形になるとか楽しいよ」 「そう……」 思っていたよりも男の子らしい発想に、微笑ましく思ってしまう。今まで居なかったタイプだ。 「白羽さんはあんまり好きじゃない?」 「私は……」 祖父の手伝いはしていたけど、どうだろう……。 「……嫌いじゃないかも」 「そう。さっきも言ったけれど何かを作るってことが好きで、家では日曜大工の真似事とかしていたんだ」 「だからこの学院を見たとき、凄く興奮したよ。階段一つとっても意匠を凝らしていて格好いいよね」 「エントランスの階段も凝っていた、よね?」 「そうそう! ああいう昔を感じさせる建築物って感動するよ」 「実はエントランスの作りをもう一度見たかったから、上級生に頼んでよく使う施設だけ案内して貰ったんだ」 「それで早く戻って、階段や吹き抜けの作りを見ていたら……」 「バスキア教諭に頼まれた?」 「捕まったのさ。まぁ、こっちも興味があったから良かったんだけどね」 最後の植え替えをやり終え前髪をかき上げ、額を拭うと大きく伸びをした。 火照った白い喉がはっきりと見え、何故だかどきりとする。 「とりあえずこれで終わりだけど……どうする?ダリア先生を待っていようか」 特別待っているようにとは言われていないのだけど―― 「そろそろアミティエ選考も終わる頃だし、その、汗を拭きたいかなって……」 全面ガラス張りの温室は外気よりも暑く空気が籠もっている。講堂に行く前に汗を拭いていきたいと思った。 「確かにここ暑いしね。それに軍手で額を拭いていたから、前髪崩れてるかも」 軍手を外し、マユリさんは日の光を受け淡く輝いて見える前髪をつまんで見せた。私も慌てて髪に触れる。 「私、おかしく……ないですか?」 「全然。白羽さんの髪、太陽の光を受けると紫色っぽくなるんだね。いいな、凄く綺麗……」 「……私は、匂坂さんの髪の方が綺麗だと思うけど……」 世辞を言われ、本心を返す。 彼女はびっくりしたように目を大きく開くと、次いで照れたように頬をかいた。 「ありがとう。私、猫っ毛で色素が薄いから染めて見えるでしょ?」 「だからあんまり自分の髪が好きじゃなかったんだけど、ほめてくれて嬉しいよ」 少し俯きぽつぽつ言う彼女が愛らしく、私は、何も言うことが出来なかった。マユリさんは顔をあげ、 「それじゃレストルームに行こうか。髪型を直さなきゃだし。女の子だものね」 そう悪戯めいた顔で言う。私は、まだ声を失ったまま彼女の言葉に只頷いて応えた。 ――壇上を見詰めながら、私は既視感を覚えていた。 選考結果を告げる教諭を待ち、入学式と同じようにしわぶき一つせず待ち続ける新入生たち。 アミティエの発表を待つ中、こういう心持ちは初めてではないな、と感じていた。 (何時のことだろう) 期待とも、恐れともいえる感情をごちゃまぜにした心持ちに、私は以前同じように感じたことのある既視感の正体を探った。 (この学院に来る前の、少し前の記憶……) どうしても馴染めなかった学校での生活、 (違う。もっと前……) 祖父の家に預けられた日、 (あのとき感じたのは安堵だ) 母の死―― (……違う。私があの時受けた感情は別物だ) (母が亡くなった日は今の私が、私になった日だ) ――母が亡くなり、父と二人きりの生活が始まった。 寂しくはあったけれど、父は優しく不自由を感じた事なんてなかった。 私は感謝していたのだ。 でも、 (父は私が耐えられぬ程、寂しいのだと勘違いしていた) 確かに母が亡くなって寂しくない訳がない。 (父は無口になった私を慮っていた。ただ……) 私は、母が亡くなった後、寡黙になった。 だが、それは寂しさからじゃない。 母はよく喋る人で、それに私が応えていたから口数が多いと勘違いしていただけ。 母が亡くなり元々の気質がはっきりと見えるようになっただけのことだ。 (なのに……) ――再婚、 義理の母の顔を思い出しかけ、 私は――私の感じた既視感が初めて“あの人”と会った時に感じたものだと気づいた。 (期待と恐れ) 新しく始まる学院生活、 共に学び、高め合うアミティエを穢した気がして、私は目をぎゅっとつぶり、家族の幻影を消した。 (今は楽しいことだけを考えよう) 前向きに考えれば良い。 期待と恐れなんて感情は、出会いでは付きものだと頭を振ったところで、 壇上へあがる……足音が聞こえた。 緊張を胸に顔をあげた先には―― 〈東屋〉《あずまや》、というのだろうか。 庭園に設置された、休憩用の小さな建物を指す言葉だ。 だから名称としては間違いではないのだろうけれど……。 学院の校舎、講堂、寄宿舎と同じように西洋風の作りの東屋は、東屋と口に出すことを躊躇ってしまう外観だった。 かつて映画マリーアントワネットで観た一場面を思い起こさせるような佇まいであり―― 季節柄バラの花々が様々な色を咲かせ誇っている只中に建てられていることから、ぐるりと見渡せば酷く圧迫感を覚えてしまうほどに。 ――いや、圧迫感はほかに理由があったのだけど、 「あ! ずるい! それ私的に狙っていたやつだったんだけど!」 「えぇ〜。ずっと食べなかったからいいと思ったのに」 テーブルの端にはかしましい沙沙貴姉妹。そして、 「うん。購買で売っているものにしてはなかなかの味だね」 「ただ、グラニュー糖とクリームの配分がもう少しうまくやれれば、生クリームがもっと美味しくなったのにな」 「へぇ。匂坂さん、お料理詳しいの?」 「お菓子作りは趣味でね。ケーキ類は昔さんざん作ったものさ」 「意外だわ。あんまりお料理が作れる人だと思わなかったのに」 どういう意味かな? と、若干目を怖いものにして尋ね返すマユリさんを―― 「お茶のおかわりはどう?$白羽さんはミルクティーがお好みなのよね」 つるっと流した立花さんが言い、返事を待つより早く腰を上げお茶の用意を始めた。 ――身の置き場がないんですけど。 圧迫感を覚える他の理由は、二十数名……一年生全クラスメイトを交えたお茶会をこの豪奢な東屋で開いているからである。 (こんなに賑やかだなんて……!) お茶会と聞いて始めは仲良くなる為に最適かも!と喜んだはいいのだけど、 「……一人と話すのにも緊張するのに、こんなに多くいたら何を話して良いか分からないわ」 言葉通りの圧迫感を覚え、誰にも話しかけられずに引いてしまっている。 「出会いの記念にお茶会を開こうと、立花さんが言ってくれた時は楽しみだったのにな……」 紅茶を淹れるのも飲むのも好きだという立花さんは、かいがいしくカップが空いたクラスメイトを見つけると、腰を上げ淹れている。 今は私の番だけれど。 「さぁ、どうぞ」 ティーマットで保温してあったポットを持ち、空いた私のカップへと注ぎ、次いで温めておいたミルクを注いでくれた。 「ありがとう」 「いえ。冷めないうちにどうぞ」 言われ口に含む。市販のものとは明らかに違う、香気と渋みがし、 「……美味しい」 と、二度目ながら、つい言ってしまった。 「うふふ! それはね。ウヴァの茶葉なの。バラの香りがするでしょう? ここで飲むならこれだって思ったの」 「そうなんだ……」 「セイロンティーの中では一番渋みと酸味が強いのが特徴なの。刺激的で深い苦味が最高なのよ」 「独特の香気はウヴァフレーバーといって一度ストレートで飲んでみて欲しいわ!」 そうなんだ、と場に押されまたも同じ言葉を吐くしかできない私。 「ああ、ごめんね。白羽さんはミルクティーが好きだって言っていたのに。好みまで色々言われたくないよね」 「そんな……」 紅茶は何が好き? と聞かれ知識のない私は、考えなしにミルクティーだと答えただけ。 彼女の、立花さんのお勧めなら何でも頂くのに。 「……アミティエなんだから」 「うん? 何て言ったの?」 つぶやき声が耳に入ったのか、立花さんは体を寄せ小首を傾げる。 薄い制服越しだからか、肌へじかに触れたかのような感覚にびくりと竦んでしまう。 「白羽さん?」 「ぁ……」 「委員長! 林檎のお茶がなくなったから淹れて欲しいって」 「……アップルティーが欲しい」 「分かったわ。すぐ用意するわね」 「ねぇ、わたし的にはジャンピングっていうのが見てみたいな!」 立花さんは少し困った顔をし、 「あれは茶葉が跳ねるように沸きたたせることを言うのだけど……。多分、苺さんはこっちのことを言っているのよね?」 手早く茶葉を入れ替え、ポットにお湯を注ぐと、 「わぁ! すごいすごい、これこれ!」 「……映画で見たことがある」 林檎さんの言う通り、私も映画で見たことのある一場面が披露されたことに驚き、真剣な顔をしながら注ぐ彼女を見詰めてしまう。 「本当はカップじゃなくてポットの方へお湯を入れるとき、茶葉を上下運動させる為に勢いよく湯を入れることをジャンピングっていうの」 「……おお、そうだったのですか」 「これは空気をより含ませた方が美味しいから、その為の淹れ方なのよ」 「ねぇねぇ、今度は私のをやって!」 「――仕方ないわねぇ」 そう満更でもない表情を浮かべ、今度は苺さんのカップへと注いだ。 「話す機会なさそうだね」 フォークを手持ち、ケーキをぐさりと刺したマユリさんが言い、私は小さなため息をつき頷いた。 「せっかくアミティエ同士になったのだから、ゆっくり話したいところだよね」 「ええ……」 そう。 講堂でのアミティエ選考の結果、 (花菱立花さんとご縁が出来たのに……) クラス委員長の花菱立花さんと“アミティエ”になることが決まったのだ。 私は、立花さんの名を聞くと呆然とし、何も耳に入らず立ちすくんでいたらしい。 前の席にいたマユリさんに揺さぶられようやく自分を取り戻したのだ。 「ふふ。ぎょっとしていたけど、花菱さんがアミティエになったのが嫌だった?」 「っ!? そんなことありません! ただ、予想外の名前だったので……」 私は、 「ん?」 私の理想は、目の前で親身に話を聞いてくれるマユリさんが良いと思っていたから……。 「……嫌なことはありません。今もああやって皆に気を遣えるいい人だって分かっているし」 「確かに。紅茶好きだとは聞いたけど、根っから人をもてなすのが好きなんだろうね」 「放課後お茶会を開こうなんて考え、思いもつかなかったよ」 マユリさんに言われて、立花さんへ視線をやると――特技を見せたお礼として、ケーキを差し出され困った表情になった彼女がいた。 困惑し、頬を染めながらフォークに刺さったケーキを口に含む姿を見て、相手を思いやれる優しい人だと思った。 (……もっと話したいんだけどなぁ) 「へぇ普段飲むのよりも林檎の香りがする! アップルティーってちゃんと専用の茶葉があるんだね」 「ふふ。きちんと大別として認められているものだから。フレーバーを茶葉になじませてあるのよ」 「そうなんだ。また飲みたいな……。ねぇ市販のティーパックでもアップルのやつって売ってるかな?」 「大丈夫。ストレートしかない場合でもりんごを薄くスライスしてふたきれほどカップに入れて、注げばいいの。それで香りはつくわ」 「林檎をスライス……痛そう……!」 「うふふ」 「あ、それじゃ苺の茶葉は? ストロベリー味とかないの?」 「それは……」 沙沙貴さんたちとの歓談。 そこへ他のクラスメイトも混じり立花さんへ話かかけているのを見て、私はこれからの事を思う。 (立花さんは委員長だ……) クラスメイト皆の世話をしつつ、私とも仲良くする……。 無理ではないかもしれないけれど、でも、アミティエとしていられる時間は少なくなるんじゃないだろうか? 「……それは嫌だな」 言葉に出し彼女を見やる。ようやく話し終えたのか、私たちの元へと向かい―― 「あら、匂坂さんカップが空ね。お代わりはいかがかしら?」 と、私ではなくマユリさんへと話しかけた。 「いや、だいぶ頂いたしね。ん……ああ、そうだ」 「何でも言って。好みの紅茶を入れるから」 「よし、それじゃコーヒーを貰えるかな。ブラックで」 「コーヒーですって!」 怒る風を装いながら楽しげに会話に花を咲かせる二人を見て、 「……寄宿舎ではちゃんと話そう」 二人きりになれるドミトリーでアミティエになれたことをきちんと話そう。そう心に決めたのだった……。 “――希望はいいものだ。たぶん最高のものだよ。いいものは決して壊れない” 私が影響を受けた映画“ショーシャンクの空に”で、とある人物が吐いた言葉だ。 私はその言葉に同意せざるを得ない状況にあった。 緊張したお茶会の後、皆と別れた私たちは一路、寄宿舎へと戻って―― 私と“アミティエ”である花菱立花さんが共に生活をする共同部屋へと落ち着いたのだ。 そして、ようやく私の望んでいた通り、部屋にて立花さんと“アミティエ”らしい会話をすることができた。 互いの趣味や、故郷のよもやま話などである。 (私にしては詰まらずに話せたのだから大成功だわ) 友人……かりそめではあるが友人と、何気ない会話ができた私は舞い上がっていた。 “ショーシャンクの空に”の台詞を思い浮かべた程に。 そう。思い出せたのだが……。 「白羽さん。もう片付けがすんだの?」 声を掛けられ、私はまだ――とうわずった言葉を返す。 「荷物の整理が済んだらダイニングルームへ集まるよう言われているのだから、手早く済ませた方が良いわ」 「そ、そうね……」 言葉を飲み込み、私も鞄から荷物を取り出そうとするのだけど……。 (ぅぅ……!) 自分の棚に収納するため、ベッドに下着類を置き丁寧にたたむ彼女を見て、かっと頬に熱を感じてしまう。 (女同士だから気にしないものなの……?) 同性という気安さからだろうか、別段気にするそぶりを見せず、ショーツを小さく折りたたみしまう行為に赤面してしまう。 「し、私服とかはどこに置けばいいのかな?」 「え? 学院では制服以外は禁止だって規則に書かれていたでしょう?」 「そうだったっけ……」 さっきまでは話せていたのにうまく返すことができない。 と、立花さんは私がおかしいことに気づいたのか、手を止め近づいてきた。 「どうしたの? 何か困ったことがあるなら言ってね。これから共同生活をする仲間なんだから」 「……仲間」 「そうよ。アミティエなんだから気兼ねなく話してほしいわ」 柔らかに笑みをこぼし私を見上げる。 (そうだわ。これから一緒に生活するのだから、これくらいで照れていては駄目よね……!) そう心に決める。 「共同生活なんだから着替えとかだって……」 「お着替え? ダイニングホールに集まって、皆でお食事だって言われていたけど……お食事の前に着替えるの?」 「い、いえ……」 心の声が漏れていたのかと、またも首筋からじわじわと上る熱を感じ、私は押し黙ってしまう。 「あの……?」 立花さんは小首を傾げ困ってしまっている。私は、 「おや、ノックをして入った方が良かったかな」 「それはそうでしょう。共同生活なのよ。親しき仲にも礼儀ありでしょう」 開け放たれた扉の前には、玩具を見つけた子供のような表情の、匂坂マユリさんが目を細め私たちを見やっていたのだ。 「そういうまともな返しをするなんて、委員長はなかなかに肝が据わっているんだね」 「隔絶された女の園だよ。噂されるような状況は作らない方がいいな」 「何を言って……」 彼女が指さす方――下着を畳み途中のベッド、次いで指さされる自分の手。 そして握ったままのショーツに気づいた立花さんは分かり易いほどに狼狽し、頬と言わず耳まで朱に染めた。 「な、こ、これは……!」 「ふふ! やっと気づいたようだね。端から見れば下着を握りしめて、白羽さんに迫っているみたいだよ」 「ち、違う、私は何か白羽さんが困っているようだったから……!」 「本当かい?」 目が笑っているマユリさん。真剣な顔で見詰めてくる立花さんに私は、 「う、うん。本当よ」 と、何度もこくこく頷いてみせた。 私が同意したことで立花さんは安堵しほっと吐息をつく。 「何だ。誤解なのか、同室の相手が変わった趣味の持ち主だなんて、少し面白そうだと思ったんだけどね」 「何を言っているのよ、もう!」 「冗談だよ。まぁ女同士だからって、あんまりおおっぴらにしない方がいいってことさ」 ねぇ、と笑ってみせる彼女へ私は、そうですねと返す。 冗談だと聞いた立花さんは大きく口を開きかけるも……握りしめているショーツを一瞥し、そそくさとベッドへと戻った。 「早く荷物の整理をした方がいいわ。もうすぐ食事よ」 「階段の突き当たりでばったり沙沙貴……あれは姉かな? 彼女とあったのさ。ずいぶんと話し好きでなかなか解放してくれなかったんだよ」 「そう」 素っ気なく答える彼女に私は――何となしの違和感を覚えた。 (早く整理した方が良い? いえ、それよりも……) 楽しげなマユリさんを見、私は、 (さっき、“同室の相手が”って言ったような……) のど元に感じる違和感をはき出そうとマユリさんをじっと見詰めた。 「うん? どうしたんだい?」 「あの……」 「白羽さんもせかしてるのよ。遅れたら連帯責任だわ」 ――ああ、やっぱりだ。この部屋、今までどうして気づかなかったんだろう。 「ベ、ベッドを……」 「ああ、遅れた私が悪いんだからベッドは“真ん中”でいいよ。下は委員長が取ったようだしね」 そう。今まで緊張から目に入っていなかったけれど、 (この部屋――3人部屋だわ!) 「え……匂坂さんも同室、なの?」 「酷いな。私だけ小公女みたいな生活をしろっていうのかい?」 「屋根裏部屋? このドミトリーってあったかしら」 「冗談だよ……」 私もよ、と言う立花さんの声が遠く聞こえ、 (え、それじゃ。嘘、本当に?) ショーシャンクの空に、の言葉がまたも浮かび上がる。私は混乱からすとんと床に座り込んだ。 「ん? その様子じゃもしかして……」 「白羽さん? 匂坂さんが何かしたの?」 「ち、違うの……。あの、変な質問かもしれないけど……」 私は一度息をのみ、 「匂坂さんもこの部屋で共同生活をするの……?」 と聞いた。 「え?」 「そうか、ふぅん……なるほどね……」 私の言葉に意外というよりもあきれた表情を作る二人。 でも、だって……。 「で、でもアミティエは花菱さんでしょう。共同生活の相手はアミティエだけだって……」 「これってもしかして……」 「ああ。何でかは分からないけど行き違いか、話を聞いてなかったみたいだね」 「話……?」 講堂でのアミティエ選考の場面がよみがえる。選考委員の先生が、花菱立花さんがアミティエだって……。 「あのね、白羽さん。何か思い違いをしているようだけど、アミティエは三人一組なのよ」 え? 「選考で名前が呼ばれてから最後、今年から二人組のアミティエよりも――」 「三人組でのアミティエの方がコミュニティ能力があがるだろうから、そうなったって話したじゃないか」 私は二人の言葉に――ただ惚けてしまっていた。 (講堂で選考委員の方から立花さんの名前が出た時……) 私は望んでいた名前に舞い上がり、 「……耳に入っていなかったのかも」 「そ、そう。緊張から聞き逃してしまったのね。きっと」 「それか、よほど花菱さんの名前が出て喜んだから、私の名前は耳に入らなかったとか」 「ちょ……!」 概ね心境を当てられ私は赤面し、顔を伏せてしまった。マユリさんは忍び笑いし、立花さんは白い肌をますます赤く染めた。 (マユリさんもアミティエに……!) 花菱さんに続き、マユリさんともアミティエになれる。これは本当に嬉しいことだ。 でも、 (ぅぅ……なんて言えば……) アミティエになれたことが嬉しいのは本当だけど、マユリさんの言うような感情からではない。 これから一緒の共同生活を送る相手だ。気まずくなってしまう。何とか誤解を解かなくては……。 「あれ……。黙ったままなんて本当に図星だったのかな」 「あのね、白羽さんは落ち着いた大人の女性なんです。あきれているのよ」 二人の言葉を頭の上で聞きながら、現実逃避ぎみに見詰めたつま先に、自分のハンカチが落ちているのに気づき手に取った。 (聞き取れなかったこと、緊張していたからと言えばいいかしら……) 立花さんもそう言ってくれていた。 私は手に取ったハンカチーフでいつの間にか滲んでいた額の汗を拭った。 「――ふふ!」 「? 何をいきなり笑っているのよ」 「いや。まさか瓢箪から駒だと思ってさ」 ずいぶん古い言い回しね、と再びマユリさんが指さす方へと視線をやり―― 彼女の目は何故だか私へと送られると、そこでピンでとめられたかのように固まってしまった。 「え?」 「白羽さん。それ……」 白い肌が先ほどよりも赤く染まり、指さした方向には、 「ハンカチ……?」 私のハンカチーフを……あ、え、これって……。 「あの、ごめんなさい。返して貰えるかしら……」 広げたそれは、立花さんがさっきまでベッドで畳んでいたもので―― 「初日から飛ばすね。白羽さん」 くつくつと忍び笑いの声が聞こえ、 私は、 私は彼女のショーツを握りしめながら、どうしたらいいのかなと。 固まった体、頭のまま、窓から覗く藍色の夜空を見上げた……。 私が彼女を連想し思い出すのは“王女”という単語 取り返しが付かなくなるほどにスポイルされた美しい王女 確かな個を持ち、 相手の心を傷つけることに躊躇はない、 絶対的な命により処刑されてゆく彼女らを見ても、 精神的虐殺を行う振る舞いをみても、 私は王女こそが処刑台を心待ちにしているように思えた これは、 これからの物語は、 私と、ある王女との出会い ――入学式から一週間経ち、 朝のお祈りや、“聖書”などの学院独自の科目、 自分たちが食す野菜たちの世話を、この七日間で学び、ようやく生活の変化に慣れることができた。 (でも、こっちはまだ慣れないのよね……) 朝のお祈りを終え、朝食を済まし、朝礼が始まる前に教室へと着いたのだけど―― 「ええ。ええ、そうよ」 クラスメイトらに囲まれ何か……おそらく何らかの科目を教えているのだろう、彼女がいた。 アミティエの一人である花菱立花さんは入学式の日に開いたお茶会から、級友たちに名ばかりでない頼りになる級長として認められていた。 入学式の次の日からずっと、彼女のまわりには人が途絶えることがなかったのだ。 ――慣れない“こっち”。 アミティエの私よりも他の級友たちの方が、彼女と上手く付き合っているのを見て……。 嫉妬よりも、どうしてそんなにも自然に話しかけ笑い合えるのだろうと思う。 (確かに話しかけたくなる程の美人だけどもね) 幾人もの級友らに向かい微笑みを向ける立花さんを眺めつつ、私は彼女が人気者である要素を考えてみた。 ――いや、深く熟考するでもなく、立花さんが人を引きつける要素なんて三つのポイントを押さえれば良い。 a)聡明で、$b)面倒見が良く、$c)可憐という三つのポイントだ。 (私にはどれも無いもの) 私は席につき、持ってきた小説を読むふりをしながら、小さくため息をつく。 自分に自信がないから話しかけるのもままならない。 「はぁ……」 「おはよう蘇芳ちゃん! 朝からため息なんて乙女の悩み?」 「あ、お、おはよう。苺さん」 「今日も憂い顔が格好良いね。さすがクラス一の美少女だよ」 「はぁ……」 相変わらずの世辞に曖昧な笑みをこぼした。それよりも、 「あの、苺さん。今日の聖書の時間なんですけど……」 「あ、ごめん。ちょっと待ってて」 苺さんはそう言うと、遅く登校してきた―― 「おはよっ!」 「朝から元気だな。頭に響くからもう少し小さい声で挨拶してくれよ」 私のもう一人のアミティエ、匂坂マユリさんの元へと駆けていった。 「昨日の話の続きがしたいんだよ。消灯の時間がきちゃって途中で終わっちゃったし」 なになに、と苺さん以外の級友もマユリさんへと群がり、私には分からない言葉を話し出す。 「昨日の話だけどやっぱり最後に決めたやつの方がいいかな?」 「ああ、グラディエーターね。ブーツタイプじゃなければいいんじゃないかな。春先にはいいと思うし」 (剣闘士?) 映画史に燦然と輝くあの映画の話をしているのか、と思わず聞き耳を立ててしまう。いや、でも、 「ブーツだとか言ってたような……」 私が首を傾げている間にもマユリさんの元にクラスメイトらが集まり、楽しげに話しかけてゆく。 クラス委員の立花さんよりも多いほどだ。 (マユリさんも立花さんと同じ……) a)聡明で、$b)面倒見が良く、$c)可憐、それらを備えている。 だから人気があるのは当然。 ううん。立花さん以上に人気があるのはもう一つポイントがある。 4つめの要素は、バイタリティーに充ちている、だ。 見目佳く面倒見が良い。それだけで人を引きつける要素となるが……。 マユリさんは華奢な身体にもかかわらず全身にエネルギーが溢れているように見えた。 活力に充ち話すさまもきびきびとしていて心地が良い。 基本的に過剰に微笑むことはない彼女だけれど、時たまにっこりと微笑むと、まるで奇跡が起きたように周りの空気が華やいで見えた。 (春の日だまりみたい) 季節柄そう思ってしまっても仕方ないだろう。 (でも春の日差しは私には向けられていない) 同室ではあるが、ろくに話しかけられていないことに心苦しく思う。 私は―― 「おはようですよ、蘇芳ちゃん……」 不意に呼びかけられ振り向くと、 「……今日も早いねぇ」 ふわぁ、と大きなあくびを一つし、林檎さんは小さく手を上げた。持っていた小説を少しだけあげ、私もおはようと返す。 「……苺ねぇも皆も朝から元気だねぇ。若いっていうのはいいものだ。羨ましいよ」 「そう……だね」 リアクションに困り頷くだけの私。 ああ、そうだ。 「聖書の時間での話なんだけれど……」 苺さんに聞きそびれた事を林檎さんに尋ねようと水を向ける。 「……その本」 「ほん?」 でも私の言葉は届いておらず、彼女は私が持つ小説をじっと見詰めた。 (ブックカバーをしているからタイトルは分からない筈だけど……) もしかしたらカバーの方に興味があるのだろうか?そう思っていると、 「……そうそう。そうだった忘れるところだったですよ」 呟き、鞄をごそごそと漁り、 「りっちゃんに返しとくんだった……」 そのまま勉強を教えている立花さんの元へとふらふらと向かった。 尋ねた言葉は宙ぶらりんになり、 私は楽しげに話すマユリさんを、 生真面目な顔をしながらも笑む立花さんを交互に見つめ、 「……寂しい」 そう呟くしかなかったのである。 ――一週間“も”経ったのだ。 もっと仲良くなれるよう努力しよう。 小さくガッツポーズを作り、 「頑張ろう、私……!」 そう気合いを入れ拳を突き上げてみたのだった。 仲良くなるための努力、 「……あ、の、少しいいかな?」 次の授業に向かうまでの道すがら、皆に囲まれ先を行くマユリさんへと声をかける。 私にしてはすごい進歩だ。 「…………」 只、その声が小さ過ぎて、声が届かなかったのはダメダメだったけれど。 聖書の授業でも。 「感想文を書いてこなかったのですか?」 「い、いえ、書いてはきたのですけど……」 「なら提出を……」 小首を傾げるバスキア教諭に私は答えに窮してしまう。 (ああ……! だから朝、苺さんに話を聞いておきたかったのに……!) 聖書の“神と人間の関係”とのお題での感想文だけれど、昨夜マユリさんに尋ねられ、私の意見は彼女の意見となった。 だから他の人の話を聞いて、別の角度から感想文を書こうと思ったのだけど……。 (これを提出したらマユリさんが丸写ししたのだと思われるかも……) 人に迷惑をかけるのだけは嫌だ。 「……昨日部屋で書いてなかった?」 「……ええ、でも日記だとか別の書きものだったかしら」 前の席で隣り合っているアミティエの二人がひそひそと耳打ちしているのが見える。 きっと、情けない子だと話しているのだろう。 「そう。まだご自分の意見がまとまっていないのですね。なら放課後先生のところにいらっしゃい。神との対話を論じましょう」 「はい……」 聖堂に起こるさざ波のような小さな笑い声。 (ああ……) どうして、私は―― 「……うまくいかないのだろう」 お昼休み前に取られていた農園での作業を終え、私は前を行くアミティエ二人の背を見つめ、ため息をついた。 自給自足とまでは行かないが、食べ物に感謝をするという――これもミッションスクールの校風だろうか。 野菜など自らで育てて収穫できるものは生徒の手で行っているようだ。 農園での野菜の手入れは原則アミティエらで行う。だから、 「話しかけるチャンスなのになぁ……」 「何がチャンスなんだい?」 「え、あ……!」 「……そんなにびっくりされると何だか傷つくんだけどね」 考え事が口に出ていたのかと立ち止まり苦笑いを口元に浮かべるマユリさんへ、なんと言えばいいか瞬間頭が真っ白になる。 「急に話しかけられたら誰でもびっくりするわよ。マユリさんて見た目とは違ってガサツなのよね」 「ええ? 私は普通だよ。立花や白羽さんが上品過ぎるだけさ」 「でもそうか、白羽さんからすれば私の呼びかけはぶしつけ過ぎるのか……」 あごに手をやりうむむ……と考え込むポーズに立花さんは、まなじりを下げた。 (二人とも……) 一週間の間に、アミティエの二人はどんどんと距離を詰め今や名前で呼び合っている。 だけど、私だけ、 「……白羽さん、か」 「うん? どうしたの」 「あ、いえ。ただ、良い天気だなって……」 「そうねぇ。寒すぎず暑すぎず良い日和だわ」 「三寒四温って言葉があるから体調には気をつけないとと思っていたけど、夜も暖かいわよねぇ」 「ええ」 ……またやってしまった、と思う。 (ここのところ天気の話題しかしていない……) 詰まるとつい反射的についてしまう気候の話。$当たり障りのない話だけでは、仲良くなることなんて……。 「あら、マユリさんその髪」 「え?」 「後ろ髪が立ってるわ。寝癖?」 「いやいや、さすがにちゃんと梳いてるよ。農作業の時、風が強かったからかな」 手櫛で後ろ髪を整えようとするが、不器用なのかなかなか髪を整えることができない。 「ぅぅ……うまく出来ないな。白羽さん。ちょっと梳いてくれないかな?」 仲良くなるチャンスだわ! 少し恥ずかしいかも マユリさんの申し出に、 (梳くなら髪に触れてしまう) 陽光に照らされた色素の薄い栗色の髪が輝き、まるで黄金のように目に映る。 私は熱くなってゆく顔を見られないように俯き、ポケットから櫛を手に取った。 「おお、さすが。櫛を常備しているなんて!」 「普通、女の子は持っているものでしょう。持ち歩かないマユリさんが変わっているのよ」 「ええ、そうかな。私の周りでは持っていない方が多数派だったんだけど……」 言いながら背を向け、お願いするね、と笑んだ。 私は緊張から震えそうになる手を意識して押さえ込み、鮮やかな麦の穂のような髪に櫛を当てた。 「……っ、ふふ」 「あ、痛かったですか……?」 「違う違う。髪をとかされるのってくすぐったくってさ」 「そ、そう……」 櫛が髪を梳くたびに、甘く――さっぱりとした柑橘系の匂いがした。 (何かつけているのかしら) 寄宿舎の共同のお風呂にはアメニティが備え付けられている。私とは違う仄かに香る匂いにうっとりしてしまった。 「もう、大丈夫かな?」 「あ、ええ。ちゃんと直ったわ」 慌てて櫛を引くと、彼女はにっこりと笑みをこぼし、 「有り難う」 と言った。 マユリさんの申し出に、 (それって髪に触れることになるのよね) 陽光を受けたとび色の髪がますます稲穂色に輝くのを見て、私はやにわに緊張してしまった。 (一度もしたことないし……) 少しの間通っていた学校では仲の良い女子は互いに髪を梳いたり、三つ編みに結っていたけれど……。 私には羨ましい……というよりも一種の恐怖だった。 (お互いにとかし合っていたし) 相手の髪を梳くまではいいけれど、自分の髪を相手に触られるのは嫌だ。緊張する。 祖父にカラスの濡れ羽色と揶揄された私の髪はただひたすらに長く、夜のとばりのように暗い。 良い意味だと分かっていても、だ。コンプレックスのある髪に相手の指が触れるという想像だけで緊張してしまう。 「えっと……白羽さん?」 「あ、その、私……」 暖かな日よりなのに黙っている間分、空気が冷たく変わっていくのを感じる。 「白羽さんは櫛を持ってきてないのよ。まぁ農作業に持ってくるものじゃなし」 言うと、立花さんはポケットから櫛を取り出し、後ろを向いてと言う。 「手櫛で構わないのに」 「白羽さんはお嬢様なのよ? さっきも言ったけどわたしたちとは感覚が違うの」 そうか、と呟きくるりと後ろを向いた。 「ん……ふふ」 「ほら動かないの」 「くすぐったくてさ」 姉妹のようなやりとりで、す……す……と魔法のように髪を梳きすぐに整えてしまう。 (いいな……) ポケットにしまい込んでいた櫛をスカート越しに触れ、そう思う。 緊張していた筈の私は、髪を梳くという行為を自分がされているような心持ちで見つめていた。 立花さんの手は優しく髪に添えられ、軽やかに髪を梳いてゆく。見ているだけでその心地よさにうっとりとしてしまう。 「うん。これでいいでしょう」 「もう終わり? 気持ちよかったんだけどな」 「それなら朝梳いてあげるわよ。わたしの髪を梳いてくれたらね」 「契約成立だ」 そう戯けた調子で言い、彼女はありがとう、と笑んだ。 屈託なく笑む姿は朝礼が始まる前に思ったように、まるで奇跡が起きたように彼女の周りが華やいで見えた。 暖かな春の日差しが増した気がしたのだ。 「マユリさんも女の子だから髪は気をつけた方がいいわよ」 「一応気にはしているんだけどね。共同生活だし」 「でもつい春先は気がはやって他のことに無頓着になってしまうな。何だか体を動かしたい気分になる」 「そう? わたしは木陰でゆっくりお茶を楽しみたいけど。白羽さんはどう?」 「わ、私も木陰で本を読んでいた方が……」 「ここでも少数派かぁ。春にそわそわするのは皆同じだと思ったんだけどな。春先には死んだ馬の首も動くって言うし」 春のことわざだと知っていた私は頷くも、 「……なにそれ怖い」 と、立花さんには珍しく顔をしかめ言った。 「いや春のことわざだけど……。確かに絵面を想像したら気持ち悪いかな」 「食事前に止めて。行きましょう白羽さん」 眉をしかめ私の手を取ると、大股で宿舎へと向かった。 昼食の時間に間に合わせるため、寄宿舎へと戻り―― 一息ついていると唐突にドアが開いた。 「良かった。間に合ったぁ」 「沙沙貴さん。部屋に伺う時はノックをするものよ」 「ごめんごめん。約束に遅れるかと思って」 「約束? おしゃべりなら放課後にでも……」 「そっちじゃなくて、蘇芳ちゃんと約束してたんだけど……」 私と? アミティエの二人が振り向きこちらを見やり、私は慌てて頭を振った。 「ええ? 約束したじゃん。お昼に課題の打ち合わせしようって」 「課題って……もしかして聖書の?」 「そうだよ。私的にも再提出になっちゃったから二人で考えようって」 そんな話を……したような気がする。 (今朝の落ち込みでぼうっとしていたから……) アミティエ二人ともう少し打ち解けられたらと考えている時にでも、うっかり約束してしまったのだろう。それなら、 「分かったわ。それじゃ……」 「ちょっと待って。昼食は原則アミティエ同士でとるのが校則でしょ。破ったらいけないわ」 「ええ、それって堅すぎない?」 「でも正論です」 確かにそうだ。立花さんが正しい。 ――だけど、 「確かに食事の時間はアミティエ同士で取るのが好ましいとされているけど、二年生は皆、勝手にやってるじゃないか?」 「クラスの皆も仲良い相手と集まりだしているし」 「みんながしているからいいって言うの? わたしそういう考え方は嫌いよ」 (ぅぅ……) どうしよう、私が考えなしに返事を返しちゃったから……。 クラス委員長をしている責務からか一歩も引かない立花さんに対して、マユリさんは参ったなと言う顔つきで頬をかいている。 おかしな空気になったのを察してか、間に挟まれた苺さんがパン、と手を打った。 「まぁまぁ二人で言い合ってても仕方ないでしょ。こういうのは当人に決めてもらうのが一番いい。だよね?」 「当人?」 三人の目は私に向けられて、 「私が、決めるの?」 「そうだよ。当事者なのは蘇芳ちゃんなんだからさ。ささっ、この分からず屋にびしっと言っちゃってよ」 約束してしまったから 確かに立花さんの方が正論だわ ――皆の視線が痛い。 特にじっとこちらを見やる立花さんの視線が。 (……でも) 彼女から逸らした視線は、苺さんへと向けた。 (苺さんは私との約束を守ってくれたのだものね) 私は、 「あの、私は……」 「…………」 「約束をしてしまったのだから、苺さんと……」 「そう。白羽さんが決めたのなら、いいわ」 「決まったみたいだね。それじゃ行こうか蘇芳ちゃん!」 「う、うん」 苺さんに手を取られ、 「それじゃ先に行くね」 どこか怒った風な立花さんを置いて部屋を出て行った。 びしっといったって……。 (苺さん笑ってるし) 困っているのを愉しんでいるような顔をしている。 ……私は、 「……やっぱり花菱さんの意見が正しいと思うわ」 「そう。そうよね!」 「ええ〜約束わぁ? 放課後ちゃんと書けるまでシスターのお小言を聞かされるんだよ」 「約束は……ごめんなさい。でも、打ち合わせなら休み時間でもできると思うし……」 「そっか。それじゃしょうがないかぁ。また誘いに来るね」 落胆し、とぼとぼと歩く姿に、 「ぁ……」 声をかけようとしたけれど、何を言えるでもなくただ黙って見送るしかなかった……。 ――私ってダメだわ、 最後の授業が終わり教室が喧噪を取り戻しつつある今、私は心の内で呟いた。 そう、昼食前の出来事……否、今日一日の自分を、だ。 朝はうじうじしてアミティエらに話しかけられず、 農場帰りの一件では慌ててしまい、やはりうまく会話することが出来なかった。 (そして、苺さんとの約束……) 正直約束をした覚えはないけれど、今のように悔いていた事でぼうっとしてしまい、苺さんの申し出に反射的に答えていたのだろう。 ――祖父は悔いのない人生を送るのはいいが、悔いを感じない人間は愚かだと言っていた。 言っていたけど……。 「私は考え過ぎなのかも」 熟考をやめ、顔を上げる。と、 最後の授業を終え、とっくに職員室に戻っている筈のバスキア教諭が白墨を持ち、黒板にクラスメイトの名を書き記していた。 「え、これって……」 「保健委員は決まりましたね。それでは次は……」 緑化委員を決めましょうと告げるバスキア教諭を見て、私は苺さんの背をつついた。 「なに? どうしたの蘇芳ちゃん」 「あの……授業はもう終わったんじゃ」 「え、ホームルームでそろそろ学院にも慣れたろうから、クラス委員以外の委員を決めようってさっきシスターが言ってたじゃない」 ――どうやら、また私はぼうっとして話を聞きそびれていたらしい。 自分の間抜けさにかっと頬が熱くなるも、苺さんに気づかれないように、ちょっと眠くて、と苦しい言い訳をした。 「そうなんだ。部活に入ってない人は委員に入らなきゃだから、蘇芳ちゃんもこれだと思ったら手を上げて決めちゃった方がいいよ」 部活? そんなものがあったのか、とまるで耳にしていない自分に嫌気が差す。 「あ、緑化委員は決まっちゃったね」 彼女の言葉に顔を上げると黒板にはほぼ半数のクラスメイトの名前が記されていた。 (残りの人は部活動に入っているんだ) 一人一委員でなく、重労働そうな緑化委員、美化委員などは複数の名前が書かれている。 「あと残りの委員は二つになりましたが……」 ぐるり、とクラス内を見渡す。いや、私を、だ。 「残りは図書委員と風紀委員か。うん。風紀委員とかいいんじゃない? 蘇芳ちゃん格好いいし、嵌まると思うけど」 「風紀……委員って……」 小説や映画の知識でしか知らないけれど、風紀委員をする人は自信家で正義感に充ち、芯が通っている人だ。 私なんかに務まる筈ない。 「それでは先に風紀委員を決めましょう。やりたい方は挙手をお願いします」 「ほら手をあげるんだって!」 「いや、私は……」 人に指導するなんて絶対に無理。想像するだけでも青ざめてしまう。 「あら、誰もやりたがらないのですね。挙手がないなら……」 小首を傾げ困った様子でバスキア教諭は教室内を見回す。 そして、視線はいまだ委員が決まっていない私へと合わされた。 (まずい……!) 断らなくちゃ、そう思うけれど声が出ない。 自分には無理だと分かってはいるけど、ダメな自分をクラスメイトに――アミティエの二人に知られたくない。 「そうね……。白羽さんなら……」 私の名前が呼ばれ終わった、とほぞをかむ。 「先生」 不意に声がし、クラスメイトの視線は挙手した生徒……。 クラス委員長の立花さんへ集まった。 「白羽さんですが風紀委員よりも、適職があると思います」 「あら、そうなの?」 「はい。彼女は読書家ですし残ったもう一つの委員、図書委員の方が佳いと思います」 「そうなの? 白羽さん」 本が好きなのを知っていてくれたんだ。私はそのことが嬉しくなり、 「はい」 と、胸にわいた暖かさからか、素直に同意の言葉が口をついてしまった。 「分かったわ。それじゃ白羽さんには図書委員を頼みましょう。お願いねぇ」 ――数日後、 私が図書委員になって数日……という意味だけれど、 ようやく、 私の理想である“図書室”に馴染むことができた。 古書独特の香り、本を傷めないために仄暗くした明度。 広々とした部屋に天井高くまで本棚が詰まっている中、只一つ、本以外の機能を持たされた執務机に座る私は―― 「――では、二週間後の貸出期間を過ぎないようお願いいたします」 詰まることもなく連絡事項を言えるようになり、この居心地のいい空間に認められた気がしていたのだ。 「ふぅ……」 図書を借りていった上級生を見送り、小さく吐息をつく。 「初めにつかえながら言っていたことから考えれば進歩よね……」 初めて責任のある委員という仕事について、最初は緊張していたけれど、 「本に囲まれているからかしら……」 自分にとってはすぐに順応でき、仕事をこなすことが出来た。本を借りにくる人への対応もすぐに慣れ、今はもう苦ではなくなった。 ――いえ、苦なんてちっとも思わない。何故なら、 「やぁ。様子を見に来たよ」 「静かに。よかった。今は誰も居ないみたいね」 時折、言葉通り彼女たちが様子を見に来てくれるようになったから。 「よかったはないだろ。お客がいないんじゃ、商売あがったりじゃないか」 「商売じゃないでしょ。でも、使う人がいての図書室よね。反省だわ」 「いえ。さっきまで使用者が居たんですよ。今さっき帰られて……」 「そうなんだ。ここの本を借りるとか、勤勉家なんだね」 「そうですね……」 ……マユリさんが言うようにこの図書室の蔵書は現代小説などは少なく、代わりに専門書、神学などの書籍が多い。 それ故か本を嗜む生徒が多そうなこの学院でも、ここを使用する者は少なく限られているのだ。 「聖書の体系や詳しい専門的知識を知りたいときは最適よね。これだけ蔵書があるのですもの」 「確かに右を向いても左を向いても……てやつだね」 「でも神学や専門書以外にも小説くらいは置いてもいいんじゃないかな? 使う人、かなり限られるんじゃない?」 「そう……ですね。使用者は日に一人か二人ですね」 「そうなの」 「ええ……」 「そうか。それじゃ楽ができていいね。覚えるのは貸し出しの手順くらいだろ?」 「後は自分の部屋から持ってきた本だとか、暇を見て宿題をこなせばいいし」 「あのね。図書委員は貸し出し業務だけすればいいって訳じゃないのよ。他にもたくさん仕事があるんだから。ねぇ白羽さん」 「ええ」 それって貸し出し延長とか? と質問するマユリさんへ、立花さんは額に手を当て頭を振ってみせた。 私は立花さんの視線を受け、口を開いた。 「貸し出しが主な仕事だけど、後はレファレンスサービスもあるわ」 「れふぁ? ごめん。普段図書館とか使わないから知らないんだけど、それって一般的な事?」 「レファレンスと言うのは、図書館の資料を使って調べものや資料、情報探しのお手伝いをすることなんです」 「例えばさっき花菱さんが言った聖書の体系を調べるときに最適な本を選ぶのをお手伝いする、とか……」 「……それって、この膨大な図書の中から資料探しするってこと?」 私が頷くとうへぇ、とマユリさんは女の子らしくない辟易とした声をあげた。 「この中からピックアップするとか頭がくらくらするよ……。調べるの骨じゃないの?」 「まだ全部網羅してはいないから、すぐに渡せない場合は後日連絡するようにしているの。でもやりがいのある仕事だわ」 場の……“図書室”の助けもあってか、すらすらと答えることができた。 マユリさんは何故だか苦虫を噛み潰したような顔をし、図書室内を見回した。私は慌てて、 「あ、でも現代小説なら外国のものはあるんですよ」 と、奥の棚を指さす。 私の指さす方へと向かい、書棚に置かれた本の背表紙を眺める。 「……これって全部英語なんだけど」 「現代小説は寄贈されたものだけなんですけど、寄贈された方が外国の方らしくて……」 へぇ、と頷き背表紙を睨むマユリさん。立花さんも書棚に向かうと一冊の本を手に取った。 「へぇ、$“〈Wuthering〉《ワズリング》 〈Heights〉《ハイツ》”。$前に読んだことがあるわ」 「ん、なんとかハイツ? マンションの話?」 「違うわ。白羽さんは読んだことがある?」 「嵐が丘ですね。日本語訳と映画なら見たことがあります」 「何だ。嵐が丘か、なら読んだことがあるよ。確か復讐の話だよね」 「愛憎劇じゃないの? まぁ作品の受け取り方なんて人それぞれだけど」 「愛憎劇か。$私は恋人同士だったのにヒースクリフを捨てて、上流階級の男の元へ走った相手に――」 「ただ報いを受けさせるだけの話だから復讐劇だと思ってたよ」 普通を装ってはいたけれど語気に何か異質なものを感じた私は、じっと彼女の目を窺った。と、マユリさんは笑みを作り、 「外国の現代小説なら、風と共に去りぬが好きだな。スカーレットオハラとか格好いいしね」 言うマユリさんへ、私は怪訝な思いを消して、そうですねと頷いた。 「そう? 主人公のスカーレットは気が強すぎて苦手なタイプだわ」 「わたしはスカーレットの義妹の、メラニーの方がいいわね。優しくて純真で健気な女性だし」 「私はスカーレットに感情移入してたから面倒くさい性格だなと思ったけど……。白羽さんはどっちの方が好みだった?」 スカーレットオハラの方かしら メラニーの方かも スカーレットかな、と答えようとしたけれど、これって……。 (マユリさんと立花さんのどちらが好きか言ってるようなものじゃない……!) そう思い立つ。 機敏でエネルギッシュ。誰からも愛される性質のマユリさんと……。 自分でも言っていたけれど、優しく純真――それでいて最後まで自分を嫌う義姉に気遣う健気な女性、と考えれば立花さんに置き換えられる。 (アミティエの二人の、どちらかを選ぶだなんて……) 「随分真剣に悩んでいるのねぇ」 「きっとお気に入りの小説だったのさ。それか、気の強いスカーレットと優しいメラニーを私と立花になぞらえて選んでいるとか」 ……自分の中の思いを読まれ固まってしまう。 「貴女ねぇ」 「立花は呆れているけど、私としてはスカーレットを選んで欲しいな」 言い、人差し指で自分の唇をあて、次いで滑らせるように胸にあてがった。 扇情的な行為に立花さんは額に手を当て頭を振り、私はどぎまぎとしてしまう。 「あ、あの……」 「はいはい。マユリさんが体を張ったってことで、スカーレットの軍配でいいわよ」 小説の中の主人公像とすればスカーレットのような“動き”のある主人公が佳いけれど、 「私は……メラニーかな」 実際と考えた時、優しく健気なメラニーの方に軍配が上がってしまう。友達になってくれそうだし。 「そうか。残念。白羽さんは私より立花の方が好みなんだね」 「え?」 「自由で奔放なスカーレット。優しく真面目なメラニー。私と立花を比べてるみたいだなと思ってさ」 言われ―― 「あ、なっ……!」 かっと頬を染めてしまう。 私は佳くても立花さんは迷惑だ。そう思い彼女の顔を覗いた。 「な、な、何を言っているのよ! 全く、マユリさんにも困ったものだわ。何でも恋愛ごとに結びつけてっ!」 自分よりも狼狽している人がいたことで私は冷静になり、 「この話はここで」 そうマユリさんに告げたのである。 ――図書室という場の力も手伝ってか、アミティエたちと気負いなくしゃべることができたのが嬉しかった。 図書委員を引き受けた時はこうなるとは思っていなかった。 今までにないことをする。“変化”は好ましい。そう思った。 いや、 「……思っていた、だわ」 年代を感じる暗い色の床木に、教室側面には端から端までの大きな鏡。 そして窓の前にはやはり端から端まで伸びる手すりが―― (……いや現実逃避してはダメ) 鏡に映る自分の姿を眺め、乾いた笑みをこぼす。 ――この聖アングレカム学院はミッションスクールだということ以外にもう一つ特色がある。 鏡張りの部屋、 映像の中でしか見たことはないが、そこに手を乗せバランスを取り練習するのだろう手すりに、 私のこのみっともない格好―― 「うへぇ……クラシックバレエの服ってすっごく恥ずかしいね、蘇芳ちゃん」 ――そう、彼女の呼びかけの通り、この学院が人気である特色の一つとして“クラシックバレエ”を教育課程に入れているのだ。 身体のあちこちを変なところはないか確認しながら、私の前に現れる苺さんを見て、私はさらに羞恥が増してしまった。 幼い体つきにレオタード姿をまとっているのはどこか危うく感じたからだ。$でも、 「綺麗……」 「ええ? そうかなぁ。私的には似合っているとは思わないんだけど……」 愛らしい苺さんが似合わないならば私なんて何だと言うのだろう。無駄に大きな身体にバレエの衣装は似合わないと思うし、それに……。 「髪も……」 「ああ、蘇芳ちゃん髪まとめたんだ。動きやすいようにしろって言ってたもんね。似合うね、その髪型」 「変……だと思う」 「そんなことないよ。蘇芳ちゃんはきりっとした美人なんだから、雰囲気が出ていいと思うけどな」 相変わらずの世辞に私は曖昧な笑みで答える。苺さんは腰をひねってみせ、 「やっぱりメリハリがないと衣装に着られているみたいに見えるよね。せめて蘇芳ちゃんみたいに背があったらなぁ」 「私なんて……ただ大きなだけだわ。一人だけおかしくて浮いてるし……」 「そんなことないよ。格好いいと思うけどなぁ。せめてユリくらいの身長は欲しいよね」 苺さんからユリ、とあだ名で呼ばれた彼女に目を向けると―― 着替え終わったマユリさんはバスキア教諭の指導の下、準備運動をしているのが見て取れた。 レオタード衣装は身体の凹凸が如実に分かり、いつもは意識していない確かな膨らみに視線がゆき、目が釘付けられてしまう。 「……おお、ユリさんの頂きに夢中ですね」 不意に耳へ吐息が掛かりびくりと竦んでしまう。 「あ、う、林檎さん?」 「はい林檎ですよぅ」 しなを作って見せる林檎さんに、苺さんはやめて、と笑いながら言った。 「わたしとしてはユリさんよりも蘇芳ちゃんに嫉妬です。クラスで一番お胸が大きいのは蘇芳ちゃんですし」 「ああ、確かに」 双子はじっと狩人のような目で私の胸を見定めた。恥ずかしくなり身をよじると、 「おお、より強調されますます大きく見えますねぇ」 「嫉妬で気が狂いそうになりますなぁ」 「二人とも……やめて……」 「クラスで一番背もグラマラスボディもないわたしとしては羨ましいです。わたしのお仲間は……」 ぐるりとレオタード姿の少女たちを見渡し、 「りっちゃんさんしかいないですね」 と言った。 既に着替え終わっている立花さんは、怪我をしないように鏡の前で屈伸をしていた。 いつもの柔らかな印象と色白な肌もあいまってか、随分と似合って見える。 「準備体操ずいぶんと堂にいっている感じだね。やってたことあるのかな?」 「苺ねぇ、今は経験の有無でなく、わたしと同じプロポーションを探せの時間ですよ」 確かに頼りがいがあり級長の彼女からは、普段そう感じないけれど……。 (クラスでも二番目に背が低いんだっけ) 以前背の高さが話題になった時に、苺さんが言っていたのを思い出した。 「…………!」 私たちが見ていたことに気づいたのか、瞬間恥ずかしそうに腕で身体を抱え込むも、すぐに私へと指さした。 おかしな行動に私だけでなく、苺さんたちも首を傾げた。と、 「着替えが終わったのなら、準備運動を済ませてくださいと言っておいた筈ですが?」 あらゆる点において敵いそうにないバスキア教諭の姿を見て、私たちはすみません……と俯くしかなかったのである。 「……ダリア先生、厳しいねぇ」 呟く林檎さんに頷き指導するバスキア教諭を見た。 「いいですか、これが出来ないようでは怪我をしてしまいますよ。しっかりやらないといけません」 「は、はいぃぃ」 柔軟のための股割というのだろうか、バスキア教諭は足を広げ身体を前に倒す苺さんの補助をしているのだが……。 (あんなにぐいぐい押されたら裂けてしまうわ……!) 苺さんは生来身体が柔らかいようで、呻きながらもぺたりと身体を床につけることが出来ていた。 信じられない光景だ。しかし、あれを自分がするのだと思うと……。 (無理だわ) 身体の硬い私には荷が重すぎる。 「はい。沙沙貴さんは大丈夫ね。それでは次――」 そうして呼ばれる私の名。 死刑宣告に似た呼びかけに私はおずおずと立ち上がり、バスキア教諭のもとへ行く。 「準備運動はしましたね? それでは柔軟性をみますよ」 苺さんと同じ体勢をしろ、と目で訴えかけてくる。私は、 素直に応じる 身体が硬いのだと訴える 「……はい」 皆が見ている前で抗議することなんて出来ず、ぺたんと床に座り、 「ぅぅ……」 じりじりと足を広げてゆく。 「……おお。さすがクラス一の長身。足が長い」 (恥ずかしいこと言わないで……!) 授業中ということもあってか静かなレッスン室に林檎さんの呟き声はよく通り、クスクス笑いが起こる。 「からかってはいけませんよ。初めは出来なくて当たり前なのですから。さぁ屈んでみて」 「は、はい」 赤面したまま上体を倒してゆく。じりじりと視界は床に近づき、これくらい出来ればとバスキア教諭を見上げる。と、 「あの……もう始めていいのですよ?」 「……え、これが精一杯なんですけど……」 「はい?」 「え?」 「え?」 互いに尋ね返すタイミングが重なり、数瞬、時が止まったように見つめ合ってしまう。 「ふふ、はははっ!」 苺さんが吹き出したのを皮切りに、クラスメイト皆に笑われ、私は顔から火が出る思いで両手で顔を覆ったのだ……。 「あの、先生……」 「どうしたのかしら白羽さん?」 「私、その……体がとても硬いんです。だから……」 苺さんの時のような無体をしないでほしい、と視線で訴えかけた。 「そう。そうなの。それじゃ……」 何故だかバスキア教諭はきょろきょろと辺りを見渡し、 「級長の――花菱さん。補助についてあげて」 立花さんを呼んだ。 「……大丈夫。あまり強く押さないから」 私をぺたんと座らせ、そう耳打ちする立花さんだけど、急な展開に頭が追いつかず、はい、とただ間抜けに頷いた。 「それでは上体を倒してみて」 言われるがまま私はぐっと力を込め、身体を前に倒す。 「あら本当に硬いのね。花菱さん。補助してあげて」 「はい」 「……っ!」 不意に背に当てられた手に思わず声をあげてしまいそうになる。 (背中が……ゾワゾワする……) 触れられたことのない背への感触は、常に小さな電流を流されているみたいで、変な気持ちになってしまう。 「……もう少し頑張れる?」 「は……い……ぅ、ん……!」 「背筋だけじゃなくて、腹筋を意識しないと駄目なのよ。花菱さん。お腹に手を当ててあげて」 え、お腹って? 「はい」 そう言われ、何の逡巡もなく立花さんは私のお腹に触れ―― 「ひゃう……!」 さらに強くなった電流のような刺激に私は、おかしな声を止めることが出来なかったのだ……。 四月十日、火曜日。 初めてのバレエの授業を受けてから数日が経ち、今は当たり前のようにバレエの授業が日々の生活の中に組み込まれていた。 どうやらこの学院ではバレエは特別なものらしく必ず日に一度、授業として組み込まれていた。 苦手な私には苦痛だが、バレエの授業目当てに入学した者も多いようで―― 大人しい生徒が多い学院には珍しく、バレエの授業は活気に満ちあふれていた。 授業が終わり―― 「あれ、まだ着替えないの?」 学院生徒たちの汗の匂いで充ちた一角から遠ざかっていた私へと、タオルで頬をぬぐいながら苺さんが尋ねてくる。 「ええ。少し汗をひかせてから着替えようと思って……」 「そっか。シャワー室もあるけど、お昼休み前だとか放課後前じゃなきゃ、浴びている時間に休み時間終わっちゃうものね」 既にタオルで身体をふいていた私は、ええ、と頷き人がひくのを待つ。 「でもそろそろいいんじゃない。あんまりゆっくりだと休み時間終わっちゃうよ?」 「そう……なのだけど……」 本当の理由。 着替えへ向かった苺さんの方へ視線を向けると、 アミティエの一人が、 最近仲良くなってきたと思うクラスメイトが、着替えているのを目にしてしまう。 (何で……!) 無防備に晒された立花さんの首筋から鎖骨にかかるラインが―― 未発達な苺さんの胸元が見えかけ、じわじわと首筋から顔にかけて赤面してしまう。 「……何でこの学院の人は隠さないの」 そう、 寮生活でも感じていたことだけど、この学院の生徒は肌を露出することをあまり“恥ずかしい”ことだと思っていないようなのだ。 寮の三人部屋――いや、これはアミティエという気安さや……。 同部屋の者に常に気を遣っていると疲れるからなど、おざなりになるのも分からなくはない。$でも、 (……お風呂とかでも基本隠さないのよね) 大浴場では学年ごとに決められた時間があり、その時間内で各々入浴するのだが……。 さすがに入浴する前の段階では湯浴み着やタオルを巻いていた。 でも、 (入浴中はタオルを外しちゃうし……) 髪を洗うまでは湯浴み着をしているのに、いざお風呂に入る際には脱いでしまう。 今まで見てきたテレビ番組ではレポーターの女性は必ず湯浴み着かタオルを巻いていた。 それなのに……。いや、だからなのか、 「……こうなるのは分かるけど」 「何が分かるの蘇芳ちゃん?」 「え、あ……」 着替えの途中で戻ってきた苺さんから、さらに顔を熱くさせる女の子の匂いが感じられ、私は慌てて身を引くと、 人前で着替えるのが恥ずかしい バレエが苦手で落ち込んでる 「ひ、人前で着替えるのって恥ずかしくないんですか……!」 と聞いてしまった。 「え、だって女の子同士でしょ? あ、もしかして……」 「な、何ですか」 「離れたところにいるのって汗がひくのを待つためじゃなくて、裸を見られるのが嫌なんでしょ?」 「それは……」 どちらかと言うと外れだ。見せるのが嫌なのでなく、見てどぎまぎする自分が嫌なのだ。 「別に気にしなくていいのに。胸だって大きいし、クラス……一年生の中じゃ一番スタイルいいほうじゃない。見せつけてやればいいのに」 「ぁ、ぅ……」 胸のことを言われ、レオタード越しに自分の胸を手で覆い隠す。分かりやすい仕草に苺さんは笑い、 「でもいいよね。私的には蘇芳ちゃんとバレエの腕は同じくらいと見てるんだけど、スタイルからか、やっぱり見栄えが違うし」 ――でも、身体が硬くてポーズは取れないけどね、 褒められているのは分かるけれど、思わず恨み節が出てしまいそうになる。と、 「あ、の……」 「うん?」 「こうなると……いうのは……その……」 女子の裸が恥ずかしいと言えず、 「……バレエの授業が上手くいかなくて、反省してたんです」 と言った。 「ああ〜だから離れてじっとして……。でも私的には仕方ないと思う。だってまだ始まったばかりだし」 「今うまく出来たできないは要領がいいか、そうじゃないかじゃない。でしょ?」 「そう……なのかな」 「そうだよ。今上手にやれてるのって、経験者のりっちゃんとか、元々踊りをやってた人でしょ」 「経験してない蘇芳ちゃんとか、私とかはまだ悩む段階じゃないと思う」 苺さんらしくない……というと失礼だけど、前向きな意見にそうですね、と微かに笑み答えた。 「そうだよぅ。落ち込むのは進み具合とかじゃなく林檎の方が上手だってこと。このままじゃ姉の威厳がピンチなんだよぅ」 「ふふ」 終わってからも質問とかしてるのにな、と呟く苺さんへ私はタオルを差し出すと、 「そろそろ着替えないとまずいわよ」 着替え終わった立花さんが腰に手を当て、私たちを呆れた目で見つめていた。 「先生に質問してたから遅くなっちゃったんだ。すぐに着替えるよ」 慌ててレオタードの肩紐に手をかける姿に、私は目をそらした。 「へぇ。終わってからも質問だなんて偉いわね。さすがクラスで一番のお姉さんだわ」 「お姉さん?」 「おお、わたしたちの誕生日を知っていたのですね」 着替え終わった林檎さんが腕を組みうんうんと頷いている。$私は、 「え、もしかして……」 「その反応は傷つくなぁ。私たちの誕生日は4月13日なんだ。だから……」 「クラスで一番お姉さんです」 胸を張る姉妹に、私も立花さんも微笑ましく笑ってしまう。 「笑われるのって心外なんだけど……」 「りっちゃんさん聞いてます?」 「ふふ。ごめんごめん。それじゃクラスでお誕生日会を開くのを提言しなくちゃね」 それはいい考えと騒ぐ姉妹をよそに私は、 (お誕生日会か……!) 初めて招かれるお誕生日会に胸を弾ませていたのである。 放課後、 お茶会の前にクラスの皆を呼び止め、バレエの時間に出た話題、お誕生日会の話が切り出された。 ――いいんじゃないか、それ。 とは、マユリさんの談だが、特に否定されることもなく“行う”という方向で話がなされた。 後は、 「さすがにクラス全員は無理だよ。ねぇ?」 「そう、ね。全員はね」 せっかくのクラス行事(?)だ。 委員長の立花さんは全員参加させたいようだけれど、私用はともかく部活、委員としての仕事が入っている者もいる。 調整が必要なのである。 「それにしても三日後か。急だけど誕生日のプレゼントの用意とかどうするかな……」 「え、プレゼントって……」 「委員長の議題には入っていなかったけど、誕生日会といったらプレゼントじゃない? 白羽さんだって貰った覚えがあるでしょ?」 問われ―― 「え、ええ……」 無い。そもそもお誕生日会に参加したことがないとは言えなかった。 「そうか……。プレゼントか……」 「やっぱり本人が喜ぶ物が一番だけど。今回は双子だし、二人に一つずつだと出費が激しいし……」 「となると、二人で一つの楽しめる物……? なかなか難しいなぁ」 確かに二つ用意するか、一つにするかでも悩ましい。それに、 「苺さんや林檎さんの好きなものって何だろう……」 「そこなんだよね。まだ付き合って間もないし。まぁ姉は分かりやすいけど、妹の方……」 眠たげに、でもにこにこと会議の進行を見つめる林檎さんを眺め、 「何が好きかいまいち分からないし……。いつも眠そうだからってマクラとか送ったら嫌みみたいだしね」 そう頬をかきながら苦笑した。 (確かに奥が深いわ) 好きなそうな物を送っても相手にとって嫌みに取られることもあるのか、と感心する。 「……それに好きだからって皆が皆同じ物を送ったら迷惑になりそうだし」 「それもあるよね。例えば自転車が趣味だとして、サドルばかり何個も送られたって迷惑だろうし」 「ふふ」 いくつものサドルの山に埋もれた沙沙貴姉妹を想像し笑ってしまう。 「となると、こっちの趣味に付き合わせるという手もあるわけだ」 「私の好きなものを相手にも知って貰いたいとか、ね。私なら何だろう……。絵でもプレゼントするかな」 「マユリさんて絵画が好きなの?」 「見るのも描くのも好きだよ。でも自分で描いた絵をプレゼントって、かなり痛いよね」 「ううん。すごく素敵だわ……!」 「そ、そうかな」 自分がプレゼントされたことを想像するだけで幸せな気分になれる。だとすれば私は……。 「本……?」 「白羽さんは自分で小説だとか書いたりするの?」 あまりにも自分にとっておこがましい問いにぶんぶんと頭を振った。 「そんな……! 本は好きだけど読むだけよ。自分で書くなんて恥ずかしいことできないわ……!」 「そう? 好きなら自分でやってみたくなるものだと思うけどな」 「まぁ、双子……特に落ち着きのない姉の方には白羽さんが選んだ本でも読んで、少し落ち着いてほしいものだけどね」 くすり、と笑い合う。爽やかに笑むさまに中性的だなと、マユリさんの中にどことなく男性を見てしまった。 「そういえばちょっと前に図書室によって、白羽さんが当番じゃない時だったんだけど、例の“嵐が丘”借りられていたね」 「ぁ、それ……」 「うん? 前に話していたから気になって棚を覗いたら置いてなくてさ」 「翻訳してない英文小説を借りる人がいるなんて、この学院は賢い人が多いんだね」 彼女にすればちょっとした話題なのだろう。でも、図書委員の私としては今頭を悩ませている事柄なのだ。 「あれ、どうしたの? 何か困りごとがあるの?」 「うん……実は少し前委員の中でそのことで話し合ったの。ここのところ本が無くなっていることが続いているって……」 「ああ。借りたまま返さないってやつね。だったらクラスまでいって返却するように言ったらいいんじゃない?」 「違うの。返却期間を過ぎても返しに来ないんじゃなくて、そもそも借りる為の手続きをしていないみたいなの」 「何も言わないで持って行くってこと? タチが悪いな」 「委員の先輩方の話では今までこういった事がなかったから、新一年生の誰かじゃないかって」 「それに四月に入ってから無くなり始めたらしいし……」 「そうなんだ……」 ふむ、と顎に手をやり熟考するマユリさん。悩ませてしまった事に私は慌てて弁明する。 「あ、そんなに大事じゃないの。そもそも盗んでいるのも確定じゃなくて――」 「先輩たちは、私が不慣れな所為で無くしたんじゃないかって言っていたし……」 「その方がずっと悪いじゃないか」 眉根を寄せたままの顔で私を注視すると、 「謂われのない誤解を受けているんじゃその方がずっと悪いよ。それに一年生が疑われているなら誤解を解いた方がいい」 言うと、教壇に立つ立花さんへと声をかける。 私が呆気にとられているうちに―― 「図書室での盗難騒ぎ……。そうね、議題に掛けた方が良さそうね」 何やら大事になってしまっていた。 私の気のせいだと言う 私が調べると告げる 「あ、あの……!」 「何、白羽さん?」 「盗難だとか疑わないで……先輩たちの言うとおり、私が間違えているのかもしれないし……」 「何度かマユリさんと一緒に伺ったけど、白羽さんの仕事ぶりを見た限りでは考えづらいわ」 「それに話し方からすると無くなったのは一冊だけじゃないのでしょう?」 「そうだけど……」 「一度のミスなら人間だしするかもしれないけど、そう何度も起こるミスではないと思う」 考え込む立花さん。クラス皆もせっかくのお誕生日会の話で盛り上がっていたのに水を差してしまった。 私がどう言うべきか悩んでいると、 「……まぁここでは注意事項ってことで一つ納めようじゃないか」 「つい面倒くさくて無断で借りた人は、図書室の返却口に返しておけばいいってことで」 「それじゃ……」 「悪意でなくついってこともあるし、例えば苺あたりは全然意識しないでやりそうだしね」 「急に振ってきてそれ!?」 重い空気は払われほっと胸をなで下ろした。 「あ、あの大丈夫です……!」 声を上げた私をびっくりした顔で見つめるクラスメイトたち。 「何が大丈夫なの白羽さん?」 「元々……その、図書委員での問題なので、私が解決します……」 語尾がだいぶ小さな声になってしまったけど…… 「せっかく皆で集まってるんだ。話だけでも聞いてみたら……」 「で、でも……沙沙貴さんたちのお誕生日会のお話をしているのに悪いわ……」 ささやき声で返す私。マユリさんも同意したのか、眉根を寄せつつも頷いてくれた。 「……とにかく図書室の本が紛失しているのは本当のようだし。クラス皆も少し気をつけておいてね」 空気を壊すことなく、了承の声が上がり私はほっと胸をなで下ろした。 ――図書の紛失騒ぎは結局解決はしなかったけれど、大事にならずに収まり、 安堵したのもつかの間―― 「……好事魔多しとはこの事だわ」 「はいはい。騒がないの。試験といってもちゃんと基礎ができているか見るものですよ。バーレッスンでの基礎運動を見るだけです」 試験、との言葉にバレエが苦手な私は内心ため息をついてしまう。 好事魔多し……いや、一難去って何とやらだろうか。 「はぁ……バーレッスンかぁ……」 こちらは隠さずに天を仰ぎため息をつく。大げさな振る舞いにレッスン室にクスクス笑いが包まれた。 (意外よね) 機敏で運動神経が佳いマユリさんだけれど、ことバレエは純粋に合わないのか、苦手な私と同じほどの上達具合だったのだ。 今では沙沙貴姉妹にも追い抜かれている程に。 「先生。バーレッスンですけど、どんな踊りが試験の対象になるんですか?」 「そうだ。それを聞かなきゃ」 「まだ始めたばかりですから踊りが対象になることはないです。ただ……」 注目する生徒らを一瞥し、 「準備運動をおざなりにしている生徒がいるため、きちんと出来ているか見るだけですよ」 「基礎運動の手順は始まる前に行っているバーを使っての屈伸運動、足の曲げ伸ばし、身体の前後屈、軽いジュテですねぇ」 「じゅて?」 「ジャンプのことを言うのですよ」 「何だ。それなら手順は覚えているし……」 「ただ雑にやっているのでは意味がありません。それぞれの手順の際の姿勢、天井から糸でつられているように――」 「そう指導しているように、しっかりとふらつかず、姿勢を一分ぐらつかずに行えるようにして貰います」 うへぇと以前と同じくマユリさんが女の子らしからぬ声をあげた。だが今度は誰も笑わなかった。 声には出さぬともバスキア教諭が言った試験は、思った以上に大変だと分かっているからだ。 (姿勢を崩さないって大変なのよね……) 基本つま先立ちで動作を行うというのは相当に筋力がいる。支える力が弱いとふらついてしまうのは当然だし。 「……ジュテか」 「……そうそう。それが一番難題だよね」 筋力だけではなくバランス感覚も必要なジュテ。ふらつかずに行うのは至難の業だ。 (これって始めて一週間で出来ることなの?) と、思ってしまう。 「あの……ダリア先生。試験と言ってましたけど、出来ない場合は再試験とか……?」 「ああ、そうそう。試験ですものねぇ……」 手を叩き何やら思いついたのか、にんまりと笑みを作った。 「それでは試験に合格できなかった生徒は、補習をしてもらいますねぇ」 「補習……出来るまで何度でもやらせるということ?」 「それじゃ罰則だよぅ!」 「罰則……ですか。それも面白いですねぇ。補習の細かい内容は考えておきましょう」 悦に入った表情で頷くバスキア教諭に、余計なことを言ったなと沙沙貴姉妹に非難の目が注がれた。 「まいったね。罰って何がくるのかなぁ」 ――当人は全く気にしてないようだけども。 「……蘇芳ちゃんはどんな罰だと思う?」 普通の補習じゃないかしら 二人きりで熱血指導とか 突然、振られ私は――。 「……罰とは言っても普通の補習授業じゃないかしら」 と答えた。 「そうなのかな。でも、あの笑みは意味ありげだったよ?」 「笑っていたのは……冗談よ。それに冗談じゃないとしたら……」 「……本当の意味で冗談じゃないって表情だね」 「え、ええまぁ……」 「蘇芳ちゃん。ユリと同じくバレエの授業苦手だものね」 確かに冗談じゃないわ、との気持ちが強い。 (そもそもバレエの授業自体、慣れていないのに……) 暗たんとした気持ちで、試験の日取りを話すバスキア教諭へ目を向けたのだった……。 苺さんの問いに何故だか私は――。 「……二人きりでの熱血指導とか?」 古いスポーツドラマにあるようなイメージを抱いてしまった。 「二人きり? 二人きりねぇ……」 笑われると思った思いつきだけど、苺さんは腕を組み、何故だかにたりと笑みをこぼす。 「ダリア先生と二人きりで指導なんて、何だかエッチな妄想ですなぁ」 「は……え、何を……」 「……何気に教諭の中では一番人気だからねダリア先生。二人きりの熱の入った指導なら受けたい人が結構いると思う」 「二人きり……!」 厳しい指導との意味が、おかしな意味に勘違いされたのかと頬に熱を感じてしまう。 「やめてよ、もぅ……」 「あはは、冗談だよ。蘇芳ちゃんは顔に出るから面白くって!」 声を上げて笑う苺さん。バスキア教諭に注意を受けるも頓狂な返しでクラス皆の笑いを誘った。 「はぁ……」 補習の内容を考えると気が重く、試験の日取りを告げるバスキア教諭を横目に見つつため息を吐くしかなかった……。 落ち込んでいたからだろう、 ――白羽さん、 不意に名前を呼ばれ、ひゃい! と変な声をあげてしまったのは。 「ごめん。驚かしちゃったみたいだね」 「あ、うん……大丈夫だけど……何?」 「ええと、それなんだけどね……」 歯切れ悪く髪を弄るマユリさんへ、何だろうと怪訝な目を向けた。 (待っていたのだから相談事よね?) 恥ずかしさから皆が着替え終わるのを待ち支度をするため、レッスン室を後にするのはいつも最後になってしまう。 遅くなってしまう私を待っていたのだから、それ相応の理由があるのだろうけど……。 「……もしかして、図書の紛失騒ぎをなぁなぁで済ませてしまったから?」 「え?」 「匂坂さんが議題に挙げてくれたのに、私があまり騒がないで欲しいみたいなことを言ったから、だから……」 気遣いを無にしたことを怒っているのかと問う。 と、きょとんとした顔つきになり次いで白い肌をすっと朱に染め、顔の前で手をぱたぱたと振った。 「違う違う! 別に怒ってなんかないよ。私が白羽さんを待っていたのは、そのぅ……」 「?」 「……今度一緒にバレエの練習をやろうって話なんだけど。ダメかな?」 赤面し視線を逸らしたマユリさんは愛らしく、 「…………」 「あ、め、迷惑だよね! それにただの準備運動な訳だし付き合わせることも……」 「ち、違うの! 何ていうか……その、誘ってくれて嬉しかったっていうか……!」 「そ、そう? よかった……断られたらどうしようかと思ったんだ」 「あの、私でいいの? 一緒に練習するなら沙沙貴さんとか……」 「苺のこと? ダメだよダメダメ! あいつに頼んだら何を言われるか……。散々馬鹿にして大して練習にならないオチだよ」 「そう……」 二人のやり取りを想像し笑んでしまう。 あ、でも……。 「練習ならもっと適任が……。せっかくアミティエ同士なんだし、花菱さんに教わったらいいんじゃないかしら。経験者みたいだし」 「立花は……もっとダメだ。情けないところを見せたくないからね」 どことなく、照れた風に言うマユリさんに、 (何だろう……) 胸の奥が揺さぶられた気がした。 「それじゃ明日から頼むよ。白羽さん」 手を取り頼むマユリさんへ私は無理矢理に笑顔を作り頷いたのだった。 マユリさんからの申し出を受けたときは何故だか複雑な気持ちだった。 だけれど、 “バレエの練習”を二人で行うという行為に、ゆっくりと―― アミティエとの秘密を共有出来たのではないかとの思いがわき起こり、純粋な嬉しさがこみ上げてきたのだ。 興奮からなかなか寝付けず、朝、寄宿舎の食堂にて食事を取っている時も昂ぶりはまだおさまらず、 食事を終え、教室へ向かうため自室から鞄を取りに行くまで続いていた。 そう、 浮き足だった私の心を静めたのは違和感だった。 自分のベッド――三段ベッドの一番上に用意しておいた鞄を取ろうと背伸びをした際に……不意に目に入った情景。 「あら……」 普段、整理整頓をかかさない立花さんのベッドの上に、乱雑に本が積まれていたのを目にしたからだ。 高ぶっていた気持ちは細かいことが気になる性分に阻まれ―― アミティエがどんな本を読むのかと気になったこともあり鞄を取ると、背表紙を眺めた。 「……これ、学院の図書だわ」 積まれていた本の背表紙に、学院の図書である印が刻まれているのを認めた。 神学を勉強しているのかしらと、背表紙のタイトルを読もうと目を細めた時、 扉の開く音に驚き顔を上げた。 「あ、やっぱり居た! 早く教室に行こう」 おはよう沙沙貴さん、と挨拶を交わし鞄を握り直すと、 「本、倒しちゃった……」 驚いた拍子に鞄で崩してしまったのか、慌てて本を手に取り積み直す。 「どうしたの? 早く行こうよぉ」 「ちょっと待って、今本を……」 本の背表紙に書かれた、$“Wuthering Heights”という文字が目に入った。 「これって、嵐が丘……」 紛失したと思っていた本が何故ここに? それじゃ他の本も? 積まれた本の背表紙を目で追うと……全て、今まで無くなっていた図書だ。 それじゃ……。 「どうしたの蘇芳ちゃん? 固まって?」 ひょいと手に持つ本をのぞき込む。慌てて私は、 背中に隠す 違うの! と叫ぶ 持っていた図書“嵐が丘”を背中に隠した。 「……そんなに必死になって、なんか面白いものを隠してるんでしょう?」 「ち、違うわ。これは、その……」 「そこって委員長のベッドだよね? もしかして委員長の恥ずかしい秘密が?」 頭を振るが、苺さんは何を勘違いしているのかじりじりと間を詰め、 「大丈夫、私が思っているやつなら秘密にしとくから、さっ!」 言うが早いか飛びかかってきたのだ。 「きゃっ!?」 「ほらほら早く渡しちゃいなって!」 「ぁ、そ、そこ駄目……! ぅぅ……!」 本を取られまいと必死で格闘するも、苺さんの小さな手が私の腰に、お腹に、胸に当たり、羞恥から悲鳴をあげてしまう。 「ぁ、や、きゃ……!」 逃げようとした弾みで転んでしまい、したたかにお尻を打ってしまった。 「ご、ごめん! 大丈夫だった?」 「ええ、大丈夫……あっ!」 「あ、これ蘇芳ちゃんが落としたみたいだから拾ったんだけど。隠してたやつってこれでしょ?」 「女の子が読んじゃ駄目な本、とかじゃなかったんだね」 差し出された手を握り、苺さんが渡してくれた図書を受け取る。 「佳かった……。嵐が丘……どこも折れたり破れたりしてないみたい……」 「え? それって嵐が丘なの? 英語で分からなかったけど」 きょとんとした顔つきで問う彼女。私は、 「ええと……」 英字の題字を分からないかも、とか。 自分は余計な事をしただけだったのかも、とか。 「それって盗まれたって話してたやつだよね?」 彼女の言葉がそう吐かれた事ですべて徒労に終わってしまったのである……。 「違うの!」 と叫んだ。 「おお……! いきなり叫んでびっくりするよ……」 「あのね。これは、その……」 「手に持ってる……英字の本?」 しっかりと抱いていた図書“嵐が丘”を注視する苺さんに、さっと血が上った私は、違うの! と再び叫びぶんぶんと本を振った。 「こ、これは立花さんが……」 「ああ、下の段って委員長のベッドだよね? 本がいっぱい積まれてたってことは……蘇芳ちゃんが貸してあげたの?」 「そ、そうじゃなくて……」 質問されればされる程、冷静でいられなくなる。頭の中が白くなっていって……。 「それじゃ、何をそんなに焦って……」 「ぁ、ぅ……焦ってなんか、この嵐が丘を見つけて……」 ――嵐が丘? 私の言葉を苺さんがしっかりと反復したのを聞いて、 「それって盗まれたってやつだよね?」 そう尋ね返された時、急速に頭が冷え代わりに強い後悔の念が押し寄せてきた……。 ――一般授業の間、 ――昼食、 ――バレエの授業と、 何事もなく過ぎていった事からすっかり安堵しきっていたのだ。 だから、 何故こんな事に、 「それってどういうこと……?」 静かな、抑えた声というのはこれ程恐ろしいものなのかと、 怒鳴りつけるよりも強く、張り詰めた緊張感が場を支配した。 「え、だから本が見つかって良かったねって話だよ?」 緊張感のあるこの場の空気が分かっていないのか“お茶会”で先刻発言したように、 「今朝、委員長のベッドに紛失していた本が置いてあって、見つかったから佳かったねって話しただけだけど?」 湯気立つ紅茶を傾けつつ言った。 (まさかお茶会で話すなんて……!) 今朝のことを口に出す素振りがなかったから安心していたのに。 (ああ……!) 私が危惧した通りの展開になっている。 「それってわたしが盗んだように聞こえるんだけど?」 「……ああ! 言われてみればそうだねぇ。だから蘇芳ちゃん隠そうとしてたのかぁ」 「白羽さんが?」 「ぁ、ぅ……私……」 立花さんを“嵌めよう”としていたのかと、彼女から疑われていると思い顔を伏せる。 嘘、まさか――。 クラスの皆がそう囁いているのが聞こえ、ますます私は居たたまれず、ただ赤面しつま先を眺めることしか出来なかった。 「蘇芳ちゃんと委員長のベッドに無くなっていた本が積まれてあったのを見つけたんだ」 「そうかぁ! 委員長が誤解されるかもだから、あんなに慌ててたんだね」 問われても答えることが出来ない。 「……その言い方だと白羽さんがわたしのベッドに本を置いたのを、沙沙貴さんに見られて、慌てたようにも聞こえるわよ?」 「ええ? 違うよぉ。蘇芳ちゃんは大人しいもの。そんなこと出来るわけがないって!」 「……それにはわたしとしても同じ意見」 おやつのドーナツを口に含みながら林檎さんが言う。姉妹ともに同意してくれるのは嬉しいけれど、 「そうなると、沙沙貴さんたちは、わたしが本を盗んだ犯人だと思っていることになるわね」 冷たい立花さんの口調が心を苦しくさせた。 「やだなぁ委員長。そんなに堅苦しく考えることはないって。借り出しの手順が面倒で、部屋にためてただけでしょ?」 「ちゃんと……今はいないけどユリに言われて、返すために用意してたんだからいいじゃない」 「……そう。魔が差すときもある」 二人して同時に大げさに頷いてみせる姉妹に、こわばった空気は緩みクラスの皆にも微かな笑みがこぼれた。 「……冗談じゃないわ」 「花菱さん……?」 「冗談じゃないって言ったの。わたしは規律を守らない人が死ぬほど嫌いなの。もちろん私自身がそうなりたくないと思ってる。だから……」 「ひぃっ」 「認めるわけにはいかない。わたしは自分のベッドの上に盗まれていた本なんて置いていない。誓うわ……!」 立花さんらしくない強い口調に押され、噂していた皆も口を閉じていく。 でも、 (これじゃ、反感を買うだけだわ……) 強く否定し、ねじ伏せたとしてもそれは一時だけ。 証拠がない以上、どうしても消えないしこりは残る。 「……花菱さん」 立花さんの姿に“民衆の敵”という映画の台詞の一文が浮かび、小さく嘆息した。 “俺達のまわりには二種類の人間がいる。敵か味方だ” 私は彼女の味方になれるのだろうか、 冷めてしまった紅茶を見つめ、私は強くそう思った……。 ――何十度目かの寝返りを打ち、私は深く長いため息をついた。 何故、 何故、早く苺さんに口止めしておかなかったのだろう。 彼女の性格を考えれば一番盛り上がりそうな場面で口を開くだろう事はわかっていた筈なのに。 “お前は、自分のこうあって欲しい理想ばかり言う” この言葉は、かつて義母から言われた台詞だ。胸に突き刺さっていた言葉だけれど、やはり突き刺さるにはそれだけの理由があるらしい。 「はぁ……どうしよう……」 私がうまく立ち回れなかったせいで“図書紛失の犯人”が立花さんだと思われてしまった。 お茶会の場では否定したけれど、強い言葉は反感を買ってしまう。 冗談じゃないと切って捨てた後も、クラスメイトの内緒話は終わらなかったし……。 (……でも本当に誰が置いたのだろう) 起床してから朝食に向かうまでの間、部屋には常に二人以上いた。食堂で朝食を終え戻ってきた時に置いてあったことを考えると……。 (朝食の間の三十分だけだわ。いえ……朝食は皆で取るのだから……) 朝食が始まる直前、私たちが部屋を出たあとの短い時間。 これなら絞り込めるかもしれない。 かつて好んでたくさん読んだ、推理小説の中の人物になった気分がし、私は不謹慎ながら少しだけわくわくした。 「……何だか探偵の気分よね……」 「……何が探偵だって?」 「きゃ……!?」 叫び声をあげそうになった私の口へと温かい手でふさがれ悲鳴を止められる。 (まさか犯人……!?) 混乱し、夜目を凝らし相手を見ると、パジャマ姿のマユリさんが私の口を押さえたまま、自分の唇に人差し指をあてがっていた。 「……静かに。ごめん、驚かせちゃって。ちょっとそっち行っていいかな……?」 「え、そっちって……ベッドにですか?」 「……ごめんもうちょっと声潜めて。今からだと部屋の外は憚られる時間帯でしょ?」 上気したままの私は思考が追いつかず言われるがまま、ベッドを開けるために壁側へと寄る。 「……ありがとう」 狭いベッドに隣り合い、身体が寄せられたことでパジャマ越しに彼女の体温を感じた。 お風呂に入った後だからだろうか、髪が、身体が、柑橘系の柔らかな匂いを運んできた。 (ぅぅ、恥ずかしい……!) いきなりの事態に呆気にとられていたけど、女の子同士でもこれは……。 「ごめん。狭いよね。ちょっと当たっちゃうけど、そこはお互い様ってことで」 シングルベッドに二人横になっている体勢はあまりに近く、吐いた息がかかる程だ。 私は暗がりに感謝した。赤面しているのを見られなくて済むから。 「あっ、あのっ、こんな時間にどうしたの匂坂さん……」 「ちょっと話しておきたいことがあってさ。込み入った話だから、二人きりの方が良かったんだけど……」 視線を下に向ける仕草に、ああ……と頷く。 「……電気をつけてテーブルで話していたら花菱さんが起きちゃいますものね」 「……そういうこと。立花には聞かれたくないんだ」 眉根を寄せ、声を潜ませた彼女に、 (図書の紛失騒ぎを聞いたんだわ) と、察した。お茶会の時マユリさんは居なかったけれど、友人の多い彼女の耳にはすぐ噂話として入ってしまったのだろう。 「……あの、お茶会の話だけれど……」 「……そうだよ。酷いじゃないか」 「酷い……。そうよね、決めつけたりして……」 「うん。決めたんだから、ちゃんと来てくれなくちゃ……」 「ええ。来ないなんて……はい?」 何だろう、何だか。 「お茶会に行ってたんだろ? 約束したじゃないか」 「……図書の紛失の話をしているんだよね?」 「え? 紛失って、本またなくなったの?」 きょとんとして問いかけるマユリさんに私は勘違いしていたことに気づく。 「あの……約束って……」 「前に約束したでしょ。バレエの練習に付き合ってくれるって。放課後待ってたのに……」 「あ、ああ……!」 「……完全に忘れていたんだね」 間近で恨みがましい目でじっと見つめられ、更に発熱した私はごめんなさい、と大きく頭を振った。 「っと髪があたるって。まぁ、わざとじゃないならいいんだ。ついぽろっと忘れてしまうことあるしね」 「本当に、その……」 「うん。もういいから。だから……その」 目を逸らすマユリさん。何だろうと首を傾げると、 「……もうちょっと身体を離してくれないかな。自分から来といてなんだけど、この体勢だと変な気分になりそうだし」 「……っ!」 慌てて謝罪した折に身を寄せてしまったのだろう、完全に密着状態となり、私の額と彼女の唇が触れそうになっている。 「……大声をださないで、ね?」 「……はい」 再び悲鳴をあげそうになっていたのを制され、私は少しずつ身体を離していった。 「……今日一人で練習していたんだけど、やっぱり補助がいると思うんだ」 「それと客観的に見られる視点も。鏡でチェックはできるけど自分視点だと欠点が分かり難いしね」 「そう……なんですか……」 「うん。明後日には試験だし、明日の放課後みっちり練習しようと思うんだけどどうかな?」 「私は……」 刹那、立花さんのことが――お茶会での出来事が思い浮かぶ。 (誤解を解くために動いた方がいいんじゃ……) 下で寝息を立てている筈の立花さんを思い逡巡する。 私が誤解させたようなものだし、このままにするのも―― 「……迷惑だったかな」 「ち、違います! そんなんじゃ……!」 「……しっ、大声をだしたらダメだよ。何か予定が入っているの?」 再度問われ、私は―― (マユリさんとの約束……) 立花さんが誤解される元になったのは私の所為だ。だけど、マユリさんとも約束を……。 「……私」 「……うん?」 「……放課後の練習、一緒にやります」 「……いいの?」 約束ですから、そう伝えるとマユリさんは柔らかく微笑み、そっかと目を細めた。 (……試験は明後日、誤解を解くのは試験が終わってからでも遅くないわ) そう自分に言い訳し、下段のベッドで眠る立花さんを思う。 胸の奥の芯が掴まれた気分になり、少しだけ胸が苦しくなった……。 ――放課後、 マユリさんとの約束を果たすため、バーレッスンの練習を始めたのだけど……。 「思ったよりも人が居ますね……」 「明日試験だし、いくら簡単とはいえ、少しは通しでやっとこうと思ったんじゃないかな」 二人だけのレッスンかと思いきや、レッスン室には一年生ばかり十人以上が集まり明日のための練習をしていた。 「……やっぱり真面目な校風なんですね」 「真面目というよりバレエの授業を受けたくて学院に入っている子もいるくらいだから、まぁ普通なんじゃないかな。それに……」 くるりと後ろを向き、私から顔を背けると、 「……ダリア先生の言った罰っていう一言も効いていると思う」 背を向けては居るが、鏡には今にもため息を吐きそうなマユリさんの表情が映っていた。 (確かに何かとんでもないことを言い出しそうな気もするわね……) バスキア教諭は優しく穏やかではあるが“天然”だ。 すごく易しい課題か、二度聴きしてしまいそうな程の無体な事も言い出しそうではある。 「罰則免除の為にですか、だいぶん集まっているけど……。ちょうどクラスの半分が参加しているみたいですね」 「え、そんなに?」 先ずはマユリさんからと練習していた為、気にしていなかったのか、私に言われ指さし確認する。 「多いとは思ったけど、大体クラス半分もいるのか。立花や沙沙貴姉妹がいないのが救いだな……」 「ふふ……」 げっそりとした顔つきで言うマユリさんに笑んでしまう。でも、 (大体って?) さっき目で数えていたからこの場に居る人数は覚えている。 ちょうどきっかり十二人だ。だから、大体なんて言い方はおかしいと思うけれど。 「……細かいことが気になるのは悪い癖だわ」 本好きだからか、細かい言い回しの間違いが気になってしまう。 「うん? どうしたの?」 「あ、いえ何でもないんです。それよりもう少し通しで練習しますか?」 「そうだね、もう少しやりたいところだけど……。そろそろ交代しよう。白羽さんも練習しとかないとね」 「そう……ですね」 試験が危ういと嘆いているマユリさんと私は同じ程度の技量だ。いや、 (身体が堅いぶん私の方が不利だわ) 堅い自分の身体を恨めしく思いながらも罰則を逃れるため、力なくひとつ頷いたのだ……。 「もうちょっと……反れないかな」 呆れたように言うマユリさんへ、 ――無理です、 と、私は息も絶え絶えに告げた。 準備運動の一連にある足の曲げ伸ばし。そして屈伸。 どうにも身体が堅い私はそれらを上手くこなすことが出来ず、どうにかして柔軟性を身につけようと、今やっている練習法が―― 「これって……結構、後の方で習うポーズじゃ……!」 「アラベスクだね。せっかく柔軟性を鍛えるんだ。いいとこどりをした方がいいでしょ」 「いい……とこどりって……ぅぅ!」 足が下がってくると、身体を支えてくれているマユリさんが力を入れるよう促してくる。 「これなら身体を柔らかくするのと、バーレッスン最後のジュテでのバランスも鍛えられるし。一挙両得ってやつじゃないかな?」 朗らかに問いかけられ、違うのではと思っても言えず曖昧に頷く私。 「そろそろ……ぅ……終わりでいいんじゃないかと思うんだけど……」 「まだ始めたばかりじゃないか。あ、上体が戻ってきちゃってるよ」 「ひぅ……!」 補助のため彼女の手が私のお腹――いや、少しだけ胸に触れ、びくりと身体を竦ませてしまう。 「え、もしかして筋おかしくしちゃった……?」 「ち、違うの……ただ、少し……ぅぅ……」 心配してか身体を寄せるマユリさん。 その所為か手はさらに上にあがり、胸の下半分にあてがわれる形になってしまっている。 (ぅぅ……やっと馴れてきたのに……!) クラスメイトのレオタード姿もようやく見慣れてきたのに……。 アミティエの手がもう少しで敏感な部分に触れそうになり、羞恥から肌が朱く染まり背といわず全身に汗を掻いてしまった。 「だいぶんほぐれてきたみたいだね。辛いなら少し休憩しようか?」 「え、ええ……その方がいいかも……」 胸に当てられる手に全神経が集中している私はたどたどしく答えた。 どうやら発汗も体中が朱に染まっているのも運動からだと思ってくれているらしい。 (佳かった……ああ、でも!) 身体を寄せることで強く香るマユリさんの匂いは更に私の羞恥を煽り、発汗させる。 (どうしよう、汗の匂いが……) マユリさんの汗の香りはいいが、私の汗の匂いが気にならないか気が気ではなくなる。 (もう終わって……!) 「それじゃ手を離すね」 ようやく腿を支えてくれていた手、そして―― 「あぅ……!」 「ご、ごめん。何かしちゃった……?」 「へ、平気。ただ……ちょっとまだ身体が堅くて……」 空気が抜け座り込む私。 胸に当てられていた手を離す際に、一瞬敏感な部分に触れ、変な声が出てしまったなんてとても言えない。 「そう。でも随分さまになってきたし、後は通しでやってみようか。身体も暖まってきたみたいだしね」 「……休憩にしようって話だったのにスパルタですね」 恨みがましく漏らした言葉に、マユリさんはそうだったっけと苦笑し額を掻いた。 「でも鉄は熱いうちに打てっていうし。もう少しやってから休憩にしよう」 「そうですね」 差し出した手を握り、立ち上がる。 何だか……。 (これって本当の友達みたいよね) 何げなく差し出された手をすぐに握りかえせるなんて。 「……アミティエだからだろうけど」 「うん? どうかした?」 「何でもないの。それじゃ続けましょう」 まだ敬語は取れないけれど、言葉をつかえることなく話せているだけでも進歩だわ。 「それじゃ、チェックするから通しでやってみて」 私は頷くと鏡の前に立ち、基本姿勢の第一ポジションのポーズを取った。 仄かに薄暗く、古書の香りに包まれ私はようやく―― 「はぁ……佳かった……」 そう呟くことが出来た。 「本当に、ね」 虫干しを終えた古書を抱え、丁寧に執務机に置くとマユリさんは私の言葉に同意した。 「美味しく昼食がとれてほっとしたよ。試験に落ちてまずいご飯になるのは嫌だったからね」 ――お昼前にあったバレエの試験。 昨日の練習の甲斐があってか、マユリさんも、私も、バーレッスンの試験に合格することが出来たのだ。 まぁもっとも、 「落ちた人はいなかったんだから、私たちがダメだったら晒しものだったものねぇ」 「ええ。すごくどきどきしたわ」 名前の順ずつ行われる試験。 不合格者が私の番になるまで出なかった時は正直に言って……。 私が初めての不合格になるのではないかとプレッシャーもひとしおだった。 「まぁよかったよ。アミティエ三人とも合格だし。落ちたら立花の顔見られなかったものなぁ」 「花菱さん……」 「うん? 彼女がどうしたんだい? そういえば試験中も浮かない顔つきだったけど、立花はバレエ得意だったろ?」 あのお茶会のことがあってか、試験の際も表情に険があった。 (何とか誤解をとかないと……) 「白羽さん? 本当にどうしたの」 「……ううん、何でもないの。お昼休みの時間なのに、本の片付け、手伝って貰ったから助かっちゃったわ」 「昨日は私の方が手伝って貰ったんだからこれくらい何でもないよ。放課後、すぐにお茶会に行けるようにしとかないとね」 「ええ。沙沙貴さんたちのお誕生日会ですものね……」 四月十三日、 沙沙貴さんたち双子姉妹のお誕生日だ。$本当はこのお誕生日会も立花さんが発起人だったのだけど……。 (気まずくないのかな) 言い方は悪いが、お茶会の席で糾弾する形になったのは沙沙貴さんたちが切り出したからだ。 その沙沙貴さんたちを祝う……というのはどういう心持ちなのだろう。 「立花がお茶とケーキを用意するだろうから、私は何か簡単なお菓子でも作っていこうかな」 「……マユリさんお菓子作り得意だものね」 「好きが高じてってやつだけどね。購買で材料を買って……。そうだ寮のキッチンを貸して貰おうかな」 楽しげにクッキー、パウンドケーキも……と呟いているのを見て、少しだけ心が軽くなる。 (ぎくしゃくしたのなら私が仲を取り持てばいい) 「お、いらっしゃ……先生じゃないですか」 「うふふ、面白い言い方をなさるのねぇ。白羽さんのお手伝い?」 「はい。先生は……」 二冊ほど図書を手に持っているのを見、 「返却ですか?」 「ええ。それと久しぶりに近代小説を借りていこうかと思っているの」 奥の棚、寄贈された外国作家の棚へと行き―― 「あら、借りようと思っていた本がないわ」 と言った。 ……何故だかやる気になっていた心が少し削がれた気分になる。 「ああー、もしかして嵐が丘とかですか?」 「え、いえ。違うけど……」 流し見るようにしてマユリさんの視線が私を捉える。でもそれは一瞬。 「そうですか。私も借りようかなって思っていたんですけど、貸し出し中だったのでもしかして……と思って」 どうやら図書の紛失は口をつぐんでくれるらしい。 「最近寄贈されたばかりだからあると思ったのだけど……残念ねぇ」 「最近って、ここにある本みんな古いと思ったんですけど……。寄贈とかってよくあるんですか?」 「聖書の授業を教えている先生が本好きで、読み終わった近代小説を寄贈してくれているのよ」 「その棚の……英字の近代小説ですか?」 「そう。さっき匂坂さんが言った嵐が丘もその先生が寄贈なさったのよ」 へぇと腕を組み頷くマユリさん。$私は、 「あの……」 「何かしら?」 「その……先生が借りようとした小説って……」 「ああ。それ、ちょっと知りたいよね」 苦手なバスキア教諭とはいえ、本好きの性としてつい尋ねてしまった。バスキア教諭は少しだけ恥ずかしそうに頬に手をやると、 「たぶん二人とも知っているんじゃないかしら。映画にもなったし……。“ナルニア国物語”というのだけど」 私は本の題名を聞き、バスキア教諭らしいなと察し、なるほど――と頷いた。 「え、白羽さん意外じゃないの? ダリア先生って近代小説と言っても、もっと昔の……堅い本を読むものだと思ってたよ」 「あ、違うの。それなんだけど……」 納得したのは私の推論に合致したからだ。私は向き直り、バスキア教諭へと尋ねる。 「あの……もしかしてなんですけど、一度日本語訳したものを読んでいらして――」 「原本が寄贈されたということで借りにこられたのではないですか?」 私の言葉にマユリさんはますます眉根を寄せ怪訝な顔つきになる。バスキア教諭は対照的に破顔し手を胸の前で合わせると、 「そうなの。白羽さんは知っているのね?」 そう尋ね返してきた。やはり私の推察通りで正しかったらしい。 「どういうこと?」 「……ええとね、“ナルニア国物語”は、映画や日本語に訳したものはだいぶん削がれて描かれていたけど――」 「実際はかなり保守的なキリスト教的世界観に基づいて書かれたものなの。文中であきらかにイスラム教を敵視した文言があったり……」 ちらりとバスキア教諭を見やる。続く言葉は現代ではキリスト教のもっとも繊細な話題だからだ。 「……女性に対して偏見を持った記述もあるの」 「分からないな。何で保守的だと女性に対して偏見があるんだい? だってシスターだっているじゃないか」 「そうね。もっともな質問だわ。それは次の聖書の時間で議題にしましょう」 やんわりとマユリさんの疑問を受け流し、私へと向き直る。 「博学なのね白羽さん」 「いえ……」 ほかにもアメリカのキリスト教右派が原本を政治的に利用しようとした。 もしくは“指輪物語”のトールキンの話を持ち出そうと思ったけれど、シスターの前で言うことではないと思い直し、言葉を飲む。 「白羽さんの言うように原本と、翻訳したものでは削られた箇所もあるというから、もう一度読んでみようと思ったの」 「色んな思想に触れておくことも大切ですからね。でも置いてないのは残念だったわ……」 「返却されたらすぐに教えます」 「ありがとう」 お辞儀をし、執務机に返却本を置くと楚々とした足取りで退出した。 「……よかった」 「え?」 「白羽さんが図書委員で、さ。立花が推薦したときは迷惑じゃないかと思ったけど、これだけ造詣が深いんだ。本当に本が好きなんだね」 本好きに異論はない。私は顔が熱くなるのを感じながら、ええ、と首肯した。 「でも本の話、意外だったよ。くだんの作品は映画で見たことがあるけれど、全然キリスト教がどうとかなんて感じなかったからさ」 「同じ作品でもそんな違いがあるんだね」 「ええ。外国から入ってきた作品は直接的ではなくても、思想を作品の中に潜ませるとか……」 (……潜ませる) 「白羽さん?」 自分の吐いた言葉が私の中の何かを引っ掻いた。 どうにも収まりの悪い何か、だ。 「どうしたの、何だか幽霊が通り過ぎたみたいな顔をしているけど」 「幽霊……幽霊……そうだわ……」 「ちょ、ちょっとまさか本当に見たなんて言わないだろうね……?」 気味悪げに私を見上げる彼女の言葉は、 (そう。幽霊がいたんだわ) 私には別の示唆となって囁かれた。 「……練習中に話した言葉、」 そして“物語に潜ませる”という、鍵になる言葉。 「――すみません。私、出かける場所が出来ました」 一つ礼をすると背の声を振り切り、私は音高く床を蹴り、幽霊の元へと向かった。 学舎を出―― 近道のため森を抜ける。 そして、 幽霊の住まうドミトリーを望む。 ――父と子と聖霊の名において、 食前のお祈りで吐かれる言葉と同じだと、私は思う。 長らくキリスト教では“女性”という性はないものとして扱われていた。 父と子。この中に“女性”は含まれないとして。 (含まれない女性……) 私は、バーレッスンの練習の際にマユリさんが言った台詞。 大体、という言葉が気になっていた。 きっちりとした物事にこだわる彼女が何故、そんな曖昧な言い方をしたのか。 私は、歩みを進めるごとにナンバーが記されているドアを注視した。 「……私の考えが確かなら」 ナンバーのないドアの前で足を止める。 部屋の扉をノックすると、小さく、だが通る声で、どうぞ――と囁く声が聞こえた。 寄宿舎の幽霊は、 ぎぃ、と車輪を軋ませ、 「やぁ、ようやく見つけてくれたんだね」 一夜が明け―― 教室を見回した私は小さなため息を吐いた。 (やっぱりこうなってしまうのね……) 朝礼の始まる前の時間、今までは立花さんの周りには彼女の人徳から、頼れる委員長という肩書きから人が溢れていた。 でも、 「…………」 今や彼女の周りには人はなく、だからだろうかどことなく硬質な雰囲気が彼女の周囲に漂っていた。 (私と同じだわ) どう話しかければいいか、どう向き合えばいいか分からなかった。 昔の自分もかつて通っていた教室で同じような雰囲気を醸し出していた。 接することに不安があるから、誰とも触れあいたくない。硬質な態度になってしまう。 「……やっぱり私がどうにかしないと」 「ぁ……」 刹那立花さんと目が合った私は慌てて逸らし、アミティエに掛けられた誤解を解こう、そう心に決めたのだ……。 ――とはいうものの、 「……どうやって犯人を見つけたらいいだろう」 放課後、人気のない廊下で頭をひねった。 休み時間や、お昼休みの時間を利用して犯人を突き止める証拠を得ようと考えては見たものの。 「気ばかりはやって何も思いつかないし……」 一つ大きな吐息をつくと、前髪ごしに額に手を当て熟考してみた。 (大体警察や探偵じゃないんだから、ノウハウとかあるわけじゃなし……) 「探偵?」 何かが引っかかり声に出す。$そうだ。これなら……。 「……自分がどうするかじゃなく、私が好きな探偵小説ならどうするかを考えればいいのよ」 一人だった私が編み出した“ごっこ遊び”。 好きな人物になりきって彼、彼女ならどうするか、役になりきって遊ぶことは楽しかった。 「探偵、探偵ならどうするか……」 小説や映画の中の彼等なら―― 「まずは事件現場ね」 現場百遍とは刑事のことばだったかも、と思いつつもその気になった私は寄宿舎へと向かった。 「さて、来てみたはいいけれど……」 本が置かれていた立花さんのベッドに向かい立ちすくむ。 「指紋採取とかできるわけもなし……」 映画ならベッドから立花さん以外の髪の毛が見つかり、採取してDNA検査となるところだけど、当然そんな技術は持っていない。 なら、 (とりあえずベッドの……下とかを探ればいいのかしら) 祖父がベッドの下は秘密を隠しているものだから、決して触れてはいけないと教えてくれた。 ならば、いや、だけど……。 「……抵抗があるわね」 人の秘密の箇所を漁ることに抵抗があるのは当然だ。 しかもベッドという場所は、もっとも触れられたくないプライベートな場所だろう。 (どうしよう) 手を伸ばしかけるも――引っ込める。葛藤から幾度となく繰り返してしまう。と、 「何をしているの」 「きゃ……ッ!?」 不意に肩口に呼び掛けられ飛び上がってしまった。 恐る恐る振り向いた先には―― 「は、はなびしさん……」 いつの間にか背へと忍び寄っていた彼女が、手を腰に探るような目で私を注視していた。 「……わたしは何をしているのと聞いているのだけど」 「え、あ、あの……」 「もしかしてわたしのベッドに何か置こうとしていたのかしら?」 感情なく笑む彼女に私は勢いよく頭を振った。立花さんは怪訝な顔つきを崩さず、ぎゅっと握られた私の手を見る。 「何も持ってないようね……」 「あの、私は……!」 言った方がいいのだろうか。 「……何?」 余計なお世話だと吐き捨てられないだろうか。 「わ、私、その……」 「怒っている訳じゃないの。何か用があったのなら話して」 硬質な声に赤面し、喉がからからになる。 ――白羽さん? 尖った声音に私は。 「私……犯人を捜しているの」 「犯人? それって……」 「図書の紛失を立花さんの所為にした人……。$わた、私、立花さんが犯人だなんて思っていないから!」 か細く言っていた言葉は、徐々に叫ぶような言葉へ変わっていた。 感情がコントロールできずに手は震え、頬と言わず首元まで朱く染まった。 「…………」 私の言葉に硬直したままの立花さんはようやく、目をぱちぱちと瞬かせると、一歩二歩私へ向かい歩み寄る。 手を上げるのを見、叩かれると身を竦ませた。と、 ぎゅっと握られる手に顔を上げる。 「――嬉しい」 「え?」 「嬉しいわ!$白羽さんに犯人じゃないって言って貰えて!」 握られた手は熱く、彼女の頬も紅潮し染まっていた。 破顔した立花さんを目にして、私の胸は熱くなりじわじわと喜びが満ちてゆく。 (言って佳かった……!) 「あの時、お茶会できっぱりわたしじゃないって言ったけど、本当は不安だったの。皆、信じてくれないんじゃないかって……」 「教室では……昨日の今日だからってこともあるだろうけど、話しかけられなかったし……」 「そう……だったの」 しっかりとした彼女でも不安になることはあるんだ、と意外な告白を受けた気がした。 「白羽さんにも教室で目が合ったら避けられちゃったし」 「あ、あれは……!」 「うふふ。冗談。白羽さんが目を逸らすのはいつもだものね」 はにかむ彼女に私も照れ笑いを返した。そして握ったままの手に視線を落とす。 「……でも本当に心強いわ。やってないって言ってくれてありがとうね。白羽さん」 「う、うん」 淡く微笑む彼女の姿はとてもか細く抱きしめたく思ってしまう。とたん、握られた手を意識してしまい発汗してしまう。 (手を離してください、なんて言ったら……) 誤解されてしまうよね、と何やら愁眉を曇らせている彼女を伺い見た。すると、 「……白羽さん。犯人を捜しているって言っていたわよね」 「え、ええ。そうだけど……」 「その犯人捜しなんだけど、わたしも一緒にさがしていいかしら?」 「え……」 「だってわたしの無実の為にしてくれていることなんでしょ?」 「それなのにわたし自身が何もしない、動かないなんてことあり得ないわ!」 さらに強く握られる手。彼女の覚悟の程が分かり、私は、 「……うん。一緒に探しましょう。花菱さん」 と告げたのだ。 「わぁ! ありがとう!」 「わわ!」 握ったまま踊り出す立花さんにつられ、私もワタワタとたたらを踏んでしまった。 ようやく腕を振るのを止めてくれたところで、これからどうするの? と彼女が切り出す。 「まずは自室を調べようとしたのだけど……」 ぐるりと見回すがおかしな所があれば直ぐに気づいた筈だ。 肩を落とし言う。 「……此処には何もないだろうし、まずは図書室に行って紛失していた本を調べてみようと思う」 「なるほど……。ふふ、何だか刑事になったみたいね」 同じようなことを思うのだな、と気恥ずかしさを感じる。 「それじゃ行きましょう」 「ええ花菱さん」 言うと、ようやく手を離し私の顔を恨みがましそうな表情でじっと見つめた。視線に戸惑い小首を傾げてしまう。 「さっきまでは名前で呼んでくれていたのに」 「え……」 「立花さんが犯人だなんて思っていないから、って」 心の中で名前を呼んでいたから、昂ぶりからつい出てしまったのだろう。 私は赤面し、ごめんなさい、と謝った。 「……立花って呼んでくれて嬉しかったのに」 口の中で呟いた声は聞こえず、小首を傾げると、 「さぁ、捜査開始よ!」 何故だか頬を赤くした立花さんは宣言し、再び私の手を取ったのだ。 ――図書室は人気がなく、 仄暗い空間に、二人だけの足音を響かせていた。 「……誰もいない。図書委員の人は何をやっているのかしら」 「貸し出しの時間が過ぎたら帰って良いことになっているから……」 そうなの、と呟くも納得していない風の立花さんへ、 「私は貸し出しの時間が過ぎても居座っているけど、他の図書委員さんは貸出時間の午後五時が過ぎたら帰ってしまうみたいなの」 と答えた。 「そうだったの。蘇芳さんがいる時間にしか借りに来なかったから、閉校時間になるまで残っているものだと思っていたわ」 話しながらも、執務机へと行き、裏に回ると棚を探った。 「それは……」 「何があるか分からないから、まだ返却していなかったのよ」 執務机下の棚から紛失届のあった図書を取り出し、机に置く。 立花さんは罪をなすりつけられた現物を前にしてか眉根を寄せ、図書をじっと睨んだ。 私は本を手に取ると、図書室へ来るまでに考えていた事を口に出す。 「この本から犯人を特定しようと思っているの」 「え……特定ってそんなこと出来るの? あ! そうか、そうね。本に貸出人の名前が書いてあれば分かるわよね!」 「……実はそう思って紛失扱いになっていた本の、最後の貸出人の名前は調べておいたの。でも、共通する名前はなかったわ」 そう、と当てが外れ落ち込み下を向くも、 「本当に探してくれていたのね、嬉しいわ」 と、破顔しお礼を言ってくれた。 「う、うん。だから今度は別のアプローチの仕方をしようと思って」 「アプローチ?」 私は紛失していた十冊の本の一つを手にし“マグダラのマリアの生涯”と書かれた表題を撫でた。 「本の種類、無くなった日時から借りた人物像を調べようと思うの。それだけである程度は絞れると思うし」 すごい、と手を叩く立花さんへ笑みを返すと、紛失した日時、借りた人物を特定するため、貸し出しカードと控えの帳面を取り出した。 「どう? 何か分かったかしら」 貸し出しカードを執務机に置き、貸し出し・返却リストを調べていた私は力なく頭を振った。 「十冊の本すべてでなくてもいいから共通する名前があればとは思ったけど……。十冊とも同じ本を借りている人はいなかったわ」 そう、と残念そうにおさげを弄る立花さんへ、慌てて分かったこともあったの、と告げた。 「分かったことって?」 「まず紛失していた本を借りていた人は、十冊すべて借り出しの届けを出していなかったということ」 「規律を守らないなんて最低ね」 「そうね……。それとこの十冊の本を借りた人物は、おそらく私たち新一年生だということ」 「……本当なの?」 「この十冊の本の、最後の貸出日はすべて新年度が始まる前……」 「四月前にすべて返却されていた。無くなったという騒ぎになったのはここ最近だから――」 「一年生が怪しいってことね」 考え事をするときの癖なのか、立花さんはおさげを弄りながら難しい顔をした。 委員長としても一年生……同じクラスの中に犯人がいると聞かされ穏やかではないのだろう。 「……今話したことは私の推測よ」 「ううん。白羽さんの考えは正しいと思う。確かに時期的に考えるとそう捉えるのが自然よね。でもすごいわ。本当に刑事みたい」 顔を寄せ話していたことで間近で見た彼女の微笑みに、身体の芯をつかまれた気持ちになる。 発熱してしまいそうになる昂ぶりを抑えつつ、もう一つおかしな点があるのと言った。 「それって、もっと犯人が誰か絞り込めるってこと?」 「完全に特定出来る訳じゃないけど……。どんな人物像なのかは分かると思う」 私の言葉に花菱さんはさらに身を乗り出してきた。彼女の匂いが分かるほど近づき、顔を赤らめまいとぎゅっと拳を握る。 「……さ、さっき十冊の本が貸し出されていたと言ったけれど、厳密に言うと九冊なの」 「え? だって……十冊あるじゃないの?」 執務机に積まれた本を目で数え言う彼女に、私は一番上の“マグダラのマリアの生涯”と銘打った本を手渡した。 「その本だけはこの図書室の物ではなかったの。裏の装丁を見ても貸し出しカードを挿す場所もないし――」 「その本が最近寄贈されたという記録もなかった」 「ちょっと待って……。つまりこれって、犯人の“私物”だっていうの?」 頷く私に禍々しい異物を持たされたかのように目を細め、本を注視した。 「一体どうして自分の本を返却本の中に紛れ込ませるような真似をしたのかしら……」 「推測なら幾つか挙げられるけれど、私としてはその本から何か特定できないかなと考えているのだけど……」 指紋とか、と呟く立花さんに私はまさか、と答える。 「さすがに其処までは調べられないわ。私は本から人物像を固められないかなと考えたの」 「本からというと……マグダラのマリアを読むような人はどんな……ってこと?」 頷き、私物を含めた十冊の本のタイトルを挙げた。 「基督教に関連するもの4冊、教養本が2冊、近代小説が4冊。ここから考えると……」 「ご実家はキリスト教で、雑学が豊富な本好き……というところかしら」 呟く彼女の目は自然と私へと向けられた。$そう思われるだろうなと考えていた私は慌てずに小さな吐息を吐く。 「基督教信者ではないけれど、他は私に当てはまるのよね」 「あ、わ、わたしは白羽さんが犯人だなんて思っていないから!」 手をぎゅっと握り勢い込んで言う立花さんへ、ありがとうと返した。 「でも絞り込めるかもと言っておいて、近づけなかったわ……。クラスメイトで基督教の大人しい子は幾らでもいるし……」 「ううん。すごい進歩よ! わたし一人じゃ何もできなかったし」 「それに一年生が怪しいって事と、沙沙貴さんたちのような人は、犯人から除外されるということが分かっただけでも佳かったわ!」 手を叩き喜んでくれる立花さんに、私は本当に心優しい人なのだなと思った。 自分を犯人扱いした沙沙貴さんたちを許し、犯人でなくて佳かったと暗に言っているのだ。 (立花さんがアミティエで本当に佳かった……) 戻ってきた図書、嵐が丘の表紙を撫でながら私は自分の幸運を噛みしめていた……。 気持ち良く晴れ渡った四月の日差し、木々は柔らかい光に照らされ早春の若葉が目に優しい。 窓辺にて現実逃避していた私は、あの――と、おずおずとした声音に呼びかけられ、 (何で忘れるかな……!) 現実に立ち返り頭を抱えてしまった。 「ごめんなさい。わたしのことで迷惑をかけてしまったからよね……」 落ち込みおさげを弄る彼女へ力なく頭を振り、違うわ、と告げた。 「犯人捜しをしたのは自分の意思で、試験がダメだったのは練習を怠った所為だわ。だから花菱さんの所為じゃない」 「……でも、ただ一人バレエの試験を落としてしまうなんて」 投げかけられた言葉はさらに深く鋭く心をえぐった。 そう―― 「クラスで私一人だけ落ちたのよね……」 バレエの試験をするとバスキア教諭が宣言したあの日から、バーレッスンの復習をすることなく、本番の日を迎えてしまった。 立花さんの言うとおり、犯人探しをしていた為、練習をする暇はなかった。でも、 (すっかり忘れていたなんて……!) 復習以前の前に、そもそも失念していたのだ。嫌なことから目を背ける癖が出たのかと内心ため息をついてしまう。 もっとも―― 身体の堅い私は思うようにポーズがとれず、恐らく練習をしたとしても無駄だったろう。でも、 (私と同程度のマユリさんは受かっていた) 同じ技量だった彼女が受かり、私が落ちたと言うことは練習を怠った所為だとマユリさんも思うだろう。 確かにその通りだ。けど……。 「わたしの所為で不合格になってしまっただなんて、本当にごめんなさい……」 マユリさんに軽蔑されるのは嫌だ、と強く思った。 「本当に平気よ。私が望んだことだもの。それに、バスキア教諭が言っていた罰だけど……」 「何だと仰ったの?」 「再試験とバスキア教諭が抱える用向きを一つ手伝うことになっただけだから、大したことはないわ」 「それなら!」 ずい、と迫られ私の手を握ってくる。 「再試験の為の練習と、ダリア先生の用向きが決まったら教えて! わたしも手伝うから!」 「お、お願いします」 柔らかい手と生真面目な瞳に急かされるように、こくこくと頷いた。すると、 「初日に忠告をしたのを忘れたかな」 揶揄する呼びかけに二人とも廊下の先を見遣った。通路の角から姿を現したのは、 「此処は女子校だ。変な噂はすぐ広まる」 腰に手をやり冷ややかな目を向けたマユリさんは意地悪な声で告げた。 「わ、分かっているわよ」 頬に桜色の花を散らせ、慌てて手を離す。マユリさんはその仕草を見ると笑いながら歩み寄り、 「冗談だよ。白羽さんを慰めていたんだろ?」 と言った。私は彼女の言葉に怯む。 「うん? 随分と落ち込んだ風じゃないか。まぁ、私との約束を反故にしたんだ。少しは沈んだ顔をしてくれないとね」 「え……あっ……」 そう、 ――以前、バレエの練習を一緒にやろうと誘われていたのを思い出した。 (あれって社交辞令じゃなかったんだ……) あの後声を掛けてくれなかったから、無い話だとばかり……。 「ご、ごめんなさい。私、すっかり忘れていて……」 「ふうん。忘れていたんだ……」 軽蔑した視線を送られ、ぎゅっと心臓が掴まれた気持ちになる。 足下がふわふわとして頼りない。 「ちょっと……」 「……ふふ! 冗談だよ、冗談。少しからかっただけだって」 「え?」 「何だか悩んでいるみたいだし、逆に練習に付き合わせるのも悪いなって思ったから――」 「こっちも無理して誘わなかったんだ。だから気にしてないよ」 朗らかに笑うマユリさんの顔を見て、緊張が解け体中から空気が抜ける気がした。足はまだ震えていたけど。 「はぁ……性格悪いわよ。わたしまでどきどきしちゃったじゃない」 「悪い悪い。それでダリア先生の罰ってなんだったの?」 「はい、再試験と先生の用向きを一つ頼まれて欲しいって……」 「そう。再試験は合格した私に任せて貰えばいいとして、用向きとやらも三人でやればいいか」 当たり前のようにそう告げるマユリさんに、私は彼女の周りに人が集まる訳を見た気がした。 女性の園のこの学院で、さっぱりとした男性的な性格の彼女が嫌われる筈がない。 「それでこんな場所へ何の用? 奥には職員室しかないけど」 「立花を探してたんだよ。そろそろ沙沙貴さんたちの誕生日会の仕込みをしなきゃだろ?」 言われ、ああ、と手を打つ。 「有志から募ったお金でケーキは用意してあるけど、他のお菓子類やお茶はどうするのかって」 「お茶はわたしが用意するわ。お菓子類は……」 市販の物だけじゃ寂しいわよねぇ、との言葉にマユリさんは待ってましたと胸を叩く。 「そう言うと思って、昼休みと放課後の時間を使ってパウンドケーキやクッキーを用意したよ。他にもつまめそうなやつもね」 「すごい……」 「大したものねぇ。だてにお菓子作りが趣味だって言ってないわ」 「ふふ、もっと褒めると佳い!」 胸を張るマユリさんに立花さんも破顔する。私はアミティエらの中に混ざれたような気がし高揚した。 「あの、質問があるのだけどいい?」 「うん? 何かな」 「誕生日会でのことなんだけど、沙沙貴さんたちにプレゼントとかって渡さなくていいのかな……」 「あれ、白羽さんは聞いてなかったのか」 「個別でプレゼントを渡すと際限がなくなるからやめようって話があったの。でも……そうね。お花くらいはあってもいいかも」 確かに、とマユリさんが額に手を当て熟考する。 「植物園にたくさん咲いているから其処から失敬してくれば……」 「ダメよ。そんなもの貰ったって嬉しくないでしょう?」 「冗談だよ。分けて貰えないか聞けばいい。そうだ、教室に飾ってあるやつなんかはどうかな?」 「綺麗だったしプレゼントされたら喜ぶんじゃないかな」 教室には一日ごとにお花が生けてある。今日のお花は……。 「……あんまりお勧めできないかも」 「どうして? 見栄えもするし貰ったら嬉しくないかな」 考えすぎかもしれない。でも相手が知っていたら気分が悪くなるかもしれないし…… 「教室の花瓶に生けてあったのって、マリーゴールドよね。それなら白羽さんの言うことも分かるわ」 どうして、と尋ねるマユリさんへ今度は彼女が胸を反らしてみせた。 「白羽さんはマリーゴールドの花言葉を言っているのよ。嫉妬や悲しみ、絶望だとかあまり良い意味の花言葉じゃないの」 「へぇ、そうなんだ」 「うん、そうなの。マリーゴールドは聖母マリアの黄金の花としても知られているから、そこだけ取ればいいかもしれないけどね」 「そっか。それじゃ無難に薔薇とかがいいのかな」 「ふふ! 女子力が足りないわね」 互いに軽口をたたき合うアミティエらを見ながら、私は―― (花言葉……) 一つの物にも複数の意味合いを持つ、ということに引っかかりを覚えた。 マリーゴールドの、嫉妬、悲しみ……。 花言葉では暗いイメージだけれど、聖母マリアの黄金の花としての意味合いも持つ……。 「あれ……まだ何か、質問とかあるの?」 「……ううん。大丈夫よ」 「そう……」 訝しげに私を見つめていることは分かっているけれど、頭の中は高速で回転し、気持ちの悪い異分子を取り除こうと回り続けていた。 (立花さんのベッドに置かれていた十冊の本) 苺さんが呼びかける前、確かに見た一番上の図書は―― 「……嵐が丘」 紛失した図書、犯人の私物と思われる“マグダラのマリアの生涯”のタイトル。 一つ一つのピースが埋まってゆき、私は―― 何故私物を紛れ込ませたのか理解した。 「……白羽さん?」 「――すみません。用が出来たので失礼します」 呼びかけの声を背に受けながら、私は導かれるように“嵐が丘の君”の元へと向かった。 図書委員になった折りにバスキア教諭から見せて貰った生徒リストを頭の中で並べ、 望む名があるか、始めから順々に消していく。 クラスメイトの名簿も終盤になった頃、 “嵐が丘の君”の住まうドミトリーを臨んだ。 紛失していた九冊の図書、 (うち三冊まで揃っていたからこそ、試す気になったのね) リストに残った名前を浮かべながら歩を進め、ナンバーが記されているドアを注視した。 (偶然を面白がってのことだろうけど) アミティエの寂しげな情景が脳裏に浮かび、このまま済ます訳にはいかないと強く思った。 「……私が潔白を証明すると言ったのだもの」 ナンバーのないドアの前で足を止めた。 部屋の扉をノックすると、どうぞ――と私が考えているよりも幼い声が聞こえた。 己を、“嵐が丘”になぞらえた彼女は、 ぎぃ、と車輪を軋ませ、 「佳かった。ようやく見つけてくれたようだ」 ――あれほど憤っていたのに、 彼女を前にした時から、私の抱えていた憤りは綺麗に霧散していた。 「どうしたんだい。随分と変わった生き物を見るような目でみるじゃないか」 ぎぃ、と。 居るはずのない級友は、車椅子を私の方へと向け、大きな瞳でいたぶり甲斐のある鼠を品定めするように見詰めた。 (彼女が……) 癖のあるショートの髪と、大きな瞳があいまってどこか猫のような印象を受ける。 いや、それよりも、 (彼女は私と似ている気がする) 車椅子の彼女の周りには私と同種の孤独の匂いがした。全てをあきらめたような、老成した物腰。 まるで鏡に映った自分を見ているようで、憤りはすっぱりと消えてしまっていた。$残っているのは、使命感だけ。 「それで何の用? わたしを殴りにでもきたの?」 意地の悪い猫のように目をすっと細めて尋ねてくる。 呑まれ掛けていた私はいいえと頭を振った。 「そんな野蛮なことはしないわ。私が貴女にして欲しい事は一つだけよ」 「お友達への誤解を解いて欲しいってことだろ」 「……ええ」 思っていたよりも男性的な口調に驚きながらも頷く。 意地の悪い――否、馬鹿にしたような目はずっと私の身体を見詰めていた。まるで頭からつま先まで、ほころびを探すように。 「……構わない」 「え?」 「誤解を解いてもいいって言ったのさ」 彼女の物腰から受けてくれるとは思わなかった私は、じゃぁ! と勢い込んで詰め寄った。 「でも一つだけゲームをして貰う」 再び意地の悪い猫の表情に戻った彼女は、人差し指をあげて見せた。 「ゲームって……早く行かないと、皆の前で話して貰わなくちゃ意味が……」 「すぐ済む簡単なゲームさ。わたしを見つけたのが此方の意図するものか、それとも偶然なのか知りたいだけでね。ゲームの内容は……」 人差し指を唇へと当て、 「わたしの名前を当てること。単純だろ?」 口の端を歪める彼女へ、私は記憶を辿ってみる。 以前、バスキア教諭に見せて貰ったクラスメイトの名簿だ。 (……いや、名簿には二十四人目の名前は記載されてなかった) 名簿で知ったのはクラスメイトは二十三人でなく二十四名いたことのみ。そのことは今は頭から消し去ろう。 今は――此処へ到達できたのは、立花さんのベッドに置かれていた本、 いやさらに踏み込むなら、上から順に置かれていた4冊の本。 “嵐が丘”“ユダの福音書”“家紋を探る・和のデザイン”“マグダラのマリアの生涯”から紐解けばいい。 そう、その中で―― 私が――此処へたどり着いた“嵐が丘”から推理しよう。 そもそも何故、彼女が立花さんのベッドに借りていった本を置いたのか? もしかして何か他にも秘密を隠しているのではないだろうか? «何故、花菱立花のベッドに本を置いていったのか» 花菱立花だと知っていて試した 花菱立花を図書委員だと誤解した 車椅子ゆえに一番下のベッドへ置いた 彼女たちの間に確執がある そして――ベッドに置かれていた本の意味。この本の中に“車椅子の少女”の名前が隠されている。 私の推理が正しいなら――私の名前が隠されている書物は“ユダの福音書”。 なら、彼女の名前が潜んでいる書物は―― «車椅子の少女の“名”が潜んでいる書物は?» 嵐が丘 家紋を探る・和のデザイン マグダラのマリアの生涯 彼女は名前と言った。ならば、 (名前に当て嵌まる固有名詞……) 「どうした。もしかして総当たりで来ただけ? だったら興ざめだな」 とっくりと考え、私は“嵐が丘”から、復讐に身を捧げた主人公ヒースクリフを取り上げた。 揶揄する彼女の顔を正面から見据え、 「貴女の名前は――」 エレン キャサリン イザベラ エリカ 私が告げた名前を聞き―― 「あーそうかそうか、成る程ねぇ。此処へ来たのはヒントに気づいたからじゃなく……」 「名簿かなんかで一人増えていることに気づいたからか……」 「まぁ一人増えているんだ。総当たりで寄宿舎探せば、いつかは行き当たるわな」 「何を言って……」 「つまんねーこと聞くなよ。今の話しぶりで分かったろ。外れだ。もうお前と話す口はないね」 そう告げられ―― 私は、アミティエの誤解を解く手段を永遠に失ったのだ……。 宴もたけなわ、と言ったところか。 東屋にはクラスの皆が集まり主役を囲んでいた。 早々にお誕生日会がお開きになっていなかったことに、私は小さく吐息をつく。と、 「さっさと行こう。わたしたちの分のケーキがなくなってしまいそうだからね」 度胸ばかりある彼女の車椅子を押しながら、賑わう東屋へと入っていった。 とたん、静まりかえる会場、 私を認めたからでなく、車椅子の彼女を認めたからだ。 好奇心旺盛な年頃の口が長く閉ざせる訳もなく、 「その子って誰なの、蘇芳ちゃん?」 今日の主役の一人である苺さんがそう尋ね、くだんの彼女はいつも通りの意地の悪い猫のような笑みをこぼし、 「途中編入のクラスメイトだよ、お嬢ちゃん」 人を食った言い方だけど、苺さんは気にしていないのか新しい級友に興味津々な顔で、上へ下へと彼女を見遣った。 「足が不自由なのがそんなに珍しいかい?」 さすがに繊細な話題だと分かったのか苺さんは舌を出し、ごめんね、と言う。 と、 「新しい級友の方? 途中編入なんて聞いていないけど……」 主催者である立花さんが間に入り、彼女というより私へと尋ねた。 「わたしも暫く出てくるつもりはなかったんだけどね。彼女から……」 大きな目を細め、私を流し見、 「お友達への誤解を解いてほしいって頼まれたから、場違いだと分かってても来たのさ」 「誤解って……」 「どうも本を失敬していたのが委員長だと誤解されてたらしくてね。犯人のわたしが名乗り出に来たんだよ」 危ういながらも穏やかだった雰囲気が、彼女の言葉によって張り詰めた空気に変わってしまった。 「……どういうことなの、白羽さん?」 「彼女の言った通りです。$無断で借りていた本を花菱さんのベッドに置いていたのは、彼女――〈八重垣〉《やえがき》さんです」 八重垣さんは猫が笑うように、にんまりとすると首肯する。 「……あの子がしたことだったのかぁ」 静まりかえった東屋に林檎さんの声は響き、それが誘い水だったかのようにクラスメイトらの囁き声が始まった。 「ちょ、ちょっと待って。何でそもそもわたしのベッドに置いたの。いえ、どうして白羽さんが……」 「ん? どうもわたしも勘違いしていたみたいだ。お遊びで暗号をしかけておいたのを気づいたのは委員長じゃなかったのか」 身体を傾け車椅子のグリップを握る私を見遣る彼女へ、そういえば名乗っていなかったと今更ながら気づいた。 「私は白羽蘇芳、図書委員です。$ご免なさい、始めに挨拶していなかったですね」 「ああ、まぁ、しょうがないよ。少し特殊な出会い方だったからね」 「だけど、本に潜ませた符丁に気づくなら、学年トップの成績だっていう委員長だと思っていたけど――」 「な……っ」 「違ったようだね」 暗に間抜けだと言われ白い肌をさっと朱に染めた。 〈戦慄〉《わなな》いている立花さんを尻目に、どういうこと?と紅茶のカップを手にしたままのマユリさんが首を傾げる。 隣に座る苺さんが、疑った後ろめたさに表情を強張らせながらもマユリさんへと耳打ちした。 「何だか色々面倒くさいことになってるみたいだなぁ」 「め、面倒くさいことなんてないわ。何であんな誤解を受けるような真似をしたのかって聞いているの!」 「理由は簡単さ。まだ編入前で貸し出しカードが使えなかったからちょいと拝借したのさ」 「返すのをあんた……委員長のベッドに置いたのは、足がこれだから〈億劫〉《おっくう》になったってことかな」 「そ、そんな……自分勝手な……」 規律厳守の立花さんは糾弾したいだろうけど、 (どうにも言いづらいのよね) 車椅子を省いても、何故だか保護欲がそそられてしまう。憎まれ口を聞いてはいるけど、小さい子が悪びれているように聞こえてしまう。 「それであんたは何さん、って言うの?」 「え?」 「委員長の名前だよ。まさか名無しじゃないだろ」 「は・な・び・し・りっかです!」 腰の手を当て聞き分けのない生徒に言う教師のように言葉を切り分ける。$彼女は笑い、 「そうか、りっかね。それじゃりっかは感謝した方がいい。彼女が友達の誤解を解いて欲しいってわたしに頼みに来たのだから」 腹立ち険しい顔をしていた立花さんは一転、惚けたように私を見遣った。 「最初はこいつが委員長だと思っていたから、自分に掛かった誤解を解いて欲しいんだなと思っていたけど――」 「まさか友人の誤解を解いてくれだなんて話だったなんてね。甘くて嫌らしい話だ」 「白羽さんが……」 「まったく人のためならそう言って欲しかったよ。だったらこんな場所に、のこのこ来なかったのに」 何故だか頬を朱く染め黙り込んでしまう立花さんに代わり、それじゃどうして来たの、と苺さんが問う。 「しらはねすおうが、わたしの名前を当てられたからさ」 「名前ってどういうこと?」 「本に符丁を隠したと言ったろ。遊び半分で本を置いた相手がわたしだって、分かるように潜ませておいたのさ」 すごい、と目を輝かせる苺さんに彼女は反面面倒くさそうな表情になる。 興味深そうな表情で聞いていたマユリさんに促され、私は口を開いた。 「花菱さんのベッドに置かれていた、紛失していた本。全部で十冊あったのだけど、紛失していた本の冊数は九冊だったの」 「どういうこと?」 「つまりその内の一冊は八重垣さんの私物だった。何故、私物を紛れ込ませたのか考えていたとき、ある出来事があって……」 物事を側面から見ることを示唆してくれた出来事。 「私は紛れ込ませた私物の一冊が疑問を紐解いてくれると考えたの」 私はにやにやと成り行きを見守る彼女を横目に見つつ先を続ける。 「花菱さんのベッドに置かれていた図書は、上から“嵐が丘”“ユダの福音書”“家紋を探る・和のデザイン”」 「そして紛れ込ませた彼女の私物“マグダラのマリアの生涯”。とある出来事から物事の側面を見てみようと考えたら、あることが分かったの」 「……随分と読む図書の幅が広いなとしか思えないんだけど」 クク、と含み笑いをする彼女へ険しい視線が注がれる。 立花さんだ。復調した彼女を見て慌てて先の言葉を紡ぐ。 「私も始めは自分と同じ書痴だとしか思わなかったわ。でも、彼女が紛れ込ませた一冊は何なんだろうって考えて――」 「それで思いついたの。ああ、ここまで偶然が続いたなら、乗っかる為に足すしかなかったんだなって」 「乗っかるって何? 何でそんな面倒なことを……」 「これは見方を変えれば簡単な連想ゲームなの。さっき挙げた本から共通するものを取り出せばいい」 「私はこのタイトルの羅列から“花言葉”が潜んでいると分かったの」 私の言葉にクラス皆が疑問符を抱いたようだ。$花好きは多いようだけど、さすがに知ってはいないよう。 「一番上の“嵐が丘”を除いて“ユダの福音書”“家紋を探る・和のデザイン”“マグダラのマリアの生涯”は――」 「部屋の……私たちの名前だったのよ。私の蘇芳と言う名の花は――」 「西洋種はユダ・ツリーと呼ばれている。$キリストを裏切った弟子、ユダがこの木で首をつったという伝説にちなんでね」 「これが、“ユダの福音書”」 あまり喜ばしくない名だ。父は分かっていて名付けたのだとは思いたくないけど。 「次の“家紋を探る・和のデザイン”は家紋の専門書」 「花菱さんの姓にある“花菱草”という花は、家紋の花菱紋に似ている所からつけられたそうよ」 自分の姓を言われ立花さんは得心したように頷く。 そして先ほど名前を知らないのが“振り”だと分かったからか、悔しそうに渋面を作った。 「そして“マグダラのマリアの生涯”はマユリさんに掛かっている」 「“百合”という花はキリスト教圏では、聖母マリアの花マドンナ・リリーとして崇められているの」 厳密に言えば、聖母マリアとマグダラのマリアは別人なのだけれど―― 私は八重垣さんを見詰めた。彼女は何も語らずただ成り行きを窺っていた。 「最後に一番上に置かれていた“嵐が丘”」 「今までの花言葉から、私はこれが彼女の名前に連なる物だと思ったの」 「でもクラスの中で“この”名前を持つ者はいなかった。だから……」 「二十三名のクラスメイトの中に居ない、二十四番目の生徒だと行き着いた。$わたしは彼女に名を示せと言ったよ」 笑う彼女に、私は皆の前で彼女の名を告げる。 「“嵐が丘”が高名なのは復讐に身を捧げた主人公がとても魅力的だったから」 「主人公の名はヒースクリフ。$ツツジ科の花で英名はヒース、荒野を意味し、日本名では“エリカ”という」 「――彼女の名前は“八重垣えりか”」 しん、と静まり返る東屋。 揶揄する視線も、囁き言葉もなくただ沈黙したまま。 と、不意に対面に座る沙沙貴苺さん、林檎さんまでも手を打ち笑っていた。 「すごいすごい! 今までこんな誕生日の余興はなかったよ!」 「余興って……」 「ああ、そう言ったらまずいのかな? でも皆の誤解を解くために頑張って考えたんでしょ?」 「だからすごいよ。私的に絶対真似できないし」 「大したもの」 「前のお茶会の時に、立花ちゃんに魔が差したんだろうって言ったけど……ごめん。早とちりだったね」 「いえ、わたしは……」 「ごめんなさい」 二人して頭を下げ、わたわたと手を振る立花さんの姿に、緊張はとけ和やかな空気が戻ってきた。 「……くだらないな」 「そういうことは言わない。それで、これで一件落着ってことでいいんだよね?」 「え、ええ」 ふて腐れ脱力したように車椅子に身を預ける八重垣さんを見て、曖昧に頷いた。 彼女は私の目を見るとはぁ……と深いため息をつく。 「……まぁ、これは勘違いしていた自分のミスってことにしておいてやるよ」 車椅子を繰り、立花さんの前に行くと二三言葉を交わす。たくさんの話し声で聞き取れなかったけれど、 (……大丈夫そうね) 立花さんの顔は強張ってはいるけれど――謝罪してきたのだろう。 こちらへ戻る八重垣さんの表情は、いつもの人を食った猫のようではなく、年相応に見えたから。 「車椅子を引いてくれ、部屋に戻るぞ」 言われ、 「はいはい」 マユリさんと顔を見合わせ、私は新しい知人にケーキを食べさせるべく、車椅子の握りに手を掛けた……。 ――推理を披露し終え、 私は皆を、八重垣さんを見遣った。 「……少しばかりお前を過大評価してたみたいだな」 「……え」 心臓を掴まれる思い、私は何を間違って……。 「名前を当てられたから、わたしが潜ませた謎が分かったんだって思っていたけど……」 ――名簿でも盗み見たってのが正解か、と八重垣さんは吐き捨てた。 「どういうこと蘇芳ちゃん?」 辛辣な物言いに場の空気が冷え固まり、無邪気に尋ねる苺さんの言葉に返すことができない。 「――白羽さんが何を言いたかったのかは分からないけれど、貴女が犯人だということだけは分かったわ。一緒についてきて貰います」 「お、弾劾裁判勃発ですか?」 巫山戯ないで――と、荒げた言葉はお誕生日会の席を壊し、亀裂が入ったことを報せた。 「さぁ、早く先生の元へ、行きましょう。$そこで申し開きをして」 まなじりに怒りをたたえた立花さんはそう告げると、無理矢理に八重垣さんの車椅子を押し、お茶会の席を離れたのだ……。 しわぶき一つない授業。 授業中が静かなのは当たり前だけども……私はこの静けさに空々しさを感じていた。 一週間前のお誕生日会、あの時から私の周りの風景は徐々に色を失い、灰色にくすんでしまっていた。 立花さんへの疑いは晴れたものの、八重垣さんへの辛辣な対応から……。 疑われていた時と同じように――いやそれ以上に、避けられるようになった。 教室内に、クラスメイトにある“壁”。 それは私たちアミティエの関係性も崩れさせていった。 少しずつ仲良くなれてきたと思っていたアミティエの仲も今は、 「……ダメだよ蘇芳ちゃん。ぼうっとしてたら」 「ぁ……」 「……委員長に怒られるよ、ほら」 小声で促され、視線の先には―― (立花さん……) どうしてこうなってしまったんだろう。 冷たい視線で私を睨むアミティエを見て、ずくりと胸の奥が痛んだ……。 しわぶき一つない授業。 授業中が静かなのは当たり前だけども……私はこの静けさに空々しさを感じていた。 一週間前のお誕生日会、あの時から私の周りの風景は徐々に色を失い、灰色にくすんでしまっていた。 結局、車椅子の少女を連れてこられなかった私は、立花さんに掛けられた誤解をとけず―― いまや疑われていた時よりも――いやそれ以上に、避けられるようになった。 教室内に、クラスメイトにある“壁”。 それは私たちアミティエの関係性も崩れさせていった。 少しずつ仲良くなれてきたと思っていたアミティエの仲も今は、 「……蘇芳ちゃん。ぼうっとしてたら怒られるよ」 「ぇ、ぁ……」 「……ほら。委員長、睨んでるし」 小声で促され、視線の先には―― (どうして……) どうしてこうなってしまったんだろう。 冷たい視線で私を睨むアミティエを見て、ずくりと胸の奥が痛んだ……。 仄暗い天井を見上げながら、私は幸福感に充たされていた。 (立花さんの誤解が解けて本当に佳かった) 沙沙貴さんたちのお誕生日会で誤解を解くことができ、また立花さんの周りに人が集まるようになった。 アミティエとしては触れあう機会が減ってしまうのは寂しいけれど、やはり私は“委員長”としての立花さんの振るまいが好きだ。 それに、 ほとんど重さを感じない布団をぎゅっと握りしめ、充たされた気持ちを独り占めにした。 (マユリさんが褒めてくれたのよね) 今回の濡れ衣騒ぎを知らなかったマユリさんから、真犯人を見つけだしたことを立派だと褒めてくれた。 賞賛して欲しいからしたことじゃないけれど、憧れている人に称えて貰えたというのは―― 「……嬉しいものよね」 にまにまと相好が崩れてしまう。人に見られたら随分間抜けな顔になっているだろう。 でも、そんなこと…… 「……ちょっといい?」 躊躇いがちな声が耳元で囁かれ、思わず声を上げてしまいそうになる。 私は慌てて口元に手を当て声を殺すと、梯子からこちらを覗き込む相手を見遣った。 「花菱さん……!」 「……しぃっ。マユリさんが起きてしまうわ」 (起きないようにって何……!?) 彼女の真剣な表情に色々な想像をしてしまい惚けたように硬直してしまった。 「……ごめんなさい。こんな夜分に失礼よね」 「あ、ぅ、だ、大丈夫です。お話があるんですよね?」 ええ、と神妙に頷く立花さん。そっちに行っていい? と尋ねられ私は……。 「……ど、どうぞ」 断ることなんて出来なかった。立花さんは一転神妙だった表情をほころばせ私のベッドへと潜り込んでくる。 (近い、近いんだけど!) 「……ふふ、何だか少し照れるわね」 囁き声が耳をくすぐる。シングルのベッドに幾ら細身とはいえ二人並ぶのは窮屈だ。$自然と、 (抱き合ってる感じになってるんですけど……!) 半身でこちらに身体を寄せる立花さんの身体が、腕が、胸が少しだけ私の身体に触れている。 ほんの少し触れている……という事がこれほど気になる行為だとは思わなかった。 「……遅くにごめんなさいね。でも、どうしても早くお礼が言いたかったの」 「お礼って……」 「……もちろん今日のこと。二人きりで話したかったからこんな時間になってしまったけど……」 照れたようにおさげに触れる彼女に、私はどう謙遜の言葉を言おうか逡巡した。 「……嬉しかった。白羽さんがわたしの事を気に掛けて――あんなに親身になってくれるだなんて」 「ほとんどの人は話しかけてこなくなって……」 「一部の人はそれでも心配して話しかけてくれたけど、白羽さんみたいに行動に移してくれる人なんていなかったから……」 「……花菱さん」 「……ああ、ごめん。これじゃ陰口みたいよね。皆の反応は普通だわ。ただ、わたしの為にしてくれた……その事が本当に嬉しかったの」 分水嶺を超えたのか私の手を取りぎゅっと握った。熱い手のひらに心がくすぐられ身体の芯が熱くなってしまう。 「……皆と仲直りできて佳かったですね」 「……ええ。新しい友達もできたしね」 くすりと笑い合う。誕生日会での八重垣さんと立花さんのやり取りを見ていたけど、苦手意識は残っていそう。 でも、叱られる子供に口うるさいお母さんといった二人の光景は案外うまくいくかもと思った。 「……そういえば、八重垣さんに新しい紅茶の飲み方を教わりましたよ」 「……え、どんな? わたしには教えてくれなかったのに」 可愛らしく頬を膨らませる立花さんへ、ロシアンティーの飲み方を教えた。 「……へぇ。ジャムを舐めながら紅茶を頂くの?」 「……クラッカーの添え物にあった苺ジャムで試してみましたけど、中々美味しかったですよ」 「……そうなの。今度試してみようかしら」 「……是非」 「……でも、八重垣さんから教わったならもしかして、からかわれているのかも知れないわね」 呟きに、あり得そうだとつい頷いてしまう。 思わず笑い声を上げそうになり、互いに布団に顔を押しつけ、声を潜め笑った。 「……今日は本当に佳い日だわ。こんな風に白羽さんとお話ができるだなんて……」 私こそと言いたいのに恥ずかしさから言葉が出ない。立花さんは微笑みを緩やかに消すと、私へいつもの生真面目な顔を向けた。 「……ねぇ。白羽さん。助けて貰ったわたしが言うことじゃないかも知れないけど、一つ頼みを聞いてくれないかしら」 「……ええ。構わないわ」 「……あのね。$わたしもっと白羽さんと仲良くなりたいの」 「だから……今、お互いに敬語で喋っているでしょう? それをやめたいなぁって……」 始め、私は彼女が何を言っているのか分からなかった。 「……すぐには難しいって分かるわ。だからまずは、わたしは“白羽さん”じゃなく、蘇芳さんって呼ぼうと思う」 「だから、白羽さんは……」 「わたしを立花って呼んで欲しいの。$だめ……かな?」 頬と言わず顔を真っ赤に染めて言う彼女に、 私は―― 「……うん。立花……さん」 私も顔を染め、アミティエの名前を自分の意志で初めて口に出して呼んだ……。 それは出会いの年だった 生涯を通してのたくさんの友と出会うことになったが その中でも特異と思われる人物“二人”と出逢うことになる 一人は金糸の髪のペシミスト 一人は銀糸の髪のオプティミスト 品性、性質、天稟、何もかも違って見えていても 鏡に映った歪な心は同じ像を映していた 金と銀、彼女たちの出遭いは “ニカイアの会” ――おかわりはどう? 抑えめの声音で問いかける声に、 「ありがとう」 言い、空いたカップを彼女へとそっと差し出した。 「今度はロシアンティーにしてみる?」 「そうね、それじゃそうしようかな」 “あのお誕生日会”以来、だいぶ気安く話せるようになったアミティエは柔らかく頷くと、強い香気のする紅茶を注ぎ―― 苺のジャムをスプーンですくうとカップに入れかき混ぜた。 「ふふ、八重垣さんの言うロシア式の方が佳かったかしら」 「あれはあれで美味しかったですけどね」 六日前に教わったロシア式の作法。 どうやらやはり担がれていたらしい。 ロシアンティーの正式な作法はジャムをカップに入れるもので、舐めながら飲むものではなかった。でも、 「お行儀は悪かったけど、なかなか無い体験ができて佳かったわ」 二人でジャムを舐めお茶をしたのを思い出し、くすりと笑う。 どうぞ、と渡されたカップを受け取り口をつけた。甘く仄かに苺の香りのするロシアンティーはいつもより美味しく感じた。 (内緒だから美味しく感じるのかしら) そう思っていると、 「……わたしも」 と、眠たげな目で見詰めつつも夜のお茶会のメンバーである林檎さんが空いたカップを見せた。 「あ、それなら私も!」 「……苺ねぇは共食いになるからよした方がいい」 「それをいうなら林檎はアップルティー飲んでるじゃんか!」 かしましい双子に、立花さんは困った顔を向け、二人へと紅茶を用意する。 その一方で、自作の焼き菓子を二人の口へほうり込み仲裁する彼女―― 「静かに。夜こっそりお茶会してるなんてバレたらまずいだろ」 ――そう、あのお誕生日会後。 仲直りしたとはいえ生真面目ですぐ切り替えられない立花さんを心配し、私から沙沙貴姉妹とのお茶会を提案したのだ。 規律を厳守する立花さんは始め断ったが、私の心の内を明かすと渋々ながらも了承してくれたのだ。 部屋を使うにあたりマユリさんへも相談したけど、 あっさり『いいんじゃないか』と承諾され、都合三度目となる夜のお茶会が開催された。$の、だけど……。 「どうぞ、林檎さんには林檎ジャムにしたわね」 「……おお、これで姉妹そろって共食い仲間」 「よし。双子は揃ってなくちゃね」 一緒なら問題ないのか、にんまりとカップを傾けている。立花さんもどこか母親のように沙沙貴姉妹を見遣っていた。 (これならもう心配ないみたいね) 始めは規律破りと怒った気まずさに緊張していた立花さんも、三度目ともなると始めの頃のように……いやそれよりも親しくなれたと思う。 「……私も仲良くなれたよね」 「蘇芳さんも今度は他のジャムを試してみたら?林檎以外にも杏やブルーベリーも買ってあるわよ」 「そうね。今度試してみるわ立花さん」 あの夜に交わした言葉通り、名前で呼び合うまでになった。アミティエとしてでなく、友人になれる日も遠くないかも、である。 「そういえば部の先輩に聞いたんだけど、今度オリエンテーリングがあるんだってね」 「オリエンテーリングって?」 正直聞いたことのない言葉に首を傾げてしまう。 と、苺さんは目をぱちくりさせ、知らないの? と大げさに手を広げて見せた。 「え、だってほら小学生の時とか、ボーイスカウトの時とかにやったじゃない?」 「あれ? もしかして、やってたのってうちの方だけ?」 「私の学校でもあったよ。校外学習の一環でクイズをまじえたお遊び的なものだったけどね」 「白羽さんのところではやってなかったんだ?」 「……ええ」 ちゃんと通っていなかった私が分かる筈もない。 「でも意外ね。そういうのって子供の頃だけだと思っていたわ。ミッションスクールでもやるなんて……」 「……子供の頃にやった遊びじゃなくて、本格的なやつだっていう話ですよ」 「本格的って?」 「何でもちゃんとした競技としてオリエンテーリングをやるんだって。確か……」 「地図とコンパスを持ってチェックポイントを辿りながら、どれだけ早く走破できるか競うっていう、スポーツみたいな感じらしいよ」 「ちゃんと競技としてあるのねぇ」 やったことはないけれど、どう競い合うのかピンとこない。ただ時間を競うならマラソンだって同じじゃないかと思う。 「確かちゃんとした競技としてのオリエンテーリングは、チェックポイントからゴールまでの地図読みや――」 「どう向かった方が効率的に行えるかのナビゲーション技術も必要なんだ。ただのレクリエーションじゃないんだよ」 言われ納得する。 ただ早さを競うでなく、地図からチェックポイントまでを計算するのなら、頭脳戦もある確かな競技なのだろう。 「何だか面白そうですね」 「学院周りの森を使ったオリエンテーリングらしいけどね。全校生徒参加だけど、実はちょっと困ってるんだよね」 「困ってるって?」 「オリエンテーリングなんだけど三人一組の参加みたいなんだよ。私たちと組んでくれる、ノリのいいもう一人が見つからなくて……」 「二人の調子に合わせるのは難しいだろうけど、頼みって言うのは……」 「だから最近仲良くなった人に頼みたいんだ、なのでぇ……」 最近との言葉に立花さんは身構えるように胸を反らした。 「……蘇芳ちゃんに一緒に回って貰えないかと思ったのです」 え、私? と思わず声をあげてしまった。$親しいと……頼ってくれるのは嬉しいけど……。 (三人一組って言っていたし) 順当に考えるならアミティエ同士で組むのが普通だろう。 悪いけどアミティエ同士で…… 頼ってくれるなら 縋るような目で見詰められぐらぐらと心は動くけれど。 「……三人一組ならアミティエ同士で組んだ方がいいんじゃないかな」 と言った。 「ええ〜。苺たちと一緒に行ってくれないのぉ」 「見捨てられてしまった……ぐすん」 「え、あ、その……」 林檎さんが目頭を押さえるのをみて罪悪感がこみ上げてくる。子犬を誤って踏んでしまったかのような。 「嘘泣きはそこまで。白羽さんは真面目なんだから洒落にならない真似をするなって」 「え?」 「分かったよぅ」 「……蘇芳ちゃんごめん。嘘泣き」 ちろりと舌を出す林檎さんにほっとして胸を押さえた。 「だいたい三人一組だろ。ならアミティエで組むのが普通じゃないか。二人も当然アミティエが居るんだから、その人と組めって」 「もちろんそのつもりだったよ。ただ、ちょっと蘇芳ちゃんとの友情パワーを試したくて」 「負けてしまったわけですが」 「……ぅ」 胸が苦しくなる私へ、嘘嘘、と再び笑んで見せた。 縋るような目で見詰める苺さん。 林檎さんはまなじりに涙まで浮かべているのを見て、 「……分かりました。一緒に行動しましょう」 と言った。 「本当に!?」 「……オリエってくれるの?」 妙な略し方と現金さに押されながらもええ、と頷く私。 「ちょ、ちょっと待って。さっきも話していたけど三人一組でしょ?」 「ならアミティエ同士で組んだ方がいいわ。わたしも蘇芳さんと……」 「はい?」 尋ねるが、かっと頬を染め目をそらされてしまう。 「……初々しいですなぁ」 「……これが見られただけでも良しとしよう」 頷き合う二人へマユリさんは苦笑しながら、 「そこまでにしとこうか。立花もさっき言ったけど三人一組だろ?」 「だったら一年生は皆アミティエ同士で出るんじゃないか。はぶかれたら二人のアミティエがかわいそうだろ」 「ぁ……そうよ。そうだわ!」 「冗談だよ。始めからアミティエ同士で組もうと思っていたって」 「でも、蘇芳ちゃんとの友情を計りたくなった乙女心を分かって欲しいな」 「……わたしたちを優先して嬉しかった」 悪戯めいた笑みを向け、沙沙貴姉妹は言ったのだ。 「そういえばさっき部の先輩がって言っていたけど、二人は部に入っているの?」 「あれ? 話してなかったっけ?」 「……りっちゃんさんには話していたと思う」 「え、わたしも聞いてない……と思う。忘れていたならごめんね林檎さん」 「……大丈夫。冗談だもの」 「えっ、もう!」 軽口を言い合う二人へ本当に仲良くなったんだ、と嬉しい反面少し寂しく思う。 「それで、苺さんと林檎さんは何部に入っているの?」 「確か学院の部って三つしかなかった気がする。ええと……」 「学院公認の正式な部は合唱部と文芸部。それと天文部ね。どれも二人からはイメージしづらいけど」 「酷いなぁ。二人とも天文少女なんだよ。夜な夜な星の光を求めて望遠鏡を覗いているんだ」 「素敵ですねぇ」 「いやこの流れは冗談だよ。実際は何の部活なんだ?」 「もう通用しないか。私たちはね、なんと二人とも料理部に入っているんだ」 「料理部って……学院には三つの部だけって今さっき言ってたじゃないか。さすがにもう担がれないよ」 「え、これは冗談じゃないんだけど……」 「もしかして入部しているっていうのも嘘だったり?」 「ぅぅ、信用してくれないよぅ!」 「……これが狼少年現象」 半泣きの二人から以前知識として聞いていた私は、慌ててアミティエへと取りなす。 「あの、苺さんたちが言っていることは本当なの。学院公認の部は確かに三つなのだけど――」 「学生からどうしてもって申請があって、料理部、手芸部、美術部は部として認められているらしいの」 「そうなの?」 「図書委員で美術部に所属している先輩から、部の用事で何度か曜日を変わったりしているから」 「なるほど、白羽さんが言うなら間違いないな」 「で、でも沙沙貴さんたちが料理部に入っているなんて意外だわ」 「そう?$お料理のできる女の子って可愛くない?」 「そうかも知れないけど、女子校で可愛さを誰にアピールするんだよ」 「……先生とか?」 皆の頭に、可愛い物に目がないバスキア教諭が浮かぶ。 「まぁ、本当は部で作った料理を食べられるのが一番なんだけどね」 「そんなことだろうとは思っていたわ」 笑い合う皆。と、眠たげな目を向け隣に座る林檎さんが私の手を取った。 「……それで蘇芳ちゃんは何部に入っているの?」 「え、何部って……」 じっと微睡む瞳に見詰められ、困惑してしまう。 (もしかして冗談を返すのを期待されているのかしら?) 文芸部に…… 部に入っていないの 彼女の目によし、と心を決める。 「ええと……その、文芸部に……」 「……文芸部。すっごく似合うね」 「確かに。元々図書委員だから当たり前か」 (え? 嘘でしょとか言ってくれないの?) 「そ、そんなぁ……わたしたちアミティエにも相談してくれないなんて……」 「いや、仕方ないよ。私たちだって個人的なことを全部明かしている訳じゃないんだし」 「分かるわ。分かるけど、でも……」 雨に濡れた犬のように何ともいえない目で見詰めてくる立花さんへ、手をわたわたさせると違うの!と声を上げた。 「じょ、冗談よ。文芸部に入ったというのは嘘。沙沙貴さんたちがやっていたから私も冗談を言った方がいいのかなって思って……」 「え、そ、そうなの? なら、蘇芳さんはわたしへ黙って部活に入っていないのね?」 「う、うん」 佳かったぁ、と胸をなで下ろす彼女。私は何をそんなに安堵しているのか分からず疑問符が浮かぶけれど。 「白羽さんでも冗談を言うのか。ちょっとびっくりしたな。まぁ私たちは忙しいし、部活に入るなんて余裕ないしね」 いや、でも……。 「……部には入っていないの。ごめんなさい」 「……そう。そうかぁ、確かに蘇芳ちゃんは図書委員をやっているものね」 「それじゃ仕方ないか」 「おいおい、それじゃ部活に入っていないのがマイノリティみたいじゃないか」 「……my海苔?」 「うん? ああ、少数派って意味だよ」 納得したのか林檎さんはうんうんと頷くと、ようやく私の手を離し、マユリさんを指さすと、 「少数派」 「え」 「やってない方が少数派だよ。もしかして蘇芳ちゃんだけでなく二人とも部に入ってないの?」 「え、ええ。特定の部に所属していないけど……」 「うわぁ……本当に入ってないんだ。ちょっとそれってマズイよ」 「な、何でよ」 「クラスで何かしらの委員をしている人は忙しくて入ってない子もいるけど、委員にも部にも入ってない子なんていないよ?」 「わたしは学級委員だし……」 私は図書委員だ。 「な、なんだよ。$そんな可哀相な目で私を見るな!」 「……このままだとユリちゃんはニートになってしまう」 「ならんわっ!$え、でも委員でない子は全員入ってるって冗談だろ?」 「害のない冗談は言うけど、こんなことで嘘はいわないよぅ。ユリはクラスに友達が多いからまだいいけどさ」 「趣味から友達を作ろうって考えるのは割と普通でしょ。皆さっきあげた六部活、もしくは個人でやってるサークルに所属してるよ」 「そう……だったのか。いつの間にか取り残されているなんて……」 何やらショックを受けているマユリさん。 (友達を作るのが目的ならもういいんじゃ……) ほとんどクラスの皆と仲の良いマユリさんが悩む必要はないと思う。むしろ部に所属しないといけないのは私の方だ。 「…………」 「……ねぇ、佳かったら明日の放課後三人で部活動を見学しに行ってみない?」 「えっ……でも立花さんは学級委員長をしているし……」 「別に見学しに行ったら絶対に入らなくちゃいけないってものでもないわ」 「それにせっかく入学したのだもの。何か部活をやってみたいって気持ちもあるし」 「そう……ですね。いいかも」 「……ぉぉ!$アミティエが私を気遣ってくれた……!」 「ふふ、そうね。感謝しなさい」 ふざけて軽口を言う二人へ、沙沙貴姉妹は興奮したように身を乗り出す。 「それじゃ明日、うちの料理部にも来てよ。面白い先輩も紹介するからさ」 「苺さんが面白いっていう先輩かぁ……」 「……わたしとしてもお墨付き」 ぐっと親指を立てる林檎さんに一抹の不安がよぎる。何だかまだ見ぬ先輩に怖い想像をしてしまいそうだ。 (……でも) “部活動” 昔の私では想像もできない進歩だ。 (どんな出逢いがあるのだろう) 胸が弾む思いを隠しきれず、笑みを隠すように俯きロシアンティーで使った、林檎ジャムの残ったスプーンを口に含んだ。 翌日の放課後―― 約束をしていた私たち三人は連れ立ち、部活棟のあるフロアへと足を踏み入れていた。 初めて足を踏み入れた場所に三々五々感想を言いながらも進み、“料理研究会”とプレートの掛かった扉の前についた。 始め、和気あいあいと楽しげにお喋りをしながら料理よりも過程を楽しむ部、と勝手に想像していた。 でも―― 「……これは何というか」 「……思っていたよりも、ちゃんとした料理部だね」 制服の上からエプロンを着た生徒たちが真剣な顔で調理に勤しんでいた。 数は七名ほどだが、一人は手際よく包丁を振るい野菜を刻み、一人は鉄鍋をリズミカルに振るい炒め物をしていた。 香辛料の匂いが漂い、お腹のすいた放課後の私たちには目……ではなく鼻に毒である。 「あ、来てくれたんだぁ」 エプロンを脱いだ苺さんがぱたぱたと小走りに駆け寄り、マユリさんの手を取った。 「ふふ、やっぱり切羽詰まってる人は違うね」 「そのネタまだ引っ張るつもり……?」 「あ、林檎さん」 同じくエプロンをくるくると丸めこちらへと歩み寄る彼女へ、 「林檎、先輩に許可取ってきて」 「……了解」 ぐっと親指をたてるとこちらを窺っているショートカットの女生徒へと声をかける。おそらく彼女が、この部の責任者なのだろう。 大きな中華鍋を手にしたまま、話を聞き終えた先輩はにこりと笑む。 「見学させて頂きます」 と、三人共に頭を下げる。 「面白い先輩ってあの人?」 「……違う。〈桜木〉《さくらぎ》先輩はこの部の良心」 「紹介したいっていう先輩は今日は来ていないんだ。掛け持ちでやっているから、そっちと被るとこられないんだよ」 「そうなの……」 沙沙貴姉妹のお墨付きという先輩が居ないのを知り、ほっとした反面、残念な気持ちにもなる。 (何だろう。失礼だけど珍獣を見逃したような) 「でもすごく本格的なのねぇ。部活だと言っていたからもっと軽い感じだと思っていたわ」 「実はわたし的にも入部するまではそう思ってたんだよね」 「おばあちゃんが料理教室をやっててお友達とのお話がメインだったから、ここもそうなのかってさ」 「……美味しいお菓子を食べ放題だと思っていた」 「本格的な調理法が学べそうね」 「……今月は中華月間。お菓子作りはまだまだ先なのですよ」 「そうなの。お菓子作りもするならマユリさんも入部してみたら?」 「お菓子作りだけならレシピを増やすために入ってもいいけど……」 料理に勤しむ先輩方を見、 「料理はその……ここで言うことじゃないかもだけど、あまり興味がなくて……」 「そうなの? お菓子作りとそう手順は変わらないよねぇ?」 「お菓子作りは作ったものを自分で食べるからいいけど、和食洋食は自分一人のために作るのは、何というか面倒というか……」 「お菓子も自分で食べるって言ってるのに?」 ううん、とニュアンスを伝えきれずにマユリさんは頭を掻く。$その伝えられない感覚に、 「私、なんとなく分かるわ」 そうこぼしてしまった。 「……どういうことかね、蘇芳ちゃん」 「私は祖父と二人きりだったから料理は私が作っていたんだけど、一人の時は何となく……作る気がしないのよ」 「一人だと簡単なもので済ませてしまおうとか」 「ああ、そう。その感覚に近いかもしれない!」 手を取り頷くマユリさんに、赤くなったのが分からないように俯いた。 「確かに誰かに振る舞おうと思えば、頑張って凝った料理も作るものね。でも、この場合料理を学ぶのは……」 「まだ見ぬ旦那様のための練習じゃないかな」 苺さんらしからぬ発言に、おお……とこれまた女子からぬ感嘆の声があがる。調理を続けている部員の方もどこか照れているよう。 「花嫁修業の一環としてね。それなら分かるわ」 なるほど、と調理を続ける先輩方を見遣る立花さん。 何故だか少し寂しげな目でマユリさんは手元を見詰めるアミティエを見ていた。 「で、どう入部してみる?」 「そうねぇ」 「……今なら入会金無料だよ」 「ふふ、それは魅力的だけど見に来た部活動はここが始めなの。だから他の部も回ってみて決めてみるわ」 やんわりと断りの言葉を入れ私たちを見遣る。 「長々いるのも御迷惑だし、それじゃぁお暇しましょうか」 料理部を後にし―― 「料理部も驚いたけど……」 「手芸部もかなり真剣に活動しているのね。驚いたわ……」 立花さんが是非見学したいと言った手芸部を見学し終えた私たちは感想を述べあっていた。 「手芸部って、マフラーだとかテーブルクロスとかを作るだけかと思っていたけど……」 「人形まで、でしょ? まさか個人がぬいぐるみを編み物で作れるなんてびっくりしたよ」 アフガン編み、というかぎ状の編み棒を使って熊のぬいぐるみを作っているのを見、純粋に驚いてしまった。 「…………」 (立花さん?) なにやら腕を組み眉間に皺を寄せる彼女が気になり声を掛ける。と、 「やっぱり無理よねぇ」 「無理って?」 「もともと手芸には興味があったんだけど、あんなに複雑なものだと思っていなくて……」 「マフラーやセーターくらいなら編めるかと思ったんだけど……」 「体験入部でやらせて貰った時、編み棒セーターに突き刺してたものね」 意外なことに手先が不器用だった立花さんは、果敢に挑戦するも、レース編みのような複雑なものは当然――。 リリアン編みのような子供でも出来るものでさえ、編み棒をつかえず絡ませてしまったのだ。 「憧れと現実は違うのね……。わたし向いてないんだわ」 がくりと肩を落とす立花さんに私は、 別の部活を見学しに行きましょ 立花さんなら大丈夫 「ま、まぁ人それぞれだし、他の部活を見学しに行きましょう」 言葉を受け立花さんはじっと私の目を見詰め、 「蘇芳さんにも暗にダメだって言われたわ……!」 「え、え、そんなこと……!」 わ、っと顔を手で押さえうずくまってしまう。 「白羽さんは気を遣ってくれたんじゃないか。趣味と仕事は分けた方がいいとも言うし」 「……マユリさんもダメだっていうのね」 「いや、それは、まぁ……」 幾つもの毛糸玉をぐちゃぐちゃにした光景を思い出したのか、マユリさんにしては珍しくフォローできずに愛想笑いだけをこぼした。 「り、立花さんなら大丈夫よ!」 と言った。 「……本当に?」 「わ、私だって最初はお料理作りが苦手だったけれど、回数をこなすうちに食べられるものになったし……。最初は誰でも失敗するわ!」 「蘇芳さん……!」 悲嘆にくれていた立花さんは私の手を取り微笑んでくれる。 「はいはい。だからここは女子校だって言ったろ?そんなに近づいて手を繋いでたらキスしてるって思われるって」 「ぁ、そ、そうね……!」 目の前で花が咲くように彼女の頬に朱がさし、手を離すと身体を離した。 (ちょっと残念) ついそう思ってしまい私も頬に、首元に熱さを感じてしまう。 「ごめんなさいね」 頬を染めたまま笑いかけてくれる立花さんに、私は何も言うことが出来なかった。 「でもとりあえずは様子見でいいんじゃない。結構お金かかるみたいだったし」 (確かに) と頷く。料理部では聞かなかったことだけど、月に一度の会費はなかなかの金額だった。 裕福な生徒が多い学院だけれど、家から送られるお小遣いの上限は学院から決められている。$使うところは絞らなくちゃ、なのである。 「……そうねぇ。$お茶会で振る舞う茶葉のこともあるし」 「お菓子は私が作っていったり、皆から徴収して買ったりしてるけど、紅茶は委員長の善意だものなぁ」 何だか、世知辛い話になってしまった。 「立花じゃないけど他のも色々見て決めればいい。私としては次は美術部を見学したいな」 「そうね。他の部も見に行きましょうか」 ようやく笑顔を見せた立花さんの手を引き、マユリさんは次の部室へと向かったのである。 手芸部よりも長く、美術部を見学し―― 「どう……だった?」 「……うん」 随分と真剣に耳を傾けていたマユリさんへ尋ねてみる。髪を弄りながらも、 「入部してみようかな、とは思うんだけど……」 と、歯切れ悪く答える。 「何か引っかかることがあったの?」 「活動内容があんまりだったとか?」 「先輩がどうだとか、油絵だけがやりたいから石膏はしたくないとかそういう理由じゃなくて……」 ぐっとためるマユリさんへ私たちも身を乗り出す。と、 「やっぱりお金がきついんだよぉ!」 そう大きく肩を落とした。 「まぁ自分用のイーゼルだとか筆、絵の具、石膏とか素人目から見ても入り用だものねぇ」 「他に使うところがなければ美術部もいいんだけど、趣味でお菓子作りもしてるしなぁ。あれも地味に費用がかかっているし……」 顎に手を掛け男らしく窓を望むマユリさんを見て、 “金は必要だが重要じゃない” 昔見た映画、“ナイトオンザプラネット”での台詞を思い出す。 「……まぁ真逆の意味で思い出したんだけどね」 「何か言った? 蘇芳さん」 「もしかして妙案が?」 鋭く私を見詰めるマユリさんの目に圧され、慌てて場にそぐう話題を考える。 「そ、そういえば体験入部の説明の中で裸婦モデルをやっていると聞いて驚いたわ」 「あれって専門の学校でなくても、やっているんですね」 苦し紛れに言った話だが、何故だか二人は少し感心したような顔つきになり、 「……白羽さんからその話題を振ってくるとは思わなかったな」 「うん。言うなら絶対マユリさんだと思っていたのに」 「ぁ、ぅぅ……!」 印象に残っていたことを切り出しただけなのだけど……。 今になって“興味があることを尋ねた”形になったのだと気づき、顔と言わず首まで赤く染めてしまった。 「白羽さんの言うようにヌードデッサンまでやってるって言うのは驚きだったな」 「でもここって、人里離れてるしモデルの人を呼ぶの大変じゃないのかな?」 「週に一度だって話してたけど……そう考えるとおかしいわね」 「もしかして、先生……ううん。生徒同士で順番ずつモデルになっているんじゃないかしら?」 「生徒が? ヌードデッサンのモデルに?」 頓狂な声を上げるマユリさんに、私はつい寄宿舎でのお風呂場の光景を思い浮かべてしまった。 (集中できるわけないじゃない!) 「でも学院の立地を考えたらあり得る話なのか。ううん、でもヌードデッサンかぁ」 入部することにたいしてのさらなる悩みが増え、マユリさんはまたも窓を睨む。 と、何故だか八重垣さんのような笑い方をしたマユリさんは、質問なんだけど、と振り返った。 「私が入部したら白羽さんも入ってくれる?」 それはちょっと…… マユリさんが入部するなら…… その質問の意図は―― (自分の裸が見たいか聞いているようなものじゃないの!) アミティエの裸を想像し、発熱するだけでなく思わず後ずさってしまった。 「ええ、その反応って傷つくなぁ。全然私に魅力がないってことだし」 「そ、の……ぅぅ……」 「白羽さんはお風呂を誘っても一緒に入ってくれないし、何だか壁を感じてしまうな」 (仲良くはしたい、したいんだけど……!) 葛藤に何と言えば良いか、口ごもってしまう。 「あんまり蘇芳さんを困らせないの。マユリさんの云々よりも、まず自分の裸を晒すのが抵抗あるでしょ」 「入部するってことはそういうことなんだし。ねぇ?」 「そ、そう! そうなの!」 自分もモデルをしなければと言うことを意識していなかった私は、立花さんの言葉に追従し頭を何度も振った。 「……気づいたか」 八重垣さんを彷彿とさせる意地の悪い笑みのまま、小さく呟いた言葉は聞こえなかったけども。 「それじゃ次は正規の部に行ってみましょう。同好会でこれだけの設備なんだから学院公認の部はどんなかしらね」 朗らかに笑う立花さんへ、胸に手を当て動悸を抑えると、ええと頷いた。 せっかくのアミティエのお誘いだ。私は―― 「……匂坂さんも入部するなら」 と答えた。 「えっ」 (何か……おかしなことを言ったかしら?) 「正気なの蘇芳さん? 今の質問の意図はマユリさんもそうだけど……」 「蘇芳さんもヌードデッサンのモデルをやって皆に描かれるっていうことなのよ?」 「――ッ!」 「やった! これで踏ん切りがついたよ。白羽さんみたいな美人の裸が観賞できるなら部費も安いってものだ」 「貴女ねぇ……!」 「お風呂場でも恥ずかしがって一緒に入ってくれないだろ。でも美術のためなら一肌脱ぐっていうんだ」 「立花もどう、入部する価値あるんじゃないの?」 「わ、わたしは……」 熱っぽい視線を送る立花さんへ私は慌てて手を振り無理です、と答えた。 「よ、よく考えないで答えてしまって……皆の前で裸になるなんて、む、無理です! それに私の貧相な裸なんて……!」 羨む真白い肌を持つマユリさんの前で脱ぐなんて精神的処刑だ。一生鏡で自分を見られなくなる。 「白羽さんが貧相ならクラスの皆、そうになるよ。沙沙貴さんとか幼児になっちゃうし」 「蘇芳さんのスタイルと比べるのはさすがに酷よ。わたしだって水着とか身体の線が分かる格好でなら隣に立ちたくないわ」 「隣に……?」 「ああ、違うのっ! 嫌いだとかの意味じゃなくて……」 「ふふ!」 「もう! マユリさんが言い出したことなんだから、収拾つけなさいよ」 怒る立花さんにマユリさんは、八重垣さんのような笑みをこぼしつつ、 「そうだね、これくらいにしておくか。それじゃ次は文芸部でも行ってみようか。白羽さんが好きそうだしね」 どうやら美術部に入部する、しないの話は切り上げてくれたらしい。私は胸に手を当てて動悸を抑えると、はい、と頷いたのだった。 学院正式の部である、$“文芸部”“天文部”をそれぞれ見学し、 最後の公認の部である“合唱部”に向かう際、私は胸がざわつく嫌な予感がしていた。 ――あの人を思い出してしまいそう。 合唱部には当然、“あれ”が置かれているだろう。 今までは意識外だったけれど、合唱部の練習場として使っているのなら“ある”のだろう。 ……ただ、目にするだけなら大丈夫だろうか。 (あまり気にしないでいよう) そう思いアミティエたちに気づかれないように気を張っていたのだけど。 「やぁやぁ、今日は最高の日だ。$こんな美人と出会えたのだから!」 「は、はぁ……」 いきなり現れた上級生は、肩に手を回しながら男性的口調でポンポンと世辞を唱える。 あまりの軽妙な仕草、言いざまに呆気にとられ、始めに心配していたことなぞ吹き飛んでしまった。 あの――とおずおずと立花さんが口を開くと、彼女は大げさに手を広げ、マジシャンのように腰を折り挨拶をした。 「僕の名前は〈八代〉《やつしろ》〈譲葉〉《ゆずりは》。$ニカイアの会の会長をしている。まぁ生徒会のようなものだね」 「入学式の時挨拶したから見覚えがあるんじゃないかな? ああ、それと当然合唱部の部員の一人だよ」 白磁のような肌に鋼色の瞳。やや白色に近い銀色の髪はかき上げた指からきめ細やかにさらさらと流れた。 背ほどの長さの、銀糸の髪はシュシュで結いポニーテイルにまとめている。 (こんな綺麗な人は初めてみたわ) はっきりと主張している身体の線だけは女性的だけれども、涼しげな目元、口調―― 立ち居振る舞いは見た目とは違い中性的で、不意の仕草にどきりと胸を弾ませてしまう。 私がつい目を奪われても仕方がないだろう。でも、 「さぁ、それでは見学者の名前を聞こうじゃないか! 先ずはそこの眼鏡ちゃんからだ」 「は、はい。わたしは……」 姓名を名乗るやり取りを見ながら、初めて遭遇したいわゆる“残念美人”に呆気にとられていた。 ハーフかクォーターか、目を奪われる程だが、言動と……初めて会う人に言うのも何だけど、人となりでだいぶ損をしていると思う。 「私は匂坂マユリです。三人はアミティエで……」 「こうさか? ほう、コーカサスオオカブトを連想する佳い名字だ。夏になったらまた遊びに来たまえ」 「は、はぁ……」 「それで、黒髪美人な君は? 何というお名前かな」 「し、白羽蘇芳です」 「スオウ、スオウ……。ああ、何処かで聞いたことがあったような……」 銀色の眉を細い指で掻き、何やら悩み出す先輩へ私たちはどうしたものかと視線を交じ合わせた。 「……どうしよう、どうしたらいいの?」 「……初めて会う人種だ。一度出直した方がいいかな」 「そ、それがいいかも」 「ん? ああ、すまない。つい考えに没頭してしまった。 それで三人は合唱部の見学者ということでいいのだね」 「は、はい」 「そうか。残念ながら合唱部の部長はまだ来ていないが……まぁ、僕が許可を出そう。それで構わないね、君たち」 背後に控える合唱部員に呼びかける。皆、綺麗な唱和ではい、と答えた。個人的に部員たちの顔に苦笑いが見えた気がしたが。 「それでお三方は経験者なのかい? 見学に来たということは」 「いえ、そういう訳ではなくて……ただ三人とも部に未加入なので色々と見て回っていて……」 「成る程。それでは不肖この僕が部の紹介をするとしよう」 「先輩が……?」 「譲葉と呼んでくれ」 「……八代先輩が説明をなさるのですか?」 「最近の子はシャイなんだな。普段この僕が部の活動説明なぞをすることはない。ラッキーだったね君たち」 曖昧な顔で頷くしか出来ない私たち。八代先輩は、銀色の前髪をかき上げ、 「それでは始めよう」 と言った。 「……と、まぁ大体がこんなところだが質問はあるかい?」 「い、いえ……」 「大丈夫です……」 いまだ呑まれたままの対応で受け答える二人を横目に、私も驚きが隠せなかった。 まさか、 (まさか真面目に案内するなんて――!) 人となりから説明をするとは言っても脱線するのを構えていた私たちだが、これが大いに肩すかしを食らってしまった。 八代先輩の説明は分かり易く、ウィットに富み、要点を捉えていた。 興味のない部の場合は得てして途中で集中力が切れてしまいがちになるが、飽きさせる事なく説明を終え、驚きと感心しきりなのである。 (ニカイアの会の会長だものね。ただの変な人の筈はないか) 自分でも失礼な感想を抱いているなと思い、改めるために顔を振った。 「ん? 何か質問があるかい、スオウ君」 「あ、いえ。その……」 アミティエに助けを求めるも視線を逸らされてしまう。 「あの……話されていなかったですけど、部費はたくさん掛かるのでしょうか? 機材が多いようですけど……」 今まで費用が元で入部を足踏みすることが多かった為つい出てしまった意見だが……。 八代先輩は――なぜだか琴線に触れたように感心し、私へと近づき接吻するほどに顔を近づけまじまじと見詰めてきた。 「な、何でしょうか」 「いや今まで部費がどうのと聞かれたのは初めてだったからね。そういう角度の質問もあるのかと思って大いに感心した所だよ」 「成る程。この学院に通っているからと省いていたが、盲点だった」 ふむ、と頷き見詰めたまま。長い〈睫〉《まつげ》は銀色で瞬きするたびにバサバサと音を立てそうな程だ。 彫刻のような混じりけのない美に注視され、どぎまぎとしてしまう。 「君、名は?」 「え、始めに蘇芳と……」 「適当でなくきちんとフルネームで知りたくなってね。さぁ、このメモ帳へ名前を書いてくれたまえ」 見詰められるままに、渡されたペンで名前を書くと目を見張り私の肩を抱く。 「ちょ……!」 「蘇芳……蘇芳――花蘇芳か!$ああ、そうだ。確かに耳にしたことがある。ユダツリーの君だったね」 「え、何故私のことを……?」 「ふふ、どうしてだと思う?」 人差し指を唇にあて、不敵に微笑むさまに、 沙沙貴さんが話していた先輩? 八重垣さんとお友達なのでは? 私を知る、八代先輩との共通点を探ってみる。 「もしかして……」 「何だい、恥ずかしがらずに言ってみるといい」 「双子の……沙沙貴姉妹から聞いていたのではないですか?」 私の肩を抱いていた先輩の手は、バンバンと叩かれ、ついには拍手までする。 「大した物だ。成る程、沙沙貴君たちが頭が切れると言うのも頷ける。そう、沙沙貴君たちから君のことを聞いていたのさ」 「ユダツリーの話で覚えていたので、名前を見るまでピンと来なかったが――ユダと知り合えて光栄だよ」 「……その言い方だとあまり光栄に思われていないような」 カトリックの学舎で何度も出していい名ではないだろう。 「それじゃ、沙沙貴さんたちが面白い先輩を紹介すると言っていたのは……」 「当然、僕のことさ。まぁ平々凡々たる僕じゃ、面白いなんて形容詞は恐れ多いけどね」 「……いや充分面白い先輩ですよ」 背後で呟くマユリさんの声音に私は苦笑いをするしかなかったのである。 もしかして、と思う。 (ユダツリーと言っていた、なら……) 八代先輩がその名称を知っているのは、あの場にいた者から聞いたということだ。 間近で見詰めてくる先輩を見返して、私は彼女とよく似た雰囲気を持つ同級生の名前を出した。 「……もしかして、八重垣えりかさんから聞いたのですか?」 「やえがき――ああ、謎解きの問題を提示した子だね。彼女も面白い。友人になりたいところだが、残念ながら彼女じゃない」 それじゃ誰なのです、と声をあげようとすると肩に回した手を離し、 「沙沙貴苺、沙沙貴林檎姉妹からさ。$料理部で誕生日会でのことを披露していたよ」 「話を聞いて、蘇芳君とは一度話してみたいと思っていたのさ」 「苺たちが言っていた先輩っていうのは……」 「僕のことだよ」 「合唱部と料理部、どちらも兼任していてね。$まぁ此方の方が主にやっているけどね」 「そうだったんですか」 「ああ、そうそう。それでユダ君の質問だったね。確か、僕のスリーサイズを知りたいんだっけ?」 「ち、違います。部費の話を……」 「上から――ああ、そうだ。部費か。金銭面での心配はないよ。うちは正規の部だからね。御上からお手当が貰えるのさ」 「その手当からはみ出してしまった場合だけ皆で割って払うことになっているけど、僕が入部してからこっち、そんな事態になったことはないね」 「……部費が掛からない」 おさげに手を掛け真剣にうなる。お茶会での自費払いもある立花さんにはシリアスな話題なのだろう。 「あの、正式な部……文芸部、天文部もそうなのですか?」 「当然。文芸部は製本代くらいだし、天文部は掛かる費用が高すぎて逆に生徒から徴収はしないよ。ん? うちに入る気になったかい?」 「ううん、私は……」 「なら、眼鏡ちゃんは? 君は合唱部ルックスだろう」 「勝手にらしい顔と言われても……でも、そうですね」 合唱部の皆を見回し、特に金管楽器を凝っと見詰めると、 「少し考えたいです」 と答えた。八代先輩はそうか、と手をパンと叩いて扉へと視線を向けた。 「それでは勧誘は部長にして貰うことにしよう。悔しいが人当たりは僕よりも上だからね」 相変わらずの意味の分からない発言に首を傾げる。扉へ向かい八代先輩は手品師のように恭しく手を向けると、 重い扉の開く音がし、 「また悪ふざけをしているの、譲葉」 まさしく――妖精のように美しい少女が〈顕〉《あらわ》れたのだ。 「――なのかしら」 「ああ、だから君に後を頼みたいんだ」 魂が抜けてしまったように金と銀……二人が語らうのをただ見詰めていると、 「貴女が蘇芳さん?」 そう涼やかな声音に呼びかけられ、ようやく色が戻ってゆく。 「御機嫌よう。私は〈小御門〉《こみかど》ネリネ。$ニカイアの会の副会長。合唱部の部長をしているわ。よろしくね」 ――日が落ち西日が差す光の束は、彼女の金色の髪をまるで本物の黄金のように輝かせ―― 白い肌は赤く染まっていたが故に、さらにその白さを際立たせていた。 「…………」 「ご免なさい。名前を間違えてしまったのかしら。白羽蘇芳さんと仰るのよね?」 「は、はい……」 「佳かった。名前を間違えることほど失礼なことはないものね」 腰まで伸ばしている金色の髪が揺れ、瞳も、まつげまで淡い金色に染まる彼女が微笑むさまは、まるで一枚のフレスコ画のようだと思った。 小御門先輩は私へ挨拶をし終わると立花さん、そしてマユリさんへと緩慢ではあるが正しい所作で礼を交わしてゆく。 「……驚いたね」 「え、ええ」 「……まさか合唱部の部長があんな美人だったなんて……。ニカイアの会ってハーフやクォーターじゃなくちゃ入れないのかな?」 軽口に曖昧に頷いて見せるしかない。 (マユリさんや立花さんも美人だけど……) 西洋人形のような端正な顔立ち、豪奢な金色の髪、青磁色の瞳は言い方は悪いけれど“異色”だ。 完全な造形から本物の人間でないようにも思える。 「私が部の案内をするのね?」 「それは僕が済ましたよ。ネリーにはユダ君らへの勧誘を頼みたいんだ」 「湯田くん?」 イントネーションから名字を勘違いしたと分かる。私は静かに頭を振った。 「ああ、ユダツリーのことね。ふふ、お誕生日会での一件は聞いているわ。蘇芳さんは賢いのね」 「いえ……」 「む、ネリー。この敬虔な学舎でユダなどと言う名を呼ぶとはけしからんな。ニカイアの会の会長として苦言を呈するぞ」 「この人……」 「ふふ、譲葉はいつもこうなの。あまり気にしないであげてね」 そのフォローもどうだろうと思う。が、目を細め微笑む小御門先輩をみていたら些事だ。 「――失礼ですけど小御門先輩はニカイアの会に所属されているということは、クリスチャンなのですか?」 「ええ、そうよ。祖父、父ともにカトリックの神父なの。だから私も幼い頃に洗礼を受けたわ」 「そうなんですか。そのお父様が外国の方で?」 「ええ、小御門の家に壻になる形で、この国にもっと教義を知って貰おうと根を下ろしたの。祖父は戻ってしまったけどね」 「……ハーフなのか」 どうやらハーフか純血か、それを聞き出したかったようだ。 (確かに気になるものね) 瑠璃色の瞳に、金色の髪はとても柔らかくきめ細やかだ。日に当たりきらきらと輝いて見える。問いたくなるのも分かる。 「おいおい、僕にはそんな質問はしなかったじゃないか。蘇芳君がスリーサイズを聞いたくらいで」 「あら、興味がお有りになるの?」 「ち、違います! 部のことを聞いただけで……」 「そうだったかな? $折角だ、君たちも気になっているようだから僕の事も話しておこう」 「祖父が英国人で父はハーフ。僕はクォーターだな」 「祖父の血が色濃くでたようで、あまり日本人らしくはないが、これでもちゃきちゃきの江戸っ子だよ」 「はぁ、八代先輩もクリスチャンなのですか?」 「一応、ネリーに付き合って洗礼を受けているからそうなるだろうね。此奴とは長い付き合いだし……」 「幼なじみなんですか?」 ああ、と頷く八代先輩。らしくはあるが、どうにも上手く嵌まらない二人だ。 ――と、賑やかな会話を続けていたところで、ふっと話が途切れる。 沈黙の間、私が小御門先輩に――その美しい髪に目を奪われていると、マユリさんが口を開いた。 「八代先輩は英国人との……と言いましたけれど、小御門先輩は何処の……」 「ふふふ、そうだ。ネリーが何処の国を祖に持つか、折角だから謎々として出そう。ヒントは、最もキリスト教徒がいる国、だ」 「最も? ええと……」 「アメリカかしら?」 「でも小御門先輩の雰囲気からしてイギリスも捨てがたいな……」 「蘇芳君はどう思う?」 「……え、はい? 何がでしょう?」 朱い日差しに照らされ燃えるような美しい髪に目を奪われていた私は、呼びかけてきた八代先輩へはっとして向き合った。 「む、聞いていなかったのかね?」 「す、すみません……」 祖父に呼ばれた“鴉の濡れ羽色”という髪色に劣等感を持つ私には、鮮やかな金色の髪は垂涎の的なのだ。 「まぁまぁいいじゃない。$それよりも部への勧誘というけれど、蘇芳さんたちは経験者なのかしら?」 「私は経験者ではありません」 「子供の頃に地区の合唱会で少しだけ……」 経験者である立花さんへ質問する小御門先輩を横目にしつつも、 (話した方がいいのかしら……) 素直に経験者だと話した方がいいのか、と苦悩する。 (……でも演奏者として経験があると言ったら) 視界の隅にあれが置かれているのを見て、自分の周りの空気が湿気を含んだように一段重くなった気がする。 「それで、蘇芳さんは経験者なのかしら?」 ピアノなら少し弾けます やったことがありません そう――青い瞳に問いかけられ、 「……少しだけ」 と、歯切れの悪い答えをしてしまった。$小御門先輩は綺麗な眉をハの字にして問いかけてくる。 「少しだけ、ですか? 花菱さんのように部ではなく、地区の合唱会に参加していたのですか?」 「い、いえ。そうではなくて……」 「はい?」 「なに、言いたくなければ言わずともいいんだよ。何せ蘇芳君は13番目の使徒だ。敬虔なカトリック信者は敵だろうからね」 「譲葉」 愁眉を寄せていた小御門先輩は語気を強くし牽制した。 (八代先輩……) 正直、軽口を叩いてくれた方が気が楽だ。私の視線に気づいたのだろう、彼女は近づき私の手を取ると、 「誰でも言いたくないことはあるものだ。口を閉ざしていいのだよ」 髪と同じように真白い肌。添えられた手に少しだけ安堵し、私は有り難う御座います、と答えた。 暖かい言葉に、素直になろうと重い口を開く。 「……義母が音楽家でピアノを習っていたんです。賛美歌での演奏もしたことがあるので……少し、と……」 素直な青い瞳に問いかけられ、 「やったこと……ありません」 そう嘘を吐いた。 「そう、なの……」 なにやら歯切れ悪く、愁眉を潜め私を見詰める。 (何だろう……?) 「む、どうしたネリー。食べ合わせの悪いものでも口にしたか?」 「――あのね、蘇芳さん。気を悪くしないで聞いて貰える?」 八代先輩の言葉をまるで聞いていないように、彼女は私の手を取った。 「ぁ……」 体温の高い手に思わず声が漏れる。いや、それだけでなく、 「あ、の……何を……」 彼女の手が私の手を丹念に揉むように触れ、かっと頬に血が巡ってしまう。 「もしかしてなのだけど……蘇芳さんはピアノを習っているのではないかしら。手のひらのこれ……ピアノたこよね?」 「ぅ、ぁ……」 「そうなの? 蘇芳さん」 修練していた者には分かる硬くなったたこを指で探られ、ぐうの音も出ない。 私はうな垂れながらも、 「合唱部に入ってはいませんけど……義母が音楽家で習っていたんです」 そう告げた。 「それじゃ少しだけ弾いてみてくれない?」 そう無邪気に請われてしまった。 (ああ、あの場所に……) あの人との思い出に直結しているピアノへと誘われ、前に立つとさらに空気が重たく感じられる。 「すごい! 期待しているわね、蘇芳さん」 「こんな特技があるなんて大したものだね」 アミティエらが口々に何かを言うも、耳には入らない。 (さっさと済ませてしまおう) “やらずに済むようなことはない” 経験から学んでいる私は請われるまま、椅子をひいた。 一音が響き、ぐっとあの人の陰が狭まった気がする。 (早く、早く……) 上手く弾き、悪夢のような時間を早く終わらせたい。 私の心は七歳の子供に戻っていた。 ――指はあの頃のように滑らかに動き、鍵盤を叩く。 私は意図して自らを没頭させ、白と黒の鍵盤と自分だけの世界を作った。 そうすれば金切り声を上げるあの人の存在を一時でも忘れることが出来るからだ。 ――綺麗、 と、誰かが呟いた気がした。 (駄目だ) まだ私だけの世界になっていない。 あの人と私を繋ぐ嫌らしい楽器。 だけれど今はこれに縋るしかないのだ。 (そうだ。私は――) 「――いいね。結構だ。これだけ聞けば充分」 傍らに佇んだ八代先輩の声で世界が戻り、私は顔を上げた。 「さやかに星はきらめき、ね。もっと聴いていたかったのに」 「すごい、上手なのね。蘇芳さん!」 「ああ、本当に!」 アミティエらの声が耳に入り、ようやく終わったのだと気づいた。 「有り難う。正確なタッチだった。なかなかの腕前だね」 「……は、い」 立ち上がろうとするも足に力が入らず、椅子に座したまま。早くこの場から立ち去りたい。 「ねぇ、途中で終わってしまったけど最後まで聴きたいわ。佳かったらもう少し弾いて貰えるかしら?」 言われ―― 再び、あの人の陰が近づいてくるのを感じた。 「そうね。もっと聴きたいわ」 「違う曲とかでも佳いしね」 遠くなる声、 周りの声が消えていく程に、変わりに大きくなっていくのは、 あの人の叱責の声音、 脂汗が滲み、 ――どうしたの? 口の中が乾いていく、 ――顔色が悪いわ、 徐々に沸き立つのは、 ――保健室に、 どうしようもない程の悪心、 「――嫌だ」 義母が背後に迫る妄想を抱いた、私は、 両腕で自分を抱き、椅子を倒し、その場から逃げ出した――。 背中に義母を感じたまま―― 『早く』 背中をあの人に押されるように駆ける。 『〈彼処〉《あそこ》から遠ざからないと』 ――いや、どれほど遠く離れても、あの人の温もりは消えてはくれなかった。 密着し、肌にあの人の体温が、耳朶にはいやらしい吐く息すら感じられる。 『まだ……私は囚われたままなの――?』 「はぁ……! はぁはぁ……はぁ……!」 どくどく鳴る心臓に手を当て、私は周りを見渡した。 毒々しいまでに青々と茂る緑。$以前来た際には瑞々しかった空気は鼻につき、草花の青臭さに尚更〈嘔〉《え》〈吐〉《ず》いてしまう。 (此処は……) ピアノから遠ざかろうと足が向かった先は、温室。 義母から逃げた私は、祖父の陰を追ったのだろうかと、刹那思う。 そして―― 脂汗が滲み力の入らない身体を抱えたまま、ふらふらと人目が付かない場所を探し彷徨う。 (ああ……駄目だ、消えてくれない……) 落ち着けるものか、そうでないかの判断。 血の気の引いた身体を引きずり、更に奥へ。 温室の扉からは死角になっている場所を見つけ出し、うずくまる。 「早く……落ち着かせないと……」 アミティエや……八代先輩、小御門先輩も心配しているだろう。 あまり長く休んでいては大事に……私の抱えているものが知られてしまうかもしれない。 「っ……!」 余計なことを考えた所為か、嘔吐きが起こり身体をくの字にする。 早く落ち着いてくれることだけを考え、私は亀のように丸くなった。 落ち着きたいのに浮かぶは義母の肖像。 久しぶりにピアノに触れたのが悪かったのだろうか、 もう消えかかっていたと思っていたのに―― あの人――義母を強く感じた時に起こる悪心、 (吐いて疼きをとめた方が……) 抑えきれなくなった嘔吐きは一度、吐いてしまえば楽になる。それは経験上分かっていることだ。でも、 (でも……これで佳いの?) 消えかかった理性が、そう問いかける。 変わろうとして訪れたこの学院で、変わらないことの象徴であるあの人から逃げていいのだろうか、と。 私は―― あらがう 早く済ませた方がいい ――そうだ。 私は変わりたくてこの学院にきた。 だから、 (あの人が傍らにいるとは思ってはダメ……!) 今は父と別れ、他人となっているのだ。 私と人生が交合うことはない。 只の他人。 だから、 「……さっさと……消えて……もう……許して……お願い、お義母さん……」 背にべったりとしがみつく義母へ絞り出すように言う。 「え……? 母って……」 問うような、絶句したような声音が聞こえ―― いよいよ幻聴が聞こえだしたのかと、顔を上げたそこには、 「マユリさん……?」 もっとも見られたくない人が佇んでいたのだ。 (早く済ませた方がいい) 弱気な私は、理性的な仮面を被りそう思った。 ――ちょうど良く今、温室に人気はないが、早く済ませなければ誰か来るかもしれない。 耐えきれず、無様に吐いている姿を見られでもしたら、と。 「っ……!」 もう、いいと思った刹那、 悪心はさらに強まり、脂汗が額に滲む。 私は背に感じるあの人へ、 「……もう……消えて……許して……お義母さん……」 そう呟いた。 不意に、奇妙に大きく足音が聞こえ、 「白羽……さん……? お母さんって……」 物音が聞こえた方に緩慢に顔を上げた先には、 困惑に顔をゆがませた彼女が佇んでいたのだ。 私を見詰める彼女。 私が見詰める彼女。 まるで懺悔をしているような私の姿を視て―― 「何を……しているの?」 小用へと、立花さんが廊下に出て行き―― 賑やかだった部屋の中はシンと静まり返った。 マユリさんは、ベッドに腰掛けたまま視線を書棚へと向け、私は椅子にかけたまま所在なく暗く滲む窓を眺めた。 (どう思っているのかしら……) 義母への許しを請う言葉を耳にしたマユリさんは―― しばし何か思うところがあるような表情を見せた後、汗に塗れた私の額をハンカチで拭い、 肩を貸してくれると、私を保健室へと連れて行ってくれた。 保健室へと向かう間……。 養護教諭に処置を受けている間も彼女は何も喋らず、ただただ私を悲しいような、何処か嬉しいような複雑な表情で見詰めていた。 保健室にいると聞かされ駆けつけた立花さんや、八代先輩、小御門先輩も心配し私を気遣ってくれた。 “気分が悪くなったそうです” 横になった私を見遣りながら、マユリさんは三人へとそう伝えた。 ピアノの演奏中に気分が悪くなり、慌てて手洗いへと向かったのだと。 確かに完全な嘘ではない。でも、私の抱えている秘密を守ってくれようとしてなのか、マユリさんは皆へそう告げてくれた。 済まなかったね、無理をさせて――とニカイアの会の会長、副会長は頭を下げ出て行った。 そして、私は―― 義母を思い出すことで発露する“悪心”を見られた後、初めて二人きりになった。 立花さんが手洗いへと出かけた短い時間、やはり私は温室でのことを話しておくべきだろうか……。 いや黙っているべきだろうか、悩む。 (でも、話すにしたって何て言えばいいの?) 他人になった義母を強く思い出すたびに、発作的に起きる悪心に悩まされている、と? 私が他人からもし同じ相談を持ちかけられたら、どうして佳いか分からずに只諾々と耳を傾けるしかないだろう。 “そんな話を聞かされてもどうすればいい?” これがまっとうな感覚だ。 ――いや、それは楽観的な想像だ。本当ならもっと酷い…… 「白羽さん」 「――え? な、何かしら」 書棚をさまよっていた目は私へと向けられ、マユリさんは慌てる私へといつもと変わりのない笑みを浮かべた。 「今日は冷えるね。春だというのにまだ冬を思い出すよ。寒くはない?」 「え、ええ。大丈夫よ」 「……そう」 肌寒さは感じない。なら何故二の腕をさらしたナイトウェアを着ているのか。 (――温室での話をしようとしているのだわ) マユリさんは切り出す機を計りかねているのだ。私は何と答えたらいいか、返事を考えるだけでも胸が締め付けられた。 「――白羽さん。言いたくないのなら無理に話してくれなくてもいいのだけど……」 「……はい」 「温室でのこと。その……聞こえてしまったんだ、あれは……」 笑みが消え、真摯な瞳で問われ、 嘘を吐こう 正直に話そう (何て言えばいいの……!) 様々な感情はひしめき合い心の中は葛藤し暗たんとした思いが巡る。 「わた……私は……」 「…………」 「私は……!」 まっすぐな瞳に嘘はつけないと思った。 「……匂坂さんの……考えていること……じゃ、ないわ……」 「……そう、なのか」 でも、私の口は“嘘”を選ぶ。 余りにまっすぐな、まっとうな目に、真実が怖くなった。本当のことを言うことが恐ろしい。 (この瞳が軽蔑の目に変わるのは嫌……!) 「お待たせ。そろそろ寝ましょうか。消灯の時間よ」 「……うん、そうだね」 「蘇芳さんも。体の具合が悪いんだから早く就寝しないと、ね?」 いつもの朗らかで優しい気遣いに背をおされ、 「……はい」 私は、目を伏せそう答えた……。 (マユリさんに伝えてもいいかもしれない……) 彼女に素直に話してみてもいいかと思った。あの人へ向けた言葉を聞いているのだし、と。 「……わ、私……」 「…………」 「わ、たしは……」 “悪心”のことを話そうとしても口は滑らかに動いてはくれない。 「あ、あのね……私……」 「――白羽さん、温室で……」 「お待たせ。ご免なさい待たせて。そろそろ消灯だし、寝ましょうか」 「あ、ああ、そう……だね」 「ん? さぁさぁベッドに行って。電気を消すから。蘇芳さん、夜中調子が悪くなったら遠慮なく起こしてね」 「今度はわたしが付き合うからね」 にこりと笑み、私の背を撫でてくれる優しい手に押され、 「……はい」 私は、少しだけ俯きながらもそう答えた……。 (マユリさん……) 授業が終わりバスキア教諭に礼をし――私の目はマユリさんを追った。 休み時間になったばかりだと言うのに、彼女の周りにはクラスメイトが集まり、語らいに花が咲いていた。 (やっぱりきちんと話した方が……) 言いにくい話題を彼女から切り出してくれたのだ。やはり真摯に……。 「ぁ……」 一瞬目が合った途端、弾かれるように目を逸らされてしまった。 「ぅぅ……」 昨日、二人きりになった時、何故口ごもってしまったのだろう。マユリさんなら……。 (でも……それも想像でしかないわ) 「……蘇芳ちゃん」 「…………」 「……どうしたの。お腹痛くした?」 「……どうすれば」 「……むぅ」 お昼休みも―― 「お茶のお代わり欲しい人いる?」 お茶会を交えても切り出し方が分からなかった。 「ああ、ありがとう」 お茶を淹れる立花さんへ微かな笑みを見せて礼を言う。 破顔した顔はほとんど見せないけれど、少しの微笑みでも周りが明るくなる。そんな彼女に自然と皆が惹きつけられる。 「今日は新しい茶葉を使ってみたの。セイロンのものだけど分かる?」 「そうなのか、いつもより薫り高い気がするね」 「ふふ、本当にぃ? 調子がいいんだから。ねぇ蘇芳さん」 急にふられ曖昧に微笑む。自然、マユリさんへ目を向ける。と、 「…………」 私だけが分かる程に表情を硬くさせ、すっと目を逸らした。 (……やっぱり) せっかくお話ができる位、仲良くなれたというのに。彼女とは……友達になりたいと思っていたマユリさんとはこれまでなのだろうか。 「へぇ、林檎の言っていたことは本当だったんだね」 「……何の話?」 うっすらと滲んできた涙をぬぐい、平静を装い尋ねる。 「うふふ、それはこっちの話ということで。お茶会の途中なんだけど、これから部活に参加しなきゃなんだ」 「そう、なの。だったら私から立花さんへ〈言付〉《ことづ》けて……」 「違う違う。蘇芳ちゃんはこれから私たちに拉致されるの」 「え?」 「先輩が蘇芳ちゃんを気に入っちゃってさ。つれてこいってうるさいんだ。だから行こう蘇芳ちゃん。林檎!」 「……それじゃお先に失礼します」 「え、なに、何なの?」 目をぱちくりとさせた委員長を背に、私は左右の手を双子に引かれ、連れ出されてしまったのである。 「ううん……どうしてこうも上手くいかないんだ」 焦げたハンバーグを睨みながら知人――ニカイアの会の会長がうなる。 「相性というやつかな。僕と蘇芳君はこんなに仲良しだというのにっ」 私の肩に手を回し高らかに宣言する八代先輩に、私は頬を染めながら愛想笑いを返すしかできなかった。 (何でこんなことに……) “紆余曲折を経て” と言ってしまえば一言で済むが、お茶会を途中で退席した私は、沙沙貴姉妹に両脇を挟まれ料理部へ連れていかれた。 そこまでは佳い(のだろうか?)。$ところが途中バスキア教諭と会い―― 何やら先約を交わしていた沙沙貴姉妹らはバスキア教諭に連れて行かれてしまった。 “先に行ってて”との言葉に促され、とぼとぼと料理部に向かい、ドアを開けると其処には―― 「うん? どうした顔色が優れないぞ、女の子の日かね?」 「……違います」 女生徒に囲まれた八代先輩が居り、目ざとく私を見つけた彼女は、美辞麗句を言いつつ私を調理パートナーに指名したのだ……。 (私、何やっているんだろう) ハンバーグの種を作りながらそう思う。 マユリさんと仲直りするにはどうしたらいいか、そればかりを考えていたのに。 「随分暗い顔をしているね。本当にあの日じゃないのかい?」 「僕は軽い方なのでいまいち感覚が分からないが、本当に辛いのなら言ってくれたまえよ」 「……心配をおかけしてすみません」 「ん、蘇芳君が平気ならいい。$しかし何だね、炭になっている上部分だけ削ってパンに挟めば食べられるかもしれないな」 「ハンバーグとハンバーガーなら名前も似ているし」 菜箸で堅いハンバーグを突き刺し茶目っ気たっぷりにウインクしてみせる八代先輩に―― 私はいつも通りの変わった先輩だと空気が抜けてしまった。 「ふふ、少しは調子が戻ったかい?」 「……はい。ありがとう御座います」 「何、今日は君がチャーリーで僕がエンジェルスだ。指導監督は蘇芳君なのだからビシビシやってくれて構わないんだよ」 (チャーリーって……) 「おやたとえが分かり辛かったかな? 海外ドラマだよ」 「割と有名だから知っていると思ったんだがね。沙沙貴林檎君から、君は映画や小説好きだと聞いていたんだけどね」 「林檎さんから……」 林檎さんが私の話をしてくれた……。 「僕も映画や海外ドラマが好きなので林檎君に請われて貸したりしているんだ」 「君と話を合わせるために見ているんじゃないかな? 持つべきものは友だね」 落ち込んでいた心がすっと持ち上がる感覚がして、少し気が楽になったような感じがした。 自分を気遣ってくれている人がいる。嬉しくて胸が熱くなる。 (……私をお茶会から連れ出したのも、気を遣って……?) 林檎さんの顔を思い浮かべ、はい、と八代先輩の言葉に微笑し頷くと、菜箸を置き八代先輩は満足そうに笑った。 「それでいい。それじゃチャーリー。