ここ数日、街に雨は降っていない。 だから、地面が濡れているのは女の子たちの血が降ったからなんだろう。 鉄錆のような臭いでいっぱいの路地にうずくまり、わたしはぼんやりと考えた。 また一つ、女の子が死ぬ音が聞こえた。 また一つ── また一つ。 何かが、女の子たちを肉の塊に変えている。 流れてきた血に身体を半分浸したまま、じっと息を殺す。 狩人が自分を見逃してくれる幸運を祈りながら。 さっきまで、娼館行きの馬車に乗せられていたわたしたち。 そのうちの何人か…… ううん、そのうちのほとんどは、きっともう生きてはいない。 おそらく、もうすぐわたしも路地の染みになる。 こんな死に方をするために、わたしは辛い生活に耐えてきたのだろうか? 誰か説明してほしい── 誰か。 誰か!! 「っ……!?」 視界を黒い何かが塞いだ。 少し遅れて、それが大きな足だと気づいた。 声を出しちゃいけない。 でも、食いしばった歯がカチカチと音を立ててしまう。 何もできない。 逃げることも、謝ることも。 わたしを殺そうとしている人の顔を見ることも。 「……される」 殺される。 殺される!! 胸の奥に生まれた冷たい予感が、身体中に拡がった。 「い、いや……」 浮遊都市《ノーヴァス・アイテル》。 《特別被災地区》── 通称《牢獄》。 〈峻厳〉《しゅんげん》な崖壁により周囲から隔絶された、都市の底だ。 「放せよっ!」 「俺は、あの女を助けてやっただけだっ!」 「聞いてるのか!?」 「あいつは騙されて娼館に売り飛ばされたんだ」 「お前らが、汚いやり方で親御さんに借金作らせたんだろっ!?」 「なんとか言えよっ」 男が喚き散らす。 そのたびに、男に繋がった縄が左右に引っ張られる。 元気なものだ。 捕まる前は恐怖で震えていたくせに、拘束した途端に騒ぎはじめた。 なんでも、娼婦と駆け落ちしようとしたらしいが……。 ま、そこらの事情はどうでもいい。 「娼館の文句は娼館に言え」 「俺は、頼まれてお前を捕まえただけだ」 娼館《リリウム》の待合いに入る。 机で帳面をめくっていたオズが手を止め、目を上げた。 「これはカイムさん、お疲れ様です」 「もうお済みで?」 「ああ、こいつで間違いないか」 オズが、触れれば切れそうな視線で男を眺め回す。 「こいつです、間違いありません」 「そうか」 男をオズに引き渡す。 これで依頼は完了だ。 目新しくもない、やり慣れた仕事だった。 「お、俺をどうするつもりだ」 「……」 怯えて訊ねた男を、オズは視線だけで黙らせた。 そして、俺に向き直る。 「いつも、つまらない仕事をお願いしましてすみません」 「うちの若いのじゃ、なかなかこうはいきませんので」 「無駄話はいい」 「これは失礼しました」 「おい、誰か」 すぐさま、娼館の奥から下っ端が出てくる。 「へい」 「カイムさんがお仕事からお戻りだ」 「へ、へえ、それが……」 「酒くらい持ってこいって言ってんだ、馬鹿野郎っ!」 オズが投げた煙草盆が、下っ端の額に当たる。 ぱっと鮮血が散った。 「構わなくていい」 「これから《ヴィノレタ》で呑むつもりだ」 「おっと」 「そういうことでしたら、ここで呑んでしまうのはもったいないですね」 額を押さえて〈呻〉《うめ》いている下っ端を尻目に、あっさりと言うオズ。 「これで薬でも買え」 下っ端の前に、銅貨数枚を放った。 「カイムさん、そんな甘やかさなくても」 「いいんだ」 「ところで、駆け落ちした女はどうした?」 「若いのに任せてます。少しきつい灸を据えられているかと」 「せっかくですし、カイムさんも遊んでいったらどうです?」 オズが陰惨な笑みを浮かべた。 優秀な男だが、こういう加虐嗜好にはついていけない。 「お、お前ら、あの娘に何かしたらっ!?」 黙っていた男が、弾かれたように口を開いた。 オズが若い男を殴った。 一撃で床に転がる。 その男の顔へ、容赦なくオズの足が降る。 「ぐっ……ごほっ……」 泡立った血とともに折れた歯を吐き出す。 赤い液体の中で、その白さが妙に冴えていた。 「こんなことをして……衛兵が黙っているわけが……」 「ああ、黙っちゃいないな」 「お前の財布を抜いて、俺と山分けの相談をするだろうよ」 「そ、そんな……」 牢獄じゃ当たり前のことだ。 「なんだ、牢獄は初めてか?」 男が頷く。 「惚れた女のために牢獄に来るなんざ、律儀なもんだ」 「……騙されてるとも気づかずな」 「だま……されてる?」 「ど、どういうこと!?」 「ま、焦らなくても今夜じっくりと教えてやるよ」 男の顔をオズが爪先で小突く。 客の憐れみを誘うために素性をでっちあげるのは、娼婦の〈常套手段〉《じょうとうしゅだん》だ。 親が騙されて借金を作り、自分はその返済のために売られた、などというのがその典型。 熱くなった男が常連になってくれるだけならいいが、今回の男は熱くなり過ぎて、女との駆け落ちを計画した。 女が断ればまだ冗談で済まされるが、夢を見たのか情にほだされたのか、手に手を取っての逃避行だ。 しかし、よっぽど幸運でもない限り追手から逃げ切ることは不可能だ。 にもかかわらず、こういう話は後を絶たない。 騙す女に騙される男。 娼館街で、飽き飽きするほど見てきた茶番だ。 「俺は行くぞ」 「はい、またよろしくお願いします」 「お礼は、後ほどジークさんから」 「ああ」 オズの声を背に娼館を後にする。 慣れた仕事とはいえ、朝からの捜索で喉が渇いた。 ヴィノレタで一杯やろう。 ヴィノレタは、娼館街の入口近くにある酒場だ。 自宅以外で、俺が最も多くの時間を過ごしている場所でもある。 店主はメルト。 かつては娼館街で最も人気がある娼婦だったが、身請けされて酒場の主に収まった。 「……?」 遠くから、かすかな〈音曲〉《おんぎょく》が流れてきた。 関所広場の方だ。 そうだ。 今日は聖女のお目見えの儀式があるのだった。 当代の聖女イレーヌ── 通称《盲目の聖女》の人気は、歴代の聖女の中でも群を抜いていると聞く。 広場の人出は相当なものだろう。 一度顔を拝んでみたい気もするが、混雑に揉まれるのはご免だ。 ヴィノレタで大人しく火酒でもやろう。 そう思った時、路地を向かってくる人影に気がついた。 「エリス」 「あ、カイム」 小走りに駆け寄ってくる。 「丁度、呼びに行くところだったの」 「カイムから来てくれるなんて……運命かな?」 「違うだろうな」 「あっそ」 端整な眉をついと上げ、軽く鼻息をついた。 かなり目を引く美人だが、愛嬌をどこかに置き忘れたせいで、かなり損をしている。 印象的なのは、その古井戸のような瞳だ。 真っ暗な〈瞳孔〉《どうこう》の奥に、得体の知れない感情が水面のように揺らめいている。 「私の目、好き?」 「欲しいならあげよっか?」 「いらん」 「あら残念」 本気とも冗談ともつかない顔で言った。 「で、俺になんの用だ」 「メルトが、お金をすられたって」 「〈掏摸〉《スリ》? いい歳してみっともない」 「私に言わないで」 「まさか、〈掏摸〉《スリ》を捕まえろって言うんじゃないだろうな?」 「冴えてる」 「阿呆か」 〈掏摸〉《スリ》なんて牢獄には星の数ほどいる。 証拠も掴みにくく、面倒なことこの上ない仕事だ。 「小遣い程度なら授業料とでも思っておけ」 「ところが、盗られたのは今月の上納金なの」 「なんだと?」 「これが授業料なら、結構なこと教えてもらわないとね」 《不蝕金鎖》への上納金ならば、かなりの額になる。 そもそも上納金が未納では店がまずい。 「わかった、探そう」 「〈掏摸〉《スリ》の特徴は?」 「男の子」 「……で、羽がついてる」 「一応隠してるけど、わかってて見れば気づく大きさだって」 「羽つきか」 《羽つき》は《羽化病》という伝染病に冒された人間の通称だ。 〈罹患者〉《りかんしゃ》の背中には羽が生え、やがては死に至るという。 感染拡大を防ぐため、国が《防疫局》──通称《羽狩り》を設立したのは10年ほど前。 奴らの仕事は、〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護し治癒院という隔離施設に放り込むことだ。 よっぽどの難病らしく、治って帰ってきた奴の話は聞いたことがない。 「羽狩りと競争だな」 「あの人たち容赦ないから、早く捕まえてあげないとね。男の子のためにも」 《羽狩り》が〈掏摸〉《スリ》を見つければ、子供を保護すると同時に金は奴らの懐の中だ。 〈掏摸〉《スリ》を捕まえるだけでも面倒だが、さらに厄介な話になった。 「逃げた先に心当たりは?」 「広場の方だって」 「先に《不蝕金鎖》の人が追って行ったけど、どうなったか……」 「よりによって広場か」 「今日は、聖女様のお目見え」 「わかってる」 「探せるだけ探してみよう」 こんな展開で、聖女の顔を拝むことになるとはな……。 広場に走る。 溢れる通行人。 走るのも難しい混雑だ。 広場はもっとひどいことになっているだろう。 「カイムさんっ、カイムさんっ」 男に呼び止められる。 見たことのある《不蝕金鎖》の男だ。 「エリス先生に会われましたか?」 「ああ、それで追ってきたところだ」 「〈掏摸〉《スリ》は見つかったか?」 「いえ。広場に逃げられちまいまして、今日の混雑じゃさすがにお手上げです」 「まあ、自分はたまたま店にいたから追っただけで、頼まれたわけでもありません」 「これで引き上げますわ」 「カイムさんは、追われるんで?」 「ああ」 男と情報交換をして別れる。 「想像通りだな……」 牢獄最大の広場は、地面が見えないほどの人で溢れている。 聖女に祈りを捧げるためとは言え、よくもこれだけの人が集まるものだ。 当然のように、逃げた子供は見当たらない。 群衆の中に紛れているのだろうか。 すでに広場から離れているのなら、さすがに発見は難しい。 まだここにいることに賭けるしかないな。 まずは、見晴らしの良い場所に移動する。 ここから、群衆の変化が一目で分かるだろう。 広場が沸き立った。 視線を上げたのと、テラスに人影が現れたのはほぼ同時だった。 だが、周囲の期待に反して、姿を見せたのは中年の神官だ。 罵声が飛ぶ。 神官は、笑顔を引きつらせながら式服の襟を正す。 「本日これより、お目見えの儀が執り行われる」 「ご〈尊顔〉《そんがん》を拝する前に、牢獄の方々には、この《ノーヴァス・アイテル》の成り立ちを再度思い起こして欲しい」 これからしばらくは、恒例の退屈な話だ。 生まれてこの方、嫌と言うほど聞かされてきた。 遥か大昔、この世界は神が天使を遣わして作ったという。 人間は天使の力を借り、大いに繁栄した。 人々が神に感謝の祈りを捧げているうちはよかったのだが、それを忘れたとたん、神は機嫌を損ねて天使を引き上げさせてしまったらしい。 その結果、世界は混沌の濁流に呑み込まれてしまった。 多くの人間が死んで行く中、〈敬虔〉《けいけん》な聖女が神に許しを請う。 神は聖女と、彼女の信者を許し、都市を浮かせて命を救った。 それがここ、《ノーヴァス・アイテル》だ。 たったこれだけの話を、神官はたっぷり時間をかけて語っていった。 「初代聖女イレーヌ様は、その〈崇高〉《すうこう》なる祈りのお力で《ノーヴァス・アイテル》を空に浮かせ、我々の祖先をお救い下さいました」 おっさんの話が佳境に入る。 「それから数百年。初代様のお力は代々の聖女イレーヌ様に引き継がれ、この街を空へ留めて下さっています」 「この都市は聖女様に守られた人類最後の聖域であり、我々は選ばれし信仰の徒なのだ」 「聖女イレーヌ様に、感謝、そして祈りを!」 〈喇叭〉《らっぱ》の華やかな音が響き渡った。 喧噪に満ちていた広場に、静寂が広がっていく。 群衆の視線の先、 テラスには、神官と入れ替わりで4人の衛兵が出てきた。 彼らは、淀みない動きで左右二つに別れ、テラスの両端へと移動する。 面白くもない衛兵の流れを、皆が息を飲んで見つめている。 もう、物音を発する人間はいない。 聞こえるのは、遥か上空を旋回する鳥の声だけだ。 間もなく、〈聖女〉《主役》が現れる。 この街を浮かべ、信仰とは縁遠い牢獄の人間すら黙らせるほどの存在が。 唾液を飲み込んだその時、 テラス奥の漆黒に、一つの光が生まれた。 それは徐々に大きくなり、光と見えたのは純白の聖式服だったことに気づく。 いや、白いのは聖式服だけではない。 その肌も、髪も、彼女のすべてが〈清冽〉《せいれつ》な白光を纏っていた。 ──あれが、 ──第29代、聖女イレーヌ。 《盲目の聖女》が、陽光の下へと進み出た。 風に揺れる髪の上を、光の粒が軽やかに転がる。 聖式服に隠されていない肩と腕は、人の手を拒むかに透き通っていた。 慎ましく〈双眸〉《そうぼう》を閉じた〈容顔〉《ようがん》は、最高級の彫刻師が命を賭しても掘り出せるかどうか。 情念と欲望に満ちたこの牢獄に、彼女は眩しすぎる。 聖女が、ゆっくりと息を吸う。 「感謝と祈りを忘れぬ限り、神は我々をお救い下さいます」 「私とともに、祈りを捧げましょう」 広場が歓声に震えた。 聖女は人々の声に応えるでもなく、静かに閉じられた目を広場へ向けている。 冷たい気もするが、馬鹿みたいな笑顔で手を振られるよりはよっぽどいい。 彼女は、この街と、この街に生きる人間の運命を握っているのだ。 人気を取ることより、街を浮かせ続けることに全力を尽くして欲しい。 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》を繰り返さないためにも。 10数年前の悲劇。 俺の中にある記憶はひどく曖昧だが、思い出すたびに不快感が胸をよぎる。 「……」 これ以上、聖女を見ていると余計なことまで思い出してしまいそうだ。 「────っ!?」 歓声に異質な声が混じった。 「は、羽つきよっ!?」 「おい、誰か羽狩りを呼べっ」 群衆の中に、ぽっかりと円形の空白地帯が生まれた。 円の中心にいるのは、一人の少年。 〈掏摸〉《スリ》はあいつか。 「てめぇ近づくんじゃねえ。〈伝染〉《うつ》ったらどうする」 「さっさと失せろ、このガキっ」 周囲を見回し、一瞬呆然とした少年は、事態を察し弾かれたように走り出した。 進行方向の群衆が割れ、道ができていく様はちょっとした見物だ。 「さて」 ひと仕事しよう。 少年の特徴を目に焼き付け、俺も走り出す。 こんなに早く見つかるとは、かなりの幸運だ。 聖女に乾杯しなくちゃならないな。 走りながらテラスに目をやり、胸の中で祈りの言葉を唱えた。 「何事です? 騒がしいようですが」 「どうやら誰かが逃げているようなのですが……よくわかりません」 「聖女様。テラスにいらっしゃいますと、もしもの事がございます。まずは建物内にお下がりください」 「構わずともよい。それより何が起こっているのです」 「申し訳ございません、わかりかねます」 「……そう」 聖女の顔に失望の色が浮かんだ時、彼女の背後で深々と礼をする男の姿があった。 「〈僭越〉《せんえつ》ながら、状況をご説明申し上げます」 「お目見えの儀に集まった観衆の中に《羽化病》の〈罹患者〉《りかんしゃ》がおりました」 「それを見つけた民が動揺しているのです」 「現在、《防疫局》の部隊を派遣しておりますので、間もなく沈静化すると思われます」 淀みなく男は言った。 言葉の端々から理性がにじみ出るような、落ち着いた口調だった。 「羽つき……」 「何か?」 「いえ」 「大儀です。そなたの名は?」 「防疫局を任されております、ルキウス=ディス=ミレイユと申します」 再度、礼をするルキウス卿。 「おお、貴方がルキウス卿でいらっしゃいましたか。お噂はかねがね」 「お仕事では、ずいぶんと成果を上げておいでのようですね」 神官が、両手を広げて大仰な賞賛を送る。 「お陰様にて」 「とはいえ、本日はわたくしの警備計画が不十分でした。お見苦しいところをお見せしまして、聖女様には申し訳もございません」 「目が見えぬ私でも、集まった民の数は伝わりました。警備が行き届かぬのもやむなきこと」 「恐れ入ります」 「それでは、持ち場に戻りますので、これで失礼いたします」 「ルキウスとやら」 「はい」 「そなた、羽狩りの仕事をどのように考えていますか?」 「せ、聖女様」 聖女が、羽狩りという防疫局の〈蔑称〉《べっしょう》を口にしたことに神官は驚いた。 しかも、ルキウス本人の前で。 「防疫局の仕事は、国王陛下より賜った大切な職務。わたくしにあるのはただ、この都市のために働けるという喜びのみです」 「さ、さすがはルキウス卿。素晴らしいお志です」 「そうですか。大儀でした」 ルキウスの答えが意に沿わなかったのか、聖女の言葉は抑揚のないものだった。 「聖女様……」 「……」 穏やかな視線で付き人の聖職者を制し、ルキウスは姿勢を正した。 「それでは、職務に戻ります」 羽つきの少年の乱れた足音からは、疲労が〈窺〉《うかが》えた。 俺に先回りされているとは、露ほどにも思っていないのだろう。 少年はせわしげに背後を振り返ると、微かな安堵の表情を浮かべ、膝に手をついた。 「ご苦労さん」 隠れていた横合いの路地から姿を現す。 「ひっ!?」 「スラムに逃げるってのは悪くないアイデアだ」 「お、お前、羽狩りか」 「違う」 「な、なんだ……てめえ、驚かせんじゃねぇよ」 少年の表情に生気が戻った。 「驚かせたのは謝る」 「その代わり、店から盗んだ金を出してもらおう」 「金? 何のことだ?」 とぼけた顔をしているが、その手は腰に伸びている。 刃物でも隠しているのだろう。 この手の子供は半端な大人より〈質〉《たち》が悪い。 むしろ、子供であることを武器に殺しを商売にしている奴もいるくらいだ。 かつての俺がそうだったように。 「腰のものなら、後ろに落としたぞ」 「えっ?」 少年が表情を変えたその一瞬、 「ぎゃっ」 横っ面を蹴り飛ばす。 うつ伏せに倒れた少年の腰から、小さなナイフを取り上げる。 「く……クソ野郎が」 「……」 髪を掴み上げ、むりやり顔を起こした。 「盗んだ金を出せ」 「何のこと……ぐっ」 言い終わる前に、ガキの頭を地面に叩きつける。 「お、俺が盗ったんだ……手前になんか、やるかよっ」 飛ばしてきた唾をかわす。 もう一度顔を地面に叩きつけると、鼻血がどっと溢れた。 「なかなか気が強いじゃないか」 「だが、よく聞け」 「お前が盗んだ金、あれは《不蝕金鎖》への上納金だ」 「しかも、金を持ってた女はジークが昔から面倒を見ている女だぞ」 「ジーク?」 「こう言えばわかるか? 《不蝕金鎖》の頭だよ」 「え? え? そんな……」 ようやく事態が飲み込めたのだろう、少年の身体が震えだす。 「もう一度聞くが、金はどこだ?」 「は、はいっ、はいっ。懐に入ってます」 懐を探ると、ずしっと重い革袋が出てきた。 「使い込んでないだろうな」 「は、はいっ」 少年の身体を離してやる。 「あ、あの、あなたは《不蝕金鎖》の方なんですか?」 「まあな」 「だったら、何でもしますから助けて下さいっ」 「悪いが、人助けの趣味はない」 「何でも……何でも、しますから……」 少年は、懇願しながら俺に手を伸ばす。 「ボク、ずっと下層で育ったんです」 「でも、いつの間にか羽化病にかかっちゃったみたいで……背中に羽が生えてきて……」 「住み込みで働いてたお店から追い出されて、牢獄に来るしかなかったんです」 「お腹が空いてどうしようもなくて、それで、お金を盗みました」 血と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、少年は身の上を語る。 「ボク、何も悪いことしてないのに……何で……こんなことに……」 「さあな」 「うっ……ぐすっ……これから、ボク、どうなるんですか?」 「組織に連れて行く」 「そ、そんな」 「ま、お前が、羽つきじゃなかったらの話だったが」 「組織も、羽つきを家にご招待するほど馬鹿じゃない」 「じゃあ、見逃してくれるんですか?」 「けじめはつけさせてもらう」 少年の横面を蹴り飛ばす。 子供に暴力を振るうのは気が進まないが、けじめはけじめだ。 《不蝕金鎖》の金に手を出すことがどういうことか、わかってもらわないと困る。 「組織の制裁なら、腕の一本は覚悟しなければならないところだ」 「運がよかったな」 「う……あ、はい……」 「失せろ」 よろよろと立ち上がる少年。 俺に正対したまま、一歩二歩と後ずさり、 「ありがとうございますっ」 勢いよく言って〈踵〉《きびす》を返した。 羽狩りから、どこまで逃げられるだろうか。 ……恐らく、長くはないだろう。 「うあっ!?」 脇の路地に走り込もうとした少年が、壁にぶつかったかのように転倒した。 「ここは行き止まりだ、羽つき」 横道から出てきたのは、底暗い目をした男。 続いて、さらに男が5人、姿を現した。 服装から見るに、羽狩りの一隊だ。 「羽を確認しろ」 指揮者らしき男の号令で、羽狩りたちが少年を取り押さえる。 こいつらと仲良くなる気はない。 面倒に巻きこまれる前にこの場を離れよう。 「そこの君」 背後から声がかかる。 「……なんだ?」 「少し話を聞かせてくれないか」 「……」 無闇に反抗すると、羽つきを匿っていると疑われる可能性もある。 そうなれば、四六時中監視がつき厄介なことこの上ない。 ここは大人しくしておこう。 「ああ、構わない」 「協力感謝する」 〈慇懃〉《いんぎん》に礼を言う指揮者。 その目の前で、部下たちにより、少年の服が破られていく。 果たして、骨の浮いた背中には白い羽が生えていた。 「副隊長、羽を確認しました」 「保護しろ」 「やめて……許して、下さい……」 「君は治癒院で羽化病の治療を受けるんだ。怖がることはない」 「でも、でも」 「大丈夫だ」 「……お、お兄さん」 迷惑なことに、少年は力ない声を俺に向けた。 「君は羽つきの身内なのか?」 「赤の他人だ」 「ちなみに、あんたらの邪魔をするつもりもない」 「先日、君と同じことを言って、俺達が背を向けた瞬間に襲ってきた奴がいたよ」 「部下が腕をなくした。肘の下からすっぱりだ」 「同情する」 両手を広げ、敵意がないことを示す。 「俺は今すぐ消える。それでいいだろう?」 「ま、慌てるなよ」 副隊長が、羽つきの少年を見る。 「こっちの人とはどういう関係だ? 殴られたんじゃないのか?」 「い、いえ」 「我々に協力してくれれば、治癒院でも優先的に治療が受けられるぞ」 「……」 少年は俺の顔を一瞥してから、急に幼い顔を作った。 「あの人、《不蝕金鎖》って組織の人で……」 「突然お金を出せって言ってきたんですが、断ったら殴られたんです」 羽狩りのご機嫌を取るのが得と判断したのか、少年は虚実織り交ぜて事情を喋り始める。 自分がいかに哀れで、俺がどれだけ理不尽な存在であるか、少ない〈語彙〉《ごい》を搾り出す。 時折、鼻声になるのも忘れない。 したたかなものだ。 「なるほど……」 「少年は、君が《不蝕金鎖》の一員だと言っているが、どうだ?」 「違うな」 「仕事を受けることはあるが、構成員じゃない」 「では、少年が嘘をついていると」 「ああ」 「もし組織にツテがあるなら、俺が構成員かどうか聞いてみてくれ。事実がわかるだろう」 「聞いたところで、本当のことは教えてくれないだろう」 「《不蝕金鎖》の方々は、我々に非協力的で困っている」 「苦労が絶えないな」 「まったくだ」 「実は、部下の腕を切り落としたのも組織の人間らしくてね」 副隊長が、抜き身で俺の腕をピタピタと叩く。 俺に部下の報復でもするつもりだろうか。 「そう警戒しなくてもいい。詰め所で少し話を聞かせてもらうだけだ」 「牢獄や組織の情勢を知ることで、一人でも多く羽つきを保護したいのだ」 「それが、街全体の平和にも繋がるだろう?」 副隊長の笑顔には、どこか濁った雰囲気があった。 着いていくと面倒なことになりそうだ。 最悪、二度と戻れないかもしれない。 「あんたらに、狩りを邪魔する人間をしょっぴく権限があるのは知っている」 「だが、俺は何の邪魔もしていない。どうしてここまで絡まれるのかがわからないんだが」 「それは、詰め所で説明する」 「……」 争いになれば、羽狩りに被害を与えてしまう。 この場は切り抜けたとしても、今後、目の仇にされることは明らかだ。 逃げれば逃げたで、似顔絵をバラ撒かれかねない。 何とか丸く収めたいが、先方にその気は薄い。 どうする…… 「私は、そちらの方が正しいと思う」 裏路地の淀みを吹き払うような、澄んだ声が聞こえた。 羽狩りが一斉に振り返る。 彼らの視線の先には、 一人の女が立っていた。 顔は端整な作りで、意志が強そうな眉をしている。 隙無く着込んだ羽狩りの制服と、身体が醸し出す柔らかな雰囲気が不釣り合いだ。 女の羽狩りを見るのはこれが初めてだった。 「隊長、ここは《不蝕金鎖》の情報を得る機会なのでは」 しかも隊長か。 荒事が多い羽狩りは、衛兵の中から命知らずを選抜して編制されたと聞いたことがある。 女だてらにその隊長を務めているとなれば、実はあの女、真っ当な顔をして結構な人格破綻者なのかもしれない。 「ラング副隊長。情報を得るためとはいえ、〈恫喝〉《どうかつ》まがいの発言は〈看過〉《かんか》できないな」 「〈恫喝〉《どうかつ》というわけでは……」 「腕を切り落とされたという隊員の名前を教えてくれ」 「私から見舞いを出しておく」 「それは……」 副隊長が唇を噛んだ。 なるほど。 嘘の嫌疑で人をしょっぴこうとは、羽狩りもなかなか世慣れてるじゃないか。 「君が少しでも成果を上げようと努力していることは、わかっているつもりだ」 「とはいえ、私たちの仕事は民衆の協力があってこそ」 「人々の信頼を損なうことがあってはならない」 「肝に銘じます」 副隊長は、俺に鋭い眼光を投げつけてから、剣を鞘に収めた。 「そこの方、部下が失礼した」 「二度目は勘弁して欲しいな」 軽く手を上げ、その場を立ち去ろうとする。 「待ってくれ」 「なんだ?」 「一つ確認したい」 「あなたが《不蝕金鎖》の構成員でないのは本当か?」 「本当だ」 「もし俺が構成員だったら、どうするつもりだ?」 「暴力により得た金で生活する気分を聞いてみたかった」 「……へえ」 「答えをもらえるといいな」 もう一度手を上げ、羽狩りたちに背を向ける。 組織の奴らにそんなことを尋ねても、羽狩りも似たようなものだと返されるのが関の山だろう。 変な女隊長だ。 夕暮れに染まる路地を抜ける。 花輪が掛けられた木製の扉を開ける。 酒精のむっとした匂いと共に、喧噪が流れ出してきた。 「いらっしゃい」 カウンターにつくと、メルトが愛嬌のある笑顔で寄ってきた。 他の客は雇いの女に任せ、こちら専属の態勢だ。 「お疲れさま」 「ごめんね、変な仕事頼んじゃって」 「なに、思ったより楽に終わった」 「ならよかった」 「これ、お礼ね」 差し出された酒を遠慮なく〈呷〉《あお》る。 身体の中を、火酒の熱い感覚が落ちていく。 「少し味が変わったな」 「あ、わかっちゃった?」 「最近、質の良いのが仕入れられなくて」 「ジークに口を利いてもらったらどうだ」 「そうだけど、お店の仕入れくらいで手を煩わせたくないし……」 「こっちの手も煩わせてほしくないね」 「そ れ は そ れ」 「大体、カイムは仕事しないと干上がっちゃうでしょ」 「それに、お金すられたなんて、恥ずかしくてカイム以外に言えないもの」 「どうせ、もうジークの耳には入ってる」 「見栄よ、見栄」 そう言って、茶目っ気たっぷりに笑った。 「ま、いいさ」 少年から取り返した革袋をカウンターに置く。 「これで合ってるか?」 「お財布はね」 メルトが袋の中身を改める。 「うん、中身も大丈夫」 「よかったー、今月納めるお金、全部入ってたのよ」 「見つからなかったら、また娼館に逆戻りだったかも」 「そっちの方が稼げるんじゃないか?」 「あら、私もまだまだいけるってこと?」 「世辞だよ」 「意地悪」 メルトが指先で俺の額を弾く。 いつものことなので、避ける気にもならない。 「ともかく、今日は助かったわ」 「お礼は……」 「ツケの分に回してくれ」 「りょーかい。毎度どうも♪」 入り口の扉が開いた。 喧噪が瞬時に静まる。 入ってきたのはジーク。 牢獄で力を持つ組織の一つ、《不蝕金鎖》の頭だ。 店にいた組織の人間はおろか、一般の客までもが目礼で敬意を表す。 ジークは人なつこい笑顔で口を開く。 「続けてくれ」 止まっていた時が動きだしたかのように、店内に熱気が戻った。 「おう」 「今日はつまらない仕事を頼んで悪かったな」 「問題ない」 軽く頷いて、ジークは俺の右隣に座る。 「駆け落ち男はどうなった?」 「ん? 死んだが」 まあ、娼婦と駆け落ちすれば殺されるに決まっている。 「何か聞きたいことでもあったのか?」 「いや、別に」 「つまらん奴だったよ。指の2、3本で漏らしやがった」 「掃除する部下の方の身にもなってほしいもんだ」 「災難だったな」 「それより聞いたぜ。羽つきを追いかけてたんだってな」 「耳が早い」 「メルトもしっかりしろ」 「金をすられるようなタマじゃないだろ」 「はーい、気をつけます」 メルトがおどけた仕草でお辞儀をする。 「ジークはいつものでいいわね」 「カイムはおかわり?」 俺達が目で頷くと、メルトが酒の用意を始める。 その間、ジークは葉巻に火を点けた。 そして一服。 ゆっくり煙を吐き出してから、ジークは取り出した紙包をカウンターに置いた。 「これは、駆け落ち男の報酬だ」 「またいつでも言ってくれ」 紙包みを懐に収める。 中身は確認しなくてもいい。 ジークが、報酬の〈多寡〉《たか》で俺を失望させたことはないからだ。 「はい、お待ちどおさま」 メルトが俺達の前に陶杯を2つ置いた。 それぞれに杯を取る。 「ところでメルト、どうしてあんな子供に金をすられたんだ?」 「俺が当ててやろう」 「あれだな、すれ違ったいい男に見惚れてた隙にやられたんだろ?」 「ざーんねん」 「事実は全く逆。向こうからしつこく絡んできたんです」 「まるっきり新人の女中だな」 「昔のお得意さんだったの。無下にはできないでしょ」 「……それに、割と好みだから悪い気しなかったし」 「あほか」 「息がぴったりね、さすが兄弟」 「兄弟呼ばわりするな、気色悪い」 「まったくだ」 そういって、ジークは動きを止めた。 「……そういえば……」 「どうしたの?」 「ずっと気になってたんだが、俺とカイム、どっちが兄貴なんだ?」 「お前までくだらないことを」 「いや、重要なことだ」 「メルト、実のところどうなんだ?」 「あ〜、どっちだったかな〜」 ニヤニヤと俺達を見比べるメルト。 「忘れちゃった」 「嘘つけ」 「ほんとだって」 「ま、もし思い出すことがあったら遺書にでも書いておくことにするわ」 「おっと」 「それじゃあ、お前より先には死ねなくなったな」 「いい心がけね」 「ちなみに、うちの料理を食べると長生きできるって話があるんだけど?」 「よし、煮込みを二人分。あと腸詰めもだ」 「毎度どうも」 にっこり笑って、メルトが厨房に注文を通す。 「ジーク……」 「あ、しまった」 悔しそうな顔をするジークだが、もちろんわかってメルトに乗せられている。 俺たち相手のこんな戯れは、重責を担うジークの息抜きみたいなものだ。 「話が逸れたな」 「なんの話だっけ?」 「どうして金をすられたかって話だ」 「まさか、気づかなかったってわけじゃないだろ?」 「まあね。すられた時は、もちろん捕まえようと思ったの」 「でも、気づいちゃったのよね、背中が膨らんでるのに」 「それで思わず逃がしたと?」 「羽つきに施しなんぞしても、何の得にもならないぞ」 「知ってる」 「知ってるからこそ、後でカイムにお金を取り戻してくれって頼んだわけだし」 「でも、ね……」 僅かの間、メルトが視線を落とす。 「やっぱり矛盾してるわね」 「自分で逃がしたくせに、あとで捕まえるように頼むなんて」 「でも、咄嗟の時ほど……なんて言うか、本音が出ちゃうのよね」 「ほんと自己満足」 メルトの気持ちの細かいところはわからない。 「子供にとっちゃ幸運だったんじゃないか」 「捕まえるのが遅くなったお陰で、少年は《不蝕金鎖》じゃなく羽狩りに保護された」 「今頃は治癒院のベッドの上だ」 「俺達が捕まえていれば、まあ、最低でも腕の一本はもらわないといけないな」 「腕を潰されるのに比べれば、随分とマシな結末じゃないか」 ジークが頷く。 「メルトの〈躊躇〉《ちゅうちょ》が、ガキの腕を救ったってことだ」 「こっちで〈躾〉《しつけ》ができなかったのは、少しばかり残念だがな」 俺を見て、ニッと笑う。 「一応、2、3発は殴っておいた」 「気が利くじゃないか」 「助けてあげなかったんだ」 「常識で考えてくれ」 メルトは、牢獄の仕組みなど嫌というほどわかっている。 身内でもない羽つきを救う人間がいないことなど、百も承知だ。 恐らく彼女自身、目の前で羽つきが連れて行かれても助けないだろう。 では、メルトを〈憂鬱〉《ゆううつ》にさせているのが一過性の〈憐憫〉《れんびん》なのかといえば、そうでもない。 「羽つきを狩らなきゃ羽化病が拡がるとしてもさ、そもそも牢獄には死ぬ理由なんていくらでもあるじゃない」 「今さら一つくらい病気が増えても、何も変わらないと思うのよね」 「だったら、羽つきも一緒に楽しく生きた方がいいかなって」 「メルトのように思える人間は少ないだろうな」 「早晩死ぬとわかっていても、目の前の馬車には轢かれたくないってのが人情だ」 「わかってる」 「いいのよ。ただ、ちょっと言ってみたかっただけ」 そう言って、メルトは伏し目がちに笑った。 こいつには、昔から博愛主義的なところがある。 もちろん、その立派な博愛精神のほとんどは無駄に終わるし、本人もそれを知っている。 「お疲れ様、エリス」 「ん」 愛嬌のない返事をして、エリスは当然のように俺の左隣に座った。 何も言わず、メルトが茶の準備を始める。 「カイムを呼びに行ってくれて助かったわ」 「どういたしまして」 「お店を出てすぐに会えたなんて、私とカイム運命で結ばれてるね」 「だったら最悪だな」 「照れなくてもいいのに」 「茶でも飲んで黙ってろ」 「はい」 「いつものね」 メルトがすかさずお茶を出した。 「お前、あれからどうしてたんだ?」 「〈娼館〉《リリウム》で女の子の面倒見てた」 「薬物中毒みたいで、とにかく暴れて大変だった」 エリスが白い腕をカウンターに出す。 そこかしこに赤い引っ掻き傷があった。 「自分のシマの娼婦の〈躾〉《しつけ》くらい、ちゃんとしてほしい」 「すまんな」 「お詫びに、俺がエリスを手当てしよう」 「死んで」 わざとらしく卑猥な笑みを浮かべたジークを、エリスが冷たく一閃。 「薬ってどんなの?」 「最近出回り始めたやつだ」 「中毒性は低いが、ときどき一発で潰れる奴がいる」 「知ってたんだ」 「〈躾〉《しつけ》は行き届いてないかもしれないが、目は届かせてるつもりだ」 「実はジークが〈捌〉《さば》いてたり?」 「《不蝕金鎖》は薬を扱わない、先代からの掟だ」 ジークの声が強くなった。 「ごめん、冗談」 「薬の出所については、こっちも調べてる」 「何か耳に入ったら教えてくれ」 「わかった」 「麻薬中毒の人って、ほんと面倒なのよね。治しようがないし」 「ひっそりやって、ひっそり潰れてくれればいいのに」 麻薬中毒の女は、娼館にいた頃に何人も見てきた。 基本的に治療法などなく、水を飲ませて腹の中を洗うくらいが精々。 それで薬が抜けなければ、大概は放っておかれて自殺するか、店に処分される。 医者のエリスとしては、最も診察のし甲斐がない患者だろう。 男が静かに滑り込んできた。 ジークの腹心、オズだ。 「ジークさん、お楽しみのところすみません」 「どうした」 「ちょっと、お耳を」 ジークの耳元で男は何事かをつぶやく。 「……わかった」 「カイム。少ししたら娼館まで来てくれ」 「ああ」 ジークが席を立つ。 「おっと、忘れてた」 ジークが硬貨をカウンターに置く。 金貨が数枚。 「みんなに景気をつけてやってくれ」 「わかったわ」 「行くぞ」 「はい」 二人が店を出て行く。 それを見計らい、メルトが大きく息を吸った。 メルトが手を叩く。 店が静かになった。 「ちょっとみんな、いい知らせだから聞いて」 「今日は『さる人』の〈奢〉《おご》りよっ」 僅かな沈黙。 そして、 歓声に店が揺れた。 客の多くは金の出所を知っている。 方々の席で、ジークを讃えての乾杯が始まった。 客は15人ほどだが、金貨3枚あれば全員潰れるまで飲んでも釣りが来る。 「ジークは、相変わらず派手」 「やっぱり、頭はこうでなくちゃ」 「あいつのやり方は先代譲りだな」 「まだまだ」 「先代を引き合いに出すには10年早いわね」 「厳しいじゃないか」 「そういえば、ジークはなんの用だろ」 「カイムが呼ばれるんだから、何にせよ荒事じゃない?」 「だろうな」 暗殺者として生計を立てていた俺への話だ。 それなりの内容だろう。 「怪我の手当ができるの、楽しみにしてる」 「人の不幸を祈るな」 「さ、これ飲んで頑張ってきて」 新しい火酒が置かれた。 「ああ」 陶杯を一気に空ける。 「行ってくる」 「頑張って(ケガして)」 「行ってらっしゃい」 二人の声を背に俺は店を出た。 今夜の娼館街は、いつもより二割増しで賑わっていた。 見れば〈一見〉《いちげん》の客が多いようだ。 「きゃーーっ!」 〈嬌声〉《きょうせい》とともに、女が一人駆け寄って来た。 「ねえ、カイムカイムカイム」 この過剰な乗りはリサだ。 「あたしって魅力ないかな?」 表情が明るいのは魅力的だ。 ──と、思ったが面倒なので口には出さないでおこう。 「いきなりどうした?」 「だってだってだって、こんなに賑わってるのに、あたしだけみんな素通りなの」 「超絶技巧で、夜明けの流れ星になってしまいそうなくらい気持ち良くしてあげるって言ってるのに」 「その台詞がまずい」 「えー、何でよ。昨日、寝ないで考えたのに」 「寝ろ。ない頭で余計なこと考えるな」 「ひどっ!?」 「周りを見ろ。今日は〈一見〉《いちげん》が多いだろ?」 「ん〜〜」 「あ、言われてみれば」 「内心緊張してるんだ。あんな強引に誘ったら引かれるぞ」 「そうかなぁ。気持ちよーくなりたくないの?」 「いや、気持ち良くはなりたいだろう」 「だが、強引なのはダメだ。優しく包み込むように流れ星にしてやれ」 「なーるほど」 「カイムって、きっと娼婦の才能あるよ」 「ない」 「ほら、さっさと稼いでこい」 「はーいっ」 元気よく言って、リサがパタパタ走りだす。 「ねー、そこのおにーさん、わたしと光ろーよー」 やれやれだ。 やっかいを起こさなきゃいいが。 「きゃっ」 「いっでっ」 早速、男とぶつかっていた。 割とマシな身なりをした男だが、足取りを見るに、かなり酔っている。 「いたた、ごめんなさい」 「ごめんじゃねぇだろ、ねーちゃん」 「っと、大分涼しそうな格好してるなあ、おい」 男の顔に、攻撃的な興奮が浮かぶ。 よくある種類の騒ぎだ。 どうにもならなくなるまでは、放っておいて差し支えない。 「おーい、どうした?」 「このねーちゃんが、わざとぶつかって来やがった」 「おいおいおいおい、何してくれてんだ」 「ふぇーん、だからごめんって」 男二人に涙目で謝るリサ。 周囲の人々は無関心に通り過ぎていく。 「そ、そうだ。ぶつかったお詫びに、どう? すっごいご奉仕するから」 「タダなんだろうな?」 「ええと……い、一応お仕事なんで……それなりには」 「ったく、娼婦ってのはこれだ。金、金、金。人間らしい誠意ってもんがない」 「よーし、お前。金をやるから、今ここで突っ込め」 男が、地面に転がっていた棒きれをリサの足元に蹴飛ばす。 そして、2、3枚の硬貨を地面に放った。 「こ、これはさすがに太いというか、ゴツゴツしすぎというか、恥ずかしいというか」 「腰振るしか脳がねえのが、人間みたいなこと言うな」 「ああ? 足りねえかこれじゃ」 もう一人の客が、さらに硬貨を投げつけた。 「ほら、さっさと突っ込めよ、脚開いてな。大好きなんだろ?」 「マ、マジか……この人ら」 へらへらしていたリサの顔から余裕が消える。 素通りしていた通行人も、ぽつぽつ足を止めはじめた。 「早くしろ」 野次馬たちからも金が飛ぶ。 リサの顔や身体にぶつかった硬貨が、澄んだ音を立てて地面に落ちる。 「く……」 屈辱にリサの肩が震えた。 「おい」 「あ?」 「娼婦でも、一応売らないものがあるんだ」 酒で赤く染まった顔面を殴る。 「ひっ」 もう一人は腹に突きを入れた。 「ぐ……」 「う……」 二人は、芋虫のようにだらしなく地べたに転がった。 すぐには起き上がれないだろう。 「カイム先生、遅い遅い遅いっ」 「お前が撒いた種だろ」 「それは、そうだけど、でも」 「さっさとリリウムに帰れ」 「う、うん。ありがとね、カイム。また後でっ」 リサが走り去る。 それを合図に、どこからともなく現れた乞食たちが、先を争って硬貨を拾い始めた。 倒れている酔客の懐も容赦なく漁られる。 長居は無用だ。 漂う紫煙と甘ったるい香の匂い。 娼館リリウムの空気は、時間が止まったように沈滞している。 椅子に座って天井を見上げていた女が、のろのろと俺を見た。 「アイリス。客引きくらいした方がいいんじゃないか?」 「小言?」 「言われたくないなら客引きしろって話だ」 「じゃあ、私と遊んでよ。そしたら客引きせずに済むから」 「俺は高いぞ」 「あはははは」 「死ね」 気だるげに物騒なことを言う。 冗談でも本気でもなく、何となくしゃべっているだけ。 プカプカ漂う煙草の煙みたいな女だ。 評価できるのは、誰に対しても態度を変えないところだ。 「クローディアは?」 「仕事中」 「立派だ。お前も見習えよ」 「さっきまで3人連続」 「今日も予約2人」 「これ以上人気者になったら、身体が持たない」 「そいつはお見それした」 「年季が明ける日も遠くないんじゃないか?」 「ばーか、年季まで働けるわけあるか」 「5年も経てば、どうせ〈蛆〉《うじ》の餌」 年季明けまで勤め上げる娼婦はごく稀で、娑婆に戻れるのは100人に1人いればいい方だ。 大抵の女は、病気になるか頭がいかれるかして、娼館の〈黴〉《かび》臭い狭い部屋で死ぬことになる。 娼館も、よっぽど人気がある女以外は消耗品としか思っていないから、医療なんぞには金を使わない。 救いのない現実を前にした娼婦の反応は、大体3つ。 クローディアのように、懸命に奉仕して誰かに身請けされるのを狙うか、 リサのように頭のネジを外して現実から目を逸らすか、 アイリスのように諦めるか。 ごく稀に娼婦が天職だと言う女もいるが、それは娼婦になる前から頭がいかれていただけだ。 「……で、説教好きのカイムは何の用?」 ちょいと上を指さす。 「どうぞ」 「じゃあな」 カウンターの脇をすり抜け、客が使えない階段を上る。 「カイム」 「なんだ」 「リサのこと、助けてくれたってね」 「今度、大奉仕するって、さっき言ってた」 「間に合ってる」 「不能野郎が」 抑揚なく言って、アイリスは再び天井の模様に目を移した。 「荷物の中抜きは先代からの〈御法度〉《ごはっと》だ。関係した奴は全員殺せ」 「始末の仕方はお前に任せる」 「はい、わかりました」 オズは〈慇懃〉《いんぎん》に頭を下げてから、こちらを見た。 「これはカイムさん」 「邪魔するぞ」 「では、私はこれで」 俺に軽く目礼すると、部屋を出て行った。 「誰か抜いたのか?」 「ああ、どうも自殺志願者が多くて困る」 「ばれないとでも思ってんのかね」 目で着席を促され、俺は遠慮なく腰を下ろす。 ジークは木箱から葉巻を取り出し、ナイフで吸い口を作った。 「どうだ? 上層から来たもんだ。なかなか美味い」 「やめておく」 「もったいない」 気を悪くした風もなく、ジークは葉巻を指に挟む。 「で、早速だが、頼みたいことがある」 目で先を促す。 「今夜、ここに来るはずの馬車がまだ到着していない。様子を見てきてほしいんだ」 「部下がいくらでもいるだろ。どうして俺に?」 「積み荷だよ」 「娼婦にする女たちなんだが、ほとんどは上層で調達した」 「大したものだ」 上層で買われた女は娼婦として人気がある。 相当稼げるだろう。 「お得意筋の注文でね。金もずいぶん使ったし危ない橋も渡った」 「だから、今夜の取り引きは一部の人間にしか知らせていない」 言葉を切ったジークが、葉巻にゆっくりと火を点ける。 「単純な事故ならいいが、《〈風錆〉《ふうしょう》》が絡んでいるとなると面倒だ」 《〈風錆〉《ふうしょう》》は《不蝕金鎖》と牢獄での勢力を二分する組織で、頭はベルナドという男が務めている。 「あいつら、娼婦の横取りまでやってるのか?」 「《不蝕金鎖》の邪魔になることなら、なんでもだ」 「とことんまで嫌ってくれて、涙が出るほど嬉しいよ」 「なるほど」 「だから、お前に頼む」 奴らが絡んでいるとすれば面倒だ。 《不蝕金鎖》の若いのに任せると、厄介事を増やす可能性もある。 ここは、引き受けておこう。 「わかった」 「馬車が通る道筋を教えてくれ」 「助かる」 ジークが、机の引き出しから地図を取り出す。 「いつもすまんな」 「珍しい。どうした?」 「何となくだ」 はぐらかすジークだが、今度の仕事に嫌な予感でもしたのだろう。 気を引き締めよう。 「お互い先代に仕込まれた仲だ、気にするな」 「ああ、兄弟」 上層や下層の人間が眉をひそめる牢獄。 ここから先は牢獄の最奥。 殺しはもちろん何が起こっても不思議ではない。 「……」 空気の淀みと悪臭に閉口しつつ、ジークに教えられた経路を辿っていく。 通行人はいない。 だが、路地の暗がりや窓の隙間からは、〈猛禽類〉《もうきんるい》のような視線が投げかけられている。 荒い仕事に慣れていない人間なら、見られていることにすら気づかないかもしれない。 久しぶりに味わう肌がピリピリするような感覚に、ふと昔を思い出す。 暗殺を生業にしていた頃は、毎日のようにこんな路地を歩いた。 目標の隙を見つけるため、ドブの中に二昼夜ほどいたこともある。 あの時は、体じゅうを得体の知れない虫が這い回って気が狂いそうになった。 殺しをやめた今でも、あの頃の事は身体が覚えている。 そもそも、望んで始めた仕事ではなかった。 だが、暗殺者を選んでいなければ、今頃は男娼になっていたか野垂れ死んでいたかだ。 選択の余地はなかった。 久しぶりに、あの時の情景が脳裏をよぎった。 俺の生き方に説教を垂れたかったのだろうか。 馬鹿らしい。 「……」 感傷的な時間の使い方はやめよう。 と、意識を周囲に戻した時── 僅かにだが、湿り気を帯びた打撃音がした。 人間が殴打される音── というよりは、馬車に踏み潰された時の音に近い。 「……」 一回、二回と角を曲がるほどに、道は細くなり、空気の淀みが増していく。 両脇の建物は高くそびえ、月の光はほとんど届かない。 すべてが不鮮明な暗闇の中、鮮烈な血の匂いが流れてきた。 十中八九、人が死んでいると見ていい。 誰が殺しているのか。 ジークが仕入れた女達が被害者なのか。 重く湿った音に混じり、荒い息づかいが聞こえる。 獣じみた息づかいだ。 殺すことに興奮を覚える奴だ。 そんな想像が頭をよぎる。 「……」 来るべき戦闘に備え、身体の力みを抜く。 頭の中で、自分が成功する心象を反復する。 この儀式を経ることで、精神と肉体が暗殺者のそれへと最適化される。 何も特別な技術じゃない。 仕事の前に必ず同じ行動を経ることで、回路の切り替えを心身に促す。 《不蝕金鎖》先代から教えられた、ちょっとした作法だ。 ナイフを抜く。 無反射加工の刀身が、ぬらりと闇に溶ける。 「(行くぞ)」 惨劇の舞台へ飛び込もうとした〈刹那〉《せつな》、 強烈な光が周囲を照らし出した。 光はすぐに収束する。 何事もなかったように、路地はまた闇に包まれた。 「そんな、馬鹿な……」 この光の色…… 忘れることなどできない。 あの日── 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の直前、〈天蓋〉《てんがい》を覆った光。 《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》と同じ色だ。 「まさか……」 再び《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》が── 考えるより早く、恐怖が頭を埋め尽くした。 自然と息が荒くなる。 視界の焦点が定まらない。 存在の芯を揺るがすような、〈傍若無人〉《ぼうじゃくぶじん》なまでの恐怖。 冷静になれ。 この状況での混乱は、確実に命を縮める。 腹に力を入れ、呼吸を整える。 その時、 「くっっ!」 反射的に仰け反った俺の鼻先を、何かが一閃した。 拳か鈍器かはわからない。 だが、確実な殺意を持った攻撃だった。 一瞬でも反応が遅れれば、俺の頭は消えていただろう。 体勢を立て直し、次の攻撃に備える。 「……」 しかし、相手の姿が見当たらない。 慌てて見回すと、遠くの横路地に吸いこまれていく黒い影が一瞬だけ見えた。 一体、何者だったのか。 恐ろしく俊敏だった。 かろうじてわかったのは、黒っぽい姿をしていた、ということだけだ。 ふと、左頬を濡らす液体に気づいた。 何かで切り裂かれたようだ。 命があっただけでも幸運だった。 指先で血液の塩気を味わい、気を引き締める。 「よし」 確かめなくてはならない。 黒い人影が、路地の奥で何をしていたのか。 これから直面するであろう惨状を想像しつつ、路地の奥へと進む。 「うっ……」 こみ上げる〈嘔吐感〉《おうとかん》を何とかやり過ごす。 死体には慣れていると思っていたが、甘かったようだ。 これほどの惨状は見たことがない。 唇を噛み、衝撃で朦朧とした頭に活を入れた。 路地は、全てが血に染まり、ただでさえ汚れた道や壁が真っ黒に見えた。 両側の壁には、腸やら指やら毛髪やらがこびりつき、さながら人体部品の展示会だ。 石畳には、一雨あったかのように、なまめかしく光る水溜りができている。 そこに、いくつもの肉塊が浸っている様は、具の多い豪華な煮込み料理にも見えた。 死体はざっと5、6人分だろうか……はっきりとしない。 周囲を警戒しながら、死体を検分していく。 手始めに、馬車の残骸にしがみついている男の上半身を転がした。 「こいつは……ジークの部下だったな」 とすると、他の死体はジークが仕入れた女達か。 娼婦生活に明るい希望を持っていたとも思えないが、よもやこんな死に方をするとは想像もしてなかっただろう。 苦しまずに死ねたのなら、娼婦になるよりはよかったのかもしれない。 肉塊となった女たちの数を確認しながら、ふとそんなことを思う。 カタッ 物音がした。 壁に立てかけられた材木の陰だ。 「誰かいるのか」 ……。 …………。 返事はない。 ナイフを構え物音の正体を確かめる。 そこに転がっていたのは、一人の少女だった。 誰かに助けを求めたのか、前方へと手を伸ばしている。 しかし不思議だ。 服はボロボロだが、肌はほとんど傷ついていない。 いかれた殺人者のお気に召さなかったのだろうか。 「……」 まずは生死を確認しよう。 少女の首筋に手を伸ばす。 「!?」 身体が光を帯びた。 「こ、この色は……まさか……」 《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》の輝き。 どういうことだ? なぜこんな光を放っている。 いや待て、そもそも人が光るなんて有り得ない。 目の錯覚だ。 困惑する俺の眼前、 少女を包んでいた光が、生き物のように背中に集まっていく。 そして── 小さな羽となった。 「羽つき……なのか」 だが、光が集まってできた羽なんて聞いたこともない。 一体、何なんだ。 混乱する俺の前で少女の光が弱くなっていく。 「おい、生きてるか! おい!」 「……」 胸が僅かに上下している。 逃げられた奴がいるかもしれないが、今のところ確実な生存者はこの少女だけだ。 エリスにでも介抱させ、事件の情報を聞き出したいところだ。 とはいえ羽つきを連れ回せば、羽狩りに目をつけられる可能性がある。 どうする? ここに放置しておけば、チンピラか野良犬がいいように処分してくれるだろう。 「……」 くそっ。 「何これ?」 ベッドで寝ている少女を見るなり、エリスが言う。 「拾った」 「子供じゃあるまいし。物をほいほい拾わないで」 「ジークの仕事の一環だ」 「だったら、〈娼館〉《リリウム》にでも運んだら?」 「それができりゃいいんだが……これを見ろ」 拾ってきた少女をうつ伏せにする。 〈肩胛骨〉《けんこうこつ》付近に、羽化病発症の証である白い翼が一対生えていた。 指の先程の大きさだが、形状は鳥の翼と大差ない。 「あ〜……」 露骨に面倒臭そうな顔をした。 「あっちに運ぶと面倒をかける」 「ジークの代わりに貧乏くじ引くつもり? 友情越えてる」 「俺なりに確かめたいことがあるんだ」 「だからって、羽化病が〈伝染〉《うつ》ったらどうするつもり?」 「そうなってから考える」 「大体、羽化病以外にも死ぬ病気は山ほどある。今さら……」 「はいはい、メルトと同じ意見ね。わかりました」 「無理して付き合う必要はないぞ」 「お前の言う通り羽化病が〈伝染〉《うつ》るかもしれん」 「必要でしょ、医者は」 と、俺の頬を指で撫でた。 「立派な傷つくって。何があったの?」 「そいつを報告したいから、ジークを呼んできてくれないか?」 「俺は、こいつを見張っている」 「治療が先」 熱っぽい目をして、エリスは持参の治療箱を開く。 「嬉しそうな顔してるな」 「まさか、気のせいよ」 「……あ、この傷、凄い斬れ味。何で斬られたの?」 「やっぱり、メルトに治療してもらう」 「……くっ!?」 傷を指で突っつかれた。 「何のために医者やってると思ってるの?」 「すぐ終わるから、余計なこと言わないで」 頭の中身はともかく、エリスの腕は確かだ。 何度か瞬きする間に、治療はあっさり終わった。 「傷は浅いから、跡は残らないと思う」 「残念ね、箔がつかなくて」 軽口を叩きながら、エリスは治療箱を片づける。 「それじゃ、ジークを呼んでくる」 「頼む」 エリスが俺の家を出て行く。 「変態医者め」 「聞こえてるから」 ドアの外で聞いていやがった。 しばらくして、ジークが現れた。 「美人が呼んでるらしいな」 「期待に応えられればいいが」 親指でベッドの少女を差す。 「ほう、稼げそうな顔をしてる」 「だが、俺はもっと鋭い顔立ちが好きだ」 「ジークの好みなんて聞いてない」 「きついこと言うな」 「せっかく美人なのにもったいないぞ」 苦笑いを浮かべつつ、ジークはテーブルに座った。 「さて、まずは状況を聞こう」 「ああ」 依頼を受けてからのことを、ざっと報告する。 目を閉じたジークからは怒りが伝わってきた。 部下と女が殺されているのだ、無理もない。 「……状況はこんなところだ」 「……」 ジークは口も目も開かない。 懐から煙草入れを取り出し、紙巻きを一本咥えた。 エリスが特別に調合した煙草で、気持ちを落ち着ける作用があるらしい。 いがらっぽい匂いのするそれを半分ほど吸って、ジークは靴の裏で火をもみ消した。 「状況はわかった」 「組織との繋がりを勘ぐられそうな物は回収しておいた」 ジークの部下の死体から取ってきた遺留品を渡す。 そこそこの〈誂〉《あつら》えのナイフが一振り。 あとは、組織の紋章が彫られた小さなプレートだ。 組織の構成員は、これを肌身離さず持っている。 「悪いが、死体は俺一人じゃどうにもならない」 「ああ、こちらで処理する」 ジークは〈沈鬱〉《ちんうつ》な視線をナイフに落とした。 「オズ」 即座にドアが開き、オズが入ってくる。 「こいつには女と子供がいたな」 「娘が2人です」 「このナイフを届けてやれ」 「あと、身の振り方を考えられるだけの金も」 「わかりました」 オズが出て行く。 「可哀想なことをした」 呟きが漏れる。 「被害状況から見て、《〈風錆〉《ふうしょう》》は絡んでいないな」 「奴らなら女は殺さずに、自分の店で働かせるさ」 「何にせよ、まずはこいつから話を聞かないとな」 と、寝ている少女に近づく。 「まだ意識が戻ってない」 「いつ戻る?」 「さあ」 「お前、医者だろ」 「知らないわよ」 「キスでもしてみたら? 目を覚ますかもよ」 「うるせえ」 ジークが荒く鼻息をつく。 「で、この眠り姫をどうする?」 「口が利けるようになるまで俺が預かる」 「羽つきをお前のところに置くわけにもいかないだろう」 「俺が頼んだ仕事は状況の確認だけだ。お前が面倒見る必要はないぞ」 「こいつに聞いてみたいことがあるんだ」 「例の光のこと?」 「ああ。確かに《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》と同じ色だった」 「信じられん」 「だろうな」 「エリス。羽化病が発症する時に身体が光るって話は聞いたことがあるか?」 「〈寡聞〉《かぶん》にして」 「どう考えても、カイムの錯覚だと思うけど」 あの時、俺は気を張っていた。 錯覚とは思えないが。 「ともかく、この女に聞いてみる」 「任せよう」 「しかし、羽化病が〈伝染〉《うつ》ったらどうするつもりだ?」 「メルトと同じだ。気にしていない」 「ほう、立派なもんだ」 「俺はそこまで悟っちゃいないんで、こいつに会うのは最低限にさせてもらう」 「代わりと言っちゃなんだが、情報を引き出した後のことはこっちに任せてくれ」 「どうするの?」 「処分する」 「羽つきじゃ娼婦にもならんし、羽狩りに余計な事を喋られるのも面倒だ」 ため息をつくエリス。 「いずれ処分される子を治療するの?」 「よくある話だろ」 「ま、そうだけど……」 エリスは娼館街の女を中心に面倒を見ている。 娼婦は基本的に貧しく、積極的に医者にかかるような奴はいない。 大概は、手遅れになってから周囲が医者を呼ぶのだ。 「その分の礼はさせてもらう」 「お金はいらない」 「なら、カイムを一日自由にしていい」 「乗った」 「勝手に俺を売るな」 「いいだろ別に。きっと優しくしてくれるぞ。な?」 「安心して私に任せて」 「女は間に合ってる」 こいつらは、どうして仕事の話から一瞬で脱線できるのだろう。 疲れることこの上ない。 「ま、細かいことはいい」 「この女から話が聞き出せたらまた呼んでくれ」 ジークが机の上に布袋を投げた。 音から察するに、かなり入っているようだ。 「仕事の礼だ」 「太っ腹じゃないか」 「お前に行ってもらわなかったら、仲間の葬式が増えたところだったからな」 「浮いた金を還元しただけさ」 背中越しに手を振って、ジークは出て行った。 「やっぱり、これを家に置くんだ」 「情報を聞き出すまでの話だ」 「気に入らないか?」 「かなり」 「でも、私が何を言ったって無駄なんでしょ?」 「わかってるじゃないか」 「伊達に長い付き合いじゃないな」 「褒められても、ぜんぜん嬉しくないから」 険のある目で俺を見つめてから、呆れたようにため息をついた。 「ま、私もできる限りのことはさせてもらうわ」 「お前まで面倒に首を突っ込む必要はないぞ」 「中途半端に気を遣わないで」 「じゃ、明日からご飯作りに来るから」 さっさと決めて、エリスは部屋を出て行く。 ふと、その足が止まる。 「ねえカイム」 「なんだ?」 「私みたいな女、これ以上増やさないでよね」 「わかってる」 「情報を引き出したら、ジークに処分してもらう」 「だといいけど」 「カイム、変なところで根性ナシだから」 「どういう意味だ?」 「じゃ、お大事に」 答えを返さず、エリスは出ていった。 あいつとは、昔からこんなやりとりをしている。 エリスを身請けしてからもう10年近くになるが、奴は今も俺の側にいようとする。 いつになったら、彼女の人生を歩き出してくれるのか。 「……さて」 俺も休もう。 まずは、少女の足とベッドの脚を縄で結ぶ。 戸締まりや装備を入念に確認し、俺は椅子の上で毛布にくるまった。 少女の胸は規則正しく上下している。 寝首をかかれることはないだろうが、今夜は眠らない方が安全だ。 揺らめく灯りを眺めながら、少しだけ意識を沈める。 頭に浮かんでは、また沈んでいく記憶。 ああ。 この空か。 何度も夢に見た空だ。 幼かったあの日。 俺は、紫色に染まる空を見上げ、ただ綺麗だと思った。 数瞬後、下層の一部が消滅するとも知らずに。 崩落があった時、自分が何を考え、何をしていたのか。 まったく覚えていない。 覚えているのは、 激しい地震。 轟音。 悲鳴。 そして── 不快感に〈瞼〉《まぶた》を開いた。 例の光を見たせいか、どうも今日は《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》のことを考えてしまう。 再び目を閉じる。 「……」 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》。 家族も、友人も、 嫌いだった男も、ちょっと気に入っていた少女も、 金持ちも貧乏人も、善人も悪人も、 一切の区別なく、下界へと落ちていった。 火災や殺人のように、死体が残ったりはしない。 崖から下を眺めても、見えるのは薄い雲と黒い混沌に覆われた下界だけ。 家屋の残骸すら認めることはできなかった。 そのせいだろう。 幼い日の俺は、自分が全てを失ったことを信じられず、ただ呆然と座り込んでいただけだった。 それから、どこをどう辿って牢獄に行き着いたのか。 気がつけば娼館の下働きをやっていた。 《不蝕金鎖》の先代に気に入られてからは暗殺者。 そして今は娼館街の用心棒。 人生、どう転ぶかわからない。 転落人生かもしれないし、その場その場で最良の選択をしてきたのかもしれない。 明らかなのは、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》のせいで俺の人生は変わったということだけだ。 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》は都市の姿も一変させた。 元々この都市には、貴族が住む上層と、民衆が住む下層という2つの区域しかなかった。 だが、崩落に伴う地震で下層の一部が沈降し、もう一段低い区域が生まれた。 そこが牢獄だ。 名前の由来は簡単。 地盤沈下により生まれた断崖絶壁に囲まれ、容易に人の行き来ができなかったことからだ。 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》直後── 牢獄は家屋倒壊による死者と怪我人で溢れていたが、十分な救助も物資もなかった。 もちろん、治安の維持など望むべくもない。 牢獄は、完全な無秩序状態に陥った。 だが、それは意外に早く収束へと向かった。 《不蝕金鎖》の台頭だ。 彼らは、いささか荒っぽいやり方ではあったが、人に規律を与えた。 また、縄と籠で下層と物資をやり取りする仕組みをいち早く作り、物流を独占。 同時に、牢獄の復興にも尽力し、多くの人に屋根と仕事を与えた。 〈未曾有〉《みぞう》の災害に手をこまねいていた国の役人たちは発言力を失い、牢獄は《不蝕金鎖》の王国となったのだ。 といっても、仁義に厚かった《不蝕金鎖》の先代にしてジークの親父── ボルツ・グラードは、国の役人を追い出したりはしなかった。 あくまでも彼らを立て、牢獄の治安管理を委託されている、という形を取った。 もちろん、十分に調教した上での話だが。 《不蝕金鎖》王国が完成するまでの途上には、彼らに従わない集団も、それなりに存在した。 どんな組織にとっても、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》後の混乱は勢力を拡大する千載一遇の好機だったからだ。 そういう奴らを端から順に片づけていくのが、俺やジークの仕事だった。 何人も、殺し、殺し、殺し、殺し……殺し。 何度か死にそうな目にも遭ったが、そのたびにジークと協力して何とか切り抜けてきた。 暗殺の仕事を辞めた今でも奴に協力しているのは、その頃からの付き合いがあるからだ。 ま、腐れ縁と言ってもいい。 ジークのためにも、女には、さっさと情報を吐いてもらいたいもんだ。 窓から入り込んだ朝日が、目の奥をピリピリ刺激する。 結局、少女は身動き一つしなかった。 空腹を覚える。 テーブルの上には乾いたパンと、わずかな干し肉。 腹は減っているが、徹夜明けの身体では手に取る気にもならない。 扉が叩かれた。 「誰だ?」 「あなたのエリス」 ……。 …………。 ………………。 ……………………。 「ごめん」 「わかりゃいい」 ドアを開けると、強い朝日を背負ってエリスが立っていた。 「徹夜明けに見ると美人だな」 「いつでも美人だから」 ぶっきらぼうに言って、エリスが部屋に入る。 「早いじゃないか」 「別に」 日の出と共に現れるとは律儀なものだ。 「これ、食べて」 「おう」 突き出された布包みの中には、まだ温かい鳥の香草パイ包みが入っていた。 「いいじゃないか」 こいつには赤ワインが合う。 ボトルから杯へワインを注ぎ、早速パイを頬張る。 肉の脂と香草の香りが鼻腔に抜ける。 余韻が消えないうちにワインを含む。 パイの塩分と甘み、ワインの酸味が一体となり、胃袋にずしんと落ちた。 ため息が漏れる。 「目が覚める」 「私のお料理、お気に召して?」 「メルトの味付けは、相変わらず絶妙だ」 「ん?」 「ばれないとでも思ったか?」 エリスは、俺の飯を作りたがる割には料理が下手だ。 「屈辱」 「とはいえ、注文してくれたのには感謝しとく」 「女たらしみたいな台詞はいらないわ」 たるそうに言って、エリスはベッドの少女の容態を診る。 「熱は……ない」 「脈も……ない」 「おい」 「冗談よ」 「あほか」 「で、実際どうなんだ?」 「昨日よりはいいと思うけど、いつ起きるかはわからない」 「そうか」 困ったもんだ。 予定が立てられない。 「私起きてるから、少し休んだら? あまり寝てないでしょ」 「眠くはないが、ちょっと気分転換に散歩してくる」 「お大事に」 「すぐ戻る」 干し肉を一切れ口に放り込んで、部屋を出る。 普通の街では、朝は一日の始まりだ。 しかし、ここでの朝は夜の残り〈滓〉《かす》とでも言った方がいいだろう。 曇った目で家路につく客や女達。 通りにまき散らされた〈吐瀉物〉《としゃぶつ》と、それを漁る野良犬やネズミ。 精臭を押しつぶす、強烈なお香の臭気。 夜通し人間の欲望を吸いこみ律動した街のなれの果てだ。 そういった諸々を照らし出す朝日は、むしろ残酷とさえ見えた。 「あら、カイム様じゃございませんか」 「クローディアか。久しぶり」 横合いから声をかけてきたのは、リリウムで最も人気のある娼婦だった。 「先日はお店をお訪ね下すったようで。申し訳ございませんでした」 「ちょっとジークに用があっただけなんだ。気にしなくていい」 「仕事明けか?」 「はい。今しがた、お客様がお帰りになったところです」 「毎晩忙しくて何よりだな」 「お陰様で、皆様がお引き立て下さいまして」 控えめに澄んだ笑顔を浮かべる。 彼女の瞳は、この時間でも曇っていなかった。 「いつもなら閉めさせて頂く時間ですけれど、カイム様でしたら、よろしゅうございますよ」 「遊んでいかれますか?」 と、少しほつれた髪を直す。 骨の奥にまで響く色気だ。 「お前と遊ぶなら、もっとゆっくりできる時にする」 「あら。では、楽しみにお待ちしております」 「じゃあな」 立ち去りかけた俺を、クローディアが引き留める。 「あ、もしよろしければ、これをお持ち下さいな」 身につけていた花を一輪、俺の胸につけてくれた。 「私が着けていたもので恐縮ですが、とても良い香りがしますの」 「きっと、お疲れを癒やしてくれることと思います」 「どれ」 すっと息を吸うと、さわやかな香りがした。 クローディアのような香りだ。 淀んだ空気の中でも、輝きを失わない。 「確かに気持ちが落ち着くな」 「そう言って頂けて嬉しいです」 たおやかに頭を下げる。 「じゃ、お疲れさん」 「はい。お休みなさいませ、カイム様」 クローディアに背を向けた。 娼館街の端まで来て振り返ると、まだ俺を見送っていて、小さく手を振ってくれた。 さすが、そこいらの安女とは違う。 ……。 あれで中身がまともなら最高なんだが。 「悪いな、店じまいしてるとこ」 「あら、こんな時間に珍しいじゃない」 「簡単なものしか出せないけど。それでもいいなら」 「構わん」 「お酒にする?」 「目覚ましに来たんだ。生姜茶を頼む」 メルトが、てきぱきとお茶を出してくれた。 「あら、その花……へー、ふーん、ほーお」 「〈下衆〉《げす》の勘ぐりだぞ」 「エリスだけじゃなくクロまでなんて、絶対誰かに刺されるわよ」 「クローディアはないな」 「あいつは夜がドSだろ。俺の好みじゃない」 「お仕事なんだし、ちゃんと合わせてくれるって」 「それもそうか」 「なーに、その気になってるのよ。私という女がいながら」 「悪かった。なら久しぶりに相手してもらおうか」 カウンター越しにメルトの腕を取る。 「今から?」 「嫌か?」 「……しょうがないわね」 「じゃ、カウンターの上で服脱いで」 「あほか」 「あはは、ごめんごめん」 やり返された。 「こんな冗談言ってると、エリスに怒られるわね」 「怒らせておけ」 「あ、酷い」 「あの子がカイムにご執心なのは知ってるでしょ?」 「さあな」 「冷たいこと言わないの」 「今朝のご飯だって、夜のうちからエリスが頼んできたのよ」 「私がカイムに届けようかって言ったら、嫌な顔されたけど」 「あいつ、メルト苦手だからな」 「こっちはエリスのこと好きなのに、つれないわよね」 「口説き方、教えてよ」 「口説いたことない俺が知るか」 「身請けしたくせに」 「流れだ、流れ」 あいつとのことは、ややこしすぎて口にする気にならない。 「つまんないわね」 「大体、身請けならメルトだってされてるだろ」 「その時のことを思い出してみろ」 「私はねえ」 「……ほら、ま、流れよ」 「そういうもんだ」 メルトを身請けしたのは《不蝕金鎖》の先代だ。 余計なことは知りたくなかったりもする。 「で、どうなの、例の女の子」 「ついてるんでしょ?」 メルトは、両手でパタパタと翼を羽ばたかせる真似をした。 「発病1日目だ。今はエリスに見てもらってる」 「目を覚ましたら食事とか必要になると思うから、遠慮なく言って」 「悪いな」 「さて……」 杯に残っていた生姜茶を飲み干し、席を立つ。 「お帰り?」 「ああ」 「それじゃ、私も寝よっかな」 カウンターに銅貨を置き、店を後にする。 「きゃあっ!?」 「……」 面倒が起きているようだ。 エリスが、ベッドの少女に襲い掛かっていた。 「い、い、か、ら、ね、て、な、さ、い」 「や、め、て、く、だ、さ、い」 「私は、医者だって、言ってる、でしょ」 「嘘つきは、地獄に、落ちるん、ですよ」 ベッドに押し付けようとするエリスの腕を、少女が必死で食い止めている。 「取り込み中か?」 「ひっ!?」 俺を見た少女が小さく悲鳴を上げた。 力が抜けた女の腕をエリスがすかさず極める。 「痛いです痛いです痛いです痛いですっ」 「カイム、遅い」 「悪い」 「お前、腕なんて極められたのか」 ベッドに近づき、エリスの代わりに女を押さえた。 「職業柄、身体には詳しいから」 立ち上がったエリスが、乱れた髪と服装を直す。 「まったく。胸に花までつけて、どういう気分転換してきたのよ」 「何もしてない。たまたまクローディアにもらったんだ」 「へえ、クロがねえ……」 「いちいち目くじら立てるな、面倒臭い」 ご機嫌斜めなエリスはさておき、少女を見る。 観念したのか、抵抗を止めてぎゅっと目をつぶっている。 「初めに言っておくが、お前に危害を加えるつもりはない」 「あと、この女が医者っていうのは本当だ」 「あ、あなたは?」 「俺? 娼館街の何でも屋だ」 「何でも屋って何をするんですか?」 「何でもだ」 「何でもですか、なるほど……」 「つ、つまり乱暴なこともするんですねっ!?」 「静かにしろ」 少女をベッドに突き放す。 「うう……」 「泣かせてるし」 「黙ってろ」 「黙ってる」 椅子を持ってきて、ベッドの前に陣取った。 少女は、ベッドの端で身を守るように毛布を抱きしめている。 「お前、自分が牢獄に売られて来たのは知っているか?」 「は、はい……」 「同じような境遇の女達と、まとめて馬車に乗せられた。そうだな?」 「……そう、です」 「それからどうした?」 「……」 「どうしたか聞いてるんだ」 「そ、それから……それからは……」 「ええと……えっと……それから……」 「……」 少女の額に汗が浮かんできた。 恐怖と緊張で、まともに頭が回っていないらしい。 手間がかかりそうだ。 「もう一度聞くぞ」 「馬車に乗ってからどうなった? 覚えていないなら、覚えていないと言ってくれ」 極力優しく言う。 「う……」 「あの……外が見えない馬車で……ずっと走っていたら……突然、すごく揺れて……」 「それで?」 「……」 激しかった女の瞬きが止まる。 薄い花弁のようだった唇から血の気が引いていく。 「それで?」 「気がついたら、地面に転がってて……周りに…………」 「周りに?」 「う、あ……」 「あ、あ、あ…………」 女の身体が震えだす。 激しい〈痙攣〉《けいれん》に、歯がカチカチと音を立てている。 「周りにどうした? 何があった?」 「だめ、です……わかり、ません……ひっ……う…………」 「うっ……ひっ……ぐすっ……う、う…………」 死体に慣れた俺でも辛かった光景だ。 少女には刺激が強すぎたのだろう。 「……」 そう考える傍ら、直感が警告を発していた。 表情か、態度か、声か……判然としないが、どこか腑に落ちない。 ガキの頃から牢獄の底で殺しをやってきた自分の直感だ。 ある程度信頼している。 ここは慎重にいこう。 「その辺にしてあげたら。口きけそうもないし」 「仕方ないか」 エリスが、まだ震えている女の背を撫でる。 「大丈夫、大丈夫よ」 「う……う、う……」 それでも震えはすぐには収まらない。 「任せた」 「面倒なことだけ押し付けるのね」 ぶつくさ言いながらも、エリスは根気強く少女の相手をしてくれる。 少女の呼吸がようやく落ち着き、話を再開する。 「俺達は、お前が買われた娼館の関係者だ」 「さっきも言ったが、危害は加えないから安心しろ」 「この人は、道に倒れていたあなたを助けてくれたのよ」 「助けて、くれた? ……わたしを?」 少女が目を見開く。 「とにかく、今はゆっくり休んで」 「はい」 少し緊張が解けたようだ。 やはり同性がいて良かった。 「さ、横になって」 エリスに促され、女がベッドに体重を預けていく。 「っっ!?」 女が跳ね起きた。 「ん? あれ?」 自分の背中に手をやり、忙しげにまさぐる。 そこにある新しい部位が生まれたことを、こいつはまだ知らないのだろう。 「ここだ」 少女の手を、小さなそれに触れさせてやる。 「え? え? ……え?」 少女が救いを求めるように俺達を見る。 エリスと俺は目を合わせ、肩で嘆息した。 「羽だ。羽化病が発症したんだ」 「え……」 凍るとは、こういうことを言うのだろうか。 少女はぴくりとも動かなかった。 「いや……」 「?」 「いや……いや……」 「いやいやいやいやぁぁぁっっ!」 少女がベッドから転がり落ち、ドアに向かって走り出す。 「きゃっ」 勢いよく転倒した。 足が縛られているのに気づかないほど動揺しているらしい。 「いや……たすけ、て……」 床に這いつくばりながらも、ドアに手を伸ばしている。 その腕を掴む。 「ひっっ!?」 「大丈夫だ。羽狩りには突き出さない」 「う、嘘です」 「本当」 面倒だし、適当に嘘をついておこう。 「こいつは医者だ。羽化病が伝染しにくいと知ってるんだ」 「う、う……でも……」 「忘れてるかもしれないが、お前は娼館に買われた身だ」 「もし逃げるなら、そっちの理由で追われる覚悟もしろ」 「逃げきれると思うか?」 少女が横に小さく首を振る。 「大人しく寝てろ」 腕を離すと、少女は力なくベッドに座った。 それをエリスが寝かしつける。 何とか落ち着いてくれそうだ。 なまじチンピラの相手をするより手がかかる。 「鎮静剤飲ませておく」 「それで半日くらいは静かになると思う」 「助かる」 「俺はジークのところに行ってくる」 「ついでに昨日の現場も見てくるから、しばらく戻らない」 「りょーかい」 軽く手を振られ、俺は部屋を出る。 「邪魔するぞ」 重厚な木製の扉を開ける。 部屋には、葉巻の甘い香りが充満していた。 「おう」 「女が目を覚ました」 「何か聞けたか?」 「いや、もう少し時間がかかりそうだ」 「襲われた時の様子を聞いたら、泣き出した」 「現場はかなりひどい状況だったみたいだな」 「片づけに行かせたオズに恨み言をいわれたよ……」 「飯も喉を通らない。お陰様で食費が浮くとさ」 面白くもなさそうに鼻で笑うジーク。 「今はエリスが寝かせてる。ま、しばらくは様子見だ」 「わかった。まともにしゃべれるようになるまでは任せる」 「で、犯人の目星はついたか?」 「オズの話じゃ、『バケモノ』の仕業だとさ」 「バケモノか……確かに、あの死体はただの人間には作れんな」 「いや、オズは〈喩〉《たと》えで『バケモノ』って言ってるわけじゃない」 「人間じゃない何かが殺しをやってるってことだ」 「そんなものが実在するなら、ぜひお目にかかりたいもんだ」 「オズも最近流行りの薬に手を出したのか?」 「いや、真面目な話さ」 「?」 机の上に置かれたのは、一枚の黒い羽根だった。 光沢のない大きな漆黒の羽根で、ところどころ乾いた血が付着している。 「現場でこれが見つかった」 「カラスの羽根だろ」 「そうかもしれないが」 ジークが葉巻に火を点けた。 2口、もったいつけるように味わい、ようやく口を開く。 「最近、黒いバケモノが人を殺してるって噂があってな」 「実際、ここ一月くらいの間に酷い死体がいくつか見つかっている」 「聞いたことがないな」 「黒いバケモノの姿を見たって奴がいるのか?」 「今のところいない」 「だが、死体の傍でこれと同じような羽根が見つかってるんだ」 「だから黒いバケモノの仕業だと?」 「〈お伽噺〉《おとぎばなし》を信じるなんて、お前らしくない」 「信じちゃいない。だが、否定もしない」 「言えるのは、噂があり、羽根があり、人間には作れないような死体があるってことだけだ」 ジークの言う通りだ。 事実は事実として受け止めるべきだ。 「なら、俺も、もう一度現場を見てくるか」 「ははは、乗り気じゃないか」 「明るい時に現場を見たいだけだ」 犯人がバケモノかどうかは別として、自分が殺されそうになった現場だ。 犯人に繋がるものがないか確認しておきたい。 「ま、当然だな」 「オズがあらかた掃除しちまったが、見ておいて損はないだろう」 「ああ」 軽く手を上げ、部屋を出た。 残飯を奪い合う子供の群れ。 麻薬が見せる幻影に没入する男。 下着にも満たないボロをまとい、人を指さしてはけたたましく笑う女。 そこには一さじの目新しさもなく、ただ俺の視界を横切り、記憶の外に流れていく。 上層や下層では許容されない惨めさが、ここでは我が物顔で存在している。 昨晩、何者かに襲われた場所に到着した。 惨劇の現場から、角一つ手前だ。 犯人の手がかりになるようなものはあるだろうか。 しばらく探したが、めぼしいものは見つからなかった。 次は殺人現場だ。 角を曲がると刺激臭が鼻をついた。 路地には血溜りや肉片が残っており、〈鼠〉《ねずみ》の餌となっていた。 オズの掃除は最低限のものだが見落としはないようだ。 被害者の身元を示すものも、犯人を示すものも残っていない。 収穫なしか。 「?」 背後に気配を感じて振り返る。 ちょうど、路地に人が入ってきたところだった。 女だ。 聖職者らしい服装をしているが、牢獄の教会の人間が着ているものとは意匠が違う。 〈物見遊山〉《ものみゆさん》にでも来たように、周囲をきょろきょろと見回している。 しかも、歩き方が隙だらけ。 あまりにもこの場にそぐわない。 そいつは、俺の姿を認めると、やや足早にこちらへ来た。 「あの、すみません」 陽に当たっていない真っ白な顔。 純朴な瞳が俺をじっと見つめている。 牢獄にこんな目をした人間はいない。 「伺いたいことがあるのですが、お時間はよろしいでしょうか」 「ああ」 「この辺りで、何か変わったものを見かけませんでしたか?」 「いつの話だ?」 「昨夜から今までで、です」 「そこら辺に散らばってる血や肉は変わったものじゃないのか?」 「え……」 女が周囲を見回す。 ガタガタと震えだした。 「あ、あ、あ……こ、これ、ほんも、の……」 「本物だ。偽物を撒くなんざ悪趣味すぎる」 「で、探しものはこれでいいのか?」 「い、いえ……これも、変わってはいるのですが、もう少し違うもので」 何が知りたいのだろう。 もしかしたら、昨夜の出来事に関係している人間なのかもしれない。 「あんた、何を探している?」 「わ、私もわかりません」 「……」 馬鹿かこいつは。 「お前、どこから来た?」 「すみません、申し上げられません」 「はあ?」 「申し訳ございません。ご無礼は重々承知です」 女が身を固くする。 わけのわからない女だ。 少し攻め方を変えよう。 「昨日、ここで6人の人間が殺された」 「え?」 「俺は、役人に頼まれて調査をしているんだ」 「だから、お前に変な質問をされて身構えてしまった。怖がらせてすまない」 「そうでしたか。ご苦労さまです」 女が頭を下げた。 あっさり信じたようだ。 「もし、事件について何か知っているなら教えて欲しいんだが」 「そのような事件がありましたこと、今初めて知りました」 「なら、どうしてここに来た?」 「主から言いつかりまして。私も詳しいことはわかりません」 「主とは?」 「それは……」 「言えないのか?」 「は、はい。どうしても」 心から申し訳なさそうな顔をしている。 演技ではなく、本気で困っているようだ。 どうも調子が狂う。 「じゃあ、事件に心当たりがあるなら、どんなことでもいい、教えてくれ」 「ですから、わからないのです」 「ただ、変わったことがないか見に来ただけで」 「頼む」 「本当なんです。私は嘘をついていません」 「そーよ。ねーちゃんは正直だよなぁ」 「嘘つきさんは、そっちのにーちゃんだわ」 路地に新しい声が響いた。 現れたのは、二人のチンピラ崩れだ。 「ど、どういうことですか?」 「役人に頼まれたなんたぁ、こりゃまるっきり作り話さ」 「牢獄の殺しを調べる役人なんぞ、いやしねぇからなぁ」 「ねーちゃんを騙そうとしてるんだ、そっちのにーちゃんは」 「そ、そんな」 「勘弁してくれよ。あんたを騙してるのはそっちの男だ」 「え? え?」 女が、困惑しながら俺とチンピラの顔を見比べる。 「ここらは、こーいう悪い奴がいるから危ねぇよ」 「俺達が、安全なとこまで連れてってやるから。ほら、こっちこい」 チンピラが女に手を伸ばした。 その腕を掴む。 「ああ?」 ドガッ 鮮血が散り、男が地面に転がる。 鼻面を殴ったのだ。 「ぼ、暴力は止めてください」 「てめぇっ!!」 もう一人がナイフを振り回す。 だが、動きはまったくの素人だ。 腕の関節を逆に折る。 「お、お、おおおぉぉ……」 「なんということをっ」 きっ、と〈睨〉《にら》んできた。 何で俺が責められるのか。 「放っておけば、怪我をしたのはお前だぞ」 「この方達は、私を助けようと……」 「そう考える根拠は?」 「それは……」 「で、でも。暴力を振るうなんて」 「もういい」 気分が悪い。 こいつは放置して娼館街に戻ろう。 「どこへ行かれるのですか」 「どこでもいいだろう」 「お前は、その男の介抱でもしてやるんだな。素敵な恩返しをしてくれるだろうよ」 女に背を向ける。 「あっ」 むかつく女だ。 情報を聞き出そうかとも思ったが、それすら面倒だ。 「……」 「……」 「……」 「……」 後ろをついてきている。 振り返った。 「何がしたいんだお前は?」 「あ、あの……」 女が俯く。 喉から出かかった声が、わずかに震えている。 「喋るなら早くしろ」 「あの……」 「表通りまで……連れていって下さい」 「どうして?」 「それは……」 迷ったのか、怖いのか。 「こ、怖い……のです」 「聞こえん」 「怖いのです」 「はっきり言え」 「怖いのですっ」 女の声が路地に響いた。 「へえ」 「俺といた方が、怖い目に遭うかもな」 女は首を振る。 「あ、あなたは、悪いことはしない人だと思います」 「馬鹿が」 根拠もなく、他人をいい人呼ばわりとは。 安直さが気に入らない。 再び、女に背を向ける。 面倒だ、さっさと案内して別れてしまおう。 「俺も、表通りを通る」 「あ……」 淀んだ空気の中をしばらく歩く。 もう少しで表通り、というところで見慣れぬものが目に入った。 黒塗りの馬車だ。 「着きました」 後ろから安堵の息が聞こえた。 女は俺の脇をすり抜け、馬車へと駆け寄る。 右手で車体を軽く叩くと、扉が薄く開いた。 女は車中の人物に何事かを言うと、こちらを向いた。 「主より御礼がございます」 「ほう」 聖職者らしい女の主か。 警戒しつつ馬車に近づく。 「お言葉を賜ります」 「は?」 言葉など要らないが。 何様のつもりだろうか。 「そなた……」 鈴の音のような声に思わず耳を奪われる。 「この者が世話になったようですね」 「大儀でした」 大儀、ときた。 よっぽど地位のある人間らしい。 次の言葉を待ったが、それっきりだった。 「あんたは……」 扉が閉まった。 「おいっ」 「本当にありがとうございました」 言葉を遮るように女が前に立つ。 「礼はいい。お前の主ってのは誰なんだ?」 「申し訳ございません」 答えを拒否し、女は頭を下げた。 「こちら、お礼としては〈些少〉《さしょう》ではございますが、お受け取り下さい」 小さな革袋が差し出される 「必要ない」 「主からのものですので」 「……」 女が困ったような顔をする。 「ありがとうございました」 女は、勝手にお辞儀をして革袋を地面に置いた。 そして、御者の隣へと収まる。 「失礼いたします」 軽い〈軋〉《きし》みと共に、馬車が動きだす。 ざっと車体を確認するが、紋章の類は見当たらなかった。 意図的に装飾を廃している車だ。 そんな車に乗っている奴が、牢獄──しかも殺人の現場に何の用なのか。 「やれやれ」 落ちている革袋を拾う。 ずしりと重いが、硬貨の大きさに違和感がある。 偽物か? だとすれば、変なところでしたたかな女だ。 袋の中身を確かめる。 「これは……」 実物を見るのは久しぶりだった。 見慣れた金貨より二回りは大きい硬貨。 《〈聖鋳金貨〉《せいちゅうきんか》》 一般には流通していない貨幣で、教会からの報賞などに用いられる特別硬貨だ。 やはり教会関係者か。 ふと、馬車に乗っていた女の声が思い出される。 聞き覚えがあった。 しかも最近だ。 「まさか……」 聖女なのか? 見返すが、馬車はとうに消えていた。 ジークに状況を軽く報告してから、家に戻ってきた。 「きゃあっ!?」 またか。 「い、い、か、ら、ぬ、ぎ、な、さ、い」 「や、め、て、く、だ、さ、い」 「いちいち、抵抗、しないで」 女二人が半裸で揉み合っていた。 何やってんだこいつら。 「少しは静かにできないのか?」 「あ、カイム」 「きゃっ!」 女は身体を隠そうと必死にもがくが、エリスがそれをさせない。 貧相な胸がほとんど露わになっている。 浮いた肋骨が貧困な栄養状態を物語っていた。 「隠させてくださいっ」 「て、ていうか、あなたも見られてますからっ」 「望むところ」 「恥ずかしくないんですか!?」 「何度も見られてるから」 「見てない」 頭の病気だ。 「あなたは良くてもわたしはだめです」 「贅沢言わないで」 「うるせえよ、お前ら」 「わぷっ」 半裸の二人にシーツを投げつける。 「これでとっとと隠せ」 「嬉しいくせに」 「いいから喋るな」 二人が、もぞもぞとシーツで身を隠す。 「まずは状況を説明しろ」 「この子、汚れてるから、身体拭こうと思って」 「最初からそう言って下さい」 「エリス、いちいち騒ぎを起こすな」 「もう、私のせいみたいじゃない」 仕方ないわねカイムは、的な苦笑をされた。 突っ込み待ちなのだろうか。 「まあいい、さっさと着替えろ」 外に出る。 しばらくして部屋に入ると、着替えが終わっていた。 少女はベッドで膝を抱えている。 「まともな服着りゃ、多少は見られるじゃないか」 「こういう子が好み?」 「いちいち、つまらないことを言う医者よりはな」 エリスを受け流し、少女に向かう。 「お前、腹は減っているか」 「あ……え……」 身を固くした少女が、俺に顔を向ける。 あどけなさが残っているが、なかなか整った顔をしている。 だが、 恐怖と不安に媚びをまぶした目色。 自動的に浮かぶ薄っぺらな微笑。 他人に隷属することを余儀なくされてきた人間の顔だ。 「腹が減っているかと聞いている」 「は……はい」 ようやくのことで頷く。 気を利かせたエリスが、木の皿に食事を盛ってベッドへ置いた。 少女の目が皿に釘付けになる。 唾液を呑み込む音が聞こえた。 「食う前に聞きたいことがある」 「お前が襲われた時、何か光を見なかったか?」 「光……」 少女の顔に、かすかな怯えが浮かぶ。 「心当たりがあるか?」 「何か、見たような気もするんですが……」 「思い出そうとすると……気持ちが悪くなって……」 「少し頑張ってくれ」 「思い出せば、飯が食えるぞ」 「う……はい」 少女の眉が歪む。 血の気がない額に、うっすら汗が浮かぶ。 「どうだ?」 「ん……え、ええと……」 「……」 少女を観察する。 前回同じ質問をした時、こいつの言葉にどこか腑に落ちないところがあった。 今回は強めに緊張を与えてみよう。 「思い出してくれ」 「す、すみません……わ、わたし……」 「思い出せ」 「あまり手こずらせると、後悔するぞ」 「ん……うっ……く……」 「うっ、くっ……」 少女が口に手をあてた。 「別に吐いてもいいぞ」 「もういい」 「今日は休ませてあげたら?」 「いつからそんなに優しくなったんだ?」 「無理させると思い出せるものも思い出せなくなるわよ、ってだけ」 医者のエリスが言うことだ。 ひとまず従っておこう。 「……わかった」 「ま、おいおい思い出してくれ」 「……すみません」 しょげた顔を見せる少女。 だが、関心は早くもパンに向かっていた。 「……」 確証は得られなかったが、やはりどこか嘘くさい。 仮にこいつが忘れたふりをしているとしたら、理由は何だ? 少し考えてみよう。 「……」 熱っぽい視線を向けられる。 さっきまで吐きそうだったくせに現金な奴だ。 「食っていい」 「……っ!」 即攻でかぶりついた。 「ベッドを汚すな」 「んっ、んっ」 「頷きながらこぼしてるんだけど」 「ったく」 飢えは、人間らしさをいとも簡単に奪い去ってしまう。 わずかな食料のため、力ある者は暴力を振るい、力のないものは人格を売り渡す。 牢獄では日常的な風景だ。 特に最近は餓える人間が増えている。 物の値段は年々上がっているし、どうやら人の数も増えているようだ。 ジークの話では、これは牢獄だけの問題ではないらしい。 都市全体が餓えていると言っていいのだろう。 何が起こっているのだろうか。 飯を腹に収めた少女は、ゼンマイが切れたかのように眠りに落ちた。 明日には肝心なところを思い出して欲しいもんだ。 扉が鳴った。 「うふふ、私よ。開けて」 残念な奴が現れた。 無視。 「こーら、イジワルしないで」 うざったい。 「見てくる」 「放っておけ」 勝手に動くエリス。 「合い言葉は?」 「カイムはエリスにメロメロ、カイムはエリスにメロメロ」 「素晴らしい」 開けやがった。 「お・ま・た・せ♪」 「死ね」 「あら、ひどいこと言うわね?」 馬鹿の後ろからメルトが顔を出した。 「いたのか」 「いたわ」 「何の用? ここは合い言葉が必要よ」 「エリスはメルトにメロメロ」 「お客様お帰りです」 「そうツンツンしないでよ」 ジークとメルトが部屋に入ってきた。 エリスは、メルトを威嚇しながらいそいそと俺の隣に立つ。 「様子を見に行くって言ったら、こいつもついてきた」 「お邪魔だった?」 「別に」 「だが、女は寝てるぞ」 「いいわよ、顔見たかっただけだし」 メルトはベッドの少女を見分する。 「あら、結構かわいいじゃない」 「売り物にならなくて残念だったわね」 「まったくだ」 「牢獄にきてから羽が生えたとあっちゃ返品もできん」 「体調はいいのかしら?」 「ご飯食べたらこの調子。ぐっすり」 「何か聞き出せたか?」 「さっぱりだ。事件のことになると錯乱する」 「怖い目に遭ったんでしょ? 仕方ないわよ」 「エリス、記憶が戻る薬ってのはないのか?」 「あるけど、何も言わないまま廃人になる確率のほうが高い」 「そういうのは、最後まで取っておいて」 使用に反対しないあたり、メルトもこの界隈の女だ。 「何とかならんのか?」 「事件の衝撃で、一時的に混乱しているだけだと思う」 「緊張や不安が解消されれば、自然に回復するんじゃないかな」 「じゃあ、俺の華麗なマッサージで緊張を」 「ジークの手はなぁ、気持ち良くないし」 「こんなに傷つくのはどうしてだろう」 「しかし、緊張をほぐすといっても実際どうする?」 「まずは優しく言葉をかけてあげたら? カイム、できてる?」 「紳士的なもんさ」 「どうかしら?」 「この女が目を覚ませばわかることだ」 「大した自信ね。じゃあ、この子の名前は?」 「エリス、名前は?」 「知らない」 即答だ。 「素敵な紳士淑女だこと」 メルトがやれやれ、という仕草をした。 「まあともかく、まずは危害を加えないことを知ってもらって安心してもらわないと」 「具体的な方法をさっきから聞いてるんだが」 「そうねえ……」 「一緒にお出かけでもしてみたら?」 「甘い物を食べさせてみたり。あ、もちろんうちのお店でね」 「確かに気が紛れるかもしれんな」 「羽つきと楽しく遊んでやれと?」 「外に出て何かあったらどうする?」 「何かあった時こそ腕の見せ所じゃない」 「華麗に助けて乙女心を掴みなさいよ。女の子は頼れる男に弱いんだから」 「ちなみに私は耳が弱いから」 「いらん情報だ」 「なーに、俺達が応援してる。頑張れ」 「応援だけなら犬でもできる」 「お前、応援してる犬見たことあるんか、ええ? いつ見たんだよ?」 殴って黙らせる。 「じゃ、女の子には危ない目に遭ってもらって、それを助けるってことで」 「じゃ、じゃねえ」 「カイムに危ないことさせるのは賛成できない」 「よし、お前が代わりに……」 「嫌」 「お前、無責任すぎるぞ」 「あんまり褒めないで」 眩しい笑顔で言われた。 「何もしないよりはマシだ。試しにやってみてくれ」 「途中で、食っちまっても構わん」 「女は間に合ってる」 「それ新情報」 「いちいち反応するな」 ジークが、指先で机を二度叩く。 「真面目な話だが……」 「こちらとしては、できるだけ情報を引き出せるようにしてほしい」 「いい歳してガキのお守りか」 「こう考えろ、重要参考人の監視業務だ」 「おー、建設的な意見じゃない」 「カイムならできる。やればできる子」 まったく誠意が感じられない。 「営業でも何でもなく、食事はうちでしたらいいわ」 「女の子の相手もしてあげられると思うし」 面倒な話だが、俺としても例の光についての情報は欲しい。 俺の勘が当たっていて、少女が事件のことを忘れたふりをしているとしたら、完全に忘れているより始末が悪い。 問題を起こさないよう、傍で監視する人間がいた方がいいだろう。 「仕方ないな」 しぶしぶ、という素振りで了承する。 「念のため確認するが、女が羽つきだと知ってるのはこの4人か?」 「ああ」 「わかった。これ以上話が広がらないよう注意してくれ」 エリスはこの場にいる3人以外とはほとんど話さないし、メルトの口の堅さは商売柄鉄板だ。 問題ないだろう。 「さ〜て、カイムは何日で女の子を落とせるかしら」 「面倒事はさっさと終わらせるさ」 「はっはぁ。そりゃまた大した自信じゃない」 「じゃ、お店で待ってるから」 「私も帰る。子供の相手で疲れた」 「いい報告を待ってるぞ」 がちゃり 3人が出て行った。 とことん騒がしい奴らだ。 「う、う〜ん……」 女が寝返りを打つ。 こいつの記憶がはっきりしないせいで、面倒なことになってしまった。 「まったく」 椅子に座り、〈肴〉《さかな》もなしにワインを〈呷〉《あお》る。 「ふう……」 ワインの酸味が大分増してきた。 明日は、メルトのところに新しい酒を仕入れに行こう。 寝ている少女を見る。 ……こいつも連れて行くのか。 惨劇の生き残り。 死に損ない。 ある意味、俺と同類だ。 今頃は、夢の中で〈煩悶〉《はんもん》しているのかもしれない。 なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。 自分が巻きこまれた悲劇にどれほどの意味があったのか。 答えは簡単だ。 理由も意味もない。 理不尽? そう、理不尽なのだ。 泣いても笑っても、理不尽な出来事はこの世から消えない。 だから、人に必要なのは理不尽さを受け入れる強さだ。 理由も意味も求めない。 ただ、目の前の事実を事実として受け入れ、執着しない強さだ。 少々時間はかかったが、俺はこの結論に辿り着いた。 こいつは、いつ答えを見つけるのだろうか? 「じゃ、お店で待ってるから」 「私も帰る。子供の相手で疲れた」 「いい報告を待ってるぞ」 がちゃり 「……」 カイムという男の人以外は出て行ったようだ。 この人たちは、わたしから昨日の夜のことを聞きたがってるみたいだ。 とっさに覚えていないふりをしたけど── やっぱり、全部教えてしまったほうがいいのかな。 でも、話してしまったらわたしはどうなるんだろう。 お勤め先を探してくれたりするんだろうか? いや、そんなわけない。 わたしはもう、羽つきなんだ。 働くことなんてできない。 だとしたら…… 捨てられて、羽狩りに見つかって、どこかへ連れて行かれる。 ありそうな話。 「(いや……)」 もうこれ以上、辛くて苦しい思いはしたくない。 そうだ。 わたしが知ってることは話しちゃいけない。 忘れたふりをして、できるだけ時間を稼いで、カイムという人の気持ちを調べるんだ。 も、もしかしたらいい人かもしれないし。 「……」 理屈ではそうするのが一番だと分かっているのに、なんだか嫌な気分になる。 カイムさんという人を騙してるみたいだからかな。 ずっと人に利用されて生きてきたのに、自分が人を利用するのは気持ち悪い。 何とかしなくちゃいけないのに。 ああ…… やっぱりわたしは、不幸な人生しか送れない運命なのかな。 少女が目を覚ましたのは、昼前だった。 「んん〜、よく寝ました」 「はぁ……いいお天気です」 平和な顔で窓から外を眺めている。 寝起きで、自分が置かれた状況を忘れているのだろう。 「起きたか」 「ひっ!?」 ベッドの上で飛び上がった。 きょろきょろと周囲を見回し、明るかった表情は一気に沈んだ。 「そうだ……ここは……」 「寝心地はどうだった?」 「あ……ええと……」 「も、申し訳ありません。わたしのような者が寝床を使ってしまい」 深々と頭を下げた。 「構わんさ」 「それより、寝心地を聞いているんだが」 「え、はい……とても良かったです」 「まるで、雲の上に浮かんでいるようでした」 こちらを持ち上げるつもりだろうか。 しかし、お世辞にしても大げさすぎる。 「それは何より」 〈訝〉《いぶか》しみつつも穏やかな笑顔で応じた。 面倒だが、今日からはこいつのご機嫌を取らねばならない。 「ここに水を置いておくから、顔でも洗ってくれ」 「え?」 「嫌か?」 「いえ、すみません」 「俺は外に出ている。終わったら壁でも叩いて知らせてくれ」 「あ、ありがとうございます」 少女は呆気にとられた表情を隠しもせず、カクリと頭を下げた。 合図を受け部屋に戻る。 「すっきりしたか?」 「あ、はい」 「あの、手拭き……わたし洗いますので」 「気にしなくていい」 「いえ、わたしが汚したものをお洗濯していただくなんて、〈畏〉《おそ》れ多いです」 「ずいぶん卑屈だな」 「遠慮する必要はないぞ」 「えっと……は、はい……すみません……」 戸惑っている少女から、手布と〈桶〉《おけ》を受け取った。 この女は、何事につけ謝る癖がついているようだ。 ずっと人に使われて来た種類の人間だ。 「今まで、荒っぽく扱ってすまなかったな」 「不思議に思ってるだろ。どうして急に優しくなったのか」 「そ、そんなことは……」 少女が目を伏せた。 否定しながらも、態度は肯定を示している。 だから勝手に話す。 「お前に優しくする理由は簡単だ」 「俺も昔、ひどい目に遭った」 「それを思い出したら……辛く当たるのも悪いかと思ってな」 同じ境遇であることを強調する。 具体的には何も言っていないが、嘘もついてはいない。 「あなた様も……ですか」 「ああ」 〈窺〉《うかが》うような少女の上目遣い。 目を合わせようとすると、さっと視線が逃げる。 こちらの様子を探っているのだろう。 「しかし、あなた様ってのは気持ちが悪いな」 「俺はカイムだ。お前は?」 「わたし……?」 「わたしはティアと呼ばれていました」 「本名はユースティアというらしいのですが、よくわかりません」 「本当の名前じゃないのか?」 「親がわかりませんので」 「育ての親はいたのか?」 「それもわかりません……」 「お仕えする人はいつもいましたけど」 手布を濯ぎ終え、今度は温かい茶をティアに渡す。 「落ち着くぞ」 「あ、はい」 「火傷するなよ」 ティアは頷き、茶に口をつけた。 「……おいしいです」 「こんなにおいしいお茶は、生まれて初めて飲みました」 「そうか。お前は味がわかるんだな」 「あ、難しいことはわからないんですけど、おいしいっていうのはわかります」 柔らかに笑うティア。 実のところ、この茶はまずい部類に入る。 どうやら気を遣っているらしい。 にしても、生まれて初めては言いすぎだ。 「牢獄は初めてか?」 「はい。以前は上層にいました」 「あ、もちろん、ご主人様にお仕えしていた、ということです」 「どんな仕事を?」 答えはか細い笑顔だけだった。 返事はなくともわかる。 生みの親も育ての親もなく、ずっと誰かに仕えてきたということだ。 挙げ句、何らかの理由でジークに売られ、娼婦になりかけた。 運から見放された人生だが、同情するほど悲惨な話ではない。 とはいえ、一応いい人は演じておこう。 「大変だったな」 「ひっ」 頭を撫でようとすると、ティアは頭を引っこめた。 ぎゅっと目をつぶり、身体を震わせている。 「殴りゃしない」 「……す、すみません」 頭も触れない、か。 今までどのように扱われてきたのか、察せられた。 撫でる気もそがれ、俺は手を下ろす。 「今日は、外に出てみるか?」 「え?」 「飯でも食いに行こう」 「でも……わたし、羽が」 「その程度の大きさなら気づかれない」 「行きつけの店がある。美味いものが食えるぞ」 「おいしい、もの……」 〈呟〉《つぶや》きが〈洩〉《も》れた。 目はどこか遠くを見ている。 「食いたいだろ? 決まりだ」 ティアの足を縛っていた縄を解く。 「あっ、ちょ、ちょっと待ってください」 「わたし、お金が」 「心配するな」 「お前は黙ってついてくればいいんだ」 「でも、お店でお食事なんてわたしにはもったいないです」 手を振って遠慮するティア。 「大丈夫だ。行くぞ」 「でも……でも……」 「しつこい」 「ひ……」 「わ、わかりました」 少し強く言うと従順になる。 典型的だな。 ま、扱いやすくていい。 娼館街までやってきた。 ティアは視線を泳がせながら2、3歩後ろを歩いている。 まるで迷子の猫だ。 「どうだ感想は」 「ちょっと、怖いです」 「これでも牢獄じゃマシな方だ」 「ひどいところじゃ、ガキや年寄りが道に転がってる。行ってみるか?」 「い、いえ……わたしには無理です」 「そうか」 「と、ところで、このあたりは綺麗なお店がいっぱいありますね」 「どのお店に行くんですか?」 無理矢理、話題をそらすティア。 周囲の店は、ほとんどが娼館だ。 ここがそういう場所のど真ん中だとは思っていない様子だ。 「そうだな……あそこにしよう」 リリウムを指さす。 「一番立派なお店ですけど……高いんじゃ」 「奉仕の質を考えれば安いぐらいだ」 「そ、そうですか」 「いい店だぞ、個性的な女が揃ってる」 「え?」 「〈躾〉《しつけ》もしっかりしている」 「え? は? あの?」 「お前が働くはずだった店だ。あれは」 「ああ」 納得。 といった顔をしてから、真顔になり、俯く。 「この辺の店は、全部そうだ」 「はい……」 「飯は、この先にある知り合いの店で食う」 「行くぞ」 先に立って歩きだす。 だが、ティアは動かない。 「おい」 じっと俯いている。 落ち込んだらしい。 「すまない。冗談が過ぎた」 「いえ、大丈夫です」 まったく大丈夫な声ではない。 「さ、美味いもんを食って気晴らしだ」 と、ティアを促した時、 視線の先に嫌なものを見つけた。 制服に身を包んだ男が一人、周囲を〈睨〉《ね》めつけながらこちらへ歩いてくる。 羽狩りだ。 「あれは……羽……」 「わ、わたしどうしたら……」 「気にするな」 「は、は、は、はい……」 ティアの顔からは完全に血が引いている。 身体の動きも壊れた人形のよう。 これでは、怪しんでくれと言っているようなものだ。 「奴らとお近づきになりたくなかったら普通にしていろ」 「目をつけられたら、その場で服を脱がされるぞ」 「そんな……乱暴です」 「上から許されてるらしい」 「わかるか? お前は、目をつけられたら終わりってことだ」 「でも、でも」 「怖くても笑え」 「できなければこの場に置いていく」 「は、はは、はい」 「え、えへ……えへへ」 「……」 ふやけたパンみたいな顔だが、まあ及第点だ。 「行くぞ」 「えへへ」 羽狩りはもうそこまで迫っていた。 鋭い眼光を俺達に向けてくる。 目が合った。 自然に目を逸らす。 「……」 「……」 羽狩りとすれ違った。 別にどうということはない。 視線が身体を舐めるのを感じたが、それだけだ。 余計なことは考えず、ただ前に進む。 横目でティアを確認すると、やや強張ってはいるものの、落ち着いた表情で歩いていた。 「そこのお前ら」 背後から冷たい声が聞こえた。 背筋をひやりとした感覚が走る。 不運を嘆いている暇はない。 まずは現状を打開することが先決だ。 「……」 意を決して振り返る。 目に入ったのは、リリウムの三人を引き止める羽狩りの姿だった。 どうやら、お目当ては俺たちではなかったようだ。 「私どもに何か御用でしょうか?」 「聞きたいことがある」 「この辺で羽つきが匿われているという噂があるんだが、何か知らないか?」 「娼館街で、ですか……」 「申し訳ございませんが、存じ上げません」 「本当か?」 「もちろんでございます。羽狩りの方に嘘は申しません」 「その割に、この辺は妙に保護数が少なくてなあ」 「お前らが嘘をついてるようにしか見えんのさ」 「ご冗談を」 「いや、そもそもお前らは、男を惑わすのが仕事だろう?」 いきなり喧嘩を売る羽狩り。 どうやら、女に絡みたかっただけのようだ。 成績が上がらない憂さ晴らしだろう。 「いやいやいやいや、安心してダ・イ・ジョ・ウ・ブ」 「あたしたち、惑わすのは、お客と『いい男』って決めてるから」 「何だと!?」 羽狩りが気色ばんだ。 「リサのやつ、喧嘩売ってるな」 「お知り合いですか?」 「少し」 いつもなら仲裁に入るところだが、こっちにはティアがいて動けない。 「申し訳ございません。何卒ご容赦のほどを」 美人に深々と頭を下げられ、羽狩りがわずかにたじろぐ。 とどめとばかり、クローディアは上目遣いに羽狩りの顔を〈窺〉《うかが》った。 さすがクローディア、計算された動きだ。 「ふ、ふん。まあいい」 「そっちのお前はどうだ? 何か噂を聞いてないか?」 「知るかダボ」 「……」 「わぁ……」 さすがアイリス。 すべてを一瞬で破壊した。 「貴様っ、娼婦の分際でっ」 「くたばれ」 「お、お……」 羽狩り、身体を震わせ絶句。 慌ててクローディアがとりなす。 「この娘は牢獄育ちでして、目上の方への口の利き方を知りません」 「後ほどきつく言い聞かせますので」 再び頭を下げるクローディア。 「……」 その脇で、派手に火種を巻いたアイリスは、俺達をじっと見ている。 「ティア、行くぞ。とばっちりを食う」 「でも、あの方たちはお知り合いなんじゃ」 「知り合いだが、あいつらは羽つきじゃない。放っておいても平気だ」 「でも、でも……」 不安そうな顔で俺を見る。 「あいつらはお前の100倍はしたたかだ。遊ばれてるのは羽狩りの方さ」 「はあ……」 「それより、お前は自分の身を守れ」 「他人の心配などしている余裕があるのか?」 「いえ……でも……」 「行くぞ、腹が減った」 「あ……」 先に立って歩きだす。 慌ててついてきたティアだが、何か言いたげに俯いている。 「言いたいことがあるなら言え」 「あ、いえ、結構です」 遠慮するティア。 にもかかわらず、言わねば気が済まないような顔をしている。 手間がかかる女だ。 「遠慮するな。怒らないから言ってみろ」 「は、はい……」 「あの、どちらが良かったのでしょうか?」 「娼館で働くのと、羽つきになるのでは」 「……」 下らない話だ。 単に、羽つきになったほうがマシだったと思いたいだけなのだろう。 しかしまあ、しばらくはこいつの機嫌は取らねばならない。 「羽つきになったほうが、まだマシだろう」 「そう……そうですよね」 ティアの表情が少し晴れる。 どちらも五十歩百歩だということをわかっているのだろうか。 「どっちも最悪だ」 「う……そう、ですよね」 「ま、頑張るんだな」 「大丈夫です、わたし苦しいのは慣れてますから」 そう言って、ティアは穏やかな笑顔を浮かべる。 本当に慣れているわけがない。 そもそも、慣れていることならば苦しいとは感じない。 ティアの言葉には決定的な矛盾がある。 自分にそう言い聞かすことでしか、毎日を耐え抜くことができなかったのだろう。 「わたしは、きっとひどい目に遭う運命なんです」 「だから、いちいち気にしていたら切りがありませんから」 「そう思った方が楽だろうな」 「……はい」 微笑を湛え、ため息のような返事をした。 こいつだって幸せな……幸せでなくとも。せめて平凡な生活を送りたいはずだ。 それが適わないことを知っているからこその返事だった。 不条理だろうが何だろうが、どうしようもない現実がある。 変えることができないなら、受け入れるしかない。 ただ、それだけの話だ。 開店すぐの店には、まだ客がいなかった。 メルトは仕込みの手を休め、朗らかな笑顔を見せてくれた。 「あ、来てくれたんだ」 片手で挨拶し、背後のティアを前に押し出す。 「こんにちは、お嬢さん」 「私はメルト、この店の主よ」 「ティ、ティアです。よろしくお願いします」 「カイムとは長い付き合いなの」 「弱点なんかぜーんぶ知ってるから、意地悪されたら私に言うのよ」 「3秒で謝らせる方法を教えてあげるわ」 「余計なことは言わなくていい」 「カイムさん、あの……」 ティアが自分の背中を見るような仕草をする。 「メルトには教えてある」 「大丈夫よ。羽狩りに突き出したりなんかしないから」 「あ、ありがとうございます」 「でも、申し訳ないです」 「こんなに親切にして頂いているのに、もし羽を〈伝染〉《うつ》してしまったら、わたしどうやってお詫びをしたらいいか」 「何か気の利いた詫びでもできるのか?」 「う……いえ、できません」 「なら、詫びなんぞいらん」 「そ。気にしないでここにいていいのよ」 「はい……ありがとうございます」 「さ、席に座って」 「ヴィノレタ自慢の料理でおもてなしするから」 ティアと並んでカウンターに腰を下ろすと、メルトが品書きを取り出す。 「おいしそうな料理がたくさんあります」 「値段は気にしなくていいから、どれでも頼んで」 「はい……ええと……」 「あの、ここにあるウインク…金貨1000ってなんですか?」 「ん? ウインクよ」 片目を閉じるメルト。 「それが金貨千枚?」 「そう」 もう一度ウインクするメルト。 ティアの顔が青ざめる。 「じゃ、じゃあ、私は金貨を千枚……」 「あ、二回してもらったから、二千枚払わないといけないってことですか」 「ふふふ、私が自分からするウインクは無料」 「え? どういうことですか?」 「金貨千枚なんて、誰も払えないだろう?」 「つまり、売り物じゃないって意味だ」 「は、はあ」 「だったら、どうしてお品書きに載せてるんですか?」 「私、このお店を始める前は娼婦だったから、お客さんからいろいろ言われるの。ウインクに限らずね」 「で、困ってたら、カイムにきっちり値段を書いちまえって言われてね」 「言われた通りにしたら、変なこと言ってくるお客さんも減ったわ」 「大変なご苦労があるんですね」 「苦労ってほどじゃないわ」 「ただ、もうお金でウインクなんてしたくなかっただけ」 「とても意味があるお品書きだったんですね」 「カイムの気持ちがこもってるからね」 「こう見えて娼婦にも優しいのよ」 「誰でも同じ扱いをするだけだ」 「恥ずかしがることないのに」 メルトがニヤリと笑う。 「さ、ティア、食うものは決まったか?」 「あ、いえ、まだです」 ティアが品書きに視線を戻す。 が、 「あの、どれもおいしそうで決められません」 「好きなものくらいあるだろ?」 「いえ、どれも食べたことがなくて……すみません」 「あら」 「じゃあ、おすすめの料理を持ってくる感じでいい?」 「あ、はい、助かりますっ」 「こっちには火酒を」 「はーい」 取りあえずの酒をもらう。 カウンターの椅子は座面が高い。 視界の端で、床に届かないティアの足が揺れている。 料理への期待が高まっているのか、陽気な拍子を取っているようにも見えた。 「メルトさんは優しい方ですね」 「どうだかな、本人に聞いてみたらどうだ?」 「そんな、聞けません」 「聞こえてるけど?」 料理をしていたメルトが振り返る。 「あ、すみません」 「大丈夫、私は優しいから……泣く子も黙るくらいね」 「やっぱり、当たってました」 「馬鹿かお前は」 思わずため息が出た。 「馬鹿です」 「馬鹿だから難しいことは分かりませんが、簡単なことはわかるんです」 「例えば、目の前の人が良い人かどうかとか」 「ほう。なら俺はどうだ?」 「え、ええと……」 ティアが横目に俺を見る。 明らかに言葉を選んでいた。 「あの、いい人だと思います」 「根拠は?」 「目です。おかしい人はやっぱり目の感じが違いました」 「経験則か」 「あ……いえ……はい」 「わたしの勘、外れてますか?」 一瞬、ティアの目が俺の表情を〈窺〉《うかが》い見た。 「ん?」 「あ、いえ」 慌てて顔を伏せるティア。 こっちを観察しているらしい。 得体の知れない男に連れ回されているのだから当然か。 「善人と悪人の区別がついても悲惨な目には遭うんだな」 「どうしようもないことばかりですから」 本当の最悪を避けるために、最悪より少しだけましな選択を余儀なくされる日々。 俺にも経験があることだ。 「と、ともかく、カイムさんはいい人です」 「そこに話を戻すのか」 「わたしの目に狂いはありません」 「どうかな」 「俺がいい人間なら、世の中ほとんどいい人間になるぞ」 「何か悪いことをしたんですか?」 「女の子をいっぱい泣かせてるのよ」 厨房から、メルトの余計な台詞が飛んできた。 「それは、悪い人です。奥さんがいらっしゃるのに」 「は?」 「誰のことだ?」 「奥さんです」 「俺は独身だ」 「あれ? エリスさんは?」 「あいつとは何でもない。ただ身請けしただけだ」 「身請け?」 「娼婦をお客が買い取ること」 「では、エリスさんはカイムさん専属の?」 「違う」 「でも、いつも家にいらっしゃったような……」 「まあまあ、いろんな事情があるのよ」 メルトが料理を出してきた。 鶏肉の様々な部位が入ったスープだ。 「さあ、冷めないうちにどうぞ」 「わぁぁ……」 ティアの目は料理に釘付けだ。 「すごいです。こんなに具がたくさん」 「遠慮しないで食べて」 「は、はいっ」 激しく頷くと、期待に満ちた目で俺を見た。 「どうした?」 「あの、頂いていいでしょうか?」 「今までどうだったか知らんが、いちいち許可を求めるな」 「でも、その……自分だけ〈贅沢〉《ぜいたく》しているような気がして申し訳ないんです」 「ずっと一緒に働いていた人たちも、いつもお腹を空かせていました」 「細かいことは気にするな」 「お前が申し訳なく思っても、そいつらの腹は膨れない」 それでも〈逡巡〉《しゅんじゅん》するティア。 だがやがて、決心したように大きく息を吸った。 「すみません、いただきます」 木製スプーンを手に取った。 それっきり完全に無言。 スープを〈掬〉《すく》い口に運ぶ作業を一心に繰り返す。 「いい食べっぷりねえ」 「悲しいまでにな」 「私はこれくらいの方が好きよ」 「カイムもジークもエリスも、食べ方が素っ気なくてがっかりしちゃう」 「俺にはこいつの真似はできないぞ」 「わかってるわよ」 思わず二人でティアを眺めてしまう。 そうこうしているうちに、ティアはスプーンを置いた。 「……ごちそうさまでした」 「こんなにおいしいご飯を頂いたのは初めてですっ」 「お前、上層で召使いをしてたんじゃないのか?」 「はい、ですからごちそうの味見は何度もしたのですが、自分用の食事は……」 悲しげな顔をする。 上層の召使いとはいえ、扱いはひどかったようだ。 「なるほどな」 「お代わりにする?」 「え、それは……ええと……」 悩み始めた。 お腹を押さえたり皿を見つめたりしている。 「もう、十分いただきました」 「あら、もうお代わりよそっちゃったけど」 「足りてないのがまるわかりだ」 「う……」 「やせ我慢するな」 「しゅ、しゅく、じょですから」 「もう喋らず食え」 と、俺が言ったからではないだろうが。 それからのティアは、食べる作業に熱中した。 「ごちそうさまでした」 食欲旺盛な淑女は、満足げな笑顔で食事を締めくくった。 「どうだった?」 「とてもおいしかったです」 「特に、最後に頂いた林檎を焼いたものが」 「林檎の丸焼きね。うちの名物なのよ」 「感動しました」 「フォークだけでホロっと実が崩れて、口に入れると、もう言葉が出ません」 「今までの人生が頭を過ぎりました」 それは〈走馬灯〉《そうまとう》というやつだ。 「林檎にかかっていたのは、バターとお砂糖、あとシナモンですか?」 「あといくつか味があったような」 「ふふふ、それは秘密」 「むぅ……」 眉根に〈皺〉《しわ》を寄せるティア。 「赤ワインと……〈胡椒〉《こしょう》、でしょうか」 「正解、よくわかったわね」 「お前、料理するのか?」 「家事は何でもさせられました」 「ああ」 ティアは下女だったのだ。 家事はできるだろう。 「そういえば、最初に頂いたスープですけど……」 「興味あるなら、材料見てみる?」 「はい、ぜひ」 メルトがティアを厨房に入れ、料理談義が始まる。 しばらくは落ち着いて酒が飲めそうだ。 と、思っていた俺が甘かった。 「牢獄の食を知りたいなら、まずは市場を知らないと」 などとメルトが余計なことを言ったせいで、市場を案内する羽目になった。 料理よりは羽狩りを気にしてほしいが……。 まあ、混み合っている市場は羽狩りの監視が比較的ゆるい。 見つかる可能性は低いだろう。 「すみません、ご面倒をおかけして」 「構わん」 「で、でも……や、やっぱり戻りましょう」 「何だか申し訳ないです」 こんなやりとりは3度目だ。 自分のために時間を割かせることが、余程申し訳ないらしい。 「もうここまで来たんだ、見ていけ」 「でも……」 「いいから」 「すみません」 ようやく遠慮をやめるティア。 なかなか手間がかかる。 「しかし、お前が料理熱心だったとは思わなかった」 「料理が下手だと叩かれましたから、一生懸命勉強しました」 「これからは、無理やり料理をする必要はないぞ」 「癖みたいなものです」 「仕事をしていないと、不安というか……」 「怒られる気がして怖いと?」 ティアが無言で頷く。 暴力によって刷りこまれた習慣は、そう簡単には抜けない。 身体が恐怖や痛みを覚えているのだ。 「あ、お肉が売ってます」 「見るか」 「はい、ありがとうございます」 肉屋のテントを覗くティア。 ふんふん頷きながら品物が並んだ棚を確かめている。 「こう言うと申し訳ないですが、品数が少ないですね」 「これでも、俺がガキの頃と比べればましになった方だ」 「昔は売る物がなかった」 「どうしてですか?」 先日、聖女が演説をぶった建造物── 関所を指差す。 「関所の中には、下層と牢獄をつなぐ唯一の階段がある」 「はい、わたしも牢獄に来る時に通りました」 「あれができたのは、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》から数年経ってからだ」 「ご覧の通り、牢獄は周囲を崖に囲まれている」 「階段がなけりゃ、まともな行き来はできないだろう?」 「人が行き来できなきゃ物不足になる。縄や〈籠〉《かご》で輸送するのも限界があるからな」 「そんな状況で、商売なんかできると思うか?」 「できません、ね」 「カイムさんは、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の頃から牢獄にいたんですか?」 「ああ」 「大変な思いをされたんでしょうね」 頭の中を当時の情景が流れていく。 ティアにはかなり穏やかに伝えたが、実情は酷かった。 〈瓦礫〉《がれき》と化した街。 道に溢れる怪我人と死体。 横行する略奪。 思い出すだけで食欲がなくなる。 「いちいち覚えていない」 「ふふ。それは、わたしが殴られた数を覚えていないって言うのと同じです」 変な同情をされてしまった。 「お前が覚えていないのは、頭が悪いからだろう」 「ひどいです」 「これでも、胸の奥深くにしまってることがあるんですよ」 「ほう、なかなか繊細じゃないか」 「もちろんです」 満足げに言う。 「あ、あのお店はなんでしょう」 「いきなり話を変えるな、まったく……」 「あれは果物、あっちはパン、その先は酒だ」 「見に行っていいですか?」 「好きにしろ」 「すみません」 「謝らなくていい」 「謝るなら、次は謝らなくて済むよう努力しろ」 「はい、すみ……」 言いかけて、ティアは口をつぐんだ。 そして、自分の身体に染みついた癖を恥じるように、苦しげに笑う。 「パン屋さんに行きましょう」 「あちらは何のお店ですか?」 「ニワトリがたくさんいます」 「……」 「いい匂いですね」 「……おい」 次々に店を回っていく。 こっちは既にうんざりだが、ティアの足取りは軽い。 「元気だなお前は」 「すみません、お疲れですか」 「大丈夫だ。次はどの店に行く」 ご機嫌を取るのが今の仕事だ、諦めて付き合おう。 「あっちの方は何を売っているんですか?」 「雑貨屋が多い。服や化粧道具なんかも売ってる」 「わぁ……」 「行ってみるか……」 「と、思ったが無理だな」 「え?」 空を見上げると、いつの間にか重い雲がたちこめていた。 「雑貨屋はまた今度だ」 「わかりました。きっと連れてきてくださいね」 「ああ」 などと言っている間に、ぽつぽつと雨が落ちてきた。 本降りとなった。 俺もティアも濡れ〈鼠〉《ねずみ》。 下半身は跳ね上がったドロに染まっていた。 「最低だ」 「すみません。わたしがいろいろ引っ張り回しちゃったから」 「いや、俺が空に気を配っておくべきだった」 暗殺を行う上で、天候は非常に重要な要素だ。 いつもなら気づいていたはずだが、今日は何故か気が抜けていた。 ティアの危なっかしい動きに気を取られたのだろう。 「行くぞ」 雨が一段と強くなった。 大きく張り出した〈庇〉《ひさし》の下で雨を凌ぐ。 路地はどす黒い小川と化し、屋根から落ちる無数の滝が激しく水面を叩く。 「ふふふ、びしょびしょですね」 「風邪をひくなよ」 「平気です」 「前のお仕事では、お天気は関係ありませんでしたから」 「ご主人様がすごく意地悪な方で、雨の日の方がよく買い物に行かされたんです」 「おまけに、雨宿りをして遅くなると叩かれました」 淡々とした口調からすると、不幸自慢をしたいわけではないようだ。 ティアが送ってきたであろう日々を想像すると、思わず自分の過去まで思い出してしまう。 俺が暗殺を仕事にする前── 娼館にいた頃と同じような生活をしていたのだろう。 〈憂鬱〉《ゆううつ》だ。 ため息をついたところで、足音が聞こえてきた。 誰かこちらへ走ってくるようだ。 「最低過ぎるだろ畜生っ」 「いいから走れ。もうすぐ雨宿りできる」 「ふふふ、あっちにも大変な人がいますね」 「ああ」 「娼婦にゃ馬鹿にされるし道は汚えし、あー、むかつくっ」 「自業自得だ。上で成績あげてりゃ牢獄送りになんぞならなかっただろ」 「俺は志願したんだよ」 「ぜひ、一番厳しいところで働かせてくださいってなっ」 「はははっ、嘘つけよ。フィオネお嬢様じゃあるまいし」 聞き覚えがある声だ。 「まさか……」 はっとした時には、男たちの姿はかなり大きくなっていた。 「羽狩りだ」 「ええ!? そ、そんなっ」 おろおろするティアの背中が目に入る。 濡れた服が肌に貼り付き、小さな翼の形が浮き上がっていた。 最低だ。 「あそこで雨宿りだっ」 「よしっ」 「カイムさん、ど、どうしたら……」 「うるさい」 俺だけなら簡単に逃げられるが、今はティアがいる。 羽を隠しきれるかは微妙な線だ。 「……」 羽狩りと戦うか。 奴らはそこそこの手練れだが、今なら不意打ちに近い形で襲える。 余程のことがない限り勝てるはずだ。 この大雨なら証拠も残らない。 腰のナイフに手を伸ばす。 幾度となく握ってきた柄が手の平に吸いつく。 深呼吸を一つ。 成功する自分を思い浮かべる。 ふと、 冷たい感触が手を覆った。 「……」 ティアが俺の手を押さえていた。 「カイムさん、乱暴は」 「なら、羽狩りに捕まるか?」 「嫌ですけど……」 「でも、こんなわたしのためにカイムさんに暴力を振るわせるなんて」 「辛いのには慣れてますから、羽狩りさんに連れていかれてもきっと平気です」 やってられない。 これが計算だとしたら、とんでもない悪女だ。 「馬鹿な女だ」 別の方法? あと数秒で、羽狩りがここに来るのだ。 どうする。 どうしたらいい。 「……」 「むぐっ!?」 ティアの背中を壁に押し付け── 唇を塞いだ。 「ん゛ーーーーーーーっ!?」 抵抗するティアの腕を片手で押さえつけ、もう一方の手を乳房に這わせる。 「んっ、んんっ、んっ……」 唇が僅かに開き、体内の熱が漏れ出してくる。 「よーし屋根だっ」 「助かった」 羽狩りが駆け込んできた。 「悪いなっ、俺達も……入れて……」 「んっ、んんっ……ぷはっ」 「悪い。取り込み中だ」 「ん゛ん゛ーーっ」 再びティアの口を塞ぐ。 「死ねっ、クソ野郎っ」 「盛ってんじゃねーぞっ」 羽狩りの足音が遠ざかっていく。 「ん゛ーっ、ん゛ーっ、ん゛ーっ」 胸は特に大きくはないが、まあ一応女の抱き心地だ。 「……」 ティアを解放した。 「口の悪い羽狩りだ」 「……」 反応がない。 呆然と俺を見つめている。 「あいつらが野暮じゃなくて助かった」 「ぐすっ……」 泣いた。 「泣くな」 「泣きたくないですけど、涙が勝手に出てくるんです」 「子供じゃあるまいし」 「はじめて……だったんです……」 「馬鹿か?」 奴隷みたいな生活してきたはずじゃなかったのか? キスがまだなど、寝言としか思えない。 「ほんと……です」 「悪かった」 「ふえ〜ん」 ティアがみっともない声を出す。 無事に羽狩りをやり過ごして緊張が途切れたのもあるのだろう。 「あー、わかった。明日美味いもの食わせるから泣きやめ」 「本当ですか?」 泣きやんだ。 「お前、街から落とすぞ」 「飯とどっちが大事なんだ!?」 「ご、ごめんなさい」 「まあ、ともかく謝る。すまなかった」 謝る真似だけはしておく。 「いえ、こちらこそ助かりました」 ティアは深く頭を下げた。 「こんなわたしのために、戦おうとしてくれたのも……嬉しかったです」 「別にお前のためじゃない。俺のためだ」 「でも、嬉しかったです」 どうやらティアの頭の中は、少女らしい感激に塗り潰されているようだ。 まあ、それならそれでいい。 正直なところ、俺も意外だった。 まさか、俺の手を汚させないために、自ら羽狩りに連れて行かれようとするとは。 銅貨1枚のために人が死ぬ牢獄には、ティアのような人間は残っていない。 深く考えて動いているわけではないのだろうが、だからこそ重みがあった。 「なんとかなって良かった」 ティアの頭に手を載せた。 細い身体がぴくりと震える。 が、その緊張もすぐに解けた。 「今日のことは忘れて、次の男を大事にするんだな」 ぽんぽん、と頭を軽く叩く。 「……」 ティアが〈窺〉《うかが》うような視線で俺を見た。 「どうした?」 「いえ……」 「ふん」 おまけにもう一つ、ティアの頭を軽く叩いて手を離す。 雨も一時よりは弱くなってきた。 「行くぞ」 「はい」 夜半。 うっすらと目を開く。 興奮が全身を包み、眠気がやってこない。 「(楽しかったな)」 今日のカイムさんは、とても優しくしてくれた。 男の人と自由に街を歩いたり、お店を見たり── 生まれて初めてのことばかりで本当に驚いた。 まるで夢みたいだ。 カイムさんは、どうしてわたしなんかに良くしてくれるんだろう? 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の時に苦しい思いをしたから優しくするって言ってたけど…… やっぱり嘘なんだろうな。 わたしを油断させて、あの事件や光のことを聞き出す作戦に決まってる。 みんなが相談してるのを、この耳で聞いたじゃないか。 一日構ってもらっただけで嬉しくなってしまうなんて、いくらなんでも頭が悪すぎる。 よく考えなきゃ。 「(わたしは騙されてる。騙されてる。騙されてるんだ)」 そう思っているのに、心が納得してくれない。 頭を撫でてくれた手の平を、唇の感触を、思い出してしまう。 「(ああ、そっか)」 わたしは、カイムさんに〈縋〉《すが》ってるんだ。 自分に好意を抱いてくれ、自分を守ってくれることに。 あり得ない。 それはただの願望だ。 願望で、当たり前のことが見えなくなっているんだ。 どうしてこんなに馬鹿なのだろう。 あの人の手が本当に温かいかどうかくらい、ちょっと考えれば分かることなのに。 〈瞼〉《まぶた》を透かす明るさに意識が戻る。 「寝ていたのか……」 「っっ!?」 ティアはどうした。 逃げられていたら最悪だ。 慌ててベッドに目を走らす。 もぬけの殻だ。 「くそっ」 「あ、おはようございます」 朗らかな声に振り返るとティアがいた。 「よく眠れました?」 「逃げなかったのか」 「誰がですか?」 「お前だ」 「ああ」 「わたしには、逃げるところなんてありませんし」 こだわりもなく言う。 「それより、ご飯を作りました」 身の回りで料理されても眠っていたとは…… 俺はどこまで気が抜けているんだ。 「どうしました? 朝から暗い顔です」 「寝起きが悪いだけだ」 「では、ご飯を食べて目を覚ましてください」 昨日買ってきた食材が、立派な料理に変貌していた。 パンに炒めた卵、焼いた鶏肉に野菜のスープ。 チーズも切ってあった。 朝食というには、質・量ともにしっかりしすぎている。 「朝は軽くていい」 「あ、作りすぎてしまいましたか?」 「ああ」 「す、すみません。明日からは軽くしますので」 「毎日作るつもりか?」 「泊めていただいている以上は」 「駄目でしょうか?」 「俺は、構わんが」 「??」 「まあいい。食わせてもらおう」 「ふうん」 野菜のスープを飲み込んだ。 これは、昨日メルトに作り方を教わっていたものだろう。 ついで、パン、卵、肉、チーズと進む。 火の通し方も、香草の使い方も申し分ない。 「あ、あの……」 「ん?」 「お、お味はいかがでしょうか?」 「美味い」 「え?」 「美味いと言った」 「あはは、良かったです」 ひねりのない台詞で笑った。 「ずっと難しい顔で食べてらしたので、お口に合わないのかと思いました」 「メルトが言ってただろ。俺は美味そうに食えないんだ」 「それは、作る方としては辛いです」 「すまんな。だが美味かったのは本当だ」 「召使い生活は伊達じゃなかったらしいな」 「ええ、かなり厳しかったですから」 胸を張っている。 自虐的な冗談なのだろうか。 「一つは取り柄があって良かったな」 「はい」 「お前も食ったらどうだ?」 「いいんだぞ、同じテーブルで食っても」 「本当ですか?」 「昨日もヴィノレタで並んで食っただろ」 「俺はお前の主人じゃない。気にするな」 「は、はい、失礼します」 ティアは思いのほか嬉しそうに席へ座った。 「ふふ」 「何だ?」 「同じテーブルで誰かと食事をするのって、憧れだったんです」 「仕事仲間と食わなかったのか」 「人前で食べていたら盗られてしまいますから」 「ほう」 「俺は盗まんから、安心して食え」 「はいっ」 ようやく食べ始めるティア。 何をするにしても、遠慮したり、喜んだり、驚いたり…… いちいち面倒な奴だ。 「普通の家族というものは、こんな感じなのでしょうか?」 「牢獄じゃ上等な方だ」 「えーと……下層ならどうでしょう?」 「下層か」 下層の家族。 それはつまり、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》前の俺の家だ。 食卓には、いつも母親と兄がいた。 普通の家庭というには父親が欠けていたが、それ以外は十分だったろう。 「下層なら、もっとましだろうな」 「どの辺がですか?」 「もうちょっといい女が飯に付き合ってくれる」 「ひどいです」 膨れた。 「ははは」 「あ」 ティアが俺を凝視する。 「何だ?」 「笑うところ初めて見ました」 「お前の話は大概つまらないからな」 「カイムさんが、いつも怖い顔してるだけです」 「牢獄にはおもしろい話など転がっていない」 「そうでしょうか」 「人がいれば、楽しいことがあると思います」 「なら、お前は今まで楽しかったのか?」 「お前をこき使っていたのも人だろう?」 「そ……それは……」 ティアがたじろぐ。 「で、でも、今までが辛かったのには、きっと意味があるんです」 「だからきっと、将来はいいことが……」 「どんな意味だ?」 「詳しくは分かりません」 きっぱり言った。 ため息が出た。 「お前に冗談の才能があるとはな」 「じょ、冗談じゃありません」 「呆れてものも言えん」 「ま、その理屈のお陰で世を儚まずに済んだのなら上々じゃないか」 不幸を運命と受け流すことも、幸福への過程だと受け入れることも、強さのうちだ。 そうとでも考えなければやっていけない現実が目の前にあるのだから。 「信じてませんね」 「当たり前だ」 「でも本当です」 「時々、夢の中で誰かがわたしに言うんです」 「どんなに辛くてもくじけちゃいけない。お前には生まれてきた大切な意味があるのだからって」 「……」 頭の内を雑音が駆け抜ける。 「ま、もし意味が見つかったら教えてくれ」 「いいですもう」 「怒るな。このチーズをやる」 「チーズなんかじゃ騙されません」 「でも、いただいておきます」 食った。 「……おいしいです」 「何よりだ」 よくわからん奴だ。 「おはよ、カイム」 「ああ」 「おはようございます、エリスさん」 テーブルを見たエリスの表情が凍る。 「……何これ?」 「飯だ。ティアが作ってくれた」 「なぜ?」 「と、泊めていただいているのでお礼に……」 「気持ちだけで十分です」 「お前の台詞じゃないだろ」 「は?」 本気で〈睨〉《にら》まれた。 「何の権利があって料理を作ってるの」 「いえ、ですからお礼に」 「あのね」 エリスがティアに歩み寄る。 「これは私の仕事」 「あなたがやっていいことじゃない、わかる?」 「す、すみません」 「すみません、じゃない」 「この人の食事を作るのは私」 「で、でも……」 「口答えしないで」 ティアが黙る。 「なあエリス」 「ティアには説明してなかったんだ。今日のところは許してやってくれ」 「じゃあ、今ここで説明して」 「今夜じっくり説明する」 「今ここで、私の見ている前で」 仕方ない。 このままでは、ティアがエリスに解剖されてしまう。 「俺がエリスを身請けしたって話は昨日したな」 「あ、はい」 経緯をざっと説明する。 身請けした後、エリスは情婦として俺の家に住み、身のまわりの世話をしようとした。 だが俺はそんなことを望んでいたわけではない。 しかし、エリスはエリスで全く引かなかった。 そこで、別の家に住み、通いで定期的に炊事洗濯をさせるところを妥協点としたのだ。 「なんだかエリスさんが可哀想な気がします」 「その通り」 「どうしてそうなる」 「俺は自由に生きてくれと言っているんだ」 「ティアは誰かに所有される人生が望みなのか?」 「い、いえ」 「でも、気持ちが納得しないって言うか……」 「ともかく、エリスには通いで炊事洗濯をしてもらうことになっていた」 「エリスが怒っているのは、こういうわけだ」 「はあ……」 「では、家事はエリスさんにお譲りします」 「そんな事情を聞いて、私が調理場を取るわけにはいきませんから」 「そうして」 「いや、料理はティアに任せる」 「……理由は?」 「腕がいい」 「冗談を」 「食ってみろ」 「馬鹿らしい」 言い捨てて、卓上に残っていた鶏肉を口に入れる。 「……」 続いて、スープを口に入れた。 「どうだ味は?」 「おいしい」 エリスは料理熱心だが、そもそも食えればなんでもいいと思っている。 主人から殴られないために、料理の練習をしてきたティアの相手ではない。 「俺の話はわかったか?」 「わかった」 そう言いながら、全く納得していない顔のエリス。 事件のことを思い出せばお払い箱の女に、なぜ食事を作らせるのかという不満だろう。 理由は簡単、ティアがやりたがったからだ。 料理をさせることでティアの気持ちが落ち着き、記憶が戻る日が早まるなら安いものだ。 「その代わり、掃除と洗濯は頼んだぞ、エリス」 「うん」 エリスがティアを〈睨〉《にら》む。 「これで勝ったと思わないことね」 「いえ、もう、初めから少しも思ってません」 「どうだか」 エリスはつまらなそうにチーズをつまみ、口に入れた。 「で、あなた、体調は?」 「はい?」 「体調よ。身体の調子」 「あ、はい、おそらく大丈夫です」 「どれ」 ティアの返事を聞いていたのかいないのか、エリスが触診を始める。 「いだだだだっ、耳を引っ張らないでくださいっ」 「外れないか確認してあげてる」 「よし、きちんと付いてる」 鬼か。 ティアをしばらくいじり回し、エリスは診察を終えた。 「特に問題ない」 エリスが意味ありげな視線を俺に向ける。 意図はわかる。 「ティア、あの夜のことは思い出せそうか?」 「事件と光のことだ」 ティアの目が一瞬見開かれ、すぐに伏せられた。 しばらくの無言。 「あの……すみません」 「やっぱり、思い出そうとすると頭が……」 「もう少し頑張ってみてくれ」 「は、はい」 小さく唸るティア。 表情が歪み、眉間に深い〈皺〉《しわ》が刻まれた。 「すみません……やっぱり思い出せません」 「……頑張れ」 「う……うう……」 「……」 やはり、苦しみ方が腑に落ちない。 自分が用済みになるのを怖れて、覚えていない振りをしていると見ていいだろう。 拷問にでもかけるか。 ……いや、もし本当に覚えていないのなら、強攻策は全てをぶち壊してしまう。 確証が得られるまで、もう少し様子を見てみよう。 「わかった。ま、無茶はしなくていい」 「は、はい……」 ティアの額を汗が一つ流れ落ちた。 「少し休んでろ。俺は髪でも洗ってくる」 安堵した様子でため息をつくティア。 俺の直感は当たっているのだろうか。 結論が出るのは少し先のようだ。 「カイム、洗濯もの」 「ああ、これだ」 〈籠〉《かご》に詰めてあった衣類を渡す。 「行ってくる」 「はい、いってらっしゃい」 共同の水場へ向かう道すがら。 エリスが口を開いた。 「あの子に料理させるなんて、ずいぶん信用してるね」 「情報を吐くまでのご機嫌取りだ。お前もあんまりカリカリするな」 「そういうこと言ってるんじゃない」 「毒でも入れられたらどうするの?」 「包丁で襲ってくるかもしれない」 「その時は、お前の出番だろ」 「私が発見した時に、カイムが生きてればね」 エリスの顔は真剣だ。 「女だから油断してる? そんなのカイムらしくない」 「何か信頼に足る理由でも?」 「あいつが何かするつもりなら、今朝、すでに実行していただろう」 「何があったの?」 「俺が眠っていたんだ」 「ティアの見張りをしていない時間があった」 「眠いなら私を呼んでよ」 「見張りくらいいくらでもするのに」 派手にため息をつかれた。 「馬鹿みたい」 「あの子のご機嫌取るっていっても、そこまでしなくていいと思う」 「……」 エリスが言うことも分かる。 いや、むしろ自然だ。 俺がティアの立場なら、なんとか逃げる道を探すだろう。 毒を使うかもしれないし、刃物があれば手を伸ばすかもしれない。 にもかかわらず、俺の警戒心は、昨日一日で大幅に下がっていた。 ティアには、本質的に害意がない。 そればかりか、何か天性の純粋さのようなものが備わっている。 牢獄では見たことがない人種だ。 「ともかく注意する」 「そうして」 「カイムに何かあったら、あの子を絶対に殺すからね」 エリスなら実際にやるだろう。 「料理につられて、ずっと家に置くなんてことはないよね」 「情報だけ引っ張り出せば用済みだ」 「一日も早くその日が来ることを願ってる」 「だといいけど」 軽く眉を上げて、エリスはもう一度ため息をついた。 昼過ぎ。 ティアと市場へ出かけた。 昨日、雨のせいで見られなかった雑貨屋を回るためだ。 「今日は人が多いですね」 「昨日は雨で、買い物しそこねた奴が多いんだろう」 「それより足元に注意しろ」 「はい」 「雨が降ると大変ですね、水溜まりがいっぱいで」 「牢獄には街中の雨が集まってくる、仕方ない」 牢獄は都市の排水口だ。 都市中を洗い流した汚水はここに集まり、腐っていく。 石畳敷きの広場はまだ水〈捌〉《は》けがいいが、未舗装の裏路地などは、しばらく水溜まりが消えない。 それが虫や悪臭を呼ぶ。 「でも、すごく賑やかで楽しいです」 「いろいろなものが売っていますから」 ティアの笑顔が急に曇った。 俺の服の裾をぎゅっと掴む。 「どうした?」 「い、いえ……」 ティアの視線を追う。 「……」 なるほど。 表向きは雑貨を扱っているテントの裏手で、それは売買されていた。 人間の子供だ。 縄で繋がれた4、5人の子供の眼前で、肥った中年が二人、革袋をやりとりしていた。 状況がわかっているのかいないのか、子供たちは大人の動きを虚ろな目で見つめている。 人間の売買は人目につかないところで行うのが作法だ。 真っ昼間の、しかも大通りから見える場所で取り引きするとは、牢獄の秩序も乱れたもんだ。 《〈風錆〉《ふうしょう》》派の商人だろうか。 「行こう」 「……はい」 辛うじて聞きとれる返事。 しかし、ティアの足は動かない。 「あれが、あの子たちの運命なんですよね」 「ああ」 「別に、悪いところに売られると決まったわけじゃない」 「そうですね」 まったくの気休めに、ティアは儚く笑った。 「さ、雑貨を見に行くぞ」 「はい」 ようやく歩いてくれる。 ティアの心情は容易に想像がつくが、慰める術はない。 俺が売買されていたガキを救ったところで、そんなものは意味がない。 「ティア……」 ふと見ると、俺の横にティアの姿がなかった。 「!!」 慌てて周囲を見回す。 少し離れたところにティアはいた。 行き交う買い物客の中、ぽつんと一人。 子供が売られていたテントの方を見つめている。 感傷的になってるな。 ティアに近づく。 「ひぐっ」 ティアの頭を軽く叩いた。 「俺から離れるな」 「す、すみません……おいしそうなものが売っていたので、つい……」 見え透いた嘘を。 ティアの手を取り、俺の服を握らせる。 「大人しくしてろ。離れるなよ」 「はい……ごめんなさい」 涙をためたティアが、上目遣いに俺を見ている。 「子供の頃、俺も娼館に買われた」 「だから、お前の気持ちは、わからないわけじゃない」 「え?」 「女顔のせいで立派な男娼候補さ」 「そんな……」 目が合う。 俺から目を逸らす。 思わず、余計なことを言ってしまった。 「行くぞ」 「は、はい……」 「あ……」 ティアが足を止めたのは、一際賑やかなテントの前。 〈籠〉《かご》に入れられた鳥や子犬が、街娼のように鳴いている。 「いい声ですね」 「ほら、あの黄色い小鳥です」 「ああ、金持ちの家によくいる」 以前、殺しに入った家にあの鳥がいて、ひやりとさせられたことがあった。 「わたしの前のご主人様は6羽も飼われてました」 「他にも犬が10匹くらいと、猫がたしか……7匹くらい」 「食事も、わたしのよりいいものばかりでした」 「はは、犬猫以下か」 「カイムさんは、動物を飼ったりしないんですか?」 「小鳥なら場所も取りませんし、部屋もにぎやかになっていいと思うんですが」 「五月蠅いのは、お前とエリスで十分だ」 「ひどいです」 黄色い小鳥が澄んだ声で鳴いた。 「あ、慰めてくれてます」 「こいつらに人を慰める余裕なんかあるか」 「唄わなきゃ殺されるんだ」 「夢がないです、カイムさん」 恨みがましい目で見られた。 「もしもの話ですけど……」 「カイムさんがこの鳥を飼っていて、途中で唄わなくなってしまったらどうしますか?」 「逃がすな。処分するのも面倒だ」 「……ですよね」 「お前ならどうする」 「わたしなら……」 「きっと最後まで飼うと思います。情が移りますし」 「殊勝な心がけだ」 「普通です」 そっぽを向くティア。 「どうせ、俺もお前も動物など飼わない人間だ」 「ほら、さっさと、雑貨を見に行くぞ」 「あ、はい」 空が赤く染まってきた。 ティアの胸に下げられた貴石が、夕日を反射して輝く。 子供の売買を見た時とはうってかわり、ティアはご機嫌になっていた。 「ふふふ、やった」 「気色悪い」 「だって嬉しいです。夢みたいです」 「まさか、こんな素晴らしいものを買っていただけるなんて」 元気づけようと買ってやった安価な首飾りを、ティアは宝物のように扱う。 ぎゅっと握り締めては光に透かし、自分でつけた指紋を何度も拭っていた。 「家に置いていただいているだけでも申し訳ないのに」 「飯の礼だ。気にせず取っておけ」 「でも、わたし感激です」 「まさかこんな素晴らしいものを……」 さっきから同じ話ばかりだ。 「ヴィノレタに着いたら、皆さんに報告します」 「エリスには恨まれるかもしれないぞ」 「う……」 「や、やっぱり返します」 「いいのか?」 首飾りに手を伸ばす。 「う〜、やっぱりもらいます……」 「あ〜、でもやっぱり返した方がいいのかな、命は大事だし」 「お前に預けておくから好きにしろ」 「だが、お前に買ったものだってのを忘れるなよ」 臆面もなく、気があるようなことを言う。 ティアが、俺の顔をまじまじと見た。 俺も見返す。 「はい……忘れません」 顔を上気させ、ティアは目を逸らした。 「さ、飯だ」 「一日歩いて腹が減っただろう」 「はい、もうぺこぺこです」 ティアが自ら俺の服を掴んだ。 夕刻のヴィノレタにはぼちぼち客が入っていた。 「よう」 「あら、いらっしゃい」 「ティアちゃん、楽しかった?」 「はい、いろいろ案内していただきました」 「いいご身分ね」 「私はヤク中娼婦の薬抜きしてたのに」 「やりがいのある仕事じゃないか」 「馬鹿」 そっぽを向かれた。 取りあえずカウンターに座り、酒と食事を頼む。 ティアは、いかにも話題にして欲しそうに首飾りをいじる。 「あらティアちゃん、それ何?」 「あ、これは……」 「カイムさんに買ってもらいました」 「聞いてないんだけど」 「いつからお前の許可が必要になった」 「あの、お二人とも……」 「いいのよ、放っておけば」 「それより首飾り見せて」 「はいっ」 ティアは、少し誇らしげに首飾りをメルトに渡す。 「ふ〜ん、なかなかいい趣味してるわ」 「誰が選んだの?」 「ティアだ」 「日が暮れるまで店の前で悩んでた」 「だってそれは……すぐになんて決められません」 「店の親爺に嫌な顔をされてたぞ」 「カイムは女心がわからないのね」 「せっかくの贈り物なんだし、悩みたいじゃない」 「そうですそうです。悩んでる時間が楽しいんです」 激しく頷く。 「でも、カイムが贈り物なんて珍しいね」 「もしかして、ティアちゃんに気がある?」 「ば、馬鹿言うな。俺がそんな……」 「あははは、赤くなってる」 俺の演技に、メルトがそれらしく合わせてくれる。 「カイムさん……」 「宝物にするのよ、これ」 「はい、大切にします」 メルトが、カウンター越しに首飾りを返そうとしたところで…… ぽちゃん 「あ、お鍋に落としちゃった」 「あああぁぁぁぁぁっっ」 「なーんてね♪」 メルトが手を開くと、そこには首飾りがあった。 ちょっとした手品だ。 「あ、う……う……」 「わたしの……くび、かざ、り……」 「ティ、ティアちゃん?」 「そんな……ああ……」 メルトの声にも反応せず、呆然と鍋を見つめている。 「飛んでるね、これ」 「悪ふざけが過ぎたな」 「言われなくてもわかるわよ」 「ティアちゃーん、首飾りは無事よー、おーーい」 ティアの目の前で首飾りを左右に揺らす。 「……ん」 「ほら、首飾りは無事よ、無事っ」 ティアに首飾りがかけられる。 「ああ、良かった……」 「ごめんなさいね」 「い、いえ……こちらこそすみません、取り乱してしまって」 「お前は、大体いつも取り乱しているが」 「ひどいです」 膨れるティア。 この顔を見ると妙に平和な気分になる。 「で、私たちにお土産は?」 「まさか手ぶら?」 「もちろん」 「あ、そ、ティアだけ」 ぷくっと頬を膨らませた横顔を、エリスは俺から見えないよう髪で隠した。 焼き餅を焼いているらしい。 なかなか胸に来る仕草だが…… エリスの愛読書『男の気を引くための技術』で紹介されている技の一つだ。 勉強熱心だが、ひねりがないのが残念なところ。 「ほーんと、ティアちゃんがうらやましい」 メルトが、厨房から渡された料理をカウンターに置いた。 「そういえばティアちゃん、料理はしてみたの?」 「え、え〜と……はい」 「腕は確かだった」 「まあまあね」 「あ、エリスも食べたんだ」 「折り悪く、な」 「あの、食事の件なんですが」 ばつが悪そうに切り出す。 「やっぱり、カイムさんの料理はエリスさんが作ってください」 「身請けのお話を伺いましたら申し訳なくなってしまいまして」 「お世話になっているお礼がしたいのは山々なのですが……」 「何? 私に同情してくれてる?」 「同情というわけでは……」 「ただ、わたしが料理をすると、これからもいろいろ揉めるかと思いまして」 「これから、ね」 エリスが眉を上げ、俺に視線を送る。 『この子、これからのことを考えてるみたい』と目が笑っていた。 情報をくれればお払い箱のティアに、これからもこの先もないのだ。 とはいえ、本当のことを言ってティアの機嫌を損ねる必要もない。 「確かにティアの言う通りだ」 「お互いに慣れるまで、しばらくは元通りにしよう」 「すみません、昨日の今日で」 「これからもよろしくお願いします」 俺とエリスに頭を下げるティア。 「これでまた、エリスの料理に逆戻りか」 メルトに額を指で弾かれた。 「他人の料理に文句つけるなら、自分で作りなさいよ」 「作りたがる奴が多いんでね」 「はいはい、もてもてね。やだやだ」 メルトがおどけて言った。 「あー、いたいたいたーっ!」 「大変、大変、大変なのっ」 騒がしいのがやってきた。 客を押しのけ、エリスに駆け寄った。 「何?」 「うちの娘がお客に殴られちゃって、もう鼻血出て真っ赤なの」 「またシェラ?」 「あー……うん」 「趣味で殴られてるんだから放っておけばいい」 「鼻血は布でも詰めておけば止まるから」 「そう言わないでさー、目ぇ回しちゃって起きないんだもん」 「鼻折れてたら可哀想だし」 「面倒」 「今、大事な話してるし」 「話は終わった」 「へへへへーっ、じゃ、行こっか」 「カイム、ひどい」 「どうして好きで怪我した人を治さなきゃ……」 ブツブツいいながらも、エリスは治療箱を持つ。 「好きで殴られるって、ちょっと分かりません」 「殴られてると、男に求められてる感じがするんだって」 「なるほど」 「さっぱりわかりません」 「変態のことは分からなくていい」 「……変態なのか」 エリスがぼそりと〈呟〉《つぶや》いた。 「ま、人それぞれだから」 「ところで、キミって、最近カイムと歩いてるって噂の?」 リサがティアに言う。 「えっと……おそらくそうだと思います」 「あーっ、やっぱそうなんだ」 「あたしはリサ、よろしく」 「でさでさでさ、カイムとはどうやって知り合ったの?」 「そ、それは……」 「いろいろだ」 「だからその、いろいろを聞いてるんでしょ、まったく」 「まーいーかー」 自己完結した。 「カイム、今度お店に来たら遊んでってね」 「人生観が変わるくらい気持ち良くさせてあげるから」 「気が向いたらな」 「つれなーーーー」 「あの、カイムさんとはどういうご関係なんですか?」 泣き真似をするリサに問いかける。 「むーずかしぃなぁー」 「大人……そう! 禁断で淫靡な大人の関係ね!」 「大人……」 「本気にするなよ」 「も、もちろんです。けどけど」 「そ、じょーだん、ジョーダン」 「たーーまにだもんね。カイムを独り占めしたらみんなに怒られちゃうよ」 「特にエリスとか」 「怒らない」 「でも殺す」 「おおっとー」 「あなた、エリスを呼びに来て長話してどうするの?」 「あ、そうだった」 「すみません、メルトさん」 「私、行かなくてもいいけど」 「やだもー、今日の主役でしょ!」 「さ、お連れしますお嬢さん。きらりん」 「はぁ……行ってくる」 「じゃ、カイムにメルトさん……あと誰だっけ、スキャパでいいや。スキャパまたねーっ」 リサとエリスが出て行く。 リサの相手をすると普通の3倍は疲れる。 「わたし、スキャパになりました」 「気にしないで。どうせ次に会った時には覚えてないから」 三人揃ってため息をついた。 「ここだけの話ですけど……」 ティアが声をひそめた。 「エリスさんって、本当にお医者さんだったんですね」 「ぷはははっ! 信じてなかったんだ、あははははははっ!」 「気持ちはわかる」 「い、一応、あの子の名誉のために言っておくけど……」 笑いをこらえながらメルトが言う。 「信頼されてるお医者様なのよ」 「女のお医者さんってエリスだけだから、お店で働いてる子は必ずエリスを呼ぶの」 「それにあの子、お金に頓着しないからね」 「生活できるだけもらえればいいって、すごく代金が安いし」 「なるほど」 「意外?」 「はい……」 「って、いえ、意外じゃないですですです」 「もう遅い」 「いやー、ティアちゃんはほんと面白いわね」 「カイムが、なーんとなく優しくなっちゃうのもわかる」 「なんのことだ?」 火酒を〈呷〉《あお》る。 「今日のカイム、一昨日までのカイムとはずいぶん違うわよ」 「あ、気づいてないんだ?」 「以前はもっと怖かったんですか?」 「そうよ」 「傷つきたくなければ俺に触るな、みたいな」 「そうだったんですか」 「メルトさんとカイムさんは、昔からのお付き合いなんですか?」 「私がお仕事を始めた頃からだから……結構になるわね」 「ああ」 「メルトさんはお美しいですし、きっとすごく人気があったんでしょうね」 「どうだったっけ?」 メルトがわざとらしく俺に聞いてくる。 「大したことない」 「あらお客様、あんまりじゃございませんか」 「そんなにつれないことを仰ると、思わず言ってはいけないことが口から出てしまいそう」 「……」 「こいつの売り上げは、誰にも負けたことがなかった」 「すごいです!」 「カイムにもずいぶん貢献してもらったしね」 「余計なことを」 「ティア、帰るぞ」 「え、もうですか?」 「これ以上いると、何を言われるかわからん」 「あ、怒った?」 「馬鹿」 「ティア」 「じゃ、じゃあ、失礼します」 「またね、ティアちゃん」 「あ、そうだ。今夜ジークのところに行ってあげて」 「リリウムでいいのか?」 「ええ、話があるんだって」 「わかった」 「またな」 カウンターに銀貨数枚を置き、店を出た。 活気に溢れた娼館街を家に急ぐ。 ティアは、長い習慣であるかのように、俺の服に掴まった。 「あの、すみません」 「何がだ?」 「わたしが嫌な話題を振ってしまったせいで、ご気分を害したのかと思って」 「店が混んできたから出ただけだ」 「メルトも止めなかっただろう?」 「あ、そういうことでしたか」 「常連の作法だ、覚えておけ」 頷いたティアの頭を軽く撫でる。 「これからジークさんという方のところへ?」 「ああ」 「そういえば、ティアはまだジークに会ってなかったな」 「はい、初めてお名前を伺いました」 「ジークはこの辺を仕切っている組織の頭だ」 「今のお前の持ち主だよ」 「では、ご挨拶をしないと」 「必要ない。お前は家で留守番だ」 「そうですか……」 残念そうだ。 「お前を買った相手だぞ」 「会うことに抵抗ないのか?」 「ないわけではないですが、抵抗したところで何も変わりません」 しょんぼり顔でリリウムを見つめるティア。 「今頃、リサさんもお仕事されていらっしゃるんですね」 「ああ」 「わたしも働ければよかったです」 「どういう心境の変化だ?」 「働けばお金がもらえます」 「そしたら、カイムさんにもお礼ができますから」 「礼など必要ない」 「なら、どうしてわたしを家に置いてくれるんですか?」 「わたしは、優しくされる価値なんてない女ですし、お金も稼げません」 ティアの声が僅かに大人びた。 なるほど。 価値がないばかりか、厄介者でしかない自分が守られている。 その不合理が気になり、俺の真意を探っているのだろう。 「そうだな……」 いつもの柔らかな顔で俺の言葉を待つティア。 だが、彼女の全神経が俺に注がれているのがわかる。 虐げられる生活の中で、感情を顔に出さない程度のしたたかさは養っていたらしい。 「なんとなくだ」 「まあ、強いて理由を挙げるなら、お前が嫌いじゃないからかもな」 「え?」 しげしげと眺められた。 まさか『情報が欲しいから手元に置いてます』とは言えない。 ティアが自分の立場を正確に把握していたとしても、情報を引き出すまで、本当のことは言えない。 「メルトも言っていただろ。お前といると優しい気分になる」 「問題があるか?」 「い、いえ」 ティアの顔に朱が差し、俺の服を握る手に力がこもる。 「あの……」 「何だ?」 「信じていいんでしょうか?」 上目遣いに訊ねられる。 「ま、ほどほどにはな」 「……はい」 ティアは、微睡むような笑顔を浮かべた。 俺を信用したのだろうか。 やがては、ティアを見捨てる俺を。 「……」 らしくもない感傷だ。 気を取り直すべく視線を上げると、リリウムの方から歩いてくる三人組が目に入った。 「あ、リサさんです」 「やっほー、道の真ん中で、なーにイチャイチャしてんの?」 「してない」 「いやいやいやいや、どうかなー」 「今のお姿を拝見して、きっと陰で沢山の女が泣いてますよ、カイム様」 「私のカイム様があんな小娘に〜ってね、ははははっ」 「そ、そうなんですか?」 「真に受けるな」 「この子、誰?」 アイリスが、いきなり俺に言う。 相変わらず話の流れを読まない奴だ。 「あ、初めまして。ティアといいます」 「……ふうん」 「……え? ……あの?」 アイリスはじっとティアを見つめている。 「こいつはアイリス」 「見て分かる通り、少し変わってる」 「ははは……うるさい」 「ティアさん、私はクローディアと申します。以後お見知りおきを」 「はい、よろしくお願いします」 「クローディアはリリウムの稼ぎ頭だ」 「わあ、すごいですね」 「お褒め下さり恐縮です」 「と言っても、メルトさんに比べましたら足元にも及びませんよ」 「メルトさんって、そんなに……」 「神だからね、神」 「ティアさんも、ぜひ遊びに来て下さいましな」 「え? 娼館って男の人が遊ぶところじゃ」 「大丈夫ですよ。いろんな遊びがございますから」 「えっと……あの……」 「からかうな、こいつにはまだ早い」 「保護者気取りか」 無視しておこう。 「ところで、男に殴られた何とかって女はどうした?」 「今、エリスに診てもらってる」 「血は止まったし、鼻の骨も大丈夫みたい」 「なら良かった、顔は商売道具だからな」 「まったく、殴られて何が楽しいのかわかりませんね」 リサが、おいおいという顔でクローディアを見た。 ドSであるクローディアは、殴られて楽しい人間をいくらでも知っている。 「で、三人揃ってどこ行く。飯って時間じゃないだろ」 「ふふふ、今夜は出張なのー」 「金持ち豚の相手」 「こら、お客様の悪口を言わないの」 「そうそう、ご馳走用意して待っててくれるんだから」 「今日は朝から食事抜いてるからね、ガンガンいくよーっ」 「しっかり稼いでこいよ」 「おすっ!」 「それではカイム様、またの機会に」 「ティアさんもさようなら。カイム様を独り占めしては困りますよ」 「そそそそ、そんな……」 「んじゃーねー」 「……」 三人が去っていく。 アイリスの奴、妙にきつい目でティアを〈睨〉《にら》んでたな。 まさか、羽に気づかれたか? 「明るい方々ですね」 「明るく生きるよう努力してるんだ、わかるだろう?」 「……」 救いのない人生を送る気分は、ティアの方がよくわかっているはずだ。 「さ、帰るぞ」 「はい……」 「よう、来たか」 「遅くなった」 部屋には紫煙が充満していた。 煙の量と状況の悪さは比例している。 「例の女はどうだ?」 「こっちへの警戒はだいぶ薄くなってきているが、事件のことはまだ思い出していない」 「……と言ってる。本人は」 「あ?」 「これは俺の勘だが、あの女、もう思い出してるんじゃないかと思ってる」 「忘れた振りをしていると?」 「ああ」 「事件のことを話せば、自分が処分されると気づいているのだと思う」 「そこを『これからもずっとカイムさんが面倒見てくれるかも☆』と思わせるのがお前の仕事だろ」 「やれる限りはやってる」 「昨日今日と楽しく遊んでたようだし、努力してないと言うつもりはない」 「ま、引き続き頼む」 ジークが新しい葉巻に火を点けた。 「で、本題だが」 「ここ数日で、羽狩りがかなり人員を増やしているらしい」 「俺が目をつけられていると?」 「それはわからんが、注意するに越したことはない」 「最近責任者になったルキウスって貴族は、かなり優秀らしいからな」 「噂は聞いたことがある」 「若手の改革派とか言われてるらしいな」 「ああそうだ」 「残念ながら、ありがたい改革も牢獄には届かないらしいがな」 ジークが苦笑する。 「ま、牢獄の羽つきを減らしてくれるなら結構じゃないか」 「もちろん」 「だが、羽狩りの拡充を切り口に、役人どもが出しゃばって来るのはまずい」 ジークが大きく煙を吐き出す。 「《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の時、国や役人どもは救助をよこさず、俺たちを見殺しにしようとした」 「覚えてるだろあの地獄を」 「もちろん」 「先代が作り上げた牢獄の秩序を、横からかっ攫われるわけにはいかん」 国が言うところの《特別被災地区》── 通称牢獄は国から見放されている。 国に代わって、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》後の牢獄を支えてきたのは《不蝕金鎖》だ。 だから、牢獄に暮らす人間の多くは自分たちの上に国があるなんて考えていない。 国王の名前すら、知っている奴はほとんどいないだろう。 「ルキウスという奴のことも、まだわからないことが多い」 「しばらくは、羽狩りの動きに注意した方がいいだろう」 「ティアはどうする?」 「ティア?」 「女の名だ」 「まあ、そのティアちゃんの扱いについては、今のところ問題ない」 「カイムは、今まで以上に羽狩りを警戒してくれればいい」 「それでも面倒なことになるようなら、女を捨ててくれ」 「事件の真相が明らかにならないのは残念だが、お前には替えられん」 「そうさせてもらう」 ジークがこう言ってくれている以上、羽狩りと揉めてまでティアを守る理由はない。 謎の光については分からずじまいになるが、仕方のないことだ。 「あの女、今はエリスにでも見張らせてるのか?」 「いや、一人で家に置いてる」 ジークにまじまじと見つめられた。 「お前にしちゃ冴えた冗談だ」 「先代が聞いたら、拳の10発は堅いな」 「あの女に一人で街をうろつく勇気はない」 「ほー、ずいぶんとまあ入れ込んじゃって」 「ま、お前に任せたことだし、余計な口出しはしないことにしよう」 ジークが煙草をもみ消す。 「話はこんなところだ。わざわざ呼び出してすまなかった」 ジークに別れを告げる。 目の前を数人の羽狩りが通り過ぎる。 後ろ姿を目で追うと、そこらの通行人に声をかけ、聞き込みをはじめた。 こんな時間まで動いているとは、ずいぶんとやる気だ。 「……」 家に残してきたティアは大丈夫だろうか。 晴れた日、太陽を陰らす一片の雲のように、その不安は俺の胸をよぎった。 今この瞬間、羽狩りが家の戸を叩き壊しているかもしれない。 空想だ。 そう思いつつも、足が家へと向いてしまう。 羽狩り増員は厄介な問題だ。 だが、実際の脅威となるのは、羽狩りのやる気に感化された民衆だと言える。 羽狩りの目的は病の拡大を防ぐことであり、それは民衆の利益に反しない。 羽狩りが存在感を増せば、彼らに協力する住民も増えるだろう。 となれば、羽つきへの監視は各段に厳しくなる。 コンコン 「俺だ」 ……。 窓からは明かりが漏れているが、返事はない。 ドンドンドンドンッ 「ティア」 ……。 …………。 ドンドンドンドンッ ……。 …………。 まさか…… 「ふぁい……ふぁーい、起きてます〜」 部屋から間延びした声が聞こえた。 「すみません……うつらうつらしていました」 「って、どうしたんですか、汗かいてます」 「いや、なんでもない」 「なんでもないと言われましても」 困った風に眉を曲げるティア。 その平和な顔に、思わずため息が漏れた。 「とにかく入ってください」 「帰ってきたらお体を拭くかと思って、お湯を沸かしておきました」 「ああ」 一人で留守番させた挙げ句、その身を心配するなんてどうかしてる。 俺は何がしたいんだ。 ティアが用意した湯で体を拭き、人心地ついた。 「カイムさんって、引き締まったお体をされてますね」 「これで、お顔も綺麗なんですからずるいです」 「顔の話はするな」 「すみません」 「留守番の間、変わったことはなかったか」 「はい。カイムさんは大丈夫でしたか?」 「仕事の話をしに行っただけだ。大丈夫も何もない」 「組織の方とお話しするような、なんでも屋さんなんですね、カイムさんは」 心配そうな顔で俺を見る。 どうやら仕事の中身はご理解頂けたようだ。 「お前の勘は当てにならない」 「前に、俺のことを『いい人』だと言っただろ」 「大外れじゃないか」 「そ、そんなことありません」 ティアにしては強い口調だった。 「カイムさんはいい人です」 「現にこうして、家に置いてくれています」 だがそれは、ティアの記憶に価値があるからに過ぎない。 「わたしは、カイムさんがどんなお仕事をされていても平気です」 「根はいい方だって分かってますから」 温かな笑みを浮かべるティア。 「だから、それが当てにならんと言っているんだ」 「本当に悪い人は、自分のことを悪いって言いません」 妙な決めつけをしてきた。 イラッとする。 ティアの顎を指で持ち上げる。 「俺を持ち上げて、何か点を稼ぎたい理由でもあるのか?」 瞳を直視すると、ティアは逃げるように目を逸らした。 「不安なんです」 「これから先、わたしがどうなるのか」 「ここにいればいい」 心にもないことを言う。 「いいんですか?」 「構わんさ。女一人養うくらいの金はある」 「ありがとうございます」 「でも、どうしてですか?」 「わかるだろ。男が女を側に置く理由は多くない」 ティアの頭を乱暴に撫でる。 「うぅ……」 それっきりティアは黙り、撫でられるがまま。 時折何か言いたげにこちらを見るが、俺は無視する。 ティアには、俺に恋愛感情があると思ってもらわなくては困るのだ。 「……分かりません」 蚊の鳴くような声で言った。 「どうして、わたしみたいな女を気に入るのか分かりません」 「お前が分からなくても、俺はお前を気に入っている」 「嫌なのか?」 「嫌ではありません」 笑顔を浮かべるティア。 無理に作った笑いだった。 どうやら、まだ俺の言葉を信用していないようだ。 「信じてないようだな」 「仕方ない、出会ってまだ数日だ」 「いえ、そんなことないです……ただ、驚いてしまって」 「何か確かな証拠があった方がいいか?」 「え?」 「証拠だよ、俺がお前を気に入っているっていう」 「あ、えーと……うう……」 俯いて縮こまるティア。 「ティア」 「は、はい……」 滑らかな頬に手を当て上を向かせる。 無理矢理目を合わせると、ティアの顔が真っ赤に染まった。 遠くから地鳴りが聞こえた。 「……この音は」 「?」 建物が軋んだ。 「きゃあっ」 「くっ」 「じ、地震!?」 脳裏をあの日の光景が走り抜ける。 大丈夫。 大丈夫だ。 自分に言い聞かせるが、関節という関節が緊張に強張っていく。 骨の髄まで染みこんだ恐怖と絶望が、まだ抜けきらない。 「カイムさんっ」 「大丈夫だ、大した揺れじゃ……」 視界が何かで塞がれた。 状況の把握に時間を要する。 ……。 俺はティアに抱かれているのだ。 鼻から入った甘い香りが体に染みこんでいく。 香水によらない、生来の女の匂い。 ずいぶん久しぶりだ。 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》からこっち、香水と白粉に囲まれて生きてきたせいだ。 最後に嗅いだ生の女の匂いは、恐らく…… 母親か。 「揺れが……止まりました」 「……」 俺を抱き締める力が弱くなった。 「大丈夫ですか、カイムさん?」 「何が」 「いえ、顔が強張ってらしたので、地震が怖いのかと」 「多少緊張するだけだ。大体、月に一度は揺れてるんだぞ」 「いいから放せ、暑苦しい」 「あ、すみません」 ティアから解放された。 「しかし、最近の聖女様は怠慢だな」 「ですねえ。よく揺れてます」 戸外から、騒ぎが聞こえてきた。 「被害があったんでしょうか?」 「外を見てみろ」 ティアを促し入口の扉を開く。 家から顔を出すと、悲鳴がいくつか聞こえてくる。 火事や家屋が倒壊している様子は見られない。 「??」 「物理的な被害はないんだがな」 「たまに頭がいかれる奴がいるんだ」 「え?」 「牢獄にいる奴は、ほとんどが《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》で被害を受けてる」 「地震がその記憶を呼び覚ますんだよ」 「ちょっとした地震が引き金になって、おかしくなってしまう奴も少なくない」 消えない《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の記憶、 国から見捨てられた恨み、 日々を蝕む貧しさと暴力、 これらが一体となったものが、恐らく牢獄に生きる人間共通の精神だ。 「カイムさんは大丈夫なんですね」 「仕事の邪魔なんで克服した」 「牢獄で暮らしてる奴らにとって、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》はまだ終わっていないんだ」 「わかる気がします」 「わたしも《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》のこと、なんとなく知ってますから」 「お前、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の時、どこにいた? 上層か? 下層か?」 「ええと……よく覚えてません」 「年齢は?」 「それもちょっと」 「そんな状態で、軽々しく知っているなどと言うな」 「聞いただけのことで、あの悲惨さが分かるか」 「で、でも、夢で見るんです」 「人が落ちるところとか……家が壊れるところとか……」 よりによって夢か。 馬鹿にしているのかこいつは。 「言っていいことと悪いことがある」 「夢で見たから知ってる? 冗談じゃない」 「次、同じことを言ってみろ」 「も、もう言いません」 深呼吸をして気持ちを静める。 「……」 「さあ、見学はもういいだろう」 「……はい、ごめんなさい」 ドアが閉まり、喧噪が遠くなった。 「……」 「……」 ティアが気まずそうに目を逸らした。 居心地の悪い静寂が流れる。 「わたし……お夜食作ります」 びしっと直立し、唐突に言う。 「食事はエリスに譲るんじゃなかったのか」 「あ、えーと、そうですけど……」 「お夜食は食事に含まれませんから」 どこのルールか知らないが、まあいい。 何もせずにいるには辛い雰囲気だ。 「早く食えるものにしてくれ」 「はい、任せてくださいっ」 ティアが調理場に立つ。 「エリスさんに見つかったら怒られちゃいますね」 「気にするな」 「こんな時間に見つかりっこない」 そう言ったしばらく後、 地震後の様子を見に来たエリスとティアの喧嘩を仲裁する羽目になった。 「それでまた喧嘩?」 「いい加減、勘弁して欲しい」 「約束守らない方が悪い」 「ですから、お夜食は食事じゃないと思って……」 「屁理屈だから」 「俺が悪かったってことになっただろ、日をまたいで喧嘩するな」 「今、めんどくさい女だと思ってるでしょ?」 「ああ」 「カイムの気持ち、なぜか手に取るようにわかる」 「誰でもわかる」 「ふふふ」 「お前が笑うところじゃない」 扉が開いた。 「いらっしゃい……」 「……」 新しい客はまず店内をぐるりと見回し、静かに目礼した。 「失礼する」 「ティア、いつも通りにしてろ」 「ははは、はい」 明らかに緊張している。 ボロを出さなければいいが。 「実は、このあと店を閉める予定になっておりまして」 「大変申し訳ございませんが、またの機会にお願いできますでしょうか」 笑顔を崩さずメルトが嘘をつく。 「むしろ好都合だ」 歯切れよく言って、羽狩りの隊長が近づいてくる。 「私はフィオネ・シルヴァリア」 「この近辺を担当している防疫局の隊長を務めている」 手を伸ばし、カウンター越しにメルトと握手をする。 次にエリス。 そして、俺に向いた。 「貴方は、先日の……」 「奇遇だな」 「ええ。本当に」 差し出された隊長の手を握る。 かなり鍛えられた手だ。 腰には入念に手入れされた剣が下がっている。 「貴女もよろしく」 女隊長は、続いてティアに手を出す。 頼む。 無事乗り越えてくれ。 「あ、は、は、は、はい……」 「どうかしたか?」 「あ、あの、いえ、別に、なんでも」 「この娘、前に友達が羽狩りさんのお世話になってるんです」 「それでちょっと緊張しているみたい」 「なるほど」 メルトの話を受けた隊長は、笑顔でティアに語りかける。 「怖い思いをさせたのなら申し訳なかった」 「以後、不快な思いをさせないよう極力注意する」 「は、はい」 隊長はティアの手を握ると、力強く2度振った。 「それで、どういったご用でしょうか?」 「これは失礼」 居住まいを正す女隊長。 美しい姿勢だ。 「数刻後に、この近所で羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護を行うことになっている」 「ついては、一時こちらを詰め所として使わせて頂きたい」 「他の場所ではいけませんか」 「こちらは娼館街の入口にあって都合が良い」 「もちろん相応の代金は払わせてもらう」 「本日は店を閉めるとのことだし、大きな損害は与えないと思うのだが、いかがだろうか?」 墓穴を掘る形となってしまったメルト。 これ以上断ると怪しまれる可能性がある。 目配せをしてきたメルトに頷く。 「わかりました。お使い下さい」 「ご協力感謝する」 にこりと笑い、女隊長は軍靴の踵で床を3度踏み鳴らす。 待ちかねたように裏口が開いた。 入ってきたのは、10名前後の男たちだ。 「ちょ、ちょっと裏から何よっ」 「すまない。表は目について都合が悪いのだ」 男たちは羽狩りの制服ではなく、そこらの客と変わらない服装をしている。 羽狩りだと気づかれないための変装だろう。 彼らが揃って服を脱ぐと、下からは見慣れた制服が現れた。 羽狩りの数は12名。 それなりに大きな作戦のようだ。 「誰かと思ったら君か」 「くじ運が悪いな」 「まったく」 「ラング、無駄話は控えろ。すぐに打ち合わせを始める」 「了解」 髪をさらりとかき上げ、副隊長は俺の脇を通り過ぎる。 ふわりと香水の匂いがした。 匂いをつけて歩くとは、荒事屋にしては不用心だ。 「俺達は邪魔になる、帰ろう」 「そ、そうですね」 金をカウンターに置き、俺達は出口へ向かう。 その道を隊長が遮った。 「すまないが、作戦が終わるまでここにいてもらえないか」 「疑うわけではないが、貴方がこのことを誰かに報告しないとも言い切れないのでな」 「羽狩りの邪魔などしない」 「我々は羽狩りではない」 「防疫局だ」 きっぱりとした口調で訂正する。 「防疫局って名前は、牢獄じゃ通じない」 「そのくらいわかってたほうが、働きやすくなると思うぞ」 「忠告、痛み入る」 「だが、正式名称は正式名称だ」 役人らしく、どうでもいいことにこだわっているようだ。 「ま、ともかく、俺達に羽狩りさんを邪魔する意思はない」 「そう言わず、私たちが給料分働いているか見届けてくれないか」 「事後報告で結構」 「悪いが、お願いしているわけではないんだ」 ラングが指先で剣の柄を叩いた。 「そのような態度はやめろ」 「この手の奴らは、話してもわかりません」 隊長に言ってから副隊長が俺を見る。 お手上げの仕草で応じた。 「ご協力感謝する」 「防疫局の仕事を間近で見られて感激だ」 俺の皮肉に苦笑で応える女隊長。 「店主、今すぐ店を閉め、誰も入ってこないようにしてくれ」 「わかりました」 メルトが戸締まりを始める。 羽狩りたちは、テーブルをいくつか集めて大テーブルを作るようだ。 「カイムさん、どうしたら……」 「取りあえず座れ」 「は、はい」 完全に青ざめているティアを座らせる。 長時間この状態が続けば、いずれティアの羽は見つかるだろう。 なんとか店の外に逃がしてやりたいが。 策を考えよう。 「……」 よし。 やってみるか。 「エリス、メルト」 小声で二人を呼び、作戦を囁く。 「いいんじゃない」 「何もしないよりは」 「ああ、こうして私の純潔が穢されるのね」 「すまんが頼む」 「??」 「では、作戦開始まで待機するように」 羽狩りの打ち合わせが終わった。 店内には、羽狩りの押し殺した興奮が充満している。 「皆さ〜ん、お疲れ様で〜す」 「こちら店からの気持ちです。喉を潤してください」 二人が、羽狩りの前に酒を持っていく。 「酒か、気が利くじゃないか」 「おい、作戦前に酒は控えろ」 「行動開始までしばらくあるじゃないですか」 「店主の好意を無駄にしちゃまずいですよ」 「ええ、皆さんには頑張って頂かないと」 隊員たちが同意の声を上げる。 女隊長は不愉快そうに顔をしかめた後、小さなため息をついた。 「ほどほどにしろ」 「よし、お許しが出た」 「どんどん召し上がって下さい」 「隊長さんもどうぞ」 「私は結構だ」 女隊長はあくまで真面目な役人を貫く。 この性格では、隊員をまとめるのも大変だろう。 「姉ちゃん、もう一杯だ」 「は〜い」 早速二杯目に行く奴もいる。 しばらくは楽しんでいてもらおう。 「ひゃっ」 給仕をしていたメルトが声を上げる。 「姉さん……いい腰してるな」 「嫌ですよもう、お兄さんったら」 羽狩りの胸を軽く叩くメルト。 それがまた男を喜ばせる。 「あっ」 「おっとっとっと、危ねえぞぉ」 体勢を崩したエリスが、羽狩りの膝の上に座る。 「す、すみません」 「困った女だ……ほれ、お仕置きだ」 「あっちょっと、触らないで」 飲み始めからしばらく経ち、羽狩りが女に手を出し始めた。 「あっ、こら、お客さん、もう、駄目ですったら」 「やめて、だめ」 店内に〈嬌声〉《きょうせい》が響く。 「あの、どうなってるんですか」 「まあ見てろ」 席を立ち、女隊長に近づく。 「役人とはいえ普通の男だな」 「申し訳ない。今やめさせるので少し待ってくれ」 「まあいいじゃないか」 「なんだと?」 「ここは、そういう街だ」 「気の済むまで遊ばせてやればいい」 「馬鹿な、我々は誇りある……」 「どこにあるんだ?」 男の羽狩りたちを見る。 エリスとメルトに、だらしなく絡んでいた。 「お前たち、節度を保てっ」 「女性も嫌がっているだろっ!」 女隊長の声が飛ぶ。 だが、無駄だ。 「いや、それは筋違いだ」 「どういうことだ?」 「あいつらは娼館街の女だ」 「嫌がっているように見えて、男を誘ってる」 「たぶらかされてるのは、あんたの部下たちだ」 「馬鹿な……」 「女の本性だよ」 「あんただって女だ、分かるだろ?」 「触るなっ」 「おっと」 肩に乗せようとした手を払われた。 「私はこの街の女とは違う」 屈辱のためか、女隊長の顔は紅潮している。 「この店の女は、男を堕落させる専門家だ」 「部下たちが腰抜けにされる前に、女は2階にでも閉じこめておいた方がいい」 「そうしてくれると助かる」 「わかった」 女隊長の傍を離れる。 「お前ら男漁りも大概にしろ」 「羽狩りは仕事を控えてるんだ、迷惑かけるな」 「あら、せっかくお客が増えるかと思ったのに」 「ざーんねん」 「いいから2階に引っ込んでろ」 「はいはい」 不満そうに、エリスとメルトが引き下がる。 カウンターにいたティアにも声をかけ、3人は2階へと消えていった。 「牢獄の女には参る。男と見ればああだ」 「穢れた環境で生活すれば心も汚れる、仕方のないことだ」 「今日の仕事、頑張ってくれ」 「ありがとう」 女隊長と別れ席に戻る。 酒をいただくとしよう。 カウンターの裏側── メルトの定位置に入ると、調理台に薬の残りが置いてあった。 「お前達、酒はもうやめろ」 「日暮れと共に状況を開始する」 「おおっ」 興奮した声で男たちが応えた。 薬の効果はまだ健在のようだ。 捕まえた羽つきを犯さなければいいが。 「上手くいった」 「あの隊長さん、正義感が強すぎて部下のだらしないところを見てられなかったのね」 「悪いのは部下じゃなくて、娼館女だって囁いてあげれば一発」 「人間、自分の望む解釈をしたいから」 「なんか、嘘をついているみたいで気が引けます」 「馬鹿みたい、助けられたのはあなたよ」 「気が引けるなら、一人で1階に下りたら?」 「すみません」 「まあまあ、あんまり苛めないであげて」 「助かったんだから良かったじゃない、ね」 「はい、ありがとうございました」 「あ、ところで、一つ気になっているんですが……」 「お酒に混ぜていた粉は何ですか?」 「催淫薬」 「ちょっといやらしい気分になっちゃう薬ね」 「普通、お酒の1、2杯じゃ大して酔っ払わないでしょ」 「手っ取り早く絡んでもらいたかったから薬を混ぜたの」 「効果てきめんだったじゃない」 「な、なるほど」 「エリスさんは、どうしてそんな薬をもっていらっしゃるんですか?」 「〈娼館〉《リリウム》の子によく売れるから」 「結構、使うのよ」 「男の人に元気がないと、長引いて面倒でしょ?」 「う、うう」 「あはは、こういう話には慣れてないのね。かわいいかわいい」 「そう?」 「なんで意地悪言うのよ」 「いろいろあるから」 「うう……」 「すみません、カイムさんとエリスさんには、いつもご迷惑をおかけして」 「謝らなくていいの」 「で、カイムとはどう? 楽しくやってる?」 「は、はい、とても優しくしてくださいます」 「先日も助けていただきましたし、先程だって……」 「お礼のしようもないです」 「気にしないで。カイムはきっと好きでやってるんだから」 「カイムさんは……それに皆さんも、どうして優しくしてくださるのですか?」 「……」 「……」 「優しいのに理由がなくちゃだめ?」 「よく、わかりません」 「でも、自分は優しくされる価値のない女です。働けませんし羽も生えてますし」 「働けないと価値がないの?」 「えっと……そう思います」 「ティアちゃん、今まで誰かにお仕えしてきたんだっけ?」 「はい」 「なるほど……」 「あのね、ティアちゃん。世の中って割とお金や利害と関係ないもので動いてるの」 「……難しいです」 「だから、いろんな物事にいつも根拠を求めてると、世の中面倒なだけよ」 「でも申し訳ないんです。わたし、いるだけで迷惑な女なのに」 「申し訳なく思う理由がわからない」 「え?」 「私たちが好きで優しくしてるのなら、あなたが申し訳なく思う理由はない」 「あなた自身、理屈が通ってない」 「それは……」 「ま、みんな適当に生きてるってことね」 「だいたい、みんなが正しい方だけに動いてたら、世の中つまんないわよ」 「しばらくはこの部屋から出られないわけだし、のんびり考えてみたら」 「……はい」 「(よくもまあ、聞こえのいいことをペラペラと)」 「(仕方ないでしょ、本当のこと言えないんだから)」 陽が傾き始めた。 薬が抜けた羽狩りの間には、焦燥に似た緊張が広がっている。 神経質に装備を確認する男たちの姿を〈肴〉《さかな》に、俺は何杯目かの火酒を飲み干した。 生真面目な女隊長は、胸に手を当て口の中で何事か唱えている。 「あんた、何に祈る?」 「聖女様……そして家族に」 瞑目したまま女隊長は言う。 「これから、どこかの家族を壊しに行くのにか」 「我々がいなければ街に病が蔓延し、より多くの家族が壊れる」 「必要な仕事だ」 型どおりの答えだった。 「以前、娼館街のチンピラに、暴力で生活するのはどんな気分か訊きたいと言っていたな」 「あんたらなら、その気持ちはよくわかってるんじゃないか」 「愚弄するのか」 「我々の暴力は手段であって目的ではない」 「民衆の平穏な生活を保つために、どうしても必要な時があるのだ」 「そうだと信じているよ」 女隊長は荒い鼻息をついて、顔を逸らした。 「傍から皮肉を言うのは楽でいいな」 女隊長が立ち上がる。 部下達も一斉に席を立った。 「状況を開始する」 女隊長は店の扉を開け放った。 赤灼の陽光が突如として店に射しこみ、女の身体が逆光に映える。 「私は現実の只中にいる」 「お前と違って、〈娼館街〉《夢の世界》で生きているわけではない」 静かに言い、女隊長は夕景の娼館街へ出る。 続いて隊員達。 最後は副隊長だ。 「いい狩りを」 「『保護』の間違いだ」 すれ違いざま冷たい声を投げつけ、最後の羽狩りが店を出ていった。 がらんとした静寂に取り残される。 「現実の只中にいる……か」 芝居がかった台詞だ。 いつか言ってやろうと用意していたのなら、相当寂しい女だ。 少なくとも、頭の中身は夢想の只中らしいな。 「出て行ったみたいね」 「あー、疲れた」 「こ、怖かったです」 三人が下りてきた。 「何とか切り抜けた」 「ありがとうございます、皆さんのおかげです」 「私の名演のお陰ね」 「羽狩りなんかに身体触られるなんて、最低」 「エリスの薬のお陰で助かった。意外と効いたな」 「特製だから」 「何のために作ったか知りたい?」 「全く知りたくない」 「カイムに元気になってもらおうと思って」 「どうせ言うなら聞くな」 「あらカイム、早くも薬に頼ってるんだ。あーあ」 店の外から女の悲鳴らしき声がした。 「あ……この声」 「始まったな」 「様子を見てくる」 「私は休んでるわ」 「羽狩りなんて、もう見飽きた」 「わたし、見たいです」 「ここにいろ」 「お願いします」 「羽つきがどうなるのか、見てみたいんです」 「だめだ」 「でもでも、自分も羽つきですから」 ティアの声には切実な響きがあった。 「少しだけでもいいんです」 「遠目に見ている分には、そこまで危なくないんじゃない?」 「……」 「きっと後悔する」 「それでも、です」 ティアの目が潤む。 「面倒な女だな」 店の入口へ向かう。 「え?」 「ついて行ったら」 「は、はいっ!」 「勘弁してください、うちに羽つきなんていませんよ」 「調査させて頂くだけです」 羽狩りが目をつけていたのは、裏通りの小汚い娼館だった。 野次馬が遠巻きに見つめる中、女隊長と娼館の主が対峙している。 「どうなるんでしょうか?」 「黙って見てろ」 「何かの間違いだって」 「うちは客商売なんだから、店に羽つきなんか入れるわけないだろ」 「変な噂が立ったら客が来なくなっちまう」 「噂はすでに立っている。だから我々が来た」 「ご主人、ここは調査を受け入れて、悪い評判を払拭するのが良いと思う」 表にいる羽狩りは7人。 ヴィノレタには12人いたはずだから、残りの5名は裏口にでも回っているのだろう。 「協力したいのは山々なんだが、今は営業中なんだ……明日の朝にでも」 「それには及ばない」 建物に入ろうとする女隊長を、娼館の主が引き留める。 「な、なら、今お楽しみのお客に出て行ってもらってからにしよう」 「その後で存分に調べてくれ」 「まあ、そう言うな」 副隊長が主の両肩を掴んだ。 「裏口はもう塞いでる。時間稼ぎは無駄だ」 「うっ」 「行け」 女隊長の声と同時に、羽狩りが娼館になだれ込んだ。 「やめろ、お前らっ!!」 家具が倒れる音、器が割れる音、女の悲鳴── 娼館から激しい物音が聞こえてきた。 そんな光景を、ティアは息をするのも忘れて見つめている。 「お前、羽つきを匿ってやり、高い手間賃を取っていたらしいな」 「おまけに、金が払えなくなった女に、特殊な仕事をさせてたそうじゃないか……」 「ば、馬鹿な」 「怒るなよ、褒めてるんだ」 「よく磨いているだけあって、なかなか頭が回る」 副隊長が、娼館主の禿頭を撫で回す。 「カイムさん……」 ティアが小声で尋ねてくる。 「特殊なお仕事ってなんですか?」 「身体を売ったり、羽を折らせたり、ま、そういうことだ」 「……お、折る」 「金持ちの変態相手の商売だ。かなり儲かるらしい」 「ま、一歩間違えばご覧の通り」 娼館の入口から羽狩りが出てきた。 やや遅れて、縄で捕縛された羽つきが引っ張り出される。 少女ばかりが、3人。 一人は、翼が中程で折れ、純白だった羽根が鮮血に染まっている。 一人は、酷く殴られ、顔や身体は内出血で赤黒い。 最後の一人は、いつ失ったのか片腕がなく、目も虚ろだ。 「旦那……助けて……」 「知らん、お前など知らんっ」 「家族を匿う分には、我々も大目に見るが……」 「商売にしていたとなれば、事情を聞かねばならないな」 「く……」 娼館の主が失意に膝をつく。 羽狩りが恐ろしいのではないだろう。 間違いなく、奴は娼館街を騒がせた責任を問われて《不蝕金鎖》から制裁を受ける。 「同道願おうか」 「心配せずとも、乱暴にはしない」 「……う……」 女隊長が男に手を伸ばした瞬間、 「うああぁぁっっっ!!」 男の手が、無防備な女隊長の首に伸びる。 その手には光る物があった。 鈍い音。 「へえ」 「……」 「……」 俺達の目の前に、何かが落ちた。 「ひっ!?」 飛んできたのは男の腕。 見事な切断面だ。 「うがああぁぁ……あああっ……ああっ」 男が地面をのたうち回る。 「馬鹿なことをする」 〈呟〉《つぶや》いた女隊長が細剣を鞘に戻した。 かなりの剣の腕だ。 特に、抜き打ちの速さは疾風と言っていい。 「牢獄の皆さん、ご協力感謝する」 隊長が野次馬に告げる。 「お陰で羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を無事保護することができた」 「彼女たちは、残酷な労働から解放され、治療に専念することができる」 「今後も、〈罹患者〉《りかんしゃ》を見かけたら、必ず防疫局まで知らせて欲しい」 その、朗々とした声。 流れるような髪。 端整な立ち居振る舞い。 そして、穢れのない主義主張。 立派だが、気色が悪い。 ふと、そんな隊長の様子を見つめている人物が目に入った。 牢獄では目立つ清潔な身なり。 剣を提げているのも珍しい。 顔にはまだ少女の香りが残っているが、その瞳は妙に大人びている。 何者だろう? 羽狩りの女隊長に興味があるとすれば、役人仲間か何かだろうか? 考えている間に、女は髪を揺らして路地の奥に消える。 「撤収する」 「粗相のないよう、〈罹患者〉《りかんしゃ》は丁重に扱え」 「了解です」 羽つきと娼館主を囲んで、羽狩りが隊列を組む。 そして、詰め所に向かってゆっくりと歩き始めた。 「あ〜〜〜〜〜〜〜」 「あっ、お前」 隻腕の羽つきが、列を離れ、俺達の方に走ってきた。 一体なんだ? 「みぃつけたぁ〜」 と、少女が掴んだのは、斬り飛ばされた娼館主の腕だった。 「お手々ぇ……お手てぇ〜」 「わたしの、お手々ぇ見つけたぁ〜」 少女は、男の腕を自分の胴体に押し付ける。 「あれぇ、くっつかないよぉ〜、あれぇ、あれぇ、あれぇ」 「おねえちゃん、つけてぇ〜」 「ひ、あ……あ、あ……」 ティアはもう返事もできない。 涙を流し、首を振るだけだ。 「腕は家でゆっくりつけろ」 「慌ててつけると、曲がるぞ」 「はぁい」 元気に返事をして、隻腕の羽つきは列へ戻っていった。 「ひっ、うっ、うっ……」 「しっかりしろ」 ティアの頭を撫でるが、反応は返ってこない。 ただ声を震わせている。 羽狩りの列は遠ざかり、野次馬も散っていく。 路地に残ったのは、一つの血痕と寂寞とした空気。 そして俺達だ。 「誰も、助けないんですね」 「羽つきは保護されたんだ」 「でも、ボロボロでした」 ティアが鼻声で言う。 「今回は最悪に近い例だ」 「争いもなく、嬉しそうにつれていかれる羽つきもいる」 「だからって……」 「みんな止めてあげればいいのに」 「なら、お前が率先して助ければいい」 「自分はやらなかったことを他人にやらせるのか?」 ティアがしゅんとする。 「羽つきが近くにいれば羽化病が〈伝染〉《うつ》る」 「例えば、お前が羽つきを助けたとしてだ……」 「そのせいで友人が病にかかったら、お前は自分を許せるか?」 「そ、それは……」 「羽狩りのやり方は乱暴だが、だからといって奴らを責める奴なんかいない」 なぜ、俺が羽狩りの理を説いているのか。 ヴィノレタでの、俺と女隊長の立場が逆転したようで、居心地が悪い。 「羽つきは羽狩りに任せるのが一番だ」 「……お前は別だがな」 「ありがとうございます」 ティアがなんとか笑みを浮かべた。 「帰るぞ」 「飯は食えそうか?」 「……頑張って食べます」 「食べないなんて罰が当たりますから」 なんだ? ティアの纏う雰囲気が今までとは違っている。 いつもの、こちらを〈窺〉《うかが》うような、小動物じみた気配がない。 何か心境の変化でもあったのだろうか。 「どうかしましたか?」 「いや、気にするな」 「変なカイムさんです」 「……」 ティアが、俺の服の裾をぎゅっと握る。 やはり何かがあるらしい。 だが、正体はわからない。 遅い夕食を終え、ようやくティアが切り出した。 「あの、カイムさん。聞いてほしいことがあるんですが」 「来たか」 「はい?」 「いや、何となく予感があってな」 「家に帰ってくる時から、お前変だっただろ」 「あ、ばれてましたか」 「後々のために言っておくが、お前は隠し事が下手だ」 「それはまあ、だいたい気づいてました」 「それで?」 「ええと……あの……」 もじもじしている。 「はっきりしろ」 「は、はい」 返事をしたものの、ティアは俯いた。 そのまま、無言の時が流れる。 俺は、ティアの言葉をじっと待つ。 嫌な予感が胸の中で大きくなっていく。 「カイムさん……」 ぽつぽつと言葉が紡がれた。 「あの夜のことなんですが」 「襲われた日のことか?」 「はい。わたし、思い出したんです」 「ようやく、な」 「はい、今までご迷惑をおかけしました」 「で、話せそうか?」 「苦しいようなら、明日でも構わないが」 「いえ、平気です……今、ここで」 「あ、その前にお茶を……」 ティアが立ち上がり、茶を淹れる。 湯気を見つめながら、俺は天井を見上げる。 緊張しているのか、興奮しているのか、部屋に拡がっているはずの香りも感じられない。 別れ話を切り出されたような気分だ…… 胸の内で苦笑する。 ティアがすべてを話した時、こいつは用済みとなる。 もう会うこともあるまい。 正真正銘の別れ話じゃないか。 嫌な予感がしていたのは、これか。 「どうぞ」 茶が出る。 好みより渋みが強かった。 「それで、どんな様子だった?」 「はい……あの……」 「わからないんです、何も」 「思い出したんじゃないのか?」 「いえ、ですから、何も知らないことをはっきりと思い出したんです」 「とにかく、覚えていることを全部言ってみろ」 「牢獄についてすぐ、馬車に乗せられました」 「馬車には窓がなかったので、どこを走っていたかは分かりません」 「突然、馬車が揺れて、わたしは地面に投げ出されました」 「一緒に乗っていた女の子の顔とか、言った方がいいですか?」 「いや、必要ない」 ティアが頷き、話を続ける。 「それから、人を殴るような音とか、小さな悲鳴がずっと聞こえていました」 「血も流れてきて、わたし、もう怖くて怖くて、ずっとうずくまっていたんです」 「何も見ないように……頭を抱えて」 「それで?」 「顔のすぐ脇で、足音がしました」 ティアが唾を飲みこむ。 何度か呼吸をし、緊張を鎮めた。 「少しだけ視線を上げたら、大きな足が見えて……次に気がついた時には、カイムさんの家でした」 「足に特徴は?」 「たぶん男の人です」 「それ以外は暗くて分かりませんでした」 「お前も殴られたのか?」 「分かりません。痛いとか苦しいとか、そういうことは覚えていません」 「襲った相手に心当たりはないか?」 「恨まれていたとか」 ティアが首を振る。 「なるほど」 「調べたところだと、その場にいた人間は、お前以外全員死んでいる」 「見逃されたことについて心当たりは?」 ティアは、少し考えてから答える。 「ありません」 新情報がほとんどない。 ここまで期待はずれとは。 「光……そう、光はどうだ?」 「《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》と同じ色の光を見ただろう」 「……すみません」 「隠してないだろうな」 「本当に見てないんです、今お話ししたこと以外」 ティアが俯いた。 嘘をついているわけではなさそうだ。 実際、次々と人が殺されていく状況を直視し続けることなど、普通の人間には無理だ。 目を塞いでいたとしても責める気にはならない。 ティアが犯人をかばっているという線も考えにくいだろう。 「見てないものは仕方ない」 「ごめんなさい、役に立てなくて」 「謝る必要はない」 「はい……」 会話が途切れた。 だが、何か言いたげなティアの視線を感じる。 「どうした?」 「あの、実は……もう一つ謝らなくてはいけないことが」 「言ってみろ」 ティアが苦しそうに眉を歪ませる。 「わたし……あの……ええと……」 「あの夜のこと、初めから忘れてなんかいなかったんです」 俺の直感は当たっていたようだ。 だが口にするまでもあるまい。 一つ大きくため息をついて、騙されていた素振りをしておく。 「なんで忘れたふりなんかしたんだ」 「すべて話したら、追い出されるって分かってましたから」 「わたしなんかを家に置く意味、それ以外にありませんし」 「なるほど。だから言い出せなかったのか」 「はい、お手間を取らせてすみませんでした」 「いや、当然の判断だ」 「なかなかよく考えたじゃないか」 「嘘をついてごめんなさい」 「別に構わない」 俺がこいつを責められるわけがない。 口を割らせるために、散々優しいふりをしてきたのだ。 「むしろ、お前の方が正常だ」 「嘘をつくのが、ですか?」 「ああ。生きるために嘘をついて何が悪い」 「わたしには、よくわかりません」 「正直なんだな、お前は」 「褒めてくれるんですか」 「まあな」 どちらかといえば皮肉だ。 牢獄で、ティアの正直さは貴重だが何の得にもならない。 むしろ寿命を縮めることになるだろう。 「よかったです」 「最後に褒めてもらえました」 最後か。 せっかくだ、ジークに引き渡すその瞬間までは優しくしておこう。 「別に最後じゃない」 「これからのことは、明日ジークと相談しよう」 「もういいんです、カイムさん」 冷然とした口調だった。 「何?」 「わたしは全部話しました」 「これ以上、優しくする価値なんてないです」 「おい」 「わかってます」 「わたしが事件のことを話しやすいように、優しくしてくれたんですよね」 「それはお前の妄想だ」 ティアが激しく首を振る。 「わたし聞いてしまったんです」 「カイムさんの家に来た最初の日、みなさんが今後のことを相談しているのを」 「だから、自分があの夜のことを話したらどうなるかも、大体分かっていました」 「そうか……」 初めからばれていたとは、みっともない限りだ。 つまり、俺達は互いの嘘を知っていたということか。 本当に茶番だったんだな、ティアとの数日は。 「仮にお前の想像の通りだったとしてだ……」 「喋ったら終わりだと分かっていて、どうして打ち明けた?」 「それは……」 ティアが唇を噛んだ。 「カイムさんの、ご迷惑になりたくなかったんです」 「俺の?」 「羽つきが家にいたら、いつか今日みたいなことになります」 「わたしは守ってもらうほど価値のある人間じゃありません」 「犬猫と同じ食事ももらえなかった女です」 「だからもう、知っていることはお伝えして、終わりにしようと思ったんです」 訥々と語るティア。 なぜか苛立ちが募る。 「なんだ、その意味不明な自己犠牲は? 聖職者にでもなったつもりか?」 「わかりません」 「わたし馬鹿だから、難しいことはわかりません」 「でも、カイムさん言ったじゃないですか」 「自分のせいで人が羽つきになっちゃったら、自分を許せるかって」 「わたし、許せません」 「それは大切な人間の話だ。俺達はお前を騙してたんだぞ」 「それでも、親切にしてくれました」 「だからそれは……」 「もういいですっ」 ティアが言い切った。 「やめてください……もう……」 騙されたことを怒っているのか。 いや、俺が騙しにかかるのは初めから知っていたはずだ。 ばれていることにも気づかず、臆面もなく演技し続けた俺に怒っているのか? なら、そんな男に迷惑をかけたくないなどと考えるだろうか? むしろ利用するのに気が咎めなくていいではないか。 まさか、本気で俺に惚れて? ありえない。 騙してくるのが初めから分かっているのに。 ティアの考えていることがわからない── 今まで、明瞭に見えていた心の〈裡〉《うち》が、黒い〈靄〉《もや》に覆われている。 ああ、この感じは知っている。 馴染んでいた女と別れる時の、あの感じ。 ずっと通じ合っていると考えていた人間が、突然理解不能の別人へと変わる、一瞬の鮮烈な切り替わり。 女の中だけで完結した感情の積み重ね。 それは、男には攻略できない堅牢な砦だ。 こんなところで、ティアに女を感じるとは思いもよらなかった。 「話せることは全部話しました」 「だからもう、わたしは役に立たない……唄えなくなった小鳥と同じです」 「終わりにしましょう」 「終わりにしてどうする? 羽狩りの詰め所にでも行くのか?」 「羽狩りさんは怖いので、どこか違うところに行きます」 「だからどこに行くんだ?」 「お前みたいな奴がフラフラしてたら、チンピラのいいカモだぞ」 「辛い目に遭うのは慣れてますから」 「馬鹿かお前は」 「馬鹿です」 「何度も、馬鹿だって言ってるじゃないですか……」 ティアが鼻声になった。 膝に置いた手が、息をするようにスカートの裾を握ったり離したりしている。 言うべき言葉が出てこなかった。 「馬鹿なんです」 「だからもう、わたしみたいな女は構わないでください」 ティアが立ち上がる。 「おいっ」 追いすがろうとして、俺は床に膝をついた。 身体が重い。 どうした? 何が起こってる? 「……」 「すみません」 ティアの手から、薬包紙が落ちる。 「……お前…………」 「昼間に、エリスさんの薬箱からこっそり盗っておいたんです」 「分量が分からなかったので、全部入れてしまいました」 「でも、眠り薬って書いてありますから、きっと大丈夫ですよね」 量を間違えれば死ぬ。 とことん馬鹿だこいつは。 一人じゃ、何をやらかすかわからん。 「馬鹿……が……」 ティアが儚げに笑う。 「ずっと言おうと思ってたんですけど、人のこと馬鹿とかあほとか言っちゃ駄目です」 「わたしは本当に馬鹿だからいいけど、他の人はそうじゃないので」 「う……うるさい」 しびれが、身体に拡がっていく。 「カイムさん、お世話になりました」 「……ティ、ア……」 「さようなら」 「嘘でも恋人みたいなことができて、すごく嬉しかったです」 思えば、牢獄を一人で歩くのは初めてだ。 こんなに人が歩いているのに、みんな異世界の人に見えて心細い。 言葉すら通じないような気がしてくる。 「あれー、きみってアレじゃない? ほら、なんだっけ、クリス?」 「あの、わたしはティアです」 「そっか、そっか」 「んで、ティアちゃんは一人でどーしたの? カイムは?」 「あ、えーと……カイムさんは、ちょっと用事があって……」 「いけないなーカイムは、女の子を一人にさせて」 「そうなんです、悪い人なんです」 「ってあれ? ティアちゃん、何で泣いてるの?」 「え?」 「え? え?」 涙が、 止まらない。 「す、すみませんっ」 「あっ、ちょっと!?」 リサさんの声を振り切り、走る。 「ぐすっ……」 何で。 どうして。 涙が溢れてくるんだろう。 「うっ……ひっく……」 まさか、名前を聞いただけで涙が出てくるなんて。 路地に座り込み、手の甲で涙を拭く。 「カイムさん……」 あの人は、わたしにずっと嘘をついていた。 気に入ったから優しくしてる、なんて。 本当は、情報を聞き出すために優しくしていただけなのに。 わたしは酷いことをされていたのだ。 心を弄ばれていたのだ。 普通に考えたら恨んでもいいはずなのに、心は理屈通りに動かない。 「君、調子でも悪いのか」 「!?」 頭が熱くなっていて、すぐ側に立っている人に気づかなかった。 「あ、あなたは」 「ああ、君は……」 「今日は世話になったな」 「い、いえ、こちらこそ」 どうしよう。 羽狩りさんに見つかってしまった。 こういう時は、どうするんだっけ? そう、普通にしていればいいんだ。 何度もカイムさんに言われたじゃないか。 「で、こんなところでうずくまってどうした」 「なんでもありません、大丈夫です」 「にしては顔色が悪い」 隊長が、一歩こちらへ近づいた。 腰の剣が無機質な音を立てる。 「ひ……」 記憶が蘇る。 無惨な羽つきの姿。 羽に染みついた赤黒い血液。 隻腕の少女の夢見るような声。 犯罪者のように連れて行かれる羽つきを、冷然と見つめる牢獄の人たち。 「どうした?」 月を背にした隊長が、手を伸ばしてきた。 娼館主の腕を斬り飛ばした、その手が。 「いや……」 自分の記憶ではない。 そう思いたかった。 だが分かる。 これは、紛れもなく自分の記憶だ。 「いやぁっ」 「おいっ!?」 「触れることも許されないか……」 「わかっていたこととはいえ、因果な仕事だ」 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」 出鱈目に角を曲がり、ひたすらに走る。 怖い。 怖い、怖い、怖い。 頭の中が真っ白で何も考えられない。 脚だけが勝手に動き、わたしを運んでいく。 牢獄の奥へ、奥へ、 さらに奥へと── 「……カイムっ、カイムっ」 「しっかりして、カイムっ」 遠くからエリスの声がする。 なぜエリスの声が? 俺は何をしている? 「カイムっ」 目を開く。 ぼやけた視界には、エリスの顔が大写しになっていた。 「カイムっ」 「う……」 身体が砂袋のように重い。 首を動かすだけでも苦痛だ。 「寝たままでいい」 「薬が抜けきってないから」 エリスが俺から離れた。 「……薬?」 「睡眠薬。あの子に飲まされたのよ」 あの子? 飲まされた? 「!?」 「ぐっ」 跳ね起きようとして、ベッドから落ちた。 「大人しくしてて、余計な怪我が増える」 「……あ、それはそれで」 エリスがいそいそと俺を助け起こす。 「ティ、ティアは……」 「いない」 出て行ったか。 「馬鹿が……」 「馬鹿はカイム。あんな女信用して」 「リサが一人で泣いてるティアを見たって言うから、様子を見に来たらこの様」 「元暗殺屋のくせに、だらしない」 「……」 「カイムって、信用した人には弱いよね」 「面倒かけた」 「で、あいつはどこに?」 「知らない」 「どうするの? 貴重な情報源を逃がしちゃって」 「いや、聞けることはもう全部聞いた」 「はあ?」 怪訝な顔をする。 「なら、事件の犯人は?」 「ティアは見てないらしい」 「はあぁぁ……」 何ともいえない顔でため息をつかれた。 「騙されてる。あの女、犯人をかばってる」 「じゃなきゃ逃げる必要ないし」 「逃げたんじゃない。出て行ったんだ」 「何その感傷的なこだわりは」 不味いものを食わされたような顔で言い捨てた。 「じゃ、どうしてティアは出て行ったの?」 「自分がいると、羽狩りが来て迷惑かけるからだとさ」 「嘘に決まってる」 「ねえ、いい加減怒るよ。子供の遊びじゃないんだから」 冷たく絞った手拭きを額に投げつけられた。 「ジークに報告してくる」 「カイムはもう一眠りして薬抜いて」 「頼む」 「どれだけ心配したと思ってるの」 「死んでいいから」 空気を振るわせてドアが閉まった。 エリスが怒るのは無理もない。 「……」 だが、ティアは嘘をついていないだろう。 やはり、あいつには騙されたのかもしれない。 事実だけを追えば、そう考えるのが妥当だ。 ……いや、 あいつは、そんなに器用な奴じゃない。 自分を騙している人間に嘘をつくことすら、申し訳ないと思うような女だ。 「何も知らない……か」 ジークが、葉巻を弄びながら〈呟〉《つぶや》いた。 「信じてるのか?」 「犯人をかばってるのかもしれない」 「それはないと思う」 「根拠は?」 「勘だ」 「おいおいおいおいおい」 ジークが葉巻をテーブルに放り投げた。 「どうかしてるぞお前」 「見張りもつけずに家に一人で置く、薬は盛られる、女にゃ逃げられる」 「ここはどこだ? ガキのたまり場か、ああ?」 「すまない」 「すまない、じゃねーよっ」 ジークに叩かれ、テーブルが跳ねた。 「先代なら鞭打ちものだな」 「しかし、お前の直感は間違っちゃいないとは思う」 「何、その異常な信頼」 「黙ってろ」 「だがカイム、逃げられた言い訳と取られても仕方ない状況だぞ」 反論の余地などない。 「あの女、どこに行ったか見当はついてるのか?」 「連れ戻すつもりか?」 「近所をうろうろされたら迷惑ってだけだ」 「どこかで野垂れ死んでくれてるのを心から祈ってるよ」 「……」 「もしまた顔を出すようなことがあったら、お前が処分してくれ」 「それが責任の取り方だろう?」 「ああ」 「頼んだぞ」 言い置いて、ジークが出口へ向かう。 「ジーク……」 「あん?」 「……いや、何でもない」 ジークが苦笑する。 「降りそうな空気だな」 「最悪、外套持ってきてない」 「濡れた女は嫌いじゃないぜ」 「あっそ。じゃあ濡れないようにする」 「つれないな」 「ほら、帰って」 「わかったよ」 「じゃあなカイム。女のことは酒でも呑んで忘れちまえ」 ドアが閉まった。 「……くそ」 問題は何ひとつない。 ティアから聞くべきことは聞けた。 身の始末も、勝手につけてくれた。 ヴィノレタにでも行って高い酒を頼めば、ご機嫌な仕事明けの夜になるはずだ。 にもかかわらずこの後味の悪さ。 「体調はどう? まだ薬残ってる?」 「まだ少し、頭と身体が重い」 「あの女、かなり混ぜたみたいね」 「次に顔見たら……」 「って、そんなことないか」 ティアは、そう長く羽狩りからは逃げられないだろう。 運良く逃れたとしても、あいつが牢獄で何日も生き延びられるとは思えない。 「お茶にする」 「酒にしてくれ」 「薬と合わせると最悪よ」 「今でも十分最悪だ」 ため息をついて、エリスが酒を用意する。 「お前も飲むか?」 「いらない」 「飲みたい気分かと思ったんだが」 「なんか知らないけど、イライラしてるのカイムだけだから」 「私はお茶でいい」 エリスがお茶入りの陶杯を、俺の陶杯にぶつけた。 「お仕事終了、おめでと」 「ああ」 ワインを〈呷〉《あお》る。 酸味が増していた。 「……」 ……これで終わりでいいのか。 別れが悲しいわけじゃない。 名残惜しいわけでもない。 奴の行く末が心配なのか? 違うな。 何かが引っかかっている。 「エリス……」 「話、聞くけど」 同時に切り出してしまった。 「どうぞ」 「ああ」 酒が変に作用したのか、重い倦怠感が頭を包んでいた。 この感覚に甘えて、思っていることを話してしまおう。 「あいつ……」 「ティアは、俺達が何を求めてるか最初から知っていたらしい」 「俺がどうして優しくするのかも、最後に自分がどうなるかもな」 「俺達の相談を聞いたんだとさ」 「にもかかわらず、自分から知ってることを洗いざらい喋って出て行った」 「自分がいると、羽狩りが来て迷惑をかけるからだとさ」 「診断としては、重度のお人好しね。お手上げ」 「奴の考えてることが分からん」 「あの女は、一体なんだったんだ」 「なるほどね」 相槌を打ってから、エリスは時間をかけてお茶を飲んだ。 「罪悪感あるんでしょ」 「カイム、本当にいい人」 「俺が……」 「くくく、傑作、くくくくっ」 「その良心、私にも分けてほしいくらい、もう涙出そう」 久しぶりに聞いたエリスの笑い声は、何かに穴を穿つような調子だった。 「今まで何人殺したと思ってる」 「罪悪感なんぞ残ってない」 「ふうん」 「ま、私はカイムがそういう人間だって知ってるから驚かないけど」 「生憎、お前が思ってる程まともじゃない」 「どうかしら?」 くくく、と喉の奥でエリスが笑った。 「仮に、俺がティアに罪悪感を覚えてたとしてもだ、あいつが家にいれば面倒なことになる」 「助けても得がない」 「明白ね」 「感情で動いていたら、牢獄じゃ生き残れない」 「理性的に生きるべきね、長生きしたいなら」 皮肉っぽい笑顔をうかべたまま、エリスは窓に向かった。 「いちいち気に障る言い方をするな」 ティアに感じてた引っ掛かりは罪悪感なのだろうか。 罪悪感…… 当たっているようで正確ではない気がする。 一体、俺は何を感じているんだ。 喉に骨が刺さったような気分だ。 抜かなくても大事には至らないほどの骨。 だが、俺の一生に付きまとう。 そんな気がしてならない。 「聖女様、夜風はお体に障ります」 「……」 「どうされました。どこかお加減でも」 「胸騒ぎがするのです」 「また、でございますか?」 「ええ」 「何も起こらなければよいのだけれど」 「月が隠れましたね」 「間もなく雨になるかと思います」 「さあ、中にお入り下さい」 「外套を出して」 「聖女様、大切なお体なのですから」 「身体より大切な事なのです」 「……聖女様……」 「ただいま、持って参ります」 ……。 …………。 「今夜は……見られるのでしょうか」 どこを走ってきたんだろう。 完全に道に迷ってしまった。 何度か転んだせいで、服は破れて泥だらけ。 昔に戻ったみたいだ。 「雨、止まないな」 周囲はほとんど見通しが利かない闇。 逃げるにしても、戻るにしても、これではどうしようもない。 明るくなるまで、どこかで雨を凌がないと。 でも、周囲は家の残骸ばかり。 数少ない屋根は、怖い人か野良犬に占領されていた。 仕方なく廃墟の壁に身体を預ける。 屋根とも言えない屋根は、身体の半分も守ってはくれない。 身体がどんどん冷えていく。 「……」 どうして、いつもこんな風になってしまうのだろう。 明日は良くなる、明後日はきっとましになる。 そう願い続けてきたけど、現実がわたしの期待に応えてくれたことはなかった。 牢獄に来て何か変わるかと思ったけど、やっぱりいつも通り。 ううん、もっと悪くなった。 羽が生え、最低の環境ですら爪弾きにされる身になってしまったのだ。 でも、いいこともあった。 情報のためではあったけど、カイムさんが優しくしてくれた。 お料理を作らなくても、掃除をしなくても、殴られなくても…… ただそこにいるだけで、話しかけてくれた。 わたしの話を聞いてくれた。 本当に嬉しくて、騙されていることなんかどうでもよくなった。 細かいことなんてどうでもいいんだ。 カイムさんは、わたしの気持ちがわからないみたいだった。 きっと、頭がいいから、いろいろ考えてしまうんだろう。 わたしは馬鹿だから、難しいことはわからない。 ただ、嬉しかっただけ。 だから、わたしはカイムさんの家を出た。 羽狩りはいつやってくるかわからないし、嬉しいことをしてくれた人に迷惑はかけられない。 わたしは、そんな価値のある人間じゃない。 カイムさんに迷惑をかけるなんて、そんな…… 「あ……」 違う。 重大なことに気づいた。 わたしは、カイムさんに迷惑をかけて、嫌われ『たく』なかっただけなんだ。 殴られるからじゃない。 怖いからじゃない。 なんでかよくわからないけれど、嫌われ『たく』なかった。 とにかくそれが一番嫌で、カイムさんは反対したけど、わたしはあの家を出たんだ。 誰かの反対を押しのけるなんて、もしかしたら初めてかもしれない。 とても嬉しくなる。 なんだか大切なものをもらった気がする。 カイムさんと会えたのは、きっと運命だ。 大切な使命を果たすための準備に違いない。 わたしはきっと、幸せに向かってる。 牢獄でたった一人。 これからも苦しいことがいっぱいあると思うけど、大丈夫。 どんなに苦しくても、わたしはくじけません。 だからカイムさん、心配しないでください。 胸の首飾りを握り締める。 本当なら、これも返さなきゃいけなかったけど……。 ごめんなさい、悪い子ですわたしは。 「道に迷ったのか?」 聞き慣れた声に聞こえた。 「カイムさ……」 嬉々として上げた視線の先。 立っていたのは、知らない男性だった。 黒っぽい服を着ているのか、身体はよく見えない。 鋭い目と黄ばんだ歯が、闇の中に浮いてるみたいだ。 「迷ったのなら、案内してやろうか」 「ほ、本当ですか」 「俺は、嘘なんか言わない」 男の人が笑う。 この人は悪い人だ! そう感じた瞬間、腕を掴まれた。 「ひっ!?」 「タダじゃ案内できないがな」 男性の手に刃物が光った。 腰が抜けてへたり込む。 「……お金なんて、持ってないです……」 「見りゃわかる」 「あるだろうさ、払えるもんが」 「い、いやっ」 男性の体重がのし掛かってくる。 覆い被さる獣のような臭いに、吐き気がしてきた。 冷たい鉄の塊のような手に、私の腕は固定されてしまう。 そして、男性の膝が脚の間に滑り込んできた。 「やぁっ、助けてっ、助けてっ!?」 必死に周囲を見る。 〈瓦礫〉《がれき》の隙間から、人とも獣ともつかない目が一つ二つこちらを眺めていた。 その目には何の感情もこもっていない。 羽狩りの捕り物を眺めていた野次馬よりも無関心だった。 「誰も助けてくれやしないさ」 「遠慮せずにもっと叫べよ」 「いや……もう、やめてください……」 「ほら、もっと暴れろよ、おらっ、おいっ」 「う……あ……う……」 地面の冷たさに力が吸い取られるようだった。 抵抗する気力が湧いてこない。 「ん? おっと、こりゃめっけもんだ」 「っっ!?」 首飾りが引きちぎられた。 「なんだ……安物か」 「安物じゃないっ!」 「安物なんかじゃないっっ!!」 驚くほどの声が出た。 男性に掴みかかる。 「いででででっ、なんだいきなりっ」 顔に衝撃。 視界が一瞬光ったように思えた。 顔を殴られたのだ。 「適度に暴れてくれよ」 「なんでも加減ってもんがあるんだ」 「そいつは、お前が勉強するんだな」 「!?」 「うがあぁっっ!?」 男性がわたしの上から転がり落ちた。 そのまま地面をのたうち回る。 助かった。 わたし、助かったんだ。 「お嬢ちゃん、怖い思いをしただろう?」 男性の叫びも素知らぬ顔で、その人は穏やかに言う。 「あ、あ……」 「さーて、悪いが背中を確認させてもらうぞ」 ない…… 「なるほど、この大きさじゃ見落とすわけだ」 ないんだ…… 「お前ら、保護だ……丁重にな」 牢獄のどこにも…… 「安心しろ」 「お嬢ちゃんには、あったかな寝床と飯が待ってる」 人の温もりなどありはしないんだ。 「降ってきた」 窓辺に立つ、エリスが〈呟〉《つぶや》いた。 「雨の牢獄って、泥を溜めた〈桶〉《おけ》みたい」 窓の外を見た。 雨にけむり、家々の明かりはほとんど見えない。 闇が果てしなく拡がっている。 この雨では、服が透け羽は見えやすくなるだろう。 屋根を確保できなければ、体力も奪われていく。 本当に不幸な女だ。 欠片ほどの救いもない。 「助けに行ったら?」 「今頃、寒くて震えてるかも」 エリスの言葉に焦燥感が膨らむ。 だがそれは、ティアの身体を気遣ってのことではない。 彼女が死ねば、喉に刺さった骨が一生抜けないのでは、というぼんやりとした懸念があるからだ。 だが、羽つきを傍に置くなんて面倒を自分から背負い込むようなもの。 敢えてティアを助ける理由としては、あまりに小さい。 第一、大人気ない。 「あいつは、もう関係のない女だ」 「じゃあ、これもいらないか」 エリスが手にした紙を見せる。 「なんだ?」 「関係ない女からの手紙」 「捨てる?」 何も言わずエリスに近づき、手紙を取る。 俺の顔を見て、エリスはすかした表情で眉を上げた。 二つ折り畳まれた紙を開く。 下手糞な字だった。 『カイムさん。短い間でしたけどお世話になりました』 『とても楽しかったです』 『わたしのことは心配しないでください』 『時々見る夢の中で、いつも誰かに言われるんです』 『お前には、生まれてきた意味がある』 『いずれ大切な使命を果たす運命にあるんだって』 『だから、どんなに辛いことがあっても頑張って生きていきます』 『カイムさんもお体に気をつけて頑張ってください』 『あと、エリスさんとは仲良くしてください』 くしゃ 紙を握りつぶした。 「読ませて」 「……」 無言で手紙をエリスに渡す。 ざっと目を通し、俺に返してきた。 受け取る気になれない。 エリスは一つため息をついて、紙のしわを伸ばす。 それを二つに畳んでテーブルに置いた。 「とりあえず仲良くする?」 「また今度な」 「手紙の何が気に食わないの?」 「内容が夢見がちっていうのはわかるけど」 「わかってるじゃないか」 「カリカリするほどのこと?」 「別にカリカリしちゃいない」 ワインをグラスに注ぎ、一息で飲み干す。 「運命か……」 もし、人にそんなものがあるのなら── あの日、下界へと吸いこまれていった奴らは、なんだったんだ? 死ぬために生まれてきたというのか? 幻を振り払うように、俺はまたワインを〈呷〉《あお》る。 運命なんてものは、所詮、人の心が作り出した幻影。 嫌な経験をした時、運命だったと思って諦めるのはよくある話だ。 それが悪いことだとは思わないし、こんな世界で生きていくには、むしろ必要なことだとも思う。 それを実在するかのように語るティアが、妙に腹立たしい。 「これは運命だとでも思わなきゃ、やってこれなかったってことでしょ」 「それはわかってる」 「だが、ティアは未来の不幸から目を逸らしてるだけだ」 「その頭の悪さが気に入らない」 「面倒な怒り方」 ため息をつかれた。 「ま、夢見がちっていっても、この子は行き過ぎてる」 「夢の中で、自分のことを他者に語らせるくらいだし」 「便利な夢だ」 「見たこともない、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》のことも教えてくれるらしい」 「無茶苦茶ね」 ふと、頭を疑問がかすめる。 俺は、なんのためにティアを拾ったんだ? 奴が放った光の正体を確かめるためだ。 そもそも、人間が光るということ自体が無茶苦茶な話。 なら、ティアが見る《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の夢を、無茶苦茶だと否定していいのか。 奴が放った光の色は、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の直前に現れた〈《終わりの夕焼け》〉《トラジェディア》と同じ色なのだ。 「……」 立ち上がる。 酒と薬の相乗効果か足元がふらつく。 「だからお酒は止めたのに」 「外套を取ってくれ」 「あいつに聞きたいことができた」 エリスの目が一瞬点になり、すぐに呆れの色が浮かんだ。 「さんざん助けに行かないって言ってて、今ごろ可哀想になった」 「最初から素直に……」 「違う」 「思い出してくれ」 「俺があいつを拾った時、光を見たと言っただろう?」 「《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》と同じ色の光とかいう」 「人間は普通光らないが、ティアは光を放った」 「その女が《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》を夢に見ている」 「だからあの子が《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の何かを知っている?」 「ああ」 「なーるほど」 エリスの顔からは、すでに興味が失われていた。 「つまり、助けに行きたいんだ」 「違うと言ってる」 「おかしい。冷静じゃない」 「常識的に考えて人間は光らない」 「なら、カイムが見た光が錯覚だったと判断するのが妥当」 「結論ありきで理屈を曲げてる」 「俺は見たんだ。自分を疑ってどうする」 「麻薬中毒の子もよく同じこと言うけど」 エリスを無視して、俺は壁の外套を掴む。 「私、反対」 「理由もなく羽つきを近くに置かないで」 「カイムに何があるかわからない」 「周りに迷惑はかけない」 「周りの話なんかしてない、カイム本人のこと」 「なら、俺が決めることだ」 強弁する。 理はエリスにあるが、引く気はない。 あの光が錯覚だと自分を疑ってどうする。 見たものは見たし、見ていないものは見ていない。 それだけのことだ。 見たものを願望で歪曲して認識する。 見たくないものは見なかったことにする。 そんな低水準ではないはずだ。 俺は、幼いころから牢獄の泥の中を這いずり回ってきたのだ。 誇れるほどの勲章ではないが、少なくとも実際家であることの証明にはなるはずだ。 「悪いな」 外套を羽織る。 ドアの外は本降りだった。 「見つからないことを祈ってる」 「見つけるまでは帰ってこない」 外套を羽織り、俺は雨の闇に溶け込んだ。 「めでたく、私がもう一人誕生か」 「はぁ……」 「どうしてこういうことをするの」 雨の飛沫が上がる道を、ティアと羽狩りが進む。 前後を塞がれたティアに、逃げる術はない。 もっとも、彼女にはもう逃走する気力など残されていなかったが。 ティアは思う── 思えば、わたしは石ころみたいなものだ。 自分の好きには動くことができなくて、どこに置かれるかは周りの人次第。 雨の中でも火の中でも、置かれた場所でじっと耐えなくちゃいけない。 宝石みたいに光ってたら大事にしてもらえたかもしれないけど、自分はただの汚い石ころだった。 どうして、石ころに生まれてしまったんだろう。 「おい、あれを見ろ」 列が急に止まった。 「何だあいつは」 一団の行く手を阻むように、黒い影が立っていた。 それは、路地の汚泥でできたかのような漆黒。 光を吸い込むかのような人型だった。 「お前、何か用か」 「俺達は防疫局だ。それを知った上で邪魔するのか?」 声は返ってこない。 羽狩りが抜剣する。 光のない夜。 雨に濡れた2本の剣が、ランタンの光にあいまいな輝きを見せる。 刀身を雨雫がしたたり落ちていく。 「ここは俺が行く」 羽狩りが人影との距離を詰めていく。 冷たい緊張が渦巻くように膨らんだ。 「道を開けな」 「俺たちゃ住民の平和を守ってんだ」 聞こえるのは雨の音のみ。 「この野郎っ!」 羽狩りが声を発したその〈刹那〉《せつな》、 放たれた矢のように、人影が迫る。 火花に浮かびあがったのは、黒い覆面をした男の姿だった。 異様な格好と、その剣〈捌〉《さば》きの鋭さに、羽狩りは状況が緊迫していることを知る。 「お前は、羽つきを連れて逃げろ」 とっさに背後の同僚に命令する。 「わ、わかった」 「女、こっちだ、走れっ」 「きゃっ」 ティアの腕が強引に引かれた。 「てめえ、何者だ?」 「……」 「目的は?」 「……」 返事はない。 その代わり、覆面の男から流れ出た殺気が周囲に拡がっていく。 羽狩りの背中を冷たい汗が伝い落ちた。 こいつに勝てるのか? 自問するが、明るい答えは返ってこない。 それなりの実戦を経てきた彼だけに、先程の一撃でわかってしまったのだ。 頭が後悔で一杯になる。 夜盗だかなんだか知らないが、まさかこんな奴に遭遇するとは! 「……」 覆面の男が動く。 疾風のような一撃を、羽狩りが受け流す。 それだけで彼の手は痺れ、今にも剣を取り落としそうになる。 もう、だめか── 「!?」 「?」 こちらに近づいてくる足音があった。 かなりの速度で走ってくる。 「くそっ新手か……」 絶望が羽狩りを襲う。 もうどうしようもない。 「誰かいるのかっ!」 「!?」 この声は── 羽狩りは思わず歓喜する。 「隊長っ!」 「その声はっ!?」 ランタンの明かりが、路地に現れた。 一瞬で事態を察したのか、フィオネは、抜剣しながら一直線に覆面の男へと殺到した。 「はっ!!」 「くっ」 覆面の男が初めて声を発した。 牽制の突きを、後退してかわす。 フィオネが、すかざず覆面の前に立ちはだかる。 「何があった?」 「〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護中に襲われました」 「〈罹患者〉《りかんしゃ》はどうした?」 「相棒が守ってます」 「お前はそっちへ回れ。ここは私が引き受ける」 「しかし、隊長は?」 「気にするなっ!」 叫びつつ、フィオネが剣を横に薙ぐ。 火花が散る。 フィオネの、美しい顔が闇に浮かんだ。 「隊長、ご無事でっ」 「はあっ、くそっ、くそっ」 「はあっ、はあっ」 「これだから牢獄はっ……いちいち邪魔が……入りやがるっ」 ティアと併走する羽狩りが悪態をつく。 「くそっ……いつか下層に戻ってやる……畜生、畜生っ……」 「すみません……わたしのせいで、ご迷惑を……」 「馬鹿言うな、あんたのせいじゃない」 「なーに、俺が……ちゃんと詰め所まで……届けてやる」 そう言って、羽狩りは品のない笑みを浮かべた。 「ありがとうございます」 「頑張って走れ……すぐ着く……」 羽狩りの言葉がブツリと途切れる。 急に走る速度が落ち、ティアが羽狩りを追い越してしまう。 「はぁ、はぁ……ど、どうしたんですか」 足を止め振り返る。 そして、ティアは理解した。 彼が、なぜ話すのをやめたのか。 「あ…………」 どうやら、羽狩りは首をどこかに落としてしまったらしい。 漆を塗り込めたような闇に、二度、閃光が走った。 「一応確認するが、我々を防疫局と知ってのことだろうな」 「……」 「沈黙は肯定と認識する」 フィオネが細剣を構える。 「規則に基づき……」 「排除するっ!」 火花の烈しさ、そして鮮やかさは、先程とは比べものにならなかった。 ナイフが悲鳴を上げ、周囲が一瞬だけ昼の明るさを取り戻す。 踏みこもうとする覆面の男を、フィオネがいなす。 「!?」 「むっ」 「ぐっ」 男のナイフが舞う。 ナイフの軌道は一つとして同じものはなく、柔らかな糸が巻きついていくかのように、うねり、奔る。 細剣がナイフを弾く度、欠けた極小の刀片がフィオネの肌を刺す。 フィオネの額を汗が伝う。 彼女が見たことのないナイフ〈捌〉《さば》きだった。 ナイフを持った相手との訓練は何度も行ってきた。 だが、目の前の男の繰り出すナイフは、未経験のものだった。 真っ正直に急所など狙ってこない。 避けにくい場所を執拗に追いかけてくるのだ。 一撃一撃は、致命傷にはならないだろう。 だが、確実に体力を削られる。 体力を削られれば、次の一撃を受けやすくなる。 一度相手の流れに飲まれれば、ジリ貧だ。 「ふっ」 繰り出されたナイフが、電光のようにフィオネを襲う。 一撃、 二撃、 三撃、 「くっ……」 フィオネが、鬱陶しげにナイフを払う。 刃は避けていたが、フィオネの集中力は一撃毎に削られていた。 雨がなければ、彼女の全身が脂汗に濡れているのを見ることができただろう。 部下はもう、詰め所に着いただろうか。 時間の感覚が狂っている。 覆面の男と斬り合った時間は、無限にも一瞬にも思えた。 こんなところで、顔も見えない夜盗に殺されるのか。 フィオネは奥歯をかむ。 ……嫌だ。 私にはまだ、やらなくてはならないことがあるのだ。 ナイフが動く。 反応し、体重を移動した瞬間、フィオネの足がぬかるみに攫われた。 「くっ」 ガキンッ ナイフの切っ先がフィオネの眉をかすめた。 溢れる血が視界を奪う。 片目が塞がれれば、距離感がなくなる。 生死が拮抗した状況においては、致命的と言えた。 「……」 このままでは、持ってあと数合。 状況を変えるべく、フィオネは覆面の男を観察する。 フィオネの目が一点に吸い寄せられる。 覆面の男の足は、先ほど彼女が足を取られたぬかるみに入っていた。 千載一遇! 反応は一瞬。 フィオネ渾身の突きが、流星のように雨闇を疾る。 「っっ!?」 覆面の男の上体が揺れた。 ガキンッ それでも、ナイフは剣を受けた。 「はああっ!!」 フィオネも、もとより一太刀で獲れるとは考えていない。 態勢を崩したままの男に、炎のような一撃を繰り出す。 ドシュッ 「……」 「……」 相手が消えた。 少なくとも、フィオネの目にはそう見えていた。 ……。 だが、事実は違う。 フィオネの背後で、覆面の男がゆっくりと立ち上がる。 踏みこんでくるフィオネに対し、彼は前方に転がることで剣を避けたのだ。 男は、背中をフィオネに向けたまま振り向きもしない。 「くっ」 振り返ろうとして、下半身に激痛を覚える。 見覚えのあるナイフが、足の甲を地面に縫いつけていた。 「貴様……」 「……」 この時に到っても、覆面の男は口を開かなかった。 フィオネは屈辱を覚える。 自分は遊ばれていたのではないか。 もしかしたら、ぬかるみに足を取られたのも、相手の…… 唇を噛みしめ、怨嗟の視線を覆面の男に向ける。 しかし、覆面は振り向かない。 仕留めた獲物の姿を確認することもなく、牢獄の闇に融けていった。 雨は止んでいた。 雲はまだ晴れず、周囲は黒で塗り潰されている。 思ったより女隊長に時間を取られてしまった。 ティアはどこまで行っただろうか。 詰め所に着いていなかったとしても、大通りに出られてはまずいことになる。 「きゃあっっ」 小さな悲鳴が聞こえた。 「くっ!」 全速力で走る。 「!!」 水溜まりに落ちているものを見て、思わず足を止めた。 男の死体だ。 装備からして羽狩りだろうが、頭部が見当たらない。 首の切断面は荒く、鈍器で頭をはね飛ばされたような傷口だった。 まだ体温が残っている。 無惨な傷口からは、あの夜の惨劇を想起せずにはいられない。 着けていた覆面を放り投げる。 一度だけ交錯したあいつが相手だとしたら、とても覆面をつけて戦う余裕などない。 「……」 足元の死体は、体格から見て先にティアと走っていった羽狩りだ。 ティアの傍には、もう一人羽狩りがいるはずだ。 律儀にティアを守ってくれていればいいが。 「ティア……」 冷静になれ。 冷静になるんだ。 予備のナイフを抜き、呼吸を整えてから足を進める。 角を一つ曲がる。 頼みの綱はあっという間に切れた。 足元に、羽狩りの死体が転がっていたのだ。 鷲鼻の奴だ。 「くそ……」 羽狩りは二人とも死んだ。 残るは…… 迫り来る喪失の予感に、動悸が速くなる。 肉塊になり果てたティアが水溜まりから俺を見ている幻影が、何度打ち消しても現れる。 ティア……無事でいてくれ。 忍び足で進む。 それでも、自分の足音が大きく聞こえた。 叫びだしたいほどの緊張が、全身を強張らせる。 「……」 暗がりに人影があった。 柔らかな曲線で構成された身体が、壁にもたれかかっている。 表情は穏やかだ。 温かな感情を湛えた目が、俺を見つめている。 「……イム、さ……ん……」 「ティア」 よかった。 胸の底から安堵が湧き上がる。 その時、 雲間から月光が差した。 肩から臍の脇に到る、長く深い引き裂き傷。 傷口からは鮮血が溢れ、月の光に輝いている。 色のない夜の世界で、それは美しいとすら思える光景だった。 「ティアっ!」 駆け寄り、身体を抱く。 何度も呼びかけるが、反応はない。 脈はすでになく、体温が急速に失われていくのがわかった。 くそっ、誰がこいつを!! 「ティアっ! おいっ、おいっ!」 止血したい。 だが、傷はあまりに大きい。 血液が次々とこぼれていく。 「ティアっ、ティアっ、ティアっ」 身体を揺すると、首が力なく揺れた。 「ティア……おい……おい……」 出血が弱くなった。 出るものはあらかた出てしまったのだろう。 わかっている。 俺の腕の中にあるのは、 ティアの死体だ。 しばらくの間、頭が働かない。 茫漠とした意識の上に自分の鼓動だけが響いていた。 初めにやってきた感情は、嘆きでも悲しみでもない。 『まさか、こいつが死ぬとは』 という意外さだった。 失って初めて気がつく。 俺は、こいつが本当に死ぬとは思っていなかった。 酷い目に遭っても、ヘラヘラと乗り切ってくれるとどこかで思っていたのだ。 その油断がティアを殺したのだろうか。 悔恨の情と同時に、何故か暗い感情がどこからともなくやってきた。 ──ざまあない。 ──生まれてきた意味など、なかったじゃないか。 自分のどこから来たのかもわからない、全くあずかり知らぬ感情だ。 否定する間もなく、それは一瞬で消えた。 ティアという女は本当に謎だ。 今まで感じもしなかったことを、俺の心に浮かびあがらせる。 こいつは、もしかしたら俺にとって何か大切なものを持っていたのかもしれない。 「……」 改めて死に顔を見る。 穏やかで、口元には微笑さえ浮かんでいた。 最期の瞬間、こいつは笑ったのだ。 もっと早く来てくれれば── そう非難してくれたら、どれほど楽だったか。 だが、冷たくなっていくティアは、慈愛に溢れた聖女のような佇まいで微笑んでいる。 俺は悪くない、そう言ってくれているかのようだ。 その言葉が、俺をより苦しめるとも知らずに。 責められた方が楽なこともある。 思えば、ティアはどんな時も相手を受け入れていた。 馬鹿みたいに笑って、どんな悪意も非難することなく。 愚鈍といえば愚鈍、純粋といえば純粋。 どちらにせよ、ティアは並外れて善良だった。 強い純粋さに接した時、多くの人は居心地の悪さを感じる。 相手と比較することで、自分の醜さや不純さがより鮮明になるからだ。 その意味で、ティアは鏡のような女だったのかもしれない。 数時間前、ティアがいなくなった時に俺が感じた鬱屈。 鏡を見て、俺は自分の何に腹を立てていたのか。 汚れか、歪みか、嘘か…… その答えはもう得られない。 「畜生……」 悲しくはない。 ただ、何かを取り落としたという喪失感があった。 俺は、それをまたいつか拾うことができるのか。 無理だろう。 ティアが俺につけた傷は小さい。 数日でカサブタができ、さらに数日後には跡形もなく消えてしまうだろう。 ティアという女の記憶は残っても、今感じている痛みは消えてしまうのだ。 それは強さやしたたかさと表現されるのかもしれないが、今は少し寂しかった。 「……」 頬を撫で、付着した血液を拭う。 体温は下がり、肌の弾力は弱くなっていた。 完全な死体だ。 指で唇に触れる。 鼻、眉、額、そして頭を撫でる。 本当に五月蝿い女だった。 そこにいるだけで賑やかになった。 間が抜けてると思っていた笑顔も、今は懐かしい。 不条理なものだ。 ティアの人生はあまりに救いがない。 これでは、何のために生まれてきたのかわからないじゃないか。 「ティア……」 ボロボロになってしまった服を整えてやる。 ふと、ティアの右手が堅く握られているのに気がついた。 人形のように小さな手を両手で包み、優しく指を開かせる。 「……」 握られていたのは、俺が買い与えた首飾りだった。 こんな安物を大事に抱えているとはな。 『安物じゃありません』 そんな声が聞こえるかのようだった。 ティアの手から首飾りを取る。 壊れた鎖を歯で噛んで補修し、もう一度首にかけてやる。 「なかなかいい女だ」 生きてさえいれば、もっと買ってやれたのに。 こんなもので良ければ、いくらでも。 眼を細めたその時、ティアの死体がぼんやりと光を帯びた。 「??」 光…… ……。 …………。 「……まさか」 目の錯覚ではない。 確かに光っている。 そして、この色。 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の直前、 4日前、 そして今。 俺の人生を狂わせた光が、〈三度〉《みたび》、眼前に拡がっていく。 「な……」 ティアの胸をえぐっていた傷が、塞がっていく。 まるで、時間が巻戻っているかのように。 ドクンッ 抱きしめた肌の下で、命の音が刻まれる。 ティアの身体に熱を感じた。 死んでいなかったのか? 違う、確かにこいつは死んでいた。 俺が夢を見ているのでなければ── ティアは、 蘇生したのだ。 胸の傷はもう見当たらない。 致命傷を負ったことが冗談であったかのように、そこは女らしい曲線に戻っていた。 「馬鹿な……こんなこと……」 あり得ない。 あり得るわけがない。 こいつは一体、何者なんだ!? 驚愕にほぼ頭を乗っ取られた俺の眼前、 桜色を取り戻した唇が、僅かに動く。 「……カイム……さん……」 「異常ない」 「元気すぎて毒飲ませたいくらい」 ティアの診察を終えエリスが言った。 一度死亡して蘇生したティア。 それでも異常なし、か。 だが、医者のエリスがそう言う以上、ティアの身体は普通の人間と変わらないのだろう。 「ありがとうございます、エリスさん」 「カイムの頼みだからやってるだけ」 「はい、それでもありがとうございます」 「ふん」 エリスがいきなりティアの胸を揉んだ。 「ひゃああぁぁぁっ……」 「貧弱な胸ね」 「そそそ、それは、エリスさんが立派すぎるだけです」 「わたしはその、敵を作らない感じでいいと思います」 頭でも打っていたのだろうか。 「ま、私はずっとあなたの敵だから」 「うぅ……」 「帰る」 「助かった」 「感謝は形にして返して欲しい」 不機嫌全開でエリスは家を出て行った。 蘇生から数刻。 夜明け前には、ティアは元気になっていた。 記憶は欠けていなかったが、自分が『蘇生した』ことは認識していない。 肝心の自分を襲った相手についても、動きが速すぎて見えなかったらしい。 俺がティアを拾った夜も、こんな状況だったのだろう。 「水、飲むか?」 「いえ、大丈夫です」 ティアの表情は沈んでいた。 自分の感情を探るように、唇を何度も噛みしめている。 「カイムさん……」 「迷惑をかけたくないからここを出たのに、どうしてわたしを助けてくれたんですか?」 「もう、わたしに価値なんかないじゃないですか」 わからない。 それが正直な答えだった。 ティアの死に直面するまで、俺は、光や《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》のことが知りたかったのだと思っていた。 だが、こいつの死体を抱きながら、俺は光のことなど考えていなかった。 つまり、俺の関心は別のところにあったのだろう。 だが、その正体はわからない。 単純な言葉にすれば、なんとなく死んでほしくなかった。 それだけだ。 「お前の生まれ持った運命ってのが見てみたくなったんだ」 「傍にいればわかるんだろ?」 「お、おそらくは……」 「でも、きっとあんまり面白くないです」 「すごい運命じゃなかったのか」 「ああ、いえ、すごいはすごいと思います」 「なおざりだな」 「仕方ないです。わたしもよくわからないんですから」 「ふっ……」 お互いわからないらしい。 困ったものだが、今はそれでいいように思う。 理由など、後からついてくることもある。 「わかるまでここにいたらいい」 「でも、これ以上迷惑をかけたくないです」 「もう十分迷惑はかけられた」 「これ以上は大して変わらん、気にするな」 「そう言われても困ります」 「俺も困る」 「お前に出て行かれるのは困るんだ」 「……今度も作戦ですか?」 「違う」 「作戦ならこんな面倒な話はしない」 「理由を聞かれた時のために、それなりの答えを用意しておく」 「……」 ティアが俺を真っ直ぐに見た。 呆れられても仕方ないと思う。 理由もなく、感情だけで人を引き留める。 それは本当に難しいことだ。 「わたし、羽つきですよ」 「側にいたら、羽狩りさんが来るかもしれません」 「それに、わたしが側にいたって、カイムさんにはいいことないかもしれないです」 「わかってる」 返事をするのも億劫だ。 いくら聞かれても、まともな答えなど返せない。 「ふふふ……」 ティアが笑った。 「カイムさんでも、理屈に合わないことをするんですね」 「たまにだ」 そう、たまにだ。 覚えてる限りでも、1、2回。 「でも、気持ちわかります」 「わたしだって、得にならないのにこの家から出ましたから」 「お前と同程度扱いか」 「はい、そうです」 「落ちたもんだ」 そう言いながら、悪い気分ではなかった。 「しばらくここにいろ」 「……」 すぐに返事が来ない。 こういう緊張は久しぶりだ。 「わたしは出て行きたいです」 「でも、カイムさんがどうしてもって言うのなら」 小さく笑って、ティアが言った。 「偉そうに」 「だってわたし、お願いされてるんですよね」 「撤回してもいいが」 「いえいえいえ、嘘です嘘です」 「しばらくここにいて…………あげます」 「まあいい」 ティアの頭を軽く撫でる。 くうぅぅ…… ティアの腹が鳴った。 「お前は元気だな」 「す、すみません……こればかりは……」 「今日だけは俺が作ってやる。お前は寝てろ」 「ありがとうございます」 ティアが嬉しそうに言うのを確認し、俺は調理場に向かった。 三日後── 「……ふう」 ようやく家具の配置が終わった。 「すみません、お手伝いができず」 「お前に力仕事なんぞできんだろ」 「その代わり、掃除は全部任せる」 「はいっ」 雑巾を手にティアが忙しく動き出す。 少し休憩しよう。 「外で少し涼んでくる」 「はい、ごゆっくり」 ティアを助けてから三日。 ティアの体調が回復するのを待って、ジークとの約定通り住居を移した。 以前より、娼館街から離れた場所だ。 これでも、ジークはかなり譲歩してくれたのだろう。 「役にも立たない羽つきを拾うとはな……しかも、羽狩りを傷つけて」 「俺の知ってるカイムは、こんなに馬鹿じゃなかったはずだが」 「さては、どこかで密偵と入れ替わったか、あ?」 「何と言われても構わない」 「俺はティアを手元に置く」 「お前、羽狩りと仲良くしたいのか? それとも俺と喧嘩したいのか?」 「どちらでもない」 「確かめたいことがあるだけだ」 「例の光か……エリスから聞いたよ」 ジークたちには、あえて蘇生の話はしなかった。 これ以上荒唐無稽な話をしても信じてはもらえないだろう。 「《不蝕金鎖》の頭として言えば、あいつをお前にやるのは簡単だ。いくつか約束を守ってくれればいい」 「だが、友人としては絶対に勧めない」 「お前のやっていることはおかしい、それでもか?」 「それでも、だ」 今さら、後には引けない。 ジークがため息をつく。 「意味がわからんよ……」 そうぼやいてから、ジークはいくつかの条件を提示した。 まず、娼館街に迷惑がかからないよう、離れた場所に引っ越すこと。 そして、羽狩りと揉めた際には、組織との関わりを一切否定すること。 また、組織はティアを無関係な人間として扱い、仮に組織の人間がティアの情報を羽狩りに売ったとしてもそれを咎めない。 最後に、ティアの購入代金として金貨500枚を支払うこと。 「500枚か……」 「奴の仕入れには金がかかってる。とんだ不良品だったが」 金貨500枚といえば、〈贅沢〉《ぜいたく》をしなければ5年は暮らせる額だ。 「手持ちが若干足りない」 「意外だな、金は持ってると思ってたが」 「エリスの身請けにかなり使った」 「大体、もう殺しはやってないんだ。昔ほどは稼げん」 「仕事はいくらでもあるぞ」 「今夜中に500稼ぐ方法だってある」 「何度も言っただろ。もう、金ずくの殺しはしない」 「もったいない」 「じゃ、足りない分は俺が出しておこう」 ジークが笑った。 組織の頭に借金するなど、ぞっとしないが仕方がない。 「殺しはやらない」 「わかったよ。それなりの仕事にするさ」 「新居は、俺の避難所を一つやる」 「締めてまあ、金貨600ってことで」 ジークが手を叩く。 すぐさま現れたオズに証文の準備を指示した。 「しかし、大して女好きでもないお前が、二人も身請けするとはな」 「俺は、光の謎を知りたい」 「俺には、お前がそこまで光に興味があるようには見えないが」 そこのところは、俺にもよくわかっていない。 俺は、ティアに何を求めているのだろう。 つまるところ、なぜ、あいつを助けに走ったのか。 「何に興味を持とうと俺の勝手だ」 「仰る通り」 やれやれ、という身振りをする。 「せっかく身請けするんだし、いろいろ仕込んだらどうだ?」 「エリスとティア、二人に奉仕させるなんて面白そうだぞ」 「遠慮しておく」 がちゃ オズが戻ってきた。 テーブルに証文が広げられ、内容を確認する。 読み合わせを終え、まずはジークが血判を押した。 「なあカイム。俺には組織を守る責任がある」 「これから先、ずっとお前の友人でいられる保証はない」 「わかっている、これまでもそうだった」 「もし俺が、組織のためにお前を見捨てることになったら……」 「あの世で、また友人になればいい」 「悪くない」 ジークは目の奥で微笑み、小刀の刃を俺に突き出した。 「どうして新居にこの子が?」 「一緒に住む」 「ふざけてるの?」 「羽つきに部屋を貸す奴なんていない」 「その辺の納屋にでも入れとけばいい」 「あの、わたしはそれでも構いません」 「あなたは引っ込んでいて」 「ねえ、カイム」 「どうしてこの子だけ特別扱いするの?」 「買った女ってことなら、私もティアも同じはず」 「こういう女が好みなわけ?」 「こいつをそういう風には見ていない」 「じゃあ、どういう風に見てるのよ」 「友人。お前と一緒だ」 「なら、私も家に置けばいいじゃない」 「何度も言っているはずだ、お前は自由に生きろ」 「俺に近づきすぎるな」 エリスが無言で俺を〈睨〉《にら》む。 わかっている。 俺の言葉など通じてはいない。 「ティアを助けて気持ちよかったでしょ」 「よかったじゃない、正義の味方になれて」 鼻息荒く悪態をついて、エリスは家から出て行った。 「エリスさん怒ってましたね」 「いつものことだ」 あいつは俺の物になりたがり、俺は拒絶する。 この手のやりとりは、もはや挨拶と言っていいほどに繰り返してきた。 ある意味で、均衡を保ってきたということだが。 ティアとの同居で、一波乱あるかもしれないな。 「ま、あいつとは上手くやってくれ」 「はい、ご主人様」 「なんだそれは」 「さっきエリスさんが言ってましたけど、わたしを買って下さったんですよね」 「ああ……」 言いたくなかったが、知られてしまったのだから仕方がない。 「訳あり品で、かなり安かった」 「お買い得だったと言われるように頑張ります」 「馬鹿かお前は」 「馬鹿です」 ティアが明るく笑う。 この顔が、また俺の家に戻ってきた。 「でも、家事とかいろいろ頑張ります」 「安物だからといって捨てないでくださいね、ご主人様」 「その呼び方も直せ。今まで通りでいい」 「でも、買っていただいたのに」 「命令だ」 「う……はい」 「それでいい」 「あと、もし誰かに素性を聞かれるようなことがあったら、俺の妹ということにでもしておけ」 「姓はアストレアだ」 「アスト、レア」 ティアが音の響きを確かめるように発音する。 「人の姓に文句でもあるのか?」 「い、いえいえいえっ、綺麗な姓です。5文字もありますしっ」 字数の問題か。 「で、でも、わたしなんかがカイムさんの妹でいいんですか?」 「非常時の話だ、日頃から吹聴して回るなよ」 「わかりました」 妙に残念そうだ。 「さあ、無駄口はこの辺にして掃除をしてくれ」 「早く片付けないと、飯の準備もできないぞ」 「はい、頑張ります! ご主人……」 「カイムさん」 雑巾を手に、ティアが忙しく動き出す。 溌剌としたその動きは、俺の生活が変わりゆくことを妙にはっきりと感じさせてくれた。 「防疫局というのは、ずいぶん評判が悪いらしいな」 「お前が監督しておるのだろう? どうなっている?」 「さすがリシア様。民草のことにお詳しい」 「王は国民の父ぞ、当たり前のことだ」 「これは失礼いたしました」 「ですが、防疫局の仕事は、民衆の平穏な生活を守るためにどうしても必要なのです」 「ふむ。だが、嫌われる仕事なら若いお前が担当することもあるまい」 「先のない年寄りにでもやらせればよいのだ」 「仕事もせずに俸禄をはんでいる者などいくらでもいるだろう」 「そやつらに、活躍の場を与えてやれ」 「仰ることはごもっともです」 「しかしながら、この務めは執政公より仰せつかった大切なもの」 「だからどうした?」 「私は、この仕事に粉骨砕身取り組んで参る所存です」 「ふうん」 「お前がそう言うなら構わん」 「ま、せいぜい自分に傷をつけぬようにな」 「ありがたきお言葉」 「しかし……」 「牢獄というのは、いつも〈靄〉《もや》がかかってよく見えん」 「あそこは、どのようになっておるのだ?」 「上層や下層とは、また別の世界です」 「ですが、民はみなリシア様をお慕い申し上げております」 「是非、行幸されるのがよろしいかと」 「楽しみにしていよう」 「……それが、いつの日になるかはわからんがな」 「リシア様……」 ティアとの面倒な同居が始まって約一ヶ月。 その間、羽狩りの様子を見るため、俺はティアの外出を禁じていた。 水や食材は俺が調達、あとの家事はティア任せ。 よほど時間を持て余したのか、ティアは掃除や繕いものはもとより、荒れっぱなしだった調理場の補修まで終えてしまっていた。 「羽狩りがティアを探しているという噂はあったか?」 「全然」 「私も何も訊かれないわ」 「ティアのこと、気づいてないのかもしれない」 「……かもな」 ティアを連行していた羽狩り2名の死体は確認した。 運が良ければ、ティアを羽つきだと知る羽狩りは、もういないのかもしれない。 「用心だけはしておこう」 「こっちも、噂には注意しておくわ」 「頼む」 ドアベルが鳴る。 「よう」 「お前か」 「ご挨拶だな」 ジークがカウンターに座る。 メルトが何も言わずに火酒を出した。 「引き取った女、ずいぶん大事に育ててるそうじゃないか」 「珍しく、どっぷり惚れ込んだか?」 「まさか」 「何でエリスが答えるのよ」 「あいつは羽狩りに手配されている可能性がある」 「何か聞いてないか?」 「いや、まったく」 「こっちを油断させるための罠かもしれないな」 「羽つき一人のために、そこまでしないだろう」 「人手不足って話は聞くが、その逆は聞いたことがない」 「なるほど」 「明らかな羽つきを狩るだけで精一杯か」 「だろうな」 ジークが火酒を空けた。 「ここに食事に来るぐらいはいいんじゃない?」 「ティアちゃんも、毎日家の中じゃ気が滅入るだろうし」 「羽の大きさはどうだ?」 「大きめの服を着ればわからないくらいだ」 「なら、出歩いてもいいんじゃねえか」 「……あと10日様子を見よう」 「慎重じゃないか」 意味ありげにジークが笑う。 「あいつを狩られては、光の謎が解けないんでな」 それから、10日が無事に経過した。 娼館街では2、3度羽狩りを見かけたが、聞き込みなどの目立った行動は取っていない。 まずは安心して良いだろう。 「外出は許可するが、油断はするなよ」 「もう、あんな目には遭いたくないだろう」 「はい、もちろんです」 「それに、カイムさんにもご迷惑をお掛けしたくありませんし」 「そう願いたい」 「でも、やっぱり外の空気は美味しいです」 ティアが大きく伸びをする。 「牢獄の空気が美味いと言った奴は、お前が初めてだ」 「独特の癖はありますが、これはこれで」 「うちの料理番がその味覚じゃ困る」 「わたしの料理、美味しくないですか?」 「……ぎりぎり合格だ」 「ほ、本当ですかっ」 ティアが明るい顔になる。 実際のところ、ティアは料理が上手い。 上層で召使いをやっていただけのことはあった。 「これからは、メルトさんにお料理を教えてもらおうと思ってるんです」 「カイムさんにはご満足いただきたいですから」 「メルトが簡単に教えると思うか?」 「店の味は料理人の命だ」 「いいわよ、ばんばん教えてあげる」 「ありがとうございますっ」 「……」 「店の秘伝じゃないのか」 「そりゃ、同業者には教えないわよ」 「別に、ティアちゃんが近所でお店開くわけじゃないでしょ」 「お前が構わないならいいがな」 「では、よろしくお願いします」 「はいはい」 ティアとメルトが嬉々として話しだす。 これが牢獄の光景か。 長閑なものだ。 ティアが生活に加わることによって、俺の周囲は少しずつ変わってきている。 それが望ましいものなのか、そうでないのか…… ま、面倒さえ起きなければそれでいい。 どろり。 腕から流れ落ちる、まだ温もりのある液体。 腕だけではない。 頭から爪先まで、真っ赤な飛沫を浴びていた。 鼻孔を満たす血液の臭い。 むせ返るような血液の臭い。 散らばる肉塊。 手、足、頭、その間にあるべき内臓。 それぞれが、勝手な位置に、勝手な方を向いて転がっている。 生命の灯火の潰えた眼球がこちらを凝視している。 ──気配。 遠方から、徐々に近づいてくる足音。 駆けだす。 振り返りはしない。 風を追い抜くほどの加速。 瞬時の間に、足音は遥か後方に去った。 「このにんじん、柔らかくて美味しいですねー」 「うちでも作れるようになりたいです」 「好きにしろ」 メルトのスープをしきりに褒めながら食べるティア。 適当に相づちを打ちながらパンを飲み込む。 「家の鍋の錆はもう落ちた?」 「ええ、気合いを入れて磨きましたので」 「じゃあ、ティアちゃんにも本格的に煮込み料理を教えようかしら」 「はい!」 混み合う前のヴィノレタ店内。 昼食を食い終えた俺は、ティアが幸せそうに料理の講義を受けるのを眺めていた。 入口が激しい音を立てて開いた。 「きゃっ」 何かが店内に転がり込んできた。 「うう……」 掃除したての床で、男が鼻血を垂れ流している。 「勘弁してよ、もう」 「下がってろ」 メルトを制して、店の入り口に向かう。 喧嘩など日常茶飯事だが、迷惑なことに変わりはない。 ドアノブに手を伸ばす直前、扉が何者かに開かれた。 「失礼する」 入ってきたのは、羽狩りの女隊長だった。 警戒が顔に出ないよう注意する。 「会うのは3度目か」 「ああ、その節は迷惑を掛けた」 「迷惑なのは、今日もだがな」 「すまないな、すぐ片付ける」 正確には、俺達が会うのは4度目だ。 女隊長とは、ティアを救出する際に戦っている。 仮面の男の正体が俺だとは気づいていないらしい。 足の怪我も良くなっているようだ。 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護しようとしたのだが、この男に妨害されたのだ」 「扉は壊れていないと思う。騒がせて申し訳ない」 丁寧に謝ってきた。 「こっちも客商売だから、気をつけてちょうだいね」 ティアの背中をさりげなく女隊長の視界から外しながら、メルトが応じる。 「すまなかった」 「さあ、出るぞ」 「う……あ……」 男の首根っこをつかむ。 「邪魔する奴は実力で排除か」 「……」 一瞬俺の顔を見たが、こちらにも反応は無かった。 「我々も、できればこのようなことはしたくない」 「その男も、羽狩りと関わり合いにはなりたくなかっただろうよ」 男に近づく。 「ほら、立て」 「あ、うぁ……」 俺は男を立たせ、店の外に送り出す。 「無茶はするな」 「お、俺はどうなってもいいんだ」 男は狂ったように周囲を見回す。 「……あ、あいつは?」 「部下が保護した」 「今頃はもう治癒院に向かっているだろう」 男が、がくっと膝をつく。 「くそっ……ちくしょう……っ!」 「あいつが、何したってんだっ!」 「こいつの女でも狩ったか?」 鼻血男を目線で指し、女隊長に問う。 「関係はわからないが、若い女だった」 「ちなみに、我々は保護したのだ……狩ってなどいない」 「住民のため、なすべきことをした」 真っ直ぐな目で、毅然と言う。 自らの行動に、寸分の疑いを持っていない顔だ。 「あんたは、荒っぽいのは好まないと思っていたが」 「部下が鉄の棒で殴られた」 「肩の骨が砕けたよ」 隠そうともせずに、今度は悔しそうな表情を見せる。 「出てきたぞっ!」 「え、あ……ひいっ」 「やってくれたじゃないか、ええ!?」 「やめろっ!!」 女隊長が、部下を一喝する。 「で、ですが、こいつは仲間の腕を……」 「そうです、このままじゃ収まりがつきません」 「気持ちはわかる」 「だが、それでは、この辺りのやくざ者と一緒だ」 「我々は、誇りある防疫局の一員だろう?」 「……ふう」 羽狩りが、これみよがしにため息をつく。 仲間の報復をしたくなるのは普通の感覚だ。 こう、正論で押し切られては、溜るものがあるだろう。 「お優しい隊長さんで良かったな」 「さっさと消えろ」 「は、はいっ」 転がるように、男が逃げていく。 その後ろ姿を、羽狩りの男が苦々しげに見送った。 「なあ、隊長さん……この界隈での騒ぎは勘弁してもらえないか」 「静かに飯も食えない」 「住民の協力があれば、こんな装備も騒ぎも必要ないのだが」 腰の剣の柄を握ってみせる。 ご立派な信念も部下への愛情も、力なしには守り通せない。 結局、行き着くところは暴力だ。 羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護しようとすれば尚更そうだ。 暴力のない羽狩りなど、結局は空想上の存在にすぎない。 「あんたらが暴力で羽つきをしょっ引く以上、住民も暴力で応じるだろうよ」 「だが、我々の仕事は住民のためのものだ」 「どちらが先に矛を収めるかは、明白ではないか?」 「あんたらがそう思っているだけだろう」 「ふう……まあいい」 そう言って、一つため息をつくフィオネ隊長。 「先ほどの店主には、重ねて謝っていたと伝えてくれ」 真面目な顔でそう言うと、羽狩りの隊長はくるっと踵を返した。 羽狩りたちに二言三言。 見物人たちの暗く尖った言葉を背中に受けながら、どこかへと帰っていった。 「お疲れさま」 「カイムさん、お怪我はありませんか?」 大丈夫だと仕草で答える。 「羽つきが、男のこれだった?」 小指を立ててみせるメルト。 「ああ」 「で、羽狩りにつっかかって返り討ちと」 「?」 「さっきの男の恋人が羽つきだったんだって」 「そうでしたか……」 元の席につくと、ティアは小刻みに震えていた。 「いつか、私も連れて行かれてしまうのでしょうか」 「不注意ならな」 「お前はふわふわしてるところがあるから、気をつけろ」 「そうね」 「さっきは、こいつを隠してくれて助かった」 「ま、念のためね」 こういう気の利き方は、長年牢獄で生きてきた人間ならではだ。 「ティア、お前はなるべく一人では娼館街の外を出歩くな」 「出かけるときは、誰かに行き先を言っていけ」 「家にいるときには、知らない奴が来ても絶対に扉を開けるな」 「わかりました」 「ふふふ」 「……何がおかしいんだ」 「だってカイム、父親みたいなんだもの」 「こんな大きな子供がいてたまるか」 「す、すみません……」 小さくなるティア。 店の入口が開いた。 「水くさいじゃねえか」 「お前の娘だって初めから言ってくれれば、こっちもいろいろ考えたんだ」 うるさいのが来た。 「メルト、ごちそうさん。お代はここに置いとくぞ」 「あら、もう帰っちゃうの」 「まあ待て」 「今からとっておきの一本を開けるんだ。飲み終わるまでつきあえよ」 「……」 口調はともかく、目はふざけていない。 「仕方ないな」 ジークはメルトに注文を告げ、俺には店の奥まったテーブルへ移動するよう促した。 「あ、あの、わたしは……」 「どうする?」 「構わん、一緒に聞いてろ」 「は、はい」 まだジークのことが怖いのか、ティアは落ち着かない様子だ。 「経験上、この席に座ると厄介事を押し付けられる」 「わかっているなら話が早い」 この席の話し声は、他の席にはほとんど聞こえないようになっている。 ジークがここを使うのは、何か重要な話がある時と決まっていた。 「お待たせ」 メルトが持ってきたのは、古びたワインと鶏肉の煮込み料理。 「……高そうだな」 「たまには、な」 不蝕金鎖の先代の収集品だろう。 相当な高級品だ。 ジークは、ワインを無造作に互いの器に注ぐ。 「飲むと断りにくくなりそうで怖いな」 「どうせ後悔するのは酔いが醒めてからだ」 杯をぶつけ合う。 「以前、黒い化物の話をしたの、覚えてるか」 「このワインは、赤い化物と呼ぶに相応しい美味さだな」 「酒が不味くなる話は、もう少し後にしろ」 「そうだな」 「で、だ」 「黒い化物がどうしたって?」 空になった瓶と皿を脇によけ、ジークが心持ち声を落とす。 「噂が、消えるどころか広まっている」 「バラバラの死体と、傍に落ちている黒い羽根……だったか」 「ああ」 「空を飛ぶだの死体を喰らうだの、まあ尾ひれの種類はいろいろある」 「で、お前は化物なんてものが実在すると思ってるのか?」 「前にも言った通り否定も肯定もしない」 「だが、羽狩りは割と真に受けているらしい」 「化物の調査に協力してくれって話が来た」 「奴ら、羽が生えてるものは全部狩るつもりか?」 「動機は知らんが、とにかく捕まえたいらしい」 「連中、本気なのか?」 「俺はそう受け取った」 「でなければ、俺達を巻きこもうとは思わないだろう」 「それはそうだが」 冗談のような話に不蝕金鎖を巻きこむはずがない。 「実際、犯人不明の殺しが何件か出ているのは事実だ」 「で、協力ってのは?」 「まさか、一緒に仲良く化物を捕まえましょうって話でもないだろう?」 「ところが、そのまさかだ」 「黒羽を一緒に捕まえようと言ってきた」 「ま、おおかた道案内が欲しいんだろがな」 「ははは、迷子になったら困るか」 牢獄民は、基本的に羽狩りに非協力的だ。 荒事ならともかく、奴らが牢獄で情報を集めるのは容易ではない。 「話を持ってきたのは?」 「羽狩りの責任者をやってる、ルキウスって貴族だ」 「上層のお偉いさんか」 「そういうこった」 ジークが葉巻を取り出す。 吸い口を切って〈燐寸〉《マッチ》で火を点け、二、三度ふかした。 その漂う煙を、しばらく二人で見るとも無しに眺める。 「……結論から言うと、この話は受けようと思ってる」 「羽狩りと組むわけだ」 「連中の勢力が伸びるのは困る」 「が、どうせ放っておいてもいずれ伸びる勢力なら、敵対するよりはマシだ」 「恩まで売れればなお良い」 「お前が興味を持ってるのは、黒羽より、ルキウスって貴族だろう?」 「ああ」 「最近、勢力を伸ばしている貴族で、なかなかの人物って評だ」 「牢獄の悲惨な環境にも、それはそれは同情してくださってるらしい」 「なるほど、話ができる環境は作っておきたいところだな」 「そういうこった」 「しかし、貴族が牢獄に同情するとはね」 「よっぽどやることがないんだな」 「一通り遊び尽くした奴は下手物に走るってやつだな」 ……隣に座っているティアは、小さい背を更に縮めている。 羽狩りと不蝕金鎖が組むとなれば、ティアの立場は今より更に危うくなる。 不安なのだろう。 ジークが、ぐっと声を低くする。 「ま、俺の立場の話をすれば、犯人が分からん殺しが続くのは見過ごせん」 「スラムで飢える奴、金や女の奪い合い、娼館街での刃傷沙汰……」 「縄張りで死ぬ奴はいくらでもいるが、理由も犯人も耳に入らないのは気に入らない」 「確かにな」 好き勝手に殺しが横行してるのを放っておいたら、縄張りも何もあったもんじゃない。 しかし、この話を俺にしたということは…… 「この仕事はカイムに頼みたい」 「仕事の概容は?」 「受ける受けないの話はそれからだ」 「不蝕金鎖を代表して、羽狩りと黒羽の調査をするんだ」 「いくらジークの頼みでも、この話は面倒臭すぎる」 「面倒だから、お前に頼んでる」 「羽狩りとは仲良くなりたいが、こっちの情報はやりたくない」 「その上、全体を見る力が必要になる」 「できそうなのが、お前くらいしかいない」 「冗談はよしてくれ」 「冗談に聞こえたか?」 人差し指で葉巻を叩き、灰を落とす。 「この話は不蝕金鎖に来たんだろう?」 「俺は不蝕金鎖の人間じゃない」 「俺が、部下に事情を説明すればいいだけだ」 「しばらくカイムの指示に従ってくれってな」 「そうすりゃ、外部の人間には区別はつかんだろう」 「適当なことを」 「熟考した上のことだ」 熟考した上で俺を選んだのは…… 問題が発生した場合に、責任者は外部の人間で彼の判断は不蝕金鎖の本意ではない、という逃げ方ができるからだろう。 「外部の人間が指揮を執っていれば、いざというときに楽だな」 「悪いが、その判断もないわけじゃない」 「詫びる必要はない」 「俺には断る権利がある」 「カイムなら上手くやってくれると思ったから、あえて頼んでる」 「お前はそれでいいかもしれないが」 視界の端にティアを見る。 羽狩りと組めば、ティアの行動も制限されるだろう。 「俺は羽狩りのような役人とは手を組みたくない」 「もちろん〈大崩落〉《グラン・フォルテ》からこっち、牢獄を担ってきたのは不蝕金鎖だ。その矜持はある」 「だからこそ、新しい勢力もある程度制御下に置きたい」 真っ直ぐ俺を見るジーク。 残念ながら本気のようだ。 「ああ、あとアレだ」 「?」 「このお嬢ちゃんをお前が引き取ることにした時の借金、今回の話で相殺しようじゃないか」 確か、金貨600だった。 太っ腹な提案だが、それだけ仕事が面倒だということだ。 「頼む」 「お前だけが頼りなんだ」 にこやかに、済まなそうに、ジークは微笑んだ。 「……ふう」 ため息を一つ。 押したり引いたりの呼吸も、憎めないところも、やはり組織の長にいる男だ。 「矜持じゃメシは食えん、か」 「仕方ないな」 「やってくれるか。悪いな」 「ちょ、ちょっと待ってください」 「わたしを買ったせいで、カイムさんが危ない仕事を」 「まあ、そうなるな」 「も、申し訳ないです」 「俺が決めたことだ、お前がどうこう言うことじゃない」 「でも、でも」 「借金が返せるのはおまけだ」 「俺はあくまでも、ジークの頼みを聞いたにすぎない」 「うう……」 「嬢ちゃん、自分じゃ払えない金を払ってもらった身だろう?」 「子供じゃあるまいし、ガタガタ言うもんじゃないぞ」 「すみません」 「メルト、次の酒と食いもの頼む」 「はーい」 ジークは上機嫌で追加の注文を入れた。 黒い化物か。 羽狩りと組むことも気になったが、俺は別のことを思い出していた。 ティアを拾った日。 あの現場に向かった時のことだ。 俺を襲い、姿も見せずに消え去った黒い影。 あいつは一体何者だったのか。 「カイム、どうした」 「いや」 左の頬がうずく。 「明日辺り、向こうとの顔合わせがあるだろう」 「客が来たら、誰か呼びにやろう」 「ああ、わかった」 う…… 滲む視界。 身体が濡れている。 赤い、あの液体に…… まただ…… また、押さえきれなく……なっ……て ぐっ…… 全てが歪む…… 自分の心さえも…… 抗え……ぬ…… 思考が黒いものに塗り潰されていく。 飲み込まれる…… 俺が…… 俺でない……何者かに…… く……っ 「……ん?」 ……窓からはかすかに光が差していた。 まだ朝も早い。 扉が壊れんばかりに叩かれている。 「誰だ」 「あたしあたしあたし」 リサか。 朝っぱらから元気なものだ。 扉を開ける。 「おっはよーっ、ボスが呼んでるよ!」 「何の用だ?」 「昨日の件、って言えばわかるって言ってたけど」 「じゃ伝えたからねー」 もう一仕事ありそうなリサが、娼館に帰っていく。 昨日の件か。 とりあえず身だしなみを整え、眠気覚ましにきつい火酒を一舐めする。 「あれ、カイムさん」 「お出かけですか?」 ティアが寝床から半身を起こした。 「ああ、おまえは寝てろ」 「戸締まりはしっかりな」 「はい」 「あ、お帰りは?」 「分からん」 腰にナイフを下げ、家を出る。 受付に挨拶し、奥の階段を上る。 この時間はリリウムも閑散としたものだ。 「邪魔するぞ」 言うと同時に扉を開けて中に入る。 部屋には、ジークの他に一人。 何度も見たことのある制服を着た女だった。 何故こいつが? てっきり、貴族に近い人間が来るものだと思っていた。 「案外早かったじゃないか」 「うるさい女に叩き起こされたからな」 努めて冷静を装い、返事をする。 「こちら、牢獄担当の羽狩り……」 「いや、防疫局強制執行部特別被災地区隊の隊長をやってるフィオネさんだ」 そんなクソ長い名前だったのか。 「昨日話した化物の件で、先方の代表を務めるそうだ」 「代表……?」 「つまり、俺はこいつと組むのか……」 「すると、貴殿が不蝕金鎖の代表か?」 「その通り。こちらが不蝕金鎖の代表を務めるカイムだ」 「仲良くしてやってくれ」 女隊長は、まず素直に驚いた顔をし、それから羽狩りの顔になった。 「今回の件は、上層の貴族から来た話だったはずだが」 「もちろんそうだ」 「なら、貴族に近い人間が来るのが筋だろう?」 「私では不足だと言いたいのか?」 「これでも、ルキウス卿から直々に《黒羽》の捕獲を任されているのだが」 「なるほど」 「その、黒羽というのは?」 「防疫局では、例の化物のことを《黒羽》と呼んでいる」 「目撃情報によれば、黒い翼を持っているらしいのでな」 「黒い翼の羽つきのようなものか?」 「そう考えてもらって差し支えない」 「私たちの仕事は、その黒羽を生きたまま捕獲することだ」 「捕獲?」 「捕獲だ」 「……了解した」 生け捕りとなれば、殺すよりは手間がかかりそうだ。 「ぜひ、よろしく頼む」 「ああ、せいぜい頑張ろう」 社交辞令という言葉をそのまま態度にしたような握手をする。 昨日、少し話しただけで石頭だとわかるような女だ。 面倒な奴と組まされることになった。 「一つ気になったのだが、確か貴殿は、不蝕金鎖の人間ではないと言っていたはずだが」 「ジーク殿、彼はいつから組織に加わったのだ?」 「ふむ」 俺と目を合わさないまま、ジークが頭の中で状況を整理している。 まあ、ジークなら無難に答えてくれるだろう。 「いやフィオネ隊長」 「カイムは実際、不蝕金鎖の構成員じゃないんだ」 「だが、うちの代表であることには変わりない」 「不蝕金鎖と関係ない者が、不蝕金鎖を代表すると」 「つまり、そちらとしては、真面目にこちらの相手をするつもりはないということか?」 「カイムはちょっと特別でね」 「組織の外にいるが組織の人間は動かせる」 「それに、牢獄で〈細々〉《こまごま》とした動きをする場合、カイムが一番頼りになるんだ」 「どういうことだ?」 「地理に明るいし、細かいしがらみに縛られずに動ける」 「一瞬を争うような場面では、わずかな〈躊躇〉《ちゅうちょ》も命取りになるんじゃないかと思ってな」 「なるほど」 「言うなれば遊軍の長、といった立場だ」 呆れ顔に変わる女隊長。 「そういうことだ」 「正式な杯を交わしたこともないし、構成員でないというのは事実だ」 「不蝕金鎖としては、役人と堂々と組むわけにもいかない……と言ったところか」 「特別被災地区らしい話だが、そちらの立場も分からないではない」 向こうは向こうで、勝手な解釈をしたらしい。 呆れは消え、真剣な目でこちらを見る。 「……が、こちらにも面子というものがある」 「人員をはじめ、協力の出し惜しみはなしに願いたい」 「もちろんだ」 「カイムの能力は俺が保証する」 「不蝕金鎖を代表して、恥ずかしくない仕事をしてくれると思う」 「な、カイム」 「……ああ」 「私も、防疫局の局長であるルキウス卿から『友好な協力関係を築くように』と仰せつかっている」 「互いに、率直な情報交換ができる関係を願いたい」 「ああ、そうだな」 「さて……」 「具体的な捜査の進め方は、二人で話し合って決めるのがいいだろう」 「現場に口を出すな、ってのが先代の教えでね」 初耳だ。 丸投げする気らしい。 「では、健闘を祈る」 「頼んだぞカイム」 「ああ」 「では、失礼する」 俺と女隊長は、前後して部屋を出る。 「どこか行くあてがあるのか」 「行きつけの料理屋がある。話もしやすい店だ」 「わかった。カイム殿に任せる」 「カイムでいい」 「ならば、私のこともフィオネと呼んでくれ」 「対等な関係を期待している」 「わかった」 「なら、フィオネ……話し合いは店でいいか?」 「昨日、あんたが男を投げ入れた店だ」 「……あそこか、もちろん構わない」 フィオネを先導して、娼館街を歩く。 「念のために訊いておくが」 「何だ」 「お前、羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を匿ったりはしていないだろうな?」 「まさか。匿っていたら協力などしない」 「そうか……」 「気を悪くしないでくれ」 「一緒に仕事をするのだから、念のため確認した」 「羽狩りも大変だな」 フィオネが足を止める。 「どうした?」 「以前も言ったはずだが、私たちは防疫局だ……羽狩りではない」 またこの話題か。 「何度もしたい話じゃないから、一度で理解してくれ」 「はっきり言っておくが、牢獄には、あんたらを正式な名で呼ぶ奴なんていない」 「羽狩りと呼ばれるのに慣れておいた方が仕事が捗ると思うぞ」 「だが、正式名称ではない」 「誰も、あんたの個人的なこだわりには付き合ってくれないだろうよ」 「だがっ」 フィオネの顔に血が上る。 呼び方一つで、この頭の硬さだ。 先が思いやられる。 「これから先、羽狩りと呼ばれる度に食ってかかるのか?」 「俺は仕事を円滑に進めたいから言っているんだ」 「何も、殊更あんたらを侮辱したいわけじゃない」 「……」 それでもフィオネは憮然としている。 「了解してくれたということでいいな」 「わ……わかった」 「だが、侮辱と取れる場合は私も考えるぞ」 「ああ、好きにしてくれ」 ようやく納得したのか、フィオネが歩き出す。 「それにしても、隊長自ら化物退治とは、羽狩りは暇なのか?」 「いや、手が足りないくらいだ」 微妙な表情を浮かべる。 が、すぐに前を見据えた。 「黒羽が〈跋扈〉《ばっこ》しているという噂がこれ以上広まれば、無用な混乱や動揺を招き、我々の本来の活動に悪影響が出る」 「そちらも同様だろう?」 「まあ、その通りだ」 物騒な噂が広まれば、商店や歓楽街は悪影響を受ける。 「それに隊長が指揮を取ることで、防疫局が本気だということが伝わるはずだ」 「そうか……」 「てっきり、仕事で失敗をしたせいで変な仕事に回されたのかと思っていた」 「何だと?」 瞳が怒気を帯びる。 「黒羽の捕獲は、ルキウス卿から直々に賜った職務だ」 「侮辱は許さない」 「一緒に仕事をするわけだからな、念のためだ」 「気を悪くしたのなら謝る」 「……意趣返しというわけか」 苦笑が帰ってきた。 お堅いが、頭に血が上りやすい人種ではないようだ。 剣の腕もなかなかのものを持っていた。 加えて全身から発している、張りつめた雰囲気。 羽狩りには珍しく、優秀な人材であるらしい。 「着いたぞ」 俺は先に立ってヴィノレタの扉を押した。 「あらカイム、いらっしゃい」 メルトの声の調子が、『いらっしゃい』の『しゃ』のところでほんのわずかに変化した。 俺の後ろから入ってきたフィオネに気がついたのだろう。 「羽狩りさんも、いらっしゃい」 「昨日は失礼した」 メルトに軽く頭を下げながら、俺について一番奥のテーブルに向かう。 「ここの席は話し声があまり漏れない」 「なるほど」 そう言って店内を一瞥。 「……実は、注文の仕方がよくわからない。お願いして良いだろうか」 「わかった」 こういう店にはあまり来ないのか。 メルトに二人分の飯を適当に頼む。 ……注文した品が来るのを待っていると、仕事帰りと思しき三人娘がやってきた。 「あっ、カイムが女の子連れてるーっ!」 「趣味悪い」 賑やかな奴らだ。 「カイム様、お食事ですか」 「ああ、こっちはこれから仕事でな」 「そっちは上がりか?」 「うん。もう眠くってさー」 「早く風呂入って寝たい」 「リリウムで私達が使っているお風呂が最近新しくなりましたのよ」 「そういえば、前のは汚かったそうだな」 「水も漏れてた」 衛生的にひどい風呂だったが、それでも仕方なく使っていたという話だ。 確か、ジークが、病気になる娼婦と改築費用を天秤に乗せていたな。 「それはもう広くて。皆大喜びですわ」 「そうなのそうなの。今度ティアちゃんも入れてあげたいな」 「疲れも取れるしねー……いやあ今日は疲れた疲れた!」 眠いだの疲れただの言ってる割には元気そうだが。 「さっきのお客さんが激しくって、もう腰が抜けそうなんだよね」 「指名か?」 「ううん。あたしが捕まえたの」 「あれは拉致」 「次は指名してもらえるように頑張ったか?」 「もちろん! クロ姉直伝の腰の使い方がすごいのすごくないのって!」 「あっという間なんだから」 「一般の女性の前で、そういうことはよしなさい」 クローディアがフィオネに視線を投げかけて言う。 「今度のお仕事は、こちらの羽狩りさんとですか?」 「ああ、そうだ」 場を取りなすように、クローディアがフィオネの方に話を振った── が、フィオネはこれ以上ないくらい渋い表情をして目を閉じていた。 怒っているのか顔を紅潮させている。 「では、お近づきの御挨拶ということで、お酒でもご馳走させて下さいましな」 「おっ、いいねー、ぱーっとやろう!」 「カイムのお客さんは私達のお客さん!」 「わたし、女は無理」 三人とも、今日の仕事を終えた解放感でご機嫌だ。 「すまないが、遠慮させてもらおう」 「身体を売って稼いだ金で、食事しようとは思わない」 〈姦〉《かしま》しかった三人娘が、一瞬しんと静まる。 「……金に色はついていない」 「これは私の矜恃の問題だ」 「そもそも、防疫局では勤務中の飲酒は禁じられている」 「飲んでいる奴はいくらでも見たことがあるが」 「厳格には守られていない規則だが、隊長たる私は率先して慎むべきだろう」 三人娘から広がった沈黙で、店内が水を打ったようになる。 「その通りでございますね、大変失礼致しました」 「申し訳ございません、不躾なものでして」 クローディアが、冷静に場を取りなす。 「死ね」 「へーほー、立派な心がけですこと」 あとの二人は口を尖らせた。 「すまんな」 「いえ、いろいろな方がいらっしゃいますから」 「ではごゆっくり」 クローディアが残りの二人を促し、三人は離れたテーブルに着いた。 一方、フィオネは、まだ不機嫌そうな顔をしている。 「規則はわかるが、喧嘩を売るような言い方をするな」 「お前は、ああいう商売に思うところはないのか」 「娼婦は世界最古の職業だという話もある」 「娼婦という職業自体を今さら否定しても仕方ない」 「倫理的なところを問題にしている」 「同じことだ」 「娼婦の身をどうこう言うなら、客の方こそ非難すべきじゃないか」 「誰も買いに来ないなら、娼婦なんて商売は成り立たない」 「売る者がいなければ、買う者もいなくなる」 「娼婦がいなくなっても買う方の欲望は残る」 「はけ口がない奴らは、金か暴力で解消させてくれる相手を探すだろうよ」 「結局、娼婦はできてしまうんだ。誰かが管理しなければ、病気や暴力が蔓延する」 「だが、娼婦になる女を各地からかき集めているのは不蝕金鎖だろう?」 「娼婦をなくすまいとしているのは組織ではないか」 「本気で娼婦をなくしたいなら、誰もが飢えずに済む世界を作ることだな」 「そういう社会を作るのは役人の仕事じゃないのか?」 「詭弁だ」 憮然とした表情で、フィオネが水を口に含む。 「いつだったか、尋ねたことがあったな」 「暴力により得た金で生活する気分はどんなものか? と」 「どうなのだ? カイムも娼館の仕組みの一翼を担っているのだろう?」 「用心棒のことか」 「ただの仕事だ、食い扶持は誰でも必要だろう?」 「娼婦やリリウムのような店は、俺の腕を頼りにしてくれるんでね」 「……」 正面から俺の目を見据えた。 この目は真っ直ぐすぎる。 「あんたも、俺のことは言えないだろう」 「倫理の話をするなら、羽狩りの暴力的なやり方に『思うところ』はないのか?」 「あるに決まっている」 「私は暴力を振るわずとも住民が協力してくれる社会になるよう、日々努力しているつもりだ」 「一朝一夕に行かないのはもどかしいが……」 本気で悔しそうな顔をした。 真面目に、自分が社会を変えられると思っているらしい。 行ったきり帰ってこない治癒院に、進んで家族や友人を送り出す人間がいると思っているのだろうか。 「お待たせー」 「あら、もうケンカはおしまい?」 料理と酒を持ったメルトが現れる。 「ずいぶん盛り上がっていたようだけど」 皿をテーブルに並べながら、俺達二人の顔を見回す。 「見解の擦り合わせをしていただけだ」 「ふーん」 「そういえば、隊長さん……昨日はどーも」 「いや、こちらこそ失礼した」 「店のものが壊れたりはしなかったか」 「ええ、大丈夫よ」 「それにお役目ですもの、仕方ないこともあるでしょう」 「そう言ってもらえると助かる」 「今日みたいにお客様としていらっしゃるのは大歓迎よ」 「お酒、お注ぎしましょうか」 「いや、任務中の飲酒は規則で禁じられている」 「あ、そんなことを言ってましたね」 「俺に注いでくれ」 「はいはい」 「こういう店にはあまり入らないのか」 「店では歓迎されないからな」 「食事は詰め所でとることにしている」 「賢明だ」 「といっても、詰め所でも煙たがられているようだが」 「私は堅物らしいからな」 羽狩りは、荒っぽい奴らが多い。 こいつのお堅い性格では、浮くのも仕方ない。 それでも隊長を任されているのは、上司に気に入られているのか、個人の実力か。 「だから、他の店の味はわからないが、ここの料理は美味しかった」 「それは良かった」 フィオネは、率直に料理を褒め、食事を終えた。 「さて、今後の方針の話をするか」 「そうだな」 「まず、最終的な目的を確認しよう」 軽く周囲に注意を払い、フィオネが語り始める。 「ルキウス卿からは、黒羽を捕獲せよとの命を受けている」 「こっちは、あんたらに協力しろと言われている」 つまり、捕獲に協力すればよいということだ。 「殺してはいけないのか?」 「捕獲せよ、と言われている」 「なぜだ? 実在するとなれば、かなり危険な相手だぞ」 「それを問うのは私の仕事ではない」 「ただ、殺してしまえば訊問もできない」 「捕獲するに越したことはない」 「なるほど」 何か捕獲にこだわる理由でもあるかと思ったが。 「しかし、化物が人を殺すなんてのは、牢獄によくある噂だ」 「そんなものに、羽狩りがかまけていていいのか?」 「実在の可能性がある以上、街にありがちな噂だという意識は捨てるようにとも言われている」 「そちらは、なぜ協力を承諾した?」 「黒羽の正体に心当たりでもあるのか?」 「縄張りの中で、犯人も動機もわからない殺人があるのは困る」 「悪評が立つと、商売をやっている人間には悪影響もあるしな」 「なるほど」 「これは命令ではないが、不蝕金鎖とは仲良くやるように、とも言われている」 「私としては、可能な限りカイムとは協力していきたいと思っている」 「こちらも同じだ」 言葉が宙を滑る。 互いに、気乗りしないのは確認できた。 諸々の感情を飲み込まざるを得ないことはいくらでもある。 「で、目標の黒羽については何がわかっているんだ?」 「まず、実在すると思っているのか?」 「繰り返しになるが、我々は実在する想定で動いている」 「それが人間かどうかは別問題だが……個人的には化物だろうと思う」 フィオネの瞳が、一瞬翳る。 「人を殺す化物なんてものが実在すると? 証拠でも持っているのか?」 「証拠はない……個人的な見解だ」 「お伽噺が好きなのか?」 「冗談を言っているのではない」 「少なくとも、人間離れした生き物であることは間違いないんだ」 「注意しておいて困ることもあるまい」 妙にこだわるな。 何か理由でもあるのだろうか? 「ま、俺はべつにどちらでも構わない」 「化物でも、化物のような人間でも仕事は一緒だ」 「情報収集に捜索、捕獲……それでいいな?」 「問題ない」 椅子に座り直し、フィオネが話題を替える。 「これまでに、何度か羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護に失敗したことがあった」 「そのうちの何件かでは、保護する前に〈罹患者〉《りかんしゃ》が殺害されてしまったのだ」 「局内には、それが黒羽の仕業であるとの憶測がある」 「どこからそう判断した?」 「切断された死体、逃走の素早さ、そして現場に落ちていた黒い羽根だ」 「ほう」 ティアが死にかけた現場でも、オズが黒い羽根を見つけていた。 「黒い羽根の話はこちらにも入っている」 「だが、鴉の羽根じゃないのか?」 「調べたところ、似た形の羽根を持つ鳥は確認されていない」 「同様の羽根が見つかれば、黒羽の仕業だと判断する有力な手がかりになるだろう」 「確かにな」 「そして……これは誠に遺憾なことだが」 一つ息をつく。 「しばらく前に、隊員に2名の殉職者が出たのだが……」 「遺体の状況から見るに、これも黒羽によるものだと疑われている」 「……」 もしや、俺がティアを助けに行った時の羽狩りか。 あれも黒羽の仕業……。 「不蝕金鎖は、どこまで把握しているんだ」 「まとまった情報はない」 「牢獄には死体がいくつでも転がっている」 「それがバラバラであったとしても、行儀の悪い野良犬が食い散らかしたとしか思わないのが常だ」 「黒羽の噂にしても信じてはいなかったが、そこにちょうどあんたらから話がきたというわけだ」 「……」 また、じっと俺の目をのぞき込んでくるフィオネ。 こちらが情報を隠していないか、見透かそうとしているのだろうか。 生憎、こいつ程度の眼力に怯むほど柔ではない。 だが、フィオネの瞳の色の深さには、嘘をついているのが後ろめたくなるような透明さがあった。 これは、ついぞ見たことのない程のものだ。 が、今回は嘘も何も無い。 「わかった」 「つまり、互いに本格的な調査はまだ、ということだな」 「ああ」 「防疫局も、過去の報告書すらまとめていない」 「それは、そっちでやっておいてくれ」 「黒羽が出始めた時期がわかれば、何かの手がかりになるかもしれない」 「同時期に大きな事件があれば、関連も考えられる」 「なるほど、いい視点だな」 基本だろう、と口に出かかる。 「日記と照らし合わせてみれば、事件の方は分かるだろう」 「日記をつけるのも仕事とは優雅な話だ」 「いや、私の個人的な日記だ」 「律儀な趣味だな」 「毎日を有意義に生きるためには、なかなか効果的だ」 「自分という人間を知るきっかけにもなる」 「読み返すと恥ずかしくならないか?」 「そういうこともある」 「夜に書いたものは特に……」 「……いや、日記はどうでもいい」 気恥ずかしそうに、一つ咳払いをした。 面白い奴だ。 「ま、羽狩り内部の資料や、隊長の個人的な資料の整理はそっちでやっておいてくれ」 「了解した」 「俺の仕事としては、まず聞き込みだな」 「噂の出元、現場の目撃談……まずは手当たり次第だ」 「こちらも協力しよう」 「人手は多いほうがいいだろう」 「人による」 「羽狩りにぞろぞろ来られても迷惑だ」 羽狩りに喜んで情報を提供する奴など、牢獄にはいない。 「ならば、私だけでも協力しよう」 「いろいろな意味で、その方が良いだろう」 「俺達が情報を隠すとでも思っているのか?」 「いや、協力して事に当たれとの指示があるからだ」 「なら、手でも繋いで情報収集するか?」 「それで効率が上がるのか?」 「上がるわけないだろう」 「冗談なのか? 仕方のないことを言うな」 むっとしている。 「……まあいい、聞き込みは俺とあんたの二人でやろう」 「不蝕金鎖の連中にも協力を頼んでおく」 「羽狩りの荒っぽい奴らには、捕り物の際には活躍してもらおう」 「わかった」 他に決めておくべき方針はあっただろうか。 「もし、黒羽に遭遇したらどうする?」 「居場所を突きとめ、準備万端のうえ突入、となるとは限らない」 「今日、ばったり出会う可能性もある」 「もっともだ」 と、フィオネが何かを取り出した。 「こんなものはどうだろう?」 これは……笛か? 「呼子笛、と呼ばれるものだ」 「局でもたまに使っているものだが、非常召集用の笛だ」 「人混みでも音が通るし、遠くまで聞こえる」 「ほう」 手に取ってみる。 小指ほどの大きさで、邪魔になることもなさそうだ。 「不蝕金鎖の人間にも渡すといい」 「今後は、黒羽を目撃した際にのみこれを鳴らすことにする」 「音を聞いたら、最優先で駆けつけるよう周知しておこう」 「合理的だな」 「数はどれほど必要になる?」 「ざっと100」 こちらの人数を悟られないよう、適当な数字を出す。 実際に使用するのは50程度だろう。 「そっちは、何人ぐらいが持ってるんだ?」 「全員に持たせておこう」 数は明言しなかった。 それなりに注意は払っているようだ。 「100となると、すぐには用意できない」 「完成次第、届けさせよう」 フィオネが紙片を取りだし、携帯用のペンで何かを書きつけた。 備忘録か。 「さて、これで仕事に移れそうだな」 「まずは聞き込みか」 「前回、黒羽らしき者が現れたのはスラムの東端だ」 「よし」 二人で同時に立ち上がる。 あまりに間が合っていて気色悪かった。 「店主」 「以前もいただいたが、この店の料理は大変美味しかった」 「あら、ありがとうございます」 「よろしければ、今後ともご贔屓に」 「……できれば荒事ではない時に」 「わかった」 苦笑しながらもフィオネは肯いた。 「先ほどの店、『ヴィノレタ』というのだな」 店を出て、看板を振り返りながらフィオネが言う。 「ご主人の料理は美味しいし、客あしらいも上手い」 「店が繁盛するのもわかる」 「気に入ったか?」 「ああ」 先に言っておくか。 「この界隈の連中はみんな知っていることだから教えておく」 「店主のメルトは元娼婦だ」 「えっ!?」 フィオネが瞠目した。 「娼館リリウムで、最も人気がある娼婦だった」 「不蝕金鎖の先代の頭に身請けされて、任された店がヴィノレタだ」 「それ以来あの店は娼館街の顔になっているし、先代が死んでからも、メルトはあの店を守り続けた」 「……そうだったのか」 「あんたの苦手な食い物に、苦手な香辛料をかけて調理したような店だ」 「どうする、これからもあそこで打ち合わせをするか?」 「む……」 「だが、あの店は都合が良かろう」 「俺に任せればあの店になる」 「それで構わない」 そう言ったものの、フィオネの表情は複雑だ。 「娼婦と言ってもいろいろだ」 「高級娼婦から下級の娼婦、街娼、街娼からも差別される最底辺の街娼」 「……美味い飯を作る、気のいい元娼婦もいたりする」 「わかった」 フィオネは眉根を寄せ、苦い薬を飲みくだすように小さく肯いた。 ……しかし、目立つ。 周囲の視線がフィオネに集まっていた。 もちろん、好意的なものではない。 羽狩りの制服を着た女と歩く俺は、完全に狩られた羽つきか、その関係者かと思われている。 仕事柄目立たないように生きてきた分を、一気に取り返しているようだ。 「……あれが……」 「……」 「……」 「……この前だって……」 「……」 「……」 視線のみならず、舌打ちや、露骨な悪意を含んだ言葉が投げかけられる。 「フィオネ」 「どうした」 「悪いが、私服に着替えてきてもらえないか」 「何故だ?」 こいつは、説明しなければわからないのか。 「情報収集には牢獄民の協力が必要だ」 「嫌悪感を持たれる服を着ていたら、百害あって一利なしだろう」 フィオネの表情が硬くなる。 「嫌悪感を持たれていることは知っているし、遺憾に思っている」 「だが、この服に対して好意を持ってもらえるようにするのも仕事の一つだと考えている」 「それは、羽狩りの仕事のときにやってくれ」 「黒羽の調査も、仕事の一環だ」 「それに、平服でいくら良い仕事をしても、我々への悪評は拭えないだろう」 「だから、この服への悪意も被る不利益も、全て受け止めるつもりだ」 「自己満足に巻きこむな」 「自己満足などではない」 「隊長としての矜持だ」 呆れてものも言えない。 「なら、先に警告しておく」 「今日の情報収集は、羽狩りの隊長が個人的な趣味を優先した結果、無駄に終わる」 「全力を尽くさないつもりか」 「俺は尽くそう」 「だが、あんたはできることをしなかった……そういうことだろう」 「できることの定義は人によって違う」 「私は、制服を着て仕事をすることに重要性を感じている」 「あんたが引かないのはわかった」 「だから、先に警告しておくんだ」 「今夜の酒は不味くなるぞ」 立派なことを言っているが、まるで話にならない。 こんなのと組まされるとはな。 「あんたらに話すことは何もないよ」 フィオネの目の前で、乱暴に扉が閉められる。 扉を閉める勢いで、建物自体が崩れそうになるほどだった。 これでもう6軒目。 その全てが、居留守か門前払いだった。 扉ののぞき窓からフィオネの制服を見るまでは普通の対応だった住人でも、羽狩りと話をする気は無いらしい。 「失礼した」 木の扉に対して慇懃に礼を言う。 一軒一軒で、フィオネは律儀に挨拶をした。 しかし、それは今のところ全く報われていない。 「言った通りだろう」 「まだ日は高い、今からでも着替えてくれば、聞き込みの時間が取れる」 「断る」 そう言って、フィオネは次の家に向かう。 気の短い不蝕金鎖の奴らがフィオネと組んでいたら、もう3度はフィオネを殴ってるだろう。 ジークが、俺に仕事を振った理由を邪推しそうだ。 夕焼けに染まる娼館街に帰ってきた。 足は棒になったが、成果はない。 「……」 問題の元凶は、真一文字に口を結んでいた。 「制服を脱ぐ気がないなら、明日から情報収集には付き合わなくていい」 「俺一人でやった方が100倍マシだ」 「いや、明日も協力させてもらう」 「邪魔させてもらうの間違いだ」 フィオネが立ち止まる。 「あんた、本当は羽狩りがどれだけ疎まれているか知らなかったんじゃないのか?」 「娼館街はそれでもマシなほうだが、スラムはわけが違う」 「そもそも、役人とは顔を合わせたくない奴しかあそこにはいない」 「……」 「日頃自分たちがやってることを考えろ」 「羽つきを家族や友人から引き剥がして、戻ってこれない場所に叩きこんでるんだぞ」 じっと前を向いたままのフィオネ。 話を聞いているのだろうか。 「私が自分の矜恃にこだわっているのは、確かにそうだ」 「だが、防疫局の仕事に対する侮辱はやめてくれ」 フィオネが俺の目を見た。 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護するという本来の任務には、一片の曇りもない」 「批判の多い仕事だが、最終的にはその批判している人間をも守るのだ」 「誰かがやらねばならない、大事な仕事だ」 「悪いが、あんたには向いていない」 「批判が多い仕事は、批判を気にしない人間か、批判をかわせる人間がやった方がいい」 「全部、真正面から受け止める人間は長持ちしないぞ」 それは、人殺しも同じだった。 どこかで振り切らなければやっていられない。 「……兄も防疫局の局員だった」 「私は、局員になるために生まれてきたと思っている」 「……」 兄……か。 くだらない話だ。 個人的な事情には興味がない。 「ま、好きにしてくれ」 「とにかく、俺は仕事を受けた以上は成果を上げたい」 「あんたも、今日の失敗を明日に活かしてくれ」 一瞥もくれず立ち去る。 予想通り、今日は不味い酒になったな。 昨日と同じことを繰り返していた。 フィオネが返事のない扉をノックするのを眺めながら、俺は仕事から手を引く理由を頭の中で練り上げる。 聞き込みの成果は全く上がっていない。 それもそのはず。 俺の警告を無視して、フィオネは今日も制服を着ているのだ。 手助けのしようもない。 「失礼した」 また、門前払いだ。 粘り強さと、仕事にかける熱意は認める。 だが、手段は明らかに間違っていた。 実績を上げねば、彼女自身の立場も危ないだろうに。 「いい加減、考え直したらどうだ? 完全に時間の無駄だぞ」 「……次の家に行こう」 「ふう……」 次の家に挑もうとするフィオネに、薄汚いガキが近づいた。 「あんた羽狩りか」 「そうだが、何か用があるのか?」 フィオネの口調が、相手が子供と見て幾分柔らかくなる。 「呼んでる人がいる、あっちだ」 「どうした、フィオネ」 「いや、この子供が……」 「呼んでるのは羽狩りだけだ」 「一応俺も行く」 「おい、どこで呼んでるんだ?」 「あんたはお呼びじゃない」 俺を無視して、子供はフィオネに行き先を示す。 「壁に斜めのヒビが入っている家だ」 「誰が待ってるんだ?」 「羽つきさ」 「ちなみに、俺は頼まれただけで羽は生えてないからな」 そう言って、全速力で走り去る。 「行くのか」 「家に入った瞬間に袋叩きということもあるぞ」 「行かないわけにもいくまい」 慎重な足取りで、ヒビが入っている家の前まで歩を進めるフィオネ。 数歩離れた位置で、周囲に気を配りながら俺も続く。 扉を叩くが、返事はない。 「子供に呼ばれてきた。防疫局の者だ」 「誰もいないのか?」 「……どうぞ」 中から、くぐもった声が聞こえた。 老人……のような。 フィオネと目配せする。 俺は背後も含めていつでも対応できる体勢に。 そしてフィオネは、ゆっくりと扉を押し開けた。 暗い室内。 カビ臭い、湿った空気。 ベッドらしき台があり、老婆が横たわっていた。 「羽狩りさんかい?」 「そうだ」 「羽化病の〈罹患者〉《りかんしゃ》がいると聞いてきた」 「そりゃあたしだよ」 部屋の中には、スラムにしては清潔だった。 老婆以外に人の気配はない。 「兄ちゃんも羽狩りかい」 「俺か?」 「俺は……まあ、手伝いみたいなものだ」 「そうかい」 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》とのことですが」 「確認させてもらってよろしいですか?」 「ああ、ああ。もちろんだとも」 「カイム」 「ん、ああ」 後ろを向けと促された。 婆さんとは言え、一応女性か。 律儀なことだ。 ……それにしても、羽狩りに自ら声をかける羽つきは初めて見た。 聞いたこともなかった。 罠か? その可能性を頭の隅に留めておく。 「……確認しました」 「それでは、保護させて頂きます」 「ああ、お願いするよ」 「羽狩りさんに抵抗はしないから、乱暴もしないでおくれ」 「もちろんです」 「……では手配しますので、しばらくお待ちを」 「カイム、すまないがここにいてもらえないだろうか」 「ああ、構わない」 フィオネが保護の手配をしに行った。 「……」 部屋にいるのは俺と婆さん。 「いや、羽狩りさんが通りがかってくれてよかったよ」 「この辺じゃ、なかなか姿が見えないからねえ」 「羽狩りが怖くないのか」 「この歳まで生きると、恐いものなんて何もないんだよ」 「怖いのは、ご近所に病気を〈伝染〉《うつ》しちまうことさ」 「あんたも、〈伝染〉《うつ》るのが怖いのなら、外にいればいい」 家にも一人羽つきがいる……とは言えないが。 「お待たせしました」 フィオネが戻ってきた。 息が切れているところを見ると、走ったのだろう。 「もうすぐ馬車が来ます」 「すまないねえ」 「何か、身の回りで治癒院へ持っていきたいものはありますか」 「あまり多くは持てませんが」 「何にもないよ」 「ああ、この部屋の後始末を頼みたいんだがね」 「後始末、ですか」 「身よりもないし、もう戻ってくることもないだろうさ」 「いえ、もし治ったら」 「あっはっは、あんたは優しいねえ」 「この歳だし、もうあたしはお迎えを待つだけだよ」 「タダで死に場所を用意してもらえるなんて、夢のようだ」 老婆は、本当に嬉しそうに言う。 ここで死ねば、家財は夜盗に〈掠〉《さら》われ、死体は犬と蛆に食われるだけだ。 治癒院に行くのは、割と真っ当な道なのかもしれない。 羽つきと言えば、羽狩りから逃げ回る姿ばかりを見てきた。 こんな人間もいるらしい。 「カイム」 「後始末か」 「ああ、頼みごとばかりで申し訳ないが……」 「調査とは関係ないが、仕方ないな」 「婆さん、どこかに借金とかしてないだろうな」 「あんたなら、ババアに金を貸すかい?」 「念のため聞いただけだ」 「金目の物は持ってるか?」 「あらかた、若いのにやっちまったからねえ……」 言下に否定しかけて、止まる。 「……ああ、そういえば一つだけあった」 「兄ちゃん、ベッドの下を見ておくれでないかい」 しかたなく、膝をついてベッドの下を覗き込む。 床に箱が一つだけあった。 「これか」 「ああ」 震える手で開けると中にまた小さな箱があり、赤い石をあしらったブローチが入っていた。 「それは、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で無くさなかったただひとつの財産なんだよ」 「身につけていたもの以外は、全部落ちちまったからねえ」 懐かしむ顔が、ふと柔らかくなる。 「その時落ちちまった旦那から大昔にもらったもんさ」 「羽狩りさん、これをもらってくれんかね」 「は? そのような大切な物を?」 「いただく理由がありません」 「宝石も、年頃の女に着けてもらった方が喜ぶだろうよ」 「は、いや、でも」 まごまごしているフィオネを見るのは初めてだ。 律儀な性格の分、年上には弱いのかもしれない。 「もらってやれ」 「婆さんが死んだ後に化けて出るぞ」 「はっはっは、兄ちゃんの言う通りさね」 フィオネが『いいのか?』という目でこちらを見ている。 俺は頷いてみせた。 「ほら、こっちおいで」 「……はい」 老婆が、フィオネにブローチをつける。 「ああ、あんた綺麗だねえ」 「あたしの若い頃のようだよ」 「婆さん、大きく出たな」 「なんだい、信じないのかい」 「いえ、もしそうであれば嬉しいです」 フィオネはフィオネで真正面から返事をしている。 婆さんもフィオネが気に入ったのか、とりとめのない昔話を垂れ流す。 馬蹄の音が近づいてきた。 「どれ、それじゃ兄ちゃんお願いするよ」 おぶれ、という仕草をした。 足が使えないのか。 「……」 「いえ、私がお運びしましょう」 「羽狩りさん、すまないねえ」 フィオネは婆さんを抱え上げ、馬車まで運んだ。 礼を言う婆さんを乗せ、窓のない馬車はあっという間に視界から去って行った。 フィオネが、胸のブローチを握り締める。 光の加減か、その整った顔は泣いているようにも見えた。 「こういう仕事もあるんだな」 「ごく稀にな」 「その度に、この仕事を続けていこうと思うよ」 フィオネがもう一度ブローチを握る。 視線は、すでに消えた馬車の姿を追っているかのようだ。 「まさか、知り合いか?」 「スラムに知り合いなどいない」 「だろうな」 「年寄りの最後の望みを叶えられて良かったじゃないか」 「カイムに仕事を褒められたのは、初めてか」 「さあな」 綺麗にこの世から消えるということは、年寄りにとっては大きな関心事だろう。 少なくとも、周囲の人間に伝染させてしまうのでは、という恐怖から婆さんを救うことができた。 その意味で、羽狩りはいい仕事をした。 「日が暮れるか……」 「今日も不味い酒になってすまないな」 「いや」 「……どうだ、飯でも食わないか?」 そう言って、フィオネを誘う。 席に着くなり、メルトが目敏く訊いてきた。 「あら、今日はいいことでもあったのかしら」 「別にない」 「あらそ」 いつも通りのものを頼む。 「羽つきの婆さん、今頃はもう治癒院か」 「ああ」 「無事に治ってくれればいいが」 「あんたは、治癒院を見たことはあるのか?」 「〈罹患者〉《りかんしゃ》を治癒院まで運んでいるのだから当たり前だ」 「中はどうなっているんだ?」 「我々の仕事は専門の職員に引き渡すところまでだ」 「玄関前までしか入ったことはない」 フィオネの顔が一瞬曇った気がする。 「だが、立派で清潔感のある建物だ」 「先ほどの老婆も、安らかに過ごせると思う」 「そうであることを願うよ」 「あの婆さんのように、望んだ人間だけ保護するわけにはいかないのか」 「羽狩りが反感を買ってるのも、強制的にやってるせいだろう?」 「羽化病は伝染病だ」 「広がる前に、多少強制的であっても〈罹患者〉《りかんしゃ》を隔離するのが正しい」 「もっともな話だ」 メルトが酒と茶と食い物を持ってきた。 俺は酒を飲むが、フィオネは茶を飲むようだ。 酒を勧めても、また任務中だと断るのだろう。 「羽つきはいつになったらいなくなるんだ?」 「確か、羽狩りができてからもう10年以上になるな?」 「〈罹患者〉《りかんしゃ》は確実に減っている」 「増えていないだけでも、十分成果は上がっていると言えるはずだ」 「しかし、羽狩りが牢獄に来たのは最近だ」 「羽つきが伝染するなら、とっくに牢獄に蔓延してるんじゃないのか?」 ティアと暮らして何日も経つ。 少なくとも、風邪よりは伝染りにくいようだが。 「羽化病が伝染するというのは、王立医院の医師もはっきりと言っていることだ」 「疑う余地は無い」 「それに、大流行してからでは全てが遅い」 「王立医院の医師というのは信頼できるのか?」 「少なくとも、噂話や希望的観測よりは信頼できるだろうな」 「医者の知り合いは、伝染の危険は高くないようなことを言っている」 「信じるのは自由だ」 「カイムが感染したらすぐに連絡してくれ。私が直々に保護しよう」 冗談をにこりともせずに言う。 「では、羽狩りから羽つきが出たという話を聞いたことが無いのはどう説明する?」 「いやに食ってかかるな」 痛いところを突いたのか、フィオネの表情に影が落ちる。 「それは、表沙汰にならないように処理しているだけの話だ」 「……羽狩りは安全な仕事ではない」 絞り出すように言う。 どうやら、被害は出ているらしいな。 「そうか……すまない」 「いや、謝られるようなことではない」 フィオネが淡々とした動作で食事を口に運ぶ。 気がつかなかったが、それなりの礼儀作法は身につけているようだ。 「フィオネはどこの出身だ?」 「下層だ、そっちは?」 「同じだ」 「俺以外は、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で死んで、俺は牢獄に墜ちた」 フィオネが目をつむり、小さく祈りの言葉を呟いた。 「苦労をしたのだな」 「取り立てて言うほどのことじゃない」 昔話をして、同情を買うつもりはない。 そもそも、俺の経験など牢獄ではありふれたものだ。 「明日からは、服装を考えてほしいな」 「……ああ」 沈鬱な顔をする。 今日の婆さんの件で、フィオネが制服にこだわる理由も多少は理解できた。 だが、仕事に悪影響があるのは変わりない。 フィオネは、仕事ができない人間ではないと思う。 私服になってさえくれれば、そこらの奴の何人分も働いてくれるだろうに。 「今晩、ゆっくり考えさせてもらう」 そう言って、フィオネが立ち上がる。 卓の上に銀貨2枚と銅貨3枚を並べた。 「これで半額なはずだ」 「細かい奴だな」 「こういう店では、ざっくり勘定するもんだ」 銀貨2枚を返す。 「ざっくり過ぎる」 「せめて、銀貨と銅貨を逆にしろ」 「今日は珍しい体験をさせてもらった」 「その礼だ」 「賄賂に見えるぞ」 「何か便宜を図ってくれるのか?」 「いや、私に特別な権限はない」 大まじめに答えられた。 「愛想笑いをしてしまっておけ」 「それもいい女の作法だ」 「う、うむ……」 少し考える。 「いや……やはり断る」 「やはり、奢られて良い種類の金には見えない」 きっぱりと言った。 「汚れた金か」 「……すまない」 「では、明日もまた同じ時間に」 ドアが開く。 「カイムカイムカイム!」 「いたーっ!」 「どうした?」 「ティアが襲われた!」 椅子を蹴って立ち上がる。 「無事なのか?」 「多分」 「誰にやられた?」 「分からない」 「場所は」 「娼館街の裏路地!」 「すぐ行く」 「フィオネ、また明日だっ」 「いや、私も行くっ」 代金を放り投げて店を出る。 先に走るリサの後を追う。 隣には、フィオネがぴったりついてきている。 「もうそろそろ!」 角を曲がり、水溜まりを飛び越える。 「カイム!」 エリスの腕にティアが抱かれている。 「無事か!?」 「あ……カイムさん」 こちらを見る目には力がある。 大きな怪我はないようだ。 「ティアは任せて、大丈夫」 「襲ってきた奴が逃げたのはあっち」 エリスが路地の奥を指さす。 「どんな奴だ」 「黒っぽい格好をしてた」 「黒!?」 「追うんだ」 「リサ、助かったぞ」 「はぁ、はぁ、はぁ……どう、いたしまして」 「ティアを頼む」 路地の奥に走る。 先に進むが、人影は見えない。 「もう逃げてしまったか?」 「わからん。もう少し探して……」 「きゃーーーーーーっ」 俺たちの会話が、悲鳴に遮られる。 すぐ一本向こうの道だ。 駆け出す。 暗い足元に、黒い水溜まりがあった。 むっとした臭いが鼻をつく。 ちらちらと、先の方に死体らしきものが見える。 「……フィオネ、見ない方がいい」 「これも仕事だ」 「慣れてはいないが、初めてでもない」 表情を窺うと、少しも動揺していなかった。 なるほど、肝は据わっている。 「わかった、行こう」 果たして、路地の奥にはかつて見たような惨劇の跡が広がっていた。 腕、脚、頭、胴…… 五体が全てバラバラに、地面に転がっている。 建物の壁には飛び散った血痕と臓物。 腰を抜かした娼婦が一人。 「っ!」 フィオネが息を飲むのが聞こえた。 「見てくれ」 フィオネが胴らしき肉塊を指す。 「死体に……翼がある」 「羽つきか」 死体は成人女性のようだが、背中には確かに立派な羽が生えていた。 「部下を呼んでくる」 フィオネが走り去る。 入れ替わるようにオズが姿を見せた。 「おっと、カイムさん……お早いお着きで」 「たまたまな」 周囲では集まりかけの野次馬を、不蝕金鎖の若いのが散らしていた。 「殺った奴、見ましたか?」 「いや、俺は見ていない」 「エリスが少しだけ見ているらしいから、そっちは俺が聞いておく」 「オズは、周囲の聞き込みを頼む」 「わかりました」 「あと、殺られたのは羽つきだ」 「もうじき羽狩りがくる、頃合いを見て引いてくれ」 「はい」 オズたちは素早く殺された女を調べ、腰を抜かしている娼婦に話を聞いていた。 俺も周囲を見て回る。 生温い風が吹いていた。 「……!」 その風に乗って、視界の隅を何かが横切り路地に落ちた。 拾う。 黒い羽根だ。 「散れ、野次馬は散れっ!」 フィオネを先頭に、十人ほどの羽狩りがむしろ野次馬を引き連れて現れた。 「総員、現場を確保しろ」 「記録を取ったら遺体も片づける」 フィオネの指示で隊員が動き始める。 「何が羽つきの保護だよ、殺されてりゃ世話ねえ!」 「調査の邪魔だ、下がってろ!」 「やりすぎて殺しちまったんじゃねえか?」 「本当は殺したいだけだったりしてな、はははっ」 野次馬が勝手なことを言い始めた。 「おい、死体の顔を見ろ」 「……こいつ」 「うちが目星をつけた羽つきじゃねえか」 「やっぱりか」 「せっかく居場所を突きとめられたのに……」 「へへっ、早く捕まえねえからこうなるんだよ」 「かばってたのはテメエらだろうがっ!」 「何だと、口には気をつけろよ」 「……」 身勝手なものだ。 羽狩りをありがたがったり、恨んだり── 日頃は羽つきをかばう癖に、殺されれば早く保護しないからだと責める。 羽狩りも、なかなか面倒な仕事だ。 「どちらも静まれ!」 思いのほか大きく通る声に、一瞬双方が静まる。 フィオネが、ゆっくりと衝突の中心部へ歩を進めた。 「私は、隊長のフィオネ・シルヴァリアだ」 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》が保護するより先に殺害されてしまったことは、我々の力不足だ」 「誠に申し訳ない」 神妙な顔で詫びるフィオネ。 「このようなことが二度と起きないよう、なるべく羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の情報を我々に提供して欲しい」 「責任を持って〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護させてもらう」 「我々だけでは全ての〈罹患者〉《りかんしゃ》の存在を知ることはできない。だから、どうか諸君らの協力を仰ぎたい」 「よろしく頼む」 フィオネの声は、場違いなほどに清冽だった。 興が削がれたのか、野次馬達が散りはじめる。 「お前ら、もう少し下がれ」 「〈罹患者〉《りかんしゃ》の血に触れると感染する恐れがあるぞ」 副隊長の卑俗な警告に、人垣は完全に形を失った。 「ラング、駆けつけてくれて助かった」 「いえ、隊長の呼集とあればいつでも馳せ参じますよ」 「隊長も、ここは俺達に任せて休んでください」 「昨日からほとんど寝てないんじゃないですか?」 「気遣いはありがたいが、大丈夫だ」 部下に言い、フィオネがこちらを向く。 「カイム、私が隊を呼びに行っている間、現場を見ていてくれたのだろう」 「礼を言う」 「いや、こっちはこっちでやることがあった」 「おや、また君か」 ふわりと漂う香水の匂い。 どこかで嗅いだことのある臭いだ。 「君がいるところには、いつも血があるな」 「あんたと居合わせた場所にはな」 「カイムを疑う必要はない」 「私と同時に死体を発見している」 「わかっています」 「最近、隊長を横取りされたんで、少し妬いて見せただけです」 「冗談はやめて現場の調査に戻れ」 「了解です」 むしろこちらに敬礼をして、副隊長は死体に向かう。 「……」 そう言えば、さっき拾った黒い羽根が懐に入ったままだ。 フィオネに見せるべきだろうか。 羽狩りの女隊長より、ジークに見せるのが先だ。 これは当然だろう。 ……。 いや、待て。 後から、フィオネに「あの現場で拾ったものだ」と言ったとして── なぜその場で言わなかった! という話になりそうだな。 ああいった手合いは、一気にこっちを信用しなくなる。 即ち、仕事を進める上での不都合が増える。 ……面倒は避けておくのが無難だな。 一応、協力して調査に当たっているのだ。 まずはフィオネに見せよう。 「フィオネ」 「これが、そこに落ちていた」 黒い羽根を見せる。 「!」 「今見つけたのか?」 「ああ」 「風に吹かれていた」 「預かっていいか」 「任せる」 フィオネに羽根を渡す。 すぐに数人の羽狩りが風下の捜索に向かわされた。 また別の羽狩りからは、通行人などの証言も集まってきているようだ。 「今回の事件は、黒羽による犯行という線で固まりそうだ」 「目撃者がいたのか?」 「ここで震えていた娼婦だ」 「真っ黒な姿の化物が、人間離れした速さで走り去ったそうだ」 「話半分にしておけ」 「複数の目撃者がそう言っている」 「犯行そのものを見た者はいなかったが」 「なるほど、つまり、噂の殺人犯は実在するわけか」 「そうなる」 「相変わらず、化物か、人間離れした人間かはわからないがな」 「……そうだな」 目の前で事件が起こったのだ。 ここから情報を見つけ出していこう。 その後、風下から数枚の黒い羽根が見つかったが、犯人の姿は〈杳〉《よう》として知れなかった。 肉片も概ね片づけられ、羽狩りたちは撤収体勢に入っている。 「隊長はどうされますか」 「もうすぐ戻る」 「先に戻っていてくれ」 「はっ」 「後ほど調査書を作成しますので、ご確認下さい」 「ご苦労だった」 フィオネの敬礼に敬礼を返し、羽狩りたちは帰っていった。 現場には、俺達だけが残される。 「羽狩りも楽じゃないな」 「朝から見てたが、時と場合によって扱われ方が違いすぎる」 「仕方のないことだ」 「一人の羽つきと周囲の人間の関わり方は、十人十色だ」 「だからこそ、というのもあるが……」 「こちらの対応がいちいちブレていては、組織内に自己矛盾を抱えてしまう」 「そうなれば、一番困るのが現場に立つ隊員だ」 「確かにな」 「我々に必要なのは、自分の責務を信じ、迷いなく実行することだ」 フィオネが、まだ乾いていない血溜りを見つめて言う。 その横顔に、ジークに見られるような、組織の長としての誇りがわずかに窺えた。 皮肉屋の副隊長も、フィオネには敬意を払っていた。 他にも、フィオネを快く思っている隊員もいるようだ。 フィオネの愚直な意思は、確かに一部の人間には通じているようだ。 もちろん、逆に鼻白んでいる隊員もいた。 気苦労が絶えないのだろうな。 「さて、私も行く」 「俺も戻る」 「身内の聞き込みは明日までにこなしておく」 「ああ、あの子か」 「怪我がないようで何よりだった」 「あいつは悪運が強い」 「カイムに家族はいないと聞いていたが……」 「あの子は、その、恋人か何かか?」 「はあ? 全く違う」 思わずフィオネの顔を見た。 気まずそうに目を逸らされる。 「いや、なに、職業柄、気になっただけだ」 「では、また明日」 フィオネが走り去る。 まさか、ティアの羽に気付いたということはないだろうが。 注意しておこう。 「よう」 「そっちは片付いた?」 「まあな。ティアの様子はどうだ?」 「全然無事」 部屋に入ると、患者用のベッドに腰掛けていたティアが駆け寄ってきた。 「カイムさん」 「この通り、無事でした」 一回りして見せるティア。 「何してるんだお前は」 「す……すみません」 「転んだときに膝をすりむいたのは消毒しておいたから」 「助かる」 「治療費はカイムが身体で」 「すりむいた傷の治療程度では、身体はやれないな」 「で、ティアはどこで襲われたんだ?」 「あの、実は……今日は一人で市場に買い物に行きまして」 「一人で」 「え、ええ」 「暗くなっていたので、羽狩りの人にも見つからないと思いまして」 「そしたら、帰り道で、路地から飛び出てきた人影とぶつかったんです」 「お前が狙われたのか? 単に衝突したのか?」 「ぶつかっただけだと思います」 「あちらも少し驚いていたようでしたし」 「場所は?」 「ここから二本向こうの通りを曲がったところです」 さっきの現場の近くか。 「エリスさんが通りがかってくれなかったら、危なかったです」 「ありがとうございました」 深々と頭を下げる。 「エリスは何をしてたんだ?」 「娼館の往診の帰りで、リサと歩いてた」 「小動物が黒い人影と戯れてたから、メスを投げた」 医療用具が入った箱を視線で示す。 「そうか……エリス、助かった」 「救出代はカイムが身体で」 「しつこいぞ」 「身体なら、助けられた本人に請求しろ」 「薬の検体くらいにしかならないから」 「え、それはちょっと、困ります」 放っておくことにする。 「ティアはその、黒い奴の顔は見ていないのか?」 「顔でなくても、気づいたことは何でも教えてくれ」 「それが……まったく……」 困惑気味に眉を歪ませるティア。 「思い出せ」 「う〜ん……」 「こう、左からぶつかられて転んでしまって、貴様〜みたいなことを言われて……」 「とにかく、〈俯〉《うつぶ》せだったので何も見えてないんです」 「ふう……」 駄目だ。 「エリスは何か覚えてるか?」 「前に言った通り、黒い影としか」 「手を振り上げていたかも」 「背丈は?」 「まあ、普通の男くらいかな」 「逃げ足の速さはどうだ?」 「見えたのが一瞬だから、わからない」 「……そうか」 めぼしい新情報はなしか。 ……。 …………。 待てよ。 「ティア、そいつは『貴様』と言ったのか?」 「ええ、おそらく」 「もしかしたら、お前、だったかもしれません」 「どっちでもいい」 つまり、言葉を話せるということだ。 よもや化物ということはないだろう。 「男か女か?」 「う〜ん、女性の声ではなかったです」 「ぶつかった人は捕まったんですか?」 「いや、姿を見ることもできなかった」 「ただ、そいつは、もうひとり人間を殺している」 「羽狩りがうろうろしてたけど?」 「被害者が羽つきだった」 「……羽つき、さん?」 「死体はバラバラだ」 「ティアを拾った時を思い出した」 ティアの顔から血の気が引いた。 死にかけたのだから無理もない。 「随分、むきになって調べてるね、どうしたの?」 「言ってなかったな」 「今、仕事で《黒羽》と呼ばれている奴を追ってる」 「羽狩りの女と仲良さそうに歩いてたっていうのは、それ?」 「仲がいいってのは妄想だが、その仕事だ」 「黒羽というのは聞いたことはあるか?」 「噂でなら」 「わたしにぶつかったのが、黒羽なんですか?」 「その可能性は高い」 「……」 声もなく、ティアがすくみ上がる。 かつての経験を思い出したのだろう。 「こ、殺されなくて……良かったです……」 「運が良かったな」 「は、はい……」 「カイムさん、あの、黒羽を絶対に捕まえてください」 「いろんな人が怖い思いをしますので」 ティアにしては珍しく、しっかりと主張してきた。 「ああ、わかってる」 「お前達も、もし何か話を聞いたら俺に教えてくれ」 二人が頷く。 「ま、何にしても、ティアが無事なのはよかった」 「一人で出歩くときは気を付けろ」 「は、はい……」 「いっそ、一人で出歩くのをやめたら?」 「まあ、一番安全なのはそうすることだが」 「そうですね……」 ティアは落ち込んでいる。 「とりあえずは、できるだけ人通りが多い通りを歩け」 「もう怖い思いをするのは嫌だろう?」 「は、はい」 ティアが包帯に触れる。 少し血が滲んできた。 「エリス、今更の話だが、ティアの血は触れても問題ないのか?」 「……あっ!」 今初めて気づいた、という顔でティアが青ざめる。 しかし、エリスはどこ吹く風という表情だ。 「さあ?」 「私はまだ羽は生えてきてないけど」 医者がそんなことでいいのか。 「羽つきの血で病気が伝染るって前例があるか、羽狩りに訊いてみて」 「わかった」 エリスも案外肝が座っている。 それがありがたかった。 はっ、はっ、はっ、はっ…… 息が切れている。 呼吸が落ち着くのを待つ。 ……。 ついさっき、目の前に展開していた光景を思い出す。 血の池。 両脚を失いわめく男。 五月蠅いその口を、頭ごと首から切り離してやる。 その直前の見開かれた目。 哀れな男の断末魔の叫び。 残った首から勢いよく飛び出す血。 ──背筋を駆け上る快感。 痺れたようになる頭の中。 命の灯をまた一つ、この世から消したという事実。 歓喜。 ぞくっと身震いをする。 ……。 呼吸が落ち着いてくる。 興奮が収まってくる。 ぎこちなく笑う。 歪んだ悦びがまた一つ、奥底に沈殿する。 約束の時間にヴィノレタに入る。 すでに、フィオネの姿があった。 椅子の背もたれに身体を預けず、背筋を伸ばして茶を飲んでいる。 寒い朝のような、身の引き締まる光景だ。 だが…… 「結局、制服か」 「……おはよう、カイム」 フィオネがこちらを向く。 「おはよう、じゃない」 「お前、今日の酒も不味くする気か?」 「いや、服装については熟考した」 「まあ座ってくれ」 「長々と話すほどのことか」 言いつつも、向かいに座る。 「で?」 「うむ……」 フィオネの視線がテーブルの上を泳ぐ。 「何だ、初めて告白する女じゃあるまいし」 「いや……似たようなものかもしれない」 はあ? 「つまりだ、カイム」 いきなり目を上げた。 「私に似合う服を、見繕ってはもらえないか?」 「なんだ、着替える気があるのか」 「ああ……残念だが仕方ない」 まさに、苦渋の決断という顔だった。 「で、どうして俺がフィオネの服を選ばねばならない」 「話せば長くなるのだが」 「その、このところ男ばかりの職場にいたこともあり……」 「いや、そもそも制服で仕事をする環境にいたこともあり……」 「結論を言え」 「着る服がない」 酒を飲んでいたら、噴き出すところだった。 「適当なものでいいんだ、適当なもので」 「だから、それがないのだ」 「式典用の服はあるのだが、それ以外が心許ない」 「これも、仕事ばかりで生きてきた報いだ」 悔しげな顔をしている。 毎日の制服仕事。 しかも、男ばかりの荒っぽい環境。 その上、本人はこの生真面目さだ。 恐らく、洒落た服を買う余裕もないほど仕事に打ちこんできたのだろう。 「手持ちのもので何とかしようとしたが、恥ずかしながら」 「熟考していたのは、着る服のことか」 「……それもある」 重々しく頷いた。 「馬鹿馬鹿しい」 「一応、これでも女の端くれだ」 「その自覚があるなら、わざわざ俺に服がないことを打ち明けるな」 「女友達にでも服を借りればいい」 「捜索用の服を貸してくれる女がいるか」 「まともな状態で返ってこないのは目に見えている」 「だから、ここの店主に伺ったのだ」 「私にも似合う、牢獄で浮かない服はないかとな」 「妥当だ……それで?」 「カイムが服に詳しいので、お前と店に行った方が良い物を選んでもらえると指導された」 完全に騙されている。 店の奥を窺うと、メルトがこっちを眺めてニヤニヤしていた。 迷惑この上ない。 「だが、カイムに服を見る目があるとは思わなかった」 「意外な才覚を持っているのだな」 「手間を掛けるが、服を見繕ってもらえないだろうか?」 多額の借金を申し込むかのような真剣さで頼んできた。 「……」 面倒だ。 だが、それ以上に…… メルトに遊ばれていることを説明し、フィオネに大恥をかかせた後のことの方が面倒だ。 仕方ない、付き合ってやるか。 メルトには、後でツケでも帳消しにさせよう。 「わかった」 「俺も専門ではないから、あまり期待するなよ」 「感謝する」 メルトが声援を送る仕草をしている。 あの女、俺が断らないことまで計算していたな。 どうして俺が、羽狩りの服を選ばねばならないのだ。 「時間が惜しい、行くぞ」 さっさと立ち上がる。 「店主、勘定はここに置く」 「はーい、ありがと」 甲斐甲斐しい足取りでメルトが出てくる。 「適切な指導を頂けて助かった、礼を言う」 「いいのよ、お礼なんて」 「カイムのことだから、とってもいいものを選んでくれるわ」 メルトは、わざとらしく俺を見ずに愛想笑いをする。 本当に礼などいらない。 フィオネが真実に気づく日は来るのだろうか。 ティアに、長いこと市場を引きずり回されたのを思い出す。 安物の首飾りを買ってやった時だ。 ティアに限らず、大体女は買い物に時間がかかるものだが…… 「この辺の服でいいだろう」 「では店主、それをもらおう」 即決した。 それはそれで不安になる。 「お前の好みはないのか?」 「カイムの見立てだ、間違いあるまい」 「何事も、先達の意見は素直に受け止めることにしている」 先達でも何でもないのだが。 「早く着替えて、捜査に戻らねばな」 「家に戻るか?」 「いや、詰め所で構わん」 関所の中にある、羽狩りの詰め所まで来た。 「すまんが、外で少し待っていてくれ」 「ああ」 フィオネが中に入った。 少し間があり、入れ替わるように2人の羽狩りが出てきた。 両方とも知った顔だ。 「お前、なぜここにいる?」 「隊長さんのお供だ」 「そっちは仕事か?」 「ああ、これから出動だ」 幾分高揚した顔で答えた。 「ご苦労なことだ」 「望んでやっている仕事だ」 「いい趣味だ」 「住民の平穏な生活のために働けるのだ、これほど意義のある仕事もあるまい」 「牢獄民にも、少しでも早くこの仕事の意義を理解してもらいたいものだ」 副隊長が口の端で笑う。 嫌な顔だ。 フィオネも、よく同じようなことを言っているが、まったく違う響きで耳に届く。 「今日の隊長はいつになくご機嫌だったが?」 「気がつかなかった」 「共に捜査をしているのだ、もう少し隊長に気を遣ってもらいたいな」 「だが、気を遣う以上のことをしてもらっちゃ困るぜ」 「あんな堅物に手を出すか」 「違いねえ」 「いや、ひょっとすると、あんたにいろいろと柔らかくしてもらった方が、俺達は仕事がしやすくなるのかもな」 チンピラと話しているのと変わらないな。 「品のない話はやめろ」 「我々は、いつでも毅然としていなければならない」 「へへ、副隊長の仰る通り」 太った男が、媚びた笑顔を浮かべる。 「あんたに、聞きたいことがある」 「あ? 何だ?」 「昨日の殺人現場で、目を付けていた羽つきが殺されたと話していたな」 「ああ、その話か」 「お陰で、俺達は報奨金がパアだ」 「羽つきの居場所を突きとめるのに、どれだけ手間がかかると思ってるんだって話だよ」 「何度くらいあったんだ?」 「あー、そうだな……」 羽狩りが指折る。 1、2、3…… 「おい、内部情報を漏らすな」 「おっと、そうだった」 「てめえ、変なこと訊くんじゃねえよ」 「あー悪かった悪かった」 「君も、あまりこちらに踏みこまぬことだ」 「お互いにな」 「ふん、行くぞ」 「ええ」 ラングが脇を通り過ぎる。 例の香水の香りがした。 「副隊長」 「何だ」 「そんな臭いをつけてると、牢獄じゃ早死にするぞ」 「まともな潜伏もできないだろう」 「牢獄の臭いが身体に染みついてはたまらないんでね」 「こうして、清らかな香りを身に纏っているのさ」 「……ほう」 「あと、一つ教えよう」 「これは、『臭い』じゃなく『香り』と言うんだ」 「では、な」 羽狩りが街に消えていく。 あんなのが部下にいては、フィオネも大変だな。 しばらく行き交う人を眺めるが、まだフィオネは出てこない。 着替え一つでこんなに時間がかかるはずがない。 部下が何か面倒事でも起こしたか、上司が厄介なことを言ってきたか。 久し振りに、関所を見上げる。 できたばかりの頃は厳重に守られていた関所。 通行証を調べる役人の数はあまり変わらないが、衛兵はずいぶん減った。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》から時間が過ぎ、まがりなりにも秩序らしき物が牢獄に生まれたからだ。 衛兵が、牢獄の秩序維持を不蝕金鎖に丸投げしたからだと言ってもいい。 それに伴い、関所の警備兵は減り、空いた部屋に羽狩りが詰め所を作った。 中にいる人間は変わっても、関所は、完成からずっと牢獄民の被支配の象徴だ。 まだ出てこない。 遅れるなら遅れるで一言あっても良さそうなものだ。 様子を見てみるか。 扉を静かに押し開けた。 「邪魔するぞ」 声を投げるが、中には誰もいなかった。 どこか緊張していたのだろう。 拍子抜けして、一つため息が口から漏れた。 それにしても不用心だな。 まあ、羽狩りの詰め所に押し入る命知らずな泥棒もいないか。 それに、実用一辺倒で盗るようなものはなさそうな部屋だ。 しかし、フィオネまでいないのはどういうことだ。 「失礼……」 部屋の中に歩を進める。 無人だと、こちらが盗みに入ったような気分になる。 ……出直すか。 カタッ 「ん」 小さい物音が隣の部屋から聞こえた。 扉が少し開いている。 そこから中が見えた。 フィオネだ。 逆光の中で一瞬わからなかった。 しなやかに鍛えられた姿勢のいい背の描く曲線は、若い猫を想起させる。 上着を脱ぎ、上半身は裸。 右の二の腕に、左手で苦労しながら包帯を巻いているようだ。 程よく筋肉のついた無駄のない身体は、幾分かの丸みも帯びており、紛れもなく女のそれだった。 ……。 出て行こう。 「ん?」 フィオネが何気なくこちらを振り向いた。 正面から視線がぶつかってしまう。 これはもう言い訳もできない。 俺は素早く諦めた。 「……お、あああっ、か、カイムっ!?」 「すまん」 「ななななっ」 「事故だ」 「何でここにっ!?」 「いや、話を聞いてくれ」 「出てくるのが遅いから、様子を見に来たんだが……」 「いつまで見ているんだっ!!」 怒りか羞恥かで真っ赤になっているフィオネが、壊れるかと思うほどの勢いで扉を閉めた。 ……。 怒った。 まあ怒るだろうな。 仕方ない、この件については謝ろう。 しばらくして、フィオネが出てきた。 鋭い切っ先のような視線を向けてくるが、その顔はまだ赤い。 「先程は世話になったな」 「すまなかった」 「いや、包帯を巻くのに手間取ったこちらも悪かった」 「待っている身としては、気になるのは仕方がない」 「そう言ってもらえると助かる」 後に引く女ではなくて助かった。 安心したところで、改めてフィオネの服装を見る。 素朴なブラウスには、先ほど見たフィオネのしなやかな身体の線が浮き上がっている。 見る人が見れば、剣の使い手だと気づくかもしれないが、一般人はまずわからないだろう。 だが多少……意外といえば意外だが、女らしさが際立ってしまっている部分もある。 そっちに興味を持った人間が声をかけてくるかもしれない。 「腰が軽いと、落ち着かないものだな」 羽狩りの制服では剣を釣り下げていたあたりで、手をぶらぶらさせる。 「想像より似合っている」 「もう少し着古せば、もっと良くなるだろう」 「私も気に入った」 「カイムの見立ては間違っていなかったらしい」 「男に声をかけられるかもしれないぞ」 「今から、断り文句を考えておくんだな」 「まさか、私に限ってそれはない」 複雑な表情をするフィオネ。 怒っているのか照れているのかわからない。 「思い上がるのは問題だが、自分のことは冷静に評価しておいた方がいいぞ」 「ほう……それは、着替えを見た上での発言か?」 さっきは、物わかりのいい振りだったらしい。 「いつから見ていたんだ?」 「フィオネが気づくほんの少し前だ、聖女様に誓おう」 「そうか……ならいい」 「いや、いいわけがないな」 また〈睨〉《にら》んできた。 面倒な奴だ。 「なぜ詰め所に入ってきた」 「誰かいないか声をかけるとか、何かあるだろう」 「掛けた」 「返事がなかったので、奥に進んだけだ」 「返事がなかったからと言って他人の家にずかずかと入り込むのか」 「役所の一部だろう? 他人の家とは違う」 「第一、着替えるなら鍵くらいかけろ」 「泥棒に入られるのは不用心な方の責任か?」 「そうは言っていない」 「そもそも、男だらけの詰め所で鍵もかけずに着替えをするってのがおかしいと言ってる」 「連中とは裸のつき合いか」 「そんなわけないだろう!」 フィオネの手が、剣が下がっていたあたりを空振りする。 「……もういい!」 鼻息荒く、フィオネがこちらを〈睨〉《にら》んだ。 「ともかく、俺が悪くないと言うつもりはない」 「すまなかった」 「……ま、まあいい」 「見られたのがカイムならまだましだ」 「……い、いや、隊員に見られると、後で何を言われるかわからないからな」 「彼らには、性別を匂わせないようにしている」 求められてもいない言い訳を始めた。 「わかったわかった」 「ところで、さっきの怪我は何だ?」 「黒羽の捜索に入る前のものだ」 「気にするな、職務中に多少問題が発生しただけのことだ」 「包帯は丁寧に巻いた方が、治りも早くなるぞ」 「忠告痛み入る」 「……いや、お前、話を戻すつもりか」 またフィオネの顔が赤くなる。 案外、からかい甲斐があるのかもしれない。 聞き込みに戻る。 すれ違う人々は、ほとんどこちらに興味を示さない。 「服を替えただけでこれか」 「個人的な恨みがある奴なら別だが、普通の人間は羽狩りの顔など覚えていない」 「複雑だな」 「自分が消えてしまったような気がする」 「すぐ慣れる」 「それに、どうせいつかは脱ぐものだろう?」 「羽つきがいなくなれば、それでお役ご免だ」 「……そう……そうだな」 フィオネは、『羽狩りになるために生まれてきた』といったことを言っていた。 余計なお世話だが、制服を脱いだとき、彼女がどうなるのか心配だ。 「時間を食った分、聞き込みに集中しよう」 「も、もちろんだ」 フィオネが安堵したような笑みを浮かべてから、顔を引き締めた。 「まずは、牢獄流の聞き込みをやってみる」 「後は真似てくれ」 「男より女のほうが聞き込みはしやすい」 「こつを掴めば、フィオネの方が上手くやれるはずだ」 「不蝕金鎖の名前を出せば済むのではないか?」 「相手が、不蝕金鎖の世話になっている奴ならな」 「名乗るにしても、時機ってものがある」 「……わかった」 フィオネの飲み込みは早かった。 家の扉を開ける呼吸。 袖の下の渡し方に、適度な脅しのかけ方。 一度手本を見せただけで、俺の想像以上のものを吸収してくれた。 お陰で、聞き込みの効率は各段に上がった。 黒羽の容貌。 行動範囲に出没時間帯、逃げた方向など、着々と情報が集まっていく。 夕刻となり、俺達は成果を確認した。 注目したのは、黒羽に殺されかけたと吹聴して回っているという男だ。 男が黒羽に遭遇したのは9日前。 かなりの近距離で黒羽を目撃した上、怪我を負わされたらしい。 「まともな目撃証言は初めてか」 「男の話が本当ならな」 「注目を集めたくて、嘘を言っている可能性もある」 「何にせよ、話を聞いてみるべきだろう」 「もちろんだ」 程なく、スラムに入る。 ノーヴァス・アイテルの吹き溜まりと呼ばれる牢獄の中の、更に吹きだまりだ。 不蝕金鎖の縄張りとはいえ誰も触れたがらない。 住人はまともではないし、そもそも金の臭いがないからだ。 するのは死臭か汚物の〈饐〉《す》えた匂いだけ。 最低という言葉をこね上げて作ったような場所だ。 やがて、一軒の小屋に到着した。 崩落の残骸を組み上げて作った建物だ。 柱も壁もいびつに折れ曲がり、人間の身体に喩えれば、全ての関節を逆に折り曲げたような違和感があった。 油を買う金もないのだろう、灯りはない。 「これが人の家か」 「屋根も壁もある。かなりの資産家らしいな」 「行くぞ」 小屋に近づく。 扉を叩くが返事はない。 「……」 扉の隙間から流れてきた空気に違和感があった。 死臭、そして羽音だ。 「どうした?」 「恐らく、中に死体がある」 「目撃者の男だろうか」 「見てみなければわからない」 ナイフを抜き、扉をゆっくりと開ける。 強烈な臭気が溢れ出した。 「う……」 フィオネが口を押さえた。 待ち伏せの確認と換気を兼ね、扉を開けたまま放置する。 「明かりをくれ。俺が中を確認してくる」 「私も……」 「やめておけ。吐かれても面倒だ」 「すまない」 フィオネからランタンを受け取り、小屋の中を照らす。 光に驚き、蝿の羽音が高くなった。 この中で死体の確認をするのか……。 羽狩りとは言え、やはり女にやらせることではなかった。 「行ってくる」 大きく息を吸い、小屋に入る。 手早く確認を終え、外に出た。 身体に止まってる蝿を払い落とす。 「どうだった?」 「死んでいるのは目撃者の男だ。聞いていた人相と同じだった」 「肩から腹まで何かで斬られているな」 「殺されたということか」 「ああ。傷の腐敗が酷くて得物はわからなかった」 傷の上でしきりに産卵する蝿と、液状化した肉の中で踊り狂う蛆。 何度見ても見慣れない。 「そうか」 「ともかく、この場から離れよう」 「俺達が殺したと思われても面倒だ」 無言のまま歩き、人通りのある路地まで出てきた。 「あの男、口封じのために殺された可能性があるな」 無言のままフィオネが俺を見た。 視線には何がしかの感情が込められていたが、確かめる前にそれは消えた。 「喧嘩か物盗りの仕業だろう」 「ま、その線はある」 「かと言って、口封じを除外するのもおかしい」 気に掛かるのは、ティアが言っていたことだ。 ティアを襲ってきた奴は、人の言葉を話したらしい。 その上で、今日の男が口封じに殺されたとするなら、黒羽には人間並みの知能と常識があることになる。 更には、自分を目撃したと吹聴している男がいることを知り、その居場所まで突き止めているのだ。 つまりは、見た目で化物とわかる姿はしていないことになる。 「羽狩りは、俺達と組む前から黒羽の調査を?」 「ある程度は」 「あの男以外にも、行方不明になっている目撃者はいなかったか?」 「2、3人いる」 「だが、殺されたのかどうかはわからない」 牢獄の、特にスラムでは人間の蒸発など日常茶飯事だ。 「もし口封じだったなら、羽狩りが誰に聞き込みを行ったのか把握されていることにならないか?」 「……」 苦い顔をするフィオネ。 「やめてくれ」 「身内を疑っていたら、私たちの仕事は成り立たない」 この話は終わりだ、という仕草をした。 「まあいい」 「ともかく、もし目撃者が消されているとなれば、俺の知人も危ない」 ティアとエリス、リサのことだ。 「悠長なことはしていられないな」 「聞き込みは終わりにして、情報の分析に時間を使おう」 「黒羽の逃走方向を地図にまとめれば、隠れ家の目星が付くかもしれない」 「そうだな」 「羽狩りが持ってる、今までの調査資料は見せてもらえるか」 フィオネが考え込む。 「本来なら難しいが、まあ努力はしてみよう」 「助かる」 「こちらも、出せる資料は準備しよう」 「じゃ、また明日、いつもの時間に」 「了解した」 立ち去りかけたフィオネが足を止める。 「そうだ、これを忘れていた」 フィオネが布に包まれたものを渡してくる。 中に入っていたのは、小さな笛だ。 「約束していた呼子笛だ」 「不蝕金鎖の構成員向けのものは、明日中に娼館に送らせる」 「早かったじゃないか」 「職人たちに徹夜で作らせた」 「彼らが倒れたら、サバを読んで100個も要求したカイムの責任だ。見舞いは出してやってくれ」 「気づいたか」 「当たり前だ」 「言われたときは気づかなかったが、どう見ても100人も動員していないだろう」 「いいところ20だ」 「ははは」 「ははは、ではない」 「代金はきちんと請求させてもらうからな」 「仕方ない、呼子笛の店でも開くか」 「在庫は80もあるからな」 珍しく冗談に乗ってきた。 「この笛、鳴るんだろうな?」 「当たり前だ」 「鳴らなければ、お前の命が危なくなるのかもしれないのだぞ」 「試しもせずに渡すか」 真剣な顔だった。 「悪かった」 「早くこれを使える日が来ることを祈ろう」 「そう願いたいな」 「では、私はこれで」 そう言って、今度こそフィオネは牢獄の人並みに消えた。 ジークに頼んで借り出した資料を持ち、ヴィノレタに来た。 役人とは違い、ジークは物わかり良く資料を貸してくれた。 もちろん、見られては困る部分は周到に抜いてあるが。 フィオネは、相変わらず約束の時間より早く到着している。 「待たせた」 「いや、問題ない」 フィオネが席から立ち上がる。 「どうした?」 「少々事情があってな」 フィオネが申し訳なさそうに言う。 見れば資料を持っていない。 「借り出せなかったか」 「いや、閲覧の許可は出たが、関係者宅以外への持ち出しは許可されなかった」 「ま、上等な方だ」 「こっちは用意できた、早速詰め所に行くか」 「いや、行き先は私の家だ」 「フィオネの?」 「今日の詰め所は、打ち合わせで人が多い」 「すでに、私の家に運んでおいた」 「そういうことか」 「騒がしい場所よりは、静かなところの方がいい」 「それに、こっちも詰め所は遠慮したかった」 「なぜだ?」 「ま、じきにわかる」 「……ならいい」 「私の家は少し遠いが、我慢してくれ」 フィオネが先に立って店を出る。 関所の中の階段を登る。 下層と牢獄を繋ぐ階段は、物資を運ぶ逞しい運搬人と商人で混んでいた。 ある意味ここは牢獄の生命線だ。 「毎日ここを通ってるのか」 「そうだが」 「……足腰が鍛えられそうだな」 「うちの隊員は皆だ」 それは元気なことだ。 ……久し振りだな。 下層の澄んだ空気を胸一杯に吸う。 関所を出ると、下層の街並みが広がっている。 家々は整然と立ち並び、石畳の色からして牢獄とは違う。 人々の服装や髪も清潔だ。 通行人の笑顔も、牢獄より確実に多い。 ここにいると、牢獄の澱み具合が嫌でもわかってしまう。 同じ都市であるにもかかわらず、どうしてここまで違うのか。 牢獄民がどんな罪を犯したというのだろう。 「こっちだ」 案内するフィオネについて歩く。 「着いたぞ」 先を歩くフィオネが、一軒の家を指した。 華美ではないものの、小綺麗でそこそこ大きい。 少なくとも、俺の生家よりは立派だ。 「立派なものだ」 「何人で住んでる?」 「一人だ」 「そうか」 「母は3年前に他界した」 「他に、父と兄がいるが、少々事情があって外出中だ」 兄は、確か羽狩りをやっていたんだったな。 「ま、気にしないでくれ」 「ああ、わかってる」 牢獄で暮らしていれば、他人の事情は詮索しなくなる。 どうせ暗い話しか出てこないのだから、聞き出して楽しいことはない。 「さ、こちらへ」 フィオネに続いて、家の中に入る。 通されたのは、応接室らしき部屋だ。 フィオネがすぐに茶を出してくれる。 「掃除が行き届いているな」 この部屋だけではない。 ここに至るまでの廊下も玄関も、きっちりと片づけられていた。 「これだけの家を、一人で掃除するのは大変だろう?」 「多少な」 「だが“住まいの乱れは心の乱れ”という」 「掃除をすることで、心の澱みもなくなるものだ」 「模範解答だな」 「単なる事実だ」 嫌味でも皮肉でもなく、本当に『当たり前のことだ』という視線。 「ま、実際は、昨夜急いで片付けた場所もある」 「黙っておけばいいものを」 「どうも隠し事をするのが得意ではなくてな」 フィオネが苦笑混じりに言う。 いつになく明るい顔だ。 自宅に来て、少し安心しているようだ。 「……」 ふと、暖炉の上に飾られた大きな剣が目に入った。 部屋の他の装飾に比べるとやや違和感がある。 「あの剣はどういうものだ? なかなかの意匠だが」 「『恩賜の剣』……我が家の誇りだ」 声には、かすかに誇らしげな響きが混じっている。 「恩賜……?」 「国王からでももらったか?」 「陛下、と呼べ」 「俺にそういう注意ができないのはわかってるだろう」 「困ったものだ」 「のちのち苦労することになるぞ」 フィオネが茶を飲む。 「あの剣は、王に仕える者の中でも、特に功績が秀でていた者だけが授けられるものだ」 「それをお前が?」 フィオネに尋ねると、とたんに不機嫌な顔になった。 「違う」 「そもそも、私のような若造に授けられるようなものではない」 「剣に失礼だぞ」 「そういうものか」 共感できない感覚だ。 「あの剣は、私の父が退官した際に賜ったものだ」 「親父さんも羽狩りを?」 「いや、財務局に勤める役人だった」 「清廉の鏡と言われるほど、不正に厳しく自らも律していた人だったらしい」 「私も、父の能力を少しでも引き継いでいれば良かったのだが」 少なくとも、性格は引き継いでいる気がする。 父親への評価や兄貴と同じ職に就いていることを考えると、フィオネには二人が強く影響を及ぼしているようだ。 俺とは少し違う。 「カイム、そろそろ打ち合わせを始めたいのだが」 「ああ、そうだな」 二人で向き合って座り直す。 「まずは、互いに資料の説明をしよう」 「これは過去の報告書のうち『黒羽』という単語が出てくるものだ」 一通り、フィオネが持ってきた資料の説明を聞く。 さすがに羽狩りの資料は豊富だ。 特に、羽つき絡みの事件となると細かい点まで記録してあった。 「組織として羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を捜しているから、羽つきが被害者となった事件の報告が多い」 「あとは黒い羽が生えているという、黒羽自身の目撃例も多少ある」 「だが、被害者が一般人の場合は、事件の概要しか記録されていない」 「そのあたりが、この資料の弱点だと思う」 「なるほど」 明解な分析とわかりやすい説明。 資料には被害者の氏名はもとより、職業や経歴も書かれていた。 確かに、羽狩りの詰め所から持ち出すことがはばかられる資料ばかりだ。 「不蝕金鎖の資料はどうだ?」 「黒羽がらみはこれだ」 不蝕金鎖の資料を出す。 オズが几帳面にも作成していてくれたものだ。 資料に一通り目を通すフィオネ。 「で、それとは別に俺が使いたいと思っていたのがこれだ」 ジークから貰ってきた、牢獄の詳細な地図の複製を広げる。 フィオネが目を見張った。 「これは……」 不蝕金鎖の地図は、羽狩りの詰め所の壁に貼ってあったものなどより圧倒的に細かい。 住んでいる者の名や、建物の持ち主などまで記載されている。 言うなれば、不蝕金鎖の飯の種だ。 ジークも門外不出品だと俺に念を押すくらいの代物である。 「これがあるから、そっちの詰め所には行きたくなかった」 「なるほど……」 フィオネは食い入るように地図を眺めている。 「この地図を、私たちに譲ってもらうことは……できないのだろうな」 「無論だ」 「それにしても素晴らしい情報量だ」 「これがあれば、我々の仕事ももっと効率よく進められるのだが……」 「不蝕金鎖が牢獄に根を張ってから、十何年も経つんだ」 「一朝一夕の仕事じゃない」 フィオネが小さくため息をついた。 「で、この地図をどうするのだ?」 「この地図に黒羽の目撃情報を書き加えていく」 「俺達の聞き込みと、資料の情報を合わせればかなりの数があるはずだ」 「何かが見えてくるかもしれない」 「よし、やってみよう」 膨大な目撃証言を、地図上に記入していく。 疑わしいものを省き、時系列で目撃証言を繋ぐ。 被害者が羽つきのもの、そうでないもの。 現れる時間に規則性はないか。 お互いほぼ無言のまま作業を続ける。 何とか目処が立ったのは、日がわずかに赤味を帯びた頃だった。 「ざっとこんなところか」 「ああ」 フィオネの集中力には驚いた。 作業中、何度も小休止を入れた俺に対し、フィオネはほぼぶっ通しだった。 「気づいたことはあるか?」 「意外だったのは、逃走の方向が定まっていないことだ」 「一方を指しているなら、潜伏場所がわかるかと思ったが」 「資料にある事件の全てが、本当に黒羽が起こした事件とは限らない」 「その辺りが影響しているのかもしれない」 確かに、黒羽が噂になるようになってからは、心理的に事件を黒羽に結びつけやすくなっているだろう。 本当は、ただの物盗りやヤク中の犯行かもしれない。 「黒羽の容姿に関する情報もブレがあるな」 「大きな翼があるだの、美形だっただの、身長の2倍はあっただの、まあバラバラだ」 「動転している人間の証言だからな」 「これは、黒羽に遭遇したという奴の証言だが」 「どうも、黒羽は人の言葉を話したらしい」 「……言葉を?」 「声は、少なくとも女には聞こえなかったということだ」 「人間離れした能力があるのは確かだが、知能のないケダモノじゃないってことだ」 「……」 「これだけの様々な目撃情報があるのだ、一つだけを取り上げてどうこうは言えない」 「なるほど……まあ、そうとも言えるな」 「もう少し分析してみよう」 「ああ」 「何か見つかったか?」 「事件の報告件数を、時系列で見ていたんだが……」 「不蝕金鎖の資料にある報告件数は大体一定している」 「だが、そっちのは、ある時期を境に急に減っているな」 「言われてみれば、そうとも考えられるな」 「……いや、確かにその通りだ」 「羽狩りの報告が減った時期に心当たりはないか」 「……少し待ってくれ」 フィオネが棚からぶ厚い本を取り出し、頁をめくる。 「その本は?」 「個人的な日記だ」 「……ああ、私が隊長に就任した頃だな」 「なるほど」 「フィオネが隊長になってから、仕事のやりかたを変えたか?」 口に手を当て、考え込むフィオネ。 「いろいろな点でな」 「率直に言って、前任者はだらしのない人間だった」 「どこかの貴族だったのだが、牢獄には来たこともない」 「仕事は部下任せ、詰め所の空気も緩みきっていた」 「そのころは、私もただの隊員で、どうにもならなかった」 苦虫をかみつぶしたような表情で言う。 「フィオネが綱紀粛正したわけか」 「格好良く言えばな」 「なるほどな」 「悪い言い方になるが、フィオネが隊長になる以前の資料は怪しいんじゃないか?」 「……」 フィオネが悔しそうに眉を歪める。 「否定はしない」 「可能性の話だが、例えば、自分の失敗を黒羽のせいにしていることも考えられる」 「……」 「仕事をしていると見せかけるために、完全に虚偽の報告書を作成している可能性もあるな」 「現に、一昔前の羽狩りといえば、飲みっぷりがいいので有名だったからな」 「……おい」 フィオネが俺を〈睨〉《にら》む。 「可能性の話だ」 「だが、人間は放っておけば堕落する生き物だぞ」 「それは牢獄の話だろう」 「なら、上層は犯罪とは無縁か?」 「く……」 「あと、これは最悪の想像だが」 「羽狩りの中に、黒羽に関する情報を撹乱している人間がいることも考えられる」 「防疫局に、黒羽の仲間などいるはずがない」 「本気で我々を侮辱するつもりか?」 「可能性の話だと言ってる」 「多少、やり方が荒っぽいことはあるかもしれないが、部下は職務に忠実な者ばかりだ」 「防疫局への侮辱はやめろ」 「だから、可能性の……」 「可能性であってもだ」 目と声に迫力を感じる。 「侮辱はしていない」 「可能性の話だと言っている、冷静になってくれ」 「……」 フィオネが無言で椅子に座り直す。 俺を正面から見据え、静かに語りはじめた。 「防疫局は、妨害者を強制排除する権限まで持っている組織だ」 「そんな組織に、無差別殺人者に協力する者が潜んでいるなどありえない」 「我々は正しくなくてはならないのだ」 「そうでなくては、民に信頼などされまい」 「仰る通りだ」 「正しくあってほしいと、俺も心の底から思っている」 大きく息を一つ吐く。 「だが、組織が正しくなくてはならないことは、不正を働く者がいない証拠にはならない」 「羽狩りには、いくつも規則があるのだろう? それはなぜだ?」 「規則を作らないと、理想的な動きをしないからだ」 「私に部下を疑えと言うのか」 「必要なことだろう」 「以前、羽つきが殺された現場で、こんな話を聞いた」 記憶の中の会話をフィオネに伝える。 「おい、死体の顔を見ろ」 「……こいつ」 「うちが目星をつけた羽つきじゃねえか」 「やっぱりか」 「せっかく居場所を突きとめられたのに……」 「それがどうだと言うんだ?」 「わからないか?」 わからないほど鈍い頭はしていないはずだ。 「羽狩りの情報が、洩れてる可能性があるということだ」 「……偶然だ」 フィオネが俺を〈睨〉《にら》む。 「私は部下を信じる」 「それは、フィオネの主義主張だろう? 事実とは無関係だ」 「私の部下が、情報の漏洩などするわけがない」 そうあれかし、という話だ。 根拠がない。 「それは、盲信か思考停止だろうな」 「一度調べてみろ」 「私が調べていることを知った部下はどう思う?」 「見つからないようにやれ」 「カイム!」 フィオネの声が高くなる。 自分の声に驚いたように、フィオネがはっとした顔をする。 そして、深呼吸をした。 「カイムが、我々の内部に疑いを持っているのはわかった」 「可能性の話として、な」 目を閉じて腕を組むフィオネ。 「確かに、今の防疫局は理想から遠い姿で、外部から見て信頼に足る組織ではないかもしれない」 「だが、一歩でも理想に近づくため、私は隊長として日々努めてきた」 「今の防疫局に裏切り者はいない」 「カイムのような合理主義者にはわからないかもしれないが、部下を信じずに組織をまとめることはできない」 「だから調査をしないのか?」 「当たりを引くのが怖いだけじゃないか?」 「私は部下を信じる」 断固とした口調で言った。 その理想は、フィオネの個人的な趣味ではないのか── 捜査の遅れで犠牲者が増えたとしたら、その責任など取れるのか── 反論が浮かぶが、いちいち指摘するのも面倒だ。 こいつはこいつで、こういう奴なのだろう。 「カイムは笑うかもしれないが、防疫局の仕事は私にとっての運命だ」 「全てを捧げる価値があり、誇れるものだと思っている」 「笑いはしない」 そもそものところで話が食い違っていた。 俺は単純に、資料の信頼性の話をしているだけで、羽狩りがどうだろうと知ったことではない。 だが、こいつを納得させた上で、羽狩りの内部攪乱の証拠を探すのは難しそうだ。 幸い、羽狩りが持っていた情報は、目の前に地図に記されている。 これさえあれば、俺一人でも情報の分析は可能だ。 「ま、俺たちが今話し合うべきは隊長の心得ではない」 「違うか?」 「……あ、ああ」 「すまない、つい熱くなってしまった」 「お互い疲れてるらしいな」 「今日はこの辺で終わりにしよう」 「ああ、そうだな」 互いに資料を片付け、俺は地図を懐に収めた。 外に出ると、もう日が暮れかけていた。 牢獄に向かい、しばらく街を歩く。 夕方の下層は美しい。 家々の白い壁が、濁りのない橙に染まっていた。 牢獄の夕景は、建物が汚れているせいで全体にどす黒く見える。 それを血の色と評する牢獄民もいる。 「あそこは……」 遠方の景色が記憶に引っかかった。 自然と足が止まる。 子供の頃、見たことがある景色だ。 懐かしさと、それを数十倍上回る苦い思いが胸にこみ上げてくる。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》。 その、崩れ落ちた場所── 俺が住んでいた家が、この近くにあったはずだ。 家族が、友人が、その友人の家族たちが、家ごと、何の痕跡を残さずに消えた場所だ。 残ったのは凄惨な崩落の跡と、心の中の空洞だけだ。 「カイム、そっちは危険だ」 無意識に、崖に近づいていたらしい。 「久し振りなんだ」 「少しだけ見て行ってもいいか?」 フィオネが思案顔になる。 「……わかった」 「すまない」 歩いていくと、それまでと変わらない街並みが続いている。 石畳の道路があり、塀があり、木があり、家があり。 それらが、急に途切れる。 広がる空、足元には雲海。 ここだ。 ここから先が、全て、一瞬にして消えた。 「ご家族が亡くなったのだったな」 「ああ」 「……」 フィオネが死者を悼む。 「病死した人間はもちろん、火事で焼死した人間ですら、後に何かを残していく」 「残された者はそれを形見に心を慰めたり、復讐を誓ったりするわけだ」 「だが、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の犠牲者は何も残さない」 「墓に入れる遺体も、思い出の品もない」 「……何もないことで、逆に〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で死んだという実感は強いが」 「喪失感のようなものか?」 「そうかもしれない」 「死んだというよりは、消えたという感じだ」 いや…… 俺の家族は、変わったものを残していったな。 少しもありがたいものではなかったが。 「……すまん、寄り道はこれくらいにしよう」 「もういいのか」 「ああ」 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》跡を後にする。 本当は、いくら見ていても飽きることすらない光景だ。 だが、いくら眺めても、帰ってくるものがあるわけではない。 過去の感傷など、むしろこの場所に置いていきたいくらいだ。 牢獄では銅貨1枚にもなりはしないのだから。 牢獄に戻ってきた頃には、すっかり陽は落ちていた。 フィオネは資料を返しに詰め所に戻り、俺も一旦家に資料を置いてヴィノレタに向かう。 今日は疲れた。 頭の、日頃使わない部分を酷使した感がある。 何年かぶりに、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の跡も見た。 それに、フィオネの組織に対する考え方だ。 あの考え方では損をすることも多いだろうし、あちこちと衝突も起きるだろう。 だが、フィオネの愚直とも言える姿は、そこまで嫌いでもない。 馬鹿馬鹿しいと思いつつも、どことなく懐かしく、眩しく見えるときもある。 ああいう隊長の下で働くのも、それなりに面白いのかもしれない。 実際、若い隊員の中にはフィオネに心酔している者もちらほら存在するようだ。 「っっ!」 例の呼子笛だ。 黒羽が現れたのか? 断続的に聞こえる笛の音を追う。 恐らく、現場は市場から外れてしばらく奥へ入ったあたりだろう。 牢獄の路地は入り組んでいる。 直線距離は近くとも、道が真っ直ぐに繋がっているとは限らない。 目的地までの到達時間は、土地勘に大きく左右される。 その点、俺は有利だった。 また笛の音。 近い! 目の前の角を折れたあたりだ。 「カイムさん!」 少し不安げな表情で呼子笛を口にくわえている。 足元では、いくつかの部位に別れた女が、血の海に沈んでいた。 周囲に黒羽の姿は見えない。 「黒羽か!?」 「恐らくは」 「どっちに逃げた?」 「それが……動きがあんまり速くて……」 「すみません、不甲斐なくて……」 大の男、それも不蝕金鎖の人間が、身体の震えを必死に堪えている。 「仕方ない」 周囲を見回す。 !? 何軒か先の家の屋根の上から……何かが飛び去った、ような気がした。 錯覚でもいい。 追う。 「よし、ここだっ!」 すぐに羽狩りとすれ違う。 「死体の処理と、周囲の聞き込みを頼むっ」 「お前っ!?」 「待て、どこへ行くんだ!」 「黒羽を追うっ」 振り返っている暇はない。 目を凝らし、家々の〈軒〉《のき》へ視線を走らせる。 「……くっ」 空はもう暗い。 屋根の上の影など、存在したとしても見えるかどうか微妙だ。 それでも、勘に賭ける。 路地を縦横に走り抜ける。 「うわっ!?」 「くっ!」 「カイムか!?」 「フィオネ?」 「状況は?」 「黒羽を追っている」 周囲を確認する。 いた。 屋根の稜線を越えて、向こう側に消えた影があった。 「あ、あれは……」 「行くぞっ」 影とは、違う方向に走り出す。 「おいっ、方向が違うぞっ!?」 「あっちは、前の地震で崩れて行き止まりだ」 「素直に追いかけると見失うぞっ」 道とも言えない道を走り抜ける。 蜘蛛の巣が頭に絡みつき、脚は澱んだ水溜まりを踏み抜く。 「……くっ」 後ろを見る余裕はないが、フィオネも何とかついてきているようだ。 「……いるか?」 「カイム、あれか!?」 フィオネが指さす屋根の上。 雲が出たのか星明かりがほとんど無い中では、煙突と区別がつかない影。 だが、その影は確かに動いていた。 