音がした。  古い、たてつけが悪くて蝶〈番〉《つがい》も錆びて無闇に重い、土蔵の扉が開く音がした。  暗かった土蔵に光が差し込んでくる。   「――――」    意識が眠りから覚めていく。 「先輩、起きてますか?」  近づいてくる足音が誰なのかは、確かめるまでもない。    ―――ああ、もうそんな時間なのか。    ほう、と息をついて目蓋を開けた。 「おはようございます先輩。そろそろ時間ですよ」 「ん―――そうみたいだ。おはよう桜。起こしにきてくれてサンキューな」 「いえ、お礼を言われる事じゃありません。先輩ならきちんと起きてくれるって判ってましたから、わたしは余計な事をしただけなんです」 「そっか。……けど、ならなんでわざわざ起こしに来てくれたんだ?」 「わざわざじゃありません。今朝は先輩を起こしたくなって、いつもより三十分も早起きしたんです。今日は特別な日ですから」 「――――あ」  それで気が付いた。  そうだ。今日は特別な日だったんだ。 「桜。訊くまでもないと思うんだが、藤ねえはまだ来てないよな?」 「はい、藤村先生はまだ。あ、でもイリヤちゃんは先に来てます」  ――――やっぱり。  イリヤだけ来ているというコトは、つまりはそういうコトなのだ。 「―――まずい。桜、すまないんだけど朝食の支度を頼む。俺、ひとっ走りして藤ねえをたたき起こしてくる」 「あ、はい。ごくろうさまです、先輩」  幸い、昨夜も遅くまで作業していたんで作業服のままだ。  着替えなくとも外に飛び出せるのは有り難い。 「十分で戻るから、後はよろしく頼む」 「はい、まかせちゃってください」 「あれ、シロウ起きてる」 「ああ、いま起きた。ちょっと藤ねえ起こしてくるから、桜の手伝いをしてやってくれ」  ぽん、とイリヤの肩に手を置いて、そのまま玄関へ向かっていく。 「―――やられた。もう、シロウはわたしが起こしに行くって言ったでしょ、サクラー!」    イリヤは怒鳴りながら土蔵へ走っていく。  そんな光景も、今ではそう珍しくない。  イリヤが〈国〉《いえ》には帰らないと言いだしたんで、ならうちで預かろうと藤ねえに相談した。  藤ねえは猛反対しつつ、それなら〈藤村〉《わたし》のうちのがいい、とイリヤを預かってくれたのだ。  以来、イリヤは藤村の家で居候しながら、藤ねえと一緒に朝夕と襲撃にくる。    言うまでもなく、狙いは朝飯と晩飯だ。  同居を初めて二ヶ月、二人は既に一心同体っぽい。  土蔵の裏側を通りかかると、塀の向こうから声が聞こえてきた。  桜とイリヤの話し声だ。  イリヤはああいう遠慮のない性格だから桜とは合わないと思ったが、これがそうでもないらしい。  でこぼこコンビというか、きびきびしたイリヤとのんびりした桜は、騒がしいながらも仲がいいみたいだ。  実際、イリヤのおかげで桜は元気を取り戻しつつある。    ……桜の兄、間桐慎二が姿を消し、行方不明扱いになってから桜は笑わなくなった。  例の学校での集団昏睡事件との関わりを、桜も薄々感じていたのだろう。  桜は行方の知れない慎二を気に病んで、長いこと塞ぎ込んでいた。  そんな桜を強引に立ち直らせたのがイリヤで、イリヤがいると桜も明るさを取り戻す。   「―――うん。桜、笑えるようになったよな」    それが純粋に嬉しい。  やっぱり桜には、ああいうふんわりとした笑顔が似合うんだから。 「うう、酷いよぅイリヤちゃん。何があっても起こしてって臨時ボーナスまであげたのにあげたのに」    よよよ、と泣き崩れながら朝食をかっこむ藤ねえ。 「当然よ。タイガを待ってたらわたしまで遅れるし、給金分は義理を果たしたわ。あれ以上の働きを要求するなら、臨時じゃなくて基本給をアップさせるコトね」 「……むむ。わたしだけじゃなくお爺さまからも貰ってるクセに、どうしてこうこの子は守銭奴なのかしら。  若い頃からお金にうるさいとまわりの子に嫌われちゃうぞー」 「嫌われて結構よ。好きな人以外なら何を思われても関係ないもの。それよりタイガ、貸したお金ちゃんと返してよね。給料日、五日前だったんでしょ」 「―――え。な、なんでそんなコト知ってるのよあなた!」 「ライガに聞いたわ。お望みなら明細まで話してあげてよ」  にやり、と不敵な笑みをうかべるイリヤ。  桜とは正反対で、イリヤと藤ねえの相性は最悪だ。  加えて、イリヤは藤ねえ相手だととんでもなく意地悪になる。今の笑い方なんてどこかの誰かさんそっくりだし。 「返済は明日までね。出来なかったらタイガのおこづかいから引いていくから」 「……! お、お爺さま、そんなコトまであなたに話したの!?」 「ええ、お昼はずっと一緒だもん。ライガね、タイガより可愛いって褒めてくれたわ」 「あわわわ……! どうしてくれるのよ士郎、この子とんだ悪魔っ娘じゃない! このままじゃ藤村組が乗っ取られるわ!」 「――――――――」  いや、そんな事より。  その歳になってまだ爺さんからこづかい貰ってたのか、アンタは……。 「行ってらっしゃいシロウ。今日は早いんでしょ? ならここで待ってるから、すぐに帰ってきてね」 「ん、努力する。留守番よろしくな、イリヤ」 「……ふん。いっそのコトここの子になっちゃえ、ばか」  俺の背中に隠れつつ、拗ねる藤ねえ。 「はいはい。タイガも気を引き締めなさいよね。外でシロウに迷惑かけちゃダメなんだから」  あっさりと受け流すイリヤ。  力関係は、もはや藤ねえでは押し返せない位置にあるらしい。 「じゃあ先に行ってるけど、のんびり歩いて遅刻しちゃダメよ士郎」    ぶろろろぎゃいーん、と排気音をまき散らし、藤ねえは弾丸のように消えていった。  藤ねえが免許をとったのが一ヶ月前。  以来、遅刻は革命的に減ったものの、ロケットタイガー、もとい、ロケットダイバーというあだ名が追加された事を、本人だけ知らなかったりする。 「ふう」    大きく背を伸ばして、深呼吸をする。  桜は一足先に登校している。  ごはんを大盛りにしていたところを見ると、たいそう気合いが入っているようだった。  弓道部にとって今日は天王山。  桜も副主将として頑張る、と張り切っているのだろう。 「――――さて、それじゃ」    学校に行こう。  今日は四月七日。  学校では入学式があって、季節は寒い冬を越えて春になっている。    あれから二ヶ月。  彼女がいなくなってから随分と変わった気がするが、変化なんて些細なものなのだと思う。    冬が終わって、春になった。  変わったものはそれだけ。  少しは成長した気になったものの、そんな事で、見違える自分に成れた訳でもない。    だから変わった物などそうないのだ。  衛宮士郎は相変わらず、不器用に切嗣の後を目指して走っている。 「おはよう衛宮くん。朝から顔を合わせるなんて奇遇ね」 「おっす。今日もいい天気だな、遠坂」  手をあげて挨拶をする。 「けど奇遇か? ここ最近よくニアミスするだろ。  ああいや、そりゃあ今までこう頻繁に出くわす事はなかったけど」 「……出くわすって、貴方ね」  いたく気に入らないのか、じろりと半眼で睨み付けてくる遠坂。  朝っぱらから、ここで会ったが百年目、なんてオーラをちらつかせるのはよくないと思う。 「遠坂、もしかして登校時間変えたのか? 前はもうちょっと遅かっただろ。早すぎず遅すぎずって時間だった」 「そんな事ないわよ。今まで顔を合わせなかったのは偶然でしょ。  知ってる? 衛宮くんとわたしの家、きっかり正反対の位置にあるの。だから、普通に起きて普通に坂を下りれば、ここで顔を合わせるのは当然ってワケ」 「―――へえ。  それは初耳だ。そうか、それなら確かに―――」    ……いや、ちょっと待て。  それは生活サイクルが同じだったら、という場合じゃないか。  遠坂がこの時間に交差点に下りてくるには、朝の六時には起きてなくてはいけない。  が、それは…… 「遠坂。おまえ、眠くない?」  単刀直入に訊いた。 「……なによその言い分。わたしは眠くもないし無理もしてないわ。  なんだってそんなコト訊くわけ、貴方」 「いや、おまえ朝弱かったから。  寝不足で学校に行くと化けの皮が剥がれるぞ。授業中に居眠りなんかしたら大変だ。  下手に起こそうものなら、寝起きの悪魔みたいな顔した遠坂が暴れるんだからな」  こう、我が眠りヲ妨げる者ニぶっ殺す、みたいな。 「そ、そんなコトしないわよっ! たかだか三十分の早起きで不覚なんて取るものですかっ!」 「ほら。早起きしてるじゃないか、やっぱり」 「――――っ。  もう、人の起床時間なんてどうでもいいでしょう。つまんない詮索をしてる暇があるなら、さっさと学校に行きなさいっ」    ふい、と顔を逸らして怒る遠坂。  その言い分はもっともなので、挨拶はこのヘンにして登校を再開した。  坂道を上っていく。  眼下に広がる町並みは、すっかり春の趣きに変わっていた。  風は心地よく、時折、高台にある校舎から桜の葉が舞い散ってくる。  目に映るもの、肌に感じるもの全てが微笑ましい。 「なに、今週はほとんどバイトなの?  ……まあ衛宮くんの時間だから文句はないけど、そんなんで体壊さない?」 「え―――? いや、今日ぐらいは休みをもらったよ。  弓道部で新入部員の歓迎会をやるっていうから、イリヤを連れて遊びに行こうかなと」 「うわ。なんか、さりげに凄い度胸してるわよね、貴方って。平気な顔してイリヤを学校に連れていくあたり大物だわ」 「? なんかまずいか? イリヤだって暇つぶしになるって喜ぶと思うんだが」 「まずいわよ。まずいけど、そういう事ならわたしもお邪魔しようかな。イリヤがいるなら退屈しないし、なにより危なっかしくて放っておけない」  そう言ってくれるのは有り難い。  イリヤを一番良く分かってやれるのは俺でも桜でもなく遠坂なのだ。  イリヤの体を定期的に看てくれている、という事もあるが、なによりイリヤと遠坂は生粋の魔術師である。  魔術師である事を隠して生きていく、という事をいまいち実感していないイリヤにとって、遠坂はいい先生になると思うのだ。 「――――――――」  こうして、事はそれぞれの形に収まりつつあった。  聖杯戦争によって起きた被害は、教会に派遣された新しい神父によって元の形に戻りつつあるし、俺たちの日常もこうして問題なく帰ってきた。    失ったもの、戻らないものは確かにある。  それでも傷痕は少しずつ塞がり、後悔が薄れていくのは喜ぶべき事だろう。   「――――けど、意外だったな」    と。  眼下に広がる町を見下ろして、どこか深刻な声で、遠坂は呟いた。 「? 意外だったって、何が」 「……うん。わたし、士郎はもっと落ち込むと思ってた。  しばらくは立ち直れないだろうなって思ってたのよ」    それは、もういない彼女の事だった。  あれから二ヶ月―――それだけの月日が経って初めて口にした、金の髪をした少女の話。 「そうだな。俺もそうなるだろうって思ってた。その後の事なんて、考えるだけでどうかしそうだった」 「―――けどフタを開けてみれば、士郎ったら今まで通りだったでしょ。落ち込むどころの話じゃなくて、次の日にはもうケロリとしてた」 「……その時にね、こいつ大丈夫かなー、とも思ったのよ。うまく言えないんだけど、次の日にはあっさり事故で死んじゃうような雰囲気だった」 「なんだそりゃ。なんで平気なのにあっさり死ぬんだよ」 「そういう事もあるの。人間ってのはね、何かの手違いで一生涯の目標を叶えちゃうと、それでぽっくり逝くものなのよ。  もう生きるのはいいやー、と思った途端、赤信号なのに車がつっこんできたり、あっさりと階段から落ちたりするんだから」  ……はあ。  遠坂の喩えは難解だ。  大往生とか成仏とか、そういうコトを言いたいのかも知れない。 「だから、わたしはそれが心配だった。ああいう時はね、いっそ派手に落ち込んでくれた方が周りは安心するものなの」 「なんだ。じゃあ落ち込んでたら慰めてくれたのか、遠坂」 「―――まさか。背中に蹴り入れて一日で立ち直らせてやったわよ。それが出来なくて残念だって話」  ふん、と不機嫌そうにそっぽを向く。  その様子がおかしくて、つい吹き出してしまった。 「なによ、おかしい?」 「いや、とにかく遠坂らしい厳しい台詞だったんで、安心した」  お互い、春の陽射しを見上げながら歩く。  坂道は長く、このまま果てのない青空に続いていそうだ。  そうして、なんでもない事を言うように、   「じゃあもう未練はないんだ。セイバーが、いなくなってもさ」    空を見上げたまま、遠坂は呟いた。   「―――ああ。未練なんて、きっと無い」    強がりでもなく、自分でも驚くぐらい穏やかな心で告げた。    後悔なんてないし、言い残した事もなかった。  あの別れには、全てがあった。  俺がしたかった事。  あいつが夢見たもの。  それは意地の張り合いで、本当はあいつの手を掴まえて、少女の夢を叶えるべきだったのかもしれない。    それでも―――お互いが美しいと感じたものがあって、それを必死に、最後まで守り通した。  悔いる事はない。  あいつが自分の時間をきちんと終えたように。  俺も、この思い出に留まっている訳にはいかないんだから。 「……ふうん。士郎の中では決着をつけたってコトね。  だから落ち込む事もなく、思い出に浸る事もないってわけ」 「ああ。けど、今も夢に見る。これから先も、ずっとあいつの事を思い出すよ。  いつか記憶が薄れて、あいつの声もあいつの仕草も忘れていく。  それでも―――こんな事があったと、セイバーっていうヤツが好きだったって事だけは、ずっとずっと覚えてる」  遠坂は何も言わない。  ただ、訳もなく上機嫌な体で、弾むような足取りをし始める。 「どうしたんだよ遠坂。そんなに急いで、何かあったのか?」 「別に。ただ早く学校に着きたいなって。  さ、そういうワケだから士郎も急ぐ! のんびりしてると置いてくわよ!」    くるり、と身を翻して坂道を駆け上がっていく。   「――――なんだあいつ。朝弱いクセに無理して」    ぼやきながら、鞄を背負って走り出した。  時刻はまだ七時半。  部活をやっていないぐうたら生徒には早すぎる時刻だが、まあ、早く着く分には悪いことはないと思う。    空に登っていくような坂道を走って、いつもより早く校舎へと辿り着く。    今日は新しい一年の始まる日だ。  それを祝う気持ちがあるのなら、古い思い出を振りきって急がないと。    名残は尽きず。  胸を打つ空虚に、〈泪〉《なみだ》しそうになったとしても。              ―――遠くには青い空。       こんなにも近くに感じるのに、       手を伸ばしても掴めない。    いつか、星を眺めた。  手の届かない星と、叶う事のない願いを。  共に残せた物など無く、  故に、面影も記憶もいつかは消える。 「――――――――」  それでも。  届かなくとも、胸に残る物はあるだろう。    手に残る物はないけれど、同じ時間にいて、同じ物を見上げた。  それを覚えているのなら―――遠く離れていても、共に有ると信じられる。    なくなる物があるように、なくならない物だってあると頷けるのだ。    だから、今は走り続ける。  遠くを目指していれば、いつかは、目指していたものに、手が届く日が来るだろう。            ―――冬を越えた始まりの春。  いつか彼女も見ただろう青空の下、坂道を上っていく。            ――――戦いは終わった。  彼女の最後の戦場、国を二つに分けて行われた戦いは、王の勝利で幕を下ろした。 「ハァ、ハァ、ハァ、ハ――――!」    騎士は走っていた。  戦いは終わり、血のように赤かった夕日も沈み、今では夜の闇が戦場を支配していた。  亡骸で埋め尽くされた丘は呪いに満ち、生き残った者を連れて行こうと〈怨嗟〉《えんさ》をあげる。    その中を、騎士は息を切らして走っていた。    騎士の手には手綱が握られ、傷ついた白馬が懸命に付いていく。    生き残ったものは騎士と白馬。  そして白馬の背に倒れ伏した、一人の王だけだった。   「王……! アーサー王、こちらに――――!」    自身も傷を負っているであろうに、騎士は全力で戦場を駆けていく。  〈騎士〉《かれ》が仕える王は、死に捕らわれていた。  敵軍の王を一騎打ちの末破ったものの、王自身も致命傷を負っていたのだ。  その傷は、騎士の目から見ても絶望的な物だ。  彼らが仕えた王は、まもなく死を迎えるだろう。   「お気を確かに……! あの森まで辿り着けば、必ず……!」    必死に呼びかける。    ―――或いは、騎士は真実思っていたのかもしれない。    彼らの王は不滅だと。  聖剣の導きがある限り、王は決して滅びないと。 「ハッ――――ハア、ハア、ハア、ハ――――!」    息を切らし、屍の山を越え、騎士は血に濡れていない森を目指す。  彼は王の不死身性を知っていた。  故に、この呪われた戦場を抜け、どこか清らかな場まで辿り着けたのなら、王の傷は癒えるのではと信じたのだ。    否―――そう信じるしか、出来なかった。    彼は他の騎士たちと違い、自らの王を信じていた。  宮廷では孤立し、騎士からは疎まれ、民からは恐れられた。  その窮地において私情を見せず、常に理想であり続けた若い王を誇りにさえ思った。    彼は国に仕えたのではない。    彼はこの王だからこそ剣を預け、力になろうと邁進し、若輩の身でありながら王の近衛にまで上り詰めたのだ。    素顔の見えない王。  私情を挟まず、公平無私であろうとした少年。  或いは、身近にまで行けば、王の素顔が見られるのではと期待した。    彼はただ、王の素顔が見たかったのだ。  王城や戦場で見せる顔ではなく、素顔の、人間としての笑い顔が見たかった。  それは宮廷の中、王がその責務から解放される時に表れるだろう。  いかに完璧な王とて、四六時中気を張っている事はできないのだから。    だが、その考えは間違っていた。  彼が知ったのは、期待とは裏腹の事実だけ。  近衛を任され、王の身辺を守るに至った。  他のどの騎士よりも身近に控え、その振る舞いを見続けてきた。    だというのに、一度もなかった。    彼の王が笑った事など、ただの一度もなかったのだ。 「ハッ――――ハア、ハア、ハア、ハ――――!」    それに怒りを覚えたのはいつからだろう。  これだけの偉業を成し遂げ、栄光の中にいる筈の王が。  その実、一時も安らかな顔を見せなかったのだ。    許せなかった。  そんな事はあってはならないと信じたかった。    だからこそ、いつか―――この王のかんばせに、光が与えられる事を願ったのだ。    それはまだ成し得ていない。  王はまだ孤独のまま。  故に、騎士は王の死を拒み続けた。    ここで終わらせる事は出来ない。  それではあまりにも、この偉大な王が報われないではないか、と。 「王、今はこちらに。すぐに兵を呼んでまいります」    辿り着いた森で、騎士は王の体を大樹に預けた。  事態は一刻を争う。  港に残してきた自軍まで、どれほど馬を速めようと半日。  王の命が明け方まで保つかどうかなど、目のある者ならば一目で看破しえるだろう。   「どうかそれまで辛抱を。必ず兵を連れて戻ります」    もはや意識のない王に礼をし、騎士は白馬へとって返す。     「――――ベディヴィエール」      その前に。  意識のない筈の王が、騎士の名を口にした。 「王!? 意識が戻られましたか……!?」 「……うむ。少し、夢を見ていた」    朦朧とした声。  ただ、その声がひどく―――騎士には、温かな物に聞こえた。   「夢、ですか……?」    探るように声をかける。  王の意識は確かではない。こうして聞き返さねば、また闇の中へ落ちるだろう。   「そうだ。あまり見た事がないのでな。貴重な体験をした」   「……それは。では、どうぞお気遣いなくお休みください。私はその間に兵を呼んで参ります」   「――――」    息を呑む気配。  騎士の言葉に、何か意外なものでもあったかのように。   「……王? 何かご無礼な点でも……?」 「―――いや。そなたの言い分に驚いた。夢とは、目を覚ました後でも見れるものなのか。違う夢ではなく、目を瞑れば、また同じものが現れると……?」    今度は騎士が驚く番である。  彼は言葉に詰まった後、それが偽りと知りながらも返答する。   「―――はい。強く思えば、同じ夢を見続ける事も出来るでしょう。私にも経験があります」    そのような事はない。  夢とは元々、一度きりで連続しないものを言う。  それでも騎士は偽った。  これが最初で最後の、王に対する不正と詫びて。   「そうか。そなたは博識だな、ベディヴィエール」    王は感心するように呟く。  その顔は伏せたままで、騎士を見上げる事もしない。  王は、もはやしている事さえ判らないほど小さな息遣いのまま、静かに、   「ベディヴィエール。我が名剣をもて」    掠れた声で、最後の命を口にした。   「よいか。この森を抜け、あの血塗られた丘を越えるのだ。その先には深い湖がある。そこに、我が剣を投げ入れよ」 「―――! 王、それは……!」    それがどういう事なのか、騎士には判っていた。  湖の剣。  今まで王を守り、王の証であった剣を手放すという事は、彼が仕えた王の終わりを意味するのだから。   「―――行くのだ。事を成し得たのならばここに戻り、そなたが見た事を伝えてほしい」    王の言葉は変わらない。  騎士は聖剣を手にし、迷いを断ち切れぬまま丘を越えた。    ―――そうして。  騎士は三度に渡り、剣の返還を〈躊躇〉《ためら》った。    湖は確かにあった。  だが剣を投げ入れる事ができなかった。  剣を投げ入れれば、王はいなくなる。  騎士は王を惜しむあまり剣を捨てられず、踵を返し、王の元へと立ち帰る。    王は騎士に繰り返す。  剣を捨てたと嘘述する騎士に、“命を守るがいい”とだけ返答する。    王の命を破る、という事は騎士にとっては大罪に等しい。    それでも彼は二度に渡り命に背いた。  湖を前にする度に、王の命を惜しんだのだ。    ―――だがそれも終わり。  もはや王の意思を変えられぬと悟った騎士は、三度目にして、剣を湖へと投げ入れた。    聖剣は湖に還る。    水面より現れた〈皓〉《しろ》い腕が剣を受け止め、三度空を巡ったあと、聖剣はこの世界から消失した。   「――――――――」    そうして、騎士は受け入れた。  王の終わり。  その、あまりに長かった責務が、ここにこうして終わったのだと。    三度に渡り丘を越えた頃、森は朝日に煙っていた。    戦場跡は遠く。  血塗られた戦いの面影などない、清らかな〈薄靄〉《うすもや》の中。   「―――湖に剣を投げ入れてまいりました。剣は湖の婦人の手に、確かに」    騎士の言葉に、王は瞑っていた目蓋を開けた。   「……そうか。ならば胸を張るがよい。そなたは、そなたの王の命を守ったのだ」    死を迎えたその声に、騎士は静かに頷いた。    ―――全ては終わったと。  この先、彼らの国の動乱は続くだろう。戦いは終わらず、遠からず滅びの日がやってくる。    だが、王の戦いはこれで終わりだ。  彼―――いや、彼女はその役目を、最後まで果たしたのだから。    ……光が消える。  事を為し遂げ、彼女を保っていた最後の力が失われたのか。     「―――すまないなベディヴィエール。     今度の眠りは、少し、永く――――」      ゆっくりと眠るように。  彼女は、その瞳を閉じていった。    ……朝焼けの陽射しが零れる。  森は静かに佇み、彼の王は眠りについた。   「――――――――」    騎士はその姿を見守り続ける。  彼が望んだ王の姿。  たった一人の騎士に看取られた孤独な王。    だが―――その顔は、彼が望んだものだった。    穏やかな眠り。  王は最期に、今まで得られなかった安らぎを得られたのだ。    それが、ただひたすらに嬉しかった。  騎士はその安らぎを与えてくれた誰かに感謝し、誇らしい気持ちのまま王を見守る。                   天は遠く、晴れかかった空は青い。       戦いは、これで本当に終わったのだ。   「――――見ているのですか、アーサー王」      呟いた言葉は風に乗る。  眠りに落ちた王は、果てのない青に沈むように。     「夢の、続きを――――」      遠い、遠い夢を見た。                ―――――気が付けば、焼け野原にいた。      大きな火事が起きたのだろう。  見慣れた町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。    ―――それも、長くは続かない。    夜が明けた頃、火の勢いは弱くなった。  あれほど高かった炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。      ……その中で、原形を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。      この周辺で、生きているのは自分だけ。      よほど運が良かったのか、それとも運の良い場所に家が建っていたのか。  どちらかは判らないけれど、ともかく、自分だけが生きていた。      生きのびたからには生きなくちゃ、と思った。  いつまでもココにいては危ないからと、あてもなく歩き出した。  まわりに転がっている人たちのように、黒こげになるのがイヤだった訳じゃない。      ……きっと、ああはなりたくない、という気持ちより。  もっと強い気持ちで、心がくくられていたからだろう。        それでも、希望なんて持たなかった。  ここまで生きていた事が不思議だったのだから、このまま助かるなんて思えなかった。    まず助からない。  何をしたって、この赤い世界から出られまい。  幼い子供がそう理解できるほど、それは、絶対的な地獄だったのだ。          そうして倒れた。  酸素がなかったのか、酸素を取り入れるだけの機能が失われていたのか。  とにかく倒れて、曇り始めた空を見つめていた。          まわりには、黒こげになって動かなくなってしまった人たちの姿がある。  暗い雲は空をおおって、じき雨がふるのだと教えてくれた。    ……それならいい。雨がふれば火事も終わる。            最後に、深く息をはいて、雨雲を見上げた。  息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。  もうそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした。    ――――それが十年前の話だ。    その後、俺は奇跡的に助けられた。  体はそうして生き延びた。  けれど他の部分は黒こげになって、みんな燃え尽きてしまった。      両親とか家とか、そのあたりが無くなってしまえば、小さな子供には何もない。  だから体以外はゼロになった。  要約すれば単純な話だと思う。    つまり、体を生き延びらせた代償に。    心の方が、死んだのだ。              ―――――――――夢を見ている。   「――――っ」    はじめての白い光に目を細めた。  まぶしい、と思った。  目を覚まして光が目に入ってきただけだったが、そんな状況に慣れていなかった。  きっと眩しいという事がなんなのか、そもそも解っていなかったのだ。   「ぁ――――え?」    目が慣れてびっくりした。  見たこともない部屋で、見たこともないベッドに寝かされていた。  それには心底驚いたけど、その部屋は白くて、清浄な感じがして安心できた。   「……どこだろ、ここ」    ぼんやりと周りを見る。  部屋は広く、ベッドがいくつも並んでいる。  どのベッドにも人がいて、みんなケガをしているようだった。    ただ、この部屋には不吉な影はない。  ケガをしているみんなは、もう助かった人たちだ。 「――――」  気が抜けて、ぼんやりと視線を泳がす。              ――――窓の外。      晴れ渡った青空が、たまらなくキレイだった。    それから何日か経って、ようやく物事が呑み込めた。  ここ数日なにがあったのか問題なく思い出せた。  それでも、この時の自分は生まれたばかりの赤ん坊と変わらなかった。    それは揶揄ではなく、わりと真実に近い。    とにかく、ひどい火事だったのだ。  火事場から助け出されて、気が付いたら病室にいて、両親は消えていて、体中は包帯だらけ。  状況は判らなかったが、自分が独りになったんだ、という事だけは漠然と分かった。    納得するのは早かったと思う。  ……その、周りには似たような子供しかいなかったから、受け入れる事しか出来なかっただけなのだが。            ―――で、そのあと。  子供心にこれからどうなるのかな、なんて不安に思っていた時に、そいつはひょっこりやってきた。      包帯がとれて自分でご飯が食べられるようになった日に、その男はやってきた。    しわくちゃの背広にボサボサの頭。  病院の先生よりちょっとだけ若そうなそいつは、お父さんというよりお兄さんという感じだった。   「こんにちは。君が士郎くんだね」    白い陽射しにとけ込むような笑顔。  それはたまらなく胡散臭くて、とんでもなく優しい声だったと思う。   「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」    そいつは自分を引き取ってもいい、と言う。  親戚なのか、と訊いてみれば、紛れもなく赤の他人だよ、なんて返答した。  ……それは、とにかくうだつのあがらない、頼りなさそうなヤツだった。  けど孤児院とそいつ、どっちも知らないコトに変わりはない。  それなら、とそいつのところに行こうと決めた。   「そうか、良かった。なら早く身支度をすませよう。新しい家に、一日でも早く慣れなくっちゃいけないからね」    そいつは慌ただしく荷物をまとめだす。  その手際は、子供だった自分から見てもいいものじゃなかった。  で、さんざん散らかして荷物をまとめた後。   「おっと、大切なコトを言い忘れた。  うちに来る前に、一つだけ教えなくちゃいけないコトがある」    いいかな、と。  これから何処に行く? なんて気軽さで振り向いて、    「――――うん。  初めに言っておくとね、僕は魔法使いなんだ」    ホントに本気で、仰々しくそいつは言った。    一瞬のコトである。  今にして思うと自分も子供だったのだ。  俺はその、冗談とも本気ともとれない言葉を当たり前のように信じて、   「――――うわ、爺さんすごいな」    目を輝かせて、そんな言葉を返したらしい。  以来、俺はそいつの子供になった。  その時のやりとりなんて、実はよく覚えていない。    ただ事あるごとに、親父はその思い出を口にしていた。  照れた素振りで何度も何度も繰り返した。    だから父親―――〈衛宮切嗣〉《えみやきりつぐ》という人間にとって、そんなコトが、人生で一番嬉しかった事なのかも知れなかった。  ……で。  事故で両親と家を失った子供に、自分は魔法使いなんだ、なんて言葉を投げかけた〈切嗣〉《オヤジ》も〈切嗣〉《オヤジ》だけど、  それが羨ましくって目を輝かせた俺も俺だと思う。    そうして俺は親父の養子になって、衛宮の名字を貰った。  〈衛宮士郎〉《えみやしろう》。  そう自分の名前を口にした時、切嗣と同じ名字だという事が、たまらなく誇らしかった。              ………夢を見ている。    幼い頃の話。  ちょうど親父を言い負かして弟子にしてもらった頃だから、今から八年ぐらい前だろう。    俺が一人で留守番できるようになると、切嗣は頻繁に家を空けるようになった。  切嗣はいつもの調子で「今日から世界中を冒険するのだ」なんて子供みたいな事を言い、本当に実行した。    それからはずっとその調子だった。  一ヶ月いないなんてコトはザラで、酷い時は半年に一度しか帰ってこなかったコトもある。  衛宮の家は広い武家屋敷で、住んでいたのは自分と切嗣だけだ。  子供だった自分には衛宮の屋敷は広すぎて、途方にくれた事もある。    それでも、その生活が好きだった。  旅に出ては帰ってきて、子供のように自慢話をする衛宮切嗣。  その話を楽しみに待っていた、彼と同じ苗字の子供。  いつも屋敷で一人きりだったが、そんな寂しさは切嗣の土産話で帳消しだった。    ―――いつまでも少年のように夢を追っていた父親。    呆れていたけど、その姿はずっと眩しかったのだ。  だから自分も、いつかはそうなりたいと願ったのかもしれない。          ………まあついでに言うと。    あんまりにも夢見がちな父親に、こりゃあ自分がしっかりしなくちゃいけないな、なんて、子供心に思った訳だが――――  ……音がした。  古い、たてつけが悪くて蝶〈番〉《つがい》も錆びて無闇に重い、扉が開く音がした。  暗かった土蔵に光が差し込んでくる。 「――――っ」  眠りから目覚めようとする意識が、   「先輩、起きてますか?」    近づいてくる足音と、冬の外気を感じ取った。 「……ん。おはよう、桜」 「はい。おはようございます、先輩」 「先輩、朝ですよ。まだ時間はありますけど、ここで眠っていたら藤村先生に怒られます」 「と……そうだな。よく起こしに来てくれた。いつもすまない」 「そんな事ありません。先輩、いつも朝は早いですから。  こんなふうに起こしに来れるなんて、たまにしかありません」  ……?  何が嬉しいのか、桜はいつもより元気がある。 「……そうかな。けっこう桜には起こされてるぞ、俺。  けど藤ねえにはたたき起こされるから、桜の方が助かる。……うん、これに懲りずに次は頑張る」  ……寝起きの頭で返答する。  あんまり頭を使っていないんで、自分でも何を言っているか判らなかった。 「はい、わかりました。でも頑張ってもらわない方が嬉しいです、わたし」  桜はクスクスと笑っている。  ……いけない。まだ寝ぼけていて、マトモな台詞を口にしなかったようだ。 「―――ちょっと待ってくれ。すぐ起きるから」  冬の冷たい空気は、こういう時に役に立つ。  寒気は寝不足で呆っとした思考を、容赦なくたたき起こしてくれた。          ……目の前には後輩である〈間桐桜〉《まとうさくら》がいる。  ここは家の土蔵で、時刻は午前六時になったばかり、というところ。 「……先輩?」 「ああ、目が覚めた。ごめんな桜、またやっちまった。  朝の支度、手伝わないといけないのに」 「そんなのいいんです。先輩、昨夜も遅かったんでしょう? なら朝はゆっくりしてください。朝食の支度はわたしがしておきますから」  弾むような声で桜は言う。  ……珍しい。本当に、今朝の桜は元気があって嬉しそうだ。 「ばか、そういう訳にいくか。今起きるから、一緒にキッチンに行こう」 「よし、準備完了。それじゃ行こう、桜」 「あ……いえ、その、先輩」 「? なんだよ、他に何かあるのか」 「いえ、そういうコトではないんですけど……その、先輩。家に戻る前に着替えた方がいいと思います」 「――――あ」  言われて、自分の格好を見下ろした。  昨日は作業中に眠ったもんだから、体はツナギのままだった。  作業着であるツナギは所々汚れている。こんな格好のまま家に入ったら、それこそ藤ねえになんて言われるか。 「う……まだ目が覚めてないみたいだ。なんか普段にまして抜けてるな、俺」 「ええ、そうかもしれませんね。ですから朝食の支度はわたしに任せて、先輩はもう少しゆっくりしていてください。それにほら、ここを散らかしっぱなしにしていたら藤村先生に怒られるでしょう?」 「……そうだな。それじゃ着替えてから行くから、桜は先に戻っていてくれ」 「はい。お待ちしてますね、先輩」  桜は早足で立ち去っていった。  さて。  まずは制服に着替えて、散乱している部品を集めなくては。  この土蔵は庭の隅に建てられた、見ての通り、ガラクタを押し込んでいる倉庫である。  といっても、子供の頃から物いじりが好きだった自分にとって、ここは宝の倉そのものだ。  親父は土蔵に入る事を禁じていたが、俺は言いつけを破って毎日のように忍び込み、結果として自分の基地にしてしまった。    俺―――衛宮士郎にとっては、この場所こそが自分の部屋と言えるかもしれない。    だだっ広い衛宮の屋敷は性に合わないし、なにより、こういうガラクタに囲まれた空間はひどく落ち着く。 「……そもそも勿体ないじゃないか。ガラクタって言ってもまだ使えるし」  土蔵に仕舞われたモノは、大半が使えなくなった日用品だ。  この場所が気に入ったからガラクタを持ち込んだのか、ガラクタが山ほどあるからここが気に入ったのか。  ともかく毎日のように土蔵に忍び込んでいた俺は、ここにあるような故障品の修理が趣味になった。  特別、物に愛着を持つ性格ではない。  ただ使える物を使わないのが納得いかないというか、気になってしまうだけだと思う。  そんなこんなで、昨夜は一晩中壊れたストーブを修理していた。 「……完成は明日か。途中で寝るなんて、集中力が足りない証拠だ」  軽い自己嫌悪を振り払う。  とりあえずストーブの部品を集めて、修理待ち用の棚にしまった。  修理待ち用の棚に空きはない。このストーブを直したら、次は時代遅れのビデオデッキが待っている。  ……そのどちらも藤ねえによって破壊された、という事実はこの際無視する事にしよう。 「……よっと」  作業着から制服に着替える。  土蔵は自分の部屋みたいなものなので、着替えも生活用具も揃っていた。  あとはそう、所々に打ち捨てられた書き殴りの設計図と、修練の失敗作ともいえるガラクタが大半だ。  もともとは何かの祭壇だったのか、土蔵の床には何やら紋様が刻まれていたりもする。 「―――さて。今日も一日、頑張って精進しよう」    ぱん、と土蔵に手を合わせ、屋敷へと足を向けた。  土蔵から屋敷に向かう。  この衛宮邸は、町外れにある武家屋敷だ。  〈切嗣〉《オヤジ》は町の名士だった訳でもないのに、こんな広い家を持っていやがった。  それだけでも謎なのに、衛宮切嗣には日本に親戚がいないらしい。  だから親父が死んだ後、この広い屋敷は誰に譲られる事もなく、なし崩し的に養子である自分の物になってしまった。  だがまあ、実際の話、俺にそんな管理能力はない。  相続税とか資産税だとか、そういった難しい話は全て藤村の爺さんが受け持ってくれている。  藤村の爺さんは近所に住んでいる大地主だ。  〈切嗣〉《オヤジ》曰く、“極道の親分みたいなじじい”。  無論偏見だ。  藤村の爺さんは極道の親分みたいな人ではなく、ずばり極道の親分なんだから。 「…………」  それはそれで多大に問題があるが、あえて追及しない方針でいきたい。  ともかく、そんな訳でこの広い屋敷に住んでいるのは自分だけだ。  〈切嗣〉《オヤジ》が死んでからもう五年。  月日が経つのは本当に早い。  その五年の間、自分がどれだけ成長できたのか考えるとため息が出る。  切嗣のようになるのだと日々修練してきたけど、現実はうまくいかない。  初めから素質がなかったから当然と言えば当然なのだが、それでも五年間まったく進歩がない、というのは考え物だろう。    現状を一言で表すなら、理想が高すぎてスタート地点にさえ立てていない、といったところ。 「―――――――」  いや、焦ってもいい事はないか。  とりあえず、今は出来る事を確実にこなしていくだけだ。  さて。  とりあえず、今やるべき事といったら――――      ―――そうだな、桜の手伝いをしないと。    後輩に頼りっきりというのは決まりが悪いし、こんな早くから来てくれている桜に申し訳がない。  が、時すでに遅し。  朝食はもう出来上がっているようだ。  桜らしい、上品な〈朝餉〉《あさげ》の匂いがキッチンから伝わってくる。  桜は調理を終えて、あとはテーブルに並べるだけと食器棚を覗いていた。 「面目ない。せめて食器の用意ぐらいはやるから、桜は座っててくれ」 「え……? あ、もう来ちゃったんですか先輩?」 「もうじゃないぞ。六時十分っていったら朝飯を食ってる時間じゃないか。完全に寝坊だよ」 「そんな事はないと思いますよ。先輩は部活をしていないんですから、この時間は十分に早起きです」 「部活は関係ない。それを言ったら、朝練がある桜がうちに来てくれるのも問題じゃないか」 「ぁ……いえ、わたしは好きでしている事ですから、部活の事は気にしないでください」 「ああ、それは何度も聞いた。だから俺も部活に関係なく早起きしてるんだ。桜が来てくれるなら、その時間には起きてないと失礼だろ」  自分にとって早起きとは桜がやってくる前に起きる事で、寝坊っていうのは今朝みたいに桜一人に朝食の支度をさせてしまう事だ。  もっとも、それも一年半前からの習慣にすぎないのだが。 「ともかく桜は休んでろよ。あとは並べるだけなんだから、それぐらい俺にやらせてくれ」  桜の横に並んで、棚から食器を取り出す。  桜は妙に意固地な所があって、こういう時は強引にやらないと休んでくれないのだ。 「あ、ならわたしもお手伝いします。お皿にはわたしが盛りますから、先輩はお茶碗を出してください」 「いや、だから全部こっちでやるからいいってば」 「いけませんっ。先輩はおうちの主人なんですから、朝ぐらいはどーんと構えていてください」 「どーんと構えろって、桜一人に働かせてのんびりしてる主人なんて家主失格だぞ。いいから、桜は居間に行ってろって」 「はい、ぜひ失格してください。これ、いつもおいしいご飯を食べさせて貰っているお返しなんです。だから出来れば、先輩にはゆっくりしていてほしいです」 「む。食費だったら折半なんだから、桜が気にする事じゃない。感謝なんて言ったら俺がしたいぐらいだ。桜が来てくれるようになってから、メシが豪勢になったからな」 「やっぱり。先輩、分かってなかったんですね。先輩のおうちのご飯がおいしいのは、そういうコトじゃないんです」 「? そういうコトじゃないって、どういうコトだ」 「いえ、なんでもありません。けど責任とってくださいね。わたし、先輩の家じゃないとご飯をおいしくいただけなくなっちゃったんですから」 「ば―――ばか、おかしなコト言うなっ。  藤ねえに聞かれたらどうするんだ、あの人には冗談なんて通じないんだから」 「そうですね。藤村先生に聞かれたらタイヘンです」 「まったくだ。あんまりおかしなコト言うな」 「はい、言いません。言いませんからお手伝いしていいですよね、先輩?」 「…………」  桜はあくまで自然に、慌てた風もなくこっちを見上げている。 「いいよ、好きにしろ。そんなにやりたきゃ桜に任せる」 「はい。好きにします、わたし」 「……まったく。ホントに最近言うこと聞かなくなったよな、桜」 「ですね。藤村先生に似てきたのかもしれません」  柔らかに言って、桜はとなりの棚に手を伸ばした。  さらり、と落ちる黒髪と、滑らかそうな体が目に付く。 「――――っ」  ……なんていうか、困る。  成長期なのか、ここ最近の桜は妙に女っぽい。  なにげない仕草や、こういった横顔がキレイに見えてつい顔を逸らしてしまう。 「先輩? どうかしましたか?」 「―――いや、どうもしてない。どうもしてないから気にしないでくれ」 「?」  ……ほんと、まいる。  友人の妹相手に何を緊張してるんだ俺は。  桜はあくまで出来のいい後輩であり、面倒をみなくちゃいけない年下だ。  桜は親しくしていた友人の妹だが、一学年下だったため特別親しかった訳でもない。  それがこういった協力関係になったのは一年半前からだ。  俺がケガをした時に桜が食事を作りに来てくれて、あとはそのまま、こんな感じになってしまった気がする。  ……俺のケガが治るまで、と決めていたように思えるのだが、なにかほんっとーに些細な出来事があって、なんとなーく家事手伝いを続けてもらう事になったような。  ともあれ、桜の料理はうまいし、洗濯掃除も完璧だ。  こうして朝も早くから手伝いに来てくれてとても助かるのだが、最近はちょっと微妙だ。  問題は桜にあるんじゃなくて、あくまで自分にある。 「――――」  友人の妹にドキマギしてしまう、という後ろめたさもあるんだろう。  普段はどうという事もないのに、時折さっきみたいな不意打ちをくらうと赤面しちまうのは、先輩として問題があるのではなかろうか……?  衛宮邸には立派な道場がある。  家を建てる時、ついでだからと建てられたものだ。  道楽以外の何物でもない。 「――――さて」  朝食の前に軽く体を動かしておこう。  別に武術をやっているワケではないのだが、 『僕の真似事をするんなら、まず身体を頑丈にしとかないと』  なんて〈切嗣〉《オヤジ》に言われて以来、こうして体を鍛えるのが日課になったのだ。 「……九十九っ、百、と……」    定番の腹筋運動を切り上げて、道着から制服に着替える。  今朝は寝坊したんで、気持ち分だけ体を動かす時間を少なくした。  柔軟を省略して、腹筋だけ切りのいい回数までこなせば充分だ。  自分はそう筋肉が付いてくれる骨格じゃないし、いくら体が資本といっても、殴り合いをしたいワケじゃない。  身体能力は突然の事故に対応できる程度、自分の無茶がイメージ通りに実現できるだけで充分だ。  そもそも自分のなりたいモノは、スポーツマンとは正反対なモノのワケだし。 「……と、もうこんな時間か」  汗を吸った道着を洗濯籠に入れる。  時刻は六時二十分。  朝が早い衛宮邸では、この時間帯でもやや遅い朝食になってしまう。  朝食の支度は完全に整っていた。  桜らしい、上品な〈朝餉〉《あさげ》の匂いが食卓から伝わってくる。 「お疲れさまでした。こっちも朝食の支度、終わりましたよ」 「ん、サンキュ。……すまん、俺が寝過ごした分、桜に無理させちまって」 「そんな、ぜんぜん無理なんかじゃないですよー。それに寝坊なんかじゃありません。先輩は部活をしていないんですから、この時間は十分に早起きです」 「部活は関係ないよ。それを言ったら、朝練がある桜がうちに来てくれるのって、凄い早起きじゃないか」 「ぁ……いえ、わたしは好きでしている事ですから、部活の事は気にしないでください」 「ん、それは何度も聞いた。  ……まあ、だから俺も部活に関係なく早起きしたいんだ。桜が来てくれるなら、その時間には起きてないと失礼だろ」  自分にとって早起きとは桜がやってくる前に起きる事で、寝坊っていうのは今朝みたいに桜一人に朝食の支度をさせてしまう事だ。 「ふふ。先輩、そういうところこだわりますよね。〈美綴〉《みつづり》先輩、衛宮は粗雑なクセに律儀すぎてうるさいって」  美綴というのは桜が所属する弓道部の女主将で、なにかと因縁のある女生徒だったりする。 「…む。〈美綴〉《あいつ》、まだ俺への文句を桜にこぼしてんのか?」 「はい。先輩が卒業するまでになんとしても射でうならせてやるって、毎日がんばってます」 「……はあ。今じゃ〈美綴〉《あいつ》のが段位高いだろうに。アレかな、思い出は無敵ってヤツかな。美化されてるのは悪い気分じゃないけど、それも人によりけりって言うか」 「美綴先輩、すっごく負けず嫌いですから。きっと心の中で先輩をライバルみたいに思ってますよ」  言いつつ、桜はお茶碗にごはんを盛っていく。  時刻は六時半になろうとしている。  弓道部の朝練は七時からだ。  自主参加制とはいえ、あまりのんびりしてはいられない。 「藤ねえ……はそろそろか。ま、この時間に来ない方が悪いんだし。桜、先に食べていよう」 「そうですね。はい、どうぞ先輩」  にっこりと笑ってお茶碗を差し出してくる桜。 「――――――――、っ」  ……と。  毎朝慣れているコトなのに、つい、その白い指に目を奪われた。 「――――っ」  ……なんていうか、困る。  成長期なのか、ここ最近の桜は妙に色っぽい。  なにげない仕草がキレイに見えて、息を呑むコトが多くなった。  今まで桜に異性を感じていなかった反動か、余計に女性らしさを意識してしまうのだろうが――― 「先輩? どうかしましたか?」 「―――いや、どうもしてない。どうもしてないから気にしないでくれ」 「?」  ……ほんと、まいる。  友人の妹相手に何を緊張してるんだ俺は。  桜はあくまで出来のいい後輩であり、面倒をみなくちゃいけない年下だ。  桜は友人の妹だが、一学年下だったため特別親しかった訳でもない。  それがこういった協力関係になったのは一年半前からだ。  確か俺がケガをした時に桜が食事を作りに来てくれて、あとはそのままこんな感じになってしまった気がする。  俺のケガが治るまで、と決めていたように思えるのだが、なにかほんっとーに些細な出来事があって、なんとなーく家事手伝いを続けてもらう事になったような。  ともあれ、桜の料理はうまいし、洗濯掃除も完璧だ。  こうして手伝いに来てくれてとても助かるのだが、最近はちょっと微妙だ。  問題は桜にあるんじゃなくて、あくまで自分にある。 「――――」  ……友人の妹にドキマギしてしまう、という後ろめたさもあるんだろう。  普段はどうという事もないのに、時折さっきみたいな不意打ちをくらうと赤面しちまうのは、先輩として問題があるのではなかろうか……? 「〈一成〉《いっせい》、いるか?」 「いるぞ。今朝は少し遅かったな、衛宮」  予習でもしていたのか、ペーパーらしきものに目を通していた男子生徒が顔をあげる。 「一成だけか。他の連中はどうしたんだ。この時間なら登校しててもおかしくないだろ」 「いや、生憎とうちのメンバーはビジネスライクでね。  働く時間帯はきっかり決まっていて、早出と残業はしたくないのだそうだ」 「それで生徒会長自らが雑用か。ここはここで大変そうだな」 「なに、好きでしている苦労だ。〈衛宮〉《えみや》に同情してもらうのは筋が違う」 「? いや、一成に同情なんてしてないぞ?」 「うむ、それはそれで無念だが聞き流すとしよう。情が移っているという事では同じだからな」  トントン、と読んでいたペーパーを整える一成は、この生徒会室の大ボスだ。  緩みきっている生徒会を根本から改革しようと躍起になっているヤツで、自分とは一年の頃からの友人である。  フルネームを〈柳洞一成〉《りゅうどういっせい》。  古くさい名前とは裏腹に優雅な顔立ちをしていて、実際女生徒に絶大な人気がある。  しかも生徒会長だっていうんだから、まさに鬼に金棒、虎に翼といったところなのだが、 「うむ、やはり朝は舌がしびれる程の熱湯がよい」    なんて言いながら番茶をすすっているもんだから、いまいち締まらない。  この通り、一成はとことん地味な性格だ。  誤解されやすいのだが、本人は色恋沙汰には手を出さないし、学生らしい遊びもしない。  なにしろコイツはお山にある〈柳洞寺〉《りゅうどうじ》の跡取り息子だ。  本人も寺を継ぐのを良しとしているので、卒業したら潔く丸坊主にする可能性も大である。 「それで。今日は何をするんだ」 「ん? ああ、まあともかく座って一服―――と言いたいのだが時間がないな。移動がてら説明をする故、いつもの道具を持って付いてきてくれ」 「率直に言うとな。うちの学校、金のバランスが極端なんだよ」 「知ってる。運動系が〈贔屓〉《ひいき》されてるもんで、他に予算がいかないんだろ」 「うむ。結果、文化系の部員はたえず不遇の扱いでな。  今年から文化系に予算がいくよう尽力しているのだが、予算の流れが不鮮明でうまく回っていない。おかげで未だ文化系の部室は不遇でな。  とくに冬のストーブ不足に関しては打開策がまるでない」 「そうか。―――あ、マイナスドライバーくれ。一番おっきいヤツな。あと導線も。……うん、これぐらいならなんとか」 「導線? ……えっと、これか? すまん、よく判らん。  間違っていたら叱ってくれ」 「あたってるからいいよ。で、ストーブ不足がどうしたって? ここ以外にも故障してんのがあんのか」 「ある。第二視聴覚室と美術部の暖房器具が怪しいそうだ。新品購入願いの嘆願書が刻一刻と増えている」 「けど予算にそんな余裕はない、と。……やっぱり劣化してるだけだな。中がイカレてなくて助かった」 「……ふむ。直りそうか、衛宮?」 「直るよ。こういう時、古いヤツは判りやすくていい。  配線系のショートだから新しいのに替えれば、とりあえず今年いっぱいは頑張ってくれる」 「そうか! やるな衛宮、おまえが頼りになると極めて嬉しいぞ」 「おかしな日本語使うね、一成。  ……っと、もう少しで済むから、ちょっと外に出ててくれ」 「うむ、衛宮の邪魔はせん」  静かに教室から出ていく一成。  ……どうも、ここから先はデリケートな作業だと勘違いしたみたいだ。 「……いや、デリケートと言えばデリケートなんだけど……」  古びた電気ストーブに手を触れる。  普通、この手の修理に慣れているからと言って、見るだけでは故障箇所は判断できない。  それが判るという事は、俺のやっている事は普通じゃないってことだ。  視覚を閉じて、触覚でストーブの中身を視る。  ―――途端。  頭の中に湧き上がってくる一つのイメージ。 「……電熱線が断線しかかってるのが二つと……電熱管はまだ保つな……電源コードの方は絶縁テープでなんとかなる……」  ……良かった、手持ちの工具だけで修理できる破損内容だ。  電熱管がイカレていたら素人の手には負えない。  その時は素人じゃない方法で“強化”しなくてはいけなかったが、これなら内部を視るだけで十分だ。    それが切嗣に教わった、衛宮士郎の“魔術”である。 「――――よし、始めるか」  カバーを外して内部線の修理に取りかかる。  破損箇所はもう判っているんだから、あとの作業は簡単だ。 「……はあ。これだけは得意なんだけどな、俺」    そう。衛宮士郎に魔術の才能はまったく無かった。  その代わりといってはなんだが、物の構造、さっきみたいに設計図を連想する事だけはバカみたいに巧いと思う。  実際、設計図を連想して再現した時なんて、親父は目を丸くして驚いた後、「なんて無駄な才能だ」なんて嘆いていたっけ。    俺の得意分野は、あまり意味のある才能ではないそうだ。  親父曰く、物の構造を視覚で捉えている時点で無駄が多い。  本来の魔術師なら、先ほどのようにわざわざ隅々まで構造を把握する、なんていう必要はない。    物事の核である中心を即座に読みとり、誰よりも速く変化させるのが魔術師たちの戦いだと言う。  だから設計図なんてものを読みとるのは無駄な手間だし、読みとったところで出来る事といったら魔力の通りやすい箇所が判る程度の話。    そんなこんなで、自分の得意な分野はこういった故障品の修理だったりする訳だ。  なにしろ解体して患部を探し出す必要がない。  すみやかに故障箇所を探し出せるなら、あとは直す技術を持っていれば大抵の物は直せるだろう。    ま、それもこういった『ちょっとした素人知識』で直せてしまうガラクタに限るのだが。 「―――よし終わり。次に行くか」    使った導線をしまって、ドライバーとスパナを手にして廊下に出る。 「一成、修理終わったぞ」  ――――と。  廊下には、一成の他にもう一人、女生徒の姿があった。 「――――」  少しだけ驚いた。  一成と話していたのは2年A組の〈遠坂凛〉《とおさかりん》だ。  坂の上にある一際大きな洋館に住んでいるというお嬢様で、これでもかっていうぐらいの優等生。  美人で成績優秀、運動神経も抜群で欠点知らず。  性格は理知的で礼儀正しく、美人だという事を鼻にかけない、まさに男の理想みたいなヤツなんだとか。  そんなヤツだから、言うまでもなく男子生徒にとってはアイドル扱いだ。  ただ遠坂の場合、あまりにも出来すぎていて高嶺の花になっている。  遠坂と話が出来るのは一成と先生たちぐらいなもの、というのが男どもの通説だ。  ……まあ、正直に言えば、俺だって男だし。  ご多分に漏れず、自分も遠坂凛に憧れている男子生徒の一人である。 「……………」  遠坂は不機嫌そうに俺たちを見ている。  一成と遠坂の仲が悪い、というのはどうやら本当らしい。 「と、悪い。頼んだのはこっちなのに、衛宮に任せっきりにしてしまった。許せ」  おお。  あの遠坂をまるっきり無視して話し始めるあたり、一成は大物だ。 「そんなコト気にするな。で、次は何処だよ。あんまり時間ないぞ」 「ああ、次は視聴覚室だ。前から調子が悪かったそうなんだが、この度ついに天寿を全うされた」 「天寿、全うしてたら直せないだろ。買い直した方が早いぞ」 「……そうなんだが、一応見てくれると助かる。俺から見れば臨終だが、おまえから見れば仮病かもしれん」 「そうか。なら試そう」  朝のホームルームまであと三十分ほどしかない。  直すのなら急がないと間に合わないだろう。  一成に促されて視聴覚室に向かう。  ただ、顔を合わせたのにまるっきり無視する、というのは失礼だ。  ぼう、と立ったままの遠坂に振り返る。 「朝早いんだな、遠坂」  素直な感想を口にして、一成の後に付いていった。 「ギリギリ間にあったか。すまんな衛宮、また苦労をかけた。頼み事をした上に遅刻させては友人失格だ」 「別に気にするな。俺が遅刻する分には大した事じゃないだろ。まあ、一成が遅刻するのは問題だけど」 「もっともだ。いや、間に合ってよかった」  一成はほう、と胸を撫でおろして自分の席に向かう。  時刻は八時ジャスト。  ホームルーム開始前の予鈴が鳴ったから、あと五分もすれば藤ねえがやってくる。 「―――ふう」  視聴覚室から走ってきたんで、少し息があがっている。  軽く深呼吸をしてから自分の席に向かう。 「朝から騒がしいね衛宮。部活を辞めてから何をしてるかと思えば〈柳洞〉《りゅうどう》の太鼓持ち? 僕には関係ないけどさ、うちの評判を落とすような事はしないでよね。君、なんていうか節操ないからさ」  と。  席の前には、中学時代からの友人である〈間桐慎二〉《まとうしんじ》が立っていた。  間桐、という姓で判る通り、桜の一つ上の兄貴である。 「よ。弓道部は落ち着いてるか、慎二」 「と、当然だろう……! 部外者に話してもしょうがないけど、目立ちたがり屋が一人減ったんで平和になったんだ。次の大会だっていいところまで行くさ!」 「そうか。美綴も頑張ってるんだな」 「はあ? なに見当違いなコト言ってんの? 弓道部が記録を伸ばしてるのは僕がいるからに決まってるじゃんか。衛宮さ、とっくに部外者なんだから、知ったような口をたたくと恥をかくよ?」 「そうか、気をつけよう。もっとも弓道部に用はないから関わるコトはないけどな」  鞄を机に置いて椅子を引く。 「なにそれ。僕の弓道部には興味がないってコト?」 「興味じゃなくて用だよ。部外者なんだからおいそれと道場に行くの、ヘンだろ。  けど何かあったら言ってくれ。手伝える事があったら手伝う。弦張りとか弓の直し、慎二は苦手だったろ」 「そう、サンキュ。何か雑用があったら声をかけるよ。  ま、そんなコトはないだろうけどさ」 「ああ、それがいい。雑用を残しているようなヤツは主将失格だからな。あんまり藤村先生を困らせるなよ。あの人、怒ると本気で怖いぞ」 「っ……! ふん、余計なお世話だ。ともかく、おまえはもう部外者なんだから道場に近づくなよ!」  慎二はいつもの調子で自分の席に戻っていく。  ……はて。今日はとくにカリカリしてたな、あいつ。 「ふざけたヤツだ。自分から衛宮を追い出しておいて、よくもあんな口がきける」 「なんだ一成、居たのか」 「なんだとはなんだ! 気を利かして聞き耳を立てていた友人に向かって、なんと冷淡な男だオマエは!」 「? なんで気を利かすのさ。俺、一成に心配されるような事してないぞ」 「たわけ、心配もするわ。衛宮はカッとなりやすいからな。慎二に殴りかかれば皆は喝采を送るが、女どもからは非難の嵐だ。友人をそんな微妙な立場に置くのはよろしくない」 「そっか。うん、言われてみればそうだ。ありがとう一成。そんなコトにはならないだろうけど、今の心配はありがたい」 「うむ、分かればよろしい。……だが意外だったぞ。衛宮は怒りやすいクセに、間桐には寛大なんだな」 「ああ、アレは慎二の味だからな。つきあいが長いと慣れてくる」 「ふむ、そんな物か」 「そんな物です。ほら、納得したら席に戻れよ。そろそろ藤村先生がスッ飛んでくるぞ」 「ははは。あの方は飛んでくるというより浮いてくるという感じだがな」  ホームルーム開始の鐘が鳴る。  通常、クラス担任は五分前に来るものだが、このクラスの担任はそういう人ではない。  2年C組にとってホームルームの開始は今のベルから一分ほど経過したあと、つまり、   「遅刻、遅刻、遅刻、遅刻、遅刻~~~!」    なんて叫びながら、ダダダダダー、と突進してくる藤ねえを迎え入れる所から始まるのだ。 「よし間に合ったーあ! みんな、おは――――」  ぎごん、と。  生物的にヤバイ音をたてて、藤ねえはスッ転んだ。 「――――――――」  さっきまでの慌ただしさから一転、教室はなんともいえない静寂に包まれる。  この唐突なまでの場面転換。  さすが藤ねえ、人間ジェットコースターの名は伊達じゃない。  ……にしても、今のはシャレにならない角度だった。  藤ねえは教壇に頭をぶつけたまま倒れている。  俯せになって顔が見えないところがまた、否応無しに嫌な想像をかき立てる。 「……おい、前の席のヤツ、先生起こしてやれよ」 「……えー、やだよー……近づいた途端、パクッって食べられたら怖いもん……」 「……ミミックじゃあるまいし、さすがに藤村でもそこまでやらねえだろ」 「アンタね、そういうんなら自分で起こしてあげなさいよ」 「うわ、俺パス。こういうの苦手」 「あたしだって苦手よ! だいたいなんで女の子にやらせるわけ!? 男子やりなさいよね、男子!」  最前列はなにやら荒れ始めている。  席が真ん中あたりにある我々としては、いまいち藤ねえがどんな惨状になっているか判らない。    判らないんで、みんなで席を立ってのぞき込む。 「ちょっと、先生動いてないぞ。気絶してんじゃないのか」  もっともな意見を誰かが言った。  ただ問題は、その場合どうやって藤ねえを保健室まで連れて行くかだ。  みんなも、ここ一年藤ねえとつき合ってきた猛者たちだ。  いい加減、担任を保健室に連れて行く、なんて慣習は打破したいと思っているのではなかろうか。 「ふじむらセンセー……? あのー、大丈夫ですかー?」    勇気ある女生徒が声をかける。  藤ねえはピクリとも動かない。  動揺はますます広がっていく。 「……まずいって今の転び方。こう頭から直角に教壇に突っ込んだじゃないか。アレで無傷だったら藤村無敵っぽいって」 「んー、いっそのこと野球部にスカウトするのはどうだろう」 「や、やめろよなそういう脅しは……! タイガーが顧問になった日にゃ、オレたち甲子園いっちまうぞ!?」 「藤村センセ、藤村センセー……! だめ、なんか反応ないよぅ……!」 「おい、おまえ目の前なんだから起こしてやれよ」 「ええ!? イヤだよオレ、もし死んでたら殺されかねねえ!」 「でもぉ、だからってほっといたら後が怖いと思うしぃ」 「でも誰も近づきたくない、と」 「……仕方ねえなあ。こうなったらアレしかないか」 「うん、アレだね」  みんなの心が一つになる。  ……ああ、例外として俺と慎二だけは、そんな恐ろしいコトはできないので黙っていた。 「せーのっ、起きろー、タイガー」    全員が声を合わせたわりには、呟くような大きさだった。  とくに『タイガー』の発音は聞こえないぐらい小さい。  だというのに。    ……ぴくっ。  と、沈黙していた藤ねえの体が反応する。 「うお、動いた!? 効き目ありだぞみんな!」 「よし続けろ! ガコロウトンの計じゃ!」  期末試験が迫ってきているんで、みんなてんぱっていたんだろう。  よせばいいのに、ブンブンと腕を振り回して藤ねえのあだ名を連呼する。 「起きろータイガー。朝だぞー」 「先生、起きないとタイガーです!」 「負けるなタイガー! 立ち上がれタイガー!」 「よーし、起きろ先生! それでこそタイガーだぜ!」 「ターイーガー! ターイーガー!」         「がぁ―――!  タイガーって言うな―――っ!」  轟雷一閃。  あれほどの打撃をうけてノーダメージだったのか、雄々しく大地に立つ藤ねえ。 「……あれ? みんな何してるの? だめよ、ホームルーム中に席を立っちゃ。ほらほら、始めるから座りなさい」    藤ねえはいつもの調子で教壇に立つ。  ……どうも、教室に飛び込んできてから立ち上がるまでの記憶が、ポッカリ抜け落ちているようだ。 「……おい、タイガー覚えてないみたいだぞ」 「……ラッキー、朝からついてるな、俺たち」 「……いや、ついてるっていうのかな、こういうの……」  ガヤガヤとそれぞれの席に戻る生徒たち。 「むっ。いま誰か、先生のことバカにしなかった?」 「いえ、してないっすよ。気のせいじゃないっすか」 「そっか、ならよし。じゃあ今朝のホームルームをはじめるから、みんな大人しく聞くように」  藤ねえはのんびりとホームルームを始める。  ちょっとした連絡事項の合間合間に雑談をするもんだからちっとも進まない。 「そういう訳だから、みんなも下校時刻を守るように。  門限は六時だから、部活の子たちも長居しちゃだめよ」 「えー、六時っていったらすぐじゃんかー。大河センセー、それって運動系は免除されないの?」 「されませんっ。それと後藤くん、先生のことは藤村先生って言わなくちゃダメなんだから。次に名前で呼んだら怒るからね?」 「はーい、以後注意しまーす」  後藤くんは全然注意しないよーな素振りで着席した。  ……なんて甘い。  藤ねえは怒るといったら怒る人だ。相手が生徒だろうが自分が教師だろうが関係ない。  今のは限りなく本気に近い最後通牒なんだって、後藤のヤツ気づいていない。 「それじゃ今日のホームルームはここまで。みんな、三時限目の英語で会おうねー!」  手のひらをヒラヒラさせて去っていく藤ねえ。  2年C組担任、〈藤村大河〉《ふじむらたいが》。  あだ名はタイガー。  いやもう本気かってあだ名だけど、本当なんだから仕方がない。  大河なんて名前がついているからそう親しまれているのだが、藤ねえ本人はタイガーというあだ名を嫌がっている。  藤ねえ曰く、女の子らしくない、とかなんとか。  けど本人がああいう人なんで、あだ名が女の子らしくないのは当然というか自業自得だろう。 「授業を始める。日直、礼を」  そうして、藤ねえと入れ違いで一時限目の先生が入ってくる。  藤ねえが時間ギリギリまでホームルームをするせいで、うちのクラスの朝はいつもこんな感じだった。  そうして、いつも通り一日の授業が終了した。  部活動にいそしむ生徒、早足で帰宅する生徒、用もなく教室に残る生徒、そのあり方は様々だ。  自分はと言うと、その三つのどれにも該当しそうにない。 「すまない、ちょっといいか衛宮。今朝の続きなんだが、今日は時間あるか?」 「いや、予定はあると言えばあるけど」  俺だって遊んでいる訳じゃない。  そもそも弓道部を辞めた一番の理由は、アルバイトを優先したからだ。  親父が他界した後、生活費ぐらいは自分で出すとアルバイトを始めてもう五年。  それだけ色んな仕事をしていると、断れない付き合いというのも出てきてしまう。  とくに今日のはそういう物だ。  飲み屋の〈棚卸〉《たなおろ》しで、とにかく男手は多いほどいいから手伝いに来られるのなら来てほしい、という物だった。  ただ、自分が行かなければいけない、という手伝いでないのも確か。アレは単に、仕事が終わった後で騒ぎたいから知り合いを集めている類だし。 「――――」  選択肢は二つ。  俺は――――    やりかけた仕事だしな。  朝の続きを済ませてしまおう。 「予定変更。朝の続きだろ、任せろ。試験が始まる前に備品の修理なんて済ませちまおうぜ」 「助かる。それでは美術部の患者を見に行くとするか」 「あいよ。……っと、人払いはちゃんとしてくれよ。人目があると集中できない」 「無論だ。他の連中に邪魔はさせぬ」  早足で廊下に向かう一成に倣って、こちらも早足で教室を後にした。  校舎を出るともう完全に日は落ちていた。  学校の門は閉ざされている。  時刻は七時、門限は完全にオーバーしているが、一成のとりなしでお咎めはまったくなかった。 「いや、今日は助かった。必ずこの礼はするから、何かあったら遠慮なく言ってくれ」 「そうだな、何かあったら言うよ。まあ、とりわけ何もないとは思うけど」  別に礼がほしくて手伝いをした訳でもなし、一成に無理を言うような頼み事はないだろう。 「……まったく、人が良いのも考え物だな。衛宮がいてくれると助かるが、他の連中にいいように使われるのは我慢ならん。人助けはいい事だが、もう少し相手を選ぶべきではないか。衛宮の場合、来る人拒まず過ぎる」 「? そんなに節操ないか、俺」 「うむ。これでは心ないバカどもがいいように利用しようというものだ。衛宮も忙しい身なのだから、たまには他人の頼みなど断ってもよかろう」 「――――」  いまいち判断がつかないが、つまり一成は俺の心配をしているらしい。  衛宮は頼み事を持ちかけられると断らない。それでいて見返りは求めないから助かる、というのは中学の頃から言われてきたコトだ。  それを一成は危うく思っているのだろう。  もっとも、こっちは好きでやってる事だし、自分じゃ無理だな、と判断した事はきっぱりと断っているから問題はない。 「それは一成がするような心配じゃない。自分の事は自分が一番分かってるさ。それに、人助けは善行だろ。寺の息子が咎めるような事じゃあるまい」 「しかしな、衛宮のは度が過ぎるというか、このままいくと潰れるというか」 「忠告は受けとっとく。それじゃまた明日、学校でな」 「……うむ。それではまた明日」  納得いかない顔つきのまま一成は去っていく。  一成の家である柳洞寺はここからお山に向かわなければならない。当然、帰り道は別々という事だ。    一成には悪いが、やはりバイトを優先しよう。    顔を出すと確約した訳じゃないが、出来るかぎり善処すると言ったからには守らないと。 「いや、悪い一成。先約があるんで、今朝の続きはまたにしてくれないか」 「先約……? ああ、例のアルバイトか。そうか、それは困らせたな。こちらは今日明日で進退が決まるものでもない。俺の頼みなど気にせず労働に励んでくれ」 「すまん。明日の朝一で続きをするから、それでチャラにしてくれ」 「ん? そこまで深刻な話でもないと言っただろう。急を要していた物は今朝で片付いた。残った修理品は衛宮の手が空いた時で構わんさ」 「そっか。じゃ、バイトの休みが取れたら続きをするってコトでいいかな?」 「仔細ない。その時はまた頼りにするぞ、衛宮」  ではな、と堅苦しい挨拶をして教室を後にする一成。 「――――さて」  こっちもグズグズしてはいられない。  時間指定こそないものの、バイトに行くと決めたのなら急いで隣町に行かないと。 「……まいったな。ほんの手伝いのつもりだったのに、三万円も貰ってしまった」  棚から牡丹餅というか、瓢箪から駒というか。  今日のバイト先のコペンハーゲンは飲み屋兼お酒のスーパーマーケットみたいな所で、棚卸しには何人もの人手が必要になる。  少なくとも五人、あとはいればいるだけ楽になるという一大作業だ。  だと言うのにおやじさんはいつもの調子で、   『手伝える人は手伝ってねーん』    なんて、バイト全員に声をかけて安心しきっていたらしい。  で、フタを開けてみれば手伝いにきたアルバイトは俺一人で、あとは〈店長〉《おやじ》さんと娘のネコさんだけという地獄ぶりだった。 「バカだねアンタ、そりゃ誰も来るわけないじゃん」    おやじさんをなじるネコさんだったのだが、その予想に反して顔を出した生贄一人。 “おおー”と二人は緊張感のない拍手をして俺を迎えてくれて、仕方ないから出来る範囲で倉庫を整理しよう、という運びになった。    ――――で。  気が付けば二時間後、棚卸しは予定通り終わっていた。 「驚いたなあ。士郎くんはアレかな、ブラウニーか何かかな?」  作業後の一服、こげ茶色のケーキを食べながらおやじさんは感心していた。 「違いますっ。力仕事には慣れてるし、ここのバイトも長いし、倉庫の何処に何があるかぐらいは把握してるからですっ! 伊達にガキの頃からここで働かせてもらってません!」 「そっかー。あれ、士郎くんってもう五年だっけ?」 「そのぐらいですね。〈切嗣〉《オヤジ》が亡くなってからすぐに雇ってくれたの、おやじさんのトコだけだったし」 「ありゃりゃ。うわー、ボクも歳を取るワケだ」  もむもむとラム酒入りのケーキを頬ばるおやじさん。  ネコさんはとなりで熱燗をやっている。  ここの一家は店長が甘党で娘さんが辛党という、バランスのいい嗜好をしていらっしゃる。  で。   「んー、けど助かったわー。こんだけやってもらって、お駄賃が〈現物支給〉《ケーキ》だけっていうのもアレだし、はい、これボクからの気持ち」    ピラピラと渡されたのが万札三枚。  一週間フルに働いても届かない、三時間程度の労働には見合わない報酬だった。 「あ、ども」  さすがに戸惑ったが、貰えるからには貰っておいた。  そうしてコペンハーゲンを後にしようとしたおり、   「……んー、ちょい待ち。エミヤん、今日の話誰から聞いた?」    疲れたー、とストーブの前で丸まっていたネコさんに呼び止められた。 「えーと、たしか古海さんですけど」 「……はあ、学生に自分の仕事おしつけるんじゃないってのよ、あのバカ。まあそれはいいとして……なに、じゃあ今日の棚卸し、また聞きだったのに来たんだ」 「あー……まあ、暇だったら手伝ってくれって感じで」 「――――古海もバカだけど、エミヤんもお馬鹿さん?  まあいいけど。キミさあ、人の頼みを断ったコトないでしょ。前にアタシと父が風邪で寝込んだ時も店番してくれたし」 「? 別にそんな事はないですけど。俺、無理な注文は受けませんもん。自分で出来る事で、出来る場合だけ引き受けますから」 「……ふうん。あん時、キミも風邪引いてたんだけどね。  まあいいけど。えーと、アタシが何を言いたいかって言うとですね、エミヤんはいいヤツで、ちょっとバカで、そのあたりアタシは心配なので今度藤村にちょっとは顔出せやコラと伝えておいてほしいのです」  くい、と熱燗を飲みながらネコさんはクルクルと指を回す。  俺をトンボか何かと勘違いしているっぽい。 「はあ。……えーと、とにかく藤ねえに伝言?」 「そ。じゃね、あんまし頑張りすぎんなよ少年」 「……と、いつのまにか橋越えてら」    隣町の新都から深山町まで、ぼんやりしているうちに着いてしまっていた。  テーブルに朝食が並んでいく。  鶏ささみと三つ葉のサラダ、鮭の照り焼き、ほうれん草のおひたし、大根とにんじんのみそ汁、ついでにとろろ汁まで完備、という文句なしの献立だ。  桜と二人、きちんと座っておじぎをして、静かに食事を始める。  カチャカチャと箸の音だけが響く。  基本的に桜はお喋りではないし、こっちもメシ時に話をするほど多芸じゃない。  自然、食事時は静かになる。  普段はもうちょっと〈喧〉《やかま》しいのだが、今朝に限ってその喧しい人は、    昨夜スパイ映画でも見たのか、新聞紙で顔を隠しながら、俺たちの様子を窺っていた。 「藤村先生、ご飯時に新聞は見ない方がいいと思いますよ?」 「…………………」  遠慮がちに話しかける桜を無視する藤ねえ。  あまりにも怪しいが、朝の食卓で藤ねえが挙動不審なのはいつものコトだ。  桜も慣れているのか、とりわけ気にした風もなくご飯を食べている。  桜は、どちらかというと洋風の食事を作る。  和風の料理を覚えたのはうちに手伝いに来てからだ。  俺と藤ねえがとことん和風な舌だったから、桜もせめて朝ぐらいは、と軽い和風料理を覚えてくれたのだ。  今では師匠である俺を上回るほど桜の腕前は上がっている。  みそ汁の味も上品だし、最近では山芋を擦ってとろろ汁を作るまでの余裕を見せている。  というか、とろろ汁は今日が初出ではなかろうか。 「わるい。桜、醤油とって」 「はい―――って、大変です先輩。先輩のお醤油は昨日で切れてます」 「んじゃ藤ねえのでいいや。とって」 「藤村先生、いいですか?」  ん、と頷く藤ねえ。  ガサリ、と新聞紙が揺れる。 「はいどうぞ。とろろ汁に使うんですか?」 「ああ。とろろには醤油だろ、普通」  つー、と白いとろろに醤油をかける。  ぐりぐりとかき回した後、ごはんにかけて一口。  うむ、このすり下ろされた山芋の粘つき加減と、自己主張の激し過ぎる強烈な醤油の辛さがまた――――   「ごぶっ……! うわまず、これソースだぞソース! しかもオイスター!」   「くく、あはははははは!」    ばさり、と勢いよく新聞紙を投げ捨てる藤ねえ。 「どうだ、朝のうちにソースとお醤油のラベルを取り替えておく作戦なのだー!」  わーい、と手をあげて喜ぶ謎の女スパイ。 「あ、朝っぱらから何考えてんだアンタはっ! 今年で二十五のクセにいつまでたっても藤ねえは藤ねえだな!」 「ふふーんだ、昨日の恨み思い知ったかっ。  みんなと一緒になってお姉ちゃんをいじめるヤツには、当然の天罰ってところかしら?」 「天罰ってのは人為的なモンじゃないだろ! なんか大人しいと思ったら昨日からこんなコト考えてやがったのか、この暇人っ!」 「そうだよー。おかげでこれから急いでテストの採点しなくちゃいけないんだから。うん、そーゆーワケで急がないとヤバイのだ」  しゅた、と座り直すなり、ガババー、と凄い勢いで朝食を平らげる藤ねえ。 「はい、ごちそうさま。朝ごはん、今日もおいしかったよ桜ちゃん」 「ぁ……はい。おそまつさまでした、先生」 「それじゃあ先に行くわね。二人とも、遅刻したら怒るわよー」  んでもって、だだだだだー、と走り去っていく。  ……アレでうちの学校の教師だっていうんだから、世の中ほんと間違っている。 「……あの、先輩?」 「すまない。せっかくの朝食だっていうのに、藤ねえのヤツろくに味わいもしないで」 「いえ、そういうのではなくて……あの、昨日藤村先生に何かしたんですか? 食べ物に細工するなんて、藤村先生にしてはやりすぎですから」 「ん……いや、それがさ。昨日、ついアダ名で呼んじまった」 「それじゃあ仕方ありませんね。先輩、藤村先生に謝らなかったんでしょう?」 「面目ない。いつものコトなんで忘れてた」 「だめですよ。藤村先生、先輩にあだ名を言われるのだけは嫌がるんですから。また泣かせちゃったんでしょう」 「……泣かした上に脱兎の如く走り去らせた。おかげで昨日の英語は自習だった」  そして俺はみんなからルーズリーフで作られた学生名誉賞を受賞したが、そんなものは当然ゴミ箱に捨てた。 「もう。それじゃ今朝のは先輩が悪いです」  桜にとっても藤ねえは姉貴みたいなもんだから、基本的に藤ねえの味方なのだ。  それはそれで嬉しいのだが、藤ねえの相手を四六時中しているこっちの身にもなってほしい。  もともと藤ねえは〈切嗣〉《オヤジ》の知り合いで、俺が養子に貰われた頃からこの家に入り浸っていた人だ。  親父が他界してからも頻繁に顔を出すようになって、今では朝飯と晩飯をうちで食べていく、という見事なまでの居候ぶりを示している。    ―――いや。  そんな藤ねえがいたから、親父が死んでからも一人でやってこれたのかもしれない。  今では俺と藤ねえと桜、この三人が衛宮家の住人だった。  ……とは言っても、親父が魔術師だったのを知っているのは俺だけだ。    曰く、魔術師はその正体を隠すもの。    だから親父に弟子入りした俺も、魔術を学んでいる事は隠している。  ただ、学んでいると言っても満足な〈魔術〉《モノ》は何一つも使えない半人前だ。  そんな俺が魔術を隠そうが隠すまいが大差はないだろうが、一応遺言でもあるし、こうして隠しながら日々鍛練を続けてきた訳である。  朝食を済ませて、登校の支度をする。  テレビから流れるニュースを聞きながら、桜と一緒に食器を片づける。 「―――」  桜はぼんやりとテレビを眺めていた。  画面には“ガス漏れ事故、連続”と大げさなテロップが打ち出されている。  隣町である〈新都〉《しんと》で大きな事故が起きたようだ。  現場はオフィス街のビルで、フロアにいた人間が全員酸欠になり、意識不明の重体に陥ってしまったらしい。  ガス漏れによる事故とされているが、同じような事故がここのところ頻発している。 「今のニュース、気になるのか桜」 「え――いえ、別に。ただ事故が新都で起きているなら近いなあって。……先輩、新都の方でアルバイトしていますよね?」 「してるけど、別にそんな大きな店じゃないよ。今のニュースみたいな事故は起きないと思う」  ……とは言っても、あまり他人事ではない事件だった。  ガス漏れならどんな建物でも起きるものだし、なにより数百人もの人間が被害にあっている、というのは胸に痛い。  同じような事故が頻発しているのは、新都を急開発した時に欠陥工事をしたからだ、なんて話もあがっているとか。    真偽はどうであれ、これ以上の犠牲者は出てほしくないというのが正直な気持ちだが――― 「……物騒な話だ。俺たちも気をつけないと」 「あ、それならご心配なく先輩。ガスの元栓はいつも二回チェックしてますから安心です」  えっへん、と胸をはる桜。   「いや、そういう話でなくて」    ……うん。前から思っていたけど、桜も微妙にズレてるな。 「先輩、裏手の戸締まりはしました?」 「したよ。閂かけたけど、問題あるか?」 「ありません。それじゃあ鍵、かけますね。先輩、今日のお帰りは何時ですか?」 「少し遅くなると思う。桜は?」 「わたしはいつも通りです。たぶんわたしの方が早いと思いますから、夕食の下準備は済ませておきますね」 「……ん、助かる。俺も出来るだけ早く帰るよ」  がちゃり、と門に鍵をかける。  桜と藤ねえはうちの合い鍵を持っていて、戸締りは最後に出る人間がする決まりだ。 「行こうか。急がないと朝練に間に合わない」 「はい。それじゃ少しだけ急ぎましょうか、先輩」  桜と一緒に町へ歩き出す。  長い塀を抜けて下り坂に出れば、あとは〈人気〉《ひとけ》の多い住宅地に出るだけだ。  衛宮の家は坂の上にあって、町の中心地とは離れている。  こうして坂を下りていけば住宅地に出て、さらに下りていくと、  町の中心地である交差点に出る。  ここから隣町に通じる大橋、  柳洞寺に続く坂道、  うちとは反対側にある住宅地、  いつも桜と自分がお世話になってる商店街、  最後にこれから向かう学校と、様々な分岐がある。  寄り道をせず学校へ向かう。  まだ七時になったばかり、という事で通学路に人気はない。  自分たちの他には、朝の部活動をする生徒たちがのんびりと歩いているぐらいだった。 「それじゃまたな。部活、がんばれよ」  校門で桜と別れるのもいつも通り。  桜は弓道部に所属しているので、朝はここで別れる事になる。 「………………」  というのに。  今朝にかぎって、桜は弓道場へ向かおうとはしなかった。 「桜? 体の調子、悪いのか」 「……いえ、そういう事じゃなくて……その、先輩。たまには道場の方に寄っていきませんか?」 「いや、別に道場に用はないぞ。それに今日は〈一成〉《いっせい》に頼まれてるから、生徒会室に行かないとまずい」 「……そ、そうですよね。ごめんなさい、余計なことを言っちゃって」  ぺこり、と頭をさげる桜。 「?」 「それじゃあ失礼します。晩ご飯、楽しみにしていてくださいね」  桜は申し訳なさそうに道場へ走り去っていった。 「……?」  はて。今のは一体どんな意味があったんだろう……?  夜の町並みを行く。  時刻は七時半頃だろう。  この時間ならぽつぽつと人通りがあってもいいのに、外には〈人気〉《ひとけ》というものがなかった。 「……そういえば、たしか」  つい先日、この深山町の方でも何か事件が起きたんだったっけ。  押し入り強盗による殺人事件、だったろうか。  人通りが無いのも、学校の下校時刻が六時になったのも、そのあたりが原因か。 「……ガス漏れに強盗か。物騒な事になってきたな」  これじゃあ夜に出歩こう、なんて人が減るのも当然だ。  桜を一人で帰らせるのも危なくなってきた。  藤ねえはともかく、桜の家は反対側の住宅地にある。  今日からでも夜は送っていかなくては――― 「……ん?」  一瞬、我が目を疑った。  人気がない、と言ったばかりの坂道に人影がある。  坂の途中、上っているこっちを見下ろすように、その人影は立ち止まっていた。 「―――――――」  知らず息を呑む。  銀の髪をした少女はニコリと笑うと、足音もたてず坂道を下りてくる。  その、途中。           「早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」  おかしな言葉を、口にしていた。  坂を上がりきって我が家に到着する。  家の明かりが点いているのを見ると、桜と藤ねえはもう帰ってきているようだ。  居間に入るなり、旨そうなメシの匂い。  テーブルには夕食中の桜と藤ねえの姿がある。  今晩の主菜はチキンのクリーム煮らしく、ホワイトソース系が大好きな藤ねえはご機嫌だ。 「お帰りなさい先輩。お先に失礼していますね」 「ただいま。遅くなってごめんな。もうちょっと早く帰って来ればよかったんだけど」 「いいです、ちゃんと間に合いましたから。ちょっと待っててくださいね、すぐ用意しますから」 「うん、頼む。手を洗ってくるから、人のおかずを食べないように藤ねえを見張っといてくれ」 「はい、きちんと見張っています」  自分の部屋に戻る。  土蔵に比べればあんまりにも物がない部屋だが、そもそも趣味がないからこれでも飾ってある方だ。  大半は藤ねえがポイポイと置いていった用途不明の品物ばっかりなんだけど。  手を洗い、着替えを済ませて戻ってくると、テーブルには夕食が用意されていた。 「いただきます」 「はい、お口にあえばいいんですけど……」  桜はあくまで奥ゆかしい。  ここ一年で桜の料理の腕は飛躍的に向上している。  洋風では完敗、和風ならまだなんとか勝てそう、中華はお互いノータッチ、という状況だ。  教え子が上達するのは嬉しいのだが、弟子に上回られる師匠っていうのもなんとなく寂しい。 「――――む」  やはり巧い。  鶏肉はじっくり煮込めば煮込むほど硬くなってしまう。  故に、面倒でも煮る前に表面をこんがりと焼いておくと旨味を損なわずジューシーな仕上がりになる。  そのあたりの加減が絶妙で、不器用な藤ねえには決して真似できない匠の技だ。 「どうでしょうか先輩……? その、今日のはうまくいったと思うんですけど……」 「文句なし。ホワイトソースも絶妙だ。もう洋物じゃ桜には敵わないな」 「うんうん、桜ちゃんがご飯作ってくれるようになってから、お肉関係がおいしくなった」  と。  今までもぐもぐと食事に専念していた藤ねえが顔を上げた。 「あ。だめよー、士郎。学生がこんな夜更けに帰って来ちゃいけないんだからっ」  ……あちゃ。  桜の夕食でご機嫌かと思われていたが、俺の顔を見たとたんご機嫌ななめになった模様。 「もう、また誰かの手伝いをしてたんでしょ。それはそれでいい事だけど、こんな時ぐらいは早く帰ってきなさい。最近物騒だぞってホームルームで言ったじゃない。  アレ、士郎に対して言ったんだからね」 「……あのさ。わざわざホームルームで言わなくても、うちで言えばいいんじゃないの?」 「ここで言っても聞かないもの。学校でがつーんと言った方が士郎には効果的なんだもん」 「……先生、それは職権濫用というか、公私混同だと思います」 「ううん、それぐらいしないと士郎はダメなのよ。  いつも人の手伝いばっかりして損してるからさ。たまにはまっすぐ帰ってきてのんびりしててもいいじゃない、ばかちん」 「むっ。バカチンとはなんだよバカチンとは。いいじゃないか、誰かの手伝いをして、それでその人が助かるなら損なんかしてないぞ」 「……はあ、切嗣さんに似たのかなぁ。士郎がそんなんじゃお姉ちゃん心配だよ」  どのあたりが心配なのか、もぐもぐと元気よくご飯を食べる藤ねえ。 「……あの、藤村先生。今の話からすると、先輩って昔からそうなんですか?」 「うん、昔からそうなの。なんか困ってる人がいたら自分から手を出しちゃうタイプ。けどお節介ってわけじゃなくて、士郎はね、単におませさんなのだ」  ふふふ、となにやら不穏な笑みをこぼす藤ねえ。 「藤ねえ。余計なコト言ったら怒るぞ。桜もつまんないこと訊くなよな」  じろり、と二人を睨む。  藤ねえはちぇっ、と舌打ちして引っ込んでくれたが、「藤村先生、お話を続けてください」  むん、とマジメに授業を受ける桜がいた。 「じゃあ話しちゃおう。これがねー、士郎は困った人を放っておけない性格なのよ。弱きを助け強きをくじくってヤツ。子供の頃の作文なんてね、ボクの夢は正義の味方になる事です、だったんだから」 「――――」  ……また昔の話をするな、藤ねえも。  けど全部本当の事なので口は挟めない。  そもそも、正義の味方になるって事は今でも破っちゃいけない目標だ。 「うわあ。すごい子供だったんですね、先輩」 「うん、すごかったよー。うーんと年上の男の子にいじめられてる女の子がいたら助けに入ってくれたし、切嗣さんが無精だったから家事だって一生懸命こなしてたし」 「あーあ、あの頃は可愛くて純真だったのに、それがどうしてこんな捻くれた子になっちゃったんだろうなー」 「そりゃあ藤ねえがいたからだろ。ダメな大人を見てると子供は色々考えるんだよ。悔しかったらちゃんと自分でメシ作ってみろ」 「――――――な」  がーん、と打ち崩れる藤ねえ。  そのままうなだれて反省するかと思えば、 「うう、お姉ちゃんは悲しいよう。桜ちゃん、おかわり」  ずい、と三杯目のお茶碗を差し出していた。  夕食を終えてのんびりしていると、時計は九時にさしかかろうとしていた。 「さて、何をしたもんか」  夜の鍛錬まで時間がある。  ここは――――    ……あー、食後の軽い運動がてらに藤ねえの様子を見るのも一興かな。   「―――だな。桜につまんない話しやがって、隙あらば仕返ししてやる」 「ん? なに、お風呂入ってたんじゃないのー?」  食後のデザートのつもりか、藤ねえはもくもくとミカンを剥いていた。  テーブルには水中花じみたミカンの皮が二つほど転がっている。 「………………」  リンゴの皮剥きは出来ないクセに、ミカンの皮剥きだけが芸術的なのは何かの呪いなんだろーか。 「風呂は後にした。さっきの話でケチついたんで、風呂の前に文句言っとこうと思って」 「えー? 別にいいじゃん、もう昔のコトなんだし、桜ちゃんも喜んでたし。それよりはい、今日のノルマ。士郎は一日一個だからね」  ひょい、と籠から小さなミカンを手にとって投げつけてくる。 「うわっと……って、ミカンぐらいで懐柔されないぞ。  桜だったからいいようなものの、学校であんな話するなよ。一成あたりがヘンな心配するから」 「美綴さんは大笑いしそうだけどねー。……なーんて、言われなくてもわかってるわよ。士郎の子供の頃の話なんて、桜ちゃん以外にはしないから」 「だーかーらー、桜にもするなって言ってるの。あんなつまんない話されたら桜だっていい迷惑だろ。……もうないと思うけど、今度やったら怒るからな」  本気だぞっ、と気合をこめて藤ねえを睨む。 「ははーん。なあんだー、そっかー、そういうわけ、つまり士郎はそうなのようー」  だっていうのに、にんまりと口元をにやけさせて藤ねえご満悦。 「……あ。なんかこう、カチンときたかも。なに納得してんだよ、ばか虎っ」  むむー、と藤ねえの間抜け顔を睨む。 「虎でもいいよーだ。ようするにアレでしょ、士郎は桜ちゃんに知られるのがイヤだったのよ。  他の人に“正義の味方になりたい”なんて知られても気にしないけど、桜ちゃんに知られるのは恥ずかしかったワケね」 「な――――」  そ、そんなコトは、ないと思う、けど。 「うんうん、そういうコトならどんどん話しちゃうから。  そっかー、士郎もようやく桜ちゃんを意識しだしたかー。  教師としてちょっと心配だけど、保護者としてはちょっと安心したかな。けどお姉ちゃんはちょっと寂しいかな」  なにやら感慨深げに言って、はむ、とミカンを丸ごと口に含む。  藤ねえは拳大ぐらいの食べ物なら一口で口に放り込める。  サバンナあたりならわりとズキューンとくる仕草だと思うのだが、成熟した女の人にそんなワイルドな魅力は必要ないと思う。 「あれ? 先輩、お風呂入ってたんじゃないんですか?」    と。  洗い物を済ませた桜が居間にやってきた。 「ああ、藤ねえに話があってちょっと後回し。桜、ミカン食べるか?」  籠に載せられた大量のミカンに手をやる。  予想外の展開だが、三人で食後の一服をするのもいいだろう。 「あ、それならさっき藤村先生に戴きました。わたし用にとっておいてくれたおミカンで、おいしかったです」 「桜ちゃんは生の果物はダメだからねー。  調理したヤツか、アイスみたいに冷やしてないと食べてくれないのだ―――って、桜ちゃんそろそろ時間?」 「はい。後片付けも済みましたから、今日はもう帰ります」 「そっか。じゃわたしもおいとまするわ。桜ちゃん、いこ。最近は物騒だから近くまで送っていってあげる」  ミカンの大量摂取を止め、潔く立ち上がる藤ねえ。  その立ち姿は責任感のある年長者のようだ。 「え……いいんですか、先生?」 「当然でしょ。桜ちゃんも士郎もわたしが預かってるんだから、ちゃんと家まで送り届けないと。士郎もそれでいいでしょ? わたしたちが帰ったら、ちゃんと戸締りして寝るのよ」 「――――了解。藤ねえなら痴漢が出ようがクマが出ようが安心だ」 「そうでもないわよー。さすがにクマは無理でしょ。うん、無理だからここまで逃げ帰ってくるね。そしたら二人でやっつけて、明日はクマ鍋かな」  余裕げに微笑む藤ねえ。  ……うん。  藤ねえは普段はマイペースすぎてまわりをとんでもスペースに巻き込むのだが、教師である藤ねえは惚れ惚れするぐらい責任感溢れる人なのだ。 「行こっか桜ちゃん。それじゃまた明日ね士郎」 「はい。それじゃあおやすみなさい、先輩」 「ん」  屋敷を後にする二人。  それを玄関まで見送って、藤ねえの言いつけ通り戸締りを終わらせた。    ―――そうだな。  夜の鍛練に備えて小休止をとっておこう。 「風呂も沸いてるし。桜を家まで送るのは藤ねえにお願いすればいっか」  そうと決まれば効率良く済ませよう。  まずは居間で寝転んでいる藤ねえを起こして、桜に夕食のお礼を言って、帰路につく二人を見送って、風呂に入って一休みだ――――    夕食を作ってもらったお礼もまだだし、桜に挨拶してこよう。 「そうだな。夜も遅いし、家まで送っていってやらないと」  居間では後片づけを済ませ、帰り支度をしている桜がいた。 「あれ、先輩。お風呂に入ってたんじゃないんですか?」 「いや、風呂は後回し。桜を送ってから入る」 「え……送るって、わたしをですか?」 「ああ。最近物騒だから家まで送る。桜ん家、けっこう遠いだろう。わざわざ来て貰ってるんだから、それぐらいはさせてくれ」 「………………」  桜は気まずそうに口を閉ざす。  ……なにかまずい事でも口にしたんだろうか、俺。 「……ごめんなさい。気持ちは嬉しいんですけど、先輩は休んでいてください。家までだったら慣れてますし、一人でも大丈夫ですから」 「いや、それはそうだろうけど、最近物騒だろう。しばらくは家まで送っていくよ」 「……でも、その……兄さんに見つかると、先輩にまで迷惑がかかります」 「ぁ――――」  ……そうだった。  桜の兄貴である慎二は、桜がうちに来ている事をよく思っていない。  表向きは藤ねえの家に行く事になっているから慎二は強くでられないが、ここで俺が送って行ったりしたら何かと問題になる。    ――その、俺が言いがかりをつけられるのはどうでもいいが、慎二が桜にあたるのは良くない。 「けど途中までならいいだろ。交差点あたりまでなら慎二と会う事もないし」 「………………」  桜は気まずそうに黙っている。  桜の事だから、俺が送っていく、という事自体に嘘がつけないのかもしれない。 「ああ、それじゃ――――」 「わたしが送っていこっか?」  ぴょこ、と突如顔をだす虎ガラの英語教師。 「だめだよ、そんなの本末転倒じゃないか。女の子が夜出歩くから危ないっていうのに、さらに女の子を増やして―――」  ……否。  目の前の藤ねえを女の子と呼ぶのは語弊がある。  なにより藤ねえは伊達に弓道部の顧問をしていない。  藤村の爺さんに鍛えられた剣道五段の腕前はシャレじゃすまない。いや、色んな意味で。 「――藤ねえなら大丈夫か。痴漢がでても撃退できるだろうし」 「できるよー? だから桜ちゃんを送っていくのも問題なし。それでいい、桜ちゃん?」 「はい、藤村先生がよろしいのでしたら」 「決まりだね。それじゃ行こっか。わたしも今日はそろそろ帰ろうかなって思ってたんだ」  桜の手を取って歩き出す藤ねえ。 「あ、ちょっと待った。桜」 「? なんですか、先輩?」 「晩飯、うまかったよ。いつもありがとうな」 「――――――――」 「はい。ご迷惑でなかったら次も頑張りますね、先輩」  満面の笑顔でそう言って、桜は居間を後にした。 「――――――――」  自分の頬が赤くなっているのが判る。  ……本当に、最近の桜は不意打ちが多くて困る。  月日の経つのは早いもので、ちょっと前まで後輩だったのに、今では後輩の女の子、になってしまった。  ……情けないな、俺。  今まで桜を家族みたいに思っていただけに、この変化を素直に受け入れられないんだから。    夕食を作ってもらったお礼もまだだし、桜に挨拶してこよう。 「そうだな。夜も遅いし、家まで送っていってやらないと」  居間では後片づけを済ませ、帰り支度をしている桜がいた。 「あれ、先輩。お風呂に入ってたんじゃないんですか?」 「いや、風呂は後回し。桜を送ってから入る」 「え……送るって、わたしをですか?」 「ああ。最近物騒だから家まで送る。桜ん家、けっこう遠いだろう。わざわざ来て貰ってるんだから、それぐらいはさせてくれ」 「………………」  桜は気まずそうに口を閉ざす。  ……なにかまずい事でも口にしたんだろうか、俺。 「……ごめんなさい。気持ちは嬉しいんですけど、先輩は休んでいてください。家までだったら慣れてますし、一人でも大丈夫ですから」 「いや、それはそうだろうけど、今日は特別だ。しばらくは家まで送っていくよ」 「……でも、その……兄さんに見つかると、先輩にまで迷惑がかかります」 「む――――」  いや、慎二がなんと言おうが、こんな物騒な時に桜を一人で帰らせる方が問題じゃないか。 「俺にかかる迷惑なんていい。ともかく最近は物騒なんだから送ってく」 「あの、でも、やっぱり先輩に悪いですから、その」 「悪くない。日頃世話になってるんだから、送るぐらいさせてくれ。それとも一人で帰りたいのか桜は」 「え……いえ、そういうコトではなくて、ですね」 「ならいいだろ。これでも腕には自信があるんだ。たいていの暴漢は返り討ちに出来るから、こんな時ぐらいは使ってやってくれ。なんか出てきてもちゃんと桜を守るから」  ほら、と視線で桜を廊下へ促す。 「先輩……? ホントにいいんですか? また兄さんとケンカ、しちゃうかもしれませんよ」 「構わないよ。男同士でケンカしないほうがヘンだし、慎二とはそれぐらい素直に言いあった方がいいんだ。  あいつ、ああ見えて隠し事とか嫌いだから。文句があるならすっぱりと言い合った方がスッキリする」  と。  なぜか、桜は驚いた顔をする。 「どした? なんかヘンなコト言ったか、俺」 「いえ、言ってませんよ。先輩が兄さんと仲良くしてくれるのが嬉しいだけです」 「? いや、仲良くってのは難しいぞ。スッキリするのは俺だけで、慎二は逆かもしれないし」 「そうですね。けど兄さん、何度ケンカしても先輩に話しかけるでしょう? 兄さん、きっと先輩が苦手なんです。けど他の人よりずっと好きだから、いつも先輩を気にしてるんですよ。素直じゃない人だから、嫌いな人が好きなんです、兄さん」 「……えっと。それは、返答に困る意見だな」 「はい。先輩が羨ましかったから、少しだけ困らせてみました」  にっこりと笑う桜。 「ぁ――――ぅ」  その笑顔に、知らず息を呑んでいた。  満面の笑顔というのか。  あんなふうに桜が笑うの、初めて見た気がする。 「と、とにかく送っていくからな。慎二に見つかったら見つかったでいい。妹を送り届けたんだから、あいつだって文句は言わないだろ」 「そうですね。隠すよりはそうした方がいいかもしれません。それじゃお言葉に甘えていいですか、先輩」 「あいよ。たまには先輩らしいトコ見せてやる」  とん、と胸を叩く。  任せとけ、という意思表示に、桜は温かそうな笑顔で頷いていた。  坂道を下りて、交差点に到着する。  あたりに人影はなく、見慣れた住宅地はひどく寂しく感じられた。 「――――――――」  まだ十時前だというのに、町は完全に眠りについている。  ……その静けさは、どこか異常だ。  物騒な事件が続いているとは言え、夜というものはここまで活気を奪うものだったか。 「先輩……? あの、わたしの家こっちですけど」 「え? ああ、悪い、ちょっとぼうっとしてた。桜の家はあっち側の一番上だもんな」 「いえ、一番上にあるのは遠坂先輩のお家ですよ。間桐の家も高いところにありますけど、一番上じゃないんです」 「あれ、そうだったか? ……って、遠坂ってあの遠坂……?」 「はい、二年生の遠坂凛さんです。先輩、苦手なんですか?」  こっちの心情を察したのか、桜は的確なつっこみをする。  むむ……そんなに苦い顔してたのか、俺。 「いや、苦手ってワケじゃない。話した事もないし、よく知らない相手だ。ただ有名な優等生だろ、あいつ。何処にいても目立つから、人並みに知ってるだけ」 「………………」 「そういう桜は? 同じ洋館だし、もしかして近所づきあいとかあるのか?」 「ないですよ。たしかに近所ではありますけど、遠坂先輩のお家は坂の上ですから。  けど、遠坂先輩のお家が洋館だって知ってるんですね、先輩」  ぼそり、とした声で桜は言う。 「ああ、ちょっと小耳に挟んだんだ。遠坂んところは幽霊屋敷だとかなんとか。幽霊屋敷っていったら洋館と相場が決まってるだろ」 「そうですね。遠坂先輩は一人が好きみたいですから。わたしも子供の頃、坂の上には怖い魔法使いが住んでるって言われてました」 「へえ、怖い魔法使いか。俺もそんなふうな噂は聞いたな。まあ、それ言ったら〈洋館側〉《あっち》の家はみんな魔法使いが住んでいそうだけど。で、桜は信じたのか、その話?」 「信じました。だって子供だったんです。だから、坂の上には行っちゃいけないって、いつも思ってました」  と。  面白半分で聞いたコトに、桜は真剣な顔で答えていた。  坂道を上っていく。  うちの方とは正反対の住宅地だが、その在り方は変わらない。  坂道は上って行けば行くほど建物が少なくなり、人の手が入っていない雑木林が多くなる。  町としての機能は坂の下に集まっているのだから、上に行けば行くほど家が少なくなるのは自明の理だ。  その中で、頂上に近い位置にある数少ない建物が桜の家、間桐邸だ。 「あ」  不意に桜が立ち止まった。 「ん? なんだ、忘れ物か?」 「ぁ……いえ、忘れ物じゃないんですけど……先輩、うちの近くに誰かいませんか?」  不安そうにあたりの様子を窺う桜。 「?」  あたりを見回すが、俺たち以外の人影はなかった。 「別に誰もいないけど、何かあったのか」 「あ……いえ、いないならいいんです。なんか最近、家の近くで見慣れない人をよく見かけるから、今日もいるのかなって」 「――――なんだそれ。なんか危なくないか、そいつ。  どんなヤツなんだよ」 「えっと……あの、金髪の、カッコイイ人でした。モデルさんみたいだから、先輩も見たらびっくりすると思います」  思い出して照れているのか、桜は気恥ずかしそうに言う。 「…………」  ……桜。  それ、俺が心配していいコトなのか、どうなのか。 「なんだ。不審な奴ってワケじゃないんだ」 「……判りません。ただ、最近は引っ越してきた人なんていないから、おかしいなって」 「……ふぅん。ま、とにかく怪しいって言えば怪しいよな。よし、もしまた家のあたりをうろついているようだったら、俺か慎二に言ってくれ。捕まえて何してるのか白状させるから」 「はい、頼りにしてます。けど手荒なことはしないでくださいね。わたし、先輩にケンカされると困ります」  言って、桜はまっすぐに微笑んできた。 「……う。だ、大丈夫だよ。ちゃんと話し合いから始めるから、桜が心配するコトない」  桜の笑顔から視線を逸らして、締まらない返答をする。 「…………」  ……まいったな。  なんか最近、桜の仕草に目を奪われる事が多くなった。  