もっと簡単でお手軽な料理法っていうのを聞きたいのだけどね」 新しくハンバーグの種を手に取りこね出す八代先輩へ、私はお手本を見せるために歩み寄っていった。 合い挽き肉からハンバーグの種を作る方法、 デミグラスソースの作り方、 付け合わせの野菜の切り方に至るまで、試行錯誤があったのだけれど―― 「……見た目は美味しそうだわ」 焦げず崩れず、何とか見られる状態にまでもってくることが出来た。 ようやく形になったことに八代先輩は、ハリウッド俳優のようなジェスチュアで喜びを表していたのだけれど。 「――さて、ここからが本番だ」 おごそかにフォークを手に取り、見事な作法で切り分けデミグラスソースの掛かったハンバーグを口元に運ぶ。 「ん……む……」 目をつぶり咀嚼すると―― 「――ダメだ。やっぱり塩っ辛い」 渋面を作り、水を飲む。 私も続き、ハンバーグを食べてみたのだけれど、 「しょっぱいですね……」 口の中に広がる塩み。ソースをかけているから余計に味が濃く、渋面を作らされてしまう。 「レシピ通りやっているのに、何で塩っ辛くなるんだ? 僕の手から岩塩でもこぼれ落ちているのか?」 男性のように頭をがりがりと掻く彼女に、私も頭を抱えてしまう。 料理というのは数式と一緒だ。 火加減、水加減、正しい分量が決められ、それを間違わなければ望む正しい味になる。 だからこそ、 ――どうしてこうなるのかが分からない。 (料理下手とは聞いていたけど……) 始めに調理パートナーではなく、監督として教えてほしいと請われていた。八代先輩からの申告で料理音痴ゆえ、君に習いたいのだと。 (普段は器用で天才肌なのに) 言動はややおかしなところがあるとはいえ、ニカイアの会長。成績は優秀で大抵のものは少し触ればプロ並みに習得するという。 八代先輩を指導する過程で、彼女を信奉する料理部の皆さんから聞かされたのだ。 自分たちも教えた。しかし無理だった。後は頼む、と。 「……せっかくだからこの学院にいる間に、凝った料理は無理でも、定番の料理だけでも抑えとこうと思ったんだがねぇ」 「そ、そんなに落ち込むことはないですよ。今までは焦げていたのに今度はきれいに焼けたじゃないですか。これは進歩ですよ!」 美しい銀色の眉根を寄せていた八代先輩は、私の言葉を聞き目をぱちくりとさせ、そうだね、とにんまり笑って見せた。 「とにかくもう一度作ってみるよ」 ここまできたら意地だといわんばかりに首を竦め歯を見せると、残り少ないハンバーグの種を手に取った。 火の通りにむらがでないよう、合い挽き肉を何度も手で投げ合わせ、 こんがり焼き色がつくまで火を通し、 既に付け合わせの盛りつけが済んでいる皿へとハンバーグを盛りつける。 最後の仕上げとしてデミグラスソースを掛ける段になり、八代先輩は私の顔を見、重々しく頷くと流れるような所作でソースを掛けた。 「――さて、ついに出来た、が」 私を一度見、フォークとナイフを手に取ると、緊張した面持ちでハンバーグを切り分け、デミグラスソースに付ける。 「……では」 意を決したように湯気立つハンバーグを頬張る。 「ん、むぐ……ん……」 目をつぶったまま、幾度か咀嚼しごくりと飲み込む。 「どう……でしたか……?」 「……しょっぱくない」 「はい?」 「普通の味だ! い、いや美味しい、美味しいぞ!ははっ! 成功だっ!」 わっと歓声が上がり料理部の皆は手に手を取って喜ぶ。私も上気し、熱くなった頬を両手で押さえた。 「ありがとう! 今日は最良の日だよ!」 「わわっ」 抱きしめられ直接的な感謝の行為に手をぱたぱたとさせてしまう。 ほとんど唇が触れそうな程、目の前で微笑まれかっと全身が熱くなってゆくのが分かる。 男性的な口調、仕草なのに抱きしめ香ってくる匂いは甘く女性的で、相反する性に戸惑う。 「や、八代先輩……!」 「譲葉と呼んでくれないか」 (ぅぅ……!) 耳元で囁く言葉は甘く、抱きしめられたことから胸が押しつけられ――私が思っていたよりも大きいことが分かった。 私の胸で潰された彼女の胸は私よりも一回り大きく、そして沈み込むほどに柔らかい。 「せ、先輩もうそろそろ……」 「ああすまないね蘇芳君。つい嬉しくて……ん?」 真面目な顔つきで私の目を見詰め、そして目をつぶり唇を寄せて―― 「きゃっ!?」 キスされると思った私は子犬のように舌で頬を舐められ、驚き目をぱちぱちさせてしまった。 「な、何を……!」 「ん、失敬。頬にソースが付いていたんだよ」 「そ、そうなんですか……」 頬と言わず首元まで発汗しているのが分かる。吐く息がかかる距離で見詰められ、私は羞恥で身を縮込ませてしまう。 「うむ。ん、まだとれてない箇所が……」 「ぁ、ぅ……だ、大丈夫です!」 「ふむ。残念」 もう一度舐めようとした八代先輩を引き離すと、ちろりと自分の唇を舐め艶やかに笑った。 「ぅぅ……!」 発熱した頬を手でぬぐい、ようやく落ち着いてくると――他の部員からの視線が痛い。 一斉にじっと見られ思わず身を引いてしまった。 (どちらかというと被害者なのに……!) 「ふふ、でも今日は本当に良き日だ。何度挑戦しても駄目だったことが実を結んだのだからね」 「ほら僕たちのことはいいから皆も自分の作業に戻るように」 八代先輩に言われ部員たちはしぶしぶ自分の調理へと戻っていく。 後半、私たちの調理の観戦に掛かりきりでほとんど手についてなかったのだ。 「蘇芳君。今日は無理を聞いてくれて本当にありがとう」 「いえ……」 狂騒じみたいつもの調子から声を落とし、自分の作った料理に目を落とし言う彼女へ―― 私も頭が冷え、ナイフでハンバーグを切り取るのを静かに見守った。 「あー……んん。これは一つ年上の老婆心から出るつまらない言葉だと思ってくれていいが……」 「はい?」 「僕は正直、自分には料理の才能なんてないと思っていた。人間得手不得手があるしね。どうしても苦手な物はある。そうだろ?」 「……ええ」 刹那、彼女を――マユリさんの事を思い出す。 「だけどね。苦手だからと諦めていいものとそうじゃないものがある。僕は父や弟に――」 「亡くなった母の代わりに美味しい料理を食べさせたかった。だから苦手だ不得手だと分かっていても何度もチャレンジした」 八代先輩の繊細な部分を聞き、私は真意を探るため彼女の目を見詰めた。 彼女は焦げ、崩れたたくさんの失敗作をフォークで刺し言う。 「……だからね、蘇芳君。君にも諦めさせたくないんだ」 「諦め?」 「僕のこれと比較するのもおこがましいだろうが、君の抱える問題と一緒だ」 「崩れ、しょっぱい思いを幾度もする。$だけど最後は上手くいったじゃないか」 「八代先輩……」 「だから大丈夫」 にっこりと人好きする笑みをこぼし、照れた素振りで頭を乱暴にがりがりと掻く。 私は彼女の仕草に、言葉に硬く強張っていた心がほだされてゆくのを感じた。 「まぁ、蘇芳君で言うところの“卵を割らなければ、オムレツは作れない”というやつだね」 古い洋画の言葉、“オール・ザ・キングスメン”の台詞を借りる八代先輩へ私も破顔してしまう。 (向き合ってみよう) 私はそう心に決め、八代先輩に勧められるまま、彼女が差し出したハンバーグを頂いたのだ……。 お茶会の楽しげな声を耳にして、やはり私は―― 「やっぱり行けない……」 紅茶を注いで貰い、微かな笑みを浮かべるマユリさんを遠くに見て、私は小さな、だけど深いため息をついた。 昨夜自室でのやり取りの後―― 黙っていることに耐えきれなくなった私は、幾度かマユリさんへ自分が抱える問題を打ち明けようとした。 授業終わりの休み時間、 バレエで二人きりの指導になった際に、 話せる切っ掛けを幾度となく駄目にしてしまった。 それはひとえに私のいくじのなさ、そして―― マユリさんが私を拒絶していたから。 (……当然よね) ――あんな言葉を聞いてしまったのだから。 悪心を堪えながら義母に許しを請う言葉。 身内、友人ならば親身になって話をきくかもしれない。 でもアミティエとはいえ、クラスメイト、知人止まりの関係だ。 (煩わしいことにあえて首を突っ込む訳、ないものね……) 私は再び長いため息をつくと、楽しげな声が響く東屋を後にした……。 図書室で時間をつぶそうかしら、 そう、学舎の門を潜ると、 「あら、白羽さんじゃない?」 エントランスに声を反響させ呼びかけたのは、 「バスキア教諭……」 エプロンのような物を手にバスキア教諭が私へと小走りに駆け寄ってきた。 「今日は図書委員の日だったかしら? もうお茶会に行っているものと思っていましたのに」 放課後のお茶会のことはバスキア教諭も承知している。 ホストの立花さんのアミティエである私が、予定のない日は参加していることも御存じなのだ。 「いえ、今日は……」 「何かご用がお有りに?」 「そういうわけでは……ないのですが……」 理由を明かす訳にもいかず歯切れ悪く答える私に、バスキア教諭は可愛らしい仕草で頬に人差し指を当てた。 「……そうね。一人になって考えたいこともあるわよね。女の子ですものねぇ」 「は、はい……」 何やら思春期が抱える懊悩だと思っているのか眉根を寄せ、うんうんと頷いた。 「あの……先生。私はこれで……」 「そうだ。お茶会なのだけど沙沙貴さんたちも参加していたかしら?」 「え、あ、はい。参加していたみたいですけど……」 「ああ、そうなの。やっぱり忘れてしまっているみたいね。$ううん。それじゃぁ……」 今度は人差し指を眉間にあて目をつぶる。ややあって何かを思いついたように、悪戯をする前の苺さんのような目で私を見詰めた。 「そうだ、沙沙貴さんたちにお願いしていたことだけど、白羽さんにお願いできないかしら」 「私に……何の御用でしょうか?」 「ええ。それなんですけどねぇ」 ――バスキア教諭の頼みというのは、以前も頼まれたことのある温室での作業だった。 場所が場所だけに始めは断ろうと思ったのだけど、 (身体を動かしていた方が何も考えずに済むかもしれない) 植物の植え替え、畑仕事は重労働だ。$もやもやとした懊悩に苦しまなくても済むかもしれない。 私はそう考えバスキア教諭の頼みを受けた。 受けた、のだけれど―― 「ようやく一段落出来そうですね、白羽さん」 私にとって温室での出来事を思い出させる人物、 「――私の方も収穫、終わりました」 小御門ネリネ先輩は額の汗をぬぐいながら微笑み掛けた。 (……何となく気まずいわ) マユリさんが吐いた嘘のお陰で、合唱部での非常識な私の行動は体調を崩していた所為だとなってはいるけれど……。 畑仕事を任されたのが私と、小御門先輩だと聞かされた時は、頼みを受けたことを本気で後悔してしまった。 「大体、これくらい取っておけば佳いかしら」 「はい。二十個もあれば佳いと言っていましたし……」 畑仕事で収穫の終えた春キャベツを見て、小御門先輩は楽しげに小首をかしげ、目を細めた。 ウェーブの掛かった髪が揺れ、春の穏やかな日差しに照らされた豪奢な髪がそよぐさまは、黄金の穂が揺れたように感じる。 「自分の手で育てて、自分の手で収穫するのって楽しいわね。そう思わない、白羽さん」 屈託なく笑む小御門先輩に、温室の外れにある野菜畑を見、そうですねと頷いた。 ――学院の情操教育の一環で食事に出される野菜を一部栽培しているのだ。 自分の手で育て、命を頂くということを知るための教育だという。 学院の生徒は全学年、持ち回りで畑仕事をすることになっている。 (本当は沙沙貴さんたちの番だったらしいけれど……) 「今日はロールキャベツかしら、それとも単純に塩ダレキャベツも美味しいわよね」 にこにこと収穫した春キャベツを前に呟いている小御門先輩を見、少しだけ空気が抜けた。 ――どうやら気まずいと思っているのは私だけのようだ。 「あら? 白羽さんが収穫したところ……」 「あの、何か……?」 「いえ、一列綺麗に取っている訳でなく、とびとびで収穫しているのはどうしてなのかしら、と思って」 小御門先輩の視線は私が収穫した畑を向いていた。 ……確かに小御門先輩の畑は一列すべて収穫しており、私の畑は歯抜けのようになっている。小首を傾げる彼女へ、私は慌てて答える。 「あれは、その熟したものから収穫していて……」 「熟す? 大きくなっていれば収穫して佳いのではないの?」 「収穫時期を見るのはキャベツの中心を手で押してみるんです。それで固くしまっていたら収穫時期で……」 「そうなんですか! 凄いわ、白羽さん」 「いえ、そんな……」 「バスキア教諭からもよく温室での用向きを手伝って貰っていると聞いているし、お家でもお手伝いなさっていたのかしら」 「祖父と二人暮らしだったので、家のことは色々と。祖父が植物を育てるのが趣味だったので、植え替えや畑仕事も手伝っていました」 「そうなの。すごいわねぇ。私は学院に来るまで畑仕事はやったことがなくて。でも土を弄るのって楽しいわね」 両手を合わせ無邪気に微笑む小御門先輩に、つい、 「……可愛い」 と、呟いてしまった。小御門先輩は、え、と幾度か目を瞬かせ驚いた顔つきで私を見詰める。 「あ、その、すいません……! その……」 上級生に失礼なことを言ってしまったと、私は慌てて何か別のことだったと言えるものはないか辺りを見渡す、と。 「有り難う。可愛いって初めて言われたわ」 そう、白い頬を真っ赤に染め目を細め微笑み掛けてくれた。 「え、だって、あの、小御門先輩は美人さんじゃ……」 「ふふ、父はそう言ってくれることはあったけれど、同世代の友人に言われたのは初めてよ。$嬉しいわ。うん。何だか照れるものね」 「…………」 絵画の中の人物のような小御門先輩が、美人だと言われたことがないことにも驚いたけれど、 (友人? 友人だって言われたわ――!) 小御門先輩が私をさして、“友人”だと言ってくれたことが信じられず、心臓は早鐘のように鳴り続けた。 (い、いやダメよ本気にしたら。小御門先輩なら――) 「でも、可愛い……可愛い、ふふ」 優しいこの人の事だ。$きっとリップサービスというやつだろう。 (沙沙貴さんたちや、立花さんが私を美人だって言うのと同じことよね) ようやく自分の中で正解を導き、火照っていた頬が、心臓が落ち着いてきた。 つい小御門先輩の顔をじっと見詰めていた形になっていた私は、私の視線を受け戸惑ったように頬を朱く染めたまま身をよじる彼女に気づいたのだ。 「あ、その……」 「ど、泥がついてしまったわね。寮に届ける前に落としていきましょう」 顔を真っ赤にさせた彼女の言葉に押され、私も頬を染め、はいと頷いた……。 ――始めに感じていた気まずさもなくなった。 圧倒されるような美人さんだけど、話している内に怯むこともなくなったと、思う。 でも、 「白羽さんはどんなものが好き?」 無邪気に尋ねられる言葉に私は、 (答えられるわけないじゃない!) 隣へ寄り添うよう形で密着している彼女の体温に、匂いに戸惑い、のぼせあがっていたのだ。 「私はやっぱり王道のロールキャベツ……あ、あと、春キャベツをふんだんにつかったポトフなんかも好きね。ふふ、夕食が楽しみだわ」 「そ、そうですね……」 「白羽さんはあまりお野菜が得意じゃないのかしら?」 「い、いえ、そうではないんですけれど……」 「?」 可愛らしく小首をかしげこちらを窺う。 私は、それよりも―― (小御門先輩の足が……!) 洗い場の水面の中で触れている足に気を取られそれどころではない。 (これって小御門先輩が言った友人だから?) いや、あれは優しさから出たリップサービスだと結論が出た。だから、これは―― (ハーフの人特有の触れあい……なの?) 映画や小説の知識しかないけれど、外国の方の間合いの取り方は日本人とは違い、過度に親しげにしている気がする。 きっとこれもそうなのだ。 (そう。そうだ。そう思うことにしよう) 「ごめんなさいね。私だけはしゃいでしまって。学院に来るまでは食べ歩きが趣味だったの」 「色んなところに譲葉と行って……退屈かしら?」 「そ、そんなことありません! 小御門先輩と話しているのは……その、愉しいです!」 「そう? 私人付き合いの仕方が下手で、譲葉にはよくそれで笑われてしまうのだけど……。$急になれなれしくなかったかしらと思って」 「……やっぱりこれって」 「え?」 「い、いえ。でも驚きました。小御門先輩って小食そうなのに、ご趣味がその……」 「ふふ、そうね。初めて聞く方は皆そう言うわ。でも小食なのは当たりよ。私ネコ食いなの。$少しの量をちょっとずつ頂くのが好きなの」 くすくすと笑い子供のように身体を揺らす小御門先輩へ、私は少しだけ落ち着きを取り戻した。 「私も好きです。料理を作るのがですけど」 「沙沙貴さんたちから見学に行ったことを聞きました。お料理ができるなんて素敵ね」 「いえ……」 「私はあまり得意ではなくて。お裁縫とかならできるのですけど……」 暖炉の側で編み物をする小御門先輩を想像し、あまりにも似合う光景に微かに笑んでしまった。 「あ、もしかして出来ないと思っている?」 「そんなことは……きゃ!?」 「ふふ、お仕置きよ」 彼女の足先が私の足に絡めるように触れられ、らしくない悲鳴をあげてしまった。 やっと落ち着いた心臓も再び早鐘を打ち、首と言わず頬まで真っ赤になってしまう。 「せ、先輩……!」 「ふふ、冗談よ。でもね、ほらまだ泥がついているでしょう?」 「え、ぁ……ぅ……!」 確認する余裕はない。彼女の足先はからかうように私の足をくすぐり、艶めかしく絡め合う。巫山戯てやっているとは思うけれど……。 (これって何だか……) 小説の中のとある場面を思い出しさらに熱を持ってしまう。 「ねぇ知っている? 欧米人の体温てね。日本人よりも平熱が高いらしいの。温かいって感じるかしら」 「は、はい……」 「そう。仲良くなってハグをすると皆、真っ赤になるから……」 「あちらでは37度が平熱なんですって。$そういえば白羽さんも赤くなっているわね。私の側って熱い?」 「そんなことは……」 「そう佳かった。あ、ほらまだ足の間……」 「……っ!」 「これで取れた。ふふ、佳かったわ」 にこりと無邪気に笑み、私へと微笑み掛ける。赤くなった顔を見せまいと俯き、はいと答えた。 「でも佳かった。少しは元気がでたみたいで」 「……え」 「温室で私と会った時、随分と暗い顔をしていたから心配だったの。だから、その、少し〈巫山戯〉《ふざけ》てみたの」 (小御門先輩……気遣ってくれていたんだ) 私が気まずいとだけ思っていたとき、小御門先輩は心配してくれていた。 「気を悪くしてしまった……?」 「…………」 「ご免なさい。私駄目ね。譲葉に言われる訳だわ……」 愁眉を寄せる小御門先輩へ私は勢いよく首を振ると、違いますと言った。 「……実は私小御門先輩の言うとおり落ち込んでいて……。先輩も人付き合いがって仰っていましたけど、私も全然得意ではないんです」 「それでやっと仲良くなれてた、と思っていた人と仲違いしてしまって……」 「そう……」 「……はい。でも大丈夫です。小御門先輩と話していて、私元気が出ましたから」 言う私へ、痛ましい表情になった彼女は、何かを呟き、そっと私の肩へと頭を当て寄り添った。 「……自分が愛しても、心が届かないというのはつらい。分かるわ」 「え?」 「……ううん。これは私の話。白羽さん。私と話しているとき、敬語を使っているでしょう」 「その仲違いしていた方と話している時も敬語を使っていた?」 刹那、マユリさんとのお喋りを思い浮かべ――私は、頷いた。 「私はね、敬語というのはある種の武装だと思うの」 「敬語を使うということは相手がよく分かってない時や、心の内を晒したくない時に使うものでしょう」 (確かに……そうかもしれない) 仲良くなりたいと思いながらも、私は自分から一線を引いていた。 「もしかしてだけど、その人は白羽さんの言葉によそよそしさを感じているのかも。私のこれはもう癖になってしまっているけど……」 「仲違いをしてしまったのなら、もっと自分の言葉で話してみたらどうかしら?」 小御門先輩の忠告はマユリさんとの間に抱える問題とは違うものだ。……でも、 「――そう、ですね」 (自分から線を引いていたのかもしれない) きちんと話そうとは思っていても自分を晒すことに怖じ気づいてしまっていたのは確かだ。 「私、ちゃんと彼女と話し合ってみます」 「そう、佳かったわ」 一生懸命に話してくれる先輩が、失礼だけど後輩のように感じられ私は―― 「――可愛い」 「あ、また……! もう! ちゃんと話しているのに!」 怒っているように見えて笑っている小御門先輩へ、私は心の中で感謝の言葉を告げたのだ……。 先輩からの忠告を受け、 きちんと向き合ってみよう―― そう決意した私は、 (……思っているのと行動に移せるのはやっぱり違うわ) 先を歩く立花さんとマユリさんの背中を眺め、私は重いため息を吐いた。 「……せっかくの機会だったのに」 そう――先輩たちの忠告から数日経ち、ちょうど良い機会だと捉えていたオリエンテーリングの日を迎えた。 ……いや、迎えた、のではなく、迎えていた……が正しい。 三人一組、アミティエ同士で組むオリエンテーリング。 以前マユリさんが話していた通り、学院のオリエンテーリングは本格的で、 始めに講堂に集められた私たちはコンパスと地図を渡され、ランダムに決められた3つの場所をまわるようにと指示を受けた。 始めはそれほど遠くない1つ目の地点。そして、 全員が通る2つ目の場所にはニカイアの会の委員がおり―― “数字”に関連する簡単なクイズを出され、その正解が指し示す最後の地点へと行き、学院へ戻ってくるというものだった。 時間が定められており、のんびりと……という訳にはいかなかったけれど、景色は素晴らしく気持ちの良いレクリエーションとなる筈だった。 アミティエ同士、自然を踏破することで気持ちも近づき話が切り出しやすくなるかも……そう思っていたのだけど……。 マユリさんの態度は変わらず、切り出すような雰囲気になることはなかった。 立花さんへ気づかれることのないように不自然にならないくらいの態度で、さりげない不干渉を続けたのだ。 3箇所を回り終える前に何とか話をしようと頑張ってきたけど……。 「……結局、何も話せないままチェックポイントを回りきってしまったし」 再び深いため息を吐く私。 「――さん」 先輩に励まされたというのに何もできない自分が情けなくなる。 レクリエーションのような機会がせっかくあったというのに何も進展しないなんて……。 「蘇芳さん。いいかしら?」 「あ、え、はい!」 「今からクラスの皆が戻ってきているか点呼を取りに行かなくちゃいけないの」 委員長として頼まれていたのだろう、私も付き合おうかと尋ねた。 「ううん平気よ。そんなに手間じゃないもの。二人はどうする? 給水所に行くなら寄宿舎の近くにあるそうだけど」 「ん、そうだな……」 ちらりとばつの悪い視線を投げかけてくる。私はぎゅっと胸を掴まれた気分になった。 (……二人でいるのは居たたまれない気持ちになるわ……) 「蘇芳さん?」 「……私は、その、花摘みに行こうかなって」 「そう。マユリさんは?」 「給水所に行ってくるよ。喉がからからなんだ」 「分かった。それじゃ用が済んだら、またここで落ち合いましょう」 元気に手を振り講堂へと向かう立花さんを見送りながら、 私と同じように、何処かほっとした顔をしたマユリさんを盗み見た……。 ――小用を済ませ、 私は色をなくした瞳でただぼうっと外を眺めていた。 (まだ早いかな……) 思ったよりも化粧室は混んでなく、待つことなく用を済ますことができた。 立花さんとの待ち合わせ場所へ向かわなくてはならないのだけど……。 (マユリさんが困るかも……) クラス皆の点呼を手間ではないと言っていたけど、私や、給水所に向かったマユリさんより早く済む用ということはないだろう。 今向かったらきっとマユリさんと二人で立花さんが戻ってくるのを待つことになる。 ――また避けられるのはいやだ。 先輩に背を押して貰ったのに切り出すことのできない自分が不甲斐ない。 このままではいけない。じりじりとした焦燥感はあるのだけど、何と言っていいか分からない。 行き場のない気持ちが胸を巡り、のど元へとせり出してくるようだ。 ふいに耳に入った水音に顔を上げる。窓にパラパラと当たる水滴を認め、 「……雨だわ」 ぽつぽつと窓ガラスに当たる雨粒は、 私が見守る、ほんの少しの間に激しい雨脚となり窓をしたたかに打った。 (……これなら遅れても問題ないわ) 後ろ向きの考えが浮かび、内心安堵しながら、学舎へと早足で避難する学生たちを廊下の窓から眺めていた……。 ――雨が上がるのを待ち、 土砂降りから小雨に戻ってからも、完全に雨が上がるまで待ち、ゆっくりと時間を掛けて待ち合わせ場所に向かった。 そこに立花さんの姿を認めほっと胸をなで下ろす。時間を掛けたお陰で二人きりになることは防げた。けれど、 (マユリさんがいないわ) 待ち合わせ場所には立花さんだけが佇み、所在なさげに……いや、どこか不安そうに眉根を曇らせていた。 「あ、蘇芳さん! 佳かった」 私を見つけると安堵した表情に変わり、小走りで駆け寄ってくる。 軽く抱き留めるような形になりながら、慌てた彼女の態度に嫌な予感がした。 「匂坂さんは? まだ戻っていないの?」 「そのことなんだけど、少し問題が起きたの……」 再び表情を曇らす彼女へ嫌な予感が当たってしまったのか、と内心思いつつも問う。 「うん。実は講堂へ点呼をとりに行ったのだけど、そこで沙沙貴さんたちがまだ戻ってこないって聞かされたの」 「そう。でも遅れる人だっているだろうし……」 沙沙貴さんたちのことだ。遊んでいて遅れているというのが本当のところだろう。 「でも大雨が降っていたでしょう。だから心配になって探しに行こうってことになったの」 「……そう」 何だか雲行きが怪しくなってきた。 「それで講堂にニカイアの会の、役員の人がいたから、沙沙貴さんたちの最後のチェックポイントの場所を聞いたの」 「クイズ形式になっているあれよ。その人はクイズの出題者じゃなかったけど――」 「隣で聞いていて簡単なクイズだったから間違えようがないし、その番号を教えて貰って向かおうとしたのだけど……」 私はまだ返却していなかった地図を広げ先を促す。 「チェックポイントは“13番”。ここね。地図で見るとほら、沢が近くて大雨だと尚更危ないじゃない。だから向かおうとなって……」 「……もしかして匂坂さんが?」 「ええ。皆で行くと時間が掛かるから、健脚の自分がって。それで向かったのだけど……」 またも言葉を濁す。私は何と続くかが読めてしまった。大抵小説やドラマではこう続くのだ。 「二重遭難になってしまった?」 「ええ。いえ、違うわね、二重ではないわ……」 「沙沙貴さんたちは雨が落ち着きだした頃戻ってきたの。でも今度はマユリさんが、戻ってこなくなって……」 (私が現実逃避をしている間に……) 「13番のチェックポイントはさほど遠くない場所だから、先生たちが探しに行ってくれたのだけど……」 「見つからなくて……もしかして沢に足を滑らして落ちたんじゃないかって……」 (そんな……マユリさん――!) 焦燥感から駆けだしてしまいそうになるも、目尻に涙を浮かべる立花さんを前に、落ち着かなければと私は無理やりに冷静になるよう努めた。 「……大丈夫よ立花さん。先生たちが探してくれているのなら直ぐに見つかるわ」 「雨が降っていたから木陰で身を潜めていて、見つからなかっただけかもしれないし」 「でも、雨が上がってしばらく経つわ。戻ってきてもおかしくない時間だし……」 確かに、と思う。$地図を広げ13番のチェックポイントを見ると、この学舎から1キロもないくらいの場所だ。 いくら地面がぬかるんでいるとしても、まだ戻ってこないという事は考えづらい。 (なら本当に沢に嵌まって……?) 責任感の強い彼女のことだ。沙沙貴姉妹を探し、沢のそばへ近づき足を取られた……。 「……さん」 (最悪の事態を考えても無駄だ) 「……蘇芳さん」 (今できることを考えなければ……!) ふと、あの奇矯で頼りになる先輩方の姿が思い浮かんだ。 合唱部から逃げ出した後、ひょんなことから触れあう事となった先輩。 あの有能で何でもできるニカイアの会の先輩たちでも、失敗し、過去の過ちを悔いていると吐露していたことを思い出した。 ――そう、誰でもミスを犯すことがあるのだ。 「……誰でも?」 「蘇芳さんっ! わたしたちも探しに行こう? ここで待っているようにって言われたけど、わたし……!」 「……そうだね。探しに行こう。でも、一つだけ聞きたいことがあるの」 「なに?」 「ニカイアの会の役員がチェックポイントを教えてくれたって言っていたよね。でもその人は本当の出題者じゃないって」 「え、ええ。隣で聞いていて知ったって」 「それじゃ出題していた当人は誰?」 刹那、何を言っているのかと生真面目な立花さんは噛みつきそうな顔になったけれど、 「もしかして、出題者は小御門先輩じゃない?」 そう私の考えを述べると、立花さんは絶句し、目を瞬かせた。 「そう……だけど、なんで分かったの?」 “13番”というチェックポイントから察した私は、やはりと独りごちた。 簡単すぎるというクイズ、そして“13番”と言う数字。 先輩が出した問題とは――おそらく忌み数字だ。 出題したのが小御門先輩なら―― 私が考えている通りなら、まず小御門先輩を知る必要がある。 小御門先輩の出身地が分かれば―― (確か……そうだわ) 以前立花さんから後から聞いた話で、小御門先輩の出身地を当てるのをクイズ形式で出していたと話していた。 それは、“キリスト教徒が一番多い国はどこでしょうか”という質問。これは――。 イギリス アメリカ イタリア ドイツ そして、その出身地なら忌み数字は―― 4 9 13 17 「――私、匂坂さんを迎えに行くわ」 「え、先生たちが探して……」 分かっているわと言い、でもと続けた。 「先生たちが匂坂さんを連れて戻ってくるかもしれないから、立花さんはここで待っていて。私も探してみるから」 逡巡するも、気をつけてね――と言う立花さんの言葉に頷き、私は雨に濡れそぼった森林の中へと向かっていったのだ……。 怪訝な顔をする立花さんへ、 「頼みがあるのだけど……」 そう耳打ちしたのだ……。 ――じめじめとした湿気が身体にまとわりつき、心を苛立たせた。 (ぬかるみ位どうってことはないけれど……) 地図を広げ、チェックポイントへと近づいているか確認する。 沢を越え、大きな樫の木も過ぎた。そろそろ見えてくる筈だ。 「……青臭い。いやな臭いだわ」 雨に濡れ青々とした木々は艶めき、私の目には生命力に充ちた木々は毒々しく映っていた。 森特有の爽やかな香りも、雨が降った後だからか、木の、森の臭いが強すぎ気分が悪くなってしまう。 ――しばし、粘着質な足音を聞きながら、何故私がこんなにも苛立っているのかを考えた。 (理由は分かっている) 苛立っている理由は、そう。 「……あの人の所為」 仲違いしてしまったアミティエの元へと向かう私。 原因を作り出した当人への苛立ちが、森へ、自分自身へと向かっているのを感じた。 “人間の事が知りたいなら脳みそばかり調べても無駄だ。心はそんなところにはない” 私が幾度も繰り返し見た映画、“ダークシティ”での台詞が蘇る。 義母も似たような言葉を吐いたことがある。 そう――魂が宿る部位は脳みそでもなく、胸でもなく“指”だと。 (音楽家らしい言いざまだわ……) 鬱々とした思いが雨を呼んだのか、再び雨粒が私の身体へ、ぬかるんだ土の上を跳ねる。 私は嫌な思いを振り切るように足早に行く。鬱屈した思いを抱えたまま、地図を開きコンパスで確認する。 チェックポイントはこのあたりで間違い無い。木陰で身体を休められるような場所が近くにないだろうか。 雨粒を、濃い木々の臭気を振り払うように首を巡らす。と、 雨に濡れ、倒木の上に腰掛けた彼女を見つけた。 「マユリさん……」 出会った時、どうしよう。 何を話したらいい? そんな思いは遙か遠くに消え失せ―― 「マユリさん!」 胸のもやもやは綺麗に霧散霧消し、私は彼女の元へと駆け寄った。 「白羽さん!? どうしてここに……」 「佳かった……! 本当に沢に落ちていたらどうしようかと……!」 「ちょ、ちょっと待って。白羽さんは私を探しにきてくれたの?」 「? そうよ?」 当たり前の事を聞かれただ諾々と答える私。 マユリさんは何かを言いかけるも、ふっと相好を崩してありがとうと言った。 「助けに来てくれて助かったよ。沙沙貴さんたちを探しに来たのはいいけど……ッ!」 「マユリさん、足が……」 「木の根に足を取られて少し捻ってしまってね。途中で雨には降られるし――」 「とりあえず雨宿りしようと足を止めたら、途端に腫れてきてしまって往生していたんだ」 投げ出している足を上げようとして顔を歪ませる。私は慌てて駆け寄り、患部を診る。 「……くっ」 「少し腫れているわね。でも折れてはいないみたい。佳かったわ……」 「うん、二、三日すれば腫れは引くと思う。白羽さん、苺たちは……」 「そのことなら大丈夫。沙沙貴さんたちならもう戻ったわ。彼女たちは“4番”のチェックポイントに行っていたのよ」 え、っと声を上げ絶句するマユリさんへ私は、ここへ向かう際に小御門先輩に会ったのでしょう、と聞いた。 「そうだけど……何で知っているの?」 「出題者の小御門先輩から直接聞いたからここのチェックポイントへ向かったのじゃないかって思ったの」 「普通、クイズで“不吉な数は?”なんて問われたら、13番だと思うわよね。先生たちも13番へ探しに向かったし」 そう――クイズの出題は“不吉な数”を当てるというもの。ミッションスクールでそう問われれば普通“13”という数字だと連想する。 「……そうか。小御門先輩が出したクイズを聞いていたから、隣に居た役員は13だと思った」 「だからそう言っていたのか。でも、沙沙貴さんたちは……」 「素直に日本人的思考で“4番”だと思ったの。当然其処は正解じゃないから探し回った挙げ句に雨に降られ、雨宿りしてから戻ってきた」 「そうだったのか、道理で行き違わないわけだ」 雨に濡れ、髪の毛がぺったりと額に張り付いたマユリさんは自嘲気味に笑った。私は持っていたハンカチーフで彼女の額を、頬を拭った。 「ありがとう、白羽さん。でも、一つだけ質問があるんだ」 「何?」 「出題が不吉な数なら“13番”と“4番”を間違えることもあるかもしれない。後、例えば苦しむに通じる“9番”とかね。でも……」 「どうして白羽さんは“17番”のここが分かったんだい?」 真剣な、どこか薄気味悪いものを見るような目つきで私を注視する。 ――そう、私がコンパスと地図をにらめっこし、探していたチェックポイントは“17番”だった。 「……あ、うん? そうか、白羽さんも小御門先輩に会ったんだね。それで17番だと聞いて……」 「いいえ、小御門先輩には会っていないわ」 素直に答えると明るい声は潜まり、猜疑心にみちた目で私を見た。 (……もしかして、私がストーカーだと思われているのかしら) そろそろ日が暮れつつある奥深い森の中で、己を付けまわす頭のおかしいミザリーと―― 「あ、あのね。勘違いしないでほしいの。何で分かったのかは、ただの推理なの!」 「推理?」 眉根を寄せ、マユリさんはやや身体を引いた。 (これじゃ映画の筋通りだわ) 流行作家のポール・シェルダンを監禁した中年女性アニー・ウィルクス。$足を怪我し、身動きが取れないのも筋通り。 (あちらは骨折だったけどね) 「……白羽さん?」 「ああ、ええと推理ね。理由は単純なのよ。まずクイズの出題。不吉な数というキーワードと……」 なるべく怯えさせないように明るく振る舞う。 「私が以前聞き逃していた小御門先輩の謎解き。“キリスト教徒が一番多い国はどこでしょうか”という問題」 「……以前、合唱部で言われた問題ね」 「そう。私はあの時ぼんやりしていて聞き逃していたのだけど、あの後、立花さんから知っている?って尋ねられたの」 「何でって聞いたら小御門先輩の故郷が分かるからって」 「それで……?」 「答えはイタリアよ。ローマはもっともカトリックが多い都市。つまり小御門先輩のルーツはイタリアだということになるわ」 ほとんど正解を告げた私に……やはりまだ猜疑心が抜けきれない表情で眉根を潜めた。 で、一体何なのかと問いたい表情だ。 「あのね。カトリックが多いイタリアではおかしなことに“忌み数”が13ではないの」 「“17”なのよ。$ローマ数字で書くと普通に17(xvii)となり、これを並び替えるとこう(vixi)なるの」 地面に落ちていた枝を取り、ローマ数字xviiとvixiを描いていく。 「ラテン語でそのローマ数字を表す意味は“私は生きている”の直説法完了になって――」 「“私は生きることを終えた”という意味になるの。だからイタリア人は17を嫌う」 「そうか。小御門先輩のルーツはイタリアにある。だからクイズの出題で不吉な数の答えを“17”とした」 「つい生まれた国でのことが口に付いたのよ」 「たまたま私は忌み数のことを知っていたから、17番のチェックポイントを探しにきた。思いつきが正しくて佳かったわ」 そうだったのか、とマユリさんは深い深い吐息をついた。 「……少し神経質になっていたようだ。すまないね白羽さん」 「いいの、逆の立場ならおかしいって思うもの」 「佳かった。口を塞がれるのじゃないかと思ったよ」 そう笑う彼女だが、私は凍り付いてしまった。 冗談で言ったと分かるけれど、あの日の出来事を掘り起こされたからだ。 黙り込む私へ、マユリさんも口をつぐんだ。 だけれど、無言になっても表情は消されず、何故だか子供を見守る母のように見つめていた。 (告白しよう) 親密な空気を感じている今ならば、彼女に打ち明け、そして――受け入れられるかもしれない。 「――あのね、あの温室のことなのだけれど……」 「白羽さん」 「え?」 濡れた髪をかき上げ、幾度か頭を振ると、 「その話はやめない?」 と言った。 「ああ、違う。興味がないとか聞きたくないとかじゃなくて……ええと」 かき上げたままの頭をがりがりと掻くと、 「私は……その、全部晒す必要はないっていうか。いや、知りたくないってことはないんだ。でも、その……」 「…………」 「そんなに辛い顔をしてまで話す必要はないと思うんだよ。人間一つくらい秘密にしたいことはある」 「私だって知られたら死んでしまいたいような秘密はあるよ」 ――マユリさんの秘密、 「たまたま白羽さんの秘密に触れるような機会があったけれど、話してくれなくていいんだ」 「すべてを明かすことが正しいとは思えない。$私はね、白羽さん」 しっかりと瞳を合わせ胸に秘めた決意を打ち明けるように言う。 「過去の白羽さんより今の白羽さんとの“今”を大切にしたい」 「何を抱えていようが、私のために知恵を絞って助けに来てくれる……そんなアミティエとの今を大切にしたいんだ」 「マユリさん……」 「ふふ」 私の呟きに彼女は何故だか笑みをこぼした。そして腰掛けていた幹からお尻を浮かせ、ぐっと足に力を入れる。 「あ、危ないわ」 「そろそろ戻ろう。身体が冷えてきたよ。肩を貸してくれるかい?」 請われ私は、慌てて彼女の腕を取る。 「ありがとう、蘇芳さん」 握られる手、握手の形になり―― 「今……」 「お返しだよ、蘇芳さん」 初めて名前で呼ばれ、もやに覆われていた心は黄金色の充足感でみたされていった。私の心と同じように雨もやみつつある。 私は大きく頷くと、アミティエの名前を呼んだのだ……。 ――何時間も探し回り、 夜が更けてきた頃に、一度校舎へと戻った際……マユリさんが発見されたとの一報を聞かされた。 立花さんの予想である沢に落ちたという最悪の事態が免れたものの―― 足を挫き往生していたマユリさんは長時間雨に打たれ、そのまま救助を待っていた所為で、風邪をこじらせ入院する騒ぎとなってしまった……。 五日ほど入院し、体調が戻り学院に戻ってはきたのだけど……。 「……集中して」 朝の礼拝の時間、ついマユリさんを目で追っていた私を隣に立つ立花さんに咎められた。 「……ごめんなさい」 「……ずっと」 「え?」 「……ずっと気にしているようだから、わたしももう一度言うけれど、オリエンテーリングの時の判断は間違っていないわ」 「頑なになってしまったのは彼女の所為よ」 辛辣な物言いだけど、立花さんの瞳は反対に痛ましくマユリさんを見遣っていた。 (どうしてしまったんだろう……) 確かに騒ぐタイプではなかったけれど、自然とクラスの中心になっていたマユリさん。 彼女の春の日だまりのような微笑みに魅せられたクラスメイトは多かった。でも……。 「……変わってしまった」 学院に戻ってきた彼女は、今までよりも強く大きな壁を自分の周りに張り巡らせていた。誰にも本心を明かさないように。 一瞬見せる暖かな笑みが消えたマユリさんの周りに人影は消え、今や話しかけるのも数人だけとなってしまった……。 (私があの時、マユリさんを見つけられていれば……) 今とは違う暖かな未来があった気がする。 「……匂坂さん」 私は凝っと彼女の寂しげな背を見詰め続けていた……。 『悪魔と青く深い海の間で』という英語の慣用句がある “後がない、切羽詰まった状況”に使われる表現だ 青い海に飛び込み身を投げてしてしまった女性 後ろには悪魔、前には青く深い海がという状況であれば―― 悪魔に食べられたくない女性は時として深い海の方が魅惑的に感じるという どちらを選んでも救いはない これから始まるのは 優しい悪魔の囁きと、絶望の海への選択 救いのない二つの問いに迫られる、始まりのお話 (佳い気持ち) 人気のない静かな靄の中、私は穏やかな充たされた気持ちで湯船につかっていた。 「……マユリさんともだいぶ仲良くなったものね」 十日ほど前に起きたオリエンテーリングでの事件。 一人迎えに行ったことがよかったのだろう。 徐々に暗くなりつつある深い森の中、しとどに雨に濡れている彼女と私の間には―― どこか親密な空気が流れ、祖父の言葉を借りれば“腹を割って”話すことができた。 (温室でのこと……) 私の抱えた事情を、何も言わなくてもいいと言ってくれた。知ることが正しいとは思わないと。 すべてを打ち明けることが正しいとされがちだが、言わなくてもいいこともある。マユリさんの言葉は私にとって新鮮で心にしみいった。 「……本当の意味で気遣ってくれているのよね」 ゆったりと身体を伸ばす。時間をずらしたことで人気はない。気を遣わずに入れるのが心地好い。 (皆で入ると緊張するものね) 女子だけということが気安さを生むのか、バレエでの着替えなどでも、隠すという行動を取らないのだ。 お風呂場などという空間なら尚更だ。一応、湯浴み着やタオルで巻いて隠してはいるようだけれど。 (私って……そう、なのかなぁ……) バレエでの着替えの際、ううん、共同の三人部屋での着替えの際も意識してしまう。 アミティエの二人は恥ずかしがっていないのに、私はいまだに赤面してしまうのを悟られないようにするので精一杯だ。 「……いえ、友達になりたいだけよね」 まさか同性に恋愛感情が、と考えてみたけれど、それは考えすぎだろう。 今までろくに学校に通っていなかったし、異性を相手にだって好きだ嫌いだと考えるだけの余裕もなかった。 (近場の男性と言えば……祖父と、父) 学院には男性職員、教諭はいない。私の乏しい異性の知識は身内のみだ。否、 (……義兄) 連れ子である義兄を思い出すと、あの人の事もつられて思い出し―― 「……やめよう。せっかく佳い気分なのだもの」 お湯を手ですくい、顔につける。 とにかく、まだ完全に友人だと言質はとっていないけれど、名前で呼び合うほど互いに心を許している……と思う。 このまま仲良くなっていけばその内―― 物思いをかき消すようにガラス戸の音が浴槽内に響く。 ガラス戸の音が聞こえたということは……。 タオルを取り、慌てて身体にまとうと、何やら愉しげに会話をしつつ浴場内に入ってくる“誰か”を確認しようとした。 「……ああ嘘、何てことなの」 祖父の言葉を借りるなら瓢箪から駒だ。$いや嘘から出た誠、だろうか。 とにかく―― 「それからどうなったと思う?」 「その話は後で聞くから。早くお風呂を済ませてしまいましょう」 ペタペタと足音が近づき、薄もやが晴れ、 タオル一枚で裸身を隠したアミティエ二人が浴場へと入ってきていたのだ。 (な、なんでこんな時間に!?) 慌てる私、せっかく―― 「まったく……沙沙貴さんたちには困ったものだわ」 「まぁまぁ悪気はないんだろうし」 どうやら沙沙貴さんたちが何かをしでかしたらしい。 (せっかく時間をずらして入っているのに……!) 「わざと紅茶をかけたのなら、一緒に入って背中を流させるところよ」 「それなら喜んで入りそうだけどね」 笑いながら受け答えるアミティエたちを見て、 (どうしたらいいの……!?) タオル越しでも分かる女性的起伏が主張しつつあるマユリさんの肢体―― いまだ慎ましやかであるけどとても色白で美しい肌の立花さんを前に、回らない頭で考えを巡らした。 (どうしよう! 見つかってしまうかも……) (いえ……そもそも、私は隠れているべき? それとも声を掛けるべきなの?) 声を掛けるべきだわ 話しかけるなんて無理 肢体を隠そうとせず話へ興じる二人へ、 (黙っていて居ると分かるよりも……) 声を掛けた方がいいのかも、と思う。 「あれ? 蘇芳さんじゃない」 「え? 蘇芳さんもいるの。やだ、もしかしてわたし恥ずかしいところを……!」 「ほんと居るならいるって言って欲しいよね。もしかして覗きじゃないの?」 (なんてことになるかも……!) 居るって伝えなくちゃ―― 「――そういえば蘇芳さんのことだけどさ」 「こんな時間に入るの初めてだよ」 「わたしもそうよ。二人だけって何だか変な感じね」 肢体を晒し会話をしている二人へ―― (話しかけるのなんて無理だわ……!) 恥じ入ることなく肢体を晒している二人の姿が少しでも視界に入るだけで、 「……ぅぅぅ!」 頬と言わず首元、全身にまで熱を感じる。自分の身体を見てみると全身真っ赤になっている。もちろん湯に浸かっていたからではない。 羞恥ゆえだ。 眼鏡をしていないせいか立花さんは何時もよりもマユリさんへと近づき会話をしている。 二人の肌が近い、というだけでおかしな熱情が私の内に渦巻き、胸を締め付けた。 (こんな状態で話しかけるなんて……) 「――そういえば蘇芳さんのことだけどさ」 不意に私の名前が呼ばれ、呼びかけようと考えていた事も忘れ硬直してしまう。 「風邪、治ったみたいでよかったよ」 「ええ、そうね。随分と長く罹っていたから心配だったけど……」 そう、くだんのオリエンテーリングの際―― 雨に濡れたマユリさんを背負い帰ったことがまずかったのか、後日てきめんに風邪をひき、こじらせてしまったのだ。 「風邪、私がひかせたようなものだし、悪いことをしたよ。本当は私がひく状況だったのにね」 「マユリさんはびしょ濡れだからこそ予防を直ぐにしたでしょ。逆に気が回らない方がひいてしまうものよ」 「看病していた方が長くこじらせるとかね」 (本当に気遣ってくれているのね) 大した熱と症状ではなかったけど、微熱と咳が一週間ほど続いてしまった。治りきったのはつい最近なのだ。 「マユリさんはどう? 捻挫の方はもういいの?」 「三日も経たずに治ったさ。保健室の先生も治りが早いって褒めてくれたよ」 「マユリさんの治癒力を蘇芳さんに分けてあげたいわねぇ」 「それって私の方はどうでもいいってこと?」 「ふふ、違うわ。何て言うのかしら……イメージの問題かしらね。マユリさんの風邪はそのままだけど――」 「蘇芳さんの方は風邪でもそう見えないっていうか、肺病に罹った詩人というのかしら……」 「サナトリウムの文学少女みたいな?」 「そう。だから平気だって言われてもつい心配してしまうのよね。本当に? って」 (立花さん……そんな風に思っているんだ) 私のいない所で自分の話を聞くというのは面映ゆいものだ。立花さんは身体を洗いながら、頬を上気させ、 「でも――もっと仲良くなりたいわね」 (えっ……) 「蘇芳さんと?」 「そう。今日だって一緒にお風呂入りたかったわ。病気だって言うからしばらくは何も言えなかったけど……」 「まぁ……でも仲良くっていうけど、普通に考えたらもうだいぶ佳い方じゃない? これ以上はなかなか難しいんじゃないかな」 「そうかしら? まだ壁を感じるのよねぇ。$お風呂もそうだけど、バレエの授業でも一緒に組んだ時も上の空だし」 「着替えの時とか絶対に肌が見えないように隠れてするし」 「それは……プライベートなことだしね」 「せっかく3年間学院で寝起きを共にするのだし、もっと親密な関係になりたいわ。そう思わない、マユリさん」 「私は……」 立花さんの言葉に天にも昇る心持ちで、マユリさんの言葉を待つ。 恥ずかしさでお風呂や着替えの時はご一緒出来ないけれど、親密になりたいと思っていることが嬉しい。 「……私は、」 「……私はこれ以上はいいかな」 ――え? 「どうして? マユリさんだって最近、白羽さんじゃなくて蘇芳さんって名前で呼んでいるじゃない?」 「オリエンテーリングで本当に心配してくれたのを知っているしね。でもこれ以上は踏み込まない方がいいと思う」 「ええ……私はもっと仲良くなりたいわ。一緒に寝る、とか」 「……前も言ったけどここは女学校だ。あんまり仲良くすると変な噂を流される。立花だってそんなのは嫌だろう」 「わたしは……」 身体を洗う手を止め、立花さんは何故だか頬を赤らめる。そんな彼女をマユリさんはどこか苛ついた表情で見詰めていた。 「……面白くないな」 「え、なに? 聞こえなかったけど……」 「いや、何でもないよ。ただ気をつけた方がいいって言ったのさ」 どこか剣呑とした雰囲気を感じ私は、 何もしない方がいい 仲裁に入った方がいい 二人が仲良くなれるように仲を取り持った方がいいのではないかと思った。 でも、 (私なんかが何ができるんだろう) マユリさんの言葉を聞き、沸き立っていた心は沈んでいた。 アミティエという立場だけでなく、友人になろうと自分なりに努力していた。だがそれは只の思い上がりだったのだ。 (実のない努力に意味はない) 「わたしはね、マユリさん」 「…………」 「仲良くすることで勘違いされるならそれでも構わないと思うわ。$邪推するならすればいいのよ」 「……立花はよくても蘇芳さんはどう思うかな。向こうは望んでいないかもしれない」 鼻白む立花さん。私は違う、と言ってあげたかった。 「……一つ聞くけど、マユリさんにとって蘇芳さんはどんな存在なの? アミティエだという言葉はなしで」 「……親しい知人ではある。でも、友人ではない」 分かりきっていた事、そうだけれど……。 はっきりと言葉に出されたことで、熱く火照っていた身体と心は急速に熱を失い、凪のような心持ちへと変わっていった……。 仲裁に入った方がいいのではないかと思う。 「気をつけるって……もっと相手のことが知りたい、親密になりたいと考えるのは自然なことだわ。それをおかしく考える人の方が変よ」 彼女の強い言いざまに私は意を決した。 「そうかもしれない。でもそれは理想論だ。$私たちはまだ子供なんだ」 「大人のように理性的にって訳にはいかない。面白がって嫌な目にあっただろ?」 「それは……」 「別に無視しろって言ってるわけじゃない。一線を引いた方がいいって言ってるだけさ」 一線、との言葉に踏み出しかけた足が止まる。 (あの時と同じだ) かつて通っていた学校、初めての同世代の子たちとどう話していいか分からずにまごついていた私へ、 “白羽さんて線を引いてるみたい” そう言い、私を囲む輪はどんどんと櫛の歯が欠けるように去っていった。 「……一つ聞くけれど、マユリさんは蘇芳さんのことをどう思っているの。アミティエや学友だとかのはぐらかしは無しで」 「そうだね……。親しい知人ではある。でも、友人ではない」 彼女の宣告を聞き――仲裁に入ろうと言う気持ちは失われ、代わりに凪いだ海のように私の心は深く静かに沈んでいった……。 「心配することはないよ」 廊下で順番を待つ私へ、彼女はいつも通り春の日だまりのような笑顔で接してくれた。 「ええ、そうね。マユリさん」 「緊張しているみたいだけど、面談と言っても経過報告みたいなものらしいから、そう固くならなくてもいいんじゃないかな」 違う。 「ええ、そうね」 緊張して見えているのは、私が強張りを隠しきれていない所為だ。 「アミティエとして共同生活を始めてから一月が過ぎたから、まずは話を聞いてみましょうってだけよ」 「解散だとか成績に反映される訳じゃないし気楽にいきましょ、ね?」 ――数日前に浴場で聞いてしまった本音。 私はあの夜から自分の感情の持って行き場をうまく見いだせていないのだ。 (アミティエ同士の関係性を問われる面談) いつもなら不審に思われないほどに会話もできているのに。 「ん、椅子が引かれた音がした。そろそろ私たちの出番のようだ」 関係が上手くいっているかどうか、今から問われるのを考えると胃がきりきりと痛む。 「次はわたしたちの番だわ。行きましょ」 言われ、私はおなかをさすると教室の扉へと向かった……。 部屋にはバスキア教諭の他にも私の知らない女性教諭が二人居り―― 学院に対する思い、新しくできた友人、アミティエへの思いなど、素直な感情を紙に書き出すことから始まった。 アミティエには書いた内容が分からないよう教諭に答案を渡し、それから口答でのやり取りとなったのである。 常識としての答えを期待されるものからプライベートなことまで、一人につき十個ほどの質問がされた。 「それでは皆さんに質問します。$何か情熱を注げるものや、自分に自信が持てる特技はありますか?」 「わたしは紅茶の知識です。淹れるのも飲むのも好きで、クラスの皆さんにも振る舞っています」 「ええ、花菱さんが主催しているお茶会のお話は聞いていますよ」 にこりと目を細めるバスキア教諭へ、少し逡巡した風のマユリさんは小さく手を挙げた。 「私はお菓子作りが趣味です。でも情熱を注いでいるかとなると、そこまではっきりとは言えません」 マユリさんの答えに、バスキア教諭を挟む二人の女教師はさらさらとメモを取る。 「あ、絵を描くことも好きですがそれも同じくらいで……」 「分かりました。それでは白羽さん」 指名され、 「す、好きなことは本を読むことです。$文学から実用本、あ、あと映画も好きです……」 「白羽さんは図書委員をやってくれているものね」 変に押し黙ることなく言えほっと安堵の吐息を漏らす。 (何とか乗り切れそう……) 面談が始まる前、アミティエとの関係性を根掘り葉掘り尋ねられると思っていた私はほっとしていた。 表面的なことならば誤魔化せるが、しんに迫った質問はぼろが出てしまうかも、と思っていた。 「そうですね、後は……」 脇に控える教諭へと耳打ちし、互いに何かを囁き合っている。 時計に目を落として確認すると、10分弱の時間が経っていることから、そろそろ終わりが近いのだと察した。 「それでは最後の質問です。そうですね……では白羽さん」 「あなたはアミティエら二人、花菱さんと匂坂さん、あえていうのならどちらと仲が良いですか?」 「え、わ、私は――」 立花さんです マユリさんです 思わず左右に座る二人の顔を見てしまう私。 匂坂さんはいつもと変わらぬ表情で、立花さんはなぜだか赤面しているように見えた。 私は、 「な、仲が良いのは……立花さん、だと思います」 「蘇芳さん……!」 感激したように目を瞬かせ、 「……っ」 机の下で私の手を取り、恋人つなぎで手を握った。 「そうですか。確かに最近は特に仲が良いように見えますものねぇ」 「本の貸し借りをしたり、花菱さんが委員で大変な時は畑仕事を代わったりしているようですしね」 「はい! 蘇芳さんにはお仕事を手伝って貰っています。本当に感謝しているんです」 机の下で握られる手は、彼女の思いを伝えてくれるように強く温かい。 (立花さんはお風呂場でも仲良くしたいと言ってくれたものね) 私は感謝の思いを伝えようと、握られるままだった手を、私から強く握りかえした。 驚き見詰める彼女へ、 「……私も感謝しているわ」 そう囁いたのだ。 当然あるだろう質問に、 「え、それは――」 予想していても尚、焦り、気に掛かっている隣に座るマユリさんの瞳をじっと見つめてしまう。 「――そう。白羽さんは匂坂さんの方が仲が良いと思っているのねぇ」 「え、わ、私は……」 「そんなに顔を真っ赤にしなくてもいいわぁ。これは別にアミティエの成績に付けられるものではないから」 「ただ、アミティエを三人にしたのは今年度が初めてだから、とりあえず聞いてみているだけなのよぅ」 相変わらず間延びした優しい声音でそう言ってはくれるけれど、 「…………」 とうのマユリさんは、困ったような怒っているような複雑な表情を浮かべているだけ。 (やっぱりマユリさんは……) 「ええ〜私とは仲が良いっていってくれないのぉ?最近は前よりずっと親しくなれたと思っていたのに」 慌てる私。お風呂場で親密になりたいと言ってくれた立花さんに悪感情は抱かれたくない。 「あ、私は別に……」 私が弁解している間、横にいるマユリさんの表情は、 「…………」 やはり感情の持って行き場を探しているような複雑な顔つきをしていた。 面談が終わり、私たち一年生はバレエのレッスン室へと集められていた。 すわ、これからバレエ試験かと、おののいたのだが――。 実際はもっと戦慄すべきイベントが始まりつつあったのである。 ――それは、 (何も全員で身体測定しなくてもいいじゃない!) 右を向いても左を向いても下着姿の同級生の姿が目に入り、羞恥からどうして佳いのか分からなくなっていたのだ。 「ぅぅ……!」 心の測定は終わり、身体となったのは分かる。身体測定があるとは聞かされていたし……。 一時通った学校でも同じように身体測定はあったのだから。 でも、 (普通この年で下着姿にする……!?) 私が読んだ小説や映画の中ではクラス全員計るにしても、下着姿で健康診断に望んでいたのは、もっと小さい子の時分までだ。 私くらいの年代では普通しないものだと思うのだけど……。 (どうしよう……) 発熱する肢体、顔を見られまいと背けるも、間近に無防備なお尻が目に入ってくる。 手を腰に回し友人と語らうクラスメイトは何の抵抗もないのか、下着姿で話に興じている。 (やっぱりこの学院の子たちは変わっているわ) 以前も感じた、バレエの着替え、お風呂場での立ち居振る舞い……。羞恥という感覚がないように思える。 「……それとも私が考え過ぎなのかしら」 女同士なのに意識し過ぎている私の方が不純―― 「蘇芳さん」 「ぅ、わ、は、はい!」 「おかしな声を出してどうしたの?」 「……っ」 鮮やかな若草色の下着に身を包んだ立花さんが、目を瞬かせ少し驚いた表情で私を見詰めていた。 「い、いえ、何でもないの……」 「そう? まだわたしたちの順番ではないけど、そろそろ用意した方がいいわ」 「そ、そうね……」 親切心から言ってくれているのは分かる。でも、 (見られていると抵抗が……) 他意はないのだろうけど純真な目でこちらを見詰められていると脱ぎにくい。ただでさえ決意がいることなのに。 「あの、立花さん。できれば……」 「あ、蘇芳ちゃんまだ脱いでないんだ」 「……せっかく、ないすばでぃを見に来たのに」 (ぅぅ! また……!) かわいらしいクローバーをあしらったデザインのスポーツブラの苺さん。 キャミソールのような下着姿の林檎さんが現れ、かっと全身に熱を感じてしまう。 「あら沙沙貴さんたちはもう終わったの?」 「まだだよ。でもそろそろ始まるみたいだね。まずは身長からみたい。どれだけ伸びたか、今から計るのが楽しみだよ」 「一年ぶりですものねぇ。わたしももう少し身長が欲しいから伸びていてほしいわ」 「女の子は今くらいの時期で成長が止まってしまうそうだし」 「……え、それじゃ小さいままなの。わたしとしては苺ねぇよりは大きくなりたいのに」 「私的にも林檎には負けたくないなぁ。姉の威厳を見せねば!」 目の前でいつもの掛け合いが始まる。好ましく見守る掛け合い。だが、今は、 (下着姿でそんな気持ちになれないわ……!) 苺さんの大きい身振り手振りを使った話し方は、目の前でブラ部分が伸び縮みし気が気ではない。 見えてはいけない部分が見えてしまいそうだからだ。やきもきした気分でやり取りを見ていると、 「こっちにいたんだ」 と、よく知る涼やかな声音が聞こえた。 「もう測定しているのかと思って探してしまったよ」 マユリさんの姿を認め、 (……っ!) 激しく心臓が胸を叩いた。 空色の……クラスの中でもよくある型の下着だ。特に凝った意匠もなく肌が余計に露出しているでもない。 でも、 (顔が赤くなるのを止められないわ……!) 今、下着姿になったら体中赤く染まっているのを見られてしまう。そう自分自身理解できる程、発熱していた。 「ん? 蘇芳さん顔が赤いね。もしかしてまた風邪でも?」 「え、あ、本当。真っ赤よ! 大丈夫……?」 「う、うん。平気……ただその……」 怪訝な表情で見詰めるアミティエへ、どう言い訳をしようか考え―― 「……わ、私も脱ぐんだと思ったら、その……恥ずかしくなって……」 バレエでの振る舞いや、お風呂場での時間をずらして入っていること知る皆は、ああ……と一様に頷いた。 「蘇芳さんは恥ずかしがり屋さんだものねぇ。でも脱がないわけにはいかないし……」 「そう。ないすばでぃが見られないのは困る」 「何を言ってるんだか。まぁ確かにうちのクラスじゃスタイルはナンバーワンだけどね」 「ぅぁ……」 「ちょっと蘇芳さんが困っているでしょ! そんなことを言うとますます脱ぎづらくなるじゃない。困らせないの!」 立花さんがぴしゃりと言ってくれたので、私は内心安堵した。 と、 「あ、で、でも本当に恥ずかしくて脱ぐのに抵抗があるのなら……その、わたしがお手伝いするわ」 「人に手伝って貰った方が、その、思い切りよく決断できるだろうし……!」 おさげを弄りながら意を決したかのように言う彼女へ、 大丈夫だと断る 善意を受ける (え、立花さんが脱ぐのを手伝ってくれる?) 意味を理解できるまで数瞬かかり、ようやくイメージが固まると、 「い、いいです! 大丈夫私一人でできるから!」 「そ、そう?」 「ええ、恥ずかしかったけれど、今は、その……」 級友皆、下着姿になっている周りを見渡し、 「……逆に制服姿の方が恥ずかしい感じになっていますし」 と言った。 (立花さんが脱ぐのを手伝う?) 言葉は耳に入るが意味が理解できない。一呼吸、二呼吸後、ようやく理解した私は、 「なにをっ――」 言いかけたところで、おさげをいじり上目使いの立花さんを見詰めた。 (でも……立花さんは親密になりたいって……) お風呂場で誤解されてもいいから仲良くなりたいと吐露してくれていた。 なら私は、その思いに応えなくてはならないのではないだろうか。 「何だか固まっちゃってるねぇ」 「……りっちゃんさんの言葉に困ってるだけのような気が」 「そ、そうね。分かりました。それじゃ手伝って貰おうかな……」 「え、本当に!?」 「ちょ、ちょっと待て! 以前に誤解される真似はよせと言っただろう」 「えええ、でもぉ」 慌てるマユリさん。驚きつつもこちらを興味津々で注視する沙沙貴姉妹を見て、 「ご、ごめんなさい……」 自分が迂闊なことを言ったのだと反省したのだった。 「ぅぅ……」 皆に注目されるがまま―― 私は腰に巻いてあるリボンを解き、制服の裾を掴んだ。 ほぼワンピースのような作りになっている制服だ。先ずはブラウス、次はスカートと選べる状況にない。 気を利かし、アミティエらは横を向いていてくれるけれど、 (鏡張りだし意味がないわ) 目をつぶらなければどのみち視界に入ってしまう。私は、裾をつまんでいた手を離し―― 「ちっ、靴下からか」 「……林檎さん」 「そんなに悲しい目で見ないでほしい」 「そうだよ。今のは本心じゃなくて冗談なんだから」 そう苺さんに言われ、小さくため息をつくと、脱いだ靴下を上履きの中にしまい、私は遊ばれない為にも意を決し、裾をつまんだ。 (恥ずかしい……!) 思い切ったとはいえ、初めて人前で衣服を脱ぐのだ。 羞恥とおかしな興奮で身体は震え出す一歩手前、時間がたてば経つほど脱ぎづらくなる。 私は髪を頭頂で結わえると、えいやと勢いを付け一気に制服を脱いだ。 「わぁ……!」 「凝ってるねぇ」 「そ、そうかしら……」 身体測定で養護教諭の方に見せることになっても恥ずかしくないよう一番お気に入りのアンダーウェアを着てきた。 「大人な下着を持っているのねぇ」 「ああ、これは……なかなかだね」 口々に褒めそやされ――羞恥よりも嬉しさが勝った。 (自分で選んでおいて佳かった……) 祖父に買って貰うわけにもいかず下着は物心ついてからは自分で選んできたけれど、自分のセンスがおかしくないと分かり胸をなで下ろした。 何故だか周りのクラスメイトもチラチラこちらを窺っているけれど、おかしくないとお墨付きを貰った今ならば、ぎりぎり耐えられる視線だ。 「お花をあしらったデザインなのね。すごくかわいいわぁ!」 「うん、随分大人っぽく感じるね」 「そ、そう……」 「あ、お花なら私的にもあるんだけど」 「いや、苺のはお花というか、クローバーだろ?」 「……そこで対抗意識を持っても」 「うう……親友と妹が反旗を翻した……」 「それは意味合いが違うんじゃ……」 思わず突っ込む私へ、苺さんはじっと下着……ではなく、肌の見えている部分へと視線を這わす。 「な、なに?」 「なんというか、神は二物を与えずと言うけれど、三物も四物も与えるなぁと思ってさ」 「え、きゃ……!」 腰に触れられ思わず声をあげてしまった。$自分の悲鳴にかっと頬が染まる。 「胸もすごいと思ったけど、股下すごいよねぇ。足が長くて羨ましいよ」 「そ、そんなことないわ」 「そんなことあるって。足と胸、どっちかでも取り替えてほしいよ」 まじまじとお尻の辺りを見詰められ、 苺さんの方が足が綺麗だと思う 胸なんて大きくても…… 「わ、私は苺さんの足の方が羨ましいわ。すごくすらりとしていて綺麗だし」 「え、え、そうかなぁ」 「……満更でもない顔になりましたよ」 「お世辞だろう?」 引き続き二人が妙な連携をみせるも、苺さんはふふんと鼻で笑って見せる。 「ふふ、そう思うのが浅はかさなのさ」 「……どういうこと?」 「以前読んだ本で、服装についての褒めるポイントが書いてあったんだ。例えば胸が大きく開いた服を着ているのは異性へのアピール」 「ミニのスカートなんかを履いて、足を見せるのは同性へのアピールだってね」 「まぁ……確かに今日の服、胸の谷間あいていて可愛いわね、とは褒めないな」 「でしょ? 女の子同士競うのは足なんだよ。競う相手がいない女の子は、パンツルックになるでしょ?」 「……そう言われると、キャリアウーマンはパンツルックが多い気がする」 「仕事がメインになって同性相手に競おうとか、どうでもよくなる現れってことか」 「で、それはそれとして、苺は何故そんなに自慢げな顔をしているんだ?」 「まだ分からないかなぁ。蘇芳ちゃんは胸でなく足を褒めてくれたんだよ?」 「つまりわたしを認め、競う相手として見ているってことじゃない!」 「つまりクラス一の美人の蘇芳さんとライバルだって誇っているってことね」 その通りで御座います、と恭しく頭を下げる苺さんだけど、私は、 「……ずっと腰をなで続けるのはやめてほしいんだけど」 そう、小声で注意した。 注目を引きはがそうと、 「胸なら取り替えてほしい、かも」 と言った。途端に硬直する苺さん。 「……それは流石に嫌みに聞こえるんじゃないかな」 「……持てるものは言うことが違いますね」 「ち、違うの。ただじろじろ見られるし、あんまり良いものじゃないんだよってことで……」 またも妙な連携を見せる二人へ誤解を解くために言う。と、 「…………」 苺さんは黙ったままだ。さすがに笑いに転化できなくなったのかマユリさんと林檎さんは口を閉ざし、かわりに立花さんが耳打ちした。 「……謝った方がいいと思うわ。少しの差なら笑い話にできるけれど、スポーツブラの苺さんには耳が痛い話だもの」 「……聞こえているよ」 呟く苺さんに小さな悲鳴とともに立花さんは後ずさってしまう。 俯き見えなかった表情だが、あげた顔は―― 「……何故に笑顔?」 「ここで怒ると思っているならわたしへの評価が低いよ。ここは怒る所じゃない。冷静になりリサーチするところだ」 「リサーチ?」 「で、何だけど何時くらいから胸大きくなったの?その時のよく食べていたものは?」 「睡眠時間とかどれくらい取ってた? あ、よくやっていた運動とかも聞きたいんだけど」 「ぅぅ……!」 羞恥を感じる間よりも真剣な苺さんの剣幕におされ、 (お尻……思いっきり触られているのにな) 腰から手を離して貰えるようにも頼めず、苺さんの質問に答えることとなったのである……。 身体測定も最後の行程となった折り、 「すみません。〈衝立〉《ついたて》を用意してもいいですか」 と、マユリさんが手を挙げたのは当然だけれど理由があった。 下着姿のまま身長、体重、視力検査と計ってきた今、衝立が欲しいと言うのは今更な言い分ではあろう。 でも、 (気分的な問題よね) 最後に残った胸囲の測定ではブラを脱がなくてはならない。 マユリさんが今更ながら衝立が欲しいと言ったことは私として大いに頷けるところである。 しかし、 「天の恵みを妨げてはなりません」 シスターにそう切り返されたマユリさんは黙るしかなく―― 挙げた手を下ろし、珍しく落ち着かない様子で辺りを見回したのである。 「……やっぱり恥ずかしいわよね」 「え、いや、う……ん。そうだね……」 歯切れ悪く、私たちの前のクラスメイトが胸囲を測っているのをちらりと横目にした。 (佳かったぁ……羞恥心はあるわよね。うん) バレエでの着替え、お風呂場での振る舞いから、羞恥心を感じないものと思っていた私はマユリさんへ親近感を覚えた。 「そろそろわたしたちも用意しておきましょう。順番が近いわ」 ――立花さんは胸を晒すことを医療行為ゆえ当然だと考えているのか、抵抗なく自分のブラへ手を伸ばしている。 (本当に肝が据わっているわね) 羞恥心どうこうよりも思い切りの良さに感心し、腕を背に回すのを見詰めた。と、 「……エッチな視線ですね」 耳朶に囁かれ私は思いきりのけぞってしまった。 「……驚かせてしまったようだね」 「り、林檎さん、私はそんなつもりじゃ……」 「なになに? どうしたの?」 「……立花さんが脱ぐのをエッチな視線で見ていたのでぴしりと注意したのです」 違う、と言うとした刹那、 「ああ、それ私的にも思った。何か立花ちゃんを見詰める目がえっちぃんだよね」 苺さんも追従してくる。私はかっと染まる頬の熱さを感じながらも弁解する。 「ち、違います。私そんなつもりは……」 「うん? 蘇芳ちゃんじゃなくてユリがだよ?」 「――え」 鳩が豆鉄砲を食ったよう……という表現があるけれど、気を抜いていたところを思い切り殴りつけられたような顔を見せた。 「さっきの身長を測る時もそうだけど、ちょいちょい立花ちゃんがよそに気を取られているところで、じっと見ているんだよね」 「気づいてないと思っていたかもしれないけど、しっかり見てるのだよ」 「それは……見ていたさ。でもそれは同級生の体重とかが気になっただけだよ。私も乙女だからね」 マユリさんの言葉に、年頃の同性の感性はそうなのかと感心する。でも、 「そうかなぁ、だったら他の生徒……例えば同じアミティエの蘇芳ちゃんも同じくらい見てないとおかしくない?」 「でもじっと見ているのは立花ちゃんだけだったし」 「そう……なの?」 「うん。蘇芳ちゃんには全然興味なしって感じだったよ」 苺さんの言葉にがっくりと肩を落とす。私を見て林檎さんは眉をひそめると、 「……でもそれなら余計に蘇芳ちゃんを見ないのはおかしい。クラスで一番のスタイルの持ち主なのに、なんで興味がないの?」 「それは……」 沈黙。 端から見ていてもマユリさんが高速で頭を働かせているのが手に取るように分かった。 林檎さんは唇を舌で舐めると、 「……もしかしてマユリさんは、立花さんのことを」 「――違うッ」 裂帛の怒気に切り裂かれ、賑やかだった部屋はシンと静まり返った。 横たわるのは気持ちの悪い静寂だけ。 「どうしたの? 大きい声を出して」 「……ごめん」 絞り出すように謝るも、静寂は破られず―― (マユリさん……) 身体測定の残りの時間は、刺々しくも痛々しい時間と為ったのだった……。 ――ギィ、という軋んだ音が鳴り、 顔を上げた私の視線の先には、癖のあるショートの髪、大きな猫のような瞳が私を捉えていた。 「理由を聞かせて貰いたいな」 何時もの時間、何時もの席で読書に勤しんでいる彼女は、いつの間にか執務机まで車椅子で乗り付け、うんざりした顔を見せていた。 「……何がですか?」 基本的に話しかけてこない八重垣さんの言葉に驚きつつも、私は消毒処理していた本を置き問う。 八重垣さんは猫のような目を細め、 「すっとぼけるのは無しにしてくれ。わたしが聞いているのはあれだよ」 親指をたて背後を指さす。指の先は、 「……本を読みに来るのがおかしいですか」 「たまになら構わない。今までだって顔を出すこともあったからね。でもここ最近ずっと居るじゃないか、気が散ってしょうがない」 そう―― 辟易とした顔で指さす先には、 物憂げな表情で本の頁を繰るマユリさんがいた。 「で、一体なんだって文学少女に転向したんだ。こんな場所で寂しく本読んでるタイプじゃないだろう」 流石に自分はどうなのかと言いたくなる言いざまだが、マユリさんを見、私は四日前の身体測定でのやり取りを思い返した。 苺さんを怒鳴ってそれから―― 「……たまには一人でいたくなる時は誰だってあるんじゃないかしら」 四日前の出来事から頑なな態度になり、クラスでも浮いた存在になりつつある彼女の事を話す気が起こらなかった私は言葉尻を濁らせた。 八重垣さんはふぅんと小馬鹿にするように鼻を鳴らし、 「匂坂はそんなタイプではないと思うけどね。$スクールカーストで言うならクイーン・ビーだ」 「今の時分ならお茶会で、取り巻きのサイドキックスに持ち上げられている頃合いだろ?」 「…………」 確かに、そうだ。 今も立花さん主催のお茶会は開かれている。部に所属していないマユリさんは日参していた、でも。 「それにあいつ一人なのがおかしい。もう一人のアミティエの……ブレインが一緒じゃないっていうのがね」 ブレイン、スクールカーストでいうガリ勉……立花さんを揶揄していった言葉だろうが、 「……彼女は彼女で忙しいのよ」 「ふぅん」 私と同じく頑なな態度のマユリさんへの扱いに困り、とりあえず今はそっとしておこうという方針を二人で取り決めていた。 悲しんでいるのなら慰めればいい。 怒っているのならなだめればいい。 (でも、理由が分からなければどうしようもないわ……) 始め苺さんのからかいに、虫の居所が悪く強く怒っただけだと思っていたけど……。 「……何を話しかけても上の空なのよね」 そして話しかけづらい硬質な空気を発している。徐々に避けられだしているのも仕方のないことだろう。 「上の空? まぁ確かに本を読んでいるというより時間を潰している感じだな。で、お前は何をしているんだ」 「何をしているって……」 「確かあれだ……匂坂はお前のアミティエだろ?」 「普通は“どうしたの、マユリさん? 何か心配事があるのなら私に話して”とかいう場面なんじゃねぇの」 「それは……もうマユリさんへ言ったわ……」 「で、あの体たらくなのか。ふぅん、それじゃ本当にスクールカーストの頂点から失墜したのかもしれないな」 「だったら、いっそプレックスらしくこっちの方面へ引きずり込んだらどうよ?」 オタクにするのはちょっと…… いつも通りの彼女に戻す プレックスとは文化系の上位にいる者のことだ。自分がそうだとは思えず、 「スクールカーストで言うなら私はギークが精々だわ」 と言った。八重垣さんはこいつは佳い、とパンと手を叩き、 「まぁわたしやお前くらいになればギーク……オタクだよな。どうしようもない書痴オタクだ」 「本を読んでないと落ち着かない。赤ん坊のおしゃぶりみたいなものだ」 言い得て妙な言葉に苦笑うも頷くよりほかない。 「今は様子がおかしいけれど、マユリさんはすぐに元に戻るわ」 「本好きにはなって貰いたいけど、やっぱりマユリさんには春の日だまりのような彼女に戻って貰いたいし」 「春の日だまりねぇ」 八重垣さんは何か思案するように顎に手をやり遠くを見たけれど、 「まぁスラッカー呼ばわりされないように、それとなく見てやればいいさ」 と言った。 「プレックスって文化系の上位の人のことよね。私なんてとんでもない。精々ナードがいいところよ」 私の言葉に猫のように笑い、手を使い足を組み替えた。 「話が通じるってのはいいね。でもそれを言うならギークの方があってないか。サブカルチャーオタクだろう。わたしもお前もね」 「確かに……そうね」 「まぁ、お前は人から相談を受けたりしたりするのが得意じゃないっていうのは分かるけど――」 「アミティエ同士の微妙な空気をパブリックな場所にまで持ち込むのは感心しないな。さっさと仲直りなんだりしろよ」 ――出来るものならしている。 「……だって理由を話してくれないのだもの」 「……ま、適当に様子見て話してみたら? 正直鬱々とした図書館で頁を繰りたくないし」 「八重垣さんは優しいね」 「はぁ? はぁぁ!? うざいからさっさと決着つけろってだけだし!」 顔を真っ赤に染め、腕を組む八重垣さんはつい抱きしめたくなるような庇護欲をそそった。 (心配をかけているのだもの。私が何とかしなくちゃ……!) いつも通りのマユリさんに戻って貰う。私はそう心に決めたのだ。 「おや、お帰りだ」 図書室の一番奥、 八重垣さんのお気に入りの場所の一つに陣取っていたマユリさんは本を書棚に戻すと、 私たちへ一瞥もなく出て行った。 「……ふぅん。確かに心ここにあらず、だな」 立花さんと今はそっとしておこうと決めた、でも。 「マユリさん……」 「あいつの作ったケーキはまずまずだった」 「え?」 「まぁまぁ食べられるくらいには美味しかったっていったのさ」 「あいつがお茶会に手作りの菓子を持ってくるなら、また行ってやってもいいかもな」 窓へと顔を背けながら八重垣さんは言う。私はマユリさんの影を追うように彼女が座っていた席を見詰めた……。 ――困ったわね、と彼女が言った。 授業が終わり休憩の時間、 数は減ってはいるけれど、マユリさんの周囲からは人の輪が絶えない。 でも、 「わたしの時とは違うけれど、沙沙貴さん」 ちらりと別のグループの中で話を弾ませている彼女たちを見遣る。 「特に苺さんとは目も合わしていないわ。さすがにこんなに続くようだと話をしなくちゃだわねぇ」 「でも様子を見ようって……」 「数日なら共同生活だし、そういうこともあるだろうって放っておこうと思ったけど……」 「こう何日も引きずるなら、話を聞かないわけにはいかないわ」 「委員長だから? それともアミティエだから?」 私の言葉に何故か少し驚いた顔を見せる。が、すぐに笑顔を作り、 「友達だからよ」 ――そう、何の気負いもなく当たり前のことのように言った。 私はなぜだかある種の不安に似た感情が、両手からぼろぼろとこぼれ落ちた気がした。 「ちょっと行ってくるわね」 片目をつぶり沙沙貴さんたちが話す輪の中へと向かう立花さんを見送りながら、気づかれないように深く静かにため息をついた。 そして、無性に本が読みたくなり、鞄の中を探る。と、 (……何?) 白い封筒が入っていた。 鞄の中に手紙をいれた覚えがない私は、不審に思い封筒を返す返す見た。 (……宛名もないし中を確認した方がいいよね) 中を見てみないことには始まらない。私は封を切って中身を確認する。 (手紙ね……) カミソリが出ないことにほっとしつつ――もし間違いならと抵抗はあったけれど、目を通した。 便箋に書かれた几帳面で綺麗な字を目で追う。 (これって……) 封筒に宛名はなかったが、便箋にはしっかりと私の名前が書かれている。私宛だ。 しかし送り主の名前は書かれてはいなかった。 手紙は一枚きりで文は簡潔。 そこには―― 「……私と友達になりたい」 以前から憧れており、ひいては友人になりたいとの事が記されていた。もし会っていただけるなら、放課後、講堂に来られたし――と。 (これは……) 過去の嫌な思い出が蘇る。 以前短い間だが学校に通っている時に、同じような文言の手紙を貰ったことがある。 それは“友達に”ではなく、付き合ってほしいというラブレターだったのだけど……。 「どうしよう……」 どう断れば佳いかと頭を悩ませていた私の元へ、笑いながら男子たちが現れた思い出が蘇る。 待ち合わせの場所に来ていたことに、浅ましいと、からかいあざ笑われて……。 「……この手紙は本当のことなのかしら」 またからかわれるに決まっている 本当に友達になりたいのかもしれない ……どうしても輪になって指を指す、あの時の光景が忘れられない。 思えばあれが祖父の家に越してから受けた初めての悪意だった。相手がどう思うかなんて露ほども思わずに心を潰す行為。 私はラブレターの件から話しかけることが、話しかけられることが恐ろしくなってしまったのだ。 (……でも) この手紙はやはりあの時と同じように、からかいあざ笑うものなのだろうか。 そう自問する。 (子供の頃とは状況が違うわ) いまだ胸を張って友人だと言える者はいないけれど、肉親以外の言葉を交わせる相手はできた。 手紙に書かれていたように普段の私を見て、友人になりたいと思ってくれている人が……居るのかもしれない。 「……行ってみよう」 恐ろしいとは思う。恐怖心は拭えないけれど、講堂へ行ってみよう。 私はそう決めたのだった……。 囃し立てに現れたあの男の子たちの影は消えることはない。 でも、 (本当に友達になりたいと思ってくれているのかも……) 子供の頃の学校は共学で、私をからかってきたのは男子だ。女子は遠巻きに見ていただけで、きつい言葉を投げかけることはなかった。 「……男子はもういないのだものね」 以前よりも人と喋れるようになったと……思う。 きっとこんな私でも、話してみたいと思ってくれる人はいる。そう思った。 「放課後、講堂へ……」 淡い期待を胸に秘め、私は手紙に書かれていた時間をしっかりと頭に刻んだのだった……。 放課後となり―― 無人の講堂にて、手紙の送り主を待つことにした。 誰もいない講堂に入るのは初めてで、静まり返った神聖な建造物はなぜだか……とても不気味に思えた。 厳粛な空気が何らかの警鐘を鳴らしている気がしたのだ。 シスターが訓話を行う席まで歩んでいくと、台座に私の鞄に入れられていた手紙と同じものがあるのを見つけ、手に取る。 封筒を開けると、同じように便箋が入っていた。 それに目を通し―― 「やっぱり……」 手紙には単文で“ここから見えているよ、見つけてみて!”と記されてある。 私は辺りを見回す前に、やっぱり――からかっているんだわと、心の内で呟いた。 (始めに貰った手紙は真摯だったけれど……) この手紙の文言から悪ふざけなのではないかという思いが浮かぶ。 (帰った方がいいかしら……) 待った方がいい 今なら会わないで済むかも 過去の……笑いながら大人数で出てきた男子たちのことが頭をよぎる。$いえ、でも……。 「……この手紙も仲良くしてくれようと砕けているのかもしれない」 距離の縮め方は人それぞれだ。$手紙の相手は砕けた相手なのだ、そう自分に言い聞かせる。 (とは言っても……) この手紙を見つける前から感じている胸騒ぎに、私は自分の胸に手を当てた。 鼓動は早く、臆病な心を叩いている。 「……とりあえず探してみよう」 手紙に書かれていた通り、これの送り主を見つけるため、ぐるりと辺りを見回してみた。 今帰れば、私が考えている通りの―― からかいに現れる者を見なくて済む、と弱い考えが浮かんだ。 (ダメだわ……) 清浄な場所だというのに、どうしても不吉な予感を抑えることができない。 講堂の扉から、大勢の男の子たちが現れ、“おい、あいつノコノコ来てるぜ”と嘲笑する顔が消えてくれないのだ。 「そう……ね。やっぱり帰った方が……」 ふ、と握りしめていた手紙の文言が目に映る。 “見つけてみて!”との言葉、 彼等……彼女等はきっと――青ざめている私を見て嘲笑っているのだ。 今も見られているのだと考えた途端、視線が突き刺さるように感じた。制服を貫通し、肌を刺さす視線。 私は視線の感じる方へと、緩慢に振り返った。 木製の長椅子に象牙色の支柱、隠れる場所なら幾らでもある。正面だけでなく左右の扉までも注意深く探った。 こつん、と小さな音が聞こえ、私は物音のした方――奥の支柱を注視した。 長く、そちらを見詰め続け―― 私はようやく気のせいだったのか、と小さな深い溜息を吐いた。$と、 「やぁ、見つかっちゃったかぁ」 「……せっかく脅かす予定だったのに」 支柱の影から、にこにこと……いや、にやにやと笑いながら此方へと近付いてきたのは、 「沙沙貴……さん?」 「こんなに早く見つかるとは思わなかったよ」 「……いやだから自爆ですよ」 笑いながら話している二人。 (……沙沙貴さんたちが悪戯をしかけていたの?) クラスの中でも特に仲が良い……と思っていた二人から、幼い頃にされたラブレターの悪ふざけをされるなんて思っていなかった私は―― 口の中がからからになり、頭がうまく働かなくなっていた。 「でもびっくりした?$鞄に手紙なんてラブレターかと思ったでしょ?」 「……わくわくしちゃった?」 いやらしい笑みを張り付かせたまま問う二人へ、 笑って許す 悲しくて言葉にできない 「……そ、そうね。少し期待しちゃったかも」 「えっ本当に? ここって女子校だよ蘇芳ちゃん」 「……これは胸を見ていて照れたマユリさんと同じ病のようですね」 「……っ」 冗談だとは分かっている、でも。 「やっぱり女子校ってそういう人が集まってくるのかな。恋だとか分からないけど、同じ女の人に気持ちが向くのって更に分からないよねぇ」 「……同感」 いまだにあの日の事を引きずっているマユリさんへ、何も気負うものはないと……。 既に“終わっている話”として言っている二人に対し――腹の底が熱く煮える思いがした。 「で、どう? 手紙のことだけど……」 「……苺さんたちも一緒だったんですね」 「何が?」 「私をからかって……笑っていたあの男の子たちと……」 「……蘇芳ちゃん?」 のんびりとした口調。いつもは愛らしいとさえ思っている林檎さんから、俯いた顔を覗き込まれ、 「……ご免なさい」 居たたまれなさと強い怒りに後押しされ、私は脱兎のごとくその場から逃げ出していたのだ……。 頭の中で、輪になって口々に吐かれた嘲りの言葉が浮かび、何も口に出せなかった。 「……喜びすぎて口に出せないとか?」 「ああ〜そうだよね。女の子にとってラブレターを貰うとか嬉しいものねぇ」 「……ここが女子校でなければ、だけど」 そうか、と笑い合う二人を見て、 (ああ、やっぱりこの二人は私を笑いに来たのだ) と、思った。 「で、手紙のことなんだけど」 仲良くなれたと思っていたのに、 「……読んでくれたんだよね?」 クラスでは一番の仲良しだと思っていたのに。 「……私、私は」 顔をあげ、友人になれそうだと思っていた二人が、にやにやと厭らしい笑みを浮かべているのを見るのは辛い。 「ご免なさい……」 そう喉の奥から一言だけ絞り出すと、私はその場から駆け出し逃げ出した……。 はぁはぁ、と自分の呼吸する音がうるさい。 “ラブレターかと思ったでしょ” そう笑いながら問いかけた苺さんの顔が、あの時の男子の顔と重なって見えた。 “わくわくした?” と、問いかけてきた林檎さんにも、だ。 (何で、どうしてなの?) 走りながら私は、昔の自分が考えて自問した言葉をまた自分へと投げかける。 (私はどうして受け入れて貰えないのだろう) 義母の輪郭が、 (私はどうして愛されないのだろう) ――私は深い森の中にいることに気がついた。 荒い呼吸に胸を押さえ、大樹に背を預ける。 木の深い香り、温かい幹に少しだけ救われ落ち着くことができた。背に感じる温かさに、祖父を思い起こす。 私が不安定になった折には優しく背を撫でてくれた。 “人生には佳いこともあるんだよ” そう言ってくれたのだ。 「でも、私の人生にはない」 祖父を前にして出せなかった言葉が、独りになることで口についた。 (……これからどうしたらいいのだろう) 沙沙貴さんたちのこと、 そして徐々に孤立していくマユリさんのこと、 落ち着くため大きく一つ深呼吸をし、赤く染まりつつある木々から差し込まれる西日を見詰め、そしてそっと目を閉じた……。 「あら?」 ぼんやりとしていた私に、始め声は届かなかった。 「図書室でお食事してはいけませんよ」 咎める声にようやく自分を取り戻した私は、 食べかけのロールパンを机の上に残し、ぼんやりと本を眺めている私にその声が投げかけられているのだと気付いた。 「ダリア先生……」 「あら!」 何やら嬉しげなバスキア教諭に、いまだぼんやりとしていた私は小首を傾げてしまう。 バスキア教諭は、人好きのする笑みをこぼし、 「初めて名前で呼んでくれましたねぇ」 「え、あ……」 ぼうっとしていた所為だろう。こちらで一線をひいていた教諭を名前で呼んでしまったのは。 「……すみません」 「ふふ。いいんですよ、白羽さんと打ち解けられたという事ですからね。私も蘇芳さんとお呼びしようかしら」 頬に手を当て恥じらって見せるバスキア教諭に、私は曖昧な笑みで応えた。 (いつもは苦手な筈なのに) 「あ、そうです。図書室内での飲食は禁止なのですよ。図書委員なのですから率先して守ってもらわないと」 (何故だろう、いつもの苦手意識が出てこないわ) わざとらしく頬を膨らませてみせるバスキア教諭を見て頬が緩んでしまった。つい笑んでしまった私を見咎め彼女も笑う。 「佳かったぁ。元気がないようでしたから心配していたの。お昼の食事の際も早く切り上げたし、お腹が痛いのかしら?」 食欲がわかず、一つだけ失敬してきたロールパンも囓りかけだ。 「体調が悪い……訳ではないんです。少し……その……」 「何でしょう?」 「……悩みがありまして」 ――からかうために送られてきた手紙のこと、 そして、落ち込んだままのマユリさんのこと。 「そう……。聖書の時間も質問につかえていたものね」 「すみません……」 「いいのよ、聖書の時間は自分自身と神に向き合うためのものよ。悩み答えられなかったとしても、それは一つの答えなの」 宗教的な考え方だな、と思った。でも、 「ありがとうございます」 私にはバスキア教諭なりの気遣いに思えた。 「――そうだ。ねぇ蘇芳さん」 「はい?」 「放課後、付き合って頂けないかしら」 私を蘇芳と呼び、バスキア教諭はそう言ったのだ。 放課後、私はバスキア教諭と肩を並べて森の小道を歩いていた。 オリエンテーリングで分け入った場所とはまた別の道を軽やかな足取りで進むバスキア教諭へ、耐えきれなくなった私は口を開く。 「……あの、何処へ向かっているんですか?」 「ふふ、ようやく聞いてくれたわねぇ」 「はぁ……」 「今から向かう場所は初夏に行うハイキングの下見なの。幾つか候補があって……」 「どれにするかは例年ニカイアの会の生徒が決めるのだけど、候補を絞るのを手伝おうと思って」 どうやら自然と触れあうのが多い校風のようだ。私は隣で話し続けるバスキア教諭に頷いてみせる。 「たまには運動をしないとね。蘇芳さんも気をつけないとお肉がついてしまうわよ」 「そう……なんですか?」 「そうよぉ。十代の頃は気をつけなくても平気だけど、二十代も中頃を過ぎるとね、注意をしなくてはならないの」 「神経質なくらいでちょうど佳いのよ」 「はぁ……」 学校での行事や何やらで言葉を交わすことはあっても、プライベートなことはあまり話したことがない。 どうも不思議な心持ちになる。と、いうか……。 (バスキア教諭って、幾つなんだろう) すごく大人のように見えて……でも、今のような話をするときは私たちと同じ年代のようにも思える。 「あ……でも、蘇芳さんはもう少し食べた方がいいかも。今なら食べた分は背の方にまわるし、成長期だものねぇ」 「あ、その……、私、食べた分は胸にばかりついて……」 「そうなの」 つい気安く発した言葉に、バスキア教諭は私の腰や胸へ下品にならない程度に視線を巡らせてきた。 (そういえば苺さんに自慢だって言われたばかりだっけ……) 自分にとっては目立つし嫌だと思っていることでも嫌味になると言われたのを思い出し、バスキア教諭を盗み見た。と、 「ぁ、何をなさっているんですか……?」 「いえ、そういえば私はいつ頃から成長が始まったのかしらと思って……」 修道服の上から、自らの大きく盛り上がっている胸や腰に手を回しているバスキア教諭を見て、かっと頬を染めてしまった。 「大体、十代が過ぎれば落ち着くと聞いていたのだけど、胸も……腰回りまでなかなか成長が止まってくれないの。困ったものよねぇ」 何と返せばいいのか、私は曖昧な笑みしかこぼせなかったけれど、ふと気付いたことがあった。 (私が苦手意識を持っていたのは……) バスキア教諭のおっとりとした性格と、女性ということを強調しているような豊満な肢体。 どれも亡き母を思い出させ、そして連想ゲームのように、金切り声を上げて叱る義母を思い出させる。 「……どうしました。気分が悪くなってしまったの?」 「いえ、大丈夫です……」 「そう……。気分転換になればと思っていたのだけど」 下見に付き合って欲しいという口実が“そうなのだろう”と思っていても嬉しくはある。 私は義母の陰を追いやって、無理矢理に笑ってみせた。 「お話では旅に出れば、気分転換になると書いてあったのだけど……」 「ヒッピーみたいにですか?」 バスキア教諭もよく本を借りに来ていたな、と思い問いかける。彼女は苦笑いを浮かべ、そうね、と言った。 彼等のお題目が頭をよぎる。 「……でも、愛と平和はないですけどね」 「え?」 「いえ、独り言です。行きましょう」 ……どうにも後ろ向きな自分ばかり出てしまう。 バスキア教諭の好意に無理にでも乗せられようと、気分を鼓舞するように大股で目的地へと踏み出したのである。 ――気分を変えようと、無理にでも楽しみを見いだそうと、木陰から漏れる美しい陽光に目を細め、遠く川のせせらぎに耳を遊ばせた。 オリエンテーリングで歩いた距離の二倍はゆうに超えたけれど―― ハイキングの終着地点候補である場所は、見渡す限りの菜の花畑で、目にした瞬間あまりの絶景に疲れは吹き飛んでしまった。 “ねぇ、ハイキングに相応しいでしょう?” とは、バスキア教諭の談だが、ハイキングの日取りは七月。 見頃は過ぎているのではないか、と問うと、あっとばかりに驚き、次いでしゅんとしてしまった。 年上とは思えない可愛らしい仕草、そして一面の菜の花に少し勇気を貰った私は、ようようと帰路についたのである。 と、それで終われば佳かったのだけど……。 「……道に迷った方がまだ佳かったわ」 以前、森の中でずぶ濡れになっていたマユリさんを思い浮かべた。彼女を助けた私が迷った方がいいなんていうのは不謹慎だけれど……。 「蘇芳さんもどう? 気持ちいいわよぉ」 のんきな声に当てられ、私は小さくだが深いため息をついた。 「……困っていると言うならこっちの方が上だわ」 木陰から水浴びをしているバスキア教諭を盗み見て息を呑む。 服を着たまま水浴びをしてはいるものの、水気を吸い張り付いた修道服は、バスキア教諭の肢体を見事に浮かび上がらせていた。 程よく肉が付いてはいるが瑞々しくも上品な素足、 お尻は学院に飾られている中世絵画のように豊満で魅力的に映り、女性の私でもついどきどきしてしまう。 そして、張り付いた布越しでも分かる輪郭をくっきりと際立たせている胸元―― 木々と水面が映し出す碧と碧、そしてバスキア教諭が織りなす一幅の絵は息を呑むほどに映え、 私はいけないと思いつつも目が離せなくなってしまった。 「蘇芳さん?」 「は、はい!」 「さっぱりするわよ。ご一緒にいかが?」 いかがとは言われても……。 (沙沙貴さんたちならきっと喜んで付き合ったろうけど) ふと微妙な関係の級友を思い浮かべ、詰まってしまった。気持ちの悪い間に、 「だ、大丈夫です。私はあまり汗を掻きませんでしたので!」 と、急ぎ答えた。 「そう。……やっぱり少し太ってしまったからかしら? ローブだと身体の線が出ないから甘えてしまうのよねぇ……」 腰回りを気にしたのか腰の付近を撫でる無邪気なバスキア教諭を見て、じわじわと発汗してしまう。 (ただでさえ汗を掻いているのに……!) バスキア教諭へ言ったことは当然嘘だ。 春とはいえ今日はだいぶ暖かい。長い距離を歩いてしっとりと下着が汗ばんでいる。 「……バスキア教諭でなければ入っていたのに」 ほんのり桜色に染まっている唇、腰、柔らかそうな下腹へと添えられてゆく手は艶めかしく動き、私は目を奪われていた。 「…………」 「…………」 滴が時折はねる音と、細やかな呼吸音だけが聞こえ心地の良い静寂が二人の間に横たわった。 「ねぇ、蘇芳さん」 「……何でしょうか?」 「蘇芳さんの生まれは何処?」 不意に聞かれ、私は素直に郷里を話してしまう。 ――祖父と二人きりで暮らしていた事も。 「……そう。私はね、故郷はこの学院なの」 「え?」 「今は女性しかいない学院だけど、昔は神学を教えてくださる神父様がいて……」 「その神父様の娘が私なの。私はこの学院で育ち、卒業した。そして亡き父の代わりに神学を示教しているわ」 (生まれてからずっとこの学院に……) バスキア教諭の言葉の内容がうまく想像できない。 「蘇芳さん。私は今日貴女の告解を聞かせて貰おうと思っていたの」 「森の清浄な空気を吸って身体を動かせば、悩みも吐露しやすいだろうって……」 「…………」 「……でも、駄目ね。私はこの学院の常識しか知らない。だから貴女が抱えている悩みも想像できない」 「そんなことでは話してくれる訳もないのに」 いつしか水遊びをしていた手は止まり、視線を水面に落としていた。 「修道女としてなら幾らでも言葉は出るけれど、私個人としては何を言ったらいいか……」 「それでは……貴女の悩みは解決しないでしょうね……」 宗教的な高邁な悩みではない。私の抱えている問題はもっと泥臭く、生臭いものだ。 黙り込む私へ、バスキア教諭はじっと水面を見詰めたままだ。 「……先生は何を言ったらいいか分からないと言いましたけど」 「…………?」 「私の事で深く考えてくれていた、そのことだけで嬉しいです。救われました」 「蘇芳さん……」 眉を曇らせた表情からいつもの人好きのする笑顔へと変わっていく。そして、バスキア教諭はパンと手を叩くと、 「そうだわ。子供の頃、一度だけクラスの輪に溶け込めないことで、父に相談したことがあるの」 「そうしたら、父はこう言ったわ。“他人の靴に足を入れてみたらいい”って」 「靴を?」 「英語でのことわざのようなものね。意味は、相手と自分の立場を入れ替えて考えてみるということを、そう表現するそうなの」 「自分の人生と相手の人生が入れ替わったとしたら、どう感じるか。私はその言葉を聞いて自分ばかりに自問していたのだと気づいたわ」 (……ああ、私も、そうだ) 「私の時とは悩みが違うかもしれないけど、貴女の力になれたかしら」 ――私は自分がされたことだけを捉え思い悩んでいた。 以前、されたことだから今回も違いないと。 でも、沙沙貴さんたちがどういうつもりで手紙を出したのかは考えていなかった。 (マユリさん……) 彼女の悩みもマユリさんの立場になって考えてみたら、何か解決策が浮かぶかもしれない。 「ごめんなさい。見当違いの話だったわよね……」 「あ、ち、違うんです……! すごく為になって……!」 「本当……?」 頼りなげな同級生のような声音に、私は笑みを零すと、 「――ありがとう御座います、ダリア先生」 感謝の気持ちを込め、ダリア教諭の名前を呼んだのだった……。 ――ギィ、と軋む音が鳴り、 惚けた頭の中で、以前同じような事があったなと思った。 近視感を覚えながら見上げた視線の先には、やはり癖のあるショートの髪、大きな猫のような瞳が私を捉えていた。 「その顔つきからすると上手くいってないようだな」 「八重垣さん……」 「そんな辛気くさい顔をして読んでいたら本が可哀相だ。ん? 伝記かぁ、つまらない本がさらにつまらなくなるぞ」 手を伸ばし私の手から伝記本を取り上げると自分の膝の上に置いた。そして猫のような目を細め、 「で、結局振られたってわけかい?」 恋愛に喩えマユリさんとの進展具合を聞かれ、私はふっと短い息を吐いた。 「……振られたも何もまだ話してさえいないわ」 「ずっと無視されてるってこと?」 「日常必要なことはお話しするけれど、悩んでいることを尋ねてはいないの」 「成る程……」 頭の後ろに両手を回し、値踏みするように上へ下へと眺める。 いつもは猫のように間合いを計り、此方の懐へ入ってこない八重垣さんらしくない態度に疑問符を抱いた。 「あの……」 「いや、実はさ。あのお茶会での一件以来、ちょくちょく委員長……花菱がわたしの部屋に来るんだわ」 「立花さんが? 聞いていないわ……」 「別に大した用じゃないんだ。自分が好きだって言う本だったり、お菓子を差し入れしたりさ」 「向こうは見舞いの気分なのかもな。別に病気じゃないっていうのにさ」 (立花さんらしいわ) 一番怒っていい立場なのに、八重垣さんを気にして部屋にお見舞いに行っている姿を思い浮かべ、笑んでしまう。 「ちゃんと授業に出ろだの、バレエの授業は面白いだのいちいち煩いんだこれが」 「大体バレエの授業に出たってしょうがないだろうって話だよな」 腿を叩いてみせる八重垣さんに私は笑顔を向けた。自虐に見えるがこれは彼女なりの会話の仕方なのだ。 「まぁあれだ。わたしはそうは思わないけど、一般的には花菱は良いやつだ」 「ええ、そうね。本当にそう」 私ともっと仲良くなりたいといってくれた彼女。 この学院に来てから自分の立ち位置を変えずにいる、尊敬できるアミティエだ。 八重垣さんはそう答える私を何故だか注視し、眉を掻きながら言った。 「――まぁ、何だ。