1945年、5月1日――ドイツ、ベルリン。  AM0:27……  第二次大戦の最終局面は、空前絶後の総力戦と化していた。  いや、殲滅戦と言うべきか。  圧倒的物量差に押し潰され、孤立したベルリンはもはや陥落寸前である。  帝都を包囲する赤軍50万は徐々にその輪を狭めていき、生きてそこから脱することなどまず不可能と言って構わない。  悲鳴と銃声と爆音の狂想曲は絶え間なく、かつ容赦なく鳴り響き、街を人を根こそぎ壊し、〈鏖殺〉《おうさつ》していく。  〈鏖殺〉《みなごろし》――老若男女〈鏖殺〉《みなごろし》。世界の敵を根絶やしに。  正義、復讐、愛、平和、制圧、解放、自由、平等――お題目は何でもいい。  〈依〉《よ》る大義さえ手に入れれば、人はどこまでも残虐になれるという見本のような状況だ。それがいたる所で起きている。  そう、たとえば――  この場所。  目も眩むような閃光に次ぎ、轟音と爆炎が炸裂した。  今の砲撃で新たに数人――少なくとも死体として原型を留めている三人以上が、粉微塵の肉塊となって街路上に散らばっている。 「――っぁ、クソったれがッ!」  罵声と共に、塹壕から飛び出た男の手にはパンツァーファウスト。  背後からシュマイザーの32連発に援護され、転がるように有効射程まで辿り着くや、膝を付いて照準を合わせる。  スイッチを押すと同時に、先端部の成型炸薬弾が射出された。  目で追えるほどの速度で放たれたそれは、戦車の側面装甲に吸い込まれ――着弾。  ノイマン効果により装甲は溶解し、数千度を超える炎と液化金属の奔流が戦車内を舐めつくす。  男はパンツァーファウストを放り投げ、手にしたモーゼルで残敵の掃討に取り掛かった。援護に回っていた数人もそれに続く。  これは戦争――何も余計なことを考えてはいけない。  ただぶっ殺し、ぶっ殺し、ぶっ殺してぶっ殺せ。  正気でいられるわけがない。  死にたくなければ吼え猛ろ。  後ろは絶対振り向くな。  どこまでもひたすらに狂騒し、血の温度を上げ続けろ。  銃火砲声さんざめく中、祈りのようにそれだけ念じて、兵士達は殺しあう。  無論それは、取るに足らない小競り合いだ。この場の戦闘を一時的に制したところで、大局的な勝敗は微塵たりとも揺るがない。  ドイツ第三帝国は破滅の坂を転がり落ち、独裁者の夢は戦火の中へと消えていくのみ。  ここに残ったのはその残骸にすぎない敗者達と、死肉を漁る禿鷹のごとき勝者の群れだけ。  確定した死。  逃れられない敗北。  抵抗は無意味な自己満足に他ならず、救いなど何処にもない。  もはや絶望を通り越し、滑稽でさえある茶番だろう。  だがそれでも―― 「殺せ――殺せ、まだ殺せ!」  まだこの心臓は動いている。  この手は銃を握っている。  敵がいるなら殺さねばならない。  なぜなら、それが義務なのだから。  なんでもいい。一つでも、この地獄を許容するのに〈縋〉《すが》るものさえあるのなら、たとえ狂気であろうと祝福だ。  名誉と忠誠――今となっては狗に食わせるほどの価値もないが、少なくともこの状況で、命より軽いものなどあるはずがない。  ――事実。 「これだけか……残ったのは」  掃討を終え、再び合流した仲間の数は、男を入れて三人しかいなかった。  この街区を守備していた一個中隊は、彼らを残して全滅。もはや、どうにかなるような状況ではない。敵はまた、すぐにもやって来るだろう。 「パンツァーファウストは?」 「先ほど、あなたが使ったのが最後ですよ、曹長。これはいよいよ、終わりが見えてきましたね。俺たちの負けです」  苦笑気味にシュマイザーを手渡してくる若者を、男はきつく睨みつけるが、それ以上あえて何もしなかった。  俺たちの負け。――そう、この戦争は俺たちの負けだ。帝都ベルリンが〈蹂躙〉《じゅうりん》され、味方はばたばたと死んでいく。いずれ自分達も死ぬだろう。 「まあ、ここまできたら別にそれもいいですけどね。ただ、最期は格好よくいきたいかな。どうせ逃げられやしないんだし」 「……貴様、名前は?」 「ヨアヒム・ブラウナーといいます。曹長は?」 「俺はヴァルター・ゲルリッツ。……ふん、まあ、名前も知らない奴と死ぬのは、お互いにご免だからな。おい」  曹長、ヴァルター・ゲルリッツは、先ほどから一言も発さないもう一人の若者へと目をやった。 「貴様の名前は?」 「あ……その……」  怯えを隠せない表情で視線を〈彷徨〉《さまよ》わせるその若者は、ヨアヒムよりもさらに若い。  おそらくはまだ十代。ヴァルターに子供がいたら、これくらいの歳だろうか。 「マルコ・シュミットと言います、曹長……」 「……そうか」  こんな子供に……などということをヴァルターは口にしない。言ったところで意味がないし、敵は子供だからといって容赦しない。  なぜなら自分達は、赤軍から〈蛇蠍〉《だかつ》の如く憎悪されている親衛隊の者である。たとえ降伏したところで、捕虜として扱われるなどまず有り得ないといっていいだろう。  ゆえに、どうせ殺されるなら戦って、その果てに。  ヨアヒムはその覚悟をすでに決めているようだったが、しかしこの少年は…… 「この戦争が終わったら、ベルリンは、ドイツは……どうなってしまうんでしょうか?」 「…………」 「僕たちの家族や友人は、いったいこの先……」 「知らないな。そんなことは」 「どうせあれだ。戦勝国様が偉そうに、俺たちを悪魔だ非人道的だなどと裁くのさ。笑わせるぜ」  これまで斜に構えていたヨアヒムが、一転、苦々しげに吐き捨てた。 「ドレスデンに母さんと妹がいたんだ。なのに爆撃でぶっ飛ばされて、骨の欠片も見つからない。悪魔だって? いったい何の冗談だ。俺たちは国のために戦ってただけなのに。それをあいつら……クソ、舐めやがって」  絶対に降伏などしない。だが、命を棄てて戦っても、すでに決した勝敗は変わらない。自分にそこまでの力はない。  そして、このまま負ければ祖国は、そして子孫達は……  戦争という巨大なうねりの中で、非力な一兵卒にできることなど何もない。  それがただ口惜しく、呪わしい。ヨアヒムの独白に、マルコは何も言えず黙り込む。 「だから俺は――」 「――――ッ」  その瞬間に、側面から銃声が連続した。  咄嗟に伏せたヴァルターとマルコは辛くも難を逃れたが、ヨアヒムは第一射で頭を吹き飛ばされ、続く銃撃で全身を蜂の巣に変えられる。 「……ちくしょうッ」  倒れ伏すまでの数秒、ヨアヒムの身体は機銃掃射による奇怪なダンスを踊らされていた。  これがつい先ほど、戦って死にたいと言っていた若者の、呆気なさすぎる最期だった。  これが現実。これが戦争。救いや英雄や奇跡などなく、ただ虫けら同然に人の命が消えていく。  だがそれに怒りや絶望の念を抱けば、瞬く間に自分も死の〈顎〉《あぎと》に捕らわれるだろう。  何も余計なことを考えてはいけない。ただ義務を果たすことだけを…… 「シュミット、聞こえるかシュミット!」  弾幕から逃れるべく、倒壊しかけたビル陰に転げ込んだヴァルターは、力の限り残る一人の名を呼んだ。  だが、それに応えるものは―― 「――――ッ」  再び、閃光と轟音と爆炎。  砲撃により吹き飛ばされた少年の上半身が、ヴァルターのすぐ足下に転がっていた。  血と臓物の焼ける匂いが、狭い路地に充満する。広がっていく血の海に、ヴァルターは力なく膝をついた。 「……あぁ、曹長……」 「すみません……僕は、お役に立てませんでした」  もはや一分と保たぬであろう、口を利けるだけでも驚愕に値する状態で、少年は微笑んだ。知らず、ヴァルターは彼の手を取る。 「死にたくない、死にたくないです。ここで死んだら、僕たちはいったいこれまで何のために……」 「曹長、教えてください。僕たちは悪魔なんですか? ベルリンは、ドイツは……」 「喋るな、シュミット……」  こうしている間にも銃撃は続いている。キュラキュラと音を立て、新たな戦車が近づいてくる。  もう、マルコ・シュミットは助からない。神であろうと救えない。  ならば今、軍人であるヴァルターが握るべきは、少年の手ではなく銃のはずだ。耳を傾けるべきは、センチメンタルな戯言でなく敵兵の息遣いだ。  それは分かっている。誰よりも分かっているが…… 「僕たちは、悪いことをしたのでしょうか? だからこんな目に遭うのでしょうか? 人を殺す戦争が、良くないものだというのは分かります。でも、でも僕たちは……」  ヨアヒムは、自分は、少なくとも大多数の兵士達は、ただ祖国と愛する者を守るために、銃を取っただけだというのに……  それが、そんなにも悪いことだというのだろうか?  死に逝くベルリンの中、少年は切れ切れの言葉で問い掛ける。それはヴァルター自身、天の誰かに問い質したいことだった。 「……おそらく」  だが結局、数秒にも満たない〈煩悶〉《はんもん》の末、ヴァルターは短く告げた。 「戦争が悪いのではなく、戦争に負けることが悪になるのだ」  それは真理。なんと残酷で、憎むべき真理。  ああ、だったら神よ――俺はあなたを…… 「それなら……次は勝ちたい、です…ね………」  天を仰ぐヴァルターの腕の中、マルコ・シュミットは静かに息を引き取った。血と泥に汚れてはいるものの、少年らしい苦笑を浮かべて。 「……そうだな、シュミット、ブラウナー」  呟くヴァルターの顔にも苦笑が浮かぶ。 「次は勝とう。次で勝てなければ次の次で、それでも駄目ならまたその次で……ふっ、百万回も繰り返せば、こんな結末を引っくり返せるかもしれない」  くだらない、死を目前にして自棄になった者の戯言……などでは断じてない。  ヴァルターはシュマイザーのコックを引き、初弾が装填されたことを確認すると、いっきにビル陰から踊り出た。 「〈勝利万歳〉《ジークハイル》!」  叫びは無意識に、そして喉も張り裂けんばかりの大声だった。  続く運命はヨアヒムのような蜂の巣か、それともマルコのようなものだろうか。  まあいい。どちらにせよ問題ではない。  糞ったれなこの負け戦を、糞ったれな死に様で終えるだけだ。  突撃するヴァルターの思考はそれのみであり、ゆえに続く展開を予想していたわけでは、無論なかった。 「〈Pater Noster qui in caelis es sanctificetur nomen tuum〉《天にまします我らの父よ 願わくは御名の尊まれんことを》」 「〈Requiem aeternam dona eis, Domie et lux perpetua luceat eis〉《彼らに永遠の安息を与え 絶えざる光もて照らし給え》」 「――――」  反射的に身を伏せたのは、歴戦の〈兵〉《つわもの》としての勘だった。 「ッ、ッッッ!」  先ほどまでの砲撃など問題にならぬ、天が爆発したかと疑うほどの衝撃と白光が視界を覆う。  市街戦としては有り得ないレベルの破壊力が、すぐ間近で炸裂したのをヴァルターは悟っていた。  いったい、何が……  何が起きた? 「―――――」  街が……文字通り命を懸けて守ってきたこの街区が、ただの焼け野原と化している。  これは何の冗談だ? 視覚と聴覚が正常な機能を取り戻すまでかなりの時間を要したが、それだけの時を掛けても彼は現状を把握することが出来なかった。  分かっていることと言えば、部下の遺体も敵の部隊も、残らず吹き飛んでしまったということだけ……  空から爆撃されたのだとしても、あの一瞬でこうはなるまい。ヴァルターもまた、即死を免れたというだけで深い傷を負っていた。 「……ッ、ごふ」  爆風で飛ばされてきた鉄骨やコンクリ塊が、脇腹と背中に刺さっている。  シュマイザーを握っていた右腕は肘の先から消し飛んで、骨折や裂傷も相当な数でしているだろう。  吐血が止まらないところからして、確実に幾つか内臓が潰れている。  致命傷だ。 「くそ……くそ、くそッ」  もはや何に憤っているのか自分自身も分からぬまま、吐き棄てるヴァルターの耳に再びあの声が響いてきた。 「〈exaudi orationen meam〉《我が祈りを聞き給え》」 「〈ad te omnis caro veniet〉《生きとし生けるものすべては主に帰せん》」 「〈Convertere anima mea in requiem tuam, quia Dominus benefect tibi〉《我が魂よ 再び安らぐがよい 主は報いて下さるがゆえに》」  それはレクイエム。戦場の死者に捧げる〈哀悼〉《あいとう》の歌。  美声である。  大教会の聖歌隊といえども、こうはいくまいという“格”がある。  だがそれでいて、声の主が嘲笑していることは誰の耳にも明らかだった。  これが天使の歌声などと評されるのは、有り得て世界が終わる日くらいだろう。  そこに宿るのは死者を〈嘲〉《あざけ》り、〈侮蔑〉《ぶべつ》し、陵辱し、尊厳を〈蹂躙〉《じゅうりん》することに悦楽を見いだす〈壊人〉《かいじん》の性。  およそ常人が持ちえる悪意を遥かに凌駕した、暗黒の精神。 「〈Requiem aeternam dona eis, Domie et lux perpetua luceat eis〉《彼らに永遠の安息を与え 絶えざる光もて照らし給え》」  はたして、悪魔のレクイエムを口ずさみ、瓦礫を踏みしめながら現れたのは……  ――少年。マルコよりもさらに若い、一見して少女と見紛うほどの〈華奢〉《きゃしゃ》な体躯の少年だった。  それを目に留め、ヴァルターの全身が小刻みに震えだす。 「――――」  歯の根が合わない。出血多量で意識は〈朦朧〉《もうろう》としているが、身を走り抜けるこの悪寒は別のところに因がある。  少年が放つ悪意と鬼気も、なるほどその一端ではあるだろう。だがそれ以前に、何よりもヴァルターを恐れさせた事実はただ一つ。  彼は、この少年を知っていた。  いや、この少年を知らぬ者など、少なくともあの東部戦線を経験した者の中には一人としていないだろう。  決して満たされることのない餓えに憑かれた獣のような……人として持ってはならない狂気を帯びた青い隻眼と銀の髪。  両手の銃に刻印された〈狼のルーン〉《ヴォルフスアンゲル》――。  間違いない。忘れようはずもない。  彼は、〈三〉《 、》〈年〉《 、》〈も〉《 、》〈前〉《 、》〈に〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》…… 「シュライバー……少佐殿……」  東部戦線遊撃部隊、特別行動部隊長――ウォルフガング・シュライバーSS少佐。  敵味方の区別なく暴れ狂い、粛清されたはずの白い悪魔。  それがなぜこんなところに…… 「ああ、誰かと思えばヴァルター・ゲルリッツ曹長かい。〈特務部隊〉《アインザッツグルッペン》じゃ迷惑かけたね。元気かい?」  死に際の――それもおそらく自らがそうさせた――同胞に対する言葉ではない。無邪気なだけに邪悪極まる微笑を浮かべたシュライバーは、紛れもなくヴァルターが知っている通りの彼だった。  ……いや、腕章の柄がハーケンクロイツでない以上、もはや同胞ではないのかもしれないが…… 「あなたが、なぜ、ここに……?」 「んん、なぜも何も、僕も君も軍人だろう。 戦って殺すのが商売なんじゃないのかな」  こんな風に、と道化た仕草で周囲を見回す〈挙措〉《きょそ》に応じて、異変が起きた。  霧のような、〈靄〉《もや》のような、不透明な陽炎めいた気体が辺り一帯に立ち昇りだす。  同時に、耳を覆いたくなる呻き声がヴァルターの鼓膜を震わせた。  それは怨嗟に〈塗〉《まみ》れた、死後も永遠に呪われて苦しみ続けるであろう死者達の声。  ひしりあげ、重なり合うその慟哭に、炎で熱せられた大気温が急激に下がりだす。  これは死者達の霊魂なのか。揺らぐそれらの中に、ヴァルターはマルコやヨアヒムの顔を見たような気がした。  そして、彼らが辿る末路をも……  空間を埋め尽くす魂が渦を巻き、シュライバーの眼帯に――〈象嵌〉《ぞうがん》された〈髑髏〉《トーテンコープ》に吸い込まれていく。  喰っているのだ。この少年は自らが殺めた人間の魂を。  そのあまりに現実離れしたおぞましい所業に、怒るべきなのか泣くべきなのか、ヴァルターは判断できない。  いっそ正気を無くしてしまえれば、どんなに楽なことだろう。 「さて、それじゃあ曹長、僕はもう行かないといけないんだけど、君はどうする?」 “食事”を終えて満足したのか、大儀そうに首を回すシュライバーは、そんなよく分からないことを口にした。  どうするとは、どういうことだ。ヴァルター・ゲルリッツは虫の息であり、軍人の商売とやらを行える状態ではない。 「殺し足りなくはないのかい?」 「今さら〈赤軍〉《れんちゅう》の百や千を殺したところで、何も変わりやしないけどね。でもだからって、何もせずに黙ってる必要なんかどこにもない。 見なよ、このベルリンを。まったく酷い有り様じゃないか。こんなものが僕らの求めた千年帝国の終わりだなんて、ははは、誰が納得するっていうんだよ」  納得? 納得など…… 「できないよねぇ」  薄ら笑うシュライバーを、射殺さんばかりの目でヴァルターは睨みつけた。  そうだ。誰がこんな結末に納得などするものか。  友がいた。家族がいた。愛する女も存在した。自分はこの国を愛していた。  それが、この戦争に負けたことによって汚される。永劫、消えることのない汚名を着せられる。  そんなことは―― 「許せないよねぇ。薄汚い劣等ごときが、我が物顔で帝都を〈蹂躙〉《じゅうりん》するなんて。女や子供や年寄りを、犯して殺して吊るすなんてさ」 「曹長、忠勇なるドイツ軍人、ヴァルター・ゲルリッツ曹長殿。君の気持ちを聞かせてくれ。君は、いったいどうしたい?」 「あ……ぁお………」  ごぼごぼと溢れ出る血泡のせいで、発声が上手くいかない。だがその気持ちは決まっていた。  最後まで戦いたいと言っていたヨアヒム。次こそ勝ちたいと言っていたマルコ。彼らの気持ち、自分の気持ち……  眼前の少年は紛れもなく悪鬼の類に相違ないが、そんなことは問題ではない。  自分は、俺は…… 「……勝ちたいッ」  勝って祖国に栄光を。  死んでいった仲間や家族に安らぎを。  そして、未来の子孫達に祝福を。  何より、この己の魂に…… 「〈勝利万歳〉《ジークハイル》! そうさ曹長、素晴らしいよその意気だ。君のような勇者にこそ、あの方の血肉となる資格がある」 「戦争は終わらない。僕達が終わらせない。何度でも何度でも何度でも何度でも、続けて続けて続けて続けて――」  勝利を。 「掴むまで――共に行こうじゃないか、無限に続く……戦場へ」  次で勝てなければ次の次で、それでも駄目ならまたその次で、百万回も繰り返せば、いずれはこんな結末など覆せるはず。絶対に。  今まさに命の灯が消えんとしているヴァルターに向け、シュライバーはモーゼルの銃口を突きつけた。 「〈Requiem aeternam dona eis, Domie et lux perpetua luceat eis〉《彼らに永遠の安息を与え 絶えざる光もて照らし給え》」  レクイエム。悪意に〈塗〉《まみ》れた、死者を〈嘲弄〉《ちょうろう》する鎮魂歌。  だがそれを、ヴァルターは美しいと感じていた。天使のようだと……  ああ、そうか。これが世界の終わりなのか。  俺はこれから、世界を滅ぼす軍勢に加わるのだ。  魔獣を構成する〈軍団〉《レギオン》の、その〈鬣〉《たてがみ》の一本に…… 「アハ、アハハ、アハハハハハハハハハハァ――――ッ!」  銀髪を振り乱し、天を仰いで喉も張り裂けよと〈哄笑〉《こうしょう》するシュライバー。  血に狂ったその隻眼に、ヴァルター・ゲルリッツの魂が吸い込まれ、消えていった。  そして同刻――別の場所ではもう一つの悪夢が起きていた。  十数両もの戦車部隊が、たった一人の敵を仕留められない。  ――いや、たった一人の敵に壊滅させられようとしているのだ。  その異常事態の渦中にいるのは、漆黒の壮漢。  一分の隙もなく着こなした軍装の下、極限まで鍛え上げられた肉体は鋼と形容するに相応しい。  古代の彫刻のごとき芸術性と、荒ぶる武威の完璧なる融合である。  そして彼は、身に寸鉄すらも帯びてなかった。  徒手空拳。  その拳撃が、それのみをもって、戦車の装甲を紙細工同然に貫通し破壊する。  人間業ではない。 「――化け物」  然り、化け物である。でなければ人の〈形態〉《かたち》をした兵器であり要塞。どちらにせよ人外の兵士であり怪物だった。 「〈撃〉《テッ》ェーッ!」  さらに、加えて言うならもう一つ。  この壮漢は、先ほどから〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》〈を〉《 、》〈躱〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  無数の銃弾と砲弾をその身に浴びて、なお傷一つ負わぬ肉体はまさしく不滅。  しかし、それも当然のこと。  なぜなら、皆が知っていた。  この男を、この強さを、〈一〉《 、》〈年〉《 、》〈前〉《 、》〈に〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》、ある英雄とその名前を。  死人は誰にも殺せない。 「――――――」  男の口から呼気が漏れる。  〈横溢〉《おういつ》する気が周囲の瓦礫を塵芥に変え、熱風を起こし吹き飛ばす。  ギリギリとたわめられた筋肉が、力の解放を求めるように極大まで膨張していた。  それは鉄槌。  この世に砕けぬ物など存在せぬ、総てを強制終了させる破滅の一撃。  拳に集束するエネルギーは大気に熱差の断層を生じさせ、〈巌〉《いわお》のような男の体躯を歪めて映す。  もはや射爆と言うに相応しいほど充実した気が膨れ上がり、今にも破裂せんとするその刹那―― 「――ひぃ」 「…………」  いったい何を思ったのか、臨界に達していた男の気が霧散した。  まるで興を削がれたと言わんばかりに。  戦意を喪失した敵兵など、殺すに値しないとでも言うように。  ならば哀れな兵士達は、命拾いしたというのか。  ――否である。 「Was glei〈cht wohl auf Erden dem Jägerver〉《この世で狩に勝る楽しみなどない》gnügen」  無情に響くのは狩人の歌。  男のすぐ脇を通って、灼熱の炎が敵兵達を飲み込んだ。  尋常な火力ではない。  個人の装備や戦車などで、発揮し得る破壊の限界を超えている。  紛れもなく戦略兵器級の――有り得ないが――それを任意の一点に集約させたかのごとき超熱量の爆発だった。  地形すら変える暴威の痕跡もそのままに、火の海と化した一帯からこの世ならぬ断末魔が木霊する。  一瞬の猛火に〈晒〉《さら》され、影も残らず蒸発した兵士達――彼らの魂が怨嗟の声をあげているのだ。  先のシュライバーが起こしたものと、まったく同じ現象である。 「……くだらん」 「脆い。そして弱すぎる。所詮は劣等の魂だったか、喰う気も起きん」  いつからそこにいたのだろうか、鬱陶しげに吐き棄てる女が、黒い男のすぐ背後に立っていた。  その在り様を形容するなら、紅蓮。  揺らぐ長髪は鮮血の、あるいは業火の赤。  〈怜悧〉《れいり》な美貌と評されるだろう容姿はしかし、左顔面を覆う焼痕によって美醜〈綯〉《な》い〈交〉《ま》ぜの凄惨さしか演出できない。 「それで、私に何か不満があるのか英雄殿。貴様、いかにも気に入らないという様子だが」  優雅に咥えた細葉巻の煙をくゆらせ、女は背後の男に問い掛けた。  返答はない。 「ふん、まあいい。殺しすぎるシュライバーと合わせれば、ちょうど均衡が取れようよ。武人の〈矜持〉《きょうじ》だかなんだか知らんが、せいぜい大事にするがいい」 「ベ〈ルリ〉《ここ》ンは〈赤軍〉《やつら》に、上手く攻め落としてもらう必要がある。ゆえに殺しすぎるのも、殺さなさすぎるのも、等しく罪だということを自覚しているなら何も言わん。……それとも貴様、一度タガが外れれば皆殺しにしてしまいかねないから抑えているのか? ふふ、であるなら、私も同じ心境だがな」  赤い女の口上は、狂人の戯言と取られても仕方のないものだった。  今、このベルリンを包囲している50万もの赤軍兵士を、気分次第で皆殺しにしかねないと、正気で言えることではないだろう。 「先刻、総統閣下が逝かれた」 「夢想家の長官殿も、小うるさい宣伝屋も、いずれ後を追うだろう。そして大量の市民と同胞を道連れに、この帝都は陥落する。 犠牲としては、聖櫃創造を試みるのになるほど適当な触媒だろうよ。敵を幾百万捧げたところで、守るべき民、愛すべき友、彼ら十人の方が命は重い。それが人間というものだ。 さしずめ貴様は、その理屈に苦しんでいるというところかな。結構なことだよ、苦悩もまた贄になる」 「……ザミエル」  と、それまで無言を通していた男が口を開いた。 「メルクリウスは何処にいる」 「……何?」 「貴様……あれに何か用があるとでも?」 「…………」  再び、無言。男は何も答えない。  女は〈訝〉《いぶか》るように目を細めた後、呆れ気味に〈嘆息〉《たんそく》した。 「やれやれ、まただんまりか。寡黙すぎる男というのも考えものだな。まさかあれと戦おうなどと考えているわけでもあるまい」 「そして、仮にそうだとしたらくだらんよ。馬鹿馬鹿しいから止めておけと言ってやる。あれは絶対に殺せない。 ――いや、もしかしたらある意味では、楽に捻れるのかもしれないが」 「いずれにせよ、あれは我々の上官であり、首領殿の盟友だ。貴様が叛意を持つと言うのなら、はっきりいって捨て置けんが」 「俺にそんなつもりはない」 「だろうよ。貴様の固すぎる頭の中に、そんな計算などあってたまるか。ゆえに私は、先の質問に答えてやる」  言うと、女は顎をしゃくって空を見上げた。 「我らが黒円卓の指導者御二人は、兄弟のごとく仲が良い。であれば必然、あれのいる場所は決定している。見るがいい」  血と炎の照り返しを受け、赤く染まったベルリンの空。  帝都を覆う戦火の形が、そこに映し出されている。  それは巨大な、とてつもなく巨大な〈鉤十字〉《スワスチカ》――  その中心を貫くように屹立している尖塔に、何者かが立っていた。 「総員傾注! 我らが主、偉大なる〈破壊〉《ハガル》の君の〈御前〉《おんまえ》である。その御言葉、黙し、括目して拝聴せよ!」  いったいどのような術を使ったのか、魔砲の声は魔法のごとく、全ベルリン全市民の耳に響き渡った。  その瞬間、ある兵士は戦うのを止め、ある子供は泣くのを止め、ある老人は逃げるのを止めた。  忘我という状態がある。皆が皆が、我を忘れて空の一点を凝視していた。  赤い、赤い、血と炎に染められた空。  魔女の鍋と化したベルリンの〈天〉《ヒンメル》――  千年帝国の夢が終わる日、そこに輝く獣が降臨していた。  たなびく〈鬣〉《たてがみ》のごとき髪は黄金。  総てを見下す王者の瞳も、やはり黄金。  この世の何よりも鮮烈であり華麗であり、荘厳で美しくもあると同時に、おぞましき黄金。  人の世に存在してはならない、愛すべからざる光の君。  その傍らに侍るのは、輪郭の曖昧な影絵のごとき男だった。  老人とも、若者とも、いかようにも見れるその外見は、隠者のように地味であり頼りない。  対照的な二人である。そしてこの二人こそが、今彼らを見上げている総ての者を凌駕する魔人の中の魔人。怪物の中の怪物。  黒円卓――聖槍十三騎士団第一位と十三位。  首領と副首領。 「――〈卿〉《けい》ら」  ベルリンを、いや世界総てを睥睨しながら、黄金の男が口を開いた。 「己の一生が、すべて定められていたとしたら何とする」 「勝者は勝者に。敗者は敗者に。なるべくして生まれ、どのような経緯を辿ろうとその結末へと帰結する――。この世界の仕組みとやらが、そのようになっていたとしたら何とする。 ならばどのような努力も、どのような怠慢も、祈りも願いも意味はない。神の恵みも、そして裁きも、全てそうなるように定められているだけだとしたら……卿ら悪魔の子、世界の敵として滅ぼされんとしている者たちは、一片の〈罪咎〉《つみとが》なしに犯され、奪われ、踏み躙られているにすぎない。 この、忌むべき〈法則〉《ゲットー》の環の中で」 「死すらもまた、解放ではない。永劫、そこに至れば回帰をなし、再び始まりに戻るのみ。そして卿らの始まりとは、犯され、奪われ、踏み躙られる敗北者としての始まりだ。 ゆえにこの後も無限に苦しみ、無限に殺され続けるだろう。そのように生まれた以上、そのようになるしかない。 それを口惜しいと――思うか否か」 「覆したいと――思うか否か」  陰々滅々とした男の声は、やはり全ベルリン全市民の耳に届いていた。  おまえ達は無限に苦しみ、無限に殺され続けると。  それは最後の審判を告げる〈喇叭〉《ラッパ》のように、絶望的な説得力を持って聞く者の胸に浸透していく。  魔的なカリスマの持ち主だ。一種の極限状態を利用した洗脳はさして珍しくないものの、人数の規模を〈鑑〉《かんが》みれば異常と言う他にない。  さながら神話の竜や魔獣の咆哮と同等の、強力な精神干渉効果を持つ魔法の声。  常人ならば聴くだけで恐慌、あるいは魅了され、弱い者なら昏倒しかねない〈絶対的な力の波〉《ジャガーノート》。  人に非ず。  黄金の獣。  黒太子。  忌むべき光。  破壊の君。  彼を飾る言葉は総て、一つの例外もなく魔の言霊を帯びたものばかり。  男が命じる。 「思うならば、戦え」  不遇の人生を変えたければ、魂を差し出せ。 「運命とやらいう〈収容所〉《ゲットー》に入るのを拒むなら」  敗北主義者の汚名を〈濯〉《そそ》ぎたいと願うなら。 「共に戦え」  契約書のペンを執れ。名を記し、血判を押せ。  それは悪魔の誘惑以外の何ものでもない。  黄金の男は遥か高みから、地を這う者どもに問い掛けた。 「卿ら、何を求める?」  答えは、聞くまでもない。  〈勝利を〉《ジークハイル》。  〈勝利を〉《ジークハイル》。  〈勝利を我らに与えてくれ〉《ジークハイル・ヴィクトーリア》。 「承諾した」  男の、非生物的なほど整った麗貌に、深い亀裂が刻まれた。  ドクトル・ファウスト曰く、誰がどう見ても笑いにしか見えないが、同時に誰がどう見ても笑っているようには見えない異形の微笑み。  ――〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》。  魂と引き換えに願いを叶える悪魔の銘がそれであったか。 「ならば我が〈軍団〉《レギオン》に加わるがいい」  決定的なその言葉が〈紡〉《つむ》がれた瞬間に、異変が起きた。  銃を持つ者はそれを口に。  刃物を持つ者はそれを胸に。  何も持たぬ者は火の中に。  撃ち、刺し、飛び込み、自殺する。  百人が、千人が、万人が、異常な速度で死んでいく。その魂が、黄金の男へと残らず吸い寄せられていく。  帝都を貪り尽くす〈大虐殺〉《ホロコースト》。  おそらく、これが初めてではない。  彼は今まで、何十万何百万という魂を喰らっている。  〈天摩〉《てんま》する方陣は、その仕上げということなのか。  自らを慕い、敬い、救いと助けを求める兵と民を捧げる生贄の祭壇。  それはなんと凄惨で、陰惨で、恐ろしくも―― 「……美しい」 「まさに悲劇……あなたを慕い、あなたが守るべき者達が、あなたのせいで死んでいく。あなたはそれを嘆き、喜び、自らの力へと変えるだろう。 我が友――私がこの滑稽な人生で、ただ一人畏敬の念を抱いた獣殿……あなたはこれから何を成す?」  それまで黙して語らず、ただ傍に控えていた影絵の男が口を開いた。 「あなたはいったい何を求める?」 「愚問だな」 「法則の破壊と超越……私に道を示したのは卿だろう。もっとも、他に個人的興味がないでもないが」 「それはいったい?」 「法則を創った者」 「なるほど、すなわち」  神か、悪魔か……  くつくつと喉を震わせ、影絵の男は微笑した。 「私は優秀な“生徒”を得て幸せだ。エイヴィヒカイトを正しく理解しているのは、やはり現状、あなただけか」 「いや、素晴らしい。この瞬間だけは、何度経験しても飽きがこない。それだけに、正直名残惜しくもありますが……」 「行くのか、カール」 「ええ、その名も置いていきましょう。いずれ、必ず逢えるはず」 「半世紀もすれば、東方のシャンバラが完成する。そこに私の代理を用意するゆえ、下僕達の遊び相手にでもすればよろしい。 今回の契約で、あなたの魂は他に比類なき強度を得た。聖櫃創造の試行も果たした以上、怒りの日まで“こちら”に留まる理由はありますまい。クリストフのこともある」 「万全を期すために、幾人か“あちら”に連れて行ってはいかがです」 「無論、もとよりそのつもりだ。ザミエル、シュライバー、ベルリッヒンゲン……彼らを共に連れて行こう」 「結構、それは隙のない人選だ。……というより、あの三人以外では、今のあなたに随伴することなど適わぬか」  眼下に地獄を配したまま、彼らはチェスに興じるような口調で話し合う。  兄弟のようだと評されたのも、むべなるかな。この二人は何か共通の、強いて言うなら突き抜けた達観性を持っていた。  悲劇も、喜劇も、あらゆることも、芯から心を動かされるには値しない。  ただの冷笑家でも、感情麻痺によるものでもなく、存在が〈磨耗〉《まもう》しているかのような……奇妙な“老い”。  そしてその光景を、未だもって見上げている者らが十人ほどいた。  彼らは揃いの軍装に身を包み、断末魔をあげるベルリンの中、身にかすり傷一つ負っていない。  主である魔獣の爪牙――中でも、群を抜いて強大なのは例の三人。  赤い女は落涙していた。黄金に名指しされた名誉に奮え、より一層の忠誠を心に誓った。  白い少年は〈不貞腐〉《ふてくさ》れていた。しばらく人間を殺せなくなることが悲しくて、今のうちに出来るだけやっておこうと考えていた。  黒い男は無言だった。その暗い瞳は影絵の男に注がれたまま、他の何も見ていなかった。 “大丈夫。あなたの望みはきっと叶う。だからそんな、恐ろしい目で睨まないでほしいのだがね”  ビリビリと肌に刺さる視線の圧力を楽しみながら、影絵の男は最後にもう一度黄金の男を振り仰いだ。 「ではまたいずれ、獣殿。再び我らがまみえる時こそ、互いの目的が成就すると祈りましょう」 「否、成就させると誓うのだ。傍観するだけでは何も掴めん。卿の悪い癖だな、カール」 「……確かに。であればここに誓いましょうか」  この日――世界を敵に戦い続けた髑髏の帝国は壊滅した。  当時、随一の科学技術力を有していたこの国が、裏では常軌を逸した魔術儀式を実践していたというのもまた、真偽はともかく有名な話である。  その申し子たる選ばれた超人達……彼らのために収集された〈数多〉《あまた》の秘宝。  それらが何処にいったのか、そもそも本当に存在したのか、未だもって不明である。  ――そして現在。  2006年、11月29日――富士、青木ヶ原樹海。  AM3:27…  辺りは一面、紅蓮の炎に包まれていた。  名も無き洞窟から突如として噴き広がった気の奔流が、周囲数十メートルの木々を薙ぎ倒し燃やしている。  ここは気穴。世界中を網の目のように走る地脈と地脈が交わる場所。  その穴から、一人の男が歩み出てきた。  〈僧衣〉《カソツク》にロザリオという出で立ちからして、彼は聖職者なのだろう。なるほどそうであるのなら、口許に〈湛〉《たた》えた〈柔和〉《にゅうわ》な微笑も頷けるものがある。  だがはたして、このような場所にこのような時刻、炎と共に現れる者が聖なる存在だと言えるのだろうか。  対して――  男の足下に〈跪〉《ひざまず》き、臣下の礼をとっているのは黒髪の少女だった。  肌の色と顔つきからして、この国の人間であることに間違いはない。  彼女は表情一つ変えぬまま、〈恭〉《うやうや》しく言葉を〈紡〉《つむ》ぐ。 「ご無礼をお許しください、聖餐杯猊下。ヴァレリア・トリファ首領代行。 あなたを此処へお呼びしたのは、この私の意向です。 自己紹介は必要ですか?」 「いいえ――」 「レオンハルト、あなたのことは覚えていますよ。キルヒアイゼン卿の跡を継がれた時は、まだほんの子供でしたが……美しく、そして強くなられましたね」 「恐縮です」  辺りでは、悲鳴のような呻きのような、耳障りな声が木霊していた。  おそらくは、この場に〈澱〉《よど》む自殺者達の魂だろう。少女は〈纏〉《まと》わりつくそれらを〈一顧〉《いっこ》だにせず、神父は逆に、慈しむかのごとく吸い込んで〈咀嚼〉《そしゃく》している。  醜悪であり、冒涜的な光景だ。  六十一年前のベルリン同様。これは正しく、その続きなのだろうか。  謳うように話す神父と、控えめに話す少女。  二言三言、彼らは言葉を交わし合うが、それはさほど重要ではない。  たとえば、神父が地球の裏側から地脈に乗って移動して来たということや、初期のルートを少女が捻じ曲げ、この地に導いたということ。  その無礼に対する謝罪及び、行為の正当性と必要性。  なぜ今、神父が“そこ”に行ってはいけないかという説明など、この場で語るようなことではない。  重要なのは、ただ一つ。 「ではこれより――共に戦の続きを始めましょうか」  その一点のみ。  彼らが長年に渡り待ち、備え、温めてきた至高の出し物を披露しようとしていることだけ。  さあ、幕を開けよう。  演目は〈恐怖劇〉《グランギニョル》。  殺して殺して殺し尽くす。  奪って犯して捧げよう。  勝利を我が手に。  我らのものに。  なぜなら―― 「――神、これを欲したもう。忠誠こそ我が名誉」  彼らは何度でも繰り返す。  百万回でも百億回でも、〈那由多〉《なゆた》の果てまで戦い続ける。  そうすることを誓った以上、そうするようになるしかない。  〈聖戦〉《クルセイド》のスローガンを唱える少女に向けて、神父は祝福を贈っていた。  ――この時。  今宵この場所で、世界を滅ぼす〈軍団〉《レギオン》が胎動を開始した。  そのことを知る者は、まだ一人も存在しない。 「1945年4月30日――大ドイツ帝国は終焉を迎えようとしていた」 「圧倒的物量差に押し潰され、孤立したベルリンはもはや陥落寸前である。 帝都を包囲する赤軍50万は徐々にその輪を狭めていき、生きてそこから脱することなどまず不可能と言って構わない。悲鳴と銃声と爆音の狂想曲は絶え間なく、かつ容赦なく鳴り響き、街を人を根こそぎ壊し、〈鏖殺〉《おうさつ》していく。撃ち殺される男たち、蹂躙される女子供、死に逝く千年帝国の断末魔……阿鼻叫喚の地獄絵図。それは確かに、一時代の終わりとして相応しい悲劇なのかもしれないが」 「生憎と、まだ温い。こんなものでは、世界の敵を滅ぼしきることなど到底できない。むしろその逆、業火に焼かれる無辜の民の魂が、より一層我らに力を与えるだろう。この大戦を制したつもりで有頂天の者どもは、誰一人としてその事実に気付いていない。哀れであり、滑稽である。本来なら、ここで彼らを蔑む詩のひとつでも捧げてやるべきなのだろうが」 「私は思う。〈万象〉《ばんしょう》、すべてにおいて何もかもが予想の範疇に収まる人生など、何の意味があるのだろうかと。退屈だ。飽き飽きして、眠くなる。だが、見る夢すらも予想がつくゆえ、寝ても覚めてもつまらない。それはなんと徹底して価値のない、そして、なんと馬鹿馬鹿しい物語か。私を主人公として戯曲を作れば、歴史に残る劣悪な駄作となるだろう。私は表に出るべきではない。そう結論付け、ここにいたる。義理上、その旨、我らが首領殿に断りを入れねばならぬだろうが……」 「燃えるベルリンを一瞥し、私は静かに踵を返した」 「この帝都と運命を共にする、幾千幾万の同胞たち……その魂に安らぎを。 では諸君、ご冥福をお祈りする。〈さようなら〉《アウフ・ヴィーダーゼーエン》」 「総員傾注――これより首領、副首領、両閣下より命じられた、特秘の任務を申し渡す。 総統閣下の逝去に伴い、葬送の儀を執り行え。この帝都にスワスチカを完成させ、すべての同胞を贄に捧げよ」 「カイザー・ヴィルヘルム教会。ブランデンブルク門。帝国議会議事堂。ベルリン大聖堂。シャルロッテンブルク宮殿。ジーゲスゾイレ。バウハウス。ペルガモン博物館。 落とすべきは以上八箇所、順序は問わん。貴様らの聖遺物で根こそぎ喰らえ。ただし、敵の劣等どもを滅ぼすことは固く禁じる。 奴らには恐怖を与えろ。この国に、我々に、身のほど知らずにも敵対した愚を思い知らせ、後に矮小な勝利をくれてやれ。 奴らにとって、スワスチカが呪われた印となるように。その悪夢が、決して拭えない神話の領域にまで達するように」 「繰り返す。これは首領、副首領、両閣下より命じられた特務である。儀式の不履行は叛意と見なし、反逆者は処刑する。ゆえに貴様ら、そのことを肝に銘じろ。遠くない未来、〈主〉《あるじ》の恩恵を得たいと願うなら。 今このときは負けてやれ。勝ったと劣等どもに思わせろ。 そのために仲間を殺せ。しょせん敵など、幾百万殺しても程度が知れる。 これは質の問題だ。守るべき民、愛すべき友、贄として彼らに勝るものはない。容易に奪えぬ命だからこそ、捧げるべき価値がある」 「殺すがいい。愛をもって絶滅させろ。男も女も老婆も赤子も、犬も牛馬も〈駱駝〉《らくだ》も〈驢馬〉《ろば》も、帝都に属する諸々残さず、生贄の祭壇に捧げて火を放て。 躊躇はするな。誰にはばかることもない。あらゆる悪も、あらゆる罪も、あらゆる鎖も我らを縛れず、あらゆる禁忌に意味はない。我らの神、我らの主が、我らをこの地へ導き給う。我らはこの手に剣を執り、ただ主の意を執行するのみ。 恐れてはならない。慄いてはならない。疑うことなどしてはならない。我らは騎士。獣の軍勢。神が赦し、私が赦す。我らの主が総てを赦す」 「聖槍十三騎士団黒円卓第九位、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグの名において――問うが貴様ら、我らの名誉は――」 「忠誠なり!」「忠誠なり!」「忠誠なり!」 「我らが願うは――」 「勝利のみ!」「勝利のみ!」「勝利のみ!」 「ならば今、ひとときの敗北を耐え忍べ。その口惜しさ、憤り、すべてが主の糧となる。 さあ兄弟、地上もっとも優れた種であり、世界の敵たる同胞よ、これより無限の戦場を共に超えよう。その果てにある祝福を求めよう。 怒りの日こそ〈彼〉《か》の日なり。世界を灰に帰せしめん。ダビデとシビラの預言のごとく」 「我らは獣の爪牙として、この世の終わりを望む者。 存分に狂い、乱れろ。戦は今宵、幕を開ける。 これで終わりなど有り得ない!」 「ジークハイル!」「ジークハイル!」「ジークハイル!」 「敗軍の将として、名誉の自決……お見事、と言っておこうか、総統閣下。 しかし、くだらん死に様ですな。