ちょっと前まではなんでもなかったのに、自分でもどうかしてると思う。  桜が成長したからなのか、自分が今更になって気付いたからなのか。  ……その、桜は本当に美人になったと思う。  それは喜ばしいんだけど、こうして目のやり場に困るのは、先輩としてカッコがつかないと思うのだ。 「それじゃあおやすみなさい先輩。送ってもらえて嬉しかったです」 「ば、ばか、礼なんて言うな。晩飯作ってもらってるんだから、お礼を言うのはこっちの方だ」  桜は満足げに微笑むだけだ。 「……ったく。こんなんでいいんなら明日から日課にするからな」 「はい。先輩の気が向いた時、たまにでいいですから送ってください。兄さんに怒られるけど、わたしはやっぱり、先輩と一緒がいいです」 「先輩、また明日ですね! 今日はありがとうございましたー!」  元気いっぱいに言って、桜は間桐邸に消えていく。 「―――――さて」  俺も帰るか。  藤ねえに留守を任せてきたけど、それも正直心配だし。 「…………あれ?」  なんか、いま聞こえなかったか?  ……聞こえる。  キイキイという、ブランコが軋む音。  それが虫の鳴き声だと気付くのに、わりと時間がかかったと思う。 「……どんな虫かな。なんにせよ、季節外れもいいところだ」  冬の寒空の中、闇に潜むカミキリ虫を想像する。  ――――と。 「………あれ。明かりが三つある」  いま明かりがついた部屋は桜の部屋だ。  ……一階の明かりは慎二の部屋だから、そうなると……あの、三つ目の部屋の明かりはなんだろう? 「……? 慎二んとこは桜と慎二しかいない筈だけど……」  お客さんか、それとも単に慎二があの部屋にいるだけなのか。  ともあれ、今まで何度か間桐邸には足を運んだが、あの部屋に明かりが点いているのは初めて見た。 「………………………」  まあ、あれだけ広い家だ。  どこに明かりがつこうと不思議じゃない。  不思議じゃないんだが、こう、 「…………なんだろう。なんか、胸がざわつくな」  〈厭〉《いや》な予感というか、気配がした。  シン、と凍りつく夜空に、季節外れの音がする。  虫の報せ、というものがあるのなら。  草場の陰に潜む虫は、〈三尸〉《ふくちゅう》の虫めいた不吉さがあった。  そうして一日が終わる。  深夜零時前、衛宮士郎は日課になっている“魔術”を行わなくてはならない。 「――――――――」  〈結跏趺坐〉《けっかふざ》に姿勢をとり、呼吸を整える。  頭の中はできるだけ白紙に。  外界との接触はさけ、意識は全て内界に向ける。 「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    自己に暗示をかけるよう、言い慣れた呪文を呟く。  否、それは本当に自己暗示にすぎない。  魔術刻印とやらがなく、魔道の知識もない自分にとって、呪文は自分を変革させる為だけの物だ。  ……本来、人間の体に魔力を通す〈神経〉《ライン》はない。  それを擬似的に作り、一時的に変革させるからには、自身の肉体、神経全てを統括しうる集中力が必要になる。  魔術は自己との戦いだ。  例えば、この瞬間、背骨に焼けた鉄の棒を突き刺していく。  その鉄の棒こそ、たった一本だけ用意できる自分の“魔術回路”だ。  これを体の奥まで通し、他の神経と繋げられた時、ようやく自分は魔術使いとなる。  それは比喩ではない。  実際、衛宮士郎の背骨には、目に見えず手に触れられない“火箸に似たモノ”が、ズブズブと差し込まれている。    ――――僕は魔法使いなんだ。    そう言った衛宮切嗣は、本当に魔術師だった。  数々の神秘を学び、世界の構造とやらに肉薄し、奇跡を実行する生粋の魔術師。  その切嗣に憧れて、とにかく魔術を教えてくれとねだった幼い自分。  だが、魔術師というのはなろうとしてなれる物ではない。持って生まれた才能が必要だし、相応の知識も必要になってくる。  で、もちろん俺には持って生まれた才能なんてないし、切嗣は魔道の知識なんて教えてはくれなかった。  なんでも、そんなモノは君には必要ない、とかなんとか。  今でもその言葉の意味は判らない。  それでも、子供だった自分にはどうでも良かったのだろう。  ともかく魔術さえ使えれば、切嗣のようになれると思ったのだ。  しかし、持って生まれた才能―――魔術回路とやらの多さも、代々積み重ねてきた魔術の業も俺にはなかった。  切嗣の持っていた魔術の業……衛宮の家に伝わっていた魔術刻印とやらは、肉親にしか移植できないモノなのだそうだ。  魔術師の証である魔術刻印は、血の繋がっていない人間には拒否反応が出る。  だから養子である俺には、衛宮家の刻印は受け取れなかった。  いやまあ。  実際、魔術刻印っていう物がなんなのか知らない俺から見れば、そんなのが有ろうが無かろうがこれっぽっちも関係ない話ではある。  で、そうなるとあとはもう出たトコ勝負。  魔術師になりたいのなら、俺自身が持っている特質に応じた魔術を習うしかない。  魔術とは、極端に言って魔力を放出する技術なのだという。  魔力とは生命力と言い換えてもいい。  〈魔力〉《それ》は世界に満ちている〈大源〉《マナ》と、生物の中で生成される〈小源〉《オド》に分かれる。  大源、小源というからには、小より大のが優れているのは言うまでもない。  人間一人が作る魔力である〈小源〉《オド》と、世界に満ちている魔力である〈大源〉《マナ》では力の度合いが段違いだ。  どのような魔術であれ、〈大源〉《マナ》をもちいる魔術は個人で行う魔術をたやすく凌駕する。  そういったワケで、優れた魔術師は世界から魔力を汲み上げる術に長けている。  それは〈濾過器〉《ろかき》のイメージに近い。  魔術師は自身の体を変換回路にして、外界から〈魔力〉《マナ》を汲み上げて人間でも使えるモノ、にするのだ。    この変換回路を、魔術師は〈魔術回路〉《マジックサーキット》と呼ぶ。  これこそが生まれつきの才能というヤツで、魔術回路の数は生まれた瞬間に決まっている。  通常、人間に魔術回路はほとんどない。  それは本来少ないモノなのだ。  だから魔術師は何代も血を重ね、生まれてくる子孫たちを、より魔術に適した肉体にする。    いきすぎた家系は品種改良じみた真似までして、生まれてくる子供の魔術回路を増やすのだとか。  ……まあ、そんな訳で普通の家庭に育った俺には、多くの魔術回路を望むべくもなかった。  そうなると残された手段は一つ。  切嗣曰く、どんな人間にも一つぐらいは適性のある魔術系統があるらしい。  その人間の“起源”に従って魔力を引き出す、と言っていたけど、そのあたりの話はちんぷんかんぷんだ。  確かな事は、俺みたいなヤツでも一つぐらいは使える魔術があって、それを鍛えていけば、いつか切嗣のようになれるかもしれない、という事だけだった。    だから、ただその魔術だけを教わった。  それが八年前の話。  切嗣はさんざん迷った後、厳しい顔で俺を弟子と認めてくれた。            ―――いいかい士郎。魔術を習う、という事は常識からかけ離れるという事だ。死ぬ時は死に、殺す時は殺す。  僕たちの本質は生ではなく死だからね。魔術とは、自らを滅ぼす道に他ならない―――  幼い心は恐れを知らなかったのだろう。  強く頷く衛宮士郎の頭に、切嗣は仕方なげに手を置いて苦笑していた。        ―――君に教えるのは、そういった争いを呼ぶ類の物だ。  だから人前で使ってはいけないし、難しい物だから鍛錬を怠ってもいけない。  でもまあ、それは破ったって構わない。  一番大事な事はね、魔術は自分の為じゃなくて他人の為だけに使う、という事だよ。そうすれば士郎は魔術使いではあるけど、魔術師ではなくなるからね―――  ……切嗣は、衛宮士郎に魔術師になってほしくなかったのだろう。  それは構わないと思う。  俺が憧れていたのは切嗣であって魔術師じゃない。  ただ切嗣のように、あの赤い日のように、誰かの為になれるなら、それは―――― 「――――――――っ」  ……雑念が入った。  ぎしり、と、背骨に突き刺さった鉄の棒が、入ってはいけないところにズレていく感覚。 「っ、ぐ、う――――!」  ここで呼吸を乱せば、それこそ取り返しがつかない。  擬似的に作られた〈魔術回路〉《しんけい》は肉体を侵食し、体内をズタズタにする。  そうなれば終わりだ。  衛宮士郎は、こんな初歩の手法に失敗して命を落とした半人前という事になる――― 「―――、――――、――――――――――――」  かみ砕きかねないほど歯を食いしばり、接続を再開する。  針の山を歩く〈鬩〉《せめ》ぎ合いの末、鉄の棒は身体の奥まで到達し、ようやく肉体の一部として融解した。  ……ここまでで、一時間弱。  それだけの時間をかけ、ようやく一本だけ擬似神経を作り、自らを、魔力を生成する回路と成す。 「――――基本骨子、解明」    あとはただ、自然に魔力を流すだけの作業となる。  衛宮士郎は魔術師じゃない。  こうやって体内で魔力を生成できて、それをモノに流す事だけしかできない魔術使いだ。  だからその魔術もたった一つの事しかできない。  それが―――― 「――――構成材質、解明」    物体の強化。  対象となるモノの構造を把握し、魔力を通す事で一時的に能力を補強する“強化”の魔術だけである。 「――――、基本骨子、変更」    目前にあるのは折れた鉄パイプ。  これに魔力を通し、もっとも単純な硬度強化の魔術を成し得る。  そもそも、自分以外のモノに自分の魔力を通す、という事は毒物を混入させるに等しい。  衛宮士郎の血は、鉄パイプにとって血ではないのと同じ事。異なる血を通せば強化どころか崩壊を早めるだけだろう。  それを防ぎ、毒物を薬物とする為には対象の構造を正確に把握し、“空いている透き間”に魔力を通さなければならない。 「――、――っ、構成材質、補強」    ……熟練した魔術師ならば容易いのだろうが、魔力の生成さえ満足にいかない自分にとって、それは何百メートル先の標的を射抜くぐらいの難易度だ。    ちなみに、弓道における一射は二十八メートル。  その何十倍という難易度と言えば、それがどのくらい困難であるかは言うまでもない―――― 「っ、くっ……!」  体内の熱が急速に冷めていく。  背骨に通っていた火の柱が消え、限界まで絞られていた肺が、貪欲に酸素を求める。   「は―――ぁ、はぁ、はぁ、はぁ、あ――――!」    そのまま気を失いかねない目眩に、体をくの字に曲げて耐えた。 「ぁ――――あ、くそ、また失敗、か――――」    鉄パイプに変化はない。通した魔力は外に霧散してしまったようだ。 「……元からカタチが有る物に手を加えるのは、きつい」    俺がやっている事は、完成した芸術品に筆を加える事に似ている。  完成している物に手を加える、という事は完成度をおとしめる、という危険性をも孕んでいる。  補強する筈の筆が、芸術品そのものの価値を下げる事もある、という事だ。  だから“強化”の魔術というのは単純でありながら難易度が高く、好んで使用する魔術師は少ないらしい。  ……いや、俺だって好んでいるワケじゃないけど、これしか能がないんだから仕方がない。  いっそ形のない粘土をこねて代用品を作っていいなら楽なんだが、そうやってカタチだけ再現した代用品は、外見ばっかりで中身がともなわない。  まわりに転がっているガラクタがそうだ。  強化の魔術に失敗すると、練習がてらに代用品を作って気を落ち着けるのだが、これがそろいもそろって中身がない。  物の設計図を明確にイメージできるが故に、外見だけはそっくりに再現できるのだが中身は空洞、もちろん機能もまったくない。 「――――――――」  びちゃり、と汗ばんだ額をぬぐう。  気が付けば全身、水をかけられたように汗まみれだ。  ……だが、この程度で済んだのは〈僥倖〉《ぎょうこう》だ。  さっきのは本当にまずかった。  持ち直すのが一呼吸遅れていたら、内臓をほとんど壊していただろう。 「……死にかけた分上達するんなら、まだ見込みがあるんだけどな」    そんな都合のいい話はない。  もっとも、死を怖がっていては魔術の上達がないのも道理だ。  魔術を学ぶ以上、死は常に身近にある。  毎日のようにこなしているなんでもない魔術でも、ほんの少しのミスで暴発し、術者の命を奪う。  魔術師にとって一番初めの覚悟とは、死を容認する事だ。    ―――切嗣はそれを悲しげに言っていた。    それは、俺にはそんな覚悟なんてしないでほしい、という意味だったのかもしれない。 「……誰かを助けるという事は、誰かを助けないという事。……正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ、か……」    切嗣みたいになるよ、と言った子供の俺に、切嗣はそんな言葉を繰り返していた。  その意味は知らない。  ただ、衛宮士郎は、衛宮切嗣のように誰かを助けて回る、正義の味方にならなくてはいけないだけ。 「……その割に、こんな初歩がうまくいかないんだもんな。なんでいざって時に雑念が入るんだ、ばか」    物の構造を視覚で捉えているようでは甘い。  優れた魔術師は患部だけを捉え、無駄なく魔力を流し込む。            ――――ボクの夢は正義の味方になる事です。  夕食の時、藤ねえが言った台詞を思い出す。  それを恥ずかしいとも、無理だとも思わない。  それは絶対に決まっている事だ。衛宮士郎は衛宮切嗣の後を継ぐと。  だから未熟なままでも、出来るかぎりの事をしてきた。  正義の味方っていうのが何者なのかは分からない。  分からないから、今はただ自分の出来る範囲で、誰かの為になる事でしか近づけない。  そうして五年間、ずっと前だけを見てきたつもりだけど、こう上手くいかないと迷ってしまう。   「……ああもう、てんで分からないよ〈切嗣〉《オヤジ》。  一体さ、何をすれば正義の味方になれるんだ」    窓ごしに空を見る。  闇雲に、誰かの為になればいいってワケでもない。  人助けと正義の味方っていうのは違うと思う。  それが分かっているのに、どうすれば違ったモノになれるのか、と。  その肝心な部分が、この五年間、ずっと掴めないままだった。            ―――出来れば、誰も悲しまない方がいい。  自分程度の力添えで周りが幸せなら、それはこの上なく住みやすい世界だと思うんだ。    それが切嗣の口癖だった。  俺にとって正義の味方だった男は、そいつ自身の中では、なり損ねた落第者なのだと語っていた。    説明されるまでもない。  幼かった自分の世界と大人だった切嗣の世界は違いすぎて、正義の味方っていうヤツの合格点が違っていたのだ。  子供だった自分にとって、この家だけが世界だった。  だから〈切嗣〉《オヤジ》と藤ねえと自分と、お気に入りの土蔵をずっと守っていければ十分だった。    俺は目に見えるモノだけを守ろうとした。  だが、切嗣は目に見えない部分までなんとかしたかったのかもしれない。            ―――若い頃は向こう見ずでね。  世の非情を呪う事で、自らを育んでいた。  世界が非情ならば―――それ以上に非情になる事を武器にして、自分の理想を貫こうとしたんだよ。    救われぬモノは必ずある。  全てを救うことなどできない。  千を得ようとして五百をこぼすのなら。  百を見捨てて、九百を生かしきろう。  それが最も優れた手段。  つまり理想だと、切嗣は一度だけぼやいた事がある。    もちろん怒った。  ものすごく頭にきた。  だって、そんなコト言われなくても判っていた。  他の誰でもない、自分自身がそうやって助けられたヤツなんだ。    そんな当たり前の事なんて言われるまでもない。  けど、それでも―――それを踏まえた上でみんなを助けるのが正義の味方なんだって信じていた。  理想論でも、叶わない絵空事でも、それを叶えようとするのが正義の味方なんだから。            ―――そうだね士郎。  結果は一番大事だ。けどそれとは別に、そうであろうとする心が――――    ―――心が、なんて言ったんだっけ、切嗣のヤツは。  ………よく思い出せない。  そもそもこんな昔のコトを思い出すなんて珍しいんだ。  よっぽど深い眠りにいるんだろう。  そうでもなけりゃ、ユメを見る事は無いんだから。              ――――シロウ、起きてください。そろそろ朝食ではないですか?    ほら。  その証拠に、セイバーに起こされるなんて、情けないコトになってるじゃないか――― 「――――なに?」  がばり、と布団から体を起こす。  時刻は六時半。外からは清々しい日の光。   「シロウ、朝です。朝食の支度はいいのですか?」    で、目の前にはセイバーの顔があった。 「―――寝過ごした。すまん、すぐに起きる」 「……私に謝る必要はないと思いますが、ゆっくりしている余裕がないのは事実です。先ほど桜と凛が揉めていた様ですから」 「桜と遠坂が揉めていたぁ……?」  なんだそれ。  ちょっと待て、起き抜けから訳の分からない状況に追い込まないでくれ。 「それって遠坂の部屋でか?」 「いえ、居間です。私も通りかかっただけですから詳しくは知りませんが」 「分かった。とにかく急ぐ」  ――――と。    その前に忘れ物。 「? なんでしょうか、シロウ」 「おはようセイバー。起こしてくれて助かった」  朝の挨拶をして、今度こそ廊下に出る。  ……しっかし、桜と揉めてるなんて何やらかしたんだ遠坂のヤツは―――! 「遠坂!」  ……と。  居間には桜の姿はなく、遠坂一人がのんびりと天気予報を眺めていた。 「おはよ。朝っぱらから人の名前を叫ぶなんて穏やかじゃないわね」  何かあった? なんて素振りで振り向く。 「……?」  おかしいな。とてもじゃないけど、桜と揉めていたような素振りじゃないぞ……? 「ああ、おはよう。……って、遠坂。なんでも桜と揉めたって聞いたんだが、ホントか?」 「え? ……そっか、セイバーから聞いたのか。  ええ、客観的に見ればそういうコトになるけど、別に大したコトじゃないわよ? 単に、しばらくここには来るなって言いつけただけだから」 「――――!」  さ、さらりと言いやがって、ようするに桜を出入り禁止にしたって事じゃないか! 「バカな。その話、桜は前にも断ってるじゃないか。それを繰り返したところで桜が承諾する筈が――――」 「ないけど、交換条件を出したら帰ってくれたわよ?  桜が一週間ここに来なければ、わたしは大人しく家に戻るって言ったの。それで交渉成立。渋々だけど帰っていったわ。ああそうそう、士郎によろしくだって」 「よろしくって、おまえ――――」  そんな勝手な事を、人に黙って―――― 「――――――――」  ……いや、それは違うか。  遠坂は、俺がやらなくちゃいけない事をやってくれただけだ。 「―――そうだった。悪い、朝から面倒を押しつけちまった。気分悪くしただろう、遠坂」 「? いえ、別に面倒でも嫌でもなかったけど。なんだってそんなコト言うわけ、士郎?」 「いや。遠坂、桜と仲が良かっただろう。なのに面と向かって出ていけなんて、二回も言うのは嫌だった筈だ。  だから悪かったって。しっかりしなくちゃいけないのに、また遠坂に負担をかけた」 「――――い、いいけど、そんなの。わたしだって自分の安全第一で桜を追い出したんだし。士郎にそう謝られる筋合いなんてないわ」 「……? 自分の安全第一って、なんでさ」 「だって慎二がマスターだったんでしょう?  アイツの事だから、士郎んとこに桜がいるって判ったら目の仇にするに決まってるもの。だから慎二との決着がつくまでは、桜はここに居させないほうがいいのよ」 「あ――――」  ……そうか。  言われてみればその通りだ。  慎二は、桜には何も話さないと言った。あの言葉に嘘はないと思う。  だが、妹である桜が俺たちのところに居るという事は、何かとよくない想像を抱かせてしまうだろう。 「……だよな。慎二から見れば、桜を人質にとったように見えるもんな」 「そういう事。もっともそんな事は別にして、ここが危険な事に変わりはないでしょ。  あんまり頻繁に夜出歩かせるのも何だし、しばらくは遠慮してもらった方がいいのよ。それが桜のタメだし、わたしたちのタメでもある」 「……ああ、そうだな。桜には悪いけど、後で謝って許してもらおう」  もっとも、その時が来たとしても事情を話せないのは変わりがない。 「――――――――はあ」  本当にまいる。  今までずっと手伝いにきてくれていた桜を、一時的にせよ、こういう形で断ってしまうというのは気が重い。 「あら、随分と元気がないこと。さっき人を怒鳴りつけてくれた威勢は何処にいったのかしらね。衛宮くんはそんなに桜がいないと寂しいのかなぁ?」  ふふん、と意地の悪い顔をする遠坂。  ……しまった。コイツの前で弱みを見せるとつっつかれるって判ってきてたのに、ついやっちまった。 「……ふん、ほっといてくれ。桜はうちの平和のシンボルだったんだよ。藤ねえと俺だけじゃ足りない所を補ってくれてたんだ。それをこっちの都合で追い返したんだから、気だって沈む」 「なんだ、よく判ってるじゃない。それだけ言えれば合格よ。少しは勝ち気ってのが出てきたみたいね」 「? な、何が言いたいんだよ、遠坂は」 「判らない? つまりね、戦いが終われば桜は戻って来るでしょう?  士郎は聖杯なんて要らないっていうけど、それなら今まであってくれた平穏の為に戦えばいい。ほら、目的がハッキリしていいじゃない」  極上の笑顔で遠坂は言う。 「――――――――」  そんな風に言われたら納得するしかない。  ……くそ、なんていうか。  コイツは本当に、底なしに意地が悪くて、とんでもなく凄いヤツだと再確認してしまった。 「えー、じゃあしばらく桜ちゃんは来ないの?」 「ああ。そういう事だから、藤ねえもたまには家で親孝行したらどうだ? 爺さん、娘にかまってもらえないって嘆いてたぞ」 「お父さんなんかほっといてもいいのっ。わたしがいなくたって死にゃしないんだから。  それにね、桜ちゃんがいないんなら余計わたしがしっかりしなくちゃダメじゃないっ。士郎だって男の子だもん、万が一があったら懲戒免職よ? そうなったら責任とってくれる、士郎?」 「んなコトな――――」    い、とは言い切れないのが男の性というか。 「……衛宮くん? 何かしらね、今の止めは」  じろりと。  横から入ってくる遠坂の視線が痛い。   「―――ない、と思う。これはただの下宿じゃないんだ。  俺だって、判ってる」 「そう。良かった、やっぱり衛宮くんは信用できますね、先生」 「当然です。士郎はわたしでもちょっと趣味に走りすぎたかっていうぐらい落ち着いてるんだから」 「………………」  そんな二人を無言で眺め、黙々と箸を進めるセイバー。  ……今日で二日目だが、この雰囲気に慣れる事なんて永遠に来ないと思う。 「あ、そうそう士郎。弓道部の事なんだけどね、〈美綴〉《みつづり》さんが怪我したっていう話、知ってる?」 「美綴が? なんだ、また他の部のヤツとケンカでもしたのかアイツ? まったく、もうすぐ三年なんだから少しは落ち着けってんだ。  ……で。怪我の方はどうなんだよ。わりと深いのか?」 「ん、それは大丈夫。軽い捻挫だって。学校の帰り道に怪しいヤツに襲われたそうよ。  あの子って俊足でしょ? スパーッと勢いよく逃げたんだけど、最後に転んで怪我したみたい」 「……そうか。大事がなくて良かった。けどよりによってアイツにね……命知らずというか、何というか。  どちらにせよ間抜けな犯人だったな。俺はてっきり」 「てっきり、逃げたんじゃなくてノックアウトしたって思ったんでしょ?」  にんまり、と楽しげに笑う藤ねえ。  うむ、さすが美綴綾子をよく判っている人だ。 「うん。あいつが逃げるなんて滅多にないから。  しかし……そうか、美綴のヤツも〈賊〉《ゾク》には弱かったのか。 ま、いいんじゃないか。それぐらいのイベントが起きないと、あいつに女らしさを教えるのは不可能だ」  結構結構、とよく炊けたごはんを食べる。 「ねえねえ衛宮くん」  と。  にんまりとした顔で肩を叩いてくる遠坂凛。 「わたしからもちょっと耳よりな話、してあげよっか」 「? なんだよ、今の話以上に耳よりな話は難しいぞ、本気で」 「うん。今まで黙ってたけどね、わたしと〈綾子〉《あやこ》って仲良しなの。休みの日は二人で遊びに行くぐらいの仲って知ってた?」    ――――待て。  なんで、おまえと、美綴が、仲良しなのか。 「――――はい?」 「今の話、一言一句間違えずに伝えてあげるから安心して。衛宮くんも喜んでたって言ったら、綾子ったらそりゃあもう瓦十枚はぶち抜くぐらいに喜ぶんじゃないかな」 「―――訂正したい。今のは言葉のあやだ。あまり人様に話すような発言じゃないんで、黙っていてくれると、とても助かる」 「そうなの? なら黙っていてもいいけど、それなりの条件がないときついかな。ほら、ついポロッと口に出る事ってあるじゃない?」 「……おまえな。謙虚な台詞を言ってんのに、にんまり笑ってるってのは良くないぞ」 「あら、ごめんなさい。別に楽しい訳じゃないから誤解しないでね?」  ああ、誤解なんてしないって。  おまえ、間違いなく楽しんでるもん。 「……分かった。これから朝食は洋風にする。  ……さっきおまえが言ってた、朝飯作るならパンにしろ、という提案も受け入れていい気になったり」 「――――上出来ね。マーマレイドだけじゃなくて、イチゴのジャムも忘れないでくれると嬉しいわ」 「………………はあ。ったく、日本の朝をなんだと思ってやがる、この外国かぶれ。おまえ一人の趣味で朝飯を変えやがって、この暴君」 「―――いいえ、それは違います。朝食がパンになるのは私も嬉しい。加えて半熟の玉子を用意していただければ、文句はないのですが」  ……そしてしっかりと自分の意見を挟むセイバー。 「ああそうですか。分かったよ、洋食にすればいいんだろ、くそ。桜が洋食にしたからって調子づきやがって。  お望みどおり明日から朝はパンにするから、それで文句はないな? ならさっきの話は他言無用、絶対に美綴にはバラすなよ」  ふん、と二人から顔を逸らしてメシをかっこむ。  ……と。   「なんでそんな無駄な事するのかなぁ?」    俺と遠坂のやりとりを不思議そうに眺めていた藤ねえは、ぼんやりとそんな事を呟いた。 「……なんだよ。無駄ってなんだよ藤ねえ」 「だって遠坂さんが話さなくても、わたしが美綴さんに話しちゃうじゃん。こんな面白い話、黙ってられないよー、わたし」  こまったもんだ、と頷いてごはんを食べる藤ねえ。 「………………」  ……いや。  そろそろ対抗策を敷かないと、本気で立場がなくなるなぁ、これ……。  朝食が終わって、時刻は七時半。  藤ねえは珍しくうちに残っていて、三人で一緒に登校しよう、と笑顔で口にする。 「――――」  ……けど、それは出来ない。  昨夜の決着。  セイバーに頼らず、自分で戦うと口にした以上、もう悠長な真似はしていられない。 「それじゃ行こっか。戸締まりはいい、士郎?」 「いや、戸締まりはいいよ。俺、今日学校休むから」  じゃあな、と手をあげて藤ねえと遠坂を見送る。  藤ねえはぽかん、と数秒固まったあと、   「ちょっと、学校休むってどういうコトよ!」 「え、お?」    遠坂に、言いたいコトを言われてしまったみたいだ。 「そ、そうよ士郎。学校休むって、士郎どこも悪くないでしょ?」 「いや、傷が痛んでるんだ。気温が下がると古傷って痛むだろ。そんな感じ」 「むっ……それ、嘘でしょ士郎」 「嘘だけど、それで勘弁してくれ藤ねえ。何も学校がイヤって訳じゃないんだ。やる事があって、そっちのが今は重要なだけなんだ。だからさ、それで許してくれないか」 「………………もう。そんな言い方されたらわたしの負けじゃない。士郎が事情を話さない時っていっつもそうなんだもん。むかしっからそうだよね」  藤ねえは文句を言いつつ、とりあえず納得してくれたようだ。 「そういう訳だ。学校の方は遠坂に任せる。」 「……そ。まあ、衛宮くんが居ようが居なかろうがこっちには支障はないし。確かに悪くない選択よ、それ」 「ああ、留守は任せてくれ。しばらくはバイトも休むから、家はそう空けないよ」 「……わかった。それじゃ行ってくるね、士郎。ケガで学校を休むんだから、あんまり外に出ちゃだめよ」 「それじゃあね。……今回はいいけど、次からは事前に相談してよね、こういう事は」  ―――夕食が終わった。  俺以外は概ねいつも通りの夕食だったと思う。  こっちはと言うと、脱衣場での一件がちらついてメシの味さえ分からなかった。 「……さむ」  縁側の窓を開け、外の風で頭を冷やしていたがそれもここまでだ。  いつまでもこんなコトしていたら風邪を引いちまう。 「シロウ、ここにいたのですか」 「セ、セイバー……!? な、なんだよ、俺になんか用か」 「私ではなくシロウにあるかと。いいのですか? 夜は凛に魔術を教わる、という約束だった筈ですが」 「あ」  ぱし、と頭を叩く。 「すっかり忘れてた。さんきゅ、今すぐ行ってくる!」  別棟に駆け込んで、二階にあがる。  遠坂が占拠した客間のドアをノックすると、   「士郎? いいわよ、ちょっと今手が放せないから、勝手に入って」    なんて、どこか余裕のない遠坂の声が返ってきた。  遠坂は宝石らしきものを手のひらに置いて、もう一方の手には注射器、口にはハンカチらしきものを咥えている。 「質問していいかな、遠坂」 「ひょっひまっへ。きょふののるまはこれへおはりだから」  言って、遠坂は注射器を自分の腕に刺す。  ……カラの注射器に血が吸い上げられていく。  そうして摘出した血を今度は一滴一滴宝石に零したかと思うと、血に濡れたそれを握りしめた。  かつん、と〈目眩〉《めまい》らしきものが通り過ぎた。  それが魔力の光だと言うコトだけ、かろうじて理解できたのだが―――― 「……はあ。これだけやってもまだ三割か。やっぱり手持ちの九つだけでやっていかなくちゃダメみたいね」  遠坂はがっくりと肩を落とし、宝石箱らしきものに石を戻す。 「遠坂。約束通り、教えを乞いに来たんだけど」  その前に、今の行為がとても気になるのだがどうしたものか。 「ええ、待ってたわ。昼間はセイバーと体の方を鍛えてたんでしょ? なら夜は中身を鍛えないとね」  教える気まんまんなのか、遠坂はなにやら嬉しそうだ。  ……ふむ。セイバーは人に教えるのは苦手だと言ってたけど、こいつは絶対逆のタイプだろうな。    いや、向いてるか向いてないかは別にして。 「さて、それじゃあ何から行こうか。たしか士郎は強化の魔術しか使えないって言ってたけど――――」 「いや、その前にちょっといいか。やっぱり気になる。  遠坂さ、さっき何してたんだよ。注射器を自分に刺すなんて危ないだろ」 「え、あれ? あれは魔弾を作ってただけよ。〈遠坂〉《うち》の魔術は力の流動と転換だからね。こうやって余裕がある時は、自分の魔力を余所に移しておくのよ」 「待ってくれ。その魔弾とか、魔力を移しておくってなんだよ」 「魔弾は魔弾よ。魔力の籠った弾。  宝石は人の念が宿りやすいって聞いたコトない? 実際、宝石は魔力を溜めやすい物なんだけど、うちの家系はさらに相性がいいみたいなのよね」 「魔力を込めるっていうのは、たとえば今日一日なにもしなかったら体力は余ってるでしょ? その余った分の力を宝石にため込んでおくの。  これを何日、何ヶ月、何年と続けて、宝石自体を“魔術”にするのよ」 「もっとも宝石自体にだってキャパはあるし、自分から離れた魔力なんてものは操れない。  宝石に込めた魔力っていうのは、あくまで大魔術を瞬間的に発動させる為だけのイグニッションにすぎないけどね」 「……む? えーと、ようするに自分の魔力を宝石に込めて、バックアップをとるってコトか?」 「〈後方支援〉《バックアップ》……? んー、近いけど違うっていうか、使い捨てのリュックサックの中身をつめてるだけよ」 「じゃあ一時的にハードディスクを増設してるってコトか。……すごいな、それなら魔術なんて使いたい放題じゃないか」 「はーどでぃすく……? アンタの言ってるコトはよく判らないけど、そこまで便利なものじゃないわよ。魔力は宝石に込めた時点で、その宝石の属性に染まるから用途は限られてしまうわけだし」 「……ふーん。それにしても驚いたな。魔力っていうのは、そういうふうに貯めておくコトもできるものなんだ。  そんな便利なコト、なんで他の魔術師はしないんだろう」 「自分以外の物に魔力を貯めるっていうのは特殊なのよ。  士郎の強化だって、物に魔力を込めているってコトでしょ? 通常ね、魔力の通った物は何らかの変化をして、その魔力を使い切ってしまうものなの。魔術の効果は瞬間であって永続じゃないでしょ」 「で、うちの家系はそうならないように、うまく宝石に魔力を流動させて永続的な物にしているんだけど……他の魔術師だって、自分の体になら同じような事はできるわ。  それが魔術刻印―――あらゆる魔術師が持ってる、魔術のバックアップじゃない」 「魔術刻印……ああ、親が子供に譲るっていう秘伝の話だな。俺、それはないからどうもピンとこないな」 「ちょっと。アンタ、今なんて言ったの?」 「えっ……いや、魔術刻印はないって言ったんだが。親父は持ってたみたいだけど、譲られはしなかった」 「――――――――」  遠坂は息を呑んだかと思うと、なるほど、なんて納得していた。 「どうりで素人同然の訳だ。……じゃあホントに一からやってるのね……うん、なら確かにしょうがないか」 「……遠坂。俺に魔術刻印がないって、随分前に気が付いてたんじゃないのか?」 「そんな訳ないでしょ。知ってたら一人でなんか行動させなかったわよ。……そりゃあ半人前だなって思ってたけど、魔術刻印がないならそもそも魔術師じゃないじゃない、士郎は」  ふん、と文句ありげな目を向けてくる。  ただ、なんだろう。  今の言葉は、どこかホッとしたような、俺が魔術師じゃなくて羨ましがっているような、そんな温かみがあった。 「――――まあいいわ。そういう事なら一から説明してあげる。魔術刻印がなんなのかを知るって事は、魔術師ってものを知るって事だから。  はい、士郎はそこに座って。大事な話だからちゃんと腰を落ち着かせて聞くこと」 「ここでいいのか? ……よし、始めてくれ」  ぐっ、と気合いをいれて遠坂の目を見る。  こっちの真剣ぶりが伝わったのか、遠坂は満足げに頷いた。 「じゃあ簡単な話から入るけど。  魔術を使うのに必要なものが魔力だって事は知ってるわよね? 魔術さえ発動させられるなら、それらは全て魔力と言い換えても差し支えはないわ。  魔力の種類は千差万別。  自分だけの精神力をもって魔術を使用する者もいれば、 自分以外の代価をもって魔術を使用する者もいる。  ここまでは知ってるでしょ?」 「ああ。〈大源〉《マナ》と〈小源〉《オド》の事だろ。大源が自然、世界に満ちてる魔力。小源が個人が生成できる魔力だ」 「そうそう、よくできました。じゃあその〈大源〉《マナ》を用いた魔術から順に説明しましょう」 「いい士郎? 積み重ねた歴史が浅い魔術師……ようするに士郎の事ね……は、“すでに〈形式〉《カタチ》あるもの”を以って魔力と成すの。  これは古くからシステムとして確立している儀式、供物をもって神秘と接触する方法よ」 「自身の力だけでは足りないから、代価を用意して取り引きする、という〈魔術形式。〉《フォーマルクラフト》  これなら術者の魔力が希薄でも魔術は作用する。なにしろ使用する魔力は自分からではなく〈他所〉《マナ》から借り受けるものだから、術者はただ儀式を行うだけでいい」 「……けどまあ、こういうのは知識がないと出来ないからね。士郎にはまだ無理だし、そもそもこういう血生臭いのは向いてないわ、貴方には」 「……だな。俺も鶏の生け贄とか、魔法陣を敷いて一晩中祈るとか、そういうのはやりたくない」 「でしょ。  じゃあこれは置いといて、次は小源、つまり魔術師個人の力で行う魔術の事。  もう言うまでもないと思うけど、これがわたしや貴方の基本的な魔術行使よ。  士郎の“強化”は他者の力を借りないでする、自身の魔術回路だけを頼りにした魔術でしょう?」  こくん、と頷く。  どうやら話が本題に入ったようだ。 「その、自分だけの魔力を生成する機能―――“魔術回路”っていうのは、先祖代々受け継がれる遺伝体質なの。 “魔術回路”は何代も重ねて鍛え上げられ、より強さを増して子孫に継承されるわ。  魔術師の家系の子供は、それだけで魔術に適した人間ってわけ。フェアじゃないけど、わたしと士郎はスタート地点からして違うって事よ」 「それは知ってる。気にしてないから、話を続けていいぞ遠坂」 「……別に気にしてなんかないけど。  ま、いいわ。それでね、そういった魔術回路とは別に、その家系が代々鍛え上げてきた秘伝の魔術っていうのがあるのよ」 「さっきの宝石と似てるかな。一つの魔術を極めるとね、魔術師にはその魔術が“手に取れる”ようになるの。  本来ならカタチのない、ただの公式にすぎない魔術を“手に取れる”感覚ってわかる?」 「―――判らないが、体の一部になったようなものなんだろうな、手に取れるっていう事は」 「ご名答。  扱われる式という域を超えて、もはや自分自身となった魔術っていうのはカタチに残せるのよ。  それは不安定な魔術を確立させる偉業であり、同時にその魔術師が生きた証でもある」 「で、魔術師は死ぬ間際に、自分が成し得た偉業を刻印として後継者に譲るのよ。これをやるから、自分が成し得なかった地点に到達しろ。もしかしたらワシが残した刻印が何かの役に立つかもしれん、ってね。  ……ま、残した方も残された方も、そんな刻印が何の役にも立たないって判ってるんだけどさ」 「……? なんだよ、それだけ凄い刻印なのに何の役にも立たないのか?」 「立つわよ! 普通に魔術師やってれば、刻印一つで左うちわっていうぐらい役に立つわ!  ……まあけど、それは自動車をもらったようなものなのよ。どんなに地上を速く走れても、月には辿り着けないんだから」 「……?」 「いいから、話の続き。  もう判ったと思うけど、その刻印っていうのが魔術刻印なの」 「その家柄の当主が一生をかけて完成させた魔術を刻印にして子孫に譲り、子孫はさらに次の魔術を完成させて刻印を増やし、また子孫に継承する。  そうして複雑さを増し、深い歴史を刻んだものが魔術刻印――――魔術師にとって、逃れようのない縛りってこと」 「…………。つまり魔術刻印には、その家系の全てが記録されているって事か?」 「あ、それは違う。家系の記録はちゃんと書物で残してるわよ。魔術刻印にあるのは、単純に魔術だけなの。  勝手に呪文詠唱をしてくれたり、自分が修得していない魔術も使えたりするだけ。  判りやすく言えば自分の体に魔法陣を刻んでいるようなものかな」 「…………ふむ。それじゃあさ、別に刻印は誰に刻んでもいいって事にならないか? 魔法陣なら、カタチさえ知っていれば幾つでも描けるじゃないか」 「それがそういう訳にもいかないのよ。  魔術刻印っていうのはね、生き物みたいなものなの。臓器を移植する事に近いわ。  臓器は一つしかないモノだから、何人かに分け与えるとか写本するとか、そういったコトは出来ないの。 心臓を二つに分けても意味ないでしょ? 結局、分けても機能しなくなるだけなんだから」 「あ……む。そうか、たしかに。それじゃ遠坂にも、その刻印は移植されてるのか?」 「……移植ってのは、我ながら後ろ向きな例えだったわね。  わたしの場合は左腕。肩から手までびっしりね。ただ魔術刻印は使わなければ浮かび上がらないから、令呪と違って隠す必要はないわ」 「……ま、そんな訳だから、魔術師の家系っていうのは一子相伝だったりするの。  その家に兄弟がいた場合、どちらかは魔術を教えられずに一般人として暮らすのが常なのよ。だって、魔術刻印を渡せないんだから、魔術師として大成されてもあまり意味がないもの」 「ああ、それは慎二も言ってた。……そうか、そういう理由で桜は教えられなかったんだ」 「ええ。……けど間桐の家は、何代か前から刻印の継承自体が止まってるわ。だから慎二に教えられたのは魔道の知識だけなんでしょう。  ……ほんと、そういう手合いが一番厄介なのよね。魔術ってものを実感できないクセに、魔術を使おうっていうんだから」  やれやれと悪態をついて、遠坂は軽く深呼吸をする。 「さて、魔術を教えるって事だったけど、ちょっと予定が変わったわ。士郎に魔術刻印がないんなら違った方針を立てないといけないし。  ……うん、今夜はここでお開きにしましょ。明日までには色々と用意しておくから、それまで待ってちょうだい」 「? 遠坂がそう言うんなら頷くしかないんだが……なんだよ、その色々用意しておくって」 「だから色々よ。刻印がないって事は、貴方スイッチできないんでしょ? 体の中身をいじるんだから、お薬とか矯正器具とか必要じゃない」 「――――――――」  うわ。なんか、いま本気でぶるっときたんだがっ。 「なに? イヤだって言うんなら止めるけど。その場合、わたしが教えてあげられる事はなくなるわよ?」 「あ……いや、イヤだけど、頼む。遠坂の言い分は、たぶん正しい」 「じゃあ明日はそれで決まりね。  ……と、そうだ。貴方、明日もセイバーと剣の鍛錬をするつもり?」 「? ああ、そうだけど。学校の結界も気がかりだけど、発動するまでまだ時間がある。それまで少しは戦えるようになっていたいんだ」 「そ。まあいいけど。その割にはセイバーとはうまくいってないようじゃない?」 「うっ……それは、その」 「夕食前までは普通に話せてたのに、夕食から妙に黙り込んでたし。  念の為に聞くけど、貴方たちうまくいってるんでしょうね? いざ戦闘って時に仲違いされたら、わたしたちまで被害を受けるんだから」  ……う。  それは単に、夕食前にトラブルがあっただけで、今はただ気まずいだけだ。  だけなのだが……本当に、俺とセイバーはうまくいってるんだろうか?  そりゃあ今日一日打ち合って、セイバーがどんなヤツかは少しは判ったとは思う。  協力者として、セイバーは信頼できる。  それは絶対だ。  ただそれ以外の部分でセイバーをどう思っているかと言われると、返答に困ってしまう。  そもそも、俺は。    あの瞬間に、まっとうな感情を奪われていた。 「……難しいな。そう言う遠坂はどうなんだよ。セイバーの事、好きなのか」 「好きよ。だって嫌いになる要素がないじゃない。  強いし、礼儀正しいし、綺麗だし。うちの皮肉屋とは大違いだわ」 「ふーん。そうか、遠坂はセイバーが好きなのか」 「っ―――! なによ、素直に好きな部類だって言っただけでしょ。あ、貴方ね、そのストレートな物言いは直しなさい。いろいろ敵を作りやすいから」 「お断りだ。もともと口べたなんだよ、俺は」 「……そうでしょうよ。嫌味とか皮肉とか口にしなさそうだものね、士郎は。ええ、どうせわたしのコトなんて口うるさい嫌味なヤツだとか思ってるでしょ」 「? なんでさ。俺、遠坂が言う分には好きだぞ。なんかさ、そうじゃないと遠坂じゃない気がするし」 「――――――――!」  あ。  癇に障ったのか、遠坂は不機嫌そうに顔を逸らしてしまった。 「…………」  まあ、それより今は、遠坂がセイバーを好きだと言ってくれたコトが、なんとなく嬉しかった。 「さて、雑巾がけぐらいしとかないとな」    セイバーには少ししてから来るように伝えてある。  いつも最低限の掃除はしているが、こうして誰かと手合わせするのは何年かぶりだ。  雑巾がけの一つもしておかないと道場にもセイバーにも失礼だろう。 「……しっかしあれだな。剣の修行って言っても何をやらされるのやら」  切嗣と何度か竹刀で打ち合った事もあるが、自分も切嗣も型を重視しない、素人のたたき合いみたいなものだった。  俺は本気で剣道をしようという気もなく、ただ相手が長物を持っていた場合はどうするか、なんていう対応をたたき込まれただけである。 「……そもそも道具を使ってケンカするのは苦手だったな。作ったり直したりする方にしか関心がないんだから」  そういった意味で言えば、まともに剣というものを教わるのは初めてだ。  セイバーの剣は剣道とは大きく違うようだが、それでも通じるところはありそうだし、ついていけなくなるほど突拍子もない物じゃないだろう。  扉の音がする。  時間通りセイバーがやってきたのだろう。  こっちも雑巾がけが終わったところだし丁度いい。 「待たせたな。今日からここで手ほどきをしてもらう訳だけど――――」 「? どうかしましたかシロウ。何か意外なものを見るような顔をしていますが」 「あ―――いや、セイバーの服がそのままだったから、驚いた。てっきりあっちの格好で来るのかと思ってたから」  剣の修行なんだし、セイバーが戦う姿といったらあの鎧姿という事もあって、勝手にそんなイメージをもっていたのだが。 「はあ。武装している方がいい、というのでしたら着替えますが。……そうですね、私がどうかしていました。  たとえ試合とは言え、鎧をまとわないのはシロウに失礼です。申し訳ありません、すぐに着替えてきます」 「あ―――いや、別にそういう訳じゃない。ただの思い違いだからいいんだ。俺もどっちかっていうと、鎧姿より今の方がいい」 「は……? ですが、この服装ではシロウの気が済まないのではないのですか?」 「気が済まないって……確かに今から試合するぞー、って感じじゃないけど、セイバーが動きやすいっていうんなら問題ないだろ。昼間っから鎧を着込んでたら、セイバーだって疲れるしな」 「それはそうですが―――この服装で剣を振るうのはおかしくはないでしょうか?」 「なんでさ。似合ってるんだからおかしくなんかないぞ。  俺、セイバーは鎧姿より今の方がいいと思う」 「……? 理解しかねます。この服装は確かに気軽なのですが、戦闘には耐えられないでしょう。セイバーとしては不向きな姿だと思うのですが」 「その格好で戦うな、ばか。セイバーは女の子だろ。女の子にはそういう服のが似合うんだから、それでいいんだ」  さて。  使っていた雑巾をバケツに戻して、壁際にある竹刀を二本持ってくる。 「さて。それでどういった鍛錬をするんだセイバー。方針は全部セイバーに任せるから、無茶でもなんでも言ってくれ」  竹刀をセイバーに投げる。  セイバーは心ここにあらず、といった体で竹刀を受け取って、まじまじとこちらを見つめていた。 「? なんだよ、竹刀じゃダメか?  ま、まさか木刀―――いや真剣を使えってんじゃないだろうな!」  なんてスパルタ! そりゃ流石に想像以上だ。 「ぁ―――いえ、そのような事はありません。せっかく優れた試合用の模造刀があるのですから、こちらを使う事にしましょう」  すう、と何やら静かに深呼吸をするセイバー。  それきり、彼女はいつものセイバーに戻っていた。 「良かった。さすがに木刀で試合をするのは物騒すぎる。  ……で、ほんとに何をやればいいんだ? まず素振り五百回とか、走り込みとか、そういう体力作りからか?」 「その必要はないでしょう。私から見ても、シロウの運動能力は水準に達しています。これ以上肉体面を鍛えるのであれば、それは一日や二日で出来る事ではありません」 「シロウは魔術師としては未熟ですが、戦士としては悲観したものではないと思います。幼い頃から、よほど懸命に鍛えてきたのですね」 「う―――まあ、それぐらいしか取り柄がなかったからな。体を鍛えるのだけは、魔術の才能がなくても出来た事だし」 「それが幸いしたのでしょう。ランサーに襲われて死に至らなかったのは、シロウのそういう努力のたまものですから」 「ですが、それは武器になるほどの物ではありません。  人間には限界がある。シロウの体はその限界の域にはほど遠いし、突破する事も難しいでしょう。  ですから私が教える事は、ただ戦う事だけです」 「……? 戦う事だけってどういう事だ。今の口振りからして、戦う方法を教えてくれる……って訳じゃなさそうだけど」 「当然です。一朝一夕で戦闘技術など身に付く筈がないでしょう。私に出来る事は、マスターに一回でも多く戦いを味わってもらう事だけです。  そもそも人に物を教える事は苦手なのですから、私に師事されても困ります」 「――――――――もしもし?」  そういう事を胸張って言われても、教え子としては答えに窮するというか。 「……えっと、つまり。ようするに、ただ試合をするだけってコトかな、セイバー」 「―――ええ。ただそれだけです、マスター。  寸止めはなし、お互い相手を殺すつもりで打ち合いましょう。  ……そうですね、一時間もすればどういう事なのか、理解してもらえると思います」  では、とセイバーは竹刀を軽く握り込む。 「……?」  その言葉に首をかしげつつ、こちらもセイバーに倣って竹刀を握る。  途端。    ものの見事に、世界が暗転した。    要するに、セイバーが教えようとしているコトはただ一つ。  どんなコトをやっても、  どんな奇策を用いても、  敵わないヤツには絶対に敵わない、という事実だけだった。 「―――ぁ――――はあ、はあ、はあ、あ―――あいたたた、いたい、これホントに折れてるって、間違いなく……!」 「折れているのならもっと逞しい腕になっています。重度の打ち身ですが、今のシロウならじきに回復するでしょう」 「……つ、そうか。よし、なら、もう少し続けるか」 「え……まだ続けるのですか、シロウ?  確かに打ち身ではありますが、すぐに動いていいものではありません」 「容赦なく人の腕に打ち込んできてなに言ってんだ。  ―――いいぜ、セイバーが乗り気じゃないんなら、その隙――――」  もらった!  ……わけないよな、そりゃ。 「人の話を聞いてください。明らかにシロウは疲労しています。そんな体ではせっかくの修練も無駄になるのですから、休憩をいれるべきです」 「――――いや、でもな。こう、明らかに手加減されてるのに打たれっぱなしっていうのは情けない。  せめて一太刀、セイバーの眉ぐらいは動かさなきゃ悔しくて倒れられん」 「驚くというのでしたら、もう十分驚いています。強情だとは思っていましたが、まさかこれほどとは思っていなかった」 「悪かったな。根本的に負けず嫌いなんだ、俺」 「ええ、それは嫌というほど思い知りましたので結構です。ともかく休憩にしますから、シロウも竹刀を置いてください。  床も汗で滑りやすくなっている。極限状態での模擬戦でもなし、疲労困憊して足場も不確か―――などという状態では意味がありません」 「……なんでさ。普通、戦闘訓練ってのは最悪の状態を想定してやるもんだろ。なら」 「それこそ無意味です。  いいですかシロウ。貴方がサーヴァントと戦う、というのでしたら、体力は万全、足場は完全、逃走経路は確保済み、という状況以外での戦闘は無意味です。  貴方は全てが充実した状態でなければ、サーヴァントと戦いにさえならない。最悪の状態で戦う、という時点で、貴方は選択を間違えているのです」 「……う。つまりこういう状態では、間違っても戦うなってコトか」 「そういうコトです。そうなってはどのような奇蹟もシロウを救いはしないでしょう。  貴方の戦いは、まず自身を万全にし、的確な状況を模索する事から始まるのです」 「…………納得。それじゃ、申し訳ないけど、休ませてくれ」  ばたん、と壁にもたれかかって、そのままずるずると腰を下ろす。 「――――――――ふう」  肺にたまったモノを吐き出す。  ただの空気の筈のそれは、火傷しそうに熱かった。 「……………………いた」  体中がズキズキと痛む中、ちらりと壁の時計を見る。  時刻は十一時過ぎ。  はじめたのが九時頃だから、都合二時間打ち合っていた訳か。  初めの一時間は、一方的に叩かれただけだった。  いきなりセイバーの一撃がとんできて、軽い失神。  目が覚めて、次は気を付けるぞと思った矢先に失神。  ともかく何度も何度も打ちのめされ、体の方が慣れたのか、怒りで馬鹿力が出たのか、一撃目はなんとか受けられるようになった。  問題はその後。  さて、それだけの戦力差を見せつけられて、人間ってのはおいそれと襲いかかれるものなのか。 「………………鬼」  正解は、ひるんだ瞬間に失神だった。  あとはもう、猫に追い詰められたネズミみたいなもんだ。  どう防いでも致命傷を食らって倒れるなら、もう自棄になって攻め込むしかない。  そんなものは当然のようにあしらわれてまた倒される訳だが、それに慣れてくると、なんていうか、 『あ、しまった』  と思える余裕が出てくるというか、次の瞬間に自分が殺されるな、と理解できる勘が冴えてきた訳だ。    こういうのを、俗に乗ってきた、という。  そうなると、後は必死に受けに回った。  とにかく、アレを食らったら失神する、なんて直感がビシバシ来るわけで、生き物としちゃそんなのは避けるのが道理。  雨のように繰り出されるセイバーの竹刀をなんとか受け流して、反撃の隙をじっと待っているうちに致命傷を食らってしまう。  で、立ち上がって次はなんとかもうちょっと持ち堪えるか、いやいやどうせ持ち堪えられないんだからやられる前にやれ、とばかりに攻め込んだりもする。    この二時間は、その繰り返しだった。    ……こんな事をして強くなれるかなんて判らない。  これはただ、戦いっていうものに慣れさせるだけの打ち合いにすぎないと思う。  敵を目の前にしても混乱せず、かといって冷静すぎず。  いつでも、一歩違いで死ぬだけだっていう熱を帯びているのだと、何より自分自身に教え込ませているだけなんだろう。  それでも―――それは無意味かと言われると、そうでもない。  なんの武器もない自分にとって、この緊張感こそが、最も大事にしなければならないモノだと思うのだ。 「お疲れさまでした。どこか痛むところはありますか、シロウ」  気が付けば、傍らにはセイバーがやってきていた。  こっちは床に飛び散らせるほど汗だくだっていうのに、セイバーは汗一つかいていない。 「痛まないところのが珍しいぐらいだ。  ……ほんと、容赦なくやってくれたなセイバー。こうまで一方的だと逆に清々しい」    白状しよう。100%負け惜しみである。 「はい。シロウに合わせて加減はしましたが、容赦はしないよう心がけました。手心を加えては戦いにはなりませんから」 「そうだな。おかげで、今なら首輪が外れたドーベルマンが走ってきても冷静に対処できる。  ……って、ドーベルマンぐらいじゃまだまだか。俺も全然修行が足りなかった」  素直に反省。  体だけは人並み以上に鍛えてきたつもりだったが、二時間セイバーと打ち合っただけでギブアップとは情けない。 「いいえ、そのような事はありません。シロウの打ち込みは一心で、力がありました。時に、あまりの熱心さに対応を忘れたほどです」 「っ――――」  途端、気恥ずかしさが戻ってくる。  今までは竹刀をもった同士、男も女もなく打ち合っていたけど、これはその――――不意打ち、ではないか。 「いや、ちょっと待った。水飲んでくる、俺」 「水ですか? それでしたら私が汲んできますから、シロウは休んでいてください」  セイバーは水を汲みにいってくれた。 「は――――はあ、助かった」  ……だから。  助かったって、何が助かったっていうんだろう……?  セイバーが汲んできてくれた水を飲む。  まだ休憩時間なのか、セイバーは行儀良く道場に正座している。    ……ああしているセイバーは、本当に綺麗だと思う。  男として異性を美しい、と感じるのではなく、人間として綺麗と思うのだ。    そんな彼女がセイバーのサーヴァントであり、戦いを肯とする事には、やはり違和感がある。 「――――――――」  今、ここには自分とセイバーしかいない。  何か話すにはいい機会だし、ここは――――      ――――一日が終わる。    またぞろ、セイバーが隣で眠っているのが気になって土蔵まで逃げてきた。 「………………」  足を止めて、冬の空を眺める。  別段、夜空が綺麗だった訳でもない。  ただぼんやりと、何をするでもなく冬の冷たさを感じていると落ち着いたからだ。  そうしてどのくらいの時間が経ったろうか。  ふと、夜の闇から足音が聞こえた気がした。   「――――誰だ」    返事はない。  刺々しい気配と共に足音が近づいてくる。 「………………!」  腰を落として、すぐさま跳び退けるように身を構える。 「おい。誰だって訊いてるんだ」  ……返事はない。  足音の主は、一度も立ち止まる事なく、堂々と俺の前に現れた。 「――――――――」 「おまえ、たしか――――」  あの日。夜の学校でランサーと戦っていたサーヴァント。  塀を飛び越えていったセイバーに倒された、赤い鎧姿の騎士―――― 「遠坂のサーヴァント、アーチャーか……?」  男はわずかに口元を歪めた。  笑った―――という事は、認めた、と解釈していいのだろう。 「――――――――」  ……なにか、癇に障る。  理由もなく胸がむかつくというか、どうしても好きになれない。  俺はコイツと話した事もないし、コイツから襲われた事もない。  だというのに、こうして顔を合わせた瞬間に理解できた。  ―――俺は、コイツを認められない。  理由はないが、とにかく肌に合わない。  それは俺だけじゃなく、アーチャー自身も同じ筈だ。  ここまで性が合わない相手っていうのは、世界中捜しても三人といまい。  自分にとってそれだけの相手なんだから、アイツのほうだって俺に苛立ちを覚えていてもおかしくない 「……何の用だ。傷が治るまで見張りに徹するんじゃないのかよ」 「無論そのつもりだ。私の傷が治り次第、この下らん協定も終わらせる。故に、おまえと話す事などないと、今まで傍観していたのだがな」 「なんだ、遠慮しないで傍観してろ。俺もおまえと話す事なんてない」 「そうしたいのは山々だが、見逃せない事があってな。  おまえ、セイバーには戦わせないらしいな」 「悪いかよ」  反射的に言い返す。 「――――――――」  じろりと。  確かな敵意を感じさせて、アーチャーは俺を射抜いた。 「……やはりな。小僧の考えそうな事だ。  他人の助けはいらない。出来る事は全て自分でやる。  加えて犠牲者は一人も出したくない、か―――虫酸が走るな、その思考」 「なっ……! おまえに言われる筋合いなんかないぞ!  俺は俺が正しいと思う事をするだけだ、文句を言われる謂われはないっ……!」 「筋合いはある。同じサーヴァントとして、セイバーの苦労は理解できるからな。おまえのようなマスターでは、セイバーの負担も大きかろう」 「っ…………!」  それが真実だからという事もある。  だがそれ以上に、この相手にそれを言われるのだけは、ひどく我慢ができなかった。 「ふざけるな……! 俺はセイバーに負担なんてかけていないっ! あいつの代わりに俺が戦うんだから、それでいいじゃないか!」 「ふん、戦わなければ傷つかないとでも? サーヴァントは戦う為だけの存在だ。それから戦いを奪う事こそ冒涜だが―――まあ、おまえに言っても始まるまい」  言うだけ言って、アーチャーは口を閉ざした。    ―――数分。  俺とアーチャーは無言のまま対峙した。   「――――――――」  ごくり、と喉が動く。  その、こちらの内面を探るような、冷たい視線。  そうして、唐突に。   「それで。どうなのだ、セイバーのマスターよ」    赤い騎士は、落ち着いた声で答えを求めた。 「どうって、なにが」 「おまえは本気で、戦わずにこの争いを終わらせるつもりか。誰とも争わず、誰も殺さず、誰をも殺させないと?」 「……争わないとは言ってないだろ。戦う時は戦う」 「なるほど。それで戦っても誰も殺さない、と」 「そうだよ。なんか文句あるか」 「おまえの甘ったるい考えに邪魔などせんよ。そんな余裕はないし、そこまで酔狂ではない」  背を向けるアーチャー。 「だが間違えるな。おまえが気取る正義の味方とは、ただの掃除屋だ。その方法で救えるものは、生き残った者だけと知れ」 「――――――――」  ……どうしてなのか。  その言葉に、理由もなく全身を打ちのめされたような気が、した。 「……待てよ。正義の味方の、どこが掃除屋だって言うんだ」 「……おまえも気が付いている筈だがな。  いいか、その方法では悲しい出来事、悲惨な死を元に戻す事は出来ない。  ―――もともと、それが限界なのだ。  正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片づけるだけの存在だ。おまえは、おまえが救いたいと思う者をこそ、絶対に救えない」 「―――――――」  そんなコトは、ない。  誰かを救おうと手を伸ばして、その手が、その“誰か”だけ救えないなんて、絶対にあるものか―――― 「理想論はあくまで理想にすぎない。おまえが理想を抱き続ける限り、現実との摩擦は増え続ける。おまえが取ろうとしている道はそういうものだ。  ならばいつか現実に直面し、その折り合いのツケを支払う時がくる。おまえのその選択が、多くの命を奪う事もあるだろうよ」 「な――――」 「覚悟ぐらいはしておけ。己の〈矮小〉《わいしょう》さを実感した時、まず何を正し、誰を罰するかと。  それが出来ぬようなら、その夢もその魔術も、今すぐ捨てるのだな」  闇に消えていく背中。 「いいか。誰が何をしようと、救われぬ者というのは確固として存在する。おまえの理想で救えるものは、おまえの理想だけだ。人間に出来る事などあまりにも少ない。  それでも―――」 「おい、待てよ! おまえ、何を言いたいんだ……!」  問いかけは闇に溶ける。  アーチャーの気配はとうになく、俺の声だけが空を切っていた。 「……なんだアイツ。言いたいだけ嫌味を言って消えやがって」  要約すれば、俺の考えは甘くて、そんなんじゃ近いうちに痛い目を見るぞって事だろう。  そんな事、やってもみないうちに間違っていたなんて結論を下せるものか。   「―――覚悟は出来てる。俺が間違っていた時は、この命を差し出すだけだ」    それが魔術師としての覚悟だ。  アーチャーに言われなくても、そんなのとっくに判っているんだから。 「ふん。本当にあいつとは肌が合わないな」  ……ただ。  だっていうのに、一つだけ気がかりな事がある。        誰が何をしようと、救われぬ者というのは確固として存在する。  人間に出来る事などあまりにも少ない。  それでも――――   「……それでも。一度も振り返らず、その理想を追っていけるか」    一人呟く。  あの台詞の最後には、なぜか、そんな言葉が紡がれている気がしたのだ。    ……彼女が何故あそこまで戦いを望むのか。  聖杯戦争の報酬である聖杯を求める理由が分かれば、セイバーの心情も少しは見えてくるかもしない。    けど、それは―――本当に、問いただしていい事なのか。 「……セイバー。一つ訊くんだけど、いいかな」 「はい。なんでしょう、シロウ」 「その、聞き忘れていた事なんだけど。  セイバーが俺に力を貸してくれるのは、セイバー自身も聖杯が欲しいからなんだろ。  なら―――一体、セイバーは聖杯に何を求めているんだよ」 「聖杯を求める理由、ですか? ただ欲しいから、ではいけないのでしょうか。聖杯は万能の器です。手に入れれば、叶わない願いはない。それを求める事に理由などありません」 「――――違う。そういう事を訊いてるんじゃないんだ。  セイバー、わざと誤魔化しているだろ、それ」 「ぁ――――シロウ、それは」 「求める理由じゃない。その、叶えたい願いっていうのが何なのか知りたいんだ。  ……けどセイバーが言いたくないんなら言わなくていい。自分の願いなんて、人に聞かせられる物ばかりじゃないからな」 「――――――――」  セイバーは気まずそうに口を閉ざした。  ……まあ、当然か。  セイバーは俺を助ける為に契約したんじゃない。  あくまで聖杯を手に入れられるのはマスターだから、その手伝いとして俺を助けてくれているだけだ。  だから、その第一である望みを口にするのは〈憚〉《はばか》られるのだろうし、なにより―――俺自身、セイバーの口から、身勝手な願いなんて聞きたくはなかった。    ……だから、止めるべきだったんだ。  そもそも明確な願いのない俺が、人の願いを聞こうだなんて冒涜だろう。 「―――シロウ。それはマスターとしての命令ですか?」  不意に。  真剣な眼差しで、彼女はそう告げてきた。 「え……いや、違う。そういうつもりじゃない。  ただセイバーの事が気になっただけなんだ。つまらない事を訊いてすまなかった」 「……いえ。確かにサーヴァントとして、マスターには己が望みを口にしておかねばなりません。  シロウ、私が聖杯を求める理由は、ある責務を果たす為です。私は生前に果たせなかった責任を果たす為、聖杯の力を欲している」    まっすぐに。  嘘偽りのない瞳で、彼女は確かにそう言った。 「……責任を果たす……? 生前って、サーヴァントになる前のか……?」 「……はい。ですが、私にも本当のところは分からない。  私はただ、やり直しがしたいだけなのかもしれません」  静かに目を伏せるセイバー。  それが。  一瞬だけ、懺悔をする〈迷〉《まよ》い〈子〉《ご》のように見えた。 「―――そ、そうか。ともかく、それで安心した。  セイバーがさ、遠坂みたいに夢は世界征服よー、なんて言いだしたらどうしようかって心配したぞ」 「……ふふ。凛が聞いたら怒りますね。彼女はそういう事を口にする人間ではありません。彼女ならば聖杯を自分の為だけに使うでしょうが、それは決して世を混乱に陥れるものではないでしょう」 「そうかあ? 俺は違った意味で、あいつにだけは聖杯を渡しちゃいかんと思ってるが」  うんうん、と頷く。  そんな俺を、セイバーは穏やかな顔で見つめていた。  話はそれで終わりだ。  今のは立ち入ってはいけない話だった。  遠坂の話で雰囲気も和んだことだし、これ以上この話題を続けるのは止めにしよう。 「――――――――」  ただ、胸に小さな棘は残った。  セイバーの望みが俗物的な物でない事に胸を撫で下ろしながら、なにか―――彼女の望みとやらが、どこか間違っていると思ったのだ。    ……彼女がサーヴァントになる前。  人間として生きていた頃のセイバーはどんな風だったんだろう。    セイバーはあれだけ美人なんだし、すごく人に好かれたと思う。  そもそも〈剣士〉《セイバー》だなんて呼ぶから勘違いしてしまうが、セイバーだって昔は、剣なんて持たない普通の子だったのではないか。 「……だな。セイバー、以前はどんなヤツだったんだろ」    興味が湧いてしまい、つい思いが口に出た。 「―――はい? 何か言いましたか、シロウ?」 「え? いや、セイバーはどんなヤツだったのか想像してただけだ。別にセイバーの真名を知りたいんじゃなくて、どういう生活を送ってたのかなって」 「はあ。私がどういう人間だったか、ですか……?  おかしな事に関心を持つのですね、シロウは」 「迷惑だったら聞き流してくれ。単に思いついただけなんだ。  セイバーはセイバーのサーヴァントだけど、サーヴァントになる前はもっと違った人間だったんじゃないかって」    ―――そう。  可憐な少女に相応しい、穏やかな生活があったんじゃないかと思ってしまう。 「―――それはありえないと思います。  サーヴァントになったからといって性格が変わる訳ではないし、私は生まれた時から剣を与えられた騎士ですから。貴方の言うような、違った私は存在しなかった」 「うわ。じゃあ昔っからそんなにきつい性格してたのかセイバー。  ……そりゃタイヘンだ。俺、まわりの人たちに同情するかも」 「……それはどういう意味でしょうか。  私は厳しくはありますが、周りに強要した覚えなどありません」 「うそつけ。今日の特訓ぶりでな、セイバーが情け容赦ないヤツだって思い知った。  見ろ、このミミズ腫れ。人がちょっと間違えただけで喜々として打ち込んでくるんだから、この鬼教官」 「わ、私は喜んでなどいませんっ。  シ、シロウには申し訳ありませんが、厳しくしなければ鍛錬にならないでしょう!」 「――――――――」  ……珍しい。  セイバーがこんな顔をするなんて、すごく意外だ。 「な、なんですかその目は。いきなり黙り込むのは卑怯だと思います」 「ああいや―――セイバーがそういうふうに怒るのが意外で、びっくりした」 「え―――そ、そうですか? 私としては、思った事を主張しただけなのですが」 「ああ。セイバー、あんまり自分の感情で話さないじゃないか。だから、今のは新鮮だった」 「そ、そうでしょうか? 私は自分の信念に基づいて行動しているつもりですが」 「だから、それはセイバーの気持ちじゃなくて考えだろ。  そうじゃなくて、素直に思ったままのことをあんまり話さないじゃないか、セイバーは」 「それは当然です。私に求められるものは個人としての意見ではなく、立場としての意見ですから。それは今も昔も変わらない。  私はセイバーのサーヴァントとしてシロウを守る。  そのため以外のことを口にするべきではないし、  考える必要もないでしょう」 「―――それはそうだけど、それじゃあセイバーがつまらないだろ。  セイバーには役割があるんだろうけど、それにかかりきる事はないんじゃないか。セイバーにだって、自分のやりたい事があるんだから」 「ですから、私のやるべき事はシロウを守る事です。ただでさえマスターとして未熟だというのに、私の言うコトも聞かず戦おうとする貴方を、こうして鍛えているのではありませんかっ」 「―――いや、そういう事じゃないんだけど……まあ、セイバーがそういうならいいか」    なんか、どことなく今のセイバーは棘が取れていて明るい感じがするし、これ以上この話を続けて、せっかくの和みムードを壊すのも忍びないし。  ………その、別に訓練に音を上げている訳ではないのだが。    なんかこう、それを覚えるだけでやっていけそうな必殺技とかあると、セイバーとの試合にも気合が入りそうな気がしたり。 「セイバー、相談があるんだが」 「え、なんでしょうシロウ……? 心なしか、とても期待に満ちた目を向けられている気がするのですが」 「そうかな? んー、まあ頼みゴトって言えば頼みゴトだし、期待してるって言えば期待してて、率直に言って教えてもらいたいコトがあるんだけど」 「……はあ。その、シロウの言いたい事はよく分かりませんが、私に出来る事でしたら伝授しますが」  真剣な話だと思ったのか、セイバーは居を正して俺の前に正座する。 「それで、どのような事を知りたいのです? やはりサーヴァントの事ですか?」  ずい、と真面目に見つめてくるセイバー。 「―――――――む」  なんか、十秒後の展開が読めてしまった気もするが、ダメで元々、一応訊いてみよう、うん。 「ええっと。別にふざけているワケじゃないんで、怒らないで聞いてほしいんだが」 「ええ、ですから真剣に聞いています。どうぞ、遠慮せず訊ねてください」 「それじゃお言葉に甘えて訊くぞ。  ―――その、な。俺でもサーヴァントを倒せるような、簡単な必殺剣とかあったら教えてくれないか? 使えばセイバーも倒せるようなのなら文句なしなんだけど」 「――――――――」  ピタリ、とセイバーの呼吸が止まる。 「――――――――」  セイバーは眉一つ動かさない。 「―――や、やっぱりそんな都合のいいモノなんてないよな……!  悪い、悪かった、悪すぎた……! 今のは冗談で本気にあらず聞かなかったコトにしてもらえると個人的に助かるんだ、けど――――」  ―――って。  にたり、なんて擬音が似合いそうな笑みを浮かべるセイバーさん。 「セ、セイバー……? 気のせいかもしれないけど、その、なんかえらくおまえに似合わない邪悪な笑みをしてるぞ、今」 「気のせいではありません。今の私の心境は、凛に匹敵するほど邪悪に染まっていますから」 「っ…………!!!!」  ぞ、ぞわってきた、ぞわって……! 「う、わ、う」 「何を慌てているのですシロウ。私はまだ質問に答えていません。たしか、私の聞き違いでなければ、サーヴァントを一撃で倒せる必殺剣を所望とか?」  思わず後じさるも、セイバーはずい、と身を乗り出して逃がしてくれない。 「あ――――いや、その、ですね…………セイバー、怒ってるだろ?」 「はい、とても」    ―――死んだ。  これが実戦なら、間違いなくセイバーに殺されてる。 「ぅ――――落ち着け、落ち着こうセイバー。  反省してる。セイバーが怒った理由だって、なんとなく分かってます」 「そうですか。では、そこに正座してください。シロウにはキチンと説明して差し上げねば気がすみません」  立ち上がるセイバー。  はい、と迅速に、セイバーみたいに背筋を正して覚悟を決める。 「――――――――」  すう、と大きく深呼吸をするセイバー。  で。     「―――ふざけているのですか貴方は……! そんな必殺剣など、欲しがってどうするのですっっっっっ!!!!」 「あ――――う」  三半規管が大パニック。  よもや、怒声だけで足腰立たなくなるとは思わなかった。  今のは人間のレベルを超えている。  猛獣に迫るというか、ライオンなみの発声量ではあるまいか。 「す、すまん……だから、反省してるって。  セイバー、俺より強いだろ。もしかしたら、素人でも使える剣の技とか知っていると、思ったんだ」 「そのような都合のいい物などありませんっ!  意表を突く技など互角の相手に使うものであって、シロウのような初心者は丁寧に下地を整えるべきなのですっ!」 「そも、相手を倒す、など考えないよう言ったではないですかっ! シロウは身を守る事を第一に考えてくださいっ! シロウにとって必殺剣があるとしたら、それは“自分が戦わないで済む状況”に戦局を導く判断力でしょう!」 「う……わかった、わかってる、から―――もうちょっと声、落としてくれ」  うう、反省してますと手を合わせてジェスチャーする。 「……まったく、見込みがあるかと思えば不安定なんですから。これでは危なかしくて、貴方を一人にするなど出来ないではないですか」  セイバーのお叱りは続く。 「………………はあ」  ライオンの尾っぽを踏んだのは自分だし。  ここは大人しく、セイバーの気が済むまでお小言に付き合うとしよう……。  ……さて。  話していたら体の熱も下がった事だし、そろそろ打ち合いを再開するか。 「セイバー、始めよう。休憩はもういいよ」 「……そうなのですか? 見たところ体の熱は下がったようですが、痛みの方はまだ治まっていないでしょう?」 「構わないよ、そんなの。ただの打ち身なんだから、多少の痛みは我慢する。今の俺はほっとけば治るんだから」 「しかし、それで悪化しては鍛錬の意味がない。もうしばらくは様子を見るべきだと思いますが」 「いいからいいから。遠坂が帰ってくるまでにやっときたいんだ。アイツにはこんな姿見せられないだろ」 「……ふう。分かりました、確かにいずれ敵となる凛に、シロウの腕前を知られるのはよくありませんね。  多少無茶とは思いますが、そういう事でしたらペースをあげていきましょう」  ひょい、と落ちていた竹刀を拾うセイバー。  と。  間の抜けた音が道場に響き渡った。 「セイバー……?」  その、今のはセイバーの、腹の音だと思うのだが。 「空腹のようです。鍛錬に夢中で気が付きませんでした」 「あ―――うん。そう言えばもう昼か」  そりゃお腹の虫ぐらい鳴るよな。  俺はまだそうでもないけど、セイバーがそんなに空腹なら昼飯にしておこう。  その間にこっちの体も完治してくれれば御の字だし。 「いいや、ちょうどいいし昼にしよう。ささっと材料買ってくるから、セイバーは居間で休んでいてくれ」 「シロウ。外出するなら私も付き添いますが」 「大丈夫、すぐ近くの商店街だ。真っ昼間から襲いかかってくるヤツはいないし、セイバーがいたら逆に目立つよ」 「…………本当に、危険はないのですね?」 「ないって。すぐに帰ってくるから待っててくれ」  財布を持って外に出る。  ここから商店街まで、自転車でざっと十分もかからない。  ちなみにいま車庫から持ち出したのは二号機で、一号機は柳洞寺前に路駐したままである。  坂道を下っていく。  平日の昼間に商店街に行くなんて、子供の頃のお使い以来かもしれない。  さすがに昼間という事もあり、交差点には買い物帰りの主婦さんが多い。  奥さんたちが歩いてくる深山町の中心が、俺や桜が愛用しているご近所の商店街である。  とりあえず、一通り買い物を済ませてきた。  二人分の昼食の材料と、軽い和菓子。  今日の夕食は遠坂の担当だからいいにしても、明日の朝用の食パンを四人分。  イチゴのジャムの作り方なんて知らないので、一番安い……のは何かと物議を醸しそうだから、それなりに値の張った物を買った。 「……くそ、ひどい出費だ。なんだってこんな甘ったるいモンの為に千円も払わなくちゃいけないんだ」  文句を言いつつ自転車の籠に荷物を押し込む。  ―――と。  くいくい、と後ろから服を引っ張られる感じがした。 「?」  なんだろ、と振り返る。    そこには。  銀の髪をした、幼い少女の姿があった。 「な、おまえは―――!」  がらがっしょん、と自転車を倒しながら後じさる。  〈咄嗟〉《とっさ》に身構える俺と、にこやかにこちらを見つめる少女。 「……?」  少女からは殺気というか、敵意がまったく感じられない。  あまつさえ少女は、   「よかった。生きてたんだね、お兄ちゃん」    なんて、嬉しげな笑みをうかべてきやがった。 「っ――――」  ……少女は間違いなくバーサーカーのマスターだ。  あの夜、俺を一刀のもとに斬り伏せた怪物の主。  それと、事もあろうにご近所の商店街で、しかも真昼間から遭遇するなんて誰が思おう。 「まさか―――ここで、やる気か」 「? おかしなコトを言うんだね。お日さまが出ているうちに戦っちゃダメなんだから」  むー、と不満そうに口をとがらす。  それは、どう見ても年相応の、幼い少女の仕草だった。 「――――――――」  なんのつもりかは判らない。  なんのつもりかは判らないが、目の前にいる少女が無害だという事ぐらいは、俺にでも感じ取れた。 「お、おまえ―――たしか、えっと」 「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。長いからイリヤでいいよ。それで、お兄ちゃんはなんて名前?」 「俺……? 俺は衛宮士郎だけど」 「エミヤシロ? なんか言いにくい名前だね、それ」 「……俺もそんな発音で言われたのは初めてだ。いいよ、覚えにくかったら士郎でいい。そっちが名前だ」 「シロウ? なんだ、思ってたよりカンタンな名前なんだね。そうか、シロウか。……うん、響きは合格ね。単純だけど、孤高な感じがするわ」  つ、と何やら思わせぶりな視線を投げてくるイリヤスフィール。 「っ……!」  思わず体が反応して、いつでも動けるように腰を落とした。  ……なにしろ相手はバーサーカーのマスターだ。  その気になれば、お隣の花屋さんもろとも俺を吹っ飛ばせるだろう。 「あ、そう身構えなくていいよシロウ。今日はバーサーカーも置いてきたの。お兄ちゃんだってセイバーを連れてないから、おあいこ」  イリヤスフィールは楽しげにこっちの顔を覗き込んでくる。 「……いや。おあいこって、おまえ」 「ね、お話ししよ。わたしね、話したいコトいっぱいあったんだから」 「な――――!」  少女は、それこそ父親の手をとるような自然さで俺の腕に抱きついてきた。 「ま、待て待て待て待て……! いきなり何しやがるおまえ! あ、ああ新手の策略かこいつは!」 「なにって、だからお話しだよ。フツウの子供って、仲良くお話しするものなんでしょ?」 「いや、それはそうなんだが俺とおまえは違うだろ! マスター同士だし、一度戦った仲じゃないか! むしろ敵だ、敵!」 「それは違うよ。わたしに敵なんていないもん。他のマスターはただの害虫。けど、いい子にしてたらシロウは見逃してあげてもいいよ?」  笑顔で、さりげなくとんでもないコト言ってるし! 「ああもう、とにかく離れろ! おまえメチャクチャだぞ、なんか!」  ぶん、と手をふってイリヤスフィールをはがす。 「きゃ……!」  とて、と。  俺に振り払われた反動で、少女は背中から地面に倒れそうになる。 「しま、イリヤ―――!」    ……なんだってこの時、そんな事したんだろうか。    気が付けば、俺は咄嗟にイリヤスフィール――ああもうめんどくさい、イリヤの腰に手を伸ばして、倒れかけた彼女の体を支えていた―――  とん、と無言でイリヤを地面に降ろす。 「………………」  イリヤは黙っている。  俺も何を言っていいものか判らず、立ち往生してイリヤの姿を見下ろしていた。  ……気まずい。  気まずいので、このままそっと帰ってしまおうとした時。   「―――なに。お兄ちゃん、わたしのこと嫌いなの?」    あの夜。  バーサーカーを連れていた時と同じに、赤い瞳を灯らせて彼女は言った。 「――――っ」  背筋が凍る。  つい危機感が薄れてしまったが、彼女は間違いなくバーサーカーのマスターだ。  下手に逆らえば命はない。  こんなところで犬死にしたらセイバーに会わせる顔がないし、何より商店街に集まった人たちまで巻き込んでしまう。  ……そう、賭けてもいい。  この少女は、場所がどこであろうと、容赦なくマスターとしてその力を行使すると。 「……分かった。話をすればいいんだろ。大人しくするから、それでいいかイリヤ」 「うん! それじゃあっちの公園に行こっ。さっき見てきたんだけどね、ちょうど誰もいなかったんだ」  たん、と弾むようなステップで走り出すイリヤ。 「ほら、早く早く! 急がないとおいてっちゃうからね、シロウ――――!」  くるくると回りながら、イリヤは商店街を駆けていく。 「……あいつ。ホントに先行っちまったぞ」    呆れを通り越して、少し感動してしまった。  あのイリヤという少女にとって、一度でも約束したコトは絶対の真実なのだ。  だからあんなに嬉しそうに駆けていった。  こうして一人になった俺が、今がチャンスとばかりに逃げだす可能性を考えない。  一度でも俺が話をすると言ったから、あの少女はそれを信じて駆けていった。 「…………なんなんだ、あいつ」  とんでもないアンバランスさだ。    ……だが、まあ。  そんな真っ白な信頼を裏切れるほど、俺も大人になれている訳じゃなかった。  商店街から離れた小さな公園には、俺とイリヤしかいなかった。  この時間、子供たちは学校に行っているのか、それともこんな小さな公園はもう流行らないのか。  誰もいない冬の公園で、なんとも言えない緊張感に包まれたまま話を始めた。 「……って。話をしようって、なに話せっていうんだ。  セイバーの事とか知りたいのか?」 「え? セイバーの事って、どうして?」 「だって俺たちマスターだろ。敵のサーヴァントの情報は、知りたいと思うだろ」 「なによ、そんな話はイヤよ。もっと面白い話じゃないとつまんない」 「いや、つまんないって言われてもな。……ならイリヤは何が面白いっていうんだよ」 「そんなの分かんないよ。  わたし、あんまり人と話したコトってないんだ。だからなに話していいか分かんない」 「……おまえな。そんなんで話をしようだなんて連れ出したのか。物事はよく考えてから行動しろって教わんなかったか? なかっただろ。なら今からちゃんと思慮深い大人になるんだぞ」 「……む。いいよーだ、そういうのはシロウに任せるわ。  レディをエスコートするのは男の人の責任なんでしょ?  ならわたしはシロウに付いてけばいいだけだもん」  えへへ、とばかりに笑って、イリヤは肩を寄せてきた。  それは馴れ馴れしいというレベルじゃなくて、なんていうか、ただ寒くて身を寄せてくる小動物みたいな自然さだ。  ……と。  よく見ればホントに寒そうだな、この子。 「イリヤ。もしかして、寒いのか」 「え? うん、寒い。わたし、寒いの苦手なの」  はあ、と白い息を吐く。  苦手と言いながら、イリヤはその白い息を楽しそうに眺めていた。 「そうか。いつもはそうでもないんだけど、今日は妙に寒いからな。寒いのが苦手なら堪えるだろうけど……その、イリヤはどっから来たんだ? なんか、随分と貴族っぽい名前だけど」 「貴族っぽいんじゃなくて貴族だよ。  わたしはアインツベルンのね、古いお城で生まれたの。  いっつも寒くて雪が降ってたんだ。だからこれぐらいの寒さは平気かな」 「……? 寒い国に生まれたのか。なら寒さには慣れてるもんじゃないのか、普通」 「慣れてるけど、寒いのはイヤなの。わたし、冷たいのよりあったかいほうが好きだもん。シロウだってあったかいほうがいいんじゃない?」 「ああ、そりゃそうだ。冷たいよりは、温かい方がいい」 「だよね! うん、だから寒い日は部屋の中であったまってるの。でも雪は好きよ。白くて、わたしの髪とおんなじだって父さまが言ってたから」 「――――」  ぽん、と手を打つ。  言われてみればその通りだ。  イリヤを見て何かを連想していたが、雪の妖精ってヤツがいたとしたら、それはこんな姿なのではなかろうか。 「うまいこと言うな、イリヤの親父さんは。確かにイリヤの髪は雪みたいだ。白くて、なんだか柔らかそうだし」 「えへへ、でしょ? この髪はね、イリヤの自慢なんだから。わたしの中で唯一女の子らしい、母さま譲りの髪なんだ」  嬉しそうにイリヤは笑う。  そういう仕草を見ていると、本当に麻痺してくる。  この子があのバーサーカーのマスターだなんて、実際に見ていなければ到底信じられない。 「ね、シロウは? シロウはお父さんから譲ってもらったものってあるの? あ、魔術刻印っていうのはなしよ。  マスターとしてじゃなくて、お父さんとして譲ってもらったものだよ」 「え、俺? ……うーん……最後にもらったのは家かな。  その前は名字。で、最初にもらったのは」    死にかけていたこの命、だったか。  十年前の火事で、俺だけが切嗣に助けられたんだから。 「……そうだな、イリヤみたいな、両親から受け継いだ肉体的な特徴はないよ。けどそれに負けないぐらい多くの物をもらってきたと思う」  イリヤはそれを、我が事のように喜ぶ。  そんな笑顔を向けられて、嬉しくならないヤツはいないだろう。 「でも今の話だと、シロウは魔術刻印を受け取らなかったんだ。おかしいなあ。じゃあシロウはマスターじゃないの?」 「? いや、魔術刻印のない半人前の魔術師だけど、マスターだぞ。  そういうイリヤは、その―――マスターなんだから魔術師なんだよな」 「え? わたし、魔術師なんかじゃなくてマスターだよ?  普通の魔術なんて教わらなかったもの」 「はあ……!? じゃあ親から魔術刻印を受け取らなかったのか? ……その、お城を持ってるぐらいの名門なんだろ、イリヤの家は」 「そうだけど……魔術刻印ってマスターになる為のものじゃないの? だからマスターだよ、わたし」  はてな、と首をかしげるイリヤ。 「…………?」  こっちも同じく首をかしげる。  どうも、イリヤの言動はさっきから微妙にズレてるというか、いまいち会話のキャッチボールができていない。 「……なあイリヤ。ひとつ訊くけど、イリヤは何処に住んでるんだ? どうも聖杯戦争の為だけにこの町に来たみたいだけど、それじゃ今はホテル暮らしとか?」  いや、そもそも保護者がいなかったらまずいだろう、イリヤは。  こんな子供を一人で日本に来させるなんてあり得ない話だし。 「ホテル……? それって別荘のこと?」 「ああ、似たようなもんだ。家じゃないけど、泊まれるところ」 「それならあるよ! ほら、あっちにおっきな森があるよね。そこの奥に、お爺さまのお爺さまが建てた洋館があるの。アインツベルンのマスターはね、聖杯戦争の時はそこに住むんだって」  イリヤは西の方角を指さしている。  ……たしかにそっちには、まだ開発が進んでいない深い山林が広がっているが……。 「あの森って、車で一時間もかかるだろ。そこから一人で来てるのか、イリヤは?」 「うん、今日は抜け出してきたの。セラもリーゼリットもメイドのクセにうるさいんだもん。  せっかくニホンに来たんだから、その間ぐらいは外に出てもいいと思うの。欲しい物はなんだって手に入ったけど、いつも部屋に閉じこもってたんだから、これくらいはご褒美なの」 「……? 部屋に閉じこもってたって、イリヤがか?」 「うん。雪が降るとね、体に悪いから外に出してもらえなかったの。だからたいていは部屋の中で遊んでたんだ。  あ、でも大丈夫だよ? こっちはお城ほど寒くないから、一人でも平気だもん」  にぱり、と満面の笑顔でイリヤは言う。  彼女はぶらぶらと足をふって、こうしているだけで楽しそうだった。 「…………」  なんとなく、ガソゴソ、と買い物袋に手を入れる。  セイバーと食べる筈だったどら焼きを袋から出して、これまたなんとなく、イリヤへと差し出した。 「食べるか。安物だけど」 「え? なにそれ、食べ物?」 「そうだよ。甘いのは好きじゃないけど、これだけは別だ。うちは親子共々、お茶請けはコイツなんだ」 「……えっと。……その、くれるの?」 「やる。一人で食っても旨くないから、二人で食おう」  ほら、とどら焼きを差し出す。  イリヤは戸惑ってから、初めて見るであろう東洋の和菓子を手に取った。 「えへ。うん、ありがとう!」  嬉しそうにどら焼きを食べる。  その仕草は、ほおばるという表現がぴったり来るほど元気いっぱいだった。 「――――――――」  もぐり、とこっちもどら焼きを食べて、後頭部を襲ったショックに耐える。  ……まいった。  なんていうか、こういう妹がいたらいいな、なんて本気で思ってしまったのはどういう事か。 「……けど、本当に……」    イリヤは無邪気すぎると思う。  この子は、もしかしたら本当に善悪の区別を知る前の子供なのかもしれない。  魔術師の家系に生まれた子供がどんな風に育てられるか、俺はおぼろげにしか想像できない。  それでも―――イリヤの生まれた環境が普通でないのは感じ取れる。  遠坂はああいうヤツだけど、その芯は根っからの魔術師だ。聖杯戦争も、マスター同士の殺し合いもきちんと“殺人”として受け入れている。  けどこの子は、人を殺すっていう意味を知らないままマスターになってしまったのではないか。  まだ少ししか話してないけど、イリヤは自分から人を殺すような子じゃないと思う。    なら、それは―――― 「イリヤ。真面目な話なんだが」  と。  何かに呼ばれたように、唐突にイリヤは顔をあげた。 「……イリヤ? どうした、何かあったのか」 「うん。もう帰らないと。バーサーカーが起きちゃった」  トン、とベンチから飛び跳ねる。  イリヤはそのまま、さよならも言わずに公園から駆けだし、あっというまに走り去っていってしまった。 「行ってくるね士郎。今日はおみやげ買ってきてあげるから、おとなしくしてるのよ」  じゃあねー、と手を振って藤ねえは出勤していった。 「わたしも行くわ。今日はうちに寄ってくるから遅くなるけど、夕飯までには戻るから。留守中、軽率な事はしないようにね」 「――――さて」  時刻は七時半を過ぎたところだ。  今朝も滞りなく二人を送り出せた事だし、次にやるべき事は決まっている。 「さ、昨日の続きだ。道場に行こう、セイバー」 「え、すぐに鍛錬を始めるのですか? 朝食を摂ったばかりですし、少し間を取るべきではないでしょうか」 「心配は無用だよ。メシの後すぐ動けるぐらいには鍛えてあるし、今朝はパン食だっただろ。あんなんで胃がもたれるほど不健康な生活は送ってないぞ」 「……はあ。シロウがいいというのでしたら、私は構いませんが」 「なら問題なし。いいから行こう。どうやったらセイバーに一太刀あびせられるか、一晩考えた成果を見せてやるから」 「っ…………!」  セイバーの反撃をかわしきれず、受けにまわった竹刀ごと地面に弾き飛ばされた。 「ハッ――――く、っ…………」  竹刀を握っていた指が痺れている。  こうなったら力押しだ、とばかりに全力で踏み込んで食らったカウンターだ。  そりゃあ竹刀も落とすし、床に尻餅もつく。 「―――くそ。今のはうまくいったと思ったんだけどな」 「シロウはその判断が甘い。  いいですか、シロウが捨て身になったところでサーヴァントは倒せません。勝ち気なのはいいですが、それも相手を見てください」 「……む。そうは言うけど、受けに回ってたらいつかはやられるだろう。チャンスがあるならこっちから攻め込まないと」 「その通りですが、シロウはそのチャンスの生かし方を理解していません。捨て身でしかけるのならば、それに相応しい好機を待つべきです」 「言われるまでもない。セイバー、さっき少しだけよそ見をしただろ。セイバーがそんなヘマをやるなんて一日で一回あるかないかだから、ここが勝負所だって踏んだんだが」 「咄嗟にその判断が出来たのは評価しますが、今のはあえて作った隙です。  この程度では動じないだろう、と期待して視線を逸らしたのですが、まさか一直線に踏み込んでくるとは思いませんでした」 「――――う。なんか人が悪いぞセイバー。素人をからかってもいいコトないぞ」 「からかってなどいません。こちらで仕掛けた策であれ、隙である以上は多少のリスクを負います。  もっとも視線を逸らした程度のリスクと、捨て身で突進してくるシロウのリスクは〈秤〉《はかり》にかけるまでもありませんが」 「……む。ようするに、小さな隙は静かにつけってコトか? 大振りだとせっかくのチャンスを逃す……んじゃなくて、隙の度合いに見合った行動を取れって言いたいのか、セイバー」 「はい。ですから、好機の大小の読み分けをしっかりしてください」 「ですが昨日よりは格段に、生き死にの境界線には鋭敏になっていますね。危険を察知する感覚が身に付いてくれば、誰と戦い何を打つべきかは自ずと絞られてきますから」  セイバーはどこか嬉しげに言う。  こっちの思い上がりじゃなければ、教え子が少しだけ上達したものと喜んでくれているのかもしれない。 「そろそろ休憩時間ですね。水を汲んできましょうか、シロウ?」 「あ、水ならいいよ。やかんもってきたから、それで飲む」  疲れきった体をひきずって壁際に移動する。  用意しておいたタオルで汗を拭きつつ、やかんに口をつけて水を飲んだ。 「――――はあ」    大きく息を吐く。  ……遠坂と藤ねえを見送ってから三時間近く、ただセイバーと打ち合ってた。    相変わらずセイバーは何を指摘するでもなく、こっちも何を訊くでもなく竹刀を交す。  自分の勝つ見込みが希薄な試合ではあるが、それでもセイバーと打ち合う度に体はよく動いてくれる。    戦闘技術の向上なんて期待していない。  これはただ、頭ではなく体に戦いを慣れさせているだけだ。  それでもやらないよりはマシだし、何もないからこそ、この一点だけは鍛えておかなければ話にならない。  いざ敵マスターと対峙した時、どうやって戦うのか、なんて頭で考えていたら、それこそ致命的だろう。 「……セイバーは……やっぱり汗一つかいてないか」    さすがにガックリくるが、一日や二日で彼女に追いつける筈もない。  セイバーは昨日と同じように、正座をして体を休めている。 「――――――――ふむ」  このままぼんやりとしているのもなんだし。  せっかくの休憩時間なんだから話をしよう。  よし、それじゃあ――――      ……彼女がサーヴァントになる前。  人間として生きていた頃のセイバーはどんな風だったんだろう。    セイバーはあれだけ美人なんだし、すごく人に好かれたと思う。  そもそも〈剣士〉《セイバー》だなんて呼ぶから勘違いしてしまうが、セイバーだって昔は、剣なんて持たない普通の子だったのではないか。 「……だな。セイバー、以前はどんなヤツだったんだろ」    興味が湧いてしまい、つい思いが口に出た。 「―――はい? 何か言いましたか、シロウ?」 「え? いや、セイバーはどんなヤツだったのか想像してただけだ。別にセイバーの真名を知りたいんじゃなくて、どういう生活を送ってたのかなって」 「はあ。私がどういう人間だったか、ですか……?  おかしな事に関心を持つのですね、シロウは」 「迷惑だったら聞き流してくれ。単に思いついただけなんだ。  セイバーはセイバーのサーヴァントだけど、サーヴァントになる前はもっと違った人間だったんじゃないかって」    ―――そう。  可憐な少女に相応しい、穏やかな生活があったんじゃないかと思ってしまう。 「―――それはありえないと思います。  サーヴァントになったからといって性格が変わる訳ではないし、私は生まれた時から剣を与えられた騎士ですから。貴方の言うような、違った私は存在しなかった」 「うわ。じゃあ昔っからそんなにきつい性格してたのかセイバー。  ……そりゃタイヘンだ。俺、まわりの人たちに同情するかも」 「……それはどういう意味でしょうか。  私は厳しくはありますが、周りに強要した覚えなどありません」 「うそつけ。今日の特訓ぶりでな、セイバーが情け容赦ないヤツだって思い知った。  見ろ、このミミズ腫れ。人がちょっと間違えただけで喜々として打ち込んでくるんだから、この鬼教官」 「わ、私は喜んでなどいませんっ。  シ、シロウには申し訳ありませんが、厳しくしなければ鍛錬にならないでしょう!」 「――――――――」  ……珍しい。  セイバーがこんな顔をするなんて、すごく意外だ。 「な、なんですかその目は。いきなり黙り込むのは卑怯だと思います」 「ああいや―――セイバーがそういうふうに怒るのが意外で、びっくりした」 「え―――そ、そうですか? 私としては、思った事を主張しただけなのですが」 「だからかな。セイバー、あんまり自分の感情で話さないじゃないか。だから、今のは新鮮だった」 「そ、そうでしょうか? 私は自分の信念に基づいて行動しているつもりですが」 「だから、それはセイバーの気持ちじゃなくて考えだろ。  そうじゃなくて、素直に思ったままのことをあんまり話さないじゃないか、セイバーは」 「それは当然です。私に求められるものは個人としての意見ではなく、立場としての意見ですから。それは今も昔も変わらない。  私はセイバーのサーヴァントとしてシロウを守る。  そのため以外のことを口にするべきではないし、  考える必要もないでしょう」 「―――それはそうだけど、それじゃあセイバーがつまらないだろ。  セイバーには役割があるんだろうけど、それにかかりきる事はないんじゃないか。セイバーにだって、自分のやりたい事があるんだから」 「ですから、私のやるべき事はシロウを守る事です。ただでさえマスターとして未熟だというのに、私の言うコトも聞かず戦おうとする貴方を、こうして鍛えているのではありませんかっ」 「―――いや、そういう事じゃないんだけど……まあ、セイバーがそういうならいいか」    なんか、どことなく今のセイバーは棘が取れていて明るい感じがするし、これ以上この話を続けて、せっかくの和みムードを壊すのも忍びないし。  ………その、別に訓練に音を上げている訳ではないのだが。    なんかこう、それを覚えるだけでやっていけそうな必殺技とかあると、セイバーとの試合にも気合が入りそうな気がしたり。 「セイバー、相談があるんだが」 「え、なんでしょうシロウ……? 心なしか、とても期待に満ちた目を向けられている気がするのですが」 「そうかな? んー、まあ頼みゴトって言えば頼みゴトだし、期待してるって言えば期待してて、率直に言って教えてもらいたいコトがあるんだけど」 「……はあ。その、シロウの言いたい事はよく分かりませんが、私に出来る事でしたら伝授しますが」  真剣な話だと思ったのか、セイバーは居を正して俺の前に正座する。 「それで、どのような事を知りたいのです? やはりサーヴァントの事ですか?」  ずい、と真面目に見つめてくるセイバー。 「―――――――む」  なんか、十秒後の展開が読めてしまった気もするが、ダメで元々、一応訊いてみよう、うん。 「ええっと。別にふざけているワケじゃないんで、怒らないで聞いてほしいんだが」 「ええ、ですから真剣に聞いています。どうぞ、遠慮せず訊ねてください」 「それじゃお言葉に甘えて訊くぞ。  ―――その、な。俺でもサーヴァントを倒せるような、簡単な必殺剣とかあったら教えてくれないか? 使えばセイバーも倒せるようなのなら文句なしなんだけど」 「――――――――」  ピタリ、とセイバーの呼吸が止まる。 「――――――――」  セイバーは眉一つ動かさない。 「―――や、やっぱりそんな都合のいいモノなんてないよな……!  悪い、悪かった、悪すぎた……! 今のは冗談で本気にあらず聞かなかったコトにしてもらえると個人的に助かるんだ、けど――――」  ―――って。  にたり、なんて擬音が似合いそうな笑みを浮かべるセイバーさん。 「セ、セイバー……? 気のせいかもしれないけど、その、なんかえらくおまえに似合わない邪悪な笑みをしてるぞ、今」 「気のせいではありません。今の私の心境は、凛に匹敵するほど邪悪に染まっていますから」 「っ…………!!!!」  ぞ、ぞわってきた、ぞわって……! 「う、わ、う」 「何を慌てているのですシロウ。私はまだ質問に答えていません。たしか、私の聞き違いでなければ、サーヴァントを一撃で倒せる必殺剣を所望とか?」  思わず後じさるも、セイバーはずい、と身を乗り出して逃がしてくれない。 「あ――――いや、その、ですね…………セイバー、怒ってるだろ?」 「はい、とても」    ―――死んだ。  これが実戦なら、間違いなくセイバーに殺されてる。 「ぅ――――落ち着け、落ち着こうセイバー。  反省してる。セイバーが怒った理由だって、なんとなく分かってます」 「そうですか。では、そこに正座してください。シロウにはキチンと説明して差し上げねば気がすみません」  立ち上がるセイバー。  はい、と迅速に、セイバーみたいに背筋を正して覚悟を決める。 「――――――――」  すう、と大きく深呼吸をするセイバー。  で。     「―――ふざけているのですか貴方は……! そんな必殺剣など、欲しがってどうするのですっっっっっ!!!!」 「あ――――う」  三半規管が大パニック。  よもや、怒声だけで足腰立たなくなるとは思わなかった。  今のは人間のレベルを超えている。  猛獣に迫るというか、ライオンなみの発声量ではあるまいか。 「す、すまん……だから、反省してるって。  セイバー、俺より強いだろ。もしかしたら、素人でも使える剣の技とか知っていると、思ったんだ」 「そのような都合のいい物などありませんっ!  意表を突く技など互角の相手に使うものであって、シロウのような初心者は丁寧に下地を整えるべきなのですっ!」 「そも、相手を倒す、などと考えないよう言ったではないですかっ! シロウは身を守る事を第一に考えてくださいっ! シロウにとって必殺剣があるとしたら、それは“自分が戦わないで済む状況”に戦局を導く判断力でしょう!」 「う……わかった、わかってる、から―――もうちょっと声、落としてくれ」  うう、反省してますと手を合わせてジェスチャーする。 「……まったく、見込みがあるかと思えば不安定なんですから。これでは危なかしくて、貴方を一人にするなど出来ないではないですか」  セイバーのお叱りは続く。 「………………はあ」  ライオンの尾っぽを踏んだのは自分だし。  ここは大人しく、セイバーの気が済むまでお小言に付き合うとしよう……。    ……彼女が何故あそこまで戦いを望むのか。  聖杯戦争の報酬である聖杯を求める理由が分かれば、セイバーの心情も少しは見えてくるかもしない。    けど、それは―――本当に、問いただしていい事なのか。 「……セイバー。一つ訊くんだけど、いいかな」 「はい。なんでしょう、シロウ」 「その、聞き忘れていた事なんだけど。  セイバーが俺に力を貸してくれるのは、セイバー自身も聖杯が欲しいからなんだろ。  なら―――一体、セイバーは聖杯に何を求めているんだよ」 「聖杯を求める理由、ですか? ただ欲しいから、ではいけないのでしょうか。聖杯は万能の器です。手に入れれば、叶わない願いはない。それを求める事に理由などありません」 「――――違う。そういう事を訊いてるんじゃないんだ。  セイバー、わざと誤魔化しているだろ、それ」 「ぁ――――シロウ、それは」 「求める理由じゃない。その、叶えたい願いっていうのが何なのか知りたいんだ。  ……けどセイバーが言いたくないんなら言わなくていい。自分の願いなんて、人に聞かせられる物ばかりじゃないからな」 「――――――――」  セイバーは気まずそうに口を閉ざした。  ……まあ、当然か。  セイバーは俺を助ける為に契約したんじゃない。  あくまで聖杯を手に入れられるのはマスターだから、その手伝いとして俺を助けてくれているだけだ。  だから、その第一である望みを口にするのは〈憚〉《はばか》られるのだろうし、なにより―――俺自身、セイバーの口から、身勝手な願いなんて聞きたくはなかった。    ……だから、止めるべきだったんだ。  そもそも明確な願いのない俺が、人の願いを聞こうだなんて冒涜だろう。 「―――シロウ。それはマスターとしての命令ですか?」  不意に。  真剣な眼差しで、彼女はそう告げてきた。 「え……いや、違う。そういうつもりじゃない。  