わたしが思うにさ。$そんなに悩むくらいなら、匂坂と仲良くなる必要はないんじゃないかな」 「え?」 「匂坂とのことで悩んでるって話だけど、別に無視されるだの虐められているって話じゃない」 「クラスメイトとしての対応はしているみたいだし、今のままでもいいんじゃないかってことだよ」 「そんな……」 急な話の転換についていけず言葉に詰まってしまう。窓の方へと視線を逸らし、八重垣さんは顎に手をやると、 「アミティエは二人いるだろう。あんたので言えば、匂坂マユリと花菱立花の両人だ」 「花菱は世話好きの善人だし、お前も尊敬しているって言っただろ? 仲良くなるのは別に一人だけでいいんじゃねぇの」 表情を変えずにそういう。 (……誰か一人でいいなんて事考えたことが無かった) アミティエ皆で親密に、友達になろうと私なりに努力していた。 でも、 (切り離すなんて考え方でいいの……?) それを許したらきっとこれから友人作りを目指す過程で、たくさんの人との付き合いを、切る切らないの判断をしていくことになる。 「そう、沙沙貴さんたちのことだって……」 「沙沙貴? ああ、あの誕生日会の主役か。あいつらがどうかしたのか」 つい言葉に出してしまったらしい。私が口ごもっていると、何かを察したように意地悪な猫の笑みを見せた。 「何だよ、そっちともトラブルか」 「トラブルというか、その……」 「別に人の面倒ごとに興味はないが、悩んでいるなら口に出せばいい。わたしは壁だと考えればいいさ」 壁、との言葉に小首を傾げてしまう。 「無害な聞き相手だってことさ。クラスメイトに告げ口するにも相手がいないしね」 「壁に話しかけているつもりで言えばいい。秘密を打ち明けることで悩みが軽くなる場合もある」 八重垣さんの申し出に……。 独り思い悩んでいることが辛くなっていた私は、躊躇いながらも口を開いた……。 「成る程、手紙ねぇ」 手紙の文言、講堂で起きた出来事を話すと八重垣さんは顎に手を当て、ふむ、と熟考する。 私はそんな彼女を見て少し心が軽くなった気がした。 (壁だと思えって言っていたけど) どうすればいいか考えていてくれていることに嬉しく思った。 「相手の真意は分からないが、此奴はゲイリー・クーパーだな」 「え?」 「真昼の決闘だよ。匂坂の時とは話が違う。$喧嘩を売っているのかそうでないのか、はっきりさせる必要がある」 「喧嘩って……」 過去の学校での思い出が蘇るも、からかわれた事、そして居ない者として扱われただけで直接暴力を振るわれた覚えはない。 いまいちピンとこない私は目を瞬かせた。 「別にこっちから売れって言ってるわけじゃない。はっきりさせるだけさ。相手がどう思っているのかなんて誰にも分からない」 「優しく振る舞っててもそれは相手を見下して優越感を得たいだけなのかもしれないし――」 「ぶっきらぼうな態度だけど、本当は仲良くしたいけどうまく態度として出せないだけの場合もある」 「何か覚えがあるみたいな話しぶりね」 別段、考えがあって口に出した言葉じゃない。 沙沙貴さんとのことを悪意のある方へ持って行かせない為に何と無しに口から出た言葉だった。 「…………」 「……八重垣さん?」 しかし八重垣さんは私の言葉に詰まり、意地悪な猫の目が消えると、一転、弱々しい年相応の少女の瞳に変わった。 「……覚えがあるってのはあんたの言うとおりだ。此奴は経験談だからね」 「内面夜叉、外面菩薩ってのはある話なんだ。わたしの場合は、身内の話でね」 「…………」 「うちはわたしを含めて三人姉妹で、上に二人姉がいるんだ。わたしは足がこれで末娘だから両親から甘やかされてね」 「真ん中の姉はそんなわたしや親に反発して……。長女はまぁ優しくしてくれたよ」 話し口は柔らかだけど、切り出した時の口ぶりだと……。 「でも実際に親身になっていたのは次女だったんだよな。わたしがこの学院に入学することになったのを喜んだのは長女で……」 「悲しんでいたのは次女だった。夜、二人が話しているのを偶然聞いたんだよ。“ようやく面倒な妹のお守りが終わるって”」 「酷い……」 「まぁ仕方ないんじゃないかって思ったよ。わたしは自分でも分かってるけど、佳い性格じゃないしね」 「そんなわたしの世話をするのは嫌だったろうさ。でも、長女が毒づいていたのを宥めて――」 「次女が親身になってわたしの身の振り方を話しているのを聞いた時には……」 続く言葉を飲み込み、どこか遠くを望むような瞳をした。と、 「――つまり態度や行動から、本音なんて分からないってことだよ」 猫のように素早くいつもの天のじゃくな彼女の顔つきに戻り、私へと指を突きつけた。 「沙沙貴姉妹の本意がどこにあるのかは分からない。だから一度どう転がってもいいから話だけはした方がいいと思う」 「まぁ、匂坂に関してはお好きにどうぞって感じだけどね」 猫が笑うようににんまりとした笑みを作ると、次いではぁ……と深い吐息を付いた。 「――話し過ぎた。ひと月分は困らないな」 「ありがとう八重垣さん」 「止せよ。親身になってじゃない、只の暇つぶしの会話だ。そろそろ戻る」 ギッ、と車椅子の車輪に手を伸ばす八重垣さんに、手伝おうと立ち上がる。と、いいと手で制し、 「ま、考えすぎないことだ。$あんたは思慮深さが長所だが欠点でもある」 「……確かに、そうね」 「ベーブ・ルースは糞だが野球は素晴らしい」 「え?」 「どんなに美徳とされていることでも欠点はある。逆もまた然りだけどね」 言い、車椅子をこぎ出し図書室から去っていった。 「……悩んでいるだけじゃ駄目。一歩踏み出してみよう」 一歩、は何をするのかまだ決めてはいないけれど、私は八重垣さんの言葉を聞き、とにかく行動に移すことに決めたのだ……。 「ん? どうしたんだい。乙女がしてはダメな顔をしているぞ」 カチャカチャと手際よく泡立て器を振るい生クリームを泡立てる彼女に言われ―― 私はついペタペタと顔を触り、次いでコホンと一つ咳をついた。 「いえ、始めのクッキーを作るときの手際と比べたら随分と上手になっているので……」 「男子三日会わざれば刮目して見よ、というじゃないか。まぁ僕は正真正銘乙女だがね」 前髪をかき上げる仕草が中性的で実に嵌まっていて……中身が少々変わっていることも忘れつい見惚れてしまう。 彼女はポニーテールの髪を揺らし、 「さぁ早くプレゼントのケーキを焼いてしまおうじゃないか、蘇芳くん」 腰に手を当てエプロン姿のまま笑顔を向ける、ニカイアの会の会長を前にして、 「はい。八代先輩」 と答えたのだった。 ――何故、八代譲葉先輩とケーキを焼くことになったかと言えば、 「プレゼント? それなら、ケーキを送るのはどうかしら!」 助言を受けたことで、とにかく一歩踏み出してみようと思った私は―― マユリさんにいつもの元気を取り戻して貰うためにはどうすればいいかを考えた。 自分ならば何をされたら嬉しいかと考えてみた結果……プレゼントを貰えたら嬉しいわよね、と思い至ったのだ。 即物的ではあるがプレゼントを貰って喜ばない女の子はいない――と思う。 ――しかし何の重要な日でもないのにプレゼントを一方的に渡しても困惑するだけでは……。 そう思い直していたところで、何故だか機嫌の良い立花さんと廊下で会い、プレゼントを贈るならば何が欲しいかを尋ねたところ……。 さらに上機嫌になった立花さんは鼻息も荒く“ケーキ”を推してきたのである。 「ケーキ……食べ物を?」 「ええ。そう。プレゼントといっても寮住まいだからアクセサリーとかは無理でしょ?」 「遠く離れた町に買いに行くわけにもいかないし。それになんて言うのかしら、て、手作りって気持ちがこもってそうじゃない?」 確かに、そうかもと思う。ケーキなら……。 「お茶会の時に出せるし……」 「う、うん。サプライズでプレゼントも素敵だけど、やっぱり本人に聞いた方がいいわよね」 「わたしはケーキならチョコケーキがいいかな。あ、催促しているんじゃなくてね……」 わたわたと手を振る立花さんへ、相談に乗ってくれてありがとう、と言い―― 「ケーキを作ることになったけれど……」 「うん? どうしたそんな目でみないでほしいな。もうつまみ食いはしないよ」 「そんなつもりじゃ、ふふ!」 ケーキを作る前に前哨戦として焼いたクッキーをつまみ食いされたことを思い出し、思わず苦笑いしてしまった。 「手伝って頂いているんですから、八代先輩の分はきちんと用意してありますよ」 「それは分かっているが、作っている最中につまみ食いするのはまた別物だよ。何というかひと味足らないのがまた佳いというか……」 カショカショと生クリームを泡立てホイップ状にしている八代先輩は、つまみ食いする際の醍醐味を嬉々として話す。 ――困ったものだが、ケーキを作るために料理部の機材を貸してほしいと頼んだところ、たまたま居合わせた八代先輩が承諾してくれた。 お陰で部室を使えているのだ。少々の悪戯はむしろ心苦しさを感じずにいられてありがたいくらいだ。 「しかし友人への感謝の気持ちにケーキを焼く、か。実に女の子らしい発想だね。これを貰える友人が羨ましいよ」 「……八代先輩ほど人気があるのなら、クッキーやケーキはよく頂くのではないのですか?」 「いや、何故か甘い物が苦手だと思われていてね。普通の料理などは調理実習の際にプレゼントされるのだが……」 「甘い物はとんと贈られることがないねぇ」 「小御門先輩からとかは……」 「ああ、ないない。ああ見えてあいつは不器用なのさ。料理なんてしたら指がなくなってしまう」 自分の指を見せばっさり切って捨てるジェスチャアを交えて言う。 (意外だわ) 何でも器用にこなせる八代先輩がこと料理だけは苦手だとか、 やはり完璧に見える小御門先輩が不器用だとかの話を聞き、少し親近感がわいた。 「逆に料理上手な君が羨ましいよ。$随分手慣れているようだけど、家ではよく手伝っていたのかい?」 「祖父と二人暮らしだったので、家事はだいたい私が……」 「祖父も私もあまり甘い物が得意ではないので、お菓子作りの経験はそんなにないのですけど……」 「そうなのか! 経験がないのに、先のクッキー作りなぞ随分手際が良かったがねぇ」 「あれはホットケーキミックスを使ったお手軽なものなので」 「ふぅん」 鼻から抜けるような相づちをうち、包装し終えてあるクッキーを流し見た。 「……八代先輩?」 「ん、そんなに怯えなくていい。流石にあれだけ食べればクッキーはいいさ」 「しかし何だな、こんなに料理が上手なら僕の専属コーチになってほしいものだ」 (専属コーチって……) 気安く話しているからだろうか、料理部の皆さんの視線が今でも痛いというのに、これ以上恨みを買いたくはない。 「いえ、その……委員会に入っているもので、そちらで忙しくて……」 「そうか……。教えて貰うだけでは悪いからこちらも教えられるものを提示して、ウィンウィンにしたいと思っていたのだけどね」 「教えて貰いたいもの……」 「何かあるかい?」 八代先輩の言葉にご教授願いたいものはすぐに思い浮かぶ。この学院の教練の中でもっとも苦手なものだ。 「……バレエ」 「ん、バレエか。自慢ではないが僕は少しばかりバレエには煩いぞ」 確かに、と思う。背も高くスタイルも佳い八代先輩のレオタード姿は想像するだけでもぴたりと嵌まる。 これだけ似合う外見で上手ではないのは悪い冗談というものだ。 「羨ましいです。私、いつもバスキア教諭に居残りを命じられて……」 「ふぅん意外だな。蘇芳君はスポーツ関連は得意そうな風に見えるのにねぇ」 「陸上だとか走るだけ、飛ぶだけなら得意なんですけど、色々こう……ルールが難しいものは苦手なんです」 「ああ……何となく分かるな。僕も始めサッカーのオフサイドとかはチンプンカンプンだったよ」 「まぁ、弟の影響でよく見るようになってからは理解できたけどね」 そろそろいいかい? と泡立てた生クリームを見せられ、私は頷いてボウルごと受け取るとそれを新しい鍋に移して火に掛ける。 「割と手間が掛かるね」 「普通のショートケーキならこの作業はやらなくてもいいんですけどね」 中火で熱している鍋の具合を見る。 ふつふつと生クリームが煮立ってきているのを確認し、火を消してから刻んでおいたチョコとグラニュー糖を入れ、溶かしながら混ぜ合わせる。 「佳い匂いだ」 「熱いですからつまみ食いしてはダメですよ」 「さすがにこれに指を突っ込む度胸はないさ」 にこりと軽やかな笑みを浮かべる八代先輩に……ああ、この人のバレエで踊る姿を見てみたいな、と思った。 「……八代先輩はバレエが得意と仰っていましたけど、将来バレエのダンサーを目指したりとかはしないのですか?」 「バレリーナを目指してるってことかい……? いやぁ、自分には無理だよ。才能がない」 才能云々を言うならば、一挙手一投足が凛としている彼女の所作も、衆目を惹きつけるという一つの才能――それだけでも向いていると思える。 すべてのエンターテイメントをはらむ競技で言えることだけど。 八代先輩は銀色の愁眉をひそませ、そうだな……と眉間を掻いた。 「小説や映画好きの蘇芳君に分かり易くいうなら、ブラックスワンのようになりたくない、というのが本音かな」 「……え」 私の好きな映画の名を挙げられたことで目を丸くしてしまう。 「いや、なりたくてもなれないか。僕はね、元々が執着の薄い人間なんだ」 「だから一つのことにあれだけ執着し極められるということに憧れる反面、億劫だなとも思う。どれが正しいとかじゃなくてね」 「…………」 「蘇芳君が仲良くなる為にプレゼントを……と言っていたが、僕にはこれも大したものだと思うよ」 「なかなか手間を掛けてまで、相手を喜ばせようとはできないからね」 チョコと混ぜ終えた鍋をおろし、濡れたフキンの上に置く。 あら熱がなくなるのを見詰めながら、 「……本当は仲良くなる為にプレゼントを贈りたいのではなく、以前と同じ彼女に戻って貰うために……」 「分かっているよ。沙沙貴君たちとだろ? 最近様子がおかしかったからね」 「あ……」 マユリさんへプレゼントするつもりのケーキを勘違いしている八代先輩へどう言おうか悩んでいると……。 彼女はまるで当たり前のように湯気立つ鍋の中に指を入れ、人差し指についたチョコを美味しそうに舐めた。 「動機がどうあれ、手間を惜しまないというのは変わらない。きっと君の願いは叶うさ」 「……そうでしょうか」 マユリさんに……沙沙貴姉妹とも気まずくなってしまった関係が簡単に元に戻るとは思えない。 私のプレゼントを贈るという行為も、安易だと思われてはしまわないだろうか。 「始めに会った時から比べると君は変わってきているよ」 「……私が、ですか?」 「ああ。以前よりも何というか……柔らかくなったというか、バイタリティが増したというか」 「それに変わっていっているのは君だけじゃない。沙沙貴君たちもだ」 「沙沙貴さんたちも……」 「以前は明るく社交的に見えても、最後の最後では自分たち二人の意思が同じであれば、それで佳いという感情が透けてみえた」 「だが今は他者の考え方、受け取り方を学ぼうとしている。例えば蘇芳君を知ろうと努力したりね」 投げかけた言葉に、以前は話が弾まなかった小説や映画の話をしたときも―― 最近は二人とも理解し会話が成立していたことに今更ながら気づいた。 (私の為に努力してくれている?) 「まぁ、その変化がクリスマスキャロルのような佳い変化ならいいがね」 守銭奴の主人公がクリスマスの奇跡を経て、善人へと生まれ変わる映画を例に挙げ八代先輩は笑った。 私は八代先輩が挙げた映画のように、自分が変わることで周りにも幸せを与えられればどれだけ素敵だろうと思った……。 ――何かがおかしい、 元気のないマユリさんへ、ケーキをプレゼントするためお茶会に参加したまではいい。 でも、 「ふふ、本当に嬉しいわぁ。$蘇芳さんがケーキを焼いてきてくれるだなんて!」 マユリさんへと持ってきたケーキは立花さんの手によって、東屋の卓の上に置かれた。 イチゴのショートケーキと私が作ってきたチョコケーキ。二つ並び、卓には色とりどりのお菓子が。 そして参加しているクラスメイトたちに、立花さんが手ずから紅茶を淹れていた。 (沙沙貴さん) (……マユリさん) (や、八重垣さんも……!?) 何度誘ってもお茶会に出席しなかった彼女が末席に陣取り、にこやかに紅茶を淹れる立花さんと何やら言葉を交わしている。 会話が終わり、紅茶のカップを持ったまま私を見つけた八重垣さんは、車椅子を繰り私の元へと車輪をまわした。と、 「今日はわたしの為に集まってくれてありがとう。とっても嬉しいわ。まさかクラス全員が来てくれるとは思わなかったから」 片笑みと視線は私の隣に到着した八重垣さんへ。 これって……。 「自分で発案したのだから少し恥ずかしいけど、これからもクラス一人一人のお誕生日があった日はこうして開いていこうと思います」 「それでは……こほん」 「わたし、花菱立花のお誕生日会を始めようと思います」 「……え、誕生日って」 「だよな、この年でお誕生会ってなぁ」 隣で紅茶を傾けながら笑う彼女を横目にしながら、私はようやく“おかしい”と感じていたことが氷解した。 (今日のは只のお茶会じゃなくてお誕生日会だったの!?) 談笑するクラスメイト等を見て私は遅まきながら、このお茶会が“花菱立花”さんを祝う集まりなのだと理解した。 「え、あ、もしかして……」 廊下であった立花さんが“プレゼント? それなら、ケーキを送るのはどうかしら!”と嬉々として言っていたのは。 「……自分が貰えると勘違いしたから!?」 サプライズもいいけど、きちんと本人に聞いた方が――や、チョコケーキが佳いという言葉は、自分がプレゼントされるのだと思っていたから。 「……私、なんてことを」 立花さんをぬか喜びさせてしまったのだと分かり、じわじわと変な汗を掻いてしまう。 「ふふふ、ありがとう!」 ――こんなに嬉しそうな立花さんへ、貴女にあげたのじゃないから返してなんて……言えるはずがない。 「どうした? 世界の終わりみたいな顔をしてるぞ」 「……私にとってはそうかも」 「はぁ?」 「いえ、何でもないの。八重垣さんは立花さんに呼ばれて?」 「だと思うだろ? だけどそうじゃないんだな。流石に自分のお誕生日会を開くから祝いに来いとは言いにくかったみたいだ」 「え、それじゃ……」 「お前のとこのもう一人のアミティエ……匂坂が部屋まで誘いにきたのさ」 ――マユリさんが? 彼女の姿を求め、視線を走らせる。 マユリさんは始めに居た場所のまま、一人紅茶を傾けていた。 「マユリさん……」 身体測定の日から他人どころではないと余裕がない様子だったのに。 (……やっぱりマユリさんはマユリさんだわ) 人と触れあうのが苦手なようでいて、それでいて面倒見が佳い。相反するような性格だけど、それが彼女。 「……私だって何度助けられたか」 「何だかまた面倒ごとがあったみたいだな」 「――ええ」 「ま、手伝わないけど応援はしてやるよ。今のわたしは小林一茶の気分だ」 おかしな言い回しに紅茶を持つ八重垣さんの目を見詰めた。猫のような目は意地悪に細められ、 「お前は痩せカエルと同じ程度だってこと」 と、言った。 「そうね。そうだわ」 彼女なりの不器用な励ましに私はくすりと笑ってしまう。 簡単な談笑が終わり、ケーキをカットするために小ぶりのナイフが立花さんへと渡された。 「頑張ってくるね」 ――現在 汗の匂いと、水音。 緊張し震えだしそうな指を押さえ、私は“何でこんなことになっているのだろう”と自問していた。 私を信頼しきって身をゆだねる肢体、 湿度の高い浴場内の所為か、彼女の身体はうっすらと汗がにじみ、女性特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。 見てはいけないと思っていても、ぴたりと閉ざされた彼女の腿、仄かに桜色に染まった膝が私の目には扇情的に映った。 「……痛くは……ないかしら」 煩悩を打ち消しながら、気むずかしい猫を相手にするようにおっかなびっくり泡立つ髪を洗う。 頭皮に爪を立てないよう、泡が彼女の顔にたれないように慎重に泡立てる。 ――大丈夫、 と、頭を少し振り答える彼女。 タオルで包まれたなだらかな隆起を描く胸元が目に入ってしまい、弾かれるように視線を逸らした。 (何で私は、彼女と一緒にお風呂に……) 羞恥から誰とも入らなかった私。 でも、 あれを――知られてしまった彼女になら、 「……マユリさん」 匂坂マユリさんとなら構わないと思ったのかもしれない、と思った。 ――2時間28分前 “黙っていればいいのに”と言われた。 それは当事者の立花さんにも、 成り行きを見守っていた、沙沙貴さんたちからもだ。 マユリさんは眉をひそめ、八重垣さんだけはいつもの表情を崩さず―― 他のクラスメイトは空気を壊したことで所在なく、対峙している私と立花さんを見詰めていた。 しかし、 “勇気があるわ” そう立花さんが微笑んでくれたことで、先ほどまでの祝福で充ちていた空気に戻ることができた。 「蘇芳さんは元気のないマユリさんへケーキをプレゼントしようとしていたのね。それをわたしが勘違いしてしまって……」 「少し残念だけど、わたしは友人を元気づけるために行動できる、蘇芳さんのような人がアミティエで嬉しいわ」 「立花さん……」 「ふふ。わたしもいつものマユリさんに戻って貰うには、どうしたらいいか考えていたの。だからこれは嬉しい誤算なのよ」 「――はい、蘇芳さんからのプレゼントよ、マユリさん」 「……ああ」 チョコケーキを手渡されマユリさんは何処か困ったような、憤っているような嬉しいような複雑な表情を浮かべた。 「――ありがとう」 だが嬉しい、が勝ったのだろう。私へ向けていつもの暖かな春の日差しのような笑顔を向けてくれた。 (勇気を出してよかった……!) 「私の為に焼いてくれたんだね。手間も掛かったろうに」 「そ、そんなことないわ。八代先輩も手伝ってくれたし」 八代先輩が? と怪訝な表情をするもすぐに破顔し、 「蘇芳さんは欲がないな。そこは私一人で作ったんですって言っても佳かったのに」 周りのクラスメイトもつられて笑い、私も立花さんもつい笑ってしまった。 「プレゼントは嬉しいけど、さすがにホールをまるまる一つは食べられないしね。これは皆で食べようと思うんだけどいいかな?」 途端にあがる嬌声。こくこく頷く私へ、マユリさんは率先してナイフを手に皆へとケーキを取り分けていく。 (佳かった) クラスの中心に戻った彼女を見て、私は胸につかえていた鉛のような何かが溶け、消え失せていることを知った。 軽口を言い、笑うクラスメイト。見慣れた光景に自分がした行動は間違いでないと思った。 「……蘇芳ちゃん」 後ろからかけられた声に振り向くと、いつもは飄々としている林檎さんが、気ぜわしげに眉根を寄せ―― うるさいくらいに賑やかな苺さんは、妹の背に隠れるようにして私をじっと見詰めていた。 「沙沙貴さん」 「……林檎って呼んでくれないんだね」 悲しげに震える林檎さんの声音に、私は、 私への宛名の手紙と、囃し立てられた過去を振り返る。 「……わたしは、あのね、わたし……」 マイペースな彼女らしくない林檎さんに、叱られる前の子供のような苺さん。 からかってきた男子たち。男の子たちと同じようにラブレターを出してきた彼女たちを思い、 「――ふふ」 つい笑ってしまった。 「……蘇芳ちゃん?」 「いえ、ふふ、なんで沙沙貴さんたちと、あの男の子たちを一緒にしていたのだろうって思って、ふふ!」 「苺さんや林檎さんは、あの時の男子たちと全然違うのに」 「男の子たち……?」 「――私はね、以前沙沙貴さんたちがしたように手紙を貰ったことがあるの。ラブレターだったわ」 「え、ああ……蘇芳ちゃん、もてそうだものね」 ようやく口を開いた苺さんに私は愛想笑いで返し、 「でもそのラブレターは悪戯だったの。暗くて内気な私をからかおうと男子が出したのよ」 「それは酷いよ。あ……」 「うん。私は沙沙貴さんたちから貰った手紙を、男子から送られたラブレターと同じだと受け取ってしまった」 「だから……聖堂で笑いながら二人が出てきたとき……」 「……ごめん」 「誤解させちゃったんだよね……」 「ええ。本当に誤解。自分に自信がない所為で悪い方へ思い込んでしまった」 「でもね、私、自分が沙沙貴さんたちだったらって考えてみたの」 「わたしたちだと思って?」 「うん。相手の身になって考えてみる。そうしたら分かったの。沙沙貴さんたちが、あの男の子たちのような悪ふざけをする筈がないって」 「冗談やふざけることはあるけれど、人が傷つくような悪戯はする筈がないって」 私は席に戻り、リボンでとめた包みを……二人の手を取って渡した。 「これは誤解して、二人を傷つけてしまったお詫び。受け取って貰えるかしら?」 「蘇芳ちゃん……!」 料理部で沙沙貴さんたちを思って作ったクッキーは、誤解も手違いもなく彼女たちの手におさまったのだ……。 ――現在 沙沙貴さんたちと仲直りを果たし、立花さんのお誕生日会はつつがなく進行していった。 それから、 「……人に頭を洗って貰うって素敵だね」 「え?」 「……何だか懐かしい気持ちになる」 身体の緊張を解き、すべてを委ねるマユリさんへ私は、“ええ”とだけ答えた。 母に感じる望郷の念など持ったことはないからだ。感想など言えない。 (でも、) きっと何の不安もなく自分をさらけ出すのは、とても甘美で素敵なことなのだろうと思った。 彼女はゆっくりと息を吸い、吐く。 タオル越しに、呼吸に合わせ小ぶりだがしっかりと主張する胸元を眺め、そう思った。 ああ、そうだ。 彼女と……マユリさんとお風呂へ入るきっかけとなったのは―― 「蘇芳さん」 ――1時間13分前 誕生日会が終わり、料理部に残っていた八代先輩へお礼を言った帰り道、 「蘇芳さん」 マユリさんに声を掛けられたのだ。 彼女は立花さんと同じように、私を勇気があると褒め称えた。 そして、次いで私にはないものだ、とも。 立ち直ったように思えたマユリさん。でも彼女の心の奥の澱は重く、こびり付いたままだということが分かった。 「……無理だ」 「え?」 「蘇芳さんのように振る舞うことがだよ。私には無理だ。きっと流されていただろう。ここでダメでも次があるさってね」 落ち込む彼女へ何度もそんな事はないと言ったけれど、心には届かなかったようだ。 どこかで借りた言葉では駄目だ、そう感じた私は自分自身の言葉で語ることにした。 「私は……内気で落ち込みやすいし、自分に甘いダメな人間だと思う」 「だから、みんなに無知だとか無能だとか言われても頷くしかない」 「…………」 「でも、ダメだとか下手だとかは皆が決めることだけど、無理かどうかは自分で決める。私は、」 「…………」 「私は、この学院で何も、何一つ諦めたくないの」 もう嫌だ、やめようと思ったことは何度でもある。 でも、一つを無理だと諦めたら、次々と手放してしまう。$そんな気がするのだ。 「――そうだ。ああ、そうだね。また自分を諦めて……騙してしまうところだった」 「ありがとう、蘇芳さん」 ――現在 「……そうだ」 「何?」 「い、いえ……」 (そうだ。あの後、雰囲気に流されて……) 仲直りのいい機会だからと場所を知らされず、ついて行ったら―― 「これだった……」 寄りかかるマユリさんの肩が私の胸に触れ、それだけで赤面してしまう。女の子同士だから恥ずかしくない、と思ってみても、 (恥ずかしくないわけないじゃない……!) 「……今日はありがとう」 「え、はい?」 「ふふ、もう一度きちんとお礼を言いたかったの。思えば蘇芳さんには助けて貰ってばかりだなって思って」 「そんな、私は……」 「オリエンテーリングの時だって一番に駆けつけてくれるし、今度のことだって……。蘇芳さんは何で私にそんなによくしてくれるの?」 問われ―― 鏡越しに目をつぶったままの彼女を見詰め、髪を伝い彫刻のように張り詰めた肌に流れる泡を目で追った。 華奢な肩、 瑞々しく線の細い肢体、 私とは違う、細く抱きしめれば壊れてしまいそうな腰つき、 目をつぶり、私へと無防備に身を任せている彼女を見て、 胸が締め付けられるような、ざわざわとした黒くみだらな気持ちが沸き起こるのを感じた。 「蘇芳さん?」 「ぁ……ぅ、私……」 「――あの身体測定の時、何故、私があんなに気持ちが抑えきれなかったのか、蘇芳さんには知っていて欲しいんだ」 「…………」 「私が、苺や林檎さんに大声を上げてしまったのは……」 「…………」 「蘇芳さん?」 「ぇ、あ、はい!」 「――もしかして聞いていなかったの?」 「あ、いえ、決して変なことを考えていたとかじゃなくて……!」 「ふっ、しょうがないな、ふふ!」 「す、すみません。もう一度言って……」 「あーーっ! ずるい! 蘇芳ちゃんに髪の毛洗って貰ってる!」 浴場内に響き渡る声をあげ、ペタペタと駆け寄ってきたのは、 愉しげに笑う沙沙貴姉妹だった。 「さ、沙沙貴さん」 タオルからの隙間から健康的な素肌を覗かせている二人へ、消え失せていた羞恥心がむくむくと湧き、顔を染めた。 「……すごい。蘇芳ちゃんがお風呂に入っているの初めて見た」 「あ、そういえばお風呂入っているの見るの初めてだよね!」 「そ、その言い方は私が不潔みたいな気が……」 「あ! じゃなくてずるいよ。私的にも蘇芳ちゃんに髪洗って貰いたいっ!」 「……私としても同意」 むやみに胸を張る二人へ視線をどこに逃せばいいのか、私は顔を伏せ床を見詰めた。と、 「ダメだ、ダメだ。これはアミティエの特権なんだ。自分のアミティエに洗って貰うんだね」 「ええ〜なにそれ、ずるいよ!」 「……意味不明」 〈喧々諤々〉《けんけんがくがく》私を争って(?)諍いが起きている事におろおろとしてしまう。 すると、苺さんは何かを思いついたようにふふん、と鼻を鳴らし、 「私的には一緒に洗いっこした方がいいと思うな。だってユリは身体測定の時みたいに、エッチな目で見るかもしれないし!」 と言った。 瞬間、今まで暖かかった春の日差しが陰るのを感じ――私は、 (マユリさん……!) 以前、強い語気で否定していた彼女を注視した。 「…………」 表情のない彼女の顔は、緊張を孕んだ空気の中、 「……そうだ。そうだな」 「――ああ、そうだ。せっかくだから二人がどんなに育っているか、とっくりと見せて貰うとしよう」 意地の悪い笑みを浮かべ、わざとらしく手で望遠鏡を作り、沙沙貴姉妹の肢体を凝視した。 「ちょ、ちょっとそんなに見られたら恥ずかしいじゃん!」 「……ぅぅ」 軽口を叩いていても其処はさすがに乙女。胸を隠し、二人とも湯船に逃げてしまった。 「ははっ! 女同士だから恥ずかしくないんじゃなかったのか?」 からからと笑う彼女を見て、 (沙沙貴さんたちとも仲直りできたみたい) 屈託のない友人同士のやり取りにほっと胸をなで下ろす。 ――以前、この浴場で、私と今以上仲良くならなくてもいいと言っていた彼女。 そのマユリさんが笑っているのを見て、 「これでいいのよね」 彼女が以前よりもずっと近くに感じた私は、湯船で騒ぐ三人を見てそう呟いたのだ……。 アーシュラ・K・ル=グィン作『辺境の惑星』というSF小説がある この星の一年は地球時間に直すと約六十年かかるそうだ 春に十五年、夏に十五年、秋に十五年、冬に十五年…… 初めて私がその本を読んだとき、同じ季節でとどまったまま 幼子から少女になるまでずっと“同じ季節”が続くのを想像し声を上げて泣いてしまった 緩やかに続いていく停滞という死 これからのお話は“春”で消え失せてしまった者たちの物語 肩をとんとん、と叩かれ、 ――それで蘇芳ちゃんはどう思う? 可愛らしい涼やかな声音に呼びかけられ、私は小さくため息をつきながら作業を中断し、彼女たちを見上げた。 「……ごめんなさい。苺さん、林檎さん。私まだ貸し出し本の整理をしているの」 「ええ〜せっかくのガールズトークなんだから盛り上がろうよぅ」 「お菓子も用意しているですよ」 「図書室では原則飲食禁止なんだけど……」 狙ったようなタイミングで私のお腹が鳴り、さっと頬を染めてしまった。 「この時間はしょうがないよ。ちょうどお腹がすく頃合いだし」 「蘇芳ちゃんは見るからに育ち盛りですからね」 執務机に座る私を上へ下へ見やる林檎さんの視線にますます赤面してしまう。確かにクラスでも背は高い方だけど―― (……これじゃ私が意地汚いみたいじゃない) 苺さんの言を取るわけではないけど、夕食前の放課後――そしてこの作業をしている時が一番お腹がすく時間帯なのだ。 そこへ二人が持ってきたお菓子が甘い香りを漂わせていたのだから……推して知るべしなのである。 「ほれ」 ぐいと差し出されたチョコクッキーの誘惑に負け、受け取ると一口で頬張った。と、 「……美味しい」 呟いた私にぱっと表情を明るくした沙沙貴姉妹は互いに手を合わせた。 「……佳かった」 「でしょでしょ? 仲直りの時に貰ったクッキーが美味しくて、料理部でたくさん練習したんだ。これがわたしたちの成果です!」 空腹と言う調味料が加わっていたとはいえ、クッキーを美味しく作るのはなかなかに難しい。 簡単な料理ゆえ失敗はないが……大体は予想通りの味になる。でも、そこを超えていくのは他のデザートより難しいのだ。 「……もう一枚」 勧められるまま差し出されるクッキーを受け取り、頬張ると小食の私はひと心地ついた。$欲を言えば紅茶が欲しいところだけど。 (図書室を管理している私が思うことではないわね) 作ってくれた二人へ、ありがとうと言い、執務机に落ちているクッキーのかけらを掃除していると、 「で、蘇芳ちゃんはどう思う?」 再度尋ねられた。$かけらをゴミ箱の中に入れつつ、苺さんの質問―― 櫛の歯が抜けるように辞めていった“クラスメイト”らのことを思う。 「……確かに最近学院を去るクラスメイトが多いわね」 「でしょ? これってちょっとおかしくない?」 「おかしい?」 何故だろう。別段、肌に合わないのなら辞める者は出てくるだろう。確かに少し多いきらいはあるけれど……。 「だってこういうのは失礼かもだけど、大体学院を辞めちゃうのって少し暗い子だとか、素行が悪い子とかじゃない?」 「それなのに辞めていった子は確かに暗い子もいたけど、皆とうまくやっていた子も多いんだよ。それっておかしくないかなぁ」 「そうねぇ……」 五月の下旬現在で一年生の……私のクラスで学院を去った級友は五名。確かに多いとは思う。$だけど……。 「疎外感を受けてや、学院の校風と肌が合わなくて辞めるとするなら――」 「辞めていったクラスメイトの性格、数を考えればおかしいかもしれないけど……。お家の事情を考えたらあり得る事なのじゃないかしら」 「……それって台所事情が滞ってきたとか?」 「それだけじゃないけど、この学院は全寮制のミッションスクールで、校風から裕福な子たちが多く通っているでしょう?」 「だから例えば……家の人がやっぱりここじゃなく日本風の花嫁修業を教える学院で学ばせたいだとか……」 「会社の転勤で外国へ出向することになって家族皆で向かうことになったとか――」 「事情は幾らでも考えられるってことかぁ。それじゃつまんないなぁ」 唇を尖らせ、苺さんは眉根を寄せると持ってきたバスケットから紙袋に包まれたものを取り出し、林檎さんにも手渡した。 包みを開いて出てきたものは―― 「ホットドッグって……ここは原則飲食禁止だって言っているでしょう?」 「クッキーを作るついでに作っておいたんだよ。蘇芳ちゃんの分もあるよ、ほら」 私の分だという、まだ熱いホットドッグを手渡されてしまった。 大ぶりの茹でたウインナーソーセージと、おそらく自家製のトマトソースが鼻腔をくすぐり、またお腹が鳴ってしまいそうになる。 ホットドッグ用のパンズもかりっと焦げ目が入る直前ほどに焼かれ、内側にはバターが塗り込まれているのが匂いで分かった。 「蘇芳ちゃんはピクルス苦手?」 「ううん、大丈夫よ」 ウインナーソーセージと一緒に刻まれたピクルスが添えてあり、私が好きな食感と味が容易に想像できる。 つい、はしたなくも喉を鳴らし―― 「……零さないようにしてくださいね」 ……食欲に負けてしまったのである。 しばし言葉は消え失せて、口の中に広がるスパイスの利いたお肉と酸味のあるトマトソース、そして―― 時折、歯ごたえのある塩味の利いたピクルスを味わった。 「ん……んむ……蘇芳ちゃん。よかったらこれ使う?」 ポケットから取り出し執務机の上に置かれたのは、銀色に輝くスパイスボトル。 思わず首を傾げた私を見て、林檎さんは自分のホットドッグにボトルを傾けて振った。 「七味?」 「……そう。わたしとしてはこれをかけるのを推奨する」 自信たっぷりに胸を張る彼女へ、そういえば辛いのが好きだという女の子が増えていると聞いたな――と、 以前マイ調味料を持つことが流行だと何かの情報誌で読んだことを思い出した。 (こういうのが今風なのかもしれないわ) 祖父と二人きりの生活ではなかった新しい食の可能性に、私はありがとうと言い、スパイスボトルを手に取った。 「むっんぐ……あ、林檎のを使うの? 辛いのダメならこっちもあるよ。わたし的なお気に入りなんだけどね」 苺さんもポケットからスパイスボトルを取り出して私の前へ。 (なるほど。今時の女の子はやっぱり持っているものなのね) 「あの、それでこの中身って……」 「ふふっ、調味料の王様、塩だよ!」 「え、お塩なの?」 「あ、その顔馬鹿にしてる? 塩はね人類最古の調味料なんだよ。何だかんだいって通が最後に落ち着くのは塩なんだから」 自信満々、小さな胸を張り勧める言葉に、私は、 それじゃお塩で 辛いのが好きだから 「それじゃぁ……」 執務机に置かれた……苺さんの置いたスパイスボトルを手に取った。 「塩の方を使ってみようかな」 「……負けた」 「でしょ、そっちの方が美味しそうだよねぇ」 辛いのが苦手なだけなのだが、私は愛想笑いで返すと少量の塩を食べかけのホットドッグにかける。 「ん……む……美味しい」 少しだけ利いた塩味は癖もなく味を強める。悪くない。 「ね? ひと味違うよね。わたし的にはご飯にかけて食べるのが一番お勧めかな。まぁ、これは試行錯誤の上たどり着いた答えだけどね」 「……塩ご飯って貧乏くさい」 林檎さんの言葉に以前入院した折、薄味の病院食に飽きて、醤油を掛けたご飯にはまったことを思い出した。 (確かに貧乏くさいかも。でも選択肢がなかったし) 「ふふん。羨ましいんだね? 七味派には真似できない芸当だものね」 お姉さんぶった苺さんは妹の前で人差し指を振る。嫌味なポーズだが、意外なことに、 「……ぐぬぬ」 本気で悔しがっていた。 「あ……だったら一緒に林檎さんの方も掛けてみて……」 私が林檎さんのスパイスボトルに手を掛けた途端、 「……何だ。客が居るのかよ」 扉を開いた先から面倒くさそうな声音が聞こえたのだ。 「……そうね私は、」 辛いものが苦手な私は塩を手に取ろうとしたけれど、 「……じぃ」 上目遣いで私を見上げる林檎さんの目を見ていると……。 (小さな子供を虐めている気分になるわ……!) 「ぅぅ……」 「……だめ?」 目をぱちぱちさせ小首を傾げる姿に私は―― 「……実は辛いのが好きなんです」 「ええ〜初耳なんですけどぉ」 「辛いのが好きな人には悪い人はいないという。さぁぐっと」 お酒を飲まされるように促され、スパイスボトルを手に取ると―― 「ん? 何だ今度は双子の方かよ」 ギィ、と車輪を鳴らしながら面倒くさそうな彼女の声が聞こえた。 「八重垣さん。今日は遅かったわね」 「別にいつも来ている訳じゃないだろ。っていうか……」 車輪を回し、私たちが食事を取っている執務机まで来ると、 「お堅い図書委員様が率先して規則破りとはね。随分ぬるくなってきたんじゃないの」 「おおっ八重垣ちゃんだ。こんにちは」 「とりあえずこいつは、口止め料として貰っておくぜ」 身軽に私の手からホットドッグを奪うと、大食漢なのか二口で平らげてしまった。 「ん……まぁまぁだな。でもちと味付けが濃いな」 「そう? でも嬉しいな。そのホットドッグわたしたちが作ったんだよ」 「……ふぅん」 八重垣さんの返事から意図して無視していたのだと分かり、私はつい苦笑いを零してしまう。 (少しは他の人とも話すようになったと思っていたけど) 立花さんやマユリさんと会話をしていたのを知っていた私は、人好きのする沙沙貴さんたちとすぐ仲良くなれると思っていた。 でも、 「……佳かったら、クッキーどうぞです」 「腹は空いてないんでね」 無碍なく断るのを見てまだ垣根は高く、気安くなる分水嶺はまだ先の話だと思った。 「で、例の本返却されてるかい?」 「あ、ちょっと待っていてね」 今日戻ってきた本を返却棚から持ち出し、八重垣さんへの膝の上へ。彼女はまるで子猫を抱くように表紙を撫で笑みを浮かべた。 「佳かった、早く読みたかったんだ」 「……それ何?」 「本だよ。図書室で他に何を借りるってんだ」 「……じゃなくてタイトル」 「おい」 興味を持たれたことに心底鬱陶しげに私を見る。何とかしてほしいとの合図だ。 「林檎さんも読書家なの。だからどんな本を読むのか興味があるのよ」 「へぇ、双子の片割れが? 連れが多そうで本なんて読んでる暇なさそうだろ」 「それは苺ねぇの方。わたしとしては一人の方が気楽」 「……双子って言っても色々な訳か。……ほらよ」 投げるように本を渡すと林檎さんは目を細め、小さく瞬きをした。 「……意外」 「何がだよ」 「……八重垣ちゃんはもっと難しい本を読んでいると思ったから」 「ちゃん付けはやめろ。$本なら専門書でも歴史書でも児童書でも何でも読むんだよ」 「それに宮沢賢治は割と難解だぞ。何回読んでも新しい発見があるしな」 「おおっ難解と何回を掛けたね!」 けたけたと笑う苺さんに八重垣さんはぐっと詰まるも、彼女の目は林檎さんが持つ、“銀河鉄道の夜”に注がれたままだ。 「でも凄いね。今の話だと何度も読んでいるんでしょ? それなのにまた借りて読むなんて。お気に入りの本なんだ?」 「……別に特別好きな訳じゃない。ただ今まで新版しか読んだことがないから、旧版が入ったって聞いて読んでみようと思っただけさ」 苺さんが『新版?』と聞き返すも、本好きの林檎さんは意味を理解したのだろう。またも目を瞬かせじっと黄色く焼けた図書に視線を落とす。 「何だよ?」 「……読んでみたい」 「返却されるまでだいぶ待ったんだ。そんなこと言われても……」 「……だめ?」 眉をハの字にさせ、懇願する瞳で見詰める。再度鬱陶しそうな表情をし、私へどうにかしろよと目で訴えかけてきた。 「ええと……林檎さんに貸してあげたらどうかしら。林檎さん読むの早いし、それにお互い同じ本を読めば語り合えるだろうし……」 最後の言葉尻は声が小さくなってしまった。 八重垣さんの目が意地悪な猫のように細められたからだ。獲物を見定めるように。もちろん哀れな鼠は私だ。 「あの……どう、かな?」 「……“何か佳い物語があってそれを語る相手がいる。それだけで人生は捨てたものじゃない”、か」 「まぁ、お前が言うなら従ってやるさ。ホットドッグの礼にね」 映画“海の上のピアニスト”の台詞を引用する八重垣さんに私はほっと胸をなで下ろした。$どうやら噛みつかれなくて済んだらしい。 「蘇芳ちゃんもミヤザワケンジ好きなの?」 「普通……かな? 代表作は一通り読んだけど」 「へぇ八重垣ちゃんが児童書でも読むって言ってたけど、蘇芳ちゃんも女の子だねぇ。そんなにたくさん読んでるなんて」 彼女の言葉に、何か誤解が含まれているような気がした私は腑に落ちず詰まってしまった。 八重垣さんも引っかかったのだろう。同じように怪訝な表情だ。 「……たぶん苺ねぇは、宮沢賢治が児童書しか書いていないと思っているんだと思う」 「ああ。確かに教科書に載ってるのって児童向けのやつばかりだもんな」 「注文の多い料理店とかね」 「えっ、絵本を書いている人じゃないの?」 本好きでない一般の感覚ではこんなものなのだろうか。私は作者が詩や童話、水彩画なども手がけていることを教えた。 「そっか。絵本作家じゃなかったんだね。でも良かったよ。女の子で絵本好きっているでしょ?」 「わたし的に絵本って、あんまり好きじゃないからさぁ」 「…………」 「何? 変なこと言った?」 「いやナリからして絵本とか集めてそうだって思ったからさ。そういう空想世界のもの好きそうだろ、絶対」 「むぅ。そういう風に見られるんだよね。だから誕生日の日には絵本をプレゼントされたりもしたんだけど――」 「はっきり言ってあんまり好きじゃないんだ。可愛い絵なのはいいけど……」 「軽いお説教みたいなのが入っていたり、全然意味が分からないやつもあったりするし」 「分からないのって?」 「ええと……確かタイトルは……あ、その前に蘇芳ちゃんは絵本って好き?」 あんまり読まないわ 人並みに好き 尋ねられ、瞬間的に好きだと答えそうになったけれど、 (よくよく考えたらそんなに読んだことはないかも) 有名なお話は知っているけど、ちゃんと絵本を読んでいるのではなく―― ドラマや小説の中で取り上げられ内容を知っている……というのがほとんどだ。 「……改めて聞かれると、ちゃんとは読んでないかも……」 「そうなんだ。良かったよ、女の子は読んでるべきみたいな人もいるし、わたしが変なのかなと思っちゃったしさぁ」 「で、そうそう。分からないって話だよね。あのね、少し前に流行って読まされたんだけど、それが一番意味が分からなかったなぁ」 「何てタイトルか分かるかい?」 「ええと……題名は思い出せないけど、筋は……いっぱい魂を持っている動物の……子犬だっけ?」 「その子犬が、先々の飼い主のところで何度も死ぬって話」 微妙に内容は違うものの、簡潔な説明に八重垣さんとともにああ、と頷く。 確かに一時期取り上げられ、大人も泣ける絵本だとか言われていた作品だ。 「あれってさっきも言ったけど、ざっくり言えば色んな飼い主の元で寿命を迎えるって話でしょ?」 「それを何回も何回も繰り返して……それで生き返る謎が分かるだとか、そういう盛り上がりがないじゃない?」 「最後死ねた理由は分かるけど、へぇって感じだし。あれって面白いの?」 尋ねられ私もううんと腕を組んで悩んでしまう。大抵ああいった絵本というのは道徳やその時代の風俗を伝えるものだ。 でも苺さんの言った絵本だと……。 「まぁ哲学入っている絵本は何を言ってるか分からないやつも多いよな。正直さっきのやつなんか子供に見せても訳分からないだろうし」 「個人的には泣いた赤鬼や、ごんぎつねみたいなしっかりとした筋道があるやつがいいな」 「ああ、それなら分かる! いい話だよねっ」 「おい、ちょっと気安いぞ」 手を取る苺さんに顔をしかめる八重垣さん。少しずつだけど仲良くなってきたのかもと、大騒ぎする二人を見守った。 どうだろうと考えるも、 「人並みには読む方かな」 と言った。特に毛嫌いしているわけではないし、特に好きでもない。易い言い回しだが普通だろう。 「そうかぁ……わたしも絵は可愛いからそこはいいんだけど、勧められる絵本って大体意味が分からないやつだし」 「筋もすぐ読めちゃうし、あんまりなんだよねぇ」 「勧められるって今も? 絵本って子供の頃、読み聞かされるものだろ?」 「今は芸能人が書いた絵本とかいうのもあるし、プレゼントされるのはそういうやつなんだ」 「ああ……」 何となく察した八重垣さんは猫のように目を細め、成る程なと呟く。 苺さんの様子を見て話題を長く取り上げても仕方ないと思ったのだろう。$で、と耳を掻きながら言った。 「図書室へ入る前に聞こえたけど、ぎゃあぎゃあ騒いでただろ。今度は何の騒ぎなんだ」 「騒ぎとかじゃなくて……ただの世間話よ。ほら最近学院を辞める子が増えているでしょ。そのお話」 「ああ、その事ね。確かにここの所……五人辞めたやつがいるな。で、それが何だって?」 「ええっ、まだ学院が始まって二ヶ月も経っていないんだよ。それなのに五人もいなくなるっておかしくない?」 「沙沙貴さんたちは何か秘密があるのだろうって」 「秘密? お嬢様がホームシックにかかって家に戻ったって話じゃないの」 「ぅ……」 分かり易く妥当な答えに苺さん――林檎さんも詰まってしまう。 (たぶん八重垣さんの言う通りなんだろうけど) “お話”として面白くしたいだろうなと思った私は、助け船を出すことにした。 「確かにホームシックにかかったのが一番しっくりする答えだけど、今回のことは辞める人が多いって噂になっているのよね?」 「……そうだけど、何?」 「八重垣さんの言葉通りなら通年とおして辞める生徒がいてもおかしくないわ。つまりよくある事でしょ?」 「でも噂になるくらいだから、今年はやはり他の理由がある……とも考えられるわ」 「そう! わたし的な疑問も其処なんだよっ」 「調子のいいことを……」 鼻息荒く指を突きつけられ八重垣さんは迷惑顔をみせる。苺さんは私へと向き直り、 「それで提案なんだけど、この事件をわたしたちの手で解いてみない?」 「事件っていうような事件でも……」 「そうした方が盛り上がるでしょ。面白そうだし、ね?」 「……お願い蘇芳ちゃん」 「そうですねぇ……」 クラスメイトの辞めていった理由を探るなんて、不謹慎だと思うけれど……。 (自分で思いついたことだけど、今年だけ噂になっているって事は気になるわね) 嘘から出た誠のような話だけれど“噂の出所”に興味のある私は、いいわよ、と了承した。 「やった! それじゃ今日は蘇芳ちゃんが図書委員の仕事があるから、明日から本格始動だよっ」 「……探偵っぽくていい」 盛り上がる二人。やれやれと肩を竦ませ図書室を出て行く八重垣さんを見送りながら―― 少しずつ自分の求めている女学生像に近づいているような気がして、嬉しく思った……。 ――次の日私は苺さんや林檎さんと共に、クラスメイトが辞めてしまった理由を探るため、皆に話を聞いていた。 仲の良かった子やアミティエならば、辞めた理由を知っているのではないかと思ったからだ。 ところが、 「……誰も理由を知らないなんて」 「事件のにおいが増してきたねっ」 辞めていった級友の親友やアミティエですら―― 辞めていった彼女たちが何故学院を去らなくてはいけなかったのか、明確な答えを持っている者はいなかった。 強いて挙げるなら、 「お家の事情って、昨日話していた通りだしねぇ」 (実際、辞めるなんてどんな理由でも暗い話題なのだから隠してしかるべきよね) そう思い至り、探るにしてもここまでかと、考えていた折―― “何も一年生だけに聞いてまわらなくてもいいんじゃない?” と、苺さんが提案したのである。 今年は噂になるくらいの早さで辞める者が出たけれど、毎年ある程度の人数は学院を去っているのである。 類似性から何かを見いだせないかという意見は正しいと思ったし、他の者に話を聞くのもよいと思った。 最初私は、長くこの学院に勤めているバスキア教諭に話を聞きに行くのだと思っていた。 下世話な話だと窘められそうではあるが、それならそれで区切りもつくしいいか、と。 でも、私の予想は大きく外れ―― 「で、僕に用とはどういう用件だい?」 花柄のエプロンに身を包み、派手な色の缶詰を手に弄ぶ彼女の元へ一番に連れてこられていた。 「どうした顔色が悪いな。もしかしてあの日なのかい?」 相変わらずのセクハラ発言よりも、料理部の先輩方の視線が痛い。 以前八代先輩に料理を指導することになった折り、奇跡的に上手くいったことで八代先輩はだいぶ私を買ってくれているのだ。 だからだろうか、 (肩を組んでくるなんて……) 間近には大理石の彫刻のような凛々しくも美しい顔、そして柑橘系の香水だろうか八代先輩の香りを嗅いでしまい頬が勝手に染まってしまう。 「いいなぁ、八代先輩と肩を組めるなんて仲良しさんなんだねっ」 必要以上に友好的な八代先輩。頬を染める私。苺さんの言も相まって八代先輩のシンパである、料理部の先輩たちの視線は冷ややかで鋭い。 訪れたことを後悔してしまっても仕方がないだろう。 「蘇芳君とは腹を割って話せる同士でね。ああ、苺君と一線を引いているとかではないよ」 「ただ上背が違いすぎる。酒に酔ったサラリーマンのような格好になってしまうからねぇ」 腕を組んだ各々を想像し笑い合う二人。私はその隙に肩に回されていた手を外し、八代先輩の対面へ。 「ん? 何か気に障ることをしたかな」 「いえ、今日は暖かいので自分の汗が気になりまして……」 「なんだ、そんなこと気にしないのに。蘇芳君の匂いは母を思い出させてくれて心地よいのだけどね」 そう言われるも、周囲の視線の硬度と冷ややかさが消えてくれたことの方が今は嬉しい。曖昧な笑顔でお茶を濁した。 (女学生としては母親と同じ……は少し落ち込むわ) 「……お料理中、お邪魔ですかね?」 「何構わないさ。先日君たちが作っていたホットドッグに触発されて同じものを作ろうとしたのだが――」 「どうも向こうは僕のことをお気に召さないらしい。上手くいかず閉口していたところだ。僕が犬嫌いなことと関係あるのかもね」 手を広げ首をすくめるジェスチュアをする。$私は彼女の手におさまっている缶詰を見て、 「ピクルス……」 「ん、蘇芳君は苦手かい? 僕は塩っ辛いこいつが好物でね。まるまる一本くらい食べても平気なくらいだ。よかったら食べるかい?」 「い、いえ……」 缶詰を見て気づいたことを……伝えるべきかどうか思わず躊躇ってしまう。 缶詰に表記されていた賞味期限は、$“12・8・14”$これは―― (八代先輩の言い方だと失敗作の試食はしているみたいだし) プラシーボ効果というのがある。 指摘されたら途端に体調を崩す例も聞いたことがあるし、余計なお世話かも……。 黙っていることにしようかな 賞味期限が切れている事を指摘しよう ちらっと目に入った缶詰の製造年月日が何年も前のものだと分かり、伝えた方がいいかどうか悩んでしまう。 (黙っていた方が……でも……) 八代先輩が持つ缶詰を注視していると、 「……それ昨日使ったやつですよ」 「え……同じメーカーの物を使ったの?」 「そう」 事もなげに言われ途端に気分が悪くなってくる。昨日頂いたホットドッグの中に……八重垣さんも食べて……! 「ん? じっと見てそんなに食べたいのかい? それならそうと言ってくれれば……」 「あ、いえ……! ち、違うんです。その……缶詰の表記が……」 黙っていようと思っていたけど、つい口に出てしまった。八代先輩は缶詰を怪訝な目で見詰め、首を傾げると私と交互に眺めた。 そして一転、ああ、と手を打ち、身体を折り笑い始める。 「あの……?」 「ふふっ、いや、そうか。知らないと勘違いしてしまうな。このままだと二年前の缶詰を食べていたことになるからね」 「え、なにどうしたの?」 「蘇芳君は僕が古い缶詰を食べたかと思って気を揉んでいたのさ。この缶詰はアメリカから取り寄せていてね」 「日本と製造年月日の表記が違うのさ。日本だと“年・月・日”の順に記載されるが、アメリカでは“月・日・年”の順なんだ」 「そうなんですか……」 ほっと胸をなで下ろす。隣で感心した風に頷く苺さんを小突き、 「その調子じゃ缶詰表記を見ていなかったんだろう。食べ物を扱うときは慎重に振る舞うんだ、いいね」 「はい」 目に入った缶詰の製造年月日が何年も前のものだと分かり、伝えた方がいいか悩むも―― 「少し休んでからまた始めるよ」 と、林檎さんの質問に答えたことで覚悟が決まった。少しなら大丈夫でもたくさん食べたらお腹を壊すかもしれないし。 「あの……」 「なんだい改まって? 師の言葉だ。何だって聞くよ」 「聞いて気分が悪くなってしまうかも知れませんけど、その……八代先輩の持っている缶詰、随分古い物じゃないかと思って……」 「うん、古い?」 まじまじと缶詰を見詰める八代先輩に、苺さんたちものぞき込み――拙い、と言う表情を作った。 「まさか……」 「あはは……ゴメンね?」 「……蘇芳ちゃんには悪い報告と悪い報告の二つがある」 「良い報告ないじゃないですか!」 お腹を押さえながら言う沙沙貴姉妹に、私は今更ながら思い至った。昨日持ってきてくれたホットドッグはここで調理したものだ。 だとしたら。 「わ、私もお腹が痛くなってきたかも……」 うな垂れる私たちを見て、何やらようやく思い至った様子の八代先輩は、お腹を押さえる私たちを見て高らかに笑った。 「……むごい」 「ひ、酷いですよぅ先輩。これから乙女のピンチなのかもしれないのに……!」 「クク……いや済まない。勘違いさせてしまったなと思ってね」 「そうか、知らなければ2年前のピクルスを食べてしまったと思うよなぁ」 「どういうことです?」 「簡潔に言えば君たちの勘違いだってことさ。このピクルスの缶詰はアメリカ製でね」 「日本と違って、アメリカでは缶詰の表記は、$“月・日・年”なんだ。日本だと“年・月・日”だから2年前の物だと勘違いしたんだね」 「そ、そうだったんですか……」 「はぁぁぁ……人騒がせだよ、蘇芳ちゃん……」 「……思わず戻しかけた」 私の所為? と声に出しかけるも再び八代先輩に肩を組まれ別の声を上げてしまった。 「僕のことを気に掛けて忠告してくれたんだ。見当外れだとはいえ嬉しいよ。今度また料理の指導をしてくれないか?」 「そ、そのうちに……」 息が掛かる程の距離で囁かれ、またも料理部の先輩からの視線に身を竦ませたのだった……。 ――ようやく本題を尋ねると、エプロンを外した八代先輩は渋面を作りこめかみを掻いてみせた。 「ふぅん……級友が早くに辞めてしまった理由ねえ……」 「……やっぱり不謹慎なんじゃないかな」 「……この流れって」 「……怒られるのかも」 つかみ所のない変わった先輩ではあるが、今更だがニカイアの会の会長。本来風紀を正す側の立場だ。 ふざけた所もあるけれど真面目な面もある。何をしているのだと怒られるかも、と身を竦ませていると、 「……まぁ季節柄少し早いとはいえ、この手の話題は出るものだしなぁ」 と呟いた。意味の分からない呟きだけれど、苺さんは何かを察したのか渋面を作っている八代先輩へと口を開いた。 「料理部の先輩に聞いたのですけど、生徒が多く辞めてしまう理由で何か怖い噂があるって……」 「――ああ成る程。五月の時点で辞めていった者たちが多いから何故だろうと噂になっている段階なのか」 「てっきり学院の七不思議が囁かれているものとばかり思ったよ」 「……七不思議!」 林檎さんの目が輝いた。この手の話題が好きなのだろうか? 「あの、七不思議って何ですか?」 「悪戯に広めるものでもないとは思うが……少し調べれば分かることだし、まぁいいだろう」 「僕も一年生の時は君たちのように、急に消えるようにして居なくなった生徒らの事を調べていたしね」 「先輩も……ってことは先輩の代でもたくさん辞める人が出たんですか?」 「いや僕の代では年間を通して四名だった。それに一度にではなかったから、別段おかしくは取り上げられなかったんだが……」 「昨年の夏頃にそのときの三年生がいっぺんに辞めたんだ。七名だよ。これが一年生なら里心がついただとか――」 「入学してみたけれど、思ったような学院じゃなかったと辞めていったと考えるけれども……」 「三年生がいちどきに辞めるのは不自然ですね」 「だろう? だからネリーを誘って調べたのさ。辞めた上級生のアミティエらを当たってね」 「でも辞めた理由はアミティエたちですら知らなかった。何も言わず去っていったそうだよ」 「まぁ、家庭の事情だろうとか言っていたけどね」 私たちもそこへ辿り着き、同じ言葉で濁されたことに思わず三人とも顔を見合わせてしまった。 「それで……どうして七不思議が絡んでくるんです? その辞めていった七名が何か……してはいけないとされる事を行ったとか?」 「さすが蘇芳君だ。そうドンピシャだよ。家庭の事情とやらを詳しく調べてみた結果……」 「くだんの三年生全員は、ある儀式を行っていたのさ」 「……儀式って例えばコックリさんのような?」 そうだ、と頷かれ奇妙な方向に転換した話に困惑する。愉しげな林檎さん。苺さんも目を輝かせているが。 「……それでその儀式って? 行った七不思議って何ですか?」 「そうだな、学院の特色と七不思議というところで考えてみたまえ。正解するのは難しいだろうが、近ければ教えてやろう」 「……学院、七不思議……」 「あっ! じゃあトイレの花子さんとか」 「学院の特色を考えてみろと言っただろ? それじゃ普通の学校の七不思議と変わらないよ」 「そうかぁ……。ねぇ蘇芳ちゃん分かる?」 自信がない たぶん、分かるかも 問われ、八代先輩が出したヒントの中で考えてみる。 (今まで見たものの中で何かあったかしら) 今まで視聴した映画、小説の類いを検索してみる。引きこもっていたといえ、私も女の子だ。 ホラー映画や怪奇小説は嗜む程度に読んでいる。 (あ、もしかしたら……) 「……もしかして、ウイジャボードだったり?」 林檎さんの呟きに、先輩は口元をにやりと歪ませ、まぁいいだろうと言った。 「え、なにボードだって?」 「ウイジャボードさ。いわゆる西洋のコックリさんのようなものだね」 「死後の霊魂と会話をするための道具、ウイジャボードを使い降霊術を行う」 「確かにミッションスクール的な七不思議だ。合格点をあげよう」 「へぇすごいじゃん、よく知ってたね」 「……乙女の常識」 えへん、と胸をはる妹に姉は頭を撫でてあげる。いやがらずに受け入れるところを見ると、余程正解が嬉しかったのだろうか。 (いや、でも合格点だという言い回しだし) 「……あの、八代先輩の話し方ですと本当の正解は他にあるんですよね?」 「え?」 「ああ。合格点ではあるが正解ではない。まぁ、いい線をついていたので教えることにしよう」 「僕とネリーが調べた結果、七名が行っていた儀式は……」 「血塗れメアリーの儀式だったのさ」 尋ねられ私はかつて見た映画、小説の中から検索していく。 (八代先輩は学院特色と言っていた、なら……) 「もしかして、なんですけど……」 「お、何か思いついたかい? それじゃ解答者は答えをどうぞ」 菜箸をマイク代わりに突きつけられ、私はおずおずと答えた。 「その……“血塗れメアリー”の儀式をしたんじゃないですかね?」 「おおっ! 正解だ! よく分かったねぇ」 「……すごい、わたし的にはウイジャボードだと思っていた」 「始め、私もウイジャボードを使った降霊術を開いていたのだと考えたわ」 「日本のコックリさんに近いし、この学院で行うなら雰囲気もありそうだし。でも――」 「……でも?」 「コックリさんと違ってウイジャボードを用意するのは難しいわ」 「本式に乗っ取れば、ボードだけじゃなく、文字を指すプランシェットも用意しなくちゃいけないし……」 「だから用意が簡単で、儀式も簡易なものを考えて“血塗れメアリー”じゃないかと思ったの」 「素晴らしい。さすが僕の蘇芳君だ。きちんとこの学院の特色というところも考えていたしね」 「特色って? 何のこと?」 「今挙げたウイジャボードでの降霊術も、血塗れメアリーも日本でなく外国で有名なものなの」 「ウイジャボードは主にイギリスで、血塗れメアリーはアメリカで都市伝説のように語られているものよ」 へぇと感心しきりに頷く。林檎さんは知識として知っていたのかどこか悔しそう。 「蘇芳君が正解を引き当てたんだ。続きを話そう」 テーブルに手を置き身体を預けると、昔を思い出すかのように暫し目を閉じ―― 口を開いた。 「……一年前、僕とネリーは辞めた七名の共通点を得た。そう、さっき言った血塗れメアリーさ」 「都市伝説ではこの儀式を行うと名の通り、試した者が血塗れになって死んでしまうそうだ」 「まぁ、どこかで耳にして面白がった三年生が試した、という流れだと思ったよ」 「……血塗れメアリーの故事は知っている。でも、それだとおかしいと思う……」 「だって儀式を行ったものは血塗れになって死んでしまう。でも三年生の皆さんは辞めていっただけ……」 確かに、奇妙なずれを感じる。 「本式の儀式はこうだ。夜中の二時に合わせ、鏡の前で“血塗れメアリー”と三度言う」 「そうすると鏡の中にメアリーという少女が現れ、自分と同じ血塗れの姿にする、と。確かにこれでは、辞める以前の問題だな」 シニカルに口の端を歪めて笑う。私は何故か八代先輩がまだ試しているような気がして、今までの彼女の言葉を再度考えてみた。 (学院の特色……儀式……七不思議……) 思い浮かべていた単語の中に引っかかりを感じ、私は再度口中で呟いてみる。 「……特色、血塗れメアリーの儀式……七不思議……不思議? あっ!」 「おや、違和感に気づいたかな?」 「はい。血塗れメアリーの儀式という言葉が強くてそちらに気を取られていましたけど――」 「そもそもこの話は“七不思議”という言葉から始まったことです」 「だから、今挙げた血塗れメアリーも、この学院の七不思議の一つということですよね?」 「……そうか」 「なになに? どういうこと?」 「……学院の七不思議として据え置かれたことで血塗れメアリーは本来の姿から変わってしまった」 「本来は呼び出してみたら死ぬという図式が、呼び出してみたら連れ去られる、という図式に変わった……」 「ご名答。儀式の作法も本式とは違うやり方をするらしいね。僕とネリーが調べた結果、学院の七不思議の内――」 「三つしか分からなかったが、どれも日本の学校で噂されるそれとは違う」 「森の中を徘徊するウェンディゴや、寄宿舎の使われていない部屋に佇むシェイプシフターとかね。しかし面白いのは……」 「どれもそれらの怪異を見かけたら連れ去られる、という事象だ。どうもこの学院の怪異は、生徒を“攫う”ことにご執心のようだ」 話し終え、長いため息のような吐息を漏らす。 (何か恐ろしいものの尾を踏んだような……) 「……八代先輩。血塗れメアリーの……この学院での儀式のやり方は御存じですか?」 「一度聞いたが忘れてしまったよ。興味があったから調べてみたが、オカルトじみた答えは僕の趣味じゃない。醒めてしまってねぇ」 「……そうですか」 「まぁ興味があるなら、ネリーに話を聞いてみるといい。あいつはこの手の話題が好きなんだ」 「更に突っ込んだところまで調べていたようだしね。儀式のやり方も知っているんじゃないかな」 「……はい。聞いてみます」 「ありがとうございました」 「何構わないさ。だがニカイアの会の会長として一つ忠告しておくよ。儀式を調べても行わない方がいい」 「偶然が重なった産物だろうが……偶然というのは時に魔を潜ませるからね」 二人は儀式をやってみたいと思っていたのか、ばつが悪そうに目を逸らした。その様子を八代先輩は眉をひそませ見詰めていた。が、 「……まぁ蘇芳君が一緒なら、最悪の事態にはならないか」 と呟いた。私だけに聞こえるほどの声音。驚き見詰めていると、ぱちりとウインク一つ。 「……部の後輩をよろしく頼むよ」 さらなる情報を得る為に、小御門ネリネ先輩から話を聞いてみることを勧められ―― 聖堂にいると伝え聞いた私たちは一路、そちらへ向かったのだけれど……。 「あちゃ〜」 「……出直した方がいいかも」 沙沙貴姉妹が引いたのは、くだんの小御門先輩以外に、 「ん、三人でこんなところへ来るなんて珍しいんじゃないか?」 「まぁ本当。どうしたの蘇芳さん?」 きょとんとした顔つきで私たちを見遣る―― 「マユリさん、立花さんも何故ここに?」 アミティエらが小御門先輩を囲んで何やら話し込んでいたのだ。 「言ってなかったかしら? 今日は各学年の級長同士での会合があったのよ」 「他一名書記が必要だって言うんで、私は付き添い」 「そう……」 話を聞かされていなかったことに寂しさを感じてしまうも、 (そういえば最近は沙沙貴さんたちとばかり一緒だったわ) 休み時間は辞めていった級友たちにまつわる噂話ばかりを聞かされていた。そもそも立花さんと話す機会はなかったのだ。 「……気にしすぎよね」 「あらあら、こんにちは蘇芳さん。今日は私に会いに来てくれたのかしら」 アミティエ二人の後ろに佇んでいた小御門先輩は、私の呟きと重なるように進み、穏やかな笑みで迎え入れてくれた。 「ええと……その……」 「……小御門先輩に、お話があってきたのですけど」 「あら本当に? 私に会いに来てくれたなんて嬉しいわぁ」 子供のように手を合わせ喜ぶ小御門先輩。 一方対照的に我がアミティエは、沙沙貴姉妹の言葉に違和感を受けたのか怪訝な顔つきに変わっていた。 (どうしよう。血塗れメアリーの話なんて立花さんの前でしていいのかしら) 級長である彼女は急に辞めていったクラスメイトらに対して胸を痛めていた。それに立花さんの性格を考えれば、やめろと言うだろうし……。 「お話をしにきたけど、何だか忙しそうだしお暇しようか?」 「え?」 「……うん。それがいい」 「せっかく会いに来てくれたのでしょう。もう会議も終わって、少し立ち話をしていただけだから大丈夫よ」 「私、一年生の方たちとお話してみたかったの」 春の妖精のような小御門先輩に言われ、 「そうですか……そうですよね……」 固辞できるわけもなく、私と沙沙貴さんたちは居心地の悪さを感じながらも、その場に留まらざるをえなかった。 (会いに来たと言ったんだから、何か話をしなくちゃ……) 話題を考えれば考えるほど、思考の袋小路に迷い込みろくな話題が見つからない。 大体上級生の、ニカイアの会の副会長にわざわざ会いに来てする話というのは何だろう、と頭をひねってみるも、全く他の話題が思いつかない。 「ふふっ……」 「ぅぅ……」 困った素振りも見せずに只柔らかに笑んでいる。瞳も、まつげまで淡い金色に染まる彼女が聖堂に佇むさまはまるで一枚の宗教画のようだ。 「あら? ええ、そう宗教画と言えば……」 (え、声に出ていた?) 「そういえば知っているかしら? 最近、学院で奇妙な噂があるって」 「き、奇妙な噂ですか。どんな……」 「一年生の皆は知らないと思うけれど、私たちが一年生の時は皆、その噂で持ちきりだったの」 「血塗れメアリーっていう七不思議の一つなんだけれど」 「おおっ!」 期せずして血塗れメアリーの話題を口に出してくれたことに、私を含めた三人は興奮した。 私は気取られぬように、程ほどに興味を惹かれたといった風を演じる。 「七不思議……この学院にもあったんですね。その血塗れメアリーというのは?」 「この学院の七不思議は、どれも攫われてしまう“消失”という事柄が一つのキーワードになっているの」 「今挙げた血塗れメアリーもある儀式を行うと、メアリーという少女に連れて行かれてしまうという事になっているわ」 「ちょ、ちょっと待ってください! 噂って……」 「あら花菱さんはご存じなかったのね。一年生が確か五名辞めているでしょう?」 「私が一年生の時も、当時の三年生が初夏の頃に七名いちどきに辞めているの。そして、その辞めていった三年生は……」 「血塗れメアリーとやらの儀式を行っていた、ですか?」 「そう。二月足らずの間に五名が辞めていることから当時の騒ぎを知っている者は――」 「また血塗れメアリーの儀式を行ったんじゃないかって噂になっているわ。あら、どうしたの? 花菱さん」 「い、いいええ……その、ちょっと部屋の鍵を閉め忘れたかもしれないなぁ、と思いまして……」 そう言葉を漏らし、回れ右をする立花さん。$ああ、これはおそらく……。 「うん? 部屋に鍵は備え付けてあるけど、今まで一度だって掛けたことないじゃないか」 「三名全員に鍵がある訳じゃなし、閉め出されると悪いからって」 「そ、そうね……」 「……これは、蘇芳ちゃん」 「……そっとしておきましょう」 苦手なものは誰だってある。武士の情けだ。 「それで……質問なんですが、その血塗れメアリーの儀式のやり方を知っていますか?」 「儀式の方法?」 「はい。通例だと夜中、鏡に向かって血塗れメアリーの名前を三度呼ぶのだとか聞きました」 「あら料理部の先輩から聞いたのかしら。ええとね、確か……」 「あ、あの!」 「なぁに? 花菱さん」 「そ、そんな恐ろしい儀式を安易に教えてしまっていいのですか? 知ってしまったら、やってみたいと思ってしまうでしょうし!」 「そう、そうねぇ。そういう考え方もあるわねぇ」 小御門先輩は長いまつげをバサバサと揺らし目を何度も瞬かせた。 私は、 二人を説得する 立花さんが苦手なら無理に聞き出さない 怖い話が苦手な立花さんとニカイアの会の副会長としての小御門先輩。お互いの立場を考え話を聞き出せる言葉を探った。 (……そうだわ。どちらも聖書の授業を熱心に受けている。なら、) 私は、 「で、ですよね。ならこの話はここでおしまいということに……」 「大丈夫よ立花さん」 「え、え、何が?」 「これはお話でしょう? 女生徒が集まって怖い話をするのなんてよくあること。何もおかしな話じゃないわ」 「で、でも聖堂で不謹慎じゃないかしら」 「不謹慎なんかじゃないわ。キリスト教の教義でいえば幽霊は存在しない」 「作り物としての話を愉しむだけなんだから。そうですよね小御門先輩」 「ええそうねぇ。私もこの手の話は好きだけどお話として、だけよ」 「蘇芳さんも仰っていたけどカトリックでは幽霊はいないとされているの。死者の魂は天国か地獄か煉獄に移るのだから」 「れんごく?」 「煉獄は贖罪の場で、苦しみを受けながら浄化され最後の審判を待つとされる場所のことよ」 「天国の霊魂は至福の状態でこの世に出てくる必要はないし、地獄の霊魂は永遠の責め苦を受けこの世に出ていく自由はない」 「だから幽霊が現れる道理はないのよ」 成る程とマユリさんも沙沙貴姉妹も感心しきりである。ただ、 「ぅぅ……。そ、そうね……。お話としてだけなら……」 苦いものを飲み込んだような表情で不承不承頷く立花さん。 (ごめんなさい) 心で謝りつつ、小御門先輩へ儀式の詳細を尋ねた。 (怖がりな立花さんは可哀相だけど……) 女の子同士、怖い話で盛り上がるのは私の夢の一つだ。お願いしてみたらどうだろうか。 「……駄目ならここまでにすればいいし」 「どうしました、蘇芳さん?」 「あ、いえ。実は私、以前いた学校では内気であまり皆と打ち解けられなくて……」 「級友たちと怖い話とかした事がなかったので、実は少し愉しかったんです」 「そうなの……」 「はい。だから怖い話になった時、何だか皆と近づけたような気持ちになって……。でも立花さんが嫌だというならここでお終いに……」 「……大丈夫」 「え?」 「へ、平気だから気にしないで。ただ聖堂でこんな話をするのは不謹慎だから止めたけど……」 「お、お話としてするならいいと思う。ただの作り話だし」 「立花さん……」 気丈に振る舞う彼女へ、ありがとうと感謝しつつ、私は小御門先輩へ儀式の詳細を尋ねた。 小御門先輩は黄金色の髪を揺らし、記憶を探るように青磁色の目を閉じると――口を開いた。 「私たち……譲葉と私は一度に七名が辞めるという事に疑問を抱いて、色々な人たちから話を訊いたわ」 「すると、主に学生以外からこの学院にまつわる怖い話を聞いたの。それが先ほど言った七不思議ね」 「残念だけど私は七つの内、四つしか調べることが出来なかった」 「四つ……?」 八代先輩は三つしか分からなかったと言っていた。 「ええ、“森を彷徨うウェンディゴ”“寄宿舎のシェイプシフター”“物言わぬ真実の女神”」 「そして“血塗れメアリー”。$三年生は血塗れメアリーの儀式を行い、連れて行かれたのではないかと噂になったの」 「あの……それは現実的じゃないんじゃないですか? 普通家元に戻るにしても、学院側に理由を話すんじゃ……」 「辞めた理由のこじつけとしてなら理由はいずれ分かったでしょうし、そこまで噂は広まらない」 「つまり、血塗れメアリーの儀式を行った際に何かを体験してしまい、学院を去る事になった……そう考えるのが妥当だわ」 小御門先輩の話を聞き、思っていたよりも本格的な呪いとして機能していることに驚いた。 私としては、理由は家の事情に変わりなく―― 学院を辞めたという事実を、体よく少し前に行った“儀式”と関連づけて噂になっているものだと思っていたのだ。 (でも今の話の流れだと恐ろしい体験をして辞めていったと、なる) 「そ、その……本当に三年生たちは儀式をして何か怖い目にあったのですか……?」 「ええ。私としては間違いないと思っている。だから私は、その怖い目に遭ってみようと思ったの」 春の妖精のような場違いな笑みに、立花さんだけでなく私たちも固まってしまう。 「それじゃ……小御門先輩も血塗れメアリーの儀式を?」 「ええ。今もだけどその当時不思議な体験……神霊にまつわる体験を是非してみたいと思っていたのね」 「だから血塗れメアリーの儀式を行ってみようと思ったの」 「……あの今の発言ですけど。神霊にまつわると聞いたのですが……。名前からして神の奇跡とはほど遠い行為に思えるのですけど……」 当然の疑問だ。“神霊”と名のつく超自然現象は、神の奇跡にほかならない。 私も疑問符が浮かぶが……。 「……血塗れメアリーは七不思議に数えられたことで、行われる儀式に違いが生じた」 「もしかして新しい“儀式”の中に何か神聖なものを取り入れた?」 「まぁ! さすが蘇芳さんね。その通りなの。先ほど沙沙貴さんが言ったように、本来は午前二時に鏡へ“血塗れメアリー”と三度言う」 「それだけだった。でも、この学院での作法は違う。学院にある“聖遺物”を使うの」 「セーイブツ?」 「聖人が使っていたとされているローブや御遺体。その物自体が奇跡を生んだ物のことよ」 「そんなすごい物がこの学院にあるんですか?」 「ええ。皆さんも目にしている筈よ。学舎のエントランスに飾られている絵画――」 「階段の踊り場に聖母マリア様の絵が飾られているのを知っているでしょう」 ――吹き抜けの高い天井に、〈瀟洒〉《しょうしゃ》な階段。 四方に凝った意匠のステンドグラスが張られていたから、そちらばかりに目が行ってしまい、絵を気にしたことはあまりなかったが。 「ああ。確かにあった。深みのある素敵な絵画だと思っていたけど、そんなに価値のある物だとは思わなかった」 「とある聖人が描いたもので長く教会に置かれていたそうよ。この学院ができた折に譲り受けたそうなのだけど」 「私が興味を持ったのは、儀式が聖遺物を使ったものだからなの」 「……聖遺物を通してならば、どんな怪異でも神霊たり得ると?」 小御門先輩は林檎さんの問いを笑みで隠し答えなかった。 「血塗れメアリーの儀式はね、夜中の二時――これは変わらないわ。その時間帯に合わせ、手鏡を持って聖遺物の前に立つの」 「この時行う者の数は何人でもいい。ただ手鏡を見るという行為があるから、覗き込むことができる人数までね。そして……」 「二時の時間に合わせ、“血塗れメアリー”の名を三度呼び、手鏡で聖遺物を……赤子を抱えるマリア様を見る」 「――すると手鏡に映る聖母様に変化が起こる」 「変化というのは、どんなものなのですか?」 「それは人によって違うと言うわ。聖母様のお顔が違って見えたや、抱いている赤子が別のものになった……。色々よ」 「……小御門先輩は何が見えたのです?」 「私には――何も見えなかった。手鏡には絵画と同じ絵が映っていただけ」 「そこで私は満足して終わりにしたのよ」 長い旅路を終えたように、小御門先輩は深く吐息をつくと私たちを見回した。 「これでお終い。結局、辞めた七名が何を見たのか分からなかったけれど、あの日、あの夜で行った儀式を考えると……」 「本当に何かを見たのかもしれないとは思ったわ。夜中の二時……一人きりで恐ろしい儀式をするのだもの」 「怖くて怖くて仕方ない筈なのに、何故か親密な空気が其処にはあった」 「恐ろしさではないけれど、あの場で酷く奇妙な心持ちになった私には、何が起きてもおかしくないと感じたわ」 にこりと笑み黄金色の髪をかき上げる彼女へ、しばし口を開くことができず、ただ沈黙だけが横たわった。 「そうだわ」 「攫われるという事象で一つ思い出したの。これは消えてしまうことが誉れなのだけど」 意味ありげに聖堂に置いてあるピアノに視線を走らせた。 私もつられピアノを視界に入れると――今まで意識していなかった、あの忌まわしい楽器がある事に嫌悪を覚えた。 「この学院では毎年六月に聖母祭を行うの。その聖母祭で聖母役に選ばれた生徒は神の御許へ旅立つのですって」 「その言い方だと消える以前に亡くなるような気がしますね」 「本当に気高く崇高な少女だけが選ばれ、連れて行かれるそうよ。まぁ、これも噂なのだけどね」 はぁ、と頷くもマユリさんは納得がいかないようだ。小御門先輩はまたピアノに目を向け、 「蘇芳さんの演奏は素晴らしかったわ。先ほどの話だけど、合唱部では聖母祭で聖歌を披露するの」 「そのときに伴奏を弾いて欲しいのだけど、どうかしら?」 考えてみます お断りします 小御門先輩の頼みに、ピアノを目にし―― 義母の姿が滲み、聖堂のピアノの椅子に座している幻を見た。 (まだこんなにも囚われて……) 「蘇芳さん?」 呼びかける声が、義母の姿を歪ませる。私は頭を振り、何とか笑顔を作った。 「……考えてみます」 「そう! 蘇芳さんの演奏で歌えるの愉しみだわ」 屈託なく笑顔を向ける彼女。思わず視線を外すと、 「…………」 マユリさんが痛ましそうな目で見詰めていることに気がついた。 「ああ、最後に話しておいてなんだけど噂を広めたらダメよ。真似する人も出てくるかもしれない。私との約束ね?」 手を合わせ笑む姿は、まるで本物の聖母のようにも思えた。 瑠璃色の瞳に、柔らかくきめ細やかな金色の髪。 日に当たりきらきらと輝いて見える姿を目にすると―― ピアノの前に座していた陰がいつの間にか消えていたことに、私はほっと胸をなで下ろしたのだった。 彼女の頼みに私は思わずピアノへと目を向け―― 「……っ」 ピアノの前に座している義母の背を見てしまう。 「蘇芳さん、顔色が……!」 「あ、ごめんなさい。以前も気分を悪くしていたわね。長く話しすぎたかしら。座ってちょうだい」 聖堂の長椅子を勧められ、小御門先輩に手を借りながら私はゆっくりと腰を下ろした。 ピアノが目に入らないように。 「……少し休んだら保健室に行こうか。肩を貸すよ」 「それならわたしの肩を貸すよ!」 「わたしはどこを貸せば……」 沙沙貴さんたちのやり取りに微かに笑うと、 (居ない……) ふと視界に入ったピアノからは義母の陰が消えていた。 「すみません小御門先輩。お話を聞きに来て面倒をおかけして……」 「いいの。ゆっくり休んで、ね?」 柔らかく微笑まれ私は、義母の陰を見たことに、血塗れメアリーの正体も似たようなものかもしれない、そう考えていた。 しんと静まり返った廊下。 窓からから射し込む月光だけが闇に光を与えていた。 遠雷のように遠のいてゆく足音に耳をそばだてていた私たちは、 「……見回りは行ったみたいだね」 囁き声のマユリさんの声音に頷いた。 「……これで儀式を行うことができる」 ゆっくりとした口調、彼女の平坦な声音にこれから行う“血塗れメアリーの儀式”を思ってかいつもの寄宿舎の廊下が酷く不気味に思えた。 「ぅぅぅ……ななな何でこんなことになっているのぉ……」 不憫だと思っているのか、それとも分かり易すぎるとかえって指摘しづらいのか―― 怯えてどもっている立花さんを誰も指摘せず、完全に足音が消えたか耳を澄ましていた。 「すっ、蘇芳さんっ……て、手を離さないでいてね……?」 「だ、大丈夫よ。離さないわ」 「うん、うん……」 ぎゅっと握られた熱い手。 いつもの気丈で頼りがいのある委員長の姿はなく、可哀相だと思う反面、可愛く……いとおしくも思えた。 (でも、よく付き合うって言ってくれたな……) 幽霊を得意な人はいないだろうけれど、これほど苦手にしているのに同行してくれるなんて……。 私は立花さんが不承不承ながらも、認めるざるをえない状況になった昨日の出来事を思い返していた。 「ええ〜なんでダメなのぉ!」 「昨日、小御門先輩が言っていたでしょ。やめておきなさいって」 「それは噂を広めるなってことじゃん。わたしたちが愉しむのは問題ないよ」 「問題は大ありよ。大体夜間の外出は禁止されているし、夜、許可を取らないで校舎に入るのも禁止されているわ」 「少しの羽目を外すくらいなら大目に見るけど、これはやり過ぎよ」 「……蘇芳ちゃんも行きたがっているのに」 「ぅ……」 昨日の話の流れから、沙沙貴さんたちが儀式をやってみたいとなるだろうな、とは思っていたのだけど……。 「……でも確かに少しそそられるわね」 「やっぱり蘇芳さんも興味があるんだ」 呟き声を聞いていたのだろうマユリさんは、$〈喧々諤々〉《けんけんがくがく》、言い合っている三人を苦笑しながら見守っていた。 「ああもう、あんなに大きな声で。秘密なんじゃなかったのかね」 (私は怖い話に興味があるんじゃなくて……) 友人と怪談話で盛り上がったり、お化け屋敷に行ったりするのが夢だった。 「……夜遅くに皆と出かけるなんて」 すごく仲の良い友人みたいだ。 「でも立花のあの様子じゃ無理そうだ」 ――確かに、とこの時は思っていた。 小御門先輩から話を伺っていた時から怯えていた彼女が受ける筈がないと。 でも―― 「はい? 何ですか授業中に……」 『一緒に行こうよ! 蘇芳ちゃんも行きたいって言ってるよ!』 「……くっ」 「あのねぇ貴女たちいい加減に……」 「……勝負しよう」 「ええ?」 「わたしたちが勝ったなら条件をのんで貰う。負けたならしょうがないから引き下がるよっ」 「……それってフェアなようだけど、そもそもわたしは受ける必要がないんだから、受けたら実質負けじゃない?」 「……気づかれた」 「ねぇねぇ八重垣ちゃん、一つ相談があるんだけどさぁ」 「気安くちゃん付けするなって。……それで?」 「うん。実はね、最近お友達が避けているみたいなんだ」 「またかよ。どうせ詰まらない理由なんだろ?」 「そうかもしれない。校則を破らなきゃいけない事だしね。嫌がっても仕方がない」 「でもその人がうん、と頷いてくれることですごく喜ぶ人がいるんだ」 「成る程。いつもと同じく善意の行動からってわけだ。個人的には気に入らないが、そう伝えればいいだろ」 「あんたの行動で救われるやつがいるってさ。この学院の生徒だ。理由を話せば快く引き受けてくれるだろ」 「それはもう言ったよぅ。でもその人にとってはどうしても嫌みたいなんだ……」 「へぇ! そのしょげ顔じゃ善意でおしても拒絶されたってことか」 「何だかそいつと気が合いそうだな。同じ天の邪鬼な臭いがするよ」 「ぅぅぅ……!」 手を変え品を変え―― 私が見ているだけでも立花さんに首を縦に振らせる為に、様々な方法を試していた。 そして、 「やれやれ今日もか……」 朝のお祈りが始まる前に目を覚まし、顔を洗ってきた私たちは未だベッドでうつぶせになって眠ったままの立花さんを苦笑し見遣った。 「これがなければ面倒もなく、最高の同居人なんだけどな」 「ふふ、仕方ないわ。私も低血圧だから分かるけど、起きようと思っても体が言うことをきかないのよ」 「私には理解不能だね」 目が覚めてすぐ覚醒できるマユリさんには分からないのか、頭を掻きながら立花さんのベッドへと向かった。 (確かに意外よね) 生真面目で優等生な立花さんが、度を超してのお寝坊だなんて。 「ほら早く起きる。急いで着替えて顔を洗ってこないとお祈りの時間に間に合わないよ」 「ぅぅ……ん……はい……」 完全に寝ぼけている。でも受け答えをしているから、着替えを済ますことができる状態だということはこれまでの経験で分かっていた。 「マユリさん。はい」 「ありがとう」 気恥ずかしさを感じながらいつものようにマユリさんへと制服を渡す。 「……ッ」 通例行事になっていることだけど、どうしても馴れない。 「はい。それじゃバンザイしてね」 「ぅ……ふぁぁ……ぅん……」 まるで子供のように、されるがままになっている彼女。 「ちょっと……ダメじゃないか。しゃっきりしてくれなきゃ」 あやすように言うマユリさんの言葉が、私には何故だか危うさを感じさせた。 (女子校なのだから誤解されるような真似はよせって言ったけど……) 「ぅ……ん……ふぁぁぁ……」 「ふふ、寄りかかるなって。ちゃんとしなさい」 彼女たちのやり取りを見て、何か怪しい感じがするのは邪推なのかしら? (まぁ、わめいても揺すっても起きないんだから遅刻させない為にはしょうがないけど……) そう思いつつも目のやり場に困り、私はふっと部屋を見回した。 「いっ!」 「ん? どうしたんだい蘇芳さん。どこかにぶつけた?」 「い、いえ違うの。くしゃみをしてしまって……」 私の苦し紛れの言い訳に笑うマユリさん。……そう、言い訳だ。私がつい声に出してしまいそうになったのは―― 扉の隙間からこちらを覗く苺さんの姿を見つけたからだ。 (苺さん、何をやっているの!?) いや……林檎さんも……? 頭の中が疑問符で埋まりながらも、どうしたら良いかを考えた。 覗きを報告 今のうちに戻るように忠告 (毎朝着替えを手伝って貰っているのを知られたら……) 立花さんのことだ、真っ赤になって恥じるに違いない。 (もうバレてはいるけれど傷は浅い方がいいわ) 「あ、あの……」 「ん? なに蘇芳さん。早く着替えた方がいいよ。風邪をひいてしまう」 「ええ……それはそうなんだけど……」 ふと、これは密告になるのかしらと考え、そうなると苺さんたちにも悪い気がしてきた。 「ふふ、もしかして蘇芳さんも着替えさせて欲しいのかな? もしそうなら立花が終わるまでもう少し待っていてくれないか」 「え、あ、そうじゃなくて……!」 「んっ……蘇芳さんの……着替え……んっ、ふわあぁぁ……!」 大きなあくびを一つ。 ようやく頭が働くようになってきたのか、立花さんは寝ぼけ眼を擦りながら傍らのマユリさん、そして私を見遣った。 そこまではいい。だが、 「……苺さん?」 何げなくぐるりと見回した視線は扉の前へ。運悪く覗いている苺さんへと視線がぶつかってしまったのだ。 「きゃ――」 そして続く悲鳴―― 何事かと集まる級友の面々に適当な理由を付け帰って貰った後、 どんな密談がなされたのか分からないまま(想像はつくが)立花さんは今夜の儀式の参加を余儀なくされてしまったのである。 (こんなところを見られたと知ったら立花さんがかんかんに怒るわ) 着替えさせて貰っているところを噂好きの苺さんたちに知られたらと思うと……。 それだけで嫌な汗が滲んでくる。 (……早く、早く行って……!) 立花さんたちに気づかれないよう後ろ手で戻るようにジェスチュアを送るも、意味が分かっていないのか何の変化もない。 「ん? 蘇芳さんも早く着替えないと。私たちの所為で遅れたら本末転倒だよ」 「え、ええ。そうねぇ」 言いながらも後ろ手で戻るように伝えるジェスチュアは止めない。 「……ねぇ蘇芳さん」 「え、なぁに?」 「その、一つ質問があるんだけど……」 「な、何かな?」 「……手首を払う仕草をしているけど、どうしたの? さっき変な声をあげていたし、手首を痛めたとか?」 「ち、違うの! これは……」 しばし考えを巡らせ、 「た、卓球よ! 沙沙貴さんたちと今度やろうって話になっていたから!」 「そ、そう。でもベストキッドじゃないんだから、その繰り返しはあんまりトレーニングにならないと思うよ」 私が好きな映画を知っていたことに嬉しくもあるけど、 (ぅぅ……早く戻って……!) 今は扉の隙間からこちらを窺っている沙沙貴さんたちの方が先だ。 「そういえば蘇芳さんは映画をたくさん見ているみたいだけど、アクション物は好きなのかな? 私はそっちの方が多くてね」 「わ、私も好きよ。アクション物なら香港映画とかいいわよねぇ」 「あ、話が合うね。女子であんまりアクション物が好きな子がいなかったから寂しかったんだよ。今度、映画でも一緒に見ない?」 ――マユリさんと一緒に? 夢のような提案に思わず絶句し、沈黙があだとなった。 「ふぁ……蘇芳さんと一緒にぃ……?」 寝ぼけ眼ではあるがようやく覚醒した立花さんは、私を見、そして―― 「……ふぁ、ささきさん?」 そして続く悲鳴―― 何事かと集まる級友の面々に適当な理由を付け帰って貰った後、 どんな密談がなされたのか分からないまま(想像はつくが)立花さんは今夜の儀式の参加を余儀なくされてしまったのである。 「……弱みを握られたのね」 「ぇ、な、なぁに? 何を言ったの?」 「あ、独り言よ。大丈夫だから、ね?」 「う、うん」 頼りなく歩く立花さんを連れながら、左右を警戒しつつ先を行く沙沙貴姉妹の背を眺める。 「……自分で行きたいって言ってはいたけど、随分張り切っているよね」 「ええ。元々怪談話が好きだったみたい」 そもそも話を持ちかけてきたのは沙沙貴さんたちだ。これで嫌いなわけ―― (あれ? でも始めは消えた級友の謎だったから……) 何も始めからオカルトじみた話ではなかった筈だ。 「……八代先輩のところへ話を聞きに行ったところから、おかしくなってきたのよね」 「……苺から話を聞いたんだけど、八代先輩のところへ話を聞きに行ったんだって?」 「ええ、そうなの。それで今度の話を聞いて……」 「……より詳しい小御門先輩を紹介されたってわけか」 「確かにあの話を聞いたら儀式をやってみたいって気持ち、分からないでもないけどね」 儀式で使う“手鏡”を持ち苦笑う。私は、 付き合わされて迷惑よねと言う 怪談話が好きなのか尋ねる (今すごく友人同士の会話って感じがするけど、どう返そう?) 私はクラスの皆が話しているように、なぞってみようと言葉を選んだ。 「そ、そう? こんな夜遅くに付き合わされて迷惑だと思っていたわ」 「……え? 蘇芳さんは嫌だった?」 思っていた返事ではないことに少し動揺してしまう。 「それは……別に嫌いじゃないわ。ただマユリさんは子供っぽいと思っているんじゃないかって」 「そんなことはないよ。怪談話が好きなのは全女子共通だろ? まぁ、一部……」 「ぅぅ……」 「駄目な子もいるけど……」 苦笑うというよりもマユリさんは怯える子を慈しむような目を向けた。 私は彼女の姿を見詰め、 (今夜は夢だった級友とのイベントをこなすわ) 映画や小説の中で夢見た“一緒にトイレ”“恋バナ”“怪談話”“買い食い”をしようと心に決める。 「……何してるの早く!」 廊下の角から顔を出し招く苺さんへと、私は鼻息荒く一歩踏み出したのだ……。 「……マユリさんて怪談話とか好きな方なのかしら?」 と聞いた。 「うん。私の以前いた学校でも流行っていてね。ホラー漫画の回し読みとかやっていたなぁ」 ……私が羨ましいと思った光景だ。 「さすがにこの年になったら卒業かなって思っていたけど、どんな年代でも女子はホラー物は好きなんだね」 「あの八代先輩や、小御門先輩も調べていたくらいだし」 「……ええ。私も好きよ」 「ああ、やっぱり。以前ゾンビ映画で一家言あるようなことを言っていたよね?」 「沙沙貴さんたちと調べていても、さもありなんって感じだったよ」 「そ、そう……」 周りが仄暗い闇に包まれている所為か、いつもより親密に話ができている気がする。 顔がよく見えないことがいいのか……。 「そうそう。怖い話って言ったらね……」 「あ……」 「こ、怖い話は禁止……だから……」 立花さんの声に、つい声を抑えることなく話していたことに気付く。 恨みがましい目で見詰める立花さんへマユリさん共々謝る。 (この調子なら夢が叶うかもしれない) 儀式に向かうこのイベント中に、かつて映画や小説の中で夢見た―― “一緒にトイレ”“恋バナ”“怪談話”“買い食い”を実現させようと心に決めていたのだ。 「……皆早く。今のうちだよ」 廊下の角から顔を出し幽霊のように手招く林檎さんへと、私は希望に満ちた心持ちのまま一歩踏み出したのだ。 神は男のために、宗教は女のためにある。$――コンラッド『ノストロモー』 等間隔に置かれた外灯はその一角だけを照らし出し、さらに深く闇の濃淡をくっきりと浮かび上がらせていた。 夜の森は深く、暗夜の深海を思わせるほどに奥に何かを潜ませている気がしてくる。 ザッザッ……と刻まれていく足音だけが確かで、私は何故だか安堵を覚えた。 (……何だか妙な気分だわ) 寮を出るまでは友人たちと夜の学校に忍び込む、という事に変な高揚感を得ていたが―― いざ一歩外へ足を踏み出すと、日常から非日常へとがらりと移り変わってしまった。 まるで金魚鉢の向こう側から世界を眺めているような、ふわふわとした現実感の中、歩みは一定の速度で進み―― 暗く沈む学院に臨んでいた。 いつもは華やかな花々に囲まれた煌びやかな学院は、月光と闇に区分され黒と灰に染まっていた。 表情を失った学院をしばし立ち止まり見詰めると……誰とも無しに再び歩み学舎の門を潜った。 ――ようやく着いたわね、 とは誰の言葉だったろうか。 沈黙の帳で占められていた空気が声を発したことで破られ、非日常から日常の区分を取り戻したように思えた。 「……それじゃ行くよ」 彼女の言葉に皆一様に頷き、エントランスの階段を一段一段上っていく。 小さくギシギシと鳴く階段の音色は響き、見回りの教師が飛んできやしないかと不安になる。 もっともこれは自分が不安になっている所為で大きく聞こえるのだと理性的な面も働いていたが。 階段を上りきり中廊下で足を止める。 と、 いつもは気にもとめず通り過ぎていくだけの場所。 迂闊に触れられないためか、やや高い位置に飾られたキリストを抱く聖母を描いた絵画は、冷ややかに私たちを見下ろしていた。 油絵だろうか、年月が色の濃淡をぼやかせ、聖母様の表情も腕に抱くキリストの表情も分からない。 それは子が生まれ幸福な表情なのか、これから子に起こる悲劇を思い悲しんでいるのか―― 歳月を得、聖遺物としてでなく呪具として使われることに憂いているのか見定められなかった。 「話を聞いてから鑑賞すると――」 聖遺物を見上げどこか虚ろなアミティエが言う。 「どこか不気味に思えるね」 「……ええ」 本来聖遺物として怪異とは正反対の位置にあるものなのだろうが……。 二人の先輩から血塗れメアリーの話を聞いた今、やはり薄気味の悪い何かを感じてしまう。 「……時間も迫っているし、そろそろ始めよう」 「そうね」 腕時計を見るとそろそろ午前二時をまわりそうになっている。儀式を完遂するには決まった時刻に始めなければならない。 「それじゃ集まろうか」 マユリさんが手鏡を取り出し、私へと手渡す。どうやら私が主導で進めなくてはならないようだ。 (苺さんは……) 熱心だった沙沙貴姉妹へ視線をやるも、自分がやるとは言わずに私の顔を強張った表情で見詰めるのみだ。 覚悟を決め深呼吸を一つ。 「それじゃ始めるわよ……」 時計の長針が残り一分を過ぎたのを見、聖母様の顔を見詰めると、呪いの言葉をゆっくりと唱えた。 “血塗れメアリー” “血塗れメアリー” “血塗れメアリー” 三度呪いの言葉を唱え終えると、時計はきっかり午前二時を指していた。 辺りに流れる恐ろしいほどの沈黙、 私は鏡に映る聖母を、キリストを、背後の景色をじっと注視していた。 聖母は、やはり表情を変えず、 キリストが動くこともない。 人だけでなく周りの情景が変わっているのかもしれない、と再度絵画を見詰める。 「……何かおかしい」 ぽつりと呟かれた言葉は静まり返った場に響き、呟いた彼女――苺さんを見遣った。 「……何か変化があった? 私には何も見えないんだけど」 「ちょ……ちょっと……じょ、冗談よね?」 「……嘘じゃないよ。あ……でも嫌だな。これって……」 苺さんは昔から知っている懐かしくも嫌な相手に出くわしたような表情を浮かべていた。 「……どうしたの。何か、その……何か変わって見えたの?」 「あ……そうじゃなくて……わたし的にも変化がないんだけど……」 彼女の呟きに強張った場の空気は弛緩する。しかし、 「ただ……その……声がするんだ」 「――声」 私の言葉は奇妙に大きく響き、その大きさ故か、聖母が咎め睨んでいるような錯覚を覚えた。 「……おいおい、声って冗談だろ?」 「ううん、違うんだ。前と同じように……囁くような声で……」 「……苺ねぇ、声って……」 「……うん。もしかして林檎も?」 そう問われ、林檎さんは静かに頷く。 私たちは林檎さんの顔を見、もしかして声を? と尋ねた。 「……違うの。わたしは声ではなく、$鏡の中に――もう一人の人物が見えるの」 「もう一人の人物だって? それはどんな……?」 「……姿は黒ずくめで死神のような……でもシルエットはピエロのようにも見えるわ」 改めて恐る恐る鏡を覗くも……手鏡の中には聖母とキリストの絵画しか見えなかった。 「……そ、そんな怖いものが見えるなんて……嘘よね?」 「……わたしとしては嘘はつかない。やはり儀式は本物だった」 「……そ、そんな」 ぎゅっと袖を掴まれ不安げに私を見詰める。瞳を潤ませる彼女へこれ以上心配させないようにと、 「……大丈夫よ立花さん。私の目にも何も映ってはいないわ」 と言った。 「……それじゃ蘇芳ちゃんは嘘をついているというんだね」 「え、あ……そんなことは……」 「そ、そうよ。声は最悪風の音や物音から聞き違えることがあるとしても、そんなにくっきり見えるだなんておかしいわ!」 「……ま、まぁそんなに興奮するなって。あまり大きい声をあげたら見回りの人に気づかれてしまうだろ」 「……マユリさんはどっちを信用するの」 「それは……まぁ……」 困惑した表情で私を、林檎さんを見る。 「林檎さんかな? 小御門先輩の話だと絵の中の変化は話していたけど、声については言っていなかったし」 「――もういいわ。付き合ってられない」 「ぁ……立花さん?」 「苺さんも、行きましょう。部屋に戻るわよ」 怯えが怒りに転化したのか、私と苺さんの手を取り、足音高くその場を後にしたのだ……。 「そうか……本当に見えるのか……」 マユリさんは思うところがあるのか、顎に手を当て過去を覗くように俯く。 「そ、そんな嘘よね? シルエットが見えるなんてそんな……」 「……わたし的に嘘はついていない。これで怪異はある、と証明された」 どこか誇らしげに断言する林檎さんへ、立花さんは渋面を作ったまま苺さんの手を取った。 「風の音や物音から人の声に聞こえることもある。だからそれはいい。でも、死神の姿なんて……」 自分の言葉にぞっとしたように身を竦ませた。そして、 「ね、ねぇマユリさんもそう思うでしょう?」 「……私としては、声よりも新しい人物が見えた……という方が頷けるね。小御門先輩も言っていただろ?」 「表情が違うや、抱かれているキリストが変わっている事例もあったって。