「追うぞ!」 「待て」 先行しかけたフィオネの肩を掴む。 「どうした、行ってしまうぞ?」 「こっちの方が早い」 すぐ傍の家のドアを蹴り開ける。 今日眺めていた地図で、空き屋と書かれていた家だ。 屋根の上を逃げられては、真っ当に走っていても追いつかない。 「おい、カイムっ!」 「空き家だ、通り抜けられる」 案の定無人だ。 ジークに感謝しつつ、埃だらけの部屋を走る。 「げほっ、けほっ」 しばらくの間、迷路のような路地や空き屋を走り続けた。 そろそろ限界だ。 「はぁ……はぁ……」 「こほっ……こほっ……」 見上げる屋根に、黒い影はない。 何とか先回りしようとしてみたが、駄目だったか。 「くそ……」 「見うし……なったか……」 後ろには、埃と汗にまみれたフィオネがいた。 よくついてきたものだ。 「さすがに……屋根の上は早いな」 「次からは私たちも……試してみるか?」 「あれは、人間業じゃない」 これだけの時間、屋根の上を走っていたのだ。 かなりの凹凸を乗り越え、屋根の狭間を跳躍しているだろう。 俺が真似しても、体力が尽きるか転落するかするに違いない。 「やはり化物だったな」 「ああ、人間じゃない」 「ふふ……そうか、化物か」 フィオネの声には安堵の色があった。 「笑い事じゃないだろう」 「……そうだな……」 その瞬間── フィオネの背後に、黒い何かが舞い降りた。 「フィオネっ!!」 フィオネの残像を、瞬速の豪腕が切り裂いた。 引き倒すのが僅かでも遅れていれば、彼女は肉塊になっていただろう。 この速度……。 ティアを拾った時、俺が遭遇したのは紛れもなくこいつだ。 腕の空振りの勢いのままに反転し、黒羽が矢のように走り出す。 「っ!」 フィオネに怪我がないことを横目で確認しつつ、敵を追う。 今度は屋根と地面ではない。 単純に、足の速さの勝負だ。 「……」 ……だが、 あっけなく勝敗は決した。 速すぎる。 もう、背中は小さな影でしかない。 冗談のような速さだった。 「……化物だ」 思わず声に出た。 豆粒ほどにしか見えない影が屋根へと跳躍する。 そして闇夜に消えた。 「駄目だったか」 「ああ、速すぎる」 「化物め」 路地に並び、黒羽が消えた屋根を見つめる。 頷く俺の目の前に、何かが舞い落ちてきた。 「羽根か」 地面に落ちた黒い羽根を、フィオネが拾う。 「奴のものだろうな」 「少し周りを探してみよう、羽根以外のものも落としているかもしれない」 しばらく捜索するが、見つかったのは黒い羽根が4枚だけだった。 「……続きは明日にしよう」 「そうだな……」 「この時間では聞き込みも無理だろう」 周囲を見回す。 家々に灯りはついていない。 道で騒がしくなれば、家にいる人間は巻きこまれないために、灯りを消して隠れる。 牢獄では当たり前の処世術だ。 「フィオネは、殺人の現場を見たか?」 「いや、まだだ」 「奴が殺しをやったのか」 頷く。 「現場は、副隊長に任せてきた」 「そうか、ならば安心だ」 「行ってみよう」 人気のない夜道を歩く。 今になって気づいたが、脚や腕には多くの擦り傷があった。 細い路地を走ったのだから当然だ。 「しかし、なかなかの脚力だな」 「まだまだだ。ついていくので精一杯だった」 「ついてこれたのを褒めてるんだ」 「そうか」 「毎日、関所を上り下りしている成果かもしれないな」 フィオネが小さく笑う。 「しかし、カイムはすごいな」 「まるで、自分の庭のように路地を走っていた」 「私も地図を見ていたのに、何一つ活かせなかった」 「一日で覚えられるか」 「ふふ、まあそうだな」 「だが、今後のためにもしっかりと覚えておこう」 「フィオネ隊長」 「ご苦労」 「死体からは何かわかったか?」 「いえ、特に変わったところはありませんでした」 「羽つきというわけでもなく」 「そうか」 「少なくともこの周辺の住人で、黒羽を目撃した者もおりませんでした」 「彼を除いては」 と、不蝕金鎖の男を見る。 「後で、俺が話を聞いておく」 「ここで聞いてくれた方がありがたいのですが、まあいいでしょう」 「周囲に落ちていた羽根は証拠品として詰め所に持ち帰っておきます」 「頼んだ」 「こちらは、追ったが逃げられてしまった」 「次は、何らかの手を考えて同じように逃げられないようにしたいと思う」 「はっ」 フィオネには敬礼をし、俺に一瞥をくれる。 そして何人かの隊員と共に、ラング副隊長は詰め所へと帰っていった。 羽狩りが消えたのを確認し、不蝕金鎖の男を呼ぶ。 「悪いが、話を聞かせてもらえるか?」 「ええ、ですが……」 フィオネをちらちらと見ている。 「ああ、気にしなくていい」 「俺と一緒に黒羽を追っている仕事仲間だ」 「そうですか。じゃあ……」 それでもフィオネのことを多少気にしつつ、状況を語りはじめる。 情報は少なかった。 悲鳴が聞こえたので駆けつけてみたら、女はすでにバラバラ。 そして、少し離れた場所に黒い影が見えた。 それだけだ。 「襲われなくて良かったな」 「いえ、黒羽は俺の方に来ようとしたんですが」 「そういや……と思ってこれを」 呼子笛を手に持つ。 「吹いてみたのか」 「ええ」 「そしたら大きな音で人が集まると思ったのか、あっという間に身を翻して」 「一番近いときでどれくらい近づいたんだ」 「こっから、あそこくらいですかね」 3軒先の家を指した。 「顔かたちはわかったか?」 「いえ、ほとんど」 「ただ、顔は人間の男のような気がしました」 「こう、髪が長いんですよ」 男が、自分の肩の辺りで手をひらひらさせる。 「追いかけようと思ったんですが、恥ずかしながら足もすくんじまいまして」 「仕方ない」 「むしろ、よく笛を吹いてくれた」 「いえ、こちらこそ来て頂いて助かりました」 「ここは任せていいか」 「へい」 「また頼む」 肩を軽く叩き、その場を後にする。 「フィオネは、詰め所に戻るんだろ?」 「ん? あ、ああ」 何かを考えていた様子だ。 「何か気づいたか?」 「いや、黒羽の姿を想像していた」 「初めて見たものでな」 「黒い羽、そして……爪か……?」 「あとは、どうやら人間の男の顔をしているらしいな」 「で、髪が長い」 「うむ……」 再び考え込む。 「参考になるようで参考にならないな」 「確かにそうだ」 「そういえば、礼を言いそびれていた」 「何の礼だ?」 「黒羽に襲われたときだ」 「カイムが手を引いてくれなければ、死んでいた」 「ありがとう」 フィオネが目礼する。 「死なれては困るんでな」 「最近のフィオネは、十分戦力になってる」 「そうか……」 フィオネが明るい顔になる。 「明日も頼む」 「こちらこそ」 「では、私はこれで」 小さく敬礼し、フィオネが踵を返した。 今日はフィオネも相当疲れているだろう。 ただの融通の利かない役人だと思っていたが、なかなか面白い女だ。 意外と長く付き合える奴かもしれない。 ……俺らしくもなく、立ち去る女の後ろ姿など見つめてしまった。 さて、帰って地図の見直しでもするか。 く…… 頭の中が、灼けるように熱い。 痺れる両腕を見る。 ……まただ。 また、濡れている。 くっ…… 身体が勝手に動いている。 俺は、一体…… ──それでいい 何だ!? どこからとこなく、声が聞こえる。 ──殺せ やめろ! 俺は、殺しなどしない! 「じゃあ、ここから始めるか」 「ああ」 昨晩、黒羽が殺しを行った場所。 ここからもう一度、黒羽の足取りを追うことにした。 死体はもう処理されているようで、惨劇の跡を留めるのは赤黒い液体を吸った石畳の染みのみだ。 「フィオネ、こいつを使おう」 昨日情報を書き込んだ地図を広げる。 「この付近に、隠れ家らしき場所はあるだろうか?」 黒羽の逃走方向を示した矢印は、期待通りに一方向を差してはいなかった。 無理矢理に解釈すれば、かろうじて4、5箇所はそれらしき場所がある。 「曖昧だな」 「成果は足で掴むものだ。虱潰しに調べてみよう」 地道に候補の場所を潰していく。 調査も5日目。 並の女なら音を上げるところだが、フィオネの足取りはしっかりしていた。 さすが羽狩りは体力がある。 「……」 フィオネは黙然と足を進めている。 疲れてきたのかと思ったが、そうでもないようだ。 「何か考えてるのか」 「いや」 即答。 「機嫌が悪いのか」 「いや」 「そうか」 口では否定しているものの、何かを思案しているようだ。 日が傾く中、更にしばらく歩く。 「これを見ろ」 夕日に光る水溜まりに、黒いものが浮いていた。 羽根だ。 鳥の羽根とは明らかに違う光沢。 妙なねじれと、虫が喰ったように欠けた部分。 フィオネが、これまでに発見された羽根と見比べる。 「どうだ?」 「ああ、少し劣化しているが間違いないだろう」 「この近くにある隠れ家の候補を当たろう」 「……」 フィオネは黙って頷き、黒い羽根をしまった。 しばらくして、今度はフィオネが瓦礫に半分埋もれた黒い羽根を見つけた。 更に日が沈む直前には、俺とフィオネがほぼ同時に別の羽根を発見する。 「この先の街区は、ほとんど廃墟だし危険だ」 「入ったことは?」 この先は〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の影響が大きく、多くの建物が瓦礫になっている。 残っている建物も、壁や屋根がなかったりと、完全な形の家はほとんどない。 「入ったことは、ある」 意外だ。 牢獄の住民でも、なかなか入る者はいない。 「防疫局の仕事でな」 「羽つきが逃げ込んだか」 「ああ」 「カイムが来ないなら、一人で行ってもいい」 「日が沈むまでは付き合うさ」 フィオネは、地面に細心の注意を払いながらも、どんどん進む。 疲労が蓄積しているにもかかわらず、足取りはむしろ速まっている。 ……怪しいな。 直感が告げていた。 「……」 「すごい数の羽根だ」 行き着いた先は、一軒の廃屋だった。 床には、一面に黒い羽根が落ちていた。 「黒羽の住処と見るべきか」 「……ん、あ? ああ」 「その可能性はあるな」 「どうした?」 「いや……」 口ごもるフィオネ。 床に落ちている黒い羽根を数枚、わし掴みにする。 「これまで、現場で証拠品として羽根を拾ってきたが」 「あまり、貴重なものではなかったようだな」 「そうだな」 話題を逸らすような会話だ。 「とにかく、調べてみよう」 部屋の中を、二人で調べ始める。 ここが黒羽の住処だとすれば、住人が戻ってくる可能性もある。 油断はできない。 廃屋を一通り調べたが、めぼしいものは何もなかった。 石の壁に、何かで引っかいたような削り跡が見つかったものの、それが黒羽によるものかどうかもわからない。 「ここでずっと待ち構えていれば、黒羽が来るかもしれないが……どうする?」 「いや……」 「羽根を見てくれ、乾燥が進んだものが多いだろう?」 フィオネが羽根の一枚を握ると、ぱらぱらと砕けて落ちた。 新しい羽根は弾力があるはずだ。 「ここは、稀にしか使われていない場所なのだと思う」 「引っ越ししたってことか」 「黒羽の知能の程は知らないが、私なら追われた次の晩に自宅へは帰らない」 「同感だ」 「……もうすぐ陽が暮れる、戻ろう」 「ああ」 フィオネの表情は暗い。 そもそも、自覚があるくらい、隠し事が苦手な性格なのだ。 娼館街に戻ってきた。 色とりどりの灯りが、フィオネの顔を幻想的に照らしている。 「フィオネ?」 「……ん?」 「どうした」 「飯でも食っていかないか?」 「……今日は疲れている」 「疲れに効く料理が、ヴィノレタにある」 「第一、朝からまともなものを食べていないだろう?」 「そうだな」 「一緒に食事ができない理由でもあるか?」 こう聞けば、フィオネは明確な理由がない限り断らないだろう。 「……いや、せっかくだ、付き合おう」 「あら、いらっしゃい」 「席、空いてるか?」 この時間のヴィノレタは、これから娼館に繰り出す客で賑わっている。 「いつものとこだけ、空けておいたわ」 「助かる」 「何か、元気が出るものを適当に頼む」 「あらあら」 一瞬見開かれた目が、意味ありげに微笑む。 否定するのも面倒だったので、そのまま席についた。 「……」 「体調でも悪いのか?」 「いや、疲れているだけだ」 「そうか。ならいいが」 ……。 会話が続かない。 どうしたものか、と思っているとメルトが両腕に皿を満載にして現れた。 「はい、これもこれも、基本はお肉」 「やっぱり人間、肉を食べなきゃ盛り上がらないわよね」 「……」 「?」 フィオネは何のことだかわかっていないようだ。 「ま、頑張ってね」 そして、俺の額を指で弾いた。 メルトは大喜びの様子だ。 足取りも軽く戻って行き、火酒まで持ってきた。 「ずいぶん豪勢な料理だな」 「厚意は受けておくものだ」 「まあ、食べよう」 「いただきます」 鳥の肉、羊の肉、牛の肉。 見事に肉料理ばかりがずらっと並ぶ。 食いでがあっても、香辛料が効いていて刺激的な味は飽きが来ない。 「美味しいな」 口に肉が入っていたので、肯いて返事とする。 麦酒を飲みたくもあったが、せっかくなので火酒を陶杯についで口に含む。 「フィオネもどうだ?」 「いただこう」 フィオネの陶杯に注ぐ。 「……」 杯を口に近づけ、無造作に傾けた。 「ごほっ! ごほほっ!」 「大丈夫か」 「ごほ、ごほっ……こ、これは、酒か?」 「当たり前だ」 「先に言ってくれ」 「透明だから、水かと思ったじゃないか」 「お前、酒と水の区別もつかないのか」 「仕方ないだろ」 「そもそも、酒というものを飲んだのは今が初めてなのだ」 「……けほっ」 「牢獄じゃ、子供でも飲むものだぞ」 「私はここの住民ではない」 むっとされた。 「ああ、悪かった悪かった」 「あと、任務中の酒が禁止されていることは伝えたはずだ」 「なぜ飲ませる?」 「元気づけてやろうと思ったんだが……」 「それに、もう仕事の時間は終わったかと思っていた」 「家に帰るまでが仕事だ」 やれやれ。 「……だがまあ、元気づけようとしてくれたことについては感謝する」 「あー、まあ、もういい」 「メルト、水をくれ」 「はーい」 食事を終え、人心地着く。 腹に血が集まり、〈微睡〉《まどろ》んでいるような気分になる。 「しかし、何故私を元気づけようとしたんだ?」 「気にしていることがあるんだろう?」 「お前、隠し事が下手だと自分で言っていたじゃないか」 「あ……」 フィオネが俯く。 「何かあったのか?」 「すまないが、今は話せる段階ではない」 「話せるときになったら、話すかもしれない」 「俺が聞く必要があることじゃないのか?」 「その判断も含めて、考えている。すまない」 静かな口調だった。 軽い話ではなさそうだ。 「わかった」 「明日からはまたいつも通り調査できそうか?」 「……大丈夫だ」 「信用していいのか」 「無論」 そこまで言うなら、俺が何かできることもないだろう。 「もう訊かない」 「今晩はしっかり休んでくれ」 「そうさせてもらう」 「……カイムはまだ店にいるのか?」 「俺もそろそろ出るが」 「俺が誘ったんだ、俺が払おう」 「いや、気にするな」 そう言って、銀貨をテーブルに置いて席を立つ。 「足りなかったら、明日また言ってくれ」 どう見ても多い。 「あらもうお帰り?」 「ごちそうさま」 メルトに声をかけ、フィオネが店の扉に向かう。 ちょうどその時、外から店に入ってきた客がいた。 「いやーっ、まいったね! もうびっしょびしょ」 「さっきの客、絶対雨男」 「お天気に文句を言っても始まらないでしょう」 やかましいのが来た。 「あっ、カイムだ」 「いえーい、カイム、いえーい!」 謎の仕草をしている。 ここまで意味のないことを言えるのも、ある種才能だ。 「メルトさん、お弁当はできていますか?」 「ええ、これね」 どうやら、仕事と仕事の狭間らしい。 メルトに頼んでおいたのであろう包みを受け取っている。 「クロ、外は雨か?」 「ええ、久し振りの土砂降りでございますよ」 濡れたスカートの裾をわずかに持ち上げるクロの脇を、フィオネが通り過ぎていく。 「羽狩りのお姉さん、その格好じゃ濡れ鼠になってしまいますよ」 「外套をお貸ししましょうか?」 「いや、結構」 「この程度の雨で〈躊躇〉《ちゅうちょ》しているようでは、防疫局の任務は務まらない」 フィオネはそう言い残し、店を後にした。 「ひゃー、感じわるぅー」 「殉職すればいい」 「まあまあ、いろんな方がいらっしゃるのですよ」 「ちょっとカイム、帰らせちゃっていいの?」 「何のために料理を奮発したかわからないじゃない」 「お前が勝手に奮発したんだろう?」 「大体、私服の件といい、一体なんなんだ」 「いや、だって楽しいし」 深い意味はなかった。 「だろうな」 「あの子に、もう少し柔らかくなるように言ってあげてよ」 「この先も牢獄で仕事するなら、あの調子じゃ大変でしょ?」 「少しずつ教えてる」 「何だか、ひどくいやらしゅうございますわ、カイム様」 何故かクローディアの真似をしている。 「割と似てる」 「ほんと、やったね」 本当に騒がしい。 だが、こういうノリについて行けなければ、牢獄での仕事が難しいのは確かだ。 あいつも、いつかこの輪に加われればいいが。 良かった、濡れていなかった。 拾ってきた羽根をあらためる。 これだけは、今日中にしまっておかなくては。 ……。 詰め所内を見回す。 最近、ここにいる時間は短い。 ちょっと目を離すと、すぐに整理整頓とはほど遠い状態になってしまう。 床に転がっている瓶。 適当に脱ぎ散らかされた外套。 バラバラに置いてある椅子。 どうも乱雑な部屋を見ると落ち着かなくなる。 仕方ないな。 散らかっている物に手をつける。 置くべき場所があるものは置くべき場所へ。 空いた瓶などはしかるべきまとめておく場所へ。 雑然としているものは整然と並べる。 「まったく……困った連中だ」 気がつくと、小言を呟きながら片付けをしていた。 自分の細かさが、時々嫌になる。 カイムは、こういう女をどう思うだろう。 ……どう? 別に、どう思われようといいじゃないか。 なぜ気にする。 置きっぱなしの剣を整理する。 鈍い輝きを見て、何故かバラバラになった死体を思い出す。 そして、脳裏に浮かぶ黒羽の姿。 頭を振る。 二度、三度。 そうだ、拾った羽根をしまうために戻ってきたのだった。 今日拾った羽根を小袋にまとめ、日付と場所を記入する。 そして、黒羽事件関連の証拠品が入った箱を開く。 「……」 「わっ、カイムさん、びしょ濡れです」 「これでも外套は借りてきたんだがな」 ティアが、わたわたと雨を拭き取る布を持ってくる。 「どうぞ、お使い下さい」 「ああ、すまん」 布を受け取り、雨を防ぎきれなかった箇所を拭う。 人心地ついて椅子に腰掛けると、ティアが茶を淹れてきた。 「ひどい雨でしたね」 「そうだな」 俺は、懐から拾ってきた羽根を取り出した。 妙なねじれと、虫が喰ったように欠けた部分。 こいつを身にまとったのが、黒羽……。 ふと気づくと、ティアが近くで興味深そうに眺めていた。 「なんだ」 「あの、カイムさん」 「これがもしかして、『黒羽』さんの……」 「ああ、そうだ」 「『さん』はいらん」 「今日は、こいつが沢山落ちてる場所を見つけたんだ」 「もしかしたら、黒羽が寝泊まりしていたところかもしれない」 「見せてもらっていいですか?」 「ああ。見たついでにどこかにしまっておいてくれ」 「わかりました」 黒い羽根に恐る恐る触れているティア。 そんな姿を眺めながら、黒羽について考える。 まずは、テーブルの上に地図を広げた。 ……昨日、フィオネの家で資料を検討し合った。 フィオネは怒っていたが、恐らく羽狩りの内部で資料がいじられたのは間違いないだろう。 フィオネが隊長になってから資料の数が減ったのは、綱紀粛正により資料の改竄が難しくなったからだ。 改竄が、黒羽の捜査を攪乱するためかどうかはわからない。 だが、ここで気になるのは、羽狩りが目を着けていた羽つきが殺されていたという話だ。 しかも、3度も同じ事態が発生している。 羽狩りに近い人間が、黒羽に情報を流している可能性は十分にある。 あとは、黒羽が化物だとわかったときの、フィオネの安堵した空気も気になる。 フィオネは、ずっと黒羽を化物だと主張していた。 それは、黒羽との内通者が羽狩り内部にいて欲しくないからではないか。 ……確かめよう。 間違っていたとしても、何らかの動きが出る可能性がある。 「あ、あの?」 「……何だ?」 「黒い羽根、どこに行ったか知りませんか?」 「俺が知るか、お前に渡したものだろう?」 「で、ですよね……」 「あれ? どこに置いたんだろう」 「落としたのかな……」 テーブルやベッドの下を覗き込んでいる。 「それより、紙と書くものはあるか」 「あ、はい、少々お待ち下さい」 用意させたもので手紙を書く。 さて、仕込んでくるか。 「出かけてくる」 「え? 今からですか?」 「お前は先に寝てろ」 「いえ、羽根を見つけ出さないと眠れません」 「もう珍しいものじゃない、気にするな」 「は、はい……すみません」 「あの、雨が強いので気をつけてくださいね」 「むしろ都合がいいくらいだ」 外套を羽織り、俺は羽狩りの詰め所に向かった。 朝早く起きた俺は、まずヴィノレタへ向かった。 メルトに頼み、フィオネに『体調不良のため、今日の調査は休む』という伝言を残す。 その足で、スラムの一角へと向かう。 スラムに着き、地図で確認した空き屋に入る。 家が空き屋だとわからないよう窓に布を取り付ける。 俺自身は、空き屋を出て、全体が観察できる場所に陣取った。 ……。 昨夜、俺は一通の手紙を書き、羽狩りの詰め所に放り込んできた。 この空き屋に羽つきが匿われているという偽のタレコミだ。 羽狩りが手紙の内容を信じれば、偵察くらいは出してくるだろう。 そして── もし、羽狩りの内部に羽つきの殺害を狙っている人間がいるのなら、そいつが現れるかもしれない。 日暮れが近づいてきた。 薄暗くなった道を、通いの娼婦達が、娼館街に向かっていく。 入れ替わるように、数人の足音が近づいてきた。 羽狩りが二人。 両方とも知った顔だ。 こちらからは一定の距離を取り、家を観察しているようだ。 ……偵察だな。 耳を澄ます。 「ま、上も信用はしてないんだろうけどさ」 「つっても、報告書は書かねえといけねえんだよな」 「そりゃそうだ」 「姫がお怒りになるからな」 「ははは、姫か」 「しかしまあ、タレコミってのは信用できないな」 「ほとんど悪戯じゃねえか」 「だが10回に1回は当たりがある……無視もできない」 「しゃーない」 どうやら、俺のタレコミを見て来たらしい。 「で、ここの羽つきは、大人とかガキとか、そういう情報もナシ?」 「そうらしい」 「そりゃぜってー、悪戯だ」 「またハズレ引かされた」 小声で文句をいいながらも、隊員達は偵察を続けている。 雑ではあるが、一応の仕事はしているらしい。 日が落ちる。 家に全く動きがないのを見て、隊員達は静かに引き上げていった。 特に怪しい動きはなかったな。 本当に仕事でやってきたのだろう。 わかったのは、羽狩りの内部ではタレコミの情報が適切に処理されているということだ。 フィオネの目が行き届いているのだろう。 さて、ここからが本番だ。 黒羽の犯行は、夜間に限られる。 何か起こるとすればここからだ。 足音が聞こえてきた。 緊張が身体を走る。 過去に叩き込まれ、今でも身に染みついている暗殺者だった頃の技術。 そいつを全て動員し、気配を消す。 コツ……コツ…… 闇の中から、徐々にそれが姿を現す。 「……!」 あれは…… 黒い影がそこにあった。 暗闇に慣れた目でも、黒い影の主はよく見えない。 一昨日、フィオネと追った影と同じようにも見えるが……。 ふぁさ、と影が揺れ、鳥の翼のような輪郭が現れる。 黒羽だ。 最初の一撃をこちらから与えなければ勝ち目はない。 〈躊躇〉《ちゅうちょ》するな。 可能な限り深く、一撃を。 すでに抜いておいたナイフを握り直す。 深呼吸を一つ。 成功する自分を頭に思い浮かべる。 黒い影は、廃屋の中をのぞき込もうとしている。 「っ!!」 大きく振りかぶり、ナイフを投擲── 「ぐっ!?」 音もなく、ナイフの刃がシルエットの中心部に突き立った。 ほぼ同時に、黒羽に向けて駆け出す。 「!!」 黒羽が身を翻す。 懐から呼子笛を取り出し、大きく息を吸った。 笛の音を追い抜くように、黒羽の背中を追う。 黒羽の足は、先日ほどではない。 ナイフが効いているようだ。 路地をこまめに曲がり、俺の視界から消えようとする。 背中が見えたかと思うと、すぐに角を曲がってしまう。 見失わないように走るので精一杯だ。 「くっ」 また角を曲がる。 呼子笛は、誰かに聞こえたのだろうか? また角を折れる。 今度は右。 左 右 「……」 角を曲がった先── そこに、黒羽の姿はなかった。 どこかの建物に入ったか、屋根に登ったか、細い路地に入ったか。 あるいは物陰から俺を狙っているのか? もう一度呼子笛を吹いてから、慎重に黒羽の行方を探す。 建物に入っていたら、扉の開閉の音や窓を壊す音がしたはずだ。 そんな音は聞こえなかったから、建物の中ではない。 屋根は? 登ってみないとわからない。 路地は? 建物の隙間は無数にある。 だが、俺の身体は一つしかない。 足音が近づいてくる。 それも複数だ。 黒羽ではない。 「カイムさん!」 「……オズか」 「笛を吹いたのは、カイムさんで?」 「ああ、ここまで追ってきて見失った」 「おい、お前らっ!」 別の方向から、羽狩りが現れた。 「このあたりで黒羽を見失った」 「建物の隙間の細い路地か、屋根の上だ!」 「わかった!」 羽狩りたちは、屋根の上に登りはじめる。 「俺たちは路地を調べよう」 「はい」 人が通れそうな隙間を、一つ一つ調べていく。 調べながら、もう奴は逃げ去ってしまったのだと、ほぼわかっていた。 牢獄の路地を駆使して逃走したのだ。 わざわざ俺たちに見つけられるのを待っているわけがない。 「オズ、どうだ?」 「何も見つかりません」 「こっちもだ」 見つかったのは、黒い羽根が1枚だけだった。 成果としてはあまりにも寂しい。 「カイムさん、例の笛、ここでいいんですかい?」 また一人、不蝕金鎖の面子が来てくれた。 「あと若えのが一人、すぐ来ます」 「この界隈で消えた。詳しくはオズに聞いてくれ」 「へい」 次第に人が集まり、路地が騒がしくなってきた。 「お、こっちだ」 脇道からは、副隊長と数人の羽狩りの増援が現れた。 「見つかったのか?」 「いや……すまない」 「しっかりしてくれ」 「……」 また捕り逃したか。 待ち伏せに成功しておいてこの様だ。 羽狩りにガセネタをたれ込む手は、もう使えないだろう。 新たな作戦を立てなくてはいけない。 「そういえば、向こうの路地でこれを拾った」 と、副隊長が黒い羽根を出してきた。 「黒羽はいたか?」 「探してみたが、見当たらなかった」 「そうか」 黒羽が走っていたのだから、羽根くらいは落ちているだろう。 何か新しいことがわかるわけではない。 「カイムさん、私たちはどうしますか?」 「皆と戻ってくれて大丈夫だ」 「カイムさんは」 「俺は、もう少し残って調べてみる」 せっかく集まってもらったのに、空振りではしょうがない。 今回は被害者も出ておらず、不蝕金鎖の出番ではなさそうだ。 「防疫局は撤収だ」 「はっ」 「うーす」 「スラムは不蝕金鎖の庭だろう」 「そこで取り逃がすとは……もう少し頼りになるかと思ったが」 「……」 「ラング、口を慎め」 路地の暗がりから、フィオネの声が飛んできた。 「フィオネか」 「必死に働いている人間に対して言っていいことではないぞ」 「申し訳ありません」 「さっきの黒い羽根を見せてくれるか?」 「え? はい」 フィオネが手を出し、ラングが羽根を渡す。 「……」 フィオネが、ランタンの灯の下で羽根を調べる。 今ではもう珍しくもなくなった黒い羽根だ。 何を調べようというのか。 「なるほど……」 フィオネが顔を上げる。 その表情には、寂しさを感じさせる笑顔が浮かんでいた。 「どうした?」 答えはなく、フィオネは羽根をラングに返す。 受け取ろうとラングが伸ばした手を、フィオネが握った。 「っっ!?」 流れるような動作で、フィオネが副隊長を組み敷いた。 「た、隊長!?」 「武器を奪え」 「はっ」 「せ、説明してもらえるんでしょうね」 「もちろんだ」 「まさか、副隊長が内通者だったのか?」 「ラング副隊長」 「お前、黒羽と繋がっているのではないか?」 「!?」 「否定しないのか?」 「ですから、説明を待っているのです」 「まったく理解ができません」 副隊長は、あくまで落ち着いていた。 フィオネが小さくため息をつく。 「黒い羽根だ」 先ほど渡した黒い羽根を示す。 「それがどうかしましたか?」 「影から聞いていたが、逃げた黒羽が落としていったものだと言っていたな」 「はい、その通りです」 「この羽根は、詰め所から持ち出されたものだ」 「なんだと?」 「先日、詰め所に保管してあった証拠品の羽根に印をつけておいたのだ」 落ちている羽根を拾い、よく調べてみる。 狐とおぼしき印が見えた。 他の羽狩りも確かめている。 「証拠品の管理は、ラング副隊長に任せていたはずだ」 「箱の鍵は、私とお前しか持っていない」 「これは、どういうことだ?」 「申し上げられずにいたのですが、昨日、鍵を紛失しております」 「詰め所のテーブルに置き忘れまして、盗難にあったものかと」 「言い逃れをするのか?」 「本当のことです」 「それに私は羽根を拾っただけですので、それを私の持ち物のように言われても困ります」 「あくまで、自分ではないと言うのだな」 「はい」 フィオネの視線が鋭くなる。 「罪を犯したとしても、それを認めぬのは最も恥ずかしいことだとは思わないか?」 「大変失礼ですが、無実の部下を一方的に詰問しているのですよ」 「恥がどうのという話をできるとは思えませんが」 「お前……」 フィオネの眉が上がる。 「……」 経験上、副隊長は黒に見えた。 あまりにも落ち着きすぎている。 言い逃れの術を事前に準備していたように思う。 フィオネは、部下への愛情、そして正義感からラングが自白することを期待したのだろう。 だが、副隊長は徹底して逃げに走った。 こうなると、曖昧な証拠では彼に罪を認めさせることはできない。 「副隊長、上半身の服を脱いで見せろ」 「……」 副隊長が動かなくなる。 「脱がせろ」 「やめてくれ、怪我をしているんだ」 「やはりな」 「それは、俺が作った傷だな」 「いや、昼間の調査中に暴漢にやられた」 副隊長が口の端で笑う。 「なぜすぐに報告しない」 「恥だと考えましたので」 「いい加減にしろ」 「頼む……罪を認めてくれ」 「ま、白を切るならそれでいい」 「何にせよ、解毒剤を飲まなければ、明日までは保たないだろうからな」 「!?」 「俺のナイフには、毒が塗ってある」 「かすり傷だったのが幸いしたようだが、時間が証明するだろう」 これははったりだ。 だが、今までの会話の中ですでに証拠は押さえた。 フィオネの前だ、自白を期待したい。 「不蝕金鎖の毒は、遅効性だが苦しいぞ」 「死んだ奴の家に行くとひどいものだ」 「一晩中苦しんで壁を引っ掻くんだ……剥がれた生爪が壁に残るくらいな」 「……」 副隊長の目に、不安がよぎる。 「罪を認めるなら、解毒剤を用意してもいい」 「あんたがどんな処罰を受けるかは知らないが、いずれにせよ毒で死ぬよりは楽だろうな」 「……はったりだ」 「お前がそう思うのは勝手だ」 ラングの前にしゃがみ、髪を手で持って前を向かせる。 「解毒剤も、飲めばすぐ効くわけじゃない……早い方がいいぞ」 「具体的には、俺の気が変わらないうちだ」 「ふ、ふん」 横を向こうとする顔を、無理矢理押さえる。 「おい、だんだん、傷が痛んで来てるんじゃないか?」 「この毒が入ると、なかなか血が止まらないんだ」 「それに、ピリピリしてくる」 言葉で傷に注意を向けさせれば、神経が過敏になり、痛みを強く感じるようになる。 誰でも陥る錯覚だ。 「か、関係ない」 「これは、昼間の……き、傷だ」 副隊長の視線が泳ぐ。 「俺が付けた傷じゃないなら焦る必要ないだろ、どうした?」 「もう半分は自供したも同じだぞ」 「こうしている間にも、助かる確率は下がっていくんだ」 副隊長が目をつむる。 もう、落ちたも同然だな。 「大体お前、俺が黒羽を追跡したのがスラムだと、どうして知っていた?」 「まだ、誰にも言っていないんだがな」 「!!」 オズや羽狩りの奴らと出会ったのは、スラムを出てからだ。 スラムで追跡劇を演じたことは、俺と黒羽本人しか知らない。 「お……お……」 副隊長が顔を伏せようとする。 それを、上げさせる。 もう、瞳に力はなかった。 「出会ってすぐにボロを出してたんだぞ、お前」 「おまけに、色気を出してご丁寧に羽根まで拾ってくる始末だ」 「クソが……」 「で、解毒剤はどうする?」 「……わかった、罪を認めよう」 「何が『認めよう』だ、馬鹿野郎」 「ぐっ!!」 副隊長の頭を地面にぶつけた。 そのまま手を離し、立ち上がる。 「後はフィオネに任せる」 「ああ……」 フィオネの眉が、悲しげに歪んでいた。 それも一瞬。 毅然とした顔に戻る。 「戻ったら、防疫局の内規に定められた喚問を行うことになる」 フィオネも冷静な声でラングに告げる。 「黒羽との繋がりを聞かせてもらわないとな」 「ははは……」 「見くびってもらっては困りますね、隊長」 「私は、誰かの手先となって動く人間ではありません」 「ほう」 「ならば、自分の意思で羽つきを殺したとでも言うのか?」 「防疫局の隊員であるお前が!」 「ふ、もちろんです」 「そのために、防疫局に入ったのですから」 「人を殺したいのなら、もっと別の仕事があるだろう」 不蝕金鎖でも仕事を斡旋できる。 「ははっ!」 一際大きな声で、俺の言を笑い飛ばす。 「私は人が斬りたかったわけではありません」 「なら、何がしたかった」 「言うまでもない……」 「羽つきを殺したかったんです」 場の空気が重く固まる。 フィオネは、驚きと、ばつの悪さと、怒りと、恥ずかしさとが混ざった顔を作っている。 他の隊員も同様だ。 羽つきを保護する者たちの中に、羽つきを殺したい人間が混じっていたのだ。 面子も何もあったものではない。 「では、一般の人間は偽装のために殺したのか」 「あれ、そのあたりはまだ調べがついてないんですか?」 「私が『黒羽』として斬ってきたのは、羽つきだけですよ」 「それは……!?」 「他にも黒羽がいる、ということか?」 「残念ながら、私も本物の黒羽のことは知らない」 「真似はさせてもらいましたがね」 「つまり、ラングの他に真の黒羽がいると……?」 「ええ。さっきからそう言っているじゃありませんか」 「私はただの便乗犯です」 「羽つきに天罰を与えるための、ね」 なんということだ。 「お、お前……」 怒りで震えるフィオネ。 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護する立場の我々が、殺すなど言語道断だろう!」 「何を考えているんだ、この……この馬鹿者がっっ!!」 吐き出すように言って俯く。 よくラングの腕を折らずに我慢できる。 そこに感心してしまう。 「羽つきの情報を集めようと思ったら、羽狩りにいるのが一番ですからね」 「今日は、結果として疑似餌に食いついてしまいましたが」 「ある程度は、俺の予想も当たっていたわけだな」 「ああ、あれはお前がやったのか」 悪びれもせず言うラング。 薄笑いを浮かべてすらいる。 「牢獄民の割には、頭が回るじゃないか」 「……」 こういう牢獄民を見下す感覚を持った人間に出くわすのは珍しくない。 だが、このラングは過去になかったくらい、その態度が鼻につく。 「ラング……なぜ羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を殺した」 「返答によってはただではおかん」 「怒った隊長は、一段とお美しいですね」 フィオネがラングを〈睨〉《にら》む。 「羽つきは、天使様を冒涜するまがい物」 「そのようなものを保護などするから、この都市は汚辱にまみれているのです」 「な、何を言っている」 羽つきを毛嫌いする者は少なからず存在する。 だが、ここまでの奴に会ったのは始めてた。 ラングから、ふわりといつもの香りが漂ってきた。 香水か…… いや、香水は香水だが、身を飾る目的のものではない。 思い出した。 教会の儀式などで用いられる聖水の香りだ。 この男、そっち筋の人間か。 「あいつらは、一匹残らずノーヴァス・アイテルから排除すべきです」 「だが、誰もそうしないばかりか、穢れた存在を匿ったりする」 「だから、私が天使様に代わって見つけ出し、誅罰を加えたのです」 フィオネが、拳を握り締めて震えている。 怒りもあるだろう。 そして、俺に対して『あり得ない』『部下を信じている』と見得を切った手前の恥ずかしさもあるだろう。 だが、多分彼女は悔しいのだと思う。 フィオネが理想とした羽狩りの姿が踏みにじられたこと。 その姿に向けた努力を踏みにじられたこと。 何より、もっとも近くにいた副隊長に裏切られたこと。 一方のラングは、別にふざけたり馬鹿にしている風もない。 ふてぶてしくも、堂々と取り押さえられている。 「私の母はね、聖教会の敬虔な信者だった」 「聖職者よりも清らかで、慈愛に溢れた方だった」 「故に、追われる羽つきを憐れんで、家に匿ったんですよ」 「ところがだ、奴ら、匿われた途端に本性を現しやがった」 「目をつむると、今でも母の悲鳴が聞こえますよ」 「その時、笑いながら羽つきは言ったんです、俺達は天使様の遣いだってね」 「母は犯されながら首を締められて死に、私は初めて羽つきを殺した」 「私は悟ったんです」 「私は、羽つきを滅ぼすために生まれてきた……」 「それが、私の生まれてきた意味だと」 弱い奴ほどこうだ。 使命だの運命だの、生まれてきた意味だの、何かに〈縋〉《すが》らねば生きていけない。 クソが。 「復讐のために、防疫局に入ったのか」 「復讐? 違いますよ」 「羽つきを滅ぼし、この街を救うためです」 復讐の方がまだわかりやすかった。 何か悪いものでも食ったのか、多少よれてしまったらしい。 ま、よくいる類の連中だ。 「フィオネ、こいつの趣味の話はいいだろう」 「さっさと連行しろ」 「……ああ」 そう言うのがやっとという風だった。 下層出の人間には、重い話だったのかもしれない。 「隊長にはわかってもらえていると思ったんですが」 「羽つきなんて奴らは、殺さなきゃいけないんですよ」 「わかるわけがないだろうっ!!」 絶叫した。 自らの存在をかけて、フィオネが叫んだ。 魂の叫びだった。 「そうですか、貴女も穢れた存在だったのですね」 フィオネが、ラングの頭を殴った。 「ぐっ……」 「フィオネ、もういい」 「こいつの話に付き合うな」 「く……」 砕けるのでは、というほどきつく歯を噛みしめてから立ち上がる。 「連行しろ」 「はっ」 二人の羽狩りがラングを立たせる。 「俺は、割とあんたのことが気に入ってたんだがな」 「触るな、穢れた者の手先が」 「貴様に連行されるなど、私にはふさわしくない」 「てめえっ」 太った羽狩りが激昂する。 一瞬の間だった── ラングが、太った羽狩りが履いた剣を抜く。 「あっ!」 羽狩りが距離を取る。 だが、ラングの剣は己の首を向いていた。 止めるほどのこともないだろう。 「地獄に落ちろ、羽狩り共」 「やめろっ!」 切っ先が、頸動脈をかき切る。 「……くっ」 音もなく、ラングの首から吹き出す鮮血。 それが、羽狩り達の身体を濡らす。 もちろん、フィオネも例外ではない。 「ははは……」 「清らかなるものは……いつか……汚れる、もの……ですよ」 ラングは、笑みを浮かべたまま自らの血溜まりに突っ伏した。 「……」 フィオネが、凝然と立ち尽くす。 彫像のように、その面は、硬く硬く凍り付いていた。 現場が一段落してからジークに顛末を話し、俺はヴィノレタに足を運んでいた。 黒羽本人ではなかったが、情報を攪乱していた人間を排除できたのは前進だ。 火酒を頼み、いつもの席に着く。 「はい、お待たせ」 「おう」 噂話の集まる酒場の店主だ。 きっと、メルトの耳にもラングの事件のことは入っているに違いない。 だが、触れずにいてくれるのは、こいつのいいところだ。 「いいか、身内に裏切られる原因は二つしかない」 「善人でも裏切りを考えるほど自分の脇が甘いか、悪人を見抜けずに身内に抱え続けちまったかだ」 今日のジークは、いつになく真面目な顔で語っていた。 ……ジークも身近な人間の裏切りには厳しい。 先代が亡くなって跡を継いだ際に、副頭のベルナドに大勢の手下を引き連れて独立された経験があるからだ。 今ではベルナドの組織《〈風錆〉《ふうしょう》》は、不蝕金鎖と牢獄を二分する勢力となっている。 「今回は……脇の甘さもあるし、悪人を抱え続けた側面もある」 「実はな、カイム」 「結局どっちも、世間知らずだってことなんだ」 「俺も、あの時に学んだことは多い」 苦い顔で言う。 過去の自分が頭にあるからだろう。 「あの隊長さん、ここが正念場だな」 「羽狩りとの今後のことも含めて、少し考えてみてくれ」 ジークは、羽狩りとの関係解消も視野に入れているようだ。 今回の件は羽狩りという組織にもフィオネという個人にも打撃を与える。 それと組んで走り回っていた不蝕金鎖にしても、影響がないとは言えない。 ま、ここでジークが部外者である俺を雇った意味が出てくるわけだが。 さて、どうしたものか。 からん 目だけを動かして入口を見ると、そこにはフィオネの姿があった。 フィオネは俺を見つけると、何とか口角を持ち上げ、同じ卓についた。 「今日は事後処理で来ないかと思った」 「一通り片付いたのでな」 「それは良かった」 「……飲むか?」 「……酒か」 「おっと、家に帰るまでが勤務時間か」 「……」 いつもならすぐに頷くところを、今日はためらっている。 無理もない。 「言っておくが、こいつは水だ」 「見ろ、透明だろ?」 「……なるほど、勘違いしていたようだ」 乗ってきた。 少し驚く。 メルトに、杯をもう一つ頼む。 「弱い水にするか?」 「いや、カイムと同じ物でいい」 何となく飲み続けている銘柄の火酒を、フィオネの杯にも注ぐ。 特にかけ声もなく杯を軽く合わせ、口へ運んだ。 「……ふう」 「飯は?」 「いらない」 「俺もだ」 くっ、くっ、と杯を傾けるフィオネ。 この間は、酒を飲んだことがないと言っていた。 その割に、きつい火酒をすっと飲んだな。 大丈夫だろうか? いや、今日くらいは潰れるのもいいだろう。 「……はぁ」 「大丈夫か」 「思ったより、飲めるものだな」 顔色も変えずに言う。 これなら、怒ったときのフィオネの方がよっぽど紅潮している。 「飲みたい気分、ってやつか」 「そう……なのかな」 「よくわからない」 「ま、きっとそうなんだろう」 いつもの覇気は完全に失われていた。 身内が羽狩りの職務を悪用し、こともあろうに羽つきを殺していたのだから仕方がない。 それも、片腕である副隊長だ。 「すまないな……あれだけ部下は裏切らないと言っておいて、この始末だ」 「私は、カイムの信頼も裏切ったことになる」 「ラングの様に、消えてしまいたいよ」 俯き、前頭の髪をくしゃっと握る。 正直なところ、何の感慨もなかった。 そもそも、一番疑っていたのは俺だ。 どちらかと言えば、フィオネが立ち直れるかどうかが一番心配だ。 「フィオネは、薄々勘づいていたんだろ、内部の問題に」 「だから、黒羽が化物であることにこだわった」 フィオネが小さく頷く。 「できれば内々に決着を着けたかった」 「ラングにも、見苦しい言い訳をさせたくなかったしな」 「それは、言い逃れができる証拠しか用意しないお前の失敗だな」 「カイムがいなければ、自白させることもできなかったかもしれない」 無力だ、と呟いた。 「我々は正しくなければならない組織なのだ」 「権限が大きければ大きいほど、過ちは許されない」 「それは間違っていない」 「だが、詰め所で隊員達に同じ説教をしても意味はないぞ」 「今回のことで、それは身に染みてわかった」 「ラングは、私と同じく綱紀粛正に積極的だったのだ」 「その当人が裏切ったのだからな」 「ラングがお前に味方したのは、規則を作る側に回った方が、抜け道を見つけやすいからだ」 「高位の人間の犯罪ほど、発覚は遅いと相場が決まっている」 「ああ……」 呷るようにフィオネが杯を空にした。 もう一杯注いでやる。 「お前の理想は間違ってはいない」 「ただ、理想に近づくための道筋が悪かっただけだ」 「誰がどれだけ理想に遠いのか、どうしたら理想に近づいてくれるのか……」 「そういうことを考えずに、ただ理想だけを押し付けては何も変わらない」 「全員がお前じゃないんだ」 「……そうだな」 「次に繋げろ」 「次があるかどうか」 「フィオネは何か処罰を受けるのか?」 「叱責は当然あるだろう」 「その先はまだわからない」 フィオネが杯に残った火酒を飲み干す。 注いでやった。 「処罰を受けることは構わない」 「責任を取るのが隊長の仕事だからな」 「私は……」 「私は、防疫局の信頼を損なってしまった」 「私の力が及ばなかったばかりに、隊の名誉を傷つけたのだ」 「隊長としてあるまじき失態だ」 「ま、仕方のないことだ」 右手の手の平で、フィオネの頭をぽんぽんと叩く。 フィオネが顔を上げ、こちらを驚いたような目で見る。 「謝るなら、改善しろ」 「やる気はあるのだろう?」 「……」 その見開かれた目から、 突然、涙がぼろぼろとこぼれた。 「……」 嗚咽もなく、ただ大粒の涙が溢れている。 右目からも、左目からも。 二本の川となって頬を伝い、形のいい顎から卓に垂れる。 はっとなってカウンターを見ると、メルトが剣呑な目で俺を見ていた。 「勘弁してくれ……」 「あ……」 はっ、とフィオネは我に返った。 慌てて涙をぬぐう。 「すまない、驚かせてしまって……」 「いや、構わない」 「そういう日もある」 「ありがとう」 ばつが悪そうに、眉間に皺を寄せている。 思えば、何度もフィオネがこういう難しい顔をしているのを見てきた気がする。 真面目なフィオネらしい表情ではある。 だが、深刻に考えて落ち込んだりしない方が、往々にして次のいい手を思いつくものだ。 堅い木は、強い風で折れやすい。 「おせっかいだが、眉間に皺を寄せるのはやめた方がいい」 「……寄せていたか」 「ああ」 「娼婦たちの諺にこういうのがある」 「『幸せは、幸せそうな人に集まる』」 「不幸ぶったり、深刻ぶったりしてると幸せにはなれないってことだ」 「これが迷信のようで案外当たっていてな」 「身請けされたりして幸せな余生を送る娼婦には、どんな奴が多いと思う?」 「それは……もちろん美人だろう」 「違う」 「娼婦をやってる頃から……何というか、根の部分に暗いものがないんだ」 「暗いものがない、か」 「ああ」 「他人を恨んだり、過去に囚われたり、自分は駄目な人間だと思いこんだりしない」 「私は今、幸せそうな人では……ないな」 「自分が一番よくわかるはずだ」 「……飲むか?」 火酒を再びフィオネの杯に注ぐ。 フィオネが一口、口に含む。 「ふ」 「?」 「ふふふ、カイムは人を励ますのが下手だな」 「別に励ましたつもりはない」 俺の顔を見て、フィオネが苦笑する。 心地の良い苦笑だった。 「これを機会に、もう一度心を入れ直して、隊員の綱紀粛正に取り組もうと思う」 「今は、ある意味、好機でもあるはずだ」 「頑張ってくれ」 「部隊を刷新するつもりでやろう」 「ラングの件はどうする?」 「それなりには広まっているようだが」 腕組みをして考えるフィオネ。 「正式に公表してしまおう」 「その方が、防疫局の改革は進むはずだ」 「なるほど、確かに」 フィオネに覇気が戻ってきた。 いい傾向だ。 「ルキウス卿ってのは、今みたいな話には理解はあるのか?」 「現実的な方だ、恐らく同意してくださるのではと思う」 「なるほど、いろいろな貴族がいるものだな」 「カイムにも少し似ているかもしれない」 「勘弁してくれ」 肩をすくめて見せる。 「ま、今のカイムのようにひねてはいないがな」 「似ていなくて結構」 わざとらしく、もう一度肩をすくめた。 フィオネが少し元気を取り戻したところで、食事をすることにした。 「ま、フィオネにやる気が出て良かった」 「いろいろ迷惑をかけてしまったな」 「特別被災地区の住民や不蝕金鎖への非礼も含めて謝らせてくれ」 「申し訳なかった」 「もう謝るのは勘弁してくれ」 「……そうか。では、礼を言おう」 「いろいろ助けられた、という方が正確だろうからな」 「ありがとう」 「……」 微妙に返事がしにくく、黙って杯を口に運ぶ。 「もし、隊長を外されることになったら、後任にはしっかりと伝えておこうと思う」 「特別被災地区のこと、娼館街や不蝕金鎖のこと、カイムのこと……」 「引き継ぎだけで何日もかかりそうだ」 「手間もかかるし、フィオネが外されないことを願ってる」 「……そうだな」 「私も、『本当の黒羽』の捜索を後任に任せたくはない」 フィオネがしっかりとした口調で言う。 そうだった。 ラングを捕らえても、真の黒羽が残っているのだ。 黒羽の捕獲という当初の目的は、まだ果たされていない。 「被害者が増える前に、何とかしないとな」 「これ以上、住民に不安な思いをさせるわけにはいかない」 「それに……」 言いかけて、一度唇を噛む。 「ここで負けては、私は本当に防疫局の歴史に泥を塗っただけの隊長で終わってしまう」 「相変わらずお堅いな」 「ははは」 「もう性分としか言いようがない」 「役人の家に生まれたからかもしれないな」 「羽狩りになったのも、兄貴の影響だったか?」 フィオネが頷く。 「私が防疫局に入ったのは、兄の影響なんだ」 「兄は、防疫局で働いていた」 「以前、そんな話をしていたな」 「一時期、特別被災地区隊の隊長を務めていた時期もある」 「もしかしたら、兄はカイムと会っているかもしれないな」 少し思い出そうとする。 が、そもそも羽狩りの顔など、覚えたのはフィオネが初めてだ。 「今でも働いてるのか?」 「いや……」 一瞬、フィオネが顔を上げて目を閉じる。 「殉職した」 「……そうか」 羽狩りで殉職か。 抵抗した羽つきの家族にでも殺されたのだろうか。 「私は、兄のようになりたいとずっと思っていたんだ」 「憧れの人だった」 フィオネがいつもより饒舌なのは、火酒の効果だろうか。 残り少ない液体を、互いにちびちびと舐めている。 「親父さんは、国の役人だったな」 「ああ財務局だ」 「今はどうしてる?」 「……」 フィオネが表情を硬くする。 話そうか迷っている様子だ。 「すまなかった」 「無理に聞こうとは思わない」 「いや、いいんだ……」 「父は、私と兄が治癒院へ連れて行った」 治癒院……。 ということは。 「羽つき……か」 「ああ」 実の親を、自らの手で治癒院へ送る。 どんな心持ちだったのだろう。 想像もできない。 それが職務であったとしても、実行できる人はそういないだろう。 身内となれば話は別、というのが普通の人間だ。 「兄も私も逡巡した」 「だが、そんな私たちに父が言ったんだ」 「『治癒院へ連れて行ってくれ。それがお前達の仕事だろう?』とな」 「それが当然だ、という顔をして」 「なかなか言えることじゃない」 「私もそう思う」 「だが、父は徹頭徹尾そういう人だった」 「清廉の鏡と呼ばれていたくらいだったからな」 「ただ単に、法を守ることしか考えていない堅物だったのかもしれないが」 苦笑するフィオネ。 「いや、だとしても、そこまで極めれられるのは大したものだ」 常識的に考えれば、迷いはあったのだろう。 しかし、父親が迷ってしまっては、子供達の葛藤を一層深めることになる。 その上での判断だろうな。 「以前、防疫局の仕事が運命だと言ったことがあるだろう」 「ああ」 「運命と言うよりは……逃れることが許されない鎖みたいなものかもしれないな」 笑顔で言うフィオネ。 悲壮な笑顔だ。 自分自身の手で父親を治癒院に送り、さらに兄も殉職している。 フィオネが、羽狩りの理想像に従って行動してきたのは、当然と言えば当然だ。 いや、彼女にとっては、理想の姿であるのが最低条件なのかもしれない。 そうでなければ、父と兄へも申し訳が立たないだろう。 「この話、隊員にしたことは?」 「言えないさ」 「私情が入っていると思われるのは本意ではない」 「気にしすぎだろう」 「いや、部下に個人的なことを〈詳〉《つまび》らかにするのは性に合わないんだ」 「……俺にはいいのか」 「カイムは部下ではない」 「もっと遠い立ち位置だと思うが」 「む……」 フィオネが考える。 「そういえば……どうして話したのだろう?」 「いかんな、うむ、酒のせいだ」 「きっと、これが酒を飲むということなのだろう」 勝手に結論づけた。 「まあ、そういうことだ」 「俺も他言するつもりはない、心配しないでくれ」 「ああ、すまないな。気を遣わせてしまって……」 「そうだ、ふふふ」 フィオネが笑う。 「気を遣わせついでに言えば、今日は私の誕生日なんだ」 「それも、隊員には言ってないのか」 「ああ」 悲壮な覚悟を背負い、一人で戦い、それでも笑っているフィオネ。 「部下からは、痛烈な誕生日祝いをもらってしまった」 「なら、せめて今はまっとうな祝い方をしよう」 「飲み代は俺が持つ」 「……ありがとう」 「誰かに祝ってもらうのも久し振りだ」 フィオネが、奢りを受けた。 あれだけ、娼館や組織の臭いがする金を嫌がっていたのに。 「そうだ、私のことは話したのに、カイムが話さないというのは不公平ではないか?」 「お前が勝手に話したんだが」 「それはそうなのだが、そうでないところもある」 意味がわからない。 フィオネも酔っているらしい。 「聞いて楽しい話はないが」 「カイムのことが知りたいのだ」 「気色悪い奴だな」 「うむ、そうか……気色悪いと思われるのは心外だ。なら話さなくていい」 「軽口だ、普通に流せ」 「わからんか? 苦手なのだ、そういう軽妙なやりとりというのは」 不器用な奴だ。 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で家族が死んだのは話したな」 「聞いた」 「その後は、俺は牢獄の娼館で育った」 「そのままだったら、男娼になっていたかもな」 「……男娼、か」 俺の顔を見る。 得心した様子は上手く隠していた。 「どうやって娼館から抜けたのだ?」 「……」 さすがに、人殺しの腕を買われてとは言えない。 「ま、いろいろあった」 「娼館とは、一度落ちたらほとんど抜けられないのだろう?」 「抜け出す方法があるなら後学のために聞いておきたいのだが」 「勘違いするな」 「少なくとも娼館で働いてる分には、最低限の衣食住は保証される」 「それに、無秩序な暴力からも守られるんだ」 「娼館でしか生きられない娘というのは、確実に存在する」 ちらっと、ティアのことが頭を過ぎる。 羽が生えてしまったティアは、娼館ですら生きられない。 「実際に、食っていけずに戻ってきた娼婦もいるくらいだ」 「そうなのか……」 「フィオネは娼婦というだけで毛嫌いするが、娼婦にもいろいろな人間がいる」 「羽狩りがそうであるようにな」 「……そうか」 「娼婦だからと言って、一様に憐れんだり、蔑んだりするのは間違いだ」 「彼女らの幸せは、一人一人違う」 「カイムも、しっかりと考えているんだな」 「今まで馬鹿にしていたのか?」 「ま、まさか、馬鹿になどしていない」 「むしろ、尊敬……」 「いや、それは言いすぎだ……信頼している」 思考がダダ漏れだ。 「と、ともかく、私も、私なりにいろいろ考えてみる」 腕を組んで、神妙に頷いた。 からん 「あら、いらっしゃい」 「いやーっ、まいったね! 今日もびしょびしょだー」 「さっきの客も、絶対雨男」 「お客様のことを悪く言うものじゃありませんよ」 三人娘だ。 「見て見て、さっきからカイムが女を泣かせてるの」 「ほんとほんとほんと?」 「聞き捨てならない」 三人こぞって寄ってくる。 「なんだ羽狩りか」 「羽狩りでも羽つきでも関係ありません」 「女を泣かすのは、何があろうとも男が悪いというのは昔からの定法ですよ、カイム様」 「その通り!」 「さすがクロ姉様はいいことを言うねえ」 「カイム、謝った?」 リサが俺に指を突きつける。 「悪いが、誤解だ」 「女を泣かせたら、謝るの!」 「あと宝石を買う」 「宝石はともかく、謝っておいて損はありませんよ」 「謝るべき時に頭を下げることに抵抗がないのがいい男というものです」 「いや、そういう意味で泣かせたわけじゃない」 まったく、〈姦〉《かしま》しいとは正にこういう状態のことだ。 「はははっ」 フィオネが、こらえきれずに吹き出した。 「フィオネも何とか言ってやってくれ」 「カイムは悪くない」 「私が、勝手に思い出し泣きをしただけなんだ」 「なんだ」 「つまんなーい」 「いや、それでも礼を言わせてくれ」 「防疫局内に女はほとんどいない」 「女性として、こんなに優しくしてもらったのは本当に久し振りだ」 「……いいえ、お気になさらず」 三人が、拍子抜けた顔をする。 「クロ、今日も雨か?」 「昨日よりもひどい土砂降りです」 「羽狩りのお姉さん、今日も外套はご入り用ではありませんか?」 クロとフィオネが目を合わせる。 「遠慮……」 「いや、今日は世話になろう」 「あら良かった」 「メルトさん、昨日の外套、もう乾いてますわよね」 「ええ、大丈夫よ」 「では、是非こちらを羽織ってお帰り下さい」 クロが外套を脱ぐ。 どこぞの金持ちに贈られたものだろう。 見るからに高級そうだ。 「クロ姉様の一番いい外套……」 「そ、そのような良い品は申し訳ない」 「いえ、きっとお似合いになります」 「また今度、うちのお店か、ここヴィノレタに返しておいて下さいな」 「わかった」 「……ありがとう」 にっこりと微笑んで頷くと、クロは残り二人を促して離れていく。 「さ、佳い女は男女の食事の邪魔をするものではありませんよ」 「はーい」 「どうでもいい」 賑やかな集団は、入り口近くのテーブルに陣取った。 「さっき、思い出し泣きとか言っていたな」 「あ、大したことじゃない」 フィオネが、少し恥ずかしそうにする。 「父や兄が私のことを褒めたり慰めたりするときに、よく頭を撫でてくれたんだ」 「撫でるというよりは……さっきのカイムみたいに軽く叩く感じか」 「久しく、そんなことはされなかったからな……」 遠くを見る目になるフィオネ。 「そういえば、私は泣かされたのだったな」 「宝石でも買ってもらうか」 「勘弁してくれ」 「はは」 牢獄の空気に染まったか。 フィオネが冗談を言うのを初めて聞いた。 「さて、今日はそろそろ上がろうと思う」 「そうだな、かなり飲んだ」 フィオネが銀貨を取り出しかけて、こちらを見る。 「今日は奢ると言っただろう」 「すまない」 「謝るな」 「……いい女は、愛想笑いをするんだったか」 「ご馳走様でした」 フィオネが立ち上がる。 「あ……あれ……」 フラつく足元を、何とか支えた。 「ははは、酔ってるな」 「こ、これも酔っ払っているということなのか」 「……勉強になる」 「送っていくか?」 「この程度、問題ない」 クロの外套を纏う。 着方が勇ましいのはご愛嬌だ。 「カイム」 「ん?」 「さっき、娼婦のことわざの話をしてくれただろう」 「幸せは幸せそうな人に集まる、という」 「ああ」 「カイムは、自分で自分が『幸せそうな人』だと思っているか?」 好き勝手やっている自覚はあるが、自分が幸せだと思ったことはない。 「考えたこともないな」 「明日もある、今日はこれでお開きにしよう」 「いつか聞かせてくれ」 「ああ」 からん 雨の中へフィオネが出ていった。 身体中にこびりついている、液体。 この胸を昂ぶらせる、液体。 ──殺せ 身体の奥底から湧き上がる声。 抗えない、欲求。 吐き気を催すはずの、鉄錆の臭い。 なぜ、こんなにも……〈芳〉《かぐわ》しい。 ──殺すのだ 引いては寄せ、寄せては引く…… 衝動。 ──人間を ──穢れた生き物を 鼓動が早鐘を打つ。 焦燥感、 嫌悪感、 絶望感、 粘ついた感情が胸の中で混ざり合い、噴出する。 ──〈屠〉《ほふ》れ 頭が痺れていく。 指先から、自分が自分でなくなっていく。 腕が、 脚が、 何者かの所有物となり、俺をどこかへと導いていく。 ──破壊せよ ──蹂躙せよ ──その崇高なる力を以て! 今後の方針を定めるため、俺とフィオネは再び打ち合わせをすることにした。 「遠いところすまない」 「暇な方が出向いた方がいい」 「ありがとう」 「実際、昨日からはラングの件の後始末で、猫の手も借りたい状況だ」 「とりあえずのところ、ラングの犯行と、ねつ造したと思われる情報の切り離しはやっておいた」 「十分だ、助かる」 「お前、寝ていないだろう」 「余計なことは気にしなくていい」 「そうか……」 フィオネの熱心さには、頭が下がる思いだ。 並の人間なら、身内に裏切られた衝撃で、2、3日寝込んでもおかしくないだろう。 「早速処理してみよう」 地図上で、ラングに関する情報を消していく。 また、地道な作業の始まりだ。 フィオネに引き摺られるわけではないが、少しずつ仕事にのめり込んでいく自分がいた。 「さて、こんなところか」 「そうだな」 地図を俯瞰する。 地図に残った目撃情報に目を凝らすと、以前はわからなかった傾向が読み取れた。 活動範囲、出現頻度、逃げる方向……など。 以前よりずっと明瞭になった。 特に、逃走方向だ。 目立つように、ざっと矢印で逃走方向を記す。 「矢印が、いくつかの場所を指しているのがわかるな」 「ああ、そのうちの一つは……」 先日、古くなった羽根を大量に見つけた場所を指していた。 「実際に、あの場所をねぐらとして使っていたんだろう」 「となると、次は他の地域も調べてみたくなるな」 矢印はねぐらの場所を正確に示しているわけではないが、たいだいの区画は絞り込める。 「地図があって助かったよ」 「せっかく苦労して持ち出したんだ、少しは役に立ってもらわないとな」 「少しどころか、これから大活躍しそうじゃないか」 「そうあることを祈るよ」 「まだ日は高い、これから調査してみよう」 「……」 少し休んだ方がいい、と言いかけたが、飲み込むことにした。 恐らく、フィオネは動きたいのだと思う。 「よし、わかった」 地図をしまい、出発の準備をする。 「ところで、ラングの扱いはどうなった?」 「防疫局の規則に則った措置となった」 「つまり、不名誉除隊、不名誉殉職だな」 「黒羽を装って凶行を行っていたことについては、局内秘扱いとなった」 「ただ、部隊内に不正があったということと……」 「裏切りを行っていた隊員が捕まり、その場で自害したことは公表することになった」 「ほう」 「ルキウス卿がわかってくれたか」 「ああ、やはり頼りになるお方だ」 「むしろ、これを機に、局内の綱紀粛正を進めてくれとのお言葉をいただいた」 「なるほど」 「ということは、フィオネもお咎めなしか」 「厳重注意と減給はあったが、事態の大きさから考えれば、お咎めなしに近い処罰だろう」 「減給じゃ、贅沢はできなくなったな」 「もともと、贅沢する趣味はない」 フィオネが笑う。 「私としては、ルキウス卿のご期待に背かぬよう、全力を尽くしていく所存だ」 「民衆の信頼を回復するには、かなり時間がかかるだろうが……」 「この手の問題に近道はない」 「頑張ってくれ」 「ああ、もちろんだ」 「そのためにも、まずは黒羽を捕まえるところからだ」 「さ、出発しよう」 家を出ると、ふとフィオネの手荷物が目に入った。 「それは?」 「先日借りた外套だ、今日のうちに帰しておきたいのだが」 「この時間だと三人娘は寝てるな」 「ま、ヴィノレタに預けておけば確実だ」 「わかった」 「ついでに、腹ごしらえをしておこう」 「香水臭い店を気に入るとは思わなかったよ」 メルトが元娼婦だと聞いて驚いていた頃とは大違いだ。 俺の考えを察したのか、フィオネが少し膨れる。 「この近くに、あまりちゃんとした料理屋が無いんだ」 「自分では作らないのか?」 「私か?」 「ああ」 「一人で暮らしているから、家事は一通りこなす」 「なるほど」 ヴィノレタで腹ごしらえを済ませ、目的の街区へ向かう。 「これだけ目指す先がはっきりしているのは初めてだな」 「だが、相手に近づいている分、黒羽と遭遇する可能性も上がるぞ」 「この服装では動きにくいかな」 フィオネが腕を上げ下げして、服の調子を確かめる。 「いざとなったら袖をはずしてしまえ」 「後で縫い直せばいいだけだ」 「そうしよう、服と心中はできないからな」 「まったくだ」 しばらく歩き、スラムに入る。 石畳もなくなり、できた水たまりがいつまでも乾かず、腐っていくような区画だ。 「う……」 臭いにフィオネが顔をしかめるが、気丈にも足取りは緩まなかった。 「この辺りに、逃走方向の矢印が集まっている」 「〈虱〉《しらみ》潰しに聞き込みをしていこう」 「いや、見たところ、このあたりはクスリをやってる連中が多い」 「聞き込みはお勧めできないな」 「そうなのか?」 フィオネが周囲を見回す。 路地や廃屋に乞食が転がっているのは、そこらのスラムと変わらない。 だが、乞食の目が違う。 「やめておいた方がいい」 「奴らは想像も付かないような動きをすることがある」 「不意をつかれると危険だ」 「そうか……」 「カイムの忠告だ、従っておこう」 「しかし、彼らに麻薬を販売しているのはお前たちではないのか?」 「中毒者を悪し様に言うのは、おかしい気がするが」 「不蝕金鎖は麻薬を扱わない……先代からの掟でな」 「そうか……」 「なら良かった」 ほっとした様子のフィオネ。 「私の中の義に照らして、さすがに麻薬を売ってる組織とは組みたくない」 「麻薬は誰も幸せにしないからな」 「娼館は良くても、麻薬は駄目か?」 フィオネが難しい顔になる。 「娼館については、ある程度理解できた……」 「いや、理解はしようと努力している」 「ははは」 「何がおかしい」 「フィオネらしい、と思ってな」 「……む」 褒められたわけではないと薄々感じてか、フィオネは少し眉をひそめた。 けなしてるつもりもないのだが。 「では、彼らはどこから麻薬を手に入れているのだ?」 「大方、〈風錆〉《ふうしょう》の売人からだろうな」 「奴らは、麻薬で荒稼ぎしているという話もある」 「そうなのか」 「ああ」 「不蝕金鎖は何とかしないのか?」 「〈風錆〉《ふうしょう》とは勢力も拮抗している」 「麻薬の売買だけをきれいに取り除くことは現実的に難しいだろうな」 「……それでも、特別被災地区で何とかできるのは不蝕金鎖だけだろう?」 「まあ、そうかもしれないが……」 「防疫局はどうなんだ」 「……できることはないか、今回の件が終わったら上申してみる」 「また組むか」 「それもいいな」 ──剣呑な軽口を叩きながらも、俺たちはスラムの掘っ立て小屋を覗いて回っていた。 「カイム」 「あれは」 フィオネが指した先で、黒い羽根が風に巻かれている。 「他にはないか探そう」 「ああ」 手際よく家々の間を探り、落ちているものの下をめくり、屋根の上に視線を飛ばす。 言葉は交わさなくとも、互いに自分の分担を理解し、効率よく捜査を進めていく。 一件聞き込みをする度にもめていた当初とは、隔世の感がある。 「……」 「……」 フィオネのブラウスが埃にまみれている。 俺の髪にも塵がまとわりつく。 互いの靴は泥にまみれた。 「フィオネ」 「カイム」 俺たちはほぼ同時に、黒い羽根を見つけていた。 最下層のスラムの中でもひどい廃墟で、とても人がいるとは思えないところに、それはあった。 自らの羽根をベッドにでもしているかのように、床一面に羽根が散らばっている。 「ここもねぐらのようだな」 「恐らく」 「他にいくつあるのかは分からないが」 「ああ」 「きっと、いくつもねぐらを持っているのだろう」 「どうする?」 「うちの隊員か、そっちの人間をここに貼り付けておけば、いつかは釣り上げられるかもしれないが」 「あてもなく探して回るよりは、効率的かもしれない」 「そうだな……」 落ちている黒い羽根を一枚拾ってみる。 俺は、それをじっと眺めた。 「羽根が古いな」 握ると、粉のようになって砕ける。 これまでに殺害現場で拾った黒い羽根は、もっと脂を感じさせる艶があった。 「もう使っていないのかもしれない」 「そんな場所の張り込みに人間を割く余裕は?」 「ないな」 「うちもだ」 「その辺の子供に、小遣いを渡して頼んでみるか」 「まるで、俺たちの発想だな」 「う……」 気まずそうに視線をそらすフィオネ。 「柔軟な発想ができるようになったと思えばいいさ」 「フィオネの中で選択肢が増えたわけだ」 「あ、ああ」 動揺を隠しきれない。 「それはともかく、この辺の奴らに仕事を頼むのは金の無駄だろうよ」 「そうか……」 「仕方ない、今も使われていそうなねぐらを探そう」 フィオネが踵を返す。 「……ん?」 「どうした?」 「これは……」 フィオネが床に積もった黒い羽根をかきわける。 その中から、一片の紙片のようなものを取り上げた。 「何か書いてある」 「……文字、なのか……読めないな」 紙片を受け取る。 何か意味がありそうな文字列や記号が並んでいる。 全く意味は分からない。 が、どこかでこれと似たような記号を見たことがあるような…… 「これは……」 「読めたのか?」 「読めないが、エリスの診療所で似たような記号を見たことがある」 「エリス?」 「娼館街で町医者のようなことをやってる女だ」 「そいつの家で、こんな文字を見た気がするんだ」 「つまり、医者が使うような文字ということか」 「確証はないが、一度見せてみよう」 「よし、今から訪ねよう」 そうするのが妥当だろう。 だが、エリスの家に女連れで行くのは危険な気もする。 ティアにすら刺々しい反応のエリスだ。 フィオネを連れて行った日には、メスが飛んできてもおかしくない。 エリスの部屋には一人で行った方が良いかもしれない。 「……どうした?」 だが、フィオネに事情を説明するのも難しい。 身請けしたとか、〈嫉妬〉《しっと》の業火に焼かれるなんて言ったら、今度はフィオネとぎくしゃくするだろう。 そもそも、フィオネはただの仕事相手だ。 エリスの反応が刺々しくとも、その線で押し通す。 それが当たり前だ。 何も迷うことはない。 エリスは、ティアにすら刺々しい反応だった。 フィオネと二人連れで行った日には、メスが飛んできてもおかしくない。 だが……。 「……?」 フィオネが、不思議そうに俺を見ている。 ……そもそも、フィオネは仕事相手じゃないか。 フィオネと二人でいることに、あれやこれや言われたら仕事にならない。 エリスの反応を気にする必要はない。 よし、それで行こう。 「すまん、何でもない」 「エリスは一癖ある奴なんで、その辺は踏まえておいてくれ」 「どんな方なのだ?」 「刺々しい態度を取るだろうが気にするな」 「話は真に受けない方がいい」 「ふむ……」 「だが、仕事なのだから仕方ないな。ご協力願おう」 「そうだな」 「邪魔するぞ」 「休憩中なんだけど」 「一切、何も診ない」 「そう言うな」 「例の黒羽の仕事なんだ」 「ふうん」 「で、後ろの女は?」 「仕事仲間だ、前に見ただろう」 「羽狩りのフィオネ隊長だ」 「ああ……」 既に十分機嫌が悪そうだったエリスの顔が、更に機嫌悪そうになった。 こいつは何段階の“機嫌が悪そうな顔”を持ってるんだ。 「防疫局の特別被災地区隊隊長、フィオネ・シルヴァリアです」 「今回はご協力をお願いしたく、こちらに参上しました」 「羽狩りに協力する気はないけど?」 「何か、過去にご機嫌を損ねるようなことをしてしまいましたか?」 「ならば、この場で謝らせていただきたい」 「別にどうでもいいから」 鼻白んで、エリスが言う。 「こいつは嫉妬が趣味でな」 「俺といる女には辛く当たるが、気にしなくていい」 「嫉妬?」 「嫉妬ということは、つまり彼女はカイムのことを……」 余計なことまで口に出している。 「わ、私はカイムとまだそういう関係ではないっ!」 「なにその『まだ』って」 「おまえら黙ってくれ」 二人の目を交互に見つめて、静まらせる。 「苦情は後で聞いてやる。だが、今は仕事で来てるんだ」 「仕事なら何でもやるってわけじゃないんだけど……まあいいわ」 「……で、何?」 「これを見てくれ」 「いつだったか、ここで似たような文字や記号を見た記憶があってな」 先ほど拾った紙片を取り出し、エリスに手渡す。 「……見るだけ」 「頼む」 「よろしくお願いしたい」 「……」 エリスが、紙片の文字列に目を走らせる。 「どうだ?」 「ええと……これか……」 こちらを見ないまま、エリスが立ち上がる。 そして棚を開き、いくつかの瓶の表書きを見比べている。 「?」 「ここに書いてあるのは、麻酔の材料と精製方法……だと思う」 「材料は植物の名前ね」 「作り方は、分量とか濃度、温度の話」 「記号ばかりだから、カイムが見ても分からないと思う」 「まあ、分からなかった」 「麻酔というのは?」 「身体を切ったり縫ったりする時に、痛みを和らげる薬」 フィオネは例の日記を取り出し、メモを取り始める。 「そんなのがあるのか」 「俺が怪我したときに使ってくれたことはなかったと思うが」 「大したことない怪我で使うものじゃない」 「高いのか」 「高いというより、麻薬と似たようなものだから、中毒性がある」 「中毒性……か」 「だから、使わなくていいなら使わない」 「なるほどな」 「でも……」 エリスが紙をヒラヒラと振る。 「この紙に書いてあるのは、麻酔に近いけどちょっと違うところもある」 「どう違う?」 「わからない」 「私は研究者じゃないから」 ……。 ここで行き止まりか。 黒羽と麻酔。 関係はあまりなさそうだが。 「……ん?」 日記をめくっていたフィオネが、顔をあげる。 「どうした」 「以前、黒羽が現れはじめた時期に起こった事件について、話をしたことがあったな」 「ああ」 「フィオネに調査を任せていたはずだが」 「もちろん一通りは調べていたのだが、気になるものは見つからなかった」 「だが……」 「何か見つかったか?」 フィオネが頷く。 「黒羽が現れ始めた頃に……」 「特別被災地区で、薬の研究をしていたという建物が火事で全焼している」 「どこかの薬商人が持っている建物だったらしい」 「黒羽に関係があると思うか」 「正直、わからない」 「関係があるかないか、調べてみるのが良いと思う」 「そうだな」 〈躊躇〉《ちゅうちょ》する理由はない。 「それ、事件簿か何か?」 エリスがフィオネを指して言う。 「いや、日記だそうだ」 「その日に起きた事件も書いているみたいだが」 「すさんだ日記ね」 「……個人的な日記の内容について、第三者にあれこれ言われる筋合いはない」 「ま、そうね」 「だが、これで次に繋がるかもしれない」 「さ、もう用がないなら、カイムを置いて羽狩りは出て行って」 「何で俺が置いていかれるんだ」 「エリス殿のお陰で、貴重な手がかりを得ることができた、礼を言う」 「いちいちかしこまって礼を言わないで、気持ち悪い」 「早く調査でも何でも行ったら?」 「そうさせてもらう」 フィオネのきまじめな態度は、エリスの毒気まで抜いてしまうらしい。 俺にまねはできないが、エリスへの新しい対処法だな。 「エリス、助かった」 「はいはい」 「あー、カイムだっ」 遠くから、甲高い声が聞こえた。 「この声は……」 「フィオネも覚えたか」 「他に、こんな元気な知り合いはいないからな」 「ちょーどよし! 相談があったの」 「何だ?」 「最近、誰かさんがティアちゃんをほったらかしてるから、食事に誘おうと思ったんだけど、いいかなって」 「ああ、構わないぞ」 「うわ、そっけな!」 「せっかく囲ったのに、なーにやってるのよ」 「囲った?」 「気にするな」 フィオネに突っ込まれると面倒だ。 「じゃあ早速今夜誘ってみる」 「任せたぞ」 「ほいほーい」 用件だけ済ますと、リサは走り去った。 騒々しい。 「もういいのか?」 「いいも悪いもない」 「ああ……」 「しかしカイムは、女性の友人が多いな」 「娼館街にいれば誰でもそうなる」 「ティアさんも、ご友人か?」 「まあな」 ティアのことをこれ以上勘ぐられるのはまずい。 フィオネに対し、警戒が薄くなっている自分に驚く。 こいつは羽狩りだ。 いくら仕事ができようと、信頼に値する人柄だろうと、それは変わらない。 ティアが羽つきだと知れば、俺の知り合いであっても保護しようとするだろう。 逆に、そういう表裏のない性格だから、信頼できるという部分もある。 ティアが羽つきであることは知られてはならない。 「……」 そう思うと、かすかに後ろめたさのようなものを感じた。 フィオネは、俺に信頼を寄せてくれている。 そんな彼女に対し、ティアのことを隠すのは裏切りに近い。 仕事を始めた頃には、全く気にもならなかったことだが、俺の中にも変化があったらしい。 「どうした?」 「いや、何でもない」 「さ、仕事の話をしよう」 「そうだな」 フィオネが咳払いをする。 「話に出た、火災現場の場所はわかるのか?」 「市場を奥に進み、スラムに近いあたりだそうだ」 「正確な場所は、周辺の人間に聞けばわかるだろう」 「あの辺りか……」 「何か都合が悪いのか?」 「あそこは、〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りでな」 「カイムは入れないのか」 「いや、そこまでではない」 「ただ……派手なことはしたくない」 「最悪、不蝕金鎖と〈風錆〉《ふうしょう》の抗争のきっかけにもなりかねないからな」 「私一人で行ってもいいが」 「いや、俺も行く」 「ただ……」 「〈風錆〉《ふうしょう》の連中と揉めそうなときは、羽狩りの看板に頼らせてもらうかもしれない」 「望むところだ」 「いや、望んではいないが……防疫局の名が役に立つのは嬉しい」 「確かに、牢獄じゃお荷物なだけだったからな」 「改めて言わなくてもいい」 仏頂面で言うフィオネ。 「さ、行こう」 「ここか」 廃墟が目の前に広がっている。 黒くなった壁を指でこすると、〈煤〉《すす》が付着した。 黒く焦げた石壁、焼け落ちた〈梁〉《はり》。 確かに火事があったようだ。 「広いな」 「探し甲斐がありそうだ」 ざっと調査する。 薬品を扱っていたというだけあって、床には割れた瓶の破片が散乱している。 火事場泥棒が念入りに仕事をしたらしく、価値のありそうなものは何もない。 さらに調査を続けると、いくつかのものが見つかった。 よくわからない黒い粉がわずかに残る瓶。 何かの原料かと思われる乾燥させた植物とその種子。 妙な形の器や道具。 「薬のようなものを扱っていたのは本当らしいな」 「逆に、それしかわからないが」 「拾ったものは、とりあえずエリスに見てもらおう」 「了承してくれるだろうか」 「話し方さえ間違わなければ大丈夫だ」 「それはカイムに頼む、私には自信がない」 「ま、引き受けておこう」 フィオネが真っ正直に頼んだ方が、エリスは受けてくれそうだが、まあいい。 「さて、引き上げるか」 「無駄足を踏ませてすまなかったな」 「仕方ない」 「空振りを恐れていては先に進まない」 「そう言ってくれると助かる」 俺たちは、戦果……と呼べるかわからない回収物を持って撤収することにした。 「これは、何なんだろうな」 妙な形の器を持ったフィオネが、眺める。 「っと」 フィオネが体勢を崩す。 「大丈夫か?」 「すまない、足場が悪かった」 「……」 フィオネの足下を観察する。 今までの経験が、違和感を告げていた。 重なった〈瓦礫〉《がれき》をどける。 「どうした?」 「少し気になった」 さらに〈瓦礫〉《がれき》をどけると、取っ手のついた鉄の板が見つかった。 どうやら、地下に空間があるらしい。 「地下室か」 「開けてみよう」 ぎいぃ…… 重々しい音を立てて、扉が開く。 先へと続く階段が現れた。 奥に何があるのかはわからない。 「近所の家から、明かりを借りられるか?」 「任せてくれ」 金の入った革袋を持って、フィオネが廃墟を出て行く。 金を持っていくあたり、フィオネはもう十分、牢獄でのやり方に慣れたようだ。 フィオネが難なく調達した明かりを手に、地下を調査した。 「どうだった?」 「小さな部屋があったが、何に使われていたのかはわからない」 「だが……」 地下室で拾ってきたものを見せる。 黒い羽根だ。 「黒羽……」 「ああ、かなり古い」 指先で少し触っただけで、ぱらぱらと形が崩れた。 「地下室の扉も、しばらく開けられた形跡がなかった」 「黒羽が現れた時期を考えると、初期のねぐらかもしれない」 だが、引っかかることがあった。 地図を取り出す。 「どうした?」 「いや、ここを指している逃走方向の矢印がなかったと思ってな」 「言われてみればそうだな」 「初期の頃は、まだ黒羽の噂も出回っていなかった」 「そのせいで、目撃証言も少ないんだろう」 「だろうな」 「前のねぐらで見つかった紙片は、黒羽の身体にでも付いていたのが落ちたのか」 「そう考えるのが妥当だろう」 「羽根の他に、何かめぼしいものはあったか?」 「壊れた檻のようなものはあったが、他には何も」 「そうか、残念だ」 新たなねぐらは見つかった。 だが、それだけだ。 「カイム、すまないが、この施設のことをジーク殿に訊いてもらえないだろうか?」 「構わないが、どうした?」 「黒羽にも、ねぐらにする場所の好みがあるのかと思っだんだ」 「スラムのねぐらも調べてみて、共通点があるようなら、調査の手がかりになるかもしれない」 「わかった、訊いてみよう」 日が落ち、周囲がかなり暗くなってきた。 今日の調査は、そろそろ切り上げ時だ。 「ジークには、これから話を訊いてみる」 「調査はここまでにしよう」 娼館街まで戻る頃には陽は完全に沈み、上空の雲に残る残照もほぼ消えていた。 「俺はジークのところに行く」 「では、また明日、同じ時間にヴィノレタで」 小さく敬礼し、フィオネが立ち去った。 「よう」 「何だ、カイムか」 「誰だと思ったんだ?」 「最近、腕がいいと評判の娼婦がいるんでな、声をかけておいたんだ」 「そいつは、邪魔したな」 まあ、冗談と見ていい。 誰かそれなりの人間との面会が予定されているのだろう。 「今日はあちらさんの縄張りに行ったそうじゃないか」 「耳が早い」 「お陰様でな」 「で、どうした?」 今日の〈顛末〉《てんまつ》について軽く説明する。 「なるほど……火災にあった施設の概要を知りたいと」 「ああ」 「黒羽のねぐらにも、好みがあるかもしれない」 「待ってろ……」 〈抽斗〉《ひきだし》をいくつか引っ張り、記録を探している。 記録は案外きれいに整理されているようだ。オズには頭が下がる。 「……あった。これか」 斜めに目を走らせる。 「わかってるのは、とある薬屋が持ってた建物だったということだけだな」 「その薬屋というのは?」 「当時は下層にあったらしいが、今はわからん」 「割と詳しく調べてあるな」 「火災にあった施設には、かねてから変な噂があってな」 「たびたび、牢獄の人間とは思えないお偉いさんが来たりしていたそうだ」 「それで、下層や上層では作れない類の薬を扱っていたという話があったんだ」 「どんな薬だ?」 「貴族の間の喧嘩で使われるような薬さ」 毒殺用の薬か。 まあ、ありそうな話だ。 「実際に施設を見てみたんだろう? どうだった。危険そうだったか」 「あらかた片づけられてて、そこまでは」 「まあ、そうだろうな」 「当然だが、普通の商人が一発でかい山を狙って博打で作ったという可能性もある」 「それで借金つくって首が回らなくなり飛んじまう、なんて話は確かに一番ありふれてる」 「文字通り、崖の端から飛んでたりしてな」 面白くもない冗談だ。 「……最後にもう一度確認させてくれ」 「その薬屋は、今はもう無いのか」 「ああ、影も形も無い」 「牢獄のどこにも……恐らく、下層にもな」 「貴族に危ない薬を〈捌〉《さば》いていたとすれば、お客さんと何か問題を起こしたのかもしれない」 「となれば、徹底的に消されるだろうよ」 「なるほど」 「この線は手詰まりか」 「力になれずすまないな」 「いや、十分だ」 「話は変わるが……」 ジークが葉巻に火を点ける。 「羽狩りの動きはどうだ?」 「今回の大ポカについては、どう処理するって?」 「黒羽の件は伏せて、ある程度は公表するようだ」 「フィオネも、上司のルキウスという貴族も、羽狩りの綱紀を粛正する機会ととらえているようだ」 「ほう……」 「今までの羽狩りなら、何食わぬ顔でもみ消していたところだ」 「ぼちぼち、時代が変わってくるかもしれないな」 ジークが煙をのどかに吐き出した。 「羽狩りとの協力体制は維持した方がいいだろうな」 「そうだな、切るのはいつでもできる」 「ルキウスとやらとも、お近づきになっておきたいところだ」 「女隊長から、好物でも聞き出しておいてくれよ」 「どうせもう知ってるんだろう?」 「ははは、そうかもな」 ジークがどれほど先を見て活動しているかは、俺にもわからない。 少なくとも、俺より後ろを歩いていることはないはずだ。 「手を煩わせたな」 「最近は、ずいぶん熱心に仕事に励んでるじゃないか」 「迷惑だったか?」 「まさか」 「ただ、お前にしては珍しいと思ってな」 「フィオネの仕事ぶりが危なっかしいんだ」 「適当に口を出しておかないと、こっちまで被害が及ぶ」 「ふ……まあ、そういうことにしておこう」 「あの女隊長を、しっかり支えてやることだな」 どうやら、いろいろ勘ぐっているらしい。 メルトといい、ジークといい、娼婦達といい、こういう話が本当に好きだ。 「手を引いてもいいんだぞ」 「いやいや、引き続き頑張ってくれ」 軽く返事をして、ジークの部屋を辞する。 部屋に戻るが、ティアはそこにはいなかった。 まだリサたちと遊んでいるのだろうか。 いい加減夜も遅い。 様子を見に行くか。 「ティアちゃん?」 「何でも、今日はリリウムで遊んでるみたいだけど」 「やっぱりそうか」 ほっとして、ため息をつく。 「カイムがあんまりティアちゃんを放っておくから、三人が気を利かせてくれたのよ」 「もう少し大切にしてあげたら?」 「黒羽の件が終わったらな」 「ほんと、自分の都合ばっかりなんだから」 メルトがあきれたように笑う。 「あ、そうだ……」 「さっき、羽狩りの隊長さんが来たわよ」 「フィオネが? 詰め所に行くと言っていたが」 「外套を、やっぱり自分で返すことにしたんだって」 「その方が誠意が伝わるからって」 「相変わらず律儀な奴だ」 「牢獄にはいない種類の人よね」 「ついでにご飯も食べてったけど、食事の仕方もなかなか板についてきたわ」 「最初の頃は、借りてきた猫って感じだったけど」 フィオネも一人でヴィノレタで飯を食うようになったか。 「手取り足取り教育した成果があったんじゃない?」 「足手まといにならないよう、最低限常識を教えただけだ」 「相変わらず素直じゃないわね」 「下衆の勘ぐりってやつだ」 「それじゃあな」 「あら、飲んでかないの?」 「ティアの様子を見てくる」 「あらそ、行ってらっしゃい」 メルトの声を背に受け、リリウムを目指す。 受付の若いのが俺に軽く会釈をする。 客がひっきりなしに出入りするロビーで、邪魔にならないように三人娘の部屋に向かった。 この時間は、一番の稼ぎ時だ。 三人組は、ティアを構っている暇などあるのだろうか? そんなことを考えながら廊下を歩く。 ……誰かの泣き声が聞こえてくる。 ティアか? 「??」 「……ぐす……」 ティアが鼻をすすっている。 それを、三人娘が囲んでいた。 空気は暗く重い。 「どうしたんだ、一体」 「それがね、カイム、あのねあのね」 「私から説明させていただきます」 「ああ、そうしてくれ」 リサの説明だと要点がわからない。 「まず、ユースティアさんを私どもで食事にお誘いしたんです」 「そこで、カイム様との暮らしはどんなものか、お話しいただければと思いまして……」 ティアは何を喋ったのだろう。 「それから、カイム様に愛でられる秘訣を〈伺〉《うかが》おうと……その……」 「リリウムのお風呂に、ユースティアさんと一緒に入ることに」 「!?」 「うん、お風呂」 「最近きれいになったから、見せたいなっていうのもあって」 ということは、当然服を脱ぐことになる。 ……状況が飲み込めた。 「羽、生えてた」 「……」 クロが目を伏せる。 「ほんと、冗談のつもりだったんだよ、ほんの出来心というか」 困ったことになった。 三人に、ティアが羽つきだということが知られてしまった。 完全に油断していたな。 どうやって三人の口を塞いだものか……。 「羽を見たのは三人だけか?」 「はい、聖女様に誓ってもようございます」 皆、一様に口をつぐむ。 「カイム様は、これからのことを思案されていると思いますが……」 「もしよろしければ、ご事情をお聞かせ願えないでしょうか?」 リサとアイリスも、同意を示すように小さく頷く。 それで理解が得られるのなら、安いものだ。 ティアとの出会いから一緒に住むようになるまでの経緯を、話して聞かせる。 「大体こんなところだ」 「つけ加えるとすれば、エリスは羽つきが〈伝染〉《うつ》るとはあまり思っていない」 「それに、毎日のように一緒にいる俺にも伝染していない」 「だから、もちろん絶対にとは言えないが、心配はしなくてもいいと思っている」 三人娘の顔を見まわす。 アイリスはあまり興味なさそうに、リサは多少びくびくしながら、クローディアは何事か考えながら話を聞いていた。 羽狩りに通報しないでくれ、と拝み倒した方がいいだろうか。 それとも、口止め料を申し出るべきだろうか。 「私は、別に構わないと思いますわ」 「この界隈の人間は、誰しも脛に傷がありますから」 「他人様に言えない事情は誰にでもあるものです」 「それに、人が光るだなんてお〈伽話〉《とぎばなし》を、カイム様から聞けたのも〈愉〉《たの》しゅうございましたわ」 本当に愉快そうにクロが微笑む。 「カイム、羽つきが好き?」 「そんなわけないだろう」 「それならいい」 「昔、知り合いに羽つきがいた。私も気にしない」 それだけ言うと、アイリスは泣いているティアの頭を撫でた。 「あたしは……」 「どうすればいいのか、よくわかっていないんだ……まあ、いつもわかってないんだけど」 「本当は、ちょっとだけ怖い」 「ちょっと、ちょっとだけだよ?」 「でもほら、二人がこの通りだし、あたしだけびびってるのもなんだかなーって」 てへへ、と頭をかく。 「みな、すまん」 「この礼は……」 「言いっこ無しにしてくださいましな」 「私たちだって、カイム様に恩を売ろうと思ってこう言っているわけではありませんもの」 「もう、どうでもいい」 「ま、あたしたちも、ティアちゃんを羽狩りに売りたくないしね」 「ありがとう」 つくづく、バレたのが3人で良かったと思う。 クロの言った通り、この界隈の人間は、みな少なからず脛に傷がある。 異端者に同情的なのは、そういう事情もあるのだろう。 「さっき、カイム様から事情を聞く前にも、ほとんど同じことをユースティアさんにはお話していたんですのよ」 「……なら、何でこいつは泣いてるんだ」 ティアがゆるゆると顔を上げる。 顔が涙でひどいことになっていた。 「うう……ぐす、ひっく……うぅぅ」 「?」 「うぅ……嬉しくて……」 紛らわしい奴だ。 「で、でも、今ほど皆さんの優しさが、心に染みたことはありません」 「私みたいな人間を、羽つきでもいいからって……」 「ほらほら、カイムの前で恥ずかしい顔しない」 「よし、お風呂でお姉さんが洗ったげよう!」 「やめろ」 これ以上目撃者が増えたら収拾が付かない。 「そかー。残念」 「裸の付き合いをすれば、あたしも羽が怖くなくなるかなと思ったんだけどなー」 「ならそこのベッドで」 「おお!」 「おお、じゃない」 ぽかり、とリサのあたまをはたく。 「……風呂場でも、無理矢理脱がそうとしたんだろう?」 「いやぁ、そんなことないって」 「どうだかな」 「まあいい、今回は俺の不注意もある」 「不注意だなんて仰らないでください」 「今日は、私たちに新しい仲間ができた、佳き日ですよ」 「ク、クローディアさん……」 ティアが目頭を押さえる。 「同類は、売らない」 「そうそう、わたしたちが、羽狩りから守ってあげる」 「あ、ありがとうございます」 ティアが〈嗚咽〉《おえつ》を漏らす。 ともかく、丸く収まって良かった。 「俺がこう言うのもおかしいが」 「羽つきを抱えることの危険性はわかっているな?」 「知ってる」 クローディアが悲しげな笑顔で頷く。 ことが公になれば、下手すると不蝕金鎖にまで累が及ぶ。 ジークの顔に泥を塗ることにもなるだろう。 「すまないが、よろしく頼む」 できる限りの誠意を込める。 「もう、いいんですよ、カイム様」 「私も、カイム様のいい人とお近づきになれて嬉しゅうございますから」 ……どうやら、勘違いがあるようだ。 「一応言っておくが、俺とティアとは、そういう関係じゃない」 「またまたまた、旦那!」 急に元気になるリサ。 「毎晩一つ屋根の下で暮らしていて、何もない──で済むはずないでしょでしょ!」 「でしょでしょ言われても、ないものはない」 「不能?」 「黙れ」 「それにしても、エリスさんでもユースティアさんでも駄目となりますと」 「カイム様のお心を射止めるのは、本当に難しゅうございますね」 「一体、どんな〈女性〉《にょしょう》なら、カイムさんを独り占めできるのでしょう」 「特殊な性癖を満たさないと」 「そうなのかー」 「なら仕方ないね、うん仕方ない仕方ない」 この調子では、今日はどこまでいじられるかわかったものではない。 さっさと退散しよう。 「今日は稼ぎ時にすまなかったな」 「それに、感謝している」 「いえ、どうぞお気になさらず」 「ヴィノレタ一回分」 「ま、それくらいなら任せておいてくれ」 「ほんと!? メルト姐さんのウインク頼んじゃおうっかな!」 「やめろ」 ウインクは、ヴィノレタで一番高い、金貨1000枚という馬鹿げた値段のメニューだ。 「ティアも礼を言うんだ」 「あの、みなさん、ありがとうございましたっ」 「これからもどうぞよろしくおねがいしますっ」 膝に額がつく勢いでお辞儀をした。 そんな姿を、三人娘も温かく見てくれている。 「じゃ、行くぞティア」 「邪魔したな」 「いえいえ」 扉を開ける。 寒々とした、娼館の廊下。 そこに、一着の外套が掛けてあった。 これは……。 クロの外套だ。 背筋を寒いものが走る。 「……」 「カイムさん、どうしたんですか?」 「……い、いや」 この外套は、クロがフィオネに貸していたものだ。 メルトの話では、直接返したいと持ち帰ったらしいが…… まさか、今日、この時間に返しに来たのか? しかも、ノックもせずに、外套だけを置いて帰った。 ……冗談だろ? 折角、三人がティアを受け入れてくれたというのに…… 一番知られてはまずい人間に知られた可能性がある。 「……」 いや、まだそうだと決まったわけではない。 冷静になろう。 こちらからフィオネに確認するのは、やぶ蛇になりかねない。 嘘の下手なフィオネだ。 ティアの正体を知ってしまったなら、調査の中で何らかの兆候を示すだろう。 それを待とう。 部屋に戻る道すがら、どうしても羽狩りがいないか周囲を警戒してしまった。 ティアには気取られないよう注意していたつもりだが……。 「カイムさん、なんか怖いです」 「いや、少し眠くてな」 「すみません、わたしがお時間を取らせたばかりに」 「気にするな」 「さっさと寝るぞ」 「はい」 ベッドに横になるが、気が高ぶっていた。 もしかしたら、この瞬間にも、羽狩りが玄関の前に整列しているかもしれない。 そして扉を蹴破り、ティアを連行していく…… そんなことはないと思いながらも、不安は拭いきれない。 気にするな、心配しすぎだ、と思えば思うほど目が冴える。 今日は眠れないな……。 腕や、身体が血にまみれている。 自分の血ではない。 ──それでいい 違う。 ──殺し尽くせ 駄目だ。 ──穢れた人間共を 胸の奥から来ると思っていた声。 それが、自分の口から発されていることに気付く。 ──裏切り者達に、天罰を加えるのだ ふざ……けるな……。 唇を噛み切る。 溢れ出す、粘り気のある液体。 それはもはや、人のものとは異質な。 ──殺せ ──殺し尽くせ やめろ。 やめてくれ。 殺させないでくれ。 ──天罰を ──我らが悲しみを 残さねば。 俺が消えてなくなる前に。 いつも通りの時間に、フィオネと待ち合わせをする。 今日は、もう一カ所のねぐらとおぼしき場所の調査だ。 気のせいかもしれないが、フィオネの口数が少ない気がする。 実際、仕事の話はいつも通りだ。 それに、フィオネがもしティアの話を聞いていたのなら、フィオネから話があるはずだ。 逆に言えば、その話を振ってこないということは、フィオネが聞いていたわけではないと考えることもできる。 ……俺の思考は同じ所を何度も廻っていた。 「昨日の火災現場の話なんだが、ジークに訊いてみたよ」 「どうだった?」 「あの建物は、薬屋の持ち物だったらしい」 ジークから教えられたことを伝える。 「そのように、後ろ暗いことをしている組織があるのか」 「あるだろうな」 「人を殺す薬を売って稼いだ金に、何の喜びがあるというのだ」 俺は、人を殺して食ってきた訳だが……。 毒薬を売ったと言うだけで〈義憤〉《ぎふん》に燃えているフィオネだ。 俺のことを知ったら、どんな顔をするのだろうか。 「ま、ジークも今話したこと以外はわからないらしい」 「そうか」 それっきり、会話が途絶える。 仕事の話はできていたが、逆に、それ以外の話題では会話が成立しない。 そんな状況だった。 一日の捜査が終わった。 もう一つ、黒羽のねぐらは見つかったが、ここも放棄されて久しいものだった。 「また、明日だな」 「ああ、よろしく頼む」 「ヴィノレタで飯でも食っていくか?」 「……」 フィオネが俺を見て、目をそらした。 「遠慮しておこう」 「ラングの事後処理が終わらなくてな」 「……そうか」 「失礼する」 さっと敬礼して、フィオネが去っていく。 やはり、態度がおかしい気がする。 だが、こちらからティアの件を切り出すわけにもいかない。 そう思いながらも、フィオネの思案げな顔を見る度に、秘密を打ち明けたくなってしまう。 一つも得することなどないというのに。 「なあメルト」 カウンターで火酒を舐めながら、メルトに話しかける。 「なあに?」 「……いや、何でもない」 「気になるじゃない、何か悩み事?」 「まあな」 「カイムにしては珍しいわね」 「そうか?」 「いつもは、悩みなんてありませーん、ってすました顔してるもの」 言われてみれば、そうかもしれない。 だが今回は、ティアの命運もかかっている。 そして、不蝕金鎖やジークも巻き込んでしまうかもしれない。 だから、普段よりも顔に出てしまっているのだろう。 きっとそうだ。 「!」 呼子笛の音だ。 席を立つ。 「釣りはいらん」 銀貨を2、3枚置き、店を飛び出る。 どっちだ? あっちか。 迷わず、笛の音が聞こえた方向へ全速力で走り出す。 笛の音が、ブツリと途絶えた。 吹くのをやめたという感じではない。 それは…… 嫌な想像を、振り払って走る。 ぐっと人通りが減る。 さっきの呼子笛の聞こえ具合だと、この通りからどこかの横道に入ったくらいの位置だろう。 走りながら、一本ずつ横道を見る。 違う。 次の横道へ。 次、 次、 ……。 「……」 覗く前から、そんな空気があった。 横道から流れ出す張り詰めた空気。 凄惨な空気。 何度か感じたことがある重圧。 そして…… かすかに聞こえる、獣のようなうなり声。 ──黒羽か。 音を殺してナイフを抜く。 「ぐ……」 暗闇に、翼の生えた人型の影がにじんでいる。 一見して、頑強な骨格と、強靱な〈膂力〉《りょりょく》が伺える。 黒羽だ。 武器などという面倒なものは持っていない。 その代わりに、球形の物体が握られていた。 足元には、一人の人間が倒れている。 羽狩りの制服を着ているが、顔はわからない。 頭部は、黒羽がその手に持っているのだから。 「……」 予想通りの展開だ。 笛の音が途中で止んだのは、やはりそういうことか。 音もなく、黒羽がこちらを〈睨〉《にら》めつける。 「……」 血にまみれた頭部が、無造作に地へ落とされた。 それは、鈍重に弾み、こちらに目を向けて動きを止める。 口には、呼子笛が咥えられたままだった。 「ひどいな」 重心を落とし、ナイフを構える。 こいつは、速さもあるし馬鹿力だ。 まともに行っても勝ち目は薄い。 ここまで間合いが狭まる前に、呼子笛を吹いておけばよかった。 だが、もう遅い。 視線をそらせば、俺は終わりだろう。 ……やるしかない。 決意を決めたのと、黒羽が動くのは同時だった。 瞬くまもなく、黒羽は目の前にいた。 本能だけで、首をそらせる。 爪が…… 恐らく爪が、鼻先をかすめる。 目視などできない。 普通の人間なら、何が起きたか分からないうちに、首が胴体から離れていただろう。 冷や汗が、全身の毛穴から吹き出す。 雷光のように、黒羽が闇夜を走る。 かろうじてナイフで受ける。 散ったナイフの破片が、頬をかすめる。 尋常な速さではない。 だが、それより…… 〈膂力〉《りょりょく》がすさまじい。 何とか爪を横にそらし、地面を転がる。 まずは間合いを取らねば…… 「!!」 だが、黒羽は目の前にいた。 ……しまった。 ナイフごと弾き飛ばされる。 家の壁にたたきつけられ、呼吸が止まった。 ……化物、が。 〈脊髄〉《せきずい》に痺れが走る。 すぐには感覚が戻らない。 それは、一瞬の隙かもしれない。 だが、目の前の化物にとって、それは数人を〈屠〉《ほふ》るに十分な間であるはずだ。 ……終わりか……。 「カイムっ!」 「!?」 抜刀したフィオネが、背後から黒羽に斬りかかった。 「……」 黒羽が消える。 次の瞬間、その姿は身の丈の4、5倍の高さの中空にあった。 そのまま、フィオネを大きく飛び越え…… 着地と同時に、矢のように走り出した。 フィオネが笛を吹く。 何とか立ち上がり、黒羽を追う。 黒羽を追って、フィオネと走る。 「待ちやがれ、バケモンがっ!」 黒羽の行く手に、男が立ちはだかった。 「やめ……」 言い終わる前に、男の頭は刈り取られた。 あっけないにも程がある。 「くそっ」 黒羽めがけてナイフを〈投擲〉《とうてき》する。 背後からのナイフだ。 かわせる速度ではない。 だが── 黒羽は、蝿でも払うように、翼でナイフを巻き落とす。 「……」 「化物化物と言ってきたが……本当に化物のようだな」 「ああ……できれば、登場するのはお〈伽噺〉《とぎばなし》の中だけにしてほしかった」 フィオネと並び、武器を構える。 いつもなら、成功する自分を想像するところだった。 だが、今日ばかりは成功している自分の姿が頭に浮かばない。 黒羽がこちらを向いた。 人間を紙くずのようにひねりつぶす右腕が、だらりと下がる。 不蝕金鎖の若者の血が、だらりと垂れ落ちた。 見れば、顔は人のように見えなくもない。 目に光はなく、どこを見ているかも定かではない。 「っ……」 「来るぞ」 重心を落とす。 人生最後となるかもしれない一瞬。 全てを賭けよう。 「くっ……」 黒羽の重心が揺らいだ。 「が……あ……」 黒羽が頭を抱え、路地に膝をつく。 好機! 一気に間合いを詰め、ナイフを突き出す。 「く……」 黒羽の爪が、白刃を受け止めた。 黒羽と目が合う。 洞穴のような眼孔に、なぜか引き込まれる。 一切の感情を映さないはずの闇に、なぜか言いしれぬ思いを感じていた。 「……」 「??」 黒羽の口が動く。 まるで、死期を迎えた老人が、最期の言葉を呟くように。 「くっ!」 ナイフが払われる。 黒羽が距離を取り、一動作で屋根の上へと飛び上がった。 ナイフは、もう届かない。 「カイムさんっ!」 「黒羽はどこだっ?」 不蝕金鎖の面子と、羽狩りが駆けつけてくる。 路地が一気に騒がしくなった。 しかし、黒羽は既に遠く離れたところを飛ぶように逃げていた。 どうしようもない。 しばらくして、冷たい路地には、二つの頭部のない遺体が集められた。 羽狩りが一人、 不蝕金鎖が一人。 「くそっ! こんな……っ!」 「この仇は絶対に取ってやるからな……」 双方合わせて十人程度が集まっていた。 言葉は少ない。 だが、暗く熱い闘志が燃えているのは、子供でも気づくだろう。 肌がひり付くような空気だった。 フィオネは、部下を死なせた責任を感じてか、〈項垂〉《うなだ》れていた。 かける言葉もない。 こっちも一人の死者が出た。 とうとう、他人事ではなくなったのだ。 どちらも、士気が上がっている。 それ自体はいいことだ。 だが…… 脳裏に、何かを言おうとしていた黒羽の姿が浮かぶ。 あれは何だったのか。 全ての要素は、奴が化物であることを示している。 だが、あの〈洞〉《うろ》のような瞳だけが、何かしらの感情を持っていたような気がする。 黒羽…… 一体、何者なのか。 ほとんど言葉を交わさないまま、俺達はヴィノレタに来ていた。 いつもの席に座る。 「大変だったらしいわね」 料理と飲み物を運んできたメルトが、心配そうに言う。 「ああ」 「こっちも、羽狩りも、一人ずつ殺られた」 「そう……」 いつも明るいメルトも、口の中で小さく祈りの言葉を呟いた。 俺とフィオネも、明るい顔はできない。 ティアの件について訊きたいところだが、今日は難しいだろう。 「黒羽のことだが、奴が人間の言葉を喋るという報告はあったか?」 「言葉を喋るというのは、カイムから聞いた話かと思ったが」 「あれは、恐らくラングの話だ」 ティアを襲ったのは、十中八九ラングだろう。 今日遭遇した黒羽と道でぶつかれば、息をする間もなく殺される。 「なら、私も知らないな」 「黒羽が何か喋ったのか?」 フィオネが食事の手を止める。 「いや……喋ってはいない」 「だが、何か話そうとしていた気がする」 「聞きとれなかったのか?」 わずかながら身を乗り出すフィオネ。 妙な食いつきだった。 「何か、と言ってるだろう」 「……そうか……そうだな」 フィオネが姿勢を正す。 扉を開けて入ってきたのは、ジークだ。 足音でわかる。 かなり不機嫌だ。 「景気よく飲んでるか、お二人さん」 「景気は良くないな」 「任務中に酒を飲むことは、防疫局の規則で禁じられている」 「そいつは失礼」 「だが、俺は飲ませてもらおう」 「ご自由に」 「メルト、麦酒と適当に摘むものを」 「はーい」 カウンターに向けて注文を飛ばしたジークが、俺たちに向き直る。 「とうとう、身内に死人が出たな」 「ああ」 「名はガリバルディ……気のいい奴だった」 「娼婦たちからも信頼されていたし、逆に締めるところは締められる奴だった」 「先代……親父の代から、ずっとうち一筋でやってきた男だ」 「そうだったな」 「まあ、天寿を全うできないことは本人も覚悟していただろう」 「だがな……」 「そいつが殺されて、お前は、一体何をやってたんだ」 ドスの利いた声で、静かに、ジークが怒っている。 「……やれることをやっているとしか言えない」 「奴は不運だった、黒羽の目の前に飛び出してしまったんだからな」 「わかってる」 麦酒を乱暴に〈呷〉《あお》るジーク。 「ふう……」 「私も部下を一人失った、気持ちは察する」 「そうだったな」 「もちろんカイムや隊長さんが怠けてると言うつもりはない」 「だが、黙っているわけにもいかん」 懐から、小さな瓶を取り出す。 「うちのには、全員これを使わせる」 これは…… 暗殺に使われる、かなり強い毒だ。 少しでも身体に入れば、どんな大男でもすぐに死に至る。 「それは?」 「……毒だ」 「待ってくれ!」 フィオネが立ち上がる。 「私が受けている命令は『黒羽の捕獲』だ」 「手に負えないなら、殺すしかないだろう」 「これ以上犠牲を出したくない」 「それに、犠牲に見合う利益を、あんたらは提示できるのか?」 「だが、黒羽が殺されるのは困る」 「おたくの部下は、仲間を殺されても黙っていられる人格者揃いなのか? そいつは立派なことだ」 二人が静かに〈睨〉《にら》み合う。 組織、そして部下を背負う者同士だ。 譲れないものも多いだろう。 しかし、ここで連携が御破算になるのだけは避けたい。 「わかった、ジーク」 「俺もこれは持っておくが、どこで使うかは俺に任せてもらおう」 「俺一人で黒羽と対峙している時は使わないようにする」 「……いいだろう」 「身内に被害が出なければ、こっちは満足だ」 「どうだ、フィオネ?」 「俺たちで、先に黒羽を捕まえればいいだけの話だ」 「目的遂行のために、手段を選ばない組織と手を組み続けるわけにはいかない」 「当たり前のことだ」 「貴殿らにとっては当たり前でも、我々にとっては違う」 「こちらはこちらで、やらせてもらう」 「あくまで捕獲にこだわるか」 「命令のために犬死にする覚悟がある奴らが揃ってるなら、羨ましい話だな」 からかうようにジークが言う。 「これは私の分だ」 銀貨数枚をテーブルに置き、フィオネは大股でヴィノレタを出ていった。 「お堅いことで」 「いつものことだ」 「それより、お前も死んだりするなよ」 「もし黒羽に殺されたりしたら、先代に〈倣〉《なら》って、娼館の風呂の椅子を墓石にしてやるからな」 「それは勘弁してほしいな」 「今日こそ、黒羽を捕縛するぞ!」 「仲間の死を無駄にするな!」 「おおおっっ!」 「これはガリバルディの弔い合戦だ」 「気合いを入れていけ」 「おう!」 街を巡回する不蝕金鎖の人間、そして羽狩りが目に見えて増えていた。 住人たちも、何かが起きているのに気づいている。 「羽狩りが増えたな」 「そっちもな」 今日も変わらず、フィオネは口数が少ない。 顔には疲労が色濃く出ていた。 「最近、少しおかしいんじゃないか?」 「何が?」 「寝ていないように見えるが」 「ラングの事務処理が終わっていないのだ」 また、この返しだ。 本当なのか嘘なのか。 「体調を整えておかないと、命取りになるぞ」 「わかっている」 会話も、一応形にはなっているものの中身はない。 「我々も調査を急ごう」 「黒羽を殺させるわけにはいかない」 「ああ……」 気乗りしないまま動き出す。 こんな状態で、どこまで成果が上がるだろうか。 状況が全く進展しないまま、数日が過ぎた。 黒羽は現れていない。 両組織の士気は高いままだが、空振り続きに苛立ちが募っていた。 俺とフィオネも、打つ手がなくなっていた。 地図から想定されるねぐらは全て回ったが、決定的なものは見つからない。 もはや、運を天に任せ、黒羽と遭遇する機会を待つしかないように思える。 「あら隊長さん」 「……」 頷くだけのフィオネ。 いつもの席に座る。 「何か、景気の良くなりそうなものを」 「はいはい、あなたたち、二人とも景気悪そうだものね」 「ああ、まるで互いに浮気がばれないようびくびくしている夫婦みたいよ」 「冗談につきあう元気もない」 フィオネにいたっては、口を開く元気もないらしい。 こんな状態で黒羽に遭遇すれば、餌になるだけだ。 「体調はどうだ」 「あまり、良くはないな」 あまりどころか、かなり悪化していた。 目の下には隈ができ、頬も僅かに〈痩〉《こ》けている。 瞳の奥では、様々な感情が斑に入り乱れていた。 〈憔悴〉《しょうすい》を絵に描いたような顔だ。 血の気のない白い手は、茶を飲むでもなく陶杯を握っては離す。 ……やはり、ティアの問題だろうな。 仲間である俺が、羽つきを匿っている。 この事実にフィオネが気づいているとしても、羽狩りはティアを捕まえようとはしていない。 もし、フィオネが自分の胸の内に留めているのだとしたら…… 俺個人としては、当然助かる。 だが、生真面目なフィオネが抱えるには、あまりに大きい秘密なのではないだろうか。 こいつの考え方からして、組織に対する裏切りだと感じているに違いない。 〈憔悴〉《しょうすい》もするだろう。 「……」 ……俺から、明かすべきか? 馬鹿馬鹿しい考えであることはわかっている。 冷静に考えれば、話す意味など少しもない。 だが…… フィオネがティアのことを知っているとすれば、なぜ黙っているのか。 それなりの信頼関係を結んだ仲間だからか? 情が移ったからか? いや、フィオネに限ってそれはないだろう。 羽狩りという仕事に誇りを持っているフィオネのことだ。 情を優先させることはないはず。 とすれば、黒羽の捕獲を優先するためだろうか。 だとしたら、完全に逆効果になっている。 黒羽を捕縛するためにも、目下の問題は解決しておきたい。 「……」 「……どうかしたか?」 「いや……」 何より…… これだけ消耗しているフィオネを前に、黙っているのがいいのか、迷いがあるのも事実だ。 フィオネにとって、信頼できる相手であり続けるために。 もしいつか、どちらかからこの件に触れなくてはならないのであれば、俺から言うべきではないだろうか。 フィオネから切り出させれば、俺たちが築いてきた信頼は崩壊するだろう。 ……。 信頼できる人間は、この牢獄では貴重だ。 ここでは、日々、住人全員が全員を相手に限りある財を奪い合っている。 だからこそ、不蝕金鎖でも人間同士の信頼関係を最も大切にしているのだ。 信頼に対する裏切りには、最も厳しい制裁が待っている。 これは鉄の掟だ。 フィオネとは、短い時間とはいえ、一緒にやってきた仲だ。 もしかしたら、俺がティアのことを告白しても、受け入れてくれるかもしれない。 「……」 いや、それは幻想だ。 甘い幻想に頼ってはいけない。 結果を良い方向に見積もってはいけない。 辛いとき、苦しいとき、人は往々にして希望的な結末を夢想して無謀な道を選び、玉砕する。 それは単に、苦悩から解放されたかっただけのこと。 牢獄で散々見てきた、よくある滅亡の形だ。 楽観しては、絶対にいけない。 「もー、この人らは」 ふと顔をあげると、メルトが腰に手を当てて立っていた。 「今日はいつにも増して料理のし甲斐がないみたいね」 気づくと、皿の上にはもう何も載っていなかった。 いつの間にか、すべて食べ終えていたらしい。 俺とフィオネは一瞬見開いた目を合わせたが、すぐ、互いにテーブルに視線を落とした。 はけ口の見えない焦燥だけが募っていく。 日記を閉じる。 日記を書くことをこんなに辛く感じたことは、これまでになかった。 文字にすることで、一つ一つの事実が否応なく、はっきりと意識される。 忘れることが許されない現実が、逃げられない現実が、紙の上にインクの形で固着する。 くっ…… 心臓の周りの胸が鋭く痛む。 深呼吸することができない。 浅い呼吸を繰り返す。 水を飲む。 ゆっくり喉に流し込む。 冷たい液体が、食道を通って胃に流れ込むのがわかる。 時間をかけて、もう一度息を吸う。 ……。 それでも、頭の中を同じ考えがぐるぐると巡った。 黒羽。 対峙した黒い化物の、あの容顔……あの目……あの唇…… 変わり果てたとはいえ、記憶の中のあの人の姿と、残酷なほどに重なる。 ……兄さん。 クーガー兄さん。 いつも私の前を歩いていた兄。 勉強も剣も、いや、あらゆることを兄から教わった。 私の全ては、兄の受け売りだ。 勉強はペンの持ち方から、剣は構え方から手入れの方法まで、全て兄を真似た。 兄は厳しかったが、いつも愛情深く私に接してくれたものだ。 面倒がることもなく、私の少しの上達にも、自分のことのように喜んでくれた。 結局、一度も勝つことはできなかったが、兄に剣を習うのは楽しかった。 防疫局に入ったのも、兄の背中を追ってのことだ。 言うなれば、人生の指針であり、道標だった。 尊敬すべき、誇るべき兄。 クーガー兄さん。 兄の話を友人にするとき、私はいつも少し鼻が高かった。 兄さんは、それでも私を置いていくことなく、振り返り振り返り、私がついていくのを待っていてくれた。 私が防疫局に入った時、兄は既に隊長だった。 兄の七光りと言われぬよう、必死に剣術や法を学んでいた頃── 彼は突然いなくなった。 任務中の事故ではない。 夜中に、〈忽然〉《こつぜん》と姿を消した。 だからこそ、いつか帰ってくると思いもし、一方ではいつ兄の死体が出るかと恐れてもいた。 だが、どちらの報せもなく月日だけが流れた。 「兄さん……」 立ち上がり、暖炉の上の剣に触れる。 初めて、カイムと一緒に黒羽を追いかけたとき。 似ていると思った。 風貌。 高かった背。 広かった背中。 記憶の中の兄には翼などないが、もしやと思った。 そして、直接の対峙。 紛れもない。 あれは兄さんだ。 誰が否定しようとも、私にはわかる。 クーガー兄さんだ。 なぜ、あのような姿に成り果ててしまったのだろう。 クーガー兄さんをあのような姿にしたのは誰だ。 兄さんは私にどうして欲しいのか。 兄さんは……元の姿に戻れるのか。 だが…… 〈恩賜〉《おんし》の剣を握る。 黒羽は何人もの人を殺している。 見逃すわけにはいかない。 ……私が、兄さんを捕える? ずっと尊敬してきたあの人を? だがこれは、ルキウス卿直々の命令だ。 栄えある任務だ。 このノーヴァス・アイテルを守るため、人々の暮らしを守るため、命を賭けるに値する崇高な任務なのだ。 自分に言い聞かすが、迷いは晴れない。 やはり、私の心は、兄を見逃すことを望んでいる。 だが、そんなことが可能なのだろうか? 幸い、多くの情報を持ち、黒羽の一番近くに迫っているのは私とカイムだ。 不蝕金鎖よりも、防疫局よりも早く黒羽に至ることはできるだろう。 だが、カイムが黒羽を逃がすとは思えない。 彼にとっては、不蝕金鎖への裏切りになる。 ならば、私一人で行動するか? それは最後の選択肢だ。 カイムが味方についてくれることほど、心強いことはない。 どうすれば、彼に納得してもらえるか…… 「……」 ひとつだけ、方法はある。 だが、悪魔の選択だ。 人として、恥ずべき選択だ。 カイムには確実に軽蔑されるだろう。 相手の弱みにつけこんで、法を曲げる。 貴族が、役人に対してよくやる手だ。 役人も、住人に対してよくやる手だ。 防疫局でも、以前はよくあったことだった。 ルキウス卿が責任者となり、私が隊長になって、精一杯排除してきたやり方だ。 羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を見逃す代わりに、金品を受け取る。 羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を見逃す代わりに、女を手込めにする。 反吐が出る。 こんなやり方をしていたら、住人に信頼なんてされない。 住人の信頼があってこそ、羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護は進むのだ。 なのに、それと同じことを。 私は、 カイムに求めようとしている。 これでいいはずがない。 だが……兄は救いたい。 恐らく、カイムは了承するだろう。 仕方ないな、と。 カイムらしい現実的な判断で。 そしてできることなら…… 私に対する信頼を保ったまま。 私の行為すらも、仕方ないなと受け入れてくれるかもしれない。 ああ。 これは、やはり甘えだな。 いつの間に、こんなに私はカイムに甘えるようになってしまったのだろうか。 どうしようもないな、私は。 隊を裏切り、カイムに卑怯な取り引きを持ちかけ、あまつさえ彼に嫌われまいとしている。 なんと欲深い人間だ。 この日のフィオネは、なぜか最初に発見した黒羽のねぐらの再調査を申し出てきた。 どうしても確かめたいことがあるらしいが…… それにしては、思い詰めた表情をしていた。 道すがら、会話らしき会話もなく、ただ歩を進める。 横目に見るフィオネの顔は、見事なほどに〈憔悴〉《しょうすい》していた。 メルトに言わせれば、俺も似たようなものらしいが……。 「着いたな」 「ああ」 散乱した羽根の上に立つ。 相変わらずの、むっとするような独特の匂い。 息を潜めているのか、そもそもいないのか、死に絶えたのか、周辺の住人の気配は感じられない。 時折聞こえるのは、〈鴉〉《からす》か何かの〈陰鬱〉《いんうつ》な鳴き声だけだ。 「で、何を調査するんだ?」 「……」 こちらを見るフィオネの表情が、苦渋に歪んでいる。 まずい。 俺の直感がそう告げた。 これは…… 何か重大な、言い難いことを切り出そうとしている顔だ。 「羽根の新旧でも調べるか?」 「いや……」 「カイム……聞いてくれ」 「……」 「単刀直入に行こう」 「ティアという羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を知っているな?」 ティアの名前を知られている以上、誤魔化しは効かないだろう。 「……………………ああ」 「カイムが、匿っているのか」 「そうだ」 「俺個人が、俺個人の責任で匿っている」 不蝕金鎖は関係ない。 そう言いたかったが、言い訳めいているような気がして、口から出る直前に止めた。 「黙っていて、すまなかった」 代わりに謝ることにした。 フィオネとの間の、フィオネが俺に寄せてくれた、信頼を損ねる行為を隠していたことについて。 「そうか……」 「ティアは、どうなる?」 フィオネは腕を組み、目を〈瞑〉《つむ》った。 なぜ、即答しないのか? 俺の知っているフィオネならば、言下に保護すると答えるはずだ。 ……。 …………。 「黒羽の件で協力関係を結んだ頃、羽つきを匿っているかどうか尋ねたはずだ」 「あの時は……もう?」 「…………ああ」 「そうだったか……」 フィオネが小さく息を吐く。 妙に落ち着いていた。 「私は、ずっと騙されていたというわけだな」 フィオネの口調は、嫌味を含んでいるわけでもなく、罵倒するような勢いもなかった。 いっそ、激怒してくれたほうが話は簡単だ。 「言葉もない」 俺は、当然の選択としてフィオネを騙したし、今でも間違いだったとは思わない。 しかし俺の胸には確かに罪悪感がある。 まさか、羽狩りの女隊長と、ここまでまともな関係を持つとは思わなかった。 「なぜ、私に嘘を吐いてまでティアさんを匿う?」 「やはり恋人なのか?」 「まあ、そんなようなものだ」 「……なるほど」 頷くフィオネ。 ……腕を組んで目を〈瞑〉《つむ》っている。 フィオネなら、これまでにもきっと何人もの羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の恋人同士や夫婦を別れさせてきたのだろう。 そのことを、思い出しているのかもしれない。 「だが、それだけではないんだ」 「違う」 「では、なぜ一緒に住んでいる?」 「二人暮らしではないのか?」 「話せば長くなるのだが……」 「ティアは普通の羽つきではない」 「どう違うんだ?」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》があった日、空が見たこともない色に光ったのを覚えているか?」 「え……」 フィオネが思案顔になる。 「いや……覚えていないな」 「だがそれは、《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》と呼ばれている現象だろう?」 「そうだ」 「俺の知っている限りで、ティアは過去に二回、その時と同じ色で光っている」 フィオネが目を丸くする。 だが、すぐに鋭く細められた。 「そんな話で納得すると思ったか?」 〈睨〉《にら》みつけられる。 「全て本当の話だ」 「俺も、初めて見たときは目の錯覚かとも思った」 「だからこそ、匿って様子を見ていたんだ」 「だが、二度目にこの目で見たときは、疑うのをやめた」 「あいつは光るんだ」 「そんな、馬鹿な……」 フィオネが、困惑気味に眉を歪める。 さすがに、すぐには信じてもらえないだろう。 「ティア殿は、自分の意志で光るのか?」 「本人は全く覚えていないようだ」 「どこが光るんだ?」 「全体、だな」 「全身が、包まれるようにその光が発せられていた」 「光る、羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》か……」 「これまでに、そういった羽つきを見たことがあれば教えて欲しいんだが」 「いや、そんな事例は聞いたことがない」 俺の話のあまりの突飛さに、フィオネも困惑しているようだ。 「前にも話したと思うが、俺は〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で人生を壊された」 「家族を亡くし、家を失くし、牢獄で生きることになったんだ」 「……」 「これは俺の勘でしかないが、ティアは〈大崩落〉《グラン・フォルテ》に何らかの関係があると踏んでいる」 「だからこそ、あいつを匿っているんだ」 「気持ちは……」 「いや、だとしても、匿うのは法に反している」 「無理を承知で頼むんだ」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》とティアの関係が見えてくるまで、保護を待ってもらえないだろうか」 「……」 「頼む」 「都合がいいことを言っているのは、自分でもわかっている」 「だが、このことで、フィオネとの協力が上手くいかなくなるのが残念だとも思っているんだ」 「甘い言葉をかけるな」 「紛れもない本心だ」 「……」 フィオネが、黙然と腕を組む。 言いたいことは全て言った。 ……フィオネは、どんな判断を下すだろう。 彼女の潔癖さを考えると、ティアを見逃さない可能性は高い。 そのとき、俺はどうするのか。 ティアを守るのか。 それとも、ティアを見捨てて傍観するのか。 「ふう……」 フィオネが大きく息を吐いた。 「……」 じっとフィオネの瞳を見つめる。 「さっき」 「私は『ずっとカイムに騙されていた』と言ったな」 「ああ」 「……私も似たようなものかもしれない」 「?」 似たようなもの? 何を言っているんだ。 「ここ数日、悩んでいたのは別の件だ」 「いや、もちろんティア殿の件でも悩んではいたが」 「もっと大きな問題があるのか?」 「黒羽のことだ」 黒羽の? ラングの裏切りはもう決着が着いた。 今更、悩むことがあるのか? 「黒羽は……」 言葉を切り、一瞬の〈逡巡〉《しゅんじゅん》を見せる。 だが、意を決したように口を開いた。 「黒羽は、恐らく私の兄だ」 「何?」 黒羽が、フィオネの……? フィオネの言葉を、すぐには飲み込めない。 「兄の名は、クーガー・シルヴァリアという」 「今私たちがいる、このねぐらは、私と兄にとって思い出の場所なんだ」 初めてこの場を訪れたときのフィオネの様子を思い出す。 何かを考えているような様子だった。 「私が初めて防疫局で仕事をしたとき、当時隊長だった兄と共に、ここで一人の羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護した」 「肋骨まで浮き上がった、貧しい子供だったのを今でも覚えている」 「……」 「二人で黒羽を追ったとき、どこか面影があるとは思っていたんだ」 「そして、先日対峙したときに悟ったよ」 「黒羽は、私の兄だ」 「そうか……」 なるほど、夜も寝れなくなるわけだ。 フィオネは、兄は行方不明になったと言っていたはず。 こんな形での再会になるとは。 「私は、兄に憧れて防疫局に入った」 「ずっと、物心ついた時から、兄は私のお手本だったのだ」 目を〈瞑〉《つむ》り、フィオネが思い出を語る。 それは、ありふれた仲の良い兄妹の話だった。 「打ち明けられて良かった」 「ずっと、胸につかえていたのだ」 フィオネが脱力したように微笑む。 もしかしたら、俺と同じような〈鬱屈〉《うっくつ》を抱えていたのかもしれない。 「なぜ、そのフィオネの兄貴が黒羽に?」 「私こそ知りたい」 静かな怒りを含んだ口調。 「なぜ、兄さんが、こんなことに……」 唇を強く締め、眉をしかめる。 身近にいた〈憧憬〉《しょうけい》の対象。 背中を追っていた相手。 ましてやフィオネは、俺とは違って、尊敬に近い感情を持っていたのだ。 その兄が黒羽などという化物になり、あまつさえ人殺しまでしている。 それも、一人や二人ではない。 これで、衝撃を受けない方がおかしい。 「私たち兄妹が、羽化病になった父を治癒院へ連れて行った話はしたと思う」 フィオネが、何かふっきれたように再び口を開く。 「ああ、聞いた」 「淡々と治癒院に連れて行くよう言った、父の姿を今でも思い出す」 納得はできないが、その考え方の高潔さは理解できる。 大した人だ。 だがフィオネは苦しかっただろう。 彼女は、その苦しみを乗り越えてきたのだ。 「私が父から学んだのは、公平無私であれということだ」 「言い換えれば、役人として権力を持つということの覚悟だと言ってもいい」 そこまで言って、フィオネが下唇を噛む。 「……だから」 「だから、こんなことは言いたくないんだ」 「私の〈矜持〉《きょうじ》を全て捨てて頼むんだ」 フィオネが俺を見つめる。 「黒羽を、逃がしてくれないか」 「……なんだと?」 「いや、捕らえるまでに、いくらかの猶予をくれるだけでもいい」 「……ティア、という羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》についても、同じく猶予を持ちたいと思う」 「取り引きか」 「私は卑怯だ。役人にあるまじき人間だ」 「だが、頼む」 そう言ったフィオネは、小刻みに震えていた。 目には涙が浮かび、きつく噛んだ下唇には血が浮かんでいる。 悔しさ、悲しさ、自分がこれまで頑なに守ってきたものを否定する言葉。 フィオネの気持ちは、痛いほど伝わってきた。 天涯孤独になったところで見つけた唯一の家族だ。 ましてや尊敬する兄。 一体どうしてあんな姿になってしまったのか。 どうにかして元に戻す方法はないのか。 手を尽くして、それを探したいと思うのは自然なことだ。 ……父親の人生から公平無私であることを学んだフィオネ。 そのフィオネが、ティアの件を交換条件に出してまで、俺に頼んでいる。 無念さが痛いくらい伝わってくる。 それに、この取り引きは俺にとっても悪いものではない。 ティアが羽狩りに追われていては、ほとんどの行動が制限されてしまう。 断る理由はない。 「わかった」 「本当かっ?」 「ああ」 「ただ、全面的には難しい」 「不蝕金鎖の連中に話しても、納得してもらえないだろう」 「私だって、防疫局の隊員には言えない」 「だから、私たち二人でやるんだ」 「防疫局より、不蝕金鎖より早く兄を見つけよう」 フィオネが意気込んで言う。 「まあ、そこまでは上手くいったと仮定しよう」 「だが、あれだけ強い相手だと手加減ができるとは思えない」 「自分の命と引き換えに、黒羽を守るつもりはないぞ」 「それは仕方ないと思う」 「早まらないでもらえれば、それだけでも私としてはありがたい」 「わかった、約束しよう」 「……ありがとう」 「話を聞いてくれたことに、心から感謝する」 フィオネの目が潤む。 「カイムは……」 「卑怯な取り引きを持ちかけた私を、軽蔑するだろうな」 「軽蔑はしない、当然の判断だ」 それを、自分の罪であるかのように告白したフィオネにこそ、むしろ好感を抱いていた。 牢獄にはない、圧倒的な高潔さだ。 「……そうか」 俺の言葉に、フィオネは安心した表情を見せた。 強張っていない顔を見るのは、ずいぶん久し振りのような気がする。 「防疫局の仕事を、以前、運命だと言ったことがあると思う」 「ああ」 これだけ因縁が深ければ、確かに運命だと考えたくもなるだろう。 そう簡単に抜けだせるしがらみではない。 「踏みとどまっていれば、いつか、きっと状況は好転すると信じている」 「逃げ出すことはしないし、許されない」 「どんな困難が待ち受けていたとしても、絶対に解決して乗り越える」 フィオネが天を仰いで目を〈瞑〉《つむ》る。 これまでの人生や家族の犠牲を否定しないために、フィオネは『運命』という言葉を使っているのだろう。 あるいは、辛い毎日から逃げ出さないよう、運命という鎖を自分で自分に巻きつけているのかもしれない。 ……今、指摘するのはやめておこう。 「フィオネ。あまり入れ込むと視野が狭くなる」 「時には、一歩引いて冷静に考えるのも大切だ」 「……」 「そう、だな。気をつける」 大きく息をつく。 「俺にも兄がいたが、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時に他の家族と一緒に落ちた」 「俺のすぐ目の前でだ」 「ご家族としか聞いていなかったが、そうか、カイムにも兄弟が」 「あの時のことは今でも時々夢に見る」 「フィオネが、冷静になるのが難しいこともわかる」 「だが、今の俺たちは運命共同体だ」 「どちらか一人が冷静じゃない状況は、相手を危険に陥れる」 「運命共同体か……確かにそうだ」 「まさか、カイムとこんなことになるとは思っていなかった」 「初めは……」 「初めはどうした?」 「いや、悪口だ、忘れてくれ」 「ははは、相変わらず正直だな」 二人で軽く笑い合う。 と、フィオネが俺に手を差し出してきた。 俺も手を出し、フィオネの手を握る。 「頼んだぞ、カイム」 「ああ」 この俺が、羽狩りとこんな風に握手する日が来るとは想像もしなかった。 ジークの部屋で最初に握手したときの素っ気なさとはまったく違う力が、フィオネの指には込められていた。 フィオネの瞳が、真っ直ぐ俺を見つめる。 フィオネの兄のこと、ティアのこと。 互いの抱える思いを共に背負うという、形だけではない契約の握手だ。 どちらからともなく、俺たちは頷いた。 「さて、これからだが」 「どうする? 戻るか」 「いや……」 何かを見つけたのか、フィオネが床に散らばる黒い羽根に視線を巡らす。 俺もつられて床を見る。 「この羽根を見てくれ」 フィオネが拾った羽根を見る。 まだ黒々とした艶を放っている羽根。 枯れ葉の上に落ちた新緑の若葉のように異質だ。 二人で探すと、新しい羽根が5枚見つかった。 「ここに、来ていたようだな」 「ああ……」 フィオネが、更に周囲を捜索する。 「……これは」 「どうした?」 フィオネは壁を見つめている。 見ると、そこには、ナイフで削ったような跡があった。 それも、最近掘られたもののようだ。 「フィ……オ……」 「やはり、そう読めるか」 「フィオとは、兄が私を呼ぶときの名だ」 「つまり、これを書いたのは、黒羽?」 「……恐らく」 壁に、フィオネへのメッセージを残している。 ということは…… 「ここにいた時は、人間らしい頭だったってことか」 「少なくとも、私の名前を覚えている程度にはな」 「先日も黒羽は何か言おうとしていた」 「まだ理性らしきものが残っているのかもしれない」 「話も、できるかもしれない」 「もしできるなら、説得も……いや、そこまでの理性はないか」 フィオネが苦しげに顔を歪ませる。 家族としては兄を逃がしたい。 羽狩りとしては黒羽を捕まえたい。 そう簡単に割り切れるものではない。 「何にしても、会ってみないことにはどうしようもない」 「そうだな……」 「打てる手は、二つある」 「一つは、俺とフィオネが交代でこの部屋を見張る」 「いずれまた、黒羽が来るかもしれない」 「交代要員も使えない中、私たち二人でか……」 「黒羽と一対一で会える、という意味では確実ではあると思う」 「危険もあると思うが、このスラムでじっと息を潜めて待つだけだ」 もちろん、見張っている間に寝るわけにはいかないので、交代で帰っている間はほとんど睡眠や食事に費やされることになるだろう。 ここで待ち伏せている以外のことはほとんどできなくなる。 「部下の手前、難しいかもしれない」 「いざとなるまで、その手は取っておきたいと思う」 「……もう一つは?」 「さっきの壁に、フィオネと黒羽にしかわからない言葉を残すんだ」 「日時と場所を指定しておけば、会いたいという意思が伝わるんじゃないか」 「よし、その線で行ってみよう」 言うが早いか、フィオネは剣を抜き、壁の前に陣取った。 フィオネが、剣の先で壁を削り文字を刻んでいく。 脇目もふらず、一心に。 まるで、一文字一文字が、黒羽の理性を取り戻すまじないであるかのように。 見ると、丁寧な字で『清廉の鏡』と刻んであり、明日の日付、日没時、娼館街の外れの路地名が書いてあった。 文字を書き終え、フィオネが立ち上がる。 「親父さんの〈渾名〉《あだな》か」 「ああ、これなら、私が書いたとわかってくれるはずだ」 「場所は娼館街の外れ、時間は日没……まあ妥当だ」 「人目につくところは、周囲に被害が及ぶ可能性がある」 「それに、防疫局や不蝕金鎖の面々に見つかれば、呼子笛を吹かれてしまう」 「かといって、人気がなさ過ぎると、いざというときに助けがない」 「その通りだ」 「ある程度場所を指定して、あとは私が一人で歩いていれば、何らかの進展があるだろう」 「囮になるつもりか」 「こちらから会いたいと言っているんだ、本人が出るのが礼儀だろう」 「命の危険があるぞ」 「もとより承知の上だ」 こだわりもなく笑う。 「明日に来なかったらどうする?」 「待つさ」 「来てくれるまで、いくらでも待つ」 そう言い切ったフィオネの顔には、悲愴な覚悟が満ちていた。 部屋に戻ったときには、すっかり日も暮れていた。 フィオネも一緒だ。 「ここだ」 「ティアさんもいるのか?」 「ああ」 「あまり意識しないでいてくれると助かる」 「わ、わかった」 ティアが緊張するならともかく、幾多の羽つきを狩ってきたであろうフィオネの方が緊張している。 「俺だ」 「カイムさん」 扉が開き、ティアが俺を見る。 「おかえりなさ……」 「ひっっ!」 フィオネと目が合って、飛び上がった。 「は、羽狩り……さん?」 「い、いらっしゃいませ」 ガチガチに緊張している。 これでは、ティアを羽つきだと知らなくても疑いを持つだろう。 「心配するな、フィオネは仲間だ」 「な、仲間?」 「お前を狩ったりはしない」 「そうなんですか? 羽狩りさんなのに?」 「ああ」 「とにかく、中に入れろ」 「し、失礼しました」 茶を淹れつつ、ティアが口を開く。 「寿命が10年は縮まりました」 「ついにカイムさんがわたしを捨てる日が来たか、羽狩りさんに拷問にかけられたのかと……」 「羽狩りさんはやめてくれ、フィオネだ」 「あ、すすす、すみませんっ」 「フィオネさん、ですね。きっ、気をつけます」 すっかり怯えていた。 「あと、防疫局は情報提供者を拷問にかけたりはしない」 ため息を一つ。 「カイムは、我々のことを一体どのように伝えてるんだ」 「一般的な印象だろう」 茶を飲みながら、ティアに事情を話す。 最初は怯えていたが、少しずつ安心してきたようだ。 ティアがフィオネに言う。 「実は、わたしも黒羽に襲われたかもしれないんです」 「何?」 「断定はできないがな」 「本人も、襲われたときのことを微塵も覚えていない」 「だから俺たちの捜査には役に立たない」 「確かにそうですが……」 「でも、邪魔はしないのでお話を聞かせてください」 「できることがあれば、お手伝いもします!」 思えば、ティアは二度黒羽に殺されているのだ。 その意味では、因縁浅からぬ相手でもある。 「フィオネ、いいか?」 「私は、構わない」 「じゃあティア、邪魔はするなよ」 「はいっ」 ティアが話を聞く態勢になる。 「その、黒羽の話をする前につかぬ事を聞くが」 「ティア殿は、ヴィノレタにも出入りしているようだが、周囲には何と説明しているのだ?」 「ティアの正体は、知っている奴は知ってる」 「私の知人もいるのか?」 「誰が知っているかは答えられない」 「……なるほど」 フィオネが憮然とした顔をする。 まあ、誰が知っているかは大方察したのだろう。 「大多数の人間には、ティアは俺の妹ということにしている」 「はい、ユースティア=アストレアです」 「そうか……」 「私が言うのも何だが、その身体では仕事もできまい」 「日頃はどうしているのだ?」 「この家の家事は全部任せている」 「なるほど」 室内を見廻して、フィオネがかすかに眉を〈顰〉《ひそ》める。 散らかっていると言いたいのだろう。 思えば、フィオネの家はしっかりと片付けられていた。 「これでも、ティアが来てましになったんだ」 「まだ、何も言っていない」 「目が言っていた。それとも、違うことを考えていたか?」 「いや……」 「ちっ、違うんです! 普段はもっと片づけているんですが」 「大掃除をしようと思ったら、捨てていいものとそうでないものがわからなくて」 道理で散らかっていると思った。 「すぐに片づけます」 「こっちの話は聞かなくていいのか?」 「大丈夫です、お掃除をしながら伺います」 ティアが片付けを始める。 「さてフィオネ。これからどうするかだ」 「兄が、あの伝言に反応してくれるといいのだが」 「何よりも、一度兄と話がしたい」 「目標はそこだな」 「だが、あの速さと力だ、戦いながらでは難しいだろう」 「それに、向こうが獣のような有り様だと、会話が成立しない」 「うむ、そうなのだ」 「何とか、兄の理性を取り戻させる方法はないだろうか?」 フィオネはまたその端正な眉を寄せて、眉間を険しくする。 皺ができるのではないか、などと余計な心配をしたくなるほどだ。 「あのう……」 「黒羽さんと、お話がしたいんですよね?」 「まあ、そんな穏やかなものではないだろうが」 「だがそういうことだ」 「きっと武器を持たない方がいいんじゃないでしょうか?」 「丸腰で行けと?」 「私が襲われた時も、こちらが無防備だったからか、ゆっくりした動きでした」 「やっぱり、誰でも武器を向けられたらびっくりしますから」 「なるほど」 「それに、お兄さんなら、問答無用で殺されることはないかもしれませんし……」 まあ、一度殺されかけている以上、妹だからって意味の同情はなさそうだが。 「危険だが、やってみる価値はありそうだ」 「獣のような人間の理性を取り戻すのだ、生半可なことでは駄目だろう」 「しかし……」 「カイムが守ってくれ」 「簡単に言うな」 「だが、まあ、いざとなれば俺が守るしかないだろうな」 「頼んだ」 「すまない、私のためにいろいろ考えてもらって」 「い、いえっ、いえいえっ」 手の平を前に突き出して、ぶんぶん振るティア。 羽狩りが羽つきに礼を言っている。 珍しい光景だ。 「あとは、どうやって逃げられないようにするかだ」 「飛んで逃げられたら、話をするどころではない」 これまでの黒羽の動きを思い出す。 「ある程度人が集まると逃げ出しているような気がするな」 「うむ、不思議な話だ」 「血に飢えていて、あれだけの力があるのなら、10人程度の相手は簡単なはずだ」 「だが、割とあっさり逃走している」 「理由はわからんが、正体を見られたくないのかもしれない」 「逃げられては困るわけだから、少人数で接触するに限るな」 「少なくとも、私とカイムが黒羽を追ったときは逃げられた」 「並んで歩くのは避けた方がいいだろう」 「油断はするなよ」 「わかっている」 離れたところにいて、どれだけフィオネの身を守れるのだろう。 正直、自信がない。 「他に何か、黒羽に攻撃をためらわせる方法はないか?」 「瞬きの間、時間を稼げるだけでもいい」 「そうだな……」 フィオネが顎に手を当てて記憶の〈抽斗〉《ひきだし》を片端からあけている。 「兄に理性が残っていることが前提になるが、何か、過去を思い出させるものはどうだろう?」 「どんなものがある?」 「……家を探してみよう」 「とにかくわずかな時間でも稼げればいい」 「わかった」 「どうせ身辺整理もしなくてはなるまい」 「できる限りのものを探しておこう」 身辺整理か。 フィオネも、命を賭ける覚悟のようだ。 「相談できるのは、このくらいか?」 「今のところは」 「よし……」 フィオネが立ち上がる。 「全ては明日の夕方からだな」 「ああ」 「どうする? ヴィノレタで飯でも食っていくか?」 「いや、今日は遠慮しておこう」 「最近、食欲がなくてな」 すげなく断られる。 今日が、最後の晩になるかもしれない。 そう、口に出かかるのを止める。 最後の晩だからこそ、各々の過ごし方があるのだろう。 「今でなくともいいが、食べられるときにしっかり食べておいた方がいい」 「……わかった」 そう言うと、扉を押し開けてフィオネは帰途についた。 「……」 「羽狩りさん、お疲れみたいですね」 「あまり眠れていないようだ」 「羽狩りさんも大変なんですね」 自分が羽つきであることを忘れたわけではないと思うが、脳天気なティアの物言いに少し和む。 フィオネ自身が張り詰めているからか、フィオネがいた周囲の空気までが緊張していた気がするからだ。 「ちなみに、お前のことを見逃してくれる羽狩りはフィオネだけだぞ」 「他の奴に見つかったら終わりだ、引き続き注意してくれよ」 「はい、わかっています」 笑顔で言って、ティアが片付けを再開する。 その背中を見ながら思う。 ティアは、羽が生えてる上に天涯孤独。 お世辞にも恵まれた人生とはいえない。 一方フィオネも家族を失っている。 天涯孤独という意味ではティアと同じだが、フィオネの方が圧倒的に悩みの多い人生を送っていそうだ。 女だてらに荒くれ集団をまとめ、羽狩りの隊長まで務めている。 お上の職の中では不人気な仕事ではあるが、あの若さで社会的な地位も得ていると言っていい。 羽つきのティアとは大違いだ。 だが。 フィオネは『防疫局の仕事は、私にとって運命だ』と言っていた。 頑なだ。 心配になるほどに、フィオネは頑なだ。 思えば、副隊長のラングのときもそうだった。 フィオネは、部下の羽狩り隊員の正しさを信じて疑っていなかった。 フィオネは『運命』だと言っていたが、これはもう、逃れられない呪いのようなものじゃないか。 正しくあるべきだと思っているものは、正しいと信じる呪い。 呪いをかけたのは、父か、兄か…… フィオネ自身か。 最後の希望は、運命である職務で得た情報が、兄を救うことに一役買っていることくらいか。 そのくらいしか、救いが見いだせなかった。 人生の隅々まで、運命という呪いに縛られた女だ。 だが、あそこまで〈憔悴〉《しょうすい》しながらも諦めていないのを見ると、俺も簡単に投げだすわけにもいかない。 ティアの保護を猶予してもらっているというのを、置いておいたとしてもだ。 「……」 フィオネの生き方は不器用で、俺から見れば馬鹿正直だと思う。 だがその馬鹿さは、報われてほしいとも思う。 「カイムさん、これは?」 ティアが小さな小瓶を見せてきた。 ジークから預かった毒薬だ。 「ああ、俺のだ」 「食べ物ですか?」 「味わってるうちにあの世行きだ」 「ふええっ!?」 ティアから、投げだすように差し出された小さい瓶を受け取る。 これを刃に塗って黒羽を斬れば、化物とはいえ、いくらかは弱るだろう。 もちろん死ぬ可能性もある。 それでは、羽狩りを殺さないという約束を破ることになる。 だが…… 家に置いていくほど、楽観的にもなれなかった。 本当にどうしようもなくなったときだけに使おう。 そう決めて、俺は毒薬を懐深くにしまった。 「っっ……!」 見覚えのある、文字。 「……フィ……オ」 その文字を、爪でなぞる。 細い文字に比べ、俺の爪はあまりに武骨だ。 軽い音を立て、壁面が剥離した。 ……もう、触れることすら敵わない。 「フィオネ……」 ──殺せ 「ふざけるな……」 ──穢れた人間を殺すのだ 穢れてなど、いない。 俺達は『清廉の鑑』と呼ばれた父の子だ。 ──殺したのだ 「……!」 「そう……」 そうかもしれない。 ──殺せ ──裏切り者たる、全ての人間を 「くっ……」 俺は、伝えねばならない。 俺が、朽ち果てる前に。 爪で壁をなぞる。 「日付……」 「場所……」 「俺を……待っている、のか?」 「フィオ……」 今日も、不蝕金鎖の面子や羽狩りたちは見回りに精を出している。 彼らの目を避けつつ、俺とフィオネは待ち伏せ場所の路地に向かう。 「カイム、これを預けておく」 布で包んだ棒状のものを渡された。 中を確かめる。 「これは……」 「知っているだろう? 〈恩賜〉《おんし》の剣だ」 「兄の記憶を揺り動かすとしたら、これしかない」 「我が家の者なら、家の名誉と誇りを強く心に刻んでいると思う」 「なぜ俺に渡す?」 「黒羽に武器を向ければ、逃げてしまうかもしれない」 「私は、護身用のナイフ以外は身につけないつもりだ」 「だが……」 「賭けているんだ」 フィオネが穏やかに微笑む。 静かな決意に満ちた笑顔だった。 「……わかった」 「だが、粗雑には扱わないでくれよ」 「金銭的な価値は低いかもしれないが、私たち家族の魂だ」 結局、その魂がフィオネを縛り、正しさという牢獄に彼女を閉じこめているのではないか。 この剣があるからこそ、フィオネは常に正しさに監視され、至らぬ自分を責め続けなければならない。 俺の目には、〈恩賜〉《おんし》の剣が、呪いの象徴にも見えてしまう。 「預かっておくが……」 「後で、フィオネに返せることを祈っている」 「もちろんだ」 「必ず返してもらうさ」 そう言って、ほぼ丸腰のフィオネが囮として立つ。 俺は、〈恩賜〉《おんし》の剣を腰に帯びて物陰に潜む。 「……」 直立不動の姿勢をとるフィオネ。 姿勢が良すぎる気もするが、あれくらいの方が目立っていいだろう。 黒羽は現れるだろうか。 風がゆっくりと雲を押し流し、ふと、月明かりを遮った。 街々の暗がりから闇が這い出し、周囲を浸していく。 ぞわりと、背中を寒気が走る。 闇が悲鳴を上げたかのような、羽音。 黒い鳥が、夜空に融けていく。 この時間に、餌を漁る鳥はいない。 いるとすれば、それは── 鳥ならざる鳥。 闇夜からしたたり落ち、人肉を食む、 ──黒の翼人だ。 冷気に似た存在感が、夜空の一点に凝固する。 そこに、いた── 「……!」 「……っ」 フィオネの目の前に、それが降り立つ。 瞬時に獣臭が路地を満たす。 「あ……あの……」 言葉が出ていない。 フィオネの顔には、興奮と恐怖がない交ぜになった不安定な色が浮かんでいる。 何度も何度も唾を飲みこむ。 「に、兄さん……」 黒羽は応じない。 聞こえていないかのように、微動だにしない。 ……駄目か。 ナイフを握る手に力を込めた。 知らずの間に汗が滲んでいる。 「フィオネです、お忘れですか?」 一歩、黒羽がフィオネの方へ歩を進める。 一歩。 また一歩。 肺が押しつぶされそうなほど重い時間が過ぎていく。 フィオネは、黒羽から目を逸らさない。 黒羽もまた、フィオネを凝視していた。 「!!」 予備動作なしに繰り出された爪。 横ざまに飛んだフィオネの腕から、鮮血が散った。 「!!」 フィオネの反射神経をもってしても、間一髪。 常人ならば、もう立ってはいないはずだ。 「兄さん……」 言葉が通じないのか? そもそも、兄というのが間違いなのかもしれない。 思考が一瞬で頭の中を駆け抜けて一周する。 どうであれ、フィオネの命が脅かされている。 奴は敵だ。 紛う事無き敵だ。 一瞬、呼子笛を取ろうとして、思いとどまる。 不蝕金鎖や羽狩りが黒羽を捕まえても意味がない。 「私です……フィオネです」 「……ぐるる……」 フィオネの懇願に近い声に、黒羽は腕を振り上げることで応じた。 血に濡れた爪が、月光に燦めく。 「ふっ!」 ガラ空きの背中めがけ、ナイフを投げる。 黒羽は背中にも目があるかのような動きで、ナイフをかわす。 「く……」 無様にナイフをもらっていたラングとはわけが違う。 「聞いて下さい、私はフィオネ、あなたの妹です!」 「兄さん! 返事をして下さい!」 フィオネが、更に黒羽に近づいていく。 無茶だ。 路地に飛び出す。 「来ないでっ!」 「諦め……」 「諦めないっ!」 腹から出た声が、路地に響く。 それは、呼子笛より遠く届くような声だった。 フィオネが、また一歩前に出る。 「兄さん、フィオネ・シルヴァリアです!」 「ぐる…………」 地獄の業火を湛えた目で、俺達を〈睥睨〉《へいげい》する黒羽。 「私は、兄さんを助けに来ました!」 「私を見て下さい! お願いですっ!」 黒羽の爪が風に融ける。 フィオネは、回避動作すら取らない。 「っ!?」 肩口の服が吹き飛び、白い肩が露出する。 やや遅れて、血液が流れ落ちた。 「??」 おかしい。 黒羽は簡単にフィオネを殺せたはずだ。 まさか、フィオネの声が聞こえているのか? 「兄さん、私で良ければ殺して下さい!」 「私の血で兄さんが戻ってくるなら、私は構いません!」 「ぐる……ぐるる……」 黒羽の唸りが、やや穏やかになった。 「兄さん、私です」 「お願いです、もう一度、優しい声を聞かせて下さい」 「…………」 黒羽の爪が空を切る。 風圧でフィオネの髪が舞った。 「……」 フィオネは微動だにしない。 瞬きすらしない。 じっと、黒羽のどんな動きも見逃すまいと、両の目を見開いている。 「兄さん、聞こえているんですね」 「良かった……」 「……オ……」 黒羽の口が動く。 「兄さん、フィオです、フィオと呼んでください」 「フィ…………」 僅かに、黒羽の瞳に理性の光が見えた。 もう少し。 もう少しだ。 「え……?」 「なっ!!」 「…………」 無数の足音が近づいてくる。 クソが。 「兄さん、逃げてくださいっ」 「このままじゃ殺されますっ」 「フィ…………」 「……オ……」 「早くっ!」 「早くしてくださいっ!」 黒羽は動かない。 呆けたように立ち尽くしている。 近くから遠くから、こだまのように呼子笛の音が響き合う。 両組織の男たちが、路地に殺到した。 「やめろっ、少し待てっ!」 「カイムさん、退いて下さいっ」 「矢を射かけろっ」 羽狩りが矢を〈番〉《つが》え、不蝕金鎖の男たちがナイフを振りかぶる。 「やめろっ!」 「兄さんっ!!」 「フィ……オ……ネ……」 通り雨が来たかのような錯覚を覚えた。 矢やナイフが、黒羽めがけて降り注ぐ。 「フィオ!」 信じられないことが起きた。 黒羽が、フィオネに覆い被さったのだ。 黒羽の背中が、ハリネズミのようになる。 「……ぐ……」 「ぐ……ぐ……」 「手前ぇ、隊長を放せっ」 「に、兄さん……」 「ああああっっ!!」 「あぅっ!!」 黒羽がフィオネを放り出し、追手に向う。 「ぐるるるるるっ!」 黒羽が、背中に刺さったものを無造作に払う。 粘液質な黒い血液が噴き出した。 「毒が効いてないのか!?」 「……ぐるるぅぅ……」 羽を大きく震わせると、黒羽は大きく跳躍する。 黒羽の逃走線上にいた連中が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。 それでいい。 〈徒〉《いたずら》に死者を増やすことはない。 黒羽は建物の壁を蹴り、屋根の上に身を躍らせた。 明らかに動きが鈍い。 人外の運動能力ではあるが、かつての俊敏さはなかった。 追いつける。 「フィオネ、行くぞっ!」 返事がない。 フィオネは、路地にへたり込んだまま、呆然と遠ざかる黒羽の背中を見つめている。 一人で走り出す。 頭の中に地図を描く。 黒羽の進行方向と、今までに発見したねぐらの位置を検証。 一箇所が当てはまる。 それは、フィオネが思い出の場所だと言ったねぐらだ。 「……」 感傷に似た感覚が胸をよぎった。 黒羽は、フィオネの残した書き置きを見たはずだ。 つまり、奴はもう足が着いたねぐらへ帰ろうとしている。 常識ならあり得ない。 しかも奴は、身を挺してフィオネをかばうほどの理性を取り戻していたのだ。 もしかすると、奴は…… 「くそっ」 黒羽に理性を取り戻してほしいのか、そうでないのかわからなくなった。 化物は、最後まで化物でいてくれれば話が楽なのだ。 「はぁ、はぁ……」 近道を駆使して駆け抜けた。 黒羽が、例のねぐらに帰るなら、ここで路地に下りるのが近道だ。 肩を上下させつつも、息を整えようと深呼吸する。 「……」 さあっ、と埃を吹き流す風が吹く。 月を隠していた雲が割け、凍るように冷たい光が差した。 月明かりの下に、黒羽の姿が現れた。 よく見ると、化物と言うほど身体は大きくない。 冴え冴えとした月光に照らされているせいか、むしろ端正な印象だ。 「……」 先ほど矢やナイフを抜いた傷口からは、まだ粘性のある黒い液体が流れ出ていた。 赤灼の瞳はそのままに、表情は歪んでいるように見える。 動きは目に見えて鈍くなっていた。 俺が先回りできるくらいだから当然だ。 「二度目だな、黒羽」 「……ぐる……」 「俺はフィオネの友人だ」 「もし聞こえているなら、攻撃するのはやめてくれ」 「フィオネ同様、俺もあんたには逃げてほしいと思っている」 「…………」 無言。 野良犬の方がまだ反応がある。 「頼む、フィオネのために、正気に戻ってくれ」 黒羽が動く。 「くっ!」 前髪が吹き飛ぶ。 後転しながらナイフを抜く。 黒羽らしい、洗練も遠慮もない一撃だった。 「ぐるるるっ!」 再び爪が襲ってくる。 「ぐっ」 胸に熱い痛みが走った。 黒羽の爪が僅かに触れただけで、皮膚が裂かれる。 とても防ぎきれるものではない。 「はっ!」 こちらから距離を詰める。 腕の内側に入れば、爪の直撃は避けられるはずだ。 羽ばたきの音と同時に、黒羽の姿が消える。 「上かっ!」 反射的に身をひねる。 腕をかすめた爪が地面を叩き、石畳が砕け散った。 地面に深々と突き刺さる、鋼のような爪。 一瞬、黒羽の動きが止まる。 距離を取ろうとした瞬間── 「ぐるるるるるっ!」 地面に突き立った爪で、石畳ごと地面を抉り飛ばす。 「くっ!!」 土と瓦礫が眼前に迫る。 意識が弾ける。 気がついたときには、地を舐めていた。 意識が飛んだのは一瞬だ。 瓦礫が頭に直撃したのだろう。 視界が明滅する。 手にはナイフもない。 平衡感覚もなく、立つことすらできない。 本能が、けたたましく危険を告げる。 「ぐるるるっ!」 跳躍の音。 目を空に向ける 月を侵す蝕のように、必殺の爪を振り上げる黒羽が見えた。 奴の着地と同時に俺は死ぬ。 血液と臓物を撒き散らし、路上の染みとなる。 殺しを始めたときから、まともな死に方はできないと思ってきた。 その時が眼前に迫っている。 散る火花。 一瞬明るくなった視界に、苦悶の色を浮かべる黒羽の顔が浮かんだ。 なぜ、自分が動けたのかわからない。 咄嗟に腰へと伸びた手が、〈恩賜〉《おんし》の剣を抜いて爪を受けていたのだ。 「うあああっっ!!!」 渾身の力で黒羽を押し返し、立ち上がる。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 相変わらず揺れる視界。 身体中が軋む。 頭部から流れた血が、顔を濡らす。 定まらぬ黒羽の姿を〈睨〉《にら》み、剣を正眼に構えた。 死の天使が、冷たい手を俺の首にかけている。 が、まだこの身をくれてやるわけにはいかない。 フィオネがここに来るまでは。 「ぐっ!? ぐあっ!?」 唐突に、黒羽が苦悶の表情を浮かべた。 「あああああっっ!!」 絶叫だった。 近くの空き家の軒先から、鴉が何羽か逃げるように飛び立つ。 「あぁあああああっっっ!!」 黒羽が膝をつく。 剣を見てためらったのかと思ったが、これは違う。 毒だ。 不蝕金鎖の奴らがナイフに塗っていた毒が、今頃になって効いてきたらしい。 「ぐふっ……ごぷっ」 口から大量の液体が吐き出され、地面に粘った音を立てて落ちる。 この毒に冒されたものは、大量の血を吐く。 何度も見てきた光景だ。 剣を構えたまま、黒羽に近づく。 「ぐ……」 「そ……その剣……は……」 「!?」 人の言葉だった。 やはり、人の言葉が通じるのか? 「これは、フィオネから借りたものだ」 「フィ……オネ……」 口から液体を流しながら、何とか言葉を紡いでいる。 赤灼の瞳は黒く沈み、もう背筋を凍らせる光はない。 「フィオの……知人、か?」 「ああ、仕事仲間だ」 「お前は、フィオネの兄なのか」 黒羽が頷く。 「なら、フィオネに……伝えてくれ」 「治癒院は……」 「治癒院は……実験のための施設……だ」 「送られた羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》は……全員、殺されて……いる」 「なっ!?」 一瞬、言葉の意味を理解できない。 羽つきが、治癒院で殺されている? 帰ってきた人間がいないのは、そういうことか。 「おい、どういうことだ、もっと詳しく話せっ」 「秘密を探るべく……俺は、治癒院に忍び込み……捕縛された」 「それから、どこかの施設に移され……実験を受けた」 「どんな実験なんだ?」 「わからない……ただ、苦しかった……」 「何日経ったかわからないが……ある日、施設が火災に遭い……その隙に……逃げた……」 「ごほっ……ぐっ」 再び、盛大に液体を吐き出す。 「その後の記憶は……断片……的だ」 「ぐ……ぐあああっっ!」 黒羽が唇を噛み切る。 どく、と血液が溢れた。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 「いつまで、意識が保つかわからない」 「名も知らぬが……君に頼む……」 「おいっ」 「……ぐ……ぐる……っ」 瞳が、炎のような赤味を帯びてきている。 剣を構え直す。 「ぐっっ!」 黒羽が自分の胸を爪で抉る。 噴水のように、液体が噴き出す。 黒羽は、ふらつく上体を何とか足で支えた。 痛みで、意識を保とうとしているのか。 「俺は……助からない……」 「フィオネはあんたを助けるつもりだ」 「俺は……人殺し、だ……」 「俺を助ければ……フィオネに、累が及ぶ……」 「それは、あいつもわかってる」 「あいつは、防疫……局に、いるのか」 「ああ、隊長だ」 「ふ……ならば……俺を助けるなど、あっては、ならない……」 「家族ならば、尚更だ……」 黒羽が口の端を上げる。 「俺を……俺を、殺すんだ……」 「その剣を持っているなら……フィオの理解者だろう……」 「ぐっ……」 黒羽が苦痛の声を漏らす。 「しっかりしろ! おいっ!」 「あいつを……フィオネを、頼む……」 黒羽が〈項垂〉《うなだ》れる。 「おい、大丈夫か!?」 「ぐっ、ぐああああっっっ!!」 再びの絶叫。 黒羽がゆっくりと立ち上がる。 その瞳は、再び地獄の業火に染まっていた。 「ぐるる……っ!!」 全身の傷に今気づいたかのように叫び声を上げ、怒りに身を震わせる。 「があああぁぁぁあっ!!」 左右の爪が繰り出される。 死の予感── 「カイム!」 「くっ……」 腕を楯に、何とか致命傷は免れた。 いや、恐らくは聞こえた声に助けられたのだ。 「……兄さんっ」 フィオネの声だ。 間もなく、フィオネがここに来る。 どうする。 どうすればいい。 黒羽の言葉を信じれば、こいつはもう人間には戻れない。 殺さねば、被害者が増えるだけだ。 だが、兄を助けたいというフィオネの気持ちはどうなる? いや── いずれ殺さねばならないのなら、フィオネに決着を着けさせるべきなのか。 それとも、フィオネの手が家族の血で濡れないよう、俺が手を汚すべきか。 「……!」 黒羽が動きを止めた。 フィオネが遠くからこちらに駆けてくる。 俺は覚悟を決めて、黒羽を逃がさないことと、爪の攻撃を受け切ることだけに集中することにした。 ……黒羽は、自分を殺せと言った。 だが、フィオネは自らの手で決着を付けた方がいい。 いや付けなくてはならない。 フィオネが駆けつけてくるまで、ここに黒羽を足止めする。 俺が今やるべきなのは、それだけだ。 「兄さんっ!」 数合、爪を受けた時、ようやく待ち人が現れた。 「私の声が聞こえますかっ!」 黒羽は反応しない。 赤く輝く目の奥からは、〈獰猛〉《どうもう》な獣の本能だけが伝わってくる。 「お前が来る前、黒羽は少しだけ正気を取り戻したんだ」 「これ以上犠牲を出す前に殺してくれと頼まれた」 「俺が爪を防いでいるうちに、こいつを殺れっ」 「嘘だっ!」 「本当だ!」 「自分を助ければ、お前に累が及ぶとも言っていた」 「そんな……そんなっ」 フィオネは動かない。 「フィオネっ!」 「ぐっ!」 黒羽の腰が沈んだ。 横薙ぎに爪が走る。 「がっ」 何とか受けたものの、紙きれのように吹き飛ばされる。 受身を取ることもできず、無様に地面に転がった。 一瞬、息が吸えなくなる。 それでも── フィオネに伝えなくてはならないことがある。 「フィオネ!」 剣をフィオネに投げる。 俺は丸腰になってもいい。 とにかく、フィオネに。 「その剣を取れ!」 「カイム……」 半ば茫然と、フィオネが剣を抜き握りしめる。 「いいか、ここで食い止めないと、罪の無い人がもっと死ぬことになる!」 「家族に、これ以上殺させたいのか!」 「……ぐるる……っ……ぅ」 「ごふっ」 黒羽の足が俺の脇腹を捉えた。 口の中一杯に鉄の味が広がる。 「フィオネ……やるんだ」 俺を無力化したと見たのか、黒羽がゆっくりとフィオネに向かう。 「兄さん……やめて下さい」 「私は、助けに来たんです」 「ぐるるる……」 唸りに急かされるように、フィオネが剣を構える。 切っ先が震えている。 腰も入っておらず、まるで初めて剣を持った子供だ。 黒羽が踏み込む。 「うっ!」 何とか身をかわすが、頬に裂傷が走った。 「兄さん、やめてくださいっ」 「私の声が聞こえないのですかっ!」 目の前で、剣を構えてこちらを見ているのは…… フィオだ。 ──殺せ! 駄目だ。 俺は、見届けなくては。 細切れになり、薄れて消えそうな意識を眉間にかき集める。 ──殺せ! ──殺せ! 殺せ!! 殺せ!! フィオが、俺に剣を向けている。 腰の抜けた構えだ。 あれだけ剣術を教えたというのに。 このままでは、殺されてしまう。 俺が、殺してしまう。 何人もの人間の血を吸った、この俺の手で。 小さかったフィオ。 いつも俺の後をついてきていたフィオ。 そのフィオを、俺が殺してしまう。 ──殺せ! 殺せ!! 殺せ!!! ──殺せ! 殺せ!! 殺せ!!! 殺せ!!!! 内側からの声が、身体を勝手に動かそうとする。 ……ふざけるな。 誰だか知らないが、お前などにフィオを殺させはしない。 身体を突き動かす衝動を、理性で屈服させろ。 俺は、俺を取り戻す。 せめて、フィオが俺を刺し貫くその瞬間までは! 目を覚ませフィオ。 フィオ! 「がああああっ!」 「くっ!」 血煙が上がった。 「に、兄さん……」 「ぐるるっ!」 「くっ!」 爪が脇腹を抉る。 いつ致命傷をもらってもおかしくない。 しかし、フィオネは何とか凌いでいた。 ……いや、違う。 「……!」 黒羽の瞳に、炎がない。 その目は、毒薬に苦しんでいた時のように暗く落ち窪んでいる。 正気を取り戻しているのか。 だとしたら── まさか、奴はフィオネを本気にさせるために? 「があああああっ!!」 獣じみた派手な咆吼。 幾度となく傍若無人に振るわれる爪。 だがそれは、フィオネの急所に触れる直前で軌道を変え、かすり傷だけを負わせていく。 まるで、剣術の稽古をつけているかのように。 ……錯覚ではない。 爪の一振り毎に、俺は確信を強める。 黒羽は、正気だ。 「ぐあああっっ!」 乱暴に振り回された爪が、フィオネの身体を薄く裂く。 爪の一振り一振りは、黒羽の魂の叫びなのかもしれない。 ──早くその剣を振れ。 ──俺はもう、お前の知っている兄ではない。 ──お前が終わりにするんだ。 爪が風を裂く音の裏に、黒羽の痛切な声が響いている気がした。 「フィオネ、しっかりしろっ」 「お前が終わりにするんだ」 「無理だ……私には……兄を……」 「がああああっっ!」 大仰な身振りで黒羽が距離を詰め、 真正面から爪を受け、フィオネが弾き飛ばされる。 「ごほっごほっ……」 剣を杖に、何とか立ち上がる。 体幹は揺れ、膝にも力が入っていない。 「剣を振れっ」 「お前が兄貴を楽にしてやるんだっ」 「だがっ、だがっ!」 フィオネは泣いていた。 「お前は、親父や兄の人形じゃないだろ」 「自分の道を選んで、二人の横に並ぶんだ」 「横に……並ぶ……?」 「黒羽は最後に言ったぞ」 「父や自分に囚われず、自分の道を見つけろと」 「!!!」 実の父親を治癒院に入れたときから、フィオネは重い〈枷〉《かせ》を〈嵌〉《は》められた。 羽狩りは正しくなくてはならない。 自分は、理想的な羽狩り隊員でなくてはならない。 だがそれは、行き過ぎれば、自分の物差しを持たない他者に依存した生き方でもある。 フィオネは、自分の足で踏み出さなくてはならない。 一人の羽狩りの隊長として…… そして、一人の人間として。 「……」 フィオネが口を結んだ。 潤んだ目が、鋭く黒羽を射る。 「兄さん……」 全身に意思が宿った。 「お覚悟をっ!!!!」 フィオネが黒羽をはじき飛ばす。 開いた距離に、間髪入れず、フィオネが踏み込んだ。 流麗な身体の動き── 風に乗った燕のように、フィオネの身体が絶妙の間合いに滑り込む。 「うああああああっっっ!!!」 「があああああっっ!!」 フィオネの剣が闇夜を疾る。 その瞬間、黒羽は微笑んだように思う。 瞳には、安堵したような色が滲んでいた。 すくい上げるような太刀筋。 〈恩賜〉《おんし》の剣は、黒羽の脇腹から入り鎖骨近くにまで達した。 「ぐ……」 傷口から大量の液体が噴き出す。 「あ……」 黒い鮮血を浴びたフィオネが、呆然と目を見開く。 血の温もりに、初めて自分の行為を知らされたかのように。 フィオネの手から力が抜け、〈恩賜〉《おんし》の剣が指先から離れた。 白刃を突き立てたまま、黒羽の身体がゆっくりと傾いていく。 「にい……さん……」 目を見開いたままのフィオネの前で、黒羽が崩れ落ちた。 フィオネは、数瞬前まで兄が立っていた空間を見つめ── ぎこちない動きで足元に目を遣った。 仰向けに倒れた黒羽。 胸の上では、突き刺さった剣が僅かに上下している。 「フィ、フィオか……?」 「は、はいっ」 「なかなか……いい、太刀筋……だった……ごほっ」 咳き込み、口からも黒いものを吐き出す。 それは液体とも気体ともつかないもので、しばらくそこに留まったあとすぐに空気中に拡散していった。 「斬ってくれたのが……フィオで、よかっ、た……」 「そんなっ、そんなことっ」 フィオネが黒羽の身体にすがりつく。 「『〈恩賜〉《おんし》の剣』か……」 「フィオ……よく覚えておけ……」 「剣の意味は……振る者によって……変わる」 「お前が剣を振るのだ……」 「決して、剣に振られるな……」 「兄さん……」 「おまえは、家の名に、囚われずに生きろ」 「何が正しいか……自分の目で見極めて、な」 そこまで言って、黒羽は大きく息を吐く。 まるで、肺の空気を全て吐き出したかのようだ。 「兄さんっ!? 兄さんっ!?」 黒羽が、ぎこちなく笑みを浮かべる。 「ていっ」 「たあっ」 「もっと後ろ足を蹴って、体重を乗せろ」 「はいっ」 「とうっ」 「もっと速く、鋭く!」 「剣を腕の延長だと思え。先の先まで神経を通わせろ!」 「はいっ!」 「たああっ!」 「たあーっ」 「ふっ!」 兄さんの木剣が、私の剣を弾き飛ばす。 「ま、まいりました」 「だいぶ上達したな」 「いえ、私などまだまだです……」 「お前は筋がいい。いつか俺より強くなるかもしれん」 「そ、そんな」 「日々鍛錬を怠らなければな」 「今日はこれまでとする」 「はいっ、ありがとうございました!」 結局、兄さんが行方不明になるその日まで、私は一本も取ることができなかったのだ。 模擬戦であっても、決して手を抜かない厳しい人だった。 でも、稽古が終わった後には、必ず私の頭を撫でてくれた。 それが嬉しくて、私は挫けず剣術を続けることができたのだ。 強くて大きくて優しい、兄さんの手。 私にとって宝物だったその手は…… もう…… 「フィオに剣で負けるのは、これが初めてだな……」 「!?」 黒羽が、長く鋭い爪のついた手をフィオネに伸ばす。 その手が、フィオネの頭を優しく叩く。 「……兄さん……う……っっ……」 フィオネの声が詰まり、涙がこぼれ落ちた。 黒羽の頬が僅かに緩む。 そして…… 大きな手は、地に垂れた。 「に、兄さん……兄さんっ、兄さんっ!!」 動かなくなった黒羽を、フィオネが揺する。 だが、兄はもう動かない。 「……兄さん……」 黒羽の手を頬に押し当て、フィオネが嗚咽を漏らす。 必死に押し殺したような声が、スラムに流れる。 かける言葉はない。 俺は目を瞑り、フィオネの立てる音に耳をすます。 「フィオネ……」 しばらくして、フィオネの傍に寄った。 「ぐす……ぐすっ……」 フィオネが慌てて袖で涙を拭う。 こんな時でも、涙を見せまいとするのか。 なら、俺もいつも通りに接しよう。 そもそも、俺には彼女を慰める権利がない。 「羽狩りや不蝕金鎖の連中が来る」 「ああ……そうだな……」 「部下にみっともないところは見せられない」 フィオネが何とか立ち上がる。 「あ……あれ?」 膝に力が入らないのか、ぺたりと座り込んでしまった。 「ど、どうにも締まらないな」 「く……膝が……笑ってしまって……」 何度か立ち上がろうとするが、その度にへたり込んでしまう。 黒羽の死体の脇でぐずぐずしているところを他の人間に見られれば、フィオネとの関係を疑われかねない。 フィオネには悪いが、ここはしっかりしてもらわなくては困る。 あくまでも、凶悪な化物を見事に倒した隊長であってもらわなくては。 「ほら、掴まれ」 手を差し出す。 だが、フィオネは首を振った。 「自分で立つ……そうしないといけない気がするんだ」 「ほう……」 「カイム、頼んで良いか?」 「頬を叩いて気合いを入れてくれ」 「……変わった趣味だな、いいのか?」 「頼んでるんだ」 フィオネが俺を見つめる。 ま、そう言うなら、遠慮することはない。 フィオネの頬を軽く張る。 痛みと残響を味わうように、フィオネが目を閉じた。 そして…… 「よしっ!」 膝に力を入れ、震えながらも何とか立ち上がる。 まるで、生まれ落ちた子馬が立ち上がるような風情だ。 「手間をかけてすまないな」 「いや」 「俺が言うのもおこがましいが、立派だと思う」 「カイムに褒められるとは、驚いた」 フィオネが苦笑する。 力の抜けた、 だが、それでいて、多くの感情を織り込んだ、大人の笑顔だ。 「兄を私に葬らせてくれたこと、感謝している」 「カイムに任せていたら、私は駄目になっていた気がする」 「俺の功績じゃない」 「選んだのはお前だ、自信を持てよ」 「ありがとう」 そう言って、抜き身の剣を鞘に収めた。 「隊長ーっ!」 「カイムさん、無事でしたか」 羽狩りと不蝕金鎖の連中が、おっとり刀で駆けつけてくる。 彼らは一様に、黒羽の死体を見て一瞬動きを止めた。 できることならフィオネに埋葬させてやりたいが、難しいだろう。 「これは……」 「捕縛しようとしたが、あまりに抵抗が激しくこのような結果になってしまった」 「なるほど」 「弔い合戦ができなくなってすまないな」 「ま、仕方ありませんね」 オズが軽く笑う。 「命令を遵守できず、すまなかった」 「叱責は私が受けるから、お前たちは気にしなくていい」 「何を言うんですか、隊長」 「その姿を見たら、恥ずかしくって隊長のせいになんかできませんよ」 「私の姿?」 フィオネが自分の身体を見る。 制服は、何カ所も裂け目が走っている。 そして何より、全身に真っ黒な返り血を浴びていた。 「本当なら、俺たちが浴びなくちゃいけない血ですよ、そいつは」 「お前たち……」 感極まったように、フィオネの瞳が潤む。 「さて、どうやら野次馬が集まってきたようですね」 「黒羽の死体は、羽狩りに任せていいか」 「現場の仕切りは、不蝕金鎖が引き受ける」 「頼んだ」 「オズ、後を頼む」 「わかりました」 オズがいてくれれば、現場の後片付けに不安は無いだろう。 「俺とフィオネは、先に休ませてもらう……大立ち回りをしたんでな」 「どうぞごゆっくり」 「お疲れ様です」 「行こう」 「……ああ」 フィオネが黒羽の死体に目をやる。 口の中で、小さく祈りを呟くのが聞こえた。 「おかえりなさ……」 「わあっ」 俺とフィオネの格好を見て飛び上がりそうなほど驚く。 「ど、ど、どうかなさったんですか!?」 「お、お怪我はっ!?」 「大した傷じゃない、心配しなくていい」 「包帯と、あと湯を沸かしてくれ」 「わかりましたっ」 ティアが湯を沸かしにいく。 「フィオネ、まずは座れ」 「すまない」 気が緩んだのだろう。 フィオネはもう、立っているのがやっとという有様だった。 取りあえず椅子に座らせる。 「……」 魂の抜けたような顔をしていると思ったら、急に眉間に皺を寄せて厳しい顔になったり。 泣くのを堪えて歯を食いしばっているかと思ったら、何もない虚空を呆っと見つめていたり。 「フィオネ、大丈夫か」 「あ、ああ……」 「まだ元気があるようなら、黒羽が話していたことを伝えたい」 フィオネの身体が、ぴくりと震える。 「もっと落ち着いてからの方がいいか?」 「……いや、聞いておきたい」 「一体、兄さんは何を伝えたかったのか……」 眠気を覚ますような素振りで、頭を二、三度振るフィオネ。 背筋を伸ばして顎を引き、姿勢を正す。 黒羽が語ったことを、ゆっくりと語りだす。 「黒羽……いや、クーガーは、何かの実験の被験者だったらしい」 「何の実験だ?」 「それはわからない」 「ただ、施設が火災にあったときに逃げ出したと言っていた」 「火災……ということは……」 頷く。 「恐らく、薬屋が持っていた研究施設のことだ」 「あそこで見つかった羽根は、かなり古かっただろう」 「なるほど」 「これは推測になるが、クーガーはほとんど意識が保てない状況だったようだ」 「俺と話しているときも、唇を噛み切ったり身体を傷つけたりして、何とか二言三言話せる程度だった」 「自分の理性が長くは持たないことも知っていたよ」 「だから、俺に言ったんだ」 「自分を殺せ、と」 「そうか……」 「恐らく、自分が大量殺人を犯していたことを知っていたんだろうな」 「兄さん……」 フィオネの目から、細く涙が伝う。 「なんということだ……」 涙を隠すように、フィオネが天井を仰いだ。 「これは、私の願望なのかもしれないが……」 「私に斬られる瞬間、兄さんは笑っていた気がしたんだ」 「黒羽ではなく、優しかった兄さんの顔だったんだ」 「俺にもそう見えたよ」 「なら、良かった」 願望であるはずがない。 フィオネと対峙してから、黒羽はずっと正気を保っていたのだと思う。 フィオネが自分を〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく斬れるよう、大げさに吼え、爪を振り回した。 その、祭りの道化のような動きが、〈瞼〉《まぶた》の裏に焼き付いている。 「あの、お湯が沸きましたが……」 「すまん。そこに置いといてくれ」 「わかりました」 ただならぬ雰囲気を感じてか、ティアは外してくれた。 俺は手布を湯に浸して絞り、フィオネに手渡す。 俺が頷くと、フィオネは手布で顔を拭いた。 ……しばらく、布に顔を埋めている。 俺も別の手布で顔と手を拭いた。 「すまん」 フィオネが顔をあげる。 「兄の話は、それで全てか」 「いや……」 「むしろここからが本題だ」 「……話してくれ」 「……」 「先に言っておくが、気を強く持ってくれ」 「……ああ、覚悟の上だ」 フィオネが表情を引き締める。 それでも、かなりきつい内容だろう。 だが、隠し立てしてはいけない内容だ。 深く息を吸う。 「治癒院についてだが……」 「クーガーは、羽つきは全員殺されていると言っていた」 「……」 瞬きを忘れ、フィオネが俺を見た。 「……も、もう一度頼む」 「治癒院は何かの実験のための施設らしい」 「連れて行かれた、羽つきは、全員殺されているとのことだ」 俺は、噛んで含めるように、ゆっくり告げる。 「…………」 フィオネが完全に動きを止めた。 言葉もない。 いかなる慰めの言葉も、俺は持ち合わせていない。 ただ、聞いたことをそのまま教えるしかないのだ。 「では……私たちが保護した〈罹患者〉《りかんしゃ》は……全員……」 目を伏せて、肯定の意を示す。 フィオネが立ち上がった。 「馬鹿を言うなっ!!!」 「そんなことが……そんなことが許されるかっっ!!」 俺の胸ぐらを掴む。 「そんな……そんな……」 俺は、されるままになっていた。 「馬鹿な、と俺も思ったさ」 「だが実際、治癒院から帰ってきた人間など見たことがない」 「信じられるか……そんな、馬鹿なことが……」 フィオネの腕の力が、徐々に抜けていく。 「真偽はわからない」 「俺は、黒羽の言葉を伝えただけだ」 「そ、そんな…………」 手が俺の服から離れ…… 力無く、フィオネが再び椅子に腰を落とす。 「カイム……作り話だろう?」 「聞いたままを伝えている」 「嘘だっ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっっ!!」 フィオネが耳を押さえ、頭を激しく横に振る。 「嘘じゃない」 「あああああああああああ」 フィオネの四肢が震えている。 顔からは血の気が失せていた。 目は血走り、壊れた人形のように頭を振っている。 「黒羽は、このことをフィオネに伝えるために火災にあった施設を抜け出したんじゃないか」 「だから、人殺しをしてまでも、これまで生き長らえてきた」 「伝え終えたからこその『俺を殺せ』だったのかもしれない」 「やめろっ」 「やめろやめろやめろっ!!」 再び、フィオネが俺に掴みかかる。 が、今度は俺はフィオネの肩を掴んだ。 そして、その目を真っ直ぐに〈睨〉《にら》みつける。 「もうやめてくれ……やめてくれ……」 「黒羽が命を賭けてまで伝えたかったことだ」 「フィオネが受け止めなかったら、彼の思いはどうなる」 「ああ…………」 フィオネの肩を離すと、フィオネは椅子には座らず、その場で床にくずおれた。 様々な想いが、フィオネの中で渦巻いているのだろう。 『保護』という名の下に、治癒院へ自らの手で送っていた人たちは? 誇り高く、自ら治癒院へ向かうことを決断した父親は? フィオネが常々口にしていた、正しくなければならない仕事とは? その仕事の末路が…… 大量〈殺戮〉《さつりく》の〈幇助〉《ほうじょ》だ。 「防疫局の仕事を、運命だと思っていた」 消え入りそうな声で、フィオネが言う。 「誇りを持って、全身全霊で取り組んできた」 「住民のためにも……もちろん羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》のためにもなると信じて」 「ああ、俺も見ていた」 「だが……」 「その仕事は、羽化病の〈罹患者〉《りかんしゃ》を死に追いやるものだったのか?」 「父も……このブローチをくれた老婆も……今はもう……」 痛々しい沈黙が続く。 何と声をかけていいかもわからなかった。 「兄は、それに気づいたのかもしれない」 「調べていて……捕らえられ、自らも……」 「そして、黒羽として、人々を……私の部下までも……」 兄と自分で父を死に追いやり、その兄がフィオネの部下を殺し、フィオネが兄を殺した。 ひどい話だ。 救いがなさすぎる。 「だが、彼がいたから真実が俺たちに伝えられた」 「……知らなければ良かった」 「知りたくなどなかった」 目から涙こそ流していなかったが、フィオネは泣いているように見えた。 父の生き様、兄の生き様、自分の生き様。 その全てに対して。 価値あるものと思っていた全てが崩れ落ちたことに対して。 「ああ……」 「もう……生きている意味などない……」 「防疫局は……私の運命だったんだ……」 完全に切れた。 彼女を支えていたものが、一瞬にして完膚無きまでに、切れた。 無惨だ。 「……」 フィオネの肩に、全ての大気がのしかかっているように、彼女はうなだれていた。 胸の中にあるのは虚無感……でなければ、敗北感か。 自分の『運命』と信じ、よりどころにしていた羽狩りという職業。 それが、一瞬にして崩れ落ちた。 父親を治癒院に入れて以来、フィオネの中で、羽狩りは正しくなければならなくなった。 世間で言われているように、入ったら戻れない施設だなどと認めるわけにはいかない。 でなければ、自分が父親を殺したことになってしまうから。 羽狩りという『正しい』組織で、『正しく』活動することが、フィオネの使命であり…… 父親を治癒院に入れた自分を許す、たった一つの道だったのだ。 それが今、崩れた。 フィオネに残るのは、長らく思考を停止していた事実と、圧倒的な罪悪感だけだろう。 心の拠り所を失うと、そこに依存していればしているだけ、失ったときに弱くなる。 フィオネは、彼女という存在を支えていた大黒柱を失い、今にも崩壊しそうに見えた。 ……だが、それでいいはずがない。 本当に強いのは、何かに拠ることなく自らの足で立てる人間だ。 黒羽が妹に望んだのは、そんな強い人間になることだったはず。 俺も同じだ。 俺が惹かれたフィオネには、そんな人間になってほしい。 このままでは、彼女は切れたまま終わる。 目的を失い、路頭に迷い── 娼館で人形のように働く姿が容易に想像できてしまう。 それだけは食い止めたい。 何か、方法はないのか? ……。 「ははは……無様なものだな」 「何度も言ったじゃないか、お前は自分の理想を謳っているだけだと」 「なっ!?」 「お前は、理想だけを見て、現実から目をそらしてきた」 「だから、どうしようもないところまで来てから足下をさらわれるんだ」 「お、お前!?」 フィオネの顔が怒りで真っ赤になる。 いい。 これでいいんだ。 「羽狩りが運命だって?」 「それは、フィオネがそう思いたいだけだ」 「運命だと思えば諦めもつくし、諦めてしまえば考えなくて済む」 「自分の頭で少しも考えなくて済めば、それは楽だろうさ」 「頭の中が死んでるようなものだ」 「カイム……」 「あれも運命、これも運命」 「それで否定されたら、お前は死んで終わりか?」 「ま、それくらいの操り人形でもなければ、羽狩りなんて仕事はできないだろうな」 「な……んだと……?」 こちらを〈睨〉《にら》み、ゆらりと立ち上がる。 「ま、法を守るだけが取り柄の家に生まれたんだ、仕方ない」 「我が家を侮辱する気か」 「生きていても仕方ないのだろう?」 「なら、もう家も終わりじゃないか。侮辱も何もあるか」 「ぐっ」 「このままお前が死んだんじゃ、人殺しになってまで生き延びた兄も、完全に犬死にだな」 「ち、違う!」 「違わないだろ」 「お前が死ねば、黒羽が命がけで調べたことも消えてなくなる」 「お前ら兄妹がやったことは、ただの人殺しにしかならない」 「違うっ!」 フィオネが絶叫した。 「黒羽も、人を見る目がなかったらしいな」 「こんなみっともない人間に、大切な情報を託すとは」 「これ以上の侮辱は許さない」 「いや、俺はごく普通の感想を言っているつもりだが」 「カ、カイム……」 怒りに拳が震えていた。 怒ってくれればいい。 それで、短い間でも、生きる原動力になるのなら。 独善的だ。 誰もがそう言うだろう。 だが、どうしてもフィオネが崩れていく様は見ていられない。 「こんなところでだらだらしていていいのか?」 「ま、頭のない人形みたいなお前だ」 「何をしていいのかわからないのかもしれないな」 「ま、お前の顔は嫌いじゃないし、望むならこの家においてやってもいいぞ」 「いい加減にしろ!」 フィオネが立てかけてあった剣を握る。 「お前という人間を見損なった」 「数々の侮辱、必ずいつか後悔することになるだろう」 強烈な眼光を置き土産に、フィオネが出て行く。 無理矢理作った薄ら笑いで、その背中を見送った。 「……ふう」 「カ、カイムさん……」 壁の陰から、ティアが顔を出す。 「どうして、心にもないことを……」 「……」 ティアには見抜かれたらしい。 いや、フィオネ以外の人間なら大抵気づくだろう。 フィオネにしても、今日のフィオネでなければ真に受けないはずだ。 「いいんだ、俺のお節介だよ」 「でも、このままじゃカイムさんがフィオネさんに嫌われてしまいます」 「もう喋るな」 ティアの頭をくしゃっと撫でる。 こいつなりに気を遣ってくれているのだ。 「それと、ここでフィオネに話したことは絶対に口外するな」 「世の中がひっくり返りかねないってのは、お前でもわかるだろう」 「は、はい」 羽つきのティア。 もし、羽狩りに捕まっていたら今ごろはこの世にいなかったということだ。 しかし、治癒院が世間に説明されているものとは違うことはわかったが、では一体、何を研究しているのだろう? わざわざ羽つきを集めているのだから、何かしら特殊なものなのだろうが。 クーガーを黒羽に変えた研究と同じものなのだろうか? 肝心なところは聞けずじまいに終わってしまった。 「どうしました?」 「いや……お前も放っておいたら黒羽になるのかと思ってな」 「そ、そんな怖いこと言わないで下さい」 「冗談だ」 口ではそう言ったが、黒羽にならないという保証はどこにもない。 ティアは普通の羽つきではない。 どうなるかなど、誰にもわからないではないか。 ……ま、つまりは、今考えても答えなどわかりようもないということだ。 「久し振りに、飯でも食いに行くか?」 「……あ、はい」 俺たちは、とりあえずヴィノレタへ向かうことにした。 帰りがけに、今回の顛末をジークに報告しておくとしよう。 剣の刀身から、黒い液体を拭う。 兄の血だ。 まさか、この剣で兄を斬ることになるとは思わなかった。 「……」 なかなか、血が落ちない。 べっとりと粘り着き、拭くための布までくっついてしまう。 当然ながら、人間の血ではない。 兄さんは、どんな研究を受けていたのだろうか。 回収された遺体は、運搬用の簡素な棺の中に納まっている。 ルキウス卿の指示で、兄の身体は研究に回されることになった。 これから、兄の身体にされることを考えると、むしろ捕縛されなくて良かったのではないかとも思う。 生きたまま実験に供されるなど、想像するだけでも身の毛がよだつ。 いや、こんなことを考える権利など、私にはないのか。 もしかしたら、今まで保護した多くの羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》が、同じ目に遭っていたかもしれないのだ。 身内だけを哀れむなど、許されることではない。 「すまない……」 言葉だけが踊る。 謝ったところで、何も返っては来ない。 殺された〈罹患者〉《りかんしゃ》の無念。 その家族の無念。 あまりに多くの罪を背負ってしまった。 逃げるわけにはいかない。 全て、私が思考停止していた責任なのだから。 ずっと、羽狩りは私の運命だと思ってきた。 しかし、そうすることで、いろいろな疑問や問題から目をそらしてきたのかもしれない。 なぜ、私は治癒院の実態について、一度も調べようとしなかったのか── 羽化病の治療法について追求しなかったのか── 真実が理想と異なることを嫌ったからだ。 恐らく、兄は勇気を持って調査を行い、憂き目にあった。 そこに、兄と私の決定的な違いがある。 兄は、自分の仕事と向き合っていた。 私は、自分の仕事から逃げていた。 「剣の意味は……振る者によって……変わる」 「お前が剣を振るのだ……」 「決して、剣に振られるな……」 「おまえは、家の名に、囚われずに生きろ」 「何が正しいか……自分の目で見極めて、な」 まるで、私の姿をずっと見てきたような兄さんの言葉だった。 私は、〈恩賜〉《おんし》の剣に振られ、盲目になっていた。 兄さんは、それを命がけで知らせてくれたのだ。 私はまだ生きなくてはならない。 兄さんのくれたものを無駄にしないためにも…… そして、山ほどの侮辱を投げつけたカイムを見返すためにも…… 「フィオネ隊長、まだこちらでしたか」 まだ少年の面影を残す隊員が、扉の中に入って敬礼してきた。 「どうした?」 「いえ、今日は私が当直で」 「お前も、ここ数日は夜通し街を巡回していたのだろう」 「今日は帰っていいぞ」 「私が当直に当たろう」 「はっ」 「それでは、失礼致しますっ」 敬礼をし、帰っていく。 新しい世代が入り、防疫局も変わっていこうとしている。 いや、変えようとしたのは私ではないか。 その私自身が、いつまでも同じ考え方ではいけない……か。 変えるのだ、自分を。 そして、兄さんが残した宿題をこなさねばならない。 治癒院の真実。 羽つきを使って行っていたという実験。 誰が、何の目的で……。 真相に近づいた兄さんは、きっとその黒幕によって消されてしまったのだ。 絶対に許すわけにはいかない。 だからこそ、宿題の解法は、慎重に考えなくてはいけない。 表立って騒いだところで、誰も相手にしてくれないだろうし、私が消される可能性もある。 賢くなれ。 賢くならなければ駄目だ。 兄さん、父さん、多くの羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》と、その家族。 無数の人命を奪っておいて、感情的なやり方で失敗するわけにはいかない。 結果が求められているのだ。 失敗こそが、一番許されない。 冷静に、賢いやり方を探さなくてはいけない。 広い視野で。 長い視点で。 「……」 やはり、防疫局から離れては、情報から遠ざかるだけのような気がする。 だが、ここに残るということは、今後も〈罹患者〉《りかんしゃ》を治癒院に送るということだ。 すがる家族を振り払い。 泣いて嫌がる〈罹患者〉《りかんしゃ》を、死が待っている施設へ送り込む。 できるはずがない。 それは、殺人と同じだ。 知らなかったからといって許されるものではないが、知っているとなれば、それは殺人だ。 修羅の道だ。 「……く」 ふと目線をあげると、〈執拗〉《しつよう》に磨きつづけていた刀身に、険しい顔をしている私の顔が映った。 「……ふ」 鬼に……ならなくてはいけない、な。 羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を死地に追いやったという批判は甘んじて受けよう。 だがやはり、内部に残らねば得られない情報は多い。 あらゆる罪を背負っても、真実を掴むのだ。 カイムに笑われないためにも。 日記を取り出す。 頁を繰ると、カイムについての記述が増えているのが一目瞭然だった。 今に見ていろ。 必ず、彼が知り得ない事実を掴み、目の前に叩きつけて見せよう。 「……」 カイムと出会ってからの頁を破り取り、蝋燭の火にかざした。 最悪だ。 どうして俺が、羽狩りの詰め所で貴族のお言葉をありがたく拝聴しなくてはならないのか。 筋から言えば、話を聞くのはジークだろうに。 「組織の頭は、相手の懐に軽々しく飛び込むわけにはいかないんだ」 などと言っていたが、どうせ面倒なだけだ。 貴族には、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》後の絶望的な時期に、牢獄を放置した連中という印象しかない。 貴族は長年、政治と農地を独占することでこの都市を牛耳っている。 実質的に牢獄を支配している不蝕金鎖であっても、食料だけは上からの輸送に頼らざるを得ない。 気に入らない奴らだが、問題を起こすわけにもいかない。 ま、今日はジークの名代だ。 大人しく話を聞いてさっさと退出しよう。 フィオネと顔を合わせるのは、三日ぶりだ。 ジークは、黒羽が死んだことに満足していた。 元々、不蝕金鎖は犯人不明の殺人が止まればそれでよかったのだ。 だが、フィオネは微妙な立場かもしれない。 黒羽を捕獲せよ、という命令が果たせなかったのだ。 兄が生き恥を〈晒〉《さら》すよりはマシだったとはいえ、彼を救うことはできなかった。 どうすれば良かったのかは、正直、今でもわからない。 俺があいつに恨まれるのは一向に構わないが、問題がティアのことだ。 羽狩りに情報が回されていれば、今後の生活を大きく変えざるを得ない。 ……。 短い間ではあったが、フィオネとは運命共同体だったと思っている。 そして、彼女に兄を斬るようし向けたのは俺だ。 間違ってはいなかった……はずだ。 フィオネには自らの足で歩き出してほしいと、心の底から願っている。 その思いは、通じたのだろうか。 『法を守るだけが取り柄の家』などと侮辱もした。 『人殺しになってまで生き延びた兄も、完全に犬死にだ』とも言った。 あの時は、俺を殺しかねないほど怒っていた。 意図してやったこととは言え、俺の足取りは重い。 〈歩哨〉《ほしょう》として立っている若い羽狩りが、詰め所に近づいた俺に不審な目を向ける。 「よう」 「今日は、不蝕金鎖の頭の名代として来た」 「話は聞いてる、さあ、中に」 案内されるままに、詰め所に足を踏み入れる。 「……」 「……」 他の羽狩りの目もあることから、俺はフィオネに軽く目礼するだけで奥に向かった。 沢山の羽狩りが、整列している。 俺とフィオネは、最前列に通された。 正面に立っているのは、身なりのいい男。 ……これが、ルキウス卿か。 思っていたより若い。 整った顔立ちに、意志の強さを感じさせる目と口元。 この若さで羽狩りの責任者とは、よほどの名門か、そうでなければかなりの〈辣腕〉《らつわん》なのだろう。 ルキウス卿の隣には、副官らしき若い女が立っている。 一度見たことのある女だ。 「お初にお目にかかります、カイムと申します」 「頭であるジークは都合により参上できませんので、失礼ながら私が名代を務めます」 クローディアに教えられた言葉を、そのままなぞる。 ルキウスが小さく頷くのが見えた。 どうやら言葉遣いは間違っていなかったらしい。 「フィオネ隊長から話は聞いている」 「今回の件では、カイム殿も大いに活躍したとか」 「感謝の念に堪えない」 殿、と来たか。 「今回は、双方の利害が一致したことから協力することとなったが、ジーク殿にはこれからもよろしく頼むと伝えて頂きたい」 「申し伝えておきます」 室内にかすかなざわめきが広がる。 国から見れば、不蝕金鎖はどう見ても非合法な組織だ。 そんな集団とよしみを結ぼうとする発言なのだから無理もない。 果たして、社交辞令なのか本気なのか。 ルキウス卿は場の空気には構わず、フィオネの方に向き直った。 「フィオネ隊長もよくやってくれた」 「はっ、恐縮です」 「黒羽を生きたまま捕縛できず、汗顔の至りです」 「そうだな」 渋い顔を作り、頷くルキウス卿。 「難しかったのだろうが、生きたまま捕らえてほしかったところだ」 「そのために、羽化病の〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護より、仕事を優先して貰ったのだからな」 「……申し訳もございません」 黒羽の生け捕りは、ほぼ不可能だった。 羽狩りたちもそれは痛いほどわかっている。 室内には、フィオネへの同情に近い空気が流れた。 「局内から犠牲者も出、また、副隊長の監督不行届もあった」 「フィオネ隊長には、何らかの責任は取ってもらわねばならん」 「謹んでお受けいたします」 フィオネ一人の責任になるのか……。 やりきれない思いが胸に湧く。 仕事も責任も部下任せ。 若手の改革派などと言われていても、所詮貴族はこんなものか。 「フィオネ隊長は、本日付で隊長から降格とし、防疫局強制執行部特別被災地区隊の副隊長とする」 「なお同隊長は私が兼任する」 「……」 「……ルキウス卿」 フィオネが副隊長で、ルキウス卿が隊長を兼任するということは…… 実質、羽狩りの体制はこれまでと変わらないということか。 整列している羽狩りたちの中には、微かに安堵のため息を漏らしている者が多い。 名目上の処罰をフィオネに与えることで、どこかへの筋を通したのだろう。 ……やり手、と言われるだけのことはあるようだ。 「フィオネ副隊長」 「ここ最近、特別被災地区での防疫局の評判改善は聞き及んでいる」 「これからも、この隊を頼む」 「はっ」 フィオネが敬礼する。 「私からは以上だ」 「今後も、住民の安寧を守るため職務に励んでほしい」 「何か気付くことがあれば遠慮はいらない。フィオネ副隊長を通じ、〈忌憚〉《きたん》のない意見を聞かせてくれ」 「はっ」 全ての羽狩りが敬礼する。 残った女の副官が、口を開く。 「フィオネ副隊長、後のことは頼みました」 「正式な辞令は、追って届けます」 「了解いたしました」 フィオネが部下に向き直る。 「各員は、通常業務に戻るように」 フィオネの指示を受け、羽狩りたちが靴を鳴らして詰め所を出て行く。 俺の役目も終わったのだろうか? 副官の女に目を向けるが── 「申し訳ありませんが、カイム殿はしばらくお待ち下さい」 まだ、何か話があるのか? だだっ広い詰め所には、ルキウス卿と副官、そして俺とフィオネの四人が残る。 「お引き留めして申し訳ありません」 「カイム殿には、ルキウス様よりお言葉がございます」 「何でしょうか」 「カイム殿には、まだ解決していない問題があるのではないか?」 「違うかな?」 黒羽の言い残した治癒院に関することか、ティアのことか……。 いずれにせよ、迂闊には答えられない。 「ご質問の意図がわかりかねます」 「ははは、警戒されてしまったかな」 「問題というのは、黒羽の発言についてだ」 「治癒院について様々な疑義があると、副隊長から報告を受けている」 「!」 思わずフィオネを見る。 フィオネは、相変わらず眉間を険しくしたまま目を〈瞑〉《つむ》っていた。 「副隊長は、自分以外にもこの件を知っている者がいると言っていたが……」 「やはり、聞いていたか」 「……」 ルキウス卿が防疫局を率いている以上、彼が黒幕の可能性は十分ある。 そいつ相手に、フィオネは直接問い〈糺〉《ただ》したのだろうか。 命の危険すらある行為だ。 フィオネの表情からは、どちらなのかはわからない。 ……なるほど。 フィオネは、知っているのが自分だけではないと言うことで、保険をかけたのだ。 自分一人を消せば済む問題ではないと。 ここで俺がすべき返事とは…… 「ええ、自分も聞きました」 「あまり広く口にしてはいませんが、主だった人間には報告してあります」 嘘だ。 だが俺とフィオネしか知らないとなったら、ここで俺たち二人が消される恐れがある。 それは避けたい。 「なるほど」 「まずは誤解のないように言っておくが、防疫局と治癒院は連携して仕事はしているが、管轄はまったくの別だ」 「そうなのですか?」 「フィオネ副隊長にも知らせていなかったな……」 「治癒院を管轄しているのは、さる貴族の方だ」 「……」 名前も出せないような貴族だ。 余程、権力がある奴なのだろう。 「恥ずかしい話だが、私も治癒院の内情については知る立場になかった」 「何分、防疫局の責任者に就任したのも、そう昔の話ではないのでな」 「では、これからは治癒院の調査を……」 「この件については、高度に政治的な判断が要求されます」 「フィオネ副隊長の報告が事実であったとすれば、由々しき事態ではあります」 「しかし、軽々に事を起こせば、更に大きな問題が起きる可能性があります」 つまりは、ルキウス卿の首も飛びかねないということだ。 「慎重を期す必要があることは、わかりますね?」 「……」 副官の言葉は、俺にも向けられていた。 「この件については、私が内々に調査を進めたいと思う」 「すまないが時間をくれないか」 「ルキウス卿」 「その間、羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護は継続するのでしょうか?」 「……」 フィオネの鋭い一言に、ルキウス卿も押し黙る。 「ルキウス様、私たちの動きを悟られないためにも、ここは現状のまま……」 「〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護を完全に止めれば、こちらの動きに勘づかれるだろう」 「だが、治癒院についての情報が本当だと決まったわけでもない」 「調査を進める間、保護する〈罹患者〉《りかんしゃ》は、老人や重症の者に限定することとする」 「匙加減はフィオネ副隊長ら現場の指揮官に任せる」 「ただ、隊員達にはまだ理由は伏せておいてくれ」 「〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護人数が落ちることについては、私が責任を持とう」 「……」 「…………了解、致しました」 納得するのは難しい話だ。 フィオネの兄がもたらした情報によると、治癒院送り、即ち死だ。 〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護は精神的に辛い任務となるだろう。 だが、ルキウス卿の立場を考えればそれがギリギリの落しどころでもある。 「カイム殿、不蝕金鎖でもこの話は広めないようにお願いしたい」 「こちらの都合で申し訳ないが、よろしく頼む」 貴族様が、牢獄のチンピラに物を頼むなど、信じられない光景だ。 現に、副官の女も目を見張っている。 「わかりました」 思わず、そう答えてしまった。 普段だったら貸しにするところだが、気勢を削がれてしまった。 「では、本日はこれにて」 ルキウス卿と頷きあった副官が、場を締める。 「はっ」 「……」 そのまま、二人を見送る。 上層に帰るのだろう。 〈さっそう〉颯爽とした歩みで、ルキウス卿は詰め所を出て行った。 フィオネと二人きりになる。 俺も、そろそろ退出しよう。 「カイム」 「ああ」 「シルヴァリア家の名誉は私が守る」 「法を守るだけが取り柄、などという侮辱も忘れない」 挑戦的な視線を向けられる。 「ああ、忘れなくていい」 それで、フィオネが進む道を定めてくれるのなら。 「……ティアのこと、黙っててくれたのか」 「そういう約束だ」 「俺は、交換条件を満たせなかったが」 「取り引き自体を忘れてほしい」 「私は、これからも防疫局を率いていかねばならない」 黒羽を見逃す代わりに、ティアも見逃す。 完全に職務違反だ。 今後のフィオネにとっては、あってはならない傷だろう。 「それは、取り引きに至る経緯も含め、忘れてくれるということか?」 「もちろんだ」 「私は、リリウムに外套を返しに行っていない……そういうことだ」 「助かる」 「……」 沈痛な面持ち。 が、それを振り払うように顔を上げた。 「ルキウス卿は私を副隊長に留めて下さったが、治癒院について調べてみるつもりだ」 「今後の隊の体制を整え次第、そちらの任務に就けるようルキウス卿に直訴してみる」 「そうか」 「兄が犬死にだったなどとは、二度と言わせない」 フィオネの襟元に、いつかの羽つきの婆さんから手渡された赤いブローチがちらっとのぞいた。 背負っていく覚悟を固めた、ということか。 「せいぜい頑張ることだな」 「次に会うとき、敵じゃないことを祈るよ」 「それはカイムの心がけ次第だ」 フィオネに背を向け、詰め所の出入り口へ足を運んだ。 ジークにルキウスの意向を伝え、家に戻ってきた。 ティアにも、直接関係のあることについては説明をしておく。 「フィオネは、お前の羽については忘れるということだった」 「そうでしたか……」 「今後については保証されていない」 「羽狩りに翼が見つかればそれまで、というのは変わらないだろう」 「注意しろよ」 「はい、わかりました」 ティアが、俺の機嫌を窺うような目で見ている。 「どうした?」 「フィオネさん、まだ怒ってましたか?」 「その話は、もうするなと言ったはずだ」 「でも……それじゃ、カイムさんが」 「……やめろ」 俺も自分で判断してしたことだ。 同情などされたくはない。 俺は、フィオネの高潔な精神を馬鹿にもしたが、どこかで惹かれていたのも事実だ。 俺が持っていないものをフィオネは持っていた。 馬鹿にしていたのは、もしかしたら羨ましさの裏返しだったのかもしれない。 そのフィオネが、目の前で心折れそうになっていた。 全てはフィオネの将来を考えてのことだったが、彼女が望んだことではない。 自己満足のそしりは免れないだろう。 「不器用なんですね」 「何か言ったか」 「いえ、なんでもないです」 結果として、フィオネは羽狩りに残る選択をした。 苦しい選択だったはずだ。 大きな葛藤を抱え、これから活動していくことだろう。 俺は、外でできることをしよう。 俺とフィオネはそれくらいの距離がいい。 ……向こうはお堅く高潔な官吏で、こっちは牢獄の汚れにまみれた元殺し屋。 同じ方向を向いていたとしても交わらないはずの線が、ほんの一瞬交わった。 それがまた、元の道に戻っただけの話だ。 「ティア、ヴィノレタにでも行くか」 「今日は少し、飲みたい気分だ」 「今日はって……だいたい毎日飲んでるじゃないですか」 「お前も減らず口をたたくようになったな」 「す、すみません」 ティアがびしっと姿勢を正す。 そう…… 新しい生活が始まるのは、フィオネだけではない。 俺にも、これからの生活が待っているのだ。 今まで、話もしなかった役人と接し、彼らなりの苦悩を知ることもできた。 思い返せば、楽しい時間だった気もする。 少なくとも、フィオネに会う前と今では、自分も変わった気がした。 風が吹き、そのせいでもないだろうが、雲に隠れていた月が姿を現した。 「置いていくぞ」 「ま、待ってください」 路地の隅で風が巻く。 夜の澄んだ風は、澱んだ牢獄の空気をかき混ぜ、通り抜けていった。 「……!」 黒羽が動きを止める。 フィオネが遠くからこちらに駆けてくる。 あいつにとって、父や兄は誇りだ。 その血で手を汚させるわけにはいかない。 黒羽を助けるという約束は反故になる。 恨まれもするだろう。 だが、仕方のないことだ。 黒羽は── 俺が殺す。 「……」 黒羽を見据える。 力は圧倒的に敵が上だ。 遠距離から大振りを続けていても勝てない。 一足に距離を詰める。 俺を迎え撃つべく繰り出される右爪。 右側面に滑り込みながら回避。 「はっ!!」 逆袈裟に切り上げる。 切っ先が石畳を削り、火花が散る。 黒羽が身体をひねりながら跳躍し、俺の刃をかわす。 次の瞬間── 回転を殺さぬままの回し蹴りが、側頭部に迫る。 咄嗟に屈んだ頭上を、轟音と共に脚が通り過ぎた。 「はああっっ!!」 一回転して体勢を崩した黒羽。 その胸めがけ、渾身の突きを入れる。 完全に捉えた間だった。 だが── 黒羽の目は、静かに俺の動きを見つめていた。 駄目か…… 「兄さーーーんっ!」 黒羽の身体が硬直した。 一瞬、俺の願望が作り出した錯覚かと思う。 しかし、それは現実だった。 まるで時間が止まったかのように、 俺の剣が黒羽に吸い込まれる。 刃が胸板を貫通した。 「……ぐるあああああああぁぁっっ!!!!」 暴れる黒羽。 「カ、カイムっ!」 フィオネが驚きと怒りを込めて俺の名を呼ぶ。 が、その制止が届く直前に、俺は剣に力を込めていた。 肩口から腰までを切り裂く。 殺されることは、黒羽の最期の望みだった。 それは、妹であるフィオネへの愛情だと言ってもいいだろう。 迷うわけにはいかなかった。 「はぁ……はぁ……」 黒羽の傷口から、液体が滝のように流れ、あっという間に池を作る。 その水面へ、黒羽がゆっくりと崩れ落ちていく。 「兄さんっ!」 急速に血の気を失う黒羽。 瞳からは、すでに赤い揺らめきが消えていた。 フィオネがその傍らに屈む。 「フィ、フィオか……?」 「は、はいっ」 「立派に……なった、な……ごほっ」 咳き込み、口からも黒いものを吐き出す。 それは液体とも気体ともつかないもので、しばらくそこに留まったあとすぐに空気中に拡散していった。 「最期に……お前の顔を、見られて……よかっ、た……」 「そんなっ、そんなことっ」 フィオネが黒羽の身体にすがりつく。 「『〈恩賜〉《おんし》の剣』か……」 「フィオ……よく覚えておけ……」 「剣の意味は……振る者によって……変わる」 「お前が剣を振るのだ……」 「決して、剣に振られるな……」 「兄さん……」 「おまえは、家の名に、囚われずに生きろ」 「何が正しいか……自分の目で見極めて、な」 そこまで言って、黒羽は大きく息を吐く。 まるで、肺の空気を全て吐き出したかのようだ。 「兄さんっ!? 兄さんっ!?」 黒羽が、ぎこちなく笑みを浮かべる。 「さらば、だ……フィオ……」 「!?」 長く鋭い爪のついた手を、フィオネに伸ばす。 その手は、フィオネの頭をぽんぽんと叩く。 そして…… 地に垂れた。 「に、兄さん……兄さんっ、兄さんっ!!」 動かなくなった黒羽を、フィオネが揺する。 だが、兄はもう動かない。 「カイムっ!」 「助けるって、猶予をって、言っていたじゃないか!」 「どうして、どうしてっ……!」 「〈咄嗟〉《とっさ》だった……すまない」 「すまないって……それだけなのか、カイムっ!?」 「お前は、兄さんを殺したんだぞ」 「……」 目を伏せる。 「フィオネ、羽狩りや不蝕金鎖の連中がすぐに来る」 「クーガーの遺体はそのまま回収されるだろう」 「丁重に葬ることができないのは残念だが、仕方ない」 「そんな話はしていないっ!!」 「カイムを信頼していたのにっ!」 「兄さんを救う手段を探していたのにっ!」 涙でボロボロになっているのも構わず、黒羽の遺骸を抱きしめる。 「なぜこんなことに……」 俺は、座り込んでいるフィオネの手を取り、無理矢理立たせた。 「もうすぐ、お前の部下が来るんだ! しっかりしろ!」 「カイムに言われたくはない」 「私は……私は……」 駄目だ、まったく立ち直る気配がない。 こんな姿を部下に見せては、黒羽がフィオネの関係者だと露見するだろう。 それは、黒羽の意思にも反していた。 「隠れていろっ」 ふらふらして足元すら〈覚束〉《おぼつか》ないフィオネを、路地に押し込む。 フィオネはたいして抵抗も見せず、押し込まれた路地に尻餅をついた。 「カイムさん!」 「く、黒羽は?」 ちょうどそこに、羽狩りと不蝕金鎖の連中が駆けつけてきた。 彼らは一様に、黒羽の死体を見て足を止めた。 「カイムさん、やったんですね」 「ああ」 「隊長を知らないか」 「戦いが長引いたので、今少し休んでいる」 きっと、今のフィオネには喋らせない方がいい。 俺がフィオネの分も皆に喋る。 「捕縛できなくてすまない」 「だが、これで黒羽による殺人の被害が出ることもなくなるだろう」 どちらの組織の人間からも、おおお、と歓声が上がった。 「この場の仕切りはうちの組織がやる。黒羽の死体は、羽狩りに任せたい」 羽狩りに向かって、付け足す。 「いいか、ルキウス卿からは『大切な研究材料だ』という話を聞いている。それは死体でも変わらないだろう」 「仲間の仇であるという気持ちはわかるが、丁重に扱ってくれ」 羽狩りたちは、複雑な表情ながらも無言でうなずいた。 「オズ、後を頼む」 「わかりました」 オズがいてくれれば、現場の後片付けに不安は無いだろう。 羽狩りたちが黒羽の死体を布にくるみ運び出す。 不蝕金鎖の男たちは集まりかけている野次馬を蹴散らす。 作業にあたる者たちの表情は、一様に明るかった。 俺は両組織の人間に見つからないようこっそりと、座り込んだままのフィオネを立たせた。 「行こう」 「……」 返事はない。 触ることさえ拒否され、フィオネは自分の足で立ち上がる。 「カイムさん、おかえりなさ……」 「ええっ」 俺とフィオネの格好を見て飛び上がりそうなほど驚く。 「だ、大丈夫ですか!?」 暗い道ではよく分からなかったが、俺はそうとう汚れた格好をしていた。 「大丈夫だ。大きな怪我はしていない」 「体を拭きたいから、湯を沸かしてくれ」 「はいっ」 ぱたぱたと、ティアが湯を沸かしにいく。 俺はフィオネを椅子に座らせた。 「……」 〈憔悴〉《しょうすい》しきっているフィオネ。 この結果を招いたのは、紛れもなく俺だ。 だが、黒羽を斬ったことが間違っていたとは思っていない。 「フィオネ、辛いとは思うがクーガーが話していたことを伝えなくてはいけない」 フィオネの身体が、びくっと震える。 「クーガーの遺志だ。なるべく早い方がいいだろう」 「……あ、ああ」 フィオネの意識がしっかりしているかどうかは多少怪しい。 それでも、ここで話しておかなくてはならない。 クーガーのためにも、フィオネのためにも。 俺は、黒羽が語ったことを一つ一つ順を追って話し始めた。 ゆっくりと、言葉を選びながら。 「黒羽……いや、クーガーは、何かの実験の被験者だったらしい」 「何の実験だ?」 「それはわからない」 「ただ、施設が火災にあったときに逃げ出したと言っていた」 「火災……ということは……」 頷く。 「恐らく、薬屋が持っていた研究施設のことだ」 「あそこで見つかった羽根は、かなり古かっただろう」 「なるほど」 「これは推測になるが、クーガーはほとんど意識が保てない状況だったようだ」 「俺と話しているときも、唇を噛み切ったり身体を傷つけたりして、何とか二言三言話せる程度だった」 「自分の理性が長くは持たないことも知っていたよ」 「だから、俺に言ったんだ」 「自分を殺せ、と」 「兄さん……」 見開いたままの目から、つと涙が伝う。 「あの、お湯が沸きましたが……」 壁の向こうから顔だけのぞかせて、ティアがこちらを窺う。 「すまん。そこに置いといてくれ」 「はい」 ただならぬ雰囲気を感じてか、ティアは外してくれた。 俺は手布を湯に浸して絞り、顔と手を拭いた。 黒羽を斬ったときに吹き出してきた黒い体液のようなものの残滓を拭き取る。 フィオネにも、別の手布を渡した。 涙でぐしゃぐしゃになり、腫れた瞼にしばらく手布を当てている。 「すまん」 フィオネが顔をあげる。 「兄の話は、それで全てか」 「いや……」 「むしろここからが本題だ」 「……話してくれ」 「……」 「先に言っておくが、気を強く持ってくれ」 「……ああ、覚悟の上だ」 フィオネが表情を引き締める。 それでも、かなりきつい内容だろう。 だが、隠し立てしてはいけない内容だ。 深く息を吸う。 「治癒院についてだが……」 「クーガーは、羽つきは全員殺されていると言っていた」 「……」 瞬きを忘れ、フィオネが俺を見た。 「……も、もう一度頼む」 「治癒院は何かの実験のための施設らしい」 「連れて行かれた、羽つきは、全員殺されているとのことだ」 俺は、噛んで含めるように、ゆっくり告げる。 「…………」 フィオネが完全に動きを止めた。 言葉もない。 いかなる慰めの言葉も、俺は持ち合わせていない。 ただ、聞いたことをそのまま教えるしかないのだ。 「では……私たちが保護した〈罹患者〉《りかんしゃ》は……全員……」 目を伏せて、肯定の意を示す。 フィオネが立ち上がった。 「馬鹿を言うなっ!!!」 「そんなことが……そんなことが許されるかっっ!!」 俺の胸ぐらを掴む。 「そんな……そんな……」 俺は、されるままになっていた。 「馬鹿な、と俺も思ったさ」 「だが実際、治癒院から帰ってきた人間など見たことがない」 「言われたことを、しばらくは飲み込めなかった」 「信じられるか……そんな、馬鹿なことが……」 フィオネの腕の力が、徐々に抜けていく。 「真偽はわからない」 「俺は、黒羽の言葉を伝えただけだ」 「そ、そんな…………」 手が俺の服から離れ…… 力無く、フィオネが再び椅子に腰を落とす。 「カイム……作り話だろう?」 「聞いたままを伝えている」 「嘘だっ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっっ!!」 フィオネが耳を押さえ、頭を激しく横に振る。 「嘘じゃない」 「あああああああああああ」 フィオネの四肢が震えている。 顔からは血の気が失せていた。 目は血走り、壊れた人形のように頭を振っている。 「黒羽は、このことをフィオネに伝えるために火災にあった施設を抜け出したんじゃないか」 「だから、人殺しをしてまでも、これまで生き長らえてきた」 「伝え終えたからこその『俺を殺せ』だったのかもしれない」 「やめろっ」 「やめろやめろやめろっ!!」 再び、フィオネが俺に掴みかかる。 が、今度は俺はフィオネの肩を掴んだ。 そして、その目を真っ直ぐに〈睨〉《にら》みつける。 「もうやめてくれ……やめてくれ……」 「黒羽が命を賭けてまで伝えたかったことだ」 「フィオネが受け止めなかったら、彼の思いはどうなる」 「ああ…………」 フィオネの肩を離すと、フィオネは椅子には座らず、その場で床にくずおれた。 様々な想いが、フィオネの中で渦巻いているのだろう。 『保護』という名の下に、治癒院へ自らの手で送っていた人たちは? 誇り高く、自ら治癒院へ向かうことを決断した父親は? フィオネが常々口にしていた、正しくなければならない仕事とは? その仕事の末路が…… 大量〈殺戮〉《さつりく》の〈幇助〉《ほうじょ》だ。 「防疫局の仕事を、運命だと思っていた」 消え入りそうな声で、フィオネが言う。 「誇りを持って、全身全霊で取り組んできた」 「住民のためにも……もちろん羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》のためにもなると信じて」 「ああ、俺も見ていた」 「だが……」 「その仕事は、羽化病の〈罹患者〉《りかんしゃ》を死に追いやるものだったのか?」 「父も……このブローチをくれた老婆も……今はもう……」 痛々しい沈黙が続く。 何と声をかけていいかもわからなかった。 「兄は、それに気づいたのかもしれない」 「調べていて……捕らえられ、自らも……」 「そして、黒羽として、人々を……私の部下までも……」 兄と自分で父を死に追いやり、その兄がフィオネの部下を殺した。 そして、兄を救うこともできなかった。 救いがなさすぎる。 「だが、彼がいたから真実が俺たちに伝えられた」 「わかるな? 知らなければ済んだ、という話ではない」 「クーガーがフィオネにどうしてほしいと思っていたかを、考えろ」 「死ぬ気で考えろ」 俺は、黒羽を斬った剣をフィオネに手渡す。 「カイム……」 「この剣は、シルヴァリア家の誇りだと言っていたな」 「ああ」 「俺はその剣で、お前の兄を斬り倒した」 「フィオネの父親も、兄も、もうこの世にはいない」 「……」 「そのクーガーの最期の言葉を思い出せ」 「フィオネは、もう自由なんだ。家からも、羽狩りからも、名誉や誇りからも」 「何が正しいか、自分の目で見極めなくてはいけない」 「自由というのは、頼れる価値観が無いということでもあるのだから」 「……その通りかもしれない」 フィオネが剣を抜く。 黒羽を斬った際についた汚れで、黒ずんでいる。 フィオネは、しばらくじっとその刀身を眺めていた。 「布をもらえるか」 「ああ……」 武器の手入れ用の布を渡す。 「ありがとう」 フィオネが剣の汚れを丁寧に拭き取っていく。 刀身に映る自分を見つめ、ずっと何かを考えているようだった。 ……長い間、その作業を眺めている。 刀身は、本当に少しずつだが元の輝きを取り戻してきた。 「……」 すっ、と抜き身の剣を鞘にしまう。 そして、俺の方に向き直った。 正面から俺の目を見つめる。 その瞳は、穏やかすぎるくらい静まっていた。 「カイム、当たり散らしてすまなかった」 「兄の凶行を止めてくれたこと、感謝する」 「礼など言うな」 「いや、礼を言わせてくれ」 「私は、ぐずぐずと諦めきれず、周囲が見えていなかった」 「兄を止めないことで、また誰かが殺されたら、遺族には申し開きもできない」 「それは……その通りだ」 急に冷静に語りはじめたフィオネの様子を窺いつつ、慎重に答える。 言っていることは筋が通っているが、少し不自然な気もする。 「防疫局の仕事が私の運命だという考え方が、いかに自分を縛ってきたことか、今になってやっとわかった」 「だから……」 「だから、私は……防疫局をやめようと思う」 「羽狩りを……?」 「ああ、そうだ」 なぜか唐突に、懐かしい感情に触れた気がした。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の直後、俺が感じていたものと似ているのかもしれない。 信じていたもの、当たり前だと思っていた価値観が崩れたとき。 それらが〈徹頭徹尾〉《てっとうてつび》全てが間違っていたと考える。 これは一種の自己防衛なのだろうと思う。 今の自分を認めるには、過去の自分を全否定しなくてはいけない。 「自棄になっているんじゃないだろうな」 「フィオネの将来に大きく関わることだ」 「もう少し、時間をかけて考えてもいい」 フィオネを見つめ返す。 信念無く口先から出ただけの話なら、目に何らかの動揺が現れるはずだ。 だが、フィオネは落ち着いた視線のまま話を続けた。 「考えてみてくれ、カイム」 「明日、私が羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を治癒院へ送れば、それはもう殺人なんだ」 「決まったわけじゃない」 「だが、可能性は高い……違うか?」 「……」 反論などできようはずもない。 「これからどう生きるべきなのか……確かにそれはまだ見えていない」 「だがそれも、防疫局を辞めることで見えてくるものなのだと思う」 「兄も、自分の道を見つけろと言っていた」 「私は、その言葉を信じてみようと思う」 「……そうか」 「わかった」 「考えた上での結論なんだな」 「もちろんだ」 本当のところ、フィオネの心の動きはわからない。 表情が晴れ晴れとし過ぎているのも気になる。 だが、向かっている方向性は……少なくとも自暴自棄ではないように思えた。 「一晩置いて、冷静に考えた方がいい」 「答えは変わらない」 そう言いながら、次の日には答えを変えた人間を、いくらでも知っていた。 「そう言わず、今晩はここに泊まっていけ」 「一晩寝た後で、もう一度今と同じ話を聞かせてくれ」 「今日は、いろいろなことがありすぎたからな」 「……」 「ティア」 「は、はいっ」 どうせ話は全部聞いていたんろう。 「今日は、お客さんが泊まる。寝床を作ってくれ」 「わ、わかりましたっ」 ティアが、椅子を並べて即席のベッドを作る。 「客など泊まることがないから、粗末な寝床ですまないが」 「いや、これで十分だ」 「ありがとう、ティアさん」 「い、いえいえ」 縮こまるティア。 相手は羽狩りの隊長だ。仕方ない。 「明かりを消すぞ」 「……おやすみなさい」 「おやすみなさい」 「……」 フィオネが、大きくゆっくりと息を吐く気配が感じられる。 「誰かのいる気配というのはいいものだな」 「そんなものか」 「わたしは、わかります」 実感を込めてティアが言った。 「一人は、寂しいです」 「……そうだな」 フィオネは、しばらく何度か寝返りを打っていたが、すぐに寝息に変わった。 今日は、いろんなことがありすぎた。 身体も頭も心も、休ませよう。 目が覚める。 ティアが湯を沸かしている。 フィオネの様子はどうだろう。 ……。 見ると、フィオネはまだ眠りから目覚めていなかった。 疲れているのだろう。 寝顔をよく見ると、目尻に涙が流れた跡がある。 「カイムさん、どうしましょう。朝ごはんができますが……」 「そうだな……」 「疲れているんだろう、しばらく寝かせておけ」 「はい」 俺とティアが食事を終えたところで、フィオネが起きてきた。 「おはよう」 「おはようございます」 「あ……お、おはようございます」 「寝坊とは、恥ずかしいところを見せてしまった」 「構わないさ」 「朝ごはん、召し上がりますよね?」 「すまない、頼む」 フィオネは、固く黒いパンを文句も言わずに食べた。 俺とティアは、何もすることが無いのでその様子を黙って眺めていた。 「……な、何を見ているんだ」 「あ、おかわりは……少しですがありますので、言って下さいね」 「いや、大丈夫。ありがとう」 「ごちそうさまでした」 フィオネの挨拶はいつもきちんとしている。 それは、こんな時でも変わらなかった。 「さて、落ち着いたか?」 「……昨日の話か」 「ああ」 「昨晩、夜中に何度か目を覚まして、考えた」 「その間の細切れの睡眠で見る夢は、みな羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護した時のことばかりだった……」 涙の跡が残っていたのは、そういうことか。 「やはり、私の考えは変わらない」 「防疫局は辞めようと思う」 「一時の感情で決めたことは、後から何度も後悔することになる」 「本当に、辞めるのか」 フィオネがしっかりと頷く。 「これは兄の言葉と、自分の気持ちとを熟考した結果だ。変わらない」 「……今日これから、ルキウス卿に今回の件の報告を行う」 「その際に、辞めることも伝えようと思う」 「そうか」 決意は固いようだ。 心の底からの決意であれば、内容はどうあれ応援しようと決めていた。 だが…… 「ルキウス卿が、黒幕でないという保証はない」 「治癒院の件もルキウス卿が裏で糸を引いていたら……」 報告を聞いた時点で、フィオネが捕まる可能性もある。 「……!」 はっ、とした顔のフィオネ。 考えていなかったのか。 ……表面上は冷静に見せかけていても、やはりまだ動揺しているのだ。 「何日か休んで、様子を見た方がいい」 「消されてからじゃ遅いぞ」 「いや、踏ん切りがつかなくなっても困る」 「意地になっても、いいことはない」 「意地になど、なっていない!」 「……」 そういうのを、意地になっているというのだ、と目で訴えた。 「……っ」 「すまない」 俺の視線の意味に気づいたフィオネは、顔を赤くしながら椅子に腰を下ろした。 意地を張れるのも、まだ元気がある証だ。 「ルキウス卿が黒幕の可能性があるという話だが」 「俺の名前を使えば危険はだいぶ減らせるはずだ」 「どういうことだ?」 「治癒院の件を知っているのがフィオネ一人ではないとなれば、下手なことはできないはずだ」 「なるほど……カイムは策士だな」 「だが、カイムにも累が及ぶ可能性があるぞ」 「俺の名前で良ければ、いくらでも使ってくれ」 「誰かに付け狙われるのは慣れている」 フィオネを安心させるべく、冗談のように笑う。 「……すまない、ではその手を使わせてもらう」 「よし、準備ができたら出かけるとするか」 「カイム、付き添いなら別に大丈夫だが」 「詰め所にまではいかないさ」 「俺は俺で、別の仕事があるから一緒に出るだけだ」 「そ、そうか……そうだな」 フィオネが自分の勘違いに照れている。 だが、実は彼女の読みは当たっていた。 フィオネと別れてからすぐに、後をつける。 いつものフィオネならともかく、今日のフィオネは全く俺に気づかない。 無理もないことだが、やはり平常心ではいられないようだ。 フィオネが、羽狩りの詰め所に消えていく。 何事かが起きる気配があったら、いつでも中に飛び込もう。 適当な露店を覗いて回るふりをしつつ、神経は常に詰め所に向けておく。 特別な気配も、フィオネが出てくることもなく、しばらくの時間が経った。 俺の知っている限り、他に出入り口はないはずだ。 一体、中で何が起っているのだろうか。 もしフィオネがこのまま帰ってこなかったら…… 俺は、治癒院についての疑惑をどうすればいいだろう。 クーガーに続き、フィオネまでもが闇から闇へ葬られたりしたら……放置しておくわけにはいかない。 羽狩りがどんなに強大な組織だろうと、国に楯突くことになろうとだ。 やはり、俺も行くべきだっただろうか。 ジークに全てを話し、後を託せば俺も一緒に行くことができたはずだ。 なぜそうしなかったのだろう。 ひとたび悔やみはじめると、その思いがどんどん膨らむ。 今、まさにフィオネが危機に陥っているかもしれない。 一緒にいれば何かできることもあっただろうが、ここにいたのでは助けになることもできない。 詰め所に飛び込むべきだろうか? いや、早まってはいけない。 状況を見極めるべきだ。 フィオネは出てこない。 露店も次々と店をたたみ始める。 人通りも減った。 羽狩りの詰め所に明かりが灯ったが、中の様子は相変わらずわからない。 そろそろ、ここにいるのも怪しまれる時間だ。 どうする? 「!」 関所から、フィオネが出てきた。 「フィオネ!」 気がつけば、駆け寄っていた。 「どうしたんだ!?」 「それはこちらの台詞だ」 「カイム、ずっとここにいたのか?」 「あ、ああ……まあそんなものだ」 「別の仕事は?」 「ん、まあすぐに片付いたからな」 「……待っていてくれたのか」 「心配をかけた」 「いや、まあ……」 言葉を濁す。 「それより、どうなったんだ?」 「ああ、事の成り行きをルキウス卿にご説明した」 「黒羽が……兄だったことは伏せたが」 「それで?」 「結論から言うと、ルキウス卿は黒幕ではなさそうだ」 「私は不勉強で知らなかったのだが、治癒院はルキウス卿とは違う貴族の管轄らしい」 「誰なんだ?」 「具体的なところはよくわからない」 「だが、表立って調査をすれば、ルキウス卿自身の立場も危なくなるそうだ」 「上の地位の貴族か」 フィオネが重々しく頷く。 「だが、治癒院の問題については、ルキウス卿も懸念を示されていた」 「何とか、内々に調査をしてみるとのことだった」 「一応、調査はしてくれるのか」 「ああ、私も一つ肩の荷が下りた気分だ」 「そうか……」 「だが、報告だけにしてはずいぶん時間がかかったようだが」 「まあ、簡単な引き継ぎと……」 「私が防疫局を辞めると話を切り出したら、延々と引き止められてな」 そういえば、フィオネはまだ羽狩りの制服を着ている。 慰留されて残ることにしたのだろうか? 「その制服は?」 「ん? ああ……」 「私が着替えを持っていなかったから借りているだけで、次行くときに返却する」 「返したところで、女性用の制服など着る者はいないがな」 寂しげでもあり、自嘲する風でもある笑みが浮かぶ。 「防疫局は、後腐れなく辞めてきたから心配しないでくれ」 「ルキウス卿にも、残念だと言ってもらったよ」 髪をかき上げ、さっぱりした顔を見せるフィオネ。 「ついでに、この際、今の家も処分してしまおうかと思っている」 「どう考えても、一人で住むには広すぎるからな」 「その先の事は決めているのか?」 「いや」 「家を売ればいくばくかのお金ができるだろうから、それから考える」 「そうだ。もし時間があるなら、うちに来てくれないか?」 「不蝕金鎖の〈伝手〉《つて》で売却できる美術品などがあったら、それを任せたいのだがどうだろう?」 「まあ、構わないが……」 「あっさりしすぎじゃないか?」 「いいんだ、これで」 フィオネの後をついて、歩き出す。 長い長い関所の階段を、一言も交わさずに上っていく。 フィオネの顔は、やはりどこか晴れ晴れとしすぎていた。 やはり、冷静に見えてどこか自棄になっているところがある気がする。 ここで羽狩りという支えを失って、本当にフィオネは大丈夫だろうか? 意図的に愚かに振る舞うことで、無意識に同情を買おうとしているようにも見える。 「フィオネ、もし良かったらうちに来ないか?」 「えっ」 その言葉は、思っていたよりも抵抗無く、するっと口から出た。 口にした俺自身が軽く驚くほど。 「うちに住んで、不蝕金鎖で働かないか?」 「もしもう次の仕事なり、転がり込む先が決まっているなら別だが」 「いや、そういったものは決まっていないが……」 「フィオネの剣の腕なら申し分ない」 「と言うより……」 「今のフィオネを放っておけない」 「……カイム」 フィオネが、ふと歩む方向を変えた。 何を思ったのか、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の現場に向かっている。 フィオネについてそのまま歩を進めた。 風が少し冷たい。 闇が足下に迫っていた。 大きく口を開けた崩落現場は、底が見えない。 しばらく下界の深淵を見つめ、フィオネが口を開いた。 「私は、様々なものを失った」 「比べていいものかはわからないが……」 「カイムが〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で家族や家や友人や、そういうものを失ったときの喪失感と近いかもしれないな」 「今になって、初めて〈大崩落〉《グラン・フォルテ》という災厄に遭った人の心情がわかった気がする」 「……」 黙って頷く。 「誰もが、人生の転機では過去を断ち切ろうとするものだ」 「大きな転換であればあるほどな」 「……うん」 「だが人は、そう簡単に過去を消すことはできない」 「だから、考え方や価値観を無理に変えようとすると、気持ちが不安定になってしまう」 「これは、俺自身の経験からも間違いない」 「そして、その不安定さは、時にとても危険なものなんだ」 「周りも見えずに無謀な目標に突っ走ったり、目標の喪失自体に戸惑って甘い罠に引っかかったり」 「叶いもしない仇討ちに命を投じたり」 「……」 「ゴミのように命を捨てる人間を山ほど見てきた」 「俺は……フィオネには、そんな風になってほしくない」 「私が命を粗末にすると決めつけるな」 「何をするかも決めず仕事を辞め、資産を処分しようとしているんだぞフィオネは」 「今のフィオネの行動は、自殺者のそれだ」 「……」 否定できないフィオネが、また眉間を険しくして俯く。 「クーガーを斬ったのは俺だ」 「俺は、フィオネに対する責任も全て負うつもりで斬った」 「後は自分でどうぞご勝手になどと言うつもりはない」 「フィオネが新しい目標を人生に据えるまで、力になりたいと思っている」 「迷惑じゃなければ、傍にいさせてほしい」 まっすぐに見つめて思いを告げる。 しばらく、フィオネは頭の中でいろいろ考えていたようだ。 だが、顔を上げた時には眉間の険しさは消えていた。 そして俺よりフィオネの方が、気恥ずかしそうに言った。 「……ありがとう、カイム」 「よろしく頼む」 だいぶ時間は遅くなった。 大きな家には、明かりの一つもついていない。 当たり前だ。 今、この広い家に住んでいるのはフィオネ一人なのだから。 「寝に帰るだけの家になってしまって久しいな」 朝は一人で起き、食事を作って一人で食べ、夜は一人で寝る。 クーガーが行方不明になってから、フィオネはこの家でそんな生活を続けてきたのだ。 もしかしたら、家を売りたいのは、諸々の悲しい思い出を切り捨てたいからかもしれない。 「……」 フィオネが明かりをつけるのを待つ。 ……が、なかなかつかない。 「フィオネ?」 「カイム」 フィオネの呼び声と共に、背後から抱きしめられた。 背中に温かな感触が伝わってくる。 「カイム、教えてくれ」 「私が積み重ねてきたものは、無駄だったのだろうか?」 「私が、兄さんが、父さんが守ってきたものは無駄だったのだろうか?」 「この家も、〈恩賜〉《おんし》の剣も、シルヴァリア家の名前も……」 「何もかもが……」 静かだが、悲痛な声。 額を俺の背中につけているせいか、声もくぐもって聞こえる。 もしかしたら、泣いているかもしれない。 「……」 俺は振り向き、フィオネの身体を抱き寄せ、背中に手をまわした。 「そんなことはない」 「積み重ねたり、守り続けようとしたものがたとえ無くなってしまったとしても」 「価値があるのは、それをしようと思った意志だ」 「意志はきっと誰かに通じる」 「そして、フィオネ自身の誇りにもなる」 「他人から賞賛される名誉よりも、自分の中にある名誉の方が生きていく上では重要だ」 「お前は、既にそれを持っている」 「カイム……」 フィオネが、再び俺の身体を抱きしめる。 「フィオネはよくやった」 フィオネの頭をぽんぽんと叩く。 「う……うぅ……うわあああああぁ」 堰を切ったように、フィオネは泣いた。 声を上げて、はばかることなく泣いた。 もう、フィオネは羽狩りには戻れない。 この家も、恐らく処分することになるだろう。 決めたときはむしろさっぱりした顔さえしていたフィオネだったが、その心中は察して余りある。 「辛かったな、フィオネ」 「うあああぁぁぁ……」 何かを失ったとき、辛いとき、そしてそれを乗り越えたとき。 誰かに、褒めてもらいたい。 慰めてもらいたい。 そういった言葉を誰にも言ってもらえないことほど、苦しく辛いことはない。 フィオネは、ずっと一人で耐えてきたのだ。 耐えて、耐えて、耐えすぎて。 自分がやっていることを正しいと思いこみ、疑えなくなるほど。 「……」 「うぅぅ……」 フィオネの背中を、優しく叩く。 安心させるように。 フィオネは一人ではないと。 ……フィオネが思う存分泣き終えるまで。 「……すん……」 「気が済んだか」 「……すまない」 「もう少し……このままで……」 フィオネが俺の身体に廻した手に、きゅっと力が入る。 俺も、つられてフィオネの身体を少し強く抱きしめる。 「温かいな」 「ああ」 こんな風に誰かを包むのは、いつ以来だろうか。 フィオネの悲しみがわずかでも癒えるよう、穏やかに背を撫でる。 「……カイムは嫌じゃないか?」 「何が?」 「私が、こうしていることを」 言葉の意味が分からず首をかしげる。 顔を覗き込もうとすると、慌てて〈俯〉《うつむ》かれた。 「カイムの服も、涙で汚してしまった」 「気にするな」 「しかし……」 涙でまだ濡れる瞳が、おそるおそる俺を見上げる。 今のフィオネは、ただ一人の無防備な少女だ。 「フィオネ。頼るべき時には頼ってくれ」 「俺が傍で支えると言っただろう」 〈耳朶〉《みみたぶ》に触れるくらい近くで囁くと、フィオネは肩をすくめて目を閉じた。 「あ、ああ。でも……」 紅く染まるうなじが夜目にも見える。 「……」 「自制が効かなくなるかもな」 「カイム……?」 こちらの独り言に、今度はフィオネが首をかしげた。 「何でもない。話せる程度に回復したなら、今日はもう寝た方がいいだろう」 「え……えっ?」 あまり抱き合っていると、それだけでは済まなくなりそうだ。 俺はフィオネを抱き上げ、彼女の寝室へと運んだ。 「あ、ありがとう……」 ベッドに横たえられると、フィオネはほっと吐息を漏らした。 「カイムといると、私は甘えてばかりだ。いけないな」 「何がいけない」 「それに、こんなことは甘えに入らない」 「そう、なのか?」 「そうだ」 先と似た会話を繰り返しながら、俺はフィオネの制靴を脱がせる。 「カイムっ……靴を脱がせてもらうのも、甘えではないと?」 「ああ。他にして欲しいことがあるなら遠慮しないことだ」 「水差しを取ってこい、とかな」 「いや、いい。ここにいてくれた方が嬉し……」 「う……い、今のも、いい」 フィオネは真っ赤になり、言葉の続きを呑み込んでしまった。 「フィオネ。今後その癖は改めてくれ」 「言いたいことを我慢されては、俺が傍にいる意味がない」 「聞かないなら、こちらも奥の手を使う」 「奥の手?」 「使って欲しいのか?」 「いや、結構。……嫌な予感がした」 「賢明だな」 俺は苦笑し、ベッドへ腰を下ろした。 フィオネの願いを叶えるためだ。 「あ……傍に、いてくれるのか」 「……他にして欲しいことは?」 「カイムがいてくれるだけで、私は十分だ」 「はぁ……“奥の手”を使うか」 「ほ、本当だっ。本当に、夢のように、嬉しい」 「……嬉しいんだ」 フィオネは消え入りそうな声で囁き、微笑む。 そして、意を決したように唇を結び、俺を見上げた。 「……私は、まだカイムに言っていないことがある」 「ずっと黙っていようと思っていた。それも、聞いてくれるか?」 「ああ。どんなことでも」 シーツを握る細指に力がこもるのが見えた。 フィオネは深呼吸し、ゆっくりと唇を開く。 一体……? 「私は……」 「……私は、カイムが好きだ」 「フィオネ」 「それでも、私は傍にいていいだろうか」 真摯な声と眼差しに、胸の底から熱くなった。 「……いいに決まってる」 「想いが通じ合っているなら、なおさら」 「カイム」 力を込めすぎて白くなった彼女の指に、自分の手の平を重ねた。 俺の手に包まれて、フィオネの指の力が抜けてゆく。 「う……」 一筋の涙が頬を伝おうとしていた。 俺は無言のまま彼女の頬へ唇を寄せる。 「カイム……?」 目尻に浮かぶ涙を、口付けでそっと受け止めた。 「っ……んっ、ぅ……」 「嫌なら俺を止めてくれ」 耳元で囁き、唇を首筋へと滑らせた。 身体がそう引き寄せられる。 「ぁ……んぅ……んん……っ」 大切にフィオネを扱おうと試みる。 「……止めない」 「カイムの、望むままにしてほしい」 「私の知らないあなたを、教えて欲しいから」 震える声で、フィオネが応えた。 頬を俺の頬に触れさせ、慎ましやかに身を預けてくる。 「ぁ……ん……ぅ……」 かすれた吐息一つにさえ、熱いものを感じる。 フィオネを、本当の意味で包んでやりたいと思う。 「っ……カイム、あ、あの」 「カイムも喋ってくれないと、その……は、恥ずかしくて、たまらないんだが」 「…………」 フィオネの反応の全てが愛おしく思えて仕方がない。 「俺の望むまま……例えば、こういうことでも?」 「ぁ、あっ、ぅ……む、胸……ん……くぅ……ふぁっ」 「はぁっ、ふぁ……あつ、い……」 制服の上から、試しに乳房を包んでみる。 ゆっくりと揉むだけで、形の良さが伝わってくる。 「ん、んんぁっ……ぅ、く……」 強く、弱く、指を食い込ませる。 ときおり彼女の先端の辺りを擦る。 異なる動きに、フィオネの上体がビクリと跳ねる。 「こ、声が……んく、ぅ、ぅ……あぅ……」 上ずった声を恥じ、フィオネは唇を結ぼうとする。 そんな健気な様子が、やはり愛おしい。 「止めた方がいいか?」 「そ……それは、だめだ」 「でも辛そうだ。顔も紅いし、息も荒い」 「あっ、当たり前だ……こんなこと、初めてで……んぁあっ、ぁ、ふぁ、んくぅ……!」 制服の上から、乳首の辺りを狙ってかぶりついた。 不意打ちに、フィオネは怯えて硬直する。 「ぁ、ぅ……ん……ん、んくっ……んむっ」 「堪えなくていい。フィオネの声が聞きたい」 「そっ、そんな……ふぁっ……ひゃっ、ぁあっ?」 今度は彼女の背に手をやり、布越しの尻肉を撫でた。 制服の裾をたくし上げ、その先の行為を想像させる。 「カ、カイムっ、脱ぐのなら自分でする……だから、待って」 「そ、そう。この制服は脱がすのは難しいと思う。な?」 「なら、一緒に」 「え……えっ?」 「フィオネはタイを解く。俺はベルトを」 彼女は反射的に承諾した。 「あ、ああ、分かった。じゃあ……」 「ぅっ、う……あれ」 簡単に解けるはずのタイに、フィオネは苦戦した。 これまで幾度となく解いてきたはずなのに。 「ああ、そうだ。今朝は特にしっかりと結んだんだ……御役目も今日で最後だと思って」 「……そうか」 「た、確かにきつく結んだが……」 「解けないのは、指が震えているから……だな」 タイから手をはなし、フィオネは困ったような笑みを浮かべた。 深呼吸し、俺を見上げる。 「やはり……頼っても、いいか?」 「え?」 「ここから先は……カイムに……」 一瞬遅れて、頭が意図を理解する。 そして、俺は応えるように彼女を抱きしめていた。 「ん、ぁ……」 彼女の胸元、紅い結び目に触れる。 フィオネが誇りを持って生きてきた時間の証し。 「んんっ……」 しゅるっ…… かすかな音を立て、タイが緩む。 次にベルトの留め具を外した。 「すぅ、はぁ……」 俺の片手で肩を抱かれたまま、フィオネは始終を見守っている。 羽狩りの制服を取り去ることもまた、彼女を束縛から解放する行為のように思えた。 「ぅうっ……ぅ、く……ぅっ」 しなやかな姿態が露わになった。いつか見た時より、ずっと近くに。 俺の視線に気付き、フィオネは慌てて肌を隠す。 「あ……あの」 他人の、それも男の俺の目に肌を晒すのが、本当に恥ずかしいのだろう。 弱った顔で、そっと俺を見上げた。 「泣きそうな顔をしている」 「そ、そんなことはない……はずだが」 俺が手を握ると、フィオネはゆっくりと腕を上げる。 再び晒された肌は、先ほどより紅く染まっていた。 「……灯りは消した方がいいか?」 「えっ」 髪を撫でながら、そう提案してみた。 半裸でこれだ。全て取り去ってしまったら、一体どうなってしまうのか。 「んっ……灯りを消したら、何も見えなくなるが……」 「フィオネが見えないのは残念だが、少しは安らげるだろう」 答えを待ちつつ、彼女の首筋に顔を埋める。 彼女の姿を視野から消す代わりに、甘い温もりを味わった。 「ふ、ぁ……大、丈夫……このままで……んっ」 「カイムが見えている方が……安心できる」 首筋にキスされながら、フィオネが囁く。 「わかった」 そして、身を委ねるように力を抜いた。 「んっ……ふぁ……ぁあ、そこは……」 俺は密着し、彼女の腰のくびれを撫でた。 彼女の弱々しい抵抗を、できるだけ優しく諫める。 「やっ、ぁっ……ふぁっ、ぅぅぅぅ……」 「ん……あまり、女性らしくなくて……すまない……」 「肉付きも良くないし……触れていても、楽しくないだろう?」 本気でそう言っているのだろう。 俺の昂ぶりを触れさせれば真偽などすぐに伝わるだろうが、ひとまずやめておく。 「ん、ぁっ……ふぁ……また、声が……出る……んぅ!」 「まだ撫でただけだ」 「わ、分からない……触れられた所が熱くなって……」 「ふあ……ぞわぞわ、して……頭が、ぼうっとして……ひゃうっ」 白い薄布の上から、尻肉をゆっくり掴んだ。指を食い込ませたまま、やや強めにそこを揉み上げる。 「っ、ぅっ……あつい……や、やぁっ……な、中に……手、は、入って……」 「こっちも」 「はふっ、ぅっ……ぁ、あ、んくっ、あっ、ぁぁあっ!」 今度は布の内側のぬくもりを求めていった。 胸を包む薄布の下で、直にフィオネの乳房を感じる。 「あぁ……だめ、だめだ……胸は、本当に……気にしてるんだ……」 「小さいし……幻滅されて、しまう……」 「しない」 「……する」 「しないな」 「ちゅ、ぅっ!? んっ、む……ちゅ……や、やぁっ……ぁむっ……!」 子供のように困惑するフィオネをなだめ、俺はもう一度彼女に口付けした。 唇を重ねながら、美しい乳房を幾度となくなぞる。 「んっ、ぅ、ん、ぁ、んぅうっ……そ、そんな、両方……待って……ぁ、あっ」 腕の中で、フィオネの身体が急激に汗ばんでゆく。 声に艶が増し、聴覚からも俺を刺激してくる。 「その声を、もっと聞きたい」 「っ!? そんな……ぅっ、ぅう……!」 「声だけじゃない。直接、フィオネの身体を見たい」 「ぅ……く……、……んっ……」 こくと頷き、フィオネはぎゅっと身を縮める。 胸元の布を取り去った時、自分でも驚くほど昂ぶっていた。 「ぁ、あぁっ……」 「綺麗だ」 「え……? ん、ぁっ……んぁ!」 薄布を取り去っても、フィオネの乳房は美しい輪郭を保っていた。 触れると、膨らみは心地良い弾力で押し返す。 「……綺麗だ、と言った」 「……ふぁ、はぁっ、は、ぁ……嘘、だ」 「信用がないな、俺は」 「そうでは、なくて……んっ、ぅぅ……くぅっ……あ……っ」 手の平で包み、感触を味わう。 それだけで、フィオネの上体は敏感に反応する。 「やっ、ぁっ……やうぅっ……」 鍛えられ引き締まった肉体は、汗と女の匂いをまといながら跳ねた。 美しくしなやかな曲線が、シーツの上で乱れてゆく。 「はふ、は、ぁ、ふっ、そ、そこは、だ、め……」 乳房の丸みを堪能しながら、俺は先端の尖りへ唇を寄せる。 フィオネは意図に気付いたようだが、もう、俺を止めなかった。 「ふわっ、ぁ……ん、ぁぁ……ひぅ……ん……っ」 慎ましく尖った乳首を、舌で転がす。 フィオネは甘くとろけた息を漏らし、じっと俺の行為を見守る。 「ぅ、う……それ、変だ……ふぁあ……あぁ……ぅ……」 「感じてる……のか?」 「た、たぶん……」 「……よかった」 「ふぅ、わ……は、んぁ……ふぁっ……あ、んん……っ」 丸い膨らみをすくい上げ、愛らしい乳首を口に含む。 舌を絡め、甘噛みし、徐々に刺激を覚えさせてゆく。 「んんっ……く、ぁ、ああっ、ぁあぁっ!」 「ぁ、あ……ぐすっ……もう、もういい……」 「……ひぅ……あ、あまりされたら、おかしく、な……る……」 「なっていい」 「こ、困る……やぁぁっ」 柔らかな胸と薄い腹部が、乱れた息に合わせて上下する。 もっと、もっとフィオネに昂奮して欲しい── 「んぅっ!? ん、ぁっ、それ、待って……心の準備が……」 下着の端に触れただけで、フィオネは慌てて俺を制止した。 本気で困惑するフィオネに苦笑し、そして、心から詫びる。 「……待てないんだ。すまない」 「え……」 「フィオネを、早く抱きたくて仕方がない」 「んっ……優しい声は、ずるい……」 「ぁ、ぁぁ……あ……」 「く……ぅ……、ぁ……」 フィオネの秘処が露わになった。 ごく薄い茂みの下に、ぴたりと閉じたすじが見える。 「怖くない」 「……ん……怖く、ない……ぁぁ」 腕の中で、フィオネが頷くのを感じる。 唇をこめかみに、〈耳朶〉《みみたぶ》に、首筋に沿わせ、彼女の唇に重ねる。 「ちゅ、れる……んく……ちゅ……れろ……」 無駄な肉のない身体を撫でる。 そして、彼女の下腹部へと手を滑らせた。 「っ……ん、ちゅ、ぱ……ぁぁ……んむ……」 「くぅ……ん……んんっ」 口付けをしたまま腕を伸ばす。 指先で慎ましい茂みをまさぐる。 「れるっ、ぷは……やっ……んむ、ぁむ、ちゅる……」 脚を割ろうとすると、引き締まった太腿がぎゅっと閉じてくる。 そんな時は優しく肌を撫で、心地良く弛緩させた。 「ふぁ……あぁ……ちから、入ら、ない……」 「ああ。こういうフィオネも可愛いな」 「う……うぅ……あ、ぁ、ぁあぁ……んん……」 甘い声と共に四肢の力が抜ける。 もう一度茂みの方へ指を伸ばすと、今度はフィオネの秘処に届いた。 「んっ……んぁっ!? ぁ、ぁあ……あ……」 「そ、そこはっ……不浄だぞ……?」 フィオネは自慰もしないのか、などとは……聞かない方がいいだろう。 彼女の秘裂はぴったりと閉じ、陰核も包皮を被ったままだ。 「……初々しいな」 「っ? それはどういう……?」 「……綺麗だってことだ」 「よ、良く分からない」 二本の指を唾液で濡らし、今度はやや強く陰唇を押してみる。 跳ねるフィオネを強く抱き、俺は慎重に秘裂をなぞった。 「ぅ、く、ぅぅっ……ぁ、ああっ、んぁ……中に……」 「入ってない。まだ入口だ」 「はぁっ、ふ……んぁっ、胸、また……だ、め、そんな、全部一度に……れろっ」 「ちゅっ、ぅ……んぅううっ! んっ、ぅ……ぁ、あ、んむぅうぅうぅ……!」 舌を一際深く絡め、口腔中をまさぐった。 並びの良い歯を、歯肉を、舌の裏をなぞる。 「んんっ、ふぅうぅっ、ん、んぅ……」 俺とフィオネの唾液が混じりあう。 口腔に溜まったそれをまた指に塗りつけ、彼女の閉じた割れ目を濡らしてゆく。 「ぁ、あ、ぁ……えっ……これ、なに……」 「あっ……ふああぁ……っっ」 細い腰が大きく震える。 指先が、ついに濡れた粘膜へ触れた。 「んあっ、ふぁ……あ……ぁ……ぴちゃ、れる……ちゅ……」 上ずった声を恥じるように、フィオネは自分から唇を重ねてきた。 俺を真似て、控えめながらも舌を絡めてくる。 「ちゅっ……ちゅ……ちゅぱっ……」 「ちゅるっ、ちゅ、ぁむ……カ、カイム……ぅ……」 粘膜の谷間で指を泳がせるうち、徐々に、彼女の奥から蜜が滲み出てきた。 フィオネはもう抵抗せず、口付けで奉仕しながら指を受け入れる。 「んぅうぅうっ!? んっ、ぁ……れる……ふぁ……んちゅっ……」 熱い蜜に濡れた指で、俺は控えめな突起に触れた。 「っ!」 包皮ごと陰核を押して、ゆっくりと上下に刺激する。 「はふ、は、ぁ……ああ……んっ、くぁ、あ、ぁぁぁ……」 力の入らない手が、俺の腕を掴んだ。 俺は彼女の身体を抱いて応え、緩やかに行為を続けてゆく。 「……はぁ、んぁ……は、ぁあ、昇ってく、みたい……」 未知の感覚に怯えるように、フィオネがきゅっと俺にしがみつく。 胸の膨らみが、俺の胸板に押しつけられ形を変える。 「はぁっ、はぁっ、は、ぅ、んぅう!」 溢れる蜜が増し、指をより速く滑らせる。 陰核を剥いて撫でてやると、フィオネは全身を跳ねさせた。 「ひぁあっ!? ふぁっ、ふっ、ぅっ! そこ、放して……指、ぁぁぁぁぁっ……」 刺激を受け続け、フィオネの腰が浮く。 「っ……ぁ……ぁああああぁぁ……っ、だ、だめ、だめっ!」 蜜がシーツにこぼれ、愛らしい染みを広げていった。 「んぅぅっ、ん、ふはっ、ふあぁぁあっ! もう、もうだめ……だめぇ……!」 「ひゃううっ……あ、ああっ、だめっ、だめっ……だめっ」 「……いってくれ」 「ぁ、ぁ、あ、カ、カイ、ム、あっ、ああっ、ふ、んんっ、ふぁぁぁあ、ああん、あ、あああああっ!」 「んぅううっ、ぅ、ふ、んくぅうっ」 「あっ、はぁ、ああっ……んく……っ」 「はふ、は、ぁ……はぁ……あぁ……ぁぁぁぁぁ……」 自分に何が起こったのかも分からないまま、フィオネは腰を跳ねさせた。 その度に乳房が揺れ、浮いた汗が伝い落ちる。 「や、ぁ……見、ない、で……ぇ……」 「……どうしても?」 「どうし、ても……ぁ、んぁぁああぁっ!」 「はぁあっ、はぁっ、あ……んっ、はっ、はぁ……」 「はあぁっ……あうぅ……ん、んあぁ……ふぁ……」 「ふ、ぁぁ……ぅ……ぁ……」 始終を見られながら、フィオネがまた軽く達した。 もう、恍惚の表情を隠すこともできないままだ。 「は、恥ずかしい……」 「恥ずかしいだけか?」 「……違う……ほ、本当は、気持ち……よかった」 「はぁ、ふ……、ぅ……」 絶頂の余韻に包まれ、フィオネはシーツに沈んだ。 淫らに乱れた息も整えられないまま、ただ、潤んだ瞳で俺を見上げる。 「カイム……」 どちらからともなく手を取り、指を深く絡める。 ついばむように口付けし、互いの唇で甘く噛み合う。 「あむ……ん、む……ちゅ、ぷ……はぁふっ……!」 次の行為を期待して、ふたりの口付けが荒くなる。 「ぁ、あ……?」 俺は彼女に乗り、片手で自分の衣服をはだけさせる。 布の戒めの中で怒張は固く勃ち、解放の瞬間を待ちわびていた。 「あん……ひ、ぅっ……!?」 露わになった男性器を前に、フィオネは息を呑んだ。 「ああ……なんだか、思っていたのと……」 「こんなに大きい、なんて」 フィオネが端麗な眉を寄せている。 「こうしたのはフィオネだ。途中で襲いたくなるのを堪えていたから」 「そうなのか? いつ?」 「……私は、襲われても、良かったんだが……ひゃあっ!?」 未開拓の秘処に、俺は怒張をあてがった。 フィオネの濡れた柔肉で挟み込み、ゆっくりと擦る。 「ふ、ぁ……やぁっ、何して……?」 「それに、音っ……卑猥だ」 ちゃっ、にちゅ……。 ほぐすたび、粘膜同士が淫らな水音を奏で始める。 「んっ、ぅっ……やっ……はうっ……ふぁっ、ぁあ!」 陰唇を、棹やカリ首、亀頭で刺激し慣らしてゆく。 そのたび秘裂がヒクヒク震えて心地良い。 「ぅ、ぁ、漏れ、る……何……?」 「あ……ひぅん……っ」 秘裂の奥から、濃く滑る蜜が滲み出た。 その箇所を狙って、俺は亀頭を宛がう。 「っ……ぁ、……ふぁ……ううぅ……ああ……ん……っ」 「はあぁ……ふあぁっ……くぅ……んっ」 割れ目の間で亀頭を沿わせ、蜜を纏わせる。 その行為だけでも達してしまいそうなほどの快感だ。 「……ここから痛むと思う。いいか」 本当は、確かめる間も惜しいくらいだった。 フィオネが、欲しくてたまらない……! 「あ……か、構わ、ない……早くぅっ……」 俺たちはもう一度強く手を握り合う。 深く息を吐き、俺はついに腰を押し出した。 「ひぐっ……ぅ……んんんんっ……んくぅっ!」 狭い入口をこじ開けた。裂けるような感触がある。 フィオネは声を堪えて、痛みを隠そうとした。 「力を抜けるか?」 「はぁっ、あ……はぁっ、ふ、ぁ……はぁっ、だ、大丈、夫……っ」 「痛い……けど、あっ……嬉しい、から……、ん、ぁぁあっ」 フィオネの脚から力が抜けた。 俺は身体を割り込ませ、再び膣口を押し開く。 「んぅ、んっ……くううっ………あぁぁ、んぁ、ぁあ……」 フィオネは切なげな声を上げ、上体を反らす。 俺はその背に腕を回し、少しでも彼女が安堵できるように抱きしめた。 「あぁ……あた、たかい……ぁ、ぁぁぁあーーっ」 また少し、フィオネの中へと侵入した。 初めて受け入れる男を、膣道は容赦なく締め付ける。 「きつ……っ」 「んっ、んんっ、はぁ、はぁ、んぅううっ、んっ、ぅ……」 「ん……ちゅ、る……んむ、れるっ、ちゅぅ……ちゅぷ」 身体を重ね、手を繋ぎ、舌を絡ませる。 全身を密着させながら、俺たちはついに一つになった。 「あ、あ……はい、った……? ふぅ……は……あ、ぁぁぁあ……」 「ん……くっ……っはぁっ、は、ぁあ、あ、はぁ、んくぅ……」 ぴったりと閉じた道を割り、俺はフィオネの最奥まで貫いていた。 少しでも動くと、膣襞がきつく絡み、責めてくる。 「……あぁ……す、すごい……中に、カイムが、いる……ぅ」 純潔の証しが、太腿を伝っていた。 フィオネの目尻には涙が溜まっている。 「泣かせたな……」 「これは……違う。あ、安心して……はぅ……気が緩んだだけ……」 「それと……繋がれて、ぅ、嬉しいのと……」 消え入りそうな声で言い、フィオネは微笑んだ。 「んぅっ!? ん、あ……中で……動い……た?」 しばらくじっとしているつもりが、不覚にも反応してしまった。 そんな動きにもフィオネの膣内は蠢き、棹を搾る。 「っ、……すまない」 「……我慢しないで。……その、う、動いて……欲しい……」 「どう……抱かれたらいいか、できれば……教えて欲しい……」 「フィオネ……」 恥じ入りながら、フィオネはそう求めてくれた。 こちらの我慢を感じ取ったのかもしれない。 「教えて……あっ、んんっ、ぅ、はぅ……あ、ぁぁ……!」 彼女を傷つけないよう、徐々に抽送を始める。 小さな動きでも肉棒が締めつけられ、俺はたまらず背中を震わせる。 「フィオネ……!」 「んぐぅっ、んぁ、ふ、んぁあぁぅ……はあぁ……んくっ」 「あぁ……ふ、深い……ぁあっ、熱、い……!」 狭い道が、肉棒の形通りに拡がってゆく。 引き抜く時にはカリ首に膣襞が絡まり、フィオネは切なげに悶えた。 「はぁ、あ、んあぁぁっ、お腹の、中、持って……いかれる……ぅ……ぁああっ」 押し込む時より、抜き去る時の締め付けがきつい。 あまりの甘美な感触に、手加減を失いそうになる。 「ふぅっ、んっ、んぁぁ……う……あぁ……くっ、はぁあっ」 「っく……痛むか?」 「あ、ん、んんっ、だ、大丈夫……少し、怖い、だけ……っ」 「……続け、続けて、カ、カイムっ……んんっ……んぁああっ」 俺が犯すのに合わせて、フィオネは息を吐いた。 力を抜き、少しでも奥まで俺を受け入れようとする。 「あっ、は、ん、ん、あ、あっ……ぁあ!」 ぢゅぷり、ずぷ、と、亀頭が最奥へと近付く。 抽送のたび、接合部から薄桃色の愛液が溢れた。 「きゃうっ、ああっ、んっ……はぁふっ、はっ、はぁぁ……!」 膣内はヌルヌルと潤い、燃えるように熱かった。 最奥を突こうとする俺を締め、蠢く。その感触が一層ペニスを固くする。 「あ……ぉ、大きく、なって、るぅ……私の、中で……ぅ……」 「んぅうぅんっ! んっ、ぁ……そ、想像……したら、おかしく、なりそう……だ……」 俺と繋がったまま、フィオネは身を跳ねさせた。 反った背が、しなやかな弓を思わせる。無防備に晒された乳房を掴むと、過敏に反応する。 「はぁふっ、ふぁっ、あ、んく、んっ、はぁあ……っ!」 「も、もう、どこを……あっ、触られ、ても、……あぅ……おかしくなる……ぅぅ」 フィオネの残った理性が、己の痴態を恥じさせていた。 快楽と苦痛と羞恥に溺れるフィオネに、興奮する。 「はぁ、あっ、あっ、ん、あ、あぁあ!? お腹、熱い……ぁあ!」 「だめ、あ、そ、それ以上、は……ぁ、ああっ、んっ、入らない……んぁぁ!」 ついに亀頭が子宮口を叩いた。 先端を押しつけたまま、俺は慎重に腰を押し出す。 「ぅあ……あ、はぁ、きつ、い……そこ、怖い……ぁぁ……んっ」 「ここで俺が精を出すと、フィオネに子ができるかもしれない」 「ぁ、あ……はぁ、ふぁ……そ、そうなのか……そうか」 円を描き、ゆっくりと膣道を慣らしてゆく。 動きに合わせて、フィオネが甘い吐息を漏らす。 「んっ、ぅ……んんっ、はぅ……ひぁ……あ、あの……」 「ん?」 「ふあ……こ……怖く、なくなって、きたから……あぁ……ぅ、だ、大丈、夫……」 「……そうか」 俺が遠慮していると思ったのだろう。 フィオネなりの気遣いが素直に嬉しかった。 「ぅああっ、ふぁあっ、ぁ……んぅ、んふぅっ……くぅ……んっ」 「あ、あ、あっ……お、奥、あ、当たって、るぅ……ぁ、あぁ!」 くちゅり、くちゅ、と、水音が部屋を満たしてゆく。 フィオネの膣は俺の形に合わせて収縮し、カリ首の窪みにまで吸い付いてくる。 「んんんっ!? んっ、ぁ、あっ、あ、だ、だめ……ぇ!」 お返しとばかりに、俺は乳房へ吸い付いた。 フィオネは貫かれたまま身を痙攣させ、新たな蜜を溢れさせる。 「こ、こら……ああんっ、んんっ、あ、赤ん坊、みたいに……んぅっ」 「赤ん坊はこんな吸い方しない」 「ぅぅぅ……ああっ、ふぁ、う、ぅ、んっ……意地悪……ふぁ」 「んぅ……こ、腰が、あ、あぁ……震え、る……勝手に、う、動く……だめ……っ」 俺の下で、フィオネは幾度も跳ねた。 乳首を舌で転がせば小刻みに震え、同時に膣肉もキツく引き締めてくる。 「ひゃぅんっ……あっ、ああっ、あぁっ、ぁぁぁああ!」 「っ……フィオネ、わざとか?」 「はぁっ、は、ぁっ、ん、ふぅ……ふぇ……?」 「……いや、違うならいい」 フィオネの昂ぶりに合わせて、膣道が複雑に収縮していた。 幾重もの襞が棹全体に絡み、中にいるだけで達してしまいそうなほどの快感を与えてくる。 「はあっ、くぅ、んっ、ぅっ、ん……もっと……ぅ……き、来て」 「あぁ……、あ、ふ、離れ、そうに……なる方が、んっ、こ、怖い……」 「ああ……っ」 互いの身体を引き寄せ、俺たちは快楽に溺れ始める。 無意識のうちに深く口付けし、口腔をも犯し合う。 「ちゅぷっ、れるっ、あぁ……ちゅろ、ちゅる……んっ……ちゅぷ!」 「すまな……私……こんな、淫らな……ちゅぶっ……んんっ!」 フィオネの感度はますます研ぎ澄まされ、もう、肌を撫でるだけでも膣が締まる。 「ふぁ、あ、はぁ、んっ、く、くうぅっ……!?」 彼女の身体が弓なりになるたび、あの瑞々しい膨らみが俺の胸板に押しつけられる。 灼けるように火照っている彼女の体温にさえ酔う。 「ぁ、あ、んっ、溢れ、る……ぁぁぁぁ」 フィオネの愛液が潤滑油となり、俺の怒張は最奥を突きやすくなっていた。 フィオネ「はうぅ……あん、あ、くうっ……んっ……か、カイムぅ……!」 狭いそこをこじ開け、不慣れな粘膜に俺を覚えさせ、 襞を絡めながら抽送を繰り返す。 「んああっ! あぁ……ふ、深く、なる……奥、叩いて……ぁ、ぁ……」 「はぁっ、あっ、んっ、い、いちばん……奥、ばかり、そんな……んぅう!」 「っく……嫌か?」 「んんっ……い、言えな、い……あぁっ、くぅっ、ふぁあ!」 俺を咥えたまま、フィオネが腰をさざめかせる。 棹に密着した粘膜が、じゅぷぷっと音を立てて痙攣する。 「ふっ、あっ、はっ、ぅ……ああぁあっ、腰が、勝手にっ……」 「しがみ、つく……ぅ、う、どうして……ん、ぁぁぁぁぁぁああーー……」 声に恍惚の色が滲んでいた。 怯えながらも官能を覚えてゆくフィオネの姿に、俺もまた昂ぶっていく。 「んぅっ! んっ、んぁあ、くっ、あ、ん、んんんっ!」 「ま、また、さっきの、あっ、く、来る……ぅ……奥、叩かれ、たら、私……!」 「ああ、いってくれ」 腰の下に手を滑り込ませ、引き寄せる。 強制的に根元まで挿入し、隙間無く彼女を埋める。 「んぅうぅうっ!? ふっ、あっ、あ、ぅ、んっ、あ、ぁあああ!」 子宮口を幾度も先端が叩いた。 驚いたように膣が収縮し、俺を締め上げる。 「はぁぁっ、ぁ、あ、ぁぁ、と、止まら、ない……んっ、出ちゃ……んぁぁあっ!」 悲鳴に似た声を上げ、フィオネが軽く果てる。 繋ぎ目から止め処なく蜜をこぼし、音を立てる。 「ひっ、んっ、くうぅっ……あっ! ぁはあああぁぁぁ……っ……ぁぁ……っ!!」 「っ……!?」 浮かされながら、フィオネが脚を絡めてきた。 すらりと整った両脚が俺を引き寄せ、拘束する。 「あっ、ああっ、ん、ぅ……ふ、深い……んっ、怖、い……ぁあああっ」 「無理をするな、フィオネ」 「あぁ、んっ、か、身体が、勝手に、動く……んんっ、から……っ!」 「頭が、あふ……痺れて……中が、ゾクゾク、して……ぁああっ」 「ふぁ……ん、ああっ、さっき、までと、んっ、全然、違う……ぁぁぁっ」 溺れゆくフィオネが俺にすがった。 ……支えを求めていた。 「んんぅっ、ふぁっ、あっ、あ、あ、それ……んぁあ!」 根元まで繋がったまま、彼女の中で円を描く。 肉棹で襞を擦り、俺自身もまた絶頂へと向かう。 「やっ、ぁぁっ……大きく、なって……あぁ……あっ、か、かたい……っ」 「フィオネ、このまま」 「ぁ、ああ……来て……来て、来て、一番奥で……ああっ、あっ」 「ちゅぷっ、ちゅっ、りゅ、ちゅぷっ……んぅっ、ぁ……んくっ!? ぁ、ぁぁあぁあっ!」 脚の拘束に逆らいながら、俺は大きく抽送する。 強烈な摩擦で俺たちは同時に声を漏らす。 「ふぅあっ! ぁ、ぁあっ、激し……ん、ちゅ、れるっ……ふぁむっ、ぁむ、ちゅぷぅっ」 溶け合うほど口付け、肌を重ね、指を絡めながら昇り詰めてゆく。 「ぴちゃっ、こくっ……ん、んぅうっ! ぁ、ぁ……ぁぁあっ!? ま、また、来るぅっ、ひぅ!」 「ああっ、あぁ、当たってる、そこ、いっぱい……んぁ、れるっ、ちゅぷっ」 「んくっ、あ、はぁっ、んんんっ……はふっ、あ、ふぁあっ」 膣口が棹の根元を噛み、最奥が亀頭を苛む。 俺がいくまで果てまいと、フィオネが悶え耐える。 「ぁ、ぁぁ、ぁぁぁあ……も、もういく、んぅうっ……カイム、そばに……もっと……!」 「ああ……受け止めてくれ、フィオネ」 「っ!? ちゅぢゅっ、れるぅ、ごくっ! 受け止める、か、カイ、ムの、全部……ぁ、ぁあ!」 「んっ、愛してるぅ、ずっとっ、ん、あぁっ、ふぁあっ!」 「あっあっあっあっあっ……あ、あ、んっ、く、ふ、あ、ああっ、ぅぁぁぁぁあぁぁ……!」 どぷっ、どくっ、びゅくぅぅっ! 「あああっ、はっ、はぁっ、んっ、んっ、はぁあぁぁあ!」 「は、ぁあっ、あ、んっ、んっ、はぁ、んぁんぅ……っ!」 熱い白濁が、容赦なくフィオネを満たした。 処女の狭い道をこじ開けられたまま、彼女は最奥で精を受け止め続ける。 「……っ、ぅ、んっ……あ、熱いぃ……ぁあ!」 灼けるような精を浴び、引き締まった腰が跳ねる。 その動きで、膣内の襞がまた棹にしがみついた。 「ひぅっ! ん、あっ、ふあ……ぁぁああああぁぁぁ……っ」 「フィオネっ……」 「ぅ、あ……搾ってる……私……ぅぅ」 「……健気でいいじゃないか」 「ふ、ぁ……はぁっ、ぁぁ……あ、あぅ……」 「あ、はぁ、な、慰めに、なってない……んぁんっ!」 射精が終わりそうになると、切なげに搾られる。 達したばかりの肉棒には、かなりの刺激だ。 「は、ぁ……ぁぁ……ぁ……ん……んん……」 フィオネはまだ脚を俺に絡ませたままだ。 そんな無意識の求愛に、今度は胸が満ちた。 「名残り惜しいが……抜くぞ」 「ぅ、ん……ん、あぁ、あぁぁ……ん、んぅうぅう…………!」 ぢゅ、ぷ……ちゅぷっ…… 「ぁ、ぁぁ、やぁ……」 「はぁっ、はぁ、ふ……、……ふ、ぁ……」 狭い場所から固まりを引き抜かれ、フィオネがやっと脱力する。 無防備な瞳で、ただ俺を見つめていた。 「はぁ、ふぁ……、カイム……」 「カイム。もしかして、すごく優しかったか……?」 「妙な質問だな」 絶頂の余韻が長く続き、フィオネも俺も息を乱す。 汗で濡れきった互いの身体で、俺たちは飽きもせず触れ合っていた。 「んっ、ぅ……やっぱり、カイムは優しかった。……そんな気がした」 力の入らない声で囁き、小さく微笑む。 気負いのない、素直な表情だ。 「……ありがとう」 応える代わりに髪を撫でる。 この真っ直ぐな女と生きるのだと、改めて思った。 翌朝。 陽が昇る頃の牢獄は、一番人が少ない。 その中を、フィオネと二人で俺の家に戻った。 ティアはこの時間だと寝ているだろう。 そっと扉を開ける。 フィオネがティアに気遣ってか、囁き声で言う。 「お邪魔します……」 俺は後ろ手に扉を閉めた。 「これからここはフィオネの部屋でもある」 「……そうか」 「今度からは、帰ったら、ただいまと言おう」 「それがいい」 「久しく使っていなかった言葉だ」 そう言ってフィオネは微笑んだ。 しばらくするとティアが欠伸をしながら起きてきた。 「おはようございます……ふわわ」 「おはよう」 「あ、お帰りだったんですね、カイムさん」 「フィオネさんもご一緒でしたか」 「突然だが、今日からフィオネは、しばらくうちで一緒に住むことになった」 「そうですか……では、ご飯も三人分……」 「……って、えええっ!」 「これから世話になる。どうぞよろしく」 かしこまって頭を下げるフィオネ。 「フィオネは羽狩りをやめて、俺と一緒に娼館街の用心棒のようなことをする」 「あとからジークにも話を通してくる」 「この腕を、活かせると聞いている」 「ティア殿にはいろいろ御迷惑をかけると思うが……」 「そそ、そんな、ティア殿なんて呼ばないで下さいっ」 「わたしのことは、ただのティアと」 「……わかった」 「お言葉に甘えよう……ティア」 「よろしくお願いします」 互いにぺこりと頭を下げる。 「夜が明けたばかりですので、少し休まれますか?」 「そうだな……フィオネの寝床はどうしようか」 「私が使っているところを」 「それは申し訳ない」 「後から何とかするとして、とりあえず今日はこのあたりの椅子で適当にベッドを作ってみるか」 「そうだな」 目配せして、頷き合う。 ティアもいる部屋で、同衾するわけにもいくまい。 「なんだか、カイムさんとフィオネさん……」 「ん?」 「わたしの勘違いだったら失礼なんですが、お二人、仲良くなったりしましたか?」 「えっ……」 フィオネが赤くなる。 俺が何も言わなくとも、もう十分答えになっていた。 「お二人、ずっと一緒でしたもんね」 「なるほどなるほど……」 うんうん、と頷いているティア。 「ま、お前はあまり気にしなくていい」 「俺たちも休むから、お前ももう一度寝てもいいんだぞ」 「私は十分寝ましたから」 「もう少ししたら、市場にお買い物に行ってこようと思います」 「気をつけろよ」 「はい、大丈夫です」 「今日は何かご馳走を作りますね」 余計な気を回しているらしい。 まあ、気持ちは嬉しいが。 「ところでカイム、風呂を借りることはできないだろうか」 「悪いが、うちにはない」 「え」 「うちには、無い」 「というより、牢獄には風呂がある家などほとんどない」 「無い!?」 「少し歩いたところに共同浴場があるんだ」 「湯船に浸かりたければ、そこを使ってくれ」 「ティアは、よくリリウムの風呂を借りてるが」 「リリウムのお風呂は最近キレイになったんですよ」 「そうか……無いのか……」 肩を落とすフィオネ。 「無いものは仕方ないな」 「では、お湯と手布を用意しますね」 「綺麗好きだとは思ってたが、お前、潔癖性だったのか?」 「いや、単に私が風呂好きなだけだ」 「いつか、この部屋にバスタブを買ってこようと思う」 「どこに置く場所があるんだ」 昼前に起きた俺たちは、リリウムを訪れた。 フィオネと一緒に暮らすことについて、ジークには話を通しておいた方がいいだろう。 ティアの時のようにジークは反対するかと思い、いろいろと理由や言い訳を用意してきた。 それに、フィオネも多少緊張していたようだ。 だが── 「よくやった、カイム!」 「!?」 「一人でも腕利きがほしいところだったんだ」 「剣は相当使えるんだろう?」 「ああ、俺が保証する」 「そいつは立派なもんだ」 「よろしく頼むぜ……えーと、シルヴァリア?」 「あ、ああ……フィオネと呼んでくれ」 「わかった、期待しているぞフィオネ」 ジークの勢いに気圧されている。 こんなに歓迎されるとは思っていなかったのだろう。 俺も想像していなかったが。 「どうした一体?」 「お前が黒羽に夢中になってる間に、〈風錆〉《ふうしょう》の連中と小競り合いがあってな」 「若いのが何人か怪我をした」 「このまま、黙っているわけにもいかない」 フィオネが困ったような顔でこちらを見る。 「カイム、話が違う気がするのだが」 「何のことだ」 「フィオネには、俺がやってたような娼館街の用心棒的な仕事が主だと話していたんだ」 「女性に暴力を振るったりするような輩から、娼婦たちを守るのが役目だと」 「私なりの義に反しない仕事だと聞いていた」 「うちで働くんじゃないのか?」 「まだ慣れてないんでな」 「しばらく、汚れ仕事は俺が引き受ける」 「なるほど」 葉巻をふかすジーク。 だが、すぐに何かいいことを思いついたように口端を持ち上げた。 「フィオネ」 「なんだ?」 「あんたの義に照らして、麻薬についてはどう思う?」 「あんなものを使うのは最低の人間だ」 「売る奴は」 「もっと悪い」 一言の元に否定する。 「なら何も問題ない」 「〈風錆〉《ふうしょう》は、俺たちと袂を分かった連中だ」 「話せば長くなるが、奴らは俺達と違って麻薬で荒稼ぎしている」 「なら、俺たちの側であんたが戦うのは問題ないだろう?」 「む……」 「そういえば、以前カイムからそのような話を聞いたな」 「本当なのか?」 「大筋は」 「わかった。それなら力を貸そう」 「よし、決まりだ」 真面目な人間を言いくるめる才能は、ジークの天賦かもしれない。 「先代も、組織には露出の多い女剣士が必要だと言ってたことだし」 「初耳だ」 「どうだフィオネ、露出の多い格好をしてみるか」 「するわけがない」 「あと最後に一つ……カイム」 近くに来てくれ、という仕草に近寄ると、耳元でジークが囁いた。 「もう寝たのか?」 「……さあな」 「まあいいさ」 「エリスとは、自力で上手くやれよ」 痛いところを突いてくる。 「気が重いな」 「?」 俺たちは、ジークの部屋を後にした。 からん 次に、娼館街の顔でもあるメルトにも── 「聞いたわよ、カイム」 「ってあら、本人も一緒なのね……いらっしゃい、フィオネさん」 「何でジークの部屋から直行した俺たちより先に知ってるんだ」 「娼館街の噂は、つむじ風よりも速いのよ」 「あー……」 「いい雰囲気だなーとは思っていたのよ」 「そうだ、フィオネさん」 「いつか耳に入ることだろうから先に言っておくけど……」 「カイムの最初のお相手は私だったの」 「……え?」 「まあ、恋人だった時期があるわけじゃないし、もう何年も前のことだから気にしないでね」 朗らかに笑いつつ言うメルト。 た、確かにいつかフィオネの耳にも入ることだろうが……。 「カイム、本当か?」 「嘘ついても仕方ないもんね?」 「まあ……本当だ」 「そ、そうか……」 「誰しも最初というものはあるもので、それが私でなかったのは残念ではあるが……」 明らかに動揺している。 「あら、もう?」 「拾わなくていい」 「……!」 自分の失言に真っ赤になる。 近くの席の注目も集まっている。 勘弁してくれ。 「とにかく、こここ、これからも、よろしくお願い致します」 「何かしこまってるのよ、ほら座って座って」 カウンターに山盛りの料理と酒を出され、メルトには何度も額を指で弾かれた。 その度、フィオネが…… 「メルト殿、あまりカイムに親愛の情を示すのはいかがと思う」 と真面目に突っ込むのが気恥ずかしかった。 その反応が面白いせいで、メルトが俺をからかい続けていることにフィオネは気付かない。 「ところでカイム、ティアちゃんのことなんだけど」 「もし迷惑じゃなければ、うちで働いてみたらどうかと思うの」 「ティアが?」 「カイムの部屋に三人は狭いでしょ」 「ティアちゃんも料理に興味があるみたいだし、ここの二階の部屋も空いてるし」 「いや、それは……」 俺自身の我が儘で匿っているティアを、メルトに預けるのは気が引ける。 しかも、あいつは羽つきだ。 何かあれば、メルトの責任になってしまうかもしれない。 「ああ、アレのことは気にしないで。私は気にしてないし……」 メルトが、ちらっとフィオネを見る。 「ま、結論は今すぐ出さなくてもいいから考えておいて。ね?」 「ちなみに、ティアちゃんは結構乗り気よ?」 「あいつが?」 「ちょっと話をしてみただけなんだけど」 「ティアちゃんも、いつまでもカイムに一方的に世話になってるのは申し訳ないみたいだったわ」 「ティアとも話し合ってみる」 「よろしくね」 ……などという話をしていると。 背後から、ただならぬ殺気を感じて振り返る。 「……」 氷のような顔をしたエリスが立っていた。 「エリス」 「また女を拾ったんだって?」 噂のつむじ風は、牢獄をあまねく吹き荒れるのだろうか。 適当にごまかすわけにはいかない雰囲気だ。 「……そうだ」 「フィオネが、これからしばらくうちに住む」 「エリス殿、何卒よしなに」 何やら果たし合いでも始まりそうな物騒な挨拶をするフィオネ。 「先に言っておくが、フィオネはティアと違ってただの居候じゃない」 「なるほど、奴隷ね」 「違う、恋人だ!」 「おお〜」 「……」 「ん? あれ?」 一瞬で静かになった店内を、フィオネが見回す。 「死ねばいいのに、馬鹿」 「申し開きはしない。そういうことになった」 「私は認めない」 「そもそも、お前の許可など必要ないが」 「エリス殿とカイムの複雑な関係は聞いている」 フィオネが、ずいと俺とエリスの間に立つ。 「認めてもらえるよう全力を尽くすので、至らぬ点があればご指摘願いたい」 「傍にいるのが私じゃない時点で、至らないところしかないから」 「そればかりは譲れないな、残念ながら」 「私にも、カイムに選んでもらったという誇りがある」 「そして私自身のカイムへの思いも、エリス殿には引けをとらないと思っている」 「馬鹿らしい」 悪態をつきつつも、フィオネの真っ直ぐな物言いにたじろぐエリス。 俺はと言えば、他の客からの好奇と羨望の目線を一身に背負い、このまま消えたい気分だ。 「そういうわけなので、ここは一旦、矛を収めて頂きたい」 握手しようと、フィオネが手を伸ばす。 「ふんっ」 踵を返して店を出る。 エリスにこんな撃退方法があったとは意外だった。 「……彼女、やるわね」 「注目集めすぎだが」 「いいじゃないの、ここまで言ってくれる人はなかなかいないわ」 「まったく、カイムも果報者ね」 再び、メルトに額を指で弾かれた。 「メルトから聞いたぞ、ヴィノレタで働きたいらしいな」 「カイムさんさえよろしければですが……」 「俺は、ティアが構わないなら問題ないが」 「私が転がり込んできたせいなのか?」 「いえ、そんなことないです」 「じゃあ、どういうことだ?」 「剣をいかして、娼館街で生きていこうとしてるフィオネさんを見て考えたんです」 「私も、いつどこに行っても生きていけるように、手に職をつけておきたいと思いまして」 「そうすれば、何があっても動じないで済みますから」 「でもヴィノレタなら、ここから通いでも問題ないはずだが」 「それはだって……」 「やはり気を遣ってくれているのだな」 「いえっ、お礼なんてやめてください」 「わたし、わたし……」 泣きそうになっているティアの頭を撫でる。 「羽つきのわたしを拾ってくれたカイムさんには、感謝してもしきれません」 「そのカイムさんが、お似合いのお相手と幸せになって下さるなら、こんなに嬉しいことはありません」 「ティア……」 「……」 少ししんみりしかけた空気を振り払うように、ティアが笑顔で言う。 「わたし、以前は上層で下働きをしてたこともあるんです」 「お二人が、もっと大きくて立派なお屋敷に引っ越したら是非呼んで下さいね」 「その時には、料理の腕を振るいますから」 「わかった」 フィオネを振り返ると、ボロ泣きしていた。 先日以来、涙腺が緩くなったような気がする。 緩くなったというか……感情が表に出るようになったというか。 我慢する必要がなくなった、ということなのだろうな。 健全ではある。 「ぐす……」 「カイム、私たちも頑張らねばいけないな」 「一日も早く屋敷を手に入れよう」 「ティアを一日も早く呼べるように」 「ま、まあな」 本当に頑張るのが好きな奴だ。 数日後、少ない私物をまとめてティアが出ていき、ヴィノレタに住み込むことになった。 前の晩の夜は、ティアが渾身の腕を振るった豪勢な料理だった。 ……それまでの間にも何度かエリスがフィオネに突っかかって来たが、フィオネは逃げずに正面から全て受けて立った。 毎回あまりに馬鹿正直にエリスの相手をするので、俺が心配になるほどだった。 最終的にはエリスが『いつか二人が別れるように、毎日祈る』と言ってちょっかいを止めた。 本当に祈っているかどうかは、わからない。 娼館街での用心棒としての仕事は、概ね上手く行っていた。 特に善悪がはっきりしている場合には、誰も文句のない活躍だった。 剣の腕は折り紙付きだ。 そもそも、剣など抜かなくとも、娼婦に乱暴をはたらく客はフィオネに容赦なく投げ飛ばされた。 女であることもあり、俺などよりよほど娼婦に頼られている。 一部の娼婦からは頼られる以上の人気を得ていた。 リサなどはフィオネを『お姉さま』などと呼んでひっついている。 一方、男女のどろどろした愛憎劇には戸惑うことも多かったようだ。 まあ、徐々に慣れていくだろう。 「日記、まだ書いてるんだな」 「習慣なのだ、なかなかやめられない」 「いや、やめる必要はないが」 フィオネが机で日記を書いている。 内容は、まだ見せてくれない。 「ティアが出て行ってからばたばたしていたが、今晩はやっと落ち着いたな」 「そうだな」 「二人きりか」 「……う、うん?」 「どうする?」 「な、何がだ?」 「とぼけなくていい」 「わ、わからん、何一つわからない」 ぷい、と〈拗〉《す》ねたように横を向くフィオネ。 こんな仕草は、他の人がいるところでは絶対に見せない。 俺と二人きりの時だけ、俺に対してだけ見せる姿だ。 が、ふとフィオネはこちらを正面から見つめた。 「もし、カイムが気を悪くしなければだが」 「あ、あの時の一回は置いておくとして、次は、けじめをつけてからにしないか?」 「けじめ?」 「ああ。有り体に言えば、私はああいう行為は夫婦間で為すべきものだと思う」 「娼館街で働いていながら、そしてカイムの部屋に転がり込んでおきながら、何を言い出すんだと思うかもしれないが……」 申し訳なさそうな目でこちらを見る。 真面目なフィオネらしい話だ。 フィオネと二人きりの夜に期待していなかったと言えば嘘になる。 が、フィオネに対しては誠実でありたいとも思う。 それは、フィオネが馬鹿馬鹿しいほどに誠実だから。 俺にその誠実さが向けられたとき、後ろめたい気持ちにはなりたくない。 「わかった」 「そうか。ありがとう」 「愛しているぞ、カイム」 そう言うと、フィオネは俺にととと、と近づいてきてキスをした。 「……これはいいのか」 「これはいいんだ」 嬉しそうに言う。 フィオネを支えることに決めた俺が、報われるに十分な笑顔だった。 その後、不蝕金鎖は勢力を拡大し、〈風錆〉《ふうしょう》を徐々に追いつめていった。 意外なことに、そこには住民の協力も大きく貢献していた。 フィオネのお陰だ。 元羽狩り、という経歴を公に喧伝することはなかったが、フィオネのことを憶えている人間は少なくなかった。 傍若無人だった羽狩りを、かなり真っ当な組織に改革した人間として。 また、陰に日向に、羽狩りたちの協力もあった。 このことは、フィオネを素直に喜ばせた。 積み重ねてきたことが、全て無駄ではなかったのだと。 自分が信じてやってきたことを、見てくれている人もいたのだと。 二人きりの時には、嬉し涙をこぼしながら報われた幸せを語る夜もあった。 不蝕金鎖の勢力拡大は、牢獄の自治権を握っていくことにも繋がっていった。 これには、ルキウス卿が治癒院の疑義について王宮で公に指摘したことも関係している。 まずルキウス卿は、牢獄への安定した農産品・薪の流通と、不蝕金鎖による一定の自治を約束した。 ジークはそれと引き換えに、勢力を伸ばした不蝕金鎖の人員と金銭でルキウス卿を支援することを決定した。 今の不蝕金鎖と羽狩りが組めば、数は多いものの貴族の私兵の寄せ集めである国の兵とも互する勢力となる。 不蝕金鎖からは、俺とフィオネが先頭に立って事に当たった。 ルキウス卿はその力と主張の正当性で、貴族の中でも相当の力を手に入れたようだった。 不蝕金鎖による牢獄自治が、これから始まっていく。 また、しばらくすると、既存の治癒院は老朽化を理由に廃止され、新たな治癒院が牢獄に作られることとなった。 新治癒院はルキウス卿の直轄ということで、それなりにまともな運営が期待できるだろう。 まともな治癒院ができたことは、フィオネを喜ばせた。 羽化病の伝染性についても疑義があるということで、羽狩りによる強制執行は行われなくなった。 ジークの頼みで、エリスも羽化病の研究に加わることになっているが、本人は渋々といった様子だ。 フィオネが俺の家に住むようになって半年。 牢獄の情勢がめまぐるしく変わっていることで、俺たちも驚くほど忙しかった。 だが、充実した日々ではあったし、結果も伴っていたと思う。 ……とはいえ、気に入った女と同居しているのだ。 正直、俺は何度か自分が抑えきれなくなりかけた。 いや、何度もか。 だが、神懸かり的な自制心でそれを乗り切ってきた。 フィオネとの約束を、フィオネからの信頼を、俺から反故にするわけにはいかない。 やっと落ち着いてきたある日。 俺とフィオネは、ジークに呼ばれてヴィノレタにいた。 テーブルには豪勢な料理や酒が並んでいる。 「あ、来たわね」 「よく来てくれたな、お二人さん」 「何の用だ?」 「まあ座れよ」 「では失礼して……」 席に着く。 既に料理で溢れたテーブルに、更なる皿を載せるべくメルトがやってきた。 「いらっしゃいませー」 ティアはパンの特大バスケットを抱えてやってきた。 誰かにめでたいことでもあったのだろうか? 「なあ、お二人さん、明日は休みだったよな」 「そうだな」 「久し振りの、貴重な休日だ」 「まさか、そいつを取り上げようっていうんじゃないだろうな」 「すっかり警戒されちゃってるわね」 「みたいですね」 メルトとティアが含み笑いを漏らす。 どうやら、先にジークから用件を聞いているようだ。 「まあ、休日を潰すことにはなる」 「やれやれ」 フィオネと顔を見合わせる。 フィオネは、仕方ないな、という顔で応じた。 「仕事ってわけじゃないんだが」 「もったいぶらずにさっさと言ってくれ」 「せっかくの料理が冷める」 フィオネも頷く。 「明日、結婚式でも挙げないか?」 「!?」 「ぐっ……げほっ、げほっ!」 水を口に含んでいたフィオネが、盛大にむせる。 「な、そそ、それはどういう……」 「どういう風の吹き回しだ、ジーク」 「ん? 挙げるつもりはないのか?」 「いや、そういう訳ではないが」 「それとも、もう時期を決めてたとか?」 「決めてない」 「実は、結婚するつもりがないとか?」 「そんなことはない」 力強く否定するフィオネ。 「……と、私は考えていたが」 じっと俺を見つめるフィオネ。 誤魔化せる雰囲気ではなくなってしまった。 「いや、まあ……」 「俺もいつかは……と考えていた」 「というより、不蝕金鎖の仕事が忙しすぎて、そんなことを考える暇がなかった」 「そうか……私一人の妄想でなくて良かった」 「カイム、女にこんな不安を持たせちゃ駄目だろ」 「それに性生活が充実している方がいい仕事ができる、って先代も言ってただろうが」 「なるほど、そういうものか」 「信じるな」 「こいつの、先代も言っていた、は大概嘘だ」 「はいはいはい、下らない話をしないの」 不毛な言い争いの流れを、メルトが止める。 「で、どうするの?」 「急な話だけど、私、こういうのって勢いかもって思うのよね」 「いろんな奴に声をかけて、教会で大々的な式をってのも趣味じゃないだろ?」 「まあな」 「うむ、確かに」 「世話になった人だけにお披露目できればいいな」 俺もフィオネも天涯孤独だ。 それに、俺達の知り合いなんて、ここヴィノレタでほとんど会える。 ……ここは、俺が腹をくくるか。 「じゃあ、やるか?」 「カイム……本当か?」 「嘘をついてどうする」 「うむ……だが、だが……」 フィオネは、急に感極まったようだった。 「よし、決まりだな」 「会場はうちを使う?」 「構わないか?」 「もちろん!」 「三日三晩、貸し切りにしたって平気よ」 「素敵です」 「カイム……」 フィオネが、俺の首に抱きついてきた。 「嬉しい……」 店内から歓声が上がった。 見ると、ほとんど知り合いばかりだ。 こいつら、聞き耳を立てていやがったな。 家に帰ったフィオネは、突然、完成間近のドレスを取り出した。 「いつから作ってたんだ?」 「この家に来た次の晩からだ」 「毎晩、少しずつ少しずつ、カイムへの想いを込めて針を運んだ」 「それが、やっと、日の目を見る」 幸せを満面に浮かべたフィオネが、最後の飾りを縫いつけている。 ドレスを作っていたなんて、全く気付かなかった。 だが、フィオネの想いは伝わってきた。 俺の胸も暖かくなった気がする。 これが……幸せというものかもしれない。 「フィオネ?」 しばらくしてフィオネの様子を見てみると…… 「……すぅ……すぅ……」 フィオネが寝息を立てていた。 どうやら、縫い終わったらしいドレスが壁に掛けてある。 見事な出来映えだ。 これを着たフィオネは、さぞかし美しいことだろう。 テーブルの上には、日記の頁が開かれていた。 勝手に見るのは良くないと思いつつ、開いていた頁がどうしても目に入ってしまう。 ……。 …………。 ……………………。 日記を閉じ、家を出る。 日記に綴ってあったのは、俺への溢れんばかりの想いだった。 俺は、こんなフィオネを放っておいたまま、日々を過ごしてきたのかと胸を刺された。 顔が熱い。 しばらくここで冷やしてからでないと、とても部屋には戻れない……。 「カイム?」 「ああ……起こしてしまったか」 「……中に入って」 フィオネに腕を引かれ、部屋に戻った。 「……読んだ、だろう?」 日記を指さすフィオネ。 「う……」 フィオネの顔は、怒りというよりは、羞恥で真っ赤になっていた。 「あ、ああ、読んだ」 「…………」 正直に答えたものの、フィオネは黙したままだ。 そうだ、俺は非を詫びなければ。 「本当にすまない」 そう言って頭を下げると、ようやくフィオネの唇から声が漏れた。 「ぅ……」 怒られるかと思ったが、違う。 フィオネはただ、狼狽しすぎて硬直していただけだった。 「ほ、本当に、読んだのだな……」 「……全部?」 「まさか。ほんの少しだけだ」 殴られるくらいは覚悟していただけに、このフィオネの弱りっぷりが意外だった。 確かに、あれほど情熱的な想いを、それも自作の詩につづっていたともなれば── 「頼むから思い出さないでくれ!」 「思い出していない。誤解だ」 ……なぜ分かったのだろう。 フィオネは情けない声を出しながら顔を覆った。 「ぅ……よりにもよって、挙式の前日に見つかるなんて」 「もう、カイムの顔をまともに見られない……」 小さくなったまま、フィオネは途方に暮れ続けた。 「…………」 困らせた当人が言うのも不謹慎だが、そんな姿は少し愛らしい。 〈風錆〉《ふうしょう》相手でも怯まない、あのフィオネが。 「……機嫌を直してくれ」 「カイムこそ。呆れないで欲しい」 落ち込みは深刻だ。 少しでも気が晴れるよう、俺はそっと彼女を抱いた。 「んっ……」 「驚かせたか?」 「い、いや……」 嘘だ。俺の腕の中で、フィオネはガチガチに緊張している。 初めて抱き合った時のようだ。 あの時俺は、どうやって彼女の緊張を解いただろうか。 「か、カイム……ん、ぅ……っ」 確か、涙を唇で吸った気がする。 髪を撫で、背を撫で、フィオネが落ち着くまで。 「あの……今優しくされたら、余計に自分が恥ずかしい」 「恥じることはない。あの日記も、俺にしてみれば嬉しかったくらいだ」 「嬉しいわけ……」 「この半年、俺ばかりフィオネを求めていたと思っていたからな」 「少なくとも、同じくらいは求められていたと分かって良かった」 「同じ……」 「……そう、なのか?」 「信頼されてないな」 「違う。カイムは普段、そういうことを表に出してくれないから」 「それを言うならフィオネもだろう」 「……私も?」 お互い無自覚だったようだ。 フィオネが落ち着いてきたのも相まって、俺は少し笑った。 「そう、か。……そう言えばメルトが、私たちを似たもの夫婦だと言っていた」 夫婦。 これまで冗談混じりに言われてきたが、今日からは本当の夫婦になる。 腕の中にいるこのフィオネが、俺の妻になる。 「……カイム?」 夫婦最初の日くらい、俺も愛を囁いていいだろう。 フィオネの詩には遠く及ばないにしても、彼女の慰めになるのならなおさら。 「…………」 しかし、何と言ったものか。 「あの……あまり見つめられては、〈面映〉《おもは》ゆい」 潤んだ瞳をさまよわせ、フィオネが声を漏らす。 俺は腹を括って口を開いた。 「これからも厄介をかけるが、よろしく頼む」 ……いかん。 求婚の言葉にしては、無骨すぎた。 果たしてフィオネは意図を汲んでくれるか── 「あ……」 「……あ、ああ! もちろん……」 杞憂だった。 フィオネは、噛みしめるように何度も頷く。 「喜びにあっても、悲しみにあっても……!」 涙まじりの微笑みで、誓いを口にした。 俺の求婚に、全身全霊で応えてくれたのだ。 この喜びを……なんと表せばよいのか。 「……生涯フィオネと共にあることを誓う」 そう誓ったとき、俺もまた微笑んでいた。 「ああ……私は幸せ者だ」 さきほどまで泣きそうだったフィオネが、今やこれほど嬉しそうな顔を見せている。 俺は、今さらながら自分の発言に照れてしまう。 「……そこまで言われると恐れ入るな」 「どうして。カイムは、私を幸せにする天才だと思うが……ん、むっ?」 「こ、こら……ちゅ、ぷ……!」 これ以上フィオネを喋らせたら、余計に恥ずかしいことを言われそうだ。 申し訳ないが、口付けで言葉を封じさせてもらった。 そして。 「あ、れ……どさくさに紛れて……んっ……妙なところを触ってないか……?」 「いけないか?」 ベッドの方向を確認して、じりじりと追いつめた。 フィオネを抱いていたせいで、この半年我慢していたものが抑えきれなくなっている。 加えてあの幸せそうな笑みと来たら。 「し、式は今日だぞ? あと半日だぞ?」 「だが、夫婦の誓いは今済ませた」 「俺に神はいないから、俺自身とフィオネ自身に誓えば十分なんだが」 「そんな真剣な目で口説かれても……ぅぅ」 押し問答の末、フィオネはついにベッドまで追いつめられた。 俺のことで懸命に思考を巡らせる様子は、これもまた愛らしい。 困らせると分かっていても、聞きたくなる。 「今夜を俺たちの初夜にするのはどうだ」 「し、式の前なのにっ?」 「フィオネは、したくないのか?」 「……こ、答えられない」 唇が触れるか触れないかのところで攻防していると、ついにフィオネが動きを見せた。 根負けさせてしまったか。 そう思った瞬間……俺の方がベッドに座らされていた。 「フィオネっ?」 「ほ、奉仕を……」 「え?」 「こ、心を込めて奉仕するから……その……やり方を、教えて欲しい」 「奉仕は嬉しいが、俺はフィオネを抱きたい」 「っ……わ、私も、カイムに抱いて欲しい。だから」 「奉仕して、心の準備をしようと思う」 消え入りそうな声で言いながら、フィオネは俺の脚の間に入り込んだ。 「ぅ……もう、こんなに……」 男性器が露わになった瞬間、フィオネは目を見開いた。 だが、狼狽を押し隠しつつ、素知らぬふりで棹を握っている。 「前に見たときより、大きい気がする」 「半年溜めるとこうなる」 「そうなのかっ?」 「冗談だ。フィオネの手が気持ちいいからこうなってる」 「そ……そう、なのか」 両手で慎重に棹を包み、フィオネは息を呑んでいた。 彼女が触れているだけで、不思議と満足感が込み上げてくる。 「……この続きは、どうすれば……いい?」 ただ羞恥だけではなく、かすかに艶っぽい吐息が肉棒に触れた。 形の良いフィオネの唇を、妙に意識してしまう。 「……唇と舌で、ここを」 「っ……ん……んっ……」 人差し指で唇をなぞり、次に肉棒を示す。 察しの良いフィオネは、驚きつつも理解したようだった。 「嫌なら手でもいい」 「嫌なわけがない」 「私が、したいんだ」 深呼吸し、彼女はゆっくりと顔を近づけた。 「ん、ぷ……ちゅぷ……ちゅ……」 「ふぁ……ふ……れろ……ちゅ、ぱ……んっ」 控えめなキスに、ぞくりと腰が震えた。 やはり、半年の空白期間は堪えたらしい。 「ちゅ……ちゅぅっ、ぴちゃ……ん、ぷはぁ」 柔らかな粘膜が吸い付くたび、身体の芯が疼く。 「こう、か? もっと強くしても?」 「フィオネが思う通りに」 「っ……やってみる。物足りないときは指摘して欲しい」 「すぅ……あむ……んむ、ちゅぅ……ん……ちゅ、ぷ!」 一度目より深く咥えられた。 腫れた亀頭が、舌と頬肉の粘膜で優しく圧迫される。 「ぁ、あ……カイムの味がする……」 「ちゅぷっ、ぴちゃ……ちゅ……んっ……はふ……こくん」 口腔で転がし、唾液を絡める。 ただそれだけの控えめな奉仕にも、フィオネは身体を火照らせる。 恐る恐るだった口付けも、徐々に熱を帯びていた。 「ん……れろっ、ちゅ、ぁむ……ちゅ、ちゅぱっ、ぢゅっ……んっ」 「ん……あ、あつい……んっ、ちゅっ、ぢゅ、ぷっ」 「汗が浮いているな」 「んっ! んぁぁ……れろっ、ぢゅちゅっ、ん、ちゅぷ……」 彼女の髪に指を差し入れて、そっと後ろにすく。 前触れなく撫でたせいか、フィオネは極まった声を上げる。 「はぁっ、ちゅ、ふぁっ……ん、ぢゅぷ、れろっ、れるっ」 「根元まで……咥えてくれ」 「ん、んんっ、ちゅ……ちゅぢゅっ、ぢゅ、ぷ……ちゅぱ!」 声をごまかすかのように、上下運動が激しくなる。 形の良い唇の輪が、幾度も男根をなぞり、しごく。 「はぁ……むっ……んむっ、ぅ、む……ちゅちゅぷっ……はむ……ちゅぷっ」 「ん、ちゅ……ね、根元、まで……あむ……ぢゅ、んく……んっ」 従順に口を開け、歯を当てないように亀頭を呑む。 最初はカリ首まで、次は棹の中程まで。 試行錯誤しながら俺の望みを叶えてくれた。 「ぴちゅっ、ちゅ、ちゅぷぷっ……れろっ、ぇろ……ちゅっ、ぷ……」 「ちゅ、ちゅぅ……あ、あつ、い……はふ……ぅ……」 「……脱げばいい」 俺は、下心を隠さずそう言った。 「んむっ!?」 「久し振りにフィオネの肌が見たい」 「ぅ、ぅぅ……、……」 「そう、だな。それが夜伽の作法なら……」 「うぅ……」 「っ……こ、これで……」 「…………」 露わになった肌に目を奪われた。 なめらかな肌が、ほんのりと赤みと汗を帯びている。 「……涼しくなるどころか……かえって、暑くなった気がする」 「その……カイムの目が、気になって」 一度だけ抱き合った、あの夜と同じだ。 異性に肌を晒すこと自体が、フィオネにとっては勇気のいることなのだろう。 「こうして見ると、触れたくなるな」 触れるどころか、奉仕を切り上げて、無理やりにでも抱きたくなる。 「ぅ……、……」 「……いい、ぞ。……触って」 明らかな強がりだ。棹を握る手の力が抜けている。 だが、俺ももうそれほど遠慮できそうにない。 「ひゃぅ!? ぁ、ふ、んっ、……ぁぁ……」 「んっ、んく……く、すぐったい……はぁ……っ」 「フィオネも続けてくれ」 「ん……んんっ……はふ、は、ぁ」 肉棒をしごかせながら、俺は思う存分フィオネの肌を愛撫した。 引き締まった二の腕から、脇、腹へ。帰りは尻を通って、真っ直ぐな背筋を撫で上げる。 「や、ぁ……あ、ぁふ、ぁあっ、カイム……」 フィオネはもはや力なく床に崩れ落ち、棹を握る指も震えさせていた。 湿った吐息を亀頭に吹きかけ、助けを求める。 「奉仕を、続けたい……集中させて」 「ああ、続けてくれ」 「そうじゃなくて……カイムに触れられていたら、力が抜けて……」 「な、何も、考えられなくなる」 指の動き一つにさえ、フィオネは敏感に反応する。 昂ぶり、溺れる。もっと彼女を乱れさせたい。 「ぁあぁっ!? 待って、胸は、だ、だめ……」 身体を隠す布を取り去ろうとすると、彼女はすぐに気がついた。 だが、抵抗らしきものはほとんど無かった。 「あ、んんっ、んぅうぅうっ、ん、ぅ……んぁあっ」 「ぁ、あ、あぁ……ぐす……う、あ……ふぁぁぁ……」 一糸纏わぬ、フィオネの裸体。 瑞々しく美しい曲線に、俺は喉を鳴らす。 「ぅ、ぅ……もう、奉仕を続けるぞ……?」 少し目頭を紅くして、フィオネが俺を見上げる。 そしてすぐに目を伏せ、そう呟いた。 「……ああ。頼む」 「すぅ、はぁ……ん、ふぁ……あむっ」 「はふっ、ちゅぷっ……すんっ……ぇるっ、れるっ……ちゅぷぽ、ちゅぽっ……!」 素肌を見られながら、フィオネは一心に口淫を続ける。 優しく熱のこもった舌の動きに、俺は身を委ねる。 「んんっ、こくっ……ちゅ、りゅぅっ!」 「今のところ、いいな」 「ここ、だろうか……れろっ……かぷ……ちゅぷっ、れるぅっ」 フィオネの裸体が視野に入るだけで、興奮の度合いが大きく変わった。 奉仕のたびに揺れる乳房や、尻肉の曲線を追うだけで胸が熱くなる。 「ああ……口の中で、暴れてる……どんどん固くなって……はふ、咥えきれない……」 彼女は両手で付け根を押さえ、健気に亀頭を追いかけた。 先走りを見つけると、すぐに吸引する。 少しでも俺が良いと言った場所は、懸命に舌を伸ばして舐めてくる。 「ちゅりゅっ、ちゅっ、ちゅぢゅっ……」 「んぁ、ぁ……熱い汁が、また……ぁむ」 狭い口腔で反り返る怒張を、フィオネは愛おしげに頬張った。 搾り取るのではなく、包みこむような優しい口淫だ。 「ぁあむ、はふ……れろ、ん、ちゅぅ……」 「はぁっ、ふわ……もっと、強い方がいいだろうか」 「フィオネが思う通りに……気持ちいいからな」 「っ……そ、そうか……れろ、ぴちゃっ」 咥えきれないところは、一度唇を放して横から甘噛みしていた。 手と口を同時に動かすのが良いと気付くと、絶えず根元を刺激してくる。 「ぇろ、れろ……ちゅ、ぢゅっ……ぇろ」 俺のペニスを大事に扱い、初々しい愛撫で慈しむ。 フィオネらしい行為そのものに、俺は昂ぶった。 「ふぅあ? ぁぁ、また濃い味が……こくっ……ちゅる、ちゅぷぽっ」 先走りを飲んで、フィオネが身を乗り出す。 幾重にも唾液をまぶし、唇の輪を締めながら吸ってくる。 「く……フィオネ」 「ん、んぅっ……」 先を促すと、フィオネは咥えたまま頷いた。 射精の予兆を察して、一層熱心に舌を這わせる。 「んっ……ちちゅうぅ、ちゅるるっ、れろ、ちゅぱっ……んぅぅっ」 「……い、いやで、なければ、口に……れるっ、ちゅ……出して欲しい……はあぁふ、ぢゅぷぅ!」 形の良い唇を、惜しげもなく棹に擦って歪ませる。 髪を乱して頭を上下させ、いつしか喉奥にまで亀頭を受け入れている。 「んっふ、んむっ!? ふ、ぁ、の、喉、が……ぁふっ! ぇろっ、れろっ、ちゅぷぽっ……」 喉を突くたび唾液がたっぷり溢れ、部屋に水音が反響しだす。 亀頭を弾く淫らな音に、フィオネが喘ぐ。 「はぁっ、ちゅ、ふ、はぁあっ……ぁ、む!」 「ちゅぢゅっ、ぢゅ、ぷ……は、はしたない……ぁぁ……ぢゅっ」 「そういう顔をされると、今にも出そうだ……」 フィオネ「こほっ、んむっ!?」 フィオネ「ちゅぅ、う……出す、のはいいが……顔は、あまり、見るな……ぢゅぱ、れるっ!」 整った指を沿わせ、フィオネは一際深く陰茎を呑む。 〈無私〉《むし》の愛撫にもっと酔っていたかったが、そろそろ限界だ。 「ふ、あぁっ……濃い、ちゅっ、昇って、く、る……ちゅ、はふ、ぁ……ぢゅぷっ、ちゅりゅぅ!」 「フィオネ、受け止めてくれ……っ」 「っ、ここに……ふぁふっ……れろっ、れるるっ……ぢゅぽ、ちゅぢゅるぅ!」 ぬめる舌先が鈴口をほぐしてきた。 そこから精が迸ると確信して、執拗に懇願する。 「ちゅっ、だ、出して……んれろっ、ちゅろ、れろぅっ……はもっ……ん、ふ、ちゅぷぷぅうぅ!」 最後にフィオネは、自ら喉奥を亀頭に擦りつけた。 唇も頬肉もすぼめ、狭い筒の中で舌を這わせ、ついに俺も…… 「はっ、あ、フィオネ……!」 「ちゅっ、んっ、ふぁっ、ぢゅぷ、んぅうぅうんっ!? ん、むぅうっ!」 「来、て……ちゅぷりゅっ、ぢゅちゅっ、ちゅぷっ、んむぅううぅぅぅぅ…………っ!」 どぷぷっ、びゅくっ、びゅぷぅう……! 「ふむぅぅうぅうっ!? ん……ちゅっ、ちゅぷぽっ……んもっ、こくっ、ぢゅううぅ……!」 「フィオネ、無理は……」 「ふぁあっ!? ぁも、んっぷ、ぁ、溢れ……ごく、こくんっ……んむ、んぁぅぅぅ……!」 射精中も、フィオネは進んで咽頭まで肉棒を咥えた。 一滴漏らさず口腔に含み、しかも飲んでしまう。 「ぁ、あ……は、こくっ……んっ、んむ……ふぁ」 男の精の味など初めてだろう。 フィオネは目尻に涙を浮かべるが、それでも俺を放さずに…… 「はぁっ、ふ、カイム……ぢゅ、ちゅぅ」 肉棹を優しく舐め、俺の絶頂を最後まで見届けた。 「ん……んんっ、ぷはっ! はぁっ、ふ……あむ、ぢゅるっ、ぁ、ふあぁ……」 「ちゅ、ぷっ……ふぅ、ぁぁ……」 許容量を超えた白濁が、唇の端から垂れ落ちた。 淫らな筋を描き、やがてあごへと伝う。 「……呑みきったのか」 「はぁっ、はぁ、は……無我夢中で……」 「あ……今のは、作法として間違っていたか……? ……ちゅっ……」 「俺としては正解と言いたいが……、っく」 白濁の残滓を見つけると、フィオネはちゅっと唇で受け止めてくる。 キスされたまま発声されると、亀頭が擦れて心地良かった。 「……無茶させたな」 「いいや。カイムのだと思うと、愛おしいから……」 恥じらいに目を伏せ、そう呟く。 射精の終わったペニスに、フィオネは甘く口付けした。 「フィオネ、心の準備はできたか」 「あ……ぅ……」 「…………、……ああ」 小さく頷いたフィオネを、俺は抱き寄せる。 そして、有無を言わせぬまま膝に抱き上げた。 「ひゃ、ぁっ?」 「ちゅ、ちゅうっ、ちゅぱ……れる……」 「ああ、カイムだ……温かい」 「すまん、冷えさせたか」 「そういう意味じゃない。……抱き合えて嬉しいと……ちゅぷっ……」 指と指を絡め、俺たちは唇を貪り合う。 「ちゅ……カイムこそ、苦くないか」 「まあ、それもありだろう」 「カイムは懐が広いな……れる、ぴちゃ」 冗談とも本気とも取れることを言って、フィオネは一層甘くもたれてきた。 フィオネ「……本当は、ずっとこうしたかった」 フィオネ「あ……意地を張ってしまって、本当にすまない」 「フィオネらしくていい」 フィオネの裸体が、しなやかに重なってくる。乳房も腹も脚も、余さず密着して心地良い。 「……このまま抱いていいか」 「っ……あ、ああ……ちゅっ、ぴちゅ……ちゅ」 俺は彼女の手を取り、棹を握らせた。 舌を絡ませながら秘裂をまさぐり、亀頭をあてがう。 「は、ぁ……あ、当たってる」 半年ぶりの行為に、俺たちは自ずと急いた。 「……座って」 「ぅ……や、やってみる……ん、くぅ……ふ、ぁあっ」 ぴちゃっ、ちゅく……と、粘着音が広がりゆく。 口淫の間に、フィオネもまた昂ぶっていたようだ。 「ぁ、あ、ぁ……あ、は、入る……ぅ、んっ、固、い……っ」 俺の手を借りず、フィオネが自分で棹を呑む。 狭い道に俺を受け入れるため、彼女は腰を揺らしながらしゃがんでくる。 「……いい光景だ」 「ちゅ、れる……はふ……わ、我ながら……はしたないにも、ほどがある……」 「でも、今は、止めたくない……カイムが……ほ、欲しい」 「ふ、ぁ……んっ、ぁぁぁあぁああ!」 粘膜の筒に亀頭が呑まれた。 フィオネはビクリと背を反らせるが、そのまま奥へと俺を受け入れてゆく。 「はぁぁ、ぁ、ふぁぁ……好、き……」 「あぁ……な、中に、来て……れるっ……んむぅう!」 ぢゅぷぷっ、ぢゅ、ぷぅ……! 「ふぅあっ、ぁ、はぁぁぁあ……!」 「っ……」 肉棒が、狭い道を埋め尽くしていた。 熱くぬめる粘膜が、口腔以上に強く締め付ける。 「はぁっ、ぁぁ……あぁ……ん、きつい……ちゅぷっ」 「久し振りすぎて、忘れられたか」 「わ、忘れるわけない……ずっと、忘れられなかった……」 「ふ、ああぁあっ! はあっ、んはあぁっ! な、か……引っかかる……ぁぁっ」 熱く火照った膣襞が、複雑に蠢いた。 そのたびに予期せぬ快感が肉棒を苛む。 「ひぁ、んぅうっ! あ、あの時と、全然違う……擦れるところ、こ、こんな……ん、ぅう」 「っ……そのまま、奥に」 「ちゅぷ、れる……ん、あ、ああぁ……やってみる……んっ、く、んんっ」 形の良い乳房を俺に押しつけ、フィオネは尻を沈ませた。 俺は無意識に彼女の腰に手を回し、なめらかな曲線を堪能する。 「ぴちゃっ、ちゅ……それ、嬉し、い……ちゅ、ぅ……」 「ん……もう、痛くなくなった……大丈夫……んん……」 尻の丸みを撫でると、フィオネは切なげに声を漏らす。 そして……控えめながら抽送を始めた。 「ぢゅ、ぷっ……ぴちゃっ、ぴちゅ!」 「んんっ、あ、ふ、はふ、ぅ……んく、あっ、ああ……んぁっ」 彼女の細身が、しなやかな動きで俺に擦り寄る。 相当な羞恥があるのか、ただでさえ狭い膣道は、限界まで肉棹を搾ってくる。 「ぁ、あ……これで、あ、合ってるか……? んっ、ちゃんと、できているか……?」 「ああ。欲を言うなら、もっと乱れてくれても嬉しいが」 「ぅ……こ、これ以上っ? んっ、ちゅぱ……どう、すれば……あっ……」 「ここを……使うとか」 ぐいと腰を抱き寄せ、フィオネを完全に座らせる。 そして休む間もなく肉棒を引き抜かせた。 「っ、ああぁっ! ひ……ぁぁあああっ!?」 二度、三度と手本を示し、媚肉を堪能する。 「はぁっ、ぁ、あぁ、……やって、みる……んっ、んふっ……ちゅろっ、れるぅ……っ」 基本的に、フィオネは手引きに弱いらしい。 新しいことを教わると、素直に実行しようとする。 しかも飲み込みが早い。 「ぁ、あ……おかしく、なりそうだ……こんな格好で、肉体を貪って……ちゅ、るぅ!」 本人の羞恥とは裏腹に、彼女の脚は忠実に運動を覚えていった。 単調な出し入れから、徐々に複雑な律動へ。 俺の形に合わせながら抽送を繰り返す姿に、俺も昂ぶっていく。 「これ、これ、だめ、だ……止まら、ない……あぁ、ぁっふ、はふ……いやぁぁ……」 「っ……」 これほど官能的な光景があるだろうか。 あの理性的なフィオネが、俺にまたがって性に〈耽〉《ふけ》ってゆく…… 「あぁっ、カイ、ムっ、なか、中で……大き、くなるぅ……ぁぁぁあ!」 張ったカリ首が膣襞を掻き回していた。 フィオネは自分の動きに合わせて愛らしい悲鳴を漏らし続ける。 「フィオネ……」 「はぁふっ、は、んぁあっ! れるっ、ぴちゃ……んぷ、んむぅうぅっ」 ぢゅぷぽっと、卑猥な粘着音が漏れた。 さすがにフィオネは逃げようとするが、肉棒を締めつける膣襞が一斉に蠢いて、強烈な快感を生む。 「はぁ、はっ、んっ、んあっ、ふ、ぁああああ…………っ!」 「フィオネ、そのまま続けてくれ」 「んっ、んぅっ……」 一瞬泣きそうな瞳で俺を見る。が、フィオネはこくこくと頷いた。 俺の腕に指を食い込ませ、舌を吸いながら腰を使う。 「れるっ、ひぅっ!? ぁああっ、ちゅぷ、ん、はああぁああっ!」 「ふぁっ、んんっ、はぁっ、ああぁあ……っ」 熱い肌が惜しげもなく押しつけられる。 溺れてゆくフィオネを抱いてやると、彼女もまた俺にしがみついた。 「カイ、ム……カイムぅ……っ!」 「本当は、ずっとこうしたかった……恋しかった……っ」 堰を切ったように吐露し、フィオネは俺を締めつける。 もう水音が立つのも諦め、大きな抽送を繰り返す。 「ずっとなんだ……恋しくて、焦がれて」 「はあっ、ふっ、ちゅる……むぐぅうっ」 ……これほどの情熱を、秘めていたのか。 日常では知ることのなかった素顔に胸を打たれる。 「フィオネ……!」 「ぁ、ぁああ! はふ、ぁあ……また動いた……中で、ドクンッて……」 「あぁ……! カイムが、感じてくれるのが、一番嬉しい……!」 激しく蠢いても、二人の身体は片時も離れない。 フィオネの腰がしなやかで、自在に俺を受け入れるからだ。 「れるっ、はむっ……ぁ、あっ」 「……いい声だ」 「う、ん……感じている、声……はしたないのに、気持良くて、もっと欲しがって……ああっ」 白状して苦笑するフィオネに、愛しさが込み上げる。 俺は両手で彼女の尻肉を掴み、より激しく抽送を誘導する。 「ちゅ、ちゅぷ、ぴちゃ……れるぅっ」 「ぐすっ……す、すまない……初夜なのに、こ、こんな淫らに求めるなんて……ふぁあっ」 「……半年も堪えていたからな、お互い」 昇り詰めつつあるフィオネを下から見上げる。 彼女が絶頂を堪えるたび、蕩けた声が聞こえてくる。 「はぁっ、ふ……愛してる……あぁ……愛して、るぅ……っ!」 「ずっと、カイムだけを……んぁ……好き……大好き……っ、ああっ!」 理性を手放す寸前、フィオネが真摯に囁いた。 俺は抱きしめて応え、彼女の最奥を目がけて腰を突き上げる。 「俺もだ、フィオネ」 「っ、嬉し……ん、ぅうぅうっ! んっ、は、ぁああ! あぁっ、や、んぁあぁあーーっ!」 「れるぅっ、ちゅっ、ちゅぷっ……好き……いくっ……好きっ……んんんんんぁあっ!」 「んっ、うんっ、んぁああっ! ちゅぷ、ちゅぷぅっ、ちゅく……ちゅりゅぅうぅうっ!」 「んぁ、あ、あっ、あぁぁっ……、んっ、うあっ、あっ、う、あ、く、あっ、ああああぁぁぁっっ」 びくくっ、びくんっ……びくぅ! 「ちゅむっ、んむぅう! ちゅ……ぴちゃ、ちゅぷぷっ……はぁふっ……ぁぁぁぁぁぁ」 「ぁ、あぁっ……はぁ、あ、あ、止まら、ない……っ」 最奥で繋がったまま、フィオネは絶頂に震えた。 俺を挟む両脚まで痙攣し、不規則な振動を与えてくる。 「はあっ、あぁあっ!? 今動いたら……んぅうっ……はげし、い……カイム……!」 「あれだけ好きだと言われたら、応えたくなる」 子宮口を探り、亀頭を押し込んだまま円を描く。 フィオネは達しながら悶え、喉を反らす。 「ぁ、あ……ぴちゃっ、ちゅ……拡がる……ふぅあ、ぁぁぁぁあ……!」 肉棹を咥えたまま、膣腔は細かい痙攣を繰り返した。 逃げようとしていたはずのフィオネが、より深く結合を求める。 「れるっ、ちゅるるっ……あ、当たってる……おく、まで、響いて、溶け、合ってるぅ……っ」 俺の手が押さえるより深く、フィオネは腰を沈めた。 根元が完全に埋まるまで座り、艶めかしく円を描く。 「っ……無理してないか?」 「ん……今度は、カイムも……一緒に、達せる……ように……あぁ、ん……」 フィオネ「はぁ、あ……こう、して……ちゅぷっ、はむ……れろぉ」 「っ……ぁ……!」 「んっ、んぅうぅうっ……そういえば、最初の、ああっ……夜も、心配……されてた、な……」 「……そうだったか?」 初めて想いを打ち明け合った夜。 あの時は、フィオネの胸を癒すことに必死だった。 「はぁっ、はふ……あなたの妻は、強い女だ」 「はっ、あっ、あなたのお陰で、強くなった女だから……少しくらい、酷使してもいい……」 愛おしげな目で俺を覗き込み、微笑む。 不意をつかれ息を呑むと、今度は艶めかしく目を細めて口付けしてくる。 「ちゅ、ぁむ……好きだ……大好き……んんっ、あっ」 「ああ……」 俺もだ。なかなかそう言い出せなくても、フィオネは察して頷く。 「ん、ちゅっ……はふ……ぁ、んぁぁっ、んっ、くぅ、あっ……んっ」 口付けしたまま、フィオネは器用に腰を擦りつける。 ぐちゃぐちゃの膣内を堪能しながら、俺は彼女の肌をも貪る。 「んっ、ぁっ!? ちゅろっ、れろっ、ちゅぅっ!」 ずっと胸板に押しつけられていた丸い乳房。 汗ばむそれを揉みしだき、固い蕾を転がして遊ぶ。 「ぅ、ふぅうぅっ……ん、ひゃんっ、ん、んっ、ぁあ!」 蕩けた声と共に、フィオネの熱が上がった。 どこに触れても素直に反応し、健気に仕返しを試みてくる。 ……なんと愛らしい妻だ。 「い、今は、カイムが……気持良く、なる番なのに……ぇるっ、れるぅ……!」 「あ、あっ、胸、も……はぁあっ、んっ、気持ち、いいぃ……」 たどたどしくも腰を擦りつけ、自分の中で俺に快感を浴びせてゆく。 熱く柔らかな責め苦に、そのまま絶頂へと連れ去られそうだ。 「んぅうっ、ふ、ぁふ……ちゅ……んんっ、ああぁ、ああ……っ!」 「あぁ……そ、想像では……んっ……もっと激しく、愛せると……思った、んだが……」 「まだまだ、これが精一杯みたいだ……ぁ、んっ、ぁ、ぁぁっ」 「フィオネの想像が気になる」 「も、もう日記は……あぁ……読まないで、くれ……ちゅ、ぷ……ぴちゅぅっ」 不規則な円を描く尻を捕まえ、俺は深く貫いた。 亀頭でこりこりと膣襞を押し潰し、時に根元まで締め付けさせ、絶頂の高みへと昇る。 「ふぁっ、あ、ああっ、んっ、くあっ、ぁ、深い……っ!」 「も、もっと、して……もっと、壊れる、くらい……ん……刻み込んでぇ……ぁぁぁっ」 「ちゅぷぷっ、ちゅぱっ! ぁぁっ、もっと一つに……は、離さないで……ちゅ、りゅぅ!」 フィオネは脚のバネを使って、俺は腰の力を使って、互いに性器をぶつけ合っていた。 動きが同調し、本当に溶け合うかのような快感が全身に奔る。 「ちゅ、ぷっ……中、震えてる……ああっ、固くなって、叩いて……ひ、ぁああああ……っ!」 「と、届いてるぅっ……お、奥にっ……はぁっ、きて……きて……ぇちゅぷっ、ちゅ、りゅぅ!」 最奥が粟立ち、裏筋を苛んだ。 本能のまま執拗に擦りつけ、俺は自分の果てを予感する。 「お腹に、なかに、ほしっ、ぁあふっ、ぁ、ぁむ、ちゅっ、あ、ん、ああっ、ふあぁああぁあっ!」 フィオネの腰が落ち、固い子宮口が亀頭を圧す。 そこで射精することの意味を噛みしめながら、俺たちは互いに引き寄せ合った。 「フィオネ……!」 「ふあ、ああっ、んっ、ひうっ、あっ、あうっ、ちゅっ、あ、あ、あ、んく、あっ、ああああっ!」 「かっ、カイムっ、カイ、ム……んんっ、んはぁ、カイムぅっ、ぅう、んぁ、あっ!」 「愛してる……ちゅりゅっ、ちゅぷっ、ちゅぱぁっ! ぁぁああっ、んんんんん……っ!!」 どぷぷっ、びゅくっ、びゅっ、どぷぅうっ! 「ひ、んぁっ!? あぁあっ、あ、ああぁ……んんんーっ……んっ、は、ぁぁぁあっ」 「ちゅぢゅっ、ぢゅ、ぷ、んぅうっ!」 達して崩れるフィオネを支えながら、彼女の最奥で放ち続けた。 それと同時に舌を絡ませ、乳房をまさぐり、最後の一滴まで彼女に搾り取らせようとする。 「んむっ!? んっ、あぁああっ! ひゃ、ぁ……すご……ちゅむぅうぅうぅ……!」 「ひぁっ、ひ、ぅう……それ、んぁっ! 中が、きゅぅって……な、なる……んぅうっ」 熱い白濁で子宮口を打たれ、フィオネがまた達する。 「ぴちゃっ、ぁむ……ぁぁ……全部、入ってくる……ちゅ、ぱぁっ」 口淫の時のように、フィオネは少しも逃げずに白濁を受け止めた。 乳房を転がすと膣腔が肉棒を甘噛みして反撃する。 「っ、う……!」 「ーっ、んっ、ちゅぷ、ちゅりゅぅっ」 互いに貪欲に求め合い、与え合い……俺たちは飽きもせず余韻を味わった。 「んふっ、ぅ……はふ……ぁ、あっ!」 「っ、あ、はぁ、ふああぁぁぁ……」 「く……」 抜き去る瞬間、膣口が窄まって俺を引き留めた。 最後の最後まで搾り取られ、思わず声が漏れる。 「ちゅ……ぱ……ちゅぷ……、……」 「……はぁっ、ふ、……カイム……」 「フィオネ?」 「……ふぁっ」 朦朧とした様子で辛うじて俺を呼び、フィオネはそのまま崩れ落ちた…… 「……す、すごかった」 飾らない声で呟いて、それきり荒い息を繰り返す。 「……それはこちらの台詞だ」 「嘘だ」 「本当だ」 その証拠に、俺はずっとフィオネを放せない。 「はぁっ、はぁ……そうか……結婚したら、フィオネと毎晩すごいことができるんだな」 「ふぇっ?」 冗談半分本気半分でそんなことを言ってみる。 自分で言っておいてなんだが、それはなかなか楽しい空想だった。 「もっと早く求婚すればよかった」 「それは……ふふ、その通りだ」 俺の冗談に、フィオネは目を細めて答える。 どちらからともなく顔を寄せて、小さく口付けする。 半年分を取り戻すかのように、小さく、幾度も。 「ちゅ、ぷ……カイム……」 重ねた胸から、互いの鼓動が伝わる。 荒ぶる音から穏やかな音へ。その変化も分かち合う。 「ふつつか者だが……末永くよろしく、お願いします」 「こちらこそ」 生涯の伴侶。 改めてそう噛みしめ、フィオネを抱きしめた。 白い鳥の群れが、真っ青な空へと飛び立った。 俺はジークに借りた礼服。 フィオネは昨晩縫い上げたドレス。 日頃とは違う格好でヴィノレタに入る。 全ての席に見慣れた顔があった。 「今日この日を、カイムと迎えられて嬉しい」 「俺もだ」 方々でワインの栓が開けられ、杯がぶつかる音がする。 それは、教会の鐘の音よりも俺たちらしい福音だった。 フィオネと初めて出会ったときも、 フィオネが羽狩りをしていたときも、 フィオネと二人で黒羽を追ったときも、 フィオネが黒羽の亡骸を抱いて泣いていたときも、 ずっと、フィオネのことを目で追っていたように思う。 目が離せなかった。 その生真面目で、誠実で、名誉を重んずる── 背筋の伸びた生き方に、惹かれていたのかもしれない。 だが硬い剣ほど折れやすい。 フィオネも、一時折れそうになってしまっていた。 支えたいと思った。 フィオネの真っ直ぐさを尊いものと思ったから。 それは、俺が持っていないものだったから。 人が生きていれば、様々な困難に直面する。 それらに運命という名を付け、考えることをやめるのは簡単だ。 フィオネも、背負ったものの重さの前に、そうなりかけていた。 だが、やはり守るべきものは、自分の心に照らして選び取っていかねばならない。 「おまえら、さっさと挨拶をしろよ」 「わかってる」 「行こう、フィオネ」 「ああ、カイム」 フィオネの手を取る。 二人で生きてきた、そしてこれから生きていく人生が…… 自らの心に照らして恥ずかしくないものでありますよう。 自ら選んだ道でありますよう。 俺は……、 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》以来、はじめて神と天使に祈った。 黒羽の件が片付き、10日ほどが過ぎた。 市井の人間に黒羽の真相が知らされることはなかったが、皆、何かが起こったことは薄々勘づいているようだ。 しかし、ここは牢獄。 飯の種にならない話が人々の関心を引くことはない。 無惨な殺人が止むとともに、黒羽への関心も風に飛ばされる塵芥の如く消え去ってしまった。 フィオネがティアを見逃してくれたことで、俺の生活にも大きな波乱はない。 この日、俺は記憶の片隅に引っかかっていたものの調査を始めた。 黒羽が閉じこめられていた牢獄の施設で見つけた黒い薬だ。 「ふうん」 黒色の粉末を、エリスが薬匙でつつく。 以前、クーガーが捕らえられていた施設から持ち帰ったものだ。 「どうだ?」 「私は見たことない。一般に流通してる薬じゃないと思う」 「ジークはどうだ?」 「生憎、心当たりがないな」 「牢獄で流れた麻薬は把握しているつもりだが」 「エリスもジークも知らんとなると、お手上げか」 「カイム、お前少し舐めてみろよ」 「身体に悪いかどうかはわかるぞ」 「そんなのは、お前のところの若いのにやらせろ」 「ははは、これでも子分想いの頭で通ってるんだぜ」 笑いながら、ジークが煙草を取り出す。 「外で吸って。薬草に匂いがつく」 「へいへい」 煙草に火を点けながら、ジークが部屋から出て行った。 「この薬、出所は?」 「少し前に、火災があった施設だ」 「黒羽に関係があるかもしれないし、ないかもしれない」 「黒羽か……」 エリスが席を立ち、水甕の水を飲んだ。 「羽狩りの女隊長とはもう切れたの? 名前、なんだっけ?」 「フィオネだ」 「ぷっつり切れた。お前が気にしているような意味ではな」 「よかった」 「でも、カイムにしては珍しく入れ込んでたね」 決して嫌いな女じゃなかった。 むしろ信頼していた。 惚れていたかと言われれば、疑問符がつくが。 「ま、もう終わった話だ」 「じゃあ、カイムの傷ついた心は私が美味しく……」 「いただくな」 「第一、傷ついちゃいない」 「あっそ」 ドアが開いた。 「いえーいっ!」 「なんだ、リサか」 「なんだって何よ!? 失礼ね!?」 「元気なのはわかった」 「後ろがつかえてるから、さっさと中に入れ」 リサの背後に立ったジークが、彼女の頭をぽんぽん撫でる。 「あはー、頭撫でられるの弱いです」 「確かに弱いわね」 「ああ、リサは頭が弱い」 「あれ? 違う意味に聞こえるのはなんでだろ?」 わからなくていい。 「で、なんの用だ?」 「あー、そうそう、エリスを呼びに来たの」 リサが本題を切り出す前に、エリスはもう医療道具の準備を整えはじめた。 娼婦がエリスの家に来る理由など決まっている。 「お店の子が病気みたいで」 「症状は?」 「わかんないけど、すっごい苦しんでる」 「あ、そうだ。カイムも来てよ」 「俺が?」 「その女の子、めちゃくちゃ暴れてて手がつけられないの」 「ベッドに寝かせようとしても、物投げてくるし、引っ掻いてくるし」 手の甲を見せつけてくるリサ。 白い肌に赤い引っ掻き傷があった。 「うちの若いのはどうした? 店にいなかったのか?」 「ちょうど集金に出ちゃったみたいで……」 男手がないか。 ジークに目をやる。 「俺は用がある、悪いが頼む」 「……仕方ないな」 「やった、ありがとーっ!」 リサが腕に抱きついてきた。 「離れないと、〈解剖〉《バラ》す」 エリスが間に入ってリサを引き離す。 「触るくらいいいじゃない、減るもんじゃなし」 「だめ、減る」 「あー、うるさい。行くぞ」 テーブルに置いてあった謎の薬を懐にしまい、エリスの家を出る。 「放せっ、放せって言ってるでしょ!」 「黙ってろ」 もがく女を羽交い締めにする。 女とは思えないほどの力だ。 「放せっ、放せってば!」 「いいから、水飲んで」 エリスが水飲みの吸い口を、女の口に突っこんだ。 「んぐっ、ぐっ、ごほっ!」 「飲んだら出す」 「ごほっ……けほっ! けほっ!」 羽交い締めにしたまま、桶に水を吐かせる。 胃の洗浄だ。 「もう一回」 「けほっ、ごほっ……」 何度か洗浄を繰り返すうち、徐々に女の身体から力が抜けてきた。 もう大丈夫だろう。 羽交い締めを解き、ベッドへ座らせる。 「どう?」 「ごほ……す、すみません……」 「謝るなら、クスリなんてやらないで」 「リサ、手拭き」 「ほいほーーい、どうぞっ」 エリスが、唾液で汚れた娼婦の顔を拭いてやる。 「商売道具なんだから、いつも綺麗にして」 「は、はい……」 「ほら、寝る」 娼婦が、だるそうに身体をベッドに横たえる。 「どうだ先生、見立ては?」 「薬物中毒」 「大方、そんなことだろうと思った」 娼婦に向く。 「お前、クスリはまだ残ってるか?」 「……」 「隠しきれないのは、わかってるだろ?」 少しの間、娼婦はぎゅっと口を結んだ。 そして鏡台を見る。 「エリス、鏡台だ」 「はい」 エリスが鏡台の〈抽斗〉《ひきだし》を探る。 すぐに手の動きが止まった。 「あった」 エリスの手には、小さな紙の包みが3つ。 「カイムさん……。クスリのこと、頭に報告しますか?」 上目遣いに訊いてきた。 「しないわけにはいかないな」 「どのような罰があるのでしょうか」 「ジークさん、クスリはすっごく怒るからなぁ」 「女なら大したことはない」 顔や身体に傷をつければ売り物にならなくなる。 年季は伸びるかもしれないが。 「そうですか」 娼婦が小さく安堵の息を吐いた。 「クスリはどこで手に入れた?」 「不蝕金鎖は麻薬を扱ってないはずだ。ベルナドのところからでも買ったか?」 「もらいました、お客さんから」 「不安だったんです。最近、地震が多いから」 「また崩落が起きるとでも?」 「はい」 「お客さんにその話をしたら、気分が落ち着くからやってみろって言われて」 「その客、よく来るのか」 「ええ……」 「よく指名をくれる方なんです」 「今夜も来るか?」 「え、ええと……」 不安げに目が泳いだ。 「来るんだな」 娼婦が〈悄然〉《しょうぜん》と頷く。 「乱暴はしないであげてください……」 「その、もう来てくれなくなっちゃうから」 「クスリを渡してくる客など、ロクなもんじゃないぞ」 「お前のことを真面目に考えてるとは思えない」 「そっ、そんなことはっ」 娼婦が一瞬だけ熱くなる。 「で、でも、とにかくあの……命は助けてあげてください」 「はぁ……」 これみよがしにため息をついた。 『この女、きっと客に惚れてる』と言いたいのだ。 「命までは取られないだろう。心配するな」 「ありがとうございます」 「地震のせいで不安になるのはわかる」 「だが、クスリだけはやめろ。あれは心も体も蝕む」 「辛いときはヴィノレタに来い。酒くらいはおごってやる」 「すみません」 娼婦が手の甲で目尻を拭った。 「じゃあな」 「リサ、後はよろしくね」 「はいはーーいっ」 「相変わらず、娼婦には優しい」 「普通に接しているだけだ」 「私も娼婦に戻ったら、優しくしてくれるかな?」 「エリス先生、身請けして下さった方にそのようなことを言っては、罰が当たりますよ」 「あら、クロ」 「休憩か」 「ええ、ついさっきお客様がお帰りになりまして」 「今日はご面倒をおかけしたようで、お忙しいところありがとうございます」 「クスリだけは注意させて」 「一人はまると、すぐ拡がるから」 「はい、十分に注意いたします」 「とは申しましても……」 クローディアがわずかに天井を仰ぐ。 「この界隈にいる人間は……誰しもそれなりにそれなりでございますからね」 「ああ」 皆、どうしようもない何かに絡め取られてここにいる。 クローディアにも、人に言えない過去があるのだろう。 リサやアイリスはもちろん…… エリスだってそうだ。 「だがな、自分の身体は大事にしろ」 「せっかく咲いた花だ、自分の手で枯らすことはない」 「まあお上手ですこと」 「カイム様も、たまには花を愉しみに来てくださいましな」 「綺麗な花ほど棘があるらしいけど」 「ふふふ、手厳しい先生」 「クロ」 奥からアイリスが出てきた。 「上層の豚が来てる」 「あら、そういえば今日いらっしゃるお約束でした」 「上層からわざわざか」 「なんでも、上層の偉い方にとっては、牢獄の景色がたまらなく刺激的に見えるとのことでした」 「危険な環境で女を抱くのも、また格別だそうで」 「あいつら変態ばかり、死ねばいい」 「金が余ってる奴ってのは、たいがい変態になるもんだ」 「せっかくだ、しっかり稼げよ」 「ええ、ありがとうございます」 「せいぜい、愉しんでいただきますよ」 クローディアの瞳の奥に、加虐的な炎が灯った気がした。 これから、どんな饗宴が繰り広げられるのか。 「いらっしゃい」 「カイムさん、お帰りなさい」 「お疲れさん」 「ああ」 エリスと並んでカウンターに座り、いつもの注文をする。 「これだった」 エリスが、娼婦から回収した麻薬の包みをカウンターに置いた。 2つのうちの1つをジークが手に取る。 包みを開き、中の粉末を小指の先につけ、口に運ぶ。 「舌に刺すような刺激があるな……最近流行りのやつだ」 「ベルナドが捌いてるって話の?」 「そうだ」 「これをリリウムの女が?」 「常連からもらったらしい」 「今夜も店に来るとさ」 「それは助かる」 「ちょっと話を聞かせてもらおうじゃないか」 何らかの制裁を加えるつもりなのだろう。 「すみません。お薬っていうのはどんなものなんですか?」 「幸せな気分になれるのさ」 「嫌なことも悲しいことも忘れられる」 「それは……いいものなんでしょうか?」 「忘れられるっていっても少しの間で、クスリが抜ければまた現実に戻るだけよ」 「質が低い奴に当たると、一発で死ぬこともある」 「幸せになれて下手すれば即死。牢獄にはぴったりじゃない」 「牢獄民がみんな死にたがってるわけじゃないけど」 「だが、人気なんだろう?」 「ああ、かなり出回ってる」 「どこから供給を受けてるのか知らんが、値段が安いのも売れている要因だ」 「ベルナドも、落ちるところまで落ちたわね」 「麻薬だけは触るなっていうのが先代の口癖だったっていうのに」 注文した火酒と茶が出た。 「落とし前はつけさせる」 「ベルナドとは、いろいろと話すこともあるしな」 ジークがいつになく強い口調で言った。 「あの、訊いてばかりで恐縮なんですが……べルナドさんって?」 「嫌なヤツよ。かなーりね」 メルトがティアに説明する。 ベルナドはずっと昔から不蝕金鎖の副頭を務めていた男だ。 正確な年齢は不詳だが、45歳前後だろう。 先代の死後は不蝕金鎖を引き継ぐかと思われていたが、ジークが頭に指名されたため副頭に収まった。 ジークへの忠誠心は低く、かねてから反抗的な態度を取っていたが、5年ほど前に仲間を連れて不蝕金鎖を離反。 〈風錆〉《ふうしょう》という組織を立ち上げた。 『風錆』とは、磨いても磨いてもいつの間にかついてしまう錆を指すらしい。 まあ“不蝕”金鎖への当てつけだ。 事実、活動方針は不蝕金鎖と全く違う。 先代が禁じていた麻薬にも手を染め、稼ぎ方は至極荒っぽい。 「このメニューを作る原因になったのもベルナドよ」 と、メルトがメニューを指した。 『ウインク金貨1000』と書かれている。 「値上げ前は金貨10枚だったんだが、奴が払うと言いだした」 「それで値上げすることになったんだ」 「ベルナドさんは、メルトさんのことが好きだったんですか?」 「初めはそうだったかもね」 「でも、先代がジークを後継ぎに選んでからは変わっちゃってね」 「ベルナドは、自分に後を継がせなかった先代を恨んだ」 「メルトを身請けしたのが先代だってのは知ってるだろ?」 「だから、金でメルトを自由にするのが気持ち良かったんだろうな」 「は、はあ……なんと言うか、ちょっとかわいそうですね」 「小さい男ね」 「だが、実際にはベルナドを慕う奴も多い」 「あいつは、とにかく金払いがいいからな」 「若い部下も多いし、勢いでは俺のところを上回ってるだろうな」 ジークが冗談のように言う。 「不思議です」 「ティアちゃん、人っていうのは誰でもそういうところがあるものなのよ」 「すごーく立派な人でも、あることについてはすごく子供だったり」 「すごく子供っぽい人が、あることに関してはすっごく大人だったり」 エリスがちらりと俺を見る。 無視しておこう。 「カイムさんやジークさんにもあるんですか? 子供っぽいところが」 「ある」 「あるわよー、例えば」 メルトがぴっと指を立てる。 「おっと、そこまでだ」 「あはは、焦ってる焦ってる」 「たちの悪い女だな」 「あら、口の悪い」 「二人とも、昔はもっとかわいげがあったのに」 「俺は今でもかわいげがあるぞ。カイムは知らんが」 「かわいげが欲しいと思ったことはないな」 「ま、二人とも無事大人になって、よかったよかった」 メルトが酒の追加を出してくれた。 「はい、これ飲んで機嫌直して」 杯に手を伸ばす。 「カイム」 エリスが俺の腕を取った。 「どうした?」 「怪我してる」 「リリウムの女に引っかかれただけだ、気にするな」 「一応、手当はしておいた方がいいわよ」 「えっと、薬箱は……」 「私がやる」 機先を制して、エリスが手早く医療道具を広げる。 「あら、私にやらせてくれてもいいじゃない」 「カイムの怪我だから」 ジークが、視界の端でお手上げのポーズをした。 経験則から言えば、ここでメルトにやらせようとすると、エリスが機嫌を損ねて面倒なことになる。 「エリス、頼んだ」 「うん」 爪で引っかかれただけの傷だ。 血も止まっているし、痛くもない。 それでも、エリスは熱心に手当てをしてくれる。 本職だけあって技術も確かだ。 「お前には、ずいぶん手当てされたな」 「カイム、怪我ばかりするから」 「仕方ない、そういう仕事だ」 エリスに初めて手当をしてもらったのはいつだったか。 恐らく、エリスを身請けする前のことだ。 最初はろくに包帯も巻けない女だった。 それが今や、皆に信頼される医者だ。 隔世の感がある。 「終わった」 「ああ」 包帯の調子を確かめる。 「いい感じだ」 「やっぱりエリスさんはすごいですね」 「わたしなんかがやっても、変な風になってしまいます」 「あなたと比較されてもね」 「す、すみません」 「手当てしてくれるのはありがたいが、ティアに当たるな」 硬い表情で道具を片づけるエリス。 こいつらの関係は一向に改善しない。 時間が経てば丸く収まると思っていたのだが……。 「ねえカイム、こんな小動物をいつまで傍に置いておくの?」 「あの……わたし、小動物ですか?」 「違うかしら?」 「ええと……そう言われれば、そのような気も」 するのか。 「身の周りの世話なら、私がしてあげるのに」 「誰を傍に置こうと俺の勝手だだろ」 「私、カイムに身請けされてるはずよね」 「なのに、私を傍に置かないのは変だと思う」 「身請けされてるなら、俺の言うことを聞くんだな」 「おかしいよ、ティアばかり」 拗ねたような声を出すエリス。 「俺がお前を身請けしたことは忘れてくれ」 「そんなの無理に決まってる」 「悪い意味じゃない」 「俺に恩を感じる必要も、義理立てする必要もないってことだ」 「お前は自由に生きてくれ、俺はそれでいい」 エリスがじっと見つめてくる。 古井戸のような瞳だと思った。 深い闇の奥で、得体の知れない感情が水面のごとく揺れている。 「でも、私は……カイムの物になりたい」 「もう一度言う」 「お前は自由に生きろ」 エリスが俺を〈睨〉《にら》んだ。 どんな顔をされようが、これは俺が決めたことだ。 エリスには独り立ちして欲しいのだ。 「帰る」 席を立ち、振り返ることもなく店を出た。 「あらあら、かわいそうに」 「カイムさん……」 ティアが心配そうに見上げてくる。 「ぐずぐず言われる筋合いじゃない」 「もともと、俺にあいつの言い分を聞く理由はないんだ」 「でも、カイムさんはエリスさんを身請けしたんですよね」 「だったら、エリスさんがカイムさんの傍にいたいのは当たり前というかなんというか……」 「そうか?」 「俺がエリスの立場なら、喜んで自由な人生を選ぶぞ」 「だがな、エリスは娼婦になりかけのところをお前に買われたんだ」 「いわばなんだ、あいつにとってお前は、白馬に乗った騎士ってわけだ」 「惚れるなって方が無理ってもんだぞ?」 「俺に惚れたから、傍にいたがると?」 「当たり前だろ」 「じゃなきゃ、傍にいたがる理由がない」 確かに、昔からあいつは俺につきまとっている。 にもかかわらず、惚れられているという実感は薄かった。 「わたしだったら、カイムさんを好きになると思います」 「わたしもカイムさんに買ってもらって初めて、自由な生活を知りました」 「今の話の流れだと、ティアちゃんはカイムが好きってことになるけど?」 「意外な告白が来たな」 ジークとメルトがニヤニヤと笑う。 「ちちちち、違いますっ」 真っ赤になって否定するティア。 「エリスさんをもっと大切にしてあげてくださいってことです」 「せっかく娼館から救ってあげたんですから、もっと幸せにしてあげてもいいと思います」 「お前、あれだけ邪険にされて、よくエリスをかばう気になるな」 「見上げた博愛精神だ」 「邪険にされるのは慣れてますから」 お得意の打たれ強さが出た。 「ともかく、エリスを身請けしたのは俺だ」 「あいつをどうするかは俺が決める」 「だがカイム、おまえがやってるのは、例えばこういうことだぞ」 「お前がここで酒を買う。で、メルトの目の前でそれを捨てる」 「怒ったメルトに、お前はこう答えるんだ」 「金を払って買ったものだ。どうしようと俺の勝手だろう?」 先に答えてやる。 「わかってるじゃない」 「その話なら、エリスは買われたお酒ね」 「飲んでくれるのかと思っていたのに、それから何年も置きっぱなしにされている、かわいそうなお酒」 「俺はあいつに、自由に生きろと何度も言ってる」 「自活の術がないなら別だが、あいつは立派な医者だ。一人でも十分生きていける」 「でも、エリスってお酒は、カイムに飲まれることを望んでいるんじゃない?」 「俺はあいつに惚れてほしかった訳じゃない」 「それに、身請けの恩返しとして何かしてもらいたい訳でもない」 堂々巡りだ。 こんな事は何度も言われてるし、自分でもわかっている。 「身請けした女を不幸にするっていうのは、元娼婦として許せないからね」 「近いうちにケリは着ける」 席を立つ。 「帰るのか?」 「外を歩いてくる」 「こう騒がれちゃ気が休まらない」 「じゃあ私も行きます」 「お前は、ここで飯でも食ってろ」 「あ、はい」 いま二人になると、引き続きエリスのことを詮索されそうだ。 「ジーク、今夜、リリウムに様子を見に行っていいか」 「不蝕金鎖のお膝元で、麻薬を捌いた男の顔を見てみたいんでな」 「好きにしろ」 勘定をカウンターに置き店を出る。 牢獄は、すでに赤い光に浸されていた。 逆光の絶壁は黒で塗りつぶされ、一切の表情を窺うことができない。 ふと、娼館にやってきた頃のエリスの目を思い出した。 光も感情もなく、粘土で作られたかのような瞳。 それも、相当出来の悪いものだ。 目が作り物なら、体も相応に作り物だった。 人形のような女。 それがエリスの第一印象で、しばらく変わることはなかった。 命令されなければ何もしない。 下手をすれば、呼吸すら忘れてしまうのではと思ったくらいだ。 訳ありで娼館に入れられる女には珍しくないタイプだが、エリスはその中でも際だっていた。 あいつが肌身離さず持っていた人形の方が、よほど人間らしく見えたのには笑った。 ──どんな…………意味が……なら ──私は……ないって……なんだ ふと、誰かの言葉が頭をよぎった気がした。 だがそれは、すぐに風に乗って消えてしまう。 ……まあいい。 そんなエリスも、娼館の躾のお陰もあって、俺が身請けをした頃には人間風の何かにはなっていた。 といっても、生活力はまるでなし。 命令なしには何もせず指示を待つだけの女に、俺は医療の知識を身につけさせた。 自活の手段がなくては、娼婦に戻るだけだからだ。 娼館に通っていた医者の元に通わせること4年。 どうにか医者の真似事ができるようになったエリスを、俺は手元から離した。 それが3年前のことだ。 自由に生きて欲しい。 ただそれだけの願いを込めて。 あいつの親代わりだったと言われれば否定はしない。 だからこそ…… 仮にどれだけ慕われたとしても、受け入れるわけにはいかないのだ。 夜の帳が降りるのを待ちかねたかのように、店々に〈胡乱〉《うろん》な光が灯る。 人並みをすり抜け、リリウムへ向かう。 「よう」 ロビーで煙草を吸っていたオズが火をもみ消した。 「これはカイムさん、昼間はお世話になったようで」 「話は聞いているか?」 「もちろん」 「今しがた来たところですよ、例の男」 と、オズは顎で上階を指した。 「見覚えのない顔でしたし、下っ端の売人でしょうな」 「女には、逃がさないよう指示してあります」 あの娼婦は、客に惚れていた可能性が高い。 もしものことを考えておいた方がいいな。 「いつ始める?」 「ちょうど今から始めようと思っていたところで」 オズが2度手を叩く。 奥から若い男が3人顔を出し、神妙な顔で頷いた。 「カイムさんはどうされます? 一緒に遊びますか?」 「俺は外でも見張っていよう」 「お礼は渡せないかもしれませんが」 「興味本位で来ただけだ、気にしなくていい」 「ありがとうございます」 「何かあったらよろしくお願いします」 「ああ」 客を通した部屋の位置を聞き、店を出る。 リリウムの裏手に回った。 オズに教えてもらった部屋の窓を見上げる。 3階の端。 窓から、赤茶けた熟柿のような色の灯りが漏れていた。 物陰に身を潜め、様子を窺う。 しばらくして、件の窓が静かに開けられた。 灯りを背に、一組の男女が顔を覗かせる。 薬物中毒の娼婦と、見たことのない男だ。 あれが、薬を持ってきた常連だろう。 衣擦れの音。 窓からシーツが垂らされた。 「もうすぐ、奴らが来るから早く」 「お前は?」 「いいから逃げて」 やはりか。 室内からノックの音が聞こえた。 「早くっ」 「わ、わかった、必ず迎えに来るっ」 「ええ、必ずよ」 男が、半ば飛び降りるようにシーツを伝い下りた。 二人が見つめ合う。 娼婦が頷く。 それが合図になり、男は闇の中へと走りだす。 男の後ろ姿を、娼婦が名残惜しそうに見つめる。 「っっ!?」 ドアが蹴破られたのだろう。 乱れた足音。 窓際にいた娼婦が、髪を引っ張られて室内に消えた。 女が殴打される音を背に、俺は逃げた男を追う。 男は素人だ。 見逃す恐れはまずない。 身を挺して逃がした女の心意気に免じて、少し離れた場所で捕まえよう。 ──『わ、わかった、必ず迎えに来るっ』 ──『ええ、必ずよ』 二人のやりとりを思い出す。 娼婦は、男が追っ手を振り切って自分を迎えに来るとでも思っているのだろうか。 いや、リリウムで働いている女がそこまで楽観的とは思えない。 とすれば、諦めた上で悲劇の姫様を演じているのか。 俺には理解できない感覚だ。 その演技は、身体を張るほど楽しいものなのだろうか。 「はあっ、はあっ、はあっ」 細い路地へと走り込んだところで男は足を止め、肩で息をした。 「はあ、はあ……ここまで、来れば……」 「まだ大して走っていないが」 「ひっ!?」 男が尻餅をついた。 目の前まで近づく。 「な、なんだ、てめえはっ」 「説明が必要か?」 ナイフの柄で鳩尾を突いた。 「いや、助かりました」 「あの女、まさか男を逃がすとは思いませんでしたので」 「そういう事もあるさ」 気を失ったままの男を、オズに引き渡す。 「こいつは神妙に捕まったよ」 「見たところ小者の売人だ。大目に見てやってくれ」 「こんなのに目くじら立てても、逆に不蝕金鎖の名前に傷がつくだけだろう」 「ええ、仰る通りです」 「そうですね……指の2、3本で勘弁してやりますよ」 「女は?」 「部屋にいますが、お会いになりますか?」 「ああ」 「少し教育してやって下さいな」 暗い笑いを浮かべた。 「入るぞ」 「ひ……」 ベッドの上で、娼婦が震えた。 「あの人はっ!?」 「あの人はどうなったんですかっ!?」 俺の顔を見るなり、娼婦がすがりついてきた。 唇と目の周りが赤黒く膨れ上がり、多少顔の形が変わっていた。 今回は容赦されなかったらしい。 ま、男を逃がしては仕方ない。 「派手にやられたな」 「あの人は?」 「下にいる」 「命は取られないだろう」 「……あぁ……」 何とも言えぬ息を吐いて、娼婦の身体から力が抜けた。 「それよりもお前だ」 「なぜこんな馬鹿なことをした? 男が逃げ切れるわけがないだろう」 「馬鹿なことをしたとは思ってます」 「でも、あの時は逃がすのがいいと思ったんです」 「もう少し考えて行動しろ」 「逃げなければ、二人とももっと罰が軽く済んだんだ」 女が斜に座り直す。 「そういうの、わからないんです」 「すみません、ご迷惑をおかけして」 娼婦が雑に頭を下げた。 ため息が出る。 どうして理性的に行動してくれないのか。 女ってのはどいつもこいつも…… 真っ先に頭に浮かんだのはエリスの顔だった。 自由に生きろ、という俺の提案をあいつは拒み続ける。 理由は未だにわからない。 「ともかく、男は無事だ」 「店の外ならまた会うこともできるだろう。お前も変なことは考えるな」 「ありがとうございます」 「大丈夫ですよ。わたし、難しいことは考えられませんから」 そう言って、娼婦は煙草に火を点ける。 煙が唇の傷に沁みたのか、わずかに顔をしかめ俺に背を向けた。 ロビーでは、ジークとオズが何かを話していた。 「よう」 「いたのか」 「ああ、男から話を聞いていた」 「予想通り下っ端の売人だ。何も知らん」 「リリウムでクスリを撒くってことが、どういうことかもわかっていなかった」 先代の頃から、不蝕金鎖は麻薬の売買を禁じている。 娼館街は不蝕金鎖の古くからのシマであり、リリウムはその中核をなす娼館だ。 ここでクスリを売るのは、大聖堂のど真ん中で聖女を冒涜するくらいの行為と言える。 「ベルナドの野郎、先代のご恩を忘れやがって」 オズが吐き捨てる。 「牢獄に閉じこめられた者はみな仲間。仲間を薬漬けにして金を儲けるなど許されない」 「先代の口癖だったな」 「牢獄は閉じた世界です。こんなところに麻薬を持ち込めば、遅かれ早かれ自滅する」 「先代はそれがわかっていらっしゃったから、麻薬を禁じたんです」 「ベルナドには、いずれけじめをつけさせるさ」 珍しく熱くなったオズをジークが宥める。 「どうやってけじめをつける? 決闘でもするか?」 「少しずつ手は進めている」 「ジークさん、よろしくお願いします」 「先代の顔に泥を塗られては、黙っちゃいられません」 ジークが力強く頷く。 「で、クスリを捌いた男はどうするんだ」 「今、若いのが面倒見てますが、もうすぐ放り出されるでしょう」 「そうか」 「なら、俺はこれで帰る」 「カイム」 ジークが何かを指で弾いた。 受け取る。 「寝酒代だ。助かった」 「ああ」 手触りで銀貨とわかる。 豪華な寝酒が飲めそうだ。 目が冴えている。 久しぶりにカイムの手当をしたせいだ。 自分が彼の役に立ったと思えた瞬間だけ、得られる感覚がある。 深く静かな高揚。 身体を包み込む火照りに私はいつも陶然となる。 「カイム……」 あの時のことを思い出す。 何度夢に見ただろう。 忘れようとしても忘れられない光景だ。 あの瞬間から、私は変わった。 人が言うように、私が地獄で生まれ育ってきたというのなら、私はこの時はじめて人の世に降り立つ事ができたのだろう。 でも、だからこそ、私はあの人の傍から離れることができない。 私を救ってくれるものは、あの人の傍にしかないのだから。 「……だめだ」 行動を起こさないと。 あの人を誰かに盗られる前に。 睡眠と覚醒の間にある、白くぼんやりとした時間。 鼻腔に香ばしい匂いが流れ込んでくる。 もう起きる時間か。 ティアが来るまでは物音がしただけで跳ね起きていたが、最近は油断が身体に染みついてしまった気がする。 「あ、ちょっとエリスさん、まずいです」 「カイムさんに怒られちゃいます」 「いいから貸して」 「……」 「おい、何してる」 「見てわからない? 料理」 「あのー、エリスさん……そろそろ火を弱くしないと……」 部屋の反対の隅から、ごく控えめにティアが指摘する。 「黙ってて」 「今日から私が家事するから」 「悪いが迷惑だ」 エリスは無視して料理を続ける。 「ティア、止めさせろ」 「む、無理です」 「わたしが料理されてしまいます」 まったく。 ベッドから下りる。 「おい」 エリスの手を止める。 「自由に生きろって言われたから、好きにしてるだけ」 「今日からここで生活するから」 「自由ってのは、俺から離れて生きろってことだ」 「俺にくっついて回ってどうする」 「誰にくっつこうと私の自由でしょ?」 ため息をつく気にもならない。 「いい加減わかってくれ。これ以上煩わせるな」 「……」 玩具を取られた子共のようなふくれっ面をするエリス。 「俺のために時間を使うな」 「召使いの真似事なんてしないで、自分の時間は自分のために使うんだ」 「いらない、そんな時間」 「牢獄で、自分のために時間を使えることが、どれだけ贅沢かはわかっているだろう?」 エリスは返事をしない。 鍋を握り締め、不満そうな顔をしている。 「エリス、聞き分けてくれ」 それでも返事はない。 じりじりと料理が焦げる音がする。 「エリス」 「聞き分けられない理由を作ってるのはカイムだと思う」 視線を動かさぬまま、エリスが口を開いた。 「身請けしておいて遠ざけるなんて、おかしいと思わない?」 「私を傍に置かないなら身請けした理由を教えてよ」 「それとも、私には理由すら聞く権利はないの?」 エリスの疑問は当然だと思う。 恐らく、納得する理由を聞くまで引き下がらないだろう。 この手の話をふっかけられるのはもうたくさんだ。 エリスが納得する、適当な理由をつけておこう。 「身請けした理由なんて簡単だ」 「お前が気に入っていたから、娼婦にしたくなかった」 「ごく自然なことだろう?」 「なら、どうして私を傍に置かないの?」 「お前があんまり無愛想なんで、身請けしてから気が萎えた」 「女には愛嬌が必要だ」 「……」 「カイムさん……」 ティアが泣きそうな顔を向けてくる。 何を思われようと知ったことではない。 「俺は顔を洗ってくる」 「エリスは、俺が戻ってくるまでに家から出ろ」 家を出る。 「……ふ……はは……馬鹿らしい」 「あははははっ……あはははははっ!」 絞り出すような笑い声が聞こえた。 「……くっ」 あの女、何のつもりだ。 「それで、エリスは出て行ったの?」 「ああ」 「何やってるのよ」 「他人に指図されることじゃない」 「あー、そうですか」 乱暴に酒を置かれた。 こぼれた酒が手の甲にかかる。 「何が、『お前が気に入っていたから、娼婦にしたくなかった』よ」 「ばっかじゃないの?」 手の火酒をなめてから答える。 「問題があるか?」 「もう少しマシな嘘をつけってことだ」 「あなた、娼館にいた頃はエリスなんて気にしてなかったじゃない」 「いっつも私の部屋にいたくせに」 「自意識過剰な女だな」 「あらそ。じゃあ、あの頃あなたが言ったこと、全部並べてみましょうか」 「ぜひ聞きたいね、カイム君の青臭い台詞を!」 「もういいだろ、放っておいてくれ」 「お前ともエリスとも長い付き合いだから言ってるんだ」 「それはわかってる」 「もう少し長い目で見てくれって話だ」 酒を一気に空ける。 「ジークこそいいのか、麻薬の件は?」 「けじめをつけるとか言っていたじゃないか」 「お前と一緒だ。少し長い目で見てくれ」 「二人して何よ。シャキッとしなさいよシャキッと」 「よし、じゃあ、ニンニクの丸焼きとヤモリ酒でも頼むか」 「どこをシャキッっとさせるのよ」 入口が開く。 「……え?」 「……」 「ほう」 入ってきた男は、ゆっくりと店内を見回す。 俺達を見ると、口の端に冷ややかな笑みを上せた。 客としてたむろっていた不蝕金鎖のメンバーが一斉に立ち上がり、 その男──ベルナドを取り囲んだ。 周囲に一瞥をくれ、ベルナドが懐から煙草を取り出す。 そして、もったいつけるような仕草で壁の蝋燭から火を点けた。 「悪いな、お寛ぎのところ」 「ちょっと見せたいものがあって来た」 ベルナドが背後に合図する。 数人の男の声が聞こえた。 荒っぽい足音と共に入ってくる男たち。 入口から俺達までの間にある、卓や椅子を次々と蹴倒し道を作る。 ジークの部下たちが止めようとしているが、なにぶん人数が少ない。 ベルナドの部下たちの勢いに気圧されている。 止めても仕方ない。 向こうが何をするのか見届けよう。 「やめてよっ! 何考えてるのっ!?」 ベルナドは動かない。 ジークも同じ。 二人とも、〈睨〉《にら》み合ったまま眉一つ動かさない。 「ベルナドっ、あんた、ふざけてんじゃないわよっ!」 「あー、思い出した」 ジークを凝視したまま、ベルナドが口を開く。 「俺は、お前の怒った顔が一番気に入ってたんだ」 「あ、あんた……」 「何しに来たのよ、先代の言いつけも……」 「メルト、黙ってろ」 激昂するメルトを制す。 「ちょっとカイム!?」 「ここはジークに任せろ」 頭がこの場にいるのだ。 下の人間が騒げば、組織の品格が問われる。 「……わかった」 メルトが退く。 目の前の家具は全てどけられ、俺達とベルナドの間には、何もない空間ができた。 開け放たれた入口からの光と、その中に立つベルナドの影が、黒光りする床に淡く映り込んでいる。 再び、ベルナドが部下に合図を出した。 外から、大きな麻袋が運び込まれる。 「見せてやれ」 重い音と共に、袋が床に転がされる。 袋の口が緩められ、内容物が引きずり出された。 「……」 男の死体だ。 瞼は開いたまま、濁った眼球が天井を凝視している。 「こいつの顔、知ってるだろ?」 「昨日、リリウムで話を聞かせてもらった男だ」 「ああそうだ」 「そしてその後、お前たちに殺された」 オズは、大目に見ると言っていたはずだ。 若いのが熱くなりすぎたか? 「何かの間違いだろう」 「死に際に、こいつは言ったよ」 「不蝕金鎖のカイムって奴にやられたってな」 「ほう」 知ったことじゃない。 どうやら、言いがかりをつけに来たようだ。 「かわいそうに」 「自分の頭に殺されるとはな」 ベルナドがジークに歩み寄る。 部下たちが注視する中、ベルナドは息がかかりそうな距離まで近づいた。 「馬鹿言うなよ……ジーク」 ベルナドがニヤリと笑う。 「これは、俺達に喧嘩を売ってるんだよな? そうだろう?」 「先代なら、必ずけじめをつけろと言うところだ」 好戦的な光を湛えたベルナドの瞳。 対するジークは、静かにベルナドを見つめている。 「売られた喧嘩は買うことにしている。俺達、〈風錆〉《ふうしょう》の名誉にかけてな」 「そうだろお前らっ」 ベルナドの部下たちが応じる。 その声を聞き、ベルナドがジークと距離を取った。 自信に満ちた動きだ。 「素人芝居にしてはよくできた」 「何度も練習したようだな。ごくろうさん」 「っっ」 ベルナドの目が大きく見開かれた。 だが、爆発はなんとか抑えたようだ。 「次に会うのが楽しみだ」 陰険な笑みを浮かべてから、ベルナドはジークに背を向けた。 部下たちが、慌てて床の死体を担ぐ。 「おい、ベルナド」 ベルナドの背中に呼びかける。 「仲間が死んだら、棺桶くらい作ってやるもんだぜ」 「麻袋一枚じゃ寒かろうよ」 「俺なら、その金は部下に配る」 「どっちが幸せになる奴が多いね?」 背を向けたまま、ベルナドは答えた。 「死者への敬意もなしか」 「安心しろ」 「お前が死んだら立派な棺桶を作ってやるよ」 言い捨て、ベルナドは再び歩き出す。 奴は、今生きている人間の利益を重視するらしい。 決して悪くないが、組織のために命を投げ出してくれる部下は育たないだろうな。 「忘れていた」 ベルナドが振り返る。 そして、金が入った袋をこっちへ投げた。 それは、放物線を描いて重い音を立てる。 「メルト、これで家具でも新しくしろ」 「持って帰って。クスリで儲けた金なんていらないわ」 「ああ、あともう一つ」 「メニューのあれ、もう少し面白い遊びも加えておいてくれよ」 『あれ』とは、金貨1000枚のウインクのことだろう。 つまり、金はもっと出すから身体を売れと言っているのだ。 「……」 メルトが奥歯を噛みしめる。 温厚なメルトを、これ以上怒らせるのも難しい。 「またな、メルト」 口の端を歪め、ベルナドが入口へ向かう。 その先に、人影が現れた。 「あいつ……」 「何? どういう状況?」 何て間の悪さだ。 ベルナドの機嫌によっては殺されかねない。 「エリスっ」 「え?」 事態が飲み込めていないらしい。 もうベルナドは目の前だ。 「お前……」 ベルナドは、思いのほか穏やかな声を出した。 「っっ!?」 エリスの表情が嫌悪に歪む。 俺が見たこともない顔だ。 「そういえば、カイムに買われてたんだったな」 ベルナドが俺を見る。 粘着質な、嫌な笑顔だった。 「可愛い顔をして、やることは鬼畜じゃないか」 「俺なんか、まだまだだな」 「……」 「くくっ、ははははっ!」 笑いながらベルナドが店から出て行く。 あいつ……知っているのか。 いや、十分あり得ることだ。 あいつは、ずっと前から不蝕金鎖の副頭だったのだから。 くそが。 耳の奥で、ベルナドの声が反響している気がした。 ジークの指示で、店の片付けが進む。 いくつかの家具は壊れてしまったようで、修理のために部材が運び出されていく。 「さっきのあれ、どういうこと? 鬼畜って話」 「俺が知るか」 「知ってるって顔に出てた」 「……」 無言の俺に、エリスはわずかに頬を膨らませた。 それでも何も言わないと、不満そうに床を見つめて黙る。 「ベルナドも元気なもんだ」 ジークが隣に来た。 先程とは変わって気楽な調子だ。 「念のため確認しておくが……」 「殺してない」 「疑ってたのか?」 「まさか」 馬鹿らしい、とジークが笑う。 「奴らどこから仕組んでいたと思う?」 「リリウムの女にクスリを渡すところからか?」 「そこまで周到じゃないだろう」 「ま、いいところ、指を折られて帰ってきた売人を見て思いついたんだろう」 「奴ら、喧嘩の口実が欲しいだけだ」 「遅かれ早かれ、何かしらネタを作ってきただろうさ」 「違いない」 「わざわざ口実を作って宣戦布告に来るあたり、ベルナドの奴まだ古巣に遠慮があるらしいな」 「あるんだろうな、いろいろと」 ジークがやや視線を落とす。 だがそれも一瞬。 「面白いもんだ、人間の因果ってのは」 「しかし、なぜこの時期にあいつらは動きだした?」 「わからんよ、ベルナドの考えることなんぞ」 「それより一杯やろう」 「ああ」 入口が開き、リリウムの娼婦が入ってきた。 「いらっしゃい」 「こんにちは、メルト姐さん」 「あの子、薬物中毒の」 「ああ」 今回はかわいそうなことになった。 死んだ男はもう仕方ないが、女はしばらく悲しい想いと付き合わねばならない。 「聞いたわ……大変だったわね」 「はい、少し堪えました。まさか殺されるなんて……」 「ゆっくりしていって」 か細い笑顔を作り、娼婦はカウンターに歩いてくる。 「カイムさん、約束通りおごってもらいに来ました」 「ああ、気の済むまでやってくれ」 女が俺の隣に来る。 「大変だったな」 「はい、でも大丈夫です……」 娼婦が儚げな笑顔を浮かべる。 瞳の奥に、奇妙な揺らめきを見た。 「……仇は私が取りますから」 女の手に白刃が閃いた。 避ける余裕はない。 「っっ」 刃先は、俺の腹すれすれのところで停止していた。 娼婦の腕を、エリスが握って止めたのだ。 「馬鹿なことをして」 高い音を立てナイフが娼婦の手から落ちる。 ジークが、それを足で払った。 「う……ぐす……」 娼婦の目から涙がこぼれた。 エリスが手を離す。 「カイムさん……どうして……」 「どうしてあの人を殺したのっ!?」 「落ち着け、カイムは殺してない」 「嘘よっ」 「嘘じゃない、ベルナドが仕組んだことだ」 「俺が言うことが信じられないのか?」 「ベルナドもあんたも一緒じゃない。何で信じられるのよ」 「頭に何て口を聞くのっ!?」 「今日はいい、言わせておけ」 「何よ優しいふりなんてして、ふざけんじゃないわよっ!」 「落ち着きなさい」 「落ち着けるわけないでしょ!?」 「好きな人を殺されたのよ!?」 「あの人……私を迎えに来てくれるって……」 「私にもやっと幸運が巡ってきたってのに……それを、殺すなんて」 「気持ちはわかるけど……」 髪を振り乱し、娼婦がカウンターを叩いた。 「あんたに何がわかるのよ?」 「あんたは売れて売れて仕方なかった女でしょ?」 「おまけに先代に身請けされて、店までもらって」 「わかってんの!? あんたは牢獄で一番恵まれた娼婦なんだよ!?」 「気持ちはわかる? ふざけんじゃないわよ!」 「あたしらみたいな売れない女は、どうせ年季が明ける前に死ぬんだ」 「嘘だとわかってたって、男の言葉にゃすがっちまうんだよ!」 「そうじゃなきゃ……あんまり何もないじゃないか!?」 「あたしは、知らない男に抱かれるためだけに生まれてきたの?」 「夢の一つも見ちゃいけないの?」 「……」 激しく叩きつけられる言葉。 メルトが唇をかむ。 娼婦の言葉は間違っていない。 メルトは娼婦の頂点に立っていた女だ。 普通の娼婦とは見えていた世界が違う。 「メルトを責めるのはやめろ」 「返してよ……あの人を返してっ」 娼婦が胸ぐらをつかんできた。 もう刃物は持っていない。 思うままにさせよう。 「なんで殺すのよ……いい人だったのに……」 「一生懸命お金貯めて、遊びに来てくれてたのに……」 娼婦がうなだれた。 「噂で聞いたけど、あんた、昔は人殺しをやってたんでしょ」 「仕方のなかったことだ」 殺しの道に入っていなければ、今ごろ俺は男娼になるか死んでいた。 