ただセイバーの事が気になっただけなんだ。つまらない事を訊いてすまなかった」 「……いえ。確かにサーヴァントとして、マスターには己が望みを口にしておかねばなりません。  シロウ、私が聖杯を求める理由は、ある責務を果たす為です。私は生前に果たせなかった責任を果たす為、聖杯の力を欲している」    まっすぐに。  嘘偽りのない瞳で、彼女は確かにそう言った。 「……責任を果たす……? 生前って、サーヴァントになる前のか……?」 「……はい。ですが、私にも本当のところは分からない。  私はただ、やり直しがしたいだけなのかもしれません」  静かに目を伏せるセイバー。  それが。  一瞬だけ、懺悔をする〈迷〉《まよ》い〈子〉《ご》のように見えた。 「―――そ、そうか。ともかく、それで安心した。  セイバーがさ、遠坂みたいに夢は世界征服よー、なんて言いだしたらどうしようかって心配したぞ」 「……ふふ。凛が聞いたら怒りますね。彼女はそういう事を口にする人間ではありません。彼女ならば聖杯を自分の為だけに使うでしょうが、それは決して世を混乱に陥れるものではないでしょう」 「そうかあ? 俺は違った意味で、あいつにだけは聖杯を渡しちゃいかんと思ってるが」  うんうん、と頷く。  そんな俺を、セイバーは穏やかな顔で見つめていた。  話はそれで終わりだ。  今のは立ち入ってはいけない話だった。  遠坂の話で雰囲気も和んだことだし、これ以上この話題を続けるのは止めにしよう。 「――――――――」  ただ、胸に小さな棘は残った。  セイバーの望みが俗物的な物でない事に胸を撫で下ろしながら、なにか―――彼女の望みとやらが、どこか間違っていると思ったのだ。  ………その、別に訓練に音を上げている訳ではないのだが。    なんかこう、それを覚えるだけでやっていけそうな必殺技とかあると、セイバーとの試合にも気合が入りそうな気がしたり。 「セイバー、相談があるんだが」 「え、なんでしょうシロウ……? 心なしか、とても期待に満ちた目を向けられている気がするのですが」 「そうかな? んー、まあ頼みゴトって言えば頼みゴトだし、期待してるって言えば期待してて、率直に言って教えてもらいたいコトがあるんだけど」 「……はあ。その、シロウの言いたい事はよく分かりませんが、私に出来る事でしたら伝授しますが」  真剣な話だと思ったのか、セイバーは居を正して俺の前に正座する。 「それで、どのような事を知りたいのです? やはりサーヴァントの事ですか?」  ずい、と真面目に見つめてくるセイバー。 「―――――――む」  なんか、十秒後の展開が読めてしまった気もするが、ダメで元々、一応訊いてみよう、うん。 「ええっと。別にふざけているワケじゃないんで、怒らないで聞いてほしいんだが」 「ええ、ですから真剣に聞いています。どうぞ、遠慮せず訊ねてください」 「それじゃお言葉に甘えて訊くぞ。  ―――その、な。俺でもサーヴァントを倒せるような、簡単な必殺剣とかあったら教えてくれないか? 使えばセイバーも倒せるようなのなら文句なしなんだけど」 「――――――――」  ピタリ、とセイバーの呼吸が止まる。 「――――――――」  セイバーは眉一つ動かさない。 「―――や、やっぱりそんな都合のいいモノなんてないよな……!  悪い、悪かった、悪すぎた……! 今のは冗談で本気にあらず聞かなかったコトにしてもらえると個人的に助かるんだ、けど――――」  ―――って。  にたり、なんて擬音が似合いそうな笑みを浮かべるセイバーさん。 「セ、セイバー……? 気のせいかもしれないけど、その、なんかえらくおまえに似合わない邪悪な笑みをしてるぞ、今」 「気のせいではありません。今の私の心境は、凛に匹敵するほど邪悪に染まっていますから」 「っ…………!!!!」  ぞ、ぞわってきた、ぞわって……! 「う、わ、う」 「何を慌てているのですシロウ。私はまだ質問に答えていません。たしか、私の聞き違いでなければ、サーヴァントを一撃で倒せる必殺剣を所望とか?」  思わず後じさるも、セイバーはずい、と身を乗り出して逃がしてくれない。 「あ――――いや、その、ですね…………セイバー、怒ってるだろ?」 「はい、とても」    ―――死んだ。  これが実戦なら、間違いなくセイバーに殺されてる。 「ぅ――――落ち着け、落ち着こうセイバー。  反省してる。セイバーが怒った理由だって、なんとなく分かってます」 「そうですか。では、そこに正座してください。シロウにはキチンと説明して差し上げねば気がすみません」  立ち上がるセイバー。  はい、と迅速に、セイバーみたいに背筋を正して覚悟を決める。 「――――――――」  すう、と大きく深呼吸をするセイバー。  で。     「―――ふざけているのですか貴方は……! そんな必殺剣など、欲しがってどうするのですっっっっっ!!!!」 「あ――――う」  三半規管が大パニック。  よもや、怒声だけで足腰立たなくなるとは思わなかった。  今のは人間のレベルを超えている。  猛獣に迫るというか、ライオンなみの発声量ではあるまいか。 「す、すまん……だから、反省してるって。  セイバー、俺より強いだろ。もしかしたら、素人でも使える剣の技とか知っていると、思ったんだ」 「そのような都合のいい物などありませんっ!  意表を突く技など互角の相手に使うものであって、シロウのような初心者は丁寧に下地を整えるべきなのですっ!」 「そも、相手を倒す、などと考えないよう言ったではないですかっ! シロウは身を守る事を第一に考えてくださいっ! シロウにとって必殺剣があるとしたら、それは“自分が戦わないで済む状況”に戦局を導く判断力でしょう!」 「う……わかった、わかってる、から―――もうちょっと声、落としてくれ」  うう、反省してますと手を合わせてジェスチャーする。 「……まったく、見込みがあるかと思えば不安定なんですから。これでは危なかしくて、貴方を一人にするなど出来ないではないですか」  セイバーのお叱りは続く。 「………………はあ」  ライオンの尾っぽを踏んだのは自分だし。  ここは大人しく、セイバーの気が済むまでお小言に付き合うとしよう……。    ……彼女が何故あそこまで戦いを望むのか。  聖杯戦争の報酬である聖杯を求める理由が分かれば、セイバーの心情も少しは見えてくるかもしない。    けど、それは―――本当に、問いただしていい事なのか。 「……セイバー。一つ訊くんだけど、いいかな」 「はい。なんでしょう、シロウ」 「その、聞き忘れていた事なんだけど。  セイバーが俺に力を貸してくれるのは、セイバー自身も聖杯が欲しいからなんだろ。  なら―――一体、セイバーは聖杯に何を求めているんだよ」 「聖杯を求める理由、ですか? ただ欲しいから、ではいけないのでしょうか。聖杯は万能の器です。手に入れれば、叶わない願いはない。それを求める事に理由などありません」 「――――違う。そういう事を訊いてるんじゃないんだ。  セイバー、わざと誤魔化しているだろ、それ」 「ぁ――――シロウ、それは」 「求める理由じゃない。その、叶えたい願いっていうのが何なのか知りたいんだ。  ……けどセイバーが言いたくないんなら言わなくていい。自分の願いなんて、人に聞かせられる物ばかりじゃないからな」 「――――――――」  セイバーは気まずそうに口を閉ざした。  ……まあ、当然か。  セイバーは俺を助ける為に契約したんじゃない。  あくまで聖杯を手に入れられるのはマスターだから、その手伝いとして俺を助けてくれているだけだ。  だから、その第一である望みを口にするのは〈憚〉《はばか》られるのだろうし、なにより―――俺自身、セイバーの口から、そんな身勝手な願いなんて聞きたくはなかった。    ……だから、止めるべきだったんだ。  そもそも明確な願いのない俺が、人の願いを聞こうだなんて冒涜だろう。 「―――シロウ。それはマスターとしての命令ですか?」  不意に。  真剣な眼差しで、彼女はそう告げてきた。 「え……いや、違う。そういうつもりじゃない。  ただセイバーの事が気になっただけなんだ。つまらない事を訊いてすまなかった」 「……いえ。確かにサーヴァントとして、マスターには己が望みを口にしておかねばなりません。  シロウ、私が聖杯を求める理由は、ある責務を果たす為です。私は生前に果たせなかった責任を果たす為、聖杯の力を欲している」    まっすぐに。  嘘偽りのない瞳で、彼女は確かにそう言った。 「……責任を果たす……? 生前って、サーヴァントになる前のか……?」 「……はい。ですが、私にも本当のところは分からない。  私はただ、やり直しがしたいだけなのかもしれません」  静かに目を伏せるセイバー。  それが。  一瞬だけ、懺悔をする〈迷〉《まよ》い〈子〉《ご》のように見えた。 「―――そ、そうか。ともかく、それで安心した。  セイバーがさ、遠坂みたいに夢は世界征服よー、なんて言いだしたらどうしようかって心配したぞ」 「……ふふ。凛が聞いたら怒りますね。彼女はそういう事を口にする人間ではありません。彼女ならば聖杯を自分の為だけに使うでしょうが、それは決して世を混乱に陥れるものではないでしょう」 「そうかあ? 俺は違った意味で、あいつにだけは聖杯を渡しちゃいかんと思ってるが」  うんうん、と頷く。  そんな俺を、セイバーは穏やかな顔で見つめていた。  話はそれで終わりだ。  今のは立ち入ってはいけない話だった。  遠坂の話で雰囲気も和んだことだし、これ以上この話題を続けるのは止めにしよう。 「――――――――」  ただ、胸に小さな棘は残った。  セイバーの望みが俗物的な物でない事に胸を撫で下ろしながら、なにか―――彼女の望みとやらが、どこか間違っていると思ったのだ。    ……彼女がサーヴァントになる前。  人間として生きていた頃のセイバーはどんな風だったんだろう。    セイバーはあれだけ美人なんだし、すごく人に好かれたと思う。  そもそも〈剣士〉《セイバー》だなんて呼ぶから勘違いしてしまうが、セイバーだって昔は、剣なんて持たない普通の子だったのではないか。 「……だな。セイバー、以前はどんなヤツだったんだろ」    興味が湧いてしまい、つい思いが口に出た。 「―――はい? 何か言いましたか、シロウ?」 「え? いや、セイバーはどんなヤツだったのか想像してただけだ。別にセイバーの真名を知りたいんじゃなくて、どういう生活を送ってたのかなって」 「はあ。私がどういう人間だったか、ですか……?  おかしな事に関心を持つのですね、シロウは」 「迷惑だったら聞き流してくれ。単に思いついただけなんだ。  セイバーはセイバーのサーヴァントだけど、サーヴァントになる前はもっと違った人間だったんじゃないかって」    ―――そう。  可憐な少女に相応しい、穏やかな生活があったんじゃないかと思ってしまう。 「―――それはありえないと思います。  サーヴァントになったからといって性格が変わる訳ではないし、私は生まれた時から剣を与えられた騎士ですから。貴方の言うような、違った私は存在しなかった」 「うわ。じゃあ昔っからそんなにきつい性格してたのかセイバー。  ……そりゃタイヘンだ。俺、まわりの人たちに同情するかも」 「……それはどういう意味でしょうか。  私は厳しくはありますが、周りに強要した覚えなどありません」 「うそつけ。今日の特訓ぶりでな、セイバーが情け容赦ないヤツだって思い知った。  見ろ、このミミズ腫れ。人がちょっと間違えただけで喜々として打ち込んでくるんだから、この鬼教官」 「わ、私は喜んでなどいませんっ。  シ、シロウには申し訳ありませんが、厳しくしなければ鍛錬にならないでしょう!」 「――――――――」  ……珍しい。  セイバーがこんな顔をするなんて、すごく意外だ。 「な、なんですかその目は。いきなり黙り込むのは卑怯だと思います」 「ああいや―――セイバーがそういうふうに怒るのが意外で、びっくりした」 「え―――そ、そうですか? 私としては、思った事を主張しただけなのですが」 「だからかな。セイバー、あんまり自分の感情で話さないじゃないか。だから、今のは新鮮だった」 「そ、そうでしょうか? 私は自分の信念に基づいて行動しているつもりですが」 「だから、それはセイバーの気持ちじゃなくて考えだろ。  そうじゃなくて、素直に思ったままのことをあんまり話さないじゃないか、セイバーは」 「それは当然です。私に求められるものは個人としての意見ではなく、立場としての意見ですから。それは今も昔も変わらない。  私はセイバーのサーヴァントとしてシロウを守る。  そのため以外のことを口にするべきではないし、  考える必要もないでしょう」 「―――それはそうだけど、それじゃあセイバーがつまらないだろ。  セイバーには役割があるんだろうけど、それにかかりきる事はないんじゃないか。セイバーにだって、自分のやりたい事があるんだから」 「ですから、私のやるべき事はシロウを守る事です。ただでさえマスターとして未熟だというのに、私の言うコトも聞かず戦おうとする貴方を、こうして鍛えているのではありませんかっ」 「―――いや、そういう事じゃないんだけど……まあ、セイバーがそういうならいいか」    なんか、どことなく今のセイバーは棘が取れていて明るい感じがするし、これ以上この話を続けて、せっかくの和みムードを壊すのも忍びないし。  気が付けば正午になっていた。 「お昼時ですね、シロウ」 「ああ、昼時だな」  などと確認しあう俺とセイバーは、仲良く腹の虫を鳴らしていたりする。 「―――メシにしよう。セイバーは何か食べたい物はあるか?」 「私は特に。シロウが用意してくれる食事なら、概ね満足しています」  セイバーの言い回しはどこかおかしい。  ……まあ、とりあえず遠坂みたいに口うるさくないのは助かる。 「じゃあ買い出しに行ってくる。昨日と同じぐらいに帰ってくるから、居間に行っててくれ」 「はい。期待しています、シロウ」  昼は以前から試してみたかったエビ団子に挑戦する事にした。  たこ焼きを一回りほど大きくした、中身がほくほくでエビがあつあつの一品だ。 「……マスタードも買ったし、三時のお茶請けもオッケー、と……」  自転車の籠に荷物を押し込む。    ―――そう言えば。  昨日はここでイリヤと出逢ったんだっけ。 「―――あいつ、いないな」  いや、毎日ここにいられても困るが、いなければいないで拍子抜けというか、残念というか。  ……昨日イリヤと会った事はセイバーにも遠坂にも話していない。  敵として現れた訳でもなかったし、なんとなくイリヤの事を二人に話すのは躊躇われたからだ。 「………………まさかな。昨日いたからって、今日もいるって話でもない」  だから、あとは自転車に乗って―――    まっすぐ家に帰ろう。  セイバーも昼食を楽しみにしてくれてるし、寄り道できるほど余裕のある身分じゃないしな。  そんなワケで、得意のエビ団子を作ってみました。  どっちかって言うとごはんのおかずではなく、お酒のおつまみに最適、そもそもバイト先の居酒屋で覚えた料理である。 「シロウ。これは、とても熱い」    ゴルフボールより大きくテニスボールより小さい、まんまるの揚げ物を口に含むセイバー。 「ん。セイバー、猫舌だっけ? それともこうゆう大雑把な料理ダメとか?」 「いいえ、どちらも問題ありません。この熱さは面白いですし、味付けも粗雑でありながら、きめ細かい気配りが感じられる」 「そっか。セイバーが気に入ってくれて良かった」 「はい。凛や大河に分けてあげられないのが残念です」  黙々と箸を進めるセイバー。  午前中の稽古で汗を流したからか、いつもより食べる量が多い気がする。 「――――――――」  ……その、男として自分でもどうかと思うのだが、料理を食べてもらえるのは嬉しい。それが美味しいと思ってもらえるなら尚更だ。  俺はマスターとして力不足なんだし、こんなコトでセイバーに喜んでもらえるなら、もっともっと腕を凝らしてごはんを作って……って、あれ?  ……なんか、セイバーが厳しい顔して、カラになった皿を見つめている。 「セイバー……? 足りないのならお代わり作るけど?」 「え……? い、いえ、もう十分に堪能しました。たた、足りないなど、そのような事はありませんっ」 「ふうん。じゃあ食後のお茶にしようか。すぐに淹れてくるから待っててくれ」  カラになった食器をまとめて台所へ。  洗い物を流しに置いておいて、ヤカンを火にかけてお茶の用意をする。 「そうだ。セイバーたまには違ったお茶も……」  ひょい、と台所から顔を出す。  ……と。 「……しかし、これは問題だ。シロウの料理は美味しい。  彼に、今から食事を断たれてしまったら、私は間違いなく戦闘意欲を削がれてしまう。  ……私もまだ甘い。何度か経験した筈なのですが、兵糧攻めとはかくも恐ろしいものだったのですね」 「―――――ええっと、なんだ」  ……前言撤回、必要以上に料理に手を入れるのはやめておこう。  この勢いで日に日に手を凝らしていったら、最後にはお抱えの料理人にでもされかねない。    うむ。  人間、何事もやりすぎはよろしくないのだ。  ―――少し遠回りして帰ろう。    時間にすれば五分程度の回り道だ。  その程度、ただの気紛れみたいなものなんだから、言い訳をする必要なんてないだろうし―――― 「――――――――」  自転車を止める。  買い物袋を籠にいれたまま公園に足を踏み入れる。 「――――なんで」  こんな事になっているのか。  ただの気紛れ。  ただ、会えたらいいなという程度の思いつきで寄り道した公園には、    ぼんやりと立ちつくす、銀髪の少女の姿があった。  こちらに気が付いている様子はない。  立ち去ろうとすれば今からでも立ち去れる。  だが―――そんな事をするぐらいなら、初めからこの公園には寄っていない。 「イリヤ」 「――――誰!?」 「いや。誰もなにも士郎だけど」 「え……シロウ、ほんとに……?」 「なんだよ、驚く事か?  ここは商店街の近くなんだから、通りかかることだってあるだろ。イリヤの方こそ、なんだって今日も公園にいるんだよ。昨日もそうだけど、暇なのかイリヤって」 「うん、実はそうなの。あんまりやるコトがないから遊びに来たんだけど、セラはシロウには会っちゃダメだって。どうせもうすぐ殺しちゃうんだから、シロウと遊んでも楽しくないって言うのよ」 「あ――――いや、それは」  ……うわ。  なんと返答したものか、本気で困る台詞をさらっと言われたぞ、今……。 「けどわたし、それは違うと思うわ。だってシロウといると楽しいもの。だからね、ここにいたらシロウに会えるかなって思って、ずっと待ってたの。  ―――うん。シロウが来てくれてよかった」 「……ちょっと待て。まさかとは思ったけど、本当に俺を待ってたのか、イリヤ?」 「そうだよ。  ずっと前からね、シロウが来たらいいなーって思ってたんだから」 「……ばか。寒いのは苦手なんだろ。俺に用があるならうちまで―――はまずいか。セイバーと鉢合わせたら問答無用で戦いになる。  いや、それにしたって他に色々あるだろ。昨日みたいに商店街にいれば俺を見つけられただろうし」 「ううん、それはダメなんだ。わたしから会っちゃダメなんだもん。昨日のは一回だけの反則なの。  だから、今日はシロウが来てくれそうな場所で待つコトにして、こうして見事成功したのでありました」  嬉しげに言って、イリヤはくるり、と踊るようにステップを踏んだ。  なびく銀髪は、本当に冬の妖精のようである。 「……それは判ったけどな。なんだって俺に会いに来たんだよ。いや、昨日程度の話でいいんなら付き合うけど」 「ううん、別に今日はなんでもないよ。シロウに会えればいいなって思っただけだし、わたしたちは敵同士だもの。聖杯戦争が終わりそうになったら殺しに来てあげるから、その時いっしょにお話しよ」  無邪気に言う。  ……その違和感は、やはり耐え難い。  自分が殺されようとしているからじゃなく、純粋に、この子にマスターなんてものは似合わないと思うのだ。 「……イリヤ。それは、本当におまえがしたい事なのか?  おまえは本当に、自分から聖杯戦争なんてものに首をつっこんだのか」 「むっ。そうだよ、お爺さまの言いつけだもの。  わたしはアインツベルンの中で一番マスターに向いてる、おっきな聖杯の持ち主なんだから」 「……それはお爺さまってヤツの言いなりってコトじゃないのか。イリヤは自分の意志でマスターになったんじゃないだろ」 「んー……そうだったかなぁ……よく思い出せないけど、わたしは生まれた時からマスターだったよ? だから戦うのは当たり前なんだって」 「―――それは違う。人から言われて戦うんなら止めろ。  そもそもイリヤには、こんな殺し合いは似合わない」 「……ふぅん。命乞いをしてるってワケじゃなさそうね。  お兄ちゃんったら、本気でわたしのコト心配してるんだ」 「……そうだよ。他のヤツはともかく、おまえみたいなのが戦うのはイヤなんだ。出来るなら、マスターを辞めて大人しくしていてほしい」 「くす。そうね、シロウがわたしのサーヴァントになってくれるならやめてもいいよ。そうすれば、シロウを殺さなくてよくなるもの」 「ば―――なな、なに言ってんだおまえ! サーヴァントになれって、意味わかって言ってるのか……!?」  ……いや、そもそも俺にバーサーカーの代わりなんか出来るかってーの! 「俺は戦いを止めろって言ってるんだっ。サーヴァントを捨てろって言ってるのに、なんだって俺までイリヤの使い魔にならなくちゃいけないんだよっ」 「使い魔じゃないよ、サーヴァントだってば。  いつもいっしょに居てくれるのがサーヴァントなんでしょ? だから、シロウは側にいてくれるだけでいいんだよ」 「え――――む?」  ……ちょっと待て。  もしかして、イリヤ―――― 「一つ訊くが。サーヴァントってなんだ、イリヤ」 「わたしのものなんでしょ? いつも側にいてくれて、イリヤを守ってくれる人だってお爺さまは言ってたよ?」 「――――」  ……やっぱり。  イリヤにとって、サーヴァントってのはそういうモノなんだ。  令呪もマスターもない。  ただ自分を守ってくれる存在が、彼女にとってはサーヴァントなのだ。 「……そうか。けど、やっぱりダメだ。その条件は飲めないから別のにしてくれ」 「な、なによぅ。  シロウ、わたしじゃ不服だって言うの……?」 「いや、不服とかそういう問題じゃなくて……えっと、なんて言うか――――」    イリヤを心配しているけど、そんな四六時中側にいるような相手にはなれないというか――― 「―――イリヤ、俺にはセイバーがいるんだ。  それにマスターとして、他のマスターを止めなくちゃいけない。その、悪いけどイリヤのサーヴァントにはなれないよ」 「っ……! シロウだから譲歩してあげたのに、そんなコト言うんならもう知らないんだから……!」 「ちょっ……ちょっとイリヤ、まだ話が――――」 「シロウのばかー! 女の子に恥をかかせるなんてひどいんだからー!」 「あ……行っちまった……」  止める声も聞かず、イリヤは公園から駆けだしていった。  急いで後を追ったものの、イリヤの姿は見つけられない。 「……まいったな。これじゃ昨日と同じだ」  溜息をついて自転車まで戻る。  ……まあ、それでもあの調子なら、初めて会った夜のようにいきなり襲いかかってくる、なんて事はないだろう。  彼女を説得できる機会は、最低あと一度はあるという事だ。  日が沈みはじめたところで、今日の鍛錬は終了した。  体力の限界が近かったし、夜は遠坂に魔術を教わらなくてはならない。  セイバーに一太刀あびせるという目標は叶えられなかったが、夜に備えて多少の余力は残しておくべきだろう。  そんなわけで、夕飯は俺の当番だ。  セイバーは俺と入れ替わりで汗を流しに行ったので、しばらくは戻ってきそうにない。 「ただいまー。お、ちゃんと晩ご飯作ってるな士郎。  えらいえらい、感心感心」  元気よく居間に入って来るなり、すぱーんとまっすぐ座布団に腰を下ろす藤ねえ。  一日の半分は眠っていなければならないセイバーと違って、この人は二十四時間こんな感じだ。  おそらく、眠っている時ですらそうに違いない。 「ねー、士郎―。このりんご、食べていいのー?」  テーブルの上にある、大量のリンゴを手に取りながら言う。 「かまわないぞ。ごらんの通り余ってるからな、一人、一日三個がノルマだ」 「そうなの? じゃあアップルパイでも作ろうかー? おもに士郎がなんだけどー」  お気楽な事を言いつつ、かぷり、とそのままリンゴに噛みつく藤ねえ。  ……ちゃんと洗ったものをテーブルに置いておいたんだが、あの人はそのあたり気にしない人なんだろう。 「……まったく、せっかくの見舞い品を……」  勘違いとは言え、俺の体を気遣ってやって来てくれた友人の土産をなんだと思っているのか。  ここは一つ、きちんと言ってやらねばなるまい。    ……夕食の下ごしらえを中断して、エプロンを脱ぐ。  手を洗って居間に出ると、藤ねえの手にリンゴはなかった。 「――――藤ねえ、リンゴ食ったか?」 「うん、食べたよ。甘酸っぱくておいしかった」 「そうか。なら次は藤ねえの番だ。いいから、今食った分の土産を出せ」 「? 土産って、ミカン?」 「……どうしてそういう結論になるのかは聞かないぞ。  俺はただ、藤ねえの用意した土産を出せと言ってるんだ。朝、出かけ際に言った台詞を忘れたワケじゃあるまいな」 「失礼ね、忘れてなんかないですよーだ。ほら、ここにちゃんと用意してあるんだから」  どん、と怪しげな紙袋をテーブルに置くと、どざざー、とその中身をぶちまける藤ねえ。 「――――――――」  意外だ。  自分の言った台詞を覚えているなんて、藤ねえとは思えない。   「……けどそれなんだよ。俺には、その」    どう控えめに見ても、景品レベルのぬいぐるみの廃棄場―――もとい、ぬいぐるみの山にしか見えないのだが。 「士郎にはね、このアステカの石仮面。士郎の部屋って殺風景でしょ? これがあったら少しは温度があがるよ、きっと」  はい、と太陽を模したハートフル&サスペリアな仮面を渡される。  中身にふわふわの綿がつまっているだけの、大きさハンドボールほどの物である。 「……藤ねえ。これ、一回百円か?」 「そうよ、取るの苦労したんだから。二時間もねばって、最後には店員さんに出してもらっちゃった」  えへ、なんて照れ笑いしているが、それがどれほど血に濡れたエピソードなのか、考えるだに恐ろしい。 「えーっと、あとはチャイニーズドラゴンとコウモリとカニとウシとサイとヘビとトツゲキホヘイと……」  藤ねえは山とつまれたぬいぐるみを楽しげに分けている。  ごろごろとテーブルから何体かのぬいぐるみが落ちていって、居間はあっというまに散らかっていく。  ……いくのだが、まあ、藤ねえは楽しそうなので水をさすのもなんだろうし。 「―――まあ、もらっとく。藤ねえも整理し終わったら片づけろよ」 「はーい、わかってまーす」  ぬいぐるみを持ったまま台所に〈踵〉《きびす》を返す。  ―――と。  ちょうど通りかかったのか、居間の入り口でとんでもなく不機嫌そうなセイバーと目があった。 「……………………」  セイバーは何も言わず、ただ居間を睨んでいる。 「セイバー……? もうお風呂から上がったのか?」 「はい、いい湯でした」  などといつもの調子で即答しつつ、ふらふらと夢遊病のように居間に入ってくる。  セイバーはそのままテーブルまで歩いていき、一体のぬいぐるみが落ちているあたりでピタリと立ち止まった。 「大河。この人形は、獅子を模しているのですか」 「え? うん、そうみたいね。ライオンの子供だよ、それ」 「…………………………」  セイバーはじっと足下に落ちているぬいぐるみを見つめている。 「この散らばった人形は大河の物なのですか?  その、そこにある人形たちと同じで」 「そうだけど、セイバーちゃん欲しい? ほしいならあげよっか?」  なんて、気軽に声をかける藤ねえ。 「――――!」  うわ、なに考えてんだ藤ねえ……!  セイバーが不機嫌だって見て判るだろうに、なにそんな素っ頓狂な言動してんだよぅ!  っていうか、そもそもセイバーがそんなの欲しがるとでも―――― 「どう、いらない? わたしが持っててもしょうがないし、セイバーちゃんにあげてもいいよ」  セイバーが嫌がっていると気付かず、ライオンのぬいぐるみを持ち上げる藤ねえ。  セイバーはそれを、   「――――是非」    ずい、と真剣に身を乗り出して受け取った。 「……え?」    思考がフリーズする。  それは、どんな目の錯覚か。  あのセイバーが、あんな無駄の塊みたいなぬいぐるみを、大切そうに抱きかかえてるなんて。 「感謝します。ありがとう、大河」 「別にいいよ。それ、虎じゃないんだもん」  ……いや。今の発言はなにやら問題あるぞ藤ねえ。 「けど意外かな。こういうの好きなんだ、セイバーちゃんって」 「はい。小さくて可愛らしいものには憧れていました。  あまり、そういったものを手にする機会がなかったもので」  言って、セイバーは手に持ったぬいぐるみへと視線を下ろす。  その顔は、なんていうか――――   「――――?」  ……なんだ。  今、なにかおかしな光景が、見えた気がした。 「ん? もしかしてセイバーちゃん、ライオンが好きなの? ライバル?」  セイバーははい、と。ぬいぐるみに向けた笑顔のまま静かに頷いた。 「好き、という訳ではありませんが、縁があるのです。  昔、ライオンの仔を預かっていた事があって、その仔が私によく懐いてくれたのが嬉しかった。  ですから、それ以来獅子には思い入れがあるのです。  本来なら、私は竜を背にする者なのですが」 「ふうん、ライオンの子供かあ……そういえば猫っぽいんだっけ、ライオンの仔って。なに、もしかして噛んだり裂いたり飛んだりする?」 「ええ、それぐらい元気はありましたね。  預かっていたのは一ヶ月だけでしたが、出来ることなら最期まで共にいたかった」 「なるほどなるほど。でも難しいよね、ライオンってすっごく大きくなるじゃない。普通の家じゃ飼えないし、そりゃ手放すしかないか」  うんうん、と一人納得する藤ねえ。  セイバーは一人、まだライオンのぬいぐるみを見つめていた。 「――――――――」  それが、どんな魔法を持っていたのか。    知るはずのない光景が、意味もなく脳裏に浮かんだ。 「――――――――」  ……目眩のような物なのだと、自分でも判っている。  それでも、この目眩を振り払う事は出来なかった。    ……たった今話していた彼女の思い出。  昔、実際にあった出来事。  幼いライオンの仔と頬を合わせるセイバーは、年相応の少女だった。    それがその時だけの物なのか、俺には判らない。  判るのは、この目眩を振り払うのを惜しいと思う自分がいる、という事だけだ。 「――――――――」    おかしな幻はすぐに消えた。  ……ただ、胸がざわつく。  垣間見た幻は、癒えない傷痕のように、脳裏に残った気がした。 「藤ねえ。リンゴ食うのもいいけど、ちゃんとノルマは果たせよな。藤ねえが買い込んだミカン、まだダンボール一箱分残ってんだぞ」 「あう、イヤなコト思い出しちゃった。……うう、もうミカンは食べ飽きたよぅ」  かぷかぷとリンゴに牙、もとい歯を立てながらフザケタ事をほざく藤ねえ。 「なにが食べ飽きた、だ。言っとくけど俺は反対したんだからな。俺と桜と藤ねえしかいないっていうのに、餅は十枚近く頼むわ、ダンボール三箱ものミカンは持ってくるわ。  正月だからって買い込みすぎだ。もう二月だっていうのにあと一箱余ってるじゃんか。あのまま腐らせたら藤ねえに全額払ってもらうからな」 「う。……つかぬ事を訊くけど、ミカンってどのくらいで傷むのかな?」 「ああ、常温で二週間から一ヶ月。そろそろアウトだ」  いやまあ、ちゃんと氷室に保存してるんでもうちょっとは保つとは思うけど。 「げげ。じゃあ今まさに食べごろ腐りごろ?」 「…………藤ねえ。間違っても一人暮らしなんかするなよな。最近の食中毒、本気で怖いんだから。食べ物はちゃんと賞味期限をチェックして、夏場の魚料理も気をつけるコト」 「大丈夫、そん時は士郎んとこにお邪魔するから平気。  あまりものでいいから頂戴ね」 「…………あまり物なんかやるか、ばか。  藤ねえは大食いだからな。メシ食いに来るならちゃんと藤ねえの分も用意しとく」  ふん、と顔を逸らして夕食の支度をする。 「ん。じゃあわたし、いっぱい稼いで食費いれたげる。  士郎は切嗣さんと同じで甲斐性なしだから、いつもお金に困ってそうだし」 「言ってろ。……それよりさ、なんであんなにいっぱいミカン買ったんだよ。桜はああいう果物嫌いだし、俺だって食べる方じゃないって知ってるだろ」  いい機会なんで、正月からずっと疑問に思っていたコトを口にする。 「んー、べつにー。あ、けどオレンジペコって響きいいよねー」 「――――――――」  ……いや、まあ。  藤ねえに論理的回答を求めた俺がバカだった。  ―――うむ。    このままでは本気でアップルパイを作らされかねない。  夕食の支度はほぼ出来てるし、ちょっと席を外してしまおう。 「ん? 士郎、エプロンつけたままで何処いくの?」 「いや、ちょっと玄関まで。遠坂のヤツ、まだ帰ってきてないから様子でも見てこようかなって」 「へえ、気が利くのね士郎。うんうん、遠坂さんも女の子だし、士郎に出迎えられたら喜ぶわよきっと」  何が嬉しいのか、藤ねえは上機嫌で俺を送り出す。 「………………」  ……まいったな。  これじゃホントに外の様子を見てこないとカッコがつかない。 「ま、一回りだけしてくるか」    エプロンを外して玄関に向かう。  ―――と。  かちゃりと音をたてて、風呂場のドアが開かれた。 「シロウ? 夕飯の支度はいいのですか?」 「―――――――――――――――――――――――― ―――――――――――――――――――――――――」    しばし、沈黙。  それが誰であるか言うまでもないのに、その名前を口にする事が、ひどく難しかった。 「どうしました、呆然として。まさかとは思うのですが、夕食の準備で何か問題でも?」   「―――――――いや。そんなコトは、ないんだが」    自分でも呆然とした声で、なんとか返答する。 「?」  首を傾げる。  肩口までかかる髪が揺れる。  金の髪は濡れていて、いつもとは違っていた。  いや、違うのは髪だけじゃない。  いま目の前にいる彼女は、本当に年相応の、誰が見てもか弱くて可憐な少女だった。 「―――そっか。風呂入ってたんだ、セイバー」 「? シロウが私に勧めてくれたのですが?」 「―――そうだった。……もしかしてセイバー、風呂好きか」 「ええ、私もサーヴァントになって知りました。以前は周囲の目があって、湯浴みなど出来ませんでしたから」  まるっきり少女の顔で、セイバーは言う。  髪を編んでいないせいか。  そこに、少年らしい凛々しさは影も形もない。 「シロウも体を洗うのでしたらどうぞ。今夜は冷えますから、お湯が体に沁み入りますよ」    それでは、とセイバーは居間へ向かっていった。 「――――――」  ……言葉がない。  セイバーが女の子なんだって、そんな事は初めから判ってた。  ただ、それでも―――彼女は剣が似合っていたし、俺もそれをなんだかんだと認めていた。  ―――だっていうのに、今のは反則だ。    ……昨日、うかつにも入浴中のセイバーと出くわしてしまった。  あの時はただビックリして実感できなかったが、今のは違う。 「……女の子、じゃないか」    ごん、と後頭部が壁に当たる。  自分が何をしたいのかも分からず、呆然と天井を見上げる。 「―――――まずい。それは、やばいと思う」    壁に背中を預けて、ぼんやりと口にする。  廊下の冷たさが思考を洗浄していって、段々といつもの自分が戻ってきた。    で、そのあと。  いったい何がまずくて、何がやばいのか。やっぱりちっとも、これっぽっちも分からなかった。  夕飯の支度も終わって、時刻は七時を過ぎた。  居間にはセイバーと藤ねえがおり、この時間にいる筈の遠坂の姿だけがない。 「……あいつ。外で何かあったんじゃないだろうな」  遠坂に限ってそんなヘマはしないと思うが、アイツは時々とんでもないポカをするようだし。 「―――ちょっと見てくるか」  屋敷の周りを見てくるぐらいなら一人でも大丈夫だろう。  廊下に出る。  玄関から外に出ようとした矢先、ガラガラと玄関が開いて、コート姿の遠坂が帰ってきた。 「遠坂」 「ただいま。なに、エプロン姿でお出迎え? わりと似合ってるじゃない、そういうの」  眉一つ動かさず、遠坂は冗談めいた事を言う。  ……怖い。  人間、冗談を口にしているクセに顔が真顔っていうのが、一番怖い。 「遠坂、おまえ――――」    何かあったのか、と訊ねようとして、彼女の手についた血の跡に気が付いた。  ……わずかな血の跡と、腫れている人差し指。  それって、もしかして。 「遠坂。とてつもなく悪い予感を口にするんだが」 「なによ。つまんない事なら聞かないわよ」 「いや。おまえさ、もしかして誰か殴ってきたんじゃないのか」 「ご名答。何かとやかましい慎二にナックルパートお見舞いしてきたわ」  ふん、と鼻を鳴らして通り過ぎていく遠坂。 「………………」  そっか。慎二にナックルパートか。  それなら手についている血の跡も、指の痣も納得がいく―――って、ちょっと待てーーーーーっっっ!!! 「待て待て待て待て! 慎二を殴ったってどういう事だ遠坂!?」 「うるさいわね。気にくわなかったからギッタンギッタンにしてやっただけよ」 「ぎったんぎったんって……ナックルパートってベアか?」 「ベアもベア、グリズリー級にベアよ」  ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。 「………………」 「………………」  しばし、沈黙。  なんと言ったものか口を閉ざしてしまい、妙な間を作ってしまった。 「……話を戻そう。  慎二を殴ったって言うけど、どうしてそんな事になったんだよ」 「殴って当然じゃない。わたしに自分と組めだの、士郎は使えないヤツだから見限れだの言うからよ。  人を呼びつけておいてつまんないこと言うから、殴りつけて黙らせたの」 「…………………」  いや。いくらなんでも、それは短慮すぎないか遠坂。  ……いや、それとも。  普段冷静な遠坂が頭にきちまうほど、慎二はバカなコトを言ったのだろうか? 「……なによその目。いっとくけど、被害者はわたしの方よ?」 「いや、それは両成敗だろう。  ……にしても、なんで慎二が遠坂にそんな話をするんだ。あいつ、俺に協力しないかって持ち出してきたんだぞ」 「さあ。アイツ、士郎にライバル意識でもあるんじゃない? わたしと士郎が一緒に住んでるって教えてから、かなりおかしくなってたし」 「ええ!? 住んでること教えたって、遠坂、慎二に俺たちのコトを話したのか!?」 「ええ、話したわよ? 昨日の朝だったかな。慎二のヤツ、わたしを呼びつけて僕もマスターになったから遠坂と同じさ、なんて偉そうに言ってくるんだもの。なんか頭に来てね、それじゃあ士郎も同じよって言ってやったの。  それで身の程を知ったかなって思ったのに、ついさっきうちの前で待ち伏せしてたってワケ」 「で、悪いけどもう衛宮くんの家で暮らしているから、アンタみたいな半端なマスターと協力する気はないって言ったんだけど……なに、もしかしてまずかった?」 「――――――」  それはまずいだろう、フツー。  ただでさえ慎二は遠坂を意識していたのに、これじゃあ火に油をそそぐようなものだ。  ……まあ、それにしても……そうか、それで合点がいった。  慎二が遠坂だけを敵視していた理由と、執拗に遠坂に協力を求めた理由。    ようするに、あいつは――― 「けど不思議よね。慎二のヤツ、何だってわたしに〈拘〉《こだわ》るのかしら。アイツの性格からいって、誰かと協力するなんて考えは浮かばないと思うんだけど」    ―――いや。  だからそれは、間桐慎二にとって、遠坂凛が特別だからだ。 「不思議でもなんでもない。慎二にとって遠坂は特別なんだと思う。  あいつ、元々魔術師の家系だったんだろ。  なら―――同じ魔術師の家系で、まだちゃんと血を残している遠坂に憧れていたんじゃないかな」  だから遠坂に固執している。  あいつにとっては、聖杯戦争なんてものが始まる前から、遠坂凛は求愛の対象だったのではないだろうか。 「ええー!? ……ちょっと、そりゃあ好意を持たれるのは嬉しい、けど―――」  よっぽど意外だったのか、うーん、と考え込む遠坂。 「……あ、思い出した。そういえば一年の頃、慎二に告白されてたわ、わたし」  あっちゃあ、忘れてたー、なんて、とんでもないリアクションをする。  ……うう。今だけは慎二に同情しよう。 「うわ、どうりで懲りずに話しかけてくる筈だ。納得したわ」 「……まあいいけど。それ、返事はどうしたんだよ」 「ああ、断ったんじゃない?  わたし、勝負ごとは先出しじゃないと気が済まないの。  やるなら自分からっていうか、相手から勝負をしかけられても乗れないっていうか」  よく覚えていないのか、うーん、と遠坂は考え込む。  ―――呆れた。  こいつ、ほんとは感性だけで生きてる生物なのかもしれぬ。 「遠坂。おまえじゃんけん弱いだろう」 「え!? うそ、なんでアンタがそんなコト知ってるのよ!?」  ……やっぱりそうだったか。  そりゃあ先出しが好きなら、さぞ後出しには弱かろうってもんだ。 「それには醤油を使ってくれセイバー。間違ってもマヨネーズなんてかけてくれるな」 「―――そうでしたか。いえ、大河がそちらをかけているので、私もそうするべきなのかと」 「………………」 「藤ねえは単に遊んでるだけだ。あんまり参考にならないから、以後気を付けるように」 「……そうでしたか。以前は桜を参考にしていたので、シロウに注意されるコトはなかったのですが」 「いや、別に怒ってるわけじゃない。せっかく作ったんだから、おいしく食べてほしいだけだ。で、さっきの話に戻るんだけど」 「………………………………」 「士郎、おかわり。おみそ汁は具だくさんね」 「あいよ。セイバーは? 今日は昨日よりハードだったから、お腹減ってるんじゃないか?」 「私は特に。ですが念のため、もう一杯いただいておきます」 「ああ、そうしろそうしろ。夜中に腹が減って眠れず、あげくに冷蔵庫を漁るなんて暴挙に出る、なんて真似をセイバーまでしだしたらショック死しかねない」 「………………………………」 「あ、ひっどーい。アレはわたしじゃないよぅ。見知らぬ泥棒さんが冷蔵庫を荒らしていっただけだい」 「じゃあその泥棒にいっとけ。肉ばっかり食うんじゃなくて野菜もとれってな。それと狙いすましたように冷蔵庫のデザートを平らげるなと。まったく、飢えた獣じゃあるまいし」 「なにい!? ええーい、わたしを虎と呼ぶなー!」 「うわ、呼んでねーって! あつ、熱した大根を投げるなと言うんだこのバカもの!」 「………………………………」 「シロウ。台所の方で鍋が沸騰しているようですが」 「え? あ、藤ねえちょっとたんま、火を止めてくる」 「よろしい。鶏肉とゆでたまごのしょうゆ煮を早くもってくるのだ」 「了解。んじゃ藤ねえの相手よろしくな、セイバー」 「はい。どうぞ慌てずに調理をしてください、シロウ」 「………………………………」  席を立つ。  ……と、そういえば。  なんで遠坂のヤツ、さっきからずっと黙ってるんだろう……? 「遠坂? 今日の飯、まずいか?」 「別に。なんでもないから話しかけないで」  ふい、と不機嫌そうに顔を逸らす。  ……ふむ。慎二の件をここまで引っぱってくるようなヤツじゃなし、なんか気に障るコトでもあったんだろうか。  夕食がいつも通り終わって、藤ねえは満足して帰っていった。  居間にはセイバーと遠坂がいる。  以前までは気まずい雰囲気ではあったが、ここ二日セイバーと鍛錬していただけあって、居づらい空気ではなくなっている。 「セイバー、もう眠っていていいぞ。後はこっちでやっとくから」 「いいえ、シロウが眠るまでは私も起きています。シロウの魔術がどれほどの腕なのか、凛から聞きたいところでもありますから」 「そうか。なら今日は早めに遠坂の部屋に行こう。かまわないよな、遠坂?」 「ええ、構わないけど。随分とセイバーと仲良くなったのね、貴方」  ……?  なぜか、食事時と同じ不機嫌さで遠坂はそんなコトを言った。 「部屋で待ってるから、後片づけが終わったら来て。  ……それと、明日からはわたしも学校を休むから。午後はわたしのところに来なさいよね」 「シロウ、凛に何かしたのですか? 彼女は怒っているように見えましたが」 「セイバーにもそう見えたか?  ……分からないな。俺、あいつを怒らせるようなコトはしてないけど」  セイバーと二人、顔を合わせて首を傾げる。  遠坂が怒っている理由なんて、てんで見当がつかなかった。 「それじゃ、手始めにこのランプを“強化”してみて。  まわりのガラスの強度だけあげればいいから」  はい、と時代がかったランプを手渡された。 「――――――――」  床に座する。  ランプを両手に持って大きく深呼吸をする。  遠坂は簡単に言うが、こっちは緊張で全身がかたまっている。  毎晩やっている事とはいえ、成功率は実にれーてんいちパーセントを切っているのが現状なのである。  遠坂は俺の腕前を計るために“強化”の度合いを見るというが、そもそも強化が成功しなかったら腕前を計るも何もない。 「――――――――」  いかん、と雑念を振り払う。  まずはランプに意識を集中させる。  浮かび上がってくるのはランプの設計図だ。  ガラスの材質とカタチ、力の流れ、人間でいうところの血管まで図面にできる。  なら、あとはその血管に自身の魔力を注ぎ込むだけだ。  ……いつもの要領でやればいい。  背骨に焼けた鉄の棒を入れていく感覚。  決して人の体とは相容れない、焼けた神経を一本だけ体に突き刺し、自分の体になじませるだけ。    それさえうまく行けば、あとはこのガラスに見合った量の魔力を注ぎ込むだけで―――― 「――――あ」    割った。  コントロールできなかったのか、適量を超えて魔力を注ぎ込んだ結果、ガラスはあっけなく割れてしまった。 「……………………」  恐る恐る遠坂を見上げてみる。 「……やっぱり。そうじゃないかって思ってたんだけど、本当にそうだったか」 「ん? そうじゃないかって、何がだよ遠坂」 「そんなの決まってるでしょ、アンタの才能のなさに呆れたのよ……! そもそも基本がなってない。まったく、よくもそんなデタラメな方法で魔力を生成できるもんだって感心するわよ!」 「……遠坂。その、もしかして怒ってる?」 「当たり前じゃない! こんな基本的な問題を抱えたまま鍛錬してきたアンタにも呆れてるし、間違いをたださなかったアンタの師には殺意さえ覚えるわ。  なんだってアンタは、こんな遠回りなコトになってるのよ……!」 「……む。言っているコトは判らないが、親父の悪口はよせ。俺に才能がないのは俺の責任なんだから、親父は関係ないだろ」 「関係あるわよ。仮にも弟子にしたんなら、教え子の道を正すのが師匠じゃない。  ……そりゃあもういない人にあたっても仕方がないけど、それにしたってアンタの師匠は初めの手順を間違えてるわ」  ぷんすかと怒りながら、遠坂は荷物から缶のような物を取り出した。  その、外国の子供が愛用していそうな、色とりどりのドロップが入った缶だ。  日本でも類似品をよく見かける。  何種類かのあめ玉が入っていて、白色をしたドロップはハッカ味っていうアレだ。 「士郎、手、出して」 「?」  とりあえず手を出す。  遠坂は缶をふって、赤っぽいドロップを出した。 「はい、それ飲んで」 「???」  とりあえず、言われた通りに口に運ぶ。 「……甘くない」  いや、むしろ味なんてない。  それにこの舌触り、飴っていうより石なんじゃないだろうか。 「……ん……」  ごくん、と無理やり飲み込む。 「うわ、いたっ。食道がヒリヒリするけど、今のはなんなんだよ遠坂」 「なにって宝石に決まってるじゃない。見て判らなかった?」  しれっと。  遠坂はとんでもないコトを口にする。 「な、宝石って、なんで……!?」 「仕方ないでしょ。薬も用意してきたんだけど、士郎を矯正するにはそんな物じゃ効かないの。だから一番強いのでスイッチを開くしかないなって」 「いや、そういうコトじゃなくてだな……! なんだって宝石なんか飲ますんだよ、おまえは! そんなん消化できるか!」 「……あのね。不安がるならもっと別のコトを不安がりなさい、ただの宝石じゃないんだから。  今のは、まだ判ってない貴方に、無理矢理判らせる為の強制装置。そろそろ溶け始める頃だから、気合い入れてないと気絶するわよ」 「気絶するわよ、ってなにさわやかに物騒なコ―――」  そう言いかけた矢先、    その異状はやってきた。 「――――――――!?」    体が熱い。  手足の感覚が麻痺していく。  背中には痛みとしか思えない熱さがかたまっている。  意識を眉間に集めて、ぎゅっと絞っていなければ立っていられない。 「っ――――おまえ、これ、は」    知っている。  この感覚を知っている。  これは、失敗だ。  魔術回路を自分に組み込もうとして、失敗した時に起こる、体の反発そのものじゃないか―――! 「大丈夫、苦しいでしょうけど今の状態を維持していれば少しずつ楽になるわ。もっとも、体の熱さだけは二三週間続くだろうけど」    ……なんか言い返してやりたいのだが、そんな余裕はない。  今はただ、体が倒れないように全力でバランスを整えるしかできない。 「いい? 魔術師と人間の違いっていうのは、スイッチがあるかないかなの。  このスイッチっていうのは魔術回路のオンオフだってのは判るでしょ。  ほら、そこにお湯を沸かせる電気ポットがあるじゃない。魔術師っていうのはソレなの。で、普通の人はお湯は沸かせないけどお湯を保温できるポットってワケ」 「似たようで違うモノなのよ、私たちは。  お湯を沸かすスイッチの有る無しは、もう個人ではどうしようもない問題でしょ。  生まれつき―――いえ、作られる時に電気ポットか保温瓶か分けられるんだもの。スイッチがない人には、一生魔術なんて体験できない」 「いい? 貴方は素人だけど、魔術回路は確かにある。  つまり適性はあるのよ。だから一度でも魔術回路を体内に作ってしまえば、あとは切り替えるだけでいい。  スイッチを押して、自分の中でオンとオフを切り替えるだけで魔力は成るわ」    ……呼吸を落ち着ける。  遠坂の言うとおり、自分を抑えてさえいれば、状態が悪化する事はないようだ。 「魔術回路を作るのは一度だけでいいのよ。 だっていうのに、貴方は毎回一から魔術回路を作って、自分の中に組み込もうとしている」 「それは無駄なの。一度でも体内に確立したものなら、あとは切り替えるだけでいいんだから。  ……本来ね、魔術回路を成し得た者は、次にいつでも切り替えられる鍛錬を受けるのよ。  けど貴方の師はそれをしなかった。だから毎回、死の危険性を負って魔術回路を作る、なんて真似をしてる。  ……いえ、もしかしたら貴方の父親も、同じ勘違いをしていたのかもしれないけど」    息を吐く。  手足の神経が、少しずつ感覚を取り戻していく。 「〈長年〉《ずっと》間違って鍛錬してきた貴方のスイッチは閉じている。こうなっちゃうと力技でこじ開けて、士郎の体に“スイッチ”があるって分からせなくちゃいけないでしょ」 「いい、今の宝石はね、そのスイッチを強制的にオンにするものよ。だから士郎はずっとそのまま。もとの状態に戻りたかったら、士郎自身の力でオフにするしかない。  それが出来たのなら、あとは宝石の助けなんていらないわ。以後は比較的簡単な精神の作用で、貴方は魔術回路を操れるようになる」 「っ……それは、判った、けど」    この体の熱さは、なんとかならないものか。  それにスイッチのオフだなんて言われても、そんなものどうしろっていうのか。 「え、もう喋れるの!?  ……ふうん、自身のコントロールは上手いんだ。なら思ったより早く元に戻れるかもね。  スイッチそのものは、今の状態を落ち着けよう、早く楽になろうって体の方で勝手にオフにしてくれるから。  あとはそのスピードを自分の意志で速くするだけ。ね、簡単でしょ?」 「……いや……だから、全然判らない。  スイッチだなんて言われても実感湧かないぞ、俺」 「今はそうだけど、そのうち明確にイメージできるようになるわ。頭の中にぽんってボタンが浮かぶようになるから。あとはそれを切り替えるだけで、とりあえず魔術回路は簡単に開けるようになるわよ」 「………だといいけどな。いまは、ともかく気持ち悪い……」 「でしょうね。士郎、今まで強化の魔術を使ったらすぐに魔術回路を閉じてたでしょ?  今はその逆で、ずっと魔術回路が開いている状態だもの。いつでも全力疾走しているようなものだから、苦しいのは当たり前よ。  けど、魔術師ならそれぐらいは必須条件なんだから。マスターとして戦うっていうんなら、スイッチのオンオフはきっと士郎の助けになる」 「…………判ってる。不意打ちだったけど、遠坂には感謝してる。たしかに、スイッチなんて物が実感できるようになるなら、それはプラスだからな」 「……判ってるじゃない。けど感謝されるいわれなんてないわよ。わたしは、協力者であるアンタが弱いままだと困るから手助けしてるだけなんだから」  ふん、と顔を背ける遠坂。  体が熱いせいだろうか。  照れている遠坂をいいヤツだな、とぼんやりと思ってしまった。 「……なによ。人の顔じろじろ見て」 「いや。遠坂は素直じゃないなって思っただけだ」 「……そう。そんな軽口を叩けるなんて、余裕あるじゃない衛宮くん。そんなに元気なら続けて教えても大丈夫よねぇ?」  遠坂はにやり、と笑って詰め寄ってくる。 「…………う」    ちょっと、待て。  まだ体が全然動かないっていうのに、おい。 「それじゃもう一度“強化”をしてみて。  今の貴方じゃ魔力のコントロールもできないだろうけど、その状態に慣れてもらわないと戦力にならないわ。  大丈夫、ランプは山ほど持ってきたし。何十回失敗するか判らないけど、強化が成功するまで休ませてなんてあげないから」  にっこりと笑って、ろくに動けない俺にランプを手渡してくる。   「…………う」    うわあ……それって四十度の熱がある男に、長い長い綱渡りをしろと言っているのと大差ないぞ、遠坂……。 「……まいったわ。まさか、こっちが先に音を上げる事になるなんてね」  じろり、と。  なんともいえない玄妙な目で、遠坂は俺を非難している。 「………………いや。面目ない」 「わたしの見通しが甘かった。まさか三十個全部壊されるなんて思いもしなかったから。  ……悪いけど、今日の鍛錬はこれでおしまいよ。士郎の強化を計れる道具がないから」 「……う」  いや、俺だって努力はしたぞ。  こんな、釜茹されて煮上がったような体で頑張った。  頑張ったが、結局、一回も“強化”が成功しなかっただけではないか。 「……あのさ。ガラスが割れただけなら、遠坂直せるだろ。以前うちの窓ガラスを直してくれたじゃないか」 「無理。アレは普通に破損したものでしょ。こっちは士郎の魔力に耐えきれなくなって割れたものだもの。他人の魔力を帯びた物に干渉するのは難しいって、覚えておいて」 「――――む。そうですか」 「そうよ。……いいから、士郎は休んでいいわ。今日はスイッチを呼び起こしただけでよしとしましょう。  コントロールできるようになったら、この続きを教えるから」 「……ふう。休んでいいのは有り難いけど。この続きって、何を教えてくれるんだ?」 「士郎、強化しかできないんでしょ? 前にそれしか使えないって言ってたけど、それならもう少し上級の“変化”ぐらいまで持っていけるかもしれない。  強化と変化、それに投影の魔術について教わった事はない?」 「――――――――む」  ……それなら、少しはある。  強化とは文字通り、物を強化することだ。  強化はおもに物を硬くする事と思われがちだが、実際は物の効果を強化させる。  刃物ならより切れやすく、ランプならより明るく、という風に。  変化もそう説明するまでもないだろう。  たとえば、刃物で火を起こす事はできない。  そういった本来の効果以外の能力を付属させるのが変化だという。  で、投影っていうのは、たしか―――― 「……? 投影ってなんだっけ、遠坂。よく親父が言ってた覚えはあるんだけど」 「強化と変化は知ってるんでしょ? なら投影も自ずと想像はつくと思うけど。  ま、ようするに物を複製するって魔術よ。  強化や変化みたいに、もとからある物に手を加える魔術じゃないわ。  基本的には無から、一から十を全て自分の魔力で構成するものだから、難易度的には最高ね」 「あー……けど、魔力ってのは使い捨てでしょ?  “投影”で作り上げた物はすぐに消えてしまうのよ。  十の魔力を使って作り上げた“投影”の剣と、一の魔力で“強化”させた剣とでは、“強化”の剣の方が強くなる。  強化は手を加えるだけでいいから効率がいいってわけ。  その点、投影は魔力を使いすぎるからメジャーに使われる魔術じゃないわ」 「……あ、思い出した。そういえば親父もそんな事言ってたな。割が合わないから止めろ、みたいな」 「そういう事。さ、質問が済んだのなら終わりにしましょう。……足下もおぼつかないようだし、部屋の前までぐらいは送っていってあげるから」  部屋の前まで送ってもらう。  と、縁側でセイバーが俺の帰りを待っていた。 「お疲れさまでした、二人とも」 「…………」  返事をする気力もない。  さんきゅ、と頷きだけで答えて、とりあえず部屋へ移動する。 「シロウはどうですか、凛」 「だめ。すっごくだめ。あいつ才能ないわ」  遠坂らしい、容赦ない一言だった。    ……そうして、気が付けば夜空を見上げていた。  今夜はセイバーが気になって逃げてきたワケじゃない。  遠坂に教えられた事と、まだ熱いままの体を持て余して、こうして夜風を浴びているだけだった。 「……しかし。スイッチとやらが本当に使いこなせるようになったら、あとは手順の問題だ。  一番簡単な強化をあんなに失敗するようじゃ、先が思いやられるな……」    呟きながら、土蔵から持ち出した角材に魔力を込める。    ――――ぱきん、という音。    やはり強化はうまくいかず、角材には〈罅〉《ヒビ》が入っただけだった。 「……中の構造まで見えてるのに。どうして、こう魔力の制御ができないんだろう」    遠坂は力みすぎている、と言っていた。  もっと小さな魔力でいいから、物の弱い箇所を補強する事だけを考えろとも。  ……ようするに、今よりもっと手を抜け、という事だろうか。 「……そんな事、言われなくても分ってるけどな」  問題はその力みをほぐす手段がない、という事。  肩の力を抜くいい方法があったらいいんだが―――   「…………」    闇に染み込んでいくような足音。  無遠慮に近づいてくるこの気配は、これで二度目だ。 「……なんだよ。おまえに用なんてないぞ、俺は」 「それは私も同じだ。だが、凛が気に病んでいるようなのでな。見るに見かねた、というヤツだ」 「………………」  アーチャーを睨みながら、手にした角材を放り投げる。  と、興味深そうにアーチャーは角材を拾い上げていた。 「強化の魔術か。にしてもひどい出来だ」 「っ……! ふん、どうせ半人前だよ。おまえのマスターの手を煩わせて悪かったなってんだ」 「いや、そうではない。これに関しては凛も間違えている」 「え……? それは、どういう―――」 「ふん、元から有るものに手を加える? それは高望みしすぎだ。そんな事ができるほど、おまえは器用ではあるまい」 「な……!」  言わしておけば言いたい放題……! ……なのだが、その通りなんで反論しようがない。  俺が不器用なのは事実だし、魔術がうまくいかないのも自分自身の責任だ。  それを、こいつに当たってもしょうがないだろう。 「――――どうした。昨夜ほどの元気はないか」 「うるさい。おまえの言うとおりだから黙っただけだ。  俺が未熟なのが、一方的に悪いんだからな」  ふん、と顔を背ける。  それをどうとったのか、   「……ふむ。おまえはある意味、師に恵まれていないのかもしれないな」    感心したような声で、アーチャーはそう言った。 「え……? そんな事ないぞ。親父も遠坂も教え方はうまいんだから。覚えが悪いのは俺の方だろ」 「―――だからだ。おまえ相手にはな、何も判っていない魔術師の方がうまく作用する。  天才には凡人の悩みは判らない。  凛は優等生すぎるから、落ちこぼれであるおまえの間違いに気がつかないのだ」 「?」  アーチャーの言いたい事はよく分からない。  分からないが、単純に言葉尻を捉えてみると。 「よく判んないけど。つまりおまえ、俺に喧嘩売ってるのか」  今なら買うぞ、二束三文で。 「―――それも間違いだ。衛宮士郎は格闘には向かない。  おまえの戦いは精神の戦い、己との戦いであるべきだからだ」 「む……魔術師の戦いは精神戦だって言うんだろ。そんなの判ってる。それでも、戦うなら殴り合うしかないじゃないか」 「―――まったく。これではセイバーも苦労しよう」  心底こちらを見下げるアーチャー。  その目には今までになかった、本気の落胆と怒りが混ざっていた。 「一度しか言わんからよく聞け。  いいか、戦いになれば衛宮士郎に勝ち目などない。  おまえのスキルでは、何をやってもサーヴァントには通じない」 「…………っ」  それは、セイバーにも言われた事だ。  戦いになっては勝てない。  どんな奇策を用いようと、戦いになっては衛宮士郎に勝機などない、と。 「ならば、せめてイメージしろ。現実で敵わない相手なら、想像の中で勝て。  自身が勝てないのなら、〈勝てるモノを幻想しろ〉《・・・・・・・・・・》。  ―――所詮。おまえに出来る事など、それぐらいしかないのだから」 「な――――」    なぜかは分からない。  ただアーチャーの言葉は、どうしようもなく素直に、この胸に落ちた気がした。          忘れるな、と。  この男の言っている事は、決して忘れてはならない事だと、誰より俺自身が思っている――― 「……どうかしているな、殺すべき相手に助言をするなど。どうやら私にも、凛の甘さが移ったようだ」    唐突にアーチャーは消えた。  本来、アーチャーは見張り役だ。  見張りに適した屋根まで、跳んで戻っていったのだろう。 「……なんだ、あいつ」    居なくなった相手に向かって、ぼそりと文句を言う。    答えなど返ってこない。  やけに頭に残るアーチャーの台詞を反芻しながら、火照った体で、冷たい冬の空気を感じていた。    屋敷に戻る。    イリヤと出会った事は黙っている事にした。  本来なら真っ先に報せるべきだと分っているが、それでも話したくはなかったのだ。  公園で出会ったイリヤはマスターじゃなかった。  俺とイリヤはなんでもない話をして、なんでもない別れ方をした。  だから、今日の事を人に話すのは躊躇われる。  ……隠し事をするようで後ろめたいが、今日のイリヤを敵と思いたくなかったのだ。  セイバーと昼食を摂ったあと、道場で鍛錬を続け、気が付けば夕食時になっていた。  セイバーとの打ち合いで疲れ切った体を休めて、風呂に入って汗を流す。  そうして居間に行くと、夕食の支度が整っていた。 「――――――――」  ちょっと感動した。  風呂からあがって、自分が何もしていないのにご飯が出来ているというのは、やはりいい。 「衛宮くん、夕食だけど―――なによ、馬鹿みたいに立ちつくして」  だというのに。  どうしてこう、コイツはピンポイントで感動をぶち壊す発言をしてくるのか。 「なんでもない。夕食だろ、ありがたくいただくよ。セイバーは?」 「んー? セイバーさんなら士郎の部屋に行ったみたいだけど、会わなかった? おかしいなあ、さっきまでここにいたけど」 「旅館みたいに入り組んだ家だからすれ違ったんじゃない? いいわ、セイバーはわたしが呼んでくるから、衛宮くんはもう一度洗面所に行ってきなさい。髪、よく乾いてないわよ」 「あ、ほんとだ。悪い、それじゃセイバーは任せた」  遠坂に手を振って廊下に戻る。  遠坂の言うとおり、衛宮邸は無節操な改築によってあちこちに通路がある。  その中でも最たるものが洗面所へのルートで、俺の部屋からでも居間からでも行けてしまうあたり、本当に旅館じみた作りをしていた。  洗面所に入る。  ドライヤーは好みではないので、さっき使ったタオルで髪を拭こう。   「――――――――」    瞬間。  今日一日起きたことを、ぜんぶ忘れた。 「シロウ」 「二度湯のようですが、今は私が使っています。出来れば遠慮してもらえると助かるのですが」 「あ、あ、あう、あ」  弁明を。  これは事故だって弁明しなければならないのに、頭の中は真っ白だった。  なにしろ今日一日分の記憶が抜け落ちるぐらいのインパクトなんだから。 「す、すす、すすすすす」 「シロウ、湯にのぼせたのですか? 耳まで真っ赤ですが、体を冷やすのなら縁側に出るべきです」 「あ、いや、そうする、けど。その前に、謝らないと、まずい」  セイバーから視線を逸らして、ばっくんばっくん言っている心臓を落ち着かせる。 「これは、事故なんだ。いや、こうして出くわしちまった時点で釈明の余地はないんで、セイバーは、俺に怒っていい」 「?」  できるだけ下を見ながら、なんとか気持ちを落ち着けて言った。  セイバーは何やら考え込んだ後。 「シロウ、顔をあげてください」 「あ……ああ」  言われた通りに顔をあげる。 「って、なんでそのままなんだ……!?」 「シロウが謝るほどの事ではありませんから。このような場面を見たところで、気にする必要はないと言いたいのです」 「あ――――はい?」 「以前にも言ったでしょう。サーヴァントにとって、性別など些末な事だと。  シロウは私の体を見て慌てているようですが、私は女性である前にサーヴァントです。ですから、そのような気遣いは不要かと」 「な――――」  なにを言ってるんだ、セイバーは。  いや、いくらセイバー本人がそんなコト言っても、セイバーが女の子だって事は変わらない。  ……いや、それとも。  もしかしてとは思うんだけど、セイバー、まさか。 「……訊くけど。着替え中を見られても恥ずかしくないっていうんじゃないだろうな、セイバー」 「? なぜ恥じ入る必要があるのです?」 「――――――――」  やっぱりそうか。  ……が、セイバーがどうでも、俺が正気でいられなくなるのには間違いはない。 「……悪かった。とにかく謝る。次にこんなコトがあったら、セイバーの好きにしていい」  くるん、と百八十度回転して、ぎくしゃくと脱衣場から脱出する。 「?」  そんな俺を、セイバーは最後まで普段通りに見送っていた。  昼食を終えて、午後になってもやる事に変わりはない。  飽きることなく、セイバーと一心不乱に竹刀を交わらせる。  遠坂か藤ねえが帰ってくるまで続くその鍛錬は、    来客を告げるチャイムで中断させられた。 「シロウ。来客のようですが」 「ああ、ちゃんと聞こえた。ちょっと出てくるから、セイバーはここにいてくれ」 「……いえ。招かれざる客という事もありえます。万が一に備えて同行しましょう」 「――――む」  セイバーの言う事はもっともだ。  ……もっともだが、来客がたまたまご近所の人だった場合、セイバーの事を怪しまれる可能性もある。  なにしろ衛宮さん家は士郎くんが一人で暮らしている事になっているのだから。  しかし……。 「ま、そん時はそん時か」    桜や藤ねえが出入りしてるんだから、今更ご近所の目を気にしても始まるまい。 「よし、付いてきてくれセイバー。ただし、お客さんが普通の人だったら大人しくしててくれよ」 「解っています。私はシロウの遠い親戚、という事ですね?」 「そうそう、それでよろしく」   「はい、いま出ますー!」    何度目かのチャイムに急がされて、玄関の扉を開ける。 「お邪魔する。具合が悪いというから様子を見に来たぞ、衛宮」  と。  やってきたのは敵でもご近所の奥さんでもなく、見知った学校の友人だった。 「なんだ、一成か」 「なんだとは失礼だな。見舞いにきた知人に対してとる態度か、それが」  喝、などと文句を言いながら、一成は手にした紙袋を差し出してくる。 「ん? なんだよこれ。りんご?」 「見舞い品だ。普段風邪一つひかぬ衛宮が病欠しているのだから、それぐらいは持参する」 「――――む」    その心遣いは嬉しいのだが、あいにくこっちは病気で休んでいるワケじゃない。  ……それに学校を休んでいる友人に対して、紙袋いっぱいにリンゴを買ってくるのも、年若い学生としてはどうかと思う。 「どうした衛宮。果物は苦手だったか?」 「いや、好きだよ。そうだな。色々複雑だが、気持ちはありがたく」  感謝、とお辞儀をする。 「……衛宮。つかぬ事を訊くのだが、おまえの後ろにいる女性は何者だ?」 「え?」  そこには当然、付いてきていたセイバーの姿があった。 「あ――――」    そうか。一成のヤツ、俺がお辞儀をした時にセイバーと目があったのか。 「……見たことのない御仁だが。なぜ、かような女性が衛宮の家にいるのだ?」  無遠慮な視線をセイバーに向ける一成。  こいつは人見知りが激しく、初対面の相手や気に入らない相手にはとことん冷たくなる。 「あ、いや、彼女はセイバーって言って、その」 「シロウの遠い親戚です。この家の主人だった切嗣が外国にいたおり、懇意にさせていただきました。  先日こちらに観光に来たのですが、縁を頼りに宿を借りているのです」 「―――――――え?」  セイバーはスラスラと、もっともな説明をする。 「衛宮のお父さんのお知り合いでしたか。聞けばかなりの旅行好きと聞いています。貴方のような人と知り合いになる事もあるでしょう」 「―――――――ええ!?」  一方、あっさりと納得する、人見知りが激しい筈の柳洞一成。 「なるほど、事情は判ったぞ衛宮。  病欠というのは口実で、観光に来た彼女の案内をしていたのだな?」 「あ―――ああ。まあ、そういう事になる」  ……うん。とりあえず、大きな目で見れば嘘は付いていないと思うぞ。 「ならお邪魔してもかまうまい。ここまで運んできた礼として茶でも振る舞ってくれ。ここ二日ばかり学校で起きた出来事でも世間話にしよう」  失礼、と靴を脱いであがってくる一成。 「……? なんだよ礼って。いちおう忙しいんだぞ、俺。  世間話はまたの機会にしてくれ」 「何を言っている。オマエ、うちの前に自転車を乗り捨てていっただろう」 「あ……そうか、柳洞寺に自転車置きっぱなしだった」 「だろう。それを持ってきてやったのだ。  俺とて忙しい中、生徒会に行かずまっすぐ家に帰り、ここまで戻ってきたのだ。それでも茶の一つも出せないというのかオマエは」 「――――う」    それは、確かにありがたい。  自転車は三台あるといっても、柳洞寺に乗り捨てた自転車は一番お金がかかっている愛車なのだ。 「……悪いセイバー。少し休憩ってコトでいいか?」  こくん、と無言で頷くセイバー。 「すまない。それじゃセイバーと一成は居間に行っててくれ。俺は、お茶淹れてくるから。一成は日本茶、セイバーは紅茶でいいんだよな」 「な……わ、私も同席するのですか!? そ、それはどうかと思います。私がいてはご学友と気軽な話などできないでしょう」 「そんなコトないぞ。だろ、一成」 「うむ。女は喧しいが、セイバーさんなら構わぬ。つつましい女性は文化遺産だ」 「だってさ。んじゃ、先行っててくれ」 「あ……はい。それは分かりましたが、シロウ」 「なんだ、他になにかあるのか?」 「飲み物でしたら、私も日本茶を。緑茶は嫌いではありません」    なぜかきっぱりと言うセイバー。  いつもの調子でそんな言葉を言われたのが、妙におかしく感じられた。  一時間ほどバカな話をして、一成が帰るコトになった。  居間でした世間話の大半が学校での事で、なにか異状は起きていないかと注意深く聞いてみたが、学校はいつも通りのようだった。 「それではな。明日も休むのか、衛宮は」 「ああ、今週は学校には行かない。明日もセイバーに付き合ってもらわないといけないからな」 「ふむ。まあ、あの御仁と一緒なら問題はなかろう。なにかと不審な所はあるが、問いただすまでもない」    うむ、と一人納得して頷く一成。  ……そう言えば、この人見知りの激しい男がよくセイバーを嫌がらなかったもんだ。 「なあ一成。おまえ、セイバーとは初対面だったのに機嫌が良かったけど、どういう風の吹き回しだよ」 「何を言うか。これでも寺の飯で育った身だぞ。人の善し悪しぐらい見抜けなくてどうする。素性は知らぬが、あの子の霊気は澄んでいたからな。悪い人間の筈がない」 「へえ。一成、そういう事判るんだ。ちょっと見直した」 「……まあ、普通は判らん。だがあれぐらい飛び抜けていると未熟者でも見て取れるのだ。  見習い坊主でも、傍らに神仏がおられれば神気ぐらいは感じられる。つまり、それぐらいセイバーさんの佇まいは美しい」  ……これまた、珍しい。  一成が、女の子を褒めている。 「そうか。一成もセイバーの事を気に入ってくれたのか」  それは良かった。  セイバーは黙って話を聞いているだけだったから、一成はよく思っていないのでは、と心配だったのだ。 「当然だろう。彼女はいい子じゃないか。嫌うのは難しい」 「うんうん。けどなあ、いいヤツなのは分かるんだけど、ちょっと無愛想だろ。セイバーはいつもああだから、別に一成を嫌ってるって訳じゃないぞ」 「え? 無愛想か、あの子?」 「無愛想だよ。まだ笑った事もないし。俺たちがバカ笑いしていた時だって、ムスッとしたままだったじゃないか」 「いや、けっこう笑っていたが?」 「――――え?」  そんな馬鹿な。  そりゃセイバーだって少しは穏やかな顔をする時もある。  けど、そんな目に見えて笑うなんてコト、今まで一度もなかったっていうのにか……!? 「うそだあ。セイバーがハラを抱えて笑ってる姿なんて想像できないぞ、俺」 「……いや、そういうのではなくてだな。  おまえが笑ってるのを見て笑っていたのだが、なんだ、気が付いてなかったのか」  ――――?  俺が笑ってるのを見て、笑っていた……? 「……あのさ。それ、俺の事をばかにしてるって事なんだろうか……?」 「――――なるほど、また珍妙な解釈をする。  ま、そのあたりは己で悩め。何事も自問する事より始まるのだ、喝」  いつもの決まり文句を口にして、あはははは、と笑いながら寺の息子は去っていった。   「む――――なんだアイツ」    思わせぶりなコトを言って帰っていきやがって。  じゃあなの一言ぐらいちゃんと言えってんだ、ばかものめっ。 「――――」  まさか、と思うより早かった。  騎士風の少女は、ためらう事なく土蔵の外へと身を躍らせる。 「!」  体の痛みも忘れ、立ち上がって少女の後を追った。  あの娘があの男に敵う筈がない。  いくらあんな物騒な格好をしていようと、少女は俺より小さな女の子なんだ。 「やめ――――!」  ろ、と叫ぼうとした声は、その音で封じられた。 「な――――」  我が目を疑う。  今度こそ、何も考えられないぐらい頭の中が空っぽになる。 「なんだ、あいつ――――」  響く〈剣戟〉《けんげき》。  月は雲に隠れ、庭はもとの闇に戻っている。  その中で火花を散らす鋼と鋼。  土蔵から飛び出した少女に、槍の男は無言で襲いかかった。  少女は槍を一撃で払いのけ、更に繰り出される槍を弾き返し、その〈度〉《つど》、男は後退を余儀なくされる。 「――――」  信じ、られない。  セイバーと名乗った少女は、間違いなくあの男を圧倒していた。    ―――戦いが、始まった。    先ほどの俺と男のやりとりは戦闘ではない。  戦闘とは、互いを仕留める事ができる能力者同士の争いである。  それがどのような戦力差であろうとも、相手を打倒しうる術があるのなら、それは戦闘と呼べるだろう。  そういった意味でも、二人の争いは戦闘だった。  俺では視認する事さえ出来なかった男の槍は、さらに勢いを増して少女へと繰り出される。  それを、  手にした“何か”で確実に弾き逸らし、間髪いれずに間合いへと踏み込む少女。 「チィ――――!」  憎々しげに舌打ちをこぼし、男は僅かに後退する。  手にした槍を縦に構え、狙われたであろう脇腹を防ぎに入る――――! 「ぐっ……!」  一瞬、男の槍に光が灯った。  爆薬を叩き付けるような一撃は、真実その通りなのだろう。  少女が振るう“何か”を受けた瞬間、男の槍は感電したかのように光を帯びる。  それがなんであるか、男はおろか俺にだって見て取れた。  アレは、視覚できる程の魔力の猛りだ。  少女の何気ない一撃一撃には、とんでもない程の魔力が籠もっている。  そのあまりにも強い魔力が、触れ合っただけで相手の武具に浸透しているのだ。  あんなもの、受けるだけでも相当な衝撃になる。  男の槍が正確無比な狙撃銃だとしたら、少女の一撃は火力に物を言わせた散弾銃だ。  少女の一撃が振るわれる度に、庭は閃光に包まれる。  だが。  男が圧倒されているのは、そんな二次的な事ではない。 「卑怯者め、自らの武器を隠すとは何事か……!」    少女の猛攻を捌きながら、男は呪いじみた悪態をつく。 「――――――――」  少女は答えず、更に手にした“何か”を打ち込む……! 「テメェ……!」  男は反撃もままならず後退する。  なにしろ少女が持つ武器は〈視〉《み》えないのだ。  相手の間合いが判らない以上、無闇に攻め込むのは迂闊すぎる。  そう、見えない。  少女は確かに“何か”を持っている。  だがそれがどのような形状なのか、どれほどの長さなのか判明しないのでは、一切が不可視のままだ。  もとから透明なのか、少女の振るう武器は火花を散らせようと形が浮かび上がらない。 「チ――――」  よほど戦いづらいのか、男には先ほどまでの切れがない。 「――――」  それに、初めて少女は声を漏らした。  手にした“何か”を振るう腕が激しさを増す。  絶え間ない、豪雨じみた剣の舞。  飛び散る火花は鍛冶場の錬鉄を思わせる。  ―――それを舌打ちしながら防ぎきる槍の男。    正直、殺されかけた相手だとしても感嘆せずにはいられない。  槍の男は見えない武器を相手に、少女の腕の動きと足運びだけを頼りに確実に防いでいく―――! 「ふ――――っ!」  だがそれもそこまで。  守りに回った相手は、斬り伏せるのではなく叩き伏せるのみ。そう言わんばかりに少女はより深く男へと踏み込み、  叩き下ろすように、渾身の一撃を食らわせる……!! 「調子に乗るな、たわけ――――!」  ここが勝機と読んだか、男は消えた。  否、消えるように後ろに跳んだ。  ゴウン、と空を切って地面を砕き、土塊を巻き上げる少女の一撃。    槍の男を追い詰め、トドメとばかりに振るわれた一撃はあっけなく〈躱〉《かわ》された――――! 「バカ、なにやってんだアイツ……!」  遠くから見ても判る。  今までのような無駄のない一撃ならいざ知らず、勝負を決めにかかった大振りでは男を捉える事はできない。  男とて、何度も少女の猛攻を受けて体が軋んでいただろう。  それを圧して、この一瞬の為に両足に鞭をうって跳んだのだ。    今の一撃こそ、勝敗を決する隙と読み取って――――! 「ハ――――!」  数メートルも跳び退いた男は、着地と同時に弾けた。  三角跳びとでもいうのか、自らの跳躍を巻き戻すように少女へと跳びかかる。  対して―――少女は、地面に剣を打ち付けてしまったまま。 「――――!」  その隙は、もはや取り返しがつかない。  一秒とかからず舞い戻ってくる赤い槍と、  ぐるん、と。  地面に剣を下ろしたまま、コマのように体を反転させる少女。 「!」  故に、その攻防は一秒以内だ。  己の失態に気が付き踏みとどまろうとする男と、  一秒もかけず、体ごとなぎ払う少女の一撃――――! 「ぐっ――――!!」 「――――――――」  弾き飛ばされた男と、弾き飛ばした少女は互いに不満の色を表した。  お互いがお互いを仕留めようと放った必殺の手だ。  たとえ窮地を〈凌〉《しの》いだとしても、そんな物には一片の価値もあるまい。  間合いは大きく離れた。  今の攻防は互いに負担が大きかったのか、両者は静かに睨み合っている。 「―――どうしたランサー。  止まっていては槍兵の名が泣こう。そちらが来ないのなら、私が行くが」 「……は、わざわざ死にに来るか。それは構わんが、その前に一つだけ訊かせろ。  貴様の宝具――――それは剣か?」    ぎらり、と。  相手の心を射抜く視線を向ける。 「―――さあどうかな。  戦斧かも知れぬし、槍剣かも知れぬ。いや、もしや弓かも知れんぞ、ランサー?」 「く、ぬかせ〈剣使い〉《セイバー》」    それが本当におかしかったのか。  男……ランサーと呼ばれた男は槍を僅かに下げた。  それは戦闘を止める意思表示のようでもある。 「?」  少女はランサーの態度に戸惑っている。  だが―――俺は、あの構えを知っている。  数時間前、夜の校庭で行われた戦い。  その最後を飾る筈だった、必殺の一撃を。 「……ついでにもう一つ訊くがな。お互い初見だしよ、ここらで分けって気はないか?」 「――――――――」 「悪い話じゃないだろう? そら、あそこで惚けているオマエのマスターは使い物にならんし、オレのマスターとて姿をさらせねえ大腑抜けときた。  ここはお互い、万全の状態になるまで勝負を持ち越した方が好ましいんだが――――」 「―――断る。貴方はここで倒れろ、ランサー」 「そうかよ。ったく、こっちは元々様子見が目的だったんだぜ? サーヴァントが出たとあっちゃ長居する気は無かったんだが――――」  ぐらり、と。  二人の周囲が、歪んで見えた。  ランサーの姿勢が低くなる。  同時に巻き起こる冷気。    ―――あの時と同じだ。あの槍を中心に、魔力が渦となって鳴動している―――― 「宝具――――!」  少女は剣らしき物を構え、目前の敵を見据える。  俺が口を出すまでもない。  敵がどれほど危険なのかなど、対峙している彼女がより感じ取っている。 「……じゃあな。その心臓、貰い受ける――――!」  獣が地を蹴る。  まるでコマ飛び、ランサーはそれこそ瞬間移動のように少女の目前に現れ、    その槍を、彼女の足下めがけて繰り出した。 「――――」  それは、俺から見てもあまりに下策だった。  あからさまに下段に下げた槍で、さらに足下を狙うなど少女に通じる筈がない。  事実、彼女はそれを飛び越えながらランサーを斬り伏せようと前に踏み出す。    その、瞬間。   「“――――〈刺し穿つ〉《ゲイ》”」    それ自体が強力な魔力を帯びる言葉と共に、   「“――――〈死棘の槍〉《ボルク》――――!”」    下段に放たれた槍は、少女の心臓に迸っていた。 「――――!?」  浮く体。  少女は槍によって弾き飛ばされ、大きく放物線を描いて地面へと落下――――いや、着地した。 「は―――っ、く……!」  ……血が流れている。  今まで掠り傷一つ負わなかった少女は、その胸を貫かれ、〈夥〉《おびただ》しいまでの血を流していた。 「呪詛……いや、今のは因果の逆転か――――!」  ……驚きはこちらも同じだ。  いや、遠くから見ていた分、彼女以上に今の一撃が奇怪な物だったと判る。  槍は、確かに少女の足下を狙っていた。  それが突如軌道を変え、あり得ない形、あり得ない方向に伸び、少女の心臓を貫いた。  だが槍自体は伸びてもいないし方向を変えてもいない。    その有様は、まるで初めから少女の胸に槍が突き刺さっていたと錯覚するほど、あまりにも自然で、それ故に奇怪だった。          軌跡を変えて心臓を貫く、などと生易しい物ではない。  槍は軌跡を変えたのではなく、そうなるように〈過程〉《じじつ》を変えたのだ。    ……あの〈名称〉《ことば》と共に放たれた槍は、大前提として既に“心臓を貫いている”という“結果”を持ってしまう。    つまり、過程と結果が逆という事。  心臓を貫いている、という結果がある以上、槍の軌跡は事実を立証する為の後付でしかない。    あらゆる防御を突破する魔の棘。  狙われた時点で運命を決定付ける、使えば『必ず心臓を貫く』槍。  そんな出鱈目な一撃、誰に防ぐ事が出来よう。  敵がどのような回避行動をとろうと、槍は必ず心臓に到達する。    ―――故に必殺。  解き放たれれば、確実に敵を貫く呪いの槍―――    が。  それを、少女は紙一重で〈躱〉《かわ》していた。  貫かれはしたものの、致命傷は避けている。  ある意味、槍の一撃より少女の行動は不可思議だった。  彼女は槍が放たれた瞬間、まるでこうなる事を知ったかのように体を反転させ、全力で後退したのだ。  よほどの幸運か、槍の呪いを緩和するだけの加護があったのか。  とにかく少女は致命傷を避け、必殺の名を地に落としたのだが―――― 「は――――ぁ、は――――」  少女は乱れた呼吸を整えている。  あれだけ流れていた血は止まって、穿たれた傷口さえ塞がっていく――― 「――――」  桁違いとはああいうモノか。  彼女が普通じゃないのは判っていたが、それにしても並外れている。  ランサーと斬り合う技量といい、一撃ごとに叩きつけられる膨大な魔力量といい、こうしてひとりでに傷を治してしまう体といい、少女は明らかにランサーを上回っている。  ……しかし、それも先ほどまでの話。  再生中といえど、少女の傷は深い。  ここでランサーに攻め込まれれば、それこそ防ぐ事も出来ず倒されるだろう。  だが。  圧倒的に有利な状況にあって、ランサーは動かなかった。  ぎり、と。  ここまで聞こえるほどの歯ぎしりを立てて少女を睨む。   「―――躱したなセイバー。我が必殺の〈一撃〉《ゲイ・ボルク》を」    地の底から響く声。 「っ……!? ゲイ・ボルク……御身はアイルランドの光の御子か――!」  ランサーの顔が曇る。  先ほどまでの敵意は薄れ、ランサーは忌々しげに舌打ちをした。 「……ドジったぜ。こいつを出すからには必殺でなけりゃヤバイってのにな。まったく、有名すぎるのも考え物だ」  重圧が薄れていく。  ランサーは傷ついた少女に追い打ちをかける事もせず、あっさりと背中を見せ、庭の隅へ移動した。 「己の正体を知られた以上、どちらかが消えるまでやりあうのがサーヴァントのセオリーだが……あいにくうちの雇い主は臆病者でな。槍が〈躱〉《かわ》されたのなら帰ってこい、なんてぬかしやがる」 「――逃げるのか、ランサー」 「ああ。追って来るのなら構わんぞセイバー。  ただし―――その時は、決死の覚悟を抱いて来い」  トン、という跳躍。  どこまで身が軽いのか、ランサーは苦もなく塀を飛び越え、止める間もなく消え去った。 「待て、ランサー……!」  胸に傷を負った少女は、逃げた敵を追おうとして走り出す。 「バ、バカかアイツ……!」  全力で庭を横断する。  急いで止めなければ少女は飛び出していってしまう。    ……が、その必要はなかった。  塀を飛び越えようとした少女は、跳ぼうと腰を落とした途端、苦しげに胸を押さえて立ち止まった。 「く――――」  傍らまで走り寄って、その姿を観察する。  いや、声をかけようと近寄ったのだが、そんな事は彼女に近づいた途端に忘れた。 「――――――――」    ……とにかく、何もかもが嘘みたいなヤツだった。  銀の光沢を放つ防具は、間近で見ると紛れもなく重い鎧なのだと判る。  時代がかった服も見たことがないぐらい滑らかで鮮やかな青色。  ……いや、そんな事で見とれているんじゃない。  俺より何歳か年下のような少女は、その―――とんでもない美人だった。  月光に照らされた金の髪は、砂金をこぼしたようにきめ細かく。  まだあどけなさを残した顔は気品があり、白い肌は目に見えて柔らかそうだった。 「――――――――」    声をかけられないのは、そんな相手の美しさに息を呑んでいるのともう一つ。 「――――なんで」    この少女が戦って傷を負っているのかが、ひどく癇に障ったからだ。  ぼんやりと見とれている間、少女は黙って胸に手を当てていた。  それもすぐに終わった。  痛みが引いたのか、少女は胸から手を離して顔を上げる。  まっすぐにこちらを見据える瞳。  それになんて答えるべきか、と戸惑って、彼女の姿に気が付いた。 「……傷が、なくなってる……?」    心臓を外したとはいえ、あの槍で胸を貫かれたというのに、まったく外傷がない。  ……治療の魔術がある、とは聞いているけど、魔術が行われた気配はなかった。  つまりコイツは、傷を受けようが勝手に治るという事か―――― 「――――っ」  それで頭が切り替わった。  見とれている場合じゃない、コイツは何かとんでもないヤツだ。正体が判らないまま気を許していい相手じゃない。 「―――おまえ、何者だ」    半歩だけ後ろに下がって問う。 「? 何者もなにも、セイバーのサーヴァントです。  ……貴方が私を呼び出したのですから、確認をするまでもないでしょう」 「セイバーのサーヴァント……?」 「はい。ですから私の事はセイバーと」  さらりと言う。  その口調は〈慇懃〉《いんぎん》なくせに穏やかで、なんていうか、耳にするだけで頭ん中が白く―――   「――――っ」    ……って、なにを動揺してんだ俺は……! 「そ、そうか。ヘンな名前だな」    熱くなっている頬を手で隠して、なにかとんでもなくバカな返答をした。けどそれ以外なんて言えばいいのか。  そんなの判る筈もないし、そもそもこっちが何者かって訊いたんだから名前を言うのは当たり前で―――って、ならいつまでも黙っているのは失礼ではないかとか。 「……俺は士郎。衛宮士郎っていって、この家の人間だ」    ―――どうかしてる。  なんか、さらに間抜けな返答をしてないか俺。  いやでも、名前を言われたんだからともかく名乗り返さないと。  我ながら混乱しているのは分かっているが、どんな相手にだって筋は通さないとダメなのだ。 「――――――――」  少女……セイバーは変わらず、やっぱり眉一つ動かさないで、混乱している俺を見つめている。 「いや、違う。今のはナシだ、訊きたいのはそういう事でなくて、つまりだな」 「解っています。貴方は正規のマスターではないのですね」 「え……?」 「しかし、それでも貴方は私のマスターです。契約を交わした以上、貴方を裏切りはしない。そのように警戒する必要はありません」 「う……?」  やばい。  彼女が何を言っているのか聞き取れているクセにちんぷんかんぷんだ。  判っているのは、彼女が俺の事を〈主人〉《マスター》なんて、とんでもない言葉で呼んでいる事ぐらい。 「それは違う。俺、マスターなんて名前じゃないぞ」 「それではシロウと。ええ、私としては、この発音の方が好ましい」 「っ…………!」  彼女にシロウと口にされた途端、顔から火が出るかと思った。  だって初対面の相手なら名前じゃなくて名字で呼ばないかフツー……!? 「ちょっと待て、なんだってそっちの方を――――」 「痛っ……!」  突然、左手に痺れが走った。 「あ、熱っ……!」  手の甲が熱い。  左手には入れ墨のような、おかしな紋様が刻まれていた。 「な――――」 「それは令呪と呼ばれるものですシロウ。  私たちサーヴァントを律する三つの命令権であり、マスターとしての命でもある。無闇な使用は避けるように」 「お、おまえ――――」 「―――シロウ、傷の治療を」  冷たい声で言う。  その意識は俺にではなく、遠く―――塀の向こうに向けられているようだった。 「待て、まさか俺に言ってるのか? 悪いけどそんな難しい魔術は知らないし、それにもう治ってるじゃないか、それ」  セイバーは僅かに眉を寄せる。  ……なんか、とんでもない間違いを口にした気がする。 「……ではこのままで臨みます。自動修復は外面を覆っただけですが、あと一度の戦闘ならば支障はないでしょう」 「……? あと一度って、何を」 「外の敵は二人。この程度の重圧なら、数秒で倒しうる相手です」  言って、セイバーは軽やかに跳躍した。  ランサーと同じ、塀を飛び越えて外に出る。  あとに残ったのは、庭に取り残された俺だけだった。 「……外に、敵?」  口にした途端、それがどんな事なのか理解した。 「ちょっと待て、まだ戦うっていうのかおまえ……!」  体が動く。  後先考えず、全力で門へと走り出した。 「はっ、はっ、は――――!」  門まで走って、慌てる指で閂を外して飛び出る。 「セイバー、何処だ……!?」  闇夜に目を凝らす。  こんな時に限って月は隠れ、あたりは闇に閉ざされている。  だが――――  すぐ近くで物音がした。 「そこか……!」  人気のない小道に走り寄る。    ―――それは、一瞬の出来事だった。    見覚えのある赤い男とセイバーが対峙している。  セイバーはためらう事なく赤い男へと突進し、一撃で相手の体勢を崩して―――  部活がある桜と別れて校舎に向かう。  校庭には走り込みをしている運動部の部員たちがいて、朝から活気が溢れている。 「…………」  にも関わらず、酷い違和感があった。  学校はいつも通りだ。  朝練に励む生徒たちは生気に溢れ、真新しい校舎には汚れ一つない。 「……気のせいか、これ」  なのに、目を閉じると雰囲気が一変する。  校舎には粘膜のような汚れが張り付き、校庭を走る生徒たちはどこか虚ろな人形みたいに感じられる。 「……疲れてるのかな、俺」  軽く頭をふって、校舎へ足を向けた。  土曜日の学校は早く終わる。  午前中で授業は終わり、一成の手伝いを終えた頃には、日は地平線に没しかけていた。 「さて、そろそろ帰るか」  荷物をまとめて教室を後にする。  と。 「なんだ。まだ学校にいたんだ、衛宮」  ばったりと慎二と顔を合わせた。  慎二の後ろには何人かの女生徒がいて、なにやら騒がしい。 「やる事もないクセにまだ残ってたの? ああそうか、また生徒会にごますってたワケね。いいねえ衛宮は、部活なんてやんなくても内申稼げるんだからさ」 「生徒会の手伝いじゃないぞ。学校の備品を直すのは生徒として当たり前だろ。使ってるのは俺たちなんだから」 「ハ、よく言うよ。衛宮に言わせれば何だって当たり前だからね。そういういい子ぶりが癇に障るって前に言わなかったっけ?」 「む? ……すまん、よく覚えていない。それ、慎二の口癖だと思ってたから、どうも聞き流してたみたいだ」 「っ――――!  フン、そうかい。それじゃ学校にある物ならなんでも直してくれるんだ、衛宮は」 「何でも直すなんて無理だ。せいぜい面倒見るぐらいだが」 「よし、なら頼まれてくれよ。うちの弓道場さ、今わりと散らかってるんだよね。弦も巻いてないのが溜まってるし、〈安土〉《あづち》の掃除もできてない。  暇ならさ、そっちの方もよろしくやってくれないかな。  元弓道部員だろ? 生徒会になんか尻尾ふってないで、たまには僕たちの役にたってくれ」 「えー? ちょっとせんぱーい、それって先輩が藤村先生に言われてたコトじゃなかったー?」 「そうですよう、ちゃんとやっておかないと明日怒られますよー?」 「でもさー、今から片づけしてたら店閉まるじゃん。そこの人がやってくれるんならそれでいいんじゃないの?」 「悪いよー。それに部外者に後片づけなんか出来るワケないし……」 「そうでもないんじゃない? あの人、元弓道部員だって慎二が言ってるしさぁ、任せちゃえばいいのよ」  慎二の後ろが騒がしい。  弓道部員のようだが、見知った顔がないという事は最近慎二が勧誘しているという部員たちだろうか。 「じゃ、あとはよろしく。鍵の場所は変わってないから、かってにやっといてよ。文句ないよね、衛宮?」 「ああ、かまわないよ。どうせ暇だったから、たまにはこういうのも悪くない」 「はは、サンキュ! それじゃ行こうぜみんな、つまんない雑用はアイツがやっといてくれるってさ!」 「あ、待ってよせんぱーい! あ、じゃ後はよろしくお願いしますねぇ、先輩」  勝手知ったるなんとやら、弓道場の整理は苦もなく終わった。  これだけ広いと時間がかかったが、一年半前まで使っていた道場を綺麗にするのは楽しかった。  途中、一度ぐらいならいいかな、と弓を手に取ったが、人の弓に弦を張るのも失礼なので止めておいた。  弓が引きたくなったのなら、自分の弓を持ってお邪魔すればいいだけの話だ。  時計を見れば、とうに門限は過ぎている。  時刻は七時を過ぎたあたり。この分じゃ校門は閉められてるだろうから、無理して早く帰る必要はなくなってしまった。  ……それにしても。  この道場ってこんなに汚れていたっけ。弓置きの裏とか部室とか、細かいところに汚れが目立つ。 「……ま、ここまできたら一時間も二時間も変わらないか」  乗りかかった船だ。どうせだからとことん掃除してしまおう―――  風が出ていた。  あまりの冷たさに頬がかじかむ。  ……冬でもそう寒くない冬木の夜は、今日に限って冷え込んでいた。 「――――――――」  はあ、とこぼした吐息が白く残留している。 「……なんだ。暗いと思ったら月が隠れてるのか」  見上げた空に白い光はない。  強い風のせいか、空には雲が流れている。  門限が過ぎ、人気の絶えた学校には熱気というものがない。  物音一つしないこの敷地は、町のどの場所より冷気に覆われているようだ。 「…………?」  何か、いま。  物音が、聞こえたような。 「―――確かに聞こえる。校庭の方か……?」  この夜。  凍てついた空の下、静寂を破る音が気になったのか。    真偽を確かめる為に、俺は、その場所へと向かってしまった。  ―――校庭にまわる。   「…………人?」    初め、遠くから見た時はそうとしか見えなかった。  暗い夜、明かりのない闇の中だ。  それ以上の事を知りたければ、とにかく校庭に近づくしかない。  音は大きく、より勢いを増して聞こえてきた。  これは鉄と鉄がぶつかり合う音だ。  となれば、あそこでは何者かが刃物で斬り合っている、という事だろう。 「……馬鹿馬鹿しい。なに考えてるんだ、俺……」    頭の中に浮かんだイメージを苦笑で否定して、さらに足を進めていく。    ―――この時。  本能が危険を察知していたのか、隠れながら進んでいた事が、ついていたのかそうでないのか。  ともかく身を隠せる程度の木によりそって、より近くから音の発信源を見――――    そこで、完全に意識が凍り付いた。 「――――――――な」    何か、よく分からないモノがいた。  赤い男と青い男。  時代錯誤を通り越し、もはや冗談とすら思えないほど物々しい武装をした両者は、不吉なイメージ通り、〈本当に斬り合っていた〉《・・・・・・・・・・》。  理解できない。  視覚で追えない。  あまりにも現実感のない動きに、脳が正常に働かない。  ただ凶器の弾けあう音だけが、あの二人は殺し合っているのだと、否応なしに知らせてくる。 「――――――――」  ただ、見た瞬間に判った。  アレは人間ではない。おそらくは人間に似た別の何かだ。  自分が魔術を習っているから判ったんじゃない。  あんなの、誰が見たってヒトじゃないって判るだろう。  そもそも人間はあんな風に動ける生物ではない。  だからアレは、関わってはいけないモノだ。 「――――――――」  離れていても伝わってくる殺気。  ……死ぬ。  ここにいては間違いなく生きてはいられないと、心より先に体の方が理解していた。  鼓動が激しいのもそういう事だ。  同じ生き物として、アレは殺す為だけの生き物なのだと感じている。 「――――――――」  ……ソレらは包丁やナイフなんて足下にも及ばない、確実に人を殺す為の凶器を繰り出している。  ふと、昨日の殺人事件が頭をよぎった。  犠牲になった家族は、刀のような凶器で惨殺されたという。 「っ―――――――」  これ以上直視していてはダメだ。  だというのに体はピクリとも動かず、呼吸をする事もできない。  逃げなければと思う心と、  逃げ出せばそれだけで見つかるという判断。  ……その〈鬩〉《せめ》ぎ合い以上に、手足が麻痺して動かない。    四十メートル以上も離れているのに、真後ろからあの槍を突きつけられているような気がして、満足に息も出来ない。 「――――――――」  音が止まった。  二つのソレは、距離をとって向かい合ったまま立ち止まる。  それで殺し合いが終わったのかと安堵した瞬間、いっそう強い殺気が伝わってきた。 「っ………………!」  心臓が萎縮する。  手足の痺れは痙攣に変わって、歯を食いしばって、震えだしたくなる体を押さえつけた。 「うそだ――――なんだ、アイツ――――!?」  青い方のソレに、吐き気がするほどの魔力が流れていく。  周囲から魔力を吸い上げる、という行為は切嗣に見せてもらった事がある。  それは半人前の俺から見ても感心させられる、一種美しさを伴った魔術だった。  だがアレは違う。  水を飲む、という単純な行為も、度を過ぎれば醜悪に見えるように。  ヤツがしている事は、魔力を持つ者なら嫌悪を覚えるほど暴食で、絶大だった。 「――――――――」  殺される。  あの赤いヤツは殺される。  あれだけの魔力を使って放たれる一撃だ。それが防げる筈がない。      死ぬ。  ヒトではないけれど、ヒトの形をしたモノが死ぬ。  それは。              それは。                  それは、見過ごして、いい事なのか。  その迷いのおかげで、意識がソレから外れてくれた。  金縛りが解け、はあ、と大きく呼吸をした瞬間。   「誰だ――――!」    青い男が、じろりと、隠れている俺を凝視した。 「………っっ!!」  青い男の体が沈む。  それだけで、ソレの標的は自分に切り替わったと理解できた。 「―――…………!!」  足が勝手に走り出す。  それが死を回避する為とようやく気づいて、体の全てを、逃走する事に注ぎ込んだ。  どこをどう走ったのか、気が付けば校舎の中に逃げ込んでいた。 「何を――――バカな」  はあはあと喘ぎながら、自分の行動に舌打ちする。  逃げるなら町中だ。  こんな、自分から人気のない場所に逃げるなんてどうかしてる。  それも学校。同じ隠れるのでも、もっと隠れやすい場所があるんじゃないのか。  そもそもなんだって俺はこんな、走らなければ殺されるなんて、物騒な錯覚に囚われてしまっている――― 「ハァ――――ハァ、ハァ、ハ――――ァ」    限界以上に走りづめだった心臓が〈軋〉《きし》む。  振り向けば、追いかけてくる気配はない。  カンカンと響く足音は自分だけの物だ。 「ァ――――ハァ、ハァ、ハァ」    なら、これでようやく止まれる。  もう一歩だって動かない足を止めて、壊れそうな心臓に酸素を送って、はあ、と大きくあごをあげて、助かったのだと実感できた。 「……ハァ……ぁ……なんだったんだ、今の……」    乱れた呼吸を整えながら、先ほどの光景を思い返す。  とにかく、見てはいけないモノだったのは確かな事だ。  夜の校庭で人間に似たモノ同士が争っていた。  思い返せるのはそれだけだ。  ただ、もう一つ視界の隅にあったのは、   「……もう一人、誰かいた気がするけど……」    それがどんな姿をしていたかまでは思い出せない。  正直、あの二人以外に意識をさいている余裕などなかった。 「けど、これでともかく――――」   「追いかけっこは終わり、だろ」    その声は、目の前から、した。 「よぅ。わりと遠くまで走ったな、オマエ」 「――――」  息ができない。  思考が止まり、何も考えられないというのに。    ――――漠然と、これで死ぬのだな、と実感した。 「逃げられないってのは、オマエ自身が誰よりも判ってたんだろ? なに、やられる側ってのは得てしてそういうもんだ。別に恥じ入る事じゃない」  フッ、と。  無造作に槍が持ち上げられ、そのまま。 「運がわるかったな坊主。ま、見られたからには死んでくれや」    容赦も情緒もなく、男の槍は、衛宮士郎の心臓を貫いた。  よける間などなかった。  今まで鍛えてきた成果なんて一片も通じなかった。  殺されると。  槍で貫かれると判っていながら、動く事さえできなかった。 「ぁ――――ぁ」  世界が歪む。  体が冷めていく。  指先、末端から感覚が消えていく。 「こ――――ふ」  一度だけ、口から血を吐き出した。  本来ならなお〈零〉《こぼ》れるはずの吐血は、ただ一度きりだった。  男の槍は特別製だったのかもしれない。  血液はゆっくりと淀んでいて、壊れて血をまき散らす筈の〈心臓〉《ポンプ》は、ただの一刺しで綺麗に活動を停止していた。 「――――――――」  よく見えない。  感覚がない。  暗い夜の海に浮かんでいる〈海月〉《クラゲ》のよう。  痛みすらとうに感じない。    世界は白く、自分だけが黒い。    だから自分が死んだというより、  まわりの全てがなくなったような感じ。  知っている。  十年前にも一度味わった。  