むしろ声の方がないような気がするけどね」 「それはわたしが皆を騙そうとしてるってこと?」 「いや……そういうわけじゃないが……」 「蘇芳さんはどう思っているの? 意見を聞かせて」 「私は……」 皆が注目し言葉を待っている。立花さんの縋るような瞳、どこかばつの悪い顔をしたマユリさんを一瞥し、 「……私としてもマユリさんの意見に賛成だわ。小御門先輩も“声”には言及していなかった。だから……」 「……もういいわ」 一瞬泣きそうな表情になった立花さんはそう言うと、苺さんの手をとり、 「わたしは先に帰る。皆も早く戻りなさい」 そう言い、苺さんを連れ階段を下り足早に立ち去っていった……。 「遅いわね、マユリさんたち……」 「もう戻っているわよ。きっと顔を合わせづらいから、沙沙貴さんたちの部屋の方に行っているんじゃない?」 「ああそうかも。それに林檎、一度ユリと二人きりで話してみたいって言っていたし」 ――血塗れメアリーの儀式の後、 怒りにまかせて大股で暗夜の森、寄宿舎を踏破した立花さんは私たちの部屋に戻ると、『お茶を飲みましょう』と宣言した。 「こうしてお茶を飲んでいると深夜のお茶会を思い出すね」 「少し前にもやったじゃない。でもこの三人だけっていうのは初めてだし、ちょっと新鮮ね」 「そうね……」 沙沙貴さんの部屋で二人きりだというマユリさんを心配し、そっちも気になるけれど……。 (この雰囲気なら……) 怖い経験をしたからなのかもしれないけれど、弱気を弾くためか皆どこかいつもより昂ぶり、陽気になっているようだった。 だから皆も深夜のお茶会を拒否せず受け入れたのだろう。$――そして、 「……伝説の恋バナができるかもだわ」 かつての学校で女子が楽しそうに話していた話題。私が嫉妬し憧れ、求めていたものだ。 「……うん? 今コイがどうとかって言ってなかった?」 「え、っとあの、その……!」 「ん? 何で食べ物でそんなに慌てて……」 「うふふ」 愉しげに笑いおさげで口元を隠す立花さんは、やぁねぇとそのおさげで苺さんを指した。 「女の子が集まって恋と言ったら恋愛の話に決まっているじゃないの!」 「え、ええ!? だって蘇芳ちゃん発なんだよ?」 「大人な蘇芳さんだって乙女心はわたしたちと変わらないのだもの。恋愛の話をしようって気分にもなるわよ」 「なるほど……。確かに秘密の話をするには良い夜ですからなぁ」 「ぅぅぅ……」 しみじみと腕を組み私を横目に見る苺さんに対し、羞恥から顔が熱くなってしまう。 「うふふ、可愛いわぁ」 「やめてください……」 何故だかうっとりとした表情で見詰める立花さんに言うと、彼女は目をぱちぱちさせ照れたように微笑み―― いつもの彼女に戻ると私のカップに紅茶を注いだ。 「せっかく蘇芳さんが提案してくれたんだし、少し秘密のお話をしましょうか」 「そうだね。この学院に入ってからそっち系の話はほとんどしてなかったし。興味あるしね!」 「ぅぅ……苺さんお友達とそういうお話はしないの?」 「おしゃれとか何が流行っているとか女の子の会話はするけど、恋愛系はないかなぁ」 「この学院って上品な人が多いし、切り出せない雰囲気だしねぇ」 そうなんだ、と頷くも、 (……もしかしてこれって既に恋の話になってるんじゃ!?) 失言からではあるけど、仲の良い級友と恋の話ができそうな事に心の中でガッツポーズをした。 「まだクラスが一緒になって二ヶ月経ってないんだしなかなか難しいわよね。それじゃまずは苺さんから話して貰おうかしら」 「ええっ? 言い出した蘇芳ちゃんからじゃないの?」 「わ、私は……」 「わたしは美味しいものは最後にとっておく方なんです」 「それじゃ……さぁ話してとなっても難しいし、定番の初恋や気になる人とかはどう?」 「う〜ん。気になる人かぁ……。初恋は簡単なんだけどねぇ」 「え、す、好きになった人とかいるの?」 「それはいるよぅ。さすがにこの年でまったくないって方がおかしいよ」 (そうか、おかしいんだ……) 「それでお父様とか言ったら詰まらないわよ」 「え」 自信満々だった彼女は固まり、私へと縋るような目を向けた。 「……父親が初恋の相手っておかしいのかな?」 「え、ええと……」 十歳の時に祖父へ預けられて以降、ほとんど父の顔は見ていない。 正直、遠い親戚のような感覚だ。 「自信満々だったから戸惑っているのよ。まぁ最初に意識する男性は父親だっていうから分からなくはないけどね」 「でしょ? 変なのかと思って焦っちゃったよ。うちの親ってどっちも仕事で忙しくてさぁ。ほとんど家に帰ってこないんだ」 「わたしと林檎はほとんどお婆ちゃんに育てられたようなものなんだよ」 「……私と似ているわ」 「それだから父親っていうよりたまに帰ってくる優しい男の人ってイメージで……」 「帰ってくるたびわたしが欲しい物を知っていてたくさんプレゼントしてくれるんだ。だから好きなのかも」 「それって……なんだか物につられているみたいねぇ」 「う〜ん。でも前の学校の男の子は皆、子供っぽいしなぁ。乱暴だったりもするし」 それには同意だ。以前の学校でも随分とからかわれたのを思い出す。 「それじゃ気になる人は?」 「ええ? ここ女子校だよ、気になる人がいたらまずいよ」 笑いながら秘蔵のクッキーを一口。私は何故だか彼女の言葉に胸がちくりと痛んだ。 「次はりっちゃんだよ。まずは初恋の人は?」 「そうねぇ、初恋の人は……」 目を細め、まるで中空を睨んでいるようにも見える。でも、 (こういう表情をする時って、真面目に思慮している時なのよね) 二ヶ月足らずの間にアミティエのことが少しずつ分かってきた。 「――居るわ」 「おおっ!? 堅物の鉄の委員長にもそんな相手が!」 「ちょっとわたしってそんなイメージなの? それはわたしだっていいなって人くらいいるわよ」 「……へぇ、そうなんだ」 満遍なく愛想の良い立花さんが“特別”を作っていることに驚く。 「それでどんな人なの?」 「ええと……そうねぇ、性格は大人で少し陰に籠もるところがあるわ」 「流行の草食系ってやつかな?」 「真面目で繊細で……とても賢いの」 「今のところ非の打ち所がないなぁ……。何かダメなところってないの?」 「ううん……そうねぇ、大人しすぎるから、ちょっと考えている事が分からないところもあるわ」 「根暗じゃん。やっぱり話していて愉しい相手の方がよくない?」 「そのミステリアスなところがいいんじゃない」 「むぅ、そんな男にりっちゃんは渡せないなっ!」 「え?」 「なに? 何か変な事を言った?」 顔を見合わせる二人が面白くつい笑ってしまう。 立花さんたちも笑顔に変わり、それじゃトリだね、と苺さんが意地の悪い笑みを浮かべる。 「それじゃ最後に蘇芳ちゃんだよ。言いだしたのは蘇芳ちゃんだし、もちろん相手いるんだよね?」 「わたしも……すごく興味があるわ」 言われ、気になる人とやらを考えてみるけど―― (何を考えているの私……!) あるクラスメイトが頭をよぎり、さっと頬が熱くなってしまう。 「あっ! 赤くなった、ってことは居るんでしょう!?」 「ほ、本当なの蘇芳さん」 はしゃぐ苺さんに何故かおろおろとしだす立花さん。 ――頭の中をかすめた相手のことを言うわけにもいかず、 映画に出てくるキャラクターが好きだということで納得して貰った。 ホント映画とか好きなんだなぁ蘇芳ちゃんは――とは苺さんの談である。 (今ほど小説や映画が好きで良かったと思うことはないわ) その一言で納得してくれなければ苺さんの押しに負けていた気がする。 そしてありがとう、クリント・イーストウッド。 「それじゃそろそろお開きにしましょうか」 苺さんはもう少しとねだるも立花さんはティーカップやポットをさげてゆく。 腕時計を見ると、 「もうこんな時間……」 「さすがにそろそろ寝ないと明日起きられないしね。苺さんはマユリさんのベッドを使って。二段目だから」 「わたし自分の部屋でも同じだから一番上で寝てみたいな」 思わず苺さんと同衾する情景を想像し、赤面してしまう。 (今日は愉しかったわ。全部は出来なかったけど恋愛の話はできたし) 頬を軽く叩き熱を冷まそうとする。 カップやお菓子を片付け終えた立花さんはそのまま扉の方へ向かう。と、 「…………」 ぴたりと足を止め何かを熟考しているかのようにその場に固まってしまう。 私は苺さんと共に立花さんを見詰めた。 「……あの。苺さんに頼みがあるんだけど」 「何? どうしたの?」 「その……確かさっき言っていたわよね。花を摘みに行きたいって」 「こんな夜中にぃ? お花はいいよぅ。もう眠る体勢ができているしさ」 苺さんがそう言うと、愛想笑いを浮かべた立花さんがさらに言い募る。 「そうじゃなくて……ええと、その……」 刹那ちらっと私を潤む目で見詰め、 「……お手洗いについてきて欲しいのよ」 と言った。 ――お手洗い! 「ああ、トイレね。だったらそういえば良かったのに」 「言・い・ま・し・た! それでその……苺さんも眠る前に行った方がいいわよ?」 「ええ……さっきも話したけど、わたしもう眠いし……」 寝ぼけ眼で答える苺さんに立花さんはやや内股になりながらも困った様子だ。 確かにお手洗いに行くまで暗い廊下が続く。それを想像し先程の儀式を思い出してしまったのだろう。 (これは……期せずしてもう一つの夢が叶う機会じゃない!?) さっきの恋バナに続いて、私が夢見た行為。それは……。 「……女子と一緒にお手洗いに行くこと」 「苺さんがついてきてくれないんじゃ……。あ、あの佳かったら蘇芳さん一緒に……」 「行きます!」 「え」 「一緒に行きます。行かせてください!」 手を挙げ立候補する私に、立花さんは頬を染め何故だか絶句した様子で……。 「ぁ……ぅ……行ってくれるのは嬉しいけど……」 「ふふふ、暗がりで襲われないようにね」 え、襲う? 誰が、何を? 「そんな……! 蘇芳さんはそんな人じゃないわ。それにわたし……」 首まで赤くなり体をいやいやするように振るアミティエを見て、 「――ッ!? あ、あああ、ち、違うの! もっと仲良くしたいってそう思って……」 「仲良くしたいって積極的だなぁ」 「蘇芳さん……」 誤解されたまま夜は更けていき、 そして―― 「ごめんなさい。待たせてしまって」 「……いえ」 ええ、夢は叶いました。 「親方。しっかりと蘇芳容疑者を見張っておきましたぜ」 誤解のとけぬまま、見張り付きというオチをつけて……。 ――夜の化粧はこんなにも様子を変えてしまうのか。 来慣れた場所である図書室は懐中電灯の明かりを頼りに映し出され、その重厚さを増しているような感じがした。 暗くて視覚がおぼつかないためか、何時もよりも古書の匂いが濃密に感じられる。 親密な空間である筈の私の居場所が、どことなく余所余所しく見え、圧迫感さえ覚えていたのだ。 「……そう落ち込むことはないよ。立花もそんなに怒っていないと思うよ」 「……え、ええ、そうね」 様相の変わって見える図書室に圧倒されていた私を落ち込んでいると勘違いしたのか、マユリさんはそう声を掛けてくれた。 (確かに立ち去ってしまったけれど……) マユリさんの言うように立花さんが帰ってしまったのは怒りでなく、恐怖からだと思う。 明日謝っておこうと思っていると……。 「ふふ、お腹が空いたね。これなら料理部に行った方が佳かったかな?」 夜中の空腹に耐えられなかった事にじわじわと頬が赤くなってしまう。 「……料理部は鍵が掛かっているから無理だと思う」 「そうか。素直に寮に戻ってもいいけど、さすがに直ぐに戻ったら気まずいと思ってここに来たのはいいけど……」 手に持つ懐中電灯でぐるりと図書室内を照らした。 「手持ちぶさたになるな。空腹を抱えて読書って訳にもいかないしね」 「……それならいい物がある」 赤面し顔を押さえたまま指の間から様子を窺っていると、林檎さんは執務机の方へと歩み―― 作業棚のある方で何やらゴソゴソと捜し物をしているようだ。そして、 「……虎の子のお菓子、皆で食べよう」 と、色とりどりのお菓子を腕いっぱいに抱えて戻ってきたのだ。 「おお……! やるじゃないか。これでひもじい思いをしなくてすむ」 「え、あ、その、それってどこに……?」 「……作業棚の奥」 え、でも本しか置いていない筈……。 「……お菓子を奥に。ダミーとして本を手前に置いておいたの。すごいでしょう」 得意げに胸を張る林檎さんを注意しようとしていた気持ちはするすると萎え、 「……頂きましょうか」 自分の中の切実な抗議に負けたのである……。 勉強机に座り林檎さんの持ってきたお菓子を食べながら、 (もしかして夢だった買い食いは果たしたんじゃないかしら?) 厳密に言えば買い食いではないけれど、深夜に級友とお菓子を摘んでいる時点でこれはかなり親密な関係ではないだろうか? (なら、あとは一緒にトイレ、恋バナ、怪談話だわ……!) 「ふぅ……少し落ち着いたね」 「……お菓子は偉大。気持ちが豊かになる」 「それには同感だね。さて……これからどうしようか。少し時間を潰そうと思っていたけど……」 椅子の背もたれに寄りかかったまま周囲の暗がりを見回す。 「場所が場所だけに読書……も悪くないけど、さすがにこの暗闇の中、本なんて読んでたら気が滅入るし……」 詰まるマユリさんへ、私はこの機会を生かそうと思い浮かべていた、“一緒にトイレ”“恋バナ”“怪談話”から推薦するものを選択していた。 (トイレはここからだとだいぶ遠いし、恋愛話をする雰囲気じゃないわ……。なら、) 「……あの」 「ん? 何か思いついたの?」 「ええと……あのね、せっかくだから――怖い話をするってどうかしら?」 私の言葉に絶句したようにマユリさんは硬直し、林檎さんは私の真意を窺うように瞳をじっと見詰めてきた。 「……あ、あの……、おかしなことを言ったかしら……?」 「い、いや、大人な蘇芳さんが怪談話を提案してくるとは思ってなかったんで驚いただけさ」 「確かにさっきまで肝試しみたいな真似をしていたんだし……」 「……わたしとしてはむしろ望むところ」 「だって。ふふ、それじゃ雰囲気もぴったりだし、怖い話でもしてみようか?」 (やったわ!) ダメで元々の精神で言ってみたけど、思っていたよりも二人が乗り気で佳かった。 憧れた映画や小説での場面で夢見た、級友との怖い話ができるのだと私は身を乗り出す。 「随分乗り気だね。それじゃまずは誰が話す?」 「……いっぱいお話を知っている蘇芳ちゃんは後に残すとして……」 「私と林檎さんか。それじゃまずは私が話すよ。本当にあった話だけど、これは怖いというより不思議な話だし」 あれ? 自分が体験した話をすることになっているの? 疑問符を抱くもマユリさんは机の上に肘を乗せると、顎をさすりながら――あれは私が子供の頃の話なのだけど、と切り出した。 「合唱部では経験がないって言ったけど、実は子供の頃、一度だけ合唱コンクールに出たことがあるんだ」 「一度だけだし、それきりだったから経験者ですって胸を張れなかったから、あえて言わなかったんだけどね」 「そうだったの……」 「うん。それで当時あまり歌に自信がなかった私は、学校だけでなく家に帰ってからも練習していた」 「でも弟や母に聞かれるのが恥ずかしくて、近くにあった公園に行って練習していたんだ」 「……公園で歌う方が恥ずかしくない?」 「私が練習していたのはビルとビルの間にぽつんとあるような公園でね。いつ行っても人っ子一人いなかったよ」 「砂場とジャングルジム、それと長椅子くらいしか置いてない小さな公園なんだ」 成る程、と頷く林檎さんへ一つ頷くと先を続ける。 「学校の練習が終わると家に荷物を置いて公園に行き、課題曲の練習をしていた。何度目だったかな……」 「課題曲の青葉の歌を歌っていると、何か違和感を覚えた。それは小さな声で誰かが喋っているような、歌っているような声だったんだ」 「声を頼りに探してみると、ジャングルジムの方に私と同じくらいの背丈の子供がいたんだよ」 「恥ずかしさはあったけど、私が止めてもその子供が歌っているのを聞いて“ああ私と同じで練習しているんだ”と思った」 「それで気にせずに練習を続け、夕方になって帰ったよ」 「その子には声を掛けなかったの?」 「何だか気恥ずかしくてね。その後も練習に行くとその子はいた。私も歌い、その子も歌う。それを幾度か繰り返していく内に……」 「……おかしなことに気がついた?」 「いや違う。連帯感が芽生えたのさ。互いの名前も知らないけど、ずっと練習を共にしてきた間だからね。それである日……」 ごくりと喉を鳴らす。静まり返った図書室内に音が響く。 「ついにコンクール前日となった日、声を掛けてみようと思った。今日話しかけなければその子もここに来なくなるかも、と思ったしね」 「だから私は公園に行き、その子がジャングルジムにいるのを見つけると、心が決まるまではと課題曲を歌ったよ」 「ジャングルジムの向こうから聞こえるのはいつもの声。いや……いつもより澄んだ旋律だった」 「何故だか夢中になって歌ってね。気づけば夕陽が射していた。公園の中を綺麗なあかね色に染め上げていたんだ」 「暗くなってしまう前に帰らなくてはならない。だから意を決してその子に話しかけた」 「君はどこの学校なの? 私はもう帰るけど一緒に帰らないかってね」 「……それで?」 「返事はなかった。投げかけた言葉がまるで届いてないみたいに。夕暮れの中、その子はジャングルジムに寄り添うように立っていたよ」 「私はもう一度声を掛けた。……でも返事がない。おかしいなと思って、その子の元へ歩んでいった」 「夕日の逆光で陰になってはいるけど、確かに私へとまっすぐ見詰めているようだった」 「――そこでようやくおかしな事に気がついた。その子のシルエットが妙なことにね」 「……それって、頭がないとか手が不自然に長いとか?」 「いやそうじゃない。あまりに人間のままのシルエットだったんだ。普通、服を着ていたら袖の部分や襟なんかで影は像を造るだろ?」 「それがなかった。妙だと感じているのに、私の足は意思を離れたように踏みだし――夕日に照らされた彼を見たんだ」 「それは――マネキンだったよ。裸のままの、古くなってあちこち壊れたマネキンだった」 「目は作り物特有の反射をして、関節は金属部品で止められている不格好なマネキンだった。私は悲鳴をあげた」 「そして悲鳴をあげたことで我に返ることができたのか、足が自由になった」 すぅ、と息を吸い吐く。 私と林檎さんは彼女の言葉を待ち、沈黙を保った。 「――話はこれでお終い」 「え、それからそのマネキンが追ってきたとか。夜寝ていたら足下に忍び寄っていたとか……」 「それじゃ怖い話だろ。私は話す前に不思議な話だって言ったじゃないか。結局、あのマネキンが歌っていたのかどうか分からない」 「もしかしたら、ビル風が反響して人の声に似せていただけなのかもしれないしね」 「……でもマユリさんは、マネキンが歌っていたと思っているのね」 「うん。姿を見たときは恐ろしくて逃げ出したけど――」 「今思い出すと何故だか忘れちゃいけないと思える懐かしさがこみ上げてくる。おかしな話だけどね」 話し終えたマユリさんはどこか寂しげに見えた。まるで大切な友達を置いてきてしまったように。 「……それじゃ次はわたしの番だね」 「期待しているよ」 「……わたしの話も実体験だからそれほど強烈じゃないかも。だけど間違いなくあれは幽霊だけどね」 そう宣言した林檎さんは、私とマユリさんを緩慢な動作で見遣ると、手を祈るように組んで語り出した。 「……この話は実は少し前のことなのです。この学院に入学する前の休みの間のこと」 「……基本的に一人でいるのが好きなわたしだけど、それでも何人か一緒に遊ぶ友達がいた。皆、わたしと似たタイプの子たちだった」 「そしてこの学院に入るまでの間、最後の思い出作りに何かしようって事になったのですよ……」 ――思い出作り、か。 「色々な場所に行ったし――経験をした。そして入学の日が近づいた折り、友達の一人が最後に学校に忍び込んでみないかと言った」 「似たタイプと言ったから察したと思うけど、そう……夜の学校に忍び込んでみないか、という話だったのですよ……」 「……まるで今日の私たちみたいだね」 「……うん。オカルトに興味のある子も多かったから一も二もなく賛成して、その日の夜学校に忍び込んだ」 「そして出るといわれていた女子トイレや体育館倉庫、理科準備室をまわった。でも、何の怪奇現象も起こらなかった……」 「そいつは拍子抜けだ」 「うん。わたしたちも飽きて、別の遊びをすることにした。隠れんぼですよ。夜の学校でやるのはスリリングに思えたのだと思う……」 「そして、私が鬼になって、一人二人と見つけていった……」 そこで厭なものを思い出したかのように、俯き小さく吐息をつく。 「……さすがに夜の学校に真剣に隠れると見つからなそうな気がしていたのか、近くに隠れていたから、すぐに見つけることができた」 「三人、四人と。最後の一人を見つけようと友人皆で歩き出した時、その中の一人が、あれ? って声をあげた……」 「……皆が声をあげた子を見ると、真っ青な顔をして、『もういいんじゃないか』って言いだしたのですよ」 「わたしたちはその友人が怖くなって探すのを止めようと言っているんだと思って、このまま帰ったら可哀相だと言った……」 「……探してあげなくちゃ、ずっと学校にとどまったままだって」 「……道理だな」 「そうしたら違うっていうんだ。その子は歯をカタカタ言わせて『もう全員いるじゃないか』って」 「わたしたちは一瞬何を言っているか分からなかった。でも――はっとした」 「確かに隠れんぼをした友人は皆見つけ終わっている。わたしを含めて五人。じゃあ……」 「――じゃぁ今、わたしたちは誰を探しているのって」 「……そのことに全員気づいたんだろうね。皆青い顔をしていたよ。最初に気づいた子は震えてもう動けないくらいだった」 「わたしは急いでその子の腕を掴んで学校を出ようとした。その時……」 「……わたしたちの先、廊下の奥……曲がり角の先からはっきりと声が聞こえたんだ」 「――『ねぇ。早く見つけてよ』って」 「……ッ」 「恐怖の限界を迎えたわたしたちは一目散に逃げ出した。転びながら這うようにしてね」 「……追っては来なかったのかい?」 「……追ってこられたらたぶん捕まっていただろうと思う。それほど足下は覚束なかった」 「でも……おそらくだけど、彼女は始めから追ってこようとは思っていなかったと思う」 「……ゲームをしていたからね」 「……そう。彼女は隠れんぼをしていたんだ」 「わたしが見つけるまではきっと……今もあの学校に潜んでいるんじゃないかなぁ」 その言葉が締めだったのだろう、にこりと場違いな笑みを浮かべたことで話が終わったことを悟った。 「わたしの話はこれで終わり。次はトリの蘇芳ちゃんだよ」 林檎さんにそう振られ―― いつしか夢だった怪談話も果たしていた事が嬉しく、つい微笑んでしまった。 「……おおぅ」 「何だか凄い体験談を持っていそうだねぇ……」 戦々恐々とする二人を交互に見遣り、私はかつて祖父から聞いた病院での怪奇譚を言の葉に乗せたのだった……。 ――そして夜が明け、 朝のお祈りの時間に聖堂へとなかなか現れなかった沙沙貴姉妹を思い、私はずっとやきもきしていた。 血塗れメアリーの儀式で声が聞こえると言っていた苺さん。絵の中の人物が一人多く見えたと言う林檎さん。 儀式を行った者は居なくなる、と聞いていた私は二人がなかなか姿を現さないことに、不安が広がり胸が苦しくなってしまった。 それは、私の隣に控えていたアミティエらも一緒だろう。 表情にこそだしてはいなかったけれど、彼女たちから伝わる雰囲気から察せられた。 そして―― 「ねぇ、そのお菓子食べないなら貰っていい?」 「……苺ねぇ、それはわたしとしても狙っていた」 私の前の席に陣取りマユリさんが作ってきたお菓子を取り合っている彼女たちを見て安堵の吐息を漏らす。 不安が私たちの顔に出始めた頃、遅刻してきた二人はバスキア教諭に叱責を受けながらも―― 朝のお祈りにばたばたと駆け込み、私を見つけると元気に挨拶をしてきたのだ。だから、 「で、続きはどうなったんだよ」 自分の皿に取り分けられていたパウンドケーキを双子に分けながら八重垣さんが尋ねる。苺さんはさも恐ろしかったというように顔を歪ませ、 「わたしには聖母様の絵から声が聞こえてきたんだ。あれは……そう男の人の声だったな」 「へぇ、眉唾だが面白い経験をしてるじゃないか」 「……わたしは絵の中に死神を見たの」 沙沙貴姉妹の言葉に八重垣さんだけでなく周りのクラスメイトもわぁ、と愉しげな喚声をあげている。 「……本当は黙っていて欲しいけど」 「まぁ、あの二人と出掛けたんだ。こうなる事はやむなしだよ」 一緒に血塗れメアリーの儀式を行ったアミティエ二人は諦めきった顔つきで、今日何十度目となる冒険譚にため息をこぼした。 放課後のお茶会が始まる前……いや、お祈りが終わった後の朝食時から血塗れメアリーの冒険譚は始まり―― まだ耳にしていない級友へ休み時間のたびに語っていたのだ。最初は口を閉じさせようとしていたけど、 (……二人が無事だったことが嬉しいんだわ) 変異を目にした二人が無事だったことが嬉しく、強く出られないでいるのだ。 「遠からず教諭たちの耳には入るだろうね」 「そうね。憂鬱だけど仕方ないわ……」 私を含め怒られるのを覚悟している。$存分に語って貰おうという気持ちでいるのだ。 けれんみたっぷりに語る沙沙貴姉妹の話を聞き終えたのか、八重垣さんは車輪を鳴らし、苦笑をこぼす私の元へと来た。 「上級生の間では噂になっていたけど、まさかあんたらが試しに行くなんてね」 「いけないとは思っていたけど、興味があったのよ」 「いやいや、別に責めているんじゃないぜ。むしろ大したものだって褒めたいくらいさ。あんたも勿論、まぁ匂坂はいいとして……」 「ぅ……」 「お堅い委員長まで付き合うってのが意外だったよ。認識を改めなくちゃな」 鼻白む立花さんに意地の悪い猫のような笑みを浮かべる八重垣さん。やれやれと頭を振るのはマユリさんだ。 「本来止めなくちゃいけないのは分かっていたけど、まぁ、これも長い学院生活を送る通過儀礼の一つだと思ってね」 「今度、八重垣さんも一緒に行ってみるかい?」 「聖母様の顔を見に? 面白い冗談だ。階段をどうやって上るって言うんだよ」 自分の足をはたき軽口を叩く彼女へ、さすがのマユリさんも少しばかり詰まってしまう。私が助け船を出そうと、身を乗り出すと、 「まぁ儀式にはわたしも興味がある。その時はこいつにおぶって貰おうかな」 と、私を指さし戯けた。 「背負っていってもいいなら構わないわ」 「そこはお姫様抱きだろ? 詰まらないこと言うなよ。おっと重そうだなんて言うなよ。わたしは羽のように軽いんだ」 八重歯を見せ笑う八重垣さんに、私は笑みで返した。アミティエ皆も笑顔で――いや、立花さんはむっとしていたけど。 ひときわ大きな声が上がり、冒険譚の山場を迎えたのだと知る。 既に聞き終えていた八重垣さんは手を挙げて立ち去り、私たちもどうしたものかと目配せをかわした。 「……まぁ今日くらいは仕方ない。最後まで付き合おう」 「そうね……」 疲れた顔を隠さず私たちは無言で冷めてしまった可哀相なティーカップを傾けたのだった……。 五月二十七日。 私はこの日を忘れないだろう。 花々に囲まれたこの学院の中で、 私は様々な経験をしていくことになる。 佳いことよりも悪いことが多く、苦悩は止むことはなかった。 五月二十七日、この日、 「――蘇芳ちゃん、わたし……」 彼女が告げた、 “沙沙貴苺の消失” それは学院生活において、いきなり突きつけられた最初の絶望だったのだから。 沙沙貴苺さんの消失を知らされてすぐ動いたのは立花さんだった。 続いて私、そしてマユリさん。 立花さんと並び、駆け足で行くのは沙沙貴林檎さん。 私たちは無言で沙沙貴さんたちの部屋へ入り―― 「今のところは上手く騙せているようね」 「でも何時までも隠している訳にはいかない」 放課後、 これからの事を相談するために、アミティエらと私、そして沙沙貴林檎さんを含めた四人は誰もいない図書室で座し相談を始めた。 今朝―― 沙沙貴苺さんの消失を告げられた私たちは、彼女の部屋に赴き、無人の部屋で途方にくれていた。 確かに部屋の中には誰もおらず、只、少し前まで生活をしていた残滓があっただけ。 林檎さんが部屋を行き、勉強机の上を手で撫でるとそこには飲みかけの炭酸水が二つ。 「……喉が渇いたって苺ねぇが言ったの。だからわたしが注いで……それで自分の分も入れて苺ねぇの方を向いたら……」 林檎さんの告白に無言のままの室内。 今まで其処にいたことを知らせるように炭酸水の音だけが、シュワシュワと鳴っていた。 「……失礼するよ」 マユリさんはそう断り、備え付けのタンスやクローゼット、死角になっている一番上のベッドに登り布団を探る。 「……今見たところはみんな探したよ。でも見つからなかった」 人が隠れられる場所はすべて探したと、どこか他人事のように呟く。いや現実感が湧かないのだ。それは彼女も私たちもだ。 ただ湧いているのは、切迫した不安。 「ちょ、ちょっと大げさねぇ。ただあれでしょ?」 「林檎さんがジュースを注いだ隙に隠れたんじゃなく、部屋から出て行った……ってだけじゃないの?」 ――確かにその可能性もある。でも、 「……わたしの分を注ぐ時間は、もともとグラスを用意しておいたから十秒も掛からなかった」 「それに部屋から出たのならドアの音が響くはず」 「そ、そうなの……。確かに、それは……そうね」 沙沙貴さんの部屋のドアは立て付けが悪く、開けるときも閉める時も大きな音を立ててしまう。 こっそり部屋を出ようとしても音で分かる筈だ。 またも続く沈黙。 誰も血塗れメアリーの儀式の所為だと言いたくはないし、言ったところで何もならないからだ。$まだ現実とこの状況がすり合わない。 「……とにかく寮長、いや……ダリア先生に話そう」 そうとりあえずの提案をしてきたのはマユリさん。現実的な対処だ。 しかし、私も、林檎さんも同意できなかった。 バスキア教諭に話したら最後、消失は確定的な出来事になってしまう気がしたから。 「……黙っていることはできないかしら?」 次いであり得ない提案をしたのは立花さん。現実的ではない対処に心情的には賛成な私も林檎さんも二の句が継げなかった。 「……黙っていたって仕方がないだろう。苺は居なくなったんだ。まずは先生に報告しないと……」 「血塗れメアリーの儀式を行って消えてしまったって?」 「それは……」 唇を噛み黙り込む。立花さんはテーブルの上の炭酸水を見詰め、 「……わたしは儀式の所為でいなくなったなんて思ってないわ。幽霊なんておとぎ話よ。だからこれも何か理由があってのことだわ」 「どんな理由があるっていうんだ?」 「わたしは苺さんじゃないから分からない……。でも元気そうに見えても何かを抱えていることはあるものよ」 「例えばこの学院が肌にあわなくて、家に戻ろうとしていたとか」 「……そんな話聞いたことがない」 「今のは推測だもの。でも消えた理由は他にあると思う。儀式の所為じゃない。だからわたしは少し待っていてもいいと思う」 「消えたのが苺さんの意思なら待っていれば頭を冷やして戻ってくるか……向こうから何か……接触がある筈よ」 立花さんの提案にマユリさんは眉をしかめ、林檎さんは思い悩み自分のつま先を眺めていた。 「蘇芳さんはどう思う? 先生に報告した方がいい? それとも様子を見る方に賛成してくれるかしら」 「私は……」 アミティエ二人ともの提案はどちらも理にかなっていた。だからこれは……。 「私よりも林檎さんの意思だと思う。林檎さんはどうしたい? 私は彼女の考えに従うわ」 「……わたしは」 つま先を眺めたまま、ぽつりと呟いた後、瞳を潤ませ私を、アミティエ等を見詰めた。 「……わたしは、もう少し待ってみたい。ダメかな……?」 「――林檎さんが言うならそれに従おう。ただし後二日……三日までだ。それ以上はごまかしきれない」 「……ありがとう」 「病気で伏せっていることにして様子をみましょう。後は……あ!」 「どうした? 何か発見したの?」 「立花さんが言いたいのは、ごまかす為に三人部屋のもう一人のクラスメイトに話をつけなくちゃいけないって事だと思うわ」 「そうか……。アミティエか」 双子姉妹といえども三人一組のアミティエに例外はない。 しかし、林檎さんは頭を振ると、心配いらないよと言う。 「……この部屋はわたしと苺ねぇ二人きりだから」 「え、だって……」 「……わたしたちが血塗れメアリーの儀式を知るきっかけとなったのは、五人ものクラスメイトが辞めたからなの」 「……そう、か。林檎さんたちのアミティエも辞めた五人のうちの一人なのね」 「……彼女との共同生活はうまくいっていた。だから突然辞めたことが気になったの」 ――なるほど。七不思議の事を突然言い出したのには背景があったからなのか。 「……とりあえず林檎さんは病欠のことをダリア先生に。立花がうまく取りなしてやってくれ」 頷いた立花さんは林檎さんと共に部屋を出て行く。私は勉強机の上にある炭酸水、そして小説を目で追い―― 「蘇芳さん?」 「ぁ……ぅ、なに?」 今朝の一連の出来事を思い返していた私は、目の前で手を振られはっと我に返った。 「聞いていなかったの? これからどうしようって話をしていたのよ」 「とりあえず今日はうまく誤魔化せたけど……」 俯く林檎さんに目を向け、 「立花が言ったように今日一日様子をみたけど、何の音沙汰もなかったな」 「な、なによ……わたしが悪いって言うの?」 「そうじゃないけどさ。私たちを脅かすために消えたのを装っているなら、そろそろ種明かししてもいいのにって思ってさ」 「……ごめん」 「いや……林檎さんを責めた訳じゃないんだよ」 わざと軽口めいていったのだろう言葉も真面目に返され、マユリさんはふっと小さな吐息をつき黙り込んでしまう。 「……でも立花さんが様子をみようと言ったのは、苺さんが私たちを騙して、ふざけていると考えているからなのでしょう?」 「半々ね。彼女の性格ならこれくらいの悪ふざけをしてもおかしくないわ」 「そして、残りの半分は何か悩んでいたのかも、と思っていたからよ」 「悩み……」 「まだ学院が始まって二ヶ月の間に、五名の級友が辞めたでしょう? お家の事情からなのかもしれない」 「それとも……何か悩みがあってなのかもしれない」 「わたしはね、苺さんが何かを悩んでいて……姿を消したのなら、大事にしないで待っていてみようと思ったの」 「騒ぎになったら余計に出てこられなくなる。そうでしょう?」 ――確かに。私なら居たたまれなくて森に住んでしまうわ。 そう思い続いて、 (立花さん、変わったわ……) 今まで規則一辺倒で融通のきかなかった彼女らしからぬ判断だ。二ヶ月の時が彼女を変えたのだろうか。 「……居づらくなるのは必至か。まぁもうしばらくは待ってみようか」 「……姉のことを考えてくれてありがとう」 「苺とは友達だからね」 (友達……) 当たり前のように言ったマユリさんの言葉に、私はぎゅっと胸が、体の芯が掴まれた気分になった。 私が欲しいものを、皆は何の気負いなく得ている。 「今日までは様子を見て……何も変化がないようなら、明日から学院内を探してみることにしましょうか」 「何もしないよりはいいかもね。蘇芳さんからは何かない?」 何故だか期待している瞳に、私は、 「本当に家に戻ろうと考えているなら、明後日購買の業者の人がくるだろうから――」 「苺さん宛てに手紙を書いて、投函して貰えるよう頼んだらどうかな?」 「そうか……。手紙は一週間に一度の集荷があるけど、事態が事態だし頼めるなら投函して貰った方がいいかもね」 「いい考えだわ。さすが蘇芳さん!」 アミティエも林檎さんも褒めてくれるが、私はいなくなった苺さんのこと―― そしてマユリさんの言った“友達”という言葉が引っかかり、曖昧な笑みを返すことしか出来なかった……。 ――そして、結局二日目が過ぎても沙沙貴苺さんが見つかることはなかった。 学院の主立った場所はほとんど行って姿を探したが、彼女の姿を捉えることはできなかった。 まるで本当に血塗れメアリーの儀式の所為で消えてしまったかのように。 (日が傾いてきている。そろそろ自室に戻って皆にどうだったか聞いてみよう……) 今までは二人一組で探していたが、時間がないとのことで一人一人別々に探していたのだ。うまくいけば誰か見つけているかもしれないし……。 「……希望的観測よね」 「何を希望するんだね? うん、僕かい?」 耳元でふいに囁かれ―― 「きゃ……っ!」 悲鳴を上げ飛び退ると、 「きゃ! だって、蘇芳君も乙女のような声をあげるんだねぇ。まるで少女のようじゃないか」 茜色の日を背に、ニカイアの会の会長、八代譲葉先輩が腰に手を当ていつものシニカルな笑みを浮かべていた。 「……まるでも何も乙女ですよ。急に声を掛けられたらびっくりするじゃないですか」 「うむ……。蘇芳君、こいつは苦言だがね。こんな往来で自分が処女だと宣言するのは感心しないぞ」 「ぅぅ……!」 思わず突っ込みかけるも、そう取られる言い方をしたのは私にも非がある。ぐっとこらえた。 「で、どうしたんだい? 棒立ちだったじゃないか。もしかして僕を待っていたのかい」 いつもの軽口に違います、と答えようとするも、 (八代先輩なら何か知っているかもしれない) かつて血塗れメアリーの儀式で消えてしまった生徒を調べていたのだ。彼女なら知っているかもしれない。 消えてしまった生徒は何処にいるのか、を。 「うん? 本当に変だぞ、ぼうっとして……。まさか僕に口づけて貰いたいのかな?」 「ち、違います。八代先輩に聞きたいことがあって……」 「僕にか。うん。いいだろう、何でも質問してくれたまえ」 唇を舐め、じっと私を見詰める銀の目にたじろぎながらも、 「血塗れメアリーの儀式のことを聞かせて欲しいんです」 と言った。一転、先輩は詰まらなそうに眉間をかき、 「血塗れメアリー? まだそいつを調べていたのかい。ネリーに話を聞きに行ったのだろう。あいつからそう聞いたぞ」 「はい。居なくなった上級生の話や儀式のやり方を……。でも居なくなった生徒の……その後の話は聞いていないのです」 「そのあと……? 惨たらしい死体で見つかったとか?」 軽口を流せずぐっと詰まってしまう。 八代先輩は何か察したのだろう、すまないねと、一言告げると熟考するために額をとんとんと指で叩いた。 「その後、その後ねぇ……。まぁ見つかった話は聞いていないからおそらく親元に戻ったのだと思うよ」 「攫われたら見つからないのですか……?」 「うん? いやいやいや、何だかオカルトじみた思考になっているねぇ」 「いいかい蘇芳君。“血塗れメアリー”だの“彷徨うウェンディゴ”だのは、辞めた者の為の装置なんだよ」 「装置……ですか」 「そうさ。ここは全寮制の学院だ。今まで仲良くやっていた仲間がぽこっといなくなる。それが大勢なら噂を呼ぶだろ?」 「この学院の七不思議は納得いかない者の為の、いわばシステムなんだ」 茜色の情景の中で八代先輩は饒舌に語る。 「ホームシックで暗く沈み込んでいる者はいい、辞めていったとしても理由や理屈が通るからね」 「だが一見、アミティエや他の級友ともうまくやってはいたが……ぽっかり心に穴が開いてしまった者が突然辞めてしまう」 「仲の良かった者は理不尽さを感じるだろうね。それを分かり易い形で表したのが……」 「……七不思議」 「そういうことだよ」 理屈は分かる。だが、 (八代先輩の言う通りだとしたら……) ――私は苺さんの心の声を聞き逃していたことになる。 「あれから僕もネリーに話を聞いたんだが……七不思議の内の判明している四つは、“血塗れメアリー”“彷徨えるウェンディゴ”」 「“寄宿舎のシェイプシフター”そして“真実の女神”というものらしいね。$どれも遭遇した場合は攫われてしまう」 (……小御門先輩にも聞かされた事象だ) 「全ての怪異が攫うだなんておかしいだろう。怪談の締めは、死んだり気が狂ったりするパターンもあるのにね」 「だからこそ僕が思うに、この学院の七不思議は、辞めていく者へのていのいい理由付けなんだと思うよ」 しばしの沈黙。 確かに八代先輩が推察した通りだと思う。だけれど私は……。 (攫う……全ての七不思議が……?) 質問した謎は解けたというのに、そのフレーズがうまく飲み込めず渋面を作った……。 最終日―― マユリさんが提案した三日目を迎え、 私たちは一縷の望みをかけ、学院の中―― 学院の外にまで足を伸ばした。そして、 「見つからなかったか……」 「ええ。もう探せる場所はみな探したわ……」 力なくうな垂れる二人。 林檎さんは窓のカーテンを閉めると、グラスに炭酸水を入れ、私たちへと振る舞った。 「ありがとう」 「ちょうど喉が渇いていたんだ」 学院外の森を探索していた私たちには炭酸水が美味しく感じられた。 (苺さん……) 只、美味しく感じられることに一抹の罪悪感を覚えてはいたけれど。 (……林檎さんが借りた小説) 気まずく視線を走らせると本棚に銀河鉄道の夜が二冊並べて置かれているのを目にした。 八重垣さんが譲った旧版と自分の持ち物であろう新版だ。 「……読んでいる暇はないわよね」 「あまり切り出したくないことだけど……」 空になったグラスを手のひらで弄びながら、マユリさんが視線を床に落とし口を開く。 「今日でリミットの三日目だ。これからの事を考える必要があると思う」 「…………」 「……そうね。そろそろ誤魔化しが利かなくなってきたものね」 呟きに静寂が広がる。炭酸水のはじける音だけが耳朶に届き、何とも言えない空気が広がった。 口には出したくないが、出さなくてはならないジレンマ。 「……明日、ダリア先生に話そう」 「そうね。先生から電話を入れて貰ったらいいわ。もしかして家元にもう戻っているかもしれないし」 現実的な意見だ。私もそれが正しいと思う。でも、 「……もう一日、二日だけ待って貰えないかな」 「林檎さん……」 「……電話をして家にいればいい。でも居なかったら……」 「…………」 「だ、大丈夫よ。これだけ探して見付からないのだもの。家に戻ったと考えた方が……」 オカルトを否定している立花さんだから出た言葉だろう。だけれど、一抹の不安は拭いきれないのか私へと視線を向けてきた。 「……あと一日だけ待ちましょう」 「蘇芳さん……」 「それは何か考えがあってのこと?」 「……分からない。でももう少しで何か掴めそうな気がするの」 八代先輩と話したこと、そして今までの学院探索で何か大切な事を見落としている気がする。 それが分かれば……。 「――蘇芳さんが言うならわたしは賛成だわ。わたしが誤解されそうだった時、解決してくれたのが蘇芳さんだもの」 「そろそろ限界なのは変わらないけど……アミティエの頼みだ」 「やるだけはやってみよう。誤魔化しきれなかったらその時はその時だしね」 「……ありがとう」 柔らかな微笑みを浮かべ頭を下げる彼女に、私たちは歯がゆい思いで頷いたのだった……。 寮に戻ってからも再びぎりぎりまで探索をし―― 入浴時間終了間際となった私たちは急ぎ身体を洗っていた。 「……一日くらい入らなくてもいいって言ったのに」 「ダメよ。女の子が何を言っているの。それに今日は森の中をたくさん歩いたでしょ。汗だって随分かいたじゃない」 「ま、それはそうだけど……」 肩を竦めはするものの、マユリさんは大人しくボディーソープを手に取って泡立てる。 「先に髪から洗った方が良いわ。じゃないと二度体を洗わなくちゃならなくなるし」 「はいはい、お母様分かりましたよ。まいったね、ねぇ蘇芳さん?」 「ふふ……」 愛想笑いを返すも私は隣で口数少なく髪を洗っている林檎さんを気にしていた。 (何か……もう少しで、何かが掴めそうなのだけど……) 「ん……へぇ、珍しいな」 「何?」 「……久しぶりにシャンプーハットを使っている人を見たよ。何だか林檎さんが使っていると可愛いね」 ほんの数年前まで使っていた私は詰まるけれど、無難にそうねと言った。と、 「ん……ぁ、失敗したわぁ……」 恨みがましい声が届き私は声の主を見遣る。視線の先には髪を洗っていた立花さんががっくりと肩を落としていた。 「ど、どうしたの……?」 「すごく小さいことなんだけどね、シャンプーとボディーソープを間違っちゃったみたいで……」 「ああ、私もたまにやるよ。そういうのって何か変にがっくりするよね」 「ふふ、でもしょうがないわ。立花さん眼鏡を外しているし、シャンプーとボディーソープの容器は同じ柄だし……」 自分で吐いた言葉が奇妙に引っかかり言葉を飲む。 (同じ柄……それって……) 小さく散りばめられていたキーワードが頭の中でざわめき、そして嵌まっていく。 (八代先輩の言葉……) “沙沙貴苺の消失” そして、少し前までは其処にいたのだと主張する寮の部屋。 「……そうか、そうだったのね」 そもそもとして――この事件の成り立ちを考えていけばいい。 «この事件の区分は何なのか?» 自ら身を隠した“失踪” 第三者の手によっての“誘拐” 七不思議による“消失” 考えが定まったのなら、私が気づいた違和感から紐解いて行けば―― まずは、始まりの違和感。 沙沙貴苺さんが居なくなってしまった自室で受けた違和感。あれは―― 林檎さんの態度 林檎さんへ貸し出していた銀河鉄道の夜 なぜ早朝に消えたのか さっきまで飲んでいたかのような炭酸水 そしてもう一つの違和感。お風呂に入る前の沙沙貴さんたちの部屋―― 差し出された炭酸水 読まれた形跡のない銀河鉄道の夜 寒くもないのに閉められたカーテン 誤っていた製造年月日 「……蘇芳さん?」 ――恐らく、これで正しい筈だ。 (……でもまだ確かなことは言えない) 「どうしたの? 何かあった?」 まだ証拠が確実ではない私は、二人へ首を振ると、もう一度推理してみるために湯船へ向かった……。 「ん、どうしたの蘇芳さん?」 たどり着いた推察に、私は自然と立ち上がり湯気立つ浴槽を見た。 「……気分が悪くなってしまったの。先にあがるわ」 「え、そうなの。ついて行こうか」 「平気よ。少し横になればよくなると思うから」 「え、蘇芳さん気分が悪くなったって言った? ちょ、ちょっと待って。すぐに髪を洗ってしまうから!」 「洗っても乾かすまで時間が掛かるだろう。ほら」 シャワーノズルを奪い立花さんの髪を洗ってあげるマユリさんを見―― 私は林檎さんへ先にあがるねと告げると、ふらつく足取りで浴場を後にした……。 全くの暗闇の中、夜気を裂き歩んでいく。 春とはいえ肌寒さを感じながらも、私はこれから起こる事柄に憂鬱と昂ぶりを覚え、しっとりとした汗を掻いていた。 病で伏せっているときのようだと思う。 脂汗は止めどなく溢れてくるのに、肌に触れる外気はひたすらに冷たい。 自分の考えが正しければ彼女を取り戻すことが出来る。しかしどうしようもなく壊れてしまうことも考えられる。 ともすれば止まりそうな足。 しかし、私の背後に迫る二つの足音が歩みを止めることを許さなかった。 足音は正確に刻まれ、そして―― 仄暗く陰鬱に沈んだ温室へとたどり着いた。 視覚があやふやな所為か嗅覚が研ぎ澄まされ、濃密な薔薇の香りと……大麦を使ったパンの匂いが感じられた。 匂いの先には、 「……本当だ」 「……何で彼女がここに」 私が既に来ていると話してはいたが、半信半疑だったアミティエらは口々に言い、 「……蘇芳ちゃん」 先客である林檎さんは私へと不審げな瞳を向けてきた。 「……ああ、そうか林檎さんも呼ばれたんだね」 「え、ああ……そうなのね。意味深な言い方をしたから驚いたじゃない」 平時とは違う温室の情景。 色鮮やかな花々は灰色に染まり、まるで時が止まったようにも思える。様相の違う異界に日常を取り戻させようと二人は笑った。 「ごめんなさいね。でもこの場所へ来て貰う必要があったの。血塗れメアリーの儀式で消えてしまった苺さん――」 「彼女を消した“犯人”を捕まえるためには、この温室じゃなきゃ駄目なの」 「犯人って……」 「苺が消えたのは自分からでなく、第三者がいたってことかい?」 「……ええ」 私の告げた言葉に二人が絶句する。 それはそうだろう。立花さんは頑として本人の意思で、マユリさんはオカルトが全てではないとしていても、多少は信じていたようだから。 生々しい“犯人”と言われる者がこのお話の中に入り込むのは埒外だったはず。 「犯人と言うからにはその……蘇芳さんには目星はついているんだね?」 「……本当なの?」 「ええ、攫った犯人は誰なのか……恐らく間違いはないわ。でも犯人を捕まえるよりも一番難解なのは、攫われた彼女の所在だわ」 私の言葉に立花さんも……林檎さんも首を傾げた。 「……それは道理だね。苺が見つかれば攫った相手はおのずと分かる」 何だ、そういう意味かと立花さんは頷くも私へ近づき、しっかりと瞳を合わせてきた。 「苺さんの居場所を知っているの? それなら早く行きましょう。犯人がいたって私たち四人でなら何とかなるわ」 「腕に覚えが……という訳ではないけど、私も力を貸すよ」 「……わたしとしても」 「ごめんなさい。苺さんの居場所はまだ完全に特定できていないの」 「この消失事件で一番難しいのは攫われた彼女だと言ったでしょう」 「そう、か。確かにそう言っていたね。なら、」 話し始める前に、まず私は“違和感”という言葉を口にした。 「この苺さんの消失に絡む事件は、すべて違和感から始まっているの」 「違和感って……何が? だって攫われて消えて……別段おかしなことは……」 「そもそもこの事件の成り立ちがおかしいの。まず苺さんたちが辞めていった級友たちを怪しみ、学院に広がっているという噂を追った」 「そして行き着いたのは血塗れメアリーという七不思議」 「……オカルトで人が消えるということ?」 「ええ。私は苺さんたちから話を持ちかけられ、次いで八代先輩――」 「そしてさらに詳しい話を知っている、小御門先輩に血塗れメアリーの儀式の話を聞いた」 「だからオカルトで人が消えたというあり得ない事が起きても、もしかしてという思いが抜けなかった……」 「確かにいきなり消えたと言われれば何を言っているんだとなるね。今、筋立てて言われても、私たちが何故信じたのか……あっ」 「そう。今マユリさんが気づいた通り、違和感を得てもおかしくないのに、自然と消失を信じてしまっていたのはもう一つ……」 「苺さんが消えてしまったという部屋に私たちが乗り込み、消失の現場を目にしてしまった所為なの」 「……確かに。まるでメアリー・セレスト号のような現場だったものね」 「ごめん。そのメアリーなんとかって?」 「海上で起きた有名な都市伝説よ。メアリーセレスト号が漂流しているところを見つけ、別の船の船員が乗り込んだところ――」 「船の中には船員が誰もいなかった。朝食は食べかけのままで、コーヒーはまだ温かく、湯気を立てていた」 「まるで今の今まで其処にいたかのように……」 「……何だかあの日の沙沙貴さんたちの部屋と似ているわね」 「確か、救命ボートも全部そのままで綱をほどいた形跡もなかった」 「調理室では火にかけた鍋がグツグツと煮立ち、水夫の部屋では食べかけの鳥の丸焼きと酒がそのまま残っていた……だったかな」 「とにかく9人の乗組員はまさに神隠しにあったように消え失せてしまった」 ――期せずしてその怪異も“メアリー”の名を冠している。 もしかしたら分かっていたのかとも思う。 (いや、これに関しては偶然の筈だ) 「……本来、あり得ないと理性が訴えかける出来事も筋立てた推論、そして現場を見てしまった所為で――」 「私たちは消失というオカルトを信じてしまった」 「呑まれてしまった所為で、理性を納得させるため、彼女がひょっこり戻ってくるという事にすがり、待つことになった」 「本当なら直ぐにでも報告をしなくちゃいけなかったものね……」 逆に完全に呑まれなかったことで探索を提案した彼女が呟く。 「閉鎖された環境、与えられる情報、そしてあらがいがたい現場を目にした状況」 「それらがオカルトを信じさせてしまった。でもオカルトを抜いたら途端にこの事件は単純になる」 ――単純、という言葉に沈黙が横たわる。 しばしの時が経ち、 「まさか……」 「ええ。これは――この消失は、血塗れメアリーの儀式が起こした怪異なんかじゃない」 「――そうよね“沙沙貴林檎”さん?」 私の言葉を受け一斉に疑惑の目が向けられる。そう、怪異でなければ真っ先に疑われるのは―― 「……わたしが苺ねぇを攫ったと見せかけたとでもいうの?」 「確かに……あれが血塗れメアリーの儀式の所為じゃないっていうなら、消えたと証言した林檎さんが一番怪しいことになるわ……」 「そもそも消えたというのは林檎さんの証言だけだ。私たちはその現場を見てはいないんだから」 いかようにもやりようがあると気づいたアミティエはいっそう疑惑の目で彼女を見遣る。 しかし林檎さんは、らしくない笑顔を向けた。 「……ふ、ふふ。おかしいですよ」 「……っ」 「何が、って尋ねてもいいかな?」 彼女はいつものように戯け手を広げ、私の目を射すくめると軽やかに笑った。 「……少し考えれば分かることですよ。そもそもわたしたちは辞めていった級友の理由を探して行動していた」 「そして八代先輩からヒントを得、小御門先輩から儀式の作法を教えて貰った……」 「姉の消失にわたしが噛んでいるなら、八代先輩、そして小御門先輩すら操っていなくちゃならないですよね?」 「先輩たちの言葉があって、初めて儀式が行われて消えたのだから。……言っている意味わかりますよね?」 「“A=B”にはならない。消失を望んでいたとしても、血塗れメアリーの儀式という言葉を引き出すには先輩たちを操るか――」 「予知でもしないと無理ってことか」 逆襲を受け眉根を寄せ口を閉ざすしかない。あと少しなのに届かない、もどかしさにアミティエらは私へとすがる視線を向けた。 「――沙沙貴苺さんの消失は以前から用意されていたものだわ」 「だから蘇芳ちゃん、違うと言ったですよね?」 「先ほど林檎さんが言ったのは、血塗れメアリーの儀式の話が出たことは偶然で用意のしようがないと言うことだけど……」 「それは間違いなの。これは偶然でなく事前に用意されていた答えだったのよ」 「……何を」 「ちょっと待って……もしかして今回の件に八代先輩か、小御門先輩が噛んでいるって事じゃないよね?」 それも考えてみた。しかし、 「二人の先輩を抱き込まなくても可能な話なのよ。いい? 消失は血塗れメアリーでなくてもよかったの」 「たまたま血塗れメアリーの儀式の話題が出ただけなのよ」 「偶然が重なるのを待っていたってこと? そんな……」 「違うわ。二人とも小御門先輩が話していたことを聞いていた筈よ」 「この学院の七不思議はすべて“攫う”ということがキーワードになっているって」 「ん……ああ、そうか……!」 「そう。林檎さんは知らない振りをしていたけど、七不思議の四つすべての逸話を知っていたの」 「そしてそれらが全て“攫われる”という結末のことも。だから事前に用意することができた」 私の投げかけた言葉に反論は――ない。 「そうか、そうよね。それなら調べている段階で、どの七不思議の話が出ても問題ない。場所だけを変えればいいだけだわ」 アミティエの言葉に頷き、私は居場所を突き止めるために頭の中で時系列を組み立てる。 「彼女が私たちの部屋のドアをノックした朝、既に部屋には苺さんの姿はなかった」 「でもこれは消失したわけでなく、ただ夜の内に姿を消していただけ。部屋の細工を確認した後、私たちを呼びに行き――」 「儀式の余韻で麻痺している私たちへ、さも今まで苺さんがその場にいた風に装った」 「私がメアリー・セレスト号を引き合いに出すほど、今の今まで其処にいた風になっていたね」 そう、直前まで其処にいたよう、分かり易く演出したのは、 「……炭酸水」 「そうだわ。苺さんへ用意したといって……」 そこで違和感に気づく。 「あれ、でも夜に既に用意していたのよね。それにしては泡が……」 事前に用意していたにしては炭酸の気が抜けていなかった。 「それも私が抱いた違和感の一つ。おそらくあのグラスは夜の内に事前に用意していたものだわ」 「え、だって……」 「これは沙沙貴さんのミスなの。私たちを部屋に案内した後に気づいて……慌てたのね」 「それで多少の違和感をもたれるのも覚悟して、いつも持っている調味料をグラスに入れたの」 私の言葉に苺さんと親しいマユリさんは、ああ、と手を打つ。 「確かに苺はスパイスボトルを持っていたな」 「え、なに? スパイスボトル?」 「何でも最近嵌まっていたらしくて、何にでも塩を掛けていたよ。……そうか、塩を掛けたのか」 これは理科の実験をやったことがあるならば誰でも分かる。 成績の良い立花さんは塩が炭酸を活性させることを知っていたのだろう、大きく何度も頷いた。 「……でも今話したのは推論ですよね」 「そうね。でも私は今話したことが正しいと考えているわ」 「……そう。でも証拠はない」 私のやり取りを見詰めるアミティエ。 やはり壊さなくてはならないのか、と私は彼女の部屋で目にした小説の話題を振った。 「……四日前、図書室で八重垣さんと会ったわよね」 怪訝に頷く彼女。沙沙貴姉妹、二人とも彼女に会っている。否定しようがない。 「その時、林檎さんは本来八重垣さんに渡すはずだった小説、銀河鉄道の夜を譲った。そう――旧版よ」 「…………」 「ねぇ林檎さん。旧版の一章、“〈午〉《ご》〈后〉《ご》の授業”は面白かったかしら?」 沈黙。 彼女にも分かったのだろう。この質問の意図している意味が、罠だということが。 彼女はふっと息を吐くと、 「……試すなんて嫌ですね。一章の題は違う」 そう言った。 ――確かに知らなければ、仕掛けた罠は一章の名称を変えているとしか思いつかないだろう。 しかし、 「……銀河鉄道の夜は宮沢賢治の手により四回の改変が加えられた。現在よく私たちが目にするのは、最終稿と呼ばれる第四次稿」 「いわゆる新版。そして私が林檎さんに手渡したのは、旧版と呼ばれる第三次稿」 「そして第三次稿・旧版と、第四次稿・新版の明確な違いは……旧版は一章がそもそもない」 「四章ケンタウル祭から始まるの。……なぜ存在しない一章をあると言ったのかしら?」 アミティエ二人はいまだ理解できないのか、困惑した表情のまま。確かに彼女たちからすれば、只小説のうんちくを聞かされたにすぎない。 だが、これは決定的な事だ。 林檎さんであれば分かっている筈の事柄。 ――私は俯き沈黙を守っている彼女の名を告げた。 沙沙貴林檎 沙沙貴苺 匂坂マユリ 花菱立花 そう――私が名を告げると、 「え、ぁ……意味が分からないわ。蘇芳さん、何を言っているの?」 「――悪いが、タチの悪い冗談にしか聞こえない」 アミティエらに言われ、困惑し、目の前に対峙する彼女を視る。 「……っ」 嘲りの表情。 決定的なミスを犯し――私は、 膝を折り、その場にうずくまることしか出来なかった……。 「そろそろ終わりにしましょう。苺さん」 「何を……」 困惑したままの彼女たちを尻目に、私は苺さんの元へ歩み寄るとポケットからハンカチを取り出し、彼女の目元を拭った。 「え、ぁ……ほくろが……!」 ファンデーションを拭き取られ、彼女の頬にもう一つの可愛らしいほくろが現れた。 右の目の下にほくろが二つ並んでいるのは“沙沙貴苺”さんだ。 彼女は沈黙を守ったまま、ほくろ以外は林檎さんのまま私たちに向かって微笑んだ。 「ばれちゃった」 童女のように悪意なくあっさりと告げる苺さんに二の句が継げないのか、立花さん……マユリさんも只彼女を見詰めるばかり。 「ふふ! でもすごいよねぇ。よく気づいたね蘇芳ちゃん」 「今まであった違和感をすべてさらってみたら分かったの」 「決定的だったのはお塩と……それと私が温室に来たのを考えたら分かるでしょう?」 「塩のスパイスボトルを持っているのはわたしだものねぇ。ここが分かったって事はあれも読んだんだ?」 新たな疑問符が出来たことでアミティエらもようやく持ち直してきたのか、絶句した表情から怪訝な顔つきに変わった。 「今まで得た違和感をさらっていったら、沙沙貴さんたちの部屋で、今までしていなかったのに急にしたことがあったの」 「それでああ、連絡を取り合っていたのはこれだなって分かったのよ」 「連絡? え、ああ、そうね。わたしたちは隅から隅まで学院を探していたわ」 「連絡を取り合っていなかったら見付かってしまうものね。でも、手紙なんて書いたら……」 「証拠を残してしまう。それに手紙でやり取りする暇はなかった筈だ。只でさえずっと私たちと一緒だったじゃないか」 「ええ。連絡を取ろうにも怪しまれずに部屋に戻るには、授業が終わり自由行動になってから……」 「でもそれではクラスメイトは皆、寮に戻っている。たくさんの目があるのに危険を冒す筈がないわ」 「反面、授業で誰もいない時に部屋に手紙を置いていくにしても、今は私たちと行動している。不意に部屋に寄って見つかるとも限らない」 「そうなんだよ。だから子供の頃にやっていた遊びで代用していたんだ。……でも、バレちゃったんだね」 ため息をつく苺さんに、困惑したままのアミティエたちに私は違和感よ、と告げた。 「今までしなかった行為を順に思い出していくの。すると今日の夜、森の探索をした後、沙沙貴さんの部屋に集まった時……」 「私たちにお茶を出してくれる前に、ある行動をしたわよね?」 「え……炭酸水をいれてくれる前……確か……ええとそうだわ、カーテンを引いて……」 「……ああ、そうか成る程。私も子供の頃、弟とやった記憶があるよ。窓に落書きをしてスパイごっこをした」 マユリさんの言葉でようやく分かった立花さんは手を叩く。 「季節柄ちょうど佳かったんだよねぇ。夜はまだ肌寒いし。絶好のホワイトボードだった」 「でもね、今日は夜になってから三人急に部屋にあがったでしょ? 寒かった室内がわたしたちの体温で窓が曇って……」 「文字が浮かび上がってしまった……だから急にカーテンを閉めたのね……!」 感心したように立花さんは頬を紅潮させ、苺さんと私を見遣る。 (勝手に部屋にあがったのは悪かったけど……) 浴場での思案でピースがつながり、犯人の像が浮かんだ私は、違和感を解消すべくお風呂から上がって沙沙貴さんたちの部屋を訪れた。 ――そして、カーテンで隠された窓に息を吹きかけると……時間を指定し温室に来るよう書かれた文字を見つけたのだ。 「そろそろ姿を見せてほしい。心配していたのよ」 「……だね。出てきてよ、林檎。どうもわたしたちの負けみたいだ」 不意に気配が充ち、植物の垣根の間から現れたのは―― 「……ごめん。蘇芳ちゃん」 正真正銘の沙沙貴林檎さん、だった。 「…………」 「林檎さん……」 硬直し注視してしまうのも無理はない。 入れ替わりを直接目にしていたとはいえ、今まで彼女と“苺さん”を探していたと思っていたのだから。 「これ、今日の夕食だよ」 温室に入り始めに嗅いだ匂いの正体、紙袋に入れたパンを苺さんが林檎さんに手渡した。 林檎さんは受け取るも、私を、立花さんを、マユリさんを凝っと見詰めた。 「なんで……」 「なんでこんな馬鹿な真似をしたの? わたしたちをからかう為? 答えて!」 「…………」 「……林檎はただ協力してくれただけだよ。発案者はわたし。理由、理由ね。聞きたい?」 「ああ。ここまで私たちを振り回してくれたんだからな」 強張った面持ちの彼女を見、苺さんは場違いな笑みをこぼすも……すぐに笑みをひっこめて頭をがしがしと掻いた。 「理由はね。……ざっくり言うとこの学院に飽きたんだ」 「飽きた……?」 「うん。だってそうでしょ? 入ったばかりの頃は新しい生活でわくわくしたけど、落ち着いたら何もない森の中だよ?」 「授業が終わったって遊びに行く場所もない。携帯だって持ち込めないし、当然ゲームだってテレビも見られない」 「退屈で退屈でたまらない。$ねぇ、皆そうだよねぇ?」 「……そんなことは、分かっていたことだろ」 「そうだね、知っていたよ。でもいざ始まったらってやつさ。この二か月で辞めていったクラスメイトの気持ちが分かるよ」 「家に帰れるのは夏休みだけ。それもたった数日だよ? こんなものは牢獄と変わらない」 ――ああ、そうか。 「だから計画したの。消えた振りをして搬入に来た車に忍び込んでここから出るんだ」 ――彼女には、沙沙貴さんには帰りたい場所、家族がいるのか。 「ねぇ――立花ちゃんも黙っているけど、そう思うでしょ? 思わないわけないよねぇ?」 ――ああ、それは……。 「わたしは……」 それはきっと素晴らしいことなのだろう。 暖かい家、何も言わず自分を迎えてくれる家族、 きっと期待を裏切り戻ったとしても、抱きしめてくれるのだろう。 「……蘇芳さん?」 アミティエが眼鏡越しに目を瞬かせ、驚き凝っと私を見詰めた。 何かおかしな顔をしているのかな、と頬に触れる。 「……ぁ」 「……泣いて」 頬に触れた指先が冷たさを……いやほんのりとした温かさを伝える。いつの間にか私は、涙をこぼしていたらしい。 「……ぁ……ぅ……わ、わたし……」 胸を押さえショックを受けたかのように目を臥せる彼女へ、私はにっこりと微笑んだ。 「ごめん。悲しくて泣いたわけじゃないの。ただ……帰れる家がある沙沙貴さんが羨ましくて……そして、」 「……無事で本当に佳かった」 吐露した本心からの言葉に、苺さんは胸をおさえうずくまる。林檎さんは姉を支えながら囁くように言った。 「……はじめは苺ねぇの言う通りに思っていた。わたしもこの生活に退屈していたから……」 「だから……騙すことは悪いと思っていても、止めることはしなかった」 「でも……立花さんやマユリさん、蘇芳ちゃんが本当に心配して探してくれるのを見て……」 「わたし……わたしはごめんって……でも、言い出せなくて……」 「……ゴメンなさい。でも……今更だよね……」 俯く二人に私は胸にこみ上げてきた言葉を唇に乗せた。 「いいのよ。だって――」 言葉にするのはありったけの勇気がいった。 いつもは恥ずかしくて、自信がなくて、不安で、とても口に出せる言葉じゃない。 でも今なら言える。いや彼女たちに伝えなくちゃいけないんだ。 「――だって、友達じゃない」 「蘇芳ちゃん……わたしたちのことを、友達だって……」 「……あんなに酷いことをしたのに……友達だっていってくれるの……?」 「そうよ。私は勝手にそう思っている。だからもういいの。友達だからこそ、不安だったし怒っていたけれど、でも許したいの」 私の名を呼び、泣きながら抱きついてくる。 二人の体は温かく、心まで暖めてくれる気がした。 「蘇芳さんに免じて、許すことにしますか。これはもう仕方ないね。……立花?」 「……ええ。そうね。ううん……というかそれよりも」 「なに?」 「わたし蘇芳さんに友達って言われてない……。友達よね? ねっ?」 ――そうだ。早く言葉に出せば佳かった 秘めている思いは秘めたまま 言葉に出さなくては、行動に移さなくちゃ分からないんだ だから、私は言おう。何の気負いもなく、友達という言葉を それはきっと当たり前のように―― 私の考えていた推理は、一部こそ確かに正しかった。 でも、 彼女が潜んでいた場所だけは見つける事ができなかったのだ。 犯人が分かってはいても、隠れている場所が分からない以上―― どうする事もできなかった。 「そろそろ着替えないと。次の授業が始まってしまうよ」 「……うん」 レオタードに包まれた自分の姿を見、私は……鏡の中に彼女の姿を視てしまう。 「……もう二週間になるか、早いね」 鏡を見詰め寂しげに呟く。マユリさんも彼女を思い返しているのだろう。 「私は……。七不思議でいなくなるような生徒は……どこか人と打ち解けられない。壁を作る人だと思っていた。でも……」 口の端を歪め、鏡越しに私と目が合う。 「まさか彼女たちが……沙沙貴さんたちが居なくなってしまうなんて、考えたこともなかった」 「だって……いつも愉しそうに笑っていたじゃないか」 「そうね……」 血塗れメアリーの儀式、あの夜から私たちの周囲は変わってしまった。 まるで本当に七不思議の呪いで攫われてしまったかのように。 沙沙貴姉妹は姿を消して―― 学院から去ってしまったのだ。 (苺さん……林檎さん……) 友達になれるかもしれないと思えた彼女たち、 私は鏡の中に二人の姿を視――恨みがましい目で私を睨んでくる彼女たちから、そっと視線を逸らした……。 私の考えていた推理は、一部は確かに正しかった。 でも、 最後の一手を差し違えてしまった。 その代償は―― 「落ち込んでいても仕方ないわ」 「立花さん……」 「確かに二人がいなくなったのは寂しい。でもわたしたちは此処で過ごしていくしかないのですもの」 「……もう二週間になるのか」 沙沙貴姉妹が、あの夜の温室から姿を消して、早二週間が経っていた。 結局、姉――沙沙貴苺さんを見つけることは叶わず、 林檎さんまで失意からか、家に戻ってしまった。 「きっと二人ともお家に戻っているわよ」 「……ええ」 学院側から連絡を取ることを禁じられた今、私たちは二人が共に在ることを願うしかない。 (ごめんなさい。苺さん……林檎さん……) 友達になれるかもしれないと思えた彼女たち、 私は紅茶の琥珀色の表面に、二人の陰が映ったような気がして、そっと目をつぶった……。 『おおきなかぶ』というロシア民話がある 大きくなりすぎたかぶを一人では抜くことができず おじいさんがおばあさんを呼びおばあさんが孫娘を呼び孫娘が犬を―― 協力しあうことの大切さを説いた民話 しかしこのお話はかぶを抜いたところで唐突に終わる 抜いた後のかぶはどうなるのだろう 協力してくれたものへ分けてあげるのだろうか 料理を振る舞ってあげるのだろうか 物語は協力し合うすばらしさを説いたところで終わる、が…… 現実はそれから後もずっとずっと生々しくも続く これから始まるのはエピローグを迎えた後の―― 延々と続く日常の始まり 血塗れメアリー事件から2週間が経ち、 学院は今月末に開かれる聖母祭の準備に色めき立っていた。 宗教学校という特色はあるものの、文化祭や体育祭など通常の行事は行われる。 けれども6月末に行われる聖母祭はやはり学院の中でも特別に位置づけられているせいか、熱の入りようが違うようだ。 「はいはい静粛に。とりあえずは挙手制にするから、意見がある者は手を挙げてから発言してくれたまえ」 八代先輩の言葉に上級生下級生とも手を挙げ―― 「……蘇芳ちゃんは手を挙げないの?」 「遠慮してたら目立てないよ」 同じ料理部である沙沙貴姉妹が、私の手を取り無理矢理に挙げさせた。 「ぁ……ぅ、ちょ、ちょっと! ばんざいしているみたいになっているから……!」 「……この方が指して貰える」 「そうそう」 悪戯笑いを浮かべる二人に私は慌てて手を下ろそうとするも、 「おお、新入部員君は随分とやる気があるじゃないか。それじゃ聖母祭で何をやりたいか発表してくれ」 八代先輩が面白そうなことを見逃すわけもなく、無慈悲に指されてしまう。 私は、ため息をつくと手間が掛からず、そして無難な料理を頭に浮かべつつ席を立ったのだ。 ――2週間という時は私自身の生活を、少しずつながらも変えていった。 まず私は前述のように料理部の一員となり、アミティエの二人もそれぞれ部に所属することとなった。 匂坂マユリさんは興味のあった美術部へ、 花菱立花さんは合唱部へとそれぞれ入部した。 立花さんからは強く合唱部へと誘われはしたけれど、ピアノが目に入る環境に身を置くのはつらい。 誘いを固辞し、八代先輩、そして沙沙貴姉妹から熱烈に誘われていた料理部へと入部することになったのだ。 発表を終え、着席した私は両隣に座る二人へと抗議する。 「もう止めてよね。全然考えていなかったから慌てたじゃない」 「いやぁ何だか手を挙げたがっているように見えたからさ」 「……こういう所で目立って蘇芳ちゃんは、どんどん株を上げていかないと」 「私は何を目指しているの?」 呟く私に破顔一笑。随分と砕けた間柄になってきたと思う。 あの温室での夜。私が告げた言葉は彼女たちに受け入れられ、初めての友人ができた。 始めは友人となる前よりもぎこちなくて面映ゆい思いもしたが、徐々に以前のように――いや、もっと気安く言葉が交わせる間柄になった。 「でも聖母祭かぁ。名前は立派だけど、用意するものとか文化祭とそう変わらない感じだよねぇ」 「演し物は通常の文化祭とそう変わらないけど、聖母祭では特別な催しがあるってきいたわ」 「……特別? 特別ってどういう」 「少しお喋りが過ぎるんじゃないかな。今は聖母祭で発表する演し物を一考しているんだ。君たちも一つ知恵を絞ってくれないか」 怒ってはいないものの上級生の皆さんにクスクスと笑われ赤面してしまう。$俯く私へ、 「ふむ。君のクラスはバスキア教諭が担任だったね。聖母祭の成り立ちやら詳しい話を聞かされていないのかい?」 「成り立ちについては詳しくお話されていましたけど……。具体的な話はあまり……」 「あの人は教育者ではなく聖職者だからねぇ」 「――仕方ない。詳しく知らぬのに案を出せというのも忍びない。少し説明することにしよう」 「あの……他の先輩方のご迷惑じゃ……」 「なに、乙女たちの放課後はまだ始まったばかりだ。説明をしている間に、他の部員は案を考えてくれればいい。それでいいね?」 八代先輩が尋ねた瞬間、はい、と間髪いれず声が上がる。相変わらずのカリスマ性だ。 「ではまず何を聞きたい?」 「成り立ちは聞きましたから、文化祭とは違う別種の催しなどがありましたらそれが知りたいです」 「うむ。まぁ君たちが内緒話をしていた通り、聖母祭と言っても大体は文化祭と毛色が似ているものだ」 「違うのは主としているところが聖母様を讃えるためのものということ」 「そして分かり易い催しとしては、マリア様を担いで校内をねり歩くことかな」 「校内をねり歩くって……」 「像を担いでわっしょいわっしょいって?」 「うふふふっ! そいつは面白そうだ。だがまぁそうじゃない。校内で決まったルートがあってね」 「選ばれた生徒らが花を撒き、その上を聖母像を奉った山車が通って行くんだ。聖母役の生徒も一緒にね」 「まぁちょっとしたパレードのようなものだね」 「それはまた……」 華やかなものだろうなと、とある夢の国のパレードを厳かにしたものを連想した。 「パレードを終えた後、聖母像を聖堂に安置し終えてからは、通常の文化祭と変わらない」 「まぁ宗教学校ゆえ、演し物は落ち着いたものが多いけどね。そして日が落ちる刻限になった頃、聖堂に集まり聖歌を歌うのさ」 「聖歌……」 以前弾かされた楽曲を思い出す。 「歌はトータプルクラ。マリア様を讃える歌さ。伴奏者と歌い手が全生徒の前で披露する……というのがまぁ変わったところかな」 成る程、と頷く。文化祭と同じと思ってはいたけれど、その二つだけでも随分と趣は変わってくる。 「それで他に聞きたいことはないかな?」 ニカイアの会では何かするのですか? 八代先輩が聖母役をするのですか? そういえば、思う。 「ニカイアの会では何か演し物をするのですか?」 と言った。八代先輩は長いまつげをパチパチとさせると、愉しげに笑う。 「ニカイアの会は全体の運営だよ。聖母役を選んだり山車を用意したり、各クラスの指導とかね。しかし、ふふふ」 「何がそんなにおかしいんですか?」 「いやなに。実は以前ニカイアの会でも何か演し物をやろうと提案したことがあるんだ。演劇とかね」 「まぁばっさり却下されたが、何かやればいいとの意見が僕と似ていたので、少し面白く感じたのさ」 「は、はぁ……」 八代先輩と一緒、ということに喜ばしさと共に一抹の不安もよぎる。 「さて説明はこれまでにして、料理部での演し物を決めてしまおうか」 聖母役と言う言葉が耳に残っていた私は、 「聖母役は八代先輩がされるのですか?」 と尋ねた。 彼女は何故だか少しばかり頬を染め(色白なのですごく目立っていたが)私の肩を親密に叩いた。 「いやだな蘇芳君。からかってはいけないよ。少しドキドキしてしまったじゃないか」 「え、あの……」 「聖母役に選ばれた者は、聖母祭の最後に、聖歌トータプルクラを歌うのさ」 「伴奏者と二人の共演でね。そして共演した二人は結ばれるという……」 「はぁ……」 ロマンのある話だが、何故八代先輩が頬を赤らめたのか分からない私は、怪訝に頷くしかない。 「合唱部の代表……ネリーは君に伴奏者として目星を付けていてね。君が伴奏をするなら僕と……その……」 「ぇ……ぁ……!」 ようやく意味が分かった私は、自分もかっと頬を染めてしまった。 つまり八代先輩に、私と恋人同士にならないかと言っているようなもので……。 「まいったな……。あまり正攻法で言われるのは馴れていないのだが……」 「ぁ……そ、そうじゃなくて、ち……」 「はい。そこまで。そろそろ部の演し物について話を進めましょう!」 止められ赤くなった顔をあげると、料理部の皆さんの険しい顔がずらりと……。 「……そ、そうですね。早く演し物を決めましょう……」 そしてどんな料理を振る舞うのか紛糾し―― 一方、クラスの演し物についても中々決まらず、 「――ねぇ蘇芳さん。料理部では何をやるか決まった?」 級長である立花さんは頭を悩ませているよう。 「実はまだ決まっていないの。当然料理を振る舞うのは決まっているけど……」 「本格的なお料理か、デザート類にするか意見が割れてしまって……」 「そうなの。料理部もまだなのね……いけないことだけど、少しほっとするわねぇ」 レオタード姿のまま肩を落とす立花さんに笑みを零してしまう。 「あっ、笑うなんてひどいじゃない。すごく真面目に悩んでいるのに」 「ふふ、ごめんなさい。何だか衣装とミスマッチで……」 「どうしてもレオタード姿が似合わないのよね。蘇芳さんみたいにスタイルが佳ければいいんだけど……」 上へ下へと視線を送られ赤面してしまう。 「もう……立花さんだって似合っているじゃない。私バレエが上手ですごく憧れているのよ」 「え、そ、そうなの。それは……ふふ、嬉しいわ」 互いに頬を染めてしまい、気恥ずかしい。と、 「授業も終わったんだ。そろそろ着替えて……って、何モジモジしているんだ?」 「いえ……少し、その……」 「ほ、褒めてくれたから照れてしまったの。それで何の用?」 「随分な言い方だな。もう私たちしかいないから早く着替えようっていいに来たんだよ。$それより、一体何を話していたんだい」 「え……とそのレオタード姿が似合うって……」 「違う、そうじゃない。それより前さ。まさかお互い褒め合って着替えるのが遅れたってわけじゃないだろ?」 言われ照れながらも、まだ決まっていない演し物についてマユリさんへと語った。 「ああ、クラスの演し物ね。確かに放課後あれだけ話したってのに決まらなかったものな」 「皆好き勝手をいうから……。食べ物関係なら許可を取らなくてはいけないし」 「例えば……すごく嫌だけどお化け屋敷をするにしても、暗幕を頼まなくてはいけないでしょ。そろそろ決めなくちゃまずいのよ」 「まぁ、まだ焦る時期じゃないけど、何をするかまで決まってないのは拙いかもね」 「マユリさんの……美術部はどんな演し物なの?」 「うちは普通に今まで描いた絵を展示するのさ。まぁ私の提案で、パーティションで区切って迷路にすることにしたけどね」 「それすごく面白そうだわ」 「だろ? 普通に展示するだけじゃ足を止めないと思ってさ」 「まぁうちは今日、暗幕と迷路用のパーティションの見積もりをだして申請をすればとりあえず終わりかな」 マユリさんの言葉にはぁ……と深いため息を一つ。 「いいわね。そっちはすぐに決まって……」 「部として何をするかが決まっているから比べても……。私の方もとりあえず料理を作るのは決まっているわけだし」 「クラスの演し物を同じには比べられないわよ」 「そう、そうよね。慰めてくれてありがとうね」 瞳を潤ませ手を握ってくる彼女に、近づいたことから立花さんのよい匂いが鼻腔をくすぐり変に意識してしまう。 「あ、そ、その……それで今日の放課後はどうしようか? 残って演し物を決める?」 「そうね。お茶会もしたいけれど〈後顧〉《こうこ》の憂いを払ってからしたいものね」 「でも挙手制だと決まらないし、どうやって決めれば……」 二択にすればいい 委員長権限で決める (そうだわ……!) さっき演し物を決めたマユリさんの話を聞いて思いついた私は、こんなのはどうかしら、と立花さんへ切り出した。 「先ずは二択にすればいいのよ」 「二択って、何と何を?」 「皆から意見を聞くにしても、方向性を定めないと何がいいか悪いかもないでしょ?」 「マユリさんの美術部のように、まずは“絵”を主題にするように決めるのよ」 「それを決める為の挙手制で……」 「だからまずは、食べ物系か演目系かどちらかを多数決で決めたらどうかしら」 「食べ物なら派生するものも定まってくるし、演目系なら何かの展示だとか演劇だとか方向性が決まってくると思うの」 「そうか……そうね! それはいい考えだわ!」 手を握られ嬉しそうに飛び跳ねる彼女へ提案して佳かったと思った。レオタードのスカートが揺れ変な気持ちになってしまいそうだけど。 「それじゃ早く着替えて皆に集まるように言っておこう。他の子も部活動があるだろうし、早めに出席するように言っておかないとね」 うむむ、と悩む立花さんをほぐそうと、 「こうなったら委員長権限で自分の好きなものにするってどうかしら」 と言った。 「……え」 「それは……どうだろう。前も言ったけど全寮制の女の園だからね。あまり強権を振るったら面倒なことになるんじゃないかな」 「うん……。わたしもできるなら皆で決めたいと思うわ」 落ち込んだ様子でいう立花さんへ、私はわたわたと手を振りながら、 「じょ冗談よ。あまり悩んでいるようだから巫山戯てみたの。ごめんなさい……」 「蘇芳さんが巫山戯て……? ふふ……っ!」 「そう……そうなの。大人な蘇芳さんが冗談なんて言う筈がないって思っていたから、真に受けてしまって、こちらこそご免なさいね」 「い、いえ……詰まらないことをいって……」 「ううん。わたしを気遣って冗談を言ってくれたのだものね。嬉しいわ」 「でも委員長の権限を……って言っていたからわたしって、そんなに堅物で横暴な振る舞いをしているのかなって不安になっちゃった」 戯ける彼女に詰まり何も言えない。 「まぁ堅物の委員長ってところは正解だけどね」 笑うマユリさん。立花さんも、もう! と肩を叩くも怒ってはいないよう。 私は、 (立花さんの為に考えないと……) クラスの演し物を決める佳い方法を考えてみる。 (何か……何か……) マユリさんが言った美術部の話を思い出し、これならと立花さんへ提案する。 「あの……こういうのはどうかしら。まずは食べ物系をやるのか、演目系をやるのか皆に聞いてみるの」 「どういうこと?」 「食べ物系をするという事になったら、申請して許可を貰うための時間があるでしょ?」 「まずはどちらかを決めてから、挙手で決めていけばいいと思うの」 「なるほど……始めに演目かそうでないかを決めるのね。それはいいわねぇ!」 「うん。私も良い案だと思う。それじゃ早く着替えて皆に放課後集まるように言おう」 「部活動のこともあるし、先に言っておかなくちゃね」 「はい。それでは聖書の歴史を展示物として見せていく、ということで宜しいですね」 級長の声に放課後集まった面々は皆揃って声を上げ、頷く。 (ようやく決まった……) 私の提案である二択での投票から演し物に決まり、そこから展示、もしくは発表する演目を決めていった結果……。 展示し発表するものは宗教学院らしく“聖書”と決まった。 聖書と一言で言ってもキリスト生誕以前の預言者と神の契約を書いたもの、ユダヤ教による聖書を“旧約聖書”。 キリスト以降の彼の言葉や奇跡を、弟子達が死後書いたものを“新約聖書”と称されている。 そして映画や小説のネタとして多々用いられている最古の写本……紀元前1世紀頃書かれたとされる聖書は“死海写本”。 紀元前4世紀頃からギリシア語訳が作られるようになり、有名なものにアレクサンドリアで編さんされた“七十人訳聖書”というものがある。 一言で聖書と言っても様々なものがあるのだ。 それらを分かり易く体系づけ、書かれた人物・年代から背景を考え私見を述べ―― コピーが撮れ、貸し出されてもよいものは展示するというのが、私たちのクラスでの演し物となった。 「……何だか面白くなりそうね」 「うふふ、本当にそう。蘇芳さんのお陰だわぁ」 ぼうっとしていた私は慌てて振り向く。 いつの間にかクラスメイト等は、部活動の用があるのか三々五々部屋を後にしていた。 「もう割り振りは終わったの?」 「え? ええ、部活をやっていない人や、部活をしていても手が空いている人を中心に、クラスの演し物を用意することに決まったわ」 「これでようやく始められる。蘇芳さんのお陰よ」 「そ、そんなこと……。立花さんがまとめてくれたから。最後はきちんと意見をまとめていたし」 「ふふ、そういってくれると嬉しい。ねぇ――蘇芳さん。部活動で忙しいのは承知しているのだけど……」 「何かしら?」 「聖書の考察をしている関連本のピックアップを頼めないかしら? 指標が欲しいの。でも一人でするのは大変そうで……」 是非手伝うわ 時間が空いたときなら…… 確かに、と思う。 (手が空いている人が重点的に手伝いをするといっていたけれど……) そもそも立花さんも合唱部の一員だ。合間をぬって監督するのは大変だろう。 「ぁ……その……ダメだったらいいの。ごめんなさい。無理を言って……」 「あ、そうじゃないの! 立花さんも部活動をしているのに大変だなって。それなのに一生懸命だからすごいって思ったの」 「蘇芳さん……」 「だから私の手が必要なら是非協力させて貰うわ」 「ありがとう……蘇芳さん……!」 不意に抱きつかれかっと羞恥心が頭をもたげてしまう。彼女の温かい肢体、仄かに香る柑橘系の香り、首筋にあたる彼女の髪、 私は―― (手が空いた人が手伝ってくれるとはいえ……) 中心となるのは級長の立花さんだ。役割分担をうまく振らなくては間に合わないくらいの仕事量だろう。 でも、 「あの……それなんだけど……」 「ぁ……そうよね。蘇芳さんは料理部に入っているのだし、そちらが忙しいのよね……」 「ち、違うの! そうじゃなくて、お手伝いはするわ」 「でも合間を縫ってということに為ってしまいそうだから、あまり大手を振って手伝うとはいえなくて……」 そう弁明していると、立花さんはぱっと頬を桜色に輝かせて私の手を握った。 「いえ、いいの! その心遣いだけで嬉しいわ。それに少しでも手伝って貰えるなら心強いわ。蘇芳さん読書家だもの!」 童女のように満面の笑みで私の手を熱く握る彼女を見て、私もつい微笑んでしまう。 彼女のぬくもりを感じたまま、どう言おうか考えていると、彼女の口元がほころんだ。 「あのね蘇芳さん。わたしね」 「なに?」 「……最近あまり話せなかったからこうして二人きりでお話ができて嬉しいの」 「それは……」 非難めいた言葉に私は慌てて、一歩引くと弁解した。 「話せていなかったのは聖母祭で忙しかったからよ。別に他意があってのことじゃないわ。それに寮では話しているじゃない」 「そう……だけど、マユリさんもいるし……」 「あ〜! やっと見つけた!」 「え、わっ!?」 背中に衝撃を受け、思わず立花さんの胸に飛び込んでしまう。 「こんなところでイチャイチャして! 会議が終わったらすぐ料理部に集合だって話していたじゃない」 「……そう。抱き合っている場合じゃないですよ」 「ご、ごめんなさい……!」 顔に熱を感じながら勢いよく身体を離した。 「ぁ……」 「それじゃ早く……」 「ぁ、待って! 蘇芳さんには聖書のピックアップを頼んでいて……」 「それってさっき会議で、部活動に入っていない人か空いている人が手伝うって決まったことだよね?」 「それじゃ蘇芳ちゃんは弾かれるよ。だって今から大切な多数決の選挙があるしぃ」 「そうかもしれないけど……」 「……駄目。この子はうちの子ですから」 ぐい、と手を引っ張られ、 「あ、ちょっと! もう!」 憤慨する立花さんをよそに、私はグイグイと手を引かれ、哀れ攫われてしまったのである。 ――聖書のピックアップを頼まれてから数日が経った後も、 「あ、お話が……」 「そのことだけど……」 「はいはい。急いで急いで」 「……踊り子には手を触れないでください」 「ぁ、あの、きゃ……っ!」 「蘇芳さんは貴女たちのものじゃ……!」 「――佳かった。あのできれば新約聖書の、東方の三博士について詳しく書かれている本はあるかしら?」 「はいはい確か、前に読んだものの中に面白い説を書いている著者がいて……」 「……著者もいいけど、今日は八代先輩も来る」 「え、え?」 「先輩をお守りできるの蘇芳ちゃんくらいだし早く行かないと!」 「あ、で、でもまだ図書委員の仕事が……」 「……時間的にはもう閉めてもいい時間」 「あのねぇ、貴女たちいい加減に……!」 「本当は」 プライベートでは仕事の話はしたくなかったのだけどね、と立花さんが言った。 アミティエとして寮部屋になってすぐに、なるべく個人的な仕事の話は持ち込まないと約束をしてはいたが、これはこれ。 仕方ないわよ、と返し、頼まれていた書物をテーブルへと並べた。 「大体、この本の……付箋が貼ってあるところを拾っていけば、提示する議題と、解が分かるようになっているわ」 「ありがとう。これなら何とか間に合いそうだわ。部活の方でも忙しかったのに悪かったわね」 いえ、と謙遜する私へ、ギィと扉が開く音が言葉を遮らせた。 何度も邪魔されたことで立花さんも辟易しているのだろう、はぁ……と小さくも深い吐息をついた。 「あのねぇ、さすがに……!」 「さすがに何だい?」 「何だ、マユリさんだったの……」 「何だはないだろう。同室だってのに……うん?これって……」 私がピックアップした本を持ちぺらぺらとめくり、ふむと頷く。 「へぇ、名画から紐解く聖書の謎か、アダムにはへそがない……そうだったかな? あんまり注意して見ていなかったよ」 「あら宗教学校の美術部にしては少し散漫じゃない?」 「ふふ、まぁ宗教学校だからって宗教画ばかり描いている訳じゃないからね」 「そうなの? 何だか変な感じねぇ」 「そうかい? それを言うなら此処でプライベートな仕事を持ち込んでいる方がおかしく思えるけどね」 「……っ」 マユリさんは軽口のつもりなのだろうけれど、生真面目な立花さんはそう捉えきれずに憤り―― その怒りが自分の所為だと気付いているから、ぐっと飲み込んだのが分かった。 「そ、そういえば美術部の演し物の方はどう? もう用意はしているの?」 「ああ、パーティションに絵を飾り付けるのは終わったかな」 「でも聖母祭が始まる前日までは迷路を作る訳にいかないし、最後は突貫工事になるだろうね」 「……そう。そっちも意外とぎりぎりみたいね」 「ふふ、さすがにうちのクラスよりかは、切羽詰まってないよ。用意だけしておけば人海戦術で後はどうとでもなるからね」 「その言い方だと……」 「え?」 「……いえ、何でもないわ」 貴女は手伝ってくれないのね、と聞こえた。 「……悪いが聞こえなかった。もう少し大きな声で言ってくれないかな?」 「いいの。もう、いいのよ」 「私はよくないよ」 マユリさんを止める 立花さんにお茶を淹れる ――これは拙いと思った。 義母とのやり取りで、導火線に火がつきそうか否かは、何と無しに判断できるようになっている。 だから私は、 「あの、この話はやめない?」 そう仲裁に入った。 「ちょっと待って。今の止め方、もしかして私が怒っているって思ってる?」 「それは勘違いだよ。ただ何か行き違いがあるといやだから、話してほしいと言っているんだ」 「あの……でも……」 「何?」 「誰でも話したくない事だってあるし、口に出したら終わりだってこともある。そう……だよね?」 「それは……」 以前、彼女が私へ言ってくれた言葉だ。 無理に話さなくともいい。自分が吐いた台詞だと思い出したのか、決まり悪そうに鼻の頭を掻いた。 「……ああ、そうだね。何も白黒はっきりすることだけが全てじゃない」 佳かった、と胸を押さえる。ふっと視線を感じ振り向くと、 「…………」 何ともいえない顔をした立花さんが見詰めていた。言いたい言葉を呑んでいるような。 (何を……) 少しずつ部屋の空気が張り詰めるいやな感じ。 義母との、あのやり取りを思い出し気分が悪くなってしまう。 (私が何とかしなくちゃだわ) 結末を知っている私が一人胸を押さえている訳にもいかない。私は努めて明るい声で、 「紅茶でも飲まない?」 と、言った。 「気を利かせてくれたんだろうけど、今は……」 「……蘇芳さんが淹れてくれるの?」 「え、ええ。以前立花さんから教えて貰ったし。そうだ、八重垣さんから伝授して貰ったロシアンティーでも淹れてみようかしら」 「ちょっと……」 「……蘇芳さんの気遣いを無にするつもり?」 「それは……。分かったよ。この話はこれでお終いだ」 がたり、と音を鳴らし椅子に座るのを見届け、私は茶葉をしまっている棚へと向かう。 (でも、マユリさんじゃないけど……) 何か様子が変だわ、私はそう思った。 強張った表情の立花さんへ、 「あの、ええと、その、私も手伝えるところは手伝うし!」 「ピックアップだけじゃなく何か力仕事とかでも、大丈夫だから何でも言ってね」 そう告げた。 険しかった表情がふっと少しだけ砕け、 「ありが――」 「料理部の演し物で話があるんだけど――」 扉が開き、友人の愉しげな声が耳に飛び込んできた。 私は友達が訪ねてきたことに嬉しさを感じたのだけど、 「……いい加減にして」 アミティエの冷たい声音が、胸の温かさを凍り付かせたのだった……。 で、また仲違いなのかよ、と八重垣さんはぞんざいに言った。 執務机で図書の整理を行っていた私は、はぁと小さく吐息をつく。 だがそれだけだ。何も話したくなかったのである。 ギィ、と車輪を鳴らし私への傍らへと向き直った八重垣さんは本を執務机に投げだす。 図書の裏表紙から貸し出しカードを取ると、八重垣さんの名前を記入する。 「いつものこと過ぎて喋りたくないか。まぁ女子校だものな、喧嘩の一つや二つはあるよなぁ」 「……喧嘩なんかじゃないわ」 「お、ようやく喋る気になったかい? わけを話してみろよ。解決してやる気はないが、こういうのは古来から人に話せばすっきりするらしいぜ」 本当に愉しげな八重垣さんの顔を見て、急いていた気持ちも萎え、私は昨日の夜の出来事をぽつぽつと語りだしたのである。 ――始めは、話を幾度も遮られたことでの苛々だけだったろう。 “いい加減にして。部活動のことは充分話しているでしょう” 抑え気味に言った級長の言葉に、友人二人がいつもの軽口だと勘違いし、 “別にいいじゃん” “立花ちゃんだって手伝って貰ってるくせに” “もしかして妬いてるの?” どの言葉が契機だったのだろうか、かっと頬を染めた彼女はテーブルの本を床に激しくたたきつけた。 そこでようやく、二人の友人は彼女が常にない状態だったということに気がついたのだ。 「落ち着いて。他意がないってことは分かっているだろ?」 「落ち着いているわよ……!」 「まいったな。とにかく此処は私が納めるから苺たちは出て行って貰えるかい?」 「う、うん……」 「……ですね」 「ちょっと待って。その言い方だとわたしが悪いみたいじゃない」 「確かに沙沙貴さんたちの言い方が悪いのは認めるけど、立花の態度も悪いよ」 「本当なら一言互いに謝って済ませた方がいいと思う」 「……わたしが謝る? なんで?」 「――それも解らないのか」 マユリさんの言葉を契機に空気がさっと硬質に変わり、胸の奥がざわざわと波打つ。 私は、 沙沙貴さんたちも悪気はないの マユリさん言い過ぎよ 「あ、あのね。立花さん」 何か言わなくてはと気が急いていた私は、強張った彼女の背に向けて言う。 「…………」 「さ、沙沙貴さんたちも悪気があって言ったんじゃないと思うの。いつもあれくらいの事は言っているでしょ。だから……」 「……いいわ」 「え?」 「……もういいの。そうね」 落ち着いた立花さんの物言いにほっと胸をなで下ろした。 「……そう、蘇芳さんも沙沙貴さんたちの味方なのね」 「おい」 このままではいけない、そう思った私は、 「マユリさん言い過ぎよ」 と言った。不満げに彼女は私を見遣るも、 「……確かに少し言葉が過ぎた。それは謝るよ」 「…………」 「でもさっき言った言葉に嘘はない。強い言葉だし態度だったのは確かだ。お互い謝って済ませるのが一番だと思う」 「わたしは……」 「立花さん……」 「わたしは――いいわ。蘇芳さんはわたしを支持してくれているもの。それでいい」 「…………」 昨夜のあらましを語り終え―― 「……へぇ」 と、腕を頭の後ろに組み面倒くさそうに天井を見上げた。 「へぇって……八重垣さんが聞いたんじゃない」 「だから感想がへぇだよ。予想の範疇だからのリアクションさ。ふ〜ん。だから教室の中の雰囲気が最悪だったのか」 「クラスへ顔を出したの? 八重垣さんが?」 「自分のクラスだ、そんなに驚くなよ。まぁ顔は出しちゃいない、別件で通ったときに眺めたのさ」 「そうしたら通夜みたいな雰囲気じゃんか。だから聞いたってわけ」 「……そう」 放課後、図書の仕事の為手伝いにいけなかったけれど、まだ仲違いしたままなのか。 「……どうしたらいいと思う?」 「もしかしてわたしに聞いているの? 人間関係の機微をわたしに?」 そうよね、と呟くと、 「いや納得されてもタツセがないけどな。立てないけど」 自虐を言い猫のように笑う。今までの付き合いで変に気を遣う方が悪手だと知っていた私は、 「立つ瀬の瀬は、背中の背じゃないわよ」 と言った。 「知ってるよ。自虐風ジョークってやつさ」 またも鋭い犬歯を見せつけつつ笑う。 つられ笑うと急いていた心は少しだけ凪いで落ち着きを取り戻した。と、 「ん、見ない顔だな」 笑みを引っ込め、餌をくれる人間か足蹴にしてくる人間かどうかを見極めるように目を細め、図書室へ訪れた者を値踏みする。 その相手は、 「こんにちは、蘇芳さん」 西洋人形のような端正な顔立ちと、豪奢な金色の髪、青磁色の瞳を持つ、ニカイアの会の副会長。 作り物のような完璧な容姿を持つ小御門ネリネ先輩だ。 出会ったときと同じように窓から西日が差し込み、小御門先輩の髪を本物の黄金のように輝かせていた。 白い肌は赤く染まっているがゆえか、さらに肌の白さを際立たせている。 見とれながらも何とか挨拶を返した私は、珍しさからじっと小御門先輩を注視している八重垣さんを紹介した。 「あの……彼女は私と同じクラスの八重垣えりかさんです」 「あら、貴女があの……お会いできて嬉しいわぁ」 「こっちも目の保養をさせて貰って喜ばしいよ」 「こいつから美人だ美人だと聞いてたから、どれほどかと思っていたけど、確かに此奴はなかなかだ」 「八重垣さん……! ご、ごめんなさいぶしつけで……そんなに悪い人じゃないんです……」 「ふふ、佳いのよ。愉しい友人のようね。譲葉が気に入りそう」 ああ、それは確かに。 「友人ではないよ。書痴仲間だ」 「あらそうなの? でも本が繋いだ友達なのね、素敵だわ」 八重垣さんは僅かに文句を言いたげな表情を浮かべるも、言い直すのも面倒だとでも思ったのか、確か合唱部の部長だったよな、と先輩に尋ねた。 「ええ。興味があるのかしら」 「どっちかって言うと合唱部というよりそっち方面での噂かな。前にこいつが七不思議を調べていたろ?」 「それで有名どころの“血塗れメアリー”“彷徨えるウェンディゴ”そして“寄宿舎のシェイプシフター”は分かっていたけど――」 「その後、“真実の女神”ってのが出てきた。だよな?」 彼女に聞かれ私は頷いた。 七不思議――随分と前の出来事に思える。 「その中の“真実の女神”なんだけどさ。それって聖母祭と関わりがあるって聞いたんだけど」 「え?」 意外な帰結に意表を突かれ小御門先輩を見詰める。副会長はこの手の話が大好きなのだろう揉み手をしてその通りよ、と言った。 「私も聖母祭という聖なる日が七不思議として組み込まれているなんてと思っていたけれど――」 「お祭りというものを日本的な捉え方をすれば、あまりおかしいことではないのかもしれないわ」 「もしかして……鎮めるという意味で、ですか?」 「やっぱり詳しいのね。そうお祭りは神社に奉っている神、その土地の地鎮、もしくは悪しきものを祓うという意味合いもあると聞くわ」 「それって悪いモノが居るっていう前提だものな。聖母祭も、祭ってところだけ抜き出されて――」 「日本的風習から七不思議の一つとして組み込まれたのかね」 「良くも悪くも何でも受け入れるのがこの国の風土だから。聖母祭は祝福の為のものだから日本的お祭りとは別種だけれど……」 「八重垣さんの推察の通り、お祭りというところだけを抜き出され加えられたのかもしれないわ」 オカルト談義に花が咲き、八重垣さんもこういった話が好きなことが意外な気がした。 (……いや、女の子なら当たり前か) 以前少しだけ通った学校でもオカルトは女子に人気があったように思う。八重垣さんや小御門先輩が好きでもおかしくはないのかもしれない。 「そうか……。消えたとしてもそれはそれで筋が通るのか……」 「消失してしまった方が喜ばしいとなるわけだから」 ……どうやら大切な部分を聞き逃していたらしい。 いや、それよりも、 「あの、小御門先輩。今日はどんな本がご入り用で……」 「ああ、そうなの。本を借りに来たのではなくて」 青磁色の瞳が私の瞳を絡める。 「蘇芳さんにお願いがあってきたの。聞いて貰えるかしら?」 「それは……私ができる範囲でなら」 「そう! あのね、前にもお願いしたことなのだけど……」 ――ああ、この言い回しは、 「聖母祭でのピアノ伴奏を、蘇芳さんに頼めないかしら」 無理なお願いに、すっと心の深い部分が冷えていくのが分かった。 他にいないのか尋ねる きっぱりと断る 懇願と好奇心、二人の目に見詰められ、 「……それっておかしいですよね」 と、逃げのための言葉を吐いた。 「何が……おかしいのかしら?」 「あの……合唱部にも当然、伴奏者は居られるのでしょう?」 「その人を差し置いて、私が聖母祭という晴れの場に出て行くなんておかしいと思います」 小御門先輩は愁眉を寄せ、痛みをこらえるように話し出す。 「蘇芳さんの言う通り伴奏者は居るわ。