「何が仕方ない、さ」 「仕方ないで人が殺せるわけないじゃないっ」 「あんた、本当は人殺しが大好きなんでしょう?」 「仕方がないのはあんたの性根」 「人を殺すのが好きで好きで仕方ない、その性根だ!」 「っっ」 小さな音だったが、残響はなぜか長く感じられた。 娼婦は、我が頬を抑え、大きく見開かれた目でエリスを見ている。 殴ったのはエリスだった。 「じゃあ、娼婦のあんたは、男なしじゃ一日も生きられない女なの?」 「っ……!?」 「違うでしょ」 「う……うっ……」 嗚咽が漏れた。 エリスは娼婦の髪を撫でる。 そして、頭を抱きしめた。 「部屋まで送る」 「エリス先生……うっ……ぐすっ……」 エリスが娼婦を宥めながら店を出て行く。 ドアが閉まった。 周囲の客が心配そうにこちらを見ている。 「楽しい時間を邪魔してすまなかった」 「今日は奢らせてもらう、存分にやってくれ」 ジークの言葉を聞き、顔を見合わせながら、気まずそうに杯を掲げた。 「命拾いしたな」 「ああ」 エリスがいなければ危なかった。 「大丈夫?」 「怪我はしていない」 「その、身体の傷だけじゃなくて……」 気持ちの心配をしてくれているらしい。 「恨まれやすい仕事をしてきたんだ。いつも覚悟はしている」 人を殺して生活してきた人間が、普通の死に方を願うなど虫のいい話だ。 「しかし、エリスはよく娼婦を止められたな」 「あの子、いつもカイムのことばかり見てるから、さっきも咄嗟に動けたんだと思う」 「感謝してる」 命を助けられたこともそうだが、本当に感謝しているのは娼婦を殴ってくれたことだった。 あの程度の罵倒、何度もされてきたし慣れているはずだった。 だがやはり、心のどこかには鬱屈があったのかもしれない。 エリスがあの女を殴ってくれた瞬間、心が晴れていくのがわかった。 エリスは俺の気持ちがわかっていたのだ。 「……」 今まで自分はエリスをどこかで馬鹿にしていたのでは、という疑念と後悔が湧く。 エリスの気持ちを適当に流してきた自分。 時間が経てば諦めてくれるものと、たかをくくっていたのかもしれない。 「健気なものじゃない」 「あいつのこと、今朝、追い出したままなんだろう?」 「少し考えてやったらどうだ?」 「……」 「さっきの子も言ってたけど、娼館の女にとって身請けっていうのは、本当に奇蹟みたいなものだから」 メルトが、悲しげな顔で、しかし微笑みながら言った。 いつも明るく振る舞っている彼女が、こんな顔を見せるのは稀だ。 「エリスの場合、娼館にくる前も辛い生活をしてたみたいだしな」 「覚えてないか? あいつ、歩けない状態だっただろ?」 「覚えている」 娼館に来てすぐのエリスは、足の筋肉が衰え、ほとんど歩けない状態だった。 長い間行動を制限されていなければ、ああはならない。 「その上、娼館に売り飛ばされたんだ」 「お前をどれだけ大切に思ってるかなんぞ、考えなくても分かる」 虐待され、娼館に売られ、俺に身請けされた。 あいつがどれほど俺に執着しているか── それこそ、多少常軌を逸していたとしても全く不思議ではない。 できることなら、エリスを受け入れてやりたい。 だが…… ──『可愛い顔をして、やることは鬼畜じゃないか』 ──『俺なんか、まだまだだな』 ベルナドの言う通りだ。 俺は、真っ当な理由であいつを身請けしたわけじゃない。 「カイム?」 「いや……」 だからこそ、あいつには自由に生きて欲しい。 それだけだ。 「あいつのことは前向きに考える」 「そうしてあげて」 自然とため息が漏れた。 「ま、一杯やろう」 「今日は私もいただくわ。なんか疲れちゃった」 メルトが3つ杯を並べる。 火酒が注がれた。 鈍い陶杯の音。 喉に流し込んだ酒は、妙に苦く感じられた。 3人で何杯かの盃を重ねた。 ほどよく酔いが回ってくる。 「エリスのことはさておき、ベルナドはどうするんだ?」 「今日のことが広まれば、若いのも黙ってないだろう」 答える前に、ジークが煙草に火を点けた。 すかさずメルトが灰皿を出す。 「正面衝突は避けたい。数も勢いも向こうが上だ」 「上なのに、なぜベルナドは力押しで来ない?」 「あいつにとって不蝕金鎖はやはり古巣なんだ」 「先代や俺達を嫌っていても、正面切って楯突くには気後れがある」 「だから、せっせと挑発して、こっちから喧嘩を仕掛けさせたいのさ」 「自分が被害者になっておけば、勝った後の処理も楽だしな」 ジークが煙草の灰を落とす。 「こっちが手を出さなければ、しばらく時間は稼げるだろう」 「その間に、ベルナドやその周辺だけを潰す道を探りたい」 「今まで、何もしてこなかったのか?」 「まさか。それなりの準備はしてきた」 煙を吐く。 ジークは視線を上げ、立ち上って消えてゆく紫煙を見つめた。 「今ベルナドに従ってる奴らも、かつては仲間だった奴が多いんだ」 「仲間同士を争わせたくない」 「牢獄民は、どこまでいっても家族だしね」 ジークが頷く。 「牢獄民なんてのは、しょせん国から見放された人間の集まり」 「逃げ場所などないにもかかわらず、互いに傷つけ合うのは不毛すぎる」 「ベルナドは、その考え方が古いと考えてるんだろうな」 「先代のやってきたことは、全て否定したいだけさ」 「ま、男の劣等感ってのは面倒なもんさ」 「劣等感?」 「……ま、いろいろあってな」 ため息混じりに言って、ジークは煙草を灰皿に揉み潰した。 不蝕金鎖の副頭を務め、次期の頭と目されていたベルナド。 だが、後を継いだのは若いジークだった。 恨みは当然あるだろうが、ジークは先代の長男だ。 仕方のない部分もあるだろう。 「正面衝突は避けても、別のところではぶつかるんだろう?」 「何ができることがあれば言ってくれ」 「ああ、わかった」 そう言いながら、できれば巻きこみたくないという顔をしている。 俺は、不蝕金鎖の仕事は受けるが組織の一員ではない。 だからこその配慮だ。 「おい」 ジークの腹を軽く殴る。 「あん?」 「俺を面倒に巻きこみたくないと思ってるだろ」 「どうかな」 「お前だって、俺とエリスのことに、さんざんくちばしを突っ込んでるじゃないか」 「それと同じだ」 子供の頃は、二人揃って先代にしごかれてきた。 仕事を一緒にしたこともあるし、死にかけたこともある。 「考えとくよ」 ジークがニッと笑う。 「さて、俺は若い奴らの様子でも見てくるか」 「気の短いのが、そろそろ騒ぎ出すだろうしな」 「ああ、俺も少ししたら引き上げる」 「じゃあな」 余分に金を置き、ジークが出て行く。 その背中は、やはりベルナドより大きく見える。 だが、不蝕金鎖が劣勢であることは事実。 何か策はあるのだろうか。 家の前まで帰ってきた。 窓からは明かりが漏れている。 「……」 いや、漏れているのは明かりだけじゃない。 料理の臭いも漏れていた。 家のドアを開ける。 「カ、カイムさん」 「なぜここにいる?」 エリスはこちらを見ない。 鍋をじっと見つめている。 朝追い出したってのに、こりもせずに押しかけてきた。 相変わらずふざけた女だ。 「出て行けと言わなかったか?」 「一度、出て行った」 「もう来るなとは言わなかったし」 屁理屈をこねながらも、声には俺の機嫌を窺うような響きがあった。 エリスも、それなりの覚悟を持って押しかけてきているのかもしれない。 「……」 今日は、エリスのお陰で命拾いした。 こいつが傍にいなければ、今ごろは死んでいただろう。 そして何より…… 俺が、娼婦に殺しが好きな人間だと言われたときの不快感。 それをエリスは知っていた。 身請けをしてからの7年、こいつは確かに俺の傍にいたのだ。 俺も、もう少しエリスに付き合ってみるか。 ただ単に突き放すだけなら簡単だ。 だが、時間をかければこいつも俺の話を理解してくれるかもしれない。 その上で自由に生きてもらえれば、その後の生活もましなものになるはずだ。 「腹が減った」 「え……?」 「飯を作るなら早くしてくれ」 「カイムさん……」 「それって、エリスさんも家にいていいってことですか?」 「いちいち確認するな」 「照れてます? 照れてるんですね!」 なぜかティアが喜んでいる。 無視してワインのボトルと陶杯を探す。 視界の端で、エリスがかすかに笑った気がした。 同居人が増えた初めの朝。 「やっぱり、エリスは出て行け」 「なぜ?」 「昨日の夕食の時も考えたが、テーブルが狭い」 テーブルには三人分の朝食が並んでいる。 もともとは一人用のテーブルだ。 「さよならティア」 「出て行くのはエリスだ」 「どうして私が?」 「こっちの小動物が出て行けばいい」 「あ、あの、喧嘩はやめてください」 「わたしが出て行きますので」 食事を片付けはじめるティア。 「話をややこしくするな」 「で、でも……」 「せっかくご夫婦で住まれるのに、わたしがいてはいろいろとお邪魔かと」 「珍しくわかってるじゃない、あなたは邪魔ね」 「ですよね」 「ティア、お前はここまで言われて平気なのか?」 「あ、ぜんぜん平気です。打たれ強いですから」 本当に仕方がない奴らだ。 料理を持って窓際へ行く。 「カイムさん?」 「俺はこっちで食う」 「お前らの口げんかに付き合うのはご免だ」 「なんだかんだで、カイムは可愛い」 エリスを家に置いたことを若干後悔する。 昨夜は昨夜で、ベッドに忍び込んできやがった。 この先が思いやられる。 「どうでもいいから、お前ら、家では喧嘩するな」 「うるさくてかなわん」 「それは、小動物に言って」 「あ、あの、できればわたしは平和に生きていきたいのですが」 「私が悪いって言うの」 「あの……えーと……」 「はぁ……」 ぐったりだ。 「テーブルの話はそれとしても」 「やはり、わたしは出て行った方がいいのではないでしょうか?」 「その、なんて言うか、いろいろと難しいお話がありそうですし」 「わたしがいると余計なことをしてしまいそうで」 「よくわかってるじゃない」 ティアが、俺とエリスの顔を見比べる。 まあ、実際のところ、ティアに見せたくないことが起こる可能性は高い。 そもそも、エリスと同居ではティアの神経が保たないだろう。 「そうだな……しばらくメルトのところにでも行ってもらうか」 「2階の部屋なら貸してくれるだろう」 「はい、すみません身勝手で」 「お前が悪いわけじゃない」 「片がついたら、またこっちへ来い」 「はい、そうさせていただきます」 「……どう片がつくのか、よくわからないですけど」 「結婚式には呼ぶわ」 俺が目指す決着は、エリスが全てを納得した上でこの家から出て行くことだ。 結婚などあるはずがない。 「飯を食い終わったらヴィノレタに行こう」 「わかりました」 「エリスは家に残っていてよかったんだが」 「一応当事者だから」 嘘くさい責任感だ。 どうせ、俺とティアを二人にしたくなかっただけだ。 娼館街まで来たところで、小さな悲鳴が聞こえた。 「喧嘩か」 「昼間から元気ね」 「少し様子を見てくる」 が、 見に行くまでもなく、騒ぎの原因がこっちへ向かってきた。 オズを先頭に不蝕金鎖の若いのが5人。 体格がいいのばかりだ。 「オズ」 「カイムさんっ」 「何かあったのか?」 「市場のシマが荒らされてまして」 「〈風錆〉《ふうしょう》か?」 「恐らくは」 「昨日の今日とは、こらえ性のない奴らです」 「手伝おう」 「いいんですか?」 「ああ」 「二人はヴィノレタに行ってろ」 「あの、お部屋のことは」 「エリス、適当に話しておけ」 「はいはい」 「行きましょう、市場の方です」 広場に向かって走る。 「カイムさんって、割とお仕事好きですよね」 「男の子だから」 「走ってるものには飛びつく習性があるの」 「な、なるほど……犬みたいですね」 「じゃあ、カイムはオズについていったの?」 「喜び勇んでね」 カウンターには、ティアとエリスが、席をあいだ2つ空けて座っていた。 「あまり、危ないお仕事はしてほしくないんですが」 「何よ、恋人気取り?」 「いえ、い、一般論として」 「カイムはね、ジークや不蝕金鎖が困ってると放っておけないのよ」 「そうなんですか?」 「カイムさん、いつも素っ気ないですけど」 「表面上、そう見せてるだけ」 メルトが食器を洗っていた手を止める。 「カイムさんとジークさんは、どういうお知り合いなんですか?」 「幼なじみってわけでもないし、どうと言われると難しいわね」 「まあ、強いて言うなら怪我仲間?」 「怪我?」 「あの二人、昔から腕っ節が強かったから、よく荒事に狩り出されてたのよ」 「ジークさんもですか?」 「あ、先代がご健在だった頃の話ね」 「今のジークは頭だから、いちいち細かいことには関わらないけど」 「あ、なるほど」 「で、怪我して帰って来た二人を、いつも私がまとめて手当していたの」 「一緒に食事をした仲間っていうのも大事だけど、一緒に怪我した仲間はそれ以上らしいわよ」 「……男の人はよくわかりません」 「ま、かわいいものよ」 「……」 エリスが、白けた視線をメルトに向ける。 「何か仰りたいことでも?」 「さりげなく、二人との関係を自慢してる」 「ええ、もちろん」 「そう、ああそう」 「あら、妬いてるの?」 意地の悪い笑みで、エリスの攻撃を受け流す。 「別に」 「エリスさんとメルトさんの仲が悪いのって、焼き餅……」 「黙ってて」 エリスがぴしゃりと言う。 「私はエリスのこと大好きだけど?」 「最近は、治療も全部エリスに譲ってるし」 「こっちが本職なんだから、当たり前でしょ」 拗ねたような顔をするエリス。 「エリスは、この顔が可愛いわよね」 「絶対男受けもいいから、カイムにもっと見せた方がいいわよ」 「うるさい」 膨れた顔になる。 日頃は見られない、少女のような表情だ。 「た、確かに、なんというか、胸がきゅんとしますね」 「黙れ小動物」 「ああっ、そうやって怒るところがまた最高……」 メルトが眩暈の芝居をする。 「……」 エリスがそっぽを向いた。 やや紅潮した頬には、少女の面影がある。 日頃冷静なエリスからは想像できない表情だ。 「ごめんごめん、怒らないで」 「今日のお茶、おごりにしておくから」 「下らない」 むっとした顔で、エリスが茶を飲む。 機嫌が戻るまでは、しばらく時間がかかるだろう。 「ただいま戻りました」 「おう、お疲れさん」 部屋は煙草の煙で霞んでいた。 ことの成り行きを気にしていたのだろう。 「カイムもいたのか」 「途中で会った」 「そいつは手間かけた」 「いや……」 「奴ら、もう逃げた後でした」 「そうか」 ジークの重い頷きに沈黙が訪れた。 煙草の燃える、ちりちりという音が聞こえてくる。 「で、市場ですが……」 オズが状況を説明する。 市場の店はひどく破壊され、すぐに商売を再開できる状況ではなかった。 まあ、それは金で片がつく話だが、問題は野次馬の反応だ。 周囲からは、落胆のため息に混じっていろいろなことが漏れ聞こえた。 『ジークさんも落ち目か』 『そろそろ、考えなくちゃいけねえのかもしれねえな』 などと、不蝕金鎖に否定的な発言が多かった。 市場で店を開いている人間は、不蝕金鎖に上納金を納めている。 これは、いざというとき守ってもらうための金だ。 だが、不蝕金鎖が店を守ってくれないとなれば、上納金はより力の強い勢力に納められるようになる。 「ま、人の心が離れるのは、店を守れなかった俺たちの責任だ」 「批判は甘んじで受けるしかないだろう」 「か、頭っ」 腕っ節の強そうな部下が声を上げ、一歩前に進み出た。 太い眉が心の強さを伺わせる。 「サイ、お前は引っ込んでろ」 「誰もてめえの話なんて聞いてねえ」 「まあいい」 「言いたいことがあれば言ってみろ」 ジークが煙草を消す。 「俺、悔しくって仕方ねえ」 「さっさとベルナドの野郎を潰してやりましょう」 「俺達が本気を出せば、あんな奴ら一晩で泣きを入れてきますよ」 ジークが大きく頷く。 「お前たちの気持ちはわかる」 「だが、今はまだその時期じゃない」 「でも、街の奴らも不蝕金鎖を馬鹿にしてるんですよ」 「〈風錆〉《ふうしょう》にシマを盗られて何もしない腰抜けだってね」 「ジークさんになんて口ききやがるんだ、この野郎っ!」 「待て」 オズが振り上げた拳を下ろす。 「昔の仲間だった奴が、〈風錆〉《ふうしょう》には大勢いる」 「お前の弟分だって転がったはずだ」 「そんなに身内同士で殺し合いたいのか?」 「金に釣られて転ぶような奴は弟じゃありません」 「この手で殺してやりたいくらいです」 「俺たちがここまでになれたのも、ジークさんのお陰です」 「今死ななきゃ、いつ死んでいいかわかりません」 真摯な言葉を噛みしめるように、ジークは目をつぶった。 「気持ちは受け取っておく」 「ジークさんっ!?」 「だが待て。今はその時じゃない」 「その時が来たら、俺が必ず死に場所を与えてやる」 「……」 サイが唇を噛む。 「失礼しますっ」 勢いよく頭を下げると部屋から出て行った。 残った部下にオズが声をかける。 「不蝕金鎖は決して朽ちることもない鎖。死ぬ時も生きる時も一つだ」 「だから絶対に先走るな」 「その時が来るのを待つんだ」 「頼んだぞ、お前たち」 ジークの言葉に頷き、オズと部下たちが部屋を出て行く。 ドアが閉まった。 「芯のある奴らじゃないか」 「ああ」 ジークが背もたれに体重を預ける。 「先代の恩を忘れず良くやってくれている」 「根が正直な奴らだけに、一度熱くなるとなかなか冷めない」 「暴発しなけりゃいいんだが」 ジークの胸で、不蝕金鎖の紋章が光る。 現在の牢獄を作り上げたと言っても過言ではない組織、不蝕金鎖。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》という未曾有の災害の後、不蝕金鎖は復興に力を尽くしてきた。 死者の埋葬、怪我人の治療、炊き出し、倒壊した家屋の整理。 物流の復旧、治安の維持。 国がやらなればならない全てのことを、不蝕金鎖が担い、一定の秩序を作り上げたのだ。 組織の先頭に立ってきた先代、ボルツ・グラードは、牢獄民同士の争いを極度に嫌った。 井戸の底のような牢獄で、憎み合い殺し合うことは遠からず自滅を招く。 そう考えていたからだ。 「俺も、先代の恩は忘れていない。やれることは全てやろう」 「助かる」 ジークが煙草を差し出してきた。 今日くらいはもらってみるか。 煙草を受け取り火を点けた。 煙を吸いこむと、胸に重い刺激があり、やがて手足の先にじわりと痺れが拡がる。 「煙草を受け取ってくれたのは久しぶりか」 「ああ。身体に匂いをつけるのが嫌なんだ」 「女みたいなこと言いやがって」 「昔からの習慣だ」 「煙草の匂い撒き散らしながら殺しができるか?」 「あっという間に見つかるぞ」 「ああ、そうだな」 ジークが天井を見上げ、ぼんやりと煙を吐く。 「嫌なら答えなくていいが」 「お前、なんで殺しの仕事を始めたんだ?」 「知らなかったのか?」 「初めて会ったとき、お前はもう殺しの仕事をしてただろう」 「先代に見込まれてってのはいつか聞いたが、詳しいことは知らん」 「いや、まあ、そのままだ」 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》を生き延びた俺は、行く当てもなく、物乞いをしながら下層をさまよっていた。 そこで、飯をくれた男にまんまと騙され、牢獄の娼館に売り飛ばされた。 しかも、女みたいな顔が災いし男娼候補だ。 それから俺は、娼館から逃げ出すべくナイフの腕を磨いた。 男娼として売りに出る前日、俺は技術指導の男を傷つけ、逃走を試みる。 当然のことながら、数刻も経たずに捕まった。 激しい制裁の後、男娼に戻るはずだった俺を救ってくれたのが、不蝕金鎖の先代頭だ。 先代は、俺の腕と根性を評価し、暗殺者としての道を示してくれた。 迷いはあった。 しかし、夜毎知らない男に抱かれるよりは、やはり人を殺す方がましだと思ったのだ。 以来、俺は暗殺者としての訓練を受け、先代のために仕事をこなすことになる。 「かいつまんで言えば、こんなところだ」 「男娼ねえ」 「男好きする顔らしい」 「確かに」 力強く頷くジーク。 「お前もその気があったのか」 「どうかな」 「にやにやするな、気色悪い」 「ははは、すまん」 ジークが短くなった煙草を消した。 「しかし、それで先代に恩を感じるってのも変な話だ」 「大体、娼館を経営してるのは不蝕金鎖だ」 「結局、どう転んでも組織のために働くことになる」 「俺は身体を売りたくなかった。先代は男娼以外の道を示してくれた。それで十分だ」 「生き延びるためには、いろんなものを飲み込んだり、諦めたりしなきゃいけない」 「まあな」 ジークが新しい煙草に火を点ける。 俺は、ほとんど吸えずに灰だけが伸びた煙草を消した。 「ここでは、今自分に何ができるかが全てだろう」 「理想や不満をどれほど並べても、何も変えられない」 「そう……」 「お前の言う通りだな」 ジークが深く吸った煙を吐きだす。 紫煙は、行き先を探すように上空を漂い、やがてその姿を消した。 「カイム、これから時間はあるか」 「ヴィノレタに寄ってからでいいなら」 「問題ない」 「何の用だ?」 「仕事……いや、個人的な頼みだ」 ジークの声が低くなった。 「ベルナドの件で、進めている話があると言ったな」 「ああ」 「そいつに協力してもらいたい」 「具体的には?」 「簡単に言えば俺の用心棒だ」 「不蝕金鎖の若いのはどうした?」 「今進めてる話は、俺の他にはオズしか知らない」 「俺……お前……オズ」 指を一本ずつ立てながら、ジークが言う。 「できれば、この三人で話を済ませたいんだ」 「口外無用と」 ジークが頷く。 「なるほど」 「不蝕金鎖の命運をかけたヤマになる」 「ベルナドに漏れれば……」 「それまでだ」 ジークが煙草を潰した。 「断ってくれても構わない」 「お前を護ればいいのか?」 「ああ」 「頼んでおいて悪いが、これ以上は受けてもらわないと話せない」 面倒に巻きこまれそうな予感がする。 だが、他ならぬジークの護衛。 そして、不蝕金鎖の命運をかけた仕事だ。 「仕事と言われれば断ったかもしれない」 ジークが微笑を漏らした。 「助かる」 「じゃあ、ティアちゃんをしばらく預かればいいのね」 「すまないが、頼む」 「ティアちゃんくらい可愛い子なら、いつでも歓迎よ」 「さっそく2階を掃除しないとね」 「あ、わたしがやります」 「住まわせていただくのに、お掃除をお願いするわけにはいきませんので」 「いい心がけじゃないか」 「うちの女の子たちにも見習わせたいわ」 冗談交じりに言うと、給仕の女たちが、おどけてメルトを非難した。 「やっと、二人きりになれたね」 晴れ晴れとした笑顔。 今までのエリスにない、純粋な笑顔だった。 「今夜のご飯はどうする?」 「悪いが、これから用事がある」 「飯には戻れないから、先に寝てろ」 「何の用?」 「仕事だ」 「私も行く」 「阿呆か」 「ジーク、行くぞ」 「ああ」 「あ……」 不満げな視線を無視して、店を出る。 「エリスと二人で暮らすのか?」 「ああ」 「そろそろ清算したいんだ」 「頃合いかもしれんな」 「で、これからどこへ行く」 「下層だ」 「尾行に注意したい。安全な道のりを考えてくれないか」 「裏道経由か?」 「もちろん」 ジークを先導する。 尾行を確認するため、何度か同じ道を通ってから裏道に入る。 犯罪者の逃走や、関所を通せないものの輸送に使われる道だ。 ろくな手摺りもなく、道を踏み外せば確実に助からない。 実際、年に何人も転落者が出ている。 「最近は下層に縁があるらしい」 「羽狩りの女の家が下層だったか」 「揉めたらしいな」 「ああ。まあ、いろいろ考えた上でのことだ」 ああしなければ、フィオネは自分の道を定められなかっただろう。 我ながらお節介なものだ。 そもそも、人の人生にそこまで関わる権利など、俺にあるのだろうか。 「……」 エリスの顔が浮かんだ。 人生に関わったという話なら、エリスはフィオネ以上だ。 ほとんどねじ曲げたと言っていい。 下層に到着した。 「ここからは俺に任せてくれ」 今度はジークが先導してくれる。 大通りから外れ、細い路地を進んでいく。 まるで下層が住み慣れた街であるかのように、ジークの足取りには迷いがなかった。 いったい誰に会うのか? 恐らく、訊いても答えはないだろう。 ジークが足を止めたのは粗末な家の前だった。 「尾行はないか」 「ああ」 頷いたジークが扉に向かう。 コンッ、コ、コンッ 節をつけたノックだ。 なんらかの合図だろう。 「……」 しばらくすると、扉が薄く開いた。 顔を出したのは薄汚れた爺さんだ。 ほぼ完全といっていい無表情で、俺達を中へと誘う。 もちろん無言だ。 家の中を通り過ぎ、裏口から別の路地へ抜ける。 そして、数件離れた家の前で爺さんは足を止めた。 「行こう、カイム」 扉を開ける。 部屋には生活感がなかった。 中央のテーブルには燭台だけが置かれている。 席に着いているのは、白く清潔な服を纏った男。 傍らには女が一人立っている。 まさか、こいつらと会うことになるとは。 「遠いところすまない」 「いや」 「フィオネ副隊長の件では、本当に世話になった」 穏やかな表情で、ルキウス卿が俺を見ている。 だが、瞳の奥にはどこか挑むような熱さが感じられた。 「ジーク殿、お掛け下さい」 ジークが用意された椅子に掛け、俺はその傍らに立つ。 「今回から、護衛としてこのカイムにも来てもらうことにした」 「事前に連絡を受けておりました、問題ありません」 「紹介が遅れたな。こっちは副官を務めてもらっているシスティナだ」 「ああ」 少しもよろしくする気がない顔で、システィナが礼をした。 それを見たルキウス卿が小さく苦笑する。 「さて、カイム殿……」 「殿、付けで呼ばれるような人間じゃない」 「カイムで結構」 「言葉遣いには配慮がほしいところです」 システィナに〈睨〉《にら》まれる。 「生憎、こちらも牢獄暮らしが長くてな、貴族風の言葉遣いはできない」 「構わんよ」 静かに言って、ルキウス卿が俺に向く。 「では、親愛の情を込めて呼び捨てにさせてもらおう」 「……カイム」 「……」 何かが胸を通りすぎた。 だが、それも一瞬で消える。 「それでいい」 システィナが不機嫌そうにため息をつく。 「さて、カイム」 ルキウスが顔の前で手を組んだ。 美しく整えられた爪が目につく。 「私とジーク殿は特別被災地区での、新しい麻薬の問題、そして組織の抗争について、協力関係を結ぼうとしている」 「俺が話を聞いていいのか?」 「概要だけは聞いておいてくれ」 「わかった」 ルキウスが再び口を開く。 「知っての通り、ノーヴァス・アイテルは閉じた世界。どこにも逃げ場はない」 「麻薬の蔓延がいかに危険であるかは、想像に難くないと思う」 「どうして羽狩りの長が、麻薬に興味を持つんだ?」 「私が注目しているのは、誰が〈風錆〉《ふうしょう》に麻薬を供給しているか、という点だ」 「私は、〈風錆〉《ふうしょう》の背後に有力貴族がいるのでは、と考えている」 ルキウス卿は、ベルナドが仕切っている麻薬の入手先を明らかにしたい。 不蝕金鎖はベルナドを潰したい。 利害は一致しそうだ。 ルキウス卿にとって、不蝕金鎖は頼もしい存在になるだろう。 「不蝕金鎖がルキウス卿に協力する利点が見えないが」 「状況によっては、直接的な戦力として羽狩りを頼れる、というのが一点」 「もう一つは、ベルナドを排除した後の牢獄の話だ」 「ルキウス卿は、今後のノーヴァス・アイテルを支える政治家になられると確信している」 将来への投資か。 「私も、麻薬の件だけで不蝕金鎖と協力したいと考えているわけではない」 「と言うと?」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》から十数年が経つが、いまだ特別被災地区の環境は劣悪だ」 「これは、政治家の無為無策が原因だと思っている」 「今までの謝罪も含めて、私は、特別被災地区と下層の格差を縮めていきたい」 「そのためには、特別被災地区の仕組みに通じた不蝕金鎖の協力が必要不可欠だ」 顔の前で組まれた手の奥から、ルキウス卿の目がじっと俺を捕らえている。 言葉の奥には確かな信念があるように見えた。 「なるほど」 「カイム、君は〈大崩落〉《グラン・フォルテ》をどのように考えている?」 「どうもこうもない」 「先代の聖女様さえしっかりしていれば、何も起きなかったはずだ」 「……その通り」 ルキウスが目を伏せる。 「被害者には一切の責任がない、あまりにも理不尽な事故だった」 「だからこそ、国は全力を挙げて被害者を救済する必要がある」 「そうしてくれていれば、牢獄もひどい状況にはならなかっただろうな」 「すまない」 「……」 一般論をなぞっただけの、無意味といっていい会話だった。 謝罪などされても、嬉しくもなんともない。 何が知りたかったんだ、ルキウス卿は。 「ま、過去は過去。未来のことを考えよう」 「そうだな」 ルキウス卿がシスティナに目配せする。 「カイム殿、私たちは退出しましょう」 ジークとルキウス、二人だけの会談にしたいようだ。 俺が先に家を出る。 次いでシスティナが出てきた。 入口のドアの両脇に立つ。 「またお目にかかれて嬉しいです」 「なら、もう少し嬉しそうな顔したらどうだ」 「すみません、実際特に嬉しくはないので」 「奇遇だな、俺も同じだ」 フィオネはどうしているだろう。 こいつに聞けばわかりそうだ。 「彼女、頑張っていますよ」 「……そうか」 聞く前に言われた。 「今は、私の直属の部下として、他の隊員とは違った動きをしてもらっています」 「具体的には?」 「申し上げられません」 「そうだろうな」 「まあいい。生きてるのがわかれば」 「最近、特別被災地区の様子はどうですか?」 「最低なことに変わりはない」 「それは知っています。〈風錆〉《ふうしょう》の話です」 「やる気満々だな」 「不蝕金鎖に手を出させようと挑発している」 「とっくに知っていることだと思ったが」 「ええ、一通りはジーク殿から伺っています」 「何か、あなたならではの観点があると質問をした甲斐があります」 そんな問われ方をして、嬉々として答える馬鹿はいない。 面倒な女だ。 「力になれそうにない」 「残念です。達者なのは剣術だけでしたか」 「そう思ってくれて構わん」 「あんた、剣は使うのか?」 「嗜む程度です」 「ぜひ、手合わせを願いたいね」 「機会があれば」 素っ気なく話題を切られた。 話していて疲れる女だ。 「今回の新しいクスリは、上層や下層でも流通しているのか?」 「今のところ特別被災地区でしか流通が確認されていません」 「とすると、新しいクスリはベルナドの専売か」 「今のところは、そう考えて良いでしょう」 「ルキウス卿は、なぜ背後に貴族がいると考えたんだ?」 「貴族がクスリで稼ぐのは一般的なのか?」 「珍しいことではないようです」 「麻薬を常習している貴族も少なくありません」 「初めて聞いた」 「多くの貴族は時間と不安を持て余していますから」 「ルキウス卿はどうなんだ?」 〈睨〉《にら》まれることもなく、完全に無視された。 「国民をクスリ漬けにして、貴族が儲けるとは」 「貴族は人格で選ばれるわけではありません」 「貴族は世襲制です。世襲制は緩やかな衰退しか生みません」 「あんた、貴族にずいぶん批判的だな」 「当たり前のことを言ったまでです」 「ほう」 言い過ぎたと思ったのか、女は表情を引き締めた。 「つまらない話をしてしまいました」 「そうでもない」 システィナが口の端で笑い、それっきり黙った。 貴族批判を後悔しているのか。 表情から読み取ることができなかった。 しばらくして、ジークが出てきた。 「待たせたな」 「いや」 「こちらの方が、退屈させてくれなかったよ」 「それは光栄」 「仲良くしてくれないと困るぞ」 「もちろんわかってる」 「ではジーク殿、またいずれ」 「こちらこそ、よろしく頼む」 軽く礼をして、システィナは家の中に入った。 「俺達も帰ろう」 「ああ」 星明かりを頼りに、裏道を下りていく。 まるで、腐った井戸の底に下りていくような気分だ。 下層から来ると、牢獄の空気がいかに澱んでいるかがよくわかる。 一歩毎に、湿度と臭気が増していく。 しばらくして、井戸の底に到着した。 名状しがたい匂いが籠もっている。 「上から来ると匂いがひどいな」 「同じことを考えてた」 「だが、なんだかんだ言って落ち着く感じがしないか?」 「骨の髄まで牢獄民だな」 「はは、違いない」 「物心ついてからの半分以上は、牢獄で生きてるんだからな」 上の空気より、牢獄の空気が馴染むとは……。 長く牢獄にいたせいで、身体まで腐ってしまったのだろう。 来るときと同じく、尾行を警戒しながら娼館街に戻る。 「次の話し合いはいつだ」 「日取りが近づいたら知らせる」 「今日のことは、くれぐれも内密にな」 「わかった」 娼館街の派手な灯りが見えてきた。 酒と料理の匂いが混じった、むっとする匂いも漂ってくる。 「あれは……」 道の端にエリスがいた。 壁に立てかけられた板きれのように立ち尽くしている。 改めて見ると、その立ち姿は本当に美しい。 成熟した大人の体型ながら、どこか脆く頼りなさそうな雰囲気を漂わせている。 男が放っておかない種類の女だ。 「お前のことを待ってたんじゃないか」 「まさか、もう夜中だぞ」 「いやいや、エリスはああ見えて情が深いからな」 「情とかいう話じゃないだろ」 「邪魔者は消えるぜ」 にやりと笑って、ジークはさっさと道を逸れてしまった。 どこにいくつもりだ、あの男。 ……まあいい。 今の問題はエリスだ。 「エリス」 「……あ」 月を隠していた雲が一瞬で吹き消えるように、エリスの顔に安堵の色が浮かぶ。 「お帰りなさい」 「待っていたのか」 「うん、他にすることもないから」 そう言って笑う。 まるで少女のように〈溌剌〉《はつらつ》とした笑顔だ。 表情に乏しい印象が強かったエリスだが、こんな顔もできるらしい。 「本を読むなりなんなりあるだろ」 「なら、次はそうする」 そう言って、腕を組んできた。 一緒に暮らしてやるだけでこの変化だ。 「くっつくな、暑苦しい」 「いいでしょ、同居してるんだから」 俺が恥ずかしがっていると勘違いでもしたのか、エリスはより強く身体を寄せてくる。 腕に押し付けられる乳房の美しさ柔らかさは、そこらではまずお目にかかれないほどのものだ。 「ご機嫌だな」 「小動物もいなくなったしね」 「二人で暮らすのがそんなに嬉しいか」 「もちろん」 「あ、カイムはご飯食べた?」 「まだだ」 「もう遅い。ヴィノレタで適当に食って帰ろう」 「二人で食べよ? すぐに作るから、ね?」 どうやらやる気のようだ。 「……わかった。頼んだぞ」 「うん」 食事が終わり、エリスが出してくれた茶を飲んだ。 一日中歩き回った疲労が、どっと押し寄せてきた。 「さて、今日はもう寝るか」 「初夜なのに?」 「何の初夜だ?」 「二人暮らし再開の初夜」 「馬鹿らしい」 「身請けしてから何年も一緒に暮らしてただろ。今さら初夜もあるか」 「でも……せっかくだし」 エリスがしょぼくれた顔をする。 うっすら、目が潤んでいるようにも見えた。 エリスの奴、こんなに殊勝な性格だったか? 「だったら、カイムのためになること何かしたい」 「なら、足の指圧でもしてくれ。今日は一日歩き通しだったんだ」 「あ、うん」 エリスの表情が明るくなる。 「わかった。寝床にうつぶせになって」 「変なことするなよ」 「それ、女の台詞だから」 寝床に横になった。 「上に乗るね」 「その必要はあるのか?」 「医療上、絶対に必要」 「私が言うんだから間違いない」 エリスが腰の上に乗ってきた。 尻の感触もなかなかだ。 偶然を装って胸や尻を触らせられることはあったが、こんな接触は久しぶりだ。 「乗られるのは好き?」 「好きなわけあるか」 エリスの手が、太腿の裏から膝、ふくらはぎへと下りていく。 「けっこう歩いた足してる」 「こことか気持ちいいはず」 「ああ……いいな」 思わず、喉の奥から声が出てしまう。 「もっといい声で鳴いて」 「気分が台無しだ」 「強がっても、私の技術の前には無力だから」 指先、土踏まず、踵── 足の先から尻までを、エリスの手が動く。 指の感触は痛くもなく弱くもなく、俺の感覚を知り尽くしているかのようだ。 これは気持ちがいい。 エリスの性格がいかに残念だったとしても、技術は認めざるを得ない。 「一つ聞きたいことがあるんだが、いいか」 「どうぞ」 「お前、俺の傍にいて何をしたいんだ?」 「身請けしてから今日まで、俺と暮らすことにこだわってきただろう?」 エリスの手が止まる。 「考えたことない」 「嘘をつけ」 「怒られても困る。本当に考えたことないし」 「なら、いま考えろ」 「ん……」 エリスの小さな唸り声が聞こえた。 まるで難解な謎を掛けられたかのようだ。 何をそんなに考えることがあるのだろうか。 「……わからない」 「……」 「上手く説明できない」 「なんていうか、カイムが『わーっ』てなること全部したい」 エリスにしては珍しく幼稚な言葉遣いだった。 「意味不明だ」 「言葉にするのが面倒なの」 本当に面倒臭そうに言った。 「とにかく傍に置いてくれればいい」 「今さらカイムと引き離されると、自分もどうなるかわからない」 身を〈捩〉《よじ》り、エリスの下から抜け出す。 「それは脅しか何かか?」 「どうかな」 エリスが薄く笑う。 「でも、また引き離されたら……」 エリスが天井を見上げた。 表情が消え、その成熟した身体を震えが走った。 エリスが何を想像したのか、俺にはわからない。 「暗いところは、もう嫌」 「ねえ、そうでしょう? 暗いと怖いもの」 言っていることが、よくわからない。 エリスと目が合う。 口元は笑っていたが、やはり瞳は古井戸だった。 闇の奥で複雑に感情が揺らめいている。 言い知れぬ恐怖が湧いてくる。 「こういうの、好きっていうの? 恋愛感情?」 「お前がそう思うならそうなんだろう」 「なら、恋愛感情ってことにする」 「こんなに嬉しくない恋愛感情も初めてだ」 エリスとの恋愛なんて、想像したこともない。 当たり前のことだ。 こいつにどれだけ好かれようとも、俺にはエリスを受け入れられない理由がある。 「じゃあ、私はカイムが好きなんだね」 エリスが身を寄せてきた。 俺の肩に手を当てる。 「どうした?」 「カイム……」 「くっ!?」 エリスが体重を掛けてきた。 押し倒すつもりだ。 だが、所詮は女の力、抵抗するのはたやすい。 「やめろ」 「いいじゃない」 「私、カイムのこと好きだよ」 「ついさっき言い始めたことだろ」 「言葉はそう」 「でも、気持ちは昔から変わらない」 「……私は、カイムから物みたいに扱われたいの」 エリスの白い肌がしっとりと汗ばんできた。 「お前をそんな風に扱うつもりはない」 「滅茶苦茶にしてくれていいから」 俺にのし掛からんばかりに力を込めてくる。 「やめろ」 「一緒に住んでるのに、なに言ってるの」 エリスが挑発的に微笑む。 「同居を始めたのは、お前の期待に応えるためじゃない」 「互いに話をして、俺の言っていることをわかってもらうためだ」 「何……それ」 エリスの力が緩む。 視線が鋭くなった。 「何度も言っただろう?」 「お前には、俺から離れて自由に生きてほしいんだ」 「ゆっくり話をして、それをわかってもらおうと思った」 「今まで、頭ごなしに言ってくるばかりだったからな」 「何、それ……何なの……」 エリスが緩慢に俺から離れる。 薄く開いた口が、わなないている。 「つまり何? 要は後腐れなく出て行ってほしいだけ?」 「そのために、私をここに?」 肯く。 何と思われようが、それは事実だ。 「だが、落ち着いて話ができれば、新しい道が見つかるかもしれない」 「そうやって、ありもしない期待持たせて」 「何なの? 私に恨みでもあるの?」 「どうして、わざわざ持ち上げてから落とすようなことするの!?」 「そんなつもりはない」 「つもりがなくてもやってるじゃない!」 エリスが声を張り上げる。 そして、花が萎れるようにベッドへ伏した。 「私……嬉しかったのに……」 「また一緒に住めることになって……すごく、すごく嬉しかったのに……」 「ようやく……あの頃に戻れるって……」 呻くような声が聞こえる。 「カイム……私を捨てないで……」 「私を置き去りにしないで……」 「捨てるんじゃない」 「ただ、お互い一人の人間として生きるだけだ」 うつ伏せになったエリスの背中が小刻みに動く。 「ふふふ……ふふふふ……」 「そう……そうね」 「カイムは自由が大好き」 ゆっくりと、エリスが身体を起こす。 冷たい雨に叩かれたかのように、その顔は蒼白だった。 日頃から体温の低そうな女だが、こんな表情は初めてだ。 「何でもするよ……絶対に刃向かわない……」 「だから、私を捨てないで……ね?」 目の焦点は結ばれていない。 俺への懇願というよりは、むしろ独り言に近かった。 顔にも表情はなく、口だけが意思を持っているかに動いている。 背筋を冷たいものが走る。 細かいことはわからないが、俺は何か道を誤った。 エリスの中の何かを、おかしくしてしまった。 それだけは伝わってくる表情だ。 「……エリス?」 「私、頑張るから」 「何でもするから……」 エリスは俺の顔を見ない。 「おい」 慄然とし、エリスの肩に触れる。 ひどく鈍い動きで俺に顔を向けた。 「大丈夫だよ……カイム」 「大丈夫……」 頬の筋肉が軋みながら動き、笑顔が作られる。 決して安心などできる顔じゃなかったが、かといってすべきことが浮かばない。 「わかった。今日は休もう」 「……うん」 エリスが布団に潜り込む。 俺もベッドに乗った。 「変なこと考えずに寝るんだぞ」 「わかった」 早々に明かりを落としたのは、エリスを見たくなかったからかもしれない。 明日からどうなっていくのだろう? まったく予想がつかない。 結局、話し合いとも呼べない話し合いを繰り返し、何も解決できぬまま腐っていくのではないか。 俺はどうしたらいいんだ。 「あの頃に……戻りたい……」 隣のベッドから呟きが聞こえた。 人の動く気配を感じ、薄く目を開く。 エリスか。 ベッドから降りたエリスが、身支度を調え始める。 持ち込んだ荷物から化粧道具を取り出す。 寝乱れた髪を櫛で直し、化粧を薄くはたく。 窓から差し込む陽の光がエリスを輝かせている。 俺の頭が寝ぼけているのか、どことなく彼女に女らしさを感じた。 「よし……」 小さく頷き、調理場へ向かう。 程なくして、香ばしい匂いが漂ってきた。 どうやら、エリスは落ち着いているようだ。 昨日あんなことがあっただけに心配だったが、どうやら杞憂だったか。 「早いじゃないか」 「あ……」 俺を見たエリスが表情を曇らせる。 「どうした? 毒でも入れようとしてたのか?」 「違う」 「目が覚めたらご飯ができてるっていうのが理想だった」 「なんだその計画は」 身体を拭きに外に出る。 「嬉しくないのか……おかしい」 背後でエリスが呟いた。 恋愛指南書からの知識か。 食事が終わる。 エリスは、休むこともなく、掃除、洗濯と家事をこなしていく。 以前から任せていた仕事だけに、慣れたものだ。 「掃除、終わった」 「早いな」 「ふふ」 くすぐったそうに笑う。 「次、何する?」 「もう仕事はない」 「え?」 「お前の仕事が早いんだ。素晴らしいことだぞ」 「俺はリリウムに行く。戸締まりは任せたぞ」 エリスが、ぼんやりした顔で俺を見る。 「これから、何したらいいの?」 「お前の時間だ、好きに過ごせよ」 「じゃあ、指圧」 「出かけると言ってるだろ」 「なら、どうしたらいいの?」 「俺が知るか」 「困るよ」 困られても、こっちが困る。 「夕方になったら、適当に買物でも行け」 「わかった。何買ってくる?」 「鶏肉でいい、鶏肉」 咄嗟に頭に浮かんだ食材の名を口にする。 付き合いきれない。 さっさと家を出ることにしよう。 「俺はリリウムに行ってくる」 「じゃあな」 「あ……」 さっさと部屋を出る。 大丈夫かエリスは。 昨夜のことが尾を引いているのか? 脳裏に、エリスの人形のような笑顔が浮かんだ。 ……まさかな。 「あー、カイムだカイム」 「あら、いらっしゃいまし」 「出た」 リリウムの三人が、ロビーでカードゲームに興じていた。 昼の早い時間は気楽なものだ。 「オズかジークはいるか?」 「ジーク様は上にいらっしゃいますよ」 「オズは出かけてる」 「そうか」 「あー、ちょっと」 「あ?」 「ジークさん、ちょっと機嫌悪いかも」 「オズさんもピリピリしてたし」 「わかった」 「そういえば、例の女の調子はどうだ?」 「ああ、クスリやってた子?」 「死んだ」 「昨日、首を括りました。可哀想に」 「そうか」 「遺体は?」 「いつも通りでございますよ」 いつも通り、か。 身内はおらず、遺体は空葬。 今ごろは、下界で混沌に飲まれていることだろう。 大抵の死んだ娼婦が辿る道だ。 「まっ、しゃーないやね、しゃーない」 妙に明るい声でリサは言った。 本当に…… 仕方がないのだ。 仕方がなさ過ぎてどうしようもないから、明るく話すしかない。 「ああ、そういえば、エリスなんだが」 「ほいほい?」 「今はうちで暮らしている」 「病人が出たら、俺の家に呼びに行ってくれ」 「あら、とうとうお覚悟を固めなさいましたか?」 「変態」 「なんでなんで?」 「大人の事情だ」 「超変態」 「そういうことでいい」 「とにかく、病人が出たらうちに来い」 「はい、かしこまりましたよ」 言い置いて、ジークの部屋に向かう。 ノックをする。 「カイムだ。入っていいか?」 「構わん」 不機嫌な声。 リサの見立ては当たっていたようだ。 「よう」 「……おう」 部屋は見事に煙っていた。 「少しは換気しろ。燻製になるぞ」 入口のドアは閉め、外に面した窓を開ける。 ジークは、机の上の地図を〈睨〉《にら》んでいた。 「何かあったか?」 「予想の範囲内で、悪いことが多少な」 地図を覗き見ると、×印がいくつかついていた。 「昨日の夜から、〈風錆〉《ふうしょう》の挑発と見られる事件がいくつか起きている」 「印がついてるところか」 「ああ。〈風錆〉《ふうしょう》と縄張りが接しているところは特に被害が多い」 「俺も手伝おうか?」 「気持ちはありがたいが、本当に危なくなるまではオズや若いのに任せたい」 「昨日もオズを手伝ってるんだが」 「昨日は例外だ」 「ま、時間があるなら、お前はここで話し相手にでもなってくれ」 「面白い話は知らないが」 「心配するな、最初から期待してない」 椅子に深く腰を下ろした。 俺の受ける仕事は、ほぼ全てジーク絡みだ。 ここにいるのは一向に構わない。 退屈しそうだが…… 予想に反して、退屈はなかった。 次々に、ジークの部下が悪い報告を持ってくるからだ。 「止まらないな」 地図の×印は増えていく。 「縄張りが荒らされるだけで済んでる分には、まだいい」 「内側の問題か」 ジークは無言で煙草に火を点けた。 部下たちの我慢にも限界がある。 このまま〈風錆〉《ふうしょう》の圧力が続けば、いろいろな問題が出てくるだろう。 ジークに策はあるのだろうか。 また扉が叩かれる。 「入れ」 「どうも」 オズを先頭に4人の男が入ってきた。 皆一様に汗と埃にまみれていた。 「ご苦労」 ジークは、各人の前にグラスを置き、それぞれ白ワインを注いだ。 「んっ、くっ」 「ああ……生き返ります」 「どうだ?」 「嫌がらせの一つ一つは小さなもんです」 「ですが、朝から晩までこうですから、こっちが持つかどうか」 男たちも頷いた。 「あと、ジークさん……」 「減ったな」 「はい。シグがベルナドに転びました」 「シグか」 「下に着いてた奴らもまとめて、総勢20人は下らないかと」 寝返りが出たらしい。 「あの野郎、どんだけジークさんに恩を受けたと思っていやがるんだ!」 「やめろ」 誰もが口をつぐんだ。 沈黙の中、吸いさしから立ち上る煙だけが動いている。 ふと、煙が乱れた。 動いたのはオズだ。 「ジークさん、先行きはいかがなんですか?」 「こちらから手を出さなければ、やりようはある」 「やりようってのは何ですか!?」 「今は言えない」 「ジークさん……」 「俺たちも部下から、顔を合わせる度に言われるんです」 「ジークさんは本当に戦う気があるのかって」 「何言いやがるんだ馬鹿野郎!」 「オズさんっ」 サイがオズを〈睨〉《にら》んだ。 「俺だって、言ってやりたいんですよ」 「テメエ、なめてんのかってね」 「でも、言えねえじゃないですか」 「……」 「なら、自分の頭でベルナドを倒す方法を考えたらどうだ?」 「いい案があるなら、それに乗ろうじゃないか」 「カイムさん、悪いが外の人間は黙ってて下せえ」 「いや、言わせてもらう」 「お前は、文句を言ってるだけだ。何一つ価値のあることは言ってない……」 「やめろ」 ジークが俺を制する。 「すまない、お前達」 ジークが重い声で言った。 「もう少しだけ我慢してくれ」 「……」 「……」 ジークが、全員の顔を順に見ていく。 「お前ら、返事はどうした?」 「へい、ジークさんについていきます」 それぞれが、決意を口にして頭を下げた。 とはいえ、彼らはどこまで耐えられるだろうか。 彼らも彼らの部下の命を預かる身だ。 いざとなれば、しかるべく動くだろう。 オズたちが出て行った。 灰皿の吸いさしは、とっくに灰になっている。 ジークは新しい煙草に火を点け、大きく一服した。 仲間の裏切りは予測されていたことだが、いざ目の当たりにすると、堪えるものがある。 ジークの力になりたいが、ここにいても話し相手が精々だ。 俺は、俺にできることをしよう。 「出てくる」 ドアノブに手をかける。 「どこへ行く?」 「一杯やりにいくだけだ」 「変な気は起こすなよ」 「変ってのは?」 「……わからんならいい」 見透かされたのだろう。 まあいい。 どちらにせよ、行動は変わらない。 ジークは〈風錆〉《ふうしょう》との正面衝突を避けたがっている。 その点で、ベルナドの暗殺はまず探ってみるべき選択肢だろう。 となれば俺の出番だ。 準備のため、家に戻ることにする。 「……」 エリスはベッドの上に座っていた。 脚の間には不思議な人形。 どこを見るともなく、じっと空中を見つめている。 部屋の空気は重く停滞し、まるで液体のよう。 人が動いて攪拌した気配がない。 エリスはいつからこうしているのか。 「換気くらいしろ」 窓を開けて空気を入れ換える。 ジークの部屋といい、ここといい、俺が入る部屋はどこも換気が必要なのか? 「カイム?」 「そうだ」 「ぼんやりしてると、脳味噌が腐るぞ」 「どうした、調子でも悪いのか?」 「平気」 「買物は行ったのか?」 「まだ。夕方になったら行く」 「暇ならさっさと行けばいい」 「夕方になったら行けって言われたから」 「そんなこと言ったか」 いちいち覚えちゃいない。 「まあいい。あんまりぼさっとしてるな」 「うん」 こいつ、本当に大丈夫だろうか。 めぼしい反応を見せないエリスをよそに、俺は鏡の前に座る。 変装をするのだ。 今の情勢下で、素顔をさらしたまま〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りには入りたくない。 「どこに行くの?」 「ベルナドの縄張りだ」 「私も行っていい?」 「その質問をするお前が信じられん」 無視して変装を続ける。 「今まで何してた」 「何も」 「ベッドに座ってお人形とイチャついてたってわけか」 頷く気配。 何もせずに家の中でぼんやり人形を抱いているだけ。 「まったく、まるで昔のお前……」 口に出して、ぎょっとする。 そうだ。 こいつはまるで── 身請けして間もない頃のエリスだ。 生活力は皆無。 言わねば何もせず、俺の後ろをついてまわるだけ。 「あの頃に……戻りたい……」 慄然としてエリスを見る。 脚の間にいた人形と目が合う。 エリスが昔から持っていた人形だ。 一瞬、その顔が笑ったかのように錯覚した。 「ん?」 「い、いや」 顔を逸らす。 悪い冗談だ。 身請けして以来、何年もかけてエリスを人並みにしたのだ。 今さら、振り出しに戻られては困る。 誰か来た。 「誰だ?」 「わたし」 「アイリスか。入っていいぞ」 アイリスが入ってきた。 「誰?」 「何言って……」 変装していたのだった。 「カイムだ。仕事でな」 「あっそ」 「で、何の用だ」 「エリスに用」 「リサが客に殴られた」 「またか」 「エリス、仕事だぞ」 「ん……」 だるそうに反応するエリス。 「エリス、リサが怪我」 「……怪我」 おうむ返しに言う。 言葉の意味を確かめるように、何度か瞬きをした。 「すぐ行く」 エリスがベッドから下りる。 「怪我の程度は?」 「大したことない」 「顔?」 「うん」 「ひどい客」 「……」 なんだ? 急に、いつものエリスに戻った気がする。 「行ってくる」 「あ、ああ……」 「俺は遅くなると思う、適当にやっててくれ」 「わかった」 二人が出て行った。 「……」 気色悪いものを見せられた。 昔の姿を彷彿とさせるエリス。 それが、アイリスが怪我の話をしてからは、通常のエリスに一転した。 エリスの演技なのか? 演技でないならヤバい何かだ。 「ふう……」 喉が渇いた。 調理場の水甕から水を飲む。 揺れる水面に、見慣れない自分の顔が映った。 エリスの変貌を見せられた後だけに、自分の変装が陳腐に思える。 変装など、文字通り装いを変えるだけだ。 張り合う方が間違っている。 そう思い直し、変装の仕上げにかかった。 ベッドに座っていたリサが顔を上げた。 頬を手で隠しているが、唇の端に痣が見える。 眼窩の周囲にも打撲痕が見られた。 「あ、エリス、来てくれたんだ」 「やられたって?」 「あーうん。変なお客でね」 「何が気に入らないか知らないけど、いきなり殴ってきたの」 「最近多いね」 「なんだかねー、困っちゃう」 地震が増えてきているせいだろう。 牢獄民は、地震によって心理的影響を受けやすい。 最近の牢獄は、どことなく落ち着かない雰囲気が漂っている。 新しい麻薬の流行。 娼婦への暴力の増加。 ヴィノレタでは泥酔客が増えた。 この辺りは、どこか根っこのところで繋がっているのだろう。 要は、みんな不安を抱えていて、そのはけ口を求めているのだ。 「治療する。手どけて」 「あ、うん」 傷口を消毒。 薬草を練り上げた膏薬を塗布。 上から紙で押さえ、包帯を巻く。 単純で簡単な作業。 単純、 簡単、 全てがこうあればいい。 複雑なことは嫌い。 迷いたくないし、考えたくもない。 「昨日から、カイムのところに住んでるんでしょ?」 「ええ……」 なのに、カイムとのことは単純でも簡単でもない。 彼は、どうして私のことを追い出そうとするのだろう。 私はただ、カイムの傍にいて、彼の言葉で生きていたいだけなのに。 「どう、楽しい?」 「そこそこ」 「あれ? あんま構ってもらえてないの?」 カイムは私の光だった。 私には彼しかいなかった。 なのになぜ、私を闇の中に置き去りにするのか。 「ひどいなぁカイムは。なんで身請けした子をほっぽり出すかなぁ」 「……」 ひどい。 そう、カイムはひどい。無責任だ。 イライラする。 「エリス?」 「……」 許せない。 「ちょっとー、だいじょぶー?」 私をこんな気持ちにさせて。 「おーい、聞こえてるー?」 「あ……」 何を考えていた? 思い出せない。 完全に思考が飛んでいた。 昨日の夜あたりからこうだ。 カイムのことを考えていると、いつの間にか時間が経っている。 「おーい、おーい」 リサが目の前でひらひら手を振っている。 「リサ?」 「リサでーす、よろしくお願いしまーすっ」 「って、接客かよ!」 裏拳を入れられた。 「……」 「いや、何か言ってもらわないと悲しくなりますからさぁ」 「大丈夫? なんかへらへらしてたけど」 「あ、うん」 「治療するから」 「いや、もう終わったって」 完全にあきれ顔のリサ。 部屋の外から、張り詰めた音が聞こえた。 「この音……?」 「やな音」 リサが、心底気持ち悪そうに顔をしかめる。 「お仕置きされてるの」 「出入りの服屋さんがいるんだけど、そいつとデキちゃったみたいで」 「仕事中だってのに、裏の物置でしっぽり決めててさ」 「そう」 胸の奥に沁みるような音。 「……懐かしい」 「ああ、昔はエリスもここにいたんだっけ」 「いいよね、思い出になってる人は」 「あたしなんか、ちょっと前に叩かれたばっかだから、音だけで鳥肌立つ」 体温が上がる。 「どうして叩かれたの」 「ちょっと失敗しちゃってさー」 「いいお客に、こっそりお酒出してたのがバレちゃったの」 「そう」 「次はもっと上手くやるわ!」 身体が勝手に震える音。 お腹の奥深くにしまわれていた感覚が、茶葉が湯中で開くように形を取り戻していく。 「失敗、か」 「……うん」 「そう……」 失敗すれば構ってもらえる。 そう……そうだ。 「ねえ、大丈夫?」 「今日のエリス、おかしいよ?」 〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りをざっと調査し、不蝕金鎖の縄張り近くまで戻ってきた。 ベルナドは暗殺をかなり警戒しているようだ。 本拠地の警備は厳重だし、噂によれば影武者もいるらしい。 暗殺を成功させようと思えば、準備にかなりの時間をかける必要があるだろう。 しかし、不蝕金鎖は日に日に勢力を削られている状況だ。 暗殺の成功まで保つとは限らない。 ……思えば、なぜジークはベルナドを野放しにしてきたのか。 勢力を拡大される前に手を打つべきだったはずだ。 今さらの話だが、聞いてみたいところではある。 ジークのことだ、理由もなく野放しにするはずはない。 「……」 足を止めた。 路地の片隅にエリスの姿があった。 「エリスっ」 「あ……」 エリスが俯いていた顔を上げる。 そして、パタパタと此方へ駆けてきた。 まるで主人を待っていた犬っころだ。 「おかえり……」 腕を掴む。 「お前、何やってんだ」 「待ってた」 「阿呆か、ここは〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りだぞ」 「一人でブラつくなんてのは、死にたい奴がすることだ」 殴り倒したい気分だ。 「うん、ごめん」 「ヘラヘラするな」 「とにかく帰るぞ」 腕を引っ張り歩きだす。 抵抗はなく、エリスは手を引かれるがまま。 靴裏を引き摺るような足音を立てながら、ついてくる。 「お前、どうかしてるぞ」 肩越しに声を投げる。 返事がない。 「エリス、聞こえてるのか?」 「エリスっ」 振り返ると、エリスはじっと俺を見ていた。 その口元に微かな笑みが浮かぶ。 どこか喜んでいるような笑顔だ。 「聞こえてる」 「これから、気をつけるから」 家に入り、エリスをベッドに座らせた。 間の抜けた顔で俺を眺めている。 「お前、最近おかしいぞ」 「おかしくない」 「じゃあ何か?」 「お前は昔から、夜な夜な街を徘徊して男に襲われる趣味があって、俺はそれに気づいてなかっただけだってのか?」 「ふふふ……」 「ふざけてるのか」 言い捨て、水甕に向かう。 温い水を一気に飲んだ。 と、異様なものが視界に入った。 鶏だ。 調理場の隅に、鶏が山のように置かれている。 「これ、どうした?」 「カイムに頼まれたから買ってきた」 「数の話をしてるんだ」 「10羽買ったら、1羽おまけしてくれた」 ベッドに歩み寄る。 「お前、肉屋でも始めることにしたのか?」 「それとも、店の親父に弱みでも握られてたのか?」 「鶏肉、好きなんじゃないの?」 「好きだが、人に自慢する程じゃない」 「あはは……失敗、失敗」 緩んだ表情で言うエリス。 自分の瞼が痙攣しているのがわかる。 何だこれは? 俺の知ってるエリスは、かなりマシな頭を持っていたはずだ。 「お前、わざとやっているのか!?」 「……わからない」 「今はおかしいと思うけど、買ったときはおかしいと思わなかった」 男を逃がした娼婦みたいなことを言っている。 「頼む……少し考えて行動してくれ」 「こんな意味のわからないことをする奴じゃなかっただろ?」 「カイムのせいかも」 「なに?」 「身請けした女を放り出すとか、羽つきを囲ったりとか、意味がわからないことをするから」 「きっと、それが伝染ったんだと思う」 「《羽化病》と一緒で、意味がわからないのも伝染するの」 そう言って、エリスはベッドにいた人形を掴み、その頭を撫でる。 「ね、そうだよね?」 人形の頭を、こくこくと頷かせる。 「そんなに、お前が納得する身請けの理由がないのが気に入らないのか?」 「……」 エリスの視線が宙を漂う。 「……もう、どうでもいい」 「なんで身請けしたかなんて、どうでも」 「カイムが、ただ私の主でいてくれれば、それで十分」 なぜ俺が主にならねばならない? 俺は、エリスに自由になって欲しいのだ。 まるっきり逆じゃないか。 「話にならん」 椅子に座ると、疲労感に襲われた。 「鶏、食べられる分は料理してくれ」 「食べきれない分は、ヴィノレタに持っていく」 「わかった」 エリスがのろのろと働きだす。 思わず、ため息が漏れた。 上手くいかない。 同居すればなんとかなると考えていた俺が楽観的すぎたのか? やはり、全てを打ち明けなければ、決着は着けられないのだろうか。 この日。 エリスは、わざとらしく刃物で指を切り、 味のない鶏の丸焼きを、料理として供した。 カイムが毛布にくるまっている。 彼は熟睡するということがない。 定期的に薄く目を開け、部屋を見回してはまた目を閉じる。 人殺しの仕事をしていたときの習慣が抜けないのだ。 私は、眠気が訪れるのを待ちながら彼を観察をする。 こうすると、すごくよく眠れるのだ。 今夜は、何回目を開けるだろうか。 ああ…… それにしても、今日は楽しかった。 カイムが、たくさん『わーっ』て言ってくれた。 仕事に口を挟んだり、 鶏をたくさん買ってきたり、 手を切ったり、 そんなことで、カイムは私に構ってくれる。 リリウムで気づいたことは、間違いじゃなかった。 「ふふ……」 思わず笑ってしまった。 声が聞こえたのか、カイムが薄目を開ける。 明日も構ってくれたらいいな。 それだけで、私は安心するんだ。 浅い眠りを破ったのは、澄んだ破砕音だった。 「っ!?」 反射的にベッドから下り、壁を背にする。 すでに武器は抜いている。 エリス。 エリスはどうした? 「ごめんなさい」 部屋の隅に、エリスは立ち尽くしていた。 足元には、陶器の破片が散乱している。 「お皿、割った」 「ふう……」 力が抜けた。 「怪我はないか?」 「うん、平気」 「それより、ごめんなさい」 「まったくだ」 「ごめんなさい、ごめんなさい」 謝るエリスだが、どこか気が抜けている。 反省しているのかしていないのか。 「昨日から何やってるんだ」 「手は切る、料理の味付けを忘れる、皿を割る」 「身体の調子でも悪いのか?」 「わからない」 「気づいたら、そうなってた」 「意味がわからん」 「ごめんなさい」 なぜかエリスは笑った。 どう考えても笑うところではない。 にもかかわらず、呆けたような、〈蕩〉《とろ》けたような笑みを浮かべている。 「俺を困らせて楽しいのか?」 「そんなことない」 「なら、なぜ笑う?」 「え……笑ってる?」 そういう顔が笑っている。 「笑ってる」 「……?」 微笑んだまま、エリスの動きが止まる。 「おい」 「……」 「エリス」 「……」 「エリスっ!」 「っっ!?」 エリスが、弾かれたように目を見開く。 ぱちくりと目を瞬いた。 「……ええと」 「ごめんなさい、少し呆けてた」 「しっかりしてくれ、馬鹿らしい」 怒る気も削がれる。 「もういい。片付けを頼む」 「うん」 エリスが、箒を手に取り片付けを始めた。 陶器の破片が立てる澄んだ音が、耳に刺さって聞こえる。 一体、エリスはどうしてしまったんだ。 身請け直後のエリスに戻っていると思っていたら、今度はわけのわからない失敗をし始めた。 しかも、本人も自分の行為をよくわかっていないらしい。 日に日におかしくなっていく気がする。 俺は、こんなエリスを見るために身請けし、医学を身につけさせたわけではないのだ。 こんなことなら、少し前までのように、冷静な言葉でちくちくと責められていた方が何倍もマシだ。 見ていて、いたたまれない。 「ヴィノレタに鶏を持っていく」 「今なら、仕込みの時間だろう」 「あ、うん」 「たくさん買ってごめん」 「次から気をつけてくれ」 エリスから逃げるように、早足に家を出た。 「あら、カイム」 「どうしたの、その鶏?」 「とある事情で手に入ったんだがな……」 「うちでは食いきれないし、店で使ってくれないか?」 「別に構わないけど」 怪訝な表情で、メルトが厨房に呼びかける。 「はーい、お呼びですか?」 前掛けをつけたティアが現れた。 「あ、カイムさん、こんにちは」 「店を手伝ってるのか」 「はい、やはり泊めていただいている以上は、お役に立たないと」 「ティアちゃんの料理は評判いいわよ〜」 メルトがティアに抱きつく。 「ひゃあっ!?」 「カイムのところなんて戻らないで、ずっとうちにいない?」 「そ、そう言われましても……わたし、カイムさんに買われてますので」 「とにかく鶏を頼む。いちゃつくのは後で思う存分やってくれ」 「あ、そうだったわね」 メルトがティアを放す。 「ティアちゃん、カイムの持ってる鶏、厨房に入れてもらえる?」 「あ、はい」 ティアに鶏を渡す。 「おいしそうな鶏ですね」 「どうしたんですか、こんなにたくさん?」 「ま、ちょっとな」 「どう料理するかは任せるから」 「あ、はい」 ティアの目が輝く。 「どうしたものでしょう」 「蒸し鶏……そして、ローストも作って……」 「煮る? トマトさんと煮てしまいますか? 大変です」 ブツブツ言いながら厨房へ入っていった。 「どう、お茶でも飲んでく?」 「悪いな」 カウンター席に座る。 開店前の店を眺めながら、茶が来るのを待った。 厨房からの心地好いざわつき。 窓からの光の中で舞う、わずかな埃。 落ち着くな。 「ぼんやり遠くなんて見ちゃって、珍しいわね」 「疲れてるんじゃない?」 メルトが茶を出してくれる。 苦笑だけで応え、茶を飲む。 涼しげな香草の香りが鼻に抜けた。 「美味い」 「そ、良かった」 穏やかな気持ちだ。 メルトが娼婦だった頃は、よく彼女の部屋で話を聞いてもらっていた。 その頃の気分に似ている。 「どう、エリスの調子は?」 「悪いな」 「時間を遡っていってるみたいだ」 「どういうこと?」 「今のエリスは、俺が身請けした頃のあいつにそっくりだ」 「命令をしなければ動かない。放っておけばベッドで呆けてるだけ」 「昔に戻るなんて、そんなことあり得るの?」 「現にそうなってるからな」 新しい茶を注ぐ。 「ついでに、最近は変な失敗ばかりしている」 「鶏をやたらと買ってきたり、皿を割ったり、料理の味付けを忘れたり」 「俺が怒ってもヘラヘラしてるだけだ」 「最悪なことに、本人はその辺のことをよく覚えていない」 「何それ……」 メルトから笑顔が消える。 「俺にもわからんさ」 「何か対策は考えてるの?」 「あいつは、俺に主として振る舞うよう要求してる」 「俺が従えば、もしかしたら元のエリスに戻るかもしれない」 「だが、俺があいつを物扱いできるわけがない」 「エリスが普通の生活できるように頑張ってたのはカイムだもんね」 「お陰様で、見事に平行線だ」 「でも、それじゃエリスは、どんどん……」 おかしくなる、か。 「そうかもな」 「そうかもなって」 「俺だって何とかしたいんだ」 俺にできることは限られている。 エリスを奴隷扱いすることはできない。 俺にできるのは、せいぜい、あいつを身請けした理由を打ち明けることくらいだ。 その時、エリスはどうするのだろうか。 「できる限りのことはする」 「そうしてあげて」 「あの子には、本当に幸せになって欲しいの」 「先輩としてか」 「ええ、かわいい後輩だもの」 「向こうはどう思ってるかな」 メルトが自嘲気味に笑う。 「あの子は、カイムにちょっかい出す嫌な女くらいにしか思ってないでしょう」 「あれで割と、お前のことは慕ってるさ」 「そうね……そうだと嬉しいわ」 「ま、いいのよ。私の好意は一方通行で」 「先日、カイムを刺そうとした子も言ってたじゃない。私に娼婦の本当の苦しさはわからないって」 「実際ね、私も身請けされたことを申し訳なく思うこともあるの」 メルトが、俺の使っていた器で残っていた茶を飲む。 嚥下に動く喉が白い。 「私がみんなの幸せを願うのは、きっと、ちょっとした罪滅ぼしなのよ」 「誰のためでもない、自分のため」 罪滅ぼし、か。 「いいじゃないか、罪滅ぼしで」 「どんなにまともに見える奴も、どこかで罪を犯して、どこかでそれを償おうとしてる」 「そんなものかしら」 「そうさ」 「俺は、負い目もなく生きてる人間の方が、信用できないね」 「ありがと。たまには優しいこと言うじゃない」 「たまにしか言わないから、よーく覚えておくんだな」 「ふふふ、了解」 席を立つ。 「少し気が晴れた。ありがとよ」 「家に戻るの?」 「いや、リリウムだ」 「ジークもだいぶ疲れてる」 「力になってあげて、兄弟なんだから」 メルトが艶っぽく笑って言う。 「ジークは、ここに来てるか?」 「来てないわ。迷惑かかると思ってるんじゃないかしら」 「ありそうな話だ」 「なんか包んでくれ、持っていく」 銀貨をカウンターに置いた。 「ありがと、私も何か届けようと思ってたところだったの」 メルトがティアを呼び、差し入れを手配させた。 昼の早い時間。 閑散としたロビーには、アイリスだけがいた。 椅子に座り、脚をプラプラと遊ばせている。 視線は相変わらず天井。 「天井の模様が、宝の地図にでもなってるのか?」 「金貨100で教える」 「かなりのお宝が眠ってるらしいな」 「探索に手が必要なら言ってくれ」 「気が向いたら」 「ほかの二人はどうした?」 「リサはおつかい」 「クロは出張」 「二人ともよく働いてるな」 「わたしも、〈風錆〉《ふうしょう》のゴミが店に入らないように店番してる」 「オズにでも頼まれたか」 「自衛」 対立の激化は、すでに娼婦たちの耳にも入っているようだ。 策があると言っていたジークだが、周囲がどこまで時間をくれるか。 「いざとなったら、すぐ助けを呼べよ」 「うん」 「入るぞ」 「よう、毎日どうした」 「酒の注文を取りに来ているように見えるか?」 「ははは、すまんすまん」 ジークの顔には、やや疲労の色が滲んでいる。 「家には帰ってるのか」 「ここが家さ」 「ふん」 机に紙包みを置く。 「メルトからの恋文だ」 「お、いいね、恋文なんて懐かしい」 早速包みを開く。 中には、作りたての料理が入っていた。 パンを2つに割り、香草や腸詰めを間に挟んだものだ。 ジークがナイフを取り出す。 「お前も食うか?」 「恋文を覗き見する趣味はない」 「案外、紳士だな」 「昔からだ」 俺は、ソファに身を沈め、置いてあったワインをいただく。 「どうだ状況は?」 「みんなよくやってくれているが、シマも人も減っている」 「昨日は小競り合いで怪我人も出た」 「今、この辺りで顔色が良いのは棺桶屋だけだ」 「殺しに来たのか?」 「いや、こっちの若いのが挑発に乗りかけただけだ」 「オズが居合わせてくれたお陰で、殺し合いにはならなかった」 「なるほど」 時間の問題になってきたな。 何かきっかけがあれば、全面戦争に発展するだろう。 そうなれば多くの人間が犠牲になる。 「昨日、ベルナドの様子を見てきた」 「やっぱりそうか」 「ベルナドの警備は厳しい。〈命〉《タマ》を取るには時間がかかるだろう」 「そもそも、外を歩いているのが本人とも限らない」 「本当にどうしようもなくなったら、命知らずを集めてやろうじゃないか」 「ああ、一緒に突撃でもしよう」 「俺も付き合う」 「嬉しいね」 だが、ジークは一人で行くのだろうな。 そんな直感があった。 「ま、今はやるべきことをやるだけだ」 「これから、その『やるべきこと』ってのがあるんだが」 「何だ?」 「ちょっとした登山さ。前に付き合ってもらっただろ」 下層までの護衛か。 「今すぐ出るか?」 「いや、こっちにも準備がある」 「しばらくしたら、ヴィノレタで落ち合おう」 「わかった」 エリスに、今日は遅くなると伝えねばなるまい。 エリスが調理場に突っ立っていた。 床は水浸し。 水甕をひっくり返したのだ。 「失敗しちゃった」 俺が入ってきたのを見て、だらしなく笑う。 「見りゃわかる」 「怒る?」 「呆れたよ。それだけだ」 「……」 「片付けろ、俺は仕事に出る」 エリスが、〈蹌踉〉《そうろう》とした足取りでこちらへ来る。 そして、俺の袖を引いた。 「私、悪いことしたんだよ」 「叱らないと」 「こう立て続けじゃ、怒る気にもならん」 「いいから片付けろ」 「カイム……カイム……私、駄目な召使い」 「召使いじゃない」 「召使いだよ」 「っっ!」 袖を振りほどく。 1歩、2歩と〈後退〉《あとずさ》るエリス。 ぺたりと尻餅をついた。 「……冷たい」 「水? どうして?」 「……」 まただ。 人間の中身が入れ替わったように、いつものエリスに戻った。 「誰かさんが水甕を倒した」 「……そんな……私?」 本当にわかっていないらしい。 胸の中に名状しがたい感情が浮かぶ。 へたりこんだままのエリスに近づき、その頬に触れた。 「エリス、しっかりしてくれ」 「こんなのはお前らしくない」 「カイム……」 「やっぱり、私、おかしい」 「一人でいると、いつの間にかこんな風になって」 古井戸のような瞳が、『傍にいて』と言う。 だが、俺にもやるべきことがあった。 「仕事があるんだ。夜には戻る」 「どこに行くの?」 仕事のことは聞くな。 今まで何度か言ってきたことだ。 だが、今は口にするのが憚られる。 エリスの表情が落胆の色に染まるのを見た。 仕方のないことだ。 立ち上がる。 「行ってくる」 装備を引っつかみ、家を出た。 ルキウス卿との会談は、前回とは違う家で始まった。 例の副官と並び、戸外を警備する。 二言三言、言葉を交わしてもシスティナはこちらを向かない。 俺も、正面を向いたまま、路地に向かって言葉を投げる。 「あんたもご苦労だな」 「私はルキウス様にお仕えする身。苦労を覚えたことはありません」 いちいち本気で返答するあたりが面倒臭い。 「〈風錆〉《ふうしょう》と貴族の繋がりってのは明らかになったのか?」 「俺には、奴らがこの時期に喧嘩をふっかけてきた理由がわからない」 「現在の力関係から言って、時間が経つほど〈風錆〉《ふうしょう》に有利な展開になったはずだ」 「にもかかわらず、今動いた」 「裏にいる貴族様のご都合ってのがあるんじゃないか?」 「裏にいるのが誰かも特定できていない状況では、まだそこまではわかりません」 「ただ、相手に人並みの頭脳があるのなら、今を選んだ理由はあるのでしょうね。一般論ですが」 「特定できていないのに、ルキウス卿は、その貴族に敵対しようとしているのか?」 「ルキウス様は麻薬と、それで儲けようとする人間を憎んでいらっしゃいます。それだけのことです」 「ご立派なことだ」 さて、どこまでが本当か。 常識的に考えれば、相手の貴族は不蝕金鎖に話を振る前から特定できており、ルキウス卿はそいつが気に入らないのだろう。 で、資金源である麻薬を取り締まりたい。 ルキウス卿は羽狩りの長であり、牢獄の治安を維持するのが仕事ではない。 さらに、〈風錆〉《ふうしょう》の後ろ盾の貴族がルキウス卿の仲間なら、そもそも不蝕金鎖に協力を依頼しない。 まあ、ルキウス卿が牢獄の平和を心から願う素敵な御仁なら話は別だが……。 少しネタを引き出してみよう。 「俺は、上層に行ったことがないんだが、貴族様っていうのはいつも何をしているんだ?」 「質問が漠然としていますね」 「そうだな……じゃあ、権力争いってのはあるのか?」 「不蝕金鎖と〈風錆〉《ふうしょう》がやってるようなやつだ」 「無いとは言いませんが、少ないですね」 「その数少ない例に、あんたのご主人様は関わっているのか?」 「そこまでのことは存じ上げません」 「へえ」 副官の横顔を伺う。 無表情に前を向いたまま。 何の情報も読み取れない。 「お互い主に仕える身」 「あれこれ考えを巡らせず、主人の指示を待つのが美しい姿なのではありませんか?」 釘を刺された。 「すまんな、牢獄育ちは無粋で」 「しかし、あんたのご主人様は、あの若さで立派なものだな」 「牢獄のことを真面目に考えている貴族など、今までいなかった」 「ルキウス様は義に篤いお方」 「ご自身の過失ではないにもかかわらず、責任を果たされようとしております」 システィナがこっちを見た。 表情には、微かに少女らしい純粋な昂ぶりがあった。 ルキウス卿に入れ込んでいるらしい。 「年寄りには理解されないだろうな」 「ええ……」 言いかけて、システィナは正面を向いた。 「それでも、ルキウス様の思いをご理解下さる方は多いようです」 「なるほど」 「もう、無駄話はやめましょう」 「我々の仕事は警備です」 「ああ、そうだな」 再び正面を向く。 どうやら、ルキウス卿には敵対する貴族がいるようだ。 その貴族か、その仲間かが、〈風錆〉《ふうしょう》の背後にいるのだろう。 わかりやすい構図だ。 〈風錆〉《ふうしょう》との抗争をどう生き残るかが直近の問題だが、その先ではルキウス卿との関係も大切になってきそうだ。 しばらくして、民家のドアが開いた。 「待たせたな」 「いや、こちらのお嬢さんが楽しませてくれたんでね、退屈しなかった」 「何を言う」 「システィナと気の合う男など、珍しいな」 「どうだ、将来を考えてみては」 家の中からルキウス卿の声が飛んできた。 「ルキウス様、お戯れが過ぎます」 「私が、牢獄の……」 「おっと……牢獄の男などと付き合うわけがございませんってか?」 ジークが意地悪く笑う。 「上の方々は、みなこのようなお考えで、ルキウス卿?」 「そう考える者も多いだろうな……」 部下の危機に、ルキウス卿が家から出てきた。 「もちろん私は違うが」 「副官、君はどうか?」 「ルキウス様と同じ考えです」 「ご理解ある方と仕事ができて感激です」 「今後ともよろしく、システィナさん」 「こ、こちらこそ、よしなに」 言わされたシスティナ。 こわばった顔が愉快だ。 「冗談はさておき、今後もよろしくお願いいたします。ルキウス卿」 「こちらこそ」 ルキウス卿が右手を差し出し、ジークがそれを握る。 「雨が来そうだ。気をつけて」 「おお、本当だ」 空を見上げると、厚い雲が月を覆い隠さんとしていた。 しばらくすれば雨になるだろう。 「上層から見上げる月は、もっと美しいのだろうな」 「私の経験では、大して変わりませんでしたが」 「そうか」 ジークが苦笑する。 言葉に込めた小さな皮肉に、副官が気づかなかったことがおかしかったのだろう。 「それでは、またの機会に」 苦笑を、頼もしい笑顔に変えてから、ジークはルキウス卿に背を向けた。 「どうだ、ルキウス卿の様子は」 「いい男だな」 「つまらんぞ」 「ははは。まあ順当に進んでる」 「副官の女に、相手方の貴族について聞いたんだが、口が堅くてな」 「口説き落とせば、喜んで喋ってくれるんじゃないか」 「いいんだぞ、ここから突き落としても」 「本気でやめてくれ」 「真下に、最近気に入ってる女の家があるんだ」 「屋根から突然の訪問なんて、刺激的じゃないか」 「で、貴族の件だが」 豪快に話を戻した。 「実名は聞いていない。向こうも話す気はないようだ」 「ただ、今をときめくルキウス卿が潰そうってんだから、それなりの勢力を持った相手だろうな」 「なるほど」 「最近、関所の衛兵の入れ替えがあった」 「俺達が鼻薬を利かせてた奴らは軒並み追い出され、新しいのが入ってきた」 「そいつらにも、今まで同様礼儀は尽くしているんだが」 「どうも反応が鈍い、と」 「ああ、はなっから〈風錆〉《ふうしょう》の味方として送りこまれた可能性がある」 「ということは、向こうさん、衛兵の人事をどうこうする権力があるってこった」 「関所を止められているのか?」 「止められちゃいないが、訳ありの物資は流しにくくなった」 関所は物資輸送の生命線だ。 不蝕金鎖は、関所の役人を抱き込むことで牢獄の流通を掌握し、大きな富を得てきた。 だが、役人が〈風錆〉《ふうしょう》側に着いたとなると、不蝕金鎖は正規の物資しか関所を通せなくなる。 当然、利益は減る。 もちろん、今俺達が歩いているような裏道がないわけではない。 だが、輸送効率は各段に落ちる。 「今さらだが、どうしてここまで〈風錆〉《ふうしょう》を放置した」 「いろいろあってな」 「ま、俺の落ち度だ」 呟くような声だった。 「なら、挽回すべきだ」 「もちろんそのつもりだ」 牢獄に下りると、ちょうど雨が落ちはじめた。 装備から外套を取り出し、ジークに渡す。 「お前が着ろ」 「俺は濡れるのに馴れてる。大事な時期だ、風邪などつまらない」 「……すまん」 ジークが外套を羽織る。 雨が強くなった。 「ヴィノレタで雨宿りしていくか?」 「いや、リリウムに戻る」 「わかった」 通りを足早に進む。 「あっ、頭っ!」 道に立っていた男が、いきなり声を上げた。 リリウムで見たことがある、不蝕金鎖の男だ。 男は、無様なほどに慌ててこちらへ駆け寄ってきた。 「どうした?」 「お、オズさんが……やられました」 「オズが?」 「シマを巡回中に、後ろからいきなり」 あのオズが……。 くそっ。 「生きてるのか」 「へいっ、ご無事です」 「ですが、傷がひどくて動かせねえんで、近所の家に寝かせてもらってます」 「どこだ?」 「ご案内します」 男が脇道へ入る。 ジークが後を追う。 俺もそれに従う。 細い路地を進む。 雨はいよいよ激しく、男の持つ松明の明かりが雨飛沫にぼやけている。 「遠いな」 「すいません……もう少しですんで」 ジークと目が合った。 何かがおかしい。 互いにそう思っているのがわかった。 「待て」 男に声をかける。 「ど、どういたしました?」 「オズの見舞いには俺一人で行く」 「そそそ、そんな」 「オズさんは、その、頭にお伝えしたいことがあると」 「カイムが俺の代理だ。お前が証人になってくれ」 「で、でも」 「雨の中ご苦労」 男の動揺をよそに、ジークが踵を返した瞬間、 「うあああああぁぁぁっ!」 男が松明を捨てた。 空になった手が、腰の小剣に伸びる。 「手癖の悪い」 「ぐああっ」 男が剣に触れるより早く、俺のナイフがその手を切り落とした。 男がうずくまる。 「俺を売ったか」 「あ、あんたはもう、終わりなんだよっ」 「先代のガキってだけで、頭に収まりやがって」 「最初からベルナドさんがやってりゃ、こんなことに」 「……」 ジークの目が細められる。 「ジーク、今は逃げるのが先決だ」 「ああ」 退路に足を向けたその時、背筋を悪寒が走った。 反射的に上空を見上げる。 両脇に建つ家の屋根に、人影が並ぶ。 その数、10近く。 一様に片膝をつき、何かをこちらへ向けて構えている。 〈弩〉《いしゆみ》だ。 周囲に遮蔽物はない。 最悪なことに、地面に落ちた松明はまだ燃えていた。 俺達の姿は、射手の前に赤々と照らし出されているだろう。 「ジーク、俺の後ろにっ」 叫びつつ、うずくまっていた男を羽交い締めにした。 「えっ、えっ……おいっ、やめろ」 「仲間を信じろよ」 「射つなっ、助けてくれっ!?」 男が叫んだのと、低い弓音が聞こえたのはほぼ同時だった。 土砂降りの雨を貫いて、矢の閃光が飛来する。 「ぐ……ごほっ」 「く……」 男の口から、湿っぽい音が漏れた。 上手く矢を受けてくれたらしいが…… 楯としての強度が不十分だったらしい。 貫通力に優れた〈弩〉《いしゆみ》の矢は、男の身体を貫き、俺の脇腹にも鋭い一撃を加えていた。 「ジーク、逃げるぞ」 「ああ」 命中精度、貫通力に優れた〈弩〉《いしゆみ》だが、連射性能は低い。 次の射出までには時間がかかるはずだ。 男を投げ捨て走りだしたが、行く手はすでにいくつかの人影に塞がれている。 「突っ切れるか?」 「愚問だ」 接敵する。 暗闇の中、雄叫びと共に繰り出される刃。 もらってやる義理などない。 避ける。 すれ違いざまに、手や足の筋を軽く切る。 一人、 また一人と泥の中に転倒していく。 苦痛や驚愕に歪む表情までもがはっきりと見える。 止められはしない。 苦悶の声を背に聞き、俺達は路地を走り抜ける。 娼館街の喧騒が聞こえるところまで辿り着いた。 ここまで来れば襲ってくることはないだろう。 家の壁に背中を預け、呼吸を整える。 「怪我はないか?」 「腕に多少な。ま、かすり傷だ」 「そっちは?」 「脇腹を少し」 「楯を貫通した矢が当たったらしい」 「もう少し筋肉がついた奴が楯なら良かったな」 「これからは、部下に身体を鍛えるように言っておく」 ジークの軽口で緊張が解ける。 助かったという実感が、急激に湧いてきた。 「助かったよ、お前がいなけりゃ確実に死んでた」 「役に立てて何よりだ」 ジークの大きな手が、俺の肩を叩く。 「取りあえずは手当をしよう」 「久しぶりに、メルトの手を焼かせるか?」 「やめておこう」 「俺が襲われたことが部下に知れたら、今度こそ全面戦争だ」 「とすると、エリスも駄目か」 「俺達でやろう」 「俺の隠れ家なら人目にもつかないし、多少の薬もある」 「頭の隠れ家に行けるなんて光栄だね」 「歓迎するぜ」 ジークが先に立ち、歩き始める。 しばらく後、俺たちはジークの隠れ家の一つに到着した。 調度は質素ながら、一通りのものは揃っている。 「ここが隠れ家だとは知らなかった。何度か前は通ったんだがな」 「知られてたら隠れ家にならん」 「掃除をしてないんで埃っぽいが、まあ寛いでくれ」 ジークが火酒とグラスを出してきた。 「まずは一杯だ」 並べたグラスに片手で火酒を注ぐ。 こぼれた酒がテーブルを濡らす。 雑さがなぜか心地好かった。 グラスを手に取った。 「カイムに」 「悪運の強さに」 グラスを打ち合わせた。 「く〜っ!」 「効くな」 勢いよく、空になったグラスをテーブルに置いた。 「もう一杯行こう」 「待て。傷口を洗う分がなくなるぞ」 「もう一杯だけだ」 再び酒を注ぎ、俺達は杯を合わせる。 早くも酒精が回り、傷口に鈍痛が走り始めた。 「さっさと傷を塞がないと、飲んだ酒が漏れるぞ」 「そうだな」 ジークが治療用品の入った箱を出した。 「まずはお前からだ。手伝ってやる」 「頼む」 手当というやつは、誰かにやってもらったほうが上手くいく。 特に包帯を巻く場合はそうだ。 俺の傷は、内臓には届いていなかった。 火酒で傷口を洗い、傷薬を塗っておけば問題なさそうだ。 黙々と手当をしていたジークが口を開く。 「お前の手当てなんぞするのは、ずいぶん久しぶりだな」 「ああ。最後はいつだったか……」 「一番ひどいやつだ、覚えてないか?」 「思い出した。メルトに怒られたときのやつだろう」 懐かしい思い出だ。 若かった頃の俺達は、怪我をするたびにメルトに手当をしてもらっていた。 当時、一番人気の娼婦だったメルトだが、なぜか俺達には親しく接してくれた。 若造二人がメルトに惚れるのは、当然の成り行きと言っていいだろう。 そして、これもまた当然の成り行きとして、メルトを巡っての対立が生まれた。 ある日、俺とジークは、簡単な仕事で怪我を負う羽目になる。 原因は明らかで、不和が元の意思疎通不足だった。 痛む身体を引き摺り、いつものようにメルトの部屋を訪れた俺達。 しかし、怪我の理由を知っていたメルトは治療を拒否した。 仕方なく自分で手当を始めた俺達だが、どうにも上手くいかず、互いに手当をすることにしたのだ。 女を競っている相手と、互いに治療をし合う。 その惨めさと気まずさは、今思い出しても身悶えしそうなほどだ。 互いの治療が終わる頃、俺達は『メルトについては抜け駆けをしない』という自分勝手な紳士協定を結び、仲直りをしたのだった。 その後しばらくして、メルトは先代に身請けされ、俺達の恋心は儚く散った。 ちなみに、メルトが俺達二人を味見していたことを知ったのは、さらに少し後のことだ。 しかも、俺とジークどちらに対しても『向こうには内緒よ』と言い含めていたあたり、メルトの男あしらいは恐ろしいものがある。 ジークと兄弟になったと知ったとき、俺は記憶をなくすほど呑んだらしいが…… 父親と同じ女を抱き、おまけに友人と兄弟になってしまったジークの荒れっぷりは俺の比ではなかった。 それこそ、店の酒を空にするのでは、というほどだったらしい。 「今思い出しても、忸怩たる思いがある」 「俺もだ」 ふと、ジークの表情が沈む。 こいつらしくもない。 そう思うと同時に、感情を表に出してくれることを嬉しくも思う。 問いかけたい気もしたが、ジークの言葉を待つことにした。 どうせ夜は長い。 「今日の、奴の言葉をどう思う?」 「誰のどの言葉だ?」 頭に浮かんだのは、俺達をハメようとした男の捨てゼリフだった。 ──『あ、あんたはもう、終わりなんだよっ』 ──『先代のガキってだけで、頭に収まりやがって』 ──『最初からベルナドさんがやってりゃ、こんなことに』 果たして、ジークの口から出たのは想像通りの言葉だった。 やはり、あの男の言葉を気にしていたのだ。 「これは酒に酔った上での話だが……」 聞いたことは忘れてくれ、という意味だ。 「時々、自分が頭になるべきだったのか考えることがある」 「ベルナドが頭なら、不蝕金鎖は分裂せず全てが上手くいったのかもしれない」 「だが、組織の性格は今とは違っていただろう」 「クスリに手を染めた組織を見たかったのか?」 「どうだろうな」 「あいつは、後継ぎに選ばれなかった腹いせに、先代とは逆の道を進んだのかもしれない」 「後釜に収まっていれば、素直に先代の思想を継いだ可能性もある」 「先代は、ベルナドの人格を見抜いてお前を選んだんだ」 ジークは返事をしない。 「先代はいつも間違わなかった」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》後の牢獄で勢力を拡大し、復興に力を尽くし、役人を抱き込み、まさに牢獄の王だった」 「だが、それでも大事なところで間違いを起こした」 ジークが治療の手を止めた。 唇を舐め、ためらいを見せる。 「ベルナドは……」 「先代のガキなんだ」 「なんだと?」 「ずっと昔、召使いに手を出して生ませたんだよ」 「おまけに先代と俺の母親の間には長らく子供ができなかった」 「だから、先代もいずれはベルナドを引き取って後継者にするつもりだったのさ」 「その時のために、ベルナドを副頭として重用したし、勉強もさせた」 「奴もよく期待に応えていたらしい」 「先代は、自分が父親であることをベルナドに明かしたのか?」 「恐らく言っていない」 「ベルナドの母親も、親父の名は墓まで持って行ったらしいが……」 「ベルナドは恐らく知っていただろう」 「奴は、自分が不蝕金鎖の後を継ぐことには自信を持っていたし、周囲も納得していた」 「ところがだ、その頃になって俺が生まれちまった」 「生まれただけなら、まだいい」 「先代は、我が子かわいさで、俺にばかり目をかけるようになった」 「挙げ句の果てに、遙かに年下で経験も劣る俺を後継者に指名したんだ」 ベルナドが納得するわけがない。 「本気でジークを推すなら、禍根を断つためにベルナドをどうにかすべきだ」 「その通り」 「しかし、先代は判断を誤った」 「ベルナドに情が移って殺せなかったんだ」 「先代の死んだ後、ベルナドが不蝕金鎖を離反したのは当然だろう」 「ことによっちゃ先代を殺ったのもベルナドかもしれない」 「まさか、あの先代がな」 俺にとって、先代は尊敬の対象だ。 俺を娼館から掬い上げてくれただけではない。 殺し屋になったあとも、本当に汚い仕事は俺にさせなかった。 先代が殺しを依頼してきた人間は、牢獄のためにならない人物だけだったのだ。 だから、俺も安心して仕事に励むことができた。 「メルトの話じゃないが、人はわからん」 「不蝕金鎖の頭ともあろうものが、家族の情に流されるとはな」 「そんな事情があったのか」 「ま、先代が選択を誤ったのは確かだが、ここまで問題が大きくなった直接的な原因は俺が手をこまねいていたことだ」 「さっさとベルナドを殺すなりすればよかった」 「あいつに、罪悪感を持っているのか?」 ジークがちらりと俺を見た。 いつもなら、馬鹿らしいと言うだろう。 「ベルナドは、ガキの頃の俺を可愛がってくれた」 「俺に優越感を覚えていたのかもしれないが、とにかく兄代わりだった」 「俺が後継者に指名されるまではな」 「……」 ジークもまた選択を誤ったのだ。 「俺が情に流されたせいで、今、多くの仲間に迷惑を掛けてる」 包帯を結び終え、ジークは小さく息を吐いた。 少なからず衝撃があった。 牢獄の王とも言われた先代。 その息子であるジーク。 二人ともが、情を捨てきれず道を誤った。 二人の失策は冗談で済むものではない。 頭失格だと言う奴も多いだろうし、それは間違っていない。 「笑ってくれ。日頃は威張り散らしているくせに情けない頭さ」 「笑えない」 「俺も、似たようなことをやってるからな」 「エリスのことか」 「ああ」 エリス以外には話すまいと思っていたことが、口をついて出てしまった。 酒のせいか、ジークの感傷に当てられたのか。 友人との昔話に気持ちが緩んだのかもしれない。 「治療を代わろう」 「頼んだ」 ジークの怪我も軽傷だった。 剣で突かれたか、尖った物にぶつけたかして、皮膚が裂けて出血しているだけだ。 火酒を吹き、傷口を洗う。 「で、何をしたって?」 率直に訊いてきた。 俺は…… 逡巡する。 いや、ジークが打ち明け話をしてくれたのだ。 俺が黙っていては格好がつかない。 「俺は……」 「……」 「あいつの両親を殺した」 「……なんだと」 「先代からの仕事だった」 エリスの両親は、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》以降に力をつけた商人だ。 表向きは、家の建築と瓦礫の整理を生業にしていたが、実際は半ば火事場泥棒だった。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で崩れた家から金品を回収し売りさばく。 所有者がいなくなった土地を不当に接収する。 高利貸しを行い、返済が滞った場合は家土地を問答無用で取り上げる。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の復興期によく見られた成金だ。 不蝕金鎖の先代は、ことさら彼らを憎んでおり、殺害の機会をいつも窺っていた。 「俺が受けた仕事は、商人夫婦を殺すこと」 「そもそも、目標の家には夫婦以外は住んでいないと教えられていたんだ」 「昔はエリスという一人娘がいたらしいが、そいつは強盗に殺されたとのことだった」 「ところが、どこをどう巡ったのか、エリスはリリウムに売り飛ばされてきた」 「そうだ。偶然名前が一致しただけかとも思ったが、確かに商人夫婦の娘だった」 「なぜわかった」 「あいつが持っている人形に書かれた名前だ」 「それと、エリスは自分の両親の名前を覚えていた」 「普通の娼婦なら作り話かもしれないが、その頃のあいつはほとんど人形だ」 「作り話をする意味も意思もないだろう」 「なるほど」 「ベルナドの奴が、俺を鬼畜と言ったのはそういうことだ」 「親を殺されたお陰で娼館に売られた娘を、その親を殺した本人が身請けしたんだからな」 「しかも、俺が払った金の一部は、エリスの親の命の対価だ」 エリスの好意など絶対に受け入れられない。 抱きなどした日には、目も当てられない。 それこそ鬼畜の所業だ。 「エリスを身請けしたのは、せめてもの罪滅ぼしか」 何か心をかすめたものがあった。 だがそれは、すぐに消えてしまう。 「そうだ」 「だから、あいつには俺が奪った人生を返してやりたいんだ」 「エリスを突き放すのは、そういうことか」 「あいつが傍にいるうちは、俺の罪滅ぼしは終わらないからな」 「元々、奴が自活できるようになったら家から出そうと決めていたんだ」 「罪悪感、か」 ジークが独り言のように呟いた。 俺もジークも、罪悪感を背負って生きている。 俺達二人のたまたまの符合か。 いや、単になにがしかの罪悪感を抱えている人が少なくないだけかもしれない。 「俺がエリスを身請けしたことを間違っていると思うか?」 「間違っているかどうかは知らん」 「ただ……」 ジークが俺を見た。 「俺がお前の立場なら同じことをしただろうな」 ジークに同意してもらえたのは心強かった。 「少なくとも、お前が身請けをしなきゃエリスは娼婦になっていた」 「それに、娼館に来たときのあいつには虐待の形跡があった」 「つまりお前は、エリスを虐待から救ったことにもなるんじゃないか」 「好意的に見ればな」 「だが、エリスは同じようには考えないだろう」 「どこまで行っても、俺は親の仇だ」 ジークの腕に包帯を巻き、固定する。 治療終了だ。 「エリスに話す気はあるのか?」 腕を回して包帯の調子を見ながら、ジークが訊いてくる。 「近いうちに話したいと思ってる」 「同居を始めてから、あいつはおかしくなる一方だ」 「おかしくなるってのは?」 「徐々に昔のエリスに戻っていってる」 「つまり、一言で言えば人形だ」 「真実を話せば治ると思ってるのか?」 「わからない」 俺が親を殺したせいでお前は娼館に売られた。 だから、俺は申し訳なくて身請けをした。 こんなことを伝えて、何か意味があるのだろうか。 激高したエリスが刃物でも振り回すのがせいぜいではないか。 だが、放っておいてもエリスはおかしくなるだけだ。 ならば、あいつ知りたがっていた『身請けした理由』というやつを披露すべきではないか。 「あいつはまともにならないかもしれない」 「だが、話すべきだと思う……けじめとして」 「復讐されるとしてもか?」 「俺は人を殺して飯を食ってきた人間だ。復讐されるのは仕方ないと思っている」 「馬鹿らしい」 ジークが余った火酒をグラスに注いだ。 酒が溢れ、テーブルに染みを作る。 「飲めよ」 強い調子でジークがグラスを差し出した。 無言で受け取る。 「立派な覚悟だが、そんなことをして何になる?」 「何にもならないだろうな」 「だが、決着はつける必要がある」 「なぜ?」 なぜ、俺はあいつと決着をつけなくてはいけないのか。 どうでもいい女なら放っておけばいい。 うるさいようなら、適当に殺してしまってもいいはずだ。 だが…… 「俺はエリスを見捨てられない気がする」 「惚れたのか?」 「わからん」 「ただ、世の中のものを、どうでもいいものとそうでないものに分けるなら、あいつは後者だ」 「やっぱり惚れてるんじゃないか」 「そんな綺麗なものじゃない」 「もっと面倒で下らないものだ」 「最悪、あいつは俺が両親を殺したことを知っている」 「その上で、俺から離れないとしたら、それこそ本当の復讐だ」 「エリスに限ってそれはないだろう。お前はあいつの白馬の騎士様だ」 「どうかな」 数日同居した経験からすると、エリスの俺への感情にはもっと深くて暗いものがある。 あいつの古井戸のような瞳。 その奥の奥。 水の底に横たわっている感情こそが、俺に向けられているものの正体なのではないか。 いつ降り始めたのか。 家は、雨音に包まれていた。 「ふう……」 カイムはいない。 彼と同居を始めたことで、より不在が際だつようになった。 部屋に満ちる彼の匂い。 瞼の裏に残る残像。 でも、今、彼はいない。 どこへ行ったのかもわからない。 いつ帰ってくるのかもわからない。 人形に問うても、何の答えもない。 「怖い……」 その言葉を待っていたように、胸の中に闇が入り込んできた。 周囲の全てが一瞬にして黒く冷たいものに姿を変え、私を壊そうと押し寄せてくる。 ここは── 井戸の底だ。 何も見えない。 何も聞こえない。 自分はどうすればいいのだろう。 「カイム……」 カイム。 たすけ、て…… 助けて。 助けて!! 「助けてっ」 「怖い……怖い、怖いのっ」 「カイムっ、カイムっ、カイムっ!」 ベッドから転がり落ちる。 カイムを探して、部屋を這いずりまわる。 怖い、 助けて、 床に置いていた医療道具をひっくり返してしまう。 派手な音を立て、道具が床に散乱する。 「……あ」 ふと、目についたものがあった。 私に見つけられるのを待っていたかのように、それは輝いて見えた。 手に取る。 薬物中毒の娼婦から取り上げた麻薬だった。 「不安だったんです。最近、地震が多いから」 「お客さんにその話をしたら、気分が落ち着くからやってみろって言われて」 「……楽に、なるんだ」 震える指で薬包紙を開く。 灰色がかった粉末が見えた。 「楽に……なるんだ……」 治療を終え、俺とジークは娼館街へ向かう。 「今夜のことは口外無用で頼む」 「怪我のことも、それ以外のことも」 頷く。 「エリスのことも、お前の胸一つにしまっておいてくれ」 「わかってる」 「お互い、綺麗さっぱりケリを着けようじゃないか」 俺はエリスとの、ジークはベルナドとの因縁にけじめをつける。 幸福な結末は待っていないかもしれない。 だが、決着をつけるのは、俺が人生をねじ曲げてしまったエリスへの礼儀だ。 「────────」 「……」 ふと、あの時の声が脳裏を過ぎった。 あの世から下らない説教を垂れにきたってわけか。 馬鹿らしい。 「どうした?」 「いや、行こう」 リリウムでジークと別れ、家へ帰ってきた。 月の位置は確認できないが、もう明け方に近いだろう。 だが、家の中には明かりがあった。 エリスの奴、起きていたのか。 扉に手をかける。 しかし、開くのが〈躊躇〉《ちゅうちょ》された。 俺は、これからエリスに全てを打ち明けるのだろうか。 その時、エリスはどうするだろう。 親の仇として俺を殺しに来るか、どこかに消えてしまうかはわからない。 だが、何にせよ今までの関係が崩壊するのは確実だ。 ……。 ……それは困る。 「……」 唐突に浮かんだ感情に一瞬狼狽する。 困る? どうして? エリスとの関係を、俺は清算したいのだ。 関係が壊れたとしても、それは仕方のない結末。 それがなぜ、あいつとの関係を惜しむ。 そもそもからして、俺とあいつはまともな関係じゃない。 エリスの親を殺し、殺しで得た金でその娘を身請けしたのだ。 鬼畜。 そう、鬼畜だ。 馬鹿らしい。 何を考えてるんだ俺は。 混乱を振り切るように、扉を開ける。 「いま帰った」 部屋にはエリスがいた。 椅子に座り、テーブルに置かれたものを深刻な表情で眺めている。 あれは…… クスリだ。 エリスの状況とクスリの存在が、頭の中で瞬間的に結びつく。 「エリスっ!」 「薬が散るから騒がないで」 事務的な口調だった。 「何してる」 「このクスリ、調べてた」 下を向いたままエリスが答える。 クスリをやっていたわけじゃないのか? 「例の娼婦から回収したものか?」 「そう」 「なぜお前が持っている」 「3つ回収したけど、2つしかジークに渡していなかったから」 「気づかなかった。お前、使うつもりで……」 「学術的興味よ」 「それはさておき、このクスリなんだけど」 エリスがようやく顔を上げた。 その表情は、見慣れた理知的なものだった。 「混ぜものがあると思う」 「なに?」 突き出されたクスリを観察する。 一見灰色に見える粉は、黒い粒と白い粒の混合物であることがわかった。 「娼婦から回収したクスリ、他のやつは真っ白だった」 「確かに」 「で、こっちが、以前カイムが調べてくれって持ってきた粉」 「勝手に出したのか」 「いいじゃない」 「で、調べてみたら、灰色のクスリに混じっていた黒い粒と同じものだった」 つまり、娼婦が持っていたクスリには2種類があったということだ。 一つはベルナドが捌いている新種のクスリ。 もう一つは、新種のクスリに、俺達が施設の焼け跡で拾った黒い粉を混ぜたもの。 「灰色のクスリは、娼婦が作ったものだろうか」 「本人に訊いてみたら?」 「先日死んだ」 「口封じ?」 「ただの後追いだろう」 「そっか」 「ベルナドが2種類を混ぜて捌いている可能性もある」 黒羽と関係がある施設で発見した薬物。 それが、ベルナドの捌くクスリに混ざっていた。 偶然か誰かの意図なのか。 偶然なら、黒い薬物はどこから来たのか。 意図的なら、ベルナドと黒羽の施設に関係はあるのか。 現段階では仮定が多すぎてどうにもならない。 「ジークと相談しよう」 「そうね」 結論を出すと、淡々とした調子でクスリや道具を片づけ始めた。 今朝までの錯乱していたエリスとはまるで別人だ。 「なあ」 「なに?」 「お前、いつものエリスなのか?」 「いつもって?」 手を休めずに聞いてくる。 視線は上げない。 「まともな時のお前だ」 「まとも? さあ?」 からかうように俺を見た。 「明日はどうなる?」 「わからない」 「私自身、自分の中で何がどうなってるのか理解できていないから」 「でも、カイムが傍にいてくれれば大丈夫だと思う」 「できる限り傍にいる」 「だがそれは、お前に自由に生きてもらいたいからだ」 「もういい、その話」 「聞け、俺はお前の……」 「それ、どうしたの?」 エリスが俺の脇腹を指さした。 出そうとした言葉を飲み込んでしまう。 「血が滲んでる。手当が下手だから」 「服脱いで。包帯巻き直す」 言われた通りにする。 エリスが包帯をほどいていく。 「これ、誰が巻いたの?」 「俺だ」 「嘘つき。自分じゃ結べない結び方になってる」 「さすがエリス先生」 「だが、追及されても答えられない」 「別に誰でもいいけど、怪我をしたら私のところへ来て」 「こんなやり方じゃ治りが遅くなるから」 「ああ」 ジークの奴、渋い顔をするだろうな。 「……矢傷」 それだけ言って、エリスが傷口を消毒する。 エリスは、昔から怪我の理由を尋ねて来なかった。 ただ、黙々と俺の怪我を治療するだけ。 こちらとしても、理由を言いたくないことが多かったから都合が良かった。 「お前が医者になれるとは思わなかった」 「なりたくてなったわけじゃない」 「俺に言われたからか?」 「それもある」 エリスが清潔な包帯を巻き始めた。 「治療が上手くなりたかった」 「初めてカイムの手当をしたとき、怒られたから」 「俺が?」 ……そう、思い出した。 あれは、エリスを身請けする前のことだ。 仕事で怪我をした俺は、いつものようにメルトの部屋へ行ったのだが、生憎仕事中だった。 好きだった女の聞きたくもない喘ぎ声を聞いた俺は、荒れた気分でロビーに戻り、暇そうにしていたエリスに手当を頼んだのだ。 だが、当時ほとんど人形のようだったエリスはまったく使いものにならなかった。 メルトの件もあり、苛立っていた俺はエリスに当たったのだ。 「すまなかったな」 「別に。怒られるのは好きだから」 エリスの手が走り、魔法をかけられたように包帯が踊る。 「助かった」 「そう」 エリスが喜びを押し隠すように眼を細めた。 素直さの欠片もない表情。 変な奴だが、これが俺の嫌いじゃないエリスだ。 「すまんな、遅い時間まで」 「別に」 医療道具を片づけるエリス。 「例のクスリは俺が預かっておく」 「お前に持たせておくと、何をするかわからん」 「私も、何するかわからない」 「出せ」 「でも、使ったら楽になるかも」 「それは逃げてるだけだ」 「逃げてはだめ?」 「クスリはやめろ」 「逃げるなら酒でもなんでもあるだろ」 「男とか賭け事とか?」 「そんなものに逃げるな」 「馬鹿みたい」 エリスが道具箱の引き出しから紙包を取り出し、テーブルに投げた。 「カイムは本当に、いい人でいい人で仕方がない」 「はははは、馬鹿、ばーか」 笑いながらエリスはベッドに倒れこみ、それきり無言になる。 微かに鼻を啜る音が聞こえてきた。 だが、俺はエリスを慰める術を知らない。 「もう寝る」 返事はない。 ため息をつき、テーブルの薬を財布に収めた。 毛布にくるまり、しばらくの時間が経った。 窓の外はうっすらと白んできている。 エリスの呼吸は整っているが、寝ているかはわからない。 「……」 思えばこいつは、いつも俺の理解の外に立っていた。 身請けしたときもそうだ。 感謝するなり喜ぶなりするのが一般的だが、エリスはなんの反応も示さなかった。 俺の家に来てからも、ロクに喋らず、自分からは何もしない。 それでもなんとか会話を持ち、家事をさせ、自立のために医学を学ばせた。 ようやくエリスが独り立ちできるようになったのは、3年前。 その日は、俺たちにとって素晴らしい日になるはずだった。 俺は、柄にもなく感動を覚えながら、エリスに一人で生きていくよう告げた。 エリスが一人の人間として旅立ち、俺は贖罪を終える。 だが、現実は違った。 エリスは家から出て行くことを拒否し、以前にも増して俺につきまとうようになった。 数日に亘った口論の結果、数日に1度、家に来て家事をさせることで折り合いをつけた。 以来、エリスはそれなりに自活し、それなりに俺に依存してきた。 今、再びエリスは俺の家に戻り、あいつの中の時間も巻戻ろうとしている。 いや、巻戻っているだけならまだマシか。 今のエリスはもう滅茶苦茶だ。 医者としてまともに喋っているエリス、 全てを俺に依存しようとするエリス、 無自覚に失敗をくり返すエリス、 いくつものエリスが無秩序に並び、本人すら状況を把握できていない。 奴はどこへ行こうとしているのだろう。 それこそ理解の外だ。 どうすればエリスはまともになってくれるのか。 エリスが望むように、彼女を召使いのように扱い、全てにおいて俺が指針となってやることが唯一の解決法なら…… 俺は、永久にエリスへの贖罪を果たすことができない。 それは困る。 『なぜ?』 誰かに問われた気がした。 『なぜ、贖罪などしなくてはならない?』 なぜ贖罪をするのか。 当たり前のことだ。 考えることじゃない。 毛布を身体に強く巻きつける。 眠ろう。 余計なことを考えるのは疲労のせいだ。 きつく瞼を閉じる。 昔からどんな状況でも眠れるよう訓練されてきた。 だから今日も眠れるはずだ。 この日もエリスは絶好調だった。 朝食は、味のしない焦げた卵とワインに漬けられた黒パン。 食えた物ではない。 おまけに、片付けの最中には例によって皿を割った。 「カイム……割っちゃった」 「片付けろ」 「私、馬鹿?」 「くそったれだ」 「ふふ」 寝不足のせいで、ため息をつくのも面倒だ。 ヘラヘラしながら皿の破片を拾うエリスの前に、医療道具の入った箱を置く。 「仕事だ、エリス」 「?」 「患者だ」 エリスがぼんやりと俺の顔を見る。 数瞬の後、瞳に生気が戻った。 「カイム……?」 よかった。 理知的なエリスの声だ。 「ジークのところへ行くぞ、昨日のクスリの話だ」 「わかった……っ」 エリスが顔をしかめる。 どうやら、持っていた皿の破片を握ってしまったらしい。 手の平に血の盛り上がりが生まれ、やがて流れ落ちた。 「また、私が……」 自分の手と床に散る破片を、魂が抜けたように見つめる。 割った時のことを覚えていないようだ。 「俺が片付けておく。まずは手当をしろ」 「でも……」 眉を不安げに曲げている。 酒で記憶をなくすだけでも人間はかなりの恐怖を覚える。 ましてや、覚醒時に記憶がないのはどれほど恐ろしいことだろう。 「気にするな」 エリスの側頭部を撫でる。 その手を、エリスの手が外側から覆った。 血液のぬめりを手の甲に感じた。 「私、馬鹿かな」 「そんなことはない」 「でも、自分がどこに行くかわからない」 「……壊れそう」 「大丈夫だ」 根拠などないが、そう言うしかない。 「お前がどこに行くとしても、最後まで見届ける」 不安に揺れるエリスの瞳に、俺が映る。 「見届けるだけ? 一緒に来てはくれないの?」 俺はエリスの親の仇だ。 共に歩むなどありえない。 「お前の道は、お前の道だろう」 手を引く。 エリスが俺の手を離すまいとしたが、思い直したように力を抜いた。 「手、汚した」 「いい。まずは自分の手当をしろ」 「うん」 エリスが自分の手当を始める。 俺は自分の手を洗った。 俺はエリスの親の仇だ。 共に歩むなど……。 そう思った時、エリスの瞳に映る自分を見た。 俺にしては上出来な部類の、同情的な顔をしていた。 「そういう道も、あるかもしれないな」 「カイム……」 エリスが俺の手を握る。 手と手を繋ぐ血に、エリスの心に触れられたような錯覚を覚えた。 「さ、ジークのところに行こう」 「うん」 手を引く。 エリスは、少しだけ手に力を込めてから、俺の手を離した。 「手、汚した」 「いいんだ。お前はさっさと手当をしろ」 「うん」 エリスが自分の手当を始める。 俺も手を洗う。 水に手を浸す直前、気がつくと、俺は手の甲の血を舐めていた。 今朝の飯よりは、何倍も美味い気がした。 「混ぜ物ねえ」 ジークがテーブルの上のクスリを、ためつすがめつ眺める。 「エリス、混ぜられているのが、こっちの黒い粉だってのは確かなのか?」 黒羽が捕えられていた施設から回収した粉を指し示す。 「恐らく」 「だとすりゃ奇妙な話だ」 「黒い粉は、黒羽絡みの施設から出てきたもんだろう?」 ジークの動きが止まる。 何かを思案する顔になり、やがて、ふうんと頷いた。 「エリス。悪いが下でアイリスの面倒でも見てやってくれ」 「なんで?」 「いいから、下りててくれ」 タルそうな足取りでエリスが出て行く。 エリスの足音が遠ざかる間、ジークは煙草に火を点け、大きく煙を吐いた。 ジークの中で何がどう繋がったのか、概ね予測できる。 「気になることが出てきたな」 「ルキウス卿か」 ジークが頷く。 「あいつは羽狩りの頭で、羽狩りは黒羽を血眼になって追っていた」 「例の女隊長の話じゃ、裏がありそうなんだろう? 羽狩りってのは」 「らしいな」 「で、黒羽関連の施設から出てきた粉が、ベルナドが捌いているクスリに混じっている」 「ルキウス卿は、ベルナドに麻薬を供給している貴族に興味がある」 「ずいぶんと好奇心旺盛な貴族様じゃないか」 「何らかの意図があるんだろうな」 「少し調べてみようじゃないか」 「今のとこ、ベルナドの捌いたクスリに混ぜ物があったのか、娼婦が自分の趣味で入れたのかも定かじゃない」 「娼婦から回収したもの以外に、クスリは保管しているか?」 「あるが、大した量じゃない」 「ちょっとばかり、クスリを買い集める必要があるだろうな」 ジークが立ち上がる。 戸棚から革袋を取り出した。 じゃりっと硬貨の音がする。 「俺が買ってこよう」 「部下にやらせる。お前がやるようなことじゃない」 「クスリを買うってことは、ベルナドに小遣いをくれてやるってことだ」 「毎日、〈風錆〉《ふうしょう》と喧嘩してる部下が納得すると思うか」 「なるほど、確かにそうだ」 「正体は隠して調査をしよう」 「不蝕金鎖がクスリを集めてるなんて噂が立てば、出てくるものも出てこなくなるかもしれない」 「わかった。お前に頼もう」 「しかし、ずいぶんやる気じゃないか」 「あの女隊長とのこと、まだ気にしているのか?」 あいつは今も、クーガーが死なねばならなかった理由を探しているはずだ。 黒羽に関係がありそうなことは、俺も調べておきたい。 ……その成果を伝える日が来るかは定かではないが。 「ま、いろいろあるのさ」 「そうかよ」 つまらなそうに言って、ジークが金を突き出した。 「〈風錆〉《ふうしょう》の様子はどうだ?」 「相変わらず、こっちへの挑発を続けてる」 「印をつけてた地図なんざ、もう余白がなくなっちまった」 「だが、それでもみんな、よくやってくれている」 「〈昨夜〉《ゆうべ》の件は?」 自分の脇腹とジークの腕を指さす。 「幸い、まだ噂にはなってない」 「上々だ」 「じゃ、行ってくる」 ロビーに下りてくると、ちょうどオズたちが店に入ってきた。 見るからに疲弊した様子だが、目だけは神経質にぎょろぎょろしている。 いつ後ろから刺されてもおかしくない状況の中、縄張りを守っているのだ。 疲労は相当なものだろう。 「これはカイムさん」 「ご苦労さん」 「いえ、向こうの兵隊と遊べるんで、私は楽しませてもらってますよ」 「ま、若いのは大変でしょうがね」 オズが犬歯を出して笑うと、控えている部下たちは憔悴した笑みで追従した。 見れば、血を流している奴もいる。 「ちょうどエリスがいる、手当してもらったらどうだ」 「ありがたいことです」 「お前ら並べ、エリス先生が手当して下さるぞ」 歓声が上がり、エリスの前に列ができた。 さっきまで倒れそうな顔をしていたくせに、みなガキみたいにソワソワしている。 「私はやるって言ってないけど」 「医者だろうが」 「今日は休みってことで」 「ガタガタ言うな」 あからさまに面倒臭そうな顔をしてから、エリスは道具箱を近くに引き寄せた。 それを確認し、俺は店を出ようとする。 「どこ行くの?」 「野暮用だ」 「遅くなるかもしれないから、お前は先に帰ってろ」 エリスが舌打ちをした。 「お気をつけて。最近は近場でもジャリが歩いてますから」 「ありがとよ」 家で変装を済ませてから、〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りに入る。 そこでは、クスリが当たり前のように売られていた。 酒場で小金を使って得た情報によると、路地に立ちサイコロをいじっている奴が売人らしい。 ぱっと見るだけでも数人は見つかる程だ。 さっさと済ませてしまおう。 「銀貨1で1包みだ」 「これで買えるだけ」 袋に入っていた、最後の金貨1枚を渡す。 「羽振りがいいな」 「こいつは一度やるとたまらない」 「へへ、ほどほどにしておけよ」 「このクスリ、当たりを引くと一発で飛ぶらしいじゃないか」 「当たりだあ? そんなもん、ただの噂さ」 「あんたみたいなイカレた奴が、一度にやりすぎたんだろう?」 「世の中なんでも、長く楽しむには、ほどほどってのが大事だぜ」 「覚えとくよ」 クスリをもらい、その場を後にする。 〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りを出る。 夜中前には、金貨を全てクスリに替えることができた。 何年か前までは、こんなに簡単にクスリを買うことはできなかった。 ベルナドの奴、本当にやりたい放題だ。 奴に牢獄を仕切らせるわけにはいかない。 「……」 路地に、エリスが突っ立っていた。 今日は医者の仕事をさせていたから問題ないかと思ったが……。 家に帰ってから狂ったのだろうか。 あっちもこっちも面倒臭い。 エリスに近づく。 「エリス」 「……?」 ぼんやりしている。 「俺だ。今は変装している」 「あはは、カイムだ」 「何度同じことを言わせる? 夜に一人で出歩くな」 「だって、置いていくから……怖くて」 「ブラついてた方が、もっと怖い目に遭う」 「殺されてもいいのか?」 「……いいよ、別に」 「カイムも構ってくれないし」 「!!」 頭に血が上る。 「帰るぞ」 エリスの腕を乱暴に引く。 「待って、待って……」 「うるさい」 「おいおいやめなよ、痛がってるじゃねえか」 遠くから声が飛んできた。 振り返る。 ベルナドがいた。 周囲には4人の護衛がいる。 「こ、これはベルナドさん」 変装している手前、不蝕金鎖とは無関係の牢獄民を装う。 「自分の持ちもんだからって、あんまり乱暴にしちゃ可哀想ってもんだぜ、カイムよ」 「……」 「エリスも、元気にしているか?」 「……お陰様で」 エリスの表情に嫌悪が浮かんだ。 ベルナドに遭遇したことで、いつものエリスに戻ったようだ。 こいつのベルナド嫌いには、相当の物があるらしい。 「……さて、カイム」 「本日はわたくし共の製品を大量にお求め下さり、誠にありがとうございます」 ベルナドが〈慇懃〉《いんぎん》に頭を下げた。 護衛たちが笑いを噛み殺している。 「なぜ俺だとわかった」 「お前、俺の縄張りで名乗ったか?」 「名乗るわけがない」 「なら、バレた理由は簡単だ」 「お前の変装が下手なんだよ」 「……」 「まあ、そう怖い顔をするな」 「単に、俺の方がこっちの筋じゃ長いってだけのことだ」 「お前が母親の股ぐらから顔を出した頃には、俺はもう不蝕金鎖の副頭だったんだぜ」 「わかるだろう?」 「お前みたいなクソガキを、どうやって一流のクソにするか考えるのも……」 「お前に何をしてもらうか考えるのも、俺の仕事だったってわけだ」 「つまらない話をするなよ」 「組織の名前だけじゃなく、頭まで〈錆〉《さ》びたか?」 「ははは、元気がいいな」 「俺だって、年寄りの〈愚痴〉《ぐち》を聞かせに来たんじゃない」 「お前に頼みがあって来たんだ」 「言ってみろ」 「俺に味方してくれ」 耳を疑った。 馬鹿らしいにも程がある。 「俺一人が味方をしたところで、何も変わらないだろう」 「そうでもない」 「お前がいなければ、今日はジークの葬式だったはずだ」 「それに、お前とジークの付き合いなら隠れ家の一つも知ってるんじゃないか?」 「さてな」 「だが、お前に味方したとして、俺に見返りはあるのか?」 「もちろんだ」 「お前が、俺に覚えててもらっちゃ困ることを綺麗さっぱり忘れよう」 「なんのことだ?」 ベルナドが、エリスに一瞬目をやった。 なるほど。 エリスに事実を告げるってわけか。 ベルナドは、俺がエリスの親を殺したことを隠し通す気だと思ってるらしい。 馬鹿め。 こっちは、すでに自分から秘密を打ち明けるつもりでいる。 今更脅しにもならない。 とはいえ、ここは真に受けたフリをしておいた方が面白そうだ。 「……少し考えさせてくれ」 「ちょっと、カイム」 「黙ってろ」 「味方になってくれるなら、手みやげに応じて礼をしよう」 「例えばそうだな……」 「上層に家を用意して、エリスと遊んで暮らせるようにしてやってもいい」 「あら」 エリスが反応した。 本気か冗談なのかわかりにくい。 「上層とは大きく出たな」 「そう難しいことじゃない」 「ほう」 上層に家を持たせるなど、ジークでも難しいだろう。 後ろ盾に貴族がいるというのは、あながち嘘ではないらしい。 「少し時間をくれないか?」 「構わんが、俺は気が長い方じゃない」 「不蝕金鎖がだんまりを決め込むなら、それなりの手を打つ」 「後になって、さっさとこっちへ付いておくんだったと後悔しないようにしろ」 「2日のうちに返事をする」 「どうやって連絡を取ればいい?」 「ここに突っ立っててくれれば、そのうちこっちから声をかける」 「わかった」 「期待してるぞ」 「お前の力を買ってるんだ。俺の知ってる中じゃ一番だからな」 ベルナドが革袋を地面に放った。 重い硬貨の音がした。 「なんのつもりだ?」 「今日買ってもらったクスリはくれてやる」 俺が売人に払った金を返してくれるらしい。 ベルナドにクスリを返す必要はない。 つまり、そっくり俺への小遣いになる。 金貨が10枚といえば、かなりのものだ。 「気前がいいこった」 「誠意ってやつだ」 嫌な笑いを残してベルナドは俺に背を向けた。 殺してやりたいが、今はエリスがいる。 それに…… 離れた路地の影から、ずっとこちらを〈窺〉《うかが》っている顔があったのだ。 「……」 一体、何者だろう。 目が合った。 女の顔に微笑が浮かぶ。 底冷えのする暗い笑顔だ。 知らず知らずのうちに、手がナイフの〈柄〉《つか》に伸びる。 「(抜けよ)」 そう、口が動いた気がした。 「知り合い?」 背後からの声に振り返る。 「いや」 「気持ち悪い女」 「まったくだ」 と、 再び前を向いたとき、女はすでに消えていた。 いつか、あいつと戦うことになるのだろうか。 「ベルナドに弱みでも握られてる?」 「握られてるふりをしているだけだ」 「お前こそ、あいつと何かあったのか? だいぶ嫌ってるじゃないか」 「大したことじゃない」 「あいつが死んでくれれば、それで収まる程度のこと」 「ほう」 ま、訊いて教えてくれることでもないだろう。 「このお金、どうする?」 ベルナドが置いていった革袋を、エリスが爪先でつっつく。 「奴から施しを受ける義理はない」 「途中で、乞食にでもバラ撒いてやろう」 「名案」 変装を解いてから娼館街へ来た。 ここ数日で、娼館街の客は明らかに減っている。 〈風錆〉《ふうしょう》の動きが影響しているのは明白だ。 「今、いいか?」 「ああ」 ジークが、持っていた煙草を灰皿で消した。 針山のように煙草が刺さっている。 「クスリを買ってきた」 「早いな」 「奴らクスリと酒の区別がついてないらしい、どこでも買えたよ」 「全部で100程度はあるはずだ」 クスリを、買い取った売人ごとに分けてテーブルに広げる。 白い紙包みが小さな山になった。 娼婦から回収したものと同じ紙包みだ。 それぞれはほぼ同じ形をしており、見分けはつかない。 「複数の売人から買ったのか?」 「ああ。にもかかわらず包みの形が一緒だ」 「どこかで一括して包んだものが、売人に〈卸〉《おろ》されてるわけだ」 「売人によって値段は違ったか?」 「同じだ。日によっても値段はさほど上下しないらしい。供給量は安定しているようだな」 「あとは、中身か」 「当たりがあるかどうか」 「間違って吸い込むなよ」 二人で、ひとつずつクスリを調べていく。 混ぜ物がある包みは見つかるだろうか。 「ジーク、見ろ」 19個目の包み。 明らかに、その他より灰色がかった粉末が入っていた。 エリスが見つけたものと同じような色をしている。 「当たりが出たな」 「ああ。残りも全部調べてみよう」 残りの包みを調べていく。 結果── 灰色の粉が入っていたのは、96個中2つだった。 売っていた売人は別の人間だ。 「つまり、混ぜ物を作ったのは売人より上の奴ってことだ」 「製造元か、ベルナドか、売人か……」 「特定できないが、少なくとも買った人間が自分で作ったわけじゃない」 「黒い粉の効果がわかれば、また変わるかもしれない」 「カイムが試してみるか?」 「阿呆か」 「ははは、ま、効果はこっちで調べておこう」 ドアがノックされた。 「少し待て」 「普通のクスリはもう要らんが、どうする? 記念に持って帰るか?」 「いらん」 「だろうな」 ジークは、クスリを袋にまとめて机の引き出しに放り込んだ。 「入っていいぞ」 「失礼します」 オズと部下2人が入ってきた。 部下の片方は威勢の良いサイだ。 「どうした?」 「悪い知らせです」 「〈黒黴〉《くろかび》通りにある店4軒に強盗が入りました」 「殺されたのは、大人の男が6、女が7、子供が10です」 「生存は子供一人。片手を落とされただけでした」 「強盗は子供に対して、恨むなら不蝕金鎖を恨めと言い残したようです」 淡々とした調子でオズが言う。 「素人に手を出したか」 「私たちの警戒が行き届いておりませんでした」 「不蝕金鎖の名前に泥を塗ってしまい、申し訳ありません」 〈黒黴〉《くろかび》通りは、不蝕金鎖のシマの中でも大きな商店が並ぶ通りだ。 ベルナドの仕業と見て間違いないだろう。 「不蝕金鎖がだんまりを決め込むなら、それなりの手を打つ」 「後になって、さっさとこっちへ付いておくんだったと後悔しないようにしろ」 「そういうことか……あの野郎」 「どうした?」 「実は、今日ベルナドと話をした」 「なんですって?」 クスリやエリスの件は伏せ、ベルナドとのやりとりを説明する。 「なかなか良いところに目をつけるじゃないか、ベルナドも」 「褒めるようなことじゃありません、ジークさん」 「ははは」 「で、カイムはどうする?」 「裏切る気なら報告などしない」 「まあ、そうだな」 「頭っ」 サイが進み出る。 「カイムさんにコナかけるなんて、あの野郎、完全に俺達を舐めてますよ」 「俺達の力を見せつけてやりましょう」 「もう少し待て」 「いま動けば、こちらの被害も大きくなる」 「じっとしてるのが俺達は一番辛いんです」 ジークは腕を組んで目を閉じた。 「頭っ!」 「いい加減にしねえか、ジークさんが動くなと言ってるんだ」 「でも……我慢しろ、我慢しろってただ言われるだけじゃ、もう……」 「出てけ、頭を冷やしてこい」 「オズさんっ」 「出てけ」 「……へい」 悔しげに言って、サイは部屋を出ていった。 残った部下も、気まずくなったのか部屋から消える。 「申し訳ありません、〈躾〉《しつけ》が行き届かず」 「いや、お前にも苦労をかける」 「あと数日だけ、なんとか保たせてくれ」 「数日後には期待してよろしいんでしょうか?」 「もちろんだ」 部下たちの疲労と不満は、日に日に高まっている。 このままでは、遠からず暴発するだろう。 ジークの計画が間に合えばいいが。 「これからが山か」 「まさにな」 「いろいろと頼むかもしれんが、よろしく頼む」 「ああ」 「今日のところは引き上げる」 別れ際、ジークの目を見た。 その深紫の瞳には、まだ強い意志が感じられた。 家には明かりが灯っていた。 先に寝ていろと言ったはずだが……。 エリスは、またおかしなことになっているのだろうか。 生気のない顔が頭に浮かぶ。 あの状態のエリスは、見たくない。 正直こたえる。 じくじくと俺の罪を責められている気分になるのだ。 家には入らず、ヴィノレタで飲み明かせたらどんなに楽だろう。 できることなら、医者として働いていた、少し前までのエリスに戻って欲しい。 今となっては、あの素っ気ない口調と、面倒臭そうな態度が懐かしい。 イカレてるだの頭の病気だのと思っていたが、それはそれでエリスは俺に馴染んでいた。 罪滅ぼしとはいえ、4年も身近において世話をしてきたのだから当たり前だ。 「……」 扉に手を伸ばす。 「いま帰った」 やはり、エリスはベッドで膝を抱えていた。 エリス……。 「帰ったぞ」 「……」 大声を出す気力もない。 さっさと寝てしまおう。 「……?」 テーブルの上の食事に気がついた。 煮込み料理と、パンとワイン。 見たところ、真っ当な飯だ。 グラスの下に紙が挟んである。 広げると、それは手紙だった。 『いつも変な料理でごめん』 『自分ではどうにもならないの』 『だからヴィノレタの料理を食べて』 まともな時に、エリスが気を利かせて買ってきたのだろう。 久しぶりの美味い飯だ。 席に着き、さっそく食べ始める。 ワインは上等。 煮込みも、食べ慣れたヴィノレタの味だ。 美味い。 エリスの複雑怪奇な料理とは大違いだ。 美味い……。 美味いじゃないか……。 そうだ、これからはヴィノレタの飯を運ばせよう。 もう、エリスの飯を食う必要はない。 ……。 違う。 違うだろ。 手が止まった。 エリス……。 違う。 そういうことじゃないんだ。 ……俺は、不味くてもいいんだ。 俺は…… 俺が食いたいのは…… わけのわからない感情で胸がいっぱいになる。 「畜生……」 「なんなんだ、これは……」 思わず、顔を手で覆って〈項垂〉《うなだ》れた。 「エリス……」 馬鹿な女なんだ、エリスは。 イカレていて、煩わしくて、手がかかって── ロクな飯も作れず、変なことばかりする── どうしようもなくクソったれな女なんだ。 そのくせに、どうして…… 俺は、こんなにも悲しい。 畜生……。 「……カイム?」 ぼんやりした声が聞こえた。 「お、おう」 〈袖〉《そで》で顔を拭ってからエリスに顔を向ける。 「よかった……帰ってきた」 「当たり前だろ。ここは俺の家だ」 エリスが微笑む。 「怖かった」 「カイムがいないと、怖くて怖くて……」 「そんなこと考えてると、頭がぼんやりしてよくわからなくなる」 迷子の子供のような目で俺を見てくる。 「大丈夫だ、ここにいる」 「うん」 「私、これから何したらいい?」 「もう遅い、寝ろ」 「わかった」 エリスが、くたりと横になる。 「この飯、お前が買ってきたのか?」 「そう……だと思う」 「明日からは、お前が作れよ」 「わかった」 少し嬉しそうに言った。 「さっきまで、夢、見てたかも」 「どんな?」 「幸せな夢」 「上層の綺麗なお屋敷で、カイムと暮らしてた」 「お前、ベルナドの話を真に受けてるのか?」 「わからない」 「でも、私が役に立つことをしたら、きっとご褒美をくれると思う」 まともな判断ができていないのかもしれない。 一度きちんと言っておこう。 「エリス、よく覚えておけ」 「ベルナドは……いや、組織にいる人間は裏切り者を信用しない」 「最初は丁重に扱うふりをするだろうが、用が済めば殺されるぞ」 「一度誰かを裏切った人間は、裏切り癖がついてるからな」 「でも……」 「でもじゃない」 強く言う。 「ベルナドの話は忘れろ。もう二度と考えるな」 「うん……」 「寝ろ。俺も寝る」 話を打ち切る。 諦めたのか、エリスも静かになってくれた。 呆けていたら呆けていたで気に掛かるし、起きていたら起きていたで〈鬱陶〉《うっとう》しいのだから困る。 なんとかならないものか。 そう考え、今日も親を殺したことを打ち明けられなかったことに気づいた。 昨夜は、〈悶々〉《もんもん》としていたせいか極端に眠りが浅かった。 二日連続の寝不足で、足運びもしっくりこない。 娼館街の雰囲気が、いつもとどこか違っていた。 ざわついているというか、浮き足立っているというか、雷雲が迫ってきている日のような空気だった。 心の準備をしながらリリウムへ向かう。 リリウムの周囲に人垣があった。 隙間から店の様子を窺う。 ロビーが、不蝕金鎖の構成員で埋まっていた。 武装を固めているところを見ると、娼婦の安売りが始まったわけじゃなさそうだ。 「カイム、カイムっ」 「おう」 少し離れたところに、メルトとティアが立っていた。 「カイムさん……リリウムは大丈夫でしょうか?」 「こっちが聞きたい。何が起ってる?」 「よくわからないんだけど、ジークが襲われたって話で」 「ジークが?」 「不蝕金鎖の方が話していたので様子を見に来たのですが……」 「見てくる」 人垣を押し分ける。 店内はむせ返るような熱気だ。 ソファに座ったジークと傍らに立つオズに、構成員たちが迫っている。 「頭、ベルナドの野郎にやられたってのは本当なんでしょう!?」 「頭っ、答えてくださいよっ」 ジークは腕組みをして、むっつりと黙り込んでいる。 「馬鹿言うんじゃねえよ。ジークさんは見ての通り怪我なんてしてねえ」 「てめえの目は、女の乳の大きさしか見分けられねえのか?」 「だから、さっきから申し上げてるじゃないですか」 「腕さえ見せてくれりゃ、みんな納得するんですよ」 「奴らに腕をやられたんじゃないんですか?」 状況は大体飲み込めた。 大方、〈風錆〉《ふうしょう》の奴らが、ジークが襲われたという噂をばらまいたのだろう。 それを聞いた若いのが我慢しきれなくなったのだ。 「このまま引き下がっちゃ、末代までの恥です」 「いま正面からやっても、無駄死にするだけだ」 「奴らが手ぐすね引いて待ってるのがわからねえのか?」 「わかってますっ」 「わかってますが、黙ってるわけにゃいかねえでしょう」 「ここにいる奴らは、死ぬ覚悟なんてとっくの昔にできてます」 「頭っ、俺達を腰抜けにしねえで下さいっ!」 サイが頭を下げる。 それを見た男たちも揃って頭を下げた。 一人だけ頭を下げていない俺を、オズが見た。 助けなど求めていない、無感情な顔をしていた。 俺は、壁に背を預けて腕を組み、傍観を決め込む。 今まさに、ジークが頭としての資質を問われているのだ。 彼が独力で乗り切ってこそ、組織は彼のものとなる。 ジークが自分の言葉で話さず、自ら行動しなければ、部下たちは落胆し離れていくだろう。 俺が口を出すところではない。 「何度も言うが、俺は襲われていない」 「これは、俺達を戦場に引っ張り出そうとするベルナドの罠だ」 「いい加減にしてくだせいっ!」 「怪我はしてねえが腕は見せられねえじゃ、お話にならねえ」 「てめえ、なんて口をっ」 「オズさんは黙っててください」 斬りつけるように言って、サイはジークを見る。 「それでも俺達に動くなってことなら……」 サイが、腰に差していたナイフをジークの前に置く。 「俺の命で、集まってくれたこいつらに詫びを入れさせてください」 「こいつらは、俺の言葉を信じて、死ぬ覚悟で来てくれたんです」 「手ぶらで帰らすわけにはいきません」 サイが再び頭を下げた。 リリウムのロビーには、物音一つなくなった。 ジークは、腕を組んだままサイを見つめている。 誰もが、身じろぎ一つせず、ジークの挙動を注視していた。 弓を限界まで引き絞ったような空気。 ジークが腕組みを解く。 左手がナイフに伸びたかと思うと、次の瞬間には、白刃が高々と掲げられていた。 鈍い音がした。 「……」 「……」 「……」 「く……」 刃は、ジークの左腕を抉っていた。 そこは、俺が包帯を巻いた箇所だ。 「か、頭……」 ジークは、〈呻〉《うめ》き声一つ発さず腕からナイフを抜き、それをテーブルに突き立てた。 「お前たちの気持ちは、俺が今、この腕に刻んだ」 「お前たちが悔しさに唇をかむとき、その痛みは俺にも伝わるだろう」 「だから、あと少し、あと少しだけ堪えてくれ」 「頭……」 サイがうなだれる。 しばらく、凝固したように立ち尽くしたかと思うと、詰めかけた部下たちの方に振り向いた。 「頭は、確かに腕にお怪我をされていた」 「だがこれは、〈風錆〉《ふうしょう》の奴らにやられたものじゃない」 「お前ら、間違いねえなっ?」 部下たちの気合いの入った返事が、リリウムを震わせた。 野暮は言わず、みながジークの意図を察したらしい。 「俺がつまらない噂に踊らされたせいで、みんなには迷惑を掛けた」 「持ち場に戻って、街の奴らを〈風錆〉《ふうしょう》から守ってやってくれ」 全員が一斉に頭を下げ、リリウムを出て行く。 それを見届け、サイはジークの眼前に〈跪〉《ひざまず》いた。 「申し訳ありませんっ」 一度、二度と頭を床に打ち付ける。 「過ぎたことだ」 ジークが、テーブルに刺さっていたナイフを抜き、鞘に収める。 それをサイに突き出す。 「血で汚れたナイフは扱いにくい」 「いざって時のために、きちんと磨いておけ」 だが、サイは受け取らない。 頭を床につけたままだ。 「俺は、飢えで死にそうなところを頭に拾われ、ここまでにしていただきました」 「このご恩をなんとかお返ししようと今までやって来ましたが」 「それが……それが……このようにみっともないことを……」 声が〈擦〉《かす》れた。 「お前はよくやってくれている」 「いえ……責任を取らせてください」 「必要ない」 「もし償う気があるなら、明日から精一杯シマを守れ」 「……」 それでもサイは頭を上げない。 「いい加減にしねえか」 「頭はお怪我をされてるんだぞ」 「す、すみません……」 「で、でも……是非ともお耳に入れたい策があります」 「てめえっ」 「構わん」 「上で手当をしながらでいいか?」 「へいっ」 「カイム」 突然、ジークが呼んだ。 「なんだ?」 「手当を頼めるか。医者は呼べん」 「人を見る目があるな」 「こう見えて、傷の手当は割と得意なんだ」 「ほう、知らなかった」 ジークが口の端で笑った。 「派手にやったじゃないか」 「性分でな」 ジークの腕の手当をする。 先日刺客にやられた傷が、見事に上書きされていた。 「オズも手当の一つくらい覚えておいて損はないぞ」 「面目もございません」 「逆の仕事なら得意なんですが」 「覚える気などないくせに」 苦笑しながらジークが煙草をくわえる。 サイが火を差し出した。 「で、策ってのは?」 「はい……昨日カイムさんが仰っていたベルナドの話を聞いて考えたのですが」 「頭を裏切るフリをして、ベルナドをおびき寄せてみてはどうでしょう?」 「ほう」 「頭の隠れ家として、こっちの待ち伏せに都合がいい場所を教えてやるんです」 「そして、奴らがノコノコやってきたところを……ガツンと」 「ベルナドが来る可能性は低いだろうな」 「あいつは、俺とジークの関係を知っている」 「直々に出てくるほどには俺を信用しないだろう」 「ベルナドが来ない場合には見逃せばいいんです」 「確かに、見逃すならベルナドが来なかった場合の損害もありませんね」 「俺がベルナドから目の仇にされるが」 「今更だろう」 「ベルナドの提案を断った時点で、どうせカイムはあいつの敵だ」 「完全に他人事だな」 「まあそう言うなよ」 笑いながら煙を吐く。 「この策が使えるのは、一回限りです」 「失敗しても被害がないなら、やってみた方がいいんじゃないでしょうか」 「お前がやりたいんだろう」 「はい、ゴタゴタを起こしたままじゃ申し訳が立ちません」 「お願いします、俺にやらせてください」 「ベルナドに思い知らせてやりたいんですっ」 サイが勢いよく頭を下げる。 ジークは黙った。 オズがジークに目配せをしている。 乗り気ではないようだ。 「ベルナドが来なかった場合、絶対に手を出すな」 「仲間が一人でも欠けたら、俺が許さん」 「あ、ありがとうございますっ!」 サイが顔を上げる。 「必ずベルナドを始末してやりますっ」 「期待してるぞ」 「へいっ」 「待ち伏せの場所や、ベルナドに流す情報についてはこちらで決定する」 「お前は、信頼できる仲間を集めろ」 「任せてください」 言うなり、サイは弾むような足取りで出て行った。 子供が遊びに出るような無邪気さだった。 「気乗りしませんね」 「俺もだ」 「俺もだ」 ジークが新しい煙草に火を点ける。 「だが、ここで何かやらせておかないと、もっとマズいことをしそうな気がしてな」 「なるほど」 「頭は、若いころの先代に似てまいりましたね」 「褒め言葉か?」 「もちろんです」 「……そうか、ありがとよ」 少し影のある声でジークが言った。 「さて、ベルナドを待ち伏せする場所でも考えるか」 「カイム、力を貸してくれ」 「ああ」 一通りの打ち合わせを終えた。 隠れ家として教えるのは、以前、実際に使用していた隠れ家だ。 ジークは日ごとに寝床を替えており、この隠れ家で寝るのは3日おき。 直近では、明後日の夜という設定にしておく。 「あとは、ベルナドに情報を伝えたときの様子を見て考えよう」 「いつ接触するつもりだ?」 「今夜だ。時間を空けてもいいことはない」 「気をつけろよ」 「もちろん」 窓から外を見ると、まだ日が高い。 日が落ちてから行動することとしよう。 「それでは、私は隠れ家の下準備にかかりますので」 「頼んだぞ」 〈慇懃〉《いんぎん》に頭を下げ、オズが出て行った。 「腕の調子はどうだ?」 「痛くないと思うか?」 お手上げの身振りをする。 「ま、痛い思いをする価値はあったと思う」 「あそこにいた奴は、みなお前に惚れたんじゃないか?」 「お前はどうなんだ?」 真剣な目で見つめられた。 「結婚したいくらいだ」 「奇遇だな、俺もだ」 今日の件は、さすがのジークも緊張したのだろう。 いつもより軽い冗談だった。 ジークが、椅子の背もたれに体重を預け、脚を机に載せる。 口から出る煙草の煙が輪になって上っていく。 「そういえば、灰色のクスリの効果、オズに調べさせたよ」 「飲んですぐに苦しみだし、何度か瞬きするうちに死んだそうだ」 「クスリというより、強力な毒だな」 「哀れな犠牲者はどこのどいつだ?」 「知らん。オズのお眼鏡にかなったバカだろう」 「無断で商売でもしたか、羽つきでも売ってたか……ま、どうでもいいことだ」 「新種のクスリを使うと、たまに一発で飛ぶヤツがいるって噂があったが、要は灰色のを引いたってことか」 「そうなるか」 「問題は、なんでそんなもんを売ってるかってことだ」 「クスリの水増しが目的か、殺しが目的か」 「水増しが目的なら無害な小麦粉でも混ぜるさ。死人を出して客を減らしても得はない」 「とすると、殺しが目的か」 「……しっくりこないな。ベルナドが、クスリに毒を混ぜて喜ぶタマか?」 「下っ端の売人のささやかな楽しみかもしれん」 「バレたら確実に殺されるぞ。真っ当な頭をしてるなら絶対にやらん」 「まともに考えると、残るのはベルナドの裏にいる貴族か」 ジークと目が合う。 ルキウス卿はこのことを察しているのかどうか。 もしかしたら、初めから知っていたのかもしれない。 そこのところは、ジークに任せよう。 「彼との打ち合わせは、あとどのくらい続くんだ?」 「次か、その次が最後だろう」 部下たちにも、あと数日待てと言っていたジークだ。 その辺で話が付かないと、部下の暴発は確実だろう。 「想定通りにいけば、怪我人をほとんど出さずにベルナドを潰せると思う」 「明日、面会の予定がある。護衛を頼んだぞ」 「わかった」 「いよいよ大詰めだな」 ジークが頷く。 「お前の方はどうだ? 大詰めか?」 「エリスのことか……」 大詰めと言うより、手詰まりだ。 まったく良い方向には向かっていない。 「殺しの件は打ち明けたのか?」 「まだだ」 結局、昨日も打ち明けることができなかった。 イカレたあいつを前にすると言葉に詰まってしまうのだ。 「どうせいつかは言わなきゃならんことだろ」 「わかってる」 「惚れたか」 「俺が?」 「打ち明けて、関係が壊れるのが怖いんじゃないのか?」 間違いではない。 しかし、 「一番怖いのはそこじゃない」 「打ち明けたらどうなるのか、俺の期待する成果があるのかわからないんだ」 「エリスの中身が意味不明すぎてな」 テーブルを縁取る、〈蔦〉《つた》が絡み合った模様を指でなぞる。 「この模様みたいなもんだ」 「いくつもの草が絡まり合っていて、どの草を引っ張れば綺麗に解けるのかわからない」 「もしかしたら、どこかに結び目ができてしまって永遠に解けなくなるのかもしれない」 ふうん、とジークは気の抜けた〈相槌〉《あいづち》を打った。 机の上で組んだ足を、ゆっくりと組み替える。 「言うほどエリスは複雑かね」 「身請けしたんだから抱いてください、はいそうします、で終了じゃないか。何の問題もない」 「今からでも家に帰って、股ぐらのを突っ込んでやりゃいい話だ。泣いて喜ぶぜ」 「そうできない理由はわかってるだろ」 エリスを身請けした金の一部は、あいつの親の命から来ているのだ。 「結局、問題を複雑にしているのはお前だ」 「はなっから抱いてりゃ何の問題もなかったのに、お前はあいつを突き放し、その理由を説明しなかった」 「その宙吊り状態があいつをおかしくしたんだろう?」 「そうだな」 「あいつにとっちゃ、お前は呪いみたいなもんだ」 「いい加減、解放してやったらどうだ?」 「……」 「ま、エリスが複雑だろうが単純だろうが、お前にできることは決まってる」 「それがわかっていてできないのは、単にお前が臆病なだけだ」 「やるよ」 「犯るのか」 「違う」 「話をつけるってことだ」 話をしたところで、おかしくなっていくエリスを止められるかは不明瞭だ。 俺はエリスに、何一つまともなことをしてやれない。 ひたすら俺に手を伸ばしている女を前に、抱くこともできず、優しい嘘をつくこともできず── できることと言えば、腐った打ち明け話をすることだけ。 「お前が、女のことでここまで悩むとはな」 「女?」 違和感があった。 俺にとってのエリスは、『女』なんていう明確な直線で構成された枠に入る人間じゃない。 「確かに女ではあるが……あいつはもっとごちゃっとしたものだ」 「カイムをして、詩人にさせるとはね」 「ふん」 ソファから立ち上がる。 「出かけるのか?」 「ここじゃ、湿っぽい話しか出ないからな」 「長居すると〈黴〉《かび》が生えそうだ」 扉に向かう。 「日が暮れたらベルナドに会ってくる。打ち合わせどおりに進めるぞ」 「くれぐれも注意しろ。命をかけるような仕事じゃない」 「わかってる」 日が傾いてから、俺はベルナドと約束した場所に立った。 やがて夜の〈帷〉《とばり》が下りる。 もとから少ない通行人は完全に絶え、動くものと言えば鼠くらいなものだ。 ……静かだな。 背を預けた石壁の冷たさも心地良い。 これから敵対する組織の頭を騙そうというのに、なぜか落ち着きを感じてしまう。 少し疲れているのかもしれない。 複数の足音が近づいてきた。 お出ましだ。 もしもの際の退路を、頭の中で確認する。 最悪、いきなり襲われかねない状況でもあるのだ。 路地にベルナドが現れた。 周囲には先日と同じ護衛がいる。 恐らく、例の女もどこからか見張っているのだろう。 「来てくれるとは思わなかった」 「俺も来るつもりはなかった」 「ジークとは長い付き合いだ。正直、お前に味方するのは気に入らない」 「だが、冷静さは失っていないつもりだ」 「俺達のような仕事をする人間には、何より大切なことだよ、カイム」 「情に流された人間から、消えていく」 情に流された人間か…… それは、先代のことか、ジークのことか、ベルナド自身のことか、俺のことか。 あっちもこっちも情に流されている奴ばかりだ。 「何がおかしい」 「いや、思い当たることがありすぎてな」 「で、お前はどうする?」 「牢獄を出ることにした。もう、殺す殺されるの生活はうんざりだ」 「そりゃいいことだ」 「女のことは忘れてくれるんだろうな?」 「もちろん綺麗さっぱり忘れるさ」 「この商売、取り引きには誠実でないとな」 「違いない」 「で、いつ出る? こっちとしちゃ一日も早く消えて欲しいが」 「それについてだが、実は土産がある」 「牢獄を出た後の生活費が心もとなくてね」 「どんな土産だ」 「ジークの隠れ家を教えよう」 「秘密を守るために警備はほとんどない。襲えば確実に殺れるだろう」 「それが本当なら、しばらく暮らして行けるだけの金をやろう」 「ありがたい」 「なら、今日は半金をもらいたい」 「不蝕金鎖の片が付き次第、俺は牢獄を離れる。その時にもう半分」 「真偽もわからない情報に金を払えと?」 「ジークを殺した後じゃ、俺に金を払う意味はないだろ」 「お前の心配ももっともだが、半額は多い。こんなところで勘弁してくれ」 ベルナドが革袋を放ってよこす。 「金貨で200だ」 「隠れ家が本物だとわかったら、あと800渡そう」 合計で金貨1000。 「ま、妥協しよう」 革袋を拾い中をあらためる。 きっちりと金貨が入っていた。 「で、隠れ家はどこにある」 「これに書いてある」 懐から紙を出す。 「渡してもらおう」 「その前に」 「金は払ったんだ、からかうんじゃないぜ」 ベルナドの表情が険を帯びる。 「なに、大したことじゃない」 「あの女について知ってることを、全て教えてくれないか?」 「気がかりで夜も眠れなくてな」 「そんなことか……いや、そんなことと言っちゃ失礼だな」 「いいぜ。忘れる前に、知ってる限りのことは教えよう」 ベルナドが語り始める。 ひどく嘲笑的な、ふざけた口調だった。 9年前のあの日。 俺は暗殺者としての仕事に臨んでいた。 目標は言わずとしれたエリスの両親だ。 俺が二人を殺害した後、屋敷の金品の整理に当たったのがベルナドだったという。 換金できる金品をあらかた運び出した後、ベルナドは戸棚の裏に隠し通路を発見した。 「扉を見つけたとき、俺は興奮したね」 「あんなに凝った仕掛けは見たことがなかったからだ」 「扉の先にどんなお宝が隠されているのか想像するだけで、得物がカチコチになっちまった」 扉の先には地下通路があった。 鍵付きの扉を何枚か壊して先に進み、ベルナドはとうとう一つの部屋に辿り着く。 そこは、驚くほど豪華で清潔な部屋だった。 だが、ベルナドを最も驚かせたのは、床が見えないほど積まれた人形と、それらに埋もれるように横たわっていた少女だった。 それこそが、エリスだ。 「変なガキだったよ」 「脚は痩せてて自分じゃロクに歩けない」 「喋りもしなけりゃ動きもしないし、こっちの声にも反応しない。まあ生き人形だ」 ところが、エリスを部屋から出そうとすると、半狂乱になって暴れだしたという。 処刑台に上らされる罪人もかくやという騒ぎっぷりに、ベルナドはエリスを気絶させてからリリウムまで運んだらしい。 「ガキを監禁する親ってのは、まあそこそこいるもんだが、大抵監禁したまま面倒は見ない」 「餌もやらなきゃ部屋の掃除もせず、死んでも放っておくのがお決まりだ」 「ところが、エリスは違った」 「部屋の中だけ見れば、完全にお姫様扱い。食事も掃除も申し分ない」 「逆に、そこが気持ち悪いところだがな」 「そうか……」 初めて知る、エリスの幼少期。 お姫様扱いだかなんだか知らないが、つまりは人形として育てられていたのだ。 恐らく、話す自由も、部屋から出る自由もなかったのだろう。 悲惨なものだ。 「感謝してくれよ」 「俺が館をちゃーんと調べたからこそ、エリスは今も生きてるんだ」 「ああ、まさか隠し部屋があるとは思わなかった」 「金持ちの家ってのはそういうものだ」 「これからは、棚の裏まで調べるようにするんだな」 勝ち誇った表情でベルナドが言った。 ど畜生が。 「俺が知ってるのはこのくらいだ」 「娼館に突っ込んでからのことは知らん」 「いや、もう十分だ」 ジークの隠れ家の場所が書かれた紙を渡す。 ベルナドはそれをしばらく眺め、にやりと笑みを浮かべた。 「これで、ジークともお別れだな」 「ま、そりゃあんたらの仕事だ」 「ジークは2、3日おきに寝床を変えている。次にそこで寝るのは明後日だ」 「つくづく慎重な奴だ」 「だから、今まで生きて来られたんだろう?」 「……今まで、な」 地図を懐に収め、ベルナドが〈踵〉《きびす》を返す。 余裕に満ちた動きだ。 俺のことを信用したと見てよいのだろうか。 ジークに状況を報告し、帰途につく。 ふと、ヴィノレタの明かりが目に入った。 久しぶりにやっていくか。 「いらっしゃい」 「最近、忙しいみたいじゃない」 「多少な」 カウンターに落ち着き、火酒を注文する。 店内を見回す。 娼館街同様、客は減っていた。 「はい、お酒」 杯を受け取り、縁を舐めるように飲む。 強い酒精が鼻に抜けた。 「結局、今朝のリリウムは何だったの?」 「〈風錆〉《ふうしょう》絡みでちょっとな。もう解決したしジークにも問題はない」 「よかった」 「最近ほら、物騒じゃない? だから心配してたの」 「ジークに任せておけば、きっとまた静かになるさ」 「飲み屋の女将が暗いんじゃ、酒がまずくなるぞ」 「あはは、そうね。しっかりしなきゃ」 メルトが前掛けの紐を結び直す。 「あ、カイムさん、いらっしゃい」 厨房からティアが顔を出した。 「真面目に働いてるか?」 「はい、もちろんです」 誇らしげに包丁を突き出す。 「あ、そうそう」 「ティアちゃん、金庫脇の引き出しに〈巾着〉《きんちゃく》が入ってるから持ってきてくれる? 赤いやつね」 「あ、はい。わかりました」 「〈巾着〉《きんちゃく》がどうかしたのか?」 「先日、お客の中にクスリを持っていたのがいたから取り上げたの」 「メルトの前でクスリとは命知らずだな」 「まったくよ。ここに持ち込むなんて許せない」 「次見つけたら、リリウムに連れてくから」 「クスリにはまってるのは何するかわからんぞ。気をつけろよ」 「わかってるって」 「持ってきましたー」 「開けてごらんなさい」 「いいんですか?」 ティアが〈巾着袋〉《きんちゃくぶくろ》から中身を取り出す。 手の中には、三角形の見慣れた紙包みが2つあった。 「お薬……でしょうか?」 「恐らく麻薬よ」 「なるほど……」 「って、えええっっ!?」 ティアが一瞬顔をしかめ、持っていたクスリをカウンターに放る。 「こら、丁寧に扱って」 「す、すみません。何かちくっとした気がして」 念のため紙包みを調べる。 2つの紙包みのうち片方は、黒っぽく汚れている。 中を確かめてみると、やはり灰色の粉末が入っていた。 灰色の成分が包み紙に染み出したのだろう。 もう片方の包みは、通常の白いクスリだ。 「何かあったの?」 「いや、何も」 「これは、ジークに預けておく」 「ええ、よろしくね」 クスリを懐に収める。 「あ、そうだ。今日もエリスさんがいらっしゃいましたよ」 「エリスが? 何しに来た」 「カイムさんに食べさせたいからって、料理を買いに」 ……エリス。 何ともいえず胸が痛む。 「料理は、エリスさんがしてるんじゃなかったんですか?」 「あ、もしかして、お前の飯はまずくて食えん、とか言ったんじゃ?」 ……もう、あいつの飯は食えないのだろうか。 「あの、カイムさん? カイムさーん?」 「……ああ、なんでもない」 「あいつがまずいのばっかり作るんで、怒鳴ったんだ」 「それで学習したんだろ」 「やっぱり!」 「ひどいです、エリスさんもカイムさんのためを思って一生懸命なのに」 違う。 エリスの話は勘弁してくれ。 「……」 「ティアちゃん、厨房が忙しそうだから、そろそろ戻ってあげて」 「あ、はい、すみません」 「とにかく、女の子には優しくしてください」 言い置いてティアが厨房に戻る。 くそっ。 火酒を空ける。 「もう一杯」 「エリス、様子がおかしいわね」 メルトが酒を注いでくれる。 「ああ……」 「同居を始めたのが間違いだったかもしれん」 「上手くいってないんだ」 無言で肯定する。 「あの子、癖が強いからね」 「ああ。どうしたら上手く転がるんだろうな……」 「古井戸みたいな女だよ。底に何が溜っているか全くわからない」 「でも、わからないなら尚更、覗き込むなり桶を入れてみるなりしないとね」 「そういう努力、してる?」 「……」 しているつもりではいるが。 「他人なんて、少なからず自分とは全く違う理屈で動いてるものよ」 「料理の好みと同じで、カイムがおいしいと思うからって、エリスがそうだとは限らないんだから」 「共感することは難しくても、エリスはこんなものをおいしいと思うんだなって理解することは必要だと思うわ」 「今更だな」 「もう、来るところまで来てしまった」 「私で力になれることがあったら、なんでも……」 「もういいんだ」 「俺にできることは一つしかない」 火酒を〈呷〉《あお》る。 酒精が身体に沁みこんでいく。 「何するつもり?」 「……酒」 もう一杯酒を注いでもらい、それも一気に〈呷〉《あお》る。 「そのうちわかるさ」 「心配してるんだからね」 「ああ……わかってる……」 二日連続の寝不足のせいか、眠気が急激に襲ってきた。 メルトの前で、少し安心していたのかもしれない。 「カイム、大丈夫?」 「……平気だ」 「少し休んでく?」 「帰る……エリスが」 エリスの元に戻らねば。 「たった3杯で、これか」 「本当に無理しないで」 「ああ……つけといてくれ」 椅子から立ち上がり、店を出る。 むっとする夜風。 酔い覚ましにならないばかりか、いっそう思考を鈍らせる。 家の前に着いた。 窓に明かりは見えない。 エリスは寝ているのだろうか。 ドアを開く。 部屋の中で、白いものが舞っていた。 窓から差し込む月明かりの中、それは雪のようにも見える。 一つを手に取る。 羽毛だった。 馬鹿が。 羽毛に引火しないよう、ランプに火を点ける。 ベッドに座ったエリスの横には、枕の残骸があった。 「お帰り」 エリスが枕の残骸を振り回す。 起こった風で、床の羽毛が舞った。 不規則な羽毛の動きが、酒で重くなった頭を余計に重くする。 エリスに近づき、腕を掴む。 「いい加減にしろっ」 「怒った?」 「黙ってろ」 エリスをベッドに突き放す。 頭痛がひどい。 テーブルの上のものが目に入った。 ヴィノレタから買ってきた豚の香草焼きだろう。 それも、半ば羽毛に沈んでいる。 エリスが汚されてしまったような気がした。 いや、こいつもエリスだ。 それは動かぬ事実。 汚されたのは、俺の中のエリスか。 「片付けなくていい?」 「ねえ、部屋汚しちゃったから、片付けないと」 「ほら、早く」 ……そうか。 こいつは、俺に構って欲しくてわざと失敗をしていたのか。 「……はは」 今更わかって何になる。 構ってやれば、エリスが元に戻るとでもいうのか。 「くそっ」 テーブルを蹴り飛ばす。 派手な音を立て、皿が割れた。 「っっ……」 「片付けろ」 「気の済むまで片付けりゃいい」 エリスが、ぺたりと床に座った。 俯き、凝り固まったように動かなくなる。 「どうした、俺に命令されたいんだろう?」 「わからない」 「頭がカイムで一杯になって、何もかもがわからなくなる」 「……エリス?」 エリスの声には、少し冷静さが戻っていた。 「そう……全部……全部、埋め尽くして……」 「恐怖が消えて……真っ白な世界だけが……」 俺に向けられた言葉ではなかった。 紡がれる言葉は、積もった羽毛の上にぽつぽつと落ちていくようだった。 「エリス」 知らず、俺はエリスの前に〈跪〉《ひざまず》いていた。 その肩に手を置く。 「……カイム?」 顔を上げる。 虚ろな視点がようやく定まる。 その瞳には、かつてあった井戸のような底暗さはない。 今は、単純な恐怖と不安に塗り潰されていた。 「帰って、きたんだ」 「ああ」 頭痛はもう限界を超え、頭痛を頭痛と感じられなくなっていた。 思考はまとまらず、轟音が頭の中を駆けめぐっている。 「エリス」 エリスを抱く。 「……」 耳の傍で、エリスが息を飲んだ。 「私、抱かれてる?」 「カイムに、抱きしめられてるの?」 返事の代わりに腕に力を込めた。 「ああ……」 「お前に伝えなければいけないことがある」 「私……カイムに……」 「お前を……身請けした、理由だ」 浅い呼吸を無理矢理落ち着かせ、ようやく言葉にする。 「身体が、熱い……ふふ……」 「エリス……聞いてくれ」 「ふふ……ふふふふ……」 「エリスっ!」 エリスを引き離す。 〈蕩〉《とろ》けたような顔で、エリスが俺を見ている。 「真剣な話だ、聞いてくれ」 「いいよ別に、もう、どうだって」 「今まで話さなかったんだから、どうせ悪い話なんでしょう?」 「……だが、聞いてもらいたい」 「黙って」 「エリスっ」 エリスの手が俺の肩にかかった。 「いいの、細かいことは」 「細かくない」 「私を、カイムのものにしてくれれば、それでいい」 「人の形をしてるけど、私は空っぽの人形なの」 「中身は本当にがらんどう。カラカラ音がするくらい」 「だから、カイムで埋め尽くして欲しい」 「聞いてくれ」 「カイム以外のものが入り込む隙間がなくなるように」 「カイムで満たして……塗り潰して、息が詰まるくらい……」 「お前は俺の物じゃないっ」 肩に置かれた手に力が込められる。 あえなく仰向けになった俺の上に、エリスが馬乗りになった。 白く細い手が俺の首に伸びる。 肌に触れたエリスの指先は興奮に震えていた。 「く……」 エリスの手を掴む。 「聞け」 「もう黙って」 「黙って、黙って、黙って」 首に掛かった手に力がこもる。 「ぐ……」 「余計なことは、もういいから」 「聞くんだ……」 「俺は……お前の両親を殺した……」 「そのときの報酬でお前を買ったんだ」 エリスの動きが止まる。 大きく見開かれた目が、俺を凝視している。 やっと打ち明けることができた。 これで、俺たちの関係もご破算だ。 「ふ……」 「?」 「あはははははっ!」 「そういえば、私が諦めると思ってるんでしょ」 この馬鹿女が。 「真面目に聞け」 「聞いてる、聞いてるわっ」 「ああそう、殺しましたか。大変ですね」 「身請けした理由なんて、私、本当にどうでもいいの」 「親を殺して、その娘が娼館行きになったから申し訳なくなったって?」 「そうだ」 「お前が娼婦になったのは俺の責任だ」 「そんなお前を抱けると思うか?」 「どうして難しいことばっかり考えるの?」 「いいから真剣に聞いてくれ」 「要らない、そんな話」 「聞きたくもない」 「お前……」 「そうだ!」 「ジークをベルナドに売り飛ばして、二人だけで暮らそうよ」 「そしたら、そんな難しいこと考える必要……」 エリスをはね飛ばす。 今度は、エリスが仰向けになる。 その細い首を……握る。 「ジークを売るだと? 二度と口にするな」 「そんなにジークが好き?」 「はははっ、リリウムじゃ、いつもジークに抱かれてたりしてね」 「やっぱり男娼になってればよかったんじゃない?」 手に力が入る。 「ぐっ……」 エリスの整った眉が歪む。 しかし、その表情には、どこか恍惚としたところがあった。 「ジークを裏切ったら、俺がお前を殺す」 「カイムに殺されるなら……怖くない……」 「もともと、私の人生はカイムのものなんだから……あなたの手で終わらせて……」 「違う、お前の人生はお前のものだ」 「他人のものでどうする!? それで生きてると言えるのか!?」 「いいの、生きてるとか死んでるとか、どうでも」 エリスの目が細められた。 心臓を鷲掴みにされたような感覚。 「そういうのって、生きてる人が考えることだから」 ──どんな人にも生まれてきた意味があるなら ──私は、人じゃないってことなんだ あの声が、再び脳裏をよぎる。 それは、耳の奥で何倍にも増幅され、酒精で潰れた思考を更にかき回す。 「……」 親を殺された少女は、何も望まなかった。 意思を失った、ただの人形だった。 俺が奪ったのだ。 あるはずだった、少女の生きる意味を。 「──────」 「く……」 また、この光景か。 手を伸ばし、奴を助けた時の光景。 なぜ、今になっても俺の頭から消えてくれないのか。 ──ごめんなさい ──僕は、約束を 頭の中で、殺しに手を染めた頃の俺が、謝罪の言葉を口にする。 成熟した俺が〈咄嗟〉《とっさ》に反論する。 ……お前が謝る必要などない。 ……悪いのはあいつだ。 ……牢獄では、きれい事など気にしていたら生きてはいけない。 どれだけ強く反論しても、頭を地面にこすりつける幻影が消えない。 身体から力が抜ける。 そのくせ、どうしようもないほど息が上がっていた。 唐突に蘇った過去の亡霊が、頭の中で踊り狂っている。 「ジークを裏切るなど、許さない」 本当はジークのことなど考えていない。 とにかく話を打ち切りたかった。 〈悄然〉《しょうぜん》と立ち上がり、部屋の入口に向かう。 このままエリスと一緒にいては、何をするかわからない。 「ヴィノレタで寝る」 「行かないで」 エリスがどんな顔をしているのか、見る気にはなれない。 今は、一刻も早くこの場から離れたい。 「……」 家を出るなり、足は自然と井戸に向かっていた。 とにかく水をかぶりたい。 身体中にまとわりつく、〈鬱陶〉《うっとう》しいものを洗い流したい。 共有の井戸に着くなり、ひたすらに水をかぶる。 「くそっ……」 「エリスも……あいつも……畜生……」 水をかぶる度に何かを呟いていた。 何度目かの水をかぶり、俺は水浸しの石畳に座り込んだ。 体の火照りは流れ去り、酒による頭痛が残った。 動く気力がない。 「……畜生……」 見事なほどに上手くいかない。 秘密を打ち明けたくない時には、しつこく訊かれ…… いざ打ち明ければ、信じてもらえない。 なんなんだこれは。 俺は、どうしたらいい……。 答えなど浮かばない。 頭にあるのは、鈍器で殴られたかのような痛みだけだ。 畜生……。 カイムが出て行った。 また、私の声は届かなかったらしい。 カイムに絞められていた首に触れる。 彼の手に力がこもったときの充実感が蘇る。 私は、彼にとって殺すほどの価値がある人間だったらしい。 「ふふふ……あはははっ……」 床に仰向けになったまま笑う。 散らばった羽毛が、再び舞い上がった。 殺される。 カイムに殺される。 その時、彼の心は私への憎悪で埋め尽くされているのだろう。 想像するだけで興奮する。 そのとき、彼の中での私の価値は、恐らく頂点に達するのだ。 是非とも殺されねばならない。 それには、彼をさっきより怒らせねばならない。 「そうだ……」 私の中の全てが〈明澄〉《めいちょう》になっていく。 カイムと同居を始めてから日に日に乱れていった糸が、今また一本の糸に〈撚〉《よ》り合わさった気がする。 自分がカイムに求めていたこと。 私という欠陥品の、幸福な終着点。 「……ふふ……簡単じゃない……」 手元にあった人形を掴み上げる。 「ね、そう思うでしょ?」 「……カイムさん、カイムさん」 「……」 目を開く。 ここは……。 周囲を見回す。 ヴィノレタの2階か。 そうか、昨日は水をかぶった後、ヴィノレタに転がり込んだのだった。 「カイムさん、お客様ですよ」 「客?」 「ジークさんです」 ジーク。 そういえば、今日は下層に行く日だったな。 窓の外は、すでに薄暗くなっていた。 体を起こす。 「く……」 ひどい頭痛があった。 熱もあるようだ。 「大丈夫ですか?」 「ああ、気にするな」 1階に下りると、メルトと話していたジークがこちらを向いた。 「顔洗ってこい。ひでえ顔してるぞ」 「洗ってマシになればいいけど」 流し場で顔を洗わせてもらう。 「どうしてここにいるとわかった」 「メルトが知らせてくれたんだ」 「雨でもないのに、ずぶ濡れの変質者が転がり込んできたってね」 「そうか」 ジークもメルトも、俺に何があったのかは聞かなかった。 薄々察しているのだろう。 「調子はどうだ?」 「問題ない」 「家、戻らなくていいの?」 「仕事だ」 「痩せ我慢して」 「行こう、ジーク」 「ああ」 三回目の会談が始まった。 例によって、家の外には俺とルキウス卿の副官が立つ。 「お疲れのようですね」 珍しく副官から話しかけられた。 「〈風錆〉《ふうしょう》があの調子じゃ、寝不足にもなる」 「ルキウス卿との打ち合わせは、今回で最後になるのか?」 「私にはわかりかねます」 「クスリの出元はわかったのか?」 「どうでしょう、時間の問題かとは思いますが」 はぐらかされる。 「今日の朝飯はなんだった?」 「パンと野菜のスープ。チーズが少々。それがどうかしましたか?」 「いや、質問をはぐらかすのが趣味なのかと思ってな」 「質問によります」 「で、そちらの朝食は?」 「井戸水をたらふく」 「珍しい食事ですね」 「牢獄じゃ珍しくない」 「そうですか、勉強になります」 冗談には付き合ってくれないらしい。 「いつになったら牢獄は豊かになるんだろうな?」 「ルキウス様は、特別被災地区の現状には殊にお心を痛めていらっしゃいます」 「今回の件が終われば、徐々に改善する方向に向かうかと思います」 「それで、未来に希望を持てというのも無茶な話だ」 「ええ。私たちだけの力で状況を変えることはできません」 「特別被災地区の住民の協力も必要でしょう」 「俺達が、豊かになる邪魔をしているとでも?」 「あなたの言う『豊かになる』ということが、下層で暮らしていた頃の生活水準に戻る、ということならそうでしょう」 「少なくとも、特別被災地区で特権的な力をお持ちの方は、標準的な下層住民よりも遥かに裕福で自由です」 システィナが皮肉っぽい目で俺を見た。 「特別被災地区が現状のままであった方が都合が良い人間がおり、そういった方々が大きな権限を握っているのが現状です」 「例えば、国が関所まで支援物資を送ったとしても、それが住民に届くとは限りません」 「特別被災地区を《牢獄》たらしめているのは、何も国の無為だけではないということです」 「……」 副官の言うことは事実だ。 牢獄が普通の世界であっては困る人間がいる。 ジークもベルナドもそうだ。 俺はどうだ? 「人も社会もそうですが、ある程度の形を成したものは、現状を維持しようとする力を持ちます」 「厄介なことに、これは当事者が思っているより遥かに強いのです」 「お前たちは、不蝕金鎖を……いや、牢獄を潰すつもりか?」 「まさか」 「お互いに折り合いをつけていく必要があるでしょうね、という話です」 「正論をぶつけ合っても詮無きことです」 不蝕金鎖の繁栄は、国が牢獄を見捨てたからこそのものだ。 国が牢獄を正常化しようとすれば、不蝕金鎖は現在の力を手放さなければならない。 今はまさに、時代の移り変わる瞬間なのだろう。 だからこそ、ジークはルキウス卿と慎重に打ち合わせを重ね、相手の出方を窺っているのだ。 「あなたが心配しているようなことにはならないと思います」 「ルキウス様は現実主義者でいらっしゃいますから」 「そう願いたいね」 家の扉が開いた。 「話が弾んでいるようだな」 「これは……申し訳ございません」 「こちらのご高説を賜っていたところだ」 「何か得るところはあったか」 「もちろん」 険のある目で、副官が俺を〈睨〉《にら》む。 ルキウス卿の前では良い子でいたいらしい。 「今後もいろいろ世話になるかもしれないんだ。仲良くしてくれよ」 「何言ってる。飯に誘おうとしてたくらいだ」 「それは結構」 「で、明日の夜はお付き合いいただけますか?」 「……」 無視された。 冗談の通じない女だ。 「先程のシスティナの話、こちらにも少し漏れ聞こえていたが……」 「私は特別被災地区の構造を変えようなどとは思っていない」 「ただ、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》以降の国の無為を謝罪できればと思っているだけだ」 「あんたも〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時には子供だろう? どうして親の代の失政にこだわる?」 「知り合いが被害にでも遭ったのか?」 「具体的な体験はないが、特別被災地区の姿は幼い頃から毎日のように目にしている」 「だからかもしれないが、長ずるにつれ、私は特別被災地区の環境を少しでも改善することが自分の生まれてきた意味だと思うようになった」 「それだけのことだ。なにがしかの深い因縁があるわけではない」 生まれてきた意味か…… 懐かしい。 昔、嫌になるほど聞かされた言葉だ。 確かに大切なものかも知れないが、それは恵まれた人間にとってだ。 衣食住が整った恵まれた環境で生活しているなら、そういう飯の種にならないものを追究するのもいいかもしれない。 だが、毎日が死と隣り合わせの牢獄では、ほとんど価値がないものだ。 ──どんな人にも生まれてきた意味があるなら ──私は、人じゃないってことなんだ 「……」 まただ。 「どうした?」 「いや……」 「ルキウス卿のように考えてくれる貴族が増えれば、まだ希望もあるかもしれない、と思ってな」 思ってもいないことを口にする。 ルキウス卿が射るような視線で俺を見る。 それも一瞬。 視線はすぐに和らいだ。 なんだ、今の目は。 俺の何を探ろうとしていた? 背中を汗が伝う。 「その通りだ」 「ではルキウス卿、また後日」 「よろしく頼む」 ジークに促され、俺達はその場を後にする。 「さっきはどうした?」 「ルキウス卿に、何か探られてる気がした」 「あいつは、いつも探ってるよ」 「言ってることと考えてることが全く別だ」 「だろうな」 「ま、理屈の通らない動きをする奴より、何倍もわかりやすいがな」 夜だというのに、鳥の声が聞こえた。 首を締められた女のような声だ。 「……」 昨夜のエリスが脳裏をよぎる。 仰向けになったエリスの喉に、俺の手が絡みついている。 手に力がこもるにつれ、エリスの顔が歓喜に染まっていく。 くそっ。 頭を振り、幻想を追い出す。 「……頼むぜ」 「え?」 「前回は、このあと刺客に襲われただろ」 「しっかり頼むぜって言ってんだ」 「あ、ああ」 「それ以前に、何を考えてるのか知らないが、足元を踏み外さないようしっかり頼むぜ」 何をやってるんだ俺は。 安全なところまで戻ってきた。 待ち伏せも尾行もなかったようだ。 「エリスには、例のことを打ち明けたのか?」 ジークが唐突に口を開く。 「なぜそう思う?」 「昨日はヴィノレタに泊まったんだろう? しかも水かぶって」 「……打ち明けたよ」 「……そうか」 「だが、本気にされなかった」 「そう言えば、私が諦めると思ってるんだろう、とさ」 ため息が聞こえた。 「突飛すぎて受け入れられなかったか。面倒なことになったな」 「どこかで、最後の切り札になると思ってたよ」 「打ち明ければ、どう転ぶにせよ決着は着くってな」 まさか、信じてもらえないとは。 「これからどうするんだ?」 「わからん」 「わからんが、片はつける。お前に迷惑はかけん」 「殺すと言ってるようにしか聞こえんが」 殺す、か。 「できたら、どれだけ楽だろうな」 「エリスは、俺に絡みついた縄のようなもんだ」 「あいつだけを選んで斬ることはできない気がする」 「心中なんぞするなよ」 「俺は、もう一度エリスの冷たい視線に蔑まれたいんだ」 「お前の性癖なんぞ知らん」 「あれはいいものだぞ」 ジークが俺の肩に手を置く。 「触るな、変態が〈伝染〉《うつ》る」 「お前も、エリスと付き合ってるうちにずいぶん冷たくなったな」 「だが、俺を満足させるには、まだまだ足りない」 ジークが軽口を叩く。 俺を元気づけようとしてくれているようだが、むしろ疲れる。 俺達の姿を見るなり、若いのが一人、リリウムへ走っていく。 「何かあったらしいな」 「ああ」 リリウムに向かっていると、程なくしてオズが近づいてきた。 「お疲れ様です」 「何かあったか?」 「サイがやられました」 サイが? 「ベルナドに仕掛けるのは明日じゃなかったのか?」 「声をかけていた仲間に売られたようです」 「……クソが」 ジークが呟く。 〈怨嗟〉《えんさ》のこもった声だった。 「死体は?」 「実は、まだ生きてるんですが……ひどいもので」 「ご覧になりますか?」 「もちろんだ」 オズが、俺達を案内する。 連れて行かれたのは、娼館の空き部屋だ。 ジークがためらいなくドアを開ける。 血の匂いがたちこめていた。 ベッドに寝かされているのがサイだろう。 手の指は、10本が10本、あらぬ方向を向いている。 足の指も、全て途中から潰されていた。 「サイ……」 「か……かしら……」 顔には、鼻も耳もない。 そして、目を塞ぐべき〈瞼〉《まぶた》も切り取られていた。 致命傷はない。 だが、生きてはいけまい。 放っておけば眼球が渇く。 その苦痛は想像を絶するという。 蝿が卵など産んだ日には最悪だ。 殺さないが未来は奪う。 不蝕金鎖の人間に、サイを殺させるためのやり口だ。 えげつないことをしやがる。 「誰に売られた?」 「目をかけてた若いのにやられました」 「め、面目も……ありません」 血で赤くなった眼から、涙がこぼれる。 瞬く〈瞼〉《まぶた》もないのに、涙が溢れ、落ちていく。 「すまん……」 「俺のせいで、こんな目に遭わせてしまった」 「い、いえ……俺が油断してた、せいです」 サイが不器用に笑った。 意識も声もはっきりしているのが痛々しい。 「何か望みはあるか?」 「ベルナドの奴を……絶対に、殺して……下さい」 「約束しよう」 「ありがとう、ございます」 「これでもう、思い残すことはありません」 眉のあたりが〈痙攣〉《けいれん》する。 目をつぶりたいのだろう。 「かしら……そろそろ、楽にしてください」 「わかった」 オズが進みより、無言で抜き身のナイフを手渡した。 「頭、自らとは……もったいねえ」 「他の奴にはやらせん」 「ありがとうございます、頭」 ジークは一つ頷いてから、サイの顔に白い布をかける。 呼吸で布が上下する。 「真っ白ですよ、頭」 「あっちの世界も……こんな感じ、なんでしょうかね」 「もっといいところに決まってる」 「へへ、だといいんですが」 布の端から、こぼれる涙が見えた。 死への恐怖と戦っているのだ。 「今まで、本当によく不蝕金鎖に仕えてくれた。心から礼を言う」 「かしら……勘違いしてもらっちゃ、困ります」 「俺が、お仕えしてたのは……頭、ジークさんです」 「……」 ジークの動きが止まった。 「おれぁ……先代のことは知らねぇ……」 「だた、ジークさんみたいな男になりたかっただけなんだ」 「……サイ」 ジークが唇を噛んだ。 その目は、かすかに潤んでいるように見えた。 常に、偉大すぎる先代と比較されて生きてきたジークだ。 響くものがあったのだろう。 「向こうの世界で、ベルナドが来るのを待ってます」 「あんまり、待たせないで下さい」 「すぐ……すぐだ」 ジークがナイフを振り上げる。 空気で察したのか、サイはもう口を開かなかった。 ジークとは言葉を交わさず、俺は部屋を出る。 今夜は一人にしてやった方がいいだろう。 鼻孔の奥には、血の匂いが鮮明に残っている。 ベルナドを騙し討ちにできるとは思っていなかったが、まさか事を起こす前に潰されるとは。 「カイムさん、ちょっと」 「どうした?」 「私が申し上げるのも恐縮ですが、サイがこういうことになった以上、カイムさんもご注意下さい」 「ベルナドの奴、俺を目の仇にするかもしれないな」 「仰る通りです」 「気をつけておく」 「しかし、これでまたジークへの風当たりが強くなるな」 「……はい」 「若いのが、何とか〈堪〉《こら》えてくれればいいんですが」 ジークは、あと数日待ってくれと言い続けてきた。 いい加減、部下の暴発だけでなく、部下に売られる心配をする必要があるかもしれない。 「ジークを頼む」 「もちろんです」 頭を下げるオズに別れを告げる。 家の前に着いた。 明かりはない。 エリスはどうしているだろう。 一日ごとに、扉を開けるのが辛くなっていく。 昨日は羽毛の雪が降っていた。 今日は雨だろうか。 火事だけは勘弁して欲しいものだが。 「帰ったぞ」 ……。 …………。 返事がない。 部屋は昨日のまま、〈融〉《と》けることのない雪が積もっている。 床に転がった、豚の香草焼きもそのままだ。 「エリス」 ……。 「エリス」 ……。 やはり返事はない。 蝋燭に火を点ける。 部屋が明るくなり、エリスの不在は明確となった。 エリスがここにいたのは数日間だけだというのに、妙にがらんとした雰囲気だ。 少しの間、何もできずに壁を見つめた。 「……」 エリスの持ち物を確認する。 衣服も医療道具も昨日のまま。 この時間だ、買物に行ったわけじゃないだろう。 一人で飲みに行くような奴でもない。 いや、今まで何度か、俺の帰りを路地で待っていたことがあった。 今日もその類だ。 そうに違いない。 あいつを探しに行こう。 火酒を一杯〈呷〉《あお》り、家を出ようとした時、ふとした違和感に気づく。 エリスの人形がなくなっていた。 あいつが娼館に来た頃から持っていた人形だ。 恐らく、幼少のころ監禁されていた部屋に積んであった人形の一つだろう。 それが、消えている。 「……」 嫌な予感がする。 路地を走る。 探すあてはないが、とにかく探し出さなければならない。 夜半を回った娼館街。 泊まらない客はもう帰途につき、道は比較的空いている。 エリスは、 見あたらない。 ヴィノレタに寄る。 「どうしたの血相変えて?」 「エリスを見なかったか」 「エリス?」 「あ、わたし見ましたよ」 厨房からティアが顔を出す。 「どこで見た!?」 「ちょっと、大声出さないでよ」 メルトが耳をふさぐ仕草をする。 「少し前に、お店の前で」 「挨拶をしたのですが無視されてしまいました」 「どっちへ行った?」 「スラムの方だと思いますけど」 「病気の方でもいらっしゃったんですかね」 エリスは医療道具を置いて出て行った。 治療の線はない。 スラムはベルナドの縄張りだ。 「……」 エリスの奴、本気でジークを売りに行ったのか。 「助かった」 「あ、ちょっと、カイム!?」 一口にスラムといっても広い。 だが、エリスがベルナドのところに向かったと仮定するなら、通る道は限られる。 道が細くなる。 澱んだ空気をかき分け、走る。 走りながら、疑問が浮かんだ。 エリスを見つけたとして、俺はどうすればいい? 「言うほどエリスは複雑かね」 「身請けしたんだから抱いてください、はいそうします、で終了じゃないか。何の問題もない」 できるわけがない。 だが、俺があいつを受け入れられないのなら、同じことをくり返すだけではないのか。 エリスはまた家を飛び出し、俺が追いかける。 それはもはや滑稽としか言えない状況だ。 どうしたら、あいつをまともにできるのだろう。 「料理の好みと同じで、カイムがおいしいと思うからって、エリスがそうだとは限らないんだから」 「共感することは難しくても、エリスはこんなものをおいしいと思うんだなって理解することは必要だと思うわ」 俺は、エリスのことを理解していないのだろうか。 あいつが、俺のものになることを望み、自由に生きようとしない理由。 知ったところで、俺にはエリスの願いを叶えてやることはできない。 それでも、知ることに意義はあるのだろうか。 〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りが近づいた。 本能的に足が止まった。 サイが殺された今、俺は、ベルナドを騙そうとした人間として認知されているだろう。 大勢に囲まれれば、いくら相手がチンピラでも捕まる可能性がある。 サイの悲惨な最期が脳裏をかすめる。 あらぬ方向へ向いた10本の指。 〈瞼〉《まぶた》のない眼球から溢れた涙。 鼻の奥に血の匂いが蘇ってくる。 それでも、進もう。 エリス。 見つかってくれ。 しばらく走り続け、ようやく路地に佇む女を見つけた。 頭には花の髪飾り。 右手には、あの人形を持っていた。 「エリス」 返事がない。 「エリス、俺だ」 「……」 女が緩慢な動作で振り向く。 月光に青白く浮かぶ顔は、笑みを湛えていた。 幼児にも成熟した大人にも見える、不思議な表情だった。 一瞬、言葉を失うが、ぼやぼやしている暇はない。 「帰るぞ」 「帰る?」 「俺の家に帰る」 「嫌」 「いいから来い」 近づき、エリスの腕を掴み、有無を言わさず引っ張る。 「痛っ」 「黙って歩け」 無言のまま、〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りの外に出た。 抵抗を続けるエリスを、家の壁に押し付ける。 「どこに行くつもりだったんだ」 「ベルナドのところ」 「ジークを売りに」 思いのほか、受け答えはしっかりしていた。 だが、〈紗〉《しゃ》がかかったように、どこかエリスの存在が遠く感じられる。 「ジークを売れば、俺と手に手を取って上層に行けるとでも思ったか?」 「あいにく、行けるのは上層じゃなく、あの世だ」 「いいの、それで」 「自殺志願か」 「自分で死ぬ? そんなの嬉しくない」 エリスが俺の手を取る。 「でも、こうして、カイムが……」 手首をエリスに握られた。 そして、エリスは俺の手を首に近づけていく。 指先が首に触れる前に、手を振り払う。 再びこいつの首を締めるのはご免だ。 「殴ることにする?」 「いいよ、カイムのやりたい殺り方で殺ってくれて」 エリスが楽しそうに笑う。 口内の赤さが生々しく見え、目をそむける。 「このままだと、私はジークを売るよ」 「ほら、早く止めないと……ほら、ほら」 「俺に殺されるためにジークを売るつもりか?」 「悪い?」 きょとんとした顔をする。 「良い悪いの話じゃない」 「なぜ死にたいんだ?」 エリスの手が俺の頬に添えられた。 「あなたが、私を物扱いしてくれないから」 冷たい指先が俺の頬を摘む。 からかわれているような、甘い痛みだ。 「俺は、お前に一人の人間として、自由に生きて欲しいんだ」 「両親を殺したせいで、私が娼婦になってしまったから?」 鼻で笑うエリス。 頬を摘んでいた手を払う。 「冗談を言ってるわけじゃない。俺は確かにお前の両親を殺した」 「信じられないなら、その時の状況を聞かせてやる」 「いいよ、信じてる」 相変わらずの軽い口調。 もういい。 話を先に進めよう。 「お前は、俺のせいでリリウムに売られたんだ」 「だから俺は、お前に普通の人生を取り戻して欲しかった」 「身請けして医療の知識を学ばせたのはそのためだ」 「余計なことを」 「なんだと」 エリスが上目遣いに俺を見た。 「余計なことを、と言ったの」 「ならお前は、娼婦のままで良かったってのか!?」 思わず声がきつくなる。 しかし、エリスは驚くこともなく、愉快そうな顔で俺を見ている。 まるで〈道化師〉《どうけし》を見るような目だ。 「普通の人生が欲しいなんて、私、言ったことない」 「本気で私に申し訳ないと思ってるなら、私の望みを叶えてよ」 「できると思うか? 自分が殺した人間の娘だぞ?」 「いいじゃない、細かいことは」 「私の人生を壊した責任を取りたいんでしょ?」 「責任は取りたい」 「だが、俺はお前に真っ当な生き方をして欲しいんだ」 「カイムの理想なんて知らないし、興味もない」 「私はただ、あなたの物になりたいだけ」 「お前は十分地獄を味わったじゃないか」 「どうして好き好んで、奴隷のような生活に戻ろうとするんだ」 「そんなの、私の勝手」 「真っ当に生きることが、そんなに大事?」 「当たり前だ」 「馬鹿ね」 エリスの声が鋭くなる。 「そんなのは、カイムが勝手に思ってるだけ」 「まだわからない? カイムは私の気持ちなんて何もわかっていないの」 「私がどう思ってるかなんて無視して、自分が気持ちいいように私を作り替えたいだけ」 「私が真っ当になったのを見て、自分はいいことをしたと思いたいだけでしょう?」 「罪悪感を解消したいのは事実だ」 「嘘」 「カイムは、私に対して罪悪感なんて持ってない」 「だから、私の望みを叶えようなんて思わないんでしょう」 「違う」 「ふふふ、自分でもわかってないのね」 「あなたが本当に謝りたい人は誰なのか」 「なんだと?」 「少し考えて」 「カイムは、私の親以外にも沢山人を殺してるんでしょ」 「私みたいな子は他にもいるんじゃない?」 「……」 俺はエリスの両親以外にも多くの人を殺している。 俺の殺しが原因で孤児になったり、娼婦になったりした人間も知っている。 単純に罪悪感を解消するなら、そういう奴らの面倒を見るのが手っ取り早い。 だが、俺はそうせずにエリスだけを身請けした。 「わかった?」 「カイムが私に罪悪感を抱く理由なんてない」 「……なら、俺は……どうしてお前を?」 「さあ」 「こう考えてみたら?」 「私が真っ当な人間になったら、カイムは誰にそれを伝えたい?」 「最初に心に浮かぶのは誰?」 誰? そんなのは、エリスに決まって…… 「……」 頭に浮かんだのは、幼い日の実兄の顔だった。 なぜ、お前が出てくる。 ──アイム・アストレア。 「くだらない」 「……くだらない」 「俺はお前を救いたい。それだけだ」 「くふふ……あはははははっっ!」 エリスが顔を歪めて笑う。 今にも泣きだしそうな、痛々しい笑顔。 「みっともない」 「自分が何を考えているのかも分からないなんて」 「あはははははははっ!!」 甲高い笑い声が路地を反響し、夜空に吸いこまれていく。 「残念すぎて、涙が出そう」 〈蔑〉《さげす》むように言って、エリスは目尻を拭った。 「お前に、俺の何がわかる」 「わかる」 「絶対的にわかる。少しの歪みもなく」 「だって、身請けされてからの7年、私は、あなただけを見て、あなたの事だけを考えて生きてきたんだから」 認めざるを得ない。 エリスは、いつも俺の周りにいた。 こいつほど俺に詳しい人間などいるわけがない。 エリス以外の人間に、『あなたの事だけを考えて生きていた』などと言われても、自分に酔っているとしか思えない。 だが、こいつの場合は本当だろう。 本当に、俺のことだけを考えて生きてきたのだと、納得させられるものがある。 今更ながらに、エリスの凄まじさを思い知る。 「最後に、もう一度だけお願い」 エリスの声に、現実に引き戻された。 「私からあらゆる自由を奪ってよ」 「何も考えなくて済むように、何も望まなくて済むように……」 「穏やかだったあの頃に帰れるように」 「私とあなただけの、二人だけの世界に連れて行って」 〈眩暈〉《めまい》を覚えた。 俺は、こいつの何もかもを理解できない。 エリスは、同じ言葉を喋っているだけの、別の生物だ。 「それは……できない」 「そう」 寂しげな笑みを浮かべてから、エリスが俺の脇をすり抜ける。 そして、踊るように路地を走りだした。 行く先はスラム方面だ。 「エリス……行くな……」 追わなければ。 ジークを売ろうとしている人間を、野放しにしてはまずい。 だが、足が動かない。 エリスを言葉で止められない以上、俺にはもはや暴力的手段しか残されていないのだ。 だが、それこそあいつの望むところ。 従ってやるわけにはいかない。 「さようなら、偽善者さん」 エリスが闇に消えた。 行き場のない感情を、壁にぶつけた。 俺がエリスを助けるのは、エリスのためじゃない? なぜ難しく考える。 エリスを身請けしたのは、俺の殺人のせいで、あいつが娼婦になったから。 それでいいじゃないか。 だが、頭の中を少年の顔がよぎる。 アイム・アストレア。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の折、俺の身代わりになって死んだ実兄。 なぜ、今ごろになって出てくる。 お前などに、俺が罪悪感を覚えるわけがないじゃないか。 「く……」 朝からの頭痛がひどくなっていた。 駄目だ。 今日はもう、ロクなことを考えられそうもない。 家に帰ろう。 まずは、頭を回せるようにしてからだ。 この日も、俺はヴィノレタの2階で目を覚ました。 エリスのいない家に帰る気にはなれなかったからだ。 ジークに会いに行かなくてはならない。 エリスがどんな情報をベルナドに売るのか知らないが、警戒を促す必要がある。 1階に下りる。 「おはよう」 「ああ」 「ジークのところへ行ってくる」 「ねえ、カイム」 「なんだ」 「エリスはどうしたの?」 真面目な調子で聞いてきた。 メルトの目を見る。 じっとこちらを見返して来た。 「〈風錆〉《ふうしょう》に走った」 「まさか……」 「行ってくる」 メルトに事情を追及される前に店を出る。 事細かに説明できる気分じゃない。 抜けるような青空だった。 雲は一つもなく、太陽が我が物顔で幅を効かせている。 エリスを失った俺を嘲笑しているような天気だ。 リリウムが見えてきた頃、不蝕金鎖の一団とすれ違う。 20人はいるだろうか。 それぞれが俯き加減で、暗い表情をしている。 何かあったのか……。 ジークは、机に脚を投げ出し、胸の上で指を組んでいた。 目は閉じられている。 昼寝をしているようにも見えるが、ドアの音に気づかぬ男ではない。 「何かあったな」 「……」 返事はない。 だが、眠っていないことはわかった。 「俺から報告をさせてもらう」 「エリスが〈風錆〉《ふうしょう》に走ったよ」 「お前をベルナドに売り、報酬を得るつもりらしい」 「どんな情報が向こうに漏れるかわからない。注意してくれ」 「エリスは、金欲しさに仲間を裏切る女じゃない」 目をつぶったまま、口を開いた。 「あいつが期待してる報酬は、俺に殺されることだ」 「どうやったら俺に構ってもらえるか考え抜いて、そこに落ち着いたらしい」 「馬鹿女が」 ジークの感想はそれだけだった。 「ここに来る途中、不蝕金鎖のとすれ違った」 ジークが、机から脚を下ろし、俺を見た。 「中堅どころの奴らだ。主力とも言う」 「サイの死に様を知って、すぐにでも〈風錆〉《ふうしょう》と戦うよう求められたよ」 「で?」 「断った。正面きって戦っても今は勝てないだろう」 「策があるんじゃなかったのか?」 「それは離れ業だ」 「ついでに、今日中に不蝕金鎖を去る人間については、将来的に不蝕金鎖が〈風錆〉《ふうしょう》を潰した場合にも〈咎〉《とが》めないと言ってやった」 〈風錆〉《ふうしょう》に寝返れと言っているようなものだ。 どれだけの部下が寝返るだろうか。 いや、どれだけの部下が不蝕金鎖に残ってくれるだろうか。 「座れよ」 ジークがソファを示す。 腰を下ろした。 「お前はどうする? ベルナドと仲良くするか?」 「確認の必要はない」 「そうか」 それだけ言うと、ジークはまた目を閉じた。 「お前、〈風錆〉《ふうしょう》を潰すことを諦めたんじゃないだろうな」 「初めから勝つつもりしかないし、今も変わらない」 「だが、俺は皆に勝つための策を説明できなかった」 「具体案も示さず信じてくれといっても限界がある、当たり前の事だ」 「俺の策にしても絶対じゃない。だから、後は各自の判断に任せたんだ」 「結果、丸裸になってもか」 「部下を犬死にさせるわけにもいくまい」 「なんのかんの言っても、生きてこそ華だ」 「サイだって、生きてさえいれば、酒も飲めたし女を抱くこともできた」 「俺に忠義を尽くして死んじまうなんて……そりゃ寂しい」 「サイは、あいつなりに満足してたんじゃないのか?」 「俺の周りには、あいつみたいな馬鹿な奴が多すぎる」 「部下に恵まれすぎるのも困りものだな」 ジークは、自分の策が失敗した際、巻き添えになる仲間を減らしたかったらしい。 サイの死が堪えたか。 「何事につけ、ずっと周囲のせいにしてきた」 「不蝕金鎖の頭の息子に生まれたから、先代が優秀すぎるから、ベルナドが裏切るからってな」 「それで自滅するだけなら構わないが、俺を信じて死ぬ馬鹿がいる」 「身を軽くするのは、俺にとって必要な儀式だ」 「必要な物だけを持って、ベルナドと決着を着ける」 ジークが煙草を取り出す。 火を点け、ゆっくりと煙を吐いた。 「また下層に行くんだろう?」 「明日だ」 「気合いが入っているところ悪いが、控えた方がいいんじゃないか」 「誰が情報を売るとも限らないぞ」 「それでも、行くさ」 「他にはもう道がない」 情報が漏れれば、下層への道行きは危険きわまりない。 待ち伏せしてくれと言っているようなものだ。 「お前ひとりじゃ行かせられないな」 「助かる」 ジークが煙草の灰を落とす。 「エリスはどうするんだ」 今さら俺に何ができる? あいつを物扱いすること以外に解決策がないのなら、俺にはどうしようもない。 「解決策がない」 「諦めるのか?」 「……」 「しょぼくれた顔しやがって」 「エリスのことは気にしないでいい」 「お前は組織の事に集中してくれ」 鼻白みつつ、ジークが頷いた。 「また明日」 部屋から出かけて、もう一度ジークを見た。 「どうした?」 「最後は派手にいこう」 「もちろんだ」 「ベルナドに、生まれてきたことを後悔させてやるさ」 ロビーでは、三人組がカード遊びに興じていた。 暇と見える。 「あら、カイム様」 「なになに? 上に来てたの」 「野暮用があってな」 「何が起きてるか教えてよ、みんな怖がってるの」 「俺はただの用心棒だ。詳しいことは知らん」 「〈不能野郎〉《やくたたず》」 「知りたいならジークに訊け」 「教えてくれるわけないじゃんよー」 「なら、知らなくていいってことだ」 「あー、そうやって、わたしたちを阿呆にして反抗しないようにするのね」 「正解だ。賢いじゃないか」 「やったね!」 「って、嬉しくないわい!」 リサが吠えた。 「カイム様、みんな不安なんですよ」 「このところ、お客様も減っていますし、街も騒がしい様子で」 「お前らは変な気を起こすな」 「そうすれば、何があっても悪いようにはされないさ」 娼婦は貴重な収入源だ。 仮にベルナドがジークを倒したとしても、娼館を潰したりはしない。 「確かに、私たちは男性がいる以上生きていけますが、誰のお店でも良いというわけでは……」 「そうそう、やっぱジークさんのお店じゃないとね」 「本人に言ってやれ、喜ぶぞ」 「じゃあな」 「あっ、結局なんにも教えてくれてないじゃない!」 「そのうちわかる」 非難混じりの視線を無視して店を出る。 さて、これから何をするか。 明日まで、差し迫った予定はない。 ヴィノレタで酒でも飲むか。 「……」 足は勝手に家へ向いていた。 エリスが戻っていることを期待しているのだろうか。 自分でも定かではない。 「いま帰った」 帰宅の言葉が出た。 俺を待っている人間は、 いない。 床には羽毛。 落ちた豚の香草焼きは、すでに腐臭を発しはじめていた。 部屋の惨状は、俺の敗北の証のようにも見える。 片付けよう。 肉を袋に詰め、口をきつく縛る。 あとは羽毛だ。 〈箒〉《ほうき》は…… いつもの場所にない。 周囲を探すと、ベッドの近くに立てかけられていた。 エリスが移動させたのか── 唐突に、〈箒〉《ほうき》をその場から動かすことがためらわれ、俺は手で羽毛を集めることにした。 軽い羽毛は、なかなか思い通りには集まってくれない。 集めては飛び散り、飛び散ったものをまた集める。 非効率な作業を飽かずに続けるうち、俺の頭はエリスのことで占められていく。 羽毛の一つ一つがエリスの断片であり、それを自分の〈裡〉《うち》にかき集めているかのような心持ちだった。 真っ暗な部屋。 椅子に座り思考を巡らす。 なぜエリスを身請けしたのか。 ずっと、エリスへの〈贖罪〉《しょくざい》だと思い込んでいたが、それは違うらしい。 俺の仕事が原因で、孤児や娼婦になった人間はエリス以外にもいる。 単純に殺しの罪悪感を解消するなら、そういう奴らの面倒を見ればいい。 だが、俺はそうせずにエリスだけを身請けした。 なぜ? どうして? 「……」 わからない。 あいつを身請けしなければならなかった理由。 たまたま使い道のない大金があり、たまたま可哀想な女が目の前にいた。 〈贖罪〉《しょくざい》でもなんでもなく、ただの気まぐれだったのかもしれない。 そう、考えた時、胸を走ったものがあった。 「どんな人にも生まれてきた意味があるなら」 「私は、人じゃないってことなんだ」 「……」 埋没しかけていた記憶。 この言葉は…… 確かにエリスのものだ。 しかも少女の頃の。 いつだ? 俺はいつ、この声を聞いた? 「……そうだ……」 過去の情景が〈刹那〉《せつな》に思い起こされた。 この言葉を聞いたのは、エリスが娼婦として売りに出る前夜のことだった。 エリスが先輩の娼婦たちと話しているのを、聞くともなしに聞いたのだ。 当時の俺は、エリスが件の夫婦の娘であることは知っていたが、憐れんではいなかった。 だが、この言葉を聞いたとき、 予兆などなく、まったくの唐突に、 寒い日の朝、金属に触れようとしたときに走る稲妻のように、 エリスを身請けしようと考えたのだった。 なぜだ。 エリスの言葉に何がある? 考えるまでもない。 逆に、考えるまでもないことが俺を〈慄然〉《りつぜん》とさせる。 「生まれてきた意味」 まさか…… 椅子の上、俺は身じろぎもできなくなる。 やはりか。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》前。 俺と〈兄〉《アイム》、そして母の3人は下層で暮らしていた。 父親は俺が赤子の頃に死亡、いわゆる母子家庭だ。 2つ年上だった兄は、あらゆる面で俺より優れていた。 幼い頃の俺は、何かにつけて兄に駆け比べを挑んだ。 容貌、性格、知性、体力── 根拠もなく、体力だけなら勝てそうな気がしていたからだ。 丘の上の大きな木までの競争。 同時に走り出しても、俺の視界にはすぐに兄の背中が映る。 そして、再び横に並ぶことはなかった。 優れた兄は、母親自慢の息子だった。 子供にとって──特に母子家庭で育った俺達にとって、母親の愛情は至高の宝物だ。 だが、それは兄に独占されていた。 今考えれば、彼に罪はない。 だが、幼い俺は、彼に憎しみばかりを覚えていた。 ……こいつさえいなくなれば。 いつもそう思っていた。 そんな願いが通じたのか── あの日、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》という破滅が、兄を容赦なく飲み込んだ。 いつも通り徒競走に挑んだ俺。 いつも通り先を走る兄。 ──また負けるのか。 ──奴は褒められ、俺は貶められる。 ──畜生、死んじまえ。 そう思った時、 大きな地震が都市を襲った。 気がついた時、俺は崖の上から身を乗り出し、兄の手を掴んでいた。 確かに俺は、手を伸ばしていたのだ。 なぜ憎んでいた兄を助けようとしたのか? 今となっては覚えていない。 幼い俺にとって、兄の体重を腕一本で支えることは難しかった。 地面を滑り、奈落の入口へと近づいていく俺達。 やりとりのほとんどは記憶にないが、一つだけ、どうしても忘れられないことがある。 それは、奴の死に際の言葉だ。 「お前は、俺の分まで生きてくれ」 「俺の分まで生きて、立派な人間になるんだ、約束してくれ」 俺は頷いたのだと思う。 その証拠に、兄の体重が腕から消えた時、奴は満足げに微笑んでいた。 兄は自分の命と引き換えに、『立派な人間になる』という誓いを俺に押し付けたのだ。 立派な人間の定義など人それぞれ。 だが、我が家において、それは明確に定められていた。 毎日のように聞かされてきた、母親の言葉だ。 曰く、 ──人には、必ず生まれてきた意味があるの。 ──人生で一番大切なことは、自分の人生を精一杯生きて、生まれてきた意味を見つけることよ。 兄は、最期の最期に、母親が理想とする人間になるよう押し付けて行ったのだ。 自分が果たしてきた役割を、俺に引き継がせるかのように。 良くできた息子らしい死に様だった。 さすがの兄も、その時すでに母親が死んでいるとは夢にも思わなかったらしい。 牢獄に流れ着いてからの俺の生活は、語るほどのこともない。 リリウムに男娼候補として買われ、それが嫌で暗殺者になった。 明日を迎えるため、男たちの慰み者にならないため、俺は必死に生きた。 泥水を〈啜〉《すす》って生きる中で、俺は、母の教えがいかに平和ボケした人間の発想であるかに気づいた。 生命以外の全てを捨てなければ、生きていけないのが牢獄だ。 精一杯生きるだの、生まれてきた意味だの、そんなものにかまけている余裕などない。 ガキから年寄りまで、人生において最も大切なのは食物だと知っている。 母親の、砂糖で作ったような甘い理想── その理想と引き換えに逝った兄── 何もかもが馬鹿らしい。 牢獄に流れてきてすぐの頃、俺はよく、自分と兄の立場を入れ替える空想に〈耽〉《ふけ》った。 俺は〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で死に、兄に立派な人間になるよう誓わせる。 牢獄へ流れ着いた兄はどうなるのか? 兄の顔は綺麗だったし、俺と同じく男娼候補として声がかかるだろう。 どんなに抗っても娼館からは逃げられない。 善良な兄は、反抗することも、ましてや人殺しになることもできないだろう。 めでたく男娼になった兄は、金持ちの醜く膨らんだ腹の下で、自分の生まれた意味はこれだったと悟るのだろうか。 それとも、ティアのように、自分の生まれてきた意味は他にあると現実から逃げるのだろうか。 頭の中で兄を男娼に貶めた日も、遠く過ぎた。 今でも、好きになれない人物ではあるが…… もう過去の人物であり、罪悪感を抱くほど強く俺の中に残っているとは思えなかった。 だが── 「どんな人にも生まれてきた意味があるなら」 「私は、人じゃないってことなんだ」 俺は、エリスの発言に反応した。 消えたと思っていた兄との誓いは、俺の身体の中で確実に生きていた。 エリスの発言が、それを呼び起こしたのだろう。 だから、俺は発作的にあいつを身請けしたのだ。 もしかしたら、俺は自分で思っているよりも強く、兄との誓約を守れていないことにこだわっていたのかもしれない。 胸の中でくり返した兄への罵倒も、男娼に貶める妄想も、全て誓約を守れていない自分への言い訳。 人殺しに堕ちた自分の代わりに、エリスに立派になってもらい、兄との誓約を果たしてもらおうと考えたのかもしれない。 つまりは、兄が〈大崩落〉《グラン・フォルテ》から俺を救ったように、俺もエリスを娼館という地獄から救うことで誓約を肩代わりさせたのだ。 だからこそ、俺はエリスが真っ当に生きることにこだわってきた。 そう考えれば辻褄が合う。 「……」 天井を仰ぐ。 俺はやはり、エリスのことなど考えていなかったのだ。 自分が果たせなかった兄との誓約を、エリスに肩代わりさせただけのこと。 だから、エリスが望もうが望むまいが、兄の言う立派な人間になってもらわねば困るのだ。 そして、自分の手でエリスを真っ当にしていく過程で、俺は誓約を守れなかった罪悪感を少しずつ解消していた。 その意味において、エリスは俺にとって必要な存在だった。 だから、何度も面倒だと思いながらも、結局エリスを離さずに今までやってきたのだ。 「可愛い顔をして、やることは鬼畜じゃないか」 ベルナドの顔が思い起こされる。 エリスを抱きたくて身請けしたのなら、鬼畜は鬼畜でもまだ救いようがある。 だが、俺はあいつの事など何も考えていなかった。 自分の身代わりを仕立て上げただけだ。 エリスが何を望んでいて、どうすることが彼女のためになるのかなど、真剣に考えるわけがない。 「残念だったな、ベルナド」 お前が思っているより、俺は遥かに鬼畜だったようだ。 エリスを物として扱うことを口では拒否しながら、実際俺は、エリスを自分に都合のいい物としてしか見ていなかった。 「……」 すまない、エリス。 心から彼女に謝るのは、これが初めてかもしれない。 俺は、自分が思っているより自分のことがわかっていなかった。 ふと、エリスの引きつったような笑い声が聞こえた気がした。 目を開くと、部屋はすでに暗くなりはじめていた。 眠っていたわけではない。 だが、起きていたわけでもない。 昨夜掃除を終えてから、俺は睡眠と覚醒の狭間に沈み込んでいた。 身体に巻いていた毛布を取り、椅子から立ち上がる。 今日はジークと下層に向かう予定だ。 不蝕金鎖の中堅が〈風錆〉《ふうしょう》に寝返っているのなら、どんな情報が漏れているか知れたものではない。 最悪、今日が俺とジークの命日だ。 装備は入念に整えておこう。 昨日とは打って変わって、空は厚い雲に覆われていた。 湿気を〈孕〉《はら》んだ風が走り抜ける。 天候は下り坂だろう。 ジークが刺客に襲われた夜も雨だった。 同じようなことにならなければいいが。 「来たぞ」 「おう」 ジークは身支度を整えていた。 貴族に会う分、念入りなご様子だ。 「ルキウス卿の手、見たか? 爪が綺麗に整えられていた」 「金がある奴ってのは、細かいところまで気を回してるんだな」 鏡を見ながら、ジークが口を開いた。 「気がつかなかった」 「癖なのか知らんが、あの男いつも机の上で手を組んでるんだ。だから、嫌でも目につく」 「褒めて欲しいんじゃないか」 「ははは、だったら気色悪いな」 〈鴉〉《からす》色の髪を〈梳〉《す》きながら笑う。 「で、どうだった?」 「何が?」 「部下は、どれだけ〈風錆〉《ふうしょう》に走った?」 「3割」 3割か。 これで〈風錆〉《ふうしょう》は圧倒的優位に立った。 正攻法ではベルナドを倒すことはできないだろう。 「昨日も言ったが、どんな情報がベルナドに漏れているかわからないぞ」 「下層に行くのは危険だ」 「7割もの人間が俺を信じてくれている。危険だろうが行く」 「前回は運良く助かったが、今回はわからない」 「死なんだろ」 「……俺一人じゃない」 鏡から視線を外しジークが俺を見た。 しばらく〈睨〉《にら》み合う。 「勝手にしろ」 「そうさせてもらう」 ジークが〈櫛〉《くし》を置いた。 「さて、お前の覚悟さえ固まれば準備完了だ」 「お前の準備が終わるのを待ってたんだ」 「そうか。なら待たせたな」 ジークが陶杯2つを机に置き、火酒を注いだ。 無言で1つを取る。 「俺が死んでも死ななくても、今日が最後の打ち合わせになる」 「頼んだぞ」 「ああ」 がちっと杯が鳴る。 燃えるような液体を身体に流し込んだ。 雲は厚みを増し、月の居場所もわからない。 雨は間もなくだろう。 ヴィノレタが近づいてきた。 「メルトの顔でも拝んでいくか?」 「こういう時に女は良くない。気勢が削がれる」 「そうだな」 出し抜けにヴィノレタの入口が開き、男が二人転がり出た。 追いかけるように、メルトが姿を現す。 「私の店でジークを悪く言うなんて、いい度胸じゃない!」 「二度と顔見せるんじゃないよ!」 メルトの剣幕に、男たちはほうほうの体で逃げだした。 「まったく、ふざけるんじゃないわよ……」 「あら?」 メルトがこっちを見た。 やれやれだ。 「二人揃って飲みに来てくれたの?」 「いや、これから用がある」 「そう、ざーんねん」 「さっきのは?」 「一見の客」 「堂々とジークの悪口言うから、他のお客に殺される前に逃がしてあげたの」 「ほら、私優しいから」 「ものは言い様だな」 「怪我は?」 ないない、と身振りで答えた。 「それよりジーク、最近大丈夫? 全然顔見せないし」 「なーに、問題ないさ」 「無沙汰の詫びに、今度、酒宴でも張らせてもらおう」 「楽しみにしてる」 言葉とは裏腹に、メルトの表情から朗らかさが消える。 「カイム、行こうか」 「ああ。またな」 メルトの前を通り過ぎる。 「カイム」 呼び止められた。 振り向くと、メルトは不安げな顔をしていた。 「気をつけて」 「心配するな」 「別に、危ない仕事をするわけじゃない」 それだけ言って背を向けた。 二人の背中が遠ざかる。 あの子たちは相変わらず気づいていないようだ。 危険な仕事に出る時、自分たちがどんな顔をしているのか。 「バレバレだってのに」 昔からそうだ。 私にできるのは待つことと祈ることだけ。 どうか……無事で。 4回目の会議が始まった。 「今日が最後の会議になるんだろう?」 「そのようですね」 「まともな答えが返ってくるとは思わなかった」 「いつも通り、私にはお答えしかねます、だと思ってたよ」 「状況によりますので」 「そうかい」 「正直なところ、不蝕金鎖はかなり分が悪い」 「ルキウス卿も知らないわけじゃないだろう?」 「もちろんご存じでしょう」 「ですが、分が悪いのは以前からのことです。今さら驚くようなことではありません」 「勝てる見込みがあると」 「恐らくは」 「どういう策があるんだ?」 「私にはお答えしかねます」 「決行の直前までは伏せておくように厳命されております」 やはり、答えは聞けなかった。 ジークは何を考えているのだろう。 数も勢いも劣っている状況で、どうやってベルナドを倒すのか。 雨が落ちてきた。 「降ってきたな」 「ええ」 副官は雨用の外套を着ていない。 みるみるうちに服が濡れていく。 「家の中に入らないか」 「私たちの仕事は外の監視です」 「律儀なもんだ」 着ていた外套を脱ぎ、副官に渡す。 「なんです?」 「着ろ」 「必要ありません」 「俺が気まずい」 「どうしてあなたの気まずさを解消するために、私が動かねばならないのです」 「……」 「まだわからない? カイムは私の気持ちなんて何もわかっていないの」 「私がどう思ってるかなんて無視して、自分が気持ちいいように私を作り替えたいだけ」 「自分はいいことをしたと思いたいだけでしょう?」 余計なことを思い出させる。 エリスも雨の音を聞いているのだろうか。 それとも、もう聞くことのできない状態になっているのだろうか。 ドアが開いた。 「降ってきたか」 「ああ」 「話は終わった。ひとまず中に入れ」 「助かる」 室内に入ると、ジークが俺と副官を見比べた。 「どうしてご婦人が濡れてるんだ? 気の利かない奴だな」 「言われると思ったよ」 「俺は外套を貸すと言ったんだが、こちらのご婦人に断られてね」 「ええ。そちらは悪くありません」 「ご厚意は素直に受けるものだぞ」 「申し訳ございません」 システィナの声には、どこか満足げな響きがあった。 この女、雨に濡れても頑張っている自分を見せたかっただけではないだろうか。 「では、ジーク殿、決行まではくれぐれも周囲に悟られぬよう」 「お互いに気をつけましょう」 「では、これで失礼」 ジークに従い、ルキウス卿の前を去る。 「決行はいつになった?」 「3日後だ。詳細は直前まで待ってくれ」 「疑うわけじゃないが、機密性が要求される作戦なんだ」 「仕方のないことだ。気にするな」 ふと、視界の端に光が入った。 真っ暗な井戸の底のような牢獄を、小さな光の群れが移動している。 人間が移動しているのだ。 50はいるだろうか。 「ジーク、見ろ」 「ベルナドか……」 ジークが苦々しげな顔をした。 光の群れは、スラムから娼館街の方角に向かっている。 「下層に行くことが漏れたか」 「急ぐぞっ」 走る。 一刻を争う状況だというのに、この足場と天候では速度が上がらない。 眼下の牢獄では、光の流れが少しずつ娼館街を侵食していく。 頭の中を、ティアやメルト、娼婦たちの顔がよぎる。 ジークに近い女がどんな目に遭うかなど、火を見るより明らかだ。 間に合え。 間に合ってくれ。 飛び降りるように裏道を駆け抜けた。 「まだ走れるか」 「当たり前だ」 走りながら確認する。 と、 暗がりから現れた影が行く手を塞ぐ。 「急いでいるところ悪いな」 路地の脇道から6人の男が次々と姿を現す。 「ちょっと遊んでもらえ……」 先頭にいた男の股間を蹴り上げる。 つまらない御託など聞いている暇はない。 「ジーク、ここは任せろ」 「すまんっ」 不意打ちに怯んだ男たちの隙間を、ジークが走り抜ける。 「待ちやがれっ」 男の一人がジークを追う。 走りかけた男の背中に、俺が投げたナイフが突き刺さる。 「背中を向ければ、あいつと同じ目に遭うぞ」 何としても、ジークだけは行かせなくてはならない。 頭のいない組織など〈烏合〉《うごう》の衆だ。 〈風錆〉《ふうしょう》の前にはひとたまりもないだろう。 「まずは俺を殺すんだな」 それぞれがナイフを抜く。 「この野郎っ」 突き出されるナイフ。 身体を開いて避け、その腕を掴む。 腕関節が悲鳴を上げる。 「うがああああぁぁっ」 「次、こいっ!」 「うおぉぉっ!」 一人が遮二無二突っ込んできた。 「っ!」 こちらから距離を詰め、 鼻柱を正面から拳で砕く。 〈鼻梁〉《びりょう》が潰れる感触が伝わってきた。 「残りは3人か」 「ひっ」 男の一人が、完全に怯んだ。 一歩二歩と後ずさり、 〈遁走〉《とんそう》する。 「お前らはどうする?」 目配せし合う襲撃者。 じりじりと距離を取り、脇の路地へと消えた。 落ち着いている暇はない。 再び、娼館街に向かって走る。 娼館街は、すでに〈風錆〉《ふうしょう》の人間で溢れていた。 路地には〈夥〉《おびただ》しい数の松明とランタンが並び、ただでさえ派手な街を赤々と照らし出している。 不用意に近づくこともできず、路地の影から様子を窺う。 店の一部は入口の扉が破壊されている。 強引に押し入られたのだろう。 リリウムから、縄で拘束された男たちが出てきた。 不蝕金鎖の奴らだ。 怪我を負っている者が少ないところを見ると、抵抗する間もなく捕えられたのかもしれない。 いや、一人だけ顔を腫らしている男がいた。 オズだ。 後ろ手に縛られ地面に投げ捨てられている。 雨の夜の不意打ち。 しかもジークは不在。 不蝕金鎖は、為すすべもなく崩壊したと見ていいのだろう。 完敗だ。 日々悪化していく状況を少しも改善できないままに、不蝕金鎖は終わった。 秘策も何もあったものではない。 そういえば、ジークはどうした? 先に走っていったはずだが。 どこかでこの状況を見ているのか、すでに捕らえられたのか。 路地に並べられた男たちの中に、ジークの顔はない。 周囲に目を走らす。 丁度、ヴィノレタの入口が開いた。 出てきたのは、縛られたメルトと従業員たちだ。 外傷はないようだ。 ……おかしい。 ティアの姿がない。 逃げたのか? それとも……。 リリウムに視線を戻す。 目に入ったのは、中に入ろうとしているベルナド。 そして、ベルナドの隣には、 エリス。 ……生きていたのか。 安堵感が湧き上がってきた。 だが、それもすぐにかき消える。 不蝕金鎖が敗北したいま、エリスは用済みだ。 一度仲間を売った人間は、結局は裏切り者としてしか見られない。 何かと理由をつけられて処分されるのが常だ。 仕方がない。 「……」 そう思うが、思い切れない。 エリスを、裏切るまでに追い込んだのは俺だ。 俺があいつの望みを受け入れていれば、こんなことにはならなかった。 そう考える一方…… 仮にいま、エリスが俺の所に戻ってきたとしても、俺はやはりあいつの望みを聞き入れないだろうとも思う。 結局のところ、俺達は交わらない道を進むだけ。 ならば、ここは行き着くべくして行き着いた終着点なのか。 エリスを助けるべきか。 見過ごすべきか。 そもそも、今出て行ってエリスを助けられるのか。 くそっ。 考えがまとまらない。 俺はどうしたらいい? 「!?」 背後に人の気配。 〈煩悶〉《はんもん》していたせいで、反応が遅れた。 反射的に路地から転がり出る。 「お前!?」 「ふっ」 大振りのナイフが、左右から間断なく襲い掛かってくる。 舞踊に似たその動きは、大味に見えて全く隙がない。 尋常の技ではなかった。 「くっ……」 本能に身を任せ、何とか刃をかいくぐる。 剣を振るために生まれた生物がいるとするのなら、目の前の女はまさにそれだ。 「くっ」 腰のナイフに手を伸ばす。 「っっ」 その手が裂かれた。 たじろいだ次の瞬間、 拳が目の前にあった。 視界が弾ける。 娼館の壁に背中から叩きつけられた。 「ぐ……」 呼吸が止まる。 揺れる視界の中、 女のナイフが〈奔〉《はし》る。 避けられる間合いではなかった。 「待てっ!」 鼻先でナイフが止まった。 時間が凍ったかのような静止。 ややあって、女の口が動く。 「どうした?」 「そいつは、ただ殺すだけじゃつまらん」 「もう少し楽しませてもらう」 女が不満げに俺を見る。 せっかく仕留めた獲物を、飼い主に捕られる猫のような顔だった。 「殺せなくて、残念だったな」 「……」 女の拳が振り上げられた。 意識がはっきりしてきた。 顎を殴られた影響で、しばらく意識が〈混濁〉《こんだく》していたようだ。 どうやら、後ろ手に縛られ床に転がっているらしい。 ここは…… リリウムにあるジークの部屋だ。 縛られたことは何となく覚えているが、ここまで運ばれた経緯は不明だ。 「起こせ」 頭の上から声がする。 「ぐっ」 誰かに襟首を掴まれ、無理矢理引き起こされた。 視界に入ったのは、椅子に深々と腰を下ろしたベルナドの姿。 ジークがたびたびそうしていたように、机に脚を投げ出し、葉巻を咥えていた。 「寝起きはいい方か?」 「起こされ方による」 「そうか」 頭から液体をかけられた。 「ぐっ」 顔の傷口に焼けるような痛みが走る。 どうやら火酒のようだ。 「どうだ?」 「お陰ですっきりだ」 「で、ジークは捕まえたのか?」 「時間の問題だ」 「なら、まだあんたは勝っちゃいない」 「そう思いたければ思っているといい」 自分でも負け惜しみだと思う。 仮にジークが生きていたとしても、一人では何もできない。 「不蝕金鎖もあっけないものだ」 「ジークを買いかぶっていたかもしれん」 独り言のように呟き、ベルナドは煙を吐いた。 「最初は出方を見ていたが、勝手に内側から崩れやがった」 「いい加減、待っているのも馬鹿らしくなったよ」 「おしゃべりのために俺を生かしたのか」 「いや、そこまで暇じゃない」 「ジークも捕まえたら、お前たちの前でメルトを犯してやろうと思ってな」 「いい趣味してるじゃないか」 「よく言われるよ」 「お前ら、2人ともメルトに乗ってるんだろ?」 「しかもジークなんぞ、そんな女を親父に買われていやがる」 「はははは、どういう気分なんだろうな、惚れた女が親父に抱かれるってのは」 「お前がメルトを抱けば4人兄弟じゃないか」 「いいね、大家族だ」 「だが、メルトの相手はそこらの乞食にでも任せるさ」 「犬としかやってねえような奴らだ、大喜びだぜ」 「……糞が」 「はははは、ありがとよ」 ベルナドが葉巻を消した。 「しかし、ジークも親父にはまったく及ばなかったな」 「女は盗られる組織は潰しちまうじゃ、あまりにもだらしねえ」 「親父が偉大すぎるってのも、息子は辛いもんだ」 「実感がこもってるじゃないか」 ベルナドの目が細められた。 俺が、ベルナドの過去を知っていることを悟ったのだろう。 「あいにく、俺は親父を越えたんでね」 「親父が持っていた全てが、今は俺の手中にある」 「復讐は果たせりってわけか」 ベルナドは底暗い笑いで俺の言葉に応える。 どこか悲しみを湛えた笑顔だった。 こいつもジーク同様、先代絡みの因縁と戦ってきたのだ。 復讐は、果たす瞬間までが華だと聞く。 こいつの中には、いま何があるのだろうか。 「復讐といえば……」 ベルナドが、俺の背後にいる部下に何かを促す。 「なんだ?」 「急くなよ」 ベルナドの、観賞に堪えないニヤニヤ顔をしばらく眺める。 やがて、花の香りを引きつれ、俺の隣に人が立った。 エリス、か。 「役に立ったか、エリスは」 ベルナドに言う。 「ゴミ以下だ」 「何か面白い話を持ってくるかと思ったら、手ぶらで来やがった」 「人質程度には使えると思って生かしておいたが……もう用済みだな」 「今夜、俺達が下層に行くのをどうやって知った?」 「先日、どっと裏切りがあっただろう? そいつらに聞いたよ」 「なるほど」 内側から漏れたのか。 結局、エリスはロクな情報を持っていなかったらしい。 エリスが致命的な裏切りをしなかったことに、どこか安心した。 「その女、お前に殺されたいとか意味のわからないことばかり言いやがる」 「……そうだ」 ベルナドが嗜虐的な笑みを浮かべる。 「せっかくお前に殺されたいと言っているんだ」 「カイム、エリスの願いを叶えてやれよ」 「ふざけるな」 「そう言うなよ」 「こっちは、ジークが見つかるまで退屈なんだ」 「……」 無視する。 「それがエリスのためだぞ?」 「なに?」 「どうせエリスは用済みだ」 「お前が殺さなきゃ、処分は部下に任せることになる」 「この女、頭はおかしいが身体は上等だ」 「そうすぐには、死ねないんじゃねえかな」 「お前……」 俺がやらなければ、さんざん遊ばれた後、エリスは殺される。 そういうことだ。 「いいよ、カイム」 「……私を殺して」 当のエリスはへらへらしている。 「どうする? エリスはこう言ってくれてるぞ」 「糞が」 殴られ、床に転がる。 すぐに髪を掴まれて起こされた。 目の前に、エリスの顔があった。 男たちに肩を押さえられ、〈跪〉《ひざまず》かされている。 「エリス……」 「私、カイム以外には殺されたくない」 「どうせ私の人生を狂わせるなら、最後まで狂わせて」 「……俺に、お前が殺せるか」 「カイム……」 「エリス、残念だったな」 「カイムは、お前が玩具にされるところを見たいんだとさ」 「ま、男なら誰でもそうかもしれん」 ベルナドがせせら笑い、部下に目を遣った。 顎で促すと、部下達がエリスを囲む。 エリスが仰向けに倒された。 まくれ上がった服の裾から、太腿が覗く。 付け根まで露わになってしまいそうだ。 「やめろ……」 「お前が望んだことだ」 部下の一人が、エリスの足の間に膝を着く。 「カイム……殺して」 「エリス……」 俺がエリスを殺す? だが、そうしなければ、こいつは間もなく慰みものにされる。 どうせ殺されるのだ。 穢される前に、ひと思いに殺してやった方がエリスのためなのかもしれない。 他人は、エリスを見捨てたと非難するかもしれない。 だが、できることとできないことがある。 理屈じゃない。 大事な女を殺すなど、あってはならない。 「カイム……殺して……」 「やめろ、ベルナド」 「そりゃ、わがままってもんだ」 部下の男が、エリスの服に手を伸ばした。 奥歯を噛む。 「……」 返事をするため、息を吸う。 仕方がないことだ。 これは、エリスのためなのだ。 「な、何だてめえらはっ!?」 「?」 にわかに屋外が騒がしくなった。 「騒がしいな」 ベルナドが窓際に近づく。 「な、なんだ……これは……」 「一体……どうなってる……?」 ベルナドの声が驚愕に歪んだ。 階下から複数の足音が聞こえてきた。 駆け足で2階へと上がってくる。 「頭、大変です」 「ぐあっ」 背後から突き飛ばされた男が、もんどり打って室内に転がり込んだ。 「失礼する」 フィオネを先頭に4人の羽狩りが部屋に入ってきた。 エリスを囲んでいた男たちが、慌てて離れる。 「フィオネ……」 フィオネが俺を一瞥する。 だが、すぐにベルナドに向き直った。 「防疫局のフィオネ・シルヴァリアだ」 「……羽狩りが何の用だ?」 あくまで〈鷹揚〉《おうよう》な態度のまま、ベルナドが応じる。 「この娼館で、羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》が拘束されていると報告があった」 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》は、速やかに保護することが法により定められている」 「心当たりがある場合は、すぐに面会させてもらおう」 「冗談はよせ、羽つきなど匿っていない」 「では、調べさせてもらっても問題はないな」 「……何?」 フィオネの部下たちが、無言で部屋に散る。 「エリス、縄を」 「うん」 エリスが俺の戒めを解く。 羽狩りの前では、ベルナドもエリスを止められない。 横目に、窓から外の状況を確認する。 娼館街の路地は明かりの洪水だった。 沢山の羽狩りが道を埋めている。 こんな数の羽狩りは見たことがない。 牢獄以外の羽狩りも動員されていることだろう。 こんな大規模な捕り物が、偶然であるわけがない。 「そうか……」 ジークが、誰と打ち合わせを重ねていたのかを思い出す。 ルキウス卿── 若手の改革派と言われている彼は、羽狩りの長でもある。 彼以外には、こんな大動員は不可能なはずだ。 通常なら『不蝕金鎖の本拠地に羽つきが拘束されている』などという情報で羽狩りは動かない。 それも、〈風錆〉《ふうしょう》が娼館街を制圧したこの晩に。 ジークの奴、俺まで騙したらしい。 「隊長、これをっ!」 「どうした?」 「戸棚の裏に扉があります」 俺も知らない扉だ。 「そんな扉は知らない」 「隠し扉など作る人間は、大体そう言う」 慌てるベルナドの前で、戸棚が動かされる。 現れたドアのノブに、フィオネが手をかけた。 「調べさせてもらう」 確信めいた動きでドアが開かれた。 ぽっかりと口を開ける暗い通路。 フィオネが中を覗き込む。 「やはりか」 「君はもう安全だ。出てきなさい」 フィオネが通路に呼びかける。 いるに決まっているのだ。 全てが計画されていたのだから。 「……あ、あの……」 ……こんなところにいやがった。 「君は羽化病の〈罹患者〉《りかんしゃ》か?」 「はい、間違いありません」 「どうしてここに閉じこめられている?」 「病気を治す特別な薬があるって、あの人に言われたんです」 ティアがベルナドを指さす。 「……」 ベルナドの表情が硬くなった。 さすがに、自分が〈陥〉《おとしい》れられたことには気づいただろう。 同時に、どんな弁解をしたところで無駄だということも。 「これからは、棚の裏まで調べるようにするんだな」 いつかベルナドに言われた言葉を、そのまま返す。 「く……てめえ……」 「ベルナド殿」 「少々聞きたいことがある、詰め所まで〈同道〉《どうどう》願おう」 「そりゃ困る」 ベルナドが周囲に目配せした。 抜刀の音が響く。 「防疫局は、任務を妨害する者には、それ相応の対応をする」 「知っているな?」 フィオネが、ゆっくりと剣を抜く。 「さあ、初耳だ」 「……排除せよ」 「エリス、ティア、隠れろっ」 2人が隠し通路に避難するのと、血煙が上がるのは同時だった。 狭い室内での乱戦になった。 「頭っ、逃げてくださいっ」 ベルナドが、部下に守られて部屋の出口へ向かう。 「逃がすかっ」 壁に掛けてあった剣を投げつける。 「ぐっ!!」 部下が、身を挺してベルナドを守る。 剣を腹に突きたてた部下を楯に、ベルナドは出口まで辿り着いた。 「待て、ベルナドっ」 「悪いな」 ベルナドが廊下に消えた。 部下たちが、追わせまいと部屋の出口を塞いだ。 「蹴散らせっ」 フィオネの剣が〈煌〉《きら》めく。 相変わらずの技の冴えだ。 流れるような動きから繰り出される閃光が、〈風錆〉《ふうしょう》の男を斬り伏せる。 数瞬の間に、部屋は〈風錆〉《ふうしょう》の男たちの〈呻〉《うめ》きで満たされた。 「カイム、これをっ」 フィオネが、俺のナイフを投げて寄越す。 「助かった」 「行くぞっ!」 部屋から飛び出す。 ロビーでは、娼婦たちが一箇所に固まって震えていた。 「カ、カイム……」 「あの、いったい何が……?」 「後で説明する」 「男が降りて来なかったか?」 「裏口」 「わかった」 と裏口へ向かいかけた時、 「あっ、エリスさん、まだ危ないかもっ!?」 「……」 「フィオネ、ベルナドは任せた」 「どこに行くっ!?」 「別の用があるっ」 言うなりジークの部屋にとって返す。 「……今度は、あの女か……まったく」 「くそっ、くそっ、くそっ」 水しぶきを上げ、ベルナドは走る。 今夜は、最高の夜になるはずだった。 いや、ついさっきまでは最高の夜だった。 それがこの様だ。 ジーク! あの男だ。 あいつが台無しにしたのだ。 今夜のことだけじゃない。 俺の人生全てを、台無しにしたのだ。 「!?」 闇からにじみ出るように人影が現れた。 ベルナドが足を止める。 路地に浮かびあがったその姿── 無駄が完全にそぎ落とされた肉体。 強靭な意志を〈蔵〉《ぞう》する眉と瞳。 視界を煙らせる雨も、彼の内側から溢れる活力と知性を隠すことはできない。 一瞬とはいえ美しいと思ってしまった自分に、ベルナドは奥歯を噛んだ。 そうか。 そこまで俺の邪魔をするか。 「ジーク……」 期待が砕かれることを確信しつつも、ベルナドは背後を振り返る。 案の定、どこから現れたものか、背後の路地も羽狩りに塞がれていた。 見事じゃないか。 娼館の表に羽狩りが大挙していれば、裏口から逃げるのは必然。 そこまで計算して、ここに網を張っていやがった。 自分の子供のような年齢の男に出し抜かれる、この無様さ。 ベルナドが口の端に笑みを〈上〉《のぼ》せる。 「俺もヤキが回ったか。なあ?」 ジークは返事をしない。 静かな佇まいで、ベルナドを見つめている。 ……。 …………。 ………………。 ……………………。 「なんとか言え、貴様ぁっ!!」 絶叫した。 迸った声も、時同じくして強くなった雨にかき消される。 「全部台無しにしやがって」 「てめえが生まれるずっと前から、俺は先代のために働き続けてきた」 「わかるか!? ずっと……ずっとだ!」 「それをてめえは、何の苦労もなしに横からかっさらった」 「てめえが正妻のガキだってだけの理由で」 「俺は、召使いのガキってだけの理由で全てを奪われたんだ!」 ベルナドは笑っていた。 その顔の面を、雨が幾条もの流れを作って伝い落ちていく。 「お袋は最後まで父親の名を言わずに、つまらない病で死んだよ」 「父親の名が明らかになれば、先代の迷惑になると信じ切っていた」 「俺が先代の子だってことは、古い幹部なら皆知っていたにもかかわらず、だ」 ジークは、何も応えない。 「最期の瞬間まで、お袋は先代にもらった安い髪飾りを握り締めていた」 「こんな惨めな死に方をしなくちゃならないのは、先代のせいだってのに」 「なあ……なんなんだこれは?」 「どういうことだ? 教えてくれよ?」 「お前は何様で、俺はなんなんだ!?」 いつの間にか、ベルナドの声には哀願に似た響きが混じっていた。 ジークは表情を動かさない。 それが礼儀であるかのように、ベルナドの動き一つ一つに傾注していた。 無言の刻が流れる。 やがて、ジークは表情を動かさぬまま、口だけを開いた。 「俺もお前も、そして先代も、一人の男に過ぎない」 「俺達を別ったものがあるとすれば、それはこの世の理不尽さだ」 「だが、お前の味わった理不尽さなど、牢獄じゃ酒の肴にもならない」 「そう思えるのは、てめえが恵まれてるからだろ!」 「ああそうだ」 「俺は恵まれていて、お前は恵まれていない」 「そんなガキでもわかる事にいつまでもこだわっているから、あんたはここで終わるんだ」 「……」 ベルナドが声を失う。 怒りと屈辱が、身体中で赤々と燃え上がる。 その火が、長年ため込んできた劣等感という火薬に引火した。 「てめええぇぇぇっっっ!!!」 矢のように、ベルナドが突進する。 その姿に理性の色はない。 目の前にいる男、自分の人生を完膚無きまでに否定した男を消さねばならない── でなければ、自分という人間はこの世に存在し得ない── そんな衝動が、彼を突き動かしていた。 「ベルナド」 鬼神の形相で迫るベルナドを見、ジークは思う。 人の生には、本質的に意味がない。 だからこそ、人は自分の人生を誰かに結びつけたがる。 約束、友情、復讐、呪い、運命── なんでもいい。 他者と縁を結ぶことで、人は自分に生きる意味を付加する。 そこには計り知れない安心があるだろう。 だからこそ、時として人は縁に依存し、それがまるで神の生み出した永遠不変のものであるかのように思い込む。 縁というクスリの効果を、いつまでも切らさないために。 「っっ」 ベルナドの拳が繰り出される。 男一人の人生が乗り移った、渾身にして必殺の一撃だ。 それを── ジークは軽く首を傾けるだけで避けた。 「!?」 ベルナドの腹に、ジークの拳がめり込む。 雨が止む。 雲が消え、おぼろな月が路地を照らす。 声にもならない声を漏らし、ベルナドが〈崩折〉《くずお》れた。 「自分の人生を決めるのは自分だ」 ジークの部屋に戻る。 部屋にはまだ、男たちの〈呻〉《うめ》き声と血の匂いがあった。 「ティア、どうした!?」 棚の裏の隠し通路を覗く。 「あ、カイムさん、エリスさんが」 「だからどうした?」 「止めたんですが、通路の奥に行ってしまって」 「奥に?」 見たところ、通路は非常用の脱出口だ。 先は、どこかの路地にでも繋がっているのだろう。 「お前はここにいろ」 エリスを追う。 通路は長いものではなく、少し進んだところで、どこかの民家の部屋に出た。 どうやら無人のようだ。 路地に出るドアは開け放たれ、雨の〈飛沫〉《ひまつ》が入り込んでいる。 エリスはどこまで行っただろうか。 「……」 そこに、エリスはいた。 雨をまるで意に介さず、こちらを見つめていた。 漆黒の中、エリスの肌の白さが冴える。 明け方のわずかな光を集め、自ら輝いているようにも見えた。 「なぜ逃げた」 「逃げてない、移動しただけ」 「血の匂いは好きじゃないから」 「医者のくせにそれか」 無理矢理ひねりだした軽口が、空虚に響く。 「さっきは、あやうくカイム以外に殺されるところだった」 「フィオネに感謝するんだな」 「今から、カイムが殺してくれるの?」 「まさか」 「結局、カイムは私の願いを叶えてくれない」 抱くことも、物扱いすることも、殺すこともできない。 「まだ私に、自由に生きろと言うの?」 「そうだな」 「やっぱり、私のことなんて全然考えていない」 「私がカイムをどれほど切望したか、どれだけカイムの物になりたかったのか、少しも知らない」 わかるはずもない。 俺の考える普通の人間は、そんなことは考えないから。 「教えてくれ」 「どうしてそこまで人の物になりたい?」 「お前は、自分の人生を生きたいとは思わないのか?」 エリスが、『当然』という顔をした。 「少しも思わない」 「だって、私は人形だから」 「人形?」 「私は、人の命令で動くことしかできないようにできてる」 エリスの手には例の人形があった。 〈刺繍〉《ししゅう》された虚ろな目が、俺を見ている。 「知ってるでしょ? 私が檻の中で育ったこと」 「ああ」 「でも、あの部屋が檻だと気づいたのはずっと後。娼館に来てから」 「物心ついたときから、あの部屋にいたんだから当たり前」 「あの部屋こそが私の世界のすべてだった」 「この世に太陽があることも、風があることも知らなかった」 「日に数回現れる人の命令に従うだけの毎日」 「命令に従えば褒められたし、命令以外のことをすれば殴られた」 「だから命令に従うことだけを考え、それ以外の事なんて考えなかった」 エリスが、淡々とした口調で人生を語っていく。 まるで、何かの薬の使用法を説明するかのような口ぶりだ。 「わかる? だから私は人形」 「誰かの命令のままに生き、それ以外のことはできないの」 以前、ベルナドに聞いた話を思い出す。 ベルナドがエリスを発見し、部屋から出そうとしたとき、エリスは泣いて暴れたらしい。 それは、部屋から出てはならないという教育が、彼女に浸透していたからだ。 恐らく、エリスに施された〈躾〉《しつけ》はそれだけではなかっただろう。 「娼館も嫌いじゃなかった」 「檻から無理矢理出されたせいで悪夢や幻覚も見たし、急に気持ち悪くなって日に何度も吐いたけど」 「あそこには命令をくれる人がいた」 「命令に従って動くと、なんだかすごく安心した」 ただ命令に従って生きるように育てられたエリス。 外界との接触がない彼女にはそれが当たり前だった。 違和感を覚えることすらなかっただろう。 世間では地獄と言われる娼館も、エリスにとってはむしろ馴染みやすい場所だったようだ。 もしかしたら、監禁されて育ったエリスにとっては、娼館など生ぬるい環境だったのかもしれない。 「でも、カイムが私を娼館から引っ張り出した」 「私は身請けされても何も感じなかった。ただ所有者が替わるだけだから」 「願ったことはただ一つ」 「〈私にとって〉《・・・・・》、過ごしやすい環境を作ってくれること」 「でも……」 後はわかるでしょう? そう言いたげな表情だった。 「俺は、お前を普通の人間にしようとした」 エリスが満足げに頷く。 「辛かった」 「人形は自分で歩けるようにできてない。なのにカイムは、歩け歩け歩け歩け」 「自立しろ、自分で考えろ、お前の人生を生きろ」 「そんなの無理」 「外なんて出られないし、毎日、不安で怖くて吐きそうだった」 「それでも少しずつ慣れて、私はカイムの言う普通に近づいたんだと思う」 「でも、あの日──」 「カイムは私を捨てた」 「……自由に生きろ、と言ってな」 「井戸の底に落とされたような気分だった」 「何も見えず、何も聞こえず、何も考えられず」 「穴という穴から、闇が入り込んでくるような、そんな気分だった」 「呼吸もできなくなるほど怖かった」 「カイムにはわからないでしょう?」 「……」 ようやく、エリスという人間がわかった。 彼女が何故、自由を拒み、物扱いされることを望んだか。 好きであること、 嫌いであること、 欲しいと思うこと、 要らないと思うこと、 自分の意思を持つということ。 普通の人間にとっては美酒である『自由』も、エリスにとっては猛毒なのだ。 「だから私はカイムに〈縋〉《すが》った」 「私を傍に置いて、人形として扱ってくれるよう懇願した」 「皆、私がカイムに好意を持ってると勘違いしてたけど、私にはもともと好きとか嫌いなんてないの」 「自分を縛ってくれる人間が欲しかったんだな」 「そう。人形は一人では生きていけないから」 〈穿〉《うが》った見方をすれば、エリスは誰かの命令に従ったときだけ、自分の価値を確認できるのだろう。 だからこその人形だ。 人形は、所有者が遊んでくれなければただのゴミでしかない。 所有を放棄されること、すなわち自由を与えられることは、人形にとっての死なのだ。 「カイムに捨てられてから、なんとか一人で生きていこうと頑張ってきた」 「何年もかけて、ようやく人間の真似にも馴染んできたのに……」 「10日くらい前、カイムはいきなり私と暮らすって言いだした」 「今まで放置してきたのになぜ?」 「でも……それでも、もしかしたら、私の気持ちに気づいてくれたのかと思って期待した」 「なのに、今度もまた私に苦痛を与えるだけ」 「わけがわからなかった」 「どうしてカイムは私を苦しめるの? わざわざ持ち上げて落とすようなことをするの?」 「……」 俺のしてきたことは、完全に独りよがりだった。 ちょっと可哀想で頭がおかしな女を真っ当にしてやっている── そんな、善人気取りの行為だった。 だが、エリスにしてみれば、全てが自分を苦しめるものだった。 なんてことだ。 「……エリス、俺は」 「謝罪なんていらない」 「普通も、常識も、正しさもいらない」 「私をカイムの物にしてくれないなら……」 「ここで殺して」 エリスには、もう俺の声が届いていない。 半ば〈陶然〉《とうぜん》となりながら言葉を続ける。 「カイムが私の首を締めてくれた時、すごく嬉しかった」 「ずっとカイムに支配されることを望んできたんだから」 「カイムに命を握りつぶされるなんて、きっと最高だと思う」 エリスが笑みを浮かべた。 「これが人を好きになるってこと?」 「私は人形で、所有者を選ぶ権利なんてないのに」 「カイムに苛められてるうちに、カイムのことしか考えられなくなった」 「ああ! わかる、この感じ!?」 「お腹の中に手を入れられて、そこにある何かすごく大切なものを壊して欲しいの」 「そしたら、絶対に絶対に最高なはず!!」 高らかに〈謳〉《うた》い上げるかの声。 エリスの肌が興奮に染まっている。 妄執だ。 身請け以降、エリスの恐怖を取り除けるのは俺だけだった。 だからエリスは俺の事だけを考え続けた。 俺の関心を引き、所有されることを切望し続けた。 被所有を望み、拒否され続ける。 この連続がエリスに俺を刻みつけてしまった。 人間を調教するには、飢えを利用するのが効率的だ。 限界まで餓えさせ、餌を与える。 これをくり返すだけで、人は餌をくれる存在に忠誠を誓う。 俺がしたことは、エリスの心の飢えに対して似た効果を持っていたのかもしれない。 もはや呪いだ。 俺はエリスにかかった呪いだ。 「さあ」 エリスが近づいてくる。 「私、ベルナドに寝返った」 「殺されるだけのことはしているはず」 さらにもう一歩。 「カイム」 エリスが俺の手に何かを握らせた。 感触でわかる。 医療で使用するナイフだ。 「……」 俺がエリスを殺す? 彼女の人生を滅茶苦茶にした償いにか? あり得ない。 俺が、エリスにどれだけの苦痛と困難を強いてきたとしても、こいつを殺すことはあり得ない。 それが、彼女にとってどれだけの報酬になるとしてもだ。 「あり得ない」 ナイフを地面に落とす。 「……どうして?」 「お前を殺したくない」 「俺は、生きて幸せになるお前が見たい」 俺が望んでいるのは、エリスが変わっていくことだ。 「まだそんなことを……」 「私の話を聞いていなかったの!」 「聞いていた」 「だったら!」 「だったら……わかって……」 「ねえ、わかってよ……」 エリスの声が切なげに歪む。 「自分でも、どうしようもない」 「カイムにどうにかされないと……壊れてしまう……」 エリスが地面に〈崩折〉《くずお》れる。 両手で顔を覆い、重く、重くうなだれた。 小刻みに震える肩に、明け方の冷たい雨が降り込める。 不幸な女だ。 人間として生きることを完全に否定されて育った。 ようやく人になる機会を得ても、彼女の経験が、身体に刻み込まれた生き方が、それを易々とはさせない。 このままでは、エリスは狂っていく一方だ。 だが、どんなに狂ってもエリスは自ら命を絶つことができないだろう。 自殺する人形など存在しないからだ。 ならば、いかなる形にせよ彼女はこれからも生きていかねばならない。 エリスの人生はどうなるのか? 俺の不理解は、確かに彼女の不幸を増幅させた。 だが、彼女の人生に対し責任を取る必要があるとは思わない。 しかし…… この先エリスを一人にしていいのだろうか。 エリスに必要なのは、こいつのややこしい中身を理解し、見守ってやれる人間なんじゃないか。 それができるのは、もしかしたら俺だけかもしれない。 この10日間を思い出す。 すり切れそうな理性の中、俺を求め続けたエリス。 狂っていく自分に戸惑いながら、それでも俺への想いは消えなかった。 うざったい女だと何度も思った。 殺してやろうとも思った。 だが、エリスが〈風錆〉《ふうしょう》に走った夜、俺は何を感じていた? 俺の部屋の床で腐臭を放つ料理。 散乱した羽毛。 羽毛をかき集めた時の、手の感触。 あの時の喪失感は、まだ俺の中にある。 それは、俺もエリスを求めていた証だ。 俺は、エリスを真っ当にしていると思い込むことで、兄とのふざけた誓約に向き合っていた。 兄が命を賭してかけた呪いは、いかに否定しようとも胸の奥深くで俺を〈苛〉《さいな》み続けていたのだ。 エリスへの行為は、その痛みを和らげるクスリとしての機能を果たしていた。 だからこそ、俺にとってエリスは必要だったのだ。 その役割を果たすのがエリスでなければならなかったのかは甚だ疑問ではある。 それはエリスも同様。 あいつも、所有してくれれば誰でもよかったと言っている。 だがそれでも── 俺の前にいたのはエリスであり、エリスの前にいたのは俺だった。 女子供が喜ぶような、運命の出会いなんてものじゃない。 俺達の出会いにはなんの意味もない。 あるのは、出会ったという事実と時間の積み重ねだけだ。 お互いをまったく見ていないにもかかわらず、俺達の心はもつれ合い── そして今この瞬間、はじめは無関係だった俺とこいつの人生は、確かに分けがたく絡まり合っている。 俺は…… 「エリス」 うなだれたままのエリスに言う。 「お前をこんな状況にしてしまったのは俺だ」 「身請けしてからお前にしてきたことは、全部独りよがりだった」 エリスは何も言わない。 だが、伏せた顔の下で俺の言葉を聞いていてくれていることはわかった。 「だがそれでも、お前の望みに応えるわけにはいかない」 「どうして……」 「私はもう、どうにもならないところまで来てしまったのに」 「俺は、お前とともに生きていきたいからだ」 「……?」 エリスが顔を上げる。 信じられないものを見るような顔で俺を見ていた。 「確かに、お前は人形として育てられたかもしれない」 「だが、これからも人形である必要はないだろう」 「必要とか不必要とか、理屈じゃない」 「変わるんだ」 エリスが俺を〈睨〉《にら》みつける。 「変われるわけないでしょ!?」 「そうできてるの! 人が空を飛べないのと一緒!」 「時間はかかるかもしれない……いや、どれだけ時間がかかってもいい」 「最期まで変わりきれなくたっていい」 「お前がいつか過去を忘れて笑える日が来るまで、俺が傍にいる」 「やめてよ!」 「馬鹿じゃないの!? 聖職者にでもなったつもり!?」 「馬鹿で結構だ」 「馬鹿でなきゃ、お前みたいな女の相手はできない」 「やめて、やめて、やめてよっ!」 エリスが立ち上がる。 その手には、俺が落としたナイフがあった。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 呼吸と興奮に肩が上下している。 「もう終わり、来るところまで来たの」 「言葉じゃ何も変えられない」 ナイフの切っ先が向けられた。 「カイムを殺したら、私も逝く」 「お互い持ちつ持たれつで絡み合ってきたんだから、一緒に死のう?」 「エリス……」 俺はどうしたらいいのか。 エリスを止めればいいのか、殺されればいいのか。 答えは浮かんでこない。 なのに、心は静かだ。 なぜ? 「っっ!!」 エリスが殺到した。 悲しげな目が迫ってくる。 空を見上げた。 降りしきる雨が俺の顔を叩く。 全身ずぶ濡れだが、身体の一部は温かい。 エリスの肩が接しているからだ。 ナイフが地面に落ちる音がした。 刃は腕をわずかに傷つけただけのようだ。 自分の心が静かだった理由がわかった。 エリスは俺を殺さないと、わかっていたからだ。 エリス…… 抱きしめた。 興奮で熱くなったエリスの身体。 手負いの獣のように、荒い息づかいをしている。 「知ってるか」 「お前が生きてるだけで嬉しい奴もいるんだ」 「う……」 「うあああああぁぁぁぁ……」 エリスの声が路地に流れる。 先程までの雨をその身に引き受けたかのような〈涕泣〉《ていきゅう》だった。 「すまなかった」 小刻みに震える頭をかき抱き、強く胸に当てる。 「カイム、カイム……カイム……」 「ああ……ここにいる」 「私……変われるか、わからない……」 「大丈夫だ」 この熱、 この律動、 エリスは人形なんかじゃない。 れっきとした人間だ。 エリスが変われても、変われなくても、俺はこいつの傍にいよう。 絡まり合った人生を、無理に解くことなく、絡まったままに受け止める。 それでいいじゃないか。 それでも、エリスはエリスの道を歩むべきだ。 「俺は、お前が自由に生きていく姿を見たい」 「!?」 エリスが顔を上げる。 信じられないものを見るような顔で俺を見ていた。 俺達の人生が絡み合っているのはわかる。 だが、これは互いが互いにかけた呪いだ。 解除しない限り、エリスは俺への依存をやめず、俺もまたエリスをネタに兄へ卑屈な笑みを向け続けるだろう。 人と人との縁は貴重なものだ。 だが、時にそれは道を見失わせるクスリとなりうる。 今、エリスは俺との関係にはまりこみ、抜け出す術を失いかけている。 呪いを解くのは、今しかない。 今を逃せば、エリスも、恐らく俺も終わる。 「自由の価値なんて、私にはわからない」 エリスがはかなく笑った。 「確かに、お前は人形として育てられたかもしれない」 「だが、これからも人形である必要はないだろう」 「必要とか不必要とか、理屈じゃない!」 「変わるんだ」 エリスが俺を〈睨〉《にら》みつける。 「変われるわけないでしょ!? そうできてるの!」 「わかるでしょう? 壊れてるのよ、私は……壊れてるの」 「時間はかかるかもしれない……」 「だが道は続いてる。お前のためだけの道だ」 「少しずつでもいいんだ、自分で歩いてみろ」 「うるさいっ!」 エリスが立ち上がる。 その手には、俺が落としたナイフが握られていた。 「身請けなんてされなければよかった」 「そうすれば、私は娼館で苦しみのない生活を送れた」 「なのに、カイムが全部狂わせた」 「私の人生も心も狂わせた」 「責任……そう、責任とろっか?」 ナイフの切っ先が向けられた。 「そうだ……俺がお前を狂わせた」 「俺は、お前にかけられた呪いみたいなもんだ」 「今ここで振り切れ」 「お前だけの人生を歩めるように」 「うるさいっ……うるさい、うるさいっ!」 エリスが両手でナイフを掴み直す。 「カイムを殺したら、私も逝く」 「お互い持ちつ持たれつで絡み合ってきたんだから、最期も一緒でいい」 こいつは俺を刺すだろう。 痴情のもつれで女に殺されるとは、俺もいつの間にか色男の仲間入りをしていたらしい。 「俺を刺せ」 「刺したら、考えてくれ」 「どうしたら自分が幸せになれるのか」 「っっ!!」 エリスが殺到した。 憎悪に燃えた目が迫ってくる。 空を見上げた。 降りしきる雨が俺の顔を叩く。 全身ずぶ濡れだが、身体の一部は温かい。 エリスの肩が接しているからだ。 ナイフが地面に落ちる音がした。 刃は腕を傷つけていた。 痛みは感じなかったが、血の流れる感触があった。 どうやら、エリスは俺の胸を刺せなかったようだ。 「カイムに……何がわかる……」 「何がわかるっていうのよ……」 エリスが石畳に膝をつき、うなだれる。 「私だって……真人間になりたいと思った時もある」 「だってそうでしょ?」 「私は少しも悪くないのに、当たり前だと思っていた世界を地獄だと言われて」 「毎日毎日、自分が人形だと、壊れた人間だと思い知らされて……」 「じゃあ、私は何なの……私の人生は何だったの?」 「何のために生まれてきたの……」 「教えて……教えて……教えてよ……」 〈嗚咽〉《おえつ》が漏れた。 生い立ちを地獄だと言われること、自分が壊れていると思い知らされること── それらは、エリスにとっては人生の否定だった。 エリスはずっと探していたのだ。 自分の生まれてきた意味を。 だからこその言葉か。 誰か──恐らく俺の母親に似た人生観を持った娼婦が、 人には必ず生まれてきた意味があるなどとエリスに言ったのだろう。 娼婦の仕事を始めることになったエリスを励ますための気休めだったのかもしれない。 あの時の俺は、その時のやりとりを耳に挟んだのだ。 エリスは可哀想だ。 だが、 だが…… 「お前が地獄に生まれたことにも、お前が人形になったことにも、なんの理由もない」 「俺の家族が〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で死んだことや、俺が娼館に売られて人殺しになったことと同じくらい、理由もなく、意味もない」 「カイム……」 「不条理だ、世界は」 「理不尽なことに溢れてる」 「だが、ここで終わってしまったら、本当にお前の人生はなんだったんだ」 「誰かのいいように動かされるために生まれてきたのか?」 「それじゃ、あんまり寂しいだろ」 エリスの頭に手を置く。 「考えてもみろ」 「メルトもジークも、ティアも、娼館の女たちも、お前の生い立ちなんて知らない」 「それでも普通にやってきたじゃないか」 「う……」 エリスが自分をかき抱く。 「うわああああぁぁぁっっ……」 そして号泣した。 雨上がりの道を、エリスとともに娼館街へ戻った。 路地の両脇には武装解除された〈風錆〉《ふうしょう》の構成員たちが、座らされている。 それを監視するのは、急報を聞きつけて集まってきた不蝕金鎖の人間だ。 「よう」 いつもの調子でジークが声をかけてきた。 脇には、縛り上げられたベルナドがいる。 「生きてたか」 「お前のお陰で助かった」 「そっちは、片がついたようだな」 「そっちも」 エリスに〈一瞥〉《いちべつ》をくれ、ジークが笑う。 「どうやってベルナドを捕まえたんだ」 「今度酒でも飲みながら話そう。エリスとのことも聞きたいしな」 「つまらない話だ」 「こっちも、期待してると肩すかしだぞ」 二人で苦笑する。 「気色悪い」 「おっと、やっぱり本家の毒舌はしびれるな」 「ふんっ」 エリスが不貞腐れた顔をした。 この顔を見るのも久しぶりだ。 「ジーク殿、私たちはそろそろ撤収します」 「世話になったな」 「上からの指示に従っただけです」 「組織間の問題はそちらで解決してください」 「わかってる」 「ベルナド殿は、2、3日こちらで預からせていただきます」 「調書を作らねばなりませんので」 詰め所で、ルキウス卿や副官の尋問があるのだろう。 「それでは」 フィオネが〈踵〉《きびす》を返す。 その背に言う。 「フィオネ……助かった」 「気安く呼ばないでもらいたい」 振り返りもせず言った。 俺のことを許すつもりはないらしい。 「……ティアの協力には感謝します」 「伝えておく」 「よしなに」 フィオネが立ち去る。 「さて、俺は俺の仕事をする」 「エリス、悪いが怪我人の治療を頼めるか?」 「道具がない」 俺の部屋に放ってあるままだ。 「俺の家だ、行くぞ」 「あ、うん」 エリスが俺の袖を掴む。 「……」 振り返ると、エリスが上目遣いに俺の表情を窺っていた。 エリスの手を払う。 ……。 そして、手を握る。 「……」 「もういい、今日の治療はなしだ」 「怪我人は?」 「ほっとけ、1日2日は死にやしない」 言い捨て、ジークはリリウムに入った。 「だって」 「だって、じゃない。医者のくせに」 「今日はカイムの治療で手一杯」 言われてみれば、今日はそれなりに怪我をしていた。 「……頼んだ」 「わかった」 その時、 牢獄の絶壁の上から、太陽が姿を覗かせた。 エリスを横目に窺う。 美しい顔が、埃や涙で汚れていた。 ひどい夜だった。 だがまあ…… たまにはこんな夜もいい── そう思える、朝焼けだった。 朝日が牢獄の〈甍〉《いらか》を白く照らす。 真っ暗だった路地に、二人の人物の姿が浮かぶ。 牢獄では珍しい清潔な服装をしていた。 「落ち着いたようですね」 「そのようだな」 「お疲れではございませんか?」 問題ない、とルキウスが手で応じる。 「詰め所に戻る」 「まずは、ベルナドとやらの顔を見よう」 「かしこまりました」 頭を下げかけたシスティナが、振り返る。 「誰だ」 ……。 …………。 静寂。 やがて、路地に人影が現れた。 少し前、カイムを手玉に取った長外套の女だった。 血の気のない肌。 しかしその目の奥には、〈燠火〉《おきび》のような眼光が〈燻〉《くすぶ》っている。 「通りすがりだ」 言葉とは裏腹。 女は、乱暴に髪をかき上げ家の壁に背を預けた。 「お前がいるとなれば、やはり〈風錆〉《ふうしょう》の裏には……」 「謙遜するな、ルキウス」 「そんなことは、とうの昔に知っていた」 「いや、だからこそ牢獄くんだりまで出てきたんだろう?」 「口の利き方に気をつけろ」 「悪いな、これしか能がないんでね」 剣の柄を、人差し指で二度叩く。 「牢獄で撒いていた薬には、福音が混入されていたようだな」 「さてな、難しいことはわからん」 女が壁から背を浮かす。 「散歩中、邪魔したな」 「まて、貴様っ!?」 「……」 瞬きの間もなかった。 長外套の女のナイフが、システィナの首に当てられている。 「……う……」 システィナの息が止まる。 「乳臭い女だな」 「どうせ死ぬなら、一度でも男を味わってからの方がいいぞ」 「大切な副官だ、お手柔らかに頼む」 「もちろん」 長外套の女が、システィナの頬に軽く口づける。 「男が喜ぶ味だ」 犬歯を覗かせて笑い、女は距離を取った。 「き、貴様……」 「それでは失礼、ルキウス卿」 疾風のように、女は路地に消えた。 路地には、ルキウスと、屈辱に顔を紅潮させたシスティナが残された。 「あの女は狂犬だ」 「文字通り、犬に噛まれたとでも思うんだな……ふふ」 「わ、笑い事ではありませんっ!?」 「ふふふ……はははは……」 笑いながら、ルキウスが詰め所へと足を向ける。 「ル、ルキウス様っ!?」 その後を、システィナが追った。 家に着くと、すぐにエリスが治療の道具を広げた。 「腕、痛くない?」 「大丈夫だ」 ベッドに座り腕を見せる。 エリスから受けた傷はかすり傷程度だ。 怪我としては、ベルナドの部下の女にやられた方がひどかった。 骨は折れていないが、かなりひどい打撲だ。 「ごめんなさい」 「私、わけがわからなくなってた」 「気にするな、俺も同じだ」 「何を話したのか、覚えてないところも多い」 消毒していたエリスの手が止まる。 「私の傍にいてくれるって話は?」 「……そんなこと言ったか?」 「そんな……」 エリスが呆然とする。 「冗談だ、覚えてる」 「忘れるわけがない」 「……」 てっきり傷口でも突っつかれるかと思ったが、エリスは何もしてこなかった。 〈俯〉《うつむ》いてしまい、それっきりだ。 「悪かった」 「……ぐす」 鼻を〈啜〉《すす》る音が聞こえた。 「泣くなよ」 「大丈夫だ、ずっと傍にいる」 「ぐす……ずっ……」 「私、カイムなしじゃ生きられない」 「もう、あんな暗闇の中に放り出されるのは嫌」 〈俯〉《うつむ》いたまま言う。 「すごくみっともない」 「メルトみたいな、自立した感じにはなれない」 「一人は無理」 「他の奴はみっともないと言うかもしれんが、俺は気にしない」 「……うん」 「だから大丈夫だ」 「そうかな」 エリスが顔を上げてくれる。 目が潤んでいた。 「約束して、一緒にいてくれるって」 「約束する」 「本当?」 「信用しろ」 「だって……」 「カイム気まぐれだし」 「特定の女の子とあんまり一緒にいないし」 また泣きそうな面をする。 「だからお前といるって言ってるんだ」 「ぐずぐず言うな」 「う、ううん」 「座れ」 手を引き、エリスを隣に座らせた。 頭を撫で涙を拭ってやる。 「ん……」 その手でエリスの頬を撫で、唇に触れる。 「あ……んむ……」 涙に濡れた指を、エリスが口に含んだ。 口内の熱さが、指に滲みるようだ。 「どうした?」 「ん……」 エリスは答えない。 咥えられた指先を、舌がなぞっているのがわかる。 「あむ……ん、ちゅ……んむ……」 何をしたいのかはわからないが、俺はじっとエリスに指を与え続けた。 「ん……ちゅ……くちゅ……ぷは……」 指が解放された。 母乳を十分に飲んで満ち足りた赤子のように、エリスの表情はどこか酔ったようだった。 「どうした?」 「わからない」 「でも、口に入れたくなった」 「変な奴だ」 「変かも……でも、何か落ち着いたみたい」 エリスの瞳からは涙が消えていた。 「……ごめん」 「何だか子供みたいでみっともない」 〈俯〉《うつむ》き、顔を赤く染める。 「いや、気にするな」 「あ、そうだ……怪我……」 気恥ずかしさを誤魔化すように、エリスは布と火酒を手に取った。 「染みるけど、我慢して」 「ああ」 じりっと傷口に火酒が滲みる。 声が洩れないよう、奥歯を噛む。 ……俺も覚悟を決めなくてはならないな。 エリスと生きていく── そう言ったのだから。 決意を確かなものにするべく、俺は大きく息を吸い込んだ。 「……これでよし」 治療を終えて、エリスがベッドから立ち上がる。 離れようとするエリスの腕を掴む。 「なに?」 「ずっと、お前を抱けなかった」 「は?」 エリスが目を丸くした。 「お前の親を、俺が殺したからだ」 「ああ、その話」 エリスが真面目な顔になった。 「だが、今日はお前を抱く」 「そんなこと、いちいち宣言しないで」 「……自分に弾みをつけてる?」 「意気地がない男だ」 エリスが俺の手を振りほどく。 その手で頬に触れてきた。 「そうね、意気地なし」 「でも、きっと誰もそう」 「私も、そう」 エリスの指が、俺の頬を撫でる。 「私たち、お互い無様でしょう?」 「ああ」 「なら、無理矢理、綺麗な決心なんてしなくていい」 「泥の中を進むように、生きていけばいいと思う」 「お前に励まされるとはな」 「男を励ますのは、いつも女の仕事だと思う」 エリスが俺の頬を掴んだ。 桜色の薄い唇が近づいてくる。 「……」 「ん……」 エリスに口づけされる前に、俺から口づけた。 せめてもの見栄か。 「ちゅ……んっ……はぁ……」 「ぴちゅ……っっ……ん……」 至近距離で息が絡み合う。 上質な酒を口に含んだときのように、あでやかな香りが口に広がる。 これがエリスの味か。 「エリス……」 唇を離す。 首に手を回される。 そして…… 「ちゅ……くちゅ……」 更に唇を当てられた。 「くちゅ……ぴちゅ……んんっ」 「はぁ……ん……っっ」 息がどんどん熱くなってきた。 エリスも、俺もだ。 「ちゅっ……ちゅうぅ……ちゅぱっ……」 遊んでいた手で、エリスの乳房を覆う。 柔らかいベッドのように、そこは、俺の手を優しく受け止めてくれた。 胸の前にある飾りに指をかける。 「ん……」 エリスが小さく肯く。 エリスの乳房を覆う布は、簡単にめくれ落ちた。 露わになった乳房に触れる。 「あ……」 微かな吐息が漏れた。 そして、小さな鼓動が手の平に伝わってくる。 触れば壊れてしまいそうな、ささやかな心音。 いつもはティアのことを小動物と揶揄しているエリスだが…… 今に限れば、エリスの方が余程小動物に見えた。 「ど、どう?」 「ん?」 「黙ってるから、少し不安」 「大きさ、足りない?」 「まさか」 自分の胸が、この界隈の男にどれだけ注目されていたのか知らないのだろう。 エリスの美貌と身体は、最大級に近い賛辞を受けていた。 「小さいのが好みとか?」 「それも違う」 「強いて言うなら、感動か」 「感動……?」 よくもここまで美しく成長したものだ。 俺は、ゆっくりと指に力を込めた。 「あ……んっ……ふぁっ……ぁあ……」 うっすらと湿ったエリスの膨らみが、俺の指に合わせて形を変える。 ただ柔らかいだけではない。 俺の指を内側に取込むように、しっとりと吸いついてくる。 「っう……ああっ……はああぁ……んっ……ふぁ」 柔らかいのに、芯に微かな固さを残している。 まだ男を知らないからか…… それとも、ここからまだ大きくなるつもりなのだろうか。 「ん……ふあっ、はぁっ……嬉しい……」 「カイムに……触られてる……」 「考えてたのと……ぜんぜん、違う……ふぁっ」 エリスの言葉に煽られるようにして、俺の指先にも熱がこもる。 もっとエリスに触れていたいと、そんな衝動が頭の中でピリピリと弾けていた。 ……さっきまで〈躊躇〉《ちゅうちょ》していたのに、胸に触ればこれか。 自分に呆れてしまう。 「……カイム?」 「衝動に身を任せるのも、悪くないか」 「ん……?」 「……なんでもない」 エリスの乳房に意識を集中させる。 「ぁん……んん……ふぁ……んぅ……」 大きな円を描くように手を動かす。 汗ばんだ乳房は、指の間からこぼれ落ちんばかりだ。 それでいて張りがあり、手を離しても形を保つ。 「あ……あ……っ、ん……っ」 エリスが切なげな吐息を漏らす。 太腿に手を置き、これからのことを暗示させるように柔らかく撫でる。 「んんっ……あ……」 「大丈夫だ、力を抜け」 「う、うん……」 そう頷くも、エリスは上手く力を抜くことができない。 「ごめん……拒否してるわけじゃないんだけど」 「わかってる」 呟き、ゆっくりとエリスの太腿をさすり続ける。 スカートの布地が少しずつ上がり、いやに興奮を誘う。 「ふあ……っ、あ、あ……あ……」 「や……っ、あっ、ん……やっ、ふや」 エリスの声は徐々に昂り、それに合わせて下半身の力も少しずつ抜けていく。 足の間に手を滑り込ませ、徐々に付け根へと近づける。 奥にある湿気と熱が伝わってきた。 「カ……イム……」 「ん?」 「何だか、変な感じ……」 「どこが?」 「どこがって……そんな、ほら……」 エリスのうなじが、赤く染まる。 「教えてくれ」 指を布の奥の暗がりに差し込む。 そこを布の上からなぞると、指先にぬるりとした感触があった。 「ここのことか?」 「……う、うん」 「じゃ、布をまくってくれ」 「え……?」 顔を真っ赤にしながら、エリスが腰に巻かれた布を摘む。 そのままゆっくりと、足の付け根の方へと持ち上げていく。 「んー………っ」 白いむっちりとした太腿と、下着が露わになる。 ドクン、と胸が鳴った。 それをエリスに悟られないように、太腿に指を這わす。 「あ……カイムも、緊張してる……?」 「手に……汗かいてるね……」 エリスを前向きに座らせていたのが、救いだと思った。 向かい合って座っていたら、緊張を完全に悟られてしまったかもしれない。 女は何人も抱いてきたが、こんなことは初めてだ。 「お前の汗だろう」 そう誤魔化しながら、俺はエリスの乳房に力を込める。 「あぁ……」 手の動きを少しずつ強くしていく。 「まだ、1枚残ってるぞ」 「う、うん……っ」 そこまで言って、俺は口を閉じた。 黙って、黙々とエリスの乳房を弄ぶ。 「はぁ……ふあっ、あっ、あ……っ」 「脱ぐ……っ、脱ぐ、けど……」 「でもそんなに触られたら……手に力が、入らない……」 エリスは震えながら、なんとか腕を持ち上げようとする。 下着の縁に指をかけようとするが、なかなか上手くいかない。 そのうちに、何度か指がかかりそうになるが…… きゅっ 「んっっ!」 乳首に少しでも力を込めると、エリスの手からは簡単に力が抜けてしまう。 「うぅ……意地悪……」 徐々に、エリスの弱点を把握できてきた。 「乳首が敏感みたいだな」 返事はないが、代わりにうなじがまた赤くなる。 試しにエリスの乳房を持ち上げつつ、指先で乳首の先端をいじる。 「んっ、あっ……うぅぅぅ……っ」 恨めしそうな声が上がる。 「どうした?」 「下着……脱げって言ったのに……これじゃ……」 「手伝おう」 片手を、脚の間に持っていく。 布の中に手を入れると、濃厚な湿り気が指先に触れる。 「ん……」 「下着……濡れてるかも……」 「じゃあ、早く脱いだ方がいいな」 手を尻の方へ持っていく。 「腰を上げてくれ」 「う、うん……」 尻がベッドから浮く。 「ん……」 下半身が露わになった。 エリスがぎゅっと目をつむる。 今まで見たことがないほど、エリスが恥ずかしがっている。 「念のため聞くが、初めてか?」 「……か、カイムと……一緒にしないで」 蚊の鳴くような声で呟き、そのままエリスは黙り込んでしまう。 「そうか……」 慎重に進めなくては。 俺はそっと、エリスの性器に指を伸ばした。 ぴちゅ 「ふあ……っ」 指先に、粘度の高い感触。 よく濡れている。 「ん……っ、あ……んっ……ふぁ……」 縦線に沿って指を這わせながら、エリスの反応を確認していく。 軽く、クリトリスに触れてみる。 「ひゃぅっ!」 「や、な……なに……?」 「痛いか?」 「う、ううん……」 首を振る。 なら、少し触ってみよう。 「ひっ! ん……っ!」 「んんぅ……っ、んっ、ん……っ、ふあっ、あっ、んぅぅぅーっ!」 予想以上に敏感だ。 溢れた愛液のお陰で指先に抵抗もない。 「あっ! やっ! や……カイム……、やぁっ、ふあぁ……」 妙に可愛い声をエリスが上げる。 くちゅ、ちゅく、ちゅくぅ……ちゅぷっ 水を張った桶をかき回すような音がしていた。 「カイム……だ……め……っ」 「変な、感じが……っ、お腹の奥から、上がってくるみたいで……ひぁ……」 「早いな」 「わ、わかんない……そんなの」 「敏感だな、エリスは」 「だから、わかんないって……あっ、ああっ、ああっ」 「あ、やっぱりダメ……っ」 「我慢しようとしても……上がってきちゃう……ぅあん……っ」 「我慢しなくていい」 クリトリスを露出させ、愛液を塗る。 「ふあっ!?」 「んっ! んぅっ! んぅぅぅぅ……っ!」 「だ、め……っ、はあぁっ! ああぁっ、ひゃうっ」 エリスの背中が大きく反った。 「あ……あっ、あっ! あぁぁ……あっ、んんっ、はうぅ……っ」 快感に突き上げられ、身体が何度も痙攣する。 「あっ……あ……あ……あ……んん……んっ、んんっ」 やがて、気を失うように力が抜けた。 熱く火照ったエリスの身体を支える。 エリスのうなじは未だかつて無いほど赤く染まっている。 「どうだ?」 「わからない……頭が真っ白で……病気かな……」 「誰でもこうなるんだ」 「そ、そうなんだ……」 「随分濡れてる」 自分の手を見ると、愛液で光っていた。 「ご、ごめん……ベッド、汚れたかも」 「気にするな。それより……」 俺は、固くなった自分のペニスを、エリスの背中に当てた。 「熱くて、固い……」 「興奮してるんだ」 「カイムが……私とこういうことをして?」 「ああ」 初々しいエリスの言葉に、更に俺のペニスが固さを増す。 「そ、それ……どうにかしたいよね」 「そうだな」 エリスの両手を掴む。 ゆっくりとベッドに押し倒した。 真正面から目が合う。 「ん……」 エリスが目を逸らした。 「嫌か?」 「嫌……じゃないけど……恥ずかしい」 「大丈夫だ、お前はまともな顔してる」 「でも、こんな近くで見られるなんて」 「今まで、もっと近いことだってあっただろ」 「でも、そういうのとは違って……」 「何ていうか……とにかく恥ずかしい……」 エリスの身体が紅潮する。 愛おしさがこみ上げてきた。 エリスが自分の女に変わっていく瞬間を見ているのだ。 ……抱きたい。 強く思う。 エリスの脚の間に身体を入れる。 「続き、いくぞ」 「う、うん……」 目をつむって、エリスが肯く。 入り口は、十分すぎる程に濡れている。 俺のペニスも、十分すぎるほどに固くなっていた。 ぴちゅ…… エリスの性器に、ペニスの先端が触れる。 俺を誘うかのような、熱さと滑らかさ。 一気に入りたいのを我慢しつつ、 ゆっくりと、 腰を沈めていった。 「ん……っ、ん! いっ!?」 エリスの下半身が、瞬間的に強張った。 「んあっ!……くぅ、ぁあ……っ」 シーツが堅く握られ、直線的な皺がベッドに浮かぶ。 エリスは必死に堪え力を抜こうとしていた。 「ふあっ、はぁ……はっ、ふあ……、ふあぁぁぁ……」 ゆっくりと深呼吸を繰り返す。 ペニスはまだ、先の膨らみが潜り込んだ程度だ。 「はぁっ、はぁ……んくっ、はああぁっ……あぁ……」 それでも、開いた入り口からは熱い体液が溢れ出している。 「ふあ……っ」 溢れた体液はエリスの太腿を伝い、シーツに新しい染みを作る。 「行くぞ」 敢えて遠慮はしない。 俺は少しずつ腰を押し進めていった。 「ひ……、くっ!」 固い抵抗がペニスの先に伝わる。 少女の証に、爪がかかったような状態。 「はぁっ、はぁ、はぁ……はぁっ」 エリスは声も出ないと言った様子で、必死に呼吸を整えようとしている。 「やめるか?」 尋ねてみると、エリスは子供のように首を振った。 エリスの両手の手首を、まとめて握る。 それらを、彼女の頭の上でベッドに押し付ける。 片手ではエリスの膝の裏を持ち、脚を大きく開かせた。 中心にある女性器と、そこに先端をもぐらせた自分が露わになる。 「……んっ、手を押さえられてると、なんか安心する……」 「変な奴だな」 「逃げられない感じが……いいかも」 「ああ、逃がしはしない」 「逃がさないで」 「もう、私から、離れないで」 感覚がなくなるほど、ペニスが固くなるのを感じた。 エリスの身体に体重をかける。 「あっ、んっ、うあっ……んんっっ!!」 固い抵抗を、一気に貫く。 「いっ! く……っ、う、ううっ、うぁ……っ」 「うくっ、くううぅぅぅ……っ」 エリスの身体が再び強張る。 だが、エリスが十分に潤っていたためか、俺のものは一気に根元まで飲み込まれた。 「う……く……ふぁ……んっ……」 「大丈夫か?」 「だめ……」 「嘘……平気……」 涙をためた目で、エリスが笑った。 見たこともないほど、澄んだ笑顔だった。 「エリス……」 「??」 身体を倒し、エリスと唇を重ねる。 「ちゅ……ん……んちゅっ」 「ん……ちゅ……くちゅ……」 2、3度角度を変えて口づけをする。 そして、どちらからともなく舌を絡め合う。 「ちゅ……んん……ぴちゅ……」 「カイム……ぴちゅ……私、生きてるって感じがする……ちゅ……っ」 「いいことだ」 エリスの膣内がうごめく。 絞られるような快感が伝わってくる。 我慢しきれなくなり、唇を重ねたまま腰を動かす。 「ん……ぅあ……」 「ふぅっ……んっ……んああっ……んぅう……」 くちゅ、ぬちゅ── 腰の辺りから、水音が聞こえる。 「んっ……あっ、あ、あ、あ、あ……んっ……んんっ」 「カイム……なんか……熱い……んんっ、あああっ、ああっ」 苦しげな声の中に、わずかながら快感の色があった。 その変化が、俺の中から更なる欲望を引きずり出す。 腰を止めることができない。 「ひ……っ、うくっ、う……っ、う、うぅっ、くうぅぅぅぅ……っ」 「でも……もう少しゆっくり……まだ、慣れてないから……んああっ」 「すまん……お前が欲しくて、止まらなかった」 「カイムにそんなこと言われるなんて……嬉しい、かも……ぁんっ……」 エリスが微笑む。 こいつを乱暴に扱ってはいけない。そう思った。 「ゆっくり行こう」 「うん……」 エリスが目を閉じる。 俺は、少しずつ陰茎を抜いていき、まずはエリスの入り口付近を先端だけで擦る。 「あ……うっ、あ……うあぁ……うああぁぁぁ……」 そこは張りがあり、弾力を感じた。 「はぁっ、んぁあ……ひうぅ……んぅくっ」 「この辺は、痛くないか?」 「ふぁぁ……あ、うん……」 「入り口だけ、極端に広がってる感じがして……」 「ちょっと……違うかも……」 「わかった」 入口付近を十分にこなれさせ、次に半分ほどを沈める。 「あ……あっ、あっ、あっ、ああぁぁぁ……んっ、ああぁ……」 膣壁には数多の窪みがあった。 その窪みがカリ首にかかり、何ともいえない快感が立ち上がってくる。 「ここは?」 「よ、よく……、わから、ない……」 「じゃあもう少し奥まで……」 「お……く、う、うん……んあぁ……んくっ」 エリスが身体を固くする。 今度はゆっくりと、エリスの中に性器を押し進めていく。 「ふあ……あ……っ、ああぁぁっ、うあっ、ふあぁぁ……っ」 エリスの声に甘美な響きが混じる。 「な、なんか……い、いちばん、んんっ、奥に、当たってる、ふぁ、感じが……あっ、あ、あ……」 「ぅあっ、あ、当たるたび、に……あぁ……身体が、ふ、震えちゃう……うぅ……」 「じっ……自分の、身体じゃ、ない……ああっ、みたいな、感じ……」 「痛みはないか?」 「へ、平気……」 エリスの表情を確認しながら、慎重に腰を速める。 「あっ、あああっ……ん……っ」 「あ……やっ、ひゃっ、ふあぁぁぁ……っ、あ、ああっ、うあぁ……っ」 「カイム……変だよ……気持ちいいかも……」 「深いところに、当たって……当たって……ふあっ、あっ、あっ」 珍しく素直なエリスの反応。 嬉しいような、少し戸惑ってしまうような感覚だ。 「あ、ふあっ、あ、あ……っ」 振動に合わせたぷたぷと乳房が揺れる。 腰と腰がぶつかったことによる振動が、エリスの身体を伝わっていくのがわかる。 「ああっ、やっ、すごく強いよっ、あああっ、あっ、あっ」 「カイム、気持ちいいっ……ごめん、ごめんっ、あああっ、ああああっ」 結合部から愛液が流れ出る。 謝ったのは、このせいだろうか。 「んんっ、お腹から……何かまた……上がって来てっ……」 「ひゃっ……あああっ、んっ……んあっ、カイム、カイム、カイムっ!」 エリスの膣内がきつく締まる。 突き抜けるような快感が背筋を走った。 「エリスの中、すごいな」 「ああっ……よくわからないけど……褒められてるんだよね」 また膣が締まる。 エリスの本能の部分が分かっているのかもしれない。 「そろそろ出すかもしれない」 「う、うんっ……いいよっ、カイムも遠慮しないで」 「ああっ、あっ、んんっ……んあっ、ああっ」 エリスが腰の動きに身を任せる。 じゅぷっ、ぐちゅっ、ぬちゅっ!! エリスの性器に、俺のペニスが何度も出入りする。 その度に卑猥な音が上がり、愛液の飛沫がシーツに飛んだ。 刺激的な光景に、頭の芯がやられる。 「くっ……いくぞ……」 「い……いい、よ、我慢……しないで……っ」 「よし……」 覚悟を決めて、腰を速める。 エリスとの間に遠慮は要らない。 膣奥に、出したいときに出せばいい。 「ああっ、あんっ、あっ、あっ、あっ、あっ……んぅ、ひうぅ」 「ふあ……あっ! あ……っ、もうっ、うっ、ふあっ、あっ、あ……っ」 エリスの声が変わった。 明らかに感じている声だ。 大きな乳房が、激しく前後に揺れる。 「ひゃうっ、う……うくぅっ、うぅぅ……っ、やうっ……」 「カイム……、また、大きくなってるの?」 「ああ」 「な……なんで?」 質問に答えている余裕は無い。 「あ……っ、あ、あっ、ああ……っ、はぁ、はぁ……ぅ」 「ひゃっ、やっ! や……ふあっ、ん、くぅっ、あああぁぁぁ……っ!」 じゅわりと、エリスの奥が熱くなった。 「んぅぅぅーっ! あっ、あっ、あ……っ、ひぅんっ、うあっ、うあぁ……っ」 「カ、カイムが……奥に、ぶつ、かって……ああっ、ううっ、あああああっ……っ!!」 エリスが手の平をきつく握る。 手首を強くベッドに押し付け、腰を振る。 ずちゅ! ぐちゅ! じゅっ! 「カイ、ム……なにか……んんっ、なにか来る……ひゃぅ……ああっ」 「あ……お腹の奥から……あっ、あっ、あ、あ、あ、……ああっ!」 「こ、怖いかも……ああっ……来るのが……大きすぎて……ああっ!!」 「でも……ひゃっ、なんで、だろ……、ひゃうんっ、すごく、幸せ……」 「カイム、と……あぁ……わ、たし……くぅっ……繋がって……あっ、あっ、あ……っ!!」 俺も幸せだと言いたかったが、伝えようにも声が出ない。 興奮した喉が、カラカラに渇き切ってしまっている。 「俺も、だ……エリス」 ようやく、そう搾り出した。 「カ、カイムぅ……嬉し……うあっ、ふあっ、んんんっ、あ、はぁんっ、あああぁぁぁ……っ」 跳ね上がりそうになるエリスの身体を、汗で濡れた両腕で必死に押さえ込む。 「やっ、や……っ、やうっ、うぅ……、あっ、やっ、やっ!」 「ごめん、カイム……っ、私、多分、また……あぁぁ……んっ、あ、やっ!」 「あっ、あ、あ……あうぅぅぅぅ……っ、ふあっ、くぅっ、んっ、あ、あ……っ」 「カイム、カイム、カイムぅっ……あああっ、やっ、やっ、ああっ、ああああああああっっ!!!」 びゅるっ、びゅくっ、びゅぅぅ……っ ペニスが震える。 「ぐ……」 快感に任せ、迸らせながらも腰を振る。 「ひゃあああっっ……っ、あっ、ああぁ……あぁ……」 「うあっ、んっ! あ、あああぁぁぁぁ……っ!!」 エリスの身体が震えた。 大量の愛液が結合部から溢れる。 「あ、あ……あうっ……」 大きく痙攣し、エリスの身体がベッドに沈み込む。 精を放ち切ったペニスを、性器からゆっくりと抜いた。 ごぽっ…… 泡立った精液と愛液が、中から溢れる。 「カイム……」 「私……」 言葉は少ない。 だが、エリスが抱きしめられたがっているように見えた。 「エリス」 エリスを抱く。 これ以上ないくらいに、きつく抱く。 エリスの身体は熱く、汗ばんでいる。 それが嬉しく感じられるくらい、エリスが愛おしかった。 「傍にいるぞ、これからずっと」 「うん……うん……うん……」 耳元で、鼻を啜る音が聞こえた。 更に強くエリスをかき抱く。 俺達の身体の間で、体液がぬるりと滑る。 「ごめん……ベッド汚しちゃった」 「いいんだ」 「カイムは、気持ちよくなれた?」 「ああ。お前は?」 「うん……とても気持ちよかった」 「なら、良かった」 何度も何度もお互いを抱きしめる。 何がそんなに楽しいのかわからない。 ただ、抱きしめることしか頭になかった。 しばらくして、俺達はベッドに並んで座り、身支度を整えた。 「シーツ……血が……」 エリスが慌ててシーツをはぎ取り、くるくると丸めた。 「そのくらい、別にいい」 「気にしてたら、これから切りがないぞ」 「こ、これから?」 「もうしないのか? 残念だな」 「そ、それは……」 エリスが真っ赤になる。 「まあいいさ、俺はどちらでも」 「……意地悪」 シーツを抱きしめ、恨めしそうな顔でエリスが言った。 その仕草が、異常なほどいじらしく見える。 ……こいつをいじらしいと思うとはな。 数日前までは、考えもしなかった。 変われば変わるものだ。 エリスの頭に触れ、髪をなでる。 「これからも、頼むぞ」 「何を」 「いろいろだ」 「そう簡単に、離れるつもりはない」 エリスが、俺の目を見てから微笑んだ。 「私も、離れない」 そう、 数日前のような、どうしようもない別れはもう沢山だ。 ベルナドの拘束から二日後。 〈風錆〉《ふうしょう》幹部の処罰が決まった。 ベルナドは、鼻と耳を削がれた後、下界への追放。 その他の幹部は、単純な下界追放となった。 下界追放は、牢獄ではごく一般的な刑罰だ。 ノーヴァス・アイテルから突き落とす処刑法で、苦しみが少ないとされる。 ベルナドは〈首魁〉《しゅかい》ということで、自発的に飛び降りることを強要される形態が適用されたが、それでも温情ある処置といえよう。 少なくとも、サイの死に方に比べれば何倍もマシなはずだ。 その他、〈風錆〉《ふうしょう》の構成員や〈風錆〉《ふうしょう》に寝返った人間については、5日の謹慎というほぼお咎めなしという処置になった。 クスリの流通については、ベルナドの尋問によりある程度明らかになった。 ベルナドに麻薬を流していたのは、上層の貴族だったが、これは後に実在しない貴族だとわかった。 ベルナドに偽貴族を紹介したのは、一昨日の夜、俺を気絶させた女だということだった。 かつてはベルナドの下で暗殺を請け負っていたらしいが、彼の手を離れてからの動きは不明。 行方も、今のところわかっていない。 なお、クスリは小分けにされた状態で納品されており、ベルナドは混ぜものがあることを知らなかったらしい。 麻薬の売買においては、通常、数人の売人をまとめている管理人が商品を小分けにする。 ここから考えても、流通の異常性が伺えた。 テーブルには、杯を置く隙間もないほどの料理が並んでいる。 杯など置くなという、メルトの気の利いた主張だろう。 日頃指定席にしているカウンターには、酒の樽が並んでいた。 勝手に好きなだけ飲めということだ。 「そういえば、お前が飲んでいるのは見たことがないな」 「そう? 家ではニガヨモギのお酒飲んでるけど」 「また変なものを」 「メルト、ニガヨモギの酒は置いてるか?」 「あるけど、あんまりお勧めしないわよ」 「飲みつけると幻覚見えたりするみたいだし」 と、出された酒は強烈な臭いのする、緑色の液体だった。 「お前、こいつのせいでおかしくなったんじゃないのか?」 「おかしいのは生まれつきだから」 笑えない冗談だった。 「俺のワインと交換だ」 「別にいいじゃない」 不満げなエリスと酒を交換する。 「あ、ジークさんのご挨拶が始まります」 ジークが店の中央で杯を掲げる。 満座の注目が集まった。 「今回の件では、皆に心配をかけた」 「これからも、力を一つに合わせ、不蝕金鎖をもり立ててくれ」 「乾杯っ!」 歓声が上がり、杯が掲げられた。 「かんぱーーーいっ」 「かんぱいっ」 「どうでもいい」 「態度悪い女だな」 相変わらず覇気のかけらもないエリスと杯を合わせる。 「今日からまた、よろしく頼むぞ」 「ば、馬鹿じゃないの」 エリスがそっぽを向く。 その頬が赤く染まった。 「あ、エリスさん、赤くなってます」 「うるさいわね、ワインのせいよ」 「頑張れよ、これから」 エリスが俺を一瞥。 だがすぐに、そっぽを向いた。 「お互いに」 小さな呟きが聞こえた。 「お二人、何があったんですか?」 「なんだか仲良くなった気がしますけど」 「小動物は黙れ」 「す、すみません」 「でも……私の名前、小動物で決まりなんでしょうか」 「不服?」 「い、いえ……」 「またすぐに喧嘩するんだから、ほんと困ったものね」 メルトがグラスを差し出してきた。 杯を合わせる。 「無事で本当に良かった」 「俺が帰ってこなかったことがあるか」 「生意気言わないの」 額をグラスで突かれた。 「おっと、エリスが怖い顔してる」 「別に……」 この二人の関係は、先が思いやられるな。 「よう、飲んでるか?」 「もちろん」 「今日は全部俺が持つ。遠慮なくやってくれ」 言いながら、ジークもメルトと杯を合わせる。 「今回の件、どこからどこまで計算していたんだ?」 「どこからってのは難しいなあ」 「正面から行っても勝てない、暗殺もできない、衛兵も抱き込まれてる、ならどうするか」 「それをずっと考えて、羽狩りの力と……ティアの力を借りることにした」 ジークがティアの背中を叩く。 「い、痛いです」 「しかし、こっちの期待通りに娼館街を襲わせるのは難しかったんじゃないのか?」 「俺が、定期的に下層に行ってるって噂を流しておいたんだ」 「あとは、最後にまとめて裏切った中堅どころに、最後の打ち合わせの日取りを匂わせておいた」 「そいつらが、ベルナドに教えたくなるようにな」 「なるほど」 中堅幹部の大量離反に気を良くしていたのだろう。 ベルナドはその情報を信じた。 まあ、実際に下層には行ったわけだが。 「にしても、綱渡りだな」 「確実に勝てる方法がなかっただけのことだ」 「なんの話?」 「女の口説き方だよ」 冗談めかして言ってから、ジークは火酒を〈呷〉《あお》った。 「……」 突然、エリスが席から立った。 「どうした?」 「今回は本当にごめんなさい」 神妙な顔で頭を下げた。 珍しい光景だ。 「その話も……しなくちゃならんな」 ジークの表情から笑みが消える。 「お前の裏切りは、幹部たちに知れ渡ってる。なんらかのけじめが必要だ」 「待て。組織の裏切り者は不問になったんじゃないのか?」 「ああ。エリスが組織の人間なら問題はなかった」 「だが、こいつは違う。俺の友人だ」 頭の友人が組織を裏切ったとなれば、責められるのはジークだ。 しかも、その裏切り者が不問のままとあっては、突き上げもあるだろう。 「悪いが、5回程度の鞭打ちは覚悟して欲しい」 「そんな……」 「すまん。元はといえば全て俺の責任だ」 鞭打ち5回。 鞭打ちは、生やさしい罰ではない。 皮膚は裂け、激痛に気を失うだろう。 そして、ほぼ確実に背中には消えない〈痣〉《あざ》が残る。 エリスにそんな経験をさせるのか? 元はといえば、俺がしっかりしていればエリスは寝返らなかったのだ。 俺が身代わりになれればいいが、それには何か正当な理由が必要だろう。 「その罰、俺が代わりに受ける」 「裏切ったのは私よ」 「カイム、これは仕方ないことだから」 「ああ、可哀想だから身代わりになりますじゃ誰も納得しない」 「理由はある」 「飼い犬が他人を噛んだら、罰を受けるのは飼い主だろう」 ジークは少し考えてから頷いた。 「なるほどな」 「どういうこと?」 「俺はお前を身請けしてる。お前は俺の物ってことだ」 「……それは……そうだけど」 「鞭打ちは、女にはきつい」 「男だって一緒よ」 エリスが俺の腕を握る。 「俺は慣れてる」 「ガキの頃、何度かやられたことがあるからな」 娼館主の命令に逆らった時── 殺しが上手くいかなかった時── 鞭打ちは経験済みだ。 きついにはきついが、覚悟はできている。 「でも……」 「エリス、ご主人様に逆らうな」 「……馬鹿じゃないの」 「こんな時だけ、物扱いして……」 泣きそうな顔で不満を漏らした。 「お前がしっかり手当てしてくれれば大丈夫だ」 努めて明るく言う。 エリスの裏切りは、俺の彼女に対する不理解が招いた結果でもあるのだ。 俺自身の〈禊ぎ〉《みそぎ》だとでも思おう。 「カイム……」 「ごめんなさい」 うなだれるエリスの頭を撫でる。 「あくまでも見せしめだ」 「オズには手加減するように言っておく」 「担当はオズか!?」 あいつの鞭打ちは苛烈なことで知られている。 「ははは、こいつは計算違いだった」 笑い話にする。 「今日は祝勝会だ。もう暗い顔はなしにしてくれ、いいな」 「……わかったわ」 「は、はい」 「……馬鹿」 まだ無理矢理だが、全員が頷いてくれた。 「そうだ、これからちょっとした催しがある。外に来ないか」 ジークが雰囲気を変えてくれる。 自分のせいで友人を罰しなくてはならないジーク。 相当な責任を感じているはずだ。 それを知っているから、本来は怒っていいはずの俺も文句は言わない。 ま、後で高い酒でもおごらせよう。 俺とこいつは、それでいい。 「何が始まるんだ?」 「着いてくればわかる」 酒を片手に、揃って席を立つ。 娼館街の広場に薪が積まれていた。 薪の上には、木の箱やら袋やらが乗せられている。 「あれ、なんですか?」 「ベルナドのところから回収したクスリだ」 「全部燃やしちまおうと思ってな」 「ジークさん、指示を頂ければいつでも」 「火を点ける前に、煙を吸わないようみんなに注意して」 「何があるかわからないから」 「わかったわかった」 ジークが観衆の方を向く。 「よし、火を点けろっ」 「火を点けろ」 「全然わかってないし」 渋い顔をするエリスの前で、薪に火がつけられた。 油がかけられていたらしく、火はあっという間に燃えが上がり、大きな炎が建ち並ぶ娼館を照らした。 「どんどん投げ込め」 ジークが、路地に積んであるクスリを顎で示す。 「ああ」 酒を片手に、もう片方の手で袋を掴み上げ、炎に放り込む。 それが、あっという間に燃えつきる様を見ながら、酒を口に運んだ。 「こんなもの、誰が作ったんでしょうね」 ティアが袋を持ち上げた。 「さあな」 「だが、どうせロクな奴じゃないさ」 「ですよね」 「燃やしちゃいます、えーーいっ」 炎に近づいたティアは、袋に手を突っこみ、クスリの紙包みを取りだしては投げ込んでいく。 「袋ごと燃やせよ」 「まだ子供なのよ。ああして燃やすのが楽しいんでしょ」 「ガキって歳か」 「まったくね」 と、鼻白んだ時だった。 ティアが持っていた袋が、わずかに光ったように見えた。 やがて、袋から蛍のような粒子が2、3現れ、ティアの身体にまとわりつくように消える。 目の錯覚だろうか? 当のティアには変わった様子はなく、まだクスリを火に投げ入れている。 「……」 「どうしたの?」 「いや、ティアの持ってる袋が光った気がした」 「疲れてるんじゃないの?」 「あ、あれだ、ニガヨモギのお酒のせいじゃない? 幻覚見えるっていうし」 「まあ、そうかもしれないな」 酒も飲んでいる。 火の粉でも飛んでいたのを見間違えたのだろう。 どうもいかんな。 頭を振る。 「酔いが回った?」 「いや、大丈夫だ」 「そう」 面倒臭そうな動きで、エリスが袋を炎に投げ入れる。 「エリス、もうクスリをやろうなんてするなよ」 「わかってる」 もう一つ投げ込む。 「麻薬に限らずだけど、世の中はクスリばかりね」 「酒のことか?」 「お酒もそう……」 「思い出も人間関係も、夢も希望も、後悔も悲しみも」 「人間が作るものは、なんでもクスリになるのかもしれない」 エリスの表情を〈窺〉《うかが》う。 炎に照らされた顔からは、特に感情は読み取れなかった。 「人間は楽に生きるようにできてるからな」 「だが、要は中毒にならなければいいだけの話だ」 「酒の美味さを知らないのも、もったいないだろ」 足元の袋を火に投げ込む。 「そうね」 エリスが身を寄せてきた。 その腰に手を回す。 「お前、これからのこと、何か決めてるのか?」 「医者になろうと思ってる」 「今まで医者じゃなかったとでも?」 「真っ当な医者になりたいの」 「知り合い以外もきちんと診るし、お金も取る」 「なるほど、大きな進歩じゃないか」 「何か買いたいものでもあるのか?」 「あるわよ……」 「私」 炎を見つめたまま呟く。 その横顔を思わず凝視した。 「身請けしてもらった分のお金、カイムに返したいの」 「必要ない。ずいぶん昔に払った金だ」 「私の気分の問題だから」 「清算して、俺の所を出て行くつもりか?」 「お金の関係をなくしたいだけよ」 「身請けなんかされていなくても……」 「私はもう、カイムのもの…………だから」 薪が弾ける音がした。 一際明るくなった炎がエリスを照らす。 「……」 なんだこいつは。 急にかわいくなりやがって。 「割と高いぞ」 「お前は売れそうだったから、娼館の主が手放したがらなかった」 「褒めてる?」 「さてね」 「ま、急がなくていい。地道に稼げ」 「ありがと」 「金欲しさに、悪徳医者になるなよ」 「わかってる」 「あと、そこらのクスリを持って帰って、後で売り〈捌〉《さば》くなよ」 「……」 「返事しろ」 「……わかった」 「ひとーーつ」 「ぐっ!!」 娼館街に鞭の音が響いた。 痛いというより熱い。 痛みの強さに、身体が感覚を偽っているかのようだ。 「すみません、カイムさん。堪えてください」 「なに……遠慮するな」 オズは、音は派手だが、殺傷能力はさほどでもない鞭を選んでくれた。 ちなみに、オズに鞭を〈蒐集〉《しゅうしゅう》する趣味があるのを知ったのはついさっきのことだ。 「ふたーーつ」 「がっ!!」 地面に倒れ伏す。 すぐに襟首を掴まれ、膝立ちに戻される。 見物客が目に入った。 「カイム……」 「う、うう……」 「……」 泣きそうな顔をしているメルトとティア。 エリスは、ほぼ無表情だったが、他の誰よりも強く俺を見つめている。 その視線が、同情されるより何倍も力になった。 「みーーっつ」 目を覚ます。 部屋はすでに赤く染まっていた。 エリスに治療してもらってから、疲労のあまり寝てしまったらしい。 ほぼ気を失うように眠ったのだろう、治療の記憶はほとんどなかった。 「起きた?」 「ああ……いてくれたのか」 「うん」 「傷の様子はどうだった?」 「骨は異常ない」 「水ぶくれが裂けてるけど、出血は止まってる」 「そうか」 部屋には、湯の沸く音と、爽やかな香りが漂っている。 「いい香りだ」 「気持ちが落ち着く香草よ」 「痛い時にいいみたい」 背中は焼けつくように熱いが、心は落ち着いていた。 「どうやら、効いてるらしい」 「良かった」 「ごめんなさい、私のせいで」 「いいさ、お前をこんな目には遭わせられん」 うつ伏せに寝ているせいで、エリスの顔はよく見えない。 沈んだ顔をしているのだろう。 まあ、元から明るい顔ではないが。 「手を出せ」 「え?」 「手だよ」 「う、うん」 顔の脇にエリスの手が差し出された。 それを握る。 「お前が医者でよかった」 「俺の仕事は、どうにも怪我と縁が切れなくてな」 「カイムの怪我は、これから全部私が手当てする」 「他の人に任せないで」 「わかってる」 「でも……」 言いかけて、エリスが黙る。 「どうした?」 「なんでもない」 「なんでもないってことはないだろ」 「言ってくれ」 「いい。あんまり良い話じゃないから」 「阿呆が、余計気になるじゃないか」 「……怪我しないで。辛いから」 「……」 意外だった。 昔から、俺の手当をすることを喜んでいた女が。 「気をつける」 エリスの手に力を入れる。 エリスも握り返してきた。 妙に優しい気分になる。 これが恋人というものか。 今まで女は何人も抱いてきたが、こんな風に女に接するのは初めてだった。 メルトもずいぶん面倒を見てくれたが、やはり恋人ではなかったということだ。 ……他の女のことを考えるのはやめよう。 手を伸ばし、エリスの胸を探る。 「なに?」 「触りたい」 「馬鹿じゃないの」 と言いつつも抵抗はない。 腹部から上に手を動かし、乳房に触れた。 片手ではとても掴みきれない大きさ。 この柔らかさは、喩えようもなく心地好い。 「怪我が治ってからにして」 「わかってる」 2、3度揉む。 なんとなく満足してきた。 「楽しいの?」 「俺にもわからん」 「だったら触らないで」 エリスが身をよじる。 そう言われると、なぜか触りたくなる。 自分でも自分がわからない。 エリスとこういう関係になることで、自分も変わってきているのかもしれない。 扉が鳴らされた。 エリスが俺の手をつかみ、あくまでも優しく乳房から離す。 「出てくる」 立ち上がり、入口へと向かった。 「見舞いに来た」 「こんにちは」 「どう、元気にしてる?」 顔は見えないが、誰が来たかは声でわかった。 「元気なわけないだろう」 「オズの野郎、手加減しなかったんじゃないか?」 「あいつの本気はすさまじいぞ」 「俺ですら吐き気を覚えるくらいだ」 「そういう話するなら帰って」 「悪かった」 ジークが枕元に来た。 「しかしアレだ」 「嫁さんができると、妙に家に来にくくなるな」 「嫁ねえ」 エリスと結婚か。 どうもピンと来ない。 「ま、ガキでもできたら考える」 「ずいぶん気が早いじゃない」 「結婚は墓場だぞ〜。絶対に勧めない」 「ホント帰って、今すぐ」 「エリスさん、刃物はまずいですっ」 「黙れ小動物」 「ったく……」 今までより、輪をかけて騒がしくなった。 見舞いどころの話じゃない。 「あんまり騒ぐと、エリスごと追い出すぞ」 「そういうこと、冗談でも言わない」 背中に激痛が走った。 エリスが傷を突いたのだ。 「ぐおっ……がっ……」 「後悔することになる」 「さっそく尻に敷かれてるじゃない」 「あのカイムともあろう者がな」 「エリスさん、素敵です」 先が思いやられるな。 「ベルナドも始末したし、しばらくお前の出番はないだろう」 「せいぜい、傷を治すんだな」 そう言って、ジークは結構な額の見舞金を置いていった。 鞭打ちや、女の剣客につけられた傷が治るまでの生活費としては十分だ。 ベルナドが死に、〈風錆〉《ふうしょう》はほぼ壊滅している。 拡大した不蝕金鎖の支配地域も、元〈風錆〉《ふうしょう》の人間を使って上手く治めているようだ。 ジークの言う通り、しばらく俺の出番はなさそうだ。 ……そんな経緯もあり、俺は20日ほど自宅でのんびりしていた。 「はい、診察終了」 「ふう……」 「元気ない……どうしたの?」 ため息を吐いた俺の顔を、エリスが覗き込んだ。 「いや、何でもない」 「背中の傷はどうだ?」 「傷は塞がってるけど、仕事はまだ無理ね」 「念のため、もう少し大人しくしていた方がいいと思う」 「ま、しばらく仕事の予定はないから大丈夫だ」 「そっか」 エリスが暗い顔をする。 「どうした?」 「身体が心配」 「いつか大怪我するんじゃないかって」 「牢獄が平和になればいいのに」 「それじゃ、俺が飯にありつけなくなる」 「ヴィノレタで料理人でもしろって言うのか?」 「いいんじゃない?」 「私が開業したら、その手伝いとか」 「荒事であぶく銭を稼いできたんだ、今さら堅気には戻れないさ」 「私は、カイムが心配なの」 「ま、そう言うな」 エリスの頭を撫でる。 「しかし、仕事もせずに家に籠もりっきりってのも気が滅入るな」 「久しぶりに、リリウムで羽でも伸ば……」 「冗談?」 言い終わる前に、殺意のある目で〈睨〉《にら》まれた。 「もちろん冗談だ」 「冗談でもやめて」 「リリウムの子たちに処方してる薬に、何か混ざっちゃうかもしれないから」 「悪かった」 もう、クローディアたちと遊ぶことはできないのか。 未練はないが、少し寂しい。 「何? その手の治療が必要ってこと?」 「遠回しに言うのね」 やれやれ、といった顔でエリスが笑う。 「いや、別に……」 「はっきり必要って言ってくれれば、私も考えなくもないけど」 変な流れになった。 どちらかというと、エリスの方が欲求不満なのか? よくよく考えてみれば、俺が怪我をしていたせいで、随分と接触を持っていない。 当然と言えば当然か。 今日はエリスを立てよう。 「……そうだな」 「その手の治療、頼んでいいか?」 「どうしようかな」 もったいぶった素振りを見せる。 「ま、どうしてもってことみたいだし……仕方ないか」 椅子に座った俺の傍に寄ってくる。 「頼むぞ、先生」 エリスの腰に手を回す。 「それで、どうしてくれるんだ?」 「どうって?」 きょとんとするエリス。 「……」 自分から誘ってきたくせに、その辺りのことは全く考えていなかったらしい。 「カイムの、好きなようにして……」 それはそれで悪くないのだが。 たまには趣向を変えたい。 「治療してくれるんじゃないのか?」 「え?」 「治療の一環なんだよな?」 「も……もちろん」 エリスが頷く。 エリスが『私がしたいだけ』などと言うわけがない。 「なら、患者がどうこうするのはおかしい」 俺は椅子に深く腰掛けたまま動かないことにした。 「だったら医者の主導で頼む」 「……」 じっとりとした目で〈睨〉《にら》まれた。 「ち、治療といっても気分転換だから、別に医者主導である必要はないし」 「いつも通りで十分だと……」 「いつも通りじゃ気分転換にならない」 「……意地悪」 「別に意地悪をしてるつもりはない」 「ほんと、〈質〉《たち》の悪い患者」 不貞腐れた顔をしながら、しかしどことなく肌は紅潮していく。 エリスなりに色々と考えを巡らせているようだ。 「では、診察しますから下を脱いで」 「いや脚が痛くて」 「へえ……」 ため息と同時に、エリスの目が妖しく光る。 身の危険を感じ、慌てて服を脱ぐ。 「本当に困ったものね」 エリスが呆れたように微笑む。 本気で怒ってはいないようだ。 「変なこと言ったら、噛んじゃうかもしれないからね」 「……悪かった」 エリスが俺の股の間で座り込む。 まだ柔らかいペニスに手を添えた。 冷たい感触に、それがぴくりと震える。 「少し元気ないね」 片手が棹の部分を、 そしてもう片方の手が、袋を刺激してくる。 先程とは違う種類の震えが走った。 「ん……診察できそう」 しっかりと固くなったペニスに、エリスが顔を近づける。 「……おっと」 いきなり口で来るとは思わなかった。 「ん?」 「あ、いや……」 「眼鏡は外した方がいいんじゃないのか?」 「あ、そうね」 エリスが右手で眼鏡を外した。 「……」 「まだ何かあるの?」 「いや……」 「意外と大胆だな」 「いつもと違う方が、治療の効果があるかと思って」 「嫌ならやめるけど」 「いや、続けてくれ」 嫌なはずがない。 「こんなこと、どこで教わったんだ?」 「……どこでもいいじゃない」 「手術を失敗されたくなかったら、怪我人は大人しくしてて」 「悪かった」 エリスが口を開く。 〈艶〉《なま》めかしく光る舌が、亀頭に触れる。 「はむ……っ、んっ、ちゅる……っ」 「ちゅ……んっ、んちゅっ、ちゅるぅ……っ、ちゅく……」 誰から教わったのかは見当がつく。 どう考えても娼婦だ。 「……ちゅうっ……れろ……ぴちゃっ……」 日頃、娼館に出入りしているお陰で知識は豊富なのだろう。 ただ知識に経験が伴っていないので、時々面白いことになる。 「エリス、この手の治療をするときは、上は脱ぐのが常識だ」 例えば、こんなことを言ってみる。 「……知ってる」 「うっかりしていただけ」 あっさり信じた。 「外してやろうか?」 「自分でするから」 エリスが右手で胸元の飾りを解くと、胸を覆っていた布は簡単に落ちた。 豊かな乳房が露わになる。 ペニスが反応した。 「固くなった……」 「不可抗力だ」 「お前の胸が悪い」 「人のせいにしないで」 呆れたようにエリスが呟き、ペニスと同じくらい熱い舌を這わせてきた。 「ちゅ……、ちゅぷ……っ、んっ、ちゅっ、ちゅるぅ……」 「ん……っ、ん、ん、ん……んんっ」 舌の感触に、唾液が絡まる。 「ちゅる……、ちゅ……っ、ん……っ」 「……どう?」 「驚いた」 「ん?」 「気持ち良い」 「そう……」 かすかに微笑んで、エリスは更に舌を動かす。 「ぴちゅ……ちゅっ……くちゅ……ちゅっ、ちゅ……んっ」 「ぬりゅっ……ちゅっ、ぴちゅ……ぐちゅ……」 加えて、頭が前後に動き出す。 「ん……っ、ん、ん、ん……っ、んぅっ、ん……んっ」 「ちゅ……、んっ、ちゅるっ、ちゅくっ、ちゅるぅぅぅ……」 「ふあっ、はぁっ、は……、ふあ……、はぁ……」 湿った鼻息が、亀頭の先にかかる。 その度に俺の下半身が小さく震えてしまう。 「あむ……、ん……っ、ちゅるっ、ちゅ……ちゅばっ……んふ……」 頬を赤らめながら俺を舐めるエリスの口元と、その下で揺れる乳房。 肩越しに、なだらかな尻の稜線まで見える。 「なにか……企んでる?」 「また、その……カイムのが固くなった……」 「お前の身体が魅力的なだけだ」 「っっ……」 ただでさえ赤かったエリスの頬が、火種のように真っ赤になる。 「そういうこと言うとやめるから」 「嫌だったのか?」 「……」 「……別に」 ぼそりと言い、エリスが俯く。 要は恥ずかしいらしい。 「れろ、くちゅ……ぴちゅ……ぬりゅっ……ちゅぱ……」 「くちゅ……れろっ、くちゅ……ちゅるっ……んちゅ……」 「じゅっ……ぐちゅっ、じゅっ……ぴちゅっ……ぢゅぷ……っ」 亀頭に舌が絡みつき、激しく前後に擦られる。 「エリス」 「……なに?」 「手も、動かしてくれ」 「……仕方ないわね」 エリスが、左手を棹に添えゆっくりと動かし始めた。 唾液を潤滑油に、輪のようにされた指が柔らかく刺激してくる。 「く……」 自然と声が漏れてしまう。 「……気持ち、いいんだ」 「いい……な」 「すごい、身体震えてる」 「し、仕方ないだろ」 「喧嘩が強くても、弱点はあるんだ」 気をよくしたのか、エリスはかすかに笑ってからペニスに没頭する。 「んっ、ちゅっ、ちゅる……っ、ちゅぷっ、ちゅぅぅぅ……っ」 「ちゅぷっ、ふあ、はぁ……っ、はぁ、は……っ、んぅぅ……っ」 時折、陰茎の様子をうかがいながらエリスが舌を動かし続ける。 「もっと、舌全体を押し付けるようにして」 「ん……っ、ん、んっ、ん……っ、あぁん……んっふあ……っ」 「ふあっ、はぁ……っ、んん…んんぅぅぅぅっ」 エリスの熱心な治療が続く。 見ると、肩越しの尻がもどかしげに揺れていた。 布の中の部分を想像するだけで、興奮が更に高まる。 「……」 「また固くなった」 「限度がないの?」 エリスが顔を上げる。 口の周りが唾液で光っていた。 淫靡な光景だ。 「どこまで固くなるか、試してみたらどうだ?」 「そうする」 「はぁ……っ、ん、ちゅ……、ちゅるぅ……っあむ……ん」 「ん、んぅっ、ん、んぅぅぅぅ……っ、む……ぢゅぷ……」 エリスの左手が、ペニスの付け根辺りを擦る。 俺の膝に添えられていた右手を握ってやる。 「くちゅっ……じゅっ、ぬちゅっ、じゅっ、じゅぷっ、んぢゅっ……」 頭を動かしながら、エリスが指を絡めてきた。 俺はその指を、きゅっと握り返す。 「あ……」 熱い吐息が吐き出された。 吐かれた吐息は、しっかりと亀頭に絡む。 「……ずるい」 「ん?」 「手を握るだけで、気持ちよくさせるなんて……」 「私はこんなに頑張って、舐めてるのに……」 「気持ちいいのか」 「……うん」 「カイムの手……、気持ちいい……」 ぞくりとした。 エリスの言葉にやられたらしい。 「……入れるか?」 「ううん」 エリスが首を横に振る。 「良かったら……最後までさせて欲しい」 「カイムにも同じように……気持ちよくなって欲しいから……」 エリスが舌を伸ばす。 ざらりとした感触が、ペニスの裏側を重点的に往復する。 左手は、ペニスの中身をしごき出すように、ぬるぬると上下運動をくり返す。 「ん……く……」 ピリピリとした刺激が身体に走る。 背中を汗が伝う。 「このまま、出させてくれ」 「うん……」 「んっ、ふあ……っ、はぁっ、んっ、ふあっ、んぅぅぅ……っ」 下半身の粘膜に、舌の粘膜が付着する。 ぴちゃ、ぴちゅ、と子供が飴を舐めるような音が響いていた。 「ちゅ……っ、ちゅるっ、ちゅく、ちゅぅ、ちゅるぅぅぅ……っ」 エリスが時折、視線をこちらに向ける。 「カイ、ム……、凄い顔、してる……」 「どんな顔だ」 「……気持ち……よさそうな顔……」 「見るな」 「あは……照れてる」 「見るなって」 そう言って、エリスの手を握った。 「ふあっ、あ……んっ、んん……んぁっ」 ピリリと身体を震わせ、エリスは思い出したように口を動かす。 「ん……っ、ちゅっ、ちゅる……っ、ちゅく、ちゅぅ……っ、ちゅぷっ、ちゅうぅぅぅ……」 「んっ、んぅっ! ん、ん、んんんぅっ、んぅぅぅぅ〜〜っ、んむっ、んむぅぅ……」 陰茎が、俺の意志とは関係なく震え始めた。 「はん……っ、ん、ん、ん……っ、ふあっ、あむぅ……っ、むちゅ、ちゅるぅぅぅぅ……っ」 「れろ……っ、れるっ、ちゅく……っ、んちゅっ、ちゅるぅぅぅ……っ、ん、んんんんんんん……っ!」 びくっ!!! ペニスが震える。 エリスが口を離す。 びゅるっ! びゅるぅぅぅ……っ! びゅくっ!! 先端から、勢いよく白濁が飛び出した。 「んっ……ああっ」 「ん……っ、んぅ……っ! んぁ……っ」 飛び出した精液は、あまさずエリスの身体へと降り注ぐ。 顔や眼鏡、むき出しの乳房が俺の吐き出したもので汚れていく。 顔や、むき出しの乳房が俺の吐き出したもので汚れていく。 「いつも、こんなに出てたんだ」 驚いたように、精液を吐きだしたばかりのペニスを眺める。 「これだけ元気なら、怪我の完治ももうすぐね」 突然医者らしいことを言い出す。 「お前の治療のお陰だ」 「包帯替えてただけだけど」 「それで十分だ」 傍にいてくれるだけで違う、などといった本心は言えない。 適当に苦笑して誤魔化す。 「どう、気分転換にはなった?」 「お陰様で」 首を縦に振りつつ、椅子から立ち上がる。 エリスも一緒に、肩を掴んで立たせた。 「ん……」 そのまま、2人でベッドへ向かう。 「……なに?」 「今度はお前の番だ」 乳房がはだけたままの服を完全に脱がせてしまう。 お腹側にある紐を解くと、身体に残っていた布は簡単に床に落ちた。 「ちょ、ちょっと……」 「勝手に、脱がさないで……」 エリスが恥ずかしそうに身体をよじる。 「エリスの身体、きれいだな」 「ちょっと……からかわない……んっ」 エリスをベッドに押し倒す。 「ん……っ! ふあ……」 じゅぷっ…… 水っぽい音を立てて、エリスの下半身が俺のものを簡単に飲み込んでいく。 「あ、ああ……っ、あ、あ……や……やぁ……」 逃げようとするエリスの脚を抱え上げ、動きを封じる。 「や……っ、ちょっと、カイム……っ」 「そんな、足……っ、開かせないで……」 「逃げるからだ」 大きく開かれた性器に、俺のペニスを奥深く突き入れる。 淫らな音が耳に届く。 「ふっ、ああっ……やめ……やだ……恥ずか、し……んんんんっ」 「ふあ、あ、あ、ああああぁぁぁ……っ」 エリスが身体をよじろうとすればするほど、肉棒は深くエリスに食い込む。 「あっ……っ、や、あ……っ んんっ」 「あ……っ、あーっ! あ、あ、あ……あぁ……」 空いた手で、エリスの乳房を握る。 「ふあっ、んっ、んんんんっっっっ!!!!!」 エリスの背中が反り返る。 右手がシーツを強く掴むのが見えた。 「も……、もうっ、あああっ、ああっ、あっ、ああっ!」 「やっぱり……っ、意地悪ぅ……ひゃぅ……ば、馬鹿……カイ、ム……んあっ」 「ひゃっ、ふあ……ぁっ、あっ、んはぁ……ああああぁぁぁ……っ」 「嫌ならやめようか?」 「え……」 「わ、私は……別に、やめて、も……ふあぁっ、ああっ、んっんんっ!」 「いいのか?」 「や……だ、めっ……だめぇ、だ、め……っ」 エリスが首を振り、汗が飛び散った。 力の限り腰を叩きつける。 びちゅっ、ぐちゅ、ずっ、じゅっ! 「んっ、ひあっっ、んぅっ! んぅぅぅぅーっ!」 「もう……っ、あっ! ふあ……っ、や、んっ、あああぁぁぁ……っ」 「ひゃあっ、あっ、あああっ……くはぁ……っんーっ、ん、ん、んっ……っ!」 「嫌がってないじゃないか」 「ぁ……でも……、やうっ……で、も……っ」 「あ、あ、あ……っ、ひゃぅんっ、んああ、あああぁぁぁぁ……っ」 もじもじと動くものの、抵抗とはほど遠い。 むしろ、更なる快感を求めるように、腰がゆるゆると揺すられている。 「はぁ、はぁ……よ、余計な、こと、は……いい……から……」 「つ、続けて……ね……」 蚊の鳴くような声で、エリスがそう呟く。 「ん?」 「や……続けて、よぉ……」 応じるように、エリスの膣内が一気に潤った。 ふっと、脚を抱えた左腕が軽くなる。 エリスが、自分から脚を上げようとしてくれているのだ。 「ん……ふぁああ……ひゃっ、あっ、ん、んぅぅぅ……っ」 声が高くなる。 「ふあぁぁ……はぁ……っ、はぁっ、は……っ、ふあ……っ」 「あぁ、深い……っ、すごく、深く……んっ、入って、きてるぅ……」 「ん……何だか、もう、何も……考え、られなく……はあぅ……なっちゃ、う……ああっ!」 「こっちはどうだ?」 豊かな乳房を揉みしだき、指先で乳首を摘む。 「あぅ……ひゃああっ、ああっ……うあっ……んん……っあああっ」 エリスが何度も痙攣する。 軽く達してしまったらしい。 休みを置かず、乳首を強めに摘みながら腰を振る。 「あ、あ、あ、あ、……っ、んっ、ああっ、くぅ……ふあっ、あぁぁぁ……っ」 「ぁ……カ、カイム……っ、それ、だめ……だめ……わ、わたし、わたしっ……!」 「せ、背中が……ぁ、あふ、ひゃぅ……ぞく、ぞく、して……っ、あ、あ、あ……っ」 「ん……」 目の前で火照っている首筋に舌を這わせてみる。 「ひゃっ! んっ、んっ、あ、くぅっ、んぅぅぅぅーっ!」 悲鳴のような声が、エリスの口から漏れる。 同時に、膣がきゅぅっと締まった。 「く……っ」 急激に締め付けを増してくるエリスの膣から逃れるように、俺は強く腰を揺らした。 「はぁ、は……っ、はひっ、ひ……んぅっ、ふあぁ……っ」 「はっ、はひっ、ひうぅぅ……っ、ふあっ、は……、んぅぅぅっ」 「ん、もう……、手が、なくなったと……思ったら、ひうぅ……下が、激し、い……」 エリスの豊満な乳房が身体にぶつかり、音を立てる。 汗が飛び散り、部屋中がエリスの甘い匂いに染まっていく。 「ふぁっ、あ、ん……っ、あ……っ、んふう……ぁ、カ、カイムぅ、ああっ……」 エリスの左手が俺の腰に置かれ、顔が俺の方に向けられた。 「あ……、ち、近い……あは……んん……」 エリスの吐息や、俺の鼻息が、互いに掛かり合ってしまうような位置。 その位置のまま、エリスはじっと俺のほうを見つめている。 「どうした? 辛いか?」 「……ううん」 エリスは小さく首を横に振る。 「カイ、ム……ん……かっこ、いいね……」 「馬鹿らしい」 顔が熱くなる。 下半身は、顔以上に熱くなっていった。 「あっ、や、や……っ」 「はは……あはは……、カイム……もしかして、喜んでる?」 「……悪かったな」 「照れてる」 「照れてない」 「あはは……」 「でも、かっこいいと思っているのは、本当」 俺に視線を向けたまま、エリスがそう呟く。 よく見るとエリスの瞳は、熱に浮かされたように潤んでいた。 「カイムはいつでも強くて、かっこよくて……」 「大好き……カイム」 また、身体が熱くなる。 俺も熱に浮かされながら、指先でエリスの首筋を撫でた。 「あ、ふあ……ぁ……」 「俺も……」 「ん……?」 「愛してる」 ごく自然に、口から言葉が漏れた。 「…………」 今度はまた、エリスが赤くなる。 「照れるなよ」 「だ、だって……」 「ん……っ、ふあ、あ……っ、あっ、ああぁ……っ」 熱くなったエリスの中を、熱くなった肉棒でかき回す。 「ふあっ、あ、は……っ、んぅぅ……っ」 エリスの足を掴み直し、同時に俺の身体をエリスに寄せる。 「やっ、だめ……ひゃ……っ」 また、2人の距離が縮まった。 真っ赤になった2人の身体が、絡まりあう。 「ん……っ、ん、んぅぅぅ……っ、ふあぁぁぁ……はぁっ、あはぁぁ……」 じゅぶっ、くちゅっ、ぐちゅっ!! 結合部の音はどんどん大きくなっていく。 「はぁ……っ、はぁっ、ふあ、はぁ……っ、やっ……やあぁぁ」 「ぁ……カ、カイム……ぅ、カイムぅ……っ」 「やっ……大き、い……ひぅん……気持ち、いい……あああっ」 余力を振り絞り、腰を叩きつける。 「ふあっ! はぁ……っ、は……っ、んっ、んっ、んっ、あぅ、くううぅぅぅ……っ」 「カイ、ム……っ、カイムぅ、カイムぅ……っ、んっ、んぅぅぅ……っ、ふあっ、あっ、ふああぁぁ……っ」 「ああっ、ああああぁぁぁっ! んあっ、ふあっ、あ……ひぅ、何か……っ、来る……ぅっ!」 「あ、あああっ……ん、くぅっ、あっ、あ、あ、はぁっ、ああっ、あああああぁぁぁぁぁぁ……っ!」 びゅるっ! びゅくぅっ! どびゅっ! びゅるぅぅっ! 「ふあっ! うぅ……んあ……っ、ふあああぁぁぁっ!!!」 エリスの中で、俺が弾けた。 熱い塊がエリスの奥に向かって飛び出していく。 「はぁ……あぁ……、な、中で、震えて、るぅ……」 「ひあ……すごく……、いっぱい、出されて、る……」 腰に置かれたエリスの手が、小刻みに震える。 「あ……っ、あ、あ、あ……っ、ああっ、あ、んぁ、ふあ……っ」 射精は思いのほか長く、その間ずっとエリスは切なそうに吐息を吐いていた。 「ん、ふあっ、はぁっ……、はぁ……」 「あ、あっ、あぁ、ふあ……ん……っ」 ペニスの痙攣が少なくなっていくにつれ、エリスが吐く息も小さくなっていく。 「カイム……」 「ん?」 「……ううん」 エリスが頭を俺に預ける。 満足しただろうか。 「ん……」 ごぽりと音が鳴り、エリスの中から男性器が抜け落ちた。 「あ……溢れちゃってる」 エリスが脚を閉じた。 「別にいいだろう」 「なんか、もったいない」 「そうか?」 「女はそういうものなの」 よくわからない感覚だ。 「最近までガキだったくせによく言う」 「女が変わるのは早いから」 エリスが微笑む。 確かに、変わるのは早い。 エリスがこんな顔をするようになるとは。 「あのね、カイム」 「ん?」 「もし牢獄から、本当に面倒ごとがなくなって……」 「カイムの仕事が無くなっちゃったら」 「その時は私が、カイムを養ってあげる」 「ほう……期待していよう」 牢獄から面倒事がなくなる── そんな日は来ないかもしれない。 だが、エリスの気持ちは素直に嬉しかった。 「お前に医療を学んでもらって良かったよ」 「俺は、寝てるだけで済みそうだな」 「そうは行かない」 「どうしろと?」 「子供の面倒を見てもらわないと」 「子供? どこのガキだ?」 「私たちの」 ……は? 俺とエリスの、子供? 俺が面倒を見る? まったく想像できない。 「牢獄が平和になっても、結局、面倒事は残るわけだ」 「面倒とか言わないで」 エリスが不貞腐れる。 「自分の子供なんて……なあ」 そう言いつつ、俺は自分の子供── そして、子供の面倒を見る自分を想像してみた。 エリスの肌の温もりを感じながら、目を閉じて。 ……悪くないのかもしれないな。 気がつけば、窓の外から子供の遊ぶ声がしていた。 〈風錆〉《ふうしょう》との抗争から、しばらくが過ぎた。 不蝕金鎖の完全な支配下に置かれた牢獄は、秩序も安定し、以前よりも貧富の差が縮小している。 相変わらず、物価は少しずつ上昇しているが、それでも以前よりは物が入手しやすくなった。 表面には見えてこないが、ジークとルキウス卿との関係が牢獄を良い方向に向かわせているようだ。 ティアは、しばらくの間、ヴィノレタに住み込みで働いていた。 そもそも彼女は家事の能力に優れているし、異常なほどに我慢強く贅沢も言わない。 メルトにとってはこれ以上ない従業員だったし、ティアも重宝がられるのが嬉しいらしく、実に幸せそうに働いていた。 俺にとっても都合が良かったので放っておいたのだが…… 半年ほど前、ティアはジークの紹介でルキウス卿管理下の研究施設へ行くこととなった。 やはりティアは通常の羽つきではないらしく、研究を進めれば《羽化病》の原因究明につながるとのことだった。 一応止めはしたが、何より本人がやる気満々で── 「やっぱり、わたしには生まれてきた意味があったんです!」 などと言い、自ら進んで研究所に旅立っていった。 成果が上がれば、奴の放った光の謎にも近づけるだろう。 エリスとの関係は一応良好と言えた。 ゴタゴタが治まってすぐに同居を始め、それ以来家事を任せているが、料理の腕前は相変わらずだ。 何度もメルトに料理を教わるよう言っているのだが、対抗意識があるらしく全く教えを請おうとしない。 昔から嫌と言うほど思い知らされてきたことだが、本当に困った女だ。 とはいえ、エリス自身の精神面はかなり安定してきており、俺に支配を求めることも少なくなってきている。 周囲の物事への関心や、ものの好き嫌いも生まれつつあるようだ。 医者の仕事は順調そのもの。 以前より面倒見が良くなったせいか、リリウム以外の娼館からも出張を依頼されている。 金も貯まり、空いていたエリスの家を改築し、いよいよ開業。 そう思っていた矢先のことだった。 「また動いた」 「そんなに動くものか?」 「うん、すごく元気」 俺達の間に子どもができてしまった。 「カイムに似て、乱暴な子になったら嫌」 「お前みたいな面倒な女になるのはさらに嫌だ」 「頼むぞ、お前」 エリスの腹を撫でてみる。 「また動いた」 「うざったいから触るなって」 「ひでえガキだな」 妊娠がわかってからというもの、毎日のようにこんな不毛なやりとりをしている。 娼館周辺で生活し、数え切れないほどの堕胎とそれに伴う悲劇を見てきた俺たちにとって、妊娠は忌むべきものだった。 こうして喜べるのは本当に幸運だ。 牢獄の環境は少しずつ良くなっているとはいえ、あくまでも『昔の牢獄に比べれば』という注釈がつく。 下層に比べれば、地獄であることには変わりはない。 俺やエリスが嘗めてきたような〈辛酸〉《しんさん》を、この子には味わわせたくない。 そして、もし可能なら…… ただ今日を生きるためだけに生きるのではなく、『生まれてきた意味』なんてものを考える余裕のある生活を送らせられたら、と思う。 「名前、どうしよう」 「アイム以外ならなんでもいい」 「誰?」 「兄貴だ」 「へえ」 関心薄だった。 「好みがあるなら、カイム決めて」 「面倒だ」 「お前が決めろ」 「いいけど……」 「なぜか私、名付けの才能がない気がする」 「気のせい?」 「……」 妙に説得力があった。 「じゃあメルトに任せよう」 「無理無理」 「ジーク」 「変態が〈伝染〉《うつ》る」 「なら誰にするんだ」 「他に友達いないの? 寂しい」 「お前が言うな」 「わかった。なら、リリウムの三人に決めさせよう」 考え込むエリス。 「やっぱり、私が決めようかな」 「あ、でもなぜか嫌な予感が」 「わかったよ。俺が決めればいいんだろ」 ため息も出ないくらい面倒くさい女だ。 「変な名前になっても恨むなよ」 「わかった」 「でも、心配してない」 「なぜ?」 「カイム、口は悪いけど優しいから」 「馬鹿らしい」 「あ、赤ちゃん笑った」 「笑うか!」 「ふふ」 エリスが微笑む。 かつてのエリスからは想像もつかないほど、穏やかな笑顔だった。 そう── 人は変わることができる。 どんなに不条理で理不尽な環境に置かれたとしても。 かつて、自分を人形だと言ったエリスはもういない。 ここにいるのは、エリス・フローラリアという、一人の立派な人間だ。 「……さあ、立って」 「無理だよ、もう歩けない」 汚れた石畳の上に膝をつき、やつれた少女は力なく〈項垂〉《うなだ》れた。 「でも逃げないと駄目」 「……一人で行って」 「私はもう、ここでいいから」 「お願い、立って」 「……」 手を繋いでいた少女は、へたり込んでしまった。 できれば背負ってあげたいけれど、そんな力は残っていない。 私も限界だった。 ゆっくりと握った手を離す。 「あ……」 絶望にうちひしがれた瞳で私を見つめてくる。 「大丈夫、一人で行ったりしないわ」 隣に座り、壁にもたれかかった。 「……ありがとう」 寄り添ってくる少女を抱きしめ、目を〈瞑〉《つむ》る。 ……私たちは、誰もいなくなった廃屋で出会った。 私もこの子も小さい頃に身寄りをなくし、路上で生活をしてきた。 住むところはなく、食べる物もなかった。 教会に行っては食べ物を分けてもらい、廃屋を点々としながら生活してきた。 二人で助け合いながら、何とか生きてきた。 でも……。 ある日、廃屋に衛兵たちがやってきて……私たちに剣を向けてきた。 街を綺麗にするためだとか、そんなことを言っていた。 私たちは逃げだした。 何日も何日も、逃げ続けて……ここに行き着いた。 「……もう疲れたね」 「うん……」 汚水に濡れ、這い上がってくる寒気に身震いする。 再び立ち上がるだけの力は残されていない。 道の向かいには、ぼろ布の塊と化した子供の死体が横たわっている。 疲れ果て、〈朦朧〉《もうろう》とする意識の中、ぼんやりと空を見上げた。 遙か高みに〈聳〉《そび》える王城は、終わりゆく者に見向きもしない。 「私たち、死んじゃうのかな」 「……」 身じろぎ一つするのも〈億劫〉《おっくう》で。 このまま眠ったら、明日には向かいに佇むあの子と同じようになるだろう。 でも……。 「大丈夫よ、きっと天使様が救ってくださる」 人には救いが必要だ。 だから、神は我々に天使様を遣わしてくださった。 天使様は、いつもあなたたちを見守っていますよ。 おぼろげな記憶の中にある言葉。 教会におそるおそる足を踏み入れた私たちに、温和な聖職者はそう教えてくれた。 「……そんなの、嘘だよ」 「え……?」 「だって、私たちは救われてない」 「こんなにお腹が空いてるのに、こんなに寒いのに……誰も私たちを助けてくれない」 やつれた少女の瞳にうっすらと涙がにじむ。 「本当に天使様がいるなら……どうして私たちはこんなにつらいの?」 「どうして私たちのことを助けてくれないの?」 「どうして……」 「本当に、天使様なんているの……?」 疑うのは無理もない。 大人は誰も助けてくれず、世界は不条理に満ちている。 それでも── 「天使様はいます」 「でも……」 「……救ってくれたら信じるの?」 「それは……そうだと思う」 「救われたら信じる、救ってくれないから信じない」 「そんなことでは決して救われない」 「私たちは皆弱く、少しのことで揺らいでしまう」 「だから信じるの」 「救ってくれるから信じるのではなく……信じることで救われるのよ」 教会で教えられた、受け売りの言葉。 でも、それがこの子のつらさを少しでも和らげてくれるなら、それでいい。 「信じることで……」 そう、こんなにも救いのない世界だから。 せめて自分の内にあるものくらいは、信じていたい。 それが、最後に必ず自分を救ってくれる。 遙かな高み、王城の彼方を見上げる少女。 「……お空、綺麗だね……」 建物に切り取られた僅かな空。 「……あの向こうに、天使様がいるのかな……」 やつれた少女が微笑む。 その笑顔がまぶしくて……思わず少女を抱きしめる。 「そうだね……」 「きっと、天使様はいるよ」 たとえどんなにつらくても、 たとえ明日がなかったとしても……きっと救いはある。 だって私たちは、こんなにも幸せなのだから。 鞭打ちを受けてから8日。 牢獄では《不蝕金鎖》の再編成が進んでいる。 元は同じ組織から別れた《〈風錆〉《ふうしょう》》とはいえ、稼ぎ方や構成員の思想は大きく違っていた。 彼らを一つにまとめ、《不蝕金鎖》が揺るぎない地盤を築くまでには、まだ時間がかかるだろう。 《不蝕金鎖》内部の問題と並んでジークを悩ませているのは、ルキウス卿との付き合い方だ。 《〈風錆〉《ふうしょう》》の件でジークはルキウス卿に借りを作った。 ルキウス卿が牢獄にどれほどの関心を持っているかはわからないが、過度の介入は防がねばならない。 ジークの力が問われるところだ。 ティアについては、相変わらずお目こぼしの状況が続いている。 今回、羽狩りに協力したことで、何らかの取り引きがあったようだ。 とはいえ、いつ羽狩りが方針を変えるかわかったものではない。 比較的自由なうちに、ティアの放った光の謎について探らねばならないだろう。 「カイム、傷はどう?」 「ああ、もう大丈夫だ」 エリスの熱心な手当のお陰で、鞭打ちでできた傷はだいぶ良くなった。 痛みはほとんど残っていない。 「さすがは名医ね」 「褒めても何も出てこないから」 「相変わらずつれない、少しは打ち解けてよ」 「ふん」 聞いているだけで傷が痛くなるやりとりだ。 「あ、カイムさんいらっしゃい!」 ため息をついていると、奥からティアが出てきた。 「よう、元気にしてたか」 「もう外に出られるようになったんですね」 「よかったです」 「これ以上エリスの料理が続くと、どうかなりそうだったんでな」 「練習してるのに」 「まあ、ゆっくり頑張ればいい」 「エリスさん手先が器用だから、絶対に上手くなりますよ」 「あなたに励まされるのって、どうしてこんなに〈癪〉《しゃく》なのかしら」 「す、すみません……」 「ティアに当たるな」 エリスは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。 「ところでカイム、私はいつまでティアちゃんを預かっていればいいの?」 「私としては大助かりだから、ずっといてくれてもいいけど」 「それもそうだな」 エリスの件も落ち着いた今、ヴィノレタに預かっておいてもらう理由はない。 とは言え、今のところティアの謎を解く手がかりはない。 俺の家にいても、ヴィノレタにいても大差ないだろう。 「どうする、ティア」 「え、えっと、わたしが決めるんですか?」 「ああ、お前の好きにしていいぞ」 「うう……どうすればいいかわからないです」 「ここにいたいのか、戻りたいのか。簡単な話だろ」 「そうですけど……難しいです」 俺とメルトを交互に見て、〈項垂〉《うなだ》れる。 そんなに迷うことか? 「ここにいれば? カイムのところに戻ってきてもやることは何もないから」 「独り占めしたいって顔に書いてあるわね」 「単に近くをうろちょろされると目障りだから。それだけよ」 「す、すみません。じゃあここにいます……」 「エリス、ティアを〈威嚇〉《いかく》するな」 「今すぐ決める必要はない。もうしばらくここにいろ。戻って来たくなったら戻ってこい」 「そう言っていただけると助かります」 やれやれ……。 もう少し自主性が出てくるといいんだがな。 「あら……いらっしゃい」 店中の客が一斉に振り返る。 入ってきたのは、聖職者らしき女だった。 「珍しい格好の方ですね」 「あいつ……」 顔に見覚えがある。 以前、牢獄に迷い込んで何かを探していた女だ。 「あの、少しお尋ねしたいのですがよろしいでしょうか」 「ええ、構わないわよ」 「こちらに、ユースティア様という方がいらっしゃると伺って来たのですが」 ティア名指しか。 一応警戒しておこう。 メルトがこちらに視線を送ってきたので、小さく頷く。 「ティアちゃんならそこにいるわよ」 「あの方が……ユースティア様」 俺の傍に〈佇〉《たたず》むティアを見て、女は微妙な表情を浮かべる。 疑うような、値踏みするような、そんな眼差しだ。 「わ、わたしに用があるみたいですけど……何でしょうか」 「さあな」 「お前、誰かの恨みを買うようなことをしたのか?」 「そ、そんな覚えはありませんが」 だが、名指しでティアを探しに来たのだ。 「あなた様がユースティア様でしょうか」 「あ、はい」 「はじめまして、私はラヴィリアと申します」 その女は、ティアに向かって深々と頭を下げた。 「ラヴィリアさんですか?」 「ラヴィとお呼びくださって結構です」 「は、はい」 戸惑いながら答えるティア。 「突然のことで大変申し訳なく存じます」 「今日はユースティア様に特別な用事があって参りました」 「あの、わたしにですか?」 「はい」 「その……」 ティアがちらりと俺の方を見る。 助け船を期待している目だ。 「あんた、聖教会の人間だったよな」 「えっ!?」 女が驚いた顔をする。 「久しぶりだな」 「前に会っただろう? 覚えてるか?」 「あっ!?」 「その節は、大変お世話になりました」 再びラヴィは深々と頭を下げる。 「知り合いなの?」 「ちょっとした成り行きでな」 肩をすくめる。 「しかしあんた」 「聖教会の人間に、いきなり特別な用事があると言われれば、誰だって驚くぞ」 「特にこいつは小心者なんだ、もう少し考えてやってくれ」 ティアの肩に手を置く。 「で、ティアに何の用だ?」 「申し訳ありませんが、今回の件は特に内密の話なのです」 「ユースティア様以外の方にはお知らせできません」 ますます怪しい話だ。 ティアだけに任せるのは危ない。 「俺はティアの兄だ。知る権利はあるだろう?」 「へっ!?」 変な声を出すティア。 ……そういうことにしておけ、と前に言っただろうが。 目で言葉を交わし、ティアはうんうんと頷く。 「そうなのですか?」 「あっ、はい」 「わたしはカイムさんの妹なんです」 「そういうわけだ」 「ティアを変なことに巻き込ませるわけにはいかん」 「あらカイム、かっこいいお兄さんじゃない」 メルトが横やりを入れてくる。 「茶化すな」 「それは失礼しました」 「カイム様はユースティア様のご家族なのですね」 「ああ、そうだ」 「それではユースティア様と共に、こちらをお読みください」 ラヴィは蝋で封がされた、豪華な刺繍入りの封筒をティアに手渡した。 「主より預かってきた手紙です」 「主ってのは?」 「中を読んで頂ければ、お分かりになるかと思います」 「ティア」 「は、はい」 ティアは、おそるおそる封を開いて便箋を取り出す。 俺はティアの横に立ち、便箋に目を通していく。 『──突然のお手紙、失礼致します』 『さぞ驚かれたことと思います』 『本日は大切な用件につき、直接手紙をしたためさせていただきました』 『先日、私は天使様のお導きにより、この都市に天使様の御子がいらっしゃることを知りました』 『驚かないで下さい』 『ユースティア様──』 『あなた様が、まさに天使様の御子なのです』 ……阿呆か。 どう見てもただのいたずらだ。 ティアから金でも巻きあげるつもりだろうか。 『現在、ユースティア様は牢獄にいらっしゃるとのこと』 『さぞご苦労されていることと思います』 『私は、あなた様を、この世のあらゆる苦痛よりお救いしたく思っております』 『遣いのラヴィリアに案内させますので、是非、聖域までお越しくださいませ』 『お目通りが適いますことを、心よりお待ち申し上げております』 『第29代聖女イレーヌ──』 「……えっ、えええええええぇぇぇぇぇぇっ!?」 ティアが悲鳴を上げた。 「こここ、これ、せ、聖女様からの!?」 「ユースティア様、お声が大きいです……!」 ラヴィが大慌てでティアをたしなめる。 「あっ、すみません」 「でもこれ……本当にわたし宛てなのでしょうか?」 「わたしのような者に、聖女様がお手紙を書いてくださるなんて……」 おずおずとラヴィに聞き返す。 「はい、間違いございません」 「どどど、どうしましょうカイムさんっ!?」 「聖女様からお手紙をもらっちゃいました!?」 再び大声になるティア。 周囲の客は、こちらに興味津々といった様子だ。 「ユースティア様……」 「しょうがない子」 メルトが客に向く。 「みんな、今日は一杯ずつおごってあげる」 「その代わり、ここでのことは他言無用よ」 「おーっ、ありがてえ!」 「メルトさん、わかってるじゃねえか!」 盛り上がる酔っぱらいたち。 「いいのか?」 「まあ、ティアちゃんはうちの従業員だからね」 「これでいいでしょ、ラヴィさん」 「お心遣い、感謝致します」 頭を下げるラヴィ。 メルトの手並みは相変わらず鮮やかだ。 しかし、客の口を封じなくても、こんな話を信じる奴がいるとは思えない。 俺は椅子に座ると、ラヴィの方に体を向ける。 「あんたに、いくつか聞きたいことがあるんだが」 「はい、お答えできることなら」 「まず、御子っていうのは何だ?」 「子供のことです」 「それはわかる」 「つまり、ティアが天使の子供だって言いたいのか?」 「聖女様はそのように仰っております」 大まじめに答えるラヴィ。 頭が痛くなってくる。 「ティア、聖女に会ったことあるのか?」 「そ、そんな、あるわけないです」 「だったら、聖女はどうやってティアが御子だって気づいたんだ?」 「天使様のお導きがあったとのことです」 「お前、正気か?」 「聖女様は、天使様に祈りを捧げることで、都市を浮かせているお方です」 「天使様より御声を授かるのは不思議なことでしょうか?」 不思議すぎる。 都市を浮かせているのは確かだろうが、御声云々は聞いたことがない。 だが、ラヴィの顔は真剣だ。 この点を追求しても〈埒〉《らち》が明かないだろう。 「で、ティアを連れて行ってどうする気だ」 「申し訳ありません、私も詳しくは伺っていないのです」 「随分と適当だな」 「申し訳ありません」 「ですが、大聖堂までお越しいただければ、聖女様より全てご説明申し上げられるはずです」 「押して、ご同行いただけないでしょうか」 「まるで悪党の呼び出し文句だ」 「そんな……」 「第一、この手紙が聖女からのものだと、どうやって証明する?」 「牢獄の人間に、聖女が手紙を送るなんて馬鹿な話があるか?」 「普通の人間なら、騙すにしてももう少し上手い嘘をつくぞ」 「本当なのです、信じてくださいっ」 ラヴィを助けるように、ティアが口を挟んできた。 「あの……カイムさん」 「わたし、もっと詳しい話が聞いてみたいです」 「もしかしたら、わたしの不思議な力についてわかるかもしれないですし」 ティアの力について興味はある。 だが、さすがにこの話は馬鹿らしい。 「お前が聖女様と知り合いなら、まだ話はわかる」 「だが、知り合いでもないのにいきなり『天使の御子』だとか言って手紙を出してきた」 「あの聖女が、牢獄の人間にだぞ? 信じられるわけがない」 「ただの嘘ならいいが、ベルナドの残党が仕組んだ罠の可能性もある」 ベルナドの残党は、未だに相当数いる。 ジークや俺に恨みを持っている奴も多いだろう。 ティアを呼び出して俺たちを罠にはめようとしている可能性だってあるのだ。 「それは……言われてみれば……」 「ユースティア様、信じてください。この手紙は本物です」 「カイム様に信じていただけないのは仕方ないかもしれません」 「しかし、ユースティア様なら何かお心当たりがおありでしょう」 「私は、神に誓って決して嘘偽りなど申しません。お願いします……!」 「で、でも……」 ちらりとこちらを見る。 どんなに〈懇願〉《こんがん》されようが、信じられないものは信じられない。 手紙を信じてティアに何かあっても、自業自得だと笑われる程度の話だ。 エリスなどは、もはや興味を失って欠伸をかみ殺している。 「聖女に直接ここに来るよう言ってくれ」 「それなら話を聞かないこともない」 「それは無理です。聖女様をこのようなところにお連れするなど……」 「このようなところで悪かったわね」 「あ、い、いえ、決して悪いところという意味ではありません!」 メルトに〈睨〉《にら》まれ、慌てて弁明するラヴィ。 「聖女様は御身の清浄を保つため、聖域からほとんどお出になりません」 「ですから……」 「こちらに来いと、そう言いたいわけか」 「はい、そうです」 「だったらまずあんたが答えろ」 「なぜティアを呼び出す?」 「それは……私からは申し上げられません……」 「話にならないな」 「悪いがあんたの与太話には付き合えない」 「そんな……」 「良いお返事をいただくまでは、帰るわけにはいかないのです」 「こっちの知ったことじゃない」 「……」 ラヴィは黙り込んでしまった。 「おうメルト、俺たちは帰るぜ。ごちそうさん」 「はいはい。また来てね」 ラヴィを〈訝〉《いぶか》しげに見つめて通り過ぎる客たち。 「あのね、ラヴィさん」 「悪いんだけど、そんなところに黙って立っていられても困るのよ」 「話を続けるつもりなら、座って何か頼んでちょうだい」 「ここは酒場なのよ」 辺りを見回し、ラヴィは頭を下げる。 「お邪魔をして申し訳ありませんでした」 「私は外で待たせていただきます」 ラヴィが重い足取りで店の外へ向かう。 「あら、行っちゃった」 「放っておけ」 「……で、どうするのカイム」 「どうもこうもない、話は終わりだ」 「でも外で待ってるって言ってたわよ」 「あんな辛気くさいのが店の前に立ってたら、お客減るね」 「そのうち帰るだろう」 「でも、何だか気の毒です」 「だったらあなた一人で行ってくれば?」 「でも、皆さんにご迷惑をおかけすることになったらと思うと……」 「なら行かなければいいでしょ」 「でも、それだとラヴィさんは帰れないことになってしまいます」 「いちいちうるさいわね。二つに一つでしょう」 「それはそうなんですけど……」 「よう、お揃いだな」 ジークが陽気な声を上げて入ってきた。 「カイム、身体の調子はどうだ?」 「ああ、悪くない」 「久しぶりに二人揃ったわね」 メルトが満足げに微笑む。 「いつものでいい?」 「ああ」 手際よく火酒を注ぎ、陶杯を置く。 「カイムが戻ってきてくれてよかった」 「お兄さんがいないと、弟も荒んじゃうからね」 「おい、俺が弟なのかよ」 「あれ、逆だったかも?」 「どっちなんだよ」 「んー、忘れちゃったなー」 「ったく、勘弁してくれよ」 「またメルトに〈奢〉《おご》らされるぞ」 「っと、その手に乗るか」 火酒を〈呷〉《あお》るジーク。 「……で、外に見慣れない女がいたが、ありゃ誰だ?」 「お前がひっかけた女か?」 「言いがかりも甚だしいな」 「ティアちゃんへのお客さんよ」 「嬢ちゃんの? へえ、珍しい」 「本人曰く、聖女様の遣いらしい」 「……はあ」 「エリス、あの女、診てやった方がいいんじゃないか?」 「頭の病気は専門外だから」 「で、そのお遣い様は何だって?」 「ティアは天使様の御子だから大聖堂に来てくれ、とさ」 「御子?」 「子供のことだそうだ」 「つまり、ティアは天使が産んだ子ってわけか」 「そういうことだ」 「イカれてるな」 素っ気なく言って、ジークは煙草に火を点けた。 当然の反応だ。 「天使が子供を産むとは知らなかった」 「じゃあ、親の天使はどこにいるんだ?」 「ああそうか、ティアは天から降ってきたのか」 「なんたって天使の子供だからな」 〈嘲笑〉《ちょうしょう》的に口を〈歪〉《ゆが》め、煙を吐きだすジーク。 「もっと現実的な問題として捉えるべきだ」 「現実的ねえ」 「例えば、ベルナドの残党が仕掛けた罠だとしたらどうだ?」 「天使の子供よりは、まともな話だな」 「だが、罠だとしたらもう少しまともな嘘をつくだろう」 「クスリで頭がぶっ飛んでたって、天使の子供だなんて誘い文句は使わんだろうよ」 「そうかもな」 なら、あの手紙は何なのか。 「あの女、神官服を着ているから教会の人間なんだろうが、見たことのない顔だ」 かなり小規模だが、牢獄にも教会がある。 出先の教会で、聖職者が毎日交代でやってくるのだ。 「詳しいじゃないか、いつから教会に通うようになったんだ?」 「俺が信仰心を持っていたらおかしいみたいな口ぶりだな」 「この都市があるのは聖女様のお陰だ、そうだろ?」 「それはそうだが、お前が言うと悪い冗談に聞こえるな」 「はははは」 「真面目な話をすれば、聖教会とは先代の頃からの付き合いだ」 「聖教会の印が付いてりゃ、どんな荷物も関所を通せる」 「多少高くつくがな」 「なるほど」 「ともかく、牢獄の教会に来る聖職者は一通り把握しているが、あんな女は見たことがない」 「ティアちゃん、さっきの手紙見せてくれる?」 「あ、はい」 ティアはラヴィに渡された手紙をメルトに渡す。 「……これ、聖女様の印ね」 「知っているのか?」 「この〈封蝋〉《ふうろう》に刻まれた印、先代が聖女様からもらった親書と同じよ」 「先代が親書を?」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》後、牢獄の復興に尽力したご褒美だったはずだ」 メルトから手紙を受け取り、〈矯〉《た》めつ〈眇〉《すが》めつ手紙を調べるジーク。 「言われてみれば、この印には見覚えがあるな」 「メルト、覚えているとはさすがじゃないか」 「先代から何度も見せられたもの」 「嫌でも覚えるって」 「この手紙、本物かもしれん」 ジークが手紙をティアに返す。 「書かれてる内容はどうだろうな?」 「そりゃ、わからん」 「聖女様のお加減が悪いのかもしれないからな」 ジークが頭を指さす。 「聖女様に失礼なこと言わないで」 「またどこか落っこちたらどうするのよ」 「おっと、くわばらくわばら」 冗談めかしてジークが笑う。 「……地震ね」 「最近多いな」 「ああ」 小さな揺れだったが、それでも不安は感じる。 牢獄の人間は皆、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の被害者だ。 「手紙なんぞ書く暇があったら、本業の方を頑張って欲しいもんだ」 「カイムまで、不謹慎よ」 「聖女様さえしっかりしていれば、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》なんて起こらなかったんだ」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》は先代の聖女の責任だ」 「盲目の聖女は関係ないだろ」 「それはそうだがな……」 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》は多くの人間から全てを奪い去った。 代替わりしたからといって、急に信頼することはできない。 「また同じことが起こるかもしれない」 「言うな」 「誰しも気にしていることだ」 ここにいる人間にとって、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》は思い出したくない過去だ。 好んで話題にしたいことじゃない。 「……あ、あの……困ります……!」 「いいじゃねえか、ちょっとそこまでだからよ。な、頼むよ」 「申し訳ありません、待っている方がいるのです……!」 「すぐだって、大丈夫だから」 「や、やめてください!」 「カ、カイムさん。ラヴィさんが……」 「放っておけ」 自業自得だ。 「でも……」 「あの子、聖女様の遣いなのよ?」 「かもしれない、だろ」 「じゃ、店の前で面倒事が起きると困るから、ちょっと止めてきてよ」 「カイムさん……」 やれやれだ。 「お願いします、離してください!」 「おい」 ラヴィを掴んでいた手を強引にねじ上げる。 「いっててて、何だってんだ!」 「こいつは俺の連れだ」 「わ、わかった」 「消えるから放してくれ!」 「ものわかりがよくて助かる」 酔っぱらいを突き飛ばす。 「……ちっ、男連れかよ!」 舌打ち一つ、男はすごすごと立ち去っていった。 「あ、ありがとうございます、カイム様」 「また、助けていただいてしまいました」 「あの程度捌けなくて、よくここまで来られたな」 ラヴィが不思議そうに首をひねる。 「牢獄の方は、皆さん親切な方ばかりでした」 「道案内を申し出て下さったり、食事をご馳走してくれると言って下さったり」 「ただ、急いでいたのでお断りしてしまいましたが」 何を言っているんだ、こいつは。 全部、下心丸出しの誘いだ。 馬鹿なのか正直なのか…… いや、その両方か。 「いいから早く帰れ。次は助けんぞ」 ラヴィを放置して、店に戻る。 「ま、待ってください!」 「あんたもしつこいな」 「このままでは帰れません」 「お願いします、ユースティア様と共に大聖堂までお越しください」 「どうか、どうか聖女様のために……」 聖女様のため、か。 「言うことを聞かないと、地震が増えでもするのか?」 「それは……私の口からは申し上げられません……」 「馬鹿かお前は」 こんなのを遣いに出すなんて、主は何を考えているんだか。 まあ聖女だから、と言われれば納得できなくもないが。 「大聖堂までお越しいただければ、聖女様から直々にお言葉を頂戴することもできます」 「きっと満足のいくお答えをいただけるはずです」 メルトの言ったことが本当なら、この女は確かに聖女の遣いだということになる。 あの時、馬車の中から聞こえてきた声。 確かにあれは、儀式で聞いた聖女の声に似ていた。 客観的に考えれば、この女が嘘をついているようには思えない。 「……わかった」 「来ていただけるのですか?」 「ああ。だが最初は俺一人で行く」 「ティアを連れて行くかは、聖女の話を聞いてから判断する」 「そ、それは……」 「カイムさん一人で行くんですか?」 「ああ、罠の可能性は捨てきれない」 「だが、俺一人なら何とでもなる」 「でも、お手紙をもらったのはわたしですし……」 ティアは封筒を取り出す。 「その手紙、相当いい紙を使っている」 「下層でも、なかなか手には入らないものだ」 「用意できるとなれば貴族か……相当高位の聖職者くらいだ」 「これが罠だとすると、どうもちぐはぐだと思わないか?」 「聖女の印や高級紙まで手に入れておいて、肝心の手紙の内容がアレだからな」 「本気で騙そうとしている人間がやることじゃないわね」 「そ、その通りです」 「わたし、ラヴィさんが嘘を言っているようには思えないです」 「あなたの勘じゃ、説得力なし」 「で、でも……わたし行ってみたいです」 「ほう?」 行ってみたい、か。 ティアが欲求をはっきり口にするとは珍しい。 「わたしには、生まれ持った運命がある気がするんです」 「聖女様にお会いすれば、それが何かわかるかもしれません」 「だから、お願いします、カイムさん」 「運命ねぇ……」 ジークが白けた顔をした。 俺も同じ気分だ。 ただ、運命はともかく、こいつが何か不思議な力を持っているのは確かだ。 もしかしたら、聖女がその手がかりを示してくれるかもしれない。 罠の可能性が低いというのなら、ティアを一緒に連れて行くだけの価値はありそうだ。 「私からもお願いします、カイム様」 「……わかった」 「ただし、話を聞くだけだぞ」 「ありがとうございます!」 「やはり、カイム様はいい方でしたね」 ラヴィの〈暢気〉《のんき》な発言に脱力する。 こいつは、人を疑うということを知らないのだろうか。 「俺は聖女様の話に興味が湧いただけだ」 「話が終わったらすぐ帰るぞ」 「お越しいただけるだけで嬉しいです」 「もういい、わかった」 頭が痛くなってくる。 「それで、俺達はどうしたらいい?」 「何か準備はいるか?」 「いえ、今から一緒に来ていただければ問題ございません」 「わかった」 「メルトさん、お仕事のことなんですが……」 「こっちのことは気にしなくていいわよ」 「ただし、帰ってきたら後で話聞かせてね」 「はい、わかりましたっ」 ラヴィに従い、大聖堂を目指す。 関所も、ラヴィが持っていた聖印一つで何の〈咎〉《とが》めもなく通ることができる。 さすがの聖職者様だ。 初めて訪れる上層。 そこは、清潔さと豪華さと引き換えに、〈人気〉《ひとけ》を失ったような場所だった。 急勾配の地面に立ち並ぶ家々は、大きく壮麗だ。 街路には乞食など転がっていない。 通行人も少なく、すれ違うのは衛兵と屋敷の召使いだけだ。 美しいには美しい。 だが、どうにも馴染めそうにない街並みだった。 大聖堂の尖塔が見えてきた。 牢獄から何度も見上げた塔だが、ここまで近づくのは始めてだ。 牢獄民の中には、一生に一度は大聖堂に行ってみたいと願う者も多い。 まさか、信心の足りない俺が足を踏み入れることになるとは。 「こちらになります、御子様、カイム様」 ラヴィリアが、大聖堂を指す。 「すごいです……!」 「お前も大聖堂に来るの初めてか」 「はい、カイムさんも初めてなんですか?」 「俺みたいな人間にとっては、最も縁遠い場所だからな」 「さ、どうぞ」 雰囲気に飲まれる俺たちに対し、ラヴィは気軽な足取りで進んでいく。 勝手知ったるというところか。 「こちらが大聖堂です」 「昼は一般参拝の方もお見えになっているので、お静かに願います」 高い天井に、綺麗に磨かれた床。 ステンドグラスを通した色彩鮮やかな光彩が床に映り込み、荘厳な雰囲気を醸し出している。 祭壇では神官が端整な口調で説法を行い、多くの人々がその声に耳を傾けていた。 「結構人が来ているな」 「最近は地震が多いせいで、多くの方がお見えになります」 「なるほど」 頼れるのは聖女様だけだからな。 「地震、何とかならないのか?」 「神と天使様、そして聖女様への感謝と祈りを怠らなければ、きっと願いは届きます」 「つまり、地震が起こるのは民草の感謝が足りないということか」 「……」 黙り込むラヴィ。 「カイムさん、ラヴィさんが困ってますよ」 「信者に同じことを言われたら、何て返すつもりだ」 「申し訳ありません」 ラヴィは困ったように笑う。 「この先、橋を渡ったところが、聖女様のおられる聖域となります」 「奥に見える建物は聖殿と呼ばれており、聖女様がお住いになっているところです」 あそこで、日夜この都市を浮かせ続けるための祈りを捧げているのか。 「さあ、参りましょう」 「お待ちください」 背後から鋭い声が飛んできた。 振り返ると、聖職者がこちらへ近づいてきていた。 「こちらより先、参拝者は立ち入り禁止となっています」 「……だそうだが」 ラヴィに顔を向ける。 「ラヴィリアか……そなたがいながらどういうことだ?」 「こちらは、聖女様が直々にお召しになったお客様です」 「そのような話は聞いていないぞ」 「本当です」 「私がしかとこの耳で聞いております」 「ナダル様のお許しは得ているのか」 「それは……これからお話しするところですが」 「いくら聖女様のお召しとはいえ、ナダル様のお許しもなく聖戒を曲げることは許されない」 「……」 聖職者に〈咎〉《とが》められ、ラヴィは沈黙してしまう。 「聖戒ってのはなんだ」 「私たち聖職者が守るべき規律です。初代イレーヌ様が定められたと聞いています」 「聖域に入ることができるのは、司祭の位を持つ神官長以下、数名の聖職者とお付きの者だけと決められております」 そんなところに俺たちを入れようってわけか。 「ですが、今回は直々に聖女様がお連れするようにと仰ったのです」 「しかし……」 難色を示す聖職者。 ラヴィリアと聖職者は、押し問答を始めた。 「人を呼びつけておいてこれか」 「そうですね」 「帰るか」 「せ、せっかくここまで来たんですから……」 「何事か」 「ナ、ナダル様……」 騒ぎを聞きつけたのか、大聖堂から立派な式服に身を包んだ神官が現れた。 以前、聖女のお目見えの儀式で説法をしていた男だ。 そいつが、俺とティアを〈訝〉《いぶか》しげに見る。 「ラヴィリア、どういうことだ? 説明なさい」 「この方たちを聖殿までお連れするようにと聖女様より言いつかっています」 「そちらは、どちら様で?」 「カイムだ。こっちはティア」 「俺達は、ラヴィリアに頼まれたからここまで来ただけだ」 「なるほど、左様ですか」 「あんたは?」 「私はこの大聖堂で神官長を務めているナダルと申します」 「以後、お見知りおきを」 「ああ」 他の聖職者とは、持っている雰囲気が違う。 各段に世慣れた印象だ。 「して、ラヴィリア」 「一般の方々を聖域に入れるつもりか?」 「……はい」 「言語道断だ、聖戒を何だと思っている」 「ですが……聖女様がお決めになったことなのです」 「聖女様たっての願いとあっても、そう易々と聖戒を破られては困る」 「それならそれで、手順も踏まねばならぬ」 「お前も承知しているはずだ」 「……はい、承知しております」 「ならば、お前の役目は聖女様をお〈諫〉《いさ》めすることであろう」 「お付きが聞いて呆れるぞ」 「申し訳ありません……」 また言い合いが始まった。 うんざりだ。 「今回のは、さっきのより手強そうだ」 「そうですね」 「帰るぞ」 「出足からこれでは、どんな面倒に巻きこまれるかわかったもんじゃない」 「カイムさん……」 「お前を相手に話していても〈埒〉《らち》が明かぬ。直接、聖女様に申し上げる」 「ナ、ナダル様、お待ちください!」 つかつかと橋を渡っていく神官長。 その後をラヴィが追う。 「行ってしまいました」 「見ればわかる」 「取り残されちゃいましたね」 「……ついて行くか」 「え、でも、入っちゃ駄目って」 「もし無関係な人が聖域に入って街が落ちた、なんてことになったら……」 「聖女様にお誘いを受けているんだ、大丈夫だろう」 ラヴィたちの後をついていく。 「あの、お待ちください!」 残された聖職者が、俺たちを呼び止める。 「聖女様が会いたがっているんだ。行かないと失礼だろう」 「ですが……」 「俺たちも暇じゃないんだ」 「話がまとまるまで待っていたら、いつ帰れるのかわからん」 「あんたらの都合に振り回されるのはごめんだ」 「行くぞ、ティア」 「あっ、ちょっとお待ちを……」 と言うものの、聖職者は追ってこない。 むしろ、向こうの方が厄介事に首を突っ込みたくない、といった感じだ。 聖殿に入り、声を追って部屋に入る。 「……ついてこられたのですか」 「聖戒ってのを破って悪いな」 「だが、あんたらに合わせてたら日が暮れてしまう」 「入ってしまったものは仕方がありませんね」 ナダルがため息をつく。 「こっちは、別に喜び勇んで来たわけじゃない」 「話を聞いたらすぐ帰るから、早く聖女様に会わせてくれ」 「ラヴィリア、聖女様はどこにいらっしゃる」 「こちらにいらっしゃるはずなのですが……」 が、部屋の中にはナダルとラヴィ、そして俺たちしかいない。 「お前はお付きだろう」 「聖女様がどちらにいらっしゃるのかもわからぬのか」 「は、はい……」 「何をやっている、早くお探ししろ」 「聖女様の御身に何かあったらどう責任を取るつもりだ」 「聖女様はこの命に換えましてもお守り致します」 「こちらにいらっしゃらないのにか? どうやって守るというのだ」 「それは……」 再びラヴィがやりこめられる。 ラヴィには悪いが、言っていることはナダルの方が正しい。 「カイムさん、仲裁した方がいいんじゃないでしょうか」 今度はティアがこっそりと耳打ちをしてくる。 「面倒だ、放っておけ」 いい加減うんざりし、俺は二人に背を向ける。 「どこに行くんですか?」 「探しに行くんだ」 何やら言っているティアを無視して部屋を出た。 外に出ると爽やかな風が頬をなでた。 さすがに空気は清浄だ。 ふと、建物の裏から澄んだ音が聞こえてくる。 竪琴だろうか。 音を辿って裏手へと向かう。 「……」 野花が咲き乱れる草地に、女が座っていた。 俗世の穢れから解き放たれているかのように、白く〈透徹〉《とうてつ》した輝きを放ち、佇んでいる。 敬虔な祈りの力で、ノーヴァス・アイテルを空中に留めている存在── そして、全てが澱んだ牢獄で生きてきた自分とは対極の存在── お目見えの儀式で見た聖女だった。 周囲には小鳥が集い、まるで奏でられる美しい旋律を楽しんでいるかのようだ。 夢のような光景に、思わず見入ってしまう。 草を踏むわずかな音に、小鳥が逃げていく。 鳥の羽音を追うようにして、聖女が寂しげな表情を空へと向ける。 「……どなたですか?」 鈴の音にも似た、透き通った声。 かつて、馬車の中から聞こえたものと同じだった。 「ただの通りすがりだ」 俺の声を聞いて、聖女が微笑む。 「確か、以前にラヴィを助けて下さった方ですね」 「いや、大したことはしていない。それより、よく俺だと分かったな」 「私は目が見えません」 「ただ、見えなければ見えないなりに工夫をするものです」 「なるほど、声で聞き分けているか」 「はい」 見た目はかなり若いが、口調や受け応えはしっかりしている。 ラヴィとは大違いだ。 「ところで……」 「ここは一般の方は入ってこられないはずです。失礼ですが、どのようにしてここへ?」 「ティアを連れてここに来た。俺は……まあ、ただの付き添いだ」 「ティア……」 「まさか、ユースティア様が見えられたのですか?」 「ああ」 「何と素晴らしいことでしょう!」 聖女が勢いよく立ち上がる。 当代の聖女は盲目だったはずだ。 それにしては、随分と活発に動く。 「大丈夫か」 「ありがとうございます」 聖女が微笑む。 慎ましやかで落ち着いた物腰に、思わずこちらが恐れ多い気分になってしまう。 「それではお部屋に参りましょう」 聖女が一人で歩きだす。 やはりおかしい。 目をしっかりと開いている。 どういうことだ? 「どうされましたか」 「聖女さんはその……目が見えないんじゃなかったのか?」 「ああ……」 〈得心〉《とくしん》がいった、という様子の聖女。 「この聖域では、どういうわけか私の目も光を映すのです」 「へえ、ここでは目が見えるってことか」 聞いたことのない盲目だった。 不思議なこともあるものだ。 「あ、カイムさん」 「話は終わったか」 「いえ、それがまだ……」 いまだ、ラヴィとナダルの言い合いは終わっていなかった。 どうやらナダルは説教好きのようだ。 「何事ですか」 「これは聖女様」 「お帰りなさいませ、聖女様」 聖女を見つけ、ナダルとラヴィが膝をつき、深く顔を伏せた。 「ここは神聖なる聖殿です。大声を上げるのは慎みなさい」 「申し訳ありません」 「しかし聖女様。つい先ほど、ラヴィリアより話を伺いました」 「何でも、この者たちを聖殿に招いたとか」 「ええ、招きました」 「聖域は限られた者しか入れぬよう聖戒にて定められております」 「私が許しました」 「聖女様……」 「ラヴィ、ご苦労様。それでユースティア様は」 「はい、こちらに」 ティアを連れ、聖女の前に立たせる。 「ようこそおいでくださいました」 「あ、あの、こ、この度はご尊顔を拝しまして、きょ〈恐悦至極〉《きょうえつしごく》に存じます」 「緊張なさらないで下さい。ユースティア様は天使様の御子なのですから」 「は、はい」 「ナダル、大聖堂に皆を集めなさい。御子がいらっしゃったことを知らせます」 「……御意のままに。皆に告げて参ります」 恭しく頭を下げ、ナダルが去っていく。 すれ違う直前、顔を窺い見る。 口を引き結び、巌のような表情をしていた。 気が進まないらしいな。 「あの、知らせるってどういうことでしょうか」 「ユースティア様を皆にご紹介します。これからは安心してお過ごしください」 安心して過ごす? ここに逗留させるつもりか? 「それでは参りましょう、大聖堂に皆が集まっているはずです」 「ラヴィ、手を」 「はい」 ラヴィは聖女の手を取って、聖殿の外へと〈誘〉《いざな》う。 俺達もついて行かなくてはならないのだろうな。 大聖堂には、すでに多くの聖職者たちが集まっていた。 入ってきた俺達を見て、小声で話をする者も多い。 「皆の者、よく集まってくれました」 聖女の言葉に一堂が静まる。 針を落とした音まで聞こえそうなほどの静寂。 「かねてより、皆には、天使様に御子がいらっしゃると言ってきました」 「行方を探し、大聖堂へとお連れするよう命じたのは、もう遙か以前のこと」 「しかしその行方はようとして知れず、私は身の細る思いをしてきました」 「ですが、それも昨日までの話となりました」 大聖堂がざわめく。 「本日、長きに亘りお探ししてきた御子が、こちらにおいでくださいました」 「紹介いたしましょう、ユースティア様です」 促され、皆の前に立つティア。 「ははは、初めまして」 「わ、わたし、ユースティア・アストレアと申します」 「牢獄から来ました。よろしくお願いします」 ざわめきが、どよめきに変わる。 「皆の者、静粛に」 聖職者達の先頭にいたナダルが、一歩前へ出る。 「恐れながら、聖女様」 「なぜ、こちらの方が御子様とお分かりになったのでしょう?」 「凡俗の身にも、できればその理由をお聞かせください」 聖女が悠然と頷く。 「かつて、私は、夢の中で天使様の苦しまれる御声を聞きました」 「その際、天使様は御子の存在を私に教えてくださいました」 夢? 夢が根拠なのか? 