これが、死んでいく人間の感覚だ。 「死人に口なしってな。弱いヤツがくたばるのは当然と言えば当然だが―――」    意識が視力にいかない。 「―――まったく嫌な仕事をさせてくれる。この様で英雄とは笑いぐさだ」    声だけが聞こえてくる。 「解っている、文句はないさ。女のサーヴァントは見たんだ。大人しく戻ってやるよ」    苛立ちを含んだ声。  その後に、廊下を駆けてくる足音が。 「―――アーチャーか。ケリをつけておきたいところだが、マスターの方針を破る訳にもいくまい。……まったく、いけすかねえマスターだこと」    唐突に声は消えた。  窓から飛び降りたのだろう。  その後に。  やってきた足音が止まった。    その、奇妙な間。    ……また足音。    もう、よく聞き取れ、ない。   「追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと」  ……それは誰の声だったか。  かすんでいく意識を総動員して思い出そうとしたが、やはり、何も考えつかなかった。  今はただ、呼吸だけがうるさい。  肺はまだ生きているのか。  ひゅーひゅーと口から漏れる音が、台風みたいに、喧しかった。   「そのわりにはまだ死んでないってのは、凄いな」  覗き込まれる気配。  そいつも俺の呼吸がうるさかったのか、この口を閉じようと指を伸ばして――――   「……やめてよね。なんだって、アンタが」    ぎり、と。  悔しげに歯を噛む音が聞こえた途端、そいつは、ためらう事なく、血に濡れた俺に触れてきた。   「……破損した臓器を偽造して代用、その間に心臓一つまるまる修復か……こんなの、成功したら時計塔に一発合格ってレベルじゃない……」    苦しげな声。  それを境に、薄れていくだけの意識がピタリと止まった。 「――――――――」    体に感覚が戻ってくる。  ゆっくりと、少しずつ、葉についた水滴が〈零〉《こぼ》れるぐらいゆっくりと、体の機能が戻っていく。 「――――――――」    ……ぽたり、ぽたり。  何をしているのか。  寄り添ったそいつは額から汗を流して、一心不乱に、俺の胸に手を当てている。 「――――――――」    気が付けば、手のひらを置かれた箇所が酷く熱い。  きっと、それが死んでいた体を驚かせるぐらい熱かったから、凍っていた血潮が流れだしてくれたのだ。 「――――――――ふぅ」    大きく息を吐いて座り込む気配。   「っかれたぁ……」    カラン、と何かが落ちる音。   「……ま、仕方ないか。ごめんなさい父さん。貴方の娘は、とんでもなく薄情者です」  それが最後。  自嘲ぎみに呟いて、誰かの気配はあっさりと遠ざかっていった。   「――――――――」    心臓が活動を再開する。  そうして、今度こそ意識が途切れた。    ……それは死に行く為の眠りではなく。  再び目覚める為に必要な、休息の眠りだった。  夜の町を歩く。  深夜一時過ぎ、外に出ている人影は皆無だ。  家々の明かりも消えて、今は街灯だけが寝静まった町を照らしている。 「なあ遠坂。つかぬ事を訊くけど、歩いて隣町まで行く気なのか」 「そうよ? だって電車もバスも終わってるでしょ。いいんじゃない、たまには夜の散歩っていうのも」 「そうか。一応訊くけど、隣町までどのくらいかかるか知ってるか?」 「えっと、歩いてだと一時間ぐらいかしらね。ま、遅くなったら帰りはタクシーでも拾えばいいでしょ」 「そんな余分な金は使わないし、俺が言いたいのは女の子が夜出歩くのはどうかって事だ。最近物騒なのは知ってるだろ。もしもの事があったら責任持てないぞ、俺」 「安心しなさい、相手がどんなヤツだろうとちょっかいなんて出してこないわ。衛宮くんは忘れてるみたいだけど、そこにいるセイバーはとんでもなくお強いんだから」 「あ」  そう言えばそうだ。  通り魔だろうがなんだろうが、セイバーに手を出したらそれこそ返り討ちだろう。 「凛。シロウは今なにを言いたかったのでしょう。私には理解できなかったのですが」 「え? いえ、大した勘違いっぷりって言うか、大間抜けっていうか。なんでもわたしたちが痴漢に襲われたら衛宮くんが助けてくれるんだって」 「そんな、シロウは私のマスターだ。それでは立場が逆ではないですか」 「そういうの考えてないんじゃない? 魔術師とかサーヴァントとかどうでもいいって感じ。あいつの頭の中、一度見てみたくなったわねー」 「………………」  知らぬ間に、遠坂とセイバーは話をするぐらいの仲になっている。  セイバーはと言えば、あの姿のまま出ようとしたのを止めた時から無言だ。  どうしても鎧は脱がない、というので仕方なく雨合羽を着せたら、ますます無言になってしまった。  今ではツカツカと俺の後を付いてきて、遠坂とだけ話をしている。 「あれ? どっちに行くのよ衛宮くん。そっち、道が違うんじゃない?」 「橋に出ればいいんだろ。ならこっちのが近道だ」  二人と肩を並べて歩くのは非常に抵抗があったので、早足で横道に入った。  川縁の公園に出た。  あの橋を渡って、隣町である新都へ行くのだが――― 「へえ、こんな道あったんだ。そっか、橋には公園からでも行けるんだから、公園を目指せばいいのね」  夜の公園、という場所のせいだろうか。  橋を見上げる遠坂の横顔は、学校で見かける時よりキレイに見えて、まいる。 「いいから行くぞ。別に遊びに来たわけじゃないんだから」  公園で立ち止まっている遠坂を促して階段を上る。  橋の横の歩道にさえ辿り着けば、あとは新都まで一直線だ。  歩道橋に人影はない。  それも当然、昼間でさえここを使う人は少ないのだ。  隣町まではバスか電車で行くのが普通で、この歩道橋はあまり使われない。  なにしろ距離があまりにも長いし、どうも作りが頑丈でないというか、いつ崩れてもおかしくないのでは、なんて不安を呼び起こす。  ロケーション的には文句無しなのにデートコースに使われないのも、そのあたりが原因だろう。 「……馬鹿らしい。なに考えてんだ、俺」  無言で後を付いてくるセイバーと、すぐ横で肩を並べている遠坂。  その二人を意識しないようにと努めて、とにかく少しでも早く橋を渡ろうと歩を速めた。  橋を渡ると、遠坂は郊外へ案内しだした。  新都と言えば駅前のオフィス街しか頭に浮かばないが、駅から外れれば昔ながらの街並みが残っている。  郊外はその中でも最たるものだ。  なだらかに続く坂道と、海を臨む高台。  坂道を上っていく程に建物の棟は減っていき、丘の斜面に建てられた外人墓地が目に入ってくる。 「この上が教会よ。衛宮くんも一度ぐらいは行った事があるんじゃない?」 「いや、ない。あそこが孤児院だったって事ぐらいは知ってるけど」 「そう、なら今日が初めてか。じゃ、少し気を引き締めた方がいいわ。あそこの神父は一筋縄じゃいかないから」  ……見上げれば、坂の上には建物らしき影が見えた。  高台の教会。  今まで寄りつきもしなかった神の家に、こんな目的で足を運ぶ事になろうとは。 「うわ―――すごいな、これ」  教会はとんでもない豪勢さだった。  高台のほとんどを敷地にしているのか、坂を上がりきった途端、まったいらな広場が出迎えてくれる。  その奥に建てられた教会は、そう大きくはないというのに、〈聳〉《そび》えるように来た者を威圧していた。 「シロウ、私はここに残ります」 「え? なんでだよ、ここまで来たのにセイバーだけ置いてけぼりなんて出来ないだろ」 「私は教会に来たのではなく、シロウを守る為についてきたのです。シロウの目的地が教会であるのなら、これ以上遠くには行かないでしょう。ですから、ここで帰りを待つ事にします」  きっぱりと言うセイバー。  どうもテコでも動きそうにないので、ここは彼女の意思を尊重することにした。 「分かった。それじゃ行ってくる」 「はい。誰であろうと気を許さないように、マスター」  広い、荘厳な礼拝堂だった。  これだけの席があるという事は、日中に訪れる人も多いという事だろう。  これほどの教会を任されているのだから、ここの神父はよほどの人格者と見える。 「遠坂。ここの神父さんっていうのはどんな人なんだ」 「どんな人かって、説明するのは難しいわね。十年来の知人だけど、わたしだって未だにアイツの性格は掴めないもの」 「十年来の知人……? それはまた、随分と年季が入った関係だな。もしかして親戚か何かか?」 「親戚じゃないけど、わたしの後見人よ。ついでに言うと兄弟子にして第二の師っていうところ」 「え……兄弟子って、魔術師としての兄弟子!?」 「そうだけど。なんで驚くのよ、そこで」 「だって神父さんなんだろ!? 神父さんが魔術なんて、そんなの御法度じゃないか!」  そう、魔術師と教会は本来相容れないものだ。  魔術師が所属する大規模な組織を魔術協会と言い、  一大宗教の裏側、普通に生きていれば一生見ないですむこちら側の教会を、仮に聖堂教会と言う。  この二つは似て非なる者、形の上では手を結んでいるが、隙あらばいつでも殺し合いをする物騒な関係だ。  教会は異端を嫌う。  人ではないヒトを徹底的に排除する彼らの標的には、魔術を扱う人間も含まれる。  教会において、奇跡は選ばれた聖人だけが取得するもの。それ以外の人間が扱う奇跡は全て異端なのだ。  それは教会に属する人間であろうと例外ではない。  教会では位が高くなればなるほど魔術の汚れを禁じている。  こういった教会を任されている信徒なら言わずもがな、神の加護が厚ければ厚いほど魔術とは遠ざかっていく物なのだが―――― 「……いや。そもそもここの神父さんってこっち側の人だったのか」 「ええ。聖杯戦争の監督役を任されたヤツだもの、バリッバリの代行者よ。……ま、もっとも神のご加護があるかどうかは疑問だけど」  かつん、かつん、と足音をたてて祭壇へと歩いていく遠坂。  神父さんがいないというのにお邪魔するのもなんだが、そもそもこんな夜更けなのだ。  礼拝堂にいる訳もなし、訪ねるのなら奥にあるであろう私室だろう。 「……ふうん。で、その神父さんはなんていうんだ? さっきは〈言峰〉《ことみね》とかなんとか言ってたけど」 「名前は〈言峰綺礼〉《ことみねきれい》。父さんの教え子でね、もう十年以上顔を合わせてる腐れ縁よ。……ま、できれば知り合いたくなかったけど」   「―――同感だ。私も、師を敬わぬ弟子など持ちたくはなかった」  かつん、という足音。  俺たちが来た事に気が付いていたのか、その人物は祭壇の裏側からゆっくりと現れた。 「再三の呼び出しにも応じぬと思えば、変わった客を連れてきたな。……ふむ、彼が七人目という訳か、凛」 「そう。一応魔術師だけど、中身はてんで素人だから見てられなくって。  ……たしかマスターになった者はここに届けを出すのが決まりだったわよね。アンタたちが勝手に決めたルールだけど、今回は守ってあげる」 「それは結構。なるほど、ではその少年には感謝しなくてはな」  言峰という名の神父は、ゆっくりとこちらに視線を向ける。 「――――」  ……知らず、足が退いていた。  ……何が恐ろしい訳でもない。  ……言峰という男に敵意を感じる訳でもない。  だというのに、肩にかかる空気が重くなるような威圧感を、この神父は持っていた。 「私はこの教会を任されている言峰綺礼という者だが。  君の名はなんというのかな、七人目のマスターよ」 「―――衛宮士郎。けど、俺はまだマスターなんて物になった覚えはないからな」  腹に力をいれて、重圧に負けまいと神父を睨む。 「衛宮――――――士郎」 「え――――」  背中の重圧が悪寒に変わる。  神父は静かに、何か喜ばしいモノに出会ったように笑った。    ――――その笑みが。  俺には、例えようもなく―――― 「礼を言う、衛宮。よく凛を連れてきてくれた。君がいなければ、アレは最後までここには訪れなかったろう」  神父は祭壇へと歩み寄る。  遠坂は退屈そうな顔つきで祭壇から離れ、俺の横まで下がってきた。 「では始めよう。衛宮士郎、君はセイバーのマスターで間違いはないか?」 「それは違う。確かに俺はセイバーと契約した。けどマスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても俺にはてんで判らない。  マスターっていうのがちゃんとした魔術師がなるモノなら、他にマスターを選び直した方がいい」 「……なるほど、これは重症だ。彼は本当に何も知らないのか、凛」 「だから素人だって言ったじゃない。そのあたりからしつけてあげて。……そういう追い込み得意でしょ、アンタ」  遠坂は気が乗らない素振りで神父を促す。 「――――ほう。これはこれは、そういう事か。  よかろう、おまえが私を頼ったのはこれが初めてだ。  衛宮士郎には感謝をしてもし足りないな」  なんていうか、聞いてるこっちがますます不安になっていくような会話だ。 「まず君の勘違いを正そう。  いいか衛宮士郎。マスターという物は他人に譲れる物ではないし、なってしまった以上辞められる物でもない。  その腕に令呪を刻まれた者は、たとえ何者であろうとマスターを辞める事はできん。まずはその事実を受け入れろ」 「っ―――辞める事はできないって、どうしてだよ」 「令呪とは〈聖痕〉《せいこん》でもある。マスターとは与えられた試練だ。都合が悪いからといって放棄する事はできん。  その痛みからは、聖杯を手に入れるまでは解放されない」 「おまえがマスターを辞めたいと言うのであれば、聖杯を手に入れ己が望みを叶えるより他はあるまい。そうなれば何もかもが元通りだぞ、衛宮士郎。  おまえの望み、その〈裡〉《うち》に溜まった泥を全て掻き出す事もできる。―――そうだ、初めからやり直す事とて可能だろうよ」 「故に望むがいい。  もしその時が来るのなら、君はマスターに選ばれた幸運に感謝するのだからな。その、目に見えぬ火傷の跡を消したいのならば、聖痕を受け入れるだけでいい」 「な――――」  目眩がした。  神父の言葉はまるで要領を得ない。  聞けば聞くほど俺を混乱させるだけだ。    ……にも関わらず、コイツの言葉は〈厭〉《イヤ》に胸に浸透して、どろりと、血のように粘り着く――― 「綺礼、回りくどい真似はしないで。わたしは彼にルールを説明してあげてって言ったのよ。誰も傷を開けなんて言ってない」  神父の言葉を遮る声。 「――――と、遠坂?」  それで、混乱しかけた頭がハッキリとしてくれた。 「そうか。こういった手合いには何を言っても無駄だからな、せめて勘違いしたまま道徳をぬぐい去ってやろうと思ったのだが。  ……ふん、情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ。つい、私自身も楽しんでしまったか」 「なによ。彼を助けるといい事あるっていうの、アンタに」 「あるとも。人を助けるという事は、いずれ自身を救うという事だからな。……と、今更おまえに説いても始まるまい」 「では本題に戻ろうか、衛宮士郎。  君が巻き込まれたこの戦いは『〈聖杯〉《せいはい》戦争』と呼ばれるものだ。  七人のマスターが七人のサーヴァントを用いて繰り広げる争奪戦―――という事ぐらいは凛から聞いているか?」 「……聞いてる。七人のマスターで殺し合うっていう、ふざけた話だろ」 「そうだ。だが我らとて好きでこのような非道を行っている訳ではない。  全ては聖杯を得るに相応しい者を選抜する為の儀式だ。  なにしろ物が物だからな、所有者の選定には幾つかの試練が必要だ」  ……何が試練だ。  賭けてもいいが、この神父は聖杯戦争とやらをこれっぽっちも“試練”だなんて思っていない。 「待てよ。さっきから聖杯聖杯って繰り返してるけど、それって一体なんなんだ。まさか本当にあの聖杯だって言うんじゃないだろうな」        聖杯。  聖者の血を受けたという杯。  数ある聖遺物の中でも最高位とされるソレは、様々な奇蹟を行うという。        その中でも広く伝わるのが、聖杯を持つ者は世界を手にする、というものである。  ……もっとも、そんなのは眉唾だ。なにしろ聖杯の存在自体が“有るが無い物”に近い。        確かに、“望みを叶える聖なる杯”は世界各地に散らばる伝説・伝承に顔を出す。  だがそれだけだ。  実在したとも、再現できたとも聞かない架空の技術、それが聖杯なのだから。 「どうなんだ言峰綺礼。アンタの言う聖杯は、本当に聖杯なのか」 「勿論だとも。この町に現れる聖杯は本物だ。その証拠の一つとして、サーヴァントなどという法外な奇蹟が起きているだろう」 「過去の英霊を呼び出し、使役する。否、既に死者の蘇生に近いこの奇蹟は魔法と言える。  これだけの力を持つ聖杯ならば、持ち主に無限の力を与えよう。物の〈真贋〉《しんがん》など、その事実の前には無価値だ」 「――――――――」  つまり。  偽物であろうが本物以上の力があれば、真偽など問わないと言いたいのか。 「……いいぜ。仮に聖杯があるとする。けど、ならなんだって聖杯戦争なんてものをさせるんだ。聖杯があるんなら殺し合う事なんてない。それだけ凄い物なら、みんなで分ければいいだろう」 「もっともな意見だが、そんな自由は我々にはない。  聖杯を手にする者はただ一人。  それは私たちが決めたのではなく、聖杯自体が決めた事だ」 「七人のマスターを選ぶのも、七人のサーヴァントを呼び出すのも、全ては聖杯自体が行う事。  これは儀式だと言っただろう。聖杯は自らを持つに相応しい人間を選び、彼らを競わせてただ一人の持ち主を選定する。  それが聖杯戦争―――聖杯に選ばれ、手に入れる為に殺し合う降霊儀式という訳だ」 「――――――――」  淡々と神父は語る。  反論する言葉もなく、左手に視線を落とす。  ……そこにあるのは連中が令呪と呼ぶ刻印だ。  この刻印がある以上、マスターを放棄する事はできないとでも言いたいのか。 「……納得いかないな。一人だけしか選ばれないにしたって、他のマスターを殺すしかないっていうのは、気にくわない」 「? ちょっと待って。殺すしかない、っていうのは誤解よ衛宮くん。別にマスターを殺す必要はないんだから」 「はあ? だって殺し合いだって言ったじゃないか。言峰もそう言ってたぞ」 「殺し合いだ」 「綺礼は黙ってて。あのね、この町に伝わる聖杯っていうのは霊体なの。だから物として有る訳じゃなくて、特別な儀式で呼び出す―――つまり降霊するしかないって訳」 「で、呼び出す事はわたしたち魔術師だけでも出来るんだけど、これが霊体である以上わたしたちには触れられない。この意味、分かる?」 「分かる。霊体には霊体しか触れられないんだろ。  ―――ああ、だからサーヴァントが必要なのか……!」 「そういう事。ぶっちゃけた話、聖杯戦争っていうのは自分のサーヴァント以外のサーヴァントを撤去させるってコトよ。だからマスターを殺さなければならない、という決まりはないの」 「――――――――」  なんだ、それならそうと早く言ってくれればいいのに!  まったく、遠坂もこの神父も人が悪いったらありゃしない。  ……とにかく、それで安心した。  それなら聖杯戦争に参加しても、遠坂が死ぬような事はないんだから。 「なるほど、そういう考えもできるか。  では衛宮士郎、一つ訊ねるが君は自分のサーヴァントを倒せると思うか?」 「?」  セイバーを倒す?  そんなの無理に決まってるじゃないか。  そもそもアイツに魔術は通用しないし、剣術だってデタラメに強いんだから。 「ではもう一つ訊ねよう。つまらぬ問いだが、君は自分がサーヴァントより優れていると思えるか?」 「??」  なに言ってるんだ、こいつ。  俺はセイバーを倒せないんだから、俺がセイバーより優れてるなんて事ありえない。  今の質問はどっちにしたって、マスターである俺の方がサーヴァントより弱いって答え、に―――― 「――――あ」 「そういう事だ。サーヴァントはサーヴァントをもってしても破りがたい。ならばどうするか。  そら、実に単純な話だろう? サーヴァントはマスターがいなければ存在できぬ。いかにサーヴァントが強力であろうと、マスターが潰されればそのサーヴァントも消滅する。ならば」  そう、それはしごく当然の行為。  誰もわざわざ困難な道は選ばない。  確実に勝ち残りたいのなら、サーヴァントではなくマスターを殺す事が、サーヴァントを殺す最も効率的な手段となる―――― 「……ああ、サーヴァントを消す為にはマスターを倒した方が早いってのは解った。  けど、それじゃあ逆にサーヴァントが先にやられたら、マスターはマスターでなくなるのか? 聖杯に触れられるのはサーヴァントだけなんだろ。なら、サーヴァントを失ったマスターには価値がない」 「いや、令呪がある限りマスターの権利は残る。マスターとはサーヴァントと契約できる魔術師の事だ。令呪があるうちは幾らでもサーヴァントと契約できる」 「マスターを失ったサーヴァントはすぐに消える訳ではない。彼らは体内の魔力が尽きるまでは現世にとどまれる。そういった、“マスターを失ったサーヴァント”がいれば、“サーヴァントを失ったマスター”とて再契約が可能となる。戦線復帰が出来るという訳だ。  だからこそマスターはマスターを殺すのだ。下手に生かしておけば、新たな障害になる可能性があるからな」 「……じゃあ令呪を使い切ったら? そうすれば他のサーヴァントと契約できないし、自由になったサーヴァントも他のマスターとくっつくだろ」 「待って、それは――――」 「ふむ、それはその通りだ。令呪さえ使い切ってしまえば、マスターの責務からは解放されるな」 「……もっとも、強力な魔術を行える令呪を無駄に使う、などという魔術師がいるとは思えないが。  いたとしたらそいつは半人前どころか、ただの腑抜けという事だろう?」  ふふ、とこっちの考えを見透かしたように神父は笑う。 「…………っ」  なんか、癪だ。  神父の口調は挑発めいている。 「納得がいったか。ならばルールの説明はここまでだ。  ―――さて、それでは始めに戻ろう衛宮士郎。  君はマスターになったつもりはないと言ったが、それは今でも同じなのか」 「マスターを放棄するというのなら、それもよかろう。  君が今考えた通り、令呪を使い切ってセイバーとの契約を断てばよい。その場合、聖杯戦争が終わるまで君の安全は私が保証する」 「……? ちょっと待った。なんだってアンタに安全を保証されなくちゃいけないんだ。自分の身ぐらい自分で守る」 「私とておまえに構うほど暇ではない。だがこれも決まりでな。  私は繰り返される聖杯戦争を監督する為に派遣された。  故に、聖杯戦争による犠牲は最小限にとどめなくてはならないのだ。  マスターでなくなった魔術師を保護するのは、監督役として最優先事項なのだよ」 「――――繰り返される聖杯戦争……?」  ちょっと待て。  繰り返されるって、こんな戦いが今まで何度もあったってのか……? 「それ、どういう事だよ。聖杯戦争っていうのは今に始まった事じゃないのか」 「無論だ。でなければ監督役、などという者が派遣されると思うか?  この教会は聖遺物を回収する任を帯びる、特務局の末端でな。本来は正十字の調査、回収を旨とするが、ここでは“聖杯”の査定の任を帯びている。  極東の地に観測された第七百二十六聖杯を調査し、これが正しいモノであるのなら回収し、そうでなければ否定しろ、とな」 「七百二十六って……聖杯ってのはそんなに沢山あるのか」 「さあ? 少なくとも、らしき物ならばそれだけの数があったという事だろう」 「そしてその中の一つがこの町で観測される聖杯であり、聖杯戦争だ。  記録では二百年ほど前が一度目の戦いになっている。  以後、約五十年周期でマスターたちの戦いは繰り返されている。  聖杯戦争はこれで五度目。前回が十年前であるから、今までで最短のサイクルという事になるが」 「な―――正気かおまえら、こんな事を今まで四度も続けてきたって……!?」 「まったく同感だ。おまえの言うとおり、連中はこんな事を何度も繰り返してきたのだよ。  ―――そう。  過去、繰り返された聖杯戦争はことごとく苛烈を極めてきた。マスターたちは己が欲望に突き動かされ、魔術師としての教えを忘れ、ただ無差別に殺し合いを行った」 「君も知っていると思うが、魔術師にとって魔術を一般社会で使用する事は第一の罪悪だ。魔術師は己が正体を人々に知られてはならないのだからな。  だが、過去のマスターたちはそれを破った。  魔術協会は彼らを戒める為に監督役を派遣したが、それが間に合ったのは三度目の聖杯戦争でな。その時に派遣されたのが私の父という訳だが、納得がいったか少年」 「……ああ、監督役が必要な理由は分かった。  けど今の話からすると、この聖杯戦争っていうのはとんでもなく〈性質〉《たち》が悪いモノなんじゃないのか」 「ほう。〈性質〉《たち》が悪いとはどのあたりだ」 「だって以前のマスターたちは魔術師のルールを破るような奴らだったんだろ。  なら、仮に聖杯があるとして、最後まで勝ち残ったヤツが、聖杯を私利私欲で使うようなヤツだったらどうする。平気で人を殺すようなヤツにそんなモノが渡ったらまずいだろう。  魔術師を監視するのが協会の仕事なら、アンタはそういうヤツを罰するべきじゃないのか」  微かな期待をこめて問う。  だが言峰綺礼は、予想通り、慇懃な仕草でおかしそうに笑った。 「まさか。私利私欲で動かぬ魔術師などおるまい。我々が管理するのは聖杯戦争の決まりだけだ。その後の事など知らん。どのような人格が聖杯を手に入れようが、協会は関与しない」 「そんなバカな……! じゃあ聖杯を手に入れたマスターが最悪なヤツだったらどうするんだよ!」 「困るな。だが私たちではどうしようもない。持ち主を選ぶのは聖杯だ。そして聖杯に選ばれたマスターを止める力など私たちにはない。  なにしろ望みを叶える杯だ。手に入れた者はやりたい放題だろうさ。  ―――しかし、それが嫌だというのならおまえが勝ち残ればいい。他人を当てにするよりは、その方が何よりも確実だろう?」  言峰は笑いをかみ殺している。  マスターである事を受け入れられない俺の無様さを愉しむように。 「どうした少年。今のはいいアイデアだと思うのだが、参考にする気はないのかな」 「……そんなの余計なお世話だ。第一、俺には戦う理由がない。聖杯なんて物に興味はないし、マスターなんて言われても実感が湧かない」 「ほう。では聖杯を手に入れた人間が何をするか、それによって災厄が起きたとしても興味はないのだな」 「それは――――」  ……それを言われると反論できない。  くそ、こいつの言葉は暴力みたいだ。  こっちの心情などおかまいなし、ただ事実だけを容赦なく押しつけてくる――― 「理由がないのならそれも結構。ならば十年前の出来事にも、おまえは関心を持たないのだな?」 「――――十年、前……?」 「そうだ。前回の聖杯戦争の最後にな、相応しくないマスターが聖杯に触れた。そのマスターが何を望んでいたかは知らん。我々に判るのは、その時に残された災害の爪痕だけだ」 「――――――――」                一瞬。      あの地獄が、脳裏に浮かんだ。 「―――待ってくれ。まさか、それは」 「そうだ、この街に住む者なら誰もが知っている出来事だよ衛宮士郎。  死傷者五百名、焼け落ちた建物は実に百三十四棟。未だ以て原因不明とされるあの火災こそが、聖杯戦争による爪痕だ」 「――――――――」    ――――吐き気がする。    視界がぼやける。    焦点を失って、視点が定まらなくなる。    ぐらりと体が崩れ落ちる。  だが、その前にしっかりと踏みとどまった。  歯を噛みしめて意識を保つ。  倒れかねない吐き気を、ただ、沸き立つ怒りだけで押し殺した。 「衛宮くん? どうしたのよ、いきなり顔面真っ白にしちゃって。……そりゃああんまり気持ちのいい話じゃなかったけど、その―――ほら、なんなら少し休んだりする?」  よほど蒼い顔をしていたのだろう。  なんていうか、遠坂がこういった心配をしてくれるなんて、とんでもなくレアな気がした。 「心配無用だ。遠坂のヘンな顔を見たら治った」 「……ちょっと。それ、どういう意味よ」 「いや、他意はないんだ。言葉通りの意味だから気にするな」 「ならいいけど……って、余計に悪いじゃないこの唐変木っ!」  すかん、容赦なく頭をはたく学園一の優等生・遠坂凛。  それがトドメ。  本当にそれだけで、さっきまでの吐き気も怒りも、キレイさっぱり消えてくれた。 「……サンキュ。本当に助かったから、あんまりいじめないでくれ遠坂。今はもう少し、訊かなくちゃいけない事がある」  むっ、と叩きたりない顔のまま、遠坂は一応場を譲ってくれる。 「ほう、まだ質問があるのか。いいぞ、言いたい事は全て言ってしまえ」  俺が訊きたい事なんて見抜いているだろうに、神父は愉快そうに促してくる。  上等だ。  衛宮士郎は、おまえになんて負けるものか。 「じゃあ訊く。アンタ、聖杯戦争は今回が五回目だって言ったな。なら、今まで聖杯を手に入れたヤツはいるのか」 「当然だろう。そう毎回全滅などという憂き目は起きん」 「じゃあ―――」 「早まるな。手に入れるだけならば簡単だ。なにしろ聖杯自体はこの教会で管理している。手に取るだけならば私は毎日触れているぞ」 「え――――?」  せ、聖杯がこの教会にある――――? 「もっとも、それは器だけだ。中身が空なのだよ。先ほど凛が言っただろう、聖杯とは霊体だと。  この教会に保管してあるのは、極めて精巧に作られた聖杯のレプリカだ。これを触媒にして本物の聖杯を降霊させ、願いを叶える杯にする。そうだな、マスターとサーヴァントの関係に近いか。……ああ。そうやって一時的に本物となった聖杯を手にした男は、確かにいた」 「じゃあ聖杯は本物だったのか。いや、手にしたっていうそいつは一体どうなったんだ」 「どうにもならん。その聖杯は完成には至らなかった。馬鹿な男が、つまらぬ感傷に流された結果だよ」  ……?  先ほどまでの高圧的な態度はどこにいったのか、神父は悔いるように視線を細めている。 「……どういう事だ。聖杯は現れたんじゃないのか」 「聖杯を現すだけならば簡単だ。七人のサーヴァントが揃い、時間が経てば聖杯は現れる。凛の言う通り、確かに他のマスターを殺める必要などないのだ。  だが、それでは聖杯は完成しない。アレは自らを得るに相応しい持ち主を選ぶ。故に、戦いを回避した男には、聖杯など手に入らなかった」 「ふん。ようするに、他のマスターと決着を付けずに聖杯を手に入れても無意味って事でしょ。  前回、一番はじめに聖杯を手に入れたマスターは甘ちゃんだったのよ。敵のマスターとは戦いたくない、なんて言って聖杯から逃げたんだから」  吐き捨てるように言って、遠坂は言峰から視線を逸らす。 「――――うそ」  それはつまり、言峰は前回のマスターの一人で、聖杯を手に入れたものの、戦いを拒否して脱落したって事なのか……!? 「……言峰。あんた、戦わなかったのか」 「途中まで戦いはした。だが判断を間違えた。結果として私はカラの聖杯を手にしただけだ。  もっとも、私ではそれが限界だったろう。なにしろ他のマスターたちはどいつもこいつも化け物揃いだったからな。わたしは真っ先にサーヴァントを失い、そのまま父に保護されたよ」 「……思えば、監督役の息子がマスターに選ばれるなど、その時点であってはならぬ事だったのだ。  父はその折に亡くなった。以後、私は監督役を引き継ぎ、この教会で聖杯を守っている」  そう言って、言峰綺礼という名の神父は背中を向けた。  その視線の先には、礼拝されるべき象徴が聳えている。 「話はここまでだ。  聖杯を手にする資格がある者はサーヴァントを従えたマスターのみ。君たち七人が最後の一人となった時、聖杯は自ずと勝者の下に現れよう。  その戦い―――聖杯戦争に参加するかの意思をここで決めよ」  高みから見下ろして、神父は最後の決断を問う。 「――――――――」  言葉がつまる。  戦う理由がなかったのはさっきまでの話だ。  今は確実に戦う理由も意思も生まれている。  けれどそれは、本当に、認めていいものなのかどうか。 「まだ迷っているのか。  いいか、マスターというものはなろうとしてなれる物ではない。そこにいる凛は長く魔術師として修練してきたが、だからといってマスターになるのが決定されていた訳ではないのだ。  決定されていた物があるとすれば、それは心構えが出来ていたかいないかだけだろう」 「マスターに選ばれるのは魔術師だけだ。魔術師ならばとうに覚悟などできていよう。  それが無い、というのならば仕方があるまい。  おまえも、おまえを育てた師も出来損ないだ。そんな魔術師に戦われても迷惑だからな、今ここで令呪を消してしまえ」 「――――――!」  言われるまでもない。  俺は――――      ……賛同できない。  そんな泥仕合みたいな殺し合いは間違っている。 「どうした? 戦うか戦わないのか、ここで明言しろ衛宮士郎」  ……ああ、言われるまでもない。  俺は――――   「――――戦わない。マスターの権利とやらをここで棄てる」    神父を見据え、はっきりと返答した。 「そうか。残念ではあるが、マスター本人の意思では仕方がない。衛宮士郎はマスターである権利を放棄し、聖杯戦争から離脱した。――――それでいいな凛?」 「……?」  神父は俺にではなく遠坂に語りかける。 「構わないわ。それが衛宮くんの選択なら、わたしがどうこう言える事じゃないでしょう」 「……ふむ。その罪悪感だけでも収穫だったとするか。  では早速とりかかろう衛宮士郎。左腕を出したまえ」 「……いいけど。何をする気だよ、アンタ」 「なに、すぐに終わる。おまえの左腕に宿った令呪を消去するだけだ。  マスターをマスターたらしめている要因は二つある。  一つはサーヴァントとの契約であり、一つは腕に宿った令呪だ。  この二つを失えば、おまえは聖杯戦争から解放される」  神父は差し出した左腕を手に取ると、   「―――痛むぞ。できるだけ力を抜け」    ズブリと。  その五指を、容赦なく俺の腕にめり込ませ―――― 「ぎっ――――!!!!?」  激痛で全身が跳ねる。  ずる、と音をたてて、腕の〈内部〉《なか》に他人の指が潜り込んでくる。 「ぐ、づっ――――!?」  それは錯覚などではない。  錯覚があったとしたら、それは腕を壊された、という認識だけ。  実際、俺の腕には傷一つ付いていない。  ぞぶぞぶと肉をかきわける他人の指。  これは、そう――――単に、神父の指が幽霊みたいに透明になって、俺の肉に食い込んでいるだけだった。 「―――完了だ。手術は無事終了した」 「っ――――、え――――?」  神父に掴まれた左腕を見る。  ……腕にはやはり傷一つなく、打ち身のような痛みが残るだけだ。  その不快感と引き換えに、  左手の甲にあった刻印は、そのカタチを変えていた。 「――――形が変わってる……いや、〈画数〉《かず》が減ってる、のか……?」 「ええ。令呪の〈画数〉《かず》は三つ。綺礼はそのうち二つを貴方から摘出したのよ。体を傷つけずに患部を取り除く霊媒医師みたいにね」 「霊媒医師……?」  たしか霊体を繕う事で肉体を治療する、特殊な魔術師だったか。  その魔術は患者の体にメス一つ入れず、手品みたいに腫瘍を取り除く“呪術”だと言う話だが……。 「……驚いたな。霊媒治療ってのは未開の地で使われる外法だろう。教会の人間が身につけていいものじゃない」 「そう言うな。何らかの魔術を会得している時点で神父としては失格なのだ。  ならば、どのような魔術を好もうと神父失格である事は変わるまい。魔術の貴賎など気にするな」 「今のは私の唯一の取り得でな。色々と魔術を習ったが、性に合ったのはコレだけだった。  私の魔術特性は、良くも悪くも“傷を開く”事に特化している。おかげで他の魔術の腕は、そこの弟子にさえ後れをとる始末だよ」 「良くも悪くもって、良いに決まってるじゃない。  綺礼ほどの霊媒医師は協会にも少ないし、教会の秘蹟使いだって、貴方ほど霊体を繕える人はごく一部なんだから」 「さてな。いかに優れた治療法と言え、霊媒は肉体に依存する接触治療にすぎない。  肉体に依存しない存在証明である“魂”そのものに触れられる奇跡にはほど遠いが―――  ―――ともかく、令呪の摘出は完了した。  後の始末は君の役割だ、衛宮士郎。最後に残った令呪を用い、サーヴァントとの契約を断つがいい」 「……? サーヴァントとの契約を断つ……?」 「ええ。外で待ってるセイバーの前で契約破棄を申し出るの。……けど、きっとセイバーは契約破棄なんて認めてくれない。それを力ずくで執行する為に令呪を一つだけ残したのよ、綺礼は」 「そういう事だ。令呪を使いきり、且つサーヴァントとの契約を断って自分が“無害”である事を他のマスターに提示する。  それで君は晴れて自由の身だ。正常なマスターならば、無力化したマスターを襲おうとは考えまい。  君は偶然手に入れた力を手放す事で、素晴らしい平穏を取り戻せるというワケだ」 「………………」  セイバーとの契約を、俺の判断だけで白紙に戻す。  ……それは彼女に対する裏切りだ。  たとえ偶然であっても、俺は彼女を呼び寄せ、彼女は俺を守ってくれた。 「…………………」  ……俺は、選択を誤ったのか。  マスター同士の殺し合いなんてものには賛同できない。  賛同できないが、それを見過ごす事も、やはり自分には出来ないとしたら―――― 「何をしている? 令呪の発動に呪文は要らん。令呪に意識を載せてサーヴァントに命令すればいいだけだ。  セイバーに直接言いつけるか、ここで一方的に契約を断つか。好きな方を選べ」 「………………」  ―――いや。  だとしても、もう決めた事だ。  今更引き返す事はできないし、この神父はそんな真似は許さないだろう。 「……セイバーと話をつけてくる。それで俺はマスターじゃなくなるんだな?」 「セイバーに直接って……衛宮くん、それは」 「ああ、保証しよう。―――己がサーヴァントに別れを告げて来るがいい。その後、君を保護対象として教会に迎え入れよう」  どこまで本気なのか、神父は俺を歓迎する。  ……が、こんなところの世話になるつもりはない。  俺はマスターの権利を棄てるだけだ。その後、こいつの手を借りるなんて願い下げだ。 「それもお断りだ。アンタの世話にはならない。セイバーと話をつけて、令呪を使い切ったら家に帰る。  それで終わりだ。アンタとは二度と会わない」 「そうか。……なるほど、それはそうだろうな。確かに私たちは二度とは会わない。  ―――さようなら衛宮士郎。自ら選んだ道だ、胸を張って進みたまえ」 「――――」  言われるまでもない。  神父に背を向けて教会を後にした。  ……教会を出る。  高い空の下、石畳の広場に彼女はいた。 「話は済みましたか、マスター」 「ああ、聖杯戦争がどんなものか確かめてきた。  ……その上で決めたんだ、セイバー。俺はマスターを降りる」 「――――――――」  セイバーは眉一つ動かさない。  緑色の瞳は、さも当然のように俺の決断を聞き入れていた。 「――――それは、私との契約を取り辞めるという事ですか」 「そうだ。俺にはマスターは務まらない。……それにセイバーだって、俺みたいな半人前より、まっとうなマスターと契約した方がいいだろう」 「――――はい。戦闘面での充実を図るのなら、貴方以外の魔術師と契約するべきでしょう。アーチャーのマスターなら、私の能力を完全に引き出せる」 「………そうか。なら、ここで契約を切ってもいいな。  令呪は契約解除に使うから、それでセイバーは自由だ」 「――――――シロウ。一度だけ訊きます。  マスターを降りる、という意思は変わりませんか?」 「変わらない。俺は殺し合いをする気はない」  セイバーを正面から見据えて断言する。  ……と、その時。  ゆらり、とセイバーが被っていたカッパが揺れた。 「あ――――」  呆然と、目前の死を見つめる。  セイバーは、本当に俺が瞬きをした隙に走りこんで、「え――――?」  俺の両足をなぎ払って、地面に転倒させていた。 「あ、っ――――!?」  遅れて両足に痛みが走る。  血、血は出ていない。膝から下だってちゃんとある。 「ぁ――――…………、っ」  自分の両足が“有る”事に安堵する。  ……良かった。鉄の棒で両足を払われただけだ。  骨には亀裂が入って、今も足が千切れそうなほど痛むが、両足が切断されるよりずっといい―――― 「シロウ。マスターでなくなった魔術師は、そのサーヴァントに殺される。いかに未熟だろうと、私を喚び寄せた貴方には、私をこの世に留める力がある。  ……サーヴァントにはマスターが必要だ。  貴方が契約を断つのなら、私は貴方を殺して〈魔力回路〉《そのからだ》を貰い受ける。  それでも貴方はマスターを降りると?」 「………………」  痛みで朦朧とする意識をしぼってセイバーを見上げる。  セイバーには敵意も殺気もない。  息を吸う事が当然のように。  セイバーはこの世に留まる為、何の感慨もなく俺の息の根を止めるだろう。    それでも―――― 「―――そうだ。仮に、今から考えを改めたところで俺には出来ない。令呪が残り一つだからじゃない。  ……俺は、戦いを拒絶した。一度でもマスターである事を否定したんだ。……そんなヤツをマスターにしたところで、待っているのは敗北だけだ」  ……どんな形であれ、俺の心は折れた。  一度でも戦いを拒んだのなら、必ず二度目が訪れる。  窮地に陥る度に“戦わなければ良かった”と後悔する。  そんな男をマスターにしたら、俺だけでなくセイバーさえ、取り返しのつかない事になるだろう。 「では、ここで私に殺されても構わないのですね。  ……私は霊体にはなれない。貴方の魂を取り込めない以上、貴方は肉体の痛みをもって死を迎える。それをみすみす受け入れると……?」 「っ……まさか。戦うのはご免だが、殺されるのはもっとご免だ。……ダメで元々、最後まで抵抗して逃げ切ってやる」  セイバーの視線に呑まれないよう、自分を奮い立たせて睨み返す。  ……と。 「セイバー……?」 「――――いいでしょう。令呪を使いなさいシロウ。貴方の決断だ、私が口を挟む権利はない」 「――――え」 「気にする事はありません。私は今回のマスターとも信頼を築けなかっただけだ。貴方が令呪で契約を断てば私は自由になる。……この体を保てるのは二時間程度でしょうが、その間に新しい〈寄り代〉《マスター》を見つけるだけです」  淡々としたセイバーの言葉。  その覚悟に背中を押され、  左手の令呪に、セイバーとの契約破棄を念じていた。 「これで貴方は自由だ。わずかな間の共闘でしたが、貴方の魔力は好ましかった。  ……再び会う事はないでしょうが、無事この戦いを切り抜けられるよう祈りましょう」  銀色の甲冑が遠退いていく。 「――――――――っ」  知らず、彼女を呼び止めようとして、その愚行を抑え込んだ。  彼女の名を口にする事は許されない。  ……一方的に契約を破棄した俺を咎めず、最後にこの身まで案じてくれた。  そんな彼女の手を払って聖杯戦争から身を引いた以上、呼び止める事など出来ない筈だ―――  無音の月夜だった。  午前零時を過ぎているとはいえ、町の静けさはいささか行き過ぎている。 「………………」  率直に言ってしまえば不気味だった。  それは言い過ぎでもなく、的を射た表現だと思う。 「―――はあ。いつからこんな様子になっちまったのかな」  言うまでもない。  聖杯戦争。この町にいる六人の魔術師たちの暗躍が、冬木の町から活気を奪っているのだ。 「…………っ」  じくり、と胸が痛んだ。  たった数時間前、ランサーに貫かれた胸が疼く。 「――――帰ろう。今更、教会に戻って何になる」  胸の疼きを抑え込みながら帰路につく。  これからの事は戻ってから考えればいい。  家に帰って風呂に入って、とりあえず一息つけば少しは冷静になれるだろう――――      だが。   “―――これからの事は戻ってから考えればいい”    その考えそのものが、何かの間違いだったのだ。 「え――――――――?」  ソレは、悪い夢のように、この先に道などないと告げていた。     「なあんだ。一人になっちゃったんだね、お兄ちゃん」    くすぐるような少女の声に顔をあげる。  青い月下。  帰り道である筈の坂の上には、  一人の少女と、一つの異形が、 「ぎ――――、」  爆ぜた。  視認する時間も、言葉を交わす猶予も、背中を見せて走り出す機会さえなかった。  黒い巨人はその場に留まったまま凶器を振り上げ、その剣圧だけで、持っていかレ――――   「――――――――ゃあああああああああああああああああああ!?」 「あ、ああああ、あ、あ――――!」  とんだ。トンだ。どこが。根元から――――?  背後の坂道はまるでどしゃぶり跡みたいに赤く染まっているのにめくれあがってささくれだった場所は薄いピンク色のままゆっくり滲みだしてくる血と、激しいうずきと恐ろしさ、 「バーサーカー。追いかけっこの気分じゃないから、ペシャンコにしてあげなさい」  転がる。  両足が正座するように跪いている。  ただし方向は前。足は膝だった部分から前に、直角に正座している。 「は――――ぁ、あ――――!?」  思考が追いつかない。  痛みで思考が追いつかない。  ―――バーサーカー。  確かにそんな響きが聞こえた。  なら、目の前にいる怪物は、は―――― 「ふふ、行儀いいんだねお兄ちゃん。知ってるよ、それってカイシャクって言うんでしょう? お爺さまは言ってたわ。ニホンジンはお行儀よく正座して、死ぬヒトたちなんだって」    ―――気が遠くなる。  少女の、その無邪気な声は、この場にはあまりにも不釣合い。 「ぁ――――、や」  視線をあげる。  呼吸が出来ない。  胸の片方、穴が開いて俺の後ろに吹き飛んでいる。  背中から路面に倒れる。  両足はキャタピラみたいになってしまった。しかも壊れて動かない。  だから、動く手でアスファルトをつかんで、ずるずると坂道を後退し、         「あ、まだ動けるんだ。けど残念ね、貴方はもう逃げられない。逃げたところで意味なんてないわ。  ―――だって。ここでわたしから逃げられたとしても、その体はあと数秒で死んじゃうもの」 「は――――」  体が軽い。  血液はもう半分以上流出している。  意識があるのがおかしい。  脳は酸欠でとっくに、とっくに機能を停止、している筈なのに、     「けど安心して。そんな簡単に死なれたらつまらないでしょう? だからぁ、わたしがちょっとだけ手を貸してあげましたぁ!  お兄ちゃんは、どんなに痛くても壊れても、頭を潰すまでは意識がちゃあんと残ってるの。  だから―――こんなコトをしても、まだ生き物としてのたうちまわれるわ」 「ぎ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」  潰された。  プレス機みたいな剣圧に潰された。  体の下が二次元になってしまって、見ても信じられない程に平たくなった。 「あ、ああ、あ」  死ねない。  血液はもう頭にしか残っておらず、肉体も機能せず、神経は死を迎え入れて楽になりたがっているのに、意識がどうしても消えてくれない。 「………………」  喉が笛のように鳴る。  キンキンと〈頭蓋〉《ずがい》の中に反響する。  ―――思考はいまだ混乱したまま。  ただ、この苦痛から逃れたくて、   「あ――――違う、俺はもう、マスターじゃ、ない」    助けを求めるように、少女に訴える。    ……一瞬の希望。  少女は、驚いたように息を呑んだあと。   「―――ええ、だからなに?」    天使のような笑顔で、そう言った。 「あ――――、ハ」  理性が凍結する。  どうあっても助からない。  自分はここで殺されると完全に理解した。 「ん、わたしでも抱き上げられるくらいになったかな。  それじゃお兄ちゃん、わたしのお城に招待してあげる。  お城に帰ればいっぱい道具があるから、そこでゆっくりと続きをしよう」 「――――――――」  どれほど傷つけられても意識は死んでくれない。  死んでくれないので、理性を凍結したのだ。  あとどのくらい頭が無事かはわからないが。    衛宮士郎は、ここで〈思考〉《きぼう》を持つ事を放棄した。  外に出た途端、肩に圧し掛かっていた重圧が消え去った。  あの神父から離れた、という事もあるが、  遠くからでも目立つ制服の遠坂と、  雨合羽を着込んだ金髪の少女が立っている、なんて光景が妙に味があって気が抜けたらしい。 「――――――――」  セイバーは相変わらず無言だ。  じっとこっちを見ているあたり、俺がどんな選択をしたのか気になっているようだ。 「行きましょう。町に戻るまでは一緒でしょ、わたしたち」  さっさと歩き出す遠坂。  それに続いて、俺たちも教会を後にした。  三人で坂を下りていく。  来た時もそう話した方じゃないが、帰りは一段と会話がない。  その理由ぐらい、鈍感な俺でも分かっていた。  教会での一件で、俺は本当にマスターになったのだ。  遠坂が俺とセイバーから離れて歩いているのは、きっとそういう理由だろう。 「――――」  それは理解してる。  理解しているけど、そんなふうに遠坂を区別するのは嫌だった。 「遠坂。おまえのサーヴァント、大丈夫なのか」 「え……?」 「あ、うん。アーチャーなら無事よ。……ま、セイバーにやられたダメージは簡単に消えそうにないから、しばらく実体化はさせられないだろうけど」 「じゃあ側にはいないのか」 「ええ、わたしの家で匿ってる状態。いま他のサーヴァントに襲われたら不利だから、傷が治るまでは有利な場所で敵に備えさせてるの」  なるほど。  うちはともかく、遠坂の家なら敵に対する備えは万全なんだろう。  魔術師にとって自分の家は要塞のような物だ。そこにいる限り、まず負ける事などない。  逆を言えば、ホームグランドにいる限り、敵は簡単には襲いかかってこないという事か。  ……うむ。  うちの結界は侵入者に対する警報だけだが、それだけでも有ると無いとでは大違いだし。 「そういえば遠坂。さっきヤツ、聖杯戦争の監督役って言ってたけどさ。アイツ、おまえのサーヴァントを知ってるのか」 「知らない筈よ。わたし、教えてないもの」 「そうなのか。おまえとアイツ、仲がいいからそうだと思ってたけど」 「……あのね衛宮くん。忠告しておくけど、自分のサーヴァントの正体は誰にも教えちゃ駄目よ。たとえ信用できる相手でも黙っておきなさい。そうでないと早々に消える事になるから」 「……? セイバーの正体って、なにさ」 「だから、サーヴァントが何処の英雄かっていう事よ。  いくら強いからって戦力を明かしてちゃ、いつか寝首をかかれるに決まってるでしょ。……いいから、後でセイバーから真名を教えてもらいなさい。  そうすればわたしの言ってる事が判る……けど、ちょっとたんま。衛宮くんはアレだから、いっそ教えてもらわない方がいいわね」 「なんでさ」 「衛宮くん、隠し事できないもの。なら知らない方が秘密にできるじゃない」 「……あのな、人をなんだと思ってるんだ。それぐらいの駆け引きはできるぞ、俺」 「そう? じゃあわたしに隠している事とかある?」 「え……遠坂に隠してる事って、それは」  口にして、ぼっと顔が熱くなった。  別に後ろめたい事なんてないけど、なんとなく憧れていた、なんて事は隠し事に入るんだろうか……? 「ほら見なさい。何を隠してるか知らないけど、動揺が顔に出るようじゃ向いてないわ。  貴方は他にいいところがあるんだから、駆け引きなんて考えるのは止めなさい」 「……む。それじゃ遠坂はどうなんだよ。あの神父にも黙ってるって事は、アイツも信用してないって事か?」 「綺礼? まさか。私、アイツを信用するほどおめでたくないわ。アイツはね、教会から魔術協会に鞍替えしたくせに、まだ教会に在籍している食わせ者なのよ。人の情報を他のマスターに売るぐらいはやりかねないわ」  ふんだ、と忌々しげに言い捨てる遠坂。  遠坂は本気であの神父を信用してないようだ。  それはそれでホッとしたけど、それでも、なんとなく今の台詞には、神父への親しみが含まれている気がした。    ―――そうして橋を渡る。    もうお互いに会話はない。  冷たい冬の空気と、吐きだされる白い吐息。  水の流れる小さな音と、橋を照らす目映い街灯。  そういった様々なものが、今はひどく記憶に残る。  不思議と、遠坂の顔を見ようと思わなかった。  今は遠坂の顔を見るより、こうして一緒に歩いている事の方が得難いと思う。  俺と、遠坂と、まだ何も知らないセイバーという少女。  この三人で、何をするでもなく、帰るべき場所へと歩いていく。  交差点に着いた。  それぞれの家に続く坂道の交差点、衛宮士郎と遠坂凛が別れる場所。 「ここでお別れね。義理は果たしたし、これ以上一緒にいると何かと面倒でしょ。きっぱり別れて、明日からは敵同士にならないと」  今までの曖昧な位置づけに区切りをつける為だろう。  遠坂は何の前置きもなく喋りだして、唐突に話を切った。  それで分かった。  彼女は義務感から俺にルールを説明したんじゃない。  あくまで公平に、何も知らない衛宮士郎の立場になって肩入れしただけなのだ。  だから説明さえ終われば元通り。  あとはマスターとして、争うだけの対象になる。 「……む?」  けど、だとしたら今のはヘンだろう。  遠坂は感情移入をすると戦いにくくなる、と言いたかったに違いない。  遠坂から見れば今夜の事は全て余分。  “これ以上一緒にいると何かと面倒”  そんな台詞を口にするのなら、遠坂は初めから一緒にいなければ良かったのだ。  聡明な遠坂の事だから、それは判りきっている筈。  それでも損得勘定を秤にもかけないで、遠坂凛は衛宮士郎の手を取った。  だから今夜の件は何の思惑もない、本当にただの善意。  目の前にいる遠坂は、学校で見る彼女とはあまりにも違う。  控えめにいっても性格はきついし、ツンケンしていて近寄りがたいし、学校での振る舞いはなんなんだー、と言いたくなるぐらいの変わり様だ。  いやもう、こんなのほとんどサギだと思う。  ……だが、まあそれでも。  遠坂凛は、みんなが思っていた通りの彼女でもあったのだ。 「なんだ。遠坂っていいヤツなんだな」 「は? なによ突然。おだてたって手は抜かないわよ」  そんな事は判ってる。  コイツは手を抜かないからこそ、情が移ると面倒だって言い切ったんだから。 「知ってる。けど出来れば敵同士にはなりたくない。俺、おまえみたいなヤツは好きだ」 「な――――」  遠坂の家は俺とは反対方向にある、洋風の住宅地だって聞いている。  一応ここまで面倒を見てくれたんだから、こっちは遠坂を見送ってから戻りたいんだが。 「と、とにかく、サーヴァントがやられたら迷わずさっきの教会に逃げ込みなさいよ。そうすれば命だけは助かるんだから」 「それは気が引けるけど、一応聞いておく。けどそんな事にはならないだろ。どう考えてもセイバーより俺のほうが短命だ」  冷静に現状を述べる。 「――――ふう」  またもや謎のリアクションを見せる遠坂。  彼女は呆れた風に溜息をこぼした後、ちらり、とセイバーを流し見た。 「いいわ、これ以上の忠告は本当に感情移入になっちゃうから言わない。  せいぜい気を付けなさい。いくらセイバーが優れているからって、マスターである貴方がやられちゃったらそれまでなんだから」  くるり、と背を向けて歩き出す遠坂。 「――――」  だが。  幽霊でも見たかのような唐突さで、彼女の足はピタリと止まった。 「遠坂?」  そう声をかけた時、左手がズキリと痛んだ。               「――――ねえ、お話は終わり?」    幼い声が夜に響く。  歌うようなそれは、紛れもなく少女の物だ。  視線が坂の上に引き寄せられる。  いつのまに雲は去ったのか、空には煌々と輝く月。    ――――そこには。          伸びる影。  仄暗く青ざめた影絵の町に、それは、在ってはならない異形だった。 「―――バーサーカー」    聞き慣れない言葉を漏らす遠坂。  ……訊ねる必要などない。  アレは紛れもなくサーヴァントであり、  同時に―――十年前の火事をなお上回る、圧倒的なまでの死の気配だった。 「こんばんはお兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」    微笑みながら少女は言った。  その無邪気さに、背筋が寒くなる。 「――――――――」    いや、背筋なんて生やさしいものじゃない。  体はおろか意識まで完全に凍っている。  アレは、化け物だ。  視線さえ合っていないのに、ただ、そこに在るだけで身動きがとれなくなる。  少しでも動けばその瞬間に死んでいるだろう、と当然のように納得できた。  むき出しの腹に、ピタリと包丁を押し当てられている感覚。 「――――やば。あいつ、桁違いだ」    麻痺している俺とは違い、遠坂には身構えるだけの余裕がある。  ……しかし、それも僅かな物だろう。  背中越しだというのに、彼女が抱いている絶望を感じ取れるんだから。 「あれ? なんだ、あなたのサーヴァントはお休みなんだ。つまんないなぁ、二匹いっしょに潰してあげようって思ったのに」  坂の上、俺たちを見下ろしながら、少女は不満そうに言う。  ……ますますやばい。  あの少女には、遠坂のサーヴァントが不在だという事も見抜かれている。  ―――と。  少女は行儀良く、この場に不釣り合いなお辞儀をした。 「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。  イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」 「アインツベルン――――」  その名前に聞き覚えでもあるのか、遠坂の体がかすかに揺れた。  そんな遠坂の反応が気に入ったのか、少女は嬉しそうに笑みをこぼし、   「じゃあいくね。やっちゃえ、バーサーカー」    歌うように、背後の異形に命令した。  巨体が飛ぶ。  バーサーカーと呼ばれたモノが、坂の上からここまで、何十メートルという距離を一息で落下してくる――――! 「――――シロウ、下がって……!」  セイバーが駆ける。雨合羽がほどけ、一瞬、視界が閉ざされた。  バーサーカーの落下地点まで駆けるセイバーと、  旋風を伴って落下してきたバーサーカーとは、まったくの同時だった。 「っ…………!」  空気が震える。  〈岩塊〉《がんかい》そのものとも言えるバーサーカーの大剣を、セイバーは視えない剣で受け止めていた。 「っ――――」  口元を歪めるセイバー。  そこへ 旋風じみたバーサーカーの大剣が一閃する―――!  轟音。  大気を裂きかねない鋼と鋼のぶつかり合いは、セイバーの敗北で終わった。  ざざざざ、という音。  バーサーカーの大剣を受けたものの、セイバーは受け止めた剣ごと押し戻される。 「くっ……」  セイバーの姿勢が崩れる。  追撃する鉛色のサーヴァント。  灰色の異形は、それしか知らぬかのように大剣を叩きつける。  避ける間もなく剣で受けるセイバー。  彼女の剣が見えなかろうと関係ない。  バーサーカーの一撃は全身で受け止めなければ防ぎきれない即死の風だ。  故に、セイバーは受けに回るしかない。  彼女にとって、勝機とはバーサーカーの〈剣戟〉《けんげき》の合間に活路を見いだす事。    だが。  それも、バーサーカーに隙があればの話。  黒い岩盤の剣は、それこそ嵐のようだった。  あれほどの巨体。  あれほどの大剣を以ってして、バーサーカーの速度はセイバーを上回っている。  繰り出される剣戟は、ただ叩きつけるだけの、何の工夫もない駄剣だ。  だがそれで十分。  圧倒的なまでの力と速度が有るのなら、技の介入する余地などない。  技巧とは、人間が欠点を補うために編み出すもの。    そんな〈弱点〉《もの》、あの巨獣には存在しない。 「――――逃げろ」    凍り付いた体で、ただ、そう呟いた。  アレには勝てない。  このままではセイバーが殺される。  だからセイバーは逃げるべきだ。  彼女だけなら簡単に逃げられる。  そんな事、他でもない彼女自身がよく判っているだろうに…………! 「あ――――」  あれは、まずい。  体は麻痺しているクセに、頭だけは冷静に働くのか。  絶え間なく繰り出される死の嵐。  〈捌〉《さば》ききれず後退したセイバーに、今度こそ、    防ぎ切れぬ、終りの一撃が繰り出された。  セイバーの体が浮く。  バーサーカーの大剣を、無理な体勢ながらもセイバーは防ぎきる。  それは致命傷を避けるだけの行為だ。  満足に踏み込めなかったため大剣を殺しきれず、衝撃はそのままセイバーを吹き飛ばす。    ―――大きく弧を描いて落ちていく。  背中から地面に叩きつけられる前に、セイバーは身を翻して着地する。 「……ぅ、っ……!」  なんとか持ち直すセイバー。  だが。その胸には、赤い血が滲んでいた。 「――――あれ、は」  ……なんて、バカだ。  俺は大事な事を失念していた。  サーヴァントが一日にどれくらい戦えるかは知らないが、セイバーはこれで三戦目だ。  加えて彼女の胸には、ランサーによって穿たれた傷がある―――― 「つ、う――――」  胸をかばうように構えるセイバー。  バーサーカーは暴風のように、傷ついたセイバーへと斬りかかり――――    その背中に、幾条もの衝撃を受けていた。   「―――Vier Stil Erschießung……!」    いかなる魔術か、遠坂の呪文と共にバーサーカーの体が弾ける。  〈迸〉《ほとばし》る魔力量から、バーサーカーに直撃しているのは大口径の拳銃に近い衝撃だろう。  だがそれも無意味。  バーサーカーの体には傷一つ付かない。  セイバーのように魔力を無効化しているのではない。  あれは、ただ純粋に効いていないだけ。 「っ……!? く、なんてデタラメな体してんのよ、こいつ……!」  それでも遠坂は手を緩めず、  バーサーカーも、遠坂の魔術を意に介さずセイバーへ突進する。 「…………っ」  苦しげに顔をあげるセイバー。  彼女はまだ戦おうと剣を構える。    ―――それで、固まっていた体は解けた。 「だめだ、逃げろセイバー……!」    満身の力で叫ぶ。  それを聞いて、    彼女は、敵うはずのない敵へと立ち向かった。  バーサーカーの剣戟に終わりはない。  一合受ける度にセイバーの体は沈み、刻一刻と最後の瞬間を迎えようとする。    ―――それでも、あんな小さな体の、どこにそんな力があったのか。  セイバーは決して後退しない。  怒濤と繰り出される大剣を全て受け止め、気力でバーサーカーを押し返そうとする。  勝ち目などない。  そのまま戦えば敗れると判っていながら踏み止まる彼女の姿は、どこか異常だった。  その姿に何を感じたのか。   「――――!」    絶えず無言だった異形が吠えた。  防ぎようのない剣戟。  完璧に防ぎに入ったセイバーもろともなぎ払う一撃は、今度こそ彼女を吹き飛ばした。    だん、と。  遠くに、何かが落ちる音。  ……鮮血が散っていく。  その中で、もはや立ち上がる事など出来ない体で。 「っ、あ…………」  彼女は、意識のないまま立ち上がった。  そうしなければ、残された俺が、殺されるのだと言うかのように。 「――――――――――――――――――――――――」    それで。  自分がどれほど愚かな選択をしたか、思い知った。  セイバーを斬り伏せたバーサーカーは動きを止めている。  立ちつくす俺と遠坂に目もくれず、坂の上にいる主の命令を待つ。 「あは、勝てるわけないじゃない。わたしのバーサーカーはね、ギリシャ最大の英雄なんだから」 「……!? ギリシャ最大の英雄って、まさか――――」 「そうよ。そこにいるのはヘラクレスっていう魔物。  あなたたち程度が使役できる英雄とは格が違う、最凶の怪物なんだから」  イリヤと名乗った少女は、愉しげに瞳を細める。  それは敵にトドメを刺そうとする愉悦の目だ。    ―――倒されるのが誰かは言うまでもない。    彼女はここで殺される。  ならどうするというのか。  彼女に代わってあの怪物と戦えというのか。  それは出来ない。  半端な覚悟でアレに近づけば、それだけで心臓が止まるだろう。  俺は――――        ――――この場から離れる。    セイバーではあの怪物には勝てない。  このまま戦わせれば間違いなく殺されてしまう。  なら―――― 「遠坂、こっちだ……!」 「っ……!?」  遠坂の手を取って走り出す。    あの少女の狙いが俺たちなら、必ず追って来る。    そうなればセイバーは助かるし、俺たちだって、人気のある場所まで逃げ込めば助かる見込みがある……! 「ちょっ、あいつ相手に背中を向けるなんて――――!」 「え……?」  掴んだ手が振り払われる。  ついで閃光。  遠坂は無防備な俺の背中を守るように“その間”に割って入り、 「は――――、つ…………」  その胸で、巨人の大剣を受けていた。 「――――――――とおさ、」  振り向いた顔が、ひきつっていくのが判る。  ごほ、と。  口から咳き込むみたいに赤いものを吐き出して、遠坂は胸につきたった大剣を、不思議そうに見下ろした。 「あれ――――なにやってんだろ、わた、し」  ……俺を守ろうとした事か、バーサーカーを迎撃した事か。  そんな事、初めから無駄だと判っていたのにと、遠坂は首をかしげ、   「――――教会。綺礼の、ところに」    そう残して、ずるり、と地面に投げ捨てられた。 「――――――――、ア」    考えるより先に体が反応した。  目前に立ち塞がる黒い巨人。  その右脇、たった今遠坂を地面に棄てた隙をついて、    「ああああああああああああ――――!」    火の輪をくぐる動物みたいに、死に物狂いで走り抜けた。 「あ、逃げた。くす、かわいいねお兄ちゃん。バーサーカーから逃げられると思えるなんて」  ――――走る。  頭の中には遠坂の言葉しかない。  教会。この坂道の上、教会まで行かなければ。  教会にいって、言峰神父に助けを求める。  そうしなければいけない。  そうしなければ遠坂が死ぬ。  そうしなければセイバーも死ぬ。  そうしなければ二人を助けられず、俺も―――!  背後に一撃。  剣じゃない。  巨人は〈玄翁〉《げんのう》じみた素手で、俺の背中を打ち上げた。    ――――あ、   「もう、この役立たず……! 簡単に殺すなって言ったのにそんなコトも出来ないの……!? 力だけの出来そこない、今度わたしの言い付けを守れなかったら最後の一回になるまで殺すからね……!」    ――――あ、が   「え……? 生き、てる……? ここまで吹き飛ばされたのに、まだ生きてる、の……?」    ――――いき、が。背骨が粉々になって、息、が。   「そう。生きてるんだ、お兄ちゃん。何の魔術も使えないようだけど、マスターに選ばれる理由はあったみたいね。  ―――いいわ。それぐらいじゃないと、わたしもニホンに来た意味がないもの」   「っ――――、――――」    ……からだが動かない。  生きているなど気休めだ。  俺は、もう。 「いいえ、簡単には死なせないわ。貴方にはもっと傷ついてもらって、今までの時間がどれだけ恵まれていたのか、教えてあげるんだから」    銀色の髪をした少女が、俺の頭を押さえつける。  白い、冷たい指先が〈頭蓋〉《ずがい》を凍らせていく。    その、もう元の自分に戻れなくなる中、         「―――ふふ。自分じゃ決して死ねない、醜い人形にしてあげる。お兄ちゃんは今日から、キリツグの代わりになるの」    遠坂とセイバーが無事であるようにと、最後の理性で祈っていた。    俺は―――倒れている誰かを、見捨てる事はできない。  衛宮士郎はそういう生き方を選んだ筈だし、  なにより―――自分を守る為に戦ってくれたあの少女を、あんな姿にしておけない。 「いいわよバーサーカー。そいつ、再生するから一撃で仕留めなさい」  バーサーカーの活動が再開する。  俺は――――   「こ―――のぉおお…………!!」    全力で駆けだしていた。  あの怪物をどうにかできる筈がない。  だからせめて、倒れているセイバーを突き飛ばして、バーサーカーの一撃から助け―――― 「――――え?」    どたん、と倒れた。  なんで……?  俺はセイバーを突き飛ばして、バーサーカーからセイバーを引き離して、その後はその後で何か考えようって思ったのに、なんで。 「が――――は」    なんで、こんな。  地面に倒れて。息が、できなくなっているのか。 「!?」    ……驚く声が聞こえた。  まず、もう目の前にいるセイバー。  ついでに遠くで愕然としている遠坂。  それとなぜか、呆然と俺を見下ろしている、イリヤという少女から。 「……あ、れ」  胸から下の自分の身体が、ない。  地面に倒れている。  アスファルトに、傷のわりには少ない体液とか柔らかそうなあれとか乾いた枝みたいに細かく折れたコレとか痛そうだなオイまあそういったモノがこぼれている。   「……そうか。なんて、間抜け」    ようするに、間に合わなかったのだ。  だからそう―――突き飛ばすのは無理だから、そのまま盾になってみたのか。  そうしてあの鉈のお化けみたいな剣で、ごっそりと腹をもっていかれてしまった。 「――――こふっ」    ああもう、こんな時まで失敗するなんて呆れてしまう。  正義の味方になるんだって頑張ってきたけど、こういう大一番にかぎってドジばっかりだ。 「――――なんで?」    ぼんやりと、銀髪の少女が呟く。  少女はしばらく呆然とした後、   「……もういい。こんなの、つまんない」    セイバーにトドメをささず、バーサーカーを呼び戻した。 「―――リン。次に会ったら殺すから」  立ち去っていく少女。  それを見届けた後、視界が完全に失われた。    意識が途絶える。  今度ばかりは取り返しがつかない。  ランサーに殺された時は知らないうちに助かったが、仏の顔も三度までだ。  こんな、腹をごっそりなくした人間を助ける魔術なんてないだろう。           「……あ、あんた何考えてるのよ! わかってるの、もう助けるなんて出来ないっていうのに……!」    叱咤する声が聞こえた。  ……きっと遠坂だ。なんだか本気で怒っているようで、申し訳ない気がする。    でも仕方ないだろ。  俺は遠坂みたいに何でもできる訳じゃないし、自由に出来るのはこの体ぐらいなもんだ。    ……だから、そう。  こうやって体を張る事ぐらいしか、俺には、出来る事がなかったんだから――――      炎の中にいた。  崩れ落ちる家と焼けこげていく人たち。  走っても走っても風景はみな〈赤色〉《せきしょく》。  これは十年前の光景だ。  長く、思い出す事のなかった過去の記憶。  その中を、再現するように走った。      悪い夢だと知りながら出口はない。    走って走って、どこまでも走って。    行き着く先は結局、力尽きて助けられる、幼い頃の自分だった。 「――――――――」  嫌な気分のまま目が覚めた。  額に触れると、冬だと言うのにひどく汗をかいていた。 「……ああ、もうこんな時間か」  時計は六時を過ぎていた。  耳を澄ませば、台所からはトントンと包丁の音が聞こえてくる。 「桜、今朝も早いな」  感心している場合じゃない。  こっちもさっさと支度をして、朝食の手伝いをしなければ。 「士郎、今日どうするのよ。土曜日だから午後はアルバイト?」 「いや、バイトは入ってないよ。一成のところでなんかやってると思うけど、それがどうかしたか?」 「んー、べつに。暇だったら道場の方に遊びにきてくんないかなーって。わたし、今月ピンチなのだ」 「? ピンチって、何がさ」 「お財布事情がピンチなの。誰かがお弁当作ってくれると嬉しいんだけどなー」 「断る。自業自得だ、たまには一食ぐらい抜いたほうがいい」 「ふーんだ、士郎には期待してないもん。わたしが頼りにしてるのは桜ちゃんだけなんだから。ね、桜ちゃん?」 「はい。わたしと同じ物でよろしければ用意しておきますね、先生」 「うん、おっけーおっけー。じゃあ今日は一緒にお昼を食べましょう」  いつも通りに朝食は進んでいく。  今朝のメニューは定番の他、主菜でレンコンとこんにゃくのいり鶏が用意されていた。  朝っぱらからこんな手の込んだ物を作らなくとも、と思うのだが、きっと大量に作って昼の弁当に使うのだろう。  桜は弓道部員だし、藤ねえは弓道部の顧問だ。  二人が弁当で結ばれるのも至極当然の流れと言える。 「そう言えば士郎。今朝は遅かったけど、何かあった?」  みそ汁を飲みながらこっちに視線を向ける藤ねえ。  ……ったく。普段は抜けているクセに、こういう時だけ鋭いんだから。 「昔の夢を見た。寝覚めがすっげー悪かっただけで、あとはなんともない」 「なんだ、いつもの事か。なら安心かな」    とりわけ興味なさそうに会話を切る藤ねえ。  こっちもホントに気にしていないので、ムキになる話でもない。  十年前。  まだあの火事の記憶を忘れられない頃は、頻繁に夢にうなされていた。  それも月日が経つごとになくなって、今では夢を見てもさらりと流せるぐらいには立ち直れている。  ……ただ、当時はわりと酷かったらしく、その時からうちにいた藤ねえは、俺のそういった変化には敏感なのだ。 「士郎、食欲はある? 今朝にかぎってないとかない?」 「ない。なんともないんだから、人の夢にかこつけてメシを横取りするな」 「ちぇっ。士郎が強くなってくれて嬉しいけど、もちょっと繊細でいてくれたほうがいいな、お姉ちゃんは」 「そりゃこっちの台詞だ。もちっと可憐になってくれたほうがいいぞ、弟分としては」  ふん、とお互い視線を交わさないで罵りあう。  それが元気な証拠となって、藤ねえは安心したように笑った。 「――――ふん」  正直、その心遣いは嬉しい。  ま、感謝すると付け上がるので、いつも通り不満そうに鼻を鳴らす。 「??」  そんな俺たちを見て、事情を知らない桜が不思議そうに首をかしげていた。  藤ねえが家を出た後、俺たちも戸締まりをして家を出た。 「先輩。今日の夜から月曜日までお手伝いに来れませんけど、よろしいですか?」 「? 別にいいよ。だって土日だろ、桜だって付き合いがあるんだから、気にする事ないぞ」 「え―――そんな、違います……! そういうんじゃないです、本当に個人的な用事で、ちゃんと部活にだって出るんですから! だ、だからなにかあったら道場に来てくれればなんとかします!  別に土日だからって遊びに行くわけじゃないです、だから、あの……ヘンな勘違いはしないでもらえると、助かります」 「???」  桜は挙動不審というか、えらく緊張しているようだ。  理由は不明だが、とにかく土日は来られないという事だろう。 「判った。何かあったら道場に行くよ」 「はい、そうしてもらえれば嬉しいです」  ほう、と胸をなで下ろす桜。  そうして視線を下げた桜の顔が、一転して強ばった。 「先輩、手―――」 「?」  桜の視線の先にあるのは俺の左手だ。  見ると―――ぽたり、と赤い血が零れていた。 「あれ?」  学生服の裾をたくし上げる。  そこには確かに血が滲んでいた。 「なんだこれ。昨日の夜、ガラクタいじってて切ったかな」  にしては痛みがない。  傷だって、腕にミミズ腫れのような〈痣〉《あざ》があるだけだ。  痣は肩から手の甲まで一直線に伸びていて、小さな蛇が、肩口から手のひらを目指しているようにも見えた。 「ま、痛みもないしすぐに引くだろ。大丈夫、気にするほどじゃない」 「……はい。先輩がそう言うのでしたら、気にしません」  血を見て気分を悪くしたのか、桜はうつむいたまま黙ってしまった。  藤ねえが家を出た後、俺たちも戸締まりをして家を出た。 「……………………」 「桜? なんだよ、元気がないな。もしかしてまた体調が悪くなったのか?」 「え……? あ、いえ、体の調子はいいです。先輩の方こそ大事はありませんか? 今朝もどこか気分が悪そうでしたし、その、昨日の傷も悪化してるかもしれません」  昨日の傷……?  ああ、左手の〈痣〉《あざ》の事か。 「いや、痣はあれっきりだけどな。ただの腫れだからしばらくすれば治るだろ」 「………………」  何が心配なのか、桜はじっとこっちを見つめてくる。 「あー……いや、ほんとに大丈夫だって。たいした事ないぞ、ほんと」 「……………………」 「なんだよ、昨日からおかしいぞ桜。こんなのただの痣だろ。それとも何か、俺が寝てる間に桜が踏んづけて出来た痣だとか?」 「せ先輩っ、わたしそんなに重くありませんっ! わたしはただ、その」 「ただ、その?」 「…………その。間違いだったら、いいって」 「???」  桜の言動はどうも判り辛い。  桜は無口だけど、言うべき事ははっきりと言う子だ。  こんなふうに、奥歯に物が挟まったような口調じゃないんだけど。 「……先輩。お願いがあるんですけど、いいですか」 「うん? ああ、出来る範囲でなら聞くけど、なんだ」 「……はい。わたし、明日の夜までお手伝いに来られないんです。その間、出来るだけ家の中にいて貰えませんか?」 「……? それ、日曜のバイトは休めって事か?」 「はい。出来る限り家にいてほしいんです。あの、わたしも用事が終わればお手伝いに来ますから」 「ふーん……まあ、一日ぐらい休んでもいいか。  よし、んじゃ休日は家でのんびりしてる。それでいいか、桜」 「はい。そうしてもらえると助かります」  たまにはぼんやり休日を過ごすのもいい。  ここ最近バイトづけで生活費にも余裕があるし、今週の土日はたまったガラクタを片付けてしまおう。  こんにちはー! みんな元気にしてるかな? ゲームは一日一時間、さくっと死亡した君に体罰直撃、悩みを即時解決するお助けコーナー・タイガー道場でーす! さて。早速だが本編の雰囲気ぶち壊しのこのコーナーの趣旨を問いたいと思う!  答えよ、弟子一号! 押忍! この道場は、にぶちんでばかちんなシロウを救う舞台裏で、いうなれば『Fate』を支える大黒柱でありまーす! いわば『Fate』本編そのものと言ってもカゴンではないのではないでしょーかー! マーベェラス! ベラボー! おおベラボー! はい、よく出来ました。みんなも薄々感づいてると思うけど、この道場こそが『Fate』の肝なのよ? みんな、本編でおっきな顔してる偽ヒロインたちに騙されないよう、少しでも危なげな選択肢が出てきたら迷わずそっちを選んでねー。 さて。今回の士郎は…… あっちゃー、ぺっちゃんこで小さくなっちゃったかー。  こんなコトするのはよっぽど残酷な人でなしなんだろうなー。そこんとこどうなのよ、弟子。 問題ありませーん! これはぁ、愛情の裏返しによるキュートでポップなジェノサイドなのだー! 不許可! あいたたた……ま、間違えました、これは、うだつのあがらないお兄ちゃんが、あるヒロインのご機嫌を損ねちゃった結末です。 その通り。いわば士道不覚悟、背中を見せたら切腹よ。 今後、このような後ろ向きな選択はじゃんじゃん選びなさい。死ねるから。 でもまあ、ここは名目上Q&Aコーナーなので、一応悩みに答えておきましょう。  弟子一号、今回の対策は? 押忍、選択肢に戻って違う方を選べばいいのでありますっ。 はい、よくできました。  今回のような突発死はいたるところに仕掛けられてるから、選択肢でのセーブは基本よ?  それじゃあ今回はここまで! 次の稽古で君を待つ! はーい、まったねー!   ずるずると音がする。  それが鳴き声なのか、粘体を引きずる音なのか、爛れていく音なのか、判別する事は難しい。  音は、その全てだった。  ここには腐蝕するモノしかない。  石壁は朽ちた大木のように脆く、  空気は蜜のように甘い。  地に這う生き物は熟れた果実さながらに溶ろけており、流れる時間さえ、ここでは重ねる意味もなく腐っていた。    長い年月をかけて磨耗しきった空間。  ある血脈の執念の果て、地上に〈弔〉《とむら》われる事のなかったモノたちの墓標が、この闇だった。             「――――七人、揃ったようだな」    その闇の中心に、一際巨大な腐蝕が蠢いていた。  虫の声と不快な臭い。  地下室の主は生きながらに崩れ落ち、この世ならざる虫に〈集〉《たか》られている。  じぶじぶと足元から這い上がる虫は〈踝〉《くるぶし》から皮膚に吸いつき吸盤じみた〈吻〉《ふん》で肉壁を食いすすみ骨にたどり着くや〈神経〉《なか》に潜り、なおじぶじぶと這い上がっていく。    這い寄る虫の数は百や二百ではない。  この黒い絨毯に〈集〉《たか》られたのなら、生物など分を待たず崩れ落ちるだろう。  肉体の外見は手付かずのまま、その中身という中身を“〈蟲〉《むし》”にとって代わられる。             「足りぬ。この蟲どもも、じき替え時か」    だというのに、ソレは崩れ落ちる事などなかった。  否、むしろ蟲が〈踝〉《くるぶし》から体内に侵入するたびに、ソレの身体は出来上がっていく。  ――――ソレは蟲に食われているのではない。  この、〈夥〉《おびただ》しいまでに地下室に生息する蟲こそが、ソレに食われるだけのモノだった。  貯蔵量にしておよそ百年分。  ソレが蟲を食うモノだとするのなら、それだけの余命が、すでに約束されている事になる。             「まだ先はある。〈此度〉《こたび》が最後という訳でもない。万全でなければ静観に徹するべきなのだが」    さて、とソレは口元を歪める。  今回の“場”は万全と言えるものではない。  前回の戦いから十年足らずで開こうとする孔。  監督役である神父は二体のサーヴァントを有し、柳洞寺に根を張るサーヴァントは自らサーヴァントを召喚した。  条件は良くはない。  このような不安定な戦いで満ちる杯など完全には程遠い。  門は開けようが、中にあるモノにまで手は届くまい――――             「ならば静観するべきなのだが。困った事に持ち駒だけは適しておる」    聖杯を奪い合う場としての条件は最悪である。  だが一点――――今まで手をかけて作り上げた“モノ”の仕上がりだけは万全だった。  〈開放〉《だ》せば到達する。  手順さえ間違えなければ必ずや聖杯に手が届くだろう。  なにしろ聖杯の中身を植え付けられたモノだ。  十年間、神経の至るところまで聖杯の欠片に侵食された細胞具である。  ならば元が同じモノ同士、引き合うのは当然だろう。             「……ふん。ワシには次があるが、アレはそう長く保つまい。胎盤として貰いうけたものだが、よもやあれほどの出来になろうとはの」    実験として用意したモノは、ほぼ完全と言えるまで適合している。  このまま使い捨てる予定だったが、使えるのならば使うべきだ。  どちらにせよ廃棄する予定だったもの。  戦いに敗れ破壊されようが不能になろうが、棄てるという結末には違いない。             「――――となると、問題は一つ。      アレを、どうやってその気にさせてやるかだが」    用意した“適合作”は、あろうことか戦いを嫌っている。  自由意志を奪えばいいだけの話だが、存外に“適合作”の精神防壁は強固だった。  ……まあ、優れた魔術回路を持つ胎盤を望んだのだ。  ならば、自我を侵そうとする毒に強いのは道理と言える。  従順な人形を取るか、優れた弟子を取るか。  後者を良しとした以上、洗脳は諦めねばならぬ。             「――――一度でよい。僅かな隙間さえ開けば、後は自ら聖杯を求めるのであろうが、さて」    その隙間を開ける事が困難だった。  アレは他者からの強制で崩れる精神ではない。  そのように壊れるものなら、十一年前にとうに砕け散っている。  アレは反撃する刃を持たぬだけの、この世で最も堅固な要塞だ。  ならば、壊れるのならば〈内側〉《おのれ》から。  自身の昏い感情こそが、アレを変貌させる鍵となろう。             「――――来たか。さて、では隙間を作ってやるとするか」    暗闇に足音が落ちてくる。  現れた何者かは、腐敗の中心である蟲へと歩み寄り、  “マスターは、全員殺さなくてはならないのか”   などと、予想通りの問いかけをした。             「――――――――」    無論、そのような事は返答するまでもない。  マスターは全員殺す。  サーヴァントは全て奪う。  それがこの地下室に渦巻く執念だ。  だが、それを押し殺して             「おまえがそう言うのであれば仕方あるまい。では、今回も傍観に徹しよう」    ソレは言った。  安堵の声と、弛緩する空気。  もはや戦いの意思などない、とソレは優しく笑みを浮かべたあと。             「しかし、そうなると少しばかり癪だのう。今回の依り代の中では、〈遠坂〉《きゃつ》の娘は中々に良く出来ておる。勝者が出るとすれば、おそらくはあやつであろう」    そう、残念そうに囁いた。   “――――――――”   ……緩んだ空気が戻る。  僅かな変化――――見逃してしまうほどの小さな負の感情が地下室に灯る。  戦いを嫌ったモノは、その一言で天秤を揺らしてしまった。  揺れてしまえば出来てしまう。  僅かな軋み。  本人さえ気がつかない、開けてはならない筈の隙間。             「――――ク」    ソレが笑う。  蟲に集られ、今もなお朽ちゆくソレは、人の形を保ったままクツクツと笑っていた。 「あ…………つ」  呆然と目が覚めた。  のど元には吐き気。体はところどころがズキズキと痛んで、心臓が鼓動する度に、刺すような頭痛がする。 「何が――――起きた?」    頭痛が激しくて思い出せない。  長いこと廊下で眠っていたせいか、震えがくるほど体は冷え切っている。  唯一確かな事は、胸の破れた制服と、べったりと廊下に染みついた自分の血だけ。 「…………っ」    朦朧とする頭を抱えて立ち上がった。  自分が倒れていた場所は、殺人現場のように酷い有様だ。 「……くそ、ほんとに……」    ――――この胸を、貫かれたのか。 「……はぁ……はぁ……ぐ……」    こみ上げてくる物を堪えながら、手近な教室に入る。  おぼつかない足取りのままロッカーを開けて、雑巾とバケツを取り出した。 「……あれ……なにしてんだろ、俺……」    まだ頭が混乱してる。  とんでもないモノに出会って、いきなり殺されたっていうのに、なんだってこんな時まで、後片づけをしなくちゃいけないんだ、馬鹿。 「……はぁ……はぁ……くそ、落ちない……」    ……雑巾で床を拭く。  手足に力が入らないまま、なんとかこびりついた血を拭き取って、床に落ちていたゴミを拾い集めてポケットに入れた。  ……証拠隠滅、というヤツかもしれない。  朦朧とした頭だからこそ、そんなバカな事をしたのだろう。 「……あ……はぁ……はぁ……はぁ……」    雑巾とバケツを片づけて、ゾンビのような足取りで学校を後にした。  ……歩く度に体の熱が上がる。  外はこんなにも冷たいのに、自分の体だけ、燃えているようだった。  ……家に帰る頃には、とうに日付が変わっていた。  屋敷には誰もいない。  桜はもとより、藤ねえもとっくに帰った後だ。 「……あ……はあ、はあ、は―――あ」  どすん、と床に腰を下ろした。  そのまま床に寝転がって、ようやく気持ちが落ち着いてくれた。 「……………………」  深く息を吸い込む。  大きく胸を膨らますと、〈罅〉《ひび》が入るかのように心臓が痛んだ。  ……いや、それは逆だ。  実際ひび割れていたどころじゃない。  穴の開いていた心臓が塞がれて、治ったばかりだから、膨張させると傷が開きかけるのだ。 「……殺されかけたのは本当か」  それも違う。  殺されかけたのではなく、殺された。  それがこうして生きているのは、誰かが助けてくれたからだ。 「……誰だったんだ、アレ。礼ぐらい言わせてほしいもんだけど」  あの場に居合わせた、という事はアイツらの関係者かもしれない。  それでも助けてくれた事に変わりはない。いつか、ちゃんと礼を言わなくては。 「あ……ぐ……!」  気を抜いた途端、痛みが戻ってきた。  同時にせり上がってくる嘔吐感。 「あ……は、ぐっ……!」  体を起こして、なんとか吐き気を堪える。 「っ……ふ、っ……」  制服の破れた箇所、むき出しになっている胸に手を触れた。  助けられたとはいえ、胸に穴が開いたのだ。  あの感覚。  あんな、包丁みたいな槍の穂先がずっぷりと胸に刺さった不快感は、ちょっとやそっとじゃ忘れられない。 「……くそ。しばらく夢に見るぞ、これ」    目を瞑れば、まだ胸に槍が刺さっている気がする。  そんな錯覚を振り払って、ともかく冷静になろうと努めた。 「……よし。落ち着いてきた」  毎晩の鍛錬の賜物。  深呼吸を数回するだけで思考はクリアになり、体の熱も嘔吐感も下がっていく。 「それで、アレの事だけど」    青い男と赤い男。  見た目は人間だったが、アレは人ではないと思う。  幽霊の類だろうか。  だが実体を持ち、生きている人間に直接干渉できる幽霊なんて聞いたことがない。  しかもアレは喋っていた。自分の意志もあるって事は、ますます幽霊とは思いにくい。  ……それに肉を持つ霊は精霊の類だけと聞くが、精霊っていうのは人の形をしていないんじゃなかったっけ……? 「……いや。問題はそんなじゃなくて」    他に、もっと根本的な問題がある筈だ。          ……殺し合いをしていた二人。  ……近所の家に押し入ったという強盗殺人。  ……何かと不吉な事件が続く冬木の町。 「………………」  それだけ考えて、判ったのは自分の手には負えない、という事だけだ。 「……こんな時、親父が生きてれば」    胸の傷があまりに生々しかったからか、口にするべきじゃない弱音を吐いていた。 「―――間抜け。判らなくても、自分に出来る事をやるって決めてるじゃないか」    弱音を吐くのはその後だ。  まずは、そう―――関わるのか関わらないのか、その選択をしなくては―――   「――――!?」  屋敷の天井につけられていた鐘が鳴る。  ここは腐っても魔術師の家だ。  敷地に見知らぬ人間が入ってくれば警鐘が鳴る、ぐらいの結界は張ってある。 「こんな時に泥棒か――――」    呟いて、自らの愚かさに舌を打つ。  そんな筈はない。  このタイミング、あの異常な出来事の後で、そんな筈はない。  侵入者は確かにいる。  それは泥棒なんかじゃなく、物ではなく命を奪りにきた暗殺者だ。  だって、あの男は言っていたじゃないか。    『見られたからには殺すだけだ』、と。 「―――――」  屋敷は静まりかえっている。  物音一つしない闇の中、確かに―――あの校庭で感じた殺気が、少しずつ近づいてくる。 「――――っ」  ごくり、と喉が鳴った。  背中には針のような悪寒。  幻でもなんでもなく、この部屋から出れば、即座に串刺しにされる。 「っ――――」  漏れだしそうな悲鳴を懸命に抑えた。  そんな物をこぼした瞬間、暗殺者は歓喜のていで俺を殺しに飛び込んでくるだろう。  ……そうなれば、あとは先ほどの繰り返しだ。  何の準備もできていない自分は、またあの槍に貫かれる。 「――――ぁ――――はぁ、ぁ――――」    そう思った途端、呼吸が無様に乱れ出した。  頭にくる。  恐怖を感じている自分と、助けてもらった命を簡単に放棄しようとしている自分が、情けない。 「っ――――く」    歯をかみ合わせ、貫かれた胸を掻きむしって、つまらない自分を抑えつける。  いい加減、慣れるべきだ。  これで二度目。  殺されようとしているのはこれで二度目。  それだけでもさっきのような無様は見せられないっていうのに、衛宮士郎は魔術師ではないのか。  なら、こんな時に自分さえ守れなくて、この八年何を学んできたという―――! 「……いいぜ。やってやろうじゃないか」    難しい事を悩むのは止めだ。  今はただ、来たヤツを叩き出すだけ。 「……まずは、武器をどうにかしないと」    魔術師といっても、俺に出来る事は武器になりそうな物を“強化”する事だけだ。  戦うには武器がいる。  土蔵なら武器になりそうな物は山ほどあるが、ここから土蔵までは遠い。  このまま居間を出た時に襲われるとしたら、丸腰ではさっきの繰り返しになる。  ……難しいが、武器はここで調達しなければならない。  出来れば細長い棒状の物が望ましい。相手の得物は槍だ。ナイフや包丁では話にならない。  木刀なんてものがあれば言うことはないのだが、そんなものは当然ない。  この居間で武器になりそうな物と言えば――――   「うわ……藤ねえが置いてったポスターしかねえ……」    がくり、と肩の力が抜ける。  が、この絶対的にどうしようもない状況に、むしろ腹が据わった。  ここまで最悪の状況なら、これ以下に落ちる事はない。  なら―――後はもう、力尽きるまで前進するだけだ。 「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    自己を作り替える暗示の言葉とともに、長さ六十センチ程度のポスターに魔力を通す。  あの槍をどうにかしようというモノに仕上げるのだから、ポスター全てに魔力を通し、固定化させなければ武器としては使えないだろう。 「――――構成材質、解明」    意識を細く。  皮膚ごしに、自らの血をポスターに染み込ませていくように、魔力という触覚を浸透させる。 「――――構成材質、補強」    こん、と底に当たる感触。  ポスターの隅々まで魔力が行き渡り、溢れる直前、   「――――〈全〉《トレース》工程、〈完了〉《オフ》」    ザン、とポスターと自身の接触を断ち、成功の感触に身震いした。  ポスターの硬度は、今では鉄並になっている。  それでいて軽さは元のままで、急造の剣としては文句なしの出来栄えだ。 「巧く、いった―――」    強化の魔術が成功したのは何年ぶりだろう。  切嗣が亡くなってから一度も形にならなかった魔術が、こんな状況で巧くいくとは皮肉な話だ。 「ともあれ、これで――――」    なんとかなるかもしれない。  剣を扱う事なら、こっちだってそれなりに心得はある。  両手でポスターを握り締め、居間のただ中に立った。  どのみちここに留まっても殺されるし、屋敷から出たところで逃げきれるとも思えない。  なら、あとは一直線に土蔵に向かって、もっと強い武器を作るだけだ―――― 「――――――ふう」    来るなら来やがれ、さっきのようにはいくもんか、と身構えた瞬間。   「―――――――!」    ぞくん、と背筋が総毛立った。  何時の間にやってきていたのか。  天井から現れたソレは、一直線に俺へと落下した。 「な………え――――?」  頭上から滑り落ちてくる銀光。  天井から透けて来たとしか思えないソイツは、脳天から俺を串刺しにせんと降下し―――   「こ――――のぉ……!!」    ただ夢中で、転がるように前へと身を躱した。  たん、という軽い着地音と、ごろごろとだらしなく転がる自分。  それもすぐさま止めて、急造の剣を持ったまま立ち上がる。 「――――」  ソイツは退屈そうな素振りで、ゆらりと俺へと振り返る。 「……余計な手間を。見えていれば痛かろうと、オレなりの配慮だったのだがな」  ソイツは気だるそうに槍を持ちかえる。 「――――」  どういう事情かは知らないが、今のアイツには校庭にいた時ほどの覇気がない。  それなら、本当に―――このまま、なんとか出し抜く事ができる……! 「……まったく、一日に同じ人間を二度殺すハメになるとはな。いつになろうと、人の世は血生臭いという事か」  男はこちらの事など眼中にない、という素振りで悪態をついている。 「――――」  じり、と少しずつ後ろに下がる。  窓まであと三メートルほど。  そこまで走り、庭に出てしまえば土蔵まで二十メートルあるかないかだ。  それなら、今すぐにでも―――― 「じゃあな。今度こそ迷うなよ、坊主」  ぼんやりと。  ため息をつくように、男は言った。 「っぁ――――!?」  右腕に痛みが走る。 「……?」  それは一瞬の出来事だった。  あまりに無造作に、反応する間もなく男の槍が突き出された。  ……本来なら、それで俺は二度目の死を迎えていただろう。  それを阻んだのは、身構えていた急造の剣である。  アイツはただの紙だとでも思ったのだろう。  ポスターなど無いかのように突き出された槍は、その紙の剣に弾かれ、こちらの右腕を掠めるに留まったのだ。 「……ほう。変わった芸風だな、おい」    男の顔から表情が消えた。  先ほどまでの油断は微塵と消え、獣じみた眼光で、こちらの動きを観察している。 「ぁ――――」  しくじった。なんとかなる、なんて度し難い慢心だった。    ―――今目の前にいるのは、常識から外れた悪鬼だ。    そいつを前にして少しでも気を緩ませた自分の愚かさを痛感する。  ……そう。  本当に死に物狂いだったのなら、頭上からの一撃を奇跡的にやりすごせた後、脇目も振らずに窓へ走っておくべきだったのだ……! 「ただの坊主かと思ったが、なるほど……微弱だが魔力を感じる。心臓を穿たれて生きている、ってのはそういう事か」  槍の穂先がこちらに向けられる。 「――――――――」  防げない。  あんな、閃光めいた一撃は防げない。  この男の得物がせめて剣なら、どんなに速くても身構える程度はできただろう。  だがアレは槍だ。  軌跡が線である剣と、点である槍。  初動さえ見切れない点の一撃を、どう防げというのか。 「いいぜ―――少しは楽しめそうじゃないか」  男の体が沈み込む。  刹那――――    正面からではなく、横殴りに槍が振るわれた。  顔の側面へと振るわれた槍を、条件反射だけで受け止める。 「ぐっ――――!?」 「いい子だ、ほら次行くぞ……!」  ブン、という旋風。  この狭い室内でどんな扱いをしているのか、槍は壁につかえる事もなく美しい弧を描き、   「っ……!!!!!」    今度は逆側から、フルスイングでこちらの胴を払いに来る……! 「がっ――――!!!??」  止めに入った急造の剣が折れ曲がる。  化け物―――アイツが持ってんのはハンマーか!  くそ、構えていた両腕の骨がひしゃげたんじゃないのかこの痺れ―――! 「ぐ、この――――!」 「ふん?」  反射的に剣を振るう。  こちらを舐めているのだろう、未だ戻しに入っていない槍の〈柄〉《え》を剣で弾きあげる―――! 「ぐっ……!」  叩きにいった両腕が痺れる。  急造の剣はますます折れ曲がり、男の槍はわずかだけ軌道を逸らした。 「……使えねえな。機会をくれてやったのに無駄な真似しやがって。まあ、魔術師に斬り合いを望んでも仕方ねえんだろうが―――」  男の今の行動はただの遊びだ。  二つ受けたらご褒美に打ち込んでこさせてやる、という余裕。  ……その唯一にして絶対の機会を、俺はその場しのぎに使ってしまった。    故に―――この男は、俺に斬り合うだけの価値を見いださない。 「―――拍子抜けだ。やはりすぐに死ねよ、坊主」    男は打ち上げられた槍を構え直す。   「勝手に――――」    その、あるかないかの余分な〈動作〉《スキ》に。   「言ってろ間抜け――――!」  後ろも見ず、背中から窓へと跳び退いた。 「はっ、はぁ、は――――」  背中で窓をブチ割って庭へと転がり出る。  そのまま、数回転がった後、立ち上がりざま――――   「は、あ――――!」    何の確証もなく、  体ごとひねって背後へと一撃する―――! 「ぬ――――!」  突きだした槍を弾かれ、わずかに躊躇する男。  ―――予想通りだ。  窓から飛び出せば、アイツは必ず追撃してくる。  それもこっちが起きあがる前に追いついて、確実に殺しにかかる。  だからこそ―――必殺の一撃がくると信じて、満身の力で剣を横に払った。  少しでも遅ければ即死、早くても空振りした隙に殺されかねない無謀な策だが、ヤツとの実力差を見てこちらが早すぎる、なんて事はない。  だからこっちがする事は、全身全霊の力で一刻も早く起き上がり、背後へと一撃する事だけだったのだ。  結果はドンピシャ、賭けそのものだった一撃は見事に男の槍をはじき返した……! 「は、っ……!」  即座に体勢を立て直す。  あとは男が怯んでいる隙に、なんとか土蔵まで走り抜ければ―――! 「――――飛べ」 「え……?」  槍を弾かれた筈の男は、槍など持たず、空手のまま俺へと肉薄し、    くるりと背中を向けて、回し蹴りを放ってきた。 「――――――――」  景色が流れていく。  蹴り上げられた胸が痺れ、呼吸ができない。  いや、それより驚くべき事は、自分が空を飛んでいるという事だ。  ただの回し蹴りで、自分の体がボールみたいに蹴り飛ばされるなんて、夢にも思―――― 「ぐっ――――!」  背中から地面に落ちた。  壁にぶつかり、背中が折れる程の衝撃を受けて、ずるりと地面に落ちたのだ。 「ごほ――――っ、あ…………!」  息ができない。  視界が霞む。  壁―――目的地だった土蔵の壁に手をついて、なんとか体を奮い立たせる。 「は――――はあ、は」  霞む視界で男を追った。  ……本当に、二十メートル近く蹴り飛ばされたのか。  男は槍を持ち直して、一直線に突進してくる。 「ぐ――――!」  殺される。  間違いなく殺される。  男はすぐさまやってくるだろう。  それまで―――死にたくないのなら、立ち上がって、迎え撃た、なけれ、ば―――― 「――――」  〈迸〉《ほとばし》る槍の穂先。  男に振り返る事もできず、崩れ落ちそうだった体が槍を迎える。 「チィ、男だったらシャンと立ってろ……!」  なんて悪運。  体を支えきれず、膝を折ったのが幸いした。  槍は俺の頭上、土蔵の扉を強打し、重い扉を弾き開けた。 「あ――――」  だから、それが最後のチャンス。  土蔵の中に入れば、何か―――武器になるようなもの、が。 「ぐっ――――!」  四つん這いになって土蔵へ滑り込む。  そこへ――――   「そら、これで終いだ―――!」    避けようのない、必殺の槍が放たれた。 「こ――――のぉぉおおおおお!」  それを防いだ。  棒状だったポスターを広げ、一度きりの盾にする。 「ぬ……!?」  ゴン、という衝撃。  広げきったポスターでは強度もままならなかったのか。  槍こそ防いだが、ポスターは貫通され、途端に元の紙へと戻っていく。 「あ、ぐっ……!」  突き出された槍の衝撃に吹き飛ばされ、壁まで弾き飛ばされる。 「ぁ――――、づ――――」  床に尻餅をついて、止まりそうな心臓に喝を入れる。  そうして、武器になりそうな物を掴もうと顔を上げた時。   「詰めだ。今のはわりと驚かされたぜ、坊主」    目前には、槍を突きだした男の姿があった。 「―――――――――――」  もはや、この先などない。  男の槍はぴったりと心臓に向けられている。  それは知ってる。  つい数時間前に味わった痛み、容赦なく押しつけられた死の匂いだ。 「……しかし、分からねえな。機転は利くくせに魔術はからっきしときた。筋はいいようだが、まだ若すぎたか」  ……男の声は聞こえない。  意識はただ、目の前の凶器に収束してしまっている。  当然だ。  だって、アレが突き出されれば自分は死ぬ。  〈事此処〉《ことここ》にいたり、今更他の何が考えられる。 「もしやとは思うが、おまえが七人目だったのかもな。  ま、だとしてもこれで終わりなんだが」  男の腕が動いた。  今まで一度も見えなかった動きが、今はスローモーションのように見える。  走る銀光。  俺の心臓に吸い込まれるように進む穂先。  一秒後には血が出るだろう。  それを知っている。  体に埋まる鉄の感触も、  喉にせり上がってくる血の味も、  世界が消えていく感覚も、  つい先ほど味わった。  ……それをもう一度? 本当に?  理解できない。なんでそんな目に遭わなくてはいけないのか。  ……ふざけてる。  そんなのは認められない。こんな所で意味もなく死ぬ訳にはいかない。  助けて貰ったのだ。なら、助けてもらったからには簡単には死ねない。  俺は生きて義務を果たさなければいけないのに、死んでは義務が果たせない。  それでも、槍が胸に刺さる。  穂先は肉を裂き、そのまま〈肋〉《あばら》を破り心臓を穿つだろう。 「――――」  頭にきた。  そんな簡単に人を殺すなんてふざけてる。  そんな簡単に俺が死ぬなんてふざけてる。  一日に二度も殺されるなんて、そんなバカな話もふざけてる。  ああもう、本当に何もかもふざけていて、大人しく怯えてさえいられず、   「ふざけるな、俺は――――」    こんなところで意味もなく、  おまえみたいなヤツに、  殺されてやるものか――――!!!!!! 「え―――――?」    それは、本当に。   「なに………!?」    魔法のように、現れた。  目映い光の中、それは、俺の背後から現れた。    思考が停止している。  現れたそれが、少女の姿をしている事しか判らない。  ぎいいいん、という音。  