今のあなたには何の魅力も感じない。ただ夢破れ、絶望し、逃避としての死を選んだ初老の男がここにいる。しょせんあなたは、超人の器ではなかったということだ。 千年帝国も儚い夢……その殉死者たちを、今私の部下らが捧げている。いずれ、長官殿や宣伝宰相殿も後を追うことになるだろう。彼らは戦死など出来ぬだろうから、毒でも煽ることになるだろうが」 「聖槍騎士団、私が率いる黒円卓は滅びぬよ。あなたの遺志を継ぐ気は毛頭ないが、この大戦で地獄もいささか飽和気味とお見受けする。もし順番待ちでお暇なら、そこで観覧なさるがよろしかろう。あなたが恐れ、排した男が、すべてを滅ぼす光景を。無念だろうが、さほど口惜しいものでもあるまい。あなたが説いておられたアーリア人種の優秀性を、結果的に私が証明するのだからな。まあ、もっとも――」 「あなた自身を、そのような枠に入れてはいないだろう、獣殿」 「ほぅ」 「カールか……〈卿〉《けい》、今まで何処に行っていた?」 「なに、少しばかり見物に。あなたと出会い、これまで属してきた帝国の終焉……多少なりとも感じ入るものがある」 「戯れ言を。卿にそのような感傷、あるはずもない。属するなど、似合わぬ言葉だ」 「それはあなたも同じだろう。人種など、無意味な言葉だ」 「聖槍十三騎士団首領、黄金の獣、破壊の君……あなたはただ一種、一人のみの究極。頂点には横に並ぶ者など存在しない。あなたが何を思い、何を成そうと、それはあなた一人のものになる。共有など誰にもできない。 ゆえにそこの総統閣下は、あなたを排除しようとしたのだろう。私はその判断を、賢明だったと思うがね。実現できるか否かは別として、恐怖に忠実な指導者ほど優秀と言える」 「なるほど……ならば私は無能だな。恐怖など、今まで感じたことがない」 「黒円卓は、元来そういう者らの集まりだったのだから仕方ないと存ずるが……あなたはただ、その中でも群を抜いて強大だったというだけだ。運良く、あるいは運悪く……どちらなのかはあえて訊かぬが」 「どちらだろうと同じこと。我々は運命というゲットーの囚人にすぎない。良かれ悪しかれ、結果は初めから決められていたものだと……それが卿の持論であろうが」 「然り。ゆえに人生はつまらない。ことに私が表に出張ると、物語は退屈な様相を帯び始める。つい先ほども痛感した。誤植はないほうが物語のため。私は中核に関わぬ方があなたのためだ。こうして参上したのもそれが理由。聖槍十三騎士団副首領、メルクリウス……その座とその名、今このときをもって返上したい。それを許してもらえるだろうか?」 「つまり卿、私と敵対すると言いたいのか?」 「否――敵というのも立派な役割。物語の中心人物と言えるだろう。私が望むのは、物語そのものからの退場だ。私はあなたとあなたの未来を、外側から観測するだけの者になりたい。言わば取るにも足らぬ、名も無きただの傍観者として」 「私には、神になると言っているように聞こえるがな。カール、我が友……卿はそれほどに私の隣が退屈か」 「あなたの隣になど誰も居ないと、先ほど言ったはずだがな。……しかし過分な評価を真に受けさせていただくなら、その友情に縋りたい」 「つまり決意は固いと。……ふむ、まあよい。どのみちしばらく、私の出番はないだろう。今宵は新たな戦の幕開けだが、宴もたけなわとなるには時間も掛かる。何年だ?」 「ざっと、軽く見ても半世紀。極東のシャンバラが完成するには、それだけの時が必要かと。さらに加えるなら、私の抜け番が機能するまで足すこと十年」 「長いな。すでに充分、退屈な様相を帯び始めているように思えるぞ。ふふ、ふはははは」  言って微笑むその横顔は、神聖にして絶対不可侵。  輝く〈鬣〉《たてがみ》のごとき髪は黄金。すべてを見下す王者の瞳も、やはり黄金。この世の何よりも鮮烈であり華麗であり、荘厳で美しくもあると同時に、おぞましき黄金。  人の世に存在してはならない、愛すべからざる光の君。我が生涯でただ一人、畏敬の念を抱いた気高き獣。  あなたを失望させるわけにはいかない。あなたをつまらぬ舞台にあげるような真似はできない。 「待つがよろしい」  あなたに相応しい舞台が整うまで。最高の戯曲が動きだすそのときまで。  私はそれを、最前列で鑑賞したい。きっときっと、胸躍る喜びであるに違いないから。 「ではカール、最後の務めだ。共に参れ。 帝国は滅びる。その断末魔を肴に、ひとつ酒でも酌み交わそう」 「……これはまた、相変わらず享楽的でいらっしゃる。 とはいえ、それも一興か。謹んで相伴に預かろう」 「が、その前に一つだけ。これより六十年もの間、息を潜めることなどあなたは出来まい。ゆえに私から、友情の証としてある秘術をお授けしよう」 「秘術?」 「左様。聖櫃創造の試行に乗じて、あなたの魂をもう一つ上の位階にあげられる。手順は追って説明するが、これによってゲットーの縛りから脱することもできるだろう。とはいえ、それは永劫回帰における特異点にすぎず、ゲットーそのものを超えるという類ではない。まあ、一種、台風の目に入ると言ったほうが正しいか。そのために、ここで擬似的な死を経験していただきたい。無論、擬似とはいえ死である以上、並みの魂では戻ってこれんが」 「あなたは違う。幾百万もの魂を喰らい、今もまた、死に逝くベルリンを喰い尽くそうとしているのだから……知っておられるか、獣殿。古今、あらゆる宗教、神話において、黄泉返りを果たした者が何と呼ばれているのかを」 「面白い。なるほど、読めたぞ。――卿、それがゆえにエイヴィヒカイトを組み上げたか。魂を喰らい、永劫回帰の環を乱し、このゲットーを破壊するため……ふふ、はははは、私を利用しようというのだな」 「邪推されては困る。が、あなたの言うこともあながち間違いではない。どうされる?」 「愚問。何であろうと、破壊するのに〈否〉《いや》はない。ありがたく頂戴しよう」 「それは恐悦。もしも一人がお寂しいなら、供を連れることも不可能ではない。もっとも、やはり脆弱な魂では戻ってこれんが。そう、例えばザミエル、マキナ、シュライバー……彼らほどの〈兵〉《つわもの》なら、あなたの従者も勤まるだろう。如何する?」 「まるで厄介払いのような言い草だな。……ふふ、まあよい。友の厚意だ、受け取ろう。だが、今はそれよりもカール、早く杯を手にしてほしいのだがな」 「これは失礼」 「私はいつも餓えている。敵を滅ぼし祖国を滅ぼし、世界を敵に回してもまだ足りぬ。卿は私の餓えを満たしてくれるか?」 「それが私の喜びなれば、必ずやと約束しよう。私はいつも飽いている。敵を欺き味方を謀り、世界の真理を解き明かしても一向つまらぬ。あなたは私の退屈を拭ってくれるか?」 「それが私の役どころなら、踊ってみせよう。失望はさせん」 「カール、忘れるな。卿の魂は何処へ行こうと私のものだ。卿は私のためだけに、その術と知略を披露せよ」 「御意に、我が親愛なる獣殿。あなたが指揮する怒りの日、楽しみに待たせていただく」  天国も地獄も神も悪魔も、三千大千世界の総てを壊すその日こそ、我らにとっての福音となるように。 「〈乾杯〉《プロージット》」 「ゆえに理解しろツァラトゥストラ。君の生も死も、愛も怒りも喜びも悲しみも、血も涙も何もかも――すべて私と彼のためだけにあるものだということを。忘れるな、思い出せ。君に意志などありはしない。 なぜならその身は、私にとって究極の………」 「血、血、血、血が欲しい」 「ギロチンに注ごう、飲み物を。ギロチンの渇きを癒すために」 「欲しいのは、血、血、血」 「血が欲しい」 「――――っぁ」 「はぁ、ぁ……っ」 「………夢?」 呟き、そして辺りを見回す。自分の部屋と、自分のベッド…… 「……またかよ」 この数日、いや正確に言うと退院して、二ヶ月ぶりにアパートへ戻ってきたその日から、俺は連続して夢見の悪い朝を迎えていた。 頭は重く、身体はだるい。睡眠時間はそれなりにとっているが、寝不足のような倦怠感がいつも纏わりついている。 つまり、安眠できていないのだろう。原因は、まあ幾つか思い当たる節はある。 ……たとえば。 「や、おっはよー」 「うーん、いー朝だねー、爽快だねー、清々しいねー。これは早起きしないと人として終ってるねー。今日も一日頑張ろうねー」 毎日毎朝、寝起き一発目に見るこの顔、名前は〈綾瀬香純〉《あやせかすみ》。エプロンつけて包丁片手に、笑顔のまま枕もとで仁王立ちだ。 ……怖いっての、この馬鹿。 「ん、どしたの? あたしの顔になんかついてる?」 「……額に変態って書いてるな」 「おまえいい加減に、毎朝不法侵入してくるの何とかしろよ。心臓に悪いだろ」 「なんで? いつものことなんだから、毎度びっくりすることないじゃない。どうして今さら、デリケートなこと言うかなぁ」 「あ~、蓮ってばもしかしてぇ」 「……なに考えてるのか知らないけど、たぶん違うぞ。俺はただ、身の危険を感じてるだけ」 「だから、とりあえず包丁しまえよ。ヘンな夢見てうなされる」 部屋は学生向けのワンルーム。もちろん俺とこいつが同棲してるなんて事実はない。 隣の部屋から、諸々の事情で空いている壁の穴を通ってやってくるんだ、この女は。 「あんた、ほんとに失礼ね。一人じゃろくなもの食べないから、朝ご飯作りにきてあげてるのにさ」 「だったら、せめて玄関から来てくれよ」 「鍵かかってるじゃん」 「チャイム鳴らせよ」 「それで蓮、起きる?」 「起きない」 「じゃあ駄目じゃん。あたしがいないとご飯食べないし学校行かないし、グレるし、人生踏み外すし、新聞に載って塀の中の臭い飯じゃん」 「おまえは俺を何だと思ってるんだ」 「なんだろ、色々と性格に問題のある弟?」 「おまえのような姉はいらない」 「ははははは、まったまたこいつめ、照れちゃって」 「とにかくほら、さっさと起きる! ご飯もう少しで出来るから、その間にシャワーでも浴びて着替えたら? 目が死んでるよ」 「…………」 「覗かないからさぁ」 「……とか言いながらついてくるなよ痴女」 「ねえ蓮、もう怪我は平気?」 「平気じゃなかったら、退院なんか出来ないだろ」 「それはそうだけど……もう、何よ可愛くないなぁ」 「入院したばかりのときは、ほんとに酷い状態だったんだから、心配くらいしてもいいでしょ」 「……心配ね」 「……まあ、大丈夫だよ」 「ん?」 「だから、もうあんなことはしない。もともとケンカなんてガラじゃないし」 「おまえも、あんまり心配するなよ」 「……うん、だったらいいんだけど」 「司狼は今ごろ、何処で何してるのかな?」 「さあな」 〈遊佐司狼〉《ゆさしろう》。俺が入院する羽目になったケンカの相手で、共に病院送りになった仲だが、あいつはいつの間にか失踪していた。香純の話じゃ、すでに学校も辞めているらしい。 「おおかた、中東辺りで地雷撤去でもしてるんだろ。あいつ、そういうの好きそうだし」 「傭兵とかゲリラとか、似合いそうだ。日本で平和にやってけそうなタイプじゃないな」 「うーん、確かにそう言われるとそうかもね。でも、だから余計に心配なんじゃない?」 「俺が? あいつを? 冗談言うなよ」 「むしろヤバイのがいなくなって、ほっとしたって感じだよ。あいつ、なんか一人だけ飛んでるっていうか、ぶっち切れてるし。下手に関わってると、周りの全員が早死にしそうだ」 「そう考えると、今まで一緒に居たことのほうが驚きだろ。今回のは、自然となるようになったって感じじゃないか?」 「へー、ふーん、そうなんだ。幼なじみで、あんなに仲良かったくせに、そんな意地張っちゃうんだ」 「でも、まあいっか。もうケンカしないって言ったしね。蓮、せっかく可愛い顔してるんだから、大事にしないともったいないよ」 「…………」 「この前もね、ほら、あんたが退院した日、あたしら博物館に行ったじゃない? あのときウチの部の一年生がさ、見ちゃってたらしいのよ。ああ、もちろんその子、男なんだけど」 「センパイ、あのとき一緒にいた人誰ですか? めちゃくちゃキレイじゃないっすか。背も高いし、どこかのモデルだったりするんすか? 俺にも紹介してくださいよ」 「そこであたしは言ったね。言っちゃったね。あの子、ワケあって今は休みガチなんだけど、同じ学校にいるんだよ? 男兄弟に囲まれて育ったから、ちょっとガサツなのが玉に瑕なんだけどね」 「ホント、もう少し女の子らしくなってくれれば、彼氏もできると思うんだけどなー」 「マジっすか? フリーっすか? じゃあ俺! 俺、立候補っす! つーかセンパイ、合コンしましょ合コン。クリスマス近いし、俺もツレ集めますから、氷室センパイとかも一緒に呼んで」 「えー、でもなぁ、あたしお金ないしなぁ」 「あ、そんな、心配マジいらねーっすよ。女の人に金払わせるわけないじゃないすか。あー、ヤバイ、緊張してきた。いや、真剣、冗談抜きで頼んますよ」 「うーん、分かった。じゃあ、イヴの日に」 「よっしゃああぁぁっ! アツイぜ、燃えるぜクリスマス! キリストってサイコーにいい奴っすね。いま俺は神を見ました!」 「すんごい可愛い服着せて連れていくから、楽しみにしててね」 「あざーっす! ところでセンパイ、あの人の名前は?」 「蓮っていうのよ。いい名前でしょ?」 「レン、レン……ああ、もしかして恋って字? ブリリアント!」 「……こら、バカスミ」 「というワケだから蓮、あんたには当日、ミニスカサンタの格好をしてもらおうと思うんだけど」 「おまえがトナカイのコスプレでもしてろ。脳沸いてんのかこのクソアマ」 「なんで俺が、野郎と合コンしなきゃいけないんだよ。その後輩も、目玉腐ってるんじゃないだろうな」 「えー、なによノリ悪いわねぇ」 「そんな怒らなくてもいいじゃない。可愛いのはほんとのことなのに」 「……おい、あのなぁ」 「とりあえず、合コンとかクリスマスとか置いといて、男に可愛いとか言うな。ケンカ売ってんのかおまえは」 「もうケンカしないって言ったクセに」 「おまえが売ってきたんだろうが」 「だって、ほんとに可愛いのに」 「しつこい――ていうか、おまえら可愛い以外の形容詞を知らないんじゃないだろうな」 「おまえらって?」 「おまえとか、先輩とか、まあとにかくそのあたり。ゴリラ見ても可愛いって言うだろ」 「ゴリラ可愛いじゃん」 「おまえがゴリラだからか?」 「なにー、あんたちょっと出てきなさいよ」 「おい、開けようとするなよゴリラ」 「誰がゴリラよ!」 「自分で可愛いとか言っといて怒るなよ。……とにかく、合コンもコスプレもなし。その後輩にはメガネ渡して、ちゃんと事情説明しとけよな」 「で、そんな所にいられたら出られないだろ。メシ作ってるんじゃなかったのか?」 「それはさっき終ったモン」 「何がモンだ。アタマ大丈夫かおまえ」 「うるっさいわね、いつまで根に持ってんのよあんたは。早く出て、早く着替えて、早くご飯食べて学校行くよ!」 「だから、まずおまえが出て行け」 「わー、恥ずかしいんだー。照れてんだー。子供だなー。可愛いなー」 「~~~~~」 「……ったく」 「わかった、もういい。面倒だし、そこにいろ」 「へ?」 「堂々と誇るよ」 「ちょっ、うそ、あんたマジで……」 「ひゃあっ!」 「香純、バスタオル取ってくれ」 「あ、や、ややややや」 「なんだおまえ、顔赤いぞ。アタマ悪いのか?」 「ちょっ、ちょちょちょ、ちょっとストップノータイム、ごめん許してもうしません。待っていやよだめよ寄らないで。そんないきなりまだあたしココロの準備がいやんばかぁん」 「…………」 「あの、蓮ちゃん? 目が、怖いんですけどぉ……」 「香純」 「はいっ!」 「……ちらちら見るくらいなら、早く出てってくれ」 「お、オッケーであります!」 とか、まあ…… 「相変わらず、雑い性格してるわりには、打たれ弱い奴」 あれで意外に、根は繊細だったりするんだろう。 だから、失敗といえば失敗だった。 「昨夜未明、諏訪原市中原の海浜公園で頭部を切断された男性の他殺体が発見され、警察は殺人・死体遺棄容疑で捜査を進めると発表しています」 「なお、同市では今月に入って、すでに3件の殺人が起きており、これもまた、遺体の頭部が切断され持ち去られるという同様の手口であることから、同一犯による連続殺人事件の可能性が極めて高いと見られています」 「観光都市である諏訪原市にとって、これは街の産業に深刻なダメージを与えるものであり、事件の早期解決を強く求める声が多くの市民からあがっていますが」 「現在、市内では多数の警官が配備され、昼夜を通した厳戒態勢が布かれており、これによって街の印象が威圧的なものになるという不満もまた、同様にあがっている模様です」 香純と一緒に朝食を摂りながら、なんとはなしに流していたニュース番組。 テレビなんか、つけるんじゃなかった。今、この街では連続殺人事件が起きている。それを香純に、しかも食事時に見せてしまったのは、俺の迂闊さゆえだろう。 「……なんか、食欲なくなるね」 「ああ」 これで4人……今月に入ってから、いや、俺が退院してから4人目の犠牲者。 俺は今日、このニュースが流されるであろうことを朧げながら予測していた。 なぜなら、夢で―― 人が殺された夜には決まって、ギロチンに首を刎ねられているのだから。 「それはたぶん、いわゆる予知夢というやつだよ」 「予知夢……ですか?」 「そ。藤井君は、人が殺されちゃうことを夢というカタチで事前に察知できる超能力者。すごいね、テレビに出たらいい」 「……スプーン曲げるくらい出来たら、それもよさそうですけどね」 「まあとにかく、貴重なご意見をどうも」 「……なにか、やる気のない顔だね、キミは。私の説に不満があるなら言ってみなさい」 「いや、不満っていうか」 「信じられない?」 「わけじゃなくて、先輩のその、なんていうか空気に話しかけるような口調で言われてもピンとこないよ」 「そうか……それは困ったね、どうしよう」 十二月の寒空の下、昼休みの屋上でサンドウィッチを食ってる彼女は〈氷室玲愛〉《ひむろれあ》。イッコ上の先輩で、一言でいうと変な人だ。 「これは失敗。不味いからキミにあげるよ。キムチ梅干しサンド。うちの学校の売店はチャレンジャーだよね」 「これ買うあたり、先輩も充分チャレンジャーだと思うけどね。それより、さっきの続きだけど」 「夢の話? だったら私の意見は言った通りだよ。それとも、事件の話かな?」 「どっちかというと、両方」 「藤井君……キミは女の子とご飯食べてるときに、そういうグロい話題を振るのが趣味なの?」 「先輩はグロ耐性があるでしょう。それに今さら、多少のことじゃ動じないんじゃないかと思って」 「一番最初の殺人事件……あれの遺体第一発見者なんだしさ」 「…………」 「……まあ、そうだけど」 「キミ、綾瀬さんにもこういう話をしてたりするわけ?」 「いや、香純には何も。あいつ意外に心配性だし、怖がりだから」 「気を遣ってるんだね」 「そうじゃなくて、やかましいんですよ。あいつが絡むと、無駄に話がでかくなるし。その点先輩になら、なに話しても大した問題にはならないでしょう」 「まるで私が、部屋の壁か何かみたいな言い方するのね。それはちょっとだけ、なってみたいような気もするけど」 「この前、私が首なし死体を見たときの話……あれをキミにしたのも、そういえばお昼時だったっけ?」 「そう。だからおあいこってことで。そもそもなんで俺にあんな話を……」 「だって藤井君、グロ耐性ありそうに見えたんだもん」 「あとキミ、綾瀬さん以外に友達いないし、話しても吹聴されなさそうだから」 「後ろ半分はともかく、前半分は何を根拠に言ってんですか」 「遊佐君と、お互いあれだけボロボロになるまでケンカするくらいだから、血とか平気なんだろうって思ったの」 「…………」 「食べてる?」 「ええ、クソ不味いですね。このキムチ梅干しサンド」 「よかった。藤井君と味覚を共有できて嬉しいよ」 「ついでに、お互いの秘密も共有してるね、私たち」 「……ええ。色気のない秘密でプラトニック万歳ですよ」 「それで先輩」 「お悩み相談?」 「いや、夢云々はただの与太話――ていうより、独り言みたいなもんなんで、適当に流してください」 「とにかく今、何かと物騒じゃないですか。お互い夜道に気をつけましょうっていう話をね、しようかと」 「そうだね。私としては、一時的に学校閉鎖したほうがいいんじゃないかと思ってるよ。冬は日が落ちるのも早いし、夕方まで拘束されるのは堪らない」 「なんだったら藤井君、今から私と一緒に校長室まで攻めに行く? 実は前から、彼の頭はカツラじゃないかと思っていたのよ」 「……校長のハゲ疑惑が、この件に何の関係あるんですか」 「弱みを握って脅そうと思う。……とにかく、そういう青春っぽい一ページを、実はやってみたかったの」 「俺と先輩で?」 「うん。たぶん凄いコンビだよ。意外性ナンバーワンみたいな」 「意外性っていうか、異次元っていうか……」 「一見大人しそうなタイプのほうが、テロは成功しやすいし効果もあると私は思うの」 「……いや、テロって、あんた」 「やらないの?」 「やらないですよ。俺は基本的にノンポリなんで、そういうのはガラじゃない」 「……つまんないな。一般的で現代っ子な主張をするのね」 「悪いことじゃないでしょう。退屈とか普通とか、俺は好きですよ、そういうの」 「ま、それしか出来ない奴の強がりかもしれないけど、嫌う理由も特にないし」 「波風立てるのは、司狼みたいなのにやらせときゃいいんですよ。劇的な経験とか、別にしてみたいとも思わないんで――」 「だいたい俺は――」 「ああっと、そういや次の授業、移動だったような……何処だっけ」 「私が知るわけないよ」 「ですね。……なんかもう、面倒くさいな」 「だったらサボる? 付き合うよ?」 「いいんですか?」 「私は平気」 「じゃあ――」 「…………」 「…………」 と、そこで狙い済ましたように鳴るケータイ。誰かは察しがついてるんだが、無視すると面倒なことになるのが目に見えているので渋々ながら出ることにした。 「……はい」 「ちょっとあんた、何処行ってんのよ! 次の授業、視聴覚室だって忘れたの!?」 「……えー、あーっと、そうだっけ?」 「そ・お・よっ! あんた入院してたぶん日数足りてないんだから、ちゃんと出ないと留年しちゃうよ。したいの、留年? したいんか? あたしに一人で卒業しろって、そう言うのかーっ!」 「ん、いや……そう言われるとそれも結構魅力的だな」 「なにーーー!」 がなり立てるケータイを耳から離し、嘆息する。まあ、香純は弄ると面白いから、ついついからかってしまう俺が悪いんだろうけど。 「……えっと、すみません。なんかうるさいのが喚いています」 「大変だね、藤井君も」 「ちょっと、今そこに誰かいるの? ていうかそこ何処? 誰といるの?」 「いやぁ~ん、ばかぁ~ん、だめよそんなの、声が出ちゃうぅ~」 「…………」 「…………」 「うおおおいッ! あんたいったい何さらしてくれとんじゃあッ!」 「あっ、あん、そんないきなり、やめて藤井君、このままされたら、私、あん」 「先輩? その声は先輩ね! 蓮ッ! あんた昼間っからそんなことしていいとでも――」 「…………」 「……先輩」 ほんとマジ、この人こそ何さらしてくれとんじゃ。 「やだ、無理矢理こんなの、ひどいよ、変態。……でも、でも私、そんなことされたらおかしくなっちゃう」 「聞けよ電波」 「誰が電波よ」 「藤井君、キミは時々、目上の人に対する言葉遣いがなっていないと私は思うの」 「だったら、年上らしい態度で接してくださいよ、最後まで」 「……純朴な後輩をからかう魔性のお姉さんを目指してみたんだけど、もしかして変だった?」 「全然似合ってないですね」 「……そうなんだ、ごめんなさい。ここはそういうのが受けるのかなって思ったから、頑張ってみたんだけど」 「うん、分かったよ。もう少しエッチボイスを練習する」 「いや、そういう意味じゃなくて……」 あなたの基本的な人格というかコミュ力というか、そういう問題を俺はどうにかしてほしい。 言うだけ無駄な気が凄くするが、そのへん抗議しようと思っていたら…… 「本鈴が鳴っちゃったね。それでどうする?」 「……やっぱり、サボるのは無しの方向で」 妙な誤解を解かなきゃならない奴もいるし。 「今から行っても遅刻だよ?」 「その方が都合いいんですよ。香純も出会い頭に暴れるわけにはいかないだろうし」 「先輩はどうします?」 「私は、せっかくだからこのままサボる。3年生だしね。もう授業なんかあってないようなもの」 「そうですか、それじゃあ」 と、俺は先輩を残して屋上を出ようとするが、その寸前で背後から呼び止められた。 「ねえ、藤井君」 「さっきの話、普通がどうとかってやつだけど」 「キミはそれしか出来ないんじゃなくて、それすら出来ないんじゃないのかな」 「…………」 「どっちにしろ、似合わないことを言ってるなって思ったよ」 「…………」 「そんなこと言われても」 「似合う似合わないと、好き嫌いは別でしょう」 言い置いて、俺はその場を後にした。 「なるほど……一応自覚はしてるんだ」  蓮を見送り、一人屋上に残った玲愛は、少し小首を傾げて何事かを考えているような間を置いた後、自分の携帯電話を取り出した。  そして、誰かにかけ始める。 「もしもし、どう? 元気してる? うん、今ね、ちょっと藤井君と話してたんだけど……ああ、うん。もう怪我のほうは平気そうだよ。キミはどうなの? ……そう。よかったね。こっちは別に。強いて言えば、校長が融通利かないハゲ頭だから、学校閉鎖にならないのがくやしいってことくらいかな。きっと、一人問題児がいなくなったせいだと思うよ。キミ、こんなときくらいしか役に立たないんだから、そのへんなんとかできないかな。もう、学校には戻ってこないの? 藤井君も綾瀬さんも、態度に出さないけど寂しそうだよ。ああ、私は別にどうでもいいけど」 「ねえ遊佐君、キミはいったい、何をしてるの? そう。それで、今は楽しい? うん、うん……そっか、じゃあ仕方ないね。いや別に、先輩としては後輩の心配をしないといけないのかなって思ったから。深い意味は特にないよ。ああ、ごめん。キミはもう私の後輩じゃなかったっけ。こういうの、今さら鬱陶しいとか思ってる?」 「……よかった。だったら、もと先輩として一つだけキミに忠告」  電話相手――先ほど蓮と話題にしていた司狼へ向けて、玲愛は短くこう告げた。 「それは止めたほうがいい。――でないと、死ぬよ」  そして、その忠告を受けた当の相手は。 「そりゃまた、随分と物騒だね先輩。あんた、オレにそういうの逆効果だって知ってるんじゃなかったっけ?」  へらへらと、およそ緊張感の欠片もない調子で笑っていた。 「知ってるよ。だけど、だったらどう言えばいいのかな。きっと楽勝すぎてつまんないからやめときなさいって言ったら、キミはやめるの?」 「いーや」 「でしょう? だから忠告。キミは少し、空気読もうとしないところがあるから。誰もがみんなキミみたいに、いつもアッパーじゃないんだよ」 「いつもダウナーな人に言われてもね。まあ、とりあえずご親切にどーも。てか先輩さぁ、なんか知ってるような言い草だね」 「知ってるよ。キミが捕まえようとしてる奴の犠牲者、見ちゃったからね」 「あれには、関わらないほうが賢明。人間の首をチョンパしちゃう変態なんか、相手にするべきじゃないよ。藤井君は、そこらへんちゃんと弁えてるみたいだけどね」 「あいつはノリが悪いんだよ。ナマの変態拝めるなんざ、そうあるこっちゃないだろうに。あんた、映画とか観るタイプ? ホラーとかパニックとか、そういうジャンルに出てる連中、進んで危なそうな場所に出向いてるだろ。でないと話が始まらない」 「それで、キミの役どころは犠牲者A?」 「オレ的にはヒーロー狙ってたりするんだけどね、まあそりゃいーや、どっちでも」 「とりあえず、忠告は受け取っとくよ。ただ、こっちも仕事なんでね。やることはやらないと」 「仕事? キミは探偵でもやってるの?」 「あー、違う違う。そんなんじゃない。この変態、裏で賞金かかってんだよ。だから探偵っつーより、ハンターかな」 「キミがお金で動くとは思えないけど……まさか正義感とか、気持ちの悪いこと言わないよね?」 「当然。賞金っつってもはした金だし、他人の仇討ち考えるほど暇でもないよ。これはただの好奇心。言ったろ先輩? ナマの変態拝めるなんざ、そうあることじゃねーってさ。つまり、結局んとこ火遊びだよ。だったら火傷くらいさせてくれないと、張り合いがないって話」 「んじゃまあ、そういうことで。ああ、それからこの番号、来週辺りにゃ変わってると思うから、メモリー残してても意味ないぜ」 「分かった、消すよ。どのみちキミは、もう皆と関わらせないほうがよさそうだし」 「さっきは戻ってこないのーとか、言ってなかった?」 「話してて気が変わったの。キミ、やっぱり一人だけジャンルが違うよ」 「ねえ遊佐君、私の個人的な気持ちを言うとね。 キミはやっぱり、一度死んだほうがいいかもしれない」 「……ふん、なるほど。そりゃ確かに」  知己としてはあまりに酷い言われようだったが、司狼はそれに憤るよう態度を見せない。  とはいえ、先の台詞が友人同士の気安い軽口だとも思ってなかった。玲愛は本気で、司狼に死ねばいいと言っている。あれで結構、黒いところがある人なのだ。  というより、ごく一部の例外を除いて冷たいタイプか。要は素直だということだろう。  自分がそこに含まれていないという事実に苦笑する。そんな司狼へ、傍らから冷やかすような声が届いた。 「馬鹿は死ななきゃ直らないって? なかなか人を見る目があるね。面白そうな先輩じゃない」 「だろ? まあ知り合いの中じゃあ話せる方だ。オレと蓮がやりあった後、病院に運んでくれた人だしな。この間、一応礼の電話を入れたんだよ」 「でも別に、そんなことする必要もなかったみたいね」 「ああ。ありゃどうも、蓮が本命でオレはオマケって感じだし。 つーか、むしろ邪魔者くせえし。酷くないか? もう関わらせたくないってなんだよ」 「いや、その気持ちはよく分かるんだけど。あんた、自分が無害だとでも思ってるわけ? もろ有害じゃん」 「おーおー、じゃあなんでおまえはオレといんだよ。てかそんなことより、なんか分かったのかエリー?」 「んー、それがねぇ」  言いつつ、エリーと呼ばれた少女は手元のパソコンを操作する。どうやら彼女は司狼の仲間で、何かの調べ物をしているようだが……  司狼と玲愛のやり取りから鑑みるに、それは殺人犯に関わる何かなのだろうか。 「警察、パーだね。未だに何も掴めていない感じ丸出し。策がないから人海戦術。――まあ、それも妥当っていえば妥当だけど。これ、捕まえるっていうより、犯人を出張らせない布陣だよ。名づけて臭いものには蓋フォーメーション。実にこう、保守的な。能率より、リスクに神経とがらせてるね。司狼、あんたこういうのどう思う?」 「間抜けの腰抜け。付き合いきれん」  ばっさり端的に切り捨てる。それにエリーも頷いた。 「同感。――けど実際、ここまでガチガチに固められたら、犯人は当然としてあたしらも動けないよ。どうする?」 「簡単だろ。穴空けろ」 「うん? それはつまり、ウチの連中を動かすってこと?」 「手足は使わないと意味ないだろ。乱闘でも窃盗でもなんでもいい。それをそうだな、ここからここ……暇な奴らを掻き集めて、街の西側に集中して起こさせろ。要するに攪乱だな」  物騒なことを言いながら、液晶に写った街の地図を指差す司狼。ウチの連中、手足とは、エリーと同じく彼の関係者なのだろうが、声音に仲間意識と言えるようなものは皆無だった。 「その隙に、あたしらは東側で変態の出番を待つ?」 「いいや。正直、警戒がどうだのリスクがなんだの、真っ当な理屈が通用する相手だって保証はない。もしかしたら、祭りの真っ最中の西側に出てくるってこともある。隙を作って、今回は傍観だ。いったいどういう種類の変態かそれで分かるし、パニクってるポリと違って、こっちは自作自演なんだ。上手くすりゃご対面できる奴もいるだろうさ」 「……つまりあんた、舎弟を餌代わりに放り込むわけ? 一人二人、試しに殺させてみようって」 「悪いか?」  素でそう訊き返す司狼に向けて、エリーも呆れ気味だが笑って答えた。 「いいや、最高。あんたのそういうろくでもないトコ、あたしは好きだよ」 「そりゃうれしいね。けどエリー、今時舎弟なんつーボキャブラリーはどうなんだよ。おまえんちは、実のところヤー公だったりするわけか?」 「……他になんて言っていいか、咄嗟に出てこなかったんだよ。チームとかファミリーとか、そういう風に言えばよかった?」 「さあ? 言われてみると、それも結構微妙だな。そもそもあいつら、なんでオレの言うこと聞いてんだ? 実際のトコよう分からんぞ」 「……あんたに酔ってる連中が聞いたら、悶え死にそうな台詞だね。まあ世の中、虎の威を借りないと生きていけない人種もいるんだよ。それで、確認しとくけど、今回あたしもあんたも出ないんだね?」 「見つけられずに見つけるって基本も、たまには守ってみるさ。それで顔写真なりなんなり、撮らせてこっちに送らせれば、素性の特定くらいおまえにとっちゃあ楽勝だろ。そしたら後は――」 「出向いて叩く。オーケー、実に効率的。じゃあさっきの件、手ぇ回しとくよ。何か動きがあるまで暇になるけど、あんたどうする?」 「さあ、どうすっかねえ。退屈は嫌いなんだが……」 「だったら寝なよ。あんた、もういつから眠ってないと……」 「おい、エリー」  眠れと、その言葉にどんな意味があったのか。先程まで人死にの可能性すら笑って話していた司狼が、一転して瞬間だが真顔になった。  そして続ける。 「いきなり萎えること言いだすなよ。オレは、そんなに暇じゃねー」 「…………だね」  僅かな間を置き、頷くエリー。こちらも奇妙に真顔だったが、すぐに気分を切り替えたらしく明るい調子で話しだす。 「じゃあ、ナンパでもしてきたら? この際、一日で何人に振られるか、記録に挑戦してみるといい」 「……おまえな、振られること前提かよ」 「その性格でホイホイ女が釣れると思ってるなら、もっかい入院するのをお勧めするよ。まあ、コツはとにかく退屈させないことだから、話が途切れないよう注意すること。あと、褒めるときは顔じゃなくて、髪型か服にするんだね。つまりセンスを褒めるように。プラス笑顔。これ大事」 「なるほど、んじゃやってくるわ」 「それで打率三割超えたら大したもんだよ。今は時期も悪いから、せいぜい変態に間違われないよう――」 「なあ、ところで」 「ん?」  部屋から出て行く間際に振り返って、司狼は再度エリーに問う。 「勘違いされて刺されたら、やっぱり痛そうにしないと駄目なんだよな?」 「…………」  馬鹿な戯言。ナンパ相手から殺人犯に間違われて刺されたらどうしよう。  そんな冗談、まともに応じるだけ損というものだろうが、エリーは目を眇めて司狼を睨む。  そして、ぽつりと。 「あんた、死んでも直りそうにない馬鹿だよね」  心底呆れ返ったようにそう漏らした。  どこか奇妙なやり取りで、何かが少しズレている。  そもそも、〈刺〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》〈痛〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈駄〉《 、》〈目〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》とは、おかしな言い回しと言えるだろう。  ともあれ、彼らの“作戦”とやらは今夜決行されることとなる。  その結果に、何が釣れるかはまだ分からない。 「はあ、はあ、はあ、はあ……なん、でよ、こんな……」  泣きながら、息を切らして夜に駆ける女がいる。 「――ひぃ」  何かに追われているようだったが、逃げても逃げても逃げられない。 「あ、は、いや……」  そして―― 「いやああああっ!」 「――司狼」  連絡を受け取ったエリーが告げる。 「出たよ、タワーの傍にある公園だ」 「つーことは西側かよ。期待裏切らねえな、このキチは」 「警察より先に死体は見つけられたけど、犯人は見てないってさ。どうする?」 「画像は?」 「届いてるよ。うわ、グロいねこれ――恐怖の表情がホラー爆発。あんたこういうの好きでしょ」 「変態かオレは。……へえ、ほんとに首チョンパだな。おい、現場の奴と電話は繋がってんだろう?」 「うん」 「貸せ」  言って、エリーから携帯電話を受け取ると、司狼は単刀直入に切り出した。 「おいおまえ、どれくらいポリが来るのを邪魔できる?」 「あ、今、二十人くらいが手分けして近所のコンビニ強盗やってますんで、もうしばらくは……一時間くらいは引っ張れると思います」 「よーし、だったらおまえ、少し離れてそこのグロいの見張ってろ。たぶん戻ってくる」 「え……?」 「今まで4人、斬られた首はひとつも見つかってねーだろう。なのに今回、そいつはまだその場に残ってる。焦ってたのか何なのか、とにかく変態はトロフィーを取り忘れた。だったらどうする? うっかりしてたって諦めるか? ――有りえねえな。そんな物分りのいいお利巧さん、変態世界に住めねえよ」 「なるほど、さすがは同類」 「黙ってろエリー。とにかくおまえは、言われたとおりに――」  しろと、言いかけたその矢先に―― 「……あ」  不意に、電話向こうの様子が変わった。声音に込められた驚愕に、司狼の目は細くなる。 「どうした?」 「あ、あぁ……」 「おい」  そして、その時―― 「…………」 「……死んだ?」 「みたいだな、――誰か来る」 「……主よ、彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光もて照らし給え。〈讃〉《ほ》め歌を捧げるはシオンにて相応しく、主への〈請願〉《せいがん》はエルサレムにて果たされん。我が祈りを聞き給え。生きとし生けるもの、すべては主に帰せん。彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光もて照らし給え……」 「……さて、これはどうしたことですかね。この若者、どう見ても我々の捜し人ではありません。かといって、司法機関の人間とも思えない。単なる不運な一般人か、それとも……」 「どうでもいいことです、〈聖餐杯猊下〉《せいさんはいげいか》。あなたが気に掛ける必要はありません。それより、到着早々のお目汚しをご容赦ください。この場は我々が処理いたしますので、猊下はお戻りになられたほうがよろしいかと思いますが」 「ふむ、そう気を遣わなくてもよいのですがね。ただ私としても、あまり派手な真似をされては困ります。――たとえばベイ」 「あぁ?」 「あなたはいささか、乱暴すぎていけません。この若者、殺さずとも記憶を無くしてもらえばよかったと思いませんか?」 「おい……何を今さら。七面倒くさいうえに温いことを言ってやがる」 「そうね、だってこの子、こんな物使ってたのよ。見逃せないわ。 知ってる、これ? アナクロなあなたには分からないかもしれないけど、今の世の中、だいぶ便利になってるのよ」 「どうやら、この場の状況を何者かに伝えていたようですが……」 「ほぅ…」 「これ、まだ通話中だね。えーっと……やっほー、聞こえる? あなた誰かな? まあ誰でもいいんだけどさ、とりあえず近日中に、ベイが挨拶に行くからね。せいぜい楽しませてあげてちょうだい。参考までに写真送ると、こんな顔の二枚目だから。はいチェキラ」 「ついでにわたしも、チェキラ。おまけにレオンも――」 「私はいい。くだらない真似はやめろマレウス。それで猊下……」 「……やれやれ、どうにも事を荒立てるのがお好きな方々だ。まあ血が騒ぐのも、待ちきれないのも分かりますがね。よろしい、ではその彼――ないし彼女に伝えなさい」 「あれ? それってもしかして」 「珍しいな、あんた自らが行くのかよ」 「あなた方には、あなた方の役目があります。その間、雑務は私が引き受けましょう。よろしいですね、それでは電話越しのあなた。何の目的あってのことかは存じませんが、すべてを忘れるなら特別に見逃してさしあげましょう。ただし退かぬというのなら、明晩教会へお出でなさい。 私はクリストフ――聖槍十三騎士団黒円卓第三位、ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリーン。……これでも一応神父ですので、怖がらずともよいですよ」 「では、ごきげんよう。願わくば――」 「神に祈っても意味がねえって、神父が教えてくれるとよ」 「Auf Wiederhoren――Und sie sterben fur sich wieder」 「―――っあ」 「今、のは……」 夢……? またなのか? 深夜にうなされて飛び起きれば、全身に温い汗をかいていた。 「……くそ」 吐き捨ててベッドから降り、水道の蛇口を捻ってありったけの水を飲む。 「んっ、んっ、んっ、――はぁ」 今夜、また街のどこかで人が殺されたのだろう。そして、もしそうだとしたら、俺はどうするべきなのだろう。 できることなど、何もない。先輩は予知夢と言ったが、むしろこれは生中継だ。おそらくはリアルタイムで起きている殺人を、寝ている俺がどうにかできるはずもない。仮に警察へ行ったところで、変人扱いされるだけだ。 ならば当然、こんな気持ちの悪い思いはできるだけ避けるようにするべきだが、それに対する有効的な手段といえば、夜に眠るのをやめるということくらいで。 ……キツイな、少し。学生の身で、昼夜逆転の生活は問題がある。もちろん、いよいよとなれば体裁など気にする性分でもないのだけど。 「あいつがな……」 隣の部屋で、今ごろ惰眠を貪っているだろう綾瀬香純。こいつがうるさい。俺の生活態度を正すことに、命を懸けているような節がある。 世話好きで、お節介で、心配性で……鬱陶しいといったらバチが当たりそうな程度には助けられているし感謝もしてるが、こういうとき、対処が億劫になるのは仕方のないことだろう。 たとえばあのとき、二ヶ月前……司狼とのトラブルがあったときもそうだったか…… 「…………」 知らず、俺は自分の首筋をなぞっていた。 斬られてはいない。痛みもない。問題なくついている。 だが、なんだろうこの違和感は。まるでついさっきまで、首から上を挿げ替えられていたかのような…… 「……?」 「……香純?」 あいつ、外出してたのか? 近所にはコンビニもあるし、それは珍しいことじゃないのかもしれない。 だがこの時期、物騒で軽率だ。危機感の足りない行動だと言わざるをえないだろう。なまじ剣道なんかやっているから、妙な自信でも持っているのか。 だとしたら、まず自分の生活態度を改めろと言いたくなる。交友関係の狭い俺とは違い、おまえがもし襲われて、死ぬようなことになったら周りの奴らが―― 「…………」 言葉にできない、なんとも形容しがたい不快な気分を味わって、結果的に眠気は失せた。