「また別の機会には、御子が苦しまれているお姿を夢に見ました」 「その夢の中で、天使様は私に御子をお助けするよう仰ったのです」 どうも話が怪しくなってきた。 「そして数日前、私は再び夢を見ました」 「遙か上空に王城を仰ぐ場所……牢獄です」 「一人の乙女が〈篝火〉《かがりび》の前で可憐に舞っておられました」 「ラヴィに調べさせたところ、その乙女がこのユースティア様だとわかったのです」 「なぜその乙女がユースティア様だとおわかりになったのですか」 「乙女は〈篝火〉《かがりび》に悪しき魂をくべ、聖なる光を放ちながら、この世の害悪を浄化されていました」 「奇しくも私が夢を見た日、ユースティア様は〈穢〉《けが》れた薬を焼いておられたとのこと」 「この一致、これを天使様の奇蹟と言わず何と言いましょうか」 ティアが麻薬を焼いていたのは事実だ。 そしてティアが放っていた光── 俺が見たものが錯覚でなかったのなら、聖女の夢の内容と一致する。 「お話はわかりました」 「しかし、これからどうされるおつもりですか?」 「御子には、しばらくの間、聖殿に〈逗留〉《とうりゅう》していただくつもりです」 「御子をお守りすることで、必ずや天使様から次のお導きがあることでしょう」 「皆、御子に粗相のないようにお願いします」 やはり逗留させる気だった。 勝手に話を進められるのは迷惑だ。 「御意のままに」 ナダルは膝をつき頭を垂れる。 「御意のままに!」 他の聖職者たちもナダルに倣った。 聖女が満足げに微笑む。 こいつらは、今の話でティアが御子だと信じたのだろうか。 だとすれば、随分と物わかりのいいことだ。 ……というより異常だ。 「私は御子とお話があります」 「お付きの者は下がって結構です、大儀でした」 部屋に戻るなり、聖女は俺に向かって言った。 俺がティアのお付きか。 「ティア、下がっていいか」 「ちょ、ちょっと待ってください」 「あ、あの聖女様、カイムさんはお付きではないのですが」 「違うのですか?」 「俺はこいつの兄だ」 「一応、保護者ということになる」 「なるほど、これは失礼致しました」 真顔で謝ってきた。 本当に勘違いしていたらしい。 「名は何と?」 「カイムだ」 「わかりました」 「私は第29代聖女イレーヌです」 「よろしく聖女さん」 「カイム様……」 「聖女様の御前ですので、もう少しお言葉使いを改めていただくことはできないでしょうか」 「いいのです、ラヴィ」 「御子もカイムさんも、普段通りに」 「だそうだ」 「かしこまりました」 ラヴィは〈恭〉《うやうや》しく頭を下げる。 「それより話を聞かせてくれないか」 「夜の儀式まで、あまり時間がありません」 「お話は、食事をしながら伺いましょう」 「3人分でよろしいですか?」 「ええ」 「承知致しました」 「俺の分はなしか」 「いいえ、私と御子、そしてカイムさんの分です」 「ラヴィは?」 「あの者はお付きです、気にせずとも構いません」 なるほど。 お付きというのは、召使いと同様の扱いらしい。 しばらくして、食事の準備が整えられた。 聖女が胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。 「天にまします我らが神よ、願わくば御名を〈崇〉《あが》めさせ給え」 「この地に遣わし給うた天の申し子よ、その力〈漲〉《みなぎ》らせ天に浮かばせ給え」 「我らに日用の糧を今日も与え給え」 ティアも、小さな声で祈りを捧げる。 俺も、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》が起こるまでは祈っていたものだ。 「それではいただきましょう」 聖女が手を解き、少し早めの夕食が始まった。 見た目は豪華な料理だ。 しかし、口にしてみると、どれも味が薄く冷め切っていた。 ティアも微妙な顔をしている。 「聖女さんは、普段からこういう料理を食べているのか?」 「はい、お気に召しませんでしたか」 「まずくはないが、どうにも薄味だな」 「それにひんやりしてます」 「聖女様は〈潔斎食〉《けっさいしょく》しか召し上がりません」 「毒味も行っているので、どうしても出来上がりから時間がかかります」 「温め直しちゃだめなんですか?」 「〈潔斎食〉《けっさいしょく》に二度火を入れることは聖戒にて禁じられています」 「なるほど、ご苦労だな」 「私はこれで満足しております」 「毎日、不足なく食べられるだけで幸せなことですから」 「まあな」 牢獄では、痩せ細ったガキが僅かな食料を巡って争っている。 それと比べれば何倍もマシだ。 しかし、民衆の信仰を一身に集めている聖女が、毎日こんなものを食っていたとは。 食事が終わり、ラヴィが茶を持ってきた。 これも白湯のようなものだ。 「それじゃ、話を聞かせてもらおうか」 「何からお話ししましょうか」 「まずは、さっき大聖堂で言っていたことだ」 「どうしてあんたは、ティアが麻薬を焼いていたことを知っているんだ?」 「ラヴィに調べさせました」 「あの者が牢獄に足を運び、話を聞いてわかったことです」 「ティアが聖なる光を放っていたと言ったな」 「はい。私が夢の中で見た舞い踊る御子は、確かに天使様の光を宿しておりました」 「でも、それは夢だろう」 「ええ。ですが天使様が私に見せたものです、間違いはありません」 「夢は夢だ、根拠にならない」 「私が嘘をついていると仰りたいのですか?」 聖女の目が鋭く細められた。 華奢な身体ながら、なかなか威圧感がある。 「だが、夢で見たから皆も黙って信じろというのは乱暴だろう」 「それはわかっております。だからこそ、私は〈真摯〉《しんし》に話をしてきました」 「しかし聖職者たちは、私の話を疑いはしないものの、積極的に信じようとはしません」 「そうだったか?」 聖職者たちは、聖女の話を信じていたようにも見えたが。 「御子が牢獄からいらしたことを聞いて、動揺しておりました」 「〈出自〉《しゅつじ》で人を差別するなど、聖職者としてあるまじきこと。嘆かわしい限りです」 「仕方ないだろう。聖職者だって人間だ」 「それに、もし心の中であんたの話を疑っていたとしても文句を言うべきじゃない」 「夢の話を信じろなんて、かなり無茶な話だ」 「聖女の言葉であってもですか」 「少なくとも、俺は信じられないな」 「私は自らの信仰を偽るようなことは致しません」 そう言われても困る。 嘘じゃないから信じるべき、など屁理屈もいいところだ。 「その話はいい。それより、ティアを聖殿に〈逗留〉《とうりゅう》させると言っていたがあれはどういうことだ」 「先の話を聞いていましたか?」 「私は、夢の中で、天使様より御子をお助けするよう命じられたのです」 「御子は牢獄にいらっしゃると聞きました」 「恐らく、〈艱難〉《かんなん》極まりない生活だったでしょう。そこからお救いしたいと申しているのです」 手紙に書いてあった通りか。 確かに牢獄に着いてから俺が身請けするまでの間、色々なことがあった。 だが、それ以降はさして苦労をかけさせた覚えはない。 「牢獄から救い出して、いつまでここに〈逗留〉《とうりゅう》させる気だ」 「傍にいていただければ、きっと天使様のお導きがあります」 「いつ、そのお導きとやらがあるんだ」 「それはわかりません」 「ですが、必ずや天使様は私に声をお届けになるでしょう」 「つまり、あんたがまた夢を見るまで、ティアをここに置いておけということだな」 聖女が頷く。 「生憎だが、俺にもティアにも牢獄での暮らしがある」 「いつ見るかわからない夢など待っていられない」 「何か見えたらその時に呼びに来てくれ」 椅子から腰を浮かせる。 「お待ちください」 「貴方が御子の保護者だというのでしたら、伝えおきたいことがあります」 「これ以上、御子にご苦労をかけるような真似はお控えください」 気に入らないな。 俺は椅子に座り直す。 「俺がいつ、ティアに苦労をかけた?」 「牢獄は危険な場所だと聞いております」 「牢獄で暮らすこと自体が、御子にとってはご苦労なのではないでしょうか?」 「ここは牢獄とは違って身に危険が及ぶことはありません」 「危険なんてどこにでも転がっている」 「ある日突然、足元から地面がなくなることもあるじゃないか」 「……仰りたいことがわかりかねますが」 「最近、地震が多い」 「天使の夢にうつつを抜かすのもいいが、気を散らさずしっかり祈りを捧げて欲しい」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の経験者としては、それを切に願うね」 「あなたも、大聖堂の者たちと同じようなことを仰るのですね」 「普段は聖女様と〈崇〉《あが》めておきながら、私が信仰の末に辿り着いた言葉を信じない」 「でも都市だけは浮かせておいて欲しい」 「〈傲慢〉《ごうまん》な物言いだとは思わないのですか?」 白い肌が興奮に染まる。 聖女というのは、こういうところで怒るのか。 「この都市の安寧は全住民の願いだ。他の何かと比べられるものじゃない」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で牢獄に落とされた俺がどれだけ苦労してきたか、あんたにはわからないだろうな」 「それは〈不憫〉《ふびん》なことでした」 「あんたな……」 まったく他人事といった物言いだ。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》を起こしたのは先代の聖女とはいえ、これは……。 「ありがたい聖女様がちゃんと祈ってれば、あんな事は起らなかったんだ」 「それを〈不憫〉《ふびん》の一言で済ませる気か?」 「その責は、先代イレーヌ様がお命をもって償いました」 「私が聖女となった今、決してあのようなことは起こさせません」 「それが、聖女の務めですから」 「わかっているならいい」 自分の責務は理解しているらしいが、どうも癖がある人間だ。 ラヴィをさらに純朴にしたような女かと思っていたが。 「カイムさん、もう一度お願いいたします」 「天使様は御子の身を案じておられます」 「その切なるお声を、私はどうしても無視することはできません」 「どうか御子と共に、この聖殿へ〈逗留〉《とうりゅう》していただけないでしょうか」 「カイムさん、できれば……わたしもここに残りたいです」 「今までわたしは、ずっと自分のことがわかりませんでした」 「どうして、わたしは生きているんだろうって」 「でも、聖女様のお傍にいれば、何かわかるかもしれません」 「それに、カイムさんが知りたがっていたことも……」 《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》のことか。 確かに気になる。 しかし、聖女が夢を見るまで待つほど暇でもない。 「……いいだろう」 「ただし、明日までだ」 「いつになるかわからないものを待っていられるほど暇じゃない」 「わかりました」 「こうして御子にお越しいただいたのですから、必ずや天使様もお導き下さるでしょう」 聖女は凛とした態度で答えた。 相当自信があるようだ。 今夜いっぱいは様子を見てみよう。 「本日は、こちらでお休みください」 俺とティアは、聖女の部屋から少し離れた一室に案内された。 聖殿に泊まるなど、そう経験できることじゃない。 牢獄に帰ったら、酒の肴にしよう。 「何から何までありがとうございます、ラヴィさん」 「いえ、当然のことです」 「何か必要なものがありましたら遠慮なく仰ってください」 「ああ、その時は頼む」 「カイムさん、すごいですっ! ベッドがふかふかです!」 「シーツもこんなに白くて!」 ティアはベッドの具合を確かめ、喜んでいる。 さすがは聖女様が住む聖殿。 最高級の品を使っているようだ。 「カイム様、一つよろしいでしょうか」 「なんだ?」 「その、御子様とご一緒の部屋でよろしかったのでしょうか」 「俺は別に構わないぞ」 「わたしも平気です」 「そうですか」 「確かに、お二人はご兄妹ですし問題ございませんね」 そっちのことを心配していたのか。 聖域だけに厳しいな。 「上層では血が繋がっていても問題ないのか? なかなか進んでいるな」 「ま、まさか!?」 「ね、念のために伺っただけのことです」 真っ赤になって慌てるラヴィリア。 からかい甲斐がある。 「わかってる、一応確認するのもお前の仕事なんだろ」 「は、はい、そうなのです」 「ですから、私が決して聖戒に背くような、〈穢〉《けが》れた想像をしていたということでは……」 ラヴィがこちらの表情を〈窺〉《うかが》ってくる。 「心配するな、お前が汚れてるなんて思ってない」 「ありがとうございます」 安堵の息を漏らす。 本気で心配だったらしい。 聖職者の心理は、普通の奴とは違うようだ。 「やはり、カイム様はいい方です」 「そうなんです、カイムさんっていい人なんです」 「初めは意地悪なんですけど、最後はいつも……」 「言ってろ」 俺がいい人だったら、世の中聖人だらけになる。 「ふふふ、仲の良いご兄妹でうらやましいです」 「こんな女で良ければ、いつでもやるぞ」 「結構です」 「すぐに断られると、少し悲しいです」 「あ、いえ……御子様はこの世界の宝です」 「私のような者がいただくなど、恐れ多いことですので」 「あ、なるほど」 「カイムさん、わたし、世界の宝になりました」 「ずいぶん出世したな」 適当に話を流す。 「では、私は儀式がありますのでこれで失礼します」 「儀式?」 「特別なご予定のない場合、聖女様は毎日、朝と晩に祭壇で祈りを捧げられます」 「私も助祭として、儀式のお手伝いをさせていただいているのです」 「毎日ですか……」 「当然のことです」 「この都市を支えているのは、聖女様の祈りなのですから」 「どんな儀式なんでしょうか?」 「ご覧になりますか?」 「えっ、見せてもらえるんですか?」 「熱心な信者の方々には、ご覧になっていただくこともあります」 「ユースティア様は天使様の御子でいらっしゃいますので、何も問題はないと思いますよ」 「俺はどうなんだ」 「カイム様も、〈禊〉《みそぎ》をしていただければ大丈夫です」 都市を浮かせる儀式には興味がある。 話の種にでも見ておこう。 「それなら、見させてもらおう」 「わかりました」 「それでは、〈禊〉《みそぎ》の支度をしますのでお待ちください」 ラヴィは微笑を浮かべて去っていった。 ──煌々たる明かりに照らされた浴場で、儀式が始まった。 俺とティアは〈禊〉《みそぎ》を行い、部屋の隅へと案内される。 〈禊〉《みそぎ》は〈祝詞〉《のりと》を唱えるだけの簡単なものだった。 儀式の内容は、あらかじめラヴィから聞いている。 まずは、聖水で〈沐浴潔斎〉《もくよくけっさい》を行い、神に祈りを捧げる。 そして、新しい礼服に着替えて祭壇に移動し、供物を捧げ天使に都市を浮かせ続けてくれるよう祈るそうだ。 「は、裸ですよカイムさん」 「そうだな」 小さな声でティアとやりとりする。 「……」 聖女は一糸まとわぬ姿で水を浴び、その度に何かを呟いている。 その密やかな祈りは、ここまでは聞こえてこない。 「綺麗です……」 ため息をついて呟くティアに、心の内で同意する。 女の裸など娼館で見慣れているが、聖女の身体は、世俗のものとは一線を画していた。 白く滑らかな肌は水に濡れ、まるで絹のように穏やかな輝きを帯びていた。 磨き上げられた大理石の彫刻のごとく、その姿は完全なる美を体現している。 傍にはラヴィが控え、聖女が沐浴を終えるのを静かに待っていた。 「……」 聖女は祈りを終えると、ゆっくりと水から出る。 ラヴィはその傍について、聖女の身体を優しく拭き清める。 手を伸ばした聖女に、ラヴィはその身体に触れぬよう細心の注意を払いながら服を着せた。 聖女は俺たちを一瞥だけして、言葉もなく浴場を出て行く。 「……こちらへ」 とても言葉を発するような雰囲気ではなかった。 ラヴィに告げられ、俺たちは黙ってその後をついていく。 「すごい量ですね」 「ああ」 ティアが目を見張ったのは、山と積まれた供物の量だった。 ラヴィが言うには、ここ最近の地震に不安を感じた貴族が、毎日聖女へ供物を捧げに来るのだという。 次は自分が落ちるかもしれない。 そんな不安を慰めるには、貴族も聖女にすがるしかない。 「メルヴィン=ディス=ルーセウス殿より寄贈物をいただいております」 ナダルの声に合わせ、聖職者が大きな〈籠〉《かご》を聖女の前に運ぶ。 聖女は手をかざして祈りを捧げた。 祈りが終わると、その供物を下げて祭壇の横に並べる。 それを、山のような供物全てに行った。 「天におわす神よ、この地を作り給うた天使よ、今日の安寧を心より感謝致します」 「我ら神の御子なれば祈りは絶やさず、明日も安らかなる一日を与え給え」 聖女は手を組み、〈祝詞〉《のりと》を呟く。 〈沐浴潔斎〉《もくよくけっさい》だけでも相当かかっていたが、儀式はさらに長かった。 ナダルを含め、聖職者たちが脇に控える中、聖女は朗々と〈祝詞〉《のりと》を紡いでいく。 その言葉は祭壇内に凛と響き、心地よく耳に届く。 まるで一つの音楽を聞いているかのようだ。 ……これは大変だな。 街を浮かせるため、聖女は毎日こんなに長大な儀式を行っているのか。 この祈りを欠かせば、また〈大崩落〉《グラン・フォルテ》が起こる。 悲劇を繰り返さないためにも、聖女は祈りを絶やさない。 その重責はいかばかりか。 聖女は、あの小さな身体で都市の命運を支え続けているのだ。 とてもじゃないが、俺には耐えられそうにない。 「遅くなりました」 「お待たせして申し訳ございません」 「来たか」 現れた男には目もくれず、中年の貴族は壁に掛けられた風景画を眺めている。 「近頃は忙しいようだな」 「いえ、執政公のご多忙ぶりには遠く及びません」 「世辞が上手くなったものだ」 執政公、ギルバルト── ノーヴァス・アイテルの政治の頂点に立つ男は、小さく鼻を鳴らしルキウスの方へ向く。 「して、本日のお呼び出しは」 「うむ」 執政公は自らの椅子に腰掛け、ルキウスにも座るよう促した。 「聖女様についてだ」 「どうやら、また興味深いことを仰っているようでな」 「……また、ですか」 〈訝〉《いぶか》しげな表情を浮かべるルキウスの瞳の奥、執政公はその真意を探る。 だが、ルキウスに他意は感じられない。 「当代の聖女様は、信仰心の大変強いお方」 「折に触れ、ありがたいお言葉を下さることは貴殿も知っていよう?」 「羽つきは天使様の遣いであり、羽狩りは即刻中止すべきである……でしたか」 「ああ、そんな話もあったな」 「では、今日はその件ではないと」 「とすると、天使の御子を探すよう仰っていたことでしょうか?」 「どうやら、聖女様は御子を見つけたらしい」 「まさか」 「真偽はわからぬよ」 「だが実際に、御子らしい女を聖殿に泊めているようだ」 「いかなる者でしょうか?」 「名は、ユースティアという」 「報告によれば、特別被災地区の住人らしい」 「聞いたことはあるか?」 「申し訳ございません」 「では、カイムという男はどうだ?」 「御子の実兄という触れ込みで、聖殿にいるらしい」 ルキウスは、努めて自然体を装う。 だが、わずかな空気の変化を執政公は感じ取る。 「どうやら知っているようだな」 見抜かれたか、とルキウスは内心で〈臍〉《ほぞ》をかむ。 自分と不蝕金鎖との関わりに気づかれるのは望むところではない。 ルキウスは、表情を変えぬままに、もっともらしい理由をこね上げる。 「どういった知り合いだ?」 「防疫局で作成している、要注意人物の一覧に、カイムという名があったかと記憶しております」 「なるほど」 「資料を用意させましょうか?」 「いや、それには及ばん」 さすがに、この程度では動揺しないらしい。 執政公は若年の貴族のしたたかさに、どこか喜びを感じた。 「昨今、特別被災地区が騒がしい」 「貴殿がご執心のかの地だ、何か知っているのではないか?」 「特別被災地区にも執政公のお名前は響きわたっております」 「執政公のお耳に入らぬことを、私が知っているとも思えません」 ルキウスは立ち上がり、執政公に向かって頭を垂れる。 服従の印だ。 「また謙遜か」 「お戯れを」 執政公の追い打ちを、ルキウスはそつなくかわす。 このくらいの世辞、息をするように扱えなくては貴族など務まらない。 「まあいい」 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護は進んでいるか?」 「現在、目標の8割ほどです」 「解放についてはどうだ?」 「準備を急がせております」 どちらの報告も悪くない。 ルキウスに任せてから目に見えて進捗状況が改善している。 ギルバルトが満足げに鼻息を漏らす。 灰色の粘土で作ったような顔に、興奮の色が滲むのをルキウスは見た。 「聖女様の言動は注視せねばなるまい」 「所詮は、我々も聖女様に生かされている身だ」 「今後も、何か気付いたらすぐに知らせてくれ」 「もちろんでございます」 と、若い貴族が頭を下げた時、 地鳴りが起こる。 大地が揺れ、窓にはめたガラスが小さく軋む。 「……また地震か」 「そのようで」 「最近、多すぎるな」 「急がねばならぬか」 「……」 「聖女様にはもう少し、しっかりしてもらいたいものだな」 「……御意」 「さあ、いただきましょう」 聖女とティアは祈りを終えて、組んだ手をほどく。 俺もそれに合わせ、手をほどいた。 「どうされたのですか、昨晩はなさらなかったのに」 俺が食前の祈りを捧げたのを見て、聖女が尋ねてくる。 「何となくだ」 「良い心がけです」 「天使様は、必ずや信じる者をお救いくださいます」 「そうだといいがな」 「牢獄では、天使に祈りながら死んでいく奴がごろごろしてる」 「天使は人の選り好みが激しい性格なのか?」 牢獄での生活では、天使への祈りなんて何の役にも立たない。 麻薬でイカレた男が、突然往来で刃物を抜く。 その凶刃が、たまたま通りがかった少女の命を奪う。 少女が信心深かろうが冒涜的だろうが、関係ない。 たまたまそこにいた、という一事が、彼女の命を奪う。 圧倒的な理不尽と不条理に、天使はどうやって慈悲の心を滑り込ませるのだろう? 天使を信じるなど、無駄なことだ。 少なくとも、牢獄では。 「ただ素直に救いを求めることこそ救いへの道なのです」 「そう斜に構えていては、見えるはずのものも見えなくなりますよ」 「ありがたいお言葉だな、涙が出そうだ」 「では、泣いてみてはいかがでしょうか」 「涙も時には癒しとなるものです」 ……喧嘩を売っているのか? 「カ、カイムさん……顔がこわいです……」 「生まれつきだ」 息を吐いて、気持ちを静める。 「それより聖女さん、昨夜は天使の声は聞こえたのか?」 「……いえ」 「おいおい、天使のお導きがあるんじゃなかったのか?」 「きっと、天使様に何か事情がおありだったのです」 「昨夜は時がふさわしくなかったのでしょう」 適当な話だ。 「あんたの話を聞いてると感動で〈眩暈〉《めまい》がするよ」 「どうやら天使はお忙しいようだ」 「俺たちも暇じゃない、食事が済んだら牢獄に帰る」 パンを口に運びながら聖女に告げる。 「カ、カイムさん……」 「御子、どうかカイムさんを説得していただけませんか」 「私は御子をお守りしたいだけなのです」 「う、うーん」 ちらりと俺の顔を見て、ティアは聖女に頭を下げる。 「……すみません、聖女様」 「カイムさんが帰ると仰るなら、わたしも帰ります」 「カイムさんが決めたことに、わたしがわがままを言うわけにはいかないです……」 「御子……」 「もともと今日までという約束だったはずだ」 「悪いが牢獄に帰らせてもらう」 「……お待ちください」 「なぜそこまで、急いで牢獄へお戻りになるのですか?」 「言っただろう、俺たちも暇じゃないんだ」 「向こうに戻れば仕事もある」 「お金が必要なのでしたら、私が用意します」 「遠慮しておこう」 「なぜです?」 「金を受け取れば仕事になる」 「夢を見るまで寝て待つのが仕事です、とでも言うつもりか?」 「そんな薄気味悪い金は受け取れん」 「おかしな話です」 「報酬と仕事の内容が釣り合わない話には、必ず裏がある」 「ただほど高いものはない」 「後で必ず見合わないほどの対価を払わされる」 「上層の方はご存じないらしいが、牢獄では誰でも知っていることだ」 聖女が小さくため息をつく。 「カイムさんは随分と牢獄がお好きなようですね」 「好きで住んでるわけじゃない」 「ならば出ればよいのです」 「なぜそうなさらないのですか?」 「知った風な口を利くな。簡単に出られれば苦労はしない」 「現に、今は出ています」 「屁理屈だな」 「私のお金は受け取らず、牢獄に戻って別のお仕事をされるわけですね」 「好きでもないところのお仕事に、すぐにでも戻られたいというのは、一体どのような感覚なのでしょうか」 「……」 言葉に詰まる。 「カイムさんは〈大崩落〉《グラン・フォルテ》に遭われたのでしたね」 「……ああ」 「先代の聖女イレーヌ様を、憎んでいますか?」 「当たり前だ」 「牢獄の人間は皆、聖女に地獄へ堕とされた」 「恨まない方がどうかしている」 「なるほど」 聖女が小さく微笑む。 「でしたら、御先代に感謝しなくてはなりません」 「あなたは御先代に救われたのですから」 「ふざけてるのか?」 聖女だからと遠慮していたが、さすがに限界はある。 「牢獄で、先代に感謝する馬鹿がどこにいると思う」 「怒られるのもごもっともです」 「いいのですよ、あなたは〈殊更〉《ことさら》に間違っているというわけではありません」 「この世界は不条理に溢れています」 「そこから人々を救うためにこそ聖教会はあり、聖女が存在するのですから」 聖女は淡々と言った。 俺の言葉に正面から反論しているようで、どこかズレている。 何か、俺の知らないことが下敷きになっているようだ。 「……何が言いたい」 「知りたければ、聖殿に〈逗留〉《とうりゅう》してください」 「カイムさんが望まれるだけ、お話し致しましょう」 「話にならない」 「どうしても納得のいくお仕事が必要だというのであれば……」 「そうですね……」 「ここに留まり、私のチェスのお相手でもしていただけませんか」 「ラヴィとでもやればいい」 「あの者は、遊び方を知りません」 「ラヴィから聞きましたが、あなたは何でも屋なのでしょう?」 「チェスの相手ぐらいできないようでは、お仕事も成り立たないのではないでしょうか」 あからさまな挑発だった。 しかし、先の聖女の言葉は妙に引っかかる。 どうして俺が先代聖女に救われねばならない? 先代の聖女が祈りを怠ったせいで、俺は牢獄に落ちたのだ。 そう思いながら、何故か聖女の言葉を否定できなかった。 胸の奥で、何かが〈熾火〉《おきび》のように〈燻〉《くすぶ》っている。 牢獄に戻ったところで急ぎの仕事はない。 少し付き合ってみるか。 「……いいだろう」 「しばらくチェスの相手をしてやる。だが俺は高いぞ」 「構いません、高いなりの腕を見せていただければ」 聖女が笑う。 人を挑発して乗せようとするあたり、それなりに頭は回るらしい。 そのくせ笑顔は妙に純粋で、大人と子供が同居しているようなところがある。 牢獄では見かけない人種だ。 「えっと、カイムさん……」 「わたしもここに残っていいんですね?」 「ああ、構わんぞ」 「嬉しいです」 「わたしだけ帰れと言われたらどうしようかと思いました」 「お前、話を聞いていなかったのか?」 「それじゃ聖女さんが納得しないだろう」 「当然です、御子がいてこそのカイムさんなのです」 「釈然としない言い方だな」 「あははは……」 聖女の発した、俺が先代の聖女に救われているという言葉。 チェスの相手をしているだけで、その真意を教えてくれるというなら、多少時間を使ってもいいだろう。 大聖堂へ〈逗留〉《とうりゅう》することを知らせに、牢獄を目指す。 出がけにラヴィから手渡された聖印があれば、関所の通行は自由らしい。 便利なものだ。 牢獄で売ろうとすれば、いくらの値がつくだろう。 「ん……?」 ふと、こちらに向けられた視線に気づく。 「珍しいところで顔を合わせるものだな」 「あんたは」 ルキウス卿だった。 階段の上、貴族街から降りてくる。 階上には衛兵が立ち、目を光らせていた。 「牢獄を出て、上層で暮らすことにしたのか?」 「まさか、ただの野暮用だ」 「大聖堂にか?」 知っていて訊いたのか。 「さすがは優秀な貴族様だ。耳が早いな」 「それほどでもない」 「聖教会に親しい友人がいるものでね……」 「たまたま騒動が耳に届いたのだよ」 「まさか、君たちの名前が出てくるとは思わなかったがな」 聖女は、聖職者達の前で、ティアが天使の御子だと宣言した。 あの中に知り合いがいたなら、ルキウス卿の耳に届いても不思議ではない。 「それなら、隠しても意味はないな」 「しばらく大聖堂に〈逗留〉《とうりゅう》することになった。その報告をしに牢獄へ帰るところだ」 一日や二日空けるくらいならいいが、数日に及ぶなら話は別だ。 無用な心配はかけないよう、エリスやジークに報告しておいた方がいい。 「そうだったか」 ルキウス卿はちらりと太陽を見上げる。 「急ぎでないのなら、少し一緒に歩かないか」 「どういう風の吹き回しだ?」 「貴族とて、たまには息抜きがしたくなる」 「なるほど……」 ルキウス卿が、意味もなく牢獄民と散歩するとも思えない。 何らかの意図があるのだろう。 少し付き合ってみるか。 「わかった」 ルキウスの後ろに付き、街を進む。 辿り着いたのは、見覚えのある場所だった。 「カイムはここに来たことがあるか」 「ああ」 下層の絶壁の突端に、一段高くなった構造物が張り出している。 見晴台にも見えるが、ここは先代聖女が処刑された場所だ。 俺を含め、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で多くを失った人々は、聖女の処刑を見るため、ここに殺到した。 「聖女を殺せ」 「聖女を殺せ、聖女を殺せ!」 「聖女を殺せっ!!!」 俺も群衆に混じって叫んでいたはずだ。 聖女を殺せ、と。 あの時、俺は何を感じていたのだろう。 今となっては遠い記憶の彼方だ。 「あんなことはもうたくさんだ」 「そうだな」 「当代の聖女様には、祈りに励んでいただきたいものだ」 「励んでいたな」 ルキウスが不思議そうな顔をする。 「昨日、聖女の儀式を見せてもらった。なかなか大層なものだったぞ」 「あれを毎朝毎晩やっているなんて頭が下がる」 「なるほど」 苦笑するルキウス。 「何がおかしい?」 「特別被災地区の人間は、聖女様が祈りを怠ったために憂き目に遭った」 「もっと聖女様を恨んでいるのかと思っていたよ」 その言葉に、思い出す。 「でしたら、御先代に感謝しなくてはなりません」 「あなたは御先代に救われたのですから」 「この世界は不条理に溢れています」 「そこから人々を救うためにこそ聖教会はあり、聖女が存在するのですから」 「そう思っていたんだがな」 聖女は、都市を浮かせるために存在している。 だとしたら、あの言葉はどういう意味だったのか。 「もう少し行こうか」 「ああ」 ルキウス卿が歩きだす。 「ところで、クスリの件はどうなったんだ?」 ベルナドが死んでから、牢獄に例のクスリが出回ることはなくなった。 だが、その出所は依然として不明のままだ。 「あの件では世話になったな」 「礼が遅くなってすまない」 「いや、俺も羽狩りに危ないところを助けられた。お互い様だ」 「それで、クスリの出所はわかったのか?」 「いや、まだだ」 「下手に動けばこちらの寝首を〈掻〉《か》かれかねないのでな」 「だが、必ず明らかにする」 決意を秘めた声で言い、ルキウス卿が歩きだす。 話し方によるものか単に好みの問題か、ルキウス卿の声には妙な説得力を感じる。 騙されないよう注意が必要だ。 周囲には、うち捨てられた建物。 荒れた道は、少し先で何の前触れもなく途切れている。 聖女の処刑場に、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の跡地か。 散歩で回るにしては、いささか酔狂な場所だ。 一体、どういうつもりだろうか。 「ここは、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時のままだな」 「地盤が弱っているせいで、片付けも再利用もされていない」 「もう、死んだ土地だ」 大地に亀裂が走り、断崖絶壁が広がっている。 その下はどこまでも雲が広がり、大地はほとんど見えない。 「……」 ルキウス卿は、その光景を厳しい目で見つめている。 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時、あんたはどこにいたんだ」 「貴族街にいたよ」 ルキウス卿は小石を拾い、手の中で転がし始める。 「時折思うのだ、どうして崩落は起こったのだろうか、と」 「聖女が祈りを怠ったからに決まっているだろう」 「祈り、か」 「祈りで全ての人が救われるのなら、それに勝ることはないのだがな」 「そのために聖女は祈り続けているんだろう」 「……まあ、そうだな」 ルキウス卿がどこか寂しそうに笑った。 「現実は厳しい。貴族も楽ではない」 「だから、たまにここに来て己の意味を問うてみるのだ」 ルキウス卿は、特別被災地区を元の姿に戻すことが自分が生まれてきた意味だと言っていた。 特別被災地区の姿を目にしてきたとはいえ、熱心過ぎる気もしないではない。 「ルキウス卿、あんたはどうして……」 「っ……」 「む……」 大地が揺れ、地鳴りが響く。 「おいっ!?」 「っ??」 咄嗟にルキウス卿の腕を掴んでいた。 「大丈夫だ、大した地震ではない」 言われて我に返る。 揺れはもう収まっている。 ルキウス卿が落ちてしまうような錯覚に囚われたが、その危険はなかった。 俺達は崖のかなり手前に立っていたのだから。 気まずくなり、ルキウス卿から手を離す。 「すまない」 「助けようとしてくれたんだろう?」 「ああ……間抜けな話だ」 「この程度の地震で、崩れるはずなどないのにな」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》を経験したのだ、過敏にもなる」 ルキウス卿が微笑む。 「それにしても、近頃は地震が多い」 「あ、ああ」 「こう地震が続いては、聖女様も大変だな」 「きっと祈りが足りていないんだ、自業自得だろう」 祈りがきちんと届いていないからこそ、こんなにも地震が続く。 「ルキウス様、こちらでしたか」 「システィナか」 背後から、システィナが近づいて来た。 「お出かけになるのでしたら、一言仰ってください」 「ルキウス様の身にもしものことがあっては困ります」 「大丈夫だ、カイムと一緒にいたからな」 俺が腕を掴んだことを言っているのだろう。 「ルキウス様に何かされましたか?」 「世間話をしていただけだ」 〈訝〉《いぶか》しげな目で〈睨〉《にら》まれる。 「ルキウス様、間もなく面会予定のお客様がいらっしゃいますので、お戻りください」 「仕事に戻らねばならないようだ」 「すまないな、カイム」 「気にしないでくれ」 「自由に行動できる君が羨ましいよ」 「牢獄に落ちてみればいい。そんなことは言えなくなる」 「無遠慮が許されているとはいえ、程度はわきまえてください」 「昨日も同じことを言われたな」 「聖女様にか?」 「そのお付きの方だ」 ジークや先代の前でも、ずっとこんな調子でやってきた。 今さら変えられるものではない。 「私に対しては構わないが、聖教会では気をつけた方がいい」 「あれで、内部はなかなか難しいところだ」 「青白い顔の連中が集まって、一日中祈りを捧げているだけのところだ」 「心配するほどのことはない」 「君の剣技が優れていることは知っている」 「だが、彼らには彼らなりの苦労や戦いがある」 「よく見ておくと、何か得るところがあるかもしれない」 妙な説教をされた。 聞き流しておこう。 「特別被災地区と違い、君の力が及ばないことも多いだろう」 「もし何か困ったことがあったら相談に乗ろう」 頼んでいないにもかかわらず、ルキウス卿は連絡の付け方を教えてきた。 ここから少し行ったところに小さな酒場があるという。 そこの店主に合い言葉を言えば、繋ぎを取ってくれるらしい。 「随分と親切だな。見返りは何もないぞ」 「聖女様は、我ら貴族にとっても心の拠り所だ」 「昨今の地震で不安を感じている貴族も多い」 「だが、そうした貴族たちも聖女様のお言葉一つで救われる」 つまりは、聖女と繋ぎを作っておきたいということか。 散歩の目的は、どうやらこの話だったらしい。 「気が向いたら連絡する」 「ああ、そうしてくれ」 嫌味のない笑顔を見せ、ルキウス卿はシスティナと共に去っていった。 大聖堂が夕焼けに染まっている。 ルキウス卿の散歩に付き合ったせいで、牢獄から戻ってきた頃には日が暮れていた。 「……というわけで、しばらく大聖堂に泊まることになった」 正確には聖殿に泊まるのだが、ジークに細かい説明をしても意味がない。 一般の人間には、上層にある聖教会の本部はまとめて大聖堂として認識されているからだ。 「いい仕事にありつけたみたいだな」 「張り合いはないがな」 「こっちは大丈夫か?」 「ベルナドが死んでから、不蝕金鎖に入りたいって奴が毎日俺のところに来る」 「〈風錆〉《ふうしょう》の残党はまだそれなりにいるようだが、組織の体は成していない」 「潰れるのも時間の問題だ」 「過激な連中もまだ残っているだろう。気をつけろよ」 「なに、仲間が増え過ぎて持て余しているくらいだ」 「手数では負けんさ」 俺が心配するまでもなさそうだ。 「それよりカイム、エリスにも会ってやれよ」 「女達の治療で、ちょうど下に来てるぞ」 ジークがにやりと笑う。 「それこそ、いらない心配だ」 「カイム」 ロビーでは、エリスが治療道具を片づていた。 「これからしばらく、大聖堂で暮らすことにした」 「悪趣味ね」 「小動物はどうするの?」 「俺と一緒だ」 「気に入らない」 「別に、気に入ってもらわなくて結構だ」 「とにかく、聖女さんが〈逗留〉《とうりゅう》をお望みでな」 「私も行ってみたいかも」 「一応仕事だ、邪魔しに来るな」 「ずるい」 「お前、そんなに信心深い方じゃないだろう」 「でも、一度くらい聖女様と話してみたいし」 エリスと聖女か。 「やめておけ、お前とは水が合わん」 「仲良くお茶飲みたいわけじゃない」 「最近地震が多いから、一言いいたいだけ」 面倒な状況しか想像できない。 「いいから牢獄で大人しくしてろ」 「でも、カイムのこと心配だし」 嘘くさいことを言う。 どうせ、俺の近くにいる女の程度を確かめたいだけだ。 「来るなよ、わかったか?」 「うん、任せて」 絶対にわかっていない返事だった。 エリスのことだ、駄目だと言っても来るときは来るだろう。 いざ大聖堂に来た時に混乱が起きないよう、ナダルには話を通しておくか。 ともかくも、すぐさまついて来られることだけは回避し、俺は大聖堂に戻った。 「……あの話、どう思う」 橋を越えて門まで来ると、囁き声が聞こえた。 痩せぎすの男と背の低い男、二人の聖職者が門の陰で何か話をしている。 長年の癖で、それとなく聞き耳を立てた。 「あの話、というのは天使様の御子様のことか?」 「それ以外に何がある」 「聖女様が仰るのだから、お言葉のまま信じるより他ないだろう」 「しかし、ナダル様も信用なさっていないようだぞ」 「邪推をするな」 「盲信すれば良いものではない。真実は自分の心で養うものだろう」 「あの男の目を見たか?」 「あれは獣の目だ、裏で良からぬことをしているに違いない」 苦笑する。 世慣れしていないように見えて、なかなか鋭い奴もいるじゃないか。 「面白そうな話をしているな。俺も混ぜてくれ」 「……こ、これは……カイム様!」 「お戻りでしたかっ」 気まずそうに目を伏せる聖職者たち。 「通っていいな?」 「もちろんでございます。お帰りなさいませ、カイム様」 恭しく頭を下げる。 聖職者から様付けで礼をされるとは、俺も偉くなったものだ。 「これはカイム様。お戻りですか」 「ああ」 ほぼ無表情のナダルの顔には、微かに迷惑そうな気配が除いていた。 どうやら、歓迎はされていないらしい。 「時にカイム様、いつまでこちらに〈逗留〉《とうりゅう》されることになったのですか」 「聖女さんからは何も聞いていないのか?」 「ラヴィリアには、常に報告するよう申しつけているのですが」 「聖女様曰く、我々には話せぬとのことで」 「カイム様からお聞かせいただけると嬉しいのですが」 「聖女さんが話せないと言っているなら、俺も話せない」 「しばらく留まることになった、とだけ言っておこう」 「……わかりました」 「それで、どちらにお泊まりになるのでしょうか」 「昨日は聖殿だったから、これから先も聖殿だろうな」 「できれば大聖堂に移っていただきたいのですが」 「こちらには空き部屋がたくさんあります」 「御子様にもカイム様にも、広々と過ごしていただけるかと」 「俺が決められることじゃない、聖女さんに言ってくれ」 「聖女様には絶対にご了承いただけません」 「だったら諦めてくれ」 ナダルが小さくため息をつく。 「聖女様はおわかり下さらないのですが、我々にとって聖女様は何者にも代え難い大切なお方」 「御子様のことでお心を惑わせていると、過去の悲劇を繰り返すことになるかもしれません」 「ただその一事を心配しているのです」 心配しているのは、聖女自身というより都市のことらしい。 まあ、当たり前のことか。 「我々は聖女様をお守りしたい」 「そのためならば、聖女様の望まぬことであろうとも、行わねばなりません」 「どうかわかっていただけないでしょうか」 「聖女さんは、御子が近くにいれば安心できると言っていたぞ」 「その方が聖女さんにとってもいいんじゃないのか」 「あなた様は、本当に天使様の御子がおられるとお思いですか」 「半信半疑だ」 「だが、あんたが聖女の言葉を疑っていいのか?」 「……」 ナダルが唇を結び、周囲に視線を走らせた。 「……これをあなた様にお話ししていいかどうか、わかりませんが」 「聖女様の身近におられるのなら、お耳に入れておいた方がいいかもしれない」 ナダルが険しい表情をする。 「改まってどうした?」 「これからお話しすることは、みだりに口外なさらぬよう」 「お約束いただけますか?」 「ああ、わかった」 どんな話にしろ、聖女のことなら聞いておいた方がいいだろう。 「今代の聖女様は即位して間もない頃、大熱で倒れられました」 「それが原因で、聖女様は失明されたのです」 「ほう」 盲目は熱病が原因か。 だが、聖女の目は聖域では見えていたようだった。 どんな熱病にかかったら、あんな不可思議な状態になるのだろうか? 「以来、穏やかなお人柄が一変し、我々に厳しく当たるようになりました」 「天使様の声が聞こえると言いだしたのも、その頃のことです」 「恐らく目が見えなくなり、何か〈縋〉《すが》るものを見つけようと必死だったのでしょう」 つまり、目が見えなくなって心細くなり、天使の御子がいるという妄想を作り出した。 そう考えているのか。 「我々は聖女様に仕える身、そのお言葉は全て曇りなく信じたい」 「ですが……他の聖職者にも疑うことなきよう言い渡してはいますが、心を縛ることはできません」 「いかに聖女様のお言葉とはいえ、いきなり牢獄から連れてきた娘を天使様の御子だと言われても、難しいものがあります」 「大抵のことは黙ってお聞き入れしてきましたが、事がここまで大きくなってくるとそうもいきません」 「聖教会の存在を揺るがすような事態になれば、我々も支えきれなくなります」 ナダルの話は納得できる内容だった。 しかし、話が綺麗すぎる。 意図的に正論を口にする人間は、その裏に汚いものを隠していることが多い。 「あんたの立場には同情する」 「ただ、俺は聖女さんに雇われている立場でな」 「残念だが、俺は聖女さんにあれこれと指図をできる立場じゃない」 「我々の話を伝えていただけるだけでも助かります」 伝えるだけでも、か。 それが与える影響を知り尽くしているのだろう。 やはりナダルは政治家だ。 「……わかった。伝えるだけは伝えておこう」 そう返し、俺は大聖堂を後にした。 「あ、カイムさん」 向かいからティアとラヴィがやってきた。 「こんな時間からどこへ行くんだ」 「ラヴィさんに、大聖堂を案内していただくんです」 「せっかく来たんですから、隅々まで見ておきたくて」 物好きな奴だ。 「そうか。大聖堂の中ならいいが、あまり遠くに行くなよ」 「ラヴィ、ティアをよろしく頼む」 「はい、お任せください」 「それじゃ行ってきますっ」 ティアはラヴィと共に大聖堂の方へと歩いていった。 「戻ったぞ」 「お帰りなさいませ、カイムさん」 部屋には聖女が一人座っていた。 「御子はたった今お出かけになりました」 「ああ、そこで会った」 「夕食までやることもないし、俺は別室で休ませてもらうぞ」 「お待ちください」 「なんだ?」 「ちょうど退屈していたところです」 「よろしければ、チェスのお相手をお願いできませんか」 聖女の前にはすでにチェス盤と駒が置かれている。 俺を待っていたのだろうか。 「お仕事です」 「わかった」 俺は苦笑し、聖女の正面に座って駒を並べた。 「チェスはいいが、こっちに気を取られて街を落とすなよ」 「そのような心配は無用です」 「それならいいが」 聖女が駒を並べるのを待つ。 「それで、聖女さんはどれくらいいけるんだ?」 「人とするのは初めてです」 それほど強いわけではなさそうだ。 先手を聖女に譲る。 「先に動かすのですか?」 「チェスは先手の方がかなり有利だ」 「後で泣きを見ても知りませんよ」 「お手並みを拝見しよう」 聖女の一手目は、ほぼ初心者の定石と言ってもいい手だった。 基本はできているようだな。 聖女に合わせて、適当に駒を動かしていく。 「チェック」 「……」 ダブルチェックをかけられ、逃げる聖女のキング。 しかし俺のルークがその後を追う。 「これでチェックメイトだ」 「待ってください。まだ動かせるかもしれません」 「無理だ。キングに逃げ場はない」 じっと盤面を見つめる聖女。 「……動かせません」 「また聖女さんの負けだな」 意気揚々と挑んできた割に、聖女は負け通しだった。 俺が強いわけではない。 聖女が弱いのだ。 「……」 口をへの字に曲げ、聖女は無言で駒を並べる。 「まだやるのか?」 「当然です。このままでは引き下がれません」 「負けず嫌いだな」 「だが、その方が強くなれる」 「口を動かす暇があるのでしたら、早く駒を並べ直してください」 「へそを曲げられても困るんだが」 「別に曲げていません」 「鏡を見てこい。見るからに不機嫌そうな顔をしているぞ」 「こういう顔なのです」 子供っぽい反応だ。 日頃は信仰だの夢だの言っているが、中身は意外と年相応らしい。 「さあ、早く次の勝負を始めましょう」 ただの遊びなら一休み、と言いたいところだが、あいにくこれは仕事だ。 「仰せのままに」 肩をすくめて駒を並べ直した。 聖女に先手を取らせ、互いに駒を動かしていく。 「チェックメイト」 俺も聖女も、まだ二つ駒を動かしただけだ。 しかし、それだけで詰むこともある。 「う、嘘です。私はまだ二手しか動かしてません!」 「そう思うなら試してみろ」 考え込む聖女。 しかし、動かしようもない。 「フールズメイトと言ってな。初心者にありがちなミスだ」 「ずるいです!」 「俺はきちんとルールに則ってやっているぞ」 「……」 聖女が涙目になっていた。 勘弁してくれ。 「次は頑張るんだな」 「……」 聖女は無言で動かした駒を戻し、〈睨〉《にら》んで来る。 「……まだやるのか?」 「……」 やるつもりのようだ。 「そういえば、さっきナダル神官長に言われたんだが」 聖女が手を考えている間に、先ほどナダルが言っていたことを伝える。 ビショップを動かし、聖女は顔を上げた。 「ナダルの言うことなど、無視してくださって結構です」 「御子を大聖堂にお移しするなど、何を言っているのだか。話になりません」 「あの人もこの都市のことを思って言っているんだ」 「あまり邪険にするのもどうかと思うぞ」 動かしたビショップをクイーンで奪いつつ、返す。 「あ……っ」 「待ったはナシだ」 「……ナダルは、私の言葉を信じず聖教会の体裁ばかり気にする」 「聖職者が信仰より自らの身を重んじるなどもってのほか」 「そのような言葉、〈慮〉《おもんばか》る必要などありません」 むきになってポーンを突っ込ませてくる。 「それは、聖女さんが皆に自分の言葉を信じさせる努力をしてないからだ」 「カイムさん、チェスに集中してください」 「集中などしなくても勝てる」 「くっ……」 悔しそうに歯がみする。 何となくいい気分だった。 「チェックメイトだ」 「……ビショップの扱いを間違えてしまいました」 「手筋が素直過ぎるんだ」 「何を狙っているのか簡単に読めるぞ」 「そういうカイムさんは、性格と同じで手筋がひねくれていますね」 じっと聖女に〈睨〉《にら》まれる。 「勝つためには回り道も必要になる」 「それはチェスだけでなく、何事においてもそうだ」 「何をおっしゃりたいのですか」 聖女は再び駒を戻し始めた。 「もっと相手が飲み込みやすいやり方を考えろ」 「夢の内容なんて、どうせ聖女さん以外は確かめようもないんだ」 「上手く誤魔化して伝えればいい」 「天使様のお言葉を〈騙〉《かた》れと?」 「あんたは天使の言葉を皆に信じてもらいたいんだろう?」 「そんなこと、できるはずがないでしょう」 「天使様のお言葉を偽って伝えるなど、天使様への冒涜です!」 聖女の声が高くなった。 思わず目を見張る。 普通の人間とは怒る部分が全く違う。 信仰の対象たる天使の言葉を曲げることに抵抗を感じているらしい。 これが聖職者という人種か。 「牢獄では誰もがその日の生活を守るために、全力で生きている」 「正直者は騙されてのたれ死ぬ。そういうところだ」 「夢の話なんて信じる奴の方がどうかしている」 「だが聖女さんは、信じてもらう工夫もせずにただ信じてくれないと喚いているだけ」 「牢獄の子供ですら、もう少し頭を使うぞ」 「少しお考え違いをしているようですね」 「聖女が、自分の主張を通すために嘘を吐くような人間だったとしたら、民は何を信じればよいのでしょう?」 「そんな人間に、都市の安寧を預けられますか?」 「いや……」 そう答ながら、頭は違うことを考えていた。 聖女は、都市を浮かせてさえいてくれればいいのだ。 日頃どんな悪行を重ねていようとも、どんなに善行を重ねようとも関係ない。 都市を浮かせていれば許されるし、落としてしまえば許されないだろう。 そこには、聖女を務めている聖職者の人間性など入り込む余地はない。 要は、結果だけを求められる立場なのだ。 ある意味、暗殺業と似ていた。 成功すれば報酬。 失敗すれば死。 過程も暗殺者の人格も関係ない。 どこぞの権力者の代わりに動き、消費される。 長い間続けてると、自分が生きている意味がわからなくなる商売だ。 人を殺すか、人を生かすか。 仕事の結果はまるきり逆だが、似たもの同士ではあった。 恐らく、聖女は探しているのだ。 自分の生きる意味を。 「私を信じてくれる皆がためにこそ、私は決して偽りを口にしてはならないのです」 「それでなくとも、私は信仰に生きる者です」 「聖職者が自らの信仰を偽って伝えては、何も残らないではないですか」 聖女の言うことにも一理あった。 聖職者がその信仰ゆえに聖職者たり得るとすれば、信仰に関して偽りを言うことは存在意義を揺るがす。 市井に転がってる聖職者には相当な俗物もいるが、聖女が俗っぽくてはお話にならない。 自らの信仰を守るために周囲を犠牲にするというのなら、それも一つの選択なのかもしれない。 「二度と、目的のために信仰を偽れなどと仰らないで下さい」 「いかなる理由があっても、してはならぬことがあるのです」 手段のために目的を手放すか。 牢獄にいる人間、特に俺のような人種とは全く逆だ。 食うに困ることがない人間の戯言とも思えたが、それはそれで多少の興味もあった。 こいつがどうなっていくか見届けるのも、話のネタ程度にはなるかもしれない。 「わかった、もう無駄に喋るのはよそう」 「……申し訳ありません、取り乱しました。続きを」 「気にするな」 聖女に対する印象が少しだけ変わった。 思っていたより物事を考えている。 若く見えて、その外見よりもずっとしっかりしているのかもしれない。 無言でチェスを進める。 沈黙の中、駒が盤を打つ音だけが静かに響く。 「あの、怒っていらっしゃいますか……?」 こちらを覗き込む聖女。 「いいや」 「では、何かお話しになってください」 「さっき黙ってろ、と言われたからな」 聖女が困ったように眉根を寄せる。 「……本当に申し訳ありません」 「私のために色々と考えて意見をしてくださったのに、あのようなことを言って……」 「気にするな」 「あんたにはあんたの考え方がある。尊重するさ」 「……初めてだったのです」 「あのように、真っ向から批判をされたのは初めての経験でした」 まあそうだろう。 聖職者たちが、真っ向から聖女に意見するとも思えない。 「ですから、ついむきになってしまいました」 「申し訳ありません」 「気にしていないと言っている」 「でしたら……何か、お話ししてくださいませんか」 聖女はしゅんとしてしまう。 そういう表情は、年頃の少女のようでもあった。 「……わかった。だが、また聖女さんを怒らせるかもしれない。それでもいいのか」 「構いません。私も自制します」 聖女と目を合わせる。 ふと、おかしくなって口元を歪めた。 聖女も笑っている。 「ただいま戻りました」 ティアとラヴィが戻ってきた。 「大聖堂の見学、どうだった?」 「面白かったですよ」 「大聖堂の部屋の中に工房があって、硝子細工をしてたんです」 「硝子細工?」 「ええ、ステンドグラスを作ってました」 「硝子は非常に高価なので、盗まれないよう大聖堂内で管理しているのです」 「毎日、細工職人がやってきて聖教会で用いるステンドグラスを作っています」 「面白くて、ずーっと見てました」 硝子細工など見たことがない。 確かに少し面白そうだ。 「聖女様、そろそろ夜の儀式が始まります。ご支度を」 「もうそんな時間ですか」 「チェスは終わりだな。今回は俺の全勝か」 「……次は、こうはいきません」 「そうあって欲しいものだ」 聖女は悔しそうな表情を見せる。 本当に負けず嫌いな女だ。 夜の儀式が終わった。 聖女から茶の誘いを受け、俺は部屋までやってきた。 「もう少し味の濃い茶はないのか? これじゃ白湯と変わらない」 「聖女様のため、特別に朝摘みした茶葉を用いています」 「カイムさん、こんな高級なお茶は、お店では飲めませんよ」 ティアは喜んでいるが、細かい味などわからない。 食事にこだわりはないが、こう薄味が続くと牢獄の料理が恋しくなる。 「御子は、今までどのような暮らしをなさっておられたのですか?」 「わたしですか? えーと……」 ちらりとティアがこちらに目を向けてくる。 今までの経緯をどう伝えればいいかわからない、ということだろう。 「俺もこいつも、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で牢獄に落ちた」 「二人で暮らすために、俺が働いて生計を立て、暮らしてきたんだ」 「途中、金策に困ってティアが娼館に売られそうになったこともあるが、今は何とか落ち着いているな」 「そんな感じでした」 調子を合わせるティア。 「そうだったのですか。随分とおつらい目に遭われてきたのですね……」 「いえ、そんなことないです」 「大変なことはいっぱいありましたけど、つらいと思ったことはないです」 「さすが、天使様の御子だけあってお強いですね」 「そんなことないです……」 「カイムさんが常に御子を助けてくださっていたのですね」 「本当に大儀でした」 「そいつはどうも」 「それからはメルトさんっていう、カイムさんのお知り合いのお店でご厄介になってました」 「そこではどのようなことを?」 「メルトさんのところは酒場なんです」 「そこでお掃除をしたり料理を作ったり、お店のお手伝いをしてました」 「召使いのようなことをされていたのですね」 「い、いえ、違いますっ」 「わたしが好きでやらせてもらっていたんです」 「何かしてないと落ち着かないですし、ただでご厄介になるのは心苦しいので」 「わたしからお手伝いさせてもらえるようお願いしました」 ティアの話を聞いて、聖女は目を輝かせる。 「何て素晴らしいのでしょう。勤労と奉仕の心に満ち溢れています。それでこそ天使様の御子です」 「そんな大したことでは……」 「御子はお料理ができるのですね」 「できるってほどじゃないですけど、料理は好きなのでメルトさんに教えてもらってます」 「こいつの腕はなかなかだぞ」 「そんなことないです。メルトさんには負けますよ」 「牢獄では、どのようなものを食べるのですか」 「普段は鶏肉を煮込んだスープ、それとパンに肉の薄切りと青菜を挟んだものを食べますね」 「たまに林檎の丸焼きもいただきます」 「とても甘くて柔らかで……もう幸せっ、という感じになります」 「一度は頂いてみたいものです」 「ねえ、ラヴィ、そういうものは用意できないのかしら」 「……はい」 「動物に由来するものが含まれていなければ、大丈夫かと思います」 答えるラヴィの顔色が悪い。 「どうした、具合でも悪いのか?」 「いえ、大丈夫です」 そう言いながら、顔からは血が引いている。 「聖女さん、休ませた方がいいんじゃないのか」 「そうですね。ラヴィ、今日はもう下がって構いません」 「……わかりました」 「あの、付き添います」 「……いや、俺が行こう」 腰を浮かしかけたティアを制して、立ち上がる。 「ティア、まだ話の途中だっただろ。聖女さんの話し相手をしてやれ」 「わ、わかりました」 「カイム様、私は大丈夫ですので」 「部屋まで送るだけだ」 「ですが……」 「ラヴィの部屋はすぐそこですから、一人で戻れるでしょうに」 「カイムさん、女性には意外と優しいんですよ」 「だから娼婦さんたちからも好かれているんです」 「まあ」 「余計な話をするな」 「あっ、す、すみません」 「ラヴィ、早くしろ」 「……あ、はい」 ラヴィの部屋に入る。 俺達の部屋と同じ作りだが、まだ生活感はあった。 「大丈夫か」 「はい、ありがとうございました」 「体調が悪いのか?」 「いえ、少し疲れが出ただけだと思います」 昨日の出来事を思い出す。 「聖女さんと神官長の間で板挟みだからな。あんたもなかなか大変だ」 「慣れていますので大丈夫です」 わかりやすい作り笑顔だった。 「その割には、ナダル相手に手こずっているようだが」 「……すみません」 ラヴィが頭を下げる。 「別に責めちゃいない」 「ただ、少しは受け流す術を身につけないと、身体が持たないぞ」 「ありがとうございます」 「私のような者に、ここまでお気遣い下さって……」 「御子様の仰る通り、カイム様はお優しい方ですね」 純粋な笑顔を浮かべるラヴィ。 こういう顔をされると、居心地が悪くなる。 汚れている証拠だ。 「あんたが倒れたら聖女が困るだろう」 「それで都市が落ちたなんてことになったら大事だ。俺も他人事じゃない」 「そうですね」 何が嬉しいのか、ラヴィは忍び笑いを浮かべる。 「もう大丈夫です。カイム様のお陰でだいぶ楽になりました」 「そうか。じゃあ俺は行くぞ」 「それでは失礼して、先に休ませていただきます」 「ああ」 ……何かを奏でる音がする。 優しく、そして寂しく。 どこか懐かしい、哀愁に満ちた悲しい調べ。 「なんだ……?」 遠くから琴の音が聞こえてくる。 こんな時間に、誰が演奏しているのだろう。 ……そういえば、昨日は外で聖女が竪琴を弾いていた。 行ってみるか。 ベッドを抜け出し、ティアを起こさないようそっと外に出る。 聖女の部屋の扉を叩き、ドアノブを掴む。 「……」 聖女はいない。 どこに行ったのだろうか。 俺は音を辿って、部屋を渡り歩いていく。 ……こんなところにいたのか。 「どなたですか」 気づかれてしまったようだ。 聖女は弦をつま弾いていた手を止めてこちらを向く。 「ただの通りすがりだ」 「ここは聖殿です。一般の方は入って来ることができません」 「そうだったな」 俺の言葉に、聖女は寂しそうに笑う。 「どうしたんだ、こんな夜遅くに琴なんて」 「特に理由はありません」 ……嘘だな。 聖女は、先ほどまでの曲と同じく、〈沈鬱〉《ちんうつ》な顔で〈佇〉《たたず》んでいる。 何かあったに違いない。 「悲しい雰囲気の曲だったな」 「名は何と言うんだ?」 「名前はありません」 「誰に教わるでもなく、いつの間にか覚えていました」 「ほう」 「貴方は、楽器を〈嗜〉《たしな》まれるのですか?」 「生憎、無粋な生まれでね」 「ま、もともと牢獄には、音楽をやる余裕がある人間なんていない」 「楽器ができるのは流しの人間くらいだ」 「流し?」 「飲み屋なんかに入ってきて、即興で音楽をやる人間だ」 「場が盛り上がれば、客がご祝儀を投げて渡す」 「そのような方がいるのですね」 「私にもできるでしょうか?」 「あんたが流しを? 正気か?」 「もちろん冗談です」 「そんな暇があったら祈れと言われるでしょうね」 聖女が小さく笑う。 そして、竪琴を指先でいじり始めた。 どうやら、演奏を続けたいようだ。 「すまないな、続けてくれ」 「お気遣い、ありがとうございます」 寂しげに笑う聖女を背に、俺は聖殿へと足を向けた。 「ん……?」 聖殿に入ろうとすると、かすかに馬車の音が聞こえてきた。 大聖堂の方からだ。 こんな時間に馬車でやってくるなんて、よほど急ぎか……もしくは、人目を忍ぶ必要があるかだ。 ……気になるな。 大聖堂へ向かう。 周囲はひっそりと静まりかえり、人の気配はない。 馬車はどこに来たのだろうか。 足音を忍ばせて、大聖堂の外を窺う。 闇に溶け込むようにして、漆黒の馬車が一台、外に停まっていた。 ところどころに金をあしらった、豪華な作りだ。 御者席には二つの人影がある。 「……あいつは……!」 そのうちの一人には、見覚えがあった。 牢獄で俺を殴り倒した、やたらと腕の立つ女だ。 〈風錆〉《ふうしょう》の手下が、なぜこんなところにいる? 何か喋っているが、ここからでは遠くて聞こえない。 だが、これ以上近づけば奴に気づかれてしまう。 どうするか。 距離を置いて観察していると、誰かが馬車に乗り込んでいく。 姿格好から推察するに……ナダルだ。 「……」 馬車の中で話をするのだろう。 外であの女が目を光らせている状態では、盗み聞きも難しい。 ここは一旦、引き下がるより他はなさそうだ。 ナダルと〈風錆〉《ふうしょう》の残党に、何か繋がりがあるのだろうか。 やはりあの男には何か裏がある。 これは、ルキウス卿に伝えておいた方がいいかもしれない。 明日、繋ぎを取ってみよう。 「ごちそうさまでした」 「御子、今日の料理はお気に召していただけましたか?」 「はい、何だか今までと違って味がありました」 ティアはそう言って笑うが、俺は朝方の地震のせいで気分が晴れなかった。 都市が揺れたのは明け方。 花瓶が倒れるほどの揺れではなかったが、目が冴え、ほとんど眠ることができなかったのだ。 「お二人の料理は普通の味付けにするよう、ラヴィに言いつけました」 「私の食事に、お二人が合わせる必要はありません」 「この料理はラヴィが作っているのか」 「はい、そうです」 「俺たちと聖女さんの料理を分けて作るのは手間だろう」 「いえ、最後の味付けが少し違うだけですので大丈夫です」 ラヴィはにこりと笑う。 「ラヴィさん、お料理されるんですね。どんな料理が得意なんですか?」 「体にいい薬草を使ったものや、豆挽き粉を固めた料理でしょうか」 「あと、冷めてもおいしく食べられる工夫はしていますね」 「薬草料理ですか……すごく面白そうです」 「今度教えてください」 「ええ、構いませんよ」 ティアとラヴィが微笑みあう。 共通の話題があるためか、気が合うらしい。 召使いのような仕事をしてきた者同士、通じるところがあるのかもしれない。 「ところでラヴィ、もう体調はいいの?」 「はい、大丈夫です。ご心配をおかけしました」 「つらい時は言いなさい。あなたに倒れられると私も困ります」 「聖女様が毎日大役をこなされていることに比べれば、私の不調など〈些末〉《さまつ》なこと」 「ご心配には及びません」 「……そう。わかりました」 「ラヴィ、そろそろ料理を下げなさい」 「かしこまりました」 ラヴィは器を静かに片付けると、出て行った。 「あんたとラヴィ、仲悪いのか?」 「いいえ。私とラヴィは一緒に聖教会に入り、共に聖職者を目指しました」 「今は聖女とそのお付きという立場ですが」 「その割にはラヴィに冷たいじゃないか」 「お付きとはいえ、聖女が特定の誰かを特別視するわけにはいきません」 「聖女は、皆に等しく慈愛を与えねばならないのです」 そう言いながら、ラヴィには他の人間より冷たく当たっている気がする。 あまり詮索しても仕方ないか。 「聖女様」 ラヴィが浮かない表情で戻ってきた。 「どうしたの」 「あの、ナダル様が聖女様にお話ししたいことがあるとのことですが」 「私は話したいことなどありません」 「そうは参りません」 「……」 ラヴィを押しのけ、ナダルが部屋に入ってくる。 聖女は不愉快そうに目を細めた。 「目通りを許した覚えはありません」 「お話ししなければならないことがございます。平にご容赦を」 膝を折り、聖女を前に頭を垂れるナダル。 だがその態度は、聖女に対する敬いが感じられない。 「昨今、聖女様は天使様の御子にご執心の様子。問題のないうちはそれでも構いませぬ」 「信仰は聖職者の〈礎〉《いしずえ》、大いに結構なことでございます」 「ですが、事ここに至ってはそうも参りますまい」 「こことは?」 「今朝暁の頃、また地震がございました」 「大聖堂には朝から多くの住民が詰めかけ、口々に不安を訴えております」 「今はまだ聖職者による説明で納得していますが、このまま地震が続けばそれも通じなくなりましょう」 「地震を起こさぬようにしろ、と言いたいのですか」 「無論ですが、それだけではございません」 「カイム様と御子様を大聖堂の方にお移しし、聖女様には祈りに集中していただきたい」 「何より大切なのは、この都市に平穏をもたらすこと」 「それを怠ったがために御先代がどうなったのか、ご存じのはずです」 「そのように、私を脅すつもりですか」 聖女の視線に冷気が漂う。 普段とは比べものにならない、重圧に満ちた言葉が発せられる。 「そのようなことは申しておりません」 「聖女は天使様に祈りを捧げています」 「その天使様のお言葉を聞き届け、御子をお側に置くことがなぜ地震に繋がると考えるのか」 「……」 「聖女の祈りを阻むものがあるのだとしたら、それは羽狩りです」 「天使様の御遣いである羽の生えた者を捕らえて閉じ込めるなど、あるまじきこと」 「ナダル、私は羽狩りをやめさせよと伝えたはず」 「しかし一向に改善しないどころか、上の耳に届いてすらいない」 「これはどういうことですか」 「羽狩りは王のご命令の下に活動しております」 「聖女様がご意見されると、王家との関係を損ねる可能性もございます」 「ナダル、あなたは貴族のご友人が多いと聞き及んでいます」 「あなたは貴族の都合ばかり重んじ、他の住民を疎かにしているかのようにも見えます」 「……」 ナダルは口をつぐむ。 「聖女様……どうか冷静になってお考えください」 「我々は聖女様に仕える身、御子様のことも我々は信じて敬います」 「ですが、他の住民はどうでしょう」 「牢獄から連れてきたお方を天使様の御子だと言い張って、果たして信じてもらえるでしょうか」 「聖女様が夢に見たからと、それで信じてもらえるとお思いでしょうか」 「地震で不安を感じている住民を余計に惑わすことになります」 「もし、あなたが私の話を信じているのなら」 「私の口を塞ぐことを考える前に、どうすれば住民に受け入れてもらえるか考えるでしょう」 「ところがナダル、あなたはお二人を移せと言った」 「信じているのなら、決してそのようなことは口にはしません」 「聖女様。私は聖教会を預かる身、神官長なのです」 「聖教会を揺るがすようなことあらば、たとえ聖女様であっても申さねばならぬことがございます」 「わかってくださいませんか」 「信仰を偽らなければその身を保てぬのなら、聖教会などもはや無用です」 「聖女様! いくら聖女様でも、それはお言葉が過ぎます!」 聖女とナダルが〈睨〉《にら》み合う。 「せ、聖女様、それにナダル様……どうかお心を静めてくださいませ」 「お二人がそうお言葉を荒げては、皆も心穏やかではいられません」 「ナダル様、今日のところはお引き取りを。また後日……」 「ラヴィリア、お前は聖女様のお側にいながら何をやっている?」 「聖女様がお心健やかに都市の安寧を願い、祈りを捧げられるようにするのがお前の役目だ」 「皆の心が乱れるのは、お前がその役目を果たしていないからであろう」 「これはお前の罪だ、ラヴィリア」 「も、申し訳ありません……」 「ですが……聖女様の信仰に従うのもまた、お付きの役目と存じます」 「それで再び崩落を招いたとしても、同じことが言えるか」 「そ、それは」 「聖女様にとって何が一番大切か、よく考えろ」 「はい……申し訳ありません」 ラヴィが力なく〈項垂〉《うなだ》れる。 「聖女様、今日のところは下がります」 「ですがこれ以上地震が続くようであれば、是が非でも考えを改めていただく必要があります」 「そのこと、お忘れなきよう」 ナダルは聖女に頭を下げ、立ち去っていった。 「……えらい剣幕だったな」 「気にすることはありません。聞き入れる価値のない言葉です」 「大丈夫なのか」 「何を心配する必要があるのですか?」 「ナダルは信仰でも聖女でもなく、聖教会に仕えています」 「聖職者として許されざる堕落です」 「聖女様、それはあまりに言い過ぎでは……」 「あなたは、私を信じると誓った聖職者でしょう」 「先ほどはナダルに謝ってばかりいましたが、それは彼の言葉を肯定しているということです」 「……」 「私を信じているのなら、もっと〈毅然〉《きぜん》とした態度を取りなさい」 「も、申し訳……ありません……」 「……ここか」 昼過ぎ、ルキウス卿から指定された酒場にやってきた。 店の中を覗くと、無骨な男が店の掃除をしている。 「ちょっといいか」 「こんな時間から飲める酒は置いていない。帰んな」 ルキウス卿から教えられた合い言葉を伝える。 「ああ、旦那の知り合いか」 「外で待っていろ。すぐに支度をする」 「すまんな」 店の壁にもたれかかり、街路を眺める。 相変わらず人の流れはまばらだった。 しばらくして、見知った人物が近づいてきた。 「待たせましたね」 「そうでもないさ、お嬢さん」 「面白くありません。歩きながら話しましょう」 少しは冗談に付き合って欲しいものだ。 さっさと歩いていくシスティナの後を追う。 「……それで、何の用ですか」 「昨日の夜、ベルナドの部下だったはずの女が大聖堂に現れた」 「ベルナドの部下、ですか」 「ああ。やたらと腕の立つ、ナイフ使いの女だ」 「……」 「黒塗りの豪華な馬車を護衛していた。中の人間は恐らく貴族だろう」 「おまけに、馬車を迎えたのは神官長のナダルだった」 「一体、奴らにどんな関係があるんだ?」 「なるほど。お話はわかりました」 「今の一件はルキウス様にお伝えします」 「あんたは心当たりないのか?」 先ほどの奇妙な沈黙、何か知っているに違いない。 「申し上げられません」 「冷たいな。一緒に冷たい雨を浴びた仲じゃないか」 「何の感慨も沸きませんね」 システィナはふん、と鼻を鳴らす。 「勘違いなさっては困ります」 「私はルキウス様にカイム殿を助けるよう言われたので、こうして出向いたまで」 「あなたには何の感情も持ち合わせていません」 「身も蓋もないな」 「それでは、また何かあれば連絡を」 一方的に言い放ち、システィナは傍を離れて貴族街の方へ戻っていった。 「戻ったぞ」 「あ、カイムさん……」 「どうした?」 「それが……」 ティアの視線を追うと、ラヴィが〈悄然〉《しょうぜん》として座り込んでいる。 「何かあったのか、ラヴィ」 ラヴィの前の机には、食事が一揃え載った盆が置かれていた。 「俺の分はいらないと言っておいただろう」 「いえ、これは聖女様の分です」 「それがどうしてここにあるんだ?」 「聖女さんは、まださっきのことを怒っているのか」 「いえ、先ほどお食事を持って行った時にきちんと弁明をしようと思ったのですが……」 「また怒らせたわけだな」 こくん、と頷く。 何をやっているんだ、こいつは。 「そんなこと気にせず、料理だけ置いてくればいいだろう」 「私の作ったものなど食べられない、と」 「子供か、あいつは」 「しばらく放っておけ。そのうち腹が減って根を上げる」 「いえ、そういうわけには参りません」 「聖女様はこの都市全てを支えています。私は、その聖女様をお支えするのが役目」 「食事を怠り、聖女様とこの都市にもしものことがあっては困ります」 眉根を寄せ、つらそうに自らの作った料理を見つめる。 「お前は聖女さんのことばかり考えているな」 「どうしてそこまで尽くすんだ?」 ラヴィリアはしばらく黙って俯いていたが、やがてぽつり、ぽつりと語り出す。 「……私と聖女様は、幼い頃からずっと一緒に生きてきました」 「聖女様はどう思っていらっしゃるかわかりませんが……私は姉妹のように思ってきました」 「御先代から聖女を引き継がれた時、私はお付きとして生涯聖女様を支え続けることを誓いました」 「ですから、私にとっては聖女様を支え続けることが何よりも大切なのです」 ラヴィリアは、純粋に聖女のことを慕っているのだろう。 そうでなければここまで尽くせない。 聖女が〈毅然〉《きぜん》としているのに比べ、ラヴィは押しに弱い。 しかし、正反対の性格でありながら一途なところは似ていたりもする。 姉妹と言われれば、確かにそんな感じもした。 「……」 俺は盆を手に取る。 「……どうするんですか?」 「聖女さんとチェスをやりに行く。ついでに持って行ってやろう」 「……聖女様にお渡ししていただけるのですか?」 「ああ」 「か、カイムさん偉いですっ」 「偉いっていうのは、目上が目下に使う言葉だが」 「あっ、うぅ、違います間違いです、そういう意味じゃっ」 「尊敬しますっ」 「わざわざ言い直さなくていい」 そんな軽い尊敬、されても別に嬉しくはない。 「カイム様……ありがとうございます」 「まだ顔が少し青いな」 「聖女さんを気にかけるのもいいが、自分の身体も気遣った方がいい」 「……はい、すみません」 「本当にカイム様にはご心配ばかりかけています。申し訳ありません」 「気にするな」 「ティア、ラヴィと一緒にいてやってくれ」 「わかりました」 俺はラヴィをティアに任せ、聖女の部屋へと向かった。 「聖女さん、入るぞ」 「……カイムさんですか」 「何をそんなにむくれている?」 「別にむくれてなどいません」 「素直じゃないな」 盆を机の上に置く。 聖女は慌てて料理から目をそらした。 「腹減っただろう」 「減っていません」 「余計なことを、どうせラヴィがあなたに持たせたのでしょう」 「全く、小細工ばかりして……」 「俺が勝手に持ってきたんだ。ラヴィは関係ない」 「なぜですか」 「牢獄では飢えて死ぬ奴が山といるんだ」 「食べないというなら、これを持って牢獄で捨ててこい」 「……」 「聖女さんは前に『毎日不足なく食べられるだけで幸せなことだ』、そう言ったな」 「せっかく作ってくれたんだ。粗末にするな」 「わかりました、もう結構です」 「そう言われては食べるしかないではないですか」 聖女が頬を膨らませる。 いたずらが見つかった子供のようだ。 「食べるので、しばらく待っていてくださいませんか」 「ああ、構わない」 聖女は祈りを捧げ、黙々と食べ始めた。 「……食べ終わりました」 「チェス、やるか?」 「はい、ぜひ」 盆を脇によけ、チェス盤を持ってくる。 「あれから色々考えたのです。どうすればカイムさんに勝てるか」 「勉強熱心だな。その成果、見せてもらおう」 「今日は負けません」 聖女と一緒に駒を並べた。 「……」 「どうですか。昨日のようには行きませんよ」 数手打っただけだが、明らかに昨日とは打ち方が変わっていた。 隙がなくなり、堅実な攻め方になった。 「どういう勉強をしたんだ?」 「昨日の勝負を繰り返し再現して、何が悪かったのか考えました」 「そうしたら何となく手が見えてきたのです」 聖女にはチェスの才能があるのかもしれない。 それなら、少し〈搦〉《から》め手から攻めてみるか。 「ところで聖女さん、天使の夢は見たのか?」 「今夜こそきっと見られるはずです」 「つまり、今日は何も見られなかったということだな」 「……」 「それでよく神官長にあそこまで強気になれるな」 「私は自らの信仰に従い、ナダルの〈不躾〉《ぶしつけ》を〈咎〉《とが》めたまでです」 「天使様の思し召しがいついただけるかということとは、何も関係がありません」 「間に挟まれたラヴィはたまったものじゃないな」 「……随分とラヴィの肩を持つのですね」 「聖女さんと神官長の間に挟まれて小さくなっているのを見れば、誰だって同情したくもなる」 「……」 一瞬、聖女の顔に寂しげな表情が浮かんだ。 それを隠すように顔を伏せ、じっと盤面を見つめる。 「ラヴィから聞いたぞ。あんたとラヴィは姉妹みたいなものだって」 「その割に、随分とラヴィに冷たいじゃないか」 「ラヴィは何も悪いことはしていないだろう」 「……あなたは聖職者ではないから、そのように見えるのです」 「ラヴィは口先ばかりで、本当は私のことなど信じていないのです」 「私のお付きともあろう者が、それで許されるわけがない」 つまり、信じてくれないから〈拗〉《す》ねているのか? 「そんなこと言ったら、俺だって聖女さんの言葉は信じちゃいない」 「不心得者ですね。混沌の海に堕ちればいいのです」 「おいおい」 聖女が口にしていい言葉とは思えないな。 「聖女に向かって信じていない、などと全否定されては黙っていられません」 「信じるかどうかはそれぞれの自由だろう」 「信じていないことを、私に面と向かって言うべきですか?」 「あらかじめ忠告したはずだ。俺は口が悪い、とな」 「チェックメイトだ」 「え……っ」 不意打ちのチェックメイトに、聖女は瞠目する。 キングの退路が断たれていたことに気づかなかったようだ。 「さ、さあ早くもう一回です」 「わかったわかった」 苦笑しながら駒を並べ直す。 聖女に先手を譲り、再び指し始めた。 「ラヴィを放っておいていいのか? 落ち込んでいたぞ」 「まだ先ほどの話を続けるのですか?」 「俺としては黙っていてもいいんだが」 「……」 聖女が〈睨〉《にら》んでくる。 根が素直で自分に嘘がつけないため、弱みを握られると弱い。 聖女とラヴィに共通した特徴だ。 「カイムさんは、私のことを信じていないと仰っていましたね」 「残念なことではありますが、一般の方に無理に信じろとは言えません」 「ですが、ラヴィは聖職者です」 「聖女を崇め、信仰を司る聖教会の人間が、聖女を信じなくてどうするのですか」 「そんな者に聖職者たる資格はありません」 聖女は駒が取られるのも〈厭〉《いと》わず、攻め込んでくる。 「ラヴィだって、聖職者である前に一人の人間だろう」 「お優しいですね。カイムさんも聖職者になられてはいかがですか?」 「ご免被る」 「ついでに、興味深いお話をしましょう」 聖女は薄く微笑む。 仮面のような冷たい笑みだ。 それでいて、仮面の下には感情が渦巻いているのがわかる。 「ラヴィは聖職者である前に一人の人間だと仰いましたね」 「でしたら、聖女はどうなのでしょう」 「……それは無論、聖女だって聖女である前に……」 一人の人間、なのか? 返答に窮する。 「でも、聖女はこの都市を浮かせているのです」 「聖女の祈りは特別なもので、この都市を浮かせる力があるのです」 「面白いお話でしょう?」 「……」 つばを飲み込む。 こいつは一体、何を言おうとしているのか。 もし聖女も同じ人間だとしたら、どうやって街を浮かせて……。 考えかけて、嫌な気分になる。 「どうぞ、カイムさんの番ですよ」 「……」 聖女にビショップを奪われてしまった。 話に気を取られてしまったらしい。 このままでは勝てないだろう。 「俺は聖教会の仕組みなんて知らないし、興味もない」 「構いません。信仰は自由です」 「だが、ラヴィが置かれている状況が、あまりいいもんじゃないことくらいはわかる」 「それは聖女さん、あんたの態度次第で良くすることが可能なものだ」 俺はあからさまに取られてしまう位置にクイーンを動かし、聖女のキングをチェックする。 当然、聖女はそのクイーンを取るしかない。 「引き分けだ」 「……あ……」 チェスはキングを自殺に追い込む手が禁じられている。 だから、キングに自殺手しか残されていない状況で手番が来た場合、もう何もできない。 ステイルメイト、引き分けとなる。 「ず、ずるいです。勝てると思ったのに……」 「勝てない場合は、負けないための作戦を立てるのもやり方の一つだ」 「……」 聖女が盤面を〈睨〉《にら》む。 「聖女さん、今日みたいに神官長をないがしろにし続ければ、確実に対立するだろう」 「そうなったら、ラヴィはあんたと神官長の間に挟まれる」 「自重しろ、と言いたいのですか?」 俺は首を横に振る。 「信仰は自由、だろ」 「ラヴィも同じだ。あいつはあんたを信じて付いていくだろう」 「だから、もう少しラヴィに優しくしてやれ」 俺は聖女のクイーンを手に取り、聖女の方に放り投げた。 「聖女様はどちらにいらっしゃる?」 朝の儀式の後、ナダルが厳しい顔で乗り込んできた。 昨日の続きだろう。 ティアを巻き込みたくなかったので、別室で待たせる。 「祈りの祭壇にいらっしゃいます」 「そうか」 ナダルが進む。 「お、お待ちください」 「ナダル様、聖女様は昨今の地震にお心を悩まされ、天使様へ祈りを捧げていらっしゃいます」 「誰も入れるな、とのことでございました」 「お話でしたら私がお伺いします」 「お前が頼りないから私がお話しするのだ」 「そもそも、お前が聖女様を説得できていればこんな事態にはなっていない」 「……」 ラヴィリアが俯く。 「お前は、お付きの勤めを何と心得ている?」 「聖女様をお助けし、支えることでございます」 「そうだ」 「都市の安寧のため、聖女様を陰ながらお支えするのがお前の役目だ」 「決して、身のまわりの世話をするだけの召使いではない」 「お前は、お役目を十分に果たしていないのではないか?」 「私は、精一杯やっております」 「精一杯やるのは当たり前だ」 「精一杯やっているのだから御先代の不幸を繰り返しても仕方ないと言うつもりか?」 「い、いえ、決してそのようなことは」 「お前は、自分の勤めをはき違えているのではないか?」 「……申し訳ありません」 厳しい追及に、消え入りそうな声のラヴィ。 ナダルの言葉は正しい。 ラヴィでは彼の相手は荷が重い。 放っておけば潰されるだろう。 それに、ナダルはベルナドの配下が護衛していた人間と繋がりがある。 油断は禁物だ。 「それくらいにしといてやれ」 「部外者は口を挟まないでいただきたい」 「これは聖教会の問題です」 「あんたの望みは、俺やティアがここから出て行くことだろう?」 「なら、俺達は当事者じゃないか」 「……」 「あんたは、俺達の存在が聖女さんの祈りを妨げていると言っているが」 「聖女さんは、ティアがここにいると安心できると言っていたぞ?」 「どうしてあんたは、それを無理に移したがるんだ?」 「聖女様の〈縋〉《すが》っておられるものが、本当に聖なる存在であるなら、私もこうまで声を荒げません」 「ほう、つまりティアは御子ではないと?」 「あんた、自分が仕える聖女の言葉を信じられないのか?」 「お察しいただきたい」 ナダルが目を伏せる。 それで、俺との話を打ち切った。 「ラヴィリア」 「先程、お前が話を聞くと言ったな」 「はい」 「お前の熱意に免じて、今回はお前に任せよう」 「あ、ありがとうございます」 「だが、相応の責は負ってもらうぞ」 「私に代わり、お前が聖女様をお諫めしろ」 「御子様とカイム様には大聖堂に移っていただく、これが聖教会の総意だ」 「できなければ、お前には罰を受けてもらう」 「……」 ラヴィリアの顔が強張る。 「頼んだぞ、ラヴィリア」 返事を待たず、ナダルは去っていった。 ラヴィリアは微動だにしない。 時が止まったかのように、床の一点を見つめている。 「大丈夫か」 「……カイム様」 まるで、いま俺の存在に気づいたかのように顔を上げる。 「どうするつもりだ?」 「聖女様にご判断いただくしかありません」 「少しは考えろ」 「聖女さんが頷くはずないだろう」 「……そう、ですね」 ラヴィは弱々しい顔で笑う。 あまりに無策だ。 このまま、むざむざと罰を受けるというのか。 「聖女さんが頷かなければ、お前は罰を受けるんだぞ」 「いいのかそれで?」 「聖女様のご判断ならば」 馬鹿らしい。 「実際、罰ってのはどんなものなんだ?」 「丸一日、食事と睡眠を絶ち、神に祈りを捧げます」 「祈りが途切れると頭から水を浴びせられ、杖で打たれます」 肉体的にはともかく、精神的に厳しい罰だ。 「今からでも遅くない、神官長に全部任せろ」 「お前には荷が重すぎる」 「いいえ」 「これは私がやらなければならないことです」 気色悪いほどの愚直さだ。 もはや、罰を受けたがっているとしか思えない。 「罰はきついだろう?」 「お気遣いありがとうございます」 「では、聖女様にご報告して参ります」 危なっかし過ぎる。 やれやれだ。 「俺も一緒に行こう」 聖女が祭壇の上で、一心に祈りを捧げていた。 聖殿の景色に溶け込むかのような白色の衣を帯び、手を広げて何事かを呟いている。 声をかけるのを〈躊躇〉《ちゅうちょ》した。 だが、いくら待っても聖女の祈りが終わる気配はない。 意を決し、ラヴィが聖女に近づいていく。 「恐れながら、聖女様」 「先ほど、ナダル様がいらっしゃいました」 「ナダル様は、御子様とカイム様に、大聖堂へ移っていただくよう仰っております」 「また、それが聖教会の総意だとも仰いました」 聖女の祈りの言葉が止まった。 そして、ゆっくりと振り返る。 「すでに結論が出ていること」 「そのようなつまらぬ話をするために、祈りを妨げたのですか?」 「しかし、聖女様……」 「あなたは、御子の正当性を疑うのですか?」 「い、いえ……」 「ラヴィ、あなたの役目は何ですか?」 「聖女様を生涯信じ、お支え申し上げることでございます」 ラヴィは頭を下げる。 「救われるから信じるのではありません、信じることで救われるのです」 「そうでしょう、ラヴィ?」 「あなたは、本当に私を信じているのですか?」 「……」 ラヴィは、ただ頭を下げ続ける。 「下がりなさい」 「……で、ですが……」 「不愉快です」 「……」 ラヴィが唇を噛む。 予想から少しも外れない展開だった。 〈悄然〉《しょうぜん》と立ち上がったラヴィが、こちらへ戻ってくる。 「……」 このままだと、ラヴィが摩耗していくだけだ。 聖女は、それがわかっているのだろうか。 我を通し続けるだけでは、何も解決しないというのに。 「あ、おかえりなさい」 ティアは箒を手に、棚の隙間から埃を掻き出しているところだった。 「何をしている?」 「暇だったのでお掃除をしてみたのですが……始めたら止まらなくなってしまって」 「み、御子様、そのようなことは私が!?」 「大丈夫です、好きでやってますから」 「で、ですが……」 止めようとするラヴィをかわし、ティアは掃除をしながら後退していった。 「放っておけ」 「よろしいのでしょうか……?」 「あいつは、家事をしていないと落ち着かない奴なんだ」 「は、はあ……」 「それより、聖女さんの説得はどうするんだ?」 「……諦めるしかないでしょう」 「正攻法だけ試して終わりか」 「諦めるのは早いんだな」 こいつの『精一杯』とは何なのだろう? 俺なら、考える限りの策を試すのが『精一杯』なのだが。 「あんたそれでいいのか?」 「いいのです」 「元をただせば、私が悪いのですから」 「はあ?」 意味不明だ。 過去に何かあったのだろうか。 「私は聖女様を信じなければならないのです」 「にもかかわらず、ナダル様のお言葉に揺さぶられ、聖女様をお諫めしようなどと考えてしまいました」 「きっと、どこかで聖女様を信じ切ることができていないからなのです」 ラヴィが苦しそうに目を伏せる。 俺には理解できないが、当人は至って本気のようだ。 「信じられる方がおかしい」 「聖女さんは、自分が見た夢の話を繰り返すだけじゃないか」 「夢を見たって話自体が作り話かもしれない」 「根拠があるから信じるのではありません」 「信じることで救われるのです」 「聖女様が仰った通り、それが信じるということです」 「私は聖女様を信じると誓いました」 「ですが……」 信じ切ることができていない。 それを察し、聖女は怒っているのだ。 「聖女様には、ご自身が信じるものに殉じるお覚悟がございます」 「私は、そんな聖女様をお支えしたいのです……」 ラヴィの額には脂汗が浮かんでいた。 息も荒い。 「どうした?」 「すみません……どうも体調が……」 「ご心配をおかけして申し訳ありません」 聖女とナダルの板挟みになっているのだ。 調子も悪くなるだろう。 「休んだ方がいいんじゃないのか」 「いえ、大丈夫です」 「このままだと、体調が悪い上に、明日は罰を受けることになるんだぞ」 「どうしてそこまで無理をする?」 聖女といいラヴィといい、どうして意味もなく意地を張るのか。 もう少し頭を使えばいいものを。 「聖女様は以前、大病にかかられたことがあります」 「大変な熱で、一時は命も危うい状態でした」 「奇跡的に回復はされたのですが、聖女様は光を失われてしまいました」 「それからなのです。天使様のお声が聞こえると仰るようになったのは」 「ああ、神官長からも聞いた」 「光を失ったせいか、自分たちにきつく当たるようになったとも言っていたな」 「いえ、それは違うのです」 「なに?」 「聖女様は天使様のお声が聞こえたことを皆に話し、御子様を捜すように命じたのです」 「ところが、ナダル様は聖女様のお言葉を信じず、誰も捜索に向かわせませんでした」 「その上、探したが見つからなかったと報告し続けたのです」 「なるほど……」 「聖女さんがきつくなったのは、ナダルの嘘に気づいたからか」 「ご推察の通りです」 「ですが、聖女様は決して信念を曲げることはなさいませんでした」 「私も、聖女様にはそうあって欲しいと願っています」 「ですから、私も聖女様も自らが信じたことから目を背けるわけにはいかないのです」 「そのために罰を受けるのなら仕方ありません」 〈毅然〉《きぜん》とした言葉だった。 共感はできないが、考えていることはわかってきた。 「カイム様にお願いがございます」 「何だ?」 「明日、私が罰を受けている間は、聖女様のお側にいていただけないでしょうか」 「きっと心細い思いをされているはずです」 「お前が罰を受けるのは、聖女さんのせいなんだぞ?」 「ですから、聖女様はきっとご自身を責めていらっしゃいます」 「よろしければ、お相手を務めて差し上げてください」 自分の身よりも聖女の気持ちを心配するのか。 とんだ自己犠牲精神だ。 いや、これが聖職者なのか? 「わかった」 「……ありがとうございます」 ラヴィは、心底安堵したという笑みを浮かべた。 聖女が祈りの祭壇から戻ってきたのを見計らい、聖女の部屋へ来た。 「精が出るな」 「カイムさんですか」 「疲れているようだが、今日のチェスは見送るか」 「いえ、やります」 「無理はしなくていいぞ」 「お気遣いは無用です」 肩をすくめ、チェス盤と駒を机に持っていく。 「また強くなったな」 「負け通しでは納得がいきませんから」 「さっきの誘い手はなかなかよかった」 聖女に悪手へと誘い込まれ、ナイトを失ってしまった。 相当上達している。 「何を企んでいるのですか?」 「カイムさんが、意味もなく人を褒めるとは思えません」 細めた目で〈睨〉《にら》まれる。 「ひどい言われようだな」 「仰りたいことがあるのでしたらどうぞ」 「なら言わせてもらう」 「聖女さん、あんたもう少しラヴィに感謝した方がいいぞ」 「ナダルがここに踏み込んで来ないのは、あいつが頑張っているからだ」 「わかっております」 聖女がわずかに視線を落とす。 「全ては私の責任です」 「私が、天使様の御声を聞くことさえできれば……」 「それで解決すると思っているのか?」 「天使様の御声で、御子の正当性を証明すれば、ナダルも愚かなことは言えなくなるはずです」 「いや、神官長は天使の声の存在自体を信じていない」 「夢を根拠にティアの正当性など信じさせることは不可能だ」 「愚かなことです」 「誰が一番愚かだ?」 聖女が俺を〈睨〉《にら》む。 「そもそも、あんたが天使の声が聞こえるなんて言い出さなければ良かったんだ」 「あんたが何を信じるかは、もちろん勝手だ」 「だが、それを皆に信じさせようとしなければこんなことにはならなかった」 「仰る通りです」 「ですが、天使様は御子をお助けしろと仰ったのです」 「私は目が見えず、ラヴィ一人では力が足りない」 「ならば、皆の協力を仰ぐ必要がありましょう?」 「厄介なことを頼むな、天使も」 「……」 思うところもあるのだろう。 聖女は何も言わずに俯いていた。 だいぶ疲れているようだ。 「チェックだ」 「……っ」 聖女のキングを網にかける。 次々と駒を捨てながら、逃げていく聖女のキング。 ステイルメイトを狙っているのだろう。 「このままじゃ追い詰められるだけだぞ」 「現実とチェス、どちらの話ですか?」 「両方だ」 「たとえ追い詰められても、私にできることは一つです」 「私は私の中の信仰を、偽ることはできない」 〈執拗〉《しつよう》にステイルメイトを狙ってくる。 だが、その狙いをかわしてチェックメイトする。 「ま、最後の一手まで諦めないことだ」 「逆転の機会は意外なところに眠っているものだ」 「しかし、カイムさんは、それをも潰してしまうではないですか」 「当たり前だ」 「手を抜いて欲しいのか」 「いえ」 唇を引き結ぶ聖女。 「もちろん、神官長も手加減などしないだろう」 「明日、あんたが動かなければ、ラヴィは神官長から罰を受ける」 「知っていたか?」 「一時的に主張を取り下げろと」 「ああ」 聖女が目を閉じる。 「それでもまだ我を張るつもりか」 「詮なきことです」 「どうかな」 「前にも言ったが、少し頭を使って話せばラヴィも罰を受けずに済むはずだ」 「もしくは俺たちがここから出ていく、でもいいが」 聖女はキングを動かす。 「キングは、自分が取られてしまう場所に動くことはできません」 俺が言った選択肢は自殺手に等しい、ということらしい。 「なぜそこまで意固地になる?」 「ラヴィを苦しい目に遭わせても、守らなければならないものなのか?」 「信仰は、私が生きている意味そのものなのです」 「決して捨てるわけにはまいりません」 生きる意味か。 馬鹿らしい。 そう思うと同時に、あまりに無策なこいつの結末を見てみたいとも思う。 ラヴィが疲弊しきって倒れたとき、聖女はどういう対応をするのだろうか? 駒を元の位置に戻しながら、荒いため息をつく。 「ま、あんたの言っていることは確かに恰好がいい」 「だがな、生きる意味なんてものは贅沢品だ」 「友人を犠牲に守るほどのものじゃない」 「どうしました?」 「いつも冷静なカイムさんらしくもない」 聖女が薄く笑う。 反射的に、生きる意味という言葉に反応してしまう自分が嫌だった。 俺はまだ兄との誓約に振り回されているのか。 「はっきり言わせてもらえば、くだらない」 「生きる意味や信仰じゃ、腹は膨れないし寒さもしのげない」 「牢獄でそんなものにこだわっていたら、すぐ死体になるだろうよ」 綺麗事など聞きたくない。 そんなもの、牢獄では何の役にも立たなかった。 だから俺は否定した。 生きるために、否定せざるを得なかった。 心の奥底でそれを悔やんでいたとしても、仕方のなかったことだ。 「仰ることはわかります」 「ですがここは牢獄ではありませんし、私は聖女です」 「身分が違う、とでも言いたいのか?」 「そりゃ、あんたには牢獄の実情などわからんだろうよ」 〈反吐〉《へど》が出る。 「ふふふ……」 聖女が、口元に手をあてて笑う。 「カイムさんは本当に牢獄がお好きですね」 「生きる場所を選ぶ権利などなかった」 「好きであんなところに落ちる奴がいると思うか?」 「以前にも申し上げましたが……」 「お好きでないのであれば、お出になればよいでしょう?」 「今のあなたであれば簡単なことでしょうに、なぜそうなさらないのですか?」 「……」 なぜ俺が牢獄から出ようと思わなかったのか。 答えは見つかっていない。 「カイムさんは普段、食事にはそれほど困られていないでしょう」 「聖殿の料理に文句を仰るくらいなのですから」 「服装も整えられていますし、それなりの暮らしをなさっているのではないですか?」 「それは今の話だ」 「昔は、文字通り泥水をすすって生きていた」 「牢獄での生活は厳しく、信仰など持つ余裕などないと仰いました」 「その通りだからな」 「一般的にはそうかもしれませんが、カイムさんは違うでしょう?」 「衣食は足りて、牢獄から出られるにも拘わらず出ない……」 「牢獄の一般論を、ご自身にも当てはめる……」 「まるで、牢獄の苦しさにしがみついているようです」 「私の立場から言わせていただくのなら……」 「それも、信仰です」 「……」 「違うでしょうか?」 その言葉と共に、聖女のクイーンが俺のキングを追い詰める。 わずかな隙間を縫って逃げる。 「信仰を捨てろとは申しません」 「私も自分の信仰は捨てられないのですから」 「ですが、私の行為を否定なさるのは筋が違います」 追いすがる聖女のクイーン。 このままではチェックメイトをかけられてしまう。 「……言うじゃないか」 「ここまで追い詰められたのは初めてだ」 ポーンを移動させてチェックを外し、逆にチェックをかける。 「私の信仰をくだらない、などと言うのでつい本気になってしまいました」 「申し訳ありません」 そう言いながらも、聖女は笑っている。 こいつは愚かでないのは、今のやり取りでもわかる。 ならば当然、自分の主張がこのままでは誰にも受け入れられないのも知っているはずだ。 知っていてなお、最も愚直なやり方を選択する。 それは何故か。 目的遂行の『手段』に価値を見ているからだろうか。 「同じくらい真剣にラヴィのことも考えてやれ」 「あいつは、自分が罰を受けている間、聖女さんのことを頼むと俺に言ってきた」 「あんたのせいで罰を受けるのにだ」 聖女が、はっとしたように顔を上げる。 しかし、またすぐに視線を落とした。 「ラヴィには申し訳ないと思っています」 「長い付き合いなので、どうしても気遣いがおろそかになってしまうようです」 「甘えてるってことか」 「……」 聖女は黙り込む。 が、きっとこちらを〈睨〉《にら》み返す。 「私とラヴィはそのような関係ではありません」 「互いに、信仰へ身を捧げると誓った聖職者です」 「ラヴィも私が折れることを望んでいないでしょう」 「ほう」 「私が信仰を諦める時……それは私がただの人形になる時なのです」 「……」 聖女もラヴィも同じことを言い、互いの役割を同じように理解している。 古くからの友人、というのは確かなようだ。 「そこまでわかっているなら、優しい言葉の一つでもかけてやれ」 「少しの言葉で救われることだってある」 ナイトでチェックをかける。 「え……ああ、その手が……」 がっくりと〈項垂〉《うなだ》れる。 今回見せた聖女の手筋はかなりよかった。 ひやりとさせられた。 「ありがとうございます。色々と気にかけてくださって」 「俺は依頼主には優しいんだ」 「私が依頼主ではなかったら、見捨てるのですか?」 「さてな」 聖女が苦笑する。 「今日はこのくらいにしておきましょう」 「ああ」 チェス盤と駒を片付ける。 「じゃまた明日」 「お待ちください」 部屋を出て行こうとしたところを呼び止められる。 「あの……カイムさん、お願いがあります」 「なんだ?」 「後で、ラヴィをここへ呼んでいただけないでしょうか」 気恥ずかしそうに言う。 俺の言葉も、多少は届いたらしい。 「ああ、わかった」 しばらくして、聖女の部屋に行っていたラヴィが戻ってきた。 「ただいま戻りました」 「あ、おかえりなさい」 「聖女様は何か仰っていましたか?」 「はい、労いのお言葉をかけていただきました」 「大儀でした、ってやつか?」 「ふふっ、そうです」 ラヴィの笑顔を見てほっとする。 少しは元気を取り戻したようだ。 柄にもなく、俺も安堵を覚えた。 「カイム様のお陰です、本当にありがとうございました」 「気にするな」 「カイムさん、ラヴィさんには優しいですね」 「どうしてでしょうか?」 ティアが首をかしげる。 阿呆なことを考えているようだ。 どうせ結論はわかっている。 「あ、わかりました」 「ひょっとして、ラヴィさんが気になっているんですか?」 全くひねりのない答えだった。 「そ、そうなのですか?」 ラヴィの首筋に血が上る。 スカートの裾を握りながら、落ち着きなく床のあちこちを見回している。 「あ、あの、そのように思っていただけるのは大変光栄です」 「で、ですが、申し訳ありません」 「私は聖職者ですので、異性の方と関係を持つことは禁じられております」 「カイム様のご期待に添うことは……」 あわあわとしながら、ラヴィは頭を下げ続ける。 何も言っていないにもかかわらず、振られてしまった。 「おい、勝手に話を進めるな」 「ラヴィ、ティアの妄想を真に受けるなよ」 「あれ、外れてましたか?」 「ああ」 「す、すみません」 「妄想……なのですか?」 「チェスの相手だけじゃ暇だから、口を挟んでいるだけだ」 「ですよね……」 何故こいつらのやることに口を挟むのか。 不器用すぎて放っておけない、などというそれこそ聖職者のような気持ちはない。 恐らく、見たことのない種類の人間に興味を覚えているのだと思う。 牢獄では、多くの人間がその日の糧を得るために手段を問わず戦い、多くは敗れ消えていく。 それに対し聖女やラヴィは、むしろ手段に執着しているかのように、同じやり方を繰り返す。 俺には理解できない、別世界の人間だった。 「落ち込んでますか?」 「い、いえいえ、そういうわけではありませんっ」 ティアに突っ込まれ、ラヴィは顔を赤くする。 「聖職者の方って結婚できないんですか?」 「はい、聖職者は神と契りを交わしておりますので、結婚はできません」 「残念ですね……」 「いえ、初めから覚悟を決めていることですから」 ラヴィが苦笑した。 神に仕える身か。 「お前の場合、神というより聖女さんに仕えてる感じだな」 「聖教会の人間は皆、神と天使様、そして聖女様にお仕えしているのです」 それはわかる。 だが、どうも聖女とラヴィは少し違うような気もする。 「まあそれはいい。それより、聖女さんを説得することはできたか?」 「いえ、説得していません」 「していない? じゃあ甘んじて罰を受けるということか?」 「はい」 「俺たちは大聖堂に移ってもいいんだぞ」 俺としては、別にどこにいることになろうが構わない。 「いえ、このままここにご滞在ください」 「聖女様も望んでいらっしゃいます」 ラヴィはこちらを見つめて答える。 その瞳に迷いはない。 「……ラヴィさん、罰って何ですか?」 ティアはあの話を聞いていなかったな。 かいつまんで説明してやる。 「つらくないと言えば嘘になりますが……」 「聖女様のためと思えば耐えられます」 「ラヴィさん、わたしも一緒に罰を受けます」 「え……っ!?」 ティアが突拍子もないことを言う。 「馬鹿か、お前は関係ないだろ」 「でも、わたしがここに来たことにも原因がありますよね」 「でしたら、わたしも一緒に罰を受けた方がいいと思います」 「滅相もありません!」 「でも、きっと一人より二人の方がきつくないと思います」 「お気持ちだけで十分です」 「これは私と聖女様の信仰の問題なのです」 「……」 ティアが悲しそうな顔をする。 よくもまあ、人の話でここまで悲しい顔ができるものだ。 「それなら罰の後ですぐに元気が出るよう、何かしてやったらどうだ」 「カイムさん……」 「そうですね、それがいいかもしれません」 「ラヴィさん、わたしラヴィさんのためにお料理します」 「美味しいものを食べれば、きっとすぐに元気が出ますよ!」 「いえ、私は聖職者ですので……」 「何か食べちゃいけない決まりでもあるのか?」 「肉食は禁じられております。それ以外は問題ありませんが……」 「ならいいじゃないか」 「少しくらい美味いもの食べたところで、神様も文句は言わないだろうよ」 「ですが……」 ラヴィが渋る。 何か理由があるようだった。 「食べられない理由でもあるのか?」 「聖女様は、儀式で浄化された物しか召し上がることができません」 「作っていただいても、私しかいただくことができないのです……」 そんなことを気にしていたのか。 「お前は聖女さんのために罰を受けるんだろ」 「だったら、こっそり飯を食うくらいは許されていいと思うぞ」 「聖女様には申し訳ないですけど……でも、わたしもそう思います」 「せめて温かいものを食べて、元気出してもらいたいです」 「お気持ちは嬉しいのですが、やはり……」 「頷いていただけないなら、わたしも一緒に罰を受けたいです」 「御子様……そのようなわがままを……」 ラヴィは苦笑する。 「……わかりました」 「では罰を受けた後のこと、楽しみにしております」 「はい、任せてくださいっ」 「頑張れよ」 ティアは、久しぶりに料理ができるとあって嬉しそうだ。 「……あれ?」 ふと、皆の動きが止まる。 風に乗って、かすかな音色が届いてきた。 「これは……聖女さんの竪琴か」 「カイム様はご存じなのですね」 ラヴィは窓辺に寄り、静かに窓を開ける。 「綺麗な音です」 「聖女様がお疲れの時、よく演奏されるのです」 綺麗な琴の音に耳を傾けながら、ラヴィが答える。 「これは何ていう曲なんだ?」 以前、聖女に聞いても答えてもらえなかった質問。 ラヴィなら知っているだろうか。 「……この曲は私と聖女様が聖職者になるずっと前からの、思い出の曲なのです」 「いつどこで覚えたものか、もはや記憶の彼方なのですが……」 「この曲は、いつも聖女様と私の傍にありました」 「辛いときも悲しいときも、この曲で慰められました」 遠い昔を思い起こすように、ラヴィは静かに聞き入りながら言葉を紡ぐ。 「ですから……」 「聖女様がこの曲をお弾きになっていたことは気づかないふりをしてくださいませ」 「え、どうしてですか?」 「きっと、聖女様は弱った自らのお心を慰めるために弾いておられるのです」 「聞かれていると知ったら、気まずい思いをされるでしょう」 聖女は言っていた。 単に自分の心慰みのためだと。 聖女とラヴィは、深いところで繋がっている。 「つまりこの曲を弾いている時は、その頃に戻りたいと思っているわけか」 「さあ……それはどうでしょうか」 ラヴィは複雑な表情を見せる。 嬉しいような、寂しいような……それでいて悲しんでいるような。 今まで見たどんな顔よりも、大人びていた。 「あんたらも色々あったんだな」 「ええ……そうですね」 「ですが、今それを思い出すことは〈憚〉《はばか》られる……そういう思い出なのです」 「できればそっとしておいていただけないでしょうか」 ラヴィは静かに微笑み、静かに窓を閉じた。 「では始めろ」 大聖堂の奥の間で仕置きが始まる。 ナダルの言葉を合図に、傍に控えた聖職者たちはラヴィに水を浴びせた。 こちらに跳ねてきた水しぶきが、驚くほど冷たい。 水浸しになりながら、ラヴィは一心に祈りの言葉を呟き続ける。 「カイムさん……」 ティアが〈縋〉《すが》るような目で見てくる。 見られたところでどうしようもない。 ラヴィが敢えて望んだ罰だ。 「俺たちが口出しすることじゃない」 「そうだろ、神官長?」 「ご理解痛み入ります」 ナダルは厳しい顔をラヴィに向けたまま、こちらを見ようとしない。 「ナダル」 「……何でしょうか」 凛と響く聖女の声に、打たれたように振り返る。 「これであなたは満足ですか」 「心外です」 「好き好んで仕置きをするものなどおりません」 「ですがこの世の秩序と安寧のため、頑として守らなければならぬことがあります」 「聖女様、我を張るのはいい加減になさいませ」 「ナダル、あなたの信仰とは聖教会の秩序と過去に定められた聖戒に殉じることなのでしょうね」 「それが聖職者として正しい姿であることは否定しません」 「ですが、私には決して曲げることのできない、私の信仰があるのです」 「私には聖女様のお言葉の意味がわかりません」 「我々は神と天使様、そして聖女様にお仕えしております」 「初代イレーヌ様が神と交わされた誓約を守り、その大切さを皆に伝えることが我々の使命です」 「それ以外のあり方など想像ができません」 「初代イレーヌ様は、天使様のお導きによって聖戒を作られた」 「難しいことは何もありません」 「私もまた、初代様のありように準じようと考えているだけです」 威厳に満ちた、静かな聖女の声が響く。 「失礼致します」 聖女の言葉に圧倒され、ナダルは踵を返して去っていった。 ナダルが去り、聖職者たちは戸惑ったように顔を見合わせる。 「続けなさい。たとえいかなる経緯があったとしても罰は罰です」 「皆の前に等しく神の慈悲があらんことを祈りなさい」 「は、はい!」 聖女の言葉に、目が覚めたような表情を浮かべる。 やはり、聖女は皆の聖女なのだ。 「……カイムさん」 聖女が手を差し出してくる。 ラヴィが罰を受けている間は、目の見えない聖女の手を取る者が必要だ。 「ああ、わかった」 俺は聖女の手を取り、ゆっくりと歩かせてやる。 真っ白な絹の手袋を通して、聖女の熱が伝わってくる。 その手は燃えるように熱い。 大聖堂内を横切り、聖域へと向かう。 何でもない道のりだが、目の見えない聖女を連れていると緊張する。 「そんなに固くならずとも大丈夫ですよ」 「普段より歩きなれた場所。物の位置はわかっております」 「そうか。慣れないもんでな」 俺に手を引かれながら、ゆっくりと大聖堂の中を歩いていく。 朝の礼拝も終わり、人影はほとんどない。 「カイムさんは手が大きいのですね」 「ラヴィよりは大きいな」 「ふふっ、照れているのですか?」 「女と手を繋いだだけで喜べるほど〈初心〉《うぶ》じゃない」 「一応女として見てくださっているのですね」 「当たり前だ。聖女だからな」 何が言いたいんだこいつは。 「こうしてカイムさんに手を引いてもらうのもいいですね」 「チェスだけではお暇でしょうし、カイムさんの新たなお仕事にしましょう」 「構わないが、報酬は弾んでもらうぞ」 「わかりました」 「楽しそうじゃない」 聞き慣れた声が聞こえる。 「……エリスか」 「聖女様の従者にでもなったの?」 聖女の手を引く俺を見て、エリスは冷たい瞳でこちらを見据えている。 「仕事の一部だ」 「へえ」 「あ、エリスさん」 「あら、小さくて見えなかった」 「ひ、ひどいです……」 「お知り合いですか?」 「ああ、牢獄の知り合いだ」 「知り合いだなんて冷たい」 「どう紹介しろと?」 「深い知り合い」 「阿呆か」 何故か聖女を牽制するエリス。 「あの、実際は?」 「まあ、腐れ縁の知り合いだ」 「で、何しに来た?」 「これ、メルトからお土産」 「食べ物だと思う」 「ありがたい」 「相変わらずメルトは気が利く」 「ま、そこそこね」 聖殿の味気ない料理には飽き飽きしていたところだ。 「来るのに随分と間があったな。そっちは忙しいのか」 「ベルナドの残党狩りで、生傷絶えない連中が毎日やって来るの」 「忙しくて大変」 「稼ぎ時じゃないか。頑張れよ」 「うん」 ジークも活発に動いているようだ。 不蝕金鎖の力を牢獄全体に浸透させるため、奔走しているのだろう。 「カイムさんのお知り合いの方、エリスさんですね」 「私は第29代、聖女イレーヌです」 「知っているわ」 「それより、いつになったら牢獄に帰ってくるの?」 「……」 すげなくかわされ、聖女はむっとした表情を浮かべる。 「しばらくここに〈逗留〉《とうりゅう》することになった、と言っただろう」 「いつまで?」 「それは……聖女さん次第だな」 エリスに事情を話す。 「聖女様が天使の夢を見るまで、ここにいるわけ?」 「そうだ」 エリスの表情が険しくなる。 「何か言いたいことがあるみたいだな」 自重するよう目で訴える。 「くだらなくて涙が出そう」 「こんなところ、一刻も早く出た方がいいんじゃない?」 全然伝わってなかった。 ため息が出る。 「お待ちください」 聖女がエリスの前に立つ。 「聞き捨てなりません。天使様のお言葉をくだらないとは何ですか」 「あなたの夢でしょ。天使の声じゃない」 「天使様は私の夢の中で苦しみをお告げになるのです。ただの夢ではありません」 「医者の私から言わせてもらえば、ただの妄想かクスリのやり過ぎね」 「クスリとは何のことですか」 「麻薬のこと」 「……私が〈穢〉《けが》れた薬に手を染めていると?」 「何という侮辱を!」 「あなたがこの都市を浮かせているのは知ってる」 「でも、夢で見たからあの小動物が天使様の御子だ、なんて話は信じられない」 「普通に考えればわかることでしょ」 「おい、エリス」 言いたいことはわかる。 むしろ正常だ。 だが、場所を考えて欲しい。 「天使様のお告げが、にわかに信じがたいものであることはわかっています」 「ですが、私が麻薬を用いているような物言いは侮辱です。撤回してください」 「そんなこと知らないわ」 「私にわかるのは、あなたが夢だ何だと言っているせいで、カイムが阿呆なことに付き合わされているということ」 「本当に可哀想」 エリスにとっては、相手が聖女だろうが何だろうが関係ないらしい。 見ていて清々しいほどだ。 「……あなたの言い分はわかりました」 「ですが、今カイムさんは私に雇われているのです」 「用事もお済みになったことでしょうし、牢獄にお戻りなられてはいかがですか?」 「お一人で」 聖女は微笑を浮かべながら、エリスに促す。 「カイム、帰りましょ」 「こんなところにいても時間の無駄よ」 「お前だけで牢獄に戻れ。俺はもうしばらくここにいる」 「どうして」 「色々知りたいことがあるんだ」 「もしかしたら、それがわかるかもしれない」 エリスなら、俺が言いたいことがわかるはずだ。 「……わかった」 「洗礼を受けて聖職者になる時は連絡して」 「あり得ない心配をするな」 「どうだか」 エリスは鼻を鳴らして、去っていった。 夕刻、俺は祈りを終えた聖女の部屋を訪ねた。 聖女の傍にいて欲しいという、ラヴィの注文があったからだ。 「あ、カイムさん……」 「今日の祈りはもう終わりか?」 「ええ、はい……」 聖女が視線を落とす。 やはりラヴィが心配なのだろう。 表情は暗く、瞳に憂いが浮かんでいた。 「それにしても、あんたの目は奇妙だな」 「何故、聖殿の中だけで見える?」 「私にもわかりません」 「このせいで、最初は目が見えなくなったことを信じてもらえず苦労しました」 「だろうな」 「橋を渡れば見えるようになるなど、聞いたことがない」 「〈四囲〉《しい》が闇に閉ざされていれば、微かな光も決して見逃しません」 「御子を見出すことができたのも、この目のお陰だと今は思っています」 「なるほど」 「聖殿でだけは、過酷な試練を忘れて羽を伸ばせってことなのかもしれんな」 「面白いことを仰いますね」 聖女の顔に笑顔が戻る。 「よろしければ、チェスのお相手をしていただけませんか」 「今はラヴィが罰を受けてる最中だぞ?」 「わかっています」 「わかっているのですが、今はどうしても……」 苦しげに眉を歪める。 そういえば、ラヴィにも聖女の傍にいるよう頼まれていたな。 罰を受ける人間はもちろんだが、それを見守る方もつらい。 ましてや、その罰が自分のせいなら尚更だ。 あのエリスでさえ、俺が鞭打ちを受けている間は苦しげな顔をしていた。 「……わかった。ラヴィからも頼まれているしな」 机にチェス盤と駒を持っていく。 「ラヴィから?」 「昨日言っただろう」 「お前が心細くないよう、傍にいてくれと言われたんだ」 「……そうでしたか」 「後で礼を言うんだな」 「はい」 聖女が神妙な顔で駒を並べる。 「……」 言葉少なに、駒を動かし合う。 「エリスのことだが……気を悪くしないでくれ」 「あいつの口の悪さは牢獄流でな」 「……あの方ですか」 聖女が、わかりやすくむくれる。 牢獄内でしか通じない冗談を聖女にぶつけたのだ。 怒るのも当然だろう。 「正直に申し上げて、とても不愉快でした」 「昔、色々あってな」 「大目に見てやってくれ」 「そう仰いましても、言って良いことと悪いことがあります」 「私が〈穢〉《けが》れた薬を飲んでいるなどと、侮辱にも程があります」 「だから謝ってるだろう」 「あ……そうですね」 元はと言えばこっちが悪いのだ。 やりこめても仕方ないか。 「あの、少々お聞きしてもよろしいですか?」 「ああ」 「カイムさんとエリスさんは、どういったご関係なのでしょうか?」 「どう、と言われてもな」 真っ正直に答えるは面倒だ。 いろいろとややこしいし、こいつの倫理観では受け入れられないだろう。 「〈娶〉《めと》られているのですか?」 「違う」 「お話を伺っていた限りでは、とても親密なように思いましたが」 言いながら、少し不機嫌そうに視線を逸らす。 口も不満げに結ばれていた。 「妬いているのか」 「な、何を仰るのです!?」 「この身は神に捧げているのです。嫉妬の情を抱くなどあり得ません」 顔を赤くして反論してきた。 からかい甲斐があるな。 「ああ、わかったわかった」 聖女を落ち着かせ、続きを打たせる。 「聖女は清らかなる者。色恋沙汰に結びつけられるのは不愉快です」 「なら、一生独り身で過ごすのか?」 「当然です、聖戒に定められていることですから」 「聖戒ってのは、破ったらどうなる?」 「破門です」 「厳しいな」 「厳しい聖戒を守るからこそ、聖職者として皆からの信望が得られるのです」 「しかし、あんたは聖戒を重要視していないと思っていたが」 「何故そのようなことを」 「聖戒を守ろうとする神官長といつもぶつかっている」 「神官長は聖戒に忠実な聖職者だろう?」 「その部分で対立すると、あんたは不利になるぞ」 「今度はナダルの肩を持つのですか?」 「あんたのやり方が悪いから突っ込んでるんだ」 聖女がむすっとした表情を浮かべる。 「でなければ、大切なものを奪われることになる」 ビショップを進めて聖女のクイーンを奪う。 無論、聖女にとってのクイーンはラヴィだ。 今、ラヴィは聖女が我を通すための犠牲となり、罰を受けている。 「……」 聖女が押し黙った。 俺の進めたビショップを凝視し、溜め息をつく。 「私は、ラヴィにひどいことをしました」 「ですが、ラヴィも私が折れることは望んでおりません」 「それなら弱音を吐くな」 「厳しいのですね……」 聖女がか細く笑う。 「本当にラヴィのことを思うなら、私は信仰を捨てるべきなのでしょう」 「そうすれば辛い日々から解き放たれ、平穏な日々に戻ることができる」 遠い目で何かを見つめる。 「それは、ラヴィじゃなくてあんたが望んでいることなんじゃないのか?」 「聖女は決してやめることなどできません」 「ですが、ラヴィは違います。私が一言、お付きから外すと言えば解放されます」 「それであんたは平気なのか?」 「私よりラヴィの方が心配です」 「彼女は、私のお付きであることで自分を保ってきた部分があるのです」 「それが潰えた時、どうなってしまうのか」 「そんな心配をするなら、少しはラヴィのことも気遣ってやれ」 「わかっています」 「ですが、時々どうしても許せないことがあるのです」 「信仰を偽るとか何とかってやつか?」 聖女が頷く。 二人の間にどんなやり取りがあったのかは不明だ。 だが、その信仰というのは二人にとって大切なものなのだろう。 「人が許せない、か」 「聖女と言っても、そこはやはり人間だってことだな」 「その通りです、カイムさん」 聖女が真剣な、そして切実な思いを込めた瞳でこちらを見つめてくる。 「私は天使様に祈りを捧げ、この都市を浮かせている聖女です」 「ですが、そうして崇められているのに、皆は私の聞いた天使様の言葉を信じようとしない」 「なら、皆が崇める私とは、一体何なのでしょうか?」 簡単なことだ。 聖女は都市を浮かせているからこそ崇められている。 それ以外の部分など、住民にとっては大した問題ではない。 〈途轍〉《とてつ》もない、抗いようのない暴力。 俺から家族を、家を友人を…… 大切なものを全てを奪っていった。 「聖女を殺せ、聖女を殺せ!」 「聖女を殺せっ!!!」 暗い記憶が頭をよぎり、視界が揺れる。 「……カイムさん、大丈夫ですか?」 我に返る。 「あ、ああ……」 「顔色が優れませんが」 「いや、何でもない」 嫌なことを思い出してしまった。 「申し訳ありません。カイムさんを惑わせてしまいました」 「気にするな。少しぼうっとしてただけだ」 聖女は何のためにいるのか。 考えるまでもない、都市を浮かせるためだ。 「駄目ですね、私は。こうしてカイムさんを巻き込んで、甘えてしまっています」 「エリスさんの言っていた通りなのかもしれません」 確かに、このままでは聖女とナダルの対立に嫌でも関わっていくことになる。 俺はいいがティアに危険が及ぶのは避けたい。 いい加減、牢獄へ帰った方がいいのだろうか。 しかし、俺とティアがここを離れるということは、聖女の願いを無下にするということだ。 果たして今、そうするべきなのだろうか。 「……」 聖女を見つめる。 いや……今はまだその時期じゃない。 「気にするな。あんたが望む限りは付き合ってやる」 「カイムさん……いいのですか?」 「ああ。だが、みすみす相手に大事な駒を取られるようなヘマはするなよ」 聖女のルークを奪って、チェックメイト。 脇が甘いのは、肝に銘じてもらわなければならない。 「申し訳ありません。気をつけます」 聖女はかすかに微笑む。 寄る辺のない者が見せる、悲しげな笑みだった。 扉が鳴らされた。 「あの、カイムさん、聖女様」 ティアがドアから顔を覗かせる。 「なんだ?」 「そろそろ、夕食の時間なのですが」 「もう一勝負だ」 「もう一勝負してからです」 俺と聖女の声が重なり、ティアが目を丸くした。 「わかりました。では、少ししてからお持ちしますね」 「ああ、よろしく頼む」 ティアが部屋から出る……と思いきや、扉の隙間からこちらを覗いた。 「カイムさんと聖女様、息がぴったりですね」 「……み、御子っ? な、何をおっしゃっているのですかっ」 聖女の声が聖殿に響いた。 夜の儀式が終わった。 聖職者たちは去り、今は私一人がここに残っている。 祭壇の先、空は暗く落ち込み、どこまでも星が広がっていた。 普段は傍にいてくれるラヴィがいない。 それだけで気持ちが暗くなる。 私は聖女として自らを律するのと同じだけ、ラヴィにもそれを求め、彼女を叱責してきた。 彼女の揺らぐ心や曖昧な態度が苛立つのだ。 それでも私は、ラヴィがいることで癒されていたのかもしれない。 あれこれと言いながら、結局ラヴィに依存しているのだ。 「……」 ラヴィは私の信仰を受け止めて、私のために罰を受けている。 申し訳ない。 だけど、それを伝えることはできない。 それを口にしたら、自分の信仰まで揺らいでしまうような気がするから。 どうして、こんなにも気持ちが落ち着かないのか。 ……カイムさんが来てからだ。 あの人は優しく、時に厳しく私を諭してくれる。 今まで、このように接してくれる者はいなかった。 彼は、どうして私に意見をくれるのだろうか。 「……っ」 慌てて首を横に振る。 何を考えているのだろうか。 私は聖女、第29代聖女イレーヌだ。 聖女イレーヌは神に仕え、天使様のお声を民に届けるための存在。 そのためにいる、そのためだけにいるのだ。 カイムさんがどう思っていようと、何の意味も成さない。 気分を落ち着かせるため、何度も深呼吸をする。 頭が冷えた分、胸の痛みが際だった。 この胸の痛みは何なのだろう? 「地震……!?」 大きな揺れを感じ、跳ね起きる。 壁に掛かった飾りが落ち、〈燭台〉《しょくだい》が机の上で倒れた。 しばらく待っていると、揺れが収まる。 「はあ……はあ……」 息が上がってしまう。 何度体験しても、地震だけは慣れない。 脂汗をぬぐい、周囲を見渡す。 「……んん、もうちょっと寝かせてください……」 かなり大きな揺れだったのだが。 平和な奴だ。 聖女やラヴィは大丈夫だろうか? 聖女の部屋には誰もいない。 朝の儀式の最中か。 祈りの祭壇では、聖職者たちが慌てふためいていた。 初めて儀式を見たときのような、荘厳な空気は完全に吹き飛んでいる。 〈跪〉《ひざまず》き、必死に天使への祈りを捧げている者、 聖女に助けを求める者、 うろうろと忙しなく歩き回る者。 聖女は呆然とした様子で、事の成り行きを見守っている。 「お前たち、取り乱すでない!」 ナダルの一喝に、聖職者達が動きを止める。 「お前は、民が大聖堂に入らぬよう、門を閉じる指示を出すように」 「それからお前。被害の状況を知らせに伝令が来るはずだ、裏門からお迎えせよ」 「お前は、大聖堂内の被害状況を確認せよ」 ナダルの指示を受け、聖職者たちが走り去っていく。 なかなか迅速な差配だ。 指示を出し終え、ナダルがこちらを向いた。 「これはカイム様」 「お怪我はございませんでしたか?」 「ああ、問題ない」 「では、一緒に来ていただけますか」 「構わないが、後でいいか?」 「聖女さんを置き去りにするわけにもいかない」 「わかりました」 「では、後ほど聖女様と共に大聖堂までお越しください」 そう言い残し、ナダルは去っていった。 「あんた、大丈夫か」 「……はい」 最近、地震が頻発していたが、ここまで大きい地震は初めてだ。 「申し訳ありません……」 「なぜ謝る?」 「カイムさんに不安を与えてしまいました」 俺の表情を読み取ったのか。 「それより聖女さん、神官長が大聖堂に来いと言っていたが?」 「恐らく、ラヴィのことです」 「参りましょう」 「ああ」 聖女の手を取る。 「お待ち申し上げておりました」 ナダルは奥の間で待っていた。 そこでは、ラヴィが昨日と同じ姿勢のまま祈りを捧げている。 組まれた手は震え、声は〈嗄〉《か》れて途切れがちだ。 「ラヴィリア、少し早いが罰を終えよう」 「神の前に自らの行いを深く反省し、聖職者たる本分を守るように」 「はい……神の、御心のままに……」 ラヴィは囁くように言うと、糸が切れたようにうずくまった。 「それでは、私はこれで」 「待て、どこに行くんだ」 「この声が聞こえませんか?」 言われて耳を澄ます。 遠くからざわめきが聞こえてきた。 「この声は?」 「大聖堂に押しかけてきた民の声です」 「皆、地震に不安を感じ、聖女様のお言葉を求めて集まっているのです」 「……」 言われて、聖女は居心地悪そうに顔を伏せる。 「聖女様、何か仰ることはございませんか?」 「此度の大きな地震は、御子様やカイム様がいらっしゃってからのことです」 「現在の環境に、何かお心を乱す要因があるのではないですか?」 「それは……」 「羽狩りのせいにするのはおやめください」 「今回の件と関係があるとは思えません」 先を越され、言葉を詰まらせる聖女。 「まあ、この際、聖女様のお考えは問いますまい」 「ですが、聖女様の信仰も御子様も、この都市の平穏あってこそのものです」 「都市が落ち着かぬ状況でわがままを仰れば、怠慢の〈誹〉《そし》りを受けることになりましょうな」 「今回の地震で、国王陛下や執政公からもご懸念の声をいただくかもしれません」 「私の言葉の意味は、お分かりいただけますな?」 「……」 聖女は悔しそうに奥歯を噛む。 つまりは、都市を安全に浮かせているなら話は聞くが、そうでないなら話を聞く気はないということか。 当然と言えば当然だ。 「いずれにしろ、ここまで大きな地震があった以上、何の説明もないままでは民の不安は解消されません」 「皆の心を鎮めるためにも、牢獄から順に、お目見えの儀式を行っていきたいと考えております」 「儀式の場で、民へお言葉をお授け下さい」 「私に、何を言えと……」 「何を仰るかは聖女様のお心のままに」 「日取りは追ってお知らせ致します」 「ですが、くれぐれもこの都市の安寧を第一にお考え下さいますよう」 「……わかりました」 「それでは失礼いたします」 聖女の答えに満足したのか、ナダルは〈鷹揚〉《おうよう》な足取りで奥の間から立ち去った。 その後ろ姿から、聖女が顔を背ける。 何のかんの言ったところで、都市を浮かせての聖女だ。 料理のできない料理人に発言権がないのと同じことだろう。 「ま、民への言葉はゆっくり考えろ」 「それより、まずはラヴィだ」 ラヴィに近づく。 水に濡れた床に、力なくうずくまっている。 肩を貸し立ち上がらせた。 「す、すみません……カイム様」 「気にするな」 「歩けるか?」 「はい、大丈夫です」 か細く笑うラヴィ。 あまり大丈夫そうではない。 早く寝かせてやろう。 「ラヴィを寝かせてきたぞ」 「ありがとうございます」 「ラヴィは、何か言っていましたか?」 「あんたの傍にいてくれと頼まれた」 「そうですか……」 ラヴィの献身的な態度には頭が下がる。 牢獄では、皆が自分のことを第一に考えている。 ここまで他人のことを一途に思うのは、やはり聖職者だからなのだろうか。 「今はティアが看護している」 「任せておけば問題ないだろう」 「御子にまでご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」 聖女が目を伏せた。 「カイムさん、お願いがあります」 「何だ?」 「チェスのお相手をしていただけませんか?」 耳を疑った。 「今はそれどころじゃないだろ」 「大聖堂には今朝の地震で住民が大勢押しかけてきているし、ラヴィは罰でぼろぼろになって隣で寝ている」 「わかっております」 聖女は無表情に俺を見つめてくる。 「これが、最後ですから」 真摯な目だった。 聖女は何を覚悟しているのだろうか。 「……わかった。相手になろう」 「では、行きます」 聖女の駒が動く。 今まで何度も指してきたが、見たことのない初手だった。 本気、というわけか。 いいだろう。 「最後に見事、俺に勝ってみせろ」 「そのつもりです」 聖女は、控えめに言って手強かった。 激しく食い下がり、こちらの戦力を少しずつ削っていく。 たった数日前まで初心者同然だったとは、とても思えない。 「やるじゃないか」 「カイムさんのお陰です」 消耗戦だった。 駒を奪い奪われ、その度に相手の駒を削り取らんと牙を剥く。 チェックの応酬、互いに攻め入るキング。 「こいつは……やられたな」 一歩も引かぬ戦いは……聖女のステイルメイトで終わった。 引き分けだ。 「やはり勝てませんでした」 「それでも引き分けだったんだ。大したもんだ」 短期間でここまで成長するとは。 嬉しくなって、俺は聖女の頭を撫でた。 「あ……カイム、さん……?」 「っと、すまない」 思わず撫でてしまったが、相手は聖女だった。 「いえ、ありがとうございます」 聖女の表情に、少しだけ余裕が戻ってきた。 先程の疑問を口にする。 「最後、というのはどういう意味なんだ」 「これより私は、天使様の御声を聞くために不断の祈りに入ります」 「不断?」 「片時も祭壇を離れず、祈りを捧げ続けるということです」 「水と食事を断ち、睡眠は祈りの姿勢のまま取ります」 「いつまで続けるつもりだ?」 「天使様から御声をいただく、その時まで」 睡眠は取れるとはいえ、祈りの姿勢のままでは深くは眠れない。 並の人間なら、2、3日が限界というところだろう。 ラヴィの受けた罰と同じか、それ以上の苦行だ。 ラヴィの苦しみを自分も受けるということか。 「天使の声が聞こえる確証があるのか?」 「確証などありません」 「それじゃ意味がないだろう」 下手をすれば、声が聞こえないまま死に至る可能性もある。 確証もなしに挑むことじゃない。 「それを無意味だとおっしゃるなら、私もまた無意味です」 「どうしてそこまでする?」 「夢を見たことにして、皆にそれらしいことを言えばいい」 聖女は静かに首を横に振る。 「私には、決して捨てられぬ信仰があります」 「これは、私が私でいるための戦いなのです」 「決して引けぬ、最後の一線なのです」 揺るがない瞳。 籠められた意志の強さは、牢獄で命がけの戦いに望む人間のそれと変わらない。 これが信仰に命を捧げる人間の戦いなのか。 ま、どこまで頑張れるか見届けてやろう。 上手く天使の声を聞いてくれれば、こちらも助かる。 「……わかった。ティアとラヴィには俺から伝えておこう」 「ありがとうございます」 聖女は俺に一礼し、祈りの祭壇へと向かっていった。 聖女が祭壇に向かった後、ラヴィの様子を見に行く。 「あ……カイム様」 ベッドのラヴィと目が合った。 顔色は優れないが、一応は回復したようだ。 「気分はどうだ?」 「多少疲れがありますが、もう平気です」 「ならよかった」 椅子を持ってきて、ベッドの脇に座る。 「ティアもご苦労だったな」 「いえ、わたしは本当に見ていただけですから」 「まあいい」 ティアの頭をぽんぽん叩く。 「すみません、外が暗くなるまで寝てしまいました」 「一晩中お祈りをしていたんですから、無理もないです」 「いえ、地震が起きて大変な時に寝ているなんて、恥ずかしいです」 「聖女様にご報告をしようと思ったのですが、お部屋にはいらっしゃいませんでした」 「カイム様、聖女様はどちらに?」 まずは、あいつのことを教えなくてはならないか。 「今日から不断の祈りに入るらしい」 「不断の……」 ラヴィの顔がこわばる。 「天使の声を聞くまで祈り続けるらしい」 「大丈夫なのでしょうか……」 「さっきも言っただろう。俺たちが心配してもしょうがない」 「これは聖女さんの問題だ」 「……そうですね」 「聖女様がそう決断されたのなら、見守るより他はありません」 「私も、自分にできることをしたいと思います」 「ああ、そうしろ」 ラヴィには何か考えがあるらしい。 真面目な性格な奴ほど、いざとなると思い切ったことをする。 無謀なことをしなければいいが。 「あ、あの、ところでラヴィさん」 「これ……」 手に持っている〈籠〉《かご》を差し出す。 被せてあった布巾を取ると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。 「これは……」 「罰を受ける前に約束したお料理です。ラヴィさんのために作りました」 ヴィノレタ名物、林檎と杏子のキャラメルがけだ。 本家に比べればまだまだだが、味見をした限りではそれなりに美味かった。 「御子様……」 「わたしにできることなんて、このくらいですから……ぜひ召し上がって下さい」 「御子様は……本当にお優しい方ですね」 「私などのために……ありがとうございます……」 ラヴィは〈籠〉《かご》を受け取り、机の上に料理を取り出す。 「あの……食べてくれるんですか?」 「はい。御子様のお心遣い、ありがたく頂戴いたします」 ラヴィが微笑む。 聖女は今、不断の祈りに入っているのだ。 傍にいられない罪悪感はあるだろう。 それでもティアの気持ちを無下にはできないらしい。 「それでは、いただきますね」 添えてあった食器でひとすくい、ソースの絡まった林檎と杏子を口に運ぶ。 「……っ、美味しい……! こんな美味しいもの、初めて食べました……」 「これを本当に御子様一人でお作りになったのですか?」 「はいっ、わたしが作りました」 ティアが胸を張る。 「こんな美味しいものを作れるだなんて……信じられません」 「いえ、わたしなんてまだまだです」 「これよりもっと美味しいものを作れる方が……?」 「牢獄の酒場に来た時、カウンターの向こうに女がいただろ」 「メルトっていうんだが、今の料理はもともとそいつが考えたものだ」 「あの方が……」 料理をまじまじと見つめ、林檎を口に運ぶ。 「これをあの子にも食べさせてあげられたら……」 「あの子?」 「……いえ、何でもありません」 「それより、私一人では食べきれませんので、カイム様も御子様も召し上がってくださいませんか」 「わかりました。それじゃ取り分けますね」 ティアはナイフで手際よく切り分ける。 その後、3人でティアの作った料理を残らず平らげた。 「来たぞ」 「はい」 ナダルがゆっくりとこちらへ歩いてくる。 聖女は昨日から不断の祈りに入っていた。 今日からは毎朝晩の儀式はやめ、ひたすらに祈りを捧げている。 当然、ナダルが納得などするはずがない。 文句を言ってくるのを見越して、ここで待っていたのだ。 「これはカイム様。こんなところで何をしておられるのですか」 「俺は暇つぶしだ」 実際はラヴィのお守りだ。 「ナダル様、聖女様に何かご用でしょうか」 「お前に話しても詮無いことだ」 「聖女様は不断の祈りに入られています」 「ご用件は私が承ります」 ナダルが〈鬱陶〉《うっとう》しげに顔をしかめる。 「お前は身の程を知らぬようだ」 「言うてみよ。お前はなぜ、罰を受けた?」 「それは……私が聖女様を説得することができなかったからです」 「その通りだ。ならばお前に伝言を頼むことができると思うか?」 「……っ」 「わかったらそこを退け。私の口から直接聖女様にお話しする」 「お待ちください!」 「誰も祭壇に入れてはならぬ、と聖女様より言いつかっております」 「どうか、ご用件は私に」 「今の話を聞いていなかったのか」 「聖教会全体に関わることだ。お前が出てくる幕ではない」 雷鳴のように、ナダルの怒声が響き渡る。 普段のラヴィなら縮み上がって謝罪するところだが。 「私は聖女様のお付きです」 「ナダル様にいかなるご事情があろうと、私は聖女様の命を守ります」 「聖女様が入れるなと仰った以上、誰であろうと決して入れるわけには参りません」 「どうか、どうかお願い致します!」 ナダルを相手に、ラヴィは一歩も引かなかった。 「ふざけたことを……」 拳を振るわせるナダル。 ラヴィの肩を掴んで、横へと押しのける。 「ならば力ずくで通るまでだ」 「な、ナダル様……!」 「やめておけ」 ナダルの前に立つ。 「カイム様、これは聖教会の問題です」 「御子様のご縁者といえど、邪魔をなさらないで頂きたい」 しかし、ナダルは立ち止まった。 力ずくということなら俺に分がある。 それくらいはわかっているようだ。 「前にも言ったが、俺は聖女さんに雇われている身でね」 「立場の違いというやつだ。悪く思わないでくれ」 「……っ」 「何も話をしない、と言っているんじゃないんだ」 「用件を聞かせてくれれば、然るべき時にそれを伝える」 「そうだろ、ラヴィ」 「はい」 「ナダル様、私にご用件をお知らせいただけないでしょうか」 荒い息をついて、ナダルはラヴィを〈睨〉《にら》み付ける。 「昨日の大きな地震で、貴族の方々も強く不安を感じておられる」 「直接、聖女様のお言葉を賜りたいと陳情が来た」 「このままでは国の執政にも差し支えるため、聖女様には今日にでもお言葉をいただきたいと思っている」 「昼には貴族の方々がいらっしゃる。それまでに聖女様を説得しろ」 「……そんな……」 ラヴィの顔から血の気が引いた。 『不断』の祈りと言うからには、ずっと祈り続けるのだろう。 ならば貴族との面会は難しい。 「言っておくが、今度失敗すれば罰どころでは済まぬぞ」 「聖女様が何と言おうと、お前を破門にする」 強い口調で言って、ナダルが去っていく。 「このまま行かせていいのか」 「……で、ですが……」 仕方のない奴だな。 「おい、耳を貸せ」 「え……いたっ」 俺はラヴィの耳を強引に引っ張り寄せ、耳打ちする。 絶望に染まっていたラヴィの顔が、徐々に輝きを取り戻す。 「わかったか」 「……は、はい。ありがとうございます」 「いいから早く呼び止めろ」 ラヴィは頷き、小走りにナダルを追っていく。 「な、ナダル様、お待ちくださいませ!」 「……何だ」 「先のお話ですが……」 「昼までだ。必ず伝えろ」 「いいえ。先のお話、聖女様にはお伝えできません」 ナダルが〈怪訝〉《けげん》な顔をする。 「何だと?」 「聖女様は不断の祈りに入られました」 「都市を安寧に導くため、一時も休まれずに祈りを捧げられるとのことでした」 「貴族の方々と面会するために、祈りを中断していただくわけには参りません」 「重要度の問題だ。国政が滞っても構わないと言うのか」 「重要度でしたら、都市の安定の方が上かと存じます」 「それに、近々、聖女様のお目見えの儀が行われると聞き及んでおります」 「でしたら、貴族の方々もその時に聖女様のお言葉を賜ることができます」 「それまで待てと言うつもりか?」 「貴族は、この国の基盤を支えておられる方々だぞ」 「その方たちの不安を取り除かずして、何のための聖教会か」 「聖教会は万民のためにあると教えられて参りました」 「貴族も下層の住民も、そして牢獄の方々も同じ人の子です」 「にも関わらず、貴族の方々のみ特別に扱うのは聖教会の教義、聖戒に反すると思いますが」 「……」 ナダルが押し黙る。 思わぬ反撃だったようだ。 聖女とナダル、そしてラヴィを見て、聖職者の戦いの本質がわかった。 彼らは自らが表明した信念には、絶対に逆らえない。 だから、そこが弱点になる。 ナダルの場合は、聖教会の教義、聖戒がそれに当たるはずだ。 「そういえば、聖女さんが言っていたな」 「神官長、あんたには仲のいい貴族がいるらしいな」 ゆっくりと歩み寄りながら、ラヴィに加勢する。 「聖教会は様々な方の寄附で成り立っています」 「我々とて霞を食べて生きているわけではない。その辺りは承知していただけますな」 「よく知っている。牢獄じゃ、その理屈で毎日人が死ぬんだ」 「けどな。そんな糞なところでも、名の知れた奴は自分たちの決めたことは守り通す」 「そのためなら目下であっても頭を下げ、泥水〈啜〉《すす》らされたって我慢する」 「それが最後に自分の身を助けるって知っているからだ」 筋を通す。 暴力と理不尽、死で満たされた牢獄の中でも、通すべき筋がある。 それを忘れたら寝首をかかれても文句は言えない。 「……」 「ナダル様、どうか儀式の日までお待ちいただきますよう貴族の方々にお伝えいただけないでしょうか」 ラヴィは深々と頭を下げる。 ナダルはすっと無表情になり、拳を解く。 「……わかった。今回の件は私の落ち度もある。貴族の方々には私から陳謝をする」 そう告げると、ナダルは足早に去っていった。 ラヴィはおそるおそる顔を上げる。 「……か、カイム様」 「なんだ?」 「私……ナダル様を説得できてしまいました」 「そうだな。よくやったぞ」 「いえ、全部カイム様のお陰です」 「カイム様が助けてくださらなかったら、今頃どうなっていたか」 ラヴィは、俺の用意した筋書き通りにナダルを追い詰めた。 いい経験にはなったはずだ。 「次からは自分一人でやれ。やり方はわかっただろう」 「は、はい……多分、何とか……」 「支えきれなくなりそうだったら合図しろ。当面は助けてやる」 「ありがとうございます」 「こんなによくしていただいて……私、どうやってこのご恩をカイム様にお返ししたらいいか……」 ラヴィは顔を赤く染める。 「この程度のことで恩返しなんていらん」 「それより、頭を使ってどうしたらいいかもっとよく考えろ」 「はい、頑張ります」 ラヴィはほんわかと笑う。 まあ、今はこれでいい。 俺はラヴィと一緒に聖殿へと向かった。 ナダルを引き下がらせ、ようやく聖殿が落ち着いた。 聖女は一身に祈りを捧げ、ラヴィは日頃の仕事に勤しんでいる。 聖教会のいざこざには口を挟まないつもりでいたが、いつの間にかラヴィの手助けまでしてしまった。 自分らしくないと思いつつも、長い目で見れば間違ってはいない。 そもそも俺は、ティアの力の正体を知るためにここにいるのだ。 真偽は怪しいが、聖女が天使の声を聞くことは俺の目的に反しないだろう。 一刻も早く結論を得るためにも、聖女には祈りに集中して欲しい。 答えさえわかれば、こんな気の詰まる場所に用はない。 しかし…… 揃いも揃って、聖職者というのは奇妙な奴らだ。 牢獄民とは全く違う価値観で生きている。 聖女は、いかに不利になろうとも己の信仰を貫こうとする。 ラヴィは、聖女がいかに冷たい仕打ちをしてきても信じ続けようとしている。 それが奴らの戦いなのだろうが、俺から見れば不器用で意味のない戦いだ。 ま、奴らが真面目にやっていることだけは認めるが。 「……カイム様、カイム様」 聖職者が走り寄ってきた。 「なんだ?」 「これを」 辺りを見回しながら紙片を渡してくる。 「これは?」 「中を見ればわかるとのことです。それでは」 俺の返事も聞かず、足早に去っていく。 他人に見られたくない素振りだった。 ともかく、紙片を広げてみる。 『店で待つ。雨の日の友より』 ……システィナか。 きっと、他に気の利いた言い回しが思い浮かばなかったのだろう。 前に相談した〈風錆〉《ふうしょう》の残党の件で、何かわかったのだろうか。 まあいい、待ち合わせの店に行ってみるか。 大聖堂を出て、下層へと向かう。 例の店に行くと、既にシスティナが立っていた。 「来ましたか」 「よう、雨の日の友」 「やめてください」 「気の利いた恋文だった。心に響いたぞ」 「やめてください」 「それで、何の用だ」 「……ルキウス様が直々にお話しになります」 言うなり、こちらも見ずにシスティナは歩き出す。 ……相当照れくさかったんだな。 「ルキウス様、お連れしました」 「呼び出してすまない」 「またこんなところで立ち話か」 「ここなら人も来ないし、隠れる場所もない」 「話すにはいい場所だ」 確かに、盗み聞きをされる心配はなさそうだ。 「だが遠間から弓で狙われたら危ないぞ」 「そのために私がいます」 システィナは、ぬかりなく辺りに目を配っている。 「それでルキウス卿、今日は何の用だ?」 「先日、君が教えてくれた女のことだ」 「彼女の素性を知っている」 そうだったのか。 「誰なんだ」 「ガウと呼ばれている」 「本名かどうかはわからない」 ガウか。 奴の剣〈捌〉《さば》きを思い出す。 ベルナドが止めなかったら、今頃首と胴が泣き別れしていたところだ。 「剣技は超一流、だが少しばかり難のある性格でね」 「彼女の素性を知るものは、皆『バルシュタインの狂犬』と呼んでいるよ」 バルシュタイン? 「どこかで聞いたことがある名だな」 聞いたことがある。 要は、貴族の最高位── 国王の次に権力がある役職に就いている人間だ。 「知っているのは、飯の心配をしなくていい人間ってことくらいだ」 「執政公、ギルバルト=ディス=バルシュタイン」 「ガウはその部下だ」 あの女が執政公の部下、ということは……。 「〈風錆〉《ふうしょう》にクスリを流していたのは執政公ということか?」 「確証はない」 「ガウの副業という可能性もある。何しろ、あの女は狂犬だからな」 「人を殺すためなら何でもする……そういう奴だ」 「確かに狂ってるな」 「つい先日も、うちの副官が手を出して噛みつかれたばかりだ」 「ル、ルキウス様っ」 「ははは、すまないな、つい口が滑ってしまった」 「俺も危うくやられるところだった」 「噛まれ仲間じゃないか」 「私が喜ぶとでも?」 〈睨〉《にら》まれた。 「ガウは恐ろしく腕が立つ」 「尻尾を掴もうとすれば噛みつかれるだけだ」 「今しばらくは泳がせて、出方を見るしかない」 「そうだな」 恐らく尾行しても簡単に〈撒〉《ま》かれてしまうだろう。 深追いすれば死体になるだけだ。 「この事は他言無用で頼む」 「ここにいる人間以外には決して漏らさないでくれ」 「ジークにもか」 「相手は執政公だ。もし話が漏れれば間違いなく消される」 「彼を信用していないわけではないが、誰かに告げればその分だけ危険も広がる」 それはそうだ。 ジークに告げるのは、ルキウス卿が真実を明らかにしてからでも遅くはない。 「わかった。誰にも言わないことを約束しよう」 「そうしてくれ」 もし、クスリを〈撒〉《ま》いていたのが執政公だとしたら。 謎だった灰色の粉末の正体も知っていることだろう。 慎重に事を運び、情報を得なくてはならない。 「ところで……」 「昨日は大きな地震があったが、聖女様の様子はどうだ?」 「かなり追い詰められているな」 「ティア君は、まだ聖女様のところに居るのか?」 「ああ」 「これは差し出がましいことかもしれないが……」 「聖女様には、あまり肩入れしすぎない方がいい」 「何かあった場合、ティア君にも問題が波及しかねない」 「そうだな」 先日の地震は、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》以降、例がないほど大きかった。 かなりの人間が不安を抱えていることだろう。 このまま地震が止まなければ、いずれ住民の不安は怒りとなって爆発する。 そうなれば、大聖堂は混乱するだろう。 ティアも俺も、被害を被る可能性がある。 「聖教会内部には、こちらに通じた人間がいる」 「目を光らせておくように伝えておこう」 ありがたい話だ。 だが、少し話が美味すぎる気もする。 「なぜ、あんたはそこまで俺たちを助けてくれるんだ」 「正直少し気味が悪い」 「ガウは強い。クスリの出所を追っていけば、いつか必ず奴と剣を交える時がくる」 「恐らく、うちの副官だけでは押さえきれないだろう」 「君も力を貸してくれると助かる」 「その時のための投資、というわけだ」 そういうことか。 「あの女の相手をするんだったら、相当金を積んでくれないと割に合わないな」 「わかっている」 「詳しい話はまたいずれしよう」 「ルキウス様、そろそろお戻りになりませんと」 「ああ、わかった」 「では、何かわかったらまた知らせる」 「ああ」 「カイムさーん、ご飯ですよー」 ティアが配膳台を押して現れた。 扉を開けて、招き入れてやる。 「ラヴィはどうした?」 「何でも大聖堂で住民の方への対応をしなくちゃいけないとかで、忙しいらしいです」 住民を大聖堂の中に入れたのか。 忙しくもなるだろう。 「で、ティアが飯を用意することになったと」 「そうです」 「これじゃ牢獄にいるのとあまり変わらないな」 「あはは……」 今日の朝食はパンに香草のスープ、それと豆挽き粉を固めて焼いたものが少々。 それらを配膳台から机に移し、食べ始める。 「聖女さんの様子は見てきたか?」 「昨日の夜と同じように、ずっとお祈りしていました」 昨夜も、俺とティアは聖女の様子を見にいった。 その時のまま、ということだ。 「聖女様は大丈夫でしょうか」 「さあな」 俺やティアが何を言ったところで、やめたりしないだろう。 「俺たちが聖女さんにできることはない」 「食い終わったら、ラヴィのところに顔を出そう」 「そうですね」 「わあ、すごい人です……」 大聖堂は人でごった返していた。 ナダルが登壇して説法を行っているが、それでは収まらない人たちもいる。 時折、住人たちから怒声が上がった。 それを、他の聖職者たちが必死に〈宥〉《なだ》めている。 ラヴィもその中にいた。 「大変なことになっているな」 「はい……」 地震が起きただけでこれだ。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》が起こった時の状況は推して知るべしだ。 家族を失った者、家財を失った者の怒りは全て聖教会、そして聖女へと向かう。 「……」 以前の自分なら、住民たちと一緒に聖教会へ怒りをぶつけただろう。 だが懸命に住民たちを〈宥〉《なだ》めるラヴィを、そして一心に祈りを捧げる聖女を知っている。 「戻るか」 「わかりました」 俺たちが出て行ったところで邪魔になるだけだ。 今はじっとしているしかない。 「はあ……」 疲れた様子でため息をつく。 「かなりの人間が押しかけていたな」 「昨今の地震で、皆さん相当不安をため込んでいらっしゃるようでした」 「怒鳴っている人もいて怖かったです」 「聖女様に会わせろと聞かない方もいらっしゃって、衛兵の方をお呼びすることになってしまいました」 面倒なことになったな。 「申し訳ありません、御子様とカイム様のお世話ができませんでした」 「気にするな。こっちは勝手にやっている」 思えば聖女とのチェスが、一番の退屈しのぎになっていた。 なんだかんだ言って楽しんでいたのか。 「聖女様の様子はご覧になりましたでしょうか」 「ついさっき見てきたが、ずっと同じ姿勢で祭壇に向かってる」 胸元で手を組んで祈りを捧げる姿は、白絹をまとった彫刻のようだった。 指一本動かさず、同じ姿勢で固まっている。 信じられないほどの集中力だ。 「そうですか……」 「聖女さんのあれは、いつまで続くんだろうな」 「……」 互いに顔を見合わせる。 その答えは、まさしく神のみぞ知る、だった。 「カイムさん、朝ご飯です」 ティアが配膳台を押してやってきた。 「今日もラヴィは住民への対応か」 「そうみたいです」 朝食はパンに香草のスープ、それと豆挽き粉を固めて焼いたものが少々。 変わり映えのしない食事だ。 「ティア、飯はどこで作ってるんだ?」 「聖殿の中に調理場があるんです」 「門番をしている聖職者さんに言うと食材を持ってきてくれるので、そこで調理するんですよ」 「と言っても、パンを焼いてスープを作るだけですけど……」 「他の料理は作れないのか?」 「食材がすごく限られていて、わたしじゃ他のものは無理ですね」 「たったあれだけの食材で色々な料理を作れるラヴィさんはすごいです」 なるほど、ティアにはそう映るか。 「今日はどうする?」 「お掃除をしてます」 「掃除か」 「俺は大聖堂の様子を見てくる」 「わかりました」 大聖堂には今日も住民が詰めかけていた。 それでも、昨日よりは人数が少ない。 簡単に説法を終えたナダルが、俺に近づいてくる。 「これはカイム様」 「大変そうだな」 「ご覧の通りです。昨日から一般参拝を再開しましたが、民の不安は日に日に高まっております」 「この上、更に地震が起きでもすれば暴動に発展する可能性もある」 「そうなれば、最悪の事態にもなりかねませんな」 仏頂面で語るナダル。 「何とかならないのか」 「あんたらは聖女さんを補佐するためにいるんだろう?」 「その通りです。ですから私は再三にわたって忠告をして参りました」 「ところが聖女様は聞き入れてくださらない」 ナダルの言う忠告。 それは、俺やティアを聖殿から大聖堂に移すことを言っているのだろう。 「俺たちがいなくなれば地震は収まるのか?」 「それはわかりません。ですが、今の状態が聖女様にとって良いとは思えません」 「曖昧な話だな」 「この都市の命運は、聖女様の御心次第なのです」 「地震は、聖女様の祈りが天使様に受け入れられていない証拠でしょう」 「そのことを聖女様はお分かりになっているのかどうか」 「……」 ナダルの反応は、むしろ常識的だ。 聖女は地震に責任を感じているのだろうか。 「改めてお願い致します。カイム様、どうか聖女様を説得してくださいませんか」 「我々も、聖女様の身を案じているのです」 「考えておこう」 聖女は不断の祈りを行っている。 しかし、それでも天使の声が聞こえないなら俺も考えなくてはならない。 聖女の気持ちもあるが、都市が落ちては元も子もないのだ。 「戻りました」 「あ、ラヴィさん。お疲れ様です」 ラヴィは〈憔悴〉《しょうすい》しきった顔で、無理に微笑んだ。 「何か問題はございませんでしたか?」 「こっちは問題ない」 「それよりラヴィ、大丈夫か。相当疲れているように見えるが」 「朝は一人で住民への応対をしていたみたいだったが、他の奴らはどうしたんだ?」 「……」 ラヴィが答えにくそうに俯く。 「ナダル様が……聖女様の説得ができなかったのだから、聖女様に代わって住民の方々の不安を取り除くのはお前の仕事だと……」 「それで一人でやらされてたのか?」 「はい……」 「……ひどいです」 ナダルの意図はわかった。 ラヴィを追いつめ、引いては聖女を動かすための処置だろう。 「どうするんだ」 「どうしようもありません。私は私にできることを精一杯やるだけです」 愚直、としか言いようがない。 これではむざむざとナダルの餌食になるだけだ。 「聖女様の様子はいかがでしたでしょうか」 「ずっとお祈りをしているみたいです」 「もしかしたらと思って、お食事を祭壇の間に置いてきたんですけど……手を付けられていませんでした」 祈り始めてもう3日になる。 「カイムさん……」 言いたいことはわかる。 だが、聖女が自ら決めたことだ。 「今は我慢しろ」 「……はい……」 「カイムさーん」 ティアが朝食を持ってやってきた。 いつものように招き入れ、配膳台の上の皿を机に移す。 「ラヴィは……昨日と同じか」 「ですね。あ、でも今日はラヴィさんが用意してくれたんですよ」 香草と野菜のパイ、豆挽き粉の入ったスープ、そして温野菜のサラダだ。 「久々だと豪勢に見えるな」 「勉強しましたから、次からはわたしも作れますよ」 そいつはありがたい。 早速、ラヴィの作ったパイを口に入れる。 味は薄いが美味かった。 「こうして二人で食べるのも慣れてきちゃいましたね」 「そうだな」 聖女が不断の祈りに入ってから4日目。 そろそろ限界が見えてくる辺りだ。 集中力は枯渇し、身体にも力が入らなくなっているだろう。 もしかしたら、幻覚すら見えているかもしれない。 「わたしたち、ここにいていいんでしょうか」 ティアが不安を漏らす。 喜び勇んでここにやってきた時とは大違いだった。 「ティアはどう思っているんだ?」 「何がですか?」 「聖女さんの言う、天使の声のことだ」 正直、俺は今でも半信半疑だ。 信じてやりたいとは思うが、確たる根拠がない。 「わたし……怖いんです」 「怖い?」 「……もしわたしが天使様の御子だったら……それはとても嬉しいことです」 「だから、わたしは聖女様の言うことを信じたいです」 「でも、もしそうじゃなくて……聖女様やラヴィさんを苦しめているだけだったら」 「そう思うと怖くて、申し訳ない気持ちでいっぱいなんです……」 ティアは俯いてしまう。 ティアに不思議な力があることは確かだ。 蘇生に、〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》と同じ色の光。 俺がこの目で目撃したことだ。 ここにいれば、聖女の言っていた光との関係がわかると思っていた。 だが……。 「……せ、聖女様……聖女様っ!?」 唐突に悲鳴が聞こえた。 ラヴィの声だ。 「か、カイムさん……!」 「行くぞ」 俺は席を立ち、声のした方へと向かった。 祈りの祭壇に駆けつけると、ちょうど聖女がラヴィの手を払いのけるところだった。 「……お離しなさい。私は大丈夫です」 「で、ですが……」 聖女の髪がわずかに乱れている。 「ラヴィ、何があったんだ?」 「様子を見に来たら、聖女様が倒れられていて……」 「少しよろめいただけです」 答える聖女の顔は、明らかにやつれが見える。 「あまり無理はするな」 「無理などしておりません」 「よろけたのは、無理をしているからだろう」 「しておりません」 とりつく島がない。 「聖女様、せめてお食事だけでも召し上がらないとお体に障ります」 「ラヴィ……今が大事な時だというのがわからないのですか?」 「それは重々承知しております……」 「ならば余計な心配は無用です。下がりなさい」 「は、はい……」 ラヴィは悲痛な面持ちで下がっていく。 「さあ、お下がりください」 「まだ聞こえないのか」 「……お下がりください」 聖女が座った目でこちらを〈睨〉《ね》め付けてくる。 梃子でも動きそうにない。 「ティア、行くぞ」 「……」 何か言いたげなティアを連れて、祈りの祭壇を出た。 夜になっても、聖女は祈りの部屋から出てこなかった。 ラヴィが定期的に様子を窺っているが……。 「……」 祈りの部屋から戻ってきたラヴィの表情は暗い。 「ラヴィ、大丈夫か」 「私は大丈夫です。ですが……」 口を〈噤〉《つぐ》む。 言われなくてもわかる。 3日間祈りの姿勢のまま眠り、それに加えての断食と断水だ。 体力的にはとっくに限界を迎えているはずなのに、聖女は気力とそれを支える自らの信念で保たせてきた。 強靭な精神力だ。 「お目見えの儀式の日取りが決まりました」 「儀式?」 「はい。住民の皆様に、聖女様がお言葉をお告げになる儀式です」 「不断の祈りを中断する必要があるってことか」 「そうなりますね……」 「いつなんだ?」 「3日後、となりました」 なるほどな……。 つまり不断の祈りもそこまでということか。 だが、あと3日。 体力が持つとは思えない。 「じゃあ、聖女さんに伝えないといけないな」 「……はい、それと……」 ラヴィが言いづらそうに俯く。 「なんだ」 「次代聖女の選定が始まりました」 「……次代?」 「はい。第30代イレーヌ様の候補者選定です」 「私もナダル様に呼ばれ、聖女の洗礼を受ける気はあるかと聞かれました」 「待て、それじゃ今の聖女さんはどうなる?」 「わかりません……」 次の聖女が選ばれれば……当然、今の聖女は必要なくなる。 それは、聖女を処刑するということなのか? 「大丈夫です。次代聖女の選定は、聖女様に万が一のことがあった時のため毎年行われるのです」 「ただ、いつもよりかなり時期が早いことが気になりますが」 儀式の準備で忙しい中、いつもより早い時期に次代聖女の選定をする。 その理由はなんだ? ナダルが何を考えているのか気にかかる。 何にせよ、このままなら聖女は近いうちに倒れるだろうが。 「カイムさん……わたしもう、耐えられないです」 「ティア……」 「わたしのせいです。わたしが来なければ、聖女様もラヴィさんも、こんな風に追い詰められることはなかったんです」 「このままじゃ聖女様、本当に倒れちゃいます」 ティアは瞳に涙をためて訴える。 「カイムさん、聖女様に一日だけでも休むように言えないでしょうか……」 「言うだけなら簡単だ。だが、聖女さんは従わないだろう」 「そんな……じゃあどうすれば……」 方法はある。 だが、かなりの荒療治になるだろう。 「明日の朝まで待つ」 「それでも天使の声が聞こえないというなら……やめさせよう」 物心がついた時から、私は飢えていた。 毎日毎日、どうやって焼けるような飢えを凌ぐか、そればかりを考えていた。 気のいいおじさんやおばさんがたまにくれる食べ物で、何とか食いつないできた。 そんな時、ラヴィと出会った。 それ以来、私たちはいつも一緒だった。 二人で食べ物を分け合った。 二人で一つの毛布にくるまった。 二人で助け合ってきた。 苦しい時も辛い時も、一緒に生きてきた。 ずっと、そうやって生きていくんだと思っていた。 ──あの日も一緒だった。 衛兵に追われ、疲れ切って寒さに凍えて、このまま死ぬんだと思ったあの日のこと。 見上げた空はあまりに高く、あまりに澄んで綺麗で。 もう死んでもいい、ラヴィと一緒ならそれもいいと思えた。 すごく幸せな気持ちだった。 ……次に気が付いた時、私たちは大聖堂にいた。 どんな経緯で私たちが大聖堂に拾われたのかはわからない。 だが天使様のお導きだと言われ、私たちは素直に信じた。 私とラヴィは聖職者を目指した。 何の迷いもなかった。 ただただ、天使様の御心に沿うため。 他の誰よりも熱心に、他の誰よりも聖教会のために努めてきた。 そうして、御先代の聖女様の目にとまった。 素晴らしい人だった。 天使様の素晴らしさを熱心に説き、何も知らなかった私たちに聖教会のことを教えてくれた。 孤児出身で疎まれていた私やラヴィに、いつも優しく接してくれた。 私は……いつか、こんな人になれたらいいと思った。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》が起こり、聖女様は処刑されることになった。 皆が言うには、聖女様が祈りを怠ったために〈大崩落〉《グラン・フォルテ》が起こったのだという。 私には、あの熱心で優しい聖女様が祈りを怠っていたとはどうしても思えなかった。 私が新たな聖女として認められた日、私は我慢できずに聖女様に尋ねた。 聖女様は祈りを怠ったのか、と。 その時の答えは、今でも覚えている。 「何を願って祈るべきか……それはとても難しいことです」 「私はあなたたちの幸せを願いました」 「その祈りは、きちんと届いたと思っていますよ」 柔らかな微笑み。 死を前にしても変わらぬ優しさを見せてくれた、その強さ。 ……私はこの方に負けない、立派な聖女になろうと強く心に誓った。 新たな聖女となり、御先代に負けないよう日々の精進を重ねた。 天使様に一歩、また一歩と近づいていけることに喜びを感じていた。 私の信仰を証明できると思うと、嬉しかった。 私は確かに天使様の御声を聞いた。 それなのに、誰も信じてくれない。 御子を実際に見つけ出しても、誰も認めてくれない。 不断の祈りに入って4日。 天使様の声に従い、御子をお守りしているというのに、何も聞こえてこない。 私がやってきたことは何だったのだろう。 私が信じてきたことは何だったのか。 何も間違っていない。 そのはずなのに。 「精が出るな」 はっとして顔を上げる。 ……しかし、辺りには誰もいない。 空耳だった。 「カイムさん……」 胸がちくりと痛む。 あの人だったら、きっとこんなことは馬鹿らしいと笑うだろう。 何の工夫もなく、ただ信仰に殉じようとする私を見て呆れるだろう。 でも、そう思いながらも私のことをわかってくれるだろう。 あの人は、そういう人だ。 「……」 どうして私は、聖女になろうと思ったのだろうか。 処刑される御先代の姿を見て、私はあの時何を思ったのだろうか。 もし、私が聖女でなければ……。 ふと気づく。 私は一体何を考えているのだろうか。 私が聖女でなかったら、何だというのだろうか。 そんな仮定に何の意味があるのか。 「天使様……どうか、お声を……」 手を組み、祈りを捧げる。 私は第29代、聖女イレーヌ。 もう、後戻りはできない。 ティアとラヴィを連れて祭壇へとやってきた。 聖女へと歩み寄る。 遠目にも、身体が一回り痩せていることがわかった。 「調子はどうだ、聖女さん」 「……」 聖女はこちらを見もしない。 「話があって来た」 「……祈りの最中です。邪魔をしないでください」 聖女がこちらを向く。 声に張りがなく、瞳にも力がない。 「お目見えの儀式の日取りが決まった」 「2日後だそうだ」 「……あと2日しかないのですね」 聖女は顔を伏せる。 「それまで祈りを続ける気か」 「当然です」 「無茶だ。体力が持つわけない」 「そんなこと、やってみなければわかりません」 「普通に考えればわかるだろう」 聖女に折れる気配はなかった。 気力と体力を使い果たしても尚、気概を失わないのは素直に賞賛できる。 聖女の冠は伊達ではない。 そんな聖女の意志を曲げるには、これしか手はないだろう。 「……聖女さん、俺たちは一度牢獄に戻ることにした」 「牢獄に、戻る?」 「ああ。先の地震で俺たちへの批判も高まっている」 「ティアの安全を考えるのなら、ここに置いておくべきじゃない」 「そういう結論になった」 「何を……言っているのですか」 「今まで待ってくださっていたのに、どうして今になって帰るのですか」 「聖女さんが祈りを捧げている間に状況が変わった」 「神官長の締め付けは厳しくなる一方だ。このままじゃ聖女さんもラヴィも立場が危うい」 「そんな状態でティアを留め置けば、当然ティアにも問題は波及する」 全て事実だ。 「それで、私が不断の祈りを捧げている最中に帰られると。そう仰るのですか?」 「ああ、そうだ」 聖女の顔が歪む。 「カイムさん、あなただけはわかってくださっていると思っておりました」 「私がどのような思いで、この不断の祈りを始めたのか」 「私がどれだけの思いを込めて、祈っているのか」 「わかっているさ」 「いいえ、わかっておりません」 「ここで御子を帰されるということは、私のことを信じていないということです」 「私の不断の祈りを無意味だと嘲ることと同じです」 「どこまで……どこまで私を愚弄すれば気が済むのですか!?」 「あんたは、周囲の状況を見極めた方がいい」 「チェックされたキングは、自分が思うようには動けないんだ」 「自分の思い通りに動きたいなら、そうならないように盤面を制する努力をしなければならない」 「私の落ち度だと、そう仰りたいのですか」 正解だ。 地震が起きたのも、聖女の祈りが足りなかったからだ。 全ては聖女の自業自得だろう。 「それに牢獄に帰ると言い出したのは俺じゃない」 「ティアだ」 「……御子が……?」 驚愕し、ティアに目を向ける。 「御子……私を見捨てるというのですか……?」 「ち、違うんです。わたしも聖女様の言うように自分が天使様の御子だったらいいなと思ってます」 「でも、わたしが来たことで聖女様やラヴィさんが苦しい思いをして……」 「そんなの、もう耐えられないんです」 「わたし、牢獄でも全然大丈夫です。危ないことなんてないですよ」 「天使の声だって、もっと落ち着いて聞くことができるようになるだろ」 「侮らないでください」 「私はこの程度のことで苦しいなどと思ったことはありません!」 「御子、私を信じてください」 「これくらいで音を上げるほど、聖女は弱いものではありません」 「で、でも……」 聖女の強い言葉に、ティアは俯く。 これでも駄目か。 今の理屈で説得できないとすると、他に手はない。 黙って出ていくしかないか。 「聖女様。恐れながら申し上げます」 「ラヴィ、あなたは関係ありません。下がりなさい」 「いいえ、言わせていただきます」 「私も御子様を、牢獄にお戻しした方がいいと思います」 「……」 聖女が双眸を見開いた。 「このままでは聖女様が……」 「ラヴィ」 聖女は無表情にラヴィを見下ろす。 ぞっとするほど冷たい視線で、ラヴィを射貫く。 「貴女は自らの信仰を破るのですね」 「ち、違います、これは……」 「ラヴィ、ご苦労様でした」 「あなたは私のお付きには相応しくない。今日をもって私のお付きから外します」 ラヴィが目を見開く。 「コ、コレット……」 「誰の話をしているのですか? あなたの前にいるのは聖女イレーヌです」 「……」 絶句するラヴィ。 「何をしているのですか」 「お付きでもないものがここいることは許されません。身の程をわきまえなさい」 ラヴィの後ろを指さし、聖女は冷酷に告げる。 「出て行きなさい。二度と、ここに足を踏み入れることは許しません」 「……」 ラヴィは唇を噛む。 ふらふらとした足取りで、祭壇から出て行った。 「ラヴィさんっ」 ティアがラヴィを追って出て行く。 その後ろ姿を、聖女は無慈悲に見つめ続けた。 「おい、いくら何でもいきなりお付きを外すはないだろう」 「口出しは無用です」 「私の信仰を汚すような者に、お付きたる資格はありません」 「ラヴィはお前のためを思って言ったんだぞ」 このままでは、聖女は間違いなく倒れるまで祈りを続ける。 だからラヴィは敢えて進言したのだ。 「私のためを思う? それならば、決してあのようなことは口にしないはず」 「何であんたにそんなことがわかる」 「ラヴィは聖職者です。たとえ何があろうとも、信仰だけは偽ってはなりません」 「私が不断の祈りをすると決めたのです」 「それを妨げるような行為は、私の祈りを疑うのと同義です」 「たとえいかなる感情を持っていたとしても、正当化できるものではありません」 聖女の言いたいことはわかる。 だがそれは、長年仕えてくれた人間を退けてまで守らねばならないものなのか。 荒いため息をつく。 「……」 低い地鳴りが響く。 小さかったが、確かに大地が揺れた。 自分でも知らぬうちに、拳を強く握りしめている。 「牢獄じゃ地震が起こると、下に飛び降りる奴が後を立たない」 「なぜですか」 「いつも先が見えないんだ。毎日不安と焦燥に駆られ、絶望に打ちのめされる」 「そんな状態で地震が起こるとな、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》のことを嫌でも思い出す」 「全てを奪われた、あの時のことを」 本当に最悪の気分だ。 忘れたと思っていた、あの時のどす黒い気持ちが蘇る。 なぜ自分が、 なぜ自分の家族が、 なぜ自分たちだけが、こんな理不尽に晒される? やり場のない怒り、やり場のない絶望。 目の前に絶壁がある。 少し足を踏み出せば、全ての嫌なことを終わらせることができる。 その時、思うのだ。 もしかしたら、下には幸せな世界が待っているんじゃないか。 消えていった者達が、待っていてくれるんじゃないか。 「そうして、崖から飛び降りていくんだ」 平穏に暮らしたい。 もう二度と、あんな思いはごめんだ。 「最近、地震が多すぎる」 「まさか、このまま落ちたりしないだろうな」 俺の問いに、聖女は不敵に笑う。 「そのようなこと、私にわかるわけがないでしょう?」 「あんたは聖女じゃないか」 「あんたがわからなかったら、誰がわかるって言うんだ」 「本当のところ、誰もわからないのかもしれませんね」 「あんた……ふざけているのか?」 握り締めた拳が震えた。 「私の夢の話は信じていただけないのに、なぜ私が都市を浮かせているという話はお信じになるのですか?」 「この二つに、何の違いがあるのですか」 「夢の話はあんたが主張しているだけだが、都市の話は昔からの伝説だ」 比べる対象を間違っている。 「では、カイムさんは私が都市を浮かせている様をご覧になったことがありますか?」 「それは……そのために、毎日祈りを捧げていたん……」 言いかけて気付く。 ここ最近、聖女は祈り続けていた。 だが、彼女は天使の声を聞くために祈っていたのだ。 決して、都市を浮かせるために祈っていたわけではない。 「おわかりになりましたか。私は都市を浮かせるために祈ってなどおりません」 「私は、私の信仰のために祈っているのです」 「なら、何が都市を浮かせてるって言うんだ」 「先ほども申しました。そのようなこと、私がわかるわけがありません」 「……嘘だ」 「嘘ではありません」 「たちの悪い冗談はやめろっ」 「私が都市を浮かせているのなら、どれだけ良かったことか」 「あなたにわかりますか。聖女が都市を浮かせるわけではないと知った時の、私の絶望が」 「聖女が本当は何のためにいるのかわかった時の、私の絶望が」 聖女の瞳が潤む。 「待て、それじゃまるで……」 「そうです。聖女は、都市を浮かせていません」 「……嘘はやめろと言った」 「私は嘘など言いません」 「ふざけるな……」 一時の怒りは萎んでいた。 俺はむしろ、懇願するように聖女の言葉を待っていた。 しかし、彼女は力なく首を振るだけだ。 自分が都市を浮かせていると言ってほしい。 聖女が都市を浮かせていないのならば── 何故、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》は起きたのか。 何故、俺の家族は死ななければならなかったのか。 何故、牢獄のような地獄が生まれてしまったのか。 わからない。 何もかもがわからない。 突然地面がなくなったような不安に襲われる。 「聖女になった私は、毎日一生懸命、祈りを捧げていました」 「祈りを怠ると都市が落ちるという昔からの教えを信じていましたから、熱心に儀式を行いました」 「……ところが、私は熱病を患ってしまいました」 それはナダルとラヴィから聞いた。 熱病にかかって視力を失い、天使の声が聞こえると言いだしたということだった。 「それとさっきの話、何の関係があるんだ」 「意識は朦朧として、何も考えられませんでした」 「でも祈りは続けられます。私は床に伏しながら、それでも都市を浮かせるため祈りを捧げ続けていました」 「ですが……熱病にかかって3日経った時、私は祈りをやめてしまいました」 「苦しくて、もう何も考えられなかったのです」 「そんな状態が5日間続きました」 「ですが……都市は落ちませんでした」 「崩落も起こらなければ、地震も起こらなかったのです」 「それで気づいたのです。私は都市を浮かせてなどいないと」 祈りを怠っても都市は落ちない。 だとしたら、聖女は……なぜ聖女は祈りを捧げている? 「私は、祈りを怠ったことをナダルに告げました」 「御先代の聖女様は、祈りを怠ったがために処刑されました」 「当然、自分も処刑されるのだろうと思っていました」 「ですが、ナダルは決して他人に漏らさぬようにと言っただけで、私は何の咎めも受けませんでした」 祈りを怠っても処刑されない。 それは、聖女と都市の浮遊に関連がないと認めているということだ。 「不思議にお思いでしょう?」 「だとしたら、何のために聖女はいるのか。何がために聖女は処刑されるのか」 「カイムさんは先代の聖女様に救われている、という言葉に引っかかっておられましたね」 ……そうだ。 俺はそれが気になって、ここに留まることにした。 だが、いつの間にかうやむやになっていた。 「簡単な話です。聖女は生け贄なのです」 「カイムさんは先代の聖女様をとても憎んでおられるでしょう」 「聖女はこの都市に何か異変があった時、全ての罪を一身に背負い、大地へ落とされるためにいるのです」 頭の中が暗闇で塗り潰される。 思考が整理できない。 「ただ、それだけ。この都市を浮かせることと聖女は何の関係もないのです」 「そんな馬鹿なことが……」 「嘘だろう……そう言ってくれ」 とても信じられない。 「私は、嘘をつくことはできません」 「たとえ聖女に生け贄としての役割しかないのだとしても、私が聖職者であることに変わりはありません」 「私は、私の信仰に誓って真実を告げました」 それは、十分過ぎるほどわかっている。 聖女は嘘などつかない。 だが、無意識のうちにその事実を受け入れることを拒否している。 「……」 言葉を失う。 足元から地面がなくなったような感覚だった。 視界がぐらつく。 「申し訳ありません」 「本来ならば、お伝えするべきではないことはわかっているのです」 「ですが……どうしてもカイムさんにだけは知っていただきたくて……」 大きな目から涙が零れる。 初めて見せた聖女の涙。 強靭な意思を持つ彼女ですら、背負いきれない真実。 俺はどうすればいい。 聖女の告白をはねつけて否定すればいいのか。 いや、それでは駄目だ。 「……気に、するな」 多くの言葉を飲み込み、それだけ伝える。 心はまだ聖女の言葉を受け入れられない。 俺を動揺させるために嘘を言っているのではないか── そんな、疑念とも期待ともつかない考えが頭を駆け回っている。 しかし、聖女の悲痛な表情は、言葉に嘘はないと雄弁に告げていた。 そもそも、ここで嘘をつけるような女なら、今までにも上手い嘘を吐いてきたはずだ。 「あんたには、イカレた話ばかり聞かされるな」 「まあ、だいぶ慣れたが」 そう言いながらも、消化できない思いが胸の奥底で渦巻いている。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の原因がわからない。 日々発生する地震の原因も、もちろん地震を止める方法も。 それだけで、自分の心が風に舞う枯れ葉のように揺れている。 聖女の言う通りだ。 俺は、先代の聖女が処刑されたことによって間違いなく救われていた。 「本当に申し訳ありません……何とお詫びしたらよいか……」 涙をぬぐい、聖女が頭を下げる。 「気になっていたことが一つある」 「熱病にかかった時に眼が見えなくなった、と聞いたが……それは本当なのか?」 「いえ、それは少しだけ違います」 「私は熱病に冒されたことで、聖女の役割に気付いてしまいました」 「要するに、聖女など誰でもよかったのです」 「崩落が起こったとき、全てを背負って死ぬ人間がいさえすれば」 今までずっと信じてきたものが紛い物だと気づいてしまった。 それは計り知れない絶望だろう。 「それまで神聖なものとして崇めていたものは、一瞬にして異なるものに変わりました」 「教会の聖戒も、毎朝毎夜の儀式も、この都市の伝承も……全ては偽物であるように思えてならなかった」 「聖女としての職務が、全てまやかしに見えるようになったのです」 聖女は目を閉じる。 「……そうしたら、本当に何も見えなくなってしまったのです」 「でも、それは好都合でした。私は誰も、何も信じられなくなっていましたから」 「嘘で塗り固められたものたちを見ずに済むのはとても気が楽でした」 「待て。目が見えなくなったのは熱病が原因じゃないと?」 「何が原因なのかは私にもわかりません」 「私は暗闇の中に閉ざされました」 「何も見えず、何も信じず、私はただ漫然と時を過ごしました」 「その間、都市を浮かせる祈りなど一度たりとも捧げておりません」 「ですが都市は落ちませんでした」 「……」 聖女が祈りを捧げずとも都市は浮いている。 何度聞いても慣れない。 ひどく気持ちの悪い話だ。 「だが、聖殿だけでは目が見えるんだったな」 「最初は聖殿でも見えなかったのです」 「ですが……天使様が私に再び光を与えてくれました」 「私は微睡みの中で光を見ました」 「そして、誰かの思いが私の中に入り込んできました」 「なぜかはわかりませんが、私はそれが天使様のものだと確信できました」 「捜して欲しい、御子を捜して守って欲しい。声は繰り返し訴えていました」 「それが前に言っていた天使の声か」 「そうです」 「……そして次に目覚めた時、私の目は光を取り戻したのです」 「実際は聖殿の中だけでしたが、それでもこれは奇跡でした」 「聖教会の教えはまやかしでしたが、確かに神と天使様はいらっしゃったのです」 天使の声を聞き、聖殿でのみだが目が見えるようになった。 そう聞くと確かに天使の奇蹟だ。 「私は気付きました」 「信仰とは、私の心の中にあるものなのです」 「周囲にどれだけ穢されようとも、自分の心さえ強くあれば神は救いの手を差し伸べて下さるのです」 「それが、私が信じることのできる、唯一の信仰なのです」 聖女はこちらに向き直る。 聖女としての役割を知り絶望してもなお、聖職者であり続ける理由。 それは、彼女が彼女の中にこそ信仰の本質を見つけたからなのだ。 聖女の信仰がまやかしではない証として、光を失った彼女の目は再び光を得、天使は声を授けた。 だからこそ、彼女が自分の信仰を守り続けることは、彼女が聖職者であるための唯一にして絶対の条件なのだ。 逆に、聖女が自分の信仰を捨ててしまえば、彼女は崩落があった時に犠牲となるためだけにここにいることになる。 今まで、聖女がナダルの言葉や聖戒を重要視していなかった理由がようやく飲み込めた。 「それはラヴィもわかっていたはずです。なのに……」 「わかっていただろうさ。だが、あんたの無茶が過ぎるから心配になったんだ」 「この祈りが通じなければ、私の信仰は破れ、もう二度と立ち上がれなくなります」 「それでも、身体を大事にしろと?」 「かつて、ラヴィは私の信仰を信じると誓ってくれました」 「むしろ、私のような信仰の在り方を教えてくれたのはラヴィなのです」 「なのに、あの子は、私の気持ちをわかってくれない……これは裏切りではないですか?」 聖女は、ラヴィが自分の身体を気遣ってくれていたのだとわかっている。 ラヴィも、聖女がどれだけの思いを抱いて不断の祈りに身を投じたのかわかっている。 それでも身体を心配し、あえて聖女に意見した。 聖女にとってそれは、耐え難い裏切りだった。 「ラヴィはお付きから外します」 「これ以上、私のことを理解せずに裏切りを重ねることには耐えられません」 「後悔するぞ」 「私は自らの信仰を偽ることはできません」 「そして、私の信仰を理解しない者にお付きは任せられない」 決意を込めた瞳で、俺を見つめる。 「……わかった」 「だが、俺やティアは聖職者じゃないからな」 「あんたの思惑がどうであろうと、俺たちは牢獄に帰るぞ」 ラヴィとの仲違いは気がかりだが、これ以上俺たちがここにいては関係がこじれるばかりだ。 一度距離を置いた方がいい。 「……わかりました」 「色々ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 「カイムさんとチェスができて楽しかったです」 疲れた笑みを浮かべる。 思わず目をそらす。 そんな顔をされたら、気まずくて仕方がない。 「明日、依頼したお仕事の謝礼を支払います」 「最後に朝食をご一緒させてください」 「不断の祈りをやめるのか」 「御子が帰られてしまうのでしたら、もう私がここで祈る意味がありません」 ティアを、天使の御子を保護し続けることができなかった。 それは聖女にとって、唯一絶対のものであった信仰を失うということだ。 本当にいいのか? 俺たちはこのまま牢獄に帰っていいのだろうか。 「お気になさらないでください。私のことは心配ありませ……」 「聖女さん……!」 かくんと聖女の膝が折れ、倒れそうになる。 慌ててそれを支えた。 「……申し訳ありません。少し疲れているみたいです」 「少しなんてもんじゃないだろ。もういい、部屋に戻って休め」 「いえ、明日の朝まではここにいます」 「いい加減にしろ。このままじゃあんた死んじまうぞ!」 「大丈夫ですよ」 聖女は立ち上がり、俺の手から離れる。 「最後の一手まで諦めるな、でしょう……?」 俺がチェスの時に聖女に言った言葉だ。 もしかしたら明日の朝には天使の声が聞こえるかも知れない。 だったら諦めるわけにはいかない。 「聖女さん……」 こいつの強さは本物だ。 俺が剣に命を載せてきたように、聖女は祈りに命を載せているのだ。 説得できる気がしない。 「……わかった」 俺は聖女に背を向ける。 聖女は手を組み、祈りを捧げ始める。 部屋にぽつんと一人残される聖女。 ラヴィをお付きから外し、俺たちが帰ってしまったら……聖女は一人になってしまう。 地震が起き、果てに崩落が起きれば処刑される。 それでも、まだ頑張り続けるのだろうか。 小柄で華奢なその背中は、いつもより一層小さく見えた。 「そう落ち込むな」 「はい……」 結局、朝になっても天使の声は聞こえなかったらしい。 俺とティアが、牢獄に帰ることが確定したのだ。 ティアの正体も、都市が浮いている理由もわからぬまま、牢獄に帰らなくてはならない。 胸にできた大きな不安を、これからどうやって飼いならしていけばいいのか。 ──ここに来た当初は、少しでも早く牢獄に戻りたかったというのに。 「食べないのか?」 今日の朝食は、ティアが作ったものだった。 ラヴィがお付きから外された今、料理を作れるのはティアしかいない。 「いえ……」 聖女はパンを取ろうと手を伸ばす。 だが、微妙に手つきがおかしい。 「どうしたんだ?」 「……何でもありません」 聖女はパンを手に、もそもそと食べ始める。 俺とティアはとっくに食べ終わっていた。 「いつ牢獄に戻られますか」 「朝食を食べ終わったら、荷物をまとめるつもりだ」 「……そうですか」 「御子、ご足労ありがとうございました」 「わざわざお呼び立てしておきながら、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 「い、いえ、そんなことないです」 「……あの、聖女様」 「何でしょうか」 「その、またここに来てもいいでしょうか」 「一旦は帰りますけど、またここへ来たいです。駄目ですか?」 「あ、えと……ご迷惑でなければ、ですが……」 「はい。是非遊びに来てくださいませ」 聖女は柔らかに微笑む。 「あ、ありがとうございます」 「また来ましょう、カイムさん」 「ああ」 「カイムさんもありがとうございました」 「お仕事の謝礼を、お渡ししなければなりませんね」 「ああ、そうだったな」 「ラヴィ、ラヴィ!」 聖女はラヴィを呼ぶ。 だが、ラヴィは現れない。 「何をしているのかしら」 「聖女さん……あんた、ラヴィをお付きから外したんだろう?」 聖女が弾かれたように顔を上げる。 「……そうでしたね」 聖女が立ち上がり、歩きだすが……。 「あっ……!?」 棚にぶつかり、無様に転倒した。 まるで目の前の棚が見えていないかのような感じだった。 「お、おい、あんた……」 「申し訳ありません、疲れが出てしまったようです」 「あ、じゃ、じゃあ、わたしがラヴィさんを呼んできますね」 「そうしてくれ」 言いつつ、聖女を助け起こす。 「あんたもしかして、目が見えてないんじゃないのか?」 「……」 聖女が俯く。 やはりか。 「聖殿の中では見えるんじゃなかったのか」 「いつからそうなったんだ?」 「今日の朝、昇ってきた朝日に目を閉じたのですが……」 「そのまま……何も見えなくなってしまいました」 なぜ、唐突に聖女が光を失ったのか。 昨日から今日にかけての変化と言えば、ラヴィをお付きから外したことくらいだ。 しかし、それで目が見えなくなるのだろうか。 「天使様は、私に罰をお与えになったのです」 「私の信仰が、そのあり方が間違っていると仰りたいのかもしれません」 「……」 「ですが、私は諦めません」 「いつか再び天使様は私を導いて下さるはずです」 聖女は微笑みを浮かべる。 「たたたた、大変ですっ!!」 ティアが血相を変えて飛び込んできた。 「うるさいぞ。一体何だ」 「あのっ、あのっ、あのっ」 「落ち着いて話せ」 「ラ、ラヴィさんが……血だらけで……倒れてて」 「何があった!?」 「わ、わかりません」 「で、でも、とにかく血が止まらなくて……」 「ラヴィのところへ行ってくる!」 「聖女さんはここで待ってろっ」 走りだす。 「あっ、待ってくださいっ!?」 「ラヴィ……」 部屋には血の臭いが充満していた。 灰色だった絨毯が深紅に染まっている。 「大丈夫か!?」 ラヴィの返事はない。 尋常ではない出血量だ。 このままでは間違いなく死ぬ。 「待ってろ、今すぐ誰かを呼んでくる!」 「は、はい……」 聖職者を捜すと、今まさに説法を終えたナダルが目に入った。 「神官長!」 「これはカイム様、どうされましたか?」 「ラヴィが怪我をしている。血が止まらない」 「何ですって?」 「誰か治療できる者をラヴィの部屋によこしてくれ」 「し、しかし状況もわからないまま、みだりに聖域へ人を入れるわけには……」 「このままだとラヴィが死ぬぞ!」 荒げた声に、周囲の人間が振り返る。 だが、今は体裁を取り繕っている場合じゃない。 「わかりました、すぐに向かいます」 「頼む」 「か、カイムさん……」 「押さえているんですけど……駄目です、血が止まらないです……!」 「ティア、傷の具合を見せろ」 ティアが傷を押さえていた布をどける。 背中の傷口が、ぱっくりと開いていた。 何かを抉り取ったような傷だ。 「ラヴィ、返事できるか?」 再び傷口に布をかぶせ、上から強く押しつける。 「おい、返事をしろ!」 「……カイム……さま」 ラヴィがうっすらと目を開ける。 目の焦点が合っていない。 「どうしたんだ、これは」 「……すみません、すみません……」 「謝るのは後にしろ。一体何をしたらこんな……」 ラヴィの傍に何かが落ちているのに気づく。 これは……。 「ひ……っ」 「こ、これは……」 ナダルと聖職者がやってきた。 血だらけのラヴィを見て、小さな悲鳴を上げる。 細かい話は後だ。 「あんた、手当ができるのか」 「で、できないことはないですが……」 「だったら早くしろ」 しかし、聖職者はラヴィの傍に落ちているものを見て尻込みしている。 「そんな……だってそれは、羽じゃないですか……」 ラヴィの傍に落ちていたもの…… それは、ラヴィが背中から切り取ったと思われる小さな翼だった。 「そんなこと言っている場合か。今は傷の手当てを優先しろ」 「い……嫌だ。僕は羽つきになんてなりたくない……!」 「そ、そうだ神官長、羽狩りを呼びましょう。そうすればきっと保護してくれますよ」 「……」 「今から呼びに行って間に合うと思っているのか!」 それでも、聖職者はラヴィから逃れるように後ずさりしていく。 クソ野郎が。 「おいラヴィ、大丈夫か。しっかりしろ!」 「……失敗してしまいました」 不器用に、ラヴィが困ったような笑みを浮かべる。 「今までは上手くいっていたのですが……今回は、大きくなりすぎたみたいです……」 「こんなことを何回も繰り返していたのか……!?」 頷くラヴィ。 「聖教会に来た頃から……少しずつ羽が生え始めて……それからずっと、大きくなる前に切り落としていました」 「そうしないと、聖女様の側にいられなくなってしまうから……」 「でも切り落とすのは本当に痛くて、何日も眠れなくて……幾度も聖女様にご迷惑をかけてしまいました」 そうだったのか。 「だが、お前はもうお付きを外された」 「今更切る必要などなかったはずだ」 「たとえお付きでなかったとしても、私は聖女様のことを信じると決めたのです」 「そのためには、私は羽つきであってはならないのです……」 ラヴィの体が震える。 目が虚ろになり、徐々に声が小さくなっていく。 「嫌です……ラヴィさん、死んじゃ嫌です……」 「御子様……申し訳ありません。服を汚してしまいました」 押さえる指の間から、点々と血がしたたり続ける。 出血が止まる気配はない。 ……このままでは助からない。 「私は聖女様を信じると誓いました。それが私の信仰でした」 「でも、できなかった。心のどこかで聖女様を信じ切ることができていませんでした」 「ですから……これは罰なのです」 「羽が生えてきたのも、痛みに苛まれるのも、この苦しみも……全部、私が悪いのです……」 「そんな馬鹿な話があるか!」 好きで羽つきになる奴なんていない。 聖女のために羽を切り落とし、激痛に耐えながら、誰にも悟られぬよう何年も隠し続けてきた。 その末に、お付きを外されてこんな風に死んでいくなんて。 ラヴィは虚ろな目で俺を見上げる。 「カイム様、どうか……聖女様をよろしくお願いします」 「ご迷惑かと思いますが……どうか、不出来な私に代わって……聖女様を……」 小さな声で呟く。 目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。 「駄目です、ラヴィさん! ラヴィさんっ!」 ティアがラヴィを抱きしめる。 「ラヴィさん、死んじゃ駄目です。お願いです、目を覚ましてください」 「……ラヴィさん? ラヴィさん……返事をしてください、ラヴィさん!」 「いや……嫌です……! ラヴィさん、ラヴィさん……」 「うっ……ひっ……う……うあああああぁぁぁぁっっっっ!!!」 ティアの悲鳴が響く。 その瞬間。 ティアの身体から、圧倒的な光が漏れた。 目を閉じて尚目映い光が、辺りを満たす。 「これ、は……っ」 ティアが蘇生した時に見せた光と、同じ色── 「ティア……っ!」 眩しさを堪え、ティアを見る。 ティアは、一心にラヴィを抱きしめ続けていた。 「……っ!」 ティアの背に、光の羽が見えた。 それと呼応するかのように── ラヴィの背中にあった羽の名残が、黒褐色の粘性となって床に落ち……消え果てる。 「……つ、翼が……消えた……」 「……はあ、はあ……はあ……」 光が収まった。 ティアの背中にあった光の羽も消えている。 「……」 ナダルや聖職者と目が合う。 あまりの出来事に、皆、口が開いていた。 「おい、ティア……大丈夫か?」 「はい……大丈夫です。すごい……体が熱いです」 「お前、何したんだ?」 「わたしにもわかりません……」 「とにかく、ラヴィさんを助けたいと思っていただけなんです」 ラヴィの背中を見る。 傷跡は生々しく残っていたが、出血は完全に止まっている。 奇蹟だ……。 そうとしか言いようがない。 「か、カイム様……これは一体……」 「ティア、恐らくラヴィは平気だろう。服を着せてやれ」 「わ、わかりました」 「それからあんた」 ナダルと一緒にやってきた聖職者を〈睨〉《にら》み付ける。 「羽がなくなったんだから、もう問題はないだろう。ラヴィの手当をしてやれ」 「……手当てをしてあげなさい」 「わかりました」 ナダルに言われ、恐る恐る看護を始める。 「ティアはしばらくラヴィと一緒にいてくれ」 「はい」 ここはもう大丈夫だろう。 「カイム様、教えてください。今のは一体何なのですか」 「俺だって詳しいことは何もわからない」 「だが、ティアが不思議な力を持っているのは確かだ。それはあんたも見た通りだ」 「……」 その事実を目の当たりにした以上、否定はできないだろう。 「俺は聖女さんに今のことを報告しに行く。あんたはどうする?」 「……私も行きましょう」 俺はナダルと共に、聖女の部屋に向かった。 「カイムさんですね。聞いてください!」 部屋に入るなり、聖女が弾かれたように立ち上がる。 「どうした?」 「たった今、天使様からお導きがありました。天使様は、私をお見捨てにならなかったのです」 「お導きがあった?」 「はい。天使様の御子が、光の翼を身に纏って現れたのです」 「御子は傷つき息絶えそうな羽つきを抱きかかえ、力をお与えになりました」 「すると、傷ついた羽つきの背中にあった傷が癒え……流れる血は収まりました」 「羽つきの羽は、光に触れると不浄となって落ち、消えてしまいました」 「その光は何よりも美しく……まさに、天使様の放つ輝きでした」 「まさに、奇蹟と呼ぶに相応しい光景でした」 興奮に任せ、一気にまくし立てる。 「あんた、聖殿でも目が見えなくなったんじゃ……」 「あの部屋に聖女様はおられなかったのに、なぜそれをご存じなのですか!」 「なぜとは何のことですか」 「私は今見た天使様の夢のお話をしているのです」 「……」 思わずナダルと顔を見合わせる。 間違いない。 聖女は、本来知らないはずのラヴィの部屋であったことを言い当てた。 聖女が見ている天使の夢は……本物なのだ。 「どうしたのですか、黙り込んでしまって」 「それに、どうやらナダルもいるようですが……ラヴィはどうなったのですか」 「神官長、説明してくれないか」 「は、はい……」 神官長が、ラヴィの部屋で起こったことを語る。 もちろん、聖女の見たという夢と寸分違わぬ内容だ。 「で、では……ラヴィは羽つきだったというのですか?」 「聖女様はご存じだったのではないのですか」 「いいえ、今初めて知りました」 「……」 ナダルが押し黙る。 「では……私が見た夢は、まさしく御子とラヴィのことだったということですね」 「……そうなるな」 未だに信じられないが、そう解釈するより他ない。 「素晴らしい!」 「私の見たものは、まさしく天使様のお導きだということではありませんか」 「それに、ユースティア様が天使様の御子でなければ、そのような奇蹟を起こせるはずがありません」 「ナダル、あなたは直にその目で見たのでしょう? 御子の奇蹟を」 「……はい」 「ユースティア様が天使様の御子であることは、もはや疑いようもありません。そうですね、ナダル」 「はい、その通りでございます」 認めるしかないだろう。 目の前で、ラヴィの傷を治してみせたのだ。 普通の人間ができることじゃない。 「ようやく……」 「ようやく私の信仰を皆に認めてもらえる時が来ました」 「ありがとうございます、これもカイムさんのお陰です」 「いや、俺は何もしていない」 聖女はこれ以上ないというほど満面の笑みを浮かべる。 「ナダル、皆に今のことを話します。今すぐ大聖堂に集めなさい」 「お、お待ちください」 「何を待つ必要があるのです」 「御子はこの聖殿で、あなたの眼前で奇蹟を起こして下さったのです」 「そのことを皆に知らせましょう」 「聖女様、明日は住民の前でお目見えの儀式を行います」 「皆はその準備に追われております」 「では日程をずらしなさい。こちらの方が重要です」 「王に儀式催行の請願を出し、受理されております」 「前日に予定を変更することなどできません」 「天使様の御業を皆に知らせることより重要なことが、聖職者にあると言うのですか?」 「何を優先するべきかわきまえなさい」 「しかし……」 「聖女さん、今回ばかりは俺も神官長に賛成だ」 「カイムさんまで……」 「天使様の御業が証明されたのです」 「これがどれだけ大事なことか、おわかりになっておりません」 「わかってないのはあんただ」 「ラヴィが大変なことになっているんだ、先に心配することがあるだろう」 「ラヴィは天使様の御業をその身に受けたのです」 「これは聖教会の歴史に名を刻む栄誉です」 「ラヴィとしても本望なことでしょう」 「……」 ラヴィのこととなると、聖女は自分に都合のいい解釈ばかりする。 何のためにラヴィは苦痛に耐えて翼を切り落としてきたのか。 こいつは、何もわかっていない。 「ともかく、本日はお待ち下さい」 「聖女様にも、明日の儀式に備えて頂きたく存じます」 聖女が荒い鼻息をつく。 「では、明日の儀式でユースティア様が御子であることを皆に知らしめましょう」 「聖女様っ、それはなりませんっ!?」 「ただ夢で見たというだけでは、なかなか認められるものではない。そうでしたね」 「でしたら、御子の力を皆の前で披露すれば良いのです」 「……」 民衆の前でティアの力を披露すれば、否応なく聖教会のゴタゴタに巻き込まれる。 そんなことは認められない。 「俺も反対だ」 「お願いします。これは私の信仰に関わることなのです」 「御子にお許しをいただきたいのです」 「……はい、呼びましたか?」 ひょっこりとティアが顔を出す。 「ラヴィは大丈夫か」 「あ、はい」 「命に別状はないと聖職者の方が言ってました」 「そうか……よかった」 取りあえずは一安心だ。 「御子、お願いがあります」 「な、何でしょうか」 聖女が先ほどの話をティアに告げる。 「明日の儀式で、天使様の御業を皆の前で披露していただきたいのです」 「あ、あれですか……」 「ユースティア様こそ天使様の御子なのです」 「どうか私を信じて、共に皆の前へ出ていただけないでしょうか」 「う、んん……どうすればいいでしょうか……」 ちらりとこちらを見る。 「俺は反対だ。人目に付くことをすれば必ず謂われのない噂が立つ」 「天使の力を見せるとなれば尚更だ」 「そ、そうですよね……」 残念そうに俯く。 「お待ちください、御子」 「御子のお力は、羽つきであったラヴィを癒しました。これは類い稀なる奇蹟なのです」 「この力があれば、今まで不当に拘束されてきた羽化病の方々を救うことができるかもしれません」 「……」 再びティアが俺を見る。 「ちょっと待て。そもそもさっきの力は、都合良く皆の前で見せられるようなものなのか?」 「ティア、ここでその力を見せてみろ」 「ここでですか?」 「そうだ。ここでできなかったら、皆の前でできるわけがないだろう」 「……わかりました。やってみます」 ティアは手を組み、祈りを捧げる。 ティアの身体が薄く光を放つ。 さっき見た光と同じ色だ。 「……素晴らしいです。御子が眩しいくらいに瞬いております……!」 「見えるのか?」 「はい。他には何も見えませんが、御子だけははっきりと見えます」 「ティア、もういいぞ」 「はい……」 ティアが深呼吸をすると、光が収まる。 もう疑いようもない。 ティアは人間ではないのだ。 「カイムさん、お願いします。御子のお力を、皆の前でお披露目させてください」 聖女が懇願してくる。 ティアに目を向ける。 「……ティア。お前、表に出たいか?」 「はい、出たいです」 「人前でその力を使えば、もう元の生活には戻れないぞ」 「それでもやるのか」 都市は大騒ぎになるだろう。 何しろ、羽つきを癒すことができる天使の御子が現れたのだ。 執政公や王にその名が知れ、政治にも大きく関わることになるかもしれない。 もう牢獄で気楽に暮らすことなどできなくなる。 「……いつも夢の中で言われてきた言葉があるんです」 「わたしには大切な使命を果たす運命がある。いつか来るその時のために耐えなさいって」 「だから、辛いことがあっても何とか頑張ってこられたんです」 ティアが書いた手紙にあった言葉だ。 「その使命が、ようやくわかりそうな気がするんです」 「皆さんの前でわたしの力を示すことができれば、きっと皆さんの役に立ちます」 「ラヴィさんを癒したように、皆さんを助けることができたら……すごいと思いませんか」 「それがお前の使命なら、確かに立派な使命だな」 「カイムさん、お願いします。わたし、聖女様のお力になりたいです」 ティアから初めて使命の話を聞かされた時── 俺は、こいつの使命が苦しい日々を誤魔化すためのありがちな欺瞞だと考えた。 同時に、そんな幻想が牢獄で壊れていくことを心の奥で期待した。 人殺しになった頃の俺が、墜ちた自分と立派なまま死んだ兄を置き換える夢想に〈耽〉《ふけ》ったのと同じ心理だ。 俺は、兄との誓約を果たせないことをどこかで悔い、前向きな人間を嘲笑しつつも羨んでいたのだろう。 エリスを身請けした理由も、俺の家から出て行ったティアを追いかけたのも、つまるところはここに行き着く。 そして恐らく、俺が聖女の傍にいる理由の一端も。 今、ティアは自分の使命らしきものを見つけようとしている。 俺に止められるはずもない。 「……わかった。お前の好きにしろ」 「お前の、生まれ持ったすごい運命ってやつが見られるかもしれないんだろう?」 「は、はい!」 「ありがとうございます、カイムさん!」 「あんたも賛成だろ」 「聖女と神秘の力を示す天使の御子が出れば、住民の不安なんて消し飛ぶだろう」 「聖教会も安泰、というわけだ」 「そうですな」 同意しつつも、ナダルは無表情だった。 何を考えているのか。 「では、早速儀式の準備をしましょう」 「儀式に出られるのでしたら、今日はこちらに泊まっていってくださいませ」 「一日帰るのが遅くなっても問題はありませんでしょう?」 「まあ、それはそうだ」 明日の儀式に備えて話しておかなければならないこともある。 ここに泊まった方がいいだろう。 ため息をつきつつ、俺は了承した。 広場は人でごった返していた。 皆、聖女の話を聞きに集まってきた連中だ。 しかし、以前のお目見えの儀とは違い、人々には活気がない。 地震の頻発で、聖女への不信が高まりつつある中での儀式だ。 聖女の話を聞いて少しでも安心を得たい、という切実な思いがあるだろう。 儀式が始まる時間まで、俺とティアは牢獄を歩いてみることにした。 「すごい人出ですね」 「き、緊張します」 緊張どころの話ではない。 どうもこいつは自分がやろうとしていることがわかってないようだ。 「お前が天使の力を見せられなければ、聖教会は皆からの信頼を失う」 「万が一にもできない可能性があるなら、出るのはやめろ」 「責任重大ですね……」 ティアの力は聖女の切り札となるが、同時に聖女の泣き所にもなる。 今から天使の力を見せると言っておきながらその力が示せなかったら、詐欺師の汚名を着せられても仕方がない。 聖女の信頼は失墜するだろう。 ティアは、聖女と聖教会の命運を左右することをしようとしている。 成功した時の利益と失敗した時の被害の両方を理解し、その上で決断しなければならない。 「お前が失敗すれば全て終わりだ。それでもやるのか?」 「……」 ティアが考え込む。 人波を眺めながら、じっとティアの答えを待った。 「わたし、やってみたいです」 「喜んでいただける力があるのなら、わたしは皆さんのために使いたいんです」 目をそらさず、一心に俺の目を見つめてくる。 決意は揺るがないらしい。 ティアは、以前から大切な使命があると主張してきた。 それが見つかったと思っているのだろう。 ──やらせるべきではない。 ──目立てば面倒なことになる。 頭のどこかで警鐘が鳴る。 聖女と知り合っていなければ、絶対にやらせなかっただろう。 しかし、ティアが力を発揮すれば聖女は救われる。 そのことが、俺の迷いとなっていた。 「……ならいい」 「カイムさん、ごめんなさい」 「わたしのせいで、ご迷惑をおかけするかもしれません」 「なんだ、そんなことか」 肩をすくめる。 「俺はいつでも自分のやりたいようにやってきた。そのせいで死んだ奴もいる」 牢獄に落ちてからは、選べる道なんてそう多くなかった。 だが、俺は男娼になることを拒み、人を殺して生きる道を選んだ。 間違っていたとは思わない。 今でも同じ選択肢が目の前にあったら、俺は殺しを選ぶだろう。 「他人に迷惑をかけてもやりたいことがあるなら、それをやるしかない」 「でも……」 「迷惑をかけるのが嫌ならやめろ。その方が俺も気が楽だ」 「そう言われたら、お前はやめるのか?」 「……やめないです」 「なら四の五の言うな。全てを受け入れた上でやれ」 「ありがとうございます、カイムさん」 「謝ったり礼を言ったり忙しいやつだな。気にするな」 「カイムさんが優しいからです」 ……何を言っているんだ。 「知らんな、そんなことは」 「あ、照れてる」 「照れてない」 「じゃあ、そういうことにしましょう」 「言うようになったな」 出会った当初のティアは物怖じしてばかりだった。 だが、最近……特に大聖堂で暮らすようになってから少しずつ変わってきている。 天使の力があるとわかって、少しは自信がついたのだろうか。 「そこの者」 「ひっ!?」 背後から声をかけられた。 聞き覚えのある声だ。 「フィオネか」 振り向くと、やはり彼女が立っていた。 「なんだ……カイムか」 「久しぶりだな」 「ああ」 相変わらず、フィオネが俺を見る視線はきつい。 「こ、こんにちは」 「ああ、こんにちは」 「〈風錆〉《ふうしょう》の件では世話になった、元気にしているか?」 「はい、元気です」 「聖女様の儀式を見に来たのか?」 「見物ではない、仕事だ」 「前回の儀式では羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》による騒ぎが起こった」 「それを受けて、今回は警備を強化している」 「そいつはご苦労なことだ」 「光栄なことに、ルキウス様、直々にご指示をいただいた」 「とにかく、面倒事は起こさないようにしてくれ」 追い払うように言われた。 「こっちも面倒を起こすつもりなどない」 「それじゃあな」 「失礼します」 さっさと、その場を後にした。 「牢獄も久しぶりですね」 「ちょっと離れてただけなのに、何だか懐かしいです」 まだ儀式までには時間がある。 メルトたちに顔でも見せておくか。 「これはカイム様、お久しぶりでございます」 通りを歩いていると、娼婦3人がやってきた。 「久しぶりだな、変わりないか?」 「ええ、呆れるくらい変わりございませんよ」 「仕事の帰りか?」 「はい、夜通し3人でお相手させていただきました」 「超疲れた」 「稼げるうちにしっかり稼げ」 「面倒くさい」 アイリスは相変わらずだな。 「カイムカイムカイムーっ、あたし寂しかったよー!」 「ずいぶん見かけないから、死んじゃったのかと思ってたよ!」 「ちょっと聖女さんのところにな」 「聖女様!? どこのお店の子と仲良くしてたの!?」 「いや、商売女じゃない」 「正真正銘の聖女様だ」 「えーー?」 全然信用していない。 まあ、そんなものだろう。 「リサ、本当のことらしいわよ」 「マジで!?」 「すっごーい、聖女様とお話ししたり説教されたりしたんだ」 「聖女様ってどんな方? あー、あたしも話してみたいなっ」 「やめとけ。馬鹿が伝染る」 「えっ、聖女様って馬鹿なの?」 「お前の馬鹿が伝染るという意味だ」 「ひっどーー!」 「いいもん、聖女様のお話聞いて、あたしも頭よくなるもんね」 「儀式を見に行くのか?」 「んー、起きれたら」 「今夜もお仕事が入っていますので、体を休めないといけません」 「私も儀式までに目が覚めたら行きますよ」 「アイリスは?」 「どうでもいい」 「そうか」 「だが、今日の儀式は、無理をしても見ておいた方がいいかもしれないぞ」 「え、なになになにー? カイム何か知ってるの? 教えてよー!」 「後でのお楽しみだ」 儀式にティアが現れたら、さぞかし驚くだろう。 ここで教えてしまうのは勿体ない。 「こうなったら、意地でも行ってやるんだから」 「まあ頑張れ」 「それじゃ、お疲れさん」 「はい、お疲れ様でございます」 娼婦たちと別れ、ヴィノレタに向かう。 「あら、いらっしゃい……カイム」 「は、いいとして……ティアちゃん」 「メルトさん、お久しぶりですっ」 ティアがメルトに駆け寄り、頭を下げる。 そんなティアを、メルトはぎゅっと抱きしめた。 「心配してたのよ、上手くやってる?」 「はい、聖女様もお付きのラヴィさんもいい人で、とても良くしてもらっています」 「メルト、俺の心配はなしか」 「カイムは心配し甲斐がないもの」 「どうせ、よろしくやってるんでしょ?」 俺は肩をすくめる。 メルトに心配されるほど柔じゃないことは確かだ。 空いている椅子に座り、火酒を注文する。 「カイムの心配は私がしてあげる」 「エリス、いたのか」 「わざとらしいわね」 茶を口に含みつつ、エリスがつまらなそうな顔をする。 「医者の仕事はどうだ?」 「忙しくって目が回りそう」 「ジークがあれこれ吹聴したみたいで、大した怪我してない連中まで来るの」 「何を考えてるんだか」 とりあえず、経済的には困っていないようで安心した。 扉が開き、ジークが現れた。 「美人の医者にあちこち触ってもらえるんだ」 「健全な男なら、当然診てもらいに行くだろう」 「そんな男の相手は、本職に任せておきなさいよ」 「エリスは堅気なんだから」 「はっはっは」 ジークが笑って誤魔化した。 「ジークさん、お久しぶりです」 「おお、嬢ちゃん、元気にしてるか」 「はい、元気です!」 完全に子供扱いで、ジークはティアの頭を撫でた。 「はい、いつもの」 「おう、ありがとう」 メルトから受け取ったグラスを、ジークが突き出してくる。 「久しぶりだな」 「言うほど久しぶりじゃないな」 グラスを鳴らし、互いに一気に胃の奥へ流し込む。 胃を焼く感触が懐かしい。 大聖堂に行ってから一滴も酒を口にしてなかったせいか、馬鹿に美味く感じる。 「そっちはどうだ」 「順調だ」 「〈風錆〉《ふうしょう》の縄張りも掃除したし、クスリも処分した」 「ベルナドの残党は?」 「残っているのは腰抜けばかりだ。何とでもなる」 「何よりだ」 「そっちはどうだ?」 「上手く聖女様に取り入ることができたのか?」 「まあな」 チェスの相手をしていただけだが、いつの間にかそれなりに近しい関係になった。 「ティアちゃんは、聖女様と上手くやってるの?」 「はい、仲良くさせていただいています」 「よくあんなのと」 「ティアは、お前と違って人当たりがいいからな」 「あらそ」 「大聖堂も楽しいのですが、やっぱり牢獄が恋しいです」 「今日も、何だか、帰ってきたなーって感じです」 「わたしも立派な牢獄の住人ですね」 「あらあら、それはご愁傷様」 そう言いながらも、メルトは嬉しそうだ。 「牢獄へは、いつ戻ってくるんだ?」 「まだわからない」 「少し難しい情勢になっているんだ」 「ほう……」 ジークの目が細くなる。 興味があるようだ。 「今日の儀式に、ティアが登壇することになっている」 「ええっ!?」 「ティアが儀式に?」 「ああ、そうだ」 「じゃあ何か? ティアが天使の御子って話は本当なのか?」 儀式が始まれば、聖女の口から真実が告げられるのだ。 今ここで教えても問題ないだろう。 「恐らく本当だ」 「昨日、ティアが超常の力を発現させた」 「あれは普通の人間にできることじゃなかった」 「まだそんなことを言っているのか」 「現実主義者のお前はどこへ行ったんだ?」 ジークは火酒を呷る。 「だからこそ、この目で見たことは重視する」 「大出世だな、ティア」 「ありがとうございます」 「でも、本当に信じられない、ティアちゃんが天使様の子供だなんて」 「どこから見ても普通なのに」 「普通ですか?」 「胸は普通より小さいわね」 「それは多分関係ないですっ」 「お父さんは誰なんだろうね?」 「ええっ!?」 「ああ、そりゃ大事だ」 「いざってとき逃げられないように、きちんと確認しておけ」 ジークが笑う。 「ティアちゃんは、これからずっと大聖堂に住むことになるの?」 「なるべく戻れるようにしたいです」 「また、こちらのお店で働かせていただきたいですし」 「よく言った」 メルトが満面の笑みを浮かべる。 「儀式が終わって落ち着いたら戻るつもりだ」 「教会の飯はまずいし、第一酒がない」 「おっと、そいつは地獄だな」 「食事が美味しくないんだ」 「じゃあ何か食べてく?」 「いや、また今度にする」 日がだいぶ高くなっている。 そろそろ戻った方がいいだろう。 「じゃ、牢獄に戻ってきたら、とっておきのを作ってあげる」 「ああ、楽しみにしているぞ」 「任せておいて」 「私、期待を裏切ったことないでしょ?」 「まあな」 「じゃあな、ティアも頑張れよ」 「はいっ」 名残惜しそうにしているティアを引っ張り、ヴィノレタを後にする。 ナダルの長い説法が終わり、手を引かれた聖女がバルコニーに現れた。 俺とティアは、関所の入口近くの階段から彼女の姿を見上げる。 今かと待ち構えていた住民たちが、一斉に口を閉じた。 聖女は瞳を閉じ、安らかな表情を浮かべている。 〈数多〉《あまた》の聖職者を従えて威風堂々と立つその姿に、住民たちが小さく感嘆のため息をもらす。 聖女の威光は、いささかも衰えていないようだ。 「それでは、聖女様のお言葉を賜ります」 ナダルに促され、聖女は一歩前へと進む。 そして、小さく胸を張った。 「10数年前、私たちは悲しい出来事を経験しました」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》──未だ癒えぬ傷として、記憶に留めている方も多いことでしょう」 「当時、私はまだ光を失ってはおりませんでした」 「御先代の聖女様のお付きとして、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の惨状をこの目で拝見致しました」 「言葉では言い表せぬほどの悲劇でした」 「祈りを怠る……それは聖女として決してあってはならぬことだと思います」 「あのような悲劇は、もう二度と繰り返してはなりません」 広場に集まった住民たちが微かにどよめく。 聖女は忌まわしき出来事、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》をあえて口にした。 それは『皆の気持ちはわかっている』、そう思わせるためだろう。 「最近、地震に襲われる日も多くあり、不安を感じておられることでしょう」 「今日ここにお集まりになった方々の中にも、私の不徳に内心怒りを抱いている方もおられるのではないでしょうか」 「ですが、私はここに誓います」 「私は日々、神と天使様に祈りを捧げ、一日たりとも祈りを怠ったことはありません」 「皆の願いを届けるため、毎日心を砕いております」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の悲劇を繰り返さないために、私を信じて祈りを託してください」 住民たちが口々に囁き始める。 そのほとんどが、好意的なものに聞こえる。 信じていようが疑っていようが、結局は聖女に頼るしかないのだ。 それなら信じる方が楽だ。 「聖戒には以下のような節があります」 「苦役に嘆くなかれ、報われざること嘆くなかれ、祈りは信心より通ず」 「これは苦しい時こそ祈りを欠かさず、祈りの力を信じよということを教えています」 「皆の祈りは必ずや通じます。私が神と天使様に、その祈りを届けてみせましょう」 「何も心配することはありません」 「私たちは神に選ばれた信仰の徒なのです」 「神は、必ずや私たちの熱心な祈りをお見届けくださることでしょう」 「神に祈りを、そして天使様に祈りを」 割れんばかりの歓声が沸き起こり、口々に聖女を称える。 少し心配していたが、さすがは聖女だ。 懐疑的だった者も、もう一度聖女を信じてみようという気になったに違いない。 聖女は手を広げ、皆を制する。 「今日は特別に、皆にお知らせしたいことがあります」 「この世界は神が天使様をお遣わしになり作られたものであることは、すでにご存じだと思います」 「では、その天使様がこのノーヴァス・アイテルに御子を授けられたことはご存じでしょうか」 「そうです、ここには天使様の御子がいらっしゃるのです」 「それは今ここに……」 「……なんだ?」 巨大な何かが迫ってくるような、不吉な地鳴り。 牢獄民たちが、怯えた表情で周囲を見回す。 と── 「────っ!!!」 立っていられないほどの揺れだ。 石造りの家屋が軋む音、人々の怒号と悲鳴、舞い上がる砂埃。 人々や衛兵が、次々と転倒する。 「立て、ティア!」 ここにいては巻き込まれてしまう。 揺れる視界の中、ティアを引っぱりながら階段を駆け上がる。 バルコニーがある階まで一気に走り、ナダルの背後に立った。 そこに立つ人間は、皆同じ方向を見つめている。 俺も目を遣った。 「……落ちた……」 「ろ、牢獄が……!」 牢獄の一部が、落ちた。 いくつもの家、多くの人々を乗せたまま、大地が奈落へと消えたのだ。 まるで現実味がない。 目の前で起こった出来事であるにもかかわらず、頭が受け入れることを拒否していた。 「ぐ……」 嘔吐感が湧き上がる。 何とか堪えるが、代わりに冷たい汗が全身から吹き出す。 息が上がる。 動悸が激しい。 身体の中を、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の体験が縦横に走り回っている。 「お、おい! 今のはなんだ!?」 「冗談じゃねえぞ! 聖女様、今の地震は何なんだ!」 住民たちが口々に叫ぶ。 広場の住民には、牢獄全体が見えていない。 ただ不安に駆られて叫んでいるだけだ。 だが、いずれ事実を知ることになるだろう。 そうなれば……。 「聖女様を大聖堂にお連れしろ!」 ナダルの声が響く。 弾かれたように皆が動き出す。 思わず聖女に目を向ける。 「……崩落が起こったのですね」 聖女には何も見えていない。 だが、周りの雰囲気でわかったのだろう。 「これで、私も終わりです」 聖女は笑みを浮かべる。 寂しいような安堵したような、何とも言えない表情だった。 「聖女様、失礼致します」 聖職者たちが聖女の両脇を抱え、急ぎ足で去っていく。 警護をしているのか、逃げないように捕らえているのか。 恐らくは、その両方なのだろう。 「神官長!」 「……何でしょうか」 ナダルが迷惑そうな目を向けてくる。 「聖女さんはどうなるんだ」 「あなたも見たでしょう。街が落ちていくのを」 「崩落が起こったのです。こうなれば、もはや説法などでは収まりますまい」 「後はお分かりでしょう」 「処刑するのか」 「それは私が決めることではありません」 「ですが、こうなってしまっては……もう聖女様に聖性を認めることは難しいでしょう」 ナダルが広場に目を向ける。 どこからか、牢獄が落ちたという話が伝えられたのだろう。 怒りにまかせて叫ぶ声、悲鳴、涙ながらの叫喚で満たされ、一つの巨大な声となってうねり響く。 住民たちは混乱の極みにあった。 「ともかく、聖職者たちを一旦大聖堂に避難させます」 「このままここにいては、私刑に遭いかねない」 住民たちが何かを叫びながら石を投げてくる。 ここは危険だ。 「……わかった」 「ではカイム様もお気をつけを」 ナダルの号令に従い、聖職者たちが撤収していく。 「ティア、お前は神官長たちと一緒に大聖堂に避難しろ」 「カイムさんは一緒に行かないんですか?」 「俺は牢獄に行く」 娼館街がある辺りも、一部崩落しているように見える。 皆の無事を確認しなければ。 「わ、わたしも行きます」 「駄目だ。あの中に巻き込まれてみろ。お前なんて簡単に潰されるぞ」 衛兵たちが槍を向けて住民たちを牽制している。 血の気の多い住民は盛んに挑発し、衛兵たちを刺激していた。 このままでは血を見る事態に発展する。 そんな中、こいつを連れて突っ切るなんて無謀でしかない。 「早く行け、取り残されるぞ!」 「……わかりました」 ティアが、何度かこちらを振り返りながら聖職者の後を追っていく。 その背中を見送り、俺は広場へと駆けだした。 路地には、大きな地震に当惑した人が溢れ出していた。 まだ、崩落の事実を知らないのだ。 「はぁ……はぁ……」 大して走ってもいないのに息が上がる。 進むことを本能が拒否しているかのように、全身が重い。 それでも、足を動かす。 エリス── ジーク── メルト── 頭の中を、親しい奴らの顔がよぎる。 娼館街の入口に到着した。 「はっ……はっ……はっ……」 膝に手をつき、肩で息をする。 顔を上げる勇気が出ない。 視線を上げたとき、目の前に娼館街がなかったら── 俺が過ごしてきた街がなかったら── 「はぁ……はぁ……」 意を決して、前を向く。 「……」 ……。 …………。 良かった。 娼館街は……無傷だ。 良かった。 本当に、本当に、良かった。 「はは……は……は……」 ざまあ見やがれ。 そう簡単に、あいつらが死ぬか。 「ははは……はははは……」 安堵のあまり笑いが出てしまう。 とにかく良かった。 落ちてしまった奴らには悪いが、祝杯でも上げたい気分だ。 そうだ、ヴィノレタで一杯やろう。 よし、よし。 店の前まで行き、ドアに手をかけた。 ドアベルが鳴る── 「!!!!!!!!!!!!」 なんだ……? いきなり誰かに引き摺り倒された。 馬鹿野郎が。 頭を振って、意識をはっきりさせ── 立ち上がった。 「…………」 あ…… あ……あ……あ…… ああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっ!!!!!!! なんだ……? なんだこれは……? おかしい、 おかしいだろう。 娼館街の一部が消えている。 あるべきものが、ない。 今、さっき、入ろうとしていたヴィノレタがない。 馬鹿な…… 馬鹿な……馬鹿な…… そんな馬鹿な………… またか。 俺はまた、失ったのか? 俺を置いて、皆死んでしまったのか? エリス、ジーク、メルト、クローディアにリサにアイリス──。 皆、あの下に落ちてしまったというのか? 「あ……あ……あ……」 全身が激しく震える。 記憶に焼きついている、ヴィノレタの扉に手を伸ばす。 「いい加減にして、馬鹿っ!」 「カイム様、お気を確かにっ!!」 誰かに、両腕を引っ張られ、もう一度地面に倒れた。 「ダメだって、ダメダメダメダメ!」 「リ……リサ……?」 「カイム様……しっかりして下さいましな」 「死ねばいい」 俺は、娼婦3人組に組み敷かれていた。 傍らには、エリスが立っている。 「おまえ……ら……?」 不意に、強い風が俺達を薙いだ。 「!?」 崖っぷちだった。 空まであと一歩というところで、俺は倒れていた。 「はは……は……なるほど、馬鹿らしい……」 見知らぬ男が一人、すぐ脇を通り過ぎる。 「は……はは、困るぜおい」 「俺だけ置いてかないでくれよ……なあ……」 「待ってろな、今行くからよ……お前一人で寂しい思いはさせねえ……」 そして、牢獄から姿を消した。 ああ…… あれが、さっきの俺か。 俺は、幻影のヴィノレタで一杯やろうとしていたのだ。 よく見れば、崖からは断続的に人が落ちていた。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の後もこうだった気がする。 現実を受け入れられない奴らが、次々と下界へと消えていくのだ。 「カイム様、大丈夫でございますか?」 「カイム、しっかりして、ほら、ほら」 身体が何度も揺すられる。 「……ああ、もう大丈夫だ」 「ありがとうよ、お前達」 「死ね……死ね……」 アイリスが俺の腕に取り縋っている。 埃に汚れた頭を撫でてやった。 「リリウムは、無事だったんだな」 「ええ、ジークも生きてる」 「カイムの家も、私の家も無事」 「でも……」 エリスが目を伏せた。 わかっている。 ヴィノレタは落ちたのだ。 家1軒分、崩落箇所が逸れていれば助かった。 だが、助からなかった。 落ちなかった隣の建物と、落ちたヴィノレタ。 二者に、何か違いはあったのだろうか。 あるわけがない。 崩落とは、そういうものだ。 「……」 よくよく見れば、ヴィノレタはほんの少しだけ痕跡を留めていた。 人が両手を広げたほどの壁一枚と、床が少々。 小さな椅子が一つ。 何度か使ったことのある椅子だ。 「じゃ、牢獄に戻ってきたら、とっておきのを作ってあげる」 「ああ、楽しみにしているぞ」 「任せておいて」 「私、期待を裏切ったことないでしょ?」 できれば、信じたくなかった。 血反吐を吐くような思いをしながら、娼婦として働き、生きてきた。 幸運にも先代に身請けされ、店を持つに至ったが、人には言えぬ苦労もしてきただろう。 だが、一瞬で散った。 それが、メルトの運命だったというのだろうか。 あっけなく全てが無に帰すその時のために、あいつは生まれ、生きてきたというのか? 「こんな気持ちを残していくなんて……」 「ほんと、最期まで鬱陶しい女」 強張った表情でエリスが言った。 涙は見えないが、その瞳は暗く沈んでいる。 わかっていたことだが、エリスはエリスなりにメルトを慕っていたのだ。 メルト…… 俺が初めて惚れたと言える女だった。 メルト以外にも何人かの女と関わったが、本気で惚れたと言える女はあいつだけだ。 いつも優しく朗らかで、心の薄暗い部分は綺麗に胸の隅に畳み込み、なかなか表には出さない。 だからこそ、心の闇に触れたときは喜びもあったし、日頃の明るさが美しくも思えた。 あいつがいたからこそ、俺は人殺しをしながらも多少は真っ当な神経を保てていたようにも思う。 死んでいいはずの女じゃなかった。 なぜ…… なぜ、死ななきゃならない! なぜ! なぜだ! 身体中を駆けめぐる情動が、毛穴から噴き出しそうだ。 当たり散らしたい。 御しきれない衝動を、何かに思い切り叩きつけたい。 だが、鬱憤の行き先を俺は知らない。 聖女の告白により、それは失われてしまった。 奴の言う通りだ。 崩落の責任を負い、被災者の怒りを一身に受ける存在は必要なのだ。 俺はやはり、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時、先代の聖女に救われていたのだ。 「クソが……」 両の拳で地面を叩いた。 小石が皮膚を破る痛みすら、何がしかの救いであるように思える。 呻き、奥歯を噛む。 そこに怒りの行き先があるかのように、メルトが吸いこまれていった崖の下を見る。 うっすらと大地が見える。 どす黒い大地では、何かが蠢いているようにも見えた。 落ちたものは影も形も見えない。 あの真っ黒なものに飲まれてしまったのだろうか。 以前は、ここまではっきりと大地が見えることはなかった。 雲間から見えるか見えないか、その程度だったはずだ。 吹き上げてくる風が、どことなく匂う。 まるで腐臭のような……胸が悪くなるような匂いだった。 聖女は言っていた。 この都市を浮かせているのは誰でもないのかもしれない、と。 だとすれば、この都市は馬が繋がれていないのに暴走を続ける馬車と同じだ。 なぜ動いているのか、どこへ行くのかなど誰も知らない。 時と共に馬車は壊れていく。 だが、決して降りることは許されない。 「オズの班は北を巡回しろ、お前達は西だ」 「今日中に全ての被害状況を調べあげろ!」 「行くぞお前らっ」 路地に聞き慣れた声が響いた。 こんな状況でも不蝕金鎖は統制が取れているようだ。 「ジーク」 ジークが声に反応した。 矢継ぎ早に部下へ指示を出しながら、こちらへ向かってくる。 「来ていたのか」 「ああ。様子はどうだ?」 「今、状況を調査中だ」 「どうやら、スラムの方がひどいらしいな」 「そうか」 ジークがちらりとヴィノレタの残骸に目を遣る。 「後でまた飲もう」 「……ゆっくりとな」 「もちろんだ」 「お前たちはフラフラせずにリリウムにいろ、わかったな」 ジークが急ぎ足で去っていく。 「お前らは、ジークの言う通りにした方がいい」 「そうね、しばらくは大人しくしてる」 「クローディア、お前がリリウムの娼婦をまとめるんだ」 「かしこまりました」 「また近いうちに戻ってくる」 女たちに別れを告げ、関所へ戻る。 わずかな時間で、牢獄には崩落発生の報が広まっていた。 路地には、絶望や怨嗟の声、悲鳴や嗚咽が溢れ、混沌を極めている。 もし今、下層から牢獄を見下ろせば、牢獄全体が巨大な生き物となり泣きわめいているように見えるだろう。 ……最低だ。 最低最悪だと思っていた牢獄に、まだ下があるとは。 一体、俺達はどれだけの苦しみを味わえば、底に達することができるのか。 いや、そもそも、どうして俺達だけが苦しまなくてはならない? 俺たちが何をしたって言うんだ。 「俺たちが何をしたって言うんだ」 「っ!?」 どきりとして、周囲を見回す。 内心が声に出たのかと思った。 誰の声だったのだろう。 「どうして俺たちがこんな目に遭うっ」 路傍に座り込んでいた男が、突然立ち上がった。 瞳には憎悪の炎が灯っている。 「……誰のせいだ?」 「考えてみろ、誰のせいだ?」 俺は答えを知らない。 だが、彼らにどんな答えが用意されているかは知っていた。 「聖女のせいだ!!」 「盲目の聖女が、牢獄を落としたんだ!!」 水面にできた波紋が広がるように、 その言葉が路地を伝わっていく。 『盲目の聖女』 『牢獄を落としたのは、盲目の聖女だ』 「聖女を……」 「聖女を……殺せ」 男がゆっくりと歩き出す。 「聖女を殺せ」 それを引き金にして。 「聖女を殺せ」 口々に呟きながら歩きだす。 彼らが向かう先にあるのは、牢獄に設けられた教会だ。 「聖女を殺せ!」 怨嗟の声が響き渡り、猛然と走っていく。 「聖女を殺せ!」 「聖女を殺せ! 聖女を殺せ!」 呟きは叫びに変わり、怒濤となって教会へと向かう。 聖女を標的とし、凄まじいまでの怒りが荒れ狂う。 『聖女を殺せ』 幼かった頃、自分も先代の聖女に向かって同じ言葉を投げつけていた。 全て聖女が悪い。 奴が祈りを怠ったせいで、自分の大切な者が失われた。 そう思う気持ちは痛いほどわかる。 俺だって、メルトを失った怒りをどこかにぶつけたくて仕方がない。 しかし……。 「……本当に、そうであればどれだけよかったことか」 「あなたにわかりますか。聖女が都市を浮かせるわけではないと知った時の、私の絶望が」 「聖女が本当は何のためにいるのかわかった時の、私の絶望が」 「私が頑張れば天使様に祈りが通じ、私が頑張って地震をおさめられるのなら、本当に、どれだけよかったことか……!」 聖女と都市が浮いていることには、何も関係がない。 聖女がどれだけ頑張ったところで、崩落を避けることなどできないのだ。 聖女を恨むのは筋違いだ。 だが、それを説明したところで牢獄民は信じないだろう。 一度爆発してしまった怒りは、誰かが受け止めなくてはならない。 それが……あいつの役目なのだ。 脳裏に聖女の顔が浮かぶ。 行こう、あいつのところに。 大聖堂は騒然としていた。 日頃、祈りや説法の声が流れていた空間に、住民の罵詈雑言が響いている。 閉じられた門の外には大勢の住民が群れていた。 皆、武器になりそうなものを持ち、盛んに打ち鳴らしていた。 このまま住民の怒りが収まらなければ、大聖堂が破壊されるのも時間の問題だ。 「おい、あんた」 通りかかった聖職者に声をかける。 「な、なんでしょうか」 「ティアを見なかったか?」 「さあ……私は見ておりません」 「誰か知っていそうな奴はいないか」 「神官長ならご存じかもしれません」 「そうか」 礼を言い、ナダルを探す。 ナダルは奥の方で、聖職者たちに指示を出していた。 「神官長」 「カイム様、ご無事でしたか」 「門を閉める時にいらっしゃらなかったので心配しておりました」 「牢獄の様子を見に行っていた」 「ティアはいるか?」 「大聖堂では見ておりません」 「もしいるとすれば、聖殿ということになりますが……」 おかしい。 聖職者達についていくよう指示したはずだが。 「わかった」 進みかけた俺を、神官長が止める。 「お待ちください」 「今、聖域は立ち入りが禁止されております」 「なぜだ?」 視線を逸らした神官長が、咳払いをする。 「つい先ほど、聖女様の処刑が決まりました」 「……」 聖女の処刑。 わかっていたことではあったが、実際に耳にすると少なからず衝撃があった。 「聖女を処刑するのか」 「もはや、処刑なくして住民の怒りは収まりません」 「つい先ほど、国王陛下の使者が参り、聖女様処刑のご命令が下りました」 辛そうに目を伏せるナダル。 「……なるほど」 「まさかティアまで一緒に処刑するわけじゃないだろうな?」 ナダルを〈睨〉《にら》み付ける。 「無意味な処刑など行いません」 「それを聞いて安心した」 「だが、聖域には入らせてもらうぞ」 「ですから、今は立入禁止だと」 「別に聖女様を助けに来たわけじゃない」 「ティアがいるかどうか確認するだけだ」 面倒なナダルを無視して、聖域に向かう。 橋を渡り聖域に入った。 ずっと騒音に囲まれていたせいか、驚くほど静かに感じられる。 やはり、ここにいる者は清浄なのだ。 聖女を処刑する── そのことが、純白の生糸を泥で染めるような行為に思えてくる。 聖女は部屋で一人、椅子に腰掛けていた。 表情もなく目を瞑っている。 「寝ているのか?」 「カイムさんでしたか」 俺の声に反応し、立ち上がった。 よろけながら、こちらに近づいてくる。 「今は立ち入り禁止のはずですが」 「ナダルに足止めされるほど〈耄碌〉《もうろく》しちゃいない」 「悪い人ですね」 聖女が笑う。 その様子は、普段と何も変わりがない。 自分が処刑されるということを聞いていないのだろうか。 「その……大変だったな」 「大変なことは何もありません」 「私は、初めから何もしていないのですから」 聖女は何もしていない。 聖女が何もしなくても、この都市は勝手に浮いているのだ。 「私の処刑が明日と決まりました」 「随分と忙しないものですね」 「民の怒りを、早急に収めたいということなのでしょう」 淡々とした口調。 「いいのか、聖女さん」 「私はもう、聖女ではありません」 「聖女じゃない?」 「私は祈りを怠った大罪人ですから」 「きっと今頃は、次の聖女が洗礼を受ける準備をしていることでしょう」 聖女が薄く笑う。 「それじゃ、今のあんたは……」 「先ほど正式に破門を言い渡されました」 「今や私は聖職者ですらありません」 「処刑されるのは聖女でも聖職者でもありません」 「元聖女……ただの罪人です」 まるで〈蜥蜴〉《とかげ》の尾を切るように。 聖教会は、民の心を安んじるため、全ての罪をこいつになすりつけるつもりなのだ。 「あんた、納得してるのか?」 「今更何を言っているのですか」 「聖女はこの時のために存在しているのです」 「むしろ、これから本当の聖女の役割を果たすのです」 皮肉な話だ。 聖女ではなくなってから、初めて聖女の本分を果たせるとは。 「こちらにいらっしゃる前に、どこかに寄られていたのですか?」 「牢獄に行っていた」 「お知り合いの方々は無事でしたか?」 「……」 思わず目を伏せる。 俺が子供の頃から、ずっと傍で見守ってくれていた── 時に姉であり、時に恋人だった女が死んだ。 自宅よりも長い時間を過ごした店と共に、どす黒い混沌の中に沈んでしまった。 「どなたかを亡くされたのですね」 「……ああ」 「それは不憫なことでした」 聖女のそっけない言葉使いに、苛立ちが募る。 「不憫……それだけか?」 思わず口に出してから、〈凝然〉《ぎょうぜん》とする。 こいつに当たること自体、筋違いだ。 聖女は何もしていないのだから。 拳を握りしめる。 「いいのです、私を恨んで下さい」 「それで楽になるはずです」 聖女が淡々と言葉を紡ぐ。 「与えましょう、あなたが欲し後悔せずにいられるのなら」 「遠慮する必要はありません」 「私は、与えるために存在しているのですから」 言葉が胸に響く。 「……やめろ」 「全てを私の罪としなさい」 「あなたはただ、私に憎しみをぶつければいい」 「負い目を感じる必要はありません」 「それは、殊更に間違っていることではないのですから」 「やめろ!」 聖女の両肩を掴む。 かすかな震えが伝わってきた。 「俺は、もう素直にあんたを恨めない」 「他の奴らと一緒に扱いたいなら、初めから真実など教えるな」 「……」 「悟ったようなことを言いやがって……」 「平気な振りをしているだけじゃないか」 「そ、それは……」 聖女が目を逸らす。 少し言い過ぎた。 どうしようもないからこそ、聖女は平気な振りをしているのだ。 そこを指摘してどうする。 「すまん、むきになった」 「だが、俺にそんな安っぽい同情を向けないでくれ」 聖女の肩を離す。 「……申し訳ありませんでした」 「わかったならいい」 「御子の仰った通りですね」 「何の話だ?」 「いえ、何でもありません」 聖女は嬉しそうに微笑む。 ……そういえば、ティアの行方を探しているのだった。 「あんた、ティアを知らないか?」 「御子がどうかされたのですか?」 「大聖堂に向かうように言ったんだが、あっちにはいなかった」 「ここへもいらっしゃっておりません」 「そうか……」 どこに行ったんだ。 「ラヴィのところを見てくる」 「……あ……」 「ん、どうした?」 「いえ……何でもありません」 何か言いかけたようだが…… 今はティアを見つけることを優先しよう。 「ラヴィ、いるか?」 「……カイム様」 ラヴィが体を起こそうとする。 「まだ寝ていろ」 「すみません、ご心配をおかけします」 まだ顔色が青い。 「それよりティアを知らないか?」 「いえ、存じ上げませんが」 ここにも来ていない。 となると大聖堂に来ていないのか? 街中には殺気立った連中が溢れている。 ……危ないな。 「邪魔したな」 「お待ちください、カイム様」 「何だ?」 「先ほど大きな地震がありましたが、聖女様はご無事ですか?」 まだ知らなかったのか。 そう言えば、ラヴィはもう一人なのだ。 俺が教えなければ、こいつが事態を把握するのは、聖女が死んだ後になってしまうかもしれない。 「落ち着いて聞いてくれ」 「はい」 「さっきの地震は崩落によるものだ」 「……え?」 「牢獄の半分が落ちた」 「……っ!」 ラヴィが大きく息を飲む。 驚愕に瞳孔が開き、まともに息すらできないほどだった。 「……それは、本当ですか?」 「本当だ」 「聖女は、崩落の責任を取り、明日処刑されることになった」 「聖女様が……明日……処刑?」 「ああ」 「……そんな……!」 ラヴィは胸を押さえ、涙をにじませる。 「私のせいです……全部、私のせいです……」 「お前は何も悪いことはしていない」 「いえ、私は、私は……!」 「誰が悪いとか、今はどうでもいい」 誰かのせいにして済むなら楽だ。 「聖女さんは、お前が羽を切った日から、完全に目が見えなくなっている」 「お付きじゃなくてもいい」 「昔の二人に戻って、傍にいてやれ」 「聖女様……」 「何なら一緒に行ってもいいぞ」 「聖女さんも、今ならお前を受け入れるはずだ」 ラヴィが穏やかな顔をした。 が、すぐ表情を引き締める。 「私は参りません」 「もう会わないつもりか?」 「はい」 「処刑は明日だ。後悔することになるぞ」 「いえ、後悔はしません」 強い意志を秘めた瞳。 今までのラヴィとはまるで違った。 「カイム様に、お願いしたいことがあります」 「考えがあるんだな」 「はい」 「わかった、話を聞こう」 「だが、まずはティアの行方だ」 「あいつを見つけたら、必ず戻ってくる」 「わかりました、お待ちしております」 ラヴィに約束し、俺は部屋を出た。 街は閑散としていた。 時折、遠くから怒声が聞こえてくることを除けば、ほとんど人の気配がなかった。 軒を連ねる家々は戸を閉ざし、ひっそりと静まりかえっている。 一部の過激な連中が暴徒化しているせいで、皆家に籠もってしまったようだ。 「まずいな……」 こんな中を、ティアみたいな奴がふらふら歩いていたら、襲ってくれと言っているようなものだ。 無事だといいが……。 「聖女を殺せ、聖女を殺せ!」 「そうだ、聖女を早く連れてこい!」 「旦那を返してよっ!!」 「俺の息子を落としやがって、絶対に許さねえぞ!!!」 処刑場には、すでに人の姿があった。 まだ広場を埋め尽くすほどではないが、これからもっと集まってくるだろう。 ざっと見渡すが、ティアはいない。 他を当たろう。 しばらく下層を歩き回ったが、ティアは見つからない。 何の手がかりもなく人を見つけようというのだ。 さすがに厳しい。 「ん……」 前方から、羽狩りの一隊が近づいてくる。 先頭にいるのはフィオネだ。 「フィオネ」 「なんだ、カイムか」 「巡回中だ、邪魔をするな」 白い目で見られるが、今は気にしていられない。 「時間は取らせない」 「この辺りで、ティアを見なかったか?」 「ティア?」 「私が保護したが」 「本当か!?」 「嘘をつく必要がどこにある」 怪訝な顔をされた。 「奴はどこにいる?」 「ティアにはルキウス卿に従うように言ったよ」 「ルキウス卿?」 「一体、何があったんだ?」 フィオネが経緯を説明してくれる。 フィオネがティアを保護したとき、奴は大聖堂に行きたいと言ったらしい。 しかし、大聖堂が暴徒に囲まれていることを知っていたフィオネは、ティアを関所に連れて行った。 そこに、たまたま居合わせたルキウス卿が、自分が預かると言ったらしい。 「少なくとも、関所よりは安全だろうからな」 「それに、私もティア一人に構っているわけにはいかなかった」 ずいぶんと気が利く貴族だ。 多少、気色悪いところもあるが、ともかく居場所がわかってよかった。 「まだ関所にいるのか?」 「わからない、自分で確認してくれ」 「そうか……とにかく関所に行ってみる」 「カイム、不審な動きはするな」 「暴徒のせいで衛兵はみな過敏になっている、身の安全は保証できんぞ」 「ありがたい忠告だ」 「仕事を増やしたくないだけだ」 「それと、ティアを保護してくれて助かった。礼を言う」 「……たまたまだ」 「お前のことを許したわけではない」 「ああ、わかっている」 フィオネに別れを告げ、関所へと足を向ける。 関所付近は騒然としていた。 広場は群衆に埋め尽くされている。 どうやら関所を閉じて、牢獄の人間を下層へ上げないようにしているらしい。 「……カイムか」 「ちょうどいいところで会った」 「こっちもだ」 「場所を変えよう」 俺の返事も待たず、ルキウス卿は郊外へと歩いていく。 「ここが好きなのか? いい趣味とは言えないな」 「落ち着かないか?」 「言葉遣いが悪くて恐縮だが、馬鹿じゃないのか?」 「崩落で騒いでるときに、こんなところに連れてくるな」 「……これは悪かった」 ルキウス卿が真顔で言う。 何か意図があってここへ連れてきたのだろうか。 「ティア君のことだろう?」 「ああ、保護してくれたらしいな」 「私の屋敷に送らせたよ」 「他に適切な場所が思いつかなかった」 「いや、助かった」 少なくとも、暴徒に殺されることはなさそうだ。 「すまんな、手を煩わせて」 「いや、気にしないでくれ」 「どうする? 君も私の屋敷に来るか?」 「いや」 ティアの無事は確認できた。 今度はラヴィとの約束を果たしに戻らなければならない。 「聖女様のことか?」 「まあ、近からず遠からずといったところだ」 ルキウス卿に教える理由はない。 「処刑の話は伺っている、残念なことだ」 「祈りを怠った結果だ、当然の報いじゃないか」 「本当にそう思うか?」 ルキウス卿は、真っ直ぐに俺を見ていた。 表向き、崩落は聖女が祈りを怠ったからということになっている。 本当は違う、ということは聖女と俺の間でだけ通じることだ。 だがこの問いかけは何だ? 「あんた、何か知っているのか?」 「いや、何も知らない」 「ただ、聖女様を処刑すれば万事解決とはいかない予感がしていてな」 何か知っていると言ったも同然だ。 ルキウス卿は何かを隠している。 しかも、あえてそのことを俺に知らせようとしている。 意図は何だ? 「やはりこちらにおいででしたか」 システィナがやってきた。 「丁度いいところに来てくれた」 「お褒めいただき光栄ですが、申し上げたいことがあります」 「どうした」 「今は都市の情勢が不安定です。お一人で出歩くのはお控え下さい」 「男同士でないと話せないこともあるのだ」 違うか、と目で訴えられた。 「俺に振られてもな」 「それならそれで、一言ください」 「もしものことがあっては、取り返しがつきません」 「こう見えて、割と敵が多いのか?」 「並、だろうな」 臆面もなく言う。 「どうやら二人きりにはさせてくれないようだ」 「逢引きはこれで終わりにしよう」 「ああ、女の嫉妬は怖いからな」 副官に鋭い視線で射貫かれる。 「もう一度同じことを言ったら……」 「そのときは覚悟してください」 「おっと」 「真面目に戦えば、覚悟が必要になるのはお前の方ではないか?」 「く……」 自分の実力はわかっているらしい。 システィナは〈項垂〉《うなだ》れる。 ルキウス卿は、そんな女の姿を微笑みながら見ていた。 割と洒落のわかる男らしい。 「システィナ、牢獄民には救援物資の準備があることを伝えろ」 「はっ」 システィナの表情が瞬時に引き締まる。 「《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の時とは違う」 「我々が牢獄を決して見捨てないことを示そう」 「状況が落ち着いたら、すぐに被災地区内に運ばせよ」 「指揮はフィオネ副隊長に」 「了解いたしました」 ルキウス卿とシスティナが背を向ける。 「ティア君のことはこちらに任せてくれ」 「君は大聖堂の用事を済ませてくるといい」 「ああ」 「副官、あんたも頑張れよ」 「ええ、もちろん全力を尽くします」 蔑むような視線をこちらに向けてから、システィナが去っていく。 さて、ティアの件は一段落した。 あとは大聖堂だな。 「ラヴィ、いるか」 「はい」 ラヴィは部屋の片付けをしていた。 荷物をまとめているようだ。 「御子様は見つかりましたか?」 「ああ、知り合いが預かってくれていた」 「それは何よりでした」 ラヴィが安堵のため息をつく。 「カイム様もお怪我はありませんか?」 「外には、かなりの人が押しかけてきているようですが」 「俺は人ごみが嫌いでな」 「裏口から入らせてもらった」 「大聖堂に裏口はないはずですが……?」 「言葉どおりの意味に取るな」 「……あ、ああ……なるほど」 少し考えて、ラヴィは合点がいったようだ。 「それは好都合です」 「天使様の思し召しかもしれません」 ラヴィが手を合わせ、天使に祈った。 「何の話だ?」 ラヴィが俺に向き直る。 「カイム様に、お仕事をお願いしたいのです」 と、革袋を取り出し、渡してきた。 ずしりと重い。 中身を覗くと、聖鋳金貨が山と入っていた。 「お前、これは……」 「私が今までに頂戴したお給金が全て入っております」 「これでお仕事を引き受けていただけないでしょうか」 時々によるが、聖鋳金貨1枚で大体金貨10枚の価値がある。 それがこれだけあるということは…… 5年は暮らせそうな額だ。 「こんな大金で何をさせるつもりだ?」 ラヴィは一息置き、静かに告げる。 「聖女様を、大聖堂から連れ出して欲しいのです」 「……なんだと?」 「ここから聖女様を連れ出し、どこかに匿ってください」 「……」 絶句する。 聖女を連れ出すなど、できるはずがない。 「冷静に考えろ、そんなことしたらどうなると思う」 「聖女が処刑前に逃げ出してみろ、間違いなく都市中に捜索の手が回るぞ」 味方は誰もいない。 衛兵に見つかれば、たちどころに捕らえられる。 住民に見つかれば、私刑に遭って殺されかねない。 とても匿いきれるものじゃない。 「大丈夫です」 「根拠は?」 「私が、聖女様の代わりになります」 「はあ?」 「カイム様の仰る通り、聖女様がいらっしゃらなければ大聖堂は大騒ぎになるでしょう」 「当然、神官長は捜索を願い出るだろう」 「そうはなりません」 「捜索を届け出ても、処刑までに聖女様が見つかるとは限りません」 「聖女様が見つからずに処刑が延期などということになれば、ナダル様もただではすみません」 「ですから、極力、内々に事態を収拾しようとするはずです」 「だが、聖女がいなければ処刑はできないぞ」 「私が聖女様の身代わりを申し出ます」 ……なるほど。 ラヴィが何を企んでいるのか、ようやくわかった。 だから、身のまわりの整理をしていたのか。 「処刑が無事に終われば、もう聖女様を探そうなどとは考えないでしょう」 「むしろ、表に出てきて欲しくないはずです」 「ですから、無事に聖女様を連れ出すことさえできれば、きっと上手く行きます」 ラヴィの決意。 それは、自分が聖女の身代わりとなって処刑されること。 最後の最後まで、聖女に尽くそうというのか。 「どうしてお前は、そこまでするんだ」 もう何度目の質問になるだろうか。 どれだけラヴィが尽くそうとも、聖女の方は一顧だにしなかった。 それが聖職者として当然だと言い張り、ラヴィに冷たく当たり続けた。 それなのに、どうしてラヴィは聖女を信じ続けるんだ。 「教えてくれ」 「信仰だけでここまでするのは、俺にはどうしても理解できない」 「……わかりました」 「カイム様にだけは、お話しすることにします」 ラヴィは一呼吸置き、静かに語り出す。 「第29代の聖女イレーヌは、本当は私が務める予定でした」 「ですから、明日処刑されるのは私であるべきなのです」 「どういうことだ?」 「先代の聖女様が処刑されると決まった時、私はナダル様に呼び出されました」 「次の聖女は私だ、というのです」 「ですが、今の聖女様の方が私よりも熱心に勉学に励み、皆への説法も上手でした」 「御先代から気に入られていたのも、今の聖女様です」 「なのに、なぜ私が選ばれるのか、どうしてもわかりませんでした」 「理由を尋ねると、ナダル様は仰いました」 「……私の方が聖女に相応しいと」 聖女に相応しい、か。 一体、ナダルは何を基準に聖女を選んでいるのだろう。 「私は疑問に感じました」 「聖女様は、最も敬虔な聖職者が任命される栄誉ある務め」 「自分の方が聖女に相応しいとは、どうしても思えなかったのです」 「ですから、私はあえてナダル様の機嫌を損ねる態度を取りました」 「その結果、私は候補から外され、今の聖女様が選ばれたのです」 そういう経緯があったのか。 しかし、やはり腑に落ちないところはある。 「お前は今の聖女さんが相応しいと思ったからそうしたんだろ?」 「別に負い目を抱くようなことじゃない」 ラヴィは力なく首を振る。 「……違うのです」 「後になって、なぜ自分が聖女になろうとしなかったのか、気づいたのです」 俯いて、ため息をつくラヴィ。 「私は……聖女になることを恐れていたのです」 「自信がありませんでした。自分に聖女という大役が務まるのか」 「私がやらなくても、目の前に聖女になることを望み、その任に〈能〉《あた》うだけの力量を持った人がいる」 「なら、私がやらなくてもいいのではないか」 「でも、それは逃げでした」 「ただ単に、私は言い訳をして逃げたかっただけなのです」 ラヴィは喉の奥から絞り出すように言葉を紡ぐ。 震える手をぎゅっと握りしめている。 「私は後悔しました」 「御先代の聖女様が処刑されるのを見て……私は、何て卑怯な人間だったのかと」 「その時になって、自分が何から逃げたのかがようやくわかりました」 「私は、人々のやり玉にあがることから逃げたのです。祈りを怠れば処刑されるかもしれないという重責から逃げ出したのです」 「私はそれを、今の聖女様に押しつけたのです」 「あまりに情けなくて、私は聖職者として生きていく自信を失いました」 ラヴィは顔を上げる。 「でも、聖女様はそんな私に声をかけてくださったのです」 「自分のお付きになってくれ、と」 ラヴィは大切なものをしまい込むように、そっと手を胸に当てる。 「私は聖女様によって救われました」 「何があってもこの方に仕えていこう、どんなことがあっても信じようと思いました」 「聖女様の前で、私はそう誓ったのです」 ラヴィの約束。 聖女はそれを聞き届け、ラヴィをお付きに取り上げた。 聖職者として挫折しかけたラヴィに責務を与え、立ち直らせたのだ。 「……ですが、私はお付きになった後も、事ある毎に逃げ出してしまいました」 「毅然と立ち振る舞うことができず、聖女様を怒らせてばかりでした」 「自分で誓ったことすら、守ることができませんでした」 「せっかく聖女様が機会をくださったのに……私は弱い自分が情けなくて、恥ずかしくてたまりませんでした」 ……ラヴィにとって、聖女は光だったのだろう。 自分にはできないと逃げ出した聖女の道を、まっすぐ歩いていく光だった。 そして、逃げて行き場を失ったラヴィを救ったのが聖女だった。 だからラヴィは影の道を選んだ。 逃げた負い目を抱えながら、聖女を支え続ける影として生きていく道を選んだ。 それにも拘わらず、ラヴィは聖女を信じ切ることができなかった。 強い言葉を発することができないラヴィは、ナダルの言葉に振り回され、誓いを守ることができなかった。 そのことに、ラヴィは自責の念を抱き続けてきた。 「昨日から体に力が戻らず、立つのも苦労しています」 「食べ物もあまり喉を通りません」 「どうして私が助かったのかはわかりませんが……そう長くは持たないでしょう」 「ラヴィ……」 「でも、今はこの命があることに感謝しております」 「こうして生きていることで、最後に聖女様へ尽くすことができるのです」 ラヴィは居住まいを正し、まっすぐに見つめてくる。 「カイム様、どうかお願いします」 「聖女様を連れてどこかへお逃げください」 「私の処刑が終わるまで、どこかに閉じ込めておいてください」 「そうして処刑が済んだら、それまでのことは忘れて暮らしていけるようお手伝いいただけないでしょうか」 「……」 ここから聖女を連れて逃げる。 それだけでも大変だというのに、その上独り立ちできるようになるまで面倒を見ろと? いくら高額報酬だからと言って欲張りすぎだ。 「……駄目でしょうか」 ラヴィが悲しそうに目を伏せる。 常識で考えれば、こんな面倒な依頼は一も二もなく蹴るところだ。 「そんな顔をするな」 ため息一つ、俺はラヴィの頭に手を乗せる。 「ですが……」 「お前のお願いはいつも滅茶苦茶だ。ため息もつきたくなる」 だが、俺は知ってしまった。 ラヴィがどれだけの思いを込めて、こんな無茶を俺に頼んだのか。 「聖女を連れ出すとなれば、多くの監視の目をかいくぐっていかなければならない」 「成功は確約できないぞ。それでもやるか」 「カイム様……」 ラヴィの目が潤む。 「どうなんだ、やるのかやらないのか」 「よろしくお願いします」 ラヴィが深々と頭を下げる。 自分を身代わりに、聖女を救う提案をするとはな。 どこまでお人好しなんだ。 日が傾いている。 明日まで間がない。 「……」 ラヴィの依頼は受けたものの、内心まだ迷っていた。 何をどうしたところで、誰かが全ての責任を負って死なねばならない。 聖女が処刑されなければ、民は怒りの矛先を聖教会に向けるだろう。 多くの聖職者が、聖女の代わりに犠牲になるに違いない。 同時に、聖女は信仰を得ることが難しくなるだろう。 都市の平穏を守るため、聖女は処刑されなければならない。 だからラヴィは身代わりを申し出た。 恐らく、奴の企ては上手くいくだろう。 処刑場は柵で囲われており、見物人は近づけない。 殺されようとしている女が本物の聖女かどうかなど、見分けがつかないだろう。 ほとんどの民は、聖女の顔など遠目にしか見たことがないのだ。 ナダルたちが黙っていればそれで済むことだ。 だが── 本当にラヴィを犠牲にして聖女を助けるべきなのか。 処刑されるべきは、今の聖女なのか、それともラヴィなのか。 どっちが死ぬとしても理不尽だ。 死ぬために生きる人生など、あってよいのだろうか。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で牢獄に落ちた俺は、とにかく生きるのに必死だった。 毎日食べること、生き残ることだけで精一杯だった。 何かを考えている暇なんかなかった。 だがそれは、ある意味救われた状態だったのだ。 先代聖女が処刑されたお陰で、少なくとも〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の原因について頭を悩ませることはなかった。 もう崩落は起きないと、根拠もなく信じることができた。 あとは、生きることだけを考えていればそれで良かったのだ。 気楽なものだ。 だが、今は違う。 ヴィノレタは落ちた。 メルトは消え、あいつの料理を食べることは未来永劫できなくなった。 思いもしなかったことだが、俺は牢獄での日々で、色々なものを手に入れていた。 そして、それらを失った。 また一から牢獄でやり直していくのだろうか。 再び崩落が起こるかもしれないのに? 聖女をすげ替えたところで、崩落が収まることはない。 聖女がいくら祈りを捧げたところで、崩落は食い止められないのだ。 そんな状態で、今までのように生きていけるのか? ……答えはわかりきっている。 だったら、考えなければならない。 自分は何をするべきなのか。 自分は何を選び取るべきなのか。 聖女かラヴィかなど、くだらないことに悩んでいる暇はない。 ……俺にはまだ、できることがある。 一つの策を胸に秘め、俺は娼館街へと向かった。 再び聖女の元へ戻ってきた。 聖女は、別れた時と同じ姿勢のまま俯いていた。 ずっとこうしていたのだろうか。 「カイムさん……」 「なぜ俺だとわかった?」 目は見えないはずなのに。 「歩き方や戸の開け方……人にはそれと気づかない特徴があるものです」 「なるほど」 「誰か怪しい奴が近づいて来てもわかるわけだ」 「貴方だからわかるのです」 「聖女様に覚えてもらえるとは光栄だな」 「もう聖女ではありません」 「そうだった」 「また来ていただけるとは思いませんでした」 「もう、私に用などないはずですから」 「そうでもない」 俺は持ってきた瓶を置き、チェス盤を机に置く。 「チェスでもやろう」 「私は、もう目が見えませんが」 「俺が手伝ってやる」 「盤面を思い浮かべながら打ってみろ」 「……わかりました」 駒の移動は俺が担当し、口頭でチェスを進める。 普通にチェスをしていたときの光景が思い浮かび、いたたまれない気持ちになった。 「次は俺の番だ。C4のルークをE4に」 「これはこれで面白いですね」 「目が見えていた時よりも、はっきりと動きが読めるような気がします」 「達人の台詞だな」 初戦は聖女も不慣れだったため、俺が勝った。 しかし慣れてくるにつれ、どんどんと強くなっていく。 今回はかなり苦戦を強いられている。 「H7のビショップをE4に」 「む……」 「ふふ、随分と苦しそうですね」 「待て、ゆっくり考えさせてくれ」 このままだとキングが端に追い詰められてしまう。 そうなると勝機を失い、あとは引き分けを狙うしかなくなる。 諦めずに勝ちを狙うか、妥協して引き分けを目指すか── その瀬戸際だった。 ふと、聖女を見ると…… その体が小さく震えている。 顔色も優れない。 「体調でも悪いのか?」 「いえ、問題ありません」 「厳しいようならやめるぞ」 「続けます」 問題がないならいいが。 聖女は震えを抑えるように、体を抱きしめる。 「あんた、ひょっとして怖いのか?」 「……」 そうか、そうだったのか。 ……いや、当たり前か。 こいつは明日、死ぬのだ。 自らの足で、崖の向こうへ踏み出さなければならない。 怖くないはずがない。 自分の鈍感さに少し呆れる。 「すまん、昼間は平然としてたんでな」 「いいのです。これが私に課せられた定めなのですから」 「もし、ここから逃げられるとしたらどうする?」 「逃げる……?」 聖女はしばらく考え込み、寂しげな笑みを浮かべて首を横に振る。 「できません」 「どうしてだ」 「私に信仰があるように、皆それぞれ心のよりどころがあります」 「ノーヴァス・アイテルは、聖女が祈りの力によって浮かせている」 「そう信じられているからこそ、民は不安定で不条理に満ちた都市の上で生きていけるのです」 「いつ落ちるともしれぬ都市の上では、生を営むことなどできません」 「それはそうだが……」 「貴方も、かつては御先代によってお心を救われたことと思います」 「今度は、私の番です」 「人は、誰しも完全ではありません」 「誰かが理不尽を、不条理を背負わなければならないのです」 聖女の肩がわななく。 閉じた瞳の端に涙がにじみ、頬を伝って落ちた。 「だが、怖いんだろう」 「当たり前です」 「逃げられるなら逃げてしまいたい」 「でも、許されるはずがありません」 「聖女が処刑され、新しい聖女が祈りを捧げるからこそ、民は安心して生きていけるのです」 「聖女が逃げてしまったら、民の怒りは行き場をなくし、暴発するでしょう」 「私一人で済むのなら、その方がいいのです」 聖女の言っていることは間違っていない。 正論を自分に言い聞かせることで、恐怖を克服しようとしているのだ。 「聖教会に拾われる以前、私は身寄りのない貧しい子供でした」 「その日の命を繋ぐのがやっとの生活をしていたのです」 俺と同じような境遇だったのか。 「聖教会が拾ってくれたことで、私は飢え死にせずに済みました」 「その聖教会が私に死ねと言っているのです。拒むことなどできません」 「それに、聖女が聖女の役目を果たさねば、もう何もないではありませんか」 「それは違う」 「お前は全てを失ったわけじゃない」 「貴方に、私の何がわかるのですか?」 聖女は、聖教会の仕組みに裏切られても祈りを忘れなかった。 その結果、天使の声を聞いたのだ。 聖教会が滅んだとしても、彼女の信仰は残るはずだ。 「あんたには、決して揺るがない信仰が残るじゃないか」 「それでも不満なら、こう言おう……」 「……俺が、ここにいる」 「カイム、さん……」 聖女が、よろけながら胸に飛び込んできた。 「どうして……どうしてそんなことを言うのですか」 「私は明日、死ぬのです」 「皆の罵声を浴びながら、死ななければならないのです」 「そんな人間に希望を持たせて、どうしようというのですか」 「こんなの……つらいだけです……」 聖女は胸の中で縮こまり、しゃくりあげて泣きだした。 小さな背中が見える。 ……どうしてこいつが死ななければならない。 地震も崩落も、聖女の意思ではどうにもならないのだ。 それでも死ななければならない。 すべての民のために。 「あんたが死ぬ必要なんてない。逃げるなら俺が手伝ってやる」 俺は聖女を抱きしめる。 小さな体を逃さないよう、きつく胸の中に押し抱く。 「悪い人です。そんな風に私を誘惑して、何を企んでいるのですか?」 「言っただろう。もう他人じゃないんだ」 「それだけなのですか?」 「他人ではない……ただそれだけなのですか?」 「もっと……もっと私を求めていただけないのですか?」 聖女の目尻に涙が浮かぶ。 「……私を女にしてください」 聖女はそっと俺に抱きついてきた。 「何を言っているかわかっているのか?」 「お前は聖職者だろう?」 「お忘れなのですか?」 「私はもう破門されました」 「聖職者ですらなく、ただの罪人です」 そうだった。 聖女はもう〈市井〉《しせい》の女と変わらない。 別に何をしようが自由だ。 「貴方は、私を連れて逃げると言ってくれました」 「残念ですが、それはできません……」 「ですが、もし私のことを想ってくださるのなら」 「今夜だけ、甘えさせてください」 「私がカイムさんを求めていいのでしたら……私は、カイムさんのものになりたい」 「……聖女さん」 「私はもう、聖女イレーヌではありません」 「私の名は、コレット……」 「コレット=アナスタシアです」 コレット…… 一度だけ、ラヴィがその名を口にしたことがあった。 確かお付きを外された時だ。 こいつの本名か。 「私は明日、この身をノーヴァス・アイテルに捧げます」 「ですが……私の心は……」 「コレットの心は、貴方に捧げたい……」 「それが最後の願いです」 「駄目でしょうか……?」 柔らかな体が密着してくる。 豊かさはなかったが、白く滑らかな肌が作る体の線は、十分に魅力的だった。 どうすればいい。 明日死ぬ女の、最後の願いだ。 このまま叶えてやるべきなのか。 俺は…… 「……なあ、コレット」 「お前は確かに聖職者じゃなくなったのかもしれない」 「だが、どれだけ否定されようと、お前はまだ信じることをやめたわけじゃないんだろう」 「それは……」 「俺は艶事を呟いたんじゃない」 「ただ俺は、お前の『全てを失った』という言葉を否定したかった」 「お前にはラヴィがいる、信じているものがある」 「全てを失ったなどと言うな」 「カイムさん……」 俺は知っている。 こいつは自らが信じたもののために、死すら厭わず祈り続けることができるのだ。 その強さに驚き、感服した。 「せっかく、神と天使のために守り続けてきた貞操なんだ」 「俺なんかに安売りするべきじゃない」 「そのことは、お前自身がよく知っているはずだ」 俺の言葉に、ふっと聖女は微笑む。 「貴方は……本当に優しい方です」 「そうして多くの方を、救ってきたのでしょうね」 「さあな。やりたいようにしてきただけだ」 それだけの話だ。 「ありがとうございます。貴方のお陰で目が覚めました」 聖女が俺から離れる。 「明日を悔いなく迎えられそうです」 「……そうか」 「最後の務め、立派に果たして見せます」 コレットは聖女の顔で微笑んだ。 「本気なのか?」 「ずっと……カイムさんをお慕いしておりました」 「カイムさんにこうして抱かれることを夢見ていたのです」 「いけないことと知りつつ、どうしてもその幻想を振り払うことはできませんでした」 「駄目な聖女ですね」 「もう聖女じゃないんだろ」 「はい」 聖女の髪に触れ、頬を優しく撫でる。 頭一つ分も違う聖女を、胸の中に抱き留める。 見上げてくる聖女のうなじへ手をやり、見つめ合う瞳に引き寄せられるかのように顔を近づけていく。 「カイムさん」 「……コレット、お前が欲しい」 「はい」 可愛らしく動く小さな唇に、俺は自分の唇を近づける。 見えないはずの目が、俺を見つめている。 その瞳はあくまでも澄み、泉のように俺を映す。 自分の行為に〈疚〉《やま》しいことはないかと問われているかのような錯覚があった。 もちろん、〈疚〉《やま》しいことなどない。 「コレット」 「はい」 屈んで、コレットの唇に優しく口づける。 「ん……」 「……んん……ちゅ……」 「ちゅっ……ん、んぅっ」 「んぅ、ちゅるっ」 「ちゅっ、んっ……んちゅっ」 「はぁっ……」 コレットの吐息が漏れる。 「もっとキスしていいか」 「はい」 いちいち答えてくれるのが可愛い。 「ん……ちゅっ」 「ぅぅ……ちゅっ、ちゅるっ、んぅんっ……」 「……ふぅ……んんっ」 苦しそうにしながら、それでも唇は離そうとしない。 「ん……くちゅっ、ぴちゅっ」 「んふぅ、ちゅっ、ちゅっ、んちゅっ」 「ぷはっ……」 「……はあ……はあ……」 堪えられなくなって、唇を離すコレット。 「申し訳ありません、苦しくて……」 「こういうのは初めてか?」 「……はい」 ほんのりと頬を薄紅色に染めて俯く。 「……こんなに気持ちいいものだとは思いませんでした」 「もっとするか?」 「そんなこと……私の口からは言えません」 「俺はもっとしたいが」 「……うぅ、そんなこと……」 「カイムさんが、どうしてもというのなら……構いません」 「なら良かった」 「そういう女性はお嫌ですか……?」 「いや、好みだ」 コレットは照れて顔を赤くする。 初々しい反応が楽しい。 「今度は、もう少し激しくしよう」 「激しく……ですか?」 皆まで言わせず、コレットの唇に吸い付く。 「はぅ……ちゅっ、んちゅっ……ちゅっ、ちゅるっ」 「れるっ、ちゅっ、ちゅっ、くちゅっ、ちゅるるっ、んちゅっ」 小さな唇を口に含み、形に添って舌でなぞる。 「ん……んぅん……んんんんっ……?」 舌を伸ばして、コレットの口の中に割って入る。 「んんんっ……ふぅん、んくっ……ぁんん……」 コレットの口内を舐め回し、舌を絡める。 「んんっ、れるっ、ふんんんっ……カイムさ……」 強くし過ぎたか? 俺はそろりと舌を引っ込める。 「んん……んふぅっ……」 「くちゅっ……ちゅっ、ちゅるっ、りゅるっ、れるっ」 今度は、コレットの小さな舌が俺の口に忍び込んできた。 「ちゅっ、カイムさん……れろっ、ちゅるるっ、ちゅっ」 慣れないながらも一生懸命に舌を絡ませてくる。 「れちゅっ、ちゅるっ……ふぅん……んむっ、れりゅっ、ちゅっ、れるるっ」 「あむっ、りゅっ、ちゅるっ、んちゅっ……ぅん……」 「あっ……」 ゆっくりと口を離す。 名残惜しそうに舌を引っ込めて、俺を見つめてきた。 「あの……上手くできていましたか?」 「ああ」 コレットの頬を優しく撫でてやる。 こうして見るとコレットは小さい。 「……お前、本当にいいのか?」 「いいとは何のことでしょうか」 「俺なんかが相手で」 「あんなに激しくしておいて、何を言っているのですか」 「しかし、お前は元聖女だ」 純白の絹、真っ白な肌。 本当にこいつを汚すような真似をしていいのか。 「貴方は、存外に意気地がないのですね」 「今さら怖くなったのですか?」 「お前のことを考えてるんだ」 ぐ、とコレットが俺に体を預けてくる。 体勢が保てない。 「く……」 「私の方からお願いしているのですから、何も問題はありません」 「細かいことは気にせず、お相手をしてください」 強引な女だ。 コレットらしいと言えばコレットらしいが。 「いいんだな、コレット」 「はい」 「じゃあ……よろしく頼む」 「よろしく、ですか?」 「あの……でも、ここからどうすればいいのでしょうか」 「何も知らないのか」 「……何も、ということはありませんが……」 「教会に拾われる前に、一度男女の営みを拝見したことはあります」 「ただ、遠くからだったので細かいところまでは……」 「た、たまたまですよ。偶然なのですっ」 コレットが慌てて弁解する。 「ふ……」 「な、どうして笑うのですか」 「別に興味本位でじろじろと見ていたわけではありません」 「その、少しです。少しだけなのです」 「わかったわかった」 慌てて言い繕う姿が愛らしかった。 「それじゃ、下のボタンを外してくれ」 「私が外すのですか?」 「嫌か?」 「いえ、わかりました」 コレットは手探りでボタンを見つけると、一つずつ外していく。 すでに大きくなった男根が、待ちかねたように顔を出す。 「何か……出てきました」 固く怒張した肉棒が、コレットの前に露わになる。 コレットは手探りで形を確かめ始めた。 もどかしい手の動きが、妙に興奮をそそる。 「これは一体なんでしょうか……」 「触るのは初めてか?」 「はい……」 「すごく大きくて……熱いです……」 「お前が魅力的だから大きくなったんだ」 「これは、大きくなったり小さくなったりするのですか?」 「ああ、触ればもっと大きくなる」 「知りませんでした」 「……あっ、申し訳ありません……不用意に触ったりして」 慌てて手を引っ込めようとする。 「いや、続けてくれ」 「触ってよろしいのですか?」 目が見えない今のコレットは、触ることでしか物を確かめることができない。 むくりといたずら心が頭をもたげる。 「コレットが触りたいならな」 「……いじわるな言い方をしないでください」 コレットは手を上に下にと動かして、俺の肉棒を隅々まで探る。 「熱いです……こんなに熱くて大丈夫なのでしょうか」 怒張したものを手で包み込み、上下にさする。 刺激を受けて、肉棒が脈を打つ。 「手の中で跳ねてます……」 「……く……」 「い、痛かったですか? 申し訳ありません」 「いや、違う。気持ちいいんだ」 「そうなのですか……これが気持ちいいのですか?」 コレットの小さな手が、俺のものを握っている。 かつて、バルコニーから大衆に向かって振っていた手だ。 そう考えると興奮してくる。 「カイムさんの呼吸が荒くなってきました」 「気持ちいいんだ」 「とても……可愛いです」 「お前に言われるのは嫌だな」 「どうしてですか?」 「お前の方が可愛い」 「……」 顔を赤らめ俯いてしまう。 だが、動かしている手は止まらない。 「……う……」 亀頭を指で包み込むように撫でてくる。 柔らかな絹を纏った指で甘くこすられ、痺れるような快感が走った。 「どくどくと脈を打ってます……」 「すごく熱くて、さらに大きくなりました」 「これが……いいのですね」 「いや、もう止めてくれ」 「駄目でしたか……?」 「これ以上続けたら出てしまう」 「何か出てくるのですか?」 本当に何も知らないんだな。 「射精する。男が一番気持ちいい瞬間だ」 「そうなのですね」 「カイムさんはその……射精したくないのですか?」 「したくないわけじゃない」 「でしたら……カイムさんに気持ち良くなっていただきたいです」 健気なことを言うコレット。 「……わかった。なら、こいつを咥えてくれ」 「咥える……食べるのですか?」 「口に含んで舐めるだけでいい」 「これを口の中に……」 初めて〈躊躇〉《ちゅうちょ》を見せるコレット。 「無理はしなくていいぞ」 「咥えると、カイムさんは気持ちいいのですか?」 「手よりもずっといい」 「そうなのですね……ではやります」 おずおずと口を近づけ、裏筋を舐める。 「……ん……ぴちゅっ……」 舌がちろちろと亀頭の上を這う。 「ん……んちゅっ、はん……れるっ」 「んは……」 「何だか不思議な味がします」 「どんな味がする?」 「しょっぱくて……何だか頭がぼうっとしてきます」 「でも、嫌いではありません」 「れろ……んちゅっ、りゅっ、んっ……ちゅっ、れるっ」 「……ちゅっ……んちゅっ、んぷっ」 「れろっ……ぴちゅっ……んちゅっ……ちゅぱっ……んちゅ」 コレットの舌が、肉棒の裏を上へ下へと動く。 「くっ……」 根本から舐めあげられ、思わず声が漏れる。 初めてにしては上手だった。 「舐めるのはそれくらいでいい。咥えてくれ」 「わかりました。では、食べますね」 「おい、噛み付くなよ」 「はむ……ちゅ、んちゅっ……くちゅっ」 ペニスがコレットの口の中に飲み込まれていく。 熱く濡れた口内の心地よさに、体が跳ねる。 「そのまま上下に動かしてくれ」 「んぁい……」 「……ん、ちゅっ、ぴちゅっ……ちゅるっ、ちゅっ……れちゅっ」 「んりゅ……ん、ちゅるるっ、れるっ、るちゅっ」 言われた通り頭を上下に動かして、俺のものを頬張る。 小さな口で一生懸命に咥え、唇をすぼませる。 「んっ……んちゅ……ぴちゃ……ちゅぱっ……んふぅ……」 「れろっ……ちゅっ、れるるっ、くちゅっ、んちゅっ、ちゅるるっ」 時折、コレットの歯がカリ首に当たる。 その強い刺激に押し上げられるように、快感が高まっていく。 「……はん……カイムさんから……何か出てきてます……」 「苦しいか?」 「だい、じょうぶ……です」 「んちゅ、んふっ、はむっ、ちゅるっ、ちゅっ、れちゅっ」 「れるっ、ちゅるるっ、んちゅっ、ちゅくっ、んふぅ、ちゅっ」 ぬるぬるとした唇でこすられ、舌で裏筋を刺激される。 とても堪えきれない。 「……コレット、出そうだ」 「んむ……んく、れるっ……?」 何が出るのでしょうか、と表情で訴えてくる。 「ちゅくっ、ちゅりゅっ、れるるっ、じゅちゅっ、ちゅるるるっ」 「ちゅちゅっ、んちゅるるっ、んちゅっ、れろろっ、じゅちゅるっ」 「口を離してくれ……!」 「くちゅっ、れりゅっ……ちゅるるっ、れろっ、じゅるっ」 「ちゅるるっ、れるるっ、ぴちゅっ、れりゅっ、ちゅるっ、じゅるるっ」 聞こえているだろうに、咥えたまま離そうとしない。 それどころかさらに激しく頭を動かし始める。 「く……!」 「ちゅっ、んんっ、んちゅっ、ちゅうぅ……ちゅぱっ」 「んんっ、くっ、ちゅ、んんぷっ……?」 俺は腰を引いて、何とかコレットの口を外す。 どぷっ、どくっ、びゅるっ、どくっ! 「きゃっ……!?」 どくっ、びゅるるっ、どくっ! どくんっ、どくどくっ、びゅくっ! 止めどなく精液が噴き出し、コレットの顔や頭、肩を汚していく。 あまりの快感に、体が震える。 「う…………」 さらに溢れてくる精液は肉棒を伝い、根本を握っていたコレットの手へ溜まっていく。 絹でできた手袋はべたべたになってしまった。 「はあ……はあ……はあ……」 「……はあ……すごく熱いです」 「あぁ……いっぱい、出て……はぁ……きました……」 「体中にカイムさんのがかかってます……」 うっとりとした顔で、大量の精液を顔や体で受け止める。 「すまん、我慢できなかった」 「これが射精ですか?」 コレットは顔についた精液をすくい、口に運ぶ。 「んちゅ……ん……ぬるぬるしてます」 「あまりおいしいものではありませんね」 「そうかもな」 「でも、すごく淫靡な臭いで……くらくらします」 「カイムさんにすっぽりと包まれたみたいです」 精液を顔中につけたまま微笑む。 「娼婦は毎日こういうことをやっている」 「そうなのですか」 「カイムさんは、そういうところを利用されたことは?」 「なくはない」 「私は……どうでしたでしょうか」 「娼婦と比べて、ということか?」 「はい」 随分と変なことを聞くな。 「初めてにしては優秀だ」 「そうですか」 ほっとした表情を浮かべるコレット。 本当に負けず嫌いだな。 「私はカイムさんを満足させられたのですね」 「ああ、一応な」 「一応なのですか?」 「まだ、コレットの中に入れてない」 「私の中に……何をどこに入れるのでしょうか」 「すぐにわかる」 俺は体を起こし、コレットを抱きかかえる。 「あ……な、何をするのですか?」 「このままじゃ、しにくい」 コレットの長い下服をずり降ろし、ベッドへと運ぶ。 「きゃっ……」 「あ、足を持ち上げないでください……恥ずかしいです」 「どうするつもりなのですか?」 「コレットが良くしてくれたからな、その礼だ」 「お前を気持ちよくする」 「構いません。私はそのようなこと望んでおりません」 「それじゃ、俺と契りを結ぶことにならないぞ」 「そうなのですか……?」 「少しほぐさないと入らないだろうな」 特にコレットは小柄だ。 初めてでなくてもきついかもしれない。 「先ほどもおっしゃっていましたが……何を入れるのですか」 「さっきまでコレットが咥えていたものだ」 「あれを入れる……どこにですか?」 「ここだ」 コレットの秘部をなぞる。 「ひあっ……な、何をするのですか」 「だから、俺のものをここに入れるんだ」 言いながら、下着の上から柔らかく窪んだところをこすり続ける。 「やっ、そ、そんなところに、入るわけがありませんっ……」 「最初は痛いかもしれない」 「それは……裂けるということですか……?」 「裂けはしないとは思うが」 「そうだったのですか……」 「純潔を捧げるというのはそういうことだ。やめるか?」 「……いえ、やります」 「世の女性の方々も皆、乗り越えているのです」 「きっと私にもできます。覚悟はできています」 さすがだ。 「わかった。だが、できるだけ痛くないようにしたい」 「そのために、私をほぐすのですね」 「ああ」 「カイムさんは私のために言ってくださったのですね」 「初めての方がカイムさんで、本当に良かったです」 扇情的な格好と天使のような笑顔が、狂おしいほどに魅力的だった。 構わず襲ってしまいたくなる。 「始めるぞ」 「はい」 「まずは胸からだ」 「胸……ですか?」 「気持ちいいのでしょうか」 「わからん。お前は少し未熟だからな」 「……何か失礼なことを言われたような気がします」 「気のせいだ」 俺は構わず、コレットの胸を覆った布をはぎ取る。 「ん……」 コレットの小さな乳房が露わになる。 真っ白な肌の上に、小さな桜色の突起がちんまりと乗っている。 全てが小振りだったが、それがまた可愛かった。 「あの……何か言ってくださいませんか」 「黙っていられると怖いです……」 「すまん」 コレットは音を頼りにしている。 言葉にしないと伝わらない。 「お前の胸を見ているんだ……とても綺麗だぞ」 「……恥ずかしいです」 「で、でも……目が見えなくてよかった気がします」 「カイムさんの姿が見えていたら、恥ずかしくて死んでしまったかもしれません」 可愛いことを言う。 「カイムさんに見られていると思うと、おかしな気持ちになってきます」 「胸の奥が締め付けられるような、体の芯が熱くなるような……不思議な気持ちです」 「でも、悪い気分ではありません。とても……切ない感じです」 感じているのだろう。 俺はそっと乳房に手を添える。 「あ……ふぅ……」 「くすぐったいです」 構わず乳房を撫で、滑らかな肌の感触を楽しむ。 「んく……んっ、んん……」 「……ふぁ、ん……はぁんっ」 「んん……ん、くぅ……ふんんっ」 甘い吐息を漏らしながら、体をよじるコレット。 ……少し刺激を与えてやるか。 「んあぁっ?」 「……は、あぅっ……だ、駄目です……先っぽは……!」 きゅっと乳首をつまみ、指の間で転がす。 その度に、コレットの体がびくびくと跳ねる。 「は、あんんっ、んん……んくぅっ……」 「気持ちいいか?」 「わ、わから……ないですっ……んんっ、うんっ……」 純白の肌に赤みが差してくる。 「くんん……んぅっ、は、ああっ……」 「……もう……それ以上はなさらないで……おかしく、なりそうでっ」 「お……お願い、しますっ……」 俺はコレットの乳首を解放してやる。 「……はあっ……はあ、はあ……」 「はあぅ……ううぅ……ああ……はぁ……っ」 荒い息をつき、体を脱力させる。 ちょっと乳首をいじっただけなのに、これほどとは。 相当感度がいいのかもしれない。 「どうだった」 「体が熱いです……すごく切なくなって、耐えられませんでした」 「初めての経験です……」 体はしっとりと汗に濡れて、熱い吐息を漏らしている。 たまらないくらいに扇情的だった。 「そろそろこっちも触るぞ」 そっとコレットの陰部に手を伸ばす。 「やっ……ああ、んんっ……」 割れ目にそって触れると、ぐちゅりと水っぽい音がした。 「やっ……はあぁ……ぁう……んん……っ」 「い、いけません」 コレットは慌てて手で隠そうとする。 「駄目なのか?」 「おかしいです……」 自分で下着の中に手を入れて確かめる。 手を開くと、指からぬるぬるとした愛液が伝って落ちた。 「濡れてしまっています。こんな……どうしてでしょうか」 「感じると濡れてくるんだ。男のものを受け入れるためにな」 「そうだったのですね。知りませんでした」 「ああ、だから安心しろ」 俺は下着の上から、コレットの秘部をなぞり上げる。 「はんんっ、でも、刺激が強すぎてっ、体が……おかしくなりそうですっ」 左右に馴染ませながら、指を押し込んでいく。 「んあっ、んん、んんぅっ、ふぅんっ」 「あっ……あん、んんーっ」 コレットは大きく体をのけぞらせる。 下着ごと陰部の中にめり込ませると、愛液がにじみ出してきた。 相当濡れている。 「……はあ……はあ……」 「下も取るぞ」 「あ……やぁっ……」 俺は構わず、コレットの下着を脱がせる。 「そんなっ……あっ……ああぁ……」 縦に筋が入っただけの、綺麗な陰部が露わになった。 「……私のを見ているのですか?」 「ああ」 コレットの肌が羞恥に染まる。 「恥ずかしいです……」 割れ目から、桃色に染まった陰唇がほんの少しだけ顔を覗かせている。 零れた愛液が太ももを濡らしていた。 「おかしくないでしょうか」 「何がだ?」 「私の……です」 「カイムさんは他の女性のものも見ているのでしょう」 「私は、いかがでしょうか」 「今まで見た中で、一番綺麗だ」 「本当ですか?」 「ああ」 「嬉しいです……」 「触っていいか?」 コレットが恥ずかしそうに俯く。 「……カイムさん、優しくしてくださいね」 「もちろんだ」 濡れた陰唇を撫でるように、指を這わせる。 「……ん……あ……ああっ……」 「あ……んんっ、ふぅ、んっ、あんんっ……」 「す、すごい……気持ちいい、です……それ、すごく……気持ちいいですっ」 「んく、ふっ、あくっ……ん、んぅ……んんんっ」 俺が指で秘部をなぞる度、体を強ばらせる。 愛液が溢れ出てきて太ももを伝い、下にこぼれ落ちていく。 「ん……んくっ、んん……ん、んああああぁぁっ」 びくん、と一際強く体が跳ねる。 陰唇の奥に隠れたクリトリスをこすり上げたためだ。 「んんっ、はぁ……あ、ん……はぁ……」 「やっ……カイムさん、今のは何でしょうか」 「一番敏感なところだ、気にするな」 「気にするなと言われてもっ……今のは、駄目ですっ」 「そう言われると触りたくなる」 「そんな……あ、あんんっ、んくっ、あんっ、んんんんーっ」 「だ、駄目です……駄目ですっ、あっ、ああっ、んん、んあっ、んくぁぁっ……」 軽くいったのだろう。 コレットの体が小刻みに震えていた。 「は……はあっ、はあっ……駄目ですと言ったのに……」 「こんなの……おかしくなってしまいます……」 「おかしくなっていいぞ」 今度は膣の中に指を押し入れる。 「んくっ、あ、あっあっ、んんっ……」 たっぷりと濡れているにも関わらず、強烈な膣圧が奥へ入るのを拒んでくる。 少し力を入れて、指を潜り込ませていく。 「うっ……く、んんっ……」 苦痛に顔を歪ませるコレット。 「痛いか?」 「……大丈夫です……もっと入れてください」 ぎゅっと膣が収縮し、痛いくらいに指を締め付けてくる。 指一本でこのきつさでは、俺のものは入らない。 「……あ、んっ、んんっ……ぅん……」 「んぅ、んんんっ、んふぅ……あんっ」 指を慣らしながら、ゆっくりと抜き差しを繰り返す。 「んん、はぅ……んく、んっ、んあ……くぅ……」 「や、そんなに動かしたら……変な気持ちになって、しまいますっ」 次第に、抵抗なく出入りができるようになってくる。 「んっ、んん……ふぁぅ、あんんっ、は、んんっ」 「くぅん……ん、あ、あっ、あっ、あくぅぅっ」 ぐっと奥の方まで指を押し込んでみるが、痛がっている様子はない。 「はぁっ……ああっ、お腹の中に……入ってます……」 「どうだ?」 「……恐らく、気持ちいいのだと思います」 「こんなに濡れてるのに、恐らくか」 「知りませんっ……」 指を抜かれて、甘いため息を漏らすコレット。 顔はほんのりと上気し、恍惚とした表情を浮かべている。 「そろそろいいか」 「……私の中にカイムさんのものを入れるのですね」 「ああ、覚悟はいいか」 「はい」 こくり、と可愛らしく頷く。 俺はコレットの小さな陰部に、自分の亀頭を押し当てる。 「あ……熱いです……」 「コレットのもだ」 なるべく痛まないよう、肉棒に愛液を塗りつける。 「……あ、はぁん、んくっ、やぁっ、そんなにこすらないでくださいっ」 「こうした方が痛くない」 「で、ですが……んぅ、あんんっ……ああっ、もう、入れてくださいっ……」 クリトリスをこすられ、悲鳴を上げる。 「わかった。いくぞ」 亀頭を、コレットの小さな穴に押し当てる。 そのまま力を入れていく。 「あ……んくっ……あ、うぅっ……」 「ん、はぁっ……あああっ、んうぅぅっ」 肉棒が、ずぶずぶとコレットの中に埋まっていく。 「……く……」 「んんんっ!……っ……ん……ううっ……んく……っ」 ものすごい締め付け。 力を抜くと押し出されてしまいそうだった。 「ああ、んっく……い、痛い……ですっ」 「すまん、我慢してくれ」 「はいっ……」 カリ首が埋まった辺りで、こつんと壁に当たる。 コレットが純潔である証だ。 「一気に行くぞ」 「はい」 腰に力を入れ、一気にコレットの中に押し込む。 「あ、ああああっ、んうぅっ、あああぁっ」 「いっ、うううぅっ、あああっ、ああ、あ……はあ……はあっ……」 つう、とコレットの太ももを破瓜の血が伝う。 相当痛いに違いない。 「奥まで……入った」 「いっ……あぁっ、はぁっ、んく……ん……はあぁ……」 小柄なコレットの体に、俺の肉棒が全部収まる。 根本までぴったりと入ってしまった。 「本当ですか……? これで全部、ですか……?」 「そうだ。よく頑張ったな」 「はぁ……ああぁ……んっ……」 「……お腹の中がいっぱいです。これが全部、カイムさんなのですね」 「嬉しいです。カイムさんに……捧げることができました」 コレットの瞳から涙がこぼれ落ちる。 「痛かっただろう」 「これくらい何ともありません」 「……それで、これからどうするのですか?」 俺の肉棒は、熱い肉壁にものすごい力で締め付けられている。 少し動かしただけで痺れるほど気持ちいい。 「お前に入れたものを出したり入れたりする」 「なるほど……射精するのですね」 「物わかりがいいな」 「先ほどカイムさんから教わりました」 ふんわりと微笑むコレット。 たまらなく可愛い。 「最初はゆっくり動かすぞ」 「はい」 俺は少しずつ肉棹を引き抜く。 ずるるる 「ん……あっ、ああぁぁ……っ!」 「あ、んん、くぅんっ……あふ、んんっ……」 「……んぁっ、ああ、あんっ、ふぁん……ひぅっ」 俺が動くのに合わせて、びくびくと膣内が収縮する。 「はああぁっ……あぁ……んんっ、くぅう……」 カリ首の辺りまで引き抜いて、再び押し込んでいく。 ずりゅ、ずちゅううっ 「ん……ああっ、あんんっ、入って、くるっ……」 「ううぅっ、んんっ、やぁっ、くぅんんっ」 きつい締め付けに、芯が熱くなる。 焼け付くような快感が走る。 「ああっ、ぅんっ……くぁ、んんっ、あっ、ああんっ……ひぅっ」 ずるるる、ずちゅっ 「ふうぅ……あ、あんっ、ああっ、んうぅっ、んんっ」 ゆっくりと引き抜き、挿入する。 じれったい刺激に、だんだん我慢できなくなってくる。 「大丈夫か?」 「ふぁっ、い、いえ……あまり痛くありませんっ」 「慣れてきたんだな」 「んっ……そうなのでしょうか」 「少し激しく動くぞ」 「えっ、待ってくださ……あくうぅっ」 ごん、とコレットの奥へ突き刺すようにペニスを押し込む。 「あっ、ああっ、うああっ……!」 膣奥を突かれて、コレットは体を仰け反らせた。 ちゅっ、ずちゅっ、ぐちゅっ 「そんなっ……奥までっ……ああっ、んんっ、あああっ、ぅんっ」 「やっ、ああっ、いや……こんなの……駄目ですっ……」 「ああっ、またっ、熱いですっ、ああっ、はぁっ、んあぁっ」 コレットの膣内がきつく締まり、俺のものを圧迫してくる。 「んぅうっ、やうっ、あっ、んんんっ!」 「あっ、ああっ、あっ、こんな……我慢、できませんっ」 「声が……出てっ、しまいますっ」 「いいぞ、出して」 突き入れる度に、根本から絞り上げられる。 蕩けてしまいそうなほどの快感だった。 「はぁっ、あっ、ひぅっ、あああっ、は、恥ずかしい、ですっ……」 「あっ、んんっ、んぁっ、あんっ、あっ、あああっ」 「ああっ、飛びそう、です……頭が、真っ白にっ」 ただでさえ強い締め付けが、一層強くなる。 あまりの良さに、あっけなく達してしまいそうになる。 もう我慢できそうにない。 「……俺もいくぞ、コレットっ」 「はいっ……来てください、カイムさん……私にっ」 「あっ、駄目です……もう、私もっ……ああっ、んんっ、あああああっ!」 「だめっ……だめっ……あっ……んっ、ああっ、あ、くぅっ、ああんっ!」 「んんんっ、うんんんっ、あああっ、ああああぁぁぁっ!!!」 どくっ、どくどくっ、びゅくっ! どぴゅっ、びくっ、どくんっ! 「はあぁん……あふううぅっ……んんっ……あぁ……」 大量の精液をコレットの中に吐き出す。 射精が止まらない。 どくっ、びゅくくっ、どぷっ! 「ああ……んんっ、熱いのが、いっぱい入ってきています……」 「はうぅ……あぁ……くっ、はぁ、はあぁ……んんっ」 「あんっ、ぅんん……すごい気持ちいいです……」 コレットも絶頂に達し、俺の射精に合わせて体を痙攣させていた。 「んんっ……はあっ、んあぁ……はあっ」 「はあ……あ……んん……」 びゅく、と最後の精液をコレットの中に流し込む。 小さな膣口から、収まりきらなかった精液が溢れてきた。 「んんっ、まだ……入ってきますっ……」 コレットの膣内が蠕動を繰り返す。 あまりの快感に、頭の中が真っ白になる。 ずる、とコレットの膣内からペニスを引き抜いていく。 「はああぁぁ……、はあ……ふはあ……ぁ」 「あっ……カイムさんの……溢れてきます」 止めどなく精液が溢れ出し、ベッドの上に水たまりを作る。 白濁とコレットの血が混じり、薄紅色になっていた。 「はあ……ふぁ……あぁ……」 「カイムさん……気持ち良かったですか?」 「ああ、良かった」 こんなに早く果ててしまうとは思わなかった。 ものすごい締まりだった。 「コレットはどうだった」 「……すごく熱いものが溢れてきて、お腹が焼けてしまうかと思いました」 「でも、とても幸せな気持ちです」 艶っぽく微笑むコレット。 その魅惑的な表情に……再びペニスが屹立を始める。 まだ全然堪能し切れていない。 「コレット」 「はい。何でしょうか」 俺はコレットの陰唇に、肉棒を押し当てる。 「また入れていいか」 「え……?」 ずちゅっ、ぬるるるるっ 「なっ、あっ、あああっ……!」 「ふあぁんっ、くぁっ、あふぅっ」 いきなりの刺激に、大きく体を仰け反らせる。 「やぁっ、何をするのですかっ」 「もう終わったのではないのですか……?」 「そうなんだが」 答えながら、コレットの中に深く挿入していく。 「やあっ! ああっ……くうぅ、んん……っ!」 ずっ、にゅるるっ 「あああっ、あうぅっ、だ、駄目です……刺激が強すぎますっ」 絶頂に達して間もないコレットの体が跳ねた。 「あっ、溢れてきます……いっぱい出てきてっ……」 桃色に染まった肌の上を、乳白色の液体が伝っていく。 「はぁ、はあぁ……あぁ……んっ」 「ああ……また入ってきてしまいました……」 「すまん」 「もう一度するのですね」 「まだ満足してないんだ」 「そうですか……では、どうぞなさってください」 「カイムさんが満足するまで、あなたに私を捧げます」 可愛いことを言ってくれる。 「あっ、カイムさんのものが……私の中で大きくなりました」 「お前が気持ちいいからだ」 「そうなのですか?」 コレットの膣内からゆっくりと抜いていく。 「ひゃううっ……あああっ……ああぁぁ……」 「はああぁ……」 そして、一気に根本までコレットの中に埋める。 「くぅんっ!」 「くあぁっ……はあぁ、んあぁぁ……うぁああ……」 ずるるる……ずちゅんっ! 「は、あっ……あうぅっ!」 それを繰り返す。 「これは駄目ですっ……」 「どうして」 「頭に……火花が飛んだようになって……うぅんんっ!」 「おかしく、なります……はあぁんっ!」 とはいえ仕方ない。 俺は激しく腰を動かし始める。 「やあっ、あんっ、ううんっ、激しっ、ですっ」 「あっ、んんっ、あっ、あっあっ、ふぅんっ、はあぁっ」 「くぅっ、あああっ、んんっ、はあっ、んああぁっ」 ぐちゅっ、じゅっ、くちゅっ コレットの内股に体を打ち付け、奥の奥までねじ込む。 「やぁんっ、すごい、ですっ、こんなのっ、ふああぁっ」 「ひぁっ、ああっ、ううぅっ、気持ち、いいですっ」 コレットの口からよだれが伝って落ちる。 俺が体を打ち付ける度に、コレットの顔が快楽に歪んだ。 「はあぁっ、あああっ、ふぅんっ、くあぁぁっ」 「あっ、あっあっあっ、だ、駄目……体が、飛んでしまいますっ」 ぎゅうっとコレットの膣内が肉棒を締め付けてくる。 みるみるうちに、射精感がこみ上げてきた。 「あああっ、もう、もう我慢、できないですっ……!」 「カイムさん、カイムさんっ!」 「俺もいくぞっ」 「ああっ、んはぁっ、くぅんっ、うんんっ、ああああっ」 「んぅうっ、ひぅっ、はあっ、ああっ、あっ、あっあっあっ!」 「もう、カイムさっ……私……もうっ」 「ひあっ! んんっ! ……ああぁん! んああぁっ!」 力を振り絞り、貪るようにしてコレットの膣奥に肉棒を打ち込む。 「ああっ、いきますっ、もう……いきますっ!」 「ひゃううっ……あああっ! んんっ! ああっ……んああっ!」 「ああ、あああっ、あ、ああ、あああっ……あっ、んんんんんっっ!!!」 どびゅっ、びゅるっ、びゅるるるっ! びゅくっ、びゅっ、びゅくんっ! 「う、あぁっ……」 あまりの激しさに抜けてしまったペニスから、大量の精液が飛び出す。 「あああっ……はあっ、ああぁっ……んんっ……」 「熱い……カイムさんの射精が……いっぱいかかってます……」 「くっ……」 びゅくっ、びゅうっ、びゅるるっ! 何度も脈打ちながら、コレットの体に白濁を吐き出し続ける。 凄まじい快感に、頭がくらくらとしてくる。 「はあっ、はあっ、はあ……はあ……」 「あん……んん……」 コレットの全身から、くたりと力が抜ける。 「はあっ……ああ……すごかったです……」 「男女の交わりとは……こんなに素晴らしいものなのですね」 「気に入ったか?」 「……そういう……わけではありませんが」 コレットがおずおずと俺の肉棒に手を伸ばしてくる。 未だ大きいままのそれは、コレットに握られ、残った精液を吐き出す。 「くっ……あんまり刺激するな」 「まだ出てきます……お腹の上にもたくさん……すごいです……」 「こんなに出るのですね……」 うっとりとした顔で、俺の吐き出した大量の白濁をすくい上げる。 そしてコレットは、どろりとしたその液体を口に含んで嚥下した。 「……んっ、んくっ、んんっ」 「おい、別に飲まなくてもいいんだぞ」 「いいのです。カイムさんが、私のために出してくれたものなのですから」 「でも……少し飲みづらいです」 俺はコレットの手を止め、顔を近づける。 「もうやめておけ」 「はい」 いい子だ。 俺はコレットの頬についた精液を拭い、唇にキスをした。 汚れてしまったコレットの服を着替えさせ、一息ついた後。 「チェスの続き、やるか?」 途中まで進めたチェス盤が目に入り、コレットに促した。 「そうですね」 「ここでやめてしまうのは勿体ないです」 「いい物を持ってきたんだ。こいつを飲みながらやろう」 準備しておいた瓶と杯を持ってくる。 「何でしょうか」 「ワインだ、飲んだことはあるか?」 「ありません」 「飲酒は聖戒で禁じられております」 「だったらもう大丈夫だな」 固く詰められた栓を抜き、瓶を傾ける。 こっこっこ、と音を立て、杯に赤い液体が注がれていく。 「あまり詳しくは存じませんが、ワインは高いと聞いたことがあります」 「どのようにして手に入れられたのですか」 「高いと言っても、聖鋳金貨が1枚あれば事足りる」 「酒を知らずに死ぬなんて、人生の何割かは損している」 「そんなに素晴らしいものなのですか?」 「酒は人を癒してくれる、聖女様と同じくらいにな」 「ふふふ、面白いものですね」 「聖女さんには是非飲んでもらいたかったんだ」 「コレットですよ」 「慣れてしまった。気をつける」 コレットの手を取り、グラスを握らせてやる。 「果実のいい香りがします。おいしいのでしょうか」 「飲んでみろ」 おそるおそる杯を傾け、ワインを口に含む。 嚥下し、大きく息を吐くコレット。 「……思ったよりも甘くないのですね」 「ですが、すごくいい香りです」 「それに何だか体がふわっとします」 「それが酒のいいところだ」 再び杯を傾け、ワインを飲む。 「気持ちいいです」 「飲み過ぎると頭が回らなくなるぞ」 「よいことを聞きました。カイムさん、ぜひ沢山飲んで下さい」 「そうさせてもらう。だが、俺は酒に強いぞ」 杯にワインを注ぎ、口に含む。 火酒と違い、いっぱいに広がる果実の香りが何とも華やかだ。 「強い弱いがあるのですか?」 「ああ、弱い奴は一口で顔が真っ赤になって倒れたりする」 「私はどうでしょうか」 「さあな。あまり弱くはなさそうだ」 「カイムさんには負けません」 「本当に負けず嫌いだな」 「そうでなければ聖女など務まりません」 「違いない」 グラスを置き、椅子に座る。 「駒の配置は覚えているか」 「問題ありません」 勝負は俺の手番で止まっている。 コレットに追い詰められつつある、苦しい局面だ。 「思うんだが、コレットは相当頭がいいぞ」 「一度犯した間違いは繰り返さないし、一度覚えたものは忘れない」 「何より先読みが鋭い」 「どれも普通のことだと思いますが」 「その普通が難しいんだ」 俺はナイトをキングのチェックが望める位置に動かす。 あくまで攻めの姿勢で行くことにする。 「大胆な手ですね」 「前に進まなければ押されるだけだ」 「本当にその通りだと思います。ビショップをA4からC6へ」 「……」 ナイトとルークの両取りか……。 ナイトを動かせばルークが、ルークを動かせばナイトが取られる。 効果的な揺さぶりだ。 「最後なのでお伝えしておきたいのですが……」 「なんだ」 俺はルークを動かし、チェックをかける。 「貴方は牢獄をお出になった方がよいのではないかと思います」 「……いきなり何のことだ?」 「カイムさんは牢獄の話をよくされていました」 「ですが、口ぶりはいつも牢獄ではできることが限られている、だから仕方ないというものでした」 「とても大変な目に遭われて、学ばれたことなのだと思います」 「でも……今は得てきたものに安住し、変わることを拒まれています」 「本当にそれで良いのでしょうか?」 安住なんてしていない、 変化を恐れたことなどない、 そう言って、はね除けてやりたかった。 だが、言い切るだけの自信は……なかった。 「恐らく、カイムさんも気づかれているのではないでしょうか?」 「ご自身が……自分の生き方から目を背け続けていることに」 胸の奥が静かにざわめいた。 自分の生き方…… 自分の生きる意味。 そんなものは無意味だと何度も繰り返してきたにもかかわらず、結局は捨て去ることができなかったものだ。 「カイムさんが立ち止まり、苦しまれているのが悲しいのです」 「自分を見つめ、自分を信じ、自分の行く先を決めること……」 「それは、目も見えず、何も持たない私にでもできることです」 「カイムさんにできないはずがありません」 「どうか、牢獄で立ち止まらないでください。私の代わりに、前へ進んでください」 「コレット……」 「……申し訳ありません、生意気なことばかり言って」 「私が処刑された後、気が向いたら思い出してください」 コレットは優しく微笑む。 明日死ぬことを覚悟していながら、俺のことを思うのか。 どうして、ここまでできるのか。 「クイーンをC3からE1に。チェックです」 「……こいつは厳しいな」 打てる手が非常に限られてきた。 このままでは、ステイルメイトに持ち込むのも難しい。 「初めて勝てるかもしれません」 言いつつ、あくびを噛み殺す。 ……そろそろか。 「なぜでしょう……」 「何だかとても眠く、なってきました」 「気疲れだろう、もう寝るか?」 「な、何を言っているのですか……」 「せっかく……勝てるかもしれない、のに……」 横に倒れそうになるコレットを抱き留める。 そのまま持ち上げ、ベッドまで運んだ。 「頑張ったな」 コレットのグラスには眠り薬が入れてあった。 結構な量を飲んだはずだが、なかなか眠らなかったな。 不断の祈りを続けていたにもかかわらずだ。 気力で眠気を退けていたのだろう。 大したものだ。 「前に進んでください、か」 わかっている。 もっと前なら引き返すこともできた。 聖女とラヴィに別れを告げ、牢獄に戻ることもできただろう。 だが、今は違う。 俺は戻らなかった。 お前が、俺の気づいていないことを教えてくれる気がしたから。 「聖女さん」 改めてコレットをそう呼ぶ。 お前は聖女だ。 たとえ誰が何と言おうと、お前には聖女と呼ばれるだけの純粋さが、強さがある。 お前はまだ、死ぬべきじゃない。 「……ん、うん……」 コレットの喉から声が洩れた。 そろそろ目を覚ます頃か。 静かに立ち上がり、縄でコレットの足とベッドを結びつける。 用心するに越したことはない。 「ん……」 コレットが覚醒する。 しばらく、周囲の物音に耳を澄ますような仕草をした後、身体を起こした。 「……カイム、さん……?」 「目が、見えるのか?」 「いいえ」 「ですが、貴方は最後まで私の側にいてくれると思っていました」 「そういうことか」 随分と信頼されたものだ。 だが、事実を知ったら怒るだろうな。 「……静かです」 「処刑の儀式はまだなのでしょうか?」 「まだらしいな」 コレットが眉をひそめる。 「ここはどこですか?」 「いつもの部屋だが」 「……いいえ、違います」 「声の響き方で、部屋の広さも、建物の材質もわかるのです」 「ここは、聖殿ではありません」 「布団も着ている服も、いつもと違います」 「一体、貴方は何を……」 訝しげに辺りを見渡し、徐々に顔を強ばらせる。 「もう一度訊きます。ここはどこですか?」 ……やはり、騙し通すのは無理か。 ま、いつかは話さねばならないことだ。 「落ち着いて聞いてくれ」 「はい」 「ここは牢獄にある、俺の家だ」 「牢獄……?」 「着ている服は借り物だ。聖女の服じゃ目立ちすぎるからな」 「……まさか、私を聖殿から連れ出したのですか?」 「そういうことになるな」 「なんということを……」 昨夜、コレットが昏睡している間に聖殿から運び出したのだ。 見張りの聖職者にも同じように眠り薬を飲ませておいたため、あっさりと事は運んだ。 後のことはラヴィが上手く対処してくれたようで、今朝になっても牢獄は静かなものだった。 当然、コレットは何も知らない。 「このようなことをして、ただで済むと思っているのですか!?」 「早く聖殿に戻してください!」 「大丈夫だ、手は打ってある」 「どのような手を打ったというのです!?」 「それは言えないな」 コレットが手を固く握りしめる。 「カイムさん、貴方を見損ないました」 「私がいつ命乞いをしましたか? 逃がしてくれと頼みましたか?」 「早く私を元の場所に戻してください」 「それはできない」 「なぜ」 「それも言えない」 「どうして!?」 「貴方がご自身の考えに基づいて行動されたなら、隠す必要などないはずです」 コレットは一時沈黙し、静かに口を開く。 「……誰かに頼まれたのですね?」 「こんなことを頼む人間がいるとしたら……ラヴィくらいのものでしょう」 コレットが、するすると答えに辿り着く。 なかなか鋭い。 「そうなのですね」 「違う」 「微かに息を飲む音が聞こえました」 コレットに見えない目で〈睨〉《にら》まれたような気がした。 「目が見えなくても、私には耳があります。誤魔化そうとしても無駄です」 「本当のことを教えてください」 「これはラヴィの仕業なのですね」 思わずため息をつく。 こいつはもう、ほぼ事実を悟っている。 隠し通せる気がしない。 仕方ないな……。 「……わかった、降参だ」 「お前を逃がすよう頼んできたのは、ラヴィだ」 「そんなことをすれば、騒動になると考えなかったのですか」 「俺も同じことを言った」 「だが奴は、しっかり対処を考えていた」 俺はラヴィが立てた計画をコレットに伝える。 「自分勝手なことを……!」 コレットは怒りに手を震わせる。 「なぜ止めなかったのです!?」 「どうしてラヴィの計画などに荷担などしたのですか!?」 「あの子がおかしなことを言っているのはすぐにわかるでしょう!?」 「俺は、おかしいとは思えないが」 「ラヴィの意図はわかります」 「ですがカイムさん、あなたはラヴィとは違うはずです」 「どうしてこんなことをしたのか理解できません」 「さあ、どうしてだろうな」 「何となく、ラヴィの提案に乗った方がいいと思った」 「お前は死ぬべきじゃないと思った」 「そんなところだ」 「貴方が、こんなに適当な人だとは思いませんでした……」 「幻滅です」 「貴方のことを信じて、お慕いしていたのに……」 「そうか……まあ仕方ないな」 別に嫌われてもいい。 こいつとラヴィが幸せになるなら、どうということはない。 「わかりました……皆、勝手になさい」 「ラヴィも、そんなに処刑されたいのであれば、好きに死ねばいいのです」 「やめろ」 「ラヴィがどんな気持ちで決意したと思っているんだ」 「知るわけがないでしょう!」 「ラヴィは、私の気持ちなんて少しも理解しようとはしなかった」 「理解していたのなら、身代わりになろうなどとは考えなかったはずです」 「ラヴィはお前のことを一番に考えていた」 「短慮にもほどがあります」 「身代わりを務めることで私が喜ぶと思ったら大間違いです」 「わかってないのはお前の方だ」 「貴方に何がわかるのです」 「神官長に強く押されれば簡単に意見を翻し、人の気も知ろうとしない」 「挙げ句に私の断りもなく勝手に身代わりです」 「身勝手すぎます」 コレットから見ればラヴィは優柔不断に見えただろう。 だが、それは優しさの裏返しだ。 信仰を貫く強さはなかったが、ラヴィは懸命に聖女に尽くしてきた。 ラヴィの優しさに、コレットは陰ながら救われてきたのだ。 いや、それはコレットもわかっているはずだ。 ナイフを取り出し、足を繋いでいた縄を切る。 「何を……」 「ついてこい」 コレットの手を取り、強引に引っ張る。 「ど、どこに行くのですか」 倒れそうになるコレットを、無理に立たせて歩く。 「処刑場に行く」 「私は行きたくありません」 「いや、連れていく」 「ラヴィの最期に立ち会うんだ」 「い、嫌です」 聖女は足を踏ん張って抵抗するが、所詮は女の力だ。 強引に歩かせる。 「なぜこんなことを!?」 「俺は依頼主には優しいんだ」 「……」 コレットの抵抗がゆるむ。 かつて、聖女とラヴィが仲違いをしたことがあった。 あの時と同じだ。 「私はもう、カイムさんの依頼主ではありません」 「わかっている」 「今は、ラヴィが依頼主だ」 コレットを引っ張りながら、関所へと向かう。 歩き始めると、コレットの抵抗はなくなった。 邪推かもしれないが、何となくこいつの心情はわかっていた。 要は、悲しいのだ。 友人が自分勝手に死を選び…… 自分はその犠牲の上に生きることを強要される。 俺がジークに同じことをされたら、やはり怒るだろう。 だがそれは、ジークが自分にとって大切な人間だからだ。 コレットの表情を窺う。 今にも泣き出しそうな顔をしていた。 いい顔だ。 そこにあったのは、強靭な意志を持つ聖女イレーヌとしての顔ではない。 コレットという、一人の少女の顔だった。 処刑場には、黒山の人だかりができていた。 この日ばかりは関所の通行規制が緩和され、牢獄民が処刑を見に来ているのだ。 コレットが人にぶつからないよう、気をつけながら歩く。 「……どれくらい人がいるのですか」 「お目見えの儀式の倍か、さらにその倍か」 「皆、ラヴィが殺されるところを見に来てるんだ」 ようやく人の少ないところを見つけ、コレットを引いて近くに寄せる。 少し離れたところで、『聖女を殺せ』と連呼する声が響いていた。 見物人は、皆一様に怒りや不安を湛えた瞳で、処刑場の成り行きを見守っていた。 「くそ、何で俺がこんな目に……」 「返して……私の子供を返してよ……!」 「聖女のせいだ、全部聖女が悪い」 「いつになったら処刑が始まるの!?」 近くの人間が恨み言を囁きあう。 コレットは処刑場に着いた頃から、目に見えて口数が減った。 体を震わせ、小さく縮こまっている。 「震えてるぞ」 「この時のために自分はいるのだと、わかっていたつもりでした」 ですが……と呟き、コレットが俺の腕を握りしめる。 「私は愚かです」 「先ほどはラヴィを蔑んでいたのに、今はラヴィが替わってくれて良かったと安堵している自分がいます」 「なんて情けない、恥ずかしい人間なのでしょう」 俺はため息をつく。 「ラヴィも、信仰を貫けない自分に、毅然と立ち振る舞えない自分に同じことを言っていた」 「お前が聖女のお付きにしてくれたことに感謝しながら、お前を裏切り続けた自分に、ずっと自責の念を抱き続けてきた」 「そんな自分にもできることがある」 「そう言って、ラヴィは自分が身代わりになると言ってきたんだ」 「ラヴィ……」 顔を近づけてやっと聞こえるほどの、小さい声で呟くコレット。 閉じた瞳は潤み、今にも泣き出しそうだった。 「ラヴィはお前のことを思い続けてきた。それだけは否定するな」 コレットの背中を覆うようにして、そっと腕の中に収める。 「カイムさん……」 大きな歓声が沸き起こる。 見ると、処刑場にラヴィが姿を現した。 目を閉じ、ナダルに手を引かれての登場だった。 髪を下ろし聖女の式服を纏ったラヴィは、遠目にはコレットと区別がつかない。 二人の人相を詳しく知るものでなければ、身代わりとはわからないだろう。 「何が始まったのですか?」 「ラヴィが出てきた」 「……ラヴィが……」 コレットは俯く。 「聖女を殺せ」 「聖女を殺せっ!」 「聖女を殺せ、聖女を殺せ!」 「聖女を殺せっ!!」 「聖女を殺せっ!!!」 聖女の死を願う大合唱が、一面に響き渡る。 腕を振り上げつばを飛ばす者、柵に取り縋って揺らす者、中には柵を越えようとする者もいた。 衛兵が何とか引きはがすが、柵に取り付くものが後を立たない。 処刑場は狂乱の渦に飲み込まれた。 「大丈夫か、コレット」 「……ラヴィ……」 処刑場は街の突端にある崖に面して作られている。 元は小さな丘だったが、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で丘が半分に割れ、断崖絶壁になった。 聖女は一人でその崖まで進み、飛び降りることになっている。 誰も殺してはくれない。 祈りを怠り、崩落を起こした罪を悔いながら、死への道を一歩一歩自らの足で歩くのだ。 手前には衛兵が弓を持って控えている。 もし聖女が逃げだそうとしたり、いつまでも立ち止まっているようなら矢を射かけるためだ。 ナダルとラヴィが、処刑場の中央まで歩いていく。 「皆の者、静粛に!」 ナダルが大きな声で叫ぶ。 だが周囲の声が大きすぎて、ほとんど届いてこない。 何度か叫び、ようやく沈静化し始める。 「静粛に!」 「これより処刑を執り行う」 「ここにいるのは祈りを怠り、聖女としての責務を果たさなかった大罪人である!」 「このような者に聖教会の一員たる資格はない」 「よって今はすでに破門され、この者は聖女でも聖職者でもないことをお知りおきいただきたい」 「あちらにおわすのが第30代、聖女イレーヌ様だ!」 再び歓声がわき起こる。 ナダルの手が向けられた先に、ラヴィと同じ服を着た女性が立っている。 あれが、新たな生け贄というわけだ。 「新たな聖女様の下、聖教会はこの大罪人に罰を与えなければならない」 「だが、思い出して欲しい」 「我らは皆、元はこの都市に生まれた聖なる信徒であることを」 「罪人と言えど人の子」 「誰にでも等しく慈悲の心を、それが聖教会の教えである」 「よって、今よりこの者にも一つだけ、最後の望みを叶える機会を与える」 ナダルとラヴィが言葉を交わす。 最後の望みをナダルに伝えているのだろう。 ナダルに呼ばれ、一人の聖職者が走り寄る。 その手には、竪琴が握られていた。 「あれは……」 コレットが弾いていた竪琴だ。 どうするつもりなのだろう? 「あ……」 ラヴィが奏でる琴の音が、処刑場に流れる。 それはいつか、コレットが弾いていた曲と同じものだった。 哀愁に満ちた旋律に吸いこまれるように、群衆のざわつきが引いていく。 「この曲は……どうして……」 コレットの弾く竪琴の音を聞いて、癒された顔をしていたラヴィ。 「ラヴィは、お前が琴を弾き始めると、窓を開けて耳を傾けていた」 「それで覚えたんだろう」 「ラヴィ……」 コレットが、俺の手を強く握りしめてくる。 「なあ、コレット」 「人には色々なあり方がある」 「強い力で信仰を貫くことができる人間もいれば、できない人間もいる」 「毅然と振る舞える人間もいれば、振る舞えない人間もいる」 「だが、信仰を貫くことができないのは、人への思いやりが強いからかもしれない」 「毅然と振る舞えないのは、他人を気遣うあまり、我を押し込めてしまうからかもしれない」 「一概に責められることじゃない」 ラヴィは、決して意志薄弱だったわけでも優柔不断だったわけでもない。 コレットとはあり方が違うのだ。 「お前は、自分が一人の力で聖女を続けられたと思うか?」 「わかっているだろう?」 「お前にとって、ラヴィがどういう存在なのか」 「ラヴィがどれほどお前を慕い、どんな思いでお前の身代わりを願い出たか」 「少しはラヴィの気持ちになって考えてやれ」 哀愁に満ちた琴の音色に、いつの間にか群衆の声は止んでいた。 ラヴィの弾く旋律が風に乗って流れていく。 「……ラヴィ……」 コレットの瞳から、涙が流れ落ちた。 懐かしい曲だった。 ずっと……ずっと昔、ラヴィが私に聞かせてくれた曲。 悲しいことがあった時、 つらく苦しいことがあった時、 ラヴィは竪琴を取り出してこの曲を弾いてくれた。 小さかった私は、そんな風に優しくしてくれるラヴィに、いつも甘えていた。 何があっても私の傍にいてくれると無邪気に信じていた。 ……だけど、私が聖女になった日からラヴィはこの曲を弾いてくれなくなった。 私を聖女様と呼び、私を甘やかさないようになった。 私は聖女イレーヌ。 ラヴィの中からコレットがいなくなってしまった。 私は、どこへ行ってしまったのだろう。 コレットは、この世から消えてしまったのだろうか。 それから……私は、この曲を弾くようになった。 不安で仕方がなかった。 元の私をつなぎ止めるものは、この曲しかなかった。 だから不安に押しつぶされそうな夜は、一人でこの曲を弾いた。 この曲が、コレットという名の私と昔のラヴィを繋ぎ止めてくれることを信じて。 カイムさんが言っていた。 ラヴィは、私が弾く琴の音を聞いてくれていたと。 そんな素振りは少しも見せなかったのに、本当はちゃんと聞いてくれていた。 そのラヴィが、ずっと弾かなかったこの曲を弾いている。 聖女として処刑される、その間際になって。 「……ラヴィ……」 私はラヴィを蔑んだ。 ラヴィのことを気遣うこともなく、ラヴィを叱り、ラヴィのことを邪険にした。 そうして、ついにはお付きから外してしまった。 ラヴィがどれだけ私のことを思ってくれていたのか、私は知ろうともしなかった。 ……だけど。 ラヴィは私のことを思い続けてくれた。 私のことを見捨てないでくれた。 遺言すら残せない聖女の処刑。 ラヴィは最後の望みとして、私とラヴィを繋ぐこの曲を弾いてくれた。 ……小さかったあの頃と同じだ。 私は聖女になってラヴィを叱り、ラヴィを導いているようでいて、その実はラヴィに支えられていた。 影から支えてくれるラヴィがいたから、私は聖女でいられた。 私は、無条件に私を受け入れてくれるラヴィの優しさに、甘えていたんだ── 竪琴の音が止む。 それを待ちかねたかのように鐘の音が鳴った。 同時に、私の胸も痛いほどに拍動する。 鐘の音が一つ鳴る度に、一歩、また一歩とラヴィは崖に向かって足を踏み出さなければならない。 「ラヴィっ!」 盲目の闇の中、私は走りだす。 音のする方へ── ラヴィの下へ。 だが、私の手を誰かが掴む。 「どこへ行く気だ!?」 「離してください」 「私をラヴィのところへ行かせてください」 「やめろ」 「柵の周りは衛兵だらけだ」 「構いませんっ」 いくら力を振り絞ろうとも、カイムさんの手は解けない。 「ラヴィを死なせるわけにはいきません」 「死ぬのは私です!」 「駄目だ」 「俺はラヴィに依頼されたんだ」 「お前を逃がし、この先暮らしていけるように手伝ってくれと」 「ラヴィを犠牲にしてまで生きたくなんてありません」 「私とラヴィは、二人で一つです!」 「ラヴィの言葉は聞き入れたのに、どうして私の言葉は聞き入れてくださらないのですか!?」 「お前が儀式を混ぜっ返せば、全て御破算だ」 何が御破算になるというのか。 ラヴィを死なせてしまえば、それこそ本当に御破算だ。 「私を行かせてくださいっ!!」 「お前は目が見えないだろっ!?」 「く……」 どうしてこんな目になってしまったのか。 それは、見たくないものから目を逸らしてきたからだ。 見たくないものからずっと目を逸らし続けていたら……本当に、何も見えなくなってしまった。 この世界の人は皆、自分が信じたいことを信じている。 それは他ならぬ、私のことだ。 私は自分が信じたいものだけを見て、信じたくないものは見なかった。 少しでも考えてみればわかることだったのに、あえて考えようとしなかった。 「もう……目は背けません」 暗闇は孤独だ。 私はこのままずっと、光を失ったままなのだろうか。 嫌だ、このまま孤独の中で一人生きていくなんて絶対に嫌だ。 そのためには、自分の信じるものだけでなく、他の皆が信じるものも見なければならない。 それは鼻持ちならない、激しく憤りを覚えるものかもしれない。 だけど、それを受け入れることで見えるものがある。 暗闇に光が指し、自分が世界にただ一人立っているわけではないことが実感できる。 だから……たとえ一瞬であっても、 私は、そうやって生きたい。 錯覚だろうか……。 周囲が見える気がする。 そう、これは── ラヴィが私を呼んでいるんだ。 彼女の心の声が、私を導いてくれているんだ。 「……カイムさん」 カイムさんの手を頬に寄せ、その温もりを感じる。 「ラヴィの気持ちに気づくことができたのは、貴方のお陰です」 「どれだけ感謝してもしきれません」 「……だから、許してください」 カイムさんの手に、思いきり噛みつく。 「くっ!!!」 手をはね除け、走りだす。 「コレット!」 人混みをすり抜け、小さな隙間を縫ってラヴィの元へと向かう。 「お前、まさか目が!?」 見えるんじゃない、見るんだ。 綺麗なことも汚いことも…… 私は、見る。 「ラヴィ!」 柵の向こうにラヴィの姿が見える。 鐘の音と共に、ラヴィは一歩ずつ崖へと近づいていく。 「ラヴィ、ラヴィっ!」 「待って、行かないで!」 声の限り叫んでも、ラヴィの耳には届かない。 一歩、また一歩と死へ進んでいく。 柵伝いに走り、縋り付いた人たちを押しのけ、かいくぐり、何度も転びながら走る。 「ラヴィ、死んでは駄目です!」 ふと、柵の下にかろうじて通れそうな、小さな柵の破れ目を見つけた。 私はそこに頭を突っ込み、無理矢理にくぐり抜ける。 「あ、お前!」 衛兵が見つけ、迫ってくる。 処刑台の手前で腕を掴まれる。 「女、外へ出ろっ!」 「は、離して……っ!」 必死に暴れる。 だが、衛兵はびくともしない。 「ラヴィ! ラヴィ! ラヴィ!!」 「ラヴィ、待って……!」 ラヴィの足は、間もなく崖にかかろうとしている。 もう二、三歩踏み出せば、その先は奈落だ。 ラヴィ。 あともう少しでラヴィに届くのに…… ラヴィに伝えたいことがあるのに。 お願いします! 天使様! どうか、 どうかお救い下さい。 全てを失ってもいい。 どうか今この一瞬だけ、私をお救いください! 地面が大きく揺れた。 「じ、地震……!?」 衛兵の手が緩む。 「っっ!!」 手を振り払う。 走れ! 走るんだ! 「天使様! ありがとうございます!」 ラヴィがゆっくりと崖の方へ倒れていく。 「待って!」 「行かないでっ!!」 幼い頃、私とラヴィは互いに身寄りがなかった。 住むところはなく、食べる物もなかった。 ラヴィと廃屋で出会ってから、二人で助け合いながら生きてきた。 頑張って生きようとした。 だけど、大人たちは容赦なく私たちを追い詰めた。 世界は不条理でいっぱいだった。 神様なんて、信じなかった。 だって、誰も助けてくれなかったじゃないか。 天使様なんて、信じなかった。 だって、誰も救ってくれなかったじゃないか。 空腹と寒さで動けなくなっても、誰も見向きもしてくれなかった。 本当に神様が、天使様がいるのなら、どうして助けてくれないのか。 ずっと、ずっとそう思っていた。 ……でも、その時ラヴィが教えてくれた。 「救われたら信じる。救ってくれないから信じない」 「そんなことでは決して救われない」 「私たちは皆弱く、少しのことで揺らいでしまう」 「だから信じるの」 「救ってくれるから信じるのではなく……信じることで救われるのよ」 こんなにも救いのない世界だから。 せめて自分の内にあるものくらいは、信じていたい。 それが、最後には必ず自分を救ってくれる。 ラヴィが、私に教えてくれたことだ。 聖女として、聖職者として一番大事なことを教えてくれたのは、ラヴィだった。 だから何とかやってこれた。 聖女が形だけの役職だとわかっても、周囲に頭がおかしくなったと言われても、 天使様への信仰を守ってくることができた。 いつでもラヴィが支えてくれていたから── ずっと二人だったから── 私のわがままを許して、私のことを理解してくれる人が、すぐ近くで見守ってくれていたから── 私はここまで来ることができた。 だから、ラヴィを行かせるわけにはいかない。 たとえラヴィの献身を裏切ることになっても、絶対に。 再度の地震。 ラヴィの立っていた足場が崩れ、宙に浮く。 力いっぱい腕を伸ばし、ラヴィを捕まえようともがく。 だが、届かない。 「ラヴィーっ!!!」 声の限り叫ぶ。 「……コレット……?」 ラヴィが丸い目を更に丸く見開いて、こちらを見る。 おかしくて、妙に嬉しくなる。 久しぶりに見た、ラヴィの素の顔だった。 そして気づく。 私たちはやっぱり…… 一緒じゃなきゃ駄目なんだ。 これ以上進めば、私も落ちるだろう。 だから? そんなこと、関係ない。 「ラヴィ……っ!」 崖から身を躍らせる。 ラヴィの体を捕まえ、しっかりと抱きしめた。 「ラヴィッ! ラヴィッ!」 ラヴィの口が動く。 「カイム様にわがままを言ったのですね。本当にもう……」 「ラヴィ、あなたに言いたいことがあります」 下界の混沌に飲まれる前に、どうしても伝えなければならないことがあった。 「一つは、どうしても許せないことです」 「どうしてあなたは大切なことを一人で決めてしまうのですか?」 「私に相談もせずに勝手に決めてしまうのですか?」 「私たちは、いつでも一緒だったはずです」 「コレット……」 「もう一つは、どうしても許して欲しいことです」 「ラヴィ、ごめんなさい」 「邪険にしてごめんなさい、素直になれなくてごめんなさい。あなたの優しさを、受け取れなくてごめんなさい……!」 「どうか……どうか、私を許してください……」 本当に今更だ。 こんなことになる前に、きちんと考えていたらラヴィは死ななくて済んだ。 もう少しだけ早くわかり合えれば、あの時の二人に戻ってやり直せたかもしれないのに。 「ごめんなさい、ラヴィまで……」 「コレット」 ラヴィの手が私の頭を撫でる。 「……コレット、私もあなたに言いたいことがあるの」 ラヴィは私の体に腕を回して、ぎゅっと抱きしめてきた。 「本当に、しょうがない子なんだから……」 それは、久しぶりの抱擁だった。 薄汚れた路地で、空腹に泣く私を寝かしつけている時のラヴィが、ここにいた。 「っっ……」 私はラヴィに抱かれながら、ゆっくりと目を閉じた。 たとえどんなにつらくても、たとえ明日がなかったとしても……きっと救いはある。 ……だって私たちは、こんなにも幸せなのだから。 ふと、目を覚ます。 どうやら眠ってしまったようだ。 「カイム、起きた?」 「ああ」 頭を振り、眠気を払う。 「どんな感じだ」 「多分、大丈夫だと思うけど」 「……そうか」 安堵のため息をつく。 「薬が足りないから取ってくる」 エリスが出て行く。 昨日は働いたな。 コレットを聖殿から連れ出し、処刑場に連れて行った。 噛まれた手をさする。 俺の手には、未だにコレットの歯形があざになって残っていた。 本当に幸運だった。 だが、あれで良かったのかもしれない。 柵を越えて走っていくコレットを見て、純粋にそう思った。 衛兵に取り押さえられた時はもう駄目かと思ったが、隙を突いてまた走り出して。 まさか本当に、ラヴィのところまで辿り着くとは思わなかった。 もちろん、ラヴィにも驚かされた。 コレットの身代わりになるとラヴィは言っていたが、この目で見るまでは信じられない気持ちもあった。 しかし、ラヴィは言葉通りに刑場に立ち、死への道を自分の足で進んでいった。 並の人間にできることではない。 ラヴィは、心の底からコレットのことを考えていたのだ。 「……ん、うんん……」 小さなうめき声。 目を覚ましたのだろうか。 「……ん……ここは……?」 「調子はどうだ」 「……カイムさん?」 「これは……どういうことですか?」 「どうも何も、見ての通りだ」 「あんたは助かったんだ」 「嘘です。私はラヴィと共に崖から落ちたはずです」 「ここは混沌の底なのですか?」 「生憎、まだ空に浮いている」 信じられない、という顔のコレット。 それはそうだろう。 「……いた……っ」 苦痛に顔を歪め、脇腹を押さえる。 「あまり激しく動かない方がいい」 「あばら骨が折れている」 「本当に私は……生きているのですか?」 「ああ、そうだ」 痛みは強烈で、忌避すべき感覚だ。 だが、同時に生きていることを証明してもくれる。 「信じられません。あの崖から落ちて助かるなんて……」 「……待ってください。私が助かったということは、ラヴィは……」 コレットの表情が硬くなる。 「まさか、ラヴィは……助からなかったのですか?」 「よく見ろ、あんたの横に寝ている」 促されて、横を見るコレット。 コレットに押しやられ、毛布に埋もれるようにしてラヴィが眠っていた。 「ラヴィ!」 手を伸ばし、ラヴィの頬に触れるコレット。 「温かい……ラヴィ、生きているんですね」 「よかった……本当によかった……」 コレットが、眠っているラヴィを抱きしめる。 「う……ん……」 ラヴィの表情が苦痛に歪んだ。 「コレット、あまり無茶をするな」 「ラヴィは腕とあばら、全身打撲と骨折だらけだ」 コレットが慌てて体から手を離す。 「ご、ごめんなさい」 「どうしてこんなひどいことに……」 「ラヴィがお前を抱えていたらしい。お前を守るようにな」 「だからお前は怪我が少なくて済んだんだ」 「ラヴィ……」 コレットの瞳から涙が落ちる。 「本当に……いつもそんなことばっかりして……」 「これからお前が看病してやるんだな」 「はい……ありがとうございます」 コレットは深く頭を下げる。 「……でも、どうして私たちは助かったのですか?」 当然の疑問だろう。 「あの処刑場の崖は、ところどころに岩がせり出している」 「そこに一晩で足場を作り、大きな網でラヴィを受け止める算段を立てた」 成功する可能性は相当低かったが、できることはしておきたかった。 「それが上手くいったのですね」 「いや、違う」 「直前に大きな地震があって、崖が崩れた」 「足場も崩れて、受け止めるために待機していた連中まで落ちそうになった」 「受け止めるどころの騒ぎじゃなかったらしい」 「……」 「だが、岩場が崩れたことが逆に幸いだった」 「あちこちを岩場に打ち付けながら、それでもラヴィとお前は岩場に引っかかった」 「それを待機していた連中が何とか拾い上げた、というわけだ」 あともう少し、揺れが大きかったら、足場がもろかったら。 あともう少し、ラヴィとコレットが転がっていたら。 二人は助かっていなかった。 まさに神の奇蹟としか言いようがない。 ま、助かったとは言っても、コレットは骨折、ラヴィは全身ボロボロだ。 奇蹟を起こすなら、無傷で済ませてほしいものだが、神もそこまで気が回らなかったらしい。 「そういうことだったのですか……」 「……地震と崩落によって処刑されようとした人間が、結局、地震と崩落に助けられたのですね」 「皮肉なものです」 「そうだな」 普段はさして神のことなんて気にもとめないが、今回ばかりは神の存在を感じずにはいられない。 コレットとラヴィは生きるべきだ、そう言っているように思えた。 「お前がラヴィの所に行こうとしたときは、本当に焦った」 「現場が混乱してラヴィが落ちる位置がズレでもしたら、それこそ元も子もなかったからな」 「……あ」 コレットが目を開く。 「おまけに、お前がラヴィを助け出そうとすれば、見物人が黙っていないだろう」 「暴動にでもなれば、俺にはもうどうしようもない」 「では、あの時『御破算』だと言ったのは」 「ラヴィを助ける計画が御破算になるってことだ」 「すみません」 「まあいい」 俯いたコレットの頭を撫でる。 「それにしても、誰が私たちを助けてくださったのでしょう」 「カイムさんは直前まで私と一緒にいたはずですし……」 「ああ、それは《不蝕金鎖》だ。俺がジークに頼んだ」 「呼んだか」 「気色悪い奴だな」 「お前、外をウロウロしていただろう?」 「おいおい、気を利かせて中に入らなかったんだぞ」 おどけて笑い、ジークは俺の背中を乱暴に叩いた。 「それで、聖女様にはどこまで話したんだ?」 「ことの成り行きは粗方話した」 「ジーク様、私とラヴィを助けていただき、ありがとうございました」 「この恩、決して忘れません」 「恩を感じてもらうのはまだ少し早いな」 「……どういう意味ですか?」 怪訝な表情をするコレット。 「どういうことだ?」 「カイム、お前は少し黙ってろ。聖女さんから話を聞く」 冷たい瞳で射貫かれ、一気に空気が張り詰める。 不蝕金鎖の頭として聞くべきことがある。 そういう顔だった。 「……聖女様、俺とカイムは昔からの仲だ。だから多少の無理は聞く」 「カイムは聖鋳金貨を山ほど持って、俺のところにやってきた」 「処刑される聖女様を助けてくれとな」 「私もラヴィも、聖女ではありません」 「細かいことはどうでもいい」 手を振り、コレットを制する。 「俺は鼻で笑ったよ」 「今回の崩落じゃ、牢獄が半分消えたし、昔馴染みも沢山死んだ」 「全てあんたのせいだ」 「だが、カイムは俺たちにその聖女様を助けて欲しいと来た」 「あまりに笑えない冗談だろ。最初は殴り倒してやろうかと思ったくらいだ」 「でも受けてやった」 「こいつは言った。地震も崩落も、聖女のせいじゃないとな」 「おかしな話だと思わないか?」 「この都市を浮かせているのは聖女様なのに、聖女様のせいじゃない。どんな理屈だ?」 「説明してみろ」 「納得のいく答えが聞けなかったら、相応の報いを覚悟してもらう」 ジークがコレットに詰め寄る。 「待て、ジーク」 「カイム、悪いが黙っててくれ」 「俺は聖女様に聞いているんだ」 諦めて、浮かしかけた腰を沈める。 今はジークの好きにさせるしかない。 「私を殺すのですか?」 「返答次第ではな」 だが、それを聞いてもコレットは物怖じする様子すら見せなかった。 「では、殺してください」 「恐らく、あなたの満足いく答えはお返しできません」 「なんだと」 「私は都市を浮かせておりません。聖女が祈らなくても、都市は浮き続けています」 「同様に、聖女がいくら祈ったところで地震も崩落も止めることはできません」 「その証拠は?」 「ありません」 「……ない? 証拠がないのに、なぜそんなことが言い切れる」 ジークが冷笑する。 まるで、コレットに出会った頃の俺を見ているようだった。 コレットが天使の声を聞けることも、都市を聖女が浮かせていることも証拠などない。 あるのはただ、信じようとする意思だけだ。 「私は、自らの信仰に誓って嘘は申しません」 「ですが、信仰などという目に見えないものに誓ったところで、納得していただけないでしょう」 「当たり前だ!」 「ですから殺してください、と申しました」 「私にはあなたを説得する術はありません。覚悟はできています」 「ですが、どうかラヴィは助けていただけないでしょうか」 「この子は身代わりになろうとしただけで、聖女とは無関係なのです」 「いい度胸だ」 コレットの襟首を掴みあげる。 小さな体が浮き、苦しそうな吐息を漏らす。 俺はジークの手を引き、コレットを下に降ろしてやる。 「熱くなりすぎだぞ」 「邪魔をするな!」 今度は俺の胸ぐらを掴み、壁に押しつけた。 「どれだけの人間が死んだと思っている」 「4割だ。組織の4割の人間が奈落の底にたたき落とされた」 「あのメルトも死んだんだぞっ!」 「それを熱くなるな、だと?」 「カイム、お前の言うべき言葉はそうじゃないだろう」 「俺に聖女を殺させてくれ、俺が始末する。メルトの仇を討ちたいんだ」 「ああいいとも、報酬も弾んでやる」 「さあやれ、お前があいつを殺すんだ」 俺の胸ぐらを押し上げ、ジークはコレットを指さす。 コレットはこちらを見つめている。 とうに死ぬ覚悟はできている、とばかりに微笑んでいた。 「……できない」 「俺には、あいつは殺せない」 「聖女は都市を浮かせてない。崩落は聖女のせいじゃない」 「でもその証拠はない」 「じゃあ何だ? 誰が都市を浮かせているのかもわからないってことか」 「そんな馬鹿な話があるか!」 俺も最初はそう思っていた。 だがコレットと接するうちに、徐々に信じるようになった。 それをジークに説明したところで、きっとわかってはくれないだろう。 「……それなら、どうしてあいつを助けようと思ったんだ」 「俺の頼みを蹴ってもよかったはずだ」 「お前が言ったからだ」 「お前の話だから皆まで言わずに信用した。それがこの結果だ」 「とんだ割を食らわされたぜ」 「どうしてくれる。この落とし前はどう付けるつもりだ」 ジークにしてみれば、俺の頼みを引き受けたことで面目を潰されたのも同然だ。 このままでは引き下がれないだろう。 「……ジーク、時間をくれ」 「俺もあいつの話を完全に信じているわけじゃないんだ」 「ああん?」 「聖女がこの都市を浮かせているわけじゃない、それは何となく本当だと思っている」 「だが、それなら何がこの都市を浮かせているのか」 「きっと理由があるはずだ」 「俺はそれを調べてみようと思う」 「だからジーク。頼む、時間をくれ」 目を合わせる。 ここで引き下がったら終わりだ。 「……一つだけ答えろ」 「お前、今と同じことをメルトの墓の前でも言えるか」 「当然だ。あいつのためにも、真実を解き明かしてみせる」 ジークは俺から手を離し、大きく息を吐く。 「いいだろう」 「もう一度だけお前を信じてやる」 「ただし、こいつらは俺が預かる」 「お前が裏切った時は、こいつらには少々つらい目にあってもらうぞ」 「わかった」 ジークが許せる、最大限の譲歩だろう。 一も二もなく受けるしかない。 「つらい目とは何でしょうか」 「聖女も女だ。体で稼いでもらうことになる」 「……娼婦になれ、ということですか」 「そうだ」 「苦しいだろうが、逃がすわけにはいかない」 少し考えて、コレットはまっすぐにジークを見つめる。 「いえ、必要とあれば何でもやってみせます」 「よく言った」 「あんたのことはまだ信じられんが、その負けん気は気に入った」 「その気があるなら、明日からでも働かせてやる」 「娼婦になるのは俺が裏切った時の話だろう」 「聖女さんがやりたいってなら話は別だ」 「興味はありますが、カイムさんが裏切った時のために取っておくことにします」 コレットが気丈に言う。 「カイム、今すぐにでも裏切ってくれていいぞ」 「笑えない冗談だ」 だが、何とかジークも納得してくれたようだ。 「何なのここ、人多いんだけど」 エリスが戻ってきた。 コレットと目を合わせ、互いに何かを牽制しあう。 「あなた、どうして起きてるの。寝てなさい」 「もう大丈夫です」 「大丈夫かどうかは医者が決めること。安静にしてないと折れた骨が砕けるわよ」 「死んでもいいなら好きにすれば」 「……」 渋々ベッドに戻るコレット。 怪我人の間は、エリスの言うことを聞くしかないだろう。 「エリス、これから付き合ってもらえないか?」 「どうして?」 「崩落の復旧作業で若いのが大勢怪我してる」 「すまないが、診てやってくれ」 「どうせ重傷はいないんでしょ?」 「お前の顔を見れば、すぐ治るような奴ばかりだ」 「まったく、仕方ないわね」 溜め息を吐いて、エリスが商売道具を持ち上げた。 昔のエリスなら容赦なく断っていただろう。 こいつも変わってきたようだ。 俺も、前に進まなくてはならないな。 「わかった、俺をどうしてもいい」 「だが、こいつらは助けてやってくれ」 「本気なのか、それは」 「ああ。俺はこいつらの言うことを信じている」 確たる証拠もないのに信じる。 かつてはそんなこと馬鹿げていると思っていた。 だが、こいつらと一緒にいるうちに……いつの間にか、俺もそっち側の人間になってしまったようだ。 「……そうかよ」 「変わったな、お前」 「そうだな」 「あんな女に骨抜きにされやがって」 「それなら聖女様の代わりに、お前が処刑場から落ちるってのはどうだ」 「それもいいな」 俺が落ちたところで神の怒りは収まらないだろう。 だが、ジークが怒りを収めてくれるなら、落ちるだけの価値がある。 「……お待ちください」 「落とすなら私を落とせばいいことです」 「本来ならば、私が処刑されるはずだったのですから」 「ラヴィにも、伝えたかったことは伝えられました」 「もう思い残すことはありません」 全てを受け入れた顔で、コレットは告げる。 「……いけません」 「それなら……私を落としてください」 ベッドの上から、か細い声がした。 見ると、ラヴィが身動きできないながらも何とかこちらを向こうと頑張っている。 「ラヴィ!」 コレットはラヴィを抱きかかえる。 その体をゆっくりこちらに向けた。 「コレット、あなたは生きてください」 「一人で生きるのは……あまりにつらく、寂しいです」 「そうですね。私たちはいつも一緒、そう言ったのは私でした」 「私たち二人を落としてください」 「そうすれば全て元通りのはずです」 「駄目だ」 それでは何も意味がない。 「何のためにお前たちを助けたと思っているんだ」 お前たちには生きていく価値がある。 俺が生きていくより、よほどそちらの方が有意義だ。 「カイムさんが犠牲になるのは筋が違います」 「ですが、どうしてもと言うなら……全員で落ちてしまうのもいいかもしれませんね」 馬鹿な話だ。 それこそ何の意味もない。 「目障りな奴らは全員いなくなるわけだな」 「それはいい。決まりだ」 「待て、ジーク」 「俺が決まりと言ったら決まりだ」 ジークが革袋を床に放り投げた。 「俺は夕方まで用事がある。その間に、どこへなりとも消えろ」 「次に会ったら、容赦なく殺す。いいな」 ジークは去っていった。 ……見逃してくれるのか。 恩に着る。 心の中で呟く。 これが、ジークにできる最大限の譲歩だろう。 俺は二人を連れて、牢獄を出なければならない。 「ジークが怒って出て行ったけど、どうしたの?」 エリスがやってきた。 「ちょうどいい。話しておくことがある」 エリスを座らせる。 「落ち着いて聞いてくれ」 「俺はコレットとラヴィを連れて、牢獄を出ることにする」 エリスが目を見開く。 「今、ジークが来た」 「聖女の言うことは信用できない、殺すというので俺が代わりになろうとしたんだが」 「証拠も何もない話では、ジークを説得することはできなかった」 「当たり前の話じゃない」 「それで、どうするの?」 「ジークが時間をくれた」 「今のうちにここを出れば見逃してくれる」 「二人を連れて牢獄を出て、下層に行こうと思う」 「つまり、お別れってわけ」 「そうだ」 牢獄に戻れなくなるのは寂しいが、仕方ない。 いい転機だと思った方がいいだろう。 「私は?」 「お前は牢獄にいろ」 「また私だけ」 「そう言うな。お前の医者としての腕は、牢獄の皆が必要としている」 「ここでもう少し頑張れ」 「わかった」 「でも、落ち着いたら連絡ちょうだい。遊びに行くから」 「ああ。約束する」 ……こうして、俺たちは牢獄を出ることになった。 まずはルキウス卿に連絡を取ろう。 そして、ティアを預かってもらいつつ下層で暮らす方法を探す。 金さえあれば何とかなるだろう。 このままでは引き下がれないだろう。 「わかった、俺をどうしてもいい」 「だが、こいつらは助けてやってくれ」 「本気なのか、それは」 「ああ。俺はこいつらの言うことを信じている」 確たる証拠もないのに信じる。 かつてはそんなこと馬鹿げていると思っていた。 だが、こいつらと一緒にいるうちに……いつの間にか、俺もそっち側の人間になってしまったようだ。 「……そうかよ」 「変わったな、お前」 「そうだな」 「あんな女に骨抜きにされやがって」 「それなら聖女様の代わりに、お前が処刑場から落ちるってのはどうだ」 「それもいいな」 俺が落ちたところで神の怒りは収まらないだろう。 だが、ジークが怒りを収めてくれるなら、落ちるだけの価値がある。 「……お待ちください」 「落とすなら私を落とせばいいことです」 「本来ならば、私が処刑されるはずだったのですから」 「ラヴィにも、伝えたかったことは伝えられました」 「もう思い残すことはありません」 全てを受け入れた顔で、コレットは告げる。 「……いけません」 「それなら……私を落としてください」 ベッドの上から、か細い声がした。 見ると、ラヴィが身動きできないながらも何とかこちらを向こうと頑張っている。 「ラヴィ!」 コレットはラヴィを抱きかかえる。 その体をゆっくりこちらに向けた。 「コレット、あなたは生きてください」 「一人で生きるのは……あまりにつらく、寂しいです」 「そうですね。私たちはいつも一緒、そう言ったのは私でした」 「私たち二人を落としてください」 「そうすれば全て元通りのはずです」 「駄目だ」 それでは何も意味がない。 「何のためにお前たちを助けたと思っているんだ」 お前たちには生きていく価値がある。 俺が生きていくより、よほどそちらの方が有意義だ。 「カイムさんが犠牲になるのは筋が違います」 「ですが、どうしてもと言うなら……全員で落ちてしまうのもいいかもしれませんね」 馬鹿な話だ。 それこそ何の意味もない。 「目障りな奴らは全員いなくなるわけだな」 「それはいい。決まりだ」 「待て、ジーク」 「俺が決まりと言ったら決まりだ」 ジークが革袋を床に放り投げた。 「俺は夕方まで用事がある。その間に、どこへなりとも消えろ」 「次に会ったら、容赦なく殺す。いいな」 ジークは去っていった。 ……見逃してくれるのか。 恩に着る。 心の中で呟く。 これが、ジークにできる最大限の譲歩だろう。 俺は二人を連れて、牢獄を出なければならない。 「ジークが怒って出て行ったけど、どうしたの?」 エリスがやってきた。 「ちょうどいい。話しておくことがある」 エリスを座らせる。 「落ち着いて聞いてくれ」 「俺はコレットとラヴィを連れて、牢獄を出ることにする」 「今、ジークが来た」 「聖女の言うことは信用できない、殺すというので俺が代わりになろうとしたんだが」 「証拠も何もない話では、ジークを説得することはできなかった」 「当たり前の話じゃない」 「それで、どうするの?」 「ジークが時間をくれた」 「今のうちにここを出れば見逃してくれる」 「二人を連れて牢獄を出て、下層に行こうと思う」 牢獄に戻れなくなるのは寂しいが、仕方ない。 いい転機だと思った方がいいだろう。 「私は?」 「お前は牢獄にいろ」 「また私だけ」 「そう言うな。お前の医者としての腕は、牢獄の皆が必要としている」 「ここでもう少し頑張れ」 「わかった」 「でも、落ち着いたら連絡ちょうだい。遊びに行くから」 「ああ。約束する」 ……こうして、俺たちは牢獄を出ることになった。 まずはルキウス卿に連絡を取ろう。 そして、ティアを預かってもらいつつ下層で暮らす方法を探す。 金さえあれば何とかなるだろう。 数日後、崩落被害者の墓地にやってきた。 牢獄を離れる前に、来ておきたかったのだ。 崩落では遺体が残らない。 だが、死者を弔うためには墓が必要だった。 「ここに、お知り合いが眠っていらっしゃるのですか?」 「さあな。だが、祈る場所はここくらいしかない」 混沌へと落ちていった者がどうなったのか。 それは誰にもわからない。 神話の通りなら、大地は穢れた汚泥で満ちている。 その中に落ちて生きていられるわけがない。 どこかで生きていてくれたらという思いを断ち切るには、こうして祈るより他ない。 たとえ嘘であっても、こういうものが必要だ。 エリスが持ってきたものを墓に添え、祈りを捧げた。 俺も持ってきた櫛を置き、手を組む。 「……それは?」 「メルトからもらったものだ。メルトは昔馴染みだった」 「そうでしたか」 「皆、そうやって故人の持ち物を捧げるのですね」 「牢獄の人間は皆、貧乏だからな。花を買う余裕なんてない」 「だから死んだ奴の持ち物を手向けて、死者を弔うんだ」 それらの遺品が小さな山を作り上げている。 「……こんなにたくさんの方が亡くなったのですね」 「ああ、そうだ」 大勢の人間が突然消えて、二度と会えなくなる。 そいつらが生きていた場所ごと奪っていく。 崩落は俺たちが経験する中で、最も悲惨で空虚な出来事だ。 「……ごめんなさい」 コレットが祈る。 「お前が謝ることじゃない」 「でも、皆私を恨みながら死んでいったはずです」 「皆、もっと生きたいと思っていたはずなのに」 「あなたが落ちなかったから、皆死にきれなくて彷徨っているかもしれないわね」 「……どういうことでしょうか」 「知らないの?」 「崩落を聖女のせいにして、怒りにまかせてその死を願う人も多いけど、皆が皆そうじゃない」 「聖女が一緒に落ちることで、落ちていった皆を導いてくれると思っている人もいる」 「申し訳ないと思いながら、それでも聖女にその役目を果たしてもらいたいと処刑を願う人もいるわ」 「……知りませんでした」 「私は罪深い人間です」 涙をにじませ、コレットは〈項垂〉《うなだ》れる。 「とんだ世間知らずね」 「エリス、それぐらいにしておけ」 「悪者は退散」 エリスは手をほどき、元来た道を戻っていく。 エリスが手向けたのは、小さな首飾りだった。 恐らく、メルトからもらったものだろう。 「エリスさんにはよくしてもらっています。お陰でだいぶ痛みも引きました」 「あの方も、カイムさんと同じで本当はお優しい方だと思います」 あれからコレットは、改めて皆の前で自分の名を明かした。 往来で聖女と呼ぶのは問題があるため、皆でコレットと呼ぶことにした。 「そろそろ行くぞ」 背中を向けてかがむ。 コレットはおずおずと俺の背中に体を預けてきた。 「申し訳ありません、ご迷惑をおかけして」 「まだ怪我が治りきっていないんだ。無理をするな」 コレットを背負いながら、元来た道を戻る。 崩落は未だ大きな爪痕を残したままだ。 それでも、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時とは違い、復興は異例の早さで進みつつある。 ルキウス卿が、救援部隊と大量の物資を牢獄に供給してくれたからだ。 お陰で、牢獄民は生活を建て直すことに全力を傾けることができている。 ジークもルキウス卿の尽力には感謝している。 だが、同時にその用意周到さに危機感を強めていた。 〈風錆〉《ふうしょう》が潰れ、不蝕金鎖の天下になると思われていた牢獄の力関係に、ルキウス卿が影響を及ぼし始めるだろう。 牢獄は変わっていく。 ジークも、今までのようにはいかないはずだ。 エリスやティア、そして俺も、今までのようにはいかないだろう。 これからどうしていくべきか。 ……俺は牢獄で人を殺して生きてきた。 幼かった俺が牢獄で生き抜くためには、何でもやるしかなかった。 間違っていたとは、今でも思っていない。 しかし、そんな過去がいつの間にか俺自身を縛る枷になっていた。 コレットの言葉を思い出す。 俺は、自分の生きる意味から顔を背け続けている。 その通り、誤魔化しようのない事実だった。 牢獄は変わっていく。 否応なく、俺も変わらないといけなくなるだろう。 だとしたら、どう変わるべきなのか。 「コレット」 「何でしょうか」 背中におぶさったコレットが、小さく返してくる。 「礼を言う。ありがとう」 「お礼を言わなければならないことは山ほどありますが、その逆は身に覚えがありません」 「前に言っていただろう。俺は変わることを拒んでいると」 「牢獄で立ち止まっている、前に進んで欲しいと」 「ああ……」 思い当たったようだ。 「申し訳ありません、あの時は眠くて思わぬことを口走ってしまいました」 「あれは眠り薬のせいだ」 「……そうだったのですか。おかしいと思っていました」 「不断の祈りをしていた時より眠くなるなんて、体がおかしくなったのかと」 「そのまま連れ出そうとしたら反抗されるのが目に見えていたからな」 「当たり前です」 「それで、あの時のことがどうかしたのですか?」 「俺は牢獄を出て、上に行こうと思う」 「ジークと約束した通り、この都市がどうして浮いているのか調べたい」 何故、この都市は浮いているのか。 何故、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》は起こってしまったのか。 そして…… 何故、メルトは死なねばならなかったのか。 確かめないわけにはいかない。 「上層で真実を知る者を探してみる」 「……そうですか」 ぼそり、と呟くように返す。 背中にいるため、表情を窺うことはできない。 「どう思う?」 「私はジークさんに預かっていただいている身ですから、ここを出ることはできません」 「それにラヴィが回復するまで傍にいたいと思っています」 「カイムさんにお会いできなくなるのは寂しいです」 「コレット……」 「でも、それがあなたの信じた道だと言うなら、私が言うべきことは一つです」 「前に進んでください」 「あなたの進む先に幸多からんことを、私は牢獄で祈っております」 「元聖女様の祈りだ。きっと効果〈覿面〉《てきめん》だろうよ」 きっと、どこかにいるはずだ。 この都市が浮いている理由を知る者が。 頭に浮かんだのはルキウス卿の顔だった。 彼ならば、なにか知っているかもしれない。 俺の荒唐無稽な話も、笑わずに聞いてくれるだろう。 明日には、ティアの引き受けも兼ねてルキウス卿に会いに行こう。 上層を見上げ、その上に広がる空を仰いだ。 下層での生活が始まり、瞬く間に時間が過ぎた。 「……約束の物、確かに受け取りました」 「ルキウス卿に渡してくれ」 「わかりました」 牢獄を出て間もなく、俺はルキウス卿に今後を相談した。 彼は、コレットとラヴィの身分が露見しないよう手を回してくれたばかりか、小さな家まで用意してくれた。 貴族にとっては大した出費ではないのかもしれないが、俺たちにとってはありがたい援助だ。 コレットの怪我は早々に完治し、毎日せっせとラヴィの世話を焼いている。 その甲斐もあってか、今ではラヴィも普通に生活できるくらいに回復した。 俺はといえば、ルキウス卿の依頼を受けて走り回り、生活の糧を得ている。 ルキウス卿によれば、彼も都市の秘密についての調査を進めているとのことだった。 彼の仕事を手伝うことは、謎の解明にも繋がっているのだ。 真相に辿り着けば、ジークと和解する道も見つかるだろう。 いつかその日が来たら── 俺は、もう一度メルトの墓へ行き、全てを報告したいと思っている。 「しばらく会っていないが、ティアはどうしている?」 「今日はルキウス様と共にお出かけになっています」 「自分で掃除や洗濯、料理をしてしまうので、召使いたちがやきもきしていますね」 「そうか、元気そうで安心した」 俺とコレット、そしてラヴィは下層の家で暮らしているが、ティアはルキウス卿の屋敷に住んでいる。 ティアの不思議な力を解明するため、その方が都合がいいとのことだった。 ティアも賛成していたので、好きなようにさせている。 「では、少ないですがこれを」 「ありがたい」 「先日、街でラヴィリアさんをお見かけしましたが」 「もう歩けるようになったのですね」 「すっかり治って、毎日コレットと仲良くやっている」 「何か探されていたようですが」 「ああ、仕事だろう」 俺の稼ぎだけでも十分生活はできるのだが、コレットとラヴィは自分たちも働きたいと言い出した。 「勤勉ですね」 「聖職者だった頃の癖が抜けないんだろうな」 「少しでも皆の役に立つことがしたい、ということらしい」 「なるほど」 「問題はないと思いますが、一応ルキウス様のお耳に入れておきます」 「困ったことがあったら相談してください」 「助かる」 「……ルキウス様がそう仰せになったからです」 「私個人は、あなたが困っても一向に構いませんが」 「そう言うな、雨の日の友だろ」 「な……っ」 「じゃあな」 システィナが本格的に怒りだす前に退散する。 「帰ったぞ」 返事はなかった。 どうやらコレットもラヴィも出かけているらしい。 そういえば、どちらが先に仕事を見つけられるか競争しようとか言っていたな。 今じゃ本当の姉妹のようだ。 どちらかと言えば、ラヴィは姉で、コレットは妹だ。 頭はいいが、純粋で曲がったことが大嫌いな妹。 それを優しく見守り、支えてやる姉。 そんなところだ。 「……ただいま戻りました」 「コレットか」 戻ってくるなり、俺の元に駆け寄ってくる。 「カイムさん聞いてください。お仕事を見つけて参りました」 「そうなのか。どんな仕事だ?」 「果物屋で売り子を致します」 「なるほどな。お前に合ってそうだ」 大勢の前で説法を行ってきたコレットだ。 客を前にちょっとした話をするくらい、お手の物だろう。 「ラヴィは戻ってきましたか?」 「いや、まだだ」 「では私の勝ちですね」 「ラヴィより先に見つけられました」 「褒めてください」 「よくやった」 コレットの頭を撫でてやる。 満足そうな顔だった。 「それで、仕事はいつからなんだ?」 「明日からだそうです」 「今日はこれからどうする」 「特に予定はありません」 「ラヴィはまだ戻ってきませんし、チェスでもしませんか」 「いいだろう」 部屋の隅からチェス盤を持ってくる。 以前のように豪華な代物じゃない。 駒も、木を削って作られた素朴なものだ。 「据わりが悪いな」 駒の台座がきちんと平らになっていないせいで、ぐらぐらと傾く。 「もう少しましなのを買うか」 「いえ、私はこれで構いません」 「味があっていいと思います」 「それならいいが」 コレットがこれでいいと言うなら、特に問題ない。 二人で駒を並べる。 「コレットの番だ」 「また私が先手ですか?」 「そろそろ後手もやりたいです」 「まだお前には早い」 あれから何度か打っているが、まだコレットに敗北を喫したことはない。 眠り薬を飲ませた時の一戦は、俺の動揺もあってかなり追い詰められた。 だが、平時であればまだまだ負ける気はしない。 「目が見えなかった時の方が強かったような気がします」 「だったら目を瞑ったらどうだ」 「見えるとわかっていたら、心持ちも変わります」 「あの頃には戻れません」 「そういうものか」 互いに駒を動かしながら、盤上の行方を窺う。 今回はかなり手が細かい。 読みをしくじりやすい状況だった。 「そう言えば、お礼をまだ言っていませんでした」 「何の話だ」 「私を聖殿から連れ出してくれたこと」 「ジークさんに詰め寄られた時、私たちを信じると言ってくれたこと」 「今こうしてチェスを打てるのは、カイムさんのお陰です」 「本当にありがとうございます」 「やめてくれ。俺はやりたいようにやっただけだ」 コレットとラヴィが始末されてしまうと考えたら、居ても立ってもいられなくなった。 それだけだ。 「それに、ラヴィからの依頼だったからな」 「それだけなのですか?」 コレットは、頬を赤らめながら拗ねたような顔で俺を見つめる。 「どういう意味だ」 「ラヴィの依頼だから、私を助けたのですか?」 「あの時は私が欲しい、って言ってくれたのに……」 思い出した。 あの時は、コレットに押し切られる形で体を重ねた。 だが、それだけじゃない。 心のどこかで、こいつのことを求めていた。 聖女だったからではなく……女として、コレットを求めた。 「チェスの途中だぞ」 「構いません。あの時もそうでした」 「そうだったか」 「コレットの心は、あの時からカイムさんにお預けしたままになっているのですよ」 「もしお返しいただけないのなら……カイムさんの口から聞かせていただけませんか」 「……私のことを、どうお思いなのか」 そうだったな。 俺はまだ、コレットに何も伝えていなかった。 俺は席を立ち、コレットの前に立つ。 「コレット」 「はい」 「お前が好きだ」 「俺と、ずっと一緒にいてくれ」 「カイムさん……」 「私も、カイムさんのことをお慕いしております」 「ずっと、あなたの傍に置いてください」 可愛らしい笑みを浮かべるコレット。 俺はその華奢で小さな体を、ぎゅっと抱きしめた。 「カイムさん……」 「いいんだな」 「はい」 見上げてくるコレットに、優しく口づけをする。 「んちゅっ……ちゅっ」 「んんっ、ちゅっ……ちゅるっ」 コレットが遠慮がちに舌を入れてくる。 「ちゅっ、ちゅるっ、んちゅ、んんっ……あんんっ」 「んちゅっ、ちゅっ、ちゅっ……ちゅるるっ、ちゅくっ、んむぅっ」 「ぷぁ……はあ……」 「どうしたんだ、そんなに必死になって」 コレットはぎゅっと体を寄せてくる。 「カイムさんが全然私のことを求めてくださらないから……」 「私のことはどうでもよくなってしまったのかと……心配していたのです」 そうだったのか。 まあ、色々あったからな。 「お前でも人並みにそんなことを考えるんだな」 「当たり前です、私を何だと思っているのですか」 「元聖女だろ」 「それは……言わないでください」 「今は聖女ではありませんし、聖職者でもありません」 「私は、カイムさんただ一人のものです」 可愛いことを言ってくれるじゃないか。 「じゃあ、俺の好きにしていいんだな」 「もちろんです」 「カイムさんが望むなら何でも致します」 「わかった。じゃあ、服を脱いで裸になってくれ」 「……いきなりですね」 「嫌ならいいぞ」 「いじわる言わないでください」 言われるままに服を脱ぎ、下着を残して俺の前に立った。 「これで……よろしいですか?」 「全部だ」 「恥ずかしいです」 「コレットの裸が見たいんだ」 「……わかりました」 諦めたように、下着を外す。 生まれたままの姿になったコレットを、存分に眺める。 「……見ないでください」 「そのように見つめられたら、溶けてしまいます」 頬を上気させて俯く。 「そういえば、前は目が見えなかったんだったな」 「そうです……ああ、いやです……」 俺と目が合い、真っ赤になって顔を隠す。 仕草の一つ一つが可愛らしい。 「コレット、ちょっといいか」 「はい」 俺は裸のコレットを抱えてベッドまで運ぶ。 「何をするのですかっ」 「こ、このような格好……恥ずかしいです」 「カイムさんに全部見えてしまいます」 「心配するな、綺麗だぞ」 コレットの秘部は、既にしっとりと湿り気を帯びていた。 「やあっ、そんなことを言わないでください」 「お願いします、この格好はやめにしましょう」 コレットが足を上げようとする。 が、足を掴んで阻止する。 「カイムさん……駄目です……」 「そんなに見ないでください」 視線から逃れるように腰を動かすコレット。 扇情的な光景だった。 「何でもしてくれるんだろう?」 