今度の聖母祭もその方に頼もうと思っていたの。でも……」 拳をぐっと握り言う。 「昨日の練習中に指を怪我してしまって……。きちんと治るのには二週間ほどかかるというの。聖母祭には間に合わないわ……」 「だから頼めるのは蘇芳さんしかいなくて……」 「そう……だったんですか……」 確かに、 「どうかしら蘇芳さん。後生だと思ってお願いをきいてはくれないかしら」 確かに頷ける理由だ。 それに小御門先輩には世話になっているし、気持ちよく了承したいのだけれど―― (ぅぅ……!) どうしてもピアノを弾く、と連想してしまうだけで忌まわしい像が浮かんでしまう。 「どう……かしら?」 緊張し尋ねる声音に私は、 「……どうも顔色が悪いみたいだ。返答は明日ってことでいいんじゃないか」 「そう……そうね」 気ぜわしげな小御門先輩の表情、珍しく気遣っているような態度の八重垣さんに微笑むと、 「――寮に帰ってから一晩考えてみます」 そう答えたのだった……。 懇願の瞳がじっと――縋るように見詰めているのが分かる。 しかし、 「私は……弾きたく……ありません」 ピアノを連想しただけで〈嘔〉《え》〈吐〉《ず》くような息苦しい感覚をずっと抱えてゆくのは無理だ。 「そう、そうね……。以前もあまりやりたくないような振る舞いだったものね」 「すみません……」 「でも……それを知っていてもお願いしたいの」 美しいニカイアの会の副会長が渋面を作っている。私は怪訝に何故です、と問う。 「実はね、昨日聖母祭で伴奏をしてくれる筈だった部員が怪我をしてしまったの」 「指の怪我で……きちんと治るまでは二週間ほど掛かるそうなの」 「そう……だったんですか……」 「ええ――だから、その……お願いできないかしら?」 心苦しいのだろう。彼女の表情、声を聞くだけでそうと分かる。でも、 ピアノを弾く自分を思い描くだけであの人の姿が浮かび、どうしようもなく悪心を覚えた。 (……消えて) 「どう……かしら?」 (もう……終わったことなのに) 「――蘇芳さん?」 「……元々気が進まない話なんだ。すぐに決めろって言われても無理じゃないかな」 「……ぁ」 「一晩よく考えてみて……ってのが落としどころだと思うけどね。それでどうよ」 労ってくれる猫のような級友に私は、 「明日、返事します」 そう答えたのだった……。 確かに自分を変えたいとは思っていた。だが、それは、 ――こんなにも急ではない。 バレエの授業の帰り道、私は昨日の小御門先輩からの頼み事を思い返していた。 聖母祭で披露する聖歌の伴奏者。 おそらく光栄なことであり皆羨ましがる大役なのだろう。指を怪我した合唱部の先輩の無念も如何ほどだろうか。 しかし、 (あの人に近づいてしまう気がする) 己が鍵盤をつま弾くのを想像しただけで、ピアニストだった義母が自分と重なっていく感覚に陥る。 それはゾッとするほど冷たく、胃の腑が縮みあがるほどの強烈な嫌悪だ。 私は自分を変えたいと思いこの学院に来た。全寮制を選んだのも意志を曲げない為だ。しかし、 「……まだ入学して二ヶ月じゃない」 たった二ヶ月の間に念願だった友人を作ることができた。 自分にとっては快挙だ。義母の陰を消すにはまだあと少し―― 「おや、よく会うね、蘇芳君」 「きゃっ!」 耳朶に息を吹きかけられ思い切り後ずさる。$対面にニヤニヤといやらしい笑みをこぼしていたのは、 「おっと、脅かしてしまったかな?」 「不意に耳に息を吹きかければ誰だって驚きます。あの……前から思っていたんですけど、普通に呼びかけられないんですか?」 「いやいや、そりゃ普通に――やぁ! 蘇芳君、相変わらず美人だね!」 「――そう呼びかけてもいいが、僕だよ? 普通にしていたら誰だか分からないだろう」 「……後ろ姿でもその見事な銀髪を見れば誰だか分かりますよ」 「いや……う、ん……困るな。僕はその……あまり褒められなれていないんだ。口説かれても困るよ」 「…………」 話が通じているようで通じていない。どっと疲れが肩にのしかかってきた。 「蘇芳君が望むなら今度登場するときは踊りながら現れようか? さぁ、どうぞお嬢さん一緒に踊ってくれませんか、とね」 「ダンスなんて出来ません。思い切り足を踏むことになりますよ」 私の返しにそれはいい、と何故だか高笑いをあげる。そしてひとしきり愉しげに腹を抱えた後、私の瞳を凝っと見詰めた。 「あ……ぅ、何ですか……?」 「ひょうきんな蘇芳君には悪いが、此処からは少々真面目な話になる。構わないかね?」 「前半が引っかかりますけど……どうぞ」 「うむ」 言いにくそうに腕を組み、後ろで結った髪を首を振り、ばさりと波立たせる。そして、 「昨日、ニカイアの会の集まりでネリーから話を聞いたんだが……。 あいつ蘇芳君へ伴奏者となるように頼んだそうじゃないか」 頭を悩ませている事柄を言われ、すっと視線を床に落とした。 「……はい」 「そうか。まぁ何だネリーのやつが話した言葉に嘘はない。確かに予定していた伴奏者が怪我をしたのは事実だし――」 「急なことだから穴を埋めるのは大変なのだろう。だが……」 私の頬を両手で挟むと顔を上げさせる。八代先輩は……笑っていた。 「受ける受けないは蘇芳君の自由だ」 「君の好きな映画風に言うなら――“やり方は三つしかない。正しいやり方、間違ったやり方、俺のやり方”ってやつさ」 「あれこれ言われようと自分で決めるほかない」 映画“カジノ”での台詞を言う八代先輩へ私も笑みを返した。 「……そうですね。自分の意志を第一に考えてみます」 「それでいい。まぁ何だ、断りにくいなら僕の方から言ってもいい。どうする?」 自分で言えます その時はお願いします ほんの少しだけ逡巡したけれども、 「自分で言えます」 そう自分に言い聞かせるように言った。 「そうか。そうだな、その方がいい」 「……八代先輩」 大柄な犬を撫でるように頭を乱雑に撫でられた。でも、 (頭を撫でられるなんて何年振りだろうか……) ふと、亡き母を思いうっとりと幼かった頃の事を思う。 頭を撫でていた感触が消えると、 「今度の登場は期待してくれ」 そう言うと、現れた時と同じく辻風のように去って行ったのである。 ――確かに、 (直接断るのは勇気がいるわ……) 縋るように見詰めていた瞳を前にして断るのは難しいだろう。でも、 「相手は上級生でニカイアの会の副会長だ。尻込みしても仕方ないさ。僕を頼ってくれてもいい」 「でも……」 「なに蘇芳君には料理部で世話になっているからね。たまには弟子を顎で使ってやろうと思うくらい構わないよ」 「……それでは、その時はお願いします」 「ああ、任された」 くるりと身体を返すと、来たときと同じように辻風のように立ち去っていったのである。 「盗み聞きはよくないわ」 承知しているよ、と彼女は言った。 「でも聞こえてしまったんだから仕方がない」 そうマユリさんは悪びれずに言った。 まぁ私も―― 「聞かれて困る話ではないけどね」 「聖母祭での伴奏者だろ? 誉れだ。何で話してくれなかったの?」 「それは……」 口ごもる私を見て、冗談だよ、ゴメンと言う。 「ピアノを弾くことに何か嫌な思い出があったようだしね。そりゃ悩みもするか……」 「ええ。だからどう断ろうか悩んでいて……」 「そうか。断るつもりでいるんだね」 次の授業が始まる間のぽっかりとあいた時間、人気の少ない教室内でしばし私たちは、何もいわずただ中空に視線を漂わせていた。 話しかけようとは思うけれど、何を話していいか分からず……。 それはマユリさんも同じなのだろう、向き合ってはいても本当の意味で相対してはいなかった。 幾人かのクラスメイトが教室内に入り、途端に賑やかになる。賑やかになったことでややほっとしていると、 「何を話しているの?」 いつものとは違う尖った声音に呼びかけられ、彼女の方へと向き直った。 「二人で密談かしら?」 「いえ……」 常なら冗句として流せる言葉だけれど、昨日の仲違いが続いている今、軽口には聞こえない。私も強張り、マユリさんも身を固くした。 「……あら、わたしには話せないお話なの?」 「そうじゃないさ。ちょっとした世間話ってやつだよ」 「それを聞いているのだけど?」 言っていいかと私へ視線を走らせるも、その行為が怒りに薪をくべたのかアミティエらの間の空気が一段冷えていくのが分かった。 「じ、実はね昨日、小御門先輩からある頼み事をされて、それを受けようかどうかマユリさんへ相談していたの」 「小御門先輩から? わたしへは相談してくださらないの……」 「も、勿論するわ。ただ立花さんは席を外していたから先にマユリさんへ話しただけなのよ」 「……そう。それで相談と言うのは?」 「その……今度の聖母祭で合唱部は、聖母祭の終わりに聖堂で聖歌を歌うでしょ?」 「その時のピアノの伴奏をしてほしいとお願いされたの」 「まぁ! 素晴らしいわ。蘇芳さんが伴奏者に選ばれるだなんて!」 手を叩き微笑む立花さんに、今までの頑なな態度はなく私は……マユリさんもほっと安堵した。 「ああ……そうね。喜んではいけないわ。でも、そうか……ピアノを弾いていた〈外間〉《ほかま》さんが怪我をしたから……」 「以前披露したピアノの伴奏は見事だった。だから白羽の矢が立ったのだろうね」 「ふふ! マユリさんたら、蘇芳さんに白羽の矢がなんて……面白い冗談だわ……!」 仲違いしていたのが嘘のように言葉を返され、マユリさんははにかむように嬉しさを滲ませていた。 私も二人が仲良くしているのを見るのは嬉しい。 「それで……その受けるかどうか悩んでいて……」 「うん? どうして悩む必要があるの?」 「え?」 「だってあんなにお上手で……聖母祭での伴奏者になれるなんてすごく栄誉なことよ」 「確かに緊張はするだろうけど、練習すればきっと大丈夫よ」 ――彼女は私がピアノ自体を〈厭〉《いと》うていることを知らない。 (あの日のことは純粋に気分が悪かったのだと思っている……) 「蘇芳さんは奥ゆかしいからあまり目立つことをしたくはないのかもしれないけど、わたしは伴奏をして欲しいわ」 「蘇芳さんの伴奏で歌ってみたいもの」 「立花は合唱部だものね……」 「ええ。もし緊張してしまうとかだったらわたしが尽きっきりで練習をご一緒するわ。きっと大丈夫よ」 合唱を関して仲違いしていた二人が今まで通り話している。 (もし私が断ったら……) また二人の間に亀裂をもたらすことになるのだろうか? ――と、マユリさんの視線が逆を向き私もつられて振り向く。 いつの間にか立花さんの後ろに沙沙貴姉妹が立っていた。 「面白そうな話をしているね」 「……合唱部の話ですね」 「二人とも聞いていたの?」 「……八代先輩から話は聞いていたので大体は。伴奏者を頼まれた話だよね?」 「そう。とても名誉な事よ。なに? また料理部で手が足りないからって止めろっていうつもり?」 「それは誤解だよ。もう材料も手配したし、前日に仕込みをすればいいからもう問題ないよ」 「それにわたしも蘇芳ちゃんが弾くピアノ聴いてみたいし!」 「……うむ。同意です」 肩すかしを食らい立花さんは戸惑い、そう……と呟いた。 (二人は昨日のこと気にしていないようね) 「それに蘇芳ちゃんが受ければ、最後の聖歌はアミティエ二人での合奏だし見逃す手はないよ」 「合奏? それってどういう……」 「知らなかったの? 聖堂で歌われる聖歌の最後は、聖母祭で聖母役に選ばれた人が一人で歌うんだよ」 言葉が足らず首を傾げる。と、 「聖母役は通例、その年の一年生の級長が選ばれることが多い。だから、歌うのはりっちゃんさん。そして――」 私を指さし、 「伴奏は蘇芳ちゃん」 絵になるね、と苺さんが意地悪く笑い、立花さんは頬を染めた。 少し前までは当たり前だった光景。 (私はどうしたら……) 仕方ないよね 私の所為で仲違いはさせられない ――脳裏に過ぎるは義母の陰、 だけれど、 「……私、やるわ」 「え……」 「……せっかく指名されたのですもの。受けないなんて失礼よね」 「やってくれるの。嬉しいわ!」 熱い手が私の手を包み、これでいいのだと思った。 嫌なことはしなくてもよいと、言ってくれる人はいたけれども。 (二人を仲良くさせたいと思うのも偽らざる気持ちだわ) 私はそう己に言い含め、立花さんの背後から覗く義母の目からそっと視線を外した……。 この光景を失いたくない。 「……私、伴奏者の件、受けようと思う」 「…………」 「本当?」 「ええ。正直子供の頃に少し触った程度だから、自信がなかったけれど……」 「立花さんや苺さんたちも期待してくれるなら、やらなくちゃと思って」 「蘇芳さんが受けてくれて本当に嬉しい……!」 感激し手を握る彼女、沙沙貴さんたちに冷やかされるも耳には入っていないらしい。 「……蘇芳ちゃんに恥をかかせないように、りっちゃんさんも聖歌の練習をしなくちゃだね」 「ええ、ええ、そうね。わたしも頑張るわ!」 さらに込められる彼女の手。両手で握られる私の心も弾み、嬉しくなる。けれど、 (耐えられるだろうか) 弾む彼女の背後に、恨みがましい眼で私を見詰める義母の陰が見えたような気がして、私はそっと視線を外したのだった……。 これは義母の指導ではない、そう強く言い聞かせていた。 合唱部が皆で歌う聖歌。 そして、聖母役の生徒が歌う“トータプルクラ”を弾きながら私は、寄り添ってこようとする義母の幻影を必死で退けていたのだ。 指が鍵盤を叩くと、聖堂内に音が吸い込まれ思いも寄らない箇所から反響する。 私はそれを耳で拾い上げ、鍵盤のタッチを調節していく。 (没頭していれば義母は寄ってこない) ピアノと自分だけの世界に他の不純物は交じることがない。 聖母祭も差し迫ってはいたが、集中を必要とする環境が良かったのだろうか、引き継ぎとして用意されていた曲はその日の内に。 その次の日には、以前の伴奏者と同じ程度にまで弾けるようにはなっていた。 これならば―― 「そろそろ休憩にしましょうか」 肩に手を触れられびくりとすくみ上がってしまう。 「……小御門先輩」 「すごい集中ね。さすがは音楽家の娘さんね」 「いえ……」 彼女の言葉を聞き流し、ふっと息を吐きピアノからそろそろと距離を置く。なるべく眼に入らないようにだ。 「蘇芳さんに頼んで良かったわぁ。まさか二日でほとんどの曲を覚えて弾きこなせるなんて」 「最後のトータプルクラだけはまだ完全とは言えません」 「それでもよ。本当に良かった」 手を合わせ無垢な笑顔を向ける彼女に私も微笑み返す。 始めは―― 始めは、やはり納得がいかなかったのだろう。 伴奏者の外間さんという上級生は信望が厚かったのか、部員たちは露骨に態度に出すことはなかったけれど、表情がそれを物語っていた。 しかし、 「聖堂内での飲食は禁止されているの。少し遠いけれど寄宿舎まで戻ってお茶しましょうか?」 部の長である小御門先輩。 そして他ならぬ怪我をした外間さんが、わだかまりなく指導してくれたことにより、随分と状況が変わったように思える。 それと―― 「休憩するなら一緒に戻りましょ」 私を勧誘した彼女の功績も大きい。 入部してそう時は経っていない筈なのに部の皆から一目置かれており、面倒見の佳い性格ゆえか部員からも信頼されている。 「喉渇いたでしょ。ね?」 腕を絡めてくる彼女。立花さんのアミティエということもあり、私の立ち位置も相対的に高くなっているようだ。 「いえ、そんなに……。それより今日は……」 なるべくなら此処を早く出たい。 「そうなの? それならわたしの練習の方を付き合って貰おうかしら」 「練習……」 「……だめ?」 上目遣いで私を見上げるアミティエに、 「それじゃ休憩の間だけよ」 再びそろそろと義母の待つピアノへと距離を詰めたのだ……。 彼女がピアノを教えてほしいと言ってきたのは練習初日のことだった。 今まで“指導”されていた私は他人に教えるという行為がうまく想像できずにいて、言われた時は何を伝え頼んでいるのか分からなかった。 そして、よく覚えてはいないがやはり始めは断ったのだと思う。 しかし彼女の押しは想像以上に強く―― なし崩し的に合唱部の練習が終わった後、もしくは休憩の際に彼女へピアノを教えることとなったのだ……。 「それじゃ今日は弾いてみようかしら」 ぴったりと寄り添い半身を私に預けるようにして頷く。 教えている曲はトータプルクラ。 聖母役に選ばれるだろう彼女に、ピアノの指導をすることは無駄にはならないと思ったからだ。 「まだ楽譜で分からないところがあるの。だから、そこを教えてくださらない?」 「いいわ」 曲冒頭の譜面を読み上げ、片手で鍵盤に手を添え教える。 もう片方の手は……。 「その……教えるのに不自由だから、手を離して貰えると嬉しいんだけど……」 「ふふ。だめよ」 にべもなく断られてしまった。いや、 (ぅぅ……!) 余計に手を引き、私の腕を引き寄せる。 彼女の胸、お腹に腕が当たり、頬が熱くなっていくのを止められない。 「どうしたの蘇芳さん。お顔が真っ赤よ?」 「い、や……別に……」 分かっていて、意地悪してはいないのだろうと思う。ただ彼女は嬉しいだけなのだ。 もしくは仲違いしていたのを取り持ってくれたから。 「そ、それじゃ、今教えたところを弾いてみるね」 自由になる手で鍵盤を押さえる。 弾き始める前のぴりっとした感覚、これだけは嫌ではない。身体にまとわりつく清冽な空気。 私は身体から熱を追い出すように息を吐く。 (でも、どうして――) 義母の陰が現れないのだろう、と思う。 一人で練習する時はともすれば義母の陰を、臭いを思い出してしまう。でも、立花さんに指導している時は……。 「なぁに?」 「……いや、ちゃんと見ているかなと思って」 「ふふ、大丈夫。片時も目をそらしたりなんかしないわ」 抱えられている腕にさらなる熱を感じる。 きっと、私が教えるという特殊な状況だから、義母が現れることはないのだ、そう思い鍵盤に触れた。 「……え?」 「どうやって弾くのか直接感じたいの」 耳元で囁かれる声音。 彼女の顔を見ようと振り返ろうとはするも―― 「……弾かないの?」 「だって、こうして弾いたことはないから……」 羞恥が勝り、彼女の顔が見られない。 ただ、しっとりとした細やかな指が、私の手に触れているという事実が信じられなかった。 このままだとどうにかなってしまう。 身体の熱はどうしようもないほど昂ぶり、私の口からこぼれ落ちてしまいそうだ。 「立花さん、手を……」 「――邪魔してしまったかな」 冷えた声音に身体の中の熱は霧散し、 「マユリさん。見学にきたのね」 「ええ。きちんとやっているかどうか見に来たんだ」 慌てて手を引こうとするも―― 彼女が許さない。 「今は休憩中なんだけどね。蘇芳さんからピアノの練習の手ほどきを受けているの」 「こうして手をあわせてやった方が覚えがいいんだって」 指を絡めたままの手を見せつけるかのように、指の腹で私の手の甲を撫でた。 「そうか。指導なら……仕方がないね」 「ええ」 「……また伺うことにするよ」 後ずさりきびすを返す彼女の背に、 「…………」 私は何も言えなかった。どうやって呼びかけるかさえも浮かんではこなかったのだ。 「――明日は聖母役の発表があるそうよ」 立ち去る彼女の背に愉しげに吐かれる言葉。 すぐ側で吐かれる言葉は、彼女の香りを、息づかいを感じさせはしたが、 (……マユリさん) どこか遠いところで行われている祭のように、例えようもない〈寂寥〉《せきりょう》感だけを与えた……。 『付き合って貰えるとは思わなかったよ』と、誰もいないレッスン室で親密な言葉が囁かれた。 静まり返ったレッスン室に彼女……匂坂マユリの言葉は不自然な程に大きく聞こえ、彼女の足首を検分するのを忘れ見上げてしまった。 「……蘇芳さんは立花派だと思っていた」 「派……なんて……寂しい言葉を使わないで……」 「……そうだね。ごめん」 再び沈黙と、親密な空気が包む。 (何だか変な気分だわ) 私は彼女が捻挫していないか触れながら、何故夜も更けた今、彼女の手当をしているのかふっと記憶を遡っていた。 (あれは――) 伴奏者として合唱部に協力することになった私は、聖堂にて合唱部の皆が調べる聖歌―― そして聖母役の生徒が歌う、マリア様を讃える歌“トータプルクラ”の練習に入った。 一日目で披露する曲を浚い、 二日目で前任の伴奏者が弾いていた程度までは演奏できるようになった。 本来の伴奏者に代わり、私が伴奏をすることに部員たちは抵抗があったようだが、他ならぬ怪我をしてしまった外間さん―― そして小御門先輩、立花さんの口利きもあり進めることができた。 出来たのだが……。 やはりピアノを弾くという行為は苦いものだった。集中を欠いた途端、浮かび上がるのは義母の陰。 あの人の陰を感じたくないからこそ打ち込め、早く習得できた側面もあると思う。 そして、何故だかピアノを弾いているのに義母の陰が生まれなかった行為があった。 それは―― “花菱立花さんにピアノを指導するということ” 請われピアノ初心者の彼女にピアノを教える事になったのだけれど……。 集中いかんでもなく指導している間は義母の陰は現れず、どうしようもない悪心も浮かんではこなかった。 教わる、でなく教えるという心の変化。 そして立花さんの必要以上のスキンシップが、深く心の海に沈むという行為をさせないでいたのだろう。 必要以上に身体を寄せピアノ指導を行っているところに―― マユリさんが見学に訪れたのだ。 必要以上のスキンシップを目にした彼女は何かを言いかけるも飲み込み、きびすを返した。 私は追いかけ―― 「もう平気だよ。蘇芳さん、痛い箇所はないみたいだ」 「そう。佳かったわ」 ほっとして手を離す。以前……遠い昔のように思えるけれど、彼女がオリエンテーリングで足を捻挫したことを思い出していた。 「頼まれたとはいえ、受けておいてやっぱり無理だとは言いたくないからね」 「でも意外だわ。マユリさんがバレエの発表会に出るなんて……」 「ダリア先生たっての希望じゃやむなしだよ。部に参加していない人から選ぶつもりだったらしいけど――」 「うちの……聖書の展示が割と手間が掛かるだろ?だから部に参加していても、手持ちぶさたな生徒を選んだらしい」 大げさに異人のように手を広げて見せ、 「それにしても私に頼むなんてよっぽど人が足りなかったんだね。補習組だって分かっていた筈なのに」 「私もだわ」 違わない、と二人で笑う。静かで沈んだ空間の筈が暖かい。 「何日も前から練習していたの?」 「いや、蘇芳さんが合唱部の練習に行きだしたくらいからさ。放課後、クラスの演し物を少し手伝った後、レッスン室で稽古――」 「私は覚えが悪いから、終わった後も自主的に練習していたんだよ」 そういえば、夜寮の部屋にいなかった事が度々あった、と思い当たる。 打ち解けたとはいえ、まだ立花さんと居るのが気まずくて他の部屋に行っているのかと思っていたけど……。 「……遅くまで練習しているなんて立派だわ」 「自分が恥を掻きたくないからだよ。一人だけずれてたら目もあてられない。それに……」 彼女は屈むと自分の足をさすり、 「練習していて怪我でもしてたら笑い話にもならない。蘇芳さんが来てくれて佳かった」 彼女らしからぬ快活な笑みに、そんな――と首を振った。 「没頭し過ぎて足下に汗溜まりがあるのに気づかなかった。足を滑らした時に支えてくれなかったらと思うとゾッとしないね」 「でも……結局倒れてしまったし」 「私は蘇芳さんの上にさ。蘇芳さんには悪いけど上等なマットレスだったよ」 もう、と怒った振りをするとまたも快活に笑う。 (無理をしているんだわ……) 彼女の微笑みを側で見てきた私だから分かる。無理矢理に笑って嫌なことを笑い飛ばそうとしているのだと。 「……マユリさん」 「どうしたの、神妙な顔をして?」 「無理に笑わなくたっていいのよ。私は……何時ものマユリさんが好きなんだから」 「そうか……好きか……まいったな……」 常なら赤面してしまう言葉も二人きりの……この親密な空気が流れている今なら言うことができた。 マユリさんは、私が憧れた春の日だまりのような笑みを浮かべ、 「――有り難う」 と言った。 「……うん」 ああ、どうして―― 「……蘇芳さんに好きって言って貰えて」 何故彼女が笑うとこんなにも嬉しいのだろう―― 「救われた気持ちになったよ」 彼女の為になら、どんな事でもしてあげたくなる。 この気持ちは―― 「――ねぇ、蘇芳さん」 不意に声の起伏が変わったことに意識が覚醒した。か細いが通りが良い。ワイヤーの先端のような声だ。 私は彼女が何か物事を定めたのだと気づき、はい、と短くもしっかりと答えた。 「……さっき立花派なのか尋ねただろ。あれ本当にごめん」 「アミティエ同士仲違いして欲しいわけじゃなくて……私の方について欲しいってことでもないんだ」 「……うん」 「正直、蘇芳さんが合唱部の伴奏者を受けてくれると言って……ほっとしたんだ」 「これで立花の機嫌が直るってね。ピアノの演奏に何か嫌な思い出を抱えている蘇芳さんには悪いとは思っている。けど……」 「……うん」 「……私はね。私の家は十歳の時に父母が離婚をしてね。私が父方、弟が母方に引き取られたんだ」 「父は忙しい人だったから、私はほとんど、家に出入りしていたお手伝いさんに育てられたと言っていい」 「今思えば私は嫌な子供だった。それでも仕事を超えて随分と優しく、厳しくしつけて貰ったよ」 私は相づちを打たず彼女を見詰めた。 どんな光が彼女の目に映っているか知りたかったからだ。 「立花はね、私が好きな……憧れている彼女に似ていたんだ。容姿もそうだけど、雰囲気というのかな、とても……」 「……だから、立花に嫌われた時けっこう堪えた」 私が望んだ彼女の笑顔、 また見ることは出来た。でも、 「――ごめん。話そうとしたけどまとまらないや。忘れて佳いよ」 彼女の笑みは私の好きなものに戻っていたけれど。 (この笑顔が私に向けられることはない) 「そうだ。明日は聖母役の発表だそうだね。立花の聖母役愉しみだな」 笑いかけてくれる彼女に、胸の苦しさを感じた私は、そうねとだけ答えた……。 「正直」 出来レースに出ても仕方ないよな、と彼女は言った。 全学年の生徒、教師等が集まった聖堂内。 ほんの少しのざわめきに助けられ、八重垣さんの声は周囲に届くことはなかった。 「……ちょっと、聞こえてしまうかもしれないでしょ」 「別に構わないだろ。ここに居る全員が分かっていることじゃないか」 「聖母役はその年の一年の級長が務める。何もいちいち発表会を気取らなくてもねぇ」 「……聖母祭まで期日が迫ってきているから、盛り上げるためもあるのよ、きっと」 そういうもんかねぇ、と冷めた視線を壇上へと向ける。 緊張し頬を紅潮させた花菱立花さん、八重垣さんと同じくどこか冷めた視線で前を向く匂坂マユリさんの横顔を見詰めた。 (聖母祭で二人と学院内を一緒にまわって……) 以前と同じようなアミティエに戻りたい、と願った。 いや、祈りの歌である聖歌、そしてトータプルクラの合奏を成功させればきっと上手くゆく。そう私は信じている。 「お、あの美人の副会長のお出ましだ。流石に絵になるねぇ」 壇上では小御門先輩が聖母祭を行う意義をそらんじている。 意地の悪い猫の笑みを浮かべ八重垣さんは熱心に聞いているようだけど、私の耳には入ってこない。 発表が近いことに心臓が早鐘のように打ち、うるさすぎて聞こえないのだ。 小御門先輩が退場し―― 入れ替わるように、硬い靴音をたてて一人のシスターが壇上へと向かった。 バスキア教諭だ。 「小御門さんの仰ったように――」 バスキア教諭にしては緊張した面持ちで言葉を紡いでいく。 小御門先輩が言った意義を別の角度から話し、前口上を終えた後、ではと区切りを付けた。 「今年度の聖母役に選ばれたのは――」 何だか後ろめたい。 教室の煮こごりのような澱んだ空気を感じ、私は小さくため息をついた。 朝の清冽な空気の中行われた聖母役の発表。 バスキア教諭が生徒の名を口にしたその時、 一瞬の静寂のうちどよめきが起き、そして決められていたのだろう教師側から拍手が。 それに伝染するかのように生徒側からの拍手が起きた。 戸惑うクラスメイトたちの中、これは傑作だと八重垣さんだけが笑っていた。 いや……。 「それにしても驚きだよね」 「……うん」 「わたし的にも驚いたよ。だって噂じゃ聖母役は一年生の級長が通例で行っていたっていうじゃない」 うん、と頷く。苺さんは頭の上で手を組み、人垣に囲まれている聖母役の彼女を見遣った。 「まさか、ユリが選ばれるなんてねぇ」 そう――バスキア教諭から発せられた生徒の名は、“匂坂マユリ”だった。 バスキア教諭から名前が呼ばれた瞬間、マユリさんは目を見張り絶句したように見えた。 そして隣に立つ立花さんを見遣り―― 「……大丈夫、蘇芳ちゃん?」 林檎さんに肩を揺さぶられ、うん、と頷く。 人壁に包まれているマユリさん。対照的に声を掛けづらいのか、立花さんの周囲には誰もいない。 (私が声を掛けなくちゃ) 凍えた彼女へ何か言葉を掛けようと立花さんの元へと歩んでいく。 気配から顔をあげた立花さんは強張った表情で私を見詰め、気丈に朝の挨拶をした。 私も言葉を返そうとするが、 「…………」 どう言葉を掛ければいいか思いつかない。 急き立てられるように立花さんへ声を掛けたものの、励ますのは駄目だ。私なら一番してほしくない。 同情? それも嫌だ。消えてしまいたくなる。なら、 「……ごめんなさい。一緒にトータプルクラを歌えると思ったのだけれど」 ぽつりと絞りだしたような言葉。私は、彼女らしい台詞に、例えようもなく胸を掴まれてしまう。 (そんなことない、と言ってあげたら……) そう思うけれど、それを言ってしまえば最後、彼女を傷つけてしまうのだと判った。 「…………」 だから私は何も言えない。だが、言葉を吐かないという選択でも傷つけてしまうと感じた。 私は、 扉が開く音、次いでバスキア教諭の声が授業の始まりを告げ、絞りだそうとした言葉は宙に消えてしまった……。 休み時間のたびに声を掛けようとするも失敗を続け―― ようやく彼女と向き合える場所、合唱部の練習の時がきた。 聖母祭で発表する課題曲を弾いていた私は―― ああ、なんて考え無しだったのだろうと思った。 偽りの集中力を持ってピアノを弾く私へと、彼女を伴った小御門先輩が微笑みを浮かべ近づいてくる。 そうだ。彼女は聖母なのだ。ならば、 「今日から一緒に練習する匂坂マユリさんよ」 彼女はまるで他人のように、よろしく、と頭を下げた。 その後ろには寂しげな立花さんの姿。 集中力が切れた私は、背中を濡れた手で撫でられているような、気持ちの悪い感覚に襲われ席を立った。 それは鍵盤の隙間から覗く義母の眼と、 アミティエ二人の眼が私の中の芯の部分を酷く揺さぶったからだ。 「大丈夫? 顔色が悪いわ」 ニカイアの会の副会長は何かを呟き、私へと駆け寄る。 そして、ゆっくりとした足取りで彼女も。 「ダメよ、座っていた方がいい」 依然、私の耳には何も届かない。 「彼女よりも」 しかし、 「――今は蘇芳さんの方があの人のように見える」 そう彼女が呟いた声音ははっきりと聞こえた……。 ここに居たのね、そう私が呼びかけると、ぼんやりと外の夜気を見詰めていた彼女は――緩慢に振り返った。 「部屋で待っていたのだけど……戻ってこないから探しちゃった」 「そう……」 再び窓から外を見遣る。彼女が今何を思っているのか想像するだけで胸が痛む。 「夕食の際も居なかったからお料理下げられてしまったわ」 「……食欲がないの」 「そう……でも何も食べないと体を壊すと思って夕食を包んでもらったの」 「部屋に取り置きしておいたパンでサンドウィッチにしたのよ」 私の持つ紙袋に視線を向けるものの、やはりすぐに顔を背けてしまった。 (励ますのもダメ、同情も……。なら何を……) 話す言葉を決めてきた訳ではない。部屋に戻るかもと待ってはいたが、いてもたってもいられなくなり飛び出してきたのだ。 「あの……そのね……」 「…………」 「マユリさんも部屋に戻っていなかったの。だから彼女も立花さんを探していると思うわ」 「彼女が……」 ようやく窓辺から視線を剥がし私へと向き合ってくれる。でも、 (こんな……) 立花さんの目は窓から広がる夜に飲まれたように暗くうち沈んでいた。 生真面目で優しくも暖かい彼女だとは思えない瞳の色に、思わず息を呑んでしまった。 「マユリさんを探していたの?」 「え、違うわ。立花さんを……」 「マユリさんのついででなく……?」 声がほんの少しだけ震えていることに気づき、私は笑みを無理矢理に作り、 「立花さんを探していたのよ」 と答えた。真意を覗くように彼女は凝っと私を見詰め、 「……わたしを先に……そう」 頷き、微かに唇をほころばせた。 彼女についた言葉は嘘ではない。マユリさんよりも立花さんを先に探さなければいけないと思ったのは本当だ。 (マユリさんも立花さんを傷つけたのを気にしているようだったけれど……) 嘘をついていないという事が分かったからだろう、〈倦〉《う》み疲れたように沈んではいるものの、級長に戻った彼女はぽつりと呟いた。 「蘇芳さん、わたしおかしいのかな……」 「え……?」 「……わたしは級長として皆が仲良く過ごせるように規律を守らせ……自分も守り縛ってきた」 ――初めて会った時の彼女は規律を守ることに頑なだった。 「今は……規律を守り、守らせることだけが全てではないと思っているけれど」 「でも……和を維持するために規律を守ることが大切だと信じているわ」 ぽつぽつと語る彼女をただ見詰めていた。 「――わたしはね、蘇芳さん。皆が幸せでいるならそれが一番いい。自分自身のことは二の次でいいと本気で思っていたの」 「だからはじめマユリさんとあまり打ち解けていなかったことに本気で心配したし――」 「二人の仲を取り持とうと思って行動したこともあるわ。でも……」 打ち震えながら俯き、苦しそうに眉根を寄せる。 「でも、今は違うの……。マユリさんと蘇芳さんが仲良くしているのを見かけただけで、声を聞いただけで苦しくなるの……」 「立花さん……」 「嫉妬なんだと思う。でも何で嫉妬しているのか……皆が仲良くするのが一番だと思っていたのに」 「二人が仲良くするのをこんなにも辛いと思うなんて……! わたしは……」 「比べてしまうの……わたしよりも、いえ……わたしの方がって……おかしいでしょ? でも、でもね……」 「どうしても比べてしまうの……。ねぇ蘇芳さん……わたしとマユリさん……」 どっちが好き――縋るような声音が心を揺さぶる。 (アミティエを比べるだなんて……) 彼女も感じただろう禁忌に近い感情が生まれる。だが、一度意識してしまうと……。 ――マユリさんは憧れだ。初めて出逢ったあの夜、桜の樹の下での情景は忘れられない。 あの時からずっと憧れを心に抱いていた。 ――立花さんに抱いているのも憧れ。だが、マユリさんに抱いてるものとは別種のものだ。 マユリさんが到達できないものに対するものなら、立花さんは為りたい自分への投影。 どの憧れが好きに近いモノなのだろう? 比べてしまっていいのだろうか? 私は……。 「…………」 胸に去来する様々な思いに感情はまとまらず、言葉にすることが出来ない。 彼女の瞳は彼女ではなくなり、窓を眺めていた時と同じ夜気の色に変わっていく。 「……二人を比べることなんて出来ない」 「……そう」 「でも――私は立花さんのことが好き。これだけは知っていて欲しいの」 「蘇芳さん……」 「これが答えじゃ、ダメかな……」 夜気の眼が震え、彼女の瞳を取り戻す。一粒だけ目から泪がこぼれ落ち、頭を振った。 「……いい。その言葉だけでいいの」 お腹が空いたでしょ、部屋に戻って食べましょう――そう言い、私は彼女の肩に手を回した。 「はぁ……」  仄暗い室内に籠もった溜息が響く。  それはまるで私じゃない別の誰かのもののように、私の耳に届いた。  鬱屈している私の心、  あの人と重ねていた彼女から――嫌われてしまったからだ。  初めて会ったときから、あの人を感じ、話して……触れあっていくうちに、幾度も彼女とあの人の像は重なっていった。 (でも、もう……)  あの人と向き合い、破れた私の気持ち。  彼女なら受け入れてくれるかもしれないと思った。でも……。  $「蘇芳……さん……」  彼女は蘇芳さんが好きなのだろう。  思えば彼女は蘇芳さんへ随分と心を砕いていた。  私が嫉妬してしまう程に。  お風呂場でもっと仲良くなりたいと吐露された時は、思わず掻き毟りたいほど心をかき乱された。  $ 強烈な嫉妬。  $ 私が手に入れられなかったものを易々と手に入れてしまう彼女。  きっと良い子なのだろうとは思う。人の痛みに敏感で、心優しく、そしてはかなく脆い。  疎ましく思う私。  なのに―― 「何で――私はこんなに……」  $ ピアノを弾く蘇芳さんの姿が、あの人と重なって見えた。  $ 私が、  $ 私が好きなのは――  $「…………ッ」  脳裏に蘇芳さんの像が強く浮かび、私は窓辺から月を睨んだ。  驚くほど澄み切った頭で月を見上げ彼女を思った。 (あの人のことが好きだった私の気持ち、それに嘘はない)  あの人のことを忘れるために学院に……寮に入り生活を変えることで何かが変わる気がしていた。  $ でも、  $(……愚かにも、私はあの人の陰を追ってしまった)  アミティエを……花菱立花にあの人の陰を見、今度こそ私を好きになって貰おうと奔走した。  しかし、彼女が好きなのは――白羽蘇芳。 「もう一人のアミティエ……」  嫉妬し、疎ましく思っていた彼女だけれど、今は、今の私の気持ちは―― 「……私って気が多い女なのかしら」  ぼそりと呟き、自嘲する己の言葉に嗤う。  まるで安っぽい恋愛映画のようだ。三角関係の乙女たち。 「……告白すらしていないっていうのに」  私を含め、立花も、蘇芳さんも告白じみた事はしていないだろう。  本当の好意を抱いているのは、 友人に抱く友情でもなく、家族に抱く親愛でもない、劣情を伴う恋慕。  身体測定の折に劣情を指摘され激情し、恥じ入った。  秘めようとした劣情は今―― 『――マユリさん』  夢の向こう側から呼びかけられているような声。  ――マユリさん、  囁くように呼びかける声。  耳朶に響く声音は甘く、頭の芯がぼうっとした気持ちのまま、首を声のした方へと向けた。  視線の先には白羽蘇芳。  アミティエが泣き出しそうな顔で私を見詰めていた。 「――蘇芳さん?」  仄暗い図書室に彼女によく似た幽霊を見てしまったかのように、私は彼女の名前を呟いたのだ……。 まるで幽霊でもみたかのような瞳で私を注視した彼女は、 椅子から立ち上がり、何故だか照れくさそうに笑った。 「どう……したんだい。こんな夜更けに。蘇芳さん一人なの?」 「部屋に戻っていないから探したのよ。心配したんだから」 「そう……心配してくれたんだ……」 当たり前じゃない、というとやはり照れたように微かに笑みをこぼした。 「部屋にいても二人とも戻ってこないから心配して……」 「立花が? 彼女も?」 「ええ……でも、立花さんはもう見つけたわ。今は部屋で休んでいる。話したら落ち着いたみたいだし……」 「そうか……彼女には悪いことをしたね……」 それに関して……何も言えることはない。 マユリさんが悪いわけでもない。悪いのだとしたらそれはタイミングだけだ。 「食事も取らないで……ずっとここに居たの?」 「……ああ。少し考えたいことがあってね」 「悩みは解決した?」 「いいや……。ますます〈懊悩〉《おうのう》は深くなるばかりだ」 笑ってみせるが自虐だと分かる。黙り込む私に、眉根を寄せ、 「蘇芳さん、懊悩っていうのはね……」 「深く苦しい悩みよね。大丈夫、茶化したりはしない。ねぇ……マユリさん」 「なに?」 「以前、貴女は私へ、話したくないことは無理に話さなくていいって言ってくれたわよね」 「私はあの言葉に救われたわ。何も正直でいることが美徳ではないと知って……」 「でもね、マユリさん。そう言ってくれた貴女に言い難くはあるけれど、私は訊ねたいの。貴女の悩みを」 「私は……。私も一緒にマユリさんの悩みを抱えたいの」 私の言葉に、彼女は少しだけ頷く。 仄暗い部屋ではほんの少しの角度で闇の陰影がつく。表情が分からない。 悲しんでいるのか、怒っているのか。 私は急いてしまう胸に手を当てると彼女を見詰めた。 「――そうだね。蘇芳さんには話しても……いいかもしれないな」 上げた顔は……泣き笑いのような表情。 私は彼女にそんな顔をさせてしまったことを後悔し、同時に秘密を共有できることに悦びを感じた。 「――私はね、どうしようもなく愚かな女なんだ」 彼女の告白はその台詞から始まった。 「……子供の頃、十歳の時に両親が離婚し私は父方に引き取られた。男手一つで娘を育てるのは難しい」 「だから母代わりに家政婦を雇った。私はその人に育てられたと言っていい」 「難しく、手の掛かる面倒な娘だったが……その人は本当に実の娘のように面倒を見てくれたんだよ」 「いい人……だったんだね」 「ああ、佳い人だった。だが私としては実の母親の方がやはり大切でね。離婚した母の様子を一度だけ見に行ったことがあった」 「はがきで住所は分かっていたから。子供の大冒険というやつだ。……そして、今でも夢に見る光景を視てしまう」 再び床を見詰める。黙り込む彼女の言葉を待ち、私は押し黙った。 「……母の家で覗き見たのは、知らない男との情交だった。どうやらその男は浮気相手のようでね。父はそのことを知り別れたんだ」 「幼い私には話してはくれなかった真実だ。母の口から私へと向けた、心ない言葉、裏切りを聞き――何も出来ぬまま家へと戻った」 「…………」 「母の言葉が幼い私にはショックだったのか、その日を境に食べ物が喉を通らなくなった」 「お手伝いさんは面倒のかかる私をかいがいしく世話し、どうにか食べさせようと様々な料理を試した」 「衰弱していったが……ある種のお菓子だけは食べることができ、何とかそれを元に脱することができた」 お菓子作りが趣味なのはその時の名残かな、と苦笑う。 「……実の母のように尽くしてくれる彼女。$私はね、蘇芳さん」 「向けてくれる愛情を厚意でなく好意として、いつしか受け取るようになっていたんだ。私は――」 「――私は彼女に恋心を抱いたんだよ」 「好きに……」 「ええ……。私は……懊悩し苦しんだけれど、彼女へ告白することにした。話さないではいられなかったんだ」 「告白は――破れた。勿論、分かっていたことだけどね。彼女が私へ向けていたのは情愛ではなく、愛情だったのだから」 長い吐息をつき、恥ずかしそうな、苦しそうな、愛おしそうな……何とも言えない表情を向けた。 「私はね……この学院に来る前に失恋したんだ。相手は――女性だ。笑えるだろう蘇芳さん」 痛ましい顔つきに変わる彼女へ、私はきっぱりと――そんなことはない、と言った。 「……嘘だ。気持ち悪いと思っている筈さ」 「そんな風に思う筈がない。貴女は私の憧れだもの」 「……憧れ、こんな私が?」 「こんな、なんて言わないで。私が憧れている人を卑下するのはやめて」 「……私は」 痛みに耐えるかのように唇を噛みしめる。 私は彼女の元へと歩み、何も言わずに――抱きしめた。 「大丈夫」 「……蘇芳さん」 「何もおかしなことなんてないわ。人が人を好きになって何が恥ずかしいの」 沈黙が、 しばしの静寂が流れ、うん――と抱きしめた私の肩に彼女の〈泪〉《なみだ》が触れた。 「部屋に戻りましょう――風邪を引いてしまうわ」 何も言わずただ頷く彼女を、愛おしいと思った。 でも、 (愛おしいと思う感情は……) それは厚意からなのか、好意なのか。 温もりを感じる彼女と、立花さんの像を思い浮かべながら私は――そっと彼女の髪を撫でた。  ――長い吐息をつき、わたしはようやく我に返った。  $ 始めは――部屋に戻ってくるのが遅い二人のアミティエを探しに出ていただけだった。  蘇芳さんから慰められ、自分の嫉妬していた心が〈絆〉《ほだ》された。  だから、 (マユリさんと向き合おうとしていたのに)  訪れた図書室で――  同室の……匂坂マユリの告白を聴き――わたしは悦びに似た感情がわき起こってゆくのを感じていた。  可哀相だとも思った、同情心も芽生えた、助けてあげようと駆け寄りたくもなった。  $ でも、 (蘇芳さんを独り占めできるかもしれない)  そう心の中に、ぶくり、と厭らしい泡が生まれたのだ。  マユリさんの秘密を握ったという悪意の泡は広がり――  様々な思惑が生まれる。  噂を流したらどうだろう? きっと聖母役は下ろされるに違いない。  $ そうしたら例年通り、きっと私に―― 「……ダメよ、そんな」  呟くも、泡は飛沫となり広がってゆく。  いや、そんなことよりもこの秘密を握ったまま、蘇芳さんに。 (優しい蘇芳さんなら、きっと……)  厭らしく、汚らわしい企み。  でも今の私には、至上の答えに見えたのだ。  $ 物音に泡は消え失せ、慌てて廊下を駆けた。  $ しかし、消えた泡の萌芽はわたしの中で芽吹くのを待っている、そんな気がした……。 疲れているのに悪いね――と彼女は言った。 私が農作業の当番だったことを知っていたマユリさんは、微かに笑みを浮かべながら言う。 合唱部の練習の後、温室での農作業を終え、夕食を摂り――マユリさんとの秘密の特訓へ。 いや、もう秘密ではなくなったんだった。 「一休みしてからだもの。大したことないわ」 「そうか、そいつは残念」 おかしな返しに私は小首を傾げると、 「正直、私の方は音を上げそうだったんだ」 「でも、付き合ってくれている蘇芳さんがそういうんじゃ、私が泣き言をいうわけにはいかないな、ってさ」 だから残念なのね、と言うと苦笑いながら頷く。 「本当なら、立花にも手伝って貰えればいいんだけど……」 「寮に戻ってからも、クラスの演し物の作業をしているのだもの、無理よ」 そう、昨日きちんと話をした事でわだかまりはなくなったと判断した私は、立花さんにマユリさんとのバレエレッスンの事を話したのだ。 立花さんはバレエに参加することは初耳だったらしく、それは大変ね、と自分が協力できないことをマユリさんへ詫びた。 彼女の姿を見たがゆえの軽口なのだ。 「本当は私も立花の仕事を手伝わなくちゃなのにね」 「お茶を出したりしているじゃない。きっと立花さんも分かっているわ」 「そうかな……。こんなことなら聖書の授業をもっとちゃんと受けとけば佳かったよ。資料を揃えるのですら無理だものな」 「それは私がやっているから」 「うん。でも直接手伝えないのは歯がゆいな」 ぎくしゃくしていた二人だけれど、思いやっている姿を見るとほっとする。やはり私たちアミティエはこうでなくちゃいけない。 一休みしてはいても身体が冷えるのを避けるために屈伸しているマユリさんは、そういえばと思いついたように言った。 「農作業を終えて部屋に戻ってきたとき、何だか青い顔をしていただろ。聞きそびれてしまったんだけど、あれって疲れからじゃないの?」 農作業でのとあるひと幕を思い出し、ぐっと詰まってしまう。 「それは……」 「……やっぱり疲労からか。無理に付き合ってくれなくてもいいんだよ。疲れている時は休んでくれてもいいんだから」 純粋に心配してくれているのだろう。 凝っと私の目を……顔色が悪くないかと窺っていることから察せるけれど……。 (どうしよう……) 見当違いな心配と優しさに、言った方がいいのかと思う。でも、 「今からでも戻って休んだ方が良い。私はもう少し練習していくから」 彼女の言葉に意を決して告白することにした。 「あの、あのね……」 「うん、どうしたの? 私、ついて行った方が良い?」 「違うの。青い顔をしていたのは、その……苦手なものを見てしまって……」 「苦手なもの? もしかして……」 立花で言うところのお化けみたいな? と聞かれ私は不承不承頷いた。渋面を作る私へ、へぇ! と驚き目をぱちぱちさせる。 「……何でそんなに驚いているの?」 「いや、蘇芳さんて私から見たらすごく大人で理性的に見えていたからさ。何というか苦手なものなんてないって思ってたんだよ」 ――そんな事ない。 (得意なものより、苦手なことの方が多いくらいだわ) 「立花のお化け嫌いはらしい感じだけど……。でも農作業中でしょ? そんなに怖いって思うモノあったかな?」 「……あるわ。想像するだけでおぞましいものが」 ちらっと思い返しただけで鳥肌が立つ。 それを目ざとく見つけたマユリさんは、そんなに嫌いなのかと呟いた。 「農作業中で女の子が苦手なものと言ったら……。もしかして――虫とか?」 「その名前を呼ばないでッ!」 手に止まられた惨事を思い出し、背筋に氷を這わせたような感覚に陥る。 「おお……。どんぴしゃだったのか……」 両手で肩を抱く私へ、マユリさんはごめんと謝りながらも、 「でも蘇芳さん。前に家でおじいさんの家庭菜園を手伝っていたと話していたでしょ? そんなに苦手なら手伝えなくない?」 「普段は警戒しているから大丈夫なの。再三再四注意を払っているし。でも、でもね。時期じゃないから油断したのよ」 「時期じゃないって……」 そう、もうそろそろ梅雨の時期になろうとしている。だから居るはずがないと思っていた。 「きゅ……休憩していたら私の手に……モン……」 「もん?」 「モンシロチョウが……っ」 口に出すだにおぞましい。 あの卑猥な白色、奇妙で奇っ怪な口、まるで芋虫のような腹を思い出すだけで絶叫しそうになる。 「え……青虫とかじゃなくて……蝶?」 「そ、そうよ……。む、し……は基本的に全部ダメだけど、蝶……だけは本当に苦手なの……。気持ち悪くて気持ち悪くて……」 心からの告白なのに、彼女は怪訝な様相を浮かべていた。 (苦手なものってそうじゃないと理解されにくいのよね……) そう、今日の合唱部の練習でも―― だってしょうがないじゃない、と聖堂内に抗議の声があがった。 「苦手なものは苦手なのよ」 「あれは――お化けじゃないだろう」 休憩の時間に“苦手”なものについての話になった。 それは聖堂に足を踏みいれる際、立花さんが必ず俯いて扉をくぐることから始まったのだけど……。 「私、聖堂に入る時にお辞儀をしているのかと思っていたわ。職員室へ入る際に、失礼しますっていうみたいに」 「――ああっ」 その手があったかと、目を見開き次いで悔しそうに渋面を作る。 「おかしいと思ったから聞いてみたけど……そうか。門を守るガーゴイルの銅像が怖かったなんてねぇ」 「……守護像だってことは分かっているのよ。沖縄でいうところのシーサーみたいなものでしょ?」 「でもね、シーサーと違うところは……」 刹那、扉の閉まっている聖堂の入り口へと視線を向け、すぐに逸らし、 「……顔は怖いし……悪魔みたいじゃない」 切実な訴えだったのだろう、だがそれを“恐怖”だと実感できない者には滑稽にうつるらしい。 怯える立花さんを尻目に、〈呵〉《か》〈々〉《か》とマユリさんは笑い―― ――立花さんにそうしたように、私へ向けてもお腹を抱え笑っていた。 「……もう! 誰だって苦手なものはあるでしょう」 「それは……そうだけど、ふふ。まさか蝶が怖いなんて意外も意外だろ?」 「虫だって例えばテントウムシなんかは可愛いじゃない?」 「小さくて足がたくさんあるだけでもう無理なのよ……!」 説明するだけで怖気がたってくる。二の腕をさする私をマユリさんは笑みを零し、私の肩を指さした。 「それじゃ、今、肩に付いてる小さな蛾みたいなのでもダメなの?」 「――ッ!」 声のない悲鳴を上げ、指さすマユリさんへ抱きつく。 「え、わ……っ」 バランスを崩し自重に負け、床に―― 床に背中を打ち、私は痛みとともにマユリさんが下でなくて佳かったと思った。 私の所為で怪我をしたら……。 「――蘇芳さん」 今までの笑い声から一変、低く落ち着いた声音に驚いた私は、 「――ッ」 マユリさんの顔が目の前に迫り―― 「え、ぁ……!」 慌てて、のけぞるも頭は床についたまま、赤面したマユリさんは私を見詰め―― 「……ご、ごめん」 「あ、ぅ……い、いいのよ。事故だし……」 「そ、そうか……」 すぐ目の前にマユリさんの顔が―― 赤面していた表情は、徐々に崩れ……悲しげに歪んだ。 「そうだね……事故……そうだ」 呼吸が感じられるほどの距離で彼女が囁く。 「蘇芳さん……私は……」 呟く彼女を見詰め、 「――私は貴女に甘えているのかもしれない」 (甘え……?) その言葉の意味を考え―― 「――大変、」 私たちではない声に慌てて振り向くと、 「り、立花……」 「……どうしたの? そんなに怖い顔をして」 「こ、これは……」 「練習で倒れてしまったんでしょ。さぁ手を貸すわ」 立花さんはいつものように呆れ顔をしながら、マユリさんに手を貸し、次いで私にも手を貸してくれた。 「遅くなったから呼びにきたのよ。そろそろお風呂に行かないと閉められてしまうわ。早く行きましょ」 「そ、そう。呼びにきてくれたんだ」 「汗だくの二人のにおいに包まれた部屋はごめんだものね。部屋の電気を消してきて。出るわよ」 変わらない彼女、私は小さく吐息をつきマユリさんへ着替えの制服を渡すために用意をする。と、 「……蘇芳さん。話があるの」 そう耳打ちされたのである……。 「待たせたかしら」 何の気負いもない平時と変わらぬ声で彼女はそう声を掛けてきた。 仄暗い室内、本の匂いに包まれながら立花さんを待っていた私は、どこか別の空間にいるようなふわふわとした心持ちで彼女の言葉を聞いた。 夜更けに図書室で待ち合わせるという行為に、 「……ふふ」 少し笑ってしまう。 「……何かおかしいことでも」 「いえ、何でもないわ」 この学院に通う前は、私がまっとうに人と付き合えるのかを悩んでいた。 その私が、 (深夜に呼び出されるようになるなんて……) これほど深い関係性が持てるとは思っていなかった。だからこその笑み。 「…………」 思わず笑みを零したことでおかしな子と思ったのだろう。どこか不審な目つきで私の顔を見詰めた。 「ごめんなさい。こんな夜更けに図書室にいるだなんて、私自身に起きたお話じゃないような気がして」 「……夜更けに呼び出したのは悪いと思っているわ」 「構わない。おかしな気分になっている……だけなのだから」 なら、わたしもおかしな気分に流されているのかしらね――と彼女は言った。 そして歩を進め、私と向き合う。 「こんな話……変、だと思うでしょうね」 「……話して」 「昨日……マユリさんと仲良くしていると嫉妬してしまうと話したでしょう。どうしても比べてしまうって」 「わたしは……この気持ちはただの嫉妬だと思ったの」 「……自分のお気に入りの人形を、他の人が手にとって遊んでいるのを見つけてしまったような感情……」 「私も……仲の良い友人が、私よりも仲良くしている人がいるのを知れば面白くないわ。それはきっと誰にでもあるものよ」 生真面目な立花さんには狭量な自分が耐えられぬのだろう。私は彼女の重荷を軽くするために言葉を続ける。 「それに……嫉妬はいけない事なんかじゃないわ。だって嫉妬するくらいその人のことが大好きだってことでしょう?」 「相手のことに真剣になれるから苦しいの。だから……」 「ええ、苦しいわ。蘇芳さんのことを想うと苦しいの……」 「立花さん……」 「二人が仲良くしているのを見ていると……レッスン室でのことだって……」 流しているように見えたけれど、やはり面白くはなかった……のか。 (マユリさん) 床に倒れ、覆い被されたとき―― 「……あれは、事故よ」 「わたしにはそう見えなかったわ。いえ、事故なんて言葉じゃ済ませたくない」 真剣な面持ちに――私はどうしたらいいか分からなくなる。アミティエ同士ならば……変わらぬことが美徳なら、 「その……あのレッスン室の事故の所為でマユリさんと差が付けられたと思うなら、」 緊張し唇が震えた。 「――同じ事をして、みる?」 …………。 答えは沈黙。 馬鹿な真似をしてしまったと後悔するも、吐いた言葉は取りかえせない。 何と言葉を掛ければいいか悩んでいると、 「……馬鹿に、」 「馬鹿にしないで――わたしは勇気を振り絞って、蘇芳さんに告白しに来ているのに」 (……何て) 意味が分からず惚け、暫し夜目にも赤く染まる彼女を見詰める。 今にも泣き出しそうな表情。身体は震え、拳をぐっと握り込んでいる。 これは―― ――告白というのは、 「――冗談よね」 ようやく言葉を紡いだ。 察しの悪い私が選んだ最悪の返答。 「――夜中にアミティエの子を呼び出して悪ふざけするほど、わたしは不良じゃないわ」 睨め付けるような必死の視線。 私は、 私は今までにないほど頭を働かせる。 姑息にもそれは、彼女と、彼女らと関係が壊れない方法。 受けいれたときの私を取り囲む周りの変化、 受け入れぬ時のアミティエ同士のつながり、 打算とも取れる思考を巡らしていることに自分自身、私はこれほど厭な女だったのかと悪心を抱いた。 私、私は、どうしたら―― 「――立花さん」 「…………」 「……私は誰ともお付き合いするつもりはないわ」 「……マユリとも?」 彼女の名に少しだけ詰まるも、ええ――と答えた。 二人の間に冷えた沈黙が流れ、彼女は何かを吹っ切ったようにふっと小さく吐息を付く。 「蘇芳さんのお気持ちは分かりました」 「ごめんなさい。立花さん……」 「いえ、謝るのは私の方だわ」 彼女の微笑みはどこまでも優しく……故に恐ろしく思えた。 「だって、これから耳を塞ぎたくなる話をしなくてはならないのだから」 え、と立花さんの瞳を見詰めると、彼女は笑みを浮かべたまま、昨日の夜見てしまったんですと切り出してきた。 「――呼び出した場所で、察して貰えるかと思ったんですけどね」 夜更けの、図書室。 導き出される図式は、 「マユリさんとの話を……」 「ええ、偶然に。面白い話をしていましたよね。いえ……痛ましい話ですか――まさかマユリさんが……」 続けて、吐かれる差別の込められた言葉にやめてッと鋭く制した。 「……私も酷い言葉を吐きたくありません。何をすればいいのか分かりますよね、蘇芳さん」 私は、現実から目を背けるように、彼女がしていたように窓から外を眺めた。 四角いガラスで等分に切り揃えられた月が、青く寒々と照らしていた。 月よりも冷えた言葉で、再度問いかけられた私は、 はい――と答えるほかなかった……。 夏目漱石全集に『坑夫』という作品がある 十九歳の青年が、三角関係のもつれから嫌になって家を飛び出し 行く当てもなく歩いているとポン引きに出遭い、炭鉱へ連れて行かれるという話だ 炭鉱の町で様々な人と出会い、飯場の仕事をし五ヶ月間もの時を過ごす この話は家に戻った際にすとんと終わってしまう 鉱山町や坑道の様子も細かに書かれお話としても面白いが―― 私は十九歳の青年がまったく“成長”しないことに恐怖と安堵を覚えた 住む町を変え、仕事を変え、人と会い、労苦を覚える しかし青年の精神性は始まりと同じで変わることはない 変わることの出来ない自分 私は彼女と、彼女との出逢いで変わることができるのだろうか 久しぶりのお茶会。 皆が沸き立つのも分かる。聖母祭にかかり切りで、皆お喋りする場と美味しいお菓子に飢えていたのだから。 目の前には鮮やかな色とりどりのデザートと料理。そして匂い立つ紅茶の香りがそれを引き立てる。 忙しい時間を縫い、出席したクラスメイトたちは卓上と、開催した主を見上げた。 ティーカップを鳴らす音で注意を引いた主、 では、お茶会を始める前に――と、彼女は座している皆の顔をゆっくりと見回すと口上を述べた。 お茶会が始まる前のお決まりだから、皆静かに待っている。 「では、最後に私事ではありますが――」 いつものとは違う結び、クラスメイト等は怪訝に目を向けるも、彼女は立花さんは笑顔を変えずに、 「この度わたしと蘇芳さんは、お付き合いすることになりました」 と宣言した。 一瞬の静寂の後、あがる歓声と嬌声。 遠慮のない好奇の視線が突き刺さる。 それは友人である沙沙貴姉妹、 驚愕の視線である、八重垣えりか。 そして困惑と静かな怒りを込めた視線を、もう一人のアミティエから確かに感じたのだ……。 アミティエが告げた交際宣言は―― 思ったよりも奇異の目で見られることはなかった。 冷やかす苺さんに、受け止める立花さんは赤面するような言葉を吐く。撃沈する姉の仇にと林檎さんも鋭く切り込むも受け流されてしまう。 (女学院では普通のことなの、か) 自分が同性愛者ではと悩んでいるマユリさん。その事実を暴露すると言われ交際を承諾したものの。 ――これならば秘密を明かされても……。 数瞬そう思いはしたが、お茶会の雰囲気、クラスメイトの態度を見てやはりそれとは違うのだと感じた。 この交際宣言は、現実的でセクシャルな肉体的つながりでなく……。 友人同士のつながりをさらに深めた……親友。 否、親友よりも精神性をより深めた関係……と捉えているような節がある。 (一番の親友を宣言するようなものだろうか) 立花さんの交際宣言と、マユリさんの悩みでは重さの種類が違うのだ、と実感した。 そう――思っていたよりも好意的に周りに受け止められていて、肩すかしを食らった気分になる。 もっとも―― 「それで、もうキスは済ましたのかい?」 直接的な表現で笑えない冗句を飛ばす者もいたが。 お茶を飲みながら意地悪い猫の目をした彼女が、少し離れた場所でお茶会を見守っていた私へと言う。 からかうために座を離れてきたのだろう。 「それとももうあっちの方も既に済ましてるとか?性格からすると、お前の方が男役か?」 「……昨日の今日でそんなことをしている訳ないでしょう」 「へぇ。告白をされたのは昨日なのか。保留しないで即決で返事するなんて男前だな」 情報を引き出すためにからかわれたのだと後から気づき、はぁ……とため息をこぼして項垂れる。 「冗談はともかく意外だったな。わたしとしては付き合うにしても委員長より、もう片方のアミティエを選ぶものだと思っていたよ」 ――マユリさん、 先に戻ってしまい姿はない。帰ったという事実が彼女の本意を伝えていた。 「……で、本当のところはどうなんだよ。委員長の言う通り付き合ってるのか?」 返事をしない そうだと答える 愉しげに歓談する立花さんを見詰め、 「…………」 私には何も答えることが出来なかった。否定も肯定もできない。 「……ふぅん。ま、その態度で大体分かったよ」 紅茶を一口傾け、冷めちまったなと呟くと、 「で、この茶番にいつまで付き合うつもりなんだ」 「茶番って……」 「お前は人が良いし、告白されたら断れない優柔不断なやつっぽいが――」 「気のない相手に愛想の良い返事をしたら、傷つけてしまうくらいの頭は回るやつだろ」 「自分だけじゃなく、あいつの傷口まで広げてるんだぞ」 「……それは」 分かっている、と答えそうになるも伴っていない自分に口を噤むしかない。 わぁと一際歓声が上がり、立花さんがこちらへ歩んでくるのを見て、 「自分の蒔いた種だ。うまくやれよ」 と彼女は言った。 沙沙貴さんたちと愉しげに話す彼女を見詰め、 「……そうよ」 と答えた。 「へぇ。それじゃ本当に両思いってことか。まぁ女学院のこの風土だ」 「耳に入る噂話なら、女同士ってのもそれほど奇異な話じゃないそうだしな」 そうなの、と訊ねると、ああと頷く。 「閉鎖的な状況だからか……女学院特有のものだか知らないが、割合多いらしい」 「宗教的にも学院的にも、男と乳繰り合うよりはいいんじゃないか」 「……そう」 「そういえば一年前は、あの美人な副会長と会長も一時期噂になったらしい。それくらいは浸透しているんだろうな」 「小御門先輩と八代先輩が……」 確かに絵として見るならば最高の二人だろう。でも、 (性格的に無理なような……) 二人共に話をしたことのある私からすれば、あの二人の関係は純粋な友情のように思える。 友情……。 「……立花さんと私は」 関係性を考えるも一際大きな歓声があがり、私も八重垣さんも声の方を見遣った。 「どうやら王子様のおいでのようだ」 立花さんがこちらへ歩んでくるのを見て、猫の眼の友人はからかいの言葉を吐いた。 立花さんはしずしずと歩みきて、対面に立つと自然に手を取った。 またも沸く嬌声。 「あの……」 「わたしたちお付き合いしているでしょ。でも互いの雰囲気から以前とあまり変わらないという方がいて……」 「そんなことないって証明しなくちゃならなくなったの」 ――証明って。 「まさか、その……この場でキスをするとか……」 「やだ。そんなふしだらな真似はしないわ。そういうことはきちんと手順を踏んでからするものよ」 彼女の言葉に内心安堵の吐息をつく。アミティエの為にと決めたことだけれど、まだ私には覚悟が出来ていなかった。 「その、ね。蘇芳さん。今までの関係を変えるために……。もっと親密になる為にしようと思っていたことがあって……」 赤面し、はにかむ彼女。愛らしく保護欲を誘う。 まるで昨日の彼女とは思えない。 「わたし……考えたのだけど、お互いに呼び方を変えるというのはどうかなと思って。その……どうかしら……?」 さん付けをやめる? あだなを付ける? もっと―― (とんでもないことを言われると思っていた) 控えめな申し出に思わず目をぱちくりとしてしまった。 「だめ……?」 「いえ……ダメなんかじゃないわ。$そう、そうね……。呼び方を変えるというのは、つまり“さん”付けをやめるとか?」 「っ! ええ、そう、どうかしら?」 確かに下の名前で呼び合っている以上、呼び捨てになる。いつもの私ならかなりの抵抗があった筈だ。 「り……っか」 「――っ! はい」 もっと別のつながりを求めていると思っていた私は、気負いなく名前を呼んでしまった。 呼んでしまった、途端―― (これは猛烈に恥ずかしい……!) 名前を呼んだ瞬間、上がる歓声。 囃し立てる沙沙貴さんたち。後ろから八重垣さんの視線が背を貫き、耳と言わず首元まで真っ赤になってしまった。 「……蘇芳ちゃん、可愛い」 「初々しいねぇ」 打ち震えている立花さんへ、大丈夫? と声を掛けるとはい、と俯き頷いた。 「あの……わたしからも、呼ぶね?」 「うん……」 「――蘇、芳」 呼び捨てられるという事はこんなにも親しく聞こえ、嬉しいものなのか。 今までの経緯を刹那忘れ、ぐっと胸に熱いものがこみ上げてくる。 私は喉からせり上がってきた固まりを吐くように自然に、 「――はい」 と答えていたのだ……。 立花さんの申し出に―― (そんなことでいいの?) と拍子抜けしてしまった。 私はもっと肉体的なつながりを――皆の目の前で抱擁や何かを、させられるのだと思っていたのだ。 「あの……蘇芳さん、どう……かしら?」 「あ……えっと、それって親しみを込めて……あだ名を付けるってこと?」 ――どうも、違うらしい。 私の提案に目をぱちくりさせるとそれも佳いけど、と頷き小首を傾げ、 「さん付けを止めて、呼び捨てで呼んでほしいの」 と言った。 「呼び捨て……」 「ダメ……かしら?」 上目遣いに私を見遣る彼女。本来なら友人の名を呼び捨てにすることに抵抗があっただろう。 けれど、 (麻痺しているみたい) 私は何の気負いもなく、 「――立花」 と呼んだ。 「――っ! は、はい!」 頬をと言わず首まで染め、こくこくと頷く彼女に純粋に愛らしいと思ってしまう。 そして……今更ながら羞恥が襲う。 (皆が見ている前で……!) 立花さんと同じくらいに火照りを感じていると、彼女は私へ向き直り、真摯な瞳で見詰めた。 「――蘇、芳」 初めて名を呼び捨てられ、 「――はい」 その一瞬だけはわだかまりも何もなく、ただ友人から呼ばれた私の名に悦びをもって答えた……。 「さぁ」 どうぞ――と差し出される手作りのクッキー。友人から手ずからのものを頂けるなんて嬉しいことだ。でも、 「あの、自分で頂くわ」 「恥ずかしがらないで」 親鳥が雛へ餌をあげるよう……口を開けなさいと目で訴えてくる。 (皆が見ている中で……!) 交際宣言をしてからの彼女は好意を隠すことはなくなった。 私からすれば過剰なスキンシップを求め、私もそれに応えざるをえない。 周囲の反応も―― (八重垣さんの言った通りだわ) 元々の気質なのか分かり易い恋人同士のやり取りをしても、好奇の視線で見る者はいなかった。 むしろ羨ましそうに見詰める者が多い程だと、私は上の空でクッキーを囓っていた。 「あの……」 「っ、あ、何?」 もう片方の手で私の手を握る。あたたかで柔らかく、女性を感じさせる手のひらだった。 「美味しく……なかったですか?」 「そんなことないわ。その……頂くわ」 「そう、佳かった。あ〜んしてね」 言われるがまま口を開け、やや苦いクッキーを待つ。 こうして―― 彼女との密な交際は続いた。 「時間は……大丈夫なの?」 「少しくらい息抜きをしないと煮詰まってしまうわ。蘇芳には付き合って貰って、悪いと思っているけど」 「平気よ。お昼まで練習しているわけじゃないし」 「そう。なら佳かったわ」 蘇芳、と呼び捨てられどきりとしてしまう。 時々見せるスキンシップ過多を除けばいつもの立花さんで……交際しているという事実を忘れてしまう。 だが、“蘇芳”という呼びかけが今までの立ち位置と違うのだと端的に告げていた。 「あんまり森を散策するのとか興味がなかったけど……二人でこうしていると愉しいわね」 浮き足立っているような仕草に私も笑みがこぼれた。 (友人とお散歩をするのは、私の夢の一つだったし……) 嬉しくないわけがないのだ。 ただし“友人”とではあるが。 「ん……」 森を……でなく私を眺めていた立花さんは眉根を寄せると、凝っと顔を注視してきた。 「なにか……付いているかしら」 「いえ、もしかして寝不足なの?」 質問の意味が分からず、え……と小首を傾げると、 立花さんは立ち止まって私の唇を指差した。 「唇が荒れているわ。ダメよ女の子なんだから」 言い、ポケットからリップクリームを取り出すと私へ……。 (これって……) 以前読んだ小説にあったシチュエーションだ。 間接キスになってしまう――ドギマギしているとリップのキャップを開け、はぁと吐息をかける。 「……何をしているの?」 「リップクリームを温めて塗りやすくしているの。少し待っていてね」 温めたリップクリームの先端を人差し指で取り、私の唇へと―― 「ん……っ」 「ふふ。動かないの。大人しくしていなさい」 キャンバスに絵の具を塗っていくかのように、丁寧に唇へリップクリームを塗ってゆく。 人差し指が私の唇を撫で動き、羞恥と……ある種の愉悦を覚えた。 「これでいいわ」 「……ありがとう、立花さん」 「もう、立花でいいのよ」 ありがとう、立花――と言い唇に触れた指の感触を思い返していた。 ――何度も言うが、スキンシップの過多はあるものの、彼女とは今まで以上に仲良くなれている。 それは喜ばしいことだ。 しかし、“交際”を薬に例えるなら、強すぎる薬には毒がある。過ぎれば毒になるのは当然だ。 自習となった時間、 「……ねぇ、さすがに飽きてきたよ」 「……図書室は静かにですよ」 「ちょっと真面目に自習し過ぎじゃない? 普通もうちょっとお話とかするものじゃないかなぁ」 対面の……同じ机へ身体を投げ出し、恨みがましく私を見た。 「読んだ本の感想文も書かなくちゃいけないし、きちんとやった方がいいわ」 言う私へ、 「そうよ。ほら、そんなにたくさん持ってきているんだから好きな本を選んで読みなさい」 隣に座る立花さんが言った。四人がけの机。対面に沙沙貴姉妹。そして私たち。 苺さんは面倒くさそうに持ってきた本の中から、一番上のものを取ると頁を捲り……すぐに飽きると図書室奥を眺めた。 「ねぇ、何でユリは一緒に自習していないの? 一緒にやろうよ」 「…………」 「マユリさんは本は一人で集中して読みたい派なの。だから邪魔したらダメよ」 「変なの。皆で勉強した方が面白いのに」 「…………」 そう、“交際”を薬に例えるなら、強すぎる薬には毒があると考えたが、 過ぎた毒はマユリさんへの態度だ。 確かに三人のアミティエで二人が交際を始めれば溝はできるだろう。 現にマユリさんは日常で必要最低限の言葉しか交わさなくなってしまった。 そして、立花さんもそれを良しとしているのだ。緩やかだが交差していた線は交わりを失いつつある。 (もっとも……) ……私を裏切り者だと避けているのかもしれないが。 立花さんに分からぬように小さく溜息を吐き、夏目漱石全集を手に取る。いつもは頭に……心にしみる言葉が何も入ってこない。 私は本から視線を上げ、集中している林檎さん、そして漫画を読んでいるように愉しげに頁を繰る苺さんを眺めた。 (本好きじゃない苺さんがそんなに気に入るなんて、何の本かしら?) 本の装丁からして……専門書のよう。さらに意外な気がした私は、つい身を乗り出してしまう。 「うん? どうしたの蘇芳ちゃん?」 「あ、え、その……」 「本読むの飽きた? お話でもしようか」 珍しいものを見る目を向けてくるアミティエと林檎さんへ、誤解よと告げると、 「苺さんが読んでいる本が気になって」 と言った。なぁんだそんなことかと苺さんは言い、持っていた本を私へと向けた。 「これって……サッカーのルールブック?」 「うん。まずは基礎知識から学ぼうと思って」 「苺さんて変わっていると思っていたけど、サッカーになんて興味があるのねぇ」 「サッカー好きは変わり者みたいな言い方だねぇ。今は女子サッカーも盛んなんだよ?」 確かに少し前のニュースで随分と騒いでいたのを見た気がする。と、隣の林檎さんは本をぱたんと閉じ、 「……受け売りなのです」 「え?」 「……八代先輩がサッカーに目覚めたらしく、部で話しているのを聞いて、苺ねぇは――」 その気になったの、と言った。 「今まであんまりスポーツらしいスポーツはやってこなかったから、何かやってみようかなって思ったんだ」 「へぇ。苺さんてスポーツをやっているイメージだったわ」 「う〜ん。遊びの方に夢中だったから、スポーツはあんまりね。ねぇ蘇芳ちゃんは何かやってた?」 ジョギングくらいなら 水泳を少し 苺さんに振られ、私は――何かやっていただろうか、と悩む。 これと言ってスポーツらしいスポーツはやってこなかったけど……。いや、そういえば、 「……祖父の付き合いでジョギングくらいならしていたかしら」 「ジョギング? 何かそれって……」 「……すごくらしいと言えばらしいし、らしくないと言えばらしくない」 「リアクションに困るねぇ」 何故だかあごに手を置きうんうんと頷く姉妹。つい立花さんを見ると、 「あ、その……いいんじゃないかしら。健康的だし、それに……。専門的なウェアを着て走っていたら格好いいと思うし」 陸上で着る露出過多なウェアを思い浮かべ私は、勢いよく頭を振った。 「そんな……あんな格好で走っていないわ。学校で支給されたジャージを着て走っていたの」 「……学校のジャージで祖父とジョギング」 「女の子らしい話題にはならなかったね」 そう大げさに首を横に振られてしまったのである。 スポーツと言われ、ほんの少しだけ祖父に連れられ経験したものの、肌に合わずすぐ止めてしまった競技を思い出した。 「その顔は何かやったことがあるんだね?」 「そうなの? 初耳だわ」 「やった……といえるほど長く通ってなかったからよ」 「何というかその……人前で着替えたり、人に肌を見せたりするのは好きじゃなかったから」 「おおっ!」 「……これは期待してしまう話題ですね」 身を乗り出す姉妹、何故だか立花さんも頬を染めている。 「別に……面白いことじゃないわ。水泳よ。皆の町や市でもスイミングクラブってあったでしょ?」 「ああ、水泳かぁ。確かにうちの町にもあったよ。けっこう学校の子たちも通っていたなぁ」 「学校で水泳の授業を何度も避けていたら、一度入会させられそうになった苦い思い出がある……」 「私も気が進まなかったけど、祖父が一度通ってみてから決めてみろって……」 「よく知らない人の前で脱がなくちゃいけないし、水着になったら皆に見られて恥ずかしい思いをしたわ」 上手ではなかったのに同級生……大人からもよく見られていた。 あれは何だったのだろう。と、 「……小さい頃の蘇芳の水着……」 「立花さん……?」 何やらぶつぶつと呟いている。私が肩に手を置こうとすると林檎さんがその手を取った。 「あの……?」 「……そっとしてやって欲しい」 何やら意味が分からなかったものの、林檎さんのお願いだ。私は俯く立花さんを放っておく事にしたのである。 「八代先輩から勧められたサッカーだけど、けっこう面白そうだよ。今度、皆集めてやってみようかな」 「大人しいお嬢様が多い校風だから、なかなか難しそうだけどね」 「そうかなぁ。あ、こういうのって蘇芳ちゃん好きそうじゃない?」 「どれ?」 覗き込むと苺さんは本を机に置き、開かれたページにあるミニ知識の欄を指差した。 「モモ缶? なんでサッカーに果物が……」 「いわゆる符丁ってやつだよ。接触プレーで内モモに蹴りが入ってしまうことだって。何か面白いね」 「へぇ、専門用語みたいなものかしらね」 「……飲食店で口に出してはいけないあの虫のことを五番入りました、というようなものかも」 虫……との言葉に怖気を震いながらも、少し意味合いが変わってきているんじゃ、と告げると苺さんがパンと手を鳴らした。 「そういえばこの手の話はユリが得意なんだよ。スポーツ系で前盛り上がったことあるし」 「そう……なの?」 「うん。確か、何かやっていたって話してたような……。ねぇ、ちょっと呼んでこようか」 そうね――と告げようとした刹那、 「――ダメよ」 「なんで? 詳しい話聞けるかもだし、呼んできたっていいじゃん?」 「マユリさんは読書中だって言ったでしょ。邪魔したら悪いわ」 「向こうだって休憩くらいするよ。呼んできたっていいよねぇ?」 少しくらいなら…… 勉強の邪魔をしてはいけないわ 問われ―― (確かにこのままじゃ……) 気持ちに距離が――離れ離れになってしまうと感じた。 「迷惑を考えないと……」 「……そうね。少しだけなら息抜きにいいんじゃないかな」 「蘇芳……」 隣を見るのが怖い。けれどこれは他意のないアミティエ同士のたわいない付き合いだと知らせる必要がある。 「少しくらいならいいじゃない。ね、立花」 渋面を作ったままで黙り込む。林檎さんは何か不審を感じたのだろう。苺さんは、 「それじゃ呼んでくるね。ちょっと待ってて」 言うが早いか大股で図書室の奥へと向かった。 「アミティエ同士だもの。仲が佳い方がいいに決まっているわ、ね?」 「……そうね」 一言呟きまたも黙り込む。 「……ねぇ、蘇芳ちゃん、あの……」 「行ってきたよっ」 「マユリさん、来るって?」 「それが、感想文苦手だからやめておくって。せっかく盛り上がってたのに。ねぇ」 苺さんの言葉に私は図書室の奥の方を見ると、新しい本を探してか立ち上がって書棚へ向かう彼女を見つけた。 「…………」 私の視線は彼女の視線と合い絡み合う。$気づいた、だろう。 しかしマユリさんは何も見てはいなかったかのように、視線を外した。 (やっぱり怒っているんだわ) 彼女に嫌われたという事実に、胸の奥にある芯の部分が掴まれた気分がし、私はそっと深く長い息を吐いたのだった……。 苺さんの提案に、 (アミティエ同士だもの。交流を深めたっておかしくない) そう思う。でも、 「…………」 不機嫌さを前面に押し出した彼女をみて何も言えなくなってしまう。 「……勉強の邪魔をしてはいけないわ」 「ええ〜。少しくらい構わないのにぃ」 「そうね。少しくらいはね。でも、それを言うなら私たちも、そろそろお喋りはやめて勉強に戻りましょう」 「少しくらいは過ぎたでしょう?」 藪をつついて蛇を出したと言わんばかりに、苺さんはうぇっと舌を出して見せた。 「そうそう。そろそろ真面目に読書をしましょう」 「……ぁ」 「ね、蘇芳」 机の下で彼女の手が私の手を握る。その手は熱く強く、彼女の意志を何より伝えている気がした。 (マユリさん) 一人図書室の奥で書物を開いている彼女を思うと、何か説明のできない感情がわき上がってくる。 ――嫌われてしまったから? せっかく得たアミティエ……友人を失ったからだろうか? 立花さんの手の熱を感じながら、私は胸の奥にある芯をぎゅっと掴まれた気がした……。 ――すれ違いは続き、 否、 マユリさんも意図して避けているのだろう。彼女とほとんど会話をすることが出来ないでいた。 休み時間も、 昼食の時間も、 放課後のバレエの練習すら一人でいいと断られてしまった……。 唯一交わるのは―― ――この聖歌の練習の時だけ。 練習を重ねマユリさんの歌声は、合唱部の皆と遜色のないものとなってきている。 もともと素質があったのか、小御門先輩のアドバイスを受け始めたばかりの頃とは見違えるようだ。 (私は――) 「……一度演奏を止めましょう」 指揮をしていた小御門先輩は私へと指揮棒を振り、鍵盤から指を下ろさせた。 「どうしたの? こういう事を尋ねるのは失礼だけど、今日は……ううん最近ミスが多いようだわ」 「……すみません」 「責めているのではないの。調子が悪いのなら休んだっていいのよ? まだ時間はあるのだから」 長い〈睫〉《まつげ》を瞬かせおっとりと喋る口調に……私は己のふがいなさと苛立ちを感じた。 「……どうしたんですか?」 「蘇芳さんが少し調子が悪いみたいで……」 「え、大変……」 走り寄ってきた立花さんは、私の前髪を優しくかき上げると、 「ぁ……」 自分の額をつけ、熱を測る。キスを意識するほど間近に彼女の唇が迫り、かっと頬を染めてしまった。 「う……ん。少し熱があるかも……」 「まぁ、それは大変だわ」 「ち、違います。大丈夫です……!」 羞恥から額を離すと、中空に視線をさ迷わせているマユリさんが視界の端に入り、私は慌てて小御門先輩の手を掴んだ。 「なぁに?」 「ほ、ほら熱はないでしょう? ですよね?」 小御門先輩の手を私の額に当て、目を瞬かせてそうねぇと頷く。 「熱はないみたい」 「本当ですか?」 「ええ。でもそれじゃぁ……」 額に当てていた手を離し――私の頭を撫でる。苛立っていた気持ちが少しずつ霧散していく。 「急に頼まれた伴奏だものね。うまく行かず悩んでいたのよね?」 優しい言葉に違いますと言えず、俯いてしまった。 頭を優しく撫でる感触は続き、 「練習の後、少し話しましょうか、蘇芳さん」 と、暖かな声が降ってきた……。 ここならゆっくり出来るわ――と匂い立つコーヒーを手渡され、手のひらにじんわりと伝わる熱を感じながら、はいと答えた。 「冷めないうちにどうぞ」 そう勧められ、コーヒーを一口飲む。$飲み慣れないコーヒーの味は苦く酸味が利いてはいたけれど……。 「美味しい……」 喉を伝い胃の腑に治まると温かいコーヒーは安堵の気持ちを取り戻させた。 「そう。佳かったわ。私、紅茶よりもこっちが専門なの。でも、学院でコーヒー好きはあまりいないから寂しかったのよ」 頂いているコーヒーの豆の名前を聞かされるが、有名な豆しか知らない私は理解することができなかった。 でも、 (きっと特別な豆なんだわ……) 落ち込んでいる私へと、とっておきのコーヒーを振る舞ってくれたことに心が温かくなる。 「ねぇ、蘇芳さん」 「はい」 「練習の時は、急に伴奏を頼んだことで重荷になっているのよね、と尋ねて頷いていたけれど……」 「本当は何か他に理由があるんじゃないかしら?」 「何故……そう思うのですか?」 小御門先輩はコーヒーを優雅に傾け、 「以前、伴奏を頼んだ際に気分が悪くなった事があったでしょう」 「あのとき、体調が優れなかった事もあったでしょうけど、急に頼まれた重圧もあったことからだと思うの。でも今日は……」 あの時の様子とは違う――と続けた私へ、彼女は黄金色の髪を振り頷いた。 「もしかしてなのだけど……アミティエ同士でうまくいっていないのかしら?」 「……ッ」 核心に触れられカップを持つ手が小さく震えてしまった。 目ざとくそれを見つけたのだろう、小御門先輩は、やっぱり……と呟く。 「何故……分かったのですか?」 「ここ最近……花菱さんと距離が近くなったでしょう。反面、匂坂さんとは距離を置いている」 「だからアミティエ同士の関係で悩んでいるのじゃないかって思ったの」 確かに関係性は分かり易かっただろう。私はコーヒーを調理台の上に置き、しばし逡巡した。 (小御門先輩へ相談してみようか) その一点だ。 既に何かがあったと気づいている副会長へ内心を吐露するのは……とても佳い考えに思えた。 いや……自分だけで抱えていることが限界だったのかもしれない。 「――小御門先輩の仰った通りです。少し前から三人の関係性が崩れてしまって……」 「そう……」 「以前は三人ともが同じくらいに仲良く……アミティエとして行動していました」 「でも、私と……立花さんの仲が深まって……それに気づいたマユリさんは距離を置きだしたんです……」 恋愛の……交際しているという行為を省き言う。小御門先輩は、髪に指を絡め、眉根を寄せるとそう……と呟いた。 「――私は、今年度からアミティエという制度が三人制になってから、この問題は必ず出てくるだろうと思っていたわ」 「え……」 「以前のアミティエ制度は二人で疑似友人を作るというものだった」 「これはこの学院が寮制であり、現実社会から遮断されていることを鑑みればこの制度は有効だと思う」 「心細い生徒同士をつなぐ絆になるし、アミティエだけでなくアミティエの友人からさらに世界を広げる事ができる……」 コーヒーを口に含み、愁眉をひそませた。 「でもね、三人というのは派閥を生むわ。どんなに仲の良い生徒同士でも“特別”を作ってしまう」 「何故、私は今年度から三人制にしたのか疑問に思っていたの」 (確かに……) 以前読んだ小説にも人間というものは順位を付ける生き物だとあった。男性、女性関係なく枠組みを作ってしまうと。 「……どうしようもないんでしょうか」 「――ねぇ、蘇芳さんはアミティエという制度をどう思っているかしら。あった方がいいと思う?それともない方が佳いと思う?」 以前と同じ制度なら佳かった 必要だと思う 小御門先輩の問いに思いを巡らせ、 「……私も以前と同じアミティエ制度だったら佳いと思います」 ぽつりと呟く私へ微笑み、そうと頷いた。 「胸を痛める思いをしなくて済んだのだものね」 「……はい」 ――そうだ。彼女に嫌われないで、 彼女が傷つかないで済むなら―― 「……蘇芳さんは優しいのね」 空になったカップを弄びながら小御門先輩は呟き、でも、と言った。 私は――小御門先輩の問いに何か……胸の奥を揺さぶられた気がした。 (ない方がいいなんて言えない) 友人が作れない私は、疑似友人である“アミティエ”に縋る為にこの学院の門を叩いたのだから。 (でも……小御門先輩の言う二人制だったら) 今のような思いをしないで済んだろうか? ――いや、確かに懊悩を抱かずに済んだに違いない。 クラスの中心である二人と、アミティエでなければこれほど密な関係が築けたとは考えられない。 だから、二人制の方が……。 (立花さん――) 何時も親身になってくれた彼女、 (――マユリさん) 不安でいっぱいだった私を受け入れてくれた彼女、 比べることなんて、 「……今のままで佳いと思います」 「それは何故?」 「アミティエが三人でなかったら、立花さんや、マユリさんと友人でいられていないと思うからです」 「……悩ましく思えるのは幸運な事なのかもしれないわね」 「え……」 「三人制だからこそ、今のような悩みを抱えることができる……そう考えることもできる」 「二人だけでは至らなかった……より関係性を深める為の装置として」 小御門先輩は三人制のアミティエに反対なのではないですか、と問うた。 彼女は――個人的には賛同できないけれど、ニカイアの会の副会長としては賛成かしら、と返す。 「悩む、ということは何事に置いても必要なのよ」 「……それが胸をかきむしる思いでもですか?」 「ええ。迷いのない人生なんてないわ。人はね、蘇芳さん。何もない空っぽの人生を歩む人もいるの」 「ただ受諾するだけの人生をよしとする人よ。貴女は迷ってはいるけど、自分の道を歩いているわ」 私とは違って……と小御門先輩が言葉を続けたような気がした。 「……解決する道は教えてくれないのですか?」 「悩みなさい。三人ともが幸せに歩める道があるはずよ」 「何だか、懺悔をしにきたみたいですね」 「私は神父の娘だもの。これは試練です」 茶化すように微笑まれ私もつい笑ってしまう。笑ってしまうと少しだけ体が楽になった。 (三人ともが幸せになれる方法……) そんなものがあるのだろうか。 私は調理台の上に置いたカップを手に取り、冷えてしまったコーヒーを一息に飲み干した……。 足は素直に寮へとは向かず、知らず知らずのうちに図書室へと進んでいた。 古い書物が発する独特な匂い、祖父を思い出させる空間にぼうっと佇んでしまう。 「お、ちょどいいところに来やがった」 夕焼けで気がつかなかった執務机の奥……あまりに小柄な輪郭に、またぞろ怪異を思い出してしまった。 「真昼に幽霊を……いや逢魔が時だから佳い頃合いなのか、だけど人を幽霊扱いするのは酷いんじゃないか」 車輪が鳴る音が、怪異から――猫の目を持った同級生へと変わっていった。 「八重垣さん……」 「よぉ、丁度良かった。本を借りに来たんだけどさ。いつもよりも早く上がったみたいで、借りられなかったんだよな」 「ちょちょいと処理してくれないか」 少し前に私が読んでいた本、夏目漱石全集を執務机の上に置いた。私はカードを取り出すと、貸し出しのための処理をしていく。 「無駄足にならなくて佳かったぜ。まぁ元々足は動かないけどな」 相変わらずの自虐風の冗句を飛ばす八重垣さんだけれど、懊悩で頭が埋め尽くされた私は反応することができなかった。 貸し出しの処理を終え、漱石全集を手渡すと八重垣さんは、はぁ……と小さなため息を漏らす。 「またぞろ面倒事か? お前は本当に背負い込みやすいやつだよなぁ」 「……別に、そんなこと」 「有りませんってツラじゃないだろ。私悩んでますって顔面だけじゃなく全身に書いてあるってな感じだぞ」 「みみなしほういち、ってな具合じゃないかよ。で、今回は何だ。ん? 馬鹿が窃盗騒ぎでも起こしたか?」 八重垣さんの言いように、笑みがこぼれてしまう。 笑うことで少しだけ気分が落ち着いた私は、アミティエのことで……と漏らした。 「ああ……くだんの交際うんぬんのことだろ? 三人組ってのが拙いよなぁ」 小御門先輩が言ったことと同じ台詞を吐く彼女に、思わず八重垣さんの顔を凝っと見詰めてしまう。 「おい、勘弁してくれよ。わたしにその気はない」 「ふふ、違うわ。ただ小御門先輩と同じ事を言うなって思ったから」 「あの美人な先輩に既に悩み相談は済ませたってわけだ。で、どんな風に解決策を言ったわけ?」 問われ、悩むことで道が開け、三人ともが仲良くできる道筋があると言われたことを話した。 始めは神妙な顔をして耳を傾けていた八重垣さんだが、話し終わる頃には苦虫を噛み潰したような顔になり、分かり易く悪態をついた。 「皆が仲良くできる道がある? おーおーご立派なこって。さすがは宗教学校の副会長さまだ」 「なら……八重垣さんはどう思うの?」 「んん? そりゃ、わたしに相談しているのか?」 頷く私へ、うへぇと舌を出して渋面を作る。 「性格の悪いわたしが相談って柄じゃないのは分かっているだろうよ。人を見てしろっての」 「私は……八重垣さんが悪い人だなんて思ってないわ」 「相談を受けたらきちっと相手のことを考えて、答えを返せる人だと思っているわ」 「……わたしが?」 ゆっくりと力強く頷く私へ、ガシガシと髪を掻きながら、面倒臭いなと呟く。 「……わたしは宗教者じゃないから含蓄ある言葉なんて言えないし、密な関係を持ったことがないから実体験なんてのはない」 「だから説得力なんてのは皆無だが……それでも聞くかい?」 ええ――と答える私へ仕方ないな、と吐き捨て、眉間を細い指で掻いた。 「――これは私自身もその考え方はいいな、と思った。いわゆる小咄みたいなものだけど……それを話してやるよ」 「事の始まりは、ある女と男が賭をしたんだ」 「賭……」 「男は『このトランプの一番上の札を当てられたらお前の勝ち、外したら負け、その時は全財産をもらう』と言った」 「対する女は『分かったわ。私が勝ったら貴方が騙して奪った私の恋人の債権を全て返して貰う。一番上はハートのエースだ』と告げた」 膝の上の書籍をカードのように裏返し、八重垣さんは続ける。 「一番上の札は宣言した通り見事ハートのエースだった。女は約束通り、恋人の債権を全て取り戻した」 「恋人は女に聞いたんだ、『勝ったからいいようなものの、何であんな不利な賭を受けたんだ』ってね。女は――」 「女はこう言ったよ。『不利? 何故? 勝負は勝つか負けるか二つに一つでしょう』ってな」 語り終え再び書籍を表面に戻すと、 「この小咄の笑いどころは、男は確率の事を言い、女は運命を語った。だけど、私が思うにこの話の美点は――」 「物事に……本当の本当に大切なことで〈中庸〉《ちゅうよう》ってことは無いってことさ」 「表か裏か、決めなくちゃいけない時は必ず来る。誰にもいい顔なんてのはさ、出来ないんだよ」 (立花さん……マユリさん……) 小御門先輩は三人共に進むべき道があると言い、八重垣さんはそんな都合のいい話はないと切って捨てた。 「なぁ、白羽。お前はどう思う?」 八重垣さんを信じる 小御門先輩を信じる 八重垣さんに問われ、私は―― (確かに決断をしなくちゃいけないのかもしれない) 間を取り、今まで通りの関係で行けると思っていた。でも、 「……賽は投げられてしまった」 「決まったみたいだな」 「八重垣さんの話を聞いて……立花さんとしっかり話をしてみようと思う。やっぱり……」 脅迫されて付き合うだなんて―― 「……今の状況はおかしいと思うもの」 「――ま、そうお前が決めたなら進んでみればいい。間違ったとしても自分で決めたんだ。悔いはないだろ」 西日が射す中、いつも通りの猫の笑みを見せる彼女。 私が、ありがとうと頭を下げると、余裕のある猫の顔は消え、年相応の表情が覗いた。 「やめろ。わたしは感謝されるっていうのが一番苦手なんだよ……」 手を振り顔を背ける。横顔が赤らんで見えるのは――西日の所為だけではないと私は思った。 選択肢を突きつけられ、私は―― (確かに八重垣さんの言うとおりかもしれない) でも……それは決断をしなくちゃならないということ、だ。 「……私は、小御門先輩の言葉を信じてみるわ」 「そうか。ま、それもいいさ。そう決断したのはお前だろ。だったら何も言うことはない」 決断、という言葉に私の意図を汲んでくれたかのように思う。 今までは三人仲良くするにはどうすればいいか、悩みながらも流され、自分でない誰かが変えてくれるのを待っていた。 しかし、八重垣さんの話のように、決断するべきは自分なのだ。 「立花さんときちんと話し合ってみるわ」 それがいいと手を振り、漱石全集を膝の上に載せながら、彼女は立ち去っていった。 私は彼女の後ろ姿を見送りながら、立花さんへ向けての言葉を考えていた……。 寮の廊下で二人の女生徒が立ち話をしていた。 一人は銀色の髪を持つ女生徒。$もう一人は、 「――立花さん」 目当てのアミティエをようやく見つけた私は彼女へと声を掛ける。 「あら、奇遇ね」 「ん。ああ、蘇芳君。君も議論に参加してはどうだい?」 珍しい取り合わせに少しだけ気勢を削がれてはしまうけれど、立花さんにお話があって……と伝えた。 「わたしに御用? 今、話をしていて……」 「うむ。国語の教科書の中で、どの作者が真面目に戦ったら一番強いかを議論していたところなんだ」 「そ、そんな話はしていません……! 聖母祭での話をしていたんです」 「僕としては三島由紀夫あたりを推したいが、蘇芳君は――」 際限のなくなる脱線話に額を抑えると、立花さんが急ぎの用件かしらと尋ねてきた。 「……ええ」 「そう……あの八代先輩、お話はここまでにしていいでしょうか。急ぎの用件があるとのことなので」 「ん。そうか。それではくだんの議論は宿題ということにしておこう」 反論する間もなく、手を振ると颯爽と立ち去ってゆく。私たちは呆気にとられ遠ざかる彼女の背をしばし見詰めていたが……。 「……行きましょうか」 主導権を奪われた私は、立花さんに促されるまま、彼女の後を追って歩き出したのである……。 蘇芳の方から呼び出してくるなんて思わなかったわ、と彼女は言った。 「ここなら静かだし、誰にも邪魔されないと思う。もうそろそろ学院から出なくちゃいけない時間だし」 それとも長くなりそうなお話なの? そう尋ねられ私は口ごもったまま。 (いざ、話すとなると……) 「誰もいない教室って何か変な感じがするわね」 愉しげに茜色に染まった教室をぐるりと見回す彼女へ、何と切り出したらいいのか分からないのだ。 (交際をやめ、マユリさんと仲直りするように言うつもりだったけど……) 用意してきた言葉を口に出すどころか、他に掛ける言葉も思い浮かばない。 彼女が愉しげに目を細め、笑顔を向ければ向けるほど口は堅く、心は重くなってゆく。 「ねぇ、教室の中がこんなに緋色に染まって……。すごく美しいと思わない?」 くるくると廻ってみせる彼女は美しく、刹那、目を、心を奪われ、そして――どうしようもなく悲しくなってしまった。 この世で只一人きりなのだと悟ってしまったかのように。 「蘇芳……」 愉しげだった表情は曇り、私を――私の目を見た途端、波が引くように感情は消え失せ能面のような顔つきになる。 察したのだ。 私が呼び出した理由を。 この場で何を話そうとしているのか。 「……呼び出した理由を聞かせて貰えるかしら」 抑えた言葉に静かな怒りを感じ、私は向けられた敵意に喉が詰まり、空気がうまく吸えなくなってしまう。 「……察して貰おうと思っているの?」 「……あ、ぅ、」 「貴女の言葉で聞きたいの。黙って分かって貰おうなんて――卑怯だわ」 一歩一歩、私の心へと這入り込むように歩み、 「私、」 私は、 「……貴女が何を言おうとしているか、当ててみましょうか?」 「立花……さん」 「さんを付けないでと言ったでしょう。ねぇ蘇芳。貴女、わたしとした約束を反故にしたい、そう言いに来たのよね」 どうしても口に出せなかった言葉を吐かれ、私の口元は震え、何も言えなくなってしまう。 「その顔……やっぱりそうなのね」 「私、私……は、やっぱり……こんな風に……交際をするのは……」 絞り出すように告げた言の葉が、彼女の耳朶に入り意味が理解された瞬間、目を背けたくなるほど悲壮な瞳を向けてきた。 「そう……貴女もわたしを必要としないのね……」 「……え」 「ねぇ、蘇芳。貴女はわたしには逆らえない。それは分かっているわよね。だって……」 「――マユリさんの秘密を漏らしてはならない、でしょう?」 立花は告げ口なんてしない 卑怯だわ…… 彼女の秘密、 再三再四、私と立花さんに誤解されるような真似はしないようにと言っていたのは、彼女の秘密の裏返しだった。 (マユリさんが言ったのは私たちを心配してくれてのことだ) 私は彼女の善意を信じるし、 立花さんの善意も信じる。 「――私は、信じるわ」 「何を言って……」 「立花がマユリさんを害することなんてしないって。だって私を好きなように、マユリさんのことも好きな筈……そうでしょう?」 「……酷い人」 唇は動いたが、かすれた声が何を呟いたのか、はっきりとは聞き取れなかった。 ただ、 (立花さんの表情が……) 苛立っていた表情は悲しみに変わっていた。 私は、彼女の心が動いたと感じた。アミティエとして三人で共に過ごしてきた日々に嘘はないと。 「……ごめんね。蘇芳。わたし、わたしは……」 「それでも貴女を失いたくないの。だってわたしには他に何もないもの……!」 「きゃ……っ」 マユリさんの秘密、 いかに同性同士の恋に寛容なこの学院でも、秘匿していた事実が広まればこの学院に留まることはできない。 きっとこの学院を去ってしまうだろう。 (マユリさん……) 桜の下で佇んでいた彼女、どこか物憂げなマユリさんが、私たちの……私の前から消えてしまう。 そう考えた途端、小さな怒りの火が点る。 「……卑怯だわ」 漏らした言葉に立花さんは揺らぐ。 私自身も己が強い言葉を吐いたことに戦き、唇を〈戦慄〉《わなな》かせた。 「……そうね。わたしは卑怯かもしれない」 「ぁ……ちが、」 「でもね……わたしにはそうしなくてはならない……理由があるの。〈誹〉《そし》られても……わたしは……」 愁いに充ちた表情に戸惑い、眼鏡の奥の真意を探るために見詰める。 「わたしは貴女を失いたくない……貴女までいなくなったら、わたしは……!」 「きゃ……っ」 腕を掴まれ、私は悲鳴じみた声を上げてしまった。その声音が彼女の怒りをさらに煽る。 「わたし……わたしだってこんな真似は……卑怯な真似はしたくないわ……!」 「っ……立花……」 「でも……だってしょうがないでしょう……! わたしはいつだって比較されて生きてきた」 「花菱の家に引き取られて、努力して優秀であろうとしたって……!」 (立花さんの……過去……) 感情が溢れ追いついていないのだろう、腕を掴む手は〈戦慄〉《わなな》き震えている。 「――兄の方が……わたしよりも優秀で……せっかく引き取ったのに意味がないって……」 「わたしには……居場所がないの……元の家にも……花菱の家にも……」 昂ぶり掴まれる手に容赦はない。 思い切り握られる腕に顔をしかめてしまうも、私は幼子に諭すように言う。 「っ……そんな、ことないわ。私には……立花が必要よ……!」 「でも……だって……!」 必死な瞳を逸らさずに見詰め、はっきりと告げる。 「居場所がないって言ったわよね……それは私も同じなの。父が再婚して……新しい義母からはとても――厳しい教育を受けた」 「私はね、立花。この学院に来たのは、新しい居場所……友人が欲しかったからなの」 だからアミティエ制度があるこの学院へ来た、と続ける。 「アミティエ制度があるから、私は匂坂マユリさんに、花菱立花さんに出逢うことができた」 「私の居場所はここなの。無理に交際しなくても……私にも、立花にも居場所はある……そうでしょう?」 私の言葉に震え、逡巡し、痛ましい顔を向ける。 「……そう、そうね。求めなくてもわたしは認められていた」 あの家とは違う、と言い、私はそうよと語りかける。 「でも……わたしが居場所として貴女を求めたのは確かだけど……。好きな人として求めたのも変わらない。