どうやらこれで、朝まで起きていられるだろう。 じき、遠からず夜が明ける。香純がいつものように不法侵入してきたら、無用心な外出について注意してやろうと思っていた。 ――が。 「おっはよー、どしたの蓮。今朝は凄いね、早起きじゃん」 「て、あんたもしかして寝てないでしょ? 目、隈できてるよ。顔色悪ぅー。どうせ夜通しマンガでも見てたんじゃない? 馬っ鹿だなーもう、梅干し食え」 結局のところ、説教はこいつの専売特許なわけで、そんなことは途中から言う気も起きなくなっていた。 ……そう、香純の明るさにはいつも助けられている。 夜毎の悪夢と、殺人事件……なにかよく分からない不吉なモノが、忍び寄っているような気持ちの悪さ…… それを拭いさり、忘れさせ、杞憂であると教えてくれる。 退屈で、平凡で、ときに騒々しく、ときにくだらない。誰でも経験できる当たり前の、何処にでもあるありふれた毎日を、いま感じられるのは香純のお陰だ。 もう、司狼はいない。 俺にとっての非日常は、すでに遠い記憶の向こう。 だから今ある日常を、何としてでも守りたいと強く思える。 ごく普通であるという、この安心感。 たとえその正体が、それしかできない強がりにしろ、それすらできない憧れにしろ。 大事だと思って、悪いわけがないのだから。 ……放課後、道に迷ったというおかしな神父を教会まで送り届け、お礼にと晩飯をご馳走になった後の帰り道。 傍らでいつものように笑う香純を見ながら、俺はそんなことを思っていた。 「んー、なんかすっかり遅くなっちゃったね。ちょっと遠慮すればよかったかな」 「物騒だし、そうしたほうがよかったかもな」 時計を見れば、時刻は十時。それほど遅いわけでもないが、例の事件のせいか出歩いている人は誰もいない。 「でもま、あたしは心配なんかしてないよ。いざとなったら、蓮が守ってくれるんだろうし」 「俺はむしろ、おまえに期待してるんだけどな」 「今でも毎日、放課後に稽古してるくらいなんだし。実際、俺より強いだろ」 「あのね、あたしは竹刀もってないと、たいしたことはできません」 「ていうかさ、この状況でそういうこと言うかな普通。見栄でもハッタリでもやせ我慢でも、俺が守ってやるぜくらい言ってよね」 「あたし、かよわい女の子だよ?」 「何処にいるんだよ、かよわいのが」 「あんたの! 目の前! すぐほら! ここに!」 「あーもう、ほんと、いっつもこれだよ。実はメチャクチャ凶暴なくせに、猫かぶって嫌らしいったら」 「そりゃあ、もう危ないこととか、してほしくはないけどさぁ……」 「なんかこう、お約束? こうきたらこう返すだろ、みたいなマニュアル、たまにでいいから守ろうよ」 「おまえ、ベタだもんな」 「そ。ひねくれたって、いいことなんかないんだからね。謎とか伏線とかトリックとか、そういう小賢しいのはスッパリやめるの」 「どこかで見たような王道で、先が読めるけどそのぶん安心。そんな人生のほうが、きっと振り返れば楽しいしステキだと思わない?」 「ね?」 「…………」 確かに…… 「かもな」 「よーし、それじゃあもう一回、改めて訊こうかな。あたしが危なくなったら蓮は――――って、うぎゃ」 「た、た、た、……ちょっと、いきなり止まんないでよ。どうしたの……って、うわなにあのすっごい車」 「……たぶん、アメ車かな」 前方、十メートルほど坂を下ったところに、真っ赤なキャデラックが停車していた。 それは悪趣味なくらいド派手な仕様で、言うまでもなくそうそうお目にかかれる物じゃない。 だが、そんなことより…… 「誰あれ……知り合い?」 「違う……」 ボンネットに腰を降ろし、こちらを見上げている女。 ショートカットにライダースジャケット。際どいミニスカートにロングブーツという出で立ちは、良く言えば活動的、悪く言えば単にガラが良くないというタイプだろう。 しかし、そんな表面的なものではなく、俺がある種の既視感を覚えたのは彼女の目。挑発的で挑戦的な、それでいてどこか面白がっているような…… ……似ている。 「……司狼?」 そうだ。あいつと雰囲気がそっくりで…… 彼女は、俺と香純に微笑みかけると、立ち上がってこちらへと…… 「……蓮?」 「またいずれね、藤井蓮くん」 「――――」 「今の子……なんて?」 香純には聞き取れなかったのか、すれ違いざま、耳元で囁かれた台詞は再会を匂わせるものだった。 あいつ、なぜ俺の名前を知っている。いったい誰だ? 「ねえ蓮、本当に今の子と知り合いじゃなかったの?」 俺は答えず、ただ彼女が去っていった丘の上を見上げていた。 その先には、教会がある。いったいあいつは、何をしに…… 「ああ、そう、あたしだ。今から司狼が殺りに行く。あんたら、教会の敷地内に誰も入れたりしないように。それから、学生服着たカップルがじきそっちに行くだろうから、ちょっかい掛けずに通すこと。あとはそうだね、足がある奴はゾッキーの真似事でもやってなよ。なんでもいいから音出して、カモフラージュするのを忘れずに。でないと夜の郊外で、さすがに銃声は響きすぎる」 「ほらね」  そうしてやってきた丘の上には、国内でも珍しいロマネスク様式の教会がそびえ立つ。この諏訪原市で、もっとも古い施設の一つだ。  今から七十年程前のこと……街が出来た際、ほぼ同時期に建てられたとされる建造物はこれを入れて都合四つ。  教会、病院、博物館、そして、さっきすれ違った彼らが通う、私立月乃澤学園の四種類。――付け加えるなら、十一年前に街が政令指定都市となった際、新たに追加された施設も四つだ。  すなわち、タワー、海浜公園、遊園地……最後に、あたしたちがねぐらにしているボトムレスピットという名のナイトクラブ。  この八箇所がどういう配置になっているか、興味があるなら街の航空写真を広げてペンでも走らせてみるといい。何年か前にテレビで取り上げられたネタだから、知っている人もいるだろう。  諏訪原市は、スワスチカを有するシャンバラ。そしてゲットー。  この街では、年間の死亡者数と出産数……また、入居者数と退去者数の総合比率が、十一年連続でプラマイゼロだ。つまり、政令指定都市となって以来、人口の増減がまったく起きていないことになる。  ゆえにゲットー、収容所だと……そう言われるのも、なるほど的を射ているだろう。広義な意味で、街は内部の人間を一人も逃がしていないのだから。  そんな曰くつきの場所に立ち、今夜あたしは、観客として場の〈趨勢〉《すうせい》を見守っている。  舗装された石畳の地面を通じて、彼の昂ぶりがこちらに伝わってくるようだ。  遊佐司狼。……こいつとあたしは、形容するなら相棒? 友人? それとも恋人? 巧い言葉が見つからないけど、たぶんどれでもありどれでもない。  ただ、お互いの存在が娯楽になる。一緒にいると加速できる。ブレーキなんか壊れてるから、行く道の先はきっと破滅だ。いつかクラッシュして死ぬだろう。  今日か、明日か、明後日か。それは問題じゃないし興味もない。  今このときの楽しみを。刹那的な興奮を。まだ未経験の何がしかを得るためなら、あたしとこいつは何だってする。  たとえば、こんなことだって。 「こんばんは、神父様。昨日招待されたんで、遠慮なくお邪魔させてもらったけどよ」 「まさかあんた、天に召されたとかいうなよ、こんなもんで」 「……ええ、まあ、多少驚いたのは確かですがね」  言いつつ、まるで何事もなかったかのように、神父はゆらりと立ち上がった。  そう、こんなもので殺せるような相手じゃないのは分かっている。  いや、こんなもの……なんて言い方は、大いに問題があるだろう。  司狼の銃は、言うまでもなくオモチャじゃない。イスラエル製デザートイーグル50AE――ハンドキャノンの異名を持つ世界最強の拳銃だ。  それを五発。触れ合うほどの至近距離で撃ち込まれては、たとえ野生の猛獣だって致命傷は免れ得ない。  普通は死ぬ。必ず死ぬ。だが、普通じゃない相手ならどうだろう。 「今どき、随分と型破りな若者ですね。その銃、この国で易々と手に入る代物じゃないでしょうに。まったく、神の家の前で無体なことをするものです。確かに招待したのは私ですが、このような真似を許した覚えはありませんよ。ああ、ほら、今のでせっかくの一張羅が台無しじゃあないですか」  神父の〈僧衣〉《カソック》には、弾痕が刻まれているものの血の一滴すら流れていない。  わずかに煙をあげる胸元から、銃弾がせり出してくる。常識的に考えれば防弾着の可能性もないではないが、だとしても肋骨関係はグシャグシャになっているはずだろう。あんな風に、平然と笑っていられるはずがない。  やはり、怪物。 「聖槍十三騎士団、ロンギヌス・サーティーン……いわゆる」  ラストバタリオン。  ネットのアンダーグラウンドには、大金を叩いても抹殺しておきたい人間――いや、人間失格者たちのリストが、それこそピンからキリまで網羅されている。  その中でもダブルS。簡易な経歴を閲覧するだけで、法外な金額を要求されるお尋ね者のハイエンド。そこにあったのが―― 「ルサルカ・シュヴェーゲリンにヴィルヘルム・エーレンブルグ。昨日、ご丁寧に写メ送ってくれたのはこいつらだろう」  ドイツ古代遺産継承局、通称アーネンエルベの初期メンバーと、第36SS所属、〈武装擲弾兵師団〉《ぶそうてきだんへいしだん》のもと中尉……六十年以上前に懸賞金を掛けられて、今に至るも額が増え続けている規格外のモンスターたち。  悪名高き第三帝国の生き残り。そして、この一見温和そうな神父もまた。 「ヴァレリア・トリファ……あんたの額は、先の二人の五倍はあったな。おっかないことに、さらに上の奴らもいたようだけど……」 「見たのですか、それを」 「いいや。間抜けなことに、そこで金が尽きちゃってね。賞金首の情報見るのに、金取られるってのはどうにも理不尽な気がするよな」 「……確かに。ですが、あなたも奇怪な人格の持ち主ですね。私や彼らの経歴を、疑いもせず信じている様子なのは勿論のこと……先ほどから、まるで恐怖も驚きも伺えない」 「銃で撃っても死なないからって?」 「ええ。それは狙いを定め、引き金を引くだけで、女子供でも大の男を殺傷し得る便利な道具だ。ゆえにその使用者たちは、往々にしてこんな思いを抱きます。銃さえあれば、誰でも殺せる――」 「なるほど」  言いつつ、司狼が再度発砲。しかし結果は変わらない。神父は一貫して微動だにせず、何事もなかったかのように言葉を継ぐだけ。 「そしてそれは、あながち間違いというわけでもない。銃で殺せる相手なら、やり方次第で女子供にも殺せる相手だ。……しかし逆に、どうあっても銃で殺せない者が存在したらどうでしょう。それは極論、個として人間の手に負える相手ではないということになりませんかね」 「ああ、確かにそうかもな」 「つまり――あんたはこう言うわけだ。自分は人間じゃない」  そう、人間じゃない。  半世紀以上前から当時のままの若さを保ち、都合八発もの銃弾を浴びてなお笑っていられるような存在は、断じて人の範疇に入らない。 「だが、だからっていったい何を驚くんだ? 多少珍しい生きモンの相手をしてるっていうだけで、この展開は想定の範囲内だろ。銃で死なない? オーケー。だったらこいつはどうだよ神父様」 「――ぬ」 「火葬は教義に反するかい?」 「これは……火炎瓶ですか――くだらない」 「余裕かよ、ならこいつは――?」 「……お次は、警棒型のスタンガンときましたか。どうやら相当の高電圧をかけているようですが……おやめなさい、無駄ですよ」 「この程度のことで死ねるなら、私はとっくに死んでいます。あなたも、中々奇矯な人種ですが、揮う暴力は常識の範疇から抜けていない。さて、他に出し物はありますか? 私は気の短い性分じゃありませんが、そう暇でもない身です。万策尽きたというのなら……」 「つれないこと言うなよ、神父だろ」 「……やれやれ」 「―――っォ」  密着した間合いから、腹に掌底の一撃を受けて吹き飛ぶ司狼。それはさながら弾丸のような勢いで、人があんなに飛ばされるなんて信じられない。単純な力だけでもこの神父が常軌を逸した存在であることを証明している。  いいやあるいは、その程度で済んでいるだけマシだと言えるのかもしれないと思うほど。 「クソが、ホントにデタラメだな。顔面ブチ抜いても効果なしかよ」 「心臓を貫く。脳を壊す。炎に電撃……次は劇薬か銀の武器でも使いますか? どれも意味はありませんよ」 「言ったでしょう。常識枠の暴力で、その埒外にいる者は斃せない。あなたがやっていることは、しょせん〈蟷螂〉《とうろう》の斧だ。さあ、どうされます? 今ので確実に、骨の数本は折れたでしょう。これでもまだ、聞く耳は持ちませんかな」 「当然」 「まだ何も感じてねえよ。こんな半端でやめられるか」 「ほう、ではどうすれば満足するのか。意地や面子に拘る人種とも思えませんがね。若者よ、質問させていただきますが、あなたの求めているものとは?」 「簡単さ。レア度が高いっていうことは、価値があるってことだろう。デジャヴるんだよ、いつもいつも。何見ても何聞いても、何食っても何やっても――新鮮な驚きなんか何一つ感じられない。だから――頼むわ」 「協力してくれ、神父様。ありえない変態ならありえない展開を見せて聞かせて教えてくれよ。誰でもできる当たり前のことなんかじゃ、何処まで行ってもオレのデジャヴが止まらない」 「たとえ死んでも?」 「それが未経験のオチなら有りだろ」 「なるほど……」  深く感銘を受けたかのように、神父は静かに頷いた。そしてゆっくりと、糸のような目が開いていく。 「つまり、結果は二の次。得難い経験を獲得できればそれでよいと……分かりました。神父として、迷える若者には道を説かねばなりませんね。しかし、やはり神父として、自己より圧倒的に劣る者を打ちのめすわけにもいきません。そこで……まずは片手のみ。武器は使わず、それだけでお相手しましょう。あなたの言うデジャヴとやら、超えたければ相応の強さを示しなさい」  その目が一瞬、黄金の色に見えたのは錯覚だろうか。 「そりゃオレていど、敵にもならない雑魚だって言ってんのかい?」 「どころか、本来なら視界にすら入らない虫ケラですよ。こうして会話をしているだけでも、光栄に思ってほしいところですね」 「ク、ハハ、ハハハハ」 「ふふ、ふははははは」 「ははははは、あはははははははははははは―――!」  噴き上がる二人の哄笑。それに被さるような形で、司狼の怒声が炸裂した。 「面白ぇよ腐れ野郎、地獄でジークハイル唄わしてやらァ」  そうして戦いは始まった。――というより、終わりに向けて加速したと言うべきだろう。  こちらにあの神父を打倒する手段がない以上、待っているのはどんなカタチであれ敗北だ。ここから先は、ただの出来レースにすぎない。  だけど司狼は笑っている。……もともと、勝てるからやるとか負けるからやらないとか、そんな次元の話じゃないんだ。勝てないと分かったからって、やめる理由はどこにもない。  だから司狼はやめないだろう。そしてあいつがやめない限り、あたしもやめようとは思わない。結果、死んでも――まあそれはそれで有りじゃないかと思っている。  ……けど。 「止めないの?」 「誰?」  不意に傍らから話しかけられ、反射で振り向き様に銃を構えてみれば、そこにいたのは知らない女の子だった。 「……もしかして、司狼を振ったっていう先輩?」 「さあ? 誰のことを言っているのか知らないけど、違うわよ。 私は、あの神父様の仲間……というより、同類か」 「……なるほど。じゃあ、こんな物は意味ないのね」  溜息交じりに肩をすくめて、銃を仕舞う。それに彼女は、軽く頷いて言葉を継いだ。 「物分りがよくて助かる。それで話を戻すけど……彼、止めなくていいのかしら? このままだと、確実に殺されるわよ。たぶん、あと数分もたない」 「……ヘンなことを言うのね、あんた」 「別にそうでもない。あの神父様、基本的に血が苦手なのよ。ただその反面、タガが外れると止まらなくなるからタチが悪い。そうなると面倒だから、できれば止めたい。けど、そちらにその意思がないなら、止めようがない。正直、少し困っている」 「だったら、あんたが神父とバトンタッチすればいいだけじゃない」 「……あなたたちは、そんなに死にたいの? よく分からない価値観ね。言ってしまうと、私は別にどうでもいいのよ。見た限り、特に背後関係もなさそうだし。二度と関わらないと約束すれば、帰してやってもいいと思う」 「それ、放っておいても、何の障害にもならないだろうって言い草だね」 「まあ、その通り。単刀直入に言うと、雑魚に構っている暇はないし、あの神父様の手を煩わすようなことでもない。私の裁量で片付けたほうが、収まりは俄然よくなる」 「それで、どうなの?」 「お断りだね」  そう、話にならない。自分たちはそんな真っ当な理屈に興味はないし、どうでもいいのだ。  この子、あの神父の仲間というには、意外にマトモなのかもしれないなと思いながら、からかうようにおどけてみせる。 「悪くない提案だけど、決めるのは当事者だよ。あいつがここで死ぬか生きるかは、あいつが決める。邪魔はしないし、誰にもさせない。それより、同性とこんなに話したのは久しぶりなんだよね。よかったら、名前教えてくれないかな。あたしは……と、エリーでいいや」 「…………」  問いに、彼女は一瞬困ったような顔をして。 「螢――櫻井螢。どうでもいい名よ、もうあまり呼ばれないし。 それよりも、あなた」 「エリー」 「……エリー、残念だけど、時間切れね」 「―――ッア」 「今ので、詰みよ」  どうやら、あたしたちが話してる間にあっちは終わってしまったらしい。 「……さて、どうでした。あなたにとって価値ある経験とやらを、得ることはできましたかね」  司狼の襟首を掴んで軽々と吊り上げながら、神父はそんなことを言っている。 「正直、私にとっては中々刺激的なものでしたよ。まあ、攻撃手段が圧倒的に稚拙だという欠点はありましたが、それなりに楽しめました。先ほどの侮辱は撤回してもいい」 「は……だったらオレは、虫から鼠くらいには格上げしてもらったのかな」 「ええ、鼠もどうして馬鹿にはできない。タチが悪い病気持ちも、中にはいる」 「実のところ、私は不思議でなりません。こんな平和で、眠くなるような国に、なぜあなたのような人種が生まれたのか。普通、飼育箱で野性など生じるはずがないのですがね。もしかしたら、これも副首領閣下が仕掛けた術の影響なのでしょうか。このシャンバラは、超人が生まれやすくなっているのかもしれません」 「……あ?」  意味の分からない独り言に、あたしも司狼も共に訝った矢先のこと。 「だとしたら、惜しいですね」  不意に神父は、司狼の首から手を離した。  その場に座り込む司狼を見下ろし、神父は続ける。 「あなたは先ほど、デジャヴと言った。それについて、幾つか訊きたい。いったい、〈い〉《、》〈つ〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈そ〉《、》〈う〉《、》〈な〉《、》〈り〉《、》〈ま〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》?」 「…………」 「生まれつき、ではないでしょう。慢性的な既視感……いや、既知感と言うべきですか。それに苛まれるなど、最上級の拷問だ。私の知人にも、同じ症状を訴える者が複数存在しましたが、皆例外なく狂ってましたよ。人は未知を感じられないと生きていけない。現にあなたも、生存本能が壊れている。死をもって生たらんとする矛盾に、なんら疑問を持たないほどに……。答えなさい。いつ、〈何〉《、》〈が〉《、》〈あ〉《、》〈な〉《、》〈た〉《、》〈を〉《、》〈そ〉《、》〈う〉《、》〈さ〉《、》〈せ〉《、》〈ま〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》」 「…………別に。はっきり自覚したのは、ツレと喧嘩別れしてからだ。その前からもちょくちょくあったが、最初の一回目なんて覚えてねえよ」 「……なるほど。ならば、私が答えましょう。もしかして、十一年前……ではないですか?」 「――――」  それが、司狼にとってどんな意味を持つことなのかあたしは知らない。だけど珍しく眉を顰めているあいつの顔から、十一年前という過去が特別なものだというのは理解できた。  そして神父も、そのことを察したらしい。喉を鳴らして、なんとも愉快そうに笑い始める。 「……くく。はは、ははは、ふははははは。面白い、これはこれは、やはりそうか、そうきましたか。よろしい、実に愉快だ――レオンハルト」 「……はい」 「気が変わりました。この若者を、無事家まで送り届けて差し上げなさい」 「なっ――おい」 「屈辱ですか? 不満ですか? いいえ言わずとも分かります。より的確に言えば、さしずめ落胆――というところでしょう。あなたはがっかりしているはずだ。これは前にも経験したとね。それに、そもそもその身体……私が手を下さずとも死の坂を転がっているではないですか」 「――――」  こいつ、〈司〉《 、》〈狼〉《 、》〈の〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈抜〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。流石、神父を気取っていても戦争屋。伊達じゃないということだろう。 「ふふ、はははは、あはははははははははは。ツァラトゥストラはかく語りき、永劫回帰を肯定する者……あなたは我々の捜し人ではないようですが、その影響を確実に受けている。この街にあなたのような者が生じ、私と接敵したのがその証だ。副首領閣下の代替品など、有り得るはずがないと内心思っていたのですがね。どうやら、本当にいるようだ。ツァラトゥストラ……いったいどれほどのものなのやら。何にせよ、やはりゲットーは破壊できると、そう仰るのですね。……くくく、ははははは」 「…………」  またしても意味の分からないことを話し続ける神父の様子に、正直あたしは辟易していた。そして当然、司狼そこは同じだったらしい。あからさまに鬱陶しそうな溜息をついて、立ち上がる。 「……アホくさ、どっちらけだぜ。そのまま勝手に、電波垂れ流してろエセ神父」 「ああ、これは失礼。なんでしたら、お詫びに治療をさせていただきましょうか?」 「いらん。この程度、痛くねえ」 「でしょうね。あなたなら、手足が千切れても平気でしょう。昔は我々も、そういう兵士を人工的に造ろうとしたものですが」 「まあともかく、お大事になさい。平気だからといって、傷がなくなっているわけではない。不養生すれば、それこそあっという間ですよ」 「それはあたしの領分だから、余計なお世話よ」 「これはこれは、失礼しましたお嬢さん。どうやら心配無用のようですね」 「それでは――」 「送りもいらねえ。この通り、女手は足りてるよ。そっちの姉ちゃんは、また今度な」 「……今度? あなた、まるで懲りてないのね」  それはまあ、当たり前のことじゃないのということで。  呆れたような声を背中に、あたしと司狼は教会を後にした。  結果は予想通りの敗北。しかも惨敗と言っていいだろう。  だけど、司狼はいつも通り。特に悔しがるでもなく苛立つでもなく、まして命拾いしたことに安堵している風でもなく、何を考えているのかよく分からない顔のままだ。  まったく…… 「右肋骨の五番と六番、あとは左の八番がいってるね。こっちは? 見せて。 やっぱり……無茶な撃ち方するから手首外れてるじゃない。指も折れてる。 他にも色々、あっちもこっち傷だらけ。……本当、よくこんな状態で歩けるね。普通なら、痛くて転げまわってるはずなんだけど、相変わらず便利な身体。……て、あんたさぁ、なんか言いなさいよ、お礼とか」 「ん……ああ、そうだな。サンキュー」 「全然気持ちこもってないんだけどね。……やっぱりあんたでも、ショック受けたりしてるわけ?」 「そんな風に見えるか、オレ」 「見えない。けど、口数は少ないじゃない。考え事?」 「まあな」 「ふーん」 「訊かねーの?」 「想像つくしね」  それはたぶん、あの神父が言っていたこと……  まさしく怪電波と言うしかないような、意味不明台詞のオンパレードだったけど……あれは、理解しちゃいけない類のことに思えてならない。  知ってはいけないこと。分かってはいけないこと。 つまりは禁忌、タブーというやつ。  だったら…… 「ぷっ。あはははは」  なんだ。だったらもう、何にしろ手遅れじゃない。だってこいつ、そういうのに関わるのが本当に好きなんだから。 「なに笑ってんだ、おまえ」 「んー、いやごめんごめん。ちょっと思い出しちゃって。さっきね、ここであんたがよく話題にする藤井くんとすれ違ったのよ」 「へぇ」 「彼女連れだったんだけどさ、あれ……あんたよりはモテそうなタイプだね。結局心配掛けるくせに、隠してさらに煽るみたいな」 「……それ、モテるのか?」 「少なくともあんたみたいに、ハナから堂々とやる気満々で無茶する奴には誰も寄りつきゃしないでしょーよ。結果的に同じ事をやるにしても、外面優等生のほうがウケはよさそうだと思うけどね」 「つまりあいつは、おまえのタイプじゃないわけね。何言ってイジメた?」 「何って、別に。横で彼女が心配そうにしてたけど、絶対黙ってると思うな、あれ。あたしはただ、最初あの辺に座ってて……」  ――と、視線を前方に投げた瞬間だった。 「おいおい……オレのキャデラック」 「……あれ、めちゃ金かかってたんだけどね」  炎上するキャデラックの傍に立ち、にやつきながらこちらを見ているのはアンバランスな二人組。  死蝋のような顔色をした長身の男と、食虫植物めいた毒々しさを、幼い外見から滲み出させている女…… 「……まずった。ちょっと、油断してたみたい」  どうやら、修羅場を乗り切ったつもりで気を抜いていたらしい。  まだ、終っていない。 「あれー、なんか匂うなぁ。この辺ちょっと、アレじゃない?」 「硝煙臭ぇ。すぐ近くについさっき、銃撃ちまくった奴がいるようだが……」 「ねえそこのあなたたち、怪しい人とか見てないかな? 日本で銃なんか撃っちゃったら、お巡りさんに捕まっちゃうってわたし聞いてたんだけど」 「この国、意外と物騒なんだな。乱射魔が大手を振ってる歩けるのかよ。おっかねえ話だぜ」 「…………」 「ああ、まったく。血の匂いまき散らしてるジジイとババアが、二人も目の前にいるくらいだ。物騒通り越してギャグだろ、こりゃ」 「あは」 「カハハ……」  うす笑いながら、眼前の二人――ルサルカ・シュヴェーゲリンとヴィルヘルム・エーレンブルグがあたしたちの方へと歩いてくる。  同時に、押し寄せてくるのは血の匂い。こいつらが言うところの、硝煙臭さなんか吹き飛んでしまうほど濃密で、容赦のない人殺しの匂い。  いったい何人殺せば、こんな匂いを纏えるようになるのだろうか。その凄まじさに、あたしは目眩すら覚えてしまう。 「なかなか面白ぇガキだな、おい。クリストフに見逃してもらったのかよ」 「のわりには、ちょっと怪我してるみたいだけど……もしかして、あの神父様と戦ったの? でも、だったら生きていられるはずないんだけどなぁ」 「…………」  そして、同時に理解した。教会に誰も入れないよう、あたしが指示を出していた連中はこいつらに…… 「エリー」 「分かってるよ……大丈夫」  敵討ちとか何だとか、この場でそんなことを言ってる場合じゃない。死ぬのは別に怖くないけど、無闇やたらに死線へ突っ込む趣味は無いのだ。  奴らに並の手段は通用しないと、今夜知った。ならばそれを活かして次のため、その次のため、進むためにもここでゲームオーバーなんかつまらない。  そんなこちらの意図を察したのか、赤毛の女は落胆したように溜息をつく。 「あれぇ、なんだやらないの? せっかく男女二対二同士なんだし、面白いと思うんだけどな」 「神父に説教された直後で、萎えちゃってんのか? つまんねえな、敗北主義者がよぉ」  そして、擦れ違い様。 「おい」  抜き放った司狼の銃が、至近距離で男の顔面へ炸裂した。あたしは思わず呆れたけど、やっぱりこいつはこういう奴で、舐められたままそれでお終いになんてしないのだ。  だけど…… 「…………阿呆が」  デザートイーグルの銃弾を、こいつは歯で噛み止めていた。飴玉でもそうするかのように口で転がし、吐き出して、犬歯を剥きながら鼻で笑う。 「こんなもんが俺らに効くかよ。学習しろや、劣等人種。だがまぁ、なかなかトボケたガキだ。こんな戯けた国に住んでるわりにゃあ、見所もある」  そしてそのまま、固まってるあたしらの横を無造作に通り過ぎていき、振り返って。 「今回だけだ。クリストフが見逃した手前、俺も一度だけ見逃してやる。けどなガキ、忘れるなよ。俺を攻撃した以上、次はねえ」 「今度会ったら、食べちゃうぞ。だからまた、これに懲りないでちょっかいかけてくれると嬉しいな」 「…………」 「つーかよ」  搾り出すように漏らす司狼。ああ、うん。まあその……この馬鹿、いま何考えて何言おうとしてるのか、あたしピンときちゃったよ。 「おまえら、車弁償しろよな」  まるでそれが、一番の大問題だと言わんばかりに。  いや実際、本気でそう思ってるんだろうなあ、こいつってば。 「ハッ」 「あは。あはは、あはははははは、面白い、面白いよこの子。気に入っちゃった、また会おうねぇ!」 「俺ら全員の首でも取りゃあ、戦車の一万台は買えるだろうよ。せいぜい頑張ってみるんだな。ククク、ハハハハ、ハハハハハハハハハハハ――!」  ――そうして。  げらげらと耳障りな笑い声を上げながら、二人は教会の方へ去っていった。  今、誰も把握していない深いところで、街に異変が起き始めている。  それはきっと、荒唐無稽で馬鹿馬鹿しくて、常識離れした悪趣味の極致みたいな物語……  どうやらあたしも、そして司狼も、その登場人物として巻き込まれてしまったみたいだ。  いや、この場合、自ら首を突っ込んだと言うべきなのか。正直、それについて後悔の念がないと言えば嘘になるけど…… 「ま、人生こうでなくちゃつまんねえよな」  こいつ、めちゃくちゃいい笑顔でそんなこと言ってるし。……やれやれ、わかった、わかりましたよ。あたしだって、実際こういう展開嫌いじゃないし。 「とりあえず、連中に効きそうなものでも調べてみよっか」  結局そんな、十三階段の第一歩目みたいなことを、苦笑交じりに言っていたのだ。 「なべて事もなし、経過は上々。万事滞りなく進んでいる。聞いているかい、マルグリット。君が退屈していなければいいのだが。私のオペラはどうだろうな。君の琴線に触れえるかな。陳腐と言われるかもしれないが、それなり手間と時間をかけたのだよ。気に入ってもらえると嬉しいな。彼は、どうだい?」 「彼?」  振り向く彼女は、永遠の黄昏であるこの浜辺に相応しく、金褐色の髪をなびかせて私を見ていた。  首の斬痕は消えることなく。紡ぐ言葉は呪いでしかなく。誰とも交われず愛されない。  その在り様は正しく異端。私などでは及びもせぬほど、奇跡のように外れた少女。  ゆえに、その存在を麗しいと私は思う。 「……それは、いつもここに来る人?」 「ああ、私の後継者であり、君に捧げる首飾りだよ。以前、王妃様にお渡しした安物とは、根本的に出来が違う。彼は君のためだけに、君は彼のためだけに、この世に生まれてきたのだからね。さしずめ二人は、運命の恋人だというべきだろう」 「カリオストロ、何を言っているのか分からないよ。わたしに恋人なんて、できると思う?」 「さて、それは首を斬っても死なない人間がいるのかという質問かな? であれば、すでに答えは出ているだろう。彼はここで、毎日のように、それを経験しているのだからね」 「君と〈番〉《つが》いになるというのは、すなわちそういうことだろう。私といえども、その身に触れて無事ですむとは思えない。孤独だったろう、寂しかったろう、そして退屈だったろう。君には何の罪もないのに、そう生まれたという事実が以降の総てを決定付けた。くだらん。そして嘆かわしい。成るべくして成るのではなく、成ると定められたものにしか成れぬ人生……そんなものに、何の意味があるというのか。私はね、マルグリット……その環を破壊したいのだよ」 「……破壊? あなたは、運命を?」 「然り。この永劫に回帰し続ける茶番劇を。無限に繰り返す既知感を――。 何を見ても何を聞いても、何を食しても何を嗅いでも、何を行い何を感じ、〈末那〉《マナ》と〈阿頼耶〉《アラヤ》に至っても――私は飽いて、飽き尽くしている。そう、今ここで君と交わす一語一句残らず総ても、その端からこう思うのだよ。これは前にも話したなとね……」 「それが、何か悪いことなの?わたしはよく分からないけど、あなたと話すのは楽しいよ。何度も繰り返せるっていうんなら、とてもとても嬉しいよ。カリオストロ、あなたはそういう風に思えないの?」 「生憎と、私の心は俗なのでね。既知を是とし、喜びとするような悟りは、生涯開けそうにない。そして、開くべきではないとも思っている」 「だからこそ、君と彼のような者が要るのだよ。是非、我がオペラの主賓となっていただきたい」 「あなたは、わたしに何をさせたいの?」 「我が盟友の旗のもと、その下僕達をヴァルハラへと送ってほしい。 君の呪いと、彼の心で。触れるものすべてを切り裂く斬首の刃で。 ホロコーストを、ラグナロクを、ゲットーを破壊する怒りの日を。 この私に、見せてほしい。君は彼に逢いたくないのか?」 「分からない……けど、逢えるとわたしは楽しくなれるの?」 「楽しませよう。アレッサンドロ・ディ・カリオストロ――君にそう名乗った者の総てに懸けて」 「そう、だったら……」 「ああ、ここで歌いたまえ。甘く切なく、想い人を求める歌を。記念すべき第一幕は、悲恋の物語にしようじゃないか」 「……うん」 「では、これより――」 「今宵の〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めよう――」 「さあツァラトゥストラ、我が愛しの君がお望みだ」 「今より私の代理として、成すべきことを成したまえ」 『我らが聖槍十三騎士団を、君が血のギロチンに処したまえ』 「カール、我が友……やはり卿はそう動くか。面白い。どだい血塗られた道行き……流血で繋がるのは自明の理だろう。それが我らの友情に相応しい。卿は世界の敵として、この世の終わりを望む者。存分に狂い、乱れろ。戦は今宵、幕を開ける。このシャンバラにスワスチカを完成させ、私を呼び戻すがいい」 「そしてまた、そのときこそ、我らが望む怒りの日を見せてやろう。 総てを灰に帰せしめん。ダビデとシビラの預言のごとくに……」 「Sieg Heil Viktoria」  魂が震える。魔城が吼える。百万の地獄が鬨の声をあげている。  〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を、既知世界終焉の時をただ求めて――  それこそ勝利だと信じるように。  その日は、間近に迫っているのだ。 「――な、爆発したぞ、何事だッ?」 「閣下、閣下ご無事ですかッ? おのれェ、何処の国か知らんがふざけた真似をォ」 「会場を封鎖しろ! 何をしている、ぐずぐずするな! 蟻の一匹たりとも外に出すなよ!」 『1939年11月20日……大ドイツ帝国総統兼首相の演説中に起こった謎の爆破テロ事件。この、全欧州を揺るがせた出来事が、私と彼をここに引き合わすこととなる』 『有史以来、初の世界大戦に敗北したドイツ帝国。貧困と絶望に喘ぐこの国は、新たに出現したカリスマ的指導者によって不死鳥のごとく復活し、再び世界に覇を唱えんと、近隣諸国への侵攻を開始した』 『ゆえ、ここに前回のそれを遥か上回るであろう最大かつ最高の、そして願わくは最後であってほしいと皆が望む第二の大戦』 『その幕が、今静かに上がろうとしているのである』 「つまり、総統閣下の暗殺自体は……無事と申しますか、当然のごとく未遂に終わり、事なきを得たわけですが、肝心の犯人を特定し、検挙することが遅々として進まず、それと申しますのも……」 「心当たりがありすぎて分からぬということだろう。仕方あるまい。閣下を〈弑〉《しい》し奉らんとする者など〈雲霞〉《うんか》のごとくだ。文字通り売るほどいよう」 鉄格子の立ち並ぶ拘置所で、歯切れの悪い部下の言葉を睥睨しながら打ち切った。 要領を得ない、その意図も分かる。 聞かずとも問題はないし、考えるまでもない問題は耳を傾ける労力すら惜しかったからだ。 罪人を捕えるために用意された場所は、その実処刑待ちの養豚場に近い。 錆びた鉄と、仄かに混じる血臭。紛れもなくここは死の匂いに満ちている。当然だ、ここに囚われて生きたまま出られた者など全体の一割を下回る。 〈我々〉《ゲシュタポ》に拘束されるとはそういうことだ。 罪科の有無など不要。余程の例がない限り、存在しない罪を暴かれて屍を晒すのみ。 「……は、確かに仰る通りなのでありますが、だからといって我々帝都の〈番兵〉《ばんぺい》たる者がいつまでも手をこまねいているなど恥にしかならず」 「言い訳はよい、大尉。それで、閣下の忠臣であり帝都の番兵である卿らは、この奥にいる者を捕らえたというわけだな」 「左様であります、中将殿」 だから、時折こういう措置が取られるのも、特に珍しいことではない。 真犯人の不在における〈身代わりの羊〉《スケープゴート》。 社会構造という車輪を回すために用意される、血液という油の詰まった潤滑油だ。 「ふむ、まあそれは大儀だ。事の真偽はともかくとして、卿らの努力はあながち無為にも終わるまい」 罪の所在も、罰の重量も、総てこちらで決め通せる。それだけの権力と能力を、今の自分は保有していた。 ゆえに今、これからもその行いをするだけのこと。 身も蓋も無い言い方をするならば、目を付けられる方が悪いのだ。 弱者は弱者の自衛がある。自らの無害さを常日頃から主張できなかった。これから会う男の罪は、言わばそのようなものだろう。 顔を見てもいない男を無能だと胸中で誹った。 「と、申されますと?」 「名はなんと言ったかな?」 その、哀れで間の抜けた男は。 「カール・エルンスト・クラフト……スイスのバーゼルに生まれ、現地の大学を卒業後、帝都に流れてきたというのが本人の証言であります。これにつきましては特に問題なく、偽証ではないとの確認も取れましたが……」 「なんだ?」 そこで一度口ごもる部下に訝しむ。 怯えからくる躊躇ではない。彼の目は、どこか呆れたような……忌避にも似た感情を宿していた。 まるで口にすることすら避けたいと、そう思っているかのように。 「その……なんと申しますかこの男、いささか奇矯な分野に傾倒しているようでありまして。実際噴飯ものではありますが……そう、〈巷間〉《こうかん》では彼とその技を指して……」 「占星術による未来予知……魔術師か」 つまりは幼稚な詐欺師というわけだ。せいぜい人の不安や理解の隙間に付け入るのが、若干優れているだけの人種。 「……左様であります。もちろんそのようなマヤカシ、くだらぬ戯れ言にすぎぬと弁えておりますが、事実として総統閣下の危機をかの男が事前に言い当てていたということを鑑みれば無視もできず」 となれば、魔術によって未来を予知した、などとおめでたい思考に行き着くはずも無い。 超常の技を使ったなど狂気の域だ。そんな言葉より、誰もが容易く信じられる簡単な筋書きがある。 「そのカール・クラフトとやらが閣下暗殺の手引き、ないし絵図を描いた張本人ではないかと当たりをつけた、か」 真でも偽でもない。曖昧な行動と立ち振る舞い。 その男は守られる市民の領域を超えたのだ。 愚かだと言う他ない。幽明のような佇まいからどういう目に遭うか、その痛みをこれから感じる羽目になる。 「ご苦労、卿は優秀だ大尉。くだらぬ流言、迷信に惑わされず、現実的かつ文明的な判断能力を有している。総統閣下に代わり〈寿〉《ことほ》ごう。卿のような人材こそが帝国の宝だな」 「ありがたくあります」 「よろしい、では戻りたまえ。魔術師とやら、会うのは私一人で構わん」 「は? ですがそれは……」 上官を一人残して狂言回しの相手を任せるわけにはいかない。体面の問題から去ることもできない部下へ、僅かに視線を向ける。 黙らせるのには些細な威圧でいい。長年の経験でそう知っている。 「何か問題があるかね、大尉。檻を隔てて向かい合い、いくつか取り調べをするだけのこと。しかも相手はただの詐欺師、せいぜいがテロリストというところだろう」 「〈飢虎〉《きこ》や〈餓狼〉《がろう》、獅子の部屋に丸腰で入るというわけではない」 そして、恐らくこの先にいる男はそれにすら劣るだろう。 くだらない茶番だ。ならばそのような些事に雁首揃えて押しかけるほどでもない。 「…………」 「分かったならば戻りたまえ。心配は要らぬ」 「……了解いたしました、中将殿」 「ああ、おって指示する。それまでしばし休むがいい」 硬直から解け、遠ざかっていく部下の背中を無感動に見やる。 生真面目な男だと、それのみを感想に踵を返した。 「……では、さて」 檻の向こうへ放置されている件を片付けるとしよう。 粗悪な鉄の廊下を歩み、その奥へと進む。 ほんの僅かな距離。ただ錆の浮く鉄を眺め、淡々とその男の元へ歩んでいく。 目的の檻へは程なくして辿り着いた。 落ち着きさえ感じさせながら、どこか人を食っている笑みを貼り付かせ、そこに影法師が座っていた。 ……最初の印象は、枯れ木。次いで蜃気楼。 不確かで、不鮮明。確かにそこにいるはずなのに、どこか別の場所から映像だけが投射されているかのような違和感を覚え、眉間に皺が寄った。 薄い──この男は枯れ果てている。 まるで総てをやり遂げてしまった老人。活力や希望が微塵も感じられない。黒く濁った瞳は〈瑪瑙〉《めのう》のように確固としたまま、腐っている状態で固定されているかのよう。 死んだ魚、いやそれとも違う。 あえて言葉にするなら、陸へ打ち上げられても生存してしまった深海魚か。 深海にしか棲めないのに、何の間違いか酸素を吸って生き延びてしまった、場違いな魚だ。 もはや腐り落ちて消え果てたいのに、それができない。 水の中へ帰りたいと願いながら、無為に跳ねるだけの生き物。ただ救いの時を他者に求めている。自分の嫌いな他力本願思考が凝縮し、固まったかのような存在だった。 そして、だからこそ確信と共に断言できる。 この男は違う。総統閣下を殺しなどしない。これは何も感じないからだ。 やる価値を暗殺に見出せるはずがない。国家を転覆させたとしても無感動であるから、そもそもやろうと思いつきもしない。 適当に口にした妄言がたまたま的を射たとするのが妥当だろう。 このときすでに、頭の中で実行犯であるという選択肢は消えていた。枯れ木は何も望まない。ただ花の養分となることだけを望むのだから。 