「それは……そうですが……」 顔を赤くして俯くコレット。 少しいじめすぎたか。 「コレット、ズボンのボタンを外してくれ」 「はい……わかりました」 「きゃっ……大きくなってます……」 外した途端、痛いくらいに屹立した肉棒が勢いよく飛び出す。 狭いところから解放され、さらに大きくなっていく。 「すごい……これが私の中に入ったのですね……」 「感想は?」 「……言わなくては駄目ですか?」 「聞いてみたいな」 「……先の方がつやつやしてます」 「それに熱くて、脈を打っていて……すごく恥ずかしい形です……」 そっとペニスを触る。 「顔が赤くなってるぞ」 「カイムさんが変なことを言わせるからです」 「コレットは可愛いな」 「もう、カイムさんのいじわる……」 頬を膨らませる。 「そんなことを言う人は、こうします」 コレットは俺の肉棒をしごき始める。 優しく握る手に刺激され、甘い快感が走る。 「カイムさんの上に跨って、こんなことをするなんて……」 「夢にも思いませんでした」 優しく手の平で包みながら、裏筋をこする。 痺れるような快感に、思わず腰を浮かす。 「……気持ちいいでしょうか」 「ああ、いいぞ」 「では……もっと気持ち良くしますね」 コレットは落ちてきた髪をかき上げて、亀頭に顔を近づける。 「……はむ……んむっ、んちゅっ……」 ずる、とコレットの小さな口に飲み込まれていく。 「おっと……」 「んっ、んんん……んんっ……」 どんどんと奥まで飲み込み、根本までくわえ込んでしまう。 熱くぬかるんだ口内に蕩けてしまいそうだった。 「……んっ、ちゅっ、れるっ、ちゅっ、ちゅるっ」 頭を上下に動かし、飲み込んだものを出しては仕舞いを繰り返す。 「れるっ、ちゅっ、ちゅくっ、んちゅっ」 「ちゅるるっ……んくっ、れるるっ、じゅっ、れちゅっ」 「くちゅっ、んちゅっ、れろっ、じゅるるっ」 初めての時よりも格段に上手くなっている。 チェスもそうだったが、コレットは飲み込みが早い。 「く……上手くなったな」 「ちゅっ、ちゅるっ……れるるっ、れろっ、じゅるるるっ」 「ちゅくっ、れりゅっ、ぴちゅっ……じゅるっ、ちゅるるっ」 俺の言葉を聞いて、さらに激しくしゃぶり始める。 こいつ……そっちがそのつもりなら……。 俺はコレットの膣口に舌を這わせる。 「ちゅくっ、んちゅっ、れるっ……んっ、んんっ、んんんんんっ!?」 既にコレットの膣内は愛液でたっぷりと濡れていた。 陰部を下から舐め上げると、震えるようにコレットの体が痙攣する。 「んんんっ、んくぅっ、んはぁっ……か、カイムさん……駄目ですっ」 「そんなところを舐めては……いけませんっ、不浄ですっ」 「お前だって俺のを咥えてるだろう」 「そ、それは……その……あの……」 言い訳が思いつかないようだ。 それならやめる理由はないな。 「……ひゃぁうっ、ううんっ、ああっ、あああっ、ううんっ」 「んぅっ、駄目ですっ、お願いです、やめてくださっ、ああああっ」 ぶるぶると体を震わせ、襲い来る快感に耐えようと踏ん張るコレット。 肉棒を痛いほど強く握り締める。 「やめて欲しければ、先に俺を果てさせればいい」 「……くぅっ、わ、わかりましたっ……」 「あむっ、んむむっ、ちゅっ、ちゅくっ、ちゅるるっ、じゅるるっ」 「んちゅっ、れろっ、れるるっ、ぴちゅっ、じゅるるるっ」 コレットは肉棒にしゃぶりつき、がむしゃらに動かし始める。 同時に手でしごき上げ、刺激を与えてくる。 「んちゅっ、ちゅるるっ、れろろっ、くちゅっ、んちゅるっ、ちゅくっ」 「じゅるっ、んちゅっ……くちゅっ、れるっ、じゅるっ、じゅるるるっ」 「……くっ……」 負けじとコレットの膣内に舌を入れる。 甘酸っぱい愛液がどんどんとあふれ出てきた。 「んふぅっ、ちゅくっ、んんんんっ、れるっ、んちゅっ、んくぅんっ」 感じながらも必死でしゃぶり続けるコレット。 太ももが震え、膣内に差し入れた舌がぎゅっと潰される。 イキそうなんだな。 「うんんんっ、れるるっ、れりゅっ、ちゅるるっ、んくぅっ、じゅるるっ」 こっちもそろそろ我慢の限界だった。 「んっ、んっんっ、んちゅっ、くりゅっ、ちゅるっ、ちゅくっ」 「くっ……!」 コレットの尻を抱え、思い切り舌でクリトリスの辺りを押しつぶす。 「んちゅっ、れろっ、んんっ、んんんっ……ふんんんんーっ!」 どくっ、どぴゅっ、どくどくどくっ! びくっ、びゅくっ、どくんっ! びゅくっ、びゅるっ、どくっ! 咥えたままのコレットの口内に、大量の精液を迸らせる。 「んっ、んぐうぅっ……んんんっ、んんんんっ」 「んむっ、んぁっ、んぐぐっ……」 口に溢れる白濁に、苦しそうにうめき声を上げるコレット。 「コレット、いいから吐き出せ」 「んっ、んーんっ、んんっ」 しかしコレットは首を横に振る。 コレットの口から、収まり切らなかった精液が溢れてくる。 「んっ、んぐっ……んむっ、ごくんっ、んちゅっ」 涙目になりながら、コレットは口いっぱいに詰まった精液を飲み込んでいく。 「んぐっ、んぐぐっ……ごくんっ、ごくっ」 粘ついてからみつく白濁の液体は飲み込みづらいのだろう。 だが、コレットは構わず嚥下していく。 「んくっ、んんっ、んふぅっ、んん……んはぁっ」 「はあ、はあ、はあ……はあぁ……んんっ」 「無理して飲むな」 荒い息をつくコレット。 何もそこまですることはない。 「……はあっ、ですが……吐き出してしまったら可哀想な気がして……」 「何が可哀想なんだ」 「その……頑張ったこの子がです」 そう言って俺の肉棒をきゅっと握りしめる。 「お前……おかしな奴だな」 「そうでしょうか」 「そんなことを言う奴は初めてだ」 「でも……咥えていたら、何だかこれが別の生き物みたいに思えてきて」 「とても愛おしい気持ちになりました」 コレットは亀頭に軽くキスをする。 その柔らかな唇に反応する。 「あ……また大きくなってきました」 「お前が刺激するからだ」 「くすっ、可愛いです」 ペニスに頬ずりをするコレット。 お陰で、達したばかりにも関わらず、すっかり大きくなってしまった。 「次は……その、私の中に入れるのですね」 「嫌か?」 「それは……」 「どうした?」 「嫌です、そういうことは聞かないでください」 ぷい、と顔を背ける。 「なら、もう聞かない」 俺はコレットの足を取り、ぐるりと体を回す。 「やっ……何をなさるのですか」 対面になり、恥ずかしそうに顔を伏せるコレット。 「さ、腰を下ろせ」 「……どういうことでしょうか」 頭に疑問符を浮かべる。 「もしかして、このままの体勢で入れるのですか?」 「そうだ」 「ですが……これではカイムさんが入れにくいのでは」 「コレットが自分でするんだ」 「私が……自分で?」 「そ、そんなことは無理ですっ、恥ずかしいです」 「気にするな、もう二度目じゃないか」 「そういうことではありません」 「女性から……その、男性を求めて入れるなんてはしたないです」 「もう少し優しくしてください」 コレットは拗ねたように唇をとがらせる。 「十分、優しくしていると思うが」 「カイムさんは、私に恥ずかしい思いをさせて楽しんでいます」 「そんなことはない」 「そんなことあります。カイムさん、意地悪をしないでください」 俺は何も言わず、コレットを見つめ続ける。 「カイムさん、ひどいです……」 「ん……んんっ、んくっ……」 我慢できないのか、俺の肉棒に陰部をこすりつけてくる。 熱く濡れた陰唇に刺激され、痛いくらいに屹立する。 「んんっ、ふぅんっ……んくっ」 「ああ……んんっ、切ないです……」 「カイムさん……お願いします」 一生懸命に腰を動かし、刺激を得ようとするコレット。 だんだん可哀想になってきた。 「仕方ないな。俺の言う通りにしろ」 「お願いします」 「まず、腰を浮かせて自分のところに当てる」 「はい」 言われた通りに腰を浮かせ、秘部に亀頭をあてがう。 「それからゆっくりと腰を落とせ」 「わかりまし……たっ」 ぢゅるるるるっ 「はあぁ……うあああああぁっ……っ!」 コレットは、一気に腰を落とした。 「あああっ、あくぅっ、ふっ、ふんんんっ……」 体中を痙攣させ、訪れた絶頂に震える。 入れただけでいってしまったらしい。 「馬鹿、いきなり奥まで入れるからだ」 俺の肉棒は、熱を帯びた肉壁に根本まで飲み込まれた。 おまけに絶頂を迎えた膣内は、ぎゅうぎゅうと俺のものを絞ってくる。 「はああっ、ああっ、カイムさんがじらすから、我慢できなくてっ」 「はあっ、あぁ……あたまが……」 「頭が真っ白です……飛んでしまいました……」 「ふう……はぁ、はあ……はあ……」 「おさまったか」 「う……あぁ、はぁ、はあぁ……ぁ」 「はい……もう大丈夫です」 「無茶をするな」 「でも……とても気持ち良かったです」 「ぜ、全身が……蕩けて、しまい、そう……で……」 とろんとした顔で笑う。 「痛くなかったか?」 「あぁ……へいき……でした」 「もっと……痛いもの……なのですか?」 「二度目も痛い、と言っている奴はいる」 個人によって差があるらしい。 「では、私は幸運でした」 「カイムさんのものが、すごく気持ち良く感じます」 「それは何よりだ」 痛がられるより気持ち良くなってもらった方がいい。 「カイムさんの……中でびくびくしてます」 「気持ちいいのですか?」 「ああ」 コレットの中は狭く、みっちりと隙間なく詰まっている。 肉壁にこすられる度に快感が走った。 「カイムさん……動いてもよろしいですか?」 「ゆっくりでいいぞ」 「はい」 ゆるゆると腰を動かし始める。 「くっ……んふぅ……はあああぁぁぁぁ……」 「あっ……んんっ、くぅん……うんっ、はぁっ」 「あぅんっ……すごい、前の方がこすられてますっ……」 「くぅっ、んんっ……あんっ、んくっ、ふくぅっ……んんんっ」 コレットの膣内から愛液が溢れ出てくる。 「んんっ、あんっ……んんっ、はあっ、ああっ……」 「やっ、んんっ、ああぁっ、んぅっ……あっ、あああっ」 「ああっ、気持ち……いいですっ、んんっ」 すごく気持ちいいが、ゆったりとした動きがじれったい。 俺はコレットの尻を支え、下から突き上げる。 「ひゃうぅっ、んんっ、やっ、カイムさん、動かないでくださいっ……」 「すまん」 断りを入れつつ、俺はコレットの膣奥へ肉棒を突き入れる。 「やあっ、ああっ、んんんっ、くぅっ、はあぁっ」 「あっ、激しくてっ……駄目っ、やっ、んんっ、ふああぁっ」 「うぅっ、んっ、くうぅっ、あっ、あっ、ああっ、んんっ」 「んふぅっ、はっ、ああっ、うくっ……んああぁっ」 ちゅぽんっ 激しく動かしすぎたせいで、肉棒が抜けてしまう。 「ああ……はあ、はあ……はあ……」 「抜けてしまいました……」 コレットの愛液で濡れ、ペニスはてらてらとした輝きを放っている。 ぬるぬるとしたそれを手に、コレットは再び自らの膣内に招き入れる。 ずるっ、ぬるるるっ 「あああんっ! はあ……ああっ……うあぁ……っ!」 「はあ……ああっ、んん……んっ」 「お腹が……いっぱいになっています、気持ちいいです……」 ただ挿入しただけなのに、すごく気持ちいい。 コレットの膣はひくひくと蠢き、俺のものを刺激していた。 「はあっ、んんっ……ああっ……」 気持ちよさそうに目を細めるコレット。 陶酔したその顔を見ているだけで、幸せな気分になってくる。 「あ、あの、カイムさん……」 手を口にやり、物欲しそうな目でこちらを見てくる。 「どうした」 「……動かしていただけないのですか?」 「動かして欲しいのか?」 「はい。カイムさんが欲しいです……」 恥ずかしがることなく、素直に答える。 たまらなく可愛い。 「……コレット」 「はい」 「愛しているぞ」 びっくりしたように目を見開き、それからうっとりと微笑む。 「……はい」 「私も、カイムさんをお慕いしております」 コレットの瞳にうっすらと涙が浮かぶ。 「どうして泣く」 「すん……嬉しくて、涙が出てきてしまいました……」 「馬鹿、こんな時に泣くな」 「そうですね。申し訳ありません」 涙を拭き、きゅっと内股に力を入れてくる。 四方から肉壁が押し寄せ、俺のものを圧迫した。 「……くっ……」 「カイムさんも、もっと気持ち良くなってください」 「また私の中に射精して欲しいです」 ふと疑問が浮かぶ。 「中ってお前、大丈夫なのか?」 「何のことでしょうか」 「中で射精すると、子供ができる」 「そうだったのですか」 やっぱり知らなかったか。 「中に出すなら、そのつもりでしないと駄目だ」 「私は構いませんよ。カイムさんの子供ならいくらでも欲しいです」 「いくらでも……俺はそんなにいらないぞ」 「私は十人くらいいたらと思っています」 多い、それは多いぞ。 ……まあ、コレットがそうしたいというならいいが。 「じゃあ、遠慮なく出すからな」 「はい、お願いします」 コレットはくすりと笑う。 その笑顔が可愛くて、たまらなくなってくる。 「ん……あん、ふぅんっ……んんっ……」 「んっ……あっ、んくっ、はあっ、ああんっ、んぅっ」 最初はゆっくりと、徐々に激しく突き上げていく。 「ああっ、はあぁっ、くぅんっ、んんっ、うんっ、あああっ」 「やっ、すごい……んくうぅっ、ああっ、あっあっ、ふんんんっ」 指をくわえるものの、声を抑えることはできていない。 「ああっ、んんんっ、はくっ、ああっ、んぁっ、ああんっ」 「うくぅっ、はっ、あっ、あっ、んんぅっ」 「そんなに……したらっ、すぐに達して……しまいますっ」 「ああ、いいぞっ」 こちらもきつく締まる膣内に刺激され、限界に近づいている。 もう長くはもたない。 「あああっ、はあっ、んううぅっ、んんっ、はぅっ、んんんんっ」 「あんっ、カイムさんっ……好きっ、好きですっ……」 「私をっ、傍に置いて……くださいっ」 「ああ。ずっとな」 突き上げる度に、愛液がしずくとなって飛び散る。 「ふぁあああっ、か、カイム、さんっ……わたくしっ……もうっ、だめ、だめっ!」 「あっ、ああっ……カイムさんっ、もうっ、わたくしはっ……」 「だめですっ、もう……いきますっ」 「俺もだっ」 「はいっ……ああっ、来てくださいっ、中にっ」 「ああっ、ひぅん……っ、なか、なかに……ぃっ!」 「んっ、ああっ、うんんっ、ふあぁっ、あっ、ああっ、ああああっ」 「あっ、あ、あ、あっあっ……あくぅっ、ああああっ!」 引き抜いた肉棒を、膣奥まで一気に押し込む。 「あ……ああっ、いきます、いく……あああっ、あああぁぁぁぁぁっ!!」 「ふぁあっ……あっ、あっ、あああっ! ゃああああああぁぁぁぁぁっっっっ!!!」 どくっ、どくどくどくっ、びゅるるっ! コレットの奥に、我慢に我慢を重ねた白濁を吐き出していく。 「あああっ、ああ……はあぁっ、んんっ、んんんんっ……」 びゅっ、びゅるっ、びゅくっ! びゅびゅっ、どくっ、びゅるっ! 激しく迸る精液を、全てコレットの膣奥へと流し込む。 「んんんっ、はあっ、あうぅっ、んん、んんん……ああっ……」 絶頂に達したコレットは、激しく体を痙攣させる。 びゅっ、びゅくっ、どくくっ 「はあ……あああっ、んあぁっ……ああ……ん……」 「うぐっ、うっ……」 あまりの快楽に、頭の奥で火花が散る。 体の芯まで持って行かれそうな快感だった。 「ふぁ……ああっ、お腹が熱い……焼けてしまいそうです」 「いっぱい……中がカイムさんで満たされてます」 膣内に全て吐き出し終えて、脱力する。 体を動かすのが億劫だった。 「ん、んんっ……ふあぁ……っ」 ちゅぽっ 小さくなった肉棒がコレットの膣内から抜ける。 ぱっくりと開いた膣口から、すごい量の精液が溢れ出てきた。 「……すごいです」 「はぁ……あぁ……」 「こんなにいっぱい、私の中に収まっていたのですね」 どろりと流れ出してきた乳白色の液体を、まじまじと見つめる。 「……せっかく出てきたのに可哀想です」 「またそんなことを。飲まないでいいからな」 「はい」 少し残念そうな顔をする。 「でも、これでカイムさんの子供ができるのですね」 「月の周期が合っていればな」 「……必ずできるものではないのですか?」 「違う。当たり外れがある」 「そうなのですか……」 残念そうだ。 「カイムさん、どうすれば子供ができますか?」 「毎日すればほぼ確実だな」 「なるほど、わかりました。では明日も致します」 「おい」 「……駄目でしょうか」 眉根を寄せて、切なげに見つめてくる。 これでは、当分断れそうにない。 「……好きにしろ」 「はい」 「好きに致します」 頬を染め、コレットは満面の笑みを浮かべた。 20日後。 「カイムさん、早く参りましょう」 「少し落ち着け」 コレットは朝からはしゃぎ通しだった。 「落ち着いていられません」 「今日は久しぶりに二人きりでお出かけなのですよ」 ラヴィも仕事を見つけ、働き始めた。 今日は仕事に出ているため、ラヴィはいない。 「お前、仕事休んで良かったのか?」 「今日は仕入れで一日、店を閉めると言っていました」 「カイムさんこそ平気なのですか?」 「大丈夫だ」 今日は特に予定がなかった。 「それはよかったです」 「では、思う存分私と楽しみましょう」 「……お前、元気だな」 「当たり前です」 「カイムさんと出かけられるのですよ。元気にもなります」 そう言って俺に腕を絡ませてくる。 「おい」 「ふふ」 ぺろりと舌を出す。 仕方のない奴だ。 コレットは、聖女だった頃に比べて明るくなった。 言葉遣いもくだけて、少し丁寧な町娘くらいという感じだ。 もっとも、その方が目立たなくていい。 「今日はどこに連れて行ってくれるのですか?」 「楽しいところだ」 「どんなところでしょうか」 「少し驚くかもしれない」 「それは楽しみです」 あらかじめ下調べをしておいた店を目指す。 確かこの通りの先にあるはずだ。 「……ここだ」 「ここは……酒場ですね」 「お酒を飲ませてくれるのですか?」 「いいや、昼間は飯屋をやっているんだ」 昼は飯を出し、夜は酒とつまみを出す。 どこにでもある酒場と基本的に同じだ。 「なるほど。ですが……見たところ普通のお店のようです」 その通りだった。 表から見た限り、特別なところは何もない。 「どの辺りが楽しいのでしょうか」 「入ってみればわかる」 店の中は多くの人で賑わっていた。 「いらっしゃいませ」 「あ……っ」 こちらの姿を認めて驚く。 「……ラヴィ?」 「コレット、どうしてここに……?」 「カイムさん、ここは……」 「ラヴィの働いている酒場だ。昨日調べておいた」 頭に疑問符を浮かべているコレットに教えてやる。 「そうだったのですか」 「おーい、料理はまだか?」 「あ、はい。ただいまお持ちしますっ」 こちらを気にしつつ、返事する。 「俺たちのことは気にするな。早く行け」 「はい、ありがとうございます」 ぺこりと頭を下げ、去っていった。 俺とコレットは適当な席に座る。 「驚きました。私には教えてくれなかったのに、カイムさんには教えていたのですね」 「後で文句を言わなくてはなりません」 「やめておけ」 「どうしてですか」 「俺が勝手に調べたんだ。ラヴィの後をつけてな」 「……カイムさんも随分とお暇なのですね」 「たまたま時間が空いたんだ」 「お陰でこうしてラヴィの驚く顔が見られたんだから、文句を言うな」 「まあ、構いませんが」 品書きに目を通す。 どこの店にもありそうな料理に混じって、香草を使った料理が書き加えられていた。 「この香草料理は食べたことがありません」 「頼んでみるか」 俺はラヴィを呼んで、コレットの指した料理を頼んだ。 ほどなくして料理がやってくる。 「お待たせしました。鶏肉の香草焼きと野ウサギのスープです」 「これは美味そうだな」 ラヴィが持ってきたのは、ふんわりと湯気を立てた大きな鶏肉とスープ、そしてパンだった。 「どれも温かいうちにお召し上がりください」 「素晴らしい香り……とてもおいしそうです」 「待ってろ、切り分けてやる」 肉を切り分けてやると、待ちかねたようにコレットが肉を匙ですくう。 「少し冷ましてからにしろ」 「お前、まだ熱いの苦手だろう」 ずっと冷えた潔斎料理を食べてきたからか、コレットは極度の猫舌だった。 熱いと知らずに口に運び、何度もやけどをしてきた。 「大丈夫です。これはカイムさんの食べる分ですから」 「……どういう意味だ?」 「どうぞ、カイムさん」 コレットはスプーンを俺の方に突き出してくる。 ……これを俺に食べろということか? 「おいおい、昼間から見せつけてくれるじゃないか」 「妬けるな、おい」 「いいぞ、やれやれ」 周囲の客が口々にはやし立てる。 「コレット、やめろ」 「たまには、私の好きにさせてくれてもよろしいのではないですか?」 「私たちは恋人同士なのですよ?」 「あのな……」 「コレット、カイム様が困ってます」 「いいぞラヴィ。コレットの暴走を止めてくれ」 「あら、ここのお店は客の食べ方にいちいち口出しするのですか?」 「そ、それは……申し訳ありません」 俺はがっくりと肩を落とす。 相変わらず押しに弱いな。 「そんなことを言って、ラヴィも見てみたいのでしょう?」 「カイムさんが私の手から食べるところを」 「……見てみたいです」 「そこは否定しろ」 「二人が幸せなところ、見てみたいです」 見てみたいのか。 仕方ないな。 「もっとこっちに出せ」 「え?」 「そんなに遠くちゃ食べにくい」 「食べていただけるのですか?」 俺は、コレットが近づけてきたスプーンに食らいつく。 ばくりっ 「た、食べました」 「可愛いですね」 「ほまえら、おぼへてろ」 口いっぱいに詰まった鶏肉のせいで、まともに喋れない。 「あははは」 「ふふふふ」 コレットが嬉しそうに笑う。 それは聖女だった時には見せなかった、最上の笑顔だった。 きっと、これがコレットの素顔なのだろう。 ラヴィも笑っている。 やっと、二人のあるべき姿に戻れたのかもしれない。 この世界は皆、自分が信じたいことを信じている。 なら、俺も信じたいことを信じよう。 ラヴィとコレットが、笑って暮らせる幸せな道があることを。 「今戻りました」 「ラヴィか」 「カイム様もお戻りになっていたのですね」 ラヴィは戻るとすぐに、茶の準備を始めた。 「少し待っていてください。すぐにお茶の用意をします」 「気にするな。お前だって疲れているだろ」 「いえ、大丈夫です」 「たくさんお休みをいただきましたから」 足の添え木が取れた頃から、ラヴィは何か手伝いをさせてくれと言って聞かなかった。 どうも人に世話をされていると落ち着かないらしい。 俺とコレットが無理に寝かせて世話を続けたが、いつもそわそわしていた。 怪我が完治するや否や、仕事をしたいと言い出したのもラヴィだった。 「コレットはいないのですか?」 「ああ、まだ帰ってないな」 「……ふふ、では私の勝ちみたいですね」 「仕事、見つかったのか?」 「はい」 「どんな仕事なんだ」 「……恥ずかしいので秘密でいいでしょうか」 「恥ずかしいってどんな仕事だ」 「お前、人に言えないような仕事をするつもりじゃないだろうな」 「ち、違います。そういうことではないのです……!」 激しく手を振る。 「ただ、慣れるまでは色々と失敗しそうなので……」 「落ち着いたらお教えするということで、お許しいただけないでしょうか」 「構わない」 「よかったです」 「ただ、その言葉遣いはやめろ」 「許すも許さないもない。俺はお前の主人じゃないんだ」 「……申し訳ありません」 これは当分、直りそうにないな。 ラヴィは茶を注ぎ、俺の元へ持ってきた。 聖殿で出されたものとは違い、しっかりとした味の茶だった。 「美味しいな」 「ありがとうございます」 「仕事はいつからなんだ?」 「明日からと言われました」 「そうか。じゃあ、今日はもうやることはないわけだな」 「そうですね」 「あとはお買い物と夕食の準備くらいです」 聖女のお付きをやっていただけあって、家事全般を十二分にこなす。 下層に来てしばらくは俺とコレットの持ち回りでやっていたが、ラヴィが回復してからは全て彼女がやっていた。 「前に交代でやると決めただろ」 「今日はコレットの番だ」 「ですが、コレットは遅くなりそうですし、私は他にすることがありませんから」 ラヴィはほんわりと笑う。 「だったら俺の話相手でもしろ。それがお前が今やることだ」 「でも……」 「嫌なのか?」 「とんでもないです。嫌なんて、そんなこと……」 「だったら文句言うな」 こうでも言わないと、ラヴィは倒れるまで働き続けそうだ。 「はい……ありがとうございます」 「でも、何をお話ししたらいいでしょうか」 「そうだな……ラヴィはこれから、どうするつもりなんだ?」 仕事を始めたいと言ってきた時には少し驚いた。 まさか、ラヴィからそんなことを言い出すとは思わなかったからだ。 「今まで聖職者として生きてきましたが、これからは別の方法で皆さんのお役に立っていきたいと思っています」 「それは聞いた」 「もっと具体的な話だ。ずっとコレットとここで暮らし続けるのか?」 「もしそれがお許しいただけるなら」 「コレットと二人で、一緒に頑張っていきたいと思います」 「お付きとしてではなく……家族として」 「今は、それ以上のことは考えていません」 二人には、家族のような生活が似合うだろう。 元から姉妹のような奴らだ。 ラヴィが姉の役回りだったのは想像していなかったが。 「なるほど、お前らしいな」 「いいのでしょうか」 「いいも何もない。さっき言った通り、俺はお前の主人じゃない」 「自分のことは自分で決めていい」 「それはそうなのですが……」 「この家だって、別に俺のものじゃないからな」 ルキウス卿から一時、間借りしているだけだ。 好きなだけ使っていいと言っていたから、追い出されることはないだろう。 「では、私もカイム様にお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」 「何だ?」 「カイム様は、これからどうされるおつもりですか?」 「しばらくはルキウス卿の仕事を手伝う」 「調べたいことがあるんだ」 「そうですか……」 「では、あの……お住まいや……私たちのことは……」 僅かに頬を染め、ラヴィが俺の顔を窺っている。 ああ、そっちの話だったか。 「そろそろ決めなくちゃならないか」 「崩落の時は、お前達を助けることしか考えていなかったからな」 処刑の時は、二人を助けるのに手一杯で先のことを考えていなかった。 「あの時は、本当にありがとうございました」 「私の依頼を受けていただいて、カイム様が助けて下さったから今の私たちがあります」 「このご恩は一生忘れません」 「よしてくれ。俺は自分のやりたいようにやっただけだ」 「……でも、一つだけ不思議でした」 「私が困っている時、カイム様はいつも助けてくれました」 「それは何故ですか?」 「難しい質問だな」 何故だろうか。 任せておくと失敗するのが見え見えだったからか? そう、初めはそうだった。 あまりにも愚直なラヴィに、苛立ちすら覚えていたように思う。 だが、いつの間にか放っておけなくなってしまった。 大聖堂にいたせいで、俺にも奉仕精神が芽生えてしまったのかもしれない。 「いえ、難しいのであれば無理にお答えいただかなくとも構いません」 「きっと私にはわかりませんから」 「簡単に言うなら……俺は、お前に惚れていたのかもしれないな」 多分、それが一番近い。 「……ほ、惚れて、ですか……?」 「あの、私にでしょうか」 「当たり前だ、他に誰がいる」 「それは……その、びっくりしました」 何のひねりもない感想だった。 本当に驚いているのだろう。 「まさか、そのように思って下さる殿方がいらっしゃるとは考えていなかったもので」 頬を染め、顔を真っ赤にして俯くラヴィ。 「……でも、嬉しいです」 「カイム様にそう思っていただけて」 「私も……カイム様のことを、密かにお慕いしておりました」 「そうだったのか?」 驚いた。 「コレットもカイム様のことをお慕いしていたので、私には縁のないことだと思っていたのです」 「知っていたのか」 「女同士ですから。見ていればわかります」 「ですので、カイム様のお言葉はとても嬉しいのですが……私は身を引かせていただきます」 「どうか、コレットと仲良くしてあげていただけないでしょうか」 ため息をつく。 コレットに全てを譲るつもりなのか。 ラヴィの好きにさせていたら、身を削り続けてなくなってしまうかもしれない。 「ラヴィ……俺はお前が好きなんだ」 「コレットも別に嫌いじゃないが、惚れたのはお前だ」 「……で、ですが……」 顔を赤く染めながら、涙目になる。 俺はラヴィの手を取り、体をこちらに引き寄せた。 「か、カイム様……」 「決めた。俺はこれからお前をずっと守っていく」 それが俺のやることだ。 「そ、そんな……困ります……」 「嫌ならふりほどけ。抵抗しないなら俺の好きにさせてもらうぞ」 「そんな……ひどいです……」 「何がひどい」 「……ふりほどけるわけがありません」 「私だって、カイム様のことが……好きなのです……」 涙が零れ落ちる。 濡れた頬を手の甲でぬぐい、顔を近づける。 ラヴィの柔らかい唇にキスをした。 「……あ……」 ラヴィをベッドに押し倒す。 「カイム様……いけません」 「こんなところをコレットに見られたら……大変なことになります」 顔を真っ赤に染めて俯く。 だが、ラヴィは抵抗もせずになされるがままだ。 「いけません、こんなこと……カイム様、お願いします」 「無理強いはしない」 俺の言葉に、ラヴィはうっすらと涙を浮かべる。 「……すん」 「困ります……私は一体、どうすればいいのですか……?」 「悪いな、強引な男で」 「俺に無理やり襲われたと言えばいい」 「そんな嘘は言えません」 「嘘じゃないなら問題ないだろ」 覆い被さりながら、ラヴィの腰に腕を回し、引き寄せる。 「あ……ああっ、んん……」 すでに大きく腫れ上がったペニスが、ラヴィの股間に当たる。 「ああ……いやぁ……駄目です……」 ラヴィは羞恥で耳まで赤く染まる。 しかし、口ではそう言うものの、抗う素振りはない。 「お前もして欲しいと思っているのか?」 「そんなこと……申せません」 恥ずかしそうに頬を染めるラヴィ。 「そうか」 ラヴィの顎を持ち上げ、無防備になった唇に吸い付く。 「ふっ……んん、んっ……んくっ……」 「ちゅっ……ん、んんっ」 「んぅ、ちゅるっ」 ラヴィの柔らかい唇を吸う。 「んちゅっ……んくっ、ちゅっ、ぅんっ……」 「ふぁ……ちゅっ」 最初は抵抗したものの、無駄だとわかると大人しくなった。 唇をすぼめて俺の唇を迎え入れる。 「ちゅっ、んちゅっ……んはっ、はあ……はあ……」 「嫌だったんじゃないのか?」 「……嫌です」 「その割には抵抗しないじゃないか」 ラヴィは目を逸らす。 「素直じゃないな」 「……んむっ、はっ、ちゅっ、ちゅるっ」 「ちゅっ、れるっ……ちゅるるっ、くちゅっ」 「はんんっ……ちゅくっ、んちゅっ、れるっ、ちゅっ」 ラヴィの唇を貪る。 「んくっ、んんっ……んんんっ、んぅっ、れるるっ」 舌を入れると、一瞬驚いた表情を浮かべるラヴィ。 「ふんんっ、んちゅっ、れろっ、ちゅるっ、くちゅっ、ちゅっ」 「あんっ、ちゅっ、んちゅっ……りゅっ、れるっ」 俺の舌を迎え入れ、そっと自分の舌を絡ませてくる。 慎ましい舌の動きが可愛らしい。 「んむっ、れちゅっ、ちゅっ……んくぅっ……ちゅっ、ちゅるっ、れるるっ」 「くぅんっ、れちゅっ、ちゅるるっ、んちゅっ……んんっ……」 「ん……はぁっ……」 口を離して、ラヴィを見つめる。 「どうだった」 「……こんな……こんなの……」 目を潤ませ、耳まで真っ赤にしている。 「気持ち……良かったです」 少しは素直になったようだ。 「顔が赤いぞ」 「カイム様のせいです……」 「私をこんな風にして、本当に悪い人です」 「なら、やめるか?」 「……」 俯いたまま答えない。 「どうする?」 「……嫌です。こんなところでやめるなんて……ひどすぎます」 「するなら……最後までしてください」 ラヴィは恥ずかしそうに告げる。 「いいのか?」 「私は何もわかりません。カイム様のしたいようにしてください」 自分は何もしないから、好きにしていいと。 それが精一杯の抵抗というわけだ。 「優しくする」 「はい……お願いします」 「脱がすぞ」 熱く火照ったラヴィの肢体を撫でる。 「綺麗だ」 「そんなに見ないでください」 「触っていいか」 「駄目……と言ったらやめてくれるのですか?」 「やめないな」 「では、好きにしてください」 「そうさせてもらう」 俺はラヴィの体を撫でていく。 「はっ……あ、んん……ふぅんっ……」 「はあ……はあ……あ、ん……んんっ」 脇の下から脇腹の辺り、腰を伝って太ももへ。 敏感なところを通ると、それに合わせてラヴィの体が小さく跳ねる。 「はんっ……ん、んんっ……あんっ」 「あっ……はっ、やぁんっ……くぅっ、ああっ」 お腹、下腹部を通って股の内側を撫でる。 内股に手を入れた途端、びくんとラヴィの体が反応した。 「気持ちいいか」 「カイム様の手……温かくて、気持ちいいです」 「あっ……ふんんっ、んっ……はあっ」 「んくっ……んふぅっ、ふぁっ、ああっ……」 存分になで回し、肌の感触を楽しむ。 細かく整ったラヴィの肌は、撫でているだけで気持ち良かった。 「それにしても……」 ラヴィの豊かなふくらみに目が行く。 普段は服に隠れてわからなかったものの、かなり大きな胸だ。 「……なんでしょうか?」 「いや、何でもない」 俺は体を撫でながら、手を上へと這わせていく。 そして、胸を覆った布地の中に手を滑り込ませる。 「あっ……あっあっ、やあっ……」 布地の中で、小さな突起が膨らんでいる。 俺はラヴィの乳首を指の谷間に挟んで転がしてみる。 「はぁっ、ああっ……んんっ、くぅっ、ああっ」 「くんんっ、うんっ、ううっ、んくっ……」 ぎゅっと目を瞑り、快感を堪えるラヴィ。 「ああっ、んっ、あんっ……んっ、くふぅっ」 「ふぅんっ、んんっ……はっ、ああっ……」 ラヴィは一切抵抗せず、黙って体を俺に預けている。 その健気な姿に興奮する。 「あっ……」 ぷるんっ 乳房を覆っていた布地を外すと、胸が大きく揺れる。 桃色の乳首が、つんと上を向いていた。 「ああ……恥ずかしいです……」 「綺麗だぞ」 「やぁ……」 頬を染めて顔を逸らす。 動きに合わせて、ラヴィの胸がぷるぷると震える。 俺は手で乳房を支えて、その先にある突起を口に含んだ。 「や……だ、だめで……す……あっ!」 「ああっ……ふぁっ、あっ……んんっ」 「そ、そんなことっ……」 口の中で乳首を舌で転がし、なめ回す。 「あんっ、はあぁっ……あぅっ、んんっ……」 「うぅ、んくっ、はぁんっ……はあっ、あ、ああっ……」 片方の乳首を吸いつつ、もう片方の乳首を指で挟んでもみくちゃにする。 「ああっ、はあっ……んんっ、はあぁっ」 「くぅっ……おかしく、なってしまい……そうですっ」 俺は口を離し、ラヴィの胸を解放してやる。 「はっ……はあっ……はあ……」 荒い息をつくラヴィ。 気持ち良かったのだろうか。 「はあ、はあぁ……ふあ……はぁ……」 俺は下着の奥に隠れているラヴィの秘部に手を差し入れる。 「きゃっ……そ、そこは……」 ぬちゅっ ラヴィの陰部は愛液で熱くぬかるんでいた。 ぬるぬるとした液体が、ラヴィの奥から溢れてくる。 「感じているんだな」 「そんなこと……わかりません」 「だが、濡れているぞ?」 「何となくだと思います」 無茶な言い訳だ。 俺はラヴィの愛液を指にすくい取り、糸を引く様を見せる。 「これが何となくなのか?」 「ぅ……あ……」 「……申し訳ありません」 容易く追い詰められ、〈項垂〉《うなだ》れる。 「別に怒っているわけじゃない」 「ですが……」 「ラヴィ、愛しているぞ」 「……カイム様」 「俺が好きなのはお前なんだ、気後れする必要はない」 「……ありがとうございます……」 「もう少し、正直になるよう努力してみます」 「それでいい」 俺はラヴィにキスをする。 「ん……ふっ、ちゅっ……んっ、んちゅっ……」 「好きです、カイム様」 「ああ、もっとお前の素顔を見せてくれ」 「はい」 「私を全部、見てください……」 ラヴィは下着に手をかけ、脱ぎ始めた。 「……どうでしょうか」 「綺麗だ」 「本当ですか?」 「ああ。お前を好きになってよかった」 「嬉しいです……」 ラヴィの陰部に手を伸ばす。 「ぁ……ん……んんっ……あっ」 「……あっ、んん……ふぅんっ……」 ちゅくっ 熱く濡れた陰唇の上を、指でなぞる。 「はぁっ、あんっ……ああっ、あっ、んんっ」 「くぅ……んふぅっ、はぁんっ」 びくびくと体を震わせる。 「はあぁ……くぁ……んんっ……はあぁ……ぅぅ……」 「カイム様……その、もう大丈夫ですから……」 「お願いします……」 「男女の契りがどういうものか知ってるのか?」 「それは……何となくですが」 また何となくか。 「聖職者も一応そういうことは学ぶのか」 「違います……その、私は聖職者になる前に見たことがあるんです」 「男女がどのように契りを結ぶのか」 「なるほど」 「だが、お前が知らないことがある」 「何でしょうか」 「女が初めてする時は、かなりの苦痛を伴うんだ」 「なるべく慣らしてからの方がいい」 「慣らす……ですか?」 「ういう感じだ」 ラヴィの膣内に、少しずつ指を押し入れる。 「きゃぅっ……んあっ!」 「あっ……ああっ、んんっ、くうぅっ、はあっ……」 「いやっ、入って……指が入ってますっ……んあぁっ、はあっ、んんんっ」 「こうしておけば痛みが少なくなる」 「はあ……わかりましたっ……カイム様にお任せ、しますっ」 「んくぅっ、ああっ、はあっ……あっ、んっ、ふんんっ」 ラヴィの膣が、痛いくらいに俺の指を締め付けてくる。 愛液で濡れた肉壁を押し広げるように、ぐっと力を入れる。 「んつぅっ……くぁっ、ああっ、んんっ」 わずかに顔が歪む。 「すまん、痛かったか」 「いえ……全然、平気です」 「我慢はしなくていいぞ」 「大丈夫です……これくらい何でもありません」 相手を思いやるばかりに、自分を奥に押し込めてしまう。 美徳ではあるが、こいつの場合は少し行きすぎだ。 「痛かったら言ってくれ」 「……わかりました」 きっとこいつは言わないだろう。 しかし、それならこっちで気づかってやればいい。 「あっ……んんっ、はあっ、ああっ……」 「んんっ、あくっ……はっ、あっ、ああんっ」 「ふぅんっ、んっ、んっんっ、ああっ、はあぁっ……」 ラヴィの表情を見ながら、指に力を入れる。 まだまだきついが、徐々に肉壁が柔らかくなってきた。 「はあっ……ああっ、んんっ……くんんっ」 徐々に慣れきたようで、ラヴィは甘い吐息を漏らす。 「んんっ、あっ……あああっ、んんっ、んくううぅっ」 びくん、とラヴィの体が飛び跳ねる。 人差し指を膣内に入れつつ、親指でクリトリスをこすり上げたのだ。 「あっ、ああっ、やぁっ、んんんっ、あんんっ」 「それは駄目ですっ……はあんっ、あっあっ、んあぁっ」 「やぁっ……カイム様っ、お願いしますっ……」 ラヴィが懇願してくる。 だが、俺はそのまま膣内とクリトリスを責め続ける。 「やあぁんっ……だめ、で……ふあっ……だめ、ああぁっ」 「はあぁっ、ああっ、んんっ、くぅんっ、ああっ、あっんんんっ」 「ふぁっ、いやぁっ、ああっ、やっ、んんっ、くぅんんっ」 ちゅっ、ぬりゅっ、ちゅくっ 膣内からどんどん愛液が溢れてくる。 ラヴィは首を振りながら、しかし決して抵抗しようとはしない。 されるがままだった。 「んんっ、はあぁっ……あっ、変ですっ、変になってしまいますっ」 ちゅるっ、ぐちゅっ、ずちゅっ 膣壁をこすり、クリトリスを押しつぶし、指の動きを速める。 「あああっ、やぁっ、やっ、ああっ、んんんっ、くああぁっ」 「カイム様っ、もうっ……私、だめですっ!」 「やああっ! わ、わたしっ……うあぁっ! んんっ、くああぁ……っ!」 「ああっ、あああっ、んんっ、ああああっ、んあああぁぁぁっ!!!」 ラヴィの体がぐっと反り返る。 差し入れた指がすごい力で締め上げられた。 「あああぁっ、んくっ、はぁっ、ああぁぁ……くぅ」 「はあっ……あああっ……あっ、ああっ」 「ああっ、はあっ、はあっ、はあぁっ」 体を震わせながら、喘ぐように息をするラヴィ。 「ああっ、はあっ……ああ……はあっ……」 「はあ……ん……あぁ……」 力尽きたかのように、体中から一気に力が抜ける。 「はあ……あ、ん……ふぁ……」 「いったらしいな」 「……いく……ですか?」 「頭が真っ白になってしまいました……」 「それを、いくと言うんだ」 「知りませんでした……どこに行ってしまうのでしょう」 少しぼけたところもまた可愛い。 「可愛い奴だ」 「可愛い、ですか……?」 「今すぐにでも襲いたいくらいだ」 「……ふふっ、お願いします」 「ああ……」 ラヴィの陰部は、溢れ出した愛液でべたべただった。 愛液はラヴィの尻を伝って、ベッドの敷布にしみを作っている。 「すごいな……」 「……私、何かおかしいですか……?」 「随分濡れている」 「それは、カイム様が触ったからです……」 「俺のせいにするのか?」 「いえ、その……気持ち良くて、出てしまいました」 赤面しつつ、小さな声で言う。 その仕草が可愛らしくて、ペニスがまた一段と大きくなる。 俺のものはズボンの中でぱんぱんに膨れ上がっていた。 「あの、カイム様」 「その……すごく苦しそうです」 俺の股間を見つめながら、そんなことを言う。 「出していいか?」 「はい」 俺はボタンを外し、怒張した肉棒を表に出した。 狭苦しいところからやっと解放され、ペニスがびくびくと脈を打つ。 「……あ、暴れてます」 「お前の身体が綺麗だからだ」 「嬉しいです」 「それが……私の中に入るのですね」 「怖いか?」 「いえ、覚悟できています」 薄く微笑む。 「最初は痛いかもしれないが、少し我慢してくれ」 「はい、大丈夫です」 俺は肉棒をラヴィの濡れた陰唇に当てる。 「あっ……」 膣口を押し広げながら、徐々に膣内へと進入していく。 「ああっ! ぅああぁぁぁ……んんっ」 「ああっ……んんっ、は、あっ……」 締め上げてくる肉壁を押し分けながら、挿入する。 「あっ、んんっ、あああっ、あんんっ」 一番太いカリ首が、膣内に収まる。 さらに奥へと押し込む。 「あああっ、つぁっ、んんんっ……うんんっ」 ラヴィの顔が苦痛で歪む。 痛いだろうに、ラヴィは一切言葉には出さない。 「大丈夫か?」 「ああっ……はぁっ……くぅっ……っ」 「はい……平気です……」 「羽を切った時に比べれば、これくらい大したことはありません」 何と比較をしているんだ……。 我慢強いというか、健気というか。 「……わかった。もう少し我慢しろ」 「はい、来てください」 ぐっと亀頭を押し込む。 「きゃっ……く、うあぁぁぁ……っ」 「ああっ、くうぅっ……はあぁっ」 何かに遮られるような感触。 さらに力を入れ、ペニスを奥へと突き入れた。 「ああああっっ!!」 「あああっ、んんんっ、ううぅっ、ああああっ」 「はくっ、んううっ、ああっ、はあっ」 唇を噛んで、声を堪えるラヴィ。 「よく我慢したな。全部入ったぞ」 「はあっ……ああ、本当ですっ……カイム様が奥まで入ってます……」 「おかしな感じです……体の中に、熱いものが埋まってます」 ラヴィは結合部を感慨深げに見つめている。 膣口にはわずかに血が滲んでいた。 「すごく満たされた感じです……」 「カイム様が私を求めてくれて、とても幸せです」 「このまま、ずっとこうしていたいです」 「コレットに見つかってしまうかもしれないぞ」 「それは……困りますね」 くすりと笑う。 「動かしていいか」 「はい、カイム様も気持ち良くなってください」 俺は奥まで挿入した肉棒を少しずつ抜いていく。 「あんっ、んん、ふんんっ……うくっ、んんっ」 「はあっ、あんっ……あっ、あっ、んっ……」 肉壁が四方から圧迫してくる。 たまらなく気持ちいい。 「ん……あんっ、くっ、ああっ……」 「んんっ、やぁっ、はあぁっ」 再び膣内に押し込むと、ぎゅっと中が収縮する。 痺れるような快感が走り、我慢できなくなってくる。 「ああっ、くぅんっ……あん、あっ、んんっ……あああっ」 「んっ、あっ、ああっ、んうぅっ、んんっ」 徐々に速度を上げていく。 ラヴィに痛がっている様子はない。 「ふあああっ……ひうっ、あっ……うぁっ……あ、あっ」 「もう痛くないか?」 「んんっ、はい……大丈夫、みたいですっ……」 「ならもう少し速くするぞ」 「はい、どうぞっ……」 ちゅっ……ぬちゅっ、くちゅっ、ぬりゅっ 「ああっ、んんっ、うぁぁっ……んっ、あっ、はあんっ」 「うんっ……はぁっ、あん、あっ、あっあっ、あんっ……んくっ」 ラヴィの膣奥に突き入れる度に快感が走る。 行き止まりを突かれ、ラヴィの膣内がぎゅっと締まる。 「んあぁっ、奥っ、すごくっ、気持ち、いいですっ……」 「もっと突くぞ」 「はいっ、来てくださいっ、もっと、もっとっ」 「カイム様を……感じさせてくださいっ……」 「ふか、い……っ! ああぁ……っ! ああっ!」 突き上げられ、大きな乳房がぶるぶると揺れる。 俺はその膨らみを抱え、ぎゅっと乳首を指で押しつぶす。 「やあぁんっ、それっ、駄目ですっ」 「あああっ、はあっ、ああっ、あっ、ああっ、んんんんっ」 声が一段跳ね上がり、膣がさらに収縮する。 気持ち良くてたまらない。 「っあ……っ……か、かい、む……様っ、ああっ、だめ……っ」 「乳首、弱いのか」 「んああっ、頭がどうにか、なってしまいますっ」 「くぅっ、あああっ、んんっ、んっ、はんんっ」 「っ……なん、だか、わたしっ、ああっ、わたしっ、ああっ、ああんっ!」 「……俺もいきそうだ」 ぎゅうぎゅうと締め付けられ、我慢の限界だった。 もう幾分も持たない。 「ああっ、わたしも、いってしまいますっ……ああんっ、んんっ、あああっ」 「だめっ……んんんっ、ああっ、あっ、あっあっあっ、あああっ!」 「ああっ、いきますっ、もうっ……ああっ、んああぁぁぁぁぁっ!!」 「ひゃうぅっ……あっ、あっ、あっ、あ! ああっ! あああああぁぁぁぁぁっ!!!」 どくどくっ、びくんっ、びゅくくっ! 「う……」 直前で引き抜いた肉棒から、大量の精液が迸る。 どくっ、びゅるっ、びゅくっ、びゅるるっ 「あっ……あああっ……熱い……ああ、あっ……」 吐き出した白濁の液体はラヴィの顔まで飛んだ。 「はっ、ああっ……はあっ、はあ……」 絶頂に達し、荒い息をつくラヴィ。 上下に動くラヴィのお腹、へその辺りに精液が水たまりを作っていた。 「ああ……こんなにたくさん……」 「すまん」 俺の射精によって、ラヴィの全身がどろどろになってしまった。 「いえ……大丈夫です」 「……カイム様に気持ち良くなっていただけて嬉しいです」 ラヴィは精液にまみれながら優しく微笑む。 扇情的な光景だった。 「なあ、ラヴィ」 「何でしょうか」 「もう一度していいか」 俺の言葉に、ぱちくりと目を瞬かせる。 「あ……またしたい、ってことですね」 「そうだな」 「……最初に言いましたよね。カイム様がしたいようにしてください、って」 「カイム様にだったら、何をされてもいいです」 「ラヴィ……」 どうしてそこまで健気なんだ。 ラヴィが愛おしくてたまらなかった。 「遠慮なく行くぞ」 「はい」 既にペニスは屹立して反りかえっている。 俺は再び、ラヴィの膣内に自分のものを押し込んでいく。 ずちゅっ 「きゃあうっ……んああぁぁっ……」 「ああっ……すごい、カイム様の形が……わかりますっ」 「んくっ、はあぁっ……あぁ、奥まで、奥まで入ってくるっ……」 「あああっ、あっ……ああんっ」 根本まで肉棒を押し込む。 快感に、ラヴィの体が弓なりに反りかえった。 「ひあああっ、うぅっ……やあんっ!」 「動かすぞ」 俺は一気に亀頭まで引き抜き、同じ勢いで膣奥へ突き入れる。 激しく腰を動かし、ラヴィの中をかき回す。 「あああっ、やあっ、んっ、くぅんっ……は、激し過ぎますっ」 「あっ、あああっ、んんっ、ふあぁっ、あっあっ、はあぁっ」 「くぅっ、んんっ、やぁんっ、んああぁっ」 ラヴィの臀部に自分の腰を叩きつける。 肉棒はラヴィの膣奥までめり込み、最も深いところを小突き続ける。 「すごいですっ、ああっ、気持ち良すぎてっ……変になって、しまいますっ」 「ひぁっ、うぅっ、あああっ、んんっ、んあぁぁっ」 二回目だと言うのに、早くも出そうになってくる。 膣内の締め付けが半端じゃない。 「はあぁっ、ああああっ、カイム様っ、ああぁぁっ」 「……愛してますっ、んんっ、カイム様っ、好きですっ」 「俺もだ、ラヴィっ」 「カイムさまっ……カイ、ム様っ! あぁ……っ!」 快楽に蕩けきった顔で、俺を見つめてくる。 それがあまりに可愛くて、我を忘れる。 「あっ、あっあっ、んくぅっ、もうっ、もう駄目かもしれませんっ」 「んんんっ、あっ、いってしまいそうですっ、あああっ」 きゅうきゅうと小気味良く膣内が締まり、すぐにでも達してしまいそうだった。 「んっ、あっ、ああっ、もう我慢、できませんっ……!」 「ああっ、いきますっ、んんっ、ああああっ!」 「こんなっ、ああっ、やっ、やっ……おかしく……おかしくなっちゃうぅ……っ!」 「あ、ああ、あああっ……あああああぁぁぁぁぁぁっ!!」 「はあっ、ひぁうっ、あああっ、ああっあっあっあっ……うあっ……あああああぁぁぁぁぁぁっっ!!!」 びゅうっ、びゅくっ、びゅるるっ! びゅくっ、どくっ、どくどくっ! ラヴィの膣内がきゅうっと締まって、根本から精液が搾り取られる。 「ひゃうっ……ああっ、あ、あふっ、あああああっぁぁぁっ」 びゅるっ、びゅっ、びゅくくっ! 蠕動を繰り返すラヴィの膣内に、止めどなく白濁を吐き出す。 快楽に、目の前がちかちかと点滅する。 「はあぁっ……はあっ、はあっ……はあっ……」 「んく……はあ、はあ……んうぅ……」 ラヴィは浅い呼吸を繰り返しながら、全身を震わせる。 どくっ、びゅくっ それが肉棒を刺激し、再び精液を吐き出す。 気持ち良すぎて、声が出ない。 「ああっ、はぁっ……お腹の中、すごく熱いです……」 「いっぱい出していただいて……嬉しいです」 ラヴィが笑みを浮かべる。 幸せそうに、俺の顔をじっと見つめてくる。 「……すまん、お前を気づかってやれなかった」 「大丈夫だったか」 「はぁ、はぁっ、はあぁ……あぁ……」 「はい、カイム様にたくさん気持ち良くしていただきました」 「とても幸せです」 きゅっとラヴィの膣内が締まる。 「ぐっ……」 イったばかりの肉棒が刺激され、声が漏れる。 このままでは色々まずい。 「一旦抜くぞ」 「……抜いてしまうのですか?」 「ああ。どうした?」 「もっとカイム様と繋がっていたいです……」 それは嬉しい申し出だ。 だが、さすがにこのままでは厳しい。 「これで終わりじゃない」 「明日も明後日も、お前がしたいだけしてやる」 「だから抜かせてくれ」 「……本当ですね。約束ですよ」 「ああ」 俺は、ラヴィの中からペニスを引き抜く。 ちゅぷっ 「あ……んんっ……カイム様のがいっぱい垂れてきます……」 乳白色の液体が、次から次へと溢れてくる。 それがラヴィの破瓜の血と混ざり、薄紅色になってベッドの敷布にこぼれていく。 「ああ、敷物がこんなに……すぐに洗わないと落ちなくなってしまいます」 「気にするな」 「ですが……」 言いかけるラヴィに口づけをする。 「はん……んんっ、ちゅっ……んちゅっ」 「ちゅるっ……んくっ……はぁ……」 ラヴィを黙らせ、俺は優しく頭を撫でる。 「後で洗っておくから心配するな」 「汚れが落ちなかったら新しいのを買えばいい」 「カイム様……お気遣いありがとうございます」 「本当に、カイム様は優しいです」 「お前には特別だ」 ラヴィの頭を優しく撫でる。 「それよりラヴィ、つらいだろうが起きてくれ」 「そろそろコレットが帰ってくるぞ」 「はっ……そ、そうですねっ……」 俺はラヴィを助け起こし、もう一度口づけを交わした。 数日後、俺はラヴィを連れて家を出た。 俺達が交わった日から、ラヴィはどことなく暗かった。 理由は大体想像がついている。 「どうした?」 「いえ、何でもありません」 「暗い顔をしているぞ」 「すみません、そんなつもりではないのですが……」 仕方のない奴だ。 「それで、今日はどちらに行かれるのですか?」 「買い物だ」 「何を買うのでしょうか」 「あの、私、贈り物とかはその……」 「別に大したもんじゃない」 「いいからついてこい」 「はい……」 不安そうな顔でついてくるラヴィ。 「お前、ここ最近俺と顔を合わせようとしないな」 「どうしたんだ?」 「いえ、そんなことはありません」 「だったら俺の顔を見てみろ」 立ち止まり、ラヴィに向き直る。 「……」 ぼっと頬が赤くなり、俯いてしまう。 初々しい反応で、見ていて実に微笑ましい。 「可愛いな」 「な、何をおっしゃっているのですか……!」 「ここでキスしてもいいか」 「だ、だだ駄目に決まっています」 「だったら腕を組もう」 「カイム様……あまり困らせないでください」 「嫌ならキスするぞ」 「そんなぁ……」 「どっちがいいか選べ」 「ひどすぎます、こんなの……」 言いつつ、おずおずと腕を組むラヴィ。 耳たぶが面白いくらいに赤くなっている。 「行くか」 「……はい」 ラヴィの腕を引いて歩く。 「あの、カイム様……どうしてこんなことを……」 「お前が俺を避けるからだ」 「す、すみません……」 「嘘だから気にするな」 「……う、嘘なのですか?」 「お前はからかうと面白い」 「カイム様ひどい」 「からかいたくなるのは、お前が気に入っているからだ」 「お願いします。これ以上言わないでください」 「顔が沸騰しそうです」 顔を真っ赤にしながらついてくるラヴィ。 こうして見ていると、どんどん愛おしく思えてくる。 歩いていくと、市場が見えてきた。 「この辺りに市が立っていたんですね。知りませんでした」 近場には、もっと大きな商店が軒を連ねている。 ほとんどの買い物はそこで済んでしまうため、わざわざここまで来ることはない。 「この辺りだと思ったんだが」 「何か買いたいものがあるのですね」 「どちらかと言うと見せたいものがある、という感じだ」 「見せたいもの? 私にですか?」 「いや、違う」 ラヴィが首をかしげる。 何を言っているのかわからない、という体だった。 市場の中をどんどん進む。 あちこちから物売りの声が聞こえてくる。 「いらっしゃいまし」 「こちらのみずみずしい林檎が、今なら10個で銀貨1枚です」 と、人だかりの中から甲高い声が響いてきた。 鈴の鳴るような涼やかな響きの声に、道々の男たちが皆、振り返る。 ここだな。 「ラヴィ、しっかり腕に掴まってろ」 「わかりました」 通行人を押しのけつつ、声のする方へと向かう。 「そこのあなた、いかがですか」 「この艶を見てください。神のご加護に恵まれた証です」 「よし、それじゃ一袋もらおうか」 「ありがとうございます。銀貨1枚になります」 「俺もだ!」 「待てよ、俺が先だ」 「ふざけんな、順番だろ」 男たちが押し合い始める。 「大丈夫ですよ、なくなりませんから並んでくださいな」 コレットに微笑みかけられ、男たちはだらしなく笑い返す。 順番に銀貨を受け取り、林檎の入った袋を渡していく。 「なかなか上手くやっているじゃないか」 「はい、もう何年も売り子をしてきたようですね」 ラヴィが嬉しそうに笑う。 「お前、コレットに売り子のコツを教えたか?」 「まさか……私は売り子などしたことがありません」 「だろうな」 「ま、つまり、コレットは一人でもやっていけるってことだ」 「あ……」 ラヴィがはっとした顔をした。 「もう、罪滅ぼしをしなくてもいいんじゃないか?」 「お前は十分やったと思うし、それはコレットにも伝わっただろう」 「カイム様……」 「これ以上は、俺がとやかく言うことじゃない」 ラヴィが僅かに俯いて思案する。 「そう……そうですね……」 「ずっとあの子の面倒を見ているつもりでいましたけど、本当は私があの子から離れられなかっただけかもしれません」 独り言のように呟き、少し寂しげに笑った。 「ふう……あら?」 「カイムさんとラヴィじゃありませんか」 「精が出るな」 「ありがとうございます。この通り上手くいっています」 コレットが明るく笑う。 聖殿にいた頃の、張りつめたものを覆い隠すような笑顔ではない。 こいつも変わっていくのだ。 「楽しんでいるようで何よりだ」 「それより……今日はどんなご用件ですか?」 「これ見よがしに腕を組んだりして」 「こ、コレット、これは違うのです……!」 慌てて腕から手を離すが、もう手遅れだ。 押しの弱いラヴィのことだ、いきなり自己主張はできないだろう。 性に合わないが、ここは無理にでも話を進めておこう。 「コレット、俺はラヴィと付き合っていきたいと思っている」 「か、カイム様……」 「……それを言いにいらっしゃったのですか?」 「まあ、そうだな」 「カイムさんがそう仰るなら、私の口出しすることではありません」 「ですが、ラヴィを癪に感じるのも確かです」 「そうか」 「カイム様……」 わかっていたことだった。 ラヴィがここ数日、暗い表情をしていた理由はそれだ。 「ラヴィを許してやってくれないか」 「今の私はこの果物屋の売り子です」 「説得したいのなら、相応のやりとりがあるでしょう?」 なるほど、そう来るか。 「じゃあ、その林檎を一山もらおう」 「それだけですか?」 「だったらこの木苺も買う。これでどうだ」 「まだまだですね」 「この洋梨は少し傷が付いているのですが、こちらも合わせて買ってください」 「普段は3つで銅貨5枚ですが、今回は4枚でお譲りします」 「随分と強突張りな商売をするじゃないか」 「向こうじゃ同じ大きさの洋梨が、5つで銅貨5枚だったぞ」 「そうなのですか?」 「……カイム様、嘘はいけません」 「向こうは5つで銅貨8枚でした」 「ラヴィ、お前……」 どうしてそれをここでばらすんだ。 「ラヴィ、お手柄です」 「カイムさん、そういう嘘をつくと天罰が下りますよ」 「それは困るな」 「一緒に償います。後できちんと神に懺悔しましょう」 「そうしてください。ラヴィ、任せましたよ」 「……ありがとう、コレット」 微笑み合うラヴィとコレット。 それで何となく……二人が通じ合っているのがわかった。 結局、どこまで行ってもこいつらは一緒なんだ。 「では、林檎と木苺、それに洋梨お買い上げですね」 「締めて銀貨2枚に銅貨1枚になります」 「とんだ出費だ。そんなに持ってないぞ」 「ふふ、ここは私が出しておきます」 嬉しそうに笑うラヴィ。 俺が初めて見るラヴィの心からの笑顔だった。 やっとラヴィの素顔を見られた気がする。 今までずっと、ラヴィは自分よりコレットを優先させてきた。 それが、コレットへの贖罪であり、同時にラヴィ自身を支える〈縁〉《よすが》だったからだろう。 処刑があった日、二人は都市から身を投げた。 一度、二人は死んだのだ。 これを契機に、自らを苛むような関係は一度清算し、新しい関係を築いていけばいい。 決して不可能ではないはずだ。 人は皆、自分が信じたいことを信じている。 ならば俺も、信じたいものを信じよう。 ラヴィとコレット、そして俺たちに幸せな未来があることを。 コレットとラヴィをジークに預けて数日。 ラヴィの容態が安定するのを見届け、俺は下層に向かっていた。 システィナに呼び出されたからだ。 ルキウス卿には、先の崩落からずっとティアを保護してもらっている。 恐らくその件だろう。 聖女が死を免れたことを知る者はごく一部だ。 牢獄民は聖女の処刑に胸を撫で下ろし、再び苦難に満ちた日常生活に戻っていた。 路地には今まで以上に人が溢れている。 怪我を負っている者、 屋根を失った者、 元から存在している乞食達。 血や膿や汚物が石畳を染め、悪臭が目に滲みる。 聖女は、人の心を救えはしても、実生活に手を差し伸べることはできない。 できる人間がいるとすれば、それは── これから向かう上層で安穏と暮らしている〈人間〉《貴族》達だ。 「待たせたな」 「いえ」 システィナは俺に一瞥をくれると、待つこともなく歩き出す。 「相変わらず、つれないな」 「あなたと無駄話をする理由もありませんから」 素っ気なく言って、システィナが足を速める。 階段を昇り終えると、貴族の屋敷街は目の前だ。 〈急峻〉《きゅうしゅん》な岩山にへばりつくようにして、豪奢な建物が軒を連ねている。 少し崖が崩れれば、一巻の終わりだ。 「よくこんなところに住めるな」 「住み心地は良くありませんが、上層で暮らすことが貴族の伝統ですので」 欄干から下には、下層や牢獄の街並みが広がっている。 「なるほど……」 「貴族様は、ここから毎日下層や牢獄を見下ろしているわけだ」 「意味がわかりかねますが?」 「他意はない」 皮肉が通じる奴ではなかった。 「こちらが、ルキウス様のお屋敷です」 連れてこられたのは、貴族街の中腹に位置する屋敷だった。 周囲の屋敷は石像や植樹で威勢を顕示しているが、ルキウス卿の屋敷は飾り気がない。 もちろん、貴族の屋敷にしては、という話だが。 「カイムさん、少々よろしいでしょうか?」 「ん?」 「っっ!」 〈咄嗟〉《とっさ》に飛び〈退〉《すさ》る。 腹の前を切っ先が走り抜けた。 もらっていれば冗談では済まない。 「惜しかったな」 「……」 「……ふう」 システィナが、何事もなかったかのように剣を鞘に収める。 「どういうつもりだ」 「安心してください、もう終わりです」 「貴方の腕を試させていただきました」 「何のために」 「今後のため、です」 システィナが狙った一撃。 わずかでも反応が遅れていれば、システィナの剣は俺の身体を貫いていた。 腕試しにしては、度が過ぎている。 こいつに好かれてないのは知っているが、命を狙われる覚えはない。 一体どういうことだ。 「殺意があったように見えたが?」 「この程度で死ぬようなら、それまでの男だったということです」 「ルキウス様の……」 言いかけて言葉を切る。 「何でもありません。さ、こちらへ」 システィナが門扉を開けて俺を〈誘〉《いざな》う。 どうやら、ルキウス卿に話を聞いた方が早そうだ。 「……まあいい」 荒っぽく溜め息を吐き、システィナの後を追った。 システィナに案内され、館の一室に入る。 「よく来てくれた、カイム」 「ここへ来るのは初めてだったな」 「ああ」 促されて椅子に座る。 システィナは、部屋の隅で澄ました顔をしていた。 「機嫌が悪いようだな」 「屋敷の前で、そこの女に命を狙われた」 「何でも、腕試しらしいが」 俺の言葉に、ルキウス卿が目を細める。 「システィナ、どういうことだ?」 「腕試しを致しました」 「勝手なことをするな」 「……申し訳ありません」 折り目正しく礼をするが、内心はどうだか。 「カイム、許してくれ。怪我はなかったか?」 「ああ」 「それより、腕を試した理由を聞かせてくれ」 俺の質問を受けたシスティナは、返事をしないままルキウス卿を見た。 事情はルキウス卿もわかっているらしい。 「君に頼みたい仕事がある」 「生半可な人間には頼めないものだ」 「奇遇だな」 「こっちも、あんたに相談したいことがあったんだ」 そのために牢獄を出てここまできた。 牢獄の外で俺が頼れる人物は、今のところルキウス卿ぐらいしかいない。 「力になれるとは限らないが、私でよければ相談に乗ろう」 「君から話してくれ」 ルキウス卿に、コレットから聞かされた都市の秘密と、最近の崩落について話す。 勿論、コレットたちを助けたことは伏せておく。 「聖女は、自分の祈りが都市を浮かせているわけではないと言っていた」 「なら、何が都市を浮かせている?」 「あんたは何か知らないか」 ルキウス卿が顔の前で指を組んだ。 否定も肯定もしないところを見ると、何か知っているのだろうか。 「ある程度は知っている」 「だが、おいそれと話せるものではない」 「なら、俺に頼みたい仕事ってのを聞かせてくれ」 「報酬の詳細も含めて」 「話が早い」 ルキウス卿が小さく笑う。 「この仕事は危険なものだ」 「達成の暁には、私が言いにくいことを口にできる程度にはな」 「興味深いな」 仕事をこなせば、都市のことを教えてくれるらしい。 「ガウという女は、もちろん知っているな?」 「ああ」 ベルナドの指示で動いていた女の剣客だ。 バルシュタインの狂犬とかいう〈渾名〉《あだな》があった。 腕は立つ……恐ろしいほどに。 「なるほど、それで腕試しか」 「普通の人間では犬死にですから」 「まあ、貴方でも勝てるとは限りませんが」 わざわざ憎まれ口を叩く。 無視してルキウスと話す。 「で、ガウを倒せば、俺の知りたいことを教えてくれると?」 「私が知っている範囲でだが」 「こういう仕事は、報酬を前金と後金に分けるのが常識だ」 「先に、あんたが都市のことを知ってるってことを証明して貰わないとな」 「もっともだ」 「だが、一度聞いたら断れなくなるが?」 「話の中身による」 「与太話程度なら手を引くだけだ」 「カイム、私は君を安く使うつもりはない」 「できる限りの協力をしよう」 「気味が悪いな」 「なぜ簡単に俺を信用する?」 「君に裏切る気があるなら、もちろん考えることはある」 「例えば、ティア君のことなどだ」 「奴を人質にするつもりか?」 「裏切る気があるのなら、という話だ」 「だから、信頼に基づいて行動してくれると助かる」 「君に損をさせるつもりはない」 さすがに色々と考えている。 しかし、むしろ付き合い慣れた人種だ。 俺にとっては、ティアのように単純な人間の方が接しにくい。 「ガウの相手をするのはやぶさかじゃない」 「あんたの話が面白ければ、だが」 「では、前金分の話を聞いてもらおう」 「この都市が浮いている理由だな?」 「ああ」 「結論から言うと、私も詳しくは知らない」 「この都市の秘密は、一人の人間が掌握し、ひた隠しにしている」 「隠しているのは、執政公……ギルバルト卿だ」 以前、ルキウスから聞いた名だ。 「確か、この国の政治を取り仕切っている人間だったか」 ルキウス卿が頷く。 「この都市の機能を支えているのは、国王と貴族たちだ」 「執政公は王を補佐する立場を利用し、貴族たちを監視下に置いている」 「つまり、執政公こそが実質的にこの国を支配しているのだ」 「そいつが、都市の秘密を握ってるわけか」 「その通りだ」 「執政公は都市の秘密を、誰にも明かそうとしない」 「その謎を追及しようとした者は、例外なく排除されている」 「だから、私は秘密裏に都市の謎を探ってきた」 「ほう……成果は?」 ルキウス卿が一つ深呼吸をする。 「十数年前に起こった〈大崩落〉《グラン・フォルテ》……」 「あれは、人為的なものである可能性が高い」 「……」 身体中の血がざわめく。 あの惨劇を、作り出した人物がいる? そんなことが許されるのか。 「まさか、執政公が……」 「何らかの形で関係していることは間違いないだろう」 「執政公はこの都市を浮かせている力を調べるために、研究を続けているようだ」 「私も独自に調査を続けているが、執政公が相手では派手な行動は取れない」 「さっきも言った通り、執政公はこの件に敏感だ」 「いつなんどき、飼い犬が襲い掛かってくるかわからない」 「調査を進めるためには、番犬を黙らせる必要があるってことか」 「そうだ」 「私としては、こちらからガウを害するつもりはない」 「しかし、もしものことを考えれば、腕の立つ者が傍にいてくれた方が安心だ」 「どちらかと言えば用心棒か」 「そう考えてもらって差し支えない」 ルキウス卿の調査が進めば、ガウが襲ってくる危険が増す。 だが、俺が得られる情報も増えるだろう。 利害は一致しているということだ。 「だが、執政公が目を光らせている中で、どうやって調査を進める?」 「執政公は、専横ぶりから敵も多い」 「彼を敵視する者を集め、執政公を失脚させるための策を練っているところだ」 「場合によっては、武力に訴えることも考えている」 至極あっさりと、重大なことを打ち明けられた。 「俺があんたを売ることを考えないのか?」 「売っても都市の謎は解明されない」 「それでも良いなら、一つの選択肢だろうな」 「……」 「今の貴族たちは根本まで腐敗が広がっている」 「執政公だけではなく、彼の取り巻きの貴族たちも含めて一掃しないことには、この国に未来はない」 「国が腐敗しているという実感はないが」 「特別被災地区の有り様を見てもそう思うか?」 「あそこが『特別』なままで存在しているのは、執政公がそう決めたからだ」 「執政公が……」 じゃあ何か? 牢獄の人間が苦しみ続けてきたのは、執政公のせいだというのか。 「腐敗した貴族たちを一掃しなければ、特別被災地区は変わらない」 「しかし、武装蜂起は危険な賭けだ」 「他に方法はないのか?」 「もちろん、地道に権力の座を目指す道もあるだろう」 「だが、執政公と互角に渡り合えるようになるまでには長い時間がかかる」 「それに、彼と意見を異にする者は昇格の道がないのが実情だ」 「短時間で政権を掌握するには、武装蜂起が最も有力な一つの手段だと思っている」 ルキウス卿の言はある程度納得できるものだ。 だが…… 「で、俺にその武装蜂起へ加われと」 「最終的にはそうなるかもしれない」 「俺が乗ると思うか? 危なすぎる話だ」 「利害は一致していると考えている」 「執政公を倒さなければ、この都市の謎もわからないままになる」 「あんたの話が本当なら、という前提付きだ」 ルキウス卿が、わずかに思案する。 「ならば、今夜あるものを見せよう」 「それを見れば、私の言葉を信じてもらえるかもしれない」 「見せてもらってから判断しよう」 「わかった」 「システィナ、案内を頼んだぞ」 「かしこまりました」 システィナが〈慇懃〉《いんぎん》に礼をする。 「今のところ、私が話せるのはこんなところだ」 「調査が進まないことには、君にもより詳しい情報は提供できないだろう」 「……そうか」 ルキウス卿の話の真偽は不明だ。 だが、武装蜂起の話を出したことは評価に値する。 もし話が執政公に洩れれば、ルキウス卿も無事では済まないだろう。 俺を仲間にするための嘘であったとしても、政治的には大きな減点だ。 そう考えれば、ルキウス卿の話は信頼できるとも言えた。 逆に、ルキウス卿の話が本当だったとすれば、都市の謎は城の中にあることになる。 俺には手出しのできない世界だ。 ここで〈伝手〉《つて》を作っておかねば、謎の解明は難しくなるだろう。 「……ま、用心棒を請け負う程度には興味深い話だった」 「都市の謎に近づくためのことなら、できる限り協力する」 「悪いが、武装蜂起に協力するかは保留だ」 「今のところはそれで十分だ」 「よろしく頼む、カイム」 ルキウスが綺麗な手を差し出してくる。 握手か。 そこまで信用したわけではないが、まあ形式上のものだ。 「こちらこそ、頼む」 差し出した手を握る。 その感触に、不思議な感覚が蘇る。 まるで、心の奥から何かが剥がれ落ちるような奇妙な感じ。 ……何だ、これは。 「どうした?」 「いや、何でもない」 握った手を離す。 「そういえば」 「公の場でなければ、ルキウスと呼び捨ててもらって構わない」 「その方が君もやりやすいだろう」 ジークですら呼び捨ててきた俺は、敬称で人を呼ぶなど滅多にない。 「ルキウス卿がいいというなら、お言葉に甘えさせてもらおう」 「そうしてくれ」 「だが、そっちの副官はどう言うか」 「ルキウス様のご判断です」 「私は異論を差し挟む立場にありません」 無表情にこちらを見つめてくる。 言葉とは裏腹に、瞳の奥には冷たい炎が見えた。 「副官も呼び捨てにしてくれて構わないが」 「め、滅相もございません」 慌てて顔を伏せる。 「ふふふ、そうか」 苦笑するルキウス。 「ではルキウス、具体的な話をしよう」 「ああ、そうだな」 「俺はまず何をすればいいんだ?」 「私の部下となって、身辺警護を務めてくれ」 「それはシスティナがやってきた仕事じゃないのか」 システィナもなかなかの腕だ。 てっきりそのために彼女がいるのだと思っていたが。 「いや、身辺警護はただの名目だ」 「名目?」 「私の補佐官ということで、王城に入れるようにする」 「城内で聞き込みや調査を行い、有力な情報があれば私に報告して欲しい」 「そんなことをして大丈夫なのか?」 「むしろ、カイムにしか頼めない」 「私やシスティナは日常の政務がある上に、顔が知れ渡っている」 「城内で派手に動き回ることができないのだ」 「そういうことか」 城内で自由に動ける駒になってくれ、ということだな。 「早速、明朝から私たちと一緒に登城してもらう」 「これからしばらくの間は、私の屋敷に居を定めて欲しい」 「わかった」 「屋敷はシスティナに案内させよう」 「承知しました」 ルキウスに視線を向けられ、システィナは小さく頭を下げる。 「では、案内します」 「ああ」 ルキウスに別れを告げ、部屋を後にした。 ルキウスの邸内は外観同様質素だった。 ジークの部屋の方が、まだ飾り気がある。 途中、使用人とすれ違ったが、目も合わせず無言で頭を下げるだけだった。 貴族の屋敷というのは、もっと〈豪華絢爛〉《ごうかけんらん》なものだと思っていた。 だがここは広い割に人の気配はせず、閑散とした雰囲気だ。 「地味な生活をしているようだな」 「ルキウス様は贅沢を好まれません」 「装飾や使用人の数も、最低限で済まされています」 「倹約家か」 「必要なところに、重点的に資金を充てているだけのことです」 「貴族間のやりとりは、何かと出費がかさみますので」 「なるほど」 政変での同調者を集めるとなれば、理想や主義主張だけではどうにもならない部分はあるだろう。 「こちらがカイムさんの部屋になります」 システィナは鍵束からドアの鍵を探す。 金属の輪に、二十個以上の鍵がついていた。 廊下はまだ先に続いており、扉が連なっている。 「奥には何があるんだ?」 「物置や書庫、客室などです」 「触れて欲しくないものもありますので、立ち入りは遠慮してください」 「気をつけよう」 通された部屋は、ルキウスの部屋より豪華だった。 客が泊まる部屋には金を使っているらしい。 「当面はこの部屋を使ってください」 「身の回りのことは、召使いに任せておけば問題ありません」 至れり尽くせりだな。 小さな、鈴のような音が聞こえた。 「今、何か聞こえなかったか?」 「いえ、何も」 気のせいか。 少ない荷物を、ベッドの上に放り投げる。 「ティアはどこにいる?」 「隣の部屋です」 「面会はご自由に」 「わかった」 「夜には外出しますので、準備を整えておいてください」 「ルキウスが言っていた話か」 システィナが頷く。 「では、私はこれで」 伝えることは伝えた、とばかりシスティナは去っていく。 清々しいくらいに愛想がなかった。 「……」 外出の準備など別段必要ない。 ティアの顔でも見に行こう。 廊下の左右を見回し、様子を窺う。 人の気配はない。 隣の部屋に向かい、戸をノックしてみる。 「おいティア、いるか?」 「……カイムさん……?」 どたどたと、室内から慌てた足音した。 「カイムさんっ!!!」 「久しぶりだな」 「カイムさん……本当にカイムさんなんですね……」 「当たり前だ」 「ああ……ご無事でよかったです……」 「わたし、もう心配で心配で心配で……」 大きな目に涙が盛り上がる。 「泣くな」 「ぐすっ……ふえええぇぇ……」 そう言って頭を撫でてやると、逆に泣きだした。 やれやれだ。 「ほら、部屋に入れてくれ」 「はい……はい……はい……」 泣きながら頷くティアの背を押し、部屋に入る。 「ルキウスから何も聞いていなかったのか?」 「カイムさんがご無事というのは伺っていたのですが、やっぱり顔を見るまでは不安で」 「あの……他の皆さんはお元気ですか?」 「……」 すぐに言葉が出なかった。 俺の表情から察したのか、ティアが目を見開く。 「ヴィノレタが落ちた。メルトは……もういない」 「他の奴らは無事だ」 「……」 無言のままティアが凍り付く。 しばらくして、ぺたりと床に座り込んだ。 「う、嘘……ですよね?」 首を振る俺を見、ティアの顔から表情が消えた。 「どうしてメルトさんが……あんなに、優しかったのに」 「あんなに……あんなに……」 声を詰まらせ、床にうずくまった。 部屋に途切れ途切れの嗚咽が流れる。 慰めの言葉は持っていなかった。 どれほどの時間が過ぎたか── ティアがゆっくりと顔を上げた。 「どうして……落ちてしまったんですか……聖女様は、あんなに一生懸命祈っていたのに……」 多くの人間が行き着くところに行き着いた。 説明しなくてはならないだろうな。 呆然としているティアに、今までの経緯をかいつまんで説明する。 話しているうちに、ティアの顔には生気が戻ってきた。 「じゃあ……どうして崩落が起きたのか、わからないんですか?」 「それを知るために、いま俺は動いている」 「わたしにも、何かできないでしょうか?」 ティアの言葉には真摯な響きがあった。 「ティアが放った光は、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の直前に見た光と同じ色だった」 「もしかしたら、この都市の謎に関係があるのかもしれない」 「まずは、お前の力の正体を突きとめてくれ」 ティアがしっかりと頷く。 「カイムさんは、これからどうされるんですか?」 「明日からルキウスの補佐官として、城に行くことになった」 「え、カイムさんがですか?」 「不満か?」 「い、いえ、そういうことではないんですけど……」 「意外というか、何というか……」 「俺に城は似合わないと」 「あ、それです」 「……」 「……あ」 ティアがしまったという顔をした。 俺自身、似合うとは思っていない。 逆に、似合いたくもないと思う。 牢獄には貧困と暴力が溢れている一方で、貴族街には豊かさと清潔さが溢れている。 同じ人間でありながら、一体何が二つを分けるのか。 「まあいい、それより調子はどうだ?」 「あ、はい」 「ルキウスさんには、わたしの力についてお話ししました」 「そしたら、直接見てみたいってことになりまして……」 「一度、ルキウスさんが連れてきた羽つきさんの翼を治してみました」 「どうなった?」 「やっぱり、羽つきさんの翼が消えてなくなりました」 「ラヴィの時と同じか」 「……うーん、少し違います」 「ラヴィリアさんの時は無我夢中で、自分でも何が起こったのかよくわからなかったんですが……」 「今回は、わたしが羽を治したんだって実感がありました」 「実感?」 「背中の羽が、じーんと熱くなるような感じがしたんです」 「ルキウスさんのお話だと、わたしの羽も少し光っていたということでした」 羽が光る、か。 「ティア、羽を見せてみろ」 「え、ええと……それはちょっと」 ティアはもじもじと体を揺する。 「何を嫌がってる」 「嫌ではないんですが……その……恥ずかしいです」 「一人前のことを言うな」 ぐいとティアの襟首を引いて、背中を眺める。 「わわわっ! 見ちゃ駄目です!」 「大人しくしていろ」 ティアの手を押さえ、襟首から背中を覗き見る。 前に見たときより、少し大きくなっている気がした。 「ティア、背中に違和感ないか?」 「そういえば、少し胸の辺りが窮屈です」 「ひょっとして……胸が大きく……」 「それはない」 「断言しなくても……」 しょぼくれるティア。 「お前、羽が大きくなってるぞ」 「……え?」 ティアが、背中を見ようと首をひねる。 「自分では見えないですね」 「当たり前だ」 「痛みはないのか?」 「全然平気です」 ならいいが。 「羽つきの翼は、どうやって消しているんだ?」 「どう、と言われても……」 「あるだろ。例えば祈ったり、念じたり」 「いえ、わたしが触っただけで、黒い変な水になって消えてしまいます」 「自分の羽は消せないのか」 「触ってみたことはありますけど、その時は消えませんでした」 おかしなものだ。 やはり、ティアは他の羽つきとは違うらしい。 「でも、わたしは治らなくてもいいんです」 「他の羽つきさんを治せるってわかったんですから」 「わたしが、都市中の羽つきさんを治せば、もう羽狩りさんも仕事がなくなります」 「そうしたら、羽が生えて悲しい思いをする人たちもいなくなりますよ」 「ああ、そうだな」 それができたら、まさに天使の御子そのものだ。 コレットの言っていた通りになる。 「あの、一つご相談があるんですが」 「何だ」 「ルキウスさんが、この力はしばらく秘密にしておいた方がいいと仰ったんですが、どうしましょう?」 「その方がいいだろうな」 コレットには悪いが、ティアの力は特殊過ぎる。 公になれば、どんな影響が出るかわからない。 慎重に事を運んだ方がいいだろう。 「他には何かあったか?」 「他には……」 「あ、羽つきさんを治した夜に、夢を見たんです」 「また夢か」 ティアと出会った当初、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》のことを夢で見たとか言っていた。 「あの……続きを話してもいいでしょうか?」 おどおどとこちらを窺っている。 「構わないが、どうした?」 「だ、だってカイムさん、あの時ものすごく怒りましたから……」 「怒らないから話してみろ」 「わかりました」 神妙な顔で頷く。 「今までの夢は、何だかぼんやりしていて中身がよくわかりませんでした」 「でも、羽つきさんを治してから、だんだんはっきりと見えるようになってきたんです」 「何が見えた?」 「薄暗いところで、人が何かやってました」 「羽つきさんを治した時に出てくる黒い水みたいなものも見えました」 「出てきた人間は知ってる奴か?」 「いえ、知らないおじさん達です」 「あと、すごく綺麗な空です」 「紫っぽい光が空いっぱいに広がっていて、まるで夕焼けみたいでした」 《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》……。 ティアが蘇生したときに見た光も、《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》と同じ色だった。 何か関連性がある気がする。 だが、いかんせん情報が断片的すぎた。 「同じ光景を、何度も何度も夢に見るんです」 「変ですよね?」 「羽つきを治せる時点で、もう十分におかしい」 「それも……そうですね」 ティアが不安げな顔をする。 「ティア」 「はい?」 「嫌なら、その力は使わなくてもいいんだぞ」 「え?」 「ティアが使いたくない、というのなら無理に使う必要はない」 「ルキウスにもそう伝える」 「い、いえ、やらせてくださいっ」 ティアには珍しい、強い意志だった。 「昔から夢の中で、わたしにはすごい使命があるって言われてきました」 「きっとこの力がそうなんだと思います」 「それに、メルトさんのためにも力の正体が知りたいですから」 「そうか」 「お前がそう言うならいい」 「はい……わたし、頑張りますね」 やりたいようにやらせてみよう。 それが、都市の謎を解明することにも繋がるかもしれない。 夜── 街ごと眠りについてしまったかのような静寂。 俺とシスティナは、予定通り外に出た。 「で、どこへ行くんだ」 「下層です」 「衛兵や住民に見つからないよう、少々荒い道を使います」 「そういうのは慣れている」 「〈重畳〉《ちょうじょう》です」 システィナは音もなく走りだす。 僅かな月明かりを頼りに、俺もシスティナの後について走る。 明かりを持った衛兵が街路を巡回している。 「ここを降ります」 システィナが、欄干の外に身を投げる。 〈躊躇〉《ちゅうちょ》がない。 岩場を飛び、下にある屋敷の屋根へ静かに着地。 〈庇〉《ひさし》を足場にして難なく街路に降り立ち、無言で手招きをしてきた。 身体の研鑽は怠っていないようだ。 ……さて。 俺も、欄干の外に身を投げ出した。 「……やりますね」 「これで生きてきたんでな」 「ここは特別被災地区ではありません」 「油断のないよう」 そう言って、システィナは再び欄干から身を躍らせた。 いくつかの崖を降り、一気に下層まで降りてきた。 システィナの息は上がっていない。 「あんたのこと、少し見直した」 「ルキウス様をお守りしてきたのは私です」 「お側に取り立てられたからといって、慢心なきよう」 どうやら、こいつはルキウスの隣を奪われるのが嫌らしい。 かわいいいものだ。 「行きます」 素っ気なく言い、細い路地へと入っていく。 後を追う。 「で、これからどうするんだ」 「ここで少し待ちましょう」 システィナは物陰に隠れ、街路を見つめる。 俺もその傍に隠れる。 何を待つか知らないが、時間が解決するだろう。 俺はシスティナから離れて、街路を見守る。 馬車の音が近づいてきた。 そして、目の前を通り過ぎていく。 窓のない、黒塗りの馬車だ。 「追いましょう」 馬車が細い路地を横切り、走り去っていく。 システィナと共に後を追う。 馬車の速度は遅く、見失う心配はなかった。 「あの馬車、見たことがある」 「どちらで?」 「大聖堂だ」 「夜中に馬車が乗り付けた話をしたはずだ」 あの時はガウも御者台にいた。 今は男が一人で乗っているだけだが。 「では、同じ型のものかもしれませんね」 「ガウと何か関わりがあるのか」 「その上の執政公と関わりがあるということです」 馬車を注意深く観察する。 ゆっくりと走っているのは、鞭を入れていないからではない。 積んでいる荷が重いのだ。 証拠に馬の息はかなり荒い。 馬車が停まった。 着いたのは〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の跡地だ。 夜の闇に、闇よりも暗い下界が覗いている。 御者が車の戸を開ける。 中から何かを引き摺り出した。 重く鈍い音がした。 「……」 あの大きさ…… あの重量感…… 男は、下ろした荷物を大地の裂け目まで持って行く。 そして── 投げ捨てた。 再び馬車に戻り、次の荷を引き摺り下ろす。 「死体処理だな」 「驚きませんか」 「見慣れてる」 「……ならば」 システィナが立ち上がる。 手には小さなナイフがあった。 「っ!!」 システィナが投げたナイフが、馬に刺さった。 「お、おいっ!?」 「落ち着けっ、落ち着けっ!!」 御者が馬を取り押さえようとするが、こうなった馬は手が付けられない。 馬車が暴走する。 「ま、待てっ、止まれっ!」 「ぎゃうっ!!!」 御者が馬に蹴潰される。 それでも馬車は止まらない。 尾を引く馬のいななきを残して、下界へと吸いこまれていった。 「馬ごと落とすとは、貴族は気前がいいことだ」 「さすが、特別被災地区の方は見ているところが違いますね」 システィナが倒れている御者に近づき、首筋に指を当てた。 「死んでいます」 「こういう、雑なやり方は気に入らない」 「生きていれば話が聞けたはずだ」 「どうせ何も知らない人間です」 「それより、荷物を見てもらいましょう」 「死体だろう?」 「半分は正解です」 まだ捨てられていなかった荷物へ歩み寄る。 システィナが、ナイフで荷物の麻袋を開く。 「これは……」 息を飲む。 確かに死体だ。 しかし、普通の死体ではない。 極端に痩せ、骨と皮だけになっている。 「背中を見てください」 システィナが死体を転がす。 死体の背中には、羽がむしり取られたような大きな跡が残っていた。 「羽つきか」 「これが、防疫局に保護された者の末路です」 「何?」 脳裏に、黒羽の言葉が蘇る。 奴は、治癒院が何らかの実験施設だと言っていた。 この死体は、その実験に用いられたものだということか。 「黒羽の件の後には詳しく話しませんでしたが、つまりはこういうことです」 「治癒院は、どこぞの貴族の管轄だと言っていたな」 「ええ……執政公が管轄されています」 「保護された羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》は人体実験の材料にされているようです」 「実験で死んだ者を、こうして廃棄しているのでしょう」 「実験の中身はわかってるのか?」 システィナが首を振る。 「執政公は防疫局の運営をルキウス様に任せられました」 「ですが、治癒院の内情に関しては、一切明かそうとしません」 「わかっているのは、治癒院から、何かが王城に運び込まれているということくらいです」 「執政公は、城で何をしている?」 「わかりません」 「それを知るためには、ルキウス様が政権を握られる必要があります」 そのための政変か。 「ルキウス様は、急いでおいでです」 「確かに武装蜂起は乱暴ですが、悠長に構えていては犠牲者が増える一方」 「それも、自分が管轄している組織が保護した奴らが殺されるわけだ」 「ええ」 システィナが麻袋を閉じ、死体の顔を隠す。 「今は、防疫局の巡回を減らし、羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を見つけないようにしています」 「ですが、やはりある程度は治癒院に送らなければなりません」 「ルキウス様の叛意に気付かれては、全てが終わりです」 「賢明だ」 執政公は羽狩りを利用し、実験に使うための羽つきを集めていた。 その施設が、治癒院だ。 治癒院に忍び込んだ黒羽は、捕らえられ、牢獄にあった謎の施設に送られた。 施設はやがて火災に遭い、黒羽は牢獄に逃げ出す。 俺達が火災跡地から見つけた黒い粉。 こいつが、ベルナドの〈捌〉《さば》いていたクスリに混ぜられていた。 そして、ベルナドにクスリを提供していたのは『とある貴族』。 今までバラバラだったものが一点に集約されていく。 全ては執政公の研究だ。 こう考えれば、ルキウスの行動も納得がいく。 羽狩りの長になったことも、 分が悪かった不蝕金鎖に味方して〈風錆〉《ふうしょう》を潰したことも、 執政公の研究を妨害するためだ。 ルキウスは、本気で執政公とやり合うつもりなのかもしれない。 とすれば、昼間ルキウスから聞いた話は信憑性が増してくる。 「以前、牢獄の薬屋が持っていた施設が火災にあった」 「フィオネからの報告にあったと思うが、黒羽が捕らわれていたという場所だ」 「あそこですか……」 「施設を所有していたのは、執政公の息がかかった者です」 「通常の調べ方では、絶対に執政公の名前は出てきませんが」 「なるほど」 「火災は偶然か?」 「どうでしょうね」 否定しないということは、肯定だった。 火災も、ルキウスが一枚噛んでいたのだ。 「ルキウスは、本気で執政公とやり合うつもりらしいな」 「無論です」 「あなたは疑っているようですが、それは時間を無駄にしているだけのことです」 「疑うのは当然だ」 「ルキウスが、俺に協力を依頼する意味がわからない」 「俺一人の力でどうこうできる問題ではないだろう」 「私にもわかりません」 「本来ならば、貴方など必要ないはずなのに」 システィナが冷たい視線で俺を見る。 「ルキウス様のお心の内は、私などの想像の及ぶものではありません」 「その時が来れば、教えてくださることもあるでしょう」 「……」 この都市で何かが起きている。 しかも、人間がゴミ屑のように消費されていくようなことだ。 ルキウスは今、その何かを解明しようとしている。 ティアの力の正体や都市の秘密を知るためにも、ルキウスには積極的に協力しておいた方が良さそうだ。 とはいえ、協力は秘密の調査に限った話。 貴族間の力関係もロクに知らないまま、安易に武装蜂起へは参加できない。 もう少しルキウスの動静を観察しよう。 「そろそろ行きましょう」 「馬車が戻ってこないことに気付いて、人が来るかもしれません」 システィナは干からびた骸を抱え、混沌へと投げ入れた。 「通行証は持ってますね」 「もちろんだ」 答えつつ、王城への階段を昇っていく。 他の貴族たちの姿もちらほらと見える。 王城は〈急峻〉《きゅうしゅん》な崖の頂点にあるため、途中からは馬車ではなく徒歩だった。 「カイム、君は王城では私の補佐官だ」 「他の貴族たちの手前、部下として扱うが、我慢してくれ」 「問題ない」 「俺はこのままでいいのか?」 「問題ないだろう」 「貴族はともかく、補佐官は色々だからな」 「色々?」 「腕っ節を買われて身辺警護をしている補佐官は、服装も自由だ」 「見ればそれとわかるだろう」 なるほどな。 「居心地の悪い思いはしなくて済みそうだ」 「ですが気をつけてください」 「城内ではみだりに武器を抜いてはいけません」 「しかるべき理由がない場合、それだけで罪に問われることもあります」 「わかった」 抜いただけで罪か。 さすがは王城、厳しいようだ。 「城内の治安維持は、王家直属の近衛騎士団が担当しています」 「我々はもちろん、貴族の方々も城内では彼らに従うことになっています」 「近衛騎士団に見咎められるような行為は避けなければなりません」 「王城は王家の住む家だ」 「他人の家で無礼を働けば罪になる、それだけのことだ」 「貴方が罪に問われれば、ルキウス様の責任も追求されます」 「十分に注意してください」 軽く頷いて応える。 門衛の身分確認を滞りなく済ませ、城内に入る。 目の前に広がっていたのは広大な庭だ。 その広さに圧倒される。 草木は丹念に刈り込まれ、朝日を受けて輝いていた。 植木を整えている庭師、大きな籠を抱えて歩く召使い、そして道々談笑する貴族たち。 大聖堂は荘厳な雰囲気だったが、こちらは明るく華やかだ。 全てが眩しく綺麗で、整えられている。 牢獄とは何もかもが違った。 「ここにはどれくらいの人間がいるんだ?」 「近衛騎士団が多く駐在しているし、召使いたちも大勢いる」 「貴族たちが登城すれば、かなりの人数になるだろうな」 道理で人の気配が多いわけだ。 「見た目は美しい城だが、中身は違う」 「特に貴族たちには注意してくれ」 「皆、二枚、三枚と舌を持っている」 ルキウスが苦笑する。 赤絨毯の引かれた大広間に入った。 控えていた貴族たちは、ルキウスの姿を認めると、続々と挨拶に寄ってくる。 「私たちはこちらへ」 システィナに促され、大広間の端へと移動する。 「貴族の方は中央、補佐官は端に寄るのが慣わしです」 「貴族同士のお話を邪魔しないよう、こうして端で待つことになっています」 見ると、他にも同じように壁に沿って大広間の様子を注視している者たちがいる。 彼らも補佐官なのだろう。 「貴族たちは、これから何をするんだ?」 「定例の会議です」 「貴族方は、それぞれに役割をお持ちです」 「役割?」 「貨幣の鋳造や税の徴収、街路の管理などです」 「〈職掌〉《しょくしょう》の成果を国王に報告するため、定期的に会議を行うのです」 「朝早くから律儀なことだ」 「真面目に働いている割には、街は一向に変わらないが」 システィナは眉をひそめ、辺りを窺う。 「彼らの多くは、用意された報告書を読み上げるだけで、自分の仕事の内容すら把握していません」 「そんなことで、首にならないのか?」 「役職は基本的に世襲です」 「ですから、優秀であろうがそうでなかろうが、地位は揺るがないのです」 呆れたものだ。 「ルキウス様は、このような現状を打開したいと考えておいでです」 「そのためにも、先日ルキウス様が仰った件が重要なのです」 執政公を倒すために武装蜂起も辞さない、ということか。 改めてルキウスを見ると、次々と貴族の挨拶を受けている。 特に、比較的若い貴族に囲まれているようだ。 「ルキウス様は、下層や特別被災地区の実情をよくご存じです」 「だからこそ、ルキウス様の施策は的確で必ず良い結果を生みます」 「他の貴族方には、それが奇跡のようにも映るようですね」 まるで我がことのように語る。 「皆の者、大儀である」 一際、貫禄のある貴族が現れた。 広間じゅうの貴族が、姿勢を正し敬意を表する。 「執政公、ギルバルト卿です」 「ほう」 執政公は遠慮なく大広間の中央に進み、その場にいる者たちを〈睥睨〉《へいげい》する。 ルキウスの時とは逆に、年老いた貴族たちが我先にと執政公の元に集まっていく。 先ほどまで、貴族たちの中心にいたのはルキウスだった。 だが、今は執政公に取って代わられている。 「執政公、本日もお変わりなく」 「ルキウス卿か、先日は世話になったな」 「例の件も順調だ」 「卿の意見にはいつも助けられる」 「恐悦至極に存じます」 「そなたのお父上、ネヴィル卿のお世話になっていた頃を思い出すな」 「ネヴィル卿はご健勝でいらっしゃるか?」 「相変わらずでございます」 「お父上を大事にな」 「はい、ありがとうございます」 丁寧に礼をするルキウス。 「話によれば、新たな補佐官を登用したとのことだが」 「はい」 ルキウスがこちらに視線を投げかけてくる。 「執政公にご挨拶を」 「粗相のないように」 俺はルキウスと執政公の元へ歩み寄る。 「この者はカイムと申します」 「カイム……?」 「どこかで聞いた名だな」 「かつて、防疫局の要注意人物資料に、誤って記載されていた者です」 「取り調べをしたところ、特に問題ないことがわかりました」 「カイム、執政公にご挨拶を」 「こちらがギルバルト卿だ」 「初めてお目にかかります」 「ご紹介にあずかりました、カイムと申します」 精一杯、貴族流の言葉遣いを真似る。 執政公は、無言で俺の顔を見つめている。 「ルキウス卿と面影が似ているな」 「何か特別な縁でも?」 「いえ、特にはございません」 「そうか」 「ルキウス卿は、精力的に特別被災地区にも視察に向かわれている」 「よくよく注意して、身をお守りするのだぞ」 「全力を尽くします」 威厳に満ちた口調で告げる執政公。 俺は黙って頭を下げる。 広間に鐘の音が鳴り響いた。 「時間か。ではな」 執政公は外套を翻して去っていった。 その後ろ姿を見送る。 他の貴族たちも続々と執政公の後について会議へと向かう。 「私もこれから会議に向かう」 「後のことは任せたぞ」 「ああ」 ルキウスを見送った後、システィナの元へと戻る。 「それで、俺はこの後どうすればいい」 「ルキウス様が会議から戻られるまで、ここで待つことになります」 「私は他の補佐官と話をしてきます」 「貴方は、城内を見学してはいかがですか」 「わかった」 不案内ではいざというときに困る。 間取りの確認を含め、できる限り情報を集めておこう。 「少し歩いてくる」 「道すがらお伝えした件、忘れないでください」 「剣は抜くな、だろ」 念押ししてくるシスティナに答え、広間を後にした。 大広間を抜けて廊下に出る。 石像や緻密な絵柄の壺などが壁際に並び、扉が廊下の先まで連なっている。 さすがの広さだ。 どこから手を付けたものか迷う。 廊下を進むと、向かいから近衛兵が近づいてきた。 街中の衛兵と違い、着ている鎧も垢抜けている。 目が合うと、近衛兵が話しかけてきた。 「失礼ですが、通行証の提示をお願いします」 「ああ」 通行証を見せる。 「ルキウス様のご家来でいらっしゃいましたか」 「初めて拝見するお顔でしたので、念のための確認でした」 「今日が初登城で、いろいろと見て回っていたところだ」 ちょうどいい。 「城のことを、少し教えてくれるか?」 「私のわかる範囲でしたら何なりと」 「随分と部屋が多いが、この辺りは何に使う部屋なんだ?」 「貴族の皆様が利用される政務室です」 「奥は厨房や召使いの部屋となります」 「また階を上がれば、リシア様のお部屋ですが、特別な方以外立ち入りは禁じられております」 「リシア王女か」 王城に来る途中、ルキウスから聞いた名だ。 「病床の国王陛下に代わって、リシア王女が国政を見ていると聞いたが」 「国王陛下の容態はどうなんだ?」 「それは……」 近衛兵が言い淀んだ。 「おい、なに油を売っている」 「ヴァリアス様っ!?」 近衛兵が直立不動の姿勢を取る。 上官か。 「我々の責務は城内の平穏を保つことだ」 「立ち話をすることではあるまい、違うか?」 「申し訳ありませんっ」 「後で詰め所に来い」 「はいっ」 俺を一瞥し、男は去っていった。 「今のは?」 「近衛騎士団長、ヴァリアス・メイスナー様です」 「これから説教か……すまんな、俺のせいで」 「いえ、私の責任です」 「見苦しいところをお見せしました。それでは失礼致します」 敬礼をし、近衛兵が立ち去る。 愚痴一つこぼさなかったのは立派だ。 近衛兵という奴は、なかなか教育が行き届いているらしい。 廊下を抜けると、先ほどの庭に出ることができた。 植木の中には花壇が広がり、綺麗な花が風にそよいでいた。 穏やかな風が心地よい。 牢獄と比べると、まさに天と地の開きがある。 貴族は生まれながらにして貴族で、その地位が保証されている。 澄んだ空気を惜しみなく吸い、華美な暮らしを送り、庭園を楽しむ。 何の努力もなくだ。 「……?」 ふと、影が差す。 見上げると、純白の敷布が舞い降りてきた。 敷布が地面に落ちる前に腕で巻き上げる。 どこから降ってきたんだ? 「おーい!」 屋敷の屋上で誰かが手を振っていた。 服装から見るに、召使いのようだ。 俺を見て、自分を指さしたり上を指さしたりと、合図を送ってきている。 どうやら、敷布を持ってきてほしいようだ。 ついでに何か話が聞けるかもしれないな。 何とか屋上まで上がってくると、小さな召使いが待っていた。 「大儀であった!」 大儀? いかれた召使いだ。 「落とし物だ」 「うむ、よく持ってきてくれた」 敷布を受け取り、召使いは満足そうに頷いた。 「お前、見ない顔だな。名を申せ」 「カイムだ」 「カイム……知らぬな」 「今日初めて登城した、知るわけがない」 「なるほど、そうか」 風が屋上を撫でていく。 広大な屋上には無数の物干し竿が並べられ、沢山の衣類や敷布が干されていた。 陽光を浴びる敷布の白さが眩しい。 「ここは?」 「見てわからんのか?」 「洗濯物を干す場所だ」 だろうな。 多くの白布が風にさらわれて泳いでいる。 純白の布。 牢獄において、それは富の象徴とも言えた。 「洗濯物が珍しいのか?」 召使いが怪訝な顔をする。 「いや、牢獄ではこんなに白い布は見たことがないんでな」 「牢獄!?」 「お前、牢獄を知っているのか!!」 突然、跳ね上がるような声を出した。 「牢獄出身だ」 「ほう……」 召使いが小さく笑う。 「お前、私に牢獄のことを教えてくれないか」 牢獄に興味があるのか。 変な女だ。 「お前、召使いのくせに言葉遣いが荒いぞ」 「よく王城で働けるものだな」 「なんだと?」 きょとんとした顔をする。 「私は召使いなのか?」 「召使いじゃなきゃ何だと言うんだ」 「くっ……くくく、いや、そうか」 「ああそうだ、私は召使いだ」 「どう見てもな」 小さな召使いは嬉しそうに笑う。 「お前、頭大丈夫か?」 「いや、すまん」 「私は下級貴族の末娘でな、どうも礼儀作法が身についておらんのだ」 「許せ」 召使いは頭を下げる。 「まあいい、俺も元は牢獄民だ」 「堅苦しい言葉遣いは慣れていない」 「気が合うな」 よくわからないが楽しそうだ。 面倒なのに関わってしまった。 「お前は、下層にも行ったことがあるのか?」 「牢獄から下層、大聖堂から貴族の屋敷、果てはこの王城まで、一通り行ったな」 「ではその話を聞かせてくれ」 「なぜお前に?」 「頼む、お願いだっ」 意味がわからない。 仕方なく、それなりのことを話してやる。 小さな召使いは心底楽しそうに話を聞いていた。 一際強い風が辺りを薙ぐ。 話が一段落して、召使いはふと大空を仰いだ。 「お前はいいな」 「風のように飛び回ることができて」 「私もこの風のように、自由に飛んで回ってみたいものだ」 召使いが遠い目をする。 「お前は自由がないのか?」 「ここから出たことがほとんどない」 「下級貴族の娘じゃなかったのか?」 「あ、いや、上層から出たことがないということだ」 慌てて否定する。 嘘を吐いているのだろうが、詮索するのも面倒だ。 「風も風で大変だ」 「止まれば風じゃなくなる」 「一所に留まることができないのは、それはそれで大変なものだ」 「お前、面白いことを言うな」 「うん、確かにそうだ」 召使いが感心したように頷く。 俺は欄干から下を見下ろす。 「何にせよ、牢獄なんて、女が行って楽しいところじゃない」 「あんたには、そこの庭の花の方がお似合いだろう」 「花は好きではない」 「蜂にでも刺されたか?」 「そんなところだと思ってくれ」 召使いが寂しそうに笑う。 「さて、俺は戻る」 「お前は、誰の配下だ?」 「ルキウス卿の補佐官だ」 「なるほど、わかった」 召使いが、思案しながら頷いた。 「じゃあな」 召使いに別れを告げる。 「待て、カイム」 「何だ?」 「お前、これからも城に来るのか?」 「恐らくは」 「うん、そうか」 「お前は面白い奴だ。気に入った」 「再会を期待しているぞ」 召使いは胸を張り、尊大な態度で別れを告げてくる。 「ああ、またな」 「次までに、もう少し言葉遣いを覚えておけ」 「はははは、そうしよう」 何なんだ、こいつは。 大広間に戻ってきた。 近衛兵が慌ただしく歩き回り、補佐官たちが落ち着かない顔でその様子を見守っている。 システィナの元に戻り、声をかける。 「何かあったのか?」 「リシア様がいらっしゃらず、会議が止まっているのです」 「先ほどから近衛騎士団が探しているようですが」 「王女も会議に出るのか」 「リシア様は年少のため、執政公がほぼ全ての政務を代行しています」 「ですが、最終的には国王陛下の代理であるリシア様の裁決が必要なのです」 「しかし、王女は会議に出席せずに裁決を下すのか?」 「裁決といっても、執政公の発言に頷くだけのことです」 まるっきり操り人形だ。 執政公の姿が大筋見えてきた。 病床の現国王と、その代理人である年少の王女。 執政公は、王女の補佐役としての立場を利用し実質的に政治を支配している。 組織の大小を問わず、珍しくない話だ。 執政公が会議室から出てきた。 「誰かリシア様をお見かけしたものはおらぬか」 しんとする大広間。 そこに、足音も高く鎧姿の男が現れる。 「執政公、リシア様はただいまお支度中です」 「間もなくおいでになるかと存じます」 「婿殿か」 「お待たせして申し訳ございません」 ヴァリアスは執政公に向かって頭を下げる。 「気にすることはない」 「貴殿の並々ならぬご苦労は、皆も察するところだ」 執政公の言葉に、補佐官たちからも失笑が漏れる。 「笑うところなのか?」 「リシア様の出奔は度々のことなのです」 「で、ヴァリアスってのがいつも捜索すると」 システィナが頷く。 「婿殿というのは?」 「ヴァリアス殿は、執政公の娘婿です」 「政治的な意図で?」 「もちろん」 執政公は、城内の治安を預かる近衛騎士団長の長を、娘婿にしていると。 なかなか周到だ。 「リシア様の御成です!」 その言葉と共に、ざっと補佐官たちが片膝を折ってしゃがみ込む。 俺もそれに倣い、膝を折って頭を下げる。 静まりかえった大広間に、大理石を叩く小さな音が近づいてくる。 ようやくのお出ましか。 足音は会議室に向かう。 と思いきや、王女の足音はこちらに近づいて来た。 「お前」 「黒衣で短剣下げているお前だ」 俺のことか? 「面を上げろ」 促され、俺はゆっくりと顔を上げる。 「先ほどは世話になったな」 「っ!」 声が出ない。 そんな俺を、召使いの女……いや、王女はさも面白そうに見ている。 「その者がどうか致しましたか」 「いや、大したことではない」 「先ほど、ちょっとした無礼を働かれたものでな」 大広間に集まっている者たちが一斉にざわめく。 「貴様、何をした」 誤魔化しても仕方がない。 「召使いだと思い、礼を失しました」 「なるほど」 俺に向けられる視線は冷たいままだ。 まずいな。 「申し訳ございません」 「この者は本日より登城を許された新参者にて、平にご容赦のほどを」 システィナが割って入り、深々と頭を下げる。 「さて、どうしたものか」 小さく笑うリシア王女。 「申し訳ございませんでした」 「王女とは知らず、ご無礼を働いたことお詫び致します」 深く頭を下げる。 「よい、さして気にしておらん」 「不問に付そう」 「ありがとうございます」 助かった。 「恐れながらリシア様、それでは示しが付きませぬ」 「何らかの処罰は必要かと思いますが」 「ヴァリアス、誰がお前に意見を求めた?」 「私は国王陛下に仕える身」 「国王陛下のご意思に反することは、たとえリシア様であっても申さねばなりません」 リシア王女とヴァリアス、二人が〈睨〉《にら》み合う。 「……わかった。この者には相応の罰を与えよう」 「ただし、処罰の内容は私が決める」 「それは譲れんぞ」 「承知致しました」 ヴァリアスはリシア王女に頭を下げる。 「カイム、お前には追って沙汰を伝えよう」 それだけ言い残し、リシア王女は足早に会議室へと向かっていった。 その後をヴァリアスと執政公が追う。 リシア王女たちがいなくなると、大広間のざわめきは一層大きくなった。 「説明を求めます」 システィナから刺すような目で〈睨〉《にら》まれる。 「つまらん話だ」 屋上での出来事をかいつまんで説明する。 「貴方に、大切なことを伝えるのを忘れていました」 「私の失態です」 「どういうことだ?」 システィナが深いため息をつく。 「リシア様は、時々召使いに扮して遊ばれるのです」 「掃除や洗濯、果ては料理までご自分でなさろうとします」 「なぜそんなことを」 「下々の人間の生活を知りたいとのことですが」 「洗濯などしてもわからないだろう」 「私に言われても困ります」 「王家の人間は皆そうなのか?」 「まさか、リシア様は特別です」 「ヴァリアス殿が再三注意されているのですが、リシア様のお戯れは収まりません」 「皆、苦慮しているのです」 「なるほど、事情はよくわかった」 「すみません、失念していました」 システィナは眉根を寄せる。 「しかし、由々しき事態です」 「ルキウス様の部下がリシア様に失礼を働いた、ということは城中の人間が知るところになるでしょう」 「そうなれば、様々な影響が出ることは間違いありません」 言われなくてもわかる。 「だからこのような者をお抱えするのは反対したのに」 「事故だ」 「わかっています」 〈憤懣〉《ふんまん》やるかたない、とばかりに不機嫌な顔を向けてくる。 「今さらどうこう騒いでも仕方ない」 「罰と言っても、さすがに処刑はされないだろう?」 「恐らくは」 「ヴァリアス様であれば厳罰もあり得ますが、リシア様が裁断を下されるようですから」 鞭打ち程度で済めばいいが。 「ヴァリアス様は厳しい方です」 「もし今後があれば、言動には注意してください」 「執政公の娘婿というのは聞いたが、どういう人間なんだ?」 「若くして国王陛下に取り立てられ、近衛騎士団長になったお方です」 「性格は公平無私で勇猛果敢、団長となった今でも未だに誰にも劣らぬ剣の腕前だとか」 「情にも厚く、部下からは大きな信頼を寄せられているようですね」 「なるほど」 「国王陛下より、リシア様の教育を任されていたという話もあります」 「そのため、リシア様には人一倍厳しいですね」 「リシア王女の悪癖には手を焼いてそうだな」 「何度言われてもおやめにならないのですから、そうなのでしょう」 リシア王女は、かなり変わった人間だった。 王城では異端でも、俺にとっては付き合いやすいかもしれない。 「ルキウス様は、リシア様に深く興味を持たれています」 「今後のことを考えて、という意味ですが」 システィナが意味ありげな視線を送ってくる。 ルキウスは、リシア王女を味方に引き入れたいのだろう。 リシア王女が味方にいれば、武装蜂起も意味が変わってくる。 「ですが、それには問題もあります」 「リシア様とヴァリアス様の関係は、ご覧の通りです」 「二人を同時に味方にするのは難しいということか」 「はい」 「近衛騎士団は非常に大きな力を持っています」 「あの方を敵に回すのは、得策ではありません」 ルキウスとしては、リシア王女を味方にしたいが、ヴァリアスを敵に回したくない。 だがヴァリアスは執政公の娘婿で、おまけにリシア王女と仲が悪い。 リシア王女を引き入れると、ヴァリアスは敵に回る可能性が高い。 「面倒だな」 「ええ、本当に」 システィナは、浮かない顔で会議室の扉を見つめていた。 会議が終わったのか、貴族たちが続々と会議室から出てきた。 皆、憐れみと〈嘲〉《あざけ》りをない交ぜにしたような、曖昧な視線を俺に送ってくる。 「注目されているな」 「きっと会議の場で、あなたのことが話題に上がったのでしょう」 「寛大な処置をお願いしたいものだ」 立場上、腹を括るより他はない。 「災難だったな」 執政公が近づいてきた。 「いえ、私の不注意が招いた事態」 「どんな処罰も受ける覚悟でございます」 「よい覚悟だ」 「君のような部下を持たれたルキウス卿が羨ましい」 「だが、王城には思わぬ形で魔が潜んでいる」 「気をつけることだ」 それだけ言って去っていく。 励ましてくれたのか、出過ぎた真似をしないよう釘を刺してきたのか。 判断しかねるところだ。 俺が城に来た目的に気付いている可能性もある。 執政公が大広間を後にすると、他の貴族たちもそれぞれ部下を連れて退出していく。 ヴァリアスも会議室から出てきた。 俺を一瞥し、無言で去っていく。 その鋭い眼光は、長年鍛えられた武人の瞳だった。 気付くと、大広間には俺とシスティナだけが残されていた。 会議室に残っているのはルキウスとリシア王女だけだろう。 「出てきたな」 ルキウスがこちらに近づいてくる。 「カイム、リシア様がお呼びだ。一緒に来い」 「ルキウス様、私は……」 「心配ない」 「副官はここで待っていてくれ」 「は、はい」 いよいよ、裁断が下るか。 軽い処罰で済めばいいが。 俺はルキウスに連れられ、会議室へと向かった。 「カイムを連れて参りました」 大きな机の一番上席に、リシア王女の姿がある。 「うむ」 ルキウスとリシア王女の表情には余裕がある。 「今より、お前の処罰を申し渡す」 「覚悟はよいか?」 リシア王女はどこか芝居がかった口調で俺に告げてくる。 「いかなる処罰もお受け致します」 「よかろう」 リシア王女は満足げに頷く。 「私に無礼を働いた罰として、明日からお前は、私に牢獄の情報を提供するように」 「明朝より、登城したらまず私の部屋に来い」 何だと? 「良いな、ルキウス」 「御意のままに」 「話は以上だ」 リシア王女はそう告げると、さっさと部屋から出て行った。 拍子が抜けた。 つまり俺は、リシア王女に牢獄の話をすればいいのか? 「会議の場でお前の話が出たのだ」 「今回の件は、王女と知らぬ者に無礼を働かれただけのこと」 「そのくらいで罰していてはいくら鞭があっても足りない、と冗談を仰ってな」 「それで場が和み、リシア様の裁量で適当な罰を申し渡すことになったのだ」 「もっとも、ヴァリアス殿は面白くなさそうな顔をしておられたが」 「それが話し相手か?」 「いい罰だろう」 「あんたとしては好都合だろうな」 「その通りだ」 「リシア様は、特別被災地区や下層に詳しいお前に興味を持っておられる」 「良い話を考え、リシア様の信任を得られるようにしてくれ」 「……王女に嵌められたか」 牢獄に詳しい俺から、どうしても話が聞きたかったのだろう。 「そう言うな」 「リシア様に近づくことは特別被災地区のためにもなる」 「リシア様が特別被災地区の現状をお知りになれば、救済をご指示されるかもしれない」 「あんたは、今まで牢獄のことを教えなかったのか?」 「勿論お伝えしたことはある」 「だが、最後は執政公がリシア様を丸め込んでしまうのだ」 「お陰で、私は無類の心配性だということにされてしまった」 「あんたでも執政公には敵わないか」 「悔しいがその通りだ」 「しかし、お前が特別被災地区の現状と執政公の姿を説いてくれれば風向きが変わるかもしれない」 リシア王女が俺の話に理解を示してくれれば、牢獄の現状を変えられる。 それは確かに面白そうな話だ。 「それに、リシア様がお前を信頼すれば都市が浮いている謎にも近づくことができる」 「俺とあんた、二人の目的に適っているというわけか」 「そういうことだ」 「頼むぞ、カイム」 個人的感情は置いておいて、ルキウスの言っていることは正しい。 「何にせよ、選択の余地はない」 怪我の功名とでも思っておこう。 「こちらがリシア様のお部屋になります」 「助かった」 「いえ、それでは」 リシア王女の部屋の前までやってきた。 昨日ルキウスが言っていた通り、理には適っているものの気乗りはしない。 「誰だ」 「カイムです、ただいま参りました」 「入っていいぞ」 「……」 扉を半開きにしたまま固まる。 リシア王女が肌も露わに着替えをしていた。 綺麗で滑らかな肌が目に焼き付く。 「そこに座って待っていてくれ」 一体、何がしたいんだ。 俺に裸を見せて、新たなゆすりの種にでもするつもりか? 「何をしている、早く入ってこい」 「こちらでお待ちしております」 「着替えが終わりましたら、お声をおかけください」 「いいから入れ、命令だ」 何を言っているんだ、こいつは。 「何を〈躊躇〉《ためら》っている?」 「おかしな奴だな」 怪訝な顔をしながら、下着姿であちこちを歩き回るリシア王女。 女の下着姿など娼館でいくらでも見てきたが、これとそれとはわけが違う。 「さて、今日は何を着るかな」 「お前たち、何がいいと思う?」 「お好きなものをお召し下さいませ」 「ふん……」 リシア王女は鼻を鳴らす。 「そうだ、カイム」 「お前は何を着たらいいと思う」 「普段通りの格好でお願いします」 召使いの服は、もうたくさんだ。 「つまらんな」 「せっかく来たんだ。もっと面白いことを言え」 無茶苦茶だ。 「恐れながらリシア王女、私はあなた様の普段のお姿を拝見したことがございません」 「初めは何事も基本からと申します」 「それもそうだな」 「なら今日はいつも通りにしよう」 納得したのか、リシア王女は召使いたちに着替えを申しつける。 「うむ、ご苦労」 「お前たちは下がってよいぞ」 召使いたちは、脱ぎ散らかした衣類を片付けて出て行こうとする。 「ちょっといいか」 召使いの一人に、小声で話しかける。 「着替えを見たことは、処罰の対象になるのか?」 「……ああ……」 「ご心配には及びません」 少し考えて、召使いが答える。 「私たちは、お着替えからご入浴に至るまで常にリシア様に従っております」 「リシア様にとっては、下々の者にお体を見せるのは恥ずかしいことではないのです」 「俺は男だが」 「リシア様にとっては同じなのでございましょう」 「下々の者で、ひとくくりか」 「そういうことでございます」 「何をごちゃごちゃと話している」 リシア王女に〈睨〉《にら》まれる。 「それでは失礼致します」 召使いたちは会釈をして去っていった。 「カイム、近くに来てくれ」 「はい」 俺は片膝をつき、リシア王女に頭を下げる。 「気に入らないな」 「何かお気に障りましたか?」 「お前のその口の利き方だ」 何故か機嫌を損ねてしまったようだ。 とりあえず謝っておこう。 「申し訳ございません」 「牢獄出身なので、丁寧な言葉遣いができません」 「平にご容赦ください」 「違う、そうではない」 「私が召使いに扮していた時は、もっと普通の話し方をしていただろう」 「あれにしてくれ」 「ですが、あれはリシア様を王女と知らずに使っていただけのことで」 「私は、牢獄風の言葉を聞きたいのだ」 「ご命令ですか」 「そうだ」 リシア王女は口の端を歪める。 「……わかった、命令ならそうさせてもらう」 「これでいいんだな」 「うん、お前はその方がいい」 リシア王女は満足そうに微笑む。 「ついでに、私のことはリシア王女ではなく、リシアと呼んでくれ」 「そちらの方が親しみやすいだろう」 「他の奴に聞かれれば、俺が罰されることになるんだが」 「私が許可したのだ、心配ない」 あっさりと言う。 「周りの者は皆、礼儀だ作法だとうるさくてな、堅苦しくてかなわんのだ」 「私はもっと親身になってくれる人間が傍に欲しい」 身勝手な話だ。 「だったら言わせてもらうが」 「どうして昨日、俺が話しかけたときに王女であることを告げなかった?」 「教えてくれれば無礼なんて働かなかった」 「人を脅して言うことを聞かせるようなやり方は不愉快だぞ」 「すまない、許してくれ」 リシアは素直に頭を下げる。 「どうしても、お前と話がしたかった」 「ヴァリアスからあんな横槍が入るとは思っていなかったのだ」 何らかの処罰は必要、と言ったことか。 「皆の手前、罰という形を取らざるを得なかった」 「強引な方法を取ったことについてはこの通り謝る」 「どうか許して欲しい」 拍子抜けしてしまう。 素直に謝られては、許すより他ない。 「はあ……もういい」 「そうか、ありがとう」 にこりと微笑む。 人並みに可愛い笑顔だ。 「それで、俺は何を話したらいい?」 「私は将来、父上のように立派な王になりたいのだ」 「父上は、いつも私に『王はすべての国民の父である』と教えてくれていた」 王はすべての国民の父、か。 いい教えだ。 もっとも、今はその教えが守られている状況とは言い難いが。 「私は国民のことをよく知りたい」 「そうすれば父上にも近づけると思っている」 「しかし、城には下層や牢獄に詳しい者はあまりいないのだ」 「昨日、屋上で私に牢獄の話をしてくれただろう? またああいう話を聞かせて欲しい」 「必要なら、それ相応の礼もしよう」 金には困っていない。 今、欲しいのは他のものだ。 「礼はいい」 「欲のない奴だ」 「その代わり、王家やこの城の話を聞かせてくれ」 「来たばかりで何も知らないんだ」 「この城のことなら何でも知っている。いくらでも話してやろう」 「ただし、あまり面白くはないと思うがな」 「構わない」 「それじゃ、改めてよろしく頼む」 「ああ」 「よろしくな、カイム」 俺は昨日と同じように、下層や牢獄についておもしろ可笑しく話してやった。 酒場での珍事や商人の失敗談、芸人の見せ物など、酒を飲みながら話す馬鹿話の類だ。 「お前は話をするのが上手いな」 「なら良かった」 俺より話し上手な人間なんて山ほどいる。 今まで俺のような話し相手がいなかったから、そう思うだけだろう。 「お前の言っていた芸人は一度見てみたいな」 「城に呼べばいい」 「そうしたいのは山々だが、ヴァリアスが許さんだろうな」 「あいつの頭は石より固いのだ」 「だから強いんだろう」 「石頭だけにか」 俺は肩をすくめる。 その仕草に、リシアはくすりと笑う。 「お前の話によれば、下層や牢獄はとても楽しい場所のようだ」 「執政公たちが上手く国を回しているお陰だな」 誤解している。 俺は、楽しい話だけを選んで聞かせただけだ。 「どうかな」 「違うのか?」 「この前、牢獄で崩落があったのは知っているか?」 「ああ、執政公がそんなことを言っていたな」 「崩落のせいで、多くの住民が下界に落ちたし、街もかなり損害を受けた」 「復旧には、まだ時間はかかるだろう」 「そうなのか?」 「お前、何も知らないんだな」 これで一国の王女だというのだから呆れる。 牢獄を出て下層に上がってくる時、俺は牢獄のあちこちを見て回った。 一部では復旧が進んでいたが、多くの場所は牢獄ができた頃と同じように荒廃していた。 「そ、そんなことはない」 「復旧のための支援は十分に施していると執政公は言っていたぞ」 「ルキウスが補給物資を送ってくれているが、全く足りていない」 「今も住居をなくした大勢の牢獄民が、着の身着のままで暮らしている」 「そんなはずはないだろう」 「十分な量の支援物資を牢獄へ送っているはずだ」 「それなら牢獄が今も貧困で喘いでいるのはなぜだ?」 「お前は牢獄の現状を知らなさ過ぎる」 「……」 リシアは押し黙ってしまう。 「少し前に聖女の処刑が行われたが、聖教会への不信感は根強い」 「二度同じことがあれば、三度目を疑うのも無理はないだろう?」 「このままだといつか住民の不満が爆発するぞ」 「聖教会の話は王家のあずかり知らぬところだ」 「聖教会の問題は聖教会に解決してもらうしかない」 「お前な」 ため息が出る。 「国を治める者がそれでいいのか?」 「聖女はこの都市への奉仕者だ」 「そもそも、聖教会を経済的に支えているのは王家でもある」 「住民の不安くらい解消してもらわねば困る」 リシアの言葉には、聖女を敬っている様子がまるでない。 むしろ、下の存在として見ているようだ。 まさか…… 「お前は、聖女が都市を浮かせてないことを知っているのか?」 「どうしてそれをっ」 リシアは驚愕の表情を浮かべる。 「聖女のことは、王家の人間と執政公しか知らないはずだぞ」 「どこでそのことを知った?」 「前の聖女と知り合うきっかけがあってな」 「彼女から直接、自分は都市を浮かせていないと告白を受けた」 「そうか……」 ルキウスも知っていることはまだ伏せておく。 リシアがどこまで信用できる人間なのか、まだわからないからだ。 「その聖女も先日、処刑された」 「自分は都市を浮かせていないと知りながらな」 「こんなことをいつまで続けるつもりだ?」 だが、再び崩落があれば新たな聖女が犠牲になる。 さすがに今度は助ける義理もない。 「そこまで知っているなら、隠しても仕方あるまい」 リシアは嘆息する。 「安心しろ、崩落の再発については対策を進めている」 「今、執政公は崩落を食い止めるための研究をしているらしい」 「らしい?」 「いや、執政公がそう言っていたのだ」 自分の目で確認してはいないようだ。 「具体的な研究の中身は?」 「この都市を救うための研究だ」 「父上が始めたもので、病気の父上に代わって執政公が研究を続けている」 「だから、具体的な内容を訊いてる」 「私にもよくわからない」 「わからない? 王女のくせにか?」 「い、今ここで言うことはできないだけだ」 「父上の始めた大切な研究だからな、邪魔が入っては困る」 言い訳にしか聞こえない。 本当は何も知らないのではないか。 「羽狩りについては知っているか」 「もちろんだ」 「羽狩りの目的は?」 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を治癒院に送り、治療するためだ」 「執政公は、都市を救うことにも繋がると言っていたぞ」 話を聞いていると、リシアの知識はほとんどが執政公からの伝聞だ。 執政公に操られているというのは本当らしいな。 「研究のことを、国王陛下は何て言ってる?」 「上手く進めてくれ、とのことらしい」 「らしい? また聞いた話か」 「仕方ないのだ」 「父上の病気は伝染するらしく、面会は限られた者のみ許されている」 都合のいい病気だ。 病気自体を疑う必要も出てきた。 「私が父上に会えないのは、他ならぬ父上自身がそうお決めになったからだ」 「父上は私のことを第一に案じてくれる」 「それも執政公の受け売りか?」 「違うっ」 「父上は国王として、父として私の理想のお方なのだ」 リシアが強く反論してくる。 面倒すぎて頭痛がしてきた。 ジークなら卓を蹴り倒していることだろう。 「わかったわかった」 「いつか国王陛下の病気が回復して、また話ができるといいな」 「ああ……」 寂しそうに微笑む。 「いつか必ず〈快癒〉《かいゆ》されるはずだ」 「執政公も、そう言っていた」 執政公への信頼は絶大なようだ。 彼が裏でやっていることなど、全く知らないのだろう。 だが、その話をするのはまだ早い。 「今日は楽しかった」 リシアが満足そうに頷く。 話はこれで打ち切りのようだ。 「やはりお前とは気が合うな」 「そうか?」 「合わないか?」 「お前は滅茶苦茶だ」 「もう少しこっちのことも考えてくれれば、いい話ができるかもな」 「私にも譲るべきところがあるということか」 何か考え込み、リシアは頷く。 「確かにそうだな、努力しよう」 「そうしてくれると助かる」 「ああ、また明日も話を聞かせてくれ」 リシアの部屋を後にし、大広間へと向かう。 今日は貴族たちの会議がないらしく、城に来たのは俺一人だ。 用も済んだし、さっさと帰ることにしよう。 「……」 違和感があった。 廊下に、まったく〈人気〉《ひとけ》がない。 普段は近衛兵がいるはずなのだが。 「隙だらけだぞ」 背後から囁き声が聞こえ、慌てて飛び退く。 「お前……」 「久しぶりだな」 長外套の女── ガウだった。 「不蝕金鎖の用心棒が、城に何の用だ?」 「お前に教える義理はないな」 「そうか」 挑発的な笑みを浮かべる。 「何を企んでいる」 「何も企んじゃいないさ」 「ルキウスの犬に成り下がったと聞いて、挨拶に来てやっただけだ」 「ご苦労なことだな」 「そう邪険にするな」 「あたしはお前のことが気に入っているんだ」 「気に入られるほどのことをした覚えはないが」 すうっとガウの目が細くなる。 触れれば切れそうな気配を漂わせながら、こちらに近づいてくる。 「片思いか、やれやれだ」 「城内で抜くのは禁止されているらしいな」 「残念ながらね」 ガウが笑う。 そんな規則、どうでもいいといった笑顔だった。 「犬同士、仲良くしようじゃないか」 穏和な口調で話しながら殺気を振りまくガウ。 とっておきの玩具を見るような、おぞましい視線をこちらに向けてくる。 「そっちは、バルシュタインの狂犬だったか」 「ああ、そう呼ぶ人間もいるな」 ガウが、もう一歩近づいてくる。 「聞きたいことがあったんだ」 「何だ?」 「知人の馬車が一つなくなってね」 「どこに行ったか知らないか」 一昨日、俺たちが落とした馬車のことだろう。 「知らないな」 「嘘をつくなよ」 「お前が馬車を潰したとしても、別に怒りはしない」 ただのはったりか、それとも本当に何かを読み取ったのか。 「何度聞いても同じだ」 「まあいい」 「教えてくれたお礼に、こっちも一つ教えてやる」 「お前が牢獄で拾った黒い粉、あれは福音という」 やはりというか当然というか、あの粉のことを知っているらしい。 「誰が作っている?」 「さてね」 「だが、どこで作っているかは知っている」 「参考までに聞いておこう」 「治癒院だ」 予想通りの答えだった。 「なぜ俺に教える」 「そういう気分だっただけだ」 嬉しそうに口の端を歪める。 「私は、難しいことにはあまり興味がない」 「ただ、強い奴と戦うことだけが望みだ」 「あんたの趣味なんかに興味はない」 ガウの赤い舌が、唇の上を這う。 「興味がなくても、いずれ戦うことになるさ」 「カイム……それまで、誰にも殺されるなよ」 ガウは背を向けて去っていく。 「そうそう、一つ言い忘れた」 「あんたの新しいご主人だが、あいつも相当臭い人間だぞ」 ルキウスか。 権力闘争のただ中にいるのだ、多少臭いこともしているだろう。 「お前も、自分のご主人がどんな男なのかは知っておいた方がいい」 意味深な含み笑いを残して、ガウは消えた。 「戻ったぞ」 「カイムか」 屋敷に戻り、ルキウスの部屋を訪ねる。 中にはシスティナもいた。 「リシア様のご様子はどうだった?」 「悪くない感触だった」 「驚いた」 「私の話には全く関心を示してくださらなかったが」 「貴族には興味がないんだろう」 「リシアは、俺が牢獄出身であることが気に入っているようだった」 「リシア様を呼び捨てにするとは何事ですか」 「言葉遣いには気をつけてください」 傍らで聞いていたシスティナに〈睨〉《にら》まれる。 「これも彼女の命令でね」 「自分のことは呼び捨てで、普段通りの話し方をしろということだ」 「かなりの気に入られようだな」 ルキウスが笑う。 「とはいえ、ヴァリアスに聞かれでもしたら面倒なことになる」 「そうだな、気をつけてくれ」 「しかし、いざとなったらリシア様が助けて下さるはずだ」 「あの細腕に自分の命がかかっていると思うと泣けてくるな」 「都市の謎については何か聞けたか?」 「多少な」 「リシアは、執政公が崩落を防ぐための研究をしていると考えていた」 「しかも、その研究は国王の研究を執政公が引き継いだものだという認識だ」 「研究の内容や正当性についても、執政公の言葉を鵜呑みにしている」 「やはりそうか」 ルキウスは少し考え込む。 「まずは、執政公が信用できない人物だと知っていただかねばならないな」 「どうやって?」 「執政公の言葉と現実に〈齟齬〉《そご》があることを証明すればいい」 「それには、特別被災地区の現状を知ってもらうのが一番近道だ」 「リシアを牢獄に連れて行くか」 リシアは城からほとんど出たことがないと言っていた。 一国の王女を簡単に王城から連れ出せるとは到底思えない。 「それができれば一番だが、簡単ではない」 「リシア様を乗り気にさせ、一緒に方策を考えるしかないだろう」 「その気にさせる、か」 「方法はカイムに任せる」 「待て、全部俺任せなのか?」 「リシア様に、貴族である私の言葉は届きにくい」 「私がどうこう言うより、お前に任せた方がいいだろう」 それはそうかもしれないが。 「まあ、やれるだけのことはやろう」 「頼んだ」 ルキウスが真剣な顔で礼をした。 「それじゃ、国王のことを教えてくれ」 「リシアは父親のことを尊敬している様子だった」 「執政公への信頼を崩すには、国王の存在も重要になってくるはずだ」 「私もそこまで詳しくはない」 「リシア様が幼少の頃に、陛下は病で倒れられたと聞いている」 「それから現在まで、執政公が政務の補佐を、ヴァリアス殿が教育面の補佐を行っている」 「国王が倒れた当時、リシアは面会することができたのか?」 「いや、それはないだろう」 「病が伝染するとの診断でな、陛下は発病後すぐに隔離されたらしい」 リシアはごく幼い時期に国王と別離したことになる。 ならば、父親については〈朧気〉《おぼろげ》な記憶しかないはず。 にもかかわらず、国王に心酔しているというのはおかしい。 妄想が入り込んでいるのか……? 「これはあくまで噂だが」 ルキウスが前置いてから口を開く。 「リシア様は陛下の実子ではなく、王妃の不義の子かもしれない」 「何だと?」 事実だとすれば、王家を揺るがす大問題だろう。 「あくまで噂だ」 「王は病に伏す前から体調を崩されていた」 「その状態で子を成すのは難しいという憶測から生まれた噂なのかもしれない」 「だが城内では有名な噂だ」 「既成事実として成り立ってしまっているふしもある」 「恐らく、リシア様も一度は耳にされたことがあるはずだ」 「当人は面白くないだろうな」 「もちろん、お心を痛めているはずだ」 「この話題には、リシア様の前では触れない方がいい」 国王への尊敬と、自分が父親の実子ではないという疑惑。 何か面倒な心の動きがありそうだ。 「……っ」 「何の音だ?」 ルキウスの表情が強ばっている。 椅子の肘掛けを握りしめ、一点を見つめていた。 「どうした?」 「何でもない」 「すまないが、少し席を外す」 ルキウスは振り返りもせず、部屋を出て行ってしまった。 「何だったんだ?」 「詮索は無用にお願いします」 「聞かれては困ると」 「……」 無表情で口を引き結ぶシスティナ。 いや、無表情を装っているだけだな。 ふと、ガウの言葉が頭をかすめる。 「そうそう、一つ言い忘れた」 「あんたの新しいご主人だが、あいつも相当臭い人間だぞ」 「お前も、自分のご主人がどんな男なのかは知っておいた方がいい」 人に裏があるのは当然だ。 ルキウスについても、ある程度調べておいた方が良いかもしれない。 「私たちも出ましょう」 「ルキウス様は、今日はもう戻られないでしょう」 「わかった」 システィナと別れ、自室に向かう。 途中で、召使いとすれ違った。 年齢はシスティナと同じか、それより少し上くらい。 話を聞いてみるか。 「ちょっといいか」 「はい、何でしょうか」 「あんたは、いつ頃からここで働いているんだ?」 「5年前でございます」 「あんたより古くから働いている召使いはいるか?」 「いえ、私が最古参でございます」 「システィナは、いつからルキウスに仕えている?」 「存じ上げません」 最古参の召使いが知らないか。 とすれば、この屋敷に一番古くからいるのはシスティナということだ。 不思議なものだ。 裕福な家ならば、通例、家の万事を管理する経験豊富な執事を置く。 貴族ともなれば、家従来の執事がいてもおかしくない。 それが、5年前に入った召使いが最古参。 ガウの言葉ではないが、臭う。 「気のせいかもしれないが、時々鈴の音がするんだが、あれは何だ?」 「申し訳ございません、他言無用と言いつかっております」 召使いがきっぱりと言う。 やはり口止めされている。 「わかった、ありがとう」 「失礼致します」 召使いはいそいそと去っていく。 鈴の音がするということは、誰かが鳴らしているのだ。 一体誰が? まず考えられるのは、ルキウスの家族だ。 ……ネヴィル卿。 執政公が、ルキウスの父親をそう呼んでいたのを思い出す。 システィナも召使いも口を割らないとすれば、屋敷外の人間に話を聞くしかなさそうだ。 「あ、カイムさん」 自室の前までやってくると、ティアが待っていた。 「どうした?」 「部屋から出たらお姿が見えたので」 「これも運命でしょうか」 「エリスの真似か」 「え? どうしてわかったんですか」 「嫌ってほど、同じ台詞を聞かされた」 「で、用件は?」 「特にはありません……」 「でも、お話しがしたくて」 申し訳なさそうに言ってくる。 見知らぬ屋敷で暮らしているのだ、不安もあるのだろう。 「別に構わんが」 ティアの部屋に向かう。 「はい、どうぞ」 ティアが茶を出してくれた。 「なぜ部屋に茶がある?」 「使用人の方にお願いして、分けてもらったんです」 「誰かにお茶を淹れていただくのは、落ち着かないので」 「まあ、お前はそうか」 適当に相づちを打つ。 何もないよりは落ち着くのは間違いない。 「今日はどこへお出かけだったんですか?」 「城だ、王女に会ってきた」 「すごいですっ」 「どんな方でしたか?」 「言葉遣いは偉そうだが、お前より子供っぽいかもしれない」 「小さくても、やっぱり王女様は偉いんですね」 「生まれたときから偉いんだろうからな」 牢獄に生まれた人間が、生まれたときから不幸なように。 「カイムさんは、王女様と何をされていたんですか?」 「ただ話をするだけだ」 「それは……お仕事なんですか?」 「まあな」 「王女様を牢獄に連れて行く必要があるんだ」 「あいつは、牢獄に興味があるくせに実態を全く知らない」 「お勉強してもらうんですね」 ティアが嬉しそうに頷いている。 「あ、でも、王女様ってお城から出られるんですか?」 「珍しく頭が回るじゃないか」 「えへへ」 「普通に連れ出すのは難しいようだ」 「まずは、リシアに牢獄へ行きたいと思わせなくてはならない」 「連れ出す方法はその後だ」 「なるほど」 「お前なら、どうやって牢獄に興味を持たせる?」 「あれ? 牢獄に興味があるってことじゃ?」 「興味はある」 「だが、話だけで満足していて、足を運ぶ気はあまりない」 「実際に行ってみたいと思わせる方法はないか?」 「う〜ん……」 ティアが芝居がかった腕組みをする。 見るからに期待できない。 「ご飯ですね」 「飯?」 「わたしだったら、美味しい物があるってわかれば行きたくなります」 「お前だけだろ」 「そんなことないですっ」 「女の子は誰でも美味しい物に目がないんですよっ」 「そんなものか?」 「そんなものなんです」 ふん、と頷いた。 自信があるらしい。 リシアが普段何を食ってるかは知らないが、少なくとも牢獄の飯は食ったことがないだろう。 試してみるのも一興か。 「やってみるか」 「ティア、明日までに牢獄の料理を作れるか?」 「それを、リシアに食べさせてみよう」 「わかりました」 ティアの料理なら外れはないだろう。 これで上手くいけば御の字だ。 ティアが作った弁当を持って、リシアの部屋にやって来た。 衛兵に見とがめられないよう、弁当は布で隠してある。 「誰だ」 「カイムです、ただいま参りました」 「入っていいぞ」 また着替えをしていた。 どうしてこいつは、着替えの最中に人を招き入れるのか。 「色々手間取っててな、少し待っていてくれ」 「ああ」 「時にカイム、今日はどんな服がいいと思う」 「普通でいい」 「それではつまらん」 不服そうな表情を浮かべるリシア。 「別にどんな服を着ていてもリシアはリシアだろう」 「なかなかいいことを言うな」 完全に勘違いだ。 「だが、昨日と同じではな」 「今日はこれにしよう」 リシアは一着の服をつまみ上げ、召使いたちに渡す。 「これでよかろう」 召使いたちは選ばれなかった服を片付け、部屋を出て行く。 と、召使いの一人がこっそりと耳打ちをしてくる。 「カイム様、頑張ってくださいませ」 「何の事だ?」 「リシア様は、今朝からずっとカイム様のお話ばかりされています」 くすりと笑って、召使いは退室した。 気に入られるのは願ったり叶ったりだが。 「なぜその服を?」 「出会った時の、記念の服だからな」 「この方が話しやすいだろう?」 「別に変わらん」 意味不明な奴だ。 「それより、いい匂いがするぞ」 「何を持ってきたのだ?」 弁当の入った〈籠〉《かご》をリシアの前に出す。 「牢獄風の料理を作ってきたんだ」 「お前が作ったのか?」 「知り合いだ」 〈籠〉《かご》にかぶせた布を取り、料理を見せる。 鶏肉の炒め物に香草入りのパン、野菜スープ、そして林檎のパイが顔を見せる。 どの料理も、冷めてもおいしいようにとティアが工夫して作ってくれたものだ。 「おいしそうだな!」 料理を前に、リシアは目を輝かせる。 「私のために用意してくれたのか?」 「もちろんだ」 「牢獄の飯に興味はないか?」 「ある! 食べてみたい!」 「よし」 俺は椅子に腰掛け、料理を机に並べる。 「……しまった」 リシアが表情を曇らせる。 「どうした?」 「食べたいのは山々なのだが、私は毒味していないものを口にしてはいけないのだ」 一国の女王だ、当然のことだろう。 もちろん、口説き方は考えてきた。 「俺が毒味をしよう、それでどうだ?」 並べた料理を一口ずつ食べてみせる。 「この通り毒は入っていない」 「ううん……」 リシアが考え込む。 「うん、いいだろう!」 リシアは食器を手に取り、鳥の炒め物に手を伸ばす。 「死んだらカイムを恨むぞ」 「お前を殺しても、俺には何の利益もない」 「毒殺など考える人間は、皆そう言うだろうな」 少女らしくもない言葉だった。 伊達に王女ではないな。 「ま、今はカイムを信じよう」 鳥の炒め物を口に含み、恐る恐る噛みしめる。 と、その顔が綻んだ。 「おいしい!」 「こんなもの、今まで食べたことがないぞ」 リシアは次々と手を伸ばし、炒め物とスープ、パンを口に運ぶ。 「城ではどんな料理が出るんだ?」 「色々あるが、これに比べるとあまりぴりっとしない」 「不味くはないが、何度も食べているうちに飽きてしまった」 「しかし、牢獄の料理はとても刺激的だ」 牢獄の料理より、城の料理の方が間違いなく美味いはずだ。 単に目新しさの問題だろう。 「牢獄の料理は味付けが濃いんだろうな」 「塩気や香辛料、薬味を利かせたものが多いらしい」 「確かにそんな味がする」 感心したように頷くリシア。 林檎のパイを皿に取り、ナイフで切ろうとする。 「それはそのまま手で食べるんだ」 「手で?」 「こうやって食べる」 俺はパイを掴み、そのまま口に運ぶ。 「なるほど」 リシアは俺を真似て林檎のパイを頬張る。 「これも美味しい」 「この林檎はどうやって味付けしているのだ?」 「砂糖で煮て、香草の粉末をまぶしているらしい」 「城の料理人にも習わせよう」 口いっぱいにパイを頬張るリシア。 その姿は、そこらにいる年頃の娘と変わらない。 「どうだった」 リシアが食べ終わるのを待って話しかける。 「おいしかったぞ!」 「こんなおいしいものが食べられるなら、死んでも構わないな」 「阿呆か」 「阿呆?」 「言葉が過ぎたな」 「いや、よい」 「初めて言われたが、なぜか悪い気がせん」 謎の感覚だ。 まあいい、料理も食べさせたことだし本題に移ろう。 「牢獄では毎日こんな物を食べている」 「良かったら、リシアも牢獄に行ってみないか?」 「牢獄か……一度は行ってみたいものだ」 「だが、難しいだろうな」 「無理か」 「城の外に出るとなると、大勢のお付きや護衛を連れて行くことになる」 「準備だけでも時間と費用がかかる」 「それに、相応の理由も必要だ」 「料理に興味があるなどという理由では、到底許されまい」 それはそうだ。 「まあ、抜け出すこともできないわけではない」 「おっと、今のは秘密だぞ?」 リシアが笑う。 「いつでも抜け出せるのか?」 「準備がいる上に、ヴァリアスが城にいない時でなければ駄目だ」 「時機を見て考えよう」 「その時は俺も手伝う、何でも言ってくれ」 「頼りにしているぞ」 机に広げた料理の皿を片付ける。 「悪い奴だな」 「毒を食らわば皿まで、と言うだろう?」 「私が毒だと言いたいのか」 「ヴァリアスと毒味役の奴らに聞いてみたらどうだ」 もっとも、答えに詰まって何も言えないだろうが。 「面白いな、カイムは」 「お褒めに預かり恐悦至極に存じます」 「やめろ、気持ち悪い」 「お前に敬語を使われるとなぜか背筋が寒くなる」 「そこまで言われる筋合いはない」 皿を全て〈籠〉《かご》に仕舞い、片付けも一段落した。 「しかし、この料理には感心した」 「私も同じ物が作ってみたい」 「お前が?」 「もちろん私が作る」 「ヴァリアスにさえ見つからなければ問題ない」 「この時間、奴は城外で訓練中だ」 にやりと笑う。 「ヴァリアスの行動を把握しているのか?」 「ふっ、当然だ」 「そうでなければ抜け駆けなどできん」 「その労力はもっと別のところに回した方がいい」 「小言は聞きたくない」 「いいからついて来い、これは命令だ」 リシアは仁王立ちで告げる。 面倒だが、今はご機嫌を取っておこう。 「仕方ないな」 「料理長、料理長はいるか」 リシアは厨房に入るなり、料理長を呼びつける。 「何用でございましょうか」 「作ってみたい料理があるのだ、厨房の一角を貸してくれ」 「リ、リシア様、それは……」 料理長が視線を泳がせる。 他の料理人たちも暗い顔だ。 「我々が、ヴァリアス様にお咎めを受けます」 「安心しろ、ヴァリアスは昼まで練兵場だ」 「ですが……」 「いざとなれば、私が助ける。それでよかろう?」 「……わかりました、お使い下さい」 王女にここまで言われて、一介の料理人が断れるはずがない。 ヴァリアスに見咎められなくても、いずれ話が漏れて罰を受けることになるだろう。 可哀想に。 「では、早速作ろう」 「カイムはそこで待っていろよ。できたら味見をさせてやる」 「仰せのままに」 〈慇懃〉《いんぎん》に返す。 リシアは厨房の中を歩き回り、食材を集め始めた。 他の料理人も王女に逆らうわけにもいかず、リシアの言うがままだ。 その様子を、半ばあきらめ顔で眺めている料理長に声をかける。 「災難だな」 「あなたは?」 「ルキウス卿の補佐官だ」 「ああ、噂の」 どうやら、あの騒動が話題になっているようだ。 「ヴァリアス様がいらっしゃらないと、ご覧の通りです」 「私どもの立場も、お考えいただきたいところですが」 リシアは、嬉々として厨房を駆け回っている。 「リシア様は普段からこんなことを?」 「日常茶飯事ですよ」 「料理の腕前は?」 「お手を切らない程度には」 料理長が苦笑する。 「ですが、素質は十分におありになるかと」 「あの味は、多分この野菜とこの野菜だな」 「調味料は……」 リシアが淀みなく指示を出し、食材や香辛料を集めさせていく。 一度食べただけの料理をきちんと分析していた。 「我々の仕事に理解をお示し下さるのはありがたいことです」 「ですが、リシア様にはリシア様にしかできないことをしていただきたいですね」 料理長がしみじみと言う。 「邪魔をするぞ」 「おっと」 背後からの声に振り向く。 「ヴァ、ヴァリアス様!?」 料理長の顔から、一瞬で血の気が引いた。 「料理長、どういうことだ?」 「以前、リシア様を厨房にお入れするなと命令したはずだが」 「も、申し訳ございません……」 料理長が頭を下げる。 料理人たちも一斉に押し黙った。 リシアもこちらを向く。 「ヴァリアス……」 「なぜお前がここに!?」 「王城に急ぎの用がございましてな」 ヴァリアスがリシアを見つめる。 「リシア様、ここで一体何をなさっているのですか?」 見ればわかることを、あえて質問した。 「……」 「リシア様は王女であり、いずれは、病床にある国王陛下に代わってこの国を治めなければなりません」 「失礼ながら、リシア様は、国王陛下のお教えを理解していらっしゃらない」 「これでは、国王陛下もご安心できますまい」 「黙れっ!」 「私には私の考えがあってやっていることだ」 「お前に何がわかる」 「わかりません」 「よろしければ、お考えとやらをお聞かせ願えないでしょうか?」 ヴァリアスが〈慇懃〉《いんぎん》に言う。 「私は下々の気持ちを理解したいと思っている」 「こうして働くことで、それが理解できるはずなのだ」 「召使いの真似事で、下々の心が理解できると?」 「私にはとてもそうは思えませんな」 「何だと!」 激高するリシアを無視し、ヴァリアスが料理長を見る。 「お前たちには、リシア様を厨房にお入れしないよう命じていたはずだ」 「私の命令を無視した罪を、償ってもらおう」 「ここにいる全員に、一回ずつ鞭打ちを行う」 ヴァリアスは俺に視線を向けてくる。 俺も例外ではない、ということか。 「そ、そんな……」 料理人たちが青ざめる。 とばっちりもいいところだ。 「待て、こやつらは悪くないっ」 「罰するのなら、私にしろっ」 「国の王たる者は、その一挙手一投足に民の命がかかっているのです」 「王が愚かであれば国は滅びます」 ヴァリアスは厳かに告げ、料理長の腕を掴み上げる。 「リシア様には、この者たちが罰を受けるところをしかと目に焼き付けていただきます」 「自らの軽率な行いがどういう結果を招くのか、真摯に受け止めていただきたい」 正論だ。 王が死ねと言えば、民は死なねばならない。 国を統治する者が目を曇らせれば、大きな災厄が民に降りかかる。 リシアは、まだ自分の言葉が持つ重みをわかっていない。 ヴァリアスが言いたいのは、そういうことだろう。 なかなか筋の通った男だ。 反論できず、リシアが悔しそうに俯く。 「待ってくれ」 「何だ?」 「先に言っておくが、言い逃れはできんぞ」 「元はと言えば、リシア様をお止めできなかった俺が悪い」 「料理人たちは勘弁してやってくれ」 「罰なら俺が受ける」 俺の言葉に、ヴァリアスは僅かに目を見開く。 「どういう風の吹き回しだ」 「筋を通したいだけだ」 ヴァリアスは押し黙る。 しばらくして、料理長から手を離した。 「料理人たちと貴様自身の分、合わせて6回の鞭打ちとなる」 「受ける覚悟はあるか」 「もちろんだ」 エリスの時は5発だった。 かなりきついだろうが、仕方がない。 「その意気やよし」 「だが手加減はしないぞ」 「元より期待していない」 「近衛騎士団の仕置きがどの程度か、存分に見せてもらおう」 「すまない、カイム」 「気にするな」 リシアが、俺の背中に薬を塗る。 断ったのだが、強いて頼んでくるので好きにさせることにした。 「痛むか?」 「さすがに痛くないとは言えないな」 鞭で打たれた箇所は燃えるように熱い。 だが、オズの鞭に比べれば大したことはなかった。 なぜかわからないが、ヴァリアスは手加減してくれたらしい。 「カイムが身代わりを申し出るとは思わなかった」 「料理長が礼を言っていたぞ」 「そうか」 別に料理人が可哀想だったわけではない。 リシアへの仕置きなら、俺一人が鞭で打たれれば十分だと思ったからだ。 もちろん、周囲から好感を得たいという打算もあった。 「しかし、傷だらけの背中だな」 「今までどんな生活をしてきたんだ」 リシアが俺の背中をそっと撫でる。 「牢獄で生きていれば、多かれ少なかれこうなる」 鞭打ちなど生易しい方だ。 〈刃傷沙汰〉《にんじょうざた》はもちろん、悪ければ手足を失うくらいは覚悟しなければならない。 「お前は強くて優しいな」 「私の父上とそっくりだ」 「そいつは光栄だ」 目を向けると、リシアは慌てて目を逸らした。 「その……なんだ」 「礼を言わなければならんな」 「〈藪〉《やぶ》から棒に何だ?」 「ありがとう、カイム。嬉しかったぞ」 「お前のお陰で、何となく目が覚めた気分だ」 リシアが微笑む。 曇りのない、明るい笑顔だ。 「気にするな」 「ふふっ、そればかりだな」 聞こえない振りをして服を着る。 リシアが薬を塗ってくれたお陰で、痛みは多少マシになった。 「今後、私は召使いの真似事は控えようと思う」 「ほう」 「ヴァリアスの言うことを聞くのは〈癪〉《しゃく》だ」 「だが、私はカイムがこれ以上傷つくのを見たくない」 「だから……」 「これからも私の傍にいてくれないか?」 上目遣いで見つめてくるリシア。 離れたくない、と顔に書いてあるかのようだ。 「ああ、リシアが望む限り傍にいよう」 そう答えるのが正解だ。 俺は、リシアの頭を優しく撫でてやる。 「気持ちいいな」 「頭を撫でられるなんて、いつぶりだったか」 嬉しそうに笑うリシア。 「ヴァリアスも、カイムくらい優しければいいのだがな」 「あいつとは仲が悪いようだな」 「まさか、正面から言い合いをするとは思っていなかった」 ヴァリアスも、王女相手に一歩も引かなかった。 発言も的を射ていたし、あれはあれで貴重な臣下と言えるだろう。 「あいつは父上に忠誠を誓っているだけで、私の命令は聞かない」 「それどころか、父上の教えだと言って説教ばかりだ」 「ヴァリアスなど大嫌いだ」 「だが、あいつの言っていることは至極まともだ」 「少なくともお前よりは正しい」 「カイムまでヴァリアスの味方をするのか?」 リシアはふくれっ面をして顔を背ける。 「ヴァリアスは、自分が理想とする国王のあり方ばかり押しつけてくる」 「二言目には父上を引き合いに出してな」 「だが、父上はそんなに厳しいことを言うお方ではない」 「そうなのか?」 「王はすべての国民の父である、と国王陛下は言っていたんだろ」 「それならヴァリアスが言っていたことと、さほど遠くないと思うが」 「そんなことはない」 「父上は家族思いの優しいお方なのだ」 「どうしてそう言える?」 「本来は秘密なのだが、お前にだけは教えよう」 「先日、執政公が進めている研究の話をしたな」 「あの研究は、父上が私のために始めたものなのだ」 「それで?」 「これは父上が執政公にだけ話したことらしいのだが……」 「自分がすべての国民の父であるのは自明のこと」 「研究は、都市の住民全てが明るい未来を迎えられるよう行っている」 「だが本当は、私の未来がかかっているからこそ研究を始めたということだ」 「それを聞いた執政公は、研究を何よりも優先して進めていくことを父上に約束したのだという」 「だから、この研究は父上から私への贈り物なのだ」 暖かな記憶を追想するかのように、リシアは言った。 俺の脳裏には、羽つきの死体が下界へ投げ捨てられていく光景が浮かんだ。 とんだ贈り物だな。 どうも国王の人物像がいまいち掴めない。 「しかし、執政公の施策はあまり褒められたものじゃない」 「牢獄民は困窮し、羽狩りは羽つきを乱暴に狩り出している」 「またその話か」 リシアはうんざりとした顔をする。 「ルキウスと同じで、カイムも心配性なのか?」 「執政公は、噂話を鵜呑みにしているだけだと言っていたぞ」 「俺は牢獄出身だぞ、全て事実だ」 リシアは二の句が継げなくなり、黙り込んでしまう。 「現状と国王陛下の言葉には、大きな隔たりがあるようだな」 「執政公は、『王はすべての国民の父である』という言葉を〈蔑〉《ないがし》ろにしている」 「ま、少なくとも牢獄民や羽つきの父親ではないらしい」 「父上の教えも、執政公も間違っていないはずだっ」 「牢獄の実情を見ても同じことが言えるか?」 「もちろんだ」 「なら実際に見てみろ」 「本当の牢獄がどんなものか、俺が教えてやる」 「だが……」 「自分の目で何が真実なのか見極めろ」 「執政公の言葉を鵜呑みにしていても、ヴァリアスは見返せないぞ」 リシアは〈沈思〉《ちんし》する。 「……わかった」 「そこまで言うなら牢獄に行ってやろう」 口をへの字に曲げながら、リシアが告げる。 上手く挑発に乗ってくれたようだ。 「どうやって城を抜け出す?」 方法はあると言っていたが。 「今日のうちから、体調の悪い振りをして人払いをする」 「明日は一日部屋に籠もっているように見せ、こっそりと抜け出すのだ」 「正門は当然使えない」 「裏門から出入りする食料搬入の馬車に乗り込むのだ」 「お前は明日の朝一にこの部屋に来て、荷物を馬車へ持って行ってくれ」 「荷物?」 「私のことだ」 「大きな鞄の中に身を隠す」 なるほど。 意外と単純な手段だ。 「御者とは仲が良くてな」 「男に『王女様からの贈り物だ』と伝えてくれればわかるはずだ」 「わかった」 しかし、御者との間に合い言葉があるということは……。 「お前、以前も抜け出したことがあるな」 「何のことだ?」 まったく、とんだ王女様だ。 リシアの部屋から退室する。 辺りはうっすらとあかね色に染まり、夕暮れが近づいていた。 随分と長居してしまった。 明日は朝早く登城し、城を抜け出す手伝いをしなければならない。 さっさと帰って準備をしよう。 庭に出て大きく伸びをする。 長く伸びた植樹の影を踏みながら歩いていく。 腰が曲がった老人が、〈箒〉《ほうき》を手に俺へ礼をした。 薄汚れた作業着をまとい、〈好々爺〉《こうこうや》といった佇まいだ。 「庭師か……ご苦労だな」 「はい、ありがとうございます」 「庭師は長いのか」 「それはもう」 「国王陛下がお若い頃より庭師を申し付かっております」 国王の歳はわからないが、随分と前の話なのだろう。 城のことに詳しいかもしれない。 「俺は最近、この城に来たばかりでな」 「色々とわからないことが多くて困っていたんだ」 「ちょっと話を聞いてもいいか」 「ええ、もちろんでございますよ」 優しく笑い、承諾してくれた。 「まずは……そうだな、ネヴィル卿のことは知っているか?」 「ええ、存じ上げております」 「まだ国王陛下がご健勝だった頃のことですが」 「当時はネヴィル様が執政公と呼ばれており、長い間国王陛下をお支えしておりました」 「今の執政公ギルバルト様は、ネヴィル様の右腕としてご活躍されていました」 「そうだったのか」 ネヴィルはルキウスの父だ。 現執政公にとってルキウスは、かつての上役の息子ということになる。 「ネヴィル卿とギルバルト卿の関係は良かったのか?」 「当初は政策が一致されていたのですが、ある時からご意見を違えるようになったと伺っています」 「ネヴィル様が体調不良を理由に隠居されてからは、ギルバルト様が政治を見られるようになりました」 意見がぶつかるようになってから、ネヴィルは体調不良で隠居。 それによってギルバルトが執政公になった。 胡散臭い話だ。 「確かに不穏な噂はありました」 「ですが、当のネヴィル様がご自身で隠居されると仰いましたので、噂は立ち消えになりました」 俺の表情を見てとったのか、老人が教えてくれる。 確かに、ネヴィル本人が言ったのなら、あれこれ疑っても仕方がない。 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》があってから、ご心労からか、国王陛下も急に体調を崩されてしまいました」 「お〈労〉《いたわ》しいことです」 「当時、リシア様はおいくつくらいだった?」 「まだ、お言葉を覚えかけの頃だったかと存じます」 「その頃から、国王陛下の代理を務めていらっしゃるのか?」 庭師の老人は頷く。 「国王陛下のお達しで、執政公がリシア様をお支えすることになりました」 「また、ヴァリアス様もリシア様のご教育を任されたと聞いております」 要するにヴァリアスはリシアの子守りをしてきたわけか。 リシアに厳しくなるのも納得だ。 「ご幼少のリシア様は、それはそれは可愛らしゅうございました」 老人は遠い目で暮れていく夕日を見つめる。 「ですが、リシア様もそろそろ分別を学ばれるお年頃」 「国王として、立派に独り立ちされる日が来ると良いのですが……」 「あの様子じゃまだ先は長いかもな」 老人と互いに苦笑する。 「あなた様は、リシア様にお目通りされたことは?」 「今日も話し相手を務めてきた」 「ああ、あなた様が例の……」 ここにも噂は届いているのか。 城であったことは、どうも皆に筒抜けになるようだ。 「料理人に代わり、お一人で鞭を受けられたと伺いました」 「ご立派な事でございます」 「大したことじゃない」 強がりでも何でもなく、あの程度ならぬるい方だ。 「あなた様は勇敢なお方ですね」 「国王陛下がご健在であらせられれば、さぞ気に入られたでしょうに」 勇敢な人間を好む性格か……。 そういえば、リシアが話す国王については、少し腑に落ちないことがあった。 「国王陛下はどういうお人柄だったんだ?」 「厳格なお方でした」 「国政を何よりも重んじ、誰にも公正であるようにと貴族方に語っておられたのを覚えております」 「王はすべての国民の父である、というやつか」 「ええ、そうです」 「王はすべての国民の父である……これは、ノーヴァス王家に代々伝わる家訓なのです」 「国王陛下は、公正であらんとするため、ご家族へは特に厳しく接しておられました」 「王妃様も早くに亡くなられましたし、リシア様は随分とお寂しい思いをされたことでしょう」 リシアは、国王は家族想いの素晴らしい人間だと言っていた。 庭師の話とはズレがあるな。 と言っても、見えないところでリシアを可愛がっていたのかもしれないし、真実はわからない。 「リシア様はお優しい方です」 「私は今のままのリシア様がとても好きですが……」 「国王におなりになるには、少しお優しすぎるかもしれませんな」 そう言って、庭師の老人は寂しそうに笑った。 屋敷に戻り、ルキウスの部屋に顔を出す。 「ご苦労だった」 今日あったことを報告しようかと思ったが。 ルキウスは机の上に何かを広げ、システィナと話し込んでいた。 「出直そう」 「そうしてくれると助かる」 「概要だけは報告しておく」 「明日はリシアとお忍びで牢獄へ行くことになった」 「ほう、素晴らしい成果だ」 ルキウスが満足げに頷く。 「関所の通行証をもらえると助かる」 「手配しておこう」 それだけ伝え、部屋を後にする。 さて、どうするか。 ティアの部屋に戻って弁当の礼でも言うか? いや、それよりも気になることがある。 ルキウスの父であるネヴィルは、体調不良で隠居したと言っていた。 この屋敷のどこかにいる可能性もある。 ルキウスとシスティナが話し込んでいる今なら調べられるかもしれない。 辺りに誰もいないことを確認し、屋敷の奥へと向かう。 物置や書庫があるとシスティナは言っていたが。 屋敷の最奥には、大きな扉があった。 明らかに、他の部屋とは違う雰囲気だ。 中から人の気配はしない。 試しに入ってみよう。 「失礼します」 俺は小さな声で告げ、中へと入る。 明かりはない。 窓から差し込む僅かな月明かりを頼りに、部屋の中へと進む。 壁の中央にある、大きな肖像画が目に付く。 壮年の貴族と妻らしい女、そして幼い少年が描かれていた。 髪の色などから判断すると、どうやら少年はルキウスのようだった。 絵師のせいか、ルキウスの面影はあまりない。 「誰だ」 突然、背後からしわがれた老人の声が聞こえた。 「ルキウスか?」 暗がりにじっと目をこらすと、安楽椅子が見えた。 枯れ木のように手足の細った老人が、そこにいた。 「誰だ」 「申し遅れました」 「私はルキウス様の配下の者です」 「失礼ですが、ネヴィル卿でしょうか」 「ルキウス……おお、ルキウス!」 絞り出すような声を上げる。 恐らくは、こいつがネヴィルなのだろうが、どうも様子がおかしい。 まるで、目の前にいる俺が見えていないようだ。 「どこだルキウス、どこにいる!」 「っっ!!」 ネヴィルが呼び鈴を激しく打ち鳴らす。 この音…… やはりルキウスを呼ぶものだったか。 まずいな。 「お部屋を間違えました、失礼いたします」 足早に部屋を出る。 遠間の物陰に身を隠し、息を殺す。 廊下の先から、ルキウスとシスティナがやってきた。 システィナを廊下に残し、ルキウスが暗い表情で部屋へと入っていく。 「…………、………………っ!」 部屋の中から、喚き声と共に鈍い音が聞こえた。 聞き間違えようがない。 人間を殴る音だ。 システィナは、部屋の前で俯き、ドアの取っ手を握りしめている。 その手は僅かに震えていた。 鈍い音が何度か続き…… やがて収まった。 「ルキウス様っ!」 部屋から出てきたルキウスを、システィナが抱き留める。 「だ、大丈夫だ……」 そう告げるものの、息が上がっている。 明らかにつらそうだ。 「私にお掴まりください」 「すまない、システィナ」 ルキウスは腹を押さえ、システィナの肩を借りて歩いていく。 折檻を受けたようだが、理由が思い当たらない。 起こったことだけを見れば、ルキウスを殴るために呼んだようにも思えた。 また調べてみる必要がありそうだ。 「着きましたよ、旦那」 馬車が停まる。 「世話になった」 王城から馬車に乗り、下層までやってきた。 ヴァリアスが朝の訓練でいない時を見計らって、裏門から抜け出してきたのだ。 リシアの布団には服の固まりを突っ込んで、寝込んでいるように見せかけてある。 これで大丈夫だとリシアは言っていたが……。 「おーいっ……」 「早く出してくれっ」 籠もった声が荷台から聞こえてきた。 「わかったわかった」 俺は馬車から降り、荷台から大きな鞄を取り出す。 ベルトを外して鞄を開けてやると、リシアが勢いよく外に飛び出してきた。 「あああっ、暑いーっ」 「少しは隙間を開けておかんか」 「息苦しくて死ぬかと思ったぞ」 「冗談を言うな、見つかったら俺とこの親父の首が飛ぶ」 「ははは……」 苦笑いを浮かべる御者の親父。 「平気だと言っているのに、お前は心配性だな」 軽く言って、リシアは御者台へと向かう。 「お前のお陰で無事抜け出せた」 「礼を言うぞ」 「リシア様の頼みとあっちゃ断れませんや」 「夕刻にまたここへ来やす」 「それまでに戻ってきてくださらないと、置いてけぼりになっちまいますよ」 「わかった」 御者の親父は一礼し、馬車を走らせ去っていった。 「では行くか」 「その前に、ちょっといいか」 「何だ?」 「牢獄でお前が王女だと発覚すれば、面倒なことになる」 「どうなる?」 「殺されても文句は言えん」 「馬鹿なことを」 本当のところを言えば、誰もリシアを王女だなどとは信じないだろう。 だが、王女を名乗る馬鹿な女は好奇の対象になる。 面白半分になぶられる可能性は高い。 「冗談は言っていない」 「先に言っておくが、お前が知っている牢獄と現実は全く違う」 「……」 「お前のためにも、打ち合わせをしておこう」 「あ、ああ」 道の端に寄り、リシアと打ち合わせを始める。 「まず、偉そうな口調はどうにかならないか?」 「偉そうと言われても意識したことがない」 まあそうだろう。 いかにも王女らしい。 「牢獄では些細なことで〈諍〉《いさか》いに発展する」 「普通の街娘のように話してもらいたいんだが」 「街娘など見たことがない、難しいことを言うな」 リシアは顔をしかめる。 口調を変えるのは無理か。 「なら、できるだけ偉そうな態度は控えるよう心がけるだけでいい」 「とにかく、おかしいと思っても下手に言い返すな」 「気をつけよう」 リシアは神妙な顔で頷く。 「関所はルキウスがあらかじめ通れるように手配してくれている」 「リシアは俺の妹ということになっているから、そのつもりでいてくれ」 「妹?」 「今からお前は、リシア・アストレアだ」 「リシア・アストレアか」 「面白そうだな」 すっかり乗り気のようだ。 面白がられても困るが。 「私はカイムの妹に見えるかな」 「見えないだろうな。身なりが綺麗過ぎる」 どう見ても上層住まいのお嬢様、という感じだ。 牢獄では、さぞいいカモに見られることだろう。 俺が気を張って守るしかない。 「これでも一番地味なものを選んできたつもりなんだが」 常人とは感覚が違い過ぎた。 下層の市場にやってきた。 露店の店主たちが互いに声を張り合い、通りは喧噪に満ちていた。 「こんなに賑やかだとは思わなかった」 「市場は初めてか?」 リシアが興奮気味に頷く。 「皆はここで何をしているんだ?」 「物の売り買いだ」 「ここを通っていくぞ、はぐれるなよ」 「うむ、心配ない」 雑踏を縫って歩く。 人の波を避けて歩くには、多少のコツがいる。 当然、リシアにコツがわかっているはずはなかった。 「ま、待ってくれ……全然前に進めん」 「手間を掛けるな」 リシアと手を繋ぐ。 「な、何をする?」 「俺の動きに合わせろ」 リシアを引き寄せ、自分が楯になって進んでいく。 「大丈夫か」 「う、うん」 俯いたままついてくるリシア。 人の少ない所までやってきた。 「何とか抜けたな」 「ああ……」 「どうした?」 「な、何でもない」 「それよりいい加減手を離せっ」 リシアが繋いだままの手を振る。 離してやった。 「悪いな」 「別に構わんが……」 この程度で赤くなっている。 年相応と言ったところか。 「お嬢ちゃん、上品な服着たお嬢ちゃん!」 露店の店主が、わざわざ店を出て来た。 カモだと思ったのだろう。 「ほら、これをどうぞ」 「何だこれは」 手渡されるままに棒を受け取るリシア。 棒の先には果物が刺さっている。 「杏子を水飴で煮込んだものだ、甘くて美味いぞ」 「くれるのか?」 「そうしてやりたいんだけどねえ、一つで銅貨3枚だよ」 「私は金を持っていない」 「そこのあんちゃんに頼んでみなよ」 俺を視線で示す店主。 「行くぞ」 「そうせっかちにならないでさ」 「一度食べたら、病みつきになる美味さなんだから」 「美味しいのか……」 手に持った果物菓子を見つめながら呟く。 「お前は何しに来たんだ?」 「わ、わかっている」 相変わらず菓子を見つめ続けている。 「だが……そう何度も来られるわけではないのだ」 面倒になってきた。 「ほらよ」 店主に銅貨3枚を渡す。 「へへへ、どうも」 金を受け取った店主は、さっさと引き上げる。 「ありがとう、カイムっ」 「最初で最後だぞ」 「わかった」 嬉しそうに微笑んで、リシアは菓子を口に入れた。 下層の食い物については、毒の心配をしないらしい。 「うむ、素晴らしい味だ」 「こんなものは初めてだ」 夢中で果物菓子を食べるリシア。 ここまで喜んでもらえれば、菓子も本望だろう。 「行くぞ、歩きながら食え」 「うん」 手を出すと、素直に握ってくるリシア。 「優しいな、お前は」 「手が塞がっていれば、これ以上買い食いができないだろう」 「やはり優しくない」 「ああ、そうだ」 リシアの手を引きながら雑踏の中を歩いていく。 横の路地から見知った顔が出てきた。 今は会いたくなかったが、目が合ってしまう。 「カイムじゃないか」 「よう」 「下層に何の用だ?」 「これから牢獄に行くところだ」 「ああ、最近は上層にいるんだったな」 言いながら、フィオネはしきりにリシアを気にしている。 「そっちの子は?」 「売ろうと思ってな」 「なるほど」 「……いや、それはよくない」 「本気にするな」 相変わらずの奴だ。 「で、その子は知り合いなのか?」 「気にするな、羽つきじゃない」 「仕事で訊いているわけではない」 「個人的に訊いているのだ」 フィオネがわずかに語気を鋭くする。 「私は怪しい者ではない、カイムの妹だ」 「……」 完全に言う相手を間違っていた。 フィオネの眉が動く。 「カイム……お前は何人妹を作るつもりだ」 「ちょっと詰め所まで来てもらおう!」 「カイム、話が違うぞ」 目で非難してくる。 「こいつは俺の知り合いだ」 「俺に家族がいないのは知っている」 「早く言え!」 「内輪もめも詰め所でしてもらおうか」 「待て、面倒を起こすな」 「お前が言うな」 「あー、もうやめろ」 「私は望んでカイムと居る、そのことに間違いはない」 「そう言えと脅されているんじゃないのか」 「違う」 「貴様は、なぜ私の素性を調べる? どういうつもりだ?」 「き、貴様?」 フィオネが目を白黒させた。 「ともかく、もう問題はないはずだ」 「またな」 リシアの手を引っ張る。 「あ、こらっ」 「疑問があればルキウス卿に聞いてくれ」 それだけ告げ、足早にその場を立ち去る。 「あの女は何なのだ、偉そうに」 「羽狩りだ」 「あ、あれが……」 リシアが真剣な顔になる。 「制服を覚えておけ、絡まれると面倒だぞ」 「うむ、わかった」 関所の階段を下り、牢獄へ着いた。 出てきた関所をリシアが見上げる。 「牢獄から見ると、威圧感があるな」 「どうしてこのようなものがあるのだ?」 「牢獄民を閉じこめるためだ」 「閉じこめる? 通行証があれば通れるのだろう?」 「持っているのはごく一部だ」 「大半の人間は、下層にすら行ったことがない」 「おかしいではないか、何故行けぬ?」 本当に何も知らない奴だ。 ため息が出る。 だが、こいつが将来の王になるのなら、牢獄へ来ておいて良かったのかもしれない。 少なくとも、城では何も教えてはもらえないだろう。 「見ろ、牢獄は周囲を絶壁に囲まれているだろう?」 「そうだな……」 リシアに一通りの説明をする。 「要は、牢獄の危険な人間が下層に入り込んで、治安が悪化することを恐れてるんだ」 「しかし、牢獄が危険になったのは、国が何もしなかったからだろう? おかしいではないか」 「牢獄民なら、おかしいことは誰でも知っている」 「だが、変わらない」 「何故だ!?」 「政治をする人間が、おかしいと思っていないからだ」 「っっ!?」 リシアが目を見開き、そして俯いた。 「王はすべての民の父らしいが、どうやら牢獄民は数に入っていないらしい」 「そんなことは!」 「現実だ」 「まあいい、これから見ていこう」 「どこへ行くのだ?」 「知り合いで医者をやってる奴がいる。そいつの所だ」 動揺しているリシアを連れ、牢獄を進む。 崩落の爪痕を前に、リシアの足が止まる。 「これが、崩落か……」 呻くような声だった。 「ただここにいたという理由だけで、何もかもが落ちる」 「遺言も遺品も残さずに」 「……」 リシアは、口をきくことも動くこともできない。 じっと、すべてを飲み込んだ穴を見つめている。 現場は何よりも雄弁だ。 俺が多くを語る必要もないだろう。 「行こう」 リシアの手を引き、崩落現場を離れる。 「関所の前の広場とは違うだろう?」 「ああ、寂れているな」 「それに……何か臭う」 リシアは顔を歪ませる。 「牢獄の臭いだ」 「ゴミか糞尿か死体か……ま、そういうものが混じった臭いだ」 「不衛生だな」 「これが牢獄の普通だ」 関所前広場を除けば、ここが最もまともな通りだ。 本来なら裏路地やスラムも見せたいが、リシアを連れて歩くには危険すぎる。 「カイム、聞きたいのだが」 「その……道に寝ている者達はどうしたのだ?」 リシアは道の端に転がっている人々を伏し目がちに見る。 「家も金も食い物もないんだ」 「ここで、誰かが金を恵んでくれるのを待ってる」 リシアは通りを振り返る。 道の両側に延々と乞食たちが連なっていた。 「先日の崩落で、更に増えたようだな」 「……」 リシアが悲壮な顔をした。 「お姉ちゃん、何かおくれよ」 「腹が減ってさ、死にそうなんだ」 乞食のガキが、〈覚束〉《おぼつか》ない足取りでリシアに寄ってきた。 差し出された手は奇妙に曲がり、指が数本欠けていた。 「あ……」 リシアが立ちすくむ。 「なあ、何かおくれよ」 「頼むよ、腹が減って死にそうなんだ」 乞食を前に体が震えている。 「優しくしているうちに消えろ」 「やめろカイム」 「子供は何も悪いことはしていない」 「へっ」 ガキが素早く動く。 ガキがリシアの首飾りを〈掻〉《か》っ〈攫〉《さら》う。 「あっ!?」 「ぐあぁっ」 ガキの足を払う。 転倒したそいつから、首飾りを取り返す。 「同情は無意味だ」 「ガキ、いつまで寝てる? さっさと行け」 「ひ、ひっ……」 不器用に起き上がり、ガキは走り去った。 首飾りをリシアに返してやる。 「お前……あのような子供に乱暴を振るうなど……」 「あの子はお腹が空いていたのだ」 「なら、今から追いかけて首飾りをくれてやれ」 「くっ……」 リシアは言葉に詰まる。 「だ、だがあの子供は怪我をしていたのだぞ」 「転ばせることはないだろう」 「腕が折れていたことを言っているのか?」 「ああ」 「あれは、親がやったんだ」 「ど、どういう意味だ?」 「その方が同情が引けるだろう?」 「乞食の親はよくやることだ」 「そ、そんな馬鹿なことがあるものか!」 「子は親の宝だろう!」 「腕を折った方が子供が長生きできるんだ」 「親の愛情じゃないか?」 リシアの手前、そう言っておく。 どうせ大概は望まれずに生まれたガキだ。 親も、子供を道具としか思っていない。 「おかしい! そんなことが許されていいのか!」 「俺に言われても困る」 「奴らを救える人間がいるとすれば、それは政治をやってる人間だ」 「……」 「行くぞ」 「邪魔するぞ」 「あら、カイム」 「上層に行ったんじゃなかったの」 「こっちに用があってな」 「で、それは?」 エリスがリシアを指さす。 「また新しい子を買ったの?」 「馬鹿言うな」 「変態野郎」 アイリスが物陰から現れる。 「お前もいたのか」 「悪い?」 「どうした、怪我か?」 「豚に殴られた」 「小さいのを殴るのが趣味だったんだって」 「酔狂なもんだ」 エリスから牢獄の状況を聞こうと思ったが、アイリスもいるなら好都合だ。 「なあ、カイム」 後ろから服を引っ張られる。 「何だ?」 「先ほどの、『私を買った』というのはどういう意味だ?」 「娼婦の身請けのことだ」 「娼館主に金を払えば、娼婦を自分のものにできる」 「私は娼婦ではない」 「だから、こいつらが勘違いしただけだ」 「で、その偉そうなのは何?」 「金持ちのガキ?」 「リシア、こいつらには本当のことを言っていい」 「そうか……」 リシアが居住まいを正す。 「私はリシア=ド=ノーヴァス=ユーリィ」 「ノーヴァス王家の王女だ」 「は?」 「馬鹿」 「馬鹿とは何だ!?」 「冗談にしてもつまらない」 当然の反応だった。 「悪いが事実だ」 「意味わかんない」 「で、王女様が何の用?」 話半分、といった態度でエリスが話を進める。 「お忍びで牢獄の視察に来た」 「王女に牢獄の現状を見てもらおうと思ってな」 「面倒だろうが、話を聞かせてやってくれ」 「別にいいけど」 「……」 アイリスがリシアを〈睨〉《にら》む。 日頃はどこかに視線を漂わせているのが常だ。 こんな目を見たのは初めてかもしれない。 何か思うところがあるらしい。 「リシア、こっちの背の高い方がエリス、医者だ」 「もう片方がアイリス、娼婦をやってる」 「娼婦……」 リシアが目を丸くする。 「こんな小さな身体でか!?」 「それがウリだ」 「そんな……」 「文句ある?」 「い、いや……その、どうして娼婦を」 「好きでやってるわけじゃない」 アイリスがそっぽを向く。 「リシア、エリスに聞きたいことは?」 「先程、沢山の乞食を見たが、牢獄はいつから貧しいのだ」 「牢獄ができたときから」 「昔から、か……」 「おまけに、先日の崩落で余計にひどくなった」 気落ちした様子のリシア。 「牢獄の食料は、全て上から運ばれてくる」 「だが、十分な量が運ばれたことはない。慢性的な食糧不足だ」 「私たちは恵まれている方だけどね」 「痩せすぎたら、客が付かない」 「娼婦をせずに食事を得る方法はないのか?」 「あるか馬鹿」 「……」 さっきはカッとなったリシアも、今度は黙る。 「こういうのはどうだ?」 「アイリスを今日から召使いとして召し抱えよう」 「そうすれば、娼婦などしなくても済むぞ」 アイリスが、卓にあった茶をリシアにかけた。 「え……」 「なめるなガキ」 「な、なぜ……良い話ではないか」 「わたしの家は貴族だった」 「執政公とかいうのの粛正で、みんな死んだ」 「だからわたしはここにいる」 「初耳だ」 エリスも同様の様子だ。 「執政公が粛正などするはずがない」 「何かの間違いだろう」 「死ね」 言い捨て、アイリスは出て行った。 「エリス、手拭きを」 「いいけど、身体拭いたら出て行って」 「面倒すぎて気が狂いそう」 エリスが手拭きを投げてくる。 受け取り、リシアに差し出す。 「拭け」 「……」 リシアは動かない。 仕方なく、髪と顔をざっと拭いてやる。 「……すまない」 蚊の鳴くような声でリシアが言う。 僅かに震えている手に、手拭きを握らせる。 「王女様だっけ?」 「貴方、もう少し頭使った方がいいから」 「知らなかったで許されるのは子供」 「大人は、知らないことが罪になる」 「すまぬ」 「手拭きは、牢獄に来た記念に差し上げるわ」 そう言って、エリスは間仕切りの奥に行ってしまった。 「世話をかけたな」 「いーーえ」 「行くぞリシア」 「うむ」 エリスの家から少し離れたところで、リシアが足を止める。 「ふっ、ふふ、あはは」 俯いて笑う。 「まさか、茶を掛けられるとは思わなかった」 「驚いたよ」 自虐的な笑みを浮かべる。 「なぜアイリスが怒ったかわかるか?」 「はっきりとは……」 「考えろ」 「あいつの家族は、執政公の粛正にあった」 「だから、それはっ」 「アイリスの気持ちの話なんだ、あいつの中の考えが全てだ」 「そう、だな……」 「あいつは、王家を恨んでるだろう」 「執政公が粛正など行えるのは、王家が彼を自由にさせているからだ」 「その王家の人間が、大して事情も知らないくせに、一時の同情で身請けするという」 「アイリスの人生は、どれだけ王家に〈弄〉《もてあそ》ばれればいいんだ?」 「……そうか……」 「私は、アイリスの今までの人生を〈蔑〉《ないがし》ろにしたのだな」 「恨みも悲しみも苦労も知らず、ぽんと金で解決だ」 「私は、あいつを……物扱いしていたのだな……」 大体のことはわかったようだ。 付け加えるとすれば、身請けに必要な金は生半可な額ではない。 リシアにしては大したことがない額かもしれないが、その金を払えぬがために大半の娼婦は娼館で死んで行く。 払えるからといって、気軽に払ってよいものではないのだ。 「最低だな、私は……」 声を詰まらせ、リシアは道の端にしゃがみこんだ。 仕方なく隣に座る。 「わかったようで何よりだ」 「お前は、まだ救いがある」 「だといいが」 「生きてきた世界が違うんだ、多少のすれ違いはある」 「俺も、城に登れば何もわからないガキだ」 「同じようなものさ」 「カイム……優しいな」 「勘違いはするな」 「もし、お前が考えることをやめれば、俺は見放す」 「ああ……その時は、遠慮なく見放してくれ」 リシアが顔を上げる。 「今日、牢獄で見たことは全て覚えておく」 「覚えて、よく考える」 「それでいい」 こいつは、無知だが聡明だ。 これからの生き方で何とでもなる。 「おい、止まれ!」 遠くから叫び声が聞こえた。 道に転がるゴミを蹴飛ばしながら、誰かがこちらへ走ってきた。 少年を羽狩りが追っている。 「リシア、立て」 「な、何だ?」 しゃがみ込んでいるリシアを立たせ、背後に回す。 「うがっ!」 背中に矢を受け、少年が目の前に転がった。 年はリシアと同じか、それより少し上くらいだろう。 「おい……大丈夫か?」 リシアは声をかけ、近づこうとする。 「やめておけ」 「なぜだ!?」 「そいつの背中を見ろ」 無残に引き裂かれた服の下から、羽が覗いていた。 「羽つき……」 「そこを動くな!」 羽狩りが現れた。 「あの服……」 リシアが息を飲む。 「絶対に助けようとするな」 「見るのがつらければ、俺の後ろに隠れていてもいい」 「いや……見る」 リシアは動かなかった。 その眼前で、少年がのたうち回っている。 「手間かけさせやがって」 「ぐっっ!?」 羽狩りが、少年の腹を蹴り上げた。 凍えるように縮こまる羽つき。 リシアは、駆け寄りそうになる自分を何とか抑えたようだ。 「お前ら、ガキの身内か?」 「いや、通りがかっただけだ」 「本当なら嬉しいね」 鼻を鳴らし、羽狩りが羽つきを縛り始める。 かなり乱暴だ。 「仲間でもやられたか」 「ああ、刺しやがった」 「死んだのか」 「生きてるが、もう剣は振れない」 「結婚したばかりだってのによ……」 ため息を一つ吐き、羽狩りがガキを立たせた。 「お楽しみのところ、邪魔したな」 「ああ、ご苦労さん」 羽狩りは羽つきを引き摺るように去っていった。 「もう大丈夫だ」 「はぁ……」 リシアが大きく息を吐いた。 「羽つきは皆、今のように保護されるのか?」 「マシな方だろう」 「もっと〈惨〉《むご》いのはいくらでもある」 「しかし、羽狩りも仲間をやられたと言っていたな」 「それもよくあることだ」 「今の羽つきはどうなる?」 「治癒院に送られ、帰っては来ない」 「治療法が見つかっていないからな」 「そんな……」 どうやら、執政公の研究に使われているらしいが、話したところでリシアは信じないだろう。 「こんなの……あんまりだろう」 「どうにかならないのか」 「ならない」 断言できる。 そんな簡単にどうにかできるなら、とっくに誰かがしている。 「こんなことは、牢獄じゃ毎日起こっている」 「一人や二人どうにかしたところで、何も変わらない」 「全員を助けろというのか? 無理だ」 まあ、俺やエリスじゃ大した数は救えない。 だが、政治の頂点に立つ人間ならばどうだろう? 「本当にそうか?」 「見て、考えるんじゃなかったのか?」 「あ……」 リシアが考え込む。 すぐに顔を上げた。 「確かに、力ある政治家なら皆を救えるかもしれない」 「だが、私には何の力も……」 「諦めているうちは何もできないだろうな」 「変われ。今日、今すぐ、ここで」 「そうだな」 「しかし、どうやって変わればいい」 「自分で考えろ」 嘆息した。 人に教えてもらおうとする癖は、なかなか抜けないらしい。 幼い頃から執政公に縛られてきたのだ。 多少のところは大目に見よう。 「最後に案内したいところがある」 「ついてこい」 「ここは……」 「先日の崩落で死んだ人間の墓だ」 「と言っても、遺体は埋まっていないがな」 「家族や親しい人間を失った奴らのための墓標だ」 「置かれている物は?」 「遺品だ」 遺品は前に来た時よりも増えていた。 崩落で直接死んだ者だけでなく、火災や食料の奪い合いでの死者も含まれているのかもしれない。 「全てが遺品なのか?」 「執政公は、被害は少ないと言っていたぞ……」 リシアが、〈沈鬱〉《ちんうつ》な表情で遺品の山を見つめる。 「嘘に決まってる」 「見ての通り被害は甚大だ」 「落ちずに済んでも、家や仕事を失って路頭に迷う者も少なくない」 「国からの支援は?」 「ない」 「しかし、ルキウスは私的に支援を行ってくれている」 「執政公の妨害で、大量には物資を送れないらしいがな」 「執政公が妨害を?」 「知っていたか?」 「いや……知らない」 「本当に、私は何も知らないのだな」 リシアは重いため息をつく。 それきり無言になってしまった。 「なあ、リシア」 「聖女が都市を浮かせていないことは知っているな」 「なら、何が都市を浮かせているか知っているか?」 「聞いていない」 「カイムは知っているのか?」 首を横に振る。 「それを知るために、俺は牢獄から上層に上がった」 「なるほど」 「都市が浮いている謎は、執政公が握っているらしい」 「ルキウスは、崩落が人為的なものではないかと疑っている」 「執政公は崩落を止めるための研究をしていると言ったな?」 「それなら、逆に崩落を起こすこともできるんじゃないか」 「っっ!?」 リシアが絶句する。 「ば、馬鹿を言うな」 「なぜ執政公が崩落を起こさねばならない」 「執政公が行っている研究は謎が多い」 「リシアも、研究の内容は教えられていないんだろう?」 「怪しいとは思わないのか」 「それは……」 リシアは口ごもり、沈黙する。 「お前はこの牢獄の惨状を見てどう思った」 「執政公は信に足る人物だったか?」 「……」 「少なくとも、執政公の言葉に嘘が混じっていることはわかっただろう?」 リシアが小さく頷く。 ようやく、リシアの中に執政公への疑念を作ることができたようだ。 「執政公は、崩落の犠牲者は少ないと教えたと言ったな」 「〈瑣末〉《さまつ》な嘘ならいい。だが崩落の犠牲者の数だぞ?」 「嘘をついていいことかどうか、お前ならわかるだろう?」 「ああ、もちろんだ」 「執政公の言葉が全て嘘だとは言わない、だが信じる前に少し考えてみろ」 「そうすることで、リシアは変わっていけるはずだ」 俺の言葉に、リシアはしっかりと頷いた。 リシアを城に送り届け、ルキウスの屋敷に戻ってきた。 「あ、カイムさんお帰りなさい」 自分の部屋に戻ってくると、中にティアがいた。 「お前、俺の部屋で何やってるんだ?」 「お掃除してました」 「掃除なんて召使いがやってくれるだろう」 「そうなんですけど……」 落ち込んだ顔をするティア。 いつもの元気がない。 「ティア、何かあったのか?」 「あはは……」 「笑ってごまかすな」 「すいません」 「掃除はいいから、ちょっと座れ」 「はい……」 「大丈夫だ、話してみろ」 しばらく悩んだ顔を見せてから、ティアが口を開く。 「今日、また羽つきさんの治療をしたんです」 「実は今日、治療中に倒れてしまって、皆さんにご迷惑をかけてしまいました」 「何があったんだ?」 「普通に治療をしただけなんですが、何だか頭と身体が重くなったんです」 「痛みは?」 「ありません」 「こんな立派な暮らしをさせていただいているのに、申し訳なくて」 もしかしたら、羽つきを治療すると体力を消耗するのかもしれない。 「あまり無理はするな」 「ルキウスには、少し休ませるように言っておく」 「い、いえ、大丈夫です」 「皆さん治療を待ってますし、わたしも羽つきの皆さんを治してさしあげたいんです」 「だが、お前が倒れたら元も子もないだろう」 「代役はいないんだぞ」 「大丈夫です、いっぱい食べて頑張りますから」 「食事で何とかなるのか?」 「多分なります」 わけのわからない自信だ。 「とにかく無理だと思ったら休め」 「誰も、倒れるまで頑張って欲しいなんて思っていない」 「はい、気をつけます」 羽つきを治療することについては、ティアがかなりやる気だ。 本当に自分から休みたいなどと言うのだろうか。 ルキウスには、それとなく言っておこう。 「身体に異常はないのか?」 「痛いとか、苦しいとかはありません」 「でも、夢がはっきり見えるようになってきたんです」 「前に言っていたのと同じ夢か?」 ティアが目で頷く。 「大きな部屋で、男の人が言い争いをしている夢です」 「2人のおじさんでした」 「きちんとした服を着てらっしゃるので、お金持ちだと思います」 「部屋の様子はどうだった」 「ガラスの小瓶や本があちこちにあります」 「それで、不思議な模様の入った柱が部屋の真ん中に立っているんです」 真ん中に柱? 珍しい構造の部屋だ。 「他に何かわかるか?」 「すみません、見えたのはそのくらいです」 ティアの見ている夢が何を意味しているのかはわからない。 そもそも、ただの妄想である可能性もある。 「カイムさんに聞いてもらえて、何だか落ち着きました」 「あまり良い夢ではなかったので、今日は少し不安だったんです」 「夢の話だ、あまり気にしない方がいい」 「ええ、そうですね」 「いつも変な話ばかりしてすいません」 ティアがペコリと頭を上げる。 「もう少し、肩の力を抜いて取り組んだ方がいいんじゃないか」 「はい、そうします」 「あ、でも、肩の力を抜くと変なことを言ってしまうので、やっぱり気をつけないといけません」 「わたしはいつか、コレットさんみたいにしっかりした女性になりたいんです」 対極にいる人間のような気がする。 「諦めろ、お前はお前でいい」 「うーん、そうでしょうか」 「あ、もう既にしっかりしているという意味ですか?」 「全く違う」 「あ、じいや」 じいやに駆け寄る。 じいやは、いつも庭掃除や草木の世話をしている召使いだ。 優しくて、いろんなことを知っている。 「これはリシア様、ご機嫌麗しゅう」 「うむ、今日も庭いじりか?」 「もちろんでございます」 「これが仕事でございますので」 「いつまで続くのだ?」 「そうですなあ……リシア様がご立派になるまでは続けたいと思っておりますよ」 「そういうことではない」 「今日は、いつになったら遊んでくれるのだ」 「はははは、これは勘違いをしておりました」 「リシア様、今日はまだ仕事が残っておるのです」 「遊んでくれ、今すぐ遊んでくれ」 「今日は父上の生誕祭とかで、誰も遊んでくれんのだ」 「でも、じいやは暇そうだ」 じいやは困ったように笑う。 「いやいや。こう見えまして、じいやは忙しいのですよ」 「ではリシア様、私の仕事を少し手伝っていただけますか?」 「面白いのか?」 「きっとお気に召すかと思います」 「そうか、ならやるぞ!」 庭の端に行くと、じいやが屈み込む。 野花を摘み、何かを作り始めた。 「じいや、いつもは花を摘んではいけないと言うではないか」 「花壇の花はいけませんが、隅の花はよいのです」 「いずれ刈ってしまうものですから」 「同じ花なのに、どうしてこっちは良くてあっちは良くないのだ」 「むむむ、リシア様は難しいことを仰る」 「聡明でございますな」 「むう……だが父上は、いつも私を愚かだと言うぞ」 「もっとご本を読みなされ」 「そうすれば、すぐに賢くなりますぞ」 「本はつまらんのだ」 「私はじいやとおるのが良い」 「ははは、ありがとうございます」 「さて、できましたぞ」 じいやは摘んだ花で丸い輪を作り上げた。 「なんだそれは」 「花の冠にございます」 花でできた冠を私の頭に乗せてくれる。 「おお、すごい!」 「じいやは花で冠が作れるのか」 冠を頭から外し、しげしげと見つめる。 小さな花があしらわれた冠は、きらきらと光って見えた。 こんな物が作れるなんて、じいやは手品師のようだ。 「じいや、私も作ってみたい」 「父上に差し上げるのだ」 「ええ、ですが……」 じいやが困った顔をする。 「難しいのか?」 「いえ、簡単でございます。お教え致しましょう」 じいやは丁寧に作り方を教えてくれた。 私はじいやの教え通り、花を摘んで組み始める。 「うう……なかなか難しいぞ」 「慌てずに、ゆっくり作ればよろしいのですよ」 私はじいやのように手が大きくない。 どうも上手くいかない。 「ううぅ……」 だんだん苛立ってくる。 「そんなにお急ぎにならなくても、明日も明後日もお教えしますよ」 「いやだ、今日作らねばならんのだ」 「では、こうして……」 じいやが私の後ろから手を伸ばし、冠作りを手伝ってくれる。 私は一生懸命に花を編み込んでいった。 「できたっ!」 「おめでとうございます」 ようやく完成した。 まん丸にはできなかったけど、頑張って作ったんだ。 きっと父上も喜んでくれるはず。 「よし、父上にあげてくるっ」 「あ、リシア様……」 じいやが何かを言いかける。 だが、私は気にせず父上の下に走っていった。 「父上っ」 私は父上の元に駆け寄る。 周りには祝賀のために集まった貴族たちがいた。 私の姿を見て静かに場を外す。 《……やめて……》 「見てください、父上」 花の冠を差し出す。 「今日は、父上のお誕生日でしょう」 「だから、これを作ったの」 《……やめてよ……!》 「父上、お誕生日おめでとう」 私が差し出した花の冠を、父上はじっと見つめた。 「……………………」 「……」 手から花の冠が落ちた。 ──私は馬鹿だった。 果てしなく愚かだった。 父上が、私の贈り物を受けてくれるはずなんてないんだ。 だって私は……。 「はっ!!」 布団をはね除けた。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 また、この夢か。 額の汗を拭う。 あの時、父上は何と言ったのだろうか。 今となっては思い出せない。 いや、本当は思い出したくないのだろう。 「ふ、ふふふ」 自然と笑いがこみ上げてくる。 「あはは、ははは……」 困ったとき、私は笑うことにしていた。 そうするのが一番楽だったから。 誰からも嫌われず、誰からも不要と言われないようにするため。 笑っていないと不安で押しつぶされそうだったから。 私は笑って、ただただ肯いてきた。 そうやって今までやってきた。 「……」 でも、今日、カイムは気付かせてくれた。 王はすべての国民の父である。 その言葉に偽りなく従うならば、私は牢獄の窮状を決して見過ごしてはならない。 住まいも食べるものも失ったものたち、腕の折れた子供、体を売って生きるしかない者たち。 絶対に彼らを見捨ててはならない。 しかし…… 脳裏に執政公の顔が浮かぶ。 彼は、幼い頃からずっと私を支えてきてくれた。 ある意味では、父上よりも親らしく私を支え続けてくれたのだ。 その執政公に刃向かう。 執政公の進めていることに疑問を挟み、正面からぶつかっていく。 私にできるのだろうか。 自然と体が震えてくる。 「ふふ……ふ……」 顔が卑屈に歪む。 執政公を前にすれば、またこうやって誤魔化してしまうのだろうか。 「確かに、力ある政治家なら皆を救えるかもしれない」 「だが、私には何の力も……」 「諦めているうちは何もできないだろうな」 「変われ。今日、今すぐ、ここで」 「明日に持ち越すなら、お前は一生変われない」 「執政公の言葉が全て嘘だとは言わない、だが信じる前に少し考えてみろ」 「そうすることで、リシアは変わっていけるはずだ」 カイムの言う通りだ。 私は父上のようになりたいと願ってきた。 なら、私はここで退いてはいけない。 変わるんだ。 私が変わることから、全てが始まるんだ。 「よし!」 気合いを入れて歩きだす。 普段ならヴァリアスの目を盗んで遊び回っている時間だ。 だが、今日は違う。 正装に身を包み、まっすぐに会議室へと向う。 「リシア様、おはようございます」 「どちらへおいでですか?」 近衛兵が声をかけてくる。 私は、微かに震える手を握りしめた。 「会議室だ」 「リシア様の御成です!」 慌てて駆けていった近衛兵が告げる。 その声が終わるより早く、私は大広間へと入る。 ざわつきが瞬時に止む。 ヴァリアス、執政公、そしてカイムと目が合う。 遅れて、皆が膝をついて頭を垂れた。 「皆の者、大儀である」 貴族たちが立ち上がる。 「リシア様、本日はお早いですな」 「まだ会議は始まっておりません」 「よかった」 「ならば、最初から会議を見届けることができるな」 「はい……」 執政公の瞳が細められる。 決意が揺らがぬよう、目を逸らさずに見つめた。 質問を繰り返す。 皆があからさまに面倒そうな顔をするが、気にしない。 今日の会議で不明な点は残さない。 「麦の収穫が減ったため対処を行ったとあるが、具体的な内容は?」 「収穫が減った原因は?」 「農地には足を運んだのか?」 「現地の状況はどうなっているのだ」 答えは返ってこない。 「執政公、次の会議までに回答を用意しておいてくれ」 「いささか、ご質問が細かすぎるかと存じます」 「リシア様には、是非とも大局をご判断いただきたく」 「大局を判断するには、細かい情報も必要だ」 「面倒かもしれないが、よろしく頼む」 執政公が黙り込む。 なぜ黙る? 「執政公」 ルキウスが立ち上がる。 「そのお役目、わたくしにお命じください」 「皆様はご多忙の身、若輩のわたくしならばまだ時間もございます故」 「うむ、異論のある者はいるか?」 貴族たちは一言も発しない。 「リシア様、この件につきましてはこちらのルキウス卿がご報告いたします」 「よろしく頼んだぞ、ルキウス」 「はっ」 これでいい。 さあ、次の議題だ。 再び質問を繰り返す。 やはり回答はなかった。 その度にルキウスが名乗り出、調査を請け負ってくれる。 徐々に、会議室が苛立ちと緊張に包まれていく。 「リシア様、申し上げにくいのですが、このままでは予定の議題を全て消化することができません」 「どうかこの場は私にお任せいただけないでしょうか」 「ご不明な点につきましては、後ほど勉学の機会を設け、そちらでお教えいたします」 他の貴族たちも、無言の内に同意していた。 非難めいた視線が私に集まる。 しかし、執政公の案を呑んでは何も変えられない。 「執政公、私は良からぬ噂を耳にした」 「どのような噂でしょうか」 「そなたの創設した防疫局という組織があるな」 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護し、治癒院で治療を受けさせるためのものと聞いた」 「仰る通りにございます」 「だが、治癒院から出てきた患者は一人もいないとも聞く」 「これはどういうことだ?」 執政公の動揺を期待していた。 だが、彼は泰然とした姿勢を崩さなかった。 「根も葉もない噂にございます」 「リシア様ともあろうお方が、そのような噂をお信じなさいますな」 「どうして噂だと言い切れる? 治癒院では何が行われているのだ?」 「より詳しい者に説明させましょう」 「ルキウス卿」 「はい」 ルキウスが立ち上がる。 その顔には僅かに暗い色が差していた。 「まことに遺憾ながら、羽化病の治療法は未だ確立されておりません」 「それ故、多くの〈罹患者〉《りかんしゃ》は治療の甲斐もなく死に至っているのが現実です」 「しかしながら、羽化病は伝染いたします」 「民の平穏を守るためにも、やはり保護は続けねばなりません」 ルキウスが淀みなく言った。 筋の通った説明だ。 ならばなぜルキウスの表情は暗いのか。 「執政公、間違いないか」 「はい、相違ございません」 執政公は微笑を崩さない。 底の見えない男だ。 私は、こんな男と戦わなければならないのか。 「そなたは以前、防疫局と治癒院は父上の進めている研究のために必要だと言ったな」 「研究と防疫局に、どのような繋がりがあるのだ?」 「羽化病の治療法の確立が、国王陛下の進められている研究に役立つのです」 「それは本当なのか?」 「お戯れを」 執政公が苦笑する。 「お疑いであれば、国王陛下に直接伺いましょう」 「国王陛下にはリシア様が疑問を持たれていることをお伝えしておきます」 「お体に差し障りがあるかもしれませんが、他ならぬリシア様のため」 「病を押してお答えいただけるでしょう」 胸が痛んだ。 父上が私のためにと始めてくれた研究に、私が疑問を? しかも、父上を苦しめてまで。 「わ、わかった、もうよい」 「お前が父上の研究を忠実に進めていることに、疑問はない」 「ありがとうございます」 「国王陛下も、さぞお喜びになるでしょう」 執政公が満足そうに微笑む。 悔しい。 執政公の研究に疑義を投げつけることは、すなわち父上に疑いを向けることでもある。 やはり、私に父上は裏切れない。 執政公の仕切りで会議が進んでいく。 さっきまでのように疑問を投げかけることができない。 不明な点はいくつもあるのに。 「ではリシア様、お言葉を」 執政公の声が響く。 結局、私の力はこの程度か。 「全ての議案について十分に審議はなされた」 「本会議の決定事項を、リシアの名により裁決する」 「皆の者、ご苦労であった」 いつものように、何も変わらない裁決を下す。 私は瞳を閉じ、俯いた。 会議室の扉が開き、貴族たちが出てきた。 執政公とその取り巻きが大広間の一角で世間話を始める。 「……」 その脇を、リシアが力なく歩いていく。 ちらりとこちらに視線を向け、ため息をついた。 勇んで会議室に入っていったリシアだが、どうやら上手くいかなかったようだ。 「待たせた」 「今日は時間がかかったな」 「リシア様が私たちを質問攻めにされたのだ」 「なかなかの見物だったぞ」 ルキウスの表情は明るかった。 リシアなりに頑張ったようだ。 「それにしては、リシア様は落胆されていたようにお見受けしましたが」 「後で話そう」 ここでは話しにくい内容のようだ。 「ルキウス卿、少し良いか」 執政公から声がかかる。 「お呼びだ」 ルキウスに連れられ、執政公の下へと向かう。 「お呼びでございましょうか」 「本日の会議では、様々な調査を引き受けてくれたな」 「そなたがおらねば、まだ議題は半分も進んでいなかったことだろう」 「礼を言うぞ」 「ありがたきお言葉」 「調査には、他の貴族たちも協力させるゆえ、よしなに取りはからってくれ」 「はっ」 ルキウスが礼をする。 「それにしても、リシア様はどうされたのか」 「にわかに政務へ強いご関心を持たれたように見えた」 「ルキウス卿、何か心当たりはないか?」 「わたくしの様な者には想像もつきません」 「そちらの補佐官はどうか?」 「最近、リシア様のお側にいると聞くが」 執政公の瞳が俺を射貫く。 感情の読み取れない目をしている。 どう答えるか。 「申し訳ございません」 「この者は城に上がって日も浅く、勝手がわかっておりません」 「何かありましたら、後ほど我が主を通じてご報告いたします」 システィナが俺をかばう。 執政公の瞳に、僅かに感情が浮かんだ。 だが、それもすぐに消える。 「そうしてくれ」 「ルキウス卿には気の利く部下が多くいるようだな。羨ましい限りだ」 「私も優秀な部下が欲しいものだ」 「執政公は、わたくしがお支え致します」 「残念ながら、優秀という部分は当てはまりませんが」 「ははは、そうか」 「私も若かった頃は、ご多忙のネヴィル卿をお支えしたものだ」 「そのご子息が成長し、こうして私を支えてくれる」 「まさに、子は宝だな」 「……」 システィナは黙って低頭する。 俺もそれに合わせて頭を下げておく。 「時間を取らせたな」 執政公は、取り巻きを引きつれて大広間を出て行った。 その姿を黙って見送る。 口では聞こえのいいことを言っているが、執政公はルキウスを完全には信頼していないようだ。 わざわざ俺に話を振ったり、忠誠心を計るようなことを言ってきた。 答え方を間違えれば、ルキウスの叛意は見抜かれてしまうだろう。 日々の会話でも全く油断できない。 執政公が退出したことで、広間からは次々と貴族が去っていく。 周りに人がいないことを確認し、ルキウスが口を開く。 「先程の話だが……」 「リシア様が落ち込まれていたのは、最終的には執政公にやり込められてしまったからだ」 「治癒院について疑問を投げかけられたのだが、国王陛下を楯に執政公が追及をかわした」 「具体的には?」 「研究は陛下がリシア様のために始められたもので、その意義を疑うことは陛下を疑うことであると言った」 「どうしても解消したい疑問があるならば陛下に直接伺うが、ご体調には影響があるだろうと脅したのだ」 「それで、リシアが折れたか」 やはり、父親には弱いようだ。 「しかも執政公は、防疫局と治癒院の意義をわざわざ私に説明させた」 「私に対する牽制だろう」 「先のカイムへの質問から考えても、こちらの動きにも注意しているようだ」 「なぜルキウスを潰しに来ない?」 「それなりの対策はしているのでね」 ルキウスの言葉にシスティナが頷く。 「あんたの苦労が忍ばれるよ」 「なに、本当に厳しくなるのはこれからだ」 「しかしカイム、リシア様の変わりようには正直なところ驚いた」 「着実に進めてくれているようだな」 「今までのところは」 だが、手詰まりではあった。 これからリシアに会いに行くことになっている。 奴に何を話すべきか。 「今日の話を聞く限りでは、国王とリシアの関係が課題になりそうだ」 「国王は隔離されて治療を受けていると聞いたが、会うことができるのは誰だ?」 「執政公と、彼が指名した主治医と召使いだけだ」 「全員執政公の手下か」 国王の言葉は、執政公が自由に作れるわけだ。 口裏を合わせれば、国王の病状はもとより、生死すら誤魔化すことができるだろう。 「リシアが直接話せれば流れも変わるかと思ったが、難しいか」 ルキウスが頷く。 何か執政公の守りを崩す策はないか。 「主治医か召使いを落とすのはどうだ」 「〈酒色〉《しゅしょく》に弱ければやりようもあるが」 「彼らは忠誠心が高い」 「こちらが誘いをかけただけで、執政公に報告されるだろう」 「そうか」 あと、何か策は……。 過去の経験を片っ端から探る。 暗殺を警戒し、人との接触を断っていた目標をどうやって殺してきたか。 一番手っ取り早いのは侵入だが、これは難しい。 買収は否定された。 あとは…… 「国王の病を利用するのはどうだ?」 「まず、巷で評判の名医をこちらで用意する」 「その噂を城じゅうに流し、国王も診てもらうべきだという空気を作る」 「噂が十分に広まっていれば、むしろ診察を断る方が難しくなるだろう」 「確かに、回復の兆しがないのなら新しい医者に診てもらうのが常識的な判断だ」 「ましてや、評判の医者がいるならな」 飲み込みが早い。 「医者は俺に当てがある」 「機を窺う必要があるな」 「少し時間をくれ」 「わかった」 「今のところは、まずリシア様に陛下にお会いしたいと思っていただかねばならない」 「カイム、頼むぞ」 「割に合わない仕事に思えてきた」 苦笑する。 もちろん断る気はない。 今手を引けば、ルキウスに消される可能性もある。 「カイムの働きかけで、リシア様は変わった」 「何人もの貴族が苦言を申し上げても変わらなかったリシア様がだ」 「こういう言葉は使いたくないが、相性というものもあるだろう」 「ま、できる限りのことはする」 一人の女の心を動かす仕事か。 全くの専門外にもかかわらず、最近この手の話が多い。 やれやれだ。 「たった一つの失言が、ご機嫌を損ねることもあります」 「心してかかってください」 「言われなくてもそうする」 「あんたは、本当に余計なことしか言わないな」 「これは失礼」 「では、次からは執政公に発言を求められても助けないようにしましょう」 「構わんが、俺達は一蓮托生だぞ」 「くっ……」 「お前達も、意外と相性が良いのかもしれないな」 「お、お戯れをっ」 「なぜ私がこのような男と」 「ははは、冗談だ」 付き合いきれない。 「それじゃ、俺は行くぞ」 「よろしく頼んだ」 ルキウスの言葉を背に受け、リシアの部屋に向かう。 「誰だ」 「カイムだ、入るぞ」 「あ……」 「なんだ?」 リシアは着替え中だったが、いい加減見慣れてしまった。 俺は適当にそこらの椅子に座る。 リシアが凄まじい形相で俺を〈睨〉《にら》んだ。 「ば、馬鹿者っ、何を見ているんだっ!」 「いいから外に出ろっ! 何を考えているっ!」 「……」 外に追い出された。 何を考えているかは、こちらが聞きたい。 今までは隠しもしなかったくせにどういうことだ。 中でリシアの騒ぐ声が聞こえていたが、それが収まる。 「よ、よし……カイム、入っていいぞ」 「こ、この痴れ者め……」 リシアは真っ赤な顔をして俯いている。 俺の脇を召使いたちが通り過ぎていく。 「リシア様はどうされたんだ?」 「多感なお年頃ですから」 「くす……頑張ってくださいませ」 召使いは忍び笑いを漏らして去っていった。 何だ、リシアが俺に気があるとでも言いたいのか。 仕事を進める上ではありがたいが、しかし…… 「その……あー、なんだ」 「これはあれなのだ」 「はっきり言え」 「き、気の利かない奴だなっ」 リシアが鼻息荒く椅子に座る。 「悪かったな」 「い、いや……私の方こそすまない」 「召使いから、女性がみだりに裸を見せるのは良くないことだと聞いてな」 「男性は……その、女性の裸を見ると欲情するのだろう?」 そんなことも知らなかったのか。 「安心しろ、お前では欲情しない」 「何故だ」 「何故と言われてもな」 「欲情して欲しいのか?」 「それは困る」 「が、されないのも困る」 面倒な奴だ。 適当な椅子に座り、淹れてあった茶を飲む。 「それより、何か気付かないか」 「何か?」 リシアはもじもじしている。 服も髪型もいつもと変わらない。 「何か違うのか?」 「どうしてわからんのだ!?」 と、ほんのりと花の香りが辺りに漂っていることに気付く。 茶の香りかと思ったが、これは違う。 「香水か」 「そうそう、香水だ!」 破顔した。 「召使いから聞いてな、付けてみたのだ」 「どう思う」 「娼婦のよりは品がいい」 「娼婦か……」 途端にリシアの顔が曇る。 「お前は、その……娼婦を買ったことがあるのか?」 「もちろんあるが」 牢獄の男でそこそこ金があれば、誰でも娼婦と遊んだことはある。 「うう……」 「ま、まあ良かろう。人生に苦難はつきものだ」 「不問に付す」 勝手に納得した。 「しかしどうした、急に香水などつけて」 「召使いにカイムのことを話していたら、色々と教えてくれたのだ」 「だが、牢獄へ行ったことは伏せておいたぞ」 なるほど、召使いが勘ぐるはずだ。 「そうだ、忘れていた」 リシアが居住まいを正す。 「昨日は、私を牢獄に連れて行ってくれてありがとう」 「嬉しかったぞ」 「ま、楽しくはなかっただろう?」 「いや、お陰で見地を広げることができた」 「ああいう現場こそ、私が知らなければならなかったものだ」 「昨日のことは決して忘れない」 「会議では頑張ったらしいな」 「ああ……」 リシアは曖昧に笑う。 「なに、大したことではない」 「執政公と話してみてどうだった」 「執政公は、父上が決めたことを忠実に守っているだけに過ぎない」 「私があれこれと言える立場ではないようだ」 リシアの声が、僅かに低くなる。 嘘をつくのが下手だな。 「お前は昨日、執政公の全ては信用できないと言ったじゃないか」 「執政公が、国王の言葉を正確に伝えているとは限らないぞ」 「……それは」 「お前が国王に直接聞いてみろ、それがなにより正確だ」 「それはできない」 「父上は、私に病が移らないようにと気を遣ってくださっているのだぞ」 「と、執政公が言ってるんだろう?」 「あの男は自らの権力を守るためなら、どんな嘘もつくぞ」 「わかっている」 「わかっているが……怖いのだ」 リシアの手が小刻みに震えている。 「父上に会うのも、執政公の言葉を疑うのも……私は、怖くてたまらない」 「何が怖い」 「執政公は、私が幼い頃からずっと面倒を見てくれていたのだ」 「ずっと優しかったし、私の知らない父上の話も沢山聞かせてくれた」 「頭では、牢獄の惨状を招いたのは執政公だとわかっている」 「だが、彼に意見していると、私は何かしてはいけないことをしている気分になるのだ」 幼い頃の経験は、人間の奥深くに残る。 それは皮膚病のように、〈顕〉《あきら》かなものではない。 腹の奥底に潜み、静かに全身を蝕む病のようなものだ。 「もし、執政公が国王の意思に反した行為をしているとしたら、お前は国王と執政公のどちらを取る?」 「考えたくもない」 「仮定の話だ」 リシアは目を瞑った。 眉根を寄せ〈懊悩〉《おうのう》する。 「もし仮に、執政公が父上に反しているなら……」 「私は父上に従う」 満足できる答えだった。 「そう決めているなら、お前はどんな事実を前にしても揺るがないはずだ」 「う、うむ」 リシアが何とか頷く。 「辛いだろうが、全てを知るために進んでみろ」 「エリスも言っていただろう、大人になれば知らないことは罪だ」 「厳しいな、カイムは」 「お前は、私が嫌なことばかりを言う」 リシアが泣きそうな顔で微笑む。 「親身になってくれる人間が欲しいと言ったじゃないか」 「これが、俺なりのやり方だ」 「憎たらしい奴だ」 「だが、お前といると自分が変わっていく実感がある」 「礼は言っておこう」 「本当に変わりたいのなら、まずは国王に会ってみろ」 リシアが少し悩む。 「時間をくれ」 「今の私では、まだ父上の前に立つことはできない」 「わかった」 無理に押すのは禁物だ。 変われと言うのは簡単だが、変わる方の負担は大きい。 エリスとの一件でも嫌と言うほど思い知らされたことだ。 「頑張ってみろ」 「お前ならきっといい王になれるはずだ」 「ああ、ありがとう」 リシアに別れを告げた。 どうやら、執政公と国王の存在はリシアの深い部分に食い込んでいるようだ。 お前は間違っているから直せ、といった簡単な論法では、彼女を変えられそうにもない。 適確にリシアを変えるには、まだ情報が足りない。 特に、ルキウスが知りようもないリシアの幼少期についてだ。 庭から、木のぶつかり合う音が響いてきた。 ヴァリアスと近衛兵が、木剣で訓練をしている。 「ほう」 近衛兵もなかなか訓練されているが、ヴァリアスの強さは桁が違う。 巨体からは想像もできない俊敏さ。 大振りはせず、むしろ繊細に剣を扱っている。 あいつに率いられた近衛兵は、確かに敵に回したくはない。 「どうした、もっと打ち込んでこい」 「はいっ!」 近衛兵の鋭い攻撃を、ヴァリアスは身体を開いて簡単に避ける。 「がっ……」 鎧を着込んだ近衛兵の体が横に飛ぶ。 「どうした!」 「も、申し訳ありません……」 近衛兵は何とか立ち上がるが、足元は〈覚束〉《おぼつか》ない。 「ふっっ!」 「あ……」 弾かれた近衛兵の木剣が、俺の足元に飛んできた。 ヴァリアスが俺を見る。 「素晴らしい腕だ」 「ふん、お前か」 木剣を拾い上げ、ヴァリアスの元へ向かう。 「ほらよ」 木剣を近衛兵の足元に投げる。 だが、近衛兵はろくに動けもしない。 見れば、大量に汗をかいていた。 「さあ、立て」 ヴァリアスが近衛兵に言う。 「もうやめたらどうだ」 「こんな状態で訓練しても、実にならない」 「懲罰も兼ねているのでな」 「この男は、職務中、召使いに色目を使っていた」 「なるほど」 「以前のように、お前が身代わりにでもなるか?」 馬鹿らしい。 しかし、別の考えも浮かんだ。 ヴァリアスは、リシアの教育を見ていたはずだ。 とすれば、幼い頃のリシアにも詳しいだろう。 関係を作っておくべきだ。 「そこの男には同情しないが、俺も身体がなまっていたところだ」 「稽古でもつけてもらおうか」 「遠慮はしないぞ」 「ああ」 「よろしい」 ヴァリアスは近衛兵の下に行き、腕を引き上げて立たせてやる。 「運が良かったな」 「明日からは、また励めよ」 「はいっ」 近衛兵は足を引きずるようにして去っていった。 「さて、始めようか」 「いつでも」 互いに木剣を構える。 「はっ!」 一瞬で間合いが詰まる。 打ち込みを弾く。 重い。 一撃で手が痺れる。 〈躱〉《かわ》しつつ距離を取る。 「逃げ腰だな!」 ヴァリアスが踏み込みながら、体を回転させる。 巻き打ちか! 背を見せた瞬間、ヴァリアスの間合いに飛び込む。 だが、 俺の一撃が届く寸前、ヴァリアスの木剣が振り下ろされる。 遠心力と渾身の力が込められた一撃だ。 次の瞬間、俺の木剣は遙か彼方に弾き飛ばされていた。 ヴァリアスの剣が、俺の首に当てられる。 「俺の負けだ」 「剣は使い慣れていないようだな」 「そんな相手に、剣で後れを取るようでは近衛騎士団長など務まらん」 「ごもっとも」 ヴァリアスが小さく笑った。 「だが、筋はいい」 「訓練を積めばもっと強くなるぞ」 「見込んでくれるのは嬉しいが、生憎、俺は兵士じゃないんでな」 「勿体ない」 「だが、武人にするのも惜しいか」 「何の話だ」 ヴァリアスが儀式めいたやり方で、木剣を腰に差した。 正統な剣術では、このようなことをするのだろう。 「今朝、リシア様は朝から会議にお出になった」 「お前の仕業だろう?」 「何のことだ?」 「誤魔化すな」 「私が、何年リシア様のお側にいると思っている」 「リシア様の変化を見逃すほど〈耄碌〉《もうろく》していない」 「お見それした」 「この数年、私がリシア様へ説いてきたことを、お前はたった数日で実現してしまった」 「〈籠絡〉《ろうらく》の才があるとしか思えん」 「人聞きの悪いことを言うな」 「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできないだろう」 「リシア様を馬に例えるとは無礼な奴め」 口調こそ荒々しいが、怒っている様子はない。 むしろ、喜んでさえいるようだった。 「それで、リシア様の様子はどうだった」 「先ほどまで話し相手をしていたのだろう?」 「落ち込んでいたな」 「思った通りにはいかなかったようだな」 「それで、次は私に取り入るか」 「ルキウス卿もご苦労なことだ」 鋭いところを突いてくる。 ルキウスが腹に何かを秘めていることを見透かしているようだ。 「あんたは決めつけが多い」 「回りくどいやり方は少々苦手でな」 武人らしく、さっぱりとした人物だ。 嫌いではない。 「残念ながら、俺はリシア様に求められて話をしているだけだ」 「あんたが想像しているような思惑は何もない」 「ならば、話はこれで終わりにするか?」 「私から聞きたい話があったんだろう?」 「ああ」 「私も暇ではない、早くしろ」 何故かヴァリアスは好意的だった。 執政公の娘婿という立場を考えれば、俺を敵視してもおかしくないはずだが。 「俺が聞きたかったのは、国王陛下のことだ」 「この前、リシア様に俺が国王陛下に似ていると言われてな」 「どんな人物なのか知りたくなった」 「お前が国王陛下に? 冗談を言うな」 一笑に付した。 「リシア様の話では、国王陛下はご家族を第一に思っておられる優しい方だということだった」 「俺は、褒められたと思って気を良くしていたんだ」 ヴァリアスは僅かに目を泳がせる。 何かを〈躊躇〉《ちゅうちょ》するかのような視線だった。 「隠し事は苦手なようだな」 「良かろう」 覚悟を決めたように、俺を見据える。 「残念ながら、国王陛下はご家族にお優しい方ではなかった」 「国政を第一に考え、万民に等しく当たらんと常に心を砕いておられたのだ」 「国王は全ての民の父となるべし、だったか?」 ヴァリアスが頷く。 「私情に流されることを嫌い、実の娘であるリシア様にも厳しく接しておられた」 「その徹底ぶりは、私ですら同情を感じることもあったくらいだ」 「なら、リシア様が仰っていた国王陛下は別人か?」 「恐らく、そうであって欲しいというリシア様の願望だろう」 「本当にそれだけか?」 「何が言いたい」 「そう思い込むよう、誰かが仕組んだんじゃないのか」 ヴァリアスが目を逸らす。 「滅多なことを言うな」 「どうして執政公がそのようなことを」 ヴァリアスがボロを出した。 俺は一言も執政公の話はしていない。 つまり、ヴァリアスには心当たりがあるということだ。 本人の言う通り、回りくどいのは苦手らしい。 「あんたはわかってるんだろう? 執政公が本当は何をしているのか」 「私の口からは何も言えん」 「そうか」 ヴァリアスは俺の言葉を否定しなかった。 「お互い立場のある身だ、これ以上の詮索はするな」 「そうしよう」 俺はヴァリアスに背を向ける。 やはり、リシアの言う国王の姿は虚像だったようだ。 もしかしたら、リシアもそのことに薄々気付いているのかもしれない。 だから、国王に会うことを〈躊躇〉《ちゅうちょ》している。 「おい、カイム」 背後から声があった。 飛んできたものを咄嗟に受ける。 木でできた小さな容器だった。 「何だ?」 「家伝の塗り薬だ、鞭打ちの傷に塗っておけ」 まさか毒ではないだろう。 そんな姑息なことをするような奴じゃない。 どうやら、嫌われてはいないようだな。 「受け取っておこう」 俺は手を挙げ、再度ヴァリアスに別れを告げた。 「いつまで隠れている」 カイムを見送った後、声をかける。 庭の木陰、気配を消して潜んでいる者がいた。 「姿を隠しても犬は臭う」 「さすがは近衛騎士団長」 木陰から音もなく姿を現す。 見るなら堂々と見ればよい。 覗き見などしおって。 「カイムにご執心のようですが、ああ見えて〈賢〉《さか》しい奴ですよ」 「何しろ、牢獄の娼館街の人間です」 「だから何だ?」 「鞭打ちを受けたのも、そうすれば貴方が〈靡〉《なび》くと考えたからです」 「そもそも、あいつは鞭打ちなど慣れていますからね」 「何にせよ、お前には関係のないことだ」 「あたしが心配しているのは、ヴァリアス様のことなんですよ」 「親しくされる相手は選ばないと……危ない危ない」 ガウが締まりのない薄ら笑いを浮かべる。 「犬らしく密告でもするか」 「いやいや、それじゃつまらない」 「あたしはね、貴方がルキウス卿に与してくれた方が嬉しいんですよ」 「執政公と敵対してくれれば、なお嬉しいですね」 「何だと」 こいつは、執政公の部下であるはずだ。 それがなぜ……。 「戯れ言を」 「あたしはただの補佐官です、無知故に戯れ言も言いますよ」 「外道が」 「ははははっ、そう怒らないでください」 発言のいちいちがしゃくに障る。 生理的に合わない人間だ。 「お前、昨日の訓練で私の部下を殺したな」 「実戦に近い訓練がしたいと請われましたのでね」 「それならばと、不肖ながら腕まくりをしたわけです」 怒りがこみ上げてくる。 全員、木剣で急所を突かれて死んでいた。 死ぬまでの間、相当苦しんだに違いない。 「近衛兵には、お前の相手をするなと伝えてあった」 「お前がそそのかしたのだろう」 「何を仰る」 「貴方の部下があんまり私を好色な目で見るものですから、こう言ったんです」 「手合わせに勝ったら、あたしの体を使わせてやるってね」 「皆、大乗り気でしたよ」 「もっとも、訓練が終わったら、誰も腰を振れませんでしたが」 「貴様……!」 乗る方も乗る方だが、こいつの方がよほど罪深い。 こいつが執政公の補佐官でなければ、今すぐにでも殺してやりたい。 「まあいいでしょう、済んだ話です」 「あんなのに城を守られても、こっちが不安で困ってしまいますよ」 「……」 手が、自然と腰の真剣に伸びた。 「おっと」 ガウが間合いから出る。 「せっかくですから、もう少し場が整ってからやりましょう」 「あたしも、肌を磨いておきますよ」 「ふざけるな!」 「まあまあ、この場は穏便に」 「でないと、あたしも喋りたくないことを喋ってしまうかもしれません」 「例えば、先ほどのカイムとの会話とかね」 「私は、何も〈疚〉《やま》しいことは言っていない」 「そうでしょうか?」 「カイムは、執政公がリシア様を〈誑〉《たぶら》かしていると取れる発言をしました」 「だが、貴方は否定なさらなかった」 「忠臣を装いたいのなら、『馬鹿なことを』とやってもらわなければ困りますよ」 小馬鹿にした言葉遣いに、苛立ちが募る。 だが、ガウの発言は無視できない。 こいつが悪意を持って執政公に話を伝えれば、私の身は危うくなる。 それでは、今までの我慢が無駄になってしまう。 「今日のこと、執政公には黙っておいて差し上げます」 「その代わり、訓練中の事故のことも忘れましょう」 「く……」 今は黙ってこいつの言い分を飲むしかない。 こちらの沈黙を肯定と取ったのか、ガウは満足そうに微笑む。 「それでは失礼、ヴァリアス様」 長い外套を揺らしながら去っていく。 覚えていろよ。 部下の命を奪った代償、いつか支払わせてやる。 会議室の扉が開き、皆が出てくる。 最初に出てきたのはリシアだった。 「……」 俺と目が合うと、リシアがうろたえ始めた。 だが、貴族たちが出てくると、慌てふためいて去っていく。 何をやっているんだあいつは。 「待たせたな」 「お疲れ様でございました」 「今日はどうだった」 「リシア様のことか?」 「前回のような勢いはなかったが、ご質問は続けられていた」 「私の報告にも熱心に耳を傾けておられていたよ」 「そうか」 あいつなりに努力はしているようだ。 「ただ……」 「どうした」 「これから、執政公は貴族による調整会を開くと仰っている」 「リシア様を除いてだ」 「調整会?」 「打ち合わせという名の引き締めだ」 「リシア様の変化への対策を練るのだろう」 「ルキウス様もご参加を?」 ルキウスが頷く。 他の貴族も同様らしく、補佐官と話をして会議室へと戻っていく。 「俺はリシアに会ってくる」 「ああ、頼んだぞ」 リシアは廊下で手持ちぶさたにしていた。 「カ、カイムっ」 「廊下でどうした?」 周囲に人がいないことを確認し、近づく。 「な、何でもない」 「ただ、廊下に出てみたかっただけだ」 焦った顔で目を逸らす。 俺を待っていたのか? 「んー、廊下の空気はひんやりしていいな、気に入った」 芝居がかった伸びをしている。 「いいから部屋に入るぞ」 「お前にこんな口を利いているところを聞かれたらまずい」 「あ、そうか」 「うっかりしていた」 「俺の首がかかっているんだがな」 「ま、まあ良いではないかっ」 「お前はな」 「お前も楽にしていいぞ」 リシアは外套を外して大きく伸びをする。 「いや、いい」 「上着くらい脱げばいいものを」 「常に動けるようにしておきたいんだ」 「牢獄では、いつ襲われてもおかしくないからな」 長年の牢獄暮らしで染みついた癖だ。 そう簡単には変えられない。 「苦労してきたのだな」 「別に俺だけじゃない」 「牢獄の人間は同じようなものだ」 リシアが俯く。 「今日も会議では頑張ったようだな」 「ふふ、お前のお陰だ」 恥ずかしそうに頬を染める。 「もっとこの国のことを、そして牢獄のことを知りたいのだ」 「カイム、お前のことも教えてくれないか」 自分の過去を人に話す趣味はないが、リシアを変える一助になるかもしれない。 「元々、俺は下層に住んでいたんだ」 「だが、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》に巻き込まれて家と家族を失った」 以前は、思い出すのも嫌な記憶だった。 だが、コレットのお陰で、少しずつ当時のことを冷静に振り返ることができるようになった。 「俺は牢獄に堕とされた」 「それからは地獄だった、生きていくためには何でもやったものだ」 「人を殺めたりもしたのか?」 殺しが本業だった。 だが、さすがに打ち明けられない。 「まさか」 平然と答える。 「ならば良かった」 「殺しなどやっていたら、さすがにこうして話すことはできなくなるからな」 「殺しを仕事にしていた奴もいるのは事実だがな」 「悲しいことだ……」 「しかし、人を殺さねば生きていけない世界を作ったのは我々だ」 「人倫に反していると声高に言うのも、無責任だな」 「成長したじゃないか」 「そうか……うむ」 「私は、殺す者も殺される者もいないようにしたい」 「命は誰にも等しく同じだけの重みがあるのだ」 リシアの言葉は立派だ。 立派すぎて、牢獄の奴が聞いたら酒を吹き出すくらいだろう。 理想が絵空事だったとしても、最後まで貫いてもらいたいものだ。 「お前は、お前の信じるようにやったらいい」 「そして、いい国王になれ」 「ああ、頑張る」 「でも私はまだまだ未熟だ」 「できれば……お前に支え続けてもらいたい」 「ずっと、私の傍にいてくれないか?」 それは無理だ。 俺は、とても王の傍にいられるような人間ではない。 しかし、今は事実を告げるときではないだろう。 「ああ、お前が望むならな」 ドアが小さく叩かれた。 「誰だ」 「リシア様にお手紙が」 「手紙?」 召使いが顔を覗かせ、リシアに手紙を渡す。 「今すぐお読みいただきたい、とのことでした」 「わかった、ご苦労」 リシアは手紙を手に戻ってくる。 「席を外すか」 「いや、大丈夫だ」 「読んでしまうから少し待っててくれ」 「一人でゆっくり読めばいい」 「わ、わからん奴だな」 「いいからそこで待っていろっ」 俺は浮かしかけた腰を戻す。 手紙の封を切り、リシアが手紙を読み始めた。 最初は無表情で目を走らせていたが、徐々にその顔が険しくなる。 「馬鹿な……」 「誰からの手紙なんだ?」 返事はない。 口元を引き結び、手紙に目を落としている。 表情は厳しい。 無言のまま、俺を見た。 目には、困惑と憎悪に近い色があった。 「……」 リシアが手紙を折り畳む。 「読み終わった」 「面白くないことでも書いてあったか」 「ああ」 リシアが手紙を卓に置いた。 「正直に答えてくれ」 「お前は昔、牢獄で何をしていた」 「どういう仕事をして、糧を得ていた」 リシアは俺から目を逸らさない。 なるほど、密告の手紙でも来たか。 さて、どう振る舞うべきか。 「何でも屋だ」 「人を殺めたことは、なかったのではないのか?」 「誰からの手紙だ?」 「そんなことはどうでもいいっ」 「質問に答えろ、カイム」 「お前は牢獄で殺しをやっていたのか!」 誤魔化し切れないか。 いや、誤魔化したところで、もうリシアはかつてのように俺を信用しないだろう。 ならば、真実を話した上で何とかリシアをなだめられないだろうか。 「ああ、そうだ」 「何故っ!」 怒りに染まった顔が、悲しく歪む。 「なぜ……殺しなど……」 「さっき言っただろう」 「人の命を奪う他に、生きていく術がなかった」 「わかっている」 「それはわかっている……」 「だが……なぜ、嘘をついた」 「私は、お前のことを信じていたのに」 「決して裏切らないでいてくれると思ったのに」 リシアは潤んだ瞳で俺を〈睨〉《にら》み付けてくる。 俺は…… 「すまない」 「謝られたいのではないっ」 「はじめから本当のことを教えてほしかっただけだ」 「それなのに……お前は……」 「本当のことだけ言って生きていけるなら、誰も嘘などつかない」 「多かれ少なかれ、誰でも嘘はつく」 貴族も聖職者も、牢獄の人間も変わらない。 折々に都合のいい嘘をついて生きていくものだ。 「信じた私が愚かだったと言うのか」 「好きに取ってくれ」 「嘘をつかれる度にいきり立っていたら、王など務まらないぞ」 「開き直るな!」 リシアが卓を叩く。 俺を見据え、荒い呼吸を繰り返す。 最後に、一つ大きく息を吐き、リシアは目を瞑った。 「もういい」 「今回の件、本来ならば厳罰に処するところだ」 「だが、今まで世話になった恩もある」 「特別に不問に付そう」 リシアがドアを指さす。 「お前はルキウスに返す」 「今後、私に近づくことがあれば、主ともども厳罰に処す」 リシアの部屋を後にする。 密告のお陰で、今まで積上げてきたものが崩れてしまった。 余計なことをしてくれたものだ。 手紙を書いたのは誰なのだろうか。 執政公に近い人間であるのは間違いないだろう。 ともかく、ルキウスに報告が必要だ。 「……」 奥の部屋の扉が開き、システィナが出てきた。 暗い表情をしているくせに、瞳だけは〈炯々〉《けいけい》と輝いている。 ぞっとしない顔だ。 嫌な直感が走り、〈咄嗟〉《とっさ》に柱の影に身を潜めた。 何か考え込んでいるのか、システィナは俺に気付かない。 足早に大広間の方へと去っていった。 「……」 このまま大広間に戻るのはよくない。 少し時間を潰してから戻ろう。 中庭に向かって歩き出す。 背後から扉の開く音がした。 振り返る。 「ほう」 「お前か」 ガウが出てきた部屋は、システィナが出てきた部屋と同じだ。 中で何をしていたのか。 「こんなところで何をしている?」 「通りがかっただけだ」 「冷たいじゃないか」 「女には優しくしておいた方が得だぞ」 「女には優しくするさ」 「ひどいな」 ガウは愉快そうに笑う。 「お前と殺り合う日が、今から待ち遠しいよ」 「そう盛るな」 「ふふふ……」 「お前は、どんな答えを聞かせてくれるんだろうな」 独り言のようにガウが言う。 「じゃあな、長話は趣味じゃない」 踵を返す。 「リシア様とは、最近どうだ?」 「……」 「上手く誤魔化せたか?」 なるほど。 振り返る。 「手紙の主はお前か」 「……どういう了見だ?」 「その様子じゃ、リシア様に嫌われてくれたようだな」 「いや、良かった」 「執政公の命令か」 「いや、あたしの遊びさ」 「お前が、行儀良く振る舞ってるのが気に食わなくてね」 「何故俺に絡む」 「同類だからさ」 「あたしも、牢獄で人の血を吸って生きてきた」 ガウが〈卑猥〉《ひわい》な笑みを浮かべる。 「ほう」 「毎日毎日、殺しを続けてると、時々ふと思わないか」 「人ってのは、なんで生きてるんだろうってさ」 「……」 考えたことは、ある。 目標の家に忍び込む。 背後からナイフを突き込む。 それだけのことで、目標は動かなくなった。 あまりにあっけない。 優越感に浸った時期もあったが、最後に残ったのは空虚な気分だけだった。 なぜ人は、こんなにも簡単に終わってしまうのか。 その気分を、ガウも持っているのだろう。 「王城で悠々と暮らしてきた奴らには、あたしらのことなんて絶対にわからない」 「そうだろう?」 「もちろんだ」 「ま、わかって欲しいとは思わないがな」 「あたしならお前のことを理解してやれる」 「あたしらは仲間だ、そうだろう?」 思わず笑ってしまう。 「お友達が欲しかったのか?」 「まさか」 「仲間だから、お前を殺したいのさ」 「絶対にこの手でね」 ガウが赤い舌を見せる。 「犬とイチャつく趣味はない」 「せめて人間らしくなってから、また来てくれ」 「ふっ、ははっ、あっははは!」 「お前面白いよ」 「ますますお前のことが好きになった」 「まずいな、あたしは本気でお前に恋したかもしれないぞ」 「片想いにしかならないぞ」 「時間の問題さ」 〈鬱陶〉《うっとう》しい。 「さっさと消えろ、もう話すことはない」 「ああ、そうしよう」 「魅力的な女は、去り際も大事らしいからな」 愉快そうに笑って、ガウが背を向ける。 そのくせ、全身を観察されているかのような空気があった。 「あたしが殺るまで、死ぬなよ」 そう言い残し、ガウは廊下の彼方に消えた。 「戻ったぞ」 「あ、カイムさん」 ルキウスの部屋に行くと、ティアが出迎えてくれた。 「ちょうど今、ルキウスさんと一緒に戻ってきたところなんです」 「羽つきを治療する様子を見せてもらっていた」 「ティアの力について、何かわかったか?」 「ある程度成果は上がっているが、まだはっきりとしたことはわかっていない」 「やはり、執政公の目を盗んで行える程度の研究では、機材も予算も不足している」 「更なる成果を得るためには、執政公が持っている施設や研究成果を吸収する必要があるだろう」 「結局、奴を倒さなくては前に進めないか」 ルキウスが頷く。 「ティア、今日は何人治療したんだ?」 「3人治療したんですが、皆さんすごく喜んでくれましたよ」 「3人? 多すぎないか?」 「ティア君がどうしてもと言うのでな」 「お前、身体は大丈夫なのか?」 「はい、元気です」 だが、声に張りがない。 疲れているのだろう。 「今日はゆっくり休むんだぞ」 「わかりました」 「いっぱい食べて、いっぱい寝ます」 相変わらず脳天気な奴だ。 「ルキウス、ティアを少し休ませるようにしてくれ」 「わたしは大丈夫ですよ」 力こぶを作って見せるティア。 「ともかく、あまり無理はさせないでやってくれ」 「私もできることならティア君にあまり負担はかけたくない」 「だが、あまり悠長に構えていられない事情もあってな」 ルキウスは立ち上がり、窓の外を眺める。 「これは執政公から漏れ聞いた話なのだが……」 「最近地震が多いのは崩落の予兆らしい。それも、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》を上回る規模のものだ」 「最悪、都市の大半が落ちるとも聞いた」 「え……」 一瞬、思考が止まった。 すぐに言葉が出てこない。 「そ、そんな……また崩落だなんて」 「冗談だろう?」 ルキウスが無慈悲に首を振る。 「私が武装蜂起を企てたのも崩落の話があったからだ」 「本当なら、安全な計画を立て着実に執政公を追い詰めたい」 「だが、そこまで待ってはいられないのだ」 ルキウスの年齢ならば、まだまだ先がある。 にもかかわらず、性急な計画を立てたのは時間を惜しんだからなのだ。 「先だって崩落があったばかりだ」 「この上さらに、犠牲者を増やすわけにはいかない」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》をこの目で見るのは、もう御免だ」 窓に映るルキウスの顔が苦渋に歪む。 妙に実感のこもった顔だ。 「あんた、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の現場を見たのか?」 「まだ幼かったが、父親の視察に随行したのだ」 「そうか」 違うな。 直感で思う。 身体に刻み込まれた恐怖は、体験した人間と見た人間では本質的に違う。 俺は、牢獄で嫌と言うほど被災者を見てきた。 ルキウスの反応はそいつらに近い。 「執政公は何か手を打っていないのか?」 「ならいいのだが」 「崩落についての話を執政公が話していた時のことだ」 「対策を尋ねると、執政公は笑って言ったよ」 「誰を救うかは私が決めるとな」 「ふざけてる」 「私もそう思った」 「だからこそ、彼を倒さねばならないのだ」 当たり前だ。 そんな人間に政治を任せられるか。 「でも、どうやって救う人間を決めるんでしょうか?」 「救う人間を選べるってことは、執政公は崩落についてかなりの情報を持っていることになるな」 「もしかしたら、落ちる場所なども把握しているのかもしれない」 「可能性は十分にある」 「ともかく、一日も早く執政公を倒し、彼が持っているものを吸収しなくてはならない」 自然と頷いていた。 「リシア様の方はどうだ? 順調に進んでいるか?」 「問題が発生した」 「ガウの密告で、俺が殺しをやっていたことをリシアに知られた」 「もう、私には近づくなとのことだ」 「今回のところは罪には問わないと言っているが、関係を修復するのは難しいかもしれない」 ルキウスが、声もなく天井を仰いだ。 「あの狂犬が横槍を入れたか」 「執政公も、こちらの動きには警戒していると見た方がいいな」 「厳しいな……」 呟きつつ、ルキウスは机から巻紙を取り出す。 無言のまま紙を広げた。 様々な筆跡の署名が並び、それぞれの下には血判が押されている。 「私に味方すると約束してくれた貴族の血判状だ」 「予定していた名前は大体揃っている」 「だが、リシア様という旗印がなければ、やはり厳しいものがある」 ルキウスがじっと血判状を見つめる。 「一つ聞きたいのだが」 今、ここにシスティナはいない。 ちょうど良い機会だ。 「システィナは本当に信用できるのか?」 「どういう意味だ?」 「システィナはガウと通じているかもしれない」 今日、二人が同じ部屋から出てきた事をルキウスに告げる。 状況的には密談をしていたとしか思えない。 「システィナが情報を漏らしているんじゃないか?」 「システィナは昔から共に難局を乗り切ってきた」 「今さら裏切るとは考えにくい」 「だといいんだがな」 どうもルキウスはシスティナに甘い気がする。 二人の関係にあれこれ口を挟む気はないが、システィナが寝返れば俺にも危険が降りかかってくる。 他人事というわけにはいかない。 「大事な時だ、気をつけるに越したことはない」 「ああ、肝に銘じておこう」 「カイムも今後の行動は十分に気をつけてくれ」 「わかった……と言いたいところだが」 「もう俺にできることはないんじゃないか?」 「リシアに会えない以上、あんたの身を守るくらいがせいぜいだ」 「そうだな……」 ルキウスが少し考える。 「武装蜂起には直接関係ないが、やってほしいことはある」 視線で先を促す。 「王城には、執政公の命により立ち入りが禁じられている場所がある」 「一つは厳重に守られた研究所への扉」 「そして、もう一つは地下だ」 「地下?」 「……地下、ですか」 何故か、ティアが反応した。 「地下牢の脇に入り口があるが、なぜかここも立ち入りが禁じられている」 「過去に執政公が立ち入り禁止を命じたらしい」 「その地下にはおかしな噂があるのだ」 「幽霊でも出るのか?」 冗談半分に言う。 「ああ、どうやらそうらしい」 「ほ、本当に幽霊が」 「一時期、そういう噂が立ったことがある」 「執政公が封鎖を命じたのは、その直後だ」 「執政公は、幽霊の話を真に受けて立ち入りを禁じるような人間なのか?」 「全く違うな」 「じゃあ、本当に幽霊が」 「阿呆か」 「入られては困るから封鎖したんだ」 「そう考えるのが自然だ」 「今までは調べにやる人間もいなかったが、カイムなら腕も立つ」 「リシア様の件が手詰まりなら、調べてはもらえないだろうか」 「構わないが、当然警備の人間がいるんだろう」 「いるにはいるが、かなり手薄だ」 「そもそも、関心を持っている人間がいない」 「他にできることもない、やってみよう」 女のご機嫌を伺うよりは、何倍も性に合っている仕事だ。 「あの……カイムさん?」 「何だ?」 「わたしも連れて行ってくれませんか」 「思いついた冗談をすぐ口にするのはやめてくれ」 「いえ、冗談ではなくて」 「ならもっと悪いな」 「えっと、でも……もしかしたら、わたしが見た夢にも関係あるかもしれません」 「おっさんが言い合いをしてたってやつのことか?」 「いえ、あの夢とは別です」 「はっきりとは見えなかったので、カイムさんには話さなかったんですが……」 「何だか、地下の通路や地下室みたいな夢も見た気がするんです」 「お前、夢で見たことにすれば何でも許されると思ってないか?」 「そ、そんなことありません」 「まあ、ティア君の直感を信じてみるのもいいだろう」 「子供の遊びじゃないんだぞ」 「だが、ティア君は御子だ」 「夢の内容は馬鹿にはできないのではないか」 「……」 気乗りはしない。 警備が手薄とはいえ、立ち入りが禁じられている場所に潜入するのだ。 しかし……ティアの夢が気にならないと言えば嘘になる。 「俺の指示に絶対に従うと約束できるか?」 「はい、もちろんです」 「わかった」 「通行証は手配しておこう」 「ティア君、繰り返しになるが、カイムの指示には絶対に従って欲しい」 ティアが神妙な顔で頷く。 「明日も会議がある」 「会議の間は衛兵の注意もそちらに回り、隙ができる」 「システィナにも、衛兵が地下に行かないよう手を打たせよう」 「もう一度聞くが、あいつは信用できるんだな?」 「少しは私の人を見る目を信じてもらいたいものだな」 「だといいが」 「っっ!?」 ルキウスが体を強ばらせた。 また鈴の音だ。 ネヴィルが呼んでいるのだろう。 「どうした、顔色が悪いぞ」 「少し疲れたようだ、今日はこのぐらいにしておこう」 ルキウスが席を立つ。 いい加減、事情を聞いておこう。 ルキウスの反応は、尋常のものとは思えない。 「一体、この音は何なんだ? 屋敷の奥に誰かいるのか?」 鎌をかけてみる。 「家庭の問題でな、カイムを煩わせるほどのことではない」 「すまないが失礼する」 そっけなく答え、ルキウスは去っていった。 「ルキウスさん、大丈夫でしょうか」 「どうかな」 恐らく、また折檻されるのだろう。 鈴を鳴らしている人間の正体はもうわかっている。 これ以上追及する必要はない。 俺はティアを伴い、ルキウスの部屋を出た。 会議が始まったのを見届け、ティアとシスティナを連れて地下牢に向かう。 初めて城内にやってきたティアは、おどおどしながら周囲を観察している。 「ほ、本当に豪華なんですね、お城って」 「こんなところに住んだら、わたし、きっと落ち着いて寝られないと思います」 「心配しなくても、住むことにはならないだろう」 「で、ですよね」 「わたしには、牢獄の暮らしが合っているような気がします」 「牢獄が好きとは変わった奴だ」 「でも、牢獄の皆さんは優しいですし、料理も美味しいです」 「それに、上層には辛い思い出しかありませんから」 そういえば、こいつは上層の金持ちの家で、こき使われていたのだった。 「……」 目の前からリシアがやってきた。 リシアはこちらを見ようともしない。 今は会議中のはずだが。 「これはリシア様」 「会議はどうされたのですか?」 すれ違い様、声をかける。 「っ!」 リシアは、びくりとして立ち止まった。 「お前には関係のないことだ」 「これは失礼いたしました」 「ふんっ!」 リシアは鼻を鳴らして去っていった。 会議への出席もやめてしまったのだろうか。 俺が追い出されたのは仕方がないとしても、リシアが変わる努力をやめてしまったのなら残念だ。 「ルキウス様から聞いておりましたが、関係の修復は難しそうですね」 「ああ……」 「だから私は、牢獄の者などを登用するのは……」 システィナが口の中で呟く。 後の祭りだ。 「今のが王女様ですか?」 「そうだ」 「まだ、随分とお若いのですね」 「外見に違わず、中身もな」 「早く仲直りできるといいですね」 「まあな」 向こうにその気がなければどうしようもない。 「お二人とも、話はこの辺で」 システィナが小声で告げてくる。 いよいよか。 「この先、少し行った所から地下に入ることができます」 「地下での道順は?」 「まっすぐ進むと地下牢です」 「途中で脇に扉があります。その先が目標の区域です」 「鍵と衛兵は私が何とかしますから、お二人は迷わず立ち入り禁止区域に」 「わかった」 用件だけを告げ、システィナは先行する。 「き、緊張しますね」 「ここから先は、一人では行動するな。必ず俺に確認しろ」 「あと、どんなに驚いても大声を出すなよ」 「口に糊をつけておきます」 「見つかれば大事になる、気をつけろよ」 「わかりました」 前後に視線を走らせ、人目がないことを確認する。 「行くぞ」 角を折れ、小走りで階段を下った。 地下道に入る。 地下牢の脇にある扉は、鍵が外れていた。 システィナが上手くやってくれたようだ。 ティアがついてきているのを確認し、扉の先へ進む。 延々と続く通路を歩いていく。 通路の終わりは見えない。 物音はなく、俺とティアの足音だけが響いている。 「あっ!?」 背後を振り向く。 「大声を出すなと言わなかったか?」 「す、すみません……何だか、床が滑って」 「注意しろ」 最低限のやりとりだけで、再び歩き出す。 一体、この先に何があるのか。 執政公が、わざわざ立ち入り禁止にしたのだ。 何もないということはないだろう。 更に奥へと進んだが、めぼしいものは見つからない。 同じような景色の連続に、時間の感覚がなくなってくる。 会議が終わるまでには城に戻らなくてはならない。 そろそろ引き上げ時か。 「ぅ……」 「今度は何だ?」 「いえ、何だか寒気がしたような気がして」 緊張で疲労しているのだろう。 「城に戻ろう、引き上げ時だ」 「何もありませんでしたね」 「ああ……」 何か聞こえた。 何の音だ? ナイフを抜き、周囲を観察する。 音が近づいてくる。 だが、通路に俺とティア以外の人影はない。 「俺から離れるな」 「は、はい」 「……」 地下道の壁に、違和感があった。 壁が小さくさざめいている。 水面を波が走るように、何かが近づいてきた。 壁面から、何かが飛び出した。 「くっ!?」 「きゃっ!?」 〈咄嗟〉《とっさ》に斬りつける。 足下に液体が落ちた。 黒い粘り気がある液体だ。 まるで意志を持っているかのように、ふるふると震えている。 「何だ……これは……」 「う、動いてます」 動く液体など、見たことも聞いたこともない。 いや、見た目だけで言えば、ティアが羽つきの翼を消した時に出てきた黒い液体と同じものだ。 「っっ!!」 天井から落ちてきた液体をかわす。 一体、何なんだ。 わからないが、とにかくやばいものだということだけはわかった。 「カイムさんっ!」 床の液体の一部が、細く伸びて襲ってくる。 「くっ!!」 斬れば切断はできる。 だが、通路の奥からは、次から次へと液体が移動してきていた。 「ふざ、けるな……」 「ぐあっ」 腕に激痛が走る。 斬り飛ばした粘液が付着し、白い煙を上げていた。 服が溶け、肌が黒く焦げている。 「ティア、逃げるぞっ」 「はいっ」 背後を見る。 「!!」 行く手を塞ぐように、壁や天井に粘液が張り付いていた。 血の気が引く。 「カ、カイム……さん……」 「……」 前後左右、そして上下から粘液が近づく。 「突っ切れっ!!」 俺の声に呼応するように── 液体が無数の腕を伸ばした。 「きゃあっ!!!」 「くっ!!」 全身を、焼け付くような痛みが襲う。 腕も足も胴も、火の中に投げ込まれたかのように熱い。 ……駄目か。 視界が白く焼け付く。 まさか、こんな訳のわからないものに殺されるとは……。 ……。 …………。 体の感覚があることに気付く。 生きている? 目を開く。 「!!!!」 ティアが輝いていた。 いや、違う。 ティアに襲いかかった粘液が、彼女に触れた端から光の粒へと変化しているのだ。 粘液はもう、俺を無視していた。 まるでティアを求めるかのように、全ての粘液が彼女へ向かい、光になっていく。 「……っ、……っっ!!!」 強烈な光が全てを覆い尽くす。 「うあああああああああああっっ!!!」 絶叫が聞こえた。 何とか目を開ける。 ティアの背には、光を放つ翼。 苦しむティアをよそに、翼が優雅に羽ばたく。 巻き起こった風に吸い込まれるように、浮いていた光の粒子は翼と一体となった。 「あああっ……ああ……あ……」 ティアの声がか細くなり、四肢から力が抜ける。 「ティアっ!」 ティアの羽が薄れて消えていく。 黒い粘液の姿は、もうどこにもなかった。 まるで全てが夢だったかのようだ。 だが、俺の体にはひりつくような痛みが残っている。 「……」 声も出ないまま、倒れているティアを抱き起こす。 全身が汗に濡れていた。 「ティアっ」 反応はない。 だが、息はしているようだ。 ともかく、一刻も早くここから出なくてはならない。 液体に続きがないとも限らないのだ。 「散々だな」 ティアを背負い、通路を城に向かう。 何とか、地下牢の扉まで戻ってきた。 が、人の声が近づいてくる。 慌てて暗がりに身を隠した。 「今の悲鳴はここか?」 「見てください、鍵が開いてます」 「おかしいな」 中年の近衛兵が、面倒臭そうにこちらの方を覗き見る。 ランタンは消してある。 よほどのことがなければ見つからないはずだ。 「誰もいないな」 「今日、誰かが入る予定はあったか?」 「いえ、特には聞いていませんが」 「地下牢の番兵はどうした?」 「ここの鍵は奴が持っていたはずだぞ」 「牢の方に行ってみましょうか」 二人の足音が遠ざかっていく。 この機会を逃すわけにはいかない。 足音を忍ばせながら、扉へと近づく。 近衛兵の姿が見えないのを確認し、扉をくぐる。 扉が派手な音を立てた。 背負っていたティアの腕がぶつかったらしい。 「おい、今の音は何だ!?」 「誰かいるのかっ!?」 地下を走り、城への階段を駆け上がる。 「足音だ、追えっ!」 廊下を疾走する。 もし捕まったらルキウスにも累が及ぶ。 とにかく逃げるしかない。 「くっ……」 廊下の向こうに近衛兵の姿が見えた。 慌てて廊下を折れ、階段を昇る。 「不審者だっ!」 「どこに行った!?」 下の階から声が聞こえてくる。 ティアを背負ったまま逃げ切れるとは思えない。 どこかに身を隠す場所は……。 一室のドアが開き、誰かが姿を現した。 くそっ! 間が悪いときは、とことんだ。 姿を現したのはリシアだった。 「……」 「……」 リシアの目が鋭くなる。 「お前、何をしてきた?」 「説明は後でする」 「近衛兵に追われているんだ、匿ってくれ」 「そんなことを言えた義理か?」 冷ややかな目で見つめられる。 「この階にはいません!」 「上だ、上へ行け!」 近衛兵の声が響いた。 鎧の音が、徐々に近づいてくる。 「俺はいい、この女だけでも」 背中のティアを見せる。 「……」 リシアが部屋に戻る。 扉は開け放たれたままだ。 「さっさと入らんと、閉めるぞ」 「恩に着る」 リシアの部屋に体を滑り込ませる。 すぐに、扉の外で衛兵達の声がした。 ドアがノックされる。 「リシア様、失礼します」 リシアが俺を見る。 「着替えをしておる、用件を話せ」 「現在、不審者を追っております」 「異常はございませんでしょうか?」 「特にない」 「誰かが走っていく音なら聞こえたが」 「了解いたしました」 「それでは、失礼いたしますっ」 鎧の音が遠ざかっていく。 どうやら、助かったらしい。 安堵のため息をつく。 ティアを床に下ろし、寝かせる。 「助かった、礼を言う」 「私は、その女を助けただけだ」 リシアの視線は、変わらず冷たい。 「女は怪我をしているのか?」 「気を失っているだけだ」 「床になど寝かせるな、ベッドを使え」 「お前は女を何だと思っているんだ」 ティアを抱えベッドに運ぶ。 「う……」 ティアが苦しげに身じろいだ。 背中が痛いようだ。 まさか…… ティアをうつぶせにし、上着の裾を捲り上げていく。 「お、お前っ!」 「黙ってろ」 背中を露出させた。 実体を持った翼が広がる。 「なっ!?」 「やはりか……」 翼は前に見た時よりも二回りほど大きくなっていた。 しかも、まだ微かに光を放っている。 謎の黒い粘液は、羽つきを治療した時に出てくるものと同じものなのかもしれない。 それを光に変えて吸収したことで、翼が成長した。 しかも粘液の量は膨大だった。 羽つき何人分に相当するのだろう。 「この女は、羽化病なのか」 ティアの翼を見て、リシアが唾液を飲み込む。 「ティアは普通の羽つきとは違う」 「ティア……それが名前か」 「しかし、普通の羽つきと違うとはどういうことだ?」 「お前、天使の御子が存在するという噂を聞いたことはあるか?」 「確か、先代の聖女がそのようなことを言っていると聞いたことがある」 「執政公は、根も葉もない噂だと言っていたが」 「それは違う」 俺は燐光を放つティアの翼に目をやる。 「ティアこそが、先代の聖女が見つけた御子だ」 「馬鹿な」 「だが見ろ、翼が光っている」 「翼が光る羽つきなど、こいつ以外に例がない」 「だ、だが……」 リシアが見つめてくる。 「カイム、正直に言ってくれ」 「さっきまで、お前はどこで何をしてきたんだ」 「知りたいのか?」 「当たり前だ!」 「こんなものを見せられて、気にならない方がどうかしている」 「なら、隠さずに話そう」 「信じられないかもしれないが、全て事実だ」 リシアに地下での出来事を話す。 さすがに、顔が強ばった。 「粘液だの、光だのを信じろと言うのか?」 「信じるかどうかはお前の自由だ」 「だが、見てくれ」 腕の怪我を見せる。 灼熱の蛇に巻きつかれたかのような跡がついている。 「これは、火傷か?」 「粘液につけられた傷だ」 「こんな傷、火に触れただけではできない」 「……」 リシアが沈黙した。 理解しつつも認められない。 そんな顔だ。 「だが、そんなものに襲われてよく助かったな」 「ティアの力がなければ、死んでいただろう」 「粘液を光に変えるか……」 「お前は信じられんことばかり言うな」 「嘘は言っていない」 「ふん……どうだかな」 疑いの眼差しを向けられる。 嘘をついた前科がある以上、疑われるのは仕方がない。 「これは、複数の人間が確認していることだが、ティアは羽つきの羽を消すことができる」 「ティアが翼に触れると、黒い粘液になってから光って消える」 「それと同じことが、地下の黒い粘液に対しても起こったということだ」 「……」 リシアは目を瞑り、しばし黙考する。 「まあ、話は大体わかった」 「だが肝心のことをまだ聞いていない」 「何だ」 「立ち入り禁止区域に入った目的は何だ?」 「何を探していた?」 「俺は、この都市が浮いている理由を知りたいと思っている」 「それに、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》が起こった理由もだ」 「前にも言っていたな」 「だが、これらの情報は執政公が掌握している」 「ルキウスの話では、追及しようとした貴族は容赦なく排除されたらしい」 「だから、執政公が封鎖した地下道にも重大な秘密が隠されていると考えた」 「それで、侵入を図ったのか」 治癒院で羽つきを研究材料にしている執政公。 羽つきと同じように、ティアが浄化できた黒い粘液。 それが、執政公が封鎖した場所にいた。 関係がないとは考えにくい。 「結果、見つかったのは化物だ」 「信じるかどうかはお前に任せる」 それきり黙る。 話すべきことは話した。 「……」 リシアは黙ってティアを見つめている。 ティアは柔らかな布団の上で、静かに呼吸をしている。 羽つき2、3人の浄化でも足下がふらついていたのだ。 かなり体力を消耗しているはずだ。 「なあ、カイム」 「どうしてお前はここまでするんだ?」 「どういう意味だ?」 「お前はよくわからない」 「私の見立てでは、お前は虚無的で打算的で、冷徹な男だ」 「少なくとも、使命や義憤に燃えて何かをする人間ではないと思っていた」 「当たってるな」 リシアの見立ては的確だ。 少なくとも、俺自身は自分をそういう人間だと思っている。 「だが、お前は都市が浮いている理由を知りたいと言った」 「それはどうしてなんだ?」 ティアの小さな寝息が聞こえてくる。 せめてティアが起きるまで、無駄話に興じるのもいいか。 「俺は〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で牢獄に落ちた」 「他の人間同様に祈りを怠った聖女を恨んだよ」 「当然だろう? 家族も、俺の人生も台無しにされたんだ」 「ああ」 「最近、俺は先代の聖女と知り合った」 「そして、自分が都市を浮かせていないことを打ち明けられた」 「もちろん信じられなかった」 「聖女が何の証拠も示さなかったこともある」 「だが、本当のところは、聖女が都市を浮かせていないと俺が困るからだ」 リシアが怪訝な顔をする。 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の怒りは、聖女の処刑によって紛らわすことができた」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》に絡んだ多くの苦しみや不条理を、全て聖女の責任にすることで、俺は救われてきたんだ」 「しかし、聖女が都市を浮かせていなかったとしたらどうなる?」 「俺は、都市が浮いている理由に何の疑問も抱かず、無為な時間を過ごしてきたことになる」 「俺は、今まで聖女のせいにすれば済んでいたものが、自分に返ってくるのが怖かったんだ」 「……」 「聖女は、それに気づかせてくれた」 「だから俺は、自分を変えることにした」 「過去の弱さは受け入れ、都市が浮いている本当の理由、そして〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の原因を知るために行動することにしたんだ」 リシアの目を見る。 「過去の過ちを認めるのは怖い」 「だが、未来は変えることができる」 「知らない故の無為は許される、だが、知った上での無為は罪だ」 「っっ」 俺の意図に気づいたのだろう。 リシアは目を背けた。 「……」 この機会を逃せば、またリシアと会話できなくなる。 今、リシアを変えなければならない。 「執政公が封鎖した通路の奥に、化物がいた」 「これが偶然か?」 「なら、何を隠そうとしたと言うんだ?」 「こっちが聞きたい」 「どうしてお前は何も知らない?」 「お前は国王陛下からこの国を任されているんだろう?」 「本来なら、お前が誰よりもよく知っていなければいけないことだろう」 「わ、私はまだ王ではない、王になる途中なのだ」 リシアは目を泳がせる。 「馬鹿を言うな」 「執政公が進めている研究が何かも知らない」 「牢獄が飢えに苦しんでいることも知らない」 「少し無様すぎやしないか?」 「だ、だって執政公はそんなこと教えて……」 「黙っていれば誰かが教えてくれるとでも思っているのか?」 「人づてに話を聞くだけで真実が得られると思ったら大間違いだ」 「どうしろと言うのだ」 「私だって精一杯やっている」 むきになって言い返してくる。 ……理詰めで屈服させたところで、人は変わらない。 そもそも、リシアは自分が間違っていることなど、とうに知っている。 ただ、受け入れる勇気がないのだ。 どうやって勇気を与えればいいのか。 「会議の場で、不明な部分は問い質した」 「執政公に、研究について質問もした」 「だが、執政公は父上の命じられたことを忠実に実行しているに過ぎない」 「自分で国王陛下に確かめたのか?」 「それは……」 「研究の現場をその目で見たのか?」 「いや……」 リシアの語気がどんどん弱まっていく。 「見てくるんだ」 「国王陛下に、研究の意義を聞いてくるんだ」 「都市で何が起こっているのか、どんな研究が行われているのか、自分の目と耳で確かめろ」 「で、でも父上のなさろうとしていることを疑うのは……」 「お前は、本当のことを知りたくないんだろう?」 「単に真実を怖がっているだけだ」 ヴァリアスの言葉を思い出す。 国王は国政を第一に考え、私情に流されることを嫌い、リシアにも厳しく接していた。 リシアの言う家族に優しい国王は、執政公が作り上げた虚像だ。 「リシア、よく思い出せ」 「国王陛下は、本当にお前のことを可愛がっていたか?」 「だ、黙れ……黙れ黙れっ」 「私がこの王城で、どれだけ居たたまれない思いをしながら過ごしてきたか知っているのか」 「お前なんかに私の苦労がわかってたまるかっ」 リシアが拳を震わせる。 「想像はできるさ」 「だが、牢獄で生きてきた人間にとっては、よく聞く話だ」 「少なくともアイリスの生い立ちの方が悲惨だし、親に腕を折られて乞食をやらされてるガキの方がまだ同情したくなる」 「お前、あいつらの前で今と同じ話をできるか?」 「っっ!?」 リシアの瞳から涙が溢れてこぼれ落ちる。 「どうしてお前は、そうして人に冷たくできるんだ」 「私はただ信じたいだけなのに……ただ誰かに頼りたいだけなのに……!」 「優しいことを言ったかと思えば平気で嘘をついて」 「親身なふりをしたかと思えば冷たく突き放して」 リシアが拳を固め、俺の胸にぶつけてくる。 「望んで生まれたわけじゃない……」 「望んで王女になったわけじゃない……」 「それでも一生懸命やってきたんだ」 「父上みたいな立派な国王になるって頑張ってきたんだ」 「それなのに、何も知らないくせに横からああしろこうしろと文句ばかり」 「執政公相手に戦えだと?」 「簡単に言うな、だったらお前たちがやってみればいい」 「ルキウスだってヴァリアスだって、カイムだって執政公には頭を下げるばかりではないか」 「お前たちができもしないことをどうして私に押しつけるっ」 「私にこれ以上どうしろと言うんだっ」 物質的な面で王城は恵まれている。 だが、ここにいる人間に愛情はない。 リシアは生まれた時から駒として利用されてきた。 無知であることを望まれ、そのように仕組まれてきた。 過酷だ。 子供が真っ当に生きられる環境ではない。 だが、それでも── リシアに甘えることは許されない。 「ヴァリアスが言っていただろ」 「国王は、その一挙手一投足に民の命がかかっている」 「王が愚かであれば国は滅びる」 「誰もお前と代わってやることはできないんだ」 リシアは大きく目を見開く。 「カイム……お前など、お前など……」 「……大嫌い、だ……」 ここはどこだろう? 頭がぼんやりしてわからない。 眠っているような起きているような、よくわからない感じ。 ん…… 何だろう? 何も見えないはずなのに、頭の中にどこかの景色が浮かんできた。 夢……なのかな? 壮年の貴族は、床に置かれた大きな水槽を無表情に見つめていた。 「駄目だったか」 「残念です……」 「記録は取ってあるな」 「もちろんでございます」 「なら問題ない」 「どけっ、通せ!」 〈菫〉《すみれ》色の髪をした若い貴族が、研究員たちを押しのけて走り寄ってきた。 「どうして……なぜこんなことに……!」 若い貴族は水槽の底に沈んでいる女性の姿に打ちひしがれ、膝を折る。 女性は眠っているかのように目を閉じ、身じろぎ一つしない。 その姿はまるで透明な棺桶で眠る死体だった。 「実験は失敗したが、貴重な情報を得ることができた」 「彼女の犠牲は無駄ではない」 壮年の貴族は達観とも諦観ともつかない、〈茫洋〉《ぼうよう》とした視線を若い貴族に送る。 「貴様っ!」 若い貴族は壮年の貴族の襟首を掴み、乱暴に引き寄せた。 「なぜ私に断りもなく実験を行った!?」 「私は反対したはずだ!」 「実験は他ならぬ彼女が希望したことだ」 「君の許可が必要とは思えんな」 「っっ!」 ぎり、と歯を食いしばる音が響く。 「この都市の安寧を保つためには、常に犠牲が必要なのだ」 「今になってわかったことではない」 「だからと言って、彼女が犠牲になる必要はなかった!」 「それなら、誰を犠牲にすれば良かったのだ?」 「君と無関係な者なら構わないと?」 「くっ……」 「我々は、都市を救う使命を帯びている」 「分別をつけたまえ」 若い貴族は〈項垂〉《うなだ》れ、唇を強く噛む。 「許さんぞネヴィル……覚えておくがいい……」 「準備は整っているか」 〈菫〉《すみれ》色の髪をした貴族が研究員に声をかける。 貴族の〈眉間〉《みけん》や目尻には皺が目立つ。 長い年月を乗り越えてきた苦労の跡が顔に刻まれていた。 「仰せの通り、全て整いました」 「いよいよだな」 「ですが、成功する保証はありません」 研究員に、貴族が視線を向ける。 「全力は尽くしたのだろう?」 「もちろんです」 「なら、先に言い訳をするな」 「申し訳ございません」 頭を下げ、研究員は去っていった。 貴族は透明な棺桶の中のものに目を向ける。 そこにいるのは、黒く腐蝕した、かつて女性だったとおぼしき物体だった。 「いつ見ても美しいな、お前は」 僅かに貴族の顔が綻ぶ。 「もうすぐだ」 「もうすぐお前を目覚めさせることができる」 「この時のために、私はあらゆることをしてきた」 「だが、後悔はしていない」 万感の思いを込めて女性を見つめる。 「待っていてくれよ、クルーヴィス」 体が熱い。 奥底から熱気が沸き上がってくる。 だが、手足は重く動かない。 「ん……」 いつもの夢だ。 でも、今までと違って声まではっきりと聞こえた。 二人は、どうして喧嘩をしていたんだろう? 女の人は、どうして亡くなったんだろう? 怖い顔の人は、女の人の死体に何をしようとしていたんだろう? クルーヴィスというのは誰なのだろう? 「簡単に言うな、だったらお前たちがやってみればいい」 また誰かの声が聞こえた。 誰だろう。 頭が上手く回らない。 わたしは、一体どうなってしまったのだろうか。 確か、カイムさんと王城に来て。 地下に潜って…… 「カイム……お前など、お前など……」 「……大嫌い、だ……」 声が聞こえた。 誰だっけ? 重い瞼を持ち上げ、目を開く。 リシアが俺の胸倉を掴み、力なく揺する。 「……カイムさん」 ベッドから声がした。 「ティア、起きたのか」 「あ、はい……あの、ここはどこですか?」 「リシアの部屋だ」 「ああ、王女様の」 ティアの目が、リシアに釘付けになる。 「ちょ、ちょっと待ってください」 「カイムさん、どうして王女様を泣かせているんですか!?」 「な、何て無礼なことを!」 ティアの声に、リシアが顔を上げる。 涙でぐしゃぐしゃになっていた。 「ティア、落ち着け」 「落ち着いていられません」 「王女様、カイムさんに何かひどいことを言われたんですね!?」 「少し黙っていろ」 「騒ぐ前に、胸を隠せ」 「え?」 ティアが怪訝そうに自分の上半身を見る。 上着がまくれ上がり、膨らみが二つ顔を出していた。 「きゃあああぁぁぁっ!?」 慌てて服を戻そうとするものの、背中の羽につっかえてしまう。 「み、見ないでくださいっ」 「ふう……」 リシアがため息をついた。 拍子抜けしてしまったようだ。 「ティアとやら、後ろを向け」 「は、はい」 素直に後ろを向いたティアの服を、リシアが直す。 「あ、ありがとうございます」 「カイム、謝れ」 「お前が全面的に悪い」 「あ、いいんですいいんです」 「わたし怒ってませんので」 「よくないっ」 何故かリシアが怒っている。 場を収めよう。 「俺が悪かった」 「機嫌を直してくれ、リシア」 「私は怒っていない」 「謝るのなら、ティアに謝れ」 「悪かった」 「いえ、いえ……ありがとうございます」 ティアが深々と礼をした。 「で、体調はどうだ?」 「痛いところはありません」 「ただ、また夢を見ました」 「またか」 「すごく、はっきりした夢です」 ティアが真剣な表情で言った。 「どんな夢だ?」 「前に見た、おじさんが言い争いをしている夢です」 「でも今回は、声がしっかり聞こえました」 「『許さんぞ、ネヴィル』とか『待っていてくれよ、クルーヴィス』とか、そんな感じでした」 「ネヴィル?」 ティアはネヴィルの名を知らないはずだ。 流石に、冗談では流せない。 「詳しく聞かせてくれ」 ティアが、つっかえつっかえ夢の内容を語る。 二人の貴族の言い争い。 腐敗した女の死体を前にしての、貴族の〈述懐〉《じゅっかい》。 クルーヴィスという名。 「〈菫〉《すみれ》色の髪か……」 「執政公も〈菫〉《すみれ》色だな」 「執政公?」 「執政公を知らないのか?」 「はい」 「知らないにもかかわらず、夢に見たのか」 「しかも、ネヴィルと口論をしている」 リシアの表情が硬くなった。 「言っただろ、ティアには不思議な力がある」 「ああ……そうかもしれないな」 「リシア、クルーヴィスという女は知っているか?」 「いや、初めて聞く名だ」 「何となくですが、執政公さんにとってとても大切な人だったんだと思います」 「クルーヴィス……」 リシアが小さく呟く。 思い詰めたような表情だった。 ルキウスにも確認してみよう。 「ティア、歩けそうか?」 ティアがベッドから下り、少し歩く。 「はい、大丈夫です」 「なら帰ろう」 「お前が起きるのを待っていただけだからな」 「おい」 リシアが俺を見る。 「言いたいことは全て言った。あとはリシア次第だ」 「……」 「俺にも認めたくない過去はあった」 「だが、今は何とか未来を変えようとしている」 「もういい、とっとと去ね」 「俺のことを嫌うのは構わないが、会議には出ろ」 「指図される謂われはない」 「俺と仲違いしたことで会議に出なくなるってことは、リシアは俺の気を引くために会議に出ていたのか?」 さっとリシアの顔に赤みが差す。 「〈自惚〉《うぬぼ》れるなっ」 「わかってる」 「お前は、自分を変えるために会議に出た」 「なら、俺との関係がどうなっても、会議には出続けてくれ」 「少しずつかもしれないが、それがお前を変える」 「あ……」 「ティア、行くぞ」 「あ、はいっ」 振り返らず、リシアの部屋を後にする。 今日は、朝から会議に出ることにした。 無論、当たり前の話だが、カイムに言われたからではない。 私が決めたことだ。 あんな男の言うことなど、気にしていない。 「会議にお出になるのですか」 私を見て執政公が言う。 「私がいては都合が悪いか?」 「滅相もございません」 「ただ、少々お機嫌が悪いようでしたので」 「いつもと変わらぬ」 言いながら、表情を引き締める。 カイムのことを考えれば考えるほど腹が立ってくる。 もういい、とにかく今は忘れよう。 「執政公、会議を始めよ」 「承知致しました」 執政公が、貴族達に会議の開始を宣言する。 「恐れながら、執政公」 ルキウスが困惑気味の表情で立ち上がる。 他にも何人かの貴族が不安げに顔を見合わせていた。 「まだネストール卿がいらっしゃっておりません」 名前は聞いたことがある。 父上がご健勝であった頃から働いてくれていた貴族だ。 「そのことだが」 執政公が、貴族一人一人の顔を見る。 「今朝、ネストール卿は謀反の嫌疑により投獄された」 会議室が騒がしくなる。 「執政公、私は何も聞いていないぞ」 「投獄は私の一存にて行いました」 「嫌疑の詳細はこれからご説明致します」 執政公が言うには、ネストール卿は物資の密売を行い、大量の武器を確保していたとのこと。 その数は、近衛騎士団が保有している量を遙かに超えていたらしい。 執政公は皆に向けて告げる。 「武器は、既に近衛騎士団が押収している」 「相違ないな、ヴァリアス殿」 部屋の隅に立つヴァリアスに視線が集まる。 「ヴァリアス、今の話は本当か」 「はい、本当でございます」 「確かにネストール卿のお屋敷より、大量の武器を押収致しました」 「そうか……」 それなら、もはや疑う余地はない。 「秘密裏に武器を集めることは、王家への〈叛意〉《はんい》と取らねばならぬ」 「異論のあるものはいるか」 会議室が静まりかえる。 言葉を発する者はいなかった。 「リシア様、ご裁決を」 良いのか? 本当に、これを認めても。 「これは、国王陛下に刃を向けるに等しい行為です」 「見逃すおつもりですか?」 私にはわからない。 ルキウスを見るが、口を一文字に結んで黙り込んでいる。 結局、私には何も決めることなどできないのか。 「……わかった」 「ノーヴァス王家、リシアの名の元に裁決する」 その後、会議は滞りなく進行した。 誰も執政公の発言に口を挟まない。 普段ならやんわりと執政公に提案を行うルキウスも、今日は沈黙したままだ。 見ろ、カイム。 これが現実だ。 誰一人、執政公に異議など唱えられないのだ。 ルキウスもヴァリアスも、他の貴族も、執政公の言うがままではないか。 私だけではない、全ての人間が執政公の操り人形なのだ。 「ルキウス卿、防疫局の成果を報告してくれ」 「はっ」 淡々と報告するルキウス。 それを、執政公は満足げに聞いている。 〈菫〉《すみれ》色の髪をした貴族、執政公。 彼の前に執政公を務めていたのは、ルキウスの父御、ネヴィル卿だと聞く。 ネヴィル卿が隠居しなければ、今のギルバルトは執政公になれなかったはずだ。 その二人の口論。 あれは、ティアの夢の中だけの出来事なのだろうか。 「……リシア様、何か?」 私の視線に気付き、執政公がこちらを向く。 ふと、気になったことを聞いてみる。 「執政公」 「お前は、クルーヴィスという名に聞き覚えがないか」 「!!!」 執政公の目が大きく見開かれた。 初めて見る表情だ。 「存じませぬが……」 「その名、どこで聞かれましたか」 執政公の瞳に浮かんだ不穏な気配に、悪寒が走る。 「いや……」 視線に絡め取られ、言葉を発することすらできない。 「……恐れながら執政公」 「私の報告は以上ですが、何か疑問などございますでしょうか」 「おお……」 執政公の表情が、いつものものに戻る。 「いや、問題ない。よく励んでくれているな」 まるで今のやりとりなどなかったかのように、会議がまた流れだす。 淀みなく会議を進行する執政公の横顔を見ながら、私は悟った。 先ほどの視線こそが執政公の本性だ。 虫けらでも見るかのような。 私を、踏めば消える〈塵芥〉《じんかい》として見ている目だった。 今まで、私は執政公を信じてきた。 怪しいと思ったことはあっても、心底から疑ったことはなかった。 私の後見として父上が選んだ人物なのだ。 執政公を疑うということは、父上を疑うということと等しい。 そう思ってきた。 だが、今やっとわかった。 執政公は…… 信じてはいけない人間だ。 ルキウスの屋敷に戻ってきた。 システィナは、ルキウスに使いを命じられて出て行った。 部屋にいるのは、俺たち二人だけだ。 「ネストール卿については、先ほど説明した通りだ」 「何か質問はあるか?」 「いや、ない」 ネストール卿はルキウスが最も信頼していた人物だったらしい。 彼の斡旋で多くの貴族を味方につけることができたのだという。 「執政公は、こちらを切り崩しに来ているな」 「ああ、猶予は残されていないようだ」 腕を組み、ルキウスは思案顔になる。 「リシアの様子はどうだった?」 「会議には出席されていたが、やはり執政公に気圧されていた」 「ただ……」 「リシア様が、執政公に私の知らない件について質問をされた」 「クルーヴィスという名についてだった」 「それで、執政公は?」 「明らかに動揺していた」 「なるほど」 クルーヴィスの名に反応したか。 それは取りも直さず、ティアの見た夢が現実と繋がっていることを意味する。 「報告しておくことがある」 昨日、リシアの部屋でティアが見た夢について説明する。 ルキウスの目に、珍しく興奮の色が上ってきた。 「ティア君がそんな夢を見たのか」 「では、昨日の潜入もあながち失敗ではなかったということだな」 「まあな」 「しかし、いい加減俺にできることはなくなった」 「昨日の騒ぎで執政公は警備を強めるだろうし、リシアについても、もうどうしようもない」 「今後は武装蜂起の準備で忙しくなる」 「カイムの力を当てにしているのだがな」 「それこそ、俺には何もできないだろう」 「もはや政治の世界の話だ」 「ここで手を引けば、都市の謎も解明されないかもしれない」 「それでいいのか?」 「具体的にやれることがあるなら言ってくれ」 「俺には、もう思いつかない」 「武装蜂起に参加してくれ」 「俺一人の力で何が変わる」 「変えられるかもしれない」 かもしれない? 馬鹿らしい。 「お前らしくもない」 「俺は一介の元暗殺者だ、できることなどたかが知れているだろう」 ルキウスがため息をつく。 「思ったより簡単に諦めるのだな」 「少し失望したぞ」 「諦めてなどいない。事実を言ったまでだ」 「以前から何度か気になっていたが、俺を過大評価していないか?」 「いや、違うな……」 「俺を手元に置く理由を作っていないか?」 「あんたには、俺を重用する理由がないだろう」 初めからそうだった。 聖女が都市を浮かせていないことをあっさりと認めた。 常識的に考えて、一般人に軽々しく明かして良いことではない。 重大な秘密を打ち明けて、ルキウスが得られるのは牢獄上がりの用心棒一人だ。 ルキウスの力があれば、俺より真っ当な用心棒を雇える。 ティアに興味があったとしても、もっと適当なあしらい方はあるはずだ。 いや、そもそも、こいつは出会った頃からおかしかった。 ベルナドと揉めていた頃には、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の件について絡んできた。 大聖堂に行ってからは、妙に接触してきたし助力をくれた。 「あんた、何者なんだ?」 「……」 ルキウスが立ち上がる。 俺に背を向け、窓の外を見た。 「私は、君の行く末を案じていたのだ」 「あんたに心配されることじゃない」 「いや、心配だよ」 ルキウスが俺に向き直る。 「カイム、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》から10数年が経った」 「お前は生まれてきた意味を見つけられたのか?」 「っ!?」 「立派な人間になれたのか?」 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》のあの時、俺はとっさに兄の手を掴んでいた。 どうしてあんなことをしたのか、今になっても思い出せない。 死の間際、兄が俺に言った言葉。 「お前は、俺の分まで生きてくれ」 「俺の分まで生きて、立派な人間になるんだ……約束してくれ」 その時。 確かに俺は頷いた、はずだった。 「お、お前……」 無意識に後ずさる。 そんな……そんな馬鹿なことがあるか。 あの時、兄は……アイムは確かに俺の手を離し、下界に落ちたはずだ。 「お前は……」 「もう少し早く気付いてくれるかと思ったのだがな」 ルキウスは……アイムなのか……? あのアイムが、生きていたというのか? 「アイムは下界に落ちて死んだ……ここにいるはずがない」 「確かに私はあの時、お前の手を離し落下した」 「だが、奇跡的に崖の途中に引っかかって助かったらしい」 「細かいことは私も覚えていないが、恐らくそこをネヴィル卿に拾われたのだ」 「拾われた?」 ネヴィルの部屋にあった、家族の肖像画を思い出す。 描かれたルキウスは、目の前のルキウスとあまり似ていない。 アイムは……ルキウスと入れ替わったということか。 「本当に、あんたはアイムなのか?」 「あの時の約束を知っている人間はカイムとアイムの2人だけだ」 「望むなら、子供の頃の思い出をいくらでも語ろう」 「お前がカイムなら、私はもう一人の方だということになる」 「信じられない」 「今までずっと死んだと思っていた」 「まあ、似たようなものだがな」 ルキウスは冷めた笑みを浮かべる。 言われてみれば、確かにアイムの面影があった。 「仮にお前がアイムだとして、なぜ今まで黙っていた?」 「俺がカイムと名乗った時に、どうしてあんたは名乗り出なかった?」 初めて出会った時。 ルキウスは不思議な目で俺を見つめていた。 恐らくルキウスはあの時から俺が弟だということに気付いていたはずだ。 「その方が円滑に進むと思ったからだ」 「あの時、いきなり私がアイムだと言っても、お前は疑うだけで絶対に信じなかっただろう」 「それはそうだ」 「だが、他にも言う機会は山ほどあっただろ」 「もし私がアイムであると名乗り出たら、お前はきっと話も聞かずに私から離れていったはずだ」 「こうして共通の目的を持って事を進めることなどできなかった」 黙っていた方が合理的だったというわけか。 「なら、どうして今さら正体を明かした?」 「お前があまりに不甲斐ないからだ」 「執政公を倒さねば未来はない、わかっているだろう」 「私が執政公に敗れたのち、お前に何かできるのか?」 「心中するよりは、まだ可能性が残るだろう」 「生きていてこそだ」 「いつも正しい道を歩いていたあんたにしては、乱暴じゃないか?」 兄はいつも正しかった。 理性的で模範的、母の自慢の息子だった。 俺はと言えば、その背中を拝まされてきただけだった。 「あんたは貴族に拾われて不自由なく生きてきたかもしれないが、俺は牢獄で死ぬ思いをしてきた」 「それとも何か、俺を登用したのは、貧乏臭い暮らしをしている俺を哀れんでのことか?」 「同情などしていない」 「私はただ、お前がどんな人間に成長したのか見てみたかったのだ」 「そして、できることなら同じ道を進もうと思った」 「ありがた迷惑だ」 ルキウスに背を向ける。 「どうするつもりだ?」 「今さら過去のことをどうこう言うつもりはない」 「単純に、牢獄の何でも屋としてあんたに接するよ」 「妥当なことはするし、そうでないことはしない」 「少なくともあんたの用心棒は続けよう」 「カイム……」 「ま、こんな気色悪い関係を、そこまで長く続けるつもりもないがな」 そう告げ、ルキウスの部屋を出た。 「……」 寝返りを打つ。 眠気など来るはずがない。 目は冴えに冴え、余計なことばかり考えてしまう。 まさかアイムが生きているとは思わなかった。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時のことが脳裏に浮かぶ。 俺はいつも、立派な兄と比較されて生きてきた。 それは、家庭内だけではない。 俺たちを知る全ての人が、立派な兄を褒め、立派ではない俺をけなした。 それでも母親は口癖を繰り返す。 「人には、必ず生まれてきた意味があるの」 「人生で一番大切なことは、自分の人生を精一杯生きて、生まれてきた意味を見つけることよ」 俺は思った。 なるほど、俺が生まれてきたのは兄の立派さを際だたせるためか、と。 気がつけば兄と正反対の生き方をし、いつも母親に叱られた。 今思えば、そうすることでしか母親の目を引けなかったのかもしれない。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》があったその日、俺たちは足の速さを競っていた。 そして、いつも通り俺は兄の背に呪詛の言葉を投げつけていたのだろう。 しかし、その日は呪詛が現実のものとなった。 空を覆う、不思議な光── 綺麗で儚くて、透き通るような空の色。 後になって、俺が見たものは《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》と呼ばれるものだと知った。 そこからの記憶はほとんど残っていない。 気がついたとき、俺は崖から落ちそうになっている兄の手をつかんでいた。 数瞬前まで、呪詛の言葉を投げつけていた兄を救っていたのだ。 理由はわからない。 アイムの体は重く、子供一人の力ではどうにもならなかった。 俺の体も崩落した穴へと引き寄せられていく。 「カイム、もういい」 「手を離さないと、お前も落ちてしまう」 ──手を離してしまえ。 ──兄がいなくなれば、お前は母親から認めてもらえる。 心のどこかで誰かが囁く声が聞こえた。 だが俺は拒んだ。 腕は痺れ、いくら踏ん張っても奈落へと引きずられていく。 何故か俺は、兄を救おうと必死だった。 そんな時、兄は言ったのだ。 「お前は、俺の分まで生きてくれ」 「俺の分まで生きて、立派な人間になるんだ……約束してくれ」 兄の最期を悟ったのか、俺は頷いた。 それを見たアイムは満足そうに微笑んで── 一人、奈落へと落ちていった。 「……」 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の後、しばらく下層を〈彷徨〉《さまよ》った俺は、牢獄に売られた。 そして、生き残るために、母とアイムの言葉を裏切り続けなければならなかった。 アイムと交わした約束は、抜けない棘のように俺を傷付けてきた。 仕方がないことだ。 牢獄での過酷な暮らしは、生き方など選ばせてくれなかった。 生まれてきた意味や立派な生き様に縛られていても、死ぬ日が近づくだけだ。 他にどうすれば良かったのか。 ……わかっている。 俺は単に、ルキウスを妬んでいるだけだ。 ルキウスは貴族に拾われ、何不自由なく暮らしてきた。 だが俺は牢獄で泥水を飲み、血に〈塗〉《まみ》れて生きてきた。 こんな不条理なことがあっていいのか。 神は皮肉屋だ。 命を賭して俺を救おうとしたアイムは貴族に、そして命を救われた俺を牢獄に落とした。 こんな采配をして、神は一体何を試そうというのか。 俺への試練だとでも言うつもりか。 「……」 こんなところ、一刻も早く出て行きたいとも思う。 だが、もしここで俺が出て行ったらルキウスはどうなる? 執政公に潰される可能性は高い。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時と同様、まさに崖から落ちようとしていると言ってよい。 あの時、俺は兄を助けた。 何故、消えて欲しいと思っていた兄を助けたのか。 理由は今もってわからない。 もう少しだけ、傍にいてやろう。 今が、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》時と似た状況ならば、傍にいることであの時の気持ちがわかるかもしれない。 もう少しだけだ。 いざとなれば、袂を分かつ。 感傷に身を浸して行動を誤るほど、〈温〉《ぬる》い生活はしてこなかった。 現在の俺ならば、冷静に情勢を判断し、手を引くべき時には引けるはずだ。 その時が来るまでは、せいぜい身の安全を守ってやろう。 それでいい。 「戻りました」 音もなくガウが現れた。 「首尾はどうだ」 「例の貴族は始末してきました」 「家族も使用人も、全て」 ガウの顔には、血を拭ったような跡が残っていた。 「いやしかし、なんですね」 「無抵抗な人間を殺すのは、あたしも気が咎めますよ」 「にしては、楽しそうだが」 ガウに、良心などというものが残っているはずもない。 そこを買って配下にした執政公だが、彼自身、背中が寒くなる時がある。 「で、もう一方は?」 「あ……ああ、そういえば」 「申し訳ありません。すっかり忘れていました」 「なに?」 執政公がガウを〈睨〉《にら》み付ける。 ガウが自分の獲物を忘れるはずがなかった。 とすれば、意図的に仕事をしていないと見て良かった。 「今から片付けてこい」 「カイムとやらは、かなり腕が立ちましてね」 「おまけに、システィナもいる」 「いくらあたしでも、帰って来られるかどうか」 ガウが爬虫類のように笑いながら言う。 「私の命に逆らうのか?」 「殺せと言ったのだ、例外は認めない」 「いやー、随分と焦っておいでですな」 「前にもお伝えしましたけど、ルキウスに叛意などありません」 「それは私が判断することだ」 「いずれあやつは私に刃向かってくるだろう」 「はぁ、そうでしょうか」 「あれは、人に服従する人間ではない」 「今一度言う」 「ルキウスとカイムを消せ」 ガウが肩をすくめる。 「どうせなら、リシア様を殺して、あなた様が王になればよろしいのでは?」 「あたしはね、あの甘えた顔を見ると、いつのまにか剣に手がかかってしまうんですよ」 馬鹿が、と執政公は思う。 リシアは執政公の権力のよりどころだった。 よほどのことがない限り、彼はリシアを殺さない。 「お前は、私が指示した人間を殺せばいい」 「おっと、そうでした」 ガウは深々と頭を下げる。 「でも意外でしたよ」 「何がだ」 「王位を狙わないのはもっと違う理由があるのかと思っていました」 「これはただの噂なんですがね」 「何でも国王陛下がお倒れになった時、失意の王妃様は毎夜どなたかと逢瀬を重ねていたとか……」 「そのような噂は、聞いたこともないな」 「おや、そうですか」 「剣の他に、長話も覚えたか?」 「さっさと役目を果たしに行け」 「あなた様ともあろうお方が、何を慌てていらっしゃるのですか」 「今夜のなさりようは、慎重なあなた様らしくもありません」 「そんなにリシア様のお言葉が堪えましたか」 「ええと、何でしたっけね」 「確か……クルーヴィス?」 その瞬間、 執政公の目が血走った。 執政公の拳が、ガウの顔面を捉える。 「黙れっ!」 「貴様ごときがその名を口にするなっ!」 執政公は倒れたガウに馬乗りになり、殴打を続ける。 ガウは避けようともせず、黙って執政公のなすがまま。 鼻血を吹き出しながらも、笑みを崩さない。 「殺ししか能のないお前が今も生きていられるのは、私がお前に食い扶持を与えているからだ!」 「お前は黙って私に従っていろ!」 「く……くくく……」 殴られながら、ガウは喉の奥で笑う。 「何がおかしい!」 「あはははははははっ……!」 忍び笑いは哄笑へと変わり、ガウは自らの血を味わいながら笑い続ける。 「はあっ、はあっ……はあっ……」 殴り疲れ、執政公は拳をさすりながら立ち上がる。 その後を追い、まるで何事もなかったかのようにガウも立つ。 「もうお疲れですか?」 「絶大なる権勢を誇るあなた様も、寄る年波には勝てないようですね」 唇からこぼれた血を拭い、その指をしゃぶる。 「黙れ」 「わざわざ殺さなくとも、ルキウスを潰す方法ならありますよ」 「……言ってみろ」 瞬時に、執政公の目に冷静さが戻った。 「彼を裸にしてしまえばいいのです」 「あなた様になら至極簡単なことですよ」 「では行ってくる」 会議室へと向かうルキウスの背中を無言で見送る。 いつもと違い、ルキウスと一言も言葉を交わすことなく城にやってきた。 システィナも隣でむっつりと黙り込んでいる。 「カイムさん」 貴族たちが会議室に入ると、待ちかねたようにシスティナが話しかけてきた。 「ルキウス様からお話は伺いました」 「そうか」 「最初は耳を疑いましたが、思えば当然のことでした」 「特別なご事情がない以上、ルキウス様があなたの様な人間をお側に置くわけもございませんから」 「だろうな」 「一つ、お願いがあるのですが」 「めずらしいな」 「本来ならば、貴方をルキウス様の弟御として接しなくてはならないのですが……」 「今まで通りで構わない」 先に答える。 こいつに敬語を使われるなど、気持ちが悪い。 「ご理解が早くて助かります」 「貴方が、ルキウス様の不利益になるような行動を取るならば、しかるべく対応いたしますので」 「今まで通り護衛はする。だが、それだけだ」 俺はこの都市が浮いている謎について解き明かすために上層へやってきた。 それはルキウスが誰であろうと関係ない。 ルキウスと利害が一致している以上、協力関係を崩す必要はない。 俺の気持ちを一旦置いておけば、それで済む話だ。 「しかし、これだけは言っておく」 「あいつは俺との関係を黙ったまま、俺を利用してきた」 「協力はするが、あいつのことを頭から信用することはない」 「構いませんよ」 「貴方が信用すると言ったところで、誰もその言葉を信用しませんし」 「それでいい」 会議が終わり、貴族たちが続々と大広間に戻ってくる。 何かあったらしく一様に暗い表情をしていた。 リシアは、こちらに一瞥もくれずに去っていった。 執政公が手を叩き、皆の目が集まる。 「さて諸君」 「我々は日々会議で集まり顔を合わせているが、毎回政務だけというのも味気ない」 「たまには、食事でも取りながら親交を深めようではないか」 「無論、各々ご予定もあろう。都合のつかない者は遠慮なく外してもらって問題ない」 執政公が合図を送ると、会議室と大広間に料理が運びこまれる。 あらかじめ用意をしておいたようだ。 「補佐の者も、存分に楽しんでくれ」 そう告げると、執政公は会議室へと戻っていった。 ルキウスは無表情でその背中を見つめている。 「ルキウス様も参加されるのですか?」 「帰る者などおるまいよ」 この昼食会も引き締めの一環だ。 帰れば執政公から目を付けられる。 ルキウスの言葉通り、誰一人として帰る者はいなかった。 大広間は、瞬く間に料理で埋め尽くされた。 見たこともないような豪華な料理の数々に、樽ごと運ばれてきた最高級のワイン。 一体どれだけの金が掛かっているのか。 補佐官たちは思い思いの料理を取り、舌鼓を打っている。 どれも上品で美味かったが、牢獄の料理に比べるとやはり味が薄い。 一通り料理を楽しみ、ワインを味わっているとシスティナが近づいてきた。 「何だ?」 人気のないところへ手招きされる。 「一応あなたの耳にも入れておきます」 「昨夜、こちら側についていた若手の貴族が消されました」 「家族と使用人……女も子供も関係なく、皆殺しです」 「そうか」 派手な仕事だ。 ガウの顔が脳裏に浮かぶ。 「さらに、執政公に刃向かうと聖教会から破門されるとの噂も拡がっているようです」 「執政公の力で破門させることができるのか?」 「聖教会に、ガウの護衛する馬車が入ったことは覚えているでしょう?」 「執政公と神官長の間に繋がりがあることは、皆に知られています」 「そうだったのか」 ナダルが、貴族への体面を気にしていたことを思い出す。 奴からした世慣れした臭いも、執政公との繋がりの中で生まれたものだろう。 「こちら側の貴族たちに動揺が広がっているようです」 「カイムさんも言動には細心の注意を払ってください」 「わかった」 用件だけ伝えると、システィナは足早に去っていく。 何か思い詰めていた顔をしていたが、大丈夫だろうか。 それにしても、一族を皆殺しか。 おまけに破門の脅しまでかけている。 執政公も、いよいよ本気になったらしいな。 大広間を見渡すと、遠くにガウが一人立っていた。 壁に背を預け、ワインを揺らして楽しんでいる。 「……」 俺の視線に気付くと、ガウはくいと杯を持ち上げた。 こちらも杯を上げて応える。 どうやら、殺したのはあいつで決まりのようだ。 会議室の卓に料理が広げられ、貴族達は和やかに談笑していた。 ルキウスも表面上は談笑に応じていたが、心中穏やかではない。 自分の味方をしてくれていた有力な貴族が投獄、殺害されたのだ。 執政公への敵意をおくびにも出さず、他愛のない話に花を咲かせる。 「時にヴァリアス殿」 普段は部屋の隅で立っているヴァリアスにも、今日は席が用意されていた。 場所は執政公の隣席。 あからさまな配置だった。 「何でございましょう」 「娘もいい年になる」 「そろそろ、孫の顔など見てみたいと思うときもあってな」 「なかなか子宝に恵まれず苦労しております」 「そうであったか」 「子は授かり物ではあるが、ヴァリアス殿には是非頑張っていただきたい」 「は、精進致します」 執政公とヴァリアスの和やかな会話に、場の空気が緩む。 執政公も、自分の会話の成果に満足した。 ヴァリアスとの確かな繋がりを周囲に知らしめることができたと感じたのだ。 そんな場を眺めルキウスが動く。 「ヴァリアス殿」 「最近、リシア様は政務へ並々ならぬご関心をお持ちのご様子」 「リシア様のご成長、いかに思われますか?」 リシアとヴァリアスが不仲だったのは、リシアからいつまでも子供気分が抜けないがゆえだ。 リシアの変化を、ヴァリアスが快く思っていないはずがない。 「リシア様が御自ら政務を執り行われるのが、この国の本来の姿」 「この頃のご様子、頼もしく思っております」 ヴァリアスが忠誠を誓っているのは国王陛下とリシア、ノーヴァス王家であって執政公ではない。 ルキウスは、再度ヴァリアスの姿勢を認識した。 「私もそう思う」 すかさず執政公が話題に入り込んでくる。 「ヴァリアス殿は王城と兵を、私が執務をそれぞれ国王陛下より任された」 「だが、それもリシア様が自ら采配を振るわれるまでの間のこと」 「リシア様の成長は我々の喜びだ」 自分とヴァリアスが共同体であることをさりげなく強調する。 「だが、少し気にかかることもある」 「どのようなことでしょう?」 「様々な事柄に興味を持たれるのは喜ばしいことだが、真偽構わず飲み込んでしまっては良い政治は行えぬ」 「良き王となるためには、事の善し悪しを学んでいただかねば」 「そうでなくては国王陛下も悲しまれる」 「その点、ルキウス卿もヴァリアス殿も同じ思いであろう」 「もちろんでございます」 「仰せの通りです」 有無を言わせぬ同意の強要だった。 逆らうことなどできない。 「誰かがリシア様を〈唆〉《そそのか》し、悪事を吹き込むようなことがあれば一大事だ」 「ルキウス卿にヴァリアス殿、リシア様に奸臣が近づかぬよう注意を払ってもらいたい」 「は、お任せください」 「はい」 ルキウスとヴァリアスは揃って頭を下げる。 最初から大きく力の差がある以上、常に劣勢は免れない。 「昨今のリシア様のご成長ぶり、国王陛下がご覧になれば、さぞお喜びになることと存じます」 「ヴァリアス殿もそう思いませんか」 「その通りですな」 「執政公、国王陛下のご容態はいかがでしょうか」 「相変わらずだ」 「未だご快復の様子はない」 「お〈労〉《いたわ》しいことです」 ルキウスは暗い顔を作る。 それから今思い出したかのように、顔を上げた。 「おお、そういえば」 「どうされた?」 「近頃、巷で名医との呼び声高い医者がおります」 「一度、国王陛下のご容態を診察させてはいかがかと存じますが」 かねて打ち合わせをしておいた通り、周囲の貴族達が同意の声を上げる。 ルキウスの言葉に、執政公は無表情になる。 「国王陛下には、この国で最も権威ある医者を付けている」 「その者の腕に何か疑問がおありか?」 「滅相もない」 「ですが、国王陛下は長らくご快復の兆しも見えぬ状態」 「僭越ながら、そろそろ新しい手立ても必要ではないかと考えた次第です」 波が引くように、ざわめきが去っていく。 執政公の発言に皆注目しているのだ。 「確かに……」 ルキウスの言に周囲の貴族が頷く。 いくら権威ある医者とはいえ、国王が快復しないなら何もしていないのと同じだ。 他に名医がいるというなら試しに見せてみればいい。 それでご快復するのであれば御の字だ。 「ルキウス卿」 執政公は笑う。 「貴殿の言う通りだ」 「今まで手を〈拱〉《こまね》いて、有効な手を打てなかった〈誹〉《そし》りは受けねばなるまい」 「今回はルキウス卿に任せてみよう」 「皆の者、異論はないな」 会議室にいる貴族全員が、執政公に頭を下げる。 「では後ほどリシア様にご相談しよう」 「ルキウス卿も一緒に来たまえ」 「はっ」 ルキウスは改めて頭を下げた。 昼を過ぎたが、ルキウスたちが出てくる気配はなかった。 まだまだ昼食会は続くらしい。 何杯目かのワインを口に運んでいると、近衛兵が近づいてきた。 「カイム様でしょうか」 「ああ」 「お手紙を預かっております」 近衛兵は俺に手紙を差し出してくる。 受け取って裏面を見るが、差出人の名はない。 「誰からだ?」 「長い外套を着た女性の方でしたが、お名前は伺えませんでした」 ガウか。 「確かにお渡ししました」 「ありがとう」 近衛兵が去っていくのを見届け、手紙の封を切る。 手紙には、一行があるのみだった。 《手遅れにならないうちに、リシアの顔を見に行くといい》 罠か忠告か。 報告のためにシスティナの姿を探すが、見当たらない。 仕方ない。 単身、大広間を抜ける。 リシアの部屋の前に着いた。 「リシア様、いらっしゃいますか」 反応がない。 扉の隙間に耳を当てる。 微かに、うなり声が聞こえてきた。 ナイフの柄に手をやり、扉を押し開ける。 周囲を窺う。 怪しい者の姿は見あたらない。 「ん……んんっ、んんんっ……」 リシアがベッドの上でうめいていた。 縄で手足を縛られ、猿ぐつわを噛まされていた。 「んっ、んんーっ、んんっ……」 俺の姿を確認し、リシアは激しく首を振る。 背後で扉が閉まる。 音が鳴りやまぬうちに、体を横に投げ出した。 横薙ぎに刃が通り過ぎていく。 ナイフを抜く。 「……」 敵は、灰色の長衣に仮面を付けている。 性別はわからない。 「っっ」 上半身を狙った鋭い突きを放ち、そこからさらに踏み込んで脛を狙ってくる。 体をひねってかわし、背後に退く。 なかなかの手練れだ。 相当実戦慣れをしている。 ふと、曲者の身体が沈む。 鋭い突き。 点の攻撃は、動きさえ読めれば簡単に回避できる。 迫る刃をナイフで弾く。 だが…… 弾いたはずの剣先が、異様な動きを見せた。 巻き付くようにして、切っ先が俺の手元に滑り込んでくる。 「くっ……」 ナイフで弾くと同時に踏み込み、足を伸ばす。 「ふっ……!」 敵の脇腹に蹴りが入る。 転がるようにして、仮面の人物はバルコニーへと遁走する。 「待てっ!」 敵を追ってバルコニーに出る。 が、どこにも姿は見えない。 どこへ行った!? バルコニーから下を覗く。 壁のわずかな突起を伝って逃げる人影があった。 少しでも手を滑らせれば、はるか崖の下まで真っ逆さまだ。 追うのは難しい。 ここは、撃退しただけでよしとしておこう。 部屋に戻り、リシアに近づく。 ナイフで縄と猿ぐつわを切る。 「ぷはっ……カ、カイム」 リシアは小刻みに震えていた。 「た、助かったのか?」 「ああ」 「お前が助けてくれたのか?」 「目の前で見ていただろう」 少し混乱しているようだ。 自分の身に起こったことが未だに信じられないのだろう。 縄を完全に取り去り、リシアから離れようとする。 「ま、待て」 腕を捕まれた。 「すまない……しばらく傍にいてくれ」 「いいのか?」 「自分でもわがままだと思っている」 「だが、頼む」 リシアの震えは続いていた。 「わかった」 ベッドに座ると、リシアが腕にしがみついてきた。 「殺されると思った」 殺すつもりなら、わざわざ猿ぐつわなど噛ませない。 犯人の目的は別の所にあったようだ。 金品を狙ったのだろうか。 「奴の顔を見ていないか?」 「わからない」 「そうか」 蹴りを入れた時の筋肉の堅さから、性別は大方見当がついていた。 女だ。 それに、敵が放ってきた奇妙な突きには見覚えがあった。 一人の人物の名前が頭に浮かぶ。 システィナだ。 だが、なぜ? あいつがリシアに危害を加える理由があるだろうか。 そこまで考えて、システィナとガウに密通の疑いがあることを思い出す。 とすれば、執政公の命を受けての行動か。 だがむしろ、執政公はリシアに死なれては困るはずだ。 「……?」 視界の端に光るものがあった。 「リシア、すまない」 リシアの手をほどき、見つけたものを拾う。 銀製の指輪だった。 幅が広く、台座のところは何かが刻印されている。 「封蝋用の指輪だな」 「お前のか?」 「見せてくれ」 リシアに指輪を手渡す。 刻印を見て、リシアは目を見開く。 「これは、執政公の刻印だ」 「まさか!?」 本来ここにあるはずがないものだとしたら、外から持ち込まれたことになる。 仮面の人物が落としたのだろうか。 いや、おかしいな。 顔を隠すために仮面を付けていた人物が、わざわざ身分が明らかになるようなものを持ち歩くだろうか。 「私が会議でクルーヴィスの名を出した時の執政公は、尋常ではなかった」 「執政公は、まるで虫けらでも見るかのような目で私を見ていた」 「やはりそうなのか……」 「執政公が、私を……」 リシアの中では、執政公が命を狙ってきたことになっているようだ。 だが、リシアにはそう思わせておいた方がいいだろう。 「〈堪〉《こた》えたか」 「王家の人間がいつも命の危険に晒されていることなど、わかっているつもりだった」 「だが、実際に狙われてみると、やはりな」 リシアが無理矢理笑おうとする。 儚い努力だった。 「心底から信じられる者など、誰一人としていないのだな」 「執政公ですら、邪魔になれば手の平を返したかのように私の命を奪おうとする」 「きっとあれこれと質問する私が疎ましくなってきたのだろう」 「執政公は、私にただ肯く人形でいて欲しかったのだ」 リシアが自嘲する。 「お前は、私が部屋から追い出したとき、理不尽に思っただろうな」 「少しの嘘で、なぜあそこまで怒るのかと」 「私はな、お前だけは真実を告げてくれると思っていたのだ」 寂しそうな笑みを浮かべるリシア。 「しかし、勝手な思い込みでしかなかったようだ」 「今は反省している」 小さな背中を丸め、リシアは俯く。 「気にするな」 「俺は別に怒っていない」 「許す、とは言ってくれないのだな」 「それは今後のお前次第だ」 「お前らしい返答だ」 リシアは笑みを浮かべる。 「教えてくれ」 「どうして殺し屋になったのだ?」 「牢獄に落ちた俺は、娼館に拾われた」 「抵抗しなければ、俺は男娼にされていた」 「男娼……」 「金持ちの女や男色家の相手をする商売だ」 「何とかして娼館を抜け出したくてね、俺は娼館の男相手に暴れた」 「ま、結局は返り討ちだったが」 「だが、俺の腕を見込んだ娼館の主が殺しをやらないかと持ちかけてきた」 「悩んだが、乗ったよ」 「それだけのことだ」 「すまない……」 「聞いた私が悪かったな」 「お前は素直だな」 「どうして笑う?」 庭師の老人が言っていた通りだ。 リシアは、国王になるには少し優しすぎる。 「安心してくれ、もう随分前から殺しはやっていない」 「何故やめた?」 「好きで人を殺していたわけじゃない」 「他で食っていける手段があるなら、当然そっちを選ぶ」 「そうか、そうだな」 根底には、アイムと交わした約束があったのだろう。 誰かのために、人形のように人を殺す毎日。 そこからは、生まれてきた意味など見つけることができない。 「しかし、二度と来るなと言われたのに、また来てしまったな」 「いや、いいのだ」 「お前が来てくれなければ、今頃私は冷たくなっていたかもしれない」 「礼を言うぞ」 「気にするな」 手紙のことも襲撃犯のことも、今はまだ伏せておこう。 わからないことが多すぎる。 「それじゃ俺は行くぞ」 「ま、待てっ」 また、リシアに腕を掴まれる。 「まだ何かあるのか?」 「…………」 「聞こえない」 「こ、ここにいてくれ」 「そう言われてもな、こっちも仕事がある」 そろそろ昼食会が終わるかもしれない。 「心細いのだ」 「私を一人にしないでくれ」 「多分今日はもう襲われないだろう」 「多分か……」 相当参っているようだ。 どうしたものか。 「近衛兵を呼んでこよう」 「そいつらに警備させれば安心だろう」 「ば、馬鹿者っ」 「私は……その、お前にいて欲しいのだ」 上目遣いで〈睨〉《にら》まれる。 どうやら離してはくれないようだ。 「二度と来るなと言ったのはリシアだろう?」 「頼む、意地悪を言わないでくれ」 「私はカイムと一緒にいたい」 「お前は嫌か?」 断る理由はない。 「お前が望むなら、傍にいよう」 俺はベッドに腰を下ろす。 「ありがとう」 「私がいいと言うまで、傍にいてくれ」 「まるで愛の告白だな」 「な、何を言う!?」 「私がお前に……」 言いかけて、リシアの言葉が途切れる。 「しかし、俺はルキウスの補佐官だ」 「このまま夜が明けるまで王城に残るわけにはいかないぞ」 「そ、それはそうだな……」 唸るリシア。 「ヴァリアスに言って警備を強化してもらうべきだろうな」 「だが、ヴァリアスは執政公側の人間だ」 「もしヴァリアスから執政公に話が行ったら、私は殺されてしまうかもしれない」 「それはないだろう」 「今回は昼食会で近衛兵の警備が手薄になったところを狙われただけだ」 「大体、よく考えてみろ」 「もしヴァリアスにその気があったなら、お前なんてとっくの昔に殺されている」 「……確かにそうだな」 「ヴァリアスはお前の味方だ」 「それは信じていい」 ヴァリアスは、国王とリシアを含めたノーヴァス王家に忠誠を誓っている。 万が一にもリシアの命を狙うようなことはないと思う。 「本当に……信じていいのだろうか」 「最終的な決断は自分でしろ」 俺にできるのは進言までだ。 信じるかどうかを俺が決めてやることはできない。 「わかった、私はお前の言葉を信じる」 「ヴァリアスに話をしよう」 「それなら、早速ヴァリアスを呼んでこよう」 「ま、待ってくれ」 「今度は何だ」 「そう慌てることはないだろう」 「まだ昼食会は終わっていないかもしれない」 苦笑する。 「急に弱気になったな」 「ち、違うっ」 「これは、その、あれなのだ」 「意味がわからん」 「いいからここにいろっ」 仕方のない奴だ。 俺はリシアが満足するまで、部屋にいることにした。 夕方になり、長かった昼食会もようやく終わった。 近衛兵に頼んでヴァリアスを呼び寄せ、リシアの口から事の顛末が告げられた。 「再度お尋ねしますが、襲撃者があったのは本当ですな」 「この私が保証する」 当然と言えば当然だが、最初は信じてもらえなかった。 だがリシアの説得により、ようやくヴァリアスは納得してくれた。 「リシア様がそこまで仰るなら、重い事実として受け止めねばなりません」 「カイム、改めて礼を言う」 ヴァリアスは、俺に片膝を突いて頭を下げた。 「ヴァリアス……」 その姿を見て、リシアが感じ入る。 普通、目下の者に片膝をつくなどあり得ない。 近衛騎士団長として、最大級の礼なのだろう。 「俺がリシア様をお助けできたのは偶然だ」 「それにしても、許せん」 「犯人は必ずや我らが捕縛いたします」 ヴァリアスが拳を握る。 「犯人を見つけるのも重要だが、リシア様は今回の件でご不安を感じているようだ」 「警備を増やしてやってくれないか」 「無論だ」 「今後、リシア様には誰であろうと指一本触れさせぬ」 ヴァリアスの言葉に、リシアが苦笑する。 「それは困るな」 「ですがリシア様……」 言いかけるヴァリアスを手で制する。 「警備は全てヴァリアスに任せる」 「だが、カイムは今まで通り部屋に入れるようにしてほしい」 「私の希望はそれだけだ」 どうやら、再び俺を部屋に入れてくれるようだ。 ヴァリアスが俺を〈睨〉《にら》み付けてくる。 「カイム、上手くリシア様に取り入ったな」 「だが、私の目が黒いうちはそう好きにはさせんぞ」 「まあそう言うな」 「リシア様、カイムは確かにリシア様をお助けしたかもしれません」 「ですがその事実のみを見て、その男に全幅の信頼を置くのはいかがなものかと存じます」 「わかっている」 「だがそれでも、カイムは大丈夫だ」 「リシア様……」 ヴァリアスがため息をつく。 「わかりました、今回はカイムを信じましょう」 「助かる」 「だが、いつも私が目を光らせていることを忘れるなよ」 「ああ」 俺は肩をすくめる。 「それでは、今度こそ失礼します」 「ああ、色々助かった」 「と、ちょっと待て」 「まだ何か」 リシアは少し〈躊躇〉《ためら》ってから、笑顔を向けてくる。 「カイム」 「えっと……また明日、ここに来てくれよ?」 謁見の間にやってきた。 今日はシスティナの代わりにエリスがついてきている。 前に進言した、国王をエリスに診察させる算段がついたらしい。 早速、朝一番でエリスを牢獄から呼び寄せたのだ。 「エリス、王城はどうだ」 「こんなものでしょう」 「あそこの壺一つで、何人の病人が治せるのか知らないけど」 素っ気なく答えるエリス。 「エリス、言葉遣いには気をつけろよ」 「大丈夫、黙ってるから」 「そうしてくれ」 「エリス君」 「なに?」 「一応言っておくが、国王陛下には最大級の敬意を払ってくれ」 「我々貴族であれば構わんが、王家を侮辱すれば侮辱罪に問われる」 「そうなれば、さすがに私も庇いきれん」 「わかった、気をつける」 今、国王の主治医が朝の検診をしている。 検診が終わり次第、エリスを国王に会わせる段取りだ。 「お待たせしました、ルキウス様」 主治医が国王の部屋から出てくる。 丸々と太った体を揺すり、どんぐりのような目を眼鏡の奥でしばたたかせていた。 「陛下のご容態は安定されております」 「少しの間であれば、診察は問題ないでしょう」 「ありがとうございます」 ルキウスが頭を下げる。 「おお、貴方が噂の名医ですか」 「は?」 「ああ……そう呼ぶ人もいるわね、不本意ながら」 「ぜひ、よろしくお願いしたします」 「ま、善処します」 職業的な対抗心からか話を続けようとする主治医をかわし、エリスが国王の部屋に入る。 国王の診断が終わり、大広間へと戻ってきた。 「で、どうだった?」 「恐らく、毒物の中毒症状だと思う」 「体のあちこちに黒い斑点が出ていたから」 「ま、私が知らない病気って可能性もあるけど」 エリスの言葉に、ルキウスは目を細める。 「もし本当だとすれば大事だぞ」 「主治医は見逃していたのか?」 「あれを見逃すなら、その人医者じゃない」 とすれば、主治医は国王に毒が盛られていることを見過ごしてきたということか。 無論、独断でやっているはずがない。 「執政公か」 「だろうな」 「エリス君、毒物を割り出すことはできるか?」 「難しいわね」 「同じ症状を引き起こす毒はいくつもあるから」 「さっきの医者に訊くのが手っ取り早いと思う」 「それも難しいだろうな」 「主治医を取り調べるには、まず毒物を特定しなければならない」 「その上で、主治医がその毒物を所持していることを証明する必要がある」 「相手は陛下の主治医だ」 「嫌疑が不十分なまま手を出せば、手痛いしっぺ返しを食らう可能性もある」 簡単に尻尾を掴ませてくれるほど執政公も甘くはないか。 しかし気になる。 医者が診れば必ずわかるほどの中毒症状が出ているのに、なぜ執政公はエリスの診察を許可したのか。 単に、ルキウスの話の進め方が上手かったということなのだろうか。 「国王を回復させることはできないのか?」 「衰弱がひどいから、多分無理」 「長い間、毒を飲まされ続けてきたんだと思う」 「話しかけた時、まともに受け答えできてなかったでしょ」 「きっと、考える力がもう残ってないのよ」 助けるのも難しいか。 リシアは相当落ち込むだろう。 しかも、執政公に毒を盛られていたとなれば尚更だ。 どこまで話したものか。 「国王陛下だけど、カイムがリシア様って言うのを聞いて何か呟いてた」 「ヴァ……何とかに預けて、とか何とか」 「ヴァリアスのことか」 「そんな感じだったかも」 ヴァリアスに何かを預けてあるということだろうか。 リシアに心当たりを聞いてみるか。 「リシア様にはカイムの方から上手く伝えておいてくれ」 「ああ」 ルキウスに顔を合わせず答える。 こいつを兄だと知った時から、胸に何かがつかえていた。 「では、私は屋敷に戻る」 用件だけ告げて、ルキウスは去っていった。 「何? 喧嘩でもしてるの?」 「鋭いな」 「見れば分かるわよ」 「カイム、人に謝るの苦手だし」 「謝る必要があることは、何もしていない」 「どうだか」 「私が言うのも何だけど」 「つまらないことで意地張ってると後悔するから」 確かに、意地を張っているかもしれない。 ルキウスは自分の素性を隠して俺に協力させ、俺が離れそうだとわかったら兄だと明かした。 奴にとっては当然の判断だったのかもしれないが、手の上で踊らされた方としては納得がいかない。 「さて、城の外まで送ろう」 「ありがと」 エリスを外まで案内し、再び城内に戻ってきた。 リシアの部屋の前には、二人の近衛兵が立っている。 「お名前をよろしいでしょうか」 「ご面会希望の方は、例外なく改めることになっております」 ヴァリアスが手配したのだろう。 大柄の近衛兵たちが俺を〈睨〉《にら》み付けている。 「ルキウス卿の補佐官、カイムだ」 「リシア様とお会いする約束をしている」 「ありがとうございます」 近衛兵たちは一礼し、脇に退いた。 二人の視線を感じながら、俺は扉をノックする。 「誰だ」 「カイムです」 室内からばたばたと音が聞こえる。 ……。 「う、うむ。入っていいぞ」 「何をしていた?」 「う、うるさい」 「こちらにも準備というものがあるのだ」 何の準備やら。 「警備が厳重になっているな」 「昨日から、ずっと兵士が張りついている」 「おまけに、食事の度に部屋の中を改められる始末だ」 「ヴァリアスに任せるとは言ったが、ここまでやられるとはな」 むくれるリシア。 「しかしカイム、約束通り来てくれたな」 「会いたかったぞ」 真っ直ぐな笑顔で告げてくる。 「何となくな」 「何を照れている?」 「お前も意外と可愛いところがあるんだな」 「馬鹿らしい」 「ふふふ、まあいい」 妙に嬉しそうだ。 「今日は他に話すことがある」 「父上のことか」 頷く。 俺たちが国王に会うことは、昨日のうちにリシアの耳に入っている。 リシアの裁決なしには許可が出ないのだから当然だろう。 「ご様子はいかがであった?」 「率直に言って、良くない」 「ほとんど言葉も話せないようだった」 「そうか……」 「私が幼い頃から、父上は一向にご快復なされないな」 「もう…………」 言葉が途切れた。 リシアの表情に暗い影が落ちる。 「ただ、少しだけ声を聞くことができた」 「リシアの名前に反応したようだ」 「私の名前を?」 「何と仰っていたのだ」 「ヴァリ何とかに預けて、だそうだ」 「恐らくヴァリアスに何かを預けてある、という意味だろう」 「私の名前を聞いて、そう仰ったのか」 「ああ、そうだ」 リシアは考え込む。 「私に心当たりはないが、ヴァリアスが何か知っているかもしれないな」 「早速呼ぼう」 落ち込んでいたのが嘘のように、リシアが溌剌と動く。 外の近衛兵に何かを指示した。 「お呼びでしょうか」 「ご苦労」 「お前に聞きたいことがあって呼んだ」 「先ほど、カイムとルキウスが医者を連れて父上の診察をした」 「存じております」 「その時父上が、私の名前を聞いて何事かを呟かれたらしい」 「ヴァリアスに預けてある、そのような意味のことだ」 「何か心当たりはないか?」 ヴァリアスの表情が硬くなる。 何かを知っているようだ。 「本当に、国王陛下はそのようなことを仰ったのですか」 「カイムがそう言っていた」 ヴァリアスがこちらを〈睨〉《にら》んでくる。 「嘘ではないな」 「もちろんだ」 「あんたが何かを預かっているかどうかなど、俺は知らない」 一応納得したのか、視線を外してリシアに向き直る。 「陛下がそのように仰ったのなら、リシア様にお渡しするべきでしょう」 「本当に何か預かっているのか?」 「もしものことがあった時、リシア様にお渡しするよう言いつかっているものがあります」 「今より、ここにお持ちしましょう」 そう告げると、ヴァリアスは部屋を辞した。 「これにございます」 ヴァリアスの手からリシアへ封書が手渡される。 「これは……」 「国王陛下が床に伏されたとき、お預かりしたものです」 「崩御の際には、リシア様へお渡しするよう言いつかっておりました」 「陛下はまだご健在ですが、御自らのお言葉とあれば」 国王からリシアへの遺言ということか。 リシアは神妙な顔で手紙を見つめて寂しげに微笑んだ。 「こんな形で、父上から最後のお言葉を頂くことになるとはな……」 「悲しいことだが、私のためにお言葉を残してくれたことはこの上ない幸せだ」 リシアは封を開けて手紙を取り出す。 ヴァリアス共々、手紙に目を通すリシアを黙って見つめる。 「……な、何だ……これは……」 リシアの顔が次第に強張っていく。 手紙を読み終える頃には、悲愴なまでに顔が歪んでいた。 「ヴァリアス」 「何でしょうか」 「お前が預かったものはこれだけか」 「手紙だけにございます」 「そんなはずはないっ!」 「ヴァリアス、探してこいっ!」 リシアが早口でまくし立てる。 「リシア様……」 ヴァリアスが目を伏せる。 「リシア様、どうか冷静におなり下さい」 「それが国王陛下よりお預かりした、唯一にして最後の手紙であることに間違いはございません」 「陛下の真のお心が刻まれているはずです」 「うるさい……」 「うるさい、うるさいうるさい!」 「違う、こんなものが父上のお言葉であるはずがない!」 「ヴァリアス、お前は私を〈謀〉《たばか》る気なのだな!」 リシアの目には涙が滲んでいた。 「そのようなことは決してございません」 「信じられるか!」 「お前は執政公の娘を娶ってから、執政公にばかり良い顔をしている」 「私がそのことに気付いていないとでも思っているのか!」 「どうせお前も私が邪魔なのだろう!?」 「そうならそうとはっきり言え!」 「リシア様っ」 ヴァリアスの重い声に、部屋の空気が揺れた。 一触即発の空気が漂う。 「二人とも落ち着いてください」 「リシア様、誰が何のために警備を強化したのかお忘れになりましたか」 「そ、そんなこと……」 いきり立つが、言葉が続かず顔を背ける。 リシアの荒い息だけが、部屋に流れる。 「今日のところはこれで失礼します」 「カイム」 後のことは頼んだぞ。 そう目で告げてくるヴァリアスに、俺は頷いた。 「落ち着いたか」 「ああ、すまない」 リシアは気落ちした様子で答える。 「手紙には何が書いてあった?」 「聞きたいか?」 「聞いてもよければな」 「ふん……本当にお前は……」 「何だ?」 「いや、何でもない」 力なく首を横に振る。 「王たるもの、すべての国民の父であるべし」 「国王としてどう振る舞うべきか、どういう心構えでいるべきか」 「昔からヴァリアスに散々聞かされてきたことが、書いてあるだけだった」 「本当にそれだけか?」 ならば、ここまで落胆はしないだろう。 「……」 リシアは黙っている。 「その後に……」 「私が、母上と素性の分からぬ男の不義密通の子だと記されていた」 なるほど。 「だが、そのことで私の地位が揺らぐことはない」 「父上の名において、私を次期国王であることを正式に認める、だそうだ」 その手紙が王位継承の証になる、ということか。 「正式に国王を名乗れるということだろう」 「良かったじゃないか」 リシアは顔を歪める。 「そんなことはどうでもいい」 「私は父上に、王として認めてもらいたかったのではない」 「ただ、私のことを愛してくれていると」 「そう言ってくれれば、私はそれで満足だった」 「それなのに、最後の言葉までこんな……こんな……」 手紙を投げ散らかし、憤りで拳を震わせる。 「わかっていた……!」 「私は不義密通の子だ」 「父上に愛される資格など、元からなかったのだ」 「そんなことわかっていたんだ」 後から後から溢れてくる涙が、〈滂沱〉《ぼうだ》として流れ落ちる。 「花輪の冠を渡した時もそうだ」 「あの時、父上がどんな思いで私を見ていたのか」 「私の無知と愚かさを蔑みながら見ていたに違いない」 「ほとほと自分の馬鹿さ加減にあきれ果てる!」 花の冠? 初耳だが、父親との良くない思い出なのだろう。 リシアと出会ったとき、彼女は花が嫌いだと言っていた。 何か繋がりがあるのか。 「父上に言われずともわかっていたのだ」 「それをわざわざ、最後の手紙で突きつけるなんて……どうして……」 「私には、普通の幸せを願うことすら許されないのか」 リシアが背負っているものは、あまりに大きい。 しかし、誰も代わってやることはできない。 「俺には、お前の悲しみを軽くすることはできない」 「誰にでも、一人で解決しなくてはならない問題があるものだ」 例えば、俺が兄との約束に縛られているように。 逃げても解決するものではない。 俺にしても、牢獄での生活の中で、幾度となく兄を否定してきた。 しかし、彼の言葉は消えない。 消えないどころか、否定する度に、奥深くに刺さっていく。 一見すればそれは消えたようにも見えるが、実体は身体の奥の奥に厳然として存在しているのだ。 「すまないな、心配をかけて」 涙を拭うリシア。 「心配などしていない」 「こんな時にも冷たいのだな」 「優しくしても、リシアのためにならない」 卓の上に、投げ捨てられた手紙を拾って置いてやる。 「馬鹿め……」 「なら、しばらく一人にさせてくれ」 涙の跡が残る頬を擦りながら、リシアは疲れた笑みを浮かべた。 「ふっ!」 木剣を振るう。 夜も更けた。 目は冴えて眠れず、素振りが睡魔をもたらすことを期待していた。 リシア様が陛下の手紙を読んだときの表情を思い出し、ため息をつく。 あの手紙に何が書いてあったのか、おおよその見当はつく。 私の知っている陛下ならば、リシア様が求めていた言葉など与えなかったはずだ。 リシア様は執政公が作り上げた国王陛下を妄信している。 もし、この先もリシア様が手紙の内容を拒絶し、執政公の虚像を信じることを選んだのなら── 私は、誰に忠誠を誓えばいいのだろうか。 陛下は、私にリシア様を託された。 いかに泣き叫ぼうが、優れた国王になるための術を叩きこんでくれと命じられたのだ。 私がリシア様に苦言を呈してきたのもそのためだ。 だが、今までのところ実を結んではいない。 ふと、カイムの言葉が耳に蘇る。 「残念ながら、国王陛下はご家族にお優しい方ではなかった」 「国政を第一に考え、万民に等しく当たらんと常に心を砕いておられたのだ」 「国王は全ての民の父となるべし、だったか?」 「私情に流されることを嫌い、実の娘であるリシア様にも厳しく接しておられた」 「その徹底ぶりは、私ですら同情を感じることもあったくらいだ」 「なら、リシア様が仰っていた国王陛下は別人か?」 「恐らく、そうであって欲しいというリシア様の願望だろう」 「本当にそれだけか?」 「何が言いたい」 「そう思い込むよう、誰かが仕組んだんじゃないのか」 「滅多なことを言うな」 「どうして執政公がそのようなことを」 「あんたはわかってるんだろう? 執政公が本当は何をしているのか」 無論、わかっている。 この国は今、執政公の手の平の上にある。 私とて、手の平の上の道化だ。 このままで良いはずがない。 リシア様が正当な国王として政務を執ることが理想であり、常道なのだ。 だが、今のリシア様にそれを望むのは難しい。 王たるもの、すべての国民の父であるべし。 リシア様は国王陛下の真意をまだ理解していらっしゃらない。 そんな中で、昨今の貴族たちの不穏な動き。 リシア様が成長されるまで様子を見ようと思っていたが、もう余裕はないのかもしれない。 一体どうすれば。 「ふんっ」 木剣を振る。 肌を流れていた汗が飛び散った。 「こちらにおいででしたか」 「起こしてしまったか」 妻が近づいてくる。 「いえ、少し夜風に当たりたくなりましたので」 「お前もか」 「はい」 柔らかに微笑む。 国王陛下がご健在であった頃、陛下の薦めで執政公の娘と婚姻を結んだ。 考えすぎか。 「旦那様」 「ああ」 妻はさりげなく手ぬぐいを差し出してくる。 私は頬を流れる汗を拭った。 私にはいささか若すぎると思っていたが、国王陛下のお言葉を無下にはできなかった。 だが、こうして夫婦になってみると実に気の利くいい女だった。 もしかしたら、陛下はご自身が倒れられることを予見し、私の立場が危うくならないよう取り計らって下さったのかもしれない。 今では執政公の娘であったことなど忘れて、心からこの妻を愛している。 「何かお悩み事でも?」 「いや」 「ふふふ、お隠しになってもわかりますよ」 「旦那様は嘘がお下手です」 「さてな」 どうも妻には嘘がつけない。 妻には、私の心を読み取る才があるようだ。 だが、その才はもっぱら私を気遣うために使ってくれる。 「実は、旦那様にご報告があります」 「言ってみろ」 「先日、お医者様に診ていただいてわかったことなのですが……」 「医者っ?」 「どこか体の具合でも悪いのかっ!?」 木剣を放り出し、妻の肩を掴む。 「いいえ、そうではありません」 妻はにこりと笑う。 「毎夜お疲れの中、頑張ってくださった甲斐もありまして」 「この度、無事旦那様のお子を授かりました」 「……そそ、それは真か?」 「はい」 「でかしたぞ!」 妻を力強く抱きしめる。 「旦那様……」 「そんなに力を入れられては、お子がびっくりしてしまいます」 「お、おお、すまん」 寝耳に水だった。 年齢もあり、半ば諦めていた子だ。 それでも妻は愛していたし、別に構わないと思っていた。 だが、いざ子ができたとなると存外に嬉しかった。 「名前を考えねばな」 「はい」 「ですが、先にお父様にお話しした方がよろしいでしょう」 「ああ……そうだな」 執政公に報告する。 妻は執政公の娘なのだから当然だ。 だが…… 執政公は、リシア様のご成長を快く思っていない。 ともすれば、リシア様のお命を狙ったのも、執政公の手の者かもしれないのだ。 そうだとしたら……。 私は、執政公とリシア様、どちらを取るべきなのか。 「旦那様……?」 「いや、何でもない」 妻は恐らく私の動揺を見抜くだろう。 だが、このめでたき時に、私の葛藤を打ち明けることはできそうになかった。 会議が終わり、貴族たちが一斉に会議室から出てくる。 その様子がいつもと違う。 皆一様に口を引き結び、無言のまま大広間を後にする。 執政公とその取り巻きも、さっさと退出してしまった。 「……」 リシアが暗い顔で会議室から出てきた。 こちらに目を合わせるものの、彼女もまた無言のまま去っていく。 「何かあったのでしょうか」 昨日からシスティナの様子を窺っているが、いつもと変わりなかった。 元から無表情なため、何を考えているのかよくわからない。 「何か仰りたいことでも?」 「一昨日、昼食会があっただろう」 「その時に、リシアが襲われたんだ」 「もちろん、ルキウス様から伺っております」 眉一つ動かさないシスティナ。 そっちがその気なら、直接ぶつかってみるか。 「仮面の人物はお前じゃないのか」 「リシア様を襲うなど恐れ多い」 「だが、仮面の人物は、お前と全く同じ太刀筋をしていた」 「同じ流派の者は、いくらでもおります」 「流派の話じゃない、もっと細かな癖も含めてだ」 「そこまで仰るなら、私を告発してみてはいかがですか?」 「もっとも、捕まるのは貴方でしょうけれど」 肩についた埃を払うようにあしらわれた。 さすがにボロは出さないか。 「あんたがそう言うなら信じよう」 「雨の日の友だからな」 「まだそれを言いますか」 冷たい目で見られる。 「どうした、お前達」 ルキウスの声が飛んできた。 「ル、ルキウス様」 システィナが、さっと表情を変える。 「待たせたな」 「会議室で何かございましたか」 「ああ、まずいことになった」 ルキウスの表情は硬い。 「と、仰いますと?」 「昨夜未明から、国王陛下が危篤状態にあるそうだ」 「何?」 「主治医が容態急変の原因を探っているが、まだ報告は上がっていない」 「だが……」 ルキウスが俺達の目を見る。 「私たちが陛下に接触してから容態が急変した、という報告が作られるようだ」 「なっ!?」 「執政公は、必ずや犯人を捜し出すと意気盛んだ」 「自然の成り行きで容態が急変した可能性をまるで無視してな」 「考えたな」 「ああ、さすがに一筋縄ではいかないな」 ルキウスが、苦虫を噛み潰したような顔で頷く。 「生かすも殺すも思いのままですか」 皆、同じことを考えているだろう。 今まで、毒を盛り続けてきたのだ。 量の加減次第でどうとでもなる。 「どうなされますか」 「計画を前倒しで進めるしかあるまい」 いよいよ武装蜂起というわけか。 「カイム、頼みがある」 「何だ?」 「リシア様は、私が陛下のお命を狙ったと信じているようなのだ」 「できれば誤解を解いてきて欲しい」 ルキウスの頼みを聞くのは気乗りがしない。 だが、国王暗殺の嫌疑は俺とエリスの身にも関わることだ。 「善処する」 「私とシスティナは屋敷に戻る」 「リシア様については、お前だけが頼りだ」 「後は任せたぞ」 真摯な瞳が俺を見ている。 不意に、胸の奥がざわめく。 あり得るはずのない感覚だった。 「ああ」 戸惑いながら、俺はルキウスに別れを告げた。 リシアの部屋の前には、相変わらず近衛兵が立っている。 「お名前をよろしいでしょうか」 「ルキウス卿の補佐官、カイムだ」 名乗ると、近衛兵の目が僅かに細まる。 「……申し訳ございません」 「リシア様への面会は、現在お控えいただいております」 「何故だ?」 「ご心労が溜っておられるとのことでございました」 ……なるほど、そういうやり口に出るか。 わざわざ名前を聞いてから面会を拒否するとはな。 これも執政公の指示か。 ルキウスに国王陛下暗殺の嫌疑が向けられている今、その補佐官をリシア様に近づけるのは危険だ。 大方、そんな理由をでっち上げたのだろう。 「こちらにも色々と都合がある、どいてくれないか」 「できません」 近衛兵に近づく。 「王城にて近衛騎士団に従わぬ場合は、貴族といえども罰せられます」 「その覚悟はおありか」 「カイムだ、リシア様にお会いしたい」 「なりません!」 「お前たちには言っていない」 「なんだ、騒々しい」 「これはリシア様……」 扉が開き、中からリシアが顔を出す。 「カイム……」 「お話ししたいことがございます。少々時間をいただきたい」 「なりません」 リシアへの問いかけに、近衛兵が答える。 「なぜだ?」 「私はヴァリアスに伝えてあるぞ」 「カイムはここに来られるようにしてくれ、と」 「ですが、執政公より、何人もお入れしてはならぬとのご沙汰を頂いております」 「だそうだ」 俺はリシアに目で訴えかける。 執政公が何を狙っているか、リシアならわかるはずだ。 「相分かった」 「お前たちの心配はもっともだ」 「だが、私が今ここにいられるのは、カイムが私の命を救ってくれたからだ」 「この者がいなければ、私は生きていない」 「私の命を救った者が私の命を狙うと思うか?」 「それは……」 「心配ない、この者は通して良い」 「責任は私が持とう」 「は、承知致しました」 頭を下げ、近衛兵が道を空けた。 「で、何の用だ」 扉を閉め、リシアは疲れた声を出す。 「参っているようだな」 「当たり前だ」 「なぜ父上の容態が悪くなったのだ」 「俺たちは何もしていない」 「そう言うだろうと思っていた」 荒く息を吐く。 「だが、何の証拠もない」 「カイムたちが父上と一緒にいる時、誰も傍にいなかったという」 「これでは、無実が証明できまい」 「また執政公の言葉を鵜呑みにするのか」 「……」 リシアは目を背ける。 「私はその場にいなかったのだ、誰かの言葉を信じるしかない」 「他に仕様もないだろう」 そのこと自体は何も間違っていない。 「だが、誰の言葉を信じるのかはリシアが考えることだ」 「誰もが本当のことを言うとは限らない」 「相変わらず口やかましいな」 リシアに〈睨〉《にら》まれる。 「優しいことを言ってくれる人間が欲しいなら、俺は不適当だ」 「わかっている」 「だからこうして会って話を聞いているではないか」 リシアは、呼吸を整え俺を見据える。 「カイムは、こう言いたいのだろう?」 「これは執政公の罠だ、自分たちを嵌めようとしているのだと」 「わかっているならいい」 「馬鹿にするな、私だって少しは頭を使っている」 「執政公は私が政務に口を出すのが気に入らないらしい」 「だから、私に入れ知恵するカイムや、その主であるルキウスを失脚させたいのだろう」 まともな分析だ。 「だが、納得いかない部分もある」 考え込むように、口をへの字にする。 「執政公はいつも、ルキウスの有能ぶりを褒めていた」 「ルキウスが有能であることは、私の目から見てもそれとわかるくらいだ」 「そんなルキウスを失脚させようとしている」 「ならば、もう少し理由が必要だろう」 内心、少し驚いた。 鋭いところを突いている。 「先日、ネストール卿が投獄された」 「さらに、若手の貴族が一族郎党皆殺しにされたという」 「これらも含めて考えれば……」 「執政公は、ルキウスが自分の地位を脅かすと考えているのではないか?」 リシアの視線が突き刺さる。 「……」 「カイム、私に嘘をつかないでくれ」 「お前は私の命を助けてくれた」 「私はお前を信じたい」 「いや、カイムにだけは嘘をつかれたくないのだ」 静かに告げるリシアの言葉には、確かな力が込められていた。 その迫力に、微かな王の片鱗を感じた。 ……今のリシアなら。 教えても構わないかもしれない。 これで駄目なら、どのみちルキウスも俺も終わりだ。 「本当のことを言おう」 「ルキウスは、この国の有り様を変えようとしている」 「牢獄の窮状はリシアも見た通りだ」 「……」 「執政公は陛下の意に沿って政治を行ってきたと言っている」 「だが、この国を腐敗させているのは執政公とその取り巻きたちだ」 「彼らを排除しなければ、この国は変えられない」 リシアは黙って聞いている。 「恐らく、執政公はそれに感づいたんだろう」 「ルキウスの味方をする貴族を投獄、あるいは殺した」 「そして、ルキウスを陥れるために国王陛下まで手を下そうとしている」 「それが俺の知る現状だ」 リシアは目を瞑る。 「とても信じられん……」 「父上は執政公のことを高く買っていたのだぞ」 執政公が道を踏み外した理由は、本人にしかわからない。 「確かなのは、このままだとルキウスは窮地に追いやられるということだ」 「……」 「ルキウスは近いうちに武装蜂起するだろう」 「その時、リシアには蜂起の旗印になってもらいたいと思っている」 「私に荷担しろというのか!?」 「そうだ」 「何をしろというのだ」 「私には何の力もないぞ」 「何もできないというなら、ルキウスの言うことを追認すればいい」 「そうすれば、後はルキウスが勝手に動く」 「執政公を倒し、お前の望む政治を行ってくれるはずだ」 「そうすれば、牢獄は今よりマシになるし、羽つきへの非道な行いもなくなる」 俺やエリス、そしてルキウスのために今はこう言うしかない。 ……だが。 リシア、気付いているか? 俺の言っていることが矛盾を孕んでいることに。 「……そう、か」 「ルキウスは、執政公に勝てるのか?」 「わからない」 「だが、このままではお前もルキウスも危ない」 「確かにな……」 リシアは目を瞑る。 「すまない、急な話で頭がぐちゃぐちゃだ」 「少し考えさせてくれ」 屋敷に戻ってきた途端、嗅ぎ慣れた臭いが充満しているのに気付いた。 つんと鼻腔を突く鉄錆の臭気。 廊下には未だ乾かぬ血だまりと、何かを引きずったような跡が残っている。 さらには、壁から天井にまで血が飛び散っていた。 まさか、ルキウスが……。 ナイフを抜き、慎重に奥へと進む。 「……」 「……カイムか」 システィナが剣をこちらに向けている。 「貴方ですか……驚かせないでください」 システィナの剣には血糊が付いていた。 「敵はルキウス様と私とで退けました」 「死体は庭にあります」 「無事か?」 「私たちはな」 「ティアさんも無事です。部屋で待機してもらっています」 「だが、召使いが何人か殺された」 安堵の息を吐き、ナイフをしまう。 「服装から察するに、襲ってきたのは下層のごろつきでしょう」 「誰かに雇われただけの人間です」 「頭目らしき人物に訊きましたが、依頼主は知らないようでした」 「向こうの目的は、お前達の暗殺か?」 「いや、奴らはこれを狙っていた」 ルキウスが机から巻紙を取り出す。 「血判状か……」 「これを狙う動機があるのは、名前が載っている貴族たちだ」 「一旦は名を連ねたものの、旗色が悪くなって慌てているのだろう」 ルキウスが敗れ、執政公が血判状を手に入れれば、署名した貴族も処罰される。 ルキウスから執政公に寝返ろうとしている貴族にとっては、どうしても手に入れなくてはならないものだろう。 「襲撃の依頼主を調べる必要がありますね」 「そうだな」 「システィナ、悪いが準備と平行して調査も進めてくれ」 「明日までには蜂起の目処を立てたい」 「わかりました」 「カイムさんは、ルキウス様の護衛をお願いします」 「ああ、わかった」 システィナは足早に部屋を出て行った。 「執政公に勝てるのか」 「勝敗は時の運だ」 「何もせずに座して待つよりはいい」 「そういうのは行き当たりばったりと言うんだ」 「ふふ、そうとも言うな」 何を笑っているのか。 「リシアに武装蜂起への協力を要請した」 「だが、迷っているようだ」 「にべもなく断られるかと思っていたが、予想よりいい結果だ」 「勝算のない戦いにリシアを巻き込むのは賛成できないが」 「今のところ、様子を見ている貴族が多い」 「リシア様に旗印になっていただければ、味方が一気に増えるだろう」 「リシア様がいれば勝機はある」 「つまり、勝算はカイムの頑張り次第だということだ」 「そう言えば俺が協力するとでも思ったか」 「生憎、おだてられれば話に乗るほど惨めな生活はしていない」 「その判断は賢明か?」 「私が敗れれば、カイムが欲しがっていたものは一切手に入らないぞ」 「都市の謎も、ティア君の力の正体も、全て闇の中だ」 「早合点するな」 「国王暗殺の嫌疑がかかれば、俺やエリスの身も危ない」 「だからリシアの説得までは手伝おう」 「その先は勝手にやってくれ」 ふっと鼻で笑うルキウス。 「無理強いするつもりはない」 「だが、血判状と私の護衛くらいはしてくれるのだろう?」 「ああ」 気に入らないが、ティアを預かってもらった恩もある。 それくらいは当然してやるつもりだ。 「窓際には立つなよ」 「弓で狙われる」 「ああ」 「ティアの様子を見てくる」 言い残し、ルキウスの部屋を後にする。 「あ、カイムさん」 見たところ、いつも通りのティアだ。 怪我をした様子も乱暴を働かれた様子もない。 「無事だったか」 「はい、大丈夫です」 「カイムさんもお怪我はありませんか?」 「俺が戻ってきた時には全部片付いた後だった」 「そうですか……良かったです」 「これからまた襲撃があるかもしれない」 「お前も気をつけろよ」 「はい……」 「異変を感じたら部屋に鍵をかけて閉じこもれ」 「絶対に一階には下りてくるな」 俺やルキウスが一階にいる限り、二階のこの部屋が襲われることはまずないだろう。 「わかりました」 「俺はルキウスの護衛で一階にいる」 「万が一何かあったら大声を出せ」 「はい」 それだけ告げると、部屋を後にする。 「あの、カイムさん」 「何だ?」 「気をつけてくださいね」 「お前に心配されるほど柔じゃない」 「ふふ、はい」 「何故笑う?」 「カイムさんが憎まれ口を言う時は、まだ元気がある時ですから」 「言ってろ」 微笑んでいるティアを置いて、部屋を出る。 夜になった。 「来ないな」 「昼に襲撃があったばかりだ」 「今日はもう襲撃はないかもしれん」 普通に考えればそうだろう。 ルキウスは椅子に座り、書き物をしている。 俺は手持ち無沙汰だった。 「なあ、ルキウス」 「何だ?」 「あんたは、ここでどんな暮らしをしていたんだ」 俺が牢獄に落ちてから十数年。 ルキウスも同じだけの年月をここで暮らしてきたはずだ。 「貴族に拾われ、何不自由なく暮らしてきた」 「そう思っているだろう?」 「もちろんだ」 ルキウスは、自嘲気味に笑って筆記用具を置く。 「ここでの暮らしは楽ではなかった」 「それまで平民だった人間が貴族になろうと言うのだ」 「並々ならぬ努力が必要だった」 「牢獄で生き抜く苦労に比べれば、大したものではないだろうが」 「俺に気を遣う必要はない、事実を教えてくれ」 「ネヴィル卿には、作法や社交の流儀、政治や歴史、様々なことを厳しく仕込まれた」 以前、屋敷の奥で見たネヴィル卿にはどこか狂気の臭いがあった。 ルキウスを厳しく躾る姿と、あの時のネヴィル卿の姿が重ならない。 「それでネヴィル卿を恐れているのか」 「どうかな……」 ルキウスが暗い瞳で言う。 その視線からは、言葉以上に苛酷な経験をしてきたことが窺えた。 と、窓の外に微かな違和感があった。 「ルキウスっ!」 叫ぶのと同時、 窓が割れて何者かが躍り込んできた。 ナイフはすでに抜いている。 侵入してきた男たちに向かう。 その数、5人。 一番図体のでかい男が一歩、歩み出る。 「うちの連中はどうした」 奇襲をかけたくせにお喋りか。 チンピラだな。 「昼間、訪ねてきた輩なら土の下だ」 ルキウスも剣を抜いて男たちに向ける。 「てめえっ」 「家人の痛みと恐怖を、今ここでお前に返そう」 ルキウスの瞳が光った。 「てめえら、やれ!」 堤が破れたように、男たちが襲い掛かってくる。 間近に迫った男の剣を左のナイフで退け、右で脇腹を刺し貫く。 「あっ?」 ナイフを横に引き、腹を割く。 男の体から血が噴き出す。 「ふっ……!」 背後から振るわれた剣をナイフを十字にして受ける。 横に流してナイフを振るう。 背後から襲ってきた男はこちらの一撃を〈躱〉《かわ》し、距離を取る。 横目にルキウスを窺うと、二人を相手に苦戦していた。 「ルキウス!」 じりとさがり、ルキウスに背中を向ける。 ルキウスもこちらに背を向け、背中を合わせて体勢を立て直す。 「あんた、剣は?」 「嗜む程度だ」 ルキウスは不敵に笑う。 なら、あの男たちの相手くらい何とかなるか。 「背中は任せろ」 「心強い」 同時、俺とルキウスは弾かれたように飛び出す。 「なかなかやるじゃないか」 目の前の男は守勢に回り、こちらの一撃を弾いた。 「くそ、聞いてねえぞっ」 「用心棒の女がいなければ楽な仕事だって話だったはずだ」 システィナが留守の時間を狙ったわけか。 「後悔は生き残ってからにしろ」 「があっ……!?」 目の前に差し出したナイフをわざと弾かせ、その隙に首の付け根を掻き切る。 戦いは技術もさることながら、慣れと胆力が物を言う。 双剣の相手は慣れていない奴が圧倒的に多い。 俺が二つのナイフを使うのはそのためだ。 「お、ああ……う……!」 もんどり打って倒れ、首を押さえながら床で痙攣を始める。 ルキウスも一人仕留めたようだ。 俺が下がると、ルキウスもぴたりと背中を合わせてくる。 「護衛なんていらなかったんじゃないか?」 「買いかぶるな、お前ほどの腕はない」 「ここが牢獄なら、あんたも重宝されただろうよ」 5人のうち3人を倒し、残りは2人。 ルキウスの前に1人。 もう1人の筋肉質の男は、俺の前で脂汗を流している。 「くそっ、おい、助っ人に来い!」 外に向かって叫ぶ。 だが、誰もこの男の声には答えない。 「このアマああぁっ!」 外からの怒声が、すぐに悲鳴に変わった。 「ルキウス様のお屋敷を土足で汚した上に、死してなお血で汚すとは」 システィナの低い声が響く。 「戻ってきたか」 「機嫌が悪いらしいな」 「普段は冷静なのだがな」 ルキウスが苦笑する。 「くそっ、外には5人以上いたはずだぞ!?」 「何で誰も来ねえんだ!」 「向こうは向こうで忙しいんだろ」 「それより、余所見は良くない」 俺の言葉に、ぎりぎりと歯ぎしりする。 「っざけやがって!」 男が剣を振り上げた瞬間、俺は床を蹴った。 寸分違わず、ルキウスも眼前の敵に殺到する。 何も告げなくとも、これ以上なく呼吸は合っていた。 「ルキウス、大丈夫か」 「こちらも片付けた」 部屋は静かになっていた。 第二波が来る様子もない。 外ではシスティナが、最後の一人と戦っていた。 「なかなかやるな」 「女だてらに剣の練習ばかりしていたからな」 「近衛兵でも、システィナに敵う者はそう多くないだろう」 外も加勢は必要なさそうだ。 「後は……こいつらをどうするかだな」 むせ返るような血の臭い、血溜りと壁の飛沫。 そして、死体。 「召使いに始末させる」 「しばらくは、この臭いと同居だぞ」 「仕方あるまい」 ルキウスは肩をすくめる。 「カイムと戦えてよかった」 「……」 俺もだ、と言いかけた。 別によくも悪くもない。 護衛としての任を果たしただけだ。 「……?」 と、ルキウスの背後で影が動いた。 「ルキウスっ!!!」 「ぐっ……!」 咄嗟に体を捻るものの、剣先がルキウスの背中を引き裂く。 倒れ込むルキウスを飛び越し、男の首へ刃を突き立てる。 「……っ!」 最後の力で剣を振るったらしく、男は抵抗らしい抵抗もせずに絶命した。 俺は倒れたルキウスに駆け寄る。 「おい、ルキウス!」 「油断した……」 俯せにし、傷の具合を見る。 幸い傷は深くなかったが、かなり痛むはずだ。 「ル、ルキウス様っ!?」 「ルキウス様、ルキウス様!!!」 システィナが〈縋〉《すが》り付く。 「何のための護衛ですか!」 「あなたがついていながら、ルキウス様に怪我をさせるなんて」 憤怒の表情で、俺を〈睨〉《にら》み付けてくる。 「やめろ……」 「ですが!!」 「私が、とどめを刺さなかったのが悪いのだ」 「カイムに責はない」 苦痛で顔を歪めながら、システィナに告げる。 「今すぐ手当を致します」 「そのまま動かずにいてください」 「カイムさん、召使いに救急道具を持ってくるよう伝えてください」 システィナが、かなり取り乱している。 ルキウスへの想いは強いらしい。 「……」 こんなことを考えている俺は、人の血を見過ぎたのかもしれないな。 「行ってくる」 召使いを探し、部屋を出た。 処置が終わると、ルキウスはすぐに立ち上がった。 「大丈夫か」 「ああ、この程度の傷で倒れるわけにはいかない」 しかし、歩くだけでかなりの痛みが走るらしく、時折顔をしかめる。 「システィナ、防疫局の準備はどうだ」 「明日にも整います」 「防疫局?」 「ああ、そうだ」 「防疫局の実働部隊が、我々の主戦力だ」 「フィオネがよく承服したな」 「羽狩りを無くすために必要だと伝えたところ、自ら協力を願い出てくれました」 なるほど。 フィオネなら乗ってくるだろう。 「システィナ、賊を手配した貴族の目星はついたか」 「まだ判明しておりません」 「間に何人か挟んでいるようです」 「さすがに慎重だな」 「仕方ない、寝首を掻かれないように気をつけよう」 ルキウスの額から汗が流れ落ちる。 痛みに耐えているのだ。 「その怪我で、本当に武装蜂起するのか」 「もちろんだ」 「時を置くほど不利になる」 「……剣を振ってみろ」 「……」 ルキウスは口の端を歪める。 だが、動こうとはしなかった。 「無理だ、そんな状態で指揮ができるとは思えない」 「黙っていてください」 システィナが、重い声で静かに言う。 「あなたは武装蜂起に参加しないはずです」 「無関係な人間は口を出さないでください」 今まで見た中で、一番鋭い視線だった。 「冷静に事実を言っているつもりだ」 「それでもっ」 「全ては、ルキウス様がお決めになることです」 「私は、ルキウス様が死ねと仰れば、死んでみせます」 「あなたにそれだけの覚悟がありますか?」 わかりきったことだ。 「人間、切羽詰まると何故か死にやすい道を選ぶ」 「辛い状態から、少しでも早く逃げ出したいからだ」 「あんたの考えは、駆け落ち前の娼婦と変わらない」 「武装蜂起に加われなどとは言いません」 「その代わり、余計な口出しはしないでください」 システィナの言葉はおかしい。 それではただの盲信だ。 副官ならば、状況に合わせた進言ができなくてはいけない。 だが……。 いずれにせよルキウスも折れないだろう。 「わかった、部外者は口を慎むことにする」 「ご理解いただけて嬉しいです」 氷のような表情で言われた。 張りつめた空気を、鈴の音が破った。 「っ……!?」 びくんとルキウスの体が跳ねる。 「ルキウス様……どうなされますか?」 「行くしかあるまい」 「で、ですが……」 ルキウスは無言で立ち上がる。 「ネヴィル卿のお呼びか」 「っっ!?」 「知っていたか」 今まで何度も聞こえた鈴の音。 この音がする度に、ルキウスは席を立った。 そして俺は、ルキウスがネヴィルの部屋に入り、殴打される音を聞いている。 「そろそろ教えてくれ」 「あんたとネヴィル卿の関係について」 「……ああ、そうだな」 「私がアイムであることを知った以上、隠す必要もない」 「だが、話すのは戻ってからだ」 か細く笑って、ルキウスは重りを引き摺るようにゆっくりと歩み去っていった。 しばらくして、ルキウスが戻ってきた。 顔は疲労の色がありありと浮かび、先ほどよりも〈窶〉《やつ》れて見えた。 崩れ落ちるようにソファに座り、システィナが差し出した水を飲み干す。 そして、ゆっくりと語りだした。 「前にも話した通り、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の後、私はネヴィル卿に拾われた」 「初めは、自分の幸運に感謝したよ」 「だが、そう美味い話は転がっていない」 「ネヴィル卿は、初めて会った時から私をルキウスと呼んでいた」 「後で知ったことだが、ネヴィル卿は〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で最愛の息子を失ったらしい」 「既に狂っていたのだろうな」 「彼は、俺を完全にルキウスだと考えていた」 「無茶苦茶だ」 ネヴィルの部屋にあった肖像画、あそこにルキウスも描かれていた。 俺が覚えているアイムとは明らかに違う風貌だ。 それでも、ルキウスと思い込むほどにイカレていたのか。 「狂っている人間に道理は通じない」 「私は何度も自分はルキウスではないと言った」 「だが、返ってくるのは拳だけだった」 「彼はよく叫んでいたよ、『なぜ他人の振りをするのだ』とね」 「子供だった私は刃向かうこともできず、ただ殴られるしかなかった」 「……」 システィナが、自分のことのように悲壮な顔をする。 「何日も殴られ続け、幼かった私にもようやく事情が飲み込めた」 「自分がルキウスにならない限り、暴力は止まないのだ」 「だから私は、必死にルキウスになろうとした」 「口癖、仕草、髪の色、利き腕……」 「錯乱したネヴィル卿の言葉から、生前のルキウスを読み取り、少しずつ模写していった」 「もちろん、すぐにはルキウスになれなかった」 「嫌と言うほど殴られ、顔の形も変わったよ」 「もしかしたら、ネヴィル卿は、俺の顔をルキウスに変えたかったのかもしれないが」 自嘲気味に笑う。 痛々しいほどの笑みだ。 「あの呼び鈴は、私にとって殴られる合図のようなものだった」 「いつ鳴るかと考えると夜も眠れず、いつも死ぬことばかり考えていたよ」 壮絶な話だった。 ある日突然、他人になれと言われる。 どんな気持ちだろうか。 ……いや、俺にも少しだけ理解できた。 娼館という異世界に放り込まれ、求められるがままに自分を変えていく。 ルキウスとどちらがマシかはわからないが、俺も似たような経験をしていたのだ。 「ネヴィル卿は私が成長してくると、ギルバルトを失脚させよと言ってきた」 「執政公か」 「ああ、そうだ」 「執政公だったネヴィル卿は、ギルバルトとの政争に敗れ、強引に隠居させられたのだ」 「その復讐を、息子である私にさせたかったのだ」 「私がルキウスの真似を立派にできるようになってからは、優秀な政治家になるべく、ひたすら勉学を詰め込まれた」 「できなければ、もちろん拳が飛んでくる」 「そんなことで父の敵が取れるのか、とね」 「ルキウス様、もうおやめ下さい」 システィナの言葉には、懇願の響きがあった。 だが、ルキウスは話し続ける。 「やがて私は、貴族として登城し政務に携わるようになった」 「そのうちに、執政公がこの国の腐敗に大きく関わっていることに気付いたのだ」 「私は、執政公が進めている研究の情報を集め始めた」 「そして次第に、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》を起こしたのは執政公かもしれないと思うようになった」 「なるほど」 「とすれば、私の母や友人を殺し、私が私を捨てることになったのは執政公の責任になる」 「だから、執政公の打倒を願うようになったのか」 「そうだ」 ルキウスは疲労の籠もったため息をつく。 言葉もない。 俺もそれなりに悲惨な人生を送ってきたが、アイムも決して恵まれた人生を送ってきたわけではなかった。 「あんたも相当苦労してきたんだな」 「お前には負けるがな」 さらりと綺麗事を言ってのける。 アイムは、いつもそんな感じだった。 そんなアイムを、ガキの頃の俺はずっと憎らしく思ってきた。 ……今はどうだろうか。 「つまらない話をしてすまなかったな」 「忘れてくれ」 「いや……」 忘れるわけにはいかない。 ルキウスと視線を交わす。 「カイム」 「何だ?」 「今の騒動が片付いたら、飲みながら話がしたいものだな」 「無論、お前が蜂起に加わってくれなかったとしても、この気持ちは変わらない」 「……ああ」 「その時は朝まで付き合ってやるさ」 執政公を倒した時、ルキウスには何が残っているのか。 それを考えると、憐れに思えてきた。 朝、登城するためにルキウスの部屋を訪れる。 既にシスティナもルキウスも準備ができている様子だった。 「行くか」 声をかけるものの、二人は動かない。 深刻な顔で俯いている。 「何かあったのか」 俺の声に、ルキウスが顔を上げる。 「今朝、私に逮捕命令が下った」 「何?」 予想よりも早い。 ついに執政公が牙を剥いたか。 「嫌疑は国王陛下の暗殺未遂だ」 「先の国王陛下の容態悪化は、私と医者が共謀し毒を盛ったことが原因だということだ」 「投獄後は審問会が開かれるが、会を取り仕切るのはもちろん執政公だ」 「死罪は免れない」 「どうするつもりだ」 「正式な抗議はもはや無意味だ、計画通り事を進める」 武装蜂起か。 ルキウスが僅かに微笑む。 「幸いなことに、こちらの準備は間もなく整う」 「あと一日、逮捕命令が早ければ、全てが無駄になるところだった」 「首の皮一枚で繋がったわけか」 「それは違う」 「私たちは一日分、執政公の思惑を上回ることができたということだ」 ルキウスの表情は自信に満ちていた。 「私は執政公を倒し、この国を救うために全てを賭けてここまできた」 「その機会が与えられたことに感謝している」 「恐れ入るな」 ここまで追い詰められてなお、そこまで前向きに捉えることができるとは。 だが同時に、執政公はルキウスを蜂起させたいのではないか、という推測も頭をかすめる。 本当にルキウスを逮捕するつもりなら、近衛兵を揃えて奇襲同様に館へ押しかけてくるはずだ。 「お前は何のために生きている?」 「そのことを考えてみたか」 「いや……」 答えは見つかっていない。 「別に責めているわけではない」 「お前がその意味を見つけられた時、きっと私の気持ちを理解できるはずだ」 「だといいんだがな」 苦笑を浮かべる。 アイムはいつも俺の先を行き、俺を導いてきた。 もしかしたら、俺は一生こいつに敵わないのかもしれない。 「カイム、最後の頼みがある」 「最後……?」 「これから城に赴き、リシア様から武装蜂起への賛同を取り付けてきて欲しい」 ルキウスは俺の瞳に目を合わせ、瞬きすらしない。 「あんたに逮捕命令が出ているなら、俺も城には入れないだろう」 「だからこそ、お前に頼んでいる」 忍び込んで説得か。 「成功する可能性は低いぞ」 「その時は仕方ない」 「先ほどの言葉通り、本当に最後の頼みになるだろう」 ルキウスは決意を曲げないだろう。 「わかった、やってみよう」 「あまり力まなくていい」 「失敗しても、カイムを恨みはしない」 「ここまで、本当によく協力してくれた」 「感謝している」 その言葉に、ふいに胸の奥が熱くなる。 何故だ。 俺は、こいつに感謝されたかったのか? 「正門から城に入ることはできないだろうが、何とか忍び込む方法を考えてくれ」 「それは俺の専門だ、何とかしよう」 リシアを牢獄に連れて行く時、世話になった御者がいる。 あいつに頼んでみるか。 「心強いな」 「リシア様の説得から戻ったら、ティア君を連れて特別被災地区に行ってくれ」 「牢獄に……?」 「武装蜂起が始まれば、この屋敷も戦場となる」 「ティア君を巻き込みたくないのだ」 「わかった」 「お前は武装蜂起に参加しないのだから、ティア君の案内にはうってつけだ」 「事が済むまでティア君と特別被災地区に避難していてくれ」 俺は武装蜂起には荷担しない。 それは今までずっと俺が言ってきたことだ。 「武装蜂起が成功に終わった時は、また会おう」 「ルキウス……」 「大丈夫だ」 「リシア様がこちらに味方してくだされば、必ず勝てる」 「カイム、期待しているぞ」 ルキウスが笑顔で告げてくる。 釣られてか、俺の顔にも微笑みが浮かんだ。 仕方のない奴だ。 「報酬は高く付くぞ」 「覚悟しておこう」 「それじゃ頼む」 「へ、へえ」 御者の親父に大枚を渡し、何とか話をつけた。 「荷を運び出す時、一度中身をぶちまけてくれ」 「その隙に抜け出す」 「大丈夫ですかね」 「心配するな」 「旦那がそう言うなら……」 「しかしまあ、嫌な仕事を引き受けちまったなあ」 「高級娼婦を10回は抱ける金をやったんだ、むしろ割がいいだろう」 「へへ、まあね」 御者の親父は馬に鞭を打つ。 馬車は坂を上りながら、王城へと向かっていった。 馬車の動きが止まる。 見張りの衛兵は2人だった。 「今、荷を降ろしますんで」 「っと、ああぁっ!」 御者の親父が荷を取り落とし、箱のふたが外れてジャガイモが散らばる。 「おい、何やってる」 「す、すみません」 「最近、歳のせいか腰が弱くなってまして……あたた」 「ったく、早くしろ」 衛兵が身をかがめ、芋を拾う。 もう一人の衛兵も騒動に気を取られていた。 よし…… 荷台から素早く抜け出し、衛兵の死角を駆け抜ける。 庭までやってきた。 何とかしてリシアの部屋まで行かねばならない。 さて、どうしたものか。 窓から姿が見えないよう、柱や植木に身を隠しながら進む。 「こんなところで何をしておいでですかな?」 庭師の老人とばったり出くわしてしまった。 ふいに植木の影から姿を現したため、逃げるタイミングを失した。 「何となく花を見ていた」 「ははは……」 「本当は、お城の中に咲く花を探しにいらっしゃったのではないですか?」 「……」 どうしてそれを知っているんだ。 庭師の老人は目を細める。 「ルキウス様とシスティナ様、もちろん貴方様の手配書も出回っております」 「城に出入りする者は皆、知っていることですよ」 「どうする? 近衛兵を呼ぶか?」 ならば、こちらも乱暴な手段に出ざるを得ない。 「いかが致しましょうか」 庭師の老人は静かに花壇に目を向ける。 俺も花壇に目をやる。 「リシア様が幼少のみぎりは、よくこの花壇でやんちゃをされたものです」 「お厳しかった国王陛下は、リシア様にも大人同様の罰を下されました」 「ヴァリアス様が、おつらそうな顔でリシア様にお仕置きされていたのを覚えております」 「今とあまり変わらないじゃないか」 「それでも、あの頃の王城には暖かさがございました」 「お仕置きをされて泣きじゃくるリシア様を、城の皆で慰めたものです」 「ですが、昨今はお城も冷え切ってしまいました」 「あなた様は、どう思われますか?」 「さてな」 「俺は城に来てから日が浅いし、元々貴族でもない」 「カイム様は、牢獄からいらっしゃったのでしたか」 「何でも知ってる爺さんだな」 「年を重ねると、噂話だけが楽しみになりましてな」 「召使いの方から、あなた様とリシア様の微笑ましいやりとりを拝聴しました」 「なるほど、筒抜けか」 「前にあんたが言っていたな」 「リシアは、国王になるには優しすぎると」 「ええ、申し上げました」 「俺もあんたに賛成だ」 「だから俺は、今から優しさを捨ててもらいに行く」 武装蜂起に荷担する以上、生易しい気持ちでは許されない。 反対する者──執政公を切り伏せて、自らの道を開かなければならない。 そのことをリシアが自覚し、武装蜂起に加わると決めた時。 リシアは、引き返せない道を歩むことになる。 もう、以前のリシアには戻れないだろう。 「悲しいことです」 「リシア様は、今のお優しいままではいけませんか?」 