蘇芳――」 貴女は私を認めてくれる――? そう、囁き、 私の頬を柔らかな手で挟むと、潤んだ瞳を向ける。 そして、静かに目を閉じた。 “認められる” という象徴のために、証が欲しいのだと感じた。 (彼女の心を救う為なら佳いのかもしれない) ――昂ぶり、吐露したお〈家〉《うち》の話。 彼女の言葉に嘘はないだろう。 養女として引き取られ、優秀である事を強いられる生き方。 だけれど、優秀であろうとしても、彼女よりも才知ある人が……兄と比較されてしまう。 それはきっと酷く悲しく辛い生活だったろう。 だから、私は―― 「ぁ……」 抱いた感情は頬に熱いものを感じたことで緩やかに霧消した。 ――涙、 私は、泣いているの? どうして? 自分に? 彼女の境遇に? いえ……。 (マユリさん――) まぶたに浮かぶは桜の木の下で佇む―― 「……っ」 刹那、自分でも分からない情動から、立花さんの身体を離した。 「……ぁ」 立花を受け入れる 受け入れない 数歩下がった彼女は、目を背けたくなるほどの悲壮な表情に変わる。 私も、 私も何故身体を離してしまったのか……。 「……そう、ね。こんな無理矢理求めても……貴女の気持ちは得られないのに……」 俯き身体を震えさせる立花さんをみて、私は何故だか懐かしい気分になった。 それは、 (立花さんと私は同じなんだ) 身の置き場がないと嘆く彼女。 祖父に引き取られる前は、私も同じだった。義母との生活に居場所なんてなかった。 自分の居場所を作るためにピアノを習い、気に入られようと必死で……。 ――泣いている幼い頃の私自身を視た。 俯く彼女が幼い頃の私と重なって見えて―― 「……泣いてしまうほど嫌だったのね」 一筋零れた涙は、そこを通り道のように次々と溢れ出し、頬を濡らしていた。指で濡れた涙の筋を拭い、愁いを帯びた立花さんへ微笑む。 「違うわ。立花に昔の私を見たからなの」 「昔の……自分?」 「ええ。立花が私へ話してくれた過去。それがどうしても……」 自分とは別のことだとは思えなかった、と伝えた。 眼鏡の奥の縋るような瞳、私は――彼女の目に、胸の奥の大事な部分を掴まれた気がした。 ――このまま、立花さんを突き放して佳いはずがない。 「あのね、私は――貴女に脅されるような形でつきあい始めたわ。だから急に関係が近く……密になったことで戸惑っていたの」 「…………」 悲しげに目が細められた。きっと彼女は、 「――佳いのよ。はっきりと拒絶して。自分の過去のことを話して、同情を誘った卑怯者だって詰ってもいい」 手をぎゅっと握り、今にも泣きそうな声音で言う。 私は首を静かに振り、 「拒絶なんてしないわ」 と言った。 「立花は私のことを好きだと言ってくれた。私も立花のことが好きよ」 「でも、それは友人としてなのか、貴女だからなのか……それはまだよく解らないの」 「蘇芳……さん……」 「だからもう少しだけ時間を頂戴。私自身の気持ちをしっかりと見定めて……立花へ伝えるから」 朱く染まった教室の中、私の目には叱られて泣きそうな……小さな子供のような彼女が震え、一つ確かに頷いたのを見た……。 彼女の唇が、どうして、と動いたような気がした。 私は目を伏せ謝罪の言葉を吐くと、厭らしく真っ赤に染まる教室から逃げ出すしかなかった……。 あれから二週間が経つのね――と、私は風を感じながら少しだけ過去を振り返った。 自分の気持ちを見定める、そう伝えてから数日後。 八代譲葉先輩が頭を怪我し、入院を余儀なくされたとの一報が入った。 そして、八代先輩が怪我を負った場所が、マユリさんが清掃をしていた桜並木だったことから―― 彼女が犯人だと疑われる事になってしまった……。 孤立するマユリさんへ、率先し犯人を見つけましょうと言い行動したのは――立花だった。 マユリさんの疑いを晴らすために、たくさんの人に話を聞き、時には八代先輩の部屋に忍び込み証拠を探したりもした……。 ――結局、殴打事件から一週間後、八代先輩は退院し学院に戻り、 “匂坂君は犯人じゃない”と証言してくれた。 私たちはマユリさんの無実を証明する事はできなかったけれど、自分の為に骨を折ってくれる私や立花を認め―― 再び以前のように三人、アミティエとして仲が戻ったことは嬉しく思えた。 私は真剣に犯人を捜す立花を側で見ていて―― 隣に寝転がる音に私は顔を上げ、そちらへ向けて微笑みかけた。 「……どう、綺麗なところでしょう」 「ええ。菜の花が咲いていればもっと綺麗だったでしょうけど――」 でも気持ちいいわ、と大きく伸びをし空を眺めた。 梅雨の合間の貴重な晴れ間だ。空は高く、雲はゆったりと流れている。 しばし、何も話さぬまま空を見詰めていた。穏やかな空気を壊したくなかったからだ。 でも、けじめはつけなければならない。 「――今日ここに誘ったわけ、聞いてくれる?」 「……ええ」 「誘ったわけは……教室での――あの日、話した約束のこと」 私が伝えるとやっぱりそうなんだ、と空を眺めながらも痛ましい顔をして笑む。 「マユリさんの疑いも晴れたし――アミティエも元通りになった。良い機会だものね……」 「立花。私は……」 身体を起こしかける私へ、彼女はいいの、と告げる。 「……あの日のわたしはおかしかったのよ。誰が一番だなんて決めなくても佳い」 「居場所はアミティエとしてある――そうでしょう……?」 笑う。笑うも、その表情は今にも……。 「だから何も言わないで。わたしは、もう……」 「――いやよ」 「私はね立花。貴女に待って欲しいと言ってから、ずっと貴女のことを考えていたわ」 「貴女の隣にいて、マユリさんを心配し、励ます貴女を。自分がされたことのように、犯人を見つけようとする貴女を」 ――そうだ。私と出会い、今まで触れあってきた彼女は、 「貴女は自分に居場所がないと言った。でも、この学院でたくさん想い出を作ってきた」 お茶を振る舞ってくれたあの日―― ――二人でベッドで内緒話をした。 秘密を共有する悦び、 友人を切実に欲していた私にはどんなに嬉しかったか―― 「貴女との出逢いから、たくさんの想い出が私の中に残っている。今までの大切な記憶たち……」 「それが私を……私たちを形作っている。居場所がない訳なんてない」 「蘇芳……さん……」 「立花は逃げずに私へ向き合ってくれた。$だから私もきちんと自分の言葉で、貴女への思いを伝えるわ」 ――私は、 「私は――これからもこの学院で立花と想い出を作っていきたい。だから……」 最後の言葉を紡ごうとした刹那、立花の瞳から涙がこぼれ落ちた。 そして、 「……嘘。卑怯な真似をしたわたしが……求められるわけない……!」 「いいえ。これは私が決めたこと。誰に強制されたからでもないわ」 「ぅ……ぅ……」 「ねぇ、立花」 彼女の頬に手を伸ばし、ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を拭う。 眼鏡の奥の揺れる瞳へと真っ直ぐに見詰め、 「私だけに貴女の紅茶を淹れて欲しいの」 目を瞬かせ、彼女は、はい――と微笑み頷いた。 彼女の笑顔はとても美しく、初夏の風のように私の心を充たしていった。 学院で自分の居場所を見つけようと願い、奔走した私。 いや、既に居場所があったことに気が付いていなかっただけだった。 ずっと私の傍らにいてくれた立花、 これからもずっと隣にいてくれる。 そう、 彼女こそが―― 「さぁ、行きましょう」 花菱立花はそう言った。$何の隔たりもなく、何の気負いもなく。 「ええ」 私も答え沙沙貴姉妹らと肩を並べてレッスン室へと向かった。 ――昨日、 彼女の存在を“認める”という意味を持ったキスを―― (……拒んでしまった) 彼女にとって拒まれたことは何よりもショックな出来事の筈だ。 それでも彼女は―― 「ちょっと、悪戯するのやめなさい」 歩くたび背中で跳ねるおさげに触れる悪戯をしていた苺さんをとがめた。 「ついつい動いているのを見つけるとどうもねぇ」 「動いている物に反応するなんて、猫じゃないんだから……」 「……猫は八重垣ちゃんの十八番ですよ。奪ってはだめ」 沙沙貴姉妹とのやり取りに無理はなく、私への態度も何ら変わることはなかった。 そして、昨日話そうとした立花さんとマユリさんの関係性も……。 (クラスメイトの皆も気づいてはいるけれど……) クラスの中心人物たる二人の関係が希薄になっている事は級友たちも気付き始めてはいた。 でも――それも私と立花さんの交際から、マユリさんが気を遣ってのことだと思っているようだ。 (何も変わってはいない) 逢魔が時の教室での出来事、真意を吐露しても尚、変化はない。 “変わらない”という事実、最悪に転じていないだけ佳かったのか……。 (でもこのままで良い訳がないし……) 「ねぇ、蘇芳」 不意に呼びかけられ、びくりと身体を竦ませてしまう。派手に驚いたことに苺さんは笑い、林檎さんは不審な目を向けた。 「ぁ……何かしら?」 「今日の放課後の……合唱部の練習だけれど、マユリさんは参加できないらしいの」 ――ドクン、と鼓動が高鳴る。 「……どうして?」 「何でも美術部の先輩から清掃の順番を変わったらしいの。だから今日の合唱部の練習には参加できないと連絡があったのよ」 「……そう」 ――私の知らないところで変化が始まっているのかと思ったが、どうやら杞憂だったようだ。 (……マユリさんを話す時の態度も変わらなかった) 私は見付からぬようにふっとため息を吐くと、笑いかける彼女に向けて笑みを作ってみせた……。 いつもと変わらぬ練習風景。 変わっているのは己の指具合だ。 ……義母を思い浮かべない為に没頭し集中している筈の伴奏は、どこか無味無臭の演奏になっていた。 楽譜通りに弾けてはいるのだけれど、人が弾いているような曲には思えない。 小御門先輩も私の不調に気づいているようだけれど、技術的なことではない事柄に眉根を寄せて見詰めているだけだった。 (ミスはなくなったけれど……) アミティエ同士の冷戦を意識してのミスはなくなったものの、不調がおかしな具合に出ている。 どうしたらいいのだろうかと、意識が余所を向いた途端―― 浮かぶは義母の陰、 鍵盤の中で睨まれるよりは佳いが、幽鬼のように目の前に佇まれ―― 私は意識を再び鍵盤だけに向かわせるために大きく息を吸い込んだ。と、 聖堂の扉が荒々しく開かれる音で義母の陰は霧散霧消し、私の指も自然と止まってしまう。 「主の御前で騒々しい。失礼ですよ」 小御門先輩にしては珍しく鋭い叱責に、慌てて聖堂内に駆け込んできた上級生は雷に打たれたように怯むも……。 重大な案件を抱えた密使のごとく、するすると小御門先輩の前へと歩み、耳打ちした。 (何か……これは……) 「どうしたのかしら……」 私と同じく厭な予感を抱えたように立花さんが呟く。 昨日の教室のように赤く濡れた聖堂内は――耳打ちする小御門先輩を注視ししわぶき一つもない。 何処かフラスコ画の一場面のようだ、と思っていた絵は唐突に終わり、耳打ちしていた上級生は離れ―― 顎に手を当て逡巡している小御門先輩を伺っている絵に変わった。 「あの……どうされたのですか?」 沈黙に耐えきれなくなった立花さんが口を開くと、張り詰めていた糸は緩み、大きな吐息が漏れたのが聞こえた気がした。 「……急いで、いや、けど、」 「小御門部長?」 「――蘇芳さん」 急に名を呼ばれ条件反射的にはい、と答えた私へ、 「私と一緒に来て貰えるかしら」 と言った。 彼はとっくの昔に死んでいた。それに気づかなかっただけだ。$――ロバート・ヤング『十字砲火』 ――保健室にて見た彼女の姿は凄惨なものだった。 只でさえ白色に塗られている保健室の壁は、夕闇の色で赤赤しく、眠るようにベッドに横たわる彼女を血の色に染め上げていた。 否、血に塗れていると思ったのは、寝かされた彼女の足下、脱がされ、ベッドの下に置かれた靴が血で染まっているように見えたからだ。 だからこそ私は最悪の事態を予想した。 話を事前に聞かされていた小御門先輩もそれは同じだったろう。 いや、私よりも青ざめた顔つきで、彼女を見、名を呟き――覚束ない足取りで頭に包帯を巻いた彼女の元へと歩んでいった。 歩み近づいたことで――靴にこびり付き床を汚してた赤が、血でなく、細やかな赤土だと気づくことができた。 小御門先輩の靴で赤土が踏まれることによって理解した。 私は、 「――譲葉」 そう頼りなく呟く声が今にも泣き出しそうに聞こえ―― 「……大丈夫かしら」 耳元で吐かれた言葉に、私は先刻までの――八代譲葉先輩の容態を思い、心配いらないわと断言した。 「頭の怪我だから大げさに見えるだけよ。あの八代先輩だもの。すぐにけろっとした顔で戻ってくるわよ」 私の軽口に、依然強張った顔つきのまま立花さんはそうねと頷く。 「でも頭の怪我なんて……転んでしまったのかしら」 「う……ん。何か取ろうとして高いところに登ってとかも考えられるけど……」 運動神経の佳い八代先輩のことだ。自分から誤って――とは考え難い。 (それじゃどうして……) だからこそ湧き上がる疑問と、切迫した感情。 「学院での治療でなく、街に下りて看て貰うなんて……酷いように思えるけど……」 「さっきも言ったけど、頭の怪我だから大事を取ってだと思う。きっと大丈夫よ」 「……そうね。そうだと佳いわ」 慰める言葉とは裏腹に、どうにも胸騒ぎがした。 (事故に決まっているけど……) 朱に染まっている校舎を見詰め、私はざわざわとした胸騒ぎを押し殺した……。 そして、感じていた胸騒ぎの正体は直ぐに氷解することとなる。 八代先輩が入院する運びとなった次の日、 朝礼前の教室の中は何処か落ち着きがなく、浮き足立っているように見えた。 「蘇芳ちゃん! 蘇芳ちゃん大変なんだよぅ!」 「どうしたの……? 何だかおかしな雰囲気だけど……」 「さっき先生たちがたくさん来て、ユリを連れて行っちゃったんだ。これって……」 ――連れて? 私の頭の中は、昨夜八代先輩の怪我を話した時に見せた、痛ましい表情のマユリさんの姿が浮かんだ。 まさか、 八代先輩絡みで? 辞めてしまうつもり? 思いつくのは、やはり昨日の八代先輩の大怪我。 (いや、そんな……) 悪い冗談のような考えが浮かぶも、直ぐに頭から振り払う。冗談にしても笑えない冗談だ。 「マユリさんが八代先輩の事故と関係しているなんて……」 「やっぱり知っているんだ」 苺さんの台詞に絶句してしまう。その言いざまは、 「……昨日の八代先輩の事故。実は事故じゃないかもしれないって話なのです」 「嘘……」 「……何でも学院のエントランス前で倒れていた八代先輩の言葉から事故ではないと分かったらしくて……」 事故ではない? 疑われているのがマユリさん? 何故か私の手をしっかりと握り、何かを口早に喋っている林檎さんの顔をぼんやりと眺める。 その声はまるで、遠い場所で奏でられている音楽を聴いているような、もやもやとした感じがした。 ――不意に、彼女が学院を去るイメージが頭の中に浮かんだ。 血塗れメアリーの儀式からこの学院を去った生徒のように……。 「……私が優柔不断だったから」 「蘇芳ちゃんが……?$何を言っているか分からないけど、八代先輩の事故の件と何か関係あるの?」 「八代先輩の事故?」 「うん。八代先輩の事故……いやそうじゃないんだった。頭を大怪我した昨日の事故は、事故じゃないって噂が出たんだ」 ――事故じゃない? 昨日の胸騒ぎは、 「何でも学院のエントランス前で八代先輩が血塗れで倒れていたらしいんだけど――」 「その時助けた上級生が八代先輩が言った言葉を聞いて……それで事故じゃなく、事件だって分かったって」 事故でなく故意、 (それじゃ、八代先輩を襲った犯人が……) そこまで考えた瞬間、 「マユリさん……」 彼女と繋がった。 「……うん。あんなに大勢の先生が連れて行ったからたぶん、八代先輩の件だと思う」 「ねぇ蘇芳ちゃん。ユリは犯人なんかじゃないよね?」 揺さぶられる身体、 しかし私は心と体が乖離してしまったように、私のあずかり知らぬ物語だと騒然とする教室を中空から眺めていた……。 情報を仕入れてきたよ、と双子姉妹はステレオで言った。 情報――そう、彼女を助けるための、誤解を解くための情報だ。 今朝の―― 今朝教師たちが匂坂マユリさんを連れ出した理由は、沙沙貴姉妹が注進してきた事と相違なく―― “八代譲葉を殴打した犯人”と目されていたから。 マユリさんが教師陣から糾弾されるのを同席していた発見者の生徒が口を滑らせたことから、放課後を待たずして全校生徒の知る所となった。 被害者がファンの多い八代先輩とのこともあり、風向きは厳しいものの―― 憶測でものを言うのを咎める理性的な生徒が多いお陰か、直接問いただすなどの不心得者はいなかった。 けれど―― 「蘇芳ちゃん」 「……大丈夫? 顔色悪いよ?」 「ごめんなさい。平気よ。でも悪いわね、沙沙貴さんたちに情報を聞き出してくるようなことを頼んで……」 「……それは別にいい。マユリさんとアミティエの蘇芳ちゃんが、話を聞きに行ったら警戒されると言ったのはこっちだし」 「そうそう。じっと待っている方がつらいってこともあるし……あ、だから顔色悪かったの?」 純粋に心配してくれている二人へ、大丈夫よと言い、ありがとうと続けた。苺さんはいいんだよ、と朗らかに笑うと鼻の頭を掻き、 「最近、ユリとあんまり仲良くなさそうに見えていたから心配だったけどさ」 「こういう事になって……蘇芳ちゃんが疑惑を晴らそうって、わたしたちに言ってくれたこと、実は少し嬉しかったんだよね」 「……やっぱり蘇芳ちゃんとマユリさん、りっちゃんさんは三人仲良くしないとダメだと思う」 「そうだね……本当にそう」 私たちをちゃんと見てくれたことに嬉しく、胸がジンと熱くなった。 「……りっちゃんさんはどうしているの?」 「マユリさんを心配していないわけがないわ。でも、彼女は聖母役に選ばれていたでしょう?」 「だから合唱部の……ニカイアの会との折衝にまわってくれているのよ」 「そっか。付き合い始めだからよそよそしくなっただけで、三人の仲は変わっていないんだね」 そう尋ねられ、少し詰まるもええと頷けた。 (でも……立花さんがマユリさんの為に動いてくれるなんて……) 私に請われたからでなく、憶測から虐めに発展するような事にならないよう……。 生徒らへ目を光らせてくれるよう、話をつけに言ってくれたことに驚きと嬉しさがあった。 ――やはり私たちは三人でアミティエなのだと分かってくれている、という事に。 「それでボス、聞き込みしてきた話なんだけど聞きますかい?」 「……何故に山賊風」 え、これって探偵っぽくないと言う苺さんへ、林檎さんも私も大きく頭を振った。 「ちぇ、それじゃどこから話したらいい? 疑惑を晴らそうって言っても噂話を集めただけだし」 「……大体のところは蘇芳ちゃんも知っているわけだしね」 「そうね。大まかな流れは知っているけれど、細かな機微も知りたいから……」 「まずは、何故マユリさんが疑われることになったのか話してくれる?」 私の問いに苺さんは、こめかみをトントンと叩くと、そもそもの話は――と切り出した。 「ユリが疑われる事になったのは、エントランス前で倒れていた八代先輩を見つけた上級生がある言葉を聞いたからなんだ」 「気を失う前に、上級生へ言ったダイイングメッセージは“桜が……”という言葉」 「……いやダイイングって、八代先輩は亡くなってないですよ」 「え、犯人を教えるための言葉って意味じゃないの? まぁ、いいや」 「とにかく意味深なことを言って倒れた八代先輩を、保健室に運び治療を受ける段になって……これは事故ではないとなった」 ここまでは、学院に広がる噂で耳にした話とあまり変わりがない。八代先輩が言った“桜が……”との言葉も。 「……事故ではない理由として、頭の怪我が細長い棒……角材のようなもので横薙ぎに殴られた痕があったから」 「これは保健室の先生に聞いたから間違いない」 「養護教諭とは仲良くなかったから聞き出せなかったんだよね。これは身体の弱い林檎のお手柄だね」 胸を張る林檎さんへ、有益な情報だわとねぎらいの言葉を掛けた。 「頭へ、横薙ぎに……それは前頭部? 後頭部かしら?」 「……後ろの真ん中らへんだって言っていた」 なるほどと頷く。ならば、八代先輩が犯人の顔を見た可能性は低い。 「そこから一気に事件だって流れになった。気を失ったままの八代先輩を、街の病院へ送ってから後――」 「上級生が聞いた“桜が……”という声から、犯人捜しが始まった。で、分かり易くというよりも当たり前だけど……」 「“サクラ”の名前、名字を持つ生徒を呼び出し、教師陣は話を聞いたってわけ」 「呼び出された生徒、人数は分かる?」 「一年生……わたしたちのクラスだけど、桜の読みが入った生徒はいない。でも上級生には居たですよ」 「二年生は一人、三年生は二人。計三人。$二年生は〈佐倉涼〉《さくらりょう》さん。三年生は〈高橋桜子〉《たかはしさくらこ》さんと、〈桜木里緒〉《さくらぎりお》先輩」 読み上げる名前に私はメモ帳を開き、名を書き留めておく。 「……それで怪我をした時間――怪我の具合、これは保健の先生が血の乾き具合から判断したらしい」 「そこから放課後の……十七時から十八時の間となった。そこで……」 「アリバイの証明となったわけ。ふふ、このアリバイって言葉、言ってみたかったんだよね」 「で、三人とも八代先輩が襲われた時刻には、鉄壁のアリバイがあったわけ」 「佐倉涼さんは天文部の演し物の用意で部室にいたのを全員が証明したし、高橋桜子さんもクラスの演し物を手伝って同上」 「桜木里緒先輩に至っては、うちの料理部の先輩で、やっぱりその時間は部室に居たって証明されたんだよね」 皆、八代先輩を襲うことは無理だということが証明された。$ならば、名前ではないのなら、 「“桜”という言葉が名前でないとしたら、と教師陣は考えた。次に思い浮かべたのは“場所”ですよ」 「これがユリには拙かったんだよね……」 「……桜と聞いたら場所を連想するのは仕方ないわ。この学院には見事な桜並木があるし……」 初めてマユリさんと出逢った場所。 「……たまたま美術部の先輩から桜並木の清掃を頼まれていたマユリさんは、注目されることになった」 「つまり、八代先輩が言った“桜が……”は“桜並木で襲われた”という言葉を言おうとしていたと曲解されたのです」 曲解と言うが、果たしてそうだろうか。 名前でないなら場所というのも考えられる話だ。しかし、 (これも、アミティエが絡んでいなければだけど) 「ユリが疑われる原因となったのはアリバイを証明してくれる人がいなかったこと。桜並木の清掃の際、誰も通らなかった。いや……」 「十七時過ぎ――正確な時間は曖昧だけど、そこを通り掛かったダリア先生が見かけたらしいけど、それも一瞬だけ。証明にはならない」 「とりあえず放課後、仕入れてきたのはこれ位だけど、何か分かった?」 「……新しい情報は、頭の傷が角材のようなもので後頭部を殴打されたこと。桜の読みを持つ三名の上級生」 「バスキア教諭が十七時から十八時の間に、一度マユリさんを見かけていることかな」 「……抜き出してみると何か取っかかりになるものが入っている気がするね」 「え、どれが?」 「それは……分からないけど」 何だ、と頭の後ろで手を組み妹をからかう彼女を見遣って、疑惑を解く方法はないかと思考を巡らす。 (八代先輩を襲った犯人を見つける……) ――いや、 疑惑を解くだけなら、犯人を見つける必要はない。八代先輩を襲うことが、マユリさんには無理だと証明すればいいのだ。 「……この切り口から何か出来ないかしら」 呟く私へ、一番簡単なのはさ、と苺さんが言う。 「八代先輩が目を覚まして言ってくれれば早いんだよね。誰々が犯人だぁって」 「それはそうだけど……」 「……頭の怪我だししばらくは入院するんじゃないかなと思う。さすがに何週間という話じゃないだろうけど」 今は理性的な生徒が多く、面と向かって毒づく生徒がいないとはいえ、何日も経てば風向きが変わってしまうかもしれない。 (ただえさえ聖母役として異例の抜擢と注目されていた) 今は針のむしろの状態だろう。 「これからどうしやす? 何か良い案は浮かびやしたか、親分?」 「……山賊風続けるんだ」 「とにかく一度、現場だと言われている桜並木の場所へ行ってみようと思う」 「ええと現場ひゃっぺんだね!」 「……変わった言葉は知っているんだよね」 林檎さんの呟きに微笑むも、桜並木では血痕を探してほしいと伝えた。 「……血の痕を?」 「頭の怪我だとちょっとした怪我でも血が大量に出るわ。もし本当に桜並木で襲われたなら血の痕がある筈よ」 なるほどと頷く沙沙貴姉妹へ、私はお願いしますと頭を下げた。 「だからそんな必要ないって。好きで手伝ってるんだからさ」 「友達なら当然」 沙沙貴姉妹の言葉に視界が滲むも、私はありがとうと二人へ向けて言うと、マユリさんの疑いを晴らすために桜並木へと向かった……。 結局、見付からなかったね、と腕を洗ってくれている苺さんが呟いた。 「思いつきだったし仕方がないわ」 気遣ってか身体を洗うと宣言した苺さんに、腕を洗われながら私はそう返した。 「でも見付からないって言うのが逆におかしくない? 頭の怪我は少しの怪我でも血が出るって本当でしょ」 「だったら、桜並木からエントランス付近までの間に血の痕がない方がおかしいよ」 確かにと思う。意識が戻らないほどの怪我を負ったのなら相当な量の血だった筈だ。なら、 「……実は伝え忘れていた事があったのです」 頭を洗い終わった林檎さんは私の元までやってくると……。 「きゃ……っ」 おもむろにボディソープを泡立て、残った私の腕を取って洗い始めた。 「あ、あの……?」 「……保健の先生から聞いていたことだけど、話し忘れていたのですよ」 「――八代先輩はエントランスで倒れていた時、スポーツタオルを持っていて、それで頭を抑えていたって。だから……」 「なぁんだ。それじゃ血が滴っていなくてもおかしくないじゃん」 「……ごめん」 呆れる苺さんに、林檎さんは萎れてしまう。私は腕を洗い続ける彼女へ、桜並木で調べたのは血痕だけじゃないからいいのよと慰めた。 「……どういうこと?」 「私が……小御門先輩に連れられて保健室に行った際、目を引くものがあったの」 「八代先輩が寝かされていたベッドの下に置いてあった靴と、その周辺が土で汚れていた。$だから……」 「靴に付いていた土と桜並木での土が一致するか調べていたわけかぁ。でもそれって拙い具合だよね」 どうして、と林檎さんが尋ねると、だって拙いじゃんと繰り返した。 「この学院って敷地内は基本的に芝生か、石畳が敷き詰められているよね?」 「靴底に土が付いてたってことは、襲われた場所は土がむき出しのところだったってことでしょ?」 「桜並木の場所は芝生で覆われていないし、余計に怪しく思われるんじゃないかなぁ」 「……靴に付いていた土のことは黙っていた方が賢明だね」 「そうね……」 事態はマユリさんへ不利な方へと進んでいる。無実を信じている沙沙貴さんたちも口数が少なくなり、洗っていた手を止めた。 苺さんは消沈しながらも洗い終えたと判断したのか、シャワーで洗い流してくれた。 私は受け入れたまま黙っていると、でも、と林檎さんが呟く。 「……状況証拠だけ見るとマユリさんが怪しいのは確かだけど、やっぱりマユリさんが犯人だっていうのはおかしいと思う」 「どうして?」 「だって動機がないもの。普通人を殴るなんて余程のことがない限りしないことですよ」 「マユリさんと八代先輩の間に、暴行事件になるような動機があったとは思えない」 確かに、それは私も考えていた。 「まぁ……部も違うし、クラス委員長でもないから頻繁に顔を合わせる間柄でもないしねぇ」 「喧嘩するようなほどの関係でもないかぁ」 憎む、という関係になるためにはそもそも密な関係を――情を通わせなければならない。 知人を間に挟んでの知り合い程度の間柄では、そもそも言い合いや暴力沙汰にも発展しないだろう。 (肩がぶつかった、ぶつからないで殴り合いをするほど子供でもないし……) 八代先輩、マユリさんのあり得ないチンピラ姿を想像しつい笑ってしまう。 「……ほら、蘇芳ちゃんが笑うほどあり得ない話なんだよ」 「そうか。だよね。わたしたちはユリを信じてあげなくちゃ!」 気炎を上げる二人へ、微笑みつつも私は“八代先輩を害しても仕方ない動機”を思いつき、まさか……と心の中で可能性を考えていた。 (マユリさんは絶対に漏らしたくない秘密がある) 同性愛者だと八代先輩に知られ、吹聴すると言われたのなら―― あり得なくはない可能性が生まれ、 「……そんなことはないよね。マユリさん」 髪の毛から伝う滴がタイルへと落ちるのを見詰め、私は苦いものを吐き出すように、そう呟いた……。 それで何だって―― 「わたしの部屋なんだよ」 部屋の主は車椅子から迷惑そうに私たちを睨む。 「情報の交換をしようってなって頷いたのは認めるけどさ。もっとあるだろう、他の場所が」 「部屋にはマユリさんがいるのよ。そこで八代先輩の犯人はどうこうなんて言えるわけがないわ」 私と共に八重垣さんの部屋を訪れた立花さんが言う。 ――そう、 沙沙貴姉妹が口々に言っていた、マユリさんが連れて行かれたという話は……。 沙沙貴さんたちが話したようにマユリさんが“八代譲葉を殴打した犯人”と疑われていたからだった。 しばしの時間の後、戻ってきたバスキア教諭は何も言わなかったけれど……。 尋問されていたマユリさんと八代先輩を発見した上級生が同席していたことから、放課後を待たずして―― マユリさんが襲った犯人ではないかという疑惑を持たれていることが、全校生徒の知ることとなってしまった。 私は、私たちはその誤解を解くために―― 「ま、犯人がいる前で自分の事件を調べてますっては言えないか」 「マユリさんは犯人なんかじゃないわ……!」 抑えていても静かな怒りを含む声音は私を覚醒させ、八重垣さんの言葉を奪った。 「あの子は飄々としたところがあるけれど、人に危害を加えるような子じゃない」 「アミティエとして接してきたのだもの。それくらいは分かるわ」 擁護する彼女の言葉に、ぐっと胸が詰まってしまう。 「へぇ、こいつと付き合いだしてから、匂坂とは上手くいってないものだとばかり思っていたけどね」 「交際しているのと助けようと思う気持ちは別だわ。それに……」 一息置くと、余裕を見せる八重垣さんへ指を突きつけ、 「謂われのない疑いを掛けられる辛さは分かっていますからねぇ」 さすがの八重垣さんもばつが悪いのか、鼻の頭を掻き黙ってしまう。 「……でも二人ともマユリさんの為に疑いを晴らそうと言ってくれて嬉しかったわ」 「……別にわたしは匂坂の為なんかじゃない。ちょっと面白そうだから手を貸してやっただけさ」 「アミティエ同士なのだから当然よ。それに流石にこれは……」 放っておけないわ、と床を睨みこぼした。八重垣さんは、あの人気者の頭を殴っちゃなぁと合いの手を入れた。 「……立花は小御門先輩の元へ注進しに行ってくれたのよね?」 「今はまだマユリさんを詰め寄ったり、なじりに行ったりする人はいないけど、八代先輩の入院が長引けばどうなるか分からない」 「だからニカイアの会で、生徒たちを抑えるようには話してきたわ」 「ファンが多そうだものな、あの生徒会長」 八代先輩に会ったことがあるのと聞くと、八重垣さんは首を振った。 「話を聞いただけさ。でも噂だけの方が分かることもある。ま、それよりも情報の交換と行こうじゃないか」 八重垣さんの言葉に私も立花さんも頷く。 立花さんは几帳面にメモを取ってきたのだろう、メモ用紙を取り出すと、 「まず何から話せばいいかしら?」 マユリさんが疑われる事となった大まかな流れは分かっている。けれど、 「そうね。ここにいる皆はこの事件の大まかな流れは分かっていると思うけれど……」 「もう一度始めから、時系列順に仕入れた情報を交えて話して貰おうかしら」 「ええ。順を追って話した方が分かり易いものね。ではまず、マユリさんが疑われることとなったのは――」 「エントランス前で八代先輩が倒れていたのを見つけた上級生が、ある言葉を聞いたことから始まったわ」 「いまわの際みたいなタイミングで“桜が……”って言ったんだろ」 「それきり気絶した八代譲葉を、発見者は保健室へと運んだ。そこで……」 ――これは事故ではないと判明した、と続ける。 「足の兼ね合いで養護教諭とはツーカーな関係でね。そこから聞き出したんだが、八代譲葉の怪我した頭を検分した結果――」 「只の事故ではない、殴打痕が見付かった」 「それは……初耳だわ」 「まぁ一般の生徒に細かく話す必要もないしな。八代譲葉の頭の怪我は、細長い棒状の物」 「角材のようなもので横薙ぎに殴られていたそうだ。後頭部だよ。殺す気だったのかねぇ」 不穏な言葉に身を乗り出していた立花さんは座り直した。 「……後ろから殴られたとなると、犯人の顔を見た可能性は低いわね」 「ぁ……そう、そうね」 「其処が問題だよな。入院で今はいないけど、戻ってきた八代譲葉が、こいつが犯人だって言えば一発で解決なわけだし」 犯人を見ていない可能性を初めて突きつけられた立花さんは、一声唸ると自分のおさげを弄り逡巡する。 「お手柄ってことで、後で美味い菓子が食べたいんだけどねぇ」 「ぁ、そうね。持ってくるわ」 立花さんの言葉に満足そうに頷くと、唇をちろりと舐めてから続ける。 「で、八代譲葉の怪我が事故でなく故意的な事件だとなってから様相は一変した」 「病院に送致されてから、発見者が聞いた“桜が……”という言葉から犯人捜しが始まったわけだ」 「誰が呼び出されたかは分かる?」 首を振る八重垣さんに、立花さんは律儀に手を上げると、聞いてきたわと言った。 「“桜”という言葉から桜に関する名字、名前を持つ生徒が呼び出されたの」 「一年生……わたしたちのクラスは分かっていると思うけどいない。二年生は一人、三年生は二人いたの」 「そいつらが犯人だったら話は早かったんだけどねぇ」 「二年生は〈佐倉涼〉《さくらりょう》さん。三年生は〈高橋桜子〉《たかはしさくらこ》さんに〈桜木里緒〉《さくらぎりお》さんね」 名前を聞き頭の中に刻んでいく。 「名前は初めて聞いたけど……結局犯人じゃなかったんだろ?」 「養護教諭から八代譲葉の怪我の具合……血の乾き方から、昨日の放課後の十七時から十八時に襲われたとなった。でも……」 「ええ。佐倉涼さんは天文部の手伝いをしていてその時間のアリバイは部の皆からの証言で証明されたし――」 「高橋桜子さんもクラスの演し物で同じく、桜木里緒さんも料理部の部室にいた事からアリバイが証明されたわ」 立花さんのような折り目正しい少女にアリバイと言う単語は似合わず、私は思わず顔をしかめてしまった。 この状況の異常性……。 「ん……? どうした、何かヒントでもあったのかい?」 「いえ、大丈夫。続けて……」 「ま、いいけどね。で、“桜”というのが名前でないなら、次は場所ではとなった。まぁ順当な意見だよな」 「つまり八代譲葉が発したのは、自分が襲われた場所ってわけだ」 「…………」 押し黙り床を見詰める立花さん。その“場所”がマユリさんを容疑者としてしまったからだ。 「桜と聞いて場所を連想するのは仕方ないわ。この学院には見事な桜並木があるもの……」 「偶然、部の……美術部だったか、そこの先輩に用ができたと言われて清掃を代わったのが運の尽きってやつだった」 「八代譲葉が襲われたと目される時間に、匂坂はちょうど清掃を一人でしていたんだからな」 疑わしき状況なのは単純な帰結だ。推理小説なら、そんな分かり易い筈はないと誰もが思う。 (でも、現実では状況証拠は証拠たり得てしまう) 「他の“桜”の読みを持つ上級生とは違って、匂坂はアリバイを持ってなかった。誰もあいつを見ていなかったんだからな」 「……目撃者はいたのよ」 そいつは初耳だと戯ける八重垣さんに、恨みがましい目でバスキア教諭よ、と言った。 「事件のあった十七時から十八時の間、一度だけ通りかかったバスキア教諭がマユリさんを見かけたと証言しているわ」 「それは……逆に首を絞める結果になったな」 どうしてよ、と眉をひそめる立花さんの視線を受け止めながらも、八重垣さんは私へ代わりに答えろと目配せをしてきた。 「……つまり、今まで桜並木を清掃していると証言していたのはマユリさんだけだった」 「それが彼女を容疑者にしていたけど、もし面倒だったので、さぼっていたと発言を翻したらどうだったかしら?」 「え、ああ……そうか! 証言者は自分一人だったのだから何とでもなった……」 「でも、バスキア教諭が清掃しているのを見かけているという証言があるお陰で――」 「桜並木に行っていなかったという嘘もつけなくなってしまった……」 私の言葉に黙り込む立花さん。抜け道はないかと専心しているのだろう。 「正直、担任の証言があるって聞くまでは桜並木には行ってなかったって、虚偽の申告をさせればいいと思ってたんだけどなぁ」 頭を掻き、次いで眉を掻くと八重垣さんは、で何か分かったかい――と尋ねた。 「――八重垣さんと立花が持ってきてくれた新しい情報は、第一に頭の傷が角材のようなもので後頭部を殴打されたこと」 「第二に桜の読みを持つ三名の上級生。そして最後にバスキア教諭が十七時から十八時の間にマユリさんを見かけていること」 「その情報で何か……その、犯人が分かった?」 「犯人は匂坂だってことが分かったとか」 タチの悪い冗談に立花さんが声を荒げる。しかし八重垣さんは懲りた様子はなく、愉しげに、で、どうすると尋ねた。 「情報はとりあえず出し切った。これからうちのフローターから次の指示を出して貰わなきゃな」 「なぁにフロー……何とかって?」 「スクールカーストだよ。お前はブレインってとこか。頭を使うのは白羽だけどね」 不思議ちゃんと位置づけられ、個性が斜め上だという意味も持っていることから、思わず笑みを零してしまった。 「あ、今自分のことじゃないかって思っただろ」 八重垣さんの物言いに笑い、少しだけ心が軽やかになると次に動くべきことが思いつく。 「……次は桜並木を調べに行こうと思う」 「犯行現場を調べてみようって? なんだか泥臭いな、わたしはパスだ」 「真っ当な意見じゃないの。そうね、そもそもまだ調べてはいないし……」 「ええ。まず本当に桜並木で犯行が行われていたか、血痕を調べてみようと思う」 「頭の怪我は少しの傷でも大量に血が出るわ。だから血が滴っているところがある筈よ」 「そうね、それはいい……」 「多分、血の痕は見付からないと思うぞ」 水を差され、立花さんはどうしてよと眉を掻く八重垣さんへ問うた。 「八代譲葉がエントランス前で倒れていた時、傷を負った後頭部にスポーツタオルをあてがっていたそうだ」 「最近のスポーツタオルは吸収率がいい。一滴、二滴なら見付かるかもしれないが……」 桜並木のある広い範囲で見つけるのは骨だぞ、と言った。 先ほど自身が口にした“真っ当な”意見に、立花さんも唸り中空を睨む。$私は、 「……血痕のこともそうだけど、実はもう一つ調べたいことがあるの」 「お前しか知らない事実か?」 「立花も目にしているものよ。私と立花は昨日、小御門先輩に連れられ保健室に行った際――」 「怪我をしてベッドに横たわる八代先輩を目にした。でもその他に目を引く物があったの」 「目を引く……そんな物があったかしら……」 「西日で朱く染まっていたから、はじめ血で床が濡れているのかと思った」 「でもそれは血痕じゃなく、八代先輩の靴に付いていた土と、脱いだときに落ちた土が散って血痕に見えたの」 言われ、ああ……とおさげを揺らし大きく頷いた。 「そういえば、確かにベッドの周辺が汚れていたわ。あれって赤土よね。わたしも一瞬血だって思ったもの」 「ええ。だから靴に付いていた土を――」 「止めておいた方がいいんじゃないか」 「え?」 「そりゃあれだろ。八代譲葉の靴に付いていた赤土と、桜並木の土が一致するか調べてみようって言うんだろ?」 「そいつはプラスにはならないよ」 「どうしてよ」 「――この学院の敷地内は大体、芝生か石畳で敷き詰められているだろ?」 「靴に土がそれだけこびり付いてたってことは、襲われた場所が土が剥き出しの場所ってことだ」 「で、桜並木の場所はどうだ? あそこは例外的に芝生で覆われていないし、余計怪しいってなるのがオチだ」 (確かに、そうではある。そうではある、が……) 「……何だか、マユリさんに不利な条件ばかりが出てくるわね」 「匂坂が犯人だって言われた方が頷けるよな」 瞬間、気色ばむも……反論する武器がないのだろう。口を閉ざし、机の上を凝っと睨む。 「あれ……いやいやいや。そこは“そんな筈ないわ!”とか言ってくれないと調子が狂うんだけどね」 「…………」 「だんまりかよ。確かに状況証拠は限りなく黒だけどさ。お前ら……アミティエなら違うってすぐ分かりそうなものだろ」 「え? マユリさんじゃないって証拠があるの?」 「おいおい。本当に仲良し三人組の一人かよ。お前は分かってるよな?」 八重垣さんに問われ、躊躇いがちに頷く。彼女が言ってるのは根本的な問題だ。 「マユリさんじゃない証拠って……あるの?」 「八重垣さんの言うマユリさんが犯人でない証明は……動機がない、ってことだよね?」 「そうそう。さすがフローターは分かってるねぇ」 「そもそもの問題として、匂坂に八代譲葉を害する動機ってやつがあったかって事だよ」 「動機……」 「ああ、情報を仕入れてくる段階で聞いてきたけどさ。匂坂のやつと八代譲葉には接点が少ないだろ」 「友人を介しての知人くらいの面識だったそうじゃないか」 「それくらいの関係しか築いていないやつがさ、頭を殴るような密な関係になるかね?」 「密な関係って……」 「おかしいか? 相手を殴るほどの恨みなんて、余程、密な関係じゃないと発生しないだろ」 「わたしたちは大人じゃないんだ。金や仕事での絡みもない。あるなら怨恨くらいのものだろ」 言われ、確かにと思う。憎むという行為は相手に思い入れがなくては発生しない。 友人を間に挟んでの知り合い程度の間柄では、そもそも言い合いや暴力沙汰にも発展しないだろう。 ――しかし、 「ま、匂坂に口を塞ぎたくなるほどの秘密でもあれば別だがね」 ――動機がないと言われて、一笑に付す事ができなかったのは、 「…………」 「どうした、顔色が悪いぞ?」 (――もし、八代先輩がマユリさんの性癖を知ってしまったら) 同性愛者だということを吹聴すると言われたのなら―― 我を忘れ、殴ってしまうかもしれない。 「おい、この部屋でもどすのは勘弁してくれよ」 彼女も私が抱いていた危惧に至ったのだろう。 罪悪感に充ちた視線は私の視線と交わり――直ぐに逸れた。 (マユリさんに限って短慮な真似はしないわ) 自分へ言い聞かせるように胸の中で呟き、私はあの時のようにどんどんと赤色を増していく空を眺め、強く唇を噛んだ……。 ――私は、酷く後悔していた。 立花さんがかつて評したように、彼女は聡明で、面倒見が良く、それでいて飄々としていると。 確固たる個性を持ち、誰にも害される事はないと。 だから私は何も話さずとも、只、早く彼女にかけられた誤解をなくせば佳いとだけ思っていた。 でも、 彼女――匂坂マユリも私たちと変わらない、ただの少女なのだと今更ながら思い知った。 「……来てくれたんだ」 声を聞いただけで分かる、〈倦〉《う》み疲れた感情。 暗がりから、一歩一歩聞こえる足音は頼りなく、儚い。 陰から人の像を取った彼女の姿、表情は――私が予感していることを言うのだと察せられた。 「二人とも呼び出して済まない。でも部屋で、明日の予習の合間にって話でもなかったからね……」 〈倦〉《う》み疲れた視線は、私と、隣に佇む立花さんへと等分に分け与えられた。 そして、何故だか優しい笑みをこぼし、 「私、私は――」 「――聖母役を辞退しようと思っているんだ」 そう告げた。 「何を……言っているの? もう決まったことじゃない」 決然と言う立花さんだが、その言葉はやはり震えているように聞こえた。 彼女も私と同じく、マユリさんを同年代の少女として扱っていなかったのだ。 超然とした触れられざる者のように。だからこそ、弱った彼女を前にして自分でいられない。 彼女は――決まったことか、と呟くと口の端を歪める。 「……確かに私は聖母役の大役を受けた。だが、今はあの時とは状況が違う」 「私は神に仕える遵法者ではなく、裏切り者のユダに等しい」 「……八代先輩を襲った犯人だと疑われているから?」 「疑われている? 随分優しいことを言ってくれるね。私はとっくに犯人だと思われているものだと捉えていたのに」 思いも掛けぬ自虐的な言葉に、立花さんは言葉を詰まらせ、哀れみの瞳を向けた。 「私は、私はね――立花。君に恨まれているんじゃないかって思っているんだ」 「君も望んでいただろう聖母役を――私が奪ってしまったんだからね」 「そんなこと……」 「ないか? 私にはそう思えなかった。私を見る立花の目は恨みがましいものに視えていたんだよ」 違う、とは言えなかったのか、立花さんは様々な感情がないまぜの目をたまらずに床へと向けた。 「それだ、君をそうさせてしまうことが辛いんだ」 吹き出しそうな感情の奔流を際で押しとどめている。 立花さんへと向けているそれを私へと向けた。 「蘇芳さんには以前語ったことがあるけれど……少し昔語りを聞いてくれるかな?」 そう彼女は言うと、かつて私へ話してくれた自分の過去を語り始めた。 「両親が離婚して、自暴自棄になった私へと父は家政婦を雇い入れた。あの頃の私は、今思い返してみても酷く乱暴でいけすかない子供だった」 マユリさんをかいがいしく育ててくれた家政婦さんの話。 ああ、それは―― その話の帰結は、 「以前と同じように振る舞えるようになれた頃には、私は――その人を好きになっていたんだ」 床へと向けられていた立花さんの瞳は隠したい過去を吐露する真摯な声に押されたのか、マユリさんの瞳を見つめ次の言葉を待っていた。 「私が好きな相手というのはね、女性だ。君とよく似た、ね。$――どうだい、救えない話だろう」 「ぁ……ぅ……」 何かを言いかけるも言葉が出てこない彼女を見て、マユリさんは自虐的な笑みを向けた。 「私は……立花、君に好きだったあの人の面影を見ていたんだ」 「学院に入り想いは捨て去ったと思っていたけれど、君と仲良くなればなるほどあの人と同一視してしまった」 「だから……他の級友が君と仲良くしているのを見て嫉妬したこともある」 ――かつて、浴場での彼女と立花さんと会話を思い出した。 (あの時の言葉の真意は……) 「そうさ嫉妬だ。蘇芳さんと交際すると聞いて胸を掻き毟られる程に苦しみ……」 「そして、聖母役を奪ったことで憎悪の眼を向けられた。私は……私はもう耐えられないんだ」 「だから、だから……もう降りても、聖母なんてものを演じなくてもいいだろう……?」 ――縋るように歩を進め、立花さんへと覚束ない足取りで歩んでいく。 その姿は母を求めさまよい歩く幼子のようにも見えたし……幽鬼のようにも思えた。 「……っ」 近づくマユリさんへ気圧されたように立花さんは後退ってしまう。 受け入れないと言う気持ちが、態度が示されてしまった。 マユリさんは立ち止まり――寒月に吠える狼のような悲愴な顔に変わる。 「……そうか。そうだな」 (このままじゃ……) 「自分でも受け入れられないんだ。そんな私を受け入れて貰おうなんておこがましい……」 (マユリさんは私のように為ってしまう) 一切合切を諦めきってしまった顔。自分に残されているものは何一つないという諦観。 (――私が憧れた人に) 「済まなかった、もう……」 「待って」 義母への記憶の蓋が開きそうなのを堪えながら、私は――背を向けようとしている彼女を呼び止めた。 マユリさんは今初めて気づいたかのような様子で、悪いと呟いた。 「二度も詰まらない話を聞かせてしまった。君には……関係のないことなのにね」 ――私のように為って欲しくない。 「関係ないことなんてない」 「何を……」 「私たちはアミティエ……。いえ……そんな綺麗事は止めましょう」 「私はマユリさんに憧れていた。私は貴女に為りたかった。だからそんな顔をしている貴女は認められない」 「蘇……芳……?」 幼い頃の記憶の痛みを抱えながら、私は――絶望にも似た思いで、口を開いた。 「マユリさんは自分の過去を吐露し、受け入れられないと言っていたけれど……」 「私にとって、貴女の過去は自分と似ているの。だから拒絶なんてしないわ。したいとも思わない」 「似ている……? 口から出任せを言わないでくれ」 「……温室で、マユリさんは私の言葉を聞いたでしょう」 「温室で……何を……?」 義母に許しを請う姿を目にし、声を聴いていたマユリさんは、口を開くも空気を噛むようにして閉ざした。 「私もね、マユリさん。片親で育てられているの。五歳の時に母と死別し、二年間ほど……」 「そして七歳の時、父は義母と再婚した。連れ子である義兄と一緒に白羽の家の者になったわ。そう、義母に私はピアノを習ったのよ」 「音楽家だったっていうお母さん……」 聖堂にあるピアノに目を遣ると――やはり義母は嗤っていた。 「一年ほどは仲むつまじく……とはいえなくとも平凡な家庭として過ごしたわ」 「でも、私がピアノを習い始めたことで、崩れていったの。義兄と私は、母に師事しピアノを習った」 「義兄の方が演奏歴は長かったのだけど……私は要領が良かったのね。すぐある程度は弾けるようになった」 「父も喜んだし私も誇らしかった。でも――義母は違ったのよ」 ふっと息をつき、嗤う義母から、怯えたような目をむける立花さんへ微笑み掛けた。 「私が上手に弾きこなせばこなす程、指導は厳しくなった」 「でも……それは上手になって欲しいという教えだったのでしょう?」 私が無理矢理に笑みを作ると、察したのか痛ましそうに立花さんは黙り込んだ。 嗤っているのは彼女の向こうにある陰だけだ。 「都合三年、ピアノの指導は続いた。ようやく父が異変に気づいた時には、私は、もう――」 「ぇ……でも……」 浴場で私の身体を目にしている彼女の目に猜疑の光が宿る。 が、温室での私を知っているマユリさんは心の傷……と小さく唇を動かした。 「肉体的なものではないわ。心が病んでしまったのよ」 「義母がいなくなって数年経つけれど……今もピアノの前に立つと、私はあの人の陰を視てしまう。悪心を覚える程に」 「ぁ……だからあの時……ピアノから逃げて……」 合唱部へ初めて訪れた時のことを思い出したのか、愕然とした面持ちで私を視た。 「どうしようもなく義母の陰を感じてしまうと、ピアノの前に立つと……あのときの指導を思い出してしまう」 「堪えきれない嫌悪感が溢れ、悪心が込み上げてきてしまうの」 怯えた表情の立花さん。対照的に何かを得たような顔付きでマユリさんは凝っと私を見詰めた。 「私が――絶対に漏らしたくなかった秘密は、泣いていた過去の自分」 「……そんな……嘘……」 「――蘇芳さん」 君も、私と同じ傷を持っていたんだね――小さく〈戦慄〉《わなな》いた唇は、そう呟かれた気がした。 誰にも言えなかった、言いたくはなかった告白をし、私は――奇妙な昂ぶりとそして安堵を覚えていた。 ようやく己を明かせたことへの安堵。 「ねぇ、マユリさん、立花。貴女たちは私を受け入れてくれるかしら」 何故だか表情は笑みを作ってしまう。 マユリさんは悲愴な顔を変えず、立花さんは耐えきれなかったように目を閉じ、〈蹌〉《よ》〈踉〉《ろ》けるように後退った。 ――ああ、そうじゃないかと思っていた。 同じ傷を持っているマユリさんは憐憫。 そして真っ当な彼女は私を受け入れられないだろう。 (自分が抱えている傷を知られるのが怖い) いやアミティエとしてでなく……本当の友人となった今、もっと知られるのが怖くなった。 「…………」 口を閉ざし、目を閉ざした立花。 私は交際を破棄したいと伝えた後でさえも、想われる事は嬉しい――幸せだと感じていた。 でも、 「――済まない。私の告白が蘇芳さんを追い詰めてしまったんだね」 「……ええ。マユリさんが此処で告白していなかったのなら、私は自分の抱える傷を誰にも言わず、ずっとしまい込んでいたと思う」 私の言葉に立花さん同様マユリさんも黙り込んだ。悲壮な表情を造る彼女へ、私は――微笑み掛けた。 「でもね。私が自分の事を告白したのは、マユリさんを擁護するためではないの」 「私自身のエゴの為なの。さっきも話したけれど、マユリさんは私の憧れ。ああなりたいと思う姿そのものだった」 「……私なんて」 「ううん、過去を抱えながらしっかりとした個を持ち、皆から慕われている。余計に憧れるし凄いことだわ。私はね、マユリさん」 「貴女が今ここで全てを失っては……諦めてしまったら、貴女を目指していた私も終わってしまう。そう感じたのよ」 意図して明るく振る舞った所為か、マユリさんは悲壮に歪んでいた表情をゆっくりと崩し、儚げに笑った。 「私を立ち直らせるのは……自分の為、か」 「そう。だから聖母役を降りるなんて言わないで。私が目指せる貴女で居て欲しいの」 下手な同情よりもエゴを押し通した方が佳い。私はそう感じていた。 しかしマユリさんは儚い表情のまま――私は佳くても学院の皆は許さないだろうと呟いた。 「――だから、私たちで八代先輩を襲った犯人を見つけるの」 「私たち……?」 「……それは、」 わたしも入っているの、と不安げな瞳で見つめる立花さんへ頷いて見せた。 「アミティエが三人制なのは……きっと一人がつまずいた時、支えてあげる為のものだと思うの」 「一人よりも二人で支えた方が……倒れずに立ち上がれるでしょう?」 私の言葉にマユリさんは笑い、立花さんは目をぱちぱちと瞬かせた。 そして、立花さんはわたしがクラスの皆に言ってきたことよね、と強張っていた表情を綻ばせる。 マユリさんは歩み、私の手を取ると私が憧れた春の日差しの笑顔を向けてくれた。 その瞳に見詰められ――涙腺が緩む。 「――ありがとう」 何故自分が泣きだしそうになっているのか分からないまま、私は微かに首肯し、彼女の体温を只感じていた……。 「とうとう」 わたしと同じ穴のムジナになっちまったな、と八重垣さんは猫の目を細め笑った。 「誤解を解くには仕方がないわ。それに……八代先輩の為でもあるのだもの」 これくらいの規則破りなら許される筈よ、と言った。 「逞しくなったもんだな」 意地の悪い猫の笑みを向け、私たち――匂坂マユリ、花菱立花の両名を見遣ると、車輪を回す。 アミティエ等は罪悪感に顔を強張らせながら車椅子で進む彼女の後ろへと続いた。 キィキィと、まるで蝙蝠のような声を上げる車椅子の音に―― 寮監や他のスタッフに気づかれないか、ひやひやしながら上階へと上がるスロープを進む。 何故―― 平日の昼間、授業中の筈の私たちが寮の廊下を抜き足差し足歩んでいるのかは―― 昨日宣言した“八代譲葉殴打事件の犯人”を見つける為に必要なことだからだ。 クラスの友人に協力して貰い得た情報、八代先輩は頭の傷が細い棒状のもので後頭部を殴打されたこと。 “桜が……”との気を失う前の言葉。そして浮上した桜の読みを持つ三名の上級生。 次いで場所が疑われたこと。 桜並木でのマユリさんの清掃の際、バスキア教諭が十七時から十八時の間に見かけていること。 最後に、保健室で見た靴にこびり付いていた赤土の証言を交え、アミティエ同士情報を共有した。 そして知恵を絞り出した結果が―― 「あの……本当に大丈夫なのよね?」 「何がだい、委員長」 「八代先輩の部屋のことよ……!」 「八代譲葉の部屋に忍び込むための算段だろ? 大丈夫だって、ちゃんと部屋の鍵は……」 立ち止まり、お尻を持ち上げると古びた鍵を手に取り皆へ見えるように掲げた。 「こうして失敬してきたからさ」 ――そう、知恵を絞った結果は“八代譲葉に敵がいたのでは?”という結論であった。 棒状のもので後頭部を横薙ぎにされたということから、何者かに襲われたのだと分かる。 その相手がマユリさんでないなら、八代先輩を害した犯人は他に居ることになる。 「今日同室のアミティエが風邪で休み……とかいうオチはないよね?」 「それも下調べ済みだって。部屋に誰かいるなら打ち合わせ通り、寮で落ち合ったときに始めに話してるっての」 ――八代先輩は信望も厚く人気も高い。 だが、熱を上げる者がいるのなら、反面やっかむ者がいるのも普通だ。 密な関係でなければ暴力は生まれない、と以前話したことがあるが―― 八代先輩ほど人気があるのなら、一方的な密な関係性、感情もあり得る話だ。 「とにかくさっさと行こうぜ。この時間、寮監はバスキア教諭の趣味に付き合っている時間だからな」 「ダリア先生の趣味って?」 「自分と同じ名前の花を育てているんだよ。ダリアさ。笑えるだろ。ほら、あの――温室の、林檎の木の側にあるやつだよ」 他の花とは違い、可愛らしい花壇で育てているのを見たことがある。他にもあるのか、とマユリさんが驚いた声をあげた。 「確か、農場の側にもあったような気が……」 「へぇ、それは知らないけどさ。何でも賞を取るんだとか何とか言っていたな」 「寮監も花好きだから、この時間は水遣りだかに行ってるって話さ」 ――それならば家捜しの間に戻ってくることはないだろう。 「ねぇ、お喋りはそれくらいにして早く行きましょう。わたし何だか落ち着かないわ」 立花さんに急かされ――私たちは八代先輩の部屋へと足早に向かったのである。 「おい、本を落とすなって、置いてあった場所をちゃんと記憶しておけよ」 「順番間違えて気づかれるとか馬鹿がやることだからな」 いやに手慣れている八重垣さんの言葉に立花さんは神妙に頷きつつ、本を元あった場所へ置き直した。 部屋の間取りは変わらず、置いてある私物も私たち一年生とそう変わりはない。 少しばかり読んでいる本が違い、そして部屋の匂いが私たちの部屋とは違うということが大きな差異のように思える。 「……脅迫状とかがあれば話は早いんだけどね」 「そんな足がつくような間抜けはいないと思うぜ。あ、血迷って殴りに来るくらいだから、馬鹿な真似をしててもおかしくないか」 含み笑いをする八重垣さんへ、マユリさんは複雑な表情で苦笑いをした。 隣で服の入った洋服ダンスを探る立花さんは、二人へ、 「遊んでないで早く探して! 授業が終わる十分前にはここから退散しなくちゃいけないんだからね!」 おお、こわと舌を出す八重垣さんを横目にしながら、机を探る私も腕時計の分針を見、焦る気持ちが浮かぶ。 (私たちは保健室で寝ていることになっているのだものね) バスキア教諭には嘘をついて授業を抜け出しているのだ。 授業が終わる前には探索を終わらせてなければならない。 (あれ……? 部屋にないってことは病院に持って行ったのかしら?) 「何かめぼしい物はあった?」 「今のところはない……わね。マユリさんじゃないけど、日記でもつけていてくれればいいのだけど……」 「ああ、そうねぇ……日記かぁ」 立花さんは机の上のノート類に目を向けるも、罪悪感がひょっこり顔を覗かせたのだろう、眉根を寄せ渋面を作った。 (手伝ってくれているだけで奇跡だものね) 規則、秩序を厳守する立花さんが忍び込む事に手を上げたという事だけでも―― 「おい、話聞いてなかったのかよ」 「……ごめんなさい」 雑誌を落としてしまい私は慌てて拾う、と、 「これって……」 女性の部屋には珍しいサッカー雑誌を手に取り、そういえば苺さんが言っていたなと、以前の雑談をふと思い出した。 「……八代先輩、サッカーに嵌まっているって言っていたわよね」 「え、あ、ごめん。聞いてなかったわ、なぁに?」 苺さんと話していた時、同席していた立花さんへ、繰り返しサッカーに嵌まっていたかの有無を尋ねた。 「え、ええ。確かそんなことを話していたわね。あの、それが何か関係があるの?」 「……いえ」 ちりちりとした焦燥に似た感覚。$私は何処かで……。 届きそうで届かない答え。 そうだ、迷った時には始まりの疑問に立ち返ればいい。 経験則から私は―― «そもそも、八代譲葉殴打事件は“事故”か“事件”か» 八代先輩は第三者に襲われた 八代先輩は不注意から事故に遭った そう――此処が定まらないのでは何も始まらない。そして、次に考えるべきは場所。 靴に付着していた赤土。$其処から紐解けるかも―― «八代譲葉が怪我を負った場所は何処か?» 外灯のある森の小道 温室 桜並木 東屋 最後に、八代先輩が残した言葉の意味……。 “桜が……”とは一体……? 桜並木に犯人の手がかりを残した “桜”は名前でなくあだ名 “桜”は別の単語を指す符丁 桜の木を切っている際に誤って怪我をした ――ダメだ、思い出せない。 「蘇芳さん?」 喉元まで出かかっている感覚。あと少しだと言うのに……。 「……唸ってる最中悪いけどな。そろそろ時間だぜ」 部屋にある置き時計を顎で指しながらいう八重垣さんへ、私はもどかしい思いをしながら部屋を立ち去ることに承諾したのだった……。 「手がかりが見付かったの?」 「ん、どれ。はぁ? 只のサッカー雑誌じゃんか。もしかしてバイシクルシュート失敗して頭を打ったとか言うんじゃないだろうな」 「……ッ!」 「それだわ、って顔されてもなぁ。こっちはこっちで何か集中しているし」 やり取りが聞こえてはいるが――耳には入ってこない。届きそうで届かない焦燥感。$私は……。 「……苺さんと話していたとき、サッカー談義で何を話していたっけ?」 「え? あ、ええと確か……苺さんがクラス皆を集めてやってみようって」 「お、何だ。クラス内で虐め発生ですか?」 「茶化さないの」 「そうじゃなくて他に何か……」 ジリジリした思いに急き立てられ尋ねると、そういえば桃がどうとか――と立花さんが口にした途端、はっと記憶の蓋が開いた。 「そうだ……! 専門用語だわ」 「サッカーのプレイ中に接触プレーで、内モモに蹴りが入ってしまうことを“モモカン”だって話していた」 「ええ、ええ! そうだわ。確かその後、飲食店であの虫が出た時、五番入りましたっていうのよ、とか話したわよね」 「何だそりゃ。トリビアを思い出せなかったってだけかよ」 くだらない、と八重垣さんは後ろ頭で手を組み、窓の外へ顔を向けた。 私は、 (そう、喉から出てこなかった言葉、そして……) かつて祖父から教えて貰った園芸での知識。 落ちている雑誌を元の場所へと戻し、八重垣さんに倣って窓から桜並木のある方角を眺めた。 「……八代先輩が言った言葉の謎が分かったわ」 「へぇ……?」 「え?」 「ほ、本当に……?」 「ええ。後は靴に残った土の謎だけ。それが分かれば襲った犯人も分かる」 驚き息を呑むアミティエに、私は最後の仕上げをするために二人へ助力を頼むと―― 靴に付いた赤土の謎を解明するために、その場を後にした……。 ――放課後、 久しぶりのお茶会の席は、クラスの皆と――稀にしか出席しない八重垣えりかさん。 そして、 「お待たせしました」 涼やかな声の主、 「ふふ、お茶会に招いて頂いて嬉しいわぁ」 このお茶会の趣旨が分かっていないのか、緊張が孕む空気を幾分ゆるめ、バスキア教諭が胸に手を交差させ礼をする。 釣られ皆、一様に頭を下げるも―― 「全員集まったようね。久しぶりのお茶会だけど今日はこれから……」 「私たちの演し物に付き合って貰う」 今まで隠れて貰っていたマユリさんが現れたことで静まった場にざわめきが戻る。 「あの……演し物というのは?」 「私が出てきた事で察してくれたとは思いますが――八代譲葉先輩の件ですよ。殴打した犯人が私だと目されている事件です」 ざわめきは大きくなり、バスキア教諭は豊満な胸をかき抱くように胸の前で手を結んだ。 「そんなこと――! 誰も思ってはいません」 「ありがとうございます。でもそれはダリア先生だけですよ」 「ここにいる皆は私を犯人だと思っている。いや……半々くらいの割合でかな?」 戯ける彼女にバスキア教諭は哀れみの視線を、クラスメイトは訝しげな眼を向けた。 「ともかくこのまま誤解を受け続けるのはアミティエとして許せるものではありません」 「だからこの場で釈明の機会を頂きたいのです」 「ぁ……釈明だなんて……私は疑ってなどいませんし……」 バスキア教諭の戸惑いの声は、いいんじゃないかなぁという脳天気な声音がかき消した。 「面白そうだし、お茶会の余興だと思って聞くのもありなんじゃない?」 「……そうそう。演し物だって言っているし」 沙沙貴さんらが同調したことで、クラスの皆は訝しげな目から興味深そうな観客の目へと変わっていった。 娯楽が少ない場所だ。聞いて損はないという気持ちなのだろう。 バスキア教諭が不承不承、承諾するのを認めてから、私は場の中心へと歩み―― 皆の目が集まり緊張する心を奮い立たせ、では始めましょう――と開口した。 「そもそも何故、マユリさんが疑われることになったのか、其処からこの事件を紐解いてみましょう」 そう皆に語りかけ、 事件のあった日、エントランス前で倒れていた八代譲葉先輩の状態……。 頭の傷の具合や、傷にあてがっていたスポーツタオル。保健室での靴に塗れていた赤土。 そして彼女が吐いた“桜が……”という言葉。その言葉から調べられた“桜”の読みを持つ上級生。 しかしアリバイを持っていたことから、次は場所を疑うこととなり、桜並木へと視点が移っていったことを語る。 そして八代譲葉先輩が襲われた時間帯―― 十七時から十八時までの間で桜並木を清掃していた、匂坂マユリさんが疑われることとなった経緯を語った……。 「……悪いんだけど、今の話を聞いたらユリが怪しいって思うのは普通なんじゃないかなぁ」 事件のあらましを聞き終えた苺さんの呟きは同調する者も多く、猜疑の目はさらにきつくなる。 しかし、 「――そうかしら。私は今の話を聞いたとき、そもそも八代先輩が何故、桜並木に居たのかや――」 「先輩が持っていたスポーツタオルに不審を抱いたわ。だってそんなものを持って桜並木に行っても仕方ないでしょう」 「……それは確かにそう」 林檎さんの頷きにやはり同調するものがちらほらと現れた。しかし、苺さんは声を上げ手を叩くと、 「そういえば先輩はサッカーに嵌まっていたって聞いてるよ」 「だから邪魔されないように桜並木の場所で、練習していたんじゃないかな?」 「それだったらスポーツタオルを持っていたっておかしくないよね?」 苺さんの言葉に傾きかけていた杯は戻り――興奮から冷めた苺さんは立花さんの表情を見ると、ごめんと呟いた。 「……確かに、八代先輩がサッカーに興味を持っていたというのは本当です」 「その情報は私も知っていた。以前、苺さんから聞いたことですから」 「そうなの?」 「そういえば話した記憶が……」 「ふふ、以前苺さんから話してきたんですよ。皆で今度やってみようってその話の中で、モモカンという専門用語の話も出て……」 「ああ、うん。確かに言ったねぇ。サッカーの用語でええと……」 「接触プレーした時に内モモを蹴ってしまうことだって言っていたわ」 そうだそうだと囃し立てる苺さん。眉根を寄せたバスキア教諭へ、この符丁で私はある見解を得たのですと言った。 「見解……?」 「私は八代先輩が言った“桜が……”という言葉を聞いて始めから不可解だと思っていたのです」 「それは……分からないわ。どうして?」 「推理小説でないのだから、普通誰かに殴られたのだとしたら、見知っていた人物の場合その犯人の名前を言いますよね?」 「分からなかった場合として、犯人の目立つ容姿の特徴……もしくは場所の名前を言うかもしれない」 「だから……桜並木なのでしょう?」 私は頭を振り、それは違いますと告げた。 バスキア教諭だけでなく、クラスの皆の視線が集中する。あがりそうになる気持ちを抑え続ける。 「犯人の名前を言えなかった八代先輩が言ったのは場所――これは正しい。でも事件現場となったのは桜並木の場所ではなかったんです」 「その場所って――」 「――温室です」 決然という私へ、混乱したように目を瞬かせる。 他のクラスメイトも同様だ。私は動揺するバスキア教諭へ、八代先輩の部屋で得た見解を述べていく。 「以前バスキア教諭へ話したことがありましたが……私は祖父が園芸が好きで、よく手伝わされていたんです」 「ええ……以前伺ったことがあるわ。温室での鉢植えを手伝って貰ったことがありますものね。でも……」 それが何か、と続くのは分かっている。 だが納得させる為にはもう少しの間、園芸の話に付き合って貰うしかない。 「バスキア教諭と同じ花の名前、ダリアをご存じですよね。先生手ずから剪定している……」 「ええ……」 「あの、別に責めているとかじゃないんです。只、バスキア教諭に聞きたいことがありまして……」 「先生はダリアの花の品評会には行かれたことがありますか?」 バスキア教諭は何故だか泣きそうな顔をしたまま小さく頭を振る。私は、雑誌での知識ですが……と一言断り、 「ダリアという花は変異を起こしやすい植物のため、園芸品種の中でも突出した品種数を誇り、三万品種以上もあるそうです」 「だから一般の方が新しくできた品種に被らないよう名前を付けるため、変わった名前が多い。そうですね?」 「ええ、その事ですか。そうですねぇ。私も新しい品種を造りたくて育てているんですよ」 一転笑顔に為るバスキア教諭に引っ張られたのか、クラスの皆もどこかほっと安堵した空気に変わる。 私はクラスメイトへ語りかけるように彼女たちへ向き直り、 「アルペンヘイゼル、バルバロッサ……この辺りは普通の品種名ですが――」 「変わり種で言いますと、かぐや姫、赤とんぼ、クライスラーなどの、お遊びで付けたような品種名もあります」 さざ波のようにクスクスと起こる笑い。私は、本題に入るため再びバスキア教諭へと目を向け、 「さらに混乱させるような名前、ダリアと言う花でありながら、他の花の名前を付けているものもあるのです」 「例えば……ダリアでありながら“コスモス”や“赤バラ”など……」 「……っ! もしかして白羽さん、」 「そうです。ダリアの品種では他の花の名前も存在する。品種名で“桜”の名を持つ品種を知っていますね?」 「“桜吹雪”“桜満月”“桜女王”……」 そうだ。バスキア教諭が育てているダリア。 「――“桜狩”」 呟く彼女の声に私はふっと息を吐き、いまだ理解していない生徒へ向けて発する。 「そう、八代先輩が言った“桜が……”との言葉は温室にあるダリアの品種――」 「“桜狩”の前で事件は起きた、という台詞だったのです。だから事件の起きた場所は桜並木ではなく、温室のダリアの花々の前――」 さざ波は勢いを増し、ざわめきは大きくなっていく。隣に立つアミティエらも同様に驚き私を見詰めていた。 (忙しくて話す機会がなかったものね) それでも信じ、場を作ってくれたことが嬉しい。 「そう……だったんだ。それじゃスポーツタオルも……」 「ええ。おそらく温室での作業中に汗を掻いてしまうからスポーツタオルを持参していたの」 「頭を怪我したとき、ちょうどよく持ってきてたそれで頭を押さえていたのよ」 「……靴に付いていた赤土は?」 「これも園芸の知識で……赤土はいい林檎が育つと祖父から聞いていたの。林檎の木の側には……」 「ダリアの花壇があった。よね?」 私は頷き、林檎が育つとの言葉に含み笑いをする林檎さんを苦笑いながら、呆気にとられているバスキア教諭へと続けた。 「おそらく、事件当日の八代先輩の行動は――」 「温室での作業中……林檎の木の剪定中に足を滑らせ、ダリアの花壇を区切る煉瓦に頭を打ち付けてしまった」 「これが傷跡の角材のようなもので横薙ぎに殴られた正体です」 「出血を認め保健室へ向かう際に、思ったよりも大量の出血だった為、ふらつきエントランス前で倒れ込んでしまった……」 「桜狩の品種名を言ったのは、助けた上級生が園芸部の生徒だったからです」 「他にもダリアの別の品種が、別の場所の花壇に植えられていますからね」 「しかし、すべて言う前に気を失ってしまった。もしくはよく聞き取れていなかったか……」 事件当日の経過の説明に、ようやく自分を取り戻したバスキア教諭は、しばしの熟考の後、おかしいわ――と呟いた。 「頭を怪我して……何故、桜狩の名前をあげたの?白羽さんの話が事実なら、犯人の名前をあげる必要もないけど――」 「場所をいう必要もないでしょ? 保健室へ連れっていって……でいい訳よねぇ?」 「……うん。確かにその通りだと思う」 筋道に合わない話に終わりかけていた空気は一転、不審の目を向けられ、立花さん、マユリさんは不安げに私を見詰めた。 「……桜狩の名前を挙げたのには理由がちゃんとあるの」 と続ける。 「まず誰にも助けを呼ばず保健室へ向かっていた事から、八代先輩はこの怪我を大した事はないものと思っていた。それはいい?」 頷く林檎さんへ、 「……この温室での作業だけれど、十七時から十八時までの間に起きたとされているけど、調べた結果――」 「当日の放課後、八代先輩は料理部へ顔をだしているの。そして慌てた様子で部を後にした」 「そうだったんだ。あの日はクラスの演し物を手伝っていたから知らなかったや」 「この話で重要なのは、料理部から後、寮に戻らず急いで温室へ向かったということなの」 「スポーツタオルを用意していたことから、直接行こうとは始めから思っていたみたいだけど……」 「寮に戻らず直接温室へ向かったのだとしたら、八代先輩は何を手に持っていたかしら?」 そう、八代先輩の部屋を探していた際に見付からず、疑問に思っていた物―― 八代先輩の部屋に置いておらず、私が疑問符を抱いたもの。 学院――料理部から、直接温室へ向かったことで手にしていた物、それは―― 鞄 スポーツタオル 調理器具 サッカーボール 私の挙げた“物”に呆気に取られた表情を作る皆。 「さすがに……それは……」 「……無いと思う」 沙沙貴さんたちの言葉が場の空気を完全に定めてしまった。 いや、 小さくもはっきりと分かる嘆息。 「――蘇芳さん。アミティエの為に奔走した貴女は素晴らしいと思います。でも、」 その後の言葉は紡がれなかった。困ったような憐れむような表情がすべてを表していた。 (そんな……) バスキア教諭の言葉が決まりとなり、アミティエの無実を証明する場は完全に逸してしまったのである……。 「――鞄!」 ステレオで言う彼女たちへ、私は頷き、沈黙を守っていた彼女へ呼びかけた。 「お願い、八重垣さん」 八重垣さんはキィキィと車輪を鳴らしてバスキア教諭の前で止まり、膝の上に載せていた学生鞄を差し出した。 「これが温室に置いてあった八代譲葉の鞄だ」 「……つまり、自分の私物が温室の……桜狩の前にあるから取ってきてほしいと言おうとしたの?」 「はい」 「――つまり、事故?」 はい、と再び頷いた事で、バスキア教諭は珍しく、はぁぁぁぁ……と盛大なため息をついた。 「そんな……こんなことって……!」 嘆くような、困ったような表情を浮かべるも、最後には破顔し佳かったわと呟く。 「――匂坂さん」 「はい」 「貴女の無実は証明されました。主は貴女をお見捨てにならなかったのです」 宗教者らしい言葉にマユリさんは口の端を歪めるも、はいと再度首肯した。 バスキア教諭は、座に集まる皆へ、聴いての通りですと声を掛けた。 「アミティエである彼女たちが、匂坂さんの疑いを晴らしました。これからも匂坂さんはクラス皆の佳き友です。分かりましたね」 はい、と唱和される声。 私は――立花さんやマユリさんも喜びが全身に充ち、笑みが零れてしまう。 「匂坂さん」 「はい……?」 「無実が為されたのは、主のお導きのお陰ですが……貴女は本当に佳き友人に恵まれましたね」 「これほど人を……貴女を思いやって救いの手を差しのべてくれる友人は他にはいませんよ」 「――はい!」 力強く返された言葉、私は、 「きゃっ!?」 マユリさんに力一杯抱きしめられ、一瞬訳が分からなくなってしまった。 「ありがとう蘇芳さん! 本当に……嬉しいよ」 暖かく春の日だまりのような彼女の身体。 私は――立花さんが寂しげに見詰めているのを知りながら、春の日差しを手放すことはできなかった……。 事件解決まで後一歩、肉薄していた自信はあったのだけど―― タイムリミットを迎えてしまった。 そう、八代譲葉先輩の退院の日を迎えたのだ。 頭の怪我だから大事を取って一週間ほど入院していたけれど……戻ってきた八代先輩はいつも通りの彼女で拍子抜けしてしまった程だ。 そして―― “僕を襲った犯人? 匂坂君の訳がないじゃないか” そう断言してくれたお陰で、マユリさんに掛かっていた疑いは晴れた。 でも、 「蘇芳さん、時間がないわよ」 小御門先輩らしからぬ張り詰めた物言い……いや、それもそうだ。 (聖母役を今更交代するなんて……) 八代先輩が犯人ではないと言ってはくれていても、どこか疑いの空気は残ったまま。 学院側もそれを察したのか聖母役からマユリさんを降ろし、通年通り一年生の級長――花菱立花さんが聖歌を唄う事となった。 数えるほどしか練習する時間はないと言うのに。 「焦らなくてもいいけれど、間違いのないよう一音一音しっかり聴いて歌ってね」 「……分かりました」 望んでいた聖母役。だけど立花さんに覇気はない。 いや、それを言うならば私も―― (マユリさん……) 陰のある笑みで大丈夫だと微笑んでくれた彼女。 私は彼女の心境を想う。 「……っ」 途端に、ピアノから義母の視線を感じ、無理矢理に集中力を高め、音高く鍵盤を叩いた……。 事件解決まで後一歩、肉薄していた自信はあったのだけど―― タイムリミットを迎えてしまった。 アミティエを救えなかったお茶会から数日の後、八代譲葉先輩の退院の日を迎えたのだ。 頭の怪我だから大事を取って一週間ほど入院していたけれど……戻ってきた八代先輩はいつも通りの彼女で拍子抜けしてしまった程だ。 そして―― “僕を襲った犯人? 匂坂君の訳がないじゃないか” そう断言してくれたお陰で、マユリさんに掛かっていた疑いは晴れた。 しかし、 「蘇芳さん、集中して」 小御門先輩らしからぬ張り詰めた物言い……いや、それもそうだ。 (聖母役を今更交代するなんて……) 八代先輩が犯人ではないと言ってはくれていても、どこか疑いの空気は残ったまま。 学院側もそれを察したのか聖母役からマユリさんを降ろし、通年通り一年生の級長――花菱立花さんが聖歌を唄う事となった。 数えるほどしか練習する時間はないと言うのに。 「時間を気にしなくていいわ。ただ、一音一音集中して聴いて。そうすれば早く上達するわ」 「……はい。分かりました」 望んでいた聖母役。だけど立花さんに覇気はない。 いや、それを言うならば私も―― (私の所為で……) 陰のある笑みで大丈夫だと微笑んでくれた彼女。 降板させられたマユリさんの心境を思う。 「……ッ」 集中が解けた途端、ピアノから義母の視線を感じ、無理矢理に集中力を高め、私は音高く鍵盤を叩いた……。  ようやく終わったのだと、私は窓の外の夜気を見詰め、そう呟いた。  $ お茶会で明かされた、八代譲葉先輩の事件の真相。  分かってしまえば大山鳴動して鼠一匹……という結末だったが、真実が明かされたことで私への疑いは晴れた。  クラスの皆……主に苺が上級生たちに触れ回ってくれたお陰で、食事の際には皆の知ることとなり――  夕食終わりには、私を疑い強く当たっていた上級生たちは謝りに来てくれた。  教師陣にも、ダリア先生が話してくれたという。  これも……これも全て、 「――蘇芳さんのお陰だ」  蘇芳さん――心の〈裡〉《うち》で名前を再度呟く。  $ 彼女は――  彼女と、立花の姿を窓の外の暗闇に浮かべ、私は彼女たちの話を思い出していた。  お茶会での一幕が終わり、  潜めるように姿を消したアミティエを追い、寄宿舎へと戻る小道で二人の姿を見咎めた。  疑いが晴れたことが嬉しくて、私の為に骨を折ってくれたことが嬉しくて、二人へと声を掛けようと呼びかけようとした。  $ でも、  ――これから酷く痛ましいことが起こる、  その事だけは分かった。二人の表情を見れば何が始まるのか察せられたから。 「お……が……ある……芳さん……」  聞き取りづらい声、痛みを堪えるような表情のアミティエへと、足音に注意しながら近づいていくと、 「――仕方ないわ」  と、悲しげな微笑みをたたえ蘇芳さんが呟いた声が耳に届いた。 「私自身、自分の抱えた傷を受け入れられないのだもの」  ――同じ身の上の彼女、 「……自分から交際を申し込んでおいて勝手よね」 「当然よ。私は立花を騙していたの。だから何も気を病む必要なんてないわ」  ――ああ、やはり、これは、 「ごめんなさい……」  ――交際を破棄する、ということ。 「ふふ、佳いの。私も交際をやめたいと言おうとしていたのだもの」  意外な言葉に私は戸惑う。 「……強制させたのはわたしだものね。自分から貴女を欲して……。  でも――昨夜の告白の後、直ぐに受け入れると言葉にできなかった。蘇芳はマユリさんに告げることが出来たのにね……」  交際を強制した? どういうことだろうと疑問符が浮かぶ。  二人はお互いに求め合っていたのではないのか。  $ 蘇芳さんは済んだことよ、と言い、立花はそうね――と呟いた。  俯き沈黙が二人の間に横たわるも……あげた表情は晴れやかだった。 「――ねぇ、わたしたちまた友人に戻れるかしら」 「勿論よ。立花――さん」  蘇芳さんは、泣き出しそうな笑顔でそう言った。 (二人の言葉の意味は……すべては分からないけれど)  立花と蘇芳さんが別れたのだという事実だけは解った。  二人の別れを知った時――私の中である種の喪失感よりも、喜びの方が勝っていた。 (喜んだのは何に……誰に対して……?)  あの人の姿と重ね合わせていた立花?  それとも――蘇芳さん?  今考えれば、今日のことだけでなく、彼女は何度も私を助けてくれた。  オリエンテーリングの時だって……。  機転を利かし足を挫いた私を探しに来てくれた。  変な疑いをかけた私を見捨てずに。  アミティエだからだと、思っていたけれど……。  $ バレエが苦手な私に付き合って練習を共にしてくれた。  彼女は私に向き合ってくれていた。  いつも――  蘇芳さんを――彼女の儚い笑顔を思い浮かべると私は、 �立花に抱いていた気持ち�  かつてあの人に向けていた気持ちとも違う。  私は、きっと、蘇芳さんのことを――  $ 窓辺から覗く夜気、しっとりと濡れた窓にはぼんやりと私の姿が映っている。  窓に映った顔は―― 「今更、自分の気持ちに気づくなんて……」  窓に映った私がどうしようもなく、幼く無防備な貌を晒していることに微笑み――  私は区切りを付けるために、自室へと緩慢に歩んでいった……。  部屋は暗く、まるで死人のようにうち沈んでいた。秒針が進む音だけが奇妙に大きく聞こえている。  いや、 (私自身が怯えている所為だ)  これから行う儀式を前にして。 「立花……」  枕へ縋るようにして静かな吐息を吐いている彼女。  始業式の聖堂で初めて立花と出逢った時――奇跡が起きたのだと思った。  私が欲しても手に入らなかったあの人が、形を変えて現れたのだと。  そして奇跡は続き、アミティエ同士となり、互いに互いを知り合っていくうちに―― 「……そう思っていたのは、私だけだったんだね」  自分の誤った恋心と、醜い情欲と嫉妬を狂いなく彼女へと向けてしまっていた。  私は、代替行為をしていたんだ。  立花をあの人の替わりにしてしまっていた。  解っていたこと。だけれど、自分は�あの人に似た彼女�に惹かれているのだと思っていた。  でも、昨夜の告白で理解してしまった。  私は、私のエゴを只彼女へと向けていたということに。 「……ごめん」  告白を受けて後退った立花。  当たり前だ。裏切られたと思う方が間違いなのだ。  だから、もう、終わりにしよう。 「――ありがとう。そして、さようなら」  心はざわめき、軋み、閉じたまぶたから熱い何かがこぼれ落ちてしまいそうだった。  初めて触れた彼女の頬は酷く冷たく、  私は――刻む秒針の音が一つの終わりと、一つの始まりを告げているような気がしていた…… この世の中には『かりそめの制度』というものがある その土地、その場にだけ許される空気のようなものだ 職業における法律外の正義によるものから、食堂車における朝から飲む麦酒まで その場における許される『かりそめの制度』というものは確かにある それはこの学院におけるアミティエという制度も然り 同性同士の交際でありながら、私たちを祝福してくれた風土然りだ 社会とは隔絶された土地による『かりそめの制度』 果たして制度を利用しているのは人か、 学院という個、そのものなのか 私は春の終わりを知り、すべての事柄が かりそめだということを知る 「――完璧ね」 ピアノの一音が聖堂内に響き消えると同時に、演奏を見守っていた立花さんがそう言った。 「伴奏に関しては十分な仕上がりみたいだね」 「その言い方だとマユリさんの方は不十分みたいだけど?」 「そうプレッシャーを与えないでほしいな。何とか聴けるくらいにはやれるようになったさ」 ならよし――と言い笑い合う二人へ、アミティエ同士仲が戻ったことに純粋に嬉しく思う。 告白の夜、一度はどうしようもなく離れてしまったけれど、 立花さんとの交際を破棄し、御破算になってしまった関係は……以前と同じように、いや以前よりも増して密になったように思えた。 (立花さんが当たり前のように接してくれて……) 私の抱える傷のこと。 マユリさんの過去を知りつつも態度を変えず、以前にも増して仲良く振る舞う彼女には感謝という言葉では足りない思いがある。 「だって、聖母祭はもう明明後日だもの。キツイ事でも言わせて貰うわ、ねぇ蘇芳さん」 「え、ええ……」 よく分からぬまま答えると、マユリさんは、酷いなぁと苦笑いで返した。 私は明明後日との言葉に、聖母祭があと三日と迫っているのだと――改めて胃が重く感じられた。 部の催しものの用意もし終え、擦った揉んだのあったクラスの“聖書”の演し物も用意し終わった。 集中し、合唱部の……聖母祭の伴奏に掛かりきりになれる、できるのだけれど。 「ほらお喋りはよして、もう一度最初から練習、練習!」 「さすがに喉がかれてしまうよ。本番前に無理してだみ声になったら本末転倒だろう?」 「そこまで、まだ練習してないでしょう。蘇芳さんくらいに極めてからいいなさい」 まいったなと頭を掻くマユリさんへ、 「そうね。少し休憩にしましょうか」 と、他の合唱部員へ指導に当たっていた小御門先輩が聞く者を穏やかにする声音で言った。 「蘇芳さんも指を休めて。根を詰めすぎても佳くないわ」 ピアノに座る私の元へと来ると、柔らかな手が肩へと添えられた。仄かな蘭のような香りに何故だか頬が熱くなってしまう。 「気を遣って頂いて……」 「ふふ、他人行儀な言い方だわ。蘇芳さんはもう合唱部の一員なのよ。仲間を気遣うのは当たり前よ」 はい、と返す私へ、肩に添えられていた手に力がこもり、 「明日はリハーサルだものね。程よく練習しましょう」 リハーサル、との言葉に胃の辺りに感じていた苦いものがさらに一段重くなった。 三日後に聖母祭を控え、実践形式で通しをしようと言う話になり、手が空いている一年生が観客として、合唱部の歌声を聞きに来るのだ。 (緊張しないでいるという方が嘘だわ……!) 以前と比べるとだいぶ人慣れしてきたとはいえ、大勢の前で―― 同級生の目がある中、ピアノを披露するなんて、考えただけでも血の気が引いてしまう。 ……ええ、分かっている。分かっているけれど。 「……聖母祭ではもっと大勢の前で弾くことになるのだし」 「うん? 何か心配事かしら」 「ぁ、いえ、大丈夫です……」 「そうね。ずっと真摯な態度で練習に取り組んでいるのを見ているわ。だから大丈夫よ」 「は、はい……」 「ふふ。ほら、肩の力を抜いて」 微笑みながら、ねぎらい肩を揉んでくれる。 小御門先輩に小間使いのような真似をさせていることに申し訳なく……そして何故だか羞恥心を覚えてしまう。 (合唱部の皆に……アミティエに見られているから?) 立花さんは微笑ましく、マユリさんは――眉間に皺を寄せ、怒ったように私たちを凝っと見詰めていた。 「あの……小御門先輩」 「はい?」 「蘇芳さんのことは……アミティエである私たちで管理しますから大丈夫です」 (管理って……) 「そう。ふふ、そうね」 のれんに腕押し、糠に釘と言った具合で小御門先輩はマユリさんに一顧だにせず、私の肩に手を置いたままマッサージを続けた。 「……何というか、分かり易いわね」 「何が?」 「何というか……わたしもこうだったのかな、と思うと少し恥ずかしいなと思ったのよ」 マユリさんが首を傾げるも立花さんは、 「とにかく落ち着きなさいな。蘇芳さんは無くなったりしないわよ」 と言う。マユリさんは頬を染め、そんな子供じみたことは言ってないよと反論した。 「ふふ、仲良くなって……。でも無くなったりしないねぇ。もしかしたら、マユリさんの方が居なくなってしまうかもしれないわよ」 「それはどういう……?」 聞き逃せない一言に私は後ろに立つ彼女を見上げた。 「あら? 蘇芳さんには以前話したと思うけれど……ほら、あの八重垣さんと言う方とご一緒だった時のことよ」 八重垣さんと一緒の時に小御門先輩と……。 そんな希有な機会そうそうない。思い返してみると……。 「ああ……図書室で……!」 「思い出したかしら? あの時、七不思議のことを話したでしょう」 そう聞かれ―― 寄宿舎のシェイプシフター 真実の女神 夕暮れの図書室で、七不思議を八重垣さんと愉しげに話していたのを思い出した。 (確か……) 七不思議の中で特に気になる云々と話していた気がする。 「それって……“寄宿舎のシェイプシフター”ですか?」 「残念違います。外れた罰として撫で撫での刑に処します」 「え、ぁ……」 柔らかで繊細な手が、優しく髪を、頭を撫でる感触は心地よく。 何も言い出せなくなってしまう。 「あ、また……!」 マユリさんは気色ばむも立花さんに止められ――私は気恥ずかしげに俯いた。 「あの……そろそろ……」 「そう? 蘇芳さんの髪、さらさらで……吸い込まれそうな黒髪で憧れるわ。もっと触っていたい」 「ぁ、ありがとうございます……」 ふふ、と軽やかに笑うと、正解はね、と撫でていた手を上げ指を立てる。 頭に感じる心地よい感覚が去り、勿体ないような気分になった。 逢魔が時の図書室で語られた二人の会話を思い浮かべ―― 「……確か、判明していたのとは違う怪異。“寄宿舎のシェイプシフター”“彷徨えるウェンディゴ”“血塗れメアリー”そして――」 「――新たに分かったのは“真実の女神”。だから……」 「ふふ、正解よ。真実の女神が聖母祭に関わる七不思議なの」 耳慣れない怪異に私はそうなのですか、と相づちを打った。 「蘇芳さんも興味があるようだし、休憩がてら明かされている七不思議の説明をしましょう」 小御門先輩はこの手の話を好んでいる。私の適当な相づちにもそうなのよ、と大仰に頷き手を大きく広げた。 「以前も話したけど、この学院の七不思議にはある統一性があるの」 「確か、攫われるということですよね?」 私以外にマユリさんも話に食いついたことで、目を細め愉しげに語り出した。 「そう。でもね、攫われるにしても各七不思議の怪異には差異があるのよ」 「攫っていくとき腕だけ残して……とかですか?」 「こ、怖いことをいわないでっ!」 怯える立花さんに小御門先輩は喜色満面とした表情で、違うわ、と言い指を振った。 「それはね――場所よ」 「場所、ですか?」 「ええ。血塗れメアリーだけは例外的に攫われる場所が指定されていなかったけれど……」 「彷徨えるウェンディゴなら、学院の森の中を迷っている時に……となっているし」 「寄宿舎のシェイプシフターは、その名の通り寄宿舎で遭遇した場合、攫われるらしいわ」 「そう考えると、苺の件は寄宿舎のシェイプシフターが適任だったことになるね」 私は笑い、立花さんは眉をひそめ、小御門先輩も意味が分からず同じように眉根を寄せた。 咎めるのと疑問符の違いはあるけれど。 「それで聖母祭に関わりのある真実の女神というのは?」 「そうそう。何故匂坂さんに関わりがあるのかと言ったのは、真実の女神が聖母祭の時にだけ現れる怪異だからなの」 「――それも特異な条件で現れる怪異」 何か聞いてはいけないものを耳にしているかのような心持ちになる。 ……アミティエらも同じようだ。 「特異な条件というのは、聖母祭の……聖母役で選ばれた生徒が美しい歌声をマリア様に捧げることで起こる、とされているわ」 「つまり聖母役に選ばれたうえで、聖歌を上手に披露できた――優秀な生徒が攫われる、というものなの」 しばしの間の後、 「それは……」 理不尽ですね、と当事者であるマユリさんは言った。しかし、小御門先輩は違うのと首を振る。 「これは優秀であるがゆえに神の御許に呼ばれたのだという考え方から――」 「他の七不思議の怪異とは一線を画して……災いよりも、誉れとして伝わっているわ」 「消えてしまうことが……悦ばしい……」 宗教学校らしい考え方だと思った。立花さんは何故だか消えるという言葉に逡巡し、当事者のマユリさんは、 「それは……誉れなのでしょうけど、私はご免ですね」 「そう……? 私なら躍り上がるほど嬉しいけれど……」 (根っからの基督教の信者だものね) 宗教学校に通ってはいても、攫われることが嬉しいという感覚は分からず、マユリさんは曖昧な笑みで応えていた。 「大丈夫よ。居なくなったら、沙沙貴さんたちのようにまた見つけ出すわ」 「蘇芳さ――」 扉が騒々しく開かれる音が聞こえ―― 「心配するな、消えたりなんかしないッ」 と、さらに騒々しい声が聖堂内にこだました。 大股で颯爽と行く姿は、 「譲葉! 帰ってきたのね」 「今戻った」 シニカルな笑みで応え、道化のように恭しく礼をする。 途端にあがる嬌声。 カリスマ性は料理部だけではなく合唱部にも等しく注がれているらしい。 壁のように群がる部員の声に答え、小さな子供のするように大袈裟に頭を撫でた。 女生徒たちは飼い主を見つけた子犬のように悦び八代先輩へと殺到する。 「うむ。大丈夫、大丈夫だ。皆には心配をかけて済まないね」 一人一人と挨拶を交わし――終えた後、私を、マユリさんを困ったような表情で眺めた。 そしてやはり大股で呆気にとられていたマユリさんの元まで歩むと、 「僕の所為で難儀したらしいね。謝罪しよう。すまない」 「い、いえ。誤解は解けましたし……」 「病院のベッドの上で事の顛末は聞いたよ。蘇芳君が八面六臂の大活躍だったじゃないか。佳いアミティエを持ったね」 「はい。本当に……」 「あの、私だけじゃなくて立花さんも協力してくれました」 「久しぶりに交わす言葉が、正す言葉とは。相変わらず君は僕のお気に入りのことだけはあるね」 シニカルな笑みはそのままに、皆へやったように大型犬を相手にするように乱暴に髪を撫でくしゃくしゃにされた。 「まずは謝罪からなんて義理堅いわねぇ。でも私へも何か一言くださらないのかしら?」 「義理が廃ればこの世は闇夜、だ! 僕はもの凄く義理堅いんだ。会を任せてしまった事は謝意とそれ相応の態度で示そう」 大まじめに言う八代先輩へ、冗談よと笑う。 「……何だか時代劇じみてるわね」 「目が覚めてからは暇で暇で、時代劇を死ぬほど見たのだ。$語彙が移るのもやむなしではないかね?」 「……聞こえてたんですね」 「それよりも先ほどの話に戻るが、犯人捜しでは随分と骨を折ってくれたようだね」 「見舞いに訪れたバスキア教諭が、大げさな身振り手振り付きで教えてくれたよ」 「そう……なんですか」 直接聞いたバスキア教諭は微に入り細に入り話しているのだろう。 「以前聴いた紛失した図書の話も面白かったが、今度のやつもなかなかだった。やはり僕を想って捜査してくれたんだろ、蘇芳君?」 冗談だと思い、愛想笑いで返すも―― 「ん?」 どうやら本気で問うているようだ。 (何て答えたら……) マユリのため 八代先輩のため どう答えても角が立つ。 八重垣さん風に言うなら“やられた。デススターのど真ん中だ”という気分だ。 私は見詰める八代先輩、アミティエらの顔を順に見詰め―― 「八代先輩のことも心配でしたけれど……」 「うむ」 「疑いを掛けられていたマユリさんの方が急務で困っていたと言いますか、その……」 「蘇芳さん……!」 当たり障りなく答えようとした結果、 マユリさんは浮き立ち、八代先輩は珍しく渋面を作っていた。 「……面白くない」 「はい?」 「面白くないと言ったのさ。君と僕の仲はそんなものだったんだな……」 驚愕することに八代先輩は鈍色の瞳を潤ませ、少女のように顔を伏せてしまう。 「あ、あの……先輩……」 気の毒になった私は、彼女の元へ歩み何と声を掛けようか悩む、と。 「……掛かったね」 「な……」 身体を引くよりも早く、抱き寄せられ、眼前に顔が……。 「き、き、」 「そうだ。僕から送る親愛の証だ」 「な、何をしているんですかっ!」 駆け寄るマユリさん。八代先輩は私の体を離し、素早く小御門先輩を盾に逃走を図る。 「びっ、びっくりしたぁ……」 身体はまだ硬直したまま、余韻が残っている。 「何だか、相変わらずの先輩よねぇ」 疲れ切った顔と愉しげな表情。 ない交ぜになった顔をみせる立花さんへ、追いかけっこをしている二人を見詰め、私はそうねと微笑んだ。 (これで元通りになった……) 皆のいる学院に戻ったという感慨を持ちながら、私は再度盾にされる小御門先輩を見て、失礼だけれど少し笑ってしまったのである。 究極の二択と言うやつだ。かつて少しの間通った学校で羨ましく見た光景。 でも、 (自分がするとなったら、こんなにも困ることだなんて……!) 私は沈黙に耐えられず―― 濡れた子犬のような視線を投げかける彼女を見て、 「と、当然、マユリさんの事も心配でした事なのですけど……」 「……うん」 「八代先輩の為にやったことでもあるのかな、って……」 自分でも訳の分からない言いざまになっているとは思う。 私の言葉にマユリさんは残念な表情を隠さずに、八代先輩は―― 「あの……」 何故だか身体を小刻みに揺らし俯き、私は心配になり近づく。と、 「有り難う、蘇芳君!」 言うが早いか抱き竦められてしまった。 「せ、先輩……?」 「やはり思った通りの人だ。僕の為に動いてくれるなんて、やはり弟子を思わない師はいないのだね」 「ああ……蘇芳君。今度は僕の為に美味しいシチューを作ってくれたまえ!」 「あらあら、プロポーズみたいねぇ」 「いえ、そうではなくて、また料理を教えてくれって……」 「い、いつまで抱きしめているんですかっ」 慌てて駆け寄ってくるマユリさん。八代先輩は私の体を離し、素早く小御門先輩を盾に逃走を図る。 「あ、ち、違うの。そうじゃなくて……!」 「ああ平気よ。マユリさんも料理を教えているのは知っているじゃない」 そう、言えばそう……だ。 「あ、なら、どうして……」 私の呟きに、彼女は気持ちは分かるわと謎の言葉を吐いた。 そして、 「でも……ようやく日常が戻ってきた気がするわね」 追うマユリさんに逃げる八代先輩を眺め、呟く彼女へそうねと微笑んだ。 (これで今まで通りに……) 皆のいる学院に戻ったという感慨を持ちながら私は、再度盾にされる小御門先輩を見て、失礼だけれど少し笑ってしまったのである。 明日頑張ってねとクラスメイトに声を掛けられ、 「はい、粉骨砕身精進します……!」 「ふふ、蘇芳さん八代先輩みたいな口調になっているわよ」 ほぼ初めて級友から声を掛けて貰って舞い上がってしまった私へ、立花さんは身体を洗う手を止めると、口元に手を当て笑いかけた。 「クラスメイトに声を掛けて貰ったの初めてだから……」 「そんなコミュ障みたいなことを言って……」 ハタと身体を洗う手を止め何やら熟考すると、 「……そういえば蘇芳さん。私たち以外の人とあまり話をしているところ見ないね?」 「そういえばそうねぇ。でも仕方ないわよ。蘇芳さん凛とした美人だから、話しかけ難いところがあるし」 ……どうやら人見知りだとは思われていないようだ。 初めて級友から励まされ、つい条件反射的に頑張るなどと言ってしまったけれど、 「聞いてたよ。やる気まんまんだね!」 「……すごい。わたしとしては緊張してしまうのに」 ――緊張。 「ふふっバカだなぁ林檎は、元々ピアノをやっていたんだもの。発表会とかで馴れているに決まってるって」 「……なるほど。蘇芳ちゃんにしてはクラスメイトの前での演奏なんて、緊張なんて言葉が失礼」 「だよね。それじゃお先に」 ペタペタと湯船に向かう沙沙貴姉妹の背を見送り、私は思わずぎゅっと胸をかき抱いてしまった。 「あの……どうしたの?」 「ぅぅ……」 「お腹痛くなっちゃった? 付き添おうか?」 「ち、違うの。明日のことを考えると……何だか急に胸が苦しくなって……」 怪我をしても夢中だったから平気だったものが、いざ気づいたときから痛み出すようなもので……。 「意識しだしたら、もう……」 「だ、大丈夫よぉ。今日の練習だってあんなに上手にできたじゃない?」 「……蘇芳さんは問題を抱えている。そんなに簡単なことじゃない」 「……ぁ」 そう、義母の陰のことも頭をかすめた。 この緊張が続いたら……集中できない私は、またあの人を思い出して……。 シャワーを止めると濡れた手が肩に掛かり、 「私たちは蘇芳さんの抱えているものを知っている。もし拙い事態になったとしても私たちがフォローするよ」 「ええ、蘇芳さんを薦めたのはわたしだもの。きちんとお世話するわ」 胸を叩いてみせるアミティエに……私は、そうねと頷くことができなかった。 今までの経験から、ピアノと私を結びつけている元凶の根深さは分かっていた。 「蘇芳さん……」 何かを言おうとするも言葉が出てこないのか、俯く。と、そうだわと呟き――急に立ち上がりまたも胸を叩いた。 「明日何事もなく演奏できたらわたしも苦手なことを一つ克服する……!」 「克服って……」 「何をするっていうのさ?」 「ただ頑張ってと押しつけるだけじゃフェアじゃないわ」 「だからわたしも、蘇芳さんの努力に匹敵するような努力をしようって言っているのよ」 「その論理は……どうだろう」 マユリさんは苦笑うも……私は背を後押しされたみたいに、心がすっと軽くなった。 「ありがとう――私頑張ってみる」 私の言葉にマユリさんは、何故だか、ええ? と疑問符の声を上げると頬を掻きつつそれで、と尋ねた。 「まぁ……励みになったのは佳いことだけど、それで立花は何を克服するの?」 