それは現れるなり、俺の胸を貫こうとした槍を打ち弾き、躊躇う事なく男へと踏み込んだ。   「―――本気か、七人目のサーヴァントだと……!?」    弾かれた槍を構える男と、手にした“何か”を一閃する少女。  二度火花が散った。  剛剣一閃。  現れた少女の一撃を受けて、たたらをふむ槍の男。 「く――――!」  不利と悟ったのか、男は獣のような俊敏さで土蔵の外へ飛び出し―――  退避する男を体で威嚇しながら、それは静かに、こちらへ振り返った。  風の強い日だ。  雲が流れ、わずかな時間だけ月が出ていた。  土蔵に差し込む銀色の月光が、騎士の姿をした少女を照らしあげる。 「――――」  声が出ない。  突然の出来事に混乱していた訳でもない。  ただ、目前の少女の姿があまりにも綺麗すぎて、言葉を失った。 「――――――――」  少女は宝石のような瞳で、何の感情もなく俺を見据えた後。   「―――問おう。貴方が、私のマスターか」    凛とした声で、そう言った。 「え……マス……ター……?」  問われた言葉を口にするだけ。  彼女が何を言っているのか、何者なのかも判らない。  今の自分に判る事と言えば―――この小さな、華奢な体をした少女も、外の男と同じ存在という事だけ。 「……………………」  少女は何も言わず、静かに俺を見つめてくる。    ―――その姿を、なんと言えばいいのか。    この状況、外ではあの男が隙あらば襲いかかってくる状況を忘れてしまうほど、目の前の相手は特別だった。  自分だけ時間が止まったかのよう。  先ほどまで体を占めていた死の恐怖はどこぞに消え、今はただ、目前の少女だけが視界にある――― 「サーヴァント・セイバー、召喚に従い参上した。  マスター、指示を」    二度目の声。  その、マスターという言葉と、セイバーという響きを耳にした瞬間、 「――――っ」  左手に痛みが走った。  熱い、焼きごてを押されたような、そんな痛み。  思わず左手の甲を押さえつける。  それが合図だったのか、少女は静かに、可憐な顔を頷かせた。         「―――これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。  ――――ここに、契約は完了した」 「な、契約って、なんの――――!?」  俺だって魔術師の端くれだ。その言葉がどんな物かは理解できる。  だが少女は俺の問いになど答えず、頷いた時と同じ優雅さで顔を背けた。            ――――向いた先は外への扉。      その奥には、未だ槍を構えた男の姿がある。  たやすく赤い男を斬り伏せた。  トドメとばかりに腕を振り上げるセイバー。  が、赤い男は首を落とされる前、強力な魔術の発動と共に消失した。  セイバーは止まらない。  そのまま、男の奥にいた相手へと疾走し、  そして―――敵が放った大魔術を、事もなげに消滅させた。 「な――――」  強いとは知っていたが、圧倒的すぎる。  今の魔術は、俺なんかじゃ足下にも及ばないほどの干渉魔術だ。  威力だけなら〈切嗣〉《オヤジ》だって負けてはいないが、あれだけの自然干渉をノータイムで行うなど、一流の魔術師でも可能かどうか。  だが、そんな達人クラスの魔術でさえ、セイバーはあっけなく無効化させた。  敵は魔術師なのか、それで勝負はついた。  魔術師の攻撃はセイバーには通用せず、セイバーは容赦なく魔術師に襲いかかる。  どん、と尻餅をつく音。  奇跡的にセイバーの一撃を躱したものの、敵はそれで動けなくなった。  セイバーは敵を追いつめ、その視えない剣を突きつける。 「――――」  意識が凍る。  一瞬、月が出てくれたからだろう。  セイバーが追いつめている相手が人間なのだと見てとれた。  それが誰であるかまでは判らないが、人を殺して返り血を浴びているセイバーの姿だけが、〈咄嗟〉《とっさ》に脳裏に描かれた。 「――――」  セイバーの体が動く。  その手にした“何か”で、相手の喉を貫こうと―――   「止めろセイバーーーーーーーー!!!!!!」    精一杯、力の限り叫んだ。  ピタリと止まる剣。  ……視えないという事は、精神的に良かったのかもしれない。  彼女の視えない剣の切っ先は、未だ相手の血で濡れてはいなかった。 「……止めろ。頼むから止めてくれ、セイバー」    セイバーを睨みつけながら言った。  彼女を止めるのなら全力で挑まなければ止められまい、と覚悟して。 「何故止めるのですシロウ。彼女はアーチャーのマスターです。ここで仕留めておかなければ」    違う、セイバーはやっぱり止める気なんてない。  俺が言っているから止めているだけで、すぐにでも剣を振るおうとしている……! 「だ、だから待てって……! 人のことをマスターだとか言ってるけど、こっちはてんで解らないんだ。俺をそんな風に呼ぶんなら、少しは説明するのが筋ってもんだろう……!」 「………」  セイバーは答えない。  静かに俺を見据えて佇むだけだ。 「順番が違うだろ、セイバー。俺はまだおまえがなんなのか知らない。けど話してくれるなら聞くから、そんな事は止めてくれ」 「…………」  セイバーは黙っている。  倒れ込んだ相手に剣を突きつけたまま、納得いかなげに俺を見据える。 「そんな事、とはどのような事か。  貴方は無闇に人を傷つけるな、などという理想論をあげるのですか」 「え……?」  無闇に人を傷つけるなって……?  いや、そりゃあ出来るかぎり争いは避けるべきだけど、襲ってきた相手に情を移すほどお人好しじゃないぞ、俺。 「つまり貴方は、敵であれ命を絶つなと言いたいのでしょう? そのような言葉には従いません。敵は倒すものです。それでも止めろと言うのであれば、令呪を以って私を律しなさい」 「? いや、そんな事っていうのはおまえの事だ。女の子が剣なんて振り回すもんじゃない。怪我をしてるなら尚更だろ。  ……って、そっか、ホントに剣を持ってるかどうかは判らないんだっけ―――ああいや、とにかくそういうのはダメだっ!」 「――――――――」  途端。毒気を抜かれたように、ぽかんとセイバーは口を開けた。  そんな状態のまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。   「………で? 何時になったら剣を下げてくれるのかしらね、セイバーさんは」    不意に、尻餅をついていた誰かが言った。 「――――!」  とっさに剣に力を込めるセイバー。 「諦めなさい。敵を前にして下げる剣は有りません」 「貴女のマスターは下げろって言っているのに?  へえ、セイバーともあろうサーヴァントが主に逆らうっていうんだ」 「――――――――」  ぎり、と歯を噛んだ後。  セイバーは剣を下げ、手の平から力を抜いた。  それで剣は仕舞われたのか、セイバーから殺気が消える。 「そ。なら立ってもいいのよね、わたし」  尻餅をついていた誰かが立ち上がる。  ぱんぱん、とお尻を叩いているあたり、なんていうかふてぶてしい。  ……って、ちょっと、待て。  あーあ、とばかりにふてくされているのは、その、間違いなく――― 「お、おまえ遠坂……!?」 「ええ。こんばんは、衛宮くん」  にっこり、と極上の笑みで返してくる遠坂凛。 「あ――――う?」  それは、参った。  そんな何気なく挨拶をされたら、今までの異常な出来事が嘘みたいな気がして、何が何やら分からなくなる―― 「ああ、いや、だから、さっきの魔術は遠坂が使ったって事だから、つまり――――」 「魔術師って事でしょ? ま、お互い似たようなもんだし隠す必要もないわよね」 「ぐ――――」  だから、そうもはっきり言われると訊いてるこっちが間抜けみたいじゃないか――― 「いいから話は中でしましょ。どうせ何も解ってないんでしょ、衛宮くんは」  さらりと言って、遠坂はずんずん門へと歩いていく。 「え―――待て遠坂、なに考えてんだおまえ……!」  と―――  振り向いた遠坂の顔は、さっきまでの笑顔とは別物だった。 「バカね、いろいろ考えてるわよ。だから話をしようって言ってるんじゃない。  衛宮くん、突然の事態に驚くのもいいけど、素直に認めないと命取りって時もあるのよ。ちなみに今がその時だとわかって?」  じろり、と敵意を込めて睨まれる。 「――――っ」 「分かればよろしい。それじゃ行こっか、衛宮くんのおうちにね」  遠坂は衛宮の門をくぐっていく。 「……なんかすげえ怒ってるぞ、あいつ……」  いや、考えてみれば当然だ。  なにしろついさっきまで剣を突きつけられ、命を奪われるところだったんだから。 「いや、それにしたって」  なんか、学校の遠坂とはイメージが百八十度違うのは気のせいなんだろうか……。  で、なんでか不思議な状況になってしまった。  目の前にはずんずんと歩いていく学校のアイドル、一応憧れていた遠坂凛がいて、  背後には無言で付いてくる金髪の少女、自らをサーヴァントと名乗るセイバーがいる。 「………………」  あ。  なんか、廊下が異次元空間のような気がしてきた。  が、いつまでも腑抜けのままではいられない。  俺だって半人前と言えど魔術師だ。  同じく魔術師であるらしい遠坂がここまで堂々としているのだから、俺だってしっかりしなければ馬鹿にされる。  ……と言っても、俺に考えつくのは僅かな事だ。  まず、後ろに付いてきているセイバー。  彼女が俺をマスターと呼び、契約したというからには使い魔の類であるのは間違いない。  使い魔とは、魔術師を助けるお手伝い的なモノだと聞く。  たいていは魔術師の体の一部を他者に移植し、分身として使役されるモノを言うのだとか。  このおり、分身とする他者は小動物が基本とされる。  単純に、猫や犬ならば意識を支配するのが容易い為だ。  中には人間を使い魔とする魔術師もいるが、その為には人間一人を絶えず束縛するだけの魔力を持たなければならない。  が、人間一人を支配する魔力なんて常時使っていたら、その魔術師は魔力の大半を使い魔の維持に費やす事になる。  それでは本末転倒である。  使い魔とは魔術師の助けとなるモノ。  できるだけ魔術師に負担をかけないよう、使役するのにあまり力を使わない小動物が適任とされる。    ……確かにそう教わりはしたけど、しかし。 「? 何かあるのですか、シロウ」 「……ああいや、なんでもない」  ……セイバーはどう見ても人間だ。しかも明らかに主である俺より優れている。  そんな相手を縛り付ける魔力なんて俺にはないし、そもそも使い魔を使役するだけの魔術回路もない。 「…………」  だから、きっとセイバーは使い魔とは似て非なるモノの筈だ。  彼女は自分をサーヴァントと言っていた。  それがどんなモノかは知らないが、あのランサーという男も、遠坂が連れていた赤い男も同じモノなのだと思う。  となると、遠坂もマスターと呼ばれる者の筈だ。  あいつの魔術の冴えは先ほど垣間見た。  俺が半人前だとしたら、遠坂は三人前……というか、強化の魔術しか使えない俺と他の魔術師を比べても仕方がない。  ともかく、遠坂凛はとんでもない魔術師だ。  霊的に優れた土地には、その土地を管理する魔術師の家系がある。  衛宮家は切嗣の代からこの町にやってきたから、いうなれば〈他所者〉《よそもの》だ。  だから遠坂の家が魔術師だと知らなかったし、遠坂の方も、衛宮の家が魔術師の家系だと知らなかったのだと思う。  ……この町には、俺の知らない魔術師が複数いる。  ランサーとやらも他の魔術師の使い魔だとしたら、俺はつまり、魔術師同士の争いに足を突っ込んだという事だろうか―――― 「へえ、けっこう広いのね。和風っていうのも新鮮だなぁ。  あ、衛宮くん、そこが居間?」 「………………」  考えるのはここまでだ。  とにかく遠坂に話を聞こう。  電気をつける。  時計は午前一時を回っていた。 「うわ寒っ! なによ、窓ガラス全壊してるじゃない」 「仕方ないだろ、ランサーってヤツに襲われたんだ。なりふり構ってられなかったんだよ」 「あ、そういう事。じゃあセイバーを呼び出すまで、一人でアイツとやり合ってたの?」 「やりあってなんかない。ただ一方的にやられただけだ」 「ふうん、ヘンな見栄はらないんだ。……そっかそっか、ホント見た目通りなんだ、衛宮くんって」  何が嬉しいのか、遠坂は割れた窓ガラスまで歩いていく。 「?」  遠坂はガラスの破片を手に取ると、ほんの少しだけまじまじと観察し―――   「――――Minuten vor Schweißen」    ぷつり、と指先を切って、窓ガラスに血を零した。 「!?」  それはどんな魔術か。  粉々に砕けていた窓ガラスはひとりでに組み合わさり、数秒とかからず元通りになってしまった。 「遠坂、今の――――」 「ちょっとしたデモンストレーションよ。助けて貰ったお礼にはならないけど、一応筋は通しておかないとね」 「……ま、わたしがやらなくともそっちで直したんだろうけど、こんなの魔力の無駄遣いでしょ? ホントなら窓ガラスなんて取り替えれば済むけど、こんな寒い中で話すのもなんだし」    当たり前のように言う。  が、言うまでもなく、彼女の腕前は俺の理解の外だった。 「―――いや、凄いぞ遠坂。俺はそんな事できないからな。直してくれて感謝してる」 「? 出来ないって、そんな事ないでしょ?  ガラスの扱いなんて初歩の初歩だもの。たった数分前に割れたガラスの修復なんて、どこの学派でも入門試験みたいなものでしょ?」 「そうなのか。俺は親父にしか教わった事がないから、そういう基本とか初歩とか知らないんだ」 「――――はあ?」  ピタリ、と動きを止める遠坂。  ……しまった。なんか、言ってはいけない事を口にしたようだ。 「……ちょっと待って。じゃあなに、衛宮くんは自分の工房の管理もできない半人前ってこと?」 「……? いや、工房なんて持ってないぞ俺」  ……あー、まあ鍛練場所として土蔵があるが、アレを工房なんて言ったら遠坂のヤツ本気で怒りそうだし。 「…………まさかとは思うけど、確認しとく。もしかして貴方、五大要素の扱いとか、パスの作り方も知らない?」  おう、と素直に頷いた。 「………………」  うわ、こわっ。  なまじ美人なだけ、黙り込むと迫力あるぞ、こいつ。 「なに。じゃあ貴方、素人?」 「そんな事ないぞ。一応、強化の魔術ぐらいは使える」 「強化って……また、なんとも半端なのを使うのね。で、それ以外はからっきしってワケ?」  じろり、と睨んでくる遠坂。 「……まあ、端的に言えば、たぶん」  さすがに視線が痛くて、なんとも煮え切らない返答をしてしまった。 「――――はあ。なんだってこんなヤツにセイバーが呼び出されるのよ、まったく」  がっかり、とため息をつく。 「…………む」  なんか、腹が立つ。  俺だって遊んでたワケじゃない。  こっちが未熟なのは事実だけど、それとこれとは話が別だと思う。 「ま、いいわ。もう決まった事に不平をこぼしても始まらない。そんな事より、今は借りを返さないと」  ふう、と一息つく遠坂。 「それじゃ話を始めるけど。  衛宮くん、自分がどんな立場にあるのか判ってないでしょ」 「――――」  こくん、と頷く。 「やっぱり。ま、一目で判ったけど、一応確認しとかないとね。知ってる相手に説明するなんて心の贅肉だし」 「?」  なんか、今ヘンな言い回しを聞いた気がするけど、ここで茶々を入れたら殴られそうなので黙った。 「率直に言うと、衛宮くんはマスターに選ばれたの。  どちらかの手に聖痕があるでしょ? 手の甲とか腕とか、個人差はあるけど三つの〈令呪〉《れいじゅ》が刻まれている筈。それがマスターとしての証よ」 「手の甲って……ああ、これか」 「そ。それはサーヴァントを律する呪文でもあるから大切にね。令呪っていうんだけど、それがある限りはサーヴァントを従えていられるわ」 「……? ある限りって、どういう事だよ」 「令呪は絶対命令権なの。サーヴァントには自由意思があるって気づいていると思うけど、それをねじ曲げて絶対に言いつけを守らせる呪文がその刻印」 「発動に呪文は必要なくて、貴方が令呪を使用するって思えば発動するから。  ただし一回使う度に一つずつ減っていくから、使うのなら二回だけに留めなさい。  で、その令呪がなくなったら衛宮くんは殺されるだろうから、せいぜい注意して」 「え……俺が、殺される――――?」 「そうよ。マスターが他のマスターを倒すのが〈聖杯〉《せいはい》戦争の基本だから。そうして他の六人を倒したマスターには、望みを叶える聖杯が与えられるの」 「な――――に?」  ちょっ、ちょっと待て。  遠坂のヤツが何を言っているのかまったく理解できない。  マスターはマスターを倒す、とか。  そうして最後には聖杯が手に入るとか……って、聖杯って、そもそもあの聖杯の事か……!? 「まだ解らない? ようするにね、貴方はあるゲームに巻き込まれたのよ。  聖杯戦争っていう、七人のマスターの生存競争。他のマスターを一人残らず倒すまで終わらない、魔術師同士の殺し合いに」  それがなんでもない事のように、遠坂凛は言い切った。 「――――――――」  頭の中で、聞いたばかりの単語が回る。  マスターに選ばれた自分。  マスターだという遠坂。  サーヴァントという使い魔。    ―――それと。  聖杯戦争という、他の魔術師との殺し合い―――― 「待て。なんだそれ、いきなり何言ってんだおまえ」 「気持ちは解るけど、わたしは事実を口にするだけよ。  ……それに貴方だって、心の底では理解してるんじゃない? 一度ならず二度までもサーヴァントに殺されかけて、自分はもう逃げられない立場なんだって」 「――――――――」  それは。  確かに、俺はランサーとかいうヤツに殺されかけた、けど。 「あ、違うわね。殺されかけたんじゃなくて殺されたんだっけ。よく生き返ったわね、衛宮くん」 「――――」  遠坂の追い打ちは、ある意味トドメだった。  ……確かにその通りだ。  アイツは俺を殺し、俺は確かに殺された。  そこには何のいいわけも話し合いも通じず、俺は殺されるだけの存在だったのだ。  だから。  その、訳のわからない殺し合いを否定したところで、 他の連中が手を引いてくれるなんて事はない。 「――――」 「納得した? ならもう少しだけ話をしてあげる。  聖杯戦争というのが何であるかわたしもよくは知らない。  ただ何十年に一度、七人のマスターが選ばれ、マスターにはそれぞれサーヴァントが与えられるって事だけは確かよ」 「わたしもマスターに選ばれた一人。だからサーヴァントと契約したし、貴方だってセイバーと契約した。  サーヴァントは聖杯戦争を勝ち残る為に聖杯が与えた使い魔と考えなさい。  で、マスターであるわたしたちは自分のサーヴァントと協力して、他のマスターを始末していくわけね」 「…………」  遠坂の説明は簡潔すぎて、実感を得るには遠すぎた。  それでも一つだけ、先ほどから疑問に思っていた事がある。 「……ちょっと待ってくれ。遠坂はセイバーを使い魔だっていうけど、俺にはそうは思えない。  だって使い魔っていうのは猫とか鳥だろ。そりゃ人の幽霊を扱うヤツもいるって言うけど、セイバーはちゃんと体がある。それに、その―――とても、使い魔なんかに見えない」  ちらりとセイバーを盗み見る。  セイバーは俺たちの話を黙って聞いていた。  ……その姿は人間そのものだ。  正体は判らないが、自分とそう歳の違わない女の子だ。 「使い魔ね―――ま、サーヴァントはその分類ではあるけど、位置づけは段違いよ。何しろそこにいる彼女はね、使い魔としては最強とされるゴーストライナーなんだから」 「ゴーストライナー……? じゃあその、やっぱり幽霊って事か?」  とうの昔に死んでいる人間の霊。  死した後もこの世に姿を残す、卓越した能力者の残留思念。  だが、それはおかしい。  幽霊は体を持たない。霊が傷つけられるのは霊だけだ。  故に、肉を持つ人間である俺が、霊に直接殺されるなんてあり得ない。 「幽霊……似たようなものだけど、そんなモンと一緒にしたらセイバーに殺されるわよ。  サーヴァントは受肉した過去の英雄、精霊に近い人間以上の存在なんだから」 「――――はあ? 受肉した過去の英雄?」 「そうよ。過去だろうが現代だろうが、とにかく死亡した伝説上の英雄をこう引っ張ってきてね、実体化させるのよ」 「ま、呼び出すまでがマスターの役割で、あとの実体化は聖杯がしてくれるんだけどね。  魂をカタチにするなんてのは一介の魔術師には不可能だもの。ここは強力なアーティファクトの力におんぶしてもらうってわけ」 「ちょっと待て。過去の英雄って、ええ……!?」  セイバーを見る。  なら彼女も英雄だった人間なのか。  いや、そりゃ確かに、あんな格好をした人間は現代にはいないけど、それにしたって――― 「そんなの不可能だ。そんな魔術、聞いた事がない」 「当然よ、これは魔術じゃないもの。あくまで聖杯による現象と考えなさい。そうでなければ魂を再現して固定化するなんて出来る筈がない」 「……魂の再現って……じゃあその、サーヴァントは幽霊とは違うのか……?」 「違うわ。人間であれ動物であれ機械であれ、偉大な功績を残すと輪廻の輪から外されて、一段階上に昇華するって話、聞いたことない?  英霊っていうのはそういう連中よ。  ようするに〈崇〉《あが》め〈奉〉《たてまつ》られて、擬似的な神さまになったモノたちなんでしょうね」 「降霊術とか口寄せとか、そういう一般的な“霊を扱う魔術”は〈英霊〉《かれら》の力の一部を借り受けて奇蹟を起こすでしょ。  けどこのサーヴァントっていうのは英霊本体を直接連れてきて使い魔にする。  だから基本的には霊体として側にいるけど、必要とあらば実体化させて戦わせられるってワケ」 「……む。その、霊体と実体を使い分けられるって事か。  ……遠坂のサーヴァントは姿が見えないけど、今は霊体って事か?」 「いえ、アイツはうちの召喚陣で傷を癒してる最中よ。  さっきセイバーにやられたでしょ。あれだって、あと少し強制撤去が遅かったら一撃で消滅してたわ」 「いい、サーヴァントを倒せるのは同じ霊体であるサーヴァントだけ。そりゃあ相手が実体化していればこっちの攻撃も当たるから、うまくすれば倒せるかもしれない。  けど、サーヴァントはみんな怪物じみてるでしょ? だから怪物の相手は怪物に任せて、マスターは後方支援をするっていうのがセオリーね」 「…………む」  遠坂の説明は、なんか癇に障る。  怪物怪物って、他のサーヴァントがどうだか知らないけど、セイバーにそんな形容は不釣り合いではなかろうか。 「とにかくマスターになった人間は、召喚したサーヴァントを使って他のマスターを倒さなければならない。  そのあたりは理解できた?」 「……言葉の上でなら。けど、納得なんていってないぞ。  そもそもそんな悪趣味な事を誰が、何の為に始めたんだ」 「それはわたしが知るべき事でもないし、答えてあげる事でもない。そのあたりはいずれ、ちゃんと聖杯戦争を監督しているヤツに聞きなさい。  わたしが教えてあげられるのはね、貴方はもう戦うしかなくて、サーヴァントは強力な使い魔だからうまく使えって事だけよ」  遠坂はそれだけ言うと、今度はセイバーへ視線を向ける。 「さて。衛宮くんから話を聞いた限りじゃ貴女は不完全な状態みたいね、セイバー。マスターとしての心得がない魔術師見習いに呼び出されたんだから」 「……ええ。貴方の言う通り、私は万全ではありません。  シロウには私を実体化させる魔力がない為、霊体に戻る事も、魔力の回復も難しいでしょう」 「……驚いたわ。そこまで酷かった事もだけど、貴女が正直に話してくれるなんて思わなかった。どうやって弱みを聞き出そうかなって程度だったのに」 「敵に弱点を見抜かれるのは不本意ですが、貴女の目は欺けそうにない。こちらの手札を隠しても意味はないでしょう。  それならば貴方に知ってもらう事で、シロウにより深く現状を理解してもらった方がいい」 「正解。風格も十分、と。……ああもう、ますます惜しいっ。わたしがセイバーのマスターだったら、こんな戦い勝ったも同然だったのに!」 「む。遠坂、それ俺が相応しくないって事か」 「当然でしょ、へっぽこ」  うわ。心ある人なら言いにくいコトを平然といったぞ、今。 「なに? まだなんか質問があるの?」  しかも自覚なし。  学校での優等生然としたイメージがガラガラと崩れていく。  ……さすがだ一成。たしかに遠坂は、鬼みたいに容赦がない。 「さて。話がまとまったところでそろそろ行きましょっか」  と。  遠坂はいきなり、ワケの分からないコトを言いだした。 「? 行くって何処へ?」 「だから、貴方が巻き込まれたこのゲーム……“聖杯戦争”をよく知っているヤツに会いに行くの。衛宮くん、聖杯戦争の理由について知りたいんでしょ?」 「―――それは当然だ。けどそれって何処だよ。もうこんな時間なんだし、あんまり遠いのは」 「大丈夫、隣町だから急げば夜明けまでには帰ってこれるわ。それに明日は日曜なんだから、別に夜更かししてもいいじゃない」 「いや、そういう問題じゃなくて」  単に今日は色々あって疲れてるから、少し休んでから物事を整理したいだけなのだが。 「なに、行かないの? ……まあ衛宮くんがそう言うんならいいけど、セイバーは?」  なぜかセイバーに意見を求める遠坂。 「ちょっと待て、セイバーは関係ないだろ。あんまり無理強いするな」 「おっ、もうマスターとしての自覚はあるんだ。わたしがセイバーと話すのはイヤ?」 「そ、そんなコトあるかっ! ただ遠坂の言うのがホントなら、セイバーは昔の英雄なんだろ。ならこんな現代に呼び出されて右も左も分からない筈だ。  だから―――」 「シロウ、それは違う。サーヴァントは人間の世であるのなら、あらゆる時代に適応します。ですからこの時代の事もよく知っている」 「え――――知ってるって、ほんとに?」 「勿論。この時代に呼び出されたのも一度ではありませんから」 「な――――」 「うそ、どんな確率よそれ……!?」  あ、遠坂も驚いてる。  ……という事は、セイバーの言ってる事はとんでもない事なのか。 「シロウ、私は彼女に賛成です。貴方はマスターとして知識がなさすぎる。貴方と契約したサーヴァントとして、シロウには強くなってもらわなければ困ります」  セイバーは静かに見据えてくる。  ……それはセイバー自身ではなく、俺の身を案じている、穏やかな視線だった。 「……分かった。行けばいいんだろ、行けば。  で、それって何処なんだ遠坂。ちゃんと帰ってこれる場所なんだろうな」 「もちろん。行き先は隣町の言峰教会。そこがこの戦いを監督してる、エセ神父の居所よ」  にやり、と意地の悪い笑みをこぼす遠坂。  アレは何も知らない俺を振り回して楽しんでいる顔だ。 「………………」  偏見だけど。  あいつの性格、どこか問題ある気がしてきたぞ……。  俺は逃げない。  正直、マスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても実感が湧かない。  それでも、戦うか逃げるかしかないのなら、逃げる事だけはしない。    神父は言った。  魔術師ならば覚悟は出来ている筈だと。  だから決めないと。  たとえ半人前でも、衛宮士郎は魔術師なんだ。  憧れ続けた衛宮切嗣の後を追って、必ず正義の味方になると決めたのなら―――― 「―――マスターとして戦う。  十年前の火事の原因が聖杯戦争だっていうんなら、俺は、あんな出来事を二度も起こさせる訳にはいかない」    俺の答えが気に入ったのか、神父は満足そうに笑みを浮かべた。 「――――」  深く呼吸をする。  迷いは断ち切った。  男が一度、戦うと口にしたんだ。  なら、ここから先はその言葉に恥じないよう、胸を張って進むだけだ。 「それでは君をセイバーのマスターと認めよう。  この瞬間に今回の聖杯戦争は受理された。  ―――これよりマスターが残り一人になるまで、この街における魔術戦を許可する。各々が自身の誇りに従い、存分に競い合え」  重苦しく、神父の言葉が礼拝堂に響いた。  その宣言に意味などあるまい。  神父の言葉を聞き届けたのは自分と遠坂だけだ。  この男はただ、この教会の神父として始まりの鐘を鳴らしたにすぎない。 「決まりね。それじゃ帰るけど、わたしも一つぐらい質問していい綺礼?」 「かまわんよ。これが最後かもしれんのだ、大抵の疑問には答えよう」 「それじゃ遠慮なく。綺礼、あんた見届け役なんだから、他のマスターの情報ぐらいは知ってるんでしょ。こっちは協会のルールに従ってあげたんだから、それぐらい教えなさい」 「それは困ったな。教えてやりたいのは山々だが、私も詳しくは知らんのだ。  衛宮士郎も含め、今回は正規の魔術師が少ない。私が知りうるマスターは二人だけだ。衛宮士郎を加えれば三人か」 「あ、そう。なら呼び出された順番なら判るでしょう。  仮にも監視役なんだから」 「……ふむ。一番手はバーサーカー。二番手はキャスターだな。あとはそう大差はない。先日にアーチャー、そして数時間前にセイバーが呼び出された」 「―――そう。それじゃこれで」 「正式に聖杯戦争が開始されたという事だ。  凛。聖杯戦争が終わるまで、この教会に足を運ぶ事は許されない。許されるとしたら、それは」 「自分のサーヴァントを失って保護を願う場合のみ、でしょ。それ以外にアンタを頼ったら減点ってコトね」 「そうだ。おそらく君が勝者になるだろうが、減点が付いては教会が黙っていない。連中はつまらない論議の末、君から聖杯を奪い取るだろう。私としては最悪の展開だ」 「エセ神父。教会の人間が魔術協会の肩を持つのね」 「私は神に仕える身だ。教会に仕えている訳ではない」 「よく言うわ。だからエセなのよ、アンタは」  そうして、遠坂は言峰神父に背を向ける。  あとはそのまま、別れの挨拶もなしに出口へと歩き出した。 「おい、そんなんでいいのか遠坂。あいつ、おまえの兄弟子なんだろ。なら―――」  もっとこう、ちゃんとした言葉を交わしておくべきではないのだろうか。 「いいわよそんなの。むしろ縁が切れて清々するぐらいだもの。そんな事より貴方も外に出なさい。もうこの教会に用はないから」  遠坂は立ち止まる事なく礼拝堂を横切り、本当に出ていってしまった。  はあ、とため息をもらして遠坂の後に続く。  と。 「っ――――!」  背後に気配を感じて、たまらずに振り返った。  いつのまに背後にいたのか、神父は何を言うのでもなく俺を見下ろしていた。 「な、なんだよ。まだなんかあるっていうのか」  言いつつ、足は勝手に後ずさる。  ……やはり、こいつは苦手だ。  相性が悪いというか、肌に合わないというか、ともかく好きになれそうにない。 「話がないなら帰るからなっ!」  神父の視線を振り払おうと出口に向かう。  その途中。     「――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」      そう、神託を下すように神父は言った。          その言葉は。  自分でも気づいていなかった、衛宮士郎の本心ではなかったか。 「―――なにを、いきなり」 「判っていた筈だ。明確な悪がいなければ君の望みは叶わない。たとえそれが君にとって容認しえぬモノであろうと、正義の味方には倒すべき悪が必要だ」 「っ――――――――」  目の前が、真っ暗になりそう、だった。  神父は言う。  衛宮士郎という人間が持つ最も崇高な願いと、最も醜悪な望みは同意であると。    ……そう。何かを守ろうという願いは、    同時に、何かを侵そうとするモノを、望む事に他ならない―――― 「―――おま、え」    けど、そんな事を望む筈がない。  望んだ覚えなんてない。  あまりにも不安定なその願望は、  ただ、目指す理想が矛盾しているだけの話。  だというのに神父は言う。  この胸を刺すように、“敵が出来て良かったな”と。 「なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい」 「っ――――――」  神父の言葉を振り払って、出口へと歩き出す。 「さらばだ衛宮士郎。  最後の忠告になるが、帰り道には気をつけたまえ。  これより君の世界は一変する。  君は殺し、殺される側の人間になった。その身は既にマスターなのだからな」  こんにちはー! サクっと死んだ貴方を一から鍛え直す夢のレスキューコーナー、タイガー道場師範、藤村大河でーす。 はーい。ホントはこんなところに出る必要なんてないけど、お情けでタイガに付き合ってあげてるイリヤでーす。 だりゃぁぁぁああああ! 弟子一号! この道場では貴様の名称は弟子一号! いたた……こ、このわたしを吹き飛ばすなんて……妖刀虎竹刀、恐るべし……。      武器辞典に『虎竹刀』が加わりました。 ??? いまヘンな音しなかった? 別にしなかったけど? それよりタイガ、今回のテーマはなんなの? うむ、今回のテーマはバッドエンドについて。  いきなりだけど、『Fate』は油断イコール敗北と心得るよーに。 基本的にみんな容赦ないので、選択肢になったらセーブするのは常道よ? 士郎の日常は、赤信号だらけのスクランブルってなもんなんだから。 ええ、お兄ちゃんったら隙だらけだからねー。やっぱり、わたしが守ってあげないとダメなんだから。 ちぇすと。 いったぁーい! 師しょー、その竹刀ほんとに痛いでありまーす! もっと優しい竹刀にしてくださーい! 却下。愛情転じて殺人にいたるようなちびっ子は道場三周! きりきり走れぃ。 えー。疲れるの反対ー。 虎スタンプがほしくないのか! ちぇ。わかったわ、走ってきまーす。 さて。今回の死因は、あの最凶ちびっ子相手に逃げよう、なんて思ったコトよ? あの子にあったら、もう倒すか倒されるかだけ。  半端な選択は死を招くから気をつけなさい。 タイガー? なんか、道場の隅に猫がいるよー? 尻尾踏んで追い返しなさい。  あとわたしを虎と呼ぶな。 はーい。ヘンな猫を追い返しましたー。 よろしい。では今回はここまで。 物語はまだ始まったばかり。この山場を乗り越えたら、ようやくマスターとしての戦いが……始まる……ような……始まらない……ような……。 どっちなのよ? んー……もうちょっと、修行編、かな……?   竹刀の音が響く。  立ち会いの内容は相変わらずだ。  躍起になって攻める俺と、それを軽くいなして倍の鋭さで反撃してくるセイバー。  それをなんとか凌いで、懲りずに打ち込んであえなく敗退―――なんていう試合を繰り返している。 「は――――はぁ、はぁ、は」  足を止めて、肩で大きく呼吸をとった。  額に流れる汗を腕でぬぐって、ほう、と呼吸をとる。 「何を休んでいるのですか。昨日までのシロウなら、そこで諦めるような事はなかった筈です。さあ、早く打ち込んできてください」 「いや―――ちょっと、待った。これ以上は息が続かない。少し、休憩」 「何をらしくない事を。シロウが来ないというのでしたら、私から攻め込むだけですが。それでも構わないのですね」  む、と出来の悪い教え子を見据えるセイバー。  だが、そんな顔されたって体は満足に動かないのだ。 「……はあ。一体どうしたのですシロウ。今朝の貴方は今までとは別人のようです。  まっすぐに打ち込んでくる太刀だけは目を見張るモノがあったというのに、今朝のシロウには力強さを感じません」 「……それは自分でも判ってるんだけどな……どうも上手くいかない」    その、昨日とは状況が違いすぎて。 「体の熱がまだ取れないのですか? ですが、そんな理由で体のキレが落ちるようでは話になりません。少し頭を冷やして、気持ちを入れ替えてください」 「―――いや。そうするんだったら、まずアレをなんとかしてくれ」    くい、と壁際に立っている傍観者を指さす。 「なに? わたしに構わなくていいから、訓練を続けていいわよ?」 「………………」  遠坂はぜんぜん分かってない。  そこでぼーっと眺められていると、気になってセイバーと真剣に打ち合えないんだって事を。 「凛が気になるのですか。それこそ修行不足ですね。  ……いいでしょう。それでしたら、見学者の事など気にならないようにしてさしあげます」 「うわ、待てセイバー、こっちはまだ息が――――」 「問題はありません。そのようなものは、戦いの最中に整えるものです」  セイバーが視界から消える。 「――――!」  まずい、と〈咄嗟〉《とっさ》に竹刀で顔を守った瞬間、スパーン、とセイバーの竹刀が脳天に直撃していた。  ……そんなワケで、今朝の鍛錬は苛烈を極めた。  一度気絶させられてからは遠坂の視線は気にならなくなり、セイバーの打ち込みを防ぐことだけに没頭し、あっという間に昼になっていた次第である。 「けどアレよね、セイバーってほんとに冷静よね。  三時間も士郎と試合してて、眉一つ動かさないんだから。普段も無口だけど、戦闘時はさらに磨きがかかるっていうか。なに、もう無機質? みたいな感じ」  俺がぼてくりまわされた姿がそんなに気に入ったのか、遠坂はともかく上機嫌だ。  二人は居間で休んでいる。  俺はというと、今朝の不真面目さの罰として一人で昼飯の当番中だ。  ……ったく。  手を抜いて素麺あたりでパパーッと済ませたい。 「無機質、ですか……? そうですね、そう意識した事はありませんが、剣を握っている時は感情を止めているのかもしれません。それは試合と言えども変わりはないのでしょう」 「ふうん。なに、それって女の身で剣を持つ為の心構えってヤツ? 体格で劣っているから、心だけは負けないようにって」 「それは違います、凛。冷静であるのは戦う時の心構えですが、それは男も女も変わりのない事でしょう。  凛とて戦闘時には情を捨てる筈です。貴方はそれが出来る人ですから」 「む……言ってくれるじゃない。まあ、そりゃあ事実だけどさ。  けどセイバーのはわたしとは違うわよ、絶対。わたしは捨ててるのは甘さだけだもの。貴女ほど達観はできないわ」 「そのようですね。だから貴方は華やかなのでしょう。  戦いの中でも女性のしなやかさを保っていられる」 「なによ、嫌味? 華やかさで言ったら貴女には敵わないわ。……士郎があっちにいるから白状するけどね、わたし、初めて貴女を見た瞬間にすっごい美人だなって見とれたんだから」  ……いや。聞こえてるぞ遠坂。 「―――それは凛の思い違いでしょう。この身が華やかに見えたのなら、それは私ではなくセイバーという〈役割〉《クラス》が華やかなだけではないでしょうか」 「そんなんじゃないってば。純粋にね、同じ女として負けたって思ったんだもの。……そうでもなければあそこまでショックは受けなかったわよ」 「……ですから、それが間違いです。私は一度も自身を女性だと思った事はないし、一度も女性として扱われた事はありません。  その私が、華やかである筈がない」  セイバーのそんな言葉で、二人の会話は途切れてしまった。 「――――――――」  包丁を振るいながら、セイバーの言い分に苛立ちを覚えた。 「……前から思ってたけど、自分のコトをなんだと思ってんだろうな、あいつ」  ダン! と大げさに包丁を振るって鶏肉を捌く。  なんか、無性に腹が立ってきた。            ―――私は、自分を女性だと思った事はありません。 「―――ふん。まあ、俺には関係のない話だけどっ……!」    ダンダン! とまな板に包丁を突き立てる。  が、そんな事をしても腹の虫は一向に収まってはくれなかった。 「今日の課題はそれね。  昨日より数は増やしたし、そっちの体も落ち着いてるみたいだから、今度こそ成功するでしょ」  どうやってうちまで持ってきたのか、遠坂は四十個ばかりのランプを持ち出してきた。 「わたしはちょっと外に出てるわ。しばらくたったら戻ってくるから、それまでに終わらせておきなさい」    それじゃあね、と遠坂は部屋から出ていく。 「――――はあ」    さて。  昨夜が昨夜だったし、今度はせめて一、二個は成功させなくてはなるまい。 「…………ふう。とりあえず、半分済んだか」    一時間かけて二十個ばかりのランプに“強化”を試みた。  その半数は割れ、半分は変化なし。  それでも、変化しなかったうちの五つのランプにはうまく魔力が通っていた。あとは残った二十個にチャレンジするだけなのだが――― 「……待てよ。五つもあればテストとしては十分なんじゃないか?」  なんか全部が全部、年代物のランプっぽいし。  これ以上いたずらに破壊してしまうのも遠坂に悪いだろうし。 「…………む」    そうだな、こうなったら―――      ―――遠坂を呼びに行こう。    いくらなんでもこれ以上ランプを破壊する訳にはいかない。  ……いや、すでに四十個壊した未熟者の言い分ではないとは思うのだが。 「おーい、遠坂―」    声をかけども返事はなし。  ……おかしいな、家の中にはいないのか。  あと遠坂が寄りつきそうな所と言えば――― 「……土蔵の中に誰かいる」  どうやら遠坂とセイバーが、中で話をしているようだ。   「おい、遠さ――――」    そう声をかけようと手をあげた時。  ぞわり、と背筋に悪寒が走った。  ……それは土蔵から漏れてきた、敵意に満ちた遠坂の魔力の波だったと思う。 「っ――――」  呼びかけた声が止まる。  ……ここからでも判るほど、遠坂は苛立っているようだった。  二人の話し声だけが耳に入ってくる。  知らず、二人の話を盗み聞きするような立場になっていた。 「――――何者よ、アイツ」    怒りとも、畏れとも取れない、遠坂の呟き。  セイバーは無言で遠坂の背後に立っている。 「信じられない。セイバー、貴女この事に気が付いてたわね……?」 「……いえ、私には判らなかった。私は騎士であって魔術師ではない。ここには違和感があっただけで、凛ほど状況を把握している訳ではありません」 「―――そう。なら教えてあげる。アイツは魔術師なんかじゃないわ」 「……凛。それはどういう意味でしょうか」 「言葉通りの意味よ。  魔術っていうのはね、結局は等価交換なの。どんな神秘だって、余所にあるものを此処に持ってきて使っているだけ」 「……けどコレは違う。アイツは何処にもないモノを此処に持ってきてしまっている。此処には在ってはならないモノをカタチにしている。  それは現実を侵食する想念に他ならない。  アイツの魔術は、きっと、ある魔術が劣化しただけのモノなんだわ」 「…………」    遠坂が何を言っていたのかは判らない。  だが、今のは俺が聞いてはいけない話だ。  ……土蔵から離れる。  遠坂に嘘をつく事になるが、今は部屋に戻って遠坂の帰りを待っていたフリをするべきだろう――――    いや、大人しく待っていよう。  遠坂も何か考えがあって外出したんだろうし、俺は俺に与えられた役割をこなさなければ。 「……だよな。昨日の失敗もあるし、今日は出来るだけ多く成功させとかないと」    気合を入れなおしてランプに向かう。  残るは二十個、遠坂が帰ってくるまでに片付けてしまおう。  二時になった。  遠坂が戻ってくる気配はなく、与えられた課題をせっせとこなす。 「あれ、電話だ」  遠くで電話が鳴っている。 「……居間か。遠坂は―――って、うちの電話なんだから出るワケにはいかないよな」  大した電話ではないと思うが、知らないフリもできない。  床から腰をあげて、居間へ電話を取りに行く。  居間には誰もいなかった。  セイバーと遠坂は庭の方にでもいるのだろうか。 「はい、衛宮ですが」   『よう衛宮。今日も休んでいるようだけど、体の調子が悪いのかい?』    とたん。  くぐもった笑いが混ざった、慎二の声が聞こえてきた。 「慎二か? 何か用か、話す事なんて、お互いないと思うが」 『なんだよ、つれないな。こっちは衛宮に一つ教えてやろうと思って電話をしたのに』 「……俺に教える……?」 『ああ。どうしても話しておきたい事があったんだけど、おまえ学校に来ないじゃないか。  これ以上長引くのもなんだし、もう我慢できないから連絡を入れたんだ。……それで、そっちに遠坂はいるのか?』  ……慎二の口調は、どこかおかしい。  声だけではなんとも言えないが、ひどく興奮しているような、それとも切迫しているような、そんな声だ。  受話器の向こうから生徒の声が聞こえるところを見ると、まだ学校に居るらしい。  時刻は二時過ぎ。五時限目が終わって、ちょうど休憩時間というところか。 『おい、訊いてるんだよ衛宮。遠坂はそこにいるの、いないの?』 「……今はいない。少し席を外している」 『そうか、ちょうどいい。二人だけで話がしたかったんだ。―――いいコト教えてやるからさ、今から学校に来いよ衛宮。もちろん遠坂には内緒でね』 「―――――――」  答えに窮する。  慎二の様子はどこかおかしいし、なにより話なら今している。  わざわざ学校まで足を運ぶ必要はないし、遠坂に黙って行動するのは遠坂を裏切る事にもなる。 「―――いや、悪いが学校には行けない。用があるなら来週まで待てよ。休み明けには登校するから」 『……はあ? なに勝手なコト言ってんだよおまえ。  それじゃ遅いんだよ、我慢できないって言ったじゃないか、今……!』  怒鳴る慎二。  興奮しているのか、受話器ごしでも荒い息づかいが聞こえてくる。 『……ふん。少しは考えてるじゃないか。そうだよね、さすがに今更一人でやってくるワケがないか。どう見ても怪しいもんなあこの電話。衛宮でもヤバイって感じたワケだ』  一転しておかしげに笑う。 「ちょっと待て。落ち着け、おまえヘンだぞ慎二。何があったか知らないが――――」 『あはははは! ウソをつくなよ衛宮、遠坂の事だ、おまえに全部話したんだろ? いいよ隠さなくて。そうだよね、衛宮はセイバーのマスターだもの。僕よりずっとずっと、いっぱしな人殺しってワケだ……!』  慎二はあくまで楽しげだ。  ……こいつとは五年の付き合いになるが、ここまでハイな様子はお目にかかったコトがない。 「慎二、おまえ」 『いいから学校で待ってるよ。急げよ衛宮。今からなら六時限目には間に合う。ちょうど藤村の授業だし、遅刻しても問題ないだろ』 「いや、いくら藤ねえでも遅刻したら怒るぞ。それに六時限目だけ出るなんて、欠席するより文句を言われそうだが」 『そんなのは自業自得じゃないか。ああ、それと遠坂にバラしたら本当に絶交するからな。今まで桜のコトは目を瞑ってやってたんだ。最後ぐらいは、友人として義理を果たしてもいいだろ?』  話はそれで終わった。  受話器は味気のない電子音を繰り返している。 「――――なんだ、あいつ」    ……だがどうしたものか。  さっきまで家にいた筈の遠坂は見当たらないし、学校に行くのならセイバーを連れて行く事もできない。  かといって、慎二の誘いを断ったらあいつが何をするか不安ではある。  昨日、遠坂にこっぴどく断られて落ち着きがないようだし、放っておいたらまた桜に手をあげかねない。 「……そうだな。まだ明るいし、問題ないだろ」    そうと決まれば急ごう。  走っていけば六時限目には間に合うだろう。  校門に人影はない。  授業中という事もあって、外から見れば学校は無人ともとれる。  体育の授業もないのか、校庭にも生徒の姿は見られない。  まあ、それもあと数十分もすれば一変する。  六時限目が終われば放課後だ。  校庭も校門も、生徒たちの姿ですぐに賑わう事になるだろう。  三階にあがる。  当然のように廊下も無人だ。  教室はみんな授業中で、この中をC組まで歩いていくのは気まずいものがある。 「……ま、丸見えって訳でもなし、さっさと教室に行くか」  C組は廊下の先。  ここが階段脇のH組だから、実に五クラス分歩かなくてはいけない事になるのだが―――― 「え――――?」    その目眩は、唐突に。  吐き気をともなって、全身を打ちのめした。 「は――――ぐ」    胃が〈蠕動〉《ぜんどう》する。  感覚が〈逆〉《さか》しまになる。  視界は赤く。  眼球に血が染み込んだかの如く、見るもの全てが赤色に反転した。 「は――――あ、ぐ―――………………!!」  気温は何も変わっていないのに、体だけが異様に熱い。 「っ――――なんだ、これ――――!?」  足がもつれる。  体に力が入らない。  砂時計のように、止める手段もなく衰弱していく。 「く―――、っ…………!」    息苦しい。  喉が痛い。  廊下、いや、校舎中の酸素がなくなったとでもいうのか。  あえぐ肺に促されるように、無意識に壁までもたれかかって窓を開けた。 「な――――」    意識が凍る。  あまりの事態に混乱さえ消えた。  ――――窓の外。    校舎のまわりは、一面の赤だった。  この学校だけがポッカリと切り取られたように、赤い世界に覆われている。    校舎は、赤い天蓋に仕舞われた祭壇だった。  それで、ようやく。  これが“そういうもの”だと受け入れた。 「――――!」  窓から離れる。  ふらつく足を、理性だけで抑えつけて目の前の教室に入る。  それが、結果だった。  机に座っている生徒は一人もいない。  生徒はみな床に倒れ、教壇にいたであろう教師も床に伏している。  ―――まだ息はある。    誰もが救いを求めるように痙攣している。  まだ死者はいない。  彼らは立ち上がれず、このまま朽ち果てていくだけの話。  その、無惨に倒れ込んだ彼らの有様を、    いつかの残骸に、重ねてしまった。 「あ――――ぐ――――」    吐き気が強くなる。  それでも、冷静に対応した。  倒れている生徒たちを観察する。  息が苦しい、といっても呼吸ができない訳じゃない。  体が衰弱しているだけなら、急げばまだ助けられる。    そうして身近な生徒の顔を確認した矢先、カチン、と頭の奥で音が鳴った。 「―――肌、が」    蝋みたいに、かたい。  全員という訳ではない。  個人差があるのだろう。衰弱が激しい生徒は、すっかり血の気を失い、指の関節から凝固しはじめていた。            てらてらと。  蝋細工みたいな腕と、光のない眼。 「――――――――」    知っている。  こういう光景は知っている。 「――――――――やめろ」    これはただの地獄絵図だ。  そんなものは昔から知っている。 「――――――――だから、やめろ」    故に、恐れの前に。  怒りだけが、この体を支配した。 「っ……!」  左腕が疼く。  手の甲に刻まれた令呪が、すぐ近くに“敵”がいるのだと知らせてくる。 「は、あ…………!」  乱れた呼吸のまま走った。  頭は、とっくに正気じゃなかった。 「いよう衛宮。思ったより元気そうで何よりだ。  どう、気に入ったかいこの趣向は」    廊下の先。  C組の教室の前に、間桐慎二は立っていた。  腕が疼く。  あそこで立っている男が元凶だと、令呪が訴えかけてくる。 「――――これはおまえの仕業か、慎二」    満足に呼吸もできず、立ち止まって離れた慎二を睨んだ。  ……その様がよほど気に入ったのか。  慎二は大げさに両手を広げて、赤い廊下で笑い声をあげた。 「そうだとも。おまえがやってきたのが判ったんでね、すぐに結界を発動させたんだ。タイミングには苦労したんだぜ? なにしろあんまり早すぎると逃げられるし、遅すぎると顔を合わせるからさ。  僕としちゃあ衛宮が顔面蒼白になるのを見たかったワケだし、単純に事を起こすのだけは避けたかったんだ」 「―――そうか。話があるっていうのは、嘘か」 「話? 話はこれからさ。僕とオマエ、どちらが優れているか遠坂に思い知らせないといけないし、衛宮には嘘の謝罪をしないといけないからね。  ほら。衛宮には黙ってたけど、学校に結界を敷いたのは僕なんだ」  あははは、とおかしそうに慎二は笑う。 「――――――――」  それで。  こっちも、心底思い知らされた。 「あれ? 思ったより驚かないな。なんだ、この結界は僕じゃないって言ったのに、衛宮は信じてくれてなかったんだ。……あは、いいねいいね、おまえでも人を信じないなんてコトがあったワケだ!」    楽しげに笑う声が、〈錐〉《きり》になって〈頭蓋〉《ずがい》を刺す。 「――――――――」    言っておくが、十分に驚いている。  俺はただ、結界を張っているマスターは慎二かもう一人のどちらかだろう、と覚悟していただけだ。    ただそれだけ。  その甘い希望がこの結果だ。  あの時―――慎二がマスターと判った時点で、話を付けるべきだった。    だからこれは、俺の犯した間違いだ。 「……慎二、なんでこんなモノを仕掛けた。戦う気がないって言ったのも嘘だったのか」 「いいやあ、それは本当なんじゃない? 僕だってこんなモノを発動させる気はなかったんだ。コレはあくまで交渉材料だったんだよ。  爆弾をしかけておけば遠坂だっておいそれと僕を襲わなくなるし、万が一の切り札にもなるからね」 「……そうか。だが結界の発動にはまだ数日必要だと遠坂は言ってた。それはあいつの読み違いか?」 「ふん、遠坂らしい意見だ。けどさ、結界は完成していないだけでカタチはとっくに出来ているんだぜ? 単純に発動させる分には支障はないんだ。  ま、おかげで効果は薄いけどね。この分じゃ一人殺すのにあと数分はかかるんじゃないかな」 「―――――〈止〉《と》めろ」  吐き気はとうに収まっている。  はっきりと慎二を見据えて、それだけを口にした。 「止めろ? 何をだい? まさかこの結界を止めろ、だなんて言ってるんじゃないだろうな? 一度起こしたものを止めるなんて、そんな勿体ないコトできないな、僕は」 「止めろ。おまえ、自分が何をしているか分かってるのか」 「……苛つくな。おまえ、なに僕に命令してるわけ?  だいたいさ、これは僕の力じゃないか。止めるかどうかを決められるのは僕だけだし、止めてほしかったら土下座ぐらいするのが筋ってもんじゃないの? まったく藤村といいおまえといい、自分の立場が判ってないな」 「―――おい。藤ねえが、どうしたって」 「え? ああ、藤村ね。この結界が出来てからさ、あいつ結構動けたんだよ。他の連中がバタバタ倒れてるっていうのに、一人でよろよろしてるんだぜ?  でさ、倒れずにいた僕のところまでやってきて、救急車を呼んでとか言ってきたんだ。すごいよね、教育者の鑑ってヤツ?」 「けどそんな物呼ぶワケにはいかないし、呼ぶ気もないじゃない。藤村のヤツ、それでもしがみついてくるもんだからうざくなってさ、蹴り飛ばしてやったらピクリとも動かねえでやんの!  ははは、あの分じゃまっさきに死んだんじゃねえのアイツ!」 「――――――――」    完全に切り替わった。  遠坂は頭の中のスイッチを押すだなんて言っていたが、そんなモンじゃない。  ガギン、と。  頭の中で撃鉄が落ちて、完全に、体の中身が入れ替わった。 「――――最後だ。結界を止めろ、慎二」 「分からないヤツだね。おまえに頼まれれば頼まれるほど止めたくなんてなくなる。そんなに気にくわないんなら力ずくでやってみろよ、衛宮」 「―――そうか。なら、話は簡単だ」    つまり。  この結界を止める前に、おまえ自身を止めてやる。    体が弾けた。  体は火のように熱い。  慎二までの距離は二十メートルもない。  今の自分ならそれこそ一瞬だ。  体には、魔術回路を通した時とは比較にならない程の活力が〈漲〉《みなぎ》っている―――― 「ハッ、本当にバカだねおまえ――――!」    影が蠢く。  廊下の隅に沈殿していた影が、カタチをもって蠢き出す。  黒一色で出来た刃。  慎二へと近づく物を斬り伏せる、断頭台のような物。 「――――――――」    それがどんな魔術によるものかは知らない。  沸き立った影の数は三つ。  その程度なら――――      ――――止まる必要などない。  それがどのような威力を持っていようとも、当たらなければ意味がない。  ブン、と風を切って迫ってくる三つの刃。   「――――、バカはおまえだ慎二……!」    そんな物、セイバーの一撃に比べれば簡単に〈躱〉《かわ》しきれる―――! 「な……!?」    折り重なる三つの影の隙間を抜ける。  今の影には、なんら驚異は感じなかった。  なら問題はない。  直感的に死を予感させる物でなければ躊躇うな、とセイバーは教えてくれた。    ―――俺では防げない。    いや、躱すだけならなんとかなる。  だが確実に〈躱〉《かわ》し、かつ慎二に飛びかかるとしたら、うまく体が動いてくれるか分からない――――  迫り来る三つの刃。   「っ、ふ……!」    足を止め、慎二を見据えたまま、身を躱す事だけに専念する。  腹を刺そうと跳ね上がる一刃を左ステップで躱す。  ついで二刃、避けた左方向から回り込んで胸を狙う一撃に上体を逸らし、無防備なこめかみに伸び上がる三刃を、前に走りこむ事でやり過ごす……! 「――――問題ない、ちゃんと見えてる……!」    こんな物、セイバーの一撃に比べればドッジボールのようなものだ。 「チ……! この、生意気なんだよおまえ……!」    再度放たれる三つの影。    ―――今度は様子を見るまでもない。  一度目で速度と間合いは読めた、これなら問題なく回避できる――――!  折り重なる三つの影の隙間を抜ける。  危なげなものなど何処にもない。  今の影にはなんら驚異は感じなかった。  直感的に死を危惧させる物でなければ躊躇うな、とセイバーは教えてくれた。 「慎二――――!」    踏み込む。  慎二を守る影はない。  あと数歩、三メートルも踏み込めばそれで――― 「っ、やめろ、来るな……!」  逃げる慎二。  その背中に腕を伸ばした刹那。   「――――!」    全身に悪寒を感じて、〈咄嗟〉《とっさ》に腕を引っ込めた。    空を切る軌跡。  さっきまで俺がいた空間を断つ、黒い刃物。 「っ……!」  足が止まる。  何処から現れたのか、目の前には、  この毒々しい赤色さえ薄れるほど、禍々しい黒色の女性がいた。 「あ――――」  理性が恐れで停止した。  殺される。  考えたくないのに、無惨に殺されている自分の姿が脳裏に浮かぶ。    ―――それは。  先ほどの影なんて比較にもならないほど、明確な死の気配だった。 「い、いいぞライダー……! 遠慮するな、そいつはおまえの好きにしていい……!」  ライダーの姿が霞む。  俺は――――      ―――サーヴァント相手に勝ち目などない。    戦えば必ず殺される。  なら、その前に慎二を倒してライダーを撤退させるだけだ……! 「ハ…………!」    ライダーの威圧に臆する事なく廊下を蹴った。  慎二まではたった六メートル。  目前のライダーを一度でもやり過ごせれば、後は駆け寄って慎二を捉える事ができる……!  立ち塞がる黒いサーヴァント。  その一挙一動、あらゆる攻撃に対処できるよう神経を研ぎ澄ます。    ―――狙いは左側。  僅かに反応した拳は左。その初撃をなんとか躱して、壁とライダーの隙間を抜けて慎二へと走りぬける。    その姿が、掻き消えた。 「――――、え……?」    隙間を抜けるも何もない。  ライダーの姿は一瞬で視界から消え、目の前には、あまりにも容易く開けた路がある。  ――――まずい。    足を止めろ。  間違えた、アレほどセイバーが教えてくれたのに俺は解っていなかった。  前進など出来ない、  ライダーと対峙してはいけない、  たとえ一撃だけでも、躱す事を前提にした作戦など練ってはいけなかった……!    衝撃は背後から。  蜘蛛のように天井に張り付いたライダーは、三日月めいた軌跡を描いて、俺の延髄を串刺しにした。 「ひゅ――――、ぶ」    首から空気が漏れていく。  ライダーの腕のしなりは、本当にキレイだった。  水仙を愛でるような優雅さ。  水面に波紋一つ立てないような指の動きで、あっけなく、俺の命を摘み取ったのだ。 「ふん、手慣れたもんだね。  後ろから一突きなんて、まるで標本だ」 「加減はしてあります。この段階なら、治療を施せばまだ助かると思いますが」 「……おまえ、なに勝手に仕切ってんだよ。手加減しろなんて誰が言った? ……ったく。サーヴァントのクセに、ご主人様に意見なんかしてんじゃない」    ―――血が流れる。    どんなに肺を動かしても空気は吸えず、喉はヒューヒューと震えるだけ。 「では、この少年を助ける気はないのですね」 「ないさ。だいたい僕は治療魔術なんて使えない。そいつはもう死ぬだけなんだから、いい加減楽にしてやれよライダー」 「――――了解しました。私の結界で蝕むのではなく、直接喉を〈潤〉《うるお》すとしましょう」    じゃらり、と重い鎖の音が響いた。  ……体が少しだけ持ち上げられる。   「………………、あ」    ……血まみれの首に向けられる視線。  黒いサーヴァントはあくまで上品に唇を開き、  口付けるように、俺の首筋に歯を立てた。        ――――血が吸われていく。  ただでさえ少ない血が、一滴残らずライダーに奪われる。   「――――――――」    意識が遠退く。  ……吸血は安楽死に似ていた。  俺は痛みを感じる事なく、ゆっくりと、蜘蛛の毒に溶かされるように―――― 「っ――――!」    〈咄嗟〉《とっさ》に後退する。  今はまずい。  まずは態勢を立て直して、その後に結界を止めさせなければ―――― 「がっ……!?」  何が起きたのかさえ理解できず、ただ必死に後退する。 「は、あ、あ…………!」  恐怖で、目の前が真っ白になる。  何を恐れているのかさえ判らない。  それでも、判らないまま必死に腕をあげて、首筋だけを庇いきった。 「ずっ……!」    腕に刃物が突き刺さる。  骨を削るギチ、という鈍い音が、次は殺すと告げていた。 「は、く――――っ!」    逃げる。  背中を向ける余裕もない。  両手で急所だけを庇って、必死に後ろへ後ろへと逃げていく。 「ひ―――ぎ…………!!!!!」  ギチ。ギチギチギチギチ。  耳障りな音をたてて、刃物が体中を斬り裂いていく。  視界は、自分の体から巻き起こる血煙で塞がれていた。  その合間に。    視認さえ出来ぬ速さで迫る、ライダーの姿があった。 「ぎっ…………!」    斬りつけられる度に、自分とは思えない声がこぼれる。  それでも懸命に、何十回と死に至る一撃から命を拾って、必死に後ろへと逃げ続けた。 「は――――はあ、はあ、あ――――!」    自分が何をしているのか判らない。  ライダーの短剣を受けているのは俺の腕だ。  服はやぶれ、肉はとうにズタズタになっている。  それでも盾にはなるのか、首、眉間、心臓へと放たれる一撃を必死に受ける。  そこに自分の意志などありえない。  体は死にたくない一心で、必死にライダーの一撃に反応する。 「あ――――あ、は――――」    とうに息はあがっている。  目の前に迫る死の気配に急かされ、走っているだけのモノにすぎない。  いずれ力尽き、追いつかれて死ぬだけだ。 「ぐ――――あ、っ――――!」    だから彼女は言っていたのに。  サーヴァントと戦うな。衛宮士郎では戦闘にすらならないと。  それを聞いていながら、なぜ――――こんな事をしているのか俺は。今は一刻も早く慎二を捕まえて、このくそったれな結界を解かせなくちゃいけないっていうのに、なにを――――! 「なにしてるんだライダー。  もういいだろ、さっさと斬り殺しちゃえよ。どうせ何もできないんだからさ、そいつは」    勝ち誇った慎二の声。  それに頷いて、ライダーは一際大きく短剣を振り上げた。    ―――確実に脳天を狙った一撃。    避ける事などできない。  俺にできる精一杯の事は、せめて急所を外す程度だ。 「っ…………!」    肩口―――鎖骨の下に、短剣が突き刺さる。  一際高い金属音と、チィ、という舌打ち。   「え……?」    なんだ……? ライダーの短剣の先が、ボロボロと刃こぼれしている――― 「……驚いた。私の刃物では殺せない」  ライダーの動きが止まる。  その、ただ一つ生じた隙をどう生かすかと思考した刹那。   「――――なら、落ちて死になさい」    ハンマーで叩かれたような衝撃を受けて、窓から外にたたき出された。 「が――――」  腹に一撃、回し蹴りを食らっただけ。  それだけで体は大きく弾けて、窓を突き破って空中へと投げ出された。  地上三階。  もう放っておいても出血多量で死ぬだろうに、この高さからたたき落とされたらトドメになる。  否、すでに人間を数十メートル吹っ飛ばす一撃を受けた時点で、通常なら死に至ろう。   「ぁ――――あ」    腕を伸ばす。  まだ落下していないのか、それとも死の間際の錯覚なのか。  体は、未だ空に留まっている。 「ぁ――――なん、て」  何かにすがるように、懸命に腕を伸ばす。  空は赤く。  校舎はどくどくと脈打ち、生き物の胃のようだ。    ―――それを。    それを見過ごしたまま、このまま死ぬのか。    このまま。  このまま。  このまま。  このまま――――誰一人救えず、自分勝手に死ぬっていうのか――――! 「なん、て――――」    悔しさに歯を噛んだ。  勝てない。戦いにすらならない。それを、判っていた筈なのに間違えた。    体中の痛みなんて知らない。  ただ、怒りで内側からバラけそうなだけ。    ―――自分一人で出来ると。    セイバーには戦わせないといった結果が、コレだった。 「っ――――」    俺が馬鹿だった。  俺一人では誰も救えない。  本当にこの戦いを終わらせるのなら、初めからやるべきコトは決まっていたのだ。    ヤツは言った。  誰とも争わず、誰も殺さず、誰も殺させないのか、と。  自身が間違っていたと気づいたのなら、まず何を正し、誰を罰するかを決すべきだと。    ―――そして。    天を掴むように伸ばした俺の腕には、下すべき命を待つ令呪がある―――   「―――――来てくれ」    祈るように呟く。  俺の命なんてどうでもいい。  ただ、今はこの凶行を止める為に、   「いや―――来い、セイバァァァアアア!!!!」    渾身の力を込めて、自らの剣を呼んだ。    令呪が消えていく。  同時に出現する、空間のうねり。    文字通り、それは魔法だったのだろう。  空間に現れた波紋をぶち破るように、銀の甲冑に身を包んだセイバーが飛び出してきたのだから。 「がは…………!」  背中から地面に落ちた。 「あ――――は、あ―――…………!」  呼吸が止まる。  落下の衝撃でのきなみ内臓がイカレてしまう。  〈肋〉《あばら》の数本は折れたか、いいとこ〈罅〉《ひび》が入っただろう。 「あ――――っ――――」  それでも。  俺の体はちぎれる事はなく、血まみれだった両腕も、いまだもげずにくっついていた。 「シロウ……!」  ……セイバーが駆け寄ってくる。  感覚のない手足に鞭をうって、なんとか立ち上がり、無事だと見せる為に胸を張った。 「説明している暇はない。状況は判るなセイバー」 「待ってくださいシロウ。それは判りますが、その前に貴方の体を――――」 「ライダーを頼む。アイツは、おまえでしか倒せない」 「いけません、シロウの治療が先です。このままでは貴方が死ぬ」 「―――それは違う。先にやるべき事があるだろう」  俺の事なんかより、今は一秒でも早くライダーと慎二を倒す。  それ以外に優先すべき事なんてない。 「ですが、それでは」  セイバーはあくまでこちらの身を案じている。  ……嬉しくないと言えば嘘になる。  だが口論している暇はない。  セイバーが嫌がるのなら、二つ目の令呪を使うだけだ。 「っ…………」  こちらの決意が伝わったのか。  セイバーは仕方なげに言葉を飲んでくれた。 「判りました。マスター、指示を」 「ライダーを倒せ。俺は慎二を叩く」  そうなればセイバーに躊躇いなどない。  彼女は無言で頷き、そのまま、突風のように校舎へと走り出した。   「――――セイ、バー」    助けを求める。  空と地上の狭間、時が止まったかのような思考の海で、左手の刻印に望みをかける。    ―――落下まであと一秒。  常識の秤では逃れられぬ死を、あいつなら、必ず覆してくれると信じ、   「っ―――頼む、来てくれセイバー……!」    渾身の力を込めて、自らの剣を呼んだ。  令呪が消えていく。  同時に出現する、空間のうねり。    文字通り、それは魔法だったのだろう。  空間に現れた波紋をぶち破るように、銀の甲冑に身を包んだセイバーが飛び出してきたのだから。 「マスター――――!?」  銀の甲冑が駆け抜ける。  突如校庭に現れたセイバーは、この事態に驚くより早く落下する俺を認め、 「っ、ふ……!」  地面に叩き付けられる直前で、俺の体を受け止めてくれた。 「ぁ……ぐ……すまんセイバー、助かっ、た」  血まみれのまま、なんとか地面に降りる。  落下を免れたとは言え、ライダーに切り刻まれた体はとっくに限界を迎えている。 「は――――、あ―――、っ……!」  だが倒れてなどいられない。  感覚のない手足に鞭をうって、無事と見せる為に胸を張った。 「―――説明している暇はない。状況は判るなセイバー」 「待ってくださいシロウ。それは判りますが、その前に貴方の体を――――」 「ライダーを頼む。アイツは、おまえでしか倒せない」 「いけません、シロウの治療が先です。このままでは貴方が死ぬ」 「―――それは違う。先にやるべき事があるだろう」  俺の事なんかより、今は一秒でも早くライダーと慎二を倒す。  それ以外に優先すべき事なんてない。 「ですが、それでは」  セイバーはあくまでこちらの身を案じている。  ……嬉しくないと言えば嘘になる。  だが口論している暇はない。  セイバーが嫌がるのなら、二つ目の令呪を使うだけだ。 「っ…………」  こちらの決意が伝わったのか。  セイバーは仕方なげに言葉を飲んでくれた。 「判りました。マスター、指示を」 「ライダーを倒せ。俺は慎二を叩く」  そうなればセイバーに躊躇いなどない。  彼女は無言で頷き、そのまま、突風のように校舎へと走り出した。    ―――ダメだ、ここで令呪は使えない。  そう、一瞬だけ心が躊躇した。  マスターとして未熟な自分にとって、令呪は三回しか使えない切り札だ。  それを考えなしに使う訳にはいかない、と冷静に思考した直後。 「―――――――?」    背中から落ちた。  三階から蹴り落とされ、地面に落下した。  ―――致命傷か、と言えば致命傷になるだろう。  受身を取って頭からぶつかるのは避けたが、全身の骨が砕けてもおかしくはなかった筈だ。 「――――なん、で?」    血が流れている。  だがそれは胸からだ。  背中はまったくの無傷で、俺の体は落下の衝撃に耐え切ったはずなのに、どうして、      空を仰いだ胸から、                   こんな、                    奇怪なモノが飛び出しているのか。 「ハ――――、ず」    胸が展開している。  剣の刃らしきものが、胸の中から外に向けて咲いている。  まるで体内に爆弾がしかけられていて、落下の衝撃でスイッチが入ってしまった感じ。   「セ――――セイ、バー――――」    説明がつかない。  風穴の開いた胸。  ささくれだったアバラ骨のように、俺の〈腹〉《なか》から突き出した剣の群。  それを呆然と見つめながら、体は少しずつ溶けていく。   「ぁ―――、あ。早く、止め、なく、ちゃ――――」    体が動かない。  バーサーカーの一撃さえ治癒してくれた奇跡は、この剣の群には効果を成さないようだ。    思考が切り裂かれていく。  令呪を使おうにも、既にそこに何があるかも判らなくなっていた。 「……………………」    一度だけ、大きく呼吸をする。  吸い込んだ空気は痛く。  逆流した血を吐いて、鉛の心臓は停止した。  ―――階段を駆け上がる。    ライダーと慎二がいるのは三階だ。  慎二が三階に留まっているのは令呪の反応で判る。  三階の廊下にあがった瞬間、火花が散った。   「ライダーか……!?」    俺には見えなかったが、セイバーは頭上から奇襲してきたライダーを捉え、その攻撃を弾き返したようだ。 「―――シロウ、ライダーはここで倒します。  貴方はライダーのマスターを……!」  言われるまでもない。  セイバーならライダーに後れを取る事はない。  それはライダーと戦って、彼女の力量を僅かでも感じ取った故の確信だ。  セイバーの戦闘能力は、ライダーのそれを大きく上回っている。 「任せた……! だが深追いはするな、慎二を止めればそれで終わる……!」    セイバーの脇をすり抜けて走る。  すかさず俺を仕留めにくるライダーの短剣と、それをライダーごと弾き返すセイバーの一撃―――!  廊下を走る。  視線の先にはうろたえる慎二の姿。   「……さすがに手ぶらじゃ不利か――――!」    武器になるとしたら長柄のモノ、例えば―――このロッカーに入っているモップぐらい……! 「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    走りながら魔力を通す。  雑念が無い為か、それとも余分な事をするだけの体力がないのか。  まるで息をするような自然さで、プラスチック製のモップを“強化”する――――  影が沸き立つ。  あれほど傷つけられたというのに、体に鈍さは感じない。  加えて、今は武器すらある。  ならば。  もはや躱す必要さえない。  襲いかかってきた影をすべてモップで叩き斬る。  モップはそれで折れたが、急造の武器では仕方ないだろう。  それに、ここまでくればそんな物も必要ない―――! 「慎二――――!」 「ひ――――!」  真っ正面から殴りつけた。  ズタズタに裂かれた腕は、それだけで失神しかねない痛みを生んだ。  慎二の腹を殴って、そのまま壁に押しつける。 「く、この……!」  俺の腕を振り解こうと手を伸ばす慎二。  その腕を、ノータイムで蹴り飛ばした。  ―――自分でも、自分がコントロールできない。  蹴った腕を壁に押しつけ、そのまま折った。 「あ―――つあ、いああああああ……!!」  慎二の悲鳴もよく聞こえない。 「――――っ、――――」  ……まずい。  気を抜けばこっちが意識を失いそうだ。  まだ手足が動くうちに、早く―――― 「ひっ……!」  慎二の髪をつかみ、そのまま壁に押しつける。 「―――悲鳴は後だ。いますぐ結界を止めろ、慎二」 「ふ―――ふざ、ふざけるな、誰がおまえなんか、の」  まだ動く腕で慎二の喉を掴む。  ぽたり、と。  服に染み込んだ血が、慎二の体を汚していく。 「なら結界の前におまえの息の根を止めるだけだ。どっちでもいいぞ、俺は。早く決めろ」    喉を握った腕に力を込める。  ―――体内に巡った魔力のおかげだろう。  この程度の首なら、なんとか折るぐらいは出来そうだ。 「は―――デタラメだ。おまえにそんなコトできるもんか。そ、それに僕はまだ誰も殺してないぞ。ただみんなから少しだけ命を分けてもらっただけ――――」 「―――わかった。じゃあな、慎二」  腕に力を込める。  躊躇いはしない。  だが、わずかだけ同情があった。  相手が同じ魔術師なら、殺す事に抵抗なんてないのだと―――そんな魔術師の初歩さえ、慎二は教われなかったのだから。 「ま――――待て! 待ってくれ、わかった、僕の負けだ衛宮……! 結界はすぐに止める、止めるから……!」 「………………」  喉に込めた力を緩める。 「っ―――はぁ、はぁ、はぁ……くそ、ばか力出しやがって。……おいライダー! ブラッドフォートを止めろ!  マスターの命が危ないんだぞ……!」 「――――――――」  ライダーからの返事はない。  ただ、今の言葉でセイバーはライダーから一歩引いている。  ライダーは短剣を下げ、かすかに唇を動かす。 「……これでいいんだろう。この結界は特殊らしくてね、一度張った場所にはそう簡単に張り直せないらしい。  ……もうここに結界を張る事はないんだから、その手を離せよ」 「そうはいくか。勝った以上はこっちの言い分に従ってもらう。―――慎二、令呪を捨てろ。そうすれば二度と争う事もない」 「な―――ふざけるな、そんな真似ができるもんか!  令呪がなくなったらライダーを従えられない。そうなったら、僕は―――」 「マスターでなくなるんだろ。なら新都の教会に行けばいい。戦いから下りたマスターを保護してくれるそうだからな。  ……それともなにか。身を守る為に結界を張ったっていうのは嘘か?」 「っ……別にそんなコト言ってないだろ。僕はただ、マスターになって、サーヴァントを従えていれば」    魔術師になれる、と思ったのか。  ……けどそんなもの、なったところで何の意味があるっていうんだ。 「―――ここまでだ慎二。令呪を捨てないのなら、俺が剥ぎ取る」 「え……? 剥ぎ取る……?」  慎二は心底不思議そうに首を傾げる。  それは芝居なんかじゃなく、慎二は本当に俺の言っているコトが判らないようだった。 「いや、だから――――」 「シロウ、離れて……!」  セイバーの声。  道場でさんざん教え込まれた賜物か、セイバーの叱咤に、脳より体が先に反応した。  慎二から手を放して後ろに跳ぶ。  同時に、俺がいた場所にライダーの短剣が振るわれる。 「ラ、ライダー……!?」 「―――下がりなさいマスター。この場から離脱します」 「シロウ、下がって……! ライダーは結界維持に使っていた魔力を全て解放するつもりです……!」 「……!? 魔力を解放する……!?」  見れば、確かにライダーの様子はおかしい。  セイバーと対峙していた筈の彼女が突如ここに現れた事といい、全身から放たれる冷気といい、今までのライダーとは威圧感が段違いだ。 「ラ、ライダー……!? なに考えてんだおまえ、衛宮のサーヴァントにさえ勝てないクセに勝手なコトしてんじゃない……!」 「はい。確かに私ではセイバーに及びません。  ですがご安心を。我が宝具は他のサーヴァントを凌駕しています。たとえ相手が何者であろうと、我が疾走を妨げるコトはできない」  ライダーの短剣が上がる。 「な――――」  居合わせた者、全てが驚きで声を漏らした。  あろうことか、ライダーは自らの首筋に短剣を押し当て――――    それを、一気に切り裂いた。  ……飛び散る赤い液体。  黒い装束に身を包んだライダーの白い首筋から、血が噴き出していく。 「な――――なに、を」  マスターである慎二でさえ、ライダーの行動に息を呑んでいた。  サーヴァントが人並み外れていると言っても、アレでは致命傷だ。  ライダーは大量の血を失い、自ら消滅するだけではないのか。 「っ……!?」    まき散らされた血液は空中に留まり、ゆっくりと陣を描く。    それは、血で描かれた魔法陣だった。  見たこともない紋様。  たとえようもなく禍々しい、生き物のような図形。  ……ライダーが生み出した、強大な魔力の塊。  さきほどの結界など、この魔法陣に比べれば子供騙しとさえ思える。 「な……!? か、体が押し戻され、る――――」    あまりに強大な魔力が漏れているのか。  強い風に押されるように、体がじりじりと下がっていく。 「シロウ、離れて……! ライダーは宝具を使う気です、そこにいては巻き込まれる……!」    言って、セイバーは俺を強引に引っ張った。  彼女は俺を庇いながら、ライダーの魔法陣と対峙する。 「―――逃げるつもりかライダー。  自身のマスターをも巻き込むというのなら、ここで引導を渡すだけだ。そのような宝具を使わせはしない」 「……ふふ。まさか、マスターを守るのがサーヴァントの役割でしょう。私はマスターを連れて逃げるだけよ。  それが気にくわないのなら追ってきなさいセイバー」 「もっとも―――これを見た後でも、貴方に戦う気迫が残っていればの話ですが」    ―――鼓動が聞こえる。  ぎちり、と肉をこじ開けるような音と共に、ライダーの髪が舞い上がり―――   「っ…………!」 「シロウ、屈んで……!」  セイバーに手を引かれ、地面に倒れ込む。  轟音と閃光。  吹き荒れる烈風に目を閉じる。  だが、目を閉じていようと否応なしに感じさせられた。  通り過ぎていった白い何か。  巨大な光の矢じみたものが、とてつもないスピードで廊下を駆け抜けていったのだと―――― 「――――――――」    そこにあるのは無惨な破壊の跡だった。  慎二とライダーの姿はない。  ……今の光は俺たちを狙ったものではなく、あくまでここから離脱する為だけの物だったらしい。 「っ―――――――」    傷が痛む。  カチン、と頭の中で打ち付けられていた撃鉄が戻っていく。  体を〈奔〉《はし》らせていた熱が、急速に冷めていく。   「シロウ……?」    セイバーの問いかけも、もう聞こえない。  意識は、そのまま白い闇に落ちていった。          ……その夢を見る。  これが自分にとっての『死』のイメージなのか。  死に近づけば近づくほど、見る気のない光景が蘇る。      動かなくなり崩れて消えていく人々。  誰もが助けを求め、助けなどなかった時間。  あれは苦しかった。  苦しくて苦しくて、生きている事さえ苦しくて、いっそ消えてしまえば楽になれるとさえ思った。    朦朧とした意識で、意味もなく手を伸ばした。  助けを求めて手を伸ばしたのではない。    ただ、空が遠いなあ、と。    最期に、そんな事を思っただけ。    そうして意識は消えかけ、持ち上げた手はパタリと地面に落ちた。    ……いや。  落ちる、筈だった。    力無く沈む手を握る、大きな手。  そいつはあの火事の中、誰でもいいから誰かを助けようとやってきて、この俺を見つけたのだ。    ……その顔を覚えている。  目に涙を溜めて、生きている人間を見つけ出せたと、心の底から喜んでいる男の姿。    ―――それが、あまりにも嬉しそうだったから。    まるで、救われたのは俺ではなく、男の方ではないかと思ったほど。    そうして。  死の直前にいる自分が羨ましく思えるほど、男は何かに感謝するように、見知らぬ子供を助け出した。  ―――それが転機。    死を受け入れていた弱さは、生きたいという強さに変わった。  何も考えつかなかった心は、助かったという喜びだけで埋め尽くされた。  俺は男の手を離さないよう、出来る限りの力を込めて指を動かし、そのまま意識を失った。    その後、気が付けば病院にいて、自分を救った男の面会を受ける事になる。    それが十年前の話。  それからの衛宮士郎はただ切嗣の後を追っていた。  あいつのようになるのだとしか思えなかった。  助けられたから、という事じゃない。  あの時の顔が忘れられず、その幻影を〈被〉《かぶ》ろうとした。    そうなれる事を目標にして走ってきた。  心の何処かで、気づかないようにと夢見ていたんだ。          そう―――いつかは、自分も。  あの時の切嗣のように笑えるのなら、それはどんなに、救われるのかと希望を抱いて―――― 「――――――――」    ……目を開けると、そこは見慣れた居間だった。  時計の音が、やけにうるさい。  床に寝かされているらしく、腕をあげてみると、両腕は包帯でグルグル巻きにされていた。 「――――外、暗いな」    体を起こす。  時計は夜の十時を回っていた。 「外、暗いな―――じゃないわよ、この恩知らず。目が覚めたらまず言うべき事があるんじゃない?」 「―――遠坂。なんだ、いたのか」 「いたのか、じゃないわよ。  アンタの真横でずっと看病してやってたのに、随分な態度じゃない」    ……そうだったのか。  それは、悪い事をしてしまった。 「すまない。どうも頭が固まってる。うまく物事を考えられないんだが……とにかくありがとう、遠坂。またおまえの世話になっちまった」 「っ――――ま、まあ別に大した事じゃないからいいけど。士郎もあれだけの怪我だったんだから、意識が朦朧としてるのも当然だしさ」 「……で、痛いところはないの? とりあえず外傷は塞がってるけど、中身までは判らないから。異状があるんなら手当しないとまずいでしょ?」 「――――いや。だるいだけで、痛むところはない。  ただ、なんだか―――」  宙に浮いている感じがする。  自分がここに居る経緯が判らない。  今日一日、何をしていたのか思い出せな―――― 「――――! 遠坂、学校は!? 俺はあの後どうなったんだ……!?」 「大丈夫、みんなの事は安心なさい。学校には綺礼がフォローにいったから。  廊下の補修とか事後処理はあいつがするから考えなくていいわ。あれでも神職なんだし、これぐらいさせなきゃバチがあたるでしょ」 「―――あいつが? それじゃあ、学校の方は」 「大事にはなってないわ。病院に運び込まれた生徒は多いけど、命に別状はないみたい。みんな栄養失調って事で、二、三日病院で休む程度だって」 「――――そうか、それは」  良かった。  結界を解くのは遅くなったが、間に合わなかった訳ではなかったんだ。  安心した途端、全身から力が抜けた。  ほう、と大きく息を吐いて、壁に背中を預ける。 「……じゃあ俺の体の方も、言峰が治してくれたのか?  いくら遠坂でも、あれだけの傷は治せないだろ」 「なに言ってるのよ。それはアンタが勝手に治したの。  バーサーカーの時と一緒。とりあえず傷を塞ぐだけなら超がつくほどの回復力だけど……貴方の方には覚えはないのよね?」 「あるわけないだろ。俺だって訳が判らないんだ。セイバーと契約するまでは、普通の体だったよ」 「……ふーん。もしかして自分が知らないだけで、祖先がトカゲだったとかない?」 「…………あのな。真剣な顔でそういう怖い冗談は言わないでくれ。俺だって気持ち悪いんだぞ。自分の体が、自分の知らない物になってるようなものなんだから」 「いいんじゃない? 何はどうあれ、それで何度も命を長らえてるんだから。  もう二回も助けられた事だし、トカゲになるぐらいは妥協できる交換条件だと思うけど?」 「……遠坂。重病人をいじめて楽しいのか」 「さっきまで重病人だった人、でしょ。  ま、ともかくセイバーに感謝しなさいよね。理屈は判らないけど、士郎の体がそうなったのはセイバーのおかげなんだし」 「――――あ」  それで、粗雑になっていた頭にようやく喝が入った。  いま自分がやるべき事。  彼女に助けられ、彼女を必要とした自分が、一秒でも早く告げなくてはいけない言葉がある。 「くっ――――」  すぐに立ち上がる。  さすがに動くと体の節々が痛んだが、そんな事を気にしていられない。 「遠坂、セイバーは?」 「道場にいるわ。わたしは部屋に荷物取りに行ってくるわね」  遠坂は軽い足取りで別棟へ向かっていった。 「痛っ……」  きしきしと関節が痛む。  歯を食いしばって我慢して、とにかく道場へと歩を速めた。  道場に辿り着く。  セイバーは一人、瞑想するように正座をしていた。 「シロウ……!? 目が覚めたのですか!?」  入ってきた俺に気が付いたセイバーは、すぐさま立ち上がってズンズンと大股で近づいてきた。 「すまない、いま気が付いたんだ。それで、セイバー」 「すまない、ではありません! 貴方には言いたい事が山ほどある……! 私を置いて敵の誘いに乗った事、一人で戦おうとした事、自身の体を気遣おうともしなかった事……!」 「解っているのですか、そのどれもが死に直結する愚行です! いや、実際貴方は死にかけていた。こうして私を追いつめて何が楽しいのです……!」 「あ――――いや、その」 「なんですか! 生半可な弁明では引き下がりません。  今日という今日は、とことん貴方の考えを聞かせていただきますから!」  があー、と食ってかかってくるセイバー。  それは確かに迫力があったのだが、なんていうか、ここまで感情をむき出しにしたセイバーを見るのは、嬉しかった。 「……分かってる、ちゃんと話す。  だから話をしよう、セイバー。体の方はこの通り大丈夫だからさ」 「え……シロウ、持ち直したのです、か?」 「ああ、そうみたいだ。とりあえず、生き延びてる」 「そうですか―――それは、良かった」  さっきまでの剣幕は何処にいったのか。  セイバーは心底安心したように息をついて、俺の無事を祝うように、柔らかに笑った。 「――――――――」  ……痛感する。あの無表情なセイバーにそんな顔をさせるほど、俺は彼女を不安にさせていたんだ。  俺は彼女に頼ろうとしていなかった。  それでも彼女は、そんな俺を共に戦う者だと受け入れていた。 「――――――――っ」    ……俺が、バカだった。  こんな純粋な信頼に気づかず、  彼女に戦わせるという単純な信頼さえ、おけなかったのだから。 「セイバー」  自然に声が出る。  今まで目を合わせる事も照れくさかった相手を、本当に自然に、真っ正面から見つめられた。 「……はい? なんですか、シロウ?」 「――――すまない。俺が、バカだった」  頭を下げる。 「な……シロウ、やめてください。先ほどのは言葉のあやです。怒っていたのは確かですが、貴方に謝ってもらう必要は――――」 「ある。パートナーとして、セイバーに謝るのは当然だ。  心配させてすまなかった。セイバーといる限り、俺は二度と一人では戦わない」 「――――シロウ、それは」 「ああ。セイバー、おまえの力を貸してくれ。  俺一人じゃ他のマスターには勝てない。俺には、おまえの助けが必要だ」 「……それでは、今までの行動が間違いだったと認めるのですね? シロウはマスターとして後方支援に徹し、戦うのは私の役割だと」 「―――――――」  いや、今だって、セイバーの傷つく姿は見たくない。  その為に彼女が戦うのを禁じてきた。  ……間違えていたのはそこだ。  彼女と共に戦うと決めたのなら、俺は全力で、彼女の力になれば良かったんだから―――― 「……いや。俺は自分が間違っていたとは思わない。  セイバーが俺を守るなら、俺もセイバーを守る。セイバーだけを戦わせるなんて事は、出来ない」 「――――――――」  ……セイバーは答えない。  道場には冷たい空気だけが流れていく。 「――――――――」  ……それでも、これだけは譲れないのだ。  こうなったらセイバーに許して貰えるまで頼み込むだけだ、と顔を上げる。  と。 「……はあ。その頑なさは、実に貴方らしい」 「え……? その、セイバー?」 「まったく、いまさら答えるまでもないでしょう。  私は貴方の剣です。私以外の誰が、貴方の力になるのですか、シロウ」  そう言って、セイバーは左手を差し出してきた。 「――――――――」  気の利いた言葉も浮かばず、左手を握り返す。  ……握り合う確かな感触。  出逢ってから数日経って、ようやく―――本当の契約というヤツを、俺たちは交わしていた。 「? なに握手なんてしてるの、二人とも?」  って。  なんでこのタイミングで現れるのだ、おまえというヤツはっ……! 「――――っ」  セイバーと二人、あわてて手を離す。 「? なんか怪しいわね。まさか、わたしに内緒で作戦会議をしてたとか?」 「いえ、そういう訳ではないのです。その、マスターの体が健康かどうか、脈を計っていただけですので」 「――――」  呆然。  セイバーが、すっごく怪しい嘘をついてる。  ……いや、そもそもなんでセイバーまで慌ててるんだ。 「へえ。変わった脈の取り方をするのね」  不思議そうにセイバーを見る遠坂。  慣れない嘘をついた為か、セイバーはますます挙動不審になっていく。  ……これは助け船を出さないと、おかしな事態になりかねない。 「おい、何の用だよ遠坂。部屋まで荷物を取りに行くとか言ってなかったか、さっき」 「あ、それそれ。はいセイバー、これ」 「ありがとう。凛には迷惑をかける」  遠坂は手提げ袋をセイバーに渡した。  ……受け取るセイバーは、これまた珍しく嬉しげな顔をしている。 「それが最後だから気を付けなさいよね。いくら強制召喚だからって、力ずくで武装したら服なんて消し飛ぶんだから」 「申し訳ありません。突然の事だったので、そこまで考えが回らなかったのです。それでも、凛が同じ服を持っていてくれて助かりました」 「まあね。単純なデザインだし、制服みたいなものだし。  綺礼のヤツ、地味な服ばっかりわたしに押しつけるんだもの。……ま、わたしには似合わない服だからいいけどさ。なんだってその服にこだわるのよ、セイバー」 「―――ええ。シロウが似合うと言いましたから」  事情はよく掴めないが、セイバーの服はあれで三着目らしい。  うちには女物なんてないし、セイバーは遠坂に衣服を借りている訳だ。 「…………」  しかし、その。  そういう女っぽい話は、俺のいないところでしてくれるとタイヘン有り難い。  俺だって男だし。  せっかく真面目な話をしていたのに、そんな話をされたら気が抜けて仕方がないじゃないか―――  そうしてこれといった出来事もなく、遠坂とセイバーによって強引に寝かされた。  意識が戻ったとはいえ、俺の体は重傷のままだ。    ライダーに切り刻まれた両腕は、本当なら動かなくなる事を覚悟しなければならないほどの傷であり、三階から落下した〈体〉《ほね》は〈罅〉《ひび》と歪みだらけだ。    考える事は山ほどあるだろうが、今は眠って体を治せ、というのが二人の共通見解らしい。 「………………」    だが、取り逃がした慎二との決着は一日でも早くつけなくてはならない。  慎二は躊躇もなくあの結界を発動させた。  そんなマスターを野放しにする事がどれほど危険かは、俺にだって判っている。 「…………くそ……眠ってる場合じゃない……ん……だけど」    目眩のような空白。  ……元に戻ったのは頭だけだ。  横になった途端、癒えきっていない体は貪欲に眠りを求めてくる。 「っ……明日……明日に、なったら――――」    ……こうして休んでなどいられない。  たとえ体が治りきっていなくとも、逃げていった慎二を捕まえなければ――――          ……夢を見ている。  血が熱をおびて、体中が脈動しているせいだろう。  思い出す必要のない光景を、また、こんなふうに繰り返している。    それは今の〈衛宮士郎〉《じぶん》にとって、一番古い記憶だった。  同時に、一生切り離せない記憶でもある。  普段は思い返す事もないクセに、決して消し去れない十年前の光景。  忘れていた訳でもない。  忘れたい訳でもない。  自分にとって、それは起きてしまった出来事にすぎなかった。    だから特別、痛いと思う事もなく。  それは殊更、怒りに震える事でもない。    過ぎ去ってしまった事は、もうそれだけの話だ。  やり直す事は出来ないし、引き返す事だって出来ない。  この光景から抜け出して、衛宮士郎は今もこうして続いている。  そんな自分に出来る事は、ただ前を見る事だけだ。    ……誰に教えられた訳でもない。  ただ漠然と、幼い頃から思っていた。    過去を忘れず、否定せず。  ただ肯定する事でしか、失ったモノを生かす事などできないのだと―――― 「あ―――つ」    自分の体の熱さで目が覚めた。  結局、部屋に戻らず夜風を浴びているうちに眠ってしまったのだろう。    薄暗い土蔵には俺と―――― 「っ、セイバー……!?」 「目が覚めましたかシロウ。部屋を抜け出すのはかまいませんが、ここで眠るのはだらしがないのではありませんか」 「あ、おはよう。いや、昨夜は体が熱くて、外に出ていたらつい眠くなっちまったんだ」 「見れば判ります。説明はいいですから、次からは気を付けてください。マスターにこのような場所で休息を取られては、私の立場がありませんから」 「う……すまん、今後は出来るだけ部屋で休む」 「分かっていただければ助かります。  ところでシロウ。先ほどから大河が呼んでいるのですが」 「藤ねえが……? 呼んでるって、なんでさ」 「朝食の問題ではないでしょうか。朝食の時間はとうに過ぎていますから」 「え―――うわ、もう七時過ぎてるのか……!? やばい、寝過ごした……!」 「そうですね。シロウが最後に起きるのは珍しい。よほど昨夜の凛との鍛錬が堪えたのでしょう」  冷静に事態を分析するセイバー。  が、こっちにそんな余裕はない。 「起こしに来てくれて悪いが、先に戻っていてくれ。俺もすぐに着替えて台所に行くから」 「はい。それでは、できるかぎり大河をなだめているとしましょう」  セイバーは落ち着いた足取りで去っていった。    しかし藤ねえをなだめてるって……セイバーも随分とうちの朝に順応したなぁ……。  台所に駆け込む。  背中に浴びせられる藤ねえのバリゾーゴンを聞き流しながら、ざっと五分足らずで朝食の用意をした。 「お待たせ。学校の門限まで時間がないからな、手早く食べちゃってくれ」  ことん、とテーブルに朝食を置く。 「な――――」  と。   「なんじゃこりゃーーーっ!!」    ずがーん、と気炎をあげる藤ねえが一人。 「なにこれ、焼いたトーストだけじゃない! 士郎、なんで今日の朝ごはんこれだけなのよぅ……!」 「……あのな、仕方ないだろ寝坊したんだから。他のもの作ってる余裕なんてないし、だいたいパン食なんてこんなもんじゃないか。たんにサラダと卵焼きがないだけなんだから、そう大差ないぞ」 「大差なんてありますっ!  ね、みんなもそう思うでしょ!?」  無言で朝食を摂っているセイバーと遠坂に声をかける藤ねえ。  だが甘い。  二人とも藤ねえほど食い意地は張ってないんだ。同意なんてとれるもんか。 「……そうね。藤村先生じゃないけど、こんな手抜きは容認できないかな。パン食を舐めてるとしか思えないわ」  ……って、ちょっと待て。  おまえ、もとから朝食は摂らないスタイルじゃなかったっけ。 「……………………ふう」  うわ、なんだその、あからさまに失望したような溜息は!? セイバー、なんかキャラ違ってないか!? 「ほら、みんな士郎が悪いって。多数決で決定したから、反省した〈後〉《のち》ちゃんとした朝ごはんを提供すること」 「そんな出来レースに従えるかっ! そもそもな、今からおかずなんて作ってたら遅刻するぞ藤ねえ。もう七時半なんだから、パンかじりながら走ってかないと間に合わないから諦めろと提案するっ!」 「いいよ。わたし、遅刻か空腹かの選択なら、朝ごはんを尊重するから」 「するな! そんな教師が何処にいる……! いいからさっさと食べて学校に行けっての。言っとくけど、俺は意地でもこれ以上のメシは用意しないからなっ」 「むー。もう、士郎ったらヘンなところで真面目なんだから。そんな爺くさいコトいってると、すぐお爺さんになっちゃうんだからね」 「言われるまでもない。藤ねえのおかげで俺はすっかり爺さん趣味だよ」  ふん、と言い返してトーストをかじる。  ……いや、まあ実際。  これだけの人数が顔を合わせているっていうのに、朝食がパンだけというのは寂しいものがあるんだけど。  こんばんはー! 即死大好きな貴方の味方、ヒントコーナー・タイガー道場でーす! 一番弟子のイリヤでーす! 本編もそろそろ中盤。士郎も戦う気になってくれてお姉ちゃん嬉しいな。 けどこの選択は困りものだぞ? ちゃーんとセイバーちゃんのアドバイスを聞いてたかな? 聞いてるワケなーい! セイバーとかリンとか、いちいち説明が多いんだもの。わたし、面倒だから修行シーンはスキップしてたわ。 このバカ弟子。 いたたた……も、申し訳ありませーん、ちょっとウソですー。 まったく。いい、よっぽどの窮地でないかぎりサーヴァントとの直接対決は避けるコト。 耐えていればチャンスはあるわ。今は我慢に徹して、しばらく相手の好きにさせるべし。 押忍、分かりました。  ところで師しょー。道場に来るたびにスタンプ押してるけど、これってなんなの? それはタイガースタンプよ。集めるとそれなりにいい気分になり、自分がどれだけシナリオをこなしたかが分かるいい目安ってところかな。 で、それを全部集めると……。 集めると? なんと、画面が肉球でいっぱいになります!  怖っ! きゃー! パーフェクトワールド! そんなワケなので、あんまり無理して集めても責任はもてません。  それじゃあまた、次のタイガー道場で待ってるよー! 待ってるっすー! 待ちなさいタイガー! 貴方、冷蔵庫に隠しといたフルールのケーキ食べたでしょう! へーんだ、大事にとっておく方が悪いんでーす!  賞味期限って日本語知ってるか弟子一号ー! 知るかー! いいからケーキ返せおおとらー! ふははは、すでに消化したものは返せないのだ。 つーかイリヤちゃん、あの真っ赤なパンケーキにラズベリーをたっぷりのせた、なんか人体解剖っぽいケーキは趣味悪いと思うの。 あれ、ホントにフルールのケーキ? そうよ? 商品名ラフレシアアンブレラ。  世界最大の花・ラフレシアをモチーフにしたモンスターでデッドリーな新製品なんだって。 なんでも腐った香りを出すために、バラの花びらじゃなくて直接ラフレシアの花を使ってるとか。 げ。どうりで食感がステーキ似だと思った。  ……フルールの経営も行き詰まってるわね。甘味処が新製品を乱造するようじゃ末期だわ。 あれ? あのケーキおいしくなかった? 見た目真っ赤で、すごくキレイだったんだけど。 あー……イリヤちゃんは、まずその美的感覚をなんとかしないとね。 と、ケーキの話はここまで!  不条理な三択の前に屈した貴方を救うQ&Aコーナー、タイガー道場はじめるわよ! 押忍、じゅんびばんぜんであります、師しょー! うむ。それでは今回の死亡状況は…… あー、転落死かあ。いくら怪しげな自然治癒能力が備わったからって、三階から落ちれば死ぬかな? くす。ついでにいうと、フツーだったらライダーの回し蹴りでお腹突き破られて即死かな。 うーん、つくづくダイハード。 士郎はいつ殺されてもおかしくないんだから、選択肢で『令呪を使う』なんてものが出てきたら、迷わず使っといた方がいいわよ? そんなワケで、直前の選択肢に戻ってやり直し!  さっさとセイバーちゃんを呼び出して、あのセクシー戦闘お姉さんをやっつけてあげなさい!(セクシー……!?)   ……目覚めは暗い。  夢は見ない性質なのか、よほどの事がないかぎり、見るユメはいつも同じだった。  ……イメージするものは常に〈剣〉《つるぎ》。  何の因果か知らないが、脳裏に浮かぶものはこれだけだ。  そこに意味はなく、さしたる理由もない。  ならばそれが、衛宮士郎を構成する因子なのかもしれなかった。  見る夢などない。  眠りに落ちて思い返すものなど、昔、誰かに教わった事柄だけだ。  たとえば魔術師について。  半人前と言えど魔術師であるのならば、自分がいる世界を把握するのは当然だろう。  端的に言って、魔術師とは文明社会から逸脱した例外者だ。  だが例外者と言えど、〈群〉《むれ》を成さねば存在していられない。  〈切嗣〉《オヤジ》はその群、魔術師たちの組織を“魔術協会”と教えてくれた。  ……加えて、連中には関わらない方がいい、とも言っていたっけ。  魔術協会は魔術を隠匿し魔術師たちを管理するのだという。  ようするに魔術師が魔術によって現代社会に影響を及ぼさないように見張っているのだが、魔術の悪用を禁ず、という事でないのが曲者だ。  切嗣曰く、魔術協会はただ神秘の隠匿だけを考えている。  ある魔術師が自らの研究を好き勝手に進め、その結果、一般人を何人犠牲にしようと協会は罰しない。  彼らが優先するのは魔術の存在が公にならない事であって、魔術の禁止ではないのだ。  ようはバレなければ何をしてもいいのだという、とんでもない連中である。  ともあれ、魔術協会の監視は絶対だ。  たいていの魔術研究は一般人を犠牲にし、結果として魔術の存在が表立ってしまう。  故に、一般社会に害をなす研究は魔術協会が許さない。  かくして魔術師たちは自分の住みかで黙々と研究するだけにとどまり、世は全て事もなし――――という訳である。  魔術師が自身を隠そうとするのは、〈偏〉《ひとえ》に協会の粛清から逃れる為なのだとか。  ……だから、本当は俺が知らないだけで、この町にだって魔術師がいる可能性はある。  なんでも、冬木の町は霊的に優れた土地なのだそうだ。  そういった土地には、必ず歴史のある名門魔術師が陣取っている。  〈 管理者、〉《セカンドオーナー》と呼ばれる彼らは、協会からその土地を任されたエリートだ。  同じ土地に根を張る魔術師は、まず彼らに挨拶にいき、工房建設の許可を貰わねばならないらしい。  ……その点で言うと、〈衛宮〉《うち》は大家に内緒で住んでいる盗人、という事になる。  〈切嗣〉《オヤジ》は協会から手を切ったアウトローで、冬木の管理者に断りもなく移り住んできた。  〈管理者〉《オーナー》とやらは衛宮切嗣が魔術師である事を知らない。  そういった事もあって、〈衛宮〉《うち》の位置付けというのは物凄く曖昧なのだと思う。  真っ当な魔術師であった〈切嗣〉《オヤジ》は他界し、  その息子であり弟子である俺は、魔術協会も知らないし魔術師としての知識もない。  ……協会の定義から言えば、俺みたいな半端ものはさっさと捕まえてどうにかするんだろうが、今のところそんな物騒な気配はない。  いや、日本は比較的魔術協会の目が届かない土地だそうだから、実際見つかっていないんだろう。  ―――と言っても、気を緩めていい訳じゃない。    魔術協会の目はどこにでも光っているという話だし、くわえて、魔術で事件を起こせば異端狩りである教会も黙ってはいないという。  ……魔術を何に使うのであれ、安易に使えばよからぬ敵を作るという事。  それを踏まえて、衛宮士郎は独学で魔術師になればいいだけの話なのだが―――― 「…………、ん」  窓から差し込む陽射しで目が覚めた。  日はまだ昇ったばかりなのか、外はまだ〈仄〉《ほの》かに薄暗い。 「……さむ。さすがに朝は辛いな」  朝の冷気に負けじと起きあがって、手早く布団をたたむ。  時刻は五時半。  どんなに夜更かしをしても、この時間に起きるのが自分の長所だ。昨日のような失態を犯すこともあるが、おおむね自分は早起きである。 「それじゃ朝飯、朝飯っと―――」  昨日は桜に任せきりだった分、今朝はこっちがお返しをしないと申し訳が立つまい。  桜がやってくる前にササッと支度を済ませてしまおう。  ごはんを炊いて、みそ汁を作っておく。  昨日は大根とにんじんだったので、今日は玉ねぎとじゃが芋のみそ汁にした。  同時に定番のだし巻たまごをやっつけて、余り物のこんにゃくをおかか煮にして、準備完了。  主菜の秋刀魚は包丁をいれて塩をまぶし、あとは火を入れるだけ、というところでストップ。 「よし、こんなんでいいか」    そろそろ六時。  思ったより早く終わったんで時間を持て余してしまった。  さて、余った時間で何をしたものか。  新都と違い、深山町に人影はない。  夜の八時を過ぎれば通りを行く人もなく、町は静まり返っている。  交差点には、朝方見かけた一軒家がある。  〈人気〉《ひとけ》はなく、玄関には立ち入り禁止の札がかけられているだけだった。  ……たった一日で、家は廃墟のように閑散としていた。  押し入り強盗によって殺された両親と姉。  一人残された子供にはこの先どんな生活が待っているのか。 「――――」  無力さに唇を噛んだ。  切嗣のようになるのだと誓いながら、こんな身近で起きた出来事にさえ何もできない。  誰かの役に立ちたいと思いながらも、結局、今の自分に出来る事がなんなのかさえ判っていない。  坂を上りきって衛宮の家に着く。  明かりがついているので、藤ねえか桜がまだ残っているのだろう。 「ただいま―――あれ、藤ねえだけか?」 「ん? あ、お帰り士郎~」  ぱりぱりとお煎餅を食べながら振り向く藤ねえ。  テレビはガチャガチャと賑やかなバラエティ番組を映している。 「もう、またこんな時間に帰ってきて。冬は日が暮れるのが早いんだから、もっと早くに帰ってきなさいって言ったでしょ」 「だから早く帰ってきてるだろ。八時までのバイトを選んでるんだから、これ以上無茶言わないでくれ。  ……で、桜はどうしたんだよ。なんか、晩飯の支度だけはできてるみたいだけど」 「桜ちゃんなら早めに帰ったわよ? 今日は用事があるからって、晩ごはんだけ作ってくれたの」  嬉しそうに語る藤ねえ。  この人にとって、ごはんを作ってくれる人はみんないい人なんだろう。 「そっか。確かにしばらくはその方がいいかもしれないな。最近は物騒だし、いっそ新学期まで晩飯は俺が作ろうか」 「えー、はんたーい! 士郎、帰ってくるの遅いじゃない。それからごはん作ってたら、食べるの十時過ぎになっちゃうよぅ」 「……あのね。そこに自分ん家で食べる、という選択肢はないのかアンタは」 「だから、ここがわたしのうちだよ?」  はてな、と首をかしげる藤ねえ。  正直、嬉しいんだか悲しいんだか判断がつきかねる。 「ったく、分かったよ。藤ねえにメシを作れ、なんて無理難題を言ってもしょうがねえ。  ……それはいいけど、足下のソレ、なんだよ。また余計なモノ持ってきたんじゃないだろうな」  藤ねえはいらないガラクタをうちに置いていく、という度し難い悪癖がある。  ファミレスでもらってきた使い道のない巨大なドンブリとか、商店街でひきとってきたやたら重い土瓶とか、ひとりでに演奏しだす怪しいギターとか、とにかく、ひとんちを都合のいい倉庫だと思っている節がある。 「ちょっと見せてみろ。ゴミだったら捨てるから」 「これ? えーと、うちで余ったポスターだけど」  はい、とポスターを手渡してくる藤ねえ。  おおかた売れない演歌歌手のポスターか何かだろう。 「どれどれ」  ほら見ろ、ハリボテっぽい青空をバックに、笑顔で親指を出している軍服姿の青年。  血文字っぽい見出しはズバリ、       『恋のラブリーレンジャーランド。      いいから来てくれ自衛会』    ―――って、これ青年団の団員募集だろっ……! 「それ、いらないからあげるね」 「うわあ、俺だっていらねえよこんなの!」  広げたポスターを高速で巻き戻し、ぽかん、と藤ねえの頭を叩く。 「へへーん、はずれー」  が。  藤ねえめ、隠し持ってたもう一本のポスターで上段斬りを払うやいなや、容赦なく反撃してきた。  ぽかん、と。  軽やかにポスターが直撃す―――― 「ぐはぁ!?」  星だ! いま星が見えたスター! 「ふっふっふ。士郎の腕でわたしに当てようなんて甘いわよ。悔しかったらもうちょっと腕を磨きなさいね」 「ぐっ……そ、そんな問題じゃないだろ、今の。な、何故に紙のポスターがかような破壊音を……」  もしや、割り箸の袋で割り箸を断つという達人の技なのか……!? 「え? あ、ごめんごめん。こっちのポスター、初回特典版なんで豪華鉄板仕様だった。  ……士郎、頭大丈夫……?」 「……藤ねえ、いつか絶対に人を殺すぞ、その性格……」 「えへへー。その時は士郎がお嫁にもらってくれるから安心かなー」 「ふん、全速でお断りです。そんな天然殺人鬼を相方にもらう気はないやい」 「むっ。わたし、そんな物騒なのじゃないと思う」 「やっぱり。得てしてそういう連中は自覚がないっていうのはホントだったのか」  なんまいだぶ、なんまいだぶ。  俺もいつ殺られないかと注意して暮らさないと。 「ふんだ、言ってなさい。そんな事より士郎、わたしお腹へった。今まで待ってたんだから、早くごはんの用意しよ」  よいしょ、と立ち上がる藤ねえ。  ……珍しい。藤ねえが(たとえ食器の準備だけとはいえ)手伝ってくれるなんて、よっぽど腹ペコなのに違いない。 「はいはい。んじゃ藤ねえは皿と茶碗な。ごはんぐらいつげるだろ」 「つげるよー? ねえ士郎、わたしドンブリでいいかな」 「いいんじゃないか。今日は桜もいないし、どうせメシは余るし」 「よしよし。それじゃ士郎もおそろいね」  せっせと二つのドンブリにごはんをよそう藤ねえ。 「………………」  まあいいか。どうせおかわりするんだし、藤ねえのやる事に口だしなんてしたら、それこそ夕食がなくなっちまう。  それに、まあ。  こういったメチャクチャな夕食こそ、ここ何年も続いてきた当たり前の風景なんだから。  ……一日が終わる。    騒がしい夕食を終え、藤ねえを玄関まで見送って、風呂に入る。  あとは土蔵にこもって日課の鍛錬。  それらをいつも通り終わらせて眠りにつく。  午前一時。  一日は何事もなく、穏やかに終わりを告げた。 「そうだな。時間もあるし、箸休めになんか作っとこう」  ばこん、と冷蔵庫を開ける。  余っているのはキュウリとジャガイモぐらいか。 「……うーん。キュウリをスティック状に切って塩漬けにしてもいいし、ジャガイモを千切りにして酢の物にしてもいいんだけど……」  どっちにしても数分足らずで片づいてしまう小物で、この手の一品は新鮮な方が美味しい。  藤ねえと桜がやってくるまであと三十分。どうせなら直前でサラッと仕上げた方がいいだろう。 「…………む」  そうなると、なんとも扱いの難しい空き時間になってしまった。  あと三十分で出来るものといったら、 「夕飯用に鶏のささ身があったから、えーと」  野菜を肉で巻いた一口サイズの焼き物とか、その辺か。  鶏肉を観音開きに切って、肉たたきで平らにする。  この肉たたきはパッと見、とんでもなく極悪だ。ようするにトンカチなのだが、叩く面積は四角く広く、表面にはトゲじみた突起物がびっしりと突き出ている。  これでサイズが大きければ、間違いなく拷問道具として活躍できるだろう。  そんな物騒なモンでささ身を平らにして、ニンジンとさやインゲンを乗せて、巻いて、表面をフライパンで焼いて、酒をいれて蒸し焼きにする。 「――――はっ!? ちょっと待て、なにしてんだ俺……!?」  そこまで進めて、はた、と正気に返った。  作ろうとしたのは箸休めになる一品で、メインにはとっくに〈秋刀魚〉《さんま》さまが鎮座ましましている。  だっていうのにささ身の野菜巻き焼きなんて作って、主役クラスを二品も用意するなんて……! 「……なんてこった。暇つぶしで余計な料理をするなんて、気が抜けてる」 「え? 暇つぶしで作ってたんですか、先輩?」 「うん。でも誤解のないように説明すると、ホントは惣菜を追加しようとしたんだ。それが気が付いたら包丁を持ってた。いや、習慣っていうのは怖い。もちろんただの言い訳だけど」 「でもいいと思いますよ? 朝ごはんにしては豪勢ですけど、先輩の料理なら余らないと思います」 「そうかな。いや、そういう問題じゃないだろ、これは。  一つの空に二つの太陽は要らないんだ。どっちかにはご退場を願わなくちゃいけない」 「ええ!? 先輩、せっかく作ったのに食べないんですか?」 「食べる。予定にはなかったけど、今日の昼は弁当にする。そうすれば余った方も無駄にはならないだろ」 「うわ。先輩、今からお弁当作るんですか?」 「ギリギリかな。まあ、俺一人分ぐらいなら飯もなんとか――――」  と。  そこで、ようやく背後の人物に気がいった。 「おはようございます先輩。今日もお邪魔しますね」  笑顔で挨拶をする桜。  この時間、桜が台所にやってくるのは不思議な事じゃない。  桜はいつもチャイムを鳴らして入ってくるが、今朝のようにぼんやりして気が付かない時もある。 「お、おはよう桜。朝飯の支度はできてるから居間で休んでていいぞ。お茶の用意してあるから」  フライパンの番をしながら声を返す。  テーブルにはお湯を入れたポットと急須、お茶受け等が用意されている。 「あ、はい。今朝も完璧ですねっ、先輩」  何が嬉しいのか、桜の声は弾んでいる。  ……と。  桜は上機嫌なまま、テーブルではなく台所にやってきた。 「先輩、お弁当作るんですよね」 「ん? ああ、そういう流れになった。ちょうど弁当向きだし、もう少しおかずを用意しようかなって」 「あの、それならわたしもいいですか? ちゃんと自分で作りますから」 「いや、待った。おかず、俺のと同じのでいいなら分けられるけど」 「―――はい。さっきから見ていて、先輩の焼き物が食べたいなって思ってたんです」 「了解。んじゃ桜はご飯炊いてくれ。二人分の弁当となると飯が足りなくなる。そっちに早炊きができる炊飯ジャー、あるだろ」 「はい、任されました。それじゃお手伝いさせていただきますね」  パタパタという足音と、きゅっとエプロンの紐を縛る音。 「せんぱーい。ご飯は二合でいいですよねー」 「んー、十分なんじゃないかな」  慌てず急がず、それでいてテキパキとした動きで、桜は厨房に参戦してきた。 「おはよー! 今朝もいい匂いさせてて結構結構!」    六時半をちょっと過ぎたころ。  桜に遅れること三十分、いつも通り藤ねえがやってきた。 「おはようございます先生。朝ご飯、もうちょっと待ってくださいね」 「うん待つ待つ。……って、あれ? 桜ちゃん、士郎といっしょに朝ご飯作ってるの?」 「いえ、朝食の支度は先輩が一人でやっつけちゃってました。今は先輩とお弁当を作ってるんです」  桜の声は妙に弾んでいる。  別段面白いコトをやってるわけでもなし、何が楽しいのかは分からない。 「そっかそっか、そりゃあ朝からご機嫌にもなるか。お料理と士郎、楽しいことだらけだもんね。よしよし、時間は余裕ないけどゆっくりしてていいわよー」  あははは、と笑いながらテーブルに陣取ってお茶を淹れる藤ねえ。 「……ったく、朝から寝ぼけやがって。学校前に台所に立つコトのどこが楽しいってんだ」  フライパンを棚に戻す。  弁当のおかずも作り終わったし、あとは弁当箱に詰めるだけだ。 「悪いな桜。部活前だっていうのに無駄な体力使わせて。  昨日世話になった分、今朝はゆっくりしてもらおうと思ってたんだが」 「え? いえ、そんなコトありませんよ? 藤村先生の言う通り、台所に立つのは楽しいです」  にっこりと笑う。  そりゃ桜が料理好きなのは知ってるけど、それにしたって朝五時に起きて弁当を作るのは辛かろう。  しかも、桜には頻繁に夕食を作ってもらっている。  だっていうのに朝まで料理づけにしてしまっては、桜の自由時間がなくなりかねない。 「……ふう。手伝ってくれるのは助かるけど、もう少し楽にしろよ桜。朝はもちっと眠ったり、放課後だって遊びにいくもんだろ。何も好き好んでうちの手伝いをしなくていいんだ」 「はい、ですから楽にしています。今日も先輩に朝ご飯を作ってもらいました。お弁当のおかずだって、先輩に分けてもらいましたし」  にっこりと笑う。  …………はあ。  桜が手伝ってくれるようになってから早一年半、今じゃあ何を言ってもこんな風に返されてしまう。 「それとこれは別だろ。桜だって自分の生活があるんだから、俺や藤ねえの世話にかまけてたら大変だぞ。俺を甘やかしてると、そのうち自分の好きなコトができなくなるんだからな」 「あはは、それも大丈夫です。わたし、趣味はお料理と弓だけですから。ちなみに将来の目標は先輩の味を超えるコトで、もうすぐ射程距離だったりします」  えっへん、と胸を張る桜。  ……く。  悔しいが、それは紛れもない事実で狙われているのか俺。 「ですから気にしないでください。わたし、ここでお料理するのが嬉しいし、上手くなるのが楽しいんです。  この楽しさを教えてくれた恩返しと、自分の実益を兼ねてお手伝いをしているのです」 「……む。それはつまり、日々俺の技術を盗んでいるというコトなのか、桜」 「はい。先輩のお手伝いをするだけで、好きなコトがメキメキ上達しちゃいます。ですから覚悟しててくださいね。いまに先輩にまいったって言ってもらうんですから」  うわ。  信じられねえ、いま言い切ったぞ桜のヤツ! 「……はあ。まったく、こんなことなら料理なんて教えなければ良かった。うちにくるまでサラダ油の存在さえ知らなかったクセに、今じゃ虎視眈々と師の首を狙ってやがる。なんだってそんなに目の仇にすんだよ、ほんと。  飯なんて普通に作れればいいじゃんか」 「そんなの目の仇にしますっ。先輩の方がおいしいなんてダメなんですから」 「……?」  何がダメなのかは不明だが、それはともかく、そろそろ朝食を並べないとまずかろう。 「よっと」  火にかけていた秋刀魚の様子を見る。  いい色に焼けた腹に箸をあてて、焼き加減を確認する。 「上出来かな。ほい桜、パス。先に食卓に持っていってくれ」 「はい、お疲れさまです先輩」  秋刀魚を載せた皿を桜に手渡す。  ……と。  何か重大な事でも思い出したように、桜は動きを止めていた。 「桜? どうした、忘れ物か?」  桜はしっかりしているようでよく物忘れをする。  こんな風に突然思い出してハッとする、というのはそう珍しい事じゃない。  が―――どうも、今朝のはそんな類の事ではないみたいだ。 「……桜?」 「…………………………」  桜は答えない。  呆然と俺の手を見つめて、桜本人も意識していないという素振りで、 「先輩。その手の痣、なんですか」  なんて、おかしなコトを訊いてきた。 「は?」  言われて手を引っ込める。 「あれ……? ほんとだ、手の甲に痣ができてる。おかしいな、ぶつけた覚えはないんだけど」  どうしたことか、左手の甲に大きな痣が出来ている。  痣は切り傷のようで、派手なミミズ腫れを残していた。  自分の手ながら、正直かなり気味が悪い。  気分が優れないのか、桜は押し黙っている。 「わるい、あとは任せた。湿布か何か貼ってくる」  桜に台所を任せて道場に向かう。  寝ている時に傷つけたのかは知らないが、ともかく手当てぐらいはしておかないと。 「――――――――」  ただ、どうしてか。  台所を後にする時、気まずそうに俯いていた桜の姿が気にかかった。 「それじゃ先に行ってますね」 「桜、ほんとにいいのか。体調が悪いなら部活ぐらい休んでいいんだぞ?」 「いえ、大丈夫です。ちょっと頭痛がするだけですから心配にはおよびません。体調が悪そうに見えるのは先輩の気のせいですよ。わたし、すごく元気です」  はい、と笑顔で切り返してくるが、強がりなのは一目でわかる。 「―――すごく元気、か。朝飯、一口も食べられなかったのにか?」 「ぁ…………」  気まずそうに視線を逸らす。  結局、桜は視線をあげず、 「……失礼します。先輩のほうこそ、休んでください」  玄関を後にした。  食卓はキレイに片付いている。  が、台所にあげられた食器にはまるまる一人分の朝飯が残っていた。 「まったく。いきなりどうしたんだよ、桜のヤツ」    俺の傷を見てからというもの、あれだけ上機嫌だった桜はとたんに無口になり、やることなすこと失敗だらけになった。  お茶は淹れすぎる、卵焼きは醤油で真っ黒にする、エプロンを着たまま食卓につく。  んで、あげくの果てに朝食は一口も喉を通らず、青い顔のまま登校していったのだ。 「風邪でも引いたのかな、桜」    後片付けをしながらぼやく。  ともあれ、あんな桜を見るのは初めてだ。  桜と知り合ったのは四年前の夏ごろで、うちに家事手伝いをしにきてくれるようになったのは一年半ほど前。  その間、あれだけ体調の悪そうな桜を見たことはない。 「――――――――」  ……弓道場には藤ねえがいるし、大事はないと思うが、放課後あたりに様子を見に行くべきだろう。  学校からバスに乗る事二十分。  橋を渡って隣町である新都に到着した。 「……なんだ、まだ五時前か。少し時間があるな」    住宅地である深山町にアルバイトのタネはないが、開発地区である新都なら仕事に事欠かない。  うちの学校は生徒のアルバイトを認めている事もあり、簡単な仕事を請け負っている。  自分が好む仕事は力仕事で、ハードで、出来る限り短時間で終わる、というものだ。  体を鍛えられてお金を貰えるんだから、一挙両得というものだろう。  今日のバイトは五時から八時までの、簡単な荷物運びだ。  三時間だけとはいえ、その内容は六時間ほどの濃さがある。なにしろ一分の休憩もなしで走り回らされるようなものなのだ。  なので、十分程度と言え休める時は休んでおくべきだろう。  時間までブラブラしているのも体力の無駄遣いだし、公園に入って時間まで休んでいよう。  ビル街のただ中にある公園は、木々と芝生に覆われた大きな広場、という趣だ。  休日であるなら親子連れや恋人たちで賑わう公園も、この時間だと人気はない。  いや―――もともと、ここだけは何時であろうと人気はないのだ。 「相変わらずだな、ここは」  少し呆れた。  荒れ放題の地面は、きちんと整地された周囲に比べてあまりにも〈見窄〉《みすぼ》らしい。  荒涼とした地面に引きずられているのか、吹く風も冷たかった。    ここは十年前の大火災の跡で、そのまま焼け死ぬ筈だった自分が助けられた場所でもある。 「なんで芝生とか植えないんだろ。いつまでもこのままってのは勿体ない」    これだけ広い土地なんだから、ちゃんと整地すれば公園は一段と広くなるだろうに。  ぼんやりとそんな事を思いながら、適当なベンチに座った。 「――――――――」  時間潰しに焼け跡の大地を眺める。  かつてここで起きた出来事を、思い出す事はない。  覚えているのは熱かった事と、息が出来なかった事。  それと、誰かを助けようとして、誰かが死んでしまっていた事。 「どうして、そうなのかな」  例えば、焼け落ちる家から子供を助けようとした大人は、子供を助けるかわりに死んでしまった。    例えば、喉が焼けた人たちがいて、なけなしの水を一人に飲ませたものの、他の人たちはみんな息絶えてしまった。    例えば、一刻も早く火事場から抜け出そうと一人で走り抜いて、抜き去っていった人たちは例外なく逃げられなかった。          それと、例えば。  何の関係もない誰かを助ける為に、自分を助けていたモノを与えてしまい力尽きてしまった人とか。 「――――――」  そういうのは嫌だった。  頑張った人が犠牲になるような出来事は頭にくる。  誰もが助かって、幸福で、笑いあえるような結末を望むのは欲張りなのか。  ただ普通に、穏やかに息がつける人たちが見たかっただけなのに、どうしてそんな事さえ、成し遂げられなかったのか。             “それは難しい。士郎の言っている事は、誰も彼も救うという事だからね”  幼い自分の疑問に、切嗣はそう答えた。  当然、幼い自分はくってかかった。  だって切嗣は俺を助けてくれた。なんでもできる魔法使いなんだって知っていた。  無償で、ただ苦しんでいる人を放っておけず手を出した正義の味方なんだって分かっていた。    だから―――切嗣ならあの時だって、みんなを助ける事ができたんじゃないかって信じていた。  そうぶちまけた俺に、切嗣は余計に困った顔をして、一度きり、けれど未だに強く残っている言葉を口にした。           “士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ”  そりゃあ分かる。  言われてみれば当たり前だ。  ここに強盗と人質がいて、強盗は人質を殺すつもりでいるとする。  通常の方法では人質の大半は殺されてしまうだろう。  それを、人質全員を助ける、なんて奇跡みたいな手腕で解決したとしても、救われない存在は出てくるのだ。    つまり、人質を助けられてしまった強盗である。    正義の味方が助けるのは、助けると決めたモノだけ。  だから全てを救うなんて事は、たとえ神様でも叶わない。 「……それが天災なら尚更だ。誰であろうと、全てを助けるなんて出来なかった」  十年前の火事はそういうモノだ。  今更、奇跡的に助けられた自分がどうこう言える話でもない。 「けど、イヤだ」  そういうのは、イヤだった。  初めから定員が決まっている救いなどご免だ。  どんなに不可能でも手を出さなくてはいけない。  あの時のように、まわりで見知らぬ誰かが死んでいくのには耐えられない。  だから、もし十年前に今の自分がいたのなら、たとえ無理でも炎の中に飛び込んで――――   「そのまま無駄死にしてたろうな、間違いなく」    それは絶対だ。  まったく、我ながら夢がない。 「っと、しまった。ぼんやりしてたら五時になっちまった」  五時を告げる鐘が鳴り響く。  ベンチから立ち上がり、急いでバイト先へと向かっていった。  バイトが終わった頃、日は沈みきっていた。  時刻は八時前。  予定より十分ほど早く終わったのは、単に頑張りすぎたせいだ。  仕事前にあんな場所に寄ってしまったからか、がむしゃらに働いてしまったらしい。  駅前という事もあり、夜は始まったばかりだ。  人波は多く、道を行く自動車も途切れることがない。 「藤ねえにおみやげ―――はいいか」  明かりのついたビルを見上げながら歩く。  新都で一番大きいビルなので、さすがに上の方はよく見えない。  ただ夜景を楽しむ為にビルを見上げていると、 「――――?」  なにか、不釣り合いなモノが見えた気がした。 「なんだ、今の」  立ち止まって最上階を見上げる。  両目に意識を集中させて、米粒程度にしか見えないソレを、ぼんやりと視界に捉える。 「――――――」    それは、知っている誰かに似ていた。    何の意味があって、  何をする為にあんな場所にいるのか。  長い髪をたなびかせ、何をするでもなく、彼女は街を見下ろしている。 「――――」  こちらに気が付いている様子はない。  いや、見えている訳がない。  人並み外れて目のいい自分が、魔力で視力を水増ししてようやく判る高さだ。  あんなところで一人きりで立っているから見分けられるが、地上で人波に紛れている自分になど気が付く筈もないだろう。  彼女はただ街を見下ろしている。  何かを捜しているのか、こんなに遠くからでも鋭い視線が感じられた。 「――――――――」  時間を忘れて、虚空に立つ少女を見上げる。  それは高い塔の上。  月を背に下界を見下ろす、魔法使いのようだった。 「あ」  と。  用が済んだのか、あっさりと彼女は身を翻していった。  屋上から人影は消え、綺麗なだけの夜景に戻る。 「今のは、遠坂だったのかな」  確証は持てないが、まず間違いはあるまい。  あれだけ目立つ容姿の女の子はそういないし、なにより、ひそかに憧れているヤツを見間違えるほど間抜けじゃない。 「……そうか。に、しても」    なんていうか、その。  ヘンな趣味してるんだな、遠坂。 「―――そうだな。これだけ時間があれば一汗流せるか」    朝の運動は日課だし、軽く体を動かしてこよう。  衛宮邸には立派な道場がある。  家を建てる時、ついでだからと道楽で建てられたものだ。  そんな訳で、この道場は何かが目的で作られた物ではない。 「ま、藤ねえが好き勝手使ってるけどな」  俺が衛宮の家に来る前から、ここは藤ねえの遊び場だったらしい。  が、俺が切嗣に弟子入りしてからはこっちが頻繁に使うようになって、当時は藤ねえに嫌われたものだ。 「……さて」  ここに来たらやる事は一つだけ。  魔術師と言えど身体の鍛錬を怠る事は出来ない。  優れた身体能力を持つ、という事も魔術師の条件の一つだ。  切嗣が生きていた頃はここで何度も手合わせをした。  と言っても一方的に痛めつけられただけだったから、戦いに勝つ術なんて身に付かなかった。  ……それでもケンカと戦闘の違いぐらいは身に付いたと思う。  ようするに、相手を倒すか殺すかの違い、その加減を知る事を教わったのだ。  知識と経験は違う。  あらかじめ知っておかないと、自分がケンカに巻き込まれたのか、殺し合いに巻き込まれたのかの判断をつけにくい。  ……単純な話だ。  魔術を習う以上は自滅する事もあるのだし、何かと争わなければならない時もある。  魔術師にとって争いは殺し合いだ。  だから切嗣が衛宮士郎に教えたかった事は、死地に面した時すみやかに覚悟できる心構えだったのだろう。  しかし、それも教えてくれる相手がいなくなって久しい。  一人になった自分に出来る事と言えば、単純な運動だけだった。  腕立て伏せとか腹筋運動とか柔軟とか、やってる事は弓道部の朝練と変わらない。  単に、運動量にハードかソフトかの違いがあるだけだ。 「―――そうだな。これだけ時間があれば一汗流せるか」    朝の運動は日課だし、軽く体を動かしてこよう。  人のいない道場は、それだけで気持ちを引き締める静けさがある。  それが朝方、まだ日が昇ったばかりとなると静謐は神聖ささえ持って、訪れる者を魅了する。 「……さて」  ここに来たらやる事は一つだけ。  〈切嗣〉《おやじ》が亡くなってからこっち、道場は身体を鍛えるだけの運動場と化していた。  魔術師と言えど身体の鍛錬を怠る事は出来ない。  優れた身体能力を持つ、という事も魔術師の条件の一つだ。  切嗣が生きていた頃はここで何度も手合わせをした。  と言っても一方的に痛めつけられただけだったから、戦いに勝つ術なんて身に付かなかった。  ……それでもケンカと戦闘の違いぐらいは身に付いたと思う。  ようするに、相手を倒すか殺すかの違い、その加減を知る事を教わったのだ。  知識と経験は違う。  あらかじめ知っておかないと、自分がケンカに巻き込まれたのか、殺し合いに巻き込まれたのかの判断をつけにくい。  ……単純な話だ。  魔術を習う以上は自滅する事もあるのだし、何かと争わなければならない時もある。  魔術師にとって争いは殺し合いだ。だから切嗣が衛宮士郎に教えたかった事は、死地に面した時すみやかに覚悟できる心構えだったのだろう。  けれど、それを教えてくれる切嗣はもういない。  一人になった自分に考えられて出来る事と言えば、こんな誰にでもできるトレーニングだけだった。 「んじゃあまあ、本格的にやっておくか」  柔軟運動で筋肉をほぐした後、体内に意識を向けながら運動を開始する。  肉体を鍛えながら魔術回路―――血の流れ、骨格の軋み、肉体疲労時における思考の狂いを把握する。 「―――百二十―――百五十―――百七十――――」    ただの腕立て伏せも、〈鉄の重り〉《ウェイト》ではなく〈心の枷〉《ハードル》をつけて行えば魔術回路の鍛練になる。  明確な魔術の師がいない自分にとって、こんな部活の朝練と変わらない運動も、重要な鍛練だった。  時刻は七時半になろうとしている。  朝の部活動がある桜と藤ねえはとっくに家を出た。  昨日は一成に呼ばれていたから早めに登校したが、今朝は普通の時間に家を出る。  交差点まで下りてくると、見慣れない光景に出くわした。  一軒家の前に数台のパトカーが止まっている。  なにか騒ぎでもあったのか、周囲の雰囲気は慌ただしく、集まった人だかりは十人や二十人ではきかないようだ。 「?」  興味はあったが、人だかりが邪魔で何が起きたのか判らない。  時間もないし、今は学校を優先すべきだろう。  予鈴の十分ほど前に到着。  いつも通り余裕を持って正門をくぐると、 「や、おはよう衛宮」  見知った女生徒とバッタリ会った。 「なんだ、まだ着替えてないのか美綴。もうすぐホームルームだぞ。俺に挨拶なんかしてる場合じゃないだろ」 「あはははは! いや、ごもっとも。相変わらずつれない野郎だねぇ、衛宮は!」  何が楽しいのか、人目も気にせず豪快に笑う。  〈美綴〉《みつづり》〈綾子〉《あやこ》。  一年生の頃クラスメイトだったヤツで、今は弓道部の主将をしている。  学生とは思えないほど達観したヤツで、一年の頃から次期主将を期待されていた女丈夫だ。  ……まあ、要するに実年齢よりいくぶん精神年齢が上で、一年の頃からみんなに頼りにされていたお姉さんタイプである。  もっとも、本人はそれを言われると怒る。あたしはそんなに老けてないっ! というのが本人の弁だ。 「あん? 今アンタ、よからぬ感想を漏らさなかったかもし?」 「そんな物は漏らさない。あくまで客観的な事実を連想しただけだ。それで気を悪くするのは美綴の勝手だが」 「お、言うじゃん。いいね、正直に答えるくせに、何をどう考えてたかは口にしないんだもの。  衛宮、慎二と違って隙がないな」 「慎二? なんでそこに慎二が出てくるんだ?」 「なんでもなにも、アンタと慎二って友人じゃない。  慎二の男友達ってアンタだけでしょ? それにお忘れでしょうが、あたしこれでも弓道部の主将なの。うちの問題児と、辞めちまった問題児をくっつけるのは自然な流れだと思わない?」 「ああ、たしかに自然だ。弓道部ってのは関係ないけど、俺とアイツは腐れ縁だからな」 「あ、カチンと来た。アンタね、弓道部の話になると急に冷たくなるでしょ。  いいご身分よね、慎二をほっぽっといて自分はさっさと退場しちゃうんだから。後に残されたあたしとか桜の気持ちとか、少しは考えてくれてもいいんじゃない?」 「む。慎二のヤツ、またなんかやったのか」 「アイツが何もやらない日なんてないけど。  ……ま、それにしても昨日のはちょっとやりすぎか。  一年の男子が一人辞めたぐらいだから」  はあ、と深刻そうにため息をつく美綴。  こいつがそんな顔をするのも珍しいけど、それ以上に今の話は聞き捨てならない。 「なんだよそれ。部員が辞めたって、なんで」 「慎二のヤツが八つ当たりしたのよ。わざわざ女子を集めてね、弓を持ったばかりの子に射をさせて、的中するまで笑い物にしたとか」 「はあ!? おまえ、そんなバカげた事を見過ごしてたってのか!?」 「見過ごすかっ! けどさ、主将ってのは色々と忙しいんだ。いつも道場にいる訳じゃないって、衛宮だって知ってるでしょ」 「……それは、そうだが。にしても、なに考えてんだ慎二のヤツ。必要以上に厳しく教える事はあっても、素人を見せ物にするようなヤツじゃないだろ」 「――――呆れた。衛宮ってば、ほんとにアレだ」 「む。アレってなんだ。いまおまえ、よからぬ感想を漏らさなかったか?」 「あーら、あたしはあくまで客観的な事実を連想しただけさ。それで気を悪くするのは衛宮の勝手だね」 「……この、ついさっき聞いたような返答をしやがって。  いいよ、それより慎二はどうしたんだよ。なんだってそんな真似をしたんだ」 「んー、聞いた話じゃ遠坂にこっぴどくふられたとかなんとか」 「え……遠坂って、あの遠坂か?」 「うちの学校にアレ以外の遠坂なんていないでしょ。  2年A組の優等生、ミスパーフェクトこと遠坂凛よ」 「……いや、そんなあだ名は初めて聞いたけど」  聞いたけど、それなら、と納得できてしまった。  相手が遠坂凛なら、慎二が振られる事もあるだろうし、なにより―――  あの遠坂なら、交際を断る時も容赦ない台詞を口にしそうだし。 「ともかく、慎二のヤツは昨日からずっとその調子よ。  おかげであたしもこんな時間まで道場で目を光らせてたって訳」 「……慎二のヤツ、ヘンに堪えがきかない時があるからな。美綴、たいへんだろうけど頑張ってくれ」 「はいはい。けどねー、慎二って懲りないでしょ? また遠坂に声をかけて振られた日には、今度こそ遠坂本人に何かしそうでさー」 「いや、いくら慎二でも振られた相手には近寄らないだろ。アイツ、そのあたりはちゃんとしてるぞ」 「けど相手が近寄ってくるんだからしょうがないじゃない。遠坂さ、なんか知らないけどうちの道場をよく見学に来るのよ。衛宮は辞めちゃったから知らないだろうけどね」 「?」  それは初耳だ。  遠坂凛は家の事情だとかで、一切部活動はやっていない。生徒会も同じ理由で推薦を拒否したぐらいだから、放課後はすんなりと帰宅していると思っていた。 「ま、たまにはそれもいいか。アイツもお高くとまってるし、一度ぐらいは痛い目にあうのもいいかもねー。お気の毒さまっていうか、ご愁傷さまっていうか」  なにやら物騒な事を口にする美綴。  ……そういえば、遠坂凛はああ見えて敵が多いというけど、美綴もその一人なんだろうか? 「おい美綴、いくらなんでもそれは」 「あ、そろそろ時間だ。じゃあね衛宮、今度あたしの弓の調子見に来てよ」  慌ただしく走っていく美綴。 「―――相変わらずだな、あいつ」  けど、アイツのああいうスッパリしたところは昔から気に入ってる。  なんとなく穏やかな気持ちになって、教室へ足を向けた。  昼休み。  うちの学校には立派な食堂があり、たいていの生徒は食堂でランチをとる。  が、中には弁当持参という古くさい連中もいて、その中の一人が自分と、目の前にいる生徒会長だった。 「衛宮、その唐揚げを一つくれないか。俺の弁当には圧倒的に肉分が不足している」 「……いいけど。なんだっておまえの弁当ってそう質素なんだ一成。いくら寺だからって、酒も肉も摂らない、なんて教えがあるわけでもないだろう」 「何を時代錯誤なことを。これは単に親父殿の趣味だ。  小坊主に食わす贅沢はない、悔しいのなら己でなんとかせよ、などと言う。いっそ今からでも〈典座〉《てんぞ》になるか、俺も考えどころだ」 「あー、あの爺さんなら確かに」  一成の親父は柳洞寺の住職で、藤ねえの爺さんとは旧知の仲という豪傑だ。  藤村の爺さんと気が合う、という時点でまともな人格を期待してはいけない。 「それはそれは。んじゃ、いつか恩返しを期待して一つ」  ほい、と弁当箱を差し出す。 「やや、ありがたく。これも托鉢の修行なり」  深々とおじぎをする一成。  ……なんていうか、こんなコトで一成がお寺の息子なのだと再認識させられるのはどうかと思う。 「ああ、そういえば衛宮。朝方、二丁目の方で騒ぎがあったのを知っているか? ちょうど衛宮と別れるあたりの交差点だが」 「交差点……?」  朝方の交差点と言えば、パトカーが何台も止まっていた騒ぎだろうか。 「なんでもな、殺人があったそうだ。詳細は知らないが、一家四人中、助かったのは子供だけらしい。両親と姉は刺殺されたというが、その凶器が包丁やナイフではなく〈長物〉《ながもの》だというのが普通じゃない」 「――――――――」  長物? つまり日本刀、というコトだろうか。  殺人事件という事は、それに両親と姉を殺されたという事か。  ……想像をしてしまう。  深夜、押し入ってきた誰か。不当な暴力。交通事故めいた一方通行の略奪。斬り殺される両親。訳も分からず次の犠牲になった姉。その陰で、家族の血に濡れた子供の姿。 「一成。それ、犯人は捕まったのか」 「捕まってはいないようだな。新都の方では欠陥工事による事故、こちらでは辻斬りめいた殺人事件だ。学校の門限が早まるのも当然―――どうした衛宮? 喉にメシでもつまったか?」 「? 別に何もないけど、なんだよいきなり」 「いや……衛宮が厳しい顔をしていたのでな、少し驚いた。すまん、食事時の話ではなかったな」  一成はすまなそうに場を和ます。  ……いや、本当にどうというコトもなかったのだが、そんなに厳しい顔をしていたんだろうか、俺。  と、静かに生徒会室のドアがノックされた。 「失礼。柳洞はいるか」 「え? あ、はい。なんですか先生」  一成はやってきた〈葛木〉《くずき》となにやら話し込む。  生徒会の簡単な打ち合わせなのだろうが、一成はわりと力を抜いているようだ。 「………へえ」  それは、ちょっとお目にかかれない光景だ。  ああ見えて、一成は人見知りが激しい。クラスメイトにも教師にも線を引くあの男が、生徒会顧問の葛木に対しては気を許している。 「……真面目なとこで気が合うのかも」  2年A組の担任である〈葛木宗一郎〉《くずきそういちろう》は、とにかく真面目で堅物だ。  おそらく、そのあたりが規律を重んじる一成と波長があうのだろう。 「――――――――」  二人の話し合いは続いていく。  それを眺めながら、なぜか、先ほど聞いた殺人事件のことが頭から離れなかった。  朝の話が気になったのか、気が付けば弓道場に来てしまった。   「―――ああもう、何やってんだ俺」    美綴の話では、遠坂凛は頻繁にここに来るらしい。  それは、まあ―――気にするコトなんてないけど、慎二が遠坂に手をあげるのは問題だと思う。 「……慎二のヤツ、カッとなると止まらないからな……」  遠坂にふられて慎二が暴力をふるうのはダメだ。  ……いや、何がダメなのかは分からないけど、とにかくダメだ。 「って―――なんだ、遠坂、いないじゃないか」  道場の周りに遠坂の姿はない。  美綴の心配はただの杞憂だ。 「へえ、誰がいないって?」 「っ!」   「だーかーらー、誰がいないって?」    と。ついさっき別れたばかりの一成がいた。 「お、おまえか一成。あんまり驚かすなよな」 「いや、衛宮が挙動不審げに道場を眺めていたからつい。  ―――で、誰がいないって?」 「誰って、遠坂だよ。なんでも昨日、慎二と一悶着あったらしいんだ。それで一応、様子を見に来ただけだ」 「ほうほう。挙動不審だな、訊かれてもいないのに理由まで話すなど。俺は誰がいないかと訊いただけなのだが?」 「――――! な、なんだよ。別にいいだろ、俺が何しようが俺の勝手だっ」 「うむ、それはしかり。だが無駄だぞ衛宮。遠坂はここにはいない。何故なら、あいつは今日ズル休みだ」 「なに?」  ズル休みって、つまり欠席? 「そうか、欠席か……って、待て一成。なんで遠坂がズル休みなんだよ。あいつがそんなのするわけないだろ」 「するとも、あいつが風邪など引くものか。俺が見たところアイツは悪いヤツだ。外見に騙されるとパクッと食われるぞ、衛宮」 「――――む」  なぜか、一成の言葉が癇に障る。  たしかに俺は遠坂を知らないが、あいつが悪い人間とは思えない。 「言い過ぎだぞ、一成。遠坂はそんなヤツじゃないだろう」 「むむ? なんだ、衛宮も遠坂狙いなのか。ああ、それはすまない、今のは流してくれ」 「――――!」  と、遠坂狙いって、誰がそんなコトを―――! 「か、勝手に決めつけるな! 俺はただ、慎二がもめ事を起こしたらたいへんだから―――」 「慎二が遠坂に殴りかかろうとしたら止める為か。また損な役回りをするな。……別に俺は気にしないが、わりと趣味が悪いのだな衛宮は」 「してないから損じゃない。けど一成。おまえ、いまヘンなコト言わなかった?」 「うん? 遠坂狙いは趣味が悪いって事かい」 「そう。遠坂は人気あるじゃないか。俺もあいつの悪い噂は聞かないぞ」 「ああ、聞かないね。それがまた気にくわない」 「気にくわないって、どのヘンがだよ」 「だから全部だよ。アレは女狐だ。〈女生〉《にょしょう》だ。妖怪だ。とにかく生理的に気にくわない。悪いことは言わないから、衛宮も気に入らないようにしろ」 「一成。人の陰口は良くないって、おまえの口癖じゃなかったか」 「たわけ。これが陰口に入るか。俺は聞こえるように喋っている」  ああ、どうりで弓道場から視線を感じる訳だ。  ……良かった。  今日、遠坂が欠席で本当に良かった。 「頼む一成。悪いが、早速陰口にしてくれ」 「うむ、衛宮がそう言うのなら了解した。  が、とりわけ中傷をしていた訳ではないぞ。単に柳洞一成が遠坂凛を警戒している、と言っただけだ。あくまで個人の趣味趣向の範囲だろう」 「そのわりには妖怪だとか女狐だとか言ってたけど」  ……というか、女生というのはあきらかに差別用語ではあるまいか。 「なに、褒め言葉だ。女狐にも妖怪にも善いモノはいる。  あくまで遠坂を表現する値として採用しただけである。  喝」  かんらかんらと笑う一成。 「それではな。俺は生徒会室に戻るが、衛宮はバイトだろう? こんなところで道草を食っている暇はなかろう」  言いたい事を言ってすっきりしたのか、泰然とした後ろ姿で去っていく一成。  知り合って二年になるが、正直、あの男の性格はいまいち掴めない。  学校からバスに乗る事二十分。  橋を渡って隣町である新都に到着した。 「……なんだ、まだ五時前か。少し時間があるな」    住宅地である深山町にアルバイトのタネはないが、開発地区である新都なら仕事に事欠かない。  うちの学校は生徒のアルバイトを認めている事もあり、簡単な仕事を請け負っている。  自分が好む仕事は力仕事で、ハードで、出来る限り短時間で終わる、というものだ。  体を鍛えられてお金を貰えるんだから、一挙両得というものだろう。  今日のバイトは五時から八時までの、簡単な荷物運びだ。  三時間だけとはいえ、その内容は六時間ほどの濃さがある。なにしろ一分の休憩もなしで走り回されるようなものなのだ。  なので、十分程度と言え休める時は休んでおくべきだろう。  時間までブラブラしているのも体力の無駄遣いだし、公園に入って時間まで休んでいよう。  ビル街のただ中にある公園は、木々と芝生に覆われた大きな広場、という趣だ。  休日であるなら親子連れや恋人たちで賑わう公園も、この時間だと人気はない。  いや―――もともと、ここだけは何時であろうと人気はないのだ。 「相変わらずだな、ここは」  少し呆れた。  荒れ放題の地面は、きちんと整地された周囲に比べてあまりにも〈見窄〉《みすぼ》らしい。  荒涼とした地面に引きずられているのか、吹く風も冷たかった。    ここは十年前の大火災の跡で、そのまま焼け死ぬ筈だった自分が助けられた場所でもある。 「なんで芝生とか植えないんだろ。いつまでもこのままってのは勿体ない」    これだけ広い土地なんだから、ちゃんと整地すれば公園は一段と広くなるだろうに。  ぼんやりとそんな事を思いながら、適当なベンチに座った。 「――――――――」  時間潰しに焼け跡の大地を眺める。  かつてここで起きた出来事を、思い出す事はない。  覚えているのは熱かった事と、息が出来なかった事。  それと、誰かを助けようとして、誰かが死んでしまっていた事。 「どうして、そうなのかな」  例えば、焼け落ちる家から子供を助けようとした大人は、子供を助けるかわりに死んでしまった。    例えば、喉が焼けた人たちがいて、なけなしの水を一人に飲ませたものの、他の人たちはみんな息絶えてしまった。    例えば、一刻も早く火事場から抜け出そうと一人で走り抜いて、抜き去っていった人たちは例外なく逃げられなかった。          それと、例えば。  何の関係もない誰かを助ける為に、自分を助けていたモノを与えてしまい力尽きてしまった人とか。 「――――――」  そういうのは嫌だった。  頑張った人が犠牲になるような出来事は頭にくる。  誰もが助かって、幸福で、笑いあえるような結末を望むのは欲張りなのか。  ただ普通に、穏やかに息がつける人たちが見たかっただけなのに、どうしてそんな事さえ、成し遂げられなかったのか。             “それは難しい。士郎の言っている事は、誰も彼も救うという事だからね”  幼い自分の疑問に、切嗣はそう答えた。  当然、幼い自分はくってかかった。  だって切嗣は俺を助けてくれた。なんでもできる魔法使いなんだって知っていた。  無償で、ただ苦しんでいる人を放っておけず手を出した正義の味方なんだって分かっていた。    だから―――切嗣ならあの時だって、みんなを助ける事ができたんじゃないかって信じていた。  そうぶちまけた俺に、切嗣は余計に困った顔をして、一度きり、けれど未だに強く残っている言葉を口にした。           “士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ”  そりゃあ分かる。  言われてみれば当たり前だ。  ここに強盗と人質がいて、強盗は人質を殺すつもりでいるとする。  通常の方法では人質の大半は殺されてしまうだろう。  それを、人質全員を助ける、なんて奇跡みたいな手腕で解決したとしても、救われない存在は出てくるのだ。    つまり、人質を助けられてしまった強盗である。    正義の味方が助けるのは、助けると決めたモノだけ。  だから全てを救うなんて事は、たとえ神様でも叶わない。 「……それが天災なら尚更だ。誰であろうと、全てを助けるなんて出来なかった」  十年前の火事はそういうモノだ。  今更、奇跡的に助けられた自分がどうこう言える話でもない。 「けど、イヤだ」  そういうのは、イヤだった。  初めから定員が決まっている救いなどご免だ。  どんなに不可能でも手を出さなくてはいけない。  あの時のように、まわりで見知らぬ誰かが死んでいくのには耐えられない。  だから、もし十年前に今の自分がいたのなら、たとえ無理でも炎の中に飛び込んで――――   「そのまま無駄死にしてたろうな、間違いなく」    それは絶対だ。  まったく、我ながら夢がない。 「っと、しまった。ぼんやりしてたら五時になっちまった」  五時を告げる鐘が鳴り響く。  ベンチから立ち上がり、急いでバイト先へと向かっていった。  バイトが終わった頃、日は沈みきっていた。  時刻は八時前。  予定より十分ほど早く終わったのは、単に頑張りすぎたせいだ。  仕事前にあんな場所に寄ってしまったからか、がむしゃらに働いてしまったらしい。  駅前という事もあり、夜は始まったばかりだ。  人波は多く、道を行く自動車も途切れることがない。 「藤ねえにおみやげ―――はいいか」  明かりのついたビルを見上げながら歩く。  新都で一番大きいビルなので、さすがに上の方はよく見えない。  ただ夜景を楽しむ為にビルを見上げていると、 「――――?」  なにか、不釣り合いなモノが見えた気がした。 「なんだ、今の」  立ち止まって最上階を見上げる。  両目に意識を集中させて、米粒程度にしか見えないソレを、ぼんやりと視界に捉える。 「――――――」    それは、知っている誰かに似ていた。    何の意味があって、  何をする為にあんな場所にいるのか。  長い髪をたなびかせ、何をするでもなく、彼女は街を見下ろしている。 「――――」  こちらに気が付いている様子はない。  いや、見えている訳がない。  人並み外れて目のいい自分が、魔力で視力を水増ししてようやく判る高さだ。  あんなところで一人きりで立っているから見分けられるが、地上で人波に紛れている自分になど気が付く筈もないだろう。  彼女はただ街を見下ろしている。  何かを捜しているのか、こんなに遠くからでも鋭い視線が感じられた。 「――――――――」  時間を忘れて、虚空に立つ少女を見上げる。  それは高い塔の上。  月を背に下界を見下ろす、魔法使いのようだった。 「あ」  と。  用が済んだのか、あっさりと彼女は身を翻していった。  屋上から人影は消え、綺麗なだけの夜景に戻る。 「今の、遠坂だったのかな」  確証は持てないが、まず間違いはあるまい。  あれだけ目立つ容姿の女の子はそういないし、なにより、ひそかに憧れているヤツを見間違えるほど間抜けじゃない。 「……そうか。に、しても」    なんていうか、その。  ヘンな趣味してるんだな、遠坂。  授業が終わり、下校時刻になった。  今日はバイトが入っているので寄り道はできない。  学校に残るコトはせず、まっすぐに隣町に行かなくてはいけないのだが―――  ……桜の事が気になる。  俺が心配したところでどうなる訳でもないが、元気になったかどうか、様子を見るぐらいはいいだろう―――  四階、一年の廊下を歩く。  廊下に生徒の姿はなく、教室に残っている生徒も少なかった。  一年はみんな部活か、早々に下校したあとのようだ。 「……失敗したな。これじゃ桜も部活に行ってる」  まあ、それでもここまで来たのだ。  桜のクラスを覗いて、誰もいない事を確認したらバイトに向かえばいい。 「どれ」  ひょい、と一年B組の教室を覗く。  赤い陽射しに染め上げられた教室は静まり返っていて、人の気配を感じさせない。  教室には誰もいない。  生徒たちはみな、それぞれ望む場所へと出払ったあとだ。 「――――――――」  そんな赤い教室に、一人、取り残された影があった。 「桜」  赤い世界に踏み入って声をかける。 「……先輩?」  長い髪に隠れた顔は、朝より一段と元気がなかった。 「どうしたんですか? うちのクラスに何か用事でも」 「いや、桜のクラスに用事はない。単に桜の様子が気になっただけだ。朝から体調悪そうだったから」 「…………」  桜はますます顔を暗くする。  明らかに元気がない。 「桜、気分が悪いなら帰らないか。交差点までなら送れるから、いっしょに帰ろう」 「……いえ、いいです。わたしどこも悪くありません。  いつもどおり部活に出て、終わったら先輩のところで夕飯をご馳走になるんです。  ……悪くなんてないんです。だから気にしないでください」  鞄を手にとって、逃げるように歩き出す。 「ばか、そんな顔でなに言ってんだ。いいから部活は休め。だいたいな、そんなんで弓を引いても返ってくるもんなんかないだろ」  通り過ぎようとする桜の手を掴む。 「――――あ」  がたん、という音。  俺に手を掴まれただけで桜は倒れそうになった。 「ちょっ……!」  あわてて桜の腕を引く。  力任せに引いた桜の体は、驚くぐらい軽かった。 「び、びっくりしたあ……桜、ほんとに大丈夫か?  足、ぜんぜんふんばりきいてないじゃないか」 「……………………」  桜は申し訳なさそうに視線を逸らす。  まったく、今日に限ってどうしたってんだ、桜は。 「とにかく部活は休みだ。俺もバイト休むから、今日はおとなしく家に帰ろう」 「……………………」  桜は押し黙ったまま答えない。  俺の手を解きもしないが、おとなしく帰ってくれる様子でもない。 「どうしたんだよ桜。そんなんじゃ部活に出ても意味ないって分かってるだろ」 「……それは、先輩の言うとおりです。けど、兄さんが呼んでるから」  だから行かないと、と桜は小さく呟いた。 「――――――――」  ……っ。  そんな顔でそんな風に言われたら、言い返す事もできなくなる。  間桐家の事情は複雑らしく、慎二と桜の関係に口出しすることはできない。  ……どんなに桜を家族だと思っても、桜の本当の家族は間桐家の人間だ。  他人である俺がどうこう言ったところで、部外者の無責任な言葉にすぎないんだから。 「……部活には顔を出すだけか、桜」 「え……? あ、はい。わたしだって今は弓を引けないって判ってます」 「そうか。ようするに慎二の顔をたてるだけって事だな」  がたん、と椅子を引いて座る。  続いてすぐ隣の机からも椅子を引く。 「あの…………先輩?」 「いいから座れ。部活に行くのはもう止めない。そのかわりもうちょっと休んでいけ。慎二には俺から誘われて、断るのに時間がかかったって言えばいい」 「そ、そんなコト言えません……! そんなコト言ったら、兄さん、また先輩に、その」 「慎二がちょっかい出してくるのはいつものコトだよ。  いいじゃんか、毎日会話のネタがあってあいつも楽だろ。  それに、この話は嘘でもなんでもない真っ白な真実なんだから、後ろめたい事もない」  ほら、と桜に着席を促す。 「…………」  桜はしずしずと椅子に座った。 「よしよし。んじゃちょっと待っててくれ。生徒会室からお茶くすねてくるからな。俺が戻ってくるまで席を立つのは禁止だぞ」 「え……? 先輩、お茶をくすねてくるって、そんなコトしたら怒られるんじゃ……」 「先生に見つかったらな。なに、この手のコトには慣れてる。廊下でばったり会わないかぎり問題ないから、桜は椅子でふんぞり返っててくれ」 「で、できませんっ。先輩が危ないコトしてるときに休んでるなんてもってのほかですっ。先輩、わたしお茶なんていいですから――――」 「だから危なくないって。いいから座ってろよ。教室で茶を飲むってのも一度ぐらいはいいもんだ」 「あ」  廊下に飛び出る。  生徒会室はそう遠くない。  ササッとお茶一式を拝借して、桜をびっくりさせてやろう。  ……時間が過ぎる。  桜と二人、教室でお茶を飲む、なんて間の抜けたコトをしながら、何をするでもなく外を眺めた。  窓の外は一面の夕暮れで、少し目に痛い。 「……………………」  桜はぼんやりと夕焼けを見つめていた。  俺も話すコトはないし、桜に倣って口を閉ざした。  ―――会話がない為か、時間はゆるやかに過ぎていく。  桜はお喋りな方じゃないし、こうして風景を眺めている事も多い。  一人の方が落ち着くんだろう。  思えば、桜はよく一人になりたがる。  雑踏から外れる、というのではなく、周りに人がいる中で孤立したがるというか、こうやって中ではなく外を眺める事が多いのだ。  教室に一人で残っていたのもそれだろう。  桜は積極的に人と関わろうとしない。  俺や藤ねえは特例だ。  その俺だって慎二と知り合っていなければ、桜が衛宮士郎という先輩を持つ事もなかった訳だし。 「――――――――」  桜の横顔を盗み見る。  四年前、慎二から紹介された時はまだ少女というより女の子の趣が強かった桜。  それがいつのまにか後輩になって、家に家事手伝いをしにきてくれる事になって、幼い面影もなくなろうとしている。  桜は綺麗になった。  ……いや、前々から美人だったけど、ここんところは異性として綺麗になりすぎだと思う。  くわえてよく気が利いて、性格も穏やかだ。  それだけ美点があれば、一年生でありながら遠坂凛と並び称される美人っていうのも頷ける。 「………………………」  けど、それがおかしいというか、腑に落ちない。  桜は一人でいる事が多い。  弓道部でも友人はいないようだし、教室に一人で残っていた事からして、クラスにも友人はいないのかもしれない。  ……考えてみれば、俺は弓道部にいる桜と、うちにいる桜しか知らない。  学校にいる時の桜、間桐邸での桜がどう過ごしているのかを、俺はまったく知らない。 「……………………」  そんな事を今更になって、赤い空を見ながら思った時。   「――――先輩、覚えてますか?」    窓の外を見つめたまま、桜は言った。 「……? 覚えてるかって、なにを」 「ずっと昔の話です。わたしがまだ、先輩を知らなかったころの話」 「えっと、つまり桜と知り合う前の話か……?」 「はい。四年前、わたしが進学したばかりの頃です。  まだ新しい学校に慣れてなくて、あてもなく廊下を歩いている時、わたし、不思議なものを見たんですよ?」 「……うん。あれはいったいどういう経緯だったんでしょうね。  もう放課後で、グランドには陸上部の人もいないっていうのに、誰かが一人だけで走ってたんです。何をしてるのかなって見てみると、その人、一人で走り高跳びをしてました」  くすり、という音。  それは微笑ましい記憶なのか、桜は幸せそうに笑っていた。 「真っ赤な夕焼けだったんです。校庭も廊下もみんな真っ赤で、キレイだけど寂しかった。  そんな中でですね、一人でずっと走ってるんです。走って、跳んで、棒を落として、また繰り返して。まわりには誰もいなくて、その高さは越えられないって判ってるのに、ずっと試し続けてました」 「頑張ればなんとかなるって問題じゃないんですよ? だってその棒、その人の身長よりずっと高かったんです。  わたしから見ても無理だって判るんだから、その人だってとっくに跳べないって判ってたと思うんです」 「……?」  話はわかったけど、それがどうしたっていうんだろうか。  放課後、居残りでしごかれるヤツなんて珍しくもないと思うんだが。 「わたし、その時よくない子だったんです。イヤなことがあって、誰かに八つ当たりしたかった。失敗しちゃえ、諦めちゃえって、その人が〈挫〉《くじ》ける瞬間が見たくなって、ずっと見てたんです。  けど、なかなか諦めてくれないんですよ、その人。  何度も何度も、見ているこっちが怖くなるぐらいできっこないコトを繰り返して、ぜんぜん泣き言を言わなかったんです」 「……はあ。そりゃよっぽど切羽詰ってたんじゃないのか? 明日がレギュラー選定で、その高さを跳べないと選ばれないとか」 「いいえ、それは違います。だってその人、陸上部でもなんでもない人でしたから」  ありゃ、そうなのか。  ……それはいいけど、なんでそこで笑うんだ、桜は。 「それでですね。わたし、見ているうちに気が付いたんです。その人、別になんでもいいんだなって。今日たまたま自分の出来ない事にぶつかって、なら負けないぞって意地を張ってただけなんです。  そうして日が落ちて、その人は一人で片付けをして帰っちゃいました。すごく疲れてるのに、なんでもなかったみたいに平然とどっか行っちゃったんです」 「……わかんないヤツだな。けどやめたってコトは跳べたんだろ、そいつ。それ、何メートルぐらいの高さだったんだ?」 「あはは。これがですね、結局跳べなかったんです。その人、三時間もずーっと走って、どうやっても自分じゃ跳べないって納得しただけなんです」 「うわ。オチてないな、その話」 「はい。あんまりにも真っ直ぐすぎて、その人の心配をしちゃったぐらいです。  その人はきっと、すごく頼りがいのある人なんです。  けどそこが不安で、寂しかった」  そう呟く桜の声こそが寂しそうで、教室の赤色に飲み込まれそうだった。 「……はあ、話は分かったけど。それがなんだってんだよ、桜」 「いえ、分からないのならいいんです。わたしにはそう見えただけで、その人自身にとっては日常茶飯事だったということで」  さっきの暗さとは一転して、桜は柔らかな笑みを浮かべる。 「…………」  ……と。  いくら鈍感な俺でも、そこまで言われれば判る。  俺自身そんな記憶はないけど、まあ、四年前っていったら親父が亡くなってからそう日が経っていない時だ。  毎日無茶なコトをやってた時期だし、そういうコトもあったんだろう。 「……あー、桜。つまり、それは」 「はい、いまわたしの前にいる上級生さんでした。  あの頃は小柄だったから、同じ学年かなって勘違いしちゃったんです」  ……う。  昔の背に関しては言わないでほしい。  そりゃ今だって高い方じゃないけど、おもいっきり成長したんだぞ、これでも。 「そういうコトです。わたし、その時から先輩のことは知ってたんですよ」 「そ、そっか。それは、初耳」  つまんないモン見られたなあ、と目を逸らす。  と。   「はい。わたしたち、おなじものを見てたんです」    祈るような仕草で、おかしなコトを桜は言った。 「え……?」  気にかかって声をかける。  が、それを遮るように、聞きなれた鐘の音が校庭に鳴り響いた。 「――――あ。鐘、なっちまったな」  桜を引き止めてから三十分。時計は四時半を指していた。 「さすがにこれ以上の遅刻はやばいよな。片付けはやっとくから、桜は先に行っていいぞ。体、少しは良くなっただろ?」 「はい、おかげさまで元気いっぱいです。今日の夕飯は楽しみにしててください」  席を立つ桜。  強がりにも見えないし、本当に体調は良さそうだ。 「ああ……って、わるい桜。俺、これからバイトだ。今日は遅くなるから、無理してうちに来なくていい」 「はい、わかりました。ならお夕飯だけ作って置いていきますね」  桜はぺこりとお辞儀をして去っていった。 「――――ま、いっか」  家には藤ねえがいるし、桜が帰る時は藤ねえが送ってくれるだろう。  こっちも生活がかかってるコトだし、さっさとバイトに行くとしよう――――    ……目覚めは暗い。  夢は見ない性質なのか、よほどの事がないかぎり、見るユメはいつも同じだった。  ……イメージするものは常に〈剣〉《つるぎ》。  何の因果か知らないが、脳裏に浮かぶものはこれだけだ。  そこに意味はなく、さしたる理由もない。  ならばそれが、衛宮士郎を構成する因子なのかもしれなかった。  見る夢などない。  眠りに落ちて思い返すものなど、昔、誰かに教わった事柄だけだ。  たとえば魔術師について。  半人前と言えど魔術師であるのならば、自分がいる世界を把握するのは当然だろう。  端的に言って、魔術師とは文明社会から逸脱した例外者だ。  だが例外者と言えど、〈群〉《むれ》を成さねば存在していられない。  〈切嗣〉《オヤジ》はその群、魔術師たちの組織を“魔術協会”と教えてくれた。  ……加えて、連中には関わらない方がいい、とも言っていたっけ。  魔術協会は魔術を隠匿し魔術師たちを管理するのだという。  ようするに魔術師が魔術によって現代社会に影響を及ぼさないように見張っているのだが、魔術の悪用を禁ず、という事でないのが曲者だ。  切嗣曰く、魔術協会はただ神秘の隠匿だけを考えている。  ある魔術師が自らの研究を好き勝手に進め、その結果、一般人を何人犠牲にしようと協会は罰しない。  彼らが優先するのは魔術の存在が公にならない事であって、魔術の禁止ではないのだ。  ようはバレなければ何をしてもいいのだという、とんでもない連中である。  ともあれ、魔術協会の監視は絶対だ。  たいていの魔術研究は一般人を犠牲にし、結果として魔術の存在が表立ってしまう。  故に、一般社会に害をなす研究は魔術協会が許さない。  かくして魔術師たちは自分の住みかで黙々と研究するだけにとどまり、世は全て事もなし――――という訳である。  魔術師が自身を隠そうとするのは、〈偏〉《ひとえ》に協会の粛清から逃れる為なのだとか。  ……だから、本当は俺が知らないだけで、この町にだって魔術師がいる可能性はある。  なんでも、冬木の町は霊的に優れた土地なのだそうだ。  そういった土地には、必ず歴史のある名門魔術師が陣取っている。  〈管理者〉《セカンドオーナー》、と呼ばれる彼らは、協会からその土地を任されたエリートだ。  同じ土地に根を張る魔術師は、まず彼らに挨拶にいき、工房建設の許可を貰わねばならないらしい。  ……その点で言うと、〈衛宮〉《うち》は大家に内緒で住んでいる盗人、という事になる。  〈切嗣〉《オヤジ》は協会から手を切ったアウトローで、冬木の管理者に断りもなく移り住んできた。  〈管理者〉《オーナー》とやらは衛宮切嗣が魔術師である事を知らない。  そういった事もあって、〈衛宮〉《うち》の位置付けというのは物凄く曖昧なのだと思う。  真っ当な魔術師であった〈切嗣〉《オヤジ》は他界し、  その息子であり弟子である俺は、魔術協会も知らないし魔術師としての知識もない。  ……協会の定義から言えば、俺みたいな半端ものはさっさと捕まえてどうにかするんだろうが、今のところそんな物騒な気配はない。  いや、日本は比較的魔術協会の目が届かない土地だそうだから、実際見つかっていないんだろう。  ―――と言っても、気を緩めていい訳じゃない。    魔術協会の目はどこにでも光っているという話だし、くわえて、魔術で事件を起こせば異端狩りである教会も黙ってはいないという。  ……魔術を何に使うのであれ、安易に使えばよからぬ敵を作るという事。  それを踏まえて、衛宮士郎は独学で魔術師になればいいだけの話なのだが―――― 「…………、ん」  窓から差し込む陽射しで目が覚めた。  日はまだ昇ったばかりなのか、外はまだ〈仄〉《ほの》かに薄暗い。 「……さむ。さすがに朝は辛いな」  朝の冷気に負けじと起きあがって、手早く布団をたたむ。  時刻は五時半。  どんなに夜更かしをしても、この時間に起きるのが自分の長所だ。昨日のような失態を犯すこともあるが、おおむね自分は早起きである。 「それじゃ朝飯、朝飯っと―――」  昨日は桜に任せきりだった分、今朝はこっちがお返しをしないと申し訳が立つまい。  桜がやってくる前にササッと支度を済ませてしまおう。  ごはんを炊いて、みそ汁を作っておく。  昨日は大根とにんじんだったので、今日は玉ねぎとじゃが芋のみそ汁にした。  同時に定番のだし巻たまごをやっつけて、余り物のこんにゃくをおかか煮にして、準備完了。  主菜の秋刀魚は包丁をいれて塩をまぶし、あとは火を入れるだけ、というところでストップ。 「よし、こんなんでいいか」    そろそろ六時。  思ったより早く終わったんで、時間を持て余してしまったが――――  深山町に帰ってくる。  新都とは違い、こっちは深夜と間違えるほど静かだった。 「……桜、大丈夫かな」  体調は良くなっていたようだが、あれからうちで夕飯を作って帰ったかと思うと、また無理をさせてしまったな、と反省する。 「……ちょっと、様子見てくるか」  いまから間桐邸に行ってどうなるわけでもないけど、何もしないよりは安心できるか。  間桐の家に異状はない。  桜が言っていたような“不審な外国人”の姿はないし、電気だっていつも通り、桜の部屋と慎二の部屋にしか点いていない。 「――――え?」  ……と、ちょっと待った。  となると、昨夜の明かりはなんだったんだろう。  桜でも慎二でもない第三者が間桐の家にいたんだろうか……? 「もし。なにか、この家に用があるのかね」 「……!?」  咄嗟に振り返る。  ……夜の暗がり。  虫の鳴き声に紛れるように、その人物は立っていた。  それは、見慣れない老人だった。  よほどの高齢だろうに凛とした眼と、小さな体には不釣合いな威圧感。  生きてきた年月の差なのか、こうして向き合っているだけで気圧される威厳がある。 「どうした若いの、なぜ答えん。答えねばこちらで極め付けてしまうぞ? ふむ、では桜が言っておった不審なよそ者がおまえさんだ、という事でよいかな」  桜……?  ……ってコトは、この人、もしかして―――― 「まいったのう。孫の頼みだ、見過ごしておく訳にもいくまい。見ず知らずのおまえさんには申し訳ないが、少し痛い目にあってもらわねばならん。  念の為聞いておくが、潔く公僕の厄介になる気はないか?」  正体不明の老人は快活に、物騒なコトを言ってくる。  ―――ま、間違いない。  初めて会うけど、この人、桜の―――― 「ぁ……いや、違いますっ……! 俺は慎二の同級生で、桜とは知り合いで散歩がてらに様子を見にきた衛宮士郎という者です……!」 「ほう。そうか、慎二と桜の知り合いか。それは邪魔をしたな。どれ、二人を呼んでこよう。それとも夕飯を馳走されるかね」 「い、いえ、ちょっと寄っただけですから、すぐ帰ります。それよりお爺さん、桜はもうちゃんと帰ってきてますか?」 「〈臓硯〉《ぞうけん》じゃ」  と。  老人は、不愉快そうに意味不明な単語を口にした。 「え?」 「〈間桐臓硯〉《まとうぞうけん》。おまえさんが名乗ったというのに、ワシが名乗らんままではおかしかろう」  間桐臓硯氏はそれだけ言うと、玄関に向かって歩き出した。  俺の事など興味はない、といった風である。 「………………」  なんというか、圧倒されて言葉もなく見送ってみる。  ―――と。 「桜ならば帰ってきておる。  それより衛宮士郎。アインツベルンの娘は壮健かね?」 「……は? アインツ、なんですか?」 「とぼけるでない。アインツベルンの娘が衛宮を訪ねるは道理。此度の座の出来はどうか、と問うておる」 「?????」  あー、ますます分からない。  ……失礼だけど、桜。  おまえのお爺ちゃんは、なかなかの難物だ。 「……………ふむ。どうやら本当に知らんらしいな、これは」  ため息をつく臓硯氏。  なんというか、ものすごくガッカリしているように見えて申し訳なくなる。 「……はあ。よく分かりませんけど、すみません」 「いやいや、おぬしが気に病む事はない。ワシの勘違いじゃ、つまらぬ事を言ってすまなかった。  そら、孫たちに用があるのなら遠慮する事はない。年寄りは隠居しておるでな、気兼ねなく訪ねるがよい」 「あ、いや、今日は本当に寄っただけです。……けど、その。お爺さん、この家に住んでいるんですか?」 「住んでおるとも。もっとも見ての通りの老体でな。日がな一日、奥座敷でくたびれておる」 「………………」  ……そうなのか。  一年前までは何度か間桐邸に上がっていたけど、慎二と桜以外の人間がいるようには思えなかったが。 「では失礼するぞ、衛宮士郎君。うちの孫たちと善くしてやってくれ」  見かけとは裏腹に、軽い足取りで老人は去っていった。  間桐邸に変化はない。  虫の鳴き声だけが、唐突に止んでいた。  ……一日が終わる。    騒がしい夕食を終え、藤ねえを玄関まで見送って、風呂に入る。  あとは土蔵にこもって日課の鍛錬。  それらをいつも通り終わらせて眠りにつく。  午前一時。  一日は何事もなく、穏やかに終わりを告げた。 「おはようございます先輩。今朝はもう済んでしまいましたか?」 「ああ、朝食の支度なら済んでる。あとは食器の支度と、魚に火を通すだけ」 「あ、それならお手伝いします。食器の支度は任せてください」  むん、とはりきる桜。  そんな健気な後輩の後ろを、 「あ、この匂いは士郎の卵焼きね。そっか、今朝は士郎の朝ごはんなんだー」  藤ねえがのんびりと食卓へ移動していく。 「……まあ、アレは放っておいて」  下ごしらえしておいた魚に火を通さなければ。 「桜、皿は真ん中のヤツ使ってくれ。その方が旨く見えるから」 「え……? あの、この表面がブツブツのですか?」 「そうそれ。焼き物は皿にも気を配らないと手抜かりになるからな。で、大根はもうすってあるから―――」  よいしょ、と棚の奥に手を伸ばして皿を取り出す桜。 「――――」  身を乗り出す桜の手首に、うすい痣が見えた気がした。 「桜、ちょっと待った」 「はい? なんですか先輩」 「その手首の痣、なんだ」 「あ――――」  気まずそうに視線を逸らす。  それで、その痣が誰につけられた物か判ってしまった。 「また慎二か。アイツ、妹に手をあげるなんて何考えてやがる……!」 「ち、違います先輩……! あの、その……これは転んでぶつけちゃったんです。ほら、わたし鈍いでしょう?  だからよく転んで、ケガばっかりしてるんです」 「ばか、転んだぐらいでそんな痣がつくか。慎二のヤツ、どうやらまだ殴られ足りないみたいだな……!」 「だ、だめです先輩っ……! これ、本当に兄さんは関係ないんです。わたしが一人でケガをしただけなんですから、先輩に怒ってもらう資格なんてありません」 「――――」  それきり桜は押し黙ってしまった。  ……大人しそうに見えて、桜はわりと意固地なところがある。こうなっては何を言っても逆効果だろう。 「……わかった。桜がそう言うんならそういう事にしておく」 「……はい。ごめんなさい、先輩」 「だから、どうしてそこで桜が謝るんだ。悪いのは慎二だろう」 「………………」  慎二の名前を口にした途端、桜は気まずそうに視線を逸らした。  つまり、それが桜の手首に痣がある理由だ。  間桐慎二。桜の兄貴であるアイツは、妹である桜に辛くあたる悪癖がある。  俺がそれに気が付いたのは一年ほど前だった。  桜は時々ケガをしている事があって、どうしたのかと訊ねても誤魔化してばかりだった。  それが気になって慎二に相談したら、あろう事かあの野郎、桜を殴ったのは自分だなんて言い出しやがった。  なんで殴ったんだ、と問いつめれば、気にくわないから殴っただけ、と答えた。  ―――そのあとカッとなった俺は、慎二とまったく同じ事を慎二本人に仕返した。  それ以来、慎二とは〈疎遠〉《そえん》になった。 「……先輩。兄さんとはその、仲直りしてくれましたか?」 「え? ああ、したよ。別にはじめからケンカなんてしてないから、仲直りも何もないけどな」 「……えっと、先輩にとってはそうでしょうけど、兄さんにとってはケンカをした事になるんです。だから、その……気をつけて、ください」 「?」  桜はおかしな事を言ってくる。 「気をつけろって慎二を?」 「……はい。兄さん、先輩を目の仇にしてるって聞きました。……その、先輩が退部するようになったのも兄さんのせいだって―――」 「それは違う。部活を辞めたのは慎二とは関係ない。いや、そりゃあ多少はあったかもしれないけど、そんなのは桜が気に病むコトじゃないぞ。たしかに慎二の言うとおり、ちょっと見苦しいからなコレは」  くい、と左肩を指さす。  そこにはちょっとした傷跡がある。  一年半前の話だ。  バイト中に荷物が崩れてきて、左肩を痛めてしまった事があった。怪我自体は骨折で済んだのだが、落ちてきた荷物が厄介なもので、肌にちょっとした焼き跡がついてしまったのだ。  その事故の後、俺は弓道部を辞めた。  うちの学校の弓道部は格式を重んじるのか、学生ながらに射礼をやらせてくれる。  男子の射礼は左肩だけ服をはだけさせ、肌を露わにして的を射る。  肩に火傷の跡があるヤツが射礼をするのは見苦しいのでは、と慎二の指摘があり、俺もちょうどアルバイトも忙しい時期だったので部活を辞めたという訳だ。 「あの、先輩。しつこいようですけど、本当にもう弓は引かないんですか? 藤村先生も怪我なんて支障はないって言ってるのに」 「なにを平和な! 藤ねえは全身骨折しようが支障ないって言うヤツだぞ、桜」 「先輩、わたし真面目な話をしているんですっ」 「……む」  こうなるとこっちも真面目に答えなくちゃいけないんだが、生憎と桜の望む返答は出来ない。 「当分は部活をしている余裕はないよ。弓は好きだけど優先するべき事じゃないし、しばらくは間を取ろうと思う」 「……しばらくって、どのくらいですか」 「気が向いた頃かな。ま、桜が卒業するぐらいまでにはなんとか。その時はよろしくな、桜」  ぽん、と桜の肩を叩く。 「あ、はいっ……! わたし、その時をお待ちしています!」  なんて、食器を落としかねない勢いで頷いていた。  授業が終わり、下校時刻になった。  今日はバイトが入っているので寄り道はできない。  学校に残るコトはせず、まっすぐに隣町に行かなくてはいけないのだが―――  白い陽射しを感じた。  隙間風だろう、冷たい外気が頬にあたって、ぼんやりと目が覚めた。 「あれ……土蔵だ、ここ――――」  体を起こして、目覚めたばかりの頭を二三回振る。 「そうか。昨日、そのまま眠っちまったんだ」  夜の日課―――自分の体にもう一つの感覚を付属させる鍛錬の後、部屋に戻るのが面倒になったのだろう。 「外の様子だと六時前ってところか。……いかん、朝飯の支度しなきゃ」  毛布を折り畳み、昨日も失敗に終わった“強化”の破片を片づけて、顔を洗いに屋敷へ向かう。 「――――さむ」  土蔵から出れば、外の気温は輪をかけて低かった。  冬でも暖かい深山町だが、こっち側の山の上だけはまっとうな冬の寒さを持っている。  で。  氷水めいた水道水で顔を洗って、とりあえずスッパリと覚醒する。 「――――――――よし」  完全に目が覚めた。  そうなってみると、自分がどんな状況に置かれているのかなんて、考えたくない事が浮かんでくる。 「……そうだ。のんきに顔洗ってる場合じゃなかったっけ……」  時刻は朝の五時五十五分。  やるべき事は山ほどあるが、まずは部屋に戻ってセイバーの様子を見なくては。 「……だよな。黙って部屋を出た事になるんだし、一言説明しておかないと」  セイバーに変な勘違いをされるのも困る。  ……深夜、眠る前に土蔵に行くのは日課なんだし、説明すれば納得してくれるだろう。 「セイバーにちゃんと説明したら、その後は朝飯の支度だろ。……遠坂は食べないらしいから、セイバーの分を足せばいいだけか」  あ。そっか、それなら増えた人数分の材料を買い込んでおかないと。忘れないうちにメモをとっておくべきだな。 「……む? 忘れ物……?」  なんだろ。  なにか一つ、とんでもなく重要なコトを忘れている気がするのだが――― 「やば、六時だ。急がないと間に合わない」  ま、思い出せないのなら大したコトじゃあるまい、うん。 「――――――――」  そーっと扉を開ける。  部屋の様子は昨夜のままだった。  夜のうちにセイバーが目を覚まし、こっちの部屋を捜した形跡はない。  部屋を抜け出した事は気づかれなかったようだ。 「……なんか拍子抜けだな。セイバーならそれぐらいは気が付くと思った」  それとも、今の彼女はそんな事に気が付かないほど、深い眠りを必要としているのか。 「……そうか。体を維持する為に頻繁に眠るって言ってたのは、そういう事かもしれない」  だからこそ出来るだけ身近で眠って、何かあったときすぐに駆けつけられるようにしているのだ。 「…………」  どちらにせよ、屋敷の中にいる限りは何処にいようと大差はない。  敵の侵入は結界で感知できる。  それなら俺でも一分ぐらいはなんとか身を守れるだろうし、一分もあれば屋敷のどこからでもセイバーは駆けつけられる。 「……そうだよな。それに土蔵だったら隠れる場所には事欠かないし」  とりあえず、昨夜の行動はそう怒られるような事ではないだろう。  セイバーに事情を説明しようと思ったが、その必要はなさそうだ。眠っているのなら無理に起こすのもアレだし。 「セイバー、朝飯の支度をしてくる。セイバーの分も用意しとくけど、眠かったら無理に起きなくていいからな。  また後で来るから、それまで休んでてくれ」  一応きちんと声をかけて、静かに部屋を後にした。  居間には誰もいない。  とりあえず冷蔵庫を開けて、今朝は何にしようかと案を練る。  と。 「―――おはよ。朝早いのね、アンタ」  思いっきり機嫌が悪そうな顔で、遠坂がやってきた。 「と、遠坂……? どうした、何かあったのか……!?」 「別に。朝はいつもこんなだから気にしないで」  遠坂はゆらゆらと、幽鬼のような足取りで居間を横切っていく。 「おい、大丈夫かおまえ。なんか目つきが尋常じゃないぞ」 「だから気にしないでって言ってるでしょ。顔でも洗えば目が覚めるわ。……えっと、ここからだとどう行くんだっけ、脱衣所って」 「そっちの廊下からのが近い。顔を洗うだけなら、玄関側の廊下に洗面所がある」 「あー、そういえばあったわね、そんなのが」  どこまで聞こえているのか、遠坂は手を振りながら去っていった。  と。  来客を告げる呼び鈴が聞こえた。 「士郎―――? 誰か来たけど―――?」  廊下から遠坂の声。 「ああ、気にしないでいいー! この時間に来るのは身内だからー!」  この時間に来るのなら桜だろう。  桜なら合い鍵を持っているし、玄関まで出る必要はない。 「……まったく。チャイムなんて押さなくていいって何度言ってもきかないんだからな、桜は」  桜は家族みたいなもんなんだから、チャイムなんか押さずにドカドカと入っていいのだ。  なのに桜は礼儀正しく、必ずチャイムを押して『お邪魔します』と一声かける。  それが桜の美点なんだろうが、そんなにいつも気を遣ってたらいつか参って―――― 「――――――」  って、ちょっと待った。  桜が、うちに、やってきた……? 「っっっっっっ…………!!!」  廊下を走る。  自分の間抜けさを叱るのは後だ。  とにかく玄関に急いで、遠坂と顔を合わす前に帰ってもらわないと――――! 「ハッ……ハッ……!」  が、時すでに遅い。  玄関には、 「――――――――」  頼まれもしないクセに客を出迎えている遠坂と、 「――――――え?」  ぽかん、と驚いている桜の姿があった。  桜は玄関の土間、遠坂は廊下。  二人はなんともいえない緊張感を持って、お互いを見つめていた。 「おはよう間桐さん。こんなところで顔を会わせるなんて、意外だった?」  廊下から、桜を見下ろすように遠坂は言う。 「――――遠坂、先輩」  どうして、という顔。  桜は怯えを含んだ目で遠坂を見上げている。 「――――」  まいった。  声がかけられない。  二人は駆けつけた俺を無視して、お互いだけを観察している。  そこに俺が口を挟む余地なんてない。  出来る事といったら桜にどう説明しようか考える事ぐらいなんだが、うまい説明を考えつく前に、     「先輩……あの、これはどういう……」    助けを求めるように、桜がこちらに視線を逸らした。 「ああ。それが、話すと長くなるんだけど―――」 「長くならないわよ。単に、わたしがここに下宿する事になっただけだもの」  きっぱりと。  人の言葉を遮って、遠坂のヤツ、要点だけを言いやがった。 「……先輩、本当なんですか」 「要点だけ言えばな。ちょっとした事情があって、遠坂にはしばらくうちに居てもらう事になった。  ……ごめん、連絡を入れ忘れた。朝から驚かせてすまなかった」 「あ、謝らないでください先輩っ。……その、たしかに驚きましたけど、そんなのはいいんです。それより今の話、本当に―――」 「ええ、これはわたしと士郎で決めた事よ。家主である士郎が同意したんだから、もう決定事項なの。  この意味、わかるでしょう? 間桐さん」 「……わかるって、何がですか」 「今まで士郎の世話をしていたみたいだけど、しばらくは必要ないって事よ。来られても迷惑だし、来ない方が貴女の為だし」 「――――――――」  桜は〈俯〉《うつむ》いて口を閉ざしてしまう。  そのまま凍り付いたような静寂が続いたあと。 「…………わかりません」 「え――――はい?」 「…………わたしには、遠坂先輩のおっしゃる事がわからないと言いました」 「ちょっ、ちょっと桜、アンタ――――」 「お邪魔します。先輩、お台所お借りしますね」  桜はぺこりとお辞儀をして家に上がると、遠坂を無視して居間へと行ってしまった。 「な―――――――」  呆然と立ちつくす遠坂。  それはこっちも同じだ。あんな桜を見たのは初めてで、なんて言ったものか判断がつかない。  ……いや、それも驚きだけど、今はもう一つ意外な事がある。 「おい遠坂。おまえ、どうして桜が俺んちに来てるって知ってたんだよ。今まで桜が俺の世話をしてたなんて、おまえに言ったおぼえはないぞ」 「え――――? ああ、それなら前にちょっと小耳に挟んだだけよ。ただの偶然。  それより驚いたわ。あの子、ここじゃあんなに元気なの? 学校とじゃ大違いじゃない」  よっぽど意外だったのか、遠坂は不機嫌そうに言い捨てる。  という事は、遠坂は学校での桜をそれなりに知っているのだろう。  桜の方も遠坂とは顔見知りだったみたいだし、知らない所で二人はいい先輩といい後輩だったのかも知れない。  ……まあ、それはいいとして。 「いや、俺も驚いてる。あんなに刺々しい桜は初めて見た。うちに手伝いに来てくれてる時と、学校での桜は変わらないよ。今のは鬼の霍乱ってのに票を投じる」 「―――ふうん、そうなんだ。……まずったわね、桜があんなに意固地だとは知らなかったわ。こうなるんなら士郎の口から説明させればよかった」  そりゃそうだ。  遠坂の容赦ない説明に比べれば、俺の方が幾分ましだろう。 「……済んだことは仕方がないだろ。それよりまずいって何がだよ」 「そりゃまずいでしょう。これからこの家は戦場になるかもしれないのよ? だからわたしたち以外の人間を寄せ付けないようにって桜を〈窘〉《たしな》めたのに、あれじゃ逆に追い出すのが難しくなったじゃない」 「あれで窘めてたのか。俺はてっきり〈虐〉《いじ》めてるのかと思った」 「そこ! なんかつまんないコト言った、いま!?」 「率直な感想だよ。それより桜の事だ。どうする、あの分じゃ帰ってくれそうにないぞ」 「そんなのなんとかするしかないでしょ。で、桜が来るのは朝だけ? それとも夕食もこき使ってるの?」 「誤解を招くような言い方するなよな。朝は毎日だけど、夕飯はそう多くないぞ」 「そう。それじゃ、これからは毎日になりそうね」 「?? 毎日って、何がさ」  首をかしげて質問する俺に、遠坂はこれみよがしに、はあ、なんて溜息をこぼしていた。  その後。  遠坂は居間に残り、桜は無言で朝飯の支度を始めてしまった。  居間で遠坂と桜をふたりきりにするのは不安があったが、こっちもセイバーの事を忘れるほど間抜けじゃない。  どうも桜は遠坂がいる事に怒っているみたいだし、ここでセイバーが出てきては話が更にこじれる。  こじれるので、セイバーには事情を説明する事にした。 「……という訳なんだ。  桜―――あ、いまうちに来てくれてる子は桜って言うんだが、桜は魔術師でもなんでもない普通の子で、聖杯戦争なんかに巻き込むわけにはいかないだろ。できれば知らないままで、しばらくうちから離れていてほしいんだが―――」    違うっ、どうしたら離れてくれるだろうなんて相談しにきた訳じゃないっ! 「だからだな、今朝の桜はどうもおかしいんだ。  遠坂が原因なんだが、そこに追い打ちをかけるのもどうかと思う。ああいや、だから桜は見知らぬ他人がうちにいる事に驚いてるんだ。そこにセイバーが出てくるとさらにおかしくなりそうなんだが、まて、俺なんかセイバーに失礼なコト言ってないか……?」 「いいえ、シロウの言いたい事は判ります。つまり、私はここで待機していれば良いのですね?」 「――――! そう、そうしてくれると助かる! 桜を送り出したらすぐに戻ってくるから、朝食はその時で」  ええ、と静かに頷くセイバー。  いや、セイバーが物わかりのいいヤツでもの凄く助かった。  よし。  居間の様子も気にかかるし、急いで戻ることにしよう。 「――――シロウ」 「ん? 何だ、セイバー」 「はい。そのような事を私に説明する必要はありませんが、もう少し落ち着くべきです。先ほどからシロウの言動は破綻しているかと」 「え――――慌ててるか、俺?」 「とても。居間に戻るのでしたら、その前に気を落ち着けることです」  セイバーは静かに、いつもの調子でそんな助言を口にした。    で。  何事もなかったかのように、いつもの朝食が始まった。 「どうぞ先輩。遠坂先輩もいかがですか?」  ごはんを盛ったお茶碗を差し出す桜は、いつも通りの桜だった。  俺がいない間に何があったかは知らないが、二人の間にあった緊張感は薄れている。  いやまあ、とりあえず表面上は。 「……ん。じゃ、お言葉に甘えて」  遠坂は少し戸惑ったあと、桜からお茶碗を受け取った。  桜はにっこりと笑ってみそ汁、卵焼き等のおかず軍団を並べていく。  目の前に並べられていくそれを、遠坂は複雑そうな顔で見下ろしていた。 「遠坂。おまえ、朝飯は食べない主義じゃなかったっけ」 「用意されたものは食べるわ。当然の礼儀でしょう、それって」 「……ま、いいならいいか。それじゃいただきます。それと、結局支度を任せてすまなかったな桜」 「いえ、これがわたしの仕事ですから気にしないでください。じゃあわたしもいただきますね」 「まったく良い身分だこと。後輩に朝食作らせるなんてどこの王侯貴族なんだか。ま、それは追々問いつめるとしていただきます」  三者三様のていでお辞儀をして、いざ朝食。  ……。  …………。  ………………。  ……………………いかんな。どうも会話がない。 「――――――――」  まあ険悪なムードではないし、そもそもうちの朝食はこんなもんだ。  俺も桜もお喋りな方でなし、飯時が静かなのはいたって道理なのだ。  にも関わらず、どうして衛宮邸の朝食はいつも騒々しいんだろう。 「…………?」  いや、まて。  なんか、また頭にひっかかったぞ……? 「先輩? あの、お魚の味付け濃かったですか……?」 「いや、そんな事はないけどな。どうも、さっきから何か忘れてる気がする」  なんだろう?  思い出せないコトなら大した事じゃない、と割り切ろうとしたが、それはとんでもない思い違いな気がしてきた。  放っておいたら死に至る病巣を抱えてしまっているような、そんな不安がよぎる。 「―――ま、いっか。どうせ大したコトじゃないんだろ」  うん、と無理矢理納得して飯をかっこむ。    ――――と。   「おはよー。いやー、寝坊しちゃった寝坊しちゃった」  パタパタと音をたてて、藤ねえがやってきた。 「――――――――」  そうか。  思い出せないコトじゃなかったんだ。  ようするに、思い出さないコトで問題を先送りにしたかった訳なのだ。 「士郎、ごはん」  行儀良くいつもの席に正座する藤ねえ。  おそろしいほどユニゾンする二人の挨拶。 「はい、どうぞ先生。大したものではありませんけど、召し上がってください」  そして、いつも通りの笑顔でお茶碗を渡す桜。 「?」  お茶碗を受け取って首を傾げる藤ねえ。  何か不思議なのだが、どうして不思議なのか分からない。  そんな藤ねえは、まにょまにょと物静かにご飯を食べる。  かくしてきっかり一杯分の飯を平らげてから、ぼそぼそと俺に耳打ちをしてきた。 「……ね、士郎。どうして遠坂さんがいるの?」 「それは、今日からうちに下宿する事になったからかな」  淡々と事実だけを説明する。 「あ、そうなの。遠坂さんも変わったコトするのね」 「うん。あいつ、けっこう変わり者だ。学校じゃ猫被ってる」 「そっかー、今日からここに下宿するのかー」  なるほどなるほど、と納得してぐぐーっ、とみそ汁を飲み干す藤ねえ。         「って、下宿ってなによ士郎ーーーーーー!!!!」  どっかーん、とひっくり返るテーブル。  幸運なことに桜は風上、遠坂は当然のように予め移動していて、被害は俺だけに集中した模様。 「あちーーーー! ななななにすんだよ藤ねえ! みそ汁だぞ炊きたてのご飯だぞつくね煮込んだ鍋ものだぞ!?こんなもんかけられたら熱いだろうっ―――て、何故に朝っぱらから鍋物なぞ……!?」 「うるさーい! アンタこそなに考えてるのよ士郎! 同い年の女の子を下宿させるなんてどこのラブコメだい、ええいわたしゃそんな質の悪い冗談じゃ笑ってやらないんだから!」 「笑いをとるつもりなんかねーってば……! っていうか熱! 熱い、火傷する、桜タオルくれタオル!」 「はい。冷やしたタオルでしたら用意しておきました、先輩」 「サンキュ、助かる……! うわ、襟元からつくねが、必要以上に加熱されたつくねがあ―――!?」 「タオルはあと! そんなコトより申し開きしなさい士郎、アンタ本気でそんなコト言ってるの!?」 「おう、そんなの当たり前だ。俺がこの手の冗談苦手だって知ってるだろ。  とにかく遠坂はうちに泊めるんだ。文句は聞くけど変更はしないから、言うだけ無駄だぞ」 「そんなの大却下! な、なんのつもりか知らないけどダメに決まってるでしょう! お、同い年の女の子と一緒に暮らすなんて、そんなのお姉ちゃん許しません!」  があー、と吠える藤ねえ。  ……そりゃあ、まあそうだよなぁ。  藤ねえは俺の保護者だし、かつ学校の先生だし。  こんな状況、竹刀百叩きどころか真剣百回斬りでも済まされるかどうかだし。  それでも無理を通さなくちゃいけないあたりが我が身の不幸というかなんというか。 「いや、そこをなんとか。別にやましい気持ちなんてないし、遠坂とはそういう関係でもないんだ。ただ、たまたま事故に遭ったっていうか、成り行きで部屋を貸すコトになっただけなんだってば」 「うるさーい! ダメなものはダメなのーーーー!  わたしは下宿なんて許しません! 遠坂さんの事情は知らないけど、ちゃっちゃと帰ってもらいなさい!」  うわあ、聞く耳もたねー!  ダメだ、やっぱり俺なんかの説得が通じるほど生やさしい人じゃないのかっ……! 「先生。下宿は許しません、とおっしゃいますけど、わたしはすでに一泊してしまったのですが」  と。  藤ねえの頭に冷水ぶっかけるような台詞を、さらりと遠坂は口にした。 「――――え?」 「ですから、昨日泊めさせていただいたんです。  いえ、正確には土曜の夜からお邪魔していますから二泊でした。今は別棟の客間を借りて、荷物も運んであります。  どうでしょう先生。客観的に見て、わたしはもう下宿している状況なのですが」 「――――――――」  さあー、と藤ねえの顔が青くなっていく。 「し、し、士郎、アンタなんてコトするのよぅ……!  こんなコト切嗣さんが知ったらどうなるか分かってるの!?」 「どうなるかって、親父だったら間違いなく喜ぶぞ。男の甲斐性、とかなんとか言って」 「う……同感。切嗣さん、女の子にはとことん甘い人だったからなぁ……そっか、それが遺伝してるんでしょ士郎のばかー!」  がくがく、と人の襟を掴んで体を揺さぶる藤ねえ。  ……まあ、遺伝はともかくとして、女の子は守ってあげなくちゃいけないよ、というのが親父の信念だった。  俺も親父ほど振りかざす訳じゃないけど、まったくその通りだって思ってる。  だが、しかし。 「なに? 助け船、出してほしいの?」  あの冷血漢まで女の子と認識しなくちゃいけないあたり、男っていうのは辛い生き物だと思う。 「……頼む。俺じゃあ現状を打破できない。遠坂の政治手腕に期待する」  ガクガクと頭を振られながら呟く。 「オッケー。それじゃサクっと解決しますか」 「藤村先生。衛宮くんを振っても出るのは悲鳴だけですから、そのあたりで止めてあげてください。それに、下手をすると朝ご飯まで出てきかねません」 「む……なによ遠坂さん、そんな真面目な顔したって怖くないんだから。教師として、なにより士郎の教育係として、遠坂さんの下宿は認めませんっ」  藤ねえは俺から手を離して遠坂と対峙する。  野生の勘というヤツだろう。  俺にかまっていては遠坂に寝首をかかれる、と察したに違いない。 「それは何故でしょうか。うちの学校には下宿している生徒も少なくありません。生徒の自主性を伸ばすのが我が校の方針ではありませんでしたか?」 「なによ、難しいコト言ったってダメなんだからっ。だいたいですね、こんなところに下宿したって自主性なんて芽生えません。  ご飯はかってに出てくる、いつもキレイ、お風呂はかってに沸いてるっていう夢のようなおうちなんだから、ここ。こんなところに居候してたら堕落しきっちゃうわよ、遠坂さん」 「…………藤ねえ」  その発言は、教師としてあまりにも問題が。 「それにね、原則として下宿していい生徒は家が遠い生徒だけよ? 遠坂さんのおうち、たしかにここより遠いけど登校できない場所じゃないでしょ。桜ちゃんだってあっちから通ってるんだから、下宿する必要なんてありません」 「それが、今うちは全面的な改装を行っているんです。  古い建物ですから、そこかしこにガタがきてしまっていて。改装が終わるまではホテルで暮らそう、と考えていたのですが、偶然通りかかった衛宮くんに相談したところ、それはお金が勿体ないからうちを使えばいい、と言ってくれたんです」 「むっ……それは、確かに士郎っぽい発言ね」 「はい。あまり面識のない衛宮くんからの提案には驚いたのですが、確かにホテル暮らしなんて勿体ないし、なにより学生らしくありません。それなら学友である衛宮くんのおうちにご厄介になった方が勉強になる、と思ったのです」 「む……むむむ、む」  うなる藤ねえ。  遠坂の返答と態度があんまりにも優等生な為、仮にも教師な藤ねえは反論できないようだった。 「は、話は判りました。けど、それでも問題はあるでしょう? 遠坂さんと士郎は女の子と男の子なんだから、一つ屋根の下で暮らす、というのはどうかと思うわ」 「どうか、とはどんな事でしょうか、先生」 「え……えっと、だからね、遠坂さん美人だし、士郎もなんだかんだって男の子だし、間違いがあったらイヤだなって」 「何も間違いはありません。わたしの部屋は別棟の隅、衛宮くんの部屋は蔵の近くにある和室です。距離にしてみれば二十メートル以上離れているじゃないですか。ここまで離れていれば何も問題はないと思いますが」 「う……うん、別棟には鍵もかかるし、違う家みたいなものだけど……」 「でしょう。それとも藤村先生は衛宮くんを信用していないとでも? 先程、先生は衛宮くんの教育係だと仰いました。なら衛宮くんがどのような性格かは、わたしより藤村先生の方がご存じだと思います。彼がそのような間違いを犯すというのでしたら、わたしも下宿先には選びませんが?」 「失礼ね、士郎はちゃんとしてるもん! ぜったい女の子を泣かせるような子じゃないんだから!」 「なら安心でしょう。わたしも衛宮くんを信用していますから。ここなら、安心して下宿できると思ったのです」 「むーーーーーーーー」  藤ねえから迫力が消えていく。  ……勝負あったな、こりゃ。  まだ色々とつっこみどころはあるけど、遠坂なら全部論破できるだろうし。  とりあえず、これで遠坂は晴れてうちの市民権を獲得できたって訳か……。    ―――そうして朝食は終わった。    こっちの予想通り、藤ねえは遠坂にことごとく言い負かされて撃沈。  結論としては、学校では極力秘密にして、家では藤ねえが監督するって事で決着。  そうと決まれば人数が増えて嬉しいのか、藤ねえは上機嫌で学校に行ってしまった。  朝食を終えて、学校に行く前にセイバーに声をかける。  セイバーはやはり冷静に、   「学校では凛の指示に従うように。  危険が迫った時は私を必要としてください。それでマスターの異状は感じ取れますから」    と、実にあっさり部屋に戻っていった。    そんなこんなで登校時間。 「それじゃ行きましょうか。このあたりの道は不慣れなんだから、学校までの近道ぐらい教えてよね」  となりには制服姿の遠坂凛。  ……もう薄れつつはあるが、それでも制服を着た遠坂は優等生然としていて緊張する。  学校一の美人と一緒に登校するっていうだけでも冷静でいられないのに、くわえて 「先輩。戸締まり、できました」    今日は桜まで一緒だった。  弓道部員の桜は、本来なら藤ねえと一緒に登校する。  が、今朝は何を言うでもなく居間に残り、朝食の後片づけをして俺が登校するのを待っていた。 「え、なに? 桜に鍵持たせてるの、士郎ってば?」 「持たせてるよ。桜は悪いコトなんてしないし、ずっと世話になってるからな。……ああ、その分でいくと遠坂にはやれないが、別にかまわないだろ」 「……それは構わないけど。どういう意味よ、それ」 「悪いコト、するだろ。それにおまえ、鍵なんかなくても困らないんじゃないのか? 必要ないモノを作るほど酔狂じゃないぞ、俺」 「―――あっそうですかっ。ええ、士郎の言うとおりこれっぽっちも要らないわよそんな物!」  ふん、と顔を逸らす遠坂。  慣れてきたのか、遠坂のこういう仕草も味があるなー、と素直に思う。 「………………」 「? どうした桜、戸締まりが出来たのなら行こう。  今朝は遠坂もいるし、出来るだけ早めに行きたいんだ」 「はい、そうですね。先輩がそう言うのなら、そうします」  元気のない声で言って、桜は俺たちの後に付いてくる。  ……まいったな。  藤ねえが遠坂に言い負けてから、桜は妙に元気がない。  藤ねえは納得しても桜は納得してないのだろう。 「……ちゃんと話さないとダメかな……」  そうだな。出来るだけ早くに機会を作って、桜にも遠坂と仲良くしてもらわないといけないか―――  坂道は生徒たちで賑わっている。  時刻は朝の七時半過ぎ、登校する生徒が一番多い時間帯だ。  そんな中、  こんな目立つ面子と歩いていようものなら、そりゃあ周りから奇異の目で見られまくる。 「………………」  何か忘れ物でもしたのか。  遠坂はさっきからこんな調子で黙っている。 「どうした遠坂。なんか坂道あたりから様子が変だぞ、おまえ」 「え……? やっぱりヘン、今朝のわたし?」 「いや、別に変じゃないが、その反応が変だ」 「先輩、その説明は矛盾してます。遠坂先輩が訊いているのはそういうコトじゃないと思いますけど……」 「? 何を訊きたがってるっていうんだよ、遠坂は」 「ですから、遠坂先輩は周りから見られているから、どこか自分の姿がおかしいのでは、と思ってるんですよね?」 「そ、そうだけど、やっぱり桜から見てもヘン?  おかしいな、今朝は眠いながらもちゃんとブローしたし、制服だって皺一つないと思うんだけど……やっぱり慣れない家で寝たもんだから目にクマでもできてるってワケ!?」 「なんでそこで俺に怒鳴る。  遠坂が寝なれないのは俺の所為じゃないし、仮にそのせいで遠坂の目にクマが出来ていたとしても大したコトじゃない。気にするな」 「なに失礼なコト言ってるのよ。女ってのは生まれた時から自分の身だしなみを気にするものなの!  ああもう、今まで外見だけは完璧でいようって繕ってきたのに、それも今日でおしまいってコトかしらね……!」 「だから、なんで俺を見て怒鳴るんだよ遠坂は。  なんで遠坂が変なのかは知らないが、間違いなくそれは俺のせいじゃない。八つ当たりは余所でやってくれ」 「違いますよ遠坂先輩。先輩は今日も綺麗です。  みんなが遠坂先輩を見ているのは、わたしたちと一緒だからです。先輩、今まで誰かと登校した事なんてなかったから」 「え……? なに、その程度の事でこんな扱い受けるわけ? ……侮れないわね。十年も通ってれば学校なんてマスターしたつもりでいたけど、謎はまだ残ってたわけか」  ふーん、と真剣に考え込む遠坂。  つーか、今日も綺麗ですっていう賛美を当然のようにスルーするおまえは何者か。 「……わかんないヤツだな。遠坂が誰かと登校すれば騒ぎになるのは当然じゃないか。それが男子生徒なら尚更だ」 「ですね。けど遠坂先輩、そういうの気にしない人なんです。だから今まで浮いた話ひとつなかったんですよ」 「へえ……そりゃ良かった。外見に騙されて泣きを見た犠牲者は、いまのところ一人だけってコトだからな」  なんて、桜と小声で秘密会議をしながら、不思議そうな顔で歩いていく遠坂の後に続く。  周囲の視線にさらされながら校門をくぐる。  校舎に入ってしまえばそれぞれ別行動だから、周りの目もそれまでの辛抱だろう。 「……ふん。朝から頭痛いのがやってきちゃってまあ」  ぼそり、と遠坂が呟く。  遠坂の視線の先には、登校する生徒たちを邪魔そうに押しのけてくる顔見知りの姿があった。 「桜!」 「あ……兄、さん」  びくり、と体を震わせる桜。  慎二は俺たちの事など目に入っていないのか、早足で一直線に桜まで近寄った。 「どうして道場に来ないんだ! おまえ、僕に断りもなく休むなんて何様なわけ!?」  慎二の手があがる。  それを、   「よ、慎二。朝練ご苦労さまだな」  掴んで止めて挨拶をした。 「え、衛宮……!?  おまえ―――そうか、また衛宮の家に行ってたのか、桜!」 「……はい。先輩の所にお手伝いに行っていました。けど、それは」 「後輩としての義務だって? まったく泥臭いなおまえは。勝手に怪我したヤツなんてかまうコトないだろ。いいから、おまえは僕の言う通りにしてればいいんだよ」  ふん、と掴まれた腕を戻す慎二。  ……桜に手をあげなければ握っている理由もないし、こっちも何もせずに手を放した。 「しかしなんだね、そこまでうちの邪魔して楽しいわけ衛宮? 桜は弓道部の部員なんだからさ、無理矢理朝練をサボらせるような真似しないでくれないかな」 「――――む」  それを言われるとこっちは反論できない。  桜がうちに朝食を作りに来てくれるのを止めていない時点で、俺は桜の朝を拘束しているコトになる。 「そんなコトありませんっ……! わたしは好きで先輩のお手伝いをしているだけです。兄さん、今のは言い過ぎなんじゃないですか」 「は、言い過ぎだって? それはおまえの方だよ桜。衛宮が独り住まいだからなんだって言うんだ。別に一人でいいっていうんだからさ、一人にしてやればいいんだよ。衛宮みたいなのはそっちの方が居心地がいいんだからさ」 「兄さん……! ……やだ、今のはひどい、よ……」 「―――ふん。まあいい、今日で衛宮の家に行くのは止めろよ桜。僕が来いって言ったのに部活に来なかったんだ。そのくらいの罰は受ける覚悟があったんだろ?」 「――――――――」  桜は息を呑んで固まってしまった。  慎二はそんな桜を強引に連れて行こうとし、 「おはよう間桐くん。黙って聞いていたんだけど、なかなか面白い話だったわ、今の」 「え――――遠、坂? おまえ、なんで桜といるんだよ」 「別に意外でもなんでもないでしょう。  桜さんは衛宮くんと知り合い、わたしは衛宮くんと知り合い。だから今朝は三人で一緒に登校してきたんだけど、気づかなかった?」 「な――――え、衛宮と、知り合い……!?」 「ええ。きっとこれからも一緒に学校に来て、一緒に下校するぐらいの知り合い。だから桜さんとも付き合っていこうかなって思ってるわ」 「衛宮と、だって…………!!!!!」  ぎっ、とこっちを睨む慎二。  ……そこに、敵意を通り越した殺意を感じたのは気のせいか。  そりゃここんところ慎二とはうまくいってなかったけど、そこまで一方的に恨まれるコトはしてないぞ、俺。 「は、そんなバカな。冗談がきついな遠坂は。君が衛宮なんかとつき合う訳ないじゃないか。  ……ああ、そうか。君勘違いしてるんだろ。そりゃあたしかにちょっと前まで衛宮とは友達だったけど、今は違うんだ。もう衛宮と僕は無関係だから、あまりメリットはないんだぜ?」 「そうなの? 良かった、それを聞いて安心したわ。貴方の事なんて、ちっとも興味がなかったから」 「――――うわ」  慎二に同情する。  俺だったら、しばらく立ち直れないトラウマになるぞ、今の。 「――――おまえ」 「それと間桐くん? さっきの話だけど、弓道部の朝練は自主参加の筈よ。欠席の許可が必要だなんて話は聞いてないわ。そんな規則、わたしはもちろん綾子や藤村先生も聞いてないでしょうねぇ」 「う―――うるさいな、兄貴が妹に何をしようが勝手だろう! いちいち人の家の事情に首をつっこむな!」 「ええ、それは同感ね。だから貴方も―――衛宮くんの家の事をあれこれ言うのは筋違いじゃない? まったく、こんな朝から校庭で騒がしいわよ、間桐くん」 「っ――――――――!」  じり、と慎二は後退すると、忌々しそうに俺と桜を睨み付ける。 「―――分かった、今朝の件は許してやる。  けど桜、次はないからな。今度なにかあったら、その時は自分の立場ってヤツをよく思い知らせてやる」  言いたい放題言って、慎二は早足で校舎へ逃げていった。  うん。アレはどう見ても、遠坂に貫禄負けして撤退したのだ。 「……ごめんなさい、先輩。兄さんがその……失礼な事を言ってしまって」  桜は俺だけではなく、遠坂にも謝っているのだろう。 「ううん、朝からいい運動になったわ。頭のギアがスパッと上がったし、ようやく調子が出てきたもの。口喧嘩好きなのよねー、わたし」 「それに謝るのはわたしの方だし。ちょっとやりすぎだったわよね、今の。あいつだって立場があるんだし、ほら、みんなの前でああいうのってしちゃ駄目だって言うじゃない。  間桐くんが落ち込んでたら後でフォローしてあげて。  これに懲りずに、またつっかかってきてもいいって」 「あ―――はい。兄さんが懲りていなければまたお相手をしてあげて下さい、先輩」  安心したのか、嬉しそうに微笑む桜。  遠坂は照れくさそうにそっぽを向いていたりする。 「先輩も。あの、出来れば怒らないであげてください。  兄さん、先輩しか友達いないから」 「分かってるよ。怒るなっていうのは無理だけど、慎二はああいうヤツだってのは知り合った時から知ってる。  ま、何かの拍子でまた付き合いが深くなるのは目に見えてるしさ。気長にやっていくよ、アイツとは」 「はい――――よろしくお願いします、先輩」  ぺこり、と一礼する桜。  ……そうだな。  俺が慎二に対して本気で怒るっていったら、こんないい妹がいるのに何が不満なんだってコトぐらいだ。 「それじゃあ先輩、今日も一日頑張りましょうね」  桜は一年の廊下へ移動する。  俺たちは階段を上がって二年の廊下に出て、   「はうわ!?」    ばったりと、生徒会長と出くわした。 「な、何故に遠坂と一緒にいるのか衛宮士郎!」 「あら。おはよう柳洞くん。朝からハウワ、とはご挨拶ね」 「く、目覚めから嫌な予感がしたが、まさか暗剣殺とはな―――! ええい、いいからこっちに来い衛宮! 遠坂の近くにいたら毒がうつる、毒が!」  ぐい、と強引に人の手を引く一成。  遠坂は何も言わず俺と一成を眺めた後、何事もなかったように二年A組の教室へ向かう。 「ふん、行くがいい。誰も止めはしないからな」 「………………」  遠坂は無言で俺たちの横を通り過ぎる。  と。   「士郎、昼休みに屋上」    一瞬。一成に聞こえないように、そんな言葉を囁いてきた。    ――――昼休みになった。    朝の一件以来、一成は“裏切り者”扱いして近寄ってこない。 「……さっきのは悪ノリしすぎたか」  ちょっと反省。  朝、どうして遠坂と一緒にいたのか、と詰問され、 「休みの間に親密になったんだ」  と答えたのがまずかった。  問題はどんなふうに親密になったかだと思うのだが、そこまで説明できる筈もなく、一成はクラクラと目眩を起こしながら去っていった次第である。 「……まあちょうどいいか。しばらくは一人で色々やらなくちゃいけないからな」  関わる人間は少ないに越した事はない。  さて、とりあえずやるべき事といったら――――    遠坂との約束がある。  一方的な発言だったが、呼び出すからには話があるのだろう。  昼飯を買って屋上へ。  夏場なら生徒たちで賑わう屋上も、冬の寒さの前には閑古鳥を鳴かさざるを得ない。  いくら冬木の冬が暖かいと言っても、屋上の寒さは我慢できるものじゃない。  冷たい風にさらされた屋上にいるのは自分と、   「遅いっ! 何のんびりしてるのよ士郎!」    寒そうに、物陰で縮こまっている遠坂だけである。 「遅れたのは悪かったと思ってる。思ってるんで差し入れを持ってきたんだが、その様子じゃ要らないか」  売店で買ってきたホットの缶コーヒーをポケットに仕舞う。 「う……アンタ、〈木訥〉《ぼくとつ》な顔してけっこう気が利くのね」 「ただの気紛れだよ。ほら、もうちょっとそっち行けよ。  ここだと風が当たるし、人目につくだろ」  ほら、と缶コーヒーを渡しながら物陰に入っていく。  ここなら人がやって来てもすぐには見つからないし、校舎の四階から見える事もない。 「ありがと。次は紅茶にしてね。わたし、インスタントならミルクティーだから。それ以外はありがたみがランクダウンするから注意するべし」 「あいよ、次まで覚えていたらな。それよりなんだよ、こんなところに呼び出して。〈人気〉《ひとけ》がない場所を選ぶあたり、そっちの話だと思うけど」 「と、当然でしょ。わたしと士郎の間で、他にどっちの話があるっていうのよ」 「ああ、それはそうだな。で、どんな話なんだ」 「……なによ。随分クールじゃない、貴方」 「? まあ、寒いからな。できるだけ手短に済ませたい。  遠坂はそうでもないのか?」 「―――! そんな訳ないでしょう、わたしだってさっさと用件だけ済ませるつもりに決まってるじゃない!」  うん、そうだと思った。  別に判りきってる事なんだから、怒鳴らなくてもいいのに。 「―――まあいいわ。  それじゃ単刀直入に訊くけど、士郎。貴方、放課後はどうするつもり?」 「放課後? いや、別にこれといって予定はないよ。生徒会の手伝い事があったら手伝うし、なかったらバイトに出るし」 「――――――――」 「……なんだよ、その露骨に呆れた顔は。言いたい事があるならはっきり言ってくれ。出来るだけ直すから」 「……まったく。貴方がどうなろうとわたしは構わないんだけど、ま、一つだけ忠告してあげるか。今は協力関係なんだし、士郎は魔術師として未熟すぎるから」 「またそれか。魔術師として未熟だっていうのはもう耳にタコだ。気にしてるんだからあまり苛めないでくれ」 「苛めてなんていないわよ。ただ士郎が学校の結界に気づいてないようだから未熟だって言ってるの」 「――――?」  学校の結界……? 「待て。学校の結界って、それはまさか」 「まさかも何も、他のマスターが張った結界だってば。  かなり広範囲に仕組まれた結界でね、発動すれば学校の敷地をほぼ包み込む」 「種別は結界内にいる人間から血肉を奪うタイプ。まだ準備段階のようだけど、それでもみんなに元気がないって気づかなかった?」 「――――――――」  そう言えば……二日前の土曜日、なんとも言えない違和感を感じたが、アレがそうだったっていうのか?  だが、という事は―――― 「つまり―――学校に、マスターがいる……?」 「そう、確実に敵が潜んでいるってわけ。分かった衛宮くん? そのあたり覚悟しておかないと、死ぬわよ貴方」 「――――――――」  弛緩していた意識が引き締まる。 「……それで。そのマスターが誰かは判っているのか、遠坂は」 「いいえ。あたりは付いてるけど、まだ確証が取れてない。……まあ、うちの学校にはもう一人魔術師がいるって事は知ってたけど、魔術師イコールマスターって訳じゃないから。  貴方みたいな素人がマスターになる場合もあるんだし、断定はできないわ」 「む。俺は素人じゃない、ちゃんとした魔術師だ……って、待った遠坂、魔術師ならもう一人いるってうちの学校にか……!?」 「そうよ。けどそいつからマスターとしての気配は感じないのよね。真っ先に調べにいったけど、令呪も無ければサーヴァントの気配もなかった。  よっぽど巧く気配を隠しているなら別だけど、まずそいつはマスターじゃないわ」 「だからこの学園に潜んでいるマスターは、士郎みたいに半端に魔術を知ってる人間だと思う。  ここのところさ、微量だけどわたしたち以外の魔力を校舎に感じるのよ。それが敵マスターの気配って訳なんだけど……」    あまりに微量すぎて逆探知が難しい、というところだろう。 「魔術師ではないマスターか。遠坂が断定するからには相当な確信があるんだろう。  それは信じるけど、そうか……うちの学校、そんなに魔術師がいたのか」 「そんなにってわたしとその子だけだって。  魔術師ってのは家柄を大事にするでしょ? こんな狭い地域に二つの家系が根を張った場合、どうしても懇意になるものなのよ」 「そうなのか? けど俺は遠坂の家のこと、知らなかったけどな」 「衛宮くんちは特別。衛宮くんのお父さん、協会から離反した一匹狼だったんでしょうね。たまたまこの町が気に入って根を下ろしたんだろうけど、冬木の町は〈遠坂〉《うち》の管轄だからさ。  わたしたちにバレたら貰うもの貰う事になるし、それが嫌で隠れてたんじゃないかな」 「な――――なんだよ、その貰うもの貰うって不穏な発言は」 「ふふーん、気になる? それは将来、士郎が一人前になったら取り立てにいくから期待してて」 「……まったく。ほんっとに猫被ってやがったんだな、おまえってヤツは。  何が学校一の優等生だ、この詐欺師」 「あら、いけない? 外見を飾るのだって魔術師としての義務でしょ。  ほら、わたしは遠坂家の跡取りだし、非の打ち所のない優等生じゃないと天国の父さんに顔を合わせられないのよ」 「?―――父さんって、遠坂」 「ええ、わたしが子供のころ死んじゃった。ま、十分長生きしたから天寿は全うしたんだし、別に哀しんだりはしてないけど」 「――――――――」  遠坂は、それが魔術師を父に持つ子供の在り方だ、とばかりに微笑む。    だが、それは。 「―――それは嘘だ。人が死んだら哀しいだろ。それが肉親なら尚更だ。魔術師だから仕方がない、なんて言葉で誤魔化せるものじゃない」 「…………………………ま、そうね。  衛宮くんの意見は、反論できないぐらい正しいわ」  言って、遠坂は湯たんぽ代わりにしていた缶コーヒーを開けた。  ……ちびちびとコーヒーを口にする。  遠坂の事だから、男勝りにぐいっと一気飲みするかと思ったが、こういうところは本当に女の子だった。 「話を戻すけど。  ともかく、冬木の町に魔術師は二人しかいないの。  他のマスターは外からやってきた連中か、魔術をかじった程度でマスターに選ばれたっていう変わり種でしょうね」  そうですか。  遠坂に言わせると、俺も立派な変わり種という事らしい。 「それは判った。けどさ、半端に魔術をかじっただけのマスターなら、こんな結界は張れないんじゃないのか」 「マスターが張ったんじゃなくて、サーヴァントが張ったのかもね。  サーヴァントは自分のマスターを選べないもの。士郎みたいなマスターに当たってしまった場合、サーヴァント自身が色々策を練るしか勝機はないでしょ?」 「だろうな。気に障るけど、反論しようがないんで頷いとくよ」 「はい、素直で結構。  で、結界の話に戻すけど、この結界はすごく高度よ。  ほとんど魔法の領域だし、こんなの張れる魔術師だったら、まず自分の〈気配〉《まりょく》を隠しきれない。だから間違いなく、この結界はサーヴァントの仕業だと思う」 「……サーヴァントの仕業か。なら、マスター自身はそう物騒なヤツじゃないのかな」 「まさか。魔術師にしろ一般人にしろ、そいつはルールが解ってない奴よ。マスターを見つければ、まずまっすぐに殺しに来るタイプの人間ね」 「? ルールが解らないって、聖杯戦争のルールをか?」 「違う。人間としてのルール。こんな結界を作らせる時点で、そいつは自分ってものが判ってない」 「いい士郎? この結界はね、発動したら最後、結界内の人間を一人残らず“溶解”して吸収する代物よ。  わたしたちは生き物の胃の中にいるようなものなの。  ……ううん、魔力で自分自身を守っているわたしたちには効果はないだろうけど、魔力を持たない人間なら訳も分からないうちに衰弱死しかねない」 「一般人を巻き込む、どころの話じゃないわ。  この結界が起動したら、学校中の人間は皆殺しにされるのよ。分かる? こういうふざけた結界を準備させるヤツが、この学校にいるマスターなの」 「―――――――――」  一瞬だけ視界が歪んだ。  遠坂の言葉を、出来るだけ明確にイメージしようとして、一度だけ深呼吸をする。  ―――それで終わり。  不出来なイメージながらも最悪の状況というものを想像し、それを胸に刻みつけて、自分の置かれた立場を受け入れる。 「話は解った。  ―――それで、遠坂。その結界とやらは壊せないのか」 「試したけど無理だった。結界の基点は全部捜したんだけど、それを消去できないのよ。わたしにできるのは一時的に基点を弱めて、結界の発動を先延ばしにするだけよ」 「ん……じゃあ遠坂がいるかぎり結界は張られない?」 「……そう願いたいけど、それも都合のいい願いでしょうね。もう結界は張られていて、発動の為の魔力は少しずつ溜まってきている。アーチャーの見立てだとあと八日程度で準備が整うとか」 「そうなったらマスターか、サーヴァントか―――どちらかがその気になれば、この学校は地獄になる」 「――――じゃあ、それまでに」 「この学校に潜んでいるマスターを倒すしかない。  けど捜すのは難しいでしょうね。この結界を張られた時点でそいつの勝ちみたいなものだもの。あとは黙ってても結界は発動するんだから、その時まで表には出てこない。だから、チャンスがあるとしたら」 「……表に出てくる、その時だけって事か」 「ご名答。ま、そういう訳だから今は大人しくしてなさい。その時になったら嫌でも戦う事になるんだし、自分から探し回って敵に知られるのもバカらしいでしょ」  凍えた屋上に、無機質な予鈴が鳴り響く。  昼休みが終わったのだ。 「話はそれだけ。わたしは寄るところがあるから、家には一人で帰って。寄り道は控えなさいよ」  じゃあね、と気軽に告げて、遠坂は去っていった。 「――――――――」  気分がいい訳がない。  マスターはマスターだけを襲う、なんて話が気休めにもならない事を知って、まっとうな気持ちでいられる筈がない。 「学校に結界、だと――――?」  何も知らない、無関係な人間を巻き込むつもりなのか。  そんなのはマスターでもなんでもない、ただの大量殺戮者だ。  そいつが結界とやらを起動させる前に見つけて、見つけて―――完膚無きまでに、倒さなければ。   “――――喜べ衛宮士郎。君の願いは”   「っ――――」  頭を振って、脳裏によぎった言葉を否定する。  そんな願いはしていない。  倒していい“悪者”を求めていたなんて、そんな願いは、衛宮士郎の物ではないんだから―――  帰りのホームルームが終わって、教室から生徒たちの姿が減っていく。  いつもなら生徒会室に顔を出すところだが、遠坂に早く帰れと言われた手前、寄り道せず屋敷に戻るべきだろう。  ……そうだな。  朝はゴタゴタしていてちゃんと話せなかったから、早いうちに桜に説明しておくべきだろう。  四階、一年生の教室にやってくる。  廊下から教室を窺うと、桜はすぐに気が付いてくれた。 「あの、何かあったんですか先輩?」  廊下に出てくるなり、不思議そうに首をかしげる。  慎二との一件から気落ちしていると思っていたが、桜は思ったより元気そうだ。 「いや、何かあったってわけじゃなくて、遠坂の事を桜に許してもらおうと思って。朝はちゃんと話せなかったから、帰る前に謝っておきたかったんだ」 「……? あの、遠坂先輩を許すって、なにをですか?」 「いや。だから、あいつがしばらく下宿する事だよ。  前もって桜に相談するべきだったのに、俺一人で決めちまってごめん。  けど遠坂の下宿はちゃんとワケがあって、やましいコトなんか微塵もないんだ。その、桜は許してくれないだろうけど、それだけは言っておきたくて」  すまん、と頭を下げる。 「や、やめてください先輩。そんなふうに先輩が謝るコトなんてありません」 「……たしかに遠坂先輩が下宿する事は驚きました。けど藤村先生も許可したんだし、何の問題もないと思います。  あの家は先輩のお家なんですから先輩の好きにしていいんだし、わたしが意見していいコトなんてありません」 「ばか、なに言ってるんだ桜。あの家は俺と藤ねえと桜のだろ。俺一人で勝手をしていいコトじゃない」 「え―――――先輩」 「だから俺が謝るのも当然なんだ。桜は遠坂より俺に怒ってくれ。……その、家族に黙って遠坂を呼んだのは俺なんだから。  下宿の件だって、桜がイヤだっていうならすぐ取りやめる。それで許してもらえるコトじゃないけど、桜がイヤな事は続けられない」  取り繕いの言葉じゃなく、本心から口にする。  遠坂と協力する〈=〉《イコール》一緒に住む、なんて訳でもない。  効率よく共闘する方法は他にもまだある筈なんだから。 「えっと、じゃあ許します。遠坂先輩の下宿も許可するし、先輩の勝手も許しちゃいます。  それでいいですか、先輩?」 「え……い、いいのか桜……?」 「はい。どんな事情があるのかも訊きません。わたしは、先輩がそう言ってくれただけで十分です」  まっすぐに俺を見返して、桜は微笑んでいる。  その顔に嘘はない。  桜は本心から、遠坂の下宿を認めてくれていた。 「―――ありがとう桜。その、すごく嬉しい」 「いえ、すごく嬉しいのはこっちの方ですから。  あ、けど先輩。もしですよ? もしわたしがイヤだって言ったら、先輩はどうしたんですか?」 「ん? そうだな、もしかしたら俺の方から出向いてたかもしれない。しばらくは遠坂と一緒にいなくちゃいけないんだから」 「え……先輩が出向くって、あの」 「ああ、遠坂が下宿するんじゃなくて、遠坂んところに下宿してたと思う。それなら桜にも藤ねえにも迷惑かけないし」  憧れの、否、憧れていた女の子の家に泊まりこむなんて考えるだに恐ろしいが、背に腹は変えられない。 「……いや、でも助かった。そうなったらアイツ、今よりもっと俺をからかいそうだし」  良かった。  桜が許してくれて本当に良かった……って、あれ? 「桜? なんだよ、なんか顔色悪いぞ?」  どうしたー、と声をかける。  なんか、桜は深く物思いにふけっていて、   「―――い、言わなくて良かったぁ―――」    なんて、よく判らない溜息をついていた。  そうして放課後。  生徒を解放するチャイムが鳴り響く中、自分もみんなに倣って帰り支度をする。  家ではセイバーが待っているし、今日は寄り道せずに帰らなければ。  廊下にはちらほらと生徒が残っていた。  これから部活に出る生徒、  暇つぶしに校舎に残っている生徒、  十メートルほど先から怒り顔でこっちに突進してくる生徒、と様々だ。 「……?」  なんか、おかしなのが交ざっていた気がして、くるりと全力で階段に足を運ぶ。 「―――そうだ。  唐突に思い出したけど、朝方なんか言われてたな、俺」    言われていたが、ここまで来たら忘れたフリを張り通そう。  いや、それだと弁明しようがないんで聞こえなかったコトにする、とか。   「そこまでよ。人の顔見て逃げ出すなんていい度胸してるじゃない」 「―――――――う」  やっぱり捕まってしまった。  というか、家に帰ったところで逃げ場を無くすだけだし、ここで捕まっておいた方がダメージが少なそうなので足を止めた。 「………………」  ゆっくりと振り返る。  ……うむ、怒っている怒っている。  とても学園一の優等生とは思えない不機嫌っぷりだ。 「よう。奇遇だな遠坂。帰るなら一緒に帰るか?  どうせ行き先はおな――――」 「帰るか、じゃないわよバカ士郎っ……! アンタ、自分の立場わかってるの!? せっかく忠告してあげようと思ったのに、どうして屋上に来なかったのよ!」 「――――う」  この剣幕。  もはやどのような申し開きも通じなさそうだが、何らかの釈明をしなければ収まりそうもない。 「……すまん。昼は桜のトコに行ってたんで、屋上には行けなかった」  収まりそうもないので、正直に告白する。  ……と。  お化けでも見たように、遠坂は呆然と俺を見た。 「桜のところって……もしかして、わたしが衛宮邸に下宿する件で?」 「ああ。朝はうやむやになっただろ。だからちゃんと、桜に遠坂の下宿を許してもらったんだ」 「…………………………………………………………  ……そう。ま、そういうコトなら仕方ないか」 「?」  遠坂はあっさりと矛を納め、あろうことか 「いいわ。昼間の件はチャラにしてあげる。桜のコト、余計な心配かけたわね」  しおらしい顔で謝られてしまった。 「あ―――いや、遠坂が謝るコトなんてない、けど。  そ、それより屋上に呼びつけた用件ってなんだったんだ? 大事な話だったんだろ、なんか」 「ま、まあね。呼びつけたのはマスターとしての話があったからよ。学校に結界が張られているから注意しろって言いたかったの」 「え……? ちょっ、ちょっと待った。結界って、この学校にか……!?」 「ええ。士郎は気付いてないようだけど、厄介なモノが仕掛けられてるのよ。  〈刻印〉《サイン》はかなりの範囲に仕組まれていて、発動すれば学校の敷地をほぼ包み込むわ。  種別は結界内にいる人間から血肉を奪うタイプ。まだ準備段階のようだけど、それでもいつもよりみんなに元気がないって気づかなかった?」 「あ――――」  そう言えば……二日前の土曜日、なんとも言えない違和感を感じたが、アレがそうだったっていうのか?  だが、という事は―――― 「つまり―――学校に、マスターがいる……?」 「そう、確実に敵が潜んでいるってわけ。分かった衛宮くん? まさか学校で仕掛けてくるとは思えないけど、いつ戦いになってもいいように気を配っておけって言いたかったの」 「――――――――」  ……遠坂が本気で怒るワケだ。  俺はそんな事も知らず、一日を安穏と過ごしてしまったんだから。 「……すまん。やっぱり昼間は俺が悪かった、遠坂」 「そうね。セイバーに士郎を任されたって事もあるし、つまんない理由だったら〈強制〉《ギアス》の一つもかけてたところよ。  けど、今回は大目に見てあげる。結果論だけど、今日一日何も起きなかったし」  終わり良ければ全て良し、という事か。  そう言ってもらえると少しは気が楽になる。 「遠坂。それで、結界を張ったマスターが誰かは判っているのか? ……やっぱり学校内の誰か、とか」 「いいえ、それはまだ判らない。  ……学校にはわたし以外に魔術師らしき気配はないから部外者かもしれないけど、貴方みたいに素人がマスターになる場合もあるでしょ?  だから断定はできないんだけど……ま、十中八九〈学校〉《うち》の人間の仕業でしょうね。  学校に結界を張る以上、ここに紛れ込んでいても不審に思われない人間だろうから」 「――――――――」  ……校舎にいても不審に思われない人物。  生徒か教師か、どちらにせよ俺たち以外のマスターがここに陣取っている――――。 「問題はそれだけじゃないわ。  士郎。この結界はね、発動したら最後、結界内の人間を一人残らず“溶解”して吸収する代物よ。わたしたちは生き物の胃の中にいるようなものなの」 「……ううん、魔力で自分自身を守っているわたしたちには効果はないだろうけど、魔力を持たない人間なら訳も分からないうちに衰弱死しかねない。  一般人を巻き込む、どころの話じゃないわ。この結界が起動したら、学校中の人間は皆殺しにされるのよ。  分かる? こういうふざけた結界を準備させるヤツが、この学校にいるマスターなの」 「な―――――――」  一瞬だけ視界が歪んだ。  遠坂の言葉を、出来るだけ明確にイメージしようとして、一度だけ深呼吸をする。  ―――それで終わり。  不出来なイメージながらも最悪の状況というものを想像し、それを胸に刻みつけて、自分の置かれた立場を受け入れる。 「話は解った。  ―――それで、遠坂。その結界とやらは壊せないのか」 「試したけど無理だった。  結界の基点は全部捜したんだけど、それを消去できないのよ。わたしに出来るのは一時的に基点を弱めて、結界の発動を先延ばしにするだけよ」 「発動を先延ばしにする……? じゃあ遠坂がいるかぎりは結界は張られないのか?」 「そう願いたいけど、それも都合のいい願いでしょうね。  もう結界は張られていて、発動の為の魔力は少しずつ溜まってきている。アーチャーの見立てだとあと八日程度で準備が整うとか。  そうなったらマスターか、サーヴァントか―――どちらかがその気になれば、この学校は地獄になる」 「――――じゃあ、それまでに」 「この学校に潜んでるマスターを倒すしかない。けど捜すのは難しいでしょうね。  この結界を張られた時点でそいつの勝ちみたいなものだもの。あとは黙ってても結界は発動するんだから、その時まで表には出てこない。だから、チャンスがあるとしたら」 「……表に出てくる、その時だけって事か」 「ご名答。ま、そういう訳だから今は大人しくしてなさい。その時になったら嫌でも戦う事になるんだし、自分から探し回って敵に知られるのもバカらしいでしょ」  ……話は解った。  そんな結界を張るヤツは野放しにしておけないが、正体が掴めない以上、今は下手に動いて刺激するのも逆効果かもしれない。 「そういうコト。今日のうちに出来る結界への対処は済ませたから、後はまた明日よ。  これ以上校舎に残っていてもやる事ないし、士郎は先に帰っていて」 「? 先に帰るのはいいけど、遠坂は?」 「わたしのコトはいいでしょ。士郎はセイバーを待たせてるんだから、早く帰らないと怒られるわよ」 「――――む」  そうだった。  セイバーは学校に行くのを反対していて、日が落ちるまでに家に帰る、という条件付きで単独行動を許可してもらったのだった。 「それじゃあ後で。寄り道せずに帰りなさいよ」  体育館に用事があるのか、遠坂は校舎の裏手へ向かっていく。  その後ろ姿をしばらく見送ってから、早足で校庭を後にした。  門には鍵がかかったままだった。 「……そうか。こんなに早く帰ってきたのなんて久しぶりだ」  学校が終われば、大抵はちょっとした手伝いかバイトに精を出して、まっすぐ帰る事なんて珍しかった。  いつもは帰ってくれば門が開いていて、中では桜が夕食の支度をしてくれていた。  この一年それが当たり前になっていて、大切なコトが薄れかけていたのか。  門の鍵を自分で開ける、なんて些細な事で、桜が来てくれている有り難みを実感した。 「ただいまー」  声をかけて廊下にあがる。  とりあえず居間に行こうとした矢先、金髪の少女が現れた。 「帰ったのですね、マスター」 「――――――――」  一瞬。  現実感というものが、キレイさっぱり崩れてしまった。 「シロウ? いま帰ってきたのではないのですか?」    静かな声が自分の名前を呼ぶ。  それで、ようやく現実感が戻ってくれた。 「あ……セ、セイバーだよな。わるい、いきなりなんで驚いた」  その、一瞬だけだったが、彼女をセイバーではなく普通の少女だと錯覚してしまって。 「? 私はマスターの指示に従ってここに待機していたのですが、間違っていましたか?」 「あ……いや、こっちの勘違いだから気にしないでくれ。  そ、それより体の方はいいのかセイバー。頻繁に眠るって言ってたけど、今は、その」 「起きていても支障はありません。  ―――いえ、可能なかぎり戦闘時以外は眠っていた方がいいのですが、それでは勘が鈍りますから。  定期的に目覚めて体を動かしていなければ、いざという時に動きが鈍ります」 「……そっか。言われてみればその通りだ。人間、一日中寝てたら頭が痛くなるし、セイバーだって眠くて眠ってる訳じゃないんだし」 「そうですね。眠りを必要とする疲れはありません。  ですがシロウ、貴方は眠りすぎると頭を痛くするのですか?」 「痛くなるだろ、そりゃ。普通、一日の半分も寝てたら体の調子を悪くするって。俺の場合は頭が痛くなって目が覚めるから、半日も眠ってられないけどさ」 「……不思議な話ですね。私はそのような事はありませんでした。今も昔も、眠ろうと思えばいくらでも眠れますし」 「―――む。それはなんか、生き物として間違ってると思うぞセイバー。一日中寝てるなんて勿体ない。眠気がとれたら起きて遊んでいた方が楽しいだろ」 「……そうですね。確かに、その方が無駄はありません」 「だろ。今は俺のせいでそうなっちまったけど、俺から縁が切れたら普通の生活サイクルに戻れよ。  俺が言える事じゃないけどさ、これがクセになって一日中寝てたらぐうたらなヤツだ、なんて思われるから」 「それは、すでに手遅れかもしれません。私は〈皆〉《みな》にそう思われていたかもしれない」  む、とわずかに眉を寄せて考え込む。  ……軽口のつもりだったのだが、セイバーに生半可な冗談は通用しないようだ。  居間に移動する。  セイバーは今日の出来事を教えてほしいらしく、遠坂から聞いた“学校の結界”の事を話すことにした。 「……そうですか。学校に集まる人間を生け贄にするつもりなのですね、そのマスターは」 「―――率直に言えばそういう事だろう。遠坂はまだまだ時間がかかる、とは言っていたけど」 「同感です。それほど大規模な結界の完成には時間がかかる。学校の校舎というものは封鎖しやすい建物ですから、おそらく神殿に見立てた祭壇なのでしょう。  それだけの規模の結界を完璧に起動させるには、早くて十日は必要です」 「十日……俺が異状を感じたのが二日前の土曜日だから、まだ八日は猶予があるって事か。遠坂の見込みと同じだな……」 「はい。その結界が生け贄を集めるものであれ守りを固めるものであれ、完成させては厄介です。それまでに結界を張ったマスターを見つけだせればよいのですが」 「―――そうだな。遠坂は難しいって言ってたけど、学校に潜んでいる以上は特定しやすい筈だ。なんとか見つけだして、結界を止めさせよう」  学校に結界を張る、という発想をする時点で、十中八九そのマスターは学校関係者だろう。  生徒か教師。  明日からはできるだけ昼間のうちに学校を見て回って、怪しいヤツを捜し出さなければ。 「あとは……そうか、そいつがどんなサーヴァントを連れているか、っていう問題か」  いや、そればかりは実際遭ってみないと判らないか。  それなら、考えるべきは既に遭遇しているサーヴァントについてだろう。  今はセイバーも起きているし、訊いてみるには丁度いい。  よし、それじゃあ――――      アイツ――――    俺が初めて遭遇したサーヴァント、ランサーについて訊いてみよう。  セイバーはアイツと戦ったし、その正体に気が付いた節もあるし。 「なあセイバー。ランサーの事なんだけど、アイツは何者なのか判るか?」 「は? ランサーの事、ですか?」 「ああ。セイバーがアイツを追い返してくれた時、なにか言っていたじゃないか。アイルランドのなんとかとか。  だからもしかして、セイバーはアイツの正体に気づいているのかなって」 「ああ、そういう事ですか。……驚きました、シロウが他のサーヴァントの正体を知りたがるとは思っていなかったもので」 「知らなくちゃやっていけないって話だからな。……けど、なんでそこで嬉しそうなんだよ、セイバーは」 「シロウが戦う気になっているからです。正体を知った相手ならば対策が立てられる。まず弱点が判った相手から仕留めるのは、戦いの常道ですから」 「………………む」  何もしてこないヤツにこっちから戦いに行く気なんてないが、ここで注意しても話の腰を折るだけだ。 「いいから、ランサーの正体。今の口振りだと知ってるんだな、セイバー」 「はい。あの紅槍と全身に帯びたルーンの守り、くわえて戦いではなく“生き延びる”事に特化した能力からいって間違いはないでしょう。  彼の真名はクーフーリン。魔槍ゲイボルクを繰る、アイルランドの大英雄です」 「……クーフーリン……?」  聞いた事のない名前だ。  ……って、アイルランドの神話自体あまり知らないんだから仕方がないか。 「……で。強いのか、そのクーフーリンってヤツは」 「この国では知名度が低いですから存在が劣化していますが、それでも十分すぎる能力です。  こと敏捷性に関してならば他の追随を許さないでしょうし、彼の宝具はこの戦いに最も適した武器だと思います」 「宝具……? ああ、あの槍か。そういえばアイツの槍、最後にヘンな動きを見せたけど、アレがゲイボルクってヤツなのか?」 「……おそらくは。ゲイボルクの伝承は諸説あります。  曰く、足で投擲する呪いの槍だとか、貫いた瞬間に内部から千の棘を生やして相手を絶命させる魔槍だとか」 「……? なんか、まったく違う言い伝えじゃないのか今のは。そんなんで伝説の武器だなんて言えるのか?」 「ですから、続きがあるのです。ゲイボルクの能力は様々な形で伝えられていますが、その全てに“心臓を穿つ”という一節が残っている。  ……それは武器としての能力ではなく、あくまで持ち主の技量だと思っていましたが、間違いだったようですね。  魔槍の正体――――ランサーのゲイボルクの能力は、文字通り心臓を穿つモノです」 「あ――――」  言われて、鮮明に思い出した。  あの夜。  セイバーの足下へと突き出された槍は、あり得ない方向に切っ先を変えて、彼女の心臓へと走ったのだ。 「つまり、アイツの槍は――――」 「ええ。使えば必ず敵の心臓を穿つ魔槍なのでしょう。  空間をねじ曲げているのか、因果律を変えているのか。  ともあれ、槍自体の呪いとランサー自身の技量でしょうね。こと一対一の戦闘において、これほど効率的な武器もありません。なにしろまったく無駄がない」 「無駄がない……? 無駄がないって、どういう意味だよ」 「分かりませんか。ランサーの槍は城を破壊する事はできませんが、人間一人を殺すだけなら十分です。  宝具というものは、その規模によって消費する魔力が変わります。  Aランクの宝具を持つ者は、その使用に大量の魔力を消費する。一度使ってしまえば、失った分の魔力補充には時間がかかるのです」 「ですが人を一人―――いえ、サーヴァントを倒すのにそれほど強大な破壊力など要りません。ランサーのように一撃で仕留められるのであれば、それ以上の戦果はないでしょう」 「……? つまりなんだ。大砲一発分より、弓矢一本の方が、コストが低い?」 「はい。ですが、サーヴァントには弓矢など当たりません。結果としてサーヴァント同士の戦いは大砲の撃ち合いになるのですが―――」 「……ランサーのゲイボルクは、その弓矢を命中させられる槍って事か。しかも掠り傷じゃなく、確実に命を奪う心臓に当ててくる?」 「そういう事です。加えて、使う為の魔力量もそう多くない。あの程度の魔力消費なら、七回使っても魔力の補充は必要ないでしょう。  ですから、彼の魔槍はこの戦いに適しているのです。  通常のサーヴァントは数回戦闘をすれば休まざるをえません。ですがランサーならば六人を続けて相手にする事もできる。……まあ、一対一である事が条件になってきますが」 「…………ふむ」  つまり派手さはないが、堅実に勝利を収められるサーヴァントという訳か。 「その割には本人無駄が多かったぞ。俺を相手にして遊んでいたしな」 「ですね。ランサー自身、むらっけのある人物のようです。非情な人物ではありましたが、どこか憎めない一面がありました」  それは同感だが、油断は禁物だ。  アイツは草を刈るような気軽さで俺の心臓を貫いた。  バーサーカーにしろランサーにしろ、その手に持った武器を振るう事に、なんの躊躇も持たない奴らなんだから。    あいつ――――    遠坂のサーヴァント、アーチャーについて訊いてみよう。  セイバーは一撃であいつを倒したが、アレは不意打ちで実力の程は確かじゃないし。 「なあセイバー。アーチャーの事だけど、あいつの事で何か気付いた事ってないか?」 「アーチャーですか?  ……いえ、シロウが把握できている以上の事は何も。  単純な戦闘能力では私が上回っているようですが、彼の宝具も戦闘技術も体験していません。  一度勝利しているからといって、楽観していい相手ではないでしょう」 「……そうか。ま、ホントに一瞬だったからな。  それにあいつ、なんていうか」  ……あの時。  セイバーが戦いを仕掛けた時、何かおかしな違和感があった。  不意打ちならぬ不意打ちというか。  あの赤い騎士は〈敵〉《セイバー》を事前に感知していたように思える。  なのにセイバーを見た途端に硬直して、セイバーの奇襲に対応できなかったのだ。 「……なあセイバー。あいつ、セイバーの事知ってるんじゃないかな。あの時セイバーの剣を受けたのは、敵襲じゃなくてセイバー自体に驚いたからだって感じるんだけど」 「―――なるほど。そう考えると私も納得できる。  弓使いである以上、接近戦で私に劣るのは当然です。  ですがそれにしても、あの時のアーチャーは脆すぎた。  何か外的要因で実力を発揮できなかったのでは、と考えていたのですが――――」 「だろ。それに俺、あいつとランサーの戦いを見ているんだよ。アーチャーは攻めこそしなかったけど、防御は神業じみてた。なのにセイバーの一撃を受けるなんて、どうかしていたとしか思えない」 「……私は手を抜かれた、という事ですか」  難なく倒せた理由より手加減された事が気に食わないのか、セイバーはここにいない敵を睨む。 「―――いいでしょう。凛との共闘が解けた後、私を侮辱した事を後悔させるだけです」 「っ……! あ、いや、あいつだって好きで手を抜いたってワケじゃないだろうし、そんな目の仇にする必要はないんじゃないか……?」  なんて、ついアーチャーの弁護をしてみたり。 「? シロウはアーチャーの行為が許せるというのですか? いえ、むしろ好意というか擁護しているように聞こえる。……まさかとは思うのですが、サーヴァントとしてアーチャーの方が好ましいと……?」 「そ、それこそまさかだっ……! 俺、言っとくけどあいつは気に食わないぞ。話した事はないけど、遠めから見ただけで気が合わないって直感したんだからな」 「それは良かった。余計な杞憂でしたが、安心しましたシロウ」 「…………はあ。ビックリしたのはこっちだ。けど、なんだってそんなコトで安心するんだよセイバーは。俺がアーチャーを嫌ってるって、そんなにいいコトか?」 「……そうですね。確かにおかしな話です。  ああ、おそらく戦闘面での相性の問題でしょう。私は白兵戦を主体とするサーヴァントで、アーチャーは砲撃戦を主体とするサーヴァントだ。  もしシロウがアーチャーと相性がいい、というのであれば、私とは相性が悪い事になる。それでは互いに実力を発揮できない」  だから安心したのでしょう、なんてセイバーは頷く。 「……ふーん。そんなもんか……」  ともあれ、アーチャーの情報はまったくなしだ。  あいつがどの時代の英雄で、どんな宝具を隠し持っているか、まだまだ不明という事である。    あの巨人――――    セイバーを圧倒したサーヴァント、バーサーカーについて訊いてみよう。  セイバーと遠坂曰く、こと戦闘だけなら最強という事だが―――― 「セイバー、もう一度バーサーカーと戦ったらその時はどうなる? ……その、俺がマスターである限り、セイバーはあいつに勝てないのか……?」    セイバー最大の重荷。  俺という未熟なマスターと契約した為、本来の力を出せない欠点を問いただす。 「それは違う、シロウ。  たとえ貴方が成熟したマスターであろうと、バーサーカーが強敵である事は変わりません。この問題で、貴方が自らの未熟を責める事はない」 「……ん。そうかもしれないけど、実際セイバーは多くの制約を負ってるんだろう。  なら、もしセイバーが本来のセイバーだったら」 「いいえ。私が万全であろうとバーサーカーを倒す事は難しい。……いえ、どのようなサーヴァントであれ、あの巨人を追い詰める事は不可能かもしれない」 「シロウ、あの夜の戦いを覚えていますか? バーサーカーは凛の魔術をなんなく弾きました。彼には私のような対魔力は備わっていない。  アレはただ、肉体の強度のみで凛の魔術を無効化したのです」 「む……それは見たけど、そんなに驚くような事か?  単にバーサーカーの体が硬いって事だろ?」 「違います。バーサーカーは凛の魔術に耐えたのではなく、弾いたのです。この違いは大きい。  攻撃に耐えた、というのなら、その個所を執拗に狙えばいつか鎧は砕け散るでしょう。ですが弾いたのなら別だ。凛の魔術は、そもそもバーサーカーに届いていなかった」 「届いていなかった……? つまり、セイバーみたいに魔術を無効化したって事か?」 「はい。ですが先ほど言ったように、バーサーカーは対魔力のスキルを持っていない。となると、彼の宝具が魔術を弾いたとしか思えない」 「……これは憶測ですが、バーサーカーの宝具は“鎧”です。それも単純な鎧ではなく、概念武装と呼ばれる魔術理論に近い。  おそらく―――バーサーカーには、一定の水準に達していない攻撃を全て無効化する能力がある。私の剣、凛の魔術が通じなかったのはその為でしょう」 「バーサーカーの正体がギリシャの大英雄であるのなら、その能力はほぼAランクです。彼に傷を負わせたいのなら、少なくとも彼と同じランクの攻撃数値を用いなければならないと思います」 「……同じランクの攻撃数値……? つまり、それって」 「……はい。言いにくいのですが、通常攻撃であろうと宝具であろうと、Aランクに届かない攻撃は全て無効化されるでしょう。  あの巨人を倒したいのなら、少なくともAランクの通常攻撃力と、それを上回る宝具が必要になってきます」 「――――――――」  目を瞑って、セイバーの能力を思い返す。  セイバーの筋力……通常攻撃はBランク、その宝具はCランクだ。  ……なんて事だ。  セイバーの言う通りなら、俺たちにはバーサーカーを倒すどころか、傷つける手段さえない事になる……! 「ちょっ、ちょっと待った……! ええっと、筋力と宝具の基準は違うんじゃないのか?  いくらランクが低いからって、宝具ってのは強力な武器なんだろ? なら、筋力に置き換えればAランクに届くんじゃないのか?」 「はい。宝具と通常攻撃では比べるべくもない。宝具のCランクは、通常能力に変換すればA、ないしA〈+〉《プラス》に該当します。  ……ですが、バーサーカーを守る“〈理〉《ことわり》”は物理的な法則外のものです」 「アレは、たとえ世界を滅ぼせる宝具であれ、それがAランクに届いていないものならば無力化する、という概念です」 「っ――――じゃあ、次に襲われた時が」    俺たちの最期、なのか。 「いいえ。どのような英霊であろうと、必ず弱点が存在します。少なくともバーサーカーは対城レベルの攻撃手段を持っていない。襲われたところで一撃で全滅する、という事態は避けられる。  私の傷が完治すれば、対等の一騎打ちが可能です。その間にシロウは撤退できますし、何らかの援護をしてもらう事で勝算が見えるかもしれない」 「……結局、撤退が大前提なんだな。それまでになんとかバーサーカーの弱点を探さなくちゃいけないってコトか……。  で。セイバー、対城レベルの攻撃方法ってのはなんなんだ?」 「宝具の攻撃力の事です。  一騎打ちで真価を発揮する対人宝具、  団体戦闘で猛威を振るう対軍宝具、  そして一撃で全てを決する対城宝具。  宝具は大きくこの三つに分類されます」  なるほど。  その名の通り対軍やら対城やら、そんなミサイルみたいな攻撃をされたら俺も遠坂も一撃で吹き飛んでしまう。  不幸中の幸いか、バーサーカーにはそういった広域を粉砕する攻撃手段がないという事だ。 「……ですが、その欠点を補うのがマスターです。  イリヤスフィールは膨大な魔力の塊だった。彼女が卓越した魔術師であり、バーサーカーが彼女の守護に徹するのなら――――私はシロウを守りきる事ができないでしょう」 「――――――――」  ……そうか。  不安要素はバーサーカーだけじゃない。  マスターとサーヴァントは二人で一つだ。  その点においても、俺はセイバーの重荷になってしまっている―――― 「それじゃあ他のヤツの事だけど」 「待ってくださいシロウ。屋敷の門を人がくぐりました」 「え、そんなコト判るのか……?  ってもうこんな時間!? まずい、きっと桜が帰ってきたんだ!」  呼び鈴の音。玄関から、   「お邪魔します」    という、桜の声が聞こえてくる。 「セイバー、悪いんだが、その」 「判っています。部屋に戻っていますから、私の事は気にせずに」  セイバーが部屋へと去っていく。  それと入れ替わりになる形で、 「ただいま。感心感心、ちゃんと先に帰ってたわね」  買い物袋を手にした遠坂と、 「お邪魔します先輩。珍しいですね、先輩がこんな早くから帰ってきてくれるのって」  嬉しそうに笑う桜が入ってきた。 「よし、準備は完璧っと。それじゃあ始めるとしましょっか」  むん、と気合いをいれて台所に向かう遠坂。 「先輩……? あの、お夕飯の支度なんですけど……」 「ああ、今日は遠坂の番だからいい。桜は朝作ってくれたんだから、夜は任せてくれ。遠坂が居るうちは俺とアイツで夕飯を作るから」 「あ……は、はい。先輩がそう言うのなら、そうします」  桜は大人しく座布団に座る。  台所ではジャージャーと派手な音がしているが、遠坂の後ろ姿に危なげなところはまったくない。 「……あれなら任せても大丈夫だな……」  セイバーの事もあるし、できるまで部屋に戻っていよう。 「ちょっと部屋で休んでくる。藤ねえがやってきたら、たまには風呂沸かすように言っといてくれ」 「あ、はい。どうぞごゆっくり先輩。ご飯の支度ができたら呼びに行きますね」 「ああ。……と、そうだ。部屋に来る時はノックを忘れないでくれ」  時刻は六時前。この分だと、夕食にありつけるのは七時頃になりそうだ。  部屋に戻ると、セイバーは隣の部屋で眠ってしまっていた。 「なんだ。なんか話そうと思ったのに」  ちぇ、と舌打ちして座布団に腰を下ろす。 「……って、何いってんだか。聖杯戦争のこと以外、なに話していいかも判らないくせに」  第一、自分はセイバーが苦手ではなかったのか。 「ま、いいけどさ。眠ってるなら、それで」  ぼんやりと口にして、ただ時計の針だけを眺めた。  昨日の夕食は自分とセイバー、それに遠坂の三人だけだった。  それが今日では桜と藤ねえを加えて五人だ。 「……あ、いや……セイバーはダメなのか」  藤ねえと桜がいる限り、セイバーは部屋から出せない。 「―――セイバー、朝飯食ったのかな」  昨夜、セイバーはこくこくと頷きながら夕飯を食べていた。  あの様子からして食事は要らない、という訳でもないだろう。 「……昼飯は用意しなかったし。腹減ってるよな、そりゃ」  藤ねえと桜が帰ったら、夕飯を温めてセイバーに作ってやらないと。  一人で食べてもらう事になるけど、それはそれで仕方がない―――とか。 「………………」  なんか。  一人で食事をしているセイバーを想像したら、無性に腹が立ってきた。 「士郎、起きてる?」  ドアをノックして、ひょい、と遠坂が顔を出してきた。 「遠坂? なんだ、何か用か」 「なにって、夕食なんだけど。出来たから、来て」  ―――もうそんな時間だったのか。  よいしょと重い腰をあげ、セイバーの眠っている部屋に視線を投げてから廊下に出た。 「あ、来た来た。ほら、見てよこの料理! なんと遠坂さんは、長らく不在だった中華料理ができる人だったのだ~!」  テーブルに並べられた料理を前にしてはしゃぐ藤ねえ。  言われてみれば、確かに今日の夕食は中華風だ。  四つの大皿にはかに玉、青椒牛肉絲、なんか見たこともないような上品そうな肉と野菜の炒めもの、何を考えているのか皿一杯のシューマイ軍団、と色鮮やかなことこの上ない。  小皿には口休めのサラダ等が用意されており、細かいフォローも行き届いている。  一言でいって、藤ねえ好みのゴージャスな夕食ぶりだった。 「……驚いたな。遠坂の事だから洋風でくると思ったのに」 「あ、ほんとは洋風を考えてたそうですよ。けど中華料理は誰も作らないって言ったら、ならわたしが作るって」 「―――なんでそう隙間を突くような人生しか送れないのかアイツは。……ん? なあ桜、遠坂と一緒に帰ってきたけど、アレは一緒に買い物に行ってたのか?」 「はい。遠坂先輩、弓道部が終わるまで待っててくれたんです。それで帰り道がてら、二人で買い出しに行ってました」 「……そうなのか。なんだ、思ったより仲がいいじゃないか、二人とも」 「そうですね。遠坂先輩とは学校でもよく話してましたから。わたしの何処が気に入られたか判らないんですけど、入学した頃から親切にしてもらってます」  へえ。  学校じゃほんとに親切な先輩なんだな、アイツも。 「お喋りはいいから早く食べよ。わたしもうお腹ペコペコだよぅ」  わーい、と腰を下ろす藤ねえ。 「だってさ。二人も早く座ったら? 中華ものって冷めると犯罪的に不味いんだから」  そっけなく言って、遠坂も食卓についた。 「――――――――」  無言で席に座る。  全員がいただきます、とお辞儀をして料理を口にした。 「っ――――!」  ……悔しいが、旨い。  中華を作らない理由が“みんな味が一緒だろう”という考えからだったのだが、それが偏見だったと反省するほど、旨い。 「うわ、すごいすごい! こんなにごはんをおいしくさせる料理は久しぶりだよぅ。うん、遠坂さんに百点をあげましょう!」 「ありがとうございます。先生のように素直に感想を言ってもらえると、わたしも嬉しいです」 「はい、わたしも中華を見直しましたっ。辛いのって苦手なんですけど、すごくおいしいです!」  桜も心底おいしそうに喜んでいる。  それを笑顔で見届けたあと。 「――――ふふん」  なんて、勝ち誇った顔を向けてくる性根の曲がった遠坂凛。 「なんだよ。何か言いたそうだな、遠坂」 「べっつにー。みんなに気に入ってもらえて良かったなって。ま、若干一名素直じゃないのがいるけど、それはそれで楽しいから良しとしましょう。得意分野で負けちゃった気持ちは分かるし」 「くっ―――そうか、さてはおまえ、昨日俺に飯作らせたのはこっちの戦力分析か!」 「ふふふふふ。はい、今日の教訓は、手の内は常に隠しておく、でしたー」  などと心底楽しそうに言って、遠坂は自分の作った料理に箸を進めるのだった。  夕食は、思っていたより賑やかに進んだ。  桜と遠坂はいい先輩と後輩だし、藤ねえも今ではすっかり遠坂の味方だし。 「――――――――」  ま、楽しい食事である事に文句はない。  文句はないのだが、こうしてみんなで飯を食っていると、何か間違っている気がする。 「………………」  席を立つ。 「? なに士郎、トイレ?」 「いや、忘れ物をした。連れてくるから、待っててくれ」 「――――――――」  居間を出る時。  無言で俺を見る、遠坂の視線があった。  単に、納得がいかなかっただけだ。  理由なんてそれだけ。  同じ家にいて、一人だけでいさせるなんて、俺はイヤだった。    だから、後先を考えるより先に、彼女の手を取った。 「シ、シロウ!? 突然何をするのです……!?」 「いいから来てくれ。みんなにセイバーを紹介するから」 「正気ですか!? 待ってください、それは」 「正気だから連れて行くんだ。ほら、いいから行こう。  後の事なんて成るようになる」 「ちょっ、シロウ……!?」  セイバーの手を強引に引っ張ったまま居間についた。 「悪いな遠坂。もう一人分、いいかな」  遠坂は何も反論しない。  ただ、不意打ちを食らった桜と藤ねえだけがぽかん、とセイバーを見つめていた。 「遅くなったけど紹介する。  この子はセイバーって言って、しばらく面倒を見る事になったから。見ての通り外国人さんだから、日本の暮らしには慣れてないんで、そのあたり助けてやってくれ」 「――――――――」  二人から反応がない。  それも当然だろうが、かまってる余裕はない。 「ほら、そこに座れよセイバー。飯はみんなで食べた方がいいだろ」 「それは……確かに効率的だとは思いますが、私は」 「遠慮なんてするな。だいたいな、これからはセイバーも一緒に住むんだぞ? 同じ家に住んでるんだから、一緒に飯を食うのは当然だ」 「………はい。シロウがそう言うのでしたら、私は従うだけですが」     「そんなのダ――――」   「そんなのダメーーーー!」 「…………っぅ~~~~!!!!」  耳!  耳がキーンとする、キーンと! 「一体どうしちゃったのよ士郎ってば! 遠坂さんだけじゃなくこんな子まで連れ込んじゃって、いつからここは旅館みたいになっちゃったのよぅ!」 「な、なんだよ。いいじゃないか、旅館みたいに広いんだから一人や二人部屋を貸しても。遠坂がいいんならセイバーだっていいだろ、下宿ぐらい」 「いいワケないでしょう! 遠坂さんは認めるけど、そんな得体の知れない子なんて知らないもん! いったいどこの子なのよ、その子は!」 「どこの子って―――遠い親戚の子だよ。よく分からない事情があって、親父を頼ってやってきたとか」 「そんな作り話信じられないっ。だいたいね、仮にそうだとしてもどうして衛宮の家に来たのよ。切嗣さんに外国の知り合いなんている筈な――――」  い、とは言い切れまい。  なにしろ親父は年がら年中外国に行っていたひょうろく玉だ。むしろ日本より外国に知人が多いってもんだろうし。 「―――ないとは言い切れないけど、それにしたっておかしいわ。あなた、何の為にここに来たのよ」 「いや、だからそれは」 「士郎は黙ってなさい。えっと、セイバーさん? わたしはあなたに訊いてるんだけど」  セイバーは黙っている。  それはそうだろう、セイバーに事情なんてないし、俺の嘘に合わせてくれるような器用さは―――   「さあ。私は切嗣の言葉に従っただけですから」    ――――あった、みたいだ。 「――――む。切嗣さんが士郎を頼むって?」 「はい。あらゆる敵からシロウを守るように、と」  静かに。  これ以上ない潔白さで、セイバーはそう言った。  ……反論する事など誰に出来よう。  たとえそれが嘘でも―――そう口にするセイバー自身の心には、それが絶対の真実だった。 「………………」  さすがの藤ねえも今の言葉には反論できない。  ―――が。  不満そうに顔をしかめたまま立ち上がると、キッと正面からセイバーを睨んで、   「……いいわ。そこまで言うんなら、腕前を見せてもらうんだから」    なんて、よく分からない言葉を口にした。  で。  風雲急を告げるような効果音を背負って、藤ねえは俺たちを連れ出した。 「………………」  んでもって、壁にたてかけてある竹刀を手に取って、セイバーを睨み付ける。    ……さて。  僕らの藤ねえは、一体なにを考えているのだろう? 「あなた。士郎を守るって言ったわね。なら少しは覚えがあるんでしょ」 「――――私に剣を持て、というのですか」 「そうよ。あなたがわたしより強かったら許してあげます。けど弱かったら家に帰ってもらうからね」 「……構いませんが。それはどういった理屈でしょうか」 「士郎を守るのはわたしだもん! 士郎が一人前になるまで、わたしがずっと側にいるんだから!」 「――――――――」  藤ねえが何を言いたいのか、セイバーにはよく分かっていないようだ。  もちろん、周りのみんなもよく分からない。 「だーかーらー、わたしより弱いヤツはいらないの!  あなたがわたしより強いっていうんなら、わたしより頼りになるでしょ。それなら少しは士郎を任せてもいいわよーだ」  拗ねたように竹刀を弄ぶ藤ねえ。 「―――解りました。貴方を納得させれば良いのですね」 「そうよ。けど、わたしを納得させるのは大変なんだから!」  言うが早いか、ダンッ!と大きく踏み込んで、藤ねえはセイバーへと竹刀をたたき込む……! 「うわあ、藤ねえメチャクチャだー!」  不意打ちどころかセイバーには竹刀すら与えられてないじゃんか、それでも教師かタイガー! 「?」  藤ねえの奇襲に面食らったのか、セイバーはぼんやりと立ちつくしている。  そこに炸裂する、藤ねえの小手先胴――――! 「あれ?」  不思議そうに首をかしげる藤ねえ。  ……そりゃそうだ。  端から見てるこっちでさえ不思議なんだから、当事者の藤ねえなんてバビロンの空中庭園なみに不思議だろう。 「――――――――」  セイバーは突っ立ったままだ。  違うといったら、さっきまで藤ねえが持っていた竹刀を持っているという事か。 「あ…………ほんと?」  何がほんとなのかは知らないが、間違いなく真実です。  セイバーは奪った竹刀を構えてさえいない。  あくまで構えをとらないセイバーを前に、藤ねえは固まったように動かない。  藤ねえだって敵無しとまで言われた剣道家である。  その経験が、目の前の相手が次元違いだと悟らせてしまったんだろう。 「……構えろというのでしたら構えますが。そこまでしなければ判らない腕ではないでしょう」 「ぅ――――うう、はうはう、はう~~……」  藤ねえはよろよろと後退し、へなへなと膝をついた。 「勝負はつきました。認めてもらえましたか」 「――――う。う、ぐすっ」  がくり、と肩をおとしてうなだれる藤ねえ。  それで大人しくなってくれたな、と思った瞬間。       「うわぁぁぁぁぁあああん!  ヘンなのに士郎とられちゃったーーーー!」    周りにいる俺たちが目眩を起こすぐらいの大声で、わんわんと泣き出してしまった。  ……結局、藤ねえを説得できたのはそれから二時間後の事だった。  藤ねえが「ちょっとだけ話がしたい」とセイバーと親父の部屋に閉じこもって二時間が経ち、出てきた頃には納得のいかない顔で「なんか、認めるしかないみたい」  と頷いてくれたのだ。  一方、桜は終始無言。  夜も遅いので藤ねえが桜を送る事になったのだが、桜は最後まで何も言わず、ただお辞儀だけして帰っていった。 「それじゃわたしも別棟に戻るわね」  ……と。  そういえば、遠坂も遠坂でずっとこの調子だし。 「……悪かったな。どうせバカな真似してって思ってるんだろ」 「別に。ただ、貴方のしている事は心の贅肉よ。そんな余分な事ばっかりしてたら、いつか身動きがとれなくなるわ」  おやすみ、と手を振って別棟へ去っていく。 「――――はあ」  なんだか疲れた。  こっちも、今日は早めに休むとしよう。 「待ってくださいシロウ。私も貴方に訊くべき事がある」 「ん? いいけど、なに」 「なぜ私を皆に紹介したのですか。私も凛の言う通り、シロウの行為は不必要だと思います」 「なぜも何もない。単に嫌だったから紹介しただけだ」 「シロウ、それは答えになっていません。何が嫌だったのか言ってもらわなければ」  詰め寄ってくるセイバー。  ……彼女にとって今夜の一件は、そんなに不思議だったのだろうか? 「そんなの知るか。ただメシ食ってて、セイバーは一人でいるのかって思ったら嫌になっただけだ。  しいて言うなら、藤ねえと桜にもセイバーを知ってもらっておけば、隠し事も減ると思ったぐらいだよ」 「それはあまり意味のある事ではありません。  むしろ彼女たちに私の存在を知らせるのはマイナスです。この屋敷なら私の存在は隠し通せるのですから、私は待機していた方が良かった」 「――――」  良いって、なにが。  大勢で食事をしている時に、一人でのけものになっているのがいいっていうのか、こいつは。 「―――そんな事はない。  セイバーが良くても俺がイヤだったんだからしょうがないだろ。こういうの、理屈じゃないと思う」  そう言い切って、セイバーから視線を逸らした。 「土蔵に行ってくるから、先に部屋に戻っていてくれ」 「――――――――」  返事はない。  納得いかなそうなセイバーに背を向けて、土蔵に向かう事にした。  外に出る。  青ざめた月光に照らされた静寂の庭。  見上げる冬の夜空は高く、星座がはっきりと見渡せた。 「――――はあ」  知れず、溜息がこぼれる。  遠坂は正しい。  確かに、俺は矛盾している。  セイバーの眠る部屋を避けて、土蔵に行こうとしている自分。  反面、セイバーを一人にしておくのがたまらなくイヤだったさっきの自分。  異性としてセイバーは苦手なクセに、人間としては放っておけないっていうのか。    ……こんな矛盾した自分じゃ、遠坂に呆れられるのも当然だ。 「……まいったな。未熟なのは魔術だけだと思ってたけど、精神修行もなってないじゃないか」    ぼんやりと、夜空を見上げながら呟いた。    ―――夜は更ける。    未熟な自分だからこそ、鍛錬は休めない。  努力を重ねていけばいつか何かに届くと信じて、小さな自分を積んでいく事しか出来なかった。  昼休みになった。  一時的にせよ授業から解放された生徒たちは、忙しなく校舎を行き来している。 「……よし。今なら歩き回ってもヘンに思われない」  昼飯を数分で済ませて廊下に出る。  やった事がない、なんて言っている場合じゃない。  とっくに戦いは始まっているのだ。  なら、遠坂が言っていた『不審な場所』とやらを、俺なりの手段で探し出さなくてはいけない。 「……まずは人気のないところが基本かな……」    ―――さて。  昼休みが終わるまでの一時間、無駄なく成果が出せるといいのだが―――  一通り校舎を回った後、念の為に外に出た。  グラウンドや校舎裏に異状はなかったが、この一帯は毛色が違いすぎる。 「―――――まさか、ここもか」  ……校舎の中にもおかしな場所は多々あった。  それは階段の裏や廊下の行き止まり、空き教室とあまり人目につかない場所だった。  けれどここは違う。  人目につかないどころか、毎日人が集まる場所だ。 「……どうして気が付かなかったんだ。  異常って言えば、ここが一番異常じゃないか―――」  胸を押さえながら呟く。  ……ここは妙に息苦しい。  濃密な風、湿った空気は違和感では済まされない。  いや、一度この匂いに気づいてしまうと、吐き気さえこみ上げてくる。 「……結界には基点がある、と遠坂は言ってたな。  何カ所あるか知らないが、最初の基点がこのあたりにあるって事か……」  なら、どこかにそれらしい〈刻印〉《サイン》がある筈なのだが……。  ……。  …………。  ………………。  ……………………だめか。  魔力の感知に〈疎〉《うと》い俺では、結界を括っているサインなんて見える筈がない。 「…………ふう」  しょうがないな。とりあえず遠坂にここの事を報告して――――   「なんだ。捜し物かい、衛宮」   「――――!」  突然の声に振り向く。昼休み、人気の絶えた弓道場の前に立っていたのは―――― 「――――慎二」 「やあ。奇遇だね、僕もそのあたりに用があって来たんだけど……君、もしかして見た?」  にやり、と。  心底嬉しそうに、間桐慎二はそう言った。 「……見たって、何を。別にここには何もないぞ」 「ああ、やっぱり見たのか。……なるほどね、君が遠坂と一緒にいた理由はそれか。そうだよねぇ、マスター同士、手を組んだ方が効率がいいもの」 「――――! 慎二、おまえ」 「そう警戒するなよ衛宮。僕と君の仲だろ。お互い、隠し事は無しにしようじゃないか。  君が何を連れているかは知らない。けど、君もマスターなんていう酷い役目を押しつけられたんだろ?」  何をはばかる事もなく、慎二はきっぱりと口にした。  〈間桐慎二〉《じぶん》が、マスターだという事を。 「……まさか。おまえがマスターなのか、慎二」 「だからそうだって言ってるだろ。  ああ、でも勘違いはしないでくれ。僕は誰とも争う気はない。そりゃあ襲われたら殺し返すけど、手を出されないうちは黙ってるさ。ほら、このあたり衛宮っぽいだろ、僕も」  クスクスと慎二は笑う。  その物言いからして、アイツがマスターだっていう事に間違いなさそうではあるが―――― 「ま、こっちも衛宮がマスターだって知って驚いてるんだ。意外なのはお互いさまって事で、少し話し合わないか」 「話し合う……それは構わないが、何を話し合うっていうんだ」 「そりゃ今後のことさ。  さっきも言ったけど、僕は戦うつもりはない。けど他はそうでもないんだろ? ならさ、いつか来る災難に備えておかないと不安じゃないか。一人じゃ不安だけど、二人ならなんとかなると思わない?」  …………。  つまり、協力しようと言っているのか、慎二は。 「ま、こんな所で話をするのもなんだろ。誰に聞かれるとも判らないし、場所を変えよう。  ん……そうだね、僕の家がいい。あそこなら遠坂の目も届かないし、襲われても安心だ」 「場所を変えるって、なに言ってんだ。昼休みももう終わるし、話があるなら――――」 「馬鹿? 授業なんてさぼればいいじゃん。ほら、いいから行こう。衛宮がマスターって知って嬉しいんだから、あまり水を注さないでよね」 「そんな訳にいくか。授業を抜け出したら不審に思われるだろ」 「チッ、融通がきかないヤツだな……って、ああそうか!  それはそうだよね、普通は警戒する!」 「けど安心しなよ、何があってもこっちから仕掛ける事はないさ。ほら、僕がだまし討ちなんかするように見えるかい?」 「? ああ―――そうか。確かに、おいそれとは付いていけないな、それは」 「…………。まあいいさ。そっちだってサーヴァントを連れてるんだろ。そんな危ない相手にケンカなんてしかけないよ」  ……?  慎二には、俺がセイバーを連れているように見えるのか?  ああ、いや違う―――慎二のヤツ、霊体になっているサーヴァントが見えないんだ。  だから俺が今もセイバーを連れている、と勘違いしているのか。 「いいから行くよ。遠坂に見つかったら僕も君も只じゃ済まないんだから」  それだけ言って、慎二は歩き出してしまった。 「―――――――」  ……付いて行くしかないか。  慎二の話にも興味はあるし、午後の授業は諦めよう。  坂道を上がっていく。  うちとは正反対にある洋風の住宅地。  なんでもここのてっぺんには遠坂の家があるそうなのだが、それよりやや下、人目を避けるようにあるのが間桐家の洋館だと記憶している。 「――――――――」  相変わらず、すごい建物だ。  中学の頃は何度か遊びに来た事があったが、最近は近寄る事さえなかった。  慎二と疎遠になってからは呼ばれる事もなかったし、なにより桜自身が、この家に俺が近づくのを嫌がっていたからだ。  ……昼だというのに、屋敷の中は薄暗い。  この家は陽射しが入らない作りの上、電灯が少ない。  大げさだが、慣れていないと壁にぶつかる事だってある。 「衛宮、こっちだ。居間にいるから早く来いよ」  いつの間にそこまで行ったのか、屋敷の奥から慎二の声がする。  一年経っても体は覚えているもので、迷うことなく間桐邸の居間へ足を運んだ。  居間にも明かりらしき物はなかった。  カーテンは閉められ、日の光は遮断されている。  人工の明かりはなく、居間は暗く闇に沈んでいた。 「衛宮、こっちだ」  声がする方向に視線を投げる。  そこには椅子に座った慎二と――――    黒い、闇が結晶したような、女性の姿があった。 「紹介しよう。僕のサーヴァント、ライダーだ」 「――――――――」  悪寒が走る。  あまりの寒気に、首の後ろが斬りつけられたみたいに痛む。 「……二人だけで話をするんじゃなかったのか、慎二」  わずかに後退して、なんとかそう口にした。 「やだな、用心だよ。衛宮が襲いかかってきたら怖いからね。ライダーにはすぐ近くにいてもらわないと」  手を伸ばして黒いサーヴァント―――ライダーに触れる慎二。  横腹から太ももまで、撫でるようになぞっていく。 「―――――――」  ライダーはピクリとも動かない。  彫像のように佇み、閉ざされた目でこちらの様子を監視している。  ……それが〈指先〉《こっち》の震えまで捉えている気がするのは、錯覚じゃないだろう。 「人を連れて来てそれか。用心深いにも程があるんじゃないのか、慎二」 「冗談だってば。衛宮はそういうのが出来るヤツじゃないって判ってるよ。  ま、けどおまえのサーヴァントは別だからね。僕だってこいつを躾るのには苦労したんだ。サーヴァントがマスターの命令に従わない、ってのは珍しい事じゃないだろ。だからさ、これはちょっとした牽制だと思ってくれ」  ……マスターの命令に従わないサーヴァント?  たしかに目の前にいるライダーは、セイバーとは違う。  セイバーは静かではあるが、冷たくはない。  だがライダーから感じ取れるのは冷たさだけだ。  ひどく人間味の欠けた人間。  血が変色したように見える黒い姿。  彼女は英霊であるサーヴァントとは思えないほど、無機質で、光というものを感じさせない―――― 「……ライダーは俺のサーヴァントへの牽制か。あんまりいい気分じゃないな」 「ゴメンゴメン。何分こっちは素人だからさ、衛宮みたいに慣れてるって訳じゃないんだ。そのあたりは勘弁してくれ」 「……ふん。俺だって慣れている訳じゃないけどな」 「そうなのか? なんだ、なら君も呼び出せばいいじゃないか。その方がお互い理解しあえるし、すごく公平だ。  ああ、うんうん、それがいいそれがいい! ねえ衛宮、僕のも見せたんだからさ、君のサーヴァントも見せてくれない?」  ……やはり慎二はセイバーがいるものと勘違いしている。  その勘違いは、そのままにしておくべきだ。 「断る。そっちが牽制してくれるならそれでいいだろ。  話し合いならそれで十分だ」 「……なにそれ。あのさ、僕が見たいって言ってるんだよ? なに気取ってるか知らないけど、言うこと聞いといた方がいいんじゃないの?」 「なら話はここまでだ。別にサーヴァントの見せ合いをしにきたんじゃない。そんな事が目的だったんなら、ここで帰る」 「チ―――そうかよ。使えないヤツだな、相変わらず」  あーあ、と不満そうに声をあげて、慎二は椅子にもたれかかった。 「いいよ、本題に入ろう。と言っても話すべき事なんて一つだけだけどね。  ……うん。さっきも言ったけど、僕と協力しないか衛宮。マスターになったものの、聖杯戦争っていうのがどんな物か知らなくてさ。一人でいるよりは信用できるヤツと手を組みたいんだ」 「待った。その前に俺も訊きたい事がある。返事をするのはそれからだ」 「なに、僕がどうしてマスターになったかって事?」  ああ、と頷く。  知る限りでは慎二は魔術師じゃない。  その慎二がマスターになった経緯を知らなくては、協力するも何もない。 「マスターは魔術師である事が大前提だと聞いた。俺も未熟ながら魔術をかじっていて、偶然サーヴァントと契約してマスターになったんだが……慎二も偶然サーヴァントを呼び出して、聖杯戦争に巻き込まれたのか?」  だとしたら、俺たちは似たもの同士だ。  協力しよう、という提案を無碍には断れなくなってしまうのだが――― 「へえ、衛宮は偶然マスターになったのか。……ふうん。  そうなんだ。良かった、それなら納得できる」  くすり、と愉快そうに笑う慎二。 「ま、僕も似たようなものかな。本人の意思に反してマスターになってしまった、という点では同じだ。  ―――けど勘違いするなよ。  僕はマスターがなんであるか知っていたし、聖杯戦争の事だって前から知っていた。間桐の家はね、おまえの家なんかとは違う、〈歴〉《れっき》とした魔術師の家系なんだからさ」 「――――!?」  間桐が魔術師の家系……!?   「な、聞いてないぞそんなの……!?  待てよ、それじゃあ慎二と―――」    妹である桜も、魔術を習ってるっていうのか……!? 「落ち着けよ衛宮。間桐家はね、魔術師の家系ではあるけどもう枯れてしまった一族なんだ。  間桐の先祖は遠坂の家と一緒にこの土地にやってきたらしいが、日本の土が合わなかったんだってさ。  代を重ねる毎に、ええっと、魔術回路ってやつ? それが減っていって、僕が生まれた時にはもう、間桐の血筋は一般人に戻ってしまったそうだ。  だから間桐の人間は魔術師じゃない。昔、魔術師であった家系なだけなんだ」 「昔は魔術師だった……それじゃあ、今は知識だけが残っているのか?」 「ああ、残念ながらね。けど魔術回路がなくなったって、魔術を学ぶ事に変わりはない。マスターの事も聖杯戦争の事も、調べればすぐに判った。突然マスターに選ばれてこうやって落ち着けるのも、先代の教えがあったからなのさ」 「――――――――」  ……そうか。  俺はマスターになって、遠坂がいたから聖杯戦争ってものを理解できた。  それと同じように、慎二は間桐の家に伝わる文献で置かれた状況を把握したのか。 「つまり、慎二は魔術の知識だけを教えられてきたんだな。……なら、桜も同じように魔術を習ってきたのか?」 「はあ? ああもう、本当に何も知らないんだな、君。  いいかい。古い家柄の魔術師は一人にしか秘術を伝えないんだ。子供が二人いたら跡取りにするのは長男だけだよ」 「一つの物を二つに分けたら力が薄まるだろ?  十の魔術を一つの結晶にして遺していき、血をより濃くしていくのが魔術師だ。いくら肉親だからって安売りはしないのさ」 「だから魔術師の家系はね、跡取り以外に魔術は教えない。後継者に選ばれなかった子供は自分の家が魔術を学ぶモノだと知らずに育てられるか、養子に出すっていうのがセオリーなのさ」 「そうか――――それなら、良かった」    胸を撫で下ろす。  桜は魔術とは無縁の、穏やかな日常にいなくちゃいけない子だ。  こんな、訳も分からず戦いを強制される揉め事に関わらせてたまるものか。 「さ、これで判っただろ衛宮。  僕はマスターになったものの、魔術には疎い。  君は……そうだね、少しは使えるって言うけど、知識の方は素人同然だ。  ほら、ちょうどいいと思わないか? 勝手にマスターにさせられた者同士、協力しようよ」 「……それは構わないが。確認するけど、それは身を守る為なんだな、慎二」 「いや、それもあるけど、まずは当面の敵を叩かないとまずいんじゃない。僕、なんか彼女から目の仇にされてるみたいだしさ」 「……目の仇にされてる……? まさかおまえ、それ遠坂のコト言ってるのか」 「そんなの決まってるじゃないか! そうでもなければ僕を邪険にするものか……!  ……いいか、アイツは他のマスターを許さないヤツだぞ。そんなの一緒にいる衛宮だって判るだろ?  けどさ、なんの物好きか知らないけど、遠坂は君に気を許している。あの隙のない女がだぜ?  ―――ほら、倒すには絶好の機会だと思わない?」  そう言って、慎二は握手を求めるように手を出してきた。 「――――――――」  ……俺は、そんな話には乗らない。  いや、乗れない。  慎二が本気で身を守りたいと思うのなら、俺だけじゃなく遠坂にも声をかけるべきだ。    それに――― 「慎二。聖杯戦争を管理しているヤツがいるのは知ってるか」 「ああ、教会の神父だってね。前回の生き残りだっていうけど、うるさそうだから会ってないよ。  僕は魔術師じゃないんだから、魔術師としてのルールなんて押しつけられるのは面倒じゃない」 「――――――――」  それは矛盾している。  戦いを〈止〉《や》めたいと思うのなら、まず何より言峰神父を訪ねるべきではないのか。 「――――慎二。学校に結界が張ってある事は知っているのか」 「知ってるよ。僕には判らないけど、ライダーが教えてくれた。それがどうしたっていうのさ」 「……アレはおまえじゃないのか。遠坂は学校にいるマスターの仕業だと言っていたけど」 「ああ、アレは僕じゃないよ。たしかにあの学園にはもう一人マスターがいるから、そいつの仕事じゃないの」 「? 遠坂は一人しかいない、と言っていたぞ」 「遠坂を信用しすぎるのもなんだけどね。ま、それは別にしてもあいつは間違ってるよ。  遠坂が探っている気配は魔術回路ってヤツなんだろう?  なら僕は彼女が感知できるマスターじゃない。だって、元から魔術回路なんてないんだから。  初めからさ、僕は普通のマスターたちのレーダーに映らない存在なんだよ」  ……なるほど。  魔術師の気配だろうが令呪の気配だろうが、それは結局魔力によって作動するものだ。  なら―――魔力を持たない人間がマスターになったのなら、識別する方法は実際に見て確かめるしかない。  魔力を帯びた人間を探る、という遠坂の方法では、慎二というマスターを見つけるどころか気づく事さえできないのだ。  なぜなら、遠坂が追っている〈魔力〉《マスター》の気配そのものを、慎二は持っていないのだから。 「……そうか。そうなるといま遠坂が感知しているマスターっていうのは、他にいるんだろう」    帰って遠坂に忠告してやるべきだろう。  そうと決まれば、もうここに残る必要もない。 「……! おい衛宮、協力の話はどうなんだよ」 「それは断る。遠坂を倒す、なんて相談にはのらない。  第一、あいつは何もしていないだろ。  あいつとは……いずれ戦う事になるけど、今は信頼できるし、していたいんだ」 「……ふん。何かあってからじゃ遅いと思うけどね。まあそう言うならいい。僕も君と同じく様子を見るさ」  意外な事に、慎二はそれで諦めてくれたらしい。  帰ろうとする俺を引き留める事もしないし、ライダーをけしかけてくる事もなかった。  ……ほんと、難しいヤツだな慎二は。  態度はアレだけど、あいつはあいつなりにフェアであろうと心がけているみたいなんだから。 「……なあ慎二。しつこいようだけど、桜はおまえの事を知ってるのか?」 「知らないし、教えてやるつもりもない。間桐の跡取りは僕だからね。桜には何も知らないまま、僕の妹でいさせてやるさ」 「―――助かる。桜には、あのままでいてほしい」 「は――――。  そうか、そこまで桜の心配をされちゃ兄貴として礼をしないとね。……よし、一ついい事を教えてやるよ衛宮。  誰だかは知らないけど、マスターの一人は寺に巣を張ってるよ」 「――――!? 寺って、まさか柳洞寺にか!?」 「ああ。僕のサーヴァントが言うには、山には魔女が潜んでいるそうだ。大規模に魂を集めているそうだから、早めに叩かないと厄介らしい」 「な――――」  それが本当なら、これで五人目だ。  それに大規模に魂を集めているという事は、今朝のニュースの元凶である可能性が高い。 「話はそれだけだよ。  それじゃあライダー、送ってやってよ。いいかい、衛宮は味方だから傷つけるんじゃないぞ」  慎二に命じられ、ライダーが近寄ってくる。 「っ……いや、それは」 「遠慮するなって。家を出るまでは僕の責任なんだから、怪我をされたら困る。  ああライダー、送るのは玄関まででいいからな。外にさえ出てくれたら僕とは無関係だから、それまでは丁重に送ってやれ」  慎二は奥の部屋へと引っ込んでしまった。 「………………」  無言でライダーに視線を送る。 「………………」  黒い衣に包まれたライダーは何も言わない。  ただ意外な事に―――近くで見ると、彼女は清楚な顔立ちをしていた。  長い、地面にまで伸びている紫の髪は血の臭いしか感じさせないのに、同時にとんでもなく美しいものと判る。  ……いや、格好が格好だからまともに見るのは恥ずかしいんだけど、この服と彼女の顔立ちは、まったく合っていないんじゃないだろうか。  一言で言うのなら、血に濡れた巫女。  邪悪でありながら神聖、なんていう矛盾に満ちた姿が、ライダーというサーヴァントだった。 「………というか」    英霊っていうのは、こう美人ぞろいなんだろうか。  怖い物見たさでライダーの顔を見上げていると、ついそう思ってしま―――って、女性にしては背が高い。  百七十センチは優にあるんじゃないだろうか、ライダー。 「…………む」  冷静に観察している場合じゃなかった。  ライダーと二人きり、というのも問題あるし、さっさと間桐邸から出なければ。  本当にライダーは玄関まで付いてきた。  ……どうだろう。  生きているという感じがしない彼女だが、話しかければ何か答えてくれるかもしれない。   「……ライダー。さっきの慎二の話は本当なのか」  駄目もとで声をかける。 「――――――――」  ライダーに変化はない。ただ、その長い髪が風に揺れているだけだった。 「……だよな。悪かった、敵同士なのにつまんない事訊いちまって」  見送りサンキュ、と手をあげて玄関を出る。    ――――と。 「嘘ではありません。あの山に魔女が棲んでいるのは真実です」 「え……ライダー?」 「挑むのならば気をつけなさい。あの魔女は、男性というものを知り尽くしていますから」  淡々と語るライダー。  それに聞き惚れてしまっている自分に気づいて、ぶんぶんと頭を振った。 「あ、その……忠告、ありがとう。  ―――それと慎二の事をよろしく頼む。アイツはああいうヤツだからさ、アンタが守ってやってくれ」    面くらいつつ、なんとか言葉を返す。  それがおかしかったのか。 「……人が好いのですね、貴方は。シンジが懐柔しようというのも解ります」  くすりと小さく笑って、ライダーは間桐邸へと消えていった。  君子危うきに近寄らず。  どんなにキレイな顔をしていようと、ライダーからは血の臭いがする。  ……それだけでも警戒するべき相手だろう。  ……まあ、それに。  なんていうか、目のやり場に困って、話しかけるどころの話じゃないし。 「――――何か?」 「っ……!」  慌てて目を逸らす。 「な、なんでもないっ……! み、見送りどうも……!」    だあーっ、と逃げるように走り出す。  坂道を駆け下りる。  黒いサーヴァントは、そんな隙だらけの俺を静かに見送っていた。  二人を送り出して居間に戻る。  夕食の後に話がある、と言っておいたおかげか、居間では遠坂とセイバーが真剣な面もちで待っていた。 「お疲れさま。―――それで話っていうのは何?」 「他のマスターの話だ。聞いてほしい事がある」  わずかにセイバーの眉が上がる。  ……サーヴァントである以上、彼女が優先するのは安穏とした日常ではなく、剣を振るう戦いなんだろう。  だが、彼女の傷はまだ癒えていない筈だ。  ランサーの“宝具”によって穿たれた胸の傷は、セイバーであっても易々と治癒できる物ではない。 「――――――――」  そう思うと、慎二の話をするのは躊躇われた。  俺だって慎二と同じだ。  自分から戦う事は極力避けたいし、それに―――目の前の少女が剣を振るうのは、どう考えても不釣り合いだと思うのだ。 「シロウ。話があるのではないのですか」 「あ―――ああ。そうだな……率直に言うとだな。今日、ライダーとそのマスターに会ってきた」 「な、ライダーのマスターに会ってきたって、いつの話よそれ!?」 「そんな馬鹿な! 一人で敵のマスターに会うなどと、自分の身をなんと考えているのですか!」 「うわ、待て、落ち着けってば……! 大丈夫、怪我なんてしていないから、そう怒らないでくれ」 「怒るななどと―――いえ、私は怒ってなどいませんっ。  シロウの行動に呆れているだけです」 「……右に同じ。ま、すんだ事を言っても始まらないわ。  それで、どういう事なのよ士郎」  明らかに怒っている目でこちらを睨んでくる遠坂とセイバー。  ……まいった。  軽率だー、なんて言われるとは思っていたが、まさかここまで本気で怒られるとは思っていなかった。 「……会ったのは今日の午後だ。  話し合いをするっていうから付き合っただけで、別に戦った訳じゃない」 「見れば判るわ。で、ライダーのマスターはどんなヤツだったの」 「どんなヤツかって、慎二だよ。  学校で結界を探っていたら声をかけられてな。話があるから付いてこいって、間桐の家まで行ったんだ」 「な――――慎二って、本当にあの慎二!?」 「ああ。ライダーも慎二に従ってたし、聖杯戦争も知ってたぞ。なんでも間桐は由緒正しい魔術師の家系なんだって?」 「え―――ああ、うん、それはそうだけど……そんな筈はないのよ。間桐の家は先代でもう枯渇している筈だもの。何があろうと間桐の子供に魔術回路はつかない。これは絶対よ」  断言する遠坂。  こいつがそこまで言うからには、慎二と桜には本当に魔術回路はないのだろう。 「ああ、慎二もそう言っていた。けど知識だけは残ってたんだと。長男である慎二にしか教えなかったそうだから桜は知らないとか。  ……ようするにさ、俺と似たタイプのマスターなんだよ、あいつ。自分には魔力がないから、遠坂の感知にもひっかからないとか言ってたぞ」 「……そう。まずったわね、たしかにそういうケースだってあるか……。魔道書が残っているんならマスターになるぐらいはできるだろうし、ああもう、それじゃわたしの行動ってアイツに筒抜けだったんだ、ばか」  遠坂はぶつぶつと反省している。  ……ふむ。遠坂はほぼ完璧なんだけど、どこか抜けている部分があると見た。  問題は、それがけっこう致命的な物ばかり、という事だろう。 「わたしのミスだわ。慎二の事はしっかりマークしておくべきだった。知っていたら結界を張らせるなんて事もなかったのに」 「ああ、いや。学校の結界は慎二じゃないって言ってたぞ。学校にはもう一人マスターがいるんだとさ」 「ええ、それはそうでしょうね。学校にはまだ一人、わたしたちの知らないマスターがいるのは明白よ。  けど士郎。貴方まさか、結界を張ってないっていう慎二の言葉を信じてるの?」 「……いや、そこまでお人好しじゃない。慎二が学校にいる以上、半分の割合で慎二の仕業だと思う。あとの半分は、まだ正体が知れないマスターだろ」 「半分ねえ……その時点で大したお人好しだと思うけど。  ま、それはそれでいいわ。そういう余分なところが貴方の味だし、だからこそ慎二は正体を明かしたんだろうしさ」 「?」 「まあいいわ。それで慎二と何を話したのよ、貴方」 「手を組まないか、だとさ。慎二も戦うつもりはないらしい。だから顔見知りとなら協力したいって風だったけど」 「え―――士郎、あなたまさか慎二と」 「いや、断るだろ普通。俺、もう遠坂と手を組んでるし。  返事をするにしたって、ちゃんと遠坂に話を通さないとダメじゃないか」 「あ……うん。それは、そうだけど。でも断ったって、言った?」 「ああ。さっきはああ言ったけど、慎二への返答は俺の独断でやっちまった。遠坂の耳に入れるような話でもなかったし。……あ、それともやっぱり早まったのか、俺?」 「……別に。士郎の判断は正しいんじゃない? まあ、アンタ個人にお呼びがかかったんなら、わたしが文句を言う筋合いでもないけどさ」  ごにょごにょと言う姿は、なんか実に遠坂らしくない。 「慎二からの話はそれだけだよ。  俺の見た限りじゃライダーもそう強力なサーヴァントでもなかった。バーサーカーは言うに及ばず、ランサーより威圧感はなかったと思う。ライダー本人も思ったよりまともだった」 「……マスターがそう実感したのなら確かでしょう。ですが、サーヴァントの真価は手にした宝具に左右されます。ライダーが何者であるか判明するまでは油断はしないように、シロウ」 「……ああ。ライダーがどこの英雄かはまったく判らなかった。ほら、ランサーとかバーサーカーはいかにも英雄って感じじゃないか。ライダーにはそれがなくて、どこか普通のサーヴァントとは違う気がした」 「―――普通のサーヴァントとは違う、ですか。  私には分かりませんが、凛ならシロウの違和感が説明できますか?」 「え……? あ、うん、理屈だけなら判るわよ。  えっとね、サーヴァントがどんな英霊かは呼び出されたマスターに左右されるって話。けっこう似たもの同士になるのよ、マスターとサーヴァントは」 「つまり高潔な人物がマスターなら、それに近い霊殻をした英霊が召喚される。逆に言えば心に深い傷を持った人間が英霊を呼び出せば、同じように傷を負った英霊が現れるわ。  士郎がライダーに感じた違和感はそれでしょうね。  〈歪〉《いびつ》な心を持つマスターは、時として英雄ではなく英霊に近いだけの怨霊を呼び出してしまうのよ」 「英霊に近い怨霊……それってまさか、前に遠坂が言っていた――――」 「ええ。血を見るのが大好き、人殺しなんてなんとも思わないような暴虐者よ。  実際、残忍さだけが伝承に残っている英雄だっているんだから、そういうヤツがサーヴァントになってもおかしくはないわ」 「――――――――」  そう、なのだろうか。  たしかにライダーからは血の臭いしかしなかったが、彼女にはそんな、血に飢えた殺人鬼のようなイメージはなかったのだが……。 「……まあライダーの事はそれだけだ。  最後にもう一つあるんだけど、これが一番重要かも知れない。  なんでもさ、ライダーの話じゃ柳洞寺にもマスターがいるらしい。そいつは町中の人間から魔力を集めているそうなんだけど、この話、二人はどう思う」 「柳洞寺……? 柳洞寺って、あの山のてっぺんにある寺のこと?」 「だからそうだって。なんだ、思い当たる節でもあるのか遠坂」 「まさか、その逆よ。柳洞寺なんて行った事ないもの。  どんなマスターか知らないけど、そんな〈辺鄙〉《へんぴ》なところに陣取ろうなんて思わないわよ、普通」 「だよな。俺も柳洞寺にいるって聞いた時は驚いた。  いくら人目につかないっていっても、寺には大勢の坊さんが生活しているんだ。怪しい真似をしたらすぐに騒ぎになると思う」 「ふーん……いまいち信用できないわね、その話。  仮にそうだとしても、柳洞寺って郊外のさらに郊外にあるんでしょ?  そこから深山と新都、両方に手を伸ばすなんて、大魔術っていうより魔力の無駄遣いよ。集めた魔力を使っても、そんな大規模な術は不可能だもの」  と、なにやら難しそうな顔で考え込む遠坂。  こっちは遠坂の意見を頼りにしているので、こいつが顔をあげない事には何も言えない。 「―――いえ、シロウの話は信憑性が高い。  あの寺院を押さえたのなら、その程度の魔術は自然に行えるのですから」 「? セイバー、あの寺院って―――柳洞寺のこと知ってるのか? まだ連れて行った事ないぞ、俺」 「忘れたのですかシロウ。私は前回も聖杯戦争に参加しています。この町の事は熟知していますし、あの寺院が落ちた霊脈という事も知っています」 「―――落ちた霊脈!? ちょっと待って、それって〈遠坂〉《うち》邸の事よ!? なんだって一つの土地に、地脈の中心点が二つもあるっていうのよ!」 「それは私にも判りませんが、とにかくあの寺は魔術師にとって神殿とも言える土地です。  この地域の命脈が流れ落ちる場所と聞きますから、魂を集めるには絶好の拠点となるでしょう。魔術師は自然の流れに手を加えるだけで、町中から生命力を回収できる」 「……そんな話、初めて聞いたわ。  けど、確かにそれなら町の人間から生命力を掠め取っていく事もできるわよね……」 「ようするに霊的に優れた土地ってコトだろ? そんなの当然じゃないか。そうでもないところに寺なんて建てないぞ」 「うっ――――そ、そんなの当たり前じゃない。言われなくても分かってるわよ」 「だよな。昔から寺とか神社ってのは神がかる場所に建てて町を守るものだ。坊さんは神仏に祈って幸を与えるんじゃなくて、鬼門を封じて禍を退ける。その線で言えば、柳洞寺のあるお山が特別な場所ってのは当然だろ」 「っ――――」 「おい―――まさかとは思うが。おまえ、柳洞寺をお飾りの寺だとでも思ってたのか?」 「ええ、そうよ悪い!? 今まであるだけの寺だと思ってたわよ、あの寺には実践派の法術師がいないんだから!」 「実践派の法術師……? なんだそれ」 「読経や信心、祈願以外で霊を成仏させる連中のこと。  覚者は神仏の力だけで事を成すそうだけど、修行が浅い僧侶は神仏に届かないから、わたしたちみたいに自身の力を上乗せして術を成すの。  そういう連中が集まって組織みたいになってるのがあるのよ、この国には。〈魔術協〉《わたしたち》会とは相容れない連中だから詳しくは知らないけどさ」 「ううん、そんな事より寺の事よ。  あの寺が霊脈だとしたら、まず真っ先に押さえようとするのがマスターでしょう? おかしいじゃない、なんで他の連中はそんな場所を見逃しているのよ」 「いや、だから柳洞寺があるからだろ。悪用されないように見張ってるんだって」 「柳洞寺の僧侶はみんな純粋な修行僧じゃない。  わたしたちみたいに外れた連中じゃないんだから、そんな人たちを丸め込むぐらいマスターなら造作もないわ」 「いいえ凛、それは違う。たしかにマスターならばあの寺院を制圧するのは容易いでしょう。しかし、あの山にはマスターにとって都合の悪い結界が張られているのです」 「? わたしたちに都合の悪い結界……?」 「はい。あの山には自然霊以外を排除しようとする法術が働いている。生身の人間に影響はありませんが、私たちサーヴァントには文字通り鬼門なのです」 「自然霊以外を排除する―――それじゃサーヴァントはあの山には入れないって事!?」 「入れない事はありませんが、能力は低下するでしょう。  足を踏み入れる度に近づいてはならない、という令呪を受けるようなものですから」 「―――それじゃ、どうやって柳洞寺のマスターはサーヴァントを維持しているのよ」 「いえ、寺院の中に入ってしまえば結界はありません。  もとより結界とは寺院を守る境界線と聞きます。結界は外来者を拒むだけの物ですから、それ以上の能力はありません」 「……じゃあなんとか中に入ってしまえば、サーヴァントを律する法術はないって事?  ……けどおかしいな。そんなふうに寺院を密閉させたら地脈そのものが止まるじゃない。せめて一本ぐらい道を開けておかないと、地脈の中心点には成り得ないんじゃない?」 「はい。寺院の道理で言えば、正しい門から来訪した者は拒めません。その教えに従っているのか、寺に続く参道にだけは結界が張れないと聞きました。  あの寺院は正門のみ、わたしたちサーヴァントを律する力が働いていないのです」 「……なるほど。そりゃそうよね、全ての門を閉じたら中の空気が〈淀〉《よど》むもの。……ふうん、ただ一つだけ作られた正門か……」 「私が教えられる事はそれだけです。  ―――では結論を。マスターがいると判明したのですから、とるべき手段は一つだけだと思いますが」 「――――――――」  セイバーの言いたい事は分かっている。  敵の居場所が判明したのなら攻め込むだけだ、と彼女の目が言っている。  しかし―――― 「わたしはパス。  どうにも罠くさいし、正直それだけの情報じゃ動けないわ。相手のホームグラウンドに行くんなら、せめてどんなサーヴァントを連れているのか判明するまで待つべきよ」 「……意外ですね。凛ならば戦いに赴くと思ったのですが」 「侮ってもらって結構よ。こっちはアーチャーがまだ本調子じゃないし、しばらくは傍観するわ」 「わかりました。それではシロウ、私たちだけで寺院に赴きましょう」 「――――――――」  セイバーは当然のように言う。  だが、それは。      ―――打って出る。    柳洞寺にマスターがいて、町の人間から魔力を吸い上げているのなら一刻も早く止めるべきだ。 「セイバーに賛成だ。こっちから打って出るのは気が進まないが、それも相手による。  柳洞寺のマスターがどんなヤツか確かめる為にも、すぐに柳洞寺に行くべきだ」 「では出陣ですね、シロウ。貴方が積極的になってくれたのは喜ばしい」 「……そ。貴方がそう決めたのなら、わたしに言う事はないけど。せいぜい気をつける事ね」 「遠坂?」 「先に休むわ。わたし、勝算のない戦いに興味はないから。明日になって貴方が帰ってこなかったら、協力者のよしみで骨ぐらい拾いに行ってあげる」 「なんだあいつ。縁起でもないコト言いやがって」 「今のは凛なりの忠告でしょう。  柳洞寺には外敵への備えがある筈です。私たちは敵の罠を潜り抜け、城主たるマスターを倒さねばならないのですから」 「……む。いや、それはそうだけど」  何も俺は絶対にマスターを倒す、と意気込んでいる訳じゃない。  柳洞寺のマスターの正体と、その真意を見極めるだけだ。  うまくすれば戦闘は避けられるかもしれないし、危うくなったら撤退する。      ……そうだ。二度とあんな姿にはさせない。  危険だと判断したら即座に撤退するだけだ――――    雲の流れが速い。  遥か上空で、強い風が吹いている。 「マスター。じき零時ですが」 「……ああ。町も眠りについた。出向くにはいい頃合だ」  竹刀袋を手にして頷く。  中には土蔵から見繕った木刀が一本。  サーヴァントと戦うには心細すぎる装備だが、強化がうまくいけば一撃ぐらいは耐え切ってくれるだろう。 「セイバー。柳洞寺に行くのはあくまで様子見だ。  マスターがどんなヤツなのか、そのサーヴァントがどのクラスなのかを確認できればいい。こっちから仕掛ける必要はないからな」 「……解りました。ですが敵が戦いを望み、シロウの身に危険が及ぶと判断した時はその限りではありません。  敵地に赴く以上、どちらかの死は覚悟してほしい」  どちらかの死。  それは柳洞寺に潜むマスターと、その陣地に挑む俺に振り分けられた運命の秤だ。  今のところ水平に保たれたバランスは、数時間後にはどちらかに傾いているかもしれない――――  交差点から西へ、閑散とした道を走る。  開発の進んだ新都とは正反対の方角、緩やかな山道の終わりに柳洞寺は建てられている。 「――――――――」  長い階段。  冬木市でも一際高い山の中腹へ続く〈路〉《みち》は、不吉な闇に包まれている。 「……セイバー。  サーヴァントの気配、感知できるか……?」 「―――はい。正確には把握できませんが、確かにサーヴァントの気配がします」  柳洞寺に張られた結界の影響か、セイバーの感知能力は低下しているようだ。 「―――よくない風です。……シロウ、片時も私の傍を離れないように」 「…………」  頷きだけで答えて、石の階段を登り始める。  張り詰めた空気。  夜の闇に沈んだ林が、ギチギチと音を立てて揺れている。 「――――――――」  一歩ごと、嫌な予感が背中に沈殿していく。    ……山門が見えてきた。  ここまで何の動きもない。  敵の気配はせず、山門は俺たちを招くように開け放たれている。 「シロウ、止まって」 「っ……敵か、セイバー」 「はい。ですがサーヴァントではありません。気配が微弱すぎる。おそらく監視役の使い魔でしょう。無視しても構わないのですが、しかし――――」  何か、その監視役とやらに思うところがあるのか。  セイバーは顔を曇らせて、あと数歩足らずの山門を睨んでいる。 「……セイバー? 何かひっかかるものがあるのか……?」 「……分かりません。この悪寒が監視の使い魔のものなのか、この山門を守るモノの気配なのか。  門番らしきモノはいたようなのですが、今は不在のようです。  ……認めたくはないのですが、私はそれを幸運と思っている。この門を守るモノと対峙しなくて良かった、と」 「―――門の番人がいたって事か。けど今はいない……?」 「はい。私たちがやってきた事は既に知られています。  その上で門番を下げた意味は二つ。シロウはどちらだと思いますか」 「――――――――」  ……俺たちから隠れる為に門番を下げたか、それとも中に入れて逃がさないようにする為か。  ……どちらにせよ、中に入らなければこれ以上の進展はないだろう。 「……間違いなく罠だと思う。セイバー、ここから中の様子は判るか?」 「いいえ。サーヴァントの気配がする、という情報しか掴めない」 「……そうか。結局、中に入るまで何も判らないみたいだな」  こくん、と頷くセイバー。 「―――行こう。何を仕掛けてくるにしろ、相手の顔を見ない事には始まらない」  セイバーと共に山門に向かう。    一瞬、月が雲に呑まれた。  ―――視界が闇に落ちる。   「……え?」  その中で、なにか―――木々の間に潜む、美しい蛇を見た気がした。 「―――待て。セイバー、今」  山門をくぐろうとするセイバーを呼び止める。 「シロウ?」  振り返る金の髪。  だが、それは。 「強制転移……!? 馬鹿な、この時代において転移魔術だと―――そうか、キャスター……!」  セイバーの姿が歪んでいく。  それはいかなる魔術か。  セイバーは蜃気楼のように歪み、そのまま―――― 「まずい、下がれセイバー……! なんか、体が消えてるぞ……!」 「違いますシロウ……! 転移を受けているのは貴方の方だ……! 早く私の手を……!」 「っ……!?」  な、転移って瞬間移動か……!? 「シロウ、手を伸ばして……! そのままでは中に引き込まれ――――」  地を蹴って俺の腕を掴むセイバー。  それを、 「くっ、つ――――!?」  横合いから弾く、黒いサーヴァントの姿があった。 「不覚を取りましたねセイバー。魔術に対する強力な〈抵抗〉《レジスト》が仇になった。  貴方がそこまで強力でなければ、彼を守りきれたものを」 「な―――貴様、サーヴァント……!」  銀の甲冑と黒い装束がぶつかり合う。  セイバーとライダー。  両者は石畳の上で対峙し、 「な――――セイバー、セイバー……!」  俺の存在は三次元から引き上げられ、多次元を経由して、もとの〈世界〉《じげん》に落とされた。 「あ――――う、げっ…………!」  全身の血が逆流する。  一瞬、内臓という内臓が裏返り、別の生物になったような嘔吐感だけが―――― 「あら。竜を釣ろうと思ったのに、網にかかったのは雑魚だけなんて」 「……!」  背後の気配に振り返る。 「っ、ぐ……!」  相手を確認する余裕なんてない。  竹刀袋に入れたまま、木刀を背後へと振り払う。 「Αερο」 「あ―――、…………」  ―――吹き飛んだ。  右胸を撃たれ、体ごと水面に没する。 「あ――――、れ?」  ……水面が、赤い色に染まっていく。  体―――――俺の右胸は、ごっそりと、巨大な扇風機に呑みこまれたように削られていた。 「馬鹿な子。そんな紙クズみたいな魔術抵抗で私の神殿にやってくるなんて、セイバーもマスターに恵まれなかったようね」 「――――――――」  ……紫のローブが嘲笑う。  目眩―――俺は、すぐにでも立ち上がってセイバーの手を取らないといけないのに、目眩がして、体が、 「セイバーが気になる……? 安心なさい、彼女は私が貰ってあげる。バーサーカーを倒すには彼女の宝具が必要ですからね。貴方はここで死に絶えるけれど、彼女は私の奴隷として生き続けるわ」 「――――、――――――――ぁ」  ―――力が、入らない。  ゆ、びが。  凍え、るみたいに冷たくて暗く暗くどろりと、〈脳動〉《いしき》が保てなく―――― 「さようなら坊や。そんな低能では奴隷にする価値もないけど―――貴方の令呪は、私が有効に使ってあげる」        歪な短刀が令呪を切り取っていく。  ……黒い水の中。  月を呑む雲の流れだけが、停止した眼球に焼きついていた――― 「―――いや、俺も遠坂と同じだ。まだあそこには手を出さない方がいい」 「な……貴方まで戦わないと言うのですか……!?  バカな、今まで体を休めていたのは何の為です!  敵の所在が判明した以上、打って出るのが戦いというものでしょう!」 「―――それは分かってる。けど待つんだセイバー。  柳洞寺にいるマスターがそこまで用意周到なヤツなら、絶対に罠を張っている。そこに何の策もなしで飛び込むのは自殺行為だ。  遠坂の言う通り、せめてアーチャーが回復するまで待つべきだと思う」 「そのような危険は当然です。初めから無傷で勝利を得ようなどと思ってはいません。  敵の罠が体を貫こうと、この首を渡さなければ戦える。  どのような深手を負おうと、マスターさえ倒せればいいのではないのですか!」 「な――――バカ言うな、怪我をしてもいいなんて、そんな話があるか!  危険を承知で行くのはいい。けどそんな特攻は馬鹿げてる。……俺はマスターとして、セイバーにそんな危険な真似をさせられない」  そう、間違いなく柳洞寺に行くのは特攻だ。  寺に続くただ一本の道には、何かしらかの障害があってしかるべきだ。  それを承知で行くのはいいが、打開策もなしで挑むのは自殺行為に他ならない。  いくらセイバーが強いっていっても、彼女には俺というハンデがある。    無理をして戦って、その結果が――――            あの再現になるのなら、俺は絶対に頷けない。 「……何を言うかと思えば。  いいですかマスター、サーヴァントは傷を負う者です。  それを恐れて戦いを避けるなど、私のマスターには許しません」 「―――ああ、許されなくてけっこうだ。セイバーが無茶をするんなら何度だって止めるからな。  ……それが嫌ならさっさと体を治せっていうんだ。まだ傷が治りきってないんだろ、おまえは」 「戦闘に支障はありません。傷を理由に戦いを先延ばしにするなどと、そのような気遣いは不要です」  セイバーは戦う意思を崩さない。 「っ――――」  ああもう、どうしてこんなに言っているのに分からないんだこいつは……! 「ああそうかよ。けどな、そう簡単に頷けるか。  以前だってそれでセイバーはバーサーカーにやられちまったんだろう!? 無理を通して戦って、また俺もおまえも共倒れ、なんて真似を繰り返すつもりか!?  冗談じゃない、俺はあんな、無残に殺されるなんて二度とご免だ……!」 「――――――――」  そうして。  すぐに言い返してくるだろうと思っていた彼女は、わずかに息を呑んで、   「……それを言うのは卑怯ではないですか、シロウ」    謝罪するように、そんな言葉を口にしていた。 「…………卑怯で悪かったな。  とにかく、こっちから仕掛ける事はまだしないぞ。  俺だって柳洞寺にいるマスターは放っておけない。けど俺たちは戦える状態じゃない。こんなんで戦ってやられちまったら、それこそ誰が柳洞寺のマスターを止めるんだ」 「いいか、こっちから打って出るのはおまえの傷が治って、万全の状態になってからだ。それに文句があるんなら、さっさと他のマスターを見つけてくれ」 「―――分かりました。マスターが、そう言うのでしたら」  静かな声で答えて、それきりセイバーは黙り込んだ。    ……話は終わった。  遠坂は部屋に戻り、セイバーも部屋に戻った。  一人居間に残って、ひどく後悔する。  いや、悔やんでも後の祭りだ。  他に言いようがあっただろうに、なんだって俺はあんな、    あんな顔をさせるような言葉でしか、彼女を説得できなかったのか―――    風の無い、静かな夜だった。  時刻は零時を過ぎている。  沈殿した闇。  町は、垣間見える月の明かりだけを〈寄〉《よ》る〈辺〉《べ》にした、暗い深海のようだった。    雲が流れている。  地上は無風。  されど遙か上空では轟々と大気がうなり、幾重にも連なる雲を泳がせていた。   「――――風が出るな」    聞こえる筈のない風が聞こえるのか。  わずかに耳朶を震わせる上空の風を仰いで、小さく、彼女は呟いた。    空を睨み、音もなく庭に佇むのはセイバーと呼ばれる少女である。  金の髪は闇夜においてなお美しく、澄んだ緑の瞳は見え隠れする月を捉えていた。   「――――――――」    一度だけ、庭の隅に視線を送る。    そこには古い土蔵があり、彼女の主が眠っている。   「――――貴方が戦わないというのなら、いい」    かちゃり、という音。  鉄の響きは誰に届くこともなく闇に溶ける。  月が隠れ、現れる。  上空の雲が流れ去る一瞬で、少女の姿は一変していた。    重く硬い銀の甲冑。  青い衣に身を包んだその姿は、もはや少女と呼べるものではない。  他を圧倒する魔力で編み上げられた鉄壁の守りと、  人を凌駕する魔力で隠し通された視えざる剣。  戦場において不敗とされたその姿は、現代においてなお、彼女の在り方を決定づける。    剣は見えずとも、彼女が卓越した剣士である事はその威風が証明していた。  故にセイバー。  七人のサーヴァント中、最高の能力を持つという剣の英雄。    礼節を〈弁〉《わきま》え、主の意思を代行する騎士の中の騎士。  他の英霊がどのような者であれ、彼女だけは決して主に逆らわない理想の剣士。   「――――――――」  だが、それも今宵で終わった。  彼女は主の命に背いてこの場にいる。  否―――真実、主に逆らう訳ではない。  彼女なりに主を勝たせようと思案し、決意した結果がこれである。   「―――彼は甘い。それでは他のマスターに殺されるだけだ」    だが今回のマスターは、その甘さを捨てきれないだろう。  ならば、非情に徹するのは己の役割。  マスターが戦わないというのなら、剣である自身が戦うだけである。   「傷は癒えていない。マスターからの魔力供給も期待できない」    だが、それでも戦闘に支障はない。  自身の性能を確認して、視線を月に移した。  もはや主の眠る土蔵に関心はない。  武装した以上、彼女にあるものは敵を屠る意思だけである。            月が〈翳〉《かげ》る。  一際大きな雲塊が夜空を覆ったのと同時に、セイバーは屋敷の塀を飛び越えていた。    ――――闇を駆ける。    寝静まった町並みを、銀色の剣士が駆け抜けていく。    向かうべき場所はただ一つ、町の郊外に〈聳〉《そび》える霊山、その中腹に位置する柳洞寺だ。  寺に潜むマスターを単独で斬り伏せる事がどれほど困難か、セイバーとて理解している。  士郎の言う通り、一人で挑んでは深手を負う事は目に見えている。最悪、返り討ちにあう事もあるだろう。    だが、その程度の無理を通せなくて何がサーヴァントか。  サーヴァントを支えるものは卓越した能力と、培ってきた絶対の誇りである。    ―――彼らには英雄の誇りがあり、幾多の戦場を戦い抜いてきた最強の自負がある。    古来、人々に伝えられ敬われてきた英霊である以上、敵が何者であれ負ける事など許されない。  否、敗北など想像する事さえ許されまい。    それは未だ幼さが残る彼女とて例外ではない。  セイバーの名を冠する彼女だからこそ、自身に対する誇りは譲れないものだ。  敵を前にして傍観するなど、その誇りが許さない。    故に、例えどのような罠があろうと怯まず、単独であろうと挑むだけ。  勝機がないというのなら己が剣で切り開こう。  手にする剣は幾多の敵をうち破ってきた名剣である。  この風王結界を持つ以上、彼女に恐れるものなど何もない。    峠道を越え、寺院へと続く参道を駆け抜ける。  山道を抜けた先に待っていたものは、物々しい石の階段だった。   「…………確かに、これは」  それは、彼女が記憶していた柳洞寺とは別物だった。  空気が淀んでいる。  風が死んでいる。  土地の命脈が、とうの昔に汚されている。    ―――ここは死地だ。  足を踏み入れれば、生きて帰る事は叶うまい。   「――――」  それでも躊躇う事などない。  セイバーの速度はわずかも落ちず長い階段を駆け上がる。    駆け抜ける景色。  石段を蹴っていく足音が反響し、山はざわざわと蠢きだす。    それは、長い階段だった。  矢のように駆け上がるセイバーでさえ山門は遠い。  これほどの長距離、敵に感知されず山門をくぐるなど不可能だ。  必ず奇襲がある。    山門には容易に辿り着けまい。    だが、どのような策略があろうと蹴散らして進むだけだ。    今の自分を止められるものなどいない。    〈仮令〉《たとえ》バーサーカーが現れようと、今の自分ならば突破してみせよう―――    それが彼女の決意であり、セイバーとしての自信だった。    そうして頂上。  あと僅かで山門に至るという時に、その障害は現れた。   「――――!」  セイバーの足が止まる。  いかなる敵であろうと突破する、と決意した彼女でさえ、その“敵”には意表を突かれた。    さらり、という音さえする程の自然体。  〈颯爽〉《さっそう》と現れた男の姿はあまりにも敵意がなく、信じがたいほど隙がなかった。   「貴様――――」    立ち止まり、視えざる剣を構えるセイバー。  月を背にした男はセイバーの殺気を、涼風のように受け流している。   「――――侍、か」    聞いた事はあるが、見た事はなかった種別の相手に戸惑ったのだろう。  今回で二度目の聖杯戦争。  多くの英霊を見てきた彼女とて、あのような出で立ちをしたサーヴァントは初めてだった。   「――――――――」    セイバーの額に汗が滲む。  恐れているのではなく、あまりに合点がいかない為に。    過去、この男のように奇怪なサーヴァントがいなかった訳ではない。  奇怪さ、得体の知れなさでは前回のアーチャーを上回る者はいないだろう。  それに比べれば、目前のサーヴァントには恐れるべき箇所も、驚異を感じるほどの武装もない。            ……故に、それが異常だった。  目前の男からは何も感じない。  サーヴァントには違いないのだが、英霊特有の宝具も魔力も持ち得ない。    ならば倒すのは容易だ。  勝負が一撃で決するは道理。  にも関わらず、彼女の直感はこう告げていた。    ―――侮るな。  このサーヴァントには、自分を必殺する手段がある、と。   「――――――――」    間合いがつめられない。  男の武器――――日本刀にしては長すぎる刀の間合いが掴めない事もあるが、それ以上にセイバーの位置はあまりに不利だ。    階段の下と上。  男との距離は約五メートル。  駆け上がり、踏み込む前に一度、あの長刀による洗礼を受けよう。    ……しかし、あの刀からは何も感じない。  受け流す事は容易の筈。  ならば臆さず踏み込むべきなのだが、不用意に近づく事は出来ないとセイバーは直感した。    わずかに剣を構え直し、目前の敵を睨むセイバー。  正体は不明だが、せめてこの侍がどのようなクラスなのかは知らねばならない。   「……訊こう。その身は如何なるサーヴァントか」    答えなど期待せずに問うセイバー。    それに、にやりと笑ったあと。               「――――アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎」    歌うように、そのサーヴァントは口にした。   「な――――」  セイバーが驚くのも当然だろう。  サーヴァントは正体を隠すもの。  それを自ら、堂々と告げるサーヴァントが何処にいる―――!   「貴様、何を――――」   「何を、とは無粋だな。立ち会いの前に名を明かすのは当然であろう? それがそなたのように見目麗しい相手ならば尚のこと。だというのに、そのような顔をされるとは心外であった」    アサシン―――佐々木小次郎と名乗ったソレは、セイバーの狼狽を楽しむように続ける。    セイバーは知るまい。  このサーヴァントこそ物干し竿と呼ばれる長刀を持ち、慶長の世に並ぶ者なしと噂され続けてきた剣士だと。    ―――否、知っていたところで何が変わろう。    出生も不明、実在したかどうかさえ不明瞭。  ただ人々の〈口端〉《くちはし》にのみ〈上〉《のぼ》り、希代の剣豪の好敵手として祭り上げられた剣士を知る者など、この世でおそらくただ一人。佐々木小次郎と呼ばれるモノを討ち果たした、史実に残らぬ宿敵のみ。    それを英雄と呼ぶ事など出来まい。  アサシンのサーヴァント―――佐々木小次郎というソレは、セイバーとはあまりにかけ離れた存在だ。  本来ならば英霊として扱われぬ剣士の実力なぞ、英霊であるサーヴァントたちの誰が知ろうか。   「―――だが」    事実としてあるものは二つだけ。  目の前の男が敵である事と、自ら名乗りを上げられた事のみ。   「……まいりました。名乗られたからには、こちらも名乗り返すのが騎士の礼です」    答えるセイバーの声は重い。  彼女にとって、真名を語るのはあまりにもリスクが大きい。  どのような責め苦を負おうと真名を語る事などできないし、明かす気もなかった。    ―――しかし、それはあくまで勝利する為のもの。  そんなもので騎士の信念を汚す事など、彼女に出来よう筈がない。   「小次郎、と言いましたね。  ――――アサシンのサーヴァントよ、私は」   「よい。名乗れば名乗り返さねばならぬ相手であったか。  いや、無粋な真似をしたのは私であった」    かつん、と。  あくまで優雅に石段を下り、アサシンはセイバーと対峙する。   「そのような事で敵を知ろうとは思わぬ。我らにとって、敵を知るにはこの刀だけで十分であろう。  違うか、セイバーのサーヴァントよ」 「な――――――」   「そう驚く事もあるまい? 貴様の持つソレがなんであるかは判らぬが、身に纏った殺気は剣士の物。  ……ふん、目が眩むほどの美しい剣気―――その貴様がセイバー以外の何者であろうか」    さらに一歩。  アサシンは石段を下り、長刀の切っ先をセイバーへと突きつける。   「真名など知らずともよい。ただセイバーというサーヴァントが、この刃に破れるだけの話だ。  言葉で語るべき事など皆無。―――もとより、サーヴァントとはそういうモノであろう?」    剣士は楽しげに笑う。   「―――なるほど。それは、確かにその通りです」    答えて、セイバーは深く剣を構え直す。   「それで良い。  ―――では果たし合おうぞセイバー。  サーヴァント随一と言われるその剣技、しかと見せてもらわねばな――――」            銀光が跳ねる。  剛と柔。  あまりに異なる剣士の戦いは、月光の下で口火を切った。 「っ、………………!」  胸が焼けるような痛みで目を覚ました。  ……何か、不吉な夢を見た気がする。 「……なんだ……胸が、痛い――――」  心臓が加熱された感じ。  いや、どちらかというと、外側から強引に熱を送り込まれているのに近い。 「――――外側、から……?」  かすかな疑問。  そのひっかかりが何なのか考えるより先に、体は外へ走り出していた。 「セイバー、いるか……!?」  襖を開けて、セイバーの部屋に駆け込む。 「――――いない。アイツ、まさか」  いや、まさかも何もあるもんか。  ここにいないって事は、アイツ―――一人で柳洞寺に行ったのか……! 「バカ野郎、なんで……! 体だって治りきってないのに、どうしてわざわざ――――!」  あまりの怒りに頭痛がする。  戦うのがイヤだなんて言っていない。  俺はただ、    あんな風に、あいつを傷つけたくなかっただけだっていうのに……! 「くっ――――!」  腐っていても始まらない。  今からでも柳洞寺に急がないと。  セイバーを一人で戦わせるなんて出来ない。  いや、俺が行ったところで役に立てるか分からないが、それでも何か出来る筈なんだから……! 「ああもう、アイツめ―――女の子なんだからもうちょっと大人しくしてろってんだ……!」  走る。  着替えもせずに外に飛び出して、玄関近くにあった自転車を担ぎ出して、全速力でこぎ出した。  ノーブレーキで坂道を駆け下りる。    ――――柳洞寺まで、急いでも四十分。  セイバーがいつ出ていったかは判らないが、とにかく一分でも早くセイバーに追いつかないと――――! 「なんだアレ――――!?」  柳洞寺に着いた俺を迎えたのは、台風じみた風の音だった。 「セイバー―――だよな、あそこにいるの」  階段の上、山門の前にはセイバーらしき鎧姿と、着物姿の何者かが対峙していた。  風はセイバーを中心に渦巻いており、木々はセイバーに押されるようにぎしぎしと軋んでいる。 「ちょっ……くそ、近づけるのかよこれ……!」  あまりの突風に目を開けていられない。  俯いたままなんとか階段まで近寄ったものの、風は更に強くなっていく。 「だめだ、これじゃ――――」    セイバーに近づけない。  遙か上空、セイバーと何者かが戦っているのが見えてるっていうのに、何もできない。  いや、そもそもこんな風の中でセイバーの近くまで行っても、足手まといになるだけ――― 「っ…………!」  また左手が痛んだ。  手の甲に刻まれた令呪が疼いている。  ……それがなんなのかは判らない。    ただ、この手が疼く度に、    あの光景を思い返しちまうんだから、しょうがないじゃないか――――! 「……くそ、こうなったらヤケだ……!」  目を瞑って階段に手を伸ばす。  風に飛ばされないよう身を伏せて、石段に足をかけた。 「っ…………!」  風は強くなる一方だ。  上では何が起きているのか、魔術師として未熟な自分が感じ取れるほど、とんでもなく強大な魔力が溢れ出そうとしている。  令呪が疼く。  風の唸り、頭上で起きようとしている“何か”に警戒を発するように。 「……待て。もしかして、これ……」  セイバーの魔力なのか。  だが、だとしたら―――― 「あいつ、あんな体で何を無茶な――――!」  いや、それ以前にそんな事をしていいのか。  セイバーは魔力の回復ができない。  なら、おいそれと魔力を使ってはいけない筈だ。  戦いは俺が受け持ち、セイバーは手を貸してくれるぐらいに留めないと、いつか魔力が切れて―――― 「――――っ」  立ち上がって、階段を駆け上がる。  這って進んでる場合じゃない。  セイバーが何をするつもりかは知らないが、とにかく止めないと――――! 「――――!?」  それを避けられたのは偶然か。  山門へと駆け上ろうとした俺の目の前を、何か、短剣のような物が通り過ぎていった。 「――――誰だ!?」  階段の外、木々が茂る山中へ視線を向ける。  ……間違いない。  この強風で気が付かなかったが、誰かもう一人、この近くに潜んでいる……! 「ふざけやがって―――こそこそと隠れてないで出てこい……!」  声をあげる。  強風にかき消されて聞こえない筈のそれは、    言った俺自身が驚くぐらい、大きく階段に響いていた。 「――――風が……止んだ?」  山門を見上げる。  そこには―――  長刀を持った着物姿の男と、セイバーの後ろ姿があった。 「そこまでにしておけセイバー。その秘剣、盗み見ようとする輩がいる」  薄笑みをうかべながら着物の男は言った。  その視線は俺と同じ、木々の茂った山中に向けられている。 「このまま続ければ我らだけの勝負にはなるまい。  生き残った者に、そこに潜んだ恥知らずが襲いかかるか、それともおまえの秘剣を盗み見るだけが目的なのか。  ……どちらにせよ、あまり気乗りのする話ではないな」  男はつまらなげに言って階段を上り始める。 「――――待て……! 決着をつけないつもりか、アサシン……!」 「おまえがこの山門を越える、というのであらば決着はつけよう。何者であれ、この門をくぐる事は私が許さん。  だが―――生憎と私の役目はそれだけでな。  帰る、というのであらば止める気はない。まあ、そこに隠れている戯けは別だが。気に入らぬ相手であれば死んでも通さんし、生きても帰さん」  アサシン、と呼ばれた男はかつかつと石段を上がっていく。 「踊らされたなセイバー。だがもう一人の気配に気が付かなかった私も同じだ。あのままでおけば秘剣の全てを味わえたであろうが……よい所で邪魔が入った。そなたにとっては僥倖であったか」 「っ――――――――」  セイバーは無念そうに俯いている。  ……薄れていく殺気。  アサシンの言葉ではないが、セイバー自身、ここで戦う事の不利を感じているのだろう。 「そら、迎えも来ている。そこにいる小僧はおまえのマスターであろう。盗み見をする戯けがその小僧に標的を変える前に立ち去るがいい」  そうしてアサシンの姿は消えた。  進まなければ手は出さないという意思表示か。 「――――――――」  セイバーは何も言わない。  ただこちらに背中を見せて、ぼう、と立ち尽くしているだけだ。 「……おい、セイバー……?」  声をかけても返答はない。 「……?」  流石におかしい、と階段を上がった時。 「な……」  唐突に、セイバーを守っていた鎧が消えた。  無防備な、青い衣だけになった彼女はこちらに振り返る事なく、ゆらり、と体を揺らす。 「――――!」    背中から階段に倒れ込むセイバーを抱き止める。  セイバーはぴくりとも動かず、苦しげに目蓋を閉じて、意識を失っていた。 「……はあ……はあ……はあ……はあ……」    ………………やっと帰ってきた。  柳洞寺からセイバーを抱えてここまで二時間。  色々と不安はあったが、ともかく無事に帰って来れた。 「……はあ……はあ……あ」  よいしょ、とセイバーを廊下に降ろす。  セイバーは本当に軽かった。四十キロぐらいしかなかったから、本来ならここまで疲れる事はなかったのだ。  が、それは動かない荷物の場合である。  眠っている人間―――それも女の子―――を抱いて歩く、というのがこんなに重労働だとは知らなかった。  とくに肉体面ではなく、精神面での疲労が大きい。  抱きかかえた時の肌の柔らかさとか、とんでもない近さですぅすぅと寝息を立てられる事とか、気が散って仕方がなかった。 「……まったく……なんだって気を失うんだよ、いきなり」  眠っているセイバーを見つめる。  ……完全に気絶している訳ではないのだろう。  死んだように眠っていても、名前を呼べば今すぐにパチリと目を開けそうだし。 「……………………」  …………くそ。  家を飛び出した時は言いたい事が山ほどあったのに、こんな寝顔をされたら何も言えなくなっちまうじゃないか。 「……いいさ。目を覚ましたらとっちめてやるからな、セイバー」  ぼそりと呟く。  で、もう一度セイバーを抱えようと腕を伸ばした瞬間。 「……ま、いいけど。士郎がどんな趣味してて、何をしてるかなんてわたしには関係ないから」  なぜか。  午前二時を過ぎているというのに、廊下には遠坂の姿があった。 「と、とととととと遠坂…………!?」 「なによ、お化けでも見たような顔しちゃって。別に文句はないから続けていいわよ。わたしは水飲みに起きただけだし」 「え―――あ、いや違う! これは違う、すごく違う!  その、話せば長くなるんだが、つまりセイバーを部屋に連れて行こうとしただけなんだが俺の言っているコト判ってくれるか……!?」 「ええ。まあ、それなりに」 「う、嘘つけ! ぜんぜん判ってない口振りだぞ、今の!」 「だから判ってるってば。セイバーが一人で戦いに行って、士郎はそれを止めてきたんでしょ?  で、何らかのトラブルがあってセイバーが気絶して戻ってきた。どう、これでいい?」 「あ……う、うん。すごい、全問正解だ。けどなんだってそこまで判るんだよ、おまえ」 「判るわよ。セイバーが単独で戦いを仕掛ける可能性は高かったし、サーヴァントが戦いを始めればマスターにだって伝わるわ。だからこういう展開も十分予測範囲なわけ」 「――――そうか。それは、いいけど」    ……その、遠坂にはセイバーが戦いに行くコトはお見通しだったってコトか。 「で、どうするの? セイバーを部屋に連れて行くんじゃないの? ここに寝かしてたら幾らサーヴァントでも風邪ひくと思うけど」 「いや、だから部屋に連れて行こうと思って今――――」  抱きあげようとしていたんだけど。  ……その。  そうじろじろ見られていると、やりづらい。 「……遠坂。悪いけど、セイバーを運んでくれないか」 「わたしが? まあいいけど。じゃあお茶でも淹れてくれる? 少し二人の話に興味があるから」  よいしょ、と遠坂はセイバーを抱きあげる。  ……なんだかやけに物わかりがいいのが気になるが、頼んでしまった以上、こっちもお茶を淹れなくてはなるまい。  遠坂はセイバーを連れて俺の部屋へ向かった。  こっちはというと、台所でお茶の準備をしていたりする。 「―――お茶って日本茶じゃないよな。……紅茶っていってもティーバッグの紅茶しかないぞ、うち」  ま、ないものは仕方がなかろう。  文句を言いたければ幾らでも言うがいい、と開き直ってティーバッグの紅茶を淹れる。 「士郎、ちょっといい?」  おっ、遠坂が戻ってきた。 「ああ、ちょっと待ってくれ。すぐに行く」  二人分のティーカップを盆に乗せて、居間へ移動する。    ――――と。  遠坂の隣には、洋服に着替えたセイバーの姿があった。 「セ、セイバー……!? どうして、眠ってたんじゃなかったのか……!?」 「眠ってたわよ? けどそういつまでも続く眠りじゃないし、ついさっき目が覚めたの。  どうも一気に膨大な魔力を使おうとして、体の方から一方的に機能を停止させられたみたいね。ほら、電気のブレーカーと同じよ。そのままじゃショートするから強制的に電源を切るってヤツ」 「…………………………」  遠坂の説明を余所に、セイバーは黙っている。 「お、おまえ――――」  そのいつも通りの姿を見て、途端、山ほどあった文句が蘇ってきた。 「セイバー、おまえな……! 自分が何をしたのか判ってるのか!?」 「―――判らない訳はないでしょう。  私は柳洞寺に赴き、アサシンのサーヴァントと戦いました。そのおり、私たちの戦いを監視していた第三のサーヴァントに気が付き、戦いを中断しましたが」 「っ……! 違う、そんなコトを言ってるんじゃない!  俺が言いたいのは、どうして戦ったのかってコトだ!」 「またそれですか。サーヴァントが戦うのは当然の事です。シロウこそ―――マスターである貴方が、何故私に戦うなと言うのです」 「いや、それ、は――――」  ……そりゃあマスターとして戦うと決めた以上、戦闘は避けられない。  セイバーに戦うな、という俺が矛盾しているのは判っている。  だが、そうだとしても、    あんな光景だけは、繰り返す事はできない。 「私の方こそ訊きたい。シロウは戦いを嫌っているようですが、そんな事で聖杯戦争に生き残る気があるのかと。  貴方の方針に従っていては、他のマスターに倒されるだけではないのですか」  ―――まさか。  降りかかる火の粉なら躊躇わずに振り払うし、みすみす殺されてやるつもりもない。  ただ、それとは別の話で、セイバーには戦ってほしくない。 「違う。  戦うのを嫌ってるんじゃない、俺は、その――――」    それはきっと、もっと単純な話。  ようするに、俺は。 「―――その、女の子が傷つくのはダメだ。そんなの男として見過ごせない。だから、おまえに戦わせるぐらいなら、俺が自分で戦う」 「な―――私が女だから戦わせない、だと……!?」 「正気ですか貴方は!? サーヴァントはマスターを守る者です。私たちが傷つくのは当然であり、私たちはその為に呼び出されたモノにすぎない……!  サーヴァントに性別なぞ関係ないし、そもそも武人である私を女扱いするつもりですか!  今の言葉は訂正してください、シロウ……!」  目尻をあげて俺に詰め寄ってくるセイバー。  が、そんな剣幕に押される事なんかない。    なにが―――この身は女である前に騎士だ、だ。    あんなか細い、俺でも抱きかかえられる体のクセに無茶なコト言いやがって……! 「誰が訂正なんてするか! そりゃあセイバーは強いかもしれないけど、それでも女の子だろ! つまんないコトにこだわるなバカ!」 「っ……! つまらない事に拘っているのは貴方ではないですか……! まさか、女性に守護されるのがイヤだとでも言うつもりですか!? この身は既に英霊、そのような些末事など忘れなさい!」 「些末なもんかっ! ああもう、とにかくセイバーが良くても俺は嫌だ! だいたい、自分の代わりに戦ってもらうなんて間違いだったんだ。俺はそんな――――」        無力な自分を守って。  その代わりに“誰か”が傷つくのは許せない。  救うのは自分の役割だ。  親父のように誰かの為になれる人間になろうって、今までやってきたんだから――― 「……くそ。いいな、とにかくセイバーは戦うな。  戦いは俺がする。それなら文句はないだろ、セイバーの望み通り戦うって言ってるんだから」 「な――無茶を言う人ですね貴方は……! 人間がサーヴァントと戦えると思っているのですか!? シロウでは戦いにすらならないと実感しているでしょう!  ランサーに襲われた時を思い出してください。  あの時、私が現れなければ間違いなくシロウは殺されていた。それはどのようなサーヴァントが相手でも同じです!」 「そ、そんなのやってみなくちゃ判らない! あの時は何の準備もなかっただけだ。けど今なら対策なんていくらでも立てられるんだから、やりようによっては寝首をかく事ぐらいできる!」 「笑止な。シロウの立てた守りなど紙も同然です」 「うわ、いま凄いコト言ったなセイバー!」 「貴方こそサーヴァントを侮っている。人の身で英霊を打倒しようなどと、何を思い上がっているのですか」 「っ~~~~~~!」  むー、と睨み合う俺とセイバー。  話は平行線で、一向に交わる気配さえない。 「違うわセイバー。士郎はサーヴァントを侮ってる訳じゃない。そのあたりを誤解しちゃうと話が進まないから、口を挟ませてもらうけど」 「凛……? それはどういう事ですか……?」 「うん。ようするにね、そいつ、純粋に貴女が傷を負うのを嫌がってるのよ。どうしてか知らないけど、士郎は献身と善意の塊だもの。  ね? 自分のコトよりセイバーの方が大切なんでしょ、アンタは」 「っ――――そ、そんなコトないぞ……! 俺は別にセイバーが大切なんて言ってないっ」 「うそうそ。そうでもなければ自分で戦う、なんて言えないわ。  だって貴方、自分じゃサーヴァントに勝てないって判ってるんでしょ。それでも戦うって言うのは、自分よりセイバーのが大事ってコトじゃない」 「え――――――――?」  あ……う?  いや、確かに、そう言われてみれば、そういう事になるんだけど―――― 「だから無茶でも戦う。勝てないって判っていながら勝とうとする。その結果が自分の死でも構わない。  何故ならアンタの中では、どうしてか知らないけど、自分より他人の方が大切だからよ」 「――――」    ――――いや。  決して、そんなつもりはない、けど。 「そういうことよ。判るでしょセイバー。あのバーサーカー相手に貴方を庇うような罵迦なのよ、そいつ。だから本気で、自分が戦うって言ってるの」  遠坂の言葉がどれだけ通じたのか。  セイバーは深く息を吸って、つい、とこっちへ向き直った。 「―――シロウ」 「な、なんだよセイバー」 「貴方が戦う事は認めます。ですが、それならば私にも考えがある」 「――――だ、だから何さ」 「剣の鍛錬です。シロウの時間が許す限り、私は貴方に剣を教える。それを認めるのなら、私もシロウの意見を認めますが」 「な――――」  それはつまり、セイバーが俺に剣の稽古をつけるって事か……?  今後は俺が戦うっていう事を認めたから……? 「待った。それは心の贅肉よセイバー。  士郎に剣を教える? やめてよ、そんな気休めでサーヴァントに太刀打ちできる訳ないじゃない」 「それは当然です。ですが知らないよりはましでしょう。  少なくとも戦闘時の迷いは薄れます。  あとはシロウ本人の決意に賭けるだけですが、実戦とは得てしてそういう物ではないですか。向かない者には、何を教えても身に付く事などありません」 「……ふーん……ま、言われてみればそっか。  殴り合う覚悟ってのは、一度殴り合ってみないと一生つかないものね」 「はい。ですから一度、いえ一度と言わず時間の許す限り、シロウには“戦闘の結果としての死”を体験させ、戦いに慣れてもらわなければ」    などと、なにやら物騒な物言いをするお二人さん。 「ちょっと待て。俺はいいなんて一言も――――」 「じゃあわたしは魔術講座にしとく。  セイバーが体を鍛えるんなら、わたしは知識を育てるわね。……ま、初めからそういう約束だったし、明日から本格的に鍛え直してやりますか」 「お願いします。凛がそうしてくれるなら、私も剣のみに集中できる」 「いいっていいって。じゃ、話も決まった事だし解散しましょ。明日は色々と忙しそうだから」  ばいばい、と手を振って別棟へ消えていく遠坂。 「私も休みます。シロウも休憩をとってください。明日は道場で汗を流してもらいますから」  では、と軽くお辞儀をして部屋に戻っていくセイバー。 「――――――――」  居間には一度も口をつけられなかった紅茶と、ぼんやりと立ち尽くす男が一人。   「―――いや、だから俺は一言もさ」    呟いた言葉は当然却下。    ―――さて。  ただでさえ混線していた状況が、さらにおかしな雲行きになってきた。  明日からの生活がどうなるか考えるも、そんなの考えつく筈もなし。 「……寝よう。とにかく、体力だけは温存しなくちゃ」    何事も体が資本。  ……その、なんだ。  俺に出来る事といったら、どんな責め苦だろうと体さえしっかりしていれば乗り切れるといいな、なんて、儚い望みに〈縋〉《すが》るしかないワケだった。    一夜明けた後。    いつも通りの朝を過ごして居間に行くと、食卓はかつてないほど複雑な状況だった。 「あ、ごめん桜。わたしバターだめなの。そこのマーマレイドちょうだい」 「そうなんですか? 遠坂先輩、甘いものは好きじゃないような口振りでしたけど」 「まさか、そんな女の子はいないわよ。糖分は嫌いじゃなくて取れないだけだってば。油断すると見えないところが増えるの。甘味どころは週に一回にしなくちゃね」 「? なのにマーマレイドなんですか、先輩?」 「朝は糖分とるの。それにね、少しぐらいは甘いものを口にしておかないと後のカウンターが怖いでしょ」 「そっか。食事を二食に減らしても、食べる量が倍になったらタイヘンですからね」 「そういうコト。……って、黙ってればよく食べるわねセイバー。ちっこい体のくせに桜なみの量じゃない」 「そうでしょうか。私は平均だと思いますし、桜が口にしたパンは私を大きく上回っていると思いますが」 「そ、そんなコトないです……! 遠坂先輩もセイバーさんもわたしも、みんな仲良くトースト二枚じゃないですかっ」 「いえ、厚さが違う。一センチに対して二センチですから、桜はよく食べています。成長期ですし、栄養を摂るのはいい。凛も一枚だけと言わず、残さず食べてはどうですか」 「だから駄目だって言ってるじゃない。桜と違って胸に栄養がいくワケじゃなし、朝からそんなに食べたら増えるっていうの。ただでさえ朝は食べない主義なんだから、これでも譲歩してるのよ」 「……遠坂先輩、その、先輩の前でそういうコトは」 「……ふむ。増える増えると言っていますが、なぜ具体的な表現を避けるのですか、凛」 「だから目に見えないところの話。あ、桜は目に見えるから除外だけど」 「だ、だからそういう話はしないでくださーい!」 「――――――――」  カリ、とよく焼けたトーストをかじる。  目の前の展開に脳がついていっていないのか、会話に参加せずトーストを食べていた。  ……いやまあ、口を挟む余地なんてないだけであるが。 「……どうも、杞憂だったのかな」  とりあえず、三人の仲は悪いようには見えない。  遠坂は相変わらずだし、セイバーも昨夜よりうち解けている。  桜は……まだセイバーに対しては抵抗があるようだけど、それでも嫌っている様子はない。 「……藤ねえが来なかったのが気になるけど、まあ夜になったら来るだろ……」  さすがに昨夜のショックが大きかったんだろう。  夕飯は食べに来るだろうし、その頃には機嫌も直っていると思うのだが。  朝食が済んで、後片づけに入る。 「先輩、本当にいいんですか? 後片づけ、任せてしまって」 「ああ、それぐらいはやっとく。それより桜は部活だろ。  昨日の今日だし、顔を出しておいた方がいい」 「……はい。それじゃお先に失礼しますね、先輩」  桜は遠坂にもお辞儀をしてから、早足で居間を後にした。  これで残るは三人。  桜がいなくなれば、秘密を共有する面子になる訳か。 「それでは私も失礼します。何かありましたら声をかけてください」 「じゃあねセイバー。士郎は任されたから、こっちの留守をよろしく」 「はい。シロウを頼みます、凛」  遠坂に軽く頭を下げて、セイバーは部屋へ戻ってしまった。  ……まあ、ここに居てもやる事がないし。  それなら少しでも眠っておいて、体力を温存したいのだろうが……。 「……まったく。本当に戦う事しか考えてないのか、アイツは」 「当たり前じゃない。士郎もね、そろそろやる気見せないとセイバーに愛想を尽かされるわよ。  まだ傷が完治してないとはいえ、いつまでも大人しくしているような子じゃないでしょ」  ぱちん、という音。  物騒な事を言いながら、遠坂はテレビの電源を入れる。 「――――ふん? またこのニュースやってるんだ」  テレビからは朝の報道が流れてくる。  台所で食器を洗いながら音だけを聞き取る。  ……と。  その内容は、少し前に聞いたニュースと同じだった。 「新都の方でガス漏れによる事故だって。  ……バカな話。そんなのあっちだけじゃなくて、こっちの町にだって起きてるのに」 「――――?」  今。  何か、とんでもなく不穏な事を口にしなかったか、遠坂は。 「遠坂。それ、どういう意味だ」 「だから原因不明の衰弱でしょ? 何の前触れもなく意識を失った人間が、そのまま昏睡状態になって病院に運ばれてるって話。  もうけっこうな数になってるんじゃないかな。今のところ命に別状はないらしいけど、この先どうなるかは仕掛けたヤツの気分次第でしょうね」 「な――――」  待て。待て待て待て待て待て待て。  隣町だけじゃなくて、こっちにまでそんな事件が起きてたっていうのか?  原因不明の昏睡?  けっこうな数の犠牲者?  いや、問題はそれよりも―――― 「遠坂、まさかそれも他のマスターの仕業だっていうのか」 「じゃあ他の誰の仕業だっていうのよ。いい加減慣れてよね、貴方だってマスターなんだから」 「それは―――そうだけど。……なんで今まで教えてくれなかったんだよ、遠坂は」 「こっちの件はそれほど簡単じゃないから。  学校で結界を張ってるマスターは三流だけど、こっちのマスターは一流よ。相手を死に至らしめる事はせず、命の半分だけを吸収して力を蓄えている」 「……そりゃあ集めるスピードは遅いけど、その代わりに魔術師としてのルールにはひっかからないし、無理をする必要がない。このマスターは遠く離れた場所で、町の人たちから“生命力”っていう、最も単純な魔力を掠め取っているわけ」 「遠く離れた場所からって……そんな所から町中の魔力を集められるっていうのか、そいつは」 「よっぽど腕の立つ魔術師なんでしょうね。  新都と深山、二つの町をフォローする広範囲の“吸引”なんて、大がつく魔術師の業だもの」 「……いや、それともよっぽど優れた霊地を確保したのかな。冬木の町には龍脈らしきものがあるって父さんも言ってたし、そこに陣を布けば生命力の搾取ぐらいは簡単か……」 「? ちょっと、遠坂」 「父さんの書庫にそれらしい資料はなかったし、あるなら大師父の書庫か……いやだなあ、あそこ今でも人外魔境だし、出来れば遠慮したいのに。  ……となると綺礼に訊くしかないか……いや、だめだめ、あいつに借りを作るなんてもっての他だわ」 「遠坂、おい――――」  呼びかけても返事はない。  ……だめだ。遠坂のヤツ、ぶつぶつと独り言に没頭してしまった。  気乗りがしないまま、遠坂と二人で学校に着く。  正門には登校する生徒たちの姿があり、学校はいつも通りの日常を迎えている。 「――――」  にも関わらず、確かに違和感があった。  昨日は気づかずに校門をくぐったが、注意していれば確実に気が付く違和感。  ……なんというか、穏やかすぎて本能さえ麻痺する感覚。 「……本当だ。外と中じゃ空気が違う。甘い蜜みたいな空気じゃないか」 「へえ、士郎にはそう感じられるんだ。……貴方、魔力感知は下手だけど、世界の異状には敏感なのかもしれないわね」  ふうん、と遠坂は何やら考え込む。 「にしても甘い蜜、か。例えるならウツボカズラとか。  うん、なかなか言い得て妙じゃない」 「……ウツボカズラって、おまえ。そのイメージ、とんでもなく凶悪だぞ」 「そう? 士郎の直感は外れてないと思うけど? だってこの学校、結界っていうフタがしまったら中の生き物はみんな食べられるんだし」 「っ――――」  黙っていた本音を見抜かれて、つい息を呑む。 「やっぱりね。判りやすいから楽しいわ、貴方って」 「ああそうですか。俺はちっとも楽しくない」 「怒らない怒らない。士郎の言いたい事だって分かってるから安心なさい。貴方は学校の生徒を巻き込みたくないと思ってるし、わたしだってここを戦場にするのは願い下げ。なら、やるコトは一つよね?」 「…………………」  それは、俺を試す言葉だった。  遠坂は言っている。  聖杯戦争―――衛宮士郎が戦うと言った“相手”、勝つ為に無関係な人間を巻き込むマスターが、他でもない俺たちの学校にいるのだと。 「……分かってる。この結界を張ったマスターを捜し出して、なんとかしなくちゃいけない。そうして、そいつが結界を解かないっていうんなら、倒すだけだ」 「そういうこと。ちゃんと理解していてくれて安心したわ」 「じゃ、わたしは結界を張ったヤツを捜してみるから、士郎は不審な場所をチェックしといて。  わたしも一通り回ったけど、見落としがあったかもしれない。士郎はそういう特異点を捜すのに向いてそうだし、餅は餅屋ってね」  ばいばーい、と手を振って校舎へ走っていく遠坂。 「ちょっ―――そんなコト言われても困る……! 不審な場所ってどういう所だよ、遠坂っ!」 「だーかーら、貴方風に言えば空気が甘いところよー!  蜜がべったべたに甘いところを捜せばいいのー!」  遠ざかりながら大声で返してくる。  そのまま、遠坂はあっという間に校舎へと消えていった。 「……なんだあいつ。いきなり走り出すなんて、やっぱりなに考えてるか分からな――――」 「あ」  きんこんかんこーん、とホームルーム開始の予鈴が鳴り響く。 「そ、そういう事か―――って、気づいてるならなんで教えないんだあいつは……!」    鞄を抱えて全速力で走り出す。  昨日の今日だ、遅刻なんてしたら藤ねえにどんな嫌味を言われるか。  坂道を下って交差点まで戻ってきた。  ここから反対側の住宅地へ上がっていけば、家に帰る事になるのだが――― 「……柳洞寺にマスターがいる、か」  ここから山に向かって歩くこと一時間。  人家の少ない山あいの道路を行けば、柳洞寺に続く山門に辿り着ける。  柳洞寺は山にある大きな寺で、その敷地は学校ほどもある。  墓地も広大だが、なにより五十人からなる修行僧が生活している小世界だ。  町の人々は柳洞寺の世話になりつつも、おいそれとは足を踏み入れられない聖域として敬っている。 「……そういえばここ最近、柳洞寺には行ってないな」    去年の夏、精神修行という事で合宿させてもらって以来か。  寺の生活が本当に厳しいのは冬だろうから、冬休みにはまたお邪魔しようと思っていたのだが――― 「む? 午後の授業をボイコットした男が、こんなところで何をしている」  噂をすれば影というか。  柳洞寺の跡取り息子、柳洞一成とばったり出くわしてしまった。 「よ。学校、もう終わったのか?」 「終わったとも。生徒会でやる事もないので帰ってきたのだが、何かあったのか。見たところ、お山を眺めていたようだが」 「ああ、別に何かあった訳じゃない。なんとなく家に帰りたくなっただけだ」 「ふん。なんとなくで授業を休まれては、教師は商売あがったりだ。―――で。何故お山なんぞを拝んでおったのかと訊いているのだが」 「…………ちょっとな。一成、一つ訊くけど。最近さ、何か変わった事、ないか?」 「ふむ。変動など茶飯事だが、さりとて劇的な境地に至る事もなし。お山は日々これ平穏、しかるに平穏こそ日常よ」 「わるい一成。真面目な話をしているんだ」 「し、失礼な! こっちだって真面目だぞ!」 「みたいだな。ならいいんだ、取り越し苦労だった」 「うむ、解ればよい。俺が衛宮相手にふざけるものか」  コホン、と咳払いして落ち着く一成。 「……だが、うむ。変化があるといえばあるのだが、どうしたものかな」 「え……? 変化って、寺にか……!?」 「ああ。お山ではなく〈寺〉《うち》の空気がうわついている。親父殿の知り合いらしいのだが、少しばかり厄介な客人を迎えていてな。これが結構な美人であるから始末が悪い。  まったく、〈皆〉《みな》も女一人に何を騒いでいるのやら」 「女って―――柳洞寺って、尼さんいたっけ?」 「おらぬ。訳ありでな、祝言まで部屋を貸し与えているのだが――――いや、これが確かに美しい人でな、井戸から水を汲む姿など、俺でも目を奪われるほどだ」 「訳ありってどういう訳だよ……って、一成? おーい、俺の話聞こえてるかー?」 「むっ、いかん。だから女生はいけないんだ、女生は。  色欲断つべし、落ち着け一成」  ぶつぶつとお経を唱える生徒会長。 「もしもーし、大丈夫か一成」 「問題ない。修行不足なので、より精進したいと思う」  やっぱりこっちの話など聞こえていなかったのか、  喝、などと言い残して、町の奥地へと消えていく一成だった。  屋敷に戻ってくる頃には、日は沈みかけていた。  昨日と同じく、今日も一番乗りで帰宅した訳だ。  そのうち桜と藤ねえもやってくるだろうし、遠坂も帰ってくるだろう。 「……慎二から聞いた話は、桜と藤ねえが帰ってからだな……」  二人がいる時に内緒話をしても仕方がないし。  さ、そうと決まれば夕食の支度をしなければ。  昨日は遠坂のヤツにやられたし、藤ねえのご機嫌もとらなくてはいけない。  料理は愛情の前にまず手間暇である。  必勝を期すのなら、いつもの二倍は時間をかけなくてはなるまい。          ――――で。      結局、何がどうなったかと言うと。 「ふーんだ! なによ、負けてないんだから! 遠坂さんのばか、いじめっこー!」 「ですから、わたしが言っているのは料理の味じゃありません。その、藤村先生曰く今までで一番おいしい夕食なんですから、みんなに分け与えた方がいいんじゃないかって話です」 「……むー……言ってるコトが違うと思う。  遠坂さん、士郎の作ったご飯はあんまり食べたくないって言ったじゃない」 「それは朝だけの話です。夕飯はきちんと摂りますし、そもそも夕食はわたしと衛宮くんとの交代制なんですから、わたしが食べるのは当然の権利じゃないですか。  それが嫌だというのでしたら、明日からは藤村先生が代わってください」 「う―――的確に急所をついてくるその性格。くそう、こんなひどい教え子だとは思わなかったよう」  抱きかかえていたおひつを渋々と食卓に戻す藤ねえ。  こうして、五人分の特製炊き込みご飯が無事食卓に返還された。 「……あのなあ藤ねえ。今日は山ほど飯作ったんだから、別にがっつく必要なんかないぞ。ちゃんと飯もおかずも人数分作ったんだし」  もしゃもしゃ。 「そ、そうですね……でも先輩、これはちょっと作りすぎかなー、とか」  かちゃかちゃ。 「ええ。四人分の樽を二段重ね、というのはあきらかに重量過多です」  もぐもぐ。 「樽じゃない、おひつ。いいんだよ、今日のメインはごはんなんだから多めに作っても。余ったらおにぎりにするから、明日の昼飯にもなるし」  もしゃもしゃ。 「あ、それわたしの分もいい? わたし炒飯は好きじゃないんだけど、これは別格。ねえねえ、なんか色々入ってるけど何入れたわけ?」  ぱくぱく。 「基本的にはきのこの炊き込みご飯ですよね。油物を混ぜるかわりに柚子で香りをとってるあたり、細かいです」  かしゃかしゃ。 「…………いいもん! こうなったらわたし一人でカラにするんだから、みてなさいよー!」  おひつを奪うのは諦めたのか、もの凄い勢いでごはんをかっこむ藤ねえ。  すぐさま茶碗をカラにすると、そのまま間髪入れずにおかわりを要求してくる。 「……いいけど。そんなに急がなくてもなくならないぞ、藤ねえ」 「いいのっ! 士郎のごはんはわたしが食べるんだから、昨日今日やってきた人にはあげないもん!」  がばちょ、とお茶碗をひったくる藤ねえ。 「――――?」  いやもう、訳が分からない。  桜は気まずそうに笑ってるし、遠坂は呆れて藤ねえを無視しているし、セイバーは我関せずで飯食ってるし。  ……せっかく気合いを入れて作ったのに、逆効果だったのか。  遠坂にまいった、と言わせる筈の夕食は、藤ねえの奇行によって騒々しく終わってしまった。 「それじゃ先輩、失礼しますね」 「おう。藤ねえ、桜をよろしくな。ちゃんと家まで送ってやってくれよ」 「はいはい。わかってるから安心なさい」  軽い足取りで桜の手を握る藤ねえ。 「なに? 士郎、なんか不思議そうな顔してるけど」 「そりゃ不思議だ。普通、人間はあれだけ食うと身動きがとれなくなる」 「そうかな? 苦しかったけど、飲み込んじゃえばなんとかなるものよ?」  だから、問題はそれに際限がないというコトだと気付けタイガー。  さすがは野生の虎、出来れば人間社会に間違って乱入してこないでほしい。 「じゃあまた明日な。夜更かしするなよ、二人とも」 「はい。おやすみなさい、先輩」 「うん、おやすみ士郎」    切っ先が交差する。  幾度にも振るわれる剣線、  幾重もの太刀筋。  弾け、火花を散らしあう剣と刀。    ―――数十合を越える立ち会いは、しかし、一向に両者の立場を変動させない。    上段に位置したアサシンは一歩も引く事なく、  石段を駆け上がろうとするセイバーは一歩も詰め寄る事が出来ず、〈徒〉《いたずら》に時間と気力を削っていた。   「は――――!」  数十回目となるセイバーの踏み込み。  五尺余もの長刀を苦もなく振るい、セイバーの進撃を防ぎきるアサシン。    いや、それは防ぎきる、などという生易しいものではない。  セイバーの剣戟が稲妻ならば、アサシンの長刀は疾風だった。  速さ、重さではセイバーに及ばないものの、しなやかな軌跡はセイバーの一撃を〈悉〉《ことごと》く受け流す。    そうして返される刃は速度を増し、突風となってセイバーの首に〈翻〉《ひるがえ》る。    ―――その一撃を紙一重で〈躱〉《かわ》して踏み込むセイバーへ、〈躱〉《かわ》した筈の長刀が間髪入れずに返ってくるのだ。    直線的なセイバーの剣筋に対し、アサシンの剣筋は曲線を描く。  アサシンの切っ先は優雅ではあるが、弧を描く為に最短距離ではない。  ならば直線であるセイバーの剣筋に間に合う筈がないというのに、その差を〈無〉《ゼロ》にするだけの何かがアサシンにはあった。   「くっ――――!」  踏み込む足が止まる。  切り返す長刀に剣が間に合わない。  避ける為には引くしかない、と咄嗟に後退する。    見惚れるほど美しいアサシンの剣筋は、同時に、見届ける事が困難なほどの速度だった。    その矛盾はアサシンの技量によるものなのか、頭上の敵に挑む己の不利な状況ゆえなのか。  確たる分析もつかないまま、追撃してくるアサシンの長刀を避け、首を突きに来る切っ先を剣で弾く。   「っ――――」  気が付けば、さらに数段後退している。  あれほどの長刀だ。  一度捌いてしまえば懐に入るのは容易いというのに、どうしてもそれができない。    卓越した敵の技量と、絶対的に不利な足場。    ここが平地であったのなら、あの長刀にこれほど苦戦する事もない、とセイバーは唇を噛む。   「―――さすがにやりにくいな。視えない剣というものがこれほど厄介とは思わなんだ」    アサシンは不動である。  彼にとって、これは守りの戦いにすぎない。  後退するセイバーを無理に追撃する必要もなし、上に位置するという有利を捨てる筈がない。   「……ふむ。見れば刀を見る事さえ初めてであろう?  私の剣筋は邪道でな、並の者ならばまず一撃で首を落とす。それをここまで防ぐとは、嬉しいぞセイバー」   「加えて、打ち込みも素晴らしい。その小躯でこれほどの剣戟を行うからには、さぞ鍛え抜かれた全身であろう」    追撃する必要がない為か、アサシンは余裕げにセイバーを観察する。    力を失い、ゆらぐ切っ先。  それを隙と見て踏み込む事など出来ない。  あの男には構えなどないのだ。  いかなる体勢からでも刀を振るえないようでは、あれほどの長刀は扱えまい。   「どうした? これで終わりという訳ではあるまい。その不可視の剣、見かけ倒しではなかろうに」   「ふん、いつまでも減らず口を――――!」    激突する剣と刀。   「―――いよし、当たりだ……!」    ぎぃん、と何もない空中で止まる長刀。  アサシンは視えない剣を止めた刀をにやりと見つめ、そのまま剣を受け流し――――    セイバーは、首を払いに来る一閃を受けきった。   「っ……!」  セイバーとて判っている。  今まで見慣れないアサシンの剣戟を防げたのは、偏にこの剣のおかげなのだと。  不可視の剣は攻め込むにも受けに回るにも、相手の感覚を狂わせる。    故にアサシンは深く追撃をしない。  セイバーの武器の長さが判らない以上、アサシンから攻め込むのは危険すぎる。  アサシンがセイバーを仕留めにかかる時があるとすれば、それは――――   「ハッ…………!」  アサシンの額をうち砕きにかかるセイバー。  その一撃を、    アサシンはわずかに後退しただけで、完全に躱しきった。   「……よし、これで目測はついたな。刀身三尺余、幅は四寸といったところか。形状は……ふむ、セイバーの名の通り、典型的な西洋の剣だな」    涼しげに語るものの、それがどれほど卓絶した目利きなのか言うまでもない。  セイバーの一撃は、たとえ剣が見えていようと捉える事が困難な速さなのだ。  にも関わらず、視えない剣を防ぎきり、かつ全容すら把握するとは―――   「……信じられない。何の魔術も使わず、満足に打ち合ってもいないというのに私の剣を計ったのですか、貴方は」   「ほう、驚いたか? だがこんなものは大道芸であろうよ。邪剣使い故、このような技ばかり上手くなる」   「―――なるほど。私の一撃をまともに受けず、ただ払うだけが貴方の戦いだった。邪剣使いとは、その逃げ腰からきた俗称ですか」   「ハ―――いやいや、まともに打ち合わぬ無礼は許せ。  なにしろこの長刀だ、打ち合えば折れるは必定。おぬしとしては力勝負こそが基本なのだろうが、こちらはそうはいかぬ。その剣と組み合い、力を競い合う事はできん」   「―――――――」 「もとより、刀というものはそういうものだ。  西洋の剣は、その重さと力で物を叩き切る。  だが、我らの刀は速さと技で物を断ち斬るのだ。  戦いが噛み合わぬのは道理であろう?」   「まあしかし……これでは些か興がそがれる。  もうよい頃合だぞセイバー? いい加減、手の内を隠すのは止めにしろ」   「っ――――アサシン。私が貴方に手加減しているとでも」   「していないとでも言うのか? 何のつもりかは知らんが、剣を鞘に納めたまま戦とは舐められたものだ。私程度では、本気を出すまでもないという事か?」   「―――――――」 「ほう。それでも応じないという顔だな。  ―――よかろう、ならばここまでだ。おまえが出し惜しみをするのなら、先に我が秘剣をお見せしよう」    そう告げて。  長刀の剣士はゆらりと、セイバーの真横へと下りていった。   「な――――」    アサシンにとって、頭上の有利を放棄するという事は負けに等しい。  アサシンは確かに優れた剣士ではあるが、それはこの地形条件であったからこそ。    同じ足場で戦うのなら、セイバーは一撃でアサシンの長刀を弾き、そのまま首を落とす事さえ可能なのである。  それはアサシンとて承知の筈。    だというのに、何故――――   「構えよ。でなければ死ぬぞ、セイバー」    さらりとしたその声に、セイバーの直感が反応した。    ――――それは事実だ。    アサシンが下りて来た事は、自分にとって有利な事などではない。  幾多の戦いを駆け抜けてきた直感が、自らの過ちを警告する。   「く――――!」  咄嗟に視えざる剣を構える。  躊躇している暇などない。  アサシンがその長刀を振るう前に、己が剣を打ち込めばいいだけの話――――!   「ふ――――」  両者の間合いは三メートル弱。    それは。  この戦いが始まって以来、見せた事もない剣士の構え。   「秘剣―――――――」    セイバーが踏み込む。  もはや長刀は意味をなさない。  懐に入られた以上、その長さが仇になる。  だが。   「――――――燕返し」    そんな常道など、この剣士の前にありはしなかった。    稲妻が落ちる。  セイバーの剣戟を上回る速度で、一直線に打ち落とされる魔の一撃―――!   「っ――――!」  だがその程度の一撃、防げないセイバーではない。  振り上げた剣を咄嗟に防御に回し、アサシン渾身の一撃を弾き返す……!   「もらった……!」  いかにアサシンと言えど、今の一撃を弾かれては立て直しに隙が生じる。  その秒にも満たぬ合間に、アサシンの腹を薙ぎ払おうとした瞬間。   「――――――――あ」    咄嗟に、直感だけに任せて、セイバーは石段を転がり落ちた。    逃げるように転がり落ちる。  受け身も何もない。  セイバーはただ必死に体を倒し、勢いを殺さず階段を転がり落ちた。   「く――――!」  落下を止め、体を起こすセイバー。  その視線の先には、悠然と佇む長刀の剣士だけがある。   「ほう。躱したか我が秘剣。さすがはセイバー、燕などとは格が違う」   「―――信じられない。今のは、まさか」   「なに、そう大した芸ではない。〈偶〉《たま》さか燕を斬ろうと思いつき、身に付いただけのものだからな」    長刀が僅かに上げられる。  先の一撃―――セイバーを戦慄させた魔剣の動きをなぞるように。   「見えるかセイバー。  燕はな、風を受けて刀を避ける。速かろうが遅かろうが関係はない。どのような刀であろうと、大気を震わさずには振れぬであろう? 連中はその震えを感じ取り、飛ぶ方向を変えるのだ。  故に、どのような一撃であれ燕を断つ事はできなかった。所詮刀など一本線にすぎぬ。縦横に空を行く燕を捕らえられぬは道理よな」   「ならば逃げ道を囲めばいいだけのこと。  一の太刀で燕を襲い、風を読んで避ける燕の逃げ道を続く二の太刀で取り囲む。  しかし連中は素早くてな。この長刀ではまず二の太刀が間に合わん。事を成したければ一息の内、ほぼ同時に行わなければならなかったが、そのような真似は人の業ではない。  叶う事などあるまいと承知したものだが――――」   「――――生憎と、他にやる事もなかったのでな。  一念鬼神に通じると言うが、気が付けばこの通りよ。  燕を断つという下らぬ思いつきは、複数の太刀筋で牢獄を作り上げる秘剣となった」    淡々とした語りに、セイバーは内心首を振る。  違う。  今の剣はそんな簡単なモノではない。  ほぼ同時? まさか。  二つの刃はまったくの同時だった。    アサシン―――佐々木小次郎の長刀は、あの瞬間のみ、確かに二本存在したのだ。   「……〈多重次元屈折現象〉《キシュア・ゼルレッチ》……なんの魔術も使わず、ただ剣技だけで、宝具の域に達したサーヴァント――――」    驚嘆すべきはまさにそれだ。  今の一撃ではっきりと判った。  佐々木小次郎には、英霊が持つ“宝具”などない。  有るのはただ、神域に達した力量による魔剣のみ。    あろうことか―――この男は人の身でありながら、宝具で武装した英霊と互角なのだ―――!   「だが足場が悪かったな。燕返しの軌跡は本来三つ。もうわずかに広ければ、横の一撃も加えられたのだが」 「……そうでしょうね。そうでなければ不完全です。  全てが同時であるなら、〈円の軌跡〉《二の太刀》はどうしても遅くなる。それを補うために、横方向への離脱を阻む〈払い〉《三の太刀》がある筈だ」   「いい呑みこみの早さだ。だからこそ我が秘剣を躱したか。  ―――く、素晴らしいぞセイバー……!  このような俗世に呼び出された我が身を呪ったが、それも今宵まで。生前では叶わなかった立ち会い、我が秘剣を存分に振舞える殺し合いが出来るのならば、呼び出された甲斐があるというもの――――」    長刀を構え直し、石段を下るアサシン。  狙うはセイバーの首か。  今一度あの秘剣を躱す自信など、セイバーにはない。  ランサーのゲイボルク同様、アサシンの燕返しは出させてはいけないモノだ。    いや、必ず心臓を狙いにくる、という正体さえ知っていれば対応できるゲイボルクと違い、知っていてなお回避できないアサシンの秘剣は対応策がほとんどない。    あるとすれば、出させない事それ一点。    打ち勝つには、アサシンがあの秘剣を繰り出す前に最強の一撃を見舞うのみか――――   「……なるほど。確かに、手加減など許される相手ではなかったようだ」    両手を下段に。  視えない剣を地に突きつけるように下げ、セイバーは歩み寄るアサシンを睨む。   「ほう……? そうか、ようやくその気になったかセイバー」    階段を下りる体を止め、今一度必殺の構えをとるアサシン。  それを凛と見据え、   「――――不満がないのはこちらも同じだ。  我が一撃、受けきれるかアサシンのサーヴァント……!」    セイバーは自らの枷を解いた。    大気が震える。  剣は彼女の意思に呼応するかのように、大量の風を吐き出した。   「ぬ――――!」  わずかに後退するアサシン。  セイバーから放たれる風圧は尋常ではない。  アサシンばかりか、太く堅固な山門の木々さえも震え、軋んでいる。    それは、爆発に近い風の流れだった。  密閉されていた大気が解放され、四方に吹き荒ぶ。  人間の一人や二人などたやすく吹き飛ばす烈風は、セイバーの剣から放出されている。    それが彼女の剣の力。  風王結界とは、その名の通り風を封じた剣である。  圧縮された風を纏う剣は、光の屈折角度を変貌させ剣を透明に見せていた。  その風を解放すればこのような現象が起こる。  解き放たれた空気は逃げ場を求め、無秩序に周囲に発散する。    ―――その合間。  吹き荒ぶ風を自在に操る事が、彼女の剣にかけられた戒めの魔術である。  膨大な魔力を持つセイバーならば、おそらくは数分は結界を維持し得るだろう。  その証拠に、これだけの風を解放していながら、未だ彼女の剣は透明のままだった。   「……ふん。さながら台風と言ったところだが、しかし―――」    吹き荒ぶ風の勢いは収まらない。  セイバーの剣から放たれる風は、今まさにアサシンを呑みこもうと鎌首をもたげていた。   「―――この程度の筈がない。その奥にある物、見せてもらうぞセイバー……!」    目を潰す烈風の中、アサシンは間合いを詰める。   「――――――――」    セイバーの腕が動く。  前進を許さぬ強風の中、悠然と歩を進めるアサシンを迎撃しようと、風を巻いた剣が唸りをあげ――――  そこつものが! ソコツモノがー! 傷も癒えていないというのになんばしよっとか。  士郎はまだマスターになったばっかりなんだから、もうちょっと自分を鍛えなくっちゃダメでしょう! そうよ。わたしにやられるならしょうがないけど、あんな女狐にやられちゃうなんてカッコ悪いんだから。早く直前の選択肢に戻って、今夜は大人しくしてなさい。 そうそう。次はよーく考えて行動するコト。 ―――さて。些細な選択ミスでスカーンとデッドエンドを迎えるみんなの味方、タイガー道場も今回で三回目。 みんなもそろそろこの道場に慣れてきたと思いますが、 思いますが? なによタイガ、思わせぶりなコト言って。なにか思うところがあるの? …………ある。というか、みんなもそろそろ気になってる頃だと思うんだけど、 思うんだけど? んー、じゃあ言うけど―――― 正直、ブルマは直球すぎではないだろうかっっっっ!!!!! え? だって道場でしょここ? 運動するんだから、体操服に着替えてるだけだけど? ……なるほど。そういう理由でしたか。いちおう筋は通ってるわね。わたしの数少ない見せ場を奪おうという、悪魔っ娘の策略かと思っちゃった。 考えすぎよタイガ。そもそも、貴女とわたしとじゃ格が違うもの。わざわざ勝負服に着替えて戦うまでもないわ。 そうだよねー! わたしとイリヤちゃんとじゃ扱いが違うし、争うまでもなかったわ。 良かった良かった、わたしたちは永遠のマブダチだよぅ。  体操服は元気の証だし、イリヤちゃんにはその格好を許可しましょう! 当然よ。ま、メイド服やスクール水着でないだけ感謝してよね。ホントなら、ワタシは毎回違うカッコウで登場する予定だったんだから。 げ。あからさまに違うこの扱い。  ふーんだ、悔しくないもんねー。所詮ボツになったんだから、わたしと扱い同じだもんねー。 ……けどミニマム気になる。  他にはどんな服を着る予定だったのかな? えーと、ガクランとか、カマクラとか、成長バージョンとか、雪だるまとか、エプロンとか、着物とか、ジャーマンな国の将校軍服とか、 なんと40種ものバリエーションだったのでしたー! ぐわああああ! もうよろしい! その恵まれた愛情が憎すぎる!  けど将校服はちょっと見たかったので残念です。 だよねー。大人のクセに、一度きった仕様書を無しにするのはよくないと思うわ。 まったくもって! わたしのシナリオを削るなんて何を考えているのか上層部は! 勝つ気があるのか勝つ気が! アンタのシナリオなんて最初から無いわよ。 にゃにおう! 狼藉者、そこになおれぃ!   きゃーーーーたーーすーーけーーてーー。 あ、先輩。ちわっす。 ま、楽にな。 行っちゃった……タイガものびちゃったし、わたしもそろそろ戻ろうかな。 スタンプ押して、っと……それじゃあ、またデッドエンド後に会いましょう!         アルトリア。  成人の儀を迎えたばかりの少女は、その日を境に、そう呼ばれる事になった。    戦乱の時代だった。  発端は、一つの帝国の終焉である。  不滅であった筈の帝国は、数多くの異民族の侵攻によって死を待つばかりとなったのだ。  異民族との戦いに備える為、帝国はその島国から守りの兵力を剥いでしまった。    それが始まりだ。  帝国の庇護を失い、独立せざるを得なくなった彼女の国は、時をかけず様々な小王国に分かれてしまった。    異民族たちの侵攻。  自殺行為とも言える部族間の内紛。  後に、“夜のように暗い日々”と言われる、長い戦いの時代。    そこに、王の後継ぎとして彼女は生を受けた。    長い、戦乱の時代だったのだ。  王は魔術師の予言を信じ、相応しい後継者の誕生を待ちこがれた。  だが生まれた子供は、王の望んでいた者ではなかった。  子は、男子ではなかったのだ。  たとえ王の宿命を持っていようと、男子でないものを後継ぎにする事は出来ない。    少女は王の家臣に預けられ、一介の騎士の子供として育てられた。  王は嘆いたが、魔術師は喜んだ。  もとより、王となる者に性別など関係はない。  それ以上に、少女が予言の日まで城から離れる事こそ、王の証だと確信していた。    素朴で賢明な老騎士の下、少女はその跡取りとして成長していった。    老騎士は魔術師の予言を信じていた訳ではない。  少女に己が主君と同じ物を感じたからこそ、騎士として育てなければならぬと信じ、その成長を願ったのだ。    だが騎士が願うまでもなく、少女は誰よりも強くあろうと鍛練の日々を重ねた。    崩壊し、死に行くだけの国を救えるのが王だけならば。    誰に言われるまでもなく、少女はその為だけに剣を振るうと誓っていたのだ。    そうして、予言の日がやってきた。  王を選び出す為に、国中の領主と騎士が集まった。  最も優れた者が王になるのならば、と誰もが馬上戦による選定を予想していた。  だが、選定の場に用意されていたのは岩に突き刺さった抜き身の剣だけだった。    剣の柄には黄金の銘。   “この剣を岩から引き出した者は、ブリテンの王たるべき者である―――”    その銘に従い、数多くの騎士が剣を掴んだ。  だが抜ける者はおらず、騎士たちは予め用意していた、馬上戦による王の選定を始めてしまった。    まだ騎士見習いだった少女には、馬上戦の資格などない。  少女は人気の絶えた選定の岩に近づくと、ためらう事なく剣の柄に手を伸ばした。           「いやいや。それを手に取る前に、きちんと考えたほうがいい」    振り向くと、この国で最も恐れられていた魔術師がいた。  魔術師は語る。  それを手にしたが最後、おまえは人間ではなくなるのだと。    その言葉に、少女は頷くだけで返した。  王になるという事は、人ではなくなるという事。  そんな覚悟は、生まれた時から抱いていた。  王とはつまり、みんなを守るために、一番多くみんなを殺す存在なのだ。  幼い彼女は毎夜それを思い、朝になるまで震え続けた。  一日たりとも恐れなかった日はない。    だがそれも、今日で終わりだと少女は告げた。    剣は当然のように引き抜かれ、周囲は光に包まれた。    ―――その瞬間、彼女は人ではなくなった。    王に性別など関係はない。  ただ王として機能さえすれば、王の風貌など誰も気にかけず、一顧だにされまい。    仮に王が女性だと気が付く人間がいようと、王として優れているのなら問題になる筈がなかった。    剣の魔力か、彼女の成長もそこで止まった。    不気味と恐れる騎士も多かったが、大半の騎士たちは主君の不死性を神秘と讃えあげた。            ―――そうして。  後に伝説にまで称えられる、王の時代が始まった。    新たな王の戦いは、まさに軍神の業だった。  王は常に先陣に立つ。  彼女の行く手をふさげる敵など存在しなかった。    〈戦いの神〉《アルトリア》。  竜の化身とまで謳われたその身に、敗北などありえない。    十の年月、十二もの会戦を、彼女は勝利だけで終わらせた。  それはただ一心に、王として駆け抜けた日々だったのだろう。    一度も振り返らず、一度も汚れず。    彼女は王として育ち、その責務を全うしたのだ。    だから、こんな姿を幻視したのか。    その魂は、いまも戦場にいるのだろう。  夜明け前。  藍色の空の下、風に身を任せて、彼女はただ遠くを見つめている。    空は高く、流れる雲は早い。  澄み切った大気の下、彼女は剣を手に、迎え撃つべき大軍を見つめていた。    ―――その姿が、焼き付いて離れない。    彼女とその剣は、一心同体だった。  王を選定した岩の剣。  彼女の運命を決定した剣の輝きは、彼女の輝きそのものだと思う。    だが、と夢の中で首を傾げた。  あの剣は、彼女が持っていた物とは違う。  似ているが違うモノだ。  昨夜彼女が振るった剣と、この剣は別の物。          ……なら。  これだけの名剣を、彼女は何処に、失ってしまったというのだろう……?  夢から覚めると、そこは自分の部屋だった。  外は明るい。  昨夜、決断を下せないまま部屋に戻って、セイバーを看ながら眠ってしまったらしい。 「……今の、夢……」    おかしな夢だった。  俺が知るよしもない出来事、俺が知らないセイバーの姿。  そんなものを、夢に見るなんて事があるのだろうか。 「……でも確かに、あれはセイバーの持ってた剣とは違ったよな……」    ぼんやりと思考を巡らす。  不確かだったセイバーの正体。  ……正直、自分はまだ彼女が何者だったのか、なんて事を受け入れられない。  セイバーはセイバーだ。  態度を変える事なんて出来ないし、セイバーだってそんなコトは望んでいないと思う。 「……けど。似合ってたな、セイバー」    昨夜の剣も似合っていたが、夢で見たあの剣も似合っていた。    いや、見惚れたと言っていい。  昨夜の剣といい夢の剣といい、自分は剣に弱いみたいだ。  ランサーの槍を見た時も美しいと思ったが、剣に対しては関心の度合いが違う。  どうも、自分は『剣』という物に惚れやすい性格をしているらしい。 「ああまあ……そんなの、今に始まった事じゃなかったか」  はあ、と大きく息を吐いて、汗まみれの額に手を伸ばした。 「……それにしても、なんか熱いな」  額の汗を拭う。  冬だというのに体は火照っていた。  なんというか、流れている血の温度が上がっているようで落ち着かない。 「……なんだろう……セイバーの剣を見てから、なんか」  妙に体が熱い。  令呪が刻まれた左手はカイロを握っているかのようだ。 「……遠坂に宝石を飲まされた時に似てるな……痒いっていうか、走り出したくなるっていうか」  深呼吸をして心を落ち着かせる。 「……セイバーはまだ、眠ったままか……」  昨夜からセイバーは一度も目を覚まさない。  それでも状況は良くなっているようだ。  今は寝息も落ち着いていて、苦しげに喘いでいた面影はない。  セイバーは安らかに眠っている。  それは、今までと何も変わらない朝の光景だった。 「―――もしかしたら、このまま」  眠らせておけば、セイバーは元通りになるかもしれない。  そうすればセイバーに人を殺させる必要なんてない。  セイバーはこのまま今まで通り俺と一緒に――― 「―――何を、都合のいい事を―――!」    壁を叩く。  自分の弱さに吐き気がする。 「―――セイバーをこんなにしたのは俺だ。  その俺が、何を―――」  ……物音を立てないように立ち上がる。  セイバーがいつ目覚めるかは判らない。  それまでに、俺はどちらを取るか決断しなくてはならない――――  まだ遠坂は起きていないのか。  家には活気がなく、廊下は廃墟のようだった。  いや、単に俺が沈み込んでいるだけだ。  どちらも選べず、灰色のまま〈彷徨〉《さまよ》うから世界がハッキリしないだけ。 「……?」    今、なにか空気を切るような音がした。 「まただ……庭の方からだけど、今のは――――」    今の音には聞き覚えがある。  ……そうだな。  朝食を作る気分でもなし、散歩がてらに様子を見に行こう。  外はいつもより数段冷え込んでいた。  体が火照っている俺がそう感じるのだから、本当に寒いのだろう。  ともすれば、このまま雪でも降りかねない寒空である。 「……蔵の方からだな、あれ」    風切り音は定期的に起きているようだ。  白い息を吐きながら庭を横断する。  蔵の前にはアイツがいた。  ……驚かなかったあたり、自分でもなんとなく、コイツがここにいる気がしていたのだろう。  先ほどまで弓を引いていたのか。  アーチャーは俺の姿を見るなり、不快そうに弓を下ろした。 「物騒だな。人ん家の庭で弓なんて引くな。矢が当たったらどうするつもりだ」 「どうするつもりもない。もとより矢など使っていないのだ。射ていないモノが当たる道理はなかろう」 「…………」  そんなこと、言われなくても判っている。  さっきの風切り音は、弓の弦が空を裂く音だ。  アーチャーは何のつもりか矢を使わず、ただ弓を引いていたにすぎない。 「……いい弓だな。今まで納得いかなかったけど、おまえ本当にアーチャーだったんだ」 「さて。私はおまえが知っている弓使いとは違うからな、弓道など訊かれても答えられんぞ。  おまえたちの弓は己に当てる射であり、私のは敵に当てる矢だ。おまえの言うアーチャーというのは、礼節を重んじる者の事だろう」  嫌味に口元をつりあげる。  やはり、コイツとは肌が合わない。 「誰もおまえに弓の事を訊こうだなんて思ってないよ。  ただ何をしているか気になっただけだ」 「見ての通り、調子を計っているのだが?  セイバーに付けられた傷も癒えた。いつまでも見張り役という訳にもいくまい」 「――――――――」  ……そうか。  コイツの傷は癒えたのか。なら遠坂も、本格的に戦いを再開するだろう。  〈踵〉《きびす》を返す。  遠坂とアーチャーが本格的に復帰する以上、こっちも決断をしなければならない。  どこか一人になれる場所で、真剣に考えをまとめないと。 「―――〈残心〉《ざんしん》、という言葉があるな」 「え?」 「事を済ませた後に保つ間の事だ。  私の弓術とおまえの弓道で、唯一共通しているモノがそれだと思うのだが」 「……なんだよ。おまえなんかに八節を説かれるおぼえはないぞ」 「まあ聞け。矢を放った後、体は自然と場に止まるという。それを残心と言うそうだな」 「…………」  確かに、弓道には射礼八節と呼ばれる八つの動作がある。  その中の最後、矢を放った後にくる境地の事を残心と言うのだが―――― 「……ああ。それがどうしたって言うんだ、おまえ」 「心構えの話だ。残心とは己の行為、放った矢が的中するかを確かめる物ではない。  矢とは、放つ前に既に的中しているものだ。射手は自らのイメージ通りに指を放す。  ならば当たるか当たらぬかなど、確認する必要はない。  射の前に当たらぬと思えば当たらぬし、当たると思えば当たっているのだから」 「―――そんな事あるか。どんなに当たるって思っても当たらない射はある。思うだけで当たるっていうんなら、誰だって百発百中だ」 「そうかな。少なくとも、おまえは百発百中だろう」 「な――――」  言われて、ドキリとした。  それは、確かに―――― 「まあ、そんな話はどうでもいい。言いたい事は一つだけだ。残心とは矢が当たるかどうかを見極めるものではない。放った矢がどのような結果になるかなど判りきった事だからな。  ならば、残心とはその結果を受け入れる為の心構えではなかったか」 「―――判ってる。ようするに、最後まで見届けろって言いたいんだろ、おまえは」 「そういう事だ。セイバーの事は聞いた。彼女がこのような状態になるのは初めから判っていた事だろう。魔力の提供もなしで戦っていれば、いつかは消える。  それはもう決まっていた事だ。ならば――――」  ……後は、その結果を受け入れるだけ。  俺の選択でセイバーがどうなろうと、俺には見届けるしか出来ないとでも言うのか。 「――――――――」  アーチャーに背を向ける。  今度こそ完全に、コイツの前から立ち去ってやる。 「……ああ、それともう一つ。気が付いていないようだから教えておこう」  背中越しに聞こえる声。 「セイバーはな、宝具を使えば自分が消えると判っていた筈だ。彼女はおそらく、最後まで宝具を使う気はなかったのだろう」    声にはいつもの嫌味な響きはなく。 「にも拘わらず宝具を使った理由は一つ。  セイバーは自身が消える事より、おまえを守る事を選んだのだ。  それを、決して忘れるな」    ただ、事実を告げる誠実さだけが込められていた。 「っ…………」    イリヤがどこまで本気なのかは分からない。  サーヴァントになれ、なんてのは何かの比喩だろうし、仮に俺を使い魔にしたところで、何がどうなる訳でもないだろう。  俺は何の役にも立たないし、イリヤにはバーサーカーがいる。  イリヤには衛宮士郎なんて半端な魔術師は要らない筈だ。 「さあ答えて。  シロウはわたしといっしょにいてくれる……?」  期待に満ちたイリヤの声。  それに、   「…………わかった。イリヤの使い魔になる」    偽りの、その場凌ぎの返答をした。 「うん……! よかった、これでずっといっしょだねお兄ちゃん!」 「な…………」  よっぽど嬉しかったのか、イリヤは飛び跳ねて喜んでいる。 「………………」  ……胸が痛む。  囚われの身では仕方ない、と本心ではない言葉でイリヤを騙してしまった。  それにここまで喜ばれると申し訳なくなって、その、少しぐらいならイリヤのわがままを聞いてあげてもいいのでは、なんて――――   「え――――?」    目眩がした。  何か、目に見えない重りが背中に圧し掛かった、ような。 「イリヤ」  得も知れぬ不安に押されて呼び止める。 「ん、なにシロウ? あ、手首の縄ならすぐにとってあげるね」   「ぁ……そうじゃ、なくて――――少し、気分が悪くて」    唐突に吐き出しそうで、必死に呼吸を整える。 「なに? 気分が悪くなって、体が重くて、不安で不安でしょうがないの?」    ―――その笑み。  俺の体の異状を知り尽くした、酷薄な唇を見て、 「――――イリヤ」 「そ、シロウのコトならもうなんでも分かるよ。だってわたしと契約したんだもの。  シロウはね、もうわたしに隠し事なんて出来ないの」 「っ――――!」  まずい。  今までの直接的な〈恐怖〉《もの》とは違う、得体の知れない焦燥に駆られて立ち上がる。  だが体は動かない。  イリヤの魔力に毒されているから、ではなく。  俺の体が、思う通りに動かなくなっている……!? 「イリヤ、何を……!」 「何かしたのはシロウ自身よ。気分が悪いのはわたしにウソをついたから。シロウは優しいから、自分で自分を傷つけたの」 「……けど、そうね。さっきのは少ししか気持ちが入ってなかったから、もう一度聞いてあげる。  ね、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、わたしのものになったのよね?」 「――――」    背中に圧し掛かる重みが、肌を貫通して内部にまで浸透してくる。 「ほら、認めてシロウ。貴方の魂は、もうわたしのものになったんだって」 「ぁ――――――、が…………!」  喉が喘ぐ。  口はひとりでに開き、舌が、浅慮すぎた言葉を繰り返す。   「わかっ、た―――イリヤの使い魔に、な、る―――」 「ええ。イリヤスフィールの名において、エミヤシロウを受け入れたわ。  ふふ。シロウの魂、ちゃあんと捕まえたんだから」 「――――、イリヤ」    立ち上がって、こんな縄なんて引き千切って、今すぐ逃げ出さないといけない。  邪魔をするならイリヤを殴り倒してでも外に出るだけだ。  そうしなければ取り返しのつかない事になる。  そう、取り返しのつかない事になるっていうのに、どうして―――― 「体が、動かない……」    この体の主人はおまえではない、と手足は反応さえしない。 「あ、心配しなくていいよシロウ。今のシロウは、体に送る命令を全部シャットアウトされてるだけだから。  その体はシロウの魂を機能させるだけのものにして、すぐに新しい〈容器〉《からだ》を用意させるわ。  人間の体は壊れやすいから、壊れてもいいモノに意識を転送してあげるの」 「あ、けどシロウに言ってもわからないか。  んー、説明しても実感湧かないだろうし、習うより慣れろね。  セラ、リーゼリット。今から〈転送〉《アボート》をするから、適当な〈容れ物〉《にんぎょう》を持ってきて」 「―――――、―――」    もう声さえ出せない。  自分はここにいるというのに、カメラ越しの映像を見ているような気分。 「お待たせいたしましたお嬢様。アポートを行う、との事ですが」 「ええ。ホントは着たくないけど、万が一にも失敗したくないから天衣を使うわ。リズ、用意はできてる?」 「…………できてる、けど。本当にいいの、イリヤ……?」 「な、なによ、出来そこないのクセに意見するのリーゼリット……! わ、わたしは悪くないもん! シ、シロウが自分で言ったんだから、使い魔にしてもいいんだもんっ……!」 「はい、お嬢様に落ち度などありません。  リーゼリット、言葉が過ぎますよ。このような人間一人、どうなろうと構いません。いえ、むしろお嬢様の奇跡に触れられるのですから、身に余る至福でしょう」 「…………セラ、イリヤに甘い。そうゆうの、逆効果だってわかってる……?」 「リーゼリット! お嬢様をそのようにお呼びするのは止めなさい……! イリヤスフィール様はアインツベルンの奇跡を後継するお方、私たちのような失敗作とは違うのですよ……!」 「……はあ。イリヤ、始めよう。セラってうるさいよね」 「リーゼリットっ!」 「――――――――」  召し使いらしい二人のうち、大人しい方が近づいてくる。  リズ―――リーゼリットと呼ばれた女性は、   「……ごめんね。キミ、もうその容れ物には戻れないよ」    スイッチをオフにするように、俺の視界を闇に落とした。   「それとお嬢様。森に何者かが侵入したようですが、いかがいたしましょう? バーサーカーを向かわせますか?」    声だけが耳に届く。  ……おかしな話だ。  俺の意識は手足と繋がっておらず、五感はとうに断たれている。  俺は〈聴覚〉《からだ》と繋がっていないというのに、一体なにが、彼女たちの声を聞いているのか。   「まさか。せっかく来てくれたんだから、ちゃんともてなしてあげないと失礼でしょう? バーサーカーはもちろん、貴女たちも姿を隠してなさい。  リンとセイバーには、わたしのものになったシロウを見てもらうの。それが済んだら、後はバーサーカーの好きにさせるわ」    ……クスクスと笑う。  感覚がないクセに、腕を掴まれた気がした。          ―――気が遠くなる。  数分の〈後〉《のち》、自分がどうなるかは判らないが―――俺の戦いが、終わった事だけは理解できた。    ―――考えるまでもない。    それにいい加減、我慢の限度ってものがある。  どいつもこいつもセイバーを消えるものとして考えやがって。  セイバーは消えないし、俺は最後まで彼女と戦う。  その誓いを、こんな事で覆す訳にはいかない。 「……イリヤ、おまえの言う事は聞けない。俺にはセイバーがいる。セイバーが残っている限り、マスターとして戦うだけだ」 「―――――――」    息を呑む音。  一瞬、赤い瞳が、死後硬直のように見開かれた。   「……そう。あなたまでわたしを裏切るのね、シロウ」    イリヤの体が離れる。  少女は取り乱す事なく、平然と俺を見下ろした。 「いいわ。シロウがわたしの言うことをきかないんなら、わたしもシロウの言うことなんてきかない。  今まで見逃してあげたけど、それもこれでおしまいなんだから」  イリヤの声には殺気しかない。  そこに―――酷く、不吉な物を感じた。 「待っていなさい。すぐに用を済ませてくるから」 「待て……! なにをするつもりだ、イリヤ……!」 「なにって、セイバーとリンを殺しに行くの。二人を殺してくれば、シロウも少しは後悔するでしょ?」 「な―――バカな事を言うな……! セイバーも遠坂も関係ない、俺は自分だけの都合でイリヤとはいられないって言ってるんだ……!」 「そうなの? けど二人は殺すわ。それが終わったら次はシロウの番よ。わたしの物にならないのなら、シロウなんていらないもの」  遠ざかっていく足音。  イリヤは本気だ。  本気でセイバーと遠坂を殺しに行く。 「止めろイリヤ……! セイバーも遠坂も関係ないだろう……! 捕まってるのは俺なんだから、憎いっていうんなら俺だけにしろ……! 二人を殺す理由なんてない……!」 「理由はあるわ。わたし以外のマスターは生かしておけないもの。それが聖杯戦争でしょう?」 「ばか、簡単に人を殺すなんて言うな……! おまえにはそんなの似合わない。イリヤはまだ子供なんだから、そんな真似だけはしちゃダメだ……!」  イリヤは呆然と俺を見つめた後。   「残念ね。わたしはもうマスターを殺してるんだよ、お兄ちゃん」    ひどく愉しそうな顔で、そんな言葉を返してきた。 「もっとも、それは昨日の話だけど。予想外と言えば予想外だったかな。わたし、アイツはお兄ちゃんが手を下すって思ってたのに」 「な――――に?」    瞬間。  自分でも驚くほど、事の次第が飲み込めた。  ……昨夜、イリヤはビルの中にいたという。  なら。  彼女の目の前で逃げ出したマスターは、格好の獲物ではなかったのか。 「イリヤ――――おまえ」 「ごめんね。シロウがやらないからわたしがやっちゃった。ほんとは横取りって好きじゃないんだけど」  悪びれた様子などない。  イリヤにとってそれは、本当に大した出来事ではなかったのだろう。 「――――――――」    ……思い知った。  いや、以前会った時から判っていた筈だ。  この白い少女には善悪の観念がない。  無邪気に笑うのもイリヤなら、無慈悲に笑うのもイリヤなのだ。  ……この少女には天使と悪魔が同居している訳じゃない。  ただ、天使という悪魔がイリヤなだけ―――― 「それじゃ行ってくるわ。  帰ってきたらシロウの番なんだから、せいぜい逃げ出す努力でもしていなさい」 「もっとも、カゴから逃げ出せないから小鳥は小鳥なの。  お兄ちゃんじゃ、この鳥カゴからは出られないでしょうけど」  ……イリヤは出ていった。  あいつが口にした事は本当だ。  脅しや駆け引きなんて知らない少女にとって、口にした事は全て真実なんだから。  なら、いつまでもこんな所にはいられない。  イリヤがセイバーを襲う前に、なんとか抜け出して合流しなければ。 「く―――この……!」  体を揺すって、手首の縄を解きにかかる。  俺が逃げられないと本気で思っているのか、部屋には誰もいない。  監視の目がなければ、この程度の縄ぐらい一人でも解ける、のだが―――― 「っ――――くそ、まだ体、が――――」  満足に言うコトをきいてくれない。  手足は動くものの鉛のように重く、動かすだけで息が上がりそうだ。 「……イリヤのヤツ……これを見越して逃げられないなんて、言ってたの、か」  ……確かにこんなんじゃ動けない。  なんとか縄を解いたところで、満足に動けないようでは、部屋から出られたところで逃げ切れない。 「……体が重いのは、疲れてるからじゃないよな……そっか、イリヤの目を見て、それで動かなくなったんだっけ……」  魔眼、というヤツだろうか。  優れた魔術師は、目を合わせるだけで対象に何らかの魔術干渉を行えるという。  平均的な魔眼は“束縛”だというから、この金縛りもその類なのだろう。  視覚情報を得る眼球は、同時に暗示を受けやすいのが弱点だ。  故に、魔術師はある程度眼にプロテクトを張って相手の魔力を遮断するのだとか。 「……呪文もなしの、暗示じみた金縛りにやられるなんて、遠坂が聞いたらなんて言うか……」  ……まあ、それはあくまで魔術によって付けた後天的な魔眼にすぎない。  それとは別に、生まれつき、つまり先天的に魔眼を持つ化け物は、相手と目を合わせる、なんて事はしなくていいらしい。  連中はただ“見る”だけで特有の能力を発揮すると言うが、そういった保持者は世界でも希だという。  で。  幸い、イリヤの魔眼はそういった特別なものじゃないようだ。これはあくまで、相手に魔力を送り込むだけの魔力干渉にすぎない。    それなら解呪する方法もある。  体が動かないのはイリヤの魔力がこっちの神経を侵しているからだ。  なら、その魔力さえ消してしまえば金縛りは解けてくれる。   「―――単純な話だ。泥が溜まってるなら、水を流して洗えばいい」  目を閉じて、意識を体の内だけに向ける。  ……俺には自身を侵している他人の魔力を感知する事も、取り出す事もできない。  だが、体内に根付いた〈呪詛〉《びょうそう》になっていない魔力なら、そんな技術は必要ない。  体内にイリヤの魔力が淀んでいるのなら、強い魔力を流して吐きだしてやるだけだ。 「……悪いな。乱暴なやり方だけど、生憎そんな事しかできないんだ」  気休め程度に、自分の体に謝っておく。  あとは、いつもの日課を行うだけだ。    背中に異なる神経を打ち込む儀式。  ……いや、今はそうじゃない。  もう新しいソレを作る必要はない。  頭の中にあるスイッチを押すだけでいい。  体内に魔術回路を作るのではなく、神経を魔術回路に切り替えるだけの話。 「――――〈同調〉《トレース》〈開始〉《オン》」    自らを暗示する〈言葉〉《スペル》を呟く。  〈呪文〉《スペル》は世界に働きかけるものではない。  世界に働きかける自分に対して唱えるモノだ。  魔術師にとって、最も自己の変革を促しやすい言葉。  自分だけの神秘を行うための、自分にしか効果のない命令こそが、呪文と呼ばれる最初の魔術。 「――――基本骨子、解明」    血の流れが速くなる。  血液に力が宿る。  自身が、魔力を回すだけの装置に変わる。  ……遠坂に飲まされた宝石の恩恵だろう。  いつもなら一時間はかかる魔力の生成が、こんな短時間で出来るようになっている。 「――――構成材質、解明」    ……これならスイッチとやらを押す必要もない。  このまま魔力を回転させていって、あとは手を離すだけでいい筈だ。  ……もっとも。  スイッチを押すも何も、スイッチ自体が見つかってはいなかったが。    ――――熱が〈奔〉《はし》る。  早まっていく鼓動を冷静に抑えながら、振り回し続けた紐から手を放した。 「ごぶ……!」    びしゃり、と口元から血が漏れた。  どこぞの血管が切れたのか、中身が破れたのだろう。  体を侵した泥を押し流すだけの魔力を流したんだ。吐血ぐらいですめば御の字だし、幸い痛みもない。 「……痛みがないのは、アレかな……また例の自然治癒かな……」    未だ正体がはっきりしない異常だが、こういう時は純粋にありがたい。  即死でなければ傷が治ってくれるのは、今の自分にとって最大にして唯一の強みだ。    ……注意すべきなのは、それに頼ってはいけないという事。  なにしろ原因が不明なのだ。自然治癒を頼りにして怪我をしても、一秒後にはなくなっている可能性もある。    故に、こんな不確かな奇蹟に頼ってはいけない。 「―――よし、あとは縄だけだ」    縄を解く。  手首は痣になっていたが、血が止まるほど締められていた訳でもない。  ……締めたのはイリヤではないだろうが、それでもそう強く縛られたものではなかった。  そもそもイリヤでは俺をここまで運べないだろう。  イリヤ以外の誰か、それもあまり力の無い人間がいるのだろうか。 「……バーサーカーは論外だ。あいつが縄をしめたら、その時点で俺の手首なんてヘシ折られてる」    軽口を叩きつつ、椅子から立ち上がる。 「っ――――」  ……体の自由が戻ったのはいいが、やはり乱暴すぎたらしい。  傷こそないが、体の中は未だ魔力が荒れ狂っていた。  動けば、それだけで体の中身が打ちのめされる。  ……痛みのせいだろう。  吐き気と目眩が襲ってくるし、手足の末端は感覚がない。    これではイリヤより早く家に戻る事なんて、とてもじゃないけど出来やしない―――― 「―――何を弱気な。そんなコト、言ってる場合じゃない」  ぱん、と頬を叩いて歩き出す。 「……?」  壁に手をついて、なんとかドアへ向かおうとした時。  壁の向こうで物音がした。  ……足音がする。  それも複数。なにやら話をしながら近づいてくるソレは、扉の前で足を止めた。 「……見回り……!? くそ、なんだってこのタイミングで……!」  隠れている時間はない。  ここは――――      ……先手必勝、戦うしかない。  いまから隠れている時間なんてないし、なによりそんな暇はない。  俺は一刻も早くここを出て、セイバーのところに帰らなければならないんだ。    ―――扉が開く。    扉の真横の壁に背中を押しつけて、入ってくる見回りに備える。 「――――――――?」  見回りは扉を開けただけで、中に入ってこようとはしなかった。  ……待てよ。  入り口からなら、扉を開けただけで椅子が見える。  縛られていた筈の俺がいないんだから、それだけで状況が判ってしまわないか――――!? 「…………!」  まずい。  ここで人を呼ばれたら、逃げ出すのは困難になる。  こうなったらこっちから外に出て、見回りをぶちのめすだけだ――――!  壁からドアへと身を乗り出す。    ―――と。  見回りはとっくに俺が隠れている事を察知していたのか、飛び出した瞬間に部屋へと入ってきた。 「くっ、この……!」  もう止まれない。  相手が何者であろうが、このまま殴り倒して外に出るだけ――――   「動くな……! 大人しくしていれば命までは……え、シロウ……?」 「――――――――」  ぴたり、と体が止まる。  ……頭の中が真っ白になった。  助けに行かなければならない相手が、目の前にいる。 「セ、セイバー……? どうして、ここに?」 「ど、どうしてなんて、そんな事は言うまでもないでしょう。サーヴァントがマスターを守るのに理由はいりません。シロウが捕らわれたのなら、助けに来るのは当然ではないですか」 「あ……いや、だから。どうして俺が捕まったって知ってるんだよ。  いや、そんな事よりどうしてここにいるんだセイバー。  ここはイリヤの隠れ家だぞ。今のセイバーが近寄っていい場所じゃない」 「っ――――!」    迷っている時間はない。  こんな体じゃ戦っても勝ち目はないんだ、今は体が持ち直すまで荒事は避けなければ……! 「と、よっ……!」  両腕を合わせて、なんとか縄で縛られているように偽装する。 「っ……!」  扉が開く。  イリヤか、城の人間か。  ともかくそいつが部屋に入ってくる直前、ギリギリで椅子に座って腕を後ろ、に―――― 「―――無事ですか、シロウ……!」 「――――」  目が点になる。  本気で、自分にとって都合のいい幻を見ているのかと、思った。 「縛られているのですね。  すぐに解きますからそのまま――――」 「あ、いや。縄は、解けてるん、だけど」  ほら、と後ろに回した腕を差し出す。 「……話が見えないのですが。シロウは、ここで囚われていたのでは……?」 「……いや、その。なんとか自由になって、逃げ出そうとしたところで誰か来たから、とりあえず捕まったフリをしてたんだ、けど」 「―――なるほど。敵を油断させて、脱出を確かなものにしようとしたのですね?」  おお、と感心するセイバー。  ……まあ、その後のコトは何も考えてなかった、というのは黙っておこう。 「それよりセイバー、セイバーだよな!? 幻じゃない、本物のセイバー……?」  立ち上がってセイバーの体に触る。 「! シ、シロウ、待ってください、そのように触られては」 「うん、本物だ―――あ、けどどうしてここに?」 「ど、どうしてなんて、そんな事は言うまでもないでしょう。サーヴァントがマスターを守るのに理由はいりません。シロウが捕らわれたのなら、助けに来るのは当然ではないですか」 「あ……いや、だから。どうして俺が捕まったって知ってるんだよ。いや、そんな事よりどうしてここにいるんだセイバー。ここはイリヤの隠れ家だぞ。今のセイバーが近寄っていい場所じゃない」 「っ――――!」  迷っている時間はない。  こんな体じゃ戦っても勝ち目はないし、今は見つからないコトを最優先にするべきだ。  とりあえず、あのベッドなぞいかがなものかー!  ベッドに飛び込み、シーツを被って身を隠す。  間髪いれずに響く扉の音。  ……イリヤが戻ってきたのか、それとも城の住人か。  ともかく、俺の監視に現れた何者かは突如消失した囚人に驚愕し、困惑し、呆然とカラになった椅子を見つめている。 「――――――――」 「――――――――」  フ、ふわふわで完璧だ。  この完全なる密室トリックを前に、来訪者は言葉もなく立ち尽くし、   「……何を遊んでいるのですか、シロウ」    呆れきった声で、ベッドに横たわる俺に声をかけた。 「え?」  ひょこ、とふかふかのベッドから顔を出す。 「そこで何をしているのです、と訊いたのです。  まさかとは思いますが、それで身を隠しているつもりではないでしょうね?」 「あ――――いや、その」  もそもそとベッドから出る。 「一応、隠れていたんだが」  甘かっただろうか、と視線で問いただす。 「大甘です。私が敵であったのなら、一片の情けもかけず両断します」 「あ、う」  二の句も継げず縮こまる。  ……なんというか、物凄く恥ずかしいところを見られたのではないか。 「えっと、その……セイバー、どうしてここに……?」 「言うまでもないでしょう。サーヴァントがマスターを守るのに理由はいりません。シロウが捕らわれたのなら、助けに来るのは当然ではないですか」 「あ……いや、だから。どうして俺が捕まったって知ってるんだよ。いや、そんな事よりどうしてここにいるんだセイバー。ここはイリヤの隠れ家だぞ。今のセイバーが近寄っていい場所じゃない」    そうして、両者の戦いは終わった。  殺し尽くし、殲滅しあった彼らの戦いは、赤い騎士の消滅で幕を閉じたのだ。    〈絢爛〉《けんらん》を誇っていた広間は一変していた。  床は千々にひび割れている。  壁は何重と穿たれている。  階段は陥没し、砕かれた大理石は砂礫となって風に散った。    空間は破壊し尽くされ、広間にかつての面影は無い。  ならば、時間さえかしいでいると言えるだろう。  夥しい破壊の跡は、つい二時間前の風景すら思い出させないと言うのだから。   「――――――――」  その廃墟の中心に、相応しい彫像が建っていた。  二メートルを優に超すそれは、巨岩を荒々しく削って作った人の像に見える。  言うまでもない。  イリヤスフィールのサーヴァント、バーサーカーである。    巨像は不動だった。  その全身は赤く、体の所々に穴が開いている。  傷のない箇所など、巨人には存在しなかった。    一、両足は崩壊しかけている。  二、首には切断された跡がある。  三、腕はかろうじて肘に付いている。  四、肩から股下までを貫かれている。  五、胸からは大量に血が流れている。  六、腹には空洞が穿たれている。    バーサーカーは動かない。    当然だろう。  それは、どう見ても死体だった。    戦い自体は、半刻で決着がついていた。  ただあまりにも意外すぎる結果に、バーサーカーのマスターは我を忘れた。  本来ならすぐさま獲物を狩りたてに行かねばならないというのに、呆然とこの惨状を見つめていたのだ。   「―――信じられない。なんだったのよ、アイツ」    忌々しげに呟く。  ここで行われた戦いは、少女にとって屈辱以外の何物でもなかった。    少女のサーヴァントは最強である。  数いる英霊の中でも最高の知名度を誇るヘラクレスに対抗できるモノなど、それこそ一人か二人のみだろう。  それを、どこの英雄とも知らぬ正体不明のアーチャーが打倒した。  あの赤い騎士はバーサーカーと互角に渡り合い、結果、今まで誰も成し得なかったバーサーカー殺しを成功させたのだ。    ―――そんな事は許されない。    少女にとってみれば、道ばたの虫に心臓を刺されたようなものである。  本来踏みつぶし、情けを乞わせるだけの相手に追い詰められるなど、最強を自負する少女の自尊心が許さない。   「ああもう、頭にくる!  あんなヤツに六回もやられるなんて、手を抜いてたんじゃないでしょうねバーサーカー!」 「――――――」    彫像は答えない。  答える余裕などないのか、その必要性を感じないのか。  バーサーカーは佇み、体の復元に専念する。    ……彼にしてみても、今回の戦いはあまりにも異常だった。  彼の“宝具”は、あらゆる攻撃を無効化する。  超一流の攻撃でなければ、どのようなモノであろうと彼の肉体には通用しない。    故に、傷を負う事など希だった。  神話の時代、偉業を為しえた後の彼に傷を負わせた者はいない。    にも拘わらず、それを六度。  アーチャーは致命傷に近い純度の一撃を、実に〈六度〉《ろくたび》行ってきた。    その全てが異なる手段だったのは言うまでもない。  たとえ最高純度の攻撃であろうと、バーサーカーには一度行った攻撃は二度と通じないからだ。    ……異常だというのなら、それこそが異常だった。    それほど多彩な能力を持つ英雄であるのなら、まず正体は掴める筈である。  だがアーチャーの正体は、結局、その体を粉砕しても判らずじまいだった。  真に驚くべきは、サーヴァントとして矛盾したその有り方であろう。   「――――――――」    ……バーサーカーの眼孔に、わずかな光がともる。  彼がまっとうなサーヴァントとして召喚されていたのなら、この戦いを“惜しい”と嘆いただろう。    正体はどうあれ、アーチャーは得難い難敵だった。  彼の理性が奪われていなければ、心ゆくまで剣技を競い合い、充実した時間を過ごせたものを。   「……許さない。許さないんだから。よくもここまでわたしを侮辱してくれたわね……!」    主の声が響く。  わずかに灯った理性の光は、それでかき消えた。  今の彼はバーサーカーにすぎない。  主の望み通り、敵を圧倒し、粉砕するだけがその役割。   「傷は治ったのバーサーカー!」 「――――――――」  答えるまでもない。  死に至らぬ傷ならば、あと数分で完治しよう。  だが―――全てを元に戻すには三日を要する。 「そんなに待てない! もういいわ、いますぐアイツらを殺しにいくわよ!」 「――――――――」    巨人は無言で抗議する。  それは本能に近い。  こと戦いに関して、バーサーカーにはセイバーと似た直感がある。    敵は確かに容易に薙ぎ払える戦力だ。  だが、セイバーのサーヴァントがあの〈聖剣〉《ほうぐ》を使えるほど回復したのなら話は別だ。  たかだか聖剣ごときに屈するバーサーカーではないが、万が一という事もある。  あのサーヴァントと戦うのならば、こちらも万全の態勢で挑むべきだと本能が告げていた。   「……なによ、五つもあれば十分じゃない。あんなヤツら、ゴッドハンドなんかなくたって敵じゃないもの。  それともなに? ここまでわたしたちをバカにしたヤツらを見逃してやるっていうの、バーサーカー?」 「…………………」 「そうでしょ? 誰一人としてわたしの森からは逃がさないわ。うん、リンとセイバーはバーサーカーにあげるね。殺すなり弄ぶなり好きにしていいわ」    少女は階段から飛び降りた。  瓦礫の中、血まみれのバーサーカーを意に介さず出口へと歩いていく。    そのおり。  少女は思い出したように、一度だけ足を止めた。   「さあ、狩りを始めましょうバーサーカー。  だけどセイバーのマスターは簡単に殺しちゃダメだよ?  シロウには、いちばんひどい死に方をさせてあげるんだから」    くすり、と愉しげに笑って、少女は城を後にする。            ―――じき日が昇る。  彼女にとってこの森は庭と同じだ。  獲物が何処に隠れていようが、見つける事など造作もない。  標的である彼らの余命は、あと数分足らずしか許されていなかった。  で。  なんでか知らないが、廃墟から追い出された。    その後の調整とか着替えとか、とにかく女の子には色々あるのだー、なんて遠坂に追い出されたのだ。 「―――くそ、なに言ってんだ、男だって色々ある」  壁に背中を預けてぼやく。  なんだか負け惜しみのような気がするのは、やっぱり負け惜しみだからだ。 「………………………………」 「――――――――う」    思い出して、必死に煩悩を振り払った。  今は忘れないといけない。  セイバーの記憶に浸