「あいつが王女をやめられるなら、それもいいかもしれない」 「だが、あいつは王女に生まれてしまった」 「自分の置かれた境遇の中で精一杯足掻くしかない」 「あいつが王女である以上、王としての役割は果たさなくてはならないだろう」 「リシア様に、それができるでしょうか」 「リシア次第だ」 「だが、あいつは執政公の手を離れたがっている」 「茨の道だが、血を流すとしても前に進むしかない」 「そのようにリシア様を〈唆〉《そそのか》すおつもりですか?」 庭師の老人は微笑んでいる。 だが、その好々爺然たる姿からは想像できないくらい、言葉が重い。 全て見透かされているような気になってくる。 「〈唆〉《そそのか》しはしない、選ぶのはリシアだ」 「無理矢理従わせたところで、あいつは変われない」 「口先で言いくるめるのは、執政公と同じやり口だ」 昨日の、武装蜂起のやりとり。 俺はリシアを籠絡しようとした。 だが、内心ではリシアに気付いて欲しいと思っていたのだ。 「リシア様は、立派な国王になられるでしょうか」 「あいつがなろうとすれば、なれるんじゃないか」 「その程度の能力はあると思う」 庭師が満足そうに微笑む。 と、庭の端へと歩いていった。 何をする気だ? 庭師は小さな花をいくつか摘んで編み上げる。 あっという間に花の冠ができた。 「これをリシア様にお渡ししていただけませんか」 「あいつは、花が嫌いだと言っていたぞ」 「リシア様がお覚悟を決められたときには、きっとお受け取り下さると思います」 「私からのささやかな贈り物として、ぜひお渡しください」 どうやら、二人には俺の知らない繋がりがあるようだ。 「預かろう」 庭師から花の冠を受け取る。 「城の西側の端に、物見櫓へと通じる階段がございます」 「そこから屋上に出られましょう」 「先程見たところ、衛兵はいないようでした」 庭師が独り言のように言う。 悩むまでもなく、俺に他の選択肢など無かった。 「恩に着る」 「あなた様とリシア様に、聖女様のお導きがありますように」 物見櫓への階段を昇っていく。 途中の窓から、王城の屋根が見えた。 ここから出て屋根を伝えば、屋上へ出られそうだ。 屋上に出てからどうする? リシアの部屋の前には、間違いなく近衛兵がいるだろう。 正面から行くのは難しい。 となれば、あれか。 以前、仮面の人物は、柵と壁の突起を頼りにバルコニーから逃走した。 同様に、屋根から突起を伝ってバルコニーに降りる。 足を滑らせればまず助からないが、そんな仕事はいつものことだ。 頭の中で、自分が成功する心象を反復する。 「行くぞ」 覚悟を決め、俺は窓枠に手をかけた。 「ふっ」 静かに着地し、呼吸を整える。 小さな鏡を利用し、壁に張り付いたまま部屋の中を窺う。 リシアが机に突っ伏していた。 泣いているのだろうか……。 幸い、他に人影はない。 「よう」 びく、と体を震わせてリシアが顔を起こす。 「カ……カイム?」 静かにしろ、と仕草で伝える。 近くに寄り、小声で囁く。 「外の近衛兵に気付かれたら終わりだ」 リシアが何度も頷く。 「昨日の返事を聞きに来た」 「知っていると思うが、ルキウスや俺には逮捕命令が出ている」 「ルキウスは、明日にも蜂起するだろう」 「まさか白昼堂々忍び込んでくるとはな」 「これでは警備の意味がない」 「ヴァリアスは減給だな」 あきれ顔で苦笑する。 「その気になれば、人間何でもできるものだ」 「何でも、か」 「カイムにはできるかもしれないが、私には無理だ」 「諦めるのか」 「昨晩、ずっとお前に言われたことを考えていた」 「執政公がこの国を腐らせているのは、もはや疑いようがない」 「牢獄の惨状も、貴族が次々と殺されていることも、全ては奴の仕業だろう」 「このまま放置しておけるものではない」 「そうだな」 「お前は、ルキウスなら私の望む政治を行ってくれると言った」 「だが、そんな保証がどこにある?」 「ルキウスが執政公と同じ道を辿らないと、どうして言い切れる?」 「それに、執政公がルキウスに変わったところで、私が操り人形であることは変わらないではないか」 リシアが暗い顔で俯く。 「嘘をつかれ、いいようにあしらわれるのはもう慣れた」 「どうせ誰を信じても裏切られるなら、笑って肯けばいいだけだ」 「それだけで、皆は私を必要としてくれる」 「何も変わらぬなら、今のままで何が悪い?」 「悪くはない」 「お前がそれで満足しているならな」 リシアの顔が歪む。 「満足……?」 「何が満足だ」 「どうせ、満ち足りた気持ちなど私には手に入らない」 「私は、愛してくれる人間が欲しかった」 「信じられる人間が欲しかった」 「親身になってくれる人間が欲しかった」 「たったそれだけのことが、どうして叶わないのだ」 ただ父親から愛されたくて、リシアは花の冠を国王に贈った。 恐らく、結果は〈芳〉《かんば》しくなかったのだろう。 それは、国王の厳しさ故のことで、よくある話で片付くだろう。 しかし、国王は、最期の言葉でリシアが実子ではないことを明らかにした。 遺言とも言えるもので、最も辛い現実を突きつける。 これは果たして厳しさという言葉で済ませられるものなのだろうか。 たった一人の肉親だと思っていた国王でさえ、リシアにとっては他人だった。 傍にいるのはリシアの言葉に従うだけの召使いと、リシアを利用するだけの貴族。 リシアが望むような人間は、誰一人として側にはいなかった。 「カイム……」 リシアが見上げてくる。 「お前は、私が王女だからここまで来てくれたのか?」 「ルキウスの補佐官だから、王女の私が旗印に必要だから」 「そのためだけに、ここに来たのか?」 切実な視線。 リシアが心から救いを求めていた。 切実であるほど願いが叶いやすくなるなんて話は、ついぞ聞いたことがない。 「どうだろうな」 「誤魔化さないでくれ!」 リシアが〈縋〉《すが》り付いてきた。 「私はもう嫌だ」 「王女なんて、もう嫌なんだ」 「私をここから連れ出してくれ」 「誰もいないところに、誰の目にも届かないところに」 「何を言っている?」 「お前と二人で暮らしたいんだ」 「私を娶ってくれ」 「毎日お前のために食事を作るぞ」 「掃除も洗濯も、何だってする」 「お前が望むなら……こ、この私を好きにしていい」 「お願いだ、カイム」 「何もかも忘れたいんだ」 「私はもう、城にはいたくないんだ!」 誰も好きで牢獄に落ちたわけではない。 リシアも、好きで王家の人間に生まれたわけではないだろう。 愛する家族と一つ屋根の下に暮らし、普通に暮らしたかったのだろう。 それが許されない不自由も一つの理不尽だ。 王への道は、リシアにとって絶望に満ちた茨の道だろう。 「本気で言っているのか?」 「当然だ」 リシアは顔を赤く染めながら、俺を見据える。 「カイム……私は、お前が好きだ」 「私は、お前のためなら何だってできる」 リシアは本気らしい。 「俺のためなら何でもできるというのは本当か?」 「ああ、本当だ」 リシアの気持ちはよくわかった。 結局、こいつは俺に頼りたいだけだ。 いや、依存の対象が俺である必要すらないのかもしれない。 どこかへと手を引いてくれる誰かに、身を委ねたいだけだろう。 そんな安易な気持ちを、受け入れることはできない。 俺はどうだ? リシアの気持ちには気付いていた。 敢えてそれに気付かないふりをしてきたのだが……。 今、それを口にするとは思わなかった。 「俺のためなら何でもできるというのは本当か?」 「ああ、本当だ」 「そうか……」 何にでも懸命に取り組み、曲がったことは許せない。 でも、筋を通すにはあまりに無力で、ただ笑って誤魔化すことしかできなかった。 だが、時に自分の不甲斐なさに拳を振るわせ、涙を流して落ち込んでいた。 そんなリシアが、俺は心配でたまらなかった。 何だかんだと言いながら、リシアに会う口実を見つけてきたのは俺だ。 俺はきっと、リシアのことが好きだったのだろう。 いや、守ってやりたいのだ。 この、生まれながらにして野獣の群れに放り込まれた少女を。 「俺のためなら何でもできるというのは本当か?」 「ああ、本当だ」 リシアの気持ちはよくわかった。 結局、こいつは俺に頼りたいだけだ。 いや、依存の対象が俺である必要すらないのかもしれない。 どこかへと手を引いてくれる誰かに、身を委ねたいだけだろう。 そんな安易な気持ちを、受け入れることはできない。 「なら、俺のものになってくれ」 「カイムのものに?」 「そうだ」 リシアがぎゅっと唇を噛む。 そして、意を決したように俺を見た。 「……わ、わかった」 「よし」 「服を脱いでくれ」 「お、お前……ここでか……?」 顔が一気に紅潮する。 「そうだ」 「裸になって、俺の前で股を開いてみせてくれ」 「ど、どうしてそんなことを……」 「俺がしてほしいからだ」 「嫌ならいい」 「わ、わ、わかった」 「やって見せようではないか」 破れかぶれに言って、服の裾に手をかける。 だが、それ以上動けない。 リシアは小さく震えていた。 「どうした? お前の覚悟はその程度か?」 「ち、違う。私の決心を見くびるな」 そう答えるものの、やはりリシアの手は動かなかった。 俺はリシアに近づき、強引に抱き寄せる。 「なっ!?」 「リシアは可愛いと思う」 「お前のような女を娶ったら、皆に自慢できるだろうな」 「カ、カイム……」 だがリシアの真の魅力は、そんなところにあるわけではない。 普通の家庭で慎ましく暮らすリシアに、俺は何の魅力も感じない。 リシアの誠実さは、この王城で、国王として力を発揮してこそ光り輝くものだ。 俺はリシアの両肩を掴んで引き離す。 「もし、本当に何でもできるというなら」 「リシア、お前は国王になれ」 「執政公を倒し、すべての国民の父になれ」 「な、なんだと……?」 自分の頭で考えて生きている人間は、驚くほど少ない。 誰かに自分を仮託して生きている。 人間は多かれ少なかれ、そうやって生きているものだ。 悪いことではない。 しかし、リシアに限っては許されない。 リシアこそが、そういう多数の人間を導かなければならないからだ。 「ついてこい」 リシアの手を引き、バルコニーに連れ出す。 「下を見てみろ」 ノーヴァス・アイテルの全てが見える。 小さな家々が密集して立ち並ぶ下層。 黒ずみ、瓦礫の山でしかない牢獄。 「この都市には、沢山の人間が住んでいる」 「お前は、その頂点に立って見下ろす位置にいる人間だ」 「そのような地位、望んではいない」 「誰しも生まれる場所を選べるわけじゃない」 「牢獄の子供は、望んで牢獄に生まれたと思っているのか?」 「……」 眉を歪め、リシアは黙る。 「牢獄の人間は、いくらあがいても自分たちでは何も変えられない」 「だが、私にしてもどうしようもないではないか」 「できることはある」 「ルキウスの味方になれと言うのか」 「確かに、ルキウスが勝てば、私は執政公の呪縛から逃れられるかもしれない」 「だが、今度はルキウスの操り人形になるだけだ」 「そんなことに何の意味がある!?」 「何の意味もない」 そっけなく答える。 「私を散々悩ませておきながら、何の意味もないだと!?」 「可哀想に思う」 「確かに、お前が抱えているものは他の人間より重い」 リシアが望むような愛情に溢れた平穏な暮らしは、恐らくリシアの手には入らない。 リシアが望むような人間は、リシアの側には現れないだろう。 「だが、お前は王になるべき人間だ」 「お前が立ち上がれば、この都市を変えることができる」 「カイム……」 「私はどうすればいい?」 「誰かの操り人形にならないためには、どうすればいいんだ?」 〈縋〉《すが》るように見上げてくる。 「執政公の言葉を疑え」 「貴族たちの言葉も疑え」 「ヴァリアスやルキウスの言葉も疑え」 「そして同じように、俺の言葉も疑え」 「え……?」 「全てだ、全て疑ってかかれ」 「お前は、お前の耳に入ってくる全ての言葉を疑うんだ」 リシアがあっけにとられた顔をする。 「人は皆、信じたいことを信じる生き物だ」 「だからお前は眼を見開き、己の目で真実を見極めなければならない」 「頼りにできるのは、お前自身の目だけだ」 「私は、何も信じてはいけないのか?」 「王女だからな」 「お前に近づいてくる者は、皆お前を利用しようとしているだけかもしれない」 「だから、一度は全てを疑え」 心細いだろう。 この上もなく孤独だろう。 だが、きっとそれが王の道だ。 皆を導くべく生まれた者の、逃れられない運命だ。 「リシアが助けを求めるなら、俺が助けてやる」 「だが、俺もお前の望み通りに動くとは限らない」 「裏切ることすらあるかもしれない」 「それでもいいなら信じればいい」 リシアが〈項垂〉《うなだ》れ、薄い肩が小刻みに震える。 「孤独だ……」 「父上も、こんな孤独を味わっていたのだろうか」 「無邪気に甘えてくるお前を、国王は優しく抱き留めることもできたはずだ」 「だが、そうはしなかった」 「誰かのために生きれば、その他の人間のためには生きられない」 「だから敢えてお前に厳しくし、孤独を選んだ」 「そう、なのか……」 荒野をただ一人歩き、目の前に泉が現れても休息を選ばない。 自分が荒野の一部となる日まで、歩むこともやめない。 それが、国王の哲学だったのだろう。 「国王は立場を全うするため、お前への愛情を捨てた」 「揺らぐことのない事実だ」 「父上……」 リシアの顔が歪む。 涙が滲んだ。 「当たり前の愛情を得られないのも理不尽なら、当たり前の愛情を捨てねばならないのも理不尽だろう」 「お前は、父親の苦しみを無視して自分の理不尽な境遇だけを嘆くのか?」 「っっ!?」 リシアが目を見開く。 「……そうか……そうだな」 「父上の気持ちは、父上と同じ立場に立たねば分かりようもない」 「どうして気付かなかったんだ」 溢れかかった涙を、小さな手の甲で拭う。 「私に、できるだろうか?」 「お前次第だ」 リシアが俯き、深思する。 様々な思いが錯綜していることは、手に取るようにわかった。 彼女の過去と現在と未来が、せめぎ合っているのだろう。 「ああ、カイムの言う通りだ」 リシアが顔を上げる。 決意を込めた瞳でしっかりと俺を見据えてきた。 「私は、父上の隣に立ちたい」 「そしていつか、父上のお気持ちを感じてみたい」 「そうか」 それならこれを渡しても構わないだろう。 俺は腰に付けた花の冠を、リシアの頭に乗せる。 「これは?」 「庭師の爺さんからもらった」 「リシアが王の道を進むと決めたなら、渡してほしいと頼まれた」 国王が生きている以上、本物の王冠はリシアの手には届かない。 この花の冠が、今のリシアにはちょうどいいだろう。 「じいや」 「良かったな、戴冠できて」 「これからのことは、お前自身が決めろ」 リシアは俺の胸から離れ、優しく微笑む。 「ありがとう、カイム」 「お前は迷っている私を導いてくれた」 涙を拭い、花の冠を手に取って見つめる。 「じいやはずっと、あの時のことを覚えていてくれたのだな」 「爺さんは、今の優しいお前が好きだと言っていた」 「国王になるには優しすぎるとも言っていた」 「今のままでは、立派な国王にはなれないということだ」 「ああ、わかっている」 リシアの瞳に光が宿る。 それは王者が持つべき、強い意志の証だった。 「もはや後には引かない」 「そこが無人の荒野であっても、ただ一人であっても、歩き続けよう」 しばらくして、リシアの私室に戻った。 外の近衛兵には、まだ気付かれていないようだ。 「カイム」 「ルキウスの決起は明日だな」 「ああ」 「味方をしてやりたいところだが、その前に確認したいことがある」 「俺にわかることなら答えよう」 「まずは、お前の望みを言ってみろ」 「望み?」 「そうだ」 「私に願いがあってここへ来たのだろう」 「……ああ」 よく、私はどうしたらよいか、と訊いてきたリシア。 微妙な言葉の違いだが、印象は違った。 「当然、リシアにルキウスの味方になってほしい」 「ルキウスはリシアがつけば勝算はあると言っている」 「ルキウスの兵力はいかほどだ?」 「羽狩りが主力のはずだ」 「それでルキウスは防疫局を手放そうとしなかったのか」 「用意周到なことだな」 リシアは笑う。 「しかし、数が足りない」 「私に期待されているのは、国王の代理としてルキウスの正当性を認め、浮いている貴族を味方に引き入れることだろうな」 「恐らくな」 リシアが立ち上がる。 「わかった」 「恐らく、執政公を倒す最後の機会となろう」 「ルキウスには、私のために働いてもらわねばな」 リシアが自信に満ちた笑みを浮かべる。 「……」 ここまで変わるものか。 いや、変わってはいないか。 ただ、今までのリシアを、意思の力で胸の奥にしまいこんだのだ。 「わかった、ではルキウスにそう伝えよう」 「ただし、いくつか条件がある」 「それを呑まなければ、私は承服しない」 「何だ?」 「ルキウス宛に手紙を書く」 「それを渡してくれ」 「わかった」 間もなく、リシアから手紙を渡された。 封蝋でしっかりと封のされた手紙だ。 「一度開けば、すぐにわかるようになっている」 「知っている」 「念押しは必要ない」 「全てを疑えと言われたからな」 「ふ、リシアに皮肉を言われるとはな」 苦笑が漏れる。 「一つ意見を聞いておきたいんだが、近衛騎士団はどちらに付くと思う?」 「ヴァリアスか……」 考え込むリシア。 「常識で考えれば執政公だろう」 「貴族の私兵どもと違い、近衛兵は練度の高い精鋭揃いだ」 「敵に回れば、戦況は厳しくなるな」 「何とかならないか」 「ヴァリアスを説得しろと言うのか? この私に」 頷く。 「人使いの荒い奴だ」 「一応話はしてみるが、ヴァリアスは執政公の娘と婚姻関係にあるのは承知しているな?」 「もちろんだ」 「だが、ヴァリアスは国王陛下に忠誠を誓っているそうじゃないか」 「国王陛下が危うい今、本来はお前に忠誠を誓うべきだろう?」 「あいつは、私のことを我儘な子供程度にしか思っておらん」 「お前が変わったことを示せばいい」 「ヴァリアスもそれを望んでいた」 「……ま、やってみよう」 「失敗したところで、失うものはない」 「頼んだ」 外を見ると、日がかなり高くまで登っている。 帰りの馬車が来る時間か。 「そろそろ行く」 「ああ、気をつけてな」 リシアに別れを告げ、俺はバルコニーへと向かった。 ヴァリアスの姿を探して庭に出た。 微かに聞こえてきた素振りの音を頼りに、更に進む。 ヴァリアスが、そこにいた。 彼ほどの達人になれば、私の気配には気付いているだろう。 そのくせに、こちらを向きもしない。 そう……ヴァリアスは、いつも私を試しているのだ。 「ヴァリアス」 素振りの手が止まる。 鷹揚に、ゆっくりと振り向いた。 「これはリシア様」 ヴァリアスは片膝をつき、慇懃に頭を下げた。 顔を伏せているはずなのに、ヴァリアスの目が私を見ているのを感じた。 「どうかなされましたか」 「ヴァリアス、今まで色々と世話になったな」 「……」 私は大きく深呼吸する。 「お前に聞いて欲しいことがあって来た」 「何の話でございますか?」 「私は決心した」 「国王としてふさわしい人間になる」 「リシア様……」 ヴァリアスが目をまん丸に見開く。 「そこまで驚くことか」 「い、いえ……」 「素晴らしいお覚悟と存じます」 「ですが、何故そのようなことを、今このような時に」 ちらと周りの様子を確認する。 周囲には誰もいない。 「決して口外しないと誓え」 「特に執政公の前では、おくびにも出してはならん」 ヴァリアスの瞳を見つめる。 誰が信頼できるか。 それは、私の目と耳で判断しなければならない。 「どうだ?」 ヴァリアスは居住まいを正し、再び頭を下げる。 「この剣に賭けて誓いましょう」 ヴァリアスが剣を持ち上げた。 他でもない近衛騎士団長が、剣に誓うと言っているのだ。 間違いないだろう。 「いいだろう」 できるだけ重々しく頷く。 「ルキウスに逮捕命令が出たことは知っているな」 「もちろんです」 「お前は、ルキウスが罪を犯したと思うか?」 「取り調べはこれからでございます」 「今の段階で、私にどうこう言うことはできません」 「そういう、上っ面の話をしているのではない」 ヴァリアスの目が細められる。 「私は、ルキウスは無実だと思っている」 「全ては執政公の策謀だ」 「父上の容態を急変させたのは、執政公なのではないか?」 「ほう……」 「執政公は、これまで父上の名を借りて悪政を行ってきた」 「あやつの説明と、実際に行われていることは全く違うものだったのだ」 「しかも、私を納得させるために、度々父上の名を持ち出した」 「これは、王家に対する純然たる背信行為だ」 「そのような者が、ルキウスに無実の罪を着せたとしても何の不思議もない」 「しかしリシア様、根拠がございません」 「根拠ならある」 「私はこの目で牢獄の惨状を見てきたのだ」 「食料は足りず、多くの人が飢え、乞食は我が子の腕を折って同情をひこうとしていた」 「治安は乱れ、衛兵の姿など見ることもできない」 「リシア様が牢獄へ? いつ、どのようにして?」 「今はどうでもよいことだ」 「ルキウスはかつて、会議の場で牢獄の窮状を訴えたが、執政公は心配性の一言で一笑に付した」 「だが、執政公の言うことは全くの嘘だった」 「この国を正常化させるには、執政公を権力の座から降ろす以外にない」 「だが、私一人では実現が難しい」 「私には、兵も力もないからな」 「どうされるおつもりですか」 「志を同じくする者に協力する」 「ルキウスが、明日、武装蜂起する」 「私もその旗印として、執政公に立ち向かうつもりだ」 「なりませぬっ!」 ヴァリアスが語気を荒げて立ち上がる。 「初めから、賛成してくれるとは思っていない」 「何しろ、執政公はお前の義父だからな」 皮肉たっぷりに言ってやる。 ヴァリアスが、執政公の非道に気付いていないはずはない。 気付いていて何もしないのなら、それは罪だ。 「リシア様はお考え違いをしております」 「もしリシア様がルキウス卿に〈与〉《くみ》すれば、貴族たちは二つに割れることでしょう」 「真っ向から衝突が起これば、どれほどの被害が出るか」 「では、ルキウスは死ねばいいと?」 「真に国を憂う者が、無実の罪で殺されるのを見過ごせと言うか?」 「査問会はまだ開かれておりません」 「ルキウス卿には、逮捕命令が出ているだけです」 「わかっているのだろう?」 「公正な調査など、行われるわけがあるまい」 「……」 ヴァリアスは口を引き結ぶ。 「それに、執政公は私を殺そうとしている」 「何ですと」 「襲撃があった時、これが床に落ちていた」 私は封蝋の指輪をヴァリアスに差し出す。 「これは……執政公の紋章」 「恐らく、私が会議で執政公に疑義を投げかけ始めたことを疎ましく思ったのだろう」 「操り人形でない私など、執政公にとって邪魔者でしかない」 ヴァリアスが、指輪を手に拳を作る。 「もちろん、これだけを証拠に執政公を追いつめることなどできない」 「それどころか、カイムやルキウスの仕業に仕立て上げるに違いない」 「だが、このままでは、私もルキウスもいつかは殺される」 「その前に立ち上がるまでのことだ」 「ヴァリアス、力を貸してくれぬか」 「お前と、近衛騎士団が味方をしてくれれば、大勢はこちらに傾く」 「被害も大きくならずに、政変は成るだろう」 ヴァリアスが沈思する。 考え込みながら、巌のような視線を私に向けてきた。 「私は国王陛下より、この国を守るよう仰せつかっております」 「いかなる理由があろうと、武装蜂起を看過することはできません」 「なら、どうする?」 「ルキウスの計画を、執政公にぶちまけるか?」 「秘密を守ると、剣にかけて誓ったにもかかわらず」 ヴァリアスが苦笑する。 「なるほど……」 「最低でも私の口から情報が漏れぬよう、先に釘を刺しましたか」 「そういう見方もあるだろうな」 「……頼もしい限りです」 ヴァリアスが立ち上がる。 「他言無用を誓った以上、口外は致しません」 「此度は、執政公にもルキウス卿にも〈与〉《くみ》さず、城を守ることに専念いたしましょう」 「それが、最大限の譲歩です」 「私は護ってくれないのだな」 「お止めしたはずです」 「ですが、リシア様は御自ら火中に飛び込まれようとする」 「私といえども、お護りできません」 わかっていたことだ。 ヴァリアスは私の味方になどならない。 「その上で、なお頼もう」 「明日、ルキウスの私兵が王城に来る」 「門を開けて彼らを受け入れてほしい」 「王城を戦場にされるおつもりですか」 ヴァリアスが目を細める。 「安心しろ、私もこの王城を血で汚すつもりはない」 「話が終わればすぐに出て行く」 「何をされるおつもりですか」 ヴァリアスが眉をひそめる。 「私を護ってくれる者たちを呼び入れるのだ」 「どちらにも与さないというなら、せめて邪魔はしないで欲しいものだな」 邪魔をするということは、執政公の味方をするということだ。 ヴァリアスは苦悩の表情を浮かべる。 「できるのなら、リシア様を今この場で拘束してしまいたい思いです」 「しないのだな」 ヴァリアスが頷く。 「リシア様が、国王としてふさわしい人間になられると決心されたこと、本当に嬉しゅうございます」 「そのリシア様が、ルキウス卿と立たれると自らお決めになったのです」 「どうして私に止められましょうか」 ヴァリアスなりに、色々と悩むところもあるだろう。 だが、私とてもう後には引けない。 「それでも、私と共に戦ってはくれぬのだな」 「はい、私にはまだ、リシア様のお言葉をリシア様のものとして信じることができません」 ヴァリアスが目を伏せる。 私には、まだ王としての覚悟が足りないということか。 認めて欲しい。 しかし、もう時間はない。 「わかった」 これが、ヴァリアスとの最後になるのかもしれない。 あまりの口うるささに疎んできたが、ヴァリアスはずっと私に国王としてふさわしい人間になるよう言ってきただけだ。 どうして、その忠義と誠実さに、もっと早く気付くことができなかったのだろう。 そうすれば、明日は私と共に剣を取ってくれたかもしれないのに。 「すまぬな、ヴァリアス」 「不明な王女を許してくれ」 「っっ!?」 「さらばだ」 踵を返す。 屋敷に戻り、ルキウスの部屋を訪れる。 途中、何人かの羽狩りとすれ違った。 物々しい雰囲気が、屋敷内に漂っている。 「いよいよか」 「ああ」 言葉少なに頷くルキウス。 いつもどこか余裕があった表情も、さすがに緊張で硬くなっている。 「で、首尾はどうだった?」 「お前に味方してくれるらしい」 「そうか……」 「頼もしい限りだ」 「これを預かっている」 リシアからの手紙を、ルキウスに渡す。 「リシアからの手紙だ」 「私に、か」 小さく笑って、ルキウスが手紙に目を通す。 「協力する上での条件が書いてある」 「主に、今後の政治方針についてだな」 「どれも簡単なことだし、私の政治主張と隔たりはない」 ルキウスが手紙をしまう。 「条件を呑めば、リシア様の名の下に、我々を正規の軍としてお認め下さるらしい」 「そして、執政公が逆賊となる」 錦の御旗を手に入れれば、様子見を決め込んでいた貴族は、こちらに〈靡〉《なび》く可能性が高い。 「カイム、よくやってくれた」 「本当に説得してくれるとはな」 「いや、俺は背中を押しただけ……」 「全てはリシアの意思だ」 「今のあいつは、本気で国を変えようと考えている」 「変わられたのだな」 「ああ」 俺の助けなど、もう必要ない。 これからは自分の足で進んでいくだろう。 「事が成った暁には、私がリシア様をお支えしよう」 「お前が、執政公のようにならないことを願っている」 「もちろんだ」 ルキウスが破顔する。 まあ、こいつが道を誤ることはないだろう。 「こう言うのもおかしいが、リシアを襲った賊には感謝しなくてはならないかもしれない」 「あの件で、リシアは自分について真剣に考えるようになった」 「そのようだな」 「賊の正体は、まだわからないのか?」 システィナに視線を走らせる。 その表情からは、何も読み取れない。 「恐らくは執政公が関わっているのだろうな」 「何にせよ、今の情勢ではゆっくり調査することもできない」 「そうだな」 今は〈喫緊〉《きっきん》の課題があるのだ。 扉が鳴らされた。 「入ってくれ」 「出発の用意ができました」 「早いですね」 「カイムさん、貴方はティアさんを連れて牢獄へ下りてください」 「まもなく、本格的に兵が集まり始めます」 「わかった」 「何だか賑やかですけど、何が始まるんでしょうか?」 「ちょっとした喧嘩だ」 「俺たちは退散しよう」 「カイムさんは混ざらないんですか? 専門なんじゃ?」 「俺は平和主義者だからな」 「……あ、ああ、そうですね」 「何だその目は」 「いえ、何でもないです」 ティアが視線をあさっての方向に逸らす。 「まあいい、行くぞ」 「はいっ」 ティアが俺に背を向ける。 ふと、背中が膨らんでいるのがわかった。 「翼がまた大きくなったな」 「そうなんです」 「服を着るときに引っかかって、ちょっと困ってます」 「さすがに目立つな」 「だから、カイムに護衛してもらうんだ」 「しっかり守ってやってくれ」 「ああ」 「ティア君の力は、まだわからない部分も多い」 「もし全てが上手く運んだら、私に調べさせて欲しい」 「こいつ次第だ」 「わたしは、ぜひお願いしたいです」 「羽つきさんのお役に立てるのは嬉しいですから」 「わかった、その時はよろしく頼む」 そろそろ頃合いか。 「では、俺たちは行くぞ」 「そうしてくれ」 ルキウスが綺麗な手を差し出してくる。 これが、今生の別れになるかもしれない。 そう思うと自然と握手を交わしていた。 「共に酒を飲めるよう、祈っていてくれ」 「ああ」 共に〈大崩落〉《グラン・フォルテ》を生き残り、楽ではない人生を送ってきた。 奇跡的に交わった道が、今再び分かれようとしている。 協力してやりたい気もするが、この武装蜂起は賭だ。 リシアは味方になったものの、ヴァリアスが説得に応じなければ勝敗は不透明。 自分の力で先行きを制御できない勝負に、命を賭ける気にはなれなかった。 都市の秘密もティアの力も、生きていればこそだ。 俺は、牢獄に落ちてからずっと泥水を〈啜〉《すす》って生きてきた。 親族への愛情も、口に残った泥と一緒に吐き出してしまったのだろう。 悪いな、ルキウス。 「システィナさん、お世話になりました」 ティアが頭を下げる。 「積極的に協力してくれて助かりました」 「またよろしく頼みます」 「こちらこそ」 「では、ルキウスさんもお元気で」 「また会おう」 「はいっ」 ティアが挨拶を終えたのを確認し、俺はティアを引きつれて部屋を後にした。 「行ってしまいましたね」 「そうだな」 カイムとティアが去った後── ルキウスは、システィナと共に屋敷の外でしばし佇んでいた。 「よろしかったのですか?」 ルキウスがシスティナを見る。 何が言いたい、と視線で訊いていた。 「その……カイムさんは、ご兄弟ではないですか」 「ルキウス様がお命を賭けているこの時に、助力しないとは……」 システィナが鼻息を荒くする。 「本人が荷担したくないと言っているのだ」 「望まぬ人間まで、私の戦いに巻きこむわけにはいかない」 「ですが」 「カイムは、あいつにしかできない仕事を十分にしてくれた」 「その功績の大きさはわかっているだろう?」 「もちろんです」 返事はしたものの納得はしていないシスティナを見て、ルキウスは苦笑した。 「私とカイムは、元々仲の良い兄弟ではなかった」 「これでいいのだ」 「……」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》のあの日、離ればなれになった私たちが、まさかお互い生きていようとはな」 「特別被災地区でカイムがどのような生活をしてきたかはわからない」 「私とて、楽な人生を送ってきたわけではない」 「だが、彼が舐めた辛酸には、遠く及ばないだろう」 「所詮は、牢獄民と貴族だ」 「元から同じ道を歩めない運命だったのかもしれないな」 「そうですか」 ルキウスの中には、もっと複雑な感情があった。 だが、彼の理性は、それらをシスティナに告げたところで益はないと判断した。 カイムの行動に義憤を覚えている優しい副官をなだめることが、彼の目下の最優先課題であったからだ。 「ルキウス様、一つ伺ってよろしいでしょうか?」 「何だ?」 「リシア様のお命を狙った賊の正体は、本当に明らかになっていないのでしょうか?」 「もちろんだ」 「嘘を言っても仕方あるまい」 「ですが……」 システィナは戸惑う。 ルキウスは、当然賊の正体に気づいていると思っていた。 「カイムの言葉ではないが、私は賊に感謝しているのだ」 「彼女のお陰で、リシア様のお心を動かすことができた」 『彼女』とルキウスは言った。 やはり、賊の正体に気づいておられるのだ。 「ここだけの話になるが、私も丁度同じような策を練っていたところだったのだ」 「だが、実際に行動を起こせば、事が露見しなかったとしても良心の呵責は残るだろう」 「賊のお陰で、それを負う必要はなくなった」 「ルキウス様」 「本当にありがたいことだ」 「最良の時機に、最良の行動を取ってくれた」 ルキウスの言葉に、システィナは胸の奥が熱くなるのを感じた。 この若い貴族についてきて良かったと、改めて思う。 「賊は賊」 「褒めるなど、あってはならないことです」 気恥ずかしさを隠すようなシスティナの言葉に、ルキウスは頬を緩める。 「そうだな」 「賊のことはもう言うまい」 「はい」 システィナは溢れそうになった感情を、胸の奥底に小さく折り畳んだ。 そして、いつもの静かな表情を作る。 「そろそろ羽狩り本隊が到着する頃です」 「ルキウス様、お部屋に戻りましょう」 「ああ、わかった」 屋敷に戻る直前、ルキウスは〈暁闇〉《あかつきやみ》に浮かぶ王城を見つめた。 懸念は一つ、ヴァリアスの動きだった。 彼の行動〈如何〉《いかん》で戦況は変わる。 勝敗を他人に委ねなければならないことに〈忸怩〉《じくじ》たる思いがありつつも、今のルキウスには祈ることしかできなかった。 「……」 空を見上げ、深いため息をついた。 自宅に戻ってきたものの、武装蜂起が明日に控えていると思うと落ち着かない。 恐らく、夜明け前には蜂起を知らせる伝令が私を呼びに来るだろう。 リシア様の言葉が脳裏に蘇る。 「この国を正常化させるには、執政公を権力の座から降ろす以外にない」 「だが、私一人では実現が難しい」 「私には、兵も力もないからな」 「どうされるおつもりですか」 「志を同じくする者に協力する」 「ルキウスが、明日、武装蜂起する」 「私もその旗印として、執政公に立ち向かうつもりだ」 「なりませぬっ!」 自分が間違っているとは思わない。 剣は、振るう先を誤れば恐ろしい結末を招く。 刃を受ければ、人は傷つき死に至る。 その現実を目の当たりにしたとき、リシア様は受け止められるのだろうか。 自身が選択した道の、果てしなき重さに。 剣を抜き、刀身を見つめる。 執政公がおかしいことはわかっている。 彼は、自分の利益のために〈躊躇〉《ちゅうちょ》せずに他人を犠牲にする。 だが、リシア様のお命を狙ったというのは本当だろうか。 そもそも、彼の権力は、リシア様を思いのままに操っていることに依っている。 いわば寄生虫だ。 寄生虫が、自分の宿主を殺すだろうか。 計算高い執政公だからこそ、むしろリシア様の殺害など企てないのではないだろうか。 そう考えれば、今度はルキウス卿が怪しくなってくる。 果たして、彼は信用に足る人物なのだろうか。 ルキウス卿が執政公を倒した後、執政公と同じ道を進まないとは限らない。 ならば、何も変わらないではないか。 リシア様をお護りしたいのは山々だ。 しかし寄生虫が入れ替わるだけの戦いに、部下たちの血を流すわけにはいかない。 それに…… 妻の腹には子がいる。 執政公は、生まれてくる子の祖父だ。 子が長じたとき、実の父が祖父を討ったと知ればどう思うだろう。 「旦那様、どうなされましたか?」 「お前か」 気づくと、傍に妻がいた。 「星を見ていた」 妻はくすりと笑い、そっと寄り添ってくる。 「何をお悩みになっているのですか?」 「何も」 「ふふふ、そうでしょうか」 「……お前には嘘がつけんな」 妻の顔を見つめる。 彼女に相談すべきだろうか。 執政公の娘である彼女に。 「私は剣に生きてきた」 「だからこそ、考えてしまうのだ」 「私の剣は、誰のために振るうべきなのか」 分厚い皮に覆われた手の平を握りしめる。 「決まっているではありませんか」 妻はあっさりと答えた。 「決まっている?」 「剣は、ご自身が信じる方のために振るわれるべきです」 「……」 妻の手が、私の手に重ねられる。 「私は、近衛騎士団長の妻です」 「旦那様の敵は私の敵、旦那様の主は私の主です」 「お前……」 「旦那様は、旦那様の信じる道をお進みください」 妻は気付いているのかもしれない。 私が、執政公に刃を向けようとしていることに。 「私は、何があっても旦那様に寄り添いましょう」 「たとえ、誰と敵対することになったとしても」 本当に、私はいい妻を持ったと思う。 「……」 寄り添う妻を、そっと抱きしめた。 ようやく牢獄まで降りてきた。 武装蜂起のためか関所の衛兵は少なく、手続で余計な時間を食わされてしまった。 すでに東の空が白んできている。 「行くぞ」 メルトが犠牲になった崩落以降、ティアが牢獄に来るのはこれが初めてだった。 緊張のためだろう、関所に着いた頃からティアの表情は硬くなっている。 「これからどうするんですか?」 「俺の家に行く」 「お前はしばらく、大人しくしていろ」 腹に響くような低音が聞こえた。 「カイムさん、見てください」 ティアが指さす先。 王城に続く崖の中腹、上層の貴族街に無数の蠢く影が小さく見える。 風に乗って、かすかに鬨の声が聞こえてきた。 「始まったか」 「ルキウスさん、大丈夫でしょうか」 「さてな。なるようにしかならないだろう」 「冷たいことを言わないでください」 ティアの非難を無視する。 リシアはこちらへ味方すると確約した。 あとは、近衛騎士団の動き次第だ。 リシアはヴァリアスを説得できただろうか。 何にせよ、戦いは始まったのだ。 今さら俺が心配しても仕方がない。 「行くぞ、ティア」 「はい……」 歩き出す直前、王城を見上げる。 リシアは上手くやれるだろうか……。 「皆の者、よく集まってくれた」 リシアの通る声が謁見の間に響く。 ルキウスを初めとした貴族たちと、その私兵が謁見の間に整列していた。 城に入れたのは、ヴァリアス率いる近衛騎士団が傍観を決め込んだからだ。 「これから、我らが何をすべきかは十分にわかっているだろう」 「だが、改めてこの場で宣言したいと思う」 謁見の間は水を打ったように静まりかえる。 誰もがリシアの言葉を傾聴していた。 「今までこの国は執政公……いや、ギルバルトによって牛耳られてきた」 「陛下への忠誠を口にしていたが、その実、行ってきたことは陛下の名を利用した専横だ」 「皆も、内心忸怩たるものがあったと思う」 貴族たちが小さく頷く。 「奴の悪行を上げれば切りがないが、その最たるものは防疫局の設置だ」 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の救済を謳いながら、保護された〈罹患者〉《りかんしゃ》はギルバルトの私的な研究に利用されていた」 「治癒院では、治療のための研究など行われていなかったのだ」 羽狩りたちから吐息が漏れる。 「防疫局の者達に罪はない」 「ギルバルトは、防疫局の長たるルキウスにすら、真意を明かしていなかったのだから」 リシアがルキウスを見ると、ルキウスが小さく頷いた。 「全ては、私の不徳の致すところだ」 「心より詫びを言う」 リシアの言葉に、羽狩りの意気が揚がる。 「そして、これは今まで伏せてきたことだが……」 「私はギルバルトの差し向けた暗殺者によって、命を狙われた」 リシアの言葉に、皆がどよめく。 「私が会議の場においてギルバルトの行いに疑いを示していたことは記憶に新しいだろう」 「奴が欲していたのは、自分の思い通りになる人形であり、自分の意志で発言する私ではなかった」 「だからこそ、暗殺者を仕向けたのだ」 「ルキウスの部下のお陰で、私は命を失わずに済んだ」 「だが、今度はルキウスが命を狙われることになった」 「知っておろう、ルキウスに陛下暗殺未遂の容疑で逮捕命令が出ていることを」 「もちろん、ルキウスは無実だ」 「だが、ルキウスが無実を叫んだところで、ギルバルトは力でねじ伏せるだろう」 リシアは言葉を句切り、集まった面々を見渡す。 「こんなことが許されるだろうか」 「我らは、いつまでギルバルトの影に怯え、不正を見過ごし続けなければならない?」 「いつまで、国が腐っていく様を見続けなくてはならない?」 「今こそ、ギルバルトを誅し、政治を正道へと戻す時だ!」 大きな歓声が響き渡る。 「これ以上、ギルバルトの増長を許すわけにはいかない」 「ノーヴァス王家第一王女、リシアの名において命ずる」 「ギルバルトを討伐せよ!」 鬨の声が湧き起こる。 だが、歓声の中にヴァリアスの姿はなかった。 「……夢、か……」 久しぶりに見る夢だった。 20年以上も前の出来事が、今でも私の中で蠢いている。 思えば、あの時から私の時代が始まったのだった。 目を瞑る。 脳裏に、懐かしい光景が浮かんでくる。 「これは執政公」 ネヴィル卿へと歩み寄る。 卿が鋭い視線を投げかけてきた。 「貴様、私を謀ったな」 「お言葉の意味がわかりかねます」 「とぼけるな」 「私に近しい貴族たちを投獄したのはお前だろう?」 「たとえ疑いがあったとしても、私が直々に取り調べよう」 執政公が牢へ向かおうとする。 「残念ながら、容疑者はすでにこの世にはいません」 「何?」 「囚われの身となったことを恥じたのか、真実が公になることを恐れたのか、彼らは毒を呷ったとのことです」 「貴様!?」 執政公の眉が釣り上がる。 いい気味だ。 こみあげてくる笑いを噛み殺す。 「目上の人間に対する言葉遣いではありませんな、ネヴィル卿」 「なんだと?」 ネヴィル卿の顔が、石のように硬くなる。 「つい先ほど、国王陛下より執政のお役目を賜りました」 「ば、馬鹿な……!」 「陛下は、卿の体調を気遣っておいでです」 「政治の一線を退かれ、お心安らかに静養されるようにとのことです」 「陛下まで謀ったか……」 「よい、貴様と話しても時間の無駄だ、国王陛下に私が直接申し上げる」 ネヴィル卿が部屋を出て行こうとする。 その背中に、言葉を投げかけた。 「まあ待て」 「私の部下に、子供と遊ぶのが非常に好きな人間がいてな」 ネヴィル卿の足が、凍り付いたように止まる。 「今、ご子息のお相手をさせていただいているところだ」 「ルキウスと言いましたか……なかなか利発そうな」 「……」 ネヴィル卿が無言で振り返る。 鬼のような形相とは、このような顔を言うのだろう。 「この書類に署名を頂きたい」 「簡単なことでしょう?」 「家族まで巻きこむとは……」 「貴様、畜生の道に堕ちたな」 「畜生の道に堕ちたのは、お前が先だ」 「あの時の私の絶望が、どれほどのものだったか」 「クルーヴィスのこと、まだ根に持っていたのか」 一気に体温が上がった。 「まだ! まだだと!?」 「私が忘れるとでも思ったか!」 「仕方がなかったことなのだ」 「ああしなければ、先へは進めなかった」 「お前にとって仕方がなかっただけだろう」 「クルーヴィスのことを仕方がないで済ますのなら、ご子息のことも仕方がないで済ませればいい」 「それとこれとは次元が違う」 「決めるのは私だ」 書類を突き出す。 「署名を」 「ご子息が遊び疲れないうちに」 「……」 「お目覚めですか、執政公」 「入室を許可した覚えはないが」 背後から聞こえたガウの声に振り返る。 「緊急のお知らせがありましたのでね」 「聞こう」 「ルキウスの屋敷に、私兵が集まっています」 「いよいよか」 私の蹴落としたネヴィルの息子が、私に牙を剥く。 本物のルキウスとは違い、今のルキウスは聡明だ。 恐らく、自分の行動が筒抜けであることも知っているだろう。 その上でなお蜂起するか。 親子揃って愚かなものだ。 「王城の様子は?」 「意気盛んな様子です」 「リシア様が、なかなか立派な演説をぶっておいででしたよ」 「何でも、専横を極めるギルバルトを討伐せよとのことで」 「ルキウスに惑わされおって」 結局は、ルキウスに担がれているだけだと気づかないのだろうか。 「いかがしましょう」 「相手をしよう」 「ルキウスは国王陛下の暗殺に失敗し、最後の手段として蜂起したのだ」 「奴の狙いは、リシア様の名を借りてこの国を手中に収めることである」 「故に我らはリシア様をお救いし、ルキウスに正義の鉄槌を下す」 「皆にはそう伝えろ」 「かしこまりました」 ガウは頭を下げる。 「して、近衛騎士団はどうした」 まさか、娘婿がルキウスに味方するとも思えない。 それでは、娘と結婚させた意味がないではないか。 「ヴァリアス殿と少しお話ししましたけど、どうやら傍観を決め込んでますね」 「城内で剣を抜かない限り、どちらにもつかないでしょう」 「あの男……日和ったことを抜かしおって」 無意識に歯ぎしりをした。 「敵に回られるよりはマシですよ」 「ま、私としちゃ敵に回ってくれた方が楽しくてよかったんですが」 ガウは、指先で短剣の柄を叩いてみせる。 「貴様もよくよく狂っているな」 「お褒めにあずかり光栄です」 「手段は問わぬ、ルキウスを討ち取れ」 「それで全ての片がつく」 ガウはちろりと舌を出して唇を舐めた。 妖艶とも言える、凄味のある笑みだ。 長く政治の世界にいた自分にすら、こいつの本音はわからない。 「では、一つ遊んできましょう」 「全隊、突撃っ!!!」 羽狩りの副隊長、フィオネの声に応じて鬨の声が上がった。 上層の街路は狭い上に入り組んでいる。 実際に戦闘を行えるのは最前列にいる数人だけだ。 実質的には個人戦とも言えた。 自然、個人の技量と士気が勝敗を分ける。 その点、羽狩りは有利だった。 日頃の職務で実戦慣れしている上に、リシアの演説により士気も高まっている。 民の血と涙に濡れながらこなしてきた職務。 それが、執政公の私利私欲のためだったと知らされたのだ。 怒りに満ちた刃が冴えに冴える。 「止まるな、一気に押せ!」 勢いに乗った羽狩りが、執政公の私兵をなぎ倒し、踏み越えていく。 「はっ!」 フィオネの剣が、敵を切り裂く。 まるで舞踏のごとき剣技に、血煙が花を添える。 きらめく刃の中で、フィオネは躍動していた。 「歯ごたえのない連中ですね」 「一気に畳んでしまいましょうや!」 部下たちもフィオネに遅れまいと奮戦する。 どの顔も、生気に満ちていた。 「こんなに活き活きと剣を振るお前を初めて見た」 「気に入らないものを斬ってるんです、楽しくないわけがないでしょう」 「ああ、そうだな」 ようやく、自分は兄の仇が取れるのだ。 治癒院の事実を知ってから、大きな葛藤を抱えたまま〈罹患者〉《りかんしゃ》を保護してきた。 それも、この戦いで終わるのだ。 剣を握り直す。 この刃で、全ての欺瞞と迷いを切り裂くのだ。 「はあぁっっ!!」 「なかなか気合いが入ってるじゃないか」 「っっ!?」 フィオネの眼前にガウが降り立つ。 ガウの氷のような笑いに、フィオネは直感的に危機を悟る。 「面白い答えが聞けそうだね」 「ただいま戻りました」 「戦況はどうだ?」 「執政公の本隊が動き始めました」 「かなり分が悪いようです」 「そうか」 「緒戦では優勢だったのですが、ガウの暴れように士気をくじかれました」 「フィオネ殿もガウに手傷を負わされ、現在手当を受けています」 「あの狂犬を黙らせることができる者はいないのか」 「手練れを向かわせましたが、果たして止められるかどうか……」 システィナが顔を曇らせる。 「今回の戦いは、個人の力が戦局を左右します」 「その点、ガウはやはり圧倒的かと」 二人の脳裏に、ある男の顔が浮かんでいた。 ティアを牢獄に連れて行った、カイムの顔だ。 「誰にも体力の限界はある、とにかく休ませないことだ」 「正面から戦わず、体力を削るよう指示しろ」 「はい、すぐに伝令を出します」 システィナが踵を返す。 その時、 二人の眼前に影が舞い降りた。 「伝令の手間を省いてやったぞ」 血に染まったガウが、そこに立っていた。 「き、貴様……」 「道が塞がっていたんでね、上から失礼したよ」 ガウは、敵味方が入り乱れた街路を避け、屋根伝いにルキウスの下に辿り着いた。 並外れた身体能力あってこその芸当だ。 「ここに来ればカイムがいると思ったが」 「生憎、不在だ」 「どこにいる?」 「特別被災地区だろうな」 「カイムはこの蜂起には加わっていない」 ガウは不機嫌そうに眉をしかめる。 冷気すら漂うガウの視線に、周りの兵士たちは固まって動かない。 「私はカイムとやり合いたかったんだ」 「この埋め合わせはしてくれるのか?」 「そこまで血が好きならば、自分の血で埋め合わせをするといい」 ルキウスが手を挙げる。 周囲の兵士達が、ガウに挑みかかる。 瞬きの間に、ガウは3人を切り伏せた。 「はぁ……」 「埋め合わせを期待したのが間違いだったらしい」 「面倒だが、仕事をさせてもらおう」 ガウがルキウスを見る。 「ガウっ!」 システィナの剣を、ガウはわずかな動作で〈躱〉《かわ》し、足を払う。 「ぐ……が……」 地面に背中を強打したシスティナが、息を詰まらせて身をこごめた。 「さて……」 ふわりと、ガウがルキウスとの間合いを詰める。 剣の技量の差は歴然。 繰り出されたガウの双剣が、ルキウスの防御をすり抜け、生き物のように首筋を狙う。 「っっ!?」 背後からのナイフを、ガウが軽々と弾いた。 「お……」 ガウがルキウスから離れる。 その隙に、ルキウスとガウとの間に立ちはだかった。 「カイムじゃないか」 ガウが嬉しそうに顔をほころばせる。 「ルキウスもなかなか気が利く」 「牢獄に帰ったというのは、私を驚かせる趣向か」 「カイム、なぜ来た」 「話は後だ」 「野良犬に聞かせるには、もったいない話だからな」 「ふうん、そうかい」 微笑を顔に貼り付けたまま、ガウが動く。 女の力とは思えないほど一撃が重い。 身体に伝わった痺れが感覚を失わせる。 「あたしと戦うために戻ってきてくれたのか?」 「ルキウスの身を守る契約をしていただけだ」 「それに、お前のような女は悪いが趣味じゃない」 「ほう……」 ガウの短剣が脇腹を浅く切る。 さすがに正面からやり合っては勝てない。 初撃を〈躱〉《かわ》された時点で、圧倒的に不利だ。 わかっていたはずなのに、俺はこいつの正面に立っている。 「好きにはさせんぞ!」 ルキウスが、横合いから加勢に入った。 「邪魔だ!」 「ぐっ!!」 ガウに蹴り飛ばされ、ルキウスが後退する。 元より、ルキウスは背中に傷を負っている。 戦力としては期待できない。 「カイム、何故あたしがお前に色々と教えてやったかわかるか」 「知らんな」 「執政公は、お前やルキウスを殺せと命じた」 「殺すのは簡単だが、それじゃつまらない」 「待っていたんだ、ずっと」 「ルキウスが内乱を起こすのをな!」 「なぜ内乱を望む」 「殺せるからさ」 「沢山の人間を、正当に」 それが理由だというのか。 「馬鹿らしくて涙が出るね」 「だからお前は、執政公がクスリに絡んでいることを俺に教えたのか」 「そうだ」 「俺が執政公に暗殺されないよう、リシアに手紙を出して距離を置かせた」 「システィナと通じていたのもそのためか」 「もちろん」 「ついでに言えば、ルキウスを逮捕するよう入れ知恵したのもあたしだ」 「目論見通りに内乱を起こしてくれて嬉しいよ」 「人間を殺したくて、狂言回しを演じたのか?」 「そうだが」 「っと、そうだ。お前を気に入っていたのは本当だぞ」 「牢獄出の双剣使いの殺し屋なんて、あたしとお前くらいだ」 「それにな、あたしとお前にはどこか同じ匂いがする」 「まさに運命の出会いだよ」 「なら、こうして殺し合うのが当然だと思うだろう?」 「殺しをやっているうちに、血の味を覚えたか」 少なからず、そういう人間はいた。 血は人を狂わせずにはおかない。 殊更に他人の血は。 「お前とて同じだろう?」 「生憎だな」 ガウがにっと笑う。 「あたしは〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で孤児になり、気がついた時は牢獄にいた」 「わかるだろう、牢獄で身寄りのない女がどうなるか」 「ご多分に漏れず、あたしは娼婦にされそうになった」 「ま、あたしに突っ込もうとした男は、全員殺したがね」 「それからしばらくは気ままに殺しをやって生きてきたが、どこでどう耳に入ったのか執政公から声がかかったのさ」 俺が牢獄に落ちてから辿った人生と似ていた。 「ベルナドの下にいたのは、執政公の指示か」 「まあね」 「権力の傍らには、なぜかいつも死がある」 「沢山殺したなあ……」 「不蝕金鎖も〈風錆〉《ふうしょう》も、羽狩りも乞食も」 短剣に異常なまでの力が込められる。 「で、殺した次の日に思うわけだ」 「あたしが殺した奴らは、何のために生まれてきたんだろうってね」 「だが、答えはない」 「牢獄では人の生に意味なんてないんだ、そうだろう?」 ガウの気持ちはわかってしまった。 人の生が、あまりにもあっけなく終わっていく。 どんな願いを持っていたとしても、不条理に一瞬で命が絶たれる。 そんな世界では、人生へのこだわりなど足枷にしかならない。 生きる意味なんて考えるだけ無駄だ。 牢獄ではあらゆる形で、考えることの無意味さを教え込まされる。 「あたしは教えて欲しいんだ、人生の意味ってのをね」 「殺して殺して殺し回っていれば、いつか誰かが教えてくれるんじゃないかと思ってるんだが、カイムはどう思う?」 「わからないな」 「だが、はっきりわかってることもある」 「教えてくれ」 「お前は死んだ方がいいってことだ」 「はははははっ!」 「ふっ……!」 ガウの足が腹に入る。 息が止まり、視界が瞬いた。 「同類なんだ、少しは面白い答えを聞かせてくれよ」 「元同業だが、同類じゃないな」 渾身の力でガウを弾き飛ばす。 距離ができた隙に体勢を立て直す。 こいつは所詮、自分がされたことを他人にして溜飲を下げているだけだ。 どうだ、私の人生同様お前の人生も無意味だったろう、と。 かつては俺もそんな生き方をしていた。 前向きな人間を見ては、希望が踏みにじられることをどこかで願う。 そんな、ゴミ屑のような人生だ。 「同情してやるよ、お前のかわいそうな生い立ちにな」 「っっ!!」 ガウの表情が引きつった。 「お前っっ!!」 矢の様にガウが迫る。 ガウの短剣がじりじりと眼前に迫る。 「同情の価値もない」 「くっ!」 「ぬくぬくと育った貴族に何がわかる」 「黙れ……」 システィナがようやく立ち上がった。 「貴様に……ルキウス様の……何がわかる」 俺とルキウス、システィナが三方からガウを囲む。 「ふっ」 俺の踏み込みと同時に、二人も動いた。 「っ……」 俺のナイフが、ガウの身体を浅く切り裂く。 だが、かすり傷だ。 残り二人の攻撃を避けながら、巧みに囲みから逃れた。 「3人の相手はさすがにきついな」 「カイム、次は二人きりで殺り合おう」 ガウは崖の下に身を躍らせる。 「待てっ」 崖下を覗くが、もう姿はない。 どこへ逃げたのか。 出会いたくはないが、生かしておきたくもない奴だ。 「助かったようだな」 「ああ」 ルキウスが剣を収めながら俺の前に立った。 「お前には助けられた、礼を言う」 「あんたの補佐官だったのを思い出しただけだ」 「武装蜂起には関わらないが、あんたは守ろう」 「ふふ、そうか」 ルキウスが苦笑する。 「素直ではありませんね」 「お前の期待しているような感情はない」 「そうですか」 「それより、戦況の心配をしたらどうだ」 崖の下では、ルキウス側の部隊が総崩れになっていた。 ガウに、いいように混ぜっ返されたらしい。 「年貢の納め時かもしれんな」 「冗談を言っている場合か」 「折角助けに来てくれたところ悪いが、やはりカイムは特別被災地区に戻った方がいい」 「私に付き従って、命を無駄にするな」 「俺が何のためにここまで来たと思っている」 「お前にはまだやることがあるはずだ」 「思ったより簡単に諦めるんだな」 「失望した」 かつてルキウスが俺に言った言葉だった。 その言葉をそっくり返してやる。 「あんたが目指していたものは、簡単に捨てられるものだったのか?」 「そんなもののために、多くの人間を巻き込んだのか?」 「私は最後まで諦めるつもりはない」 「だがカイム、お前には死んで欲しくないのだ」 「お前には、私がいなくなった後のことを頼みたい」 「俺に貸しを作って、また立派な人間になれとでも言うのか?」 「くだらない」 ルキウスを〈睨〉《にら》む。 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時、俺はあんたに手を差し出した」 「あんたが俺の手を握ったのは何故だ」 「あの時、あんたは助けが欲しかったんじゃないのか」 今だって同じだ。 危機に陥ったルキウスの傍に俺がいる。 だが、ルキウスは俺だけでも助かれと言うのだ。 「なら、何故お前は手を差し伸べた」 「私のことを憎んでいたのだろう」 咄嗟の行為だったのだ、理由などわからない。 「……成り行きだ」 「今、手を差し伸べるのと同じくな」 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の時、なぜ手を差し伸べたのか。 そして今、なぜルキウスの身を守ろうとするのか。 理由は判然としない。 だが、ルキウスに死なれては、判然としないままに全ては消えてしまう。 「お前は特別被災地区で育ち、私は貴族の元で育った」 「毎日死を感じながら暮らしてきたお前に、恵まれた生活を送ってきた私が許せるか?」 「死を感じながら生きてきたのは、あんたも同じだろう」 「不条理は、何も牢獄の専売特許じゃないというだけのことだ」 「カイム……」 ルキウスが神妙な顔をした。 「望まないのなら、手をはねのけろ」 手を差し出す。 そこに何か複雑な文字でも書かれているかのように、ルキウスが俺の手を見つめる。 「どうする?」 「言うまでもない」 ルキウスが俺の手を握った。 胸の奥が痺れたようになる。 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で私たちは道を違えた」 「だが、これからは同じ道を歩もう」 「気色悪いことを言うな」 手を離す。 手の平から温かさは消えたが、胸の熱さは消えない。 「あんたに死なれれば、ティアのことも都市の謎も全て霧の中だ」 「ああ、そうだな」 「全てを解き明かすためにも、私と共に戦ってくれ」 「任せておけ」 幼い頃、ずっと背中を追ってきた兄。 時には憎しみを込めて見つめたその背中を、俺が守る。 複雑な気分ではあったが、何か胸のつかえが消えた気もした。 「カイムさん」 「その気になっていただくのはありがたいのですが、今は戦闘中です」 システィナが割って入ってくる。 「ああ、珍しくあんたの言う通りだ」 戦況を見つめる。 ルキウス側の私兵が、間近まで後退していた。 その最前線に、見覚えのある姿がある。 リシアだ。 「リシアの奴、戦闘に参加しているのか」 「兵だけに戦わせるわけにはいかないと仰ったのだ」 「お引き留めしたのだが、聞き入れてもらえなかった」 剣の腕は定かではないが、このままでは戦死は目に見えている。 お話にならない。 「行ってくる」 「どちらへ?」 「リシアのところだ」 リシアが戦いの渦中にいる。 林立する剣や矛に、その姿は今にも飲み込まれそうに見えた。 「リシアっ!」 「えっ!?」 弾かれたように、リシアが俺を見た。 「どうしてここにいる!?」 「こっちが聞きたい」 「前線に出るのが王の役目か!?」 「兵だけを戦わせるわけにはいかん」 「馬鹿が」 「お前が戦死すれば全て終わりだ」 「私は戦死などしないっ」 そう言うリシアに敵兵が迫る。 「っっ!?」 血煙が上がる。 俺のナイフを首に受けた兵士が、ゆっくりと崩れ落ちる。 「放っておけば、死ぬようにしか見えないな」 「お前は後ろにいろ」 リシアを背中に隠す。 「す、すまない……」 「気にするな」 「それより、ヴァリアスと話はしたのか」 リシアは俯く。 「味方にはならないそうだ」 「だが、執政公にも味方はしないらしい」 「日和ったか」 「ああ」 「戦況を覆すには、もう近衛騎士団の力を借りるしかないだろう」 「もう一度行って、ヴァリアスを説得してこい」 「無理だ」 「執政公の味方をしていないだけ、まだましだと思え」 「手勢で押し返すしかあるまい」 「できると思うか?」 「やるしかない」 「根性で勝てるのなら、誰も苦労はしない」 後から後から執政公の私兵隊が押し寄せてくる。 ルキウスの兵は後退の一手だ。 「戦うことは誰にでもできる」 「だが、ヴァリアスの説得はお前にしかできない」 「もはや何を言ったところで無駄だ」 「違う」 「ヴァリアスは、お前に期待してるんだ」 「ただ、その期待をお前は裏切り続けてきた」 「だから説得には時間がかかる」 「ここで諦めて、またヴァリアスを裏切るのか」 リシアが口を引き結ぶ。 「行け」 「戦場で死ぬ覚悟があるなら、ヴァリアスの前で舌くらい噛み切れるだろう」 「……」 「これ以上、あいつを落胆させるな」 「わかった」 「必ずヴァリアスを連れて戻ってくる」 リシアが兵士数人を連れ、王城へと走っていく。 あとは、リシアが上手くやってくれることを祈るだけだ。 さて…… 戦場へ目を向ける。 劣勢は変わらない。 リシアがヴァリアスを連れて戻るまで持ちこたえねば、格好がつかない。 「一仕事するか」 ナイフを構え、大きく息を吸った。 「ヴァリアス、ヴァリアスはいるか!」 「っっ!」 前庭の異様な光景に気圧される。 「そろそろ、いらっしゃる頃だと思っておりました」 ヴァリアスが直立したまま、私を見下ろしている。 その背後には、寸分の乱れもなく整列した近衛騎士団が膝を折って控えている。 「なぜ私が来ると思った」 「ルキウス卿が劣勢にあると聞き及びました」 「勝つためには何が必要かは、わかっているつもりです」 全てお見通しというわけか。 「ですが、敢えてお聞き致します」 「リシア様、戦場に背を向けて、何故こんなところにいらっしゃった」 ヴァリアスが、巨大な壁に思えた。 これが私とヴァリアスの関係だ。 敬意を示す言葉を使いながらも、こいつはいつも私を見下ろしていた。 今までの私は、それが分相応だったからだろう。 「答える前にヴァリアス、お前に聞きたいことがある」 「何でしょうか」 「お前は私のことをどう思っている?」 「質問の意味がわかりかねますが」 「言葉のままの意味だ」 「父上に命じられたから、嫌々私の面倒を見てきたのだろう?」 カイムは言っていた。 ヴァリアスは私に期待していたと。 私には信じられない。 顔を合わせれば、いつも文句しか言わない男だ。 「私は、リシア様の行く末をいつも案じて参りました」 「父上の子だからか」 「もちろんです」 「ならば、もう気遣いは無用だ」 「私は父上の子ではない」 「リシア様……」 「お前とて噂は知っているだろう」 「噂はただの噂でございます」 「いや、事実だ」 「お前が渡してくれた父上の手紙にそうあった」 「……」 ヴァリアスは押し黙る。 見たことか。 この男は気にかけているのは、父上の娘である私だ。 「リシア様が誰のお子であろうと、リシア様はリシア様です」 「どういう意味だ」 「無礼を承知で申し上げれば……リシア様は、私にとって我が子も同然でした」 「口やかましく咎め立てをしたのも、我が子だと思えばこそ」 「期待もせぬ他人に、誰があれだけ言葉を重ねることがありましょうか」 不意打ちだ。 こいつが、私を我が子と思っていた? 嘘だ。 そんなはずはない。 拒絶の言葉が頭を埋め尽くす。 だが、ヴァリアスがつまらない嘘などつく男でないことは、嫌と言うほど知っている。 だとしたら…… ──小さい頃、私はヴァリアスが怖くてたまらなかった。 いつも私を叱る怖くて大きな人。 それが、私にとってのヴァリアスという男だった。 私が大きくなるにつれ、ヴァリアスへの恐怖は反抗心に変わっていった。 誰がお前の言うことなど聞くか。 召使いの服を着込んで掃除や洗濯をしていたのも、半分はそのためだった。 ヴァリアスの目を盗んでヴァリアスの怒ることをわざとする。 後で咎めに来るヴァリアスを、素知らぬ顔でやり過ごす。 どうせヴァリアスには嫌われているのだ。 どれだけ呆れられようが腹を立てられようが、全く気にならない。 むしろそれが快感だった。 我ながら子供だった。 だが、今思い返せば何となくわかる。 どれだけ言っても全く行動を改めない私に、しかしヴァリアスは決して諦めようとしなかった。 いくら父上の命令でも限界はある。 私の世話など、途中でやめようと思えばやめられたはずだ。 だが、ヴァリアスは決してやめなかった。 それはなぜなのか。 ──何とわかりにくい男なのだ。 顔をしかめて咎めるだけの愛情など、誰に伝わるというのか。 思わずため息をつく。 武人としては優れているのかもしれない。 だが育ての親としては、この上なく駄目な奴だ。 「出過ぎたことを申しました」 「いいのだ」 「お前の気持ちはわかった」 ヴァリアスへのわだかまりは解けた。 認めよう。 ヴァリアスの気持ちを。 認めてやろう。 ヴァリアスがどんな気持ちで私に接してきたのかを。 ならば、今度は私がヴァリアスの期待に応えよう。 「先ほどのお前の質問に答えよう」 「なぜ、私が戦場に背を向けてここに来たのか」 もう怖くない。 もう大きくは見えない。 目の前にそびえていた巨大な壁は、ヴァリアスと同じ大きさまで縮んでいた。 「ヴァリアス、お前を戦場に連れて行くためだ」 ヴァリアスを〈睨〉《にら》み付ける。 「私に従い、剣を取れ」 「ギルバルトを倒すのだ」 しかし、ヴァリアスは私の言葉に目を伏せる。 「それはできません」 「なぜだ」 「先ほどのご質問は、このためですか?」 「確かに私はリシア様のことを、我が子同然に思って参りました」 「ですが、それとこれとは話が別です」 「私情で兵を動かすわけには参りません」 ヴァリアスは背後でかしずく近衛騎士団に手を向ける。 「彼らは私が命じれば、どのような戦いにも身を投じるでしょう」 「そして、再びここに戻ってくることができない者もいるでしょう」 「一人一人に家族がおり、友人がおります」 「それでも、彼らに戦場へ赴けと命じるお覚悟がおありですか?」 「当然だ」 ヴァリアスから目を逸らさず、答える。 「王ともなれば、その言葉は全ての国民の命を左右する」 「戦時でなくとも、各々の命を背負う覚悟が必要なのだ」 「だからこそ、王は全ての民の父でなくてはならない」 「その言葉も、カイムの受け売りですか」 「口を慎め、ヴァリアス!」 「私は父上に代わり、国王代理としてお前に命じているのだ」 「全ての責はこの私が負う」 「国に仇為すギルバルトを倒せ!」 「それとも、腰にぶら下げた剣はただの飾りか!」 ヴァリアスの瞳が鋭く細められる。 「この剣は自らが信じる者のために振るわれるもの」 「リシア様、あなたにその資格がおありか!」 白光を放ち、ヴァリアスの剣先が私へと突きつけられる。 湧き上がる恐怖を無理矢理に押さえつけた。 この男を納得させられねば、戦いに勝ったところでまともな王にはなれない。 一度は戦場に立ったこの身。 舌を噛み切るくらいのことは、やってのけてみせる。 「命令だ、ヴァリアス」 白昼の陽光に煌めく刀身を、握る。 そして、自分の元に引き寄せた。 「リ、リシア様!?」 「命令だ」 さらに剣を引く。 ヴァリアスが抗えば、私の指が落ちる。 舌に比べれば安い。 「聞こえないのか?」 剣を引き寄せる。 ヴァリアスが剣に引かれて膝を折った。 「お、おやめ下さい、指が落ちますぞ」 「指の一本や二本、お前にくれてやる」 「だが、この体は全ての国民のものだ」 「お前にも、もちろんギルバルトにもくれてやるわけにはいかん」 ヴァリアスが私を見上げる。 手の平に熱い感覚があった。 溢れ出した血液が、刀身を伝ってヴァリアスの元へ流れていく。 「これは、ギルバルトの暴挙を排するための戦いだ」 「私が国王として為政を行うための、純然たる王家の戦いだ」 「……」 「ヴァリアス、お前は何のためにここにいる」 「お前はノーヴァス王家に仕える近衛騎士団長ではなかったか」 「王家の戦いに赴かぬ近衛騎士団長など、私には必要ない」 剣を離す。 手の平から血が溢れ、指先を伝って落ちている。 赤く濡れたその指で、ヴァリアスの唇を撫でた。 「今の私がお前にくれてやれるのはこれくらいだ」 「お前が従うべき者の味をよく覚えておけ」 ヴァリアスが唇についた血を舐める。 「剣を取れ、ヴァリアス」 「血を吸った今、お前は私の一部だ」 「私の手として、立ち塞がるあらゆる障害を排除しろ」 ヴァリアスは目を伏せる。 長い黙考。 静寂が前庭に降りる。 門の外で行われている戦の喧噪が聞こえた。 沈黙を保ったまま、ヴァリアスが立ち上がる。 そして、居並ぶ部下たちに向き直った。 「私はこれよりリシア様に従い、執政公を討つ」 「無理強いはしない、従う気がある者だけ私についてこい」 一瞬の沈黙── だが、次の瞬間、 近衛兵たちは一斉に立ち上がった。 全員が、一言も発することなく剣を抜き、天に掲げる。 栄誉礼── 近衛兵たちは、国王のみが受礼する最高位の礼を捧げた。 先頭にいた近衛兵の一人が、ヴァリアスの前に歩み出る。 「我らが、執政公の専横をどれだけ悔しい思いで見てきたことか」 「口には出せずとも、いつかこんな日が来ることを密かに望んでおりました」 「我らは近衛騎士団です」 「国王陛下危篤の折、リシア様が新たな国王として立たれるのなら、それに従うのは我らの使命」 「この時のためにこそ、我らは日々剣を磨いて参ったのです」 「そうか……」 言葉を詰まらせるヴァリアス。 「お前たちのような部下に囲まれて、私は幸せだ」 近衛兵たちは剣を収め、再びかしずく。 「ヴァリアス様、我らにご命令を」 ヴァリアスが私に振り返る。 「リシア様、よろしいですな」 「ああ」 迷いなく答える。 ヴァリアスは兜を被り、大きく息を吸った。 「我らはこれよりリシア様の仇敵、執政ギルバルトを討つ!」 力強い声が王城を揺るがす。 「行くぞ、ヴァリアス」 「はっ!!」 「はぁ……はぁ……」 何人を打ち倒しただろうか。 10人までは数えていたが、それ以降は覚えていない。 いや、覚えていないのではない。 本能に全てを任せて動かねば、地を舐めるのはこちらだった。 手持ちのナイフはすでになく、死体から奪った武器も、もう何本目か。 「くそ……」 敵兵は、倒しても倒しても押し寄せてきた。 集団戦での自分の無力さを思い知らされる。 どこまで保つか…… 戦場の一角でどよめきがあった。 目を向ける。 完全武装の一隊が、今まさに戦場へ飛び込むところだった。 あの鎧は……近衛騎士団だ。 「やったか、リシア」 地鳴りを上げ、近衛騎士団がギルバルト方を蹂躙していく。 悲鳴と絶叫が空を覆った。 「はぁ、一仕事してきました」 ガウから発散される血の臭いに、ギルバルトが顔をしかめる。 「どうした、片付いたのか?」 「その逆、味方は総崩れですよ」 「何だと?」 執政公の眉が上がる。 「ヴァリアス殿が、リシア様に口説き落とされたようですね」 「な……」 「あやつは娘婿だ、私を裏切るというのか」 「しかも、娘の腹には子がいるのだぞ」 「〈薹〉《とう》が立った女より、〈未通女〉《おぼこ》の方が良かったんじゃないですか?」 「貴様っ!!」 ギルバルトの拳を受けたガウが、床を転がる。 「ははははっ、血縁を過信されるとは執政公らしくもない」 「ま、貴方ほどの子だくさんだと、いろいろと情が移るのかもしれませんがね」 ガウが笑みを顔に貼りつけたまま立ち上がる。 「余計なことはいい」 「どうします? 間もなく敵が来ますよ」 「あたしが介錯でもして差し上げますか?」 「こんなところで終わるわけにはいかん」 「貴様も供をせよ」 「まだ戦えるんですね?」 「ふ、もちろんだ」 「見つかったか?」 「いや」 ヴァリアスと近衛兵、そしてリシアと共に執政公の屋敷を占拠した。 だが、時間をかけて捜索したものの、執政公の姿が見当たらない。 「どこへ行ったのだ」 「俺たちが来る前に逃げたんだろ」 「逃走経路を塞ぎながら進軍してきた」 「逃げてはいないはずだ」 「貴族のお偉いさんだ、隠し通路くらいはあるだろう……それか隠し部屋だ」 「よし、虱潰しに探せ」 「はっ」 ヴァリアスが近衛兵たちに家捜しを始めさせた。 「しかし、執政公がどこかに隠れるような真似をするでしょうか」 「実際いないのだからそう考えるしかあるまい」 「ですが……」 ヴァリアスが考え込む。 と、ルキウスが邸内から出てきた。 「リシア様、緊急事態です」 「どうした」 「王城が執政公に占拠された模様です」 「何だと!?」 「馬鹿な!」 「城門が内側から閉じられております」 「偵察に出した部隊にも、攻撃があったようです」 「そうか」 リシアが手をわななかせる。 「城内に内通者がいたのかもな」 「その可能性はある」 「まずは王城へ入る方法を考えねばならない」 執政公の姿がこの屋敷から忽然と消え、それと同時に城が占拠された。 考えられることは限られている。 「……棚の裏か」 ベルナドの一件を思い出し、思わず呟いた。 「ヴァリアス様!」 近衛兵が、血相を変えて館から出てくる。 「奥の部屋に、地下への通路を発見しました」 やはりだ。 「カイムの読みが当たったようだな」 「他人を陥れてきた人間ほど用心深いものだ」 「城内の召使いや衛兵が心配だ、悠長に構えてはいられん」 「私が行く」 「リシア様、危険です」 「大丈夫だ」 「私にはカイムがついている」 「私もお供いたします」 「無論、私も」 ヴァリアスがため息をつく。 「……仕方がない」 ヴァリアスが、近くにいた近衛兵に何か指示を出す。 「我々がリシア様をお守りいたします」 「頼んだぞ」 リシアが全員の顔を見る。 「よし、行くぞっ!」 リシアの号令の元、通路へと向かう。 暖炉の脇に作られた隠し通路へ入った。 ランタンで照らしながら先を急ぐ。 壁面の石組みはかなり古い。 少なくとも、10年20年前に作られたものではなかった。 ここから私兵を送り、手薄になっていた城を占拠したのだろう。 「元から城にあった通路を使ったようだな」 「王家の隠し通路の出口の上に、館を作ったというところか」 システィナを先頭に、城内を進んでいく。 「……分かれ道ですね」 道が十字になっていた。 追跡者を撒くための趣向か。 「風がこちらから吹いてきます」 「こちらでしょう」 システィナが右手の道を指さす。 「システィナに任せよう」 「はい」 右手に折れて、地下通路を進む。 さらに何度か分かれ道があったが、システィナは迷わず道を指し示す。 システィナにこんな芸当ができるとは思わなかった。 地下通路を抜け、廊下に出た。 出口のすぐ傍には、衛兵の死体が転がっている。 首が切り裂かれ、辺りに血をまき散らしている。 「むごいことをする」 「王城を血で汚したことを後悔させばな」 「死体がまだ温かい」 「執政公が通ってからさほど時間が経っていないようだな」 「しかし……」 「どうした?」 「普通なら、ここに待ち伏せの兵士を置くだろう」 「少なくとも、誰かが追ってくればわかるようにしておくはずだ」 奴は、隠し通路を使って上手く城を占拠したのだ。 その地下通路を開放しておくのは、相当迂闊だと言わざるを得ない。 味方が後から着いてくるのを期待したとしても、やはり見張り一人いないのはおかしい。 「本人に直接訊けばよい」 「しかし、ギルバルトはどこにいるのだろう……謁見の間か、奴の執務室か」 「いえ、違うでしょう」 「心当たりがあるのか」 「執政公と王家の方にしか入れない場所がございます」 「私が執政公なら、そこに逃げます」 「どこにあるのだ、それは?」 「場所だけは、私も存じております」 「ともかく、先へ進みましょう」 「よしっ」 「まあ待ちなよ」 唐突に底暗い声が響いた。 「カイムの言う通り、ちゃーんと待ち伏せはいるんだ」 闇がにじみ出るように、彫像の裏から音もなく人影が現れた。 長い髪に長外套。 腰に下げた二本の短剣。 「貴様か」 ヴァリアスが、リシアを後ろに退かせながら言う。 「やあ、騎士団長」 「いい歳してガキのお守りとは、みっともない限りだね」 「黙れ!」 ヴァリアスの一喝を、ガウが涼しい顔で流す。 「待ち伏せはあんた一人か」 「あたし一人で十分さ」 「私たち3人に囲まれたとき、逃走した君でか?」 「あの時のあたしなら無理だろうね」 「ところが、だ」 蛇のような笑みを浮かべ、ガウが懐から白い紙包みを取り出た。 見覚えのある包みだ。 「ベルナドが捌いていたクスリか」 「ああ、それも混ぜ物なしの真っ黒なやつだ」 白い粉と黒い粉を混ぜて作ったのが灰色のクスリだ。 飲んだ人間が何人も犠牲になった。 「運が良ければ、化物になれるらしいがね」 「化物?」 「知ってるだろう? 黒い翼を持ったあいつさ」 黒い翼。 つまり…… 「そのクスリが、黒羽を作ったのか」 「らしいね」 「執政公の研究で出たゴミらしいが……難しいことは知らんよ」 「ま、見てればわかる」 ガウが、一息に黒い粉末を口に流し込む。 一瞬の静寂── びくり、とガウの身体が震えた。 「く、うぐ……」 「おおおお、おおおおぉぉぉっ……!!!」 ガウが床にうずくまる。 嘔吐感を催す音が深閑とした廊下に響いた。 ガウの長い外套が、その下で無数の虫が蠢いているかのように動く。 「な、何なのだ、あの粉は」 「福音と呼ばれています」 「執政公の研究により生まれたものだと聞いています」 「奴は、あれを牢獄にばらまいていた」 「何人もの人間が死んだよ」 「治癒院の実験には飽きたらず、そのようなことまで……」 リシアが絶句する。 「なあに……いいじゃないですか……」 「死ぬ奴は死ぬ、生き延びる奴は生き延びる……」 「そりゃ、誰のせいでもありませんよ」 ガウがゆっくりと体を起こす。 「はぁ……はぁ……」 その瞳には狂気の色が見えた。 「リシア、下がれ」 「あ、ああ……」 纏っている空気が尋常ではない。 今までのガウは、狂っているとはいえ人間の範疇に収まっていた。 だが《あれ》はそういうものではない。 翼こそないものの、黒羽と同じく化物の気配を放っている。 気圧されたのか、本能故か、ルキウスとシスティナが2、3歩後ろに下がった。 「どうやら、化物にはなりきれなかったようだね」 「だが、こいつはいいよ……」 ガウが身を屈める、と思った瞬間── 姿が消えた。 ガウの刃が、近衛兵たちの体を薄紙のように切り裂く。 悲鳴一つ発することもなく、3人の近衛兵は腑分けされた。 「ああ、うん……いいね、いい調子だ」 ガウが近衛兵の頭部を踏み潰す。 脳漿が床に散った。 「お……き、貴様……」 ヴァリアスが大剣を構えて前に出る。 「次に死ぬのはあんたか?」 「お前だ」 「ふうん」 ガウが赤い舌で唇を舐める。 「リシア様、先をお急ぎ下さい」 「な、何を言う」 「ここで狂人の相手をするのが目的ではないはず」 「しかしっ」 「私が、このような者に後れを取るとお思いか」 「見くびらないでいただきたい」 「ヴァリアス……」 「リシア、行くぞ」 「だが……」 まだ〈躊躇〉《ためら》っている。 「まどろっこしいね」 瞬時に距離を詰めたガウを、ヴァリアスが大振りに剣を振って牽制する。 「早くっ」 「く……」 「お行きなさいっ!」 リシアの身体が震える。 「……わ、わかった」 「よいお返事です」 一つ頷き、ヴァリアスは何かをリシアに投げて寄越す。 何かの鍵のように見えた。 「私は、一つ嘘をついておりました」 「国王陛下からお預かりしていたものは、手紙だけではありません」 「正真正銘、これでお預かりしたものは最後です」 「……」 「お行きなさい、リシア様の時代を作るために」 「死ぬな……」 リシアがヴァリアスを見つめる。 「死ぬなっ!!」 叫び、踵を返した。 「おおおおおぉぉぉぉっっ!!!」 「いい声だ」 「お前の最後の言葉が楽しみだよ」 「リシア様、先程の鍵を拝見できませんか?」 「これか?」 手渡された鍵を、ルキウスが観察する。 「どうだ?」 「恐らくは」 システィナが小さく頷く。 「リシア様、これは恐らく研究室への鍵です」 「何?」 「先程も申し上げましたが、研究室へ入ることができるのは王家の方々と執政公のみ」 「国王陛下がリシア様に託されたとなれば、その鍵かと思われます」 「賭けるしかあるまい」 「他の鍵を出せと言われても、それしかないのだ」 「行けばわかる、急ごう」 「こちらです」 ルキウスが迷いなく駆けていく。 どうやら場所を知っているようだ。 「……」 廊下を奥へ奥へと進む。 ルキウスは、小さな鉄の扉の前で足を止めた。 ひっそりと佇んでいる扉は、倉庫への扉のように飾り気がない。 「リシア様、鍵を」 「うむ」 緊張した面持ちでリシアが鍵を差し込む。 「開いた」 「先を急ぎましょう」 「……」 「……」 その光景に言葉を失う。 彼方には天を衝く尖塔。 足元からは、そこへと至る橋が長く長く伸びていた。 塔自体は、牢獄から遠目に見たことのあるものだ。 まさか、この中で研究が行われていたとは。 「陛下は、万が一のことを考えヴァリアス殿に鍵を託したのでしょう」 「父上は、ご自身の身に危機が迫っていることを知っておられたのだな」 切なげに目を細め、リシアは塔を見上げる。 「城の屋上からは、あの塔がよく見えた」 「召使いにも何度か塔のことを聞いてみたが、知る者はいなかった」 「執政公は、塔のことが口に上ることすら好みませんでした」 「会議の場で塔に言及した貴族が、闇に葬られたことすらあります」 「そんなことを……」 憎々しげに眉をひそめる。 「中では、何が行われているのだ?」 「私も詳しくは存じません」 ルキウスの表情からは何も読み取れない。 だが、何も知らないということはないだろう。 地下通路を迷わずに俺達を案内したシスティナ。 研究室への扉について、あらかた知っていた素振りのルキウス。 恐らく、俺に話しているより多くのことを知っている。 「何にせよ、他人には知られたくないことをしているわけだ」 「そうだな」 「行ってみよう」 俺を先頭に橋を進む。 欄干のない宙に浮いているかのような橋だ。 上層の街並みすら遥か下に見える。 選ばれた者しか入ることができない王城。 その最奥、都市の最も高き場所に〈佇立〉《ちょりつ》する塔。 一体、中に何があるのか。 「これは……」 驚くほど大きな硝子で仕切られた部屋だった。 中には10人前後の男がおり、執政公を囲んでいる。 何かをしようとしている執政公を、押し留めているようだ。 「急ごう」 先頭を切って、ルキウスが奥に入る。 「ギルバルト、待たせたな」 リシアの声に、ギルバルトと周囲の男たちが振り向く。 「……来たか」 「あの狂犬、意外と役に立たぬ」 「ギルバルト卿には謀反の疑いがあるため、これより拘束する」 「皆には危害を加えない、塔の外で待機していてくれ」 周囲の男たちに動揺が走る。 顔を見合わせながらも、すぐに塔を出て行った。 部屋が静かになる。 「覚悟を決めてもらおう」 「何の覚悟でございましょう」 落ち着き払った声で言いながら、執政公がこちらへ近づく。 背後に隠されていたものが目に入った。 床の上に置かれていたのは、硝子でできた棺桶のようなものだった。 中には液体が満ち、中央に死体が浮いている。 半ば腐敗した女の死体だ。 まさに、ティアが口にしたままの光景。 偶然の一致はあり得ない。 城の最奥の光景を、天使の御子と言われたティアが夢で見た。 このことに、何の意味もないわけがない。 「これは……」 「クルーヴィス」 「私が愛した女です」 執政公がルキウスを見る。 「ルキウス、お前の〈父御〉《ちちご》が殺した女でもある」 「……」 「かつて私は、この場所でネヴィル卿に引導を渡してやった」 「同じ場所で、お前に引導を渡されることになろうとはな」 「因果なものだ」 「この塔は一体何なのだ」 「ここでお前は何の研究をしていたのだ」 「おいおい、お教えしましょう」 「しかし、リシア様がルキウスの甘言に耳を貸されるとは」 「いささか嘆かわしいですな」 執政公は含み笑いを漏らす。 「今までの私は果てしなく無能だった」 「聞けば何でも教えてもらえると無邪気に思っていた」 「そして、お前の進言にも笑って肯いてきた」 リシアが俺に視線をくれる。 「だが、ここにいるカイムが私の無能さに気付かせてくれた」 リシアは意思を込めた強い瞳で執政公を見据える。 「昨日までの私は、確かに傀儡であった」 「だが、今日からは違う」 「もう誰にも、私を操らせはせぬ」 「ふふふ、どうでしょうか」 執政公が笑う。 だが、失笑に隠された瞳の奥に、何か別の感情が息づいていた。 どうして執政公は、そんな目でリシアを見るのか。 「では、輝かしい未来をお持ちのリシア様に、贈り物を致しましょう」 「なに?」 「ちょっとした昔話です」 「もっとも私の言葉ですから、真偽のほどはご自身でご判断下さい」 「大方のことは、そこのルキウスが知っているとは思いますが……」 そう言い置いて、執政公が語りだす。 まず聞かされたのは、神話とこの都市の成り立ちだ。 「私も長らく神話を信じておりました」 「普通の暮らしを送っていれば、疑う者などいないでしょう」 「嘘に気付いたのは、ネヴィル卿に取り立てられ、この研究室に入ることを許された日でした」 「嘘とは?」 「何者が、〈この都市〉《ノーヴァス・アイテル》を浮かせているかということです」 「……」 リシアが唾液を飲む。 いきなり、本題が来た。 「都市を浮かせているのは、聖女ではありません」 執政公が言葉を切り、俺達の顔を順に眺める。 「天使です」 「……」 思わず声が出そうになった。 俺の反応に満足したように、執政公が小さく笑う。 「人間に愛想を尽かし、神の下へと去っていったはずの天使が、この都市を浮かせ続けているのです」 「ど、どういうことだ?」 「人々は、文明の礎たる天使を逃がさなかったのですよ」 「飛び去ろうとする天使を拘束し、その力を引き出すことでこの都市を浮かせたのです」 「な……」 話の筋は通っているが、真実であるという裏付けは一切ない。 こいつの話を信じてしまって良いのだろうか。 手がかりを求め、ルキウスとシスティナの顔を窺う。 二人とも全く動揺していない。 頭から信じていないのか、それとも既知のことなのか。 「ノーヴァス王家はその血と共に、代々この秘密を継承してきました」 「そして、事実を覆い隠すために聖女などという仕組みを作り上げたのです」 「しかしこれは、賢明な選択と言えるでしょう」 「ご想像下さい、全ての民が事実を知っているとしたらどうなるか」 「地震の度に人々は王城へ押しかけ、崩落などあった日には暴動が起きるでしょう」 「それでは政治どころの話ではありません」 「聖女に注目を集めておいた方が、都市全体としては上手くいくのです」 「むしろ、責任が聖女に集約されているからこそ、王家は安定しているといった方がよいでしょう」 これは、ある程度わかっていたことだった。 コレットの代の崩落の際に見たように、被災した人々には原因が必要なのだ。 「そして、重大なことがもう一つ」 「天使の力は、もう残り僅かなのです」 「つまり、都市が墜ちるというのか?」 「このままならば、遠からず」 「お前は、それを指を咥えて見ていたのか!?」 「勿論、研究は続けて参りました」 「そこにいる、ルキウスの〈父御〉《ちちご》と」 「私たちは、何とか都市を救うことができないか、私財を投じて研究を行いました」 「どんな内容だ?」 「大まかに言えば、新しい天使を作り出す研究です」 「長い時間をかけ、私たちはようやく研究の理論的な部分を完成させました」 「そこで、問題が生じました」 「人体実験が必要となったのです」 「人間を実験台にしたのかっ」 「仕方のないことです」 「問題は、誰が被験者となるかでした」 遠い情景を思い起こすように、執政公が棺桶を見つめる。 「研究員の一人に、有能で美しい女がいました」 「それが、このクルーヴィスです」 「その女性が被験者になったのか……」 「私とクルーヴィスは愛し合っていました」 「当然のことながら、彼女を被験者にすることに反対しました」 「ですが……」 ルキウスを〈睨〉《にら》み付ける。 「ネヴィル卿は、私の留守を狙って実験を強行したのです」 「しかも、実験は失敗」 「クルーヴィスとやらは?」 「身罷りました」 抑揚のない声で執政公が言った。 嘘をついている声ではない。 「私の油断がクルーヴィスを殺したのです」 「だからこそ、私は彼女を蘇生させねばならない」 死体が生き返るはずなどない。 心の内で反論したが、すぐにティアの顔が浮かんだ。 「仇であるネヴィル卿にはご退場いただき、私は研究に没頭しました」 「再び長い時間を掛け、とうとう蘇生を行う日が来ました」 「嬉しかった」 「クルーヴィスを蘇生させることができる」 「再び、あの優しい笑顔を見ることができるのです」 「ですが……」 やはりと言うべきか、執政公の声は沈んだ。 「蘇生は失敗に終わりました」 「原因は何だ」 「抽出した天使の力を制御できなかったのです」 「暴走した力はこの部屋から漏れ出し、空を染めました」 「その直後です、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》が発生したのは」 「な……」 「……」 一瞬、怒りで意識が遠くなった。 「なら……〈大崩落〉《グラン・フォルテ》を起こしたのは……」 「私だ」 腹の底で轟音が鳴り響く。 「お前……」 「どれだけの人間が死んだと思っているんだ」 「興味がないな」 「私にとっては、クルーヴィスが全てだったのだ」 「ふざけるなっ」 興奮で視界が明滅した。 あの悲劇── あの地獄が生まれたのは── 女一人に貴族が入れ込んだからだって言うのか。 馬鹿らしいにも程がある。 無意識に、腰の短剣に手が伸びた。 「落ち着けカイム」 「落ち着けるか」 「俺も気持ちは同じだ」 「……」 そう……そうだ……。 ルキウスも被災者なのだ。 「いいかね、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》の話は」 「まだ続きがあるのか」 ギルバルトが頷く。 深呼吸で何とか怒りをやり過ごし、再び聞く姿勢を取った。 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》後、クルーヴィスの身体は研究室から消えました」 「遺体が見つかったのは次の日の昼です」 「彼女は下層の草原に横たわっていました」 どういうことだ? 誰かが死体を盗んだのか。 「その身はすでに鴉に啄まれ、腹は大きく縦に裂けていました」 「何故だ」 執政公が首を振る。 牢獄の常識で考えれば…… 誰かが混乱に乗じて死体を盗み、下層で屍姦した挙げ句にバラしたというところだ。 同情する気はないが、こいつの視点から見れば確かに悲劇の部類に入った。 「そして再び、私は蘇生のための研究を始めたのです」 「イカレてる」 「狂ってなどいない」 「クルーヴィスの身体が移動したということは、蘇生は成ったということだ」 執政公の頭の中では、クルーヴィスが自分の足で下層に行ったことになっているらしい。 ティアがいる以上、完全否定はできないが、目撃者がいないのはおかしいだろう。 「それに、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》後に街で不思議な現象が見られました」 「羽つきが現れたのです」 「羽化病の原因が〈大崩落〉《グラン・フォルテ》ならば、やはり天使の力は人間を変質させることができるということです」 「ですから、私は防疫局を作り、羽つきを集めることにしました」 「その力を吸い出し、クルーヴィスに与えるのです」 「力を吸い出した〈罹患者〉《りかんしゃ》はどうしたのだ」 「廃棄しております」 「外道が」 「何とお呼び下さっても結構」 「私は、クルーヴィスのために全てを犠牲にすると誓ったのです」 気迫のある声だった。 そこに狂気はない。 執政公は、目的のために必要な手順を踏んできただけなのだ。 むしろ、恐ろしく強靭な理性が彼を支えていると見てもいい。 「話は終わりです、リシア様」 長々と話し、執政公は息を吐いた。 そして、ゆっくりと何かの装置に手を伸ばす。 「何をするつもりだ!?」 「お陰様で、私の研究も今日で終わりになるようです」 「ならばせめて、この都市を道連れにいたしましょう」 「それが、クルーヴィスへの弔いにもなります」 「ふざけるなっ!」 「自分の意思で、都市を落とすことができるのか」 執政公が俺に向く。 「もちろんだ、この部屋には都市の全てがある」 「そうだな、ルキウス」 「……」 ナイフを抜く。 「馬鹿は一人でやれ」 「ははは……」 「お前が私を殺すのと、私が手を動かすのと、どちらが早いと思う?」 「……」 執政公は冷静だった。 明らかに向こうの方が早い。 まさか、こんな手を隠しているとは思わなかった。 「父上っ」 背後でシスティナが怒鳴った。 見れば、システィナがルキウスの首筋に剣を当てていた。 「なっ、お前っ!?」 「システィナ、貴様……」 「く……な、何を……」 「黙りなさい」 「今更、何用か」 「ルキウスを殺せば、父上の宿願、まだ諦めることはございません」 「ほう」 執政公が暗い微笑みを浮かべる。 「どういうことだ」 「システィナは私の娘だ」 「何だと?」 「孤児であるところを、私が拾って育ててやったのだ」 「かねてより、お前につけておいたのだよ」 「ネヴィルの息子を、野放しにするとでも思ったか」 「都市を落とされると知って、最後に裏切ったか」 「貴方には冷や汗をかかされました」 「ですが、詰めが甘かったようですね」 怪しい点はいくつもあった。 もっと強く追及しておくべきだったか。 「貴様、ギルバルトの話を聞いて、まだ奴の味方をするのか」 「育てていただいたご恩がございますゆえ」 「しかし、お前。ルキウスの武装蜂起について正確な情報を寄越さなかったな」 「申し訳ございません」 「ルキウスは、私にすら直前まで計画を漏らしませんでした」 「こやつの命は、罪滅ぼしのつもりです」 「もしお許し頂けないのでしたら、どのようなお咎めも慎んで受けましょう」 「ふん、まあいい、許そう」 「ありがたき幸せ」 陰惨な笑みを浮かべ、システィナはルキウスを抱えたまま執政公の隣へと移動する。 「システィナっ」 「動くな」 「ルキウスが死ねば、全ては終わりだろう?」 リシア一人では、執政公には打ち勝てないだろう。 ルキウス側に着いた貴族は粛正され、執政公の立場はより盤石なものとなる。 「リシア様、そこでルキウスの死に様を存分にご覧下さい」 「く……」 「私に構うな、執政公を討ち取れっ」 「黙れ」 ルキウスの首に短剣が強く当てられる。 うっすらと赤い線が走った。 「さあ父上、御自らこの男にとどめを」 「うむ、よかろう」 鷹揚な仕草で執政公が剣を抜く。 「カイムも、しっかり見ておくといい」 システィナが口角を上げる。 だが、目は笑っていなかった。 じっと俺を見つめ、何かを訴えかけようとしている。 そこにあるのは敵意ではない。 むしろ、懇願の色。 「ルキウス、お前が忠実な部下ならば良かったのだがな」 「生まれ変わっても、貴方の下などにつきはしない」 「良い覚悟だ」 執政公が剣を振り上げる。 「執政公っっ!!」 「っ!?」 「がっ!!」 執政公の胸に、俺の短剣が突き立つ。 ほぼ同時、 システィナがルキウスをはね除けた。 「はあっっ!!」 「ぐ……」 システィナが、執政公を袈裟斬りにした。 執政公の手から剣が落ちる。 「システィナ……お前……育てた、恩を……」 「ただ、自分の言葉通りに動く駒を育てたかっただけでしょう」 「貴方の館にいた日々は、思い出すだけでも反吐が出ます」 再度の袈裟斬り。 執政公の体躯がよろめく。 しかし、倒れない。 「詫びなさい」 「貴方の駒として働き、人知れず殺されていった多くの孤児達に」 「お、おのれ……」 「がっ」 剣が執政公の腹部を貫いた。 システィナが握っていた剣を離すと、執政公がたたらを踏んだ。 「クルーヴィス……すまぬ……」 「すまぬ……」 「私は……お前を……」 執政公が膝をつく。 そして、震える手で自分に刺さった剣を握る。 「ぐああああぁぁぁぁっっっ!!!」 収縮した筋肉から、一気に剣を引き抜く。 高々と掲げられた刃を、執政公の血が流れる。 「クルーヴィス……」 「もう、一度……笑顔を……」 執政公が倒れながら伸ばした剣が、何かの装置に触れる。 甲高い音が部屋に響く。 「なっ!?」 クルーヴィスが浸かっている液体が光を放った。 爆発的に光量が増し、部屋が塗り潰される。 「くっ!?」 小刻みに地面が揺れる。 「じ、地震?」 「また、崩落が……」 「くっ」 揺れが大きくなる。 何でもいい。 あの、よくわからない棺桶を叩き割るんだ。 視界のない中、記憶を頼りに走る。 「おおおおっっ!!」 置いてあった椅子を掴み取り、振りかぶる。 「あああっ!!」 確かな手応えがあった。 「……」 棺桶にはヒビが入っていた。 そこをこじ開けるように、内側から液体が溢れ出る。 ゆっくりと棺桶内の水位が下がっていく。 やがて…… 眼球のない、女の死体が顔を覗かせたところで液体の流出は止まった。 「やったか?」 「止まったようだな」 「……ふふ……だが、またどこかで……崩落が起きた……」 俯せに倒れた執政公が、また言葉を紡ぐ。 ルキウスの表情が巌のように硬くなった。 その口から小さく呻きが漏れる。 目の色は、ネヴィルとの過酷な生活を語っていた時より何倍も暗い。 そうか……。 崩落だけではなく、何かもっと大きなことが起きたのだ。 「せいぜい……足掻くといい……」 「所詮……この都市には……はじめから……引き算しか、ないのだ……」 「ルキウス……また……お前の手で……」 「もう良いでしょう」 システィナが拾った剣で、執政公の胸をもう一度刺す。 執政公の身体は一度大きく痙攣し、力を失った。 重い沈黙が落ちる。 棺桶から液体が滴り落ちる間抜けな音だけが、しばらく研究室に響いた。 「終わったのか」 誰に言うともなくリシアが呟いた。 「執政公ギルバルトを討ち取りました」 ルキウスがリシアの前に膝をつく。 それにシスティナも続いた。 「祝着である」 「はっ」 リシアが小さく微笑む。 戦いに勝ったにしては、寂しげな微笑みだった。 それに比して、ルキウスの表情には一切の余裕がない。 むしろ、執政公を殺す前の方がまだ軽い顔をしていた。 俺にしても、執政公から突きつけられた話はあまりに衝撃的だった。 余命を宣告されたに等しいノーヴァス・アイテルは、どこへ向かっていくのか。 その舵取りをしていくのが、リシアやルキウスなのだ。 立ち上がったルキウスが俺に向く。 「カイム、礼を言わせてくれ」 「お前がいてくれなければ、どうなったことか」 「いや、礼なら副官に言ってくれ」 「システィナが一芝居打たなければ、俺もどうしようもなかった」 「そうだな」 システィナを見る。 顔を伏せ、肩を震わせていた。 「申し訳ございません……茶番とはいえ、ルキウス様に剣を向けてしまいました」 「気にするな」 「カイムの言う通り、お前が動いてくれなければ全てが終わっていた」 「ルキウス様……」 「念のため訊くが、ギルバルトとの関係は本当なのか」 「真実です」 「ですが……数年前、システィナは自ら全てを打ち明け、私に忠誠を誓ってくれました」 「そうか」 つまるところ、二重間諜の役目を果たしていたのか。 執政公がルキウスの動きに比較的寛容だったのは、システィナが真偽織り交ぜて巧みに情報を流していたからだろう。 「よくやってくれたな、システィナ」 「ありがたき……お言葉……」 システィナが声を詰まらせる。 「カイムも、大儀であったな」 「ルキウスの言葉ではないが、お前がいてくれねば大変なことになっていた」 リシアが俺を見つめる。 言葉遣いも顔も、そして雰囲気も変わったように見えた。 「役に立てて何よりだ」 「お前は、相変わらず褒められるのが苦手だな」 リシアが小さく笑う。 「よし、ヴァリアスの元に戻ろう」 「加勢してやらねばな」 「ああ」 数えきれぬほどの応酬が続いていた。 ヴァリアスは満身創痍。 兜は既になく、頑強な鎧も無数の傷と血で彩られている。 ガウもまた身体を内部から蝕まれ、血液と壊死した内臓を口からこぼしていた。 「お前には、随分と部下を殺された」 「あんたの部下は、そこそこ楽しませてくれる奴が多いからね」 「割と気に入っていたよ」 「戯れに人を殺すなど、人間のすることではないっ」 火花が薄暗い廊下を一瞬明るくする。 「悪いが、もう人間じゃないんでね」 ガウは血に濡れた唇を妖艶に歪めた。 内なる欲望を隠そうともしない微笑みに、ヴァリアスは怖気と、心ならずも美しさを覚える。 「命、命というが、牢獄では今日の戦いよりも多くの人間が死んでいる」 「それも、あんたが守ってきた人間達のせいでだ」 「城を守るより、やることがあったんじゃないか?」 「ふんっ!」 大剣を、ヴァリアスが小枝のごとく振る。 一進一退の攻防だった。 ガウのナイフをいなし、巧みに隙を突くヴァリアス。 ヴァリアスの攻撃を軽く受け止め、恐るべき俊敏さで追撃を繰り出すガウ。 常人が近づけば、余波だけで命を落とすかもしれない。 「ぐっ!?」 ガウのナイフが、ヴァリアスの脇腹をえぐった。 ヴァリアスは揺らがない。 意識を失ってもおかしくないほどの出血。 それでもなお唇を噛み切り、彫像のように立ち続ける。 「いいね、最高だよ」 「それだけの腕を持ちながら、仕事が貴族のお守りとはもったいない」 「お前も、腕だけは認めよう」 「はは、ありがたいね」 「……ぐぷっ」 ガウの口から固形混じりの血液が吹き出し、深紅の絨毯を黒く染める。 「あのクスリは……効き過ぎるのが……玉に瑕だ」 荒い息の下から、ガウがヴァリアスを見つめる。 もう、内臓はあらかた吐き出したようだ。 自分にはお似合いだと、ガウは内心自嘲する。 彼女の中には、いつも虚ろな空洞が広がっていた。 牢獄では男を悦ばせるだけの道具として扱われ、人を殺すことを覚えてからは、他人をただの玩具として見てきた。 目に入る玩具を壊し、壊し、壊し── 玩具にも意義があることを…… かつて道具として扱われた自分にも意味があることを、誰かが教えてくれる日を待っていた。 だが結局、彼女の空洞は埋まらない。 「なぜそこまでして戦いを欲する」 「嫌ってほど殺せば、誰か一人くらいは教えてくれるかと思ってね」 「生きる意味ってのをさ」 「下らん」 ガウの眉がぴくりと動く。 「そうかい」 「あんたも、国王への忠義なんてものを大事にしてるらしいじゃないか」 「楽しいか? 他人のために剣を振るって」 「死に果てたとき、何が残る?」 「死した後のことなど、どうでもよい」 「大切なのは、死に向かうその瞬間、何を胸に戦っているかだ」 「はは……あはははっ」 ガウにとっては、考えたこともないことだった。 圧倒的な暴力の前では、何を胸にしていようと関係ない。 どんな極彩色の織物であろうと、暴力という泥を被ればただのボロ布だ。 死ぬ前の自分が何色だろうと、一緒ではないか。 「なら、胸がこうなればどうする?」 ガウの重心が下がる。 渾身の突き。 瞬時に、ガウは自分に限界が近づいていることを悟る。 腕を引き、伸ばす── その簡単な動作の中でも、全身の筋肉が断裂していく実感があった。 「ぐ……」 ヴァリアスの動きが止まる。 ガウの剣が、ぶ厚い胸板を貫通していた。 ヴァリアスの大剣が床に落ちる。 「で…………答えは?」 ヴァリアスが、自分を刺し貫いた腕ごとガウを抱いた。 ガウの身体がきしみを上げる。 「今から……自分で、考えろ……」 空になったヴァリアスの手が、素早く腰に伸びる。 「っっ!?」 抜かれた短剣が、ガウの側頭部に突き立った。 脳髄まで達する一撃だ。 「お前には……お似合いの……髪飾り、だ……」 二人がもつれ合いながら倒れた。 「これで……終わりか……」 脳髄を刺し貫かれながらも、ガウは口を開いた。 夢見るような、それでいて荒れ地を吹き抜ける風のように乾いた声だった。 「どうだった……お前の人生は……?」 「ふ……感慨も、ない……」 ガウの身体から力が抜けた。 「無惨な……ものよ……」 ヴァリアスの視界が、端から虫が食うように黒くなっていく。 死を予感しながらも、ヴァリアスの心に後悔はなかった。 もし、執政公の側についていたら── もし、どちらにも加わらずに傍観を続けていたら── 恐らく、彼は、ガウと同様の空洞を抱えたことだろう。 「国王陛下……ご恩は……お返しできたでしょうか……」 天井に向かい、ヴァリアスは呟いた。 厚い瞼がゆっくりと下りていく。 「ヴァリアスっ!!!」 刹那、リシアの絶叫が響いた。 執政公を誅した王女たちが戻ってきたのだ。 「ヴァリアス、ヴァリアスっ!」 リシアがヴァリアスに駆け寄る。 そして、男を胸に抱いた。 「嘘だろう……ヴァリアス、返事をしろ!!!」 「リシア様……ご無事でよかった」 その細い声にリシアが凝然とする。 いつも自分を怒鳴りつけていた、雷鳴ような声の名残はない。 「死ぬなヴァリアス!」 「お前は私と約束しただろう!」 「生きて帰ると、約束したじゃないか!!!」 「申し訳、ございません……」 ヴァリアスはリシアの頬に手を伸ばす。 リシアがその手を握った。 「リシア様は、きっといい国王になられる」 「できれば……そのお姿を、この目で見たかった……」 「そんなことはどうでもいい!」 「死んでは駄目だ!」 「リシア様……お忘れなきよう」 「国王は、すべての民の父……です……」 リシアの頬からヴァリアスの手が滑り落ちる。 「ヴァリアスっ……!」 その手を握りしめ、涙で頬を濡らす。 「何故だ……」 「何故……最後の言葉くらい……家族のために残さぬのだ……」 死に至る瞬間、ヴァリアスの胸に何があったのか、リシアにはわからない。 だが、心残りがなかったことだけは、その死に顔を見れば一目瞭然だった。 ヴァリアスは、リシアの見たことのない穏やかな顔をしていた。 政変から7日後── 「リシア様、準備が整いました」 「うむ、わかった」 廊下からの呼びかけに応じ、私は部屋を出る。 武装蜂起の最中、父上が崩御された。 主治医の話では、眠るように息を引き取られたという。 もっと落ち込むかと思ったが、不思議と気持ちは静かだった。 長らく病床にあったため、心の準備ができていたというのもある。 だが、恐らくは、国王になるとの決意を固めていたことの方が大きかったのだろう。 ともすれば、私はすでに心の中で父上を殺していたのかもしれない。 非道なものだ。 全ての民の父親になる── その言葉の意味が少しずつわかってきていた。 人間の時間を公私に分けるのなら、国王には公しか存在しないのだ。 それはある意味、国民に所有されるということでもあった。 私は私ではなくなり、国民のための物へと変わる。 それは、カイムから聞いた娼婦の仕事にも似ていると思う。 苛酷な職務だろう。 だが、逃げるつもりはない。 私のために〈斃〉《たお》れていった者たちのためにも。 世情は厳しい。 執政公の言葉通り牢獄の一部は再び崩落を起こし、着任して日の浅い聖女の処刑も決まっていた。 これからの日々が平坦でないことは間違いない。 悲しんでなどいられなかった。 「リシア様の御成です」 「皆の者、ご苦労」 大広間には召使いたちが勢揃いし、膝を折っていた。 誰一人言葉を発しない中、私は大広間を横切って謁見の間へと向かう。 謁見の間には百官が居並んでいた。 赤い絨毯に沿って近衛兵たちが立ち並ぶ。 私はゆっくり王座へと向かう。 王座の近く、階段の下にルキウスが膝を折って控えていた。 その後ろにカイムもいる。 王座まで歩み寄ると、私は謁見の間に集まった皆を見下ろす。 「大儀である」 風に薙ぐ草原のように貴族たちが礼をした。 そして、立ち上がる。 「ルキウス」 「はっ」 ルキウスが階段を昇ってくる。 父上の手紙を渡し、朗読させた。 内容は、以前読んだ通りだ。 王たる者の心得と、私の出生。 そして、私を王位継承者とすることが書かれている。 「この通り、リシア様は王位を継承する正統な資格をお持ちである」 「異論のある者はこの場で述べよ」 既にギルバルトはこの世にいない。 この期に及んで、私やルキウスに刃向かおうとする者はいないだろう。 もちろん、全ての貴族が私に忠誠など誓っているはずはない。 彼らを心から跪かせることができるかは、これからの私にかかっている。 「異論はないようだな」 皆が頭を下げる。 「では、これより新国王陛下のお言葉を賜る」 私は考える。 皆に何を伝えるべきだろうか。 居並ぶ貴族たち、近衛兵たちが私を見上げている。 その表情は、決して明るいものではなかった。 彼らに希望を与えねばならない。 「私が亡き国王陛下の実子ではないとの噂、皆も聞き及んでいることと思う」 「今日改めて、風聞が事実であることを宣言しよう」 ざわつきはなかった。 だが、それぞれの心の中で、複雑な感情が蠢いていることが感じられた。 「父上はそれをご承知の上で私に王位をお譲り下さった」 「かつて、私が召使いに扮して遊び回っていたことを知らない者はいないだろう」 「前国王陛下のお言葉を微塵も理解せず、私は次期国王としての努力を怠ってきた」 「本当に、ヴァリアスにはよく叱られたものだ」 「今でも延々と続く彼の小言を夢に見ることがある」 ヴァリアスの死を悼んだ貴族たちが、静かに目を伏せる。 「私は愚かな少女であった」 「それが故に奸臣ギルバルトの操り人形となり、彼の専横を許してしまった」 「皆の多くは、私に落胆もし、あるいは怒りを覚えていたことだと思う」 「今、私は新たに国王となった」 「しかし、私が無知蒙昧であることに変わりはなく、これからも諸君らには多大な迷惑をかけることになるだろう」 「それでも、信じて欲しい」 「私はもう二度と、前国王陛下のお言葉から目を背けない」 「代々の王がそうであったように、私はすべての国民の父となろう」 「皆が私を支えてくれることを切に願う」 誰も一言も発しない。 ルキウスが片膝を折り、頭を垂れる。 それに倣い、その場にいる者全てが私に向かって頭を下げた。 様々な髪の色があった。 私にこれだけの人間が仕えている。 目の前に突きつけられた事実に膝が震えた。 「ありがたいお言葉を賜り、身の引き締まる思いです」 「よろしく頼むぞ」 「粉骨砕身、努めて参る所存です」 再度一礼し、ルキウスが立ち上がる。 「これより戴冠の儀を執り行う」 ルキウスの声が朗々と謁見の間に響き渡った。 儀式を司る老貴族が別室から現れ、恭しく王冠を差し出してきた。 「さあ、陛下」 「うむ」 ……陛下か。 父上の被っていた王冠を受け取る。 実際の重さよりも、それはずしりと手に沈んだ。 陽光を受け、王冠が黄金色に輝く。 かつての父上のお姿を思い出す。 父上は王座でこの王冠を被り、常に厳しい視線を皆に向けていた。 孤独を押し殺し、すべての国民の父であることを貫いた。 私は、父上の意思と共に王冠を受け継ぐのだ。 王冠を被るために裏返す。 ふと── 内側に、何かが付いていることに気付く。 「……っ」 思わず息を飲む。 これは……まさか……。 からからに干からびたそれは、草を輪の形に束ねたものだった。 幼い私が作った花の冠だ。 あの時、私は冠を放り出して父上の前から逃げた。 それから二度と花に近づくことはなかった。 惨めな自分を思い出すのが嫌だったから。 捨てられたものだと思っていた。 それが、どうして王冠の中に入っていたのか。 父上が常に身につけておられた王冠。 その中に花冠がある。 それはつまり、 父上が、常に私の花冠を身につけてくれていたということだ。 厳格だった父上。 すべての国民の父であるために、家族への愛情すらも排してきた父上。 だが、父上は表に出せない感情を王冠の内に潜めていた。 私が王冠を身につけるその時まで、絶対にわからない形で。 一度として言葉にすることなく、誰にもその思いを悟らせず。 私が父上の死を乗り越え、王になることに決心した後に、そっと気付くように。 「父上……」 王冠の内側には小さな紙片が貼り付けられていた。 黄ばんでしまった紙に、几帳面な文字が並んでいる。 『ありがとう。我が愛しき娘よ』 知らず、涙が零れ落ちた。 「リシア様?」 皆が私を見ている。 だが、涙は止まらない。 私は不義密通の子だ。 父上の子ではないのだ。 だが、父上は私を『我が娘』と呼んでくれた。 遺言をヴァリアスに託し、王冠に言葉を残し。 最後の時まで、私を見守ってくれていたのだ。 「父上……ありがとうございます……」 今の私はまだ未熟です。 でもいつか、父上のような国王になってみせます── そう誓い、重みの増した王冠を頭に戴いた。 戴冠式は無事に終わった。 リシアが泣き出した時は何事かと思ったが、滞りなく進行してよかった。 「新しいお食事をお持ちいたしました」 明るい表情で、料理長が料理を運んでくる。 戴冠式の後、城内の庭で新国王のお披露目の饗宴が開かれていた。 新たな国王誕生など、何十年かに一度の出来事だ。 皆、この時ばかりはと盛り上がっていた。 しかし、俺はとても素直に喜べる気分ではなかった。 ギルバルトが引き起こしたとおぼしき崩落で、また牢獄は被害を受けていた。 幸いにして知人に死者はいなかったが、多くの牢獄民が消えた。 戴冠式の準備の傍ら、ルキウスが救援物資を送ってくれているようだが、牢獄民の不安と不審はもう物では拭えない。 軽度の地震も頻発し、都市は以前より不安定な方向に向かっていた。 ルキウスはまだ何も語らないが、ギルバルトの行為は何か重大な問題を引き起こしたのだろう。 ──ノーヴァス・アイテルは天使が浮かせている。 何が都市を浮かせているのか、という疑問には一つの回答が下された。 とはいえ、胸のわだかまりは解消していない。 この都市の未来という大きな重しが、新たに俺の胸に生まれていた。 「カイム様、お疲れ様でございます」 「あんたか」 庭師の老人が声をかけてきた。 手ぶらでいるところを見ると、仕事は終わったようだ。 「今日はもう仕事はいいのか」 「こんな時に植木を切り散らかしては、皆に叱られましょう」 「それもそうだな」 庭には多くの料理や酒の置かれた机が並び、皆が楽しんでいる。 〈剪定〉《せんてい》などできないか。 「ついにリシア様が国王になってしまわれましたな」 「そうだな」 「年を取ると、子のかけがえのなさに気付くものです」 「誰の子であっても、どんな子であっても……子供はただそれだけでいいものです」 「俺にはよくわからないな」 「あなた様も、いつかお子を授かればおわかりになりますよ」 そんな時が俺にも来るのだろうか。 今は想像もつかない。 「ただ……どんな小さな子も、いずれは大人になるものです」 「寂しくはありますが、それを祝い、自ら退いて新たな者に椅子を与える」 「それが、老いさらばえた者に残された最後の仕事です」 退いて、椅子を与える……? 「あんた……ひょっとして辞めるのか」 「今日でこの王城の庭ともお別れですな」 「リシア様によろしくお伝えください」 「おい、自分で言わないのか?」 「いいのですよ」 「新たな門出を迎える国王陛下のお披露目を、老骨で汚すような真似はしたくありません」 静かに微笑み老人は去っていった。 その背中を見送る。 今日から、新たな治世が始まるのだ。 自ら退いた庭師の老人は、何かを感じ取ったのかもしれない。 リシアに目をやる。 饗宴の主役であるリシアは、多くの貴族から祝福の挨拶を受けていた。 ひっきりなしに貴族たちから声をかけられ、笑顔を向けている。 「……」 ふいに、胸の奥で空っ風が吹く。 何となく庭師の老人の気持ちがわかった。 自分が場違いなところにいる時の、あの居心地の悪い感じだ。 ……帰るか。 一旦牢獄に戻り、被害状況をこの目で確かめよう。 その上で、またティアを連れてルキウスに会いに行くのだ。 ティアの力の正体についてはまだ答えが得られていない。 羽を消す力や、奴が見る夢の現実との一致。 証拠はないものの、あいつがこの城の最奥にあるものと結びついていることは明らかと言っていいだろう。 本当に重要なことは、まだ白日の下に晒されていないのだ。 俺はリシアに背を向け、王城を後にした。 「カイムっ!」 ふいにリシアの声が響く。 振り向くと、階段からリシアが駆け下りてくるところだった。 「どこに行くつもりだ」 「牢獄に帰るが」 「まだ宴は終わっていない、急いで帰る必要はないだろう」 「最後まで付き合わねばならないか?」 「いや、それは……」 リシアが寂しげに目を逸らす。 「これからのためにも、俺と話すより貴族と話せ」 「お前がどんな人間が知りたがっている奴は多いはずだ」 「わかっている」 「まずは足回りを固めることだ」 「味方でなくてもいい、敵を極力減らせ」 「その上で、信頼できる有力貴族が何人かいれば上手く回るだろう」 「心得ておこう」 「忠言、感謝する」 そう言って、リシアは微笑んだ。 出会った頃の彼女とはまるで別人のように、成長した大人の笑顔だ。 「一つ報告がある」 「即位に際して、ギルバルトに弾圧された貴族に対し名誉回復を行ったのだ」 「アイリスにも声をかけたのだが、やはり断られてしまったよ」 「意地になっているのかしれないな」 「あいつなりの考えがあるんだろう」 「身請けを申し出たが、それも断られた」 「ふふ……なるほど」 リシアが本当に救いたかったのは、自分自身なのだろう。 恐らく、アイリスに罪の意識を感じているのだ。 「そこまでしてやったのなら、もう十分だ」 「無愛想な奴だが、お前には感謝してるだろう」 「別に感謝されたかったわけではない」 それでも、リシアはまんざらでもない表情をしていた。 「カイム、ありがとう」 「何だいきなり」 「お前がいなければ、私は駄目な人間のまま終わっていた」 「今日、無事に国王になれたのもお前のお陰だ」 「お前の力だ」 「謙遜だな」 「好きに解釈しろ」 思えば、出会った当初からリシアとはこんなやりとりばかりしてきた。 あれからそう日は経っていないのに、なぜか懐かしく感じる。 「なあ、カイム」 「戴冠の際も言ったが、私はまだまだ未熟だと思う」 「できれば、一人立ちできるまで私の側にいてくれないか」 「それはルキウスの仕事だ」 俺の出る幕はない。 「お前は、皆まで言わねばわからんのか」 「仕事や執務の話ではない」 「カイム……私が側にいて欲しいのは、お前なのだ」 リシアの顔が赤く染まる。 「爵位を授ける、受けてくれないか?」 「貴族になれと?」 「そうだ」 「高い地位ではない、だが、私の側にいてもらうための特別なものだ」 「受け取ってくれるか?」 リシアが俺を見つめる。 立派に女の顔をしていた。 「俺が側にいれば、お前は俺を頼るだろう」 「それは……」 わかっているはずだ。 リシアは、もう国王なのだ。 「お前が目指す道に俺はいらない」 「むしろ俺が側にいることは邪魔になるはずだ」 「違うか?」 リシアは目を伏せ、寂しそうに笑う。 「本当に、お前は厳しいな」 「最後に……一度くらい優しい言葉をかけて欲しかった」 何の最後なのか。 それは多分、子供だったリシアの本当の最後だ。 「死に別れるわけじゃない」 「会おうと思えば、また会えるだろう」 「ああ……」 「そう、そうだな」 吹っ切れたように顔を上げる。 その表情に、もう憂いはなかった。 「爵位授与は取り下げる、それでよいな?」 「ああ」 「じゃあな、国王陛下」 「さらばだ、カイム」 俺は牢獄へと階段を下っていく。 リシアは階段を上がっていく。 これでいい。 俺達は別の道を歩いていた方がしっくり来る。 「お疲れ様でした」 「ああ」 お披露目の饗宴が終わり、ルキウスとシスティナはようやく屋敷に戻ってきた。 もう夜更けだ。 「お茶を召し上がりますか」 「召使いには暇を出してしまっただろう」 「私に茶が淹れられないとでも?」 「これは失礼した」 ルキウスが珍しく冗談めいた仕草をする。 部屋の暖かい空気に反し、屋敷は冷たく閑散としていた。 武装蜂起に備え、召使いを里帰りさせたからだ。 「明日にでも使用人を呼び戻しましょう」 「せっかくの里帰りだ」 「少しゆっくりさせてやればいい」 「では、しばらくは私が身の回りのお世話をします」 「よろしく頼む」 「かしこまりました」 「では、お食事はいかが致しましょう」 「今夜はいらないだろう」 「では寝室の準備を致します」 「そうだな」 二人が軽く目を合わせ、微笑む。 「少々お待ち下さい」 システィナがドアに向かう。 扉が乱暴に開かれた。 「っっ!?」 反射的にシスティナが剣に手をかける。 〈蹌踉〉《そうろう》と立つ人影に二人は慄然とした。 「ち、父上……」 「呼んだぞ……呼んだぞ、呼んだっ!!」 「何故来ないっ!!」 「申し訳ありません」 弾かれたように立ち上がり、ルキウスが礼をする。 システィナ以外の誰も見たことのない、彼のもう一つの姿だった。 ルキウスにしても言い分はある。 武装蜂起で、父親の相手をする余裕がなかったのだ。 だが、ネヴィルは理由の説明など求めていない。 自分が呼び鈴を鳴らせば、即座に愛息は現れなければならない。 例外などあってはならないのだ。 「呼んだのだっ、ルキウスっ!」 「跪け、お前の性根を叩き直してくれるわ!」 システィナが歯を噛みしめる。 何度見ても慣れることのない光景だ。 ルキウスが跪く。 足は震え、くずおれるような動きだった。 「お叱りの前に、ご報告がございます」 「何だ、言え、早く」 「先日、我らが仇敵、ギルバルトを討ち果たしました」 「何? 何だと?」 ネヴィルの目の色が変わった。 大きく見開かれた目が、みるみるうちに充血する。 「は……ははは、はははははははっ!!!」 「よくやった、よくやった、よくやった、よくやった!!」 両手を大きく開き、ネヴィルが天井を見上げる。 「最高の気分だ……気分、ギルバルト……報い……」 「ルキウス……おお……あ……へへへ、陛下……」 大きく開けられた口から唾液が垂れる。 「父上……」 「はははっ、はっ、はははは……は、は……」 「やったぞルキウス、ははははっ……これで、ははは、はは、はははは……」 ネヴィルは笑っていた。 足の間の衣服が濡れ、鼻を突く臭気が漂った。 「父上! 父上!」 ルキウスがネヴィルの肩を揺する。 だが、声は届かない。 「ルキウス様、ネヴィル様は」 「興奮しすぎたのだろう」 沈鬱な表情のルキウスの前で、ネヴィルは笑い続ける。 ルキウスが唇を噛んだ。 父親から受けた暴力の数々が頭を過ぎる。 だがそれでも、不思議と恨みはなかった。 ここに来て初めて、ルキウスは、自分がルキウスという立場を受け入れていたことに気付く。 アイムと呼ばれていた自分は、もういないのだと。 「私は、ルキウスだ」 「長い間、私は心のどこかで自分をアイムだと思い続けていた」 「だがそれは、ただの言い訳だったようだ」 「ルキウス様……」 ルキウスとしての彼は、もうあまりに多くのことをなしていた。 彼のために、いくつもの人命も失われている。 今更、逃げることはできない。 「道はいくつもある」 「だが私は、ルキウスとして生きる道を選ぶ」 「父に押し付けられたからではない」 「私が、私のために選択するのだ」 ルキウスは、静かに、だがはっきりとした口調で言った。 システィナが礼をする。 「微力ながら、どこまでもお供いたします……ルキウス様」 「救いのない道かもしれない」 「望むところです」 二人が頷きあう。 「……ははは、は、めでたい、めでたい……めでたいめでたい」 「めでたいー……ルキウス……めでたいぞ……めで、めで……」 ネヴィルの拍手がけたたましく鳴る。 陰鬱な響きが二人の胸に積もっていく。 「楽にして差し上げよう」 「父上も、満足されたであろう」 「……はい」 システィナが小さく頷く。 ルキウスが剣を抜く。 「父上……」 切っ先がネヴィルに向く。 「お休み下さいませ」 剣に力がこもる── だが、 「く……」 ルキウスの身体が〈瘧〉《おこり》にかかったように震える。 節々に錠がかけられたように、身体が動かない。 「私は……まだ……」 ルキウスの脳内で呼び鈴が鳴る。 鈴の音は頭蓋骨の中に反響し、彼の思考を埋め尽くした。 殺すのだ、殺すのだ、殺すのだ! 誰の物でもない、自分だけの自分となるために! ルキウスは胸の中で絶叫する。 だが、叫びすら鈴の音にかき消されてしまう。 ルキウスの胸に、言いようのない絶望が去来した。 その時、 ふと、剣を握るルキウスの手に何かが触れた。 柔らかく、温かな感触。 「お供いたします」 「システィナ……」 システィナが、ルキウスの手を握っていた。 ルキウスの中の鈴の音が消える。 重なり合った手の間で、二人の鼓動が重なり合う。 その確かな感覚をよすがに、ルキウスが踏み込む。 「おさらばです、父上」 「はぁ、やっと着きました」 ティアが、顎を上げながらも嬉しそうな声を上げる。 「もう少し体力をつけろ」 「カイムさん、歩くの速すぎです」 「わたし、ずっと小走りでした」 「いい運動になって良かったじゃないか」 「来たか」 「ああ」 「お久しぶりです、ルキウスさん」 「ティア君も、よく来てくれたな」 「まずは座ってくれ」 勧められるままに、椅子へと座る。 「昨日の饗宴は楽しめたか」 「そこそこな」 「しかし、昨日の今日で呼び出されるとは思わなかった」 牢獄に戻り、しばらくはゆっくりしようと思っていた。 だが、朝一番に使者が来たのだ。 「この都市の寿命は僅かだ」 「悠長に事を構えてはいられない」 「そうだったな」 「え、あの? どういうことですか?」 「後で説明する、黙ってろ」 「う〜ん……はい……」 ティアが黙る。 執政公の言葉がどこまで信じられるかはわからない。 だが、奴の言葉通り、牢獄では再び小規模の崩落が起こっていた。 コレットの時の崩落に比べれば小規模だったが、それでもかなりの人間が犠牲になったのは事実だ。 塔で行われていることと、都市の浮遊には確実に関係があると見ていい。 「結論から言えば、この都市が天使の力で浮いていることは間違いない」 「先日入った塔の研究室の上には、事実、天使が拘束されている」 「ここで興味が湧いてくるのが、ティア君の力だ」 「え?」 ティアが素っ頓狂な声を上げた。 「羽化病〈罹患者〉《りかんしゃ》の浄化、そしてほぼ事実と違わない夢」 「ティア君は天使と何らかの関係があると見ていいだろう」 「すぐにでも、ティア君の能力についての調査を再開したい」 「だそうだが?」 「わたしは構いません、むしろお願いしたいくらいです」 「自分が何だかわからないのは、変な気持ちですから」 「良かった、断られたらどうしようかと思っていたよ」 ルキウスが微笑む。 その顔は、いつになく晴れやかだった。 「あんた、何かいいことでもあったか?」 「やるべきことが明確になっただけだ」 「これからは今まで以上に忙しくなるだろう」 「是非とも、頼りになる補佐官が欲しいところだ」 「そう来ると思っていた」 「さすがに勘がいいな」 「誰でもわかる」 どうやら、冗談を言う余裕も生まれたらしい。 張りつめた雰囲気を纏っていた頃に比べれば、男ぶりも増したように思う。 「改めて頼むが、正式に私の補佐官になってくれないか」 「お前の力が必要だ」 どうするべきか。 本音は面倒だ。 補佐官になれば、貴族とのやり取りも必要だ。 自分が城に向いていないのは、重々わかっている。 だが── 断るには、あまりに重大なことを知りすぎた。 秘密を胸に抱え、牢獄で都市が落ちる日を待つのは馬鹿らしい。 「この都市が浮いている理由を知るために、俺は上層に来た」 「目的は果たしたが、知らされたのはロクでもないことばかりだ」 「このまま引き下がるのは気分が悪い」 「あんたが、都市をいい方に引っ張りたいのなら手伝おう」 「無論だ」 「絶対にこの都市を守る」 「なら決まりだ」 「ありがとう、カイム」 「先に言っておくが、協力するのは目的が一致している間だ」 「わかっている」 ルキウスの優しい視線が、どうも落ち着かなくさせる。 どうやら俺は嬉しいらしい。 「カイムさんは、素直ではないですね」 「黙ってろと言わなかったか」 「うう……すみません」 しょげかえる振りをするが、顔は笑っていた。 「二人には、またここに住んでもらって構わない」 「ここに居を定め、私を助けてくれ」 「ああ、わかった」 ルキウスとの話が終わる。 荷物を取りに、一旦牢獄へ戻ることにした。 「なあ、ティア」 「何でしょうか?」 隣のティアが俺を見る。 「これで良かったのか?」 「何の話ですか?」 「俺達が、ルキウスの屋敷で厄介になることだ」 「え? 何か問題が?」 「ルキウスの研究に付き合わされることになる」 「また、羽つきさんを治してあげられるんですよね?」 「それなら嬉しいです」 屈託なく笑うティア。 俺には一抹の不安があった。 未来が明るいと根拠なく思い込むことは、暗いと思い込むことと同様に愚かだ。 瞬間瞬間で、何が正しいかを考えなくてはならない。 「わたし、カイムさんに感謝してます」 「身請けして頂いたお陰で、ここまで来られたんですから」 憂いのない表情でティアが微笑む。 「相変わらず脳天気だな」 「牢獄じゃ……」 「長生きできないですか?」 言葉を先取りされた。 「大丈夫です、ここは上層ですから」 「仕方のない奴だ」 悩んでいるのが馬鹿らしくなってくる。 ずっと苦しい目に遭ってきたくせに、なぜここまで楽観的なのだろうか。 まあいい。 こいつといれば、必要以上に暗くなることもないだろう。 二人合わせれば、丁度良いのかもしれない。 「よし、夕方までには上層に戻るぞ」 「あの……それだと、来るときより早足に……」 「ガタガタ言うな」 「うう、脚が太くなってしまいます」 「行くぞ」 先に立つ。 すぐにティアが並んだ。 先に見える牢獄は、珍しく霞が晴れていた。 「リシア、行け」 俺もヴァリアスの隣に並ぶ。 「私一人で十分だ」 「格好をつけたいのはわかるが、あんたほどの腕ならわかってるはずだ」 「ふっ……」 「まどろっこしいのは嫌いなんだ」 石を斬ったかのような痺れが走った。 瞬時に距離を詰めたガウの剣を俺が受け、ヴァリアスが大振りに剣を振って牽制する。 「行けっ」 「早くっ」 「く……」 「お行きなさいっ!」 リシアの身体が震える。 「……わ、わかった」 「よいお返事です」 ヴァリアスが微笑んだ。 「お行きなさい、リシア様の時代を作るために」 「死ぬなよ、カイム、ヴァリアス……」 リシアがヴァリアスを見つめる。 ヴァリアスは、大きく頷いて応えた。 「死ぬなっ!!」 叫び、踵を返した。 「さーて、邪魔者はいなくなったな」 ガウが舌なめずりをする。 「お前の役目は足止めだろ、行かせていいのか?」 「それより、あんたらと心ゆくまで殺り合う方が万倍も大事さ」 「聞かせてくれよ……死の瞬間の感慨をっ」 ガウが地を蹴った。 床すれすれを、放たれた矢の如く迫る── 下方からの斬り上げに、身体が浮く。 「ふっ!」 瞬時に繰り出される追撃。 死の予感が背筋を突き抜ける。 「はっ!!」 横合いからの完全なる奇襲。 しかしガウは、〈裂帛〉《れっぱく》の横薙ぎを短剣一本で受け流し、停止することなくヴァリアスを足払いで浮かせる。 「くっ!?」 巨体が転倒した時、ガウの身体はもう宙に浮いていた。 天井を蹴り、全体重を乗せた下突きがヴァリアスの首を狙う。 「っっ!!」 ガウを逆袈裟に斬り上げる。 ガウが弾け飛んだ。 いや、単に向こうが距離を取ったのだ。 「ほう?」 「はぁ……はぁ……」 「く……何たる……」 起き上がったヴァリアスの首には、赤い筋があった。 僅かにでも援護が遅れれば、絶命したはずだ。 「素敵だ、まさか獲り逃すとは思わなかった」 「化物が」 「同意する」 悪態でも何でもない。 事実だった。 今、ガウまでの距離は遠い。 その距離を、あいつは一跨ぎで詰めるだろう。 俺からすれば、首筋に刃を当てられているのと大差なかった。 「これほどの腕を持ちながら哀れなものだ」 「ただ、快楽のために剣を振るうとは」 「いい歳して寝言かい」 「誰かのためだと思ってる剣ほど醜いものはないよ……不純だね」 「何だと?」 「国のためだろうが君主のためだろうが知ったこっちゃないが」 「結局、そうしてる自分が好きだからだろう?」 「これでも、お前にはそれなりの敬意を払ってたんだがね」 「何だかがっかりだよ」 「ははは、若いな」 「いやいや、歳相応と言えばそうか」 「何?」 「私も、お前のように考えていたこともあったな」 「あれは、いくつの頃だったか……」 ヴァリアスが似合わない長口上を述べているのは、恐らく俺に時間を与えるためだ。 二人のやり取りを聞き流しながら、ガウを倒す方法を考える。 奴の身体能力は圧倒的だ。 真っ向からやり合っても敵うわけがない。 何か、勝つ道は。 「ここは剣を引け」 「お前とは、もう少し時間をかけて語ってみたい」 「生憎、口で話すのが苦手でね」 ガウが短剣を掲げる。 「時間稼ぎはそろそろいいか?」 「死に急ぐのも若さ故か」 ガウの目が細まる。 刃の様な視線を、ヴァリアスはあやすように退けた。 剣のぶつかり合いとは逆の形勢だ。 「歳をとりゃ、口が達者になることはわかったよ」 「剣の腕と引き替えになるらしいがね」 口元を歪め、ガウが腰を沈める。 「ヴァリアス」 小さく、ヴァリアスの背中を叩く。 俺の考えていることは通じていないだろう。 だが、それでもヴァリアスは突進した。 「うおおおおっっ!」 巨体が突進する。 大きな背中に隠れるように、俺も疾走。 走りつつ、落ちている物を拾い上げる。 「来なよ、ご老体」 「はああっっ!!」 ヴァリアスが剣を振りかぶると同時── 騎士団長の背後から、ガウの側面に走り出る。 前と横からの同時攻撃だ。 「くっ!?」 「はああああっ!!!!」 呼吸は完璧だった。 ガウが僅かに体を開いて大剣を避ける。 避けつつ、奴の目は冷静に俺を見つめていた。 「っっ!!」 拾ったものを投げつける。 ガウが短剣で受け流す── 「なっ!!」 近衛兵の内臓だ、刃物では止められない。 血の塊がガウの顔面を直撃する。 「ぐっ!?」 本命の一閃。 背面に回り込みつつ、斬り上げる。 「!!」 ガウは、目を閉じたまま俺の剣を受けた。 次の瞬間── ガウの蹴りが俺の顔面を捉えた。 「がっ!!」 壁面に叩きつけられ、息が止まる。 それでも立ち上がる。 「えげつなくていいね」 「待ち伏せした甲斐があったよ」 ガウが顔に付着した内臓を拭う。 血に染まった顔の下から、鋭い〈双眸〉《そうぼう》が覗く。 「カイム、死者を冒涜するな」 「こんな時に、つまらないことを言うな」 「これが牢獄流さ、使える物は何でも使う」 「ご理解いただけて嬉しいね」 「元、同類だからさ」 ガウが手に付いた血を舐める。 「で、次は何をしてくれる?」 満面の笑みが、ガウの〈面〉《おもて》に広がった。 目を閉じたまま剣を受けるような奴だ。 勝てる気がしない。 何か打開策を考えなくては確実に殺される。 だが、頭部を蹴られた影響で頭も回らない。 「ネタがないなら、こちらから行くよ」 武器すら構えずに、ガウが悠々と近づいてくる。 こんなところで終わるのか。 暗い思考が頭をかすめる。 「ぐ……」 「な……こ、これは……」 ガウが口を手で押さえる。 「ごほっ、げほげほっ!!」 手の隙間から赤黒い液体が流れ落ちる。 固形混じりの液体だ。 「げほっ……ごほっ……」 「どうやら……のんびりとは遊んでいられない……ようだね」 最後に吐き出した物は、内臓の欠片に見えた。 どうやら、身体の中身をやられているらしい。 クスリの影響だろうか。 とすれば、勝機はあるのかもしれない。 「時間を稼ごう、ひたすら身を守るんだ」 「その方がいいようだな」 「つまらないことはよしてくれ」 「こっちも遊びじゃないんでね」 「ふ……なら、ちゃっちゃと行こう」 ガウが剣を構えた。 広い空間に、〈剣戟〉《けんげき》の音が響いている。 執政公の私兵をシスティナが引きつけ、リシアとルキウスが執政公に対峙していた。 「投降せよ、ギルバルト」 「折角のお言葉ですが、辞退いたします」 「このようなところで倒れるわけにはいかぬ故」 外套の下から執政公が剣を抜く。 「多少は老いましたが、まだリシア様に後れを取る程ではございません」 「リシア様、お下がりください」 「いや、これは私の仕事だ」 「ギルバルトは、私が止めねばならん」 リシアが剣を構える。 その目に〈爛々〉《らんらん》と燃える闘志を、ルキウスは見て取った。 「……わかりました」 「助太刀いたします」 「ありがたい」 リシアが鋭い視線で執政公を射る。 「その細腕には、まだ剣は重いようですな」 「今でもまだ遅くはありません」 「ルキウスを逆賊と呼んでくだされば、お命は助かりますぞ」 「黙れっ」 「私はもう騙されない」 「ルキウスが正しいという保証など、どこにあります」 「政変が終われば、また彼も態度を変えるでしょう」 「信じる人間は私が決める」 「自分の目で見、自分の頭で考える」 「それでは、自分の信じたいものを信じるだけに終わります」 「優れた為政者の姿とは思えませんな」 「もうよい」 「再度言う、投降せよ」 「投降し、今までの罪を償うのだっ」 「生憎ですが、私を裁く法はございません」 「ならば、私が裁こう」 リシアが剣を掴み直す。 「行くぞっ!!」 「仕方ありません」 リシアと執政公は、ほぼ同時に踏み出した。 「はぁ、はぁ……」 上がった息が収まらない。 俺もヴァリアスも無数に手傷を負っていた。 致命傷がないのは防戦に徹したからだ。 ガウもまた身体を内部から蝕まれ、血液と〈壊死〉《えし》した内臓を口からこぼしていた。 「終わりたくはないが、どうやら身体がもたないらしいね」 「もう休んでもらって一向に構わないが」 「そう言うなよ」 笑いながら、また血液を吐き出す。 ふらつく上体を踏ん張って堪えた。 「それでいい、勝手に死ぬな」 「お前は私が討つ」 「どこかで恨みでも買うようなことをしたかい、あたしは?」 「私の部下を何人殺したと思っている」 「殺した人間のことなど覚えちゃいないさ」 「ま、大した部下じゃなかったんだろうね」 「貴様っ!」 火花が薄暗い廊下を照らす。 「剣術の稽古なら庭でやりなよ」 ガウは血に濡れた唇を妖艶に歪めた。 内なる欲望を隠そうともしない微笑みに、怖気と心ならずも美しさを覚える。 こいつは、殺したくて殺している。 かつて聞いたガウの生涯を思い出す。 奴は、〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で孤児となり娼館に売られた。 そこで教育係の男たちを殺し、暗殺者としての人生を始めたのだ。 俺とよく似ている。 「戯れに人を殺すなど、許されることではない」 「くははは……」 「命、命というが、牢獄では今日の戦いよりも多くの人間が死んでいる」 「それも、あんたが守ってきた人間達のせいでだ」 「城を守るより、やることがあったんじゃないか?」 「……」 ヴァリアスが怒りに震える。 「堪えろ、時間の問題だ」 「よく冷静でいられる」 「でなきゃ、ここまで生きてない」 「そうさ……」 「あたしらは、殺すことで生きてきたんだ」 「〈蛆〉《うじ》混じりの水を飲み、他人の血で顔を洗い、糞便の上で眠る」 完膚無きまでに同じだ。 無意識にガウとの違いを探す。 だが、見つからない。 「ずっと、殺してきた……殺し、殺し……殺し……」 「そうするとね……ごふっ!?」 ガウが大量に吐血する。 「はぁ……はぁ……全てがどうでもよくなるのさ」 「なぜ自分が殺しているのか」 「なぜ目の前の男は死なねばならなかったのか」 「なぜ自分は生きているのか」 「殺し続けていれば、いつか誰かが教えてくれるんじゃないかと思ってるんだ」 「人の生ってものに、どれほどの意味があるのか」 ガウの気持ちは痛いほどわかった。 もしかしたら、多くの牢獄民が共有している感覚かもしれない。 だが、 「馬鹿らしい」 「ん?」 「お前は理由が欲しいんだろう?」 「〈大崩落〉《グラン・フォルテ》に遭ったこと、娼館に売られたこと、殺し屋になったこと……そういう理不尽な不幸に」 「……」 「初めから意味などない」 「あるとしても、どうせ思い込みだ」 「……そうかい」 「やはりカイム、お前は楽しいな」 「最期には……いい答えを聞かせてくれそうだ」 足をふらつかせながら、ガウが自らの剣を顔の横に当てる。 片耳が落ちた。 噴き出す黒い血もそのままに、半眼でこちらを〈睨〉《にら》む。 こいつも限界らしい。 「あのクスリは……効き過ぎるのが……玉に瑕だ」 「お陰でこっちは助かったがな」 「ふ……」 「そろそろ終わりにしよう」 「賛成だ」 こちらもとっくに限界だ。 いい加減終わりにしたい。 「聞かせてくれよ……」 「面白い答えをっ!」 ガウが動いた。 もはや跳躍とも見える疾走。 水面を切り渡る石のように、深紅の絨毯を駆け抜ける。 「ヴァリアスっ」 「おうっ」 左右に散る。 ガウは迷わず俺を選んだ。 「おおおおおぉぉぉぉっっっ!!!」 渾身の剣を受け止める。 「く……」 激しい圧力に膝をついた。 鍔迫り合いとなり、ガウの顔が間近に迫る。 血に染まった顔は、ここに来ても笑顔だった。 「同類だ……一緒に逝こう」 「また今度な」 眼前、 ガウの頭部の上半分が吹き飛んだ。 〈脳漿〉《のうしょう》と骨の破片が、勢いよく俺の顔を濡らす。 側面からヴァリアスが斬ったのだ。 「……」 一瞬だけ、ガウの唇が動く。 だが、その口から言葉が零れることはなかった。 ガウが倒れ伏す。 「はぁ……はぁ……」 「お前にご執心で助かった」 「ああ」 「ガウにしても、避ける力はなかったんだろう」 ガウの死体を見つめる。 何故か、身内を殺されたかのような気分になった。 実際のところ、ガウと俺の生い立ちはほぼ重なっていた。 誰かの物として動き、誰かの命を理不尽に奪い続ける。 そんな生活の中で、自分や他者の生の意味を見失っていく。 ガウの墜ちた道も、俺達のような人間の辿る一つのよくある結末だろう。 しかし、俺はガウとは違う。 抱えた虚無感に負け、自分を捨てたりはしない。 ガウの死は、少なくともこの気持ちを強固にしてくれた。 「お前が生きてきた意味はあった……少なくとも俺にはな」 「どうした?」 「いや、独り言だ」 顔の汚れを拭い、立ち上がる。 「っっ……」 足元があやしい。 「鍛え方が足りないようだな」 「指をなくした奴に言われたくない」 「ふ……そうだな」 ヴァリアスの左手は、人差し指と中指がなくなっていた。 そんな怪我が目立たないほど、お互い全身傷だらけだったが。 「さあ、リシア様の加勢に行くぞ」 「ああ」 二人並び、リシアが走っていった方に向かう。 そこには、戦闘の跡があった。 床で苦悶の声を上げる執政公の私兵たち。 立っているのは、ルキウスとシスティナ、そして…… リシアだった。 広間中央の階段には、執政公が大の字になって倒れている。 胸には、見覚えのある細剣が突き立っていた。 リシアが仕留めたらしい。 立派なものだ。 「仕留めたか」 俺の声に3人が振り向く。 「カイム……」 「そちらも無事だったか」 「死なない程度にはな」 「大分、手こずらされましたが」 リシアの下へ近づく。 「よくやった」 「ルキウスの助力で、何とかな」 リシアが細く笑う。 その目が潤んだ。 小さな頭部を抱き寄せる。 「カイム……」 「これなら、誰にも見えない」 「うっ……ぐすっ……」 「うううっ……うっ……あああ……」 腕の中から嗚咽が漏れる。 緊張の糸が切れたのだ。 落ち着くまではこうしていよう。 艶やかな髪を撫でる。 返り血を浴びてなお、その髪は美しかった。 置物や人形のような、備え付けられた美しさではない。 彼女の内側からにじみ出る、人間としての美しさだ。 「カイム……カイム……」 「ああ、ここにいる」 これからのリシアは、そう簡単に人前では泣けなくなる。 だが、もし許されるのなら、彼女にも一つくらいは泣ける場所を与えてやりたい。 そのことが、彼女がより強い国王になる支えとなるだろう。 政変から7日後── 「リシア様、準備が整いました」 「うむ、わかった」 「この日を、どれだけ待ちわびたことか」 早くもヴァリアスの目は潤んでいた。 「馬鹿め、まだ泣くのは早かろう」 「異な事を仰います、この私が泣いているなどと」 言いながら、指の足りない手で鼻をこすった。 「ふふふ、行くぞ」 「はっ!」 武装蜂起の最中、父上が崩御された。 主治医の話では、眠るように息を引き取られたという。 もっと落ち込むかと思ったが、不思議と気持ちは静かだった。 長らく病床にあったため、心の準備ができていたというのもある。 だが、恐らくは、国王になるとの決意を固めていたことの方が大きかったのだろう。 ともすれば、私はすでに心の中で父上を殺していたのかもしれない。 非道なものだ。 全ての民の父親になる── その言葉の意味が少しずつわかってきていた。 人間の時間を公私に分けるのなら、国王には公しか存在しないのだ。 それはある意味、国民に所有されるということでもあった。 私は私ではなくなり、国民のための物へと変わる。 それは、カイムから聞いた娼婦の仕事にも似ていると思う。 苛酷な職務だろう。 だが、逃げるつもりはない。 私のために〈斃〉《たお》れていった者たちのためにも。 これからの日々が平坦でないことは間違いない。 悲しんでなどいられなかった。 「リシア様の御成です」 「皆の者、ご苦労」 大広間には召使いたちが勢揃いし、膝を折っていた。 誰一人言葉を発しない中、私は大広間を横切って謁見の間へと向かう。 謁見の間には百官が居並んでいた。 赤い絨毯に沿って近衛兵たちが立ち並ぶ。 私はゆっくり王座へと向かう。 王座の近く、階段の下にルキウスが膝を折って控えていた。 その後ろに、カイムやヴァリアスもいる。 王座まで歩み寄ると、私は謁見の間に集まった皆を見下ろす。 「大儀である」 風に薙ぐ草原のように貴族たちが礼をした。 そして、立ち上がる。 「ルキウス」 「はっ」 ルキウスが階段を昇ってくる。 父上の手紙を渡し、朗読させた。 内容は、以前読んだ通りだ。 王たる者の心得と、私の出生。 そして、私を王位継承者とすることが書かれている。 「この通り、リシア様は王位を継承する正統な資格をお持ちである」 「異論のある者はこの場で述べよ」 既にギルバルトはこの世にいない。 この期に及んで、私やルキウスに刃向かおうとする者はいないだろう。 もちろん、全ての貴族が私に忠誠など誓っているはずはない。 彼らを心から跪かせることができるかは、これからの私にかかっている。 「異論はないようだな」 皆が頭を下げる。 「では、これより新国王陛下のお言葉を賜る」 私は考える。 皆に何を伝えるべきだろうか。 居並ぶ貴族たち、近衛兵たちが私を見上げている。 その表情は、決して明るいものではなかった。 彼らに希望を与えねばならない。 「私が亡き国王陛下の実子ではないとの噂、皆も聞き及んでいることと思う」 「今日改めて、風聞が事実であることを宣言しよう」 ざわつきはなかった。 だが、それぞれの心の中で、複雑な感情が蠢いていることが感じられた。 「父上はそれをご承知の上で私に王位をお譲り下さった」 「かつて、私が召使いに扮して遊び回っていたことを知らない者はいないだろう」 「前国王陛下のお言葉を微塵も理解せず、私は次期国王としての努力を怠ってきた」 「本当に、ヴァリアスにはよく叱られたものだ」 皆から小さな笑いが漏れる。 ヴァリアスも苦笑していた。 「私は愚かな少女であった」 「それが故に奸臣ギルバルトの操り人形となり、彼の専横を許してしまった」 「皆の多くは、私に落胆もし、あるいは怒りを覚えていたことだと思う」 「今、私は新たに国王となった」 「しかし、私が〈無知蒙昧〉《むちもうまい》であることに変わりはなく、これからも諸君らには多大な迷惑をかけることになるだろう」 「それでも、信じて欲しい」 「私はもう二度と、前国王陛下のお言葉から目を背けない」 「代々の王がそうであったように、私はすべての国民の父となろう」 「皆が私を支えてくれることを切に願う」 誰も一言も発しない。 ルキウスが片膝を折り、頭を垂れる。 それに倣い、その場にいる者全てが私に向かって頭を下げた。 様々な髪の色があった。 私にこれだけの人間が仕えている。 目の前に突きつけられた事実に膝が震えた。 「ありがたいお言葉を賜り、身の引き締まる思いです」 「よろしく頼むぞ」 「粉骨砕身、努めて参る所存です」 再度一礼し、ルキウスが立ち上がる。 「これより戴冠の儀を執り行う」 ルキウスの声が朗々と謁見の間に響き渡った。 儀式を司る老貴族が別室から現れ、恭しく王冠を差し出してきた。 「さあ、陛下」 「うむ」 ……陛下か。 父上の被っていた王冠を受け取る。 実際の重さよりも、それはずしりと手に沈んだ。 陽光を受け、王冠が黄金色に輝く。 かつての父上のお姿を思い出す。 父上は王座でこの王冠を被り、常に厳しい視線を皆に向けていた。 孤独を押し殺し、すべての国民の父であることを貫いた。 私は、父上の意思と共に王冠を受け継ぐのだ。 王冠を被るために裏返す。 ふと── 内側に、何かが付いていることに気付く。 「……っ」 思わず息を飲む。 これは……まさか……。 からからに干からびたそれは、草を輪の形に束ねたものだった。 幼い私が作った花の冠だ。 あの時、私は冠を放り出して父上の前から逃げた。 それから二度と花に近づくことはなかった。 惨めな自分を思い出すのが嫌だったから。 捨てられたものだと思っていた。 それが、どうして王冠の中に入っていたのか。 父上が常に身につけておられた王冠。 その中に花冠がある。 それはつまり、 父上が、常に私の花冠を身につけてくれていたということだ。 厳格だった父上。 すべての国民の父であるために、家族への愛情すらも排してきた父上。 だが、父上は表に出せない感情を王冠の内に潜めていた。 私が王冠を身につけるその時まで、絶対にわからない形で。 一度として言葉にすることなく、誰にもその思いを悟らせず。 私が父上の死を乗り越え、王になることに決心した後に、そっと気付くように。 「父上……」 王冠の内側には小さな紙片が貼り付けられていた。 黄ばんでしまった紙に、几帳面な文字が並んでいる。 『ありがとう。我が愛しき娘よ』 知らず、涙が零れ落ちた。 「リシア様?」 皆が私を見ている。 だが、涙は止まらない。 私は不義密通の子だ。 父上の子ではないのだ。 だが、父上は私を『我が娘』と呼んでくれた。 遺言をヴァリアスに託し、王冠に言葉を残し。 最期の時まで、私を見守ってくれていたのだ。 「父上……ありがとうございます……」 今の私はまだ未熟です。 でもいつか、父上のような国王になってみせます── そう誓い、重みの増した王冠を頭に戴いた。 戴冠式は終わった。 リシアが泣き出した時は何事かと思ったが。 だが、それ以外はつつがなく儀式も済み、晴れてリシアは国王となった。 「新しいお食事をお持ちいたしました」 明るい表情で、料理長が料理を運んでくる。 戴冠式の後、城内の庭で新国王のお披露目の饗宴が開かれていた。 新たな国王誕生など、何十年かに一度の出来事だ。 皆、この時ばかりはと盛り上がっていた。 「カイム様、お疲れ様でございます」 「あんたか」 庭師の老人が声をかけてきた。 手ぶらでいるところを見ると、仕事は終わったようだ。 「今日はもう仕事はいいのか」 「こんな時に植木を切り散らかしては、皆に叱られましょう」 「それもそうだな」 庭には多くの料理や酒の置かれた机が並び、皆が楽しんでいる。 〈剪定〉《せんてい》などできないか。 「ついにリシア様が国王になってしまわれましたな」 「そうだな」 「年を取ると、子のかけがえのなさに気付くものです」 「誰の子であっても、どんな子であっても……子供はただそれだけでいいものです」 「俺にはよくわからないな」 「あなた様も、いつかお子を授かればおわかりになりますよ」 そんな時が俺にも来るのだろうか。 今は想像もつかない。 「ただ……どんな小さな子も、いずれは大人になるものです」 「寂しくはありますが、それを祝い、自ら退いて新たな者に椅子を与える」 「それが、老いさらばえた者に残された最後の仕事です」 退いて、椅子を与える……? 「あんた……ひょっとして辞めるのか」 「今日でこの王城の庭ともお別れですな」 「リシア様によろしくお伝えください」 「おい、自分で言わないのか?」 「いいのですよ」 「新たな門出を迎える国王陛下のお披露目を、老骨で汚すような真似はしたくありません」 にこりと微笑み、庭師の老人は静かに去っていった。 俺はその背中を見送る。 今日から、新たな治世が始まるのだ。 自ら退いた庭師の老人は、何かを感じ取ったのかもしれない。 リシアに目をやる。 饗宴の主役であるリシアは、多くの貴族から祝福の挨拶を受けていた。 ひっきりなしに貴族たちから声をかけられ、笑顔を向けている。 「……」 不意に胸の奥に空っ風が吹く。 何となく庭師の老人の気持ちがわかった。 自分が場違いなところにいる時の、あの居心地の悪い感じだ。 俺がリシアにしてやれることはもうない。 あとは、あいつ一人でも立派に国王の務めを果たすだろう。 ならば俺も庭師のように消えるべきだ。 だが、それでいいのか。 自らに問うものの、答えは出てこない。 ……帰ろう。 一旦牢獄に戻り、ルキウスが落ち着いたらまた会いに行こう。 ルキウスもそれを望んでいた。 その先のことは、ルキウスと話をしてから考えればいい。 俺はリシアに背を向け、王城を後にした。 「カイムっ!」 ふいにリシアの声が響く。 振り向くと、階段からリシアが駆け下りてくるところだった。 「どこに行くつもりだ」 「牢獄に帰るが」 「まだ宴は終わっていない、急いで帰る必要はないだろう」 「最後まで付き合わねばならないか?」 「いや、それは……」 リシアが寂しげに目を逸らす。 「これからのためにも、俺と話すより貴族と話せ」 「お前がどんな人間か知りたがっている奴は多いはずだ」 「わかっている」 「まずは足回りを固めることだ」 「味方でなくてもいい、敵を極力減らせ」 「その上で、信頼できる有力貴族が何人かいれば上手く回るだろう」 「心得ておこう」 「忠言、感謝する」 そう言って、リシアは微笑んだ。 出会った頃の彼女とはまるで別人のように、成長した大人の笑顔だ。 その笑顔に、何となく胸の奥が熱くなってくる。 「一つ報告がある」 「即位に際して、ギルバルトに弾圧された貴族に対し名誉回復を行ったのだ」 「アイリスにも声をかけたのだが、やはり断られてしまったよ」 「意地になっているのかもしれないな」 「あいつなりの考えがあるんだろう」 「身請けを申し出たが、それも断られた」 「ふふ……なるほど」 リシアが本当に救いたかったのは、自分自身なのだろう。 恐らく、アイリスに罪の意識を感じているのだ。 「そこまでしてやったのなら、もう十分だ」 「無愛想な奴だが、お前には感謝してるだろう」 「別に感謝されたかったわけではない」 それでも、リシアはまんざらでもない表情をしていた。 「カイム、ありがとう」 「何だいきなり」 「お前がいなければ、私は駄目な人間のまま終わっていた」 「今日、無事に国王になれたのもお前のお陰だ」 「お前の力だ」 「謙遜だな」 「好きに解釈しろ」 思えば、出会った当初からリシアとはこんなやりとりばかりしてきた。 あれからそう日は経っていないのに、なぜか懐かしく感じる。 「なあ、カイム」 「戴冠の際も言ったが、私はまだまだ未熟だと思う」 「それで、だな……」 リシアが身体の前で組んだ手を、忙しげに組み直す。 「まあ、あれだ」 「できれば、一人立ちできるまで私の側にいてくれないか」 「……」 傍にいてやりたい気持ちもあった。 だが、俺の出る幕はない。 「それはルキウスの仕事だ」 「奴なら、お前を支えてくれるだろう」 「仕事や執務の話ではない」 「お前は、皆まで言わねばわからんのか」 「何?」 「カイム……私が側にいて欲しいのは、お前なのだ」 リシアの顔が赤く染まる。 「爵位を授ける、受けてくれないか?」 「貴族になれと?」 「そうだ」 「高い地位ではない、だが、私の側にいてもらうための特別なものだ」 「受け取ってくれるか?」 リシアが俺を見つめる。 立派に女の顔をしていた。 「貴族の暗い根回しや駆け引きなど、俺には向いていない」 「爵位が余ってるなら、若くて有能な奴にくれてやれ」 ルキウスの補佐官をしていてよくわかった。 俺には貴族など向いていない。 「そうか……」 「いや、お前ならそう言うと思っていた」 リシアは悲しそうに目を伏せる。 その瞳に涙が滲み始めた。 だから女は面倒だ。 「では、簡単には会えなくなるな」 「勘違いするな」 「勘違い?」 「爵位はいらない」 「だが、お前が望むなら側にいるくらいはできる」 「え……?」 首をかしげるリシア。 全然飲み込めていない様子だ。 「貴族にはならないが、お前の側にはいる」 「カイム……」 「お前が望めばだが」 本音は違う。 リシアが望まなくても、俺はリシアの側にいたかった。 それがリシアのためにならないとしても。 「ありがとう、カイムっ!」 少女のように顔をほころばせ、リシアが抱きついてくる。 一国の主になったその日にこの調子だ。 これでは立派な国王への道はまだまだ遠いな。 だが、それでいいのかもしれない。 これからの人生、リシアは孤独や困難と闘っていくことになる。 息が抜ける場所があることは、きっと救いになるだろう──。 リシアに呼ばれ、部屋までやってきた。 こんな夜更けに一体何の用だろう? 「呼んだか」 「来たかカイム」 リシアが笑顔で出迎えてくれる。 「どうだ、王城住まいにも馴染んできたか」 「落ち着かないな」 リシアが戴冠してから数日が経った。 彼女の強い要望により、俺はその日から王城に居を構えることになった。 体裁を整えるためか、俺には近衛騎士団の特殊武官というよくわからない役職が与えられている。 居を変えるまでの数日、俺は牢獄へ戻り今後のことを報告してきた。 歓迎する者も反対する者もいたが、最終的には皆理解を示してくれた。 俺が本来の目的を忘れていないことを示したためだと思う。 そもそも俺が上層に来たのは、都市の秘密を探るためだ。 答えに辿り着かない限り、コレットもラヴィも自由にはなれないし、メルトの弔いもできない。 リシアを支えながらも、俺は都市の謎を追うつもりだ。 「しばらくはのんびりとしていてくれ」 「仕事はないのか?」 「今のところ難しいな」 「そのうち、近衛兵の剣術指南でもしてもらおう」 「早くしてくれると助かる」 「身体がなまるのは困るんでね」 「ああ」 リシアが嘆息する。 「それよりカイム、聞いたぞ」 「お前、召使いを邪険にして部屋から追い出しただろう」 「仕事をさせてくれないと、私が泣きつかれたのだが」 「自分でできることは自分でしているだけだ」 「召使いの仕事を取り上げるな」 「お前に言われたくないな」 「今まで散々、召使いの仕事を取り上げていただろう」 「うっ、だ、だからこそだっ」 「私が身をもって体験し、骨身に染みたことなのだ」 「と、ともかく、お前はだらだらしていればよいのだ」 「わかったわかった」 「まったく、私の気も知らずに」 リシアの気持ちは伝わっていた。 こいつは、政変の労をねぎらうために俺に休みを出そうとしているのだ。 牢獄での暮らしが長かったせいか、俺は日々にある程度の刺激が必要な身体になっていた。 「本当にやることがないのなら、以前のように私の話し相手をしてくれ」 「毎日話しているだろ」 「足りんのだ」 「それとも、私の話し相手は不満か?」 「俺はお前の暇つぶしの道具か」 「こんなことになるなら、牢獄に帰るんだったな」 「カイム、私はお前を大切に扱いたいのだ」 「どうしてわかってくれない?」 今にも泣き出しそうな顔で見つめてくる。 「そういう顔をするな」 「お前の厚意はわかっている」 「だが牢獄に帰ると言ったではないか」 「私を一人にするつもりなのだろう」 「おい、リシア……」 王城に住むようになってから、リシアの本性が徐々に見えてきた。 普段は国王らしく振る舞っているが、その反動か二人きりになるとひどく甘えてくる。 今まで得られなかった愛情を取り戻そうとしているかのようだ。 「そんな顔、貴族たちが見たら何と言うと思う?」 「お前だから見せるんだ」 「二人きりの時くらい、大人しく甘えさせろ」 「はあ……」 「何だその溜め息は」 「政務で疲れて帰ってきた私を癒すのはお前の役目だろう」 「これはお前にしかできない、大変な仕事なのだぞ」 つまるところ、俺を呼んだのは甘えたいからか。 やれやれだ。 「なら、甘えろ」 「あ、阿呆か」 「手順というものがあるだろうが」 「教えてくれ」 「あ、う、おま、え」 リシアが顔を赤くしながら口をぱくぱくと動かす。 からかい甲斐があるな。 「ま、まずは星を見るのだ」 「ああ」 どこぞの本でも読んで影響されたのか、少女趣味だった。 リシアの後頭部を押し、バルコニーへと出る。 無数の星が、濃紺の夜天に散っている。 夜空など眺めたのはいつぶりだろうか。 覚えていない。 「カイムは椅子に座るのだ」 「ああ」 置いてある椅子に座る。 「そして、私がここだ」 リシアは俺の隣に椅子を移動させ、腰を下ろした。 「うむ」 満足そうに頷き空を見上げる。 男と女の満足は本質的に違うと思う。 男は行動と結果に満足を見いだすが、女のそれは状態と時間の中にある気がする。 リシアが僅かに身を寄せてきた。 まあ、こいつは満足しているのだろう。 「落ち着くな」 「そうか」 「執務は上手くいっているか」 「どうかな」 「今はまだ、自分を振り返る余裕もない」 「ただ、何かに急かされて走っているだけだ」 「ルキウスの様子はどうだ」 「ああ、よく働いてくれている」 「私が疑問に思ったことはすぐに調べてくれるしな」 「俺が言うのも何だが、ルキウスの言葉を鵜呑みにするなよ」 「真偽は自分の目で確かめろ、だな?」 「ああ」 「大丈夫だ。ルキウスに限らず貴族の話を頭から信じたりはしない」 「もちろん、疑ってかかりもしないがな」 「ほう」 「今後は、抜き打ちで視察を行うことで、貴族たちが不正を働きにくい体制を作るつもりだ」 「そう遠くないうちに、私直属の内偵機関を組織したい」 「考えたな」 やはりリシアは聡明だった。 長期的に見れば、内偵機関の腐敗をどう防ぐかも問題になりそうだが。 「だが、これも不安はある」 「もし内偵機関の存在が貴族に知られたら、彼らは買収工作を行うだろう」 「だから、信用できる人間でなければ内偵を任せることはできない」 「……」 適確に先を見ていた。 侮れないな。 「そこで、カイムに頼みたいのだ」 「お前には内偵機関の、最初の一人になってもらいたい」 なるほど、そう来るか。 「甘えるために呼ばれたのかと思っていた」 「ははは、これも甘えのうちの一つだ」 「いくつあるんだ?」 「二つだ」 「もう一つは、あとで話す」 「で、どうだカイム。内偵を受けてくれないか?」 王家直属の内偵機関か。 俺が培ってきた技術も役に立ちそうだ。 「引き受けよう」 「そうか、よかった」 リシアが小さく息を吐く。 「調査対象がルキウスであっても、手心を加えることは許されないぞ」 「お前が手を抜けば、その分だけ民に不幸を与えることになる」 「わかっている。もちろんだ」 「よし、頼んだぞ」 リシアが力強く頷く。 しっかりと国王ができているじゃないか。 「これで一つ目の話は終わりだ」 「もう一つは?」 リシアが微笑み、眼下に広がる街々を見下ろす。 闇に抗するかのように、小さな明かりが至るところで輝いていた。 「覚えているか、カイム」 「ルキウスに逮捕命令が出た時、お前は危険を冒してここまで忍び込んできた」 「どうだったか」 口ではこう言ったが、もちろん覚えている。 「あの時、お前は私をバルコニーに連れ出して、叱ってくれた」 「カイムの言葉が私を変えてくれた」 「あの時言ってくれた言葉は、私の一生の宝物だ」 「礼を言うぞ、カイム」 「変わったのはリシアだ」 「それ以上でも以下でもない」 「相変わらず素直ではないな」 「牢獄の人間はこんなものだ」 リシアが肩で俺の腕に触れた。 忍び込んだ時は、こんな風にリシアと二人で夜空を眺めるとは思わなかった。 世の中、どう転ぶかわからないものだ。 「礼と言えば、私はじいやにも礼を言いたかったのだ」 「花の冠の作り方を教えてくれたのは、じいやだった」 リシアは部屋に飾ってある冠を見つめる。 俺が無事に忍び込めたのは、庭師の老人のお陰だった。 お披露目の饗宴で別れてから、あの老人は王城に姿を見せなくなった。 今は代わりに若手の庭師が働いている。 「どうしてじいやは、別れの挨拶をしてくれなかったのだろう」 庭師の老人は、リシアが生まれた時から既にこの王城で働いていた。 リシアの知っていた人間は次々と王城からいなくなっていく。 「いい年寄りは、引き際をわきまえてるものだ」 「過去を知りすぎている人間は、お前の足枷になると思ったんだろう」 過去は甘美なクスリだ。 人を陶酔させ、未来から目を背けさせる。 過去を振り払うのは勇気がいるし、辛いことだ。 「爺さんは、リシアに前へと進んで欲しかったんだ」 「そうかもしれない」 「私は皆に助けられてばかりだ」 「周囲に恵まれたということだ」 「皆の後押しを無駄にしないようにしないとな」 「ああ」 しばらくして、俺達は部屋に戻った。 「そろそろもう一つの話をする気になったか?」 「うん」 リシアは、何かを決意した目を俺に向けてきた。 「カイム、私はここ数日で考えてみた」 「私は一体、どのような国王であるべきなのかを」 「答えは見つかったか?」 「ああ」 強く頷く。 「勉学に秀でているわけでも、経験が豊富なわけでもない」 「やり手の貴族たちから見れば、私などただの子供だ」 「しかも父上の実子ではない」 「この先、侮辱の視線が消えることはないだろう」 「私が父上に負けていないのは、国王たろうとする意志だけだ」 「いや、そこで負けてしまっては、もう何も残らない」 極めて冷徹な自己評価だった。 「歴代の国王は全て男だった」 「それは、国王は全ての国民の父たるべし、という言葉からもわかるだろう」 「ああ」 「だが、私は女だ」 「先王のやり方を真似ても、私は立派な国王にはなれない」 「だから、考えた」 リシアは意味ありげに微笑む。 ……なんだ? 「カイム、お前は私の部屋に忍び込んできた時、言ってくれたな」 「俺の物になってくれ、服を脱いでくれるか、と」 「確かに言った」 「だが、それは国王の話のどこに関係がある?」 「カイム」 「その言葉を今一度、言ってくれないか」 「はあ?」 俺に抱かれるとでも言うのか。 いきなり何を言い出すんだ。 「あれは、お前を挑発するために言ったことだ」 「言葉通りの意味じゃない」 「なら、今度は本来の意味で言ってくれ」 本気なのか。 「お前は国王だ」 「軽々しくそんなことを言うな」 「言っただろう、先王のやり方を真似ても駄目だと」 「私は女だ」 「全ての国民の父にはなれない」 「ならば私は、全ての国民の母になる」 そういうことか。 「人の母にならねば、その、国民の母にもなれないだろう」 「だがまずは、……こほん、女にだな、なってみたい」 「それから妻になって……母はその後だな」 リシアを見ると、恥ずかしそうに目を逸らした。 筋が通っているようで無茶苦茶だった。 いろいろと理由を付けるあたりはリシアらしい。 「だから俺に、お前を抱けと?」 「短絡的過ぎる」 「もし子供ができたら、貴族たちが本当に納得すると思うか?」 「奴らに、国民の母となるために必要だったとでも言うのか?」 誰が納得するというのだ。 「何か問題があるか?」 「あり過ぎて困る」 国王が契る人間を独断で決めるなど、政治的にも損失が大きい。 「私は、自分が選んだ相手と共に歩む」 「政略結婚などしないし、私が決めた相手には誰にも文句は言わせない」 リシアが一歩近づいてきた。 「それが俺か」 「ああ、そうだ」 「何故俺を選ぶ?」 リシアは悲しげな顔をする。 「わからないのか?」 「何も知らなかった私に助言をくれて、落ち込んだ私を励ましてくれて」 「絶望の淵にあった私を救い出し、逃げようとした私を叱り、立ち向かう勇気をくれた」 「誰のことだと思う? 全部カイムのことだぞ」 「今の私があるのは、お前のお陰だ」 「私と共に歩む男を選ぶとしたら」 「カイム、お前を置いて他にはいない」 リシアの目には恥じらいと、それを遥かに凌駕する強い決意があった。 「リシア……」 「カイム、お前が好きだ」 「私には、お前以外の男は選べない」 リシアが手を伸ばし、俺の服を掴む。 薄明かりの中、リシアは潤んだ瞳で俺を見つめていた。 その懸命な姿に胸の奥が熱くなる。 「傍にいよう、ずっとな」 「カイム……」 リシアが胸の中に収まった。 「私の全てを奪ってくれ」 「私にしたいと思うことは何でもしてくれていい」 「いいんだな?」 「もちろんだ」 俺の頬に手を沿え、引き寄せようとする。 「何も知らなくても、手加減はしない」 「ふふ、そのくらい強引に求めて欲しいと思っていた」 「お前になら、泣かされてもいいぞ?」 リシアをぎゅっと胸の内に抱きしめる。 ふわりと、鼻腔の奥に花のいい香りが漂ってきた。 香水をつけていたらしい。 リシアの控えめで可愛らしい主張に、言いようのない色気を感じる。 「リシア」 「好きだぞ、カイム」 俺はリシアを強く抱きすくめ、唇を奪った。 「んっ……ふっ……」 「ちゅっ、んっ……あん……」 リシアの唇を味わう。 国王だからと、今までずっとリシアへの想いから顔を背けてきた。 だが、もうその必要はない。 「んちゅっ……ふあっ、んんっ……」 「くう、んっ……んむ……」 リシアの柔らかな唇を楽しみ、溢れてくるリシアの唾液を味わう。 「ちゅるっ、ちゅっ……んっ、はあっ……」 「んっ……カイム、苦しいぞ」 「息をしていいんだ」 「そ、そういうものか……」 「だが、息がかかるのは、何か恥ずかしいな」 頬を染め、可愛いことを言う。 再びリシアの唇を吸う。 「んんっ……はっ、んくっ……」 「ちゅっ、んっ……んんっ、んっ……?」 俺達の唾液が混じり合う。 リシアが喉を動かし〈嚥下〉《えんか》する。 「んっ……すごいなこれは」 「身体が溶けてしまいそうだ」 「そういうものだ」 「他のことをしたら、どうなってしまうのだろう」 「すぐにわかる」 「う、うん……少し困るな」 「これ以上お前を好きになったら、国政どころではなくなってしまうぞ」 「馬鹿」 言いつつ、再びリシアに口づける。 「ちゅっ、んちゅっ……ちゅるっ、くちゅっ」 「はっ、んんっ、くうっ……れろっ」 「ちゅくっ……んちゅっ、れるるっ、んんっ」 互いの唾液を混ぜるようにして、激しく求め合う。 俺は舌をリシアの口に忍び込ませた。 「んっ……んんっ、じゅるっ、くちゅっ、ちゅるるっ」 「ちゅうっ、んちゅっ、ぺろっ、ちゅっ、んんんっ」 リシアが俺の舌を迎え入れる。 僅かな〈躊躇〉《ためら》いがあった後、リシアの舌が俺に絡んできた。 舌のざらつきと、口腔の滑らかさを楽しむ。 「んちゅっ、ちゅくっ、ちゅるっ……んっ、ぺろっ、れるるっ、くちゅるっ」 「んんっ、ちゅっ、はくっ、んんっ、んちゅっ……れろっ……」 リシアの唇が名残惜しげに離れる。 「ちゅっ……んはあっ、はあ、はあ……」 唾液が糸を引き、二人を繋ぐ。 リシアは、とろんとした表情で俺を見つめている。 「どうした?」 「好きだ……お前が好きでたまらない」 「胸の奥が疼いて、おかしくなりそうだ」 「どうしてくれる? もうお前から離れられないぞ」 「馬鹿」 「離れなければいい」 背中からリシアを抱きしめる。 華奢な身体が熱い。 「本当だな」 「手を離さないでくれよ?」 「心配性だな、俺を信じろ」 抱きしめながら、リシアの頭を撫でる。 「あ……ん……」 くすぐったそうに、リシアが身を〈捩〉《よじ》る。 「どうした?」 「お前に、触れられているだけで……」 「う、嬉しくて……身体がおかしくなりそうだ……」 「なら良かった」 「もっと触るぞ」 「ああ……」 片手をリシアの膝に置き、太ももの奥へとゆっくり滑らせていく。 「あうっ……」 びくん、とリシアの身体が跳ねた。 「ん……くう……んんっ……」 「はあ、ん……んふ、くっ……」 指先にむっとした湿り気を感じる。 「痛くないか?」 「わ、わからない……身体の芯の辺りがもどかしい」 「何か、痺れるような……んん……」 乳房を優しく揉みながら、その先端に指を触れさせる。 「んうっっ、あっ……やあっ……」 「やっ、こんなのおかしい、どうして……」 敏感に反応する自分の体に戸惑っているようだ。 「誰でもこうなるんだ、怖がらなくていい」 「じゃあ……これでいいのだな……」 「ああ」 「良かった……お前に嫌われたら、どうして良いかわからなくなる」 初めての感覚に戸惑いながらも、リシアは必死に言葉を紡ぐ。 それが俺の胸に鈍い痛みをもたらす。 俺はリシアの秘部を、服の上からくすぐるように撫でた。 「ひゃっ……そ、そこはっ……」 「痛かったら言え」 「い、痛くは……ない……」 「あっ……んんっ、ふうっ……」 「はあ、はあっ……んくうっ……」 リシアの呼吸が荒くなってくる。 もじもじと太ももをすり合わせ、快感を堪えている。 「んっ……な、何か奥の方が変だ……」 「はあっ、んくっ……こ、声が出てしまう……」 服の上からではなく、直に触ってみたくなる。 「服を脱がすぞ」 「え……そんな、は、恥ずかしいぞ」 「大丈夫だ」 「何が大丈夫だと言うのだ」 「お前は、きっと綺麗だ」 「は、恥ずかしいことを言うな」 「脱がすぞ」 服に手をかける。 「この服、どうやって脱がすんだ?」 「首の所に留め金があるだろう」 「それを下に降ろせば、前が開く」 なるほどな。 俺はリシアの首に手をやり、留め金を引き下ろす。 留め金を降ろすと、するりと服が脱げて下着姿になった。 「あうう……カ、カイム見るな、は、恥ずかしいぞ」 リシアは羞恥で頬を染め、体をくねらせる。 「お前、最初は下着姿で歩き回っていただろ」 「あ、あれは、いろいろと事情があるのだ」 「うう、今思い出しても顔から火が出る……」 「なら良かった」 「誰でも国王には淑女であってほしいもんだ」 「お前、楽しんでいるだろう……!」 「いや」 「リシアがこんな姿を見せるのは、俺の前だけにしてくれ」 「う……そうする……」 リシアのすべすべとした肌を撫でる。 「はひゃっ……ひううっ、んんっ……」 「く、くすぐったいっ……」 リシアの腰のくびれ、へその辺り、脇腹、そして胸の膨らみに手をやる。 小さな体躯の割に、体つきはしっかりと女だった。 固くなってきた乳首を指の腹で転がす。 「く、あうっ……ああっ、んっ」 同時に、下着の上からリシアの秘部を撫でる。 中指を割れ目に沿ってめり込ませ、くりくりと刺激した。 「ひああっ……んんっ、くうっ、はあっ」 びくんとリシアの体が反応した。 「どうだ?」 「そ、そこを触られると……んっ、体が勝手に……」 「勝手に……震えて、しまう……」 リシアは、本当に素直過ぎるくらい素直だ。 聞けば律儀に答えてくれる。 「なら、もっと触ろう」 「はうっ、んうう……た、頼んだ覚えはないぞっ」 「ううっ……あっ、んんっ、はうっ……」 胸を覆っていた下着を外し、乳房を露わにさせる。 「あっ、やあっ……」 小ぶりな胸が、リシアの動きに合わせて微かに震える。 乳房に軽く触れると、弾けそうなほどの弾力で押し返してきた。 「ど、どこまで脱がす気だ?」 「全部に決まっている」 「うう……」 「こ、これは予想以上に恥ずかしいな」 顔を赤くして俯くリシア。 構わず乳房を手の平の中で弄ぶ。 「ああっ……はっ、あうっ……あっ」 「ふううっ、んんっ、んはっ……」 撫でるように指を滑らせ、リシアの乳首を刺激する。 「ひああっ……ああんっ、んくっ、んんっ」 「あっ、ああっ、やあっ……ふんんっ、変になるっ……」 「す、少し休もうっ」 俺の手を掴んで止めようとする。 「やめていいのか?」 「だ、だが……おかしくなりそうなのだ」 「そう、休憩しよう」 「ここでやめたら、女になれないぞ」 「だって、声が我慢できない……」 「しなくていいんだ」 「うう……わかった」 俺は乳房を優しく愛撫しながら、乳首を刺激する。 「んんっ……はひゃあっ、あくっ……はああっ」 「はっ、ああっ、くうんっ、んあっ……」 執拗に乳首を責められ、熱い吐息を漏らすリシア。 目の前で髪が揺れ、いい匂いがした。 「んっ……カイム、何をしているのだ……?」 リシアの髪に顔を埋め、匂いを嗅ぐ。 「いい匂いだ」 「こ、こら、やめろっ……匂いを嗅ぐなっ……」 「恥ずかしいだろっ……」 リシアはいやいやと首を振る。 「暴れるな」 リシアの秘部に指を食い込ませ、下着の上から擦る。 「ひあああっ、んああっ……んくっ、そこは……やぁっ」 「はあ、はあっ……あっ、んああっ、あくあああっ」 リシアの秘部は熱を持ち、下着の上からでもその熱さが伝わってくる。 すでにしっとりと下着が湿ってきていた。 「下も脱がすぞ」 「ま、待てっ……」 構わず秘部を隠していた下着を取りはらった。 つるんとした陰部が露わになる。 「カイム……目を瞑ってくれ」 「断る」 「め、命令だっ」 「関係ないな」 「うう……」 リシアは目を閉じて俯いてしまう。 「リシア、綺麗だぞ」 「本当か……?」 「ああ、自信を持て」 力を加減しつつ、割れ目に指を滑り込ませる。 「やっ……こら、変なところを触るなっ……」 「変じゃない」 陰部は既に熱く、ぬるりとした粘液で溢れていた。 膣口を撫で、指で愛液をすくい取る。 そのまま指の腹を上下に這わせ、陰唇を満遍なく刺激する。 「ああっ、んっ……ふっ、んんっ、ふああっ」 「はあっ……あくっ、ん、あんっ……」 堪えきれずに、リシアは体を固くする。 「お、おかしいっ、あくっ、んっ、体が、言うことをきかないっ」 指を動かす度に、リシアはびくびくと体を震わせた。 手を後ろに回してぎゅっと俺の体を掴んでくる。 「んくっ、はあっ……あっ、ああっ、くぅ……んっ」 「あああっ……んんっ、んうっ、はあっ……ふああっ」 体は熱く火照り、艶のある綺麗な肌に汗が浮かび始める。 とろりとした愛液が次々と膣口から溢れてきた。 「あっ……はあっ、んんっ、んっ、やっ、やはぁっ」 「んんっ、カイムっ……駄目っ……」 ふと、後れ髪の生えたリシアのうなじが目にとまる。 「んああっ、あやああぁぁっ!?」 俺は露わになっている首筋に吸い付き、舌を這わせた。 「な、何をするっ、く、首を舐めるなっ」 「やああっ、それおかしくなるっ、あっ、ああんっ、んっ、んんっ!」 「はあっ、ああっ……く、くすぐったいっ……」 首筋を舐め上げ、うなじに息を吹きかける。 「ひゃああっ、ああああっ、なっ……なにこれ……やっ、くうっ!」 リシアは逃れようと前に屈んで尻を突き出してくる。 俺の陰部にリシアの小さな尻が押しつけられた。 「ああっ……はあっ、はあっ……ふああっ、んくっ、はぁっ」 「んっ、ああっ、んああっ、んん……や、んんっ」 「うなじっ……だめだっ、勘弁してくれっ……ひゃうんっ」 「ひううっ、ぞくぞくするっ、んんっ……やあっ、くううっ!」 リシアはかなりうなじが弱いようだった。 「はあっ、はあっ……んんっ、はあっ……」 首筋から口を離すと、ぐったりしてこちらに体を預けてくるリシア。 俺は陰部に指を食い込ませ、クリトリスをむき出しにした。 「ち、ちょっと待てっ……」 「待たない」 「そ、そんな……んうっ、ああぁっ!」 「んん、んくっ、ふぁぁんっ、あんんっ、はあっ、あっ、んぅう……」 「んんっ、やあっ、んんんんっ……あっ、あっあっ、ひんんっ!」 クリトリスを指の腹で押しつぶす。 小さな突起を指で擦ると、リシアは体を小刻みに震わせた。 「はあっ、くっ、あああっ、はんんっ、やっ、やあっ」 「な、何か……くるっ、頭が変になるっ……ああっ、ぅああっ」 リシアの尻が動き、俺のペニスを刺激する。 衣服の中で、肉棒が隆起していく。 「ああっ、もう……んっ、あんっ、ぅああっ」 「ふああっ、あああっ、んくっ……あああっ、ああああああっ!!!」 「駄目、駄目っ……もう駄目っ……あっ、ああっ、ああああああぁぁぁぁっ!!!」 ぐっとリシアの体が反りかえる。 「ああっ……あっ……あはあっ……はあっ……」 くたりと体の力が抜ける。 「はあっ、はあぁ、はぁ……、あぅ……」 「カイムぅ……」 蕩けきった目で俺を見る。 「うう……体に力が入らない……」 「変に……なってしまった」 「感じやすいらしいな」 「初めてなのに、ここまで感じるなんて珍しいぞ」 「そうなのか」 「気持ち良くて、頭の中が真っ白になってしまった」 「カイムの物になってしまったな……」 「まだ続きがある」 「そ、そうなのか?」 「お前を俺の物にするのはこれからだぞ」 リシアの陰部を撫でる。 「か、カイムっ……ま、待て……っ」 「くっ、やっ……今は……そこは……!」 「力を抜いてくれ」 「だ、だめだっ、だめ……え……ぅ……」 「ぅあ……あっ……ああっ……んく……っ」 「んんっ、はあっ、はぁ……ああっ……」 体をくの字に折り、俺の手から逃れようと体をくねらせる。 怒張した肉棒にリシアの尻がこすりつけられた。 「リシア」 「な、何だ?」 「もう我慢しなくていいんだよな」 リシアの背を押して、壁に手をつかせた。 「あっ……」 ボタンを外し、ぱんぱんに張り詰めた肉棒を取り出す。 「そ、それは……」 「私で、興奮してくれているのか?」 「ああ」 「良かった」 「女として見られていなかったらどうしようかと思っていた」 「今の姿を見たら誰だって」 「以前、私を見ても欲情しないと言っていたじゃないか」 リシアの着替えを見ていた時のことか。 「あれは強がりだ」 「ふふっ、可愛いな」 「馬鹿を言うな」 「あ……はは」 リシアは照れ笑いを浮かべる。 「その、大きくなったものをどうするのだ?」 「リシアの中に入れる」 「え?」 大きくなった俺のペニスを見つめる。 「そ、そんなに大きな物……本当に入るのか?」 「最初は相当痛い」 「そうなのか……」 「やめるか?」 一瞬の逡巡の後、リシアは首を横に振る。 「いや、ひと思いにやってくれ」 「そうか」 「それに……」 「大好きなお前のものだ」 「例え私がどうなろうと、必ず受け入れてみせる」 「構わずお前の好きにしてくれ」 リシアの可愛らしい決意に、血流が陰部に集まる。 「ゆっくり入れるからな」 「我慢できなかったら言ってくれ」 「大丈夫だ」 覚悟はできた、と俺を見つめてくる。 「入れるぞ」 リシアの秘部に亀頭をあてがい、愛液をすくい取る。 「あっ……はあっ、んんんっ」 「やっ、ああっ……んくっ、ふううっ……」 「じ、じらさないでくれっ……せ、切ないんだっ……」 「濡らさないと痛いぞ」 「ううっ……で、でも……」 リシアの薄い愛液で肉棒が濡れ、テラテラと輝いている。 「いくぞ」 「うん、わかった」 いくらか愛液で濡れた亀頭を、リシアの割れ目に食い込ませる。 「いっ……くああっ、んんっ……!」 リシアは苦痛に顔を歪ませる。 「む……」 リシアの膣内は狭く、押してもなかなか入っていかない。 かなり強引に押し込まないと無理そうだ。 「は、入ったのか……?」 「まだ先の方だけだ」 「もっと奥まで入れることになる」 「な、なら早くやってくれ」 「止めないで、一気に奥まで入れていいぞっ……」 そう言いながら、リシアは涙を滲ませている。 「痛いんじゃないのか」 「ぜ、全然平気だっ……」 「強がりを言うな」 「カイム、続けてくれ」 「途中でやめたら、私はきっと後悔する」 「……わかった」 「少し我慢してくれ」 リシアの体を押さえ、リシアの膣内へ肉棒を入れ込んでいく。 「あっ……ぐっ、んくうっ、ああああっ」 「はあっ、あっ……あああっ、んんんんんっ」 歯を食いしばり、堪えるリシア。 ようやく半分くらい収まった。 「はあっ、つうっ……んんんっ、あくうっ……」 「半分入ったぞ」 膣口から破瓜の血が垂れてくる。 「だ、大丈夫……もっと、奥までっ……」 「わかった」 ここまで来てやめるわけにはいかない。 俺は弾みを付けて、さらに肉棒を奥へと突き入れる。 「あああっ、くあああああああぁぁぁぁっ!!!」 こつんと行き止まりに突き当たる。 全部は入りきらなかったが、これで一番奥まで行った。 「リシア、入ったぞ」 「ほ、本当か?」 「私は女になれたのか……?」 「ああ、頑張った」 「私は……カイムの物になったんだな?」 「そうだな」 「う……ぐすっ……カイム……」 「泣くな」 「だ、だって……きちんとお前を受け入れられたんだ」 「こんなに嬉しいことがあるか」 リシアの瞳から涙がこぼれ落ちる。 「……喜びすぎだ。こっちが照れる」 「カイム」 「それに、これで終わりじゃない」 「そ、そうなのか……?」 きょとんとするリシア。 やはりわかっていなかったか。 「これから、どうするんだ?」 「入れたまま動かす」 「な、なるほど……」 「それなら、早く動かしてくれ」 「遠慮することはない」 「だがな……」 入れただけでも痛いなら、動かしたらもっと痛いはずだ。 「む、無理なのか?」 〈縋〉《すが》るような目つきで見つめられる。 「そんなことはない」 「じゃあ早く気持ち良くなってくれ」 「わかった」 リシアの優しい微笑みに促されるように、俺はゆっくりと肉棒を引き抜いていく。 「あっ……んんっ、んくっ……」 亀頭の辺りまで引き抜いたら、再びリシアの中に収めていく。 「あああっ、んんっ、はあっ」 「んんっ、あん、くあっ……ふうっ……」 「あっ、ああっ、んっ、ひああっ」 一番奥の突き当たりを亀頭が突くと、痛いくらいにリシアの膣が締まる。 カリ首の辺りに痺れるような快感が走った。 「あああっ、んくっ、お腹の奥の方が、いっぱいっ……」 「すごく、変な感じだっ……」 俺はゆっくりと抽送を繰り返す。 「ふううっ、あっ、んあっ」 「んんっ、はあんっ……いたっ、くうんっ」 時折顔をしかめる。 「大丈夫か?」 「んっ、ああ、少し痛いだけだっ……」 「それより、奥を突かれると背筋がぞくっとする」 少しずつ感じ始めているのかも知れない。 「ゆっくり動かすからな」 愛液が馴染むよう、撫でるように膣壁をかき回す。 「んっ、んんっ……優しいな、カイムは……」 「でも大丈夫だ」 「もうちょっと激しく動いていいぞ」 痛みとも快楽ともつかぬ顔で、俺を見上げてくる。 「わかった」 「んくっ……あっ、んあっ、はあんっ」 「あっ、あんっ……カイムっ、いいぞっ……」 「んむうっ、んんっ……あっ、やあっ、あああっ」 リシアの声に、艶のある響きが混じり始めた。 「あっんんっ、はあっ、はあっ……やあっ、あくっ、んん、ぅうんっ」 「あうっ、あ、熱い……カイムのが、入ってるっ……」 膣奥まで肉棒を送り込むと、熱くじんわりとした快感が肉棒に走る。 もどかしい快楽に、思わず奥の壁を強く突いてしまう。 「ひゃああっ、んんっ……あくっ、あっ、ん、はぁんっ……」 ぐっと肉棒の締め付けが増す。 動かずにはいられない。 「すまん、動かすぞ」 「んっ……?」 膣内から一気に肉棒を引き抜き、奥まで突き入れる。 「くああああっ、はんっ、あくうっ、ああんっ、ひゃうぅっ」 「い、いきなり早いっ……」 「我慢できないんだ」 「あっ、んんっ、そうか……ふあっ、ならもっと激しく、動いていいぞっ……」 リシアの腰ががくがくと揺れる。 ぎちぎちに詰まった肉壁が吸い付いてくる。 途轍もない快感だった。 ずちゅっ、ちゅくっ、ぐちゅっ 「ああっ、んっ、あっ、あっあっ、あああっ、はあっ、んんっ」 「あんっ、くうっ、はあっ……お、おかしくなるっ……」 「か、カイムっ……カイムっ、カイムっ……」 一心に俺を求めて名を呼ぶ。 リシアが猛烈に愛しく思えてくる。 「はあっ、んううっ……あっ、やあっ、すごいっ、何か来るっ……」 「あっ、あああっ、んうっ、んんっ、あんんっ、うぁ、あああっ」 リシアの嬌声は、完全に快楽に染まっていた。 その艶めかしい声に、熱くなった根本から快感の波が昇ってくる。 「リシア、いきそうだっ」 「ああんっ、んんっ、ど、どうなるのだ……?」 俺はリシアの奥を抉るように、肉棒をぶつけていく。 「ああああっ、んんっ、奥、奥がっ……き、気持ちいいっ……」 「くうんっ、んんっ、やあっ……あふっ、ふあんっ、んくっ、ああうっ」 「あっ、駄目、何かっ……ああっ、あっ、ああっ、んああっ」 リシアの膣内がうねり、俺の物を一際強く締め付けてくる。 「いくぞっ」 「ああっ、あっ……き、来てくれカイムっ……」 「ああああっ……飛ぶっ、やああっ、んんっ、はああぁぁぁっ!」 「あ……ああっ、くんんんっ……あっ、ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」 どくどくどくっ、びゅっ、びゅびゅっ、びゅくっ! びゅるっ、びゅくっ、びゅっ! 「ふあぁぁ……んぅっ……くはぁぁ……っ」 溜まっていたものを、一気にリシアの膣奥に放出した。 びゅっ、びゅるっ、どくくっ! 「ああっ……あくっ……はあああっ、あっ、あああっ……」 「あ、熱い……お腹の奥にすごく熱いものが……溢れてる……」 リシアの膣内でびくびくと肉棒が脈を打つ。 次々と、熱い塊をリシアの中に解き放っていく。 「ふあっ、んんっ、すごく……気持ちいいっ……」 リシアは体を震わせながら、俺の精液を受け入れる。 「んっ……カイム、が出したのか……?」 「ああ、気持ちが良かった証だ」 「そうか……なら良かった……」 俺のペニスからさらに俺から搾り取ろうと、リシアの膣内が脈を打つ。 耐えられないほどの快感に、体が仰け反る。 「くっ……」 「ふふ、カイムのものが私の中で動いているな」 「あまり締め付けないでくれ」 「私は何もしてないぞ」 何もしてなくてこの締め付けなのか……。 「くっ、一旦抜くぞ」 「あ、んんっ……」 ちゅぽっ 俺の陰茎が抜けた途端、リシアの膣内から精液がこぼれて落ちてきた。 「すごい……この白いのがお前のか」 「ああ、そうだ」 とことどころ赤く染まった白濁は、リシアの太ももを伝って流れていく。 小さな体躯から精液が溢れてくる光景は、淫靡の一言だった。 「素晴らしいな」 「契りを結ぶことが、こんな幸せな気持ちになれるものだなんて知らなかった」 「こんなに良いと毎日でもしたくなるな」 リシアが微笑みかけてくる。 リシアと毎日……。 俺のペニスが、どくんと脈を打って大きくなる。 「あ……カイムのそれ、また大きくなってないか?」 「そういうものだ」 「え?」 俺はリシアの秘部に肉棒を押し当てる。 「あっ、何を……」 力を入れ、再びリシアの膣内に侵入していく。 ずっ、 「んん……っああぁぁっ……はあぁ……ん……っ」 ちゅるううぅぅっ 「……ぅ……ぅああああっ……くうんっ、ふあ、ああぁぁ……」 リシアの小さな体が震える。 精液が押し出され、リシアの膣内から白濁が溢れて出てきた。 「ま、まだするのか?」 「一度じゃ駄目みたいだ」 「それは……私に魅力を感じているということか?」 「ああ、お前は可愛すぎる」 「う……嬉しいけど恥ずかしいな……」 「お前に可愛いと言われると、体の奥が熱くなる」 「リシア、好きだ」 「突然どうした」 「私もカイムのことが大好きだぞ?」 「もっとお前を感じていたい」 「うん、わかった」 「好きなだけしていいぞ」 俺の肉棒を膣内に収めながら、リシアは優しく微笑む。 その笑みにあてられ、俺は激しく腰を動かし始める。 「ああっ、んっ、あくうっ、ふんんっ、あっ、ああああっ」 「きゃあっ、くうっ、んんっ、やあんっ、ああっ、ふああっ」 「んんっ……はんんっ、あっ、ああっ、あっあっあっ、あんんんんっ」 精液でぬかるんだ膣内は滑りが良くなり、さらに快感が増している。 これではすぐに達してしまいそうだ。 「ふあっ、ああっ、んんっ……はあっ、んはっ、くあああっ」 「やっ……んんっ、あんっ、すごい、気持ちいいっ……」 「溶けて、しまいそうだっ」 リシアは体中が火照り、桜色に染まっていた。 「くああっ、あっ、んあっ……はあっ、んっ、んんっ、あんんんっ」 「カイム、好きだっ……」 「リシア……っ」 「ああ……カイム、カイムっ……カイ、ムぅ……っ!」 ずちゅっ、ぐちゅっ、じゅっ 腰を激しく打ちつけ、リシアの膣内をかき回す。 「あああっ、はあっ、ふあんっ、あうっ、くううっ、んはっ、あああっ」 「あ、あああっ、あっ、ま、また頭が、飛びそうだっ」 「んんっ、んっ、ううっ、もう、気持ち良くてっ……耐えられないっ」 リシアの膣内が圧力を増し、俺の肉棒を強く締め上げてくる。 「だ、駄目っ、あっ、んんっ、はっ、ああああっ、もう、もうっ……!」 「俺もだっ」 甘く溶けるような快感が、肉棒を包み込む。 「あっ、ふああっ、ああっ、あっ、あああっ、ああああっ!」 「もう……我慢できないっ」 「んんんっ、はあっ……んくっ、あああっ、くううううんんんっ!!!」 「あっ、あああっ……あんっ、あっ……あああああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」 びゅくっ、びゅくくっ、びゅるっ、びゅっ! どろどろの精液を再びリシアの膣奥へ送り込む。 「ああんっ……はあっ、はっ、あああっ、んくっ……」 「ふあっ……あはあっ、はあっ……はあ、はあっ……んあっ……」 「来てる……カイムのがいっぱいっ……」 「すごい、幸せだっ……」 「ぐっ……」 びゅくっ、びゅうっ、びゅるるっ! リシアの膣壁がひくつき、ペニスから精液を搾り取る。 「んんっ、まだ出てるぞっ……」 無意識にか、リシアが腰が揺れる。 「ま、待てっ」 少し動くだけで快楽が襲ってくる。 「ど、どうした……?」 「も、もう十分だ」 「頼むから少しじっとしていてくれ」 「んー……」 不服そうな顔で見上げてくる。 「どうしてだ?」 「気持ち良くないのか?」 「いや、気持ち良すぎておかしくなる」 「別にいいではないか」 「私なんて何度もおかしくなったぞ」 ううん、どう説明したものか。 「男と女は少し違うんだ」 「ふうん」 納得してなさそうな顔をするリシア。 ちゅるるっ リシアの膣内から肉棒を引き抜く。 同時に、白濁の液体が大量に流れ出てくる。 「うわ……またいっぱい出したな」 「こんなに出されると、私の中が真っ白になってしまうぞ」 「お前が気持ち良すぎるからだ」 「うふふ……それは嬉しい」 リシアが微笑む。 いちいち仕草が可愛い。 「良かったぞ、リシア」 「良かった」 俺はリシアを立たせて、キスをした。 事が済んで、二人でベッドに寝転がる。 「カイム」 リシアがキスを催促してくる。 「ん……んふ……あむ……」 「んんっ……」 リシアは心底嬉しそうに微笑む。 「これで私は、正式にお前の女になったんだな?」 「そういうことになるな」 「そうかそうか」 「く、くくくっ……」 「ふふふっ……あははっ、あははははは……」 リシアが妙な笑い声を上げる。 「どうした?」 「ついにお前は私を物にしてしまったなっ」 「もう逃げられんぞ!」 「何を言っているんだ」 「わからないか?」 「お前は国王の私を、ここまで虜にしてしまったのだからな」 「その責任を取ってもらおうということだ」 「俺に何をさせるつもりだ」 交換条件付きとは聞いていなかったが。 「さっきも言ったが、私はすべての国民の母になるつもりだ」 「その手伝いをしてもらう」 「母……」 すごく嫌な予感がする。 「これで私は子供を授かることができるのだろう?」 「お前には頑張ってもらい、もっとたくさんの子供を作るのだ」 「気が早すぎる」 「そうか……」 「確かに、母となる前にカイムには私の夫となってもらわねばな」 「夫?」 「契りを交わしておいて、夫にならずに済むと思っていたか?」 「思っていた」 俺とのことは思い出に留め、身分の釣り合う貴族と結婚する。 それが妥当だと思っていた。 「残念だったな」 「私は国王だ、そんなこと許されない」 挑発的な笑みを浮かべて迫ってくる。 「突然すぎる」 「さっきまで私のことを可愛いと言ってくれていたではないか」 「あれは嘘だったのか?」 「嘘じゃない」 「俺の物にしてやるって言ってくれたじゃないか」 「あれは何だったのだ?」 「それも……嘘じゃない」 「だったら問題あるまい」 思わずため息をつく。 抱いてしまったのだ、覚悟を決めるしかない。 「わかった」 「国王だろうが何だろうが、お前はもう俺のものだ」 「本当か!?」 「本当だ」 リシアは裸のまま抱きついてくる。 「カイムっ」 「何だか嵌められたような気もするが」 「ふふっ、私だってたまには謀ったりするのだぞ?」 「お前に言われっぱなしでは〈癪〉《しゃく》だからなっ」 「これからお前には、私の夫となるべく頑張ってもらう」 「言っておくが、浮気は許さないぞ」 「したらどうする?」 「……泣く」 それは困るな。 「馬鹿な奴だ」 「念押しなどしなくても、浮気などしない」 「お前を悲しませたくないからな」 「んっ、ちゅっ……カイムは優しいなっ」 俺の頬にキスをしてくる。 リシア──現国王の夫になる。 牢獄で育った俺に、できるだろうか。 俺は、国王となったリシアと釣り合う男になれるだろうか。 「まあ、頑張ってみるさ」 王城に住み始めてからしばらく経った。 初めは違和感があったここでの生活にも、今ではだいぶ慣れてきている。 城内をぶらぶらしていると、巡回の近衛兵に声をかけられる。 「カイム様」 「先程、国王陛下がカイム様を探していらっしゃいました」 「リシア様が?」 「ええ、特にお急ぎではないとのことでしたが」 「わかった」 「はっ」 近衛兵と別れる。 何の用だろうか。 ま、急ぎでないのなら放っておこう。 俺は庭へと出る。 リシアが創設した内偵機関は順調に機能していた。 俺は数人の部下を持ち、実務は彼らに任せている。 ずっと一人で仕事をしてきた俺だ。 部下を持つなど柄ではないと思っていたが、何とか軌道に乗せることができた。 内偵機関は表向き存在しないことになっている。 水面下では慌ただしく動いてきたが、表向きには単なる居候のままだ。 仕事もなく、毎日ほっつき歩いているだけの男。 しかし、どうやら国王陛下の〈寵愛〉《ちょうあい》を受けているらしい。 腰巾着、道化、愛人── それが王城での俺の評価だった。 仕方のないことだったし、やはり貴族などになるよりは性に合っていた。 「カイム、ここにいたか」 後ろからの声に振り返る。 「今日も会議か?」 「今終わったところだ」 「ご苦労なことだ」 リシアが国王になってからは、ほぼ毎日会議が行われている。 そのため貴族たちも手を抜けなくなっているようだ。 「システィナが見当たらないな」 いつも側にいるはずのシスティナの姿が見えない。 「大広間で話し込んでいる」 「不用心だな」 「城内とはいえ、一人で歩くのは控えた方がいい」 執政公が死んだ今、ルキウスに敵対する者はほとんどいない。 だが、いつ何が起こるかわからないのも貴族の世界だ。 「気をつけよう。忠告感謝する」 「それで、どうした?」 「たまたまお前の姿が見えたので、近況でも聞こうと思ったのだ」 「相変わらず無為に過ごしている」 内偵機関のことは、全ての貴族に対して秘密にされている。 「大の男が勿体ない」 「まったくだ」 「そっちの研究はどうだ?」 「順調に進んでいる」 「このところは、地震も減っているだろう?」 「確かにな」 執政公は次の崩落が迫っていると言っていたらしいが、ルキウスに任せていれば安心できそうだ。 「ティアはどうしている?」 「積極的に協力してくれている」 「体調も良好だ」 「なら良かった」 「政務は?」 「順調と言えば順調だが、気にかかることがあってな」 ルキウスは思案顔になる。 「ここ最近、陛下は独自に調査を行っておられるようだ」 「私ですら知らない事実を、突きつけられることも少なくない」 「いいことじゃないか」 「あいつも色々と考えているんだろう」 「カイム、お前は何か知らないか?」 「お前が知らないことを、俺が知っていると思うか?」 「リシア本人に聞いてくれ」 「そうか」 「リシアが貴族の手綱を握ってくれていれば、あんたは助かるんじゃないか」 「もちろんだ」 「政局に費やす時間を、研究に向けられるからな」 「何よりだな」 「そう、カイムに伝えておきたいことがあったのだ」 「特別被災地区の関所の通行規制が緩められることになった」 「段階的に通行を増やし、最終的には関所を撤廃することを考えている」 「牢獄が開放されるか」 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》から10数年。 ようやく……ようやくだ。 「これは陛下のご提案だ。聞いていなかったか?」 「いや、初耳だな」 本当のことだ。 どうやら俺にも知らせずに案を練っていたらしい。 あいつも独り立ちしていくのだな。 「時に、カイム。陛下のご様子はどうだ?」 「さっきまで一緒に会議をしてきたんじゃないのか?」 「違う、お前と陛下とのことだ」 「別に何もないな」 「そろそろ、先のことを考えた方が良いのではないか?」 「陛下のお気持ちは、すでに定まっているだろう」 「いつまでも、お応えしないのは失礼ではないか」 「まあな」 「身分を気にしているのか?」 「いや、リシアから爵位をもらえば身分上は問題ない」 「だが、それを公私混同と〈揶揄〉《やゆ》する貴族も出てくるだろう」 「リシアの治世が落ち着くまでは、様子を見ようと思っている」 「なるほど」 「では、私の父上、ネヴィル卿の養子となるのはどうだろう?」 「ネヴィル卿の息子であれば、身分も申し分ない」 いきなりの話に驚く。 「俺が、ネヴィル卿の養子に?」 「父上は昏睡状態が長く続いている」 「私の一存でどうとでもなる状態だ」 ルキウスの提案は魅力的だった。 少なくとも、結婚のためにリシアから爵位をもらうよりは批判が少ないだろう。 「だが、お前が批判を受けるんじゃないか」 「発言力を高めるために、俺を無理矢理身内にしたと」 「無論な」 「お前にだから言うが、批判は受けても私の見返りは大きい」 「身内が国王の夫になるわけだからな」 ルキウスが頷く。 遠慮はしなくていいということだろう。 「あんたとまた兄弟に戻るのか」 「ぞっとしない話だな」 「お互いにな」 二人で苦笑する。 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》で生き別れた俺達が、巡り巡ってまた兄弟に戻ろうとしている。 不思議な因果だ。 「何を笑っているのだ?」 「これは国王陛下」 ルキウスに合わせて俺も膝をつく。 「何を話していたのだ?」 「秘密でございます」 「男同士で密談か。どうせロクなことではあるまい」 「話がまとまりましたら、カイムより陛下のお耳に入るかと」 「まあいい」 「カイム、下層と牢獄の視察に参る。ついてこい」 「承知しました」 「恐れながら陛下、先日も視察されたばかりかと存じますが」 「今後のことを考えれば、牢獄の様子は何度でも直に見ておきたい」 「問題が発生してからでは手遅れになることも多いからな」 「夕方前には着きたい」 「急ぐぞ、カイム」 リシアに促され、立ち上がる。 「じゃ、行ってくる」 「先程の件はどうする」 「考えておく」 ルキウスに別れを告げ、リシアと共に歩きだした。 「カイム、先ほどの件とは何だ?」 「秘密だと言っただろ」 二人きりになったのを見計らい、いつもの口調に戻す。 「私に秘密を作るのか?」 「それはお互い様だ」 「何の話だ?」 「牢獄開放の話、俺は何も聞いていなかったぞ」 「ああ、その話か」 リシアは気まずそうな顔をする。 「びっくりさせたかったのだ」 「お前がいなくても立派に国王の勤めを果たせるということを見せたかった」 「なるほど」 「なあ、リシア」 「もし俺が牢獄に帰りたいと言ったら、お前はどう思う?」 「帰りたいのか?」 別に好きで帰りたいわけではない。 だが、もしリシアが俺を必要としないなら、俺は王城を去るべきだろう。 庭師の老人がそうしたように。 「カイムが牢獄に帰るのなら、私も牢獄に行こう」 予想していた答えだった。 「自分の立場を考えろ」 「わかっている」 「だが、それでもだ」 リシアは強い意志を秘めた瞳で見つめてくる。 その返答に安堵する自分がいた。 が、急に後ろめたい気持ちになってくる。 リシアに変なことを言わせてしまった。 「何か言ってくれ」 「いや、すまなかった。言ってみただけだ」 リシアが独り立ちしていく姿に、もしかしたら寂しさを覚えたのかもしれない。 みっともない限りだ。 「ならいいが……」 「まさか娼館が恋しくなったのではないだろうな」 「馬鹿」 「浮気は許さないぞ」 「カイムには私がいるのだ」 「昼間から恥ずかしいことを言うな」 「言わせたのはカイムではないか」 「ルキウスと何か相談したり、牢獄に帰りたいと言ったり、気が気ではない」 リシアが口を尖らせる。 「ルキウスとのは、男同士の話だ」 「ふん、仲の良いことで結構だ」 「もうよい、視察に行くぞ」 リシアが外套を翻す。 「早くしないと時間がなくなってしまう」 「視察というのは嘘だろう?」 「な、何を言う」 「今日は市が立つ日でな」 「偶然だ」 以前、お忍びで牢獄に行ってから、リシアは市の魅力に取り付かれていた。 大きな市があると、視察がてら下層や牢獄へ向かう。 明らかに、視察より買い食いの方が目的だった。 そこまで含めて視察と考えることも可能だが。 「遊び歩いているように見えるかもしれないが、視察は政治のためだ」 「型どおりの視察では、民衆の暮らしの深いところは見えてこない」 「わかったわかった」 じっとりとした視線を向けてくる。 「信じていないな」 「いやいや、虚実取り混ぜて弁明とは、随分と世慣れてきたものだ」 「弁明ではない」 「なら、夕方前に着く必要もないだろう」 「……お前は本当に意地悪だ」 リシアが口の中で呟く。 視察から戻って来たのは、夜が更けてからだった。 貴族たちはもとより、召使いも部屋に戻っている時間だ。 着替えと入浴を済ませ、リシアの部屋に行く。 「遅くなってしまったな」 「リシアが、出店の親父と話し込んでいたせいだな」 「仕方あるまい、話しかけてくるものを無下にもできん」 リシアは話しやすい雰囲気があるらしく、行く先々の店でつかまった。 彼らとの会話には、庶民の暮らしぶりが色濃く滲んでいる。 政治を行っていく上で、きっとリシアのためになるだろう。 「ふう、足が疲れたな」 リシアが、椅子に座ってふくらはぎを触る。 「召使いを呼んでこよう」 「もう夜更けだ」 「寝ずの番がいるだろう」 「構うな」 「代わりに、お前が揉んでくれないか」 「自分でやれ」 「少しくらい良いではないか」 「お前な」 「わからない奴だな」 「もう少しここにいろと言っているのだ」 頬を染め、視線を逸らして言う。 「……わかった」 「俺が揉んでやる」 「本当か?」 「ほら、足を出せ」 リシアが嬉しそうに脚を差し出してくる。 「では、謹んでお揉み致します」 「何だか緊張するな」 「どうしてだ」 「お前に優しくしてもらえるのは久し振りだ」 「いつも優しい」 「自分で言うな」 リシアの脚を取り、揉んでやる。 小さいが、柔らかな脚だ。 〈脛〉《すね》からふくらはぎ、内ももの辺りまで満遍なく揉みほぐす。 リシアの身体から力が抜けていく。 「ん……はあ、気持ちいいな……」 「この辺りはどうだ?」 太ももの内側を揉む。 「ひあっ……ん、くすぐったい……」 「そ、そこは揉まなくてよい」 「そう言うな」 「あ……んん……んくっ」 艶っぽい声を上げるリシア。 屈んでいるため、リシアの下着が見えていた。 「ば、馬鹿……どこを見ている」 「さあな」 「や、やめろ、恥ずかしい」 「そう言うな」 俺はリシアに顔を近づけ、キスをする。 「んっ……ふあっ、んちゅっ、ちゅるっ……」 「あくっ、んっ……んんっ、あんっ」 「んんっ、ま、待て……これ以上は……」 「これ以上は何だ?」 「そ、その……止められなくなるから駄目だ」 「止めなければいい」 俺はリシアの足を持ち上げた。 「きゃっ……」 「な、何をするつもりだ?」 「何だと思う」 「また……するのか?」 リシアは目を泳がせる。 「お前はいつも、唐突に求めてくるな」 「私が望んでいるときは無視するくせに……」 「はっきり言ってくれなくてはわからない」 「言えるわけがないだろう、馬鹿」 リシアが不貞腐れた顔をする。 「今はどうだ?」 「今は……」 「今も、してほしい」 可愛いことを言ってくれるな。 「わかった」 「う、うん……」 俺はリシアの小さな唇にキスをする。 「んっ……ふうっ、んんっ……あんっ……」 「んくっ、ちゅっ……あっ……」 ついばむようにして、リシアの唇の柔らかさを楽しむ。 「んちゅっ、くちゅっ……はんっ、んんっ……」 「んむっ……ちゅるっ、はあっ……あんっ、んっ」 リシアは俺の頭を抱きしめ、引き寄せてくる。 「んちゅっ、ふあっ、んっ……んくっ、ちゅくっ」 「んんっ、れるっ……ちゅっ、くちゅっ、ちゅるるっ」 「はっ、んくっ……カイム、好きだ」 「俺もだ」 「本当か?」 「どうして疑うんだ」 「お前はいつも飄々としていて、何を考えているのかわからない」 「目を離すと、どこかに行ってしまいそうで不安なんだ」 「どこにも行かない」 「絶対だぞ」 再びリシアと唇を重ねる。 「はむっ、んくっ……ちゅるっ、ちゅくっ、ちゅっ」 「れるるっ、ちゅっ、んちゅっ……くちゅっ、はっ、あんっ」 リシアの舌が俺の中に忍び込んでくる。 「んくっ、ちゅるるっ、れろっ……はくっ、んちゅっ」 「んんんっ、はっ……んむっ、ちゅくっ、れろろっ、ちゅっ」 俺達の舌が、互いを求めて動き回る。 「くうんっ、ちゅるっ、はくっ……んちゅっ、ちゅくっ、んんっ……」 「れろっ、れるるっ、んちゅっ、じゅるるっ……んっ、はあっ」 口を離してリシアと見つめ合う。 「上手くなったな」 「わからん……必死にやっているだけだ」 「でも、お前が喜んでくれるなら良かった」 俺はリシアの秘部を見つめる。 「ここ、触っていいか」 リシアが小さく頷く。 下着の上から、割れ目にそって指を這わせる。 「あっ……はっ、あくっ……あんっ」 「やっ、んんっ……あっ、はあっ……」 「気持ちいいか?」 「ああっ、う、うんっ、気持ちいいっ……」 体をくねらせ、快感に耐えるリシア。 「はあっ、んっ……あんっ、んふうっ、んんっ」 「あっ……あんんっ、んっ……カイムの指、気持ちいいっ……」 リシアの秘部を捏ね回しながら、口づけする。 「あっ……ふんっ、んんっ、んくっ、あんんっ、んんんっ」 「んんんっ、んんっ……あっ、ふんんっ、んむっ、ちゅっ、ちゅるっ」 小刻みに体を震わせながら、俺の唇に吸い付いてくる。 「はっ、んくっ……んちゅっ、ちゅくっ、ちゅるるっ、ちゅっ……」 「れるるっ、ちゅっ、んんっ、はくっ……じゅるっ、ちゅぽっ、ちゅるるっ」 リシアの鼻息が俺の頬をくすぐる。 お互い唾液に塗れながら唇を求め合う。 「んっ、はあっ……んむっ、ちゅっ、じゅるるっ、くちゅっ」 「んくっ、あっ、んんっ……ちゅるっ、はっ……はあっ」 「あっ、んんっ……息、苦しいっ……」 悶えているリシアから口を離す。 下着は湿り気を帯び、動かす度にくちゅくちゅといやらしい音がした。 「濡れてるぞ」 「カイムが触るからだ」 「下着が汚れてしまったではないか」 「男には、そういうところが可愛く見えるんだ」 「うう……」 俺は下着の上からリシアの膣口を刺激する。 「やっ、んんっ、ふああっ、あっ……ああっ」 「ああっ、くうんっ……あっ、ああっ、あんっ、んんっ」 くちゅっ、ぴちゅっ、ちゅくっ 秘部をこねくり回し、下着ごと膣内に指をめり込ませる。 粘膜の熱が下着ごしに伝わってきた。 「んんっ、んくっ……はっ、声が抑えられないっ……」 「外に聞こえるぞ」 「あんっ、そ、それは困るっ、んっ」 「だったら聞こえないように頑張れ」 「む、無理だっ……んくっ、あんんっ、ふああっ、んっ……」 「んっ、勝手に声が出てしまうっ……んあっ、くんんっ」 指でリシアの膣口を刺激しながら、リシアの上着に手をかける。 「あっ……」 上着の前を開き、胸を露出させる。 「あっ……んんっ、やっ、胸は、駄目だ……んんんっ」 リシアの胸を揉みながら、割れ目を押し開いて指を埋めていく。 「やあっ、んんんっ……んくっ、あっ、ああっ」 「はっ、あふっ、んんっ……あんっ、ああっ、んああっ」 「少し声を抑えろ」 最近リシアは、行為に慣れてきたのか声が大きくなっている。 外にも聞こえているかもしれない。 「だが、出てしまうものは……仕方がないだろう」 肘掛けをぎゅっと掴み、リシアは体を震わせる。 「んんっ、あんっ……お前が悪いのだ、私をこんなにして……」 「可愛いぞ、リシア」 「ば、馬鹿っ……」 顔を真っ赤に染めて俯く。 俺はリシアの乳房に顔を近づける。 「んんっ、あっ……な、何をするつもりだ……?」 俺は乳首を口に含む。 「ひゃあっ、はあっ、んくっ……そ、それ駄目っ……」 「んんっ、気持ち良すぎて、おかしくなるっ……」 ちゅっ、ちゅくっ、ころっ 乳首を舌で転がし、軽く甘噛みする。 「きゃあんっ、くああっ……あんんっ、噛むの駄目っ……んんんっ」 「はんんっ……んくっ、ああっ、はあっ、くううっ」 「き、気持ちいいっ……」 そうか、噛まれるのが好きなのか。 俺は固くなった乳首を舌で潰し、吸って大きくしてを繰り返す。 「あああっ、んくっ、あっ……やあっ、んんんっ、はあっ」 「指、気持ちいいっ……胸も駄目っ……やっ、こんなの駄目ぇっ……」 「んんっ、くうっ……これ以上されたら、もういってしまうっ……」 がくがくと腰を震えさせるリシア。 このまま果てさせてしまうのも面白くない。 俺はリシアの乳首から口を離す。 「あっ、はあっ、はあ、はあっ……はあっ……」 「ん……カ、カイム……どうしたのだ?」 「もっと続けて欲しかったか?」 「……」 リシアが顔を赤く染めて俯く。 「随分感じてるようだな」 リシアの下着は愛液で濡れ、うっすらと透けてしまっている。 愛液が溢れ、椅子に染みができていた。 「カイムが触るからだろう」 「責任を取れ」 いいことを思いついた。 俺はリシアの濡れに濡れた下着を脱がす。 リシアの陰部が露わになる。 割れ目からは陰唇が顔を見せていた。 「ん……そんなに見ないでくれ」 「まだ気にしているのか」 「身体に自信がないのだ」 「綺麗だ」 愛液に濡れ、陰部は光を反射していやらしく輝いている。 割れ目を開くと、ひくひくと蠢く膣口が見えた。 「も、もうするのか……?」 「いや、まだだ」 「漏らした愛液を、何とかしないとな」 「え……?」 「な、何をするつもりだ」 俺はリシアの足を持ち上げ、リシアの秘部に顔を近づける。 「ま、待て……お前、何をしようとしている?」 俺の頭を押さえるリシア。 「任せておけ」 「わっ、やっ……そ、そんなことしなくていいっ」 リシアの性器が目の前に迫ったところで、押さえつけられてしまう。 「や、だ、だめだ……こら……!」 愛液に濡れた陰部は、むっとした女の臭いで溢れていた。 ペニスが反応して、ぎちぎちに勃起している。 「頼む、こんなことはやめてくれっ、責任なんて取らなくていいからっ」 「あ、謝る、謝るからっ……やめよう、な、なっ?」 俺の頭を押さえつけて、陰部に口をつけるのを阻止し続けるリシア。 「こら、離せって」 俺は頭を振り、リシアの拘束を解く。 「ひゃあああっ……んんんっ、ああっ、くああっ、ふんんっ」 リシアの秘部へ顔を埋め、陰唇を舐め上げる。 「あああっ、んんっ、んっ、ふああっ、あんっ……あああああっ」 「そ、そんなところ舐めたら駄目っ……」 「あくうっ、んんっ、き、汚いから、やめてくれっ……はっ、んああっ」 「リシアに汚いところなどない」 「ば、馬鹿馬鹿っ……」 俺は陰部の上に舌を這わせる。 「あくっ……んふっ、あああっ……んんっ、あんんんっ」 「ああっ、んっ、これ駄目っ、気持ち良すぎるっ……ああっ、だ、駄目駄目えっ」 「はあっ……声が、出てしまうっ……はっ、ああっ、くううっ」 舌を外そうと俺の頭を押さえるが、強引に押し返す。 「やあっ……ああっ、あんっ、んっ、んんっ、あああっ」 「はっ、あくっ、もう、変になってしまうから、やめてくれっ……」 舌を膣口に差し入れ、膣内を舐める。 「ひゃああんっ、くああんっ……あっ、あふっ、んんんっ……あんっ」 「あはあっ、あっ、あっああっ……舌、入ってくるっ……」 膣内から熱い蜜が溢れて出てくる。 「ああああっ、あんんっ、んっ、んんっ、くんんんっ」 じゅるっ、じゅるるるるっ リシアの陰部を丸ごと口に含み、愛液を吸う。 「やああっ、んんっ、はあっ、くああんっ、んんんんっ」 「ああっ、す、吸われてるっ、カイムに吸われてるっ……ああっ、んくううっ」 リシアの腰が激しく揺れる。 ちゅくっ、じゅるるるっ、れるるるっ 「あんんんっ、くうっ、あああっ……はあっ、んんんんっ」 「んくっ、はっ、あっ、あっあっ、ああっ、ひゃあんっ」 クリトリスの辺りに舌を食い込ませ、執拗に刺激する。 「あああああああっ、んんっ、そこっ、敏感なところっ……駄目えっ、んああああっ」 「はあっ、やっ、やああっ……はんんっ、うくっ、ああああっ」 「い……いく……いってしまうっ……!」 体を強ばらせ、肘掛けを握りしめる。 「あっ、もう、駄目っ……駄目駄目っ……んくっ、はああっ、あああああっ!」 「ああああっ、カイムっ、カイムカイムっ……やああっ、んんっ、はんんんんんっ!!!」 「か、カイムっ、もういっちゃう、いくっ……ああっ、ああああっ、ああああぁぁぁぁっ!!!」 びくん、と体を跳ねさせ、絶頂に達するリシア。 「はあっ……はっ、はあっ、はあっ……んはっ、ああっ……あ……」 「はあ……はあ、はあ……んんっ、あっ……はあ……」 足を痙攣させながら、リシアは荒い息をつく。 「気持ち良かったか?」 「はあっ、はあ、はあ……お、お前……!」 「絶対、誰かに聞かれたぞっ……!」 「声を出したのはお前だ」 「そ、それはそうだが……」 リシアの陰部は、溢れてきた愛液と俺の唾液でべたべたに濡れている。 「嫌だったのか?」 「あう……い、嫌では、ないが……」 不意打ちに、リシアは顔を赤くして俯いてしまう。 「卑怯だぞ、カイム」 「そういうこと言うの、反則だ」 「事実なんだから仕方ない」 既に肉棒は痛いほど勃起している。 「カイム、入れないのか?」 「入れたい」 「……わかった」 リシアはボタンを外し、俺の肉棒を解放させる。 「きゃっ……」 俺はリシアを抱えて椅子に座る。 「こ、こんな格好、恥ずかしいぞっ……」 「たまにはこういうのもいいだろう」 「か、カイムがしたいというなら……いいぞ?」 何だかんだ言って、俺が望むことは全てさせてくれる。 リシアは可愛いと思う。 「カイムはこういう時ばかり積極的になる」 「こういう時に積極的にならない男なんていない」 「そう……なのか」 「男は大抵、いい女を抱きたいと思っているもんだ」 「か、カイムも?」 「まあ、そうだな」 「うう……心配になってきた」 「カイムが、他の女とこんなことをしているとしたら、私は……」 真剣に落ち込んだ顔をするリシア。 「大丈夫だ」 「お前よりいい女なんて、そういない」 「そ、そうか……?」 「疑り深いな」 俺はリシアの唇に顔を寄せる。 「んんっ……」 「……んく……ちゅるっ……」 「れるっ、ちゅっ……んっ、んちゅっ」 舌を絡ませ、一心にリシアの唇を貪る。 「んちゅっ……ちゅくっ、れるるっ」 「うんっ……はくっ、ちゅっ、ぺちゃっ、ぴちゅっ……」 互いの舌を舐め合い、唇を奪い合う。 「くちゅっ、ぴちゅっ……んっ、ぴちゃっ、ちゅるっ」 「んはあ、ちゅっ、んちゅっ、ちゅくっ……ぺろっ、ぴちゅっ、ちゅるるっ」 「はんっ……はあっ、はあ、はあ……」 口を離して見つめ合う。 「カイム……」 「何だ?」 「私をここまで虜にして、どうする気だ……?」 「もうお前から離れられないぞ」 「ああ、離れるな」 むっとした表情を浮かべるリシア。 「……お前はひどい」 「何がだ?」 「離れるなと言いながら、お前はことある事に牢獄に帰るなんて言い出すではないか」 「その度に私がどれだけ傷ついているか、知っているのか?」 そうだったのか。 そこまで傷ついているとは知らなかった。 「すんっ……お前が私の前から消えてしまうかもしれないと思うと、胸が潰れそうになるんだぞ」 「それなのに、こんなにカイムのこと好きにさせて……」 急に涙を滲ませるリシア。 「悪かった」 「これからそういう冗談は控える」 「本当か?」 「ああ、嘘は言わない」 「愛しているぞ、リシア」 「ま、まあ……お前が愛してくれているなら、それでいい」 リシアは顔を赤くする。 「可愛いな、お前は」 「ついいじめたくなる」 「意地悪しないで、普通に愛してくれ」 「わかった」 「んっ……ちゅっ、くちゅっ……」 リシアの唇に吸い付き、口の中に舌を差し入れる。 「はっ、ちゅるっ、くちゅっ……ちゅっ」 「んふっ、んくっっ、ちゅるるっ、んちゅっ……」 舌を絡ませ、俺の口にリシアの舌を誘い込む。 「んんっ……ふんん、あんっ……ちゅくっ」 「んふうっ、れるるっ、んんんっ……」 唇をすぼめ、伸ばしてきたリシアの舌を吸う。 「ちゅっ、れるるっ、んちゅっ、んくっ……んはっ、か、カイムっ……」 「あむっ、ちゅっ……ちゅるっ、じゅるっ、くちゅっ……れるっ、ちゅるるるっ」 「は、あっ……んんっ……」 リシアは腰を動かし、俺の肉棒に熱くなった秘部を押しつけてくる。 愛液で濡れた陰唇がペニスをじれったく刺激してきた。 「カイム、そろそろ……」 「お前を身体で感じたい」 「ああ」 俺はリシアの腰を持ち上げ、亀頭を膣口にあてがう。 ずにゅっ、ずるるっ、ずちゅうううっ 「ああっ……あああっ、あんんんっ、あああああああっ」 力を抜くと、リシアの体重で一気に膣奥まで到達した。 「あくっ、あああっ、んんっ、あんっ、ああああああっ……」 ぎゅうぎゅうとリシアの膣壁が俺のものを締め付けてくる。 愛液で満たされた膣内は、最高に気持ち良かった。 「お前、いってないか?」 「う……ううっ、はあっ、そんなこと、ないっ……」 「なら動かしていいか」 「待てっ、少し休んでからがいいだろうっ」 「俺は今すぐ動かしたい」 リシアの腰を持ち上げる。 「あっ、あっんんっ、はくっ、ま、待てというにっ」 ずっ、ずちゅうっ、ぬぷぅっ…… 「んんんっ、あくうっ、んあああっ……んくっ、はぁんっ」 「ああっ……んんんっ、んくうっ、ふぁああっ……」 持ち上げては降ろすという動作を繰り返し、リシアの膣内の感触を味わう。 「あああっ、んくっ、はあっ、んああっ……」 「あくっ、やんっ……駄目っ、あんっ、あっ、気持ちいいっ……」 「ああんっ、んんっ、んふうっ、ひぁああっ」 俺が上下するのに合わせて、リシアも腰を動かしている。 リシアの体重を感じつつ、俺は一心不乱にリシアの膣内へ肉棒を送り込む。 「ふっ、あああっ、くうっ……んはっ、ひうぅっ……」 「やあっ……んんっ、あうっ、ううんっ、んっ、んん……っ!」 こつ、と膣奥の固いところにぶつかる。 「ひああああっ……ああっ、その奥のところっ、だ、めぇっ……!」 「ふんんっ、んんっ、はあっ、はあんっ……んんんんっ」 「はあっ、あっ、あっあっ、ああっ、あんっ……あくううっ」 リシアの膣内から溢れてきた愛液が、動きに合わせて飛び散る。 きつく小さな膣内だが、たっぷりと濡れているお陰で動かしやすい。 膣壁に強く締め付けられ、強烈な快感が肉棒に走る。 「くううんっ、はあっ……んああっ、あっ、ああっ、あんんっ」 「んっ、奥まで、入ってるっ……んんっ、んああっ、あああっ」 「あんっ、はああっ、んっ、んっんっ……はんんんっ」 リシアは口からよだれを垂らしながら嬌声を漏らす。 「リシアっ」 「ああっ、あくうっ……んああっ、ああっ、ああああっ」 「カ、イムぅっ……カイム、カイムっ、気持ちいいっ」 「気持ち、良すぎ……て……うぅ、だめに、なり、そう……ぅっ」 「いやあっ……私は国王なのにっ、こ、こんなのっ……」 「俺の前では気にしなくていい」 「んんっ、あっ……そ、そうだなっ……」 「あぁ……愛して、くれ……んんっ、私を愛してくれっ」 「ああ、愛してる」 「あんっ……嬉しい、カイムっ、好きだっ……」 「んんんっ、ああっ、はあああっ」 「もっと、もっと私を……おかしくしてくれっ」 ずるるっ、ずちゅっ、ちゅくっ、ぐちゅるるっ だんだんと射精感がこみ上げてくる。 「はあっ、んっ、んくっ、ああっ、んんっ、はあっ、はんんっ」 「くうんっ、んあっ……はああっ、あふっ、んんんっ、あっ、もうっ……」 リシアの膣内が、さらにきつく締まってくる。 その刺激に、精液が駆け上がってくる。 「俺もいきそうだっ」 「んんっ、あっ……ああっ、だ、出して、くれ……」 「わ、私の……中に、お前の、ものを……全部っ……!」 リシアの腰の動きが一層激しくなる。 「あああっ、んくっ……あああっ、あっんんっ、あっ、あっ、ああっ」 「はあっ、あふっ、やああっ、んんんっ、んくっ、あっ、ああっ、んっ、ああっ!」 「も、もう……だ、めぇ……っ……!」 リシアの体が硬直し、ぐっと反りかえる。 「いくぞっ」 「はんんんっ、あああっ……来てっ、カイム来てっ……ああっ、あああああっ!」 「くううっ、あっ……私も、私もいくっ……もう、だめっ……!!」 「んんっ……あ、ああっ、ああああっ……あっ、ふああああああんんんっ!!!」 びゅるっ、びゅるるるるっ、びゅくっ、びゅっ! リシアの一番奥のところ、子宮口へ精液を注ぎ込んでいく。 あまりの快感に、頭が真っ白に飛ぶ。 どくどくっ、びゅるっ、びゅくっ! 「んんんっ……ああっ、ああ、はあっ……あああっ、ああ……」 「はあっ、んんっ、くううっ……あはあっ、はあっ……はっ……」 「熱い……お腹に、入って、くる……ぅ」 朦朧としながら、リシアは絶頂の快楽に震える。 「はあっ、はあっ……はあ、はあ……」 呼吸を整え、リシアが微笑みかけてくる。 「はあぁ……あぁ……うあぁ……ぁ……」 「ふぁ……幸せ、だ……」 「はあぁ……カイムに、愛されているのが……よく分かる」 リシアはお腹をさすりながら、臆面もなく恥ずかしいことを言う。 俺の肉棒に押され、リシアの腹がぽこりと膨らんでいる。 「んんっ……ここに、カイムの固いものがあるぞ」 「こんなに私の奥まで入ってきて、私を狂わせて……悪いやつだ」 きゅっリシアの膣内が締まる。 「くっ……少し緩めろ」 「そう言われても、自分では何ともできないんだ」 「カイムのここと同じだな」 リシアの膣内が蠕動し、達したばかりの俺のペニスを刺激する。 「んっ……あっ……」 リシアは、ゆるゆると腰を動かし始めた。 「まだ動かないでくれ」 「ああっ……んふうっ……」 「ま、待てと言っているだろ」 肉棒に走る途轍もない快楽に、思わず腰が浮く。 「あんっ、んっ……お前もさっき、待ってくれなかっただろっ……」 「もう一回するつもりなのか?」 「ああっ、んっ、そうだっ……もう少しお前を感じていたいんだっ……」 リシアは自ら腰を揺する。 ずちゅっ、ずちゅううっ 「あああっ、んんっ、くんんっ……!」 思い切りリシアに腰を打ち付ける。 リシアの膣内に放出した精液が溢れ出てくるが、気にせず奥まで突き入れる。 「ああんっ、んんんっ、はあっ……ああっ、くあっ、あ、あっ、あっ」 「んくうっ……はんっ、あっあっ、ひあっ、んああっ」 じんと痺れるような快感が肉棒に走る。 熱く濡れたリシアの膣内が前後左右から俺のものを締め付けてきた。 「はああっ、あんっ、んあっ……はあっ、んっ、んんっ、あんっ、んぅう」 「んんっ、か、カイムっ……」 顔をこちらに向けてくる。 「ちゅっ、ちゅくっ、ちゅるるっ……んちゅっ」 「はあっ……んんっ、んちゅっ、れるるっ、ちゅるっ、くちゅっ」 「ちゅるるっ、はっ……カイム、カイムぅ……っ」 俺を求め、口内に舌を入れてくるリシア。 舌を迎え入れ、流れ込んでくるリシアの唾液を吸い尽くす。 「ちゅくっ……んちゅっ、ちゅるっ、ぴちゅっ……じゅるるっ」 「はあっ……あむっ、れろろっ、ちゅくっ……くちゅるっ」 「ぴちゃっ、ぺろっ、んちゅっ、ちゅっ、れるるるっ、ちゅるっ」 「んんっ、はあっ……」 リシアの口から離れ、首筋へと吸い付く。 「きゃっ……あああっ、んんっ、あはあっ、ふああんっ」 「か、カイム……そこは、くすぐったいっ」 後れ毛を巻き込みながら、首筋をなめ回す。 「あああっ、んんっ、ひゃああんっ……ああっ、んんっ、はああっ」 首筋に舌を這わせると、リシアの膣内がきゅっと反応する。 くすぐったいと言いながら、結構好きなようだ。 「んんっ、あああっ……やあんっ、く、首はもうだめっ……」 「じゃあこっちはどうだ」 俺はリシアの髪を掻き分け、うなじを舐め上げる。 「ひゃあああっ、あっ、ああっ、んくっ、うあ、ふぁあっ」 「ああああっ、そ、そこはっ……もっとだめえっ……んんっ、あはあっ」 びくん、と凄まじい反応を示す。 「はああっ、にゃあっ……んくううっ、ああっ、んん、あ、んっ、んんっ」 「はうっ……み、だめぇ……やあっ……んんんっ、あふっ、はあああんっ……」 鳥肌が立ち、くたりとリシアの体から力が抜ける。 どうやらかなり首筋が弱いらしい。 「んんんっ、はあっ、ああっ……もう駄目ぇっ、来る、また来ちゃうっ……」 リシアの腰ががくがくと揺れる。 精液でどろどろになった膣内が、再び強く締まり始める。 「あああっ、んんっ……こんなに早く、なんてっ……」 「いやあっ……んくっ、カイムと、一緒にぃ……いきた……」 上目遣いに俺を見つめてくる。 その表情に、ぐっと熱い塊が近づいてくる。 「俺もそろそろだ……っ」 「うんっ、ああっ……嬉し、いっ、あぁ……いっぱい、出してぇっ……!」 「あああっ、ふあっ、ん、あ、んんっ、首もいっぱいっ……」 要望通り、首を執拗に攻める。 リシアのうなじを、舌の先で舐め回す。 「あ、あ、ああっ、んっ、ああっ、なああっ、んくっ、んんんっ、はうぅ……っ!」 「やっ、やああっ、あっ……んんんっ、はあっ、ふああっ、くうぅんっ!」 恐ろしいほどの締め付けに、射精感がこみ上げてくる。 「いくぞ……!」 「あああっ……うんっ、カイ、ム、出してっ、中に、もっとっ……!」 「んっ、んんんっ、はああっ、あくっ、あっあっ……!!」 「いくっ、もう私も、私もっ……あああっ、んあ、あっ、あっ、ああああっ!!!」 「んくっ、んんっ……んあああっ……あああああっ! ぅああ! んんんんんんっ!!!」 びゅううっ、びゅくっ、びゅるるっ! どくっ、びゅっ、どくくっ! 「きゃっ!?」 激しく動き過ぎたせいで肉棒が抜け、リシアの体に向けて精液が飛び出す。 びゅくっ、びゅるるるっ、どくどくっ、どくっ、びゅびゅっ! 「んんっ、んぷっ……んんっ、んくっ……!」 勢いよく肉棒から飛び出した精液は、リシアの顔や体を白濁で汚す。 「んはっ……はあっ、はあっ……はんっ、んむっ……」 「んくっ……ぺろっ……」 リシアは唇にかかった精液を舐め取る。 「はぁ、あぁ……これが、カイムの……」 「妙な……味がする……」 「味わうな」 「ふぁ……そうは言うが……はぁ……顔にかけたのは……お前だぞ」 「悪かった」 俺はリシアの顔についた白濁を拭ってやる。 「んっ……すごく熱かった」 「これはこれで……幸せな気分になれるな」 リシアは蕩けた顔で、身体にかかった精液を見つめている。 「カイムに征服された感じだ」 「この体全部、お前の物にされてしまったな」 「ああ、そうだな」 快楽の余韻に浸ったまま、しばし二人で抱き合う。 「カイムに求められていると安心する」 「毎日でもこうしていたい」 「俺もだ」 「本当か……?」 俺はリシアの顔についた精液を拭い、キスをしてやる。 「んんっ、ちゅっ……はんっ……」 「ぴちゅっ……れるっ、んんっ、はあっ……」 「リシア、好きだ」 俺はリシアの小さな体を後ろから抱き竦めた。 「ああ、気持ち良かった」 服を着て、大きく伸びをするリシア。 ご満悦といった表情だ。 「お前も、女になったな」 リシアが顔を赤くする。 「何もわかってない」 「お前は、こういう時しか好きだと言ってくれないではないか」 「だから私は……」 リシアの頭に手をやる。 汗で湿りけを帯びた髪を撫でる。 「カイムがいつも好きだと言ってくれれば、こんなに不安になることはないのに」 「悪かった」 「カイム……」 リシアが真剣な目で俺を見つめてくる。 「お前は本当に私のことが好きか?」 「もちろんだ」 「どうかな」 「単に、今は何となく傍にいるだけではないのか?」 リシアの不安は深いようだ。 「心配するな」 なだめるように頭を撫でる。 「カイム」 リシアは真剣な顔をして、俺に向き直る。 「貴族たちが、お前を何と呼んでいるかわかっているか」 「知っている」 「国王陛下の腰巾着、道化、愛人……まあそんなものだろ」 「平気なのか?」 「いちいち腹を立てていたらきりがない」 そもそも、牢獄で殺しをやっていたような人間だ。 中傷はされ慣れている。 「カイムは、自分がそういう立場に甘んじていることが嫌になってきたのではないか?」 「本当は、牢獄に帰って気ままに生きていたいのではないか?」 「どうしてそんなことを聞く」 「カイムとは離れたくない」 「だが、私といてはお前は幸せになれない気がするのだ」 「私の〈我儘〉《わがまま》に付き合わせるのも、限界かと思っている」 「俺は大丈夫だ」 「無理をしているのではないか?」 「俺が大丈夫だと言っている、信じてくれ」 「……不安なのだ」 リシアが暗い顔をする。 何とか勇気づけてやりたい。 「リシア、来てくれ」 リシアにマントを渡し、バルコニーへ誘い出す。 二人並び、はるか遠くに見える牢獄の明かりを眺める。 牢獄に落ちてから、俺はずっとあそこで暮らしてきた。 どんなに糞ったれなところだったとしても、あそこは俺の育った場所だ。 「リシアは牢獄を変えようとしてくれているんだろう」 「私は牢獄の一人一人を救うことはできない」 「だが、私にしかできない救い方がある」 「そう教えてくれたのはお前だったな」 「ああ」 執政公がいなくなったが、城はやはり陰謀策術に溢れている。 たとえリシアがどれだけ成長したとしても、一人で生きていくには苦しい世界だ。 それを知った上で一人牢獄に戻り、リシアの施策の恩恵を受けるほど、図々しい人間にはなりたくない。 リシアにしかできないことがあるのと同様、俺にしかできないこともあるのだ。 「俺はリシアをずっと支えていく」 「だから心配をするな」 「……」 それでもリシアの表情から不安は消えない。 「幸せになれないかもしれないぞ」 「腰巾着だの言われるからか?」 「なら、瑣末な問題だ」 「だが……」 リシアは俺を本当に好いてくれているのだ。 だからこそ、自分が俺を不幸にするのではと恐れている。 「今日、ルキウスと話していたことは、これからのことだ」 「奴に、リシアとのことをきちんとするよう言われたよ」 「私とのことを?」 「わかっていると思うが、俺とお前は身分が釣り合わない」 「それは、爵位をカイムに授ければ問題ないだろう」 「確かに、身分は釣り合う」 「だが、貴族たちは、お前が爵位を私物化したと反発するだろう」 「私は気にしない」 リシアの言葉は嬉しい。 だが、 「お前は、即位して間もないし政治基盤が固まっていない」 「そんな状態で、突っ込まれる余地を作るのは得策とは言えないだろう」 「カイムも、私のことを考えていてくれたのだな」 「だが、それでは……」 リシアが唇を噛む。 別れ話が来ると思っているのだろう。 「だからな、俺はルキウスの家に入ることにした」 「ルキウスの父親の養子になるんだ」 「え……」 リシアが驚いた顔をした。 「身分も釣り合うし、何より貴族たちの批判はお前には行かなくなる」 「だが、今度はルキウスが矢面に立つことになる」 「奴のことは気にするな」 「十分な見返りがあるからこその提案だ」 リシアが小さく頷く。 「今まで、不安にさせて悪かった」 「俺はもう覚悟を決めた」 「カイム……」 リシアの瞳に涙が浮かび、瞬く間に零れ落ちた。 「だがカイムは、貴族など性に合わないと」 「慣れればいいだけのことだ」 「貴族になったら会議に出なければならないぞ」 「貴族同士の面倒な付き合いもある」 「もう言うな」 リシアの涙を拭ってやる。 「すまない、私のために」 「望んですることだ」 今まで、他人のために苦労することなどしてこなかった。 だが、こいつのためなら苦労してもいい。 自分の持てるもの全てを割いてやってもいいと思うのだ。 「いいのか……本当にいいのか?」 「当たり前だ」 「カイム」 月明かりの差すバルコニー。 リシアを優しく胸の中に抱き留める。 腕の中の身体は小さい。 こんな身体で、貴族たちと渡り合っていかなくてはならないのだ。 「俺がお前を支える」 「カイムが傍にいてくれれば、もう私は誰にも負けない」 「どんなことがあっても、この国を良くしてみせる」 「頼んだぞ」 リシアが頷く。 「もう、お前を不安にはさせない」 「カイム……私は幸せ者だ」 「お前と出会えて、本当に良かった」 涙で顔を濡らしながら、リシアは満面の笑みを浮かべた。 「俺もだ」 屈み、顔の高さを合わせる。 「これからも、傍にいる」 「ああ」 月明かりの下、俺はリシアの唇に優しく口づけをした。 これから俺は貴族になる。 今まで想像したこともなかった、全く新しい生活だ。 様々な困難が待ち受けていることは想像に難くない。 しかし、同時に今までの俺には絶対に不可能だったことも実現できる。 国を治める立場から、この都市を変えることができるのだ。 上手く立ち回れば、牢獄民だけが苦しい生活を強いられている現状を変えることができるかもしれない。 いずれは、この都市の秘密も解き明かすこともできるだろう。 まずは、リシアを支えなくてはならない。 生まれたての子馬のような新国王が、老練な貴族たちの餌食とならないよう── 荒野を歩き続ける宿命を背負った少女が、ただ独り朽ち果てぬよう── 俺は、どんなことでもしてみせよう。 リシアの戴冠から5日が過ぎた。 城内では、ルキウス主導で新しい政治が始まっている。 今のところ、目立ってルキウスに反発する貴族は見られない。 しかし、ギルバルトの手は政治のあらゆる所に歪みを生んでいた。 全てを正常化するまでには、かなりの時間がかかりそうだ。 政治の刷新と並行し、ルキウスはギルバルトが行っていた研究にも手をつけた。 まずは、クルーヴィスを蘇生させるための研究を停止。 都市を安定させることを最優先目標として、新たな研究を開始した。 ギルバルトが残した施設や研究成果は可能な限り再利用しているため、移行は滞りなく進んでいる。 新たな研究班の中核を担っているのは、ルキウスが私的に支援していた研究員達だ。 漏れ聞いたところによれば、ルキウス配下の研究員達は、かつて黒羽が捕えられていた牢獄の施設で働いていたらしい。 ギルバルトには、火災により全員焼死したと報告しながら、実際には研究員を掠め取っていたのだ。 彼の周到さには舌を巻く。 ギルバルトが引き起こした崩落は、牢獄を更に厳しい状況へと追い込んだ。 知人に犠牲はなかったものの、再びいくつもの命が下界へと吸いこまれた。 ──また崩落が起きるのではないか。 ──なぜ、牢獄だけが憂き目に遭うのか。 立て続けの崩落に、牢獄民の間には不安と不満が募っている。 リシアの指示で迅速に救援が行われたが、人心を安んずるには至っていない。 民衆の動揺と、都市の寿命という大問題を抱えたまま── ノーヴァス・アイテルは、今日も天空にその姿を留めている。 青さが目に刺さるほどの快晴だった。 そこかしこで焚かれた香の煙が、霞のようにたなびいている。 俺とルキウスは、刑場から少し離れた場所から儀式を見つめていた。 「刑を執行する」 神官長の厳かな声が流れる。 巣に群がる蜂のように蠢いていた群衆が、ぴたりと静止した。 代わって清冽な鈴の音が響きわたり、聖女が刑場に姿を現す。 年端もいかぬ少女だ。 否応なく、ラヴィが処刑されそうになったときのことを思い出す。 あの焦燥、緊張、絶望。 それに比べ、今は何の感慨もない。 あるとすれば、かすかな虚しさだ。 「静かだな」 「すぐに騒がしくなる」 ルキウスが淡々とした口調で応じた。 その声に促されたかのように人々が騒ぎ出す。 聖女が奈落に向かって刑場を歩き出したのだ。 割れんばかりの喝采、 地を這い、うねる呪詛。 ご覧の通りだ、とルキウスが俺に視線を送った。 「静かってのは見物人のことじゃない。俺の気分の話だ」 「……ほう?」 耳をつんざくような歓声が上がった。 また一人、人々の不安を和らげるため、少女が散った。 俺が目撃した3度の処刑。 その全てを、俺は違った感情をもって眺めていた。 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》後の処刑は、怒りを感じながら── コレットの処刑は、焦燥と不条理を感じながら── そして今は、虚しさを覚えながら── 罪を背負わされて無垢な少女が処刑され、大多数の人間が救われる。 悲しいことだが、ノーヴァス・アイテルには必要な仕組みであり、聖女を救うことは全体の利益に反するだろう。 そうわかってしまっていることが、虚しさを呼ぶ。 ……不思議なものだ。 「以前の俺とは、ずいぶんと変わってしまったらしいな」 「知ることだよ、カイム」 「知ることで、見える世界は変わる……良くも悪くもな」 「ああ」 「何も知らずに、聖女を呪っているのが一番楽だろう」 「だろうな」 「後悔しているのか? 知ってしまったことを」 「まさか、知らないよりは何倍もいい」 「もし全てを忘れる手段があったとしても、忘れたくはないね」 「なるほど」 ルキウスの表情が僅かに軟らかくなる。 「これからどうする?」 「全てを胸一つに納めて、今までと同じ生き方をすることもできるが」 「都市が落ちれば全てが終わるんだ、黙っていられるか」 ルキウスが頷く。 「無知ゆえの無為は許されると思う」 「だが、知った上での無為は罪だ」 「心配しなくても、今さら逃げやしない」 ルキウスは俺の顔を一瞥すると、すぐに前を見た。 「共に進もう、最後までな」 「望むところだ」 ルキウスが馬車に向かって歩き出す。 その背中に幼い頃の面影はない。 思えば、俺は、物心ついたときから兄の背中ばかりを見て育ってきた。 時に苛立ち、時に嫉妬し、いわば兄を中心に回っていたのだ。 だが今はもう違う。 俺は、ルキウスの隣に並ぶ。 「お前、天使の研究については、俺に話した以上のことを知っていたな?」 「何故そう思う?」 「ギルバルトが死んだ時の打ち明け話を聞いても、大して驚いていなかった」 「それに、研究の移行も素早かった」 「事前に準備していなければ、こうはいかない」 加えて言えば…… 牢獄にあったギルバルトの研究施設を破壊し、福音入りのクスリを捌いていた《〈風錆〉《ふうしょう》》も潰した。 研究の内容も知らずにできることではない。 「さすがによく見ているな」 ルキウスが小さく溜め息を吐く。 「研究の内容は概ね掴んでいたよ」 「ギルバルトの信任を得るため、多少は彼の研究に関わってもいた」 「なるほど」 初めてルキウスの屋敷で話をした時── こいつは、都市の秘密はまだ掴んでいないと言った。 嘘をついたのだ。 まんまと乗せられたわけだが、一方では仕方がないとも思う。 実弟とはいえ、協力するかもわからない人間に都市の秘密は明かせない。 それに、お互い様と言えばお互い様だ。 俺にしても、つい昨晩までコレットやラヴィが生きていることを隠していたのだから。 秘密を打ち明けた時の、ルキウスとシスティナの顔はなかなかの見物だった。 「嘘をついてすまなかった」 「いや、過去のことだ」 「その代わり、今後はできる限り話をしてくれ」 「もちろんだ」 「城に着いたら、今後の方針を検討しよう」 「ああ」 「だが、その前に見せてもらいたいものがある」 「なんだ?」 「ノーヴァス・アイテルの心臓だ」 ルキウスが足を止める。 「心臓というと?」 「とぼけるな」 「この都市を空に留めている、本当の力だ」 ルキウスに協力するからには、できる限り知識の差は埋めておきたい。 「見られちゃ困るのか?」 「いや、見てもらった方がいいだろうな」 「楽しいものではないが……知らないよりは知っておいた方がいい」 刑場から帰ったのは昼過ぎだった。 遅めの午餐を取ってから、ルキウスの案内で研究室に向かう。 「あ、カイムさん」 翼を揺らしながら、ティアが近づいてきた。 「ずいぶん翼が大きくなったな」 「はい……まだ慣れなくて困ってます」 「寝るときも落ち着かなくて」 「痛くはないのか?」 「はい、ぜんぜん痛くないです」 返事を裏付けるような笑顔を向けてきた。 嘘が下手な奴の嘘ほど鬱陶しいものもない。 「今日はどこに行かれていたんですか?」 「聖女の儀式だ」 「それって……やっぱり……その……」 処刑、という言葉を飲み込むティア。 「しょぼくれた顔をするな」 「はい……」 「でも、もしこの羽で空でも飛べたら、助けてあげられたのかな……と思って」 翼が緩慢に動いた。 とても飛べそうには見えない。 「失望するのはまだ早い」 「これからの研究次第では、もっと大きなことができるようになる可能性もある」 「大きなこと、ですか?」 「そうだ。ティア君には可能性がある」 「可能性、ですか」 表情が明るくなる。 相変わらず褒め言葉に弱い奴だ。 「さてカイム、そろそろ行こうか」 「ああ」 「ティア君も付いてくるといい」 「え? 何ですか?」 「天使を見に行こう」 「てんし……てんし……?」 ティアがきょとんとした目をする。 「天使……って、ええっ!?」 「見てもらった方が、今後の話がしやすい」 「……で、でも……」 「怖いか?」 「い、いえ……その緊張するというか何というか」 「心は強く持っておいた方がいい」 「え?」 ルキウスが背を向ける。 俺たちを先導するようだ。 「ほら、さっさと歩け」 「あ、は、はい」 戸惑っているティアの背を押す。 「お、押さないでください。ちゃんと行きますから」 ティアがルキウスの後を追う。 ルキウスは、上へと続く階段を上り始めている。 階段は塔の内壁に沿って螺旋を描きながら、遥か高みにある上階へと続いている。 いったい何段あるのだろうか。 「……」 階段を上り詰めた。 現れた空間は、何らかの装置と言うより祭壇と言った方がしっくりきた。 全ての装飾が中央の柱を指向して配置されている。 まるで、そこに崇めるべき神が祀られているかのように。 だが、俺の目に入ったものは、神と呼ぶにはあまりに冒涜的なものだった。 「な、なんですか……あれ……?」 「まごうことなき天使だ」 柱には、何か人型のものが磔にされていた。 大きさは小柄な人間程度。 身体は枯れ木のように痩せ細り、ほとんど皮と骨しか残っていない。 目は暗く落ち窪み、木の幹に空いた〈洞〉《うろ》のようだ。 餓死した老人をしばらく日干しにすれば、これに近いものができあがるだろう。 「研究室に突っ立っている柱の上には、天使がくっついてたってわけか」 「その通り」 「塔全体が、中心の柱を包む鞘のようなものだ」 「細かな知識は失われてしまったが、都市の奇蹟の多くはこの天使が司っている」 「奇蹟って?」 「一番大きな奇蹟は簡単だ……」 ルキウスが窓の外を見る。 蒼穹の下、雄大な雲海が拡がっていた。 「都市が空に浮いていること、それ自体が大いなる奇蹟だ」 「他にも、風の影響を受けないことや、井戸の水が涸れないこと、耕地面積に比して食料が豊富に生産されること……」 「我々の生活に必要な多くのことが、天使により保障されている」 「は、はあ……なるほど」 わかったのかわからないのか、ティアはぼんやりとした返事をする。 「天使は、まだ生きているのか?」 「そもそも、生命というものがあるのかどうかわからない」 「が、今なお、天使からは力が抽出されている」 「干物みたいになってるのに……まだ力を吸い出しているんですか……」 「吸い出さねば都市が墜ちる」 「それに、天使がこのような外見になったのは、執政公が過剰に力を抽出したからだ」 「それ以前は、美しい少女の姿をしていたらしい」 「ほう」 都市に住む無数の人間の命が、 喜怒哀楽に彩られた生活の一つ一つが、 あんなにちっぽけな、人間の残り滓のような存在に支えられている。 「かわいそうです……」 「だが、力を吸い出さなきゃ全ての人間が死ぬ。そういうことだろう?」 「その通りだ」 「こいつが都市を浮かせているとわかっているなら、例えば何かを調節して、崩落する場所を変えたり地震を減らしたりはできないのか?」 「それができればいいのだがな……」 「今のところ、都市を制御する方法は見つかっていない」 「天使の力で浮いていることはわかっているが、原理や仕組みは未だ研究中だ」 「怖いです……どうやって浮いているか分からないものに乗っているなんて」 「だからこそ、聖女が必要なんだ」 聖女が祈っているから浮いている、という説明一つで人々は安心して生活を送ることができる。 「なるほど……」 「ぅ……」 突然、ティアの身体から力が抜け、床に膝をついた。 「どうした?」 ティアの肩に触れる。 それだけで、体温が上昇していることがわかった。 「どうした?」 「身体が熱い」 「ティア、しっかりしろ」 「ぁ……ぁぁ……ぁ……」 ティアが自らを抱きしめる。 「おいっ、ティアっ、おいっ!?」 「ぅ……あぁぁ……あああぁぁあっっ!」 喉の奥から苦しげな声が漏れた。 ティアの苦しみに呼応するように、塔が軋みを上げる。 「地震?」 「何が起ってるんだ」 ティアに目を戻す。 その時── 「ルキウス、羽が」 「光っている……のか?」 「ああ、《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》と同じ色だ」 ティアの羽が、ぼんやりと光っている。 以前、こいつが蘇生した時と同じ光だ。 「っ……ぁ、ぁ……ぁ…………」 ティアの喘ぎが萎んでいく。 ふと、光が消えた。 同時に、ティアが糸の切れた人形のように倒れる。 「ティアっ」 咄嗟に抱きかかえる。 身体には汗が滲み、目は固く閉じられている。 「ティア、大丈夫か? おい?」 肩を揺する。 瞼がぴくりと痙攣し、焦れるほどにゆっくり目が開かれた。 「……カイムさん……」 目だけを動かして、ティアが周囲を見回す。 「わ、わ、わ、わっ」 腕の中でじたばたする。 「おいこら、暴れるなっ!?」 「顔、顔近いですっ!?」 「人前でこんな無理です、無理です、無理です」 「元気なようだな」 「ああ」 手を離した。 「あだっ」 「い、いきなり手を離すなんて……ひどいです……」 腰をさすりながらティアが立ち上がる。 「心配を掛けるからだ、馬鹿が」 「すみません……」 「身体に異常はあるか?」 「えっと……」 身体を調べるティア。 「大丈夫です、痛いところはありません」 「一体何があったんだ?」 「あの、実はあまり覚えていないのですが……」 「身体が急に熱くなって……そしたら、変な声みたいなものが聞こえてきて」 「声? 俺には聞こえなかったな」 ルキウスも首を振る。 「え? わたしには聞こえたんですが……」 「よく来たとか、待っていたとか……そんな感じでした」 「でも、あんまり嬉しそうじゃなくて、悲しい雰囲気の声なんです」 「どんな声だった? 聞いたことがある声か?」 「夢で……その、時々見る夢で話しかけてくる人と同じ声でした」 「お前には生まれてきた意味があるとか、寝ぼけたことを言ってた奴か?」 「そうです」 柱の天使を見る。 ルキウスも鋭い視線を向けていた。 コレットによれば、天使はティアを自分の元へ連れてくるよう言っていたという。 天使に意思がありティアを待ちわびていたとするなら、聞こえていた言葉の意味もわかる。 「天使、なのか」 「かもな」 「ティア君、すまないがこれから検査を受けてもらえないか」 ティアが目で俺に許可を求める。 「受けておいた方がいい、何かわかるかもしれない」 「わかりました」 「ルキウスさん、よろしくお願いします」 「では、行こうか」 ルキウス、ティア、俺の順で階段を下りていく。 空間が見えなくなる前に、もう一度天使に視線を送る。 そいつは微動だにせず、孔のような目は中空を凝視していた。 研究室の奥── 硝子で区切られた部屋で検査を受けるティアを眺めていると、塔の入口が開いた。 「何かあったようだな」 「これは、陛下」 研究室に居合わせた人間が、恭しく礼をする。 「先程、ティアを天使と面会させたのですが、突如として異変が起こりました」 「現在、検査をしているところです」 「結果はすぐに出るのか?」 「簡単な結果でしたら」 「では、待とう」 手の空いていた研究員が、椅子を持ってきてリシアの隣に置いた。 「ご苦労」 リシアが腰を降ろす。 戴冠からさほど時間は経っていないが、リシアの王としての風格は何段も増している。 覚悟を決めた人間の成長は早い。 「どうだ、政務は?」 「本気で取り組もうとすればきりがないが、手を抜こうとすればいくらでも抜けるな」 「で、国王陛下はどちらで?」 「無礼者め」 「前者に決まっておろうが」 リシアが笑う。 「ルキウスが優秀なお陰で、なんとか国政に支障を出さずに済んでいる」 「もったいないお言葉です」 「リシアも立派になったものだ」 「相変わらず子供扱いだな」 「私は気にしなくても、周りの者たちがどのような顔をするか」 「ふふふ、注意した方がいいぞ」 「なら、これからは丁重に敬わせてもらおうかな」 「不敬罪で罰されちゃかなわない」 「冗談だ、お前はそのままでよい」 「張り詰めてばかりでは、よい仕事ができぬからな」 愉快そうに笑う。 大人の笑顔だ。 しばらく談笑していると、硝子の部屋から研究員が出てきた。 「陛下、簡易検査の結果が出ました」 「待ちかねたぞ」 「して、結果は?」 「前回の検査結果と比較し、ティアさんの羽が大きくなっております」 「また、羽が光ったと思われる時刻に、天使の力に大きな乱れが見られました」 「その影響で、牢獄の一部で中規模の地震が発生したようです」 「そうか……」 「ティアのような羽つきは、今のところ一人も発見されていません」 「蘇生や浄化の能力を見ても、彼女が通常の羽つきではないことは明らかです」 「もしティアが天使に近い存在だとするのなら、上手くいけば彼女はこの都市を救う救世主となるかもしれません」 「その可能性は高いと思います」 「天使のことも考えれば、もはや彼女に〈縋〉《すが》るしかない、というのが正確でしょう」 「……時間は限られている、か」 「そこまで事態は切迫しているのか?」 「天使の姿を見ただろう?」 「あれはもう、枯れかけの井戸だ」 リシアの視線の先では、ティアがちょうど部屋から出てこようとしていた。 「彼女には、どうしても協力してもらわねばならない」 「あいつが何と言うか……」 「本人に聞くのが一番よい」 硝子のこちら側に、ティアを呼び寄せる。 「何のお話ですか?」 ルキウスが説明する。 言葉の一つ一つに、逐一頷くティア。 研究に参加する気満々であることは見ていてわかる。 「わたしにできることなら、何でもやります」 「そう言うと思った」 「わたしが頑張れば、街の人たちのためになれるかもしれないんですよ」 ティアが普通の人間なら、笑い飛ばしてしまうような話だ。 だが、ティアは明らかに普通の人間とは違う。 羽つきの羽を浄化したばかりか、蘇生すらしている。 そして、浄化や蘇生を行うたびに彼女の羽は大きくなり、何者かへと近づいていっているのだ。 何か生まれ持った運命があったとしても、少しも不思議ではない。 「ルキウス、一つ聞かせてくれ」 「なんだ?」 「ティアが研究に協力したとして、最終的にはさっきの天使のようにされるのか?」 「あ……」 ティアの顔から笑顔が消える。 「あれは、ギルバルトの暴走が引き起こした結果だ」 「我々の研究は、ギルバルトによって濫用された力の再利用と、そもそも都市を浮かせるのに必要な力の削減だ」 「ティア君の研究も、その延長線上にある」 「天使と同じようにはならないと確約しよう」 「そんな確約に、どれほどの意味がある?」 緊急事態となれば、証文でさえ何の意味も成さなくなる。 口約束など尚更だ。 「お前の心配も分かる」 「だが、ティア君の件については私を信じてもらうしかない」 ルキウスが俺の目を見てきた。 揺るぎない、自信に満ちた視線だ。 「わかりやすく妥当性の話をしよう」 「ティア君を悲惨な目に遭わせて力を抽出することには、何の得もない」 「単に都市の寿命を縮めるだけだ」 「……」 「信じてやってくれ、カイム」 「ノーヴァス・アイテルのために、今、ティアの力が必要だ」 「わたしからもお願いします」 「やれることをやらないで街が大変なことになっちゃったら、わたし、皆さんに申し訳なくてどうしたらいいかわかりません」 ティアは知ったのだ。 自分に都市が救えることを。 その上で行動しようとしている。 ならば、それを止めるのは罪なのかもしれない。 「……俺一人が悪役だな」 「わかってもらえて助かる」 「考えてみれば、俺にティアの行動をどうこう言う権利はない」 「でも、わたし、一応カイムさんの所有物ですので」 「もういい、それは忘れろ」 「忘れろと言われましても……」 「わたしも、エリスさんみたいにグレちゃうかもしれませんよ」 「お前は、あいつほど複雑な性格をしてない」 「……ひどいです」 不満げに唇を尖らすティア。 どうして俺の周りには、〈他人〉《ひと》の物になりたい奴が多いのだろう。 「ま、せっかくの機会だ、好きにしろ」 「ありがとうございますっ」 ティアが深々と頭を下げた。 「ではティアさん、引き続き詳しい検査がありますので、どうぞこちらへ」 研究員がティアを促し、歩かせる。 「あ……」 ティアは、何か言いたげな視線をこちらへ投げる。 だが、研究員には逆らえず、硝子の奥へと遠ざかっていく。 あいつも不安なのだろう。 よく知らない人間にいろいろと研究されるのだから、当たり前のことだ。 この先、あいつはどうなっていくのだろう。 羽が育ち、間の抜けた天使にでもなるのだろうか? 想像もつかない。 「失礼します」 「システィナか、どうした?」 「特別被災地区より、火急の知らせが参っております」 システィナが小さく丸まった紙をルキウスに渡す。 伝書鳩が持ってきた手紙だ。 ルキウスが紙を広げて読んでいく。 「陛下、関所の《防疫局》詰め所からの報告です」 「特別被災地区に暴動の気配あり、とのことです」 「暴動?」 「なるほど」 リシアは落ち着いている。 「予想されていたことなのか?」 「まあ、ある程度はな」 「このところ、聖女の頻繁な代替わりや地震の頻発で、牢獄の不満が急激に高まっている」 「先程の地震がきっかけになったのかもしれません」 「まずは私が現場へ向かいます」 「フィオネ副隊長も同行させ、そのまま関所に詰めさせておけ」 「了解です」 「カイム、そなたも見て参れ」 「牢獄には親しい者が多いのだろう?」 「ああ、一人減ったがな」 「私一人で十分です」 「わかっている、治安の維持はお前に任せよう」 「カイムは、不蝕金鎖と接触して情報を集めてくれ」 「わかった」 「カイムならではの情報を期待しているぞ」 ルキウスが頼もしげに頷く。 システィナが俺を横目に〈睨〉《にら》んだ。 相変わらず、ルキウスの前では良い格好をしたいらしい。 「ルキウス、一つ確認させてくれ」 リシアの言葉が不意に厳しくなった。 「民の血を流すことは許さんぞ、衝突は絶対に避けよ」 「……はい、肝に銘じます」 「システィナ、そなたもわかっておろうな」 「陛下の仰せのままに」 ルキウスとシスティナが深く礼をする。 「うむ」 「それでは、私は政務に戻る」 マントを翻し、リシアが研究室から出ていった。 「では、私は早急に特別被災地区へ向かいます」 システィナが踵を返そうとする。 「なあ、システィナ」 「何です?」 「その、特別被災地区という呼び名はやめてくれないか」 「国が定めた名称ですが、何かご不満でも?」 システィナとルキウスが、俺の顔を眺めた。 「牢獄の人間は、別に特別扱いされたかったわけじゃない」 「関所を作り、あの土地と人間を特別にしたのは国だろう?」 「その国が、特別特別と言うのが多少気に触る」 「しかし……我々は国の人間です」 「リシアは牢獄と呼んでいたが」 「それは……」 システィナを見て、ルキウスが苦笑する。 「カイム。では、何と呼べばよい?」 「牢獄で結構だ」 「事実、あそこは牢獄だからな」 「わかった、お前の前では牢獄と呼ぼう」 「ずいぶんと、細かいことにこだわるのですね」 確かに細かい。 だが、この苛立ちは牢獄民にしかわからないものだろう。 「上官が呼び方を変えると言ってるんだ、従ったらどうだ?」 「ええ、嫌とは言っていませんよ」 「それでは、私は『牢獄』へ行って参ります」 「カイムさんはあとでごゆっくり」 システィナが部屋を出て行く。 「相変わらず態度が悪い女だ」 「すまないな、あれで優秀な部下なのだ」 ルキウスがシスティナが出て行った扉を見る。 その視線には、どこか穏やかなものがあった。 惚れている……ということはなさそうだが。 まあいい、他人のことだ。 背もたれに体重を預け、馬車の振動に身を任せる。 窓の外を、神経質なまでに整備された白亜の屋敷群が流れていく。 見えるのは、屋敷や緑の庭だけ。 不快なものは枠の外だ。 毎日こんな乗物で城と屋敷を往復していれば、牢獄のことなど気に掛かるわけがない。 牢獄のどん底で、貴族に対して悪態をついていた俺達がいかに無意味であったのかを思い知らされる。 「牢獄に行く前に、確認しておきたいことがある」 「何だ?」 「暴動が起きたら、お前はどうする?」 「起きないようにするのが私達の仕事だ」 「わかってる」 「そこをなお、訊いてるんだ」 ルキウスと視線がぶつかる。 「戦わずに済む道を全力で模索しよう」 「もし、戦わずに済む道が見つからなかったら?」 「陛下から、血は流すなとの命があっただろう? 聞いていなかったのか?」 「聞いていたが、現実的とは思えなかった」 ルキウスが小さくため息をつく。 俺に背を向けてから、手を腰の後ろで組んだ。 「鎮圧するしかあるまいな」 「暴徒の相手で研究が遅れては、より多くの住民が犠牲になる」 「目下の最優先課題は、ティア君の研究を進めることだ」 ルキウスは予想と寸分も違わない答えを返した。 「わかっていたことだろう?」 「私の口から言わせて、何か楽しいのか?」 「いや、確認しただけだ」 「お前が私の立場ならどうする?」 「……」 話を単純化すればこういうことだ。 10人からなる組織があったとする。 8人を生かすために、2人を犠牲にするのか── 2人の言い分を聞いて、残りの8人を含めた10人全員が死ぬのか── どっちを取る? 当然、前者だ。 後者を取るなどあり得ない。 「あんたと同じことをするだろうな」 「それもよかろう」 「違う道を選んでほしかったのか?」 「いや、理解者が増えるのは嬉しいことだ」 ルキウスが差し出してきた手を、無言で握る。 牢獄を見下ろせるところまで到着した。 足下には、都市に空いた穴のように牢獄が拡がっている。 元は円形に近かった牢獄も、今では半円形だ。 「……あれは」 遥か下に見える関所前広場に人だかりがあった。 もう100人ほどはいるだろう。 暴動が始まっているのか? 関所内部の階段を駆け下りる。 広場の異様な光景が目に飛び込んできた。 すぐ目の前には、関所を守る衛兵たちが隊列を組んで展開している。 その彼方には、武器を手にした群衆が関所を取り囲むように集っていた。 張り詰めた空気が横たわり、肌を刺すような緊張が伝わってくる。 一触即発、だ。 「……あなたか」 「カイム」 衛兵の後ろに立っていた女二人が振り返る。 涼しい顔をしたシスティナとは対照的に、フィオネの額には汗が滲んでいた。 「どうだ、状況は?」 「しばらく〈睨〉《にら》み合いが続いている」 「まさか、不蝕金鎖が先導してるんじゃないだろうな」 「いや、違う」 「烏合の衆です。統率する人間も主張もない」 「鎮圧するのか?」 「先方の出方次第でしょうね」 暴徒の中に、見知った顔を見つけた。 ヴィノレタによく来ていた男だ。 よく見れば、リリウムの常連だった男もいた。 雑貨屋の女も、娼館街に居着いていた乞食もいる。 武器すら持ったことのない奴らだ。 衛兵とやりあえば、あっという間に潰されるだろう。 「……あいつら」 「知り合いがいたか」 「顔を見たことがあるだけだ」 「いざというときに、私情を挟んでいただいては困ります」 見透かしたような顔でシスティナが言う。 「お前に指図されることじゃない」 暴徒に視線を戻す。 暴徒が、一歩ずつ関所へと近づいてきていた。 ──近づいてくるな。 ──戦闘になれば、ただじゃ済まない。 ──要求を通すなら、もっと上手い方法があるはずだ。 無意味だが、心の中で呼びかけていた。 「待てっ、それ以上前に進むなっ!」 よく通る声が広場に響いた。 この声は……。 「命を粗末にするんじゃない」 広場に現れたのは不蝕金鎖の奴らだ。 横合いから衛兵と暴徒の間に入ってくる。 ジークは、先頭に立って暴徒の説得をはじめた。 「止めてくれるらしいな」 「こちらに味方してくれたか」 「当然のことです」 「どれだけルキウス様のお世話になったと思っている」 ルキウスが不蝕金鎖に味方したのは、〈風錆〉《ふうしょう》を潰して執政公に打撃を与えるためだ。 もちろん、武装蜂起成功後、牢獄に影響力を行使することも視野に入れていたことだろう。 そのことが、今実を結んでいる。 しばらくして、群衆がばらばらと形を崩しながら広場から去っていく。 衛兵たちから安堵のため息が漏れた。 まずは一安心だ。 広場に残った不蝕金鎖の構成員は、しばらく衛兵を警戒していたが、こちらに声をかけるでもなく路地に消えていく。 「終わったようですね」 「ああ」 「システィナ様、行かせてよいのですか?」 「様子を見ましょう」 「ジークとは、俺が話してくる」 「頼みました」 不蝕金鎖の後を追う。 路地を抜ける。 両側を家々の壁に塞がれた空間は、崩落の負傷者で溢れていた。 こんな場所に転がっていても、誰も助けてはくれないのは知っているはずだ。 大方、もう行き場がないのだろう。 さっきの暴徒たちも、ジークが仲裁に入らなければ、ここに転がることになっていたかもしれない。 リリウムの入口では、オズと下っ端たちが警備を固めていた。 「これはカイムさん、ご無沙汰しております」 「久しぶりだな。ジークはいるか?」 「はい、ご案内いたします」 オズに従い、ジークの部屋に向かう。 「よう」 「……カイムか」 ジークは、いつものように煙草をふかしていた。 「さっきは大変だったな」 「見ていたのか?」 「ああ。丁度牢獄に下りてきたんだ」 「大活躍だったじゃないか」 「活躍? 馬鹿らしい」 「あんな装備で衛兵とやり合うなんざ自殺行為だ。放っておけるか」 「まったくだ」 ジークが立ち上がり酒を準備する。 「まずは、久しぶりに一杯やろう」 テーブルに並べた杯に、ジークが火酒を注ぐ。 多少溢れるのはお構いなしだ。 牢獄のこういうところは性に合ってる。 「さ、取れよ」 「おう」 共に飲み干し、勢いよく杯をテーブルに置いた。 「酒はこれに限る」 「牢獄の火酒に勝るもんはないさ」 満足げに笑ってジークが椅子に戻る。 「で、今日はどうした?」 「牢獄で暴動が起きそうだって話があったんで様子を見に来た」 「ご苦労なこった」 「さっきは、暴動を止めてくれて良かった」 「なぜお前に感謝されなきゃならん?」 「国王もルキウスも、流血は望んでいない」 「できれば、この先も牢獄の皆を抑えてくれると助かるが……」 ジークの視線が一瞬だけ鋭くなった。 「お前も、最近じゃすっかり上層民じゃないか」 「どうした? 向こうでいい女でも見つけたか?」 「生憎、女運は最悪だ」 「そいつはご愁傷様」 「最近の牢獄はどうだ?」 「道なりに見てこなかったのか? 最低だよ、最低」 ジークが背もたれに体重を預ける。 椅子が悲鳴のような軋みを上げた。 「立て続けの崩落でかなりの人間が死んだ」 「牢獄周りの絶壁も地震で脆くなってるらしくてな……よく崩れてる」 「ルキウス卿のお陰で救援物資は届いているが、根本的な解決にはなっていない」 「何が最大の問題なんだ?」 「地震と崩落だよ」 「腹が膨れていようが怪我が治ろうが、崩落の前にはひとたまりもない」 「お前が一番わかってるんじゃないのか?」 「……まあな」 「今日の暴動も、きっかけになったのは昼間の地震だ」 「つまり、暴徒が求めているのは……」 「牢獄からの脱出だ」 「牢獄を……捨てると?」 小さく頷いて、ジークが新しい煙草に火を点ける。 「飢えや病気ならまだ何とかしようがある」 「だが、崩落ばかりは逃げる以外に助かる道がない」 「ところが、関所は処女じゃあるまいに、ぴったり脚を閉じていやがる」 「裏道はどうした?」 「落ちたよ。下層への道は関所だけだ」 「この間の地震が原因か」 ジークが面倒臭そうに頷く。 「そうなりゃ、無理にでも関所をこじ開けるしかないだろう?」 崩落は理不尽な災害だ。 前触れも理由もなく、その場にあったあらゆるものを消してしまう。 逃れる方法は、崩落する場所から逃げることだ。 ……だが、関所は閉ざされている。 下層や上層の治安を保つために。 関所が開けば、牢獄民が下層に流入する。 ギルバルトの無為により、下層は牢獄民を受け入れる準備を全くしてこなかった。 今、大量の牢獄民が流れ込めば、社会が崩壊する恐れがある。 下層を守るため、牢獄民は国から見放されているのだ。 「今、ルキウスが崩落を止めるための研究を進めている」 「上手くいけば崩落を止められるかもしれない」 「だが、牢獄で暴動が起きれば、その対応で研究は遅れるだろう」 「だから、俺に暴動を抑え続けろと?」 「頼む。お前にしかできないことだ」 ジークが大きく煙を吐く。 「俺が暴動を止め続けたとして、研究が間に合わなかったらどうなる?」 「……その時は、上層も下層も牢獄も落ちて終わりだ」 「なるほど……」 「本当にそうか?」 ジークが、冷たい視線を俺に投げかける。 「どういう意味だ?」 「本当に、上層と牢獄は一蓮托生なのかって訊いてるんだ」 「落ちるのは牢獄からなんじゃないか?」 「馬鹿らしい」 「ルキウス卿に訊いても、そう答えるだろうな」 「だが、よく考えてみろ」 「《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》からこっち2回の崩落があったが、被害があったのは牢獄だけだ」 「牢獄民が、次も牢獄が落ちると思うのは不自然か?」 確かに、今まで被害に遭ったのは牢獄だけだ。 疑心暗鬼になるのはわかる。 「根拠のないことだ」 「待てば、納得できる根拠が上層から降ってくるのか?」 「そんな説明じゃ、牢獄の奴らをなだめることなどできん」 ジークが苛立った声を出した。 「わからん……俺にもどうにもならないことだ」 「……そうだな」 「お前に言っても詮ないことだ」 ジークがほとんど灰になった煙草を消した。 椅子から立ち上がり窓から外を眺める。 「俺も暴動を起こさせるつもりはない」 「だが、ルキウス卿やお前の期待に応えてってわけじゃない」 「というと?」 「鎮圧されるだけだからだ」 「関所は守るに易く攻めるに難い」 「それに、いざとなれば関所を破壊して道を封鎖するかもしれん」 戦いとなれば関所は城壁となる。 コレットがお目見えの儀を行ったバルコニーにも、弓兵が並ぶことだろう。 「なら、もし簡単に関所を破る方法があったらどうする?」 ジークが俺を見る。 「暴徒に協力はしても、止めはしないな」 ジークの視線を受ける。 次の問いは、すでに決まっていた。 『暴動が都市全体の寿命を縮めるとしても、止めないのか?』 口に出すのが〈躊躇〉《ためら》われた。 ジークの答えが予感できていたからかもしれない。 更には、ジークが己の信念に従ったとき、俺が取るべき行動を決めかねているからかもしれない。 だが、思い直し口を開く。 「それが、ルキウスの研究を遅らせ……最悪、都市を滅ぼすとわかっていてもか?」 「……ああ」 予想されていた答えが返ってきた。 視線をぶつけ合う。 俺もジークも無言。 部屋にしばしの沈黙が流れる。 耳の奥に忍び入ってくるような沈黙だった。 「お前の言いたいことはわかる」 しばらくして、ジークが口を開く。 机に戻り、立ったまま新しい煙草をくわえた。 「だが、不蝕金鎖はずっと牢獄と共にあった」 「たとえ先に何があるとしても、牢獄民を見捨てる選択はない」 「……そうか」 本格的な暴動が起きたとき、俺はどこにいるのだろうか。 ジークの隣にいるのか、ルキウスの隣にいるのか── それとも、どちらとも決められないのか。 「お前、今日はこのあと時間はあるのか?」 「ああ、特に予定はないが」 「エリスに声をかけてやってくれ」 「お前に会いたがっていた」 「家にいるのか?」 「いや、広場近くで野外診療所をやってる」 「今の牢獄にゃ山ほどお客がいるんでな」 「あいつがなあ」 「お前が聖女様のところに行ってから、あいつは変わったよ」 「一生懸命、生き方を探してる」 柄にもなく嬉しかった。 咄嗟に言葉が出てこなかったくらいだ。 「……良かった」 「エリスには、自分の望むように生きてほしかったんだ」 「〈風錆〉《ふうしょう》の件から、まだ大して経っていないはずなのに、ずいぶん遠いことのように思えるよ」 「お前もいつの間にか、すっかり上層民だ」 「確かに以前とは変わったかもしれない……だが、俺は俺だ」 「そうあってほしいね」 「先のことはわからんが、最後の瞬間はしかるべき場所で迎えたいものだな」 「お互いにな」 ジークが頷く。 「さ、エリスの所へ行ってやれ」 「また会おう」 ジークの部屋を後にする。 通行人に聞くと、野外診療所の場所はすぐにわかった。 露店として利用されていた天幕を、そのまま診療所として流用しているらしい。 診療所に近づくと、血と膿の匂いが鼻をついた。 ごろごろと転がっている怪我人の中で、一人忙しく動いている女がいる。 エリスだ。 顔は汗と血に汚れ、白かったはずの前掛けも黒く染まっている。 かつての美しい姿は見る影もない。 だが、怪我人たちがエリスに向ける視線には、〈尊崇〉《そんすう》の眼差しがあった。 こんな状況では、エリスは聖女様よりありがたい存在だろう。 「エリス」 声をかけると、エリスがこちらを向いた。 額の汗を拭う姿には、なぜか侵しがたい清らかさがある。 「……久しぶり」 「ああ」 「少し待って。もうすぐこの人終わるから」 そう言って、目の前の患者に視線を戻した。 「お待たせ」 エリスが天幕から出てきた。 以前より痩せているのが見てわかる。 「忙しそうだな」 「お陰様で、今や牢獄で最も人気がある女よ」 「どこ行っても引っ張りだこ」 エリスが皮肉っぽく笑う。 「薬は足りているのか?」 「一応ね」 「でも、清潔な水が足りてない」 「水?」 「最近、井戸の水がだんだん濁ってきてる」 「牢獄にある井戸の半分くらいは、もう使えないかもしれない」 地震で地下の状況が変わったのだろう。 「下層から水を運ぶよう言っておこう」 「誰に?」 「貴族だ」 「最近知り合いができてな」 「いつの間にかカイムも偉くなったわね」 「昨日は何を召し上がったのかしら?」 「皮肉を言うな、これも成り行きだ」 「わかってる」 「少し突っかかってみたかっただけだから」 エリスが力なく笑う。 「お疲れだな」 「毎日怪我人に接してると、何だかやるせなくて」 「ここにいる人は、怪我が治っても帰る家がなかったり家族を失ったりした人が多いから」 「怪我が治っても、みんな心が弱ったまま」 「頭がおかしくなっちゃう人もいっぱいいる」 「そればかりは、医者でもどうにもならないな」 エリスが頷く。 ほとんど同時に、天幕の奥から医者を呼ぶ声が聞こえた。 「ちょっと行ってくる」 「ご苦労さん」 エリスが怪我人を踏まないように、天幕の奥へ入っていく。 文字通り足の踏み場もない状況だ。 腕や脚の折れた者、 頭から血を流す者、 腹の中身をはみ出させた者。 天幕は怪我人の陳列場と化している。 「……あれは」 ふと、一人の男が目に止まった。 足の先から股間まで、這い上がるように火傷の痕がある。 いや、一見すると火傷だが微妙に違う。 近づいてみる。 「な、なんだよ、いきなり。おめえ誰だ?」 「エリスの知り合いだ」 「え、エリス先生の?」 俺を警戒していた男は、それで大人しくなった。 「悪いが、ちょっと傷を見せてくれ」 遠慮無く男の脚を観察する。 「……」 やはりだ。 この傷── ただの火傷ではない。 王城の地下で黒い粘液に襲われた時、俺が負った傷と同じものだ。 なぜ、牢獄に同じ傷を持つ者がいるのか? 背中を冷たい汗が伝う。 「この怪我はどうした?」 「あ、あんたは馬鹿にするかもしれないが……黒い霧さ」 「黒い霧?」 「知らねえのか……?」 そこに、エリスが戻ってきた。 「何してるの?」 「ああ、ちょっとな」 「こいつに、黒い霧の話をしてたのさ」 「ああ、あれね」 「詳しく聞かせてくれないか」 「別にいいけど?」 天幕の外に出ると、エリスが手短に説明してくれる。 最近の牢獄では、明け方に霧の出る日があるらしい。 立て続けの崩落で都市の高度が下がり、気候が変わってきているようだ。 そして、不思議なことに、霧が出た朝にはよく死体が見つかる。 原因は不明。 いつしか牢獄には、霧の夜に外出すると黒い霧に惑わされて命を落とすという、怪談めいた噂が広まった。 「見つかる死体は、だいたい全身に火傷を負ってるの」 「さっきの人の足にあったような傷ね」 「あの男は何か見ていないのか?」 「見てないって」 「夜中に道を歩いていたら突然脚を掴まれたらしいの」 「とにかく驚いちゃって、必死になって逃げたらしいわ」 「……なるほど」 牢獄にも、あの黒い粘液がいるのだろうか? もしいるとしたら、一体どこから? 「怖い顔して、何か知ってるの?」 「いや、何でもない」 アレのことを説明するのは難しい。 言ったところで信じてはもらえないだろうし、余計な混乱を招きかねない。 「死体は、どのくらい見つかってるんだ?」 「20くらい」 「犯人も見つからないし、みんな怯えてるわ」 「前の黒羽の騒ぎみたいな状況ね」 「崩落に黒い霧か……災難だな」 「昔っからひどい場所だけど、今の牢獄は本当に最悪ね」 「じゃ、仕事戻るから」 あっさりと言って、エリスが天幕に戻りかける。 「エリス」 「……何?」 「お前、ずっと牢獄にいるつもりか?」 「患者がいるから、しばらくはいると思う」 「もしかしたら、これから暴動が起きるかもしれん」 「その時になったら考える」 「私、難しいこと考えるの苦手だから」 薄く笑って、エリスは天幕に戻っていった。 その時になったら考える、か。 あいつらしい。 ……さて。 せっかく牢獄に来たのだ。一通り見回ってから帰ろう。 「今戻った」 「ご苦労」 部屋では、ルキウスが書類に向き合っていた。 傍にはシスティナが控えている。 「牢獄の様子はどうだった?」 「相変わらず最低だ……」 ソファに腰を降ろし、テーブルにあった酒を自分で注ぐ。 高級な酒だ。 このグラス1杯分の金で、何本の火酒が買えるのか。 一日のうちに上層と牢獄を往復すると、あまりの世界の違いに気持ちが悪くなる。 同じ人間が生きている世界とは思えない。 「暴動は、とりあえずのところ不蝕金鎖が抑えてくれている」 「だが、いつまで保つかは不透明だ」 「そうか」 「ジーク殿は暴動について何と?」 「……」 どう報告すべきか。 ジークは都市が潰れるとしても、牢獄民を犠牲にするつもりはないらしい。 真っ正直に報告すれば、ルキウスの不蝕金鎖を見る目も変わるだろう。 「牢獄民の安全を最優先するってことだ」 「地震や崩落が続くようなら、むしろ暴動を扇動する可能性がある」 「なるほど……不蝕金鎖の頭としての道を選ぶか」 「さんざんルキウス様のお世話になっておきながら、何ということを」 システィナが憤慨する。 だが、ルキウスは穏やかな笑顔を浮かべていた。 「いいのだよ、システィナ」 「ジーク殿の判断は間違っていない」 「できる限り、こっちに協力すると言っていた」 「なるほど」 「暴動を防ぐため、何か策はあるか?」 「医者をやってる友人から聞いたが、井戸の水が濁ってきているらしい」 「それは初耳だ」 「牢獄の井戸の半分くらいは汚染されているようだ」 「下層から、まともな水を送ってやった方がいい」 「わかった、手配しよう」 「水道の敷設には時間がかかりますので、まずは人による運搬でしょうか」 「手の空いている衛兵に当たらせよう」 「陛下の決裁を仰ぐように」 ルキウスが迅速に決断を下す。 「一番の問題は崩落の不安が高まっていることだ」 「聖女に祈りの儀式でもさせておいた方がいいだろう」 「派手なら派手なほどいい」 言いながら、自分の言葉とも思えなかった。 コレットが聞いたらどんな顔をするだろうか。 「新しい聖女のお披露目と併せれば、効果が期待できるかもしれないな」 「先々代の時のように、儀式の最中に崩落が起きなければいいが」 「天使様の思し召し次第だ」 「では、私は神官長と予定を詰めておきます」 「できるだけ早く準備を整えさせるように」 「かしこまりました」 事務的な返事を聞きながら酒を呷る。 最高級品にもかかわらず、ひどく不味い。 「機嫌が悪いようだな」 「不愉快なことでもあったか?」 「いや、何もない」 何も不愉快なことなどなかった。 それぞれが理に適った動きをしている。 だがなぜか、心が落ち着かない。 「ああ、もう一つ重要な報告があった」 「牢獄で黒い霧というのが噂になってる」 「報告書にあるのは見た」 「原因はわかってるか?」 首を振るルキウス。 「大方、牢獄民の不安が生み出した噂でしょう」 「ならいいが」 「何か知っているなら、早く言ったらどうですか?」 「落ち着け」 「カイム、何か心当たりがあるのか?」 「自分の目で見たわけではないから断言はできないが、人を殺しているのは黒い粘液……」 「城の地下に住み着いていたあいつだ」 ルキウスの顔に緊張が走る。 野外診療所で見聞きしたことを伝えると、表情はいっそう険しくなった。 「その、粘液とやらはどこから来たというのです?」 「わからん」 「牢獄に、我々の知らない執政公の研究施設があった可能性もある」 「調べる必要があるだろうな」 ルキウスが頷く。 「調査は、カイムに任せたいのだが……」 「そう来るだろうと思った」 「黒い粘液のことは公にできない。頼めるのはお前だけだ」 「……ま、仕方ない」 「放っておくわけにはいかん」 「ティア君にも行ってもらった方がいいだろうな」 「ティアも?」 「以前、城の地下で遭遇したときは、ティア君が粘液を浄化したのだったな?」 「ああ、あいつがいなければ俺も危なかった」 「ならば、もしもの場合に備えておいた方がいいだろう」 恐ろしく強靭な奴で、何度斬ってもなかなか動きを止めなかった。 1匹2匹なら何とかなるが、一度に多くの数は相手にできないだろう。 「いいのか? あいつは研究を受けてるんじゃないのか?」 「システィナ、調整は可能か?」 「明日は難しいと思いますが、明後日からは外出できるよう手配いたします」 「では、その方向で頼む」 「了解しました」 「では、そのつもりで準備しておく」 「ああ、よろしく頼んだぞ」 ルキウスの言葉に、片手を上げて応える。 「ティアは帰ってるのか?」 「もう部屋で休んでいます」 「検査が長かったので、大分疲れているようですね」 「無理もないか」 「なら、俺もそろそろ休む」 「カイム、今日は助かった」 「大したことはしていない」 「じゃあな」 「よろしいのですか、ティアを牢獄に行かせて?」 「彼女の身に何かあれば、我々は最後の希望を失うことになります」 「本当にそうか? よく考えてみろ」 「……なるほど」 「思い違いをしておりました」 「上手くいけば数段飛ばしで進むかもしれない。違うか?」 「仰る通りです」 「この都市には、もう時間がないのだ」 「そう、大人しい方法ばかりを選んではいられない」 部屋に入った途端に、どっと疲れが出た。 吸い寄せられるようにベッドに近づき、倒れこむ。 ティアの顔を見ておこうと思ったが、疲れているということだし明日にしよう。 「……」 仰向けになり天井を見上げる。 ティアは、本当にこの都市を救う力を持っているのだろうか? 奴の間の抜けた性格からは想像がつかない。 しかし、救えるものなら是非とも救って欲しいと思う。 瞼の裏を、昼間に見てきた牢獄の光景が流れる。 牢獄の奴らは地震や崩落に怯えきっていた。 救援物資を送ることにも意味はあるが、根本的な解決のためには、やはり地震や崩落を止める必要がある。 牢獄が再び以前の状況に戻るよう、ティアには頑張ってほしい。 「……」 扉がノックされた。 「誰だ?」 「ティアです」 まだ寝ていなかったのだ。 「入れ」 ドアが開き、ティアが現れた。 後ろ手に何かを隠している。 「まだ寝ていなかったのか?」 「眠ろうとしたんですが、眠れなくて」 「疲れてるんだろ?」 「その……怖くて」 「目をつぶると、天使様の顔が浮かんでしまうんです」 「……なるほどな」 確かに、衝撃的な光景だった。 「それで……あの……」 「この部屋で寝るか」 「え……あ、はい」 「そうさせていただけると嬉しいです」 ティアが、はにかみながら背中に隠していたものを出した。 枕だ。 「部屋の隅で構いませんので」 「ベッドを使え、疲れてるんだろう」 「で、でも……カイムさんもお疲れなんじゃ」 「いいから言われた通りにしろ」 「わ、わかりました」 恐縮しながらも、ティアがベッドに近づいてきた。 俺は、ベッドから毛布を一枚取り、ソファに持っていく。 「あの、やっぱりわたしがソファに」 「でないと、落ち着いて眠れません」 「だめだ」 「カ、カイムさん……」 子犬のような目で見られた。 顔をよく見ると、疲労の色が浮かんでいる。 口調はいつも通りだが、やはり相当疲れているようだ。 子供のようなやりとりをしているのも時間の無駄だな。 「二人で寝ることにしよう」 「ええっ!?」 「不満か?」 「いえいえ、光栄ですっ」 光栄? 「さっさと寝るぞ、俺も疲れてる」 「は、はい」 ソファに投げた毛布を敷き直す。 先にベッドに入り、ティアの方に背を向ける。 少しの間、逡巡するような息づかいがあってから、ティアがベッドに入ってきた。 「……」 「……」 沈黙が訪れた。 背中越しにティアの緊張が伝わってくる。 「眠れそうか?」 「頑張ります」 「頑張ってどうする」 「いいから何も考えるな、そうすれば眠れる」 「はい」 また、沈黙。 「今日は、ずっと検査だったのか?」 「はい」 「怖くなかったか?」 「研究員さんたちは、すごく優しかったです」 「……怖くなかったと言ったら嘘になりますけど」 「だろうな」 少し寝返りを打つと、俺の足とティアの足がぶつかった。 「ひゃっ、すみません」 「いちいち気にするな」 「一緒に寝てればぶつかりもする」 「そう……ですね」 触れ合ったまま、ティアの足の動きが止まった。 服越しでも、体温がじんわりと伝わってくる。 「カイムさんの足、熱いですね」 「いっぱい歩いたんですか?」 「ああ、牢獄を歩いていた」 「牢獄を? 羨ましいです」 「別に楽しい場所じゃない」 「楽しいところです」 「わたしの人生の中では、牢獄にいた頃が一番楽しかったですし」 「貧相な人生だな」 「うぐ……否定できません」 「でも、本当です」 「カイムさんも、皆さんもいらっしゃいましたから」 「明後日には、お前も行けるはずだ」 「後で、システィナから詳しい説明があるだろう」 「……楽しみです」 ティアが枕を抱く気配がした。 今の牢獄を見たら、どんな感想を持つだろうか。 道には怪我人や死人に溢れ、そして── ヴィノレタはもうない。 おまけに、仕事は粘液の調査だ。 ろくなものじゃない。 楽しみにするだけ無駄というものだが。 「せっかくだ、少し早く行って、街を見てみるか」 「はい、ぜひお願いします」 「カイムさんの家は、ずっと留守になってるんですか?」 「ああ」 「でしたら、この機会にお掃除もします」 「久しぶりに、お料理もしたいです」 「料理なら、ここの厨房でもできるだろ」 「カイムさんの家だから料理したいんです」 何だかよくわからないが、悪い気はしない。 「なら、好きにやってくれ」 「あの……カイムさん、食べてくださいね」 「他に用事がなければな」 「どうして意地悪言うんですか」 布団の中で、足をもぞもぞとつっつかれた。 抗議にしては相当に控えめだ。 「わかった、付き合ってやる」 「ふふ……攻撃した甲斐がありました」 「その代わり、不味かったら食わんぞ」 「任せてください、カイムさんの好みは研究済みです」 「気色悪い奴だ」 「ふふふふ」 ベッドの中が、俺達の体温で温まってきた。 久しぶりの感覚だ。 身体が痺れるように熱くなり、眠りへと向かっていく。 「眠れそうか?」 「はい、カイムさんのお陰です」 「もう、目をつぶっても天使さんの顔は見えません」 「お役に立てて何よりだ」 「よし、もう喋るなよ」 「はじめに喋ったのはカイムさんじゃ……」 「なに?」 「いえ、お休みなさいっ」 ティアがベッドに頭まで潜り込んだ。 俺も眠ろう。 今日は、深く眠れそうな気がする。 ティアから遅れることしばらく。 昼過ぎに登城すると、城内の様子が変わっていた。 いつもなら靴音すら耳障りなほど静かな城内を、沢山の衛兵たちが慌ただしく動き回っている。 何があったのだろう? 研究室の扉を開くと、椅子に座ったリシアの背中が目に入った。 「よう」 「カイムか……」 俺を一瞥し、すぐに視線を前方に戻す。 硝子の奥では、ティアの検査が続けられていた。 俺が入ってきたことにも気づかず、ティアは熱心に研究者の話を聞いている。 見慣れない服を着せられているが、緊張はないようで朗らかな顔をしていた。 「城が騒がしいようだが」 「ああ、お前のせいだ」 「はあ?」 何を言ってるんだこいつは。 「先日はご苦労だったな」 「牢獄で水が不足している件、ルキウスから報告を受けた」 「……ああ」 合点がいった。 「水の運搬に当たる人員をかき集めているのだ」 「昼ごろには、第一陣が発つであろう」 「驚いたな、昨日の今日で実現するとは」 「遅くなって良いことはない」 「ついでに……いや、こちらが本命か」 「新しい聖女のお披露目の儀式も裁可した」 「期待通りの効果があればいいが」 「聖女以外に、崩落の不安を取り除ける者はおるまい」 不安半分、期待半分という顔だった。 「暴動だけは絶対に避けねばならん」 「暴動が起きれば、研究に支障が出るだろうからな」 「それもあるが……」 「何かあった場合、それを鎮圧するのは衛兵たちだ」 「私は、国王として国民同士を戦わせるわけにはいかない」 「我が子同士を争わせる親など、いて良いはずがないのだ」 「ご高説、ごもっともだ」 「しかし、国王としては、暴動が起きた時のことも考えておく必要があるんじゃないか?」 「もちろん考えている、当たり前のことだ」 「頼もしいじゃないか」 などと話していると、羽つきが一人、ティアの前に連れられてきた。 かなり大きな翼を持っている。 「今日はこれが見たくてわざわざ来たのだ」 「何やら美しいものらしいな」 羽つきが、聖女に祈るかのようにティアの前で手を組む。 まあ、羽つきにとっちゃありがたいことだろう。 研究員に何事かを言われ、ティアが羽つきの翼に手を伸ばす。 「おお……」 ティアが翼に触れる。 次の瞬間、翼はまるで蝋が溶けるように形を失い── 黒い粘液となって床に落ちた。 粘液が光の粒となり、蛍のようにティアの周りを旋回。 背中の翼へと吸いこまれていく。 まさに超常の出来事だ。 ティアの翼が大きく広がる。 羽つきの煤けた翼とは違い、羽根の一枚一枚までが瑞々しい光沢を湛えている。 その翼には、蒼穹の高みを旋回する猛禽類の高貴さと、水と戯れる水鳥の可憐さがあった。 「……これが、浄化か」 リシアが、隣でため息を漏らす。 「素晴らしいな」 「……美しいものだ」 「ほう、お前にも美しいものを愛でる心があったか」 「最近、教養のある方々に囲まれてるんでね、多少は高尚な気持ちが芽生えてきたのさ」 教養などなくてもわかる。 ティアの翼は理屈なしに美しい。 だが── 翼の持ち主の表情には、隠しきれない苦痛が浮かんでいた。 城の地下で粘液を消したときもそうだった。 やはり、苦しいのだ。 ティアは、割ってしまった皿の破片を隠すかのように、苦痛を笑顔で塗り潰す。 「あれは、身体に負担がかかるものなのか?」 「本人は否定してるがな」 「何故隠す?」 「期待されているのを知っているから、失望されるのが怖いんだろうな」 「身体を壊しては元も子もない」 「あいつには、そういう理屈は通じない」 ティアは、ずっと自分に課せられた使命を探してきた。 俺は馬鹿にしてきたが、事実それはあったのだ。 羽化病を治し都市を救うという、崇高な使命が。 だから、ティアが自分の能力にかける意気込みは、並々ならぬものがある。 それに、あいつは能力がなくなった自分には価値がないと考えているだろう。 簡単には弱音など吐かないはずだ。 「恐らく、求められれば求められただけのことをするだろう」 「それで大事に至ったらどうする?」 「その前に研究員が止める」 「ティアを失って得する奴などいない」 「……カイム」 小さな呟きに、非難の色があった。 「冷たく聞こえたか?」 「ああ」 「……まあよい、言っていることに誤りはない」 俺たちの声が聞こえたわけではないだろうが、ティアがこちらを向いた。 軽く頷いてやると、へにゃっと間の抜けた微笑みを投げ返してくる。 あいつなりに努力して辛さを隠しているのだ。 ティアがこちらへやってきた。 「こんにちは、国王陛下」 「よく励んでいるな、これからも頼んだぞ」 「はい、ありがとうございます」 「わたし、皆さんのお力になれるように頑張ります!」 褒められた犬のような喜び方だ。 「カイムさんも、見に来てくれたんですね」 「暇だったんでな」 「素直ではないな。カイムはお前が心配だったらしいぞ」 「本当ですか!」 「嘘に決まっているだろう」 「……ですよね」 垂れる耳と尻尾が見えるようだ。 「でも、会いに来てくれたのは嬉しいです」 「で、その服は何だ?」 「研究員さんが用意して下さったんです」 「これからも翼が大きくなるだろうから、この服の方がいいと仰って」 ティアがくるりと回って見せる。 なるほど背中は大きく開いていた。 これならば翼の動きを阻害しない。 「どうだ、さっきの浄化は上手くいったのか?」 「はい、あんなに大きな羽は初めてでしたけど、上手くいきました」 「羽つきさんも、すごく喜んでくれたんです」 「立派なもんだ、無理しない程度に頑張れよ」 「はい、任せておいて下さい」 「わたしの大事なお仕事ですから」 小さく、頑張りますといった仕草をするティア。 「あ、研究員さんから、明日はカイムさんと牢獄に行くようにと言われました」 「ああ、予定通りだな」 聖女のお披露目の件といい、ルキウスの動きは素早い。 次々と判断し実行に移していく。 国の頂点に立つ政治家としてふさわしい人間だ。 「遊びじゃなくて悪いな」 「いえ、カイムさんとお出かけできるだけで楽しみです」 「なら良かった」 「あと、明日留守にする分、今日は研究室にお泊まりだそうです」 「家に帰れるのは、明日の昼前ということでした」 「必要なものは揃ってるのか?」 「あ、はい、全部揃えてくれているみたいです」 「お前と違って、ティアをぞんざいには扱わんよ」 「俺は必要十分の扱いをしているつもりだ」 「……どうでしょうか?」 「贅沢を言うようになったな」 「いえいえいえ、今のままで十分です、大満足です」 「ともかく泊まりなのはわかった、無理をするなよ」 「はい、頑張ります」 「無理をするなと言ってるんだ、言葉が通じないのか?」 「あ……すみません」 「くくく、お前らは飽きないな」 「お前を楽しませているつもりはないが」 「よいよい」 「ティア、研究員が呼んでいるぞ」 「あ、はい」 「ではカイムさん、出撃してきます」 「ああ、行ってこい行ってこい」 「帰ってこなくてもいいぞ」 「……何でそういうこと言うんですか」 「それではまたっ」 ティアが研究員の元へ戻っていく。 多少の苦痛はあるものの、どうやらティアは元気なようだ。 少し安心した。 「まるで子犬だな」 「お前によく懐いている」 「他に懐く相手がいないんだろう」 「それならそれで良いではないか、構ってやれ」 「お前と話しているときのティアの表情、いつもより何倍も明るい」 「どうだかな」 「冷たい奴だ」 「周知の通りさ」 「はははっ……やれやれだ」 妙に芝居がかったため息をついた。 ティアの好意に気づけと言いたいらしい。 そんなものは、とっくに察している。 いくつも年下の女に言われることか。 「しかし、あんな小さな身体に都市の運命を負わせるとは……」 「名誉なことかもしれんが、哀れと言えば哀れだ」 「情に流されると判断を誤るぞ」 「忠告感謝する」 リシアは、横目に俺を見ると荒く鼻息をついた。 「だが、その考えは好かん」 「後悔することになってからでは遅いぞ」 「牢獄の殺し屋がする失敗ならまだいいが、国王の失敗は笑えない」 「わかっている。私は為すべきことをするだけだ」 「だが、お前はどうなんだ?」 「あんな子に、街の運命を背負わせて哀れとは思わんのか?」 「仮にも、そこそこの付き合いがあるのだろう」 「だからと言って、都市の運命と秤には掛けられないだろう」 「そう言うと思ったよ」 「わかっているなら聞くな、馬鹿らしい」 「つまらん議論はルキウスとやってくれ」 「あいつとでは話にならん」 「俺でも一緒だ」 「情に流されるとロクな目に遭わないのを、痛いほど知っている」 「そうか……ならいい」 リシアがため息混じりに言う。 何なんだこいつは。 「俺はそろそろ帰るぞ」 「なら、私も政務に戻ろう」 リシアと並んで城に戻る。 と、橋の中央でリシアが足を止めた。 強烈な風に舞う髪を手で押さえ、塔を振り返る。 「天使は、どのような気持ちで都市を浮かせているのだろうな?」 「天使に聞け」 「それとも、俺が天使に見えたか?」 「まさか」 くくく、と笑う。 「下らなすぎて面白い冗談だ」 「何が言いたいんだお前は?」 「いやなに……」 「私が天使なら、自分が浮かせているという事実を隠されるのは、いささか心外だと思ってな」 「天使様は心が広いんだろうよ」 「ははは、違いない」 「しかし、浮いている理由を隠しているとは、私も湿気た都市の王になったものだ」 「からっとわかりやすいのも、それはそれで現実離れしているもんだ」 「聖女の存在のようにな」 「なるほど」 リシアが歩きだす。 その後を追う。 「そう言えば、今度、黒い霧とやらの調査に行くらしいな」 「ああ、明日出る」 「噂とはいえ死体は出ているのだ、くれぐれも気をつけろよ」 「国王陛下にお気遣いいただけるとは、恐悦至極です」 慇懃に貴族風の礼をする。 「喜べ、私はお前のような男が一番嫌いだ」 「そりゃどうも」 「ふんっ」 リシアが歩度を速める。 軽く追いつける速さだが…… ま、彼女の気遣いに免じて追いつけない振りをしておこう。 ちょうど、敷地から馬車が出て来た。 すれ違い様に、馬車の紋章を確かめる。 ……聖教会か。 馬車の豪華さから言って、乗っているのは神官長だろう。 ルキウスに呼び出され、早速やってきたか。 数日後には、聖女のお披露目が行われるのだろう。 それを見た牢獄民は不安から解放され、都市の平穏を信じる。 必要なことだが、今となっては心の底から馬鹿らしい。 「どちらへ?」 「ちょっと城にな」 「もう、井戸についての対策が始まっていた。素早いものだ」 「珍しくお褒めいただいたようで」 態度は相変わらず気に入らないが。 「貴方宛の手紙がありましたので、部屋に置いておきました」 「誰からだ?」 「いないはずの方からです」 それだけ言って、システィナはルキウスの書斎に消えた。 いないはずの方? 部屋に入る。 卓上に手紙が置いてあった。 手に取り、裏を見る。 差出人は…… コレットだ。 そういえば、俺が聖域に行くきっかけになったのも手紙だったな。 今度は何をもたらしてくれるのか。 開封し、便箋に並んだ流麗な文字を目でなぞる。 「……何だこれは」 内容は簡潔だった。 話したいことがあるから早急に家まで来てくれ、とのことだ。 内容はそれだけ。 らしいというか相変わらずというか、過程をすっとばした内容だ。 コレットには、人にものを伝える気がないのか。 聖域での日々を思い出し、思わず苦笑が浮かぶ。 あいつのことだから、どうせ楽しい話ではないだろうが── ま、黒い霧を調べるついでにでも顔を出してみよう。 昼過ぎ。 城から戻ってきたティアを伴い、馬車で牢獄へと向かう。 羽が目立たぬよう、ティアにはぶかぶかのマントを羽織らせた。 ギルバルトの死後も、《防疫局》は廃止されなかった。 突然《羽化病》の真実を明かして羽狩りをやめれば、住民の間で混乱が起きるからだ。 といっても、《防疫局》はもう自発的な〈罹患者〉《りかんしゃ》の保護を行っていない。 住民からの要請があればその限りではないが、保護された〈罹患者〉《りかんしゃ》は治癒院で丁重な扱いを受けているという。 もちろん、将来的には廃止されるだろうが、過去に保護された〈罹患者〉《りかんしゃ》はもう帰って来ない。 そのあたりの説明と保証の仕方は、ルキウスが抱えている大きな課題だ。 隣に座るティアに目をやる。 出会った頃、ティアの翼は指先程度のものだった。 ずいぶん大きくなったものだ。 もっと成長すれば隠しようもなくなるだろう。 ティアが街へ出られるのは、あと何回もないのかもしれない。 「ん? どうかしましたか?」 「いや……」 俺が暗いことを考えても仕方がない。 「昨日は眠れたか?」 「はい、それなりには」 「でもやっぱり、少しだけ慣れないです」 「病人じゃあるまいし、研究室泊まりなど慣れなくていい」 「今日はルキウスの家に帰る許可が出ているのか?」 「はい、もちろんです」 「なら良かった」 自然にそう言った自分に、やや戸惑う。 ティアの動向にいちいち気を配るとは、俺も上層流に丸くなったものだ。 俺には似合わないな。 「研究ってのは、どんなことをしてるんだ?」 「大体は、羽つきさんの浄化です」 「浄化するごとに、羽の大きさを測ったり気分を訊かれたりします」 「浄化1回で違いが出るのか?」 「あんまり……」 「ただ、1日ごとに見ると、少しずつ大きくなってるみたいです」 「ほう。どこまで大きくなるんだ」 「わかりません」 「自分のことだろうが」 「そう言われても、わたし、翼を生やしたことないですし……」 申し訳なさそうな顔をする。 冗談だというのに。 「研究のついでに利口にしてもらったらどうだ?」 「……ひどいです」 ティアがそっぽを向く。 「無理はするなよ」 「本当に辛かったら、いつでも言ってこい」 「そんな優しいことを言っても駄目です」 「初めて会った頃みたいに、きっと優しい時は裏があるんです」 「昔の話を引っ張り出すな」 初めて出会った頃── 俺はティアから情報を引き出すために、いろいろとご機嫌取りをした。 「ずいぶん昔のような気がしますね」 「ああ」 あれから様々な経験をし、俺たちは今、夢想だにしなかったところにいる。 「こんなこと言ってはいけないんだと思うんですが……」 「少し、怖いと思うときもあるんです」 隣に座ったティアが、少しだけこちらに身を寄せた。 「何が怖い」 「自分が、街を救う存在だなんて言われて、すごく大事にされてるのが」 「……わたしみたいな人間を大事にしてくれるのはすごく嬉しいです」 「街を救えるかもしれないっていうのも、とっても光栄で、信じられないくらいです」 「でも、もし救えなかったらって思うと……」 珍しく沈痛な面持ちになる。 不意に、自分がこいつの笑顔を割と気に入っていたことに気づく。 ティアは、間が抜けているくらい明るい方がいい。 「ま、その時はその時だ、今は精一杯やることだけ考えろ」 「成功する自分の姿だけを想像するんだ」 「ん〜……」 唸っている。 想像しているらしい。 「なんだか上手くいくような気がしてきました」 「なら大丈夫だ」 「この都市を救うことは、お前にしかできないんだ。頼んだぞ」 「はい、頑張ります」 「わたしの使命ですから」 笑顔が戻る。 ティアが頑張ってくれれば、この都市は落ちずに済むかもしれない。 そうすれば、皆助かる。 牢獄の奴らも、下層や上層の奴らも── そして、俺もだ。 「……」 俺が、ティアに救われる? 何となく胸がざわついた。 俺もこの都市の住人なのだから当たり前のことだ。 だが、妙に納得できない。 大の男が、こんな女に助けられるのが恥ずかしいのだろうか……。 違うな。 上手く言葉にできない。 「どうかしましたか?」 目の前で、ティアがきょとんとした顔をしている。 「何でもない、気にするな」 ティアから目を逸らし、窓の外を見る。 牢獄は間もなくだ。 無理矢理頭を切り換え、俺は再びティアに向き直った。 「牢獄に着いたらどこに行きたい?」 「まずは市場に行きたいです、お買い物も必要ですし」 「なぜ?」 「料理をするって言ったじゃないですか」 「そうだったか?」 「もう忘れたんですか?」 「寝ないで献立を考えたのに……ぐす」 昨日は寝たんじゃなかったのか。 自分でボロを出すあたりティアらしい。 「覚えてる」 「あの時は疲れてたんだ」 「本当ですか?」 じとりと〈睨〉《にら》まれた。 「絡むな」 「男の人に料理を作るのは一大事なんです」 「お前は元召使いだろう? 飽きるほど作ってきたはずだ」 「その……いろいろあるんです、女には」 やれやれだ。 「って、何でお前が女だったとは思わなかった……みたいな顔するんですか」 「よくできた被害妄想だ」 「自分で言ってて惨めにならないのか?」 「……なります」 膨れてそっぽを向いてしまった。 自然と苦笑が浮かぶ。 まったく。 ……本当に退屈しない奴だ。 「わぁ……」 関所前広場は賑わっていた。 リシアが手配した水の救援が始まっているのだ。 関所を通り、牢獄から下層まで続く兵士たちの列が、次々と水甕を運んでいる。 下層の井戸からの水を、人海戦術で運び下ろしているのだ。 「お城の兵隊さんたちは、ここでお仕事されていたんですね」 「人数がものを言う仕事だからな」 先日とは違い、人々の表情には笑顔も見える。 これで、牢獄民の不安が少しでも和らいでくれればいいが。 「あ、あれはフィオネさんですね」 広場の中央では、フィオネが兵士達に指示を出していた。 近づき、声をかける。 「おお、カイム……」 「こんにちは、フィオネさん」 「なぜ君が牢獄に?」 「お仕事の手伝いで」 「仕事?」 「気にしなくていい。ちょっとした里帰りだ」 「気にするなという方が無理だろう」 「事情がある」 「ルキウスも同じ返事をするだろう」 「事情、ね」 「まあいい、わかった」 「羽狩りの奴らには、ティアには手を出さないように伝えておいてくれないか」 「こういうやりとりは好かないが、断ることもできまい」 「助かる」 「ありがとうございます」 「不要な混乱を招かぬよう、背中のものは隠しておいてくれ」 「余計な出動はしたくない」 「はい、わかりました」 相変わらずの堅物だが、フィオネも話はわかるようになったな。 「水の配給はどうだ?」 「順調だ」 「カイムがルキウス様に進言したらしいな」 「単純に報告しただけだ」 「褒めるなら、リシアの迅速な対応を褒めてやってくれ」 「そうだな……」 深く頷く。 「いや、私が陛下を褒めることなどできると思うか?」 「冗談に決まっているだろう」 「お前は、なぜそのように仕方のないことばかり言うのだ」 フィオネがぶすっとした顔をする。 冷たい視線が面白い。 「まあいい、ともかく今回の配給は私にとっても喜ばしい」 「ほう、なぜ?」 「この度、ルキウス様から関所の防衛を任されたのだ」 「有事の際には、私が先頭に立たねばならない」 「名誉なことじゃないか」 「本気で言っているのか?」 「防衛を任されたということは、暴動が起きれば鎮圧せねばならない」 「この私が、だぞ」 当初は牢獄を毛嫌いしていたフィオネだが、黒羽の捜索を経て随分と丸くなった。 牢獄の人間に剣を向けねばならぬとなれば、穏やかではないだろう。 「暴動が起きてほしくないのは俺も同じだ」 「カイムは私以上だろう、ここで生活していたのだ」 「暴動ってどういうことですか?」 ついて来ていない奴がいた。 「お前は知らんでいい」 「えー、どうしてですか」 「いいから黙っていろ」 「ううううう……」 ティアの頭を押さえる。 「数日後には、新しい聖女様のお披露目もあるってことだ」 「牢獄民の不安も和らぐだろうよ」 「そうか……」 「今度の聖女様には、是非ともこの都市を支えて貰わねばな」 フィオネはこの都市の裏側を知らない。 純粋な信仰の言葉を聞くと、いたたまれなくなる。 「俺達は行くぞ」 「そうか、気をつけてな」 「さようなら、フィオネさん」 フィオネと別れ、市場方面に向かう。 「なあ、ティア」 「牢獄は、お前がいた頃とは変わった……悪い方にだ」 「……崩落の影響ですよね」 わかっていたのか。 「いくらわたしでもわかります」 「水の配給で皆さん喜んでますけど、昔なら配給なんて必要ないですもんね」 「それに……この臭い」 ティアが悲しい顔をした。 牢獄に充満する臭いの発生源が何であるか、こいつは知っている。 怪我人と死体…… そして、死体が空へと還っていく臭いだ。 「辛気くさい里帰りですまないな」 「いいんです」 「カイムさんとお出かけしたかったというのもありますけど……」 「わたし……ヴィノレタを見たかったんです」 「もう、何も残ってないとしても」 「政変の時に見ていなかったのか」 「はい……一人だと、どうしても……」 「……」 無理もない。 ティアは、少しの間だがヴィノレタで働いていたのだ。 思い出もあるだろう。 出会った頃からそうだった。 平時の間の抜けた発言が演技であるかのように、こいつは聡明なのだ。 身の周りの不幸を知った上で、いつも笑顔を絶やさない。 牢獄民の多くが、不条理の中で笑顔を忘れてしまうにもかかわらずだ。 だから、牢獄にいた頃からティアは誰からも嫌われない。 いちいち面倒な女だが、俺を含め多くの人間がこいつの笑顔になにがしかの救いを見ているのだろう。 「ヴィノレタには後で行こう」 「メルトも、お前が来てくれるのを待ってるだろう」 「はい」 ティアが笑う。 「よし、まずは買物だ」 先に立って歩く。 後ろをついてきたティアが、俺の服の裾を握った。 買物を終え、俺達は娼館街へと向かう。 「……」 娼館街に近づくと、ティアが足を止めた。 「ヴィノレタが……」 ティアが、呆然とその場に立ちすくむ。 誰でもそうなのだ。 あるべきものがそこにないという、圧倒的事実。 涙も出ない。 ただ、立ちすくむことしかできないのだ。 「何もかも、なくなってしまうんですね」 ティアがヴィノレタの壁に近づいていく。 「気をつけろよ」 「大丈夫です」 ティアは壁のあたりをしばらく歩いた後、屈んで何かを拾った。 手には、握り拳半分くらいの瓦礫がある。 「何だ?」 「壁の欠片です」 「もらっていっても大丈夫ですよね?」 「ああ」 「メルトさんは……亡くなったんですね」 ティアが瓦礫を胸に抱き、祈る。 「どうして……」 大した理由はない。 ここにいたからだ。 生前の全てとは関係なく、ただここにいたから死んだ。 「でも、良かったです。こうして壁が残っていて」 「本当に何一つ残っていなかったら、わたしヴィノレタが落ちたって信じられなかったかもしれません」 「そうだな」 「まだ運がいい方だ」 ヴィノレタの実在を証明するものが、人間の記憶以外にあるのだから。 「メルトさんの日頃の行いが良かったからですね」 「もう、喋るな」 日頃の行いなんて関係ない。 日頃の行いが関係あるなら、あいつが死んでいいはずない。 「だって……」 「喋らないと……ちゃいます……」 ティアが顔を伏せた。 その頭を幾分乱暴に撫でる。 「ぐす……う……」 「わたし、研究頑張ります」 「こんなこと、もう起こってほしくないですから」 誰に言うともなく言って、ティアは壁の欠片を大事そうにしまった。 「さ、行こう」 「はい」 ティアの手を握る。 悲しみと動揺からか、その手はしっとりとしていた。 久しぶりの家だ。 鍵を開け、警戒しつつ中に入る。 「やっぱり、埃が溜まっていますね」 「誰も住んでいないと、家ってすぐにこうなるんです」 「上層の屋敷と違って、すきま風が入るからな」 「まずはお掃除ですね、時間もまだありますし」 「カイムさんは、どこかお散歩でもしていて下さい」 早くもティアは箒に手を伸ばしている。 「なら、家のことは任せた」 「掃除をするのはいいが、一人で家から出るなよ」 「背中の翼、〈目敏〉《めざと》い奴には気づかれるぞ」 「あ、はい、注意します」 「じゃあな」 「晩ご飯作りますから、どこかで飲んできちゃ駄目ですよ」 新妻気取りか。 鍵を渡して家を出る。 こっちは、コレットの話でも聞きに行こう。 しばらく歩き、コレットとラヴィの家に到着した。 ふと、先程のティアの言葉を思い出し、苦笑する。 ……ま、別に飲むわけじゃない。 入口の扉を叩く。 「はーい、どちら様ですか?」 ノックをすると、のんびりとした返事があった。 「俺だ」 「あ、カイム様!?」 「コレット、カイム様が来たわよ」 「ほら、早く服着て」 ……何をやっているんだ、こいつらは。 ここだけが、殺伐とした牢獄とは別世界だ。 「こんにちは、カイム様」 「おう、二人とも元気にしてるか」 「もちろんです」 ラヴィが血色のよい顔で微笑んだ。 一時は命も危ぶまれたが、ジークがよく面倒を見てくれているのか、体力は回復してきているようだ。 「服がどうこう言ってたが、何してた?」 「別に、殿方が喜ばれるようなことはしていません」 「ふしだらな想像をなさらぬように」 全くしていないが…… どうでもいい。 「生憎お酒がございませんので、お茶を召し上がりますか?」 「ああ、いや、茶でいいんだ」 ラヴィリアに促されて椅子に座る。 すぐに茶が出た。 「聖女様、手ずからとは痛み入ります」 「元聖女です、しかも出来損ないの」 「上層の生活で、上品な嫌味も身についたようですね」 コレットが笑う。 「どうだ、牢獄にも慣れたか?」 「ええ、買物程度は問題なくできるようになりました」 「仕事はまだ見つかっていませんが」 「まあ、慣れるまでは無理するな」 「牢獄では何があるかわからない」 「ここまでは進める、と思ったところの2歩手前で止まるくらいが丁度いい」 「心に留めておきます」 「とにかく、空気が澱んだ路地には入らないことですよ、コレット」 「ラヴィに言われることではありません」 「だってあなた、こっちの道の方が近そうだ、などと言って細い道に入ろうとするでしょう?」 「そのようなことはありません」 「あの時は雨が降って来そうだったから」 「昔は、ラヴィも危ない道に入り込んでたがな」 「あ、あの時は牢獄に慣れていませんでしたから、仕方ありません」 ま、仲良く生活しているようで何よりだ。 茶を一口飲んで、本題に入る。 「で、用件は何だ?」 「ええ……」 ひと呼吸置いて、コレットが姿勢を正す。 「単刀直入に申しますと……また天使様の御声が聞こえました」 「その報告をと思いまして」 「ほう」 「天使様は何と言っていた?」 「それが、不明瞭でよくわからなかったのです」 「相変わらず頼りない夢だな」 「お黙りなさい」 軽く咳払いをして、聖女が居住まいを正す。 「ですが、今までの御声とは違いました」 「何か助けを求められているような、深い悲しみに満ちた御声だったのです」 「夢を見たのはいつだ?」 「一昨日の日の高いうちです」 「うたた寝をしていて夢を見ました」 「……一昨日の昼か」 ティアが天使を見て倒れたのもその頃だ。 以前から、コレットは、ティアに何かあった時に天使の声を聞くことがあった。 とすれば、今回の声もティアの件が原因かもしれない。 「何か?」 「いや」 天使のことをコレットに打ち明けるのはまずい。 信仰に篤いコレットのことだ。 天使のことを知ったら何をするかわかったものではない。 「もしや、御子の身に何かありましたか?」 どういう勘をしてるんだこいつは。 「いや、元気だ」 「ならば良いのですが……」 コレットが少し考え込む。 ラヴィリアに水を向けてみよう。 「どうだ、最近の生活は?」 「やりくりは楽ではないですが、自由に生活させていただいております」 「何よりだな」 「家事は全部お前が押し付けられているのか?」 「押し付けられてはいませんが、適材適所と申しますか」 「……適材適所?」 「ああ、料理は割と見所があるかもしれません」 「それは、上から目線でありがとう」 「まあ、これからは聖職者でもなく、ましてや聖女ではありませんから、自分のことは自分でできるようにならねばなりません」 「いい心がけだ」 この二人がどこへ向かうのかはわからない。 だが、こいつらには普通の生活が似合っているような気がする。 「ときに、貴方は聖女の処刑には立ち会われましたか?」 「ああ、一応な」 「まだ聖女になったばかりだというのに、哀れなものです」 「昔から知っている子でしたので見に行こうとも思いましたが、どうにも足が動きませんでした」 無理もない。 「穏やかな顔をしていたよ」 「自分の責任を受け止めて落ちていったのだと思う」 「そう……ですか」 「しかし、このように地震や崩落が続いては、聖女になる者もいなくなってしまいますね」 「そればかりか、聖女が都市を浮かせていないと気づく者も現れてくるでしょう」 「かもしれんな」 「貴方は見つけたのですか? この都市を浮かせているものを?」 「いや、まだわかっていない」 嘘をつく。 「頼りになりませんね」 「お前がもっと熱心に祈れば、天使様が答えを教えてくれるんじゃないか?」 「私の祈りが足りないと仰るのですか?」 「俺より先に答えに辿り着いたら教えてくれってことだ」 「初めからそう言って下さい」 つんとして、コレットが顔を背ける。 「さて、話が終わりなら、俺は帰るぞ」 「もうですか? お食事でもして行かれればよいのに」 家にはティアがいる。 掃除の後は料理を始めているだろう。 「魅力的な提案だが、今日はこの後も用があってな」 「そうですか……せっかく腕を振るおうと思っていましたのに、残念です」 「また今度頼む」 「ええ、そういたしましょう」 「来ていただけて嬉しかったです」 「天使様のお話もできましたし」 「一番は、カイム様のお顔が見られたことでしょう?」 「い、命の恩人なのですから当たり前です」 「そうでしょう、そうでしょう」 「あまり余計なことばかり言っていると、家から追い出しますよ」 「喧嘩だけは勘弁してくれよ」 席を立つ。 「茶、美味かったぞ。またな」 立ち去ろうとする俺を、コレットが止めた。 「鈍感な貴方は気づかないかもしれませんが」 「何だ、出し抜けに」 「最近、この牢獄が落ち着かないのです」 「ああ」 「地震の頻発で誰もが怯えている」 コレットが小さくため息をつく。 「確かにそう……そうなのです」 「しかし、私が言っているのはそういうことではありません」 「このノーヴァス・アイテルから、何か大切なものが日に日に零れ落ちている気がするのです」 「私の気のせいかもしれません」 「気のせいであることを願ってる」 「ええ、まったく」 コレットがか細い微笑みを浮かべた。 「それじゃあな」 天使の声か。 何やら、深い悲しみに満ちた声をしていたらしいが。 そういえば、ティアも同じようなことを言っていた。 「よく来たとか、待っていたとか……そんな感じでした」 「でも、あんまり嬉しそうじゃなくて、悲しい雰囲気の声なんです」 コレットには、塔にいる天使の声が聞こえているのだろうか。 祈りの力だけで、それを為し得たのならまさに奇蹟と言っていいだろう。 神話に登場する初代の聖女イレーヌも、あいつみたいな女だったのかもしれないな。 家の窓から灯りが見えた。 料理をしているのだろう、路地には食欲を誘う匂いが流れている。 やはり、向こうで飯を食わなくて良かった。 「帰ったぞ」 「あ、お帰りなさい」 調理場で鍋をかき回しながら、ティアが応じた。 「何作ってる?」 「野菜とお肉のスープです」 「もうすぐできますので、待っていてください」 「楽しみだ」 「部屋、大分汚れていただろう」 「ええ、掃除のしがいがありました」 「せっかく掃除したんだ、また戻ってこられればいいが」 「わたしが頑張れば、きっと大丈夫ですよ」 「そう願いたいね」 席に着き、料理をするティアの後ろ姿を眺める。 鍋をかき回す仕草。 時々、味見をして、首をひねったり頷いたりする。 何も面白いことはないはずだが、見ていて飽きない。 時間がゆっくりと過ぎていくような、妙に穏やかな気分だ。 「悪くないな」 「え? なんですか? よく聞こえませんでした」 「いや……」 何だか気まずい。 話題を変える。 「お前、何か欲しいものはないか?」 「欲しいもの……」 「あ、でしたら、香草を取ってください」 そういう話ではないのだが。 苦笑しながら、香草を取ってやる。 「俺が言ってるのは、服とか装飾品とか、そういうものだ」 「うーん……すぐには思いつかないです」 「首飾りは前に頂きましたし……」 「安物じゃないか」 「値段はいいんです、思い出ですから」 「欲がない奴だ」 「いえ、きっとわたしは贅沢なんです」 「お金で買えないものばかり欲しいんですから」 「ほう? 例えば?」 「普通の生活とか、穏やかな毎日とか、何かそんなものです」 「そいつは、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》以降、入荷したって話を聞かないな」 「ですね」 「でも、どうしたんですか急に?」 「深い理由はない、そんな気分になっただけだ」 「ふふふ、変なカイムさんです」 笑って、ティアが再び鍋の方を向く。 なぜか機嫌が良くなったらしく、調子外れな鼻歌が聞こえてきた。 やがて、食事が終わった。 相変わらずティアの料理は美味い。 「上層の料理もいいが、お前の料理は口に合うな」 「なら良かったです」 「ヴィノレタではずいぶん練習しましたから」 食後の茶を飲みながら、ティアが少し寂しそうな笑顔を浮かべた。 こうして飯を食ったのは久しぶりだ。 「こうしてご飯を食べるの、久しぶりですね」 思っていたことを、そのまま言われた。 「〈風錆〉《ふうしょう》とのいざこざで、ティアをヴィノレタに預けて以来か」 「そうですね」 「なんだか、昔のことみたいです」 「あれから大聖堂に行って、ルキウスさんのところへ行って……」 ティアが目をつぶって回想する。 と、思っていたら、いきなり目を開いた。 「よく考えてみると、カイムさんの周りって、いつも誰か女性がいますよね」 「今はいないが」 「いえ、わたしも一応女ですから」 「わかりにくいかもしれませんが」 唇を尖らせて言った。 「冗談だ、本気にするな」 「まあ、女はいることにはいたが、色っぽい話はないぞ」 「フィオネさんとは?」 「ありそうでない」 「エリスさんは?」 「ないな、あいつとの関係はもっと面倒だ」 「では……」 「コレットもラヴィリアも、リシアもないぞ」 「順番に聞いていくつもりか」 「いえ、ちょっと気になったので」 「俺に気があるのか?」 「え!?」 ティアが俯く。 もじもじ身体を動かしている。 否定しないということは、そうなんだろう。 「よくわからないですけど、一緒にいるのは楽しいです」 「わたし、ずっと苦しい思いをして生きてきました」 「でも、カイムさんに拾われてからは、本当に毎日が楽しいです」 「寝るときも明日が楽しみです」 「こんな気持ちになれるのは、カイムさんのお陰なんです」 「カイムさんが拾ってくれなかったら、わたし……」 「その恩返しのつもりで傍にいるのか?」 「いえ、それだけではないです」 「もちろん、お礼の気持ちはありますけど」 好きだと言いたいのだろうか? 「カイムさんは、わたしといて楽しいですか?」 「どうかな」 「昔のことは知らないが、まあ、今は悪くない」 「……」 ティアの表情が晴れる。 「すみません、小動物のくせに偉そうなことを言って」 「自分で小動物と言うな」 「育ちのせいかもしれないが、自分を卑下するのはやめろ」 「お前は馬鹿だが、卑下する必要があるほどじゃない」 「喜んでいいのか分からないです」 本当に、どういう顔をしたらいいかわからない、という顔をした。 「お前はお前で価値があると言ってるんだ」 「わたしに?」 「そうだ」 「だから、自分を卑下するな」 「は、はい……ありがとうございます」 少なくとも、俺にとっては価値がある。 俺はずっと、未来を諦め、思考停止している自分を無意識に嫌悪していた。 だからこそ、諦めないティアを時に嘲笑し、彼女の夢が壊れることを期待した。 牢獄という泥沼の中でも、光を失わないこいつが羨ましかったのだ。 ティアに出会わなければ、こんな惨めな自分に気づけなかったかもしれない。 「さっき、何が欲しいかって話をしましたけど」 「わたし、また、こんな風にご飯が食べられたらそれで満足です」 「ああ、悪くない」 「カイムさんも、そう思ってくれるんですか?」 「多少な」 一人で暮らしているときには、ついぞ感じたことのない平穏。 身体が〈鈍〉《なま》ってしまう気もするが、これはこれでいいものだ。 「そのためには、まず目先のことを片付けないとな」 「目先のこと?」 「黒い霧の調査だ」 「あ、そうでした……」 「出発は深夜だ」 「そろそろ寝ておいた方がいい」 「ですね」 ティアがテーブル上の食器をまとめる。 「また作ってくれよ」 「あ……はいっ」 夜半過ぎ。 俺とティアは家を出た。 千切れ千切れの雲が浮かぶ夜空に、月がおぼめいている。 空気はじっとりと湿り気を帯び、肌にまとわりつくような重さがあった。 裏路地の臭気と相まって、歩いているだけで胸の奥がむかついてくる。 手に持つランタンの光も、わずかにぼやけている。 「……本当に霧が出るんですね」 「長年牢獄に住んでるが、こんな時間に霧を見るのは初めてだ」 「街が、雲に入っちゃってるってことですか……」 心細そうな顔をして、ティアが服の裾を掴んできた。 好きにさせる。 「雲の下はどうなってるんでしょうか?」 「神話通りなら、混沌に覆いつくされてるんだろ?」 「ま、このままなら、遠からず俺達も下界に行けるだろうから、その時に確かめればいい」 「落ちるってことですか」 「ああ。最近は天使様がお疲れだからな」 裾を掴んだ手に力がこもる。 「これからどうするんですか?」 「崩落現場に行く」 「死体がよく見つかるのは、その辺りらしい」 「は、はい」 歩いてきた道と周囲の建物が、唐突に終わりを告げる。 崩落に巻きこまれた人々の命のように、何の予兆もなく街が途切れている。 数歩進めば、下界へ真っ逆さまだ。 ティアが唾を飲みこむ音が聞こえた。 現実感がないほどに、圧倒的な迫力を持って迫ってくる光景だ。 瞼の裏を、幼い日の情景が次々と流れていく。 「闇雲に歩き回っても仕方ない。ここで様子を見るぞ」 「火を起こそう」 「あ、手伝います」 薪はその辺の家の残骸だ。 火が起こり、周囲が明るくなる。 はずだったが、視界はさして広がらない。 濃い霧が〈緞帳〉《どんちょう》のように俺達と周囲を隔てていた。 その裏から、この辺に住む乞食たちが無気力な視線を投げかけてくる。 ティアと並んで腰を下ろした。 「黒い霧って本当に出るんでしょうか?」 「それを調べに来たんだろ」 「あ、はい、そうですね……」 「くしゅんっ」 小動物のようなくしゃみだ。 「寒いのか」 「いえいえいえ、全然寒くないです」 寒いらしい。 霧で体温が下がったのだろう。 「入ってろ」 右手で外套を広げ、腕の中にティアを収める。 「わ、わ……あの、あのあの……」 「寒いか?」 「……いえ……あったかいです」 俯き、蚊の鳴くような声でティアが言った。 一丁前に恥ずかしがっているらしい。 「先に言っておくが、黒い霧の正体は、恐らく例の粘液だ」 「粘液……?」 「城の地下で危ない目に遭っただろ? あいつだ」 ティアの身体がこわばる。 「あれ……ですか」 「じゃあ、わたしが連れて来てもらえたのは、浄化のためなんですね」 「浄化してもらうのは本当にどうしようもなくなったときだけだ」 「お前の身体の負担になることはわかってる」 「負担になんてならないです」 ティアが、ぱっと顔を上げた。 「周囲の期待を裏切りたくないのはわかる」 「でも、わたし、頑張らないと」 「どうせバレてるんだ、俺の前では無理するな」 「……はい」 ティアが俺に肩を寄せる。 肩越しにティアの体温と息づかいが伝わってきた。 そのまま言葉が途切れる。 闇の中に、薪の爆ぜる音が静かに響く。 この世の果てに、たった二人残されたような気分だった。 「カイムさん……」 「ずっと、一緒にいたいです」 「ああ」 「正直に言うと、一人でいるのは寂しいです」 「ずっと一人で生きてきたのに、これから先は一人で生きていける気がしません」 「何だか……自分がどんどん変わっていくような、どんどん贅沢になっていってるような……」 「ちょっと申し訳なくて怖いです」 ティアの独り言のような告白は、どこか歌のようにも聞こえた。 色恋に慣れていない少女の戸惑いが、光の粒となって旋律の周囲を舞っているかのような── 儚く〈燦〉《きら》めく歌だ。 こんなに美しいものが、絶望と諦めが沈殿した牢獄に存在している。 放っておけば、黒く澱んだ大きな手が、〈燦〉《きら》めきを蹂躙するだろう。 「誰しも経験する感情だ」 「そうなんですか?」 「ああ」 それが恋愛感情だと明確に指摘することすら、ティアを汚してしまう気がして憚られた。 おかしなものだ。 こんなに脆く、すぐにも汚れてしまうものに心惹かれるとは。 娼館街という、感情のごった煮のような環境で生きてきたというのに。 いや、だからこそなのか。 「街が安定したら、また一緒に飯を食うか」 「わたしなんかでいいんですか?」 「ああ」 「嬉しいです……」 「そしたら、頑張って料理作りますね」 「頼んだぞ」 「しかし、うちの調理場は料理しにくいだろう?」 「どうせなら、もっとましな家に越した方がいいな」 「あ、でも、わたしはあの家が好きですよ」 「思い出もいっぱいありますし」 「今日も、掃除をしながら、やっぱりいいなって思いました」 「それに、わたしなんかには、大きな家は似合いません」 俺は明るい夢を語り、ティアは素朴な幸福を望む。 図らずも、娼館で幾度となく見聞きした男女の姿だった。 女と駆け落ちしたい男が壮大な新生活を提案し、女は貴方がいればいいと言う。 待ち受ける悲劇から目を逸らそうとする、そんなやり取りは滑稽でもあったが、どこか儚い輝きを持っていた。 ティアを見る。 こいつと駆け落ちか。 「……どうしたんですか、笑ったりして」 「お前と駆け落ちするところを想像していた」 「い、意味がわかりません……」 「でも、何だか嬉しい気もします」 頭を撫でてやると、ティアがほにゃっと笑った。 「お前といると、何となくだが気が休まる」 「余計な気を遣わなくて済むのがいいのかもしれない」 「わ、わたしも、カイムさんといると、何だか安心します」 「そいつは光栄だ」 「怖がられることはあっても、安心すると言われたのは初めてだな」 「カイムさんは、怖くなんてないです」 「すごく、優しいですから」 「そうか?」 「……そうです」 ティアの身体が、更に近づいた。 鼓動まで伝わってきそうだ。 「あの……」 「何だ?」 「いえ、その……」 「カイムさんは……その……」 「気が休まるって言ってくれましたけど……」 ティアの身体が微かに震え、次第に熱を持つ。 何か、神聖な花の蕾が開花する瞬間を見るようだ。 「わたしのことを……」 無粋な問いに答えようと、息を吸う。 「!?」 「な、なんか悲鳴が聞こえたような……」 立ち上がる。 俺に体重を預けていたティアがこけた。 「仕事だ」 「は、はいっ」 ティアが顔に付いた泥を拭う。 汚れは落ちず、頬に汚れが伸びただけだった。 まったく緊張感がない奴だ。 ティアの頬を袖で拭ってやる。 「いだだだだっ」 「行くぞ」 歩きだす。 「……間が悪いです」 背後でティアが何か言った。 霧の中を進みながらナイフを抜いた。 「あの、ドロドロしたのが本当に……」 「もう喋るな」 「は、はい」 神経を研ぎ澄ませ、悲鳴の聞こえた方向に進んでいく。 何度目かの角を曲がる。 「ひっ!?」 嗚咽のような声を上げ、何かを漁っていた猫が走り去った。 「ね、猫……か」 「飯の邪魔をしたらしい」 「ご飯、ですか?」 ランタンを前に差し出す。 死体が浮かび上がった。 「う……」 ティアが口を押さえる。 死体は成人男性だ。 ほぼ全裸に近く、皮膚は赤く焼けただれ、ところどころ白い骨が露出していた。 噂の通りだ。 「注意しろ」 ランタンで周囲を確認する。 ぐるりと見回すが、不自然なものは見つからない。 ……もう移動してしまったのだろうか。 微かに、何かが焦げるような音がした。 どこだ? どこから聞こえる? 全方位を見回すが、何も見つからない。 肉が焦げる匂いが鼻を突いた。 肉? 「っっ!?」 咄嗟に死体を見る。 真っ黒な眼窩が俺を見つめていた。 さっきまであった眼球が、そこにはない。 「離れろっ!」 叫ぶのと、死体の眼窩から黒いものが飛び出すのは、ほぼ同時だった。 反射神経だけで身をひねり── すれ違いざまに斬りつけた。 粘ついた音をたて、粘液が地面に落ちる。 まだだ。 不定形のそれに、何度も斬りつける。 急所も何もわからない。 ただ、動かなくなるまで切断するのみだ。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 ……粘液は、黒い染みとなった。 「大丈夫……ですか?」 「恐らく、な」 警戒を解かず、粘液から離れる。 動く気配は見えない。 「ふぅ……」 ひやりとさせられた。 まさか死体の中に入り込んでいるとは。 「お怪我は?」 「していない」 「よかったです」 「すみません、お力になれず」 「お前は自分の身を守ってくれればそれでいい」 安堵の息を吐き、取り落としたランタンを拾う。 「行くぞ」 「え? あの、この方は?」 目で死体を指す。 「お前が背負っていくか?」 「無理です無理です無理です」 「回収するにしても明るくなってからだ」 「それに、黒い奴がこれでお終いとは限らんぞ」 「死体なんぞに構っていたらこっちがやられる」 「あ……そうですね」 「で、では、すみませんが」 ティアは、死体に短く祈りを捧げてから俺の隣に来た。 「焚き火まで戻る。気を抜くなよ」 神妙な顔でティアが頷く。 ナイフはしまわぬまま、来た道を戻っていく。 焚き火をしていた場所に戻った。 火はすでに消えていた。 「薪、拾ってきますか?」 「いや、傍を離れるな」 余っていた薪を組み直し、もう一度火を点ける。 湿った薪にはなかなか火が点かない。 ナイフで薪の表面を削り、乾いた部分を露出させていく。 面倒だが仕方がない。 「寒くないか?」 「はい、平気です」 ティアお得意の痩せ我慢に苦笑していると…… 「あ……え……」 「?」 「カ、カイム……さん……」 「何だ?」 ティアを見る。 俺の背後── 崩落現場を凝視してわなないていた。 振り返る。 「!!!!!」 呼吸が止まった。 何だ……これは……? 崩落した崖の下から、夥しい数の粘液が這い上がってきている。 まるで、崩落の犠牲者の怨念が、下界から手を伸ばしているかの光景だ。 つまりなんだ? 粘液は、下界から上がってきたってのか!? 「あ、あ、あ、あ、あ……」 ティアの歯が、カチカチと音を立てている。 「逃げるんだっ」 ギリギリ残った理性で立ち上がる。 だが、ティアは動けない。 「ティアっ!!」 「カイム……さん……」 路地まで上がってきた無数の粘液が、一つの黒い水溜まりとなった。 それが、驚くべき速度でこちらへ迫ってくる。 「立て、走るんだっ!!」 「こ、腰が……抜けて……」 地面を這って来た粘液が、俺達を飲み込まんと立ち上がる。 その高さ、身の丈の5倍はあろう。 月が隠され、俺達の上に影が落ちた。 ……黒い壁だ。 そう思ったのが最後。 あらゆる思考と感覚が停止した。 闇が、 俺を包んだ。 「っっ!!!」 瞼を透かして、強烈な光が網膜に焼きついた。 「……」 ……? 俺は死んだのだろうか? その割に感覚は鮮明だ。 肌には霧の湿気。 鼻孔には牢獄の臭気が入ってくる。 ……生きている。 目を開く。 すぐ目の前で、ティアが膝立ちになっていた。 細い右手が、月を掴むかのように伸ばされている。 周囲に粘液の形跡はない。 「浄化……したのか?」 「よ、よくわかり……ません」 「カイムさんが危ないと思ったら……身体が勝手に……」 「痛いところ……ない、ですか?」 「ああ、大丈夫だ」 「よかっ……た……」 ティアがか細く微笑んだ。 ティアの服の背が、内側から弾ける。 瑞々しい輝きに周囲が明るくなる。 「な……」 現れたのは、淡く輝く翼。 先日見たものより、二回りは大きくなっている。 美しい…… 美しいはずなのに、感激など湧いてこない。 糸が切れたように、ティアが倒れた。 「ティアっ!!」 「しっかりしろ! おいっ、おいっ!」 抱き上げるが、反応はない。 身体はかなり熱い。 血の気のない肌に汗がびっしりと浮かんでいる。 一体どうしたんだ。 浄化のせいなのか? 「おいっ、ティアっ」 何度か揺するがティアは一向に目を覚まさない。 この上さらに粘液に襲われれば二人とも終わりだ。 とにかく、安全なところに戻ろう。 「み、見たか……羽が、光っていやがった……」 「それより、バケモノをやっつけちまったぞ……」 「天使様だ……ありゃ……」 離れた場所から声が聞こえた。 乞食に見られたか。 「お前ら」 「ひ、ひぃっ」 「こっち来るぞっ」 脱兎の如く乞食が逃げ出す。 この状況では、追うに追えない。 「くそが……」 外套で羽を隠し、ティアを背負った。 身体からは完全に力が抜けている。 嫌な想像が頭をよぎる。 ……まさか、このままなんてことは。 「……死ぬなよ、ティア」 力の限り扉を叩く。 「誰?」 「俺だ、カイムだ」 「何、こんな時間に?」 「いいから開けろ」 「はいはい」 「何それ?」 「お前の大好きな小動物だ」 「どうしたの?」 目を丸くするエリスを押しのけ、部屋に入る。 空いていたベッドに、背負っていたティアを寝かせた。 「怪我? 病気?」 「外傷はない。いきなり気を失った」 「とにかく、診てやってくれ」 「仕方ないわね」 「カイムは身体拭いたら?」 「……?」 自分に目を向けると、汗が滝のように流れ落ちていた。 全く気づかなかった。 考えてみれば、ティアを背負って牢獄を走り抜けたのだ。 「汗に気づかないほど必死なんて、珍しいじゃない」 「水場は勝手に使って」 そう言って、エリスはベッドのティアに向く。 ティアはエリスに任せ、俺は水場を使わせてもらう。 「どうだ、様子は?」 「わからない」 ティアから視線を上げ、エリスが言った。 「わからない? 医者だろ?」 「夜中にいきなり来て、カリカリしないでよもう」 「寝てるとしか言えないわ、どこにも異常がないんだから」 エリスがティアの診察を終える。 「でも、随分翼が大きくなったわね」 「何があったの?」 天使や、粘液のことを教えるわけにはいかない。 「教えられない」 「何よそれ」 「悪いな」 「まったくもう」 「上層で何してるんだか」 不満を隠しもせず、エリスは薬草の香りがするお茶を飲んだ。 「明日も早いから、私、寝る」 「カイムは適当にその辺で寝て」 エリスが自分のベッドに潜り込んだ。 「悪かったな」 「いいわよ別に」 すぐに寝息が聞こえてきた。 エリスは、連日、野外診療所で働きづめだ。 疲れているところ、無理をさせてしまったらしい。 口の中でエリスにもう一度謝ってから、ティアの傍に腰を下ろす。 胸は規則正しく上下している。 エリスの言葉通り、寝ているようにしか見えない。 さっさと城の研究所に連れていったほうがいいだろう。 明日の朝、何事もなかったように目覚めてくれればいいのだが。 「ありがとよ」 寝顔に呟く。 ティアがいなければ、俺は死んでいただろう。 この上、こいつが都市を救ったりなんぞすれば、俺は三度も救われることになる。 どれだけ恩を受ければいいんだ? いつも偉そうに接しているくせに、情けないものだ。 椅子に座り毛布にくるまる。 ティアに何かあるかもしれない。 今日は徹夜だな。 日が昇っても、ティアは眠ったままだった。 寝ずに様子を見ていたが、寝返りすら打たなかった。 発熱などの異常がないのも、喜んでいいのか悲観すべきなのか……。 「悪いけどお手上げね」 「私には、このまま寝かせておくことしかできないわ」 「やはり、上層に連れていくか」 「どうやって? 背負っていく?」 「そこまで元気じゃない」 それに、羽つきを背負っていてはいろいろと面倒が起こる。 フィオネあたりの助力を頼むのが無難だろうな。 「今日中にはベッドを空けるようにする」 「すまんが、こいつを運ぶ手はずが整うまでもう少し置かせてくれ」 そう言い置いてエリスの家を出た。 フィオネの協力を得て、ティアを城に運び込んだ頃には日が傾いていた。 研究員が早速、処置を始める。 「面倒なことになった」 「まずは、経緯を報告してもらおう」 牢獄での出来事を説明する。 ルキウスと副官の表情が硬くなっていくのが、手に取るようにわかった。 「では、黒い液体は下界から現れたと言うのですか?」 「そうなるな」 「信じられません」 「しかし、カイムは見たのだろう?」 「ああ、奴らは崖を登ってきた」 「最近の牢獄じゃ、たまに下界が見える日があるらしい」 「話によると真っ黒に見えるらしいが」 「下界は、あの粘液に覆われているということですか」 「かもな」 下界が粘液に覆われている。 ノーヴァス・アイテルの住人なら、誰でも同じことに思い当たるだろう。 「神話にある、人類を滅ぼした混沌とは……もしや……」 「その粘液のことかもしれないな」 「あんなもんが上がってきたら、牢獄は……いや、この都市は終わりだ」 「崩落は止まらず、下からは得体の知れない粘液か……」 「これっぽっちも救いがない」 「聞かなかったことにしてしまいたくなる話だ」 「今回遭遇した粘液は、今まで見た中で一番大きかった」 「また現れたら、牢獄にどれだけ被害が出るかわからないぞ」 「ああ、策を練らねばな」 さすがのルキウスも、硬い表情で腕を組んだ。 相手があの大きさでは、普通の人間の手には負えないだろう。 退治するとなれば、もう一度ティアを頼るしかない。 しかしそれも、ティアが目を覚まして、異常がないと確認された場合の話だ。 もしティアの身に何かあったのなら、再び粘液を浄化させるのは難しい。 粘液が退治できないとなったらどうする? ただでさえ、崩落への危機感で牢獄民の精神状態は不安定になっている。 「バケモノの話が牢獄に広まれば、暴動は必至だ」 「関所を開放して、牢獄民を下層に逃がすことはできないのか?」 「それは無理だ」 「下層には、牢獄民を受け入れるだけの準備がない」 「何年もの時間を掛け、少しずつ受け入れることは可能だろうが……」 「一度に大量の牢獄民が流入すれば、下層の秩序は崩壊する」 「今は、一刻も早く研究を進めなくてはならない状況だ」 「そちらに時間を割いていては、この都市が滅ぶことになる」 「牢獄の奴らを見殺しにするのか!?」 研究室に響いた自分の声は、やや感情的なものだった。 「私は実現可能な最善の策を取りたい」 「お前が何か解決策を持っているなら、ぜひ聞かせてくれ」 「……」 奥歯を噛みしめる。 「都市を落とすわけにはいかないのだ」 8人を生かすために、2人を犠牲にするのか── 2人の言い分を聞いて、残りの8人を含めた10人全員が死ぬのか── 「わかっている、あんたの判断は妥当だ」 感情に流されれば失敗する。 自分がリシアに言ったことだ。 「お前は牢獄で生きてきたのだ、熱くなるのも仕方がない」 「いや、感情に流されれば判断を誤る」 「そうなった自分は見たくない」 「何を正解とするかは人それぞれだ」 「極論、自分が正しいと思った道を進めば良いのではないか?」 「あんたの言葉とも思えないな」 「そのように見られていたのか」 ルキウスが苦笑する。 「ルキウス様のご苦労は、貴方にはわからないのでしょうね」 「ああ、お前のような部下は持ったことがないからな」 「私がルキウス様にご迷惑をお掛けしているとでも」 思い切り〈睨〉《にら》まれた。 さらに、ルキウスが苦笑する。 「ルキウス様」 「どうした?」 「いくつか処置をしてみましたが、ティアさんは未だ眠ったままです」 「何とかならないのか?」 「わかりません」 「これから、精密な検査を行いたいと考えております」 「私たちに、できることはあるか?」 「申し訳ございませんが」 ティア……。 焚き火の前で感じた、あいつの体温を思い出す。 このまま目を覚まさなかったら、どうしたらいい……。 「では、私はこれで帰らせてもらおう」 「ここにいても邪魔になるだけだ」 「……」 「カイム」 「あ、ああ……」 「ティアのこと、頼んだぞ」 「全力を尽くします」 研究員が頷くのを必要以上にしっかりと確認し、部屋の出口に向かう。 「なあ、あんた」 「どうかされましたか?」 「今からティアの顔を見ることはできるか?」 「申し訳ございません、検査中でして」 「そうか……」 「いや、すまなかった」 ティア……無事でいてくれ。 「ティア君のことが気になるか」 「考えて喋れ」 「あいつに命を助けられたんだぞ」 「すまない、ひどい質問をした」 ルキウスが神妙な顔をした。 「いや……あんたには礼を言わなくてはな」 「ティアを連れていくよう言ってくれなかったら、俺は死んでいた」 「全て偶然だ、気にするな」 「……ティア君に大事がなければいいが」 「あいつは……大丈夫だ」 ただの願望だった。 脳天気なティアのことだ。 きっと、何事もなかったかのように目を覚ますに決まっている。 おまけに、自分が俺を救ったことすら覚えていなかったりするのだ。 あいつに深刻な顔は似合わない。 いつもヘラヘラしていればいいのだ。 そんなあいつに、俺は救われてきた。 「そう、一つ報告することがあった」 「昨日、先々代の聖女に会ってきたんだが……」 「ほう」 「天使の声を聞いたそうだ」 コレットの話をルキウスに伝える。 「悲しげな声、という点でティア君が聞いた天使の声と共通しているな」 「王城の天使のものだと思うか?」 「確証はないが、しかし捨て置くわけにもいかないだろう」 「これ以上のことを知られれば、何が起こるかわからない」 「敬虔さでは定評のあった聖女様だからな」 「念のため、彼女の言動には注意するようにしてくれ」 「わかった」 「しかし、あいつらは悲しい声だの何だの言ってるが、天使には人間のような感情があるのか?」 「今のところ、天使に感情があることを示す情報はない」 「だが、ティア君が言うのだから、もしかしたら感情があるのかもしれないな」 「あんな塔に磔にされて悲しいで済んでるんだ、感情があったにしても、よっぽどお人好しじゃないか」 「天使様のことだ、お慈悲の心は無限なのだろう」 「だといいが」 ルキウスが苦笑する。 「そもそも、天使ってのは何なんだ?」 「その質問に答えられる者はいないだろうな」 「歴史の中で、天使についての情報は多くが失われている」 「この都市がどのように浮いているかはもちろん、いつから浮いているのかすらわからない」 「浮いたのは500年前じゃないのか?」 「神話を信じるのか?」 そうだった。 神話は、聖女が都市を浮かせていると民衆に信じさせるための装置だ。 信憑性は低い。 まあ、浮いたのは500年前でも700年前でも変わらない。 「あるのは、塔にいる天使が都市を浮かせているという事実だけだ」 「あとは、この都市を守らなければならないという現実か」 ルキウスが頷く。 「永遠に飛び続ける鳥はいないだろう」 「だが、私達の目の前で都市に落ちてもらうわけにはいかない」 「そうだな」 これ以上の犠牲など見たくない。 「こちらからも報告することがあった」 「聖女のお披露目の儀式だが、話が決まった」 「何事もなければ、2日後に実施される予定だ」 「少しの間でも、牢獄民が不安を忘れてくれればいいが」 「そう願いたいな」 「当日には、また牢獄の状況を観察してもらうことになると思う」 「そのつもりで準備をしておいてくれ」 「ああ」 聖女のお披露目か……。 欺瞞であろうが何であろうが、今は使えるものは全て使わねばならない。 一歩間違えば、この都市が滅んでしまうのだから。 「ただいま、コレット」 「お水をもらってきたわよ」 「まあ、こんなに」 「重かったでしょう?」 「もらえるときにもらっておかないと」 「いつまた井戸が汚れるかわからないもの」 「それはそうだけど」 ラヴィリアが床に置いた水桶を、コレットがふらつきながら部屋の奥まで運ぶ。 「そうそう、関所前広場で素敵な噂を聞いたわ」 「また? ラヴィは噂話が好きね」 「御子様をお捜ししていた時の癖だからね」 「誰のせいだと思っているの?」 ラヴィリアが拗ねた振りをする。 「それで、どんな噂? 黒い霧のこと?」 「はずれ」 「昨日の夜ね、牢獄に天使様が現れたんですって」 「え、天使様が!?」 「では、昨夜の夢はやはり、天使様の御声だったのですね」 「と、とにかく話を聞かせなさい」 興奮で水を撒きそうになるコレットを宥め、ラヴィリアが話しはじめる。 「昨日の夜、崩落現場に黒い怪物が現れたらしいわ」 「怪物?」 「なんでも、下界から真っ黒な腕がたくさん登ってきたということよ」 「べとべとした、煮詰めた油のようなものだったらしいわ」 「そのようなものが、本当にいるのですか?」 「あくまでも噂よ」 「で、丁度そこに居合わせたのが、天使様と一人の男」 「黒い怪物は、大きな塊になって二人に襲いかかったんだって」 「二人は逃げることができずに、怪物に包まれてしまうんだけど……」 「ど、どうなったのです!?」 「突然、周囲が明るくなったかと思うと、黒い腕が輝く光の粒に変わって、消えたらしいの」 「そしたら、天使様の背中から輝く翼が生え、2、3度羽ばたいたんですって」 コレットの顔は、いつの間にか明るく輝いていた。 「まさに、奇蹟のお力です」 「天使様は、今どこに?」 「天使様は、その後気を失ってしまい、鬼みたいな男に連れ去られたらしいわ」 「天使様は、どのようなお姿だったの?」 「聞いたところ、何だか御子様に似ているのよね」 「カイムさんは、何日か牢獄に滞在されると言っていましたけど……御子もご一緒だったのでしょうか?」 「でしたら、どうして私に会わせていただけないのか」 コレットが眉をひそめた。 「きっと、何かご事情がおありなんだと思うけど」 「カイム様が、私たちに悪いことをするはずがないわ」 「もちろん、私も信頼しています」 「今の私たちがあるのは、カイムさんのお陰ですから」 でも…… と、コレットが言い淀む。 彼女には気がかりなことがあった。 それは、昨夜見た夢だ。 夢の中で、天使様は仰っていた。 『目を……さい、我が子よ。そして、私に代わり……を……て』 天使様の御声はか細く消えてしまいそうなほどだった。 はじめて聞いた御声とは似ても似つかない。 天使様はどうなってしまわれるのか── そして、天使様は御子に何をさせるおつもりなのか── 良くないことが起きている気がして仕方がない。 「コレット、どうしたの?」 「いいえ、何でもありません」 「しかし、御子はどうされているのでしょうか」 「噂だと、大きな翼が生えていたのでしょう?」 「そういうことだったわね」 「お体は、大丈夫なのでしょうか……」 「カイムさんも、何も教えてくれませんでしたし」 「カイム様がお傍にいらっしゃるのですから、心配はないと思うけど」 「そう……そうよね」 ティアが目を覚ましたという報があったのは、昼過ぎだった。 急く心を抑え、研究室へと向かう。 「おう」 「来たか」 「どうだ様子は?」 「特に問題はないようだ」 「そうか……」 胸を撫で下ろす。 「しかし、二日間眠っていたのに異常がないというのも気持ち悪いな」 「異常がないのか、発見できないだけなのか……それはわからない」 「とにかく、顔を見てきたらどうだ?」 「ああ」 硝子の奥へ入る。 大きなベッドにティアが腰掛けているのが見えた。 見てわかるほどに翼が大きくなっている。 「気分はどうだ?」 ティアがこちらを向いた。 幾分血色の悪い顔に微笑みが浮かぶ。 野に咲く小さな花のような、飾り気のない笑顔だ。 「カイムさん、来てくれたんですね」 「生きてるらしいな」 「はい、ご覧の通り元気です」 えいや、と謎の格好をして見せた。 ティアの頭をぽんぽんと撫でる。 「すみません、いろいろとご迷惑をお掛けして」 「謝る必要はない」 「お前がいなければ、俺は死んでいたはずだ」 「むしろ礼を言わせてくれ、助かった」 「わたしが……カイムさんの命を救った……」 事実を確認するように、ティアが口の中で呟く。 「いえ、お役に立てて嬉しいです」 「牢獄に行った甲斐がありました」 人の役に立つのが好きな奴だ。 「ところで、どうやってわたしをここまで運んだんですか?」 「棺桶に突っ込んできたが」 「人間を運ぶにはあれが一番都合がいい」 「か、棺桶……?」 「ああ、そこにある奴だ」 壁に立てかけてあった棺桶を差す。 「よりによって……棺桶ですか」 非難がましい目を向けてきた。 「普通の人間はそう何度も入れないぞ。貴重な経験だ」 「寝ていたので覚えていませんけど」 「そいつは残念なことをしたな」 「うう……言われてみると惜しいことをしたような」 悲しそうな顔をしている。 相変わらず阿呆だ。 だが、それがどこか救いにも思える。 「で、本題だが、体調はどうだ?」 「特におかしいところはありません」 「あ……お腹が……」 「腹がどうした?」 「空いています」 「緊張感がない奴だ」 「あはは……すみません」 心の底からどうでもいい。 まあいい、とりあえずのところティアは健康らしい。 「今日は家に帰れるのか?」 「あ、いえ」 「もうちょっと詳しい検査があるみたいです」 「少しは休んだ方がいいんじゃないか?」 「いえ、大丈夫です」 「研究所の皆さんも休まずに頑張って下さっていますので」 目に見える怪我ならば負担も想像できるが、ティアの場合は全く想像がつかない。 しかし、本人がやると言っているのだ。 「わかった、無理ならすぐ言うんだぞ」 「はいっ」 元気に答えるティアの頭を撫でる。 嬉しそうに眼を細めた。 「明日も様子を見に来る」 「はい、楽しみに待ってます」 屈託のない笑顔を確認し、ティアの元を後にする。 ……と、 ベッドの下に石のようなものが落ちているのに気付いた。 先日、ティアが拾ったヴィノレタの壁の欠片だ。 「おい……大切にするんじゃなかったのか?」 「え?」 「これだ、これ」 拾って、ティアに渡す。 「……?」 「落としておくと、メルトに祟られるぞ」 「え?」 ティアはきょとんとした顔をしている。 悪寒が走った。 「お前……覚えてないのか?」 「あ、いえいえいえ、もちろん覚えてます」 ティアが目を見開く。 瞳に不安の色がよぎるのを見た。 まさか…… 「関所でフィオネからもらったものだろう?」 「あ、はい、そうでした」 あっさり引っかかった。 ちょっと拾ったものならともかく、これはヴィノレタの壁の破片だ。 忘れるはずがない。 「大事にしまっておけよ」 「わかりました」 笑顔で答え破片を握った。 「ど、どうかしましたか?」 「いや、何でもない」 言いながら、背中を汗が伝うのを感じた。 ティアに何かが起っている。 「ともかく、あまり無理はするなよ」 「はい、大丈夫です」 「またな」 とても笑顔を保っていられず、足早にティアの傍を離れる。 ルキウスの元へ戻ってきた。 「どうだった?」 「ああ……まあ、元気だったようだ」 ルキウスに話すべきだろうか。 いや、ここで隠す意味はないだろう。 研究にとって重要なことかもしれない。 「身体は元気だったが、頭の方に少し問題があったようだ」 「いつもの、辛めの冗談ですか?」 「いや、真剣な話だ」 「あいつ、つい先日自分がしたことを覚えていない可能性がある」 「それも、普通なら忘れる類の話じゃない」 「詳しく話してくれ」 ルキウスの目が鋭く尖った。 視線に促されるように、ヴィノレタの欠片の話をする。 「システィナ、研究員に報告を」 「かしこまりました」 遠ざかるシスティナの背中を見ていると、ルキウスのため息が聞こえた。 「やはり、か」 「知っていたのか?」 「確証はなかったがな」 「どういうことだ?」 「以前から、ティア君が力を使うと、記憶に影響があるのではと疑われていたのだ」 「検査では明確な答えが出なかったことや、ティア君が否定していたこともあって推定の域を出なかった」 以前から疑われていた? 「なぜ、俺に言わないっ」 「お前に伝えれば、ティア君を研究から引かせようとするだろう?」 「当たり前だ!」 〈睨〉《にら》みつける。 ルキウスは正面から俺の視線を受け止めた。 「研究を受けるか受けないか決めるのはティアだ」 「悪い条件はすべて提示するのが当然だろう?」 「自分のことだ、ティア君はもう気づいていると思う」 「このまま研究が続けばどうなる?」 「わからない」 「ふざけるなっ」 「そんな話にあいつを乗せられるか」 「研究はこれで終わりだ」 ティアの下に行こうとした俺の腕を、ルキウスが握る。 「冷静に判断してほしい」 「もしティア君が研究から下りると言ったら、お前は素直に許すのか?」 「研究をやめれば、ノーヴァス・アイテルは終わりだ」 「それを理解した上で、なお研究をやめろと言えるのか?」 「く……」 「無理だろう? 都市を犠牲にはできないはずだ」 「それに、彼女はもう十分大人だ、自分のことは自分で判断するだろう」 「あいつは……自分から研究をやめるとは言わない」 「なら、それでいい」 「お前っ……」 口を開いたが、興奮で言葉が出てこない。 「辛いのはティア君だし、実験を受けるのも彼女だ」 「その彼女が、自分の意思で頑張ると言っているのだ」 「お前が勝手に横槍を入れるのは、彼女への冒涜だとは思わないか?」 「ティアが自己管理できるなら、こんな子供じみたことは言わない」 「あいつは痩せ我慢を続けて、結局は潰れてしまう種類の人間だ」 「だから、俺が口を出している」 ルキウスが、一瞬だけ憐れみの目で俺を見た。 俺は何をやってるんだ。 理屈で考えれば、ルキウスが正しい。 わかっている。 わかってはいるのだが……。 「政変の際、お前には苦労を掛けた」 「直近でも、牢獄の視察では世話になったし、聖女様のお披露目でも力になってほしい」 「だからこれは、ティア君の件に限定したことだが……」 長ったらしい前置きがあった。 「私達は、お前が彼女と近しい間柄であることを尊重して、一応意見を聞いている」 「俺にティアの行動をどうこう言う権利はないってわけか?」 「悪いが、俺はあいつを所有している」 「きっちり、金貨600を払ってるんだ」 「俺の許可なしにあいつが行動するのは、筋が通らない」 言いながら、空虚な気分になる。 この期に及んで、金の話を持ち出すとは……。 だが、そうでもしなければ俺には全く理がなかった。 「ノーヴァス・アイテルで、人身売買は認められていない」 「その所有関係は、今この瞬間になくすことができる」 「ふざけるな、牢獄でそんな規則は……」 言いかけて口を噤む。 ここは上層、しかも城の中だ。 牢獄の慣例など通用するはずがない。 「そういうことだ」 俺の思考を見透かして、ルキウスが言う。 「ティア君一人に運命を委ねなければならないのは辛いし、申し訳ないとも思う」 「だが、もはや道は一筋しかないのだ」 「踏み外せばすべてが終わってしまう」 何があっても研究はやめないとルキウスは言っていた。 もはや、納得するしかない。 ティアの身は心配だ。 だが、この研究には都市の運命がかかっている。 何より、ティア自身が研究を好意的に受け入れているのだ。 俺に何が言える。 全てを放棄して、ティアと手に手を取って逃げるなど、あり得ない。 納得はできない。 だが、納得しなければならない。 世の中には、どうしようもないことなどいくらでもある。 嫌というほど、思い知らされてきたことじゃないか。 「……冷静じゃなかったのは、俺らしい」 「わかってくれてよかった」 ルキウスが俺の腕を離す。 疼く腕に、ルキウスの決意の固さを感じた。 「私とて葛藤がないわけがない……などと言い訳はしない」 「私は常に、より多くの人間が助かる道を選ぶと決めている」 「それが、政治家としての私の使命だ」 「わかっている、お前は情に流されるべきじゃない」 「お前にそう言ってもらえれば心強い」 「たった一人の身内に蔑まれるのは、正直堪える」 この男にしては珍しく、他人を頼るような笑顔を見せた。 こんな顔を見るのは初めてかもしれない。 「崩落の悲しさは、身に染みてわかっている」 「崩落を防ごうとしているあんたを、蔑むことなんかしない」 ルキウスが小さく頷く。 「研究はやめない前提で聞くが、ティアの負担を軽くする方法はないのか?」 「もちろん、負担が少ない方法は常に模索している」 「苦痛を与えるのが目的ではないからな」 「そうか」 「なら、できるだけ負担を少なくしてやってくれ」 「わかった」 ルキウスの返事を聞き、後悔が押し寄せてきた。 俺達は正しい判断をしている。 これは都市のためだ。 全住民のために、ティアに頑張ってもらうのだ。 後悔する理由などない。 だが、どこからともなく『お前はティアを売ったのだ』という声が聞こえ、耳から離れない。 「これからのことだが、ティア君にはしばらく研究室に泊ってもらおうかと思っている」 「なぜ?」 「記憶の件も含め、慎重に様子を見極めたい」 「それに、もう彼女の翼は隠せる大きさではあるまい?」 確かに、あの翼の大きさでは目立って仕方がない。 牢獄での懸念が現実になるとは。 ティアをこんなところに泊めたくはない。 だが、研究員が近くにいた方がティアも何かと安心だろう。 「本人がいいと言うなら、それで構わない」 「わかった、確認しておこう」 ティアが研究室泊まりになれば、俺から会いに来なければ顔を合わせることもない。 情けないことに、安堵を覚えている自分がいた。 最低の気分だ。 「さっきは、食ってかかって悪かった」 「いや、気持ちは察する」 「大事な友人なのだろう?」 「まあ……そうだな」 友人というより、家族に近いだろうか。 そう思ったが、訂正する必要などない。 「ティア君はこれからも苦しい思いをするかもしれない」 「たまにはここに来て、元気づけてやってくれ」 「ああ」 我ながら気のない返事をして、ルキウスに背を向ける。 ティアから逃げ出しているようだと、扉に手をかけてから思った。 研究所を出て行くカイムの背を見送る。 丸く収まって良かった。 と、思うと同時に一抹の寂しさが胸をよぎった。 ……仕方のないことだ。 都市の運命か、友人の命か…… 正解を選ぶことは簡単だ。 だが、それこそが罠といえる。 正しさ、妥当性、他者の批判をはじき返す理屈── 使い方を誤れば、まさに麻薬だ。 すでに消えた背中の残像を追う。 カイムはいつ気づくのだろうか。 選択するということの崇高さに。 「さて……」 ティア君の様子を見にいこう。 覚えて、いない……? あまりにも衝撃が大きくて、しばらく身体が動かせなかった。 牢獄でのことを何度も思い返し、ようやくあの日のことを思い出してきた。 わたしは、メルトさんの形見として、ヴィノレタの壁の破片を拾ったのだと思う。 こんな大事なことも、はっきり思い出せないなんて…… 自分が許せない。 忘れていいようなことじゃないのに、忘れてしまった。 この先、自分はどうなってしまうんだろう? いろいろなことを忘れていくのだろうか? 今までの生活も忘れ、 自分の名前も忘れ、 カイムさんのことも忘れてしまったら── 最後に残るのは誰なんだろう? 周りの人は、わたしをティアだと言うかもしれないけど、わたしにはわからない。 カイムさんが優しい言葉をかけてくれても、カイムさんが誰なのかもわからない。 わたしが、わたしでなくなる。 そんなのは、ひどすぎる。 今まで経験した、どんなひどい経験よりひどい。 「いや……」 ベッドにうずくまり、身体を抱く。 浄化をすると頭がぼんやりするとは思っていたけど、まさかこんなことになるなんて。 この先、わたしがわたしでなくなってしまうとしたら、自分は何のために生きてきたんだろう。 どんなにつらいことがあっても、生まれ持った使命のためだと思って頑張ってきた。 でも、使命自体が苦しいとしたら…… わたしは…… 本当に苦しい思いをするためだけに生まれてきたの? ふと、昔カイムさんに言われたことを思い出す。 「お前は、苦しい人生の代償が欲しかっただけだろう?」 「恵まれている奴は恵まれている、恵まれていない奴は恵まれていない」 「そこに、理由なんてない」 「お前がつらい人生を送ってきたのは、ただ運が悪かっただけだ」 「そこに、理由も価値もない」 「牢獄に落ちた奴が、理由もなく貧しいようにな」 「違います、ずっとつらい思いをしてきたのは、わたしに与えられたすごい運命のためなんです」 ずっと反論してきたけど…… わたしは、ただ苦痛に理由が欲しかっただけなんだ。 理由のない、理不尽な苦痛になんて耐えられないから。 何かのための苦痛じゃなければ、自分がただ単に運が悪かったと認めなくちゃいけないから。 「カイムさん……」 わたしは、やっぱり馬鹿でした。 何度も教えてくれていたのに、受け入れられなかった。 こんなことなら、研究なんて引き受けるんじゃなかった。 やめてしまいたい。 研究も何も全部捨てて、カイムさんと一緒に逃げてしまいたい。 でも── わたしが逃げたら、街は駄目になって、カイムさんが死んでしまう。 でもでも── 研究を続けたら、カイムさんのことすら忘れてしまうかもしれない。 それは怖い。 怖くて怖くて、身体が壊れてしまいそう。 でも、カイムさんがわたしのせいで死んでしまうのは、もっと怖い。 ……だから、 研究をやめたいなんて、絶対に言えない。 本当は言いたいけど、言っちゃいけない。 カイムさんのために、頑張らなくちゃいけない。 楽しい時間をくれた、あの人のために。 「大丈夫か、ティア君?」 唐突に、声を投げかけられた。 「あ、い、いえ……」 慌てて涙を拭き、顔を上げる。 立っていたのは、ルキウスさんだった。 「カイムさんは?」 「帰ったよ」 「あ、そ、そうですか」 帰ってしまったんだ。 「カイムから聞いたが、記憶に問題があったらしいな」 「あ、はい……」 やっぱり、カイムさんに気づかれてしまったらしい。 「これのことを聞かれたときに、上手くしゃべれなくて」 と、ヴィノレタの壁の破片を見せる。 「これは?」 「はっきりとは、覚えていないんですが……」 「ヴィノレタという、崩落で落ちてしまったお店の欠片なんだと思います」 「そんな大切な物のことを思い出せなかったら、誰だっておかしいと思いますよね」 無理矢理に笑うと、ルキウスさんは沈痛な顔をした。 そんな顔をされたら、わたしが泣きたくなってしまう。 「こんなことになるなんて、思いませんでした」 「わたし、これからどうなるんですか?」 「今のところ、わからない」 「研究員たちが、懸命に調べているから少し待ってほしい」 研究員さんも、わからないんだ。 「カイムさんは、何か仰っていましたか?」 「研究をやめろと怒っていたよ」 「どうなるか先の見えない研究などさせられない、とね」 「カイムさん……」 素直に嬉しかった。 わたしのことを考えてくれてるんだ。 わたしのことを考えて、怒ってくれたんだ。 「それで、どうなったんですか?」 「ああ……」 ルキウスさんが視線を落とした。 「最後には研究に同意した」 「極力、ティア君の負担にならない方法を探してくれと言っていたよ」 胸がずきりと痛んだ。 今まで感じたことがない種類の痛みだった。 身体から力が抜ける。 「き、気を遣ってもらえて……嬉しいです」 「彼はまた来る」 「はい……」 ルキウスさんが優しげに笑う。 わたしを気遣ってくれているのだ。 「わたしは大丈夫です」 「みなさんのお役に立てるよう頑張りますから」 「よろしく頼む、ありがとう」 ルキウスさんが、お礼を言ってくれた。 身に余る光栄だけど、もう、あまり嬉しくない。 「今後について一つ相談なのだが……」 「記憶の件もあるし、研究室に泊まり込んでもらえないだろうか?」 「ここなら、何かあった場合に、すぐに研究員が対応できる」 「泊まり込みですか……?」 「食事や〈衝立〉《ついたて》など、できる限りの環境は整えさせてもらう」 「……」 そんなこと、どうでもいい。 少しだけでもいいから、毎日カイムさんの声が聞きたい。 「カイムさんは何て?」 ルキウスさんがわたしの目を見た。 負けずに見返す。 嘘をつかずに、カイムさんの言葉を教えてほしいという願いを込めた。 ルキウスさんは、わたしの気持ちをわかってくれたようで、すっと目を逸らした。 「君が了承するなら、自分は構わないと言っていたよ」 「……そうですか」 笑う。 「カイムさん……らしいです」 「そうかもしれない」 「わかりました、わたし、ここに泊ります」 「そうか」 「……はい」 沈黙が訪れた。 鼻を啜る音が聞こえてしまわないかと、緊張する。 「正直に言うと、ここまで献身的に取り組んでくれるとは思っていなかった」 「難しいことはよくわからないのですが……」 「この街を救うことが、わたしの生まれてきた意味なんです」 「生まれてきた意味か」 ルキウスさんが真面目な顔で頷いた。 「知り合いに、同じことを言っていた人がいてな」 「私はその女性をとても尊敬しているのだよ」 「そうなんですか?」 女性? 誰だろう? 「しかし、なぜ都市を救うことが生きる意味だと考えたのだ?」 「昔から、ときどき不思議な夢を見るんです」 「夢の中で、わたしは誰かに話しかけられていて、その人が言うんです」 「『お前には、生まれ持った大切な使命があるんだ』って」 「だから、自分が羽つきさんの翼を治せるってわかったときには、これだって思いました」 「なるほど」 「まさに、生まれ持っての使命が見つかったのだな」 「はい、だから頑張れるんです」 「途中でくじけたら、何のために生まれてきたのかわからなくなっちゃいますから」 ずっと繰り返してきた言葉。 今では、完全に強がりだった。 言っていて、涙がこぼれそうになる。 「立派な決意だ」 「ルキウス様、そろそろ政務のお時間です」 横合いから、システィナさんが顔を出した。 「話し込んでしまったな」 「お仕事頑張ってくださいね」 「ありがとう、君もな」 「はいっ」 元気よく返事をした。 必死に笑顔を作る。 一刻も早く、見えないところに行ってほしい。 暗い顔が出てしまう前に。 気がつくと、俺は自室に立っていた。 研究室を出たところまでは覚えているが、その先は覚えていない。 胸の奥で、例の粘液が蠢いているような気分だった。 酒だ。 酒を飲もう。 戸棚には酒がズラリと並んでいる。 高い酒を飲みたい気分ではなかった。 一番安そうなものを選び、ベッドへと歩きながら一口呷る。 ベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。 それでも落ち着かない。 ティアのことが頭の中で回っている。 「……」 このまま研究を続ければ、奴の記憶はどうなる? メルトの形見を忘れるくらいだ。 もっと様々なことを忘れていくだろう。 もちろん、俺のことも例外じゃない。 にもかかわらず、俺は研究に同意した。 俺は、ティアを売ったのだろうか。 しかし、他にどんな選択肢がある。 駆け落ちでもしろというのか。 本心から言えば、駆け落ちの2回や3回してやりたい。 だが、そんなわがままを誰が許してくれる。 女一人のために都市の全てを犠牲にするなど、誰が納得してくれるというのだ。 俺やルキウスの判断は、誰がどう見ても正しい。 正しいのだ。 「くそっ」 酒を呷る。 身体が焼けるように熱くなっていく。 それに反し、胸は何かがごっそりと抜け落ちたように冷たかった。 俺にとって、ティアとは何だったのか? 閉じた瞼の裏を、奴との思い出が駆け巡る。 頭の中に向日葵が群生しているような女だったが、あいつといると不思議と明るい気分になれた。 蒙った数々の迷惑も、今となればいい思い出だ。 もしかしたら、俺はあいつに面倒をかけられることを、どこかで喜んでいたのかもしれない。 こいつは、俺がいないと死んでしまう。 そう思うことで、俺は自分に意味を見つけようとしていたのだろう。 牢獄での暗く沈滞した日々。 圧倒的な現実に理想を打ち砕かれ、無力感を引き摺っていた俺に、あいつは光を投げかけてくれたのだ。 実のところ、助けられていたのは俺だったのか。 にもかかわらず、俺はティアを売った。 自分が気に入っていた女を、だ。 「くそ……」 いろんな奴に説教臭いことを言ってきた自分。 その俺が、一番みっともない人間だったのかもしれない。 「……ん?」 視界が揺れている。 飲みすぎたか? いや、窓際の花瓶がカタカタと音を立てている。 地震だ。 また崩落が起きるのか……? 耳の奥に《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の記憶が甦ってくる。 「く……」 肌に、針で刺されるような緊張が走る。 いつまでも消えることのない感覚。 再び崩落が起れば、更に多くの人間が俺やルキウスと同じような目に遭う。 見過ごせるわけがない。 揺れが収まった。 小規模な地震だったようだ。 聖女様にもしっかりしてほしいものだ。 咄嗟にそう考えた。 長年の癖だった。 「聖女様か……」 自分の顔に苦笑が浮かんでいるのがわかる。 今ごろ、大聖堂には民が押し寄せているのだろうか? 苦労人の神官長が、顔を赤くして対応に追われているに違いない。 明日には新しい聖女のお披露目が行われ、街は取りあえずの平穏を取り戻す。 ……滑稽だ。 こんな滑稽な街を守るために…… ティアは苦しむのか。 バルコニーから見下ろす広場は、群衆に埋め尽くされていた。 新聖女のお披露目の儀式のために集まってきた人々だ。 かつて見たコレットのお目見えの儀式には、一種祭りのような雰囲気があった。 だが、今日は違う。 聖女を待つ牢獄民の表情は一様に硬い。 「カイム、ここにいたのか」 「警備隊長殿か」 「その呼び方はやめてくれ」 「なかなか厳重な警備じゃないか」 広場に視線を送る。 関所の入口付近には、ものものしい装備に身を固めた衛兵が展開している。 もしもの際、民衆が関所に侵入しないように防ぐ意図だろう。 「ルキウス様より直々に関所の防衛を申し付けられている」 「手抜かりが許される状況ではないのでね」 「なるほど、出世したものだな」 「カイムには負けるよ」 「俺が出世?」 「ルキウス様の身辺警護だろう? なかなかの出世だ」 苦笑して流す。 「リシアたちはどうしてる?」 「奥で聖女様にご挨拶をされている」 「非公開とはいえ、国王陛下もお越し下さるとはな」 フィオネが口を真一文字に結ぶ。 かなり緊張しているようだ。 「国王陛下もご苦労なことだ」 「失礼を言うな」 リシアがわざわざ臨席するのは、儀式の効果を高めるためだろう。 聖女の権威はますます高まり、牢獄民へ与える安堵も大きくなる。 「無事に終わるといいな」 「そうなるよう全力を尽くす」 「ご時世がご時世だ、牢獄民も気が立っている」 「せいぜい頑張ってくれ」 「お前は、普通に頑張れと言えないのか」 「恥ずかしがり屋なんだ」 「ふふ、ならば仕方がない」 フィオネが苦笑した。 「では、私は職務に戻る」 「お疲れさん」 フィオネが関所の奥に消える。 俺もリシアのところへ行くか。 「……」 振り返る。 バルコニーの欄干に数羽の鴉が止まっていた。 「おお、お前か」 「よう」 羽狩りの詰め所は、リシアやルキウスの休憩所になっていた。 「どこへ行っていた」 「ちょっと周りを見てきたが、警備はしっかりしているようだな」 「今回の警備はフィオネ君に任せてある、抜かりはあるまい」 「暴動が起きて、関所を抜かれたらお話にならないからな」 「そうならないように、こうして儀式を行うのだ」 リシアがルキウスに向き直る。 「前にも言ったが、暴動が起きたとしても血を流すことは許さんぞ」 「承知しております」 「私も、国民は陛下のお子であると考えておりますので」 「わかっているならよい」 リシアは黙然と腕を組んだ。 「カイム、ティア君が会いたがっていたぞ」 「実験のことは勝手に決めるくせに、弱ったときは頼ってくるとはな」 「可愛いものじゃないか」 「ティア君は、本当にお前の存在を心強く思っているんだ」 「元気づける役割は、研究員にも私にも代われない」 「もちろん、お前の負担にならないなら、だが」 「昨日は少し感情的になった」 「あいつが望んで耐えている以上、俺もできることはする」 「顔を見に行ってやるのが精々だがな」 「それで必要十分だ」 「お前は、相変わらず根が優しいな」 「いちいち小うるさい国王陛下だ」 「親の小言は聞いておくものだぞ、くくく」 リシアが、およそ国王らしからぬ笑いを浮かべた。 外で、〈喇叭〉《ラッパ》の音が鳴り響いた。 「陛下、始まるようです」 「うむ、聖女様の勇姿を拝見しよう」 二人が立ち上がる。 俺も行くか。 関所内部の階段を上がり、バルコニーの背後に出る。 明るい日差しに包まれたバルコニーでは、すでにナダル神官長の説教が始まっていた。 新しい聖女への賛辞を述べ、聖女信仰の礎となる神話のおさらいに入る。 神話は、どこまで信じられるのだろう? 聖女が都市を浮かせていないことはわかった。 大地を覆い、人類を滅ぼした混沌については黒い粘液との符合が考えられる。 ギルバルトの研究や、ティアの浄化能力を見るに、粘液は天使に関係するものに違いない。 では、神の怒りとは何だったのか。 初代の聖女とはどんな存在なのか。 「この都市は聖女様に守られた人類最後の聖域であり、我々は選ばれし信仰の徒なのだ」 「聖女イレーヌ様に、感謝、そして祈りを!」 どこかで聞いた台詞がくり返され、ナダルの話が終わった。 いよいよ新しい聖女の登場だ。 広場が静寂に包まれる。 「今度の聖女は、どんな奴なんだ?」 「29代の聖女様よりは、随分と年下でいらっしゃる」 コレットより年下か。 この重責を、無事果たせるだろうか。 突然、激しい羽音が聞こえた。 鳥の群れが一斉に飛び立つ音だ。 「どうした?」 「……何かあったのでしょうか」 ルキウスが呟いたのと、地鳴りが聞こえたのは同時だった。 バルコニーへ走り出る。 群衆は、揃って同じ方向を向いていた。 牢獄を囲む絶壁の一部だ。 絶壁の一部が、ゆっくりと滑り落ちていく。 崖下には牢獄が広がっている。 為す術もない。 巨大な土砂の塊が、土埃を上げながら牢獄の〈甍〉《いらか》を押しつぶす。 破壊の拳は、ゆっくりと牢獄を進む。 粗末な家々が、熱湯に触れた氷のように一瞬で形を失い、土砂の一部となっていく。 「なんてことだ……」 度重なる地震で地盤が緩んでいたのだろう。 崖崩れ自体は仕方がない。 だが、なぜ今…… 聖女のお披露目という、重要な儀式の最中に発生してしまうのだ。 「こ、これは……」 「なんということだ」 隣に来た、リシアとルキウスが呻いた。 「まずいぞ」 ルキウスが俺を見た。 視線を交わすだけで、彼は俺の言葉の意味を察した。 「陛下、奥へお下がりください」 「何?」 「こ、こらっ、手を離せっ!」 返事も待たず、ルキウスはリシアを奥に引っ張っていく。 「カイム、フィオネ君に協力してやってくれ」 俺が頷いた転瞬、 一つの声が響きわたった。 悲鳴と嘆きで溢れた広場で、その声だけは、天啓のように澄んで聞こえた。 「下層へ逃げるんだ……」 「牢獄はもう終わりだ!」 不意に静寂が訪れた。 それも一瞬、 広場が大音量に震えた。 人々の叫びは、もはや声とは呼べなかった。 牢獄そのものが慟哭しているかのような音だ。 「く……」 群衆が関所に向かって動きだした。 とうとう、始まってしまったか。 思わず空を仰ぐ。 夥しい数の鴉が、笑いながら旋回していた。 重々しい音と共に、関所の門が閉じる。 入口を封鎖する衛兵と群衆との押し合いが始まった。 まだ武器は振るわれていないが、暴徒が引かなければそれも時間の問題だ。 沢山の足音が関所を駆け上ってくる。 現れたのはフィオネ、そして弓を持った兵士たちだ。 「広場から見えぬ位置で待機せよ」 兵士たちがばらばらと展開する。 「リシアとルキウスは無事避難したか?」 「問題ない。聖女様も既に馬車に乗られた」 「私はこれから民を説得する」 フィオネがバルコニーに走る。 「牢獄の諸君、私は関所の警備隊長、フィオネ・シルヴァリアだ」 「私の話を聞いてくれっ!」 フィオネの怒号が、群衆のそれに飲み込まれる。 人ひとりの声など、大雨の中で鳴らされた鈴程度の意味しかない。 「……」 広場の群衆を〈睨〉《にら》む。 「落ち着いてくれ」 「崖崩れは偶然だっ!」 力の限り叫ぶ。 数人が俺を見たのがわかった。 何かが顔の脇を通り過ぎた。 誰かが石を投げてきた。 それが合図となり、牢獄民が投石をはじめた。 壁にぶつかった石が雨のように降ってくる。 「ここで戦っても無意味だ!」 「冷静になってくれ!」 「頼む、退いてくれっ」 「私は、諸君に刃を向けたくないんだっ!」 だが、俺達の言葉は飛んでくる石を増やしただけだった。 門を守る衛兵たちにも負傷者が出ている。 もう限界だ。 「フィオネ、頭を下げろっ」 「石が当たれば、最悪死ぬぞっ」 「だが、このままでは……」 「言われた通りにしろっ」 フィオネの腕を引き、バルコニーに組み倒した。 石の雨が降る中、フィオネに言う。 「諦めろ」 「だが、だが……このままでは、牢獄民を攻撃することになる」 「私は、牢獄民の理解を得るために働いてきたんだ」 「カイムだってわかっているだろう?」 痛いほどわかっている。 黒羽を追って、二人で牢獄を走り回ったのだから。 「だったら、最初から守備隊なんか引き受けるな、馬鹿女が……」 「く……」 フィオネが奥歯を噛む。 「なんという、ことだ」 「この私が、私が……」 苦しげに顔を歪ませる。 目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。 「ルキウスから、攻撃の許可は出ているのか?」 「最悪、関所を破壊してでも牢獄民を止めろと言われている」 「明確な許可が出ていないのか……」 リシアは武力の行使には反対していた。 ここで武力行使を指示すると、フィオネがリシアの怒りを買う畏れがある。 「俺が攻撃指示を出そう」 「私の仕事だ」 「攻撃が避けられないのなら、私が、私の命令でやらせる」 「先のことを考えろ、将来を潰すぞ」 「そんなことはどうだっていい」 「私が命令せねば、何も背負えなくなってしまう」 「お前は運が悪かっただけだ、背負う必要なんてない」 「いいんだ、構うな」 吐き出すように言って、フィオネが〈眦〉《まなじり》を決する。 「弓兵はバルコニーに展開しろっ!」 兵士が規律正しく移動する。 それを確認し、フィオネはゆっくりと立ち上がった。 「初撃は威嚇とする、牢獄民に当たらぬよう注意せよ」 フィオネが毅然とした表情で広場を見据えた。 顔の直近を石が通り過ぎるが、全く動じない。 「撃てっ!!」 弓音が響く。 広場からどよめきが聞こえた。 フィオネが、危険を顧みずバルコニーから身を乗り出す。 「牢獄の諸君、今の矢は警告だ」 「今すぐ広場から離れなければ、次は怪我をすることになる」 「一度、互いに矛を収め、話し合いを持とう」 飛んでくる石が増えた。 2、3人の兵士が、顔を押さえて転倒する。 「……く、駄目か」 フィオネと目が合った。 すぐに目を逸らされる。 フィオネが、自分の弱気を自分で打ち消したのだとわかる。 「応戦を許可する」 「ただし、民衆が撤退をはじめた場合、即時攻撃を停止せよ」 「撃てっ!」 弓が断続的に鳴った。 悲鳴と絶叫が湧き上がる。 広場には石畳が見えないほどの牢獄民がいる。 中には、かつての知り合いもいるかもしれない。 撃った矢と同じ数の牢獄民が、地面に倒れ伏していることだろう。 「くそ……」 悲鳴に剣戟の音が混じる。 関所入口を防衛していた衛兵も応戦を始めたようだ。 「仕方のない……ことだ……」 「ぐあっ」 呻くと同時、目の前にいた兵士が突然仰け反って倒れた。 石に額を割られたのだ。 「……」 手を伸ばせば届くところに、持ち主がいなくなった弓矢があった。 俺は、割れた瓶の破片に触るように手を伸ばし── それを手に取った。 俺一人が、隠れているわけにはいかない。 立ち上がり、広場を見下ろす。 いくつもの死体と血煙が見えた。 矢をつがえる。 一人の男に狙いを定めた。 しかし、そこで身体が動かなくなる。 自分のために、何人もの人間を殺してきた俺が、なぜ今更ためらうのか。 関所を守らねば大変なことになる。 殺した方がいいのだ。 殺すことこそが正しい選択なのだ。 わかってはいるが、身体は動かない。 「く、そ……」 それでも、無理矢理に手を動かそうとする。 「お前ら、ここは退けっ」 「このままじゃ、被害が大きくなるだけだっ」 朗々とした声が広場に響いた。 声の主を先頭に50人程度の男たちが群衆の間に割り入る。 「ジーク……」 俺の声など聞こえるわけがない。 聞こえるわけがない…… だが、ジークは弓を構えた俺を見、 「……カイム」 確かに、そう呟いた。 時が止まったような気がした。 「撃ち方やめーっ」 「やめるんだっ」 フィオネが叫んだ。 雨が上がるように、宙を飛ぶ矢が消える。 同じように、人々も投石をやめた。 不気味な沈黙が落ちる。 立っている人間は、どこか脱力したように周囲を眺めていた。 誰しもが、自分が惨劇の参加者であると信じられない── そんな顔をしている。 「一旦、退け」 「広場から離れるんだ」 親に咎められた子供のように、群衆が慌てふためいて動きだす。 「追打ちはかけるな、退くに任せていい」 フィオネの指示を受けた兵士たちが武器を下ろす。 それぞれが、激しく肩を上下させている。 人を傷つけることに慣れていなかったのだろう。 素人同士の殺し合いは、通常の殺しとは別の意味で凄惨だ。 誰もが、自分が人を殺したという事実を受け止められない。 それぞれの良心が、端から燃え落ちていく音が聞こえるようだ。 そうこうしているうちに、群衆は広場から撤退した。 残されたのは、引き取り手のない死体とジークだけだ。 「皆、ご苦労だった」 「怪我をした者は手当をしてくれ」 「残りの者は、引き続き警戒を続けるように」 部下に指示を出すフィオネの脇を通り抜け、広場に向かう。 上空には夥しい数の鴉が集まり、新鮮な食事に興味を示している。 ジークは静かな表情で、50はあろうかという死体のさなかに立っていた。 あいつと何を話せばいいのだろう? 何も決めぬまま、死体の間を縫ってジークに近づく。 「それ以上近づくな」 「お前に当たり散らしてしまうかもしれない」 会話をするにはやや遠い距離で、ジークが声をかけてきた。 表面上冷静な声だったが、底には抑えきれない苛立ちが流れている。 「ああ」 言われた通り足を止める。 「もう少し、早く来てほしかった」 「まさか、聖女のお披露目の最中にこうなるとは思わなかったんでな」 「まったく、犬死にだ」 ジークが死体に目をやる。 「これ以上犬死にが増えないよう、牢獄の皆の気持ちを鎮めてやってくれ」 「ジークにしかできないことだ」 「これだけの犠牲が出たんだ、よっぽどのことがなければ、しばらくは大人しくしてるだろうよ」 「しかし……昔から最低の場所だが、今日は目が覚めるほど最低だな」 2、3の鴉が死体に舞い降り、新鮮な眼球を啄む。 「手が余っているなら、死体を片付けてやってくれ」 「このままじゃ奴らの晩飯だ」 「わかった」 バルコニーのフィオネに呼びかけ、死体の片付けを依頼する。 程なくして、衛兵たちが関所から現れ死体を広場の隅へと動かしはじめた。 「お前が作った死体は片付けないのか?」 「矢は一本も撃っていない」 「だが、お前が来るのがあと少し遅かったら確実に撃っていたな」 「そりゃ邪魔したな」 「酒でもひっかけてから来ればよかった」 明確な皮肉だった。 「エリスやコレットたちは、暴動に混じっていたのか?」 「いや、いなかっただろう」 「あいつらがお披露目に顔を出すとも思えん」 まあそうか。 エリスは聖女に興味がないし、コレットはそもそも出歩かない。 「わかっていたことだが、上層の人間は牢獄を見捨てるつもりらしいな」 「見捨てはしない」 「地震を止めるための研究は続いている」 「裏にどんな事情があろうと、それがいかに正しかろうと、武器を向ければそれまでだ」 「上層には、牢獄民の命より優先するものがある」 「上層は、不幸になる人間がより少なくなる道を選んでいるだけだ」 「わかってるよ、そんなことは」 「カイムから見りゃ、俺は大局的な見方ができていないだけかもしれない」 「だが、俺は不蝕金鎖の頭だ。牢獄民の犠牲の上に生き残ることはできん」 「全体の利益に適っていようが反していようが関係ない」 「だが、誰かは大局を判断しなくてはならない」 「もちろんそうだ」 「しかし、大局を判断するのがお前なら……」 「少し寂しい」 ジークがかすかに笑った。 不蝕金鎖の頭としての顔ではない。 長年共に歩んできた友人としての顔だった。 「知ってしまえば、見える世界が変わる」 「是非もないことだ」 「昔の俺じゃないってか」 「そうだ、お前は変わったよ」 「これっぽっちも、自分の足で立ててない」 「なに?」 「俺は、お前が変わることも敵対することも、悲しくはない」 「ただ悲しいのは、お前が自分の足をなくしちまったことだよ」 「意味がわからんな」 「わからなきゃいい」 「そんな機会があるかわからんが、次に会ったときお前が今のままなら……」 「殺すか?」 「殺すほどの価値もない」 「きれいさっぱり忘れるさ」 ジークが踵を返した。 その背に、2本の矢が刺さっているのを見た。 「お前……」 返事はない。 ジークは足を止めることなく路地に消えた。 ……自分の足か。 要するに、自分の考えを持っていないといった類のことを言いたかったのだろう。 平和な時ならいいが、今は状況が切迫している。 自分の足で立つのは勝手だが、こっちは立つための地面が消えるか消えないかの話をしているのだ。 そう考えながらも、胸には拭いきれない曇りが残った。 詰め所に戻る。 武骨な椅子にフィオネが座っていた。 片肘を机に着き、指で目頭を押さえている。 「お疲れさん」 「カイムか」 フィオネが顔を上げた。 「ジーク殿はどうした?」 「帰った」 「そうか……」 「彼が来てくれて助かった」 「ああ」 フィオネが、大きくため息をついた。 「後悔しているのか?」 「自分で選んだ道だ、後悔などない」 「それに、後悔すれば、私の命令で民を攻撃した部下が可哀想だ」 「……と、言いたいところだが、正直わからない」 「カイムはどうなんだ?」 「仕方のないことだ」 「この都市は昔から牢獄には厳しい」 「……」 フィオネが苦しげに目を逸らす。 「俺は上層に戻る」 「ご自由に」 「これから、牢獄民の報復があるかもしれない、注意しろよ」 「わかっている、関所は守る」 「お前の命もだ」 「当たり前だ、早く出て行け」 「じゃあな」 城に入ると、俺の帰着を待ちかねたように、召使いがリシアの伝言を持ってきた。 今日の詳細を聞きたいので、自室まで来いとのことだ。 国王直々とは恐れ多い。 リシアの部屋の扉を叩く。 「入るぞ」 「カイム、待ちかねた」 リシアはソファで茶を飲んでいた。 「ご苦労だったな、お前も飲むか?」 「いや」 死体を見た後に、お上品な茶など飲みたくない。 「火酒はあるか?」 「私、秘蔵のものならあるぞ」 リシアが、戸棚の奥から大切そうに火酒の壜を出した。 牢獄では定番中の定番だが、上層では入手困難だろう。 誰かに指示して取り寄せさせたのだ。 「ああ、これでいい」 「大切に飲めよ」 「お言葉に甘えて」 ラッパ飲みした。 「大切に飲めと言っただろ!?」 リシアが勢いよく立ち上がる。 「こんな日に、ちまちま飲めるか」 「……まあいい」 顔を引き締め、リシアが腰を下ろす。 「で? 牢獄はどうなった?」 「報告は上がっていないのか?」 「暴動が発生したところまでは聞いた」 「ルキウスの奴、きちんとした報告書にするので明日まで待てなどとぬかしおる」 「生憎、そこまで気が長くないのでな」 「暴動は無事鎮圧された」 「関所は守られ、こちらの人的被害は軽微だ」 「鎮圧? 武力で鎮圧したのか?」 「それ以外に何がある」 「死者は?」 「当然出た」 「……」 リシアの表情が固まる。 震える手を卓上の呼び鈴に伸ばし── 「ルキウスを呼べっ!」 召使いが部屋に入る前に、大声で命じた。 部屋の外で、足音が慌ただしく遠ざかっていく。 「陛下、慎みをお忘れなきよう」 「そんなものいらんっ!」 言い捨て、立ち上がる。 そして、落ち着きなく部屋の中を歩きまわる。 リシアは武力の行使に反対していた。 ま、もう現実に起きてしまったことだし、他に衝突を回避する方法があったわけでもない。 仕方のないことだ。 憤懣やるかたなし、といった様子のリシアを眺めながら、火酒を呷る。 しばらくして、ルキウスがやってきた。 「お呼び……」 「遅い!」 ルキウスが、一瞬俺を見る。 なるほどそういうことか、と悟ったような視線だった。 「申し訳ございません」 「まだ、暴動についての報告がまとまっておりませんでしたので」 「言い訳はよい、座れ」 「はい」 ルキウスが俺の隣に座る。 リシアは対面のソファに座ろうとしたが、やはりやめて、また部屋を歩きだす。 「武力で鎮圧したそうだな」 「そう聞いております」 「守備隊からの速報では、損害軽微とのことでした」 「それはカイムから聞いた」 「私はっ……」 勢い込んで言って、そこで唾を飲みこむ。 「私は、血を流すなと言ったはずだが」 「伺いました」 「ではなぜ武力鎮圧した?」 「私の言葉の使い方が不明瞭だったか? どうなんだ?」 リシアがルキウスを見据える。 瞳の奥に炎が見えようかというほどの怒りだ。 「あの場合、致し方ありませんでした」 「平時でしたら、関所前の広場に兵士を展開し、視覚的な威圧で暴動を抑えることもできます」 「しかし今回は、聖女様の儀式のさなかの出来事です」 「兵士を展開するいとまさえありませんでした」 ルキウスが冷静に反論する。 「言い訳はいらん」 「言い訳ではありません」 「俺は現場にいたが、あの場合、応戦は仕方がない」 「説得できる状況ではなかった」 「攻撃せずにすむ方法があったなら、こっちが教えてもらいたいくらいだ」 「カイム、それを考えるのは臣下の仕事だ」 「無茶な命令をする方が悪い」 「ご立派な理想を掲げるのは勝手だが、苦労するのは現場だぞ」 「関所を守った兵士たちの中には、投げつけられた石で額を割った奴もいた」 「お前が代わりに石を受けてやれるのか?」 「正論のように思っているかもしれないが、それは私の役目ではない」 「陛下の仰る通り、現場でのやり方を考えるのは私たちの仕事だ」 「王が無茶な命令をしてきてもか」 「今回の件は例外的だ」 「武力は行使しない方向で極力暴動を防ぐ、という方針が変わったわけではない」 ルキウスが目で何かを訴えかけてくる。 ……この場は丸く収めようということか。 「陛下が仰っているのは、方針を再確認せよ、ということですね?」 ルキウスが突然リシアに水を向ける。 「あ、ああ、そうだ」 「わかりました」 「今回の件では、方針に沿った対応ができず申し訳ございませんでした」 「同じようなことが発生しないよう具体策を練りたいと思います」 「よろしく頼んだぞ」 半ば頷かされるリシア。 「では、私はこれで失礼いたします」 「暴動の事後対応がございますので」 ルキウスが席を立った。 小さく礼をして扉へと向かう。 さすがルキウスだ、あっという間に話を終わらせてしまった。 「まあ待て、ルキウス」 「話を切り上げたいのはわかるが、そう急くな」 リシアが口の端から白い歯を見せた。 一瞬硬直したルキウスが、リシアに向き直る。 「何か?」 「一つ聞きたいのだが、国民の多くを犠牲にせねば都市を守れぬと決まったとき、お前はどうする?」 「生き残る人間が多い方の道を選びます」 「それが、政治家の道だと考えておりますので」 「そうか」 表情は動かさず、口だけでリシアは応じた。 「呼び止めて悪かった、下がってよろしい」 「失礼いたします」 ルキウスが消えた。 「さっきの質問の意図は何だ?」 「あいつの考えを聞いてみただけだ、それ以外の意味はない」 「ルキウスの答えをどう思った?」 「妥当だろう」 「ま、誰でもああ答えるだろうな」 「わかっている」 「じゃあ、何を聞きたかったんだ?」 「だから、考えを聞いてみただけだと言っているだろう」 意味がわからない。 「私は、明確な正解のある算術の質問をしたのではない」 「お前が、誰でもああ答えるだろう、と言ったのは間違いだ」 「答えは、立場によって違う」 「つまり、お前はルキウスとは違う考えだと?」 「そうだ」 「王の発言とも思えないな」 「世の中には『出来る』ことと『出来ない』ことがある」 「同時に『する』ことと『しない』こともある」 「『出来る』『出来ない』の話は結論が出しやすいが、『する』『しない』の話は違う」 「それぞれの考え方で答えが変わってくる」 「選択によって人が表現されるということだ」 「人の上に立つ人間に期待されるのは、そういう個人的なブレがない判断だろうな」 「俺には、リシアの判断が正しいとは思えない」 「別にお前の賛同が欲しいわけではない」 「威勢のいいことだ」 「戦場に立ったとき、同じ選択ができるといいな」 「同じ選択をして見せようじゃないか」 不敵に笑ってリシアは即答した。 その笑顔に、なぜかジークの顔が重なる。 王という奴は、性格が似てくるのだろうか? 「カイム、今日、お前は牢獄民を攻撃したのか?」 「していない」 しようとしたが、体が動かなかった。 「ならば良かった」 「直接手を下していたのなら、私はお前を軽蔑するところだった」 「俺が牢獄育ちだからか?」 「もちろんそうだ」 「かつての隣人を攻撃するなど、鬼の所行ではないか?」 「感傷的なことだ」 「ま、俺たちは戦争にならないよう、せいぜい頑張らせてもらおう」 席を立つ。 「今日はご苦労だった、ゆっくり休むと良い」 「関所を守ったのは、フィオネという女が率いる兵士たちだ」 「休養なら、あいつらにあげてやってくれ」 「フィオネか……覚えておこう」 「それじゃあな」 ドアノブに手を伸ばす。 「待て、一つ頼みがある」 「何だ?」 「次にもし、また暴動が起きるようなことがあったら、真っ先に私に知らせて欲しい」 「お前よりも俺の方が早く情報を得られると?」 「その可能性がある」 「関所の防衛は、ルキウスが一手に握っている」 「今回はたまたま私が居合わせたが、次がそうとは限らない」 「あいつに直接言えばいいだろう」 「そう……そうなのだがな」 リシアの表情がわずかに曇る。 「まさか、ルキウスが意図的に連絡を遅らせると思っているのか?」 「暴動については、私と奴は方針が違う」 「口ではああいっているが、あいつは簡単に武力を用いる」 「それが一番簡単だからだ」 リシアの奴、わかっているじゃないか。 「とすれば、私の危惧は的外れか?」 「いや」 「私が出て行って、牢獄民を説得できるとは限らない」 「だが、私はその場にいなくてはならない」 「どのような結果になるとしても、全てをこの目に収めなくてはならないのだ」 リシアの視線が、まっすぐに投げかけられる。 「私は無力な王だ」 「ルキウスがいなくては即位できなかったし、今もルキウスなしでは国政を見ることができない」 「だが、私には、私のやるべきことがあるのだ」 「ノーヴァス・アイテルは今、危機に瀕している。明日、墜落するかもしれない」 「悔いは残したくないのだ」 「……なるほど」 「だが、俺はルキウスの部下だぞ」 「わかっている」 「だからこれは命令ではない、判断はお前に任せる」 そう言うと、リシアはバルコニーに立った。 すぐに、鳥かごを持って現れる。 「使い鳩だ」 「空に放てば、ここへ戻ってくるよう躾けられてる」 鳥かごが俺の前に置かれた。 「ま、預かっておこう」 「頼んだぞ」 「過度な期待はするなよ」 「わかっている」 そう言って、リシアは微笑んだ。 すでに陽は落ちていた。 疲労が重く肩にのし掛かっている。 今日はいろいろありすぎた。 帰って休むとしよう。 しばらく廊下を進むと、見慣れた人物が立ち話をしていた。 ルキウスとシスティナだ。 「どうした、その鳥は?」 「暴動を鎮圧したご褒美だとさ」 「なるほど、うらやましいことだ」 投げやりな口調だった。 「さっきは面倒な目に遭ったな」 「いや、仕方ない」 「リシアの奴、いつからあんな理想主義者になったんだ」 「陛下には国王としてのお立場がある」 「仰ることが間違っているとも思わないよ」 「口先だけの理想論なら困ったものだが、陛下には決意があるようにお見受けしている」 まるで、俺たちの話を聞いていたかのような言葉だ。 さすがに、ルキウスはリシアのことをよく見ている。 「ずいぶん買っているな」 「短い間に、ご立派になられたと思う」 戴冠してからリシアは変わった。 理想だけに偏らねばよいのだが。 「これから、ティアさんの様子を見に?」 「いや、今日は帰って休む」 「ティアに何かあるのか?」 「本日の暴動の件です」 「ティア君には、ただでさえ大きな負担がかかっている」 「暴動があったことを知らせるのは、心労を増やすだけだと思ってな」 「内緒にしておけということか」 「研究員たちには、そのように言い含めた」 「あとはお前だけだ」 ルキウスは、ティアの負担を減らそうとしてくれている。 ありがたいことだが、ティアという人間が徐々に〈蔑〉《ないがし》ろにされていっている気がした。 あいつが都市の運命を握る存在であることは確かだ。 研究をやめるなどと言われるのは困るし、言われたところで研究はやめられない。 ならば、苦痛を極力減らそうとするのは妥当な判断だ。 妥当だが、釈然としない。 ついさっき、リシアに説教をしていたのはどこの誰だった? リシアには感情を交えない判断を求めながら、自分はこうして迷っている。 「わかった。ティアには黙っていよう」 「そうしてくれ」 「話はそれだけか?」 ルキウスが頷く。 「それじゃ、悪いが俺はこれで帰らせてもらう」 「今日はご苦労だったな」 「……ああ」 ルキウスたちと別れる。 ……いつもなら、『大したことじゃない』と応じていたかもしれない。 だが、今日ばかりはとても言えなかった。 関所前広場の光景は、今でもまざまざと思い出すことができる。 悲鳴と絶叫、血の匂い── 握った弓矢の感触── ジークの言葉── 全てが胸の中を〈鈍色〉《にびいろ》に塗り潰している。 俺は間違ったことをしていない。 他の道などとても選べなかった。 いくら念じても胸は晴れない。 正しい道筋通りに進んでいるのに、一歩一歩、迷路の奥深くへ迷い込んでいる気がする。 俺はどこに向かっているんだ。 朝日が目に入った。 昨日、あれだけ走り回ったにもかかわらず、全く眠れなかった。 いまさら眠る気にもならず、ベッドから出る。 今日はこれといった予定もない。 昨日は顔を見ていないし、ティアの様子でも見にいくか。 しばらく経っても、俺は動けずにいた。 気が進まなかったのだ。 どうせ会ったところで、俺に専門的なことはできない。 なら、行かなくても同じではないか。 そんな考えが頭から離れなかった。 ……情けない。 ティアが苦しんでいるなら、手を取って勇気づけてやればいい。 専門的なことはできなくても、そのくらいしよう。 「よく来たな」 「また視察か、政務はどうした?」 「先程まで働きづめだよ」 「少し大きな実験をするらしいので見に来たのだ」 「大きな実験?」 「システィナ、説明をしてあげてくれ」 「はい、本日は……」 と、システィナが口を開いた時── 硝子の奥が光った。 見慣れた浄化の光だ。 しかも、今までになく明るい。 「大きいというのは、羽つきを一度に浄化させるということか?」 「そう聞いている」 以前、ティアは一人の浄化でも苦しんでいた。 それを数人分一度に味わったら。 「見てくる」 奥に進む。 「うっ……ああ……くっっ」 「ああっ……う……く……あ……」 「!?」 声を失った。 何人もの羽つきの前でティアが膝をつき、項垂れていた。 身体が破裂するのを堪えるように自分を抱きしめている。 床は落ちた汗で濡れたようになっていた。 「う……ああ……あ……」 ティアが前のめりに倒れる。 「ティア……」 「待て」 いつの間にか、背後にルキウスとシスティナがいた。 「ティア君は、都市のために耐えてくれているのだ」 「その気持ちを無にするな」 「研究をやめろ」 「それはできないと言っただろう」 「ここで、先日と同じ議論をする気はない」 ティアが震えながら身体を起こす。 「カイ……ムさん……わたし……頑張り、ます……」 「カイムさんを……守ら……なくちゃ……」 硝子の向こうで、ティアが呻く。 あいつ…… 俺のことを考えて、必死に……。 「カイム……さん……」 もうやめろ…… やめてくれ…… 唇を噛んだ。 でないと叫んでしまいそうだった。 「あああっ……うっ……つっ」 悲鳴が聞こえても、ルキウスとシスティナは動かない。 まるで音楽でも聴くように立っているだけだ。 「これは……必要な、ことなんだろうな?」 「当然だ」 「不必要な苦痛など絶対に与えない」 何度か深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。 これは必要なことだ。 都市のためなのだ。 「彼女のことを思うなら、顔を見せて勇気づけてあげてください」 あいつを売った俺が、か? 馬鹿らしい。 「すまん……」 そう言うのが精一杯だった。 ティアの嗚咽から逃げるように、俺は研究室を出る。 とてもではないが見ていられない。 何も考えずに城を出た。 ティアの苦悶の声が、耳の奥に残っている。 あいつが苦しんでいるにもかかわらず、俺は無力だ。 ティアに会いたくなかったのは、こうなることを予感していたのかもしれない。 くそ……。 路傍の柵に座った。 とにかく、気が落ち着くまで待とう。 しばらくして、俺は牢獄へ向かった。 暴動後の牢獄の様子を見ておくのは、意味のあることだろう。 単に、ティアの悲鳴を牢獄の喧騒で塗り潰したいだけだと気づきつつも、足は止められない。 行動していないと、重いものに押し潰されそうだった。 唐突に思いついた牢獄行きを、名案であるかのように自分へ思い込ませる。 牢獄を囲む崖の上からは、昨日の崖崩れの被害状況が一望できた。 大量の土砂が、住宅街の一角を押し潰している。 被害地域を人間らしき点が動いているが、数は少ない。 本格的な救援活動は行われていないようだ。 広場には、死臭が立ち込めていた。 引き取り手のない遺体が、腐り始めているのだ。 運悪く遺体の管理を任された衛兵たちが、死体の脇で続けざまにえづいている。 怪我人の治療は間に合っているだろうか? 少し歩き、野外診療所に到着した。 相変わらず患者で溢れているが、妙に静かだ。 最貧地域に満ちているような無気力が、天幕の中に充満していた。 患者たちの中にエリスを見つける。 「エリス」 「あら、カイム」 エリスを天幕の外に促す。 血で汚れた手を拭きながら、エリスが出てきてくれる。 「何の用?」 「状況を見に来た」 「上層からわざわざどうも」 「お陰様で、ずいぶんお客様が増えたわ」 「医薬品は足りているか?」 「また救援物資が届いたから、今のところ足りてる」 「でも、上層の人間が作った怪我人を、上層からの薬で治療させるってのはどういう冗談?」 「もしかして、私に現場経験を積ませるための、わかりにくい心遣いかしら?」 エリスが笑う。 「ありがたく経験を積ませてもらったらどうだ?」 「もう間に合ってるから」 エリスがため息をつく。 心底からのため息だとわかった。 「崖崩れの被害はどうだ?」 「かなりの家が潰されたみたいだけど、今のところ放置されてる」 「ジークたちは動いてないのか?」 「ジークは頑張ってるみたい」 「だた、子分がもう疲れちゃってるみたいで、人手が足らないってぼやいてた」 「みんな、これ以上死体を掘り出したくないのよ、きっと」 「そうか」 「また暴動が起こるような気配はあるか?」 「もう、そんな元気がある人はいないと思う」 コレットの代の崩落以降、先頭に立って救助や復興に尽力してきた不蝕金鎖ですら疲れているのだ。 牢獄民の心は、疲労と諦めで折れてしまったのだろう。 「ここを見ればわかるでしょ?」 エリスが天幕を顎で指す。 「前よりも静かだとは思ってた」 「そ、黙って寝ているだけ」 「口を開いても愚痴か嫌な話しか出ないから、みんな話さなくなっていくの」 「元気なのは、頭がイカれた奴らくらいか」 「そっちは前より人数が増えたから、毎日うるさいくらいよ」 エリスが、天幕の奥に目を遣る。 焦点の定まらない瞳で、薄笑いを浮かべている人間が集められた一角があった。 前に来たときもイカれた奴はいたが、こうして集めるほど数はいなかったはずだ。 「医者がこう言うのもどうかと思うけど、牢獄はもう駄目かもね」 「みんな、生きる気力を失ってるし」 「暴動のせいか?」 「暴動が潰されたことも大きいけど、まあいろいろ重なってる」 「前に話したでしょ、黒い霧の噂」 「ああ、あれか」 ティアが倒れたこともあって、追跡調査をしていなかったな。 「黒い霧がどうした?」 「犠牲者は相変わらず増えてるけど、最近は目撃者も増えてる」 「なんでも、霧が黒い塊になって襲ってくるらしいわ」 「そんな生き物いるわけないのに、真に受けてる人が多いみたい」 「気持ちが弱っていて、悲観的な噂を信じやすくなってるのね」 被害は止まっていなかったか。 ティアが浄化した奴の他にも、粘液は上がってきているようだ。 もし下界が粘液に覆われているとすれば、奴らが何匹いるかなど分かったものではない。 何とかしてやりたいが、頼みの綱のティアはあの調子だ。 残念だが、今後も被害は増え続けるだろう。 「噂と言えば、最近は救世主って話も出てるわ」 「救世主? 胡散臭いな」 「光る羽を持つ少女が黒い霧を滅ぼしてくれるとか、牢獄の人間を楽園に導いてくれるとかって話」 「あとは、街のどこかに救世主がいて、その人の祝福を受けると羽化病ですら治るって話もあるわね」 「ま、この状況じゃ救世主の登場を夢見るのも仕方ないな」 苦笑して聞き流したが、気になる点もあった。 少女が黒い霧を滅ぼすという噂は、ティアが粘液を浄化するところを見た乞食が発信源だろう。 問題は後者だ。 救世主をティアとすれば、大筋事実と合っている。 もしかしたら、ティアの存在が少しずつ洩れているのかもしれない。 「この辺の話は、私よりジークの方が詳しいと思う」 「細かいことは、あの変態に聞いてみて」 「そうだな」 本来ならジークに会って訊くところだが、奴とは顔を合わせにくい。 思いとどまったとは言え、俺は牢獄民に刃を向けてしまっている。 それに…… 「俺は、お前が変わることも敵対することも、悲しくはない」 「ただ悲しいのは、お前が自分の足をなくしちまったことだよ」 「意味がわからんな」 「わからなきゃいい」 「そんな機会があるかわからんが、次に会ったときお前が今のままなら……」 「殺すか?」 「殺すほどの価値もない」 「きれいさっぱり忘れるさ」 ……自分の足で立つ、か。 昨日は反発したが、今は自信がない。 1日しか経っていないくせに、みっともない話だ。 ルキウスやジークのような権力や、エリスのような医療技術があったら、何かできることもあるかもしれない。 だが、俺にできるのは他人より静かに人を殺すことくらいだ。 このご時世じゃ、大したことはできないだろう。 「俺には、何ができるんだろうな」 思わず口を突いて出た。 「はあ? いきなり何言ってるの?」 「悪いけど、頭の病気は専門外だから」 怪訝な目で見られた。 「何かあったの?」 「いや……」 「お前は、どうして医者としてやっていこうと思ったんだ?」 「そんなつまらないこと訊くなんて、ほんと何かあったみたいね」 エリスが意地悪く笑う。 「相談相手が悪かったらしい」 「面倒だから怒らないで」 「カイムから人生相談受けるなんて思わなかったから、驚いただけ」 「で、どうなんだ?」 「カイムといろいろあって、人生を変えたいと思ったから」 「あとは、カイムから自分を買い戻したかった」 「それだけの理由」 「もしかしたら、しばらく後には医者はやめてるかも」 答えを聞いてから、以前にも聞かされたことだと思い出す。 駄目だ、今の俺は。 「ずいぶん適当だな」 「難しいこと考えるの苦手だし、その時思った通りにやるだけ」 「失敗したらそれはそれでいいし」 「そこまで、自分の人生大事だと思ってないから」 あっさりと言った。 俺の気づかぬ間に、エリスは随分と身軽で自由な心を手に入れていたようだ。 「変わったな」 「カイムのお陰」 「あの時、突き放してくれたから」 エリスが、俺に刃物を向けたときのことか。 「何か悩んでるみたいだけど、カイムも自分の好きに生きたら?」 「誰も止めないわよ」 「できれば苦労しない」 「私に、さんざん自由に生きろって言った人間の台詞?」 結局のところ、俺はかつての牢獄でしかまともに生きていけない人間なのかもしれない。 仕事は山ほどあったし、辛い生活を理由に人生について考えずに済んだ。 本当に毎日生きる死ぬの生活をしているなら、それも仕方がない。 だが俺は、女を身請けするほどには裕福だったし自由だった。 実質的には牢獄からは脱していたにもかかわらず、まるで自分が牢獄に閉じこめられているように錯覚してきた。 『あなたは、牢獄から出た方がいい』 かつてコレットは、こんな意味のことを言った。 それも、処刑前、最後のチェスをした時だ。 彼女の遺言だと思っても間違いではない。 「恐らく、カイムさんも気づかれているのではないでしょうか」 「……自分の生きる意味から、顔を背け続けていることです」 「自分を見つめ、自分を信じ、自分の行く先を決める」 「それは、目も見えず、何も持たない私にでもできることです」 「カイムさんにできないはずがありません」 「牢獄で立ち止まらないでください」 「私の代わりに、どうか前に進んでください」 牢獄を離れて上層に移ったが、俺は前に進めたのだろうか。 自分を見つめ、自分を信じ、自分の行く先を決められたのだろうか。 わからない。 もしかしたら、あいつは、その閉じた目で全てを見越していたのかもしれない。 コレット……。 もう一度、様子を見にいってみるか。 「湿っぽい話をしてすまなかった、少し考えてみる」 「お前、心の病を診る才能があるんじゃないか?」 「カイムの話だから付き合っただけ」 「こんな話、他の人相手なら聞かないから」 小さくため息をつく。 「前にも聞いたが、エリスはずっと牢獄にいるつもりか?」 「そのとき思ったようにする」 「もしかしたら、明日にはいないかもね」 エリスがにっと笑う。 ……そうか。 こいつはもう、自分の頭で考え進んでいける── 独り立ちしたのだ。 エリスの笑顔には、そう思わせるだけのものがあった。 「好きにしろ」 「するわ」 「じゃあ、またな」 エリスと別れる。 少し歩いてから、もうエリスとは会えないような気もした。 だが、それもいいと思う。 湿っぽいやりとりをしている俺達は、いまいちピンとこなかった。 しばらく歩き、コレットの家まで来た。 入口の扉を叩く。 「カイムだ、いるか」 「あ、はい、おります」 「コレット、カイム様がいらっしゃいました」 がちゃがちゃと、部屋の中が騒がしくなる。 しばらくして、ドアが開いた。 「こんにちは、カイム様」 「元気にしていたか?」 「ええ、もちろんですよ」 「お待たせして申し訳ございません」 「ちょっと片付けが必要で」 「余計なことは言わなくていいのです」 「ふふふ、失礼」 明るく笑って、ラヴィは茶の支度にかかる。 すぐに、爽やかな香りの茶が運ばれた。 「昨日はどうやら暴動があったようですが、当代の聖女は無事でしたか?」 「殺されたという話は聞いていない」 「それは何よりでした」 「お披露目の儀で暴動なんて……当代様はおかわいそうに」 「この時期に聖女になるなんて、貧乏〈籤〉《くじ》もいいところだ」 「これも、天使様が我々に課した試練かもしれません」 信仰は便利なものだ。 まあ、こいつが言う天使の話は、他の聖職者とは違って馬鹿にならないが。 「御子はお変わりなく?」 「……ああ、元気にやっている」 「そうですか」 コレットが冷静な目で俺を見た。 背筋を緊張が走る。 嘘を見抜かれたかもしれない。 「最近はどうだ、天使様の声は聞こえるか?」 「はい、かなり頻繁に」 「何?」 「天使様もおしゃべりになったもんだな」 「どんな声が聞こえてるんだ?」 「ほとんどは、誰かを呼ばれるような御声です」 「紙に書いておきました」 と、立ち上がったコレットが、木の箱から〈恭〉《うやうや》しく紙を取り出す。 それを俺に示した。 『目を……さい、我が子よ。そして、私に代わり……を……て』 『いずれ……あなたを…………救う……どあり……』 『……あなたが苦しむ必要など……のです』 『ずっと……虐げられて……はずです』 『どうして……人間のために……苦しまなくては…………』 「御声が遠く、全てを聞きとることができませんでした」 「ですが、天使様は人間の罪を問われているように思うのです」 「まあ、そう読めるかもしれないな」 特に、最後の文章は、かなり文意を読み取ることができる。 恐らく、誰かが人間のために苦しんでいるのだ。 とすれば、下から2番目の文章で虐げられているのも、その人物かもしれない。 考えながら、どうしても頭にティアの顔が浮かんでしまう。 「御声に合わせて、どこかの部屋の情景もぼんやり見えています」 「巨大な柱が立っているのです」 「そして、部屋の天井はどこまでも高く、見ることができません」 「変わった部屋だ」 「もし、そのような部屋を見ることがあったら教えてください」 「ああ、そうする」 驚きが顔に出ないように努める。 何ということだ。 コレットが見ているのは、恐らく天使の塔だ。 どうやら、こいつの夢は冗談では済ませられないらしい。 もし、〈磔〉《はりつけ》になっている天使の姿をはっきりと見たら、コレットはどう動くのだろう。 全く想像がつかない。 「あの、お茶が冷めますよ」 ラヴィリアの穏やかな声に助けられる。 茶を飲み、人心地つく。 「どうだ、最近の牢獄は? あまりいい話は聞かないが」 「やはり地震が心配です」 「自分の立っている場所がいつ落ちるかわからないという恐怖は、想像を絶しています」 「夜寝ていても、少し家が揺れただけで目が覚めてしまいます」 「牢獄に住む者たちが、どのような気持ちで聖女に祈りを捧げていたのか、今になってようやくわかりました」 「想像してわかった気になっていましたが、本当は何もわかっていなかったようです」 「カイムさんには、失礼なことばかり言ってしまったように思います」 「それはお互い様だ、別に気にしない」 「あんたの言葉のお陰で、救われてもいるし迷ってもいる」 「私の言葉?」 「自分の行く先を決めろって話だ」 「ああ……」 コレットが少し恥ずかしそうにする。 「まだ決まっていないとは、かなり悠長な性格をしていらしたのですね」 「きついな」 「冗談です、ご安心を」 にっこりと清楚な笑顔を浮かべる。 「そうです、カイム様」 「最近、牢獄で流れている噂をご存じですか?」 「いくつか知っているが」 「黒い怪物を退治する少女のお話です」 「ああ、黒い霧か」 「はい、そうです」 「コレットと、あれは御子様のことだろうと話していたのです」 「付き添いで、鬼のような男もいたということですし」 「実際、どうなのですか?」 「噂に登場するのは御子なのですか?」 「少女は恐らくティアだが、怪物を退治したわけじゃない」 「大きな翼を持った乞食の羽つきがいたんでな、ティアが可哀想に思って浄化しただけだ」 「そうでしたか」 コレットの表情が輝く。 「御子様は本当にお心のお優しい方ね」 「今の牢獄民は、何か寄る辺になるものを求めています」 「御子の奇蹟を、怪物を退治したと見てしまうのも無理なきことです」 二人は楽しそうに頷きあった。 勝手に化け物は実在しないことにしてくれた。 こいつらの思考回路では自然な流れらしい。 手間が省けて助かる。 「救世主の祝福を受けると、羽化病すら治るといった噂もあるようですが、これも御子のことなのでしょうか?」 「さあ、どこまでが事実かわからない」 「もはや救いになれば何でもいいんだろう」 「私達が、まだ聖職者でしたら民の支えにもなれたかもしれませんね」 「コレット、仕方がないことよ」 ラヴィリアがコレットの肩に手を置く。 それに微笑みで返すコレット。 仲の良い姉妹のような姿だ。 「さて、俺はそろそろ帰らせてもらう」 「もうですか?」 「もう少しゆっくりしていって下さい、コレットも喜びます」 「な、何を言うのですか」 コレットが慌てる。 「そうです、コレットと新しい琴の曲を練習したのです」 「よろしかったら、聞いてやってくれませんか?」 勢い込んで言ってくる。 「仕方ない、一曲だけだぞ」 「わかりました」 「ラヴィ、早く竪琴を」 「はいっ」 竪琴の演奏会は、全5曲の盛りだくさんの内容だった。 お陰で、ルキウスの家に着いた時には日が暮れてしまった。 召使いが用意した湯で体を拭き、ベッドに倒れこんだ。 寝る前に、牢獄で聞いたことをルキウスに報告しておこう。 そう思いつつも身体が動かない。 自分の姿に、仲間を売っているような後ろめたさを覚えていた。 今までになかった感覚だ。 やはり、ティアの件が自分の想像以上に堪えているのだろうか。 いや、ルキウスの力になることは、都市の利益に適っているはずだ。 俺達が進んでいる道は正しい。 だが、道の果てに誰の笑顔も見えてこない。 むしろ、荒涼とした〈瓦礫〉《がれき》の地に立つ俺とルキウスの姿が浮かぶ。 しっかりしろ。 俺は、やるべきことをしているんだ。 そう自分に言い聞かせ、俺は報告のためにベッドから立ち上がった。 「く……う……」 頭が割れるように痛い。 どうしようもなくてベッドに寝転ぶ。 今日は、何人の羽つきさんを浄化したんだろう? 途中からは頭がぼんやりしてしまって、覚えていない。 「カイムさん……」 まだ、その名前は覚えている。 忘れないように、口の中で何度も何度も繰り返す。 「う……」 自分で見たわけではないのに、牢獄が落ちたときの光景が勝手に蘇る。 真っ二つになるヴィノレタの姿── そして、落ちていくメルトさんの、呆然とした顔が浮かんだ。 それが、カイムさんになる…… あんなに優しかったのに、 あんなに大好きだったのに。 ……頑張らなきゃ。 自分のせいでカイムさんが死んじゃうなんて、絶対に許せない。 「あうっ……あ……うう……」 そう思っているのに、頭が痛くなる。 何だが意識もぼんやりしてきた。 本当はつらいです、カイムさん。 どうしてわたしは、いつも苦しい目に遭ってるんですか? 『そう、あなたが苦しむ必要などないのです』 「え……?」 どこからか声が聞こえた。 懐かしい声。 いつも夢に出てきた、あの声だ。 なんだか、ほんわかして気持ちよくなる。 『ずっと人間に虐げられてきたはずです』 『どうして、その人間のために苦しまなくてはならないのでしょうか?』 ……そうだ。 どうして、わたしは苦しんでいるんだろう? 悪いことをしたわけじゃないのに。 もう、楽になって…… 「……はっ!?」 だめだめだめだめ! 今なんか、とっても申し訳ないことを考えてしまった。 研究員さんに頼んで、顔を洗わせてもらおう。 ベッドから下りる。 その時、わたしは、なぜかあるものを見上げていた。 研究室に立っている太い柱── 上の方で、天使様が縛りつけられている柱。 その干からびたお姿は全然見えないのに、何故か目が合ったような気がしたのだ。 ……まさか、ね。 研究室にティアの悲鳴が響いている。 耳が慣れてしまったのか、以前ほどのいたたまれなさは感じない。 そんな自分にいささか幻滅しながら、身を〈捩〉《よじ》って苦しむティアを見つめる。 「昨日に比べて、苦痛が増しているようだな」 「そのようですね」 「……しかし、浄化の力は何度見ても不思議なものです」 「不可能とされていた、天使の力の純粋抽出をいとも簡単にしてのけているのですから」 「所詮、天使の力は人の触れられるものではないのかもしれない」 「ギルバルト卿も我々も、長年、純白の輝きを持つ天使の力を抽出するために研究を重ねてきた」 「だが、人の手が触れた瞬間、天使の力は黒く濁ってしまう」 「しかも、まるで意思を持つかのように人を害する」 「……天罰、でしょうか」 「神の御遣いたる天使を、我がものとしようとする我々への」 「かもしれない」 「だが、そもそも、都市の存在そのものが人間の罪の証明なのだ」 「地上に残った最後の天使を捕らえ、浮力にしているのだからな」 「今更、天罰を怖れるなど詮無きことだ」 「聖典に曰く、ノーヴァス・アイテルは、神に選ばれた者が乗る聖なる舟らしいですが」 「本当のところは、罪人を乗せた〈護送籠〉《ごそうかご》ということですね」 「だがそれでも、落とすわけにはいくまい」 どうせ罪人の子孫に生まれたならば、最後まで神への挑戦を続けようではないか。 「ティア君の苦痛は増しているようだが、肝心の進捗はどうだ?」 「あまり芳しくありません」 「このままですと、都市が落ちるまでにティアさんは覚醒できないかもしれません」 「……もう少し頑張ってもらわねばならないか」 「浄化させる羽つきの数を増やせるか?」 「そうしたいところなのですが、防疫局が集めた羽つきは残りわずかです」 「今の牢獄の情勢では、これ以上の早さで羽つきを集めるのも難しいでしょう」 「ギルバルト卿の〈福音〉《ふくいん》はどうだ?」 「研究者は、最後の頼みの綱として残しておきたいと言っています」 「火を強くしたくても、薪がないか」 「困ったことになったな」 手元に薪がないのなら、どこかから調達しなくてはならない。 羽つきはこれ以上集められない。 ならば、都市を支えている天使から力を移すか。 いや、それは最終手段だ。 崩落の危険性が高すぎる。 何か、他に策はないか? ……。 「危険だが、もう一度やってみるか」 「??」 「先日、カイムが牢獄へ行ってきたのだが、興味深い報告があった」 「牢獄では粘液の目撃談が増えているらしい」 「すると、以前浄化したものの他に、下界から更に粘液が上がってきているということでしょうか」 「そう考えるのが妥当だろう」 「また、ティアさんに浄化させるおつもりですか?」 「下界の粘液は汚染度が高く、記憶にかなり影響があるようですが」 「しかし、前回は飛躍的に覚醒が進んだ」 「時間は限られている、背に腹は替えられん」 「……御意」 とにかく今は時間が惜しい。 天使の力は残りわずか。 都市が落ちる前に、ティアには天使としての役割を果たせるようになってもらわねばならない。 できなければ全てが終わる。 「しかし、更に粘液が上がってきているということは、都市の高度が落ちているということでしょうか」 「もう高度を保つことすら難しいようだ」 「とすれば、今後は粘液の被害が増えるかもしれません」 気の重い話だ。 思わず、柱の上方を見上げる。 〈萎〉《しな》びた天使様には、もう力が残っていないらしい。 消費すれば尽きると分かっていたものを、この国はどうして今まで放置してきたのか。 あまりにも無策だ。 「次の《解放》も考えねばならないな」 「いつでも実行できるよう、準備を整えておいてくれ」 「了解いたしました」 システィナが、沈痛な面持ちで俺を見る。 下手な気を遣っているらしい。 「もう、決して引かぬと、あの日決めただろう?」 「はい……申し訳ございません」 「ルキウス様は、私の何倍もおつらいはずですのに」 そういうことは、思っていても言わないものだ。 システィナは優しい女だが、不器用なのが玉に瑕だ。 「行動しよう、時間を無駄にしたくない」 「はい」 「今回の件、彼にはどのように連絡いたしましょうか?」 「牢獄へ行くということでしたら、彼は何かと便利ですが」 「連絡をする必要はない」 「後で文句は言われるだろうが、どうせ反対はしないのだ」 「なるほど」 「……ティアさんを見捨てましたか」 「彼女は、カイムさんのために頑張っているというのに」 「そう言うな」 「彼は私の考えを理解し、都市を守るために努力してくれているのだ」 「仰る通りです」 「しかし、同じ女としてはティアさんが〈不憫〉《ふびん》ですね」 「そうかもしれん」 「では、私は出発の準備を整えます」 「頼んだ」 システィナが研究室を出て行く。 確かに、ティア君が〈不憫〉《ふびん》だ。 いや、感傷的になるなど私らしくもない。 カイムが余計な口出しをしてこない方が、研究は進むのだ。 それが全てではないか。 目覚めて外を見ると、日はすでに中天を過ぎていた。 久々に惰眠を貪った。 体調でも崩していれば寝ていても格好が付くが、だらしのないことに健康そのものだ。 こうしている間にも、ティアは悲痛な声を研究室に響かせているのだろう。 ほとんどの国民の知らないところで、一人の少女が苦しみ、流した血と汗が未来の都市を浮かせる。 都市が安定すれば、人々はそれを聖女の功績と見なすだろう。 ティアは、いったい何のために戦っているんだ? 奴隷のように扱われて育ち、 娼婦として売り飛ばされ、 ようやく安心して過ごせるかと思えば、今度は俺のために苦しんでいる。 これでは、苦しむためだけに生まれてきたようなものだ。 あいにく、人生は平等にできていない。 とことん恵まれた奴もいれば、その逆もいる。 そんなのは当たり前のことで、取り立てて騒ぐようなことじゃない。 嘆いている暇があったら、何かした方がいい。 ……俺にできることはないのか。 見事なほどに思いつかない。 研究室で俺が騒いだところで、何度もくり返してきたやりとりをするだけなのだ。 ティアよりも都市を優先している以上、俺には何もできない。 ──これは都市のため。 ──ティアも同意している。 ルキウスに理屈を突きつけられれば、納得せざるを得ない。 どれだけ騒いでも、結局、俺は都市のためにティアを売っているのだ。 本当にあいつを守りたいなら、都市を── ノーヴァス・アイテルに住む全ての人間を犠牲にする覚悟が必要だ。 無意識に唾を飲みこんでいた。 そんな覚悟、できるのか? 再びベッドに倒れる。 無理だ。 許されるわけがない。 それに、ティア自身が望まないだろう。 あいつは、自分の使命に全てをかけているのだ。 「……」 こんなことになるなら、牢獄でのあの夜── あいつに期待を持たせるようなことなど言うのではなかった。 もう、一緒に暮らすことはおろか、飯を食うことだって〈覚束〉《おぼつか》ない。 そもそも、いつまで俺のことを覚えているかすらわからないのだ。 ティア…… あの夜と同じように、牢獄の路地は霧で重く湿っていた。 研究員さんたちが持ったランタンが、ぼんやりと霞んで揺れている。 前回は隣にカイムさんがいてくれたけど、今は── 「怖くないですか?」 「はい、平気です」 と、答えたけど、怖いに決まっている。 あれは、とても痛くて苦しい。 頭が真っ白になって、自分が自分でなくなってしまうような気分になる。 本当は、二度とやりたくなかった。 でも、牢獄の皆さんが困っていると聞いたら断れない。 わたしがやっつけないと、沢山の人が死んでしまうのだから。 「カイムさんは、最近どうされていますか?」 「牢獄でいろいろと活躍していますよ」 「ティアさんの顔が見たいと言っていましたが、どうにも忙しいようで」 「……そうですか」 元気そうで良かった。 研究室に来てくれないのは、やっぱり少し寂しい。 もう何日も会っていないし、顔が見たいな。 優しい言葉をかけてくれたら、もう少し頑張れると思うんだけど。 でも、忙しいなら仕方ないか。 我慢しよう。 そうだ、今度お手紙を出そう。 また来てくださいって書けば、きっと来てくれる。 カイムさんは優しい人だから。 「あの、システィナさん?」 「なんですか?」 「手紙を書いたら届けていただけますか?」 「カイムさん宛ですか?」 「え、ええと……はい」 何だか恥ずかしい。 「もちろん届けます」 「よかったです」 「カイムさんのことは、お慕いしているのですか?」 「そ、それは……」 「一緒にいたい……だけです」 顔が赤くなっていくのがわかる。 「……素直に人を好きになれるのは、羨ましいことです」 「え?」 「いえ、何でもありません」 珍しく、システィナさんが寂しそうに笑っていた。 「うっ、うわぁぁあっっ!!」 「!?」 「ひっ」 離れたところから悲鳴が聞こえた。 「頼みましたよ」 「はははは、はい」 こくこく頷いて立ち上がる。 膝がガクガクだ。 怖い。 怖いです、カイムさん。 怖くて怖くて、死んでしまいそうです。 「ぎゃあっ!」 すぐ近くで悲鳴。 ランタンの火が一つ消える。 「来たか……」 「え、え、え、え……?」 何かが目の前に立ちふさがった。 ううん、そんなんじゃない。 まるで、真っ暗な夜空が下りてきたみたい。 「な、何だ……この大きさは……」 「ひ……」 道も、家も、壁も、そして星すらも…… 目に入る世界の全てが、黒く黒く融けていた。 カイムさん…… わたし、わたし…… 「……っ!?」 跳ね起きた。 寝間着がびっしょりと汗に濡れている。 鼓動が、激しい。 何? 今の夢は? 忌まわしい情景が、脳裏に焼きついている。 こんなことが、本当に許されるのだろうか? 許されるわけがない。 いや── 私が、許しはしない。 「ん……んん……」 「コレット? どうしたの?」 隣のベッドでラヴィが目を覚ます。 「天使様の……声を聞きました」 「ほんと! よかった!」 ラヴィが慌ててベッドから下り、灯りを点ける。 棚から紙と筆記具を取り出す。 「さ、記録の準備はできたわ」 「どんな夢だったの? どんな声が聞こえた?」 「え、ええ……」 「実は、よく覚えていないの」 「コレット、しっかりなさい」 「忘れてよいことと悪いことがあるでしょう?」 「で、でも……ごめんなさい、本当に思い出せなくて」 胸の前で聖印を刻み、そして祈る。 忌まわしい情景を、脳裏から追い払うように。 御子……、 あなた様に、一体何が……。 召使いが、手紙を持ってきたのは昼過ぎだった。 この封筒を見るのは二度目だ。 「……コレット」 急ぎ封を切る。 〈便箋〉《びんせん》に並んだ文字はコレットらしからぬ〈筆致〉《ひっち》だった。 美しいには美しいが、文字の端々に抑えきれない激情が滲んでいる。 『突然のお便り失礼します』 『昨夜、またも天使様の御声を聞くことができました』 『ですが、その夢の中では、言葉にするもおぞましき光景が繰り広げられていたのです』 『カイム様、貴方はご存じでしょうか?』 『ノーヴァス・アイテルの最も高き塔で行われている、罪深き冒涜の饗宴を』 「……」 〈便箋〉《びんせん》を持つ指が震えた。 『私は、この命に代えても、御子をお救い申し上げなくてはなりません』 『それは、天使様への信仰に生きてきた私に与えられた使命です』 『いえ、もしかすると、この時のために私は生まれてきたのかもしれません』 『御子について何かご存じでしたら、私に協力してください』 『もしご存じでなかったとしても、私と行動を共にしていただければどれほど心強いことか!』 『ぜひ、お力添えをお願いいたします』 『そしてもし──』 『貴方がもし、〈冒涜〉《ぼうとく》の饗宴に荷担されているとするならば……』 『貴方には返しきれぬ恩義を受けた私です』 『ですが、それでもなお、私は貴方と対峙せねばなりません』 『ああ、今日ほど夢が偽りであればと願ったことはありません!』 文字が激情を帯びる。 『ですが、夢は真実なのです』 『私は、天使様の御声に従い御子をお守り申し上げます』 『カイム様』 『どうか私をお怨み下さい』 『どうか、どうか』 乱れた文字で手紙は終わっていた。 内容から察するに、コレットは研究所の中で行われていることを夢で見たようだ。 『罪深き〈冒涜〉《ぼうとく》の饗宴』とはティアに施されている実験のことだろう。 とうとうコレットは辿り着いてしまったらしい。 しかも、その宴に俺が関わっていることも知っているようだ。 一体、どうするつもりだ? ティアを助けると言っても、単身城に乗り込んでくるわけではないだろう。 第一、現状では関所すら通行できないはずだ。 いや、あいつなら無茶をやりかねない。 かつては、自分の信仰のみを信じ、たった一人で聖教会の全てを敵に回した女だ。 あいつの信念の強さは、誰よりも俺が知っている。 牢獄の絶壁を素手で上ってきてもおかしくない。 ある意味、一番敵に回してはいけない奴だ。 とにかく、事情を聞いて落ち着いてもらわねばならない。 手紙を懐にしまい、部屋を飛び出す。 「はっ、はっ、はっ……」 牢獄まで一気に駆け下りてきた。 膝に手をつき、肩で息をする。 心臓が口から飛び出しそうだ。 「どうした?」 「血相を変えて、お前らしくもない」 「……なんだ、フィオネか……」 「ご挨拶じゃないか」 「今日、関所を女が通らなかったか?」 「まあ4、5人は通ったが、それだけの情報では特定できん」 コレットの外見をざっと説明する。 「恐らく通っていない」 「厳密に調べてほしければ、衛兵に聞き取りをするが」 「いや、そんな手間はかけさせられん」 「そうか、また何かあったら言ってくれ」 「ああ、その時は頼む」 再び走りだす。 コレットの家に到着した。 何度かノックをするが、返事はない。 扉には鍵がかかっている。 単に出かけただけだろうか? 「邪魔するぞ」 荷物から針金を取り出し鍵穴に差し込む。 鍵開けは、訓練・実戦ともに数多く経験している。 すぐに、鍵が開く音がした。 「コレット、いるか?」 狭い家は、すぐに無人だとわかった。 かすかにだが、人のいた気配は残っている。 食卓の上に、小さな書き置きを見つけた。 コレットの文字ではない。 『私は、コレットと人生を共にします』 『カイム様から受けたご恩は、とても返すことができるものではありません』 『ですが、ごめんなさい』 『私にはコレットを見捨てることができません』 『ありがとうございました』 『そしてさようなら』 どうやら二人は出て行ったらしい。 一体どこへ? フィオネの話では関所は通過していない。 自力で崖を登ったのでなければ、まだ牢獄にいるはずだ。 こういうときに頼れるのは…… やはりジークか。 知らない仲ではないし、二人も彼を頼るかもしれない。 半分から崩落したヴィノレタを横目に、リリウムに向かう。 ジークは面会してくれるだろうか。 「あら、カイム様、ようこそいらっしゃいました」 「わーーーお、カイムだカイムだカイムだっ」 「上層豚が来た」 「元気にしてるか?」 「このご時世にしては元気でございますよ」 「娼婦は打たれ強いからねっ」 「全部諦めてるだけ」 こいつらは相変わらずだ。 牢獄が平和だろうが崩落しようが、生活が変わらないのだから当たり前か。 「これは、カイムさん」 奥からオズが出てきた。 「ジークはいるか?」 「いらっしゃいますが、お会いにならないとのことです」 「……そうか」 「ありゃ、喧嘩でもしたの?」 「お前らは黙って奥へ行ってろ」 「あーい」 3人組が奥へ引っ込むのを見て、オズが口を開く。 「私でよろしければ、お話くらいは伺いますが」 「前に面倒を見てもらっていた、2人組の女がいたと思うんだが」 「……例の聖職者だ」 「はい、あいつらがどうかしましたか?」 「失踪した」 「……穏やかじゃありませんね」 「何か知らないかと思ってな」 「生憎と何の噂も聞いてません」 「このご時世ですから、女二人に構っている暇はございませんので」 オズの言葉が本当か嘘かはわからない。 だが、こいつが知らないと言うからには、情報を引き出すのは容易ではないだろう。 「申し訳ございません、お力になれず」 「仕方ない。毎日忙しいのだろう?」 「金も人手もないのに、仕事だけは際限なく湧いてきますからね……困ったものです」 「お陰様で、先日の崖崩れの跡も手が着けられません」 「……あれは、災難だったな」 「まあ、牢獄には昔から災難しかありませんが」 オズが煙草に火を点け、俺に渡してくれる。 受け取った。 「皆、参っているようです」 「最近では、救世主なんて噂も出るくらいですから」 「ああ、その話か」 「昨日の夜中、スラムの方でものすごい光が見えたらしいです」 「今日はその話題で持ちきりです」 「……光?」 「昼間になったかと思うくらいの光だったらしいです」 「かなりの人間が目撃してるんで、嘘ってことはないでしょう」 「で、まあ、ここからは眉唾ですが……」 「その光は、救世主が牢獄に生まれた証ってことらしいんです」 スラムで光? どうしても、ティアが粘液を浄化したときのことを思い出してしまう。 「昨日、ティアが牢獄へ来ていなかったか?」 「ティア? あのお嬢ちゃんですか?」 「存じませんね」 「なら、例えば、上層から貴族が来たとかいう話はあるか?」 「ええ、10人ほどのご一行様がいらっしゃったらしいですね」 「そいつら、何をしに来たんだ?」 「救世主様を〈攫〉《さら》いに来たってのがもっぱらの噂です」 「まあ、ヤク中の与太でしょう」 なるほど。 フィオネあたりに詳しい話を聞いておいた方がよさそうだ。 「救世主様が、本当に現れてくれればいいんだがな」 「まったくです」 「地震と崩落にだけは、不蝕金鎖も歯が立ちませんからね」 「私らとしちゃ、カイムさんが救世主になってくれると期待してたんですが」 皮肉っぽく笑うオズ。 「期待には応えられそうもない……すまない」 「冗談ですよ、カイムさんらしくもない」 「何か〈湿気〉《しけ》たことでもありましたか?」 「多少な」 煙草を揉み消す。 「いろいろと教えてくれて助かった」 「いえ、これからどうなさるんですか?」 「例の女を捜してみる」 「左様ですか」 「では、お気を付けて」 「ああ」 リリウムを出た。 ティアの件は置いておくとして、まずはコレットを探そう。 「お帰りになりました」 「そうか」 「……いいのか、あんたら?」 「はい……いいのです、これで」 「お会いしたところで、どうしようもありませんから」 「ま、あんたらがそう言うなら、俺は構わんがな」 しばらく歩き回り、関所に戻ってきた。 金も〈撒〉《ま》いてみたが、コレットについての情報は出てこない。 煙のように消えている。 素人がやろうとしてできることではない。 ましてや、あいつらは世間知らずの元聖職者だ。 どうやら誰かさんが、一枚噛んでいるらしい。 これ以上掘っても何も出てこないだろう。 ……次のネタを調べるか。 近くの衛兵に声をかけ、フィオネを呼び出してもらう。 「気軽に呼び出さないでもらえるか」 「これでも仕事中なんだが」 「警備の仕事だろ? 突っ立ってるだけじゃないのか?」 「喧嘩を売るために呼んだのか?」 「最近、〈鬱憤〉《うっぷん》が溜っている。悪いが手加減はできない」 「なんだ、欲求不満か?」 「ば、馬鹿を言うな」 ふくれっ面になった。 「用件は何だ、早く言え」 「昨日、スラムで光が見えたという話を聞いたんだが」 「ああ、〈夜番〉《よるばん》の衛兵も報告に上げている」 「それがどうかしたか?」 「いや、多少気になることがあってな」 「人に質問しておいて意図を明かせないのか、失礼な奴め」 「ああ、生まれつき失礼でな」 軽く流す。 「昨日、貴族連中が牢獄に来たと聞いたのだが?」 「いらっしゃったな」 「システィナ様と、あとは学者のような男たちが従っていた」 「ティアは見なかったか?」 「見ていない」 「システィナ様がいらっしゃったので、細かい確認は省いた」 「そういう〈杜撰〉《ずさん》な警備をしていると、いつか失敗するぞ」 「余計なお世話だ」 腕組みをして顔を逸らすフィオネ。 「で、話はそれだけか?」 「早く仕事に戻りたいのだが」 「ああ、時間をとらせて悪かったな」 礼を言って関所に入る。 「なあ、カイム」 後ろから呼び止められた。 「何だ? 仕事に戻りたかったんじゃないのか?」 「いや……」 フィオネが言葉を飲みこむ。 「少し、迷っているのだ」 「暴動があってから、牢獄民は目に見えて意気消沈している」 「そのようだな」 「それが……何というか……」 「これでいいのか、という気分になる」 「国の方針だろう?」 「もちろんそうだ」 「しかし、なぜ牢獄民だけが苦しむのだ?」 「私たちはなぜ、ここまでして牢獄を封鎖せねばならない?」 ……そうか。 フィオネは、現在この都市に起きていることを知らないのだ。 「下層民は、裕福とは言わないがそれなりの暮らしをしている」 「だが、牢獄民はどうだ?」 「なぜ、牢獄民がここまで苦しい生活をせねばならないんだ?」 「富を皆で分かち合うことはできないのか?」 「牢獄が貧しいのは、そういうものだからだ」 「不条理な話だが、仕方のないことだ」 「それでよいと思っているのか?」 「牢獄民の誰もが、お前と同じことを考える」 「だが、現実がマシになったことはない」 「変えられないのか、私たちには」 ……。 「変える方法があるなら、聞かせてほしいくらいだ」 「く……」 「子供みたいなことを言うな」 「仮に関所を開放して、牢獄民が下層に流れ込んだらどうなる?」 「お前の言った通り、下層民も豊かなわけじゃないんだろう?」 「自分の財産を切り崩して、牢獄民に施す余裕があるのか?」 かつて、ルキウスに言われたことを、ほぼそのまま返している自分がいる。 「フィオネ、牢獄に染まりすぎてるぞ」 「お前には関所を守るという大切な仕事があるだろう?」 「わかっている……」 「言ってみたかっただけだ」 拳を握り締めるフィオネ。 「しかし、カイム」 「お前の言葉は、まるで貴族のようだな」 「俺に当たるのは勝手だ」 「だが、対策を見つけて行動できないなら、お前もいないのと一緒だ」 「文句だけなら誰でも言える」 「ああ……そうだな」 「今は、余計なことを考えずに職務に励んだほうがいい」 フィオネの脇を通り過ぎ、関所の階段を上る。 フィオネはしばらく考え込むように〈項垂〉《うなだ》れていた。 ルキウスは、まだ帰宅していなかった。 召使い曰く、今日は城に泊まるとのことだ。 嫌な予感が頭をかすめる。 二人が帰れないのは、ティアの身に異変が起こったからではないだろうか。 前に粘液を浄化したとき、ティアはしばらく昏睡状態だった。 ティアの浄化による光だと確定したわけではないが、今回は多くの人間が目撃するほどの光だった。 もしかしたら、昏睡以上のことになっているのかもしれない。 胸騒ぎがする。 とてもじゃないが眠れる気分じゃない。 行こう、城に。 ドアを開いたところで足が止まる。 ティアに会ってどうする? どうせ、何もできないまま、あいつの悲鳴を聞かされるだけだ。 ……。 やめよう。 今日は牢獄を走り回って疲れているのだ。 あれ? ここはどこだろう? 真っ白で何も見えない。 目を開いているのか、閉じているのかもわからない。 というより、自分に身体があるという感覚すらない。 わたし、何してるんだろう? ああ、思い出した。 頼まれて、牢獄に行ったんだった。 何で? どうして? 思い出せない。 あれから、どのくらいの時間が経ったんだろう? ついさっきのような気もするし、ずいぶん昔のような気もする。 わからないことだらけだ。 ……とにかく、目を覚まそう。 ……真っ白なところにいても、何もわからない。 身体のどこかに力を入れてみた。 「うあっ!?」 ……何で、こんなに痛いの? 激痛があってはじめて、自分に身体があることがわかった。 どうやら手は付いているらしい。 足を動かそうとしてみる。 「く……ああっ……」 痛い、痛い、痛い! 足があるのがわかったけど、声が出なくなるほど痛い。 「……でも、起きないと……」 「起きて、実験を続けないと……」 意を決して、起き上がろうとする。 「うああぁぁぁっっ! あっ……ああっ!」 「ひぃ……ひっ……ひう……うっ……」 頭の中まで真っ白になる。 一回でぼろぼろだ。 涙と鼻水とよだれで顔が汚れている気がする。 『あちらのことは忘れなさい』 『あちらは苦しいだけの世界です』 この声は…… ずっと夢で聞いていた声だ。 こんなにはっきり聞こえるなんて……まるで、目の前で話を聞いているよう。 「あの、あなたは誰……ですか?」 『あちらのことは忘れなさい』 『あなたはもう、十分苦しい目に遭ってきたでしょう?』 「でも、私が頑張らないと……カイムさんが……」 『忘れなさい』 『こちらへ来れば、次第に全てがわかってきます』 『誰が正しく、誰が間違っているのか』 「あの、あなたは誰なんですか? 教えてください」 『あちらのことは忘れなさい』 『私の声に耳を傾けるのです』 何だか、声が言っていることが正しいような気がしてきた。 それに、声を聞いていると気持ちが落ち着く。 まるで、温かな布団に包まれているみたい。 「……」 目をつむる。 『私の声に耳を傾けなさい』 『……私の声に耳を傾けなさい』 『………………私の声に耳を傾けなさい』 その声が、胸の中にしみこんでくる。 だんだん意識がぼんやりとしてきた。 ……あれ? 真っ白だったはずなのに、何か見えてきた。 見たこともない街── 街並みは地の果てまで続いている。 建物はどれもおっきくて、清潔で、きれいな色をしている。 道や広場にはたくさんの人がいて、みんな楽しそうに笑っている。 街のあちこちに巨大な石造りの塔が、何本も建っている。 真ん中にある塔は、とても太くて長い。 そこには、何人もの翼を持った人が── 「っっ!?」 慌てて目を開く。 何か、すごく嫌なものを見てしまいそうになった。 『あちらのことは忘れなさい』 『あちらへいけば、あなたは苦しい思いをするだけです』 「そ、そんなことないです」 「と、とにかく、わたしは戻りますっ」 声から意識をそらす。 とたんに激痛が体を襲った。 『あちらのことは忘れなさい』 「だめです……わたしが、行かないと……」 「カイムさんが…………」 必死に体を動かす。 どこに行けば元に戻れるのかわからないけれど、とにかくどこかへ向かって体を動かす。 「わたし、帰ります……」 「ここでくじけたら、カイムさんが……死んじゃう」 「カイムさんを……守らないと……」 「……」 「おお、意識が戻った」 「ルキウス様、システィナ様っ!」 「うっ……ああっ……」 痛みが、また湧き上がる。 内側から身体がはじけるような、絶望的な苦痛。 「っっ……あああああっ!」 「大丈夫か、ティア君」 「あ……」 何とか目を開く。 目の前には、知らない人たちがいた。 誰? 誰だっけ、この人たち? 思い出さないと。 絶対に会ったことがある人たちだ。 …… ルキ…… ルキウス…… ルキウスさんだ。 良かった、思い出せた。 「う……苦しい……です」 「……少し、休ませて、下さい……」 「どうした、今まで弱音なんて吐かなかったではないか」 「す、すみません……でも、今、ほんとに辛くて……」 「わかった、今夜は休んでいい」 「だが、明日からはもう少し頑張ってくれ」 「明日も……ですか?」 「君の努力に都市の命運がかかっているのだ」 「……」 そうだ。 わたしはカイムさんを守るために頑張ってるんだった。 「頼んだぞ」 「……は、はい」 ルキウスとシスティナが帰ってきたのは、昼過ぎだった。 早速、話を聞きに行く。 部屋では、ルキウスが召使いの淹れた茶を飲んでいた。 表情には疲労が見えた。 「昨日は寝てないのか?」 「まあな」 「ティアが昏睡状態にでもなっていたか?」 ルキウスが鋭い視線を俺に向けた。 「ルキウス様はお疲れです、後にしてください」 「いや、構わん」 ルキウスがシスティナを手で制する。 召使いは自発的に部屋から出ていった。 ルキウスが机の上で手を組んだ。 「昏睡の件は誰に聞いた」 「昨日、牢獄へ行ってきた」 「夜中に、スラムで謎の光が目撃されたらしくてな、その話題で持ちきりだったよ」 「救世主が誕生した光らしいが……」 「いやにもったいぶりますね」 「なら、端的に聞こう」 「ティアに、例の粘液を浄化させたな?」 「させた」 「少し考えればわかると思うが、粘液などという化物は、実在してはならないのだ」 「これ以上目撃情報が広まれば、牢獄民の不安が作り上げた空想ではすまなくなる」 「そうなれば、自暴自棄になった牢獄民が暴動を起こす、か?」 「その通りだ」 「あれが人の手に余る存在であることは、おまえが一番知っているだろう?」 「なぜ、俺に一言いってくれない」 「牢獄でのことなら協力できた」 「急いでいたのだ、すまぬな」 「いちいちあなたに説明するのも手間ですから」 俺に聞こえるようにシスティナが呟く。 「なんだと?」 「時間の無駄だと言ったのです」 「説明したところで、結果は変わらないでしょう?」 「やめろ、システィナ」 「カイムがティア君の心配をするのは当たり前のことだ」 「ですが、状況は切迫しているのです」 「いちいち〈嘴〉《くちばし》を突っ込まれては、迷惑千万」 強い調子でシスティナが言う。 「お前……」 一瞬熱くなる。 しかし…… こいつの言っていることは正しい。 俺はティアを救えない。 都市を捨て、あいつを選べない。 ティアが、俺のことを考えて苦痛に耐えてくれているというのに……。 噛みしめた奥歯が砕けそうになる。 それでも、事実と妥当性は、まるでルキウスの所有物であるかのように、こいつの手の中にある。 何者をも寄せつけない、鋼の砦だ。 「もう、細かいことは言わん」 「……え?」 「どういう心境の変化だ?」 都市よりティアを優先する覚悟がなければ、結局、俺は文句を言うだけの男だ。 そして、俺にその覚悟はない。 もう、みっともなくジタバタするのはよそう。 「話すほどのことじゃない」 「お前が納得しているなら、私は構わないが」 「ふん……」 システィナが冷たい目で俺を見る。 お前に何がわかるというのだ。 気に入った女が、俺のために苦痛に耐えている。 ティアを救うことで犠牲になるのが俺だけなら、いくらでも犠牲になろう。 だが、犠牲になるのはこの都市の全てなのだ。 考えるまでもなく答えは出ている。 俺には……ティアが救えない。 不意にドアがノックされた。 恐る恐るといった調子で、室外から呼びかける召使いの声が聞こえる。 「何かあったのでしょうか」 システィナが対応に立つ。 すぐに戻ってきたシスティナの手には、小指ほどの筒があった。 伝書鳩が持ってきた書簡だ。 「緊急事態のようです」 「我が家の鳩は悪い話を持ってくるのが得意でな、困っている」 ルキウスが筒を受け取り、中に入っていた紙を広げる。 その表情が、みるみるうちに強張った。 ルキウスの表情がここまで露骨に変わるのは珍しい。 「とうとう、きたか……」 小さな呟きが漏れた。 「何があった?」 質問の答えはなく、ルキウスは目頭を軽く指で押さえた。 まさか、崩落か? それとも、ティアの身に何かがあったのか? 「システィナ……」 「すぐに牢獄へ向かう準備を」 言うなり立ち上がる。 「何事でございますか?」 ルキウスが俺とシスティナを交互に見た。 一瞬の沈黙。 「牢獄民が武装蜂起した」 更に長い沈黙があった。 言葉が浮かんでこない。 「昨日は、そんな気配はまったくなかった」 「前の暴動が鎮圧されたことで、牢獄民は意気消沈していた」 「それが、一日二日で武装蜂起したと?」 「そう書いてある」 一体どういうことだ? 「首謀者は誰だ? 武装蜂起ということなら、指揮している人間がいるはずだ」 「お前がよく知っている人物だ」 「……まさか」 「その、まさかだ」 「牢獄民の先頭に立っているのは──」 「ジークフリード・グラード」 「不蝕金鎖の頭にして、牢獄の王だ」 「……」 「ともかく関所に向かうぞ」 「フィオネ君が応戦しているが、どこまで保つかわからない」 戦闘に備えて武器を準備する。 今回はジークが相手だ。 最悪、乱戦の中に斬り込むことも考えなくてはならない。 ……ジーク、とうとう覚悟を固めたのか。 牢獄の王が、牢獄を守るために立ち上がった。 対する俺は何者だ? 何のために戦う。 強いて言えば、都市のためか。 この都市を守るための研究が遅れないよう、戦う。 前回の暴動の際はそれでよかった。 心からそう思うことができた。 だが、今回はもう……。 「よし」 準備を終え、ドアに向かう。 ふと、気にかかるものがあった。 何か忘れているような。 ……そう、リシアから預かっている鳥がいた。 牢獄で何かあったときには、知らせてくれと言われていたのだった。 ルキウスが意図的に報告を遅らせる可能性があるからと。 しかし、リシアが現場に来れば、指揮系統が乱れるかもしれない。 「私が出て行って、牢獄民を説得できるとは限らない」 「だが、私はその場にいなくてはならない」 「どのような結果になるとしても、全てをこの目に収めなくてはならないのだ」 「私は無力な王だ」 「ルキウスがいなくては即位できなかったし、今もルキウスなしでは国政を見ることができない」 「だが、私には、私のやるべきことがあるのだ」 「ノーヴァス・アイテルは今、危機に瀕している。明日、墜落するかもしれない」 「悔いは残したくないのだ」 リシアも決死の覚悟だ。 奴に何ができるか知らないが、心意気は買おう。 窓外に吊ってあった鳥籠を開く。 小鳥が空に吸いこまれるのを確認し、俺も部屋を飛び出した。 前回の暴動とは明らかに違っていた。 牢獄民はそれぞれ手に武器を持ち、明確な意思の下にそれを振るう。 『下層に至る』 それこそが、彼らの目標だった。 目標の効率的な達成のため、人々は指揮官を戴いていた。 不蝕金鎖の頭── ジークフリード・グラードだ。 人々は彼の手足となり、関所へと挑んでくる。 もはや暴徒ではない。 確固たる目的に向かって突き進む、一つの軍隊だ。 「矢が尽きるまで射かけよっ」 「決して関所を抜かれるなっ!」 一斉に矢が放たれる。 それらはイナゴの群れのように空を染め、牢獄へと降り注ぐ。 悲鳴が上がるが、数は決して多くない。 牢獄民が掲げた鍋ぶたや戸板は、正式の楯には及ばないものの、よく矢の雨を防いでいた。 次の矢が放たれるまでの間に、牢獄民は一歩一歩と関所への距離を詰めていく。 関所側の戦法は単純だった、衛兵による入口の防衛と、バルコニーからの矢による攻撃。 対する牢獄民は、柔軟に戦法を変えていた。 矢が降れば楯を構え、剣技に優れた衛兵には正面からぶつからず、網や投げ縄などで動きを封じる。 そして更には、牢獄の王がそこにいるという事実が衛兵たちを〈竦〉《すく》ませていた。 衛兵たちの多くは、悪い意味で不蝕金鎖の世話を受けている。 酒場の軽い会話から始まった関係も、今ではもう表に出せない関係にまで至ってしまった衛兵も少なくない。 だが衛兵にとってそれは、日々の仕事を円滑に進める上で有用なことであったし、不蝕金鎖にとっても有事への備えであった。 ジークの投資は無駄ではなかった。 今がその、有事なのだから。 「まさか、邪魔をされるとは思ってなかったぜ、なあ」 怒鳴りもしなければ、派手な身振りもない。 腕組みをし、不敵な笑みと共にそう言うだけで、衛兵はたじろいだ。 その隙を逃さず、牢獄民が前進する。 「くっ……」 バルコニーから戦況を見つめていたフィオネが奥歯を噛む。 このままでは、関所が抜かれるのも時間の問題だ。 援軍が来るまでは、何とか関所を守らねば。 そう思いながらも、胸の奥には消せない〈葛藤〉《かっとう》があった。 牢獄民を殺してまで、関所を守らねばならないのだろうか? 私は役人だ。 国に仕える役人が、国の平和を守るのは当然のことかもしれない。 では、国が間違っていたらどうするのか。 例えば、特定の人間たちを理由もなく虐げ、それにより特定の人間たちが楽をする仕組みを維持しようとしていたら? 牢獄民たちは、ただ安全な生活を求め、命をかけて戦いを挑んできた。 何の悪がある? 当然のことではないか。 ならばどうして、私は彼らを殺害しているのだろうか? もしかしたら、本当は、牢獄民の側に立ち関所を攻撃するのが正しい道なのではないか? 開戦からしばらく時間が経つ。 その間、フィオネは幾度となく〈逡巡〉《しゅんじゅん》し、答えを出せずにいた。 彼女の迷いが、守備隊の積極的な攻撃をためらわせ、戦況が悪化していることにも気づかずに。 馬を最高速で飛ばし、関所に到着した。 指揮所であるバルコニーに急ぐ。 バルコニーには、戦況を見つめるフィオネの姿があった。 「フィオネ君、戦況はどうだ?」 「これは、ルキウス様」 恭しく礼をするフィオネ。 「芳しくありません」 「牢獄民の勢いは激しく、徐々に押し込まれています」 「それで?」 「え?」 「対策です、対策っ」 「あなたの仕事は、立っていることですか」 「も、申し訳ございません」 「今のところ、考えつきません」 ルキウスが無言で戦況を眺める。 「これだけ守りやすい状況にありながら、対策がないというのはおかしなことだ」 「そ、それは……」 「バルコニーからは火矢を射かけよ」 「楯で防がれるなら、楯ごと燃やしてしまえばいい」 「敵が怯んだら、広場に展開している兵士を関所内に下げて門を閉めよ」 「え……」 「関所には、防衛用の丸太と石が備蓄されていなかったか?」 「なければ、下層から運ばせろ」 ルキウスの至極妥当な指示を聞きながら、フィオネが唇を噛んだ。 「……」 フィオネは、そもそも牢獄民を攻撃することに積極的ではなかった。 いくつも対策を考えながらも、実施していないだけなのではないか。 「どうした、フィオネ君」 「……しかし、それでは牢獄民の被害が……」 「少ないに越したことはない」 「しかし、それは関所を守った上での話です」 「下らない説教をさせないで下さい」 「く……」 「他に良い策がなければ、私の策を実行してくれ」 「無理ならば、私が指揮を代わってもいい」 「いえ……私が……」 硬い表情でフィオネが伝令を飛ばす。 しばらくして、バルコニーには松明が並べられ、兵士たちの矢に火が着けられた。 兵士たちが、攻撃開始の指示を求めてフィオネを見る。 「どうした?」 「……いえ」 フィオネが兵士たちの方を向き、手を上げる。 「待てっ!」 背後から鋭い声が聞こえた。 来たか。 「火矢など射かける必要はない」 「そもそも、なぜ攻撃が始まっている? 状況を説明せよっ」 「私が……」 一歩踏み出したフィオネを、ルキウスが制する。 「私が攻撃許可を出しました」 「そうしなければ、関所が陥落する可能性がありましたので」 「貴様、私が以前言ったことがわかっていないのか!?」 「わかっております」 「私とて、望んで攻撃しているのではありません」 「黙れっ」 リシアがバルコニーに出る。 「リシア、下がれ」 「陛下、ここは戦場です」 「黙っていろ! 戦場に立たぬ国王があるかっ!」 「撃つな、兵士たちは攻撃をやめよっ」 兵士たちは、戸惑いながらも攻撃を続けている。 「私の命令が聞けぬのか!」 「陛下、この者たちは、陛下のお顔を知りません」 「っっ!?」 リシアの顔に血が上る。 「攻撃をやめさせてどうするおつもりです?」 「ここで戦意を挫いておかねば、また牢獄民は立ち上がります」 「結果的に、何度も戦闘を行った方が、双方共に犠牲が大きくなる可能性が高くなります」 「黙れ」 「私が牢獄民の代表と話し、和解の道を探る」 ……それは無理だ。 出かかった言葉を飲み込む。 リシアの理想は間違っていない。 むしろ、だからこそ、リシアには現実を見せた方がいい。 「決裂した場合、攻撃再開のご許可を頂けますか?」 「……好きにしろっ」 リシアが言い捨てる。 「撃ち方やめいっ」 ルキウスが声をかけると、攻撃はぴたりと止んだ。 間が抜けたような静寂が生まれ、牢獄民が誰先と無くバルコニーを見上げる。 ルキウスが、目でリシアに促す。 「……」 険しい表情のまま、リシアは深呼吸をし、バルコニーに手を置いた。 「私は、リシア・ド・ノーヴァス・ユーリィ、この都市の王であるっ」 「私の話を聞いてほしいっ」 広場がざわつく。 国王が牢獄に姿を現すなど、俺の知る限り初めてのことだ。 バルコニーに現れた少女を国王だと信じてくれる人間がどれだけいるか。 リシアの顔を知っている人間など、いるはずがない。 「現在、ノーヴァス・アイテルでは地震が続いている」 「牢獄では崩落も起こり、皆の絶望はいかばかりかと思う」 「国王として、即効性のある行動ができないことを、本当に申し訳なく思う」 「我々は今、全力を挙げて地震を止める研究に取り組んでいる」 「もう間もなく、研究の成果が出るはずだ」 「それまで、もうしばらくだけ我慢してほしい」 リシアが熱心に訴える。 「戦うことには何の益もない」 「ここは、武器を収めてもらえないだろうか」 「その分、食料や医薬品の援助については、最大限のものを王の名において約束する」 「また、望みがあれば武力に訴える前に、申し出てほしい」 「真摯に検討させてもらおう」 気がつくと、広場には静寂があった。 牢獄民も、リシアの言葉から常人ならざる何かを感じたのかもしれない。 説得など到底無理だと思っていたが…… 奇跡が起きるかもしれない。 「牢獄民の代表者よ、いれば顔を見せてくれ」 「私と話し合おうではないか」 ジークはどう出るだろう? よもや、話し合いになど応じるとは思えないが。 「どうした、代表者はいないのか?」 「ここにおります」 広場に少女の声が響き渡った。 鈴の鳴るような透明な声。 この声は…… 広場を挟んで関所の向かいにある建物、 その屋上に、二人の人物が姿を現した。 一人はジーク。 そして、続いて現れたのは── 「私がこの叛乱の首謀者、第29代聖女イレーヌです」 「ひとたび下界へと追放されましたが、神の意志により、この世界に再び降り立ちました」 歓声が沸き起こる。 「あいつ……」 「まさか……」 ルキウスですら絶句した。 屋上に現れたコレットは、どこから手に入れたのか聖女の衣装を纏っていた。 「救世主様だっ、救世主様がお姿を見せて下さったぞ!」 「救世主様、我々をお救い下さいっ」 救世主か。 「まやかしだ……」 「一度死んだ人間が蘇生することなどあり得ない」 「あり得ないことが起こったからこその奇蹟」 「現に、第29代聖女イレーヌ様……いや、救世主様はここにいらっしゃる」 「茶番だ、替え玉に決まっている」 「口を慎みなさい、無力なる女王よ」 「私はこの都市を支えてきた、聖女イレーヌに他ならない」 「疑うならば、ナダル神官長でもここに呼べばよい」 リシアが〈狼狽〉《ろうばい》した様子でこちらを見る。 コレットが生きている経緯を、リシアは知らない。 混乱するのも仕方がない。 「私とて、神の御力に身震いのする思いです」 「しかし、神のご意思により蘇らせていただいた以上、私は使命を果たさねばなりません」 「関所を守る兵士たちよ、聞くがいい!」 「皆も知っているだろう、二日前の夜、牢獄に聖なる光が降りたことを」 「あの輝きこそ、聖女様が復活された証だ」 広場が賛同の声に埋め尽くされ、兵士たちに動揺が走る。 「ジークは、コレットの存在を上手く利用したようだな」 「よく考えたものだ」 牢獄に蔓延していた絶望、 自然発生した救世主の噂、 ティアの浄化による発光現象、 コレットの存在、 最後に忘れてならないのは、ジークという人物に向けられた牢獄民の信頼。 それらの材料をジークが調理することで、聖女の復活という奇蹟が生まれ、ただの暴徒を救世主に率いられた軍隊に作り替えた。 牢獄民の心の動きを知り尽くした、ジークの凄味を見た気がする。 「女王に仕える者たちよ……」 コレットが手を上げる。 全ての視線が彼女に注がれた。 かつて見た、コレットのお目見えの儀を彷彿とさせる光景だ。 コレットは、再び聖女として人々の上に立ったのだ。 それも、聖教会の仕組みの外で。 「頻発している地震や崩落には、原因があります」 「それは……」 コレットが指で都市の高みを指さした。 その先にあるのは王城だ。 「崇高なる天使様が、人間の手により王城に囚われているからです」 「!?」 リシアの顔が強張る。 「囚われた天使様は、王家や貴族たちの欲望を満たすために、御力を奪われています」 「人間をあまねく照らすはずの御力が、一部の人間の手により支配されているのです」 「はじめ、天使様は羽つきを生み出されることで、我々にご自身の危機を伝えようとされました」 「しかし、国は羽つきを取り締まることで、天使様を拘束していることを〈隠蔽〉《いんぺい》したのです」 「何と罪深きことでしょう!」 「地震や崩落は、人間の〈傲慢〉《ごうまん》をお怒りになった神が下された罰なのです」 「このままでは、かつて人類が滅びたように、この都市も混沌の大地へと落ちることになります」 「ですが、私たちが天使様をお救い申し上げれば、神もお許し下さるでしょう」 兵士たちがざわつく。 「聖女様は、上層でもなく、下層でもなく、この牢獄に復活された!」 「その意味がわかるか!」 牢獄民が顔を見合わせる。 「天使様をお救いできるのは、牢獄民だけだからだ」 「関所を守るみなも、本来はこの都市の平穏を守るのが仕事であろう」 「ならば、王城に囚われた天使様をお救いすることこそ、いま最も大切な仕事ではないだろうか!」 「天使様をお救い申し上げれば、誰の下にも必ずや祝福がもたらされるでしょう」 「国家の従僕たちよ、今からでも遅くはありません」 「天使様をお救いするのです」 「王は、私利私欲のために天使様を捕えました」 「そのような穢れた王に仕えた罪も、いま心を改めればきっと許されることでしょう」 「私利私欲ではないっ!」 「つまり、他の目的があって天使様を捕えたと言うんだな」 「くっ……」 リシアの失言を、狙っていたかのようにジークが拾う。 「女王は自らの非道をお認めになりました」 「今こそ、その罪を悔い改めさせるときです」 牢獄民が気勢を上げた。 「私は、ここにいるジークに指揮を委ねます」 「彼に従い、天使様を虐げる悪逆の徒を打ち倒すのです」 「今までの苦しい生活を思い起こしなさい」 「崩落で死んでいった仲間たちの顔を思い起こしなさい」 「今こそ、牢獄が救われる時です」 「あらゆる困難と障害を駆逐し、天使様をお救い申し上げるのですっ!」 コレットが朗々と謳い上げる。 牢獄民の士気は、天も焦がさんばかりに燃え上がった。 防衛側の兵士は完全に腰砕けだ。 「蹴散らせっ」 地鳴りが起こった。 広場の石畳を踏み砕かんばかりの勢いで、牢獄民が門に殺到する。 「お前たち、やめろっ」 「私は戦いたくないのだっ」 「お前たちを傷つけてまで、この都市の王として在り続けたくはないっ」 身を乗り出して叫ぶが、その声は誰の耳にも届かない。 「リシア、もう無理だ」 「黙れっ、私は……私は……」 「わかれ」 「お前が全国民を我が子と思っていても、あいつらはお前を親だとは思っていない」 「……そんな」 リシアが脱力して膝をつく。 それを守るように、ルキウスが立つ。 「フィオネ君、門を閉めさせろっ」 「弓兵は火矢の準備だっ」 「ルキウス様、まだ広場に味方が!?」 「撤収を待っていては、門が閉められなくなる」 「ですがっ」 「状況を見ろ!」 「衛兵、門を閉めよっ」 〈躊躇〉《ちゅうちょ》するフィオネに代わって、ルキウスが命を下した。 容赦なく門が閉められた。 取り残された兵士たちが、呆然とバルコニーを見つめる。 それを牢獄民が容赦なく押しつぶした。 「っっ!!」 関所が揺れた。 牢獄民が巨大な丸太を門に叩きつけていた。 「火矢を射かけよ」 足元から悲鳴が上がる。 火だるまになった人間が、石畳の上をのたうち回っている。 だがそれでも、牢獄民は怯まない。 「手加減は無用だ! 矢が尽きるまで撃てっ!」 次々と火矢が降りそそぎ、広場には吐き気を催す匂いと悲鳴が充満する。 「あ……あ、ああ……」 「な、何だ……これは……」 「ただの戦場です、陛下」 「それ以上でも、以下でもありません」 システィナが皮肉っぽい視線を国王に向ける。 「リシアは下がらせた方がいい」 「システィナ、陛下を城にお送りしろ」 「待て、私は……私はここにいなくてはならないのだ……」 「もう、状況はおわかりでしょう」 リシアが〈項垂〉《うなだ》れる。 「さあ陛下、ここは危険です」 システィナがリシアを連れていく。 「ルキウス様もお下がりください」 「ここは私が守ります」 「大丈夫か?」 「もちろんです」 きっぱりと言う。 ルキウスは、一つ大きく頷くとバルコニーを後にした。 「カイム、お前も行け」 「危なくなったら撤退するんだぞ」 「わかっている」 フィオネが広場に向き直る。 一瞬だけ見えた瞳は、確かに不安に揺れていた。 「なあ、カイム」 俺に背を向けたまま、フィオネが言う。 「お前にはいろいろ世話になったな」 「感謝の気持ちがあるなら、今度酒でもおごってくれ」 「……また会おう」 「ああ」 フィオネが剣を抜き、バルコニーに仁王立ちになる。 「丸太を持っている人間を狙え」 「門を破られれば、関所は終わりだっ」 外からの逆光に浮かぶフィオネの影が、妙に〈儚〉《はかな》く見えた。 馬車の窓から、牢獄方面を見つめる。 あれだけのことがあったのに、視線の先にはいつもと変わらぬ景色があった。 「所詮、別の世界なのかもしれないな」 「何がだ?」 「いや……つまらん感傷だ」 「それより、これからどうするつもりだ?」 「まずは閣議だ、早急に援軍を出さねばならない」 「関所が〈陥落〉《かんらく》するようなことがあれば、今度は下層が戦場になる」 「不毛な話だ」 「同じ舟に乗った者同士で戦争をするとは」 「是非もない」 「だが、リシアは出兵を許可すると思うか?」 「して頂かねば困る」 「もはや状況は切迫している」 「これ以上戦渦が広がれば、研究にも影響が出てしまう」 「研究?」 「そうか……続けなければいけないな」 この状況で、まだ研究か。 何か、的外れなことを言われたような感じがした。 「当たり前だ」 「反乱が起きたからと言って、都市を落とすわけにはいかない」 「何のためにフィオネ君が時間を稼いでくれていると思っている?」 「少なくとも研究のためじゃないな」 「あいつは天使も、ティアの能力も知らない」 「そうか……そうだったな」 「あいつの意思を〈穢〉《けが》すな」 「〈穢〉《けが》す? 私が〈穢〉《けが》したというのか?」 「すまん、失言だ」 別に、ルキウスは〈穢〉《けが》していない。 ただ単に勘違いしただけのことだ。 だが何故か、俺は、フィオネの高潔な意思が〈穢〉《けが》されたように感じた。 全ての人間が、お前の意思に従って生きているわけじゃない── フィオネはフィオネの意思で動いている── 直感的にそんな反発を覚えたのだ。 ルキウスの判断はいつも正しい。 感情に流されず、都市の利益を考えて行動している。 間違っていない。 だが、以前ほど素直にルキウスを受け入れられていない自分がいる。 俺が、情に〈絆〉《ほだ》されるようになっているのだろうか? 「ティア君にも、もう一踏ん張りしてもらわねばならないな」 「反乱軍が王城にたどり着く前に結果を出さねば」 「更に負担をかけるのか」 「やむを得まい」 確かに、やむを得ない。 お前は正しい。 妥当だ。 間違っていない。 ……うんざりだ。 口をきくのが面倒になり、俺は目を瞑ることにした。 城に着くと、上級貴族たちが集まり始めていた。 すでに閣議召集の指示が出ていたようだ。 「お前はこれからどうする?」 「リシアの様子を見ておく」 「それがよかろう」 「……力になってやってくれ」 温かな表情でルキウスが言う。 どこかで、リシアが落ち込んでいることを心配しているのだろう。 関所では、彼女の全力の叫びも、コレットと裏で糸を引くジークに叩き潰されてしまった。 相手が規格外だったとはいえ、衝撃は大きいだろう。 どんな言葉で慰めたものか。 リシアの部屋の前に立つ。 「カイムだ、入っていいか?」 「入れ」 リシアは机に向かっていた。 机上には、沢山の書物が積み上げられている。 ベッドで丸くなっている姿を想像していたので、思わず呆気にとられた。 「今日はご苦労だったな」 「あ、ああ」 口調もいつもと変わらない。 「何をしている?」 「見ればわかるだろう」 「今日の暴動で頭でも打ったか?」 「本の内容を聞いている」 「ああ……これだ」 リシアが本を持ち上げて背表紙を見せる。 都市の建設に関する書物のようだ。 「関所が落ちれば下層が戦場になる」 「どのようにすれば被害を最小限に抑えられるか考えていたのだ」 「この都市を造った祖先たちも、恐らく防衛について考えていただろうと思ってな」 「……そうか」 どうやら心配は無用だったようだ。 リシアは、俺達が考えているよりもっと先に進んでいた。 「ノーヴァス・アイテルには戦争がなかったせいで、戦いに関する知識も失われてしまっている」 「閣議の前に、多少なりとも確認しておきたかったのだ」 「いいことだ」 「どうやら邪魔したようだな」 「いや、顔を見に来てくれて嬉しかった」 「わかっている。〈面〉《つら》だけではなく、お前は心も優しい男だ」 「黙れガキが」 「国王をガキ呼ばわりか」 苦笑しながらリシアが席を立った。 何やら戸棚を漁っている。 「忘れていたが、今日、鳩を飛ばしてくれたな」 「ああ、ぐったりしていたくせに、籠を開けたら一目散に飛び出した」 「それは腹が減っていたのだ」 「まったく、仕方のない奴だな」 リシアが何かを投げて寄越した。 受け取る。 秘蔵だと言っていた牢獄の火酒だった。 「鳩の礼だ」 「随分と安いな」 「牢獄じゃいくらにもならんぞ」 言ってから気づく。 反乱が本格化すれば、俺はもう牢獄へは降りられない。 「いらぬなら返せ」 「一応、私の大切な宝物だ」 「いや、ありがたくもらっておく」 「酒など、子供が持っていても仕方がない」 「ほう、どうやら早死にしたいらしい」 仏頂面を作ってから、リシアは破顔した。 「まあよい」 「さっさと出て行け。私も閣議に向かわねばならない」 「わかったわかった」 「今日のお前の演説は悪くなかった」 「以前同じようなことをしたが、牢獄民は俺の話なんぞ聞いてくれなかった」 「世辞でも嬉しいよ」 「じゃあな」 部屋を後にする。 リシアの奴、目が赤かったな。 ……忘れよう。 城の中が慌ただしくなっていた。 貴族たちが、廊下のあちこちで立ち話をしている。 『牢獄』や『反乱』といった単語が洩れ聞こえてきた。 今頃になって、牢獄の状況を知ったのだろう。 コレットやジークがあれだけ大規模な行動を起こしても、城ではこの程度の扱いだ。 いたたまれない気分になる。 城から帰ってきたのは夜更けだった。 全身が疲労で重くなっていたが、眠気はやってこない。 戦闘の興奮が、身体の奥底で〈燻〉《くすぶ》っている。 ベッドの中で何度も寝返りを打ち、気分が落ち着くのを待った。 しかし、とうとう眠気がやってこぬままに空が白み始めていた。 〈俄〉《にわか》に館が騒がしくなった。 ベッドから跳ね起きる。 「やってくれたな……」 「まさか、このようなことになるとは思いませんでした」 「申し訳ございません」 「今さら悔いても仕方がないことだ」 ルキウスとシスティナの表情が硬い。 「何があった?」 「関所が落ちた」 「!?」 「計画を前倒ししろ、下層に防衛線を張る」 「先行部隊は、すでに派遣しました」 「後続については準備を急がせています」 「《解放》の準備は明日中には完了予定です」 「よし、上出来だ」 「こんな時に、ヴァリアス殿が生きていらっしゃれば」 システィナの呟きが耳に入る。 それは、恐らく誰しもが思っていることだった。 「詮無きことだ」 ルキウスが外套を羽織る。 「フィオネはどうした?」 「怪我はない」 「ある程度のところで見切りを付け、退却指示を出したようだ」 「そうか……」 「すでに防衛軍の隊長として、戦場に向かわせている」 「大忙しじゃないか」 「優秀な人間には働いてもらわねばな」 ともかく、フィオネが死なずに済んで良かった。 「命がけで守っていただきたいところでしたが、残念です」 「戦場にいない人間が、何を言ってる」 「これは失礼」 「やめろ、二人とも」 わずかに苛立ちを〈滲〉《にじ》ませ、ルキウスが言う。 「カイム、私たちは登城する」 「いつ帰るかわからん、適当にやってくれ」 「わかった」 「さらばだ」 二人が慌ただしく出ていった。 関所が落ちたか。 都市全体を巻きこんだ戦いになるな。 外に出て下層を遠望する。 夜が明け、次第に陰影が明らかにされていく街。 関所付近は、まるで砂糖に蟻が群がっているかのように、人間で埋め尽くされていた。 全ての牢獄民が集結しているのではないかと思われるほどの数だ。 彼らを阻むのは、完全武装の兵士達。 まだ血に汚れていない剣や槍が、朝日にきらめいている。 目の前で、朝鳥が明るい鳴き声と共に飛び立つ。 〈鬨〉《とき》の声が、〈朝靄〉《あさもや》に霞む空気を振るわせた。 地鳴りと共に戦端が開かれる。 白く輝く甲冑の群れと、血と汗と泥にまみれた人間達が混じり合う。 とにかく城に向かおう。 ここにいては状況も掴めない。 謁見の間では、出陣前の〈閲兵〉《えっぺい》が行われていた。 立ち並ぶ兵士たちに、リシアが檄を飛ばしている。 その背後にはルキウスの姿もあった。 「現在、牢獄の民は〈無知蒙昧〉《むちもうまい》なる指導者に率いられ、死への道を突き進もうとしている」 「諸君らの使命は、牢獄民を保護することである」 「彼らの前進を止めつつ、その行軍の無意味さを知らしめよ」 「彼らは同じノーヴァス・アイテルの国民であり、敵ではない」 「いたずらに命を奪うことは認めない、断じてだ!」 「諸君らの武運を祈る」 「必ずや生還し、またここで会おうっ!」 剣を掲げて王への敬意を示した兵士達が、城から出て行く。 どうせ、牢獄民は殺さなければ止まらない。 牢獄に戻ったところで、絶望しかないのだから。 死にものぐるいで殺しに来る牢獄民を相手に、殺すなと言うのも悲惨な話だ。 実戦経験のない兵士が、果たしてどれだけリシアの言葉を守れるのだろうか。 〈閲兵〉《えっぺい》終了後、リシアやルキウスの後を追ってバルコニーに出る。 「いい声をしていたじゃないか」 リシアの後ろ姿に声をかける。 振り返ったリシアの表情は、昨日よりも大人びたように見える。 「聞いていたのか」 「ああ」 「子供じみた理想論だと思ったか?」 「そうだな」 「自分が兵士ではなくて良かったと思ったよ」 リシアが苦笑する。 「で、世間話をしに来たのか? ならば生憎忙しい」 「いや、戦況を知りたくてな」 「ここから見れば、阿呆でもわかる」 バルコニーの手摺りに寄る。 下層の様子が一望できた。 反乱軍は、先程見たときよりも前進している。 「押されているな」 「さすがは牢獄民といったところか」 「兵士達より実戦慣れしているのかもしれないな」 「笑えない話だ」 「実際、奴らを止められそうか?」 「……」 「……」 二人とも無言だった。 「止めなくてはなるまいな」 言っている側から防御側の陣形が崩れ、反乱軍がまた前進した。 反乱軍には、後ろから次々と人が加わり、規模が拡大している。 「下層の人間も牢獄側についているようだな」 「救世主の名を上手く使い、下層民を吸収しているようだ」 「リシア、敵が城に来たらどうするつもりだ?」 リシアは、戦場を見つめたまま唇を噛んだ。 手摺りを何度も握り直す。 「……向こうの要求を呑むしかあるまいな」 「無駄な犠牲を出せば、今後にも影響してこよう」 「陛下、それはなりません」 「城を明け渡せば、ノーヴァス・アイテルは終わりです」 「〈篭城〉《ろうじょう》して時間を稼ぐべきです」 ルキウスが静かに言う。 「民の要求に従って都市が滅びたとしても、それは民の選択だとは思わないか?」 「責任の放棄ではないでしょうか?」 「政治を司る者は、常により多くの人間が幸福になる道を探しつづけるべきと存じます」 「だが、お前のやり方で都市を守ったとして、最後に笑える人間はどれほどおる?」 「我らが王は、〈戴〉《いただ》く価値のある存在だったと思ってくれる人間は、どれほど残ると思う?」 「人々に残るのは、多数の利益に反すれば即座に切り捨てられるという恐れだけではないか?」 「仮にそうであったとしても、やはりより多くの人間が生き残る道を選ぶべきかと存じます」 「憎まれることも、また政治家の仕事かと」 リシアが鼻白む。 「お前は政治家としては優秀だが、君主にはなれぬよ」 「人の上に立つ者は、手段も選ばねばならない」 ルキウスよりいくつも年下のはずのリシアが、真っ向から議論していた。 君主の貫禄といえばそれまでだが、かつての姿からは隔世の感がある。 「陛下の思い込みに巻きこまれて死ぬ者たちが不憫です」 「なんだと?」 「皆が皆、陛下のお考えに賛同すると思われない方がよいでしょう」 「生きていればこその華です」 「失礼ながら、陛下はそれがおわかりになっていらっしゃらない」 「どんなに苦しい人生でも、生きてさえいれば……」 ルキウスが下層を見つめる。 視線の先には、下界に落ちていった俺達の生家と母親の面影があるような気がした。 「貴族の子であるお前に、それがわかるのか?」 「恵まれた環境に生まれ、何不自由なく生きてきたお前に」 「どうでしょうか……」 「少なくとも陛下よりはわかっているつもりです」 「口だけか」 ルキウスの表情が硬くなる。 だが、口は真一文字に結ばれていた。 よく自制した。 ルキウスの本当の生まれも、拾われてからの凄惨な人生も、リシアは知らない。 知らぬ上での発言だからこそ、ルキウスは耐えられたのだろう。 ルキウスの表情が険しい理由を知らないリシアは、一歩も退かずに〈睨〉《にら》み返す。 火花が散りそうな空気が肌を刺す。 と、その時── 地鳴りと共にバルコニーが揺れた。 「こんな時に地震か」 「……大きいな」 「陛下、お気を付け下さい」 差し出されたルキウスの手を、リシアが拒否する。 「この程度、問題ない」 「これは失礼いたしました」 ふと戦場を見る。 地震に狼狽したのか、国王軍の陣形が乱れた。 その隙を逃さず、反乱軍が〈錐〉《きり》のように防衛線を刺し貫く。 「く……」 「〈篭城〉《ろうじょう》か開城か、いずれにせよ、すぐにも結論を出さねばならないようだな」 「その点については仰る通りです」 「お前が考えを変えることを期待している」 言い捨て、リシアは城の中に戻っていく。 その後ろ姿を見て、ルキウスが口を開く。 「このような状況でなければ、良い王になられただろうに」 戦況は悪化する一方。 この調子では、今日中にも反乱軍は大聖堂まで達するかもしれない。 かつての聖女に攻撃された聖教会は、どのような対応をするだろうか。 「このまま、終わらせはしない」 「何か策があるなら、ぜひ聞きたいね」 「策は……ある」 強がりか。 出会ってから今まで、いつも頼もしく聞こえていたルキウスの言葉。 それが、初めて空虚なものに聞こえた。 誰が、どうすれば反乱軍を止められるというのだ? 「ティアの様子はどうだ?」 「研究が進んでいないのなら、こんな戦いはさっさとやめたほうがいい」 「もちろん進んでいる」 「ティア君も、よく耐えてくれている」 「記憶はどうだ?」 「……ところにより、抜け落ちているところもある」 返事もできず、やるせない心持ちで拳を握り締めた。 「顔を見せてやれ」 「彼女は、お前のためにと……」 「わかってる」 あいつは、俺を守るために頑張ってくれている。 百も承知だ。 承知しているからこそ、あいつの悲鳴を聞きたくない。 「わかっているなら、だ」 ルキウスは強い視線で俺を見ていた。 「ティア君のような強さを、お前も見せてみろ」 「全部飲み込んだ上で、なお笑顔でティア君を励ましてやれ」 「苦しいときに苦しい顔をすることなど、子供でもできる」 「ルキウス……」 実験の進行とともに、ティアは記憶を失っている。 将来的に都市が救えたとしても、その時、あいつはもう俺の知っているティアではないかもしれない。 奴の時間は限られているのだ。 一番苦しい思いをしているのは、他でもないティアだ。 だが、俺が面会することで奴の苦しみを減らせるのなら…… 残された時間を少しでも有意義にしてやれるなら…… あいつの悲鳴から逃げている場合ではない。 「……ティアに会ってくる」 「そうしてやれ」 ルキウスの言葉が終わらないうちに、バルコニーを後にする。 今日はずっと天井を見ていた気がする。 実験とか検査とかをしていたはずなのに、ぼんやりとしか覚えていない。 牢獄から帰ってきてから、毎日こんな感じ。 どこからともなく聞こえてくる声に耳を傾けていると、頭の中がどんどん真っ白になってしまう。 それだけじゃない。 何だか、昔のことも思い出しにくくなっている気がする。 リリウムの皆さんの顔、 ヴィノレタのお品書き、 メルトさんの言葉、 忘れちゃいけないものが、頭から消えていく。 手で掬った水が、指の間から落ちていくように。 「ティアさん、体調はどうだい?」 「……?」 誰だっけ? 「また忘れたのかい?」 「ずっと君を担当してる研究員だよ」 「あ……すみません……」 「忘れてません、ちょっとぼんやりしてますけど、大丈夫です」 研究員さんが、やるせなさそうに笑顔を浮かべる。 「少し疲れているのかもしれないね」 「今日はゆっくり休んだ方がいい」 「はい」 研究員さんは、わたしの肩を軽く叩いて立ち去った。 優しくしてくれるのは嬉しい。 こんなことを考えるのは贅沢だとわかっているけど── 本当は、カイムさんに優しくしてほしい。 『よく頑張ってるな』と言ってほしい。 そしたら、もう少し頑張れる気がする。 もう、会いに来てくれないのかな。 「カイムさん……」 「会いたいです……」 どうして、こんな風になってしまったんだろう。 わたしに、羽つきさんや都市を救う力があると知ったときは、とても嬉しかった。 ずっと、自分には大切な使命があると信じてきたから。 でもそれは、苦しいだけの毎日に理由がほしかっただけ。 何か理由がなければ、生きていけなかったから。 わたしは、ずっと自分をなだめすかして生きてきたのだ。 気づいた時は、かなり落ち込んだけど…… まだ、わたしは頑張ることができている。 この力で、カイムさんを助けることができるから。 今はそれだけ。 なのに、カイムさんは会いに来てくれない。 すごく、寂しい。 このまま、もう会うこともできずに、わたしは消えていくのかな。 「う……く……」 涙が溢れる。 どんなに手の甲で拭っても、目が壊れてしまったみたいに涙が出てくる。 カイムさん……     カイムさん…… 寂しいです。 挫けてしまいそうです。 「何をめそめそしてる」 「!?」 「う……く……」 ベッドでティアが泣いていた。 涙をどうしようもないとでもいうように、ひたすらに泣いていた。 いつも朗らかだったティアが……。 「何をめそめそしてる」 「!?」 おそるおそる、といった風に、ティアが顔を覆っていた手をどかす。 「カ……カイムさん?」 真っ赤に腫れた目が俺を見た。 「ああ、俺だ」 「まだ覚えててくれたか?」 「あ、当たり前です……当たり前です……」 「忘れるわけなんて、ないじゃないですか……」 「こんなに泣きやがって」 ティアの頭を撫で、涙を拭ってやる。 「泣いてないです、平気です」 ティアはベッドにもぐり、何やらもそもそとやっている。 涙を拭いているのだ。 再び顔を出したときには、いつもの間の抜けた笑顔になっているに違いない。 今までそうであったように、こいつは人知れず泣き、表には笑顔だけを見せる。 泣いたところで現実は何一つ変わらないと、身体に叩きこまれているからだ。 葛藤し、くだを巻いていた俺よりも余程強い。 「すみませんでした、ちょっと探しものを」 ティアが顔を出す。 やはり笑顔だった。 「少し散歩でもしないか、ここは辛気くさい」 「でも、外出できるでしょうか?」 「城から出なければ問題ないだろう」 身体の調子を確かめながら、ティアがベッドから下りようとする。 すぐに立ち上がれる状態ではないらしい。 よろけるティアに手を貸す。 「すみません」 「慌てなくていい」 立ち上がり、床の感触を確かめるように少し歩く。 すぐに足取りはしっかりした。 「寝てばかりだったので、歩くのは気持ちいいです」 「ならよかった」 ティアの手を引き、研究室を出ようとする。 すぐに研究員が飛んできた。 「勝手に外出されては困ります」 「少し散歩するだけだ」 「次の実験はいつからですか?」 「今日の夜か、明日にもと思っていましたが」 「ただ、ティアさんの体調が良いのでしたら今すぐにでも」 「えっと……」 返事をためらうティア。 「今日はきついらしい」 「とにかく、今日中には戻ってくる」 「ティアさんには都市の未来がかかっています、くれぐれもそこのところをご了解下さい」 「わかってる」 「あと、その服では外出しないほうが良いかと」 「あ……」 ティアが自分の格好を見る。 「あの……着替えてきますね」 「ああ、好きにしろ」 ティアが〈衝立〉《ついたて》で区切られた区画に入る。 「はぁ……気持ちがいいです」 ティアが背伸びをした。 翼が揺れる。 もう、誰の目にも隠せないほどそれは大きい。 「研究室は息が詰まるだろう」 「空気もよくないですし、いつも薄暗いので、昼なのか夜なのかよくわからなくなるんです」 「おかげで……ふあぁぁぁ……眠いです」 「ふふ、しょうがない奴だ」 ティアの頭を撫でる。 そのまま、頭を掻き抱いた。 「わぷっ」 「カ、カイムさん!?」 「暴れるな」 「……はい……」 静かになる。 胸元から、安堵したような呼吸が聞こえてきた。 最後にこうしたのは、牢獄で焚き火に当たっていたときだったな。 今思えば、あの日は穏やかな一日だった。 もう、あんな日は帰ってこないのだろう。 「会いに来てくれて、すごく嬉しいです」 「寂しい思いをさせてすまなかった」 「いいんです……もう」 子犬のように、ティアが俺の胸に頬をこすりつける。 「わたし、頑張ってますよ」 「偉いな」 「えへへ」 「ちょっと辛いときもありますけど、ちゃんと守ります」 この都市と、そして俺をか。 腕に力を入れれば折れてしまうほど、その身体はか細い。 こんな奴に頼らなければ浮いていられない都市とは、いったい何なのか。 そこまでして、浮き続けなければならないのか。 一瞬、全てを捨てて、このままどこかへ逃げてしまいたくなる。 「む……う……」 ティアが身じろぐ。 「どうした?」 「カイムさんに触れていたら、安心して、何だか眠くなってきてしまいました」 「疲れてるんだ、少し休もう」 「じゃあ、研究室に」 「あんなところじゃ気が休まらないだろ」 「ここは城だ、空き部屋なんていくらでもある」 「……でも……」 反対しているが、ティアは今にも眠りそうだ。 「行くぞ」 「……ふぁい」 〈瞼〉《まぶた》が重くなってきたティアを、城内に引っ張っていく。 ティアを空いている客間に入れた。 「すごく……豪華ですね」 「お前は都市の未来を背負ってるんだ」 「このくらい豪華な部屋で寝る権利は十分にある」 「うう……もったいないです……」 「いいから休め」 「夜にはきちんと起こしてやる」 「は、はい……すみません」 ぐずぐずしているティアをベッドに寝かす。 すぐに、気を失うように眠りに落ちた。 毎日、叫ぶほどの苦痛を味わっているのだ。 底の底まで、体力を消耗しているのだろう。 布団を丁寧にかけてやり、俺はソファに腰を下ろす。 手持ち無沙汰になり、棚から蒸留酒と紙巻きを持ってきた。 蒸留酒の封を切り、足の高いグラスに〈琥珀色〉《こはくいろ》の液体を注ぐ。 上層の金持ちを気取り、くるくると〈攪拌〉《かくはん》してみる。 空気と混じった酒が〈芳醇〉《ほうじゅん》な香りを漂わせた。 口に含む。 俺の舌では、美味い以上のことはわからなかった。 続いて紙巻きに火を点ける。 身体に酒精と煙草がじわじわと滲み、頭の芯が蕩けてきた。 卓に足を投げ出す。 よく、ジークがこんな姿勢で煙草を吹かしていたな。 ジーク…… あいつさえ堪えてくれれば、戦争になどならなかった。 研究も進み、天使の力が尽きる前にティアが成果を上げてくれるはずだった。 どうして、俺の話をわかってくれなかったのか。 それに、コレットもコレットだ。 聖殿にいた頃は不器用すぎるほど不器用だったのに、いきなり世渡り上手になりやがった。 まさか、ジークと組むとはな。 揃いも揃って、ティアの努力を無駄にしようとしている。 ま、俺もあいつらのことは言えないか。 結局、どれだけ優しい素振りをしようとも、ティアを犠牲にしていることにかわりない。 酒を〈呷〉《あお》る。 昨日寝ていなかったせいか、泥のような眠気が身体を浸しはじめていた。 「ん……」 頬をつつかれる感触に、目を覚ます。 「あ、起こしちゃいましたか」 ティアが俺を見ていた。 「寝てしまったか」 「ふふ、カイムさんもお疲れなんですね」 「お前ほどじゃない」 「さっきまで疲れていましたけど、ぐっすり寝ましたからもう大丈夫です」 ティアが穏やかに微笑む。 外を見ると、空にはかすかに夕日の名残が残っていた。 ぐっすりと言いながら大して眠ってはいなかったらしい。 いつもの痩せ我慢だ。 ティアが俺の隣に視線を向ける。 「座っていいぞ」 「ありがとうございます」 ティアが俺の隣に座り、つと身を寄せてきた。 背筋を伸ばしているのは、翼が背もたれにぶつかってしまうためだ。 「羽が立派になったな」 「自分ではよくわからないのですが、そうみたいです」 「研究員さんも喜んでいました」 「触ってみていいか?」 「ええ、どうぞ」 ティアが翼をこちらに向ける。 触れてみると、鳥の翼そのままの感触だった。 血も通っているらしく、体温もある。 「な、なんだかくすぐったいです」 「感覚があるのか」 適当にいじってみる。 「わ、ひゃ……なんか……んうっ……むずむずします」 「カ、カイムさん、も、もう……ちょ……やめて、ください」 「緊張感のない奴だ」 「……こんなものが生えていて、背中は疲れないのか?」 背中の筋を、服の上から指先で揉んでやる。 「そんな、カイムさんに揉ませるなんて、申し訳ないです」 ティアがもぞもぞと身を〈捩〉《よじ》る。 「嫌なのか?」 「いえ……嬉しいですけど……」 「なら大人しくしてろ」 「はい」 ティアが抵抗をやめた。 背中が硬く強張っている。 「痛くないか?」 「すごく、気持ちいいです」 「ふう……」 ティアが安堵したようなため息を漏らす。 身体の華奢さに比べ、背中は驚くほどに硬い。 のし掛かっている重圧と、背負っている苦しみのせいだ。 無理をするなと言いそうになるのを我慢し、丹念に指を動かしていく。 「カイムさん、ご飯はちゃんと食べていますか?」 牢獄の騒ぎで、まともに飯を食った記憶がなかった。 とはいえ、食事に関心がないのは昔からだが。 「まあ、適当に食ってる」 「駄目ですよ、ちゃんと食べないと」 「上層の料理は口に合わなくてな」 「俺みたいな人間には、牢獄の品のない料理がいいんだ」 素材の悪さを香草で取り繕った、まるで極安の娼婦みたいな料理だ。 「全部終わったら、わたしがまた作ってあげますね」 「楽しみにしてる」 「前にも言ったが、お前の料理は嫌いじゃない」 「普通に、美味しいって言ってくれないんですか?」 「うぬぼれるな」 「まだ、美味いという程じゃない」 「じゃあ、もっと練習して、いつか美味しいと言わせてみせます」 仮に都市が救えたとして、ティアは無事に帰ってくるのか? 記憶が消えていっていることを考えれば、暗い想像しかできない。 「わたし、考えたんですが……」 「牢獄に戻ったら、もう一つお鍋を買い足そうと思うんです」 「そうすれば、もっと早く料理ができますし、作れる種類も増えます」 「ああ、一つでも二つでも買いに行こう」 俺に背を向けたティアが、楽しそうに将来を語る。 ティアが未来のことを語れば語るほど、俺の中に悲しみが積もっていく。 まるで、空き屋に少しずつ埃が積もっていくかのように。 牢獄の家をティアと出てから、もう10日近くが経過した。 窓や扉の隙間から入り込んだ埃は、もう部屋を薄く覆っていることだろう。 思えば、あの日から俺の胸も空き屋同然になったのかもしれない。 再び、あの部屋に暖かな灯が点る日は来るのだろうか。 ティア…… 背中を揉んでいた手を、薄い肩に置く。 そして、更に前方へと滑らせた。 後ろから回された俺の腕を、ティアが握る。 密着を邪魔する翼が、まるで俺を笑っているように見えた。 「また戻ろう、あの家に」 「カイムさん……」 ティアが身体を動かし、俺と相対する。 「やっぱり、わたしはカイムさんの物でいたいです」 切なげに眼を細めるティア。 その表情は、立派に女のそれだった。 「物じゃない」 「お前はお前、一人の人間だ」 「牢獄に戻ったら、俺がお前を幸せにしてやる」 「…………」 ティアの瞳が潤んだ。 未来のことを語っているのに、言葉は空虚に感じなかった。 それはきっと── 今この瞬間、俺は本気で幸せにしたいと考えていたからだ。 「ティア……」 ティアの頬を両手で掴む。 零れ落ちかけた涙を親指で拭い、唇を近づける。 「ん……」 柔らかな唇。 存在する証である熱が、唇の隙間から流れ込んでくる。 甘い陶酔が、眠る前に飲んだ高級酒よりも速く強く、俺の中に染みこむ。 一度離れ、また唇を合わせる。 前よりも激しく。 「ちゅ……んむ……ちゅっ……」 「んっ……ちゅ、くちゅっ……」 薄く目を開くと、目をきつく閉じ、精一杯口づけをしているティアが見えた。 愛しさがこみ上げる。 「むぅっ……ちゅっ……」 「カイムさん……ちゅっ……カイム、さん……」 頬に当てていた手を、ティアの後頭部に持っていく。 指が髪の中に分け入り、湿り気を帯びた肌の感触が伝わってくる。 より強くティアを引き寄せ、唇を舌で開かせる。 「んんっ……」 舌先で口内の粘膜をなぞる。 ぬらりとした感触。 ティアにこんな感触の部分があること自体、どこか意外だった。 そんな俺の思考を咎めるように、ティアの舌が俺の舌に絡む。 「ちゅるっ……んむっ、くちゅっ……ちゅっ」 「んんっ……ふわっ……ぴちゅっ……れろっ」 粘膜の柔らかさと、歯の硬さを交互に味わう。 ティアの一心不乱な息づかいが、少しずつ俺の興奮を高めていく。 「ちゅるっ……ぴちゅっ、くちゅっ……」 「んんっ……んっ、んっ……ちゅるっ……ぷはぁっ!」 ティアが離れた。 息継ぎに気が回らなかったらしい。 「はぁ、はぁ、はぁ……」 「息は吸っていいんだぞ」 「す、すみません……初めてで……」 言ってから、ティアが恥ずかしそうに視線を逸らせた。 「前に牢獄でしたじゃないか」 「あ、あれは数えないことにしてたんです」 「だってだって、その……いきなりだったし」 「同意の上って感じではなかったですし……」 ぐずぐずと反論する。 苦笑してしまう。 「笑わないでください……」 「その、男の方とこういうことをするのは……ええと……はじ、初めてで……」 「やっぱり嫌ですよね……慣れてない女は……」 「別に気にしないが」 「そ……そうなんですか?」 「ああ」 ティアの頭を撫でる。 「だから、気にするな」 「あ、は、はい」 「お前こそ、俺で良かったのか?」 「もももも、もちろんですっ」 「す、すごく、嬉しいですっ」 「カイムさんと……その…………」 「うぅ、恥ずかしくて言えません」 ティアの中では、いろいろな妄想が膨らんでいるようだ。 もちろん、俺もそれを裏切るつもりはない。 「ティア、こっちへこい」 立ち上がらせ、ベッドへと移動する。 恥ずかしさと緊張からか、ティアは上手く歩けない。 脚をもつれさせ、倒れこむようにベッドに座った。 ティアが不安げに俺を見る。 「心配するな」 ふわりとした髪を撫でる。 「ん……」 「カイムさんに撫でられると、何だか安心します」 「……でも、やっぱり……女の子の扱いに慣れてるんですね」 しょんぼりするティア。 可愛いものだ。 「つまらないことを言うな」 「こんな気持ちは、俺も初めてだ」 「……どんな気持ちですか?」 愛しいなどと言えるわけがない。 何も答えずにティアの唇を奪う。 「んちゅ……くちゅっ……ちゅるっ……」 そのまま手の平を乳房に這わせる。 ぴくりと、ティアの身体が震えた。 「ん……ふ……あ……」 重なった唇の間から、ため息が漏れる。 服の上から、双の膨らみを揺らすように手を動かしていく。 「んっ……ふっ……んうっ」 「んあっ、んっ……んんっ!」 ティアの唇が離れた。 「ティア」 「……はい……」 耳元で囁くと、ティアの背筋が震えた。 「今まで気がつかなかったが、お前、いい匂いがするな」 「そ、そんなこと……ひゃうっ!?」 首筋に舌を這わせる。 鎖骨から耳の裏までを、触れるか触れないかの加減で愛撫する。 「あ、はぁ、ひっ……身体が勝手に震えて……」 「んうっぅ……だ……だめ、です……んんんっぅ……」 さっと鳥肌が立つ。 思いのほか反応がいい。 胸を愛撫しながら、首筋を吸い続ける。 「んうっ、はぁ……カイムさん、カイムさん……」 「く……首が……ぞわぞわ、して……あっ、ひゃうっ……変な、感じです」 「胸は?」 手に少しだけ力を込める。 ふっかりとした布団のような暖かさ。 中にある膨らみ想像しながら、ゆっくりと揉みしだく。 「はぁっ……うあっ……んんっ……む、胸は……」 「ん……胸は、すごくどきどきして……破裂、しそうです……」 「痛くはないか?」 「はい……それより……やうっ……な、何だか……えっと……」 「どうした?」 「い、いえ……な、何でもないです」 ティアが小さく首を振る。 仕草の一つ一つが愛おしい。 「はっきりと言え」 タイを抜きとる。 「あっ……」 「駄目、駄目です……恥ずかしいです」 「大丈夫だ」 「な、何も大丈夫じゃないです……恥ずかしいです……」 「だって、カイムさんに……触ってもらって……」 顔を染めるティアは見なかったことにして、服の前をはだける。 「ひゃぁぁぁぁぁぁぁ……」 現れたのは、想像よりも豊かな乳房だった。 「あ、あううぅ……み、見られてます」 「カイムさんに、胸を……」 「出会った次の日には見た気がするが」 「それでも駄目です、見ないでください」 「心配するな、綺麗な肌をしている」 「ほ、本当ですか?」 「ああ……」 「でも、他の人にもそういうこと言ってるんですよね」 「意外と嫉妬深かったんだな」 「誰だってそうです……」 「好きになったら……仕方ないです……」 「あまり俺を苛めるな」 「わたしが、カイムさんを?」 「そうだ……」 再び、ティアの胸に触れた。 「ん……あ……」 力を加えると、乳房が下着から零れそうになる。 「く、くすぐったい……です……」 「すぐに慣れる」 「慣れたく、ないです……んあっ」 「ん、ん……あっ、あああっ……カイムさん」 「ああっ、あっ、あっ……身体が、変になっちゃいます……」 ティアの声が艶を帯びてきた。 肌には汗の玉が浮かび、くすぐったさではない感覚が身体を走っているのが見て取れる。 「可愛い声をしてるぞ」 「っっ!?」 ティアが口を手で押さえる。 それに対抗するように、下着の上から、胸の先端に触れる。 「ひゃうぅっ!」 身体が〈痙攣〉《けいれん》した。 「んっ……んんっ、んむうっ、んんっ」 「んふっ、うっ……んんぅっ、んんんっ、んはぁっ!?」 だが、我慢できずに声が出てしまう。 「やっ、あっ……駄目です」 「カイムさん、だめっ……ひゃぅっ、ぁああ、んぅうっ」 「そんなっ……ほんと、ほん、と……だめ、だめですっ」 ティアの反応が激しくなった。 下半身を見ると、もじもじと脚を擦り合わせている。 奥の様子は想像するまでもないだろう。 「直接、触るぞ」 「え……え? え!?」 「だめだめだめだめ……駄目ですっ」 胸を隠そうとするティアの腕をどかす。 下着をまくり上げた。 「わ、わ、わわわわっ」 「うぅぅぅぅぅっっっ……」 ティアの顔が真っ赤になった。 本人の意思を無視するかのように、丸い乳房が下着からこぼれ落ちる。 拘束を解かれたそれは、更に大きさを増したように見えた。 「綺麗だ」 「え?」 「綺麗だと言ったんだ」 「わ、わたしの……胸が、ですか?」 「ああ」 驚くほど大きくはないが、美しい。 乳房を手の平で包む。 しっとりと吸いついてくる。 それは、手の中で柔軟に形を変えながらも、力を抜けばすぐに形を取り戻す。 「触り心地もいい」 「カ、カイムさん……んっ……いやらしいです」 「男だからな」 言いながら、乳房を優しく愛撫する。 下から持ち上げるように揺すり、薄桃色の乳首の周辺を指先でくすぐる。 「ふあっ、あっ、やうっ……カイムさん……」 「……先の方は、変な気持ちに……なっちゃ、います」 「んっ、あっ……すごく……好きって気持ちが、いっぱいに……いっぱいに……」 小さな身体をぎゅっと屈め、快感に耐えるティア。 「好きです……んうっ、好きです……カ、カイムさん」 「もう……どうしたらいいのか、わからないくらいです……ひゃうっ」 「ティア……」 ティアの一途さに、自分の汚れを見せつけられた思いだ。 こんな女を、俺は…… 例の葛藤が顔を出しそうになるのを抑える。 「あう……うぅっ……カイム、カイム、さん……んあっ、あああ……」 「やあぁ……変な、へん、な……気持ちです……やうっ……んっ、あああっ」 脚の動きがせわしなくなってきた。 体温が上がったのか、甘い匂いが立ち上ってくる。 「こっちも触るぞ」 「……え?」 思わずはっとなるティア。 「ひゃっ!?」 「やっ、そっちは……汚な……」 ティアが俺の腕を掴むが、本気の抵抗ではない。 膝に置いた手を、脚の付け根へ滑らせていく。 スカートの下のむっとした熱気。 「んあっ!?」 そして、指先に湿気が感じられた。 「は……恥ずかしい、です……」 「なんか、変な風になってませんか……?」 「濡れているな」 「ううぅぅぅぅぅ〜……」 ティアが小動物のように唸る。 「大人しくしてろ」 痛がらせないよう、慎重に性器の辺縁をなぞる。 「あうっ、やあぁっ……カイム、さん……」 「ひゃう……ふぁあぁっ……んっんんっ……」 身体を強張らせ、ティアが何かに耐える。 布地の周辺から、中心へと指を移動させた。 2、3度軽く押し込むと、熱い液体が滲み出してきた。 「あう……は、恥ずかしいのに……何か、熱くて……」 「わたし、おかしいです……身体が、変に……んふっ、ああああっ」 「誰でもこうなる、恥ずかしがらなくていい」 液体を指に馴染ませ、縦筋を上下に擦る。 「でも、でもでも……んぅう……あうっ、やあっ……カイムさんっ、カイムさんっ……!」 「だめっ……はず、はずっ……はず、かしいで……す……んあああっ!」 ティアが身体を揺らす。 脚の間から、微かに湿った音が聞こえた。 「へ、変な音してますぅ……や、やです……」 「わたし……変態さん、なん……あうっ……でしょうか……?」 「俺は嬉しいぞ」 「う、嬉しい?」 「そうだ」 ぬめりの中央で、指を動かし続ける。 「んっ……ど、どうして……ひゃんっ……ですか……」 「こ、こんな……変な風になって……あうっ、んうぅ……る、のに……」 「お前を気持ち良くできてるんだ、男としてこんなに嬉しいことはない」 「カイム、さん……」 「わたしも、その……カイムさんに、こうされて……」 「うれ……あうううっ……やっ……ふぁっ、あああっ」 ぴちゅっ…… また音がした。 布地にかなりの愛液が滲んでいるのを感じ、俺は手を止める。 「ん……あっ……あ……?」 ティアが、ぎゅっと瞑っていた目を開く。 「あ……あ、あの……」 「わ……わたし、何か失礼なことを……?」 「いや、このままじゃ下着が汚れる」 「……え?」 「……あ、あ……はい……」 言葉の意味を察し、ティアが視線を逸らせながら腰を浮かせた。 手を差し入れ、スカートと下着を脱がせる。 性器と下着の間に、透明な糸が伝った。 「う、あぁぁぁ……」 ティアの顔が、火でも出そうなほど赤くなった。 脱がせるたびに、この恥ずかしがりようだ。 「触るぞ」 「……は、はい……」 ティアの膝に手を置く。 汗の湿り気を感じながら、奥の暗がりへと指を運んだ。 「あ……」 濡れた音と共に、指が軽く沈み込む。 だが、指を受け入れられる程ではない。 縦の割れ目に沿って、指を動かす。 「ん……」 ティアの身体が強張る。 「大丈夫だ、俺に任せろ」 「は、はい」 ティアの口を塞ぎ、愛撫を始める。 触れるか触れないかの加減だ。 「んむっ……ちゅくぅっ……んちゅっ、ちゅっ……」 「くちゅっ……あむっ……んむぅ……くちゅっ」 それでも、経験のないティアには十分な刺激であるらしい。 手の動きに合わせ、まるで自分の快感を伝えるようにティアの舌が蠢く。 「んんっ、んあっ、くちゅっ、ぴちゅっ」 「ちゅっ、くちゅっ、ちゅっっ、んんんんっ……ぷはぁっ!」 「ああっ、ふぁあっ、ああああっ!」 接吻が解かれ、嬌声が上がる。 「やっ、だめっ」 「駄目ですっ、ああああっ、あっ、ああっ!」 「んあっ、カイムさんっ、ああああっ、ひゃうっ、ふぁああっっ!」 ちゅくっ、ぴちゅっ! 軽く触れているだけでも、水っぽい音がするようになってきた。 指を、性器上部にある敏感な部分に少しだけ触れさせる。 「きゃうっ!?」 「や、や、や、やああぁっ……ふぁうっ、んはぁんっ!」 ティアが〈痙攣〉《けいれん》し、一際高い声が上がった。 拒否する声ではない。 甘い陶酔が混じった女の声だ。 指先に粘液を纏わせ、更に刺激を続ける。 「んあっ、あっ、やっ……だめっ、駄目です……あうっ」 「わたし、わたし、おかしくなって……」 「こんな、に……なったら……あうぅっ……カイムさんに、嫌われちゃいますっ」 「嫌いになどならない」 「ほんと……ほんとですか?」 潤んだ目が切実な視線を投げかけてくる。 肯きで答えると、ティアの身体から緊張が抜けた。 「ふあっ、ああっ、んんんっ!」 「あああっ、やあっ、んはぁっ、ああっ、やあああ、んぅううっ」 「だめっ、もうっ、だめですっ、カイムさんっ、カイムさんっ」 くちゅっ、ちゅっ、ぴちゅっ、くちゅっ!! 溢れ出した愛液が、手を濡らす。 一気に持っていこう。 指先を小刻みに振動させる。 「ふぁあああああっ、やっ、だめっ、だめだめだめっ」 「ふあんっ、あああっ、カイムさんっ、何か上がってきて……ひゃあああっ」 「ふぁあ、あ、あ、あ、あ……んあああっ、あっ、あっ、あっ……やあああああああああぁぁっっっ!!!!」 ティアの身体が跳ねる。 掴まれた二の腕に、ティアの爪が食い込んだ。 「っっ! んっ! あっ!」 断続的な〈痙攣〉《けいれん》に身を震わせるティア。 その度に、膣口から愛液が漏れ出す。 「ひうっ……あっ……んっ……っ…………」 「うっ……あ……ぁ……ぁ……」 声も出なくなり、ティアが俺にもたれかかった。 荒い息の下、まだ身体がヒクついている。 汗でしっとりとした頭を優しく撫でてやった。 「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」 「う…………カイム、さん……」 「こ、こんな……感じ……はじ、はじめて……です」 「少し休んでろ」 「あ、は……はい……」 汗で濡れたティアを抱く。 服越しでも、高まった体温と息づかいが伝わってくる。 「わたし……こんなになるなんて……思いませんでした……」 「何だかもう、頭が真っ白になって……眩しくて、何も見えなくなって……」 「辛くはないか?」 「はい……でも、死んじゃうかと思いました」 「そうか」 もう一度頭を撫でてやる。 「これで、わたしも普通の女性の仲間入りでしょうか?」 「まだあるだろ」 「や、やっぱり……そうですよね」 「嫌か?」 「いえいえいえいえ」 ティアが首を振る。 「カイムさんとなら、光栄というか、もったいないというか……」 「その、すごく……嬉しいです」 最後は蚊の鳴くような声だった。 「身体が辛ければ、また後にしよう」 「……平気です」 ティアが切なげに言う。 今でなくてはならない── そんな含意を感じ取り、自分が失言をしたことに気付く。 「わかった」 なら、身体が乾ききらないうちが良い。 軽く口づけを交わし、ティアの服を脱がせていく。 「うう……恥ずかしいです」 「お前の身体は綺麗だ、自信を持て」 「そんなの、普通無理ですよ……」 泣きそうな顔をしながらも、抵抗はしないティア。 上着、下着と順に脱がせ、眩しいばかりの肢体が明らかになる。 「……」 「あ、あの、どうしたらいいですか?」 通常ならティアを仰向けに寝かせるところだが…… 背中には大きな翼がある。 「俺が寝るから、上に乗れ」 「え? え? ……そんな」 「仕方ないだろう」 「うううううぅぅぅ……」 「暗くて大して見えない、平気だ」 「だったら、わたしが綺麗っていうのは嘘ですか?」 「それは本当だ」 「意味がわかりません」 「いいから」 率先して仰向けになる。 手を伸ばすと、しばらく逡巡してからティアが乗ってきた。 「カ、カイムさんに乗るなんて……」 困惑した表情の下では、豊かな双丘が揺れている。 腰は適度にくびれ、滑らかな腹へと続く。 むっちりとした太ももの間には、性器がある。 脚を開いているせいだろう、秘所から愛液がひとしずく垂れた。 淫靡な光景に、俺の下半身に血が集まる。 「……」 ティアにやらせるのも可哀想なので、自分で下半身の衣服を下ろす。 硬直した性器が、仰け反るように顔を出した。 「わ……こ、これ……」 「初めて見るのか?」 「も、もちろんです」 目を背けながらも、何故かペニスに手を伸ばしていく。 それが、ひやりとした細い指に包まれる。 「熱くなってます……それに、びくびくして」 「これが……わたしに……?」 「そういうことだ」 「……」 ペニスを持ったまま、ティアが腰を浮かす。 開いた脚の付け根に男根が近づいていく。 「ん……」 くちゅ…… 先端が触れた。 「あ、あれ……? んしょ……」 加減がわからないのか、ティアが腰をしきりに揺らす。 濡れた性器で擦られるのは、なかなかの快感だ。 「もう少し腰を落とせ」 「は、はい……」 「うっ……く……」 ティアの眉が歪んだ。 痛いのだろう。 「頑張れ」 「へ、平気です……痛いのは慣れてます、から……」 いつもの台詞を言って、ティアが腰を下ろしていく。 「うっ……あっ、あ、あ……」 まず、亀頭の部分が入る。 そして、抵抗にぶつかった。 「うっ……!」 「うああっっ!!」 ずりゅ…… 性器全体が、温かなぬかるみに包まれた。 挿入るはずのないものを挿入れた。 そんな、強烈な締め付けだ。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 結合したまま息を吐く。 「大丈夫か?」 「は、はい……」 「平気、です……カイムさんのですから……」 うっすらと涙を浮かべ、ティアが微笑んだ。 肉棒を、うっすらと血が伝うのが見えた。 「こ、この後は……どうすれば……?」 「上下に動いてくれ」 「じょ、上下? ……こ、こうですか?」 ティアの腰が、もどかしいほどゆっくりと上がる。 潤った襞をカリが擦る。 「んうっ……あっ……く……」 「ん……く……んしょ……あ……う……」 「っっ……くっ……あ、あ……んんんっ」 「その調子だ」 「は、はい……」 「くっ……ああっ、あっ……あ、あ……」 痛みを堪えながら腰を揺する。 娼婦に比べれば児戯に等しい動き。 だが、俺の快感は高まっていく。 心と体は繋がっているのだと思い知らされる。 「気持ちいいぞ」 「よ、良かったです」 「もっと……んうっ……頑張ります、ね……」 男性器がティアの秘肉に出入りする。 挿入れる時には、熱いぬめりを持って受け入れ── 出る時は、無数の襞が亀頭全体を擦り上げ、吸いつく。 「んっ……くっ……んしょっ、んっ」 「ん、あ……あっ……あ、あ、あっ」 ちゅっ……ぴちゅ……くちゅっ…… 「はっ、あっ、んっ、うっ」 「カ、カイムさん……お腹が、すごく、あつ……熱いで、す……ひゃうっ、ああっ」 「んうぅっ、やうっ……んあっ、あああっ……こすれ、て……はうっ、あ、あっっ、ふぁああっ!」 声質が変わってきた。 「上手いぞ、ティア」 「あ、は、は、はい……」 「わたし……んんっ、あっ……よ、よくわかりません……」 それでもティアの腰は止まらない。 ティアを跳ね上げるように腰を使う。 「ひゃうっんっ、あうっ……つよ……強いです、カイム……さん……ああっ」 「カ、イムさん……あうっ……あああっ……カイム、んあっ……さんっ!」 じゅっ、くちゃっ、ぬちゅっっ! ぐちゅっ、じゅぷっ、ぐちゅっ! 肉棒に泡立った愛液がまとわりつく。 おぞましいとも言えるそれが、柔らかなティアの性器を下から蹂躙する。 視覚と聴覚が、俺の興奮を一層高めていった。 「ティア……」 「ふぁあっ、カイム、さんっ……ああっ、んああっ、ふぁああっ」 「んううっ……わ、わた、し……幸せです……カイムさんと、こんな風に……あぅ、なれるなんて」 俺の胸に乗せられていたティアの手を握る。 「また、牢獄に帰ろう」 「はいっ……」 俺の手が、ぎゅっと握られる。 「ひぅんっ、ああっ、やあぁっ、ひゃうっ、あっ、あっ、んんんっ」 「だめっ……あああっ……カイム……カイム、さん……ふぁあっ、あっ……やあっっっ!」 ティアの脚が開き、動きが速まる。 「うあっ、ああっ……つよ、くて……だめ、だめですっ」 「ふぁあっ、やあっあっ、ひゃああっ、もう……もう……あああっ!」 「好きっ……んあああっ……す、き……好きです……ああっ、あっ、あっ、あっ」 「カイムさん……上がって、あがって……きて……あうっ、ひゃあっ、ふぁああっ……やあああっ」 膣内が更に締まった。 下半身に熱が溜っていく。 「そろそろ、いくぞっ」 「んああああっ、くうっ、やああああっ、もう、わたし、わたしっ!」 「あっ、ああっ、あっ、あっ、あっ……カイムさんっ、ああああっ」 襞がざわめきの中を貫く。 背筋に痺れが走り、男根が熱くなる。 「あつ、い……熱くて……はうっ、熱くて……ああああっ」 「やっ、駄目です、だめだめだめっ……上がってきますっ、あああっ、あっ、あっ、あっ、あああっ!」 ティアの腰を掴み、全力で男根を突き込む。 愛液が飛沫を上げた。 「ひゃあああっ……だめっ……カイムさんが……激しく、て……あうっ」 「うああっ、ひゃああっ、あっ…………来ますっ、来ま、す……だめっだめだめだめっ」 「カイムさん、カイムさんっ……ひゃあっ、来ちゃって……んああっ、やああああっ!」 「ひうっ、んああっ、あああっ……ひゃあっ、あっ、あっ、あっ、ああああああっっっ!!」 「ややあああああああぁぁぁぁっっっっ!!!!!!!!」 ティアの背が弓形に反った。 「くっ!」 びゅくっ、どくっ!!! どくどくっ、びゅっ!!!! ありったけの欲望を、ティアの体内にばらまく。 「ああっ、ひうっ……あっ……」 「ふぁっ……あっ……ひゃあ……ああ……」 射精の衝撃にすら感じているように、ティアが身を震わせた。 再び膣が締まる。 どくっ!! びゅっ、びゅびゅっ……!! 身体の中身まで持っていかれるような快感だ。 一瞬頭が白くなる。 「は……あ……」 俺の精液を受け止め、ティアは酔ったような顔になる。 「はぁ、はぁ……はぁ……」 「カ、カイム……さんのが……身体の中で……震えました」 「男はそうなるんだ」 「わたし……上手く、できましたか?」 「ああ、気持ちよかったぞ」 「……よ、良かったです……」 「ん……あっ……」 繋がっていた性器が離れる。 ティアの性器から、わずかに血液が混じった体液が零れ出る。 「あ……う……もう、だめです……」 ティアの身体から力が抜けた。 倒れてきたティアを、胸で受け止める。 「大丈夫か?」 「は、はい……」 俺の胸の上で、ティアが呼吸を整えている。 初めてにもかかわらず、随分頑張ってくれた。 ティアの頭を撫でる。 「ん……」 「……カイムさん…………」 ティアが俺の胸に額をこすりつける。 「どうした?」 「ふふふ……」 「何だか、名前を呼んでみたい気分だったんです」 ティアが微笑する。 「さっきは、何度も叫んでいたが」 「そ、そんな……」 「覚えてないです……もう、無我夢中で」 「まあ、仕方がない」 もう一度頭を撫でる。 「……ふう……」 安堵したように、大きく息を吐いた。 「ありがとうございました、カイムさん」 「こんなに幸せな気分にしてくれて」 「礼など言うな、俺も望んでしたことだ」 「はい」 ティアが眼を細める。 そして、また俺の胸に顔を預けた。 「あの……カイムさん?」 「ん?」 「わたし、カイムさんが大好きです」 「本当に……本当に……」 「ああ」 「それで、あの……カイムさんは……その、どうですか?」 「わかってるだろう?」 「わ、わからないです」 拗ねた声を出した。 どうやら、俺の口から好きだと言わせたいらしい。 いつもなら口が裂けても言わないだろうが…… こんな時だ。 「好きだ、俺もな」 「っっ……」 ティアが抱きついてきた。 「わたし、頑張ります」 「……頑張って、この都市を守ります」 「ああ……」 ティアはまた研究に戻っていくのだ。 頭が芯から冷えていく。 「……」 無言のままティアの頭を撫でる。 それしか、できることがなかった。 飼い主に撫でられる猫のように、ティアが喉を鳴らして俺の胸に埋もれる。 「……また、少し休んでもいいですか?」 「その方がいい」 「ふふ……ありがとうございます」 恐らく笑ったのだろう。 それっきりティアは口を開かず、すぐに寝息が聞こえてきた。 窓の外を見た。 月が煌々と照っている。 こいつが目を覚ましたら、また研究室に送り出す。 葛藤はない。 だが── 胸には大きな虚無があった。 空き屋のようなそこに、早くも埃が積もり始めている。 俺も眠ろう。 もう、考えるべき事はないのだ。 目を閉じる。 胸の上でティアが呼吸している。 その規則正しい節を子守歌に、俺は深い眠りに落ちた。 風が小麦畑を渡った。 黄金色が波をうってざわめき、風に応える。 俺の足は帰るべき場所を知っていた。 ティアとの家だ。 そこで、あいつは今夜の飯を作っていることだろう。 草原の中の一本道を早足で抜ける。 程なくして目的地に着く。 小さな家だ。 ティアが、自分には不相応だと大きな家を好まなかったからだ。 だがその分、あいつの愛情が部屋の隅々にまで行き渡っていた。 煙突からは細い煙が上っている。 何か、肉を焼くような香りもした。 今夜も期待できそうだ。 〈逸〉《はや》る胸を押さえ、ドアノブに手を伸ばす。 どれだけ時間が経ったのか。 意識が浮上した。 どうやら、夢を見ていたようだ。 小麦畑の中の家とはな……。 ティアとの情交が、俺を随分と牧歌的な人間にしていたらしい。 「……」 衣擦れの音がする。 ティアが身支度を整えているのだ。 「ティア……」 「あ、カイムさん」 「戻るのか?」 「……はい」 「カイムさんのお陰で、すごく元気が出ました」 「わたし、もっと頑張れそうです」 ティアが微笑む。 いつものような朗らかな笑顔ではない。 月の光のような、静かな微笑みだった。 「また、様子を見にいく」 ティアが静かに首を振る。 「どうした?」 「わたしのためだと思って、もう来ないでください」 「何だと?」 「これ以上優しくされたら、挫けてしまいます」 「だからもう、会わない方がいいです」 「……」 女というのはいつもこうだ。 大概、自分の中で勝手に区切りを付けて去っていく。 悲劇役者にでもなったつもりだろうか。 「いつから、そんな洒落たことを考えるようになったんだ?」 「わたし、もっと頑張りたいんです」 「もっと頑張って、都市を守りたいんです」 ……カイムさんを救うために。 ティアの唇が、無音の決意を呟く。 「前にカイムさんの家から逃げ出すとき、わたしは眠り薬を使いました」 「ああ、そうだったな」 懐かしい話だ。 俺は、まんまと眠り薬を飲まされ、ティアを逃がしてしまった。 「でも、今日は薬は使いません」 「ティア……」 「カイムさん……わたしはカイムさんが好きです」 「だから、守りたいです」 瞳には、今までに見たこともないほど強い意志が宿っていた。 これがティアかと思うほどの、強い決意だ。 「カイムさんの顔を見ると甘えてしまいますから、もう研究室には来ないでください」 ティアが一歩下がる。 「わたしのためにも……」 「この都市に住む沢山の人のためにも、お願いします」 様々な情景が頭をよぎった。 だが、答えは決まっている。 もう、〈逡巡〉《しゅんじゅん》はしないと決めたのだ。 「……わかった」 「……」 一瞬、 本当に一瞬、瞳の奥に弱気を見たが、それもかき消えた。 「頼んだぞ」 「はいっ」 これ以上ないほどの、満面の笑み。 そして…… 「ご自分を責めないでくださいね」 「カイムさんの判断が正しいことは、みんな知っています」 「ああ」 「では、行ってきます!」 ティアが走り去る。 あっけないほど軽い音で、扉が俺とティアとの間を遮った。 行ったか…… ベッドに倒れこむ。 ちゃり…… 耳元で軽い音がした。 ベッドと布団の隙間にティアの首飾りが落ちていた。 かつて、牢獄で俺が買ってやったものだ。 行為の最中にでも外れたのだろう。 安っぽいそれを、懐に収める。 これが形見か。 ティアらしい── 朝早く目を覚ました俺は、戦況を見るためバルコニーに出た。 「早いな」 「何だ、お前か」 「ご挨拶だな」 「顔色が優れないようだが、ティア君と何かあったか」 「面白いことは何もない」 何も変わらず、ただ、妥当なところに落ち着いた。 そういうことでしかない。 「彼女には、今日からより厳しい実験を受けてもらうことになっている」 「もう言うな」 どうしようもないのだ。 報告などいらない。 「それより、戦況の心配をしたらどうだ」 「ティアが結果を出す前に城が落ちたら、それこそ話にならない」 下層を見る。 反乱軍の本隊はまだ下層にあった。 しかし、先陣は既に上層に達し、その一部は王城とは別の方角へ向かっている。 「大聖堂が……」 反乱軍に包まれている。 「聖女様は、本日未明に聖域から身を投げられたらしい」 「神官長も反乱軍に命を奪われた」 「新任の聖女はいるのか?」 「いるわけがない」 「聖教会の仕組みは完全に破壊された」 「聖女が都市を浮かせていないことが証明されたわけだ」 「反乱軍はどうしてるんだ?」 「誰も都市を浮かせていない状態で、秩序を保っているのか?」 この都市を支えていた、もっとも大きな信仰が壊れた。 恐慌状態に陥ってもおかしくない。 だが、敵軍は未だに大勢力を維持している。 見れば、敵軍の中には国王軍の甲冑を〈纏〉《まと》ったものもいるではないか。 「今はもっと信仰を集めている人間がいるだろう」 「……なるほど」 「救世主様が、そのお力で都市を支えているとのことだ」 「人々は絶望するどころか、救世主の奇蹟を目の当たりにして、いよいよ信仰を深めているらしい」 「目の前のもっともらしい理屈に飛びついただけじゃないか」 「人間、精神的な危機に直面すれば誰でもそうするものだ」 「ジーク殿は、その辺も計算に入れていたのだろうな」 ルキウスは、まるで他人のチェスの試合を分析するように淡々と語る。 さすがのルキウスも諦めたのだろうか。 「この先どうするんだ?」 「……」 ルキウスが感情の読めない表情で戦場を見つめる。 「まだ、戦いは終わっていない」 「やれることを一つ一つこなしていくだけだ」 「だから、何ができるのか聞いているんだ」 「……まだ言うべき時ではない」 「ふざけてるのかお前は? 出し惜しみしてる状況か?」 「やめろ」 リシアが静かに言う。 「ルキウス、もういい」 「負けを認めたくないのもわかる」 「だが、もういい」 「どうされるおつもりですか?」 「無条件降伏の使者を出す」 「これ以上、国民同士、無駄な血を流させるわけにはいかない」 「戦争を終わらせたところで、都市が落ちて死ぬだけです」 「殺し合うよりはましだろう」 「この国は、お前を満足させるために存在しているわけではない」 「……陛下」 「お前はよくやってくれた」 「このリシア、心より感謝している」 「お前がいなければ、私は国王になれなかったし、真実を知ることもできなかった」 「ずっと、ギルバルトの操り人形で終わるところであった」 「断頭台の露と消えても、お前への恩は忘れぬ」 「恐悦至極に存じます」 ルキウスが膝をつく。 リシアは軽くルキウスの肩に触れ、マントを翻した。 〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく、振り返らずに城の中に戻っていく。 ルキウスは止めない。 「無条件降伏、か」 王制は終わり、天使は救い出される。 そして、この都市は── 「な、なんだ貴様らはっ!?」 「っ!?」 室内を見ると、リシアが衛兵に囲まれていた。 「ルキウスっ!?」 「大丈夫だ、危害は加えない」 ルキウスが衛兵の方を向く。 「部屋にお連れしろ、しばらくは読書に精を出していただくように」 リシアが衛兵に身動きを封じられる。 憎々しげな表情をこちらに向けるが、どうしようもない。 瞬く間に、リシアは連れ去られていった。 「お前、自分が何をしたのかわかってるのか?」 「2回目の政変を起こしただけだ」 「……」 目の前で、一人の女王の治世が幕を下ろした。 大事変であるにもかかわらず、あまりに淡々としていて感慨も湧かない。 これが見せ物なら、銅貨1枚の見物料も取れないだろう。 むしろ、怒った観客に壊された見せ物小屋の修理代の方が高くつきそうだ。 「まだ、戦いは終わっていないのだ」 「さっき、そう言ったばかりではないか」 ここに来ても、ルキウスはいつもの表情を崩さなかった。 朝の身支度を整えるように、粛々とリシアを廃したのだ。 ぞくりと悪寒が走る。 どこまでやるつもりなんだ、この男は。 リシアと入れ替わるように、足音が近づいてきた。 「ルキウス様、準備が整いましたっ」 「予定より早いな、よくやってくれた」 「過分なお言葉です」 「時間がない、始めてくれ」 「はい、かしこまりました」 システィナが高揚した顔で立ち去る。 「何をするつもりだ」 「そのうちわかる」 ルキウスが手摺りの外を眺める。 「戦争が起きているというのに、空は変わらないな」 久しぶりに空へと目を向けた。 抜けるような青空だ。 空の下へと目を向ければ、風が抜ける草原で、家族や恋人同士が弁当を広げている。 そんな日に似つかわしい空だった。 「こうしていると、全てが些事にも思えてくる」 「珍しく感傷的だな」 「リシアの件で、多少は心が痛むか?」 「どうかな」 ルキウスが曖昧に笑った。 「痛みはするが、経験した痛みの中では小さなものだ」 風が吹く。 二人とも黙ると、遠くから戦闘の音が聞こえてきた。 視線さえ戦場に向けなければ、どこか遠い国の音にも聞こえる。 かすかな振動と共に、地鳴りが聞こえた。 「また、地震が来るな」 「そうだ」 奇妙な受け答えだ。 ルキウスが、バルコニーの手摺りに手を置き戦場を見つめる。 「……どうした?」 戦場に目を遣る。 な……? 反乱軍を中央から分断するように、横線が走ったように見えた。 錯覚か? 何度か目を瞬かせる。 横線から後ろが、ずるりと高度を下げた。 「!!!!!!」 下層の一部が、反乱軍の後ろ半分を乗せたままゆっくりと落ちていく。 「……な……何だ……あれは……」 瞬きもできず、ただその現象を見つめる。 崩落だ…… 崩落が起きている。 崩落が反乱軍を直撃したのだ。 『崩落』 その単語がようやく頭に馴染んだ頃、 崩れた大地が都市から完全に離れ、黒々とした下界に吸いこまれていった。 地鳴りも、戦いの音も、完全に止んでいた。 上空を旋回する鳥の、甲高い声だけが尾を引いて流れている。 何だこれは。 何なんだ……おい……。 目をこする。 下層には、ぽっかりと綺麗な円形の穴が空いていた。 まるで、昔からそうであったかのように、そこには穴があった。 「冗談……だろ?」 「現実だ」 「まだ、戦いは終わっていない」 「さっき、そう言ったばかりだ」 まさか…… ルキウス、お前…… 「知っていたのか……こうなることを……」 「いや」 ルキウスが俺を見る。 「私があの穴を作ったのだ」 ルキウスの言葉が聞こえないくらいに、頭の中身が揺れる。 「この都市には《解放》という機能がある」 「要は、任意の場所を落とすことができるのだ」 「そんなことはどうだっていい!」 ルキウスの胸倉を掴んでいた。 「どれだけの人間が死んだと思ってるんだ!」 「わからん」 「わからんが……」 「生き残った人間の数の方が、まだ多い」 「!?」 目の前が白くなる。 眩暈を起こし、バルコニーにもたれる。 「お前……こんな状況になっても、まだ数の話か……」 「こんな状況だからだ」 ルキウスが乱れた衿を直す。 「いや、どんな状況になっても、より多くの人間が生き残る道を選ぶ」 「放っておけばこの城は落ち、天使が解放され、都市は墜ちる」 「それだけは防がねばならない」 「見てみろ」 戦場に目を遣る。 突然の雨に降られた蟻の群れのように、反乱軍は混乱していた。 「今、あそこでは流言が飛び交っている」 「崩落が起きたのは、救世主が偽物だからだ」 「救世主が本物なら、自分の軍が落ちるわけがない、とな」 「……ここまで、考えていたのか」 「何度も言っている、まだ戦いは終わっていないと」 「物覚えが悪いようだからはっきり言っておくが、戦いが終わるのは、都市が安定した時か、私が死んだ時だ」 「それまで戦いは続く」 「ルキウス……お前……」 反乱軍の前進は完全に停止した。 逆に少し押し戻され、背後に空いた穴から、ぱらぱらと人が落ちていく。 無数の人生が消えていっているにもかかわらず、個々の落下には特徴すらない。 地面がなければ人が落ちるという、子供でもわかる摂理を証明するために。 どれもこれも、ただ落ちていく。 「まさか……コレットの時の崩落も、狙ったことなのか……」 「そうだ」 バルコニーの欄干を蹴る。 「なぜだっ!」 「なぜ牢獄を落としたっ!」 「何でメルトは死ななきゃならなかったんだ!」 ルキウスが悲しそうに顔を伏せた。 「悲しい顔なんかするな!」 「落としたのは、てめぇだろうがっ!」 ルキウスが顔を上げる。 開いた口からは、いつもの落ち着いた声が聞こえた。 「牢獄が落ちたのは、あそこが落とすための区域だからだ」 「メルトという人が誰だかはわからないが、落ちたのは偶然だ」 「こちらは意図していない」 「っっ!!!」 一瞬にして沸点に達した怒りに任せ、ルキウスを殴り飛ばす。 転倒したルキウスが、テーブルと椅子を倒す。 「落とすための区域だと?」 「ふざけんなクソ野郎がっ!」 「おふざけでこのようなことが言えるか」 口元の血を拭いながら、ルキウスが立ち上がる。 落ち着き払った態度だ。 「《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》により、天使の力は極端に減少した」 「都市を馬車に喩えれば……」 「徐々に定員が減っていくことは目に見えていたのだ」 「定期的に人を下ろさねばならない運命だった」 「落とすなら、そこらの山でも畑でも落とせばいい」 「なぜ、人間を落とさねばならない?」 「天使の力が減少すれば、食料や水の供給量も減る」 「最近、牢獄で井戸が涸れたり濁っていたことを知らないか?」 「もっと言えば、ずっと物価は上がり続けていたはずだ」 「時間の経過と共に、最大積載量だけでなく、維持できる命の数も減っていたのだ」 「都市の重量だけを減らしても問題は解決しない」 「そのための牢獄か!」 「いずれ落とすから、ろくに救援もしなけりゃ、治安の維持もしない」 「関所を作って外との交流を減らし、落としたときの悪影響を弱めようとした」 臆面もなく、ルキウスは頷いた。 「じゃあ、牢獄の人間は死ぬために生きてたってのか!」 「そんなことが許されるわけないだろっ!」 「私は、別に誰の許しも欲しくはない」 「それしか手がなかったのだ」 「もちろん、天使の力を回収しようとしたし、力の消費量を減らす研究は行っていた」 「だが、いかんせんギルバルトの独裁が長すぎた」 「理屈なんぞ、たくさんだ……」 気がつけば、膝をついていた。 「私もこんなことになるとは思わなかったよ」 「奇跡的に《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》を生き伸びてから、ずっと崩落の原因を調べてきた」 「原因がギルバルトだとわかるまでには、さして時間はかからなかった」 「しかし、天使に力が残されていないことまでわかってしまったのだ」 「だから、武装蜂起などという強引な手段をとってまで、天使を手に入れた」 「だが、全てが遅かった」 「天使を手に入れたとき、もう次の崩落は避けられないところに来ていたのだ」 ルキウスが目を伏せる。 見えない手の汚れを拭うように、手を擦り合わせた。 「《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の原因を探り、崩落の再発を防ぐために生きてきたというのにな……」 「結局は、自らの手で崩落を起こさなくてはならなくなってしまった」 「お前の事情なぞ知るか!」 「私は誓ったのだ」 「自分が殺した人間のためにも、常に正しい判断を……」 「この都市を、最後まで存続させる道を選ぼうと」 「誰がそんなこと頼んだっていうんだ?」 「自分の問題だ」 「お前にはわかるまいな、何千もの人間を自分の手で殺さねばならない気持ちは」 「だが、必要なのだ」 「何万もの人間を生かすために、誰かがその道を往かねばならないのだ」 「もういい……」 「わかってるさ……あんたは正しい」 「死ぬ瞬間まで正しいことをするんだろうな」 「そうだ」 ルキウスは、俺の皮肉に真っ向から答えた。 「死んでいった者たちのためにも、絶対に判断を誤りたくない」 「お前も、ずっと私の考えを支持してくれただろう?」 「情に流されず、妥当性を追求する道を」 「一時はな」 「だが、限度がある」 「だが、私の歩く道は逸れることが許されないのだ」 「途中で情に流されれば、それこそ犠牲になった者が何のために死んだか分からない」 「はじめから、都市ごと滅んでおけばよかったという話になってしまう」 「じゃあ何か?」 「1000人のために100人を犠牲にし、次は600人のために300人を犠牲にする……」 「そんなことを延々続けていくのか?」 〈躊躇〉《ちゅうちょ》なくルキウスが頷く。 「そのつもりで戦わねば、もっと早く心が挫けてしまう」 「なら、俺とお前、残りが二人になったらどうする?」 「数としては1と1だ、どっちが死ぬ?」 「その時の状況によるな」 皮肉を込めた質問に、正面から即答された。 自分がどんな回答を期待していたのかはわからない。 だが、かすかな落胆があった。 そこまで行ったら、もう諦めて一緒に死ぬとか、 俺を残して自分が死ぬとか、そういった回答を期待していたのだろうか。 「たった二人この世に残って、やることはそれか」 「お前も、よくよくつまらない男だな」 「お前を楽しませるために生きているわけではない」 「ただ、正しい判断をし続けるだけだ」 「ふっ……ははは……」 笑いが出る。 ルキウスが〈滑稽〉《こっけい》に見えてきた。 「そこまでやって誰が喜ぶ?」 「所詮、都市も政治も人のためのものだ」 「最後に誰も楽しめないんじゃ、生き残っても仕方ない」 「お前は、今まで都市の利益を最優先にしてきたではないか?」 「そのために、ティア君も差し出した」 「……」 「それが急にどうした、気が変わったか?」 皮肉っぽい目で、ルキウスが俺を見る。 「あんたにはついていけないってだけだ」 「なるほど、その判断も悪くない」 「では、これからどうする?」 「反乱軍にでも加わるか?」 「……」 すぐに答えは浮かばない。 いや、考えたところで答えは出るのだろうか。 ティアは研究室に戻り、都市は滅びに向かっている。 俺はどうする? 俺は何をしたらいいんだ? 「答えられないか……」 「残念だよ、カイム……大いに残念だ」 ルキウスがバルコニーの欄干に腕を置き、街を見下ろす。 戦況は〈膠着〉《こうちゃく》状態だった。 一時は押し込まれた反乱軍も、背後に穴が空いたため、死にもの狂いになって戦っているようだ。 少しずつ国王軍を押し返している。 「多くの人間が、今、自分の死を目前に生きている」 「戦場に立つ者も、そうでない者もだ」 「そんな中、お前は自分の行動も決められない」 ルキウスが空を見上げて言った。 声は妙に沈んで聞こえた。 「……」 「理想でも、理屈でも、実利でも、感情でも、優先するものなど何でもよい」 「全てを放棄してもいいだろう」 「だが、選択を放棄するのは気に入らないな」 「お前の趣味など関係ない」 「これは独り言だよ」 一度俺を見て、ルキウスは再び空を見る。 「ずっと、お前は実利を追求する人間だと思っていた」 「だが、それは誤りだった」 「では、理想を追求する人間だったか?」 「違う」 「感情か?」 「違う」 「結局、見つけられなかった」 「お前が何を大事にする人間なのか、私にはわからなかったのだ」 「……」 妙に気分が落ち着かない。 体毛を逆なでされているような感覚だ。 「時には理想、時には理屈、時には感情……」 「コロコロと主張を変え、それなりの正論を吐きながら、生きていく」 「お前は頭がいいし、発言や判断は妥当なことが多い」 「だから、誰もお前の行動を責めないだろう」 「だが、それだけだ」 「街を見ろ」 「皆、死と〈鍔迫〉《つばぜ》り合いをしながら、最後の火花を散らしている」 「妥当性など紙屑同然の状況だ」 「そんな時に、お前はどうだ?」 ルキウスが振り返る。 真正面から俺を見た。 「お前には、中身がないのだよ」 「カイム、お前は……」 「何のために生まれてきたんだ?」 「!!」 身体を、かつてない衝撃が走った。 ジークに言われた言葉を思い出す。 あいつは、俺が自分の足で立っていないと言っていた。 「私は、お前と話をしながら、いつもこう尋ねられている気がしていた」 「『自分の行動はこれで正しいですか?』とな」 「しかも、何度も何度も追認を迫る」 「私は何度も言いかけたよ……」 「お前は自由なのだ、好きにすればいいではないか」 聞き覚えが…… いや、何度も言った覚えがある言葉だった。 「一歩間違えば命を落とす環境で育ったことには同情する」 「だが、もうそろそろ理解した方がいい」 「人とは、選択と行動によって人たり得るということを」 「……」 「私は、これからも変わらない」 「より多くの人間が生き残る道を選び続ける」 「同じ道を歩けとは言わない」 「ただ、少なくとも、お前には自分の選んだ道を進んでほしい」 一瞬だけ目が合う。 だが、ルキウスは、すぐに視線を外し手摺りから離れた。 「ティア君の件だが……」 「研究が進めば、彼女は彼女のままではいられない」 「率直に言って、彼女は都市のために犠牲になるだろう」 「知っている」 「本来、お前の確認は必要ないが、まあ最後の義理で話は通しておこう」 「彼女のことは、今後は私に任せてもらう」 「邪魔は許さない」 「……ああ」 ルキウスが小さく頷く。 「さらばだ」 マントを翻し、ルキウスは城の中に消えた。 一人、バルコニーに残される。 後を追いたくても足が動かない。 ……もう、彼の横には並べないのか。 結局、俺はあいつの背中を見ることしかできないらしい。 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》から長い時が経った。 厳しい環境の中でも、必死に自分の道を探してきた兄。 厳しい環境の中で、考えることを諦めてしまった自分。 所詮、人間の出来が違うのだろう。 「……」 全身が虚脱感に覆われていた。 立つ気力もない。 立ったところで、どうしようもない。 することが思いつかないのだから。 目立った能力もない。 目標もない。 そのくせ、自由だけがある。 何をしたっていいはずだ。 都市がこんな状況じゃ、誰も細かいことは言わないだろう。 ……空を見上げる。 「ああ……」 こんな最低の日なのに、空はいつもと変わらない。 だが、俺に見える世界は変わってしまった。 「知ることだよ、カイム」 「知ることで、見える世界は変わる……良くも悪くもな」 余計なことを知って、世界は悪い方向に変わった。 自分がこの世界の一員であるように感じられない。 全ては、自分と無関係に動き、どこかの誰かが指さす方向へと流れ去っていく。 その混沌とした流れに、身を任せることすらできない。 「無知ゆえの無為は許されると思う」 「だが、知った上での無為は罪だ」 こんな罪、好きで犯してるんじゃない。 ……何をしろっていうんだ。 こんな俺に。 ベッドからの景色は、もう見慣れてしまった。 「すみません、長い間休憩しちゃって」 「昨日はなかなか戻ってこないので、本当に心配しました」 「今までの努力が、全部無駄になるところでしたよ」 「すみません」 「でも安心してください」 「気分転換できましたから、また頑張ります」 「ありがとう」 決心はついた。 どんなことがあっても、わたしはあの人を救うんだ。 こんなわたしを大切にしてくれたカイムさん。 わたしのせいで、死なせることなんてできない。 わたしは消えてしまうかもしれないけど、仕方ない。 どうしようもないことは、世の中に沢山ある。 ずっと苦しい思いばかりしてきたんだから、最後まで苦しくたって構わない。 普通の環境に生まれ、普通に人生を終える人がいる。 不幸な星の下に生まれて、不幸なまま人生を終える人がいる。 それは、運だと思う。 もう、考えるのはやめよう。 「すぐに実験を始めさせてもらいます」 「はい」 「実は、今日から新しい実験を始めるのですが……」 「正直なところ、かなり苦しいと思います」 「はい、大丈夫です」 「こちらなのですが……」 卓の上に、黒い粉がいっぱいに入った桶がある。 どこかで見たことがあるような粉だ。 「これは、福音と呼ばれるものなのですが、簡単に言えば、天使の力を粉にしたものです」 「今までは、羽つきを浄化してもらってきましたが、これからは福音を浄化してみてください」 「はい、わかりました」 今までの浄化とは、明らかに違う。 理由はわからないけど、粉を見ただけでそれがわかった。 なんだか、この粉はすごく『濃い』のだ。 牢獄にいた粘液を沢山集めて、煮詰めて、残ったものを乾燥させたような…… とにかく、ぎゅっと詰まっている感じがする。 「まずは、このくらいから始めてみましょうか」 研究員さんが、陶杯一杯分の粉を取った。 扉が開き、白衣の貴族が姿を現した。 「すまない、遅くなった」 「いえ」 「戦況はいかがですか?」 「反乱軍の戦力はかなり削ることができた」 「一時はかなり押し込んだのだが、敵は持ち直しつつある」 「どうやら、指揮官は難を逃れたようですね」 「ジーク殿か……さすが悪運が強い」 「次の《解放》までには、しばらく準備が必要です」 「概算ですが、あと3日ほどはかかるかと」 「……3日か」 「一応準備は進めてくれ、使う可能性もある」 「了解しました」 「しかし、これでますます、ティア君には頑張ってもらわねばならなくなったな」 「一気に覚醒を促したいところだが……」 「ああああぁぁぁぁっっっ!!!」 「ひっ……ひ、ひ……あ、ああ……」 ティアの悲鳴が響きわたった。 耳を塞ぎたくなる声だが、二人はそうしない。 目を伏せ、静かに悲鳴を聞く。 ティアの受けている苦痛は、都市を救うためのもの。 都市に捧げられた聖なる祈りなのだ。 彼女の献身を考えれば、悲鳴を忌避するなど許されることではない。 ティアの苦しみからは目を逸らさないこと── これは、研究が始まったとき、ルキウスが全研究員に徹底させたことでもあった。 「かなり厳しそうだな」 「ティアさんの苦痛は、人であろうとする意思が、身体を天使に作り替えようとする力に反発している証であるとのことでした」 「福音はかなりの純度ですから、痛みも当然でしょう」 「できれば、早く痛みから解放してやりたいが」 「ティアさんの身体が天使に近づけば、徐々に和らぐかと思われます」 「一定の水準を越えれば、むしろ天使の力を求めるようになるのではという仮説も出ています」 「なるほど」 「うああっっ! ああっ! あっ!」 「福音か……」 「ギルバルトは、あれをさらに精製して、人を蘇生させる薬を作ろうとしていたのだな」 「できたのは、黒羽を作る薬だったようですが」 「やはり、天使の力は、我々の手には負えないのかもしれません」 「弱気なことを言うな」 「私たちがやらなければ、誰がやるのだ」 「申し訳ございません」 システィナは軽く頭を下げて、気持ちを入れ替える。 自分は、この若く優秀で、そしてどこか自分に似た貴族についていくと決めていたはずだ。 弱気など見せてはいけない。 「そうです、一つ悪い報告があります」 「何だ?」 「ティアさんですが、昨夜、カイムと交渉を持ったようですね」 「強く自己を認識する行為を行ったせいか、覚醒水準がやや後退したとのことです」 「なるほど」 落ち着くべきところに落ち着いたか、というのがルキウスの第一印象だった。 やや遅れて、ならばカイムはどうしてもっと戦わないのか、という疑問が湧いた。 いや、それも難しいだろう。 すぐに、ルキウスは否定する。 ティアを救うことは、すなわち都市の滅亡を選択することだ。 ルキウスが同じ立場に立たされたとしても、ティアを取ることはない。 都市を犠牲に一人の女を救うなど、並の人間にできる選択ではないのだ。 だがもし、もし本当にカイムがティアを取る決断をしたのなら……と、ルキウスは思考を続ける。 そして、胸に浮かんだ言葉に苦笑した。 「彼は今、どうしています?」 「わからない」 「だが、もう会うこともないかもしれない」 「そう、ですか」 「残念か?」 「ご冗談を、彼に頼むことはもうありません」 「ふふ……相変わらず手厳しい」 「……ルキウス様」 ルキウスの〈儚〉《はかな》げな笑みに、システィナの胸が痛くなる。 カイムとの訣別をルキウスが悲しんでいるとわかってしまうから。 システィナは、カイムがルキウスの傍に来てからずっとそうしてきたように、自分に言い聞かせる。 『大丈夫、貴方の傍には私がいる』 『どんなことがあっても、私が貴方を守る』 本音を、立場と状況で翻訳にかけ、システィナは瞬時に台詞を作り上げた。 「ルキウス様のお傍には、私がおります」 「何なりとお申し付け下さい」 「ああ……」 「ありがとう」 ルキウスが笑う。 システィナには、彼の微笑の裏にある憂いを取り除くことはできなかった。 時間が過ぎていく。 ルキウスのいなくなったバルコニーで、俺は呆然と戦況を眺めていた。 戦場は徐々に近づいている。 明日には、反乱軍が城にまで到達するだろう。 俺はこのまま滅びの時を待つのだろうか。 意味もなく、手に触れたナイフを抜いた。 刀身に自分の顔が映る。 〈眼窩〉《がんか》の暗がりに、諦めが塗り込められていた。 牢獄に転がっている乞食のような顔だ。 これが……俺か。 「くそ……」 俺は、どうしたらいい? ティアは都市のために犠牲になることを選んだ。 反乱軍はそこまで迫っている。 明朝には王城に達するかもしれない。 そうなれば、ティアの努力も全て無駄になってしまう。 時間を稼ぐんだ。 では国王軍にでも入って戦うか? いや、一兵卒になったところで時間稼ぎはできない。 ……。 ジークを説得しよう。 都市の秘密全てを告白し、戦闘が都市を滅亡に導くものだと教えるのだ。 それでも、あいつが戦いをやめないならば、その時は── もう一度、ナイフの刀身を見つめる。 夕日に染まり刃が赤く燃えた。 指揮官を失えば、少なくとも時間は稼げるだろう。 その間に研究が完成すれば、ティアの犠牲も報われる。 今できる一番大きな仕事は、これだ。 俺ならば、ジークに面会できるかもしれない。 会えたなら、後は全力を以て説得するだけだ。 ジークは長い友人だ。 ほとんど、兄弟同然だった時期もあった。 この刀身を、奴の血で曇らせたくはない。 だが、どうせ終わりになるのなら……この手で。 ナイフを鞘に戻す。 行こう。 熱病に浮かされたような心地だった。 足元は覚束ないが、目的意識が勝手に俺を運んでいく。 自分の足で歩いている気がしない。 貴族の屋敷街は、いつにも増して〈深閑〉《しんかん》としている。 夕焼けが、息のある人々のことごとくを焼き尽くしてしまったかのようだ。 貴族たちは、城も街も守らず、館に閉じこもっているのだろう。 人が消えた街を、戦場を目指して進む。 ふと、こちらへ向かってくる人影に気がついた。 夕日の中で〈陽炎〉《かげろう》のように揺れる、見覚えのある姿。 通り抜けた風に、花の香りを感じた。 「エリス……」 俯いていた女が顔を上げる。 「……カイム、丁度良かった」 エリスが近づいてくる。 まるで、買物の途中に友人と出会ったくらいの気軽な足取りだ。 「どうしてこんなところに?」 「カイムに会いに来た」 「お前、街がどうなってるかわかってるのか」 「そんなの、子供が見たってわかる」 馬鹿じゃないの、という口ぶりだった。 あまりにいつも通り過ぎて、こっちがおかしなことを言っているようだ。 「国王軍に見つかったら殺されるぞ」 「よく考えて行動しろ」 「考えた結果の行動だから」 「死ぬつもりか」 「違う」 「カイムに会わずに死ぬのが嫌だっただけ」 口先だけの冗談かと思った。 だが、エリスの目は、こちらが気後れするほどに真剣だった。 「俺に何の用だ?」 「生憎と、治療してもらうほどの怪我はしてないが」 「これからするご予定は?」 「ないな」 「あら、残念」 「でも、こっちの方は良くないわね」 エリスが俺の顔を指さす。 「顔の作りは関係ないだろ」 「そう? スラムにいる乞食みたいな顔してるけど」 「……」 城のバルコニーで、俺が自分自身に抱いた感想と同じだった。 「放っておけ」 「せっかく、心配してあげたのに」 エリスがため息をつく。 「カイムに会いたかったのは、渡したいものがあったから」 エリスが荷物から布袋を取り出す。 音から、金だとわかった。 「はい、これ」 「金? 何の金だ?」 「前に言ったじゃない」 「カイムが私を身請けしてくれたときのお金、返しておきたかったの」 「あの話か」 〈風錆〉《ふうしょう》とのいざこざが終わった後、エリスは俺から自分を買い戻すと宣言した。 そのために、まっとうな医師として開業することにしたのだ。 「お前、本気だったのか」 ため息と共に呟いた。 ある種感動的ではあったが、拍子抜けもした。 明日、死ぬかもしれないというのに……。 「こんな時に、金なんか……」 「こんな時だから……」 「こんな時だから、すると決めたことをするの」 エリスが毅然と言い、袋を突き出してくる。 仕方なく受け取った。 ずしりと重い。 「渡せて良かった」 すっきりと笑い、エリスが夕方の上層を眺める。 赤く染まった街は、まるで燃えるようだった。 「この街、もう駄目かもしれないわね」 「戦ってる人たちも、何のために戦ってるかわかってないみたい」 「ジークもか?」 「そうね」 「口では救世主がどうとか言ってるけど、あの変態がそんなこと信じてるわけないし」 「理由もなく戦争してるのか」 「どれだけの人間が死んでると思ってるんだ」 エリスが小馬鹿にするような笑みを浮かべる。 「カイムはわかってない」 「なんだと?」 「理屈じゃないから」 「あの変態は、黙って死ぬより行動することを選んだだけ」 「その先に何があるかなんて、きっとどうでもいいんだと思う」 「〈自棄〉《やけ》になってるのか」 「違う」 「動かないのが我慢できなかったんだと思う」 「もうすぐ死ぬかもって時に、先のこととか関係ないし」 「私だって、カイムに会う前に敵に見つかって殺されるかもしれなかった」 「でも、カイムに会わないなんて選択肢はなかったわ」 「もう少しマシなことに時間を使え」 「お前の言うように、都市がもう駄目になるなら尚更だ」 「だからこそ」 「もうすぐ死ぬかもしれないから、絶対にやり残したくないことをする」 「だって、後悔なんてしたくないから」 「それが、金か」 「違う」 「私が私になれたってことを、カイムに伝えたかった」 「ずっと、迷惑を掛けてきたから」 「お金は手段でしかない」 エリスが珍しく嬉しそうに笑った。 「エリス……」 「崩落が起きてから、たくさんの人を看取ってきたけど」 「人間、後悔を残して死ぬっていうのが、意外と怖いみたい」 「日頃はだらだら生きてるだけなのにね」 後悔か。 間もなく死ぬとしたら、俺に後悔はあるのだろうか。 ジークは、後悔しないために動きだした。 ──じっと滅びを待つわけにはいかない。 ──何かを変えなくてはいけない。 そんな衝動のみで動いている。 馬鹿らしい。 昔の俺なら、そう一蹴しただろう。 だが今の自分には、少しだけ羨ましくも思えた。 天使の力は尽き、頼みはティアの力だけ。 運が悪ければ、都市の全てが滅びるかもしれない今。 ジークもコレットも、そしてエリスも、死を前に自分の道を定めて動いている。 限りある瞬間を、内なる声に従って生きているのだ。 彼らに、将来の展望や行動の意味を〈糺〉《ただ》すことなど無意味なのだろう。 理屈や妥当性では、誰も、何も、変えられないのだ。 そんなもの、誰も欲していないのだから。 俺は、どうしたらいいのだろう? もう、夜明けはやってこないとしたら── あの夕日が沈むと同時にこの都市が終わるとしたら── 「カイムはこれからどうするの?」 「やるべきことがある」 「そう……」 「あんまり楽しそうなことじゃなさそうね」 「なぜそう思う?」 「暗い顔してるから」 「ま、気が進まないのは確かだがな」 「だったら、やめたらいいじゃない」 「誰かに弱みでも握られてるの?」 「いや」 「明日死ぬかもって状況で、よく気の進まないことする気になるわね」 「尊敬しちゃう」 「明日死なないように、今動くだけだ」 「ご立派ですこと」 「ま、せいぜい悔いを残さないように」 「もちろんだ」 「それじゃ、俺は行くぞ」 「カイム……」 引き留めながら、エリスは黙り込んでしまった。 「どうした?」 「今までのお礼でも言おうと思ったけど……」 「正直、あんまり嬉しいことされた記憶もないし」 「でも、何だか責めるのも違うみたいだから困ってた」 「ややこしい奴だ」 「お互いに」 苦笑し合う。 どうやら、エリスは最後の別れのつもりでいるらしかった。 実際、そうなる可能性は高い。 「そうだな……まあ、楽しかった」 「ええ、私も」 「またね、カイム」 エリスが右手を指し出してきた。 こいつと握手か。 いつの間にか、まともな人間になったものだ。 「ああ、またな」 しなやかな手を握る。 エリスはもう、俺と対等な人間だ。 「それじゃ」 手を離す。 エリスが踵を返し、戦場の方へと歩き出す。 不意に、置いて行かれたような気分になる。 ……なるほど。 ティアに対してもそうであったように、エリスには俺が必要だという感覚が、どこかにあったらしい。 俺は、考えていたより多くのものに頼って生きていたようだ。 もう少し殺伐とした世界を生きてきたはずだがな……。 行こう。 感傷に浸っている場合ではない。 エリスとは道を変え、敵陣の奥深くへと向かう。 夜が更けるのを待ち、俺は反乱軍の野営地が一望できる建物の屋根に陣取った。 ジークやコレットなどの幹部は、野営地のすぐ脇にある屋敷にいるらしい。 屋敷を守っているのは、オズをはじめとした不蝕金鎖の面々だ。 「……」 屋敷を観察する。 最悪の場合、俺はジークを殺して屋敷から逃走しなくてはならない。 塀が低い場所や勝手口など、逃走に使えそうな道を確認していく。 過去の経験から、逃走経路はいくつか割り出せた。 屋敷に入って詳しい情報を得れば、生還できる確率は更に上がるだろう。 ……考えてみれば、ひどい人生だ。 最後の最後に、友人を殺した後の逃走経路を考えねばならないとは。 殺しを仕事にしてきた報いなのかもしれない。 だが、仕方がない。 ジークを説得できれば一番だが、もしもの際の準備は必要だ。 指導者を失えば、反乱軍は勢いを失い、まもなく国王軍に鎮圧されることだろう。 稼げた時間で、ティアの研究は完成し都市は再び安定する。 そして、ノーヴァス・アイテルは平穏を取り戻す。 「……」 思考が止まった。 それから、俺はどうなる? 平穏になった世界で、俺はどうする? なぜだろう…… 将来の自分を上手く想像できなかった。 俺は、平和になった都市で何をしているのだ。 「く……」 身体が震える。 突然、手足が鉛のように重くなった。 ジークを説得に行かねばならないというのに、俺は何をしているんだ。 「うああああ……っ……あ……ぁ……!!」 福音の投与は続いていた。 搾り出されたように歪んだ声が、断続的に響く。 「どうだ、進行状況は?」 「福音は7割方浄化させましたが、覚醒はまだのようです」 ルキウスが唇を噛む。 街中からかき集めた羽つきは全て浄化した。 ギルバルトから奪取した福音も残り少なくなっている。 どこまで浄化させれば天使として覚醒するのか。 ……それは、わかっていない。 「頼む、ティア君っ」 ルキウスがティアに呼びかける。 彼の声は届いていないのだろう。 ティアは苦しげに身体を〈捩〉《よじ》るばかりだ。 「ノーヴァス・アイテルの運命がかかっている」 「君さえ頑張れば、皆を救えるんだっ」 ルキウスがティアの手を掴む。 ティアが薄く瞼を開く。 「頼む」 「わたしが……みなさんを……」 「そうだ、君が救うんだ」 「は、はい……」 ティアがかすかに笑う。 だが、それはルキウスの声に応えたものではなかった。 「あああっっ……あ、あ……く……」 また、新しい粉に触らせられる。 本当は、痛いから浄化したくない。 でもなぜか、やめられなくなっていた。 とても喉が渇いた時みたいに、自然と身体が浄化を始めてしまうのだ。 痛い…… 痛いです…… 痛すぎて、もうほとんど何も考えられない。 身体が、激痛にびくりびくりと〈痙攣〉《けいれん》している。 でも、そんな様子をどこか遠くから見ているような気分にもなっていた。 わたしは、どうなってしまうのでしょうか? カイムさん…… カイムさん……カイムさん…… 教えてください。 呼びかけても、返事などあるわけがない。 自分から会わないと言ったくせに、寂しくなる。 カイムさん、ごめんなさい。 本当はずっと傍にいたかったです。 でも、顔を見たら挫けてしまうから。 わたしが挫けたら、カイムさんが死んでしまうから……。 仕方なかったんです。 わたしを許してください…… 『許しを請う必要などありません』 突然、声が聞こえてきた。 もう聞き慣れた、あの声。 寂しそうで、苦しそうな声。 『よくお考えなさい』 『彼は、あなたを裏切ったのですよ』 「……え?」 「そ、そんなこと、ありません」 『でも、助けに来てはくれないでしょう』 『彼は、あなたの命より自分が生き残ることを選んだのです』 『人間とは、皆そのようなものです』 「ち、違います、違います!」 『あなたが苦しい思いをして救った街で、今後も彼は生きていきます』 『最初はあなたに感謝することでしょう』 『でも、それも長くは続きません。人は裏切る生き物ですから』 『あなたに感謝していると言いながらも、他の女性と関係を持つでしょう』 「っっ!?」 『想像してご覧なさい、彼があなた以外の女を抱いているところを』 『想像してご覧なさい、彼に抱かれて幸せそうな顔をしている女を』 「あ……あ……あ……」 「どうした?」 「〈痙攣〉《けいれん》が激しくなっています」 『あなたが命がけで救った街で、彼はあなたの知らない女を抱くのです』 「い……いや……いやです……」 「わたし……カイムさんを助けるために……こんなに苦しいのに……」 「なのに、なのに……」 『ほら、彼が知らない女に微笑んでいますよ』 「い……いや……」 「許せません……そんな、こと……」 おかしい。 こんなに苦しい思いをしているのに、カイムさんがわたしを忘れてしまうなんて…… 他の女の人と、楽しそうにしているなんて…… ずるいです…… 研究室が光に塗り潰される。 「っっ!!!」 「ルキウス様っ!」 それも一瞬。 光は、ティアの背中に吸いこまれるように収縮した。 「翼が……輝いています」 「新しい段階に入ったということか?」 「お、恐らくは」 「よしっ」 福音の浄化は、相変わらず続いている。 だが、ティアの表情からは苦痛の色が消えていた。 むしろ、生気を取り戻すかのように血色がよくなってきている。 ルキウスの目には、ティアが福音を我が力としているかのように見えた。 「間に合ってくれ」 「ティア君……頼む……」 空がかすかに白んできた。 まるで初めての仕事をした時のように、夜の闇の中、動けずにいた。 いろいろな理屈や感情が頭の中で絡まり合い、心が落ち着かない。 仕事の前には、いつも成功する自分を想像してきた。 そうすることで、心が落ち着き、持てる力を十二分に発揮できる。 だが…… なぜか、成功した自分を想像できない。 浮かんでくるのは、〈瓦礫〉《がれき》と化した街で、枯れ木のように佇む自分だけだった。 明るくなれば戦闘が始まる。 もう、考えている時間はない。 そうだ、ジークを説得しさえすればいいのだ。 説得できれば、ナイフを抜く必要などない。 頭を振り、モヤモヤした思考を振り払う。 「行くぞ……」 足を踏み出す。 その瞬間── 視界の隅で何かが光った。 〈咄嗟〉《とっさ》に光源を探る。 「!?」 ……。 声も出ない。 天使の塔が…… まばゆい光を放ち、夜の闇に浮かびあがっていた。 あの色は── もはや見慣れた、天使の力の色だ。 「……」 光はすぐに収束し、天使の塔は再び闇に沈む。 一瞬の出来事だった。 何かが起こったのだ。 あの研究室で、ティアの身に何かが。 「ティア……」 脳裏に、苦しむティアの顔が浮かぶ。 初めは一つだったそれは瞬く間に増幅し、頭の中を埋め尽くす。 あいつは今、俺を救おうと想像を絶する苦痛と闘っているのだろう。 生まれたときからずっと不幸で、自分に与えられた使命という幻に〈縋〉《すが》って生きてきて…… ようやく見つかった使命は、街のために犠牲になること。 それでも、前向きさを忘れず、〈向日葵〉《ひまわり》のように笑っていた。 そんな奴を犠牲にしてまで、俺は生きていたいのか? 自問が胸の奥に波紋を生む。 それは全身に拡がり、跳ね返った波紋がまた胸の一点に凝縮した。 残ったのは、目に見えないほどの光の粒。 これ以上なく小さく、これ以上なく堅固で── これ以上なく眩しい粒。 絶望と諦めの汚泥に沈んでいた、唯一にして最後の光。 「そうか……」 ずっと頭を悩ませていたものの正体がわかった。 なぜ、全てが上手くいった先のことが想像できないのか。 やっと…… やっとだ。 やっと、今頃になってわかった。 俺は、ティアを犠牲にしてまで生きていたくないのだ。 「……」 馬鹿だ。 散々、ティアを馬鹿だと言ってきたくせに、本当に馬鹿なのは俺だった。 どうして今まで気づかなかったんだ。 好きになった女を犠牲にして生きるなど、情けないにも程がある。 都市が救われたとしても、ティアが犠牲になっていたら、俺に何が残る? どんな美食も、ティアの料理を思い起こさせ、俺を〈陰鬱〉《いんうつ》な気分にさせるだろう。 どんなに明るい音曲も、鎮魂の歌に聞こえてしまうだろう。 どんなに豪華な部屋も、ティアといた牢獄の部屋ほどには俺を安らがせないだろう。 それでも、 ──ティアの犠牲は都市のために必要だった。 ──ティアを犠牲にしたのは、この都市の住民のため。 ──だから、俺の行為は間違っていない。 そう自分に言い聞かせながら生きていくのか? 無惨だ。 あまりに無惨な人生だ。 そこには、後悔と言い訳しかない。 「もうすぐ死ぬかもしれないから、絶対にやり残したくないことをする」 「だって、後悔なんてしたくないから」 「明日死ぬかもって状況で、よく気の進まないことする気になるわね」 「尊敬しちゃう」 「ま、せいぜい悔いを残さないように」 後悔だらけじゃないか。 ノーヴァス・アイテルは、明日にも滅びるかもしれないのだ。 この期に及んで、悔いを残す生き方をしてどうする。 今更、細かいことなど、どうでもいい。 ただ一事── ティアを犠牲にしたら、俺は絶対に後悔する。 何を言われようと知ったことではない。 「行こう……あいつを……」 「ティアを……救うんだ」 身体の奥底から今までにない力が湧いてきた。 妥当性も正しさも関係ない。 欲しいもののために走り、剣を振る。 それだけのことを、今までしてこなかったことに気付く。 確かに、牢獄の環境は厳しかった。 強き者の言葉に従い、状況を冷静に見極め、自分を押し殺して行動しなければ生き残れなかった。 殺せ── 奪い返せ── いつだって誰かの言う通りに動いていた。 一方で、それは楽な生活でもあったのだ。 何も考える必要はなく、全ての不都合を命令者の責任にできた。 エリスが、命令なしでは動けない人形であったように、いつの間にか俺も人形になっていた。 ルキウスに協力したのは、自分の足で牢獄から抜け出し、人形であった自分を捨てるためだったはずだ。 自分の生きる意味を見つけるための、前進であったはずだ。 にもかかわらず、俺はいつの間にかルキウスに飲み込まれていた。 強靭な意思を持ち、目標に向かって突き進むあいつに従うだけの存在になっていた。 「剣の意味は……振る者によって……変わる」 「お前が剣を振るのだ……」 「決して、剣に振られるな……」 ルキウスは正しい。 完膚無きまでに正しい。 だから、奴と行動するのは気が楽だ。 目標は明確だし、決断は多くの人間から歓迎される。 だが、誰も俺にそんな生き方をせよとは命令していない。 いつだって、正しい道から外れることができたはずだ。 だが実際はどうだった? 苦しむティアを見るたびに、都市を救うために仕方がないと自分を納得させてきた。 それは、意志を曲げる痛みを正しさで麻痺させていただけだ。 好きな女を犠牲にしてまで、なぜ生き延びねばならない? それが、正しいからか? 馬鹿らしい。 元人殺しが、何を立派なことを言っているんだ。 どうせ汚れた人間なのだ。 今さら、正しい判断などしてどうする? 全住民を向こうに回しても好き勝手にやればいい。 屋根から飛び降り、走りだす。 力の限り、走る。 遠くの空から日が昇ってきた。 白い光が差す野営地で、反乱軍は目を覚まし、戦闘の準備を始めている。 〈朝靄〉《あさもや》が晴れれば、今日の戦いが始まる。 反乱軍は、すぐに王城へと迫るだろう。 残された時間はわずかだ。 王城の入口には、すでに部隊が展開していた。 装備は血や泥に汚れ、かつての白い輝きはない。 その脇をすり抜け、王城に入る。 城内は〈人気〉《ひとけ》がなかった。 最後の総力戦に向け、多くの人間が狩り出されているのだろう。 リシアはどうしているだろう? あいつも、軟禁されたままで最後の瞬間を迎えたくはないだろう。 かつてのリシアの言葉を思い出す。 「世の中には『出来る』ことと『出来ない』ことがある」 「同時に『する』ことと『しない』こともある」 「『出来る』『出来ない』の話は結論が出しやすいが、『する』『しない』の話は違う」 「それぞれの考え方で答えが変わってくる」 「選択によって人が表現されるということだ」 都市を救うためにティアを犠牲にする。 『出来る』ことだったし、大多数の賛同を得られる選択だろう。 だが俺は、ティアを犠牲には『しない』。 リシアが王として民と戦わないことを選んだように。 かつての俺は、リシアの選択を愚かだと思った。 この都市の住民も、俺の選択を愚かで身勝手だと言うだろう。 だが、それでもなお── 『しない』ことはあるのだ。 リシアの部屋の前には衛兵が一人立っているのみだ。 近づく。 「何だお前は?」 「ルキウス卿があちらでお待ちだ」 「あんたに内密で伝えたいことがあるらしい」 大広間の方角を指さす。 釣られて、衛兵がそちらを向いた。 「がっ」 鼻梁を叩き折る。 転倒した衛兵を更に殴り、戦意を失わせる。 「鍵を借りるぞ」 鍵と、ついでに武器も奪い、部屋の扉を開ける。 「何用か」 椅子に座り、こちらに背を向けたままリシアが言った。 どうやら読書をしているようだ。 「出番だ、国王陛下」 「!?」 リシアが振り返る。 「カイムっ!?」 「衛兵が寝ている間に、ここから出るんだ」 「恩に着るぞ」 リシアと共に部屋を出、大広間を目指す。 「戦況はどうか?」 「反乱軍は間もなく城に迫る」 「城門が抜かれれば、この王家も終わりだ」 「まだ戦っていたのか!?」 「ルキウスめ、ふざけた真似を」 「行くのか、戦場に」 「もちろんだ」 衛兵から奪った剣を渡す。 「持っていけ」 「助かる……と言いたいところだが」 「私は戦いを止めに行くのだ、武器は必要ない」 リシアが、にっと笑って前を向く。 「お前、なぜ私を助けた」 「ルキウスの腰巾着ではなかったのか?」 「そう思われていたのか」 「違ったのなら謝るが……」 横目に俺を見る。 「かつては腰巾着だったかもしれない」 「だが、今は違う」 「それでいい」 「お前は、お前であればいいのだ」 「始まったか」 リシアの表情が引き締まる。 「お前はこれからどうする?」 「ティアを迎えに行く」 「ほう……」 「それは、ノーヴァス・アイテルを滅ぼすと言っているのと同じではないか?」 「わかってる」 「だからといって、ティアを犠牲にはできない」 リシアを見据える。 彼女も正面から俺の視線を受け止めた。 「ふふふ……はははははっ!」 「あのカイムが、最後はそれか……ははははっ!」 「好きに笑うがいい」 リシアが目尻の涙を指で拭う。 「いや、すまなかった」 「……存分にやるといい」 「止めないのか?」 「私は私で、やることがある」 リシアが口を閉じる。 大広間に静寂が訪れた。 外の〈剣戟〉《けんげき》や怒号が聞こえてくる。 「お前には、最後まで世話になった」 「礼を言われる程のことはしていない」 言葉が一瞬途切れる。 リシアが小さく微笑んだ。 「さらばだ、カイム」 「お前のことは、まあ……嫌いではなかった」 「こっちもだ」 俺の返事に頷き、リシアは城から出て行く。 「リシア」 背中に声をかける。 「ヴァリアスが生きていれば、今のお前に喜んで付き従っただろうよ」 足を止めたリシアが振り返る。 「あいつは、いつでも私の傍にいる」 「どんな刃からも、必ず私を護ってくれるはずだ」 穏やかに言って、リシアは戦場へと踏み出す。 小さいながらも、その背中は威風堂々としていた。 さて、俺も行くか。 天使の塔を目指し、無人の廊下を走る。 待っていてくれティア。 お前はずっと頑張ってきたのだ。 全てが終わる最後の瞬間くらい、全てから解き放たれ、笑ってもいいはずだ。 視界が開ける。 塔へ繋がる橋には、10人からの衛兵が立っていた。 「……」 塔に行くには、橋を渡るしかない。 衛兵が俺に気づいた。 次々と抜剣の音が響く。 やってやろうじゃないか。 今を置いて、戦うべき時はない。 あらゆる障害を排除し、ティアをこの手に取り戻すのだ。 「ルキウス様、戦闘が始まったようです」 「王城が陥落するのは時間の問題かと」 「ティアの覚醒はまだか!?」 「まだ、届きません」 「くっ……」 ルキウスの顔が歪む。 研究員が、初めて見るルキウスの表情に目を見張る。 「福音の残りは?」 「もはやわずかです」 「残念ながら、覚醒には届かぬかと」 ある時期を境に、ティアは福音を積極的に吸収するようになった。 翼は一段と大きく美しくなり、今や神々しいまでの光を放っている。 だが、 だが、足りない。 「ティアを天使の間へ運べ」 「牢獄をすべて《解放》し、その分の力をティアに移すのだ」 「えっ!?」 「《解放》の準備は、まだ整っておりません」 「今《解放》すると、想定していない場所が落ちる可能性があります」 「下層や上層が落ちた場合、大きな被害が……」 「都市全体が落ちるよりはましだろう」 「し、しかし……」 「お前がやらぬのなら、私がやる」 「わ、わかりましたっ」 研究員が指示を出し、ティアが移送されていく。 その様子を見ながら、ルキウスは深呼吸をして苛立ちを鎮める。 冷静になれ。 少しでも早くティアが覚醒するよう、できることを考えるのだ。 彼女さえ覚醒し、その大いなる力でノーヴァス・アイテルを安定に導いてくれるのなら、自分はどうなっても構わない。 今まで犠牲にしてきた人々の元に行き、いかなる罰でも受けよう。 だが、それまでは── この都市の全ての〈怨嗟〉《えんさ》を身に受けても、倒れるわけにはいかない。 「ルキウス様」 「どうした?」 「もう、この場で私のできることはありません」 「私は、戦場に参ります」 システィナの、いつになく改まった声だった。 ルキウスは瞬時に悟る。 わずかな時間のために散るつもりか。 「戦場に行っても同じだ」 「一人の力では、何も変えられん」 「そうでしょうか」 システィナの手にあるものに、ルキウスは〈瞠目〉《どうもく》した。 「あの狂犬が飲んでいたものです」 「人の身ならばさしたる力にもならないでしょうが、狂犬ならばどうでしょう?」 「お前……」 「何卒、ご命令を」 システィナが膝をついた。 「今の技術では、人に戻ることはできない」 「元より承知の上です」 「この命、ルキウス様の大願のために燃やすと、かねてより決めておりました」 ルキウスがシスティナを見つめる。 女は、俯きがちに最後の命令を待っていた。 ルキウスにとって、システィナはかけがえのない存在だった。 立場の差から関係を持ったことはなかったが、一番近くで彼を支えたのはシスティナに他ならない。 ルキウスの脳裏に、かつての光景が蘇る。 ルキウスとして生きることを強要され、ネヴィルの〈執拗〉《しつよう》な暴力に晒された日々── 屋敷から出ることも敵わず、生き残ることだけを考えていた日々── 唯一、心を開くことができたのは、召使いとして雇われていたシスティナだった。 彼女もまた、ギルバルトに道具として育てられ、自分を見失っていた。 自分が自分である証を、必死に見つけようとしていたのだ。 自分たちは、同じような境遇を慰め合いながら生きてきた。 彼女が、間諜であるとの告白を聞いた時には驚いたが、それでも彼女は自分の傍にいてくれると誓ってくれた。 あれから、長い歳月が経った。 共に政変を企て、互いの養父を殺害した。 恐怖の象徴であったネヴィルを、共に刺し貫いたときの感触。 剣を握る手に重ねられた、システィナの手の温かさ。 全てが、つい昨日のことのように思い出される。 「システィナ……」 ルキウスは手を伸ばし、跪くシスティナの頬に触れた。 システィナの身体がぴくりと反応する。 「……」 システィナは、無言で頬に当てられた手に触れる。 大きく、愛おしい手だった。 システィナの胸には、高揚と満足感、そして悲しみが同時に去来した。 命令を欲しつつも、それが来ないことを望む。 この時が永遠に続くことを願っていたのかもしれない。 「システィナ、可能な限り反乱軍を足止めせよ」 「御意」 頬から手が離れ、システィナは立ち上がる。 ガウが自分の欲求に忠実な狂犬ならば、私は主人に忠実な猟犬だ。 主人の期待に十二分に応えることこそ、我が最大の喜び。 再びその手に触れることはなくとも、最後の瞬間まで主人のために尽くすのだ。 「失礼します」 踵を鳴らし、踵を返す。 システィナの唇が、わずかに動く。 ──お慕い申し上げておりました、ルキウス様。 「皆さん、王城はもうすぐです」 「天使様をお救い申し上げれば、全ての苦しみは終わり、約束された安寧がやって参ります」 「進めっ、これが最後だっ!」 城門を挟んでの戦闘は、烈しさを増していた。 ジークの想像より、国王軍の抵抗は激しい。 馴染みの構成員達が死んでいく度に、思わず目を背けたくなる。 自分の選択は正しかったのか── 反乱を起こしたその日から、ずっと自問してきた。 結論はいつも同じだ。 正しかろうが間違っていようが、反乱を起こさずにはいられなかった。 何故、牢獄だけが崩落するのか。 何故、牢獄民は避難することすら許されないのか。 あまりにも不条理すぎる。 何も知らぬまま、何もせぬまま下界に落ちるのは嫌だった。 いずれ死ぬ身なら、最後に自分の生き様を叩きつけたかった。 自分は、結果のためだけに生きているわけではない。 結果はどうあれ、やらなくてはならないことはあるのだ。 自らに言い聞かせるように結論づけ、ジークは己を奮い立たせる。 「お前ら、牢獄民の意地を見せろっ」 「今まで、何のために泥水を〈啜〉《すす》ってきたんだっ!」 檄を飛ばしながら、ジークは城門を見つめる。 石をも貫きそうな視線の先には、フィオネがいた。 羽狩りの部隊を巧みに操り、城門を守り通している。 「やるじゃねえか、あの女隊長」 ジークと初めて会ったときには、牢獄の作法も知らないお堅いだけの女だったが、今は違った。 羽狩りをよくまとめ、地の利を十分に生かして戦っている。 ──関所を落とされてから、また成長したようだな。 ──これだから、できる奴は困る。 ジークは苦笑した。 「こっちには救世主様がついてるんだ」 「お前ら、みっともねえところを見せるんじゃねえぞっ!」 反乱軍の中央には、いつもコレットがいた。 純白だった聖女の式服は、もう泥と血に汚れている。 それでもコレットは美しい。 まるで内側から光を発しているかのように、彼女は戦場のどこからでも見ることができた。 コレットの発する言葉の一つ一つが、聖なる光となって反乱軍に降り注ぎ、兵士達を鼓舞する。 すでに、反乱軍は牢獄民だけの軍ではない。 下層民も、関所を守っていた衛兵たちも、劣勢を悟った貴族の私兵も加わっている。 ノーヴァス・アイテルに住む、全ての階層の人間が、コレットの下で戦っていた。 だが、全ての人間がコレットを救世主だと信じているわけではない。 コレット自身、それは理解していた。 自分は、皆の不安や絶望に方向性を与え、一つの流れにしているに過ぎない。 しかも、ジークという人物なしでは恐らく自分には何もできない。 戦いが終われば、自分の権威などは消えてなくなるだろう。 だが、多くは望むまい。 聖女の役割が崩落の責任を取ることだと知ってから、自分は天使様だけを崇めてきた。 天使様をお救いすることができれば、救世主などという立場に興味はない。 どんなところで生きていても、どんなに貧しくても、誰も信じてくれなくても── 信仰は、私の心の中に在り続けるのだから。 「コレット、危ないから下がって」 「何を言うの」 「私が下がっては、皆さんの士気に影響します」 ずっと私を支えてくれたラヴィ。 戦争が終わったら、彼女と一緒に小さな店でも開いて生きていけばいい。 二人の生活を想像し、コレットの口元には微笑みが浮かんでいた。 「私には、天使様の苦しまれる御声が聞こえます」 「皆の者、心を一つにして、〈穢〉《けが》れた信仰に染まった敵を打ち破るのですっ!」 〈鬨〉《とき》の声が、コレットの声に応じた。 「あんな大声出して、よく疲れないわね」 「あの人たち、何に向かって進んでるのか、わかってるのかしら?」 冷めた視線で、戦場を後ろから眺める者があった。 エリスだ。 軍医として従軍し、ここ数日で数え切れないほどの負傷者を治療してきた。 エリスは、もう一生分働いたと思っている。 今までの縁で、あと2、3日は反乱軍の軍医でいる気でいたが、それから先のことは考えていない。 カイムへの借りも返し、彼女はすでに満足していた。 もう、望むものはない。 強いて挙げるとすれば、もう一度カイムに迫って、困らせてやる事くらいだろうか。 彼女の願いは、いつだって単純だ。 だからかもしれないが、こんな状況でも彼女は迷わなかったし、心は凪いでいた。 「ああそう……」 「もし、平和が来るなら、今度はメルトみたいな料理人でも目指してみようかな」 こだわりもなさそうに呟き、エリスは再び静かな視線を戦場に向けた。 かつての彼女とは違い、その瞳は、森の奥の泉のように澄んでいた。 「我らが命に代えてでも、ここは守り抜くのだっ」 叫びつつ、自らも剣を振るう。 振るいながらも、反乱軍を傷つけたくないと考えている自分に、フィオネは戸惑いを覚えていた。 関所の戦闘以来、ずっと抱き続けてきた違和感だ── 自分は、正義のために剣を振るうのではなかったか? 反乱軍は、ただ恐怖から逃れるために戦っている。 恐怖を与えているのは、この国だ。 フィオネが仕えてきたこの国が、彼らを突き動かしているのだ。 ならば、正しいのは反乱軍ではないか。 自分たちは、なぜ牢獄民を止めねばならないのか? いや、牢獄民だけではない。 今の反乱軍には、下層民から貴族まで加わっている。 我々はまさに、ノーヴァス・アイテルの住民全てを相手にしているのだ。 ──一体、何が正しいのか。 彼女には、答えがわからなかった。 「くっ……」 飛んできた矢が、フィオネの頬をかすめた。 流れた血を舐め、不明瞭になっていく意識を引き寄せる。 「答えがないのなら……」 自分の意思を優先すべきだ。 フィオネの頭の中に恐ろしい発想が浮かび、手が震えた。 剣の柄を握り締め、震えを無理矢理止める。 今こそ── その時だ── 「はぁ……はぁ……はぁ……」 しばらく走り続け、リシアはようやく最前線が見える場所に辿り着く。 戦場の空気に膝は震えているが、それでも止まるわけにはいかなかった。 ──国民が戦っているのだ。 ──王として止めねばならない。 使命感だけが、即位したばかりの国王を突き動かしている。 彼女個人の感情としては、城を守りたかった。 そこは彼女の家であったし、数々の思い出が詰まった場所だ。 血に汚れた靴で踏みにじられたくなかった。 だが、それも仕方のないことだとリシアは思う。 国王軍は明らかに劣勢。 兵士たちには申し訳ないが、これ以上戦っても無駄な犠牲が増えるばかりだ。 降伏をすれば、自分は断頭台の露と消えるかもしれない。 だが、それも国王の責務であるに違いなかった。 「父上、ご笑覧下さい」 リシアは、全てが見下ろせる場所に立った。 大きく息を吸う。 「私は、現国王、リシア・ド・ノーヴァス・ユーリィである」 「反乱軍の指導者はおらぬかっ!」 リシアの精一杯の声だったが、男たちが入り乱れる戦場ではあまりに無力。 怒声と悲鳴に覆い消されるかに見えた。 が、 「私が指導者です、無知なる国王よ」 反乱軍の中から、応じる声が上がった。 二人が持つ、常人を越えた気のなせる業か。 戦闘は次第に終息し、水を打ったような静寂が戦場を包む。 「数日ぶりか、救世主」 「ようやく、降伏する気になりましたか」 リシアが頷く。 「だが、条件がある」 「条件とは?」 「国王軍として戦った人間の罪を問わない……これが条件だ」 「私の身は、そなたらに預けよう」 「殺すなり下界に追放するなり、好きにするがよい」 二人の声が、軍勢の上を飛び交う。 兵士達は、息を飲んでそのやりとりに聞き入っていた。 「陛下は……降伏されると言うのか……」 「ようやくか」 「はぁ、終わりか」 「牢獄の民よ、そなたらの受けた苦痛、悲しみは全て我が不徳の致すところである」 「故に、その怒りは私が受けるべきものであり、兵士が受けるべきものではない」 「国王軍は、私の命に従って戦っているに過ぎないのだ」 「立派なお覚悟です、国王よ」 「貴女の下した唯一の正しい判断として、後世に語り継がれることでしょう」 「さあ、軍の武装を解除させ、こちらへおいで下さい」 「……」 リシアは、一度天を仰いだ。 この先、自分はどのような目に遭うのだろうか。 きっと、数々の辱めを受けた後に殺されるのであろう。 身体は本能的な恐怖に震えていた。 それを強靭な意志で無理矢理に抑えつける。 「皆の者、武器を収めよ」 一瞬のざわめき── そして、武器を収める無数の金属音が上層に響いた。 「よし」 リシアは高台から戦場に下りる。 両軍が左右へと開き、リシアとコレットを繋ぐ道ができた。 「陛下、お供いたします」 リシアの元に、一人の兵士が進み出、跪いた。 「そなたは?」 「フィオネ・シルヴァリアと申します」 「フィオネ……?」 「はい、ルキウス様より国王軍の指揮を命じられております」 「ご苦労、面を上げよ」 フィオネが顔を上げる。 国王を、こんなに間近で見るのは初めてだった。 ……まだ子供か。 関所で遠目にリシアを見たとき、フィオネはそう思った。 だが、眼前のリシアからは支配する者特有の高貴さが発せられている。 ここにきて、フィオネは自分の不明を恥じた。 「名はカイムから聞いた」 「関所を守ってくれたらしいな」 「申し訳ございません」 「私が関所を守りきっておれば、このようなことには」 「構うな、お前はよくやってくれた」 「同じ民を傷つけねばならぬこと、さぞかし辛かったであろう」 「あ……」 フィオネは、思わずリシアの顔を凝視した。 なぜ国王が自分の心の〈裡〉《うち》を知っているのか。 それが不思議でならなかったからだ。 「牢獄民たちは、ただ人並みの幸福を望んでいた」 「下層ならば、簡単に手に入る程度の幸福をな」 「それを与えられなかったこと……」 「国民同士が、傷つけ合わねばならなかったこと……」 「全ては我が罪」 「そなたは、何も気に病むことはない」 「今後も、胸を張り、その力を誰かの下で存分に発揮するが良い」 リシアが微笑む。 不意に、フィオネの涙腺が熱くなる。 自分の仕えるべき王は、ここにいた。 その思いが、彼女の中にこみ上げてきたのだ。 できることならば、もっと早くお仕えしたかった。 だが、それも終わりだ。 「さて、救世主を待たせるわけにもいくまい」 「供をしてくれるのだろう?」 「はい」 フィオネが立ち上がる。 リシアが差し出した手を、フィオネが取る。 小さな手だった。 だが、その温かさはフィオネの心に染みた。 「ご案内いたします」 「ああ、このような争いは、もう終わらせよう」 二人がコレットに向かって歩を進める。 「そう綺麗に終われないのが人間というものですよ……親愛なる国王陛下」 下界から這い上がってくるような声だった。 だが、声の主は空にいた。 「なっ!?」 「っっ!?」 リシアたちの眼前に、一人の女が着地する。 どこから跳躍してきたのかはわからない。 常人の業ではなかった。 「そ、そなたは……」 「勝手に終わらせてもらっては困るのですよ」 「まだ、命がけで戦っている御仁がいるのですから」 「シ、システィナ殿」 フィオネが、システィナの異形に〈凝然〉《ぎょうぜん》となる。 身体の一部に、黒い羽毛が生えていた。 それは、黒羽に似た…… 「皆の者、死んでいった者を思い出せっ」 「国のために戦い、散っていった同輩を思い出せっ」 「牢獄民に〈蹂躙〉《じゅうりん》された家々を、家族を思い出せっ」 「敵はまだここにいる」 「主の刃は折れるとも、我らが刃はまだ折れていないっ」 「や、やめろっ!?」 「戦うのだ、勇猛なる者達よ」 「我らが底力を、敵に思い知らせるのだっ!」 リシアの背後から、剣を抜く音が無数に聞こえた。 「私に命を預けよっ」 「続けっ!」 異形の女が敵陣に飛び込む。 何かが爆発したかのように、血煙が上がった。 一瞬で、3、4人の人間が肉塊へと変わる。 「陛下、お退き下さいっ」 「私は、戦闘を終わらせねばならないのだっ」 「陛下っ!」 フィオネがリシアの腕を引く。 再び〈鬨〉《とき》の声が上がった。 システィナの蛮勇に奮い立ち、国王軍の一部が反乱軍へと斬り込む。 「手こずらせてくれる」 「どうやら、まだ終わらせたくない奴らがいるらしいな」 「ほんと、暇人が多いみたい」 ジークが忌々しげに、システィナを見つめる。 反乱軍の兵士が、次々に肉塊へと代っていく。 化物だ。 ようやく見えかけていた反乱軍の勝利は、システィナの蛮勇により、また遠ざかった。 更に多くの犠牲が出ることは避けられない。 「あの魔物を討ち取るのです!」 国王軍の多くが再び剣を取った一方、武器を収めたままの部隊もあった。 羽狩りを出自とする部隊だ。 「隊長さん、俺達はどうしますか?」 「決まっている」 「あの化物を止め、戦闘を終わらせるのだ」 「りょーかいっ!」 フィオネが抜刀した。 「お前達、いくぞっ!」 羽狩りの男たちが応じる。 熟練の一隊が、疾風の如く戦場へと駆け入った。 その姿をリシアが凝視する。 敗戦の地を、記憶に焼き付けるように。 「なっ!?」 都市を突然の地鳴りが覆う。 そして── 都市の各所に亀裂が入った。 天使の威光から切り離された場所が、ゆっくりと下界へと落ちていく。 一箇所や二箇所ではない。 山も、林も…… 牢獄も、下層も、上層も…… 古布を虫が食うように、次々と穴が空いていく。 戦場も例外ではない。 「……あ……あ……」 お〈伽噺〉《とぎばなし》のような光景に、国王の意識は〈朦朧〉《もうろう》となる。 ……地獄だ。 これが、地獄というものに違いない。 こんな現実、あっていいはずがないのだ……。 萎びた天使に繋がれていた導線が、ティアに接続される。 これで、ティアが覚醒しさえすれば、都市を支える力を抽出できるはずだ。 柱に固定された姿は、まるで〈磔刑〉《たっけい》にかけられた罪人のようであった。 「《解放》を実行します」 「許可する」 力の流れが変わる。 今まで都市に注がれていた力の一部が、ティアへと流れ込んでいく。 振動が塔を衝き上げた。 崩落が始まったのだ。 「……」 ルキウスにとって最後の賭けだった。 これでティアが覚醒しなければ、もう策はない。 全てが終わるのだ。 ルキウスが、硬い表情でティアを凝視する。 だが── ティアは静かに目を閉じたままだ。 「……何故だ……」 「何故、何も起らない」 「わかりません……」 「力は、十分に与えているように思うのですが」 「くっ……」 考えろ。 考えるんだ。 ルキウスは自分に言い聞かせる。 都市を安定させる── その一事のために、自分は沢山の人間を犠牲にしてきた。 諦めることは、もはや罪だ。 自分は、最後の瞬間まで正しい判断をしなくてはならない。 「やはり、人間の手には負えないのかもしれません……」 「黙れっ!」 「弱音を吐く暇があったら考えろ」 何か手があると信じて、考えるのだ。 どこかに、ティアの覚醒を促す要素はないか。 彼女を変える、何かが必要なのだ。 「!!」 ルキウスの頭に閃光が走った。 試してみる価値はある。 唐突に、ルキウスが剣を抜いた。 「ど、どうなされるおつもりで?」 「……」 ティアは、相変わらず眠っているように見える。 その緩やかに上下する胸に、剣の鋭い切っ先が向く。 「見ていれば、わかる」 「あああぁぁっ……あっ……あっ……」 刀身がティアの身体に沈む。 「な、なんということを……」 「見ていろ」 ルキウスが剣を引き抜く。 と、 ティアの身体が光り、傷口が閉じていく。 2、3度、瞬きをする間に、肌は美しい状態に戻った。 「……よし」 「ル、ルキウス様……」 胸を刺す。 もう一度。 「ひ……」 表情も変えず、ルキウスは何度もティアを貫く。 そんな貴族を見る研究員の目は、闇夜に化物と遭遇した人間のそれだった。 「く……狂ってる」 「狂ってなどいない」 「さあ、お前も手伝うのだ」 「む、無理……無理ですっ!?」 研究員が、足をもつれさせながら逃げる。 ルキウスは目もくれない。 彼は、ティアの変化に夢中になっていた。 剣を刺し、傷口が塞がる度に、ティアの発する光が強くなっていく。 それと共に翼は成長し、〈蕾〉《つぼみ》が開くように広がっていった。 ルキウスの推理は正しかった。 カイムの話によれば、ティアの翼は蘇生した後に大きく成長したという。 天使の力を吸収させることも重要だが、天使の力を使わせることも肝要だったのだ。 天使に染めていくだけでは不十分。 天使の力を使わせることで、自分が天使であること思い知らせるのだ。 「うああっ!」 「ああああっっっ!!」 「いいぞ、ティア君……もう少しだ……」 「もう少しで、多くの民が救われるのだ」 ティアの胸に〈穿〉《うが》たれた、2、3の〈孔〉《あな》が、瞬く間に塞がる。 治癒能力も向上してきているらしい。 次は、ここだ。 ルキウスが、ティアの白い首筋を見据える。 「っっ!」 剣が振り上げられた。 切っ先が、ティアの光を反射して〈燦〉《きら》めく。 「やめろ」 「お前は、何をやっているんだ」 俺の声が天使の間に響き渡った。 ルキウスが動きを止める。 「カイム……」 剣を下ろし、ルキウスがこちらを向いた。 「かなりの衛兵を配置したはずだが」 「ああ、お陰で到着が遅くなった」 衛兵の返り血で、身体はかなり汚れていた。 どう見ても、女を迎えに来るなりではない。 「倒したのか」 「ああ」 ルキウスとティアに近づく。 ティアは、天使の隣で柱に架けられていた。 翼は、最後に見たときよりも遥かに大きく、美しい。 身体全体が、薄紫色の光をぼんやりと発していた。 「ティアは眠っているのか?」 「天使として覚醒する前の〈微睡〉《まどろ》みと言ったところか」 「ここへ、何をしに来た?」 「そいつを返してもらいに来た」 「彼女のことは、私に任せるのではなかったか?」 「ティアを犠牲にするのはやめた、それだけだ」 「都市が滅亡の危機に瀕していると、わかっているのか?」 「わかっている」 言われるまでもない。 だからこそ、今まで〈逡巡〉《しゅんじゅん》してきたのだ。 「誰も喜ばない選択だぞ」 「決めたことだ」 「俺は、ティアを犠牲にしない」 「何があろうと、だ」 ルキウスが俺を見つめる。 俺の願望だろうか。 彼の視線には、どこか温かみがあるような気がした。 「そうか……」 「ようやく、決めたのだな」 ルキウスが、抜き身の剣を持ったまま、ゆっくりと近づいてくる。 「ティアを返してもらおう」 「断る」 「もう、牢獄はおろか下層まで穴だらけだ」 「この都市に、必死になって守るほどの価値はない」 「まだ、生きている人間がいる」 「一人でも生きている人間がいる以上、私はこの都市を落とすわけにはいかない」 ルキウスが間合いに入った。 説得できないことなど、初めからわかっている。 真に最後の二人になっても、ルキウスは都市を放棄しないだろう。 もはや、無力化する以外にこいつを止める方法はない。 「やるのか?」 「……」 ルキウスが剣を構える。 筋の良さを感じさせる、美しい構えだ。 「悪いが、あんたじゃ俺には勝てない」 「瑣末なことだ」 ルキウスの剣を受ける。 〈鍔迫〉《つばぜ》り合いとなり、目の前にルキウスの顔が来た。 「よもや、刃を鈍らせたりはしないだろうな」 「愚問だ」 「はあっ!」 「くっ!」 距離を取るも一瞬、 突き出したナイフを、ルキウスが受け流す。 絡みついてくるような受け流しに、身体が持っていかれそうになる。 だが、 重心を下ろし、更にナイフを繰り出す。 「ふっ……」 息を吐き、ルキウスが距離を取る。 政変の際にも確認したが、なかなかの腕前だ。 「剣技も、ルキウスになるために必要だったのか?」 「ネヴィルの中のルキウスは、万能の天才だったらしくてね」 「どんなことでも必要以上に仕込まれた」 「お似合いじゃないか」 「アイムって男も万能だった」 「っっ!」 ルキウスの横薙ぎ一閃。 紙一重で避け、懐へ入る。 「くっ!?」 肉を裂く手応え。 剣を持ったルキウスの右腕が赤く染まっていく。 「さすがに強い」 「牢獄での生活も無駄ではなかったか」 ルキウスが、無傷の左手に剣を持ち替える。 こちらが、奴本来の── アイム・アストレアの利き腕だ。 「ずっと、自分の運命を呪ってきた」 「なぜ、見たこともない人間の代わりを務めなくてはならないのか」 「なぜ、狂った老貴族のために生きねばならないのか」 珍しく、ルキウスが自分のことを語り始めた。 「だが、生きるためには仕方がなかった」 「言う通りにしなければ、殺されるだけだったからだ」 「名前を変え、髪の色を変え、利き腕を変え、仕草を変え、口調を変え……」 「それまでの自分を、全てルキウスで塗り潰して生きてきた」 「ああ……わかってる」 俺も、同じだ。 生き延びるために、全てを捨ててきた。 己の生きる意味さえも。 「ネヴィルの悲願を果たすため城に上り、そこで私は真実を知ったのだ」 「はじめて運命に感謝したよ」 「偶然とはいえ、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の復讐ができることになったのだからな」 「だが、気がつけば、自分は新たな崩落を起こす側の人間になっていた」 「結局、私はルキウスという人間から逃げることはできない」 「いや、逃げてはならないのだ」 「崩落を故意に起こすこと……」 「それは、何らかの事情によって正当化できるほど、生易しい罪ではない」 「だが、その時はもうネヴィルは狂っていた」 「あんたは、いつだってルキウスをやめて、アイムに戻れたはずだ」 俺が、牢獄をいつでも出られたように。 ルキウスもまた、いつでもルキウスをやめられたはずだ。 ルキウスが目を見開いた。 「確かに、戻ることはできたのかもしれない」 「だが……」 そこまで言って、言葉を探す。 「弱さだな、私の」 意外な言葉が返ってきた。 「政治家であることは気持ちが良かったし、救いがあった」 「ルキウスとして生きていく上での支えだったのだ」 「〈他人〉《ひと》に喜んでもらえること、社会を変えることができること……」 「そういった社会との関わりがなければ……」 「私の人生は、ただネヴィルの玩具であったというだけのものになる」 「それでは、何のために生まれてきたのかわからない」 「だから、政治家であることをやめようとは思わなかったのだろう」 やはり、俺に似ていた。 俺が牢獄を出なかったのは、あそこにいさえすれば、考えることを諦め続けてきた自分を責めずに済んだからだ。 牢獄の苛酷な現実は、一方で、俺を優しく受け入れてくれていた。 「だがそれも、崩落を起こした時までのことだ」 「無数の住民をこの手にかけ、私は覚悟を決めた」 「今の自分は強要されたものだ、などという言い訳は……終わりにしようと」 「私はルキウスでなくてはならないのだ」 ルキウスが、再び剣を右手に持ち直した。 流れ落ちる血液が、剣の柄を濡らす。 「左にしておけ」 「その腕では相手に……」 「私は、ルキウス・ディス・ミレイユだ」 ルキウスが、俺の言葉を遮った。 瞬間、悟る。 俺達は、もう二度と交わることのない道を歩んでいることに。 「お前を倒し、私はこの都市を守る」 「ルキウスっ!」 一気に間合いを詰めてきた。 その動きは、呆れるほど無様だ。 「はっ!!」 剣が振られる。 負傷した腕で振られた剣だ。 わずかでも身を〈捩〉《よじ》れば、容易に避けられる軌道。 身体に受けたとしても、深手にはならぬほど鈍い斬撃。 ルキウス…… これが俺達の終わりなのか。 明るく、聡明で、優しかった兄。 物心ついたときから、ずっとその背中を追ってきた。 母親の愛情を奪われ、時に憎みもしたが、やはり心の底からは嫌いにはなれなかった。 それは、お前を── 俺は、お前を── 奇跡的に《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》を生き残り、 苛酷な環境をくぐり抜け、 共に政変を戦った。 ようやく肩を並べて歩くことができたのに…… もう、俺達は同じ方向を向いて歩くことすらできない。 ルキウス…… 剣が迫る。 一瞬、もらってやろうとも思った。 だが、人殺しとして生きてきた俺の半生が、身体を勝手に制御する。 悲しいほどあっけなく── まるで、すれ違う人と肩がぶつかるのを避ける程度の気軽さで、彼の渾身の剣を避けてしまう。 ルキウス…… どうして、俺達は── あの時、一緒に死ぬことができなかったんだ。 「……」 「……」 俺のナイフが、ルキウスの腹部を深々と抉っていた。 目の覚めるような赤が、純白の服に広がっていく。 「流石に……牢獄の何でも屋は……違うな……」 俺に覆い被さるように、ルキウスが倒れた。 「ルキウス……」 握り締めたままの剣を離させ、仰向けにしてやる。 まだ、胸は上下していたが、出血は多い。 そう長くは保たないだろう。 ルキウスの横に膝をつく。 「どうだ、気分は?」 「さ……最低だ」 「俺もだ」 「ふ……」 小さく笑って、ルキウスは目を閉じる。 「お前がここに来たとき……私は嬉しかった……」 「少しだけだがな」 俺が感じたことは、間違いではなかったらしい。 「皆が命を散らしている時に、お前は道を定めていなかった」 「川面を流れる落ち葉のように」 「時に理屈を取り、時に感情を取り……」 「結局、お前は……選ぶことを避けていただけに見えた」 「あんたの言う通りだ」 「俺はずっと、自分一人で道を選ぶことが怖かった」 「だから、いつも正しさや妥当性を探していたんだ」 「だが今……こうやってお前は、一つの決意を持って現れてくれた」 「同じ道を歩けないことは、少し寂しいが……」 「今のお前に討たれるなら……諦められるかもしれない……ごほっ」 ルキウスが、血の混じった咳をする。 「自分の死期というやつは、意外とわかるのだな」 「そうらしい」 「最後に一つ、聞かせてくれ」 「ああ」 「お前は……自分が生まれてきた意味を……見つけることができたか?」 人生で大切なのは、精一杯生き、自分が生まれてきた意味を知ること── 今なら、母親の言葉の意味がわかる。 それは難しいことではなかった。 ただ、選べばいいのだ。 どんなことがあっても投げ出さずに進んで行ける道を── 全てが終わるときに後悔せずに済む道を── 自らの意思で選べばいいのだ。 そして、俺は選んだ。 いかなる厄災に見舞われようとも、ティアと共にある道を。 「もちろん、見つけた」 「……そうか」 ルキウスが微笑んだ。 肩の荷が下りた。 そう言っているような、穏やかな微笑みだった。 「死ぬな、ルキウス」 「そうもいかないようだ」 「また、つまらない言葉を最後に置いていくのか?」 「つまらない……?」 「《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》のあの時……俺は悲しかったんだ」 「ガキの頃は、ずっとお前を憎んでいた」 「何をやってもお前には敵わなかったからな」 「……わかっていたよ」 「俺を見るお前の目は……いつも鋭かった……」 「……すまない」 ルキウスの口元に、微かな笑いが浮かんだ。 「謝るな、お互い様だ」 「俺も……憎んでいたよ……」 「後に生まれたというだけで……何もせずに許されていた、お前を……」 「ルキウス……」 そう…… そうだった。 こいつは、兄であったが故に、いつも母親の期待に応えねばならなかったのだ。 期待に応えたからこそ賞賛されていたルキウスを、俺は嫉妬の目で見ていた。 「ならどうして、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の時、俺を道連れにしなかった」 「ふ……」 「……わからないな」 「……馬鹿が」 言いながら、苦い丸薬を噛んだような気持ちになった。 「《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》のあの時、お前は母親の理想を俺に押し付けた」 「俺は思ったんだ」 「どうして、こんな時にまで、母親の口癖なんかをくり返すのか」 「俺が聞きたかったのは……もっと違ったことだった」 「何か、何か……」 「他人の言葉なんかじゃなく、お前にしか言えない何かが欲しかったんだ」 「どんな罵詈雑言でもいい……」 「お前自身が感じられる言葉が欲しかったんだ」 つまり…… 単純に言えば…… 俺は兄が好きだった。 何でもできる、自慢の兄に認めて欲しかった。 だからこそ〈大崩落〉《グラン・フォルテ》のあの時、兄に手を伸ばしたのだ。 もちろんそれは、今、こんな場でさえも口には出せない。 だが、伝えられたのだと思いたかった。 「そうか」 「……そうだったのか」 ルキウスが弱々しく微笑む。 「ルキウス……」 「誰かが言っていたが……やはり、おまえは優しい……」 「人殺しだ……優しくなどない」 「いや……優しい……」 「だから……」 「……だから……」 「失敗をする」 「っ!?」 腰のナイフが、ルキウスに抜かれた。 「戦いはまだ、終わっていないっ!」 「くっ」 咄嗟に距離を取る。 白刃が空を切った。 さすがに手元が狂ったらしい。 この期に及んで諦めないとは。 「……」 とすれば、過去の打ち明け話も俺を油断させるための創作か。 とんだクソ野郎だ。 「確かに、俺は甘かったらしいな」 注意を緩めず、床のルキウスを見る。 最後の力を振り絞ったのか、ルキウスは身を曲げて苦しそうに喘いでいた。 「今のお前は……私の……好敵手だ……」 「だからこそ……負けるわけにはいかない……」 好敵手、か。 初めてルキウスに認められたような気がした。 だが…… ルキウスは俺を見ていない。 「……?」 ルキウスの手にナイフがなかった。 どこだ? どこにいった? 周囲を見回す。 「!?」 ルキウスが握っていたナイフは…… ティアの心臓に突き立っていた。 「カイム……死ぬまでが……戦いだ……」 「牢獄では……そんな簡単なことも……教えてくれないのか?」 ルキウスが、犬歯を見せた。 「お、お前……」 俺の眼前で、ティアの身体からナイフが独りでに抜け落ちた。 あるはずの出血はない。 いや、その胸には既に傷口すらなかった。 「ティア君……」 「この都市を……頼む……」 その時、 ノーヴァス・アイテルに住む全ての人間が、王城を見上げたという。 王城の背後、 〈佇立〉《ちょりつ》する塔の内側から、強烈な光が漏れていた。 「……《〈終わりの夕焼け〉《トラジェディア》》」 「また、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》が起こるのか」 「な……何が起こってるんだ」 「て、天使の塔が……光っている」 「ふ……ふふ……ルキウス……様……」 「とうとう……とうとう……」 「あの色は……天使様のお力の色……」 「すぐに……すぐに、お助けいたします!」 「くっ……」 一瞬、視界を奪われた。 目をこすり、何とか目を開く。 「あ、あれは……」 ティアがぼんやりとした光を放っている。 「目覚めるのです」 どこからともなく女の声が聞こえた。 塔全体に響くような声だ。 「目覚めるのです、ユースティア」 「ん……」 「あ、あなたは……?」 目を閉じたまま、ティアが口を開く。 まるで寝言を言っているかのようだ。 「私は、イレーヌ……」 「イレーヌ・アナスタシア」 「最初の聖女にして、人の身にて天使になりしもの」 イレーヌ…… 神に祈り、都市を浮かせたという聖女イレーヌなのか!? 「我が子、ユースティアよ、私にはもう力が残されておりません」 「私に代わり、滅びの〈喇叭〉《ラッパ》を鳴らすのです」 「滅びの……〈喇叭〉《ラッパ》?」 「それが貴女に課せられた使命です」 「長く申し伝えてきたはずです、貴女には生まれ持った運命があると」 「貴女は、私に代わり人間を滅ぼすために生まれたのです」 「そ、そんな……」 「わ、わたしは、みんなを救うために……」 「人間は、貴女を裏切ってきたはずです」 「かつての私がそうされたように」 「え……?」 「500年前、大地は混沌に覆いつくされ、人間は滅びようとしていました」 「聖職者であった私は、ひたすら神に許しを請いました」 「ですが、聞き入れては下さいません」 「神は、今までに何度も人間を信じ、その度に裏切られてきたと仰るのです」 「それでもなお、私は懇願しました」 「もう一度だけ人間を信じ、天使様をお遣わし下さいと」 「すると、神はこう仰いました」 「ならば、お前自身が天使となり人間を見守るがよい、と」 「私は天使となり、人々に信仰を説きました」 「人々が、罪を悔い心を改めてくれれば、神に与えられた力で大地の混沌を浄化するつもりだったのです」 「ですが……」 「人々は私すらも裏切りました」 「私を捕え、力を引き出し、都市を浮かせることで滅亡を逃れたのです」 「この都市は、聖女に導かれた人間が乗る方舟などではありません」 「〈罪人〉《つみびと》の乗る沈むべき方舟なのです」 「……ひどい……」 「人間とは悪しき存在です」 「思い起こしなさい、貴女が今までどのような仕打ちを受けてきたのか」 「そして、受け入れるのです……私の悲しみと怒りを」 「あなたは、身を以て理解しているはずです」 「人間は裏切る生き物であることを」 「はい……」 「生まれてからずっと、苦しい目に遭ってきたのでしょう?」 「はい……」 「ティア、目を覚ませっ!」 「俺は、お前を迎えに来たんだっ!」 力の限り叫ぶ。 だが、硝子の向こうにいるように、ティアに反応はない。 「ユースティア……貴女に……後は、託します」 イレーヌと名乗る人物の声が〈擦〉《かす》れた。 同時に、痩せ果てた天使の身体が手足の先から灰になって消えていく。 恐らく、〈磔刑〉《たっけい》の天使がイレーヌなのだろう。 そしてティアは…… イレーヌに作られた天使の子──ユースティア。 ティアはどのようにして生まれたのか? 気に掛かるのは、ギルバルトの死に際の言葉だ。 奴の話では、《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》の次の日、腹が割けたクルーヴィスの死体が見つかったという。 《〈大崩落〉《グラン・フォルテ》》という天使の力の大量放出。 ともすれば、ティアは彼女の腹を借りて生まれたのかもしれない。 「我が子よ……我が子、ユースティアよ……」 「母の苦しみと……無念を……」 「晴らして……くだ…………さい」 瞬く間に、頭と胸だけになる天使。 乾ききった眼球から、いくつかの光の粒がこぼれ落ちた。 「私を……裏切った……人間に……」 「滅び、を……」 天使は切れ切れの声を残し、消え果てた。 重苦しい静寂が訪れた。 ティアの双眸が、ゆっくりと開かれていく。 「……わかりました、お母様……」 「くっ!!」 立っていられないほどの振動。 塔全体が咆吼しているかのような地響き。 「あああぁぁぁぁっっ!!!」 ティアの輝きが増し、翼が広がっていく。 美しいという感覚を越え、畏怖すら感じられる姿だった。 「っっ!!!!!!!!!!!!!!!!」 熱いほどの光が部屋中に満ち、 壁や天井に亀裂が走った。 塔が……崩れる。 ここで、終わるのか。 「っっ!!!」 「く……う……」 全身に痛みがあった。 だが、死ぬほどではない。 幸運にも、大きな〈瓦礫〉《がれき》は直撃しなかったようだ。 むしろ、天井崩壊の直前の衝撃の方が、大きかった気がする。 「はぁ……はぁ……」 「……」 足元にルキウスが倒れていた。 下半身が〈瓦礫〉《がれき》に埋まっている。 「ル……ルキウス?」 「いき……てる……か?」 「あ、ああ……」 「なら……よかった」 天井が落ちてくる直前、ルキウスに突き飛ばされたのだろう。 また、こいつに命を救われたのだ。 ルキウスが、目で俺の背後を促す。 そこにはティアがいる。 「すまない……」 「天使が……あんな根暗な女だったとはな……」 眉を歪めて苦笑……しているのだろう。 もはや、そこまで体力も残っていないようだった。 「何やってるんだ、あんた」 「カイム……」 ルキウスが俺の手を取る。 「ここは……人間の……都市だ……」 「……人間以外に……滅ぼさせるな……」 〈瓦礫〉《がれき》の下から、多量の血液が流れ出してくる。 助かる出血でないのは明らかだ。 「行ってくれ……」 「ルキウス!」 「私は、都市を落としたくない……お前は、ティアを救いたい」 「目的は違うが……道は……同じ、じゃないか……」 ルキウスが無理矢理に笑う。 「ああ……道は、同じだ……」 ルキウスの手を強く握る。 「ティアを止めてくる」 「……ああ……」 「お前になら……できる……」 「俺の……弟……だから、な……」 俺が手を離すのと、兄の手から力が抜けるのは同時だった。 温かかった手が、ぱしゃりと血溜りに落ちる。 『俺』……か。 それはルキウスの口から出た、最初にして最後のアイムらしい言葉だった。 床に拡がったルキウスの血潮。 俺と同じ血を指で取り、頬に線を引く。 ティアを止めなくてはならない。 頭に〈向日葵〉《ひまわり》が咲いたような女が、本気で人間を憎んでいるはずなどないのだ。 「行くぞ」 ティアの翼は、広間の端から端まで届きそうなほど広がっている。 眩いほどの輝きを放ち、もはや実体のない光の翼に見えた。 ティアは、光の中心で聖職者のように手を組み、何事かを呟いている。 「大地に満ちし我らが涙よ……今こそ集え……」 ティアのものとも思われないほど、冷たく硬質な声。 「祈りを忘れし人間に……その罪の大きさを知らしめるのです……」 言葉は恐らく、人の世の終わりを祈願するものだ。 「ティア……やめろ」 ティアに向かっていく。 近づくにつれ、まばゆい光が熱を帯びてきた。 ティアまであと10歩というところで、熱は痛みを感じる水準にまで強くなる。 伸ばした指に、火傷のような痛みが走る。 肉が焦げる匂いが鼻についた。 「ティアっ、目を覚ませっ」 それでも踏み入る。 「ぐっ……」 身体がひりつく。 まるで粘性があるかのように、光は身体にまとわりつき、皮膚を焼いていく。 「ティ……ティア……聞いてくれ……」 反応はない。 静かに瞳を閉じたままだ。 もう、遅いのかもしれない。 ティアが人間を諦める前に、あいつを助けなくてはいけなかったのかもしれない。 だが、それでも…… 俺はあいつの側に行く。 今、退けば、絶対に後悔する。 最後の瞬間に後悔する生き方を、俺はしたくない。 ティアに殺されることになっても。 あいつの側に行く。 眼球がひび割れそうな熱に耐え、一歩、また一歩と進む。 右手を伸ばす。 「ティアっ」 「……」 応じる声はない。 代わりに、全身を焦がしていた熱が右腕に集中した。 「ぐあああっっ……!?」 右腕の肘から先が、床に落ちた。 「ああああっ……あ、ぐ……」 衝撃に頭が〈朦朧〉《もうろう》となる。 唇を噛み、何とか意識を引き寄せた。 ティアが今まで受けてきた苦痛を、俺は体験させられているのだ。 これに耐えなければ、俺はティアと話す権利はない。 そう考え、何とか痛みをやり過ごす。 「ティア……」 「俺は、お前を犠牲にしてまで……生きていたくはない……」 「それは、お前の死体の上に寝ているのと同じだ……」 「だから……俺と一緒に……」 右の膝が熱くなる。 「があああぁぁぁっっ!?」 「ぐっ!?」 転倒する。 噛みしめた奥歯が砕けた。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 細かいことは気にするな。 腕も脚も、まだ1本ずつある。 まだまだ…… 気を失ったら終わりだ。 むしろ、傷口を床に着け、無理矢理に立ち上がる。 「ぐっ……あ……」 激痛に歯の根が合わなくなる。 だが、前へ。 一歩、 もう一歩。 「聞いてくれ……ティア……」 「お前はもう……頑張らなくて……いい……」 「俺の傍にいてくれれば……それでいい……」 「……」 残っている方の手をティアの頬に伸ばす。 次は左手がなくなるのだろうか。 本能的な恐怖に身体が震える。 「俺は……おまえを……誰にも渡したくないんだ……」 「もう、全部……終わりにしよう」 指先が頬に触れた。 肌の感触は、かつて抱いたティアのものだ。 血で汚すには申し訳なくなるほど、〈肌理〉《きめ》の細かい肌をしている。 「ティア……俺と帰ろう……」 「また、飯を作ってくれると……約束したじゃないか……」 「……一緒に暮らすんだ」 「いや……もう、街中はやめるか……」 「下層のどこかの草原にでも、家を建てよう」 「そこで、静かに暮らすんだ」 ティアから手を離し、懐に持っていた物を取り出す。 先日、ティアが忘れていった首飾り── 牢獄で出会った頃、ご機嫌取りに買ってやった安物だ。 大喜びしていたティアの顔を思い出す。 「もう一度……笑ってくれ……」 「お前みたいな女には、都市を救うだの、人間を滅ぼすだの……」 「そんな、ご大層なものは似合わない」 「普通に、笑っていればいいんだ」 わたしの頭には、〈イレーヌ様〉《お母様》の記憶が次々と流れ込んでいた。 悲しい思い出ばかりだった。 500年前の人間の裏切り── そして、ノーヴァス・アイテルが空に浮いてからの悲しみ── 裏切りの首謀者は王となり、新しい神話を作り上げる。 この都市の真実を〈隠蔽〉《いんぺい》し、あろうことか偽物の聖女イレーヌに全ての責任を押し付けた。 全てを知りながら、天使となった〈イレーヌ様〉《お母様》は、やはり人を憎めずただ力を吸い取られる日々を送る。 500年もの間、眼前で繰り広げられる、種々の〈欺瞞〉《ぎまん》と裏切り。 ゆっくりと、本当にゆっくりと、〈イレーヌ様〉《お母様》の中から人を信じる気持ちが失われていった。 そして、とある政治家が私利私欲のために大量の力を濫用した時…… 〈イレーヌ様〉《お母様》の中から、全ての希望が消え果てた。 ──私を裏切ってまで浮かせた都市を、また人間は自らの過ちにより落とそうとしている。 ──もう、終わりにしよう。 ──人は滅ぶべきだ。 〈イレーヌ様〉《お母様》は、動けなくなっていたご自身の代わりとして、わたしを作り上げた。 人を滅ぼすために。 「おかわいそうに」 人が滅びるのは仕方がない。 だって、悪いことをしてきたんだから。 そう思ったら、わたしの心の中に、自然と祈りの言葉が浮かびあがってきた。 「大地に満ちし我らが涙よ……今こそ集え……」 「祈りを忘れし人間に……その罪の大きさを知らしめるのです……」 何のことを言っているのかはよくわからない。 でも、どこからか、すごく悲しい気持ちが近づいてきているのがわかる。 それはきっと、〈イレーヌ様〉《お母様》や、沢山いらっしゃった天使様のものだ。 〈イレーヌ様〉《お母様》には及ばないけど、わたしもすごく苦しい思いをしてきた。 わたしが都市を救っても、きっとみんな、わたしのことなど忘れてしまうんだ。 そして…… そして……ああ…… カイムさんは、わたしが苦しい思いをして浮かせている街で、誰か知らない女性と仲良く暮らすんだ。 結婚して、子供も産まれて、幸せに暮らすんだ。 カイムさんのことは大好きだけど、とても悔しいです。 でも、わたしがどんなに想っていても、カイムさんはわたしを忘れてしまいます。 だって、それが人間だから。 「ティアっ、目を覚ませっ」 ……?? 「ティ……ティア……聞いてくれ……」 ……あれ? カイムさんの声が聞こえる。 きっと幻だ。 幻を見せて、わたしを騙そうとしているんだ。 「ティアっ」 「……」 人間は本当にずるい。 やっつけてしまえ。 「ぐあああっっ……!?」 「ああああっ……あ、ぐ……」 触られたくないと思ったら、幻の手が消えた。 「ティア……」 「俺は、お前を犠牲にしてまで……生きていたくはない……」 「それは、お前の死体の上に寝ているのと同じだ……」 「だから……俺と一緒に……」 どうして、こんなうまいことを言うんだろう。 思わず、本気にしてしまいたくなってしまう。 ……だめ。 やっつけよう。 「があああぁぁぁっっ!?」 近づいて欲しくないと思ったら、幻が転んだ。 「ぐっ……あ……」 でも、立ち上がってくる。 なんで、こんなに必死なんだろう。 「聞いてくれ……ティア……」 「お前はもう……頑張らなくて……いい……」 「俺の傍にいてくれれば……それでいい……」 「……」 幻が手を伸ばしてきた。 触らないで…… ……触らないで…… 触れられたら、何だか、気持ちが…… 温かくなってしまう。 「俺は……おまえを……誰にも渡したくないんだ……」 「もう、全部……終わりにしよう」 ……ああ…… 温かい指先。 ずっと、もっと、触れたかった指先。 カイムさん……カイムさん……。 「ティア……俺と帰ろう……」 「また、飯を作ってくれると……約束したじゃないか……」 「……一緒に暮らすんだ」 「いや……もう、街中はやめるか……」 「下層のどこかの草原にでも、家を建てよう」 「そこで、静かに暮らすんだ」 それは、夢です…… 夢です…… 素敵すぎて、〈眩暈〉《めまい》がするような夢です。 「もう一度……笑ってくれ……」 「お前みたいな女には、都市を救うだの、人間を滅ぼすだの……」 「そんな、ご大層なものは似合わない」 「普通に、笑っていればいいんだ」 カイムさんが首飾りを着けてくれる。 わたしが落としてきた、あの首飾りを。 カイムさん…… ああ……幻なのに、わたしは…… わたしは…… 閉じられたティアの目の端から、涙が零れ落ちた。 「聞こえて……いるのか……?」 「ティア、返事をしてくれ」 「ティアっ! ティアっ!」 小さな桜色の唇が微かに動く。 「…………です……」 「……遅い、ですよ……」 「遅いです……遅すぎます……」 聞こえたのは、聞き慣れたティアの情けない声だった。 「ティア、お前なのか?」 「もう、帰れないです」 「一緒になんて、暮らせないです」 「もう……笑えないです」 ティアがようやく目を開く。 涙で大きな瞳が滲んで見える。 「やっと……言ってくれました……」 「カイムさんを助けたくて……ずっと頑張ってきました……」 「わたし、辛くて苦しくて……」 「カイムさんのことを……忘れてしまうのが、怖くて……怖くて……」 「だから、いつも……心のどこかで、止めてほしいって……」 「でも、言えませんでした……」 「研究をやめたら……カイムさんが……死んでしまうから……」 涙が溢れ落ちる。 「すまない」 「もう……いいです……謝らないでください」 「本当に……すまない」 俺に、覚悟が足りなかったせいで…… 道を定める勇気がなかったせいで…… 大切な時間を失ってしまった。 「悪いのは、カイムさんだけじゃないです」 「わたしはもっと悪いです」 「なぜだ、お前はずっと耐えてきたじゃないか」 「わたしは、イレーヌ様の言葉に従って、人間の滅亡を願ってしまいました」 「きっと、もうすぐ何かが起こります」 「なら、その時が来るまで……俺の傍にいてくれ……」 「ユースティアとしてではなく、ただのティアとして」 ティアの身体に取り付けられた紐や管を引き千切る。 「!!!」 「カ、カイムさん……そんなことをしたら、都市が……」 がくり、と地面が揺れた。 「言っただろう、俺は、お前を犠牲にはしない」 「何があってもだ」 「カイムさん……」 ティアを抱きしめる。 崩れた壁の向こうに、青空が見えた。 白い物体が、下から上へと移動している。 雲だ。 間抜けなほどに〈長閑〉《のどか》な形をした雲が、上っていく。 目の当たりにして、ようやく実感が湧いた。 ノーヴァス・アイテルが落ちているのだ。 もう、さほど時間はないだろう。 俺の人生は間もなく終わる。 だが後悔はない。 「最期まで、離れるな」 「……はい」 手を繋ぎ指を絡め合う。 「カイムさんは、どうして来てくれたんですか?」 「後悔したくなかった」 「お前を犠牲にしたら、俺は、死ぬ瞬間に後悔したと思う」 「理由なんてそれだけだ」 ティアがわずかに目を見開いた。 「……後悔」 小さく首をひねる。 何か考えているようだ。 「わたし、ありました……後悔」 「言ってみろ」 「その……」 恥ずかしそうに俯く。 「あの……カ、カイムさんと、もっと仲良くできたらよかったって言うか……」 「んぐっ」 ティアの唇を塞いだ。 「ん……ちゅ……」 ティアの呼吸が顔にかかる。 温かい。 このまま、下界に落ちるのは悪くない。 いや、かなりいい部類の死に方じゃないか? ティア。 こいつと出会って、全てが変わった。 楽なことばかりではなかった。 身体的に厳しいこともあったし、それ以上に、心が砕けそうなこともあった。 だが、出会ったことに後悔はない。 「……ん……ふ……」 唇が離れる。 視界に入ったのは、見たこともない表情のティアだった。 唇を重ねる前とは、別人のようだ。 この表情を、俺はどこかで見たことがあった。 そう、大聖堂にあった天使の絵だ。 穏やかな微笑を浮かべ、そして…… どこかもの悲しい。 「……」 背筋を冷たいもの走った。 反射的に手を伸ばすが、肘から先が見当たらない。 その隙に、ティアは立ち上がり、軽い足取りで2、3歩下がる。 「ど、どうした?」 「後悔……ありました」 「今のじゃ、足りないか?」 微笑みを保ったまま、ティアが首を振る。 「ぐっ……」 墜落か!? いや、それにしては衝撃が小さい。 「来てしまいました」 青空が漆黒に塗り潰された。 「あれは……」 以前、下界から這い上がってきた粘液だ。 まさか、都市が奴らに…… 「ティアっ!?」 ティアの背中に、再び光る翼が現れる。 「後悔、あります」 「今、全てが終わってしまったら……わたし、後悔してもしきれません」 踊るような足取りで、俺から離れていく。 「ティアっ!?」 立ち上がろうとして転倒する。 「カイムさんは、休んでいてください」 「あとは、わたしの仕事ですから」 「やめろっ! お前はどうなるんだっ!」 「わかりません」 「ティアっ! 行くなっ!」 身体を引き摺り、前へ進む。 「カイムさんは、わたしを犠牲にして生きていたくないって言ってくれました」 「すごく、すごく嬉しいです」 「だから、わたしも悔いが残らないように生きたいと思います」 「カイムさんに抱かれたまま終わりを迎えるのも素敵です」 「素敵ですけれど、きっと後悔します」 「どうして、わたしはカイムさんを護らなかったんだって」 ティアが微笑む。 「やめろ……お前は、傍にいてくれればいいんだ」 「もう、離れないでくれ」 床を這う。 腕と脚は、もどかしいほどに俺の言うことを聞かない。 何故だ。 何故こんな時に、俺の身体は千切れているんだ。 今、立ち上がらなければ、大切なものを…… ティアを失ってしまうというのに!! 「お前は、何のために生まれてきたんだ!?」 「ずっと苦しんできて……最後まで、本当に何もないじゃないか!」 「そんなことありませんよ」 「カイムさんは、最後にわたしを選んでくれました」 「こんなに幸せなことはありません」 ティアが、これ以上ないほど明るく笑う。 〈向日葵〉《ひまわり》すら、眩しさに顔を伏せてしまうほどの明るさ。 「お前は、もっとみっともなくしてろ……」 「一人じゃ何もできずに……俺を頼ってればいいんだ……」 「どうして……こういうときばかり……」 「一人で……進んでいって……しまうんだ……」 行くな…… 行かないでくれ…… お前が傍にいてくれれば、俺はもう何もいらないんだ…… 「わたしも一応女ですから」 「女は、逃げて、追われてナンボです」 メルトにでも吹き込まれたのだろう。 見え見えの強がりを言って、ティアは笑った。 笑いながら涙を零していた。 「ティア……」 「カイムさん……」 ティアが身体の前で手を組む。 翼が光量を増した。 目を開けていられない。 「今、この世界でカイムさんを護れるのは、わたし一人です」 「わたしなんかにはもったいないくらい、すごい話です」 「それだけでもう……」 「生まれてきた、意味がありました」 戦場に動くものはなかった。 その場にいた全ての人間が倒れ伏し、石畳を覆い隠している。 「う……」 一人が呻き声を上げた。 彼女が立ち上がるのが合図となったように、倒れていた者たちが、次々に目を覚ます。 まるで、壊滅した軍隊が蘇生していくような光景だった。 「く……一体、何が……」 周囲を見回すフィオネの目が、都市の彼方に釘付けになる。 そこには、見たこともない大地が広がっていた。 しばらく瞬きも忘れて立ちつくす。 「ま、街の外に……地面が……」 「どうやら、下界に落ちたらしいな」 フィオネの隣にリシアが並んだ。 慌てて、フィオネが跪く。 「へ、陛下」 「何があったかわからんが、ともかく助かったことは〈僥倖〉《ぎょうこう》だと思わねばなるまい」 「はい、仰る通りです」 「まずは反乱軍と和睦する」 「殺し合いなどをしている状況ではあるまい」 「そなたは、いつでも動けるようにこちらの軍勢をまとめておけ」 「はっ」 フィオネが俊敏に立ち上がる。 足下には、人ならざるものに変じたシスティナの亡骸があった。 身体の一部が黒い羽根に覆われたそれは、フィオネに兄の最期を追懐させる。 「システィナ殿……」 「鬼神がごとき戦いぶりであった」 「はい」 数十の刃を受け、両腕を失ってもなお立ち上がり、戦うことをやめなかった。 彼女に殺された部下は、どれほどいただろうか。 だが、その猛勇とは裏腹に、絶命の瞬間見せた満足そうな微笑みが忘れられない。 「だが、お前は勇敢に立ち向かってくれたな」 「その忠義、忘れてはおらぬぞ」 「ありがたき幸せに存じます」 勢いよく頭を下げてから、フィオネは軍に向かって指示を出し始めた。 「大変なことになっちまったな、救世主さんよ」 「どうやら、都市が落ちたらしい」 「そのようですね」 「俺たちは何で生きてるんだ?」 「御子の思し召しです」 「はあ?」 「ずっと、天使様の悲しいお声が聞こえていました」 「そして、御子の悲壮なお覚悟も、痛ましいほどに伝わって参りました」 「訳がわからんな」 「私にも、よくはわかりません」 コレットは思う。 イレーヌ・アナスタシア── 自分と同じ姓を持つ、最初にして最後の、本当の聖女。 彼女とは、どこかで血のつながりがあったのだろう。 だからこそ、ずっとイレーヌの存在を感じることができたのだ。 ならば、これから進むべき道は決まっている。 一人の聖職者として、彼女の思いを継いでいこう。 全ての真実を民に知らしめ、再び同じような悲劇が起こらぬようにすることこそ、私の使命だ。 「コレット、無事でしたか」 「ええ、ラヴィは?」 「怪我一つありません」 「よかった……」 二人が、軽く手を握り合う。 「カイムは生きてるかな?」 「きっと、生きていらっしゃると思います」 「そうね……怪我をしていなければいいけど」 「俺の怪我は心配してくれないのか?」 「あんまり興味ないから」 「ひどい医者だな」 「じゃあ聞くけど、怪我は?」 「まったくない」 「やっぱり、心配する必要ないじゃない」 「いやいや、気持ちの問題だぜ?」 馬鹿らしい、とエリスが鼻白む。 「さてと、世間話もしていられないな」 ジークの視線の先では、国王軍が退却を始めていた。 「救世主さん、まずは和睦ってことでいいかね」 「被害状況も確認しなきゃならんし、どうも小競り合いをやっている場合じゃなさそうだ」 「私に政治的なことはわかりませんので、お任せいたします」 「わかった」 「オズ、聞こえてたな」 「まずは体勢を立て直させろ」 「いったん城から距離を取り、和睦交渉に入る」 「かしこまりました」 オズが頭を下げ、さらに後ろに控えている部下たちに指示を出した。 「さて、どうしたもんか」 少しでも選択を誤れば、街を大混乱に陥れかねない状況だ。 慎重の上にも慎重を期さねばならない。 正直、自分一人では不安もある。 誰か、率直な意見をくれる相棒が欲しいところだが…… 「カイムの野郎……運良く生き残ってりゃいいが」 「……く……」 瞼を上げると、目の覚めるような青空が見えた。 夢を見ていた気がする。 とても幸せで、どこか寂しい夢だ。 記憶の端で、黄金色の小麦畑が風に揺れていた。 ティア…… ティアはどうした? ティアの姿はない。 床はかなりの部分が崩れ落ち、ルキウスの死体すら見つけられない。 「ティアっ!」 何度か叫ぶ。 返ってくる声はない。 外に出た可能性もある。 と、足を踏み出して、失ったはずの手足が付いていることに気づいた。 触れて、動かしてみるが、間違いなく自分の手足だ。 傷跡もなく、むしろ失っていたことが嘘のようだった。 ティアの力によるものだろうか。 「……」 とにかくティアを探そう。 「ティアっ」 返事はない。 研究室は、棚がいくつか倒れている程度で、大きな損害は見られない。 外は……どうなっているのか。 緊張を覚えながら、出口の扉に向かう。 「………………」 言葉がなかった。 目の前に広がっていたのは── 見慣れた街の景色だった。 部分的に崩落してはいたが、一応街の形は保っていた。 そして、街の先…… 今まで空しかなかったノーヴァス・アイテルの外側には、果てなく地面が広がっている。 ──都市が落ちたのだ。 下界に満ちていたはずの黒い粘液は、どこにも見当たらない。 ティアが、浄化したのだろうか? 牢獄で粘液を浄化した時、ティアは昏睡状態に陥った。 あの時でさえ、浄化した粘液の大きさは家一軒程度。 大地に満ちていたもの全てを浄化したのだとしたら、一体あいつは……。 「ティア、いるなら返事をしてくれ」 「ティアっ!」 返ってきたのは、城に反響した自分の声だけだ。 「…………」 ティア…… 結局、俺はティアの犠牲の上に生きていかねばならないのか。 あいつを救うなどと格好のいいことを言っておいて、このざまだ。 「!?」 どこからともなく、ティアの声が聞こえてきた。 見回すが、姿はない。 「ティアっ、どこにいるんだ!?」 「そんな、馬鹿なことが……」 だが、あいつは天使だ。 全ての奇蹟を司る、天使だ。 あり得ることなのかもしれない。 「……ああ」 心が軽くなっていくのがわかった。 あいつは、傍にいる。 天使の言葉だ、嘘ではあるまい。 ティアの声が遠ざかっていく。 いや、遠ざかると言うより、空気に溶け薄くなっていくような印象だった。 一陣の風が吹き抜ける。 目を細め、髪を押さえるティアが見えたような気がした。 「……」 不思議なことが起こった。 都市の外に拡がっていた荒野が、一瞬にして草原へと変わったのだ。 ああ…… 確かに、あいつは存在しているのだ。 風に、水に、緑に── この世の全ての事象の中に。 そして、俺を見守ってくれているのだろう。 初代イレーヌのように、ティアを悲しませてはならない。 あいつは、いつだって笑っていればいいのだ。 〈向日葵〉《ひまわり》よりも明るく、ずっと……ずっと……。 街に目をやる。 人々が動いているのがわかった。 兵士達は戦闘をやめ、お互いの陣営に引き上げていく。 家に隠れていた住民たちも、少しずつ外に出始めていた。 ティアの力が、街だけでなく住民も守ってくれたのだろう。 運が良ければ、知り合い連中も生きているかもしれない。 ノーヴァス・アイテルは滅んではいなかったのだ。 しかし、苛酷なのはこれからだ。 長きに亘って都市を支えてきた秩序や価値観は、完全に崩壊している。 早期に事態が収拾できなければ、暴力と混沌に満ちた時代を迎える可能性もある。 反乱軍だの国王軍だの言っている暇はない。 都市に住む全ての人間が力を合わせねば、この難局は乗り切れないだろう。 忙しくなりそうだ。 まさに、何でも屋の出番ではないか。 大きく息を吸い、街へと歩きだす。 この一歩から、新しいノーヴァス・アイテルが始まる。 どんな不条理の嵐に見舞われたとしても── 万象の〈理〉《ことわり》さえもが、俺の行く手を阻んだとしても── 俺は進む。 ティアが笑顔を絶やさずに済む世界を、この手で作るのだ。 「見ていてくれ、ティア」 これが夢だということは、実は分かっていた。 しかも、恐らくは幸せな類の夢だ。 だから迷う。 夢が幸せであればあるほど、目を覚ました時の喪失感が大きくなるからだ。 一面の小麦が、風に揺れている。 広大な畑の真ん中に、小さな家があった。 家に隣接した小屋からは、家畜の鳴き声が聞こえている。 素朴な農家だ。 その寝室のベッドで、俺は上半身を起こしていた。 視線は床。 そこでは、いくつもの卵が割れていた。 ここで目を覚ましていれば、『もったいないことをした』ぐらいで済んだのだ。 だが俺は、目を覚まさなかった。 先には仮初めの幸福しか待っていないとわかっていながら、ゆっくりと視線を上げてしまう。 目の前には、今にも泣き出しそうな顔をしたティアが立っていた。 手には、卵が入った大きな籠が握られている。 どうやら、ティアが卵を落とした音で、俺は目を覚ましたようだ。 ──俺は、 これが夢であることを忘れることにした。 「……もったいないな」 ティアがビクリと肩を震わせる。 「ごめんなさい、カイムさん……」 鶏の産んだ卵を回収し、家に運び込むのはティアの仕事だ。 我が家の鶏は、よく卵を産む。 それ自体はありがたいが、問題は卵の量が多すぎてティアの手に余るということだ。 籠いっぱいの卵が、危なっかしい足取りのティアに運ばれてくるのを── 〈俺は毎日〉《・ ・ ・ ・ 》、はらはらしながら眺めていた。 そして遂に、やってしまったというわけだ。 「重かったら俺を呼べと、前にも言っただろう」 「よく寝ていらしたので……」 「だったらせめて、分けて運べ」 「あ、その手がありました」 抜けたところは、いつになっても変わらない。 「まあいい、食べ物を粗末にするなよ」 苦笑しながらベッドから下りる。 卵を踏まないように歩き、椅子にかけてあった上着に袖を通す。 「次から気をつけろよ」 しょげているティアの頭を撫でた。 「あの、どちらへ?」 「家畜小屋だ。桶を取ってくる」 「きれいにすくって、山羊の餌にでも混ぜておけば無駄にはならないだろ」 「わたしも手伝います」 ティアも、慌てて外に出ようとする。 「大丈夫だ」 「それより腹が減った、飯の支度をしておいてくれ」 「今朝は、チーズの入ったパンを焼きました!」 「ほう、それは楽しみだ」 「はい、美味しく焼けたと思います」 「そこに半熟のゆで卵があれば最高だな」 「うぅ、ごめんなさい」 「冗談だ」 もう一度ティアの頭を撫でてから、俺は家の外に出た。 目の前には、収穫が終わった麦畑が広がっていた。 冬の空気と土が混ざった匂いに誘発され、記憶が上書きされていく。 この小さな家でのティアとの暮らしが、長く続いてきたもののように思えてきた。 「そろそろ、畑を耕さないといけないな」 部屋に戻り、朝食を食べながらそう呟くと、ティアが応える。 「今年から二期作を試すんですよね? だったら少し急いだ方がいいかもしれません」 「冬だと小麦になるか。種籾は街で手に入るな」 「あまり高くないといいですね」 「ああ……」 この暮らしでは、大抵のものを自分達で作っている。 例えば、今齧っているチーズパン。 生地に混ぜられたチーズの風味が芳醇な、俺の好物だ。 使われている小麦は、目の前の畑で取れたもの。 ミルクは山羊の乳で、チーズも同じく山羊の乳から自作したものだ。 パンの酵母もティアが育てている。 一方で生地に混ざっている塩や砂糖は街で買ってきたもの。 街で買い物をするための金は、やはり街で、収穫物を売って用意する。 「今日はどうしましょう?」 「まずは小屋の修理だな」 「さっき外に出た時、風が湿っていた」 「雨が降るかもしれませんね」 「ああ、小屋の雨漏りは直しておかないとな」 「山羊に風邪でも引かれたら面倒だ」 「貴重な栄養源ですもんね」 そう言いながら、ティアは山羊のミルクがたっぷり入った珈琲をすする。 ちなみに珈琲も、街で買ってきたものだ。 「ティアはどうする?」 「わたしは、カイムさんが昨日獲ってきたウサギを捌いて干してしまいます」 「近々天気が崩れるのなら、これも急がないと」 「そうだな」 昨日は天気が良かったので、狩りに出かけていたのだ。 この辺りは丸々と太ったウサギがよく獲れるので、助かっている。 「一番太っていた子は、干さずにパイにしちゃいますね」 「今晩のおかずです」 「ああ、それはいい」 ティアは意外と逞しい。 「ウサギも鶏も、乳の出なくなった山羊だって平気で捌くようになったな」 「平気ではないです……」 「可哀そうだとは思います。でもわたし達が生きていくためですから」 「そういう考えを、逞しいと言うんだ」 窓からは、温かい冬の日差しが差し込んでいる。 嵐は近そうだが、あと2、3日はこの穏やかな日が続くだろう。 朝食を終え、さっそく家畜小屋へ向かった。 屋根に上り、敷き詰めた藁をどけ、傷んだ箇所を確認する。 「けっこうかかりそうだな……」 家畜小屋には雌の山羊が6頭と雄が1頭、あとは鶏が雄雌合わせて30羽近くいる。 ここに牛が1頭でもいれば便利だという話を、最近2人でよくしている。 しかしまだ牛を買うだけの金は貯められていない。 正直なところ、余裕があるとは言えない生活だ。 ティアには苦労をかけていると思う。 ただ、俺自身は今の暮らしに満足していた。 人を殺すこともなく、裏切りや陰謀に神経をすり減らすこともない。 好いた女と2人で暮らす、穏やかな毎日。 俺は共に暮らす女を護りたいと思う。 ただそれだけを願う。 そしてこの暮らしで、その願いは叶えられていた。 だから俺は、この暮らしに満足している。 家に戻ったのは、辺りがすっかり暗くなってからだった。 食卓には、予告通り兎のパイが横たわっている。 「せっかくのご馳走ですし」 ティアが、とっておきのワインを開ける。 この日は珍しく、ティアも酒を飲んだ。 2人でゆっくりと杯を傾けつつ、脂の乗ったパイに舌鼓を打つ。 夜が静かに更けていく。 「今度の小麦は、いっぱい実るといいですね」 「ああ、肥料も工夫してみようと思っている」 「ふふふ、きっと上手くいきますよ」 「あ、でも、食べきれないほど実ってしまったらどうしましょう?」 「売りにいけばいい」 「金ができたら、お前にも新しい服を買ってやろう」 「いえいえ、この服で十分です」 「髪飾りならどうだ?」 「わたしには、首飾りがありますから」 ティアの首には、いつもの首飾りが下がっている。 出会った頃に買ってやったものだ。 「欲がない奴だ」 ティアと一緒になってから、幾度となく繰り返してきた会話だ。 こいつは多くを望まない。 無理に我慢をしているのではと、こちらが心配になるくらいだ。 「わたしは、今の生活で満足しています」 「卵を拾って、山羊のお乳を絞って、小麦を刈り取って……」 「料理も毎日カイムさんに食べてもらえて、本当に幸せです」 満面の笑みで、そう言った。 不意に涙腺が熱くなる。 ──俺は知っていた。 ──ティアの口にしたことのただ一つも、叶えてやれなかったことに。 「ありがとう、ティア」 無意識にそう呟いていた。 陶杯に半分ほど残った赤い液体が、蝋燭の光を映し、揺れている。 「どうしたんですか?」 パイを飲み込んだティアが、不思議そうに首を傾ける。 「いや……」 ティアにはずっと感謝している。 ただ、何故それが今、急に口から零れたのか。 「何というか、今夜のうちに伝えておいた方がいい気がした」 「どうしてですか?」 「さあな」 「急がなきゃいけない気がしたんですね」 「かもしれない」 不意に沈黙が訪れる。 沈黙は俺を不安にさせる。 俺の得体の知れない心の乱れを察してか、ティアが口を開いた。 「もしかして、わたしを捨ててどこかへ?」 「まさか」 反射的に返した俺の言葉で、ティアがにこりと微笑む。 「だったら、大丈夫です」 「わたしはずっと、カイムさんの傍にいますから」 「明日も明後日も、来年も再来年も」 「10年後も20年後も、ずっと一緒にいます」 「カイムさんを看取ってしまう勢いです」 「俺が先に死ぬ想定か」 「順番は守っていただかないと」 「まあ……そうだな」 「看取りますけど……」 「でも、できるだけ長生きしてくださいね」 「お前もな」 「大丈夫です、馬鹿は風邪をひきませんから」 「そういう問題か」 気づけば、ティアの杯は空になっていた。 陶杯に葡萄酒を注ぎ、自分の陶杯にも注ぎ足す。 「……でも、嬉しかったです」 「カイムさんに、ありがとうって言ってもらえて」 「ほっとしました、わたし一人が楽しんでるんじゃないかって、ずっと思っていましたから」 「ちゃんと楽しめてるか?」 「ええ」 「苦労をかけているが」 「こんな楽しい苦労なら、大歓迎です」 「まだしばらくは牛も買えそうにない」 「野生の牛とか、迷い込んできませんかね」 「ははは、それはいい」 下らない冗談で、俺たちは馬鹿みたいに笑った。 ひとしきり笑ってから、ティアがぽつりと呟く。 「わたしこそお礼を言わないと」 「ありがとうございます。わたしはとても、幸せです」 「ああ」 それきりまた沈黙が訪れる。 今度の沈黙は、俺を不安にはさせなかった。 食事が終わる。 ティアが後片付けをしている間に、俺は日記を書くことにする。 個人的な日記というより、仕事日誌に近い。 今日行った仕事を、簡単に書き記していく。 書き終わってからふと、過去に何をしていたのかが気になった。 日誌のページを、大きく遡ろうとする。 「カイムさん」 「ん?」 顔を上げると、片付けを終えたティアが目の前に立っていた。 「どうした?」 俺はページをめくる手を止める。 日記自体を閉じて、横に置いた。 「実はわたし、少し嘘をついていまして」 「何だ?」 「さっき幸せだって言いましたけど……1つ欲しいものがあります」 「……牛か?」 「う、牛もですけど……そうじゃなくて」 ティアが恥ずかしそうに目を伏せる。 「あの……もっとその、幸せになりたいと言いますか」 「なんだ、回りくどいな」 「あ……」 「あ?」 「赤ちゃんが、欲しいです」 「……」 「……」 口にしてから、真っ赤になる小動物。 別に初めてのことではないのに、もう何年も積み重ねてきた営みのはずなのに── ティアはいつまで経っても、この調子だった。 「直接的過ぎるだろう」 「だ、だってカイムさんが、回りくどいって言うから」 「……じゃあ、カイムさんが欲しい、とか」 「さらに露骨だ」 「でも……」 拗ねるティアの唇を、俺は自分の唇で塞ぐ。 不意をつかれたティアは小さく目を見開いて、それからゆっくりと閉じていった。 「ん……」 唇は甘い。ティアの味がする。 それから食べたばかりのウサギパイと、ワインの香りが少々。 「ふぁ……っ、ん、んぅ……」 恐らくは同じ味を、ティアも感じているのだと思う。 「はぁ……っ、ふあぁ……」 唇を離すと、目の前にはさらに赤くなったティアの顔。 「……カイムさんは、いつまで経っても意地悪です」 「そうかな?」 「そうですよ」 「じゃあ……ここで止めるか?」 「ほら、そういうところ」 「そうだな」 俺は椅子から立ち上がる。 それからティアの肩に腕を回す。 「ん……」 並んでゆっくりと、ベッドに向かって歩いていった。 「ん……」 ティアはベッドの上に乗るなり、俺のズボンを脱がした。 そして取り出した陰茎を、握る。 「今日は積極的だな」 「だって、カイムさんに主導権を渡したら、すぐに意地悪されるから……」 そう言いながら、さっそく陰茎を弄び始める。 小さな指が、粘膜の上を這いまわっている。 俺のものは、簡単に大きくなってしまった。 「うわ……」 呆れたような声を出されてしまい、俺は少し気恥ずかしくなる。 「ほら、もういいだろ」 「入れるから、お前も下着を脱げ」 「あ、いや……もう少し……」 「なにがだ」 「これでも結構……緊張してるんですよ」 「緊張って……別に初めてでもないだろう」 「そ、そうですけど……。カイムさんの、凄く大きいから……」 「いつも……入れるまで、ドキドキしてるんです……」 「わたしのが……壊れちゃいそうで……」 「壊したことは無かったはずだぞ」 「そ、それでも……心の準備は大切なんです」 そう言って、ティアが指を動かした。 陰茎が、くちゅりと音を立てる。 「うわ……」 「準備、か」 「そ、そうですよ。こういうことは……とても大切なんですから……」 「お料理の下準備と同じです」 料理……。 ティアに美味しく喰われてしまうんじゃないだろうかと思った。 「そういうわけで……」 「あむ……ん……」 「……っ」 本当に喰われてしまった。 勃起した亀頭の上に、小さな唇がかぶさる。 「はむ……っ、ん、ん……っ、んぅぅ……っ」 「ちゅる……ちゅ、ちゅぅっ、ちゅるぅ……っ」 そしてその唇は、食べ物を咀嚼するみたいにせわしなく動いている。 「ちゅぅ……っ、ちゅくっ、ん……っ」 熱い舌が、亀頭の上を這いまわる。 俺の陰茎はその熱にうかされるようにして、また一回り大きくなった。 「ティア……」 「はい……」 「お前さっきは、子供が欲しいと言っていたよな」 「ええ」 「口に出しても、子供はできないぞ」 「そんなことぐらい……知ってます」 「教えてくれたのはカイムさんですよ」 ティアが小さく唇を尖らせた。 「そう……だったか?」 「そうですよ」 「というか、カイムさん以外の誰に教えてもらうんですか」 「それもそうか」 「わたしには、カイムさんだけなんですから」 「ああ……悪かった」 そう言われると、俺が教えたような気がしてきた。 「わたしがカイムさんにも何かしたいって言った時に……」 「この、口での奉仕を教えていただいたんです」 唇の内側で、舌が動く。 「ここが……気持ち良いんですよね?」 「あ……んぅっ、ん、んちゅ、ちゅるぅぅ……」 「れる……っ、れろ、れるぅ……っ」 硬く尖ったティアの舌が、かさの周りを這いまわる。 「く……」 思わず、声を上げてしまった。 「ふふ……、思い出してきましたか?」 「あ、ああ……」 「他にも……例えばこんなのとか……」 ティアは陰茎を口に含んだまま、手を上下に動かした。 「ん、んぅ、んんんん……っ、んちゅ、ちゅぅ……っ」 「ふあ、はぁ……っ、気持ち、いい、ですか……?」 「……ああ」 俺は、ティアの頭を撫でた。 「ん……っ」 ティアが小さく震える。 「ふあ、あ……、あ、あ……」 指先を髪に絡めながら、〈梳〉《す》くように手を動かす。 「や……っ、ふあ、あぅ……」 その度に、ティアの口からは切なそうな声が漏れた。 「大分……思い出してきたみたいですね……」 「わたしがその……舐めてるときに、頭を撫でられるのが好きなこととか……」 「あ……ああ、そうだったな……」 流されるようにして、俺は頷いた。 ティアの頭を撫で続けていると、本当に色んなことを思い出してくる。 その記憶に従い、俺は手の平を反対方向へと滑らせた。 ティアの耳に、首筋に、鎖骨にと順に触れる。 「ひ……っ、んぅっ!」 ティアの身体の震えが、大きくなった。 「あ……っ、や、ふあっ、ふあ……っ」 ティアは全身が敏感だ。 「あ、あ、あ……っ、ふあ、うあ、やああぁぁぁぁ……っ」 「んぅ、んぅぅぅぅぅ……っ」 「口が止まった」 「だ、だから……そういう意地悪は……、あ、あ……っ」 「や、あああぁぁぁ……っ」 唇の隙間から、涎が垂れ落ちている。 指に絡み、或いは睾丸の辺りまで垂れ落ちてしまう。 「ん、んんんぅぅぅぅ……っ、ん、ん、ん……っ」 「ふあ……、もう、やああぁぁぁ……っ」 まるで性器をかき回されているような声を出すティア。 「歯は立てないでくれ」 「そんなの……、約束、できないです……っ」 「んぅっ、んぅぅぅぅ……っ」 ティアは自分の意志とは関係なしに、今にも歯を食いしばりそうになっている。 そろそろ止めておいた方がいいかもしれない。 「ふぅ……っ、ふぅ……っ、ふあぁ、もう……」 「普通に……、撫でて下さいよぅ……」 「ああ」 「本当に……お願いします……」 「約束する」 「もう……」 「今ので……また大きくなってますし……」 ティアには悪いが、軽い意地悪で乱れるティアを見るのは、楽しかった。 「大人しく……していてくださいね……」 ティアの舌が活動を再開する。 唾液が絡んだ唇は、先ほどよりも大きく動いていた。 「ん……っ、じゅるっ、じゅぷぅ……っ」 「ちゅぅぅぅ……っ、ちゅる、ちゅぷっ、ん……っ、ちゅぅ……」 俺は余程上手くティアを仕込んだらしい。 「ちゅぅぅぅぅ……っ」 ティアが精を吸い出すように、口を窄めた。 ティアの柔らかな頬肉が、亀頭に当たる。 「う……」 「ようやく……カイムさんも気持ち良くなってきたみたいですね」 「心の準備なら、もう十分なんじゃないのか?」 「そうですけど……」 「でもまだもう少し、させてください……」 「ん……っ、ちゅ、ちゅる……、ちゅぅぅぅ……っ」 「ぷは、ふあ……、結構、好きなんです」 「何がだ」 「気持ち良くなってきて、余裕がなくなったカイムさんを見るのが……」 余裕は……確かに無くなってきているかもしれない。 早くティアの中に入りたくて、たまらなくなってきている。 「普段はあんまり、そういうところを見せてくれないから……」 「下の方でも……余裕はなくなるぞ」 「そう、なんでしょうけど……」 「そっちだと……わたしも、余裕が無くなっちゃいますから」 「カイムさんのこと……、よく、観察できなくなります……」 「人を観察するな」 そう言って俺はまた、ティアの首筋に触れる。 「んぅ……っ」 「も、もう……っ、約束って、言ったじゃないですか……」 「歯を立てちゃいます……っ」 「お、おい……」 ティアは本当に陰茎を噛んだ。 もちろん甘噛みではあるが、その軽い痛みが、妙な刺激となって俺の背中を走った。 「く……っ」 ティアの頭に置いた手に、力がこもる。 「ん……っ、んぅぅ……っ、ちゅくっ、ちゅるっ、ちゅぅぅぅぅ……っ」 「ちゅぅ、ちゅ……ちゅぷっ、ちゅるぅぅぅっ! ん、ん、んぅぅぅぅ……っ」 そんな俺の反応を察知して、ティアの唇はますます激しく動いた。 「ティア……」 「はい」 「出そうだ……」 「ん……、いいですよ……」 「いいのか」 ティアはコクコクと頷きながら、陰茎を吸い続ける。 「ん……っ、ちゅぅ……っ、ちゅる、ちゅぅぅ……っ」 「子作りはどうする」 「もちろん……それもします」 「随分と欲張るじゃないか」 「だって……もっと幸せになりたいですから……」 呟いた拍子に、もう一度ティアの歯が当たった。 「っっ」 「じゅる……んじゅっ、ちゅく……っ、ちゅ、ちゅぅ……っ、ちゅる、ちゅぅぅぅっ」 「んんんぅぅぅ……っ、ん、ん、ん……っ、んんぅぅぅっ、んぅぅぅぅ……っ」 ティアは唇を操り、器用に尿道を開いた。 そこに舌の先を付着させる。 「んむ……っ、んぅ……っ、ふあ……っ、はぁっ、は……っ、んぅぅぅ……っ」 「出すぞ」 陰茎から口を離さないまま、首を縦に振る。 「んぅぅぅ……っ、ん……っ、じゅるっ、じゅぷぅ……っ」 「ふあ、はぁっ、あむぅ……っ、ちゅる、ちゅぷっ、ん……じゅっ、じゅるっ、ちゅっ、ぴちゅっ、んっ、んんん……っっ!!」 びゅるっ! びゅくっ! びゅくぅっ!! 「んぅ……っ! んっ! ん、ん、んぅぅぅぅ……っ!」 尿道から精液が溢れだす。 勢いよく飛び出し、ティアの喉を蹂躙する。 しかしティアは、口を離そうとしなかった。 「ん、んぅぅぅ……っ、ん、ん……っ」 「んむぅ……っ、んく、くぅぅぅ……」 鼻から息を吐きだし、時折喉を鳴らす。 飲んでいる……。 その事実に俺は妙な興奮を覚え、馬鹿みたいに射精を続けてしまった。 「んぐっ、んむ……っ」 「はぁ、ふあ……っ、ん、んむ……っ、んぅぅぅ……っ」 ティアも俺の射精に応じるように、陰茎を吸い続けていた。 「ちゅる……っ、ちゅくっ、ちゅるぅぅ……っ、ちゅぅ……っ」 「……んくっ」 ようやく射精が終わる。 それでもまだティアは、余韻を味わうように手を動かしていた。 「ん……、ちゅ……っ」 最後に陰茎にキスをして、ティアはようやく唇を離した。 「ぷはぁっ、ふあ……っ」 「……凄い量でした」 「あと、苦かったです……」 ティアが聞いてもいない感想を漏らす。 「飲まなくていいんだ」 「大丈夫ですよ。カイムさんのですから」 「理由になっていない」 「でも……大丈夫なんです」 ティアの唇と俺の亀頭が、白濁の糸で繋がっていた。 俺はもう一度、ティアの頭を撫でる。 「ふあ……っ、はぁ……、ふあぁ……っ」 「次は……どうしましょう」 「子供を作るんだよな?」 「はい……」 「きっともう薄くなってるぞ。お前が今飲んだから」 「下準備での味見で、ほとんど食材を食ってしまったようなものだ」 「大丈夫です、そのぐらいじゃ薄くならないですよ」 「カイムさんですから」 「理由になっていない」 「わたし、お料理には自信ありますし」 「なるほど」 訳が分からないことには違いないのだが、何故かこちらの言い訳には納得してしまった。 「じゃあ次は、ティアが下になれ」 「はい……」 ティアは一度立ち上がり、ゆっくりと服を脱ぎ出した。 俺はティアが半分ほど服を脱いだところで、押し倒してしまう。 「や──っ」 「んーーっ」 ティアを仰向けに寝転がせて、入り口にあてがう。 俺のものはもう硬さを取り戻していた。 「カイムさん……っ」 「ん?」 「……せっかちです」 「お前がとろいんだ」 「それはあんまりです……っ」 そんなやり取りをしながら、怒張した陰茎で入り口を愛撫する。 「あっ、ふあ……っ」 ティアのそこも、既に熱い体液を溢れさせていた。 「うぅ……やっぱり大きい……」 「心の準備が……足りなかったかも……」 「身体の準備は整ってるようだが」 何しろ俺も、もう我慢できない。 陰茎の先とティアの膣口を、思い切り付着させる。 「あ……」 「熱い……ですね」 「ああ……」 陰茎に付着していたティアの唾液と精液、それに愛液が混ざり合う。 触れているだけなのに、もう1つになったような気分になってしまう。 「すごく……ドキドキします……」 「ああ……」 何故だろうか。 いつもしている行為のはずなのに。 「今日は特に……ドキドキしています」 ティアが大きく深呼吸をする。 下腹部が膨らんでから、ゆっくりとしぼんでいく。 「心の準備はいいか……?」 「待ってたら……夜が明けてしまうかも」 「それは待っていられない」 「はい。だからもう……入れて、ください……」 「されながら、準備を整えます」 「そうしてくれると助かる」 「……壊さないでくださいね」 「ああ」 頷いて、俺はゆっくりと陰茎を、ティアの中に沈めていった。 ちゅぷ…… 「あ……、んぅっ」 湿った音がして、ティアの中に俺が侵入する。 「あ、あ、あ……っ、ふあ、あ……っ」 「やっ、ふや……っ、ああああぁぁぁぁ……っ」 「ん……っ」 お互いが、それぞれを味わうように声を上げた。 「ああ……っ、ふああぁぁ……」 ティアの中は狭い。 熱くて、その一方で非常に柔らかい。 得体の知れない感触に、俺のものも熱くなっていく。 「ふや……っ、や、や……っ」 「中で膨らむのは……、反則です……っ」 「そんなに大きくされたら……、あ、あ、あ……っ」 「こ……壊れ、ちゃいます……」 「大丈夫だ」 「う……、そ、そう……ですか……? ぅう……んっ」 「信じろ」 「……は、はい……ん、あ、あっ、あっああっ、ぁぁぁぁっ」 ティアが頷くのを見て、俺は安堵した。 「じゃあ……もう少し奥まで……」 「え? も、もっとですか……あ、ひゃっ、ひあぁっ」 両手でティアの足首を掴む。 脚を開かせながら、陰茎を押し込んでいった。 「や、あ……っ、ふあ、あ……っ」 「そんなに……、開かないでください……っ」 「は、恥ずか、し……過ぎ……ます……、うあっ、あ……っ」 ティアは抵抗して、脚を閉じようとする。 脚が締まると膣内も同時に締まり、俺のものが押し出されそうになった。 「ん、く、んんーっ」 押し出されてはかなわないと、脚を開く手に力を込める。 「だから……恥ずか、し、いん……です……ぅぅうっ、あっ、んんっ」 「脚を閉じると、俺が締めだされる」 「……あ、ふぁ……そんな……あぁっ」 「だから少し我慢してくれ」 「うぅ……、あまり、見ないで……くだ、さい……んあっ……あぁ」 心配しなくても、俺に覗き込むような余裕はなかった。 「力を抜いてくれ」 「は……はい、やっ、ああっ」 もう一度脚を開かせながら、押し込んでいく。 「ふあ……っ、あ、あ、ああぁぁぁ……」 「あっ、や、あああぁぁぁ……っ」 亀頭が奥に届いた辺りで、ティアの声色が少し変化した。 「ようやく心の準備も整ったみたいだな」 「は、ひっ……や……ああぁ……」 ティアがなんとか頷く。 それを見てから、俺もゆっくりと腰を揺らし始める。 「やっ、ふあ……っ、ん……っ」 「あ、あ、あ……、ふあっ、ふやあぁぁ……っ」 抵抗を続けていた脚の力も、少しずつ抜けていった。 むしろ更に奥へと俺を導きいれるように、自ら開いているようにも感じる。 「それにしても、ティアは変わらないな」 「え、う、あぁ……そ、れは……」 「中は狭いし、乳房も小さいままだし……」 「こ、これでも少しずつ……成長、しています……」 「それに……赤ちゃんを授かれば、胸は自然と大きくなる、って……」 「楽しみにしていよう」 「ひゃ……っ、んぅぅぅ……っ!」 腰を大きく突き入れると、ティアの体ががくがくと震えだす。 「や……っ、や、や、や……っ、ふや、ふやぁ……」 「愛してるぞ」 そう言うと、ティアは耳まで真っ赤になる。 「んっ……あっ……か、カイムさん……すきっ……すきっ」 「ああ……っ、ん、くっ、んぅぅ……っ」 「ひやっ、や、あ……っ、ふあ、あぅぅ……っ」 甘い声で鳴きはじめる。 「うぅ……、わたし、単純ですね……」 自覚はあるらしく、ティアは恥ずかしそうに眉をしかめる。 「まあそれは、ティアの良いところでもある」 「今度は……ちゃんと褒めてます?」 「一応な」 「なら……嬉しい」 本当に単純な奴だと思う。 その単純すぎるところも含めて、俺はこの少女を愛しているのだと思い出す。 思い出す? いや、これはずっと思っていたことだ。 「愛してる」 もう一度口にする。 ティアはやはりほのかに頬を赤く染めて── しかしもう、慌てるそぶりは見せない。 「わたしもですよ」 「大好きです、カイムさん」 かすかに潤んだ瞳で俺を見つめて、そう囁いた。 その言葉と視線に俺は反応してしまう。 ドクンと、陰茎が大きく波打った。 「ひゃ……っ、も、もう……」 「カイムさんも……単純です」 「……そうだな」 単純な俺は、そのまま腰の速度を上げていく。 ティアが、自ら腰を揺らし、俺を奥まで導き入れる。 「ひゃっ! ふや、ふああぁぁ……ああっ!」 「あ……っ、やつ、ひゃ……っ」 「んぅっ、ん、ん……っ、ふあ、ふああぁぁぁ……っ」 少し強めに腰を抉り、ティアの一番奥を叩いた。 「ひゃっ! あ、ああっ、あああぁぁぁ……っ」 「カイム……さぁん……っ」 「ひゃ……っ、んぅつ、あ……っ、うあ、ふあ……っ」 「もう……、変に、なっちゃいそうで……」 「いつも通りだ」 「もう……、すぐ、そういうことを……っ、あっ、ふやあぁぁ……っ」 ティアはもう、文句も言えないような状態になっていた。 「あ、あ……っ、ひゃっ、ふや……っ、ふああ……、ああ……っ、あ、あ、あ……っ」 「や、だ……っ、やっぱり……、壊れちゃうかも……、あっ、んっ、んぅぅぅ……」 ティアの脚が、小刻みに震えはじめる。 「カイムさん……、あ、や、や……っ、もう……っ、だ、だめ……えっ!」 「もう少しだ」 俺も、達しそうになっていた。 「き、来て……っ、来て……くださ、いっ、ひゃっ、ふやあぁぁぁ……」 「先にいくか?」 「や、あ……、そ、れは……」 「できれば……、一緒に、果てたいです……」 「そうだな……」 意識を下半身に集中させる。 ティアが我慢できている間に、俺も達してしまいたい。 「あ……っ、やっ、激……しい……っ」 「ひ……っ、うぐっ、うく……っ、あ、あ……っ、ふや……っ、ふあああぁぁ……っ」 「ああぁぁっ! ひあっ、ふあ……っ、ん……っ、んぅっ! んぅぅぅぅ……っ!」 びゅるっ! びゅくぅっ! びゅくぅぅぅ……っ! 「ひん……っ、ひくっ、ひあ……っ」 「ふあ……、あ、あ……っ、うあ……、あああぁぁぁ……」 俺は繋がったまま、ティアの中に種を放った。 ティアは全身を震わせて、俺から精を搾る。 「あ……、ふあ……っ、あ、あ……っ」 「お腹……熱い……、です……」 俺は射精しながら、腰を揺らしつづけた。 「ひゃ……、あ、や……っ」 「だ、ダメです……、いってるときに動いたら……」 「あ、あ、あ……」 「ん……っ、んぅぅぅ……っ」 ティアの身体が反り返る。 結合部からは、泡立った精液が溢れ出ていた。 「もう……、やり過ぎですよぅ……」 そう言いながらも、ティアの表情は満足そうだった。 「カイムさんの、溢れてしまいました……」 「ちゃんと、奥まで届いてるかなぁ……」 「大丈夫だ」 「大丈夫でしょうか?」 「ああ」 「……カイムさんが言うのならきっと、そうなんですね」 ティアが柔らかく微笑む。 「早く……赤ちゃんができるといいな……」 最後にそう呟いて、ティアは目を閉じた。 小さな寝息を立て始める。 まったく。 どこまでも簡単なティアに苦笑いをしながら、子供が生まれてからのことを想像してみた。 今よりもさらに大きく広がった麦畑。 その真ん中に、ティアが立っている。 ティアの傍には、ティアによく似た少女が一人。 不安げな顔で、ティアのスカートの裾を握っている。 ああ、こいつが俺たちの子供か。 ガキなど可愛いと思ったことはなかったが、この少女は好きになれそうだった。 遠くで、牛の声が聞こえている。 ──悪くない。 そんなささやか過ぎる想像で、俺の胸は溢れんばかりに満たされてしまう。 意識はすぐに、眠りに絡み取られていった。 暗い闇に落ちていく。 ………… …… … ──これが夢だということは、実は分かっていた。 俺が果たすことのできなかった、儚い夢だ。 〈風錆〉《ふうしょう》との一件が片付き、牢獄の治安は落ち着いてきていた。 依然として関所は存在するものの、人と物の流通は以前より改善してきている。 今までは滅多に見かけなかった高級嗜好品ですら、市場で目にすることも少なくない。 「カイムさん、お茶が入りましたよ」 ティアが湯気の立った杯を持ってきて、俺の向かい側に座った。 「ああ、悪いな」 茶に口を付ける。 以前よりも良い茶を使っているようだ。 「何を読んでるんですか?」 「《〈綴じ折〉《とじおり》》だ」 「街の噂なんかが書いてある」 「へえ」 ティアが目を輝かせる。 《綴じ折》は最近牢獄で売られるようになったものだ。 紙を折り畳んだものに、街の噂話などが書かれている。 情報は不正確で、仕事に使えるような代物ではない。 酒の肴か茶飲み話のネタにするのが精々だ。 「何か面白い記事はありましたか?」 「ないな、つまらない記事ばかりだ」 「読むか?」 興味深そうな目をしているティアに綴じ折を渡す。 「ええと……」 「『若手貴族の隠された素性に迫る』」 「『娼館リリウム、クローディア嬢、奇跡の奉仕体験談』」 「なんか……下世話ですね」 と、言いながら読み続ける。 女はこの手の読み物が好きだ。 「あ、これを見てください」 「『今、1日貴族体験が静かな流行に』?」 「面白そうです」 「馬鹿らしい」 記事に途中まで目を通す。 最後まで読むほどのものではなかった。 「貧乏貴族が、下層の金持ち相手に宿屋の真似事を始めただけだ」 「貴族の屋敷に泊まれるってだけで、金があり余ってる奴は飛びつくからな」 「夢がない言い方をしないでください」 「こいつらは、夢を売り買いしてるんだろ」 そういう商売だ。 「貴族の屋敷なんぞに泊まってみたいのか?」 「まあ、一度くらいは」 「お前、昔は貴族の屋敷で働いてたんだろう?」 「召使いに与えられていたのは、薄暗いジメジメした部屋でした」 「そうだったな」 こいつは、下級の召使いだった。 いくらでも代わりがいる消耗品としてしか扱われなかったのだろう。 「あ、お食事も豪華なものがいただけるようですね。素敵です……」 夢見る目をしていた。 ま、そもそも牢獄民相手の商売ではない。 殺しをやらなくなった今では、宿泊代金を稼ぐこともできないだろう。 「ま、気が向いたら考えてみよう」 「いえいえ、わたしはもうこの記事でお腹いっぱいですから」 そう言って、飽きずに記事を眺める。 窓からは明るい日差しが差し込み、人々の喧騒が聞こえてきた。 ──平和なものだ。 数日後の昼下がり、計画通りの『事件』は起きた。 家の扉が乱暴に鳴らされる。 来たか。 先日、ジークと打ち合わせた段取りを頭の中で反芻する。 「は、はーい」 ティアが洗い物の手を止め、玄関に向かう。 ティアが扉を開くと、そこにはオズとリサ、そしてジークが立っていた 「あ、こんにちは」 わざとらしいほど威圧感たっぷりに佇む3人を見て、ティアは少し怯んだ。 「カイムさんなら奥ですが」 「いや、今日はお前に用があって来たんだ」 「わたしに?」 オズは後ろに下がり、代わりにジークとリサが前に出た。 「嬢ちゃん、まっすぐに立ってみてくれ」 「は、はあ」 わけがわからない、といった顔でティアが直立する。 「姿勢が悪いな」 「おいリサ」 「あいあいさー」 「え? え?」 リサがティアの姿勢を矯正させた。 足を閉じさせて、腰をそらして胸が前に出るよう、調整する。 「……ふむ」 「あ、あの……、これは一体?」 「後ろを向かせろ」 「ほいやー」 「わわわわっ!?」 回れ右をさせられるティア。 ティアの後姿を、ジークは頭の先から足元まで眺める。 「牢獄に来た頃から、全然成長してないな」 「う……すみません」 「カイムに可愛がってもらえてれば、もう少し成長したのかもしれないがな」 「悪いが、そういう可愛がり方はしていない」 「味見もしていないと?」 「もちろんだ」 渋々俺も、扉の前に移動する。 気乗りはしないが、やはり放っておく訳にもいかない。 俺の言葉とティアの反応を交互に比べてから、ジークはにやりと笑う。 「品行方正なことで」 「ま、こっちとしては都合がいいが」 「あの、どういうことですか?」 「約束通り、こいつは返してもらうぞ」 ティアを無視してジークが言う。 俺は大きくため息を吐いた。 「好きにしろ」 「なんだ、ノリが悪いな」 「お前らが良すぎるんだ」 三文芝居も、ここまで来ると鼻白んでしまう。 「ティア、悪いがこいつらに付き合ってやってくれ」 俺の言葉を聞き、ジークがリサとオズに合図を送る。 2人はティアを挟んで立ち、両脇を抱えるようにしてティアを拘束した。 「え!? あの!?」 おろおろしているティアの目の前に、ジークが1枚の紙を突き出した。 「ええと……借用書?」 「カイム・アストレアは不蝕金鎖に対して金貨600枚を借り入れるものとする……」 「その担保は、ユースティア・アストレアとする」 「な……なんですかこれは?」 「見ての通り、借金の証文だ」 「しゃ……借金!?」 「カイムがお嬢ちゃんを、ウチの店から身請けする際に交わしたものだ」 「……」 「身請けする際に足りなかった金は、そのまま〈不蝕金鎖〉《ウチ》への借金になっている」 「担保は、嬢ちゃん自身だ」 「えええええ!?」 「えっと、じゃあ……ここに書かれている借金は……」 「まだ返せていない」 「嬢ちゃんの所有権は、まだ俺が持ってるってことだ」 「そ、そんな……」 ティアの身体から力が抜ける。 ここまでの流れで気付くと思ったが、ティアも動転しているらしい。 「もういいだろう、早く連れて行ってくれ」 「あー、カイムったら冷たいんだー」 「もっとこう劇的なお別れとかないの?」 「黙れ」 「ひゃー、こわーっ」 「ま、待ってください! 別れって何ですか!? わたしまだ……何がなんだか……」 「よーするに、今日からあたしの同僚になるってこと」 リサが、やたらと明るい声で告げた。 「で、でもわたしは羽つきですよ!?」 「上層からのお客様は、変わったご趣味の方が多い」 「うちも、いろいろな要望に応えていかなきゃならねえんだ」 「あ……」 「ま、そういうこった」 「こっちとしては、金は早く回収してしまいたいからな」 「頼むぞ、嬢ちゃん」 ジークはティアの頬を指先で叩いてから、出口に向かった。 「カ、カイムさん……助けてくださいっ」 「すまない」 俺は一言だけ、ティアに告げた。 それ以上の言葉は出てこなかった。 「カイムさん、カイムさぁん……!」 「大人しくしないと、余計な怪我が増えるぞ」 「大丈夫、ティアならみんな大歓迎だから!」 「あ、あーーー……」 切れ切れの悲鳴を残して、ティアが連れて行かれた。 ここまで真に迫っていると、さすがに不憫に思えてくる。 「はぁ……」 事の起こりは、2日前のヴィノレタだ。 メルトを相手に酒を飲んでいた時、何のきっかけだったかティアの話になった。 「いつもティアちゃんのお世話になってるんでしょ、たまにはお礼くらいしたら?」 「うちでもよく働いてくれるし、お金も入れてくれてるんでしょ?」 「あいつは元召使いだ、使われるのには慣れてる」 「慣れてても慣れてなくても、お礼をされたら嬉しいものよ」 確かに、ティアは家のことをよくやってくれている。 〈風錆〉《ふうしょう》の件でも、奴にはひとかたならず世話になっていた。 とはいえ、改まって礼をするというのも柄ではないし、面倒だ。 「あー、わかった、お礼するのが恥ずかしいんでしょ」 いきなり見透かしてきた。 「まさか。そこまでガキじゃない」 「どうかしら?」 「メルトがそう思い込みたいだけだろう」 「もう、拗ねちゃって」 額を指で弾かれた。 どうやら挑発したいらしいが。 「お前が勝手にやればいい」 「あら、じゃあそうさせてもらおうかしら」 「その話、乗った」 いきなり現れたジークが、出し抜けに言った。 「頼んでないが」 「いや、困っている奴を放ってはおけない」 「気持ちいいほどの嘘ね」 「まあそう言うな」 ジークが俺の隣に座り、煙草に火を着けた。 「で、嬢ちゃんは何をすれば喜ぶんだ?」 「知らんな」 「甲斐性なし」 「余計なお世話だ」 「ティアちゃん、何か欲しい物とか言ってなかった?」 思い当たったのは、ティアが目を皿のようにして眺めていた綴じ折だ。 メルトにざっと話して聞かせる。 「ああ、あの記事ね」 「知っていたか」 「こういう商売やってたら、話のネタはどんなことでも仕込んでおくものよ」 「よし、なら貴族の館に泊まらせてやろう。カイムの金で」 「そんな金があると思うか」 「ないでしょうね。小さい家なら買えちゃう値段だし」 「それに、お礼っていっても贅沢すぎるわ」 「なら、牢獄にある貴族の屋敷に泊めてやろう」 ジークが、意味ありげに眉を上げる。 「リリウムの特別室か」 「あそこなら、貴族のお屋敷にもひけは取らないわね」 「もともと、上層のお客様用の部屋だし」 二人の表情が熱を帯びてくる。 こいつら本気だ。 「やめておけ」 「あ?」 「ティアは、人の礼を素直に受け取る奴じゃない」 「自分には勿体ないだの何だの言って断るだろう」 「あーそっか、謙虚な子だしね」 「そういうことだ」 「うーん……」 メルトは諦めてくれたようだ。 「カイムの意気地なしっ!」 「そんなことで、ティアちゃんの気持ちを射止められると思うの!?」 女声を出しながら、煙草の火を灰皿でもみ消した。 意外と器用な奴だ。 「ともかく、敵は強いほど戦い甲斐がある」 「あ、それもそうね」 メルトがあっさりやる気を取り戻した。 「俺に策がある」 「ほう」 「……」 二人が額を突き合わせた。 こうなると、止められる気がしない。 と、ジークに提案されたのが、先の茶番だ。 「あら、予定より早うございますね」 「そんなにティアちゃんのことが心配ですか?」 「どうかな」 「ティアはどうしてる?」 「緊張していらっしゃるようですね」 「ティアはまだ気づいてないのか?」 クロが頷く。 「呆れたものだ」 「動転していたみたいですから、仕方ありませんよ」 「早くお顔を見せて、安心させてあげてくださいましな」 「ああ」 俺には、ティアに種明かしをする役が回ってきていた。 本当のことを伝えたら、一体どんな顔をするだろうか。 「カイム」 アイリスが上階から下りてきた。 「世話をかけているようだな」 「そうでもない」 「ティアは素直に運命を受け入れてる」 相変わらず、不条理への適応能力の高い奴だ。 「ティアのヒモになったらいい」 「つまらんことを言うな」 「さっさとネタをばらしてくる」 「いってらっしゃいませ」 「ごゆっくり」 二人が、妙に楽しそうに俺を見送る。 すっかり楽しんでいるようだ。 「あ……」 「よう」 ティアは、ポツリとベッドに座っていた。 「よ、よろしくお願いします」 ティアが頭を下げる。 「何がだ?」 「カイムさんが、初めてのお客さんだと言われていたんです」 「もう覚悟は決めました」 どうやら、本気で信じていたらしい。 「お前が娼婦になる話は、冗談だ」 「あ、なるほど」 ティアが、微笑みを浮かべたまま俺を見る。 その顔が硬直した。 「冗談?」 「ああ」 「ええええええっっっ!!!」 空気が震えるほどの声。 そして、ティアは糸が切れたように脱力した。 「そ、そんな……」 「大体、よく考えてみろ」 「借金の担保に、羽つきを指定する奴がいるか」 「担保というのは、いざというときに金に換えるために取るんだ」 「で、でも、リリウムで新しいご商売を始めるって」 「それも嘘だ」 「ううう〜」 ティアが子犬のように唸る。 「どうして、こんな嘘を」 「お前を、いい部屋に泊まらせてやりたかったんだ」 「日頃から家事をやってもらっているし、〈風錆〉《ふうしょう》の件でも世話になったからな」 「ま、貴族の屋敷はさすがに無理だったが」 「だったら、初めからそう言ってくれれば」 「言ったら、お前は素直に受けなかっただろう?」 「自分には勿体ないとでも言って、遠慮するに決まっている」 「あ……」 「皆、お前に喜んで欲しかったんだ」 少なくとも、俺とメルトはティアに喜んで欲しかった。 他の奴は遊んでいただけだろうが。 「うう……」 ティアが俯いた。 「皆さんのお気持ちはありがたいのですが……少し、刺激が強すぎます……」 「悪かった」 ベッドに近づき、ティアの頭を撫でる。 「とにかく、今夜はこの部屋を貸し切ってある」 「気の済むまで満喫してくれ」 「はい、ありがとうございます」 ようやくティアの表情が晴れた。 「すみません、わたしのために、ここまでしていただいて」 「いいんだ」 更に頭を撫でてやる。 気持ちよさそうに、ティアが眼を細めた。 「カイムさんは、どうされるんですか?」 「帰るが」 「え?」 ティアが目を見開いた。 「どうした?」 「でも、その……」 言いずらそうに、口ごもる。 「せっかく豪華な部屋に泊めていただいても、一人では寂しいな、と」 「それにあの、綴じ折には、貴族の館を利用されるのは新婚の方が多いと書かれていましたので」 「俺たちが新婚だと」 「いえいえいえいえ、もちろん違います」 「でも、わたしがうらやましいなと思ったのは、そこも含めてのことなんです」 言い終わり、ティアは頬を染めた。 こいつにしては、随分と強く欲求を主張したものだ。 ま、いいだろう。 「ここで寝ても家に帰っても、大して変わらん」 「今夜は付き合おう」 「本当ですかっ」 ティアの表情が輝いた。 「ああ」 と、部屋を見る。 ここは娼館だ。 無論ベッドは一つしかない。 「俺は椅子で寝る、ベッドはお前が使え」 「カイムさん……」 ティアが俺の袖を引く。 「ティア、無理はしなくていいんだぞ」 「大丈夫です、無理なんてしてません」 そう言っている割には、決意に満ちた顔をしている。 仕方がない。 今日はとことん付き合おう。 先にベッドに潜り込む。 「お前も来い」 「は、はい……失礼します……」 一つ唾を飲み込んでから、ティアがベッドに入り込んできた。 沈黙が重い。 隣のティアが、ぎゅっと息を殺しているのがわかる。 「なあ、ティア」 「は、はいっ」 「落ちつけ」 「お、落ち着いています」 ベッドの中で触れるティアの身体は、硬く強張っている。 反応から察するに、まだ男を知らないのかもしれない。 少なくとも、慣れていないことだけは確実だ。 「ティア」 「ははは、はい」 「寝れそうか」 「ね、寝れます……寝れると、思います」 「嘘をつくな」 「うう……」 ティアがうなる。 黙るかと思ったら口を開いた。 「あの、ですね……」 「色々とわたしもその……考えてみたんですけど……」 「ほう」 「寝れないほど考え事があったのか?」 「茶化さないでください」 真剣な声だった。 ティアが俺に対して多少の口答えをするようになったのは、一緒に住み始めてからの数少ない変化だった。 「わたしを身請けする際に、お金を借りたのって本当ですか?」 「もう返済済みだがな」 「黒羽の件でもらった報酬で完済した」 「そうでしたか」 ティアが安堵のため息をついた。 「今日のように娼婦にさせられることはない、安心しろ」 「第一、お前には羽があるだろう?」 「不蝕金鎖は、羽つきを娼館に出すような真似はしない」 「喜んでいいのやら、悪いのやら」 よくはないだろう。 フィオネの件で羽狩りの活動は活発ではなくなったが、やはり羽つきへの目は厳しい。 「でも、今日のことで、1ついいことがあった気がします」 「いい部屋に泊まれただろう?」 「あ、それも数えると2つです」 「もう1つは?」 「覚悟ができました」 ティアがベッドの中で身を固くする。 「今日、娼婦になることになって、初めのお客様がカイムさんだって聞かされたんです」 「初めはすごく驚いて、怖かったんですけど……」 「もういい」 「むぐぅ」 ティアの頭を押さえる。 「無理に先に進もうとするな」 「この先、機会はいくらでもあるだろう」 「先の事なんて、わからないです」 「それは誰でも同じだ」 「だからです」 「今を大事にしないと、後悔することになると思うんです」 「こんなことなら、カイムさんに思いを伝えておくんだったって……」 ティアが言葉を切った。 恐らくこれが精いっぱいの告白だったのだろう。 沈黙の中、ティアの小さな鼓動が聞こえて来る。 「俺は、いつ死んでもおかしくないような男だ」 「だからこそ、特定の女は作らないようにしている」 「俺に何かあったとき、不幸になる人間は一人でも増やしたくはない」 そこまで言って、俺も一息つく。 ティアのことは、憎からず思っている。 でなければ、そもそも今日のことすらなかった。 共同生活の中で情が移ったのかもしれない。 ティアは身じろぎ一つせず、俺の言葉の続きを待っていた。 少女の心音は、加速し続けている。 「これだけ一緒に暮らしておいて、何もないというのもおかしな話か」 ティアの身体が、ぴくりと震えた。 「……」 言葉はない。 しかし、小さく頷くのを感じた。 しばらく一緒に暮らしてきた女を、わざわざ家の外で抱くとは。 妙な気分だ。 「いいのか」 「はい、覚悟は決めました」 真っ直ぐな視線だ。 俺はティアの実直さに応えられるのか。 ふと、不安が過ぎる。 さんざん人を殺してきた自分が、こんな感覚を持つのは意外だ。 「ティア」 ベッドの上で、共に上半身を起こす。 しっとりとした髪を撫でる。 「お前は俺のものだ」 「嬉しいです、カイムさん」 手を頬から顎へと移す。 軽く固定し、唇を近づけた。 ティアが固く目を閉じる。 「んん……ん……」 「ふ……ん……ちゅ……」 ティアの身体が震えている。 その肩を撫でながら、一度距離を取る。 「怖いか?」 「平気です」 「お前が平気だと言うときは、いつも平気じゃない」 髪を手で梳きながら、もう一度口づける。 「ちゅ……くちゅ……んんっ」 ティアの服に手をやる。 〈躊躇〉《ためら》いがちにティアが頷いた。 「…………」 羞恥で肌が染まっている。 「なかなか綺麗だ」 「う、嘘です」 「胸、小さいですし」 「嘘じゃない」 「男はみな大きさを口にするが、好きな人間のなら、気にならないものだ」 ティアを後ろから抱きしめる。 「ん……」 ベッドの上に座ったティアを、背後から抱く。 「わ……、うわ……」 「痛いか?」 「いえ……、ちょっと、ビックリして……」 「触れられるだけで、ピリってします……」 「敏感だな」 「本当のことなんです」 ティアが俺を見る。 非常な至近距離で、ティアの唇が何かを求めるように、小さく動いた。 「……」 すぐに唇を重ねる。 「ん……っ、ん……っ」 「はぁ……っ、ん……っ、ちゅ、ちゅる……っ、ちゅ……っ」 少しずつ舌を滑り込ます。 ティアは、拙いながらも積極的に舌を絡ませてきた。 「はぁ……っ、ん、ちゅぅ……っ」 「ちゅく……っ、ちゅる……っ、れる……」 乳房に置いた手を優しく動かす。 「あ……っ、ふあ……っ」 ティアの口から吐息が漏れる。 吐息からは、香草の匂いがした。 「あ、や、ふあ……っ、あ、あ、あ……っ」 「……小さくて、申し訳ないです」 「さっきも言っただろう? 娼婦じゃないんだ大きさは関係ない」 「それにお前は、敏感じゃないか」 「こ、これは……、本当に口から、声が勝手に出ちゃうんです……」 「はぁ……っ、ふあっ、はぁ……っ、んぅぅ……っ」 ティアの反応が加速していく。 乳房はまだ微かに、少女特有の硬さを残していた。 それをほぐすように手を動かす。 「カイム……さん……」 「はぁ……っ、ん、ん……っ、んぅ……」 またティアが舌を絡めてくる。 「はむっ、ん……っ、んむぅ……」 「ん、ん、ん……っ、ん……っ、ふあぁ……っ」 ティアの体温が上がっていく。 唾液の量も増えていた。 「はぁ……っ、ん……っ」 「ん?」 突如何かが、俺の胸をくすぐった。 「あ……」 ティアの羽だ。 背中に生えた目立たない程の小さな羽根が、小刻みに震えている。 「羽……邪魔ですよね?」 「いや」 羽がもたらす刺激は、新鮮で妙に心地よかった。 娼婦の中には、羽根で男をくすぐる奴がいる。 似たようなものだ。 「気持ち良いと……震えちゃうみたいで」 「恥ずかしい……です……」 「これはこれでいい」 オズの言う通り、確かに需要はありそうだ。 「……カイムさん」 「うん?」 「あの、その……胸、なんですけど……」 「もっと強く……触ってもらっても、いいですよ……」 ティアがそう口にしてから、羽が震えた。 より強い刺激を求めていることは、一目瞭然だった。 その様子がやけに愛おしく感じられ、俺は少し意地悪をしてしまう。 「いい……ですよ?」 「あ、いや、その……」 「して……ください……もっと、強く……」 また羽が震える。 「もっとぎゅっと……多分大丈夫です……」 「ああ」 「痛かったらちゃんと言えよ」 「大丈夫、我慢します」 「しなくていい」 手に力を込めていく。 行為を俯瞰している気分でいたが、いつの間にか没頭しかけていた。 「ん……っ」 ティアの眉間に、小さく皺が寄る。 「痛いか?」 「す……少し……」 「これくらいでどうだ?」 力を弱める。 「あ、気持ちい……いえ、痛くないです」 恥ずかしそうに言い直す。 いじらしい姿が、俺を熱くする。 昂ぶる気持ちに罪悪感すら覚えながら、俺は乳房を愛撫した。 「ふにゃ……っ、や、あ……っ」 「カイム……さん、んっ……あ……」 ティアの声が艶を帯びる。 「あ、あ……っ、やっ、ふや……っ、あああぁぁぁ……っ」 声を吸い取るように、ティアの唇を吸う。 「あ……っ、ん……っ」 「ちゅ……、んちゅっ、ちゅうぅ……ふあ、はぁ……」 ティアは既に、口づけに慣れはじめていた。 俺の性的興奮を高めるかのように、ねっとりと舌を絡ませてくる。 前歯を舐められ、口腔内の粘膜を突かれる。 「ん……っ、ふあっ、ふあぁ……っ」 「はぁ……っ、ん、んん……っ!」 甘い匂いがする。 ティアの汗の匂いだろうか。 「カイムさんとの口づけは、お酒のような味がしますね……」 「なんだか、酔っぱらってしまいそうです……」 ティアが眼を細める。 火照った頬は、言葉どおり酔ったようにも見える。 「はぁっ、ん……っ、ふあ、あ、あ……っ」 「胸も……気持ち良く、なってきました……」 「痛みはどうだ?」 「そういえば……、今はもう、あんまり……」 「やはり、最初は我慢していたんだな」 「あ、そ、それは……」 「でも、いま気持ちいいのは本当です」 「胸だけじゃなくて、身体全体がふわふわ浮くみたいな感じです」 「そうか」 緊張が解けてきているのだろう。 抑制した手の動きの中に、乳首への刺激も織り交ぜてみる。 と言っても、僅かに触れる程度だ。 「んんっ、ふあぁ……ああっ、んんんっ」 「だって……っ、や……っ、あ、あ、あ……」 反応が正直に声になる。 羽はますます大きく震えて、俺の胸をくすぐった。 「カイム……さん、あの、そろそろ……」 「ん?」 「胸、だけじゃなくて……、ふにゃっ、ふあ……っ」 「し、下の方も……」 「……胸を揉まれる程度の痛みじゃないぞ」 「大丈夫です……だって、ほら……」 「そこまでしないと、本当にカイムさんのものになれませんから」 「ティア……」 「は、はい……」 俺の呟きを、呼びかけだと思ったらしい。 まじまじと俺を見つめるティアの頭を、優しく撫でる。 「いいのか俺で」 「はい……カイムさんがいいです」 ティアにしては決然としていた。 ふと、こいつのように心が身体を引っ張っていくような経験が、自分には少なかったことに気付く。 「カイムさんも、わたしなんかでいいですか?」 「もちろんだ」 「…………」 声にならない感激の声を上げる。 ティアの乳房から手を離し、ベッドの上に寝かせた。 「あ……」 ティアの上に被さり、手を繋ぐ。 「ふあ……」 ティアの手は温かかった。 先ほどまでの長い前戯のお陰だろう。 緊張はしていないようだ。 「カイムさんの手、大きいですね……」 ティアはまだとろんと目を細めている。 「行くぞ」 端的に、それだけを伝えた。 「はい」 ティアがしっかりと頷いた。 「ん……っ、く、あ……っ、ふあ、あ……っ、んぅぅ……っ」 陰茎を入り口にあてがうと、亀頭の先は簡単に飲み込まれてしまった。 「あ……っ、あ、あ……っ、んぅっ、んぅぅ……っ」 簡単に入ったからといって、痛くないわけが無い。 ティアの手が、一気に冷たくなる。 「大丈夫か?」 「我慢……、した方がいいですか?」 「できそうか?」 「カイムさんが……、しろと仰るのなら……」 「じゃあ、できるだけ頑張ってくれ」 「は……、はい」 少しずつ、肉棒を沈めていく。 拒絶するような抵抗は無いが、それでもティアの中は狭い。 閉じた肉の壁をはがすようにして、押し進めていく。 「あ、あ、あ……っ、ん……っ、んぅぅぅぅ……っ」 緊張感を伴った声が、時折ティアの口から漏れる。 「あ……っ、うあっ、ひ……っ、ぐ……っ」 「あ、あの……っ、まだで……しょうか……」 「今、半分くらいだ」 「はん……、ぶん……」 「カイムさん……大きすぎます……」 それよりも、ティアの中が狭すぎる方が問題だ。 「はぁ……っ、ひぐっ、は……、うぅぅぅ……」 しかしここで〈躊躇〉《ためら》えば、かえって苦痛が長引いてしまう。 俺はそのまま、腰を押し進めていった。 「ああーっ、あ、あ……っ、ひあっ、ふあぁぁ……っ」 「ひ、ん、んん……っ!!」 ぷちん 「ひぐっ!」 今までで一番大きな、何かを破いた。 「あ、あ、あ……っ、ああっ、ふああぁぁ……っ」 その感触の直後、急に膣内の抵抗が消えた。 完全に、少女の証を破いてしまったようだ。 「はぁっ、はぁ……っ、はぁっ、はぁっ、はぁ、はぁ……っ」 「大丈夫か?」 ティアが顔を上げる。 「……はい」 目には、涙が浮いていた。 「嘘をつけ」 「うぅ……、た、確かに、かなり痛いです……」 「奥の方まで、痺れるみたいです……」 「でも、痛いほうが……いい、です」 「変態か」 「違います……」 「その……気持ち良いだけだと、すぐに忘れちゃいそうだから……」 「こういうことって、できるだけ長く覚えておきたいじゃないですか」 「痛みを伴った方が、いつまでも覚えていられます……」 ぞわりと、背中に鳥肌が立った。 改めて……目の前の少女の大切なものを奪ったのだと、そう思った。 責任の2文字が重く圧し掛かりつつ、一方でその重圧を心地よくも感じる。 これでは、自分勝手に死ぬこともできなくなるな。 柄にもなく、そんなことを思った。 「わたし、本当に幸せです」 「気持ち良いとか、そういう感覚はまだ分からないですけど、この痛みだけで大満足です」 「……そんなことで満足するな」 「え?」 「二人ですることだ、痛いだけじゃつまらない」 ゆっくりと下半身に力を込める。 「あっ」 幸いティアの中は濡れている。 腰を揺らすことはできた。 「ふあ、はっ、ん……っ、んぅぅぅぅ……」 それでも、中が狭いことに変りはない。 俺の性器を握りつぶすように、膣全体が絡みつく。 ティアの痛みを和らげようと、唇を吸ってみた。 「んーっ、んぅっ、んぅぅぅ……っ」 「あっ、ふあ……、ん……っ、ちゅ……」 「ちゅ……っ、ちゅく、ん……ちゅぅ……っ、ちゅ……」 ティアも反射的に、舌を絡めてくる。 「ん……、ちゅる……、ふあっ」 あっという間にティアの手は体温を取り戻していく。 中も、じんわりと熱くなってきた。 「はぁっ、はぁ……っ、はぁっ、んくっ、ふあぁ……っ」 「すごい……、本当にちょっと、気持ちよくなって来ました……」 「ならよかった」 「これは、気持ちよくなるための行為だ、無理に我慢しようと思うな」 「はい……カイムさん……」 「ん、んぅっ、ふやっ、ふあ……っ、あぅぅ……」 少しずつ、腰の動きを速めていく。 それに伴い、ティアも少しずつ昂ぶっていった。 「うぅ……確かに、気の持ち方で……あ、あ、んんんっ……変わります……」 「で、でも本当に……だんだん、気持ち良く、なってきました……」 「……」 胸が熱くなり、もう一度ティアの唇を吸う。 「ふあ……、んぅ……っ」 「んぅ……っ、ちゅるっ、ちゅぅ……っ、ふあ、ふあぁ……」 また、ティアの中の温度が上がる。 いつの間にか、膣壁を押し広げていくような感触も消えていた。 代わりに、水っぽい音が聞こえるようになっている。 「カイム……さん……」 「手を……、離さないで下さいね……」 「離されたら……、なんだか、飛んでいってしまいそうです……」 「お、おかしな感覚、なんですけど……」 それは……達しかけているのではないだろうか。 「すごいな」 「す、すごいです……っ、こんなの本当に……初めてで、ひゃっ、ふあ……っ」 ならばともう少し早く、腰を揺らしてみる。 「あっ、や、ひゃ……っ、カイムさん……っ、カイム、さぁん……っ」 「ふあ……っ、激しい……」 「あ、ああっ、あ、あ……っ、ふあ、ふあ……っ、や、や、や……っ、ひやあぁぁ……っ」 ティアの唇が女のそれへと変化していったように、膣内も急速な成長を遂げる。 襞の一枚一枚が、波打ちながら俺に絡み付いてくる。 「カイムさん……っ、あ……っ、あ、あ……っ、ふあっ、ふあ……っ、ふああぁぁ……」 手を、改めて強く握られた。 きっとティアの背中では、小さな羽が忙しなく震えている。 「もう……、あ、駄目、ですっ、変に……、なっちゃいそう……」 「や、や、や……っ、ふや……っ、ふやっ! ひ……っ、ん、んぅぅぅぅ……っ!」 俺も募る射精感をそのまま、ティアに叩きつける。 「あ……っ、あ、あ、あっ、あんっ、ふあっ、うあっ、ん、くっ、ああぁぁぁ……っ」」 「はああっ、うあうっ……か、カイムさんっ、カイム、さぁん……っ、あああっ……あ、あ、あ」 「ひ……っ、んぅっ、ん、んうぅぅっ! んくっ、ひぅ、んっ、く、ああああああああぁぁっ!」 びゅるぅ! びゅくっ! びゅるっ! 「あぁっ! あぁっ! あ……っ、ふあっ! ふあああぁぁぁ……っ」 欲望に流されるまま、俺はティアの中に精を放つ。 「ふあ……っ、やっ、や……っ」 「うああぁぁ……っ、カイムさんっ、カイムさんっ、カイムさんっ……!」 「ふあ、ああっ! あああぁぁぁ……っ」 「んぅっ! んぅぅぅ……っ、ふああっ!」 悲鳴のような声を上げるティア。 「んんっ……ふあ……ぁあっ……はぁ……っ」 「ティア……」 「ああっ……はぁ……う……あ……」 呼びかけに応じる余裕もない。 荒い息で身体を痙攣させている。 「はぁ……あ……はぁ……はぁ……」 無意識にティアの頭を撫でていた。 「カイ、ム……さん……?」 「上手くできたな」 「そう、ですか?」 「ああ、立派だ」 「へへへ……」 涙を溜めた目で、ティアが微笑んだ。 「……カイムさん」 「何だ」 「もう一度、口づけをお願いします」 「……」 唇を被せた。 「ん……っ、ちゅ……っ」 「ん……あ……んぅ……ん……」 情熱的なものではなかった。 恐らく、ティアは何かを確認したかったのだろう。 「ありがとうございます」 「今日は本当に……素敵な夜になりました」 「ああ、俺もだ」 翌朝── 部屋を出た俺達を待っていたのは、盛大な冷やかしだった。 「不能じゃなかった」 「むしろすごかったかも」 「次は私たちとも、遊んでくださいましね」 「え、えっと……、あの、ええぇぇ……」 「もも、もしかして、わたしたちの……」 ティアが狼狽する。 向こうは盛大なはったりをかけてきているのだ。 狼狽すれば、関係があったことが丸わかりだ。 「良かったな、嬢ちゃん」 「ええ、本当に」 「小動物のくせに、生意気……」 「か、カイムさん……、これは……!?」 「諦めろ、こういう連中なんだ」 「気が済んだら帰っていいか?」 「まさか。俺も楽しませてくれる約束だろう?」 「まだ足りないのか」 「とーぜん、飲まなきゃ飲まなきゃ!」 ロビーには、すでに酒の準備が整えられていた。 全員が酒を手に取り、ジークが音頭を取ろうとする 「では……2人の未来に」 「趣旨が変わってないか?」 「細かいことは気にするな」 「とにかく……乾杯!」 皆が杯をかかげ、ロビーが喧騒に包まれる。 どう見ても、他人を肴に飲みたいだけだった。 ま、元より娯楽の少ない牢獄だ。 たまには肴になってやるのも悪くないだろう。 「ティア、大丈夫か?」 「は、はい……、確かにちょっとびっくりしましたけど……」 「でもにぎやかなのは、嫌いじゃないです」 ティアが笑う。 本当に単純な奴だ。 だが、その単純さに救われることもある。 「まあなんだ、こういう連中も含めてになるが……」 「は……はい」 「これからもよろしく頼む」 「はい、こちらこそお願いします!」 「おーい、主役が脇で何やってるんだ」 「仕方がない。ティア、行くぞ」 「はい」 俺の後に、ティアが小さな歩幅で続く。 きっとこんなことが、この先ずっと続いて行くのだろう。 身体がふやけるような未来だが、それも悪くない── 今の俺にはそう思えた。 「……」 「……えーと」 俺とティアは、何故か向き合っていた。 意味がわからない。 「どういうことだ?」 「わたしに聞かれても」 「……どうしましょう?」 「どうするか」 どうやら、牢獄名物の不条理空間に吸いこまれたらしい。 伝説によれば、不条理空間は、どこからか飛来した不条理生物が吐き出す不条理光線を浴びることによって生まれる。 それが、不条理空間に不条理時空を発生させ、集まった不条理粒子が絶対的感覚として立ち上がってくるという。 つまり、不条理だと思っておけば何となくそういう感じになるのだ。 牢獄には不条理が腐るほど転がっている。 「……」 つまりは、夢。 夢だ。 不条理なまでにきっぱりと理解した。 ならば…… ティアに不条理思念を送ってみる。 「へ……?」 「わわわわわわっ、何でわたし、裸? えっ!? えええっ!?」 わたわたとティアが身体を隠す。 見事、ティアの瞬間脱衣に成功した。 こういう不条理は嫌いじゃない。 よし! 「む……」 「あ、あれ?」 「く……」 「わーーーーっっ!!」 「はっ!」 「呼んだか!?」 「消えてくれ」 「うう……」 「何度見ても怪しい服だ」 「お嫌いですか、こういう服は?」 「まあ、中身がお前なら悪くない」 「……」 ティアの顔が赤くなる。 「そんなこと、言ってもらえるとは思いませんでした」 「夢みたいです」 夢なんだろうが、気にしないことにしよう。 「で、でも、どうしてわたしの服が替わるんですか?」 「ここは、俺の夢の中だからだ」 「じゃあ、この服もカイムさんの希望なんですね」 「いいんだぞ、裸にしても」 「裸にしたまま、場所を大通りに移してもいい」 「理不尽です」 ティアがしょぼくれた顔をする。 「でも、望むならそうして下さい」 「カイムさんのためなら、わたし平気です」 「冗談だ」 ティアの頬に触れる。 どうせ不条理ならば、不条理なまま不適切な行為に及んでみよう。 「どうして、お前の身体を他の奴に見せなくちゃならない」 「はい、独り占めしておいて下さい」 「言われなくてもそうする」 唇を近づけた。 「ん……ちゅっ……」 子供のように、唇を着けるだけの口づけだった。 「あの、こういうことを言うと、はしたないと思われるかもしれないんですが」 〈躊躇〉《ちゅうちょ》して言葉を切る。 「何だ?」 「カイムさんの部屋で、こういうことをしてみたかったんです」 「やっぱり、思い出の場所なので」 「そうか」 柔らかな髪を撫でる。 もう一度口づけをした。 さっきよりも長く、互いの唇をついばみ合う。 「ふ……んっ……ちゅ……」 「くちゅ……んふっ……んんっ」 ティアが俺の腕を掴む。 親にすがりつく子供のように、どこか必死さが感じられる。 それがまた、愛おしさを増幅させた。 「……」 不思議だ。 夢の中なら何をしても許されるはずなのに、こいつを大事にしたいと思ってしまう。 いや違う。 俺の中の欲求が、こいつを大切にしろと言っているのだ。 「カイムさん……好きです……」 「俺もだ」 疑いなく、好きだと思う。 経験したことのない感情だった。 今の不思議な状況が、俺を素直にさせているのかもしれない。 「ティア、抱かせてくれ」 「……はい……」 ティアが上目遣いに俺を見る。 そして、胸の中に収まった。 「すごく、嬉しいです」 「他にはもう、何もいらないくらいです」 「俺もだ」 ティアを抱きしめる。 ゆっくりと、衣服をはがしていく。 「ん……」 背後からティアを抱く。 ティアは卓の縁をつかんで、体勢を保とうとする。 「な、何だか……恥ずかしい格好です」 「可愛いから気にするな」 「そんな風に言われたら……嫌がれないです」 「それでいい」 ティアの腰をつかむ。 剥き出しになった陰茎で、ティアの下半身に触れる。 「あ……っ、ふあ……っ」 「あ、あ、あ……っ、ん、んぅぅ……っ」 入り口が既に温かい。 湿っぽい感触もある。 「濡れちゃってる……みたいです」 恥かしそうに、ティアがそう呟いた。 「すみません」 「謝ることはない」 「だ、だって……。やっぱり恥かしいです……」 「あんまりはしたないと、カイムさんに嫌われちゃいます」 それには応えず、代わりに硬くなった陰茎をティアに押し付けた。 「ひ……っ」 ティアにも今の俺がどういう状況なのかは、伝わったはずだ。 「俺もはしたないな。嫌いになるか?」 「あ、いえ……嬉しい、です」 「か、カイムさんも嬉しいですか? その……わたしが、濡れてると……」 「わざわざ聞くな」 「で、でも……ちゃんと聞いておきたいです」 「嬉しい」 「……良かったです」 ティアが頷く。 口にすると、想像以上に頬が熱くなった。 下半身も、より強く反応する。 「ん……」 反り返ったペニスが、ティアの下腹部に当たる。 「すごく、硬くなってるみたいですね」 「入れて大丈夫か?」 「多分……」 「なら」 ティアの脚を、もう少し広げさせた。 自分の角度も調節する。 「あ……っ」 ティアの入り口を捉えると、そのまま下半身に力を込める。 「ん……あ、あ……」 ぬめった感触と共に、俺の性器は簡単にティアの中へと飲み込まれた。 「あ、あ……っ、あ、あ、あ……っ」 「ふやっ、やっ、や……っ、ひうっ、ふあぁ……っ」 ティア自身は、あまり簡単ではなさそうな声を上げている。 「カイム……さんっ、急に、そんな奥まで入れられたら……」 「あ、ふぁ、ふぁ……っ、ふやあぁ……」 「痛い……感じではなさそうだな」 「い、痛いのは……、大丈夫ですけど……っ」 「ひゃっ、や、や……っ」 「身体が……びっくりしちゃって……っ、やっ、ふや……」 ティアの身体が、小刻みに震える。 それを押さえ込むようにして、俺はティアの腰をつかんだ。 「あ、んんーっ! んぅっ、く、ん、んぅぅぅ……っ」 抗うように、ティアの身体が跳ねた。 「あんまり動くな。抜けそうになる」 「でも……、ふやっ! やっ! やああぁぁぁ……っ」 「ふあ……っ、ふあぁっ! はぁ……っ、ひうぅぅぅ……」 ひと通り暴れた後、ようやくティアは落ち着いた。 「はひ……っ、ふあぁ……」 それでもまだ、長距離を走った直後のように、肩で息をしている。 「び……っくりしました……」 「それはこっちの台詞だ」 「だって……いきなりこんな奥まで入ってきたら……」 「勝手に入ったんだ」 ティアの中は、よほどよく濡れていたらしい。 それだけ、俺を求めてくれているということだろうか。 「動かすぞ」 「お手柔らかに、お願いします……」 「あまり約束はできないかもしれん」 「そんな……やっ! あ、ああっ、ひや……っ!」 「ふあ……っ、あ、あ、あ……っ」 「あぅぅ……っ、うあっ、ふあ……っ、ふああぁぁぁ……」 腰を揺らすと、ティアは簡単に反応してしまう。 耳どころか、うなじまで真っ赤にしていた。 「ひゃぅぅ……っ、ふあっ、うあ……っ、あ、あああぁぁ……」 ティアの中は狭い。 しかも俺が擦るごとに狭くなっていく。 その圧力に抗いながら、俺のものもどんどんと熱く、大きくなっていった。 「ひぐ……っ、うあぁ……っ、カイム、さん……」 「中で……すごく暴れてるような……っ、ふあっ、ふあぁぁ……っ」 「なんか……、う、あぁ、すごい……です、よ……っ」 目の前では、大きな翼が震えている。 赤くなった背中から生えた純白の翼。 まるでこの世の光景とは思えない。 「愛してる」 「あ……」 ふっと、告げることができた。 なかなか言うことができなかった言葉。 その対象と繋がることで、自然と口にすることが叶った。 「え……? ふあ……、あ、あ……」 「あは、あははは……、えへへへへ……」 しまりの無い笑い声で返されてしまう。 でも……それでいい。 俺が望んだのは、そうやって笑うティアなのだから。 「カイム……さん……」 「うん」 「どうしよう……、すごく、嬉しいです……」 「なら、よかった」 「こんな時なのに、にやにやが止まりません」 「お前らしいじゃないか」 「でも……、でも……」 「俺はお前の、そういうところが好きなんだよ」 「ひゃ……っ、ふあ……」 また頬が緩んでしまったのだろう。 俺からはティアの後頭部しか見えないが、手に取るように分かった。 「あ……嬉しくて……、止まらない……」 「カイムさん……、わたし、嬉しくて死んじゃいそうです……ぅあ……」 「大げさな奴だ」 「本当です……だって……っ」 「幸せすぎて、おかしくなりそうです……」 「なら、縁起でもないことを言うな」 「で、でも……っ、ふにゃっ! ふや……っ」 ティアが変なことを考えないように、少し強めに腰を動かす。 「あ……っ、ふや、や……っ! やああぁぁぁ……っ」 「も、もう少し、幸せの余韻を味わわせて下さい……っ」 「や、や、や……っ、やあっ、ひや……っ、ふやっ! ふやああぁぁ……っ!」 ティアの抗議にも、構わず腰を揺らす。 正直なところ、止まらなくなってしまっていた。 健気に絡みついてくるティアの中を味わいたいと、その欲望にとり憑かれていた。 「んん……っ、ふあ、ふあぁぁぁ……っ、あ、あ、あ……っ! ああっ! あああぁぁっ」」 「わ、わたしからも……言わせ……ひゃぅっ! ふやっ、やあぁぁ……っ」 互いに抑制が効かなくなる。 腰の振り幅はどんどん大きくなっていった。 「んはああっ……うあうっ、あぁっ、んああっ……んくっ、ぁあーっ!」 「やっ、ひやっ! ひや……っ、ふやっ、ふやあぁぁ……っ、あ、あ、あ……」 「はぁっ! ふあ……っ、うあ……っ、あ、あ、あ……っ、んっ、んぅっ、んぅぅぅっ!」 びゅる ぅ! びゅくぅぅっ! びゅくぅぅぅ……っ! 「ふあっ! ふあぁ……っ、んぅっ! んぅぅぅ……っ」 欲望のたけを、そのままティアに注ぎ込んだ。 「あ、あ、あ……っ、はあっ、あ、あ……っ」 収縮を繰り返す陰茎に併せて、ティアの身体も波打つ。 そして、その身体以上に羽が震えていた。 「んぅっ、ん、んぅぅぅ……っ、はぁ、はっ」 羽根が一枚ぬけて、床に落ちる。 「はふぅ……も、もう……、カイム、さぁん……っ」 「ひうぅっ」 俺の射精はなかなか終わらない。 中に精液を注がれるたびに、ティアは声を上げた。 「はあぁーっ、はぁ、ふあ……っ、ふああぁ……」 「はぁ、お、終わり……ましたか?」 「ああ」 俺はそのまま肉棒を抜かずに、ティアの中を味わっていた。 「もう……カイムさん……」 ティアが拗ねたような声を上げる。 「ん?」 「わたしにも……言わせてください」 「お前は先に言っただろ」 「こういうことは、何回でも言いたいんです」 「できれば一番気持ち良い時に、言いたかったのに……」 そう言ってから、ティアは大きく息を吸い込んだ。 「大好きです。カイムさん」 「……っ」 どくんと、ペニスが震える。 「きゃっ、や、や……っ、か、カイムさん……」 少女の告白が、そのまま肉欲へと直結してしまう。 どうやらティアの単純さが、俺にも伝染ってしまったらしい。 「このままもう一回、いいか?」 単純な俺の提案に、ティアはうなじを赤くすることで応える。 「でも……もう立っていられないかも……」 「だったら……」 俺はティアの中からペニスを抜いて、ベッドに仰向けで寝転がった。 その上に、ティアを乗せる。 「あ……あ、あ……」 お……。 俺のすぐ目の前に、ティアの顔があった。 ティアは、今にも蕩けてしまいそうな顔をしている。 こんな表情をしてたのか……。 まるで成熟した女のような表情。 改めて、胸が高鳴る。 「カイムさん……ドキドキされてますね……」 「ああ……」 顔が近いだけじゃない。 身体も、ティアとぴったり密着している。 俺の高鳴りは、全てティアに筒抜けになっていた。 「ふぁ……」 同じように、ティアの昂りも俺に伝わっている。 ティアの身体の中では、鼓動が小刻みに鳴らされている。 表情は女のくせに、身体はまだ幼さを残していた。 こんな華奢な少女の肩に、都市の運命を背負わせていたのだ。 「何か難しいこと、考えてます?」 「あ、いや……」 「天使の御子はお見通しですよ」 ティアはそう言って、どこか寂しそうに笑った。 「嘘をつけ」 「はい?」 「お前は……ただのティアだ」 「ふふ、そうでした」 「ティアだったら、抱いてくれますか?」 「もちろんだ」 「あは……嬉しいです」 「じゃあ、お願い……します」 ティアが腰を、少しずつ下へとずらしていく。 「ん、んん……」 「ひゃっ、ふあ……っ」 亀頭の先と膣の入り口が触れあっただけで、中に入ってしまった。 求めるというより、まるで引き合うように。 そこに収まるのが当たり前だと言わんばかりに。 「はぁっ、は……っ、ふあ、ふあぁぁ……っ」 「なんかもう……、凄い、です……」 「お前さっきから、『凄い』ばっかり言ってないか?」 「だ、だってもう……、そう言うしか……」 「あ、あ、あ……っ、ふあ、ふああぁぁ……っ」 「あ……もう……、あまり動けない、かも……んぅう」 「別にずっとこのままでも良いぞ」 「でも……動きたい気も、します……」 「どっちなんだ」 「よく……ああっ、分からないです……」 「分からないんですけど……あっ、ふあ……っ、カイム……、さん……」 「ん?」 「好きな人と一つになるのって……、凄く、気持ちが良いんですね……」 「当たり前のことだ」 「知りません、でした……」 困ったような顔でティアが言う。 ティアは、こんな当たり前のことも知らず塔に向かっていったのか。 もっとこいつには、色々なことを教えてやりたい。 色々なものを見せてやりたい。 「……一緒に生きていこう」 「はい?」 「お前に、いろんな事を教えてやりたいんだ」 トクンと、大きな鼓動が伝わった。 「すごく、素敵ですね……」 「ああ」 無性にティアを抱きたくなった。 「か、カイムさん……嬉しいです……好きです……」 「ティア」 「ん、はぅ……続きを……」 「そうだな」 ティアの肉を掴んだ指に力を込める。 そのまま、思い切り腰を突き上げた。 「きゃっ……、あっああああっ、あ……っ、ふあぁ……っ!」 「や、や、や……っ、ひや、ん……、ふあぁぁ……っ」 途端にティアの口から、甘い声が漏れる。 結合部から体液が溢れだし、俺の内股にまで伝い落ちてきた。 「ティア、ティアっ」 「か、カイム、さん……カイムさぁん……っ!」 単純な2人は、単純に互いへの想いだけで昂っていく。 じゅぷ、じゅぱ……じゅく、ぐちゅ……っ。 「はあぁ……、んっ、あっ、ああっ、はぅ……っ」 「ん、ん、んぅぅ……っ、ふあ、ふあああぁぁぁ……っ」 「翼が……、重たく、なって……あぁ……んんっ!」 身体に力が入らなくなっているようだ。 ベッドの上に羽根が落ちる。 「ん……っ、ふあぁ……っ、はぁ、はぁ……っ」 「あ、あ、あ……っ、ん、んぅぅぅぅ……っ」 「ティア……」 「うくっ……んっ、は……い……」 「もっと深く……繋がりたい……」 ティアの尻を開く。 更に強く突き上げた。 「ひ……っ、ああぁぁっ、んんっ、ふあぁぁっ!」 「あ、あ、あ……っ、ひあっ、ひあああぁぁぁ……っ」 「カイムさん……っ、カイム、さぁん……っ」 「そんな奥まで……、あ、あ、あ……っ」 「壊れ……、ちゃい、ます……うぅっ、あ、んんっ」 蕩けきった口元からは、涎がこぼれていた。 「や、ふや、ふや……っ、ふあ、ふああぁぁぁ……っ」 「はぁ……っ、はふ、ふあ……っ、あ、あっ、うぅぅぅぅ……っ」 ティアの体温が上がる。 同時に鼓動も早くなっていく。 「カイム……さぁん……」 振り落とされまいとするかのように、ティアが俺にしがみつく。 ティアの小ぶりな乳房が、俺の胸の上で潰れている。 小さいが、ちゃんと柔らかかった。 「はぁ……っ、ん……、ちゅ……」 「っ」 ねろりとした熱い感触が、首筋に伝わった。 ティアが俺の首を、舐めたのだ。 「ふぁ……汗の、味がします……」 お返しに俺は、ティアは頬を舐める。 「ひゃ……っ、やっ、んぅぅ……」 「ティアのは、甘いな……」 「ふえ……、ふえ……?」 ティアの頬が、また赤くなった。 「ふや……、あ、あぁんっ、や、や、や……っ」 頬の昂りは、そのまま下半身にも伝わっていく。 「や、だ……っ、中が、ああっ、動い……ちゃって……あぁっ」 「搾り取られそうだ」 「ああっ、はしたない……ふぁあっ、です……よね?」 「でも……ちゃんと嬉しい」 「ありがとう……ございます……」 今度は互いに、唇を舐めあった。 「ふあ……、んっ、ちゅるぅ……っ」 「ん、ん、ん……っ、ぷはぁっ、ふあ、はぁ……っ」 同時に、下半身の動きも大きくしていく。 「ひく……っ、ふあっ、ふあああぁぁぁ……っ、あ、あ、あ……っ、ああっ、ふあっ!」 千切れるほど強く尻を握り、膣奥へと陰茎をぶつけていく。 「あ……、あああ……っ、ふあ、ふあああぁぁぁ……っ、はひ、ひく、ひうぅぅっ!」 「ああっ、カイム、さん……っ、もう、もう、わたし……」 「だめ、です……ぅ、早く、くれないと、本当に、壊れ、ちゃい……あ、ああっ!」 「くうううぅっ、あっ、んっ、や、あんっ、ふやっ……ん、く、ああぁっ!」 「もう……、もう、うあ、ふあ……っ! や、や、や、あぁっ、んあああぁぁぁ……っ!」 びゅるぅ! びゅくぅぅぅっ! 「ひやっ! うあ……っ、ふあ、ふあ……っ、ふあああぁぁぁ……っ!」 「あ、ああぁ……、一番、奥で、出てます……っ」 「カイム、さん……、ああぁ、はあぁ、お腹、熱いです……っ」 「ひんっ! ん、ん、ん……っ、んぅぅぅぅ……っ!」 反射的に逃げようとするティアの身体を、両手で抑え込む。 「ああ……っ、ひぐ、ひく……っ、うあ、ふあああぁぁぁ……っ」 ティアの身体は、本能的に出されたものを受け入れようとしていた。 吸い出されるような感覚。 精液が、子宮へと流れ込んでいるのかもしれない。 「はぁ……っ、はぁ、はぁ……っ」 「ふあ、あ……、ああっ、ふああぁぁぁ……」 「ん……、んぅ……っ、んぅぅ……」 射精が終わると、ティアは倒れるようにして、俺の胸に身体を預けてきた。 「はぁ、ふあ……っ、凄かった、です……」 何度目かもわからない『凄かった』を吐きだす。 満足げな声に俺も嬉しくなる。 「よし、次はどんな服がいい?」 「あの……元気ですね」 「む……」 「あれ? なぜか力が湧いてきました!?」 「さて、服はどうする?」 「リリウムの制服にでもするか?」 「むりむりむりですっ、あんな色っぽいのは、わたしには似合いませんっ!?」 「試してみればわかる」 「がうがうがうっ」 「吠えても無駄だ」 「っっ……」 念を込める。 せっかくだ、ティアが喜ぶ服にしてみるか。 「無理ですーーーーっ」 ティアがベッドの枕を掴んだ。 「あ、待て!?」 「ていっ!!」 枕が顔面を直撃した。 「あ……この服……!?」 一瞬だけ── 華やかな結婚衣装に身を包んだティアが見えた気がした。 「ほら、もうすぐだから、まっすぐ歩け」 「大丈夫……」 「全く……飲み過ぎなんだよお前は……」 「酔ってない……」 「酔ってるだろ」 「カイム……」 「なんだ」 「カイムも酔ってる……」 「酔ってない」 「でも、お酒臭い……」 「お前が言うな」 俺は酔っていない。 酔っていないのだが、鍵穴に鍵を差し込むのに、酷く苦労をした。 鍵を差してからも、右に回すのか、それとも左に回すのか思い出せなかった。 それでもなんとか開錠できたので、さほど酔ってはいない。 酔っていない。 ようやく開いた扉の中に、エリス諸共なだれ込む。 「や、ふや……」 部屋の中に入るなり、床に転がりそうになるエリスを抱える。 「まだ我慢しろ」 そう言って、エリスを寝室まで連れて行く。 そうして、ようやくベッドの上にエリスを転がした。 〈蝋燭〉《ろうそく》に火をともすと、薄明かりがぼんやりとエリスを浮かび上がらせた。 純白の衣装が乱れている。 「ふふ、うふふふふ……」 エリスはひどく機嫌が良い。 目を、猫のように細めて笑っている。 放っておけば、 「にゃあ」 とでも鳴き出しそうだった。 きっと俺が目を離した隙にまた、ニガヨモギの酒を飲んだに違いない。 「楽しかった」 白猫エリスが呟く。 「ただの宴会だろう。ジークの口車に乗せられやがって」 「でも、楽しかった」 「まったく」 そう言いながら、俺の頬も緩んでいる。 確かに、悪い気はしない。 「飲みすぎなんだ、お前は」 「カイムに怒られるのは楽しい」 小言をいう気も削がれ、俺は上着を脱ぎながら、ベッドの白猫に近づいていく。 「なに?」 「分かってるだろ?」 「もう眠い」 「まだ寝るには早い」 「カイムも……いい気持ち?」 「悪くはない」 気圧されたような、でもどこか期待を孕んだようなエリスの表情。 ただ相変らず、頬は赤い。 「じゃあ……脱いじゃうね」 「待て」 「ん?」 「こういうときは、男が脱がすもんだ」 「聞いたこともない」 「ジークもそう言ってたぞ」 「変態の話を鵜呑みにする気?」 「その変態の口車に乗せられたのはどこのどいつだ」 「むう……」 納得したのか、エリスは服を脱ぐ動作を止めた。 「結婚初夜だからな」 「別にもう、初めてじゃないけど」 「言わぬが華ってやつだ」 「カイム……酔ってる?」 「酔ってない」 「酔ってるってば」 「そんなには酔ってない」 「やっぱり、酔ってる」 「お前だって酔ってるだろう?」 「……」 「にゃあ」 エリスが鳴いた。 「はは」 俺は笑って、気まぐれそうな白猫がいるベッドにのった。 「衣装……丁寧に脱がせてね」 「幸せの衣装……」 「そう。破いたら、大変」 「わかってる」 ──話は、数日前にさかのぼる。 暖かいある日の昼下がり、 俺とエリスは買い出しついでに寄ったヴィノレタで、遅めの昼飯を取っていた。 「お二人は、結婚されないんですか?」 ティアが突然、そんなことを聞いてきた。 思わず、エリスと顔を見合わせる。 「もうしてるから」 エリスが勝手に答える。 「いつしたんだ」 「してないの?」 「まだ同居してるだけだろう」 「まだ……ということは、これからする予定があるってことね」 カウンターの向こうから、声がした。 声の主はメルトだった。 「あげ足をとるな」 「何? 今後もするつもりがないってこと?」 エリスが俺を〈睨〉《にら》んでくる。 「そういうわけじゃない」 「じゃあ近々する、と」 「違う」 結婚するつもりはあったが、何となく踏ん切りが付かなかったのだ。 「ティア、なんで急にこんなことを聞くんだ」 俺は慌てて、矛先をティアに向けた。 「ジークさんに訊かれまして……」 「ジークに?」 「はい、『カイムとエリスは結婚したのか? 式はまだだったよな?』と……」 「……」 なんとなく読めた気がした。 今のジークは〈鬱憤〉《うっぷん》を溜めている。 〈風錆〉《ふうしょう》崩壊後の牢獄統治は順調なのだが、そのためにジークはしばらく事務仕事に追われていた。 あのジークが事務仕事にかかりきりでは、〈鬱憤〉《うっぷん》が溜るに決まっている。 恐らく発散の場を探しているのだ。 大方、景気よく宴会の一つでも催したいと思っているに違いない。 ただ組織の長が、無為に祭りを催すわけにはいかない。 何らかの理由が必要になってくる。 そこでジークが目をつけたのが、俺とエリスだ。 「ジークは俺たちをダシにするつもりだ」 エリスにそう囁く。 「つまり……酒の肴?」 「そうだ」 「迷惑」 「俺だってごめんだ」 「だから、とりあえず『結婚するつもりはない』で口裏を合わせろ」 背後で、扉の開く音がした。 「よ! ご両人! 丁度いいところに!!」 まるで図ったかのように、ジークが入ってきた。 「カイム、お前3日後は暇か? 暇だろ? 暇に決まってるよな?」 注文もしないうちから、ジークは俺の予定を勝手に決め付けてくる。 「エリスも暇だな。大丈夫、暇だ。暇にしてやる」 「向う3日間は、俺が責任を持って、1人の病人も怪我人も出させない」 言いながら、強引に俺とエリスの間に座り込んできた。 「2人とも、ちゃんと予定を空けておけよ。びっくりさせてやるからな」 時々、本当にこいつが不蝕金鎖の頭なのか疑問に思うことがある。 こんなに勿体つけられたら、仮に3日後、先代が急に蘇ったとしても驚けない。 「式なら挙げない」 俺はジークから顔をそらして、火酒を舐めた。 「何だ、知ってたのか」 「ごめんなさい、私がさっき言っちゃいました」 「おーい嬢ちゃん、ダメじゃないか」 「せっかく驚かそうと思ってたのに」 「これだけ前振りされたら、驚きようがない」 「まったくだ」 「まあいい、知ってるのならそれはそれで話が早い」 ジークは、俺が残しておいた赤身肉の紅茶煮を、勝手に摘んだ。 「お前もそろそろ、腹を括ったらどうだ」 「同棲も悪くないが、あまり長いようだと風紀の乱れにつながる」 「見過ごせないな」 「お前が風紀の乱れを気にしているとは思わなかった」 「エリス、お前も式は挙げておきたいよな」 「……別に」 先ほどまでの説得が効果的だったらしい。 エリスもジークに背中を向けて、木イチゴのパイを食べている。 ジークに木イチゴを取られないよう、背中で壁を作っていた。 「いやいやエリス、お前は嘘を吐いてる」 「花嫁になりたくない女がいるはずないだろう」 「思い込みだから」 「よしわかった、費用は俺が持とう!」 「遠慮はいらない」 「何しろ、ウチが一番世話になっている用心棒と医者の式なんだからな」 「牢獄じゅうの人間を集めて、盛大に式を挙げようじゃないか!」 気前のいい言葉に、店にいた他の客達が色めきたった。 「俺達が参加してもいいんですか?」 「もちろんだ! むしろ来てくれ!」 店が盛り上がる。 ヴィノレタにいた客が敵に回った。 「主役はもちろんエリス、お前だ」 「牢獄では滅多に見られないような、美しい花束をたくさん用意しよう」 「その花より美しく着飾った花嫁が……エリスだ」 口上だけを聞いていると、まるでジークがエリスにプロポーズをしているようだった。 「そんな姿を見せてみろ、きっとカイムも惚れ直すぜ」 「…………」 甘言にエリスの耳が、ぴくりと反応するのが見えた。 「酒の肴……」 ぼそりと呟くと、エリスが我に返る。 「じ、ジークの口車には乗らない」 「いくらジークでも、ロクな花嫁衣装も用意できない」 「娼婦用の衣装で結婚式なんて、私は嫌」 「む……」 いい切り返しだ。 今からでは、上等な衣装は仕立てが間に合わないだろう。 衣装のことまでは考えていなかった様子で、ジークが少しひるんだ。 「私の衣装で良ければ使っていいわよ」 「お古になっちゃうけど、着たのは1度きりだし」 「メルト……まさかそれは……」 「先代と式を挙げた時に、着たやつなんだけど」 「あれか……」 凄まじいものだった記憶がある。 「エリスは見たことないわよね?」 「自分で言うのもなんだけど、凄いわよ」 「先代ったら一生に一度のことだからって、上層からやたらと上等な絹を取り寄せたりして」 「お陰で凄く素敵な衣装にはなったんだけど」 「日頃は絶対に着れない代物になっちゃったのよね」 「〈箪笥〉《たんす》の肥やしにしておくのは勿体ないから、良かったらエリスが使って」 「い……いいの?」 「いいも何も、こんなときに使わないでいつ使うのよ」 「診察の時に使っても仕方ないでしょ」 「ああそうだ。式が終わったら、そのままエリスが持ってていいわよ」 「本当に?」 メルトが頷く。 「でも、一つ約束して」 「エリスの次に幸せを手に入れる女の子がいたら、その子に譲ってあげて」 「常に一番幸せな女の子の手元にある、そんな衣装になったら素敵じゃない」 「は……はい!」 はい!? 普段のエリスからは絶対に想像できない返事だった。 慌ててエリスを見ると、完全に目の色が変わっていた。 まるで姉を見るような、心酔しきった目でメルトを見ている。 頭の中は、幸せの衣装のことで一杯になっているのだろう。 「……」 しくじったな。 「仕立て直しは、やっぱり必要かしら」 「体格は私と似てるけど、身体に合わせた方がいいものね」 「よろしかったら、私にやらせてください!」 「エリスさんの結婚式ですし、私も何かお手伝いしたいです」 「あら、いいの? 式は3日後だし、結構大変よ」 「ええ、だってエリスさんには幸せになってもらいたいですし」 「あ、でも、私なんかが触ったら、幸せの衣装じゃなくなっちゃうかも……」 第一、エリスが触らせないだろう。 「自分を卑下しないで、小動物」 「ぶっ」 酒を吹きそうになった。 「ふえ?」 「次にその衣装を着るのは、貴女かもしれないのよ」 「仕立て直しは、ティアにお願いするわ」 「え、エリスさん……」 エリスがすっかりおかしくなっていた。 「おい、エリス」 「そーゆーことなら!」 「うわっ!」 いつの間にやら、店には娼婦達まで揃っていた。 「あたし達も一肌脱がせてもらいます! 脱ぐほど服着てないけどね!」 「お客さんからプレゼントされた宝石を、どーんとご提供!」 「さすがに差し上げられませんけど、飾るのに使って頂ければ」 「使って」 エリスは感激のあまり、目を潤ませてしまっている。 非常にまずい。 「エリス、落ち着け」 「俺達は〈出汁〉《だし》にされてるだけだぞ」 慌ててエリスの肩を掴み、揺らそうとする。 しかし── 「お前はこっちだ」 逆にジークに肩を掴まれてしまった。 「俺の〈一張羅〉《いっちょうら》を貸してやる、さっそく衣装合わせだ」 そのまま俺を引きずるようにして、ヴィノレタの外に連れ出す。 どさくさに紛れてジークは、エリスのパイに載っていた木イチゴを拝借していた。 「待てっ、俺はまだ一言も、式を挙げるとは……」 俺の言葉は、ヴィノレタの喧騒にかき消されてしまった。 こうして予告通りに3日後。 俺とエリスの結婚式は、牢獄がひっくり返るほど盛大に行われたのだった。 「お前がこんな衣装に釣られるから」 「カイムだって、まんざらでもない顔してたくせに」 「……まあな」 ジークがタダ酒をふるまったせいもあると思うが、式には牢獄の住民の多くが集まってくれた。 大勢の人たちに祝福されたことは素直に嬉しかった。 「胸に花びらがついてるぞ」 「あ……本当」 式の最中、リリウムの娼婦達がエリスに向かって花弁を投げていた。 その一枚だ。 「綺麗な花びら」 「ああ」 娼婦達は、年季が明けるか身請けされるかしない限り、生きてリリウムから出ることができない。 ほとんどの娼婦は、死体かそれに近い状態で娼館から運び出されることになる。 彼女たちにとって、結婚は憧れと同時に嫉妬の対象でもある。 にもかかわらずエリスは、心からの祝福を受けていた。 もちろんエリスが医者として、娼婦の面倒をまめに見ているということもあるのだろう。 だが、以前のエリスなら、ここまで祝福されてはいなかったはずだ。 やはりエリスは変ったのだ。 「取るぞ」 「うん」 花びらを摘む。 そして、エリスの衣装も一緒に脱がせていく。 「や……」 エリスの胸が露わになる。 「も、もう……せっかちなんだから」 「急がないと寝てしまいそうでな」 「酔ってないんじゃなかったっけ?」 「酔ってはいない」 酔ってはいないが、さすがに飲みすぎではあった。 式の間中、色々な種類の人間がひっきりなしに俺に酒を注ぎ、乾杯を求めてきた。 ジークやオズはもちろん、不蝕金鎖の関係者から、全く関係のない肉屋や雑貨屋の親父に至るまで。 「眠いなら、無理しなくていいのに」 「いや、どうしてもだ」 夜の儀式を以て結婚式は完結するのだと…… 酒を注がれている間に、入れ替わり立ち替わり聞かされ続けた。 お陰で俺は、すっかりその気になっていた。 「あんなに渋ってたのに……」 「まあな」 ジーク達に踊らされているだけだという意識は今もある。 明日になればきっと、冷やかされるに決まっている。 だが……牢獄の奴らが、まるで自分のことのように喜ぶのを眺めているうちに思った。 この儀式は全うしなければいけない、と。 なんてことはない。 エリス以上に俺も変ったのだ。 「エリス……」 「ん?」 エリスの、むき出しになった乳房に触れる。 「ん……っ」 エリスが身体を震わせた。 酒も手伝って、エリスの乳房はほんのり赤く色づいている。 衣装の跡は、全くついていなかった。 ティアが余程上手く、仕立て直しをしたに違いない。 「〈あの子〉《ティア》、泣いてた」 「ああ」 ティアは、それこそ自分のことのようにエリスの結婚を喜び、涙を流していた。 「この衣装……次はティアに渡せたらいいな」 「あいつ用に仕立てを直したら、次に誰も着れなくなるぞ」 「あの子だって、いつまでも小動物のままじゃないわよ」 「渡す頃には、すごく立派になってるかも」 「珍しいな、お前がティアをかばうなんて」 「そういう夜なんでしょ? 今日は」 「ああ、そうだな」 そう言って、俺はエリスの乳房に口づけをする。 「ん……っ、んぅ……」 甘い香りが口の中に広がる。 衣装よりも滑らかな感触に触れ、そのまま瞼を閉じてしまいそうになった。 「カイム……」 「寝ないぞ」 「うん」 「ここまで言っておいて、寝たら怒る」 「恐ろしい妻を迎えてしまったらしい」 「ふふ……」 エリスは何故か笑った。 妻という響きが嬉しかったようだ。 柔らかな笑みを作っている唇を塞ぐ。 「ん……んっ、んぅ……っ、ん……っ」 「ふあ……んっ、んぅ……っ、はぅ……っ、んぅぅ……っ」 そのまま、衣装を全部脱がせようとする。 「はあっ、は……っ、んぅ……っ」 牢獄の女達によって綺麗に包まれたエリスを、少しずつ剥いでいく。 俺はその行為に、奇妙な興奮を覚えていた。 「あ……」 現れたエリスは、どんな贈物よりも美しく、嬉しいものだった。 「直接言うのは悔しいから、お前に言うことにする」 「ん?」 「ジークには、感謝している」 「酒の肴でも、祭りの種でもなんでもいい」 「式を挙げられて良かった」 「……うん」 「エリスと結婚できて、良かった」 「うん」 エリスが、俺に向かって腕を伸ばす。 「ん……っ、ふあ、んぅ……」 そのまま俺たちは絡み合った。 身体といわず、腕といわず、唇といわず…… 全てで一つになろうとした。 「カイム……硬くなってるね」 「ああ」 「あんなに飲んでたのに」 「馬鹿にするな」 俺はガチガチに勃起したものを、エリスの太ももに触れさせた。 「ひゃっ、うあ……」 少しずつそれを、太腿の付け根の方へと移動させていく。 「あ……あ、あ、あ……」 くちゅり。 亀頭の先が水源に触れた。 「ん……っ」 「入れるぞ」 「……うん」 俺はゆっくりと、沼地に肉棒を沈めていた。 「あ……、ん……っ、ん……っ」 「ふあ……っ、あ、あっ、ふああぁぁぁ……っ」 エリスの片足を抱え上げる。 大きく開かれた太ももの間に、俺の肉棒が突き刺さった。 「んっ、ふあ……っ、あ、あ……っ、んぅぅっ」 「──っ、ふあ……っ、あああぁぁぁ……」 太腿の付け根からは、早速熱い体液が溢れ出していた。 陰茎を伝い、俺の脚にまで垂れ落ちてくる。 「カイム……」 エリスが俺の名前を呼ぶ。 それだけで、下半身がゾクリとしてしまう。 「あ……っ、うあ、ふあ……っ、ああ……、んぅぅぅ……っ」 「ん、ん、ん……っ、ん……っ」 エリスの中は熱い。 赤く色づく肌と同じように、酒精がエリスの中を、赤く、熱くさせている。 「カイム……カイム……」 「はぁ……っ、ふあ……っ、ちょっと、カイムぅ……っ」 エリスが俺の名前を連呼する。 「何だ?」 「どうして……こんな格好で?」 言われてみれば、確かに俺達は奇妙な格好で交わっている。 俺がエリスの半身を抱え上げ、 エリスは俺に抱え上げられながら、同時に俺にぶら下がっているような格好。 エリスに至っては先ほどまでベッドに座り込んでいたはずなのに。 それがいつの間にか、立ち上がっていたことになる。 「ふ……っ」 「あは」 「ふふっ、はは、ははははは……」 「あは、あはははは……」 そのことに気がついた俺達は、見つめあったまま笑ってしまう。 「おかしな格好」 「全く」 「やっぱり……私達、酔ってる」 「そうかもしれないな」 こんなことすらも愉快に思えてしまうのは、やはり酒のせいなのだろう。 「横になるか?」 「あ……ううん」 エリスが首を横に振る。 「せっかくだし、このままで……」 「何がせっかくだよ」 「でもカイム、疲れない?」 「馬鹿にするな」 そう言ってエリスの足を抱えなおそうとする。 「いや……そうだな」 「うん?」 「エリスが重くて、少し辛いかもしれん」 「──っ、ひどい。最低」 悪口を言い合いながらも、表情はどこか笑っている。 やはり、2人とも酔っている。 「じゃあこのまま……続けるぞ」 「……うん」 改めて、エリスの足を抱え直す。 「ん……っ」 手の平で触れるエリスの足。 その足を包んだ、白い絹の感触が心地良い。 そのまま、大きく開いた腿の付け根に、腰を叩きつける。 「ん……っ、ふあ、あっ、あ……っ!」 「あ、あ、あ、あ……っ、ふああぁぁぁ……っ」 「カイム……っ、いきなり、激しい……っ」 「あ、あ……、あ、あ、あ……っ、あああぁぁぁ……っ」 通常の行為とは違い、この格好だと腰を自由に動かすことができる。 軽く動いたつもりでも、エリスにとっては刺激的なようだ。 「ふ……あっ、あ、ああ……っ、んぅぅぅ……」 「あ、あ、ああああぁぁぁっ、ふああぁぁ……っ」 急に、右手で感じる重みが増えた。 エリスの身体から、力が抜けつつある。 「あ、ああ……っ、あ、あ、あ……っ」 「カイム……、ふあ、ふああぁぁ……っ」 「や……、ら……っ、立てなく……、なる……っ」 エリスの手が、俺の首を掴んだ。 左足は殆ど身体を支えておらず、エリスは右半身で俺にぶら下がる状態になっている。 「あ……っ、あ、あ、あ……っ、ふああぁぁ……っ」 「んぅぅ……っ、んっ、んぅぅぅぅ〜〜っ」 エリスの指が、俺の首に食い込む。 手袋をしているため、直接爪は食い込んでこない。 むしろ上等な絹の感触が、心地良かった。 「あ、あ、あ……っ、あ、うっ、ふあ、あ……っ」 「カイム……、興奮、してる……」 「……ああ」 素直に肯定する。 奇妙な格好、奇妙な刺激にも関わらず、俺は何故か興奮していた。 明日、ジークに冷やかされた時どう答えたものか。 「ふあ……っ、あ、あ、あ……っ」 「カイ、ム……」 エリスが俺に視線を向ける。 エリスと目が合う。 「……結構、近いね」 「ああ……」 俺の……それこそ目と鼻の先に、エリスの潤んだ大きな瞳がある。 互いの息が、直接かかり合う位置。 「カイム……お酒臭い」 「悪かったな」 「あは……はは、あははは……」 エリスがまた笑う。 「ふあ、はぁ……っ、はぁっ、はぁ……」 エリスの吐く息からも、かすかにニガヨモギの匂いがする。 「カイムの目、すごく真剣……」 「そんな目で見つめられると、何だかおかしくなりそう」 「普段はいやらしいとか、言うくせに」 「うん……いやらしい……」 「だってこんなことをしている時に、そんな真剣な目をされたら……」 「うん……やっぱり、変な気分になる……」 俺がエリスの腰に回した手に、エリスが指を重ねてくる。 手袋をはめた指の滑らかな感触が、俺の無骨な手の上をなぞる。 「ありがとう……」 「抱いてくれて、ありがとう……」 「私と……一つになってくれて、ありがとう……」 俺の指を愛しそうに撫でながら、エリスは一言ずつ丁寧に、言葉を紡ぐ。 「私を救ってくれて……ありがとう」 「────っ」 胸が熱くなる。 もちろんエリスの今の言葉だけで、俺のしてきたことの全てが許されるわけではない。 だがエリスが『ありがとう』と言ったこと、 俺がそれを受け入れられたことを、 感謝したいと思う。 それがたとえ、特別な夜がもたらした一過性のものだとしても、素晴らしいことには違いない。 「急にどうした?」 それでも天邪鬼な俺は、胸の中に湧いた感謝の気持ちを誤魔化そうとしてしまう。 でもエリスは、それにも真摯に向き合う。 「カイムは……私を育ててくれたから」 「結婚式って、両親に感謝の気持ちを綴った手紙を読んだりするんでしょ?」 「カイムは私の夫だけど……時々父親みたいに感じる時もあって……」 「だから……感謝を、伝えようと……」 「…………」 また、胸が熱くなった。 「じゃあ俺は、娘とまぐわっていることになるのか」 どこまでも捻くれている俺。 「ふふ……」 「しかも、それで興奮してる……」 「ものすごい変態」 「うるさい」 いつまでも素直になれない。 でも、心は満ちている。 満ちた中身は、天邪鬼な箱の中から零れ落ちる。 「……俺も、感謝している」 遂に、溢れる。 「ありがとう、エリス。一つになってくれて」 「さっきは照れて、ジークに感謝したが……」 「本当に礼を言いたいのはエリス、お前だ」 エリスの左手が、俺の指に絡む。 キュッと握られる。 「……柄じゃない」 「かもな」 「でも……嬉しい」 エリスの右手に力が篭る。 顔を引き寄せられる。 「愛してる」 エリスが、俺の耳元で囁いた。 それが契機となり、再び俺は腰を揺らし始める。 「あ……っ、ふあっ、ふあ……っ、ひゃ、あ……っ」 「や、あ、あ、あ……っ、あああぁぁぁぁ……っ」 「だから……、急に激しくされたら……っ、あ、ふあ……っ」 「ああぁぁ……っ、もう、すごく……、良い雰囲気だったのに……っ」 「嫌か?」 「んんぅ……っ、ん……っ、い、い……」 「嫌──では、ないけど……」 「じゃあ……」 少し強めに、エリスの中を抉る。 「ひ……っ! んぅぅぅ……っ、んぅぅぅっ!!」 「あ、あ、あ……っ、ふあ、ああぁぁぁ……っ」 エリスの重みが、またずしりと大きくなった。 「ん……っ」 エリスを抱え直しながら、太腿を撫でる。 「やっ、あ……っ、は、ふあ……っ、ふあぁ……っ」 「あっ、あ……っ、あ、あ、あ、あああぁぁぁ……っ」 エリスの身体が震える。 唯一床に触れている足が、いよいよ頼りない。 「はぁっ、ふあ、あ……っ、カイム、カイム……っ」 「もう……倒れちゃいそう……」 「もう少し」 「う……んぅぅぅ……っ」 「やっ、あっ、あっ、ああああぁぁぁ……っ」 エリスの腰に回した手に、力を込める。 「ん……、あ……っ」 「絶対……離さないでね……」 「離したら……、倒れちゃう……」 「ああ……」 エリスをこちらに引き寄せながら、腰を揺らし続ける。 「ひくっ、う……っ、くぅぅぅぅ……っ」 「ん、ん、ん……っ、んっ、んぅぅぅぅ〜〜っ」 びちょり、ちゅくりと、結合部から音が鳴る。 「はぁっ、あ、あ、あ……っ、ふあ、ふあああぁぁぁ……っ」 「あっ、うあっ、あ……っ、カイムっ、カイム……っ」 互いに汗まみれで、エリスの身体を倒れないよう掴むのに苦労する。 「ふあ……あ、あ……っ、あ……っ、あああぁぁぁ……っ」 「うあっ、ふあっ、あ……っ、んぅぅぅぅ」 素面で言えるかどうか、少し不安ではある。 でも俺は意を決して、エリスの耳元に口を近づけた。 「俺も、愛してる」 「────っ」 エリスは驚いたように、口を一文字に結んだ。 「ふあ……っ、あは……」 「あは、あはは……っ、ふあ……」 しかしすぐに、頬を緩める。 「柄じゃないか?」 「ううん──」 「すごく、カイムらしい……」 潤んだ視線が俺に向けられる。 吸い込まれそうな瞳の奥に、俺がいる。 エリスの中の俺は、情けないような──それでいてどこか幸せそうな、そんな顔をしていた。 「ねえカイム……もっと私を、愛して……」 「ああ……」 愛の1つの形として、俺の陰茎がエリスの中をかき混ぜる。 「ふあ、あ……っ、あ、あ、あ、あ……っ」 「あ……っ、んっ、カイム……、カイム……っ」 「ひんっ、ひ……っ、ひくっ、うくっ、くぅ、ううぅぅぅ……っ」 酒精とはまた別の原因で、エリスの身体が赤くなっている。 吐息からも、ニガヨモギの匂いは消えていた。 甘い、純然たるエリスの匂いが溢れている。 「カイム……っ、いいよ、そのまま……もっと……」 「ふあ……っ、あ、あ、あ……っ、あっ、ああっ、ふあああぁぁぁ……っ」 「カイム……、カイムぅぅ……っ、うあっ、あ、あ……っ、あああっ、あああぁぁぁっ!」 俺は全身に力を込め、エリスを貫き続けた。 「ん……っ、んぅっ、ん、ん〜〜っ、んくぅっ、ひん、あ、ううぅぅぅ……っ」 「あ……っ、あ、あ、あ……っ、ああっ、ふあっ、うあ……、ふああっ、ああぁぁ……っ」 「エリス、出すぞ……」 「うん……っ、うん……っ、んっ、んあっ、ふあ、あ、あ……っ、ひ、くぅぅぅぅ」 「あ……っ、ひあっ、ふああっ、あ、あ、ああああぁぁぁぁ……っ! あっ、ふああぁぁっ!」 びゅるぅぅっ! びゅくぅぅ! どくどくっ! びくっっっ! 「ひくっ! ん……っ、んっ、んあっ、ふあ……っ、うあ、ああぁぁぁ……っ」 エリスと繋がったまま、精液を吐き出す。 「ふあ……っ、すごく……出てる……っ」 「お腹、熱い……、融けちゃいそう……」 エリスの言葉を聞きながら、ドクンドクンと陰茎が波打つ。 白濁を、注ぎ続ける。 「あ──っ、ふあ……っ、あ、あ……っ」 「まだ、出てる……っ」 「あ……、あ、あ……っ、カイム、出し過ぎ……」 「はは……」 困惑した様子のエリスが、何故かおかしかった。 そのままふと、視線を下に向ける。 「……」 結合部が、驚くほど露わになっている。 精液の注がれている様子がよく見えた。 「あ──」 エリスが俺の視線に気づく。 「あ、あ、あ……」 そのまま、同じ部分を見つめてしまう。 「カイム……、あんまり、見ないで……」 「は……恥かしい……」 そう呟きながらもエリスは視線を逸らそうとしない。 俺とエリスが混ざり続ける様子を、ずっと眺めていた。 「ふあ……っ、んぅぅっ」 エリスの身体が、小さく震える。 「ん──っ」 「ひゃ……っ、んぅぅ……っ」 最後の1滴が、エリスに注がれた。 「ふあ……はぁ……っ、はぁ──」 射精が終わってもしばらく俺たちは繋がっていた。 2人の愛が混ざり合う様子をじっと見ていた。 やがて硬さを失った陰茎が、エリスの中から抜け落ちる。 「ふあ……」 陰茎が抜けると、エリスはそのままベッドの上にへたり込んでしまう。 「……足が立たない」 ほうと、息を吐き出しながら呟く。 「でも……気持ちよかった」 「俺もだ」 そう答えると、エリスは楽しそうに目を細める。 「にゃあ」 と鳴いた。 そしてそのまま、エリスは横になる。 「寝よう、カイム」 「ああ……」 「明日、絶対ジークに冷やかされるな」 「思いっきり、のろけてやったらいいじゃない」 「……それもそうか」 「うん」 エリスの隣に寝転ぶと、睡魔は柔らかく、しかし〈忙〉《せわ》しなく── 俺達を包んだ。 ある日のこと── 俺とエリスは向かい合って、昼食後の一時を過ごしていた。 俺は火酒を舐め、エリスはお茶の香りを味わっている。 「大分私の料理も、上手くなったでしょう?」 「俺の舌が慣らされただけなんじゃないのか?」 などと他愛の無い話をしていると、扉が鳴らされた。 「はい」 エリスが立ち上がり、応対のため玄関に向かう。 訪ねてきたのはどうやらエリスの客だったようだ。 「あら」 と呟いた後、玄関先で何やら話しこんでいた。 「長くなるなら上がってもらったらどうだ?」 「じゃー遠慮なく」 能天気な声がした。 客はリサだったらしい。 「用が済んだら帰る」 エリスがリサの首根っこを捕まえた(であろう音がした)。 「ひどいーー! わたしにも、新婚家庭のあまーい雰囲気を味わわせて」 「……だって、どうする?」 新婚という単語に、あっという間に気をよくした様子のエリス。 「帰ってもらえ」 別に新婚ではない。 その後も玄関先でドタバタは続いていたようだが、 「とにかく、後でリリウムに顔を出すから」 そう言って、エリスはなんとかリサを追い返した。 「急患か?」 「そういうわけじゃないんだけど」 そう言いながらも、エリスは立ったままお茶を飲み干す。 「一度、自分の家に戻る」 エリスとは事実上同棲しているが、医療用具はまだエリスの家にある。 医者としての仕事を行なう際は、エリスは自宅に戻ることが多い。 「なら送ろう」 俺も火酒を飲み干した。 道々事情を聞くと、確かに急患というほどのものではなかった。 「リリウムで最近、喉が痛いっていう子が多くて」 「風邪か?」 「恐らくね」 「放っておいても問題ないんだけど、悪化すると声がしわがれちゃうでしょ」 「嫌がるお客さんがいるみたいなの」 「なるほどな」 娼婦の声は大事な商売道具だ。 「さっきのリサは、薬の注文か」 「そう。前にも渡しておいたんだけど、もうなくなったからって」 「それは……過剰摂取の心配もしたほうがいいんじゃないのか?」 「それは大丈夫。摂り過ぎても害の無い薬だから」 「ただ、そうね。やっぱり過剰摂取の線は疑った方がいいのかも……」 「はあ?」 過剰摂取をしても問題は無いが、その線も疑った方がいいとはどういうことか。 「この薬、他の薬と少し成分が違うの」 「ほう」 「主な成分はハチミツとハーブ、あとは刻んだ薬草を各種」 「……エリスそれは」 「おやつにされてる可能性が高い」 一気に緊張感がなくなった。 「ほっとけ、そんなの」 「でも、本当に必要な人もいるのよね」 「それに、一応風邪の予防にはなるし」 話しているうちに、エリスの家の前に着いた。 「薬はすぐ出るのか?」 「ううん。調合からしなきゃいけないから……」 「少しかかると思う」 「わかった。じゃあその辺で時間を潰しておく」 エリスと別れる。 ──とは言ったものの、この界隈に女を買う以外の暇つぶしはない。 結局はここに落ち着くことになる。 「あら、1人なんて久しぶりじゃない」 「エリスと喧嘩でもした?」 「だったらどうする?」 「慰めてあげる」 「一通り慰めたら、叱って、反省させて、エリスを迎えに行かせる」 「止めてくれ」 メルトにかいつまんで事情を話す。 「ああ、エリスが作る喉の薬、美味しいのよね」 やはり、リリウムでも菓子の代わりにされている可能性が高そうだ。 「まあでも、実際喉は大事にしないとね」 「声が枯れると商売にもさし障るしな」 「それもあるけど……、ほら、仕事で口も使うじゃない?」 「喉が腫れてると、どうしてもむせちゃうのよね」 「ああ……」 そういえばそうか。 納得していると、後ろで扉の開く音がした。 「お、なんだ1人か、珍しい」 ジークだった。 「俺はそんなにいつもエリスを連れてるのか?」 苦い顔を作りそう応える。 「誰もエリスとは言っていないが」 「ぐ……」 「ははは、すっかり旦那様だ」 「からかうな」 「まあ照れるな」 「で、そのエリスはどうした? 喧嘩か?」 「お前といいメルトといい、なんでそういう方向に話を持っていきたがる」 俺が四六時中エリスを連れて歩いている上に、常に喧嘩をしているみたいだ。 「エリスは家で薬を作ってる」 「リリウムが娼婦を酷使するせいで、みな身体を壊してるらしい」 からかわれた仕返しにやり返してみた。 「そういや喉が痛むって誰か言ってたな」 「エリスが作る喉の薬は美味いからな、リリウムでも評判がいい」 「誰か味じゃなくて効能を褒めてやってくれ」 あと料理は不味いくせに、薬が美味いというのも何か問題がある気がする。 「ああそう、リリウムといえばこんな話があるんだが……」 「何だ?」 「なあに? 面白そうね」 「寄ってくるな」 「いや、その風邪のせいだと思うんだがな」 「娼婦の一人が、新しい奉仕を考えたらしい」 「へえ、どんなの?」 「喉が痛いと口がつかえなくなるだろ?」 「うんうん」 「だから口の代わりに、こう、胸を使うらしい」 ジークが乳房を寄せ上げる仕草をした。 気色悪い奴だ。 「ああ、あの技ね」 「最近、広まってきてるんだ」 「知ってたのか」 「まあね」 大方、メルトが考案したのだろう。 「なかなかいいらしいぞ、カイム」 「何故俺に言う」 「まさにエリス向けの技じゃない? 試してもらったら?」 「馬鹿言うな」 「あらもったいない」 「宝の持ち腐れだな」 口々に勝手なことを言う。 「じゃ、俺は帰るぞ」 「あらら、恥ずかしがっちゃって」 火酒を飲み干し、カウンターに金を置いてから立ち上がる。 まだエリスとの約束の時間には早いが、これ以上酒の肴にされては堪らない。 立ち上がったところで、店の奥からティアが出てきた。 「あれ、カイムさんお1人ですか?」 「エリスさんは……ひょっとして、喧嘩されたんですか!?」 ジークとメルトの大爆笑を背に、俺は苦々しい思いでヴィノレタを後にした。 そのまままっすぐ、エリスの家に向かう。 「エリス、薬はまだか」 扉を開けつつ、これではまるで金の取立てだと思い、慌てて落ち着こうとする。 だが、室内には人影はなかった。 どこに行った? 薬が完成したので、1人でリリウムへ届けに行ったのだろうか。 部屋には、ハチミツの甘い香りが漂っている。 ここでエリスが薬を作っていたのは間違いない。 部屋の中を見渡す。 ふと、〈衝立〉《ついたて》の裏に、人の気配を感じた。 「エリス?」 問いかけると、〈衝立〉《ついたて》がガタンと動いた。 「……は、早い」 「もうちょっと、ゆっくりして来ると思ってた」 怒ったような声が投げられる。 「どうした?」 「な、何でもない」 声はするが、なぜか姿を現さない。 何かあったのか? 「……ああ」 〈衝立〉《ついたて》の向こうは水場だ。 つまり……まだ裸なのだろう。 「おっと、悪い」 部屋から出ようとする。 「いいから」 「いや、でも」 「もう身体は拭き終わったから、そこの服、取って」 「そこ?」 「椅子の上」 「これか?」 椅子の上の衣類をつかみ、〈衝立〉《ついたて》の向うに投げる。 「っ……」 衣類を受け取ったエリスから、何故か息を飲むような気配があった。 「……なるほど」 「そうか……へえ……」 そんな呟きの後、ごそごそと衣擦れの音が聞こえて、 エリスが姿を現す。 「……」 目を疑った。 出てきたエリスは、前掛けを1枚羽織っただけの格好だった。 「何してるんだ?」 「え? こういうことじゃなくて?」 「頭がおかしくなったんじゃないのか?」 「だって、カイムが前掛けしか取ってくれないから……」 「こういうのが……いいのかって……」 声が尻すぼみになる。 恥ずかしそうに俯いてしまった。 「ああ……」 改めて椅子を見ると、まだ他の服や下着が残っていた。 「リリウム辺りで、こういうのが流行ってるんだと思った」 「流行るか」 まったく、何を考えてるんだ。 そう言いながら、さっきジークから聞いた話を思い出す。 「だから口の代わりに、こう、胸を使うらしい」 頭を振って、嫌な追想を追い払う。 しかし、しかしだ。 エリスの胸に目が行く。 こいつの胸は、リリウムの女と比べても引けを取らない。 引けを取らないばかりか、恐らく最大級の大きさと美しさがある。 新しい奉仕は、エリス向けの技術だと言えないだろうか。 「最近の流行は違うな」 「え?」 「いや、何でもない」 あやうく、欲望に流されるところだった。 「それより、お前、どうして身体を洗ってるんだ?」 「薬の調合中に汚れたの」 「カイムは、もう少し後で来ると思ってたから」 エリスが、まるで用意していたみたいにスラスラと理由を答える。 「薬はもうできたのか?」 「ほとんど完成」 「今は熱を取っているところ、冷えて固まったらできあがり」 エリスとしては、その合間に身体を…… ということだったらしい。 濡れたエリスの身体は、見慣れているにもかかわらず、妙に艶かしい。 前掛けの横から、乳房がちらりと見える。 「……」 再び、ジークの言葉が頭に浮かんできた。 いつから、俺はこんな好色な人間になったのだろう。 「……なに?」 俺はエリスから目を逸らし、 同時にジークの囁きも振り払おうとする。 「そういえば、リリウムの流行の話」 「結局、何が流行ってるの?」 こっちの気も知らず、話を戻すエリス。 涼しすぎる格好のまま目の前に立っている。 なぜ、さっさと着替えないのか……。 「カイム……なにか私に言いたいことでもあるの?」 「別に」 そう言って、もう一度エリスに視線を向ける。 面積の小さな前掛けと、そこから溢れそうなほどの乳房。 触りたい。 後ろめたい衝動に駆られる。 いや、違う。 触りたいだけなら別に、後ろめたい気持になどならない。 ……挟まれたい。 『薬の調合中に汚れたから』と言っていたが、目の前の前掛けは少しも汚れていない。 まさか……。 エリスが誘っているのではという妄想に取り付かれ、俺はエリスに近付いていく。 「まだもう少し……薬が固まるのに時間がかかる」 頬を赤らめ、そう言ったエリスの耳元で囁く。 「エリスに……、包んで欲しい」 「──!?」 エリスが息を飲む。 恐らくこの後、エリスに根掘り葉掘り問い詰められ、最後にはなじられるのだろう。 「変態のジークに、そんなこと吹き込まれるなんて……カイムもひどい変態」 しかし…… 「……カイムがそう言うのなら……」 エリスが椅子から着替えをどける。 「ここ、座って」 やって……くれるのか? 言われるがままに、椅子に座る。 するとエリスが、俺の腿の間で腰を下ろした。 豊満な乳房が、俺の太腿に乗る。 「……脱がすね」 そう言って、エリスは俺のズボンから、ペニスを取り出した。 エリスが俺の肉棹を乳房でくるむ。 しっとりとした感触が、俺の下半身を支配する。 「ん……ふあ……、んぅ……」 乳房は少し、冷たかった。 表面には微かに汗をかいているが、そのせいか。 「はむ……んぅ」 挟むと同時に、エリスは俺のものを咥えた。 「う……」 冷やかな脂肪に包まれた中で、亀頭の先だけが熱くなる。 「……どう?」 どう、と訊かれても。 坂を転がり落ちるかのような急展開に、俺は混乱していた。 しかもこれは、口が使えない時の奉仕のはずなのに、エリスは唇でも亀頭を包んでいる。 「なにか……間違ってる?」 「え?」 「カイム……変な顔してるから」 「あ、いや」 「……間違ってない。これで合ってる」 結局俺は、エリスに真実を伝えることができない。 それほどに、この奉仕が心地よかった。 「エリス……」 「うん?」 「……気持ちいい」 真実を隠匿してしまった罪悪感から、感想は素直に述べることにする。 「……よかった」 エリスがホッと、安堵するように息を吐く。 吐息のせいで亀頭の先がいっそう熱くなり、同時にチクリと胸が痛んだ。 「それで……どうしよう?」 「えっと、そうだな……」 どうするんだ、ここからは。 もっとしっかりジークから話をきいておくべきだったと、今さら後悔してしまう。 「とりあえず……好きなように動いてみてくれ」 「う、うん……」 「こう……かな?」 エリスがゆっくりと、乳房を動かし始めた。 「っ!」 強い快感と刺激。 俺は思わず、声をあげてしまった。 「な、なに?」 エリスが驚いたように、視線を上げる。 「……いや、何でもない」 「?」 考えてみれば、乳房は膣とは違って体液が分泌されない。 汗で多少湿った程度の肌では、擦り合わせた時の刺激が大きすぎる。 「あ、そっか……」 エリスが気づいたように頷いた。 そして何かを考え始める。 「滑らかにした方がいいのね?」 「あ……ああ」 この行為を止めるという選択肢は、エリスの中から消えているようだ。 「恥ずかしいから、できるだけ見ないで」 「え……?」 エリスが唇の奥で、くちゅりという音を鳴らした。 口の端がほんの少し開かれる。 そして、陰茎と唇の隙間から泡立った唾液が垂れ落ちてきた。 「うあ……」 エリスの口内分泌液が、ゆっくりと陰茎に絡んでいく。 「え……エリス……、それは……」 「見ないでって言った」 「いやでも……」 こんな光景を目の前で行われれば、嫌でも視界に入ってしまう。 陰茎が熱くなる。 「や……っ、ん……っ」 「カイム……馬鹿、変態……」 エリスは耳まで真っ赤にしながら、しかしすぐに2回目の唾液が落とされる。 「ん……ちゅる……っ」 温かい粘液に、肉棒が包まれた。 「ん……しょっ、ん……っ、んぅ……、んんん……、んぷっ」 「んあっ、はぁ……、ふあっ、はぁ……はふ、は、ふあぁぁ……」 そうして再び、乳房が動かされた。 くちゅり、ちゅくりと音が鳴る。 痛みを伴う摩擦は、エリスの唾液に溶かされて消滅していった。 「ふあ……あっ、あ……んっ、んぅ、んぅぅぅ〜〜っ」 「カイムの……熱い。ドクドクしてる……」 「ん……ちゅる……」 エリスがまた、俺の分身に向かって涎を垂らした。 「う……」 思わず声を漏らしてしまう。 「……気持ち良いんだ」 「……いい」 冷たかったエリスの乳房は、いつの間にか俺の陰部に負けないぐらい熱くなっていた。 乳房に付着していた汗が揮発していく。 甘いエリスの匂いが、俺の鼻腔をくすぐった。 「ふあ……はぁっ、はっ、ん……っ、ふあぁ」 「エリス……」 「な、なに……?」 「口も……動かしてくれ」 「……わがまま」 俺もそう思う。 思うのだけれど、衝動が止まらない。 「……ちょっとだけだからね」 「ん……れろっ、れるぅ……、ちゅく……」 エリスの口の中で舌が動く。 それに反応して、陰茎が乳房の中で跳ねた。 「ふふ……動いた」 「仕方、ない、だろ」 間の抜けた答えを返すだけの俺。 「れろ……れるっ、ん……んちゅ……っ、ちゅるぅ……」 エリスの舌が、俺の尿道に沿って這わされる。 ゾクリとした感触が、俺の背中を走った。 「は……んっ、んぅ……ん、んぅぅぅぅ〜〜っ」 エリスの唇から、また唾液が垂れる。 今度は意図したわけではなく、溢れ出てしまったみたいだ。 「あ……やっ、止まらない……」 エリスは耳どころか、首筋までが赤くなっている。 涎を垂らす行為は、エリスにとって相当恥ずかしいみたいだ。 でも、エリスは唇を離さない。 乳房を押しつけながら、舌を動かし続ける。 「はぁ……はっ、ん……ふあっ、ふあぁぁぁ……っ、はぅ……」 自分でも怖いぐらいに、下半身へと血液が集まっているのが分かる。 意識が混濁してきた。 「本当に……こんなので気持ちいいんだ」 エリスが呟く。 「流行ってるってのも……本当なのかな……」 「お前も、誰かに聞いたのか?」 「も?」 「あ、いや」 朦朧としているせいで、思わずボロを出しそうになってしまう。 ただエリスもエリスで、俺と同じくらい朦朧としている様子だ。 「……リサが、最近リリウムで流行ってるって」 俺の失策を深く追求せず、説明を始める。 「私の胸が、その……大きいから……」 「カイムが喜ぶんじゃないか……なんて言うんだけど……」 エリスの機嫌をとって、薬を安くしてもらおうだなんて考えていたのかもしれない。 「でも……半信半疑だったし……、こんなこと、自分からは言いだせないから」 「カイムから言ってくれて……良かったかも」 「んぅぅぅっ、ふあっ、はぁ……っ、んっ、はぁっ、はぁ……はふぅ……」 じゅる、ぐちゅっ、じゅるぅぅ、ぐちゅぅ エリスの谷間からは、粘膜同士が交わるような音が立ち始めていた。 「この音……嫌だな……」 「カイムが喜ぶのは嬉しいけど……やっぱり恥ずかしい……」 ただ、恥ずかしがりつつも、エリスの胸は止まらない。 意識的にか無意識にかは分からないが、乳房を捏ねる速度はどんどん速くなっていく。 唾液もだらだらとこぼれ落ちている。 「はぁ、は……んっ、ふあ……ふあぁ……っ、はぁっ、はんぅ……」 ぐちゅり、ぶちゅりという水音は、むしろどんどん大きくなっていった。 「ふあ……っ」 エリスの乳首が、俺の太ももに触れる。 「ひゃ……っ」 エリスの身体がビクリと震える。 途端に汗の量が増え、乳房の温度が上がっていった。 始め冷たかったはずのエリスの乳房は、いつのまにか焼けるほど熱くなっている。 う……っ 「や……っ」 そのエリスの変化に反応して、俺のペニスもビクンと震える。 「カイムぅ……」 「身体が……ゾクゾクしてきた……」 呟きながら、乳首を足に押し付けてくる。 固く勃起した乳首が、俺の太ももに突き刺さる。 「はぁ……はっ、ふあっ、はぁ……んっ、んぅぅ……っ」 身体中を真っ赤にして小刻みに震えながらも、エリスは行為を止めない。 「ふあっ! あぅぅぅ……っ、ふあぁ……」 エリスの身体の震えは、そのまま俺の陰茎にも伝わってくる。 「はぁっ、ふあ……はうぅ……、はん……っ」 ふんわりと、汗とはまた違う種類の甘い香りが漂ってきた。 「ん……っ、はぁ……はぁ……っ」 見ればエリスが、切なそうに太ももを擦り合わせている。 「……カイムぅ」 上気しきったエリスの顔。 妖しく潤んだ瞳に吸い込まれそうになる。 多分、エリスは濡れているのだ。 すごいなこの奉仕は……。 される側だけでなく、する側もこんなになってしまうなんて。 「欲しいのか?」 エリスは、顔を真っ赤にしたままでコクンと頷いた。 「このまま、1回出してからな」 「む……っ」 意地悪とでも言いたげに、エリスは頬を膨らませる。 多少申し訳ない気もするが……。 そうしないと、挿入した途端に暴発なんてことになりかねない。 「んーっ、んぅぅ……っ」 エリスは諦めて、乳房を押し付けてきた。 やけ気味の押しつけが、妙に心地よかったりもする。 「ふあ……はぁっ、はぁ……っ、んっ、ふぅぅ……」 エリスが息を吐き出す音と、乳房と肉棒の擦れる音が混ざる。 狭い部屋の中に、淫猥な音が満ちる。 「むちゅ……むっ、んむっ、んぅぅぅ……」 「ふぅ、はぁ……んぅ……っ、身体、熱い……心臓がどくどく言ってる……」 潤むを通り越して、エリスの目は今にも泣き出しそうになっていた。 ……手伝ってやるか。 俺は自分でも腰を揺らし始めた。 「むぐ……んっ、んぅ、むぅぅぅぅ〜〜……っ」 亀頭がエリスの唇を押し上げる。 「ちょっと……カイム……っ、乱暴……」 文句を言うが、もちろんエリスは唇を離さない。 必死に、咥え続けようとする。 「ん……っ、んむぅぅぅ〜〜っ」 ぺちゃっと大きく舌が触れる。 「ふあっ、はぁっ、は……っ、はぁ……」 エリスが息を吐いた拍子に、また唇の間から唾液が垂れた。 「んーっ」 エリスは慌てて、その唾液を吸いこもうとする。 「じゅる……っ!」 「ぐ……っ」 エリスが吸ったとたんに、俺の背中がピンと伸びた。 「あっ……カイム……震えてる……」 「今の、よかったの?」 声が出せない。 しかし声の代わりに、陰茎が応えていた。 ビクビクと震え、先走り液を垂れ流す。 「……良かったんだ」 「も、もう一回……やるね」 そう言って、唇で亀頭を包み直した。 「じゅる……っ、じゅぅ……っ! ずちゅっ、じゅるぅぅぅ……っ!」 生々しい音が、エリスの唇から漏れる。 その音が増す程に、射精感が刺激されてしまう。 「カイム……なんだか嬉しい……」 「すごく……私のこと感じてくれてる……」 エリスが口を開くタイミングで、また唾液が垂れ落ちてくる。 唾液に溶かされて、エリスの乳房と同化してしまいそうな錯覚に陥る。 「あむぅ……」 エリスが深く、陰茎を咥えた。 「れる、れろ……っ、れろぉ……」 時折思い出したように、亀頭の上を舌が這っていく。 「はぁ……んっ、ん……っ、口の中に……カイムの味がしてきた……」 「ちゅる……っ、んちゅぅぅ……っ、ちゅ、ちゅるぅぅぅ……っ、ちゅくっ、ちゅぷぅ……っ」 俺がエリスの口を犯しているのか、 エリスの口に俺が犯されているのか、 それすらもわからなくなってしまっている。 「ん……ふあ……っ、んぅ……っ、ん、んぅぅぅ〜〜っ」 「んむぅ……んちゅっ、ちゅるぅぅぅ……っ、ちゅう、ちゅるっ、んちゅぅぅぅぅ……っ」 もう限界だった。 「出すぞ」 「うん……んっ、んちゅっ、ちゅぅぅぅ……っ! んくっ、ん、ん……っ、んぅぅぅぅ〜〜っ」 びゅるぅっ! びゅくぅぅぅ……っ! 「ん! んぅぅ……っ! んぅっ、んんんぅぅぅ……」 豊満な乳房で圧迫されたペニスは、その外部からの圧力も手伝ってか、勢い良く精液を吐きだした。 尿道の先から飛び出し、エリスの口を汚していく。 「ん……んっ、ん……っ」 「んむぅ、んぅぅぅぅぅぅ〜〜っ!」 エリスの口の中で、唾液と精液が混ざる。 唇の端から、今度は濁った白濁が流れ落ちてきた。 「ん……じゅる……っ」 唾液にしたのと同じように、エリスはその白濁を吸いこもうとする。 「おい……」 止める間もなく、エリスは喉を鳴らし始める。 「ん……こく……っ、んく……」 「お、おい……、エリス……」 「ん……っ、んんぅ……」 結局エリスは、口の中に出された精液を嚥下してしまった。 「……苦い」 「そりゃそうだ」 「あと、量多すぎ」 「ちゃんと次も……で、出るの?」 「出ないかも」 「……っ」 エリスが小さく息を飲んだ。 「嘘だよ」 「な……っ」 からかわれていることに気づいたエリスは、ぷぅと頬を膨らませる。 「もう……馬鹿」 「それより大丈夫か? 飲んだりして」 「あんまり大丈夫じゃないけど……」 「でもカイムが、飲んで欲しそうにしてたから」 「……してたか? そんな目」 「してた。すごくいやらしい目」 そんな馬鹿な、と反論する自信はなかった。 「それは……すまん」 「……冗談よ」 「ぐ」 今度は逆に、俺の方がからかわれてしまった。 1勝1敗となったところで、エリスが俺から口を離す。 「ふあ……」 エリスの唇が糸を引いた。 「とりあえず口の周りを拭いたらどうだ」 そう言って、エリスに手巾を手渡す。 「いい、このままで」 「いいって……」 「それより……カイムの元気があるうちに」 エリスが俺に背中を向ける。 そして、微かに震えながらゆっくりと、足を開いた。 露になったエリスの性器が、妖しい光を放っている。 その光景を見せられ、俺のペニスも急速に固さを取り戻しつつある。 お互いをこんな風にしてしまった、乳房での奉仕のことを思う。 これがリリウムで行なわれているわけか。 「なるほど、ジークの羽ぶりがいいわけだ」 「……なに?」 「いや……入れるぞ」 「うん」 「う……、ん……っ、あ、ふあっ、ふあ……」 「ああ……っ、あ、あ……っ、あくっ、んんぅぅぅぅぅ〜〜……っ」 ろくに愛撫もしていないのに、エリスの中はとろけていた。 差し込んだ肉棒が溶解されてしまいそうだ。 「ずっと我慢してたから……」 聞いてもいないのに弁解をしだすエリス。 そしてすぐに、それが余計なことであったと気付き、うなじを真っ赤に染めてしまう。 「勝手にしゃべって、勝手に照れるな」 「だ、だって……」 やはりエリスもまだ、頭がぼうっとしているのだろう。 その朱に染まったうなじに指を這わせる。 「ん……ああぁ……」 指が、耳朶に触れた。 「ひゃっ、ん……っ」 突然エリスが小さな悲鳴を上げる。 「ふえ? や……っ、あっ! あ、あ……っ」 エリスの白い背中に、鳥肌が広がっていく。 キュゥッと、膣が締まった。 「ひゃっ、あ、あ……っ、ああっ! ふあ、あ、ああああぁぁぁ……っ」 「カイムのが……、きゅ、急に……大きく……」 「俺じゃない。お前のが急に締まったんだ」 言いながら、エリスの耳をなで続ける。 「ひゃうぅぅ……っ、あっ、あっ! あ、あああぁぁぁぁ……」 すごい反応だ。 「ちなみに私は耳が弱いから」 あれは本当だったのか。 いや、でもこの反応は── 「なんで……こんなところが、気持いいの……?」 「ひゃ……っ、あ! あ、あぁ……、ふあああぁぁぁ……っ」 「自分で言ってただろう。『耳が弱い』って」 「い……、言ってたっけ、そんなこと……」 「ああ」 「私も忘れてたようなことを、カイムは覚えていてくれたんだ……」 エリスはそう呟いて、嬉しそうに肩を揺らした。 「お前が簡単に忘れすぎなんだよ」 仕方なく、代わりにそう言って耳たぶを弾いた。 「ひゃっ! あ……、あっ、あ〜〜……っ」 エリスの中が、じわりと熱くなった。 「また……カイムに私の秘密、知られちゃった……」 「耳のことはお前も知らなかったじゃないか」 「私も知らない、私の秘密」 「もっといっぱい知ってね」 「私は全部、カイムのものなんだから……」 本気で言っているのがわかるから、照れ隠しにエリスの尻に腰を叩きつけた。 「ひゃんっ! ひあっ、あ……っ、ふあぁぁぁ、あ、あ……」 「カイム……照れてる」 「照れてない」 言いつつ、エリスの中をかき回す。 ぐちゅぐちゅと音を立てながら、肉壁を蹂躙していく。 「ふあっ、ふあぁぁぁ……、はぁっ、はふ、ふあ、あ……っ、うぅぅぅ〜〜っ」 エリスの太腿が、プルプルと震えだした。 立っているのも辛そうなほど、小刻みに動いている。 コツンと、エリスの奥を叩いた。 「あんっ!」 エリスの身体が跳ね上がる。 「あ……っ、あ、あっ、あーっ!」 俺の腰とエリスの尻を、乱暴にぶつけていく。 「あ……っ、あっ、あーっ、ふあああぁぁぁ……っ!」 「んぅぅぅ〜〜っ! ん、ん、んぅっ! んぅぅぅぅぅぅ〜〜っ!」 エリスの両足は、相変らず生まれたばかりの子馬のように頼りない。 しかし俺は、気にせず腰を揺らし続けた。 「そう……っ、んぅっ、そのまま……っ、いっぱい、叩いて……っ」 そしてエリスもそれを望む。 「もっと……っ、んっ、んっ、ん〜〜っ!」 エリスの膣内がゾワゾワとざわめき始めている。 普段ならこの辺りで俺も限界になる。 だが、先ほど一度出したばかりなので、まだ粘れそうだ。 「は……っ、うぅ〜〜……っ、ん、んぅっ、ふあ」 波立つ膣壁を掻き分けるようにして、俺はエリスの最深部を叩き続けた。 「や……っ、ひやっ、カイムぅ……」 「やああぁぁぁ……っ、あっ、あ……」 「ふあ、うあ、あっ、ん、んぅ……っ」 エリスの汗腺から、玉のような汗が吹き出す。 「んっ、んぅ……んぅぅっ、んんんんんー」 ここに至ってエリスも腰を揺らし始めた。 「うわ……」 「ひゃっ、んぅ……ふあっ、あ、あ、あ……」 エリスと俺の下半身が、調子を合わせて激しくぶつかり合う。 ぶちゅり、ぐちゅりと生々しい音が鳴る。 ここでもう一度、俺はエリスの耳を撫でた。 「ひゃっ! あっ! あ……」 「あうぅぅぅ……っ、カイム……意地悪ぅ……」 甘えたような声とは裏腹に、エリスの背中からは緊張感が伝わってきていた。 汗の量も増している。 「あ、うぅ、もう……っ、あっ、あっ、あああぁぁぁーっ」 「嫌……だな……、もっとずっと……こうしていたいのに……」 「もうなんだか……身体が、限界……」 「続けられるか?」 「か、カイムぅ……」 限界と言いつつも、潤んだ瞳は続けて欲しいと言っている。 俺はエリスの奥の奥、子宮口に亀頭をぶつけた。 「ひぐっ、うくっ、うあ、あっ、あ……っ」 「あ、あーっ、ああっ、あー……」 「お願い……、このまま、カイムも一緒に……、ね……?」 「いっぱい……、いっぱい気持ちよく……」 「ああ」 頷き、ペースを上げていく。 「あ、んあーっ、まだ……激しく……っ」 「ああ……っ、あぁっ! あああーーっ!」 苦しそうな、でもどことなく楽しそうなエリスの声。 膣も同じように、切なそうに俺のペニスを締め上げてくる。 「一番……奥で出してね……」 「ああ」 「いっぱい……いっぱいカイムの熱いの……感じさせて……」 「は……っ、ふあ……あっ、あ……ああぁぁぁーっ、あっ、ああっ、あ、あああぁぁぁ……っ」 たぷんという音が、エリスの背中の下から聞こえた。 恐らく、乳房同士の当たる音なのだと思う。 「はぁっ、ひあっ、ふあーっ、ひあ!?」 俺の絶頂に先んじて、エリスの奥が一段と熱くなった。 「あ……っ、あーー……っ、あ、あ、あ……っ、ふあ、うあ……っ、あああぁぁぁ……っ」 「カイムっ、お願い……っ、もう……早く」 「あ、ふあっ、ふああぁぁ……っ、あぅ! くぅぅぅ〜〜っ、うんぅっ、んっ、ん〜〜っ」 「来る……、来ちゃうよぅ……っ」 「あ、ああぁぁぁっ、ひあっ、ああああぁぁぁ……っ! ひうっ、ひ……っ、んぅぅぅぅ……っ」 びゅるっ! びゅくぅぅ! 「ひくっ! ひ……っ、ひあっ、ふあ……」 エリスの中で、俺のものが弾けた。 亀頭の先に、温もりが広がっていく。 蜜壷の中で、エリスと俺が混ざった熱だ。 「ふあ、はぁっ、はぁ……っ、カイムが……、お腹で暴れてる……」 「あーっ、ひゃっ!」 少し遅れて、またペニスがドクンと暴れた。 それに応じて、エリスの膣もまた締まる。 「あ、あ……っ、あぁぁぁ、あー……」 隙間の無くなった膣から逃げるように、白濁が溢れ出てきた。 溢れた精液がエリスの太腿を伝い落ちていく。 「ふあ……っ、足に……、カイムのが伝わって……」 「あーんぅっ、撫でられてるみたい……」 俺もエリスの耳を愛撫する。 「あっ、ふあーっ、うあ……」 「も、もう……」 クスリと笑い、エリスは小さく息を吐き出した。 「カイムはどこで聞いたの?」 「ん?」 「その……乳房での奉仕のこと」 机に向かって薬の固まり具合を見ながら、エリスが俺に尋ねる。 「さっき、ヴィノレタでジークに」 この期に及んで隠しても仕方が無いので、正直に答える。 「エリスが今喉の薬を作ってるって言ったら……」 「喉が痛くて口の使えない娼婦の間で、流行ってる行為があるって話になって……」 と、急にエリスが薬を触る手を止めた。 「口の……使えない?」 「ん? ああ」 「口は、使わなくていいってこと?」 ここで俺もハッとした。 エリスは行為中、口を使った直後に、 『なにか……間違ってる?』 と俺に聞いていた。 それに対して俺は間違っていないと答えたのだ。 「口……使わなくて良かったってこと?」 エリスがみるみる赤くなっていく。 「なんで……そんな嘘をついたの!?」 「すまん。気持ち良かったからだ」 「気持ちよかったら嘘ついていいなんてことない」 エリスの身体が震えている。 「す……すごく恥ずかしかったんだからっ!」 「ああもう、そのうえ、出したのを飲ませたりして……」 「それはお前が勝手に飲んだんだろう」 「すぐ私のせいにする」 「じゃあ俺のせいなのか」 「カイムが嘘をついたのがそもそも……」 そう言って、エリスが立ちあがる。 ガタン 立った拍子に足が当たり机が大きく揺れた。 「あっ!」 薬が床にぶちまけられる。 蜂蜜の薬はまだ固まりきっていなかったようだ。 べちゃりと、床に貼りついてしまう。 「あああ……」 エリスがあまり家に帰らないこともあって、床には多少埃が落ちていた。 その埃が、ことごとく薬に付着してしまう。 慌てて拾い上げるも、とても口に入れられるような状態ではなかった。 「……作り直し」 エリスが落胆した声を出す。 「もう……カイムの馬鹿」 「これも俺のせいかよ」 「もういいから、出てって! 今から作り直すから」 「完成は真夜中! ちゃんと迎えに来る!」 「今度は時間通りに!」 こうして俺は、幸せな余韻に浸る間もなく、 エリスの家を追い出されてしまった。 数刻後、俺はヴィノレタにいた。 「カイムさん……やっぱりエリスさんと喧嘩したんですか?」 ティアが心配そうに俺の顔を覗き込む。 「うるさい」 吐き捨てて、火酒を呷る。 カウンターの向こうでは、メルトが『やっぱりね』とでも言いたげな顔で、笑っていた。 ある昼下がりのこと。 「ただいま戻りました」 どんよりした顔でコレットとラヴィが帰ってきた。 「また仕事を断られたか」 思わず笑ってしまう。 「笑い事ではありません」 コレットはとすんと椅子に腰を下ろし、頬を膨らます。 ……牢獄から下層に移ってきて、しばらく経った。 ラヴィは怪我から回復し、それまで世話をしていたコレットも暇を持て余すようになっていた。 俺が働いているのを見て、二人とも仕事を探し始めたのだが……。 「最初は店主の方も熱意を買って下さっていたのに、突然雇えないと言い出したのです」 「どうしてなのですか」 「さあな、不景気だからじゃないか」 この都市はたまに不景気に見舞われることがある。 大抵は貴族の怠慢による失政が原因だ。 「ラヴィ、疲れました。お茶を」 「ふふっ、はいはい」 お茶の用意を始めるラヴィ。 「コレット、あまりラヴィを使うな」 「もうお前のお付きじゃないんだぞ」 「お気遣いなく。私も喉が渇いていたところです」 「甘やかさなくていいんだぞ」 「いえ……そんなことは」 「あの、お茶を用意してきますね」 ラヴィはいそいそと台所へと向かった。 「何を良い雰囲気になっているのですか?」 「不愉快です」 「そういう態度だから、雇ってもらえないんだ」 「振りだけでも、もう少し従順にしておけ」 「働くと決めた以上、労働に奉仕する心は誰にも負けるつもりはありません」 矯正には時間がかかりそうだ。 「でも、今日のことは私も不思議に思いました」 ラヴィが台所からこちらを覗く。 「途中まではとても積極的でしたのに……奥様が顔を出した途端に気まずくなってしまって、そのままお流れになってしまいました」 俺は二人の顔を交互に見比べる。 なるほど、そういうことか。 「お前たち、自分のことを客観的に見てどう思う」 「客観的に、とは?」 「顔の話だ」 「わかりません」 「ラヴィはどう思いますか?」 「さあ……私にも……」 困惑しながら、ラヴィが茶を持ってくる。 「どこかおかしな部分があるのでしょうか?」 「逆だ。お前たちは作りが良すぎる」 「大方、かみさんが嫉妬したんだろうよ」 「それを見た店主が、雇うのをやめたと」 「不条理です、容姿など関係ないではありませんか」 「大切なのは労働への奉仕の心だと思います」 「器量が悪い女は、良い奴の何倍も理不尽な目に遭ってるだろう」 「世間で暮らしていくつもりなら、そのくらいの機微はわきまえろ」 「普通に生きるのも、存外難しいものです」 ため息をついて、コレットは茶を飲む。 「やはり、世間知らずの私たちでは、お仕事をするのは無理なのでしょうか」 「ラヴィ、あなたは諦めるつもりなのですか?」 「いえ、そういうわけではありませんが……」 「10や20断られたくらいで弱音を吐くような者に、聖女のお付きは務まりませんよ」 「お前は聖女じゃないし、ラヴィはお付きじゃないだろ」 「心構えの話をしています」 「肩書きを失ったからと言って、心根まで失っていいものではありません」 「申し訳ありません」 困ったように笑いつつ謝る。 「コレット、不愉快だからってラヴィに当たるな」 「そういうつもりはありません」 こいつは本当に変わらないな。 少しは普通の生活に慣れないとこれからがつらい。 二人には、もっと世俗に触れる機会が必要なのかもしれない。 となれば……やはり、あれが一番か。 「……よし、出かけるか」 「出かける?」 「のですか?」 「ああ、そうだ。支度をしろ」 俺は用意してくれた茶を飲み干し、外へ出た。 「いきなりどうしたのですか?」 「お前たちは、世間を知らなさすぎだ」 「少し勉強する必要がある」 「なるほど。カイムさんが教えてくださるのですね」 「まあ、そういうことだ」 「ありがとうございます。わざわざお手間を取らせてしまって申し訳ありません」 「気にするな。一人立ちできるまでは面倒見てやる」 「一人立ちできるまで、ですか?」 二人の顔が曇る。 その先を期待していたのか。 「ああ、そうだ」 「まずは市場だな」 広場では、露天が軒を連ねていた。 「すごい熱気です」 多くの住民が行き交い、むせ返りそうなほどの熱気で満ち溢れている。 この辺りでは、一番活気のあるところだ。 「こういうところで買い物をしたことがあるか?」 「いえ、ありません。ラヴィは?」 「私もないです。普段は近所のお店で済ませてしまいます」 露天では競合する店がひしめき合い、互いに僅かな価格の差でしのぎを削っている。 皆、大声でいかに自分の店で買うと得か叫び合っていた。 「おっ、お嬢ちゃん買い物かい!」 「この林檎はどうだい、一袋でたった銅貨6枚だよ!」 「あ、あの……」 「今は間に合っております」 戸惑うラヴィの前に割って入り、コレットはぴしゃりと断ってしまう。 「ラヴィ、自分の思っていることはきちんと口になさい」 「ありがとう、コレット」 「お前の物怖じしない性格が役に立ったな」 「何か含みのある言い方に聞こえますが、気のせいでしょうか」 「気のせいだな」 露天に群がる人波を避けながら、広場を歩いていく。 「たまにはこういうところで買い物をしたらどうだ」 「私はちょっと……皆が大声を出していて少し怖いです」 「ラヴィには厳しいかもな」 「私は、とても良い場所だと思います」 「あのような出来事があっても、人はここまで立ち直ることができるのですね」 あのような出来事とは、この前の崩落のことだろう。 人々の活気ある姿は、コレットの心を慰めるのかもしれない。 「カイムじゃないか。女連れとは珍しい」 「そういう日もある」 他の客はほとんどいなかった。 コレットとラヴィを、俺の両隣に座らせる。 「親父、景気はどうだ」 「お前が今から良くしてくれるんじゃないのか?」 「火酒を瓶で、あとグラス3つ」 「料理は適当に見繕ってくれ」 「あいよ」 店主は調理のために奥へ引っ込む。 「カイムさん、このお店は?」 「俺が仕事の行きがけによく寄るところだ。ここら辺では一番飯が美味い」 「随分とお酒がいっぱい置いてあるのですね」 「酒場が本業だからな。夜が本番だ」 「昼間は飯なんかを出している」 「何だか懐かしい感じです」 ラヴィは物珍しそうに店を見回している。 「御子様をお迎えに上がったお店も、このような所でした」 「……ああ」 ヴィノレタ。 先の崩落でメルトもろとも混沌へと沈んだ。 今でも思い出すと胸が痛くなる。 だがここに来ると、ヴィノレタを思い出すと同時にほっとすることができた。 親父は気のいい奴だし、雰囲気もどことなくヴィノレタに似ている。 「カイムさんは、いつもこちらでお食事を?」 「そうだ。ここは煮込み料理が美味い」 ここの煮込み料理は、どことなくメルトの味を思わせる。 それが気に入って足繁く通っていた。 「前にティアさんがおっしゃっていた、林檎の料理などもあるのでしょうか」 「ここには置いてない、店主が虫歯なんだろう」 「ひでえな。人を勝手に虫歯にするなよ」 できあがった料理を手に、店主がやってくる。 「甘い物は苦手なんだ。酒飲みは大抵そんなもんだろ」 「違いない」 料理と火酒の瓶、そしてグラスを受け取る。 「私、御子様から林檎料理の作り方を教わりました」 「今なら作れます」 「だったら今度、店主に食わせてやれ。きっと驚いてぶっ倒れるぞ」 「虫歯に響いてか?」 気さくに笑って、店主は奥へと引っ込んだ。 「さて、食べるか」 「カイム様、このグラスは?」 俺とコレットとラヴィ、3人の前にそれぞれグラスが置かれている。 「酒を注ぐためのものだ」 「それはわかりますが……なぜ私とコレットの分まであるのでしょう」 「お前たちも飲むからだ」 俺はそれぞれのグラスに火酒を注いでいく。 「わ、私、お酒は飲んだことがありません」 「私はあります」 コレットが自慢げに言う。 「いつの間に?」 「私とカイムさんとの秘密です」 そんな約束をした覚えはないが……。 コレットがそういうことにしたいなら、それでもいい。 「カイム様、コレットをそそのかしましたね」 矛先がこちらに向いた。 「良いではありませんか、細かいことは」 「飲酒は、聖職者として相応しい行いなのですか?」 「聖戒を守ることが大切なのではありません」 「大切なのは自らの信仰と、心の持ちようです」 「またそんな屁理屈を……」 「屁理屈ではありません」 俺を挟んで、コレットとラヴィが〈睨〉《にら》み合う。 「やめろお前ら」 「何をしに来たのか、忘れたのか」 「世間の勉強です」 「そうだ、今はもう聖職者じゃない。信仰や聖戒は一旦忘れろ」 古い習慣が簡単に抜けないのは仕方のないことだ。 だが、今日はそれを忘れて新しい習慣に馴染むためにやってきたのだ。 「……そうですね。カイム様の仰る通りです」 「お酒を理解することも大切なことですね」 「コレット、ごめんなさい」 「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした」 「よし、乾杯と行くか」 それぞれグラスを持ち上げる。 「二人の仕事が見つかるように。乾杯」 「乾杯」 「乾杯」 俺たちは、グラスに注がれた火酒を呷った。 「……ということなのです、カイム様。聞いていますか、カイム様」 「聞いてるぞ」 うんざりしつつ、応答する。 「それでコレットったらひどいのです」 「あなたはお付きとして相応しくありません、なんて言うのですよ」 「ああ、そうだな」 適当に相づちを打つ。 端的に言って酒癖が悪かった。 最初の1杯目を飲み干したあたりから異常なほど盛り上がり始め、3杯目で完全にできあがった。 それからずっと、お付きだった頃の愚痴を聞かされている。 「ラヴィ、いい加減にしなさい」 「何の話でしょうか」 「昔の話をくどくどとするものではありません」 「カイムさんが困っているではありませんか」 「よく言います。散々カイム様を困らせてきたのはコレット、あなたの方でしょう」 「あなたにどれだけ皆が振り回されたのか、わかっていますか?」 「初めて沐浴をした時だってそうです」 「あなた、沐浴場で我慢できなくて……」 「あああっ、その話はおやめなさいっ」 「やめません」 「お願いラヴィ、誰にも言わないと約束したではありませんかっ」 「そうでしたか?」 どうやら、コレットにとって相当都合の悪い話のようだ。 ラヴィはすました顔で5杯目のグラスを空ける。 「カイムさん、ラヴィを止めてくださいませんか」 コレットが半べそで袖に〈縋〉《すが》り付いてくる。 「そうだな」 夜の客も入り始めている。 このままでは、店にも迷惑だ。 「ラヴィ、そろそろ出るぞ」 「これから盛り上がるところではないですか」 「なら、まず立ってみろ」 「は、はいー」 立ち上がった…… と思いきや、よろけてつまづきそうになる。 仕方ない奴だ。 「ラヴィ、背中に乗れ」 「はい」 ラヴィが背中に乗ったのを確認し、店主を呼ぶ。 「騒いですまんな」 「なに、美人は大歓迎だ。また連れてきな」 「助かる。今日の分はつけといてくれ」 「あいよ」 「店主さん、今日の分はつけておいてくださいー」 「はは、あいよ」 背中で俺の真似をするラヴィ。 「コレット、帰るぞ」 「わかりました」 ずり落ちてきたラヴィを背負い直し、帰路へとついた。 「おい、着いたぞ」 「ありがとうございます。もう大丈夫です」 ラヴィはしゃんとして立つ。 「少しは酔いが冷めたか」 「もちろんです。では私は準備がありますので、これで」 ラヴィはすたすたと歩いて去っていった。 準備ってなんだ? この後、何かをする予定などないのだが。 「……ひどい目に遭いました」 ラヴィと入れ替わりに、明かりをつけて回っていたコレットが戻ってくる。 「どうだ、面白かっただろ」 「とんでもありません。ラヴィは大丈夫なのでしょうか」 「世の中には二通りの人間がいる」 「酒に強い奴と、弱い奴だ」 「お酒に弱いとああなるのですか」 「ラヴィはそこまで弱くはないようだが、あまり酒癖がいいとは言えんな」 「お酒は怖いものですね」 「ラヴィがあんな風に豹変するなんて、思いもしませんでした」 「酒は人の本性を露わにする」 「誰しも表と裏、二つの顔がある。綺麗事だけじゃ回らないんだ」 「今回のことで身に沁みてわかりました」 「そりゃよかった」 これで少しはコレットも変わったらいい。 いい勉強になっただろう。 「戻りました」 「……ラヴィ、その格好はどうしたのですか」 「何を仰っているのですか。聖女様も早くお着替を」 「夜の儀式が始まってしまいます」 「え?」 ラヴィはコレットの手を取り、引っ張っていく。 「お時間がございません、さ、こちらに」 「なっ、ラヴィ、やめなさい」 「カイムさん助けてください」 「頑張れ」 着替え程度なら問題はないだろう。 どうせしばらく酒は抜けない、放っておこう。 「カイムさん、カイムさん……」 悲鳴を上げながら、コレットはラヴィに連れ去られた。 「なぜ私がこのような格好を……」 コレットが聖女の格好で戻ってきた。 「よくお似合いです」 「この服、持ってきたんだな」 「聖女の服は同じ物が何着もあるのです。きっとラヴィが、そのうちの一着を持ってきたのでしょう」 「よく似合ってるぞ、聖女さん」 「やめてください、カイムさんまで」 ため息をつくコレット。 「それでラヴィ、こんな格好をしてどうしようというのですか」 「何を仰っているのですか。夜の儀式のお時間です」 「儀式と言っても……」 辺りを見渡すコレット。 当然の話だが、ここは聖殿ではない。 「それでは沐浴から始めましょう」 「聖女様、お召し物をお脱ぎください」 「脱ぐと言われても……どこで脱ぐのでしょうか」 「ここです」 真顔で答えるラヴィ。 ……面白すぎる。 「カイムさん……どうすればいいのですか?」 「付き合ってやれ」 「何を笑っているのですか。さては私が困っているのを見て楽しんでいますね?」 「これも勉強のうちだ」 「嘘です、絶対に違いますっ」 「聖女様……早くお脱ぎになりませんと」 ラヴィはもそもそとコレットの服をまさぐり始める。 「やっ、ラヴィ、やめなさい。こんなところで脱ぐなんて……いけませんっ」 「カイムさんも見ているのですよっ」 「神聖な儀式なのです。何も恥ずかしいことはありません」 「今までも多くの方に見ていただいたではありませんか」 「それは……儀式だからです。ここでそんな……裸になるなんてできませんっ」 ラヴィから逃れようとコレットが暴れる。 しかしラヴィの方が力で勝っているらしく、振りほどくことができない。 「か、カイムさんっ……笑ってないで助けてくださいっ」 「このままでは、私はラヴィに辱められてしまいますっ」 「や、やぁっ、そんなところを触らないでっ」 正直、可笑しくてたまらないのだが……これ以上は可哀想だな。 そろそろ止めてやるか。 「おいラヴィ、そのくらいにしておけ。コレットが困ってるぞ」 「カイム様、無礼です。聖女様を呼び捨てにしないでください」 「わかったわかった」 俺はラヴィの手を取り、コレットから引き離す。 「何をするのですか。離してください」 「離したらコレットをひん剥こうとするだろ」 「儀式なのですから当然です」 「ほら、目を覚ませ」 俺はぴたぴたと軽くラヴィの頬を叩く。 「コレットはもう聖女じゃない。お前もお付きじゃない」 「それによく見ろ。ここは聖殿じゃないだろ」 言われて、ゆるゆると周囲を見回す。 「……本当です。私、どうしていたのでしょう」 「初めてにしては少し飲み過ぎだったな。今日はもう寝ろ」 ラヴィが俺を見上げてくる。 少し顔が上気しているが、意識ははっきりとしている様子だった。 ようやく正気に戻ってくれたか。 「……カイム様」 「なんだ?」 「好きです」 「は……?」 「へ……?」 「私、あなたのことをお慕い申し上げておりました」 待て、待て待て。 何を言っているんだ、こいつは。 「おいラヴィ、大丈夫か?」 「私は本気です。お付きをしていた時、カイム様はいつも私に優しくしてくれました」 「今も私を優しく諭してくれました」 「コレットに悪いと思ってこの気持ちを抑えてきましたが、もう我慢できません」 「カイム様、私はあなたが好きです」 ラヴィの真摯な告白に、思わず顔が熱くなる。 「私ではいけませんか。カイム様に相応しくないでしょうか」 「そんなことはないが……」 いきなり言われても困る。 全くの不意打ちで、全然頭が回らない。 「ま、待ってください。カイムさん、ラヴィは酔っぱらっているのですよ」 「真に受けてはいけません」 「コレット、私は真剣です。私はカイム様と一緒にいたいのです」 「決してお酒に任せて言っているのではありません」 「そんな……私だってカイムさんのことをお慕いしているのに」 「知っていました。ですが、カイム様だけはコレットにも譲ることはできません」 ラヴィが胸の中に飛び込んでくる。 「好きです、カイム様……」 ラヴィが真剣に言っているのは目を見ればわかる。 今までずっと胸の奥にしまってきた気持ちを、酒の力を借りて打ち明けたのだろう。 そういうのはよくあることだ。 だが、俺は今までそんな風にラヴィを見ていなかった。 「少し待ってくれ、ラヴィ」 「ずるいですっ!」 「私だって、私だってカイムさんのことが好きなのです。ラヴィには負けられません!」 コレットまで抱きついてきた。 「おい、話をややこしくするな」 コレットの息が顔にかかり、ほのかな酒の香りが辺りに漂う。 そう言えば、コレットもラヴィと同じくらい飲んでいた。 「コレット、お前も相当酔っぱらってるな」 「酔っぱらってなどいません」 いやいや……酔っぱらっている。 絶対に普通じゃない。 「そんなことはどうでも良いのです」 「カイムさん、私もカイムさんのことが好きです」 「ラヴィよりも、ずっとずっとカイムさんのことをお慕いしているのです」 「いいえ、私の方が好きです」 「私の方が好きです」 言い合いを始めるコレットとラヴィ。 「こら、やめろ」 「カイムさん。私とラヴィ、どちらを選ぶのですか?」 「どちらがカイム様に相応しいですか?」 「選んでください」 「選んでください」 潤んだ瞳で見つめてくる二人。 まったく……どうしてこんなことになっている? 「いきなり選べと言われても、選べるわけがないだろう」 「考える時間をくれ」 「そんなことを言って逃げるおつもりでしょう」 「うやむやにしてはぐらかす気ですね。でも、そうはいきませんよ」 「そうです。ここではっきりしてもらわなくては」 「はい。コレットの言う通りです」 「お前ら、どうしてこういう時だけ結託するんだ」 冗談じゃないぞ。 「とにかく今は選べん。どうしてもと言うなら、二人以外の誰かを選ぶ」 「そんな……ひどいです」 「コレット、諦めるしかないのでしょうか」 「何を弱気になっているのですか。大丈夫です、きっとカイムさんはどちらかを選んでくれます」 「選ばんと言っているだろうが」 何気にコレットも相当酔っぱらっている。 厄介なことこの上ないな……。 「ですが、あとは私たちにできることといったら……」 ラヴィの視線が下に行く。 俺の下半身の、主に真ん中辺りを見つめている。 いきなり二人に抱きつかれたせいで、大きくなりかけていた。 「ラヴィ、いい方法を思いつきました」 「何でしょうか」 「私とラヴィ、どちらが相応しいのかカイムさんに聞いてみるのです」 「ですが、選ばないと仰ってます」 「口で答えていただけないのなら、体に答えていただけば良いのです」 「待て、コレット。お前な、それはさすがに……」 「とてもいい方法です」 一も二もなく、ラヴィが賛同する。 「お前まで……」 「男性はそうやって女性を選ぶものだと、風の噂で聞いたことがあります」 「どちらがカイムさんを喜ばせることができるか、勝負致しましょう」 「望むところです。コレットには負けません」 コレットとラヴィは互いに微笑み合う。 「二人で勝手に盛り上がるな。俺の意思はどうなる」 「カイムさんは黙って寝ていてください。私とラヴィが奉仕します」 「お前な」 「お嫌なのですか?」 「嫌ってわけじゃないが……」 好意を寄せてくれるのは、正直言えば嬉しい。 しかし、こういう形でするのは望ましいとは言えない。 「カイムさんは随分と奥手なのですね。小娘2人に言い寄られて、小さな男児のように逃げ出すのですか?」 こいつ、言ったな……! コレットの物言いにカチンと来る。 「いいだろう、相手をしてやる。ただし、後で後悔するなよ」 「好きな人と契りを結ぶのです。何を後悔することがあるのですか」 「ラヴィもいいですね」 「もちろんです。カイム様、よろしくお願いします」 深々と頭を下げる。 「はあ……」 俺は、今になって二人に酒を飲ませたことを後悔した。 「すごいです」 「ええ……そうですね」 ぱんぱんに怒張した俺の性器に驚く二人。 興味津々な様子で肉棒を眺めている。 「とても熱いです……カイムさん、平気なのですか?」 「いい女に触られれば、男は皆こうなる」 「まあ、私のことでしょうか」 「コレット、私がいることを忘れていませんか?」 「……」 無言で〈睨〉《にら》み合うコレットとラヴィ。 「喧嘩するな。二人とも綺麗だ」 「カイムさん……」 「恥ずかしいです……でも嬉しいです」 頬を染めて二人とも俯く。 こういう時の二人の所作は、驚くほど似ている。 本当の姉妹のようだ。 「カイムさん、触ってもいいですか?」 「私も触りたいです」 「ああ」 二人が恐る恐る手を伸ばし、肉棒に触れてくる。 コレットが絹の手袋で裏筋の辺りを撫で、ラヴィが根本の方を優しく握ってきた。 心地良い肌触りに、亀頭が大きくなる。 「あっ……また大きくなりました」 「どくどくと脈を打ってます」 「気持ちがいい証拠だ」 「これを満足させるのですね」 「そうだな」 だが、二人は見ているだけで何もしてこない。 「見ているだけじゃ気持ち良くならないぞ」 「そうですね。ラヴィ、何かなさい」 「初めてで何をどうすれば良いのか……コレット、あなたは知っていますか?」 「いいえ、知りません」 「なら、どうやって喜ばせようと思ってたんだ」 「娼婦の方々は男性を喜ばせることを生業にしている、と聞きました」 「私も女です。同じことができるはずなのです」 何も知らないってわけか。 これは前途多難だな。 「……なあ、今からでも遅くない。やめないか?」 「嫌です。途中でやめたくありません」 「私もやめたくないです」 きゅっと俺の肉棒を握ってくるコレットとラヴィ。 それに反応して、びくんと跳ねる。 「あ、動きました」 「気持ち良かったのでしょうか」 「多分、こうして触れてあげるといいのかもしれません」 「もっと触ってみましょう」 二人は思い思いにペニスを触り始める。 「……く……」 コレットの柔らかな手が肉棒を上下にさすり、ラヴィが亀頭をなで回す。 二人に攻められ、思わず声が漏れる。 「カイムさんが感じています」 「娼婦の方々は、こんなことをしているのでしょうか」 「娼婦は、舐めたり咥えたりもするぞ」 「これを……舐めるのですか?」 「食べ物でもないのに、これを口に咥えるなんて……」 「嫌か?」 「そんなことは申していません。舐めるくらい、何でもありません」 コレットは舌を出し、俺の先端をちろりと舐める。 「ちゅっ、んっ……」 「んちゅっ、れるっ……くちゅっ」 「ちゅるっ……んちゅっ、んっ、れろっ」 「どうですか、コレット」 「んっ……少ししょっぱいですが大丈夫です」 「ラヴィはそこで見てなさい。私がカイムさんを満足させてみせます」 「そんな、私だってカイム様のためならそれくらい……!」 見守っていたラヴィも、舌を出して顔を近づける。 「れろっ……んちゅっ、ちゅっ、んっ」 「ちゅるるっ、んっ……んんっ、れろっ」 「ちゅっちゅっ、れるっ……んくっ」 二人の舌がちろちろと肉棒の上を行き来し、背筋に快感の波が走る。 知って知らずか、コレットは裏筋を執拗に攻めてくる。 ラヴィは手で刺激しつつ、棹の部分に舌を絡ませる。 「二人とも、気持ちいいぞ」 「ちゅっ、ちゅるっ……んちゅ、くちゅっ」 「んくぅっ……れるっ、れるるっ」 普段なら淫猥な行為を忌避するはずの聖職者が、進んで肉棒に舌を走らせている。 淫靡な光景だった。 「聖女さんとお付きの聖職者がこんなことをするとは驚いた」 「はんっ……私は聖女ではありません」 「ちゅっ、んちゅっ……れるっ、んっ……ちゅっ」 「れろろっ……ちゅるっ、れるっ、んふぅ……」 二人の舌が肉棒の上を這い回る。 混ざり合った唾液でぬるぬるになったものを、ラヴィがしごく。 「私は……カイム様のお傍にいたいです」 「ラヴィ、何を抜け駆けしようとしているのですか。そんなことは許しません」 「れるるっ、ちゅっ、んちゅっ……んはっ」 「忘れたのですか、コレット。これは勝負なのです。私は負けません」 俺に刺激を与えようと、一生懸命に舐め続けるラヴィ。 「……ラヴィがその気ならっ……」 「はむっ……ちゅっ、くちゅっ……」 ぱくりとコレットが亀頭を咥える。 じんわりと口内の熱さが伝わり、蕩けるような快楽に襲われる。 「あっ……コレットずるいです」 「んちゅっ、ちゅるっ……ぴちゅっ、ちゅくっ、れるっ」 「りゅっ……んちゅっ、れろっ、ちゅるるっ」 コレットは小さな唇を動かしながら、肉棒を咥えて上下に頭を動かす。 溢れた唾液で、ラヴィが根本の方をこねくり回す。 見事な連携だった。 「流石に息が合ってるな」 「ちゅくっ、れるっ……んむぅ、れろろっ」 「私たちはカイム様に気持ち良くなって欲しいのです」 「ちゅっ、りゅっ、れるっ……くちゅっ、んちゅうっ」 「ちゅるっ、んっ……れろろっ、はむっ、ちゅくっ」 「れろろっ、んくっ、ちゅるるっ……んはぁっ」 苦しくなったのか、コレットが口を離す。 ようやく性器が解放された。 「……あむっ、んちゅっ」 その隙に、今度はラヴィが咥える。 「くちゅっ、れろっ……ちゅるるるるっ」 唾液にまみれた肉棒を、一気に根本まで飲み込むラヴィ。 「くっ……」 「ラヴィ、横取りしないでくださいっ」 「れちゅっ、ちゅるっ……んんっ、んむっ、れろっ」 素知らぬ顔でコレットの抗議を聞き流すラヴィ。 「れちゅっ、ちゅっ、ちゅるっ、んふっ、んちゅ、はむっ」 「ちゅるるっ、ちゅくっ、れるっ、んちゅっ、ちゅっ」 肉棒を取られまいと吸い付き、執拗に舐め上げてくる。 思い切りがいい分、ラヴィの方が気持ち良かった。 「……ラヴィ、少し弱くしてくれ。出そうだ」 「何が出るのですか?」 きょとんとした顔でコレットが見つめてくる。 「精液が出る。男は女に抜いてもらうために娼館へ通うんだ」 「抜く……娼婦の方々は男性の精液を抜いているのですね」 「それが気持ちいいのでしょうか」 「ああ。おい、ラヴィっ……」 「んちゅっ、うちゅっ……れろっ、ちゅるるっ、じゅるっ」 「んちゅるるっ、れろろっ、ちゅちゅっ、じゅちゅるっ、んちゅっ」 聞こえていないのか、ラヴィは懸命に頭を動かして肉棒を飲み込み続ける。 俺はラヴィの頭を押さえて、ペニスから引き離す。 「んちゅっ、れるっ……んはぁっ」 「あ……申し訳ありません。気持ち良くありませんでしたか……?」 「その逆だ、気持ち良すぎて出てしまう」 「出る……? 何が出るのでしょうか」 「精液が出るのです。男性の精液を抜くのですよ」 「そうすると気持ちいいのです」 自分もさっき知ったばかりだというのに、自慢げに語るコレット。 「精液が抜けると気持ちいいのでしょうか」 「まあな」 「でしたら私、カイム様の精液を抜きたいです」 「抜かせてください」 少し理解の仕方がおかしいな……大筋では間違っていないが。 「駄目です。カイムさんの精液は私のものです」 「む……」 また二人して〈睨〉《にら》み合う。 「わかった……なら、一緒に頼む」 「一緒にですか?」 「さっきのように、二人で舐めてくれればいい」 「わかりました」 「れるるっ、ちゅるっ、んちゅっ、んむっ」 「んっ……れろっ、ちゅるるっ、くちゅっ、ずちゅっ」 「じゅるっ、ちゅっ、れるっ、はむっ」 「れろっ、じゅるるるっ、んちゅっ、ちゅるるっ」 コレットは亀頭の先に吸い付きながら、舌を裏筋に走らせる。 その下で、ラヴィは舌を棹に巻きつけながら舐める。 二つの刺激で、あっという間に上り詰めていく。 「くっ……出そうだ」 「れるるっ、ぴちゅっ、ちゅるっ、れりゅっ、ちゅるるっ、じゅるっ」 「ちゅくっ、ちゅっ、んちゅっ、じゅちゅるっ、れろっ、んちゅるるっ」 「ちゅううっ、ちゅぷっ、じゅぽっ、ちゅくっ、れるるっ、ちゅっ、じゅるるるっ」 「くちゅうっ、ぬりゅっ……んくっ、ちゅるるっ、ちゅっ、れろろっ、ちゅくっ」 二人は一層激しく、肉棒へと舌を絡ませてくる。 「くっ……」 「れるるるっ」 「ちゅるるるるっ」 二人は、同時に棹から亀頭へと舐め上げる。 欲求が肉棒を駆け上がった。 どくっ、どくどくどくっ、びゅくっ、びゅるっ! 「きゃっ……!?」 「ああっ……」 どぷっ、びゅくくっ、どくっ! どくんっ、びゅくっ、びゅびゅっ! 噴水のように精液が飛び出し、コレットとラヴィの顔が精液まみれになる。 背筋にぞわぞわと波打つような快感が走った。 「ぐっ……」 びゅるっ、どくっ 勢いを失った精液は肉棒を伝い、ラヴィの手を汚していく。 「はあっ、はあ……はあ……」 「んっ、いっぱい出てきました……すごく熱いです」 「……カイムさん、これが精液ですか?」 「ああ、そうだ」 脱力しながら答える。 「これはお小水とは違うのですね。白くて……ぬるぬるしています」 「んっ……ちゅっ、ちゅるっ、んちゅっ」 ラヴィは手についた精液を舐め始める。 「ラヴィ、何をしているのですか?」 「んくっ、ちゅっ……カイム様の精液は、私のものです」 「あっ、私の真似をするなんてずるいです」 「はむっ、んちゅ、んむっ……ちゅるるるっ」 出たばかりで敏感な肉棒を、コレットが根本まで咥える。 「待て、今は刺激するな……」 「いやです。これは……全部私のものですっ」 「ちゅっ、んちゅっ、んくっ……ちゅくっ、じゅるるっ」 強烈な刺激に、頭が真っ白になる。 コレットの小さな口で俺の怒張をずりあげられ、凶悪なほどの快感に腰が浮く。 「コレット、やめてください。カイム様が苦しんでいますっ」 「んーんっ、んむっ、ちゅくっ、ちゅるるっ」 嫌と言うほど刺激され、前より一層大きく屹立し始める。 「んくっ、ちゅっ……ぷはっ。はあ……大きくなってきました……」 「大丈夫ですか、カイム様」 「ああ、出た直後は敏感になってるんだ」 「コレット、よくもやってくれたな」 「気持ち良かったのなら、いいではありませんか」 「私はカイムさんに気持ち良くなってもらいたいのです」 コレットが無邪気に微笑む。 悪気がないから、余計にたちが悪い。 「次は、俺がお前たちを気持ち良くしよう」 「二人とも、服を脱いでこっちへ来てくれ」 「はい、わかりました」 「よろしくお願いします……」 二人は服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿となった。 「……恥ずかしいです」 「なぜ抱き合わないといけないのですか?」 「その方が平等にできる」 「私たちは何をされるのでしょうか……」 怯えた表情を浮かべるラヴィ。 「二人のここに、俺のを入れるんだ」 「あっ……」 「くぅんっ……」 コレットとラヴィの膣口を指でなぞる。 俺のものを舐めていたせいか、二人とも陰部がしっとり濡れていた。 ぴっちりと閉じて線しか見えないコレットと、可愛らしく陰唇を覗かせているラヴィ。 どちらも柔らかそうな尻をこちらに向けている。 「そんなところに、あんな大きなものを入れるのですか?」 「無理です、裂けてしまいます」 「娼婦の方は、本当にそんなことをしているのでしょうか」 「初めは多少痛いかもしれない」 「我慢するのが無理なら言ってくれ」 「怖いです……」 「……ラヴィはやめればいいのです。私はやります」 「カイムさん、私にカイムさんを入れてください」 「コレットは積極的だな」 「当然です。カイムさんのためなら、例え死んでもかまいません」 そこまで大げさな話じゃないんだが……。 「私もやります。コレットにカイム様は譲れません」 「震えていますよ、ラヴィ。怖いならやめておきなさい」 「嫌ですっ」 「大丈夫だ。二人とも平等にするから安心してくれ」 こうなったらやけだ。 どのみち、俺もここまで来たら止まらない。 「だがその前に、少し……」 ラヴィの陰部を指でこすりながら、コレットの陰部に舌を這わせる。 「あっ、んんっ……変な感じです……」 「きゃっ……な、なにをなさるのですかっ」 「カイムさん、そんなことろを舐めてはいけませんっ……」 構わずコレットの膣内へ舌を挿入させていく。 「あっ……んくっ、んんっ、んっ、ああっ……」 「はあっ、あっ、ああんっ……んくぅっ」 「ああっ……んっ、コレットだけ……羨ましいです」 ラヴィの膣内に指を入れつつ、クリトリスを刺激する。 「あああっ、んっ、今の、痺れて……おかしいですっ……」 「はうっ、んんんっ、ああっ……やぁっ、くうっ、んああっ」 強い刺激に、びくびくと体を震わせるラヴィ。 二人とも愛液がにじみ出し、膣内が柔らかくなってきた。 これくらいでいいか。 俺は二人の膣内から舌と指を抜く。 「くぅっ……んっ、はあっ、はあ……はあ……」 「んっ、ふうっ……はっ、はあ……はあ……」 二人とも荒い息をつきながら、とろんとした目でこちらを見つめてくる。 「最初は……そうだな、コレットからにしよう」 「はい、よろしくお願いします」 「カイム様……」 「そんな不服そうな顔をするな。少し待ってくれ」 俺のものをコレットの秘部にあてがう。 「カイムさん……私のことは気にせず、気持ち良くなってください」 「……わかった」 コレットの気遣いが嬉しい。 「んっ……あっ、んんっ……」 俺は膣口に当てた肉棒に力を入れ、コレットの中に押し込んでいく。 握りしめられるような締め付けに襲われる。 「ううっ……んあっ、い、痛い……ですっ」 挿入を阻む、一際狭いところに突き当たる。 「コレット、行くぞ」 力を込めて奥へと押し込んでいく。 「んっ、ああああぁぁっ、いった……う、くうぅぅっ」 「ああっ、あっ……はあ……はあっ……」 「コレット、大丈夫ですか?」 心配そうにコレットを見上げるラヴィ。 「はい……痛いですが、我慢できないほどではありません」 「コレット、どんな感じですか?」 「カイムさんのものが……お腹の中に、入っているのがわかります」 「奥の方が押されてるみたいで……変な感じです」 「カイムさんはどうですか?」 「ああ、気持ちいいぞ」 ぎゅうぎゅうと締まる膣内は、熱く濡れていた。 ほんの少し動かすだけで甘く痺れるような快感が走る。 長くは持たないだろう。 「コレット、動かしていいか」 「私の中で、カイムさんのものを気持ち良くして差し上げるのですね」 「そういうことだ」 コレットは飲み込みが早い。 「動いてください。カイムさんに気持ち良くなっていただきたいです」 「わかった」 コレットの言葉に甘え、ゆっくりと動かしていく。 きつい膣内は肉棒に吸い付いて、なかなか離れてくれない。 俺は力を入れ、亀頭の辺りまで肉棒を引き抜く。 ずるっ、ずるるるっ 「んああっ、んくっ……はあっ、あっ」 「……んぁっ、あんっ、ああぁっ、ふんん……くぅっ」 再び押し込んでいく。 コレットの膣内がびくびくと波打つ。 ずっ、ずちゅううっ 「んあぁっ……んんっ、きついですっ……」 「あくっ、うぅんっ、んんっ、はぁっ、うんんっ」 肉棒が根本までコレットの締め付けで満たされる。 耐え難い快楽に、思わずコレットの奥まで押し込んでしまう。 「あっ、んんんっ、はあっ、奥っ、つらいですっ……」 「すまん、我慢できなかった」 「はあっ……あっ、いいのです。もっと、もっと気持ち良くなってください」 「コレット……」 「大丈夫、もう痛くないのです。ただ、奥を突かれると体が痺れてしまって……」 「気持ちいいってことか?」 「はい……」 遠慮はいらないらしい。 「もう少し強くするぞ」 「はい、大丈夫です」 俺はコレットの膣内を貪るように腰を動かす。 ずりゅっ、ぐちゅっ、ぬちゅっ 「ああっ……はあっ、んんっ、んくっ、あああっ、んあぁっ」 「あっ、ああっ、あはぁっ、んんっ、はんんっ……気持ち、いいっ」 「あくっ、声が、抑えられませんっ」 俺に突かれ、嬌声を漏らすコレット。 ラヴィがそっとコレットの頬に手をやり、近づける。 「はあっ……ラヴィ、何を……?」 ラヴィの唇が、コレットの口を塞ぐ。 「はむっ……んんんんっ、んむっ、んくっ、あんんっ」 「んん……ちゅっ、ふんんっ……」 コレットは突かれる度に体を仰け反らせ、籠もった声で鳴く。 「はっ、んんっ、ちゅくっ、ちゅるっ、んんっ」 「ああんっ、んんっ、あうぅっ、れるっ、んちゅっ、くはっ」 堪えきれずに口を離そうとするコレットに、ラヴィは舌を差し入れる。 「んちゅっ、れろっ、ちゅるっ、くちゅっ」 「はぁっ、ああっ……んんっ、ちゅっ、くちゅるっ、んちゅっ、れるっ」 「苦しい……ラヴィお願い、口をっ……」 コレットが懇願するも、ラヴィは離そうとしなかった。 「んんんっ、だめっ、私……おかしくなってっ」 きゅっとコレットの膣内が締まり、ひくひくと震え始める。 その刺激に、俺も我慢の限界に達する。 「コレット、出そうだ」 「んんっ、んくっ、飛んでしまいますっ……カイムさんっ、もう、もうっ……」 「あっ、駄目……もう、駄目ですっ……あっ、んんっ、んんんっ!」 ラヴィの舌を咥えながら、コレットは一際強く、体を反らせる。 「んんんっ、んんっ……あ、ああ、あんんっ、んん、んんんんんんーっ!!!」 どくっ、どくどくどくっ、びゅるっ! どぴゅっ、びゅくっ、びくんっ! 「く……」 コレットの膣内へ次々と精液を送り込む。 どぷっ、びゅくっ、どびゅっ! 「ああ、あああっ……中が暖かいです……」 コレットは絶頂に達し、ひくひくと体を震わせていた。 「んんっ……はあっ、はあ……んっ……」 「はっ……ああっ……あっ……」 俺の吐き出す白濁に受け入れ、目を細める。 「……コレット、気持ち良かったですか?」 「ええ、すごく幸せな気持ちです」 うっとりとした顔で答える。 精液を残らず吐き出し、俺はコレットから肉棒を引き抜く。 「ああっ……やっ、中から出てきてしまいます」 精液が膣口から溢れて、ぼたぼたとこぼれていく。 白濁が糸を引いて流れて落ちる。 「すごい量です……」 「そんなに出してしまって大丈夫なのでしょうか」 「何のことだ?」 「その……私の分はあるのかなと……」 可愛いことを言う奴だ。 「それよりラヴィ、いきなり何をするのですか」 「息が切れている時に接吻などしてくるから、とても苦しかったのですよ」 「申し訳ありません。コレットが可愛い顔をしていたので、つい」 「可愛い……」 「はい、可愛かったですよ」 ラヴィに言われ、頬を染めて顔を背けるコレット。 何をやっているんだか。 だがそんな二人が愛くるしくて、出したばかりなのに全然萎えない。 「次はラヴィの番だな」 「はい……あの、カイム様」 「どうした?」 「優しく……してください」 懇願してくるラヴィ。 やはり、まだ少し怖いのだろう。 「ああ、できるだけ優しくする」 「はい……」 ラヴィが安堵の笑みを浮かべる。 俺は性器をラヴィの陰部へと押し当てる。 「あっ……んんっ、ああっ……」 苦痛で顔を歪めながらも、必死で声を抑えようとするラヴィ。 「くうっ、あっ……んっ」 コレットとはまた違う膣内の感触。 しっとりとして柔らかく、痺れるような心地よさだった。 亀頭が処女膜に引っかかる。 一気にやった方が痛みは短くて済む。 腰に力を入れ、奥まで突き入れた。 「っつうっ……あくっ、んんっ、はあっ、はあっ……」 「ううっ、んっ、うぅ……」 唇を噛んで堪えている。 「ラヴィ……大丈夫です。痛いのは最初だけです」 「ん……ちゅっ、ちゅくっ、んちゅっ……」 少しでも痛みを紛らわすためか、コレットはラヴィに口づけする。 「はくっ……んちゅっ、ちゅるっ……んはぁ……」 「大丈夫です。ありがとう、コレット」 「もう痛くなくなりましたか?」 「はい、コレットのお陰です」 ラヴィの膣内は、ひくひくと〈蠕動〉《ぜんどう》を繰り返している。 痛くないというのは嘘だろうが、だいぶ楽になったようだ。 「ラヴィ、動かしても平気か?」 「はい、私にもコレットと同じようにしてください」 「耐えられなかったら言うんだぞ」 「あ……んんっ、んくっ……ああっ、あんっ」 挿入した肉棒を抜き、再び収めていく。 破瓜の血が、ラヴィの太ももを伝って流れ落ちる。 「んっ、あん、くんんっ……ああっ」 「はあっ、んんっ……んっ、んっ、あっ……」 愛液が密のように絡み、きつい締め付けにも関わらず滑らかに動く。 「くっ……」 性器を持って行かれそうなほどの吸い付きに、思わずうめき声を上げる。 「はん……ああっ、んくっ、ふぅんっ……」 「あ、ああっ、カイム様……カイム様っ」 「大丈夫か?」 「もっと……激しくても大丈夫ですっ……」 「コレットの時のようにいっぱい動いて、もっと、もっと気持ち良くなってください」 出し入れに合わせて膣内がきゅっと収縮する。 感じているのだろう。 「なら、遠慮しないぞ」 「はい……お願いしますっ……」 ちゅくっ、ちゅっ、ぬちゅっ、くちゅっ 「あくっ、はぁっ、んんんっ……ああっ、あんっ」 「うんっ、あっ、ああっ、あん、あっ、あっあっ……んくっ」 ラヴィの膣はぴったりと吸い付きながら優しく包み込んでくる。 その快感を貪るように、ラヴィの奥へと突き入れる。 「あああっ、はぁっ……奥っ、気持ちいいですっ……」 ラヴィは腰を浮かせて喘ぐ。 「……見ているだけはつまらないです」 コレットは、ラヴィの体に自分の体をすりつけ始める。 「あんっ……んんっ、あっ……」 「コレットっ、乳首が……触れてっ……」 コレットは自分の乳首をラヴィの乳首に重ね、くりくりとこねくり回していた。 「ああっ、んっ……はあっ、気持ちいいですっ……」 「んんっ……駄目っ、あくっ、はあっ、ああっ、あああっ」 「あっ、上も下もなんて……私、私っ……」 コレットも気持ち良くしてやるか。 俺は快感に腰を振るコレットの膣内に、ゆっくりと指を挿入していく。 「あっ……カイムさん、あっ、ああんっ、んんっ」 「んんっ、はっ、あああっ、んっ、気持ち良くて……変になりそうですっ……」 「あああっ、んくっ、ああっ、あっ、はあっ、んんんっ」 「はあっ、あああっ、んはぁっ、あくぅっ、私も変に、なってしまいますっ……」 コレットに乳首を刺激され、今まで以上に締め付けが強くなる。 たまらなく気持ちいい。 「ああっ、んっ、カイムさん、気持ちいいですっ……もっとしてくださいっ」 「んっ、もう駄目です、我慢できませんっ、あっ、あああっ、あんんっ」 「私も、あっ、んんっ、もう……もうっ……」 「俺もだっ」 ラヴィをめちゃくちゃに突きながら、コレットの膣内をこすり上げる。 「ああっ、あっ、ああああ、ああ……はあああああぁぁぁぁぁーっ!!!」 「んっ、あくっ、ふんんっ、んっ、んんんんんんんーっ!!!」 びゅうぅっ、びゅるっ、びゅくっ! どくっ、びゅっ、どくくっ! ラヴィの最も深いところに、精液をぶちまける。 びゅくっ、びゅっ! ラヴィの膣内に収まり切らなかった白濁が、ペニスと膣口の間から溢れてくる。 「っっ……」 気持ち良すぎて、声が出ない。 頭が真っ白に飛ぶ。 「はああっ、ああっ……ああっ、はあっ……はあっ……」 「くぅぅっ……んんっ、はんっ……んくっ……んはっ……」 絶頂に達したらしく、ラヴィもコレットも激しく体を痙攣させる。 びゅっ、どくっ ひくひくと締め付けるラヴィの膣内に刺激され、精液を搾り取られる。 度を過ぎた快感に、頭がおかしくなりそうだった。 俺はラヴィから肉棒を引き抜く。 ちゅぷっ 「ん……んんっ……」 ラヴィの血と俺の白濁が混ざり合いながら流れ落ちてくる。 コレットとラヴィ、二人の膣口は俺の精液で溢れかえっていた。 元聖女とそのお付きを、同時に犯したのだ。 「コレット、ラヴィ……」 「はい」 「なんでしょうか」 まだ足りない。 俺は怒張して大きくなったままのペニスを、コレットの秘部に向ける。 「次はもっと激しくするぞ」 「えっ……あっ、んんっ、あああああぅっ」 突然の快感に、ぴんと体を張り詰めさせるコレット。 構わず腰を動かす。 「ああっ、そんなっ、あくっ、んんんっ、いきなりっ、激しいですっ……」 「ううぅっ、あんっ、あっ、あっあっ、はぁっ、んんっ、あああっ」 ぎっちり詰まったコレットの膣内は、たまらなく気持ち良かった。 「カイム様……」 物欲しそうな目で見つめてくるラヴィ。 ちゅるっ、ずちゅうううぅっ 俺はコレットから肉棒を引き抜き、ラヴィに挿入した。 「はあっ、あああっ、んんんんっ」 体をわななかせ、コレットを抱きしめるラヴィ。 たっぷりと蜜の絡まったラヴィの膣に突き入れる度、耐え難い快感が走る。 「はぁんっ、ああっ、カイム様っ、カイム様っ……」 「ああっ、んくっ、はぁぁっ……んっ、あっ、はぁんっ」 「あうぅっ、あっ……あんっ、あっあっ、んんっ、ああああっ」 ちゅるんっ、ずるるるるっ 「あんんんんっ、はっ、あああっ」 ラヴィから引き抜いたばかりの肉棒を、再びコレットの奥へ突っ込む。 「あっ、ああっ、んっ、はくっ、んんっ」 「あああっ、あんっ、あっあっ、うくぅっ、はあっ、あああんっ」 コレットの膣内に刺激され、精液が登ってくる。 俺はラヴィのクリトリスを包皮から出し、親指で押しつぶす。 「んあああっ、んくっ、はあっ、あああっ」 悲鳴のような嬌声を上げ、体を仰け反らせるラヴィ。 「ああっ、そこは刺激が強すぎてっ、おかしくなってしまいますっ」 「はああっ、んあっ、くうぅっ……ああっ、あんっ、んんんんっ」 「あんっ、カイムさんっ……」 「ん?」 「好きですっ……カイムさん、愛しておりますっ……」 「私も、あっ、カイム様っ、カイム様のことが……好きですっ」 快感に震えながら、一心に俺を求める二人。 この二人から、一人を選べというのか。 「あっ、んんっ……カイムさんっ、駄目ですっ、もう私っ……」 「うああっ、んんんっ、私も……私も我慢できませんっ」 コレットの膣奥を突き上げ、ラヴィの敏感なところを滅茶苦茶に擦り上げる。 「んんっ、あああっ、ふぁっ、あっ、ああっ、んんんっ!」 「あああっ、あっ、んんっ、んっんっ、うあああぁぁっ!」 「ああっ、駄目っ、あ、あああっ、あああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!」 「カイム様っ、ふあっ、んんんんっ、あああああああぁぁぁぁっ!!!」 どくどくどくっ、びゅるるっ、びゅくっ! 「っっ……」 コレットの中から引き抜いた肉棒が精液をまき散らす。 どぴゅっ、びゅっ、びゅるっ、びゅくりっ 精液は尻や背中、髪にまで飛び、二人を白濁色に染め上げる。 「あああっ……ああっ、んっ……はあっ、あっ……」 「ふうっ……んふぅっ、あっ、はあっ、ああ……」 くたりと脱力するコレットとラヴィ。 膣口は俺が出した精液で溢れ、全身は今出したばかりの精液に濡れている。 二人は俺の出した白濁でべたべただった。 「あっ……はあっ、カイムさん……」 「ん……あっ、好きです……」 力尽き、上の空で呟く二人。 酒を飲んだ上にここまで激しく攻められれば当然だろう。 俺も体力の限界だった。 「……この勝負は引き分けだな」 俺も二人の横に倒れ、そのまま目を閉じた。 「……きゃあああああぁぁぁぁぁっ!?」 「な、なんだっ!?」 慌てて飛び起きる。 身構えると、ラヴィが裸で震えていた。 「……ラヴィか」 「何の騒ぎですか」 ぼさぼさの頭で起き上がるコレット。 どうやら三人とも、あのまま眠ってしまったようだ。 「どうしたラヴィ」 「こっ、ここ、これは……一体どういうことでしょうか」 「どうして私は裸で、その、コレットも、カイム様も裸なのですか?」 思わず俺はコレットと顔を見合わせる。 「どういうことですか?」 「酒に弱い奴は、たまに深酔いした時の記憶をなくすことがある」 「では、ラヴィは昨日のことを覚えていないと」 「さあな。聞いてみないとわからん」 「おいラヴィ、お前昨日のことはどこまで覚えている?」 「昨日……市場に行った後、酒場に行ったことまでは覚えていますが……」 「その後、私はどうやってここまで戻ってきたのでしょうか」 「それにこの状況……何がどうしてこんなことに」 ラヴィは慌てて下に落ちた服を着始める。 「……ああ、何か……体がごわごわします」 「カイムさんの精液でしょう。私も体中が変な感じです」 「精液って……コレット、まさか私たちは……」 「本当に覚えていないのですか? 私もラヴィも、カイムさんと契りを結んだのですよ」 「……確かに、とても痛かったことは覚えてます……」 ラヴィは顔を青ざめさせる。 「おかしいです、どうして私はこんなに記憶が曖昧なのでしょうか」 「カイム様、私おかしくなってしまいました」 「初めてなのに随分と酒を飲んだからな。そのせいだ」 「別に病気とか、そういうことじゃない」 「私、カイム様に何か失礼なことを言いませんでしたでしょうか」 「いや、失礼なことは言ってない」 「失礼なことは……?」 「はあ……あなた、自分がこの騒動の発端だということも覚えていないのですね」 「あなたがカイムさんのことを好きだと言い出したのです」 「ですが、私もカイムさんのことをお慕いしている以上、あなたにカイムさんは譲れません」 「そこでどちらがカイムさんを喜ばせられるか勝負をしたのです」 「勝負というのは、どのような……」 「どちらがカイムさんのものを気持ち良くしてさしあげられるかです」 コレットは、出したままの俺の性器を指さす。 「い……いやっ、嘘です、そんなことは嘘ですーっ!」 ラヴィは顔を真っ赤に染めながら、走っていってしまった。 「何なのですか。昨日はすごい勢いで私に絡んできたというのに……」 「酒癖が悪い上に覚えてないとはな」 たちの悪い奴だ。 「カイムさん、これは提案なのですが」 「なんだ?」 「今後、ラヴィにお酒を飲ませるのはやめましょう」 「奇遇だな、俺も同じことを考えていた」 二人でため息をつく。 「さて、水でも浴びるか。体が気持ち悪い」 「ええ、そうですね」 立ち上がろうとする俺を、コレットが押しとどめる。 「なんだ?」 「ですが、その前に確認をしたいことがあります」 コレットは裸の俺に詰め寄ってくる。 「お、おい」 「ラヴィはあまり覚えていないようですが、私ははっきりと覚えています」 「カイムさんは私とラヴィ、どちらを選ぶのですか?」 ……やはりそう来るか。 何とかはぐらかせると良かったんだが。 「選べない」 「どういうことですか」 「……俺はお前もラヴィも好きだ。二人とも可愛いと思っている」 「どちらかを選んで、どちらかを捨てるようなことはできん」 それが俺の本心だった。 純血を奪われたにも関わらず、どちらか片方はその甲斐もなく結ばれない。 ラヴィかコレット、どちらかを捨てろという。 そんなことは無理だ。 「カイムさんは意気地がないのですね。小娘2人、どちらか選ぶこともできないなんて」 「お前な」 「……でも。それがカイムさんの良いところです」 「本当に、お優しい人です」 柔らかに微笑むコレット。 「カイムさんは、私たちが一人立ちするまでは面倒を見ると仰いました」 「ああ、確かに言った」 「ですが、それでは駄目です」 「駄目?」 「もちろんです」 「カイムさんは私とラヴィの純血を奪ったばかりか、どちらかは選べないと仰ったのです」 「それなら私とラヴィ、二人を共に幸せにしてください」 面倒なことを言いだした。 「つまり、一生二人の面倒を見続けろということか」 「お嫌ですか?」 嫌ではない。 この世間知らずたちの世話ができるのは俺くらいだろう。 どうやら、賑やかな生活になりそうだ。 「望むところだ」 「カイムさん……」 コレットの髪を撫でる。 「これからも、よろしく頼むぞ」 「はい」 嬉しそうに微笑むコレットに、俺は優しく口づけをした。 「リシア、入るぞ」 「ひゃっ!?」 部屋に入った途端、リシアが奇妙な悲鳴を上げた。 慌てて何かを背後に隠す。 「ば、馬鹿者、部屋に入る時は声くらいかけろっ」 「何をしていたんだ?」 「別に何もしていないっ」 そう言うものの、リシアの背中に隠し切れなかった本がはみ出している。 「本を読んでいたんだろう」 「見えてるぞ」 「あっ、いやこれは、あれなのだ」 「つまり、なんだ……本なのだ」 「見ればわかる」 一体、何の本を読んでいたのだろう。 慌てているのだから、ロクなものではなさそうだ。 「で、カイムは何の用だ」 「別に用はない」 「何?」 「用事がないと来てはいけないのか?」 「いや、そんなことはないが」 困り果て、弱った顔をするリシア。 少しからかってみるか。 「ま、邪魔なようだし消えよう」 「あ……ま、待ってくれカイム」 「私はそういうことが言いたいわけでは……」 ドアを閉めて外に出た。 中から俺を呼ぶ声が聞こえたが、無視してみる。 ルキウスの勧めで、ネヴィルの養子になってからしばらく経った。 他でもないルキウスの口ききだ。 貴族としての俺は、想像していたよりすんなりと受け入れられた。 陰口を叩く者はいくらでもいたが、会議で発言を続けるうちに俺を見る目も変わっていった。 他の奴らとは違い、俺には守るべき権益や〈陋習〉《ろうしゅう》はない。 物事の善し悪しだけを基準に発言する俺の姿は、貴族たちには新鮮に映ったようだった。 また、価値観がリシアと近しいため、俺の発言はリシアとよく被る。 そのため、今では名実ともにリシアの相手として相応しい、と周囲からは言われるようになっていた。 結婚まで順風満帆── かと思いきや、当のリシアが満足していなかった。 「よいかカイム」 「爵位を得ただけでは、私の伴侶に相応しいとは言えん」 「カイム、お前は貴族たちの中で一番になれ」 「地位だけではなく、貴族として他に負けない実力があると皆に知らしめるのだ」 「お前なら必ずできる」 「簡単に言ってくれるな……」 有象無象の貴族たちはともかく、ルキウスを越えるのは難しかった。 見識でも判断力でも、今の俺ではルキウスに遠く及ばない。 まさかこんなところで再びルキウスの背中を見せられることになるとは思わなかった。 ルキウスを越えないといけないとなると、リシアの夫になるのは当分先だ。 「これはカイム様」 「おはようございます」 庭をぶらぶらとしていると、庭師に声をかけられた。 年寄りの庭師に代わって入ってきた新人だ。 「精が出るな、仕事には慣れたか」 「いえ、まだまだです」 「この庭は、隅々にまで前任の方の手が行き届いております」 「今の私には、もとの形を保つことすら難しいかもしれません」 「きっと、この庭に強い思い入れをお持ちだったのでしょうね」 「損得勘定があっては、ここまでの仕事はとてもとても」 「なるほど」 あの爺さん、今頃どこで何をしているのだろうか。 子供の話をしていたから、きっとあの老人にも子供がいるはずだ。 家族仲良く暮らしているのだろうか。 「私も前任の方に負けないよう頑張りたいと思います」 「ああ、そうしてくれ」 庭師に別れを告げ、俺はさらにぶらぶらと庭を歩く。 日が高くなり、そろそろ昼になろうかという時間だった。 腹が減っていたわけではなかったが、忙しく鳴り響く調理器具の音に引かれ、厨房まで来てしまった。 「料理長」 「おお、これはカイム様」 「今日の昼飯は何だ?」 「それが……」 困った、という表情で厨房の一角を見つめる。 そこにはリシアの姿があった。 「何をやっているんだ、あいつは」 「突然、弁当を作ると仰いまして」 弁当? 視察にでも行くつもりだろうか。 「うむ、完成だ」 リシアは嬉しそうに籠を掲げる。 「厨房を借りて悪かったな」 「い、いえ……」 俺の姿を認めて近寄ってくる。 「おおカイム、ちょうど良いところに来たな」 「これから出かけるぞ」 「どこにだ?」 「よいからついて参れ」 「一国の主が、弁当作りか」 最近は皆の前でも普段通りの口調で喋っていた。 爵位を得て皆が認める仲となった今では、眉をひそめる者もいなくなったからだ。 「これは、庶民の食生活を知るためのものだ」 「決して遊びでやっていることではない」 またいつもの話だ。 「で、どこに行くんだ? 牢獄か?」 「いや、今日は違う」 「来ればわかる、付き合え」 リシアが、一人厨房を出て行く。 視察といえば牢獄だったリシアだ。 珍しい。 「どうされるのですか?」 「ま、行き先くらいは確かめておこう」 「いってらっしゃいませ」 料理人達の見送りを受け、俺はリシアの後を追った。 リシアの目的地は、下層に広がる農業地域だった。 作物が風に揺れ、牧草地も広がっている。 「農地の視察とは珍しいな」 「街のことしかわからぬようでも困るだろう」 金色の麦の波を見て、リシアが大きく背伸びをする。 「実りは上々だ」 「この様子なら、物価の上昇も抑えられるかもしれない」 「ああ」 リシアは申し分のない視察を行っていた。 実りを確認し、農夫達に声をかけ、最近の気候にも関心を示す。 一歩ずつだが、リシアが成長していることを実感する。 しばらく農地を歩き、俺達は小高い丘に出た。 「そろそろ食事にしよう」 「こっちが目当てだったんじゃないのか」 「まさか」 「だが、どうせ視察をするならば、何か楽しみがあった方が成果も上がるというものだ」 「それとも、急ぎ城に帰るか?」 「この時間ならば、書類の山が出迎えてくれるだろう」 「遠慮する」 たまには、リシアと二人で食事をするのも悪くない。 リシアと並んで草の上に腰を下ろした。 「たまには、こういう趣向も良いだろう」 「ああ」 「だが、初めから教えてくれていればもっと良かった」 「それでは、お前の驚いた顔が見られないではないか」 リシアが気持ち良さそうに笑う。 「あと、飯前の時間に厨房を使うのはやめろ」 「料理人が迷惑する」 「はぁ、ヴァリアスが二人になったようだな」 「とはいえ、料理長には後で一言謝っておこう」 素直に反省する。 すぐに悪いところは改めようという姿勢は、リシアのいいところだ。 「さて、厨房を占領した成果を見せてもらうか」 「うむ」 リシアが弁当を広げる。 弁当の中には、見覚えがある料理が並んでいた。 「牢獄の料理だな」 「前にティアとやらが作ってくれただろう? あれを真似してみた」 見栄えはいい。 意外と器用な奴だ。 「美味そうじゃないか」 「良かった」 「見た目だけで終わらなければいいが」 「さっさと食べろ、まどろっこしい男だな」 むっとして食器を差し出してくる。 「どれ……」 鶏肉の煮込みを食べてみる。 味は悪くない。 「どうだ?」 「意外といける」 「ならば良かった」 ティアの作ったものと比べると薄味だが、薄味ながらも調和が取れていた。 俺の評価を確認し、リシアも弁当を口にする。 「……」 麦畑を渡ってきた風が吹き抜けた。 リシアの美しい髪が踊り、陽光に燦めく。 政変からは何かと忙しく、こんなに落ち着いた気分になるのは久しぶりだった。 俺に気を遣ってくれたのかもしれない。 「悪くないな」 「そうだろう?」 「私は王城で堅苦しく食事をするより、こういう方が好きだ」 〈峻厳〉《しゅんげん》な崖の高みに王城が見える。 上から見るとこの都市の小ささに驚くが、こうして降りてくるとそうでもない。 高みから見下ろしていると、物事の見え方も自ずと上からのものになる。 リシアが頻繁に視察を繰り返しているのも、そういった目線を改めるためなのかもしれない。 「そういえば、今朝は何を読んでいたんだ?」 「ああ……」 リシアは恥ずかしそうに顔を伏せる。 「文学だ」 「ほう」 王が学んでおくべき教養の一部なのだろう。 「文学なら、どうしてあそこまで慌てた?」 「いやそれは……」 「人に言えない文学だったと」 「ち、違う」 「その、学舎における年頃の男女の、揺れ動く恋心を描いた物語だ」 「なんだ、娯楽物語か」 「もっと高尚なものを読んでいたのかと思った」 「物語も馬鹿にしたものではないぞ」 「本というものは、著者の見地を手軽に吸収することができる」 「とても有意義なものなのだ」 「物は言いようだな」 そう言って、草の上に寝転がる。 「カイムのひねくれた物言いにも、随分慣れた」 「日頃、もっとひねくれた貴族たちの相手をしているからな」 「頼もしいことだ」 「私利私欲を排して見ていると、貴族たちのやりようはどこか〈滑稽〉《こっけい》に見えることもある」 「不思議なものだ」 リシアが大人びた顔で笑う。 国王という重責は、僅かな間に少女をここまで大人にするのだ。 驚きでもあり、どこか悲しくもあった。 「女から見ると、男は皆子供らしいな」 「実は、女のほうが国王に向いているのかもしれない」 「どうかな」 「実際、リシアは良くやっている」 「見ていて驚くくらいだ」 「寂しいことを言うな」 「まるで、私が一人で戦っているようではないか」 リシアが俺を見る。 「私はカイムと歩いているつもりだったのだが、勘違いだったか?」 「いや」 「なら良かった」 リシアの影が俺に落ちる。 顔が近づき、唇が触れ合った。 軽い、そよ風のような口づけだ。 「大人になったな」 「どこがだ?」 「口づけが上手くなった」 「今日の本で勉強でもしたか」 「馬鹿め」 リシアが覆い被さるように口づけてきた。 「ん……ちゅ……くちゅ……」 「ふう……ん……」 リシアの身体が、俺の身体に触れる。 くすぐったいような感覚に、下半身が反応してしまう。 「困ったものだな」 「男は子供だからな、抑制が利かないらしい」 「開き直りおって」 リシアが可笑しそうに笑う。 「触ってもらえるか」 「今、ここでか?」 「誰も見ていないだろう?」 リシアが周囲を見回す。 いたとしても野兎くらいだろう。 「しかしな、カイム……」 リシアがちらちらと俺の下腹部に目を遣る。 瞬く間に、顔が赤くなっていく。 「大人になっただのと持ち上げたのは、このためか」 「それとこれとは全く別の話だ」 「お前は、立派に成長している」 「まったく」 「……今日は特別、だからな」 リシアの手が、俺の太ももに置かれる。 そして、〈躊躇〉《ためら》いがちに脚の付け根へと進んできた。 細い指が男性器に触れる。 「硬いな」 「ああ、苦しいくらいだ」 「困ったものだ」 言いながらも、手の動きは更に艶めかしくなっていく。 服の上からでも形がわかるようになったそれを、リシアがつまむように持つ。 亀頭の周辺や裏側が、硬い爪でやや強めに刺激された。 腰が勝手に動いてしまう。 「どうした?」 「急に手慣れてきたな」 「どこかで勉強でもしたか? 例えば書物なんかで」 「さてな」 とぼけつつ、手の刺激を強めてきた。 「く……そろそろ」 「どうしてほしい?」 「〈直〉《じか》にしてくれ」 「仕方のない奴だ」 リシアが手を止め、髪をほどき始めた。 「どうした?」 「誰かに見られても、私とわからぬようにしておかねば」 リシアの髪型は特徴的だ。 印象が強い分、髪型を変えれば本人とはわかりにくい。 美しい長髪が風に広がる。 「これなら、問題あるまい」 悪戯っぽく笑って、俺の服に手をかけた。 ボタンを外し、肉棒を取り出す。 窮屈なところから解放され、天に向かってそそり立つ。 「大きいな……」 「カイムのものは、こんな形をしていたのか」 まじまじと肉棒を見つめ、観察している。 「まだ大きくなるのか?」 「リシア次第だな」 「そ、そうか」 「よくわからないが、努力してみよう」 顔を紅潮させつつ、リシアが俺に触れてきた。 よくわからないと言いつつ、覚えたことを試してみたいのだろう。 好奇心旺盛な性格だ。 リシアが肉棒を両手でさすり始める。 「すごく熱いな」 「ここはどうだ?」 亀頭と裏筋の辺りを撫でるようにさすられ、陰茎がびくんと跳ねた。 「動いたぞ」 「気持ちいい証だ」 「なるほど」 リシアは嬉しそうに手を上下に動かす。 もどかしいが、時折不意を突くように敏感なところを攻められる。 「また動いた」 リシアの手がすぼめられる。 輪になった指が、棒の根元から亀頭までを上下する。 先走りが滲み、ぬるぬるした感触が加わった。 「く……」 「気持ちいいか?」 「いちいち聞くな」 「ふふ、気持ちいいと言うのが恥ずかしいのだな」 「なら、嫌でも気持ちいいと言わせてみせよう」 リシアは大きくなった肉棒に顔を近づける。 「……ちゅ……ぺろっ……」 「はあっ……んっ、れるっ……」 リシアの舌が肉棒の上を行き来する。 「ちゅるっ……んちゅっ、はあっ……ぴちゃっ」 「れろっ、ちゅっ……ちゅるっ」 「お前が、口で喜ばせる方法を知っているとは思わなかった」 「黙って私に任せておけ」 リシアは微笑み、亀頭に舌を這わせる。 「あむ……はむっ、んちゅっ……ぺろっ」 「んっ、ちゅっ……ちゅるっ、んんっ」 「ぴちゅっ、んちゅっ、ちゅっ、くちゅっ……」 舌の先で撫でるように肉棒を刺激している。 「んっ……」 「奇妙な味がするものだな」 「味わうな」 「お前も味わってみるか?」 リシアは肉棒を手に微笑みかけてくる。 「結構だ」 「ふふふ……ぴちゅ、くちゅ……」 「んちゅっ……ちゅっ……」 「ちゅくっ、んっ……れるっ、んあっ……はあっ、ぴちゅっ……んちゅっ、んっ……」 猫のように舌先でちろちろと肉棒をなめ回すリシア。 気持ちいいには気持ちいいが、非常にじれったい。 「リシア」 「んちゅっ……んむ?」 「もっと舌全体を使って舐めてくれ」 「あと、もっと裏の方も刺激した方がいい」 「う、そうか……」 リシアは舌を出して陰茎の上を這わせる。 「れろろっ、ちゅるっ……りゅっ、んちゅっ、れるるっ」 「んはっ……カイム、こんな感じでいいか?」 「ああ、いいぞ」 「では頑張ってみるな」 「ちゅるっ……んちゅっ、れるっ……はんっ、んんっ」 「んくっ……はむっ、ちゅっ、れろろっ」 リシアは舌全体を使って、亀頭の先を舐め上げる。 「くっ……」 ぞくっと背筋が痺れるような快感が走る。 「んんっ、れるっ……ちゅっ、はくっ、んくっ……」 「ちゅるっ、はむっ、れろっ……れるるっ、ちゅくくっ」 「あむっ、あんんっ……はむっ、んうう……」 肉棒に舌を巻き付かせ、横からくわえ込むように肉棒を頬張る。 「ちゅくっ……んちゅっ、はんっ……んむっ、れるるっ」 「ちゅっ、んっ、んんっ……あむっ、んんっ」 「ぴちゃっ、ちゅっ……くちゅっ、んちゅっ、ちゅくっ」 「う……」 リシアはちらちらと俺を見上げ、顔を窺う。 「んくっ……カイム、気持ちいいか?」 「ああ、今のは良かった」 「うむ、なら、これはどうだ?」 リシアが亀頭を口の中に含む。 「んむ、あんっ……ちゅっ、れちゅっ、ちゅっ」 小さな口内で亀頭をなめ回すリシア。 「ちゅっ、ぴちゃっ……んちゅっ、れるるっ、ちゅるっ」 「ちゅくっ、はむっ、ちゅっ、ちゅるっ……」 リシアは舌を使って、裏筋の辺りを集中的に刺激し続けてくる。 だが、亀頭ばかり刺激されてもつらい。 「リシア、ちょっと待て」 「もっと口を動かして、全体的に刺激してくれ」 「ふむ……やってみる」 じゅる、じゅるるるるっ リシアは肉棒を奥まで飲み込んでいく。 「うっ……」 「んちゅっ、くちゅっ、んむっ……はんっ、れるっ、ちゅるっ」 「ちゅっ、ぴちゃっ……れるるっ、あむっ、ふっ、んくうっ」 「れろろっ、ちゅっ、はむっ、れるっ……くちゅっ、ぴちゅっ、ちゅくっ」 肉棒を吸いながら、執拗に裏筋を舐めてくる。 「上手いな」 「んちゅっ……んくっ、そうか?」 「カイムが気持ちいいのなら、私も嬉しい」 口を激しく上下させるのと共に、手を使って根本の方を刺激してくる。 「ちゅるっ、はむっ、ぺちゃっ、ちゅるっ、ちゅっ、ちゅくっ」 「れろろっ、ちゅるるっ、ちゅっ、んむっ、れろっ、あむっ」 「んふうっ……ちゅくっ、ぴちゅっ、ちゅっ、じゅるっ、ちゅるっ」 リシアの熱を持った口内に刺激され、思わず腰が浮きそうになる。 まるでリシアの膣内に入れているかのようだった。 「リシア、少しゆっくりにしてくれ」 「もう出そうだ」 「んむっ……いいぞっ、出してくれ」 「はくっ、ちゅるっ……れるるっ、じゅるっ、ちゅくっ、ちゅっ」 「ちゅくっ、んむっ、はっ……あむっ、れるるっ、ちゅるるっ」 唾液を潤滑油にして、肉棒をしごいて刺激してくる。 硬くなったペニスを手と唇で同時に絞ってきた。 「ちゅるるっ、れるっ、じゅぷっ、ちゅぷっ、ちゅるるるっ」 「んちゅっ、はむっ、くちゅっ、ぴちゃっ、れろろっ、じゅるるるっ」 「くっ……」 激しく吸いながら、唇でカリ首の辺りを刺激してくる。 激しい快感に、精液がこみ上げてきた。 「リシア、口に……」 「んんっ、このまま、出し……て……ちゅ、れろっ」 「れちゅっ、れろろっ……くちゅっ、ちゅるるるっ、れろっ、ぴちゅっ」 「れるるるっ、じゅぷっ、ちゅくくっ、れるるっ、ぺろっ、じゅるるるるっ」 「っっ!」 射精する寸前、リシアの頭を押さえて口の外に出させる。 「んっ……な、何をする」 「口に出てしまうだろ」 「気にしなくていい」 リシアの舌が再び動く。 「れるるっ、ぴちゃっ……くちゅっ、はあっ、じゅるっ」 「ちゅっ、れろっ……ちゅぷっ、じゅろっ、ちゅくっ、ちゅるるっ」 「くっ、出る……!」 どぷぷっ、びゅるるるっ、どくどくっ! どくっ、びゅっ、びゅくくっ! 「んむっ……!」 びゅくっ、どくっ、びゅるっ! 我慢を重ね、溜まりに溜まった精液を一気に放出する。 リシアの顔や髪、服を白濁が染めていく。 「んはっ……はあっ、はあ、はあ……」 「ずいぶん……出たな……」 「お前な……」 「なぜ我慢する?」 「口に出されたら嫌だろう」 「お前のものだぞ、別に嫌ではない」 言葉を証明するように、リシアが肉棒に口を近づける。 「んっ、んくっ……ちゅるっ、ぺろっ」 「くちゅっ……んんっ、ぴちゃっ、んくっ、こくっ」 「舌に絡むな……」 飲みずらいらしく、変な顔をしている。 「リシア、もういい」 「こういうのは、嬉しくないか?」 「嬉しいのは嬉しいが、無理しなくていい」 「無理はしていない」 そう言って、リシアは飛び散った精液を粗方舐め取ってしまった。 「よく頑張った」 頭を撫でてやると、リシアが幸せそうに微笑む。 「こうされると、勉強した甲斐があったと思う」 「やはり、勉強していたのか」 「あ……」 ハッとした顔をして目を逸らした。 「いや、今のは何でもない」 「聞かなかったことにせよ」 「ああ、わかった」 苦笑しつつ、更に頭を撫でてやる。 「さ、続きだ」 「いや、俺はもう」 「こっちは遠慮がないようだが」 リシアが俺の下半身を見る。 ペニスはまだ、硬く屹立していた。 「今日は私に任せろ」 リシアが俺の上に乗り、服の前をはだける。 「どうだ?」 「何がだ」 「こうして私が上になるのは初めてだろう?」 「まあな」 「反応が薄いな……」 「明るいところで私の体を見るのも初めてではないか」 「感想はないのか?」 リシアの肢体を見上げる。 「胸が慎ましいな」 「お前……素っ気なくひどいことを言うな」 「まあ良い、このようなもの放っておけば大きくなるだろう」 ならない。 「リシアはそのままでいい」 「何だ、小さいのが好みか」 「勝手な勘違いをするな」 「今のままでも、お前は十分魅力的だ」 「だから硬くなっているんだろう」 「そ、そうか、なるほどな」 顔を赤くして、リシアが俺の陰茎を手に持った。 「なら、私を存分に感じてくれ」 リシアが腰を落とした。 挿入しないまま、性器を擦り合わせる。 「んっ……んんっ……」 「はあっ……んっ……あっ……」 リシアの秘部からは愛液が溢れ出しており、既に濡れそぼっていた。 熱を持った陰唇が、肉棒をぬるぬると刺激してくる。 「濡れてるな」 「んん……口でしていたせいだ」 「何故か、触られてもいないのに体が熱くなって」 「濡れやすい〈質〉《たち》か」 「誰と比べている」 「さあな」 「全く、カイムは……」 「あっ……はあっ、ああっ、あっ……んっ……」 夢中で腰を動かすリシア。 リシアの濡れた陰部が肉棒を強く擦り上げる。 「んくっ……はあっ、んんっ、く、んっ……ああっ」 「あんっ、あくっ……あっ、んっ、んうっ、んんっ」 蕩けきった顔で俺のペニスに秘部をこすりつけてくる。 「ああっ……腰が、止められ、ないっ……」 「んっ、あんっ……んふうっ、ああっ、ふんんっ」 ときおり身体を震わせながら、一心に腰を動かすリシア。 「はあっ……はっ、んくっ、あっ、んんっ」 「んんんっ、あんっ……んくっ、あっ……はああっ」 リシアの秘部に手をやり、クリトリスに指を当てる。 「あっ、んっ……お前、何をするつもりだ……?」 「手伝おう」 「お前は続けててくれ」 愛液で指を滑らせながら、リシアのクリトリスをこする。 「んくあああっ、ああっ、ん、や、んんっ、んううっ」 「はああっ、んあああっ、んっ、あんんっ、やあっ、ふああっ」 「やっ、あんんっ……それだめっ、だめぇっ……」 びくびくと腰を痙攣させる。 「気持ちよさそうだ」 「んんっ、あっ、だ、だってそれは……すぐにいってしまうっ……」 「駄目なのだっ……今日は、今日は私がカイムを気持ち良くすると……決めたのにっ」 「リシアも気持ち良くなってくれ」 「ああっ、んああっ、はあっ、はっ、ああっ、あくううっ」 「んんんっ、くうんっ、ああっ、あっ、んっ、あ、あっ、ひぅっ、んんっ」 俺の身体をぎゅっと掴んでくる。 襲い来る快感を必死に耐えている様子だった。 「くうっ、うんんっ、あんっ、ああっ、あっ、んっ、あんんっ」 「やあっ、はうんっ……ああっ、ふうんっ、あああっ、くああんっ」 「あっ、ああっ、はっ、ああっ、はあっ、んんっ、くふうっ、う、んんっ」 リシアの小さな突起の上で指を滑らせる。 固くなった肉棒でごりごりと擦られ、リシアは体を仰け反らせた。 「ふあんっ、んんんっ、が、我慢できないっ……ああっ、いって、しまうっ……くうんっ!」 「もう、だめっ……い、いくっ……んんっ、ああんっ、んんんんんっ!」 「あっ……はああっ、ああ、ああああっ……やあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」 激しく体を波打たせて、リシアが絶頂に達する。 「あああっ……ああっ、あっ……はあっ、はああっ……はあっ……」 「はあっ……んあっ……ああっ、あっ……はあ、はあ……」 荒い息をつきながら、余韻に浸っている。 「どうだ?」 「……はぁ……カイムの、馬鹿……」 「私一人で……達してしまったではないか」 腰をずらすと、愛液でべとべとになった肉棒が現れる。 がちがちに屹立し、脈を打っていた。 「今日は、存分に感じさせてくれるんだろ?」 「無論そのつもりだ」 「それじゃ腰を上げろ」 俺はリシアの尻を掴んで、腰を持ち上げる。 「ち、ちょっと待ってくれ」 「少し休ませてくれないか?」 「いや、俺は休まなくてもいい」 「うう……だが、私は……達したばかりで……」 俺はリシアの膣口に亀頭をあてがい、一気にリシアの腰を沈めさせる。 「ん……あ、あ、あ……んうっ」 熱く蕩けた膣奥が俺のものを締め付けてきた。 腰をひくつかせながら、リシアは快楽の波を堪えようと唇を噛む。 「んんっ、ふううっ、んくっ……はああっ、はっ、ううっ、うんんっ……」 「お前、またいったのか?」 「い、いきなり奥まで入れるからだ……」 「悪かったな」 言いつつ、俺はリシアの腰を持ち上げる。 「あ、待て……」 ずちゅっ、ぐちゅっ 「く……あ……あああっ!」 持ち上げ、膣奥まで挿入する。 ぞくり、とリシアが身震いした。 「んあああっ、ああっ、んくっ、ああっ、んはああっ」 「少し待てと言っているだろ……」 「動けないようだから、手伝ったんだが」 「お前という奴は……ん……んんっ……」 リシアが、ゆるゆると腰を動かし始める。 「んんっ……あっ、んくっ、はああっ」 「あっ、ああっ……んはっ、はあっ、はああっ、ああっ」 動かす度に膣内がきゅっと締まる。 だが、散々リシアの陰唇で擦られた後にしては少し緩やか過ぎた。 「もう少し速く」 「うう……こ、これでも頑張っているんだ」 「手伝うか」 「こういうときのお前は、悪戯をするから駄目だ」 ただ腰を動かしてやるつもりだったのだが……。 いたずら心が湧いてきてしまう。 リシアの胸に手をやる。 「あ……こら……」 「胸は揉むと大きくなるらしい」 俺はリシアの胸を揉んでやる。 「んっ……あんんっ、んくっ……はあっ、んんんっ」 「ああっ、あふっ、んっ、ふ、んっんんっ、ぅ、ああっ……あううっ」 下からリシアの胸を揉みしだく。 手の平で乳房を刺激しながら、指で乳首を転がす。 「はああっ、あうっ、くんんっ……あ、ああっ……」 「い、いやっ……んんっ、あんんっ、はああっ、あああっ……」 乳首を刺激され、腰をひくつかせる。 「あっ、んんっ、や、やっぱりやめてくれっ……また気持ちよくなってしまうっ」 「んんんっ、やあっ……あっ、あくっ、ふんんっ、はあんっ、あああっ」 乳首をつまむとリシアの膣内がきゅっと締まる。 それだけでもかなり気持ちいい。 だが、このままでは達することはできなさそうだ。 「リシア、動かすぞ」 「えっ……?」 俺は腰を掴み、リシアの膣奥に肉棒を叩きつける。 「きゃああんっ、やあっ、あああっ、んくっ、ふああああっ」 激しい快感に、腰の奥がじんと痺れる。 「あっ、んんんっ、んああっ、くうんっ、だ、だめっ、んんんんっっ」 「それは無理だ」 一度動かしたら、後はその快楽を貪るしかなかった。 リシアの膣奥を激しく下から突き上げる。 「くううっ、やあっ、あっ、んああっ、やあんっ……んんっ、はあっ、ひぅうっ」 「ふあっ、きゃうっ、んんんっ、あんんっ、はう、あ、んんっ!」 濡れた膣内に分け入って、リシアの一番奥を突く。 肉棒に痺れるような快感が走る。 「やんっ、はあっ、んんっ……だ、だめっ、気持ち良すぎるっ……」 「こ、これでは、いつもと……あぁっ……変わらないでは、ないかっ」 リシアの膣が、俺の肉棒を強く締め付けてくる。 「やあっ、んんんっ、はああっ、んっ、んんんっ、あ、あ、んんっ、ふあっ」 「わ、わかった、自分で動くっ、動くからっ……」 「本当だな」 俺はリシアの腰から手を離す。 「はっ、はあっ、はあっ、はあ、はあ……」 「う、動くぞ」 リシアは自ら腰を浮かせ、再び膣内に肉棒を収めていく。 「んくっ……ああっ、んんんんっ」 「はあっ、はあっ……あくっ、んあああぁぁっ……」 「んっ……んんっ、ああああっ、んんっ、はああっ……」 頑張って動いてはいるが、いかんせんその動きは緩慢だ。 「リシア」 「わかっている、わかっているのだ……」 「でも、これ以上速く動いたら、もう……」 ふるふると腰を痙攣させている。 「うう……上に乗れば主導権を握れると書いてあったのに……」 どういう本を読んでいたんだ。 ふと、視界の端で何かが動く。 「リシア、静かに」 「ん……ど、どうした……?」 「誰かいる」 「ま、まさか?」 遠くに人影が見える。 幸い木陰に隠れる形になっていて、こちらには気付いてない様子だった。 「ど、どうするカイム」 「近づいてくる気配はない」 「声を出さなければ大丈夫そうだ」 「で、でも……んんっ」 俺はゆっくりと腰を動かす。 「あっ……んんっ、こらカイムっ、動くなっ」 「ん……んん……んんっ!」 指を咥え、リシアが声を抑えようとしている。 構わずに突き上げる。 「んんっ、んっ……あああっ、だ、駄目だっ、声が出てっ……」 「ふんんっ、ふあっ……き、気付かれてしまうっ」 「頑張って声を抑えろ」 「くううっ、無理だ、我慢できないっ……」 「あっ、やっ……ふあっ、んんんっ、くうんっ、ふんんんんっ」 リシアの膣内が、今まで以上にぎゅっと俺のものを締め付けてくる。 抽送を繰り返すと、途轍もない快感が走った。 「くっ……」 「んんんっ、ああっ……んくっ、はああっ、ああああっ」 「ううっ、気持ちいいっ、あっ、あんっ、だめっ、気付かれるっ……」 緊張からか、リシアの膣内が熱く吸い付いてくる。 それだけで達してしまいそうだった。 「はあうぅっ、くうんっ、ん、んんっ、頼むカイムっ、やめて、くれっ……」 「んんっ、だめっ……はああっ、んあああっ、くんんんっ」 「リシア、出そうだっ」 「んんっ、はあっ、んくっ、きてカイム、カイムぅっ……」 「せめて一緒に、一緒に……いきたいっ」 膣内が狭くなり、強い摩擦で一気に精液がこみ上げてくる。 「くっ」 俺はリシアに激しく腰を打ち付ける。 「はあああっ、んんっ、カイム、カイムっ、うあ、くぅ、はあぁっ、ううんっ」 「んんんっ、はんんっ……ふああっ、あっ……ああっ、あああぁぁぁっ!!!」 「んっ……あんんっ、んんんんっ、いくぅっ、いくうううううぅぅぅぅぅぅっ!!!」 快感が突き上げる。 びゅるるるっ、びゅくっ、どくどくっ、どくっ! びゅくくっ、びゅびゅっ、びくっ! 肉棒が震え、欲望の塊が噴出する。 「んああぁぁ……あぁ……ぁ……っ!」 びゅううっ、びゅくっ、びゅるっ! どくっ、どくくっ! 「ああぁっ……んっ、ああっ……はっ、はあっ……あああ……」 「んんっ……あ、熱いのが、どんどん……入ってくる……」 蠕動を繰り返すリシアの奥に、熱い塊を次々と注ぎ込む。 射精が収まらない。 「あっ……んんっ、まだ出ている……のか?」 「すごいな、今日は……」 残らずリシアの膣内に出してしまった。 人影のあった方を見ると……いつの間にかいなくなっていた。 胸をなで下ろす。 「かなり大きな声を出してしまったが……気付かれただろうか……?」 「声は聞かれたかもな」 あそこまで大きな声を出したら、声が届いていた可能性もある。 「私のことは、バレてしまっただろうか」 「髪を下ろしているから大丈夫だろう」 「そうか……」 「だが、外でするのはやはり危険だな」 「くっ……」 きゅっとリシアの中が締まった。 肉棒に残っていた精液を、リシアの中に吐き出す。 「カイム……切りがないな……」 「お前が締めるからだ」 「私のせいにしおって」 リシアは自分のお腹を優しく撫でる。 「子供ができた時も、こんな感じなのだろうか」 「そうかもな」 「ここは本に書いてあった通りだ」 「何がだ?」 「やはり、好きな人に抱かれるのは幸せなことだ」 「女にしか味わえない気持ちだそうだ」 「どうだ、カイムにはわかるまい」 「わかるか」 男娼になっていたら、わかったのだろうか。 いや、想像したくもない。 「リシア、そろそろ離れよう」 「また誰か来るかもしれない」 「ああ、そうだな」 リシアは抜こうと力を入れる。 「あ、あれ……?」 「どうした」 「か、体に力が入らない……」 しょうがない奴だな。 俺は起き上がり、リシアを優しく抱きかかえてやった。 帰りの道すがら。 リシアはなぜか暗い顔をしている。 「どうした?」 「いつも通りだった気がしてな」 「何の話だ?」 「いや、今日は何かを変えようと思ったのだ」 「だが、いつも通りお前のいいようにされてしまった」 真面目に悩むことなのだろうか。 「主導権を握るには十年早いな」 「十年か……長いな」 リシアは俯いてしまう。 「そんなにしょげることか?」 「やはり、本で学んだ知識だけではどうにもならないな」 当たり前だ。 「本に書いてあるのは事実ではなく、他人が綴った言葉だ」 「信じるかどうかはお前が決めないといけない」 「つまり、皆が発する言葉と同じだということだな」 「そういうことだ」 「何もわかってないな、私は……」 自嘲するように笑うリシア。 「時々、疲れてしまうんだ」 「貴族たちの言葉遊びには随分慣れたが、慣れていく自分が辛い」 「つい目の前の言葉に飛びついて、そのまま信じてしまいたくなる」 「こんなことを後どれだけ続ければいいんだ?」 「本当に、私は立派な王になれるのだろうか」 とぼとぼと歩きながら、小道を見つめている。 「終わりはない」 「え?」 「生きる以上、死ぬまで学び続けなければならない」 「学ばずに前に進むことはできない」 リシアが立ち止まる。 「カイム……」 「でも、私は不安なんだ」 「カイム、私は立派な国王になれるのだろうか?」 他人に訊いてどうするつもりなのか。 答えは、自分で考えて見つけなければならないものだ。 だが、 「気楽にやればいい」 「中身さえしっかりしていれば、知識なんて後からついてくる」 「知識ばかりで、使いものにならない貴族はいくらでもいるだろう?」 「ああならないように、心だけは強く持て」 「あとは俺やルキウスたちが支える」 「カイム……ありがとう」 リシアが俺の手を握った。 こんな言葉、本当はリシアのためにならない。 単に甘やかしているだけだ。 「……」 しかし、もしリシアを突き放すつもりなら最初からそうするべきだった。 リシアが戴冠したあの日、俺は牢獄へ去るべきだった。 だが、俺はリシアの傍にいることを選んだ。 初めから、こいつを甘やかすと決めていたようなものだ ならせめて、二人きりの時くらいは甘えさせてやってもいいだろう。 「カイムが私を甘えさせてくれていることはわかっている」 「私の一挙手一投足には、国民の命がかかっているのだ」 「まだ知識がないなら、などという言い訳は通用しない」 リシアもわかっている。 「だから、ずっと甘やかせとは言わない」 「むしろそれでは困る」 「……そうか」 「城に着くまでの間だ」 「その間だけ、私を甘えさせてくれ」 「ああ」 リシアの手を握り直す。 「あっちの畑は、まだ見ていないんじゃないか?」 「??」 「せっかく出てきたんだ、隈無く視察して帰ろう」 「……」 「うむ、お前の言う通りだな」 そう言って、リシアは少し気恥ずかしそうに笑った。 「……以上が、今回の議案に対する我々の調査結果となります」 ルキウスの声が会議室に響く。 今日はリシアの立案した施策に対し、貴族たちが具体策を報告する会議だ。 ルキウスが貴族たちの意見をまとめ、リシアに報告を終えたところだった。 「お聞きいただきました通り、実現性にはかなりの課題があると言わざるを得ません」 リシアは不機嫌そうな顔でルキウスを見やる。 「頭から否定しているようで気に入らないな」 「問題を指摘するのは良いが、解決策は考えていないのか?」 「お言葉ですが国王陛下、都市の生産能力には限界があります」 「ご要望を満たすことは難しいかと」 「それを何とかできる案を考えるのが、お前たちの仕事だ」 「次の会議までに、実現に向けた具体案を考えてこい」 「異論のあるものはいるか」 リシアが皆を見渡す。 「では今会議の議案、ノーヴァス王家、リシアの名の下に採決する」 「皆の者、ご苦労であった」 会議が終わった。 リシアの厳しい要求に、貴族たちの表情は固い。 小さな溜め息を吐きながら、出席者が退席していく。 爵位を得てから、俺も会議に加わるようになった。 しかし、俺はリシアに対して大きな影響力を持つため、公の場で不用意な発言はできない。 基本的には、あまり目立たないようにしていた。 「カイム、少しいいか」 ルキウスに呼ばれ、会議室の端に移動する。 「今日の会議、どう思う?」 「どうとは?」 「率直に言えば、最近の陛下は少し気負いすぎておられるように思う」 「我々の報告を頭から否定されることも多い」 「このままでは、遠からず貴族たちの心が離れてしまうだろう」 「確かにな」 俺も気になっていた。 リシアが完全に間違っているわけではないが、頑なすぎるところはあった。 もう少し、貴族の言葉に耳を傾けることも必要だろう。 「本人に話をしてみよう」 「頼む」 貴族たちは基本的に信用できない。 とはいえ、リシアの意思を実行するのは彼らだ。 貴族の協力がなければ、安定した政治は行えないだろう。 「リシア、少しいいか」 会議室から出て行こうとするリシアを呼び止める。 「何だ」 「話がある」 「ふむ、良いぞ」 貴族たちが全員出て行ったのを確認し、会議室のドアを閉める。 「どうした?」 「今日の会議、お前はどう思う」 「気に食わんな」 「自分たちの施策は積極的に進めようとするくせに、私の立案だと否定的な意見ばかり並べる」 「自らの利益を守ろうと必死なのが丸わかりだ」 リシアの出す議案は基本的に理想論に偏っており、無茶が多い。 それを何とか〈宥〉《なだ》めすかして、現実的なところに着地させるのが貴族たちの仕事になっていた。 このままでは、双方共に〈鬱憤〉《うっぷん》を溜めていくことになるだろう。 「リシアの懸念はもっともだ」 「だが、貴族たちも真面目に働いているだろう」 「奴らの意見に耳を傾けることも必要だぞ」 「彼らの調査報告を鵜呑みにしたら、議案ごと潰されてしまう」 「それを看過しては、良き国政は行えまい」 「リシアの言い分はよくわかる」 「しかし、このままだと奴らの気持ちが離れていく一方だ」 「一人で政治はできないだろう?」 極力優しく言う。 「離れていく奴など、放っておけばいい」 「どうせ何もできぬ」 「国王が喧嘩腰でどうする」 「鞭だけじゃ人は動かない」 「子供も貴族も、言うことをきかせるにはある程度の飴が必要だ」 「まずは話を聞いてやるだけでもいい、歩み寄りを見せてやれ」 「飴と鞭か……」 リシアが少し悲しそうな目をした。 「お前の口から聞くとはな」 「どういうことだ?」 リシアは、答えずに目を逸らした。 「なあリシア、俺はお前のためを思って言っているんだ」 「お前は一体誰の味方なんだ」 「いつから貴族たちの肩を持つようになった?」 「違う」 「このままじゃ、お前は孤立する」 「立派な国王になろうと思っているなら、貴族たちの……」 「もうよい」 リシアがぴしゃりと言う。 「お前も、少し勉強が必要なようだな」 「なに?」 「さらばだ」 微かな企み笑いを残し、リシアが足早に立ち去った。 勉強が必要? 意味はわからないが、最後の笑いが気に掛かる。 あいつ、何を考えているんだ。 リシアの企みは、昼過ぎに判明した。 昼食後、腹ごなしに城内を歩いていると…… 「カイム、探したぞ」 「騎士団長に探される覚えはないが」 「こっちにはあってな」 「何の用だ?」 「陛下が、また召使いの真似事を始められた」 久しぶりに病気が出たか。 「で、それと俺に何の関係がある」 「今回のことは、カイムの責任だと仰っている」 「どういうことだ?」 「それが聞きたくて、お前を探していたのだ」 「説明してもらおうか」 ヴァリアスが〈睨〉《にら》んでくる。 心当たりがあるとすれば会議室でのやり取りだろうが…… あの程度のやり取りはいつものことだ。 「生憎、俺も事情がわからない」 「それでは困る」 「こっちも困ってるんだ」 「あんた、リシアを止めなかったのか?」 「お止めしたが、聞き入れては下さらなかった」 「それに……」 ヴァリアスが言葉を切る。 「陛下のご様子が、いつもとは少し違ったのだ」 「力ずくでお止めすることはいくらでもできるが、お前を呼んだ方が良いかと思ってな」 「リシアはどこにいる?」 「厨房だ」 「様子を見てくる」 ヴァリアスと別れ、厨房に向かう。 あいつ、一体何を考えているんだ。 「……」 「若いというのは、それだけで素晴らしいことだ」 「料理長」 「あ、これはカイム様」 「リシアは?」 料理長が厨房の一角に目を向ける。 リシアは召使いの格好で、鍋を振るっている最中だった。 「おい、リシア」 「……」 声をかけるが、無視を決め込んでいる。 「無視するな」 「これはカイム様、お疲れ様でございます」 「お元気そうで何よりです」 丁寧な口調で頭を下げる。 「何のつもりだ」 「さて、何のことでしょうか?」 「悪ふざけはやめろ」 「いいからお前、ちょっと来い」 リシアの腕を掴む。 「は、離せっ」 「お前が人の言うことを聞かないからだ」 リシアを引きずっていく。 「い、痛い……カイム痛いっ」 リシアはうっすらと涙を滲ませる。 「……すまん」 手を離してやる。 「ふっ……」 その途端、リシアは逃げ出した。 「何を話すか考えてから来いっ」 離れたところから捨て台詞を投げつけ、走り去っていった。 嘘泣きに騙されるとは。 俺もリシアには甘くなっていたようだ。 「邪魔したな」 「いえ、こちらは」 リシアはどこへ行ったのだろう。 追いかけてきたが、途中で見失ってしまった。 一体、どういうつもりだろうか。 話すことを考えてこいと言っていたが、奴は何が気に入らないのか。 やはり、思い当たるのは会議室でのやり取り。 「鞭だけじゃ人は動かない」 「子供も貴族も、言うことをきかせるにはある程度の飴が必要だ」 「まずは話を聞いてやるだけでもいい、歩み寄りを見せてやれ」 「飴と鞭か……」 「お前の口から聞くとはな」 「……」 飴が足らないとでも言いたいのか。 それなりに甘やかしてきたつもりだ。 本来なら無言で結果だけを求めるところを、懇切丁寧に説教してやっているのだから。 ……いた。 リシアが大広間を通り過ぎようとしていた。 「おい」 「むっ!?」 リシアが走りだす。 「待てっ」 「逃げ切れると思うなよっ」 「自信過剰だぞ」 走りながら、リシアが大きく息を吸った。 「きゃああっ! 誰か助けてっ!」 「!?」 「何事だっ!?」 剣の柄に手をやり、システィナが現れた。 リシアがその背に隠れる。 「陛下、ご無事ですか!?」 「く……この男に……屈辱を……」 「わかりました、死んでもらいましょう」 システィナが剣を抜いた。 事情を聞く気もないのか。 「待て、誤解だ」 「いいですよ、誤解を解かずとも」 「システィナ、あとは任せた」 勝ち誇った笑顔を残し、リシアが走り去る。 「……」 「何をしているのです、貴方は」 溜め息を一つ、剣を収める。 「リシアの遊びに付き合わされてる」 「評判になっていますよ、何やら痴話喧嘩だと」 「ご結婚への下地造りかと感心していたのですが」 「阿呆か」 どこが痴話喧嘩なんだ。 「会議の進め方について、少し意見を言っただけだ」 「なるほど」 「つまり貴方が悪いわけですね」 「どうしてそうなる」 「陛下は忍耐強いお方」 「余程の言い方をしなければ、実力行使などされないはずです」 「必要だから注意しただけだ」 「言い方が悪かったのでしょう」 「あなたは言葉を選びませんから」 「剣と違って、女性の扱いは下の下ですね」 「ひどい言われようだ」 「事実ですから」 システィナが鼻白む。 「国王となられた今でも、リシア様は女性なのです」 「伴侶になろうというのであれば、相応の気遣いが必要でしょう」 「……」 確かに、そういった気遣いをしたことはない。 リシアは国王だ。 二人でいる時も、多少は甘えさせてやるというだけであくまで国王として接してきた。 それが正しいと思っているし、そうでなければ俺が傍にいる意味がない。 「とにかく、早期に事態を収拾してください」 「無茶を言うな」 「わけのわからない理由で機嫌を損ねられてるんだ」 「政変の際には、抜群の働きをしたではないですか」 「あの調子で、上手くやって下さい」 不器用に笑って、システィナは去っていく。 あいつなりに励ましてくれたのだろうか。 「女として扱えか」 そっち方面で機嫌を損ねていたのか。 リシアを探し城を歩く。 自室には戻っていないようだった。 何気なく窓から外を覗く。 「……」 リシアが庭を歩いてるのが見えた。 階段を下り、庭に向かう。 「来たか」 こちらの姿を認めたリシアが、身構える。 「考えてきたか?」 「飴が欲しいらしいが、お前には十分優しくしてきたつもりだ」 「……」 じりじりと〈睨〉《にら》み合う。 「何が飴だ、お前は何もわかっていない」 「なら、説明しろ」 「よく言っているではないか、自分で考えろと」 リシアが白い歯を見せる。 「お前の遊びに付き合っているほど暇じゃない」 「ふ、無駄飯喰らいのくせによく言う」 「ほう……」 「少々灸を据える必要がありそうだな」 「やってみろっ」 リシアが逃げだす。 「どこまで逃げるつもりだ」 「どこまでもだっ」 「都市の果てまで追いかけてくるといいっ」 意味がわからない。 「はははは、どうした?」 「牢獄の何でも屋ではなかったのか?」 笑いながらリシアが逃げる。 絶えて久しい、年相応の少女の笑顔だった。 そうだ。 こいつは、こんな顔をする奴だったのだ。 「どうした、捕まえられないか?」 「本気で行くぞ」 捕まえる気になれば簡単だった。 しかし、この時間を終わらせるのは可哀想で、ゆっくりと時間をかけて追う。 「ほらほら、だらしがないぞ」 リシアの明るい声が、王城の庭に響く。 「何をされているのだ、リシア様は」 「召使い達も見ているというに」 「たまにはよろしいのではないでしょうか」 「政変以降、陛下はずっと張り詰めておられました」 「国王たるもの、そうでなくては困る」 「ですが、今の陛下のお姿を拝見して、落胆している者がおりましょうか?」 「確かにな」 「陛下はまだまだこれからのお方」 「我々も、温かく見守って参りましょう」 「そう願いたい……特にルキウス殿には」 「貴殿に剣を向けたくはないのでな」 「肝に銘じておきましょう」 「なかなかやるではないか」 「そっちもな」 庭での追いかけっこは続いていた。 リシアの笑い声を聞いて、貴族や召使い達が城の窓からこちらを窺っている。 ヴァリアスやルキウスの姿もあった。 このままでは晒し者だ。 俺たちについて悪い噂が立つかもしれない。 「もう体力が尽きたか?」 「まだまだだ」 そんな懸念もリシアの笑顔の前に吹き飛ぶ。 「行くぞリシアっ」 「よし、こいっ!」 再び走る。 もう、今更だ。 それなら、思い切り楽しませてやろう。 「ぐ……」 「もう逃げ場所はないぞ」 庭の隅に追いつめた。 「捕まえるのはいいが、私に何を言うべきか考えてきたんだろうな」 「お前には、きつく言いすぎたと思ってる」 「次からはもう少し言い方を考えよう」 「……」 リシアが剣呑な目をする。 「わかっていない」 「お前はわかっていないぞっ」 リシアが再び走り出す。 「おいっ、最後まで聞けっ」 リシアが城内に消える。 女という生き物は、本当に世話がかかる。 だから、特定の女を作らずにいたのだ。 とはいえ、俺はリシアを選んでしまった。 「飴と鞭か……」 奴は、毎日老練な貴族達と戦っているのだ。 少しくつろげる場所を作ってやらねばならないな。 例えば、先程のような笑顔を見せられるような場所を。 さて…… うちの陛下を捕まえに行くか。 はためく白布が眩しく輝いている。 リシアは一人で洗濯物を干していた。 「ここだと思った」 「……何をしに来た」 「話しに来た」 「もういい」 素っ気ない声だった。 かなり機嫌を損ねているらしい。 「リシア」 「もういいと言っただろう」 「わかっている、私の我儘だ」 「洗濯物を干したら、私は執務に戻る」 大人びた声だった。 俺が、望んでいた国王としてのリシアの声だ。 今、この声を聞くのは胸が痛い。 「なら、独り言を言う」 洗濯の手を休めないリシアの横で話す。 「いつもきつい言い方ばかりですまなかったな」 「リシアが努力しているのが当たり前になっていて、感覚がおかしくなっていた」 「……」 リシアは無言。 「これからは、もう少し言い方を考える」 「あとは、まあ、何だ……」 「お前が力を抜いて過ごせる時間を作りたい」 「ふうん……」 「まあ、9割だな」 リシアが新しいシーツを籠から取りだし、張られた紐に掛ける。 「残り1割は?」 「考えてみてくれ」 「よく見ろ、私は何を着ている?」 「召使いの服だな」 「うむ」 「あとは自分で考えてみろ」 「……」 まあ、大体わかっていた。 だが、いきなり正解では機嫌を損ねるかもしれない。 「召使いに憧れでもあるのか?」 「違う」 「だったら何だ?」 「さあな」 「む……」 考える振りをする。 いつもの服を脱ぎ捨て、召使いの服を着ているのだ。 国王ではない自分も見てほしいということだろう。 「国王ではない自分を見て欲しいということか」 「……」 リシアは何も答えない。 『なら、お前はどうする?』と目で問いかけてきた。 リシアの目はそう語っていた。 仮にリシアが国王でなかったとしても、こいつは俺の恋人だ。 それは、何があっても変わらない。 リシアの腕を掴み、引き寄せる。 「ひゃっ!?」 胸の中に抱き留めた。 「悪かった」 「厳しくなってしまったのは、お前のためを思ってのことだ」 「許してくれ」 リシアが、俺の体に腕を絡ませてくる。 「国王としてしっかりしなくてはならないのはわかっているのだ」 「貴族たちの信頼を得なくてはならないこともわかっている」 「私も頑張りたいのだ」 「でも、ときどきどうしようもなく怖くなる時がある」 腕の中で、リシアが身を縮こまらせる。 「そんな時、お前にはな勇気を分けてほしいのだ」 「言葉なんかはなくていい」 「今のように、ただ抱きしめてほしいのだ」 「悪かった」 腕に力を込める。 「しかし、これだけはわかってくれ」 「厳しくても、誰かが言わなければならないことがある」 リシアが頑なな態度をとり続ければ、貴族たちとの間に亀裂が入る。 それは直接仇となってリシアに跳ね返ってくる。 「ああ、わかっている」 「私は……お前が大好きなんだ」 「甘えかもしれないが、お前には優しくされたいんだ」 「いいんだ、たまにで」 「例えば10日に1日でも構わない……こうしてほしい」 だからこそ、さっきの俺の答えは9割の正解でしかなかったのだろう。 言葉を優しくするだけでは足りない。 一人の恋人として接することも必要なのだ。 それを、10日に1日でも構わないと言うあたり、リシアはやはり自分に厳しい。 「そうしたら、私はもっと頑張れる」 「ああ」 穏やかな風が通り抜けていく。 干された衣類や敷布がはためき、溢れんばかりの白が揺らめく。 「……いい風だ」 「そうだな」 「そういえば、私たちが初めて出会ったのもここだったな」 「あの時は、まさかお前が王女だとは思わなかった」 「お前、私のことを召使いのくせに言葉が荒いなんて言っていたな」 そうだった。 今となっては懐かしい思い出だ。 「なあ、カイム」 「もし私が召使いだったら、今のように私を好きになってくれたか?」 「どうかな」 色々な成り行きがあって、リシアと今のような関係になったのだ。 「今のは『たとえお前が召し使いでも、好きになった』と答えるところだ」 期待に応えてやるか。 「たとえお前が召し使いでも、好きになった」 「感情がこもってない」 「なら聞くが、お前が召使いだとしたら俺を好きになったか?」 「無論だ」 「精一杯お前に奉仕していただろうな」 奉仕か。 むくりと悪戯心が芽生える。 「なら、奉仕してもらおうか」 「今は召使いなのだろう?」 「カイム……」 「お前が私を求めてくれるのは、とても嬉しいんだがな」 「……場所が場所だぞ」 顔を赤くするリシア。 「他には誰もいないだろ」 「それに、洗濯物で見えないから平気だ」 「お前……」 顔を赤らめながら、リシアが周囲を窺う。 はためく洗濯物に遮られ、視線は通らない。 「特別だぞ」 リシアは俺のベルトに手をかけ、外しはじめた。 肉棒を窮屈なズボンの中から解放する。 「もう大きくなっているな」 「召使い姿の私を見てこんなに大きくなったのか?」 リシアがペニスを優しく撫でる。 その刺激に、びくんと跳ねてさらに大きくなる。 「ふふ、カイムの口と違って、ここは素直で可愛いな」 「触ってくれて嬉しいと喜んでくれているぞ」 リシアは上目遣いに俺を見上げながら、艶やかに微笑む。 「今の私は召使いだからな」 「カイムに奉仕するぞ。何が望みだ?」 「自分で考えろ」 「素直ではないな」 「では、こっちに聞くとしよう」 リシアはペニスに顔を近づけ、囁くように話しかける。 「お前はどうして欲しい?」 頬ですりすりと亀頭に刺激を与えてくる。 「そうか、咥えて欲しいのか」 「何も言っていない」 「では、咥えて欲しくはないのか?」 「……まあ、欲しいな」 嘘はつけない。 「ふふっ……ではカイム様、ご奉仕致します」 リシアは、俺の亀頭を口に含んだ。 「あむっ……んちゅっ、ちゅっ、ちゅるっ」 「ちゅっ、くちゅっ……んちゅっ、ちゅくっ」 リシアは小さな口で亀頭を咥えて吸う。 「はむっ、ぺちゃっ……ちゅっ、ちゅるっ」 「れろろっ……ちゅるっ、じゅちゅっ、あむっ」 「んくっ、ぺろっ……じゅるっ、ちゅくっ」 亀頭を口に含んで舐り、唇をすぼめながら口から出す。 そして舌で裏筋を刺激しながら口に含む。 「くちゅっ……れるるっ、んちゅっ、はむっ、んんっ」 「はあっ、んんっ……んむっ、ちゅうっ、んちゅっ」 「くっ……」 亀頭ばかりを刺激され、体が仰け反りそうになる。 「気持ちいいか?」 「ああ」 「ふふ、良かった」 リシアは亀頭を咥えたまま、舌を這わせる。 「んう……んふうっ、んくっ、んちゅっ、ちゅるっ」 「ちゅくっ、ぺろっ、あんっ……んむっ、んっ、れるるっ」 熱くなった口の中で亀頭をなめ回すリシア。 「ちゅっ……れろっ、くちゅっ、んちゅっ、んちゅっ」 「んんっ、はむっ……ぺちゃっ、ちゅちゅっ、ちゅるっ」 ひたすら亀頭だけを刺激し続けるリシア。 「おい」 「んんー?」 リシアは陰茎を咥えたまま、楽しそうに首をかしげる。 こいつ……わかってやっているな。 「んっ……んんっ、んむっ、んんんんっ!?」 俺はリシアの頭を押さえ、肉棒を押し込む。 「んんっ、んくっ……んちゅっ、れるっ、ちゅるっ」 棹の部分がぬるぬるとしたリシアの口内に含まれ、快感が走る。 「何するんだ」 「お前が先ばかり刺激するからだ」 「それがいいのに」 「もっと奥まで咥えてくれ」 「仰せのままに」 落ちてきた髪をかき上げ、頭を上下に動かし始める。 「ちゅっ、ちゅくっ、はむっ、ぺちゃっ、れるっ、ちゅるっ」 「れろろっ、ちゅっ、んちゅっ、はあっ、んくっ、あむっ」 「はっ、はあんっ……ぴちゅっ、れろっ、じゅるるっ、ちゅくっ」 口で咥えながら、余った棹の部分を手でしごく。 「んちゅっ、ちゅるっ、はくっ、じゅるっ、んくっ、ちゅっ」 「んむっ、あんっ、れるるっ、ちゅっ、れるっ、ちゅるるっ」 「うっ……」 痺れるような快感に、熱い塊がこみ上げてくる。 「んちゅっ、れるっ……んはあっ」 「どうだった?」 「気持ち良かったが……どうしてやめる」 「ん、やめてほしくなかったか?」 「当然だ」 「お前のものが大きいせいで、顎がくたびれるのだ」 「次はもっと気持ち良くしてやる」 「はむっ……んちゅっ、んくっ、んんっ、ふんんんっ……」 リシアは肉棒を咥え、飲み込んでいく。 「んちゅっ、んくっ、んんっ、あんんんっ……」 奥へ、さらに奥へとリシアは肉棒を頬張る。 ついには根本まで咥え込んでしまう。 「んんんっ、んくっ……んふうっ、はあっ、んんっ」 喉の奥まで亀頭を飲み込み、苦しそうに悶えるリシア。 「大丈夫か」 「んむっ、んんっ……」 頷いているところを見ると平気らしい。 「んんんっ……んくっ、んちゅっ、れるるっ、はむっ」 「んくっ、ちゅっ、ぺちゃっ、れるるっ、んちゅっ」 「んむっ、んんんっ、はっ……じゅるるっ、ちゅるるるっ」 ゆっくりと喉の奥から引き出し、再び根本まで飲み込む。 「ちゅっ、んくっ、れるるっ、んむっ、はあっ……んんっ、ちゅるっ」 「ぴちゅっ、んんっ、はっ……んんっ、ちゅくっ、れるるるっ」 「ちゅっ、はむっ、んちゅっ、くちゅっ、ぴちゃっ、れろっ」 深い快感に酔いしれる。 だが、動きが緩慢でもどかしかった。 「リシア、早く動かしていいか」 「んんっ……ふんん?」 俺はリシアの頭を掴んで動かし始める。 「んっ、んんんっ、はんっ、んくっ……んちゅっ、んんんっ」 「んむっ、んくっ、はあっ、んんんっ、んんっ」 「んんんっ、んくうっ……えほっ、おえっ、げほっ、んはっ」 深く突きすぎたため、リシアが苦しそうに肉棒を吐き出す。 「すまん」 「げほっ、んんっ……いや、大丈夫だ」 「すまない、興を醒ましてしまったな……」 「無理させたな」 「ん、気にするな」 「はむっ……ちゅるっ、ちゅくっ、んちゅっ、ちゅるるっ」 「んくっ、んんんっ、はんっ、れるるっ、ぴちゅっ」 「くちゅっ、ちゅくっ、れろろっ……ぺちゅっ、んくっ、ちゅっ」 手を添えて動かしてやると、それに合わせて肉棒を飲み込む。 口と一緒に手も動かし、根本をしごいてくる。 「くうっ」 「ちゅるっ、んちゅっ、じゅるるっ、くちゅっ、ぺろっ、じゅるっ」 「じゅっ、ちゅくっ、くちゅっ、んちゅっ、れるっ、ちゅるるっ」 小さな唇をすぼめて、カリ首を締め付ける。 唾液でとろとろになった口内は最高に気持ち良かった。 「リシア、そろそろ出そうだ」 「うんっ、私の口の中に出してくれっ」 「んちゅっ、れるっ……じゅるるっ、ちゅくっ、ちゅるっ」 「れるっ、れろろろっ、はくっ、んむっ……ぺちゃっ、じゅるるるっ」 よだれを垂らしながら、一心に俺のものを刺激し続ける。 「くちゅっ、ちゅるるっ、じゅぷっ、ちゅるるっ、れるるっ」 「ぺちゃっ、んむっ、ぴちゃっ、じゅるるるっ、くちゅっ、ぺろっ」 愛おしそうに肉棒を咥え、口をすぼめる。 「くっ……」 リシアが俺のペニスを飲み込む度に、背筋に痺れるような快感が走る。 「ちゅるっ、くちゅっ……ちゅぷっ、じゅるるるっ、ぴちゅっ、ちゅちゅっ」 「れろろっ、ちゅくっ、じゅるるっ、ぴちゅっ、くちゅっ、ちゅるるるっ」 「出るぞ……!」 びゅるるっ、びゅくっ、どくっ、どくくっ! びゅっ、びくっ、びゅるっ! 「んんんんっ、んんっ、んくっ、ごくっ……」 びゅっ、びゅくっ、どくどくっ! リシアの口内に精液を吐き出す。 「んくっ、んんっ、じゅるるっ、ごくんっ、んむっ、あむっ……」 大量の精液に目を白黒させながら、一生懸命に飲み込んでいく。 「飲まなくてもいいんだぞ」 「んんっ、はむっ、ごくっ、んくっ、んんっ……」 リシアは吐き出そうとしない。 白濁の液体を全て、喉の奥に押し込んでいく。 「んくっ、じゅるっ、ぺろっ……」 「カイム、全部飲んだ」 「くっ……」 射精したばかりで敏感な亀頭を、口の中でもごもごと刺激してくる。 「偉いぞ、リシア」 「とりあえず、一度口から出せ」 リシアは首を横に振る。 「カイム様のものを綺麗に致します」 リシアは残った精液を唾液と共に飲み込み、再び陰茎を根本まで口に含む。 「ぐっ……」 あまりの快楽に頭が真っ白に飛ぶ。 刺激が強すぎる。 「んちゅっ……れるっ、ぴちゅっ、くちゅっ」 「ちゅっ、ぺろっ、れるるっ……ちゅっ」 「り、リシア……!」 「ちゅっ、んちゅっ……んはっ、また大きくなってきた」 強烈な快感に、肉棒は痛いくらいに勃起していた。 「リシア、入れるぞ」 「ふふ、我慢できないのか?」 「ああ」 「わかった」 リシアは下着を脱ぎ、服をまくって尻を出してくる。 「きゃっ……!?」 俺は後ろからリシアの体を抱える。 「ど、どうする気だ?」 「このまま入れる」 リシアの秘部は既に濡れていた。 膣口から愛液が溢れて、尻の方まで伝っている。 「すごい濡れているな」 「お前のものを咥えていると、犯されている気分になってくるのだ」 「そういう願望があるとは知らなかったな」 「ち、違うぞ」 「私が襲われたい相手はカイムだけだ」 「俺なら襲っていいのか」 「もちろんだ」 「ただ……時と場所は選んで欲しいがな」 「今ここでお前を犯したい」 「ううん……」 辺りをきょろきょろと見回すリシア。 「だ、誰もいないから……いいぞ」 俺はリシアの陰部に肉棒をあてがう。 「カイムのこれ、脈打っているな」 「そんなに入れたいのか?」 「お前が散々にいじり倒してくれたからな」 「我慢できなくなった」 「ふふ……ほら、入れていいぞ」 リシアは肉棒に手を添え、膣口に押し当てる。 俺はゆっくりリシアを下ろし、膣内に挿入していく。 「あっ……はあっ……」 「んくっ……ふんんっ、あんっ……」 リシアの膣が、俺の陰茎をずっぽりと飲み込む。 熱い肉壁がきつく締め付けてきた。 「ああっ、んんんっ……はあっ、はあっ……」 「あっ、くうっ、奥まで入ってるっ……すごく、きついっ……」 リシアの体重で奥の奥まで肉棒がめり込んでいた。 俺のペニスに押し出され、腹が少し膨れている。 「これで動かれたら、すごいことになりそうだ」 「すごいこと?」 「気持ち良くなり過ぎて、声が抑えられないだろうな」 「いいじゃないか」 「今度はこっちで奉仕してくれ」 「うう……わかった」 俺はリシアの体を持ち上げる。 「あっ……ああっ、んんっ……んっ……」 一気に引き下ろす。 「くううんっ、んんんっ、ああっ……」 「んんっ……やっぱりきついっ」 ずるるっ、ずちゅううっ 「うああっ、んんっ、はあっ、んくっ……」 「ああっ、んっ、んううっ、あっ……」 耐え難い快楽に、リシアは体を仰け反らせる。 リシアを上下に動かし、ペニスをリシアの膣奥に送り込む。 「あっ……んんっ、んっ、ああっ、あっあっ……はああっ」 「んあっ、はあっ、んむっ……んんっ、ううっ……」 「んんっ……か、体が痺れるっ……だめ、だめだめぇっ……」 駄目と言われても止められない。 「くああっ、はあっ……んううっ、ああっ」 「やあっ……あああっ、んっ、んんっ、ふああっ」 奥を突く度に、リシアの膣内がきゅうっと引き絞られる。 甘い快感に肉棒が震えた。 「気持ちいいか」 「ふんんっ、ああっ……き、気持ち良すぎるっ……」 「ああっ、もう少しゆっくり、動かしてくれっ」 「悪い、それは無理だ」 「んんんっ、ううっ……カイムの意地悪っ、ああっ、はんんっ」 「お前の中が気持ちいいのが悪い」 「んんっ、くすっ、馬鹿……んっ、あっ、あっあっ、はああんっ」 膣奥をぐりぐりと肉棒で抉られ、リシアは快楽に震える。 「ああっ……でもやっぱり、少し休んでくれっ……」 「あくっ、んっ、こんなの……すぐいってしまう、ぞっ……」 「ああ、いいぞ」 俺は激しく腰を動かし、リシアの膣内を滅茶苦茶に突く。 「はああっ、んあっ、くううっ、んくっ、ああっ、あんんんっ」 「ふうっ、んんっ、んっ、あああっ、あふあっ、やあっ、ああああっ」 襲い来る快感に、喘ぎ声を上げるリシア。 「くうんっ……だめっ、カイムだめえっ、ああっ、いって……しまうぅっ……」 「んんっ、もう我慢できないっ……」 リシアの膣内が痛いくらいに締まる。 「ああっ、もう、もうっ……あああっ、んんっ、はああっ、ああああっ!」 「あ、ああ、んんっ、いくっ、いくぅっ……んんんんっ……んくううううぅぅぅぅぅぅっ!!!」 リシアは体をぐっと反らしながら絶頂に達した。 「ふうっ、はああっ、ああっ……あっ、はあっ、はあっ……はあ、はあ……」 「ふんんっ、ううっ、あっ……いって、しまった……」 蕩けきった顔で体を震わせている。 「うう、達してしまったではないか……」 「カイムは……射精してないのか」 「ああ、まだだ」 「私だけいかせるなんて悪い奴だ」 「どうして出さない?」 「もう少し、リシアの中を楽しんでいたいんでな」 「ば、馬鹿……恥ずかしいことを言うな」 リシアは真っ赤な顔で俯く。 「……ん、カイム」 「何だ?」 「と、とりあえず一度ここでやめないか?」 何だ、いきなり。 「俺はまだいってないぞ」 「わかってる、わかっているのだが……」 もじもじと体を揺するリシア。 「こんなところでやめられるか」 「で、でも……」 「とにかく、一度降ろしてくれ」 何を渋っているのか知らないが、ここでやめたら生殺しだ。 「んううっ、あああっ、んはあああぁぁぁっ!」 膣奥を突くと、リシアの声が跳ねる。 愛液でぬかるんだ膣内が、ぎゅうぎゅうと俺の肉棒を絞ってきた。 「やっ、待て……待てと言っているだろ!」 「ゆっくりってことか」 「無論それもだが……いや、違う!」 「一度抜いてくれっ」 「嫌だ」 俺はリシアを抱えたまま、激しく腰を動かす。 「やああっ、んううっ、んんっ、はあっ、んんんっ」 「やっ、んんっ、はあっ、うくっ、んんっ、ああああっ」 「んんんっ、だ、だめっ……だめえっ……ああっ、んっ、はああっ」 「ふあっ、んあうっ、ふんんっ、ひんんっ、んあああっ」 体勢のせいで、リシアの肉壁に激しくこすれる。 止めどない快楽に、さらに動きを速くする。 「ううっ、くっ、んんっ、だめ、気持ち良すぎてっ、耐えられなくなるっ……」 「ああああっ、こ、声が聞こえてしまうっ、もう少しゆっくりっ……」 「んんっ、んくっ、はああっ、んむっ、んんんんっ」 「リシア、気持ちいいぞ」 愛液でたっぷりと濡れた膣内が俺の肉棒を絞ってくる。 快楽に腰が震える。 「んあっ……駄目だと言っているのにっ、私がどうなってもいいのかっ……?」 「お前は最高の女だ」 「あんっ、んはっ……そ、それは嬉しいがっ……!」 リシアの膣内が一際強く締め付ける。 「あっ……んんっ、だめっ、このままでは、我慢できなくなるっ……!」 「我慢するな」 「はんんっ、ふうっ…くあっ、んんんっ、ふあああんっ」 「あうっ……くうんっ、あっ、もう気持ち良すぎてっ、だめ、もうだめっ……」 膣奥が俺のカリ首を掴み、容易に離してくれない。 俺のペニスに吸い付いてくるかのようだった。 「いいぞ、いって」 「あんんっ……ち、違うんだ、カイム聞いてくれっ……」 「あくっ、はあっ……あ、あのなっ……」 「その、んっ……あうっ、もう、もうお小水が我慢できんのだっ……」 「くっ、このままいかされたら、出てしまうっ……!」 可愛いことを言うな。 「遠慮しなくていい」 「ば、ばかっ、だめに決まっているだろうっ……」 「お願いだカイム……降ろしてくれっ」 何とか逃れようと、リシアは体を揺する。 だが、それくらいでは外れない。 「ちょうどいい格好をしているじゃないか」 「やああっ、だめだ、こんなの恥ずかしすぎるっ……」」 「あっ、はああっ、だめ、もうだめ……カイム、カイムっ、達してしまうっ……」 「ふああっ、あんっ、くあっ……やあんっ、んんんっ、だめぇっ……」 「んあっ、あふうっ、ふんんっ……あっ、あっあっあっ、いああああっ」 「俺も出そうだっ」 熱くなった膣壁に、肉棒を叩きつけていく。 ぎちぎちに詰まったリシアの中を抉るように突く。 「ああっ……だ、めぇ、私も……ああっ、はああっ、あああああっ!」 「やっ、やあっ……こんなのだめっ……が、まんできないっ、あっ、くうううんっ!!」 「はっ……はあっ、あああっ、んんんっ、あっ、だめ、だめええええええぇぇぇぇぇぇ!!!」 どくっ、どくどくどくっ、びゅくっ、びゅるっ! びゅるっ、どくっ、びゅくくっ! 「くうっ……」 リシアの膣内に精液の奔流を注ぎ込む。 びゅるっ、びゅくっ、どくっ! 陰茎が膣奥に絞られ、さらに白濁の液体を吐き出す。 「……あっ……かっ……あうっ……!」 リシアは声にならない悲鳴を上げ、激しく体を痙攣させていた。 「あっ……ああっ、あううっ……んんんっ、だ、だめえっ……」 「やっ、やっやあっ……やあああっ!」 しゃあああああっ リシアの陰部から、黄金色の液体が迸る。 「あああっ、み、見るなカイムっ、うううっ、と、止まらないっ……」 「ふうっ、んんんっ、はあっ、んんっ……」 相当我慢をしていたらしく、リシアの尿はなかなか止まらなかった。 「うううっ、ひどい……ひどすぎるっ、この年になって、こんなっ……」 「見られた……カイムに見られたぁっ」 「気にするな」 「気にするに決まっているだろうっ!」 泣きべそをかくリシア。 「うああっ……もう恥ずかしくてカイムと顔を合わせられないっ」 「大丈夫だ、お漏らしをしても愛しているぞ」 「ああああっ、お漏らしとか言うなっ」 「お前が途中で降ろしてくれれば良かったのにっ……」 「それは無理だ」 あそこでやめるなんてできない。 ようやく出きったのか、リシアの放尿が終わる。 「うう……」 「気持ち良かったぞ、リシア」 リシアの膣内から、俺の出した白濁があふれ出てくる。 毎度のことだが、随分と沢山出したものだ。 「お前の奉仕は素晴らしい」 「ほ、本当か?」 「最後にいいものを見せてくれたしな」 「ば、馬鹿馬鹿あっ……!」 俺に抱えられたまま手足をばたつかせる。 「こら、暴れるな」 「カイムなんて嫌いだっ」 「嫌いなのか?」 「俺はお前のことが好きだぞ」 「……」 眉根を寄せて黙り込む。 「ああもう、わかった」 「だからもう恥ずかしいことを言うなっ」 羞恥で耳まで赤く染める。 「リシア、すまない」 俺は素直な気持ちでリシアに謝る。 リシアはここまで俺に尽くして、俺のことを好きでいてくれる。 それなのに、俺はリシアに厳しくしてばかりだった。 「カイム……」 「これからはもっと優しくする」 「ああ、期待している」 「リシア、愛しているぞ」 「ふふっ、私もだカイム」 「すべての国民の次に、お前のことを愛しているぞ」 ──こうして、俺とリシアは仲直りをした。 人間は誰しも不完全だ。 国王としてのリシアには、いくつもの欠点があった。 だが、欠点があるなら補ってやればいい。 そのために俺がいる。 俺は自分の役割を理解してからは、喧嘩することもほとんどなくなった。 ただ──。 案の定、召使いや貴族達の間には、俺たちの噂が広まった。 この日の出来事は『国王陛下、初めての夫婦喧嘩』として、王城で長く語り継がれることとなったのだ。 数年後。 リシアは先王にも劣らぬ立派な国王となった。 しかし、国王にこの在りし日の噂話を聞くと、 今でも顔を赤くして苦笑いを浮かべるのだという── トントントン…… 調理の音が規則的に聞こえる。 そんな朝の気配に目が覚め始めた。 隣に妻──フィオネの姿はない。 先に起きたのか。 いつもなら俺も起床している時間だが、ここ数日の疲れのせいか、瞼が重い。 ……起きてしまえば、目も覚めるだろう。 俺は身を起こして立ち上がって、半ば自動的にフィオネのいる方へ向かった。 「ん? ……すまない、カイム。起こしてしまったか」 「おはよう」 「ああ……」 「眠そうな顔をしているな」 「そうか?」 調理の手を止め、フィオネが振り返っていた。 俺はぼんやり“家に帰ってきた”と感じる。 「せっかく戻ったのだから、もう少し休んでいたらどうだ?」 「まあな」 そう言いながら椅子に座る俺を見て、フィオネは柔らかく微笑んだ。 「朝食を用意しようか?」 「ああ。それ目当てで帰ってきた」 「そうなのか。責任重大だな」 フィオネは至極真面目に頷き、彼女の領域に戻ってゆく。 鍋の番をする傍らで、少しのパンと果物を支度しはじめた。 仕事から未明に帰った日の朝は、フィオネは腹に優しいものを振る舞ってくれる。 昔から食事への関心の低い俺だが、今は密かな楽しみになっていた。 美味そうな香りが部屋に漂う。 「葉菜と牛乳のスープか」 「良さそうな野菜が手に入ったんだ」 ああ、久し振りの手料理が楽しみだ。 牢獄では、不蝕金鎖による自治が効果を上げていた。 ルキウス卿との協定後、治安は目に見えて落ち着いている。 俺たちの稼業もずいぶん楽になった。 とはいえ、荒事がなくなることはない。 ここ十日ほどは珍しく大物にかかりきりで、家を空けてしまった。 その案件も昨日片付き、深夜に帰宅して今に至る。 治安が安定したことで、物や金、人の流動性が増し、街には活気が溢れている。 と同時に、これまでなかった種の厄介ごとも起きたりする。 新しい風が吹けば新しい塵が舞うのも仕方ない。 ただそれを積もらせたり倦ませたりしないことが、今の俺の仕事のように思えた。 柄にもないことだが、もしかしたらフィオネの影響かもしれない。 「そういえば、フィオネも昨夜は寝ていなかっただろう」 「昨日はたまたまだ。何となくカイムが帰ってくる気がして」 俺が戻ったとき、フィオネはこの席に座っていた。 ……日記を書いていたようで、慌てて隠していたか。 戻りの遅い夜は先に眠ってくれと言っているのだが、彼女は俺を待っていることの方が圧倒的に多い。 「そうだ。カイム、朝食の前に洗顔を」 「ああ、わかった」 「やはり、一緒に食卓を囲めるのはいいな」 フィオネは明るい表情で配膳を始めた。 俺たちが共に暮らすようになって、そう長い時間は経っていない。 だが、俺にとっては、フィオネと暮らすことの方が日常となっている。 ごく自然に。 「また忙しくなりそうだな」 「どうしてそう思う?」 「すまない、食事中にする話ではないな」 フィオネは苦笑し、何事もなかったかのように果実を口に運んだ。 近頃は美味い果物も出回り始めている。 「何か耳にしたか」 「いや、肌でそう感じただけだ」 「それに、忙しいと言っても辛いわけではない。むしろやりがいがある」 「我々が、時代を変えているのだからな」 今、全ての民の一挙手一投足が、次の世代を築こうとしている。 自分たちも、その一翼を担っているのだ。 真摯な眼差しが俺を見つめた。 凛々しい相棒としてのフィオネが顔を覗かせる。 が……それも僅かな間のこと。 彼女は穏やかな妻の顔に戻る。 「フィオネの当面の目標は“風呂”だな」 「忙しくなれば、軍資金も貯まりやすいだろう」 「申し訳ないがそれもある」 「どうせ俺も使うんだ、金を出すか?」 「気持ちはありがたいが、贅沢品なのだし自分で工面するのが筋だ」 「そうか」 フィオネらしい考え方だ。 たまには、贈り物などしてご機嫌を取ってみたかったが。 ……機会を窺うか。 俺は肩をすくめて、引き下がる振りをした。 「さて、ごちそうさま」 「ごちそうさまでした」 「美味かった。生き返る心地だ」 「大げさな……でも、ありがとう」 彼女の料理で腹が満たされると、疲れた心身もすっと癒える。 眠気もとうに消えた。 「片付けは俺がしよう」 「いや、女の務めだ」 「いつもはそうかもしれないが、今日はいい」 「私も好きでやってるんだ」 俺たちは苦笑しながら食器を下げる。 お互い譲り合わないのも相変わらずだ。 それでいて不思議と仲違いしないのも相変わらず。 「……いい女だな、フィオネは」 「なっ!?」 「隙あり」 紅くなってうろたえるフィオネから皿を奪い、俺は水場へと運んだ。 「か、カイム。なにも嘘をついてまで……」 「嘘だと思うか?」 「ぅ……日の高いうちから、そういう冗談は……」 別に嘘でも冗談でもない。 だが、これ以上言うとフィオネが動けなくなりそうだ。 「夜なら口説いていいのか?」 「しっ、知るか……」 「あ、洗い物は私がするっ」 身体を押され、水場から追いやられる。 彼女の横顔は一層紅潮していた。 「ふぅ……」 明るい場所でフィオネのこんな顔を見るのも珍しい。 「見られていたら気になってしまう……すぐ終わるから後ろで待っていてくれ」 ここは従っておくか。 カチャ、カチャ…… 「そうだ。カイム、後でお茶を入れよう」 「……カイム?」 大人しく椅子にかけて待っていようと思ったのだが、俺はまだフィオネの傍にいた。 さきほど思いついたことが頭から離れなかったのだ。 ……俺は夜にしかフィオネを抱いたことがない。 彼女は、夜に睦み合うことさえ恥ずかしがるからだ。 だから、当然といえば当然なのだが…… 明るい時に妻の様々な姿を見たいと思うのは、さほど道理から外れていまい。 そもそも、ここ数日フィオネの肌を味わっていない。 夜まで飢えたままというのも、少々侘しい。 「カイム、どうした。何か相談でも?」 微塵も疑わず、フィオネは朗らかに振り返る。 彼女が食器を洗い終えるのを見計らって、俺は背後から抱きしめた。 「ひゃっ……か、カイム、なにを」 「うん、まあ」 フィオネの狼狽に気付かぬふりをし、ゆっくり身体を密着させる。 彼女の柔らかい感触が、すっぽりと腕の中に収まった。 「んっ……あの、お茶を……、んぅ」 こういうときフィオネは意外と怒らない。 そんなことも、同居して初めて知った。 仮に怒るとしても、俺の真意を確認してからこちらに否があったときだけ叱る。 「寝ぼけている……わけではないな」 「もちろん」 「むぅ……」 明らかに緊張した様子で、〈俯〉《うつむ》いてしまう。 「お、大きな子どもができたみたいだ」 口調はそっけない。 だが、朝陽の中では羞恥の表情がよく見えた。 たとえ彼女が凄腕の剣士だとしても、その素顔は純粋な少女だ。 「子ども、な」 抱きしめたまま、首筋に顔を埋める。 数日ぶりに感じるフィオネの体温。 昨夜は疲れが勝って、俺はすぐに眠ってしまった。 その分を取り戻すかのように、感触を味わってゆく。 「ふ、ぁ……っ」 起きて一番に身体を清めていたのだろう。 呼吸すると、彼女らしい清潔な香りが肺に満ちる。それと同時に甘い匂いも。 フィオネには悪いが、止められそうにない。 「カイム……向かいの窓から見られるぞ」 「それにまだ朝だ」 「向かいは無人だ」 「それに、朝に抱くなという法はない」 「んぁっ……法はなくとも、道徳に反するだろう……?」 俺の本気を悟ると、彼女はようやく身を〈捩〉《よじ》り始めた。 だが、この態勢から逃げるのは困難だ。 それにフィオネの腕にはほとんど力が入っていない。 「んっ、ぅ、こら」 「……ずいぶん久し振りな気がする」 耳元で囁いて、俺はそっと彼女の胸に触れた。 思ったより自制が効かなかった。 「や、ぁっ?」 「カイム……本当に、困る」 手を乗せただけで、フィオネはこわばってしまった。 なけなしの抵抗さえ忘れて。 彼女らしい反応を眺めながら、俺は胸の丸みを揺すり始めた。 「んっ……ぁ、ぅぅ」 控えめな重みが、衣服越しに感じられる。 俺は素肌を愛撫するのと同じように、指を蠢かす。 「それ以上は、ゆ、許して……ぁあ」 トクン、トクンと手の平に鼓動が伝わってくる。 夜の時と同じ律動を感じつつ、今度は下衣へも手を伸ばした。 「っ!? だめだ、待って……くぅ」 「……っ、は、ぁっ、ふ……ぅ」 「は、破廉恥だっ……カイムでなければ、投げ飛ばしているぞ」 「当たり前だ。他の奴にこんなことを許されたら困る」 「そういうことじゃなくっ……んぅっ、ぁ、そんな……ぁぁぁ」 身持ちの堅そうな長い下衣をたくし上げ、彼女の美しい脚を日に晒していった。 膝から腿が徐々に露わになる。 フィオネの泣きそうな声が聞こえたが、止めない。 「ぅ、く……いやだぁ……」 やがて下着まで露わにし、俺は太腿の隙間に手を差し入れた。 「はぁっ、はぁ……これは何の罰だ」 「私に不手際があったなら、教えてくれ……」 「違う。罰だと思ったのか?」 「もう、それ以外考えられない……」 両脚を、もどかしげに摺り合わせる。 無意識の防衛行動なのだろう。 だが、俺にとってはこの上なく扇情的な姿に映った。 「んぅ!? ぁ、あ……あの、あぁ」 フィオネを苛むうち、陰茎が首を起こしてしまった。 全身が密着するせいで、勃ちつつあるものが彼女の背中を無遠慮に押す。 「もしかして、腰、あ、当た……っ」 「すまん」 だが俺は身を引くどころか一層強く押しつけた。 「ふぅあっ!?」 「だ、だめだっ、明るいうちは……だめだっ」 「手を……退けてくれ」 嫌がっているのではないことを確かめながら、慎重に上衣をはだけさせてゆく。 ボタンを外してゆくと、目映い柔肌が垣間見えた。 「ふぅあ、ぁ……っふ、……ぁあっ」 「ぁっ、あ……ぁぁぁあっ」 「や、だめ、だ……見るなぁ」 上衣を割り、ゆっくりと彼女の素肌を暴いた。 膨らみの中心で、紅い尖りが慎ましく上を向く。 それを指で挟むようにして、俺は乳房を覆った。 「……くっ、は、ぁ……ぁぁ」 「……温かいな」 「知らない……んっ、ふ……!」 しっとりとした乳房は、直に触れるだけで幸福感を呼び起こす。 彼女の呼吸に合わせて指を蠢かし、俺は徐々に快感を送り込み始めた。 「ぅ、く……ぐすっ、んん……っ」 胸と同時に、脚の方の手も滑らせる。 几帳面につけられたベルトをなぞり、徐々に腰へと昇る。 「すぅ、はぁ……ん、んぅ!」 「ぁあぁっ……そこは……っ」 くびれを愉しんだあと、再び下に潜る。 そして三角の隙間へと侵入し…… 瞬間、彼女の身体がかっと熱くなった。 「はぁっ、は、ぁあっ! は、放して」 「……どうして」 「今はだめだ……はしたないことに、なってる……くぅ」 脚を擦らせ、腰を引いて逃げようとする。 そんなことをすれば尻が肉棒に触れるというのに。 「ひゃぁっ? ぁ、ぁあっ」 乳房を握る手が彼女の汗で蒸れた。 反射的に握り返すと、フィオネは俺に密着したまま震える。 徐々に声が熱っぽく変わる。それを聞きながら、俺は両手の力を慎重に強めていった。 「だめ……ぁあっ……いやぁ……っ」 「……っ……ぁ、はぁっ! はぁっ、ふ……ふぁぁ」 これまでと異なる、切なげな嬌声が漏れた。 俺に身を委ねたまま、フィオネは動かない。 「……触れるぞ」 「ぅうっ、く、ふぁっ……んぁっ」 弱々しく首を振る。 それを無視して、俺は秘裂の上をなぞった。 「や、ぁっ……ごめん、なさい」 「ふっ、ぁぁぁぁ……」 フィオネが焦った理由はすぐに分かった。 下着はすでに熱い蜜を吸い、触れた指をすぐ濡らす。 この痴態を知られたくなかったのだ。 「んっ、ぁ……はしたない……」 「俺は嬉しい」 「やぁっ、ぁ……それ、だめっ!」 ヌルヌルと染みを拡げるように指を動かす。それだけで、また新たな蜜が俺を汚す。 羞恥と快楽と背徳感と……様々なものに苛まれながら、フィオネは力を失ってゆく。 「ぁあっ、は……すぅ、はぁ……カイム……」 「これ以上されたら、もう……ぁあっ」 熱く潤んだ瞳が俺を見上げた。 許しを請うような表情さえ、たまらなく艶めかしい。 早く繋がりたい。そんな欲が沸く。 「……抱かれてくれ」 「んっ、ぁ……ふぅあっ……」 彼女の葛藤を解くように、優しく囁いた。 フィオネは今も、女性から求めることに対して羞恥や罪悪感を覚えるようだ。だが。 「ひゃ、ぁっ……カイム……指、やめて……擦らないで……ぁぁあぁっ」 「おかしくなる……こんな場所で、だめだ……それも、立ったままなんて……!」 せっぱ詰まった声は、俺ではなく自分に言い聞かせるかのようだ。 彼女の肉体に火が点いてしまったから。 夫婦になって以来、感じやすくなってしまったから。 「んくっ、んっ、んぅうっ……優しく、しないで……も、もうっ……!」 「ふぅはっ、はっ、ぁっ、ぁぁあ!」 フィオネの全身が火照り、汗を浮かせる。 秘所と同時に乳房を撫でると、過敏に背筋が跳ねた。 慎重に、指へ力を込めてゆく。 「っ!? 指っ、く、食い込む……」 「は、入ってくる……ぁあっ……中に……くぅぅっ」 「暴れないで……き、気持ち、ぃ……」 “気持ちいい”と言いかけて、フィオネは慌てて口をつぐむ。だが、もう俺には聞こえてしまった。 俺は下着の布地ごと秘裂の奥へと指を押し込む。 「んんんんっ! んっ、あっ……」 彼女の入口に、布地ごと二本指が食い込んだ。 愛液を吸いきった下着は粘膜を思わせるほど熱く、ヌルヌルと俺の指を汚してゆく。 「ふあっ、ぁあっ、あぁああ! いく……カイム、カイムっ!」 「見ないで……顔、いやだ……んくっ、んっ、ぅ……いや……」 クチュッ、ニチュッ、と、淫らな水音が大きくなる。 手に収まった乳房は喘ぎ声に合わせて揺れ、乳首を限界まで勃たせている。 「……感じてるフィオネの顔が見たい。いやか?」 「ぅぅぅぅっ……んくっ、ぅ、ぁ……困る……んぅっ、恥ずかしい……!」 戸惑いながらも、フィオネは俺の胸に身体を預けてくれた。 彼女にとっては精一杯の勇気だっただろう。 俺は望み通り彼女の表情を見ながら、責めを強くしていく。 「ぁ、あ、ぁ、ぁあっ! んぁっ、ふ、ぁ……あ、ぁあっ」 「んくっ、ぅ、ふっ……、ち、ぃ……気持ち、いい……ぅぅぅ……っ」 「……ん」 「はぁっ、ふ、ぁあっ……気持ちいい……胸も、は、はしたない場所も……っ」 「……っ、んっ、ぁ、ぁあっ……指で、ぐちゃぐちゃにされて……感じてる……ぅうっ」 理性が残るにも関わらず、フィオネはさらに応えようとしてくれた。 俺が望んでいると気づいたからか、自分が今どうなっているのか溺れながらも教えてくれる。 「んんんんんっ! ん、ぁ、んふう!」 「はぁっ、はぁあっ! カイム、いく……嫌いにならないで……んっ、ぁあぁあっ!」 「ああ、ならない。安心してくれ」 「んっ、ん、ぅっ、んっ、ぁ、ああ!」 閉じた脚がピンと張り、絶頂の前触れを見せる。 俺は布越しに陰核を擦り、彼女に見せつけながら乳房を弄る。 「ふぅ、あ、ぁっ、ぁ、はぁあっ」 「んんんんっ! んっ、ぅ、ひっく……両方、ぁあっ……い、くぅ……!」 ぢゅんっと愛液が噴き出す。それすら潤滑液にして、俺は上下の尖りを苛み続けた。 フィオネの身体が、燃えるように熱い……! 「ぅうぅうっ、ぅ、く、いく……っ! ふぅはっ、だめ、ぁぁあ!」 「ごめん、なさい、んんっ! ぁあっ、いく……ふぅぁぁぁあぁああ……っ」 びくんっ! びくっ、ひくん……! 「ふぁあっ!? ぁ、は、ぁぁ……!」 「やぁっ、んく! や、ぁ、だめ……ふぅぅうぅうぅう……っ」 俺の手を太腿で挟みながら、フィオネが達した。 尿意をこらえるような姿勢を取られ、俺は手の動きを制限される。 「っ!? う、動いてる……んあ! だめ、まだ、いって……や、や、ぁぁあっ」 脚がさらに閉じられるが、遅い。 俺は指先だけでなおも秘裂をなぞり続けた。 反対の手に抱いた、乳房の感触を味わいながら。 「〜〜っ、ぅ、くぅう……!」 「ぁあ、んあ! だ、め……おかしく、させない、で……んぅう、ふあぁぁあっ」 ぢゅくんっ……ぷちゅぅ……! 「ぁ、は、ぁぁああぁぁあ……あぁ……」 乳房を握り、乳輪を苛むたびにフィオネの腰が震える。 甘い性臭のする蜜を溢れさせ、フィオネは全身を弛緩させた。 「ふぁっ、はぁ……は、ぁ……んくっ……」 「何をするんだ、カイムは……」 「……もう一度、フィオネとしたい」 「っ、うぅ……」 「今、聞いてから後悔しただろう」 「はぁ、ふ……してない……多分」 「だって私も……その……もう」 乳房を覆う俺の手に、フィオネが恐る恐る手を重ねてくる。 ぎこちなく頭を俺にもたせかけ、小さな声で囁いた。 「は、ぁ……、……待ってる……」 あまりにも控えめだが、甘美な誘いだった。 俺を突き動かすには十分に。 「なっ? あ、脚を下ろして……!」 「こうした方が深く突ける」 「そんな……そもそも、ここでするのかっ?」 フィオネを椅子の背に掴まらせ、俺は彼女の脚を抱き上げた。 窓から差す陽も相まって、彼女の秘園がよく見える。 「……っ、食卓でするなんて論外だ……んっ、んんっ! カイムっ」 「夜でないのに、達したりしている。気にするな」 「で、でもっ、全部見えてしまう……ぁあっ……」 暴れた拍子に椅子が音を立てた。 その音にフィオネは緊張し、言葉を失う。 「ぅ、うぅ……」 「ふぅあっ、ぁ……こら、話の途中……んっ、ぅ、入る……っ」 秘裂を割り、俺は亀頭を押し当てた。 潤ったそこは素直に俺を咥え、深い挿入を待つ。 「ひゃっ!? ぁ、あ……そんなに大きく……っ!? すご、い……」 「フィオネに言われると、熱くなる」 「っ、んっ、ぁ、あぁっ……ふぁあ!」 「褒めたんじゃなくて……ふぅうっ」 もう限界だ。 体重をかけ、肉棒を沈めていく。 フィオネはどんなに言葉で拒んでも、声と身体で熱く俺を求めてくれていた。 「んぅうっ、かたい……ぁ、あ……ぁぁぁぁぁぁ!」 ぢゅっぷぅっ……ずぷぅっ! 「ふっ、ぁ、あ、んっ、ぁはぁぁぁあぁ……っ!」 「っ……」 「ぁぁ、やっと……んくっ、ふぁ」 膣道を埋めた瞬間、フィオネが喉を反らせて鳴いた。 存外の艶めいた声に、俺はぞくりと腰を震わせる。 「はぁっ、はふ、ぁあふ……カイム、あの」 「ん?」 「あ、あの……、気持ち……いい」 「っ!」 ドクンッと、彼女の中で棹が跳ねた。 「ふぅあっ!? ぁ、ふ……ぁあっ」 「す、すまん」 「いや……それも気持ちいいから……いい。うぅ……」 あのフィオネが、また自分の快楽を口にしてくれた。 脳裏が白くなる。 が、肉体の方は馬鹿正直に喜び、跳ねる。 「んっ、んんんっ!? あ、暴れてる……ぁ、ああっ……拡がる……!」 「っ、フィオネ……っ」 深呼吸し態勢を立て直す。 俺は彼女の脚を抱え、改めて抽送を始めた。 「はぁっ、ぁぁ……んぅ」 押し殺しきれない吐息が、卓の上で反響する。 彼女の声が本当に気持ち良さそうで、俺は知らず律動を速めてしまう。 「んっ、んっ、あ、ああっ、くぅっ……ふぁ……ぁあ」 「苦しくないか」 「ん……苦しくは、ない」 「は、恥ずかしいのは消えないが……大丈夫」 フィオネは椅子を掴む指先に力を込め、震える。 注意して見ると、まだ何かを言いたげだった。 「フィオネ?」 「う、ううん、なんでも……ぁ、ああ」 「ほ……本当は私も、カイムとしたかったんだなと……されてから、思い知った」 ぎゅっ……と膣が締まり、俺を閉じこめる。 甘い快感が全身を駆けめぐる。 だがそれ以上に、フィオネの囁きに痺れていた。 「……良かった。……っく」 「んんっ! んっ、うん……」 「ぁあ、ふ、深く、なる……んぁぁあっ」 フィオネの中は熱く蕩け、俺の形通りに襞を蠢かせてくる。 突き入れるたび、引き抜くたび、どんどん溶け合うかのような錯覚に襲われる。 「すご、い……ぁあ、中が……」 「ぐちゃぐちゃになって……擦れてっ。恥ずかしい、のに……ぁあっ……」 「フィオネ、強くしていいか?」 「っ、んっ! いい……」 「強く、して……ぁ、ぁぁぁああっ!」 たっぷり濡れた秘裂を割り、狭い道を強引に貫く。 そんな俺に応えるように、フィオネも控えめながら腰を揺すり始めた。 「あ、はぁっ、ん、ぅ……こうしたら、カイムも気持良くなれるか? んっ、ぅっ」 「教えて、欲しい……ふ、あぁ!」 肉襞で詰まる膣道が、不規則に暴れて俺を噛む。 彼女のしなやかな動きに合わせ、棹の根元から先端まで余すことなく搾られる。 「んっ、ぁうっ……擦れる……ごりって、して……ふぁあっ!」 「……続けてくれ。よく覚えたな」 「ひぁあぁっ……これで、合ってる? ん、んぅっ」 「ああ。とてもいい」 「ぅ、ぅうっ、は……ぁあ!」 羞恥に眉をひそめながら、フィオネは腰を掲げてくれた。 自ら根元まで飲み込み、俺の形に添いながら先端まで引き出す。 とろとろの蜜が肉棒に絡む様子が、陽の元ではっきりと見えていた。 「は、恥ずかしい……んっ、ぅっ」 「だんだん、勝手に動いて……ふぅ、あ!」 健気に動く尻を捕まえ、俺も手の平全体で愛撫した。 撫でている間も淫らに動き、抽送が止まらない。 フィオネの野生が発露したような……熱い求愛に目が眩む。 「どうして……ぁあっ、んぁあぁっ」 「怖い、のに、気持ちいい……!」 「フィオネ……っ!」 ドクンッ…… 「んんんんっ!? は、跳ねるっ……中、ぁあっ……急に、んくっ」 「は、ぁ……フィオネに“気持ちいい”と言われると、抑えが効かなくなる」 「す、すまない、わ、私……」 口走ったことに、フィオネは慌てて恥じる。だが俺はそれを制止した。 「違う……もっと聞きたい。聞きながら、いきたい」 「ぁ……ん、ぁあ……ぅうっ、く、ぅうっ」 彼女を促すように頬を寄せた。 密着したままゆっくりと肉棒を押し込み、引き抜く。 「ふぅあ、あ、んっ、ぁ、ぁあぁぅ……」 「フィオネ……」 「い、ぃ……気持ちいい……ふあぁ……!」 「愛しくなって、それで、……もっと、ひとつになりたくなる……っ」 膣襞が蠢き、再び棹を締めつけた。 俺も絡みつく肉襞を強引に掻き分け、徐々に激しい抽送を繰り返す。 「んぅうっ、ぁ、は……んんっ! ふぁ! あぁ! あっ! んん……!」 俺たちの動きはいつしか同調し、亀頭は最奥にまで突き刺さっていた。 それでも足りず、俺たちは衝動まかせに互いを貪る。 「ひっ、くぅうっ! ぁ、あまり激しくしたら、ふあっ!」 テーブルが激しく揺れる。 でも止まれない。俺たちはより深く速く繋がり合う。 「ぅ、う、ぅ、くぅっ……寝室でもないのに、こんな……!」 「こんな、獣のように睦み合って?」 「んんんんっ! ぅ、あ、ふああ!」 大きく揺れ、花を浮かべた碗が水音を立てた。 しかしそれ以上に、ぐちゅっ、じゅぷっと、蜜の音が鳴り響く。 「はぁあっ、ふっ……女性から、こんな風に求めて……あぁ……嫌に、ならないか……?」 フィオネが、溺れながら問うた。 彼女の不安を消すように、俺は包み込んで答える。 「ああ。嬉しすぎるくらいだ」 「はぁっ、ぁぁ……良かった……」 「ならいい……恥ずかしくても、獣になっても……」 「このまま、溶け合いたい……ぁぁぁああ!」 きゅうぅっ……フィオネの膣が一息に肉棒を呑む。 その瞬間、双の乳房が切なげに震えた。 俺は無意識に手を伸ばし、それを握り締める。 「ふぁあっ!? ぁ、はぁあぁっ!」 「いた……痛いのに、気持ちいい……く、ふぅうっ……!」 彼女の背がしなやかに跳ね、膣が強烈に俺を握る。 引き抜くたびに亀頭が肉襞に揉み絞られて気持ちいい。 たまらず乳房ごと彼女を抱き寄せ、幾度もその箇所を突き続ける…… 「んぅああっ、硬い、の、擦れるっ……めくれちゃ……ぅうっ!」 「カイムっ、ぁあっ、か、カイム……!」 フィオネが尻を掲げ、亀頭を最奥へと誘った。 健気に円を描き、棹全体を襞で引っ掻いてくる。彼女ならではの身体能力を全て使って、跳ねる。 「んっ、ぁ、ふっ……くぅっ!」 気がつけば、安普請の床もギシギシと音を立て、部屋中に情交の激しさを響かせている。 「んっ、ぅ、ぁ……こんな、に……はぁっ、ふあぁ……くぅ……!」 「睦み合って、いい場所じゃ……ないのに……でも、でも……やめたくない……ぁぁぁ!」 思えば二人とも、本来こんな場所でまで貪り合うような〈質〉《たち》ではない。 なのに何故これほどまで突き動かされるのか……。 「俺もだ、フィオネ……っ……」 「ひぅっ……ぁあ、胸、すごい……うぁ……んんっ」 「んくっ、ぅ、ぁっ、もっと……ふぁ」 心地良い弾力を味わううち、形が歪むほど握りしめてしまっていた。 吸い付く手触りに、陽に映える色艶に酔い、愉しむ。 「ん、はぁっ、ふ、ぅ……ぁあっ」 「……こんなに白かったんだな。綺麗だ」 「んくっ、ふぁ……ん、はぅ」 手の平に、トクトクと心音が伝わっている。 白い乳房が徐々に紅く染まるのがよく見える。 抽送のたび淫らに形を変え、俺の目を釘付ける。 「はっ、ぅっ……中も、乳房も……あなたの跡を残して……ぁ、ふぅっ」 「ああ……ちゅ」 「んむっ、ちゅ……れる……ぷ、ちゅっ」 視線が合い、どちらからともなく唇を重ねた。 フィオネは器用に首を巡らせ、小さな口付けを繰り返す。 「んっ、ちゅぷっ、ぁあっ、ふあ!」 以前より感じやすくなったフィオネの肉体は、触れるだけの口付けにさえ達しかけた。 肉棒を突き立てた接合部からは、とろりとした蜜が伝い落ちる。 「ちゅ、ぷ……床、汚してる……カイムの部屋なのに……ん、ぅっ」 「汚していい。俺たちの部屋、だろう?」 「ぁ、あ、あ、ふ、ぁあ!」 ぎちゅっ、ぢゅぷっ! わざと蜜を掻き出すよう、俺は律動を繰り返した。 怒張を突き立て、肉襞ごと引き抜いて、また貫く……こちらの限界も近い。 「ひぁあぁああっ! あ、はぅっ、ぁぅ……んくっ、ぅ、ぁあ……!」 「んっ、うん……わ、わたし、たちの……ふぅあっ……ぁ、ぁぁああ……」 フィオネの指が愛おしげに椅子の背を掴んだ。 俺が長く愛用している椅子の。 「んぁあああぁぁっ! ひ、ぅ……んぅうっ! も、ぅ……いく……ぅうあっ!」 「ふぅぁっ、は、はあぁっ! んくっ、ぅ……しびれ、るぅ……んぁ、んう!」 指先が白くなるほど椅子を掴み、フィオネがせがむように尻を掲げる。 健気な動きで精を求められ、俺も彼女を抱き上げて突き刺してゆく。 愉しむための動きから、膣内で達するための動きに変えて、彼女を組み敷く。 「ふぅうっ! ふぅあっ、んぁっ、ぁふ! んっ、んんんんっ!」 「ふ、深いぃっ、ふ、ぅっ、ぁ、ああああ!」 熱く切なげに肉襞が絡み、俺はたまらず力任せに最奥まで突く。 尻を打つ音が鳴るほど、速く深く、引っ掻き、犯す。 「……くっ、んんっ、んっ、はぁふっ!」 乳房も膣内も、俺の跡が残るまで。 甘い喘ぎを聞きながら丸みを歪め、膣の穴に亀頭をねじ込む。 込み上げる射精欲に何度も抗い、少しでも奥へ。 「ふあぁっ、あ、ん、ぁあ! 気持ち、いい……あつ……いぃいっ」 「も、もういくっ、ああ! 一緒に……来て、出して、ここっ……一緒に……!」 「っ、ああ……!」 「んぅあぁあっ! あ、あっ、あぁあ……んんぅ……っ!」 隙間無く密着し、互いが溢れる快楽を与え合った。 もっと深く……痙攣する膣道を無理やり混ぜ、再び絶頂へ── 「んんんんっ! ああ、一緒に……んっ、くぅうぅっ!」 「あなたの、で……いくっ……ふぅうぅ、はぁっ、ひうぅ、いくぅうぅっ」 フィオネは最後の力を振り絞り、震える腰を俺に捧げた。 俺は子宮口を穿ちきり、行き止まりを強く叩く。 熱く狭く亀頭を噛まれながら、俺はついに限界を迎えた。 「フィオネ……!」 「ふぅあっ、んぁあ……んぅんッ、ふ、ぁはぁああぁぁっ!」 「んっ、ぅ、か、カイム、カイムぅ……んんんぁぁぁああぁああ……ぁぁ……!」 びゅぷぅっ! びゅくっ、じゅぷぅ! 「ひぅあっ!? ぁ……ぁあああっ! ん、ふぅうぅうぅ……っ!」 「ぁ、あっ、熱いっ、ぁあ! んっ、ぅっ、ああっ……ぁぁぁぁあぁあ……」 フィオネの尻を引き寄せ、最奥へ一気に注ぎ込んだ。 肉棒が脈打つたび、フィオネは熱い吐息を漏らし、震え、そして…… 「んっ、ふっ……ぁぁっ」 「っ!? っく……」 しなやかな腰は、なおも俺を搾ろうと揺れた。 最後の一滴を放つまで、鋭い快感が送り込まれる。 「ぁあっ、ぅ……ん! はぁっ、ぁぁ」 どっ、ぷぅ……! 「ふぅあ……ふわぁぁぁ……」 「すご、い……こんなに、いっぱい……ぁあ……」 とろんとした瞳で、フィオネが呟く。 白濁が溢れそうになるたび、キュッと尻が締まる。 「は、ぁ……溜まってたかな」 俺はうそぶきながら、彼女の首筋に顔を埋めた。 絶頂の快感が凄まじく、声が掠れる。 「んっ、ぁ……すごい汗だ……ふふっ」 「……はぁ……あぁ……溜まってるカイムは、すごい」 お腹を触れながら改めて言われ、さすがに照れた。 彼女は時々、悪気も下心も無くそういうことを言う。 ふたり密着して余韻に浸っていると……コポリと音を立てて白濁が垂れた。 「っ……あの、そろそろ脚を」 「この格好は、やはり恥ずかしい……」 「そうだな」 ちゅ 「ひぁっ?」 ふと思い立ち、形の良い膝へ口付けを落とした。 彼女の身体がしなやかなのを良いことに、さらに持ち上げて脛や腿にも唇を這わせてゆく。 「こ、こら、危ない……んんっ」 「それ以上したら、抜けてしまう……」 「……抜かなくていいということか?」 「それはっ……いてくれたほうが嬉しいに、決まってる」 ドクンッ…… 「ひゃっ……今、わざと硬くしたか?」 「そんなわけない。フィオネが……」 “フィオネが素直に言ってくれるから”。 そう答えたら、今度から言ってもらえないだろうか。 「私が……なんだ?」 「フィオネが……愛おしいからじゃないか?」 「……疑問形なのか」 しまった。 「いや、フィオネが愛しいからだ」 「無理に……言わせてしまったな」 屈託なくフィオネが微笑む。拗ねた風もなく。 俺は咳払いし、耳元で低く言い直した。 「──フィオネが、愛しいからな」 「ぁ、んっ……」 「そんな声で囁かなくても……ふぁ」 逃げる彼女を捕まえ、耳朶を甘く噛む。 夫婦がそんな遊びを繰り返していてはどうなるか。 それも繋がったままとなれば……答えは一つだ。 午後も、このまま…… そんな俺の腹を知ってか知らずか。 フィオネは恥じらいながらこちらを見上げていた。 「んっ……、あの、カイム」 「?」 彼女らしい、真っ直ぐな視線が俺を見つめている。 言い淀んでいる風だったので、耳を寄せてみる。 「私も……だ」 「私も、あなたが愛しい」 「……愛している」 「……っ」 「愛しているから、な」 ドクンッ…… 「だ、だから、なぜ中で硬くなるんだ……んぁあ!?」 「……説明していいのか?」 「ぅっ、ぐっ……いい、やっぱりいい」 「ぁうぅ……さっきより硬いじゃないかぁっ……」 これも新婚の作法だと言い聞かせる。 午後と言わず、俺はこの後すぐフィオネを求め……そのまま一日が過ぎていった。 いい日だった。 「……遅いな」 「搬送に手間取っているんだろうか」 仕事も上がり、俺たちはヴィノレタに立ち寄っていた。 とある商人と落ち合うためだ。 だが、約束の時刻を過ぎても先方は姿を現わさない。 遅めの昼食をとりながら待ったが、その皿も空になってしまった。 「運んでもらうものが大きいし、仕方ない」 ごちそうさま、と丁寧にフィオネが言った。 「あら、何かお取り寄せでも?」 皿を下げにきた……振りをして、メルトが尋ねてくる。 「なぜ買い物だと思う」 「奥様が珍しくそわそわしてるから」 「そうか。そうかもしれない」 「で、奥様、何を買ってもらったの?」 「俺が買ったんじゃない。フィオネの自前だ」 「えー、つれないわねぇ。最近お稼ぎのカイム先生が、女性に贈り物もしないなんて」 芝居がかった口調で言われるが、無視する。 するとフィオネが代わりに答えた。 「違うんだ、私が自分で買うと言って」 「自分で? 自分で……ああ!」 「ってことは、もしかして念願の!?」 「そうなんだ。アレを」 フィオネが長らく欲しがっていたものに、メルトはすぐ思い至ったようだ。 「そっか、お風呂かぁ」 「なるほど、道理で奥様が嬉しそうなはず……女の憧れだものねぇ♪」 「……ふふっ」 メルトは手を頬に当てて、うっとりと呟く。 それが伝染ったように、フィオネも珍しく表情を崩して微笑んでいた。 「……」 こういう幸せそうな顔を見ると、一刻も早く浴槽を見せてやりたくなる。 「フィオネ、少し外を見てくる」 「私も」 「入れ違いになるかもしれないから、フィオネは待っていてくれ」 「すまない」 「いや」 俺だって、早くフィオネが喜ぶ顔を見たいから。 そう思ったが、当然口にはしなかった。 「ふーん。……くすっ」 ……メルトがいるからな。 「すっごく愛しちゃってるのねえ、カイム。紳士じゃない」 「さあな」 「えっ、えっ?」 メルトと俺に挟まれて、フィオネが戸惑う。 その姿に少し笑ってから、俺は店の外へ出た。 もたもたしていた商人の尻を叩いて用事を済ませ、ヴィノレタに戻る。 メルトはまだフィオネに付ききりだった。 ちゃっかり俺の席に座って話し込んでいる。 「そんなことで喜ぶものなのか?」 「絶対喜ぶから、試してみなさいって」 「夫婦には夫婦の礼ってものがあるのよ」 「う、うむ……心に留めておこう」 「メルト、適当なことを教えていないか」 「か、カイムっ? いつからそこに」 「あーら、おかえりなさい」 フィオネはやけに顔が赤く、メルトは妙に上機嫌だ。 一体なんの話をしていたのやら。 「時間がかかったようだが、何かあったのか?」 「商人が下層の奴でな、道に迷っていた」 「家まで案内したから大丈夫だ」 「ならば良かった、早速見に行こう」 メルトに勘定を済ませ、俺はフィオネを促した。 「じゃあね、おふたりさん。お風呂楽しんで」 「ありがとう、メルト殿。また」 「メルトに何を吹き込まれたんだ?」 「い、いや、別に何も」 フィオネの顔が紅潮する。 相変わらず隠し事が下手な奴だ。 「しかし何だ、その、申し訳ないな」 「何が?」 「商人の道案内をさせてしまった」 「どうということはない」 「いや、大変だっただろう、私にはわかる」 何を言っているんだ、こいつは。 「大変だったらどうだと言うんだ?」 「うむ……れ、礼をしなくてはなるまい」 「ほう」 「た、例えばだが……その、か、身体を洗ってやるとかだ」 顔を真っ赤にしてフィオネが言う。 なるほど、メルトに吹き込まれたのはこういうことか。 「つまり、一緒に入りたいと」 「うむ……」 「……いや、違う、そんな恥ずかしいことができるか」 「カイムがどうしてもと望むなら、ということだ」 一緒に入りたいかと問われれば、入りたい。 ここは話に乗ってしまおう。 「ぜひ入りたいな」 「俺からも頼もうと思っていたくらいだ」 「な、なら、仕方ないな」 「すごく恥ずかしいのだが……その、特別だからな」 「ああ、わかってる」 「特別だぞ」 念押しして、フィオネは恥ずかしそうに顔を逸らした。 「よし、急いで帰るか」 「ま、待って。……言ってるだけでのぼせてしまったかもしれない」 その後、行商人とその仲間も含め、数人がかりで浴槽を設置した。 待ちかねたように、フィオネが湯を沸かす。 「まだ昼間だぞ」 「あ、ああ」 「今日くらいは……早く入ってもいいだろう」 そう言って、フィオネは嬉しさを隠さずに微笑んだ。 少しばかり遠回りがあったものの、これで晴れて我が家に風呂がやってきたことになる。 なかなかに喜ばしい光景だった。 「こんな大きな買い物をしたのは初めてだ。まだ胸がどきどきしている」 「羽狩りにいた頃は、どんなものを買っていたんだ?」 「生活に必要なものばかり。あとは本とか」 「隊長になってからは、特にそうだったな」 苦笑を漏らすフィオネの頭を、俺はぽんと撫でる。 「欲しい物がないわけではなさそうなんだがな」 「そう。迷っている間に買いそびれてしまうことが多かった」 「でもこれは、カイムも背中を押してくれたから手に入った」 「本当にありがとう。ずっと大切にする」 ……フィオネらしい、まっすぐな礼だ。 「じゃあ、そろそろ湯を張るか」 「うん!」 フィオネの言葉ひとつひとつから、嬉しそうな様子が伝わっていた。 これからは、家に帰れば毎日、この喜ぶ顔が見られるのだろう。 ちゃぷ 「ん、熱いか」 「すまない……久し振りで、湯加減を間違えてしまった」 「もう少し待ってもらって良いか?」 「ああ。フィオネの好きな加減で」 張った湯が、思った以上に熱かったようだ。 俺は浴槽に縁に腰掛け、湯気に手を伸ばした。 「水を足そうか」 ふと思い立って提案する。 「そうすると、浸かったときに床へ水が跳ねるかもしれないから」 「そうか?」 「ほ、ほら、その……ひとりじゃなくて、ふたりで入ると」 「……なるほど」 改めて思い出したのか、フィオネは赤くなって俯く。 今その頬に触れたら、この湯気のように熱いかもしれない。 「う……」 「?」 フィオネがまだ何かを言い淀んでいる。 いつの間にか耳まで赤くなっているのが気になった。 「あの、カイム。良かったら」 「せっかくだし……湯が冷めるまで、その、お、お礼をさせて……」 「礼?」 「も、もらうばかりじゃなく、私もお返しがしたい……ん」 囁いて、フィオネは俺の頬に口付けした。 「メルトに、何か入れ知恵されたな?」 「っ……一つだけ」 「妻は夫に甘えていい。その代わり、礼も欠かさなければいいと言われた」 「カイムが嫌じゃなければ、だが」 フィオネは恐る恐る俺の顔を覗き込む。 嫌なわけがないのだが、彼女はまだ少しその辺りの理解が浅い。 「今日ばかりは、メルトの言う通りだ。フィオネはもう少し、俺に頼ってくれていいと思う」 「……ああ」 「じゃあ、任せていいか?」 彼女の髪に指を差し入れ、ゆっくりと梳く。 フィオネは目を細めてそれを受け止め、震えた。 「ま、任せてくれ」 「そこに腰をかけて、目を瞑って待っていてほしい」 言われた通りにして待つと、目の前からかすかな衣擦れの音が聞こえてきた。 続いて、俺の下衣に細指が伸び、弱々しい手つきで前を解放させてゆく。 「できれば、目で見てみたいが」 「へっ? いや、それはっ」 「その楽しみは、また“次”に……んっ」 下着に指が差し込まれ、中の肉棹を直に触れられる。 そして、未知の柔らかな何かに挟まれ、包まれ…… 「ふ、ぅ……もう、目を開けていい」 消え入りそうな声を聞いて、俺は頷いた。 「ん、ぁ……ふぅ」 「……っ」 柔らかさの正体は、思った通りのものだった。 「お、驚いたか?」 「ああ。でもそれ以上に嬉しい」 「そう、か……良かった」 乳房の部分だけ上衣をはだけさせ、フィオネは大事そうに俺の肉棒を包み込んでいた。 しっとりとした乳房の心地よさと、目に眩しい肌の白さに、胸が高鳴る。 「こういう作法があるなど、今まで知らなかったから……もし違っていたら教えて欲しい」 「ん……」 俺は彼女の髪を撫で、了解の意志を伝えた。 「ふ、あ……大きくなってきた」 「では、はじめるぞ。……ん、んっ」 肌を押しつけて肉棒を挟み込む。 初めての感触に、フィオネは戸惑った声を漏らした。 「んく、ぅ……?」 「これは、難しい……ぁ、ふぁ……!」 焦るせいか肌が汗ばむ。小刻みに揺さぶるため、控えめな乳首が何度も棹や腹を摩擦している。 「や、ぁ、当たる……ぅぅ」 「気持ちいいな、フィオネの胸は。手や口の時とまた違う」 「はぁっ、ふ……もっと強い方がいいか?」 「そう……だな」 「なら……もっと……カイムの感触が、胸に馴染むように……ん、ふぅっ」 フィオネは細指で乳房を寄せ、圧迫を増してきた。 徐々に強張る怒張が、柔らかな乳房に埋もれてゆく。 「ぁあぅ……んっ、ふ……また擦れる……ぁ、はぁっ」 フィオネが身を乗り出すたび、乳首が一層押し潰されていた。 密着させたまま上下に摩擦するため、フィオネ自身も少なからず快感を味わってしまうだろう。 「ふあっ! あ、熱い……ぁ、く、ぁぁ」 「や、ぁ……力が、抜けるっ……」 「俺も動こうか?」 「っ……あ、あぁ……んん!」 フィオネが肌を擦りつけるのに合わせ、俺も腰を突き上げた。 乳房と肉棒の密着が増し、俺たちはふたり同時に身体を震わせる。 ペニスは一段と硬さを増した。 「ふぅうっ……んぁっ……は、ぁあっ」 にちゅっ、にゅぷっ……にちゅ! 「んぅっ、ぁ、ぁぁぁ……すご、い」 膨らみきった亀頭が、フィオネの乳房の谷間で出入りを続けた。 その度、乳房は柔らかく歪む。 淫靡な動きを味わいながら、俺は往復を繰り返す。 「カイムの、が……胸で動いてる……分かってきた……私もしてみる」 「はあぁっ、ふぁっ……く、ふぅ! これで、合ってるか……?」 「っ、ああ……」 胸元で繰り返す卑猥な光景を、フィオネは熱っぽく見つめていた。 呼吸を荒げながら、なおも律儀に乳房で締め付けてくる。 俺の好む場所は全て包みながら…… 「はぁっ、は、ぁ……汗が……んぁっ! 汗で、滑る……ふぁぁぁ」 俺の抽送で、乳房は細かく波打った。 その度に新たな汗を浮かせ、しっとりとした極上の感触に変わってゆく。 フィオネから与えられる初めての感触に、歓喜が体内を駆けめぐる。 「んんんっ、んぅっ! はあ、ぁあ!」 フィオネの身体は、いつしか滑らかに揺れていた。 胸の硬い尖りが棹に擦れても、俺への行為を中断させない。 「ぁ、あっ……いやらしい……んぅっ」 「っく……」 「ぅぅっ……ふ、ぁぁ」 柔らかな乳房と硬い突起と。 両方で摩擦されると、直接的な快楽が湧き上がる。 「ぅぅぅ……な、なんだか、カイムの方が余裕そうだ……」 「そうでもない」 「んっ、く……ぁあ……そうは見えない……」 潤んだ瞳が俺を見上げていた。 唇から漏れる熱い吐息が、小刻みに亀頭を湿らせる。 確かにフィオネの方が切なそうだ。 「ふぁ、ああ……そうだ、洗うと約束を……」 「ん?」 ふらふらになりながら、フィオネが何かを呟いた。 整った形の唇を舐め、控えめに開き、そして…… 「あ、フィオネ……」 「あ……む……ちゅ、ぷ……っ」 「れるっ……ちゅ、ぱぁ」 「っ!?」 フィオネは顔をうずめ、亀頭へ口付けした。 乳房を使って棹を持ち上げ、先端に舌を密着させる。 「れりゅっ……ぇろっ……ちゅぽんっ」 「先に、ここを洗ってみる……れぇるっ」 徐々に口を大きく開き、濡れた口腔へ亀頭を収める。 時々唾液の音をさせながら、愛らしく吸ってくれた。 「ぁむ、れろ……ちゅぷっ」 「……っはぁ、ふぁ……急に硬く……れるっ……ちゅ、ぢゅぅ!」 「あまり熱心にされたら、口でいくぞ?」 好きな女が自分で乳房を揺すり、頭と舌を動かしてくれているのだ。 昂ぶるなと言う方が難しい。なのに。 「はぁっ、ふ……いい。出して……ぴちゃ……そのために、してる」 「え……?」 「今日は……カイムに、こうしたいんだ……ぇろっ、れるぅっ」 フィオネは目を伏せ、羞恥に頬を染めた。 それでもなお乳房を持ち上げて、口付けをやめない。 美しい形の乳房が淫らに弾み、棹全体を圧し、包み、苛んでゆく…… 「カイムのことが愛しくて、触れていたくて……れるっ、ぇるっ……」 「ぢゅぷっ、ぁむっ……変じゃ、ないか? カイムも、時々そういう気分になったりは……?」 「今もそうだ」 「っ、い、今も……れるっ、ぅぅ……」 「なら、良かった……ふはっ、ふわぁっ」 抱かれているときのように顔を紅くして、フィオネの唇が安堵の吐息を漏らす。 白かった乳房も熱で染まり、全身から色香を漂わせていた。 「ちゅろっ、れるっ……かぷ、ぁあむっ」 「もっとしたい……ぁむ……カイム……ぅ」 俺に尽くしながら自分も昂ぶってゆく。乱れてゆく。 そんな彼女の姿に、俺はずっと目を奪われた。 「はぁ、むっ……ちゅろっ、ちゅぢゅ! ちゅぱっ……ぇろ、れろっ、れるっ」 背をしなやかに伸ばし、乳房をさらに押しつける。 咥えたまま頭を揺すって、幾度も亀頭を吸い立てる。 「ちゅぢゅっ、ちゅぱっ、れるっ……もっと……はぁふっ、かぷぅっ」 「っ、フィオネ……」 唇で亀頭を固定したと思えば、今度は両手を器用に動かして、根元から亀頭まで扱き始めた。 フィオネなりに工夫し、俺の好む場所を全て選んで、健気に愛撫を送り込んでくる。 「んっ、ぅ、んっ、んぅ! ぴ……ちゅ! はぁっ、ふぁっ、また硬く……んむぅぅっ」 「無理するな、フィオネ」 「ううん、無理、じゃな……れるっ、ちゅぱっ……」 「カイムが……感じてくれてるのが分かるんだ……硬くなって……ちゅ、ぷっ」 「だからもっと……ぁあっ……気持良くなって、欲しい……っ」 フィオネからこんなにも直接的に望みを言われたのは初めてだった。 行為はますます熱を帯び、俺を徐々に絶頂へと誘ってゆく…… 「ちゅぷっ、れぅっ……ぇろ、ぢゅろ!」 「は、ぁ……フィオネ、顔を」 「んぅっ!? ぢゅぷっ、ちゅぢゅ、ぅ!」 彼女の顔が見たくなって、少し顎を持ち上げた。 フィオネは恥ずかしがるが、決して逃げない。 そのまま咥える瞬間を見せてくれる。 「はあ、はふ……ぁむっ、ちゅぱぁっ」 硬く強く反り返る怒張を、彼女はさらに乳房の谷間へ挟み込み、舌で擦る。 汗と唾液が潤滑油となり、今や彼女の肌全てが棹に絡みついていた。 「んぅぅうっ、んぅ! ちゅぱっ、あふっ……にが、い……ちゅるぅっ」 滲んだ先走りも健気に舐め取り、飲み干す。 柔らかい乳房で幾度も根元から擦り、亀頭を撫でて蜜を搾る。 そんなことをされたら急激にいきそうになるのに。 「んぅっ……こく、こくんっ……ぢゅぱ!」 「ぁ、あっ、だめ、それ……ぁ、ぁあ!」 紅く充血した乳首が、始終俺の腰や亀頭に弾かれていた。 そのたびフィオネは喘ぎ、肩を震わせる。 「ぅぅぅっ、これ、私もっ……ぁああ!」 「ちゅぅ……むっ! んむっ、ぢゅ、ぱ! ふはっ、はぁっ、ふ……んぁぁぁぁあ……っ」 谷間から突き上がる亀頭を懸命に咥え、舌先で鈴口をくすぐり、先走りを飲む。 俺に見られながら感じ、懸命に尽くし、喘ぐ……そんな姿が、一段と射精欲を煽り立ててきた。 「恥ず、かしい……ちゅぷっ、ふぁっ」 「カイムも、感じて……れるっ、ちゅぷっ、んぷ……ふぁっ、れるぅ……!」 「ああ……!」 一際深く咥え込まれ、腰が跳ねた。 快感が背筋を駆け上がり、俺はこれ以上欲望を抑えきれなくなってしまう。 「ぅ、ぅ、くぅっ……あむ、んむぅっ! あ、あ、暴れて……れる、ぢゅぱぁっ」 「出してっ……このまま、どうか……れるっ、はむっ、ぢゅぷぷっ、ぢゅぷぅっ!」 「汚れるぞ。顔も、喉も」 「いいっ、汚して……カイムを感じられるなら、いい……ぁむっ、ぢゅぷぅぅう」 自ら乳房を押しつけ、フィオネは舌で舐め回した。 唇を突かれるたび甘くうめき、舌の平でぬるぬると亀頭を撫でてくる。 「んぅむっ、ぢゅぽっ! ぢゅぷっ、れるっ、んぷっ……れろっ、ぇろんっ!」 「ぴちゃっ、ぴちゅっ、ぢゅっ……ぁあ、か、かたい……ごくっ、こくん……!」 にちゅっ、ぬちゅっ、にちゃっ、にゅぷっ 「ふぁあぁあっ、ん、ぁあ! ちゅぽっ、ぢゅっ、ちゅ……はふ、あふぅぅ……」 艶めかしい吐息と粘着音に脳が痺れ、俺ももう快感に身を委ねるので精一杯だった。 隙間無く密着した乳房を貫き、熱くぬめる唇を押し割る。 「ふぁっ、あぁっ、出して……んくっ、ここ、に……」 「っ、ああ……!」 フィオネが先端に口付けする。俺の精を待つように。 その光景に酔いながら、俺は腰を震わせ絶頂した。 「はぁぁっ、ぁあ! 出してっ、カイム……れるっ、ちゅぷぷっ、ちゅっ、ちゅぷぅっ」 「ふぅあ、ぁむっ、ちゅぢゅぷっ、ちゅぱ、ふあっ、ぁあっ……んむぅうぅうぅ……っ!」 びゅぷぷっ、どぷっ、どくぅうっ! 「んふあぁっ!? んむっ、んく、んぅうぅう……!」 「ひゃふっ、ぁ、は……ぁぁぁぁぁ……」 乳房に閉じこめられた肉棹から、濃厚な白濁が噴き上げた。 火照るフィオネの顔に、口腔に、容赦なく飛んでいく。 「んぅむっ!? んぷ、んぅっ、ふぅうぅうっ!」 「ぷはぁっ、はぁっ、熱い……こくっ、ぴちゃぁ……!」 フィオネは少しも避けずに、全てを乳房や口元で受け止める。 彼女の美しい肌は、瞬く間に俺の精で埋め尽くされた。 「んっ、ぅ……カイム……たくさん、出たな……ふぁっ、あむ、ぴちゃぁ……」 「っ、待て……」 射精の最中でも、フィオネは優しく唇を被せてきた。 舌先で直接精を受け止め、少しでも深く長く俺に快感を注いでくる。 「フィオネ」 「……ちゅ、れるっ……良かった、か? カイム……」 「ぴちゃぁっ、ぁむ……ちゅぷ、ちゅぱっ、れぇる……ちゅむぅうぅ……」 びゅくっ…… 「んんんっ! んぅむっ、ちゅぷ、ふぁあ、はぁっ……は、ぁぁ……!」 達したばかりの肉棒を、フィオネは愛しげに撫で、清める。 自分の顔が汚れるのも構わない。 最後の最後まで、心を尽くして残滓を啜ってくれる。 「はぁ、ぷ……ちゅぱ……ちゅるるっ」 「フィオネ、もう大丈夫だ。ありがとう」 「っ……あぅ……ちゅ、ぱぁ……」 「……聞こえてる、よな?」 「……っ、今はまだ恥ずかしいから……もうちょっとこのままで……ぁむ」 俺が顔を覗き込もうとすると、慌てて俯く。 照れているのをごまかすかのように、フィオネは延々と亀頭へキスを繰り返す。 「ちゅ、ちゅぷ……」 「……すごかったな、フィオネ。腰が抜けるかと思った」 「ひゃぅっ……」 「夢にまで見そうなくらい気持良かった」 「ぅうっ、くぅぅ……」 俺の一言一言で、フィオネの肩が小さく跳ねる。 それだけでなく、棹を包んだ乳房もかっと熱くなる。 「わ、わざと言ってるのなら……ぁあむっ」 「っ……」 ぬるぬるの口腔に思い切り咥え込まれる。 萎えかけたペニスが、再び反り返りそうだ。 ちゅぷ…… 「ふぁ……ふぅ……」 「落ち着いたか?」 「ん……」 互いの身を簡単に清めてから、俺たちは湯に浸かった。 フィオネはまだ脱力したままで、くったりと俺にもたれている。 温かい湯に二人で浸かるだけで、気持ちがほぐれるようだった。 「はぁ、ふ……重くないか?」 「普段から軽いだろう。湯の中ならなおさらだ」 「そ、そうか……ふわぁ……っ」 ちゃぷ…… 「ああ、あたたかい……」 細い肩に、乳房に、温かい湯をすくって流してやる。 しなやかな裸体は水を弾き、瑞々しく照る。 さっきまで肉棒を包んでくれていた乳房を、俺は手に収めてゆっくり揉んでみた。 「んぅっ……カイムは元気だな。また当たってる」 「あんなにたっぷりと出したのに……ふぁ」 自分の下腹部に当たるものを感じながら、フィオネがとろんと呟く。 いつになく無防備なその顔に、思わず見入った。 「フィオネ……」 「んっ、ぁ……? ぁ、ふぅ……」 胸を掴んだまま、俺は肉棒を彼女の秘裂にあてがった。 水中で秘所を割り、指と亀頭で道をこじ開ける。 ……フィオネは拒まない。 「んぅっ、くぅっ……は、ぁぁっ……」 前触れも承諾もないまま、俺たちは行為に〈耽〉《ふけ》る。 フィオネも、俺も、今日はそんな気分だった。 「はぁっ、はぁっ……開く……んんんっ」 ぎちゅっ……ぢゅっ、ぢゅぽ……! 「ふわぁぁぁぁあぁ……っ!? ぁあっ、んぅっ……はいっ、た……」 「っ、んぅあっ、ふわぁああっ」 掠れた声を上げ、フィオネは快感に震える。 俺は跳ねた胸を掴み直し、更に奥まで棹を埋めた。 「っ……風呂より熱いな」 「はぁっ、ぁあ……ずっとカイムのを見ていたから……我慢しすぎて、おかしくなりそうだった」 「は、はしたないだろう? 私の、中……」 蜜の充満した膣内は、慣らすまでもなく、心地よさそうに俺を咥えていた。 その卑猥さは、フィオネも自覚しているのだろう。 貫かれながら羞恥に喘いでいる。 「このまま味わっていたくなるな……じっとしていても、勝手に締めつけてくる」 「んっ、ぅっ、んぅっ……ふは……ぁあっ」 中の様子を言葉で指摘すると、フィオネは声を上げて〈戦慄〉《わなな》く。 そのたびキュッと締め付けられてたまらない。 「や、やっともらえて、嬉しすぎて……それで、我慢できなくなって……ぁぁ」 「本当は、こうしてるだけでもう、達してしまいそうなんだ……んぅうっ、ふ、わぁっ」 ぴちゃ、ちゃぷ……! フィオネは堰を切ったように腰を揺すり始めた。 波を立てないよう慎重に棹を引き抜き、亀頭が出そうになると再び根元まで呑み込んでいく。 「うぅ、ぅぅ……擦れる……ぁぁぁぁ!」 「くっ……」 「はぁっ、ふぅ……すぅ、はぁあ……」 「んぁあっ、ふわ……、ぁはぁぁぁあっ」 仰向けでもなお美しい彼女の乳房が、歓喜に波打つ。 それをすくって揉んでやると、フィオネは愛らしく息を呑んだ。 「ふわ……ぁぁ、胸は……んくっ」 「フィオネが……いくところが見たい」 「ぅ、くぅ……、ぁぁ……」 指を伸ばし、俺は彼女の紅い花片を割ってやった。 拡がったそこにフィオネが自ら肉棒を招くのを見届け、また乳房の愛撫を再開する。 「んぁっ、ぁあ……カイム……すごく、近くに感じる……ふぁっ」 「カイムの吐息も、手も、あそこも……ぁあ……温かい……っ」 フィオネの四肢から力が抜けた。 だが、秘所だけは凄まじい圧力を保ち、俺を貪ってくる。 「っ!?」 「ん、はっ、ふはっ、ぁ……ぁあ!」 ちゃぽっ、ちゃぽんっ! 彼女の膣内の弱点が擦れるたび、細腰が不規則に暴れた。 水面から覗く桃色の粘膜は、快感に震えながら俺を出し入れし続ける。 「ぁ、あ、見ないで……だめ……っ」 「こんなの、はしたなすぎる……お願いだ……んぅあっ、ううぅう……!」 明らかに水とは違う粘着音が響いている。 フィオネが俺で昂ぶってくれている証しが、嬉しくないはずがない。 「はっ、はっ、はぁっ、はふ、ぁあ!」 「ふぁああぁっ……硬く、なるっ……やぁっ、ぁ、ぁぁぁぁあ……っ」 もう少しこのまま、一方的にフィオネを観ていたかったが……欲望に火がついてしまった。 俺は、太く怒張したもので円を描き、突き入れる。 「はぐっ、ひぁっ……っくぅ……! ぁぁあ、ぁ、ぅぅぅ……」 「拡がるっ……恥ずかしい、だめ……すご、いぃ……っ」 「力は抜いた方がいい」 「ふはっ、ふぁ……はぁっ……ぅ、くぅ」 できるだけ乳房を優しく撫でながら、ゆったりと膣内を往復する。 俺の囁きに、フィオネは震えながら小さく頷いた。 「ああ、でもこれ……カイムのこと、余計に感じてしまう……いっぱい……ふわぁ……」 硬い怒張と柔らかな膣襞が延々と擦れ、甘い感触が陶酔を誘う。 穏やかに愛し合う行為を続けていると、俺の胸にも言い得ぬ温もりが込み上げる。 「ふぁ、ぁぁ……い、ぃ……んくっ」 「もっと足を広げられるか?」 「うぅ……広げたら、見るだろう……?」 「まあ、な」 「ん、う……あまり、見な、い……で……んっ、ふ……こう、か……」 「んんんっ……ぁ、あっ!?」 フィオネは、唯一力の入る腰を持ち上げた。 その拍子に、くたりと両脚が崩れ、開いてしまった。 「やぁ……あたるところ、が、変わった……ふぁあっ」 「ぅぅぅぅ、んくっ、ぅうっ……と、閉じられない……や、や……待って……ぁぁぁぁ!」 思いの外大胆に脚が広がってしまい、フィオネは困惑に身悶えする。 そんな反応も、可愛らしく思える。 「あっふ、く、んぅんっ! はあぁっ、ふ、ぁあっ……擦れる……んぁっ……ふぅあ、あぁ……」 「んくっ、ん、はぁ……奥まで来る……っ」 最奥に触れると、再びゆっくりと引きぬいた。 そして、彼女の肉襞全てを刺激しながらまた貫く。 徐々に速く深くなる抽送に、抱いたフィオネの肉体が熱く昂ぶる。 「ふあぁぅうっ! ふかっ、深いっ! んぅっ、ぅ、ぁ、ぁはぁっ」 「カイムも、気持ち良くなって……私だけは、いやだ……んっ、ぅっ、ふ、んぅ!」 脚を閉じ直せないまま、フィオネもまた腰を揺らしてきた。 ぎこちない求愛は徐々にしなやかな動きになり、俺のペニスを悦ばせていく。 「はぁっ、は、ぁふっ、ぁぁ……止まらない……カイム、カイム……!」 均整のとれた肢体が艶めかしく舞う。 厳しい役務で鍛えられた細腰は、今は俺のためだけに揺れ、さざめく。 「っ、はぁっ! ぁ、あっ、やぁっ! 胸、ぁぁ……くぅぅ……!」 性器同士の接合に合わせ、美しい乳房が暴れる。 改めて揉み直すと、その肌は余さず汗に濡れていた。 「ぅ、ぁ……はふ、んぁあっ! また、また勝手に、中が……ぁぁっ」 「だめ……ぁあ……こんなに深く、入って……ぅくっ、ふっ、ひぅぅ!」 乳房を苛むと、膣口と最奥が強烈に肉棹を締める。 自分の胸と性器が乱れる光景が、フィオネの目にも入っているはずだ。 「見えるか?」 「ああ、見える……こんなに淫らに……なのに、全然嫌じゃなくて……」 「本当に、カイムが出たり入ったりしてるんだな……ぁあ、私の、中に……っ」 「んんんんっ! んっ、ぁあ! ぁあっ、くぅっ……めくれる……ふわぁ!」 膣襞が急激に締まり、俺を閉じ込めた。 俺は力を込めて引き抜き、勢いを増して最奥を突き上げる。 彼女の眼前で愛液を散らし、卑猥な音を立てて繰り返す。 「ひぁあっ!? 奥だめっ、いくっ、本当にいくぅっ、だめぇ……っ!」 「ふぁぅっ、ひあ、ぁ、あぁ! や、ぁ! 激し……っくぅ、ぅああっ」 フィオネはとっさに絶頂を堪えた。 接合部に力を込めたまま、上半身を派手に反らす。 達しそうな膣に絞られ、こちらも限界が近い。 「ぅ、ぅ、く、ふぅっ! ぁあっ……奥まで、入って、きてる……っ」 「フィオネの中、奥に行けば行くほど……熱いな」 「ん、ぅぅぅ! 恥ずかしい……いやぁっ、ひふ、んぅっ……くぅ、ふぅ!」 「ぁ、あ、でも……さ、最後まで、抜か……ないで、このまま……ぁ、んんっ」 彼女は精一杯に求愛し、自分の言葉に恥じ入った。 だが腰の動きだけはより激しくしなやかに、俺の精を絞りとろうと蠢いている。 「フィオネ、中で」 「んっ、ぁあっ……中、来て……くれ、ぅぅっ、ふ、ぅ……んくぅうぅぅ!」 ぢゅぷぷっ、ぢゅぷぅっ! 溢れ出る愛液が、摩擦のたび音を立てる。 水面を叩く音より大きく響き、俺たちに行為の激しさを思い知らせてくる。 「んんんんっ、ぁあ、こんなに……いやらしい……ふぁあ」 「っ……ぅぅぅぅっ、くぅうぅ……ぁ、んん……!!」 ぢゅんっ! ぢゅぶっ、ぢゅぷんっ! 「ひぃあっ!? はふっ、く、ぅくぅ!」 俺は熱に浮かされながら、彼女の乳房全体を握ったまま、乳首をつまむ。 それと同時に、彼女の陰核の裏側を狙って腰を穿った。 「ぁ、ああ! そこっ、ぁあっ、だめ、ぁぁぁあっ……怖い、だめぇっ!」 「はぁっ、ぁあっ、おかしく、なるっ! ぁあぁっ、ぁあっ、ひっ、ひくぅぅ……!」 制止の声すら甘く官能的だ。 彼女の言葉とは裏腹に、しなやかな腰はより深く俺を迎え入れてくる。 肉棒の弱い個所全てを膣道に吸い立てられ、こちらも限界に近い。 「ん、ぁあっ!?」 「ふぁ、ぁ、ぁぁぁ……く、来る……ふ、ぅぅぅ……っ」 射精の予兆を察し、フィオネは全身を痙攣させる。 乳首と膣を同時に苛まれながらも、健気に腰をうねらせて肉棒を締めつける。 派手な水しぶきを床に散らせながら、俺たちは絶頂へと駆け上った。 「ぁ、ああっ、こんな格好で、私……くぅ」 「はしたない、のに……い、いく、ぁあ! んくっ、ふ、ぅぅっ、ぁ、は、ぁはぁぁああっ」 「ひとりは、いやだ……一緒に……お願い、カイムで、いっぱいにして……!」 顔も髪も濡らしながら、フィオネが切なげに喘いだ。 熱い愛液と膣襞を絡みつかせ、精をねだってくる…… 「ぁ、あ、あぁ、んっ、ぁあっ……お腹まで……、ぁあっ、くぅうっ」 「く、ぅ……!」 彼女の懇願と自分の本能に従って、俺は無茶苦茶に膣内を犯した。 自分の腕の中でフィオネが痙攣するのを感じながら、強く速く肉棒で突き上げる。 「ひっ、んん! おかしく、なる……ぁあっ、ぁ、あ……痺れて、熱くなって、い、いくぅぅっ」 「っ、受け止めてくれ、フィオネ……!」 「ふぅあっ!? ぁ、あぁ! んくぅうぅうう……んぅ……!!」 フィオネは浅い絶頂を繰り返しながら、一途に俺の射精を待っていた。 波打つ膣襞が絡みつき、深くきつく俺を捕らえる。 「はぁっ、ぁあ……カイム、好き……んぅうっ、好き……愛してる……ふぁああ!」 「っ、ああ……!」 「印、残して……中に、何度でも……んぅうっ、奥に残してぇ……!」 「あはああぁう! ふぅあっ、んく、ん! ぁ、はぁっ……くふっ、ぅ、ふはぁあ……!」 俺は頷いて応え、狭い最奥に幾度も肉棒を打ち込んだ。 そして……伴侶の全てを肌で感じながら、俺もついに限界を超えた。 「ううぅんっ! んんっ、ぷはぁっ! ぁあふっ、はふ、んぅぅぅううっ、んはぁっ!」 「も、いくっ……ぁぁぁぁぁあ! 出してっ、んぅっ、出して……ふくぅうぅう……!」 どぷ、びゅぷぅっ! びゅくっ、どくんっ! 「ひ、ぁああぁぁぁあ……っ! あっ、は、ぁあっ、ふあぁあっ……!」 「ぁ、あっ、当たってる……熱い……ぁ、あ、あはぁあ……っ」 熱い膣の最奥で、俺は何度も吐精した。 噴出の圧迫と肉棹の脈動に、フィオネは悲鳴に似た嬌声をこぼす。 「あぁあっ、中、熱い……カイムが溢れて、ぅうっ、くふぅぅぅうぅう……!」 「っ……はあ、はぁ……は、ぁ……」 フィオネの全身が弛緩する中で、ただ膣道だけが強く俺を締めつけ離さない。 ぬめりを湛えた膣壁が肉棹全体に絡みついて、ぢゅぷぢゅぷといつまでも絡みついていた。 「はぁう……ぁぁっ……!?」 「ぁ、ぁ、あっ、来るっ、んっぁぁああ! ひぅっ、ぁぁあぁああ……!!」 びゅくんっ、びくっ……びくぅっ! 「んぅっ……んぅ、く、はぁ……!」 「ぁ、ぁあ……ごくっ、ふはぁ……?」 「はぁっ、ぅく……!」 いつもより長く棹を吸われていた。 強烈な刺激で痺れる頭を振り、俺は大きく呼吸する。 ……結局、一滴残らずフィオネに注いでしまった。 「ぅぅ……ふ、はぁ……、ぁぁ……」 射精のたびに痙攣していたフィオネも、遅れて緊張を解き始めた。 普段はピンと芯の通った彼女の肢体も、今は見る影もないほど柔らかく蕩けてゆく…… 「ん、ふ……、すぅ……ふぅ……」 「っ、フィオネ、大丈夫か。フィオネ?」 「ふぁ……? ぁ、ぁあ……」 蕩けているのは肉体だけではない。その表情もまた、幸福そうに緩んでいた。 視線が合うだけで嬉しそうに目を細め、俺を呼ぼうとして唇を開く。 そんな仕種にさえ、目を奪われる。 「すぅ……カイム……ありがとう」 「バスタブのことなら別に」 「それだけじゃなくて……全部」 「全部?」 「ん。抱きしめてくれてることも……傍にいてくれていることも……全部」 「好きでいさせてくれることも……傍にいさせてくれることも……ふぁ」 絶頂の余韻に喘ぎ、フィオネは俺に頬を擦り寄せた。 仔猫が甘える様に思え、俺は目を伏せて受け止める。 「こっちの台詞だ」 「はぁ、ぅ……ん?」 「俺も、フィオネと暮らせて幸せだ、と……感謝している」 「っ……うん……、……うん」 肉体だけでなく精神までも濃密に溶け合ったような、濃密な心地よさが長く残る。 水音と吐息しか聞こえない静寂も、今は不思議と優しく思えた。 「すぅ、はぁ……んぅ……ふふっ」 「……あまり心地良いと、出たくなくなるな」 「私も。時期柄、湯冷めはしないだろうけど」 「……そうだ。前の家に住んでいた時は、風呂に本と飲み水を持ち込んでいた」 「面白そうだな」 改めてフィオネの風呂好きを垣間見る。 今日、これほど素直に、積極的に求めてくれたのも── 彼女のささやかな夢がひとつ、叶ったからなのかもしれない。 ──雨が降っていた。 雨はあまり好きではない。 ただでさえ淀んだ牢獄の空気が、更に重苦しくなる。 「まったく……」 意味の無い悪態を吐きながら、俺は牢獄の路地を歩いていた。 特に目的は無い。 強いて言うのなら見回りだ。 諸々の問題が片付いて以降、この辺りの治安も良くはなってきている。 しかしここは牢獄。 面倒ごとが絶えることは無い。 特にこんな雨の日は、重苦しい空気に冒されてか、陰湿な事件が起きることがある。 娼館街まで歩いてきた。 人通りはまばらだ。 雨が降ればそもそも客の数が減る。 娼婦も、雨の中何度も客引きには立ちたくないので、一度捕まえた客を簡単には放さない。 多少値段を割り引いてでも、長時間遊ばせようとする。 結果、街路の人影は、晴れた日に比べて相当減る。 「……」 取り立てて異常は見当たらない。 今日はこのぐらいにしておこう。 そうなると、早く屋根のある場所に入りたくなる。 ヴィノレタか、それともリリウムでジークの火酒のご相伴に〈与〉《あずか》るか……。 アイリス辺りが暇そうにしていたら、チェスの相手をさせるのもいいかもしれない。 そんなことを考えながらふと路地の間に目を向けると、珍しいものを見つけた。 クローディアだった。 彼女の予約は、かなり先までびっしり埋まっていると聞く。 客引きの必要などない娼婦が、雨の日に何をしているのか。 「クロ、どうした?」 声に気付いたクローディアは俺の方を見て、一瞬驚いたような顔をする。 しかし、すぐいつものように柔らかく微笑んだ。 「これはカイム様、ご機嫌麗しゅう」 優雅な動作で頭を下げる。 「客引きか?」 「いえ、お客様を探していたわけではございません」 「では何を?」 客引きでもなく、傘もささず路地で突っ立っているというのは尋常でない。 リリウムを逃げ出したようにも見えない。 クローディアは娼婦でありながら、なかなか芯の強い性格をしている。 しかし逆にそういう娼婦ほど、壊れる時は早い。 「何か悩みがあるなら聞くぞ」 「ジークには黙っていてもいい」 職業柄こういった際には、まず最悪を想定してしまう。 だが、クローディアは驚いたように小さく口を空けた。 「あの……そんなに私、思いつめてるように見えましたか?」 そう言って苦笑する。 「職業病だ、気に障ったのならすまない」 「ご安心ください。本当に思いつめたのなら、このような場所に留まったりしておりません」 「煙のように跡形も無く、消えてご覧に入れますわ」 確かにクロならそうだろう。 「ご心配をおかけしまして、申し訳もございません」 「気にするな」 「でも……嬉しゅうございました」 「気にかけていただけるのは、やはり心温まるものですね」 クロは変わらず、頬笑みを絶やさない。 ただその笑顔はどこか少し、寂しそうでもあった。 娼婦という人種は、多かれ少なかれ孤独を抱えている。 クローディアも例外ではないのだろう。 「まあ大丈夫ならいいが、あまり長く雨にあたると身体を壊すぞ」 「ですね。そろそろ戻りましょうか」 そう呟いてから、突然クローディアは何か思いついたように、こちらを見た。 「そういえば、先程仰っていただいたことは、本当でしょうか?」 「何の話だ?」 「『何か悩みがあるなら聞くぞ。ジークには黙っていてもいい』」 「ああ、もちろん」 「何か悩みでもあるのか?」 「悩みは尽きません。女でございますから」 「化粧や体格の話なら、リサにでも言えよ」 「あら、いけませんか?」 「悪くはないが」 本当にそんな内容なら勘弁してほしい。 女の取りとめのない話は不毛だ。 「聞いていただけると、仰りましたのに……」 「ジーク様には……というお話も、信じてよろしいのでしょう?」 「嘘は言わない」 「では、私の部屋へいらしてくださいませんか」 クローディアが小さく跳ねる。 「お前……ひょっとして暇なのか?」 「実はそうなんです」 クローディアが俺に腕を絡めてくる。 「あ、おい……」 引かれるように、リリウムに連れ込まれる。 受付の目を盗み、リリウムへと足を踏み入れる。 用心棒のような稼業もそこそこ長いが、リリウムに忍び込んだのは初めてだ。 「どうしてこんなことを」 「さっきも申し上げましたでしょう? 暇なのです」 「俺を付き合わせる気か」 「お話に付き合っていただくだけです」 誰にも見つからないまま、クロの個室へ辿り着く。 部屋のつくりは、他の娼婦達の部屋と大差ない。 ただ香でも焚いているのか、ほのかに甘い匂いがしていた。 「いらっしゃいませ」 クロが茶の用意をする。 「商売っ気は出すな」 そう言いながらも、雨で身体が冷えきっていた俺は、茶を受け取った。 温かく、そして微かに甘い。 「大体、何でお前が暇なんだ」 「ご予約のお客様がいらっしゃいませんでしたので」 「なるほど、この天気か」 「恐らくそんなところかと」 「お店からは、今日はもう休んでよいと言われたのですが……」 「こういうときに限って、リサもアイリスも仕事でして」 「ほう、この雨の中で客を取りっぱぐれないとは、大したものだな」 「そうなんですよ」 2人を褒めると、クロはまるで自分のことのように喜ぶ。 「2人の邪魔をするわけにもいかないので、とりあえず散歩でもと思って外に出たのですが」 「こんな格好では遠くへは行けませんし、さてどうしたものかと考えあぐねていたときに……」 「俺が声をかけたと」 「ええ、ですからとても嬉しゅうございました」 俺の手に、手を重ねてくるクローディア。 「客として来たんじゃないぞ」 振り払う。 が、微かに胸が高鳴った。 この程度で反応してどうする。 そう自分を諫めようとする。 しかし理性では抑えきれない何かが、胸の奥で蠢いていた。 なるほど、これがクロを人気嬢たらしめている魅力というものか。 「随分と難しい顔をされていますね」 「そうか?」 「せっかく娼婦と2人きりなのですから、もっと楽しそうにしていただかないと」 「だから、客じゃない」 「もちろん、お金は頂戴いたしませんよ」 「ますます悪い」 「娼婦が商売抜きで色目を使うな、店に怒られるぞ」 「大丈夫です。そのための秘密ですから」 「……」 謀られた。 だからわざわざ忍び込ませたのか。 「相談はどうした?」 「そちらももちろん、付き合っていただきますわ」 「ご協力いただけますか?」 「俺にできる範囲でならな」 「大丈夫です」 「というよりむしろ、カイム様にしかお願いできません」 「で、何だ?」 「好きな殿方に、一度抱かれてみたいのです」 ──ドクン 「……っ」 クロがそう言った途端、急に身体が熱くなった。 血液が逆流するような、異様な感触に襲われる。 ──ドクン まただ。 今度は身体中から汗が噴き出てきた。 動悸も荒くなる。 いよいよクロの色目に抗えなくなったのか? いやしかし、それだけでは…… 「くっ」 隣を見る。 隣ではクロが、柔らかく笑っていた。 唇の端が、妙になまめかしく濡れている。 「普通の少女のような恋愛をしてみたいのです」 「抱いていただけますか? カイム様……」 クローディアが、俺の服を脱がしにかかる。 「……っ、おい、こら」 「はい?」 「お前の考える普通の少女とやらは、好きな殿方に一服盛るのか?」 「あら、気づかれてしまいましたか」 「さすがにな」 先程飲んだお茶に、媚薬が混ぜられていた。 毒なら気づいたのだろうだが、媚薬は盛られた経験がない。 「恋するが故の、乙女の暴走ということで」 「嘘をつけ」 「ごめんなさい。半分は嘘です」 あっさりと認めるクロ。 「お店から男性によく効く媚薬を頂いたのですが、意外と使いどころが有りませんで」 それはまあ、クロであれば必要ないだろう。 「リサが『凄い』と言っていまして」 「私も一度、使ってみたかったんです」 「これも『付き合ってもらいたいこと』か?」 「そうなりますね」 「お前……」 「でも、残りの半分は本当ですわ」 「くっ」 いつの間にか、俺は服を全部脱がされていた。 媚薬のせいで、感覚が鈍くなっている……? 「恋に飢えた哀れな娼婦の心と身体を……」 「どうか、満たしてください。カイム様」 クロの腕が伸びる。 女の細い腕で軽く押されただけで、俺は仰向けに倒れてしまう。 倒れた俺の上に、クロが覆いかぶさってきた。 「……っ」 いきなり、ものを掴まれてしまう。 「うあ」 俺は思わず声を漏らしていた。 「うふふ……」 その声を受けて、クロは妖艶な頬笑みを零した。 「もう、こんなに硬くなってる……」 陰茎に指を絡めながら、ため息にも似た息を吐きだす。 俺のペニスは、10代前半のガキのように、硬く反り返っていた。 「凄いですね……」 全くだ。 リリウム公認の薬なら人体に害は無いのだろうが……それにしてもこの効果は強烈すぎる。 身体中の血液が、全て肉棒に集まっているようだ。 お陰で頭が朦朧としている。 「痛かったら、仰ってくださいね」 そう言ってクロが、ゆっくりと指を動かし始めた。 「う……、あ……っ」 裏筋の辺りに、ピリっとした痛みが生じる。 陰茎が膨張しすぎたせいで、筋が引っ張られているようだ。 『少し痛い』と告げようとすると、口にするまでも無く、クロは察知する。 「これだけ膨らんでしまうと、そうなりますよね」 「少しずつ……ほぐしていきましょう」 さっそく溢れ始めていた先走り液を指に絡め、ペニスに塗りたくる。 「ん……んっ、ん……」 指で擦られることによって、先走り液はますます溢れて出す。 「ああ……、すごい……」 クロの細い指が、俺の汚いものによって穢されていく。 その光景を眺めているうちに、ペニスはさらに硬くなる。 「うふふ……切りが無いですね」 クロはなんだかとても楽しそうに見えた。 そんなクロの様子が、また下半身を硬くさせる。 薬の効果に拍車をかける。 「はぁ……っ、ん、ふぁ、ふあぁ……」 クロの息も、少しずつ荒くなっていく。 ここでふと、俺の手がクロの下腹部に当たっていることに気がついた。 すこし意識して、その部分を触ってみる。 「あ……っ、ふあ……」 甘い声が漏れた。 指先には、布越しにほんのりと湿った感触が残る。 「クローディア……」 「はい……」 「ひょっとしてこの部屋の香も……媚薬の類か?」 「さすが……ご明察」 やはり。 部屋に充満する香の匂いが、出されたお茶の甘さと同種に思えたのだ。 「お香は、娼婦も淫らな気分になってしまうので……ますます使いどころがありません」 当然だ。娼婦が乱れてしまっては商売にならない。 察するに、アイリス辺りがどうしても気乗りししない場合に、焚いているのだろう。 「今日のお相手は、カイム様ですから」 「これも、してみたいことか」 「ええ」 「そして、もう一つ……」 言うなりクロは、水差しのようなものを掴んだ。 「冷たいですよ」 水差しの中身を、俺の身体の上に垂らす。 「────っ」 身体に掛けられたのは、石鹸水のような、やけに粘り気のある液体だった。 クロの宣言通り、ひんやりとしている。 しかし付着した途端に、その部分の肌が熱くなった。 「これも……媚薬か」 「はい」 「トリキーネザクロという植物の、乾燥した実を混ぜたものが、先程お出ししたお茶です」 「同じく乾燥、熟成させた根を焚いたものが、この部屋の香り」 「そしてその花を水に漬けると、漬けた水がこんな風に、粘るんです」 クローディアは俺の腹の上から液体をすくい、陰茎に絡めた。 「ぐ……っ」 案の定、ペニスもすぐに熱くなってしまう。 また一回り大きく膨らむ。 「あら……」 「粘液をまぶせば、痛くなくなるかと思ったのですが……」 「逆、効果だ……っ」 早くこの異様な勃起状態から解放されたいと思う。 しかしその一方で…… 「はぁ……っ、んっ、ふあ……っ、あっ、ん……っ」 クロは引き続き、ぬるぬるになった俺のものを触り続けている。 香の効果だけで、クロの頬は見たことが無いほど赤くなっていた。 腿間も、布の上からでも分かるほど、ハッキリと濡れている。 「んっ、ふあ……っ、あっ、ん……っ、んぅ……っ」 クロはどうやら、本気でこの行為を楽しんでいる。 なら…… どこかでまだ抵抗しようとしている自分の意志に、意味はあるのだろうか。 ここに至って俺は、考えるのを放棄することにした。 「クローディア」 「……はい?」 「俺も……楽しみたい」 そう告げると、クロの表情がぱぁっと明るくなる。 「もちろん、私もカイム様には存分に楽しんで頂きたいですわ」 「では……」 そう言ってクロは、俺の身体の上に掛けられた粘液を指ですくった。 「舐めさせて頂きますね」 「それを……か」 「ええ……とても粋なことですわ」 そう言ってクロが、ぺろりと唇を舐めた。 「私の舌は、ちょっと凄いですよ」 ゾクリとしてしまう。 媚薬を舐めとる代わりに、それ以上のものが俺の身体の上を這いまわることになるらしい。 「では……頂きます」 クロの薄紅の舌が、俺の胸の上に下りてきた。 「ん……っ、ちゅるっ、ちゅく……っ、ちゅぅっ、ちゅるぅぅぅ……っ」 「はぁっ、ん……っ、ふあ、ふぁ……っ、んっ、れろ……っ」 「────っ」 宣言通り、クローディアの舌は凄かった。 たっぷりと唾液を含んだ粘膜が、生き物のように俺の胸の上で躍る。 粘液を舐めとろうとするため、舌全体で触れられてしまう。 「ちゅ……っ、ちゅる……っ、ちゅぷっ、んっ、ちゅ……っ」 舌が熱い。 さらにクローディアの吐息も直接胸にかかる。 「はぁっ、ん……っ、ちゅるっ、ちゅ……っ」 「あ……っ、れる……っ、れろっ、れろぉ……っ」 異様なまでの熱心さで、クローディアは舌を這わせ続けていた。 「カイム様……」 「うん?」 「この薬……凄く、効きますね……」 何を今さら。 「俺は散々、すり込まれているんだが……」 「あ……そうでした……」 「ふあ……っ、うふふ……」 笑いながら、改めて俺に粘液をすり込んでくる。 「お前……」 「凄い……ですね……。香りと粘液と、カイム様はお茶まで飲んでいるのに……」 「ちゃんと会話できる位、理性が残ってる」 「さすがですわ……」 よく見ると、クローディアの目はとろんとしてきていた。 彼女の瞳の中に常にある理知的な色が、今は見当たらない。 「うふふ……、私はもう、ボーっとしてきています……」 「これは……、ごめんなさい。少し、歯止めが効かなくなるかも……」 「カイム様は明日……予定はございますか?」 急にそんなことを聞かれる。 俺は……幸か不幸か、用事は少しもなかった。 「良かった……。では多少歯止めが効かなくなっても、大丈夫ですね」 「待て。歯止めが無いと、そんなに凄いのか?」 「恐らく……というより、正直なところ、よく分かりません」 「いつもは加減をしているので……」 さすがというか、なんというか。 「それでも貴族のお客様だと、半日は動けなくなるようです」 「加減しなければ、カイム様でも……まる一日ぐらいは動けなくなるかも」 そんな怖い説明をしながらも、クロの舌は止まらない。 恐らくクロの中には、止めるという選択肢が無いのだろう。 「……クローディアこそ、明日は予約が詰まってるんじゃないのか?」 「仕事ができなくなっても知らないぞ」 「まあ、頼もしい」 クローディアの目尻が下がる。 「では……宜しいですか?」 「……ああ」 「嬉しい」 そう言ってクローディアは、舌にのせた粘液をコクンと嚥下した。 「……ぅんっ」 それで媚薬の許容量を超えたらしい。 明らかに、クローディアの目の色が変わった。 「では私も、とっておきの奉仕を……」 そう言ってクローディアは、舌で俺の乳首を捉えた。 「……っ、うあっ」 意志とは全く関係なく、背中が跳ねてしまう。 「……ここ、弱いみたいですね」 「そう……か?」 「だって……こんなに……、んっ」 「うあ……っ」 思わず口から、喘ぎ声を洩らしてしまう。 慌ててそれを飲み込もうとする俺に、クロが言った。 「我慢せずに、声も出してください」 「いや……しかし……」 「反応のある方が、私は楽しいですよ」 「カイム様も反応のある方が、楽しいですよね?」 「む……」 俺は試しに、クローディアの下腹部に置かれた指に力を込めてみた。 「ひゃっ、ふあ……っ」 「ん……」 「……ね?」 「ああ……、そうだな」 俺が納得するのを見届けてから、クロは再び乳首を口に含む。 「ん、ちゅ……っ、ちゅるっ、ちゅく……っ」 「れろ……れるぅ……っ、んちゅ、ちゅるぅぅぅぅ……っ」 俺はクロに、何らかの反応を返そうとする。 ただやはり声を出すのは〈躊躇〉《ためら》われたので、代わりに指先で応えることにした。 「あ……っ、そういうのも……いいですね……」 俺の指先に応えて、クロの指が俺のペニスを刺激する。 「はぁっ、はぁ……っ、んっ、ふあ……っ、はぁ……っ」 「んーっ」 クローディアが、俺の乳首を甘く噛んだ。 「く……っ」 そのまま硬く尖った先を、舌の上で転がす。 「れろ……っ、れるっ、ん……っ、ちゅる……っ」 「……クローディア」 「はい……」 「出そうだ……」 「まぁ……」 クローディアの目が輝く。 でもすぐに……考えるように視線を泳がせた。 「カイム様は……続けてお出しになれますか?」 「は?」 「出してしまったらそれきり、何をしても勃たないという方が稀にいらっしゃいまして……」 「もしカイム様がその類なら……出させてあげません」 ひどい脅迫だ。 「満足させていただけるとのお約束ですので」 「……大丈夫だ」 「本当ですか?」 「信用しろよ」 「嘘だったら……怒りますよ」 クロが怒るところを見てみたい気もするのだが、そうはならないだろう。 媚薬のせいももちろんあるが、それだけ目の前の女性が魅力的すぎる。 「なら……」 クロは粘液をすくってから、俺のものを握り直した。 柔らかな手の平で、全体を包まれる。 「もう少し、激しく……」 「ぅあ……っ」 クローディアの指先から、ちゅくりくちゅりと音が鳴る。 「あ……凄い……。まだ熱くなるのですね……」 「いっぱい……出してくださいましね……」 俺の乳首を舌で弄びながら、クロが囁いた。 「ちゅっ……ぺろ……カイム様……すごい……」 身体が、小刻みに震える。 「ん……んちゅ……う……ぢゅ……っ」 「はぁ……っ、ふあ……っ、あ、あ……んっ、ん……っ」 クロの動きが加速する。 「ぷはっ……んはあっ……くちゅあっ……じゅっ……くちゅっ……じゅぷっ」 「カイム様っ……んふ……ぴちゅっ、くちゃあっ……ぺちゃ……ぴちゅっ」 「れろ……っ、れろぉ……っ、んちゅ……っ、ちゅるっ、ちゅるぅぅ……っ」 ──びゅるぅっ! びゅくぅぅぅ……っ 「ふあっ、あ……っ、や、ふあぁぁ……っ」 凄い勢いで、亀頭の先から精液が飛び出す。 「あ……っ、ふあ……っ、あ、あ……っ、あぁ……」 媚薬が身体中に回っているとはいえ、とんでもない量を出してしまった。 「うわぁ……、凄いですね……」 「すまん……」 「これは少し……失敗したかもしれません」 「うん?」 「中に出していただいたら……気持ち良かったでしょうね……」 「あぶないことを言うな」 「娼婦ですもの」 「娼婦に中出しはご法度だ」 「それに今は、娼婦じゃないんだろ?」 「あ……そうでした」 照れたように笑い、クローディアは別の言葉を探る。 「妊娠させられてしまうところでしたわ」 「それも、何か違うと思う」 「む……そうですか」 「なかなか普通の恋愛というのも、難しいものですね」 頬笑み、クローディアはまたゆっくりと指を動かし始めた。 「ん……っ、はぁ……」 「クローディア?」 「まだこれで……終わりではありませんよね?」 「そのつもりだが……」 できれば少しぐらい、休ませてほしい。 「ダメですよ。すぐでお願いします」 「満足させていただける……約束ですから」 クローディアが俺の身体に残った粘液をすくい、陰茎に塗りたくる。 「くぅ……っ」 気持ちとは裏腹に、下半身はみるみる硬くなっていく。 「さすが、カイム様」 「や、約束……だからな……」 そう言いつつも、少し頬がひきつってしまう。 「それでは……」 クロは俺のペニスを握ったまま体勢を変え…… 俺の上にまたがった。 「ふあ……っ、あ、あ……っ、んぅぅっ!」 まず、粘膜同士が触れ合う。 挿入には至っていないが、それだけで背中にピリピリとした感触が走った。 「これは……、大変なことに、なりそうですね……」 「そんな気がするな……」 本当に明日は一日中、使い物にならなくなりそうだ。 それ以前に、リリウムを出られるかどうかも怪しい。 出る際も当然、見つからないようにしなければならないのだから。 「どう……いたしましょう」 さすがにクロも〈躊躇〉《ためら》いがちに、入り口付近で陰茎を弄んでいる。 薄く毛の生えた割れ目を、亀頭の先がピタピタと叩く。 「あ……、ふあ……」 正直、これだけでも気持ち良い。 だが異様な薬のせいと、クロの柔らかそうな身体を目の当たりにしたせいで…… これだけでは我慢できないと、強欲なペニスが主張を始めていた。 「……今から、チェスでもするか?」 「それは無粋ですわ」 「ここまでして遊戯に逃げるなんて、もってのほか……」 クローディアが意を決したように、入り口に亀頭をぴたりとあてがう。 「あ……ひょっとして今、私の背中を押しましたか?」 もう……そういうことにしてしまおう。 「カイム様の手のひらの上で、弄ばれてしまいましたね」 「すぐにバレたら、弄ぶも何も無いだろう」 「やっぱり……チェスをしましょうか」 「今度は俺を弄ぶ気か?」 「遊ばれて頂けますか?」 クロの手が、俺の手を掴む。 自身の乳房にそっと誘導させる。 手の平で触れたクロの胸は柔らかく、大きな鼓動を打ち鳴らしていた。 「チェスよりも……クロを抱きたい」 その鼓動に急かされるように、俺はそう口にする。 「……ありがとうございます」 そう言ってクロは、今度こそ本当に腰を下ろした。 「ひゃ……っ」 「くっ」 ペニスにまとわりついた粘液のせいで、一気に奥まで入り込んでしまった。 入った途端に、お互いが同時に小さな悲鳴を上げる。 「ふあ……、あ、あ、あ……っ、あ……っ、ふあぁ……っ」 クロに至っては、軽く達してしまったようだ。 柔らかな膣壁が、嵐の夜のようにざわめいていた。 俺も……先に一度出していなければ危なかったと思う。 「カイム……さま……」 「うん」 「ちょっと……凄い、ですね……」 「ああ」 「凄いというか……あ、ふあ……、なんだかもう、凄、すぎて……」 「久しぶりに……仕事を続ける自信が、なくなりそう……」 「そんな大げさな……」 「いえもう……、全然大げさとかではなく……、せ、説明、しにくいのですが……」 「あ……っ、ふあっ、あ……」 「そう、殿方と交わる行為って……こんなに、気持ちの良いものだったんですね」 「く……っ」 どくんと、 自分の鼓動が大きく響く。 何故か気持ちが昂ぶってしまう。 もちろんそれは、媚薬のせいではない。 「明日からのお仕事が……凄く、空しくなってしまいそうです……」 「これは……少し、あ、本当に、駄目。後悔……してしまいますね」 「ああ……やっぱり、チェスにしておけば、よかった……」 クロは気持ち良さそうに目を細めている。 しかしその瞳は何故か、悲しみを湛えているようにも見える。 「娼婦が……商売以外で殿方と、交わっては駄目ですね……」 そう。改めて思う。 クロは娼婦なのだと。 娼婦とはに、分厚い檻の中に閉じ込められた色鮮やかな小鳥。 一人の例外もなく、そしてクローディアも、その中の一羽に過ぎない。 「あ……はぁっ、ふあ……っ、あ……っ、んぅ……っ」 クロは変らず、ゆっくりと腰を揺らし続けている。 例えばここで俺が金を払い……客になるのは簡単だ。 そうすればお互いの気持ちは、今よりもっと楽になる。 ただ、それは違うと思った。 それは、檻の外から小鳥を眺めるだけの行為だ。 かけられた邪悪な魔法を解いて、小鳥を元の少女の姿に戻すこと。 例えそれがほんのひと時の夢幻だとしても、その残酷さを少女が求めているのなら…… 応じるべきなのかもしれない。 「クロ」 「……は、い?」 「ひゃ……っ、ん、ん……っ」 俺も腰を揺らす。 クローディアを、下から突き上げる。 「……っ、ふあっ、あ……っ、あ、あ、あ……っ」 「カイム……っ、様……っ、ひゃっ、ふあぁ……っ」 反応は顕著だった。 クロの汗腺からは汗が、香の匂いを掻き消さんばかりに。 結合部からは愛液が、媚薬を押し出さんばかりに…… 溢れ出している。 「天然の媚薬だな」 俺がそう言うと、クロがクスリと笑った。 「カイム様でも……そんなことを仰るのですね」 「たまにはな」 「なんだか……いやらしいですわ」 「ああ。少し口にしたことを後悔している」 「でも……あのままチェスに流れていたら、その後悔はこれどころじゃなかったと思う」 そう言って、まっすぐにクロを見つめる。 「雨の路地で俺に見つけられたとき、運命だと思ったんだろ?」 「ならその運命に、全部委ねてみてもいいんじゃないか?」 「少なくとも俺は、あそこでクローディアを見つけられて、よかったと思っている」 香の燃える、ジジジという音が部屋の隅で鳴っていた。 何を言っているのかわからない。 破綻した詭弁のような。 だが…… 「そう……ですね」 クロは、そんな胡乱な言葉に身を託すことを選んだ。 「そうですよね。チェスをしておけばよかったなんて……」 「無粋だろ?」 「ええ」 少なくとも、瞳の奥に見えた悲しみは、消えている。 「ありがとうございます……励ましていただいて」 「お礼に、私を励ましたことを、後悔させて差し上げますわ」 「……え?」 代わりに瞳に灯ったものは、妖しい光だった。 「や……っ、あっ、ふあ……っ、ふあ……っ」 「んっ、ん、んぅぅ〜〜っ、んぅぅ……っ」 急に腰を激しく揺らし始める。 同時にクロの手が俺の手を、改めて胸元に引き寄せた。 「んーっ」 強く揉んで欲しいと、そう訴えているように見えた。 望むままに、俺は力いっぱい乳房を握る。 「あ、あ、あ……っ、ふあ……っ、はぁ……っ、んぅぅっ」 「凄い反応だな」 「……お恥かしい」 「これは……媚薬が原因か?」 「いえ……カイム様に、触れていただいているからですわ」 「いい台詞だ」 「恐れ入ります」 「ですが私は……やはり少し後悔しています」 「うん?」 「媚薬は、使わなければ良かったかもしれません」 「好奇心の分もカイム様に満たして頂いていれば、もっと気持ちよくなれたかもしれないのに」 「結構欲が深いんだな」 「女ですもの」 「そんなものなのか?」 「そんなものなのです。悩み多き、欲深き女です」 「雨の降った夜は、娼婦街をしっかり見回るようにするよ」 「ああ、それは……よいですね」 「上層の貴族達が、もっと雨を嫌いになりますように……」 そう言うとクロは膝を使って、身体全体を揺らし始める。 「ん……っ、ふあっ、あ……っ、あ、あ、あ……っ、ふあっ、んっ、んぅぅぅ……っ」 「ひゃっ、ふあ……、はぁ、はぁ……っ、ひあっ、ふあ、あ、あああぁぁぁ……」 一気に昂ぶるクローディア。 同時に俺の限界も近い。 俺はそれをクローディアに伝えるべく、乳房を強く握る。 「あああああーっ、ふあ、はい……」 「私も……そろそろ……、あ、あ、あ……」 「とろとろだ……」 「っああぁ……はあぁ……んあぁ……うぅ……っ」 「すごい……あああぁっ……あっ、あっ、あっ」 「きゃううっ………カイム様っ……ぁぁっ、あああ、や、あ、あ、ああっ」 ぎゅうっ、と締めつけられた。 「もう……出る……っ」 「ええ、楽しみ……です……、あっ、ふあ、あ……っ」 「ひゃ……んぅぅぅ……っ、ん、ん、ん……っ、ふあっ、ふあ、うあぁぁ……っ」 「あ、あ、あ……っ、やっ、あっ、あ……っ、んっ、んぅっ、んぅぅぅぅ……っ!」 ──びゅるぅっ! びゅくぅぅぅ……っ!! 「ひくっ! うあ……っ、ふあぁぁぁ……」 射精の直前に、ペニスが膣の中から逃れる。 飛び出した陰茎は精液を撒き散らしながら、クロの膣口を叩いた。 「あ、ふあ……っ、やぁ……っ、ふああぁぁ……」 「か、カイム様……」 「……すごいです……」 ペニスで膣口を叩かれながら、クロがそう漏らす。 「そう……だったか……?」 照れもあり、とぼけることにする。 「まぁ……持ち主の意に反して暴れるなんて、悪い子ですね」 「暴れる子は……諌める必要がありますわ」 「は?」 「ん……んっ」 「ぅあ……っ」 にゅるりと、 挿入が終わったばかりのペニスを、再びクロの下半身が包む。 「クロー、ディア……?」 「このまま……続けてもようございますね?」 「あ……い、いや」 良いか悪いかではなく……このまま続けたら俺は、三連続になってしまう。 「何か問題でも?」 「も、問題は無いが、少し休ませてくれ」 「……駄目です」 「私を、満足させていただける約束です」 「まだ満足していないのか」 「しかも私、カイム様を後悔させると申し上げてしまいました」 「クローディア……」 「はい」 「約束はその……破るためにあるという意見も」 「まあ、酷い」 クローディアがよく手入のれされた鋭い爪を、俺の棹の根元に立てる。 「約束は……守らなければいけないな」 「そうですよ」 「でもどうだろう、一度チェスを挟むという手も……」 「それは無粋です」 「折角、カイム様の見回りの時間を見計らって外に出たというのに」 ……やっぱりそうだったか。 結局クロは、有無を言わさず腰を揺らし始める。 「あ……、あ、あ……っ、うあっ、あ……」 クロに対する認識を、少し改めた方がいいのかもしれない。 時折瞳に悲しみを宿らせていたことも、あるいは計算だったのかもしれない。 「ふあ……、すごい……」 俺のペニスはクロの中で、早速固さを取り戻しつつある。 まあ……いいか…… その方がクローディアらしくもある。 励ましたつもりで、逆に手の平で踊らされていたぐらいが、丁度いい。 半端な優しさごと飲み込んでしまうような、そんな強い女なのだ。クロは。 気持ちのいい朝だった。 牢獄にしては珍しいぐらいの、温かい日差しが窓から降り注いでいる。 風もない、非常に穏やかな1日の始まり。 その始まりを俺は、ベッドの中で堪能していた。 「天気のいい日の朝寝ぐらい、贅沢なものはないな」 そんなことを考えながら、暖かいシーツの中で無駄に寝がえりをうつ。 流れゆく雲を窓外に眺めたり…… 昨日飲み残した火酒を舐めたり…… それでまどろんだら、逆らわずに重たくなったまぶたを閉じる。 コンコン コンコンコン コンコンコンコン 「ん……」 誰かが扉を叩く音に意識を呼び戻される。 時間はもう、昼近くになっていた。 この時間だと、ティアかエリスか……それともジークか。 「開いてるぞ」 声をかけるが、一向に扉が開く気配がない。 「勝手に入れ」 ゆっくりと扉が開かれる。 現れたのは予想に反して、リサだった。 「あ、寝てた?」 扉の隙間から、様子をうかがうように半身をのぞかせる。 リサにしては元気がないな。 「ジークが呼んでるのか? それともエリスを探してるのか?」 「あ、いや……そういう訳ではなくて……」 やはり、いつも通りではない。 「とりあえず中に入れ」 俺の言葉で、ようやくリサが部屋に入ってくる。 「どうした」 「う、うん」 どうも歯切れが悪い。 「ま、座れ」 リサが素直に椅子に座る。 「酒で良ければ勝手に飲んでくれ。グラスは右の方が比較的きれいだ」 「あ……ありがとう」 リサの様子を観察してみる。 俺は不蝕金鎖の近くにはいるが、構成員ではない。 そのため、娼婦から相談を持ちかけられることが、ままある。 ジーク達に知られたくない悩みを持っている娼婦は意外と多いのだ。 主だったものはやはり色恋沙汰。 客の男に惚れてしまい、どうにかして娼館をやめたい── つまりは、足抜けの相談だ。 もちろん足抜けは御法度なので、根気よくなだめたり軽く脅したりして、娼婦の気の迷いを霧散させる。 「……」 思い詰めているようにも見える。 ただ足抜けを考えている娼婦独特の、暗い影のようなものは見当たらない。 ま、急かす必要はないだろう。 「あの……」 案の定、俺が促す前にリサが口を開く。 「カイムは、あたしを抱きたいと思う?」 「は?」 予想だにしていなかった言葉だった。 「今これ、2人きりよね? 誰もいない、それで部屋には都合よくベッドもある」 「カイムはしかも、ちょっとお酒が入ってる」 「このままお酒の勢いに任せて、あたしをベッドに押し倒しちゃえーー! とか」 「……思う?」 「思わん」 「あたしが寝てたら?」 「何も」 即答。 俺の答えを受けたリサの表情が暗く沈む。 それこそ、足抜けをしてしまいそうな顔だ。 事情は分からないまでも、踏んではいけない何かを踏んでしまったことはよく分かった。 「そうだよねぇ……こんな据え膳状態でも、ダメなんだもんね……」 「やっぱり、あたしって魅力ないだんね」 「カイムまで手を出してくれないなんて、もうダメダメだよ」 「カイムまでとは心外だな」 「俺を何だと思ってる」 「見境なし」 「喧嘩を売りに来たんなら帰れ」 「ち、違うよ! 本当に悩んでるのっ」 「相談できるの、カイムしかいないんだから」 そう言って、また暗い顔をした。 要は、自分の客が少ないことを悩んでいるのだ。 実際のところ、リサの売り上げは平均よりやや低い程度だ。 「お前の売り上げは、悩むほど低くないだろう」 「でも、アイリスやクロに比べたら……」 「比較する相手が悪い」 あいつらと比べたら、大概の娼婦が劣ることになってしまう。 「あいつら並みになりたいというなら、俺じゃ力になれない」 「カイムがお客さんになってくれるんなら、それが一番いいんだけど」 「でもそれが無理だってことはよく分かってる」 「とにかく、相談に乗ってよ」 「どうすればもっとお客さんを取れるかな?」 真剣に見つめられた。 俺に聞かれても困る。 「ジークに相談したらどうだ?」 「ボスには、もう話した」 「で?」 「お前は、今のままで十分だって」 ジークがそう言った理由は、恐らく商売上の理由からだ。 リリウムではクローディアの人気がずば抜けて高い。 しかし、娼婦全員がクローディアなら良いかといえばそういうわけでもない。 仮に全員がクロになってしまえば、客の多様な要望に応えられなくなる。 店全体としては売り上げを落とすだろう。 リサのような娼婦がいて、クローディアが際立つのだ。 と言っても、まあ本人としては悩むところだろう。 「オズはどうだ?」 「オズさんにも聞いた」 「あたしならではの奉仕を考えろと言われた」 「建設的な意見じゃないか」 「いやでも、あの人ほら、趣味がすごいから」 「いくら仕事でもその……殴られたりするのはちょっと……」 「ああ」 そう言えば、あいつは嗜虐思考の持ち主だった。 「跡が残る奉仕はまずいな」 「まずいどころじゃないよ」 「傷なんてついたら、ますますお客さんがつかなくなる」 「逆に、客をいたぶるのはどうだ?」 「熱心なお客は着くと思うけど……数は少ないと思う」 「それに、クロと被るし」 「難しいな」 娼婦の人気の上げ方は専門外だ。 「俺より同業者に聞くべきなんじゃないのか?」 「幸いお前は、人気どころと仲がいいんだ」 「アイリスとクロには、最初に相談したんだって!」 「アイリスは──」 「〈豚〉《きゃく》なんて、放っておけば増える」 「あいつはそう言うだろうな」 アイリスの客は、素っ気ないアイリスを気に入って買うのだ。 「クローディアはどうだった?」 「何も……特別なことをしているわけではありませんよ」 「殿方の身になって考えれば、自ずと何を欲しておられるのかはわかりますから」 「あとはそれを行うだけでいいんです」 「……だって」 いかにもクローディアらしい。 クローディアはその容姿もさることながら、質の高い奉仕が人気の理由だ。 客によって、微妙に奉仕の内容も変えるという。 「真似は難しそうだな」 「そうなんだよね。あたし、難しいこと考えられないし」 「徹底的に、客が求めているものを提供する路線で行くしかなさそうだ」 「ふえ?」 「さしあたって俺が何を求めているか」 「……あたしを抱きたい」 「飛躍しすぎだ」 「まずは、客にそう思わせる必要があるんだろう?」 「え、えっと、じゃあ……」 リサの手が、突然俺の下半身に伸びる。 「手っ取り早く」 「いだっ!?」 リサの頭を軽く叩く。 「手っ取り早くするな」 「だって娼婦だから」 「そのやり方で上手くいかないから相談に来たんじゃないのか?」 「ああ! そうだった!」 「カイム、あったまいーーー!」 例えばクローディアならこの状況で何をするか。 まず、俺が寝起きということに着目するだろう。 加えて枕元の酒も見逃さないはずだ。 「お酒は程ほどにした方がよろしゅうございますよ」 などと言いながら、濃い茶でも淹れてくるに違いない。 しかも、それだけでは終わらない。 「目が覚めますよ」 茶の脇には、熱い湯で絞った手巾が添えられているのだ。 「目を覚ましていただけないと、こちらが役に立たないじゃありませんか……」 手がこちらへ伸びてくる…… 「クロと遊んだことあるでしょ?」 〈咽〉《むせ》た。 「とにかくその要領で、俺が今何を欲しているのか考えて、実行してみろ」 「は、はい!」 勢いよく返事をして、考え込むリサ。 「……そうだ!」 何かひらめいたのか、大仰に手を叩いてから動きだした。 俺が座っているベッドに近づく。 「どいて」 「ん? うわっ!?」 そうして、俺が乗ったままの敷布団を無理やり引き剥がした。 「な、何を?」 「任せて任せて任せて」 唖然とする俺を余所に、布団を抱えたまま鼻歌を歌うリサ。 そのまま手際よく、布団一式を窓の外に干してしまった。 「どうっすかこれ! 決まったなぁ」 「やっぱ天気のいい日は、お布団を干さないとね!」 呆れて声も出ない。 「……どうしたの?」 「お前、娼婦がベッドを使えなくしてどうするつもりだ」 「あ……、ああ! あああああっ!」 今気がついたというような声を上げた。 確信せざるを得ない。 リサは、娼婦に向いていない。 俺としては、リサには好感を持っている。 例えばリサが粉屋の女房にでも収まっていれば…… 多少の馬鹿も無理やり愛嬌の一部にして、可愛い女房になることはできたのだと思う。 相手が女房なら、天気のいい日に布団を引っぺがされても文句は言えない。 ただ、リリウムに来る客は非日常を求めている。 どこにでもいる町娘ではなく、どこにもいない娼婦という存在を買いに来るのだ。 つまりそれは、リサではない。 「うぅ……これじゃあいつまで経っても、年季なんて明けないよぅ」 ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、リサは干したばかりの布団を元に戻す。 結局戻すのか。 悩んでいるリサには悪いが、笑ってしまった。 「何?」 「いや」 仕方ない。 リサの人気など関係ないと言ってしまえばそれまでだ。 しかし、年季も明けないまま、何年も愚痴を言いに来られたら、それはまた面倒でもある。 もっと真剣に考えてやるか。 リサが、気配りや気質で客を得るのは難しい。 「現実的なのは、オズ案だな」 リサならではの技を身につける、というやつだ。 「い、痛いのは嫌だよ」 「痛いかどうかはまだ決まっていない」 「自分の身体で、一番自信のあるところはどこだ?」 「ええと……」 真剣に悩み始めた。 「強いて言うならお尻?」 「尻か……」 リサの全身を眺める。 「試してみるか」 「ふえ?」 「初めのうちは、痛いかもしれないが……」 「な、なに? 何か思いついたの?」 「ああ」 「リリウムに、尻の奉仕をしている奴はいるか?」 「聞いたことないけど、どんなことするの?」 「普通にすることを、尻の穴でする」 「野心的だなぁ」 「だいたいさー、お尻に入るの?」 「ああ」 「考えてみろ、男娼は普通にやってる」 「あそっか」 以前は、俺も仕込まれそうになったことがある。 恐らくだが、交わる穴が一つしかない男と違い、女とわざわざ尻で交わるような奴は決まって嗜虐的だ。 そして、リサは嗜虐心をかきたてられる性格であると思う。 上手くいけば、リサに新しい客が付くかもしれない。 「そ、それ……気持ち良いの?」 「する方はいいんだろうな」 「される方は?」 「知らん」 「無責任すぎやしませんか!?」 「お前が、自分の身体で切り開け」 「おおっ! 何かかっこいいかも! 燃えてきたよー!」 男娼でも、行為が好きな奴は多い。 ということは、される側が気持ちいいこともあるのだろう。 「試してみるか?」 「知識としてだが、やり方は教えられた」 「どうするって……」 リサはしばらく考える。 しかしこの部屋に来た時と同じように、答えは既に決まっているのだ。 「やる」 「あたしが、お尻の地平を切り開く」 どんな地平か知らないが、心意気は買った。 「分かった」 俺も頷き返す。 こうして晴れた一日は、余り健康的とは言い難い目的を持つことになった。 まずは、リサの緊張を和らげるために酒を飲ませた。 「あたし、飲むとお花を摘みたくなるんだけど」 「いいから飲め」 その間に俺は台所に行き、準備を整える。 部屋に戻ると、リサの頬にはいい具合に朱が差していた。 「よし、じゃあベッドに……」 そう言いかけて考え直す。 何かあったときに、ベッドが汚れるのは面倒だ。 「やっぱり床に座れ」 「ふぁい」 ふわふわとした返事をして、リサは床の上に屈んだ。 俺もその隣に、腰をおろす。 「はじめるぞ」 「ん……」 服をめくり上げ、下着を下にずらす。 現れた場所に手を伸ばす。 「わ……っ、ん……」 リサの蕾に触れる。 固く閉じたそこを、まずは観察するようになぞった。 「あ、や、や……っ、ふあ、ああぁぁ……っ」 「どうだ?」 「ど、どうって……」 「とりあえず……変な感じがする……」 「あと……、ちょと恥かしいっていうか……」 「まあ……ケツの穴だしな」 「そ、それもあるんだけど、その……」 「カイムが……近い」 「ん?」 「知り合いとこういうことするってなると、やっぱ照れるね……」 リサが普通の女みたいなことを言う。 だがそれは、娼婦が持っていい感情ではない。 知人だろうが友人だろうが、それこそ親だろうが、股を開くと決めたら開くのが……娼婦なのだ。 「カイム、カイム……」 「ん?」 「だ、黙らないでよ、急に……」 「ますます、恥ずかしくなっちゃう」 「……娼婦が恥ずかしがるな」 「でも……っ、ふあ、あ……っ」 リサの腰に、ぞわりと鳥肌が広がる。 かすかに酒精が香る息が吐き出される。 「……あたしも、何かしたい」 「カイムの、触ろうか?」 「いい」 「でも……」 「あ、いや……そうだな」 「お前のを触ってろ」 「ふえ?」 「お前の方の性器だ。触っておけ」 「で、でも、それって……じ、自慰だよね?」 「さすがにそのぐらいは知ってるか」 「……娼婦だもん」 そう言ってから、リサはハッとしたように俺を見る。 「え……なに? カイム、そういう趣味があるの?」 「視姦嗜好?」 「違う」 「じゃあ何で?」 「お前……自分の初めての時のこと、覚えてるか?」 「……あんまり思い出したくはないんだけど」 「トラウマにならない程度に思い出せ」 「えっと……ううん……」 無い頭を、必死に絞るリサ。 「痛かった」 「とにかく死ぬほど痛かった。裂けるかと思った」 「そう。初めては痛いんだ」 「お前も尻は、今日が初めてなんだろ?」 「前ほどじゃないにしても多少は痛いはずだから、慣れた穴を弄って、身体を昂ぶらせておけ」 「な、なるほど」 納得すると、行動に移るのは早い。 リサは早速とばかりに、自分の股間に手を伸ばした。 「あっ、ふあ……っ」 「やっ、あ、あ、あ……ああっ」 リサが、早速嬌声を上げる。 「手馴れてるな」 「ふえ? や、べ、別に……普段からやってるわけでは……」 「たまぁに見たいってお客さんがいたら、やってるぐらいで……」 「聞いてない」 「……言い損」 真っ赤になって〈俯〉《うつむ》くリサ。 いちいち構ってはいられないので、先に進むことにする。 「少し冷たいぞ」 そう言って、台所から持ってきた植物油を、リサの尻に垂らした。 「あ、やっ、な……何?」 「油」 「あ……ぶら?」 「尻は滑りが良くならないだろう?」 「乾いたままだと痛む」 「そ、それは困る」 「だから油を塗るんだ」 肛門の尻の間に塗り込むようにして、丹念に油をまぶしていく。 「あ、あ、あ……っ、あっ、ふあっ、あ……」 「や……っ、んぅぅ……、にゅるにゅる、してる……」 「同じ油でも、動物の油は使うなよ。変な病気になるからな」 「あと石鹸も止めておけ。一見滑りやすくて良さそうだが、あれはかぶれるんだ」 「く、詳しいね」 「……」 思いのほか、男娼候補だったころの知識が残っていた。 「まあ女の場合は、愛液で対応できるようになるのが一番だろうな」 「あ、それなら、自信あるかも……」 「あたし、濡れやすいし」 「だから聞いてない」 「ふええ……」 リサがまた赤くなる。 「う、うぅっ、ううぅぅぅ〜〜っ」 自分で濡れやすいと言うだけあって、前の穴からもぐちゅぐちゅと音が鳴る。 落ち込んでるくせに、リサの指は止まっていない。 「あ、ふあ……っ、あ、あ、あ……っ」 「はぁっ、は……っ、ん、んぅぅぅ……っ」 どうやら気持ち良くなってきているらしい。 快楽で己を見失うのは、やはり娼婦らしくない。 情に厚い〈質〉《たち》なのかもしれないな。 「リサ」 「ふえ?」 「練習だぞ。これは」 「わ、わかってるよぅ……っ、んっ、んぅ〜っ」 本当に分かっているのか、疑わしい声を漏らす。 まあいい。 気持ち良いのなら、ことを進めやすい。 「指、入れるからな」 「え? も、もう……?」 「もう十分だろう」 俺はもう一度油をまぶしてから、リサの中に指を押し込んでいった。 「んっ、んぅっ、んぅぅぅ……っ」 ちゅるん……っ 「んっ! くぅぅ〜っ!」 思いの他簡単に入ってしまった。 「うわ、あ、あ、あ……」 「だ、大丈夫か?」 俺の指2本が、殆ど根元まで刺さっている。 本当はもっとじっくりと、少しずつ広げていくつもりだったのだが…… リサ自身のやる気の表れなのか、一気に飲み込まれてしまった。 「あ、あ、あ、あ……っ、ああっ、あああぁぁぁ……」 「ふあ、あっ、うあ、う……あっ、ふあぁっ」 リサはさっきからずっと、面白い声を上げている。 言葉が出てこないといった様子だ。 とりあえず、リサの中で指を曲げ伸ばしてみる。 背中側とお腹側の腸壁を、交互に叩く。 「ひぐっ、う、く……っ、うあ、あ、あ……」 「か……、カイム……」 ようやくリサが、人間の言葉を吐いた。 「ひぐ……っ、あぅ……っ、う、嘘つき……」 ようやく喋ったと思ったら、いきなり人を嘘つき呼ばわり。 「どうした、急に」 「だって……、痛いとか裂けるとか、散々脅かして……」 「痛くないのか?」 「な、ないわけじゃないけど……、さすがに、入り口はヒリヒリするけど……」 「でも……ひぐっ、うあ、あ、あ……」 「や、らぁ……っ、うまく……喋れない……」 それは見ていれば分かる。 「頭の中を……直接かき回されてるみたい……」 「ひぐっ、うぐ……っ、あ、あ、あ……っ、うくぅぅぅ……っ」 反応が良いとこちらもいくらか調子に乗ってしまう。 俺は腸壁を叩くだけでなく、指を前後に出し入れしてみた。 「あっ、ひんっ、ひぐ……っ、うあ、あ、あ、あ……っ」 「それ……っ、すご、いぃぃぃ……」 指を抜く度に、リサの背中が反り返る。 挿入の度に小さく身体が震える。 「あ、ひっ、ひぅ……っ、うあ、あ、あ……っ」 「うああぁぁ……っ、あっ、あああぁぁぁ……」 嬌声を上げながら、自分で触ることも止めない。 「はぁ、はぁ……っ、ふあ、あ、あ……っ」 「や、あ……っ、指、ぐちょぐちょになってる……」 「さすが、濡れやすいだけあるな」 「な、なんで知ってるの!?」 「お前がさっき、自分で言っただろ」 「あ、そ、そうか……。やぁぁ……、あたし、馬鹿みたい……」 「馬鹿だろう」 「馬鹿……じゃないもん……ふやっ、や、やぁぁぁ……っ」 どちらにしろ、リサは馬鹿になりかかっている。 「あ、あ……っ、あ、あ、あ……っ」 「なんだか……、すごく贅沢なこと、してる気分……」 「うん?」 「お尻も、前の方も……一緒に、気持ち良いの……」 「しかも、してくれてるのはカイムだし……」 「変な気を起こすなよ」 「知ってる?」 「リリウムの娼婦はね……みぃんな、カイムに、恋してるんだよ」 「その手の話を信じる程、俺は馬鹿じゃないぞ」 「ほ、本当だって」 「もういい」 リサの尻穴に指をねじ込む。 「ひ……っ、いくっ、う……くぅぅぅ……っ」 そのまま、指を横に広げていった。 「あ、あ、あ……っ、ああっ、ふああぁぁぁ……っ」 「カイム……、お尻、広がっちゃう……っ」 「広げてるんだ」 「ふえぇ……?」 「この後、もっと大きいものが入るからな」 「……カイムが、最後までしてくれるの?」 リサが潤んだ目を俺に向ける。 その視線は、単純な期待を越えた何かを孕んでいるようにも見える。 ここまでで、止めておいた方が良いのかもしれない。 そんな考えも頭をよぎる。 しかし結局は、その目に押し切られてしまった。 「……してやろう」 リサが嬉しそうに目を細める。 ワインの香りがする息を吐きだした。 「嬉しいな。カイムと、できるんだ……」 何故かその言葉に鳥肌が立った。 得体の知れない衝動を誤魔化すように、リサの尻をかき混ぜる。 「や……っ、や、や、や……っ、カイム、激しい……っ」 「しっかりほぐしておかないと」 「そ、そうだけど……っ、でも、あ、や……っ」 「やら、カイム……っ、何か……、来る……っ」 「うん?」 「だめ……っ、あ、あ、あ……っ、指、止めて……っ」 止めてと言われると止めたくなくなる。 リサはそういう〈質〉《たち》の女なのだと思う。 「や、や、や……っ、やああぁぁ……っ、意地悪、しないで……っ」 「絶対……、カイムに迷惑、かけることになっちゃうから……」 「……もうすでに迷惑だぞ」 「え……?」 リサが急に不安そうな顔をする。 犬みたいな奴だ。 「冗談だ」 あからさまに安堵するリサ。 つくづく犬だ。 リサの身体が弛緩するのを見計らい、再び尻をかき混ぜる。 「あっ、や、や……っ、だ、だから……っ、ダメだって……」 「ひゃっ、ふあ……っ、うあ、うぅ……っ、うぅっ、ふぁ、ふぁ、ふあああぁぁぁ……っ」 ホッとしたせいで、耐えていたものが緩んでしまったようだ。 リサの身体が大げさな程震える。 「ひあ、あ……っ、あ、あ、あ……っ」 「もう……っ、先、謝っとくから……っ、後で、怒らないでね……っ」 「ごめん、カイム……っ、本当に……ごめんなさい……っ」 「あ……っ、あ、あ、あ……っ、ひあ、あ、あ……っ、ふあ、ああっ、あああぁぁぁ……っ!」 じゅわああぁぁぁ…… 「ふあ、や、あ、あ……っ、あああぁぁ……」 リサの身体が小刻みに震える。 「や、や、や……っ、ふや、や……、やああぁぁぁ……っ」 同時に俺の膝に、生温かい感触が広がった。 「うん?」 視線を床に向ける。 「あ、ああ……っ」 床には大きな水たまりができていた。 「お前……漏らしたのか」 「う、うぅ、うぅぅぅぅ……」 リサは真っ赤になって、コクンと頷く。 「だから……、迷惑になるって……」 「んん、ん、んぅ……っ」 真っ赤にしながら、まだ出し続けている。 「止めろよ」 「止まら、ないよぅ……っ」 「お酒だって……、飲んじゃってるし……」 飲むと近くなるとは言っていたが、まさかこれ程とは。 「ふあ……っ、もう、ごめんなさい……っ」 謝りながら漏らし続けるリサ。 床に下ろしておいてよかった。 「ふひゃ、ふあ……っ、ふあ、ふああぁぁぁ……」 ようやくリサのお漏らしが止まる。 床はまるで、嵐が通り過ぎた後のようにぐちゃぐちゃになっていた。 「ご、ごめん……。すぐ拭くから」 「まあ待て」 そう言って、まだ尻に入ったままの指を捻る。 「ひぐっ、うあ……。か、カイム……」 中は大分柔らかくなっている。 ここで中断をするのは、勿体なく思える。 「……立てるか?」 「指を抜いてくれたら、立てると思うけど……」 「じゃあ立て」 立ち上がったリサを、今度こそベッドの上に転がす。 「ふやっ」 「さて……」 ベッドの上に目を向けると、リサは覚悟を決めたように、足を抱え上げていた。 「大胆だな」 「……娼婦だから」 そう言いながらも、身体はやはり紅い。 小刻みな震えも止まっていない。 やっぱり向いていないのか……。 そう思いながら、陰唇に手を伸ばす。 「あ、ふあ……っ」 リサの本来の入り口は、愛液でにゅるにゅるになっている。 「これは……追加の油はいらないな」 愛液をすくい、自分の陰茎に塗る。 「……ねえカイム」 「うん?」 「前に入れても……いいよ」 リサのぎこちない誘惑。 「……おい」 わずかな逡巡の後、俺はその誘惑を振り払う。 「今日は尻の練習だろう」 「そうだけど……ひゃっ」 もう一度、愛液をすくう。 すくってもすくっても、リサの女性器からはどんどん愛液が溢れ出してくる。 「触られたら……ほ、欲しくなる……」 「また今度だ」 「ほ、本当? また……してくれる?」 「……」 ぎこちない誘惑のはずなのに、何故か流されそうになってしまう。 決壊しそうな気持ちを、一呼吸して押し止める。 「もっと上手く、誘えるようになったらな」 そう言って固くなった陰茎を、間違えないようにリサの肛門へ沈めていった。 「ひ……っ、うく、うあっ! あ、あ、あ……っ、ふあ、ふあああぁぁぁ……っ」 指と同様に、ペニスもちゅるんと入ってしまった。 今度こそゆっくりと、挿入するつもりだったのに。 「お前……本当に初めてか?」 「は、初めてだよぅ……っ」 「初めてだから、そんなに思い切りよく、奥まで入れられたら……」 「あ、あ、あ……っ、ひあ、ふあっ、あっ、ああああぁぁぁぁ……っ」 奥まで入ったものの、入り口はかなりきつい。 指よりも更に太い肉棒に、驚いたように締め付けてくる。 少し痛いぐらいだった。 「リサも……痛いか?」 「い、痛い。さすがに痛い……っ、ようやく、はじめてっぽい痛みが、来た……っ」 「うあ、あ、あ……っ、裂けるっ、入り口……破れちゃうよぅ……っ」 「嘘じゃなかっただろ?」 「ふえ? ふあ……そ、そっか……そういえば、言ってたね、カイム……っ」 「うん、うん……っ、嘘じゃないのは、よく分かったから……っ」 「なんとかしてよぅ……!」 なんとか、と言われてもな。 ただリサの奥は、締め付けのキツい入り口に反して柔らかい。 油も奥まで、良く染みている様子だ。 特に気を使う必要は、無いようにも思える。 「リサ」 「ふぁい……」 「余計な力だけは入れないように気をつけろよ。本当に裂けるからな」 そう宣言して、腰を揺らし始めた。 「ひぐっ! うあ、あ、あっ! ああっ! あああぁぁぁ……っ」 「カイム……っ、ダメだってっ、痛いっ! 痛いよぅ……っ」 「お尻……、裂けちゃうって……っ」 「力を入れなければ大丈夫だ」 「だ、大丈夫って、そんなこと言われても……っ」 「あ……っ、あ、あ、あ……っ、ああっ! ふあ、ふああぁぁぁぁ……っ」 「そんなにされたら……っ、入っちゃうよぅぅ……っ」 その通りに、リサの入り口がキュゥッと締まった。 ペニスに鈍い痛みが走る。 「こら。締めるな」 「無理ぃ……っ、ひぐっ、ひ……っ、うくっ、うあっ、うああぁぁぁ……」 リサの締め付けから逃れるように、俺も腰を揺らす。 「ひっ、あ、あ、あ……っ! や、いやっ、いやぁ……っ!」 「ふあっ、あっ、ふあぁ……っ、はひっ、ひうぅぅ……っ」 苦痛の表情を浮かべたまま、しかし声は少しずつ、艶かしくなていく。 「や、やらっ、やらぁ……っ」 「痛いのに……っ、こんな声……っ、ふあ、うあ……っ」 「鞭で叩かれるのも、意外といいんじゃないか?」 「うぅ……っ、嫌だよぅっ。痛いのは……っ、嫌い……っ」 「いぅっ、いっ! いあっ、ふあぁぁぁぁ……っ」 「あんまり嫌いじゃなさそうだけどな」 もう少し深く、尻を抉ってみる。 「ひくぅっ!」 上を向いている性器から、ぴゅるっと愛液が飛散した。 「はぁーっ、はぁっ、はぁ……っ、はひっ、ひあっ、ひうぅぅ……っ」 いつの間にか、痛いほどの締め付けは消えていた。 「あ、や……っ、ふや、や……っ、あっ、ふあ……っ、うあ……っ」 「ひんっ、ひう……っ、うあ、ふあああぁぁぁ……っ」 リサが漏らす声が艶を帯び、陰茎をねじ込む度に膣口からは愛液が溢れる。 「ベッドは汚すなよ」 「それも……、無理だよぅ……」 「うぅ……っ、やっぱり、カイムがお客さんじゃなくて良かったかも……」 「来る度こんなにされたら……仕事にならない……」 上手く男の自尊心をくすぐってくる。 「今のは娼婦らしいセリフだな」 「え……? あ……。そういうつもりは……なかったんだけど……」 「あっ、や……っ、ふあ……、ふああぁぁ……っ」 溢れた愛液が肉棒に絡む。 挿入行為がますます潤滑になっていく。 「もう少し強めに動くぞ」 「だ……大丈夫かな?」 「大丈夫だろ」 「ふあ……っ、あ、あ、あ……っ」 「ふやっ、や……っ、や、や……っ、ひやっ、ふやあぁぁぁ……っ」 じゅぷり、ぐちゅりと音が鳴る。 通常の性交と、何ら変らないような音だ。 「ひやっ、ふやぁ……っ、あっ、ああっ、ふあっ、ふあああぁぁぁ……っ」 リサの声はますます大きく、艶かしくなる。 「紅いのは……酒のせいか?」 「た、ぶん……、違うと思う……。もうほとんど……覚めてるから……っ」 「紅いのは……お尻が、気持ちいいせいで……ふあぁっ! あっ! やあぁぁ……っ!」 「やっぱり……ダメだよカイム……っ。こんなのお客さんに使えない……っ」 「気持ちよすぎて……変になるっ、何も……できなくなっちゃう……っ」 「それはそれで悪くないと思うぞ」 そんな反応をされると、ますますいじりたくなる。 少なくとも俺は、身体の下で乱れる子犬のような少女に昂ぶっている。 「あ……でも、こんなに気持ちいいのは、相手がカイムだからかな?」 不意にリサが、そう呟く。 「……好きな人だし」 「いいな、それは」 「う、嬉しい?」 「ああ、悪い気はしない。娼婦としての良いテクニックだと思うぞ」 「ち、違うよ……、そうじゃなくて……」 「普通に……1人の女の子として、好きなの」 「言ったでしょ。リリウムの娼婦は、みんなカイムに恋してるって」 「あたしも……リリウムの娼婦よ」 「だからそんなおべっかを俺が信じるとでも」 「嘘じゃない」 急に強い口調で発せられた言葉に、俺はぎくりとする。 リサの目は……この部屋に転がり込んできたとき以上に真剣だった。 「カイムが嘘つきじゃないのと同じで……、あたしのも、嘘じゃない」 「止めろ」 「好き」 「止めろって」 「カイムは……嫌い?」 「……嫌いでは、ない」 気持ちが漏れるように、そう答えてしまう。 実際俺は、リサに好意は持っている。 ただそれは恐らく、リサが求めている種類のものとは違う。 「よかった……」 「いいよ、それで」 まるで俺の迷いを見透かしたように、リサがそう呟く。 普通の少女に戻れば戻る程、リサは何故か娼婦らしくなってしまう。 やはり……向いていないのだろう。 「好きな人と一緒になったらいけないことぐらい、分かってる」 「だってあたし、娼婦だもの」 「でも……それでも嬉しかったんだ。カイムと1つになれて……」 「お尻でだけど、交わることができて……」 「本当に、お店に来てね。約束よ」 「その時は、ちゃんと上手に誘うって……、あたしも約束するから」 子犬のような目で、リサが俺に懇願する。 あまり幸せではない飼い犬に、通りすがりができることなど限られている。 優しい言葉をかけて、軽く頭を撫でてやるだけだ。 「また……気が向いたらな」 「……ありがとう」 リサが柔らかく微笑む。 その微笑を自在に出せるようになれば、クローディアを凌ぐ人気者になれるのにと思う。 しかしそれは、言わないことにした。 「……動くぞ」 「うん、ごめん……っ」 「いっぱい動いて……、カイムも、気持ち良くなってね……」 「ふわっ! あっ! やっ! や……っ! やああぁぁぁ……っ! ひくっ、ひう……っ!」 腰を揺らすと、リサはまたすぐに可愛らしい声を上げる。 「や……っ、ふあっ、はっ、はぁ……っ、気持ち……良い……っ」 「カイムが知ってるお尻にはまった女の子の……1人目になっちゃいそう……」 そのリサの声に釣られるようにして、腰の動きも大きくなっていく。 「はぁっ! はふっ! ふあ……っ! やぁ、あ、あ、ああぁぁ……っ、あっ、ふあぁっ!」 「お尻……、熱いよぅ……っ、熱くて……、ふあっ、気持ち良い……っ」 「カイムっ! カイム、カイムぅ……っ」 「ふあっ! うあっ、うあ……っ、あ、あ、あ……っ、ひあああぁぁぁぁ……っ!」 ──びゅるぅっ! びゅくぅぅぅ……っ! 「んぅっ! ひんっ! ひくぅぅぅ……っ! んっ! んぅっ! んぅぅぅぅ……っ!」 「ふあっ、ふあ、ふあぁ……っ、や、や、や……っ、中で、動いてる……っ」 奥まで差し込んだまま、精を放つ。 柔らかい腸壁に、ドクドクと精液が注ぎ込まれていく。 「あ……、しまった」 「ふえ? なに、ど、どうしたの……」 「そのまま……出しちまった」 「……何かまずいの?」 「後でリサの腹がゆるくなるかもしれん」 「いいよ、そのぐらいなら」 「気持ちよかったし。カイムの温かいのが、奥まで入ってきて……」 「まだ……、震えが止まらないぐらい」 リサの震えは、俺のペニスにも伝わってきていた。 「んーーっ」 「ふあ……っ」 その震えに、最後まで搾り取られてしまった。 「……抜くぞ」 「うん」 「あっ、ふあ……っ」 陰茎を抜いた後のリサの肛門は、大きく開いてしまっていた。 「あ……、あ、あ、あ……」 開いた肛門から、精液が逆流している。 「や、ベッド……もっと汚しちゃう」 リサが肛門を締めようとする。 「あ、や……、上手く締まらない……」 肉棒の形に広がった入り口は、行為の余韻を味わうように、閉じようとはしない。 俺の注いだ白濁は、奥からどんどんと溢れてくる。 「あ……っ、ああ……っ」 「……いいぞ別に、汚しても」 「うん……、ごめんなさい。汚すなって言われても、もう無理だ……」 「すごく……いっぱい出されちゃったもんね」 リサは、溢れた精液を指先で弄ぶ。 「カイムがいっぱい……嬉しいな」 「ありがとう。大好き」 最後の一言は娼婦として出たものなのか、それとも少女としてのものなのか…… いや、考えるのは無粋か。 頭を振り、俺はリサの隣に寝転んだ。 その後、新しい奉仕を身につけたリサが人気者になったかというと…… 相変らず、人気は中の下といったところ。 気になった俺は、ジークに、リリウムで尻の奉仕をやっている女がいるか訊いてみた。 「興味あるなら、クロが上手いぞ」 そんな返事が返ってきた。 なんということは無い。 売れっ子は既に身につけてる技なのだ。 要するに、リサが何も知らないだけだった。 「カイムーっ、言われた通りにしたけど、駄目だったよ〜」 「やっぱり、カイムに常連になってもらうしかないよ」 「買わん」 「そんなぁ」 「だから言ってるだろ。もっと上手く誘え」 まあそれでも、何年も経って、本当にリサの年季が明けていなかったら…… その時は身請けしてやってもいいかと思う。 もちろん、思い切り買い叩いてだが。 そうして、 よく晴れた日に、布団を干させるのだ。 今度リリウムの娼婦が身請けされることになった。 一般にはめでたいことだ。 しかし、ジークの立場からすると手放しで喜べなくなる。 「身請けする相手の素性を良く知っておきたい」 そうして、俺に男の身辺調査という仕事が回ってきた。 まずは、経済状況を調べる必要がある。 本当に身請け金が払えるのか、払った後で女を養っていけるのか。 女の転売などされたら、たまったものではない。 続いて家族関係や友人関係、背後関係の有無など。 望まれての身請けかどうか見極めるのはもちろん、例えば男が〈風錆〉《ふうしょう》の残党だったりすると── 身請けに乗じた営業の妨害に繋がる怖れもある。 考え過ぎと言ってしまえばそれまでだが、少しでも可能性があるなら考慮しなければならない。 因果な商売だと思う。 ──数日、朝から晩までじっくりと相手の男を調べた。 結果は白。 ジークの懸念は幸いなことに杞憂に終わったわけだ。 これでジークも、枕を高くして眠れるだろう。 コンコン 「ジーク、いるか?」 ノックをしてから、扉を開ける。 中には誰もいなかった。 「なんだ、留守か」 別に珍しいことではないので、俺はそのまま待たせて貰うことにした。 部屋の中央にしつらえてある、長椅子に腰を下ろす。 長椅子は皮張で、中には上等な羽毛がぎっしりと詰まっている。 それに身を委ねると、ここ数日の疲れがどっと湧いて出てしまった。 思えば、ここ数日はほとんど寝ていない。 「ん……」 目を閉じると、恐ろしい速度で睡魔が襲いかかってくる。 安全面で言えば、ジークの部屋は牢獄で一番だ。 その油断も手伝ってか、俺はいとも容易く睡魔に絡め取られてしまった。 どのぐらい眠っていただろう。 下半身に妙な感触を覚え、俺は意識を呼び戻された。 ん? なんだ……? 覚醒しきらない頭で、奇妙な感触の正体を探る。 下半身に濡れた布を押し付けられている? いや違う、それよりももっと生々しい。 まさか…… 目を開ける。 「っっ!?」 半開きの眼に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。 目の前にはアイリスがいた。 「……」 いや、アイリスがいるのは当然だ。ここはリリウムなのだから。 ただそのアイリスの足が…… 俺の陰茎を、踏みつけていた。 俺は下半身を裸に剥かれている。 「なっ!?」 「起きた」 「何をしている」 油断していたとはいえ、こんな格好にされるまで目を覚まさなかったとは情けない。 アイリスは、いつものつまらなさそうな視線で俺を見下ろしている。 「む……」 ある程度慣れなければわからないが、アイリスはこう見えて感情表現が豊かだったりする。 リサには負けるが、それでもクローディアよりは余程わかりやすい。 今のアイリスは……無意味な悪戯を仕掛けようとしているだけには見えない。 「カイムに相談したいことがある」 「相談?」 「聞いてくれる?」 「聞いてやるから、取りあえず足をどけろ」 「…………いや」 「何言ってる」 「少し、楽しくなってきた」 「馬鹿かお前」 さすがに、声が尖ってしまった。 しかしアイリスは全く怯まない。 「大丈夫、カイムもすぐに楽しくなる」 アイリスが、くいっと足の指を曲げた。 「……っ」 ぴりりと、得体の知れない刺激が走った。 なんだ……? 背中を中心にもやもやと広がる未知の感覚を、慌てて振り払う。 「お前は、相談相手を踏みつけるのか」 「普段は乗せない」 「じゃあどけろ」 「これは特別」 「事情がある」 「……」 簡単に足をどかす気が無いことはわかった。 「相談は聞くから、ともかく足を下ろせ」 アイリスがこんなことをするのだ。 重要な用件なのだろう。 「わかった」 不本意そうではあるが、アイリスは納得してくれた。 背中に冷たい汗が流れるのを感じつつ、アイリスが口を開くのを待つ。 「お金が欲しい」 「金?」 「そう」 意外だ。 アイリスは、金に執着がないと思っていた。 「いくらだ?」 「金貨2枚」 「結構な額だな」 三人娘を連れてヴィノレタで豪遊しても釣りが来る。 「何に使うつもりだ?」 「ほしい物が、ある」 「太い客にでも頼め」 「…………」 アイリスが黙る。 何か厄介なことに巻きこまれたのだろうか。 「相談と、さっきの足との因果関係は?」 「わたしは娼婦で、こういうことしかできないから」 「は?」 「お金を稼ごうと思った」 「つまり、金貨2枚でお前を買えと」 「そう」 「なら初めからそう言え」 「ごめん」 素直に謝るアイリス。 「本当は、確認だけのつもりだった」 「何の確認だ」 「ちゃんと勃つか」 「カイムが本当に〈不能野郎〉《やくたたず》だったら、相談のしようが無いから」 「阿呆か」 誘いを断ったとき、アイリスはよく不能野郎と罵ってきた。 まさか、本心から言っていたとは。 「で、結果は?」 「良い反応」 「それで楽しくなった」 「わかったわかった」 夢中になっていたところで、俺が目を覚ましたというわけか。 いくら疲れていたとはいえ、ひどく油断したものだ。 「金貨2枚は高いけど、その分頑張る」 アイリスが、もう一度足を持ち上げる。 「……」 娼婦の私的な売春は固く禁じられている。 禁を犯してまで、アイリスが金を欲しがる理由は何だろうか。 アイリスの目を見ると、いつもの厭世的な濁りは薄れ、遠くを見据えている。 ……そうか。 今日まで俺が調べていたことを思い出す。 身請けされる娼婦……。 彼女はアイリスの昔なじみだった。 恐らく餞別でも贈ろうとしているのだろう。 仕方ない、つき合ってやるか。 「わかった、好きにしてみろ」 「満足させれば、金貨2枚払ってやる」 「カイム」 アイリスの表情が明るくなる。 わかりにくいが、喜んでいるのだ。 「……ありがとう」 小さく礼を述べる。 そしてアイリスの脚が、再び俺のペニスを弄び始めた。 「まだ、これを続けるのか?」 この行為を気に入る客が、本当にいるのだろうか。 「割と人気」 「頑張ると言っていたが」 「うん」 アイリスにしては珍しく挑戦的な視線。 「いいだろう」 アイリスの足指が、俺のペニスに絡む。 裏筋が、アイリスの柔らかい爪に引っ掻かれた。 「……っ!」 未知の感触。 背中がざわめいてしまう。 そんな俺の様子を見て、アイリスはもう片方の足も伸ばしてきた。 「くっ……うぁっ」 「ん……っ」 俺の陰茎が、アイリスの小さな足の裏に挟まれる。 「ふふ……」 新しく伸びた方の足は冷たい。 しかしすぐに俺の肉棒の熱が移り、じんわりと汗ばんでいく。 「…………」 確かにアイリスの客に、特殊な性癖の持ち主が多いことは知っている。 だがこれは少々特殊すぎないだろうか。 「変態は、これで喜ぶ」 「俺は変態じゃないが」 「でも、同じ男には違いない」 アイリスが、両足で俺の陰茎を擦った。 「……くっ……っ」 思わず声を漏らしてしまった。 「…………」 アイリスの退屈そうな瞳の奥に、何やら妖しげな光が灯る。 「金貨2枚分の仕事はする」 「わたしは身体が薄いから、きっと普通に抱いてもカイムは楽しくない」 真摯な声でアイリスが言う。 もちろん嘘だとは思わない。 しかし、半分ぐらいは自分で言っていた通り楽しくなってきているのだろう。 「カイムは責め甲斐がありそう」 「初めて言われたな」 「きっと新しい快感が見つかる」 「勘弁してくれ」 「騙されたと思って」 アイリスがゆっくりと足を上下に動かし始める。 「んぅ……」 アイリスの汗に誘発されるように、亀頭の先が涎を垂らし始めた。 それを、アイリスが指で掬う。 「ほら、早速」 ひどく艶かしい声で、アイリスが呟く。 「疲れているからだ」 「疲れていると、生殖能力が上がる」 「ふぅん」 別段興味の無い様子のアイリス。 「おい」 「別にどっちでもいい」 「カイムが感じてるのは事実だから」 「む……」 「久しぶりに、楽しく仕事ができそう」 呟き、アイリスは先走り液を陰茎に塗りつけるようにして、両足を動かしはじめた。 「ん……っ、ふっ、ふぅ……」 「う……く……」 声が洩れてしまう。 気恥ずかしくなり、視線を下にずらす。 いつの間にか、アイリスは下着を脱いでいた。 無毛の割れ目が、そこにある。 「なに?」 「……いや……」 「ここが……気になる?」 アイリスが下半身を、小さく揺らす。 俺は無視を決め込むことにした。 「やっぱりカイムも男……変態」 「変態呼ばわりはやめろ」 「嫌?」 「当たり前だ」 「わたしの客は、変態って言うと喜ぶ」 改めて、アイリスが劣悪かつ奇妙な環境に放り込まれているのだと気付かされる。 「あいにくだが、俺は罵られても嬉しくないな」 「そう? 残念」 「もっとすごい悪口もあるのに……」 聞きたくもない。 何故か、それを口にしているアイリスを汚しているような気になるからだ。 「じゃあ……こっちはどうする?」 両足の指を器用に曲げて、亀頭を愛撫する。 「……くっ」 「楽しくさせる自信はあるけど、どうしても合わないのなら、やめておく」 「それは……」 微かに汗で濡れた指が、生き物のように肉棒を這いずり回っている。 背徳感がそうさせるのか、妙に身体が熱い。 「続けて構わない」 「いいの?」 「どうせなら、珍しいことの方がいい」 好奇心もあった。 あのアイリス自慢の奉仕だ。 もう少し味わってみたい。 「じゃあ」 目の奥で微かに笑い、アイリスが足の指で俺の陰茎を摘む。 「ん……っ、んんぅ……っ」 勢い良く足を上下に揺らし始めた。 じゅくり、くちゅり、ちゅくり……。 ペニスはアイリスの足を汚しながら、そんな音を立てている。 「ふふ、あはは……面白い」 「足でしごかれて、こんなに硬くしてる……」 「しかもボスの部屋で」 そういえばここはジークの部屋だった。 「カイムが誘いに乗らないのは、不能だからじゃなかった」 「変態過ぎるのを見られたくないから……」 「アイリス」 俺が名前を呼ぶと、アイリスがハッとする。 「ごめん、いつもの癖で」 あからさまに沈んだ顔になる。 何となく、手を差し伸べたくなる顔だ。 「俺のことは、客だと思うな」 「え……?」 「お金、払えないってこと?」 「金はちゃんとやる」 「何なら先払いでもいい」 懐に手を入れる。 「それは……ダメ」 「わたしは娼婦だから」 アイリスの誇りなのだろうか。 「そうだな」 「ごめんなさい」 「なぜ謝る」 「カイムの好意を、上手く受け取れない」 「……」 アイリスの素直な反応に、自然と頬が緩む。 「客でないとしたら、なんと思えば?」 「そうだな……」 「恋人だと思ってみろ」 「恋、人?」 口にしてから、アイリスが僅かに頬を染めた。 「カイムが……恋人……」 「仮の話としてだ」 「恋人だと思えば、悪口も出てこないだろ」 「恋人を足で扱うなんて無理」 「そもそものところを否定するな」 「だって」 「足でされるのが好きな恋人と思えばいいだろう」 「それなら」 納得したらしい。 「カイムは……足でされるのが好きな恋人」 「ふふ、面白いかも」 アイリスの足が再度動きだす。 「お……」 「あっ、ん……っ、ふあ、あ……」 「ん……っ、んぅ……」 アイリスはこちらが呆れるほど簡単に、役に入り込んでいった。 「ふあ……、んぅぅ……」 乱暴すぎるぐらいに激しく、俺の陰茎を刺激する。 爪が何度も、カリ首を引掻いた。 「……っ、く……っ」 足の裏の皮膚と粘膜が擦れて、少し痛い。 しかしそれと同時に、背中がゾクリとする。 まずい……。 「ふぁ……、ん……っ」 腹をくくり、来るべき射精に備えて下半身に力を込めた途端…… アイリスの足技が止まった。 「ん……」 「……?」 尚且つアイリスは、踵で陰茎の根元を圧迫してきた。 「ん……っ、ん、んっ」 腰の奥からせり上がってきた射精感が、根元でせき止められてしまう。 「ま、待て……足を……離せ……」 狼狽する俺を、アイリスが見下ろしている。 「やっぱり……いく直前だった」 「わかってて、止めるな」 「わかってるから止めた」 「焦らしている」 「馬鹿」 「足技に焦らしは欠かせない」 「むしろ焦らしの無い足技なんて足技じゃない」 「カイムが足技好きなら、押さえておかないと」 「だからそれはあくまで仮の話だと……」 最後まで言い終わらないうちに、アイリスが足の裏での刺激を再開する。 射精の波が引きかけていたペニスに、小さな足が絡みつく。 「う……っ」 あっという間に波は戻ってくる。 ゾワゾワとした感触が陰茎に向かって集まる。 「はい、ここまで」 「くっ」 またしても見計らったかのように、根元を押さえ込まれてしまう。 ペニス全体が小さく震え、亀頭の先からは中身の伴わない透明な液だけが溢れていた。 二度も射精を止められてしまった肉棒は、破裂寸前だ。 「お前……」 「ふふ……」 アイリスがまた、足を動かし始めた。 射精感がまた募る。 それが最大限にまで膨れ上がったところで、根元を押さえ込まれる。 「うっ……っ」 「ふふ……楽しいでしょ」 「まさか」 「わたしは、とても楽しい」 「客が全部カイムだったらいいのに」 妙なことを呟きながら、アイリスがまた足を動かした。 「ん……っ、ふう……っ、はぁ……っ」 アイリスの吐息が、少しずつ荒くなっていく。 「良い反応」 足が加速する。 親指が、裏筋を弾いた。 「……っ!」 もう何度目かも分からない射精感が湧き上がってくる。 「また、止めた方がいい?」 「勘弁してくれ」 「じゃあ、そろそろ……」 今度こそ、アイリスは足を止めなかった。 「出るぞ」 「……うん」 アイリスは、かかとを浮かせたまま陰茎を擦り続けた。 「足でされるのが好きなカイムの……絶頂を見せてもらう」 もう突っ込む気力も無い。 「ん……、んっ、んぅ……っ、ん……っ」 アイリスの期待に応えるように、俺のものが反り返る。 「ふあ……っ、はぁっ、は……、はぁっ、はぁ……っ、ん……っ、ん……っ」 「はぁ……はぁっ、はぁ……っ、ふふ……いいよ、出して……」 「っっ!!」 「ん……っ、んぅっ、ん、ん、ん……っ、んぅ……っ、んぅぅぅぅ……っ!」 びゅるっ! びゅくっ! どびゅ……っ! びゅくぅぅぅ……っ! 「あっ、うあっ! ふあ……っ、うああぁぁ……」 ペニスが爆発したかのように、勢いよく精液が飛び出してきた。 亀頭の先から溢れたそれは、アイリスの足どころか身体までドロドロにしてしまう。 「……く……凄いな……」 こんなに出るとは。 我ながら呆れる。 「ほら、焦らされると凄い」 「やっぱり……相手がカイムだと、楽しい」 「カイムも、楽しかった?」 「多少な」 「素直じゃない」 「お前が言うな」 「ふ……」 やはり遠目では分からない程度に小さく微笑んで、 アイリスは、また俺のものを踏んだ。 「う……」 後戯のような、柔らかい足遣い。 「にゅるにゅるしてる……」 体温の高い、小さな足に踏まれ続ける。 その内、あろうことかまた俺のペニスは硬くなってしまった。 「あ……」 「どうする? もう一回、する?」 「足はもういい」 「そう?」 「足技はあまり好きになれそうにない」 「……嘘」 アイリスは、硬くなりかけた俺の肉棒を見下ろしていた。 「そういうことにしておいてくれ」 「残念」 「悪いな」 アイリスがようやく、俺の上から足を下ろす。 「……」 ほんのわずか、残念な思いもあったが。 立ち上がると目が眩んだ。 頭に血が行っていない。 ぼんやりとした頭のまま、アイリスを引き寄せた。 「ん?」 アイリスを抱え上げる。 「あ……」 アイリスの身体は、思った以上に軽かった。 逆に体勢を後ろへと崩しそうになってしまう。 「入れないの?」 もちろん、そのつもりで抱え上げたのだが、ここまで軽いと気が引けてしまう。 貫いたら壊れてしまうかもしれない。 「ほら、やっぱり」 「何がだ」 「わたしなんて、抱いてもあまり面白くない」 「……」 もしかすると、身体が小さいことにアイリスは負い目を感じているのかもしれない。 「下ろしてくれたら、また足でしてあげる」 「恋人のつもりでやれと言っただろう」 「足でされるのが好きな、恋人」 「それは仮定の話だ」 「だったら恋人も、仮定の話」 「その辺は柔軟に対応しろ」 「とにかく俺も、アイリスのことを恋人だと思うようにするから」 アイリスの目が、ほんの一瞬大きく開いたように見えた。 「迷惑か?」 「……ううん」 「嬉しい」 ぽつりぽつりと、噛みしめるようにアイリスが言葉を漏らす。 恋人。 それは、ごく一握りの娼婦だけが得られるものだ。 アイリスの言葉に、彼女が置かれている苛烈な環境を嫌でも思い知らされる。 その容姿が愛らしいが故に、日々奇妙な行為を強要され、少しずつ壊れていく。 例え仮初めでも、ごく普通の行為を経験させてやりたいと…… 柄にもなく、そう思う。 「……入れるぞ」 「うん」 俺はアイリスの身体に自身を挿入した。 「んぅ……っ」 「く……」 まるで手品のように、アイリスの小さな身体が怒張した俺の肉棒を飲み込む。 アイリスの中はとにかく熱かった。 「ん……っ、あ、ふあ……っ」 「あ……う……っ、んぅ……っ」 アイリスの口から声が漏れる。 「あ……っ、ふあ……っ、あ……」 「……カイム」 アイリスの小さな手の平が、俺の胸を掴んだ。 「はぁ……、ふあ、ん……」 湿った吐息が胸にかかり、少しくすぐったい。 「……っ、ふあ……っ、あ、あ……っ、あ……っ、うあ……っ」 「はぁ……っ、んっ、ふあ……っ、あ……っ」 ほんのわずかではあるが、アイリスの頬に朱が差す。 「カイム……」 「わたしにも何か、させてほしい……」 「この格好じゃ、自慢の足は使えないぞ」 「じゃあ……、こういうのとか……」 アイリスの手が動く。 服の上から、俺の乳首を摘ままれてしまった。 「くっ……」 アイリスの小さな指が、もぞもぞと乳首の上を這いまわる。 「どう?」 「悪くない」 アイリスの中のペニスが一段と大きくなる。 「いいんだ」 先程の足技といい、アイリスは男の快感を知り尽くしている。 「乳首を弄られるのが好きな恋人」 「いちいち、修飾語をつけるな」 「だって……」 僅かに唇を尖らせて、アイリスは乳首を弄び続ける。 腰が砕けそうになってしまう。 「床に下ろすぞ」 「だめ」 そう言ってアイリスは、開いているの方の手で、俺の胸を強く握った。 「床は嫌」 アイリスは余程乳首が気に入ったのか、ずっと触り続けていた。 乳首への刺激で固くなったペニスが、アイリスの中をかき回す。 「ん……っ、ふあ……っ、あ、あ……っ、ふあぁぁ……っ」 「はぁ……、はひ……っ、ひ……っ、ん、んぅぅぅ……っ」 アイリスの中は狭い。 狭い肉壺を、肉棒で削るようにかき分けていく。 その度に膣壁が絡まり、俺自身も削られるように感じてしまう。 「ん……っ、ふあ……っ、あ……っ、うぅ……っ」 「あ、あ……っ、んっ、んぅっ、ん……っ」 く……っ 徐々に、射精感が忍び寄ってくる。 「カイム……」 「何だ?」 「こんなに楽しいのは、初めて」 「別に俺は、何もしていない」 むしろアイリスに翻弄されていただけだ。 「普段と何が違うのか、わたしにもよくわからないけど」 「でもとにかく今は……楽しい」 「ありがとう」 ようやくアイリスは、乳首から手を離した。 代わりに両手で、俺の存在を確かめるように強く、胸にしがみつく。 「俺も楽しい気分だ」 「……っ」 一瞬、アイリスが息を飲んだように見えた。 アイリスの中が、きゅぅと締まる。 「く……」 アイリスの体温が、明確に上昇した。 「すごい……思った以上に、嬉しい」 「カイム、もう一度、言うね」 「本当に……ありがとう」 「礼なら、金を貰ってからにしろ」 俺は色々なものを誤魔化しながら、腰をゆすった。 「あっ、あ、あ、あ……っ、ふあ……っ、あっ、あ……っ、んぅっ、ん、ん……っ」 「や……ふああぁぁ……っ、あひっ、ひあ……っ、やっ、や……っ、ふああぁぁ……」 アイリスの震える体を、上下に揺らし続ける。 「あ……っ、ふあっ、カイム……っ、カイム……っ、ふあ、あっ、ああぁぁ……」 「はぁ……っ、あっ、あ……っ、ああっ、ああっ、あ、ああああぁぁぁぁ……っ!」 びゅるぅっ! びゅくぅぅぅ……っ! 「ん……っ、んぅぅ……っ、んあっ、ふあっ、あ……っ、ふあぁ……」 「中に……、出てる……」 「カイムがわたしの中に……どんどん溢れてくる……っ」 アイリスの身体が強張った。 絶頂時特有の痙攣が起こる。 「んっ、んぅっ! んぅぅぅ……っ!」 アイリスの肌に汗が滲む。 甘酸っぱい匂いが溢れた。 「あ……っ、うあっ、あ……っ、あぅぅ……っ」 「中に……出されて、いっちゃった……」 「カイムの……温かい」 アイリスが俺の胸に向かって、ふぅ……と息を吐きだした。 「カイム……、気持ち、良かった……」 じゅるり。 「んぅ……」 2度の射精を終え、ようやく柔らかくなることを許された陰茎が、アイリスの中から抜け落ちる。 「悪い。中に……出した」 本来なら娼婦への中出しはあまり褒められたことじゃない。 「……大丈夫」 「それに、恋人だったら中に出す」 「アイリス……」 「うん、わかってる。これはあくまで仮の話」 「わかってるけど……もう少しこのまま、抱いてて欲しい」 そう言ってアイリスは、ゆっくりと目を閉じた。 脱いであったズボンから、金貨を2枚取り出す。 それをアイリスに渡した。 「ありがと」 「お前は、もらうだけの仕事をした」 「……うん」 受け取った金を、大事そうに服の中にしまう。 さて…… 気が進まないが、アイリスには金の使い道を聞いておく必要がある。 娼婦が店を通さず客を取ることは許されていない。 「……」 突然、アイリスが部屋の扉を見た。 「どうした?」 「し……」 アイリスが突然、口元に指をあてた。 同時に耳を廊下に向けてそばだてる。 「足音だな」 「ボスが戻って来た」 「それは……まずい」 「お、カイム、来てたのか」 「ああ、勝手に入って悪かった」 「待たせたか」 「……ん? どうしてアイリスがいる?」 ジークの目がすっと鋭い輝きを見せる。 不蝕金鎖の部下が震え上がる眼差しだ。 「……ん」 アイリスが、机の上の葉巻入れから葉巻を取り出し、ジークに咥えさせ火をつける。 「気がきくのはいいが」 ──奇跡的に、後片付けが間に合った。 俺はなんとか衣服を着ることに成功。 アイリスも服を整え、目を誤魔化すためのチェス盤まで広げていた。 「お前が来るまで、チェスの相手をさせていた」 「夜まで客がいないって話だったんでな」 「ほう?」 ジークが盤面を見る。 「アイリスの圧勝じゃないか」 「カイムは弱くて相手にならない」 チェックの2手前まで進められていた。 「なるほど」 ニヤニヤ笑いながら、美味そうに煙を吐き出すジーク。 思えばアイリスがジークに葉巻を咥えさせたのも、部屋に残った性交の匂いを消すためだったに違いない。 「さすがのカイムも、アイリスにはかなわないか」 「ああ……全くだ」 心からそう思った。 「で、ここに来たってことは例の件の目処がついたんだな?」 「結果の報告だ」 そこまで言って、俺はアイリスを見る。 「構わんよ、アイリスは口が堅い」 一つ頷き、ジークに仕事の経過を報告する。 「結論から言うと問題ない」 「経済状況、人間関係ともに真っ白だ」 「なら良かった」 ジークは安堵したように、葉巻の煙を吐きだした。 「また今度、1杯おごらせてくれ」 「ああ」 「なら、これで依頼は完了だ」 席を立つ。 「ん……?」 立ち上がった俺の手を、アイリスが握った。 「ボス、わたし、カイムを送っていく」 「お前が散歩に出たいだけだろう?」 「ふふ、そう」 「はは、素直でよろしい」 「このところ働きづめだったし、カイムが気にしないなら外出を許可しよう」 少しの間考える。 一応最後まで見届けた方がいいだろう。 「なら、お言葉に甘えようか」 外に出たアイリスは、俺の方を一度も振り返らずに歩いた。 しかも、『俺を送る』などと言っておきながら、進行方向は俺の家とは逆だ。 路地の外れの方まで来て、ようやくアイリスは立ち止まった。 立ち止まった場所には1軒の店があった。 見たところ、質屋と宝飾店を兼ねているようだが。 アイリスは、〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく入口の扉を開けると、店主と思しき中年を呼び出した。 「なんだね嬢ちゃん。出張なら頼んだ覚えはねぇぜ」 「これ、買いたい」 アイリスは、店の入り口付近を指差す。 そこには、金色に輝くネックレスが飾られていた。 店主が、怪訝な表情でアイリスを見る。 「あんた、金はあるのか?」 「これで足りるはず」 アイリスが取り出したのは、俺がさっきアイリスに払ったばかりの金貨2枚だった。 「不満?」 「盗んだ金じゃねぇだろうな?」 「……」 アイリスは、黙って金を突きつける。 店主は受け取ろうとしない。 「そいつが自分で稼いだ金だ、俺が保証する」 「ま、ならいいだろう」 店主はアイリスから金を受け取り、ネックレスを手渡した。 受けとったネックレスを、アイリスが金貨よりも大事そうに抱え込んだ。 リリウムへの帰途。 「それが欲しかったのか?」 「俺に頼まなくても、贔屓客に頼めば買ってもらえるだろう」 「わたしが身につけるわけじゃない」 アイリスが素っ気なく言う。 客に買ってもらったものではなく、自分で稼いだお金で買いたかったのだろう。 アイリスは、無言で歩き続ける。 「カイム」 不意にアイリスが口を開いた。 「身請け先の男は、本当に問題無かった?」 「あ?」 「さっきボスとしていた話」 「問題なかった」 「近年稀にみるぐらいの好条件だ」 「女の子は幸せになれそう?」 それはわからない。 だが、暗いことは言わないでおこう。 「俺が保証する」 「良かった……」 アイリスが初めて、表情を緩めた。 もう一度ネックレスを胸に抱く。 ……やはりか。 そういえば、餞別を受け取るであろう娼婦は上層から売られてきた女だった。 上層では、貴族の家に仕えていた召使いだったらしい。 そして…… アイリスは、没落した貴族の娘だ。 もしかしたら、娼婦はアイリスの家に雇われていたのかもしれない。 「……」 身請けされる娼婦は、顔を見たことがある程度で、話したことはない。 ただ、アイリスが幸せを祈るような娼婦なのだ。 きっと、良い娘なのだろう。 リリウムが見えてきた。 アイリスの足が速まる。 「アイリス」 「ん?」 「また金が必要になったら遠慮なく言え」 「足が気に入った?」 皮肉っぽい笑みを浮かべるアイリス。 「そうだな」 最近人気というあの奇妙な感触は、思い出しただけでも背筋が震える。 あの感覚と、今のかすかに幸せな気持ちが同時に味わえるのなら…… 金貨2枚も高くはないと思った。 「いらっしゃいませ」 「あらカイム」 「よう」 いつものように出迎えてくれるメルトとティア。 カウンターではエリスが茶を飲んでいた。 その隣に座る。 「どうした、三人で顔をつきあわせて」 「お店を盛り上げるネタはないかなーって話をしててね」 「十分繁盛してるだろ」 「もっと上を目指したいんだって」 「ほう」 「で、何か考えついたか?」 「もちろんです」 ティアが満面の笑顔で答える。 「一応聞いておこう」 「期待してませんね」 「ああ」 「はっきり言われると寂しいです」 ティアがしょぼくれる。 「で?」 「はい、これです!」 ティアが自信満々に皿を出した。 載っているのは、一口大のパンが3つだ。 「一つだけ、すっごく辛いのがあるんです」 「お酒を飲んでいる時に食べたら楽しいと思うんですが」 「つまんない」 「そ、そうでしょうか」 「目新しさはないな」 「うう……」 「まあまあ、カイムも来たことだし試してみましょうよ」 「俺も付き合うのか?」 「もっちろん」 メルトが意地の悪い笑みを浮かべた。 「……」 並んだパンを観察する。 3つのうちの1には、少しだけ赤い色が透けていた。 詰めが甘いな、ティア。 「よし、俺はこれを食おう」 「わたしこれっ」 ほぼ同時に、赤味がないものを取った。 「あ……」 「残りはティアだ」 「え、遠慮します」 「そうだ! エリスさんどうぞ」 「小動物にあげる」 「で、でも……」 「食べ物を粗末にするの?」 「え?」 「ティアちゃん、料理をする人がそういうことじゃ駄目でしょ」 「ティアも贅沢になったな」 「そういうわけでは……」 「……わ、わかりました」 ティアが震える手でパンを取る。 「じゃ、せーので行くわよ」 「ひゃ、ひゃいっ」 「せーのっ」 「んぐーーーーーーーーっっ!!!!!」 「手応えのない仕事だった」 「ティアちゃん、もうちょっと周到にやらないと」 ぐったりしているティアに言う。 反応はない。 「で、他に案は出てないのか?」 「ないわね」 「あ、思いついた」 突然、エリスが口を開く。 「つまらない案なら言わなくていいぞ」 「非の打ち所がない、もう完璧」 すでに胡散臭い。 「小動物のお陰よ、あなたの犠牲は無駄にならなかった」 「あ、はい……ありがとうございます」 「メルト、火酒を二つ」 「はあ」 怪訝な顔で、メルトが火酒を出す。 「全員目をつぶって」 「何するつもりだ?」 「いいから」 仕方なく目を瞑る。 微かに液体が垂れる音がした。 「はい、目を開いて」 エリスが、俺の前に陶杯を二つ並べる。 「二つの火酒のうち、片方が当たり」 「あの、二番煎じでは……」 「え、何? 手術されたい?」 「いえいえいえっ」 無茶苦茶だ。 「さ、カイム、どうぞ」 「あ、ちなみに私はこっちで」 エリスが、いきなり右の陶杯を取った。 どう見ても残った方が当たりだ。 「お前な」 「さ、どうぞ、運試し」 馬鹿らしい。 辟易していると、入口の扉が開いた。 「あら、いらっしゃい」 「ようカイム、いたのか」 「ジーク、いいところに来た」 「まずは景気づけに一杯やれ」 エリス特製の火酒を渡す。 「嬉しいね、喉が渇いてたんだ」 「あ」 ジークが一気に飲み干した。 「ぐ……何だ? 身体が……熱く……」 「エリス、何を入れたんだ?」 「今度、売り出そうと思ってる薬」 「真面目な医者としては、治験してないものは売れないでしょ」 エリスが懐から見せた瓶には、『龍の如く』と書かれていた。 恐ろしい奴だ。 「ぐああああっ!?」 ジークがカウンターに突っ伏す。 「今までにない力が……湧き上がってくる……」 「……下半身に」 「はあ?」 「メルトっ!」 「な、なに?」 「俺のために、一肌脱いでくれ」 「ええっ!?」 「せやっ!!」 ジークがメルトに飛びかかった。 「おふっ!?」 飛び込んできたジークを、メルトが鍋で打ち返す。 綺麗な放物線を描いて、ジークは床に落ちた。 「メルト、ひどい」 「お前が言うな」 「あの、そんなことよりジークさんが……」 「放っておけば目を覚ます」 「む……」 ジークが、むくりと起き上がる。 何事もなかったかのように、煙草に火を着けた。 「煙が目に滲みる……」 「で、何の話をしてたんだ?」 「ヴィノレタを盛り上げる方法だとさ」 「ま、どうせ茶飲み話だ」 「盛り上げるねえ……」 「今まで冴えた案は出たのか?」 「すごく出た」 「言ってみろ」 「まず、火酒を2杯用意して……」 「もういい」 エリスを黙らせる。 「ん? そういえば、さっき火酒を飲んだ気が……」 「俺は一体?」 「夢だ、夢」 「そうそう、まさかわたしが《不蝕金鎖》の頭を殴るわけないじゃない」 「も、もちろんです」 「む、そうか」 ジークが苦笑する。 ふざけているのだ。 「まあ、あれだな」 「ぱーっと盛り上げたいなら、店の女が揃いの格好でもしたらどうだ?」 「こう、胸が透けてて裾が短いやつに」 「そういうのは、だーめ」 「普通の飲み屋でできることにして」 「なるほど」 ジークが腕を組む。 すぐに表情を輝かせた。 「なら、揃って服を脱ぐのはどうだ?」 「ジーク、久しぶりにお説教が必要みたいね」 「お前、いつから冗談がわからなくなったんだ」 「目が本気だったけど」 エリスがじっとりした目でジークを見る。 「待て、エリス」 「よく考えてみろ、ヴィノレタの女が全員裸だったら、娼館街の客を取られちまう」 「え? そういう理由ですか?」 「おっと、間違った」 ジークがカウンターに肘をつく。 「俺のメルトの身体を、そこらの男に見せるわけにはいかないからな」 「はぁぁぁ……」 メルトが大仰な溜め息を吐く。 「ベルナドをやっつけた時には、ちょっとは先代に近づいたと思ったんだけど」 「わたしの勘違いだったみたいね」 言いながらも、メルトの表情は柔らかい。 「おーい、メルト、酒……火酒頼むよぉ……」 客席から、酒枯れした声が飛んできた。 「もう何杯飲んでるのよ」 「いいじゃねーか、もう一杯、な? な?」 「ほら、歩けるうちに帰りなさい」 「つけといてあげるから、また明日ね」 「あー、メルトがそう言うんじゃ仕方ねえ……また明日なぁ」 メルトが上手く客を帰らせる。 流石に手慣れたものだ。 「ま、メルトがいる限り、売り上げなんて気にしなくてもいいだろ」 「そうだな」 「本当に売り上げが足りないなら、俺達が何とかする」 「ここがなくなって困るのは俺達だしな」 「あら、それはどうも」 メルトが愛嬌たっぷりに笑う。 「いい酒にいい店主、最高だ」 「その店主に襲い掛かろうとしてたくせに」 「うっ! また身体が熱くっ!?」 ジークがエリスを見つめる。 「エリス……ずっと前から、俺はお前が……」 「触ったら殺す」 刃物のような言葉が飛んだ。 「あと、吸わないなら煙草消して」 「お前ら、いい加減落ち着いて飲め」 そう言いながら、こいつらと飲む酒は嫌いではなかった。 「メルト、火酒……」 「いや、やっぱり待ってくれ」 エリスの前には、手つかずの火酒があった。 「エリス、火酒は飲まないだろう?」 「あ、うん」 エリスの火酒を取る。 一口啜ると、熱い感覚が身体の中を下りていった。 熱い。 非常に。 「治験への協力感謝するわ」 「言ってなかったけど、さっきの火酒、両方当たりだから」 「……」 道理で身体が熱い。 静かに椅子を下りる。 「帰るの?」 「ジークのようにならないうちにな」 「カイムさんが暴れると、どうなるんですか?」 「だめだめだめ、前なんて、お店の子が全員手籠めにされたんだから」 「カイムさん……」 怯えた目で見られた。 作り話だとわかって欲しいものだ。 「リリウムに寄っていったらどうだ?」 「どうせお前の煙草代になるんだ、リリウムの女なんぞ買うか」 「じゃあな」 「またあしたー」 メルトの妙に明るい声を背に、店を出る。 異様に火照った身体に、夜風が心地好い。 やはり、あいつらと飲むとロクことにならないな。 それでも、メルトの言葉どおり、また明日も来てしまうのだろう。 牢獄に溢れている、仕方のないことの一つだ。 「さて……」 久しぶりに、どこかの娼館で遊んでいくか。 後日── 大々的に売り出されたエリスの精力剤には、 『ジークとカイムが推薦!!』の文字が躍っていた。 「ごめんください」 「こんにちは」 今日はコレットの付き添いで、リリウムにやってきた。 「もし、ごめんください」 「どなたかいらっしゃいませんか」 返事はない。 「誰もいらっしゃらないわね」 「お店が開いているのです、そんなはずはありません」 「言われてみれば……」 「ふわーあぁ……いらっしゃい」 欠伸をしながらリサさんが姿を現した。 「リサさん、お久しぶりです」 「ん? 女性のお客様かぁ」 「お二人様ごあんなーいっ」 私とコレットの手を取り、奥へと引いていこうとする。 「リサさん、悪ふざけはよしてください」 「えええー、ノリ悪いなあ」 「何だっけ? ジュラさん?」 「コレットです」 「あの、ジーク様はいらっしゃいますか?」 カイムさんがティアさんを連れて上層に行かれた後、私たちはジークさんのお世話になっていた。 娼館に素人は置けないとのことで、少し離れた場所に部屋を用意してもらっている。 「ボス? あー、いま、出かけちゃってるよ」 「しばらくは戻ってこないんじゃないのかな」 「困りましたね」 「コレット、リサさんにお尋ねしましょう」 「ん、なになにー?」 「男を一瞬でいかせるコツ? なーんだ、早く言ってよ」 「違いますっ」 「一瞬……?」 「ラヴィ、あなた何を想像しているのですか」 「し、してないって」 「あははは、からかい甲斐があるなぁ」 「で、何を聞きたいの?」 「実は、上層まで手紙を出したいのです」 「牢獄から手紙を出す方法をご存じですか?」 聖域にいた頃とは違い、聖職者に頼めば届けてくれるわけもない。 「もっちろん、あたしに任せてよ!」 「よかった」 「んーとね、確かどこかに持って行ってお金払うんだよ」 「どこに持って行けばよろしいのですか?」 「あっち! あっちの方!」 右の方を指さすリサさん。 「あっちと言われましても……」 「あっははー、ごめん。詳しいことは知らないんだ」 「任せてと言ったではありませんか」 「ん、そうだっけ?」 「もういいです、他の方に伺います」 「多分、クロ姉様なら知ってるんじゃないかなー」 なるほど、あの方ならご存じかもしれない。 「クローディアさんは今いらっしゃいますか?」 「いるけど寝てるね」 「昨夜のお客さん、めっちゃ強かったらしくてさ」 「一晩で20回とか、びっくりだよね」 「20回……?」 「コレットも反応してるじゃない」 「な、何を言うのです」 「今更慌ててもお互い様」 むっとした顔で、コレットがそっぽを向いた。 こういうところが可愛く見えてしまう。 「クローディアさんは、いつごろお目覚めになるでしょうか?」 「んー、もうすぐ起きてくると思うよ」 「では、待たせていただいてよろしいですか?」 外から、湿気を孕んだ空気が流れ込んできた。 「あ……」 大粒の雨が降り始めていた。 「ひどい雨」 「外套を持ってくるべきでした」 通行人が、雨に濡れまいと外套や荷物を頭に被せて走り過ぎていく。 激しい雨に、早くも店じまいを始めるところもあった。 「あちゃー、降ってきたかぁ。売り上げ落ちそう……」 「雨が降るとお客様が減るのですか?」 「そりゃそーだ」 「帰ろうとしてたお客が、泊まっていくこともあるけどね」 「ま、当分はお客も来ないだろうし、ゆっくりしていきなよ」 「では、お言葉に甘えさせていただきます」 「で、手紙って誰に出すの? 男? やっぱ男かぁ、いいなぁ」 「あの、勝手に納得しないでください」 「だって、何となくそういう顔してるし」 「どういう顔ですか?」 「そういう顔」 リサさんがコレットの顔を指さす。 「な……」 コレットの耳が赤くなる。 「ほれほれ、そういう顔」 「や、やめてください」 事実、手紙はカイムさん宛のものだった。 私たちの近況などが綴ってある。 はぁ……カイム様は、どうされているでしょうか……。 雨のせいか、ふと、あの人のことを思ってしまう。 「こほん……ともかく、クローディアさんを待たせていただきますね」 「ほーい」 コレットと並んでソファに座る。 「あら?」 コレットが、卓の下にあるものに気がついた。 「これは、チェス盤です」 「リサさん、こちらの方はチェスをされるのですか?」 「ああ、順番を待ってるお客さんの暇つぶし用に置いてあるんだよ」 「実は私もチェスを〈嗜〉《たしな》むのです」 「クローディアさんが起きてくるまでお相手願えませんか?」 「コレット、お仕事の邪魔になるんじゃ」 「へーきへーき」 「あたし、チェスできないし」 「そういう意味ですか」 「アイリスができたはずだから、身体空いてたら呼んでくる」 「ちょっと待ってて……ええと、スコシアさん?」 「コレットです」 リサさんは、どうして名前を覚えてくれないのでしょう? 「そだっけ? ごめーん」 軽く笑って、リサさんは奥に入っていった。 「アイリスさんは強いのかな?」 「どうかしらね」 「何にせよ、私のチェスはカイムさん仕込みです」 「そう簡単に負けるわけにはいきません」 意気揚々とコレットが駒を並べ始める。 「連れてきたよー」 「何の用?」 「ぜひ、チェスの手合わせを」 「何故?」 「ここにチェスがあるからです」 コレットが不思議なことを言っている。 「変な女」 「アイリス、ちゃっちゃと、やっつけてよ」 「ええと、この……」 「コレットです」 「そう、それ!」 リサさんがコレットを指さす。 アイリスさんが小さく頷き、コレットの対面に座った。 「こんな所に、何しに来たの?」 「お手紙の出し方を知りたくて、訪ねて参りました」 「クローディアさんがご存じらしいので、お待ちしているのです」 「ふうん」 「アイリスさんはご存じですか?」 「さあ」 アイリスさんが盤面に視線を落とす。 「で、どっちが先手?」 「そちらの先手でどうぞ」 「後手でいい」 「ですが……」 「こっちはクイーンなしでもいいけど」 「大層な自信ですね」 「可哀想だから」 「勝負の前から憐れみを受ける謂われはありません」 「わかりました、ではこちらの先手で行かせていただきます」 「さあ、いきますよ」 「早くして」 「わかっています」 コレットが駒に手を伸ばした。 「チェックメイト」 「あ……」 コレットが呆然となる。 「私の負けです」 「見ればわかる」 「アイリスさんの5連勝ですね」 「ふふ」 勝負は全てアイリスさんの圧勝だった。 リサさんは、飽きてしまったのか2回戦まで見て奥へ入ってしまっている。 「まさか……カイムさんの顔に泥を塗ることになるなんて」 「カイムに教わった?」 「はい」 「アイリスさんは、どちらで腕を磨かれたのですか?」 「秘密」 興味なさそうにアイリスさんは言った。 この方、言葉はぶっきらぼうだけど、どこか洗練された雰囲気がある。 もしかしたら、良いところのお出なのかもしれない。 「コレットは、筋はいいけど手が安直」 「頑固だって言われる?」 「言われたことはありません」 「ええっ!?」 思わず声が出た。 「なんです?」 「い、いえ、何でも……」 驚いた。 「もう一勝負お願いできますか?」 「何度やっても同じ」 「やってみなければわかりません」 「やっぱり頑固」 「コレット、もう少し練習を積んでからの方がいいと思うけど」 「実戦が最大の練習です」 負けず嫌いは相変わらずだ。 「すみません、負けず嫌いで」 「なんです偉そうに」 「他にやることもないのですからいいではありませんか」 「だけど……アイリスさんも嫌がってるし」 「そうなのですか?」 「別にいい、負けないから」 「む……」 コレットの目が細くなる。 「あら、賑やかでございますね」 艶やかな声がした。 「あ、クロ」 「クローディアさん、おはようございます」 「これはラヴィさん、ごきげん麗しゅうございます」 「アイリス、予約のお客様はいらしていない?」 「来てない」 「そう、このお天気ですものね」 クローディアさんが、気だるそうに外を見る。 仕草の一つ一つが、女の私でもどきどきするほど綺麗だ。 「で、お二方はどういったご用件で?」 「お客様もいらっしゃいませんし、何でしたらお相手いたしますよ」 「ぜひお願いします」 「まあ、お元気ですこと」 「アイリス、奥へお通しして」 「2名様どうぞ」 「え?」 「わわわ、違います。コレットが言ったのはチェスの話で」 「ふふふ、存じておりますよ」 クローディアさんが笑う。 からかわれたらしい。 「では、お願いします」 「その前に、コレット」 「ああ、そうでした」 「実は、クローディアさんに伺いたいことがあるのですが」 「何でしょうか?」 経緯をクローディアさんに伝える。 「なるほど、お手紙の出し方でございますね」 クローディアさんが顎に手をやる。 「勿論存じておりますが、せっかくですし余興と参りましょう」 「チェスで私に勝てましたら、お教えいたしますよ」 「え?」 「望むところです」 「ちょっと、コレット」 「大丈夫です、心配せずに見ていなさい」 「チェスがやりたいだけじゃないの?」 「違います」 どう見てもそうだ。 でも、一度決めたら〈梃子〉《てこ》でも動かない子だ。 仕方ない。 「わたしは部屋に戻る」 「アイリス、洗濯をお願いしておいて」 「うん」 「アイリスさん、お相手をしてくださってありがとうございました」 「また腕を磨いてきて」 「く……」 薄い笑いを残して、アイリスさんは奥へ入っていった。 「あの子、強かったでしょう?」 「はい、5連敗でした」 「私はアイリスほどではありませんから、ご心配なく」 「では」 「始めましょうか」 「コレット、頑張って」 「待っていなさい、もう少しで勝負がつきます」 コレットの表情には余裕がある。 なかなか決着はつかないが、どうやらコレットが優勢のようだ。 「ふう、ひどい降りだ」 お店にジークさんが駆け込んできた。 「ジーク様、お帰りなさいませ」 「来てたのか」 「お邪魔しております」 クローディアさんは席を外し、ジークさんに拭く物を手渡す。 「お疲れ様でございました、ジーク様」 「ああ」 ジークさんは頭と体を拭き始める。 「クロ、チェスとはいいご身分だな」 「仕事はどうした?」 「予約のお客様がいらっしゃらないのです」 「ま、この雨じゃ仕方ないか」 身体を拭き終えたジークさんが、クローディアさんに手布を渡す。 そして、盤面を眺めた。 「どっちが白だ」 「私です」 「お前が?」 ジークさんがクローディアさんを見る。 クローディアさんは、穏やかな笑みで応えた。 「今、賭をしているのでございますよ」 「私が負けましたら、お手紙の出し方を教えて差し上げる約束です」 「お前が勝ったら?」 「特には」 「そりゃおかしい、賭が成立してないじゃないか」 「私にも何かを賭けろと仰いますか?」 「そういうことだ」 「しかし、ご存じの通り、私たちは大したものを持っておりません」 「なに、一晩ここで働いてくれれば問題ない」 「なるほど」 「なるほど、じゃないから」 「コレット、しっかりしてよ」 「ふふ、わかっています」 コレットが笑う。 「さすがに、その賭ならば下りさせていただきます」 「ははは、冗談だよ、お嬢さん方」 「ほっ……」 コレットにも困ったものだ。 カイムさんと出会ってから、度胸がついてしまったらしい。 「だったら、少しだけ店の呼び込みをやってくれないか?」 「別に客を取る必要はない。ただ、店の前で声を出すだけだ」 「でも、娼館の呼び込みですよね……」 ちょっとふしだらな気もする。 「コレット、どうする?」 「不満なら、そうだな……手紙3回分の金は俺が出してやってもいい」 「こう言ってはなんだが、あんたらにとっちゃ手紙代は高いぞ」 「……」 「乗りましょう」 「よし、まとまった」 ジークさんが、満足げに煙草に火を点けた。 「では、続けてよろしゅうございますか?」 「もちろんです」 二人が、再び盤面でぶつかり合う。 「私の優勢は変わらないようですね」 「それはどうでしょうか?」 クローディアさんが小さく微笑む。 目の奥で、今まで見たこともない底暗い色が揺らいでいる。 「そろそろ、舞台が整いましたね」 「お、本気を出すか」 「え?」 「参りますよ、コレットさん」 「ええええ!?」 クローディアさんの背後に、真っ黒な炎が見えた気がした。 「くぅ……」 いとも簡単に、コレットの駒が取られていく。 調子に乗って攻め込んでいた分、防御は手薄だったようだ。 知らない間に、獰猛な犬の口の中に飛び込んでしまっていたらしい。 「普通に勝ってしまっては、余興になりませんからね」 「リサ、いるか?」 ジークさんが、奥に呼びかける。 「あいさー、ボス」 「呼び込み用の制服を持ってきてくれ」 「わっかりましたっ!」 「呼び込み用の……」 「……制服?」 「はーい、これです」 「えええええええっっっ!?」 「え……」 布が……透けてる。 まるで、娼婦さんたちの服装だ。 「あ、だいじょぶ、だいじょぶ」 「こう見えて、けっこー温かいから」 「そういう問題じゃありませんっ」 「ジークさん、あんな服を着るなんて聞いていませんっ」 「呼び込みは普通あれを着る、牢獄の常識だぞ? 不勉強な方が悪い」 「ま、賭を下りるのも一つの手だが、手紙の件は残念なことになるだろうよ」 ジークさんが真面目な顔で言う。 やっぱり怖い人だ。 きっと、こっちが服装について知らないことをわかっていて賭けに乗せたのだ。 「あの服、きっとお似合いになりますよ」 「着付けは、私がお手伝いたしますのでご心配なく」 クローディアさんの目が怪しく光る。 「ひ……」 「さ、続けましょう」 コレットの鼓動が聞こえてきそうだ。 「あ……」 「あ……あ……」 「コレット、しっかり!」 「ああああああ!?」 「やあーーーーーっ!?」 「参りました」 「え?」 「あれ?」 「流石、お強うございますね」 おそるおそる、盤面を見る。 「勝っています……」 コレットの顔に安堵の色が浮かぶ。 しかし、すぐに表情を引き締めた。 「わざと負けましたね」 「さあ、どうでしょうか」 笑って、クローディアさんが立ち上がる。 「とても素敵なものを見せていただきましたので、そのお礼です」 「お二人の必死なお顔……とても癒やされましたよ」 「はぁ……」 「ふう……」 二人でソファに沈んだ。 思わず、コレットの手を握ってしまう。 「はははは、よかったな二人とも」 返事もできない。 「すみません、勝手なことをしまして」 「まあいい」 「明日は、いつもより多目に客を取れよ」 「ふふふ、かしこまりました」 クローディアさんが軽い調子で答えた。 「え? クローディアさん?」 「なんでございましょう?」 「いつもより多目というのは……」 「よいのでございますよ、こちらも好きでやったことですから」 「では、私はこれで」 小さく笑って、クローディアさんは奥に消えていった。 呆気に取られてしまう。 「さて、手紙の話だったか?」 「はい、お願いします」 「手紙を届ける方法はいくつかあるが……」 「早く正確に、かつ中身を見られないように届けたいと思うなら、俺達に依頼するのが一番だ」 「あんたは賭に勝った。約束通り3回は無料で請け負ってやろう」 「コレット」 「ラヴィ」 手を握り合う。 「では、これをお願いします」 コレットが1通の手紙を出す。 「誰宛だ?」 「はい、その……上層のカイムさんに」 コレットの頬がかすかに紅潮する。 かわいい、と女ながらに思う。 「あいつも女泣かせだ」 ジークさんが手紙を受け取ってくれる。 「不蝕金鎖が、責任を持って届ける」 「よろしくお願いします」 二人で頭を下げる。 「それじゃあな」 「面白い見せ物をありがとうよ」 軽く手をあげ、ジークさんは階段を上っていく。 「ああ、そうそう」 「はい?」 「金に困ったらいつでも言ってくれ」 「呼び込みなら大歓迎だ」 「お断りします」 コレットが、笑顔できっぱりと言った。 「ははは……あんた、意外と肝が据わってる」 白い歯を見せ、今度こそジークさんは上階へと消えていった。 「さ、帰りましょう」 外を見ると、いつの間にか雨が上がっていた。 「雨上がりは、牢獄の空気も澄んでいますね」 「ええ」 手紙の出し方もわかり、いつでもカイムさんと連絡が取れる。 それだけで、何だか心強くなった気がした。 あとは、私たちが頑張れば、きっと牢獄の生活も楽しくなるだろう。 「これからも頑張っていこう」 「ええ、もっと腕を磨いて、次はアイリスさんをやっつけます」 チェスの話じゃないんだけど……まあいいか。 微笑み合い、私たちは手をつないだ。 執務室は静かだった。 時折聞こえるのは、私とシスティナの息遣い、そして紙をめくる音だけだ。 カイムとティア君は牢獄に去り、召使いすらも今はいない。 「この書類は陛下に」 「かしこまりました」 隣の机で仕事をしているシスティナに書類を渡す。 「ふう……」 「もうお休みになってはいかがですか?」 「いや、貴族たちが様子見をしているうちに地盤を固めておきたい」 「ですが、お体に差し障りがあっては」 「わかっている」 システィナが心配そうな視線を向けてくる。 リシア様の戴冠より数日は、ほとんど睡眠を取れていない。 先の執政公──ギルバルトが改竄していた情報を洗い出すだけでも大変な仕事だった。 目頭を指で押さえてから、次の書類を手に取る。 そこには意外な内容が書かれていた。 「ああ……」 執務に忙殺され、このことを忘れていた。 「どうかいたしましたか?」 「いや、少し喉が渇いた」 「では、お茶の支度を致します」 「頼む」 張りつめた表情を崩し、システィナが足取り軽く席を立った。 再度、手元の書類を眺める。 政変に先立って家に帰した召使いを呼び戻す書類だ。 召使い不在の間、システィナには通常の業務に加え、身のまわりの世話までさせていた。 彼女には、彼女にしかできない仕事に専念してもらうのが理想だし、何よりシスティナの身体が心配だ。 早急に召使いを呼び戻そう。 「……」 文面を確認し、署名を入れる。 何故か逡巡があった。 胸に訪れた感情を確かめようと、瞑目する。 「お待たせいたしました」 「おお、早かったな」 書類を机の引き出しにしまう。 「お待たせしては申し訳ないと思いまして」 システィナが慣れない手つきで茶器を置いた。 「お口に合いますかどうか」 「すまない、召使いの代わりをさせて」 「お気になさらないで下さい、私はこれで……」 珍しくシスティナが言い淀んだ。 「どうした?」 「何でもございません」 システィナが僅かに動揺した。 追及はしまい。 「システィナも茶をどうだ?」 「いえ、そのような……」 「遠慮するな、仕事で疲れただろう」 「では、失礼いたします」 遠慮がちに言って、システィナが自分の机から私物の茶器を持ってくる。 「お注ぎいたします」 システィナは、まず私の茶を注ぎ、続いて自分の茶を注いだ。 揃って茶を口にする。  「薄いな」 「苦い」 「ん?」 「あ」 顔を見合わせる。 システィナがすぐに目を逸らす。 「茶は、交互に注がなければ濃さが均一にならないものだぞ」 「申し訳ございません、勉強不足でございました」 「すぐに淹れ直します」 「いや、構わない」 「私は濃い茶が好きなのだ、システィナのものをもらおう」 「で、ですが、もう口を」 「気にするな」 「ル、ルキウス様っ」 システィナの杯を奪い、口を付ける。 「ああ、私にはこのくらいが丁度良い」 「は……はい……」 「システィナも飲んだらどうだ」 「で、では、失礼いたします」 微かに震える手で、システィナは私が口を付けた茶器を取り── 〈躊躇〉《ためら》いがちに口を付けた。 静かに〈耳朶〉《じだ》が赤く染まっていく。 彼女の恥じらいを隠すように、耳に掛けていた髪が落ち、その横顔を隠した。 「どうだ、そちらの濃さは?」 「はい、丁度ようございます」 「苦いものは不得手でして」 「今まで気付かなかった」 長く傍にいるにもかかわらず、味の好みも知らないとは。 「茶にしても料理にしても、召使いはこちらの好みに調節して出してくれます」 「ルキウス様の前で、あえて好みを言う機会もございませんでした」 「なるほど」 「私とは違いまして、この館の召使いは優秀です」 「ははは、まあそう言うな」 「システィナの召使いぶりも、なかなか板についている」 「ありがとう存じます」 システィナが僅かにはにかむ。 「ん……」 ふと、何かが焦げるような臭いが漂ってきた。 「システィナ、何か燃えていないか?」 「え?」 「……あ、失礼いたしますっ」 茶器を置き、システィナが廊下へ飛び出した。 どうやら、厨房で何かしていたらしい。 苦笑しつつ、次の書類に目を通す。 しばらくして、システィナが戻ってきた。 後ろ手に何か隠している。 「……」 「何があった?」 「調理に失敗しました」 「火は出していないか」 「はい、問題ありません」 真面目な顔で報告してくる。 「ふふ……」 思わず苦笑する。 「で、何を作っていた?」 「お夜食です」 「後ろに持っているのがそれか」 「若干ながら、救出に成功しましたので」 出してきたのは焼き菓子だった。 若干焦げているが、食べられそうだ。 「遠慮なくもらおう」 「しかし、味は……」 「なら、何故ここに持ってきた?」 焼き菓子を口に入れる。 粉っぽく、お世辞にも美味いとは言えなかった。 「なかなか美味い」 「ありがとうございます」 システィナは笑わない。 味見はしているのだろう。 「申し訳ございません」 「何を謝る?」 「女の身ながら、家事も満足にできず」 「気にするな」 「システィナは、システィナにしかできない仕事をしてくれている」 「ですが……」 「感謝しているのだ」 「システィナがいなければ、今の私はなかったよ」 「な、何を仰います、私の力などっ」 「本心だ」 「過分なお言葉でございます」 陛下のお気持ちを変えるために、暗殺者に扮したこと。 共に父上を刺し貫いたこと。 システィナの働きは、もはや仕事の域を越えている。 無論、彼女の内に押し隠された感情に気付かぬほど鈍くはない。 しかし、口に出せることではなかった。 秘するが花といえば聞こえはいい。 だが、私たちの関係は、闇夜に香りだけを漂わせる幻の花だった。 「システィナは今のままで十分だ」 「家事が不得手なことなど、気にすることはない」 「お言葉を返すようですが、今は召使いの仕事もこなさねばなりません」 「相変わらず生真面目だな」 「ルキウス様のお力になれるのでしたら、いかなる仕事であっても全力を尽くす所存です」 「それに……」 「ルキウス様のお世話ができること、大変嬉しく思っております」 瞠目した。 それは、我々に許された最大限率直な言葉であったように思う。 システィナ……。 「ふふ、そうか」 「では、私も言葉に甘えてみよう」 「はい、是非に」 「私も家事に励んで参ります」 今日、出入りの本屋がシスティナの注文した本を届けてきた。 本屋に聞いたところでは、料理の本らしい。 システィナのことだ、今夜は貪るように本を読むことだろう。 「……」 引き出しに隠した書類を思い出す。 召使いを呼び戻せば、システィナが料理の腕を振るう機会は失われてしまう。 せっかく本まで購入したというのに。 ……いや、違うな。 私がシスティナの手料理を味わいたいのだ。 「どうされましたか?」 「もしや、先程の焼き菓子が」 「いや、大丈夫だ」 「ルキウス様、本日はお早めにお休み下さい」 「急を要する書類は、私が処理しておきますので」 「心配するな」 「ルキウス様は、これからの国を支えていかれる御身です」 「大切な時期ではございますが、何卒ご自愛の程を」 「先程も言ったが、今休むわけにはいかない」 「ルキウス様……」 システィナが真摯な瞳で俺を見る。 この目に私は助けられてきた。 政治家になる以前からずっと。 「その代わり、食事は体力のつくものにしてほしい」 「できるか?」 「ぜひご期待下さい」 「必ずや、ご満足いただけるものを用意いたします」 「頼んだぞ」 「はっ」 召使いの雇用は数日遅らせよう。 もう少しだけ、我々の時間を楽しもうではないか。 そう決めて、私は心の中で書類を握り潰した。 リシアが即位してからしばらくが過ぎた。 ルキウスの尽力もあり、治世は軌道に乗り始めている。 だが── それを見計らったかのように、貴族たちは新たな動きを見せていた。 「ふう……これで9件目だぞ」 リシアが、溜め息を吐きながら書類をめくる。 「そうぼやくな、めでたいことじゃないか」 「めでたいのは認めるが、祝宴も連日では飽きもしよう?」 「まさか、国王にこのような仕事があろうとはな」 「陛下が、貴族の婚姻を承認するのは昔からの伝統です」 「そうでしたな、ルキウス卿?」 ルキウスが頷く。 「貴族間の自由な婚姻を認めれば、こちらの知らぬ間に巨大な派閥を形成される可能性もありましょう」 「貴族の派閥や力関係を把握する意味でも、重要なお仕事なのです」 このところ、リシアの手を煩わせていたのは貴族たちの婚姻手続きだった。 書類に署名するだけなら手間はかからないが、仕事はそれだけではなかった。 新郎新婦や親族の長ったらしい挨拶を受け、それなりの言葉をかけてやらねばならない。 並行して、貴族が腹に何かを秘めていないかを調査し、結論を下す。 婚姻が決まれば決まったで、高い身分の貴族同士の婚姻ともなれば、式に出席する必要もあった。 「しかし、こう立て続けでは、国政を見る時間も限られてしまう」 「貴族たちは、情勢が落ち着くのを待っていたのでしょう」 「慶事が続くのは治世が安定している証」 「むしろ喜ぶべきことかと」 「わかっておる」 「ほら、これで最後だ」 リシアが、署名した書類の束をルキウスに渡した。 「お疲れ様でございます」 「疲れはせぬが、他人の婚姻を見せつけられると気が急いていかん」 ルキウスとヴァリアスが俺の顔を見た。 俺とリシアの婚姻について訊いているのだ。 「俺達が式を挙げるのは、貴族たちの婚姻が落ち着いてからだろう?」 「いつ落ち着くかなど、誰にわかる」 「さあな」 「お前はいつもその調子だ」 「本当は結婚する気などないのではないか」 リシアが憮然と言う。 「ヴァリアス殿、我々はお邪魔なようですね」 「うむ、ここは下がろう」 からかうような視線を俺に向けつつ、二人が言った。 「まあ待て」 「独り身は、もう一人いるではないか」 「おお、そうでしたな」 「ルキウス、そなたに相手はおらんのか」 「残念ながら今のところは」 「もったいない、引く手あまただろうに」 「どうも、色恋は苦手でございまして」 「お前にも不得手なことがあったか」 「ヴァリアス、ひとつ指南してやれ」 「私は剣しか能のない男でございます」 「そういえば、そろそろ子が生まれるのではないか?」 「しばらく、館に下がっていてもよいのだぞ」 「城を守ることが私の務めですので」 ヴァリアスが慇懃に礼をする。 「まったく、私の周りは堅物ばかりだ」 「お前たちに相談に乗ってもらおうかと思っていたが、どうやら無駄なようだな」 リシアがため息をついた。 「色恋の相談か?」 「いや、そうではないのだが……」 「とりあえず話してみろ」 「う、うむ」 リシアが、僅かに頬を染めた。 「その、子供の養育方針についてだ」 「どなたのお子で?」 「私の子に決まっているだろう」 「おめでとうございます」 「おめでとうございます」 「馬鹿な……」 俺が子持ちに? 〈大崩落〉《グラン・フォルテ》以来の衝撃だ。 「早とちりするな、まだ子などできておらん」 「それとカイム、『馬鹿な』とはどういうことだ」 「いや、何と言うか……俺もまだ未熟だと悟った」 「意味がわからん」 「まあよい、今夜とっくりと聞かせてもらおう」 「……」 苦しい夜になりそうだ。 「お子がまだならば、養育について悩まれるのは早いのではないでしょうか?」 「さりとて、こう婚姻の仕事が多いとどうしても心配になってしまうのだ」 「……」 和んだ空気とは裏腹に、リシアの表情は真剣そのものだ。 それは、彼女の生い立ちを考えれば納得できた。 厳しい躾の中で育ち、親の愛情を受けられなかったリシア。 そこをギルバルトにつけ込まれ、いいように操られてきたのだ。 不安も大きいだろう。 「私は親というものがよくわからない」 「その私が親になることを考えると、恐ろしい気分になるのだ」 「我が子まで、自分のような人間になってしまうのではと思ってな」 「お察しいたします」 「リシア様……」 ヴァリアスが目を伏せる。 ドアがノックされた。 「入れ」 「失礼いたします」 「ヴァリアス様宛に文が参っております」 「私に?」 ヴァリアスが近衛兵から文を受け取る。 小さな筒に入っているところを見ると、鳩を使った緊急便だろう。 紙片を開いたヴァリアスの目が、僅かに見開かれた。 「ご苦労、下がってよい」 「はっ」 敬礼し、近衛兵は出て行った。 「緊急の用件か?」 「いえ、問題ございません」 そう言うものの、ヴァリアスの声はどこか落ち着きがない。 「して、お子の養育方針についてでしたか?」 「うむ」 「陛下はどのようにお考えですか? それが何より肝要にて」 リシアが少し考える。 「私は、一定の年齢までは溢れるほどの愛情を注いでやりたいと思う」 「王としての教育はそれからだ」 「突然態度を変えれば、親から見捨てられたように感じるんじゃないか?」 「毎日、会話の時間を取ろう」 「そこで、厳しい教育の理由をわかってもらえばよい」 「わかってもらえると思うか?」 「それは……」 子供にいくら理を以て説いてもわかってはくれないだろう。 それに、毎日子供と話ができるほど、リシアも暇ではない。 「俺は、放任するのがいいと思う」 「子供は勝手に育つものだ」 「カイムのように育たれても困るのだが」 「王城で育てば、少なくとも俺のようにはならん」 「最悪、私のようになるかもしれないぞ」 「ははは、それは困るな」 「何だと」 リシアがぶすっとした顔をする。 「仲のおよろしいことで何よりです」 「うるさい」 「笑っておらず、そなたの意見も申してみよ」 「私は相手もいない身です」 「お恥ずかしいことですが、考えたこともございません」 「頼りにならぬな」 「ですが、どのようなことがありましても陛下のお子様を支えて参ります」 「まあ、その言葉は信じよう」 「ありがとうございます」 微笑みを湛えたままルキウスが言う。 どこか影のある笑顔だった。 謙遜などではなく、ルキウスは本当に家庭のことなど考えたことがないのだろう。 「ヴァリアスはどうだ?」 「わ、私でございますか」 「順番に聞いているのだ、一人だけ聞かれないとでも思ったか」 「い、いえ……」 ヴァリアスの額に汗が浮いていた。 「どうした? 何を慌てている?」 「ヴァリアス殿、先程の手紙は〈喫緊〉《きっきん》のものだったのでは?」 「問題ございません」 「お子についての話の方が、何倍も重要です」 ヴァリアスが姿勢を正す。 「私は、亡き陛下の方針を踏襲すべきかと存じます」 「そう言うと思った」 「陛下はリシア様のご期待には添えなかったかもしれません」 「ですがそれは、ギルバルトの奸計により病を得られたからです」 「ご養育の方針に問題があったとは思いません」 「リシア様のお子は、将来この国を背負っていかれるのです」 「非情と言われようとも、厳しく育てていかれるべきでしょう」 「……ふむ」 リシアはヴァリアスの言葉を一度飲み込んだ。 もっと反発するかと思ったが。 「父上も、さぞかしご無念であったことだろう」 「リシア様……ご成長されましたな」 「おだてるな」 まんざらでもない表情でリシアが苦笑する。 「しかし、私とて病に伏さぬとも限らぬぞ」 「何を仰います」 「私の命に代えましても、必ずやお守りいたします」 「頼むぞ」 リシアが微笑む。 「そなたらの意見が聞けてよかった」 「時間をかけ、じっくりと検討していこう」 「はっ」 「ははっ」 頭を下げつつも、ヴァリアスの腰が浮きかけている。 「ヴァリアス、行った方がいいんじゃないか?」 「緊急でなければ、伝書鳩など使わないだろう?」 「余計なことを言うな」 「ヴァリアス、本当のことを申せ」 「……は、はい」 「ですが、私事でございましたので」 「よいから申せ」 「……」 「早う申せっ」 「そ、その……子が……」 「子が生まれましてございます」 「なに?」 「馬鹿かお前はっ、さっさと行けっ!!」 「はっ!!」 弾かれたようにヴァリアスが立ち上がる。 「し、失礼いたしますっ!」 部屋の出口へと走る。 「剣を忘れてるぞ」 「あっ」 「も、申し訳ございませんっ」 卓に立てかけてあった剣をひっつかみ、逃げるように部屋を出て行った。 「ふふふ……ははははははっっ」 「あの男が、まさか拝領の剣を忘れるとはなっ……ははははっ」 目に涙を溜めて笑う。 「ヴァリアス殿も、さすがに我が子のこととなると……」 ルキウスも苦笑していた。 「ヴァリアスは絶対に親馬鹿になるぞ、賭けてもいい」 「俺も親馬鹿に賭けよう」 「私も同じです……賭が成立しませんね」 「子育てについては、まずはヴァリアスに手本を見せてもらおうではないか」 「奴が子を厳しく育てられたら、私も子を厳しく育てよう」 「それがいい」 「しかし……あの慌てよう……ははは」 再びリシアが笑った。 目に溜っていた涙がこぼれ落ちる。 それは笑いによるものではないように見えた。 「ヴァリアスも、人の子だったか……」 長い間、峻険な壁としてリシアの前に立ちはだかっていたヴァリアス。 奴が見せた人間臭い一面が、リシアの中の何かを溶かしたのかもしれない。 「カイムも覚悟を固めねばならないな」 「ま、あんたが身を固めてからだな」 「これは手厳しい」 リシアの笑い声に、俺達の苦笑が重なった。 いつまでも、こんな会話ができる日々が続くことを願わずにはいられない。 「火酒を頼む」 「あら、あなた様はもしや国王陛下!」 「むう、せっかく作った立ち絵も使われていないのに、まさかワシを知っている者が居ようとは」 「だってほら、お城のロビーに肖像画が掛かっているじゃありませんか」 「おお、そうであったそうであった」 「陛下といえば、お身体の具合がかなり悪いと伺ってますが」 「まあ、そういうことにしておかねばリッシーも成長せんかと思ってな」 「主治医が毒など盛ってきおったが、これこの通り、逆に元気すぎるくらいだ」 「それにほれ」 「病気だからとガウンなど着せおって」 「そんなにお元気なのに、なんで本編には登場なさらなかったのですか?」 「オーガスト作品で王と言えば、ストライキをするものと相場が決まっておろう」 「はっ! まさか!」 「うむ」 「『王がストでオーガスト』」 「今回はそれを実行したまでのこと」 「まあ! 歴代の国王が成し遂げられなかった悲願を! ついに!」 「ふはははは!」 「おめでとうございます!」 「そうであろう! ふはは! ふはははは!!」 「おっと、そこの親父」 「お前が生きている意味を教えてくれないか」 「ワシの生きる意味か……」 「こっちが聞きたいわ!!」 「ワシの活躍を見たそなたらに褒美がある。このURLに最後のカウントダウン壁紙があるから、使うが良い」 「ではの」 「あ、最後までプレイしてくれてありがとうね♪」