鳶色の瞳に凝っと見詰められ、立花さんはもじもじと身体をくねらせ、 「その……自転車を……」 「え、何? よく聞こえなかったけど」 「じ、自転車を乗りこなせるように……努力します!」 人民の解放を宣言した指導者のように言い切る姿に―― 私も、マユリさんもどういう態度を取ればいいか、返しをすればいいか分からず、目をパチパチとさせてしまった。 (もしかしてだけど……) お嬢様学校の此処では、自転車に乗れるということは特別な技能なのだろうか? ……いや、でも。 マユリさんも困った表情だし、と言葉を選んでいると、 「……そうですか、自転車を乗れるようになると」 聞き覚えのある声、そして、 「ええ、乗れないの? さすがに嘘だよねぇ」 そうお風呂から上がった沙沙貴さんたちが耳聡く聞きつけ、意地の悪い目を向けていたのだ。 「ぅぅ……一番聞かれたくない相手に……」 「本当に乗れないのぉ? 自転車に乗れないなんて低学年までじゃない?」 (そう……よね。やっぱり私の感覚で正しかったんだわ) 「嘘よ。わたしの所では乗れる人の方が稀よ」 「ええ〜」 ――どちらの意見も土地柄というものがある。 どちらかが嘘だと決めつけるわけにはいかない。 立花さんは苺さんを上から下まで返す返す見ると、手をやれやれと異人のように広げて見せた。 「低学年でとか、乗れて当たり前だって言っていたけど、沙沙貴さんたちの方が乗れなそうじゃない?」 「ちょっと信じられないわねぇ」 「信じられないって……わたし的には自転車だけじゃなく、一輪車も乗れるんだから!」 「一輪車ねぇ。あれは競技に使うものでしょ? 野球部に入っていてキャッチボールできますって言っているようなものじゃない」 「……競技って、〈寡聞〉《かぶん》で悪いんだけど一輪車って競う何かってあるのかな?」 マユリさんの疑問に分からないわ、と呟くしかない。 黙ったまま互いの優勢を見詰めていた林檎さんへ、姉が何か言ってとせかすと、彼女はこほんと一つ空咳をし、 「……わたしとしては竹馬に乗れる」 「――負けたわ」 「え? え?」 「そんなとっておきを出されたら負けを認めるしかなさそうね……」 うな垂れる立花さんへ、苺さんは一輪車の方がすごいと喚くものの耳には入っていないようで、林檎さんと熱い握手を交わしていた。 「……何だかどっと疲れた」 「ふふ」 騒ぐ彼女たちを見て――何とかなるかもしれないと、自分でも理解できない自信が生まれていることに気がついた……。 意味のない自信は、 やはり意味がないものだったらしい。 合唱部のリハーサルは授業の一環として組み込まれ―― クラスメイトが見守る中、聖歌は滔々と唄われ、私のピアノ演奏もつつがなく披露する事ができた。 これはクラスメイトらへの緊張……というよりも合唱部の皆さんへの責任感がさせたものだと思う。 程よい緊張は指のタッチをより正確にさせた。 しかし―― 「次は――トータプルクラの独奏です」 小御門先輩の言葉に耳を疑う。マユリさんがア・カペラで唄うものとばかり思っていたからだ。 無伴奏で合唱を行うことは教会音楽ではポピュラーなことだから。しかし、 「二人揃っての合唱は聖母祭の時とだけ決められているの。だから蘇芳さんの伴奏だけお願いできないかしら」 と言った。 頼まれた瞬間から空気、私の身体が一段重くなり、粘つくように感じられた。 (一人で……私が皆の前で……?) かつて一度だけ経験したピアノの発表会。 一人で……聴衆の前で弾かされた想い出がよぎり、背中に厭な汗を掻いてしまう。 「……分かり、ました」 断りたいけれど、そう口にすることは出来ない。あの時と同じ。 義母が袖で見守り、私は―― 拒むことは出来ずピアノの前へ。 (集中しなくちゃ……) あの時を――義母を思い出させる状況、 「それでは始めます。トータプルクラ」 小御門先輩の驚くほど冷ややかな声音を聞き、私は機械のように鍵盤を叩いた。 指は正確なピッチで鍵盤を叩き、何事もないように音を奏でる。 私は聴衆を、合唱部の皆を、アミティエから目を背け、ただ鍵盤だけを見詰めた。 (――これなら) 機械に徹した私は早く曲を終わらせる為にひたすらに没頭する。と、 (……っ!) 集中を途切れさせる咳の音。 鍵盤を叩いていた私は、その音に過去と今を重ね合わせてしまった。 (あの時も、今のように……) ピアノの発表会で大きく響いた咳の音に乱された私は、一音をずらし、慌てて取り戻そうと―― 過去を意識した途端、 義母が、 義母の手が、 指導していた時と同じように私の手の平に、 「どうされたの?」 小御門先輩が駆け寄ってくるのが見える。私の右手に、あの女の指が絡んでいるのがまるで視えないかのように。 「――すみません。緊張して……」 「そう。もう一度、最初から弾ける?」 尋ねられ、 集中しよう 右手を握りしめる ――集中しよう、 何時ものように、没頭すれば義母は消える。それは経験則から分かっていることだ。 「……大丈夫です。始めからお願いします」 「そう。では始めますね」 そっと私の背に温かな手を置き、もう一度曲始めから始めます、と聴衆へ伝えた。 悪心を堪えながら、義母が握る手の上から左手を添え、力を込め右の手のひらを握りしめた。 「……蘇芳さん?」 「――大丈夫です。やれます」 現実にはない筈なのに義母の冷たい肌の熱を感じながら、私は首肯した。 小御門先輩はしばし、私の横顔を凝っと見詰めると、 「……分かりました。ではもう一度だけやりましょう」 そう言い、聴衆へ向けて、もう一度曲始めから始めます、と言った。 鍵盤へ指をのせると――右手に感じていた恐ろしく厭らしい感覚は消え、私は恐る恐る己の右手を見遣った。 (何も……無い) 安堵で背中に多量の汗を掻いてしまう。 私は大きく息を吸い――ピアノへと向き直った。 「……始めます」 没頭する為に鍵盤を睨み、曲目だけに意識を集中させる。 ――早く済ませよう。 指は軽やかに滑り、がちがちに固まった身体とは別個の生き物のように動く。 (そうよ。あんなに練習したのだもの) 今なら目をつぶっていたって弾ける。 レコードのように、一音の狂いもなく正確に、 間違いを犯さず、 義兄のように誤っては―― 「……ひっ」 再び現れる義母の像。 私とよく似た長い黒髪、切れ長の眼、 彼女は私の指―― 指導の時のように私の手に置かれた義母の手は、固まった身体と同じく、私の指の動きを止めた。 「……蘇芳さん」 再び駆け寄ってくる先輩。 何度も失敗した私を視て、聴衆は……クラスメイトは嗤っていた。 「大丈夫? 気分が悪いなら……」 「平気です。やれます」 「そうは見えないわ。真っ青な顔をしているじゃない……」 背中にだけ掻いていた汗は、脂汗となって額を伝い、膝の上に落ちた。 私はもう一度、やれますと呟くも――彼女の手は私の汗で塗れた肩に触れられる。 「いいのよ。これはリハーサルなのですもの。もっと気楽にすればいいの。気分が悪いのなら断ってくれてもいいの」 「……小御門先輩」 止めてもいいと後ろ向きな言葉が今は心地好い。 一度咳き込み、すみませんと頭を下げた。 「佳いのよ。誰にだって失敗はあるわ」 「……はい」 そうだ。 初めての発表会でミスをした私をあの女は―― 舞台の袖から、こうしてニタニタと嗤って、 私と佳く似た黒髪、私と佳く似た切れ長の眼に見下ろされ―― 溢れ出す感情が分水嶺に達した私は、椅子から立ち上がり、聴衆の前から逃げ出すことしか出来なかった……。 皆のいる聖堂から逃げた私は、 森に隠れ、 東屋に足を向け、 授業中で誰もいない図書室に潜み、 悪心を落ち着かせ、理性を取り戻した私は―― クラスの皆に、合唱部の皆にも顔を合わすことができない失態を演じたのだと識った。 興奮から冷め、一気に血の気が引き、学院から居場所がなくなったのだと改めて認識した私は―― ――それで逃げ出したって訳か馬鹿め、とぞんざいな言葉で嗤う彼女の側へと身を寄せたのだ。 そう、 「同じ居場所がない相手なら匿って貰いやすいって思ったわけだな、おい」 八重垣さんに頼ってしまった。 重く鈍い感情が沸き立ち、何も口へできない私へ、面倒臭そうに頭を一つ掻き、 「わたしの部屋に逃げ込むなんざ、後ろ向きな理由しかないだろうとは思っていたけどな」 すべてを知っているような物言いに顔を上げる。私の顔を視、酷い顔だと吐き捨てた。 「少しは頭が回ってきたか馬鹿め。お前が聖堂から逃げてすぐに、お前のアミティエや沙沙貴のところの面白姉妹――」 「そして、休み時間にはニカイアの会の会長、副会長ともに此処へ来てないかって御訪問遊ばしたんだよ」 「これだけ探しに来たんだ、訳くらいは聞いているっての」 「……そう」 「そう? 今の話を聞いて、そう? お前な、確かにクラスメイトの前でやらかしたんだから恥ずかしいってのは分かるけどさ」 「それで逃げ隠れするって小学生でもしないぞ。どんだけメンタル弱いんだって話だ」 「…………」 「……もともと見た目通り打たれ弱いんだったな」 顔を天井に向け――私は、ああ八重垣さんも呆れているのね、と思った。 皆をそうさせたように、私は―― 「私は、結局……何も変わっていない……」 「もしかして、あれか? 前もピアノを弾いている時に気分が悪くなったって聞いたけど、お前本当はピアノ好きじゃないんじゃねぇの?」 ――好きか、 嫌いか――。 今まで尋ねられた事のない質問に、私は面食らってしまう。好きだとか……嫌いだとか、そういう考え方をしたことがなかった。 食事で――目の前に出された皿のように、手に取るのが当たり前の行為だったから。 「……なんだよ。嫌いなんじゃん。だったら無理矢理頼まれて、面倒臭くなって嫌で嫌で……出て行っちまったんだろ?」 「しっかり理由があるんだから、嫌だって伝えればいいんだよ」 「――私は嫌だって言って……佳かったの?」 「当たり前だろ。仕事じゃないんだぜ。嫌なら嫌で断っちまっていいんだよ」 「アミティエや……他の連中が必死こいて探しているけどさぁ」 「お前に無理矢理やらせたって後ろめたい気持ちがあるから、あんなに一生懸命に探していたんじゃねぇの?」 他の皆は分からないけれど、アミティエは……立花さんは、マユリさんは、私の過去の話を聴いて、だから―― 「取り返しがつかないことをしたって考えているんだろうけど、そんなことはないぜ、白羽」 「…………」 「この世の中、本当にどうしようもないなんてことは指で数える程しかないんだよ」 「後は――踏み出すのを躊躇う事が多いって具合だ。まぁ、私なんかは出したくても動かせないけどな」 猫のような笑み。自虐を冗句にする、いつもの彼女の言葉に私は初めて八重垣さんの目を視た。 「笑えよ白羽。落ち込んだときも笑えば身体が軽くなるもんさ。厭なものがさ、蒸発しちまうんだよ」 目と目が合った刹那、ああ――彼女は私を励ましてくれているのだと初めて気がついた。 不器用な八重垣えりかの励まし。 「八重垣さん」 「お、ようやく笑えるようになったじゃんか」 取り返しがつくかな ありがとう、えりかさん 「……取り返しが、つくかな」 「当たり前だって。一番すれた私ですらこんな面倒な役を引き受けてるんだ。他の奴は、私が笑った所為だわって青い顔してるよ」 親愛の瞳から、いつもの底意地の悪い猫の眼に変わり私はまた――笑ってしまった。 「さっさと顔を出してきた方がいい。こういうのは時間が経てば経つほど、それだけ勇気が必要になる」 「今なら“あれ、皆驚いた顔してどうしたの”って具合なもんさ」 「それは……難しいけど」 皆の前に姿を現す、と考えただけで震えがくるほどに怖い。でも、逃げたときの破滅を予感させるものではなくなっている。 「さ、早く行きな。わたしはこれから読書の時間なんだ」 キィと音をたて、本棚へと身体を向ける彼女へ、 「ありがとう、えりかさん」 と言った。 親愛の瞳を向けてくれる彼女へ、 「ありがとう、えりかさん」 と言った。みるみるうちに頬が染まり、 「ば、馬鹿。馴れ馴れしいんだよ。少し優しくしてあげりゃ……」 「本当にありがとう」 渋面を作る彼女へもう一度言うと、八重垣さんはキィと車輪を鳴らし本棚へと向かう。 「……さっさと行けよ。時間が経つほど会いにくくなるぞ」 背を向ける彼女へ、もう一度感謝の言葉を告げると、私は八重垣さんの部屋を後にした……。 八重垣さんに励まされ、午後の授業が始まっている教室へと向かってはいたのだけど……。 一歩一歩が重たく、最悪の思いつきが次々と思い浮かんでしまう。 同じシチュエーションを迎えた映画や小説の場面では――教室に入った途端に始まる、辛辣な視線と隠れていない内緒話。 そしてクラスのリーダーによる尋問。その後行われる帰れコール……。 「……妄想癖がある自分が恨めしいわ」 想像はリアルに描かれ胃が締めつけられる。 ともすれば止まりそうになる足、やっぱり―― 「見つけたっ!」 「え」 あらがう暇なぞない勢いで腕を引かれ、 空き教室へと引きずり込まれた。 そして腕を掴んだまま、睨んでいるのは沙沙貴苺さん。 「ようやく捕まえたよ、林檎っ」 「……聞こえているですよ」 言葉と共に私が引きずり込まれたドアとは反対側のドアが開き、林檎さんがのっそりと教室へと這入ってきた。 「……どうやら下手人は捕まえたようですね」 「…………」 林檎さんはいつもの軽妙さを失ってはいなかったけれど、苺さんは私の腕を掴んだまま、微動だにせず凝っと睨みつけてきた。 「……苺さん」 「……何でいきなり逃げたの?」 聞きにくいことを尋ねられ口ごもる私。彼女は睨む目を細めた。 「……言えないの?」 「…………」 「言えないんだ」 「苺ねぇ、話しづらいことは誰だって……」 そんなことは分かっているよ――と怒鳴るでもなく、囁かれるでもない、震えた声音は私の胸へと突き刺さった。 「……ごめんなさい。苺さん」 「……謝って欲しくない。理由も分からないのに言われたって嬉しくないよ」 掴んだ手が熱い。 私は―― (彼女たちへ秘密を打ち明けようか) そう考えた。彼女たちなら受け入れてくれるかもしれないと。 だけれど、反面。 (私の過去を知られて離れていかれたら……) 友人が自分から離れていくのは耐え難い。どうしたら、どうすればいい。 「……苺ねぇはね、蘇芳ちゃん」 「怒っているわけじゃないんだ。悔しいんだよ。何も知らないことが」 「……悔しい」 「そうだよ。わたしとしても悔しい。だって友達なのに、本当はピアノが嫌いだったって知らなかったんだもの」 「いやでいやで、逃げ出すくらいに」 訥々と語る林檎さんの言葉に、友達と言ってくれたことに、私は腕を握る苺さんへ目を向けた。 無言で頷く苺さんへ、そっか……と呟く。 過去の辛い思い出をシェアした私とマユリさん。立花さんはこういう思いでいたのかと独りごちた。 「ねぇ、苺さん、林檎さん」 「……なに」 「……うん」 長い話になるけどいいかしら――私はそう伝えると、自分の過去を彼女たちへ晒すために語り始めた……。 義母から受けた指導、 それに伴う後遺症で悪心が堪えられなくなる事について語り合えた後、 ――そっか、と呟き、苺さんは―― 否、沙沙貴姉妹は押し黙り自分のつま先を見詰めていた。 (拒絶されるのは怖い) ――でも、友達に隠し事をしているのは嫌だ。 「これで――」 つま先を見詰めていた苺さんは、顔をあげ私の瞳をしっかりと見つめ、 「これで本当に友達だね」 と笑ってくれた。 「……友達です」 差し出された手に、震え沸き上がる心を押し殺しながら手を握り返した。 「ありがとう……林檎さん」 「あ、わたしもぉ!」 もう片方の手を取りぶんぶんと振り回してくる。子供のような仕草は私を気遣ってくれてのことだろう。 もう一度ありがとうと呟くと、もういいよとぎゅっと手のひらを強く握ってきた。 「……わたしたちも、よく知らないで怒っちゃってゴメンね」 「……勝手に裏切られた気持ちになっていた」 「ううん、私が隠していたのが悪いのだもの」 答えた私を、二人は気ぜわしげな瞳で見つめてくる。 「……わたしとしては、思うのだけど」 「うん、わたし的にも林檎と同じ意見だよ」 「なに?」 「辛い思いをするならピアノの伴奏、断ってもいいと思う。だって……お義母さんのこと思い出しちゃうんでしょ?」 ――袖で嗤う義母、 彼女の言葉だけで陰が一段近づいた気がして、身体を強張らせてしまった。 「ぁ……ご、ゴメン」 「い、いいの。私を気遣って言ってくれたのだもの。でも、今更辞めるだなんて……」 聖母祭は明日だ。代役なんて立てようがない。 「……直前で病気や怪我に遭うこともあるんだし、代替案はきっと学院側で用意してあると思う。例えば――」 との言葉に、 教職員とか 八代先輩とか 「……教職員とか?」 とつい言葉がこぼれてしまう。 「……そう。緊急の措置を執っていない方がおかしい。きっと弾ける教諭の一人や二人はいる筈」 そうだよ、賢い――と気炎をあげる二人へ、私は今更辞めるという選択肢があるのかと、ちくりと胸を痛め考えた。 本当は弾きたかったろうに親身になって教えてくれた合唱部の先輩。 私が弾くことを愉しみにしてくれていた皆……。 (自分のわがままで辞めていいものなの……?) でも、 義母の陰がまた現れたら―― 「……八代先輩とか?」 「……確かに弾けそう」 「うんうん。だよね。燕尾服で颯爽と弾きこなしてそう!」 ――私としてもそれは同意だけれど。 「……でも、聖母祭はニカイアの会が動かしているわ。忙しくてそんな暇はないと思う」 「そうかなぁ。目立つの好きだしやってくれると思うけど……。とりあえず頼んでみるよっ」 「い、苺さん!」 「え、わわっ」 今にも駆け出しそうな彼女を抱きしめ―― 「大丈夫だから。駄目なら私から言うわ」 「う、うん。分かったよ、だから……」 「……ずるい。苺ねぇだけハグされて」 思い切り抱きついているのに気づき、私は慌てて苺さんから身体を離した。 「そこまで慌てなくてもいいんだけどね。わたしとしては役得だったしぃ」 それじゃ行こうか――と苺さんは再び私の腕を掴んだ。 「え、何処に?」 「……いやいや」 「クラスの皆心配してるんだよ。ほら蘇芳ちゃんが失敗したときに笑った子もいたからさ」 「だから早くクラスに戻って元気だって顔を見せてあげなきゃね」 「……それとりっちゃんさんとマユリさんも」 ――アミティエの二人、 クラスへ向かうことを考えるといまだに足は竦む。 でも、 「……そうね。ごめんなさいって謝らないとね」 私の腕を掴む苺さんの手が温かく、今ならきちんと前を向ける気がした……。 沙沙貴さんたちに後押しされ、私はクラスメイトへ―― 小御門先輩や八代先輩、合唱部の皆、 そして花菱立花さん、匂坂マユリさんとも向き合うことができた。 話すまでは恐ろしかったけれど、向き合い言葉を交わせば私が思っていたような責める言葉などなかった。 八重垣さんに促され、 沙沙貴さんが言った通りの結末。 しかし、物語はめでたしめでたしでは終わらない。 私は、彼女に呼び出されたという事実に―― 少しの期待とそれを超える不安定なぐらぐらとした気持ちを抱え、約束の場所へと向かったのだ。 温室では既に彼女が待ち構えていた。 いや、私の心証を外せば手持ちぶさたな態度で辺りを見回していた……というのが正しい。 だが、 (呼び出して何を……) 彼女には、立花さんと共に謝罪した。 その折りには、守ると言ったのに何もできなくてすまない――と言葉を掛けて貰った。なのに、 「――マユリさん」 私の呼びかけに気づき、何かを思案しているように緊張した面持ちで私の元へと駆け寄ってくる。 私は何を話したらいいのか躊躇い、彼女がしゃべり出すまで待つ。と、 「…………」 「…………」 将棋の千日手のようにお互いに見つめ合うだけで言葉は出てこなかった。目を合わせるだけで恥ずかしい。だけども目をそらすことはできない。 おかしな思いに、私はマユリさんの鳶色の瞳をただ見詰める。 「その……落ち着いた、かな?」 「え?」 「いや、ずっとクラスで所在なさげにしていたし……立花ともあまり話していなかったし……」 心配して呼び出したのだ、と分かった瞬間ほっと安堵したのと裏腹に、何故だか空気がしぼむような思いがした。 「……もう平気。ただ急に元気に振る舞ってもおかしいでしょ」 「……そう。あの、さっきも言ったけど守るって言っていたのに……庇えなくてごめん」 「弾けなくなった時、すぐに蘇芳さんの元へ行っておけば佳かった……」 小御門先輩が来てくれていたから、と伝えるとそれでも、と勢い込んで言う。 「――それでも直ぐ行くべきだったと思う。私は、私たちは蘇芳さんのことを……知らされていたわけだしね」 「……うん」 再び起こる沈黙。 夕日に照らされる彼女は、何かを待っているかのようにソワソワと落ち着きなく、周りを見、そして時折私を見詰めた。 「……明日の聖母祭、緊張するよね」 「ええ……」 「あ……私が言っているのは部の演し物やクラスのじゃなくて、合唱のことで……」 「ええ、分かっているわ」 拳を何度も握り直す彼女を見て、何かを切り出すのを躊躇っているように思えた。 所在なげにしている拳をぎゅっと握りしめ、あのさ……と口を開いた。 「……私の過去を話したことがあったよね。あの時、蘇芳さんは何も言わず受け入れてくれた」 「アミティエだから……私と似た過去を持っているから受け入れてくれたんだと思った」 そう、確かにそういう側面はあったかもしれない。 「この学院ではそれほどおかしくは捉えていないみたいだけど……」 「自分の性癖を抱えていた私にとっては……拒まないでいてくれたことが、本当に救いだったんだ」 「知ったら最後、分かり易い拒絶のされ方をしたって仕方がないと思っていたからさ」 「……それは私も同じだわ」 そう告げると陰のある微笑みを浮かべた。 「臑に傷ある身だから批判しないってことかな?でも……それでも私は嬉しかったんだ」 「今まで通り一緒の部屋で過ごし――ふふ、お風呂も一緒してくれたことに」 私が考えていた以上に、マユリさんは日常を送ることに臆病になっていたのだと識った。 私は、 「――私もそう。私の過去を知ったら、引いてしまったりしても仕方のないことなのに……」 「マユリさんは拒まずに守ると言ってくれた。本当に救われたの」 「ほ、本当……!?」 ぐっと身を乗り出す彼女へ、微笑み本当よと返す。マユリさんは陰のある表情から一転、童女のような笑顔に変わった。 私の好きな、春の日差しのような笑顔。 そして、私の瞳を凝っと見詰めると、髪をかき回し頬を真っ赤に染めた。 「前に……蘇芳さんが面白いって薦めてくれた映画、観てみたよ。喜劇王が盲目の女性を好きになって助けるって話……」 昔の映画だし、薦めても観てくれているとは思っていなかった私は目を丸めた。マユリさんは髪を掻くと、 「正直昔の映画だし、白黒で……無声映画だったからあんまり期待していなかったんだ」 「でも、主人公のお陰で目が見えるようになった女性が、最後に彼の手を取ったところで――」 「今まで世話をしてくれていたことに気づく場面では……泣いてしまったんだ」 「そもそも映画なんてあまり好きじゃなかった私が、何度となく笑って一回泣いた」 「何を言いたいかと言うと……ぅぅ、ごめん。何を話したいのかうまく言葉が出ないんだ。あのね、私はね……蘇芳さん」 顔中真っ赤に染めた彼女の瞳が、私を捉え、同じように顔を染めてしまう。 「蘇芳さんが好きなものをもっと知りたい――もっと貴女のことが識りたいんだ」 (私のことが……) 詰まらない人間だと、ようやく人らしく振る舞えるようになってきたと思っていた私へ投げかけられた言葉。 胸が高鳴り、頬が熱くなってゆくのを止められない。マユリさんは近づき、私の肩に手を置いた。 「――これは私の我が儘だ。私は、蘇芳さんの演奏で歌いたい」 「え?」 「蘇芳さんには酷な願いだと思う。でも蘇芳さんが弾いたピアノじゃなくちゃ駄目なんだ。私には蘇芳さんが必要なんだよ」 まるで告白のような台詞。 顔中を、耳まで真っ赤に染めた彼女の告白に―― 私は、私の中の不安の虫は消え去り、彼女の為に何かをしたい、してあげたいという気持ちが芽生えていた。 そして唇からは押されるように、分かったわ――と言葉が溢れ零れだしていた。 「本当? 本当に?」 頷く私、マユリさんは年相応の少女が見せるような朗らかな笑顔に変わった。 彼女に笑顔を与えられたという事が、胸がジンと震え、瞳が潤む程に嬉しい。 (この感情は――) 「蘇芳さん。聖母祭で――私たち二人の合奏が成功したら、聞いて欲しい話があるんだ」 見識が広がったわ――と言われ私は、 「ありがとうございました」 と、表面上は笑顔を作り、心では虚ろに頭を下げ連れだっていく上級生を眺めていた。 (マユリさんが言った言葉……) 聞いてほしい話とは何だろう、と幾度も自身に問いかけた言葉を呟いた。 昨日――温室にて、謝罪され、感謝され、もっと私のことを識りたいと告白を受けた。 それで――呼び出された用件は済んだと思っていたのだ。 しかし、彼女が最後に告げた“合奏が上手くいったのなら聞いて欲しい話がある”との台詞。 私は、その言葉は、 (小説や、映画なんかでは――) 一つの意味しかないように思える。 「……っ、何を意識しているのよ……」 私が望んでいる言葉とはきっと別の……望んでいる? 「何を意識しているって?」 「ぇ、わっ」 俯いていた私を覗き込み、意識ってなぁにと彼女――立花さんは言った。 「ぇ……ぁ、声に出ていた?」 「うん。あ、もしかして聞き間違えたかな? 意識じゃなくて、石――展示しているモニュメントのこと?」 クラスの演し物である、聖書展示の目玉として、ヒエログリフのように石壁に刻まれた聖書を模して作った展示品がある。 立花さんはそれと勘違いしたのだろう。 「そ、そうなの。さっき展示を見終わった上級生から、展示物について質問されたのだけど、調べてなくて……」 「分からないところがあったから、ダメだなぁって……」 「そうなの。何でも知っている蘇芳さんには珍しいわね」 「でも仕方ないわよ。午後にはリハーサルもあるし、聖母祭の合唱、責任重大だものね」 「ぅぅ……重大とか言わないで……」 「ふふ、ごめんごめん」 わざと〈戯〉《たわ》けて言ってくれている彼女の言葉は有り難いけれど、本番のことを思うとやはり胃が締め付けられる思いがする。 「お詫びにそろそろ交代でいいわよ。聖歌のこともあるけど、料理部にも顔を出さないと拙いんじゃない?」 「あ」 正直、忘れてしまっていた。 「ふふ、しょうがないわねぇ。他の人に呼び子代わって貰うから行ってきなさい」 「ありがとう立花さん」 いいええと間延びした声で答え――二人笑ってしまう。 (八重垣さんの言った通りだ) 笑ったことでグルグルと回っていた感情は少しだけすっきりとしていた。 「それじゃ顔を出してくるわね」 手を振り見送ってくれる立花さんへ私も手を振り返すと、料理部のある部活棟へと急いだ。 ――これは流石に、 「手伝いに来なかったのが悪く思えるわね……」 料理部の部室は満員御礼で、部員の皆は忙しく調理し、給仕として働いていた。廊下から並んでいる時点で察しはついていたけど……。 「おやおや、ようやく自分が料理部だと気づいたようだねぇ」 「……許されざるよ」 恨みの籠もる声に慌てて振り返ると、 給仕をしている二人が私へと恨みがましい目を向けていたのだ。 「ご、ごめんなさい二人とも……」 「遅いよぉ、忘れちゃったの? 全然こないんだもんな」 「……蘇芳ちゃんの友情はそんなものだったんだね」 口々に言う二人へ、両手を合わせ再度謝る。と、 「……ぷぷ」 「え?」 「ウソウソ、怒ってなんかないよ。合唱部のこともあるし皆分かってるよぉ」 「……そう。むしろクラスの手伝いも免除でいいくらいですよ」 怒ってないのだと知り胸をなで下ろす。$佳かった……と呟く私へ、きょろきょろと辺りを警戒し、苺さんは耳打ちした。 「……それでどう? 教室で、皆の前では弾くって言ってたけど、本当は嫌なんじゃないの?」 「それは……」 「……もし嫌なんだったら、映画の“卒業”みたいに連れ出してあげるよ?」 言葉の意味よりも、古い映画を苺さんが知っていることに驚き、私はえっと声をあげ屈んでいた身体を起こしてしまった。 「……どうしたの? 苺ねぇがセクハラ発言でもした?」 「林檎は姉をどういう目で見て……」 「ぁ、そうじゃなくて……心配してくれて嬉しいけれど、その前に随分古い映画を知っているんだなって……」 苺さんは目を細めしばった髪を揺らし、何を言っているの? と首を傾げた。 「だって蘇芳ちゃんが前に映画好きだって言ってたじゃん。友達の好きなものに興味を持つなんて当たり前だよ」 「……知っていれば話題も共有できる」 胸を張って言う二人へ、 (話題を共有……) 昨日、私が薦めたから映画を観たのだと言ったマユリさん。私と……もっと喋りたかったから? それはアミティエとしてだろうか。 それとも……。 「それで……どうする? もし嫌なら今から作戦会議しようか?」 大丈夫よ その時はお願いするね 真剣な表情でそう言ってくれる彼女につい笑みを零してしまった。 「お?」 「大丈夫よ。もう大丈夫。だってこんなに心配してくれる友達がいるんだもの」 「……本当に?」 「ええ。しっかり背を支えて貰っている気分だわ」 そっか……と俯き、頬を二、三度掻いた。そして、 「きゃっ」 「ふふ、よく言った蘇芳君。その言葉を待っていたのだよ」 「……今、思いついたことだよね?」 気づいたか、と抱きついたまま屈託のない笑顔を向ける彼女へ、私は頭を撫でたい衝動を無理矢理抑え込む。 「……蘇芳先生。そろそろ目の毒ですよ」 「え、ぁ……」 お客さんの目が注がれているのに気がつき―― 「ぅぅ……そろそろ行くね」 「……うむ。これを持ってゆくといい」 可愛らしいリボンで止められた……おそらくクッキーの包みを手渡された。 私は感謝の言葉を告げ、暖かい目で見守ってくれていた先輩部員へと目礼した。 「それじゃね。蘇芳ちゃん」 沙沙貴さんたちに見送られ、私は部室を後にしたのである……。 彼女の目から本気で言ってくれているのだと分かり、熱い何かがこみ上げてきた。 「……そうね。もしもの時はお願いするね」 「……よしきた」 「任せてくれたまえ。わたしとしては前の席にいるから、目で合図してくれればいいよ」 鼻息荒く言ってくれる苺さんの手を取り、ありがとうと伝えた。 「い、いんだよ、もう。だって友達じゃんか」 「そうね……」 「……シェイクハンドならわたし的にもしたいのですが」 言い、手を差し出すも、 「これ……」 「……料理部で作ったクッキーなのです。こっちは大丈夫だから、これを食べて英気を養うのですよ」 真面目に頷く林檎さんへ私もうんと頭を振った。 そして、忙しく働くも私たちを暖かく見守ってくれていた部員の皆へ目礼する。 「……行くといい」 沙沙貴さんたちに見送られ、私は料理部を後にしたのである……。 ここは大丈夫と送り出してくれたのは嬉しいけれど―― 友人は皆用事があるようで、一人で演し物を眺めてみても愉しくないし……。 そうだ。貰ったお菓子を食べようと東屋に足を向けた私は、 (あ……) 東屋で遠くの――花々を眺めている知人を見つけた。 私はそっと彼女へと近づき、 「八重垣さん」 「ん、ああ、お前かよ。どうした、クラスから戦力外通告でも受けたのか?」 「ふふ、違うわ。伴奏のことがあるから気を遣って貰っているのよ。八重垣さんは一人?」 「白羽と違って連れ立って歩くアミティエなんていないんでね。ん? ああ、今はお前もぼっちか」 恐らくひとりぼっちのことを略したのだろうと察し、そうねと笑んだ。 猫のような笑みは一気に詰まらなそうに引っ込んだ。 「あの……昨日はありがとう、背中を押してくれて」 「よせよ。別にお前を思ってなんかじゃない。一般論を語ったまでだ」 「ま、その様子じゃ女同士の友情も確かめられたみたいだし、予想は正解だったってわけだな」 「そう。全部八重垣さんの言った通りだわ」 何故だか八重垣さんはふん、と鼻を鳴らすと、そういえば……と言葉を吐く。 「そういえばさっき匂坂を観たぜ。本当に御輿に乗ってねり歩くんだな。先頭の生徒二人が花を撒いてさ、見物だったよ」 ――マユリさんの名前を聞き、私は静かに動揺する。 「そう……綺麗だった?」 「奇祭に目を奪われてたから、あんまり観てなかったけど……ベールみたいなのを被ってたな。まぁ綺麗だったんじゃねぇの」 「そう……」 マユリさんが聖母役として学院内を巡るルートと時間は頭には入っていた。でも、 (顔を合わせづらいし……) 合奏をマユリさんと共にするまで会うのは憚られる気がした。 「へぇぇぇ……」 「な、なに? どうかした?」 逡巡していた私の顔を八重垣さんは凝っと見詰め、ニタニタと口の端を歪める。 「いやぁ、わたしってそっち方面は疎くって、後からあいつとあいつが付き合ってたって聴いて驚く方なんだけど……」 「これだけ分かり易いと、さすがに分かっちゃうもんなんだなぁ」 「何を言って……」 「どうもおかしな態度だと思ってたけど、匂坂と何かあったんだろ?」 何かって……と呟く私へ、 「告白とかだよ。もしかしてもう付き合ってたりするわけ?」 そう……見えるの? そんな訳ないじゃない 頬が染まっていくのが分かる。 否定しようと、喉元まで言葉がこみ上げるも、 (八重垣さんの助言にいつも助けられていた) そう思い、赤くなったまま、 「そう……見えるの?」 と尋ねてみた。一転、 「……なんだよ。しらばっくれると思っていたのになぁ」 と呟き、頭の後ろで両腕を組んだ。 「いわゆる顔に書いてあるってやつだよ。でも、ま、今の感じだと付き合ってはいないみたいだな」 「……何でも分かってしまうのね」 「わたしからしたら、何でも解き明かすのはお前の方だと思ってたけどね」 「そ……っ」 かっと頬に、首筋に熱を感じ、私はワタワタと手を振って答えた。 「そんな訳……ないじゃない……!」 「ええ〜そんなわけないって顔してないぜ。顔だって真っ赤だし」 「あ、赤くなんかなってないわ」 「耳まで真っ赤じゃんか、ほら」 「ぅ……」 座ったままで手を伸ばし、私の頬を挟むように掴み、意地の悪い猫のように笑う。 「熱くて手が焼けちまいそうだ」 「もう」 意地悪く笑ってはいたけれど、何故だか振り払う気になれなかった私は暫くされるがままにさせておいた。 「ちぇ、もっと暴れてくれないと面白くないんだけどな」 ――からかいに飽きたのか、私の持っているクッキーに目を付けた八重垣さんは、ちょうど小腹が減ってきたんだ、と言った。 包み紙を開け、クッキーを二人無言のまま食べた。 美味しいはずのクッキーは味がしなかった。 私は八重垣さんのからかいに、ふわふわとした自分の気持ちが――輪郭を為しているのを感じていたからだ。 固まりつつある私の気持ち、 「……まぁ、何だ」 「……え?」 「嫌いなピアノの演奏前だってのに気負いがなくて拍子抜けしたよ。ガクガク震えていたら笑ってやろうと思ってたのにな」 「……えりかさん」 「だから気安くするなっての。他のことで頭がいっぱいみたいだし解決したんだろうさ。なぁ白羽」 呼びかけながらも遠くを眺めている彼女の横顔を見遣る、と、 「適当にやれよ。失敗したって命取られるわけじゃねぇ。見に行ってやるよ」 クッキーを頬張る頬を仄かに赤く染め、私の書痴仲間はそう言ってくれたのだ。 聖母祭は夕刻を迎え―― マリア様を讃えるお祭りは最後の時を迎えようとしていた。 プログラム最後にある、合唱部による聖歌と、 聖母役である生徒の独唱。 それをもって聖母祭は終わりを迎えるのだ。 (本当に来てくれたのね) 原則として全員参加とはいえ、場所取りは各自自由となっている。 沙沙貴さんたちは最前列に座り、そして壁を背にするように車椅子の書痴仲間が、合唱部の皆と行く私を見詰めていた。 厳かな茜色の幻想が降り注ぐ中、私たちは観衆へと向き直り―― 「…………」 小御門先輩が一歩前に進むと、無言のまま礼をした。 ――これから始まるんだ。 瞳は、私たちを――合唱部の皆を見つめる観衆。 そして、ひっそりと佇むピアノに注がれた。 これ以上ないと言うくらい緊張している筈の自分。 だけれど、不思議と何の気負いもなくこの場に立ち、嫌悪感を抱いている筈のピアノを受け入れられている。 (……立花さん、苺さん……林檎さん、八重垣さん……) 皆の励ましが、言葉が支えてくれているのだ。 「…………」 無言のまま指揮棒を構える彼女に従い、合唱部の皆は定位置へ。私はピアノの蓋を開け、椅子に腰掛けた。 「……大丈夫、やれるわ」 呟き、 指揮棒が舞い、私の聖母祭が始まった。 五曲の聖歌を奏で終え―― 荘厳とした聖堂内に熱気が生まれていた。 小御門先輩が指揮する合唱部の皆は―― 練習でできた最高の調べの更にその上を行き、私のつたない伴奏も誤ることなく弾き終えることができた。 小御門先輩は私へと視線を送り微笑む。 (心配を掛けてしまっていたものね……) 本番で誤ることなく済んだことに対する笑みだろう。 しかし、 「……ここからが正念場だわ」 緊張もなく集中することができた舞台。 でも、此処からは―― 扉が開く音が聖堂内に響き、私の心臓もごとりと、重い音を奏でた。 自然と椅子から腰が浮き、立つと視線は中央へと注がれる。 ――綺麗、 “綺麗だったんじゃねぇの?”と八重垣さんが告げた言葉に憤りを覚える程に、 静々と行く彼女は――正しく、幻想的でまるで聖母そのものに視えた。 息を呑むほどに。 マユリさんは衆目を浴びながら、合唱部の皆の前に来ると観衆に身体を向けた。 それを機に小御門先輩は――合唱部の皆は脇にはけ、奏でる場は私とマユリさんの場と為った。 彼女は目を閉じ、両手を合わせる。 歌い出しの合図だと、私は――酷く狼狽した気持ちのまま鍵盤へと向かった。 彼女の歌声は儚くも力強く、皆を揺さぶる 彼女に引きずられるように指を鍵盤の上へと踊らせた 『これなら――』 譜面通りに正しく音は奏でられる そう――義母に教わったように正しく、 「っ……!」 ズル……と重く湿った音をたて、ピアノへと這い近づいてくるのを感じる そして私を恨みがましい目で凝っと見詰めるのだ 大丈夫だと意識してしまうことが、誤りだった 本当に意識していないのなら、想いなんて浮かんではこない 『集中……集中を……』 背中にじっとりと厭な汗を掻き、私は―― “お前は失敗作だ” 耳元でそう義母へ囁かれ、手は止まり、 彼女の歌も止まってしまう。 ――ああ、これで、もう、 “私たち二人の合奏が成功したら、聞いて欲しい話があるんだ” 彼女からの言葉は永遠に消えてしまった。 「……私の所為で」 シンと静まり返った聖堂。 演出だとでも思っているのか、騒ぎ出す生徒もいない。 否、 (立花さん、沙沙貴さん……八重垣さん……) 三人の友は、私を気ぜわしげに見詰めていた。$声を掛けるか……此方へ来るのを躊躇っている風に。 (私は……あの人が言っていたように……) 座したまま、ぎゅっと目をつぶる。 このまま消え去ってしまいたい。真実そう思った。 「……蘇芳」 耳元で囁かれる声音。 頭には撫でられる温かな感触。 「マ……ユリ……さん……?」 「驚いた顔をして――助けに来るって言っただろう?」 「私は……助けて貰える価値なんて、ない……また失敗して……」 「……失敗じゃない。まだ巻き返せるさ。誰一人として騒いだりしていない。そうだろ?」 耳を澄まさなくともしわぶき一つ聴こえない。 聞こえるのはマユリさんの声だけだ。 「……でも……私はダメなの……義母にも失敗作だって……。あの時だって……」 脳裏に浮かぶは最初で最後の発表会。 嘲笑が包んだ会場。 「……馬鹿だなぁ、蘇芳は。いいかい、本当に駄目なやつに友達なんて作れるもんか」 「見てごらん、今すぐ飛び出したいって顔の友人が何人もいるじゃないか」 「蘇芳は愛されているんだ。愛されているやつが失敗作な訳がない」 「……マユリ、さん」 「……怖じ気づくこともある。不安になることもあるさ。私たちは十四の小娘なんだから」 「ねぇ、蘇芳。怖いのなら……私を見て、私だけを見て演奏するんだ」 ――なら、怖くない。 マユリさんはそう言うと、私の頬を優しく撫で、自分の戻るべき場所へと足を向けた。 「……マユリさんだけを、見て」 目を閉じ、まるで何かを願い、請うかのように両手を合わせている。 私は、彼女の姿を目に焼き付け、鍵盤を叩いた。 ――静かに、そして徐々に響き渡らせるように、トータプルクラは奏でられる 『透明な彼女の声――』 聖母マリアを讃える歌は、聖堂内へしみ入るように広がり観衆の耳に届く 『私が好きな彼女の声――』 春の日だまりのような歌声は確かに皆の心を打ち、 『彼女を視、彼女の声を聴いていると』 私の心は揺さぶられる 『身体が……心が軽くなってゆく』 ピアノを弾くたびに感じていた焦燥は消え失せ―― 『もう、義母に怯えながら弾かなくてもいいんだ』 ただ、私と鍵盤、そして、 『義母を想わずに弾ける演奏がこんなにも愉しいだなんて……!』 匂坂マユリしか存在しない 『ああ、そうだ。私は……』 音で、私と彼女は繋がっている 「……マユリさんの事が好きなんだ」 ――繋がっているんだ 最後の一音が聖堂内に響き、ゆっくりと吸い込まれるように消えていき―― 万雷の拍手と歓声に包まれた。 「……終わった」 拍手の渦に包まれながら、私は吐息と共に言葉を漏らした。 観衆を見回すと、立花さんの紅潮した頬が、沙沙貴さんたちの大きく手を振る姿が、 八代先輩の拍手する姿が、八重垣さんの年相応の朗らかな笑顔が私に向けられていて、かぁっと全身が熱く痺れた。 ――蘇芳、 座したままの私へ呼びかけられる声、 今まで美しく歌っていた声音だ。 立ち上がる私へ、 「最高の演奏だった」 マリア様の衣装――ローブの下の彼女は、春の日だまりのような笑顔を向け、私へ手を差しのべていたのだ……。 今日の興奮が嘘のように静まり返った聖堂。 燭台の灯りだけが空洞のような聖堂内を照らし、沈黙こそがこの世界における正しい規律だと語っているよう。 夜の静寂に寄り添うようにして彼女を待っていた。 (やっぱり……私が失敗したから……) “私たち二人の合奏が成功したら、聞いて欲しい話があるんだ” そう言った彼女。 でも、 「……一度目、弾き損じてしまった」 自分を憐れむ声は、夜気にしみ込み、私の心を重くさせる。 約束の十二時、時間を過ぎてもこないことに……。 ――マユリさん、 思い浮かべるは、聖母姿の彼女。 透き通るような声、 慈愛に満ちたその歌声は観衆を魅了した。 春の日だまりのような彼女。 クラスだけでなく今や学院の皆からの憧れに―― そんな、 そんな彼女が私へ何を伝えるというのだろうか、いや―― 失敗してしまった私へ告げる言葉なんてない。 だから時間を過ぎてもやってこないのだ。 帰ろう、 ぽつりと呟かれた言の葉。 その言葉は静まった聖堂内に響き、私の心を重く閉ざした……。 一度、音を立てるという禁忌を破ったためか、すぐさま新しい音が規律を破る。 静寂が扉を開く音をさらに大きくさせ、私の鼓動の音も大きく高鳴らせる。 「……マユリさん」 彼女は私を見つけると、微かな笑みを零し、夜気を裂きながらゆっくりと歩み、 私へと対面した。 「……約束を違えたのに」 「――そうだね。でも、守るとは言っていない」 八重垣さんのような言い回しに、クスリと笑みを零した。 佳かった……とマユリさんは呟き、 「私は――来てくれていないかと思っていた。蘇芳さんはその辺、厳しそうだから」 笑う私へ、彼女も微笑みで返す。 蝋燭の火で照らされた彼女は、笑みをゆっくりと崩し、真摯な……どこか悲しげな表情に変わっていった。 その移り変わりが私の鼓動を激しく煩くさせる。 「……蘇芳さんに聴いて欲しいと言った話をする前に、まず伝えなくちゃいけないことがある」 「……はい」 「私が好きなのは――立花だ。だからアミティエとして一緒になれたときすごく嬉しかった」 ――やめて、 「自分に佳くしてくれたお手伝いさんと容姿――というより性格が、雰囲気が似ていたんだね。だから惹かれた」 やっぱりマユリさんは―― 「でも似ているから惹かれたというのは――代替行為だったんだ」 「え……?」 「赤ん坊が乳房を取り上げられて……代わりにおしゃぶりを見つけたようなものさ」 「似たもので間に合わせただけ。私は……ずっと陰を追っていたんだ」 ああ、立花が魅力的じゃないって意味じゃないけどね、と八代先輩のようなシニカルな笑みを浮かべた。 そして――笑みは崩れ、やはり悲壮な表情に戻る。 「こんな私が――自分の感情を、佳く分かっていない私が言うのはおかしいと思うかも知れないけど……」 「蘇芳さんに告げたい事は……」 泣きそうな顔で見上げる彼女へ、私は例えようもないほどの胸の震えを――感情の溢れだす音を、実感を得た。 ――この人を救いたい。 「その先は私に言わせて……」 悲しげな瞳は潤み、真っ直ぐに縋るように私へと注がれる。 私は、 「――私は、匂坂マユリが好きです。$アミティエとしてでなく、友人としてでない、貴女が好き」 「う、嘘……」 「嘘じゃない。だって胸が……」 彼女の手を取り、私の胸へ、 「こんなに高鳴っているでしょう」 そう言って心から微笑んだ。$マユリさんは嫌々をするように首を小さく振り、 「だって私は……すぐ心変わりをするような……」 「移ろわないなんてものはない。立花さんを好きだったマユリさんの心も本当。お手伝いさんを好きになったことも本当」 「私を好きでいてくれていることも……本当なのでしょう?」 「ぅ……ぅぅ……」 嗚咽を漏らさぬように唇を噛みしめている彼女に、私は――傷ついている幼い彼女の幻を見た。 自分を傷つけていた彼女。私と同じ。 「祖父が昔言っていたわ。人は多くを幸せにはできない。望み過ぎるのは分不相応だって」 「――確かな幸せは自分の手の届く範囲でしか得られないって」 涙を頬に一滴零すマユリさんを抱き寄せ、強く彼女を抱きしめた。 「私の幸せは貴女なの。$だから私を好きな貴女を許してあげて」 私の胸で泣きじゃくる彼女。 涙を胸に感じながら、私は何時までも何時までも、鳶色の髪を撫でていた……。 初めてこの学院の図書室に来たときの事を思い出していた。 少しかび臭い古書独特の匂い、本の傷みを軽減するために仄かに暗くした落ち着ける明度。 渋みがありながら、重厚な木材で作られた本棚たち……。 目を奪われ、声を上げてしまう程の……私の理想の図書室が其処にあったのだと思えた。 立花さんからこの図書室を案内され、そろそろ行こう、との言葉に本気で落胆した。 玩具を取り上げられたような、愉しい夢から覚めてしまった時のような気持ち。 暗夜の自室を抜け出して、頬を染め私の元へとやってくる彼女を目にすると、 夢の続きのよう―― 現実ではなく、まるで自分が思い描く夢のようだと思った。 「――蘇芳」 呼びかける彼女へ、私は手を差し出すと―― 躊躇うことなく互いに指を絡めた。 “四月” ――出会い、 私はこの学院で新しい出会いを得られるだろうか 友人を作れたことのない、私は―― ここで、 “アミティエ”を 否、 「アミティエでないマユリさんを……」 「“さん”付けはいらない。マユリでいい。蘇芳」 絡めた指が手の甲をくすぐる 誰もいない、夜の中、私の夢 見つめ合う瞳の中に、光を見つけると―― まるで、そうすることが自然だというかのように交わされた絆 王女のような振る舞いで躊躇なく私を奪い スポイルされた私の心までも奪った 確かに感じる彼女の体温 彼女は私を欲しているとも 私から奪って欲しいのだと、心待ちにしているようにも思えた 言葉はいらない 互いの出逢いを悦び 生涯を通しての相手と為ったことを識る 見た目は違えど 鏡あわせのような私たち 鏡に映った歪な心は同じ像を映していた 蒼醒めた月だけが私たちを覗き 青く深い海のような図書室を照らす ふと 「悪魔と青く深い海の間で」という英語のことわざを思い浮かべ 私自身が分水嶺にいるのだと識った 後ろには悪魔、前には青く深い海がという状況―― “後がない、切羽詰まった状況”に使われる表現 どちらを選んでも救いはない 私たちの行為は神に叛するものだろう だけれど、 優しい悪魔の囁きと、絶望の海への選択 救いのない選択を迫られている今こそ愛おしいと思えた 見詰める瞳を通して交わされる感情、想い 彼女とならば同じ季節を 幾度も 幾度も 幾度も 巡るのも――怖ろしくはない “巡る季節” 春で出逢い 夏で結ばれ 秋で成熟し 冬で融け合う 彼女と過ごす季節がどれほど心愉しいか 囁かれ、請われ、愛おしさに私たちは再び互いを重ねた 初めて交わした時よりも何倍も愛おしく想える 互いに互いを受け入れる喜び これからも続くであろう充たされた感情 思いが通じ合うということが、こんなにも甘美な毒だなんて―― 私は自分が変われないのだと思っていた 夏目漱石全集の『坑夫』という作品の主人公のように 住む町を変え、仕事を変え、人と会い、労苦を覚える しかし青年の精神性は始まりと同じで変わることはない 変わることのできない自分 でも―― 彼女は私が以前とは変わりつつあると言った しかし、それは“仮初め”だ 私の精神性は何ら変わっていないと思う いや―― 私は変わりつつあるのだろうか、この花に囲まれた学院で 「――私は蘇芳のすべてが欲しい」 「私もマユリのすべてを識りたい」 真実はいつも残酷だと言う ならば嘘は優しいのだろう いつか読んだ文章にあった言葉、次は何と続くのだったか いや、止そう 私はこの一時が喩え背徳だったとしても止められないと感じていた 「――マユリ」 名を呼ぶと彼女は微笑む 彼女の手を握り、見詰める彼女へ、 私はそっと己を重ねた “私たち二人の合奏が成功したら、聞いて欲しい話があるんだ” その言葉の真意はもう分からない。 いつもと変わらぬ私たちの日常。 立花さんがいて、苺さんが、林檎さんもいる。 そして――あの人もいる。 それだけで私の心は充たされているのだ。 伝えていない私の気持ち。 きっとこの零れだしそうな、柔らかな疼痛がやむことはないだろう。 ――でも、 「蘇芳さん」 私に向かって呼びかけてくれる。 今はそれだけで佳い。 春の日だまりのような笑顔に私は、無理に笑顔を作り、 彼女の名を大切に呼んだのだ―― 聖母祭が終わり―― 私を取り巻く環境は徐々に変わりつつあった。 今まで話しかけられることが稀だったクラスメイトからも声をかけられ、上級生からも同様に呼び掛けられたりした。 どうやら取っつきにくく思われていた私は聖母祭の伴奏者という肩書きを得たことで、少しは周りに認められてきたのだと思う。 いや、一番変化のあった、否、無かったのは―― 「どうしたの、外ばかり見て。誰かいるの?」 彼女――立花さんは外を眺めていた私の隣に立ち、目を細め凝っと雨で濡れた芝生を睨んだ。 「誰もいないじゃない」 「いえ、今朝方雨が降ったでしょう。だからまた小雨が降ってないのかなって」 そうかぁと間延びした声をあげ、穏やかな顔つきで青々と濡れた木々を眺める。 ――変化があってもおかしくない彼女、 花菱立花さんには、私と匂坂マユリが交際を始めたことを、聖母祭の次の日に伝えていた。 謝らなくては為らないと心に思った私と、マユリが謝罪するも、気にした様子はなくただ――分かったわと微笑み頷いた。 そして、彼女の方から“交際を始めたことを少しの間伏せましょう”と提案された。 少し前に立花さんと私の交際宣言があったばかりの今、大して間を置かないうちに交際したのだと明かしてしまっては―― 邪推する者も出るだろうという、納得できる答えだった。 「……そろそろ梅雨に入る季節なのよね」 「ええ……」 箝口令を敷き、私たちに協力してくれた彼女。本当であれば嫉妬し、誤った方向へ導くのも可能なのにそれをしない。 私は立花さんというアミティエと……親友と出会えたことに感謝していた。 「次の休みくらいには梅雨に入りそうだし、マユリさんとデートするにしてもお出かけできないから大変よね」 「り、立花さん……!?」 「え、ああ、平気よ。授業終わりでぼんやりしていたのは蘇芳さんくらいのものよ。皆は着替えにいっているし」 「デートすると言っても、お店なんかないし、学院では人の目があるから、ハイキングくらいしかできないわよねぇ」 「そ、そうね……」 立花さんの明け透けな言葉も赤面ものだが、マユリと森林浴に行くと考えただけで胸からジワジワと熱がこみ上げてくる。 「ふふ、蘇芳さん可愛いわぁ。初々しくて」 「も、もう。冗談はやめて……」 頬を染め抗議する私へ笑う立花さん。と、 「此処にいたのか、早く着替えないと次の授業が始まってしまうよ」 「ごめんごめん。でもマユリさんもまだ着替えていないじゃない」 「更衣室で待っていたけど、二人が来なかったから様子を見に来たんだよ。で、どうしたの?」 「浮気をしてたのよね、蘇芳さん」 慌てる私へ、マユリは苦笑いを浮かべ、 「冗談はいいとして、そろそろ……」 「梅雨時だけどデートするならハイキングがいいねって話してたの」 「ハイキング?」 「学院でデートは人の目があるし、自室でされたらわたしが辛いでしょ」 思わずひやりとする冗句だが、マユリはやれやれと手を広げ、 「みっともないカップルには為りたくないからね。それは気をつけるよ。でも、そうか――森林浴はいいね」 顎に手をやりながら真剣に熟考する。 ご馳走様、と手を振って立ち去る立花さんを見送りながら、私も二人で森林浴に行くのを考え……。 ――そうだ。以前小御門先輩から聞いた菜の花畑に言ってみたらどうだろうかと考えていた。 ――菜の花畑? と、私が持ってきたクッキーを摘みながらマユリは言った。 「そう。以前、小御門先輩が話してくれたことがあるの。森の奥に綺麗な菜の花畑があるって」 私が作ったクッキーを美味しそうに頬張りながら、それは見てみたいな、とマユリは言った。 「小御門先輩の情報なら間違いないだろうし、行ってみたいな」 「でしょ。それなら次の休みに……」 「……でも、話の腰を折って悪いんだけど、菜の花畑の旬ってもう過ぎてるんじゃないかな?」 「あんまり花には詳しくないけど、菜の花って四月頃に咲いているイメージがあるんだけど」 彼女に言われ、肝心なことに気づかなかった私はさっと頬を赤らめた。 「そうか……そうね。時期は過ぎているものね」 「あ、で、でも花が咲いていなくても見渡す限りの草原っていうのは見てみたいな」 「それに二人で森林浴なんてすごくいいアイデアだと思う」 二人でのデートを喜ばれ私の胸は沸き立った。 アミティエと――マユリと一緒に……。 マユリが手を重ねてくる。 「まるで密会デートみたいで、わくわくするね」 「あら、今はそうじゃないっていうの?」 違いない、と笑う彼女。 そう、いつもはお茶会で賑わっている東屋だけど、今は私とマユリだけしかいない。 気分だけでも味わおうと、午前中の時間を使ってお菓子を作ってきたのだけど。 遅れてごめんなさいと言うと、いいさ、とマユリは笑った。 「遅れてくれたお陰で、少し面白い細工もできたしね」 「細工って?」 「それは内緒。そのうち教えるさ」 朗らかに笑う彼女。春の日差しのような―― 私は、胸が詰まり、 「蘇芳、ん……っ」 あの日からお預けだったものを奪い、私の中は充足していった。 彼女をまた一つ識ったかのように。 「ん……っ」 お返しのように彼女からも求めてくる、 私は必要とされていることに、 求められているということに充たされていった。 指はいつしか絡められ、まるで気持ちを交換しているかのように、強く、強く握られる。 彼女の首元からは女性を感じさせられる匂いがした。 そして、マユリの言葉が睦言のように囁かれる。 「――ええ、約束よ」 私はそう返答し、彼女との幸せな一時に酔い痴れた……。 聖母祭が終わり―― 私を取り巻く環境は少しずつではあるが変化がみられた。 話しかけられるなんて事はまずなかったクラスメイトらとも多少の世間話をし、面識のない上級生からも声を掛けられる程に。 どうやら聖母祭で伴奏者を引き受けたことが大きく、失敗も含めて私の人となりを知る事になったのか周りに認められてきたようにも思う。 そして、取り巻く環境の中、もっとも変化があってしかるべきだった人は―― 「蘇芳さん、そこのお皿取って貰える?」 出逢ったばかりの頃の初々しさはなく、慣れた手つきで指示を飛ばす彼女。 「はい、ありがとう」 立花さんは小皿を受け取り花のように微笑む。 そう、聖母祭の後もっとも変化がなかったのは、彼女――花菱立花さんだ。 告白の夜の後、すぐに立花さんへ、マユリとの交際を伝えた。 本当ならば……当然気を悪くする話だ。しかし、立花さんは私たちの言葉を受け止め―― “それじゃ、しばらくは交際しているのは隠さないとね”と私たちのために知恵を絞ってくれた。 交際を隠すのは意地悪などでなく、立花さんと交際宣言をした私が、すぐまたマユリと付き合うと知られた場合……、 余計な詮索を生んでしまうかもしれないという判断から。 「蘇芳さんは、苺が好きなのよね。いっぱい入っている方を取り分けるわね」 料理部にて作ったシンプルなイチゴのケーキを包丁で切り分けながら言う。 わだかまりなく私を――私たちを受け入れてくれる立花さんというアミティエに……いや、親友に会えたことに感謝していた。 「これはマユリさんの分……あれ? お菓子作りが得意だって息巻いていたのに、どこに逃亡したの?」 「マユリさんは沙沙貴さんたちの指導に当たっているのよ。あっちは確かパウンドケーキだったかしら」 私がそう伝えると、パウンドケーキ! と言い珍しく意地の悪い顔をした。 「それじゃ沙沙貴さんたちが文句を言い出しそうねぇ」 「え、何で?」 「パウンドケーキって何だかケーキって感じがしないじゃない」 「何だろう……密度の濃いカステラとか、パンって言われても頷ける感じだし」 確かにと思い騒ぐ苺さんたちを思い浮かべ、二人顔を見合わせ笑ってしまう。 (でも本当に上手になったなぁ) 沙沙貴さんたちに煽られたからとはいえ、立花さんが料理部に顔を出すようになり、その付き合いという形でマユリも。 どちらもお菓子作りの時だけのスポット参戦という形だけれど、華のあるアミティエ二人は受けがよく、すぐに料理部の皆と馴染んでいた。 (マユリは元々、立花さんはお茶会で出す紅茶と合うお菓子の研究だったっけ) 「あら、そんなにケーキをじっと見て。もう食べたい?」 「あ、そうじゃなくて、上手にできたなぁって」 「ふふ、ありがとう」 初めはミスの連続で、苺さんたちにからかわれていた昔を知っている者としては驚くほどの腕のあげようだ。 小皿にとりわけ、紅茶を用意する立花さん。私はきびきびと気持ちよく用意する彼女を見ていると、 「……何だか嫉妬してしまう視線だね」 と、大皿を手にしたマユリが、八代先輩のようなシニカルな笑みを浮かべ言う。 「こんなところで痴話喧嘩はやめてよね」 思わずひやりとする会話だけれど、アミティエとして仲が良いと思われている為か、他の部員からは微笑ましく見守られている。 「あの、あっちで沙沙貴さんたちと食べないの?」 「美味しそうなフルーツケーキを作っている班があったからそっちで食べるんだってさ。だから私はこっち」 そう言って三分の一ほどカットしてあるパウンドケーキの載った大皿を台の上に置き、手早く私たちの分を取り分けた。 「こっちはイチゴケーキか、基本だね」 「あら文句があるなら沙沙貴さんたちとご一緒しても佳いのよ」 「そんなに虐めないでくれよ。私としてはシンプルなやつが一番好きなんだ。生クリームは人が作り出した物の中でも一番の傑作だろ」 異議なし、と唱和し紅茶を淹れる。$匂い立つ茶葉の香りに顔が緩んでしまった。 「さぁ、頂きましょう」 立花さんの言葉と共に取り分けられたケーキへと手を付ける。 生クリームを裂き、スポンジへ。カットされた苺をうまくフォークへと乗せぱくり。 ――至福の瞬間に浸り、美味しいと言葉がつい口の端から漏れてしまう。 「佳かった。スポンジを焼きすぎちゃったかと思ったけど、ちょうどいいくらいよね」 「ええ。とっても美味しいわ」 「イチゴケーキだけじゃなくてパウンドケーキも食べてみてよ」 マユリに薦められるも、立花さんが言ったようにパウンドケーキはケーキにあらず。しばらくは生クリームを堪能したい。 「どうやらお菓子作りという個性はわたしの方が頂いてしまったようねぇ」 「そんな……。選択ミスか……林檎さんが食べたいってお願いしてきたから作ったんだけどね」 「ふふ、こっちもいけるわよ。只のパウンドケーキかと思ったらバナナを使ったものみたいだし」 「バナナを潰して混ぜ込んであるんだ。こうするとしっとり感が増すんだよ」 彼女の解説でくだんのパウンドケーキが気になり、フォークでカットし食べてみると……。 確かに以前お店で食べたものよりも舌触りがしっとりとし、バナナの香りが鼻腔をくすぐる。 甘みが強いのはきっとハチミツをいれているのだろう。私がそう尋ねると、 「よく気づいたね。ハチミツを入れるとしっとり感が増すんだ。焦げやすくなるから少し注意が必要だけどね」 そうなんだ、と感心し頷くと、はぁ……と立花さんはため息をついた。 「どうしたの?」 「パウンドケーキを見ていたらお茶会がしたくなって……。紅茶と合うのが分かったから、皆へご馳走したくなったのよ」 「梅雨入りに……なったのかな? 最近雨ばかりだし、お茶会開けないものね」 花々に囲まれた東屋には天蓋は当然ついてはいるけれど、雨の中では風情がないと、ここ最近開かれていないのだ。 「夜のお茶会はやってるじゃないか。うちの部屋で」 「それとこれとは別よ。趣が違うもの。やっぱり風や自然を感じながらお茶を傾けないと。雨がやんだら外でしたいわぁ」 恨みがましい目で外を眺める。 雨はやみ雲間から光は射しているものの、厚い雲が其処此処にあり優雅にお茶会とはいかない。 凝っと外を眺め、パウンドケーキを食していた立花さんは、そうだと瞳を輝かせた。 「天気が良くなったら、今度クラスの皆でハイキングにいかない? 見渡す限りの草原でするお茶会なんて素敵じゃない!」 そう気炎を上げたのである。 「草原でのお茶会ねぇ……」 ハイキングよ、と私が切り出すとポカンとした表情のマユリが聞き返した。 「だからハイキング。やっと思い出したの」 図書委員の仕事中、様子を見に来た彼女とのお喋りの中。昨日立花さんとの話でのど元に引っかかっていた疑問が解けたのだ。 「それって昨日の料理部で立花が話していたお茶会のこと?」 「そう。だけれどお茶会が主題じゃなくて、ハイキングが重要なの」 「以前、小御門先輩にこの学院の側にハイキングするにはいい場所があるって聞いたことがあるの」 「へぇ。確かにオリエンテーリングしても大丈夫なくらいは茂っているけどさ」 それが何、と言わんばかりの顔つきに私は少しだけ眉根を寄せてしまう。 「森を少し行った先に菜の花畑があるんだって。だから……」 ああ……! とやっと得心したのか手をパンと打つ。 「立花が主催しようとしていた場所を其処にしようって教えてあげるってことだね」 「ち・が・い・ま・す! その、折角だから……二人でデートに行かないかって……」 勢い込んで言ってみたのはいいけれど、口に出した途端恥ずかしさで首筋から頬から熱を感じてしまう。 マユリは目をぱちくりとさせるも、少しだけ俯き、 「そう……か、デートね」 と呟いた。 「いや……かな?」 「ち、違う! そうじゃなくて、蘇芳からデートのことを切り出してくるなんて……意外で……」 ――確かに、そう。 自分で提案しておいて何だけれど、今すごく照れた恥ずかしい顔をしていると思う。 「それで――どう?」 「う、うん。いいと思う。いや、すごく佳いよ。でも……」 「え……」 「あ、断るんじゃなくて……菜の花畑って言ってたでしょ?」 「あれって四月頃が見頃なような気がして、もう花は落ちてしまってるんじゃないかな?」 「……ぁ」 言われ当たり前の事に、羞恥から今以上に赤面してしまった。 「へ、平気だよ。別に菜の花が見られなかったとしても、森に二人で行く――森林浴を楽しめるんだし」 「二人きりで草原に寝転んだりしたら充分最高な気分だしね」 「うん……」 頷くも舞い上がっていた自分が恥ずかしく目を視ることができない。 でも、意外だったよ――と私の提案を褒めるマユリへ、だって……と呟く。 「交際のことは内緒だから……人目を避けてデートなんてできないし……」 そう、時たま東屋で二人きりで語らうのが関の山なのだ。それに、何かコソコソと何かをしていて、散漫だったし……。 私の言葉に驚いた顔を見せるも、すぐに穏やかな顔に戻り、そうだねと呟いた。 「学院は人の目があるし、外に行くしかないものね。ふふ、行こうよ。その菜の花畑へ。きっとすごく愉しい」 「ええ」 私は頷き、彼女の手を取った。 仄かに伝わる体温、もっとマユリを識りたいという気持ちは高まってゆく。 次の日曜日、晴れたらいいのにと、ようやく晴れ間を見せ始めた空を見上げた……。 もしかして二人、お付き合いしているの、と小御門先輩が尋ねてきた。 邪気なく吐かれた言葉だろうが、私には死刑宣告の通達のように聞こえた。 一瞬にして場は静まり、私を――私とマユリを見詰める皆の目。 (気をつけていた筈なのに……!) 私は自分の間抜けさに呆れ、私を見詰める目……。 沙沙貴さんや八重垣さん……クラスメイトの好奇の目にさらされ―― 私は、何故こんなことになったのか、このお茶会が開かれた経緯を思い返していた……。 珍しく一日晴天と為った梅雨の合間―― 久しぶりにお茶会が開ける運びとなり、喜色満面立花さんがご馳走を振る舞う運びとなったのだ。 勿論、茶葉以外のお菓子類は私やマユリ、他のクラスメイトの有志からも提供された。 舞台と為った東屋はちょっとしたケーキバイキングの様相を呈していた。 そして今回はスペシャルゲストとして―― 「今日はお招き頂いて本当に嬉しいわぁ」 「花菱君のお茶会は有名だからね。参加できて光栄だよ」 お世話になったお礼としてお二方を招いたのだ。 黄色い歓声が響く中、立花さんが音頭を取り、賑やかにお茶会が始まったのである。 「食べてる? 蘇芳ちゃん」 「……このシフォンケーキ、んむ……なかなかいけますね」 「それは立花さんが作ったケーキね。紅茶と佳く合うからって」 「……このケーキからも紅茶の匂いがしますよ?」 「紅茶の茶葉を入れて香り付けしてあるのよ。添えてあったホイップクリームと一緒に食べるとまた別の味がして美味しいでしょ?」 こくこくと頷く林檎さん。子供のような仕草に癒やされる。苺さんは取り皿いっぱいに乗せたケーキを頬張りながら、 「……でも珍しいよね。あのニカイアの会の会長と副会長がお呼ばれにくるなんて」 「そうなの?」 「何でも特定の集まりに出ると、贔屓になってしまうから、あんまり顔を出さないって聞いていたからさ」 なるほどと思う。人気者がゆえの悩みというやつだろう。 誰々の集まりに出たのに、誰々のお呼ばれだと来ない……という流れのしがらみは、以前通った学校でも見てきたことだからだ。 「別段そういう考えはないんだがね」 話していた当の八代先輩は私のフォークからモンブランを奪うと無情にも口に放り込んだ。 「ああ……! それは作るのが面倒で数が少ないのに……!」 「ふふ、この世は弱肉強食だよ。油断をしていた君が悪いのさ」 「……こんなどうでもいい場面で格好いい台詞を吐かなくても」 美味いとにんまりと笑みを作り紅茶を飲み干す。相変わらず中性的な人だ。 「あの……八代先輩、さっきそういう考えじゃないって言ってたのって本当なんですか?」 「ん? ああ、集まりのことか。意図して顔をださないというのは違うね。顔を出したくなるような集まりがないだけさ」 「……何という俺様発言」 「まぁネリーの奴はそういうつもりもあるのかもな。只、今日の此は……」 私と、マユリ、そして立花さんを見遣り言う。 「聖母祭で骨を折ってくれたから顔を出す大義名分ができたって所じゃないかな」 「おい、ネリー! こっちのベイクドチーズケーキもなかなかだぞッ」 「ほんとう?」 級友と会話をしていた小御門先輩は誘蛾灯に誘い出される羽虫のように、ふらふらと此方へ。 「あらあらあら、本当に美味しそうねぇ」 切り分けてあるベイクドチーズケーキを皿に取り、あっという間に平らげてしまう。 普段はおっとりとしている小御門先輩の食べるスピードに驚いてしまった。 「以前話したことがあったような気がするが……ネリーの唯一の趣味は食べ歩きなんだ」 「特に菓子類には目がない。学院に来る前はよく付き合わされて、体重計に乗るのが恐怖だったよ」 「そうだったんですか……」 「好きなやつは自分の皿に避難しておいた方がいい。ケーキなら幾らでも入るからな」 いつものシニカルな冗句だとは笑えなかった。 早くはないものの変わらぬスピードで食べ続ける小御門先輩に、わんこそばを食べるフードファイターを連想してしまったからである。 刹那場が押し黙るも……マユリが、自分のケーキをフォークで刺して苺さんへ差し出した。 「え、なになに?」 「これ好物だろ、あげるよ」 フォークに刺さっているのは、ケーキの心とも言うべき、 「イチゴじゃんか。わたしが食べたら共食いになるよっ」 そう言い放ち、クラス皆の笑いを誘った。 「お、持ち芸だな。芸達者だ素晴らしい」 「前にお茶会でやって、受けてからは鉄板ネタにしているんです」 褒められ満更でもない顔で照れる苺さん。何故だか八代先輩に褒められるのは一段別の意味で嬉しいのだ。 ――が、 「……ちょっと待って」 と眉根を寄せた小御門先輩が身体をくねらせる苺さんへと声を掛けた。 「皆さん笑っているけれど、今のはもしかして冗談を言ったのかしら?」 「え、あ、はい……」 「ぁ、違うの怒っているのじゃなくて、私そういった方面に疎くて……。佳かったら何が面白かったのか、説明してくださる?」 「……ギャグを説明させられるとか鬼の所業ですよ」 「いや、鬼通り越して夜叉だろ」 真っ赤になりながら説明をする苺さん。それを真面目に聞く小御門先輩。 いつの間にか私たちの元へと来ていた八重垣さんが珍しく同情的な目を向けていた。 「お茶会来てくれたのね」 「ん……ああ。委員長が再三再四来い来い言ってきたからさ。出ないと面倒なことになりそうだしねぇ」 「確かに。来ないと乗り込んできそうよね」 「だよな」 二人思わず笑みをこぼしてしまう。 (やっぱり立花さんは委員長向きだわ) 他のクラスメイトでは八重垣さんを連れてこられないもの。 「今日は面白い顔が見られて佳かった。美人副会長の意外な素顔ってやつも見られたしね」 意地悪な猫のように笑い、いつもの面々を確かめるように眺めていく。と、 「どうした、今更可愛いアピールか?」 「え?」 ほらと指さすとマユリには珍しく頬に生クリームが。きょとんとする彼女へ反射的に、 「動かないでね」 と言い、マユリの頬についた生クリームを指で拭い、口へと運んだ。 「後は拭けば……」 取り出したハンカチで綺麗にする。と、 (ん?) マユリの驚いた顔。これはいい。自分の頬に食べこぼしがあったと知らなかったのだから。 しかし―― 「ほう大胆だな」 その揶揄を含んだ言葉に私は軽率な事をしてしまったのだと気がついた。 「あ、あのこれは……!」 弁解の言葉を探す。しかし、小御門先輩は邪気のまったくない顔つきで、 「――もしかして二人、お付き合いしているの?」 と尋ねてきたのだ。 ――久しぶりのお茶会ということで私も沸き立っていたのだろう。 考え無しについ反射的にやってしまった行為に私はひたすら後悔していた。 (どう切り抜けたら……!) 理由を探すも……どれも今一歩説得力がないものしか思い浮かばない。 「聖母祭でも気が合ったところを見せていたものねぇ。別に付き合っていてもおかしくないわよ」 「そ、それは……」 「ねぇ、花菱さんもそう思うでしょう?」 尋ねた相手に場の空気がさらに凍り付く。 私と立花さんが交際宣言したのも、このお茶会の場だという事は周知の事実だからだ。 「ええと……」 「此奴は面白くなってきたな」 「……同意ですよ」 困惑する立花さんへどう助け船を出そうか考える。マユリならと目を向けるも、渋面を作っているだけ。 ……そうだ。ケーキの話題で話を逸らしたら―― 「――ええ。お似合いだと思います」 ところが立花さんは、困った顔から一転にこりと花のように微笑むとそう答えた。 「そうよねぇ」 追従する小御門先輩へ、 「でもお似合いなのは当然なんです。だって蘇芳さんとマユリさんはお付き合いされているそうですから」 と言った。 硬直する立花さんを除くアミティエ。そして、 歓声に近い嬌声。 私たちの年頃で色恋沙汰が嫌いな人なんていない。晴れて格好の話題の的になった。 (もしかしてやっぱり怒っているとか……) 微笑んでいる立花さんの眼鏡の奥を勘ぐってしまう。彼女は、ああ伝えるのが忘れていましたけど……と続けた。 「元々はわたしと蘇芳さんが付き合っていたんです。でも想像していたタイプと違ったので、わたしから振ってしまって……」 「まぁ、そうだったの?」 「はい。蘇芳さんの落ち込みようは酷かったので、マユリさんと付き合ってくれてほっとしているんです」 そう続けた。 「何だ、三角関係じゃないのか詰まらん」 八代先輩の台詞は皆の代弁だったのだろう。 熱気は必要以上に大きくならず、クラスメイト等は私とマユリへ祝福の言葉を掛けた。 強張っていたマユリもほっとした表情で祝福を受け入れていた。 「……いつの間にりっちゃんさんから乗り換えたのですか?」 「本当だよ。わたしたちには話してくれていいのに」 「ごめん……その少し間を置いてから話した方がいいかなって……」 「まぁそれは正解だろ。振られたとはいえすぐに相手を変えたんじゃ、いい印象は持たれないしな」 立花さんが心配したそのものずばりを言う。その立花さんは小御門先輩と何かを話し……私の元へと歩んできた。 「……ごめんなさい蘇芳さん。もう隠すのは難しいと思ったの」 耳打ちする彼女へ私も、 「……そんなこと。立花さんの言葉で助かったのよ」 私が囁き返すと、立花さんは眼鏡のつるに触れ、 「……本当にいいのよ。“こうなった方”が佳かったって心から思うわ」 ――聞き耳を立てられているから直接的な言葉は言えない。 蘇芳さんとマユリさんが交際することになって本当に佳かったわ、と呟く。 「……立花さん」 「……ふふ、そんな顔しないで。わたしは本当に蘇芳さんと――少しの間だけど交際できて佳かったと思っているのよ」 「まるで初めて眼鏡を掛けたときのような気持ちが味わえたのだもの」 「……それって」 「――世界ががらりと変わって見えた」 朗らかに笑顔を向ける彼女は素敵で、吸い込まれそうな気がした。 「……今度はマユリさんに新しい世界を与えてあげて。きっとあの子にはそれが必要だから」 マユリを見遣り言う。立花さんは私を見詰め、蘇芳さんもねと言った。 ――アミティエが花菱立花さんで本当に佳かったと思う。 「……そろそろ内緒話はいいかい」 「ぇ、あ、八重垣さんじゃない。ちゃんと来たのね」 「ああ。っていうか気づいてなかったのかよ。それよりもそろそろ、あれ……」 目線で小御門先輩を指し、 「止めた方がいいんじゃねぇの?」 と呆れた調子で言った。小御門先輩を見遣ると話し終えた今、ケーキに照準を絞っていた。 精力的にケーキを頬張っている彼女を見て、八代先輩はげんなりした表情に変わる。 「まだ食べるのか……。以前よりも凶悪になっている気がするな」 「ケーキバイキングに思えるくらいには置いてあったんだけどねぇ」 まぁ残されるよりはいいから、とはマユリの談。作りすぎたと思っていたホールのケーキもだいぶ減ってきた。 「……付き合わされた昔を思い出す。今日はいやな夜になりそうだ」 「胸焼けしてしまうから、ですか?」 「そうじゃない。さっきも言ったが体重問題だ。僕は人並みに食えば人並みに肥えるが、ネリーはいくら食べても太らない」 「むしろ胸について羨ましいくらいなんだ」 「……それは許されませんね」 だろう? と唸るように言う八代先輩。立花さんも何か思うところがあるのだろうか? 少しぼうっとしていると、羨む際に出たのだろうか、まるで化け物だ……との呟きが聞こえた。 「化け物ねぇ。ああ、化け物といったら、そろそろ匂坂ともお別れが近いな」 「何のこと? 八重垣さん……まさか転校でも?」 「違うよ。消えるのはお前だっての」 意味が分からず混乱する。八重垣さんはロシアンティーで喉を潤し、 「学院の七不思議さ。“真実の女神”だよ、匂坂」 八重垣さんの言葉に、そのことかとマユリは苦笑う。 「消える云々は確かに聞いたことはあるけれど、聖母役をした後、私はこうしてピンピンしてるじゃないか」 「真実の女神の話はガセだったってことだろ」 「へぇ、白羽と〈連〉《つる》んでいたから知っていると思っていたんだけどねぇ」 「私なら知っているって何が?」 「うん? 以前、あそこで暴飲暴食している副会長から一緒に聞いただろ? 真実の女神の話をさ」 聖母役をしたら消えるんじゃないの? と尋ねるも呆れかえった顔で返される。 「話を聞いてなかったんだな。真実の女神は聖母役をした生徒が“聖母祭”ですぐに消えるんじゃない」 「返還の儀式の後、消えちまうのさ」 ――返還の儀式。 耳慣れない言葉に疑問符を浮かべる私たちへ、八代先輩が分からなくても無理はないと言いながら会話に入って来た。 「返還の儀式は特に何とか祭だとか、何たら会だとか名前が付けられている訳ではないからね」 「聖母祭終わりの一週間後、というより週初めか、月曜日の礼拝の時間に行われるんだ。聖母祭で使ったベールがあっただろ?」 「あ、はい」 「朝の礼拝前に、バスキア教諭から渡されるはずだ。ベールを持ったまま、静々と祭壇の前のシスターへ持って行って渡しておしまい」 「だから特に知らなくてもおかしくはないのさ」 そうだったんですか、と頷く皆。しかし、 「あの、消えるっていうのは?」 「それは……」 「八代先輩の話を聞いて大体予想がつくだろ? 匂坂や白羽は、聖母祭が終わったら聖母役の生徒が消えると思っていたが……」 「実際は、ベールの返還の儀を終えた後に消えるのが正しい。だから……」 「だからお別れが近いって言っていたのか。なるほどね」 「そうかぁ、ユリともこうして話せるのも、あと少しなんだねぇ」 「……寂しくなる」 口々に言う沙沙貴姉妹。 (真実の女神か) 本来忌み事である七不思議の名称に“真実”という言葉が使われていることに、私は奇妙な気持ち悪さを感じていた……。 ――返還の儀が明日に迫った日曜日。 学院的には安息日と言われる日だが、この日は週休2日の制度の中で唯一手放しでの休みと言えた。 “土日”が休日と位置づけられてはいるが、土曜日は教会出席を奨励しているため、基本は全員出席となる。 そのため土曜日の午前中はまるまる無くなることが多いため、本当の休みといえるのは日曜日だけなのだ。 神が一週間を作り出した有名な言い伝え――六日間のうちに天地創造を行い、七日目にその創造のわざを休んだというお話……。 このくだりが関係があるのかは分からないけれど、今まで学院側から日曜日での行事を促されることはなかった。 そう、今までは―― 「いきなり過ぎるよね。遊びに行く予定だったのにぃ」 「そうね。聞かされたのは今朝方だし……」 口を尖らせるのも無理はない。朝食の際に一年生だけのアミティエ面談を行うとの通達があったのだ。 面談は一月に一度、アミティエ同士の信頼や友人として振る舞えているかどうかを調べる制度だけれど―― 「今までは日にちをちゃんと決められいて授業としてやっていたでしょ」 「なんで休みの日を削ってまでやらなくちゃいけないんだろうね?」 「そうね……。それに今日はアミティエ同士での面談ではないようだし」 いつもはアミティエ……三人一組で面談を行う。 最初に聞かされた時は、三人一緒では本音が言い出せないのではないかと思ったものだ。 (まぁ先生たちはプロだから、態度で分かるのかもしれないけど……) アミティエ同士が文字通り――“仮初め”に仲良く振る舞っていても、おそらく見抜いてしまうのだろう。 私の言葉に、一人一人じゃ最後の子が可哀相だねと苺さんは言った。 「いつもは三人いっぺんだから早く済んだけど、今日は一人一人名前の順で呼んでるでしょ」 「これじゃ最後の人が待っているの大変だなって」 「一応四人ずつ呼び出して、一組が終わるまでは待機だからましだとは思うけど……」 でも気兼ねなく遊べないじゃんと言われ、そうだねと苦笑いをした。 「それにいつもよりも長く感じるよ」 苺さんの前に入室した林檎さんを心配してか、教室のドアを睨んだ。しばしの沈黙の後、 「お疲れ」 「……本当に疲れた。今回のは面倒」 面倒? と聞き返したとき、バスキア教諭が苺さんの名前を呼んだ。 「それじゃ行ってくるよ、蘇芳ちゃん」 わたしが戻るまで待ってるんだよ、と言われた林檎さんは、了解と言いつつ怠そうに体を引きずりながら寮へと戻っていった。 ドアが閉まるのを見ながら、私は何となく嫌な予感がしたのである。 結論から言うと嫌な予感は半分ほど当たったというのが相応だろうか。 まず長い時間が掛かったわけは、入学してすぐアミティエ試験で行ったような問題を解かされたこと。 流石にあの時のように百五十問という程の数はなかったけれど―― テキストは以前よりもアミティエに対しての突っ込んだ問いが多く随分と頭を悩ませられた。 その後は、バスキア教諭との面談になったのだけど―― 「急にごめんなさいねぇ白羽さん。学院側の事情で今日面談することになってしまって……」 「大丈夫です。特に予定もなかったので……」 「そう。沙沙貴さんからは予定が入っているのにって、拗ねられてしまって……。それじゃ手早く面談を始めましょうね」 言い、にこりと人好きのする微笑みを浮かべた。 (以前ほど、苦手ではなくなったけど) やはり二人きりは緊張するなと、膝の上に置いてある拳を握り直した。 「白羽さん、アミティエとして過ごしてきて三ヶ月が過ぎたけれど、何か悩んでいることや問題はないかしら?」 「問題ですか……特にはありません」 「そう。匂坂さんのここが苦手だとか、花菱さんの言い方が嫌だとかはない?」 何時もよりも突っ込んだ事を訊いてくるなと思いながらも私は首を振る。バスキア教諭は、私の怪訝な表情をくみ取ったのか、 「今年になって三人一組になったでしょ? 例年二人きりでも問題は出たの。だから何かある前に対処をしないといけないのよ」 私がこの学院にてアミティエ制度が三人だと聞かされた時に思ったことそのものだ。 「私の方は問題ありません。二人とも気遣いができるアミティエなので共同生活も苦ではないですし……」 「ならいいのだけど……。少し問題が起きたと報告があったから正直に話してほしいのよ」 「問題です、か? あのそれは何が……」 「……本当は生徒に話すことではないのだけど、軽いいざこざのようなものがあるそうなの」 負の言葉に、ずくりと胸が嫌な音を立てた。 「それって本当ですか……?」 「あ、ごめんなさい深刻な話じゃないのよ。喧嘩をして少し口を利かないだとか……」 「そういう場面を寮のスタッフの方が見たらしいの」 本来秘匿しておかなくてはならない情報源を言ってしまう。 寮の人たちがそういった側面を持っているのは公然の秘密のようなものだったけれど。 それとね、と眉根を寄せるバスキア教諭に、何でしょうかと尋ねた。 「もう一つは――私のクラスでお付き合いをしている生徒がいるそうなの。それも問題だと思うのよ」 「それは……」 落ち着きつつあった心臓がごとりと重く動き出す。 「女学校ということを考えれば、それほどおかしなことではないかもしれないわ」 「でも今年から始まったアミティエ制度のことを考えると、看過できないことだと思うの」 心臓が早鐘を打つ。 「何故……ですか?」 「今までもアミティエ同士寝食を共にするのだから、そういうことはままあったわ」 「学院側も賛成はしないけれど、罰を与えるようなことはしなかった……」 「でも今年から変更されたアミティエ制度では、問題が起こるとカウンセラーの先生が仰ったの」 「問題……ただ交際するだけで何の問題が……」 「想像してみて、三人一組でのアミティエ。そのうち、二人が交際したとしましょう。あぶれた一人はどう思うかしら」 ――立花さんを思い浮かべる。 私たちを受け入れてくれた彼女。 三人とも過去を打ち明け合ってからは皆、仲が深まった……筈だ。 私は―― バスキア教諭は分かっているのだと察した。 何故なら彼女の話では、アミティエ同士の恋愛に終始し、アミティエ外の生徒と生徒……。 例えば上級生と下級生などの交際については想定されていないからだ。 ――私とマユリのことが耳に入っている。 私はバスキア教諭へ、恐れている質問をする。 「――もしアミティエ同士で交際しているのが分かった場合は……処分されるのですか」 「そうね……。可哀相だけれど一度解散して、別のアミティエとして新たに組み直すでしょうね」 今までの話の流れからすれば当然の帰結だ。でも、 「絆を深める為のアミティエなのに……」 どうしても受け入れることができない。 「そうね……」 悲しげに俯くも胸元に手を当て、聖職者の顔で私を見詰めた。 「白羽さん。私は最初、貴女のことを心配していたの。入学したての貴女は心に壁を作っていたような気がして」 「…………」 「だから貴女のアミティエが匂坂さんや花菱さんになって佳かったと思ったの」 「彼女たちは責任感があって……人を気遣うことのできる優しい子たちだったから」 ねぇ白羽さん、と私の手を取り微笑む。 ――ああ、駄目だ。 「……はい」 「私は無理強いしたくはないの。だから今の話、佳く考えて欲しいのよ」 ――肉感的な肢体、女性を感じさせる、母を思わせる彼女。 「……分かりました」 初めに感じた苦手意識は再燃し、私は苦いものを飲み込みながら、何とかそう呟き頷くことができた……。 ――そして、場面は返還の儀へと動き出す 「――ずっと怖い顔をしているわね」 聖堂内の静寂を破らないように立花さんはそう囁いた。 「……私が?」 顔つきが変わっているなど今まで言われたことがない私は、反射的にペタペタと自分の顔に触れた。 「……ふふ、怖い顔というのは雰囲気よ。蘇芳さんでもそんな顔をするのね」 自分ではよく分からない。ただそう言われるのなら……。 (きっとそれは……) 『そうね……。可哀相だけれど一度解散して、別のアミティエとして新たに組み直すでしょうね』 バスキア教諭の言葉が頭の中で響き、心臓をわしづかみにされるような苦しい感覚。 ――また怖い顔をしているわ、と囁かれ、 バスキア教諭の陰を頭の中から無理矢理に消した。 「……平気よ。消えたりしないわ」 「……え」 「……マユリさんのことでしょ」 核心を突かれ、ずくりと心臓が跳ねる。 「……学院の七不思議なんて嘘よ。沙沙貴さんたちの時だって嘘だったじゃない。“真実の女神”なんてあるわけないわ」 「……そうね」 「……ふふ、そうよ」 私の強張った表情が“真実の女神”を気にしてのものだと思っていたらしい。 (それもそう、よね……) 立花さんやマユリには昨日、バスキア教諭から言われたアミティエの再編成の話はしていなかった。 そして個人面談でも、私の行動いかんで解散になるかもしれないとのことも、バスキア教諭から聞かされていないようだった……。 「……私に委ねるということかしら」 なぁに? との言葉が囁かれるが、壇上で礼拝での説教を終えたバスキア教諭が、賛美歌を歌う前に……と一際通る声をあげた。 「――返還の儀を行います」 ピアノの音が響き、それと同時に聖堂の重々しい扉が開く音が聞こえた。 視線は扉の開いた先に佇む聖母――匂坂マユリへ。 彼女は聖母祭の時のように静々と歩み、壇上で待つバスキア教諭の元へと向かう。 「……綺麗ね」 聖母祭の時と同じ衣装のマユリを見、呟く。 立花さんが言ったように私も美しいと思うも、その壮美さは身体の芯の大切な部分を掴み苦しくさせるものだった。 (マユリ……) 見守る中、バスキア教諭の元へとたどり着き何かを口にした。しかし言葉は小さく、何を言ったのか分からない。 壇上からバスキア教諭は降りると、マユリの前へと立ち、沈黙こそが規律のように黙したままベールを恭しく手に取った。 そしてやはり聞こえないほどの声で何かを呟き、 マユリからベールを取り、掲げると―― 「――返還の儀は滞りなく終わりました」 と皆へ伝えた。 聖母から生徒へと戻ったマユリへとシスターが微笑みかける。 神聖な儀式を見ていた生徒たちは儀式が終わったことに、一段緩んだ空気となった。 「……終わったわね」 ふっと吐息を吐く立花さんへと答えながら、私はバスキア教諭と目が合ったことに酷く混乱していた。 何故だか怒っているかのような――何処か憐れんでいるような瞳をこちらに向けていたのだ……。 返還の儀式はつつがなく終わり、その次の日の放課後―― 「結局……真実の女神の噂話は嘘だったんだな」 八重垣さんはパンケーキを器用に切り分け食べながら残念そうに呟く。私は苦笑いをたたえ、そうねと答えた。 「まぁ、嘘だってのは分かっていたけど、語り継がれているものには何かあると思ってたんだけどなぁ」 「一日経っても匂坂はぴんしゃんしてるしさぁ」 「何にもなくて済まないね」 「そう言ういけずなことをいう人にはあげませんよ」 膝の上からひょいとパンケーキの載った皿を奪い取る。八重垣さんには珍しく、ああ……! と悲痛な声を上げた。 「そうだよ。昨日からずっと顔色悪かったんだから。気にすることを言ったらメッだよ!」 「……今から弾劾裁判開廷ですよ」 「裁判って、“アリー・マイ・ラブ”じゃないんだぞっ」 口々に非難され、八重垣さんは悪かったよ、と面倒臭げに謝った。 「ならよし」 と再びパンケーキを与えられ、大事そうに味わい食べる。 「……八重垣さんってパンケーキが好物なの?」 「パンケーキなんて洒落た言い方はよせよ。わたしが好きなのはホットケーキだっての」 「本当はこのホットケーキみたいにホイップクリーム、キウイ、ブルーベリー、シロップなんて余計なものはかけないでさぁ――」 「バターだけの分厚いホットケーキが食べたかったんだよ」 どうやらパン――ホットケーキには一家言あるようだ。 「ま、これはこれで佳いけどさ」 満更でもないようで食事に専念する八重垣さん。小動物のように食べる姿に少し癒やされた。 彼女の食べる姿を立花さんは見詰め、佳かったわと呟いた。 「……いっぱい食べてくれて?」 「あら、声に出ていたの……。その、そうじゃなくて今日晴れてくれてお茶会が開けたから……」 紅茶を振る舞うことが好きな彼女らしい。 「蘇芳さん、平気だって言っていたけど、返還の儀式でのこと気にしていたでしょ?」 「だから今日お茶会が開けて……少しでも蘇芳さんの気が紛れたなら良かったな、って」 「立花さん……気遣ってくれてありがとう」 「いいのよ。だってアミティエ同士なんですもの」 笑顔が、アミティエという言葉で強張ってしまう。 バスキア教諭の宣告。 「蘇芳さん……?」 「前のお茶会であの二人……会長と副会長が脅かしすぎたんだよ。特に副会長は怖い話が大好きだって話だし」 真実の女神から繋がるように七不思議だけでなく、他の生徒からも収集した怖い話を存分に聞かせて貰った。 梅雨間の今なら雰囲気も確かに良かったのだけれど……。 「前に神秘体験が好きだからと言っていたけど、ゾッとする話を幾つも知っているんで驚いたよ」 「怖い話好きの人には見えないしね」 「……見た目だけでいうなら花を育てるのとかが好きそう」 「そうだね。綺麗なのにちょっと変わった趣味が多いよね。食べ歩きに、怖い話収集……」 苺さんはそこまで言うと思いついた顔になり、コホンと咳を一つし気取った立ち姿をする。 「……『――まったくネリーには困ったものだよ。食べ歩きを付き合った後、僕は体重計に乗るのが怖くてねぇ』」 と、八代先輩を真似して言う。 「おお、上手いな」 「なかなか特徴掴んでるんじゃないか」 どうもどうもと照れつつ、頭を下げる。 「話は変わるけどさ。今自分で言っていて思ったけど、ネリーってあだ名の付け方いいよね。何か親密な感じがしない?」 「ええ。確かに長年の付き合いって気がするわ」 「だよね。だから思ったんだけど、わたし的にもあだ名が欲しいなって!」 喜色満面の苺さんと、困惑する皆。 (今更だけど、この学院ってお嬢様が多いし……) 個人的な感覚ではお嬢様同士で、あだ名で呼び合うのは聞いたことがない。 「さぁ、誰でもいいからザッツトライ!」 「誰でもいいって言ってもな……」 あだ名を付けるくらいの関係性と言ったら、友人……よりも親友クラスだと思う。 だとするとこの中なら―― 「……白羽、付けてやれよ」 「……え、私!?」 一度言い出したら聞かないだろ、あいつら――と言われ、 (そんな重要なこと無理……!) 下手をすれば一生を左右する事柄だ。戸惑う私へ、 「別に苺でいいんじゃないか? 呼び捨てって親密な感じがするじゃないか」 とマユリが助け船を出してくれた。 「ええ〜。つまんないよぉ。わたし的にはユリのことユリって呼んでるのにぃ」 「頼んだ訳じゃないんだけど……。そうだなぁ」 腕を組み頭を傾げる。目を細めたマユリはややあって、 「それじゃぁ“ササ”で」 「名字からもじって……!? わたしたち双子だよっ!?」 そうか、と笑うマユリ。皆も釣られて声を上げて笑ってしまう。 「……ササ2号です」 「あずさ2号みたいな言い回しはやめろ」 笑い合う皆。入学したときには考えられないほどクラス全員と打ち解け、たわいのない話が出来るようになった。 これも皆―― 「佳かった」 輪の中から抜け出したマユリは言い、紅茶のカップを私へと差し出す。 薫り高く、喉から伝い熱を感じさせる紅茶は、気持ちを穏やかにさせる。 「あまり元気がない様子だったからね。心配していたんだ」 「そう……」 「でも笑ってくれてほっとしたよ。苺には困りものだけどこういう時は頼りになるね」 春の日差しのような笑顔を向けてくれる彼女。笑顔が暖かければ暖かいほど、私の心はかき乱される。 (やっぱりバスキア教諭の言葉を今……) 「大丈夫さ。私は何処へ行ったりもしないよ」 「あ……」 柔らかな指が私の手を包み、子供を諭すように語りかける。 「今週の週末、話していた菜の花畑に行こう。雨が降るかもだけど……それならそれで雨の森の探索も趣がありそうだしね」 (駄目……やっぱり私には……) 「そうね。週末のデート愉しみにしているわ」 アミティエの解散を――交際をやめなくちゃいけないと言えるわけがなかった。 愉しみだ、と微笑む彼女を見て、私は胸が疼くのを堪えていた……。 ――そして、 バスキア教諭の言葉に悩まされたまま、 何も言い出せない私は懊悩を抱え、 週末を迎えようとしていた―― (明日、マユリとデート……) ベッドに仰向けに横たわり天井を眺める私。 本当なら心が浮き立つ事なのに、バスキア教諭の言葉が私を苦しめている。 アミティエの解散、 物怖じし、自分の意見もろくに言えない私がクラスの皆と打ち解けたのは―― アミティエが……花菱立花さんと、匂坂マユリの二人がアミティエであったからだ。 二人以外のアミティエなんて考えられない。 そして―― 「……マユリとの別れ」 今年からのアミティエ制度の特異性、風紀の乱れから交際を自粛しろとの宣告。 私がバスキア教諭であったとしても……同じ決断を下したと思う。 シスターの考え方は理にかなっている。 “私たちは大丈夫” そう言ったところで、何の保証もない。 (私たちはお茶会の席で交際宣言をしている) 隠れて付き合っていたならばまだやりようはあったろう。 しかし、公にした私たちを許し、新しく交際したものを注意し、罰を下すとなったのなら、道理が通らない。 例外を学院側が認めたこととなる。 (この一週間、何も注意してこなかったのは……) バスキア教諭の配慮だろう。 だが、ずっとこのままでいさせてくれる訳がない。 「……マユリ」 夜空を眺め暗く沈んだ雲間から、星々が顔を覗かせているのを子供のように悦び、 『願いが通じたんだ。明日は晴れみたいだよ』 そう笑ってくれた彼女。 ――明日、別れを切り出そう。 私はそう心に決め、布団をかぶり声を殺して泣いた。 ――人の声に目が覚め、 今日が来てしまったのだと識った。 目を細め、部屋の時計を見てみると、 「もう、九時……。急がなくちゃ……」 十時に東屋で待ち合わせだ。私はのろのろとハシゴを下り、着替えを取るために衣装タンスへ。 パジャマから制服に着替え、髪を梳かしている最中に、懊悩と低血圧で死んでいた頭が奇妙なズレをようやく掴んだ。 「なんで……誰も起こしてくれなかったの?」 悩みすぎて眠ったのは朝方だ。だから寝坊してしまったのは分かる。でも、 「……いつもならマユリが起こしてくれるのに」 今日は安息日で、教会で礼拝もない。でも、朝食の時間には起こしてくれる筈だ。 七時の朝食に遅れた生徒は例外なく食事は抜きになる。だからこそ、日曜日でも無理矢理に起こすのに、なぜ? (食べ逃したと分かったら急にお腹が空いてきたわ……) 空腹を抱え、髪を整えるとハイキングに行くために用意しておいた鞄を机に取りに行く。 (何だろう、この違和感……) 部屋は立花さんの教えで塵一つなく整頓されている。 いつも通りの部屋。 いや―― 「……綺麗に整頓され過ぎている」 特に机周りは私たちがこの寮にきた時のように、物が……。 「……立花さん、マユリ」 (まさか) ――物が、私物が明らかに減っている。 胸騒ぎが止まらず私は、寄宿舎の中を探し、 アミティエを見つけられずに外へ飛び出した。 教室を、 レッスン室を、 図書室へと駆け二人の姿を探す。 (此処にもいない。それじゃ何処へ……) 「白羽か――休みの日だってのに詰まらない女だな、お前も」 いつもの軽口が聞こえ、私は―― 「八重垣さんッ」 「お、おお。何だよ、鬼気迫った顔しやがって」 明らかに身を引いている彼女を見つけ――安堵と焦燥感が胸に渦巻いた。 「あ、あの立花さんとマユリを見なかったかしら。私、ふ、二人を捜していて……」 「アミティエを? どちらも見てないけど……」 「そ、そう……」 「……そういえば昨日小耳に挟んだんだけどさ。匂坂とデートだって言ってただろ」 「だからもう相手は、待ち合わせの場所に行ったんじゃねぇの?」 待ち合わせ――と呟くと、八重垣さんはそうそうと頷き頭を掻いた。 「ああ言うのって恋人が来る前に早く待っているもんなんだろ。だから待ち合わせ場所にいるんじゃないかと……思う」 「そう……そうよね……」 今までにないほどの胸のざわめきから二人の姿を探していたけれど―― 待ち合わせ場所で待っているんじゃないかと言われ、不安の種はようやく消えてくれた。 「驚かせるなよ、まったく……。待ち合わせの時間なんざ知らないけどさ。ま、早く行ってやれよ」 言われ背を押されるようにして、何故だか力のない足を叱りつけ東屋へと向かった。 「……そうよね。私馬鹿みたい」 昨日の懊悩を引きずっていたからか、私の友人が誰も居なくなってしまうような予感が胸の奥に渦を巻いていたのだ。 まるで私以外は誰も使っていなかったような部屋の様子を見て―― (やはり私は一人なのだと思ってしまった) 学院に来る前の私と同じ、誰にも必要とされない、愛されない自分。 そんなことはないのに……。 ない筈だわ、 ぼうっと考え事をしていた所為で道を外れ、寮の脇の小道へと入ってしまった。 どうにもぼんやりとした頭で、腕時計を見る。 「十分前……早く行かなきゃ……」 近道をするために森を突っ切り―― 約束の場所、東屋へ。 腕時計を確認するときっかり短針の針が十時を示していた。 誰もいない東屋。 いつもお茶会を開いている場は閑散とし、まるでこの建物自体が死んでいるようにも思えた。 「……待っているって言ったのに」 八重垣さんはそう言っていた。 私も九時に部屋に居ないのは、せっかくのデートなのだから待ち合わせの楽しみを得るために、先に部屋を出たのだって……。 森の小道でそう結論づけたのに。 「……先に待っていないのなら何処に」 ざわざわと胸の芯が揺れる。 しかし、 東屋の柱の陰に、刻まれているものを見て、私の不安は消え去った。 小さくだが、確かに私とマユリの名前が其処にあったのだ。 (子供みたい……) あのマユリが私を想って付けていた印、それを見詰めているだけで幸せになれた。 「……見付かったらどうするつもりだったの」 マユリの名を指でなぞり呟く。と、 「――白羽さん」 「ぁ……バスキア教諭――」 呼びかけられ慌てて、“名”から隠すようにしてバスキア教諭と対峙した。 そして、バスキア教諭の傍らに、 「……蘇芳さん」 まるで隠れるようにして立花さんが佇んでいた。 「あ、の……何か……」 御用でしょうか、と言えなかった。 この場所にバスキア教諭がいて、傍らには彼女。 なら、 それなら、 話は決まりきっている。 「――二人へ話したのですね」 「…………」 沈黙、 バスキア教諭は瞳を憂いの色に染め、 ――立花さんは疑問符を顔に覗かせた。 「ち、違うの……ですか?」 「白羽さん。落ち着いて聞いてちょうだい」 「……はい」 ――愁いを帯びた表情、 「匂坂さんは……匂坂マユリさんは、ね」 ――蕾のような唇で、 「今日付でこの学院を去ることになったの」 ――理解できない言葉を吐いた。 ざわざわと、森が揺れ騒ぎ、 刹那が、 まるで何十年にも引き延ばされたように感じた。 「う、嘘……」 自分の声が、しゃがれ、しわがれ、まるで己の声ではないように聴こえる。 「匂坂さんは……」 「ぅ……ぁ……」 「貴女のことをとても案じていたわ……」 私を気遣う、 空々しい、もっともらしい言葉に、 匂坂マユリは、 彼女はもういないのだと識った。 「ぅ……く……ぁぁ……!」 涙が勝手に零れ落ちる。 泣いてしまったら、認めてしまうことになるのに、 彼女がもうこの学院にはいないということを。 「――――――――」 「――――――――」 バスキア教諭が、 立花さんが私を慰めてくれるのが分かる。 でも、 私は自分ではなく、マユリを案じた。 私と似た傷を持つ貴女、 きっと離ればなれになった貴女も、 私と同じ苦しみを感じているでしょう―― 「――ごめんなさい」 ごめんなさい、 好きになってしまって そして―― どうか私のことを忘れてほしい、 白羽蘇芳は初めて、心から神へ祈った――