「卿が噂の〈大逆者〉《たいぎゃくしゃ》か、とてもそうは見えぬな。私は……」 「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ中将。秘密国家警察、ゲシュタポ長官。大ドイツ帝国にその名も高き貴公子にして、裏では首切り役人とも渾名される〈黒太子〉《こくたいし》殿」 「お目にかかれて光栄だ。私はカール・エルンスト・クラフト……詐欺師でありせいぜいがテロリスト、魔術師などという胡乱な評価より、そちらのほうが近いと言えば近い」 「……なるほど」 静かに、情めいたものを覗かせてこちらの言葉を遮られた。その事実に、内で下していた評価を僅かだが修正せざるを得ない。 機先を制されたのは久しぶりだ。妄言を吐きそうな口ぶりではあるが、なるほど、痛覚はとことんまで鈍そうだ。人の悪意を如何ほどに浴びようと、これはその薄ら笑いを止めないだろう。 「なかなか興味深い人物ではあるようだ。この国で私の前に引き出され、そのように笑える男などそういない」 堂々としている。だがそれは、この場において何もならない。 「それで卿、単刀直入に言うが、死にたいか?」 「私の職務は、国家に害なす者どもを処罰することが本分だ。詐欺師でありテロリスト……などと自称する輩ならば、首切り役人という、卿に言わせれば胡乱な二つ名通りの真似をせねばならん」 「ほぅ、つまりあなたは、その名を特に誇っていないと?」 「さて、どうだかな。しかし職務に私情など持たず、挿まず、いやそもそも、そういった感情が十全に働かないからこそ、このような立場にあるとも言える」 世がくすんで見える。 熱中したことなどただの一度もない。 だからこそ“裁く”という行為において、これほど適合した精神はなかった。 何者であろうと平等に、過不足なく、私情を一片も混ぜずに決を下すことができるのだから。 「問おう、卿は我が本分の遂行対象になるような存在か?」 眼光鋭く睨みつけるも、目の前の詐欺師は依然として茫洋としたまま笑っていた。 「遺憾ながら、否定はできぬ身……ですが」 「総統閣下の〈弑逆〉《しいぎゃく》……未遂に関与したか否かと申さば、是と言うわけにはいきませんな。私は何もしていない」 ああ、それこそ無駄な言葉だ。 していない。やっていない。そのような言葉は聞き飽きていて、どのような対応を取るかも決まっている。 「皆、最初はそう言う」 「では、拷問でもしますかな?」 「してもいいが、無為であろうな、その労力は」 そう相手も分かっている。未だ余裕を保つ態度は見通している者のそれだ。真意を隠す意味すらない。 ゆえにこちらは、方針を端的に述べるのみ。 「私はな、どちらでもよいのだよ。事の真偽が是であれ、否であれ、人は死ぬべきときに死んでいく。他者から殺意を抱かれるに足る人生を歩んだ者が、日常において命を危うくするのは自明だろう」 「今回の騒ぎが卿の手によるものかどうかなど問題ではない。殺されやすい人間が殺されかけた。ただそれだけの、くだらん事実だ」 「ならば私が、ここで何を言おうと意味などないとあなたは仰る?」 「言ったであろう、非常に殺されやすい御仁なのだ、あの方は」 政敵、外敵は言うに及ばない。その存在そのものが、テロリストを生み出す最大の温床なのだ。 死んでほしいと願うものなど国の単位で揃っている。真実の有無など気にしていては、検挙など成り立つはずもない。 「ゆえに、卿が無実の罪で処刑されたからといって、いわゆる真犯人というものを逃した危険、今後それにかかずらう手間などは大海の一滴だ。問題にもならん。千の敵からたった一人を消せるか消せぬか、そんな些事に拘泥するほど私は暇でも酔狂でもない」 「疑わしきは罰せ……陳腐ですまぬが、このゲシュタポはそういう条理で成り立っている」 よって、おまえの命もただそれだけの価値に過ぎない。 無情にもそう告げられた相手は、しかしこの期に及んでも恐れる仕草の一切がない。 ただこちらの語り口を、声を、立ち振る舞いを、興味深そうに眺めている。 ……値踏みか? いや、それは違う。 そういうありきたりの目ではない。もっと別の、覗き込むようなものだ。 あえて言うのなら、研究者の視線が最も近い。 顕微鏡を用い、肉眼では確認できない対象を事細かに観察する者の瞳。四六時中、化学兵器の研究を続けていた白服達を思い出す。 この男は、まだ自分が死なぬとでも思っているのだろうか。 余裕さえあるのか、今では苦笑を湛えつつ小首を傾げてすらいる。 「なるほど、あなたは正しく噂どおりの御方らしい。……が、一つだけよろしいか?」 「許そう。何かな?」 「私をここから外に出して、何をさせようと考えている?」 問い返された言葉に、一瞬だけ驚愕する。明らかに命を奪うと言っている相手に対して、穏当な発言と言えなかったが、問題はそこではない。 「……? これはまた、異な事を言う男だな。卿は私の話を聞いていたか?」 「もちろん。無駄を厭うあなたが、真偽に関係なく処刑されるのみであった詐欺師風情のもとに訪れ、あまつさえ死にたいかなどと問いを投げる」 「先ほどのお話を逆説的に考えれば、たとえ真犯人を釈放することになっても構わぬと……そう仰っていたように聞こえるが」 「さて、これは私の読み違えなのですかな、首切り役人殿?」 「…………」 黙したまま視線を交わす。 なるほど。 これは確かに魔術師だ。弁が立ち、頭の回転が速い詐欺師はそう呼ばれるに違いない。 何を考えているか読ませず、こちらが含んでいる言葉だけを突いてくる。 変人で異端者であろうが、無能というわけでは決してない。 「ふっ……」 「面白い、どうやら想像以上に切れるようだ。……いや、今のはこちらの程度が低かったというだけの話かな」 「認めよう、卿の言う通りだ魔術師殿。ただあえて訂正するなら、私がどうこうしようと考えているのではない」 言い放ち、持ち込んでいた書類を眼前へかざす。書かれているのは馬鹿馬鹿しい〈謀〉《はかりごと》の一環で、高官による遊びの延長とも呼べるもの。 「取引だ。ここで死ぬか、〈傀儡〉《かいらい》として命を繋ぐか……どちらもまあ、結果的にはたいして変わらん」 自由意志は消える。これを呑めば己の一挙手一投足、残らず他人の意が決定付けることになるのだから。 「これは……宣伝省。プロパガンダというやつですか」 「宰相殿はこの手のことに抜け目がなくてな。掃いて捨てるほどいる敵の一人二人を特定するより、それほどまでに狙われている総統閣下が、今回生き残ったという事実のみを利用する気だ。つまり、卿の占術による預言でな」 理解の及ばない範疇だと、言外に吐き捨てた。 「諸世紀、ノストラダムス。どうやら帝都の御婦人方は、今こういったものに興味を示しているらしい。そして世論などというものは、煎じ詰めるところ女子供だ」 「我々は勝つ。総統閣下は不死身である。先の大戦における敗北を払拭し、戦意を鼓舞するためにノストラダムスが必要だと……まあ、掻い摘んで言えばそんなところだ」 返答を待たずに牢を開けた。 生か死か。どちらを選ぼうとも、ここから出なければどちらもできん。 荒事に向かないのはその骨格が証明している。たとえ筋骨隆々な体躯であろうと、この状況で逃れることは不可能だ。 容易く屈服できる。逃したことなど、今まで一度もない。 「さて、どうするね魔術師殿。鍵は開けたし、枷もない。このまま檻から出ると言うなら死は免れるが、それは同時に意志を奪われ、軍の狗になるということ」 「言ったように、私はどちらでも構わない。ここで殺してやったほうがあるいは慈悲とも考えたゆえ、公正を期して選択の場を与えたわけだが」 どの口で言うのか、その公正な選択という言葉から最も外れた存在が。どの道であろうと、結局は屈服させるのに代わりがない。 肉体の死か、精神の死か。どちらにせよ悪魔の選択と言える。そして淡々と自分はそれを成すのだろう。 鬱屈している感情すら諦観で壊死している。 何一つ胸を焦がすものもなく、ただ流れ作業のように感じながら、どちらを選ぶか待っていたところへ…… 「あなたは……あなたはなぜそのような、満たされぬ目をしておられるのか」 返答は選択ではなく、更なる問い。純朴な子供が尋ねるかのように、魔術師は問うてきた。 「なに……?」 瞬間、掴まれたのは、胸の内の何だったか。 本質? 澱み? 分からないし知りえない。感じたこともないのだから、ただ鸚鵡返しに眉を顰めるだけだろう。 その様を見て、カール・クラフトは大げさに嘆く。 大仰に、演劇の役者にでもなったかの如く痛ましげに視線を伏せる。 なんということか、などと言わんばかりの芝居がかった挙措。 鼻につく仕草で、しかし心の底から感じているかのように、深海の瞳がこちらを見ていた。 「ゲッベルス卿の決定すら、場合によっては覆す。いや、それだけではない。ゲシュタポの長であるあなたがその気になれば、総統閣下御本人すら容易に追い込み、破滅させることができるだろう」 「その若さで、それだけの地位と権力、才気を有し、世界に覇を唱える帝国の暗部を掌握した黒太子……男子たらば、皆があなたのようになりたかろう」 「髑髏を背負った貴公子殿は、しかしなぜか、つまらぬ遊びに落胆した幼子のように鬱屈しているご様子だ」 「…………」 だからその言葉に、驚かなかったと言えば嘘になろう。 胸の内を当てられたことにではない。 他者に生じている感想を、本人すら形容できなかった感覚に、そうであると断定できたことが、ただ…… 「気になる。あなたは興味深い」 牢から出る、けれど魔術師の声は止まらない。 朗々と、訥々と、淡々と。感情をこめて、けれど不意に、されど絶対だと、天上の世界まで歌い上げる楽師のように。 詐欺師の声は歌う。得体の知れない怪物へと、人の皮を捨て一枚一枚脱皮するかのように……ゆっくりと。 「その渇き、飢餓の心、何処から来て何処へ行く? あなたは何を求めて惑っている?」 世迷い事だと、そう切り捨てるべき言葉が毒となり染み通る。 にたりと、微笑しながらかけられたのは端的な問いで。 当然、私は個人としても立場としても、それに答える義理は無く。 「……訊いているのは、私のほうだったはずだがな。それにそもそも、卿の命は……」 「どうでもいい――あなたはそう仰ったが、それはこちらも同じなのだよ」 「死ぬも生きるも、私に選択などという概念は意味を成さない。この国には狂気が渦巻いていたゆえ、戯れで一石投じたまでのこと」 「そして、どうやら無駄ではなかったらしい。なかなか面白い人物と出会えたものだよ。……いや、またしてもと言うべきで、本来なら失望するべき事態なのだが」 言いながら、私を見る、目。そこに宿った感情は明白で、しかしそれだけに理解し難い異常だった。 「不思議だな。私はあなたと再びこうしてまみえたことに、なぜか安堵をしているらしい。非常に珍しく、稀有なことだ」 懐かしい、と。 この男は、今このときに郷愁めいた想いを抱いている。 どこまでも意味不明でありながら、そこに込められた奇妙なまでの真摯さに、少なからず圧倒された。 結局私に出来たことは、ごく当たり前な反駁でしかなく…… 「……何を言っている? 私と卿は初対面だ」 「ああ、そう、確かに仰る通り。詐欺師風情の世迷い言に、惑わされる御方でもありますまい。件のこと、了承しましょう。ノストラダムスになれと言うなら喜んで。事実あれも、また私だ」 「…………」 「どうされました? こうして檻から出たのですから、ゲッベルス卿なりヒムラー卿なり、好きな所へ連れて行かれるがよろしい」 肩をすくめて笑う男は、最初の印象と同じく現実味の薄い映像のような感がある。 押し寄せてくる違和感の悉くを無視したまま、胸に〈蟠〉《わだかま》っていた言葉を吐き出す。 「卿は……卿は、詐欺師などではないな」 「ほう、ではなんと?」 「誇大妄想狂だ。さぞかし世の中が楽しかろうよ」 つまりこの男の一挙一動、まともに取り合うべきではないということ。今さらながらそう結論付け、踵を返した。 「ともあれ、ついてくるがいい。不遜な男だが、並みの奇矯者でないのもよく分かった。それだけ頭と口がよく回れば、狗でもなんでもやりおおすだろう」 そして私は、私の務めを果たすのみだと弁えている。 ゆえ、続く言葉は決まっていた。 「ただし、肝に銘じておけよ」 「卿が国家に害を成すと判断すれば、たとえ総統閣下が何を言おうとその首を胴から飛ばす。私はな、嘘と出来ぬことは言わぬ〈性質〉《タチ》だ」 「覚えておきましょう。ご忠告、痛み入る。そして中将殿、あなたはこの国を愛しておられる御様子だが」 「それがなんだ? ゲシュタポは帝国の番兵であり、私をそれを指揮する者。国を慈しまなければやれるまい」 「ふむ、いやなるほど。あなたの病理はどうもその辺りにありそうだ」 「文武、容姿、すべてに秀で、強固な意志をも持っておられる。さぞかし世の御婦人方に騒がれているとお見受けするが、ご内儀も大変でしょうな」 「くだらんことを。女はしょせん駄菓子にすぎん。欲しいときに幾らでも転がっている物の一つ一つになど、私はいちいち拘らん」 「それはそれは、羨ましい」 慇懃無礼な社交辞令に鼻を鳴らす。追従など聞き飽きている身であったが、それでもこの男に羨ましがられるというのは、言い難い奇妙さがあった。 「卿はどうだ? その性格に、好きこのんで付き合える女がいるとは思えんが」 「確かに。ご明察どおりそうですが、私はたった一人をこちらから追いかけるのが好きでしてね」 「ただ、そう易々と逢える相手ではありませんので。拝顔の栄に浴するためにも、色々と骨を折るのが最近の趣味になっております」 「……そうか。理解できんし、その女に同情する」 「卿のような男に見初められ、付き纏われては人生の破滅だろう。人の趣味にはとやかく言わんが、変質的な恋情もほどほどにしておけよ。軍属が起こすそういった醜聞も、私の職務対象になる」 「心得ました。重ねて、ご忠告痛み入る」 「さて、なにやら年甲斐もなく胸が躍って参りますな。まったくこの国は面白い」 「なにせ、最初に知り合った御仁からして大当たりだ。他にはいったいどんな者が、どれくらい、どこに隠れているのやら。ああ、それを探るだけでも、しばらく退屈せずにすみそうです」 「おそらくは軍の末端、ないし、それですらない最下層の貧民棄民……髑髏の底辺には、さぞかし歪な者らが集まっていることでしょう」 「今後、もしそうした者らを捕らえた場合、よければ是非御一報願いたい」 まるでそのような者らがいるのは必然で、私がそれに関わることも必然であるかのような言い草だが、さして否定することでもない。現在の国情と私の立場を鑑みれば、確かに率は高かろう。 早くも預言者の真似事というわけか。まあよい。 「考えておこう。卿の口舌に付き合わされるのは、ある種の拷問に相当する。殺意が湧くほど恨まれることになろうが、どうせ卿はそんなことなど気にもするまい」 言い捨てて、獄舎を出る。あとはこの男を宣伝省に護送すれば務めは終わりだ。 これがゲッベルスの手に負えるかどうかなど知ったことではない。 「では行くぞ。宰相殿は勘気なうえに狭量だ。今の調子で図に乗っていると、早晩ここに送り返される羽目になる」 「それはそれで、私としても特に不満はないのですがね」 「だから、その軽口を慎むべきだと言っているのだ」 「ところで中将殿、一つお聞きしてもよろしいか?」 「なんだ?」 「なぜ、ついてくるのです? 部下に任せればよいでしょうに」 「知れたこと。私には責任がある。それを果たしているだけのことで、他意はない」 「なるほど、ふふふ……」 「何がおかしい?」 「いえいえ、ただなんとなく、祝杯をあげたい気分になったもので」 「願わくは、いつかあなたと乾杯したいと思うのですが、いかがかな?」 「そんな日が、もし本当に訪れるというのなら考えておこう」 「訪れますとも」  そう、きっと近いうちに。  この大戦の果て、あなたが何を思い何を求めるようになるかが分かるまで。  今はただ、眼前にある美酒の蓋を開けることなく、その味を想像し、楽しむことにいたしましょう。  この先すぐにも、無限に味わえることになるだろうから。 1939年、12月25日―― その日、始まりはさして珍しくもない捕り物の一つに過ぎなかった。 「はッ、はッ、はッ、はッ―――」 追われる男は苛立っていた。息を荒げながら駆ける様は人のそれと言うよりも、野獣の様相を呈している。 「いたぞ、あそこだッ」 「――チィッ、こっちもか」 「クソがッ、しつけえ!」 銃火を掻い潜りながら罵声を吐くが、しかし男は己を狩られる側と思っていない。彼にそういう思考は欠落しており―― 「逃がすな、追え! 国家反逆の危険分子だ、殺して構わん!」 「――はッ、国家反逆、だぁ?」 「なに吹いてやがる、軍属の狗が――よォッ」 逃げるという概念も持ち合わせない。追っ手を纏めて叩きのめせる機を狙っていただけであり、まんまと誘い込まれた警官たちは軒並み男の餌食となった。 「はン、ったくワケ分かんねえなぁ。そりゃ俺も色々とやったがよ、てめえらゲシュタポにしょっ引かれる覚えはねえぞ」 如何に不意を突いたとはいえ、異様なまでに効率の良い迎撃の手際だった。それだけで、男が暴力の天稟を有しているのは一目瞭然。慣れており、躊躇がなく、他者を害することに罪悪感を抱いていない。 色々やったと言った通り、相当の悪行を積んできたのは間違いないと言えるだろう。だが今回追われたことについて、男は不満があるようだ。 「国家反逆ってなぁ、もしかしてアレか? 近頃どこぞの高官サマが、コナかけた玩具に殺されかけただのなんだの……名前は、確かディルレワンガーとか言ったっけか」 「ボケが、それは俺じゃねえよ。掘ったり掘られたりが趣味の変態ジジイなんざお呼びじゃねえ。つまらん人違いで随分追い掛け回してくれたじゃねえか、なあッ」 「ぅ……ぁッ」 苛立ちに任せて足元の警官を蹴り上げると、苦しげな〈喘鳴〉《ぜんめい》が返ってきた。それに男は、一転して表情を綻ばせる。 「おお、なんだてめえ、まだ生きてんのかよ、凄ぇ凄ぇ。さすが軍人さんは丈夫だねえ。んじゃ、こりゃご褒美だ」 「噂じゃあ、てめえらの頭は血も涙もねえっていうじゃねえか。なら、どうせ戻ったところでよ、結果的には同じだわなぁ」 拾い上げた銃を警官の顎に押し付け、にこやかに語りかける。涙を浮かべて命乞いをしている相手のことなど、男は屑ほどにも頓着していない。 ただ白々しく、陽気な声で死刑宣告をするだけだった。 「あばよ、えーっと、大尉殿? 仕事で下手打って首切られるより、殉死なら特進もあるんだろ? それならガキと女房の今後は安泰だ」 「グーテ・ナハト。バイバイサヨナラおやすみとっつぁん」 呆気なく引き金を引いてから、それきり哀れな警官のことなど忘れたかのように、男は溜息混じりに立ち上がった。 「……ふん、しかしまあ、いい迷惑だぜ。どこの阿呆がやりやがったのか知らねえが、この先また間違えられても敵わねえ。こりゃいっそのこと、俺がそいつを殺っちまったほうがいいのかねえ」 が――そのとき。 「……あん?」 「……おいおい」 そう遠くない何処かから、風に乗って聴こえる悲鳴と苦鳴、断末魔……男は苦笑し、次いで凶暴な光を目に宿す。 「噂をすれば……てやつなのか? こりゃ随分とまた、ご機嫌な馬鹿が近くにいるみてえだが」 「面白ぇ、この俺につまらん火の粉飛ばしやがったツケ、今すぐ払ってもらおうじゃねえか」 そして…… 「Haenschen klein ging allein in die weite Welt hinein.Stock und Hut steht ihm gut, ist ganz wohlgemut,Aber Mutter weinet sehr, hat ja nun kein Haenschen mehr.Wuensch dir Glueck, sagt ihr Blick,」  辿り着いたその場所は、血塗れの泥沼と化していた。横たわっている死者の数は、多数としか形容できない。正確に分からないのだ。  なぜなら、一人残らずバラバラにされている。今このときも解体され、もとは人間であったはずの肉塊が増えていく。  それを成しているのは、一人の少女だ。陽気に歌を口ずさみながら、およそ凄惨という表現が生易しい残虐行為を淡々と作業的に繰り返している。  その光景……常人ならば卒倒し、音と臭気だけでも嘔吐するのは間違いない有様だったが、男は僅かに眉を顰めただけだった。不快に感じているのは確かだろうが、それは殺戮そのものに対してではない。  この程度のことなら自分とて数限りなくやっている。気に食わないのは、自分以外の誰かが偉そうにそんな真似をやっているのが癪に障るという、社会常識からズレた自己中心思考。  つまり、俺と被るなよ生意気だ。  それが今、男の胸にある憤りの理屈だった。  ゆえに…… 「よぉ」 「あぁ、その、なんだ。お楽しみのところ悪ぃんだけどよ、ちっとばかりてめえに聞きたいことがあるんだわ」 言葉だけは友好的に、笑みを浮かべながら話しかける。鬼畜というものは獲物を前に、返ってリラックスしているものだ。殺意に躊躇がないのだから、ノリとしては飲み食いすることと変わらない。 「つーわけで、とりあえずこっち向きな。てめえの親父は、礼儀云々を教えちゃくれなかったのかい?」 問いに、呼ばれた少女は振り向いて…… 「……親父?」 「おおよ、クソ外道のイカレ小娘でも、木の股から産まれたわけじゃあるめえが。まあ、犬っころから産まれた可能性ならありそうだけどよ」 「……ああ、犬ね。そういえば、ヤギとかロバとかを可愛がってた親父だったね」 「へえ、そりゃいい趣味で」 「うん。だからたぶん、僕も人間じゃないんだよ」 こちらも同じく、まったくの自然体で微笑み返した。その点、確かに彼らは同種だと言えるのだろう。 少女は親愛のこもった目で男を見つめ、ドレスの裾に手をやると、淑女が一礼するかのように優雅な所作で、スカートを捲り上げた。 「それから、小娘でもないんだなお兄さん。僕は人間じゃなくて、オスでもメスでもないのさ、ほら」 そこに現れた光景、状況……少女と思われたモノの肉体は、少女どころか人のあるべきカタチから逸脱したものであり…… 誰もが目を背けるだろうそれを前に、しかし男は鼻で笑っただけだった。 「ヒュ~、なんだおまえ、面白ぇ身体してやがんなぁ。抉られちまったのか、その穴っぽこはよ」 「そうみたいだねえ、もう覚えてないけど」 痛ましいだの、気持ち悪いだの、そんな感慨は双方共に持ち得ない。よくあることだと言わんばかりの男を前に、少女に擬態したモノは毒婦の媚態を示して見せた。 「目障りなんだよ、てめえ。俺と似たような髪の色しやがってパチモン野郎」 「お陰でいい迷惑だ。邪魔くせえから逝っとけ、ガキ」 「――――ッ」 ごく当たり前に構えた銃で、威嚇もなしにいきなり発砲。轟音と同時に細い体躯は吹き飛んで、短い苦鳴と共に血塗れの路地へと転がった。 それを見届け、男は軽く肩をすくめる。先の警官たちを殺したときと同様に、殺人行為をやった瞬間に忘れたような態度だった。 「ったく、しょうもねえ。近頃アホばっかり増えやがるぜ。こんな日はさっさと帰って――」 酒でも飲んで寝るにかぎる。そうぼやきながら踵を返した、そのときに―― 「―――うォッ」 不意に背後から、唸りをあげて襲い来る投擲物。反射的に身をよじって躱したのは、先ほどまで少女が犠牲者たちを解体していた鉈だった。 つまり、それが飛来してきたということは…… 「……なに、するんだよ、いきなり」 「………ッ!?」 撃たれた少女が立ち上がる。先の銃撃を躱したわけでも、男が狙いを外したわけでも断じてない。 確実に、命中している。一撃で絶命させるような急所に当たったわけではないようだが、それでもこれは有り得ない反撃だった。 「撃ったね。僕を撃ったね。殺そうとしたね。つまり殺されてもいいんだね」 「僕は死なないし殺されない。男でも女でもないんだから子供も産めないし孕ませないし一代で終わるってことはつまり完成してるってことなんだよだって下等な生き物ほどうじゃうじゃガキを産むじゃないかそれをしないってことはねえ、ねぇわかるでしょ――」 「僕は死なない! 不死身なんだ、殺されてたまるかァッ!」 壊れた理屈を吐き散らし、泣き喚くように絶叫する様はまさに怪物。思考回路がすでに人間のものではなく、それに引きずられるかのように体機能までが常軌を逸したものへと変わっているのだ。 「イイイイィィィヤッハアアァァァァァッ―――!」 「なッ……んだよてめえはァッ!」 銃を持つ相手に対し、何の警戒もせず真正面から飛び込んでくるなど狂っている。錯乱した者特有の蛮行だと片付けるのは簡単だが、これはそんなものではない。 自分は死なない。死ぬはずがない。全身全霊、魂の果てまでそう狂信している。襲い掛かる嵐のような重圧は、すでに質量さえ伴っているかのようだった。 「ギッ、――グッ、ガアッ!」 二発、三発、続けて銃弾は命中したが、その程度で少女の信仰は揺るがない。そして荒ぶる凶念は、魔的な奇跡を当たり前のように引き起こす。 「――ぐおおォッ」 都合四発の銃弾を受けながらも間合いに入った少女の蹴りが、倍近い体重はあろう男の身体を吹き飛ばした。これもやはり、常人の筋力を超越した所業だろう。 身体から噴水のように血を噴きながら、けたたましく笑う少女。 その狂態を睨みつけ、男は瓦礫の山を押しのけつつ身を起こして吐き捨てた。 「くそったれがァ、なんだこのガキ。イカレてんのにもほどがあるだろ」 「撃ったんだぞ、あたったんだぞ、なんで倒れねえんだ、ありえねえだろ」 「アハハ、アハハハハ……痛い、痛いよ血が出てる。銃で撃たれたのなんか久しぶりだァッ」 「ねえお兄さん、でもキミは下手糞だねえ。度胸があるだけで、射撃の腕はド素人だ」 「これ以上そんなものに頼ってると、次でその首、ねじ切っちゃうよぉ」 「…………」 侮蔑と賞賛入り混じった少女の言に、男は眉を顰めて低く呻く。形だけ見れば、先の攻防において不覚を取ったのは彼のほうだが、だからといって男が脆弱なわけではない。 むしろ、これで済んだことを讃えられて然るべきだ。少女の暴圧的な狂気を前に、並の人間なら木偶となって引き金すら引けず、即座に殺されていただろう。 男の胆力と状況に対する即応性。人間に躊躇なく発砲することの善悪はともかくとして、果断と言って差し支えないはずだ。事実、身投げじみた特攻を戦法とするこの少女が、撃たれたのは久しぶりと言ったことからもそれは分かる。 この場に転がっている数多の死者が、それすら出来ずに引き裂かれたことを証明している。 だが……しかしだからといって、そんな理屈を男が自身に許すかどうかは別の話だ。 「上等」 「いいギャグ持ってんじゃねえかバケモンが。ぶち殺してやるからかかってきやがれ」 銃を放り投げて立ち上がり、静かな声で手招きする。彼はいま激昂していた。 銃などという、臆病者の武装に頼った自分自身に。 そんな無様を晒させたこの少女に。 許さない。思い知らせる。強いのは俺のほうだと、こちらも人外の域で狂信している獣なのだ。 「うふ、うふふふ……いいな。いいよお兄さん。ノれる感じだ、名前が知りたい」 「これから先も、今夜の興奮をたまに思い出して浸りたいよ。だから、ねえ、ねえ、いいでしょ名前。教えて、教えて、知りたいんだ」 「――く、一人で飛びやがってこのクソが」 同属嫌悪。対抗意識。野獣が野獣に負けるわけには断じていかない。 それは矜持で、そして掟で、外道を歩む者の真理。敗北は死でしかないと、何より理解している二者なのだ。 「ヴィルヘルム・エーレンブルグ。――てめえは?」 「ウォルフガング・シュライバー……名づけの親なんかもういないけど、ねえ、それはたぶんお兄さんもさ」 「ああ、とっくに殺して、燃やしちまったよ」 「アハハハハハ―――いいね、そりゃ最高だッ」 「おお、気が合ったみてえで反吐が出るぜッ」 「うふ、うふふふふふふふふ……」 「はは、ははははははははは……」 牙剥く刹那、漏らした笑いは貴様を喰らい殺すという自負の発露。 無限永劫に不倶戴天。この時代、この帝都に、無敵を謳う人獣は二人もいらない。 その了解は、双方共に本能として持っていたから。 「――引き裂いてやる」  時は1939年、ドイツ、ベルリン―― 「生皮剥いで、僕のベッドに敷いてやるよォ」 「てめえ、教会の十字架にでも串刺してやらァ」 「――いっくぜェェェッ」  運命の大戦に雪崩れ込んでいく髑髏の帝国は、恐怖と狂気と狂騒と、そして混沌という名の炎に彩られた、修羅の〈巷〉《ちまた》と化していた。 『つまり、先のディルレワンガー将軍に関する醜聞を揉み消そうというあなたの意図、及び立場は重々承知しておりますが、その上で一言いわせていただきたい。あたら部下を死地に追いやるのはいかがなものかと。あなたが私の預言、占いを信じておらぬは百も承知のことなれど、親愛なる中将閣下がこのような些事にかかずらうのは見ておれぬと思ったゆえ、勝手ながらご注進したく、こうして手紙などをしたためた次第』 『大恩あるラインハルト・ハイドリヒ殿、私はあなたの栄光と未来を信じております。よって、その御威光とお名前に万が一にも傷がつかぬよう、件の殺人鬼とやら、なんとなればこの身をもって捕らえることも辞さぬ覚悟――どうかその旨、平にご容赦くださいますようお願いしたく』 「愚か者が」  手紙を掌中で握り潰し、ラインハルト・ハイドリヒは席を立った。胸に不快感は渦巻いているが、その表情は小揺るぎもしていない。  唐突に立ち上がって歩き出した上官を前に、傍らの部下が慌てた様子で追従してきた。 「……ッ、これは閣下、いかがなされました、このような時刻に」 「出る。車を用意しろ」 「は、ですがどちらへ?」 「ゲッベルス宰相に会う。部下の手綱も握れんのか、あの男は」 「……ッ、お、お待ちください。宰相殿は今夜、総統閣下の共としてオペラ座へ――」 「またぞろいつものニーベルングか。くだらん。いい加減に飽きるということを知らんらしいな、度し難い」 「閣下、お待ちください、閣下――」  なぜこれほどまでに苛立つのか、自分自身理解できずにラインハルトは歩を進める。背後に追い縋る部下の声を黙殺し、庁舎を出ると待ち構えていた車のドアを開いてシートに深く腰を下ろした。  捨て置いてはきたものの、彼の部下は上官の命を忠実に守ったらしい。個人の気持ちはどうであれ、言われたことはやる。言われたことしか出来ぬ。なるほど自分のような男に似合いの部下だと、そんな感慨を心の片隅で〈嘲〉《わら》いながら。 「出せ」 「は、どちらへ?」 「国立歌劇場――いや、件の反逆者を捕らえようと出た者らは何処だ?」 「それでありましたら、ベルリン大聖堂の近辺かと」 「ではそこへ行け」 「し、しかし閣下、それは――」 「なんだ?」 「い、いえ、了解であります」 「急げよ」 「はっ!」  短く、有無を言わせぬやり取りで運転手に命じたラインハルトは、動き出した車の中で、流れ行く帝都の夜を眺めながら独りごちた。 「…………馬鹿め。あの男、いったい何を考えている」  カール・クラフト。一月ほど前に知り合った奇怪な詐欺師、魔術師。不遜な男……脳裏に浮かぶその顔は常に薄笑みを浮かべていて、何もかも知っていると言わんばかりの態度を崩さぬから気に入らない。  あの男に関わると、自分が自分でなくなるような焦燥を覚える。  それは恐怖のようでいて、しかし違うと断言できた。もっと別の感覚なのだと朧げながら分かっているが、では何かと言われれば言葉に出来ない。  今まで己の人生で、感じたことのないような心理。  それを自分は知りたがっているのだろうか。それともそんなものは錯覚だと、一蹴したいだけなのか。  懊悩に答えは出ず、苛立ちだけが増していく。ゆえに今もこのような、目先の職務を放り投げておよそどうでもよいはずの些事に顔を出そうとしている。  まったくもってらしくない。だがしかし、自分らしいとはどういうことか。  分別を弁えず、自己と世界の関わりに明確な形を見出せない小児のごとき愚挙愚考。  いっそ腹を抱えて己自身を嘲笑えたら痛快だろうが、表情筋は鋼鉄のように固まったまま動かない。もとより正しく笑ったことなど、一度もないような身であるから……  ふと手元に目を落としたラインハルトは、握り潰したまま持ち歩いていた手紙に気付き、再び開いて目を通す。  そこに並べられた活字の列から、あの男の声が聞こえてくるようだった。 『そも、先のポーランド侵攻により戦端が開かれて以来、帝都には複数の凶星が集いつつあります。これは東洋において羅睺、計都と呼ばれ、蝕を起こし日と月を飲み込む災厄の星……此度の件、なかでも強力な一星が深く関わっておりますれば、並みの者では歯が立ちますまい』 『閣下の星は王者のそれゆえ、下の者を使うことこそ本分でありましょう。ですが人材を間違えてはいけません。凶なる相手にはしかるべき部下を。破軍の星を有する者らが、この件に関わらんとしておりますので、彼女らを使ってみるのがよろしいかと存じます』 「…………」  その内容に、疑念を抱く。 「彼女? 私の部下に女はおらぬが」 『加えて、蠍の大火星、および黄道の第四星、これらとの〈縁〉《えにし》もある模様。特に後者は、この先あなたにとってなくてはならぬ影の星ゆえ、〈努〉《ゆめ》お見逃しなきように。親愛なる中将閣下、御身を苛む飢えと乾き、一刻も早くその正体にあなた自身が気付かれますよう、お祈り申し上げておきます。そして願わくは、その目覚めが私にとっても福音となるように。〈恐々謹言〉《きょうきょうきんげん》――カール・エルンスト・クラフト』 『追伸――今あなたは、この手紙の冒頭のみを読んで、憤慨しつつ車中にあるのではないですかな? ご心配なく。あなたがここに来られるまで、私は陰に隠れております。凶星との対峙など、恐ろしくてとてもとても』 「くっ……」  謀られていたことに今さらながら気が付いて、再度手紙を握り潰す。まったく、こんな様で何が帝都の首切り人か。 「とぼけた男だ。どこまでも私を〈嬲〉《なぶ》ってくれる」 「は? 何か仰いましたか、閣下」 「いや、なんでもない。不遜な詐欺師が、なかなか笑わせてくれると思っただけだ。……あの男、いっそ道化師にでもなればよいものを」 「はあ……」 「余所見をするな、早く目的の場所へ連れて行け」 「も、申し訳ありません!」 「ふっ……」  もしくは、己こそがただの道化か。  少なくともあの男を笑わせてはいるのだろうから、その素質はあるのかもしれない。不本意だし、不愉快だが、事実はそのようになっている。  沈思するよう首を傾げ、車窓に目をやるラインハルト。帝都を包む夜の〈静寂〉《しじま》に、降り注ぐような星空が広がっている。  凶星その他、数多の星が集うと言う。それの真偽、実体、諸々皆目不明だが、〈無聊〉《ぶりょう》の慰めにはなるかもしれない。  己の中の飢えとやら、そんなものがもし本当にあるというなら……  よいだろう、私に見せてみるがいい。 「しかし中尉、本当にこんな勝手なことをしていいんですか? そもそもこの件はゲシュタポの仕事なんだし、私達には何の関係もないじゃないですか」 「くだらんことを言うなキルヒアイゼン、貴様の言い分は怠慢の正当化であるうえに的外れだ」 追従しながらぼやきを漏らす部下の顔を、振り返った女将校は冷厳と睨みつけた。並の男を容易く上回るだろう長身で、刃のごとき鋭い威圧を纏っている。 美女の範疇には入るだろうが、優しさ、柔らかさといったものが一切ない。この女性を前にすれば、大概の者は萎縮してしまうだろう。 だが当の部下はといえば呑気なもので、上官の冷たい眼光に晒されながらもとぼけた調子できょとんとしている。大きな目がくるくる動き、華奢な体格も相まって小動物のような印象を与える少女だ。 「はあ、それは確かに怠け癖があるのは認めますけど、的外れっていうのはいったい……」 「国防を司る軍の要職にある者が、こともあろうに穢れた色事で死にかけるなど、銃殺ものの無様だろう。貴様もユーゲントで軍のなんたるかを叩き込まれはずだ。同胞の不始末は?」 「……連帯責任です」 「で、あるなら、私達には関係ない――などというのは寝言であり戯言だ。軍の末席を汚す者として、対岸の火事にはできんだろう。我々が至らぬから、将軍殿の馬鹿を事前に諌めることが出来なかった……とも言える」 「でもぉ、私達は将軍と部署が違いますしぃ……お会いしたこともないのに諌めるも何も……」 「なんだ? 大きい声で言ってみろ」 「ああ、いえいえ、なんでもないです。今日も中尉ったらお綺麗で、このまま社交界に出れば殿方達の熱い視線を一身に集めること間違いなしですよはい!」 「…………」 「……で、それはさておき、今回のことは仰るように軍の恥部ですから、上は揉み消す方向で動いていると思うんですよ」 「なので、下手に突っつくのは危ないんじゃないですかね? ゲシュタポ長官閣下殿は、噂じゃ鉄と氷で出来てるような御方だって、私常々聞いていますし」 「私もそう聞いている」 「だったら」 「付け加えて、非常に聡明かつ実際的な御方だとものな。それならば問題あるまい。きっと我々の意を汲んでくださる」 「……はあ、中尉のそのみなぎる自信は、ほんとに何処からくるんですかね」 「ともかく、そこまで仰るなら逃げずにお供しますけど、そろそろ教えてくれませんか? いったい何処に行く気なんです?」 「レーベンスボルンだ」 短く告げて再び歩き出す上官に、少女ははい?と小首を傾げる。 「んん、レーベンスボルンっていうと、あれですよね。三年前のオリンピックのときに出来たっていう」 「早い話、牧場だな。優秀な男の〈子胤〉《こだね》を欲して、恥を知らん雌犬どもが群がるバビロン――言ってしまえば、立場の逆転した娼館にすぎん」 「あのぉ、なんか凄い毒吐いてますけど、あれはあれでちゃんとした意味があると思いますよ?」 「戦争の弊害として、異民族の血が混じりやすいっていうのがありますからね。私はあんまり気にしませんけど、血統を重んじる思想は慣れ親しんだものじゃないですか」 「中尉の家も、私の家も、そういうものだし。子供の頃からさんざっぱら言われてきたことでしょう。誇りある血と家名を汚すな――とかなんとかって」 「無論、貴種の血統を守り維持することに〈否〉《いや》はない。私が気に入らんのは、それを買おうとする浅ましさだ」 「誇りとはなキルヒアイゼン、受け継ぎ育み伝えるもので、他所から貰ったり、まして売り買いするものでは断じてない。許せんのだよ、そういった厚顔無恥。国家を腐らす奴ばらがな」 「……むぅ、なるほど確かに一理あります。大概の女性が政略結婚なんか御免こうむりたいと思っているのに、自分で玉の輿を選べるとなれば涎をたらして尻尾を振ると……確かに浅ましいですね。ダブルスタンダードです」 「ワケの分からん英語紛いの言葉を遣うな」 「失礼。でもまあ、そういうのを可愛いと思うのが殿方というものですから。結局うまいこと世は回るんですよ。いやあ、私と中尉は、これじゃあ結婚できませんねえ」 「…………」 「で、なんでレーベンスボルンに行くんです?」 問いに、溜息交じりで応じる上官。この部下は、基本として暖簾に腕押しだと骨身にしみているのだろう。それでも律儀に相手をするのは、そういう性格なのか意外に信頼しているのか。 「一人、知り合いがいてな。蛇の道は蛇だ」 「へえ」 「なんだ?」 「いえ、つまり中尉は、お友達が先に結婚するので悔しいと――うぎゃあっ」 相変わらずの減らず口に鉄拳制裁。加減はしているのだろうが、二人の体格差を考慮すれば相当痛手だったはずである。涙目になっている部下を見下ろし、威嚇するような低声で告げる。 「下種の勘繰りだ。友人などではない」 「そ、そうですよね。中尉と友達になれる人なんて、私くらいしか」 「抜かせ馬鹿者。貴様など庭で放し飼いにしている犬にすぎん。図に乗るな」 「わんっ」 「…………」 「さあ、ほら早く行きましょう」 〈渋面〉《じゅうめん》の上官を意に介さず、にこにこ笑って先導するように歩く少女。その背に何事か言いかけるが、結局再々度の溜息をもって決着となった。 どうにも噛み合わない。それでいながら、妙に安定感のある姉妹のような二人だった。 そして…… 「入るぞ」 「久しぶりだなブレンナー、少し痩せたか」 入室するなり開口一番、旧知であるという相手に向けてそう告げる。応じるのは、こちらもまた対照的な、柔らかな微笑を湛えた女性だった。 「あなたこそ、一段と険のある顔つきになったわね、エレオノーレ。相変わらず、疲れる生き方をしているみたいだけど」 「ドイツ女子青年同盟、創立時からの幹部候補生様が、今さら私に何の用? まさか同期のよしみで、婚約のお祝いに駆けつけてくれたわけでもないでしょう」 「当然だ」 ぞんざいに答えてエレオノーレは、手にした書類を卓上に放り投げて言葉を継いだ。 「貴様に聞きたいことがある。此度の一件、正確な場所は分かるか?」 「なぜ私に?」 「貴様らには横の繋がりがあるだろう。未来の夫の行状を調べ上げ、共有し、捨てられぬように予防線を張り巡らす。女というのはそういった、狡すからい計算の生き物だ」 「あなただって女でしょうに」 「それについて議論するつもりはない。知っているのか、知らないのか。協力するのか、しないのか」 完全な詰問口調で、かつある種の敵意を隠しもしない。まるで私はおまえのことが嫌いだと、全身で言っているような態度だった。 そんな応対に慣れているのか、女性は苦笑するだけだったが、随伴した部下の少女は間を取り成すようにおずおずと二人の間へ割って入る。 「あのぉ、中尉……いきなりそんな喧嘩腰じゃあ、通る話も通らないっていうか」 「あら、可愛らしいお嬢さんね。あなたの部下なの?」 「いや、こいつは……」 「はい、私はベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン准尉であります。このたびユーゲントを卒業し、ヴィッテンブルグ中尉の下に配属されました。青春ど真ん中の戦乙女です」 「…………」 「とりあえず、これのことは気にするな。ユーゲントの首席卒業生は少尉に任官するのが通例だが、この体たらくだからな。程度も知れよう」 「首席? そう、優秀なのね、お嬢さん」 「はいぃ、父上と母上も喜んでくれてるんですよぉ」 「キルヒアイゼン」 「なんです?」 「黙れ」 「〈了解〉《ヤボール》」 「……それでブレンナー……おい、貴様何を笑っている」 侮辱されたと取ったのか、エレオノーレの語調は険を帯びたが、それをいなすようにリザは緩やかに手を振った。そして、まるで彼女を祝福するかのようにその笑みを深くする。 「……いえ、ごめんなさい。あなたも何かと大変なようで、羨ましいわ」 「で、さっきの話だけど、確かに知っていると言えば知ってるわね。なぜならここ、どちらかと言えばお客は女性の方だから」 「……?」 「分からないかしら、つまり――」 説明をしかけたところで、傍らのベアトリスが大仰に騒ぎだした。 「え? えぇっ? じゃあこれって要するに――」 「ああなるほど、合点がいった。ますますもって、ここは堕落婦女子の巣窟だな。まさかとは思うが、貴様……」 「誤解しないで。ここには過去の過ちを悔いている子も多いのよ。私はただ、彼女達の悩みを聞いてあげているだけ」 「懺悔すれば許された気になる。屑の駆け込み寺というわけか。……ふん、お似合いだよブレンナー。貴様、男に捨てられたら尼僧にでもなればいい」 「ええ、考えておくわ。それでエレオノーレ、あなたはいったいどうするの? レーベンスボルンを告発して、ゲットー送りにでもする気かしら?」 「そうしてもいいが、より賢明な判断をしてやろう。貴様とて、ハナからそれを条件に、雌犬どもの罪を不問に付させよういう腹だろう」 「まあ、痛めつけても口を割るタマではないし、曲がりなりにも政府高官の婚約者だ。腹立たしいが、丁重に扱うしかあるまい」 「そう、ありがとう。だったら――」 「案内しろ。今すぐにだ」 「ええ、分かったわ。聞いた話だと、今夜そこにはゲシュタポが向かったらしいし」 予想していたよりも深く速いリザの情報に、エレオノーレは顔をしかめながらも頷いてみせる。 「……また面倒な。だが、考えようによっては渡りに船か」 「あのぉ、中尉」 「なんだ?」 「その、彼女も連れて行くんですか? 危ないですよ」 「ああ、貴様はこいつがどういう奴か知らんからな。引っ張っていかんと平気で嘘を教えかねんのさ」 「ちょうどいい機会だキルヒアイゼン、貴様に人生の真理を教授してやる」 「なんでしょう?」 リザと、そしてベアトリスを順繰りに見回して、自分だけは違うと言わんばかりに胸を張りつつ、エレオノーレは断言した。 「女は信用するな――だ」 「ではこの度、ドイツ古代遺産継承局、ウォルフラム・フォン・ジーバス局長の名代として参られたあなたに、件の物をお渡しします。東方正教会、第十七管区司祭、ヴァレリアン・トリファ。あなたとあなたの行く道に、幸と祝福のあらんことを――エイメン」 「――エイメン」 聖堂の中、荘重な声に合わして礼拝する女はしかし、次の瞬間小刻みに肩を震わせ、笑い始めた。 「……うふ、うふふふ、あはははは」 「いや、いやいや、ごめんなさい。どうにもわたし、駄目なのよねこういうの。なんだかこう、神妙な顔で畏まってると可笑しくなっちゃうっていうか、お葬式とかそういうとき、思わず笑っちゃう癖があるのよ」 不謹慎を絵に描いたような表情で、けらけらと愉快げに喉を鳴らす。肉感的な肢体に露出の多い衣装も合わさって、もはや冒涜的と言えるほどの態度だった。 「あー、でも、ありがとうね神父様。無理言って、こんな大事な物をお譲りいただいちゃうなんてさ」 「……いえ、以前ならばいざ知らず、今のアーネンエルベ局はSSに吸収されたわけですから。ひいてはそれが国家のためとなるのでしたら、我々としてもお断りする理由はありません」 応じる神父は、しかし女の不敬を取り立てて咎めなかった。よく言えば清貧な聖者さながら、悪く言えば単に風采のあがらない容貌の男であり、厳格さとは縁遠い。 聞き役としては最上だろうが、他者に何かを促すには些か以上に弱く感じる。気力が削げ落ちたような印象の男だった。 神父の力ない微笑を横目にしながら、女は手の中の小瓶を弄びつつ問いを投げる。 「んー、そんなもん? でもこれ、貰っといて悪いけど、本当に本物なのかな?」 「おそらくは。コンスタンチノープルの僧院に代々隠匿されてきた秘宝だと伺っております。ヴラド・ドラクル公――その人の血液。すでに結晶化した粉ではありますがね」 「闇の〈賜物〉《たまもの》……カズィクル・ベイか。じゃあこれを飲んだら、吸血鬼になれるのかしらね? どう思う?」 「さて、それは分かりません。ですがなんにせよ、我々がこれを持っているとローマに知れたら、〈十字軍〉《クルセイド》が発動しかねない代物です。正直申しまして、個人的には厄介払いができたと思っていますよ」 「そう。じゃあ遠慮なくいただくわね。私もヴァチカンは嫌いだけど、いくらあの連中が野蛮だからって、今のドイツにはおいそれと手を出せないでしょうし」 何せ今や時勢が時勢だ。形式上ヴァチカンは独立国だが、地政的にイタリアとの関係を無視できない。そしてイタリアは、近くドイツと同盟を結ぶだろうと言われている。 であれば、いかに彼らの信仰を脅かす涜神的な遺物であっても、それが今や国家機関と化したアーネンエルベ局にある以上、迂闊な真似はできない。 その事実が愉快で堪らないのだろうか、女はにやにやと邪に笑っていた。まるでローマに恨みを持つ魔女のように。 「ねえ神父様、なんだかとっても気分がいいわ。せっかくですから、今夜はこのまま、わたしと一緒に夜のお散歩にでも出かけませんこと?」 「……いえ、私は」 「正直、あなたにはちょっとだけ興味があるの。上手くは言えないけど、なんだかこう――」 言葉尻を浮かしたまま神父を見つめ、次の瞬間―― 奇妙に空けられた間の中に、神父は何を感じたのだろう。 「…………」 胸を押さえて眉を顰め、額に脂汗を滲ませている。 その様を見て、女はわざとらしいほど大袈裟に驚いてみせた。 「あら、どうしたのかしら神父様。お顔の色が優れないみたいだけど」 「なんでもありません。どうかお気になさらずに」 「ふーん、そう、なるほどねえ」 「……何か?」 「いえ、そういえば、以前に興味深い噂を聞いたことがあったなあっと思ってね」 「なんでも、ルーマニアか何処かの田舎に、神の声を聞ける神父様がいらしゃったとか。噂じゃその方、こういう呪いだか信仰だか分からないような思念が纏わりついた遺物……その探索がすこぶるお上手だったみたいで」 「察するに、今風に言えばサイコメトラー、それともテレパシストってやつかしらね。つまるところ、人や物の記憶と思考が、見える、読める、聞こえてくる」 「羨ましいわ。わたしもこんな仕事をしているとね、その手の高性能レーダーが欲しくなるわよ。ねえ神父様、あなたの知人に、そういう方はいらっしゃいません?」 内面を覗きこんでくるような女の視線から目を逸らし、神父は首を横に振った。 「……さて、どうですかね。私も神に仕えて長いですが、凡夫ゆえに、未だ奇跡の一端を垣間見ることも出来ません」 「それにお話を聞く限り、それはそう素晴らしいものでもないでしょう」 「まあねえ、よくありがちな喩えだけど、自分の周囲縦横に、止められないテレビとラジオがひしめいている状況かもしれないし。いつもそうだと、夜も満足に眠れそうにないからね」 「神父様も、目の下に凄い隈が出来ていらっしゃることですし」 「…………」 「でも、その人は幸運よ。一昔前なら問答無用で火刑台に直行していたような身が、今の時代に生まれたお陰で助かっている」 「そう考えると、彼はこの時代に何らかの存在理由を持って生まれたのかもしれないわね」 「ほう、たとえば?」 「他人に同調しやすいということは、他人になれるかもしれないっていうことよ」 「彼がその力を忌み嫌っているとして、彼の力を心底欲しがっている人がいるとして。利害の一致が成されれば、交換できる可能性は無きにしもあらず」 「交換?」 「分かりやすく言えば、脳外科移植よ。まあ、今の医学じゃ無理だけど」 「脳の回路が、変な方向に繋がっている結果として雑音に苛まれるなら、別人の頭に換えることでそれは消える。――いいえ」 「いっそのこと、魂そのものを抜き出して、身体丸ごと別人のものに宿るとか……うふふ、まるで御伽話ね」 「……ええ、雲を掴むような話です」 「まあ、最後のは冗談よ。わたしもこんなオカルト臭い仕事をしている身だけれど、そんなデタラメが出来る人も、それを可能にする方法も、まるで聞いたことがないんだから」 「文字通り、絵空事ですか」 「そう。ところで、ねえ神父様、結局最初のお話に戻るんだけれど」 先ほどまでの、どこか底知れない隠秘さは消え去って、まるで少女のような明るい笑みで女は神父のほうへ振り返った。 その変わり身に、苦笑が漏れる。何を考えているのかは、彼ならずとも一目瞭然というものだろう。 「夜のお散歩……ですか?」 「ええ。付き合ってくださらない?」 「…………」 「分かりました。断ると、何か根も葉もない噂を流されそうな気がしますので」 「あはは、やーねー。そんなこと、するに決まってるじゃない」 言って、女は身を翻すと礼拝堂の外に出る。開いた扉の向こうには、クリスマスのベルリンが広がっていた。 「さあ、ほら行きましょ神父様。今夜は星が綺麗だわ」 「ええ、本当に……吸い込まれそうな夜空です」 続いて戸外に出た神父もまた、空を見上げて感嘆とも憂いともつかない声を漏らす。 「私はね、思うのですよ。この空も、この星も、世界を余さず包んでいるのに、なぜ人は争わずにいられないのかと……」 「もし叶うのなら、この戦争を人類最後のものにしたいと……そう願うのは、滑稽ですかね?」 「さあ? でも、あなたの望みを叶える方法があるとするなら、きっと一つね」 それはいったい、と目で問う神父に、女は悪戯っぽく笑いながら、しかしぞっとするほど醒めた声でこう告げた。 「この戦争が、永遠に終わらなければいい。そういうことよ、神父様」  そうして――  帝都に散らばる星々は、今宵運命の邂逅を果たす。  意識せずとも、抗おうとも、それは定められたうねりに沿って導かれ――  今宵、この時、この場所で、出会うことは一つの必然。  よって…… 「中尉、中尉待ってください。走るの早いです。メチャクチャです!」 「甘ったれるなキルヒアイゼン。貴様、民間人より足が遅いとはどういうことだ」 「しょうがないでしょ、だってあの子じゃ……」 「歩幅がっ、歩幅が違うんですよぉ、だって二人とも背が高ぇぇっ!」 「ふん、ふふん、ふん、ふん、ふ~ん……♪ ねえねえ、ほら見て神父様、こうしているとわたしって、ドヴォルザークの歌劇に出てくる、妖精みたいに見えません?」 「……とりあえず、妙齢の女性が噴水の中ではしゃぐような真似はお止めなさい。みっともないですよ」  真実、今この時こそが、私にとっての転換期となるだろう。  なぜなら…… 「ここにいたか、道化師が。随分とまた、手の込んだうえにふざけた呼び出しをかけてくれたな」  彼と、彼が率いることになろう〈軍団〉《レギオン》……その始まりが、今なのだから。 「やあ、ようこそお出でくださいました、ハイドリヒ中将閣下。席はすでに取ってあります。共に観覧いたしましょう」 「……なに?」  そう、ではこれより―― 「――ぬっ?」 「ええっ?」 「ちょっと」 「これは……」 「なんともまた」 「おかしなことになってるじゃなぁい」 今宵の〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めよう。 「中尉……これはどういうことです?」 やって来たその場所で、狙い済ましたかのように発生した災禍を前にベアトリスは瞠目する。まるで悪い夢でも見ているようだ。 自分たちは犯罪者を追ってきた。ゆえにある意味望むところと言うべきだろうが、凶事の桁が予想を遙かに上回っている。 まさか人と人との戦いで、車が木っ端屑のように吹き飛んで炎上するなど有り得ないし…… そもそもなぜ凶族が二人いて、その者たちが争っているというのか。 そんな彼女の困惑を、だがエレオノーレは変わらぬ鉄面皮のまま一蹴した。 「さてな。だが見ろキルヒアイゼン。貴様はあれが誰か分かるか?」 「え、誰って……」 上官が顎で示したその先には、漆黒の第一種軍装に身を包んだ長身の男と、もう一人…… 遠目にも、ひどく端正な男たちであると判別できるが、感じる印象はまったく違い、また奇妙なほど似通っていた。 巧く言葉に出来ないが、まるで絵本の登場人物を見るかのようで……わけもなく背筋を悪寒が駆け上ってくる。 あれはいったい…… 「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ中将。――彼がゲシュタポ長官閣下殿よ」 「ちょ、ほ、本当ですか?」 「ああ、そしてその隣にいるのはおそらく……」 あの影絵のような細い男は……なんだ? 確かに視認しているはずなのに、〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈か〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈容〉《 、》〈貌〉《 、》〈を〉《 、》〈認〉《 、》〈識〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「……誰です?」 「いや、それはいい。ともかく、事情は知らんがここに中将閣下がおられる以上、やるべきことは一つだろう」 「狂った賊から、閣下の御身柄を護らねばならん。見る限り、ここに居合わせた軍卒は貴様と私の二人のみ。であれば、ゲシュタポの仕事に介入した越権行為にも大儀が立つ」 そう、確かにその通りだ。この状況にも呑まれることなく、己が道を然と告げるエレオノーレに敬意を抱き、ベアトリスは頷いた。 「ですね。あの暴れてる二人、誰だか知りませんが危なすぎます」 「ふん、生意気にも一端に鼻が利くか。ならばついでに教えてやる。ああいった手合いには、銃よりもこいつだ」 珍しく、本当に珍しく微笑んだエレオノーレは、部下の覚悟を褒め称えるように腰から剣を抜き放ち―― 「叩き斬り、突き刺して、痛みと恐怖を植えつける。銃とはな、キルヒアイゼン、向けられても存外に怖くないものなのだよ」 「はいっ」 見敵必殺――これより修羅に入ると宣言する。その凛々しく勇ましい騎士の戦意に、ベアトリスもまた恐怖を忘れて奮い立った。 「ときに貴様、実戦は初めてか?」 「はい、でも大丈夫です」 あなたが共にいてくれるなら、あなたと共に戦えるなら、何も怖くない。迷わない。 軍務に就いたそのときから、祖国のため民のため、血と栄光と勝利に剣を捧げると決めている。 「そう願いたいな。私の家も、貴様の家も、本を正せば騎士階級。武門に生まれた以上、殺すことも殺されることも躊躇は無用。――いくぞッ!」 「はい――リザさん、あなたは隠れていてください!」 叫んで、地を蹴ったベアトリスは、台風のごとく暴威を撒き散らす賊のもとへ迅雷の速度で割って入った。 「おおおぉぉぉッ!」 「あァッ?」 初撃は弾かれ、返礼の一撃を剣の腹で受け止めた。その衝撃に軽量のベアトリスは危うく吹き飛びかけるものの、軍靴で石畳を掴むようにしながら踏み止まる。 なんて獰悪、猛烈な力――人と打ち合った気がまるでしない。 「なんだァてめえ、何処から湧いて出やがった」 白貌に埋め込まれた赤い瞳が、鬼火のように燃えながら抉るような眼光を放っている。信じ難いことに、相手は素手だ。徒手空拳で、こちらの剣撃を撥ね返している。 吹き付けてくる血臭と獣臭――これはもはや人じゃない。たった一合交わしただけで、この男が常軌を逸した殺人者であることをベアトリスは理解した。 そして、それだけに退いてはならない。外道に屈する〈騎士道〉《けん》などあってはならぬと信じている。 「そこな凶賊、大人しく縛につきなさい。私はベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン――抵抗するなら、手足の一・二本は叩き落す!」 凛冽な覇気をもって喝破するも、しかし男は一瞬呆けたように目を丸くして、次に肩を震わせ口を歪め、全身からどす黒い念を発しながら笑いだし―― 「くっ……」 「くは、かははははは」 「言うねえ、こりゃ面白ぇ。貴族の嬢ちゃんが勇ましいこった」 「んな細っけえ身体でよぉ、俺とやれるとでも思ってんのかァッ! 組み敷いて串刺してよがらせて、喚かせて叫ばせて屑みてえにバラ撒いてやらァッ!」 爛れた殺意が雪崩のように襲い掛かってきた。 その暴凶に鼻が歪み、目が眩む。呼吸が出来ない手足が痺れる。こんな男が存在することに自己の世界観が軋みをあげる。 ゆえに、結論――これは許されざる害悪だ。 そう断じる心に否はない。 「……ッ、なんて下種……おまえには、救いがない」 「おお、そんなもんは生まれてこの方、ただの一遍だって感じたこたァありゃしねえよ」 「おら、来なよ嬢ちゃん。人の喧嘩にアホな横槍入れやがって。そういう真似すりゃ、どんな目に遭うか教えてやるよ」 「言われなくても……」 手招きする殺人鬼へ、ベアトリスは剣を構え直し一歩踏み出す。 己は軍人――ならば守らねばならぬものがあるから。 「教えてやるのは、こっちの方だっ!」 怒号と共に、全身全霊の刺突を放った。 弾かれ、躱し、また打ち返し、初の真剣勝負は一瞬にして、後戻りの効かない命の取り合いへと駆け上がっていく。 自分は絶対、暴威に呑まれて己の道を見失わないと誓いながら。 そして、一方―― 「あーあー、なんだよつまんない。せっかく盛り上がりかけてたのに、これじゃあ消化不良もいいとこじゃないか」 もう片方のところへは、もう片方の戦姫が静かに向かっていた。 「おい――」 「貴様、何だ?」 「ん?」 彼女はベアトリスのように激していない。冷静、かつ冷厳に、目の前の存在を推し量るべく氷の眼光を向けている。 如何にして振舞えば、この壊人を効率よく切り刻めるかを吟味するように。 「男か? 女か? 性はどちらだ? 何者だ?」 これが見た目通りの華奢な少女でないことくらい百も承知。匂い立つ腐臭の渦は、さながら血霧で編まれたドレスのように、これの全身を隙間なく覆っているのだ。 憎悪、怨念、憤怒の混沌……無垢な笑顔は薄皮一枚。それを剥ぎ取ったすぐ下には、筆舌に尽くしがたい狂い屋の本性がどろどろに沸騰しながら猛っているのを感じ取れる。 殺した数でいうならば、これはおそらくもう一人の男の数倍を超えるだろう。真に危険なのはこちらのほうだと、エレオノーレは理解していた。 ゆえに――― 「どっちでもないよ。見るかい? ――ほら」 捲り上げられたスカートの奥、そこに広がる虚無を前にしてもエレオノーレは平静だった。ああ、大方そんなろくでもない背景だろうと、向かい合った瞬間からとうに予想できている。 「だから、お姉さんがどっちでも愛してあげるよ。どうする?」 「……なるほど、つまらん哲学を持っているようだな。汚らわしい」 そして、予想通りだったからこそ許し難いのだ。 「エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグだ。かかってこい狂犬。帝都を腐らす蛆虫め、斬り殺した後、〈燻蒸消毒〉《くんじょうしょうどく》してくれる」 帝都の闇が生んだ魔窟の落とし子……このようなモノが生まれた背景、断じて見逃すわけにはいかない。 先の大戦で祖国は敗れ、ゆえに負け犬どもが〈雲霞〉《うんか》のごとく湧いている。その病根ごと滅却し、勝利の光で闇を吹き消す。 それが自分の――帝国騎士としての務めであると定めているのだ。 「あは、ははは……殺す? 殺す? 僕を殺す?」 「またそうやって、出来ないこと言う奴がさ……」 「嫌いなんだよおおォォッ! 誰が誰を殺すんだ言ってみろおおォォッ!」 「私が、貴様をだ――思い知れッ」 真に強固なる祖国の未来を築くため、貴様ら負け犬に生き場などない。 いざ絶命し、消えるがいい敗北主義の亡霊ども――! 四者、二局の死闘が今、聖夜のベルリンを震撼させる。 弾ける火花に命の咆哮――ぶつかり合う野獣と戦姫の舞踏会に、余人が入り込む隙間はない。 「呆れた。とんでもない坊やたちね。あれ、二人とも半分人間辞めちゃってるわよ」 その激突を遠目に眺め、観客たる立場の女は呆れの声を漏らしていた。 感嘆し、驚嘆し、ある種讃えてはいるものの、しかし畏怖の念は不思議と少ない。連れの神父は、そこを指摘するかのように探る声で問いを投げた。 「つまり、あの女性将校達の分が悪いと?」 「そうねえ、彼女達も非凡ではあるようだけど、たまにいるのよ、ああいうのが。武道も魔道も知らないのに、環境で生み出される人間獣。言葉遊びをすれば、外道ってやつね」 「見る限り、小さい坊やが九点。大きい坊やが七点。赤毛の軍人さんはマトモだけど、鍛え方がハンパないようだから同じく七点。金髪のお嬢ちゃんは、五点というところかしら。ジリ貧ね」 「でも、他にやりようがない。組み合わせを逆にしたら、金髪のお嬢ちゃんが真っ先に死んでしまうわ。そうなったら、最悪二対一の展開だし」 「赤毛の軍人さんもそれは分かっているみたいだけど、自分達が二人がかりで攻めるのは主義に反するってことなのかしら。だったらいっそ逃げちゃえばいいものを、そうも出来ないのが騎士道精神。泣けてくるわね、手詰まりじゃない」 変わらず面白がっているような口振りで、呑気に戦況を分析している。それが正しい見立てであった場合、自身も危険に晒されることを分かっているのかいないのか。 分かっていながら、自分にとっては他人事だと言っているのか。 「ならば、あなたが助勢をしてさしあげればよいのでは?」 「わたしが? なんで? てゆーか、いったいどうやって?」 「……いえ、なんとなく、あなたなら介入出来そうな気がしたので」 正面から訊き返され、神父は曖昧に言葉を濁す。彼の目と耳が捉えている〈事実〉《もの》……たとえそれがこの相手には見透かされていたとしても、大っぴらに語ることはやはりできない。そこまでこの神父に勇気はない。 枯れ落ちていく花のように、静かに風化していくことがこの男の願いなのだ。根本的なところが逃げ腰であり、事なかれ主義というのが彼の処世術なのだから。 「しかし、そうなると困りましたね。軍卒とはいえ女性の危機です。私で何かの役に立つなら、手助けをしたいところですが」 「やめたほうがいいわよ。だってあなた、マイナス十点」 「ついでに言うと、あっちで呆然としてる青髪のお嬢さんは、平々凡々な一点ね。どうしようもないわよ」 「ならば――」 無責任な女の態度に、若干の苛立ちを覚えたのか。神父は顎を振って街区の一角を指し示す。 そこに佇んでいる二人の影。彼の目と耳をもってしても、形容し難いナニカとしか言えない者ら。 それを、あなたならどう見ると。 「あちらの御仁達はどうなのです?」 「――え?」 「気付いていなかったのですか? あれはおそらく、ゲシュタポ長官閣下殿に、宣伝宰相殿の隠し玉」 「彼らならば、どうなのです?」 問いに、しかし返ってきた反応は予想を超える奇怪なもので。 「あ……ぁ……」 まるで魂を抜かれたように、女は放心して震えた声を漏らしている。 何が見えた? 何を感じた? 魔女の目からは、あの二人がどう映った? 抑えきれない好奇心が恐怖を越えて、トリファの口を衝き動かす。 「……? どうしました、シュヴェーゲリンさん」 「嘘、嘘よ……そんなこと、ありえるはずが……」 「……?」 「なんで、どうして、なんでなんでなんでなんで――」 そこに正真の怪物でもいるかのように、殺人鬼二人を前にしても変わらなかった女の余裕は、いとも容易く崩れ去って…… 「信じられない。ふざけてる。認めないわなんであんなモノがこの世にいるのよおおォォッ!」 悲鳴でしかない絶叫が、この夜の混沌はまだ序の口にすぎぬと語っていたのだ。 「どうです? なかなか興味深い催しでしょう。双方共に、ある意味人の極限だ」 女の狂態、戦獣の暴狂。それら一切を意に介さず、見下ろしながら包み込むように謎めいた笑みを浮かべながら、カール・クラフトは訥々と話し続ける。 その声音は歌っているようであり、壮大な歌劇を演ずる楽士をどこか連想させた。 「やはり、この国の人材は面白い。ふらりと外に出ただけで、あのような者らに会ってしまう」 「これがあなたにとって、〈無聊〉《ぶりょう》の慰めとなれば幸いだが……感想をお聞きしてもよろしいか?」 「…………」 それに自分は、即座に答えるべき言葉を持たず。 ただこの男に、主張しなければならないことがあるすれば、たった一つで。 「道化師……いや、卿が何者であろうと、言っておくが」 「私はな、そう大した男ではない」 おまえは異常だ。ただの奇人などという枠を超え、何か名状し難い不条理の塊であるのだろうと、理屈を無視した域で感じている。 ゆえにラインハルト・ハイドリヒは思うのだ。この自分は、卿のような幻想が関わって面白い男では断じてないと。 なぜなら―― 「昔から、加減というものが出来んのだ。ゆえになんであれ真摯に取り組み、結果として、いつの間にか今の地位に就いていただけ」 「まるで止まることのない車と同じだ。性能がどうであれ、休まず走り続けていれば、世界の一周や二周は誰でも回れる」 「卿が私に何を感じているかは与り知らぬが、つまるところラインハルト・ハイドリヒなどそんなものだ。娯楽が欲しければ、他に面白い者はごまんといよう。そちらに行け」 優にも劣にも、取り立てて飛び抜けているわけではないのだ。これは謙遜でも過信でもない、厳然たる事実。 珍しいことなど何も持たない男だから、つまらないことしか成し得ない。何を期待されたところで、その真実は不変であり…… 私は盆百。そう知っているしそうでしかない。 なぜなら、未だかつて世の物事に感嘆したことがないのだから。 低く、胸に沈殿する諦観を込めてそう締め括ったにも関わらず、眼前の男は首を振りながら笑っていた。 「これはまた……あなたに〈韜晦〉《とうかい》など似合わない」 「私が、まだこんなものではないと言っても気は変わらぬか?」 「なに?」 不可解なことを、詐欺師は告げる。私が抱いた諦観、失望、自身に対する見切りの総て……それこそ幻であるとでも言うかのように。 「中将閣下、あなたは加減が出来ぬと仰った。止まることが出来ぬとも」 「しかし、では訊かせていただく。あなたは本気を出していたか? 走るつもりで、歩いてはいなかったか?」 「どういう意味だ?」 「言葉どおり、そのままに。卵を割るがごとき所業に、獅子は牙と爪を使ったか? 地を這う蟲との競争に、鷹は翼を使ったか?」 「あなたの仰る加減が出来ずに歩いた道とは、いったい何処にある道だ? 私には見えない。見たこともない」 「先ほど車を比喩に出したが、ではこう言わせていただこう。大陸を飛び越え、海の向こうにある敵国を破壊できる新型爆弾。あるいは宇宙へ飛び立つそれでもいい」 「その燃料と内燃機関を持ちながら、周りが公道だからという理由で一般車両に載せ走っている――つもりになっている。それがあなただ。違うかな?」 「そろそろお認めなさるがいい。あなたは本気など出していない。加減が出来ぬ性分ゆえに、そうしなければ秒も保たない人と世界に〈倦〉《う》んでいるのだ」 「……馬鹿な」 知らず漏らした呟きは、我ながらひび割れたような喘鳴で。 「卿の誇大妄想はいったいどこまで広がっていく。爆弾の燃料と内燃機関だと? 私がそんなものを積んでいたら、とうにこの国は灰燼と化している」 走り続ける車と言った。加減が出来ぬ愚直と断じた。それが私、ラインハルト・ハイドリヒというつまらぬ男なのだから、すなわち今ある世界が私の限界に他ならない。 走り、走り、ただ走り、それでいながらこの様だから。 〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈達〉《 、》〈成〉《 、》〈感〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》。 「ですから、なぜそうしないのかと問うている」 「……ッ」 その言葉が、毒となって水銀のごとく私の胸に染み通る。 壊せと、なぜ愛さないと。 誘う響きは甘美な法悦を思わせて…… 「この国がお好きですか? 慈しんでおられますか? 友人、妻、恋人、家族、部下に上官、〈市井〉《しせい》の諸々――」 「あなたがどだいそんなものを、尊き寄る辺とするなど有り得ない」 「なぜならば――」 そう、なぜならば。 私が本当にしたいことは、望む地平は破壊の抱擁であるかのように。 意識がそのような自分を編み上げる。私すら知らない、無意識の奥を流れる妄想という名の憧憬。 他の誰もが幼い時分行ったという、ありえぬ事象へ馳せた想い。 思想の自慰。現実の破却。心の底から望みが叶った姿こそ、そのようなものであったなどいいや違う。何が? そうだ。私はただ、そう単に―― 「カール・クラフト」 一歩踏み出し、詐欺師の弄言を寸断する。私の真実、私という存在へ願う祈りのカタチ。 何を信じ、何を願い、何を求めているかなど……見えぬ分からぬ。だが〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 この男と出会って以来、狂おしく胸を焼く奇怪な想い、その正体。 理解不能で、説明できぬ心の解は、〈既〉《 、》〈に〉《 、》〈何〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈繰〉《 、》〈り〉《 、》〈返〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈感〉《 、》〈慨〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 この憤懣、この苛立ち、私はこの後の行動を知っているだろうという絶望、嘲笑――無限の虚無感。 それを壊したいという一つの渇望。 ならばこそ―― 「いい加減に口を噤め。初めて会った時に言ったはずだ。卿が国家に害を成すなら許さんとな」 私の祖国、私の部下、私が愛する総てのものへと捧げる想いは。 私が抱かねば、そこにあるかどうかも証明できぬモノなのだから。 「もしこれ以上、くだらん戯言を抜かすなら――」 「その口、二度と開けぬようにしてくれるぞ」 言い捨てて、衝動のまま歩を進める。カール・クラフトはそんな私に微笑んで道を譲った。 「おやおや、これはこれは……」 「ですが閣下、最後にもう一つだけ」 「この世の黄金率の一形態に、ピラミッドというものがありましょう。その頂点は、誰も横におらぬということ」 「あなたはそういう御方です。ご自覚なさるがよろしいかと」 「くだらんな」 そう、くだらない。己が取るに足らぬ男であるという自評は、今このときも変わっていない。だからこそ思うのだ。 「卿の言うことは何も分からん。飢えも渇きも、私は自覚などしていない」 「しかし、なぜだろうな、不明だが、私は今、ただ無性に――」 万象悉く〈抱き〉《こわし》たい。ただそれのみを強く願って。 「この者達を……ねじ伏せたくて仕方がないのだ」 「では、ご随意に」 私の行く先を寿ぐように、カール・クラフトは優雅な所作で一礼した。 「――どけ」 「――なッ!? お、お下がりください中将閣下、危険ですッ」 「どけと言った」 「――ッガァッ」 「――――ッ」 軽く振り払ったとしか思えぬ腕の一閃で、エレオノーレは冗談のように弾け飛ぶ。それを前にし、血に狂っていた凶獣までもが動きを止めた。 「どうした狂犬、なぜ止まる」 見上げた視界に映るのは、彼をして戦慄せしめる度外れた何か。 理性など吹き飛ばした獣の精神であるがゆえ、ウォルフガング・シュライバーは眼前の存在にただ愕然と固まったのだ。 本能が告げている。これは違う。勝ち負けなどを問える次元のモノではないと。 「あ、あ、あ……あ……」 「その眼、膿んでいるだろう。ならば要るまい」 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁァァッ」 右目に指を突き込まれ、そのまま眼窩を抉るように掴まれたまま吊り上げられる。脳内麻薬の異常流出によって痛みの大半を麻痺させていたシュライバーが、激痛に絶叫するほどそれは凄まじい暴虐だった。 「――ふん」 「ッギャアアッッ」 そのまま人形のように投げ捨てられ、天地を見失う勢いで転げ飛ぶシュライバー。いかに彼が軽量とはいえ、指の一本で成せるような所業ではない。 否応なく絶対的な、征圧という桁違いの覇業。それを前にし、その場の皆が息を飲む。 「そんな……」 「なんですか、あれは……」 「嘘よ、嘘よ、嘘よこんなの――」 「ふふ、ふふふふふふ……」 否――ただ一人笑っている影絵のような詐欺師を除いて。 「――退けッ、下がるんだキルヒアイゼンッ!」 「え? わ、――きゃあッ」 苦鳴交じりに飛んだエレオノーレの叫びも間に合わず、ベアトリスもまたボロ屑のように吹き飛ばされた。 そして、後に残ったのはただ一人。 「なッ……なんだよ、てめえは」 呆然と〈戦慄〉《おのの》きながら、黄金の破壊と対峙するヴィルヘルム。彼もまた、その時点で戦意を根こそぎ折られていた。 見下す瞳は遙か天空の高みから、しかし蟻へ向けて奇妙なほどに情感のこもった声が落ちる。 「何者でもない。貴様は何だ?」 「あ、お、俺は……」 まるで自分も自分が分からないと、慟哭しながら歓喜しているような音の羅列。それでヴィルヘルムは恐慌と共に理解した。 これは赤子だ。産まれたばかりの、そしてこれから無限に成長する超越者の新生児。 自分も含めて他の者らは、その産声に触れただけで木っ端微塵に粉砕される。そして二度とかつての自分には戻れない。 だがそれが、なぜか喩えようもない祝福のように彼は思えて…… 「血を好むのか、それとも忌むのか」 「まずは己の血を顧みろ」 「ごあぁァッ!」 腹に叩き込まれた一撃が、五臓六腑ごと骨を砕いて彼の人生を終わらせた。 そう、これより始まる。これから起こる。この黄金に率いられて地獄の果てまで駆け続ける、修羅に祝福された第二の生が―― 「ぐ、が……げえええェェッッ」 血反吐の海で悶絶しながら、しかし彼は紛れもない愛と快楽に絶頂するほどの至福を覚えた。 そして――その総てを見届けた影が笑う。何処か此処ではない遥かな〈虚〉《ソラ》で、水銀を撒き散らしながらこの上もなく楽しげに。 「なんてこと……」 噴き上がる黄金色の威光を前に、リザは自らを掻き抱きながら震えていた。 「ど、どうやら、片がついたようですが……」 「しかしこれは、はたして助かったと言えるのでしょうか……」 あるいは今夜、ただの名もない端役として死んでいたほうが幸せだったのかもしれない。トリファが抱いたその思いも、決して気のせいではないだろう。 「あれが、ラインハルト・ハイドリヒ……」 出会ってはいけなかった。しかしもはや逃げられない。今夜ここにいたことが、自分の運命を決定付けたとアンナ・シュヴェーゲリンは直感する。 それを肯定するかのように、ラインハルト・ハイドリヒは倒れていた軍卒二人に命を下す。 「そこの二人」 「は……――はッ!」 「な、なんでありますか、中将閣下」 シュライバーとヴィルヘルムに比べれば、彼女らには多少の加減をしたのかもしれない。なんとか立ち上がった二人に目を向け、続く言葉を口にする。 「あちらにいる神父と女二人をゲシュタポへ連れて行け」 「――え?」 「し、しかし閣下、それは――」 「二度言わせるな、今すぐにだ」 「――ッ、畏まりました。行くぞキルヒアイゼン」 「あ、で、ですがそのッ」 「あ、あの二人はどうするのです? 国家反逆の――」 「卿らの知るところではない。私が戻るまで、神父たちを拘束していろ。それから中尉」 「は、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグであります」 「卿ら二人、異動願いを出しておけ。――ゲシュタポへ来い」 「――――ッ」 その瞬間、ラインハルトの碧眼が黄金に明滅したように見えたのは錯覚だろうか。 「そ、そんな……」 「分かったか。では行け」 「「――はッ」」 真偽は分からず、だが命じられた以上は断れない。二人は傷ついた身体を引きずりながら、言われた通りにトリファらを連れ、その場を速やかに去っていく。 再び静寂が訪れた夜の中、内から湧き上がる何かに奮えているラインハルトに、カール・クラフトは心中喝采を送っていた。 さて、おそらくは生まれて初めて揮ったであろう、手加減の薄い暴力の味はいかがでしたか、中将殿。 たとえあなたが否定しようと、私には見える。感じられる。その魂が、歓喜に打ち震えていることを。 「だぁーかぁーらぁー、なんでわたしがあんた達に連行されなきゃいけないのよ。冗談じゃないわ、放しなさいよ」 「ごちゃごちゃ抜かすな。だいたい貴様ら、なぜあんな所にいたのか言ってみろ」 「あのねえ、市民が市街歩いて何が悪いっていうのよバカちん。それに、わたしだってあんたらと同じ――」 「まあまあ、ひとつ落ち着いて。ここは大人しく、言うことを聞いておきましょう」 事後、ゲシュタポの庁舎に連行した者とされた者らは、各々不安を抱えながらもそんなやり取りを続けていた。 あまりに常軌を逸したものを見たせいで、その衝撃からは未だに誰も脱していない。しかしなんとか、一応の会話ができる程度の精神状態には戻っている。 「あの、申し訳ありませんでした神父様。それにリザさんも、こんなことになってしまって……」 「え? ああ、いいのよ平気。まさか、いきなり処刑されるわけでもないでしょうし」 「そ、そうですよねえ……だといいんですけど」 何せ、ゲシュタポの悪評は国内中に轟いている。曰く、疑わしきは罰せ。この庁舎に引っ立てられて、生きたまま出られた者は全体の一割を下回る。 以前ならただの噂と流すことも出来ただろうが、今はそんな楽観など持ち得ない。ここの長が、どんな人物なのかをそれぞれ目にしたばかりなのだ。 そうした皆の不安を代弁すべく、アンナ・シュヴェーゲリンは金切り声で吼えていた。 「ばーか、ばーーーっか、あんたらホントに何も分かってないんだから。絶対後悔するよ、知らないんだから」 「……まったく、騒がしい女だ、傷に響く」 「あ、そうだ中尉、大丈夫ですか? 思い切り殴られたみたいですけど……」 「ああ、問題ない。腕が折れたが、むしろこの程度ですんだのが僥倖と言うべきかもしれん」 「は、はあ……」 どうやら自分が、一番軽傷だったようだ。その事実を噛み締めながらも、一概に運がよかったとは言えない不安がベアトリスの中にも蟠っている。 それに応じるかのように、トリファも声を落として独りごちるように呟いた。 「しかし、噂には聞いていましたが、それ以上に凄まじいですね、ハイドリヒ中将……あれではまるで……」 「まるで? なにかしら神父様」 「いえ、その、なんと申しますか……」 精神感応、思念同調能力者……トリファの脳に宿ったその力は、有り体に言って人の心と記憶を総て読み取る。 そんな彼が、しかしラインハルトとカール・クラフトの心だけはついぞ読むことが出来なかった。その事実に確かな恐怖を覚えながらも、同時にトリファは一つの想いに憑かれていた。 彼らはいったい何者なのか。もしかしたらあの二人こそ、私の苦しみを取り除いてくれる方かもしれない。 希望と言うには禍々しく、しかし縋りついてしまいたくなる圧倒的な力のカリスマ。凡夫を自認する彼だからこそ、二人の超越性から目を逸らせない。 まるでそう、黄金の輝きに目が眩んでしまったかのように。 あるいは、悪魔に魅入られたとでも言うべきなのかもしれないが…… 「ああ、なんか暗雲立ち込めてきますよ私の青春。ゲシュタポ勤務になるなんて、父上と母上になんて言おう」 だが何にせよ、今は流れに身を任すしかないのだろう。良くも悪くも、この選択がどういう未来に転がろうとも…… それは皆が等しく感じていた、これから訪れるだろう破滅的な現実に対する処方だった。 「怒りの日、終末の時、天地万物は灰燼と化し、ダビデとシビラの預言のごとくに砕け散る。たとえどれほどの戦慄が待ち受けようとも、審判者が来たり、あまねくすべて厳しく糾され、一つ余さず燃え去り消える。そう、かの日こそ――」 「怒りの日、来たれり」 「……くだらん歌だ。何をそんなに浮かれている」 「さあ、なぜでしょうかな。ただ私の常識では、新たな生命の誕生に立ち会った際、〈寿〉《ことほ》ぐものだと心得ておりますので」 「今の歌がか? 終末のレクイエムに祝福されて生まれるなど、もしそんなモノがいるとしたら――」 「なんです?」 「呪われた怪物だ。それは最初から、生まれてきてはならぬモノであったのだろうよ」 「ですがこうして生まれた以上、彼の本能を止める権利など誰にもない。どうするのか、どうされるのか、何を思い、何を成し、何を見て、何を感じる? ――ああ、物狂おしいほど気になってしかたない。私はそれを、常にお傍で第一に聞かせてほしい」 「そうだな、ではまずさしあたって――この者達、卿の好きにしてみるがいい」 「生かすも殺すも、怪しげな魔術とやらの虜にするのも……卿なら如何様にも料理できよう」 「御意に、ではそこの者共」 「あ……ぅ……」 「は……っ……」 「おまえ達は今これより、我と我が友、カール・クラフトとラインハルト・ハイドリヒの僕となれ」 「満たされぬのだろう? 殺したいのだろう?その力を与えてやる。呪われ穢れた生命に、悶えんばかりの快と悦、真なる燃焼を約束する。血も肉も骨も髄も、霊も心も魂も――焦がし燃やし猛るがいい。黄金の獣がその身に有する、爪と牙になるがいい」 「ジークハイル」 「ジークハイル」 「ジークハイル・ヴィクトーリア」  ここに今、後に黒円卓と呼ばれる魔人の軍団が誕生した。これはその黎明を飾る物語。  黄金と水銀。獣と蛇の双首領。悪魔とも神とも評される絶対の二柱は親友にして、人智の及ばぬ域の絆をこれより結ぶ。  ゆえに努々、忘れてはならない。彼らが共に在る限り、如何なる者も勝負にならぬ。天地砕けようとも決して斃せぬ。  よってその打倒を願うなら、何としてでも彼らを離間させねば始まらない。  あるいはそれこそ、もっとも困難な選択なのかもしれないが……  永劫の〈既知感〉《ゲットー》を破らなければ、どだい総ては回帰するのみ。  そう、だからこそ。 「Dies irae――Teste David cum Sybilla.」  彼らもまたその時を、怒りの日こそを狂おしく待っているのだ。 ポーカーをしましょう。  1995年12月――小雪の舞うブダペストで、古城を改装したというホテルの一室に足を踏み入れるなり、部屋の主は開口一番そう言った。  客をもてなす態度としては論外であり、そもそも突拍子が無さ過ぎて十中十人が呆けるしかないだろう。事実、ゲームを持ちかけられた女性は目を丸くし、この奇怪な応対に戸惑っているようだ。  場所も季節を弁えず、露出の多い薄手のパーティドレスに身を包んだ彼女もなかなか珍奇な人種と言えるだろうが、アンティークチェアーに座したまま微笑している白髪の少女は、さらにどこかずれている。背後に控えた従者らしき二人の男は無言のまま、彫像のように動かない。  目で促され、対面に座した女に向けて少女が言った。 「あなたの疑問、いえ不信感と言うべきかしら。ともかくそれを解消するには、こうするのが一番手っ取り早いと思いますの。俗世の方は、何事も実地に体験しなければ認めないと聞きますし」  決して大きくはないが、よく通る声。少女の言葉は、脳を貫通してくるようだった。  年齢は十四・五歳に見える。だがひどく老いているようにも見える。子供が子供であることを許されなかった者特有の老成した空気を纏いながら、常時夢を見ているような浮遊感が同居した佇まい。  端的に言って、常人ではない。生息する階層が妖精郷にあるような、そうした印象を与える少女だ。  行儀よく膝の上に組んでいた手を上げて、彼女が告げる。 「フォルカー」  その一言で、従者二人のうち一人が動いた。執事風の身なり――ただし帯剣している老人は不動のまま、僧衣の青年が棚からトランプを取り出し、慣れた手つきでシャッフルを始める。  それはいい。それはいいのだが問題は別にあった。 「私のせいじゃあ、ないわよね?」  淑女と魔女の中間めいた笑みを浮かべて、女が問う。シャッフルを続ける若者は、完全な無表情で答えない。  その手つきに一切の淀みはなく、まるでそれしか出来ない機械のように思われた。僧衣の股間が、雄々しく隆起していなければの話だが。 「まさか、カードに欲情する性癖というわけでもないでしょうけど」 「気になさらないで。ああ、でも、あなたのような女性を前に、反応しないというのも失礼にあたるのかしら。わたし、そういう機微はよく分からないのですけれど、ご気分を害されたのなら謝罪いたしますわ。彼はいつもこうなのです」 「いつも?」 「はい。忘れられない情事に心奪われているのです。男性は少なからずそういうところがありますが、フォルカーは一途で純情なのですね。わたしも女の端くれとして、彼のような者がいるのは喜ぶべきことだと思います」 「確かに、貴重ではあるでしょうね」  ここにいない誰かを思いながら、今この時も肉の記憶に溺れている青年……フォルカーとやらの思考が見えているような言い草だったが、女はそのことについて言及しない。ただ配られたカードを手に持って、言われた通りポーカーを始めるだけだ。  結果は、予想していたものと異なっていたが。 「わたしの負けです」  コールどころか、まだ何もしていない状態での一方的なフォルド。少女の手札がどんなものかは知らないが、女の方も別に大したものではない。現状、単なるノーペアである。 「なぜ私の勝ちだと?」 「だってあなた、スペードの7とJを捨てるつもりなのでしょう? 次の二枚はダイヤのAと9。それでスートがそろってしまいます。フラッシュですわね。その後わたしはどうしても、ツーペア以上の役を作れません。完敗ですわ」 「…………」 「イカサマは嫌いというか苦手なのです。わたしは技術でなく、力に依るものなので。見えているということと、それをどう活用するかは別次元の話でしょう。ご理解いただけましたでしょうか。これをもって、自己紹介としたいのですけど」 「……ええ、心を読むのは聞いていたけれど、まさか透視も出来るとはね」  イカサマでないのなら、今の真似はその二つがなければ絶対に成されない。ある種の可笑しさを覚えながら、女は心中で呟いた。サイキックの怪物という触れ込みは、どうやら看板に偽りなしであるようだ……と。 「褒め言葉と受け取っておきましょう。せめて枕に可愛らしいと付けていただければ嬉しかったのですが」 「あなたを前にすると、口を開くのが馬鹿らしくなってくるわね。連れのお二人が無口なのは、そのせいかしら?」 「さて、どうでしょうね。ですがわたしは、会話自体好きですわよ。本音と建前というのでしょうか、そうしたものに魅了されてなりません。人間は娯楽として完成されていると思うのです。わたしにとって、世界は名画と名曲に満ち溢れている。ええ、あなたの人生も……」  言葉を切って、少女は上目遣いに女を見てくる。瞬かないその瞳は、猛禽の眼光に酷似していた。 「アメリカ中央情報局、パラミリタリー、〈通称〉《コード》〈生ける死者〉《リビングデッド》。あるいはもっと端的に、〈身元不明〉《ジェーン・ドゥ》でいいかしら。アイリーン・カートライト中佐殿」 「――――くっ」  そこで我慢の限界が来たらしく、女は一瞬俯いて腹を押さえ、次いで仰け反ると弾けたように笑いだした。 「あは、あは、あはははははははは――」 「今後は親愛の情を込めて、ジェーンとお呼びしても構いませんか?」 「ええ――ええ、お好きにどうぞ。だけど、うふふ、あははは、まさか本名まで当てられるとはね。私自身忘れていたのに」  おそらくこの少女にとって、人間は映画のフィルムか本のように見えるのだろう。当人が忘れていようが何だろうが、その人生に刻まれたものを隠匿することは出来ない。  それでこそ、ああそれでこそだと女は思う。狂った情報を持ち込もうとしている自分のような者にとって、交渉相手はこれくらいでなければ話にならない。 「〈東方正教会双頭鷲〉《ドッペルアドラー》、局長ジークリンデ・エーベルヴァインです。お見知りおきを、ジェーン」  誰も信じてくれなかった。誰も理解してくれなかった。ゆえにパラミリは動かせず、脱走同然に単身ここまでやってきたが、そんな憤りや不満はもう吹き飛んだ。  これでいい。こうでなくてはいけない。世界最新最強を自負していながら、常識の枠内でしか物を計れぬ〈古巣〉《アメリカ》など、この戦いには邪魔である。  ダンスマカブルなら死者同士、壊れた者同士でやればいいのだ。自分や、そして彼女のような。 「今さら説明は不要でしょう?」 「はい、来たるクリスマスに向けて、蛇の眷属が極東に集うのでしょう。もちろん我々も存じております」  変わらぬマネキンのような微笑を湛えて、鷲の頭目――ジークリンデが首肯する。蛇とは無論言うまでもなく、この少女らが不倶戴天とする亡霊たちだ。 「黒円卓に関する諸々は、西側だとお伽話になっていると伺いました。冷戦で腐敗したのは、人の率直さとでも言うべきでしょうね。核兵器を何万発も造ったせいで、幻想が木っ端微塵になったのでしょう。あくまで彼らの頭の中ではの話ですが」 「だったら内の一発くらい、日本に叩き込めと言いたそうね局長さん」 「いいえ、そんなことに意味はありません」  短く、そしてきっぱりと、現人類が保有するおよそ総ての事象に対する最終的解決手段を、ジークリンデは一蹴した。 「それは全スワスチカの同時開放を意味します。あの街の住人は、生贄なのですよジェーン。基本として、捧げさせてはいけない。 爪牙の二・三本は折れるかもしれませんし、核となる翠化を負荷で壊せるかもしれない。ですが、どうでしょうね。レーベンスボルンの落とし子は世界中に散っていますから」 「あなたのように?」 「はい。しかもその枝葉となれば、総て特定するのはもはや物理的に不可能です。まだ何処かに出来の悪い緑がいるかもしれず、それが翠を産むかもしれず、加えてスワスチカは他にもある。発生しえる。 そうして一発、また一発、疑わしきを罰する心地でニガヨモギを落としていくといたしましょう。するとあら不思議、いつしか世界規模の鉤十字が完成していることになる。と、わたしは考える次第です」 「なるほど」  この少女が持つ異能は、おそらく他にもあるのだろう。その一つが今の自論を展開させているに違いない。都市部への核攻撃など沙汰の外にある話だが、何らかの事情でかの街が祭壇足りえなくなったとき、さらに性質の悪い呪いが発動するようになっているのだ。有り得そうな話である。 「カール・クラフトを甘く見てはいけませんわよ。悪魔の頭脳と競ったところで、人間性の浪費です。我々は、もっと正攻法でいきましょう」 「つまり、正面からぶつかると?」 「あなたからして、それを望んでいるではありませんか。そしてわたしに、その手段を求めている」  否定は出来ない。だからこそ、今日ここに来たと言えるのだ。  幻想には幻想を。頷いてから、ジェーンは訊いた。 「具体的には?」 「兵は我々が出しますし、あなたも幾らか動かせるでしょう。それで二個中隊といったところですかね。賞金を餌にフリーランスを釣ればもっと集められるでしょうけれど、あまり大所帯になりすぎても統制が取れません。このあたりが妥当な線かと」 「兵?」  それは本気で言っているのか? 目の前の少女がどういう存在か分かっていながら、そう訝るのを止められなかった。ふざけているとしか思えない。 「私は以前――」 「ベトナムで、吸血鬼に部隊を壊滅させられたのでしょう? それであなたはリビングデッドになってしまった。ええ、無論存じていますわ」  だったらなぜ、意味のない物量などを提唱するのか。それはあくまで対等同士、人間同士、彼と我が殺し合える状態を前提にした案である。いみじくも今ジークリンデが言ったように、相手は鬼だ。人ではないのに。 「それくらいにしておいてはどうですかな、局長」  と、これまで何の反応も示さなかった従者の一人が口を開いた。見る限り七十年配の老人だが、枯れた様子は微塵も無い。柔らかだが重みのある男性的なバリトンで、小さな主を窘めている。  心の揺れを愛でるのも結構だが、悪い癖と言うよりないと。 「つまり、端的に言って回りくどい」  カードを仕舞ったフォルカーも、追随してそんなことを言う始末。どうやらこの主従たち、見た目ほどシビアな上下関係ではないらしい。それを肯定するかのように、ジークリンデはわざとらしく肩をすくめた。 「せっかく気分が乗ってきたのに、無粋ですわね二人とも。わたしはただ精いっぱい、彼女を楽しみたいだけですのに」 「それでは数日話し続けても終わりますまい」 「僕のときは十日かかった。思い出したくもないし、また見たくもない」 「ちょっとどう思いますかジェーン。誰かを理解して友情を深めるのに、そのくらいの時間は不可欠だと考えるのですけど」  人生と人格の総てを覗き、租借し終えるまで十日ほど。それを長いと見るか、短いと見るか。  だが何にせよ、その間喋り続けられて逃げられないというのは拷問でしかないだろう。 「私は、そちらの紳士の意見に賛成するわね。あなたほど察しはよくないので、残念ながら」 「まあ、つれないこと。ひどいですわ。あなたのせいよ、アルフレート」 「で――」  埒が明かないと考えて、アルフレートと呼ばれた老人へ目を向けるジェーン。返ってきたのは、簡潔明瞭な一言だった。 「フランスへ行きたまえ」 「フランス?」 「そうだ、そこに切り札がある」  ぞんざいにそう付け足すフォルカー。 「言わばわたしたち流の核兵器というやつですの」  ジークリンデは相も変わらず、夢の世界を浮遊しているような声で言う。 「ルーヴル美術館の非展覧セクション――元CIAの伝手でもあなた自身の武力でも、なんでも構いませんから掻っ攫ってきてほしいものがあるんですの。わたしたちがやってもいいのですけど、これも入信の儀式と思っていただければ」 「君もこれから、鷲の羽になるというなら」 「総てはそこから、後に僕かアルフレートが簡潔に説明しよう。心配は要らない。局長には喋らせないから」  ともかく“それ”を持って来い。  狂気にも似た圧力を叩きつけられ、ジェーンは悟った。彼らもまた自分と同じく、追い求めている至高の瞬間があるのだと。  ならばもはや論ずるに及ばず。不滅の戦鬼を相手に本気で殺し合うつもりなのだと確信できれば、彼女にとって不満はない。 「じゃあ、何を――」  奪ってくればいいのかと訊いて、聞いて、頷いたジェーンは席を立った。そのまま踵を返して部屋から出て行く。背中にジークリンデの声が届いた。 「ラインハルト・ハイドリヒを斃す。カール・クラフトを滅す。そんなことは出来ません、不可能です。彼らは怪物。次元が違う」  でも、と含み笑いながら間を置いて。 「聖餐杯はその限りじゃない」  だからヴァレリア・トリファを誅戮しましょう。それが結果的に総てを崩す。  謳う妖精郷の住人は、甲高い笑い声を響かせて延々と死刑判決の文言を垂れ流していた。  ドアを閉めて、廊下を渡り、階段を下りている今もまだ聞こえる。あの、脳髄を貫通してくるような少女の声が。 「だったら、ねえ、局長さん」  独り言だが、間違いなく相手には聞こえているだろうことを踏まえたうえで、ジェーンはぽつりと呟いた。自分にとってはどうでもいいことであるものの、ちょっとした些細な疑問。おそらくは誰一人として分かっておらず、ゆえに世界中の諜報機関が、黒円卓を度外れた戦争犯罪人以上には見ていないという〈現状〉《いま》の原因。  もしかして、唯一ジークリンデ・エーベルヴァインだけは例外的に、それを知っているのではないのかと。 「結局、スワスチカとやらを開き切ったら何が起こるの?」  答えは、吹き付ける雪と共に返ってきた。 『それは彼女に訊いてみなさい』 「―――――――」  身の強張りは、脳に響いた声のせいでも、開け放たれた玄関からロビーに吹き込む寒気のせいでもない。白銀に染まったブダペストの街を背負い、現れた者があまりにも凄烈すぎてリビングデッドの血を凍らせたのだ。  見た目は小柄な、十代後半程度の少女である。目を引く美貌の持ち主だし、気品を感じさせるプラチナブロンドは確かに印象的と言っていい。  だが違う。違うのだ。この少女を評するに当たり、そんな外面のあれこれなどまったくもって意味を成さない。  だってそう、少なくとも、これは人間の気配じゃないと知っているから。自分には死神の鎌を背負った戦乙女にしか見えない。 「ああ……」  知らず喘ぎにも似た声を漏らし、ジェーンは左胸を押さえていた。かつて自分がアイリーン・カートライトであったとき、これと同種のモノを見たことがあるのだ。  ベトナムの、密林で。  知っている。知っているぞ。  数千の人間が一度に歩いているようなその気配。  私を〈死体〉《デッド》に変えた彼と同じ。  死者の〈軍勢〉《レギオン》が目の前に在る。  ──落ち着きなさい。  いつの間に移動したのか、気付けば少女はジェーンのすぐ脇にいた。そのまますれ違っていきながら、外見からは想像もつかない冷めた声で短く告げる。  あなたと戦うつもりはありません。だから抑えて、私にそんな物は効きません……と、耳朶を撫でたのは、そんな言葉。  無意識のうち、抜き放とうとしていた銃を指して無駄だと言う。だがそれよりも――  そこに小さな子供もいるでしょう。 やめてください、危ないですから──  などと、耳を疑う残響が、意を奪った。 「は……?」  子供? 小さな子供だと?  なんだそれは? なんだそれは? おまえのようなモノが何を言う?  あまりのことに放心し、呆気に取られていたのは十秒ほど。その隙に少女は影も見えなくなっており、ジェーンは取り残されていた。 「子供、子供ねえ……」  ああそう、確かに今気付いたが、そんなようなものがそこらにいる。ここは普通のホテルだし、それは当たり前のことだろう。  なぜこんな所を会合の場に指定したのか不明だったが、これでやっと得心した。つまりダブルヘッダーで、要はあの少女に対する警戒なのだ。馬鹿で愚かで青い小娘への牽制球。 『ご名答。半分は』  脳を貫く声が笑う。 『だけど小娘はひどいんじゃないかしら。あれはあれで、もう結構ないい御歳よ?』 「だからなんだと?」  失笑すら漏らしてしまう。百歳だろうが千歳だろうが、小娘は小娘だ。こんな程度の縛りで行動が制限される半端者には、愚鈍と言ってもまだ足りない。 『まあ、現状それに守られているわたしたちが言うべきことじゃあないでしょうけど』 「確かにね。それで、もう半分とは?」 『ああ、ちょっと彼女に、自分の子供時代を思い出してもらいたかったんですの。何というか、幼年期の思い出って、ある意味胸を抉るものでしょう?』  意味はまったく不明だったが、どうやら悪戯を始める気らしい。ジェーンはくつくつと喉を震わし、愉快さで掠れる声を言葉に変えた。 「せいぜい好きにいじめてあげなさい、局長さん。この目で見れないのは残念だけれど、後々聞かせてもらうから」 『ええ、楽しみにしていてください。それじゃあジェーン』 「分かっているわ。すぐにご希望の品を持ってくるから」  はたからは独り言を漏らしているとしか見えない彼女を、ロビーを駆け回っていた子供の一人がぽかんとした顔で見上げている。それに笑顔を返してから、パーティードレス一枚の〈死体〉《デッド》は雪の降る街へと出て行った。  そう、この心臓は動かない。ゆえに寒くないし歳も取らない。  総ては再び、もう一度、彼に逢うまで、愛されるまで…… 1995年、12月25日……その日私は、自分の命運を悟った。 「くッ――はあァッ! はあ、はあ、はあ……」  ゾーネンキントはまだ幼い。ツァラトゥストラは現れない。なるほど、確かに時期尚早。言われなくても分かっている。  だけど、いいえだからこそ―― 「――次!」  今始めなければいけないのだと、誰よりも深く私は理解していたのだ。 「お見事。聖槍十三騎士団黒円卓第五位、ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン中尉とお見受けします。 東方正教会、特務分室、〈双頭鷲〉《ドッペルアドラー》――局長、ジークリンデ・エーベルヴァインの騎士、アルフレート・デア・フォーゲルヴァイデ。 黒円卓第三位、ヴァレリア・トリファ誅滅の任を帯び、斯くまかりこした次第」 「件のこと、貴公の助力を得られるという約定……今も相違ありませぬか?」 「……ええ」  死なせずに、助けるために、出来ることはそれしかないと分かっていたから。  だって、でないとあの子たち…… 「聖餐杯を……斃しましょう」  もう、間に合わなくなっちゃうじゃない。 「ふふ、ふふふふふ……結構。実に結構だよ。変わらないな、ベアトリス。その美しさ、その愚かさ。そして若さ、青すぎる。ああ、見るに耐えんよ。焦がれた女が醜く落ちた様などは」 「何一つ変わっていないがゆえに醜悪だ。貴様の戦争は半世紀も前に終わったのだと、その程度すら認められぬ愚挙愚考。今、私の前にいる女は、ただの亡霊にすぎぬのだと理解した」 「……あなたこそ、変わりませんねアルフレート」 「融通が効かない。協力すると言ったでしょう。そちらのお姫様に聖餐杯が斃せるとでも思っているのですか」 「そんなことは知らん。ただ、私は私の任を果たす。貴様の立ち位置など考慮するつもりはない。反目している? だからどうした。あの男は獅子身中の虫すら操るだろうよ。ましてそれが、貴様のような小娘ならなおさらに」 「ゆえにこれが、我々に対する協力と知れ。ヴァレリア・トリファの駒を、鎧を、総て剥ぐ。今宵の一瞬、あの男が丸裸となる空隙を生じさせるためだけの――ベアトリス・キルヒアイゼン、貴様の価値はその発端となった小石の一投にすぎんのだ」 「散れよ、貴様のヴァルハラはもはやない」 「……またずいぶんと、自信満々に言いますね。あなたに負け越した覚えはありませんけど」 「人であったときの貴様ならな」 「だがここにいるのは亡霊だ。擦り切れた残像にすぎん。 皆死ぬ。誰も救えない。貴様の閃光は死神の鎌だ。……いや、地獄へ行進させるレミングかな」 「似合いの二つ名だよ、戦乙女。カール・クラフトはこう言っているのだろう。その夢、青臭い祈りはグラズヘイムを肥え太らせる」 「――――ッ」 「ラインハルト・ハイドリヒの、忠実なる死神だと」 「――黙れェッ!」 「もう一度、言ってみろ!」 「何度でも言ってやろう。貴様が何を思い、何をしようと、悪魔の掌からは抜け出せん。まして、その傀儡である聖餐杯の内すらも。それが貴様ら、魂を売った負け犬どもの宿命だ」 「づぅぅゥッ―――」 「貴様らにとって最大の武器は、その愚かしくも理解を絶する頑なさにある。現実を歪める幻想、己が欲望に対する醜悪なまでの狂信。 ゆえにだ――」 「それを崩すことが何よりも肝要」 「今、貴様らの鎧はその効果を失っている。不滅の戦鬼とやらも、銃弾の一発で死ぬ常人と変わらん」 「くッ――」 「ならばこそ、貴様が喰らい、取り込んだ数千もの魂は総て燃料に使われていよう。その惰弱な幻想を具現するために」 「父親、母親、そして兄……彼らの慟哭が聞こえぬかベアトリス。死してまで呪われた定めに咽ぶ哀絶が。なんと戯けた馬鹿娘であることよ」 「私は――」 「迷え。惑え。問い続けろ。貴様の理想は壊れている。 黒円卓の戦姫などと、穢れた力を発揮させて堪るものかよ」 「ああああぁぁァッ――」 「もういい加減、その痛ましい夢から覚めろ。ヴァレリア・トリファを斃す。ラインハルト・ハイドリヒを消す。カール・クラフトを滅す。出来ぬことをいつまでも。奴らに膝を折った時点で貴様にそれは不可能だ。エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは戻らない」 「幕だ。貴様の過ちを、私が今正してやろう。案ずるなよ。 総てはもう、遥か過去……その命脈は黎明の日に終わっていたのだ。死者は土に帰るがいい。さらばだ。私が愛した、気高き少女の残像よ」 「アルフレート……」  私は穢れているのだろうか。私は身の程知らずだろうか。  断罪するこの幼馴染が言うように、ベアトリス・キルヒアイゼンはとっくに死んでいたのだろうか。  ああ、確かにそうかもしれない。今、生きている中でもっとも古い馴染みなのが彼だから、五十年という時の重さを何より深く痛感している。  あの頃は若かった。あの頃は子供だった。そう自嘲して振り返っても、そこにあるのは血と屍。亡霊のような私だけ。  だけど―― 「私は、生き返ったの」  そんな風に思っている。そんな風に思わされている。そして、思いたいと信じている。 「だから――私は死ねない!」 「世迷い言だ」  ええ、確かに。死んだ人は生き返らないけれど。 「死なせたくないから――」  そんな奇跡、何より輝く本当の黄金を―― 「少しくらい夢を見たって、いいじゃないの!」  私は間違った選択などしていないと、ここに至った道を今でも信じたいのだ。  救いたいと願う彼らを照らす、閃光になりたいから。  それこそ私の魂で、嘘偽り無い真実だから。 「はい、3、2、1、きゅー」 「好きです。ずっと前から見てました!」 「いったぁぁぁ――――!」 「あの、だからって別に、付き合ってくれとか、そういうんじゃなくて……いやでも、そうしてくれるんならとてもとても嬉しいんですけど!」 「わたしはただ、自分の気持ちを伝えたくて。それに、櫻井先輩の気持ちも知りたくて」 「今、好きな人とか、いるんですか?」 「…………」 「わたしのこと、どう思ってますか?」 「…………」 「答えてほしいんです。お願いします!」 「さー、困ってます。固まってます櫻井戒。なんでしょうねー、何なんでしょうねー、あの男。あたしが知る限りこれで十五人目のチャレンジャーになるんですが、一向に慣れた様子がありません。ほら、あれですよ。あの顔ですよお客さん。ズームアップ!」 「甘い。甘すぎるだろそのマスク。やべえ、しゃぶりつきたい。チョーいじめたい。儚げな雰囲気が母性本能をキュンキュン刺激して辛抱堪りません。むっはー!」 「ごめんなさい。困らせるってこと、分かってるんです。だけどわたし、どうしても諦められなくて……」 「特に櫻井先輩、ここのところ元気ないように見えたし……」 「わたし、気になって。何か力になりたいと思って……」 「こんな、余計に迷惑かけてるけど、ああ、なに言ってるんだろう、わたし。本当に馬鹿みたいです」 「か、可愛いじゃねえか。萌えるじゃねえか。なんだそれ、新しい手口か下級生。えー、今入った情報によるとですね。彼女は本城恵梨奈、一年生。実家は病院を経営しているという……っておい、お嬢様じゃん」 「すみませんでした。忘れてください!」 「あ、ちょ――駄目だ、行かすな櫻井戒!」 「待って」 「え……?」 「まだ僕は、何も答えてないだろ、本城さん」 「あ、ぅ……先輩、どうしてわたしの名前を……」 「そりゃ知ってるよ。うちのクラスの奴らが可愛いって騒いでたし」 「そーだ、その子は上玉だ。逃がすな戒。キープしとけ戒。そしてコネをフル活用し、医者の卵をあたしに紹介する段取りつけろ」 「だけど僕は――」 「よっしゃ、いけえ――」 「誰かを好きになるとか、そんなつもりはないんだ。ごめん」 「って、なんじゃそりゃあああああああ」 「……おい」 「……おい」 「おいこら、この若年寄」 「今日という今日はさすがにイラっときたから言わせてもらいますけどねー」 「痛いな。なんだよ、霧咲さん。もう昼休み終わったんだから早く教室に戻らないと」 背後からがしがしと容赦なく肘で小突かれ、振り返る。見ればクラスメートの彼女は不機嫌そうで、僕に何か言いたいようだ。 「うるっさい。そんなのどうでもいいっつか、何あれ? どゆこと? 一から十まで説明せーよ」 「どうも何も、見てたんだろ? ならそのまんまとしか言えないけど」 「わざわざ呼び止めて、名前呼んで、期待持たせた挙句に一刀両断。うわー、タチ悪いねー。あんた根性歪んでんじゃないの?」 「何も言わないほうが不誠実だと思うけどな」 「あーいうのを死人に鞭打つって言うんですー。聞きたくない答えなら聞かないほうがいいんですー。あそこであのまま逃がしてあげたら、彼女だって幸せな片思いが続けられたのに」 「気がないにしても、せめて妄想の余地くらい残してあげるのが情けでしょーが。あの子、可哀想に震えてたよ? せっかく勇気振り絞ったのに、おまえなんかにゃ興味ないとか言われた日には」 「そんなことは……いや、そうなるのかな、結局」 「そーよ。あたしはなんだか、あんたが壁張ってるように感じちゃうね」 「……壁?」 「違うの? 張ってるでしょ? 特に、学校の奴らは重点的に。友達全っ然いないもんね」 「…………」 確かに、それはその通りなので、こちらとしても返す言葉が無い。 「おい、そこで霧咲さんは例外だよとか、そういうフォローないんかい?」 「……ああ、まあ、そうだねごめん」 「色々助かってるよ。君みたいなのがいてくれて」 「みたい? みたいって何よ? 鬱陶しい馬鹿ってこと?」 「そうは言ってないよ。言葉通りの意味」 「霧咲さんがいて、助かってる」 「お、おお、そうだぞ……分かればよろしい」 「ま、まー、あれだよ。あたしもごちゃごちゃ言っちゃったけど、実際しょうがないところもあるんだよね。ああいうときの正しい態度とか、たぶん人類の命題レベルだし」 「何にしても相手あってのことだからさ。人によって答えも変わろうってもんでしょう。そのへん見極める目が怪しいのは確かっぽいけど、やたらそつなくこなす奴もそれはそれで胡散臭いし」 「だから――」 ころころと表情を変えながら捲くし立てる姿が可愛くて、思わず微笑してしまう。 「ておいコラ、あんたなに笑ってんのよ」 「いや、忙しい人だと思ってさ」 こういう、陽気なタイプに僕は弱い。自分でも辛気臭い性分なのは分かっているので、ついつい微笑ましく思ってしまう。 そういうところが、若年寄なんて言われる原因なのかもしれないが。 「反省はしてるよ。もっと上手い断り方はなかったのかって考えてる」 「答えは、出そうにないけど」 「むー」 「なに?」 「別にー。ただあの子、しばらく学校休んじゃうかもね。もうすぐ冬休みだし、たぶん今学期中は顔出せないでしょ」 「…………」 「で、その間、あんたがそうやって気にしてやってれば、少しは本望かもしんないね。分かんないけど」 「人によってはってやつ?」 「そ。あたしだったら、振ったくせに傷ついたポーズとんなって腹立つけど」 「難しいね」 「難しいのよ」 「だから、この話はもういいや。次があったら、もっと上手くやるように心がけること。人はそうやって成長していくのです」 「次って……」 そんなことを言われても、すぐ今学期は終わってしまうし、その後だって僕にとっては…… 「あるでしょ。あるに決まってんじゃん。予言するね。今年中にもう一回は絶対あるよ。だって今チャンスだし」 「何が?」 「そりゃあんた、決まってるでしょ」 「邪魔者が、いつもいつも一緒に行動してる鬱陶しいのが、かれこれ一週間も休んでるから――」 「付け込むならここしかないと、みんな獲物を狙う獣のよーに目を光らせつつスタンバってるわけですよ」 「戒を落としたそのときラブる。名付けてオペレーション――KILL・HE・I・THENを意地でも成就させようと――」 「あ、これ、邪魔者を〈殺〉《キル》してやろうって意味もあるんだけどね」 「そんな月学女子の怨念を一身に受けてるあいつ、どっかそのへんでぽっくり逝ってんじゃないのかな」 と、その時―― 「あはははははははははは――」 「は……は?」 ……ああ、うんその、何と言うか、ベタだなあ。 「どうも。邪魔者扱いされたベアトリス・キルヒアイゼンです。さっきの英語は文法メチャクチャだと思うんですがどうでしょうか」 「あ、あ……ベーやん、いたの?」 「はい、ばっちり聞いてしまいました。これが世に言う、いなくなったとたんに悪口かますという、大和撫子のたしなみ、なの、です、ね」 「あいた、痛い、痛い、ちょ――マジ痛いって。ギブ、ギブだからべーやん」 「それから、誰がべーやんですか。何度も言ったと思いますが、変なあだ名で呼ぶのやめてください」 「決まってる、決まってるからコブラツイスト! そして洗濯板が背中をガリガリこすってる気がするのー!」 「ふふ、ふふふふ、ふははははははははははは」 「あの、二人とも」 「なに!」 ここ、廊下だし。他の人たちも見てるし。もうすぐ授業始まるし。 「仲がいいのもほどほどにね」 「どこを、どう見て」 「そう見えるんじゃ、この天然がああぁぁ――!」 そう言われても、そうとしか見えなくて、二人同時に僕へ詰め寄る様は阿吽の呼吸そのものだった。 「で、べーやんはこの一週間、いったい何処で何してたの? いきなりふらっといなくなってさ。戒に訊いてもよく分かんないって言うし、ねえ?」 放課後、下校途中の道行きで、霧咲さんがベアトリスへ水を向ける。 「そうだね。実際、心配したよ。連絡全然とれなかったし」 「……別に、ちょっと里帰りをしてただけですよ」 「里帰り?」 「てことは、ドイツに? お父さんとお母さんにでも会いたくなった?」 「まあ、そんなようなものですね。ホームシックというか」 「ふーん。じゃあさ、べーやんのご両親って、やっぱあれなの? こう、お父さんは渋いヒゲ生やして馬に乗ったり、お母さんはそれを眺めつつテラスでワインをたしなむ、みたいな」 「えっと……なんなんですか、そのイメージは」 「そりゃもう、あたし知ってるもんね。ドイツで苗字にフォンがつく人は、貴族の家柄だってこと」 えへんと胸を張りながら、力強く断定する霧咲さん。 あまりそういうことに詳しくないし、実情は不明だが、確かにやたらと名前が長い欧州人にはそんな印象を持ってしまうのが日本人の常かもしれない。 「実家はお金持ちなんでしょ~~。ていうか、留学してる時点で確実に中流以上のイメージあるよね」 「そんな、最近じゃ特に珍しくもないでしょう」 「いや、あたしんちじゃ絶対無理だし」 「それは学力に問題があるだけなんじゃ――ぐふっ」 鳩尾に的確な一撃をもらい、息が詰まる。どうやらいらないことを言ったらしい。 「とにかく、べーやんの家のこととか、あたし結構興味あるな。ほら、やっぱ憧れちゃうじゃん。社交界とか、ベル薔薇とか」 「バッキンガム宮・殿! みたいな」 「……それはイギリス」 「……ベル薔薇はフランス」 「で、期待に沿えず悪いですが、私の家は普通ですよ。鏡花ちゃんが期待してるようなものは何もありません」 「ほんとにぃ? 実はどこぞの王子様と知り合いだとか、隠してない?」 「隠してません」 「そっか、ざんねーん」 「べーやんがほんとにお姫様なら、戒みたいな一般大衆との組み合わせには一波乱ありそうで面白かったのに」 「ほら、オペレーション、KILL・HE・I・THENの実況中継者としてはさ、確かめずにおれないっていうか」 そのオペレーションとやらは、そもそも君が煽ってるんじゃないだろうか。そんな気がひしひしと僕にはする。 「あのですね……」 そこはベアトリスも同感なのか、呆れたように溜息をついて彼女の認識を否定した。 「これも繰り返し言いましたけど、私と戒は何でもないですよ。単に下宿先が一緒なだけで……」 「うちは親がいないからね。知り合いの伝手で間借りさせてもらってる身としては、ベアトリスがいると助かるんだよ。妹はまだ小さいし、僕一人だけじゃ正直手に余る」 「それだけに、いきなりいなくなられたときはどうしようかと思ったけどさ」 「それは、その、ごめんなさい」 「螢は、怒ってた?」 「泣いてたよ。あれで結構わがままだから、一度ああなると、なかなかね」 「そういうわけで、今日は上手く機嫌取ってくれると助かる」 「うん、それはいいけど」 「でも、怖いなあ。あの子、そういうとき妙な要求してくるから。しっかりしてるというか、信用されてないというか」 「ああ、前に部活用の竹刀取られたんだっけ?あれはただ、何でもいいから君の物が欲しかったんだろ。この一週間もずっと持ち歩いてて、お陰で僕は――」 「はーい、はーい、さっきからあたしチョー放置されたまま話進んで一人ぼっちのことアルヨー」 「お二人さん夫婦の会話みたいでぶっ殺したくなりマスネー」 「なっ……」 「いや……」 「まあね、いいのよ。全然いいのよ。瘤つきとはいえ若い男女が一つ屋根の下。しかも間借りとか言いつつ家主はそこに住んでねーし」 「それは、だから教会のシスターで、あの人はあの人でそっちの管理があるんだよ」 「むこうにも小さい子供がいるし」 「だったらみんな一緒に教会住めばいいんじゃないですか、ハハーン。そっちのほうが環境的に絶対いいと思うのですよ、フフーン」 「あたしはなんだかべーやん達がそれを嫌がってるように感じますー。じゃあなんでかって考えたら、つまり青少年の健全な成長を阻害する恐れがある行為に毎夜走るためではないのかと――」 「相変わらず果てしなくうざいですね、この子供おばちゃんは」 「それからいい加減、べーやんべーやんうるさいですよ」 「そんなこと言われても、べーやんは苗字も名前もなんか仰々しいんだもん」 「だから親近感わくように、我ながらナイスネーミングだと思ってんだけど、気に入らない?」 「ヤキソバみたいで嬉しくないです」 「ぷっ」 なるほど、それは気付かなかった。ぺヤ○グか。 しかしベアトリス、もう随分と日本文化に馴染んでるんだな。家では育ち盛りの螢がいる手前、そういうインスタントは出してないんだが、もしかして好きなんだろうか。 「なに? 笑った? いま笑ったでしょ、戒」 「いや、ごめん……ぷふふふふ」 「でもまあ、もういいじゃないか。べーやんで」 「ねえ、可愛いのに」 「そういう問題じゃ、なくて……」 「あー、それともあれかい? お父様とお母様からもらった名前を大事にしてるから、そのまま呼んでほしいとか」 「欧州圏って、そういう意識強いんだっけ? 特にべーやん、いいとこのお嬢さんだし」 「やっぱご両親にとって自慢の娘であるようにと、そんな風に考えてる結果なのかな?」 「……別に」 「親は関係ありませんよ。単にガラじゃないというだけです」 「でも、だったらさー、うおっと」 不意に鳴った電子音に、僕もベアトリスもきょとんとする。 「ポケベル?」 そういえば最近、学生でもこういう物を持つようになったんだったか。中には携帯電話なんて物も所持してる奴がいるようだし、今さら珍しくもないのだろうけど、それでもやっぱり僕みたいなのからしてみれば、驚いてしまう光景だった。 霧咲さんは頷いて、文字通りポケットからベルを取り出し、その液晶を眺めて苦笑する。 「ん、なんかバイト先から呼び出しかかっちゃったよ。あたし行かなきゃ」 「バイトって、何かしてましたっけ?」 「えーっとね、今度博物館ができるじゃない? あそこで搬入のお手伝いを」 「また随分とガテンなことしてますね。華奢なのに」 「いやー、あたし骨董とか美術品とか好きでさあ。将来はアンティークショップ開きたいって、思ってたりするんだよね」 「重ねて、意外だ」 「お皿とか持たせたら、すごい危険な予感しかしませんよ」 「もう、うるさいな。別にいいでしょ、何が好きでも」 「それで、そっちもそろそろなんじゃないの?」 言われ、こちらは腕時計に目を落とす。 「ああ、そうだね。もう螢を迎えに行く時間だ」 「戒はあれだよね、保育士とか似合いそう。あとは看護関係とか」 「今はまだ、保母さんと看護婦さんの独占状態になってるけどさ、あと十年もすれば男の人もそういう仕事を普通にやってそうな気がするよ」 「あたしらの世代、世間じゃ超氷河期って言われてるけど、そのぶん未来を明るく考えないとね」 「未来……か」 「十年後の自分とか、正直想像もつかないけど」 「はい、そういうネガティブ禁止。ちょっとこっちおいで、戒」 「うおっと、なんだよいきなり」 「耳貸して、つかしゃがんでよ。あんた背が高すぎて届かない」 「いてててっ――、ちょ、霧咲さん、痛いって」 耳を掴んで引っ張られ、無理矢理目線を合わされる。そこで彼女は声を落とし、ひそひそと耳元で僕に言った。 「あんたさ、べーやん落とす気あるの? ないの? どっちなの?」 「クリスマス近いし、そこらへんはっきりさせるなら今でしょうが」 「あんたが何もしないから、周りの子たちが希望持っちゃって、さっきみたいなことがなくならないっていう自覚ある?」 「…………」 「いったい何を躊躇してんのさ。別に余命数日ってわけでもないくせに」 「…………」 「戒、聞いてる?」 「ああ」 余命数日……その言葉が胸に重くのしかかる。未来は確かに分からないが、だからといって根拠のない楽観をする性分でも生憎ないんだ。 「言いたいことは分かったし、理解してるよ。ありがとう」 「つまり、否定はしないんだね」 「しないよ」 「なんで行動しないのかっていう、理由はともかく」 「せめて君にだけは、はっきり言っておくよ霧咲さん」 彼女の目を見て、僕は告げる。 ここで自分の気持ちを吐露することに躊躇はまったく持っていないし、その行動には意味があると知っているから。 「僕はベアトリスが大事だ。その通りだよ、間違いない」 「螢も彼女も、絶対不幸にはさせないと誓っている」 それこそが櫻井戒の魂で、嘘偽り無い真実のカタチ。 君にはそれを、よく理解しておいてほしいんだよ、霧咲さん。 「それで、いったい何を内緒話してたの、戒」 鏡花ちゃんがバイトへ行くと言って去った後、螢の保育園に向かう道すがら、私はそんなことを尋ねていた。 「別に。なんでもないよ、些細なことさ」 「君こそこの一週間、本当は何処で何をやってたんだい?」 「だから言ったでしょう、里帰りよ。信じられない?」 「嘘ではないと、思うけどね」 含むように言って、目を閉じる戒。何を考えている、というか何を読まれているのか気になって、私は無言のまま促した。 「それで全部じゃないだろう。霧咲さんの前じゃ言えないことがあったはずだ、そこを聞きたい」 「私の両親はもういなくて、本当はお墓参りだったってこと?」 「もっと言えば、この手で殺した親と兄に懺悔してたってこと?」 「鏡花ちゃんが言うような、自慢の娘なんかじゃ全然ないって、そういうことを言えばいいのかしら」 「違うね」 語調を強めて一蹴しようとしたのだけど、困ったことに戒はまったく引いてくれない。ただ静かに、私の胸を指差して言った。 「君の家族はそこに在る。故郷に墓があっても中身は空だ。理屈が通らないよベアトリス」 「懺悔なら、君は五十年間ずっとやってきたはずだ。いや、おそらくは今だって」 「それをいきなり、この時期に、形だけの墓を参りに里帰りする意味なんかない。嘘はもうちょっと上手くつきなよ。誰もそんなの信用しないぞ」 「…………」 この子は……五十幾つも年下のくせに、お説教なんかやめてほしい。そんなことを言われたって、真実を話せるわけがないじゃない。 これは誰にも、特にあなたには知られたくないことなんだから。 「正直、危なっかしくて見ていられない。今みたいな出来の悪い誤魔化しを、君はバビロンにやるつもりか? 即座に見抜かれるぞ、いや、彼女だけならまだいい」 「タチが悪いのは聖餐杯だ。あれに目をつけられるような行動は控えてほしいし、だからこそ本当のことを言ってほしいと思うんだけどな。でないといざというとき力になれない」 「……あなたもなんだか、色々言うようになったわね」 まるで兄か何かのように。どうして私って、幾つになってもこういう扱いなんだろう。昔から、親しい相手には必ず出来の悪い妹のような対応をされる。 上官にも、戦友にも、そして幼馴染にも…… 単に私が、世話好きの相手に弱いというだけなのだろうか。 「まだ二十歳前の子供に心配されるほど、柔じゃないつもりだけど」 「そんなに変なことかしら? やっとこれで終わるから、ケジメとして過去を強く再認したかったっていうことが」 そしてだからこそ、私は彼らみたいになりたくて、世話好きっぽく立ち回ろうとするのかもしれない。 「君の望みは家族の蘇生だって、そう聞いた」 「そうよ。だからお墓に中身はなくても、自分がやったことを目で確認するのに意味はあるわ。あまり買い被らないでよ、戒」 「私はそんなに強くない。目で見て、触れて、そういうことが大事なの。形のない信念とか、それだけを頼りにやっていくには、五十年って長すぎる」 「この気持ち、若いあなたには分からないわよ」 私が危なっかしいという戒の所見は、私が高潔な人間性を持っているということを前提にしている。だったらそれは、言った通り買い被りだ。 持ち上げつつ駄目出しとか、奇妙なことはやらないでほしい。 「そうかな。そうかもしれないけど、君を買い被ってるとは思わない」 「正直なところ、蘇生が望みだってことすら疑わしいと思ってる」 「そういうの、騎士道ってやつと相反するんじゃないのかなって」 「つまり私は、どこまで言っても殺す側の人間だって言いたいの?」 「戦う人だって言ってるんだよ」 「同じじゃない」 「違うよ、少なくとも僕にとっては」 「自分の都合で、自分の過去を全部なかったことにしようとか……そんな思考を君が持っているとは思えないな」 「そういう人は、ケジメなんて言葉を使わないような気がするよ」 「…………」 暖簾に腕押しとは、きっとこういうことを言うのだろう。あるいは、全周包囲とでも言うべきだろうか。 あまり口数が多いタイプじゃないくせに、一つ一つが嫌になるくらい急所に届く。彼が私たちの時代に生まれていたら、きっと優秀な指揮官になっただろう。 だけど彼は現代の子で、それは幸せなことなんだから、今時の若者らしく生きてほしいと願うのは間違ったことじゃないはずだ。 「じゃあ」 「仮にそうだとして、私の望みっていったい何なの?」 「そう言われると、分からない」 「だったらあなたの気のせいってことよ。買い被ってるって言ったでしょう」 「蘇生か不死身か、私たちが手にできる奇跡はそれだけで、私の望みは前者」 「まあ、後者はどう考えても違うだろうしね。ガラ云々の話じゃなくて」 「そっちが本命なら、偽る理由が全然ないもの。つまりあなたの勘繰りすぎで、議論の余地無しよ」 「確かにその通りで、そうなるんだけどね」 「でも、僕は一番の新参だから、まだ知らないことがあるのかもしれない。君とだって、二年程度の付き合いだし」 「だったらなおさら、女性に向けて変に美化した発言は慎むこと。私だからまだいいようなものの、下手したら勘違いされちゃうわよ」 「実際、あなたがそんなだから私ちょっと困ってるもの。知らない子に、すごい目で睨まれたことあるし」 「それはこっちも同じだよ。僕だって学校の男連中から目の仇にされてるし。君から見たら全員孫みたいなものだろうからしょうがないけど、振られた奴らはそう思わない」 「いったいこれまで、何人ばっさりやったんだか」 「そういうあなたこそ、何人の女の子を泣かせたの? 私、知ってるわよ。今日だって」 「あれは仕方ないよ」 「ええ、仕方ないわね。でも気に入らない」 まるで普通に生きることをとうに諦めているような彼の態度は、正直かなり腹が立つ。 「自分には先がないかもしれないから、出来るだけ冷たく突き放す。特に今は、しばらく休んでくれたほうがありがたい」 「なんてね。正しいけど、褒めたくないわよ。あなたはそんなこと気にしなくていい」 「すぐに冬休みが始まるから、ギリギリなんとか犠牲は防げるはずだもの。私がそういう風にしてあげるし、あなたは普通に学生時代を楽しみなさい。二度とないのよ、青春って」 「それに未来もね。鏡花ちゃんが言ってたでしょう。ネガティブ禁止」 「要は、もっと歳相応にしなさいってこと」 「…………」 「なんだか保護者みたいに言うよね、君は」 「だって私、もともとはあなたの監視を命令されてここにいるんだもの」 それに、くどいようだが私のほうがだいぶ年上なのだから。 あなたが私の心配なんてする必要はまったくないし、少しは年長者を立ててほしいと思うのだ。 「櫻井の三代目は危うい。全部捨てて逃げようとした二代目の例もある、かい?」 「まあ、感謝はしてるよ。下手をしたら螢を人質に取られるところだったし。……いや、それは今も変わらないのかもしれないけど」 「その役目が君でよかった。……とは思ってる。これは本音」 言って戒は微笑むが、次の瞬間にそれは霞のように消えていき、あまり聞きたくない相手の名前を口にした。 「ただね……命令の出所が聖餐杯。それが僕は気に入らない」 「…………」 「なんでわざわざ君みたいな、話の分かる人を傍につけてくれたのか。僕に対する温情? 違うだろう」 確かに、あの男が難物なのは分かっている。そう、分かっているつもりなのだ。私だって。 「マレウスじゃあ、何をするか分からないからでしょう。他に適任がいないもの」 「そうだね。その通りだけど」 「言ったでしょう。あなたは暗く考えすぎなの。子供はもうちょっと楽観してなさい。少しは鏡花ちゃんを見習ったら?」 「霧咲さん、ね」 その名を出した瞬間に、戒は微妙な表情になる。こちらとしては話題を変えようと日常の代名詞的な彼女のことを口にしたのに、そんな真顔で歯切れの悪い反応をする必要があるのだろうか。 私は不審に思ったけど、結局そのまま行くことにした。務めて気楽に話を続ける。 「そう。で、これはついでに訊くんだけど」 「どうしてあなた、あの子だけは拒絶しないの? 一年前に彼女が転校してきたときから、何かと世話を焼いてたわよね」 「違うよ、向こうが一方的に絡んできたんだ」 「違わないわ。だって何だかんだ言いながら、相手はしてるようじゃない。あの子もそれが嬉しそうだし」 「私が思うに、彼女、戒のことが好きなんじゃないかって」 だったら彼は、鏡花ちゃんのことをどう思ってるのかなって、ちょっと気になる。 だってほら、青春に恋愛って必須でしょ? 私はそういったものを得ることが出来なかった人間だから、戒には無駄にしてほしくないと思うのだ。 だというのに。 「やめてくれよ、ありえない」 そんなずっぱり否定しなくてもいいじゃない。鏡花ちゃん、可哀想でしょ。 「またまた、もてもてのくせに謙遜しちゃって」 「…………」 「変な子ね。嬉しくないの? あなたの事情はともかく、そんな困った顔するようなことかしら」 「困るよ。だって分からない」 「どうして自分なんかに興味を持つのか? 簡単よ」 「女の子は、我慢してる男の子に敏感なの。あなたがみんなを大事にしてるのは伝わるし、何かを抱え込んでいるっていうのが分かるから」 「それが気になって、放っておけなくなっちゃうのよ。別に頼りないって意味じゃなく」 「ただ、夢が見たいだけ。自分だけが気付いてる。自分だけが知っている。自分にだけは話してくれて、自分だけが力になれると思いたい」 「浮世離れした雰囲気と、そんな人の特別っていうポジションに弱いからね。あの年頃の女の子全般は」 「まるで自分にも経験があるみたいな言い草だね」 「そりゃ、まあ、ねえ……多少は」 私の場合、相手は同性だったけど。誰よりも自分を律し、恐ろしいほど厳しかった反面、実は優しい人のことを知っている。 総ては、あの人を取り戻したいと思うからこそ…… 「て、私のことはともかく、質問の答えは? なんで鏡花ちゃんだけ特別に扱ってるの?」 「…………」 「戒、もしかしてあの子のこと好きなの?」 「僕は……」 その時、だった。 「きゃ――」 私たちのすぐ間近を、道幅一杯占領するほどの大型トラックが猛スピードで走り抜けた。 「とっ――」 「けほ、けほ、あーもう、なんですか今の、乱暴な運転は」 巻き上がった埃と排気ガスにむせながら私は毒づく。 「あんなスピードで危ないじゃ――」 瞬間―― 「―――――」 「……ん? どうした、ベアトリス」 「今の……なんだか」 脳裏を過ぎった映像に、私の中の忌まわしいモノがざわついているのを感じ取る。 水銀の〈薫陶〉《くんとう》、カール・クラフトの遺産が高笑いしているような気がしてきて…… 「……多いな。もしかして、霧咲さんが言ってた博物館の搬入用か? それにしては随分と仰々しいけど」 「……………」 「早すぎる。まさかそんなこと……」 「なんだって? ごめん、よく聞こえなかったけど」 「行きましょう、戒。螢が気になる」 「え、ああ。でも……」 「いいからっ」 叫んで、私は戒の手を掴むと走り出した。 「ちょ――おい、ベアトリス」 「はあ、はあ、はあ――くそっ」 我ながら、見通しの甘さに目眩がしそうな心地だった。 まさか、嘘でしょ。連中、あんな物を持ち出すなんて。あれは間違いなく、何か凶悪な爆弾だ。 なぜなら、水銀の声が聴こえるのだ。気をつけろ、あれは〈蛇と獣〉《わたしたち》すら殺せる〈刃〉《モノ》だと。 指差して嘲りつつ、この状況を俯瞰して喝采する悪魔の意思が私の魂を嬲っている。 よくぞやった素晴らしい。流石は黒円卓の〈死神〉《ヴァルキュリア》――ラインハルト・ハイドリヒの忠臣とは斯く在るべしと讃えながら。 だとしたら、ああだとしたら洒落じゃすまない。どうしてあの連中がそれほどの物を知っていて、運用できるのか分からないけど答えは一つだ。本気ということ―― ああ、もう、やってくれるじゃない。面白くなってきたわよ、嫌になるほど。 確かにこれなら、敵として申し分ないでしょうしね。だったらお望みどおり、相手をしてあげるわよ。待っていなさい。 湧き上がる焦燥を抑えながら、私はただ前を見据えて駆け続けた。 「あらあら、見てよ慌てちゃって。おかしなものね、自分で招き寄せておきながら」  走行中のリムジンから、女は走り去っていくベアトリスの背を見送って失笑した。 「状況認識がだいぶ甘いんじゃないかしら。呆れてしまうわね、あれで大戦の英雄だなんて。私の目には、見た目どおりの小娘にしか思えないのだけど、アルフレート」 「ああ、ごめんなさい。いいわよね別に、呼び捨てでも」 「無論、構わんよ〈ご婦人〉《フラウ》。いや、〈アメリカ流〉《そちら》に倣ってミズがよいかな?」 「どちらでも。なんなら端女呼ばわりでも構いませんことよ。紳士の評価に異は唱えません。――で?」 「あの様についての所見かね? 君と同感だよ。あまりの間抜けぶりに失笑するしかない。が、それは彼女だけに言えることではないな。あれはあの連中に共通する病理だよ。ある種の本能が欠落していると言うか」 「平たく言うと、舐めている」 「然りだ。君の想い人もそうだったろう。彼らは無痛症の患者に似ている。もしくは逆に、永劫癒えない痛みを抱えた病人か。 恐怖と危機感が狂っているのさ。度外れた例外というものを魂に刻み込まれているからね。針で刺されても気付かない。それに毒が塗られているかもしれないと、そんな可能性すら描けない」 「あるいは、自らが毒蛇の眷属だという自負なのかもな。己に天敵など存在しないと、思い上がっている。ゆえにあの様だ」 「ならアルフレート、私たちが勝利するのは容易だと?」 「さて、どうかな。暗殺ならばそうかもしれんが……」  言いながら、ワイングラスを優雅に煽って、アルフレートはジェーン・ドゥに流し目を向ける。 「君は違うだろう、フラウ。愛しい男と踊りたくてしょうがない。陰から狙い打つなど思慮の外だ」  指摘に、ジェーンは肩を震わせ笑い出した。 「ふふ、ふふふふ、あはははははは……ええ、ええそうよ、ご名答。何せ二十年ぶりの再会になるんだもの、着飾って、媚態を見せて、跪かせて骨まで溶かさないと気がすまないわ。ねえ、あなたもそうでしょうアルフレート。平気そうな顔をして、本音は今すぐあの子を追いかけたがっている」 「まあ、否定は出来んね。目敏いことだ」 「女の勘よ。恋する男には敏感なの。あなただけじゃなく、もう一人の坊やもね」 「フォルカーか? 確かにあれは焦がれているね。チャウシェスクの子供たちが、マンホールで暮らしていたのは知っているだろう」  七十年代から八十年代にかけて、ルーマニアの治安と困窮が最悪のレベルだったことは広く知られている。独裁政権下において食い詰めた者らは家を失い、飢えと寒さを凌ぐためマンホールの中で共同体を築いていた。フォルカーもまた、その一人だったのだろう。 「あの男はそこで、魔女に仲間たちを食い殺されたらしい。それこそ一人残らずな」 「へえ、でもだったら、どうして彼だけ生きてるの?」 「知らんね。私にとってはどうでもいいが、気になるなら尋ねてみるといい。どうせ答えは返ってこん」 「分かっているのは、件の魔女にあれが執着しているという事実だけだ」 「あなたが彼女を想うように?」 「君が彼を想うように」 「つまり、殺したいほど愛しているのね。ああ、素敵な話じゃない」  初めて会ったとき、そこにいない魔女とやらを想いながら欲情していたフォルカーのことを思い出す。形は違えど、自分もまた似たようなものであろうとジェーンは思い、彼の純情に賛辞を送った。 「だけど私がさっき言ったのは、別の坊やのことよ。 見たでしょう? あれはあなたの恋敵」  ベアトリス・キルヒアイゼンと共にいたもう一人のこと。その人物を指して恋敵と言われたアルフレートは、器用に片眉をあげてジェーンを見る。 「あの少年かね? 彼が私の?」 「そうよ、どうする? 彼女と踊る権利を賭けて、決闘でもするのかしら?」 「まさか。もはや私に、そのような若さはないよ」  重厚な、年輪を感じさせる諧謔味を浮かべるアルフレート。緩やかに首を横へ振りつつも、渡す気はないと含み笑う。 「だが、間男がいるというなら対処はするさ。すでにそのための手は打ってある。邪魔などさせんよ。何せ五十年はこちらが先約なのだからね」  彼はベアトリスと同年輩。外見年齢はかけ離れてしまったが、正しく同じ時代を生き、そして今では致命的に道を違えてしまった竹馬の関係なのである。  昔のまま美しく、彼女は変わらず愚かしく、そしてだからこそ嘆かわしい。  そう呟くアルフレートは、いま停車したリムジンの中で異様な光を目に湛えていた。  そのまま、傍らのジェーンへ告げる。 「さあ、行こうかフラウ。待ちわびた戦場に到着だ」 「ええ、そうね。それはいいけど……」  この場にいないもう一人のことをジェーンは尋ねる。 「局長さんは何をしているの? この国に着いてからずっと姿が見えないわ」 「ああ、それなら至極単純なことだ。戦に先駆ける常識だよ」  先にリムジンから身を降ろし、洗練された紳士よろしくジェーンの側のドアを開けて、アルフレートは問いに答えた。 「宣戦布告をね、しにいったのさ」  彼女の趣味は知っているだろう、――と、獲物を狙う猛禽の声で。 「O Tannenbaum, O Tannenbaum」 「Wie treu sind deine Blatter」 「Du grunst nicht nur zur Sommerzeit」 「Nein auch im Winter wenn es schneit」 「O Tannenbaum, O Tannenbaum,」 「Wie grun sind deine Blatter!」 ブランコを漕ぎながら歌っていた女の子は、視線を感じてそちらの方へと目を向ける。 「……なに?」 「へ?」 「さっきから、なんでずっとこっち見てるの?」 「え、あ、だって……」 「君、だれ?」 「わ、わたし、螢」 「知らない」 「はう」 「知らない子が、変な棒切れ持ってこっち見てる。怖い」 「ち、違うよ。これは棒切れじゃないよ。竹刀だよ」 「しない?」 「うん。えっとね、こう持って、こうやって、えいやーってやるの」 「…………」 「かっこいいんだよ」 「…………」 「強いんだよ」 「やっぱり危ない子だ」 「危なくないよぉ」 「どう見ても変質者にしか思えない」 「へんしつしゃ?」 「子供の敵。女の敵。見つけしだいお巡りさんにつーほーして、逮捕してもらう人のこと」 「たいほって?」 「カツ丼が食べられる」 「カツ丼……わたし親子丼のほうが好き」 「えっとね、戒が作ってくれる親子丼がおいしいの。ベアトリスも作れるんだけど、戒のほうがお料理上手なの」 「意味が分からない。これだから子供は」 「君が知ってる人のことを、わたしも知ってて当たり前みたいな言いかたされても困る。あたまの悪さがにじみ出てる感じ」 「わたし、あたま悪くなんかないもん。九九だって、ぜんぶ言えるもんね!」 「そんなものはわたしだって、はるか昔に通った道」 「ううぅぅ~~」 「まだなにか?」 「え、えっと、じゃあお名前、なんていうの?」 「教えない」 「危ない人に名乗っちゃ駄目だって、リザに言われた」 「リザ? それってお母さん?」 「違うけど、リザはリザ」 「そ、そっちだって、わたしが知らない人のこと、当たり前みたいに話してるじゃない」 「さっき歌ってた歌のこと、聞きたかっただけなのに……」 「いじわるなことばっかり言うよね。そんなんじゃ誰もお嫁にもらってくれないんだから」 「ふぅー」 「精一杯あたまを絞って、出てきた悪口がその程度」 「君はこう、きっと将来、色んな人からあたまの出来を心配されることになると予言するよ」 「むむむむむむ……」 「それで、歌のことだっけ? 知りたいの?」 「うん」 「教えない」 「むがー!」 と、螢が癇癪を起こしたそのときだった。 「O Tannenbaum, O Tannenbaum,」 「Du kannst mir sehr gefallen!」 「Wie oft hat schon zur Winterszeit」 「Ein Baum von dir mich hoch erfreut!」 「O Tannenbaum, O Tannenbaum」 「Du kannst mir sehr gefallen!」 「え?」 「…………」 いつの間に、そして何処からかやって来た少女が一人、螢と玲愛の前に現れて微笑みかける。 「ごきげんよう。はじめまして、お嬢ちゃんたち」 「え、あ……」 「今の歌……」 「ええ、こっちのお嬢ちゃんが上手に歌っていたわよね。時期にあってるわ、クリスマスソングよ」 「クリスマス? それってジングルベールじゃないの?」 「英語ならその通り。だけど今のは、ドイツのジングルベル。日本じゃあまり有名じゃないようだけど」 「ねえお嬢ちゃん、あなたよく知ってたわね。ご家族にドイツの方でもいらっしゃるのかしら?」 「…………」 「あなた、誰?」 「関係ない人が、ここに入ってきちゃいけないんだよ。そういう人を見つけたら、大声出しなさいって先生たちに言われてるんだから」 「あ……」 「それにこの子、竹刀持ってるんだから。強いんだってよ」 「そ、そうだよ。わたし強いんだからね」 「あらあら、うふふふ、あはははははは……」 「ずいぶん利発で、ずいぶん勇ましいお嬢ちゃん達ね。でも二人とも、見てごらんなさいな」 「先生ならあそこにいるし、ほらそこにも、向こうにも。だけどだぁーれもなぁーんにも言わないわよねぇ」 「てことはお姉さん、つまり関係ない人じゃないってことになるんじゃなぁい?」 「…………」 「ねえ、そう思わない? そうでしょう?」 「それは、そうかも、しれないけど……」 「じゃ、じゃあ、ここの誰かのお姉さんなの?」 「もしそうなら、なんでわたしたちのところにきたの?」 「なぜってそれは、あなた達が可愛らしいから」 「わたしね、子供が大好きなの。だって大人は汚いのよ。いつも危ないことや悪いこと、いやらしいことや恥ずかしいことを考えてるの。優しそうな顔をしてね、真面目そうなふりをしてね、一皮むけば誰にも言えないようなことばかり」 言いながら、ジークリンデは二人に近づき…… 「わたし、そういうのが分かるのよ。分かっちゃうから子供が好きなの。ふふ、ほら、あなた達みたいに綺麗な子がね」 「――――ぃ」 「ひゃ―――」 す、と撫でるように顎先を触れられた螢と玲愛は、短い悲鳴をあげて硬直した。 それは特別、何か危険な行為というわけではないけれど、わけもなく総毛立ったのだ。まるで首を刈られるような心地を覚えて…… 「なぁに、驚いた? 怖がってるの? 気持ち悪いなんて傷つくわぁ」 「な、なんで……」 「わたしが、考えてること……」 「だから言ったじゃない。わたし分かっちゃうのよ、そういうのが」 「たとえば、ほら、あそこの先生。桜組のよし子ちゃんを脱がして舐めて突き殺したいと思ってるわねえ。まあ男なんて大なり小なり似たようなものだから、そんなに危ないわけでもないけれど、これからは少し注意して見たほうが賢明よ」 「それよりあっちの先生は、不倫でだいぶ参ってるわねえ。ああ、不倫って分かる? 契約外交渉ってことだけど、このままじゃ数日以内に手首切りそうな感じだわ。大変よねえ、大人って」 言っている意味は、無論のこと子供の玲愛らには分からない。だが二人は、まるで地面がなくなったかのような感覚に囚われていた。 この人は怖い。その目が、声が……自分たちの頭を貫いてくるような気がしてくる。 目を閉じても、耳を塞いでも、まったく関係なく心に直接響いてくるのだ。 「螢ちゃん、玲愛ちゃん、二人はあんな大人になっちゃあ駄目よ」 「これはお姉さんとの約束」 「え……」 「これ、なに……?」 ジークリンデが首にかけている奇怪な形のペンダント……それとまったく同じ物を、螢と玲愛は手渡された。 「綺麗でしょう? わたしのお守り。頭が二つある鷲なのよ、今のあなた達と似てるわね」 「ドッペルアドラー」 その名に、意味も分からず胸が締め付けられるようで。巨大な鳥の爪に掴みあげられてしまったようで。 「うふ、うふ、うふふふふふ……」 「可愛い可愛い小鳥ちゃん達、わたしの伝言板になってちょうだい」 「ヴァレリア・トリファに、リザ・ブレンナーに、ベアトリス・キルヒアイゼンに、櫻井戒に、伝えなさい。皆殺しにしてあげるから」 「ジークリンデ・エーベルヴァインがやってきたわ」 「ひっ――ひゃ……」 「う、ゃ……」 「そう、蛇の眷属は淘汰されるの。猛禽に毒は効かないと知りなさい」 「これ、大事なことよ。いい、しっかり伝えてね」 「うふふふ、あはははは、あははははははははははは―――!」 頭蓋を貫通する高笑いが、突風のように螢と玲愛へと吹き付ける。その残響が消えた頃、ジークリンデは影も見えなくなっていた。 そして―― 「―――螢!」 「大丈夫? どこも怪我とかしてないわよね!」 「わた、わた、し……ベア、トリス……わたし……」 「やだ、やだ、死んじゃやだああああああ」 「死ぬって……」 「大丈夫よ、そんなことないから」 「え、えぐ……ほんとう?」 「うん、約束するから」 「う、うぅぅ、よかったあああああ」 泣き崩れる螢を優しく抱きしめながら、安心させるように言い聞かせるベアトリス。 「ええ、大丈夫。大丈夫だから……」 「…………」 「あの、わたし、わたしは……」 「――玲愛!」 「どうしたの、これはいったい――」 「見ての通りですよ、シスター」 その場に落ちていた鷲の紋章……ジークリンデの置き土産を手にとって、戒はリザへと向き直る。 「これについては、あなた達のほうが詳しいでしょう。聖餐杯……いや、神父様に話を通してもらえませんか」 「どうせベイやマレウスも、じきにやってくるんでしょう」 「――戒!」 「やめてよ、お願いだから……この子の前であんな奴らの話をしないで」 「…………」 「ああ、すまない」 「だけどこれは、もう確定だ。そうでしょう、シスター」 「……ええ、そうかもしれないわね」 「リザ……?」 不安そうに、だが螢と比べれば遥かに落ち着いて見える玲愛の様子に、リザは悲しげな笑みを漏らした。 「まったく、あなたは……そんな顔して……」 それは年齢を考慮すれば、ありえない胆力と言うよりはむしろ鈍さで……そういう子供の態度にリザは古傷が疼くのだ。 「少しくらい、泣きなさいよ。でないと私も、やるしかなくなっちゃうじゃないの」 ああ、似ている。やっぱりこの子は、あの子と同じ。 あれの血を引いている、鉤十字の子なのだと…… そして、その深夜…… 「や、アイン! や、ツヴァイ! や、アイン! ツヴァイ! ドライ! フィーア!」 「Wir sind das Heer vom Hakenkreuz, Hebt hoch die roten Fahnen. Der deutschen Arbeit wollenwir Den Weg zur Freiheit bahnen」  街道を高速で飛ばす〈車〉《ベンツ》の中、軍歌を奏でる少女の声が木霊する。曲調は勇ましいが、声が可愛らしいので何か馬鹿にしているようにしか聴こえない。  それを―― 「うるせえええええ! てめえ、さっきからやかましいんだよマレウス。ちったあ大人しくしてろやクソが」 「うわっと、と、ちょ、なーによ、いきなり蹴ることないじゃない」  背後からシート越しに苦情の一撃を受けたルサルカは、頬を膨らませて振り返る。 「せっかく久しぶりの再会なのに、ノリ悪すぎじゃないのさっきから」 「あー、知るか。俺ゃ眠いんだよ。ほっとけ、そして口閉じろ」 「うわ、態度悪いわねー、この不良。だらけてるにもほどがあるって感じじゃない? ねえ、あなたもそう思うわよね、シュピーネ」 「さて、私からは何とも言えないところですがね」  先ほどからあからさまに不機嫌なヴィルヘルムに辟易し、代わりにルサルカが話しかけたのは運転席でステアリングを握っている細身の男だ。  そのシュピーネは苦笑で応じつつも、揶揄するように混ぜ返す。 「ベイ中尉の気持ちも、少しは理解できますよ。はたして今回、我々が集う必要などあるのだろうかと」 「んー、それどういうことよ。ベルリンから半世紀が節目だって、わたし達は聞かされていたはずだけど?」 「無論、確かにそうですがね。ゆえ、こうやって、召集に応じているのは事実です」 「が、私は正直、解せません。ゾーネンキントはまだ幼すぎる。そうした常識でものを言うつもりもありませんが、なんとはなしに気が引き締まらないのはあなたもでしょう。どこか状況が弛緩していると言いますか」 「要するに、やる気が出ないってことでしょう? 否定はしないけど、いわゆる平和ボケってやつじゃなぁい?」 「マレウス、お惚けもあなたの魅力の一つですが、私は素直な女性の方が魅力的だと思いますよ。ずばり端的に言い直しましょうか」  あくまで運転手として前方の景色のみを眺めながら、しかしシュピーネは事態の核心を口にした。  それは彼ら黒円卓の者にとって、他の表現を百万言用いるより説得力のある人名。  すなわち―― 「怖くないのですよ。この私が、欠片ほども。とてもハイドリヒ卿が近く在るとは思えない」 「…………」 「そうでしょう、ベイ中尉」 「てめえと一緒にされたかぁねえが……」  ラインハルト・ハイドリヒを感じない。その絶対的事実を前にヴィルヘルムは頷いた。もとよりそれが、彼にとって不機嫌の原因であったのだから。 「ああ、そうだな。同意するぜシュピーネ。ここにゃあ欠片もあの人の気配を感じられねえ」 「すでに数分前から、シャンバラに入っているというのにねえ。まるで何の変哲もない深夜のドライブとしか思えません。これは不思議だ、有り得ない。黄金の下へ参陣する恐怖と昂揚、緊張感……それらを残らず忘却するとは、はてさて、私はいつからこれほど豪胆な男になったのでしょう」 「ゆえ、先ほどから苦笑いが止まらない。もういっそのこと旧友二人と、呑気な観光にでも切り替えようかと思っているところですよ」 「冗談抜かせ」  笑い話にもならない提案に、ヴィルヘルムは鼻を鳴らしながらかぶりを振って吐き捨てる。 「んーな茶番に付き合ってやる義理はねえぞ。マジに肩透かしなら俺ァ帰るぜ。なあ、おまえもそうだろうがマレウス」 「どうかしらねえ。とりあえずあなた達が、面白みのない男だってことは分かるけどさ」 「ほう、ではマレウス、あなたはこの状況における楽しみ方に心得があるとでも?」 「あるわ。人間、大事なのは好奇心よ。仮に今回、空振りだったとしましょうか。いえ、実際ほぼ間違いなくそうでしょうけど、だからといって無駄足とは限らないわよねえ」 「て、いうと?」 「なぜわたし達は呼ばれたのか」  すなわち、自分達を呼んだ者の真意は何かと提起する。 「クリストフを舐めすぎなんじゃないの、お二人さん。あの変態が、意味もなく、動員かけてはい解散? 馬鹿言っちゃいけないわよ。あなたの台詞を借りれば有り得ないわね、シュピーネ」 「つまり、なんだ。てめえはハナから別の餌目当てにしてるってか?」 「それが何かは分からないけど」 「ふむ……まあ可能性として有り得る話ではありますね。何にせよ、私が興味を持てることかどうかは知りませんが」  肩をすくめて嘯きつつ、助手席のルサルカへちらりと目をやると、シュピーネは続きを意味深調に付け足した。 「ええ、確かに。聖餐杯猊下を舐めてなどいませんよ。私は私なりに、あの方を理解しているつもりです。あなたよりはね、現実主義者のつもりですから。マレウス」 「ふーん。何か引っ掛かる言い方だけど、別にいいわ。結局のところ大事なのは、楽しめるかどうかだから。あなたもいい加減、しゃきっとしなさいよベイ。少なくともクリストフが、わたし達を呼ぶ程度の遊びを用意してくれるんだからさ」 「は……なんか知らんが胡散くせえ話だなあ、おい」 「そう言わず、ここまできたら期待してみませんか? そんなことでは、またしても奪われてしまいますよ、中尉」 「くはっ、かははは、言ってろよ」  意地の悪い同輩の軽口に、牙を剥いて笑い飛ばすヴィルヘルム。そのまま大仰に首を振って、シュピーネが言う可能性とやらを否定した。 「そりゃ前提からして無茶くさいぜ。そもそも俺が欲しがるような奴なんざ、そうそうは――」 「……あん?」  そのとき彼の目が――いいや嗅覚が捉えたのは何だったのか。 「なに?」 「どうしました、中尉」 「今のぁ……」 「おや?」 「今度は?」 「あははは、困りましたね。ハンドルが効きません」 「あらまあ」 「さぁて、これはいったい、何事でしょうか」 「狙われてる? ひい、ふう、みいの……」 「三十人弱、小隊相当」  車両を包囲するように照射される殺意の数を即座に数え、ヴィルヘルムは口元を吊り上げる。衝き上げる暴力への渇望が、先ほどまでの厭世な態度を一片残らず駆逐していた。 「ふふ、ふはははは、ははははははは――面白ぇじゃねえか。さっきすれ違ったガキ、カタギじゃねえよなあ、匂いで分かる」 「いいぜ、暇してたとこだ。歓迎しようや。身の程知らずがァ、吸い殺してやるよォ!」  瞬間、夜を銃火が引き裂いた。 「はっはァ――」 「――と」 「やれやれ」  全周からの一斉射撃を前にして、頑丈をもってなるドイツ車のフレームも紙細工のごとく千切られる。爆発炎上する車体から寸前で離脱していた三人は、無傷どころか埃ひとつ被らないまま路上に着地を決めていた。  そして、そこに静かな歩みで近づいてくる男の影。 「我ら、肉に宿り立つ者なれど、肉に支配され戦う者に非ず」  炎上する破壊の爪痕を背負いながら、男は厳かに呟いた。  僧形――だが、言うまでもなくこれは真っ当な聖職者ではない。彼らの信仰を守るため、敵を撃滅する殺し屋だ。 「我らの聖戦は肉に依る業でなく、ただ主のために如何なる要塞をも破壊する力である。主の知恵に反し、主の〈御稜威〉《みいつ》を侵した逆徒よ、その総てを打ち壊し、総ての不道徳を処罰しよう」 「死者よ、汝の棘は〈何処〉《いずこ》に在りや。汝の勝利は、〈何処〉《いずこ》へと……」  紡ぐ言葉は聖句だろうか。しかし聞いたことがない祈りである。  その手の知識に疎いヴィルヘルムやシュピーネはともかくとして、ルサルカまでもが眉を顰めて訝るほど、それは奇怪で、どこか何かがズレていて…… 「墓へ、落ちるがいい。今より断頭の刃を執行する」 「―――ぬ?」 「え……?」 「これは……」  処刑を告げる断罪に、三人は有り得ない鐘の音を聴いていた。 「フリストス・アネステ・エク・エクローン……ファナト・ファナトン・バーチサス」 「我ら死を以って死を滅ぼし、墓の王に定命の理を与える者なり」 「ケティス・エンティス・マシ・ゾイン……ファナト・ファナトン・ハリサメノス」 「来たれ、ハリストスの前に伏し拝まん。我が魂よ、何ぞ悶え泣き叫ぶや」 「我らを攻むる者 我らに楽しみを求めて言えり。今こそ、我が為に――」  輪唱する祈りは一人のものではない。重なり合うそれが鐘の音に反響して音叉のように夜を震わし、黒円卓の戦鬼たちから何かの感覚を奪い取る。  代わりに感じたのは、奇妙なことに安らぎだった。まるでその手に抱かれ、永劫の眠りにつきたいと狂おしく願いかけてしまうほど……こんな気分を味わったのは彼らにとって二度目だった。  そうだ、これは半世紀以上前、究極の二柱から味わったものと酷似している。  かつて感じたそれは絶望的なまでの恐怖と昂揚の混交だったが、しかしこれは、この安らぎは……  質として正反対の位相でありながら、念の規模は劣らない。  つまり、黄金と水銀に匹敵するほどの何かだという……  有り得ない。有り得ないぞ、そんなものがあって堪るか。愕然とする三者の前で、いま聖句の終言が括られる。 「シオンの歌を歌えよ、アリルイヤ!」  そして今、ここに断頭の刃が落とされた。 「くッ………」 「ほぅ、これはこれは……」 「思ったより、やってくれる。ふふふふ……なるほど愉快じゃあないですか」 胸を貫く衝撃に顔を歪め、だがヴァレリア・トリファは愉快げに含み笑った。 「まずはお見事。しかし私の鎧を剥いだところで、その剣、ここまで届きますかねえ」 「聖餐杯は壊れない。私は永遠に歩き続ける」 「あなた達ごときが万人集まってきたところで、この身を断罪など出来はしない」 「何せ――」 「―――ヴァレリア!」 「状況を!」 「ああ、はい……無論分かっていますよ。そう浮き足立たず、落ち着いて」 「ほら二人とも、キルヒアイゼン卿を見習ったらどうですか」 「…………」 「流石は流石、黒円卓のヴァルキュリア。実に泰然としておられる。頼もしいですよ、本当に」 「私は……」 「さあ、それでは状況に対処するとしましょうか。なに、ベイ達ならば心配無用。まさか死になどしないでしょう」 「彼らが着くまで今少し……テレジアは寝かせましたか? あの可愛らしいお嬢さんは?」 「子供に見せるものでも、聞かせる話でもありません。まずはそこから、総てはその後」 「リザ、カイン、あなた方はそのように」 「そして……」 「…………」 この場にいるもう一人、本日の主役とでも言うべき戦姫に目を向け、彼女の反応を楽しむように目を細める。 ベアトリスは一歩踏み出し、探るような声でトリファに問うた。 「私は、何を……」 「言うまでもない。愚問でしょう」 「あなたはあなたのなさりたいように」 「だったら……」 「だったら私が、この手で敵を殲滅します。それで黄金錬成を開始すれば――」 「はあ? 何を仰っているのです?」 「何って――」 「黄金錬成など行いませんよ。時期尚早にすぎるでしょう」 「な―――」 「これはただの迎撃戦。それ以上でも以下でもない。いったい何を驚くことがあるのやら」 「あなたには、今やらなければいけない特別の事情があるとでも?」 「………ッ」 「ふふ、ふふふ、ふふふふふふふふふふ……」 「まあよい。下種の勘繰りだ。私はあなたを信じています」 「出撃を願うと言うのなら、どうぞ栄えある一番槍に」 「戦乙女は剣を執る。もって閃光となればよろしかろう。思い願ったヴァルハラを夢見てね」 「ハイドリヒ卿の御為に、見事、屍を積み上げていただきたい」 「それがあなたの、副首領閣下から賜った魔名でしょう」 「―――――ッ」 「……ヤヴォール」 血が出るほどに唇を噛み締めて、ベアトリスは礼拝堂から出て行った。それに戒が反応する。 「なッ――待て、ベアトリス!」 「おっと」 「あなたこそ待ちなさい。ここが分水嶺というやつです」 「キルヒアイゼン卿がどう動くか。ええ、無論私は信じていますが、もしもの場合、分かるでしょう?」 「……戒?」 「…………ッ」 「僕は……」 「そう、実に可愛らしいお嬢さんだ。まずは寝かしつけてあげなさいと、私は言ったはずですよ」 「そしてその後は、ふふ、ふふふふ、ははははははははははははは」 天を仰いで高笑いながら、トリファは込み上げる可笑しさを堪えきれない。 「ああ、まったくもって最高ですよ。神に感謝を」 そして、この状況を生んでくれた愚かな乙女よ。 なんと素晴らしく都合がいい。やはり自分の愛は天に祝福されている。 「〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》、〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》〈よ〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」 心底からの賛辞を贈り、黒円卓首領代行は喝采した。 「Haenschen klein ging allein in die weite Welt hinein. Stock und Hut steht ihm gut, ist ganz wohlgemut, Aber Mutter weinet sehr, hat ja nun kein Haenschen mehr. Wuensch dir Glueck, sagt ihr Blick, Kehr nur bald zurueck.」 「ちょうちょ? ちょうちょでしょ、いまの」 「ええ、正確にはその原曲。私があなたくらいの頃、よく友達と歌ったわ」  そのやり取りが、今も胸に残っている。 「告げる、ベアトリス・キルヒアイゼン――我々は貴様の要請によってここに来たが、戦場を生んだ以上、渦中に安全圏などないと心得よ。他者を利用するのならば、己もまた利用されて然りだろう」 「我々が、貴様との同盟にだけ頼り、影に隠れている無能者の集団だとでも思ったかね? 猛禽には爪も、翼も、そして嘴もあるのだよ。敵を引き裂き、殺す武器が――」 「ああ……もはや私を蝶々とは言わせん」  ええ、確かにその通り。そして私も、今や昔のような小娘じゃない。  あなたと一緒にいた日々は、もう遥か昔に過ぎ去ったのだから。 「自分の都合で、自分のために、幼馴染を生贄に捧げようと選択した。うふふふ、随分とまあ、あなたも人間らしいわね。素敵よ。なんて甘いんでしょう。アルフレートがわたしのもとにいるなんて知らなかった。そんな言い訳、全然通用しないものねえ」 「なぜならあなた、知った今でもやめようとしてないんだもの」  黄金錬成を今始める。だけどそのためには敵手が不可欠。現れないツァラトゥストラの代役として、私が選んだのはドッペルアドラー。  カール・クラフトを、双頭の蛇を、絶対の敵として狙い続けている双頭の鷲。  彼らならば―― 「同盟を持ちかけることで、動かせると思ったのでしょう。ええ、その見立てに間違いはない。だけど駄目ねえ。あなた達全員に共通する病理が、わたしには見えているもの」 「舐めているのだ、貴様らは」 「そう、舐めている。過信している。自分達が世界最強無敵だなんて、思い上がっちゃあいけないわ。ほんの五十年そこら前、たまたま蛇に出会うまでは、ただのつまらない人間だった分際で」 「何か崇高なオペラの主演にでもなった気でいたのかしら? わたし達はただの外野で、混乱を生むためだけの舞台装置。脅威になりえるはずもないし、あなたの大事な彼らは安全だと。甘い。甘い。どうしましょう。ツケはどうやって払わせましょう。せめて本当の戦場でくらい、二つ名通りに凛々しく立ち回ってね、戦乙女さん」 「そのための駒もちゃんと用意してあるんだから」  今、シャンバラは、三つ巴の戦場と化した。  脅威と言うには力の足りないドッペルアドラー……彼らと裏で盟を結び、その事実を知らない黒円卓は狩りの心境で迎え撃つ。  容易い相手だと弛緩しきった背中を突けば、労せずベイやマレウスを斃せるだろう。そして私の望みは達成されると……そう思っていたというのに。  鷲は爪を持っていた。それで私たちの鎧を切り裂いた。通常の武器では傷一つ負わないという、黒円卓最大のアドバンテージが毟り取られたことになる。  それでは駄目だ。駄目なんだ。だって危険が彼に及ぶ。 「戒……!」  知り合って二年。共にすごしてそれくらい。私の五十年に比べれば、なんでもない刹那のままごとみたいなものだけど。  その閃光が、あのベルリンから私の中に蟠っていた闇を払った。  螢が可愛い。戒が可愛い。あんな普通の兄妹が、亡霊の戦いに巻き込まれるなんて絶対に間違っている。  だから目的が二つになったの。あなた達も救いたいと思ったの。  だけど―― 「君はキレイだよ」 「ベアトリスはきれい」  やめて、やめて――言わないで。私はそんな女じゃない。  いっぱい殺して、いっぱいなくして、それでも諦められきれないまま、残骸かもしれないものを追い求めている馬鹿な女。  墓に縛られている死神みたいな悪霊だから。  せめて、死者は死者だけで。  あの綺麗な兄妹を、汚れさせてなるものか。 「じゃあ、みんな、行きましょうか。それぞれ愛しい想い人に、消えない傷を刻んできなさい。ああ、特にあなたは念入りにね。キルヒアイゼン中尉のお陰で成ったこの戦場……最大の感謝をもって返さなければ罰が当たるわ」 「だから……」 「やめろ」 「何よりも優先して」 「そんなこと……」 「彼女のアキレス、切り裂いてきなさいな、鏡花ちゃん」 「了解しました、局長」 「――させてたまるかァッ!」  そうだ、私は諦めていない。勝機はあるしまだ取り返せる。  鎧を失った今の私は、確かに弱体化をしているけれど。 「ではみなさん、これより戦を。期せずして久々の昂揚だ。存分に狂い乱れるがよろしかろう。ああ、己が死ぬかもしれないと、そんな気持ちに囚われる甘美。 実に、実に素晴らしい! これもまた、ハイドリヒ卿からの祝福と信じなさい」 「我らに勝利を」 「ジークハイル・ヴィクトーリア」  今は聖餐杯にも鎧がない。無敵の〈外殻〉《エオロー》は取り払われてる。  あの男を斃し、玉体を欠損させ、不完全なラインハルト・ハイドリヒを打ち崩す絶好のチャンスが生じたのだから。 「螢、戒……私が絶対守ってあげる。そして、待っていてくださいヴィッテンブルグ少佐。この剣が――きっと、あなたを救いますから」  強く誓いを口にして、私は戦場へと疾駆した。 「それでよぉ、幾つか確認しときてえんだがなクリストフ」 この場へ到着するなり開口一番、ヴィルヘルムは噛み付くようにそう言った。 「攻めて来やがったのは鷲の連中。んで奴らはどういうわけか、俺らの鎧を紙に変えた」 「ええ、推測ですが、ある種の防衛本能を狂わされたと見るべきでしょうね。我らの魂が破壊されたわけでも、減耗したわけでもない」 「平たく言えば、術の行使が著しく下手糞になったと表現するのが正しいか。防という一点において、とことんまで無能の状態にさせられたと考えればよいでしょう」 今、自分たちに掛けられている不可解な呪いのことを、トリファは事務的な態度でで分析しつつ口にする。 「それが証拠に、攻めるぶんには何ら劣化していない。加え……」 「何よ?」 「銃で撃たれたのでしょう、マレウス。そしてベイ中尉も。感想をお訊きしてもよろしいか?」 「痛くねえ」 「同じく。なんだか変な感じ」 「つまり痛覚という信号まで遮断された」 「然り。痛みは代表的な防衛システムですからね。危機感を剥奪されたわけですよ」 「私も含め、今このときも、皆どこかしら浮ついている。頭で危険を理解できても、心の芯まで響かない」 「ゆえに再生もなかなか上手くいかぬでしょう。助かりましたね、二人とも。頭や胸に受けていたら死んでいた」 「ま、否定はしねえよ。怒る気にもなれねえ」 「わざわざ避けるってこと自体、そもそも習慣から抜けてたからさあ。最初の一発食らったくらいで、そんないじめないでよクリストフ」 「もちろん、そんなつもりはありませんよ。ここはむしろ、敵を賞賛するべきでしょう。そして――」 ついと傍らに視線を向けて、トリファは満面の笑みを浮かべた。 「それ以上に、あなたを讃えるべきですかな、シュピーネ」 「別に、そのように言われることではありませんよ」 「私は単に、今も昔も臆病な男というだけのこと。銃など向けられたら反射的に身体が動く。ただそれだけにすぎません」 「あー、でも、ちょっとわたし助かっちゃったよ。足に穴が空いたとき、一瞬ポカンとしちゃったからさあ」 「シュピーネが、こう、しゅしゅしゅしゅしゅーんっと連中を無双してくんなかったら、もしかしてやられちゃってたかもね。あははははは」 「あの場の指揮者と思しき男には逃げられましたがね。まあ、ほんの挨拶代わりということだったのでしょうけど」 「あれねえ、わたしどっかで見たことあるような気がするんだよねえ」 「そんなことより」 「お?」 「なんですか、リザ」 「今回、黄金錬成は見送られる。ただ、鷲を迎え撃つというだけなのね?」 「ええ、そうですよ。そもそも条件がまるで揃っていませんから」 「ツァラトゥストラは現れず、テレジアは器とするに幼すぎる。これではどうにもなりませんよ。安心しましたか?」 「…………」 「さあ、どうでしょうね」 言って、リザは席から立つと、踵を返した。 「でもそういうことなら、私は退かせてもらうわよ。何の得にもならないし、二代目も壊れて不在。戦闘面じゃ役立たずだから」 「分かりました。ではそうしなさい」 「ただ……」 二代目という言葉に掛けて皮肉るように、トリファは先ほどから一言も口を利かない最後の一人へと目を向ける。 「あなたはどうするのですか、三代目」 「…………」 「ベイ、マレウス、シュピーネと共に、鷲狩りを行いますかな?」 「僕は……」 「好きにしていいんだぜ、坊主。てめえで考えて決めるんだな」 「どのみちあなたは、はっきりさせる必要がありますしねえ」 「先を見据えて静観するもよし」 「だがそうすると……」 「言うな。分かってる」 「ひゅぅ~」 「かぁっこいい~」 「つまり、あなたはあれですか。自分の立場をちゃんと理解していると」 「分かっていると言ったぞ。言葉通りで、それ以上も以下もない」 「よろしい。ならばこういうことだ」 両手を広げて余裕を滲ませ、トリファは現状を端的に纏めてみせた。 「キルヒアイゼン卿が一番槍。彼女自らがそう望み、私もまたそれを許した」 「しかし少々困ったことに、予想できる結果が二つある」 「単に鷲どもを潰すだけか」 「連中を生贄にスワスチカを開きだすか」 「後者の場合、些か問題が生じますねえ」 「今の不完全な黄金じゃあ、私たちの望みが叶わない」 「となれば、それは黒円卓に対する裏切りだ。本来ありえぬ論理展開なのですが、皆その可能性に気付いている。ゆえに彼女の忠を試さねばならない」 「つまり……」 ベアトリスがそこまで性急な真似をするやもしれぬ理由と言えば、一つしか考えられない。ここに、タイムリミットを間近に控えた〈者〉《カイン》がいる。 皆、長い付き合いだ。ベアトリス・キルヒアイゼンという女がどういう人種か、よく分かっているのだろう。もはや決め付けるような勢いで、ヴィルヘルムが野卑な祝福を戒に飛ばした。 「妬けるじゃねえか、色男。あの馬鹿女たらしこむたァ大したもんだ」 「なあ、もういいだろうがクリストフ。俺は勝手に行かしてもらうぜ」 「そうね、実際のところどうなのか。この目で確かめるのが手っ取り早いわ。他にお客もいることだし」 「それ如何によっては……自由裁量と思ってよいのでしょう?」 「もちろん。リザも異論はありませんか?」 「…………」 問いに、痛ましげな顔で目を伏せたのは一瞬のこと。 「好きにすればいいじゃない」 「言ったように、私はこの件と関わらない。そういうことで、さようなら」 そしてそのまま、リザは黒円卓の間を去っていく。その背を見送り、残った者らも各々方針を決定していた。 特にこの彼に至っては、もはや言うまでもないだろう。 「ふふ、ふふふ、ふふふふふふふ……」 「いいねえ、いいじゃねえか。つまらんただの空振りかと思ってたらよ、俄然面白くなってきやがった」 「鷲と、そして場合によってはヴァルキュリアか。正直私はどうでもいいけど、面白いものを見せてくれそうな気はする感じね」 「まあ、色々と後学のためにもなりそうなので参加しますか」 「じゃあよ、おまえさんは大人しく待ってなクリストフ。すぐに首を持ってきてやる」 「暇なら、そこの坊主でもいびってんだなァ」 嬉々と走り出さんばかりに肩を震わせ、退室するヴィルヘルム。あからさまに笑っているその背中に、ルサルカとシュピーネもまた続く。 そして、残された二人の男は対照的な眼差しで互いを見ていた。 親愛と、敵意の視線を交差させつつ……すれ違って…… 「さて、それであなたはどうされる」 「いや、彼女がどうすると思っている?」 「…………」 「愚問、でしょうねえ。私も信じたくはありませんが」 「要はあなたを、カインにしたくないのでしょう」 「テレジアの年齢を考慮すれば、少なく見積もってもあと十年。あなたは言うまでもなく間に合わず、そしておそらく、次代のサクライにまで業は及ぶ」 「黒円卓第二位は、〈三代目〉《あなた》を踏み台にした四代目をもってサクライの悲願を成就させることになるでしょう」 彼の妹、螢までが、ここで終わらせなければ〈屍兵〉《カイン》と化す。 「あなたはそれを、防ぎたいと思っている。己の代で決着をつけようと考えている」 「無論、それ自体悪くはない。あなたがそのときまで存在し続け、トバルカインで在り続けるなら、四代目は不要に終わる」 「だが彼女は、そのあなたまで救いたいようだ」 「誇り高きヴァルキュリア――ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン中尉。黒円卓の戦姫とまで謳われた女丈夫が、まさかこの程度の、大局も見えぬただの小娘にすぎぬとはねえ」 「なんにせよ、今の彼女は黒円卓に相応しくない。双頭鷲など物の数ではありませんが、獣の爪牙、第五位ヴァルキュリア――それを制すとなれば相応の戦力を必要とする」 「だから……」 その先は、言われずとも理解していた。いいや、他者の口から言われたくはなかった。 「だから僕に行けとおまえは言うのか」 「ええ、そうですよ。私なりの慈悲です、カイン。今、あなたの立場はひどく危うい」 「ゆえに己こそが黒円卓の二位であると、証をここに立てなさい。覚悟を形として示しなさい。でなくば誰も納得せず、連座であなたも処分しなくてはならなくなる」 「キルヒアイゼン卿の愚行と自分は関係ないと、証明する必要があるでしょう。拒むならあなたに〈偽槍〉《それ》を持つ資格はない」 「…………」 「私はどちらでも構いませんよ。何せ、〈二位〉《カイン》になれるサクライはもう一人いますからね」 そして、完全に擦れ違う。だが戒は―― 「待て――」 「ここに誓え、聖餐杯」 呼び止め、そして振り返ったトリファに強く言った。 「僕がベアトリスを制したら、彼女の罪を不問にしろ」 「ほぅ、つまりそれは?」 「言った通りだ。ベイにもマレウスにも、誰にもベアトリスを傷つけさせない」 「そして螢も――」 「代わりにさせない。させてたまるか」 「総ては、今夜……」 そう、今夜…… 続く言葉を口にするまでの短い刹那に、櫻井戒は万感を込めて目を閉じる。 浮かぶ情景は彼にとって、この世の何よりも綺麗であったろう陽だまりで…… 「私が何とかしてあげる。カイン、あなたは……」 「その名で呼ばないでくれよ、ベアトリス。僕はまだ――」 愛しい輝きを守るため、ここに覚悟を決めたのだ。 「僕が、カインになればすむことだから」 穢させない。汚れるのは自分の役目だと天に宣言するかのように。 「ふふふ、ふふふふふふふ……」 「ええ、ええ、いいですとも誓いましょう。〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈キ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ヒ〉《 、》〈ア〉《 、》〈イ〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ン〉《 、》〈卿〉《 、》〈に〉《 、》〈手〉《 、》〈を〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈し〉《 、》」 「〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈お〉《 、》〈嬢〉《 、》〈さ〉《 、》〈ん〉《 、》〈を〉《 、》〈カ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ン〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「絶対に」 「そう絶対に」 「あなたの覚悟に敬意を表し、約束しようじゃありませんか」 トリファは胸前で十字を切り、誓うと同時に祝福する。 これで名実共に櫻井戒は戦鬼の徒。我々は仲間なのだと寿ぎながら。 「栄えある三代目、黒円卓二位トバルカインよ」 半世紀の時を経て水銀の魔名を、いま若者の魂に刻印したのだ。 「雨……」 「やまないわね、これは」  窓から空模様を見上げたリザは、ぽつりと呟く。 「でも、それでいいのかもしれない。きっと今夜、多くの血が流れるから」 「ねえ玲愛……私正直、ほっとしたのよ」  ベッドで眠る〈幼子〉《おさなご》の寝顔に目を向け、懺悔するようにリザは続ける。 「まだ始まらない。もう少し続けられる。だからよかった。そんなことを……でも代わりに、あの子たちが……」 「…………私はどうするべきなんでしょうね」  そう言いながらも、すでにどうするべきかは決めている。彼女はそういう人間で、曰く葛藤が好きなだけだ。  しかしそれでも、今は問わずにいられない。 「あなたならどうする、エレオノーレ。私たちの妹みたいだったあの子は、今……」  最悪の予感。最悪の結末。彼らにとってそれは何を指すのだろうか自信が持てない。  死か? いいやそれとも、もっと別の……  何にせよ、分かっていることは一つだけだ。ベアトリス・キルヒアイゼンは間違いなく―― 「生涯最大の危機に直面しているはずなのよ」  もはや雨の音は聞こえない。  すぐに戦場の銃火砲声と断末魔が街を覆い尽くすだろうと、リザは静かに悟っていた。  戦乙女の閃光が、この混沌を切り裂けるか否かは分からない。 「ふふふふふ、はははははははははははははは――――!」  漆黒の夜と薔薇を身に纏い、血に狂った吸血鬼が歓喜の咆哮をあげている。  ああ待っていた。待ち望んだ。ついについに〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈日〉《 、》〈の〉《 、》〈決〉《 、》〈着〉《 、》〈を〉《 、》〈つ〉《 、》〈け〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》、魂魄総身奮えている。 「――遅ぇ」 「欠伸が出るぞ止まって見えるぜ! そんなもんで俺の命取ろうなんざ、てめえら甘すぎなんだよォ!」 「おら、どうした。こっちゃあ丸裸の紙っ切れだぜ。気合いで一発くらい当ててみろやァ!」 「あーあー、いい感じにゲージ溜めちゃって、あのバカちんは」  狂喜しながら駆けるヴィルヘルムの背を追う形で、ルサルカもまた駆けていた。前者の動きは直線で構成されたジグザグだが、こちらは立体的な曲線で弾むように跳ねている。 「ベイー、言っとくけどパンチキックはやめときなさいよー。パワーに負けて壊れちゃっても知らないからねー」 「今は言うだけ無駄なようにも思えますが。あの入れ込みよう、やはり以前聞いたあれが原因なのですかね?」 「あー、たぶんね。あんたはいなかったから話で聞いたレベルの認識しかないでしょうけど」  併走するシュピーネに応じながら、肩をすくめて笑うルサルカ。これは黒円卓の最初期団員しか実地に見ていないことだ。 「ベイはヴァルキュリアにご執心なの。出会った頃からの因縁でね、また例によって勝負の決着ついてないし。まあ、あれよ。平たく言うと恋しちゃってるわけだ」 「なるほど」  瞬間、二人の会話を遮るように無数の銃口が彼らを捉えた。  そして轟音の連続が炸裂する。 「うおっとぉ――あー、もう! 鬱陶しいったらないわねえ。避けまわるなんて慣れてないから、やりにくくってしょうがないわよ」  頭で理解はしているつもりでも、身体はなかなかついて来ない。〈銃〉《 、》〈弾〉《 、》〈ご〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈を〉《 、》〈躱〉《 、》〈さ〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈面〉《 、》〈倒〉《 、》〈臭〉《 、》〈さ〉《 、》〈に〉《 、》、反射がどうしても遅れるのだ。  それに舌打ちしながらルサルカは、連れに恨めしげな目を向ける。 「あんたどうして、そんなひょいひょい躱せんの?」 「そこはそれ、慣れとでも言いましょうか」  まるで軽快なタップのリズムでも刻むように、シュピーネはそつなく弾雨を躱している。その動きはなんとも優雅で、あまり言いたくないが華麗ですらあった。  そしてそのまま、貴婦人をエスコートするかのように彼の両腕がゆらりと閃く。 「あなたなら、すぐにコツを覚えます、よっと」 「わぁお、お見事。芸術的ぃ」 「いえいえ。とんだお目汚しで」  僅かほんの一挙動。シュピーネを中心に投網のごとく展開した鋼線の束が、敵の一団を一人につき十以上の輪切り肉片に変えていた。  その手際に素直な賛辞を贈るルサルカへ、軽妙洒脱に応じながらも彼の目に油断慢心は一切ない。 「しかし、それはそれとして、そろそろ基本的な突っ込みを入れてもいいでしょうか?」 「なぁに?」  未だ呑気で緩い同輩を諌めるように、シュピーネは現況における異常事を口にした。 「この国で、こうもおおっぴらに銃撃戦をしながら、なぜ一般の者らが騒がない」  そう、それこそまともに考えて今もっとも奇妙なことで。 「もしやこれも、例の危機感破壊とやらによる副産物では」  呟いた瞬間に、応じる声が返ってきた。 「その通り」 「この世でもっとも慈悲深い死が何か知っているか? 断頭台だよ、痛みを感じる暇も無い。死の恐ろしさ、それを避けたいと皆が思う理由の上位は苦痛にある。痛みがまるでないのなら、喜んで死を願う者が数割は確実に出るだろう」  武装兵らの列が割れ、その中心から指揮官らしい男が現れる。最初の一戦で、やはりルサルカ達を狙ったあの男だ。 「これはつまりそういうこと。我々が入手し、この街に運び込んだギロチンの呪いだよ。そしておまえ達に共通する、他者を舐めきっているという危機感の欠落した在り方。もとよりこのシャンバラは、おまえ達の渇望、魂、歪んだ祈りを黄金に錬成するための毒壷だ。平たく言えば、内面の病理が投影され、現象に具現されやすい特性を持っている」 「ならばこそ、他者の心に同調し、それを引きずり出せる者が音叉となれば、この地に限りおまえ達の鎧を剥ぐことも可能である、というだけのこと」  〈諏訪原市〉《シャンバラ》は戦鬼の祭壇――すなわちそれは、人外の鬼でも死の可能性が発生する場ということだ。もとより戦場とは等しく死を共有する空間であり、ラインハルト・ハイドリヒは死を愛しているのだから。 「理解したかね、黒円卓第八位ルサルカ・シュヴェーゲリン。並びに十位、ロート・シュピーネ」 「我が名はフォルカー。東方正教会、特務分室、〈双頭鷲〉《ドッペルアドラー》――局長、ジークリンデ・エーベルヴァインの騎士、フォルカー・バルリング。ああ、至福だよ。胸を打つ。ずっとこのときを待っていた」  爛れた傷口から膿が噴き出すような喘ぎと共に、フォルカーは狂気の笑みを浮かべて告げる。  彼の愛を、捧げる彼女に。 「逢いたくて、逢いたくて……また逢いたくて堪らなかったんだよ、アンナ」 「んー、あいつ何言ってんの? なんであんなハァハァしてんの? 意味全然分かんないだけど」  いきなりむしゃぶりつかんばかりの濡れた視線を向けられて、当のルサルカは困惑していた。それはそうだろう、彼女には心当たりがまったくない。  いや、むしろありすぎて分からない。 「ていうかキモっ! さぶいぼ出ちゃうわ」 「……まあ、事情はよく分かりませんが」 「どうやら彼は、あなたにご執心であるらしい。ならば行かせてもらいますよ、ベイ中尉とも引き離されてしまったようですし」 「えー、ちょっと待ってよ。あんなんと残されるなんて最悪じゃない。なんかこう、さっきから乙女的なレッドシグナル感じてるのよ。夜道でストーカーにばったりみたいな」 「気のせいでしょう。今の我々は、危機感を狂わされているということなので」 「いや、そういうんじゃなくてさあ~~~~」  連れの不満を黙殺しながら、シュピーネは事務的に話を進める。 「構いませんかな、フォルカー君とやら」 「無論だ、行くがいい。ただし部下らと遊んでもらうぞ。現状、もっとも殺してくれたのはおまえなのでね」  ゆえ、邪魔だからさっさと消えろ。あからさまにそう語っている態度に苦笑して、シュピーネは身を翻した。 「いいでしょう。ではそこの兵隊君達、ついてきなさい。蜘蛛の巣に案内してさしあげます」 「ちょっ、待っ――」 「アウフ・ヴィーターゼン、マレウス」  言うなり、速やかに場を離脱する。その後を追う形で、フォルカーの兵隊達も瞬く間に去って行った。 「あー」  よって今、この場に取り残されたのは二人きりで。それがなんとも気持ち悪くて。呆れと嫌気と苛立ちの溜息を盛大に漏らしながらルサルカは毒づいた。 「あー、あー、あー。なんでこう、わたしってば、昔から男運悪いのかしらねえ……」 「それであなた。えっと、名前は……つかやっぱどうでもいいや」 「フォルカーだ」 「いやいやいや、どうでもいいって言ってんのに」 「僕はフォルカーだ。忘れてしまったのかい。違うよね? 恥ずかしいのかい? 大丈夫だよ。君が僕を思う以上に、僕は君を思っている。照れて意地悪なふりをする必要なんかどこにもないんだ。安心していい。本当の気持ちを聞かせておくれよ」 「君は僕を、愛しているんだろう? フランツよりハンスよりヤンよりマルクよりニコラよりペーターよりライナーよりクルトより―――あの穴倉で愛し合った、他の誰より! 君は僕を愛しているんだ! だからこうしてこの今がある!」 「うわちゃー………」  どうするんだ、これ。  わたしに寄ってくるのは毎度こんなのばっかりか。 「駄目だこりゃ、会話通用しそうにない。シュライバーも大概うざかったけど、なんなのこれ。お客さん引きまくってるよ、きっと」 「でも……まあいいか」  頭の悪い男は嫌いだが、そのみっともないまでの執着心は悪くない。届かない者に手を伸ばそうという渇望ならばよく分かるから。 「あなた、わたしに溺れてるのね。息ができなくて苦しいのね」  ルサルカの足元から、じわりと闇が広がり始める。それは粘性を帯びた泥に似て、湧き上がる気泡から血も凍るような呻き声が漏れ出てきた。  そう、この〈影〉《なか》に、先ほどフォルカーが語っていた人物たちが残らず沈んでいるのだろう。  今もわたしに抱かれている友達が羨ましくて堪らないのねと考えて、魔女は極上の笑みを贈ってやった。 「だったら泥の底まで沈めてあげる。変態ぶりだけは輝いてるそこの坊や、影の中からわたしを見上げて、萌え死んでりゃあいいでしょう。たまにパンチラのサービスくらいはしてあげるから」 「あぁ、あぁ、アンナ……」  なんたるご褒美、素晴らしい! 股間を衝きあげる歓喜に絶頂しながら、フォルカーは悶絶した。 「抱きしめてくれ、僕を! 包んでくれ、その愛で! 君に出逢って、本当によかった!」 「わたしは男運のなさを嘆いてんのよ!」  全身から刃物を出して突進してくるフォルカーに、影の海が殺到する。死闘と言うには些か以上に語弊もあろうが、双方本気なのは間違いなかった。 「……驚いた。避けないのね」  そして同刻、こちらでも一つの邂逅が成されていた。 「あぁ、マジに狙う気があるかねえかくらいのこと、後ろから撃たれようが分かるだろ。危機感破壊? だかなんだか知らんが、こういう勘はなくならねえよ」 「で、おまえは誰だ」  眼前の女に見覚えはない。だが相手の態度はある意味で妙に気安く、こちらを知っているような素振りがある。  その疑問に、女はすかさず答えを返した。 「名前はない。ベトナムで、あなたに殺された身だからね。〈櫻井鈴〉《さくらいれい》を覚えてる?」 「あのとき、彼女と交戦していたのは私の部隊。乱入してきたあなたによって、全滅させられた米軍側の指揮官が私。あれ以来、どんな戦場でどんな敵と戦っても、私が率いる部隊は必ず負けるようになっちゃった。部下は誰も生き残らない。みんな死んでしまう。当然よね」 「私はあの日のベトナムで死んだのだから。死者の軍隊が進む先は地獄でしかない。そうでしょう? あなた達と同じように」 「だから、ああ、逢いたかったわヴィルヘルム。私を死人にした男」  女は艶然と微笑んで、銃口を擬しながら自らの来歴を語って聞かせた。それにヴィルヘルムは破顔する。 「へえ……」  気分がいいのだ。懐かしい名に懐かしい戦場。それはいつも満たされない彼にとって、そこそこ満足を味わえた貴重な記憶だったから。 「こりゃまた、刺激的なカッコした女じゃねえか。好みだぜ。 覚えてなくて悪かったなあ。おまえみたいな奴は忘れねえはずなんだが」 「しょうがないわよ」 「当時はあなたの好みじゃなかったはず。吸血鬼は死の匂いを纏いつかせた人間が好きなんでしょう? 櫻井鈴のように」 「はッ」  ああそれだ。そいつだよ。 〈二〉《 、》〈代〉《 、》〈目〉《 、》〈カ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ン〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈女〉《 、》〈で〉《 、》〈気〉《 、》〈に〉《 、》〈入〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。  ゆえに結局死に逃げさせてしまった事実が苛立たしく、名を聞いたことで胸を掻き毟るような飢餓感が湧いてくる。  その飢えを満たしてくれると言うのか、こいつが。 「するってえと、何か。今のおまえはそういうもんだと」 「ええ、言ったでしょう。死体だって。名前はない。身元も不明。二十年前に死んだまま、あなたと踊りたくてずっと今まで彷徨ってきた。だからジェーン・ドゥ。そんな風に呼ばれてる」 「名無しの権兵衛ねえ……」  であれば、これもまた〈動く屍兵〉《トバルカイン》だ。〈記号〉《コード》に縛られているところなど、〈魔名〉《ノロイ》に縛られた自分たちともある面で共通する。 「そのなりは、俺と踊りたいって意思表示かい? そりゃ光栄だが、ベトナムで鉢合ったってわりにゃあ若すぎるな。軽く四十過ぎにゃ見えないぜ」 「疑ってるの? 言ったはずよ、私は死体。死んだ人間が歳を取るはずないでしょう」  それはそうだが、しかしそうじゃないだろう。彼女の肉体は生命活動を続けているし、物理的には生きている。  にも拘らずその〈姿〉《ナリ》なのは、狂気に達するほどのプラシーボか。ヴィルヘルムをして呆れと感心を抱くほど、ジェーン・ドゥの思い込みは深すぎる。 「そもそも、あなただって本当は七十過ぎのお爺さんじゃない」 「違いねえ」  もっともな事実を指摘され、ヴィルヘルムは自嘲するように鼻を鳴らした。  実際のところ、光栄な話と言っていいだろう。吸血鬼に成らんと欲するこの自分に、ジェーンは〈屍鬼〉《ゾンビ》となることで求愛したのだ。それはつまり、彼女によってヴィルヘルム・エーレンブルグの信仰がより高みへ達したことを意味している。 「ふふ、ふふふふふふふ……いや、すまねえな。別に疑ってたわけじゃねえんだけどよ。しかしこりゃあ、どうしたもんか……」  楽しい女だ。悪くない。  ああ、確かに悪くはないのだが。 「いつもなら嬉しい展開だってのに、間が悪いぜ。俺はこれでも一途なんだ。少なくとも、てめえで決めた優先順位を途中で変えたりはしねえ主義でな」 「今欲しい女はおまえじゃねえんだよ、ジェーン・ドゥ」  ゆえに相手はしてやれないと言った瞬間、女の瞳に険が宿る。  まるで恋敵に憤っているかのように。 「ベアトリス・キルヒアイゼン」 「そうだ、五十年以上前からの先約がある。おまえと踊ってやるのはその後だ」 「だから――」 「駄目よ」  やおら、問答無用と言わんばかりに女の銃が火を噴いた。 「行かせない。行かせない。やっと逢えたんだもの、渡さない」  そしてそれは連続する。 「私がそんな、気前のいい女に見えるかしら? 嫌よ許せない絶対駄目。好きな男をみすみす他の女に譲るだなんて、三流以下のラブロマンス。まして、あなたが振られるのは分かってる」 「あぁ?」  銃弾は総てヴィルヘルムの足元を穿つだけに留まった。曰く当てる気があるのかどうかくらい勘で分かるとのことだったが、それでも彼の鎧が現状消えていることを考慮すれば、驚異的な胆力――あるいは馬鹿さ加減と言えるだろう。  そんなヴィルヘルムこそが愛しいのか、ジェーンは弾装を交換しつつ彼を引き止めるための言葉を編む。 「先着順だと言ったわよね。だったらあなたは間男よ。五十年? そんなものじゃない。彼女に対する先約は、もっとずっと前から別の男が握っている」 「ねえ、だから――今夜は私と踊って抱いてよ、ヴィルヘルム」  縋るような声と共に、今度は偽りでない真の殺意を込めて銃を擬した。  が、それを向けられたヴィルヘルムは―― 「はぁ……おいおい、なんだそりゃ」  ギチギチと杭が震える。軋む牙の音が聞こえてくる。 「俺が間男? 先客がいる? あぁ、そりゃしょうがねえよな。いい女だもんなあ……でもよ」 「はいそうですかってわけにゃいかねえだろうがァッ!」  怒号と共に出現した茨の森が、暴圧的な念を纏って火山のごとく爆発した。周囲一帯を容赦なく、魔性の薔薇が蹂躙していく。  夜に轟き渡るのは吸血鬼の大激昂。 「どいつもこいつも、いつもどこでも邪魔ばかり! ふざけやがって、獲られてばっかじゃ俺もやってらんねえんだよォッ!」 「そうよ、だから私を見て!」  対するジェーンは、だがまったく臆していない。  むしろ待ち望んだ瞬間を讃えるように、法悦の極みへ達しながら己の愛を吐露していく。 「あなたに殺されて、あなたに焦がれて、リビングデッドになった私を愛して! ねえ、吸血鬼なんでしょ、あなたのせいよ! 薔薇に魂まで囚われた〈下僕〉《スレイブ》! 私はあなたの恋の奴隷!」 「その爪で、その牙で! 私の心臓を抉りたいと言いなさい! 言ってよ、ねえ、お願いだから」 「ほざけや、鬱陶しいんだよ変態がァッ!」  炸裂する杭の嵐が全方位に放たれる。  こちらの勝負も、やはり力量差を度外視した本気のものと化していた。  そして、今もう一方…… 「さて……まあこんなものですか」  中隊規模の武装兵らを残らず輪切りに変えたシュピーネが、髪を掻き揚げ嘆息していた。 「不甲斐ない、とは言いませんよ。我々の鎧がなくなろうがどうだろうが、厳然な実力差とはこういうものです。奇策や相性で引っくり返せる強弱など、結局のところあるていど拮抗した関係であることが前提なのです。 どう転ぶか分からないという天秤を傾けるのが策であり状況。最初から絶望的に開いている差を、それらで埋めることは出来ません」 「戦いに身を置く者として、そんなことくらい当たり前に分かっているはずなんですがねえ」  学者のように鹿爪らしく首を傾げて、屍山血河の中ただ一人残った少女へと目を向ける。 「…………」 「さあ、あとはあなた一人だ、お嬢さん。ベイやマレウスの相手は流石に多少やるようですが、それでも埋められる戦力差ではない。ゆえに、少々解せません。言ったように、よほどの馬鹿でない限りそんなことは理解しているはずなんですよ。では、なぜと。もしかしてあなた方、殺されるのが目的であったりするのですかな?」 「…………おまえには関係ない」  対する鏡花は、だが無感情にシュピーネの揺さぶりを一蹴した。 「そして、問われてもあたしは知らない。ただ命令されたからやっているだけ」 「なるほど、あくまで己は駒と。それは素晴らしい兵隊根性。いやいや、皮肉で言っているのではありませんよ。そういう気質の者は侮れない。ある種の機械みたいなものですからね」 「たとえ手足を失おうが意に介さない。使い捨てにされても憤らない。実に理想的な歩だ。苦手なタイプです。相手にしたくありません。ですから――」  す、と脇へ下がるように一歩引いて、シュピーネは選手交代を告げていた。 「あなたの処遇は、彼に任せるとしましょうか」  背後から、近づいてくる足音。その主が誰かは当然把握していて。  今夜の主役は彼だから、脇役の自分はここらで退くべきと弁えているのだろう。 「おまえは知っていたのか、シュピーネ」  現れた櫻井戒は、そう静かに口を開いた。問いの形式を取ってはいるが、口調は確認に等しいものだ。よってここは、“おまえも”と言うべきだろう。 「彼女ですか? ええ、一応はね。鷲がこのシャンバラに、一年ほど前から末端の機関員を送り込んでいたこと、裏社会に関わるそれくらいの人事は当たり前に把握していますよ。我らは世界の敵なのですから。臆病で、疑り深く、常にアンテナを張り巡らせている。あなたと同じだ、櫻井戒」 「ゆえに残念です。カインなどという壊れた戦奴になる定めでなければ、あなたとは有益な関係を築けたかもしれない。ベイやマレウスなどよりは、よっぽど見込みがあったのにね」 「お断りだ」  シュピーネの賛辞、及び好意をただの一言で切り捨てる。日頃温厚な彼からは想像できないほど、それは冷厳な声だった。 「おまえみたいな男と組む気はない。だが――感謝はしている。よく彼女のことを他の奴らに話さないでいてくれた。それがたとえ、僕に対するあてつけであっても……」  刹那、僅かに除く安堵の響きを滲ませて。 「そんなことを知れば、ベアトリスが悲しむから」  櫻井戒という青年の真実は、始終そこに帰結する。  己より他者。ゆえにここは自分が仕切ると口にして、シュピーネを立ち去らせた。  雨が降る。後にはただ、二人だけが残された。  霧咲鏡花、クラスメート……その彼女へ、彼なりの覚悟と意志を伝えるために…… 「こんばんは、霧咲さん。アルバイトにしては随分特殊なことをやってるんだね」 「……知ってたの?」 「君はあまり嘘が得意じゃないだろう。そして僕は、よく嘘をつかれる人間なんだ」 「ベアトリス・キルヒアイゼンに……」 「べーやんでいいよ。そう呼んでやってくれ」 「彼女はあれで、やっぱりベイ達と共通している部分があるんだ。足下が疎かと言うか、楽観的なんだね。良くも悪くも裏を見る目があまりない」 「例外は、さっきのシュピーネと聖餐杯。……そして僕もか。自分が凡人だと信じているろくでなしには、そういう搦め手は効かないよ。こんな程度で黒円卓を崩せるなら、とっくにやってる」 「だから残念だよ、霧咲さん。釘は刺したはずなのに」 「―――――ッ」 「あんただって……」 「他の連中と変わんないわよ。あたしを舐めてる」 「いいや、そんなつもりはない」 「どこがッ!」 振り下ろされた一閃を武器の腹で受け止める。そこから伝わる衝撃に、戒は少なからず瞠目した。 「短刀……いや、小太刀かな。いい腕だね、キリサキとはよく言ったものだ」 先の斬撃はまったくの無拍子。鏡花が激昂気味だったから辛うじて意は読めたが、常人ならば何も分からないまま両断されていただろう。 加え、膂力と体格で遥かに勝る戒に対し、重いと感じさせるその威力……いかに今、彼の鎧が剥がれているといったところで、それは生半可なことではないだろう。 「分かるよ。五人十人殺したくらいじゃ、今の業は身につかない。これでも実家は、剣に深く関わってるんだ」 「物心つく前から訓練している。実戦はこれが初だが、君の強さも怖さも肌で感じてるよ。舐めちゃいない」 「ただ、遣り切れないと思うだけで」 「―――――ッ」 「僕とベアトリスを分断し、切り裂くのが君の仕事だ。ああ、実際に最初から、そうされていたような気がするよ。でも……」 「2+1は3だろう。君が入ってきたことで、僕らが裂かれたとは思わない」 「君と僕らが出会ったことで、生まれた関係もあるだろう」 「ないわよ。そんなものはあんたの妄想」 「そうかな」 「そうよッ!」 数撃打ち込んで埒が明かないと判断したのか、鏡花は一気に跳び退って距離を取った。 戒は追わない。泰然と微動だにせず、ただ憂いを秘めた眼差しだけは変わらずに、雨の中で佇んでいる。 その様からは、殺意や戦意はまったく見えない。さながら途方にくれた子供のようで、鏡花は思わず嘲笑った。 「あんた達の強さは、異常なくらい自分理論を貫くところだって、そう聞いた」 「だから戦うときは、出来る限り口で追い詰めて言い負かせ。何でもいいから精神的なペースは渡すな……その通りね」 つまり意志力、魂の強度が物理的な戦力に直結する。黒円卓に属する者らはそうした特性を持っており、それは確かに脅威だが、同時にアキレス腱でもあるだろう。 彼らの意志はなるほど狂的。しかしひとたび揺らがせることに成功すれば、途端に脆くなり自滅する。特に若年の戒ならば、そうした危うさを多大に持っているはずだ。 ゆえに―― 「あんたの言葉なんか聞こえない。あんたに都合のいい解釈で、あたしを型に嵌めさせはしない」 「そういう計算はしてないよ」 「じゃあこれでも?」 瞬間、鏡花の手には魔法のように拳銃が握られていた。 「馬鹿で元気で、騒がしいクラスメート。応援してるような邪魔してるような、ちょっと鬱陶しい三角関係紛い」 「そういうの、男の子は好きでしょう? あんたがどうだかは知らないけど、あの女は楽しんでそうだった」 「ベアトリスが笑う。あんたも悪い気はしない。あたしがからかう。結果的に全員目立つ」 「そうやって、あんたの立場に質量を与えたの。どうせ長生きできないから、いずれ学校は戦場になるから、幽霊みたいにふわふわしてた櫻井戒。それを壊してやるために」 「あんたみたいな根暗男が、急にモテ始めたのはそのせいよ。いつも女が二人で世話やいてりゃあ、なんかよさそうに見えるもんなの。隣の芝はってやつかしら?」 「楽しかったでしょ、戒。悪くなかったでしょ、ラブコメ。あんたが2+1ってやつにハマってくれれば、切り裂いたときの出血は命に届く」 「今みたいに」 「ほら、全然躱せない」 「前からあたしの正体に気付いてたって、だから何なの? あんた割り切れるほど冷徹じゃないもんね」 「殺せないんでしょう。怒れないんでしょう。君とは戦いたくないんだよとか、優しいこと考えちゃってくれてんだもんね」 「そんなあんた、大好き」 嗤いながら、囁くように、そしてなぜか泣くように―― 「いい奴すぎていじめたくなる。すごい楽しいよ!」 「あははははははははははははははは―――!」 撃って、撃って、撃って、撃って、なお無抵抗の戒に激昂した。 「何とか言いなさいよォッ!」 だが、その時。 「誰が――」 「君を殺さないと言った」 「え……?」 「誤解してるな、霧咲さん。言ったはずだぞ、螢とベアトリスを不幸にはさせない」 戒が手にする巨大な鉄塊――〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》が哭き始める。そこから溢れ出る猛悪なまでの凶念に鏡花は絶句し戦慄した。 寄越せ、寄越せ、魂を寄越せ。飢えた暴食の〈蝗〉《イナゴ》のごとく、槍が生贄を渇望している。そしてそれは、あろうことか敵手であるはずの鏡花をまったく見ていない。 あの忌まわしい呪槍が望んでいるのは使用者の魂。櫻井戒を喰らい尽くしたいという怨念が、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈も〉《 、》〈こ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈来〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈妄〉《 、》〈執〉《 、》〈が〉《 、》、大気を伝播し世界を侵す。 それは揮発した水滴程度の質量だろう。あくまで使用者にのみ向けられる念なのだから、いま鏡花が感じ取れているものなど全体の一欠片にすら及ばないはず。 だが、しかしそれだけで、これはなんという汚らわしい魔業なのか。漏れ出る気配に触れるだけで、全身が爛れ落ちそうな感覚に囚われる。だから鏡花は恐怖した。 こんなものに侵されながら、今まで生きてきた櫻井戒に。それを武器に戦おうなどという、度外れた意志力に。 先ほどまでの静けさは、言わばただの溜めだったのだ。弛緩と緊張の振り幅が巨大なほど、解放の威力は破滅的に跳ね上がる。 その技量は尋常なものじゃない。それもそのはず、如何に若年だろうと彼は〈櫻井〉《カイン》だ。 黒円卓第二位は、ラインハルト・ハイドリヒが誇る至高天の〈複製〉《レプリカ》である。死を超えて戦う永劫の修羅戦奴―― ならば、舐めていたのはいったいどちらの方だったのか。 「今の君を、彼女らに知られるわけにはいかないんだよ」 「なっ……」 恐慌と共に引き金を引き絞るが、まったく用を成していない。まるでこの銃は、すでに汚染された鉄屑にすぎないのだというように。 「なんで……」 「気付くのが遅いよ。さっきから何発撃ってる? 全弾命中してるはずなのに……」 「血が出ない……どうして、あんたの鎧は」 瞬間、この優男なクラスメートが、どろどろに爛れた髑髏のように鏡花は見えた。 「僕にそういうものは関係ないんだ」 「―――――ッ」 即座に銃を放り投げ、斬撃に移行してみるが結果はまったく変わらない。戒に触れた刃がそのまま、秒も保たずに錆び砕けて腐り落ちる。 「そんな、嘘よ、なんなのこれ――」 「僕には別の鎧がある。弾き返すんじゃなく、そもそも触りたくなくなるような」 「触られても、損をするのは敵の方になるような」 「使うのは初めてだけど、僕の渇望がそういう形だろうってことは分かっていた」 「ベアトリスは綺麗だ。螢は可愛い。彼女らが汚れることなどないように……」 「総て僕が引き受ける。呪いも、穢れも、毒も、何も」 「つまりこういうことだよ、霧咲さん」 呪槍が歌う。自らの継嗣が堕ちる様を寿ぐように。死者の城が積み上がっていく様を讃えるように。 それは叫喚する魂の詠嘆。 自らを毒の地獄に化すと誓った男の祈祷だった。  血の道と血の道とその血の道返し畏み給おう。  禍災に悩むこの病毒を、この加持にて今吹き払う〈呪〉《とこ》いの神風。  橘の小戸の禊を始めにて、今も清むる吾が身なりけり。  千早振る神の御末の吾ならば、祈りしことの叶わぬは無し。 音ではない念の波動が、我が祈り無双なりと言っている。たとえそれが、どのような動機から生まれた渇望だろうと、ここまでの規模と深さで現実を侵食する想いの主がまともであろうはずはない。 だからこそ―― 「いい奴? 優しい? やめてくれ」 「僕は屑だ。こんなに醜い」 櫻井戒は、己を下種と断じている。ならば無論のこと敵に対し、容赦などするはずがあるわけもなく―― 「全身腐ってるんだよ、櫻井戒は」 「や―――」 「それが三代目トバルカイン―――動く屍の創造だ」 振り下ろされた呪槍の一撃。山をも砕かんばかりの武威と殺意に、鏡花は混じり気のない死を実感した。 だが…… 「あ……ぁ……」 生きてる? なぜ? 分からず、呆けて、顔をあげて…… 「君がどういう人で、どういう人生を送ってきたかは知らない」 「だけどこれで分かったろう。戦争なんて最悪だ」 鏡花を避けて叩き降ろした槍を再び担ぎ上げ、静かな声で戒は続けた。 優しく、なんでもない友人に語りかけているかのように。 「馬鹿で元気で、騒がしいクラスメート。そんな霧咲さんが僕は好きだよ。演技だなんて言わないでくれ」 「そういう面も、君の一部なんだって信じてる」 そして身を翻し、去っていく。その背に鏡花は…… 「あた、しは……」 「待ってよ、待ってよ……待ちなさいよ――あんた!」 「こんなカッコつけて、馬鹿じゃないの! これであたしを殺したとか、一人で納得してるんなら――」 「僕らは異常なくらい自分論理を貫く奴ら。その通りだよ、だから何を言っても聞かない」 「今のうちに、早く街から出るんだ霧咲さん。今夜ドッペルアドラーは壊滅する」 「そうなれば、君を縛るものもなくなるだろう。勝手な想像で悪いけど」 「人生に分岐路が出来たんだ。なら頭のいい選択をしてほしい」 「将来はアンティークショップを開きたいって、いい夢じゃないか。応援するよ」 そんな、ただの戯言だったかもしれないこと、彼は信じているというのだろうか。 「でも、あんたは、あの女と……」 「…………」 「べーやんと、戦うの……?」 問いに、戒は一瞬だけ目を伏せて淡く微笑み。 「彼女が……」 「君くらい、物分かりのいい人だったら、助かるんだけどね」 そう言い残し、今度こそ去って行った。 戦場へ、今夜彼がもっとも会わなければならない相手の所へ…… 「あぁ、見える。そして聞こえるわ。わたしの羽が一枚、二枚、次から次へと毟られていく」 「どうしましょう。どうしたらいいんでしょう、この展開。これじゃあわたし達負けちゃうじゃない」 「やっぱりここは、あれかしら? キングを取れば一発逆転? そうよねえ。だってそのための布陣なんだし」 「ピンチな部下の頑張りに応えるよう、わたしが頑張らなきゃいけないか」 「てなわけで――」 「ごきげんよう、神父様。東方正教会〈双頭鷲〉《ドッペルアドラー》――局長、ジークリンデ・エーベルヴァイン。参上させていただきましたわ」 「ようこそ」 現れた敵の首魁である少女を前に、トリファは満腔の親愛をもって応じていた。 「あなたの真意、実に有意義で全面的に賛同すると答えさせてもらいましょうか」 「つまり、こういうことなんだ。あなたはあの、マンホールに住み着いてた坊や達の一人だと」 影の帯に捕縛され、身動き取れずに呻き続けるフォルカーへ、ルサルカは食虫花の笑みで語りかけた。 「そういやあったなあ、そういうこと。あの時期のルーマニアはいい感じに煮えてたから、得るものもあるかと思って現地潜入してたんだけどねえ」 「わたし途中で飽きちゃって、若い子食いまくりの旅に変えたんだった。いつも穴倉のなかに篭ってさ、しこしこやってるだけの毎日だなんて可哀想だし」 「こう、なんてーの? 抑圧された青い性? そのまま垂れ流させるのも惜しいから、お姉さんが搾り取ってあげましょうと」 「……そうだ、君は僕らの女神だった」 「僕ちゃん初めてだったんだねえ。女の肌にメロメロドキュンしちゃったんだあ」 からかうように媚態を見せつつシナを作って言いながら、しかし瞬時に百八十度態度が変わる。 「えー、キモーい。十回二十回突っ込ませてあげたくらいで、勘違いしちゃう男ってさいてー」 「そんなんだからあんた達、わたしを巡って殺し合いとかしちゃうのよ」 「それは、君が……一番強いのは誰かと訊くから」 「だってぇ、退屈になったんだもん。みんな兄弟みたいに結束してて、実際兄弟になったあと、それまでの関係を維持できるのかわたしも興味あったしさあ」 「あんたらみたいな人間はね、弱っちいから群れてないと不安なの。それを愛だ友情だと錯覚してるの。横並び手を取り合って仲間だなんだ言いながら、裏では誰かが飛び出さないか、必死になって監視してる」 「大っ嫌いなのよねえ、そういうの。わたしを独占したいくせに、牽制しあって動けない。だからきっかけをあげたのよ」 「盛大に足引っ張り合って自滅する様、笑えるわあ。あんまり面白いからご褒美に、みんな沈めてあげたはずなんだけど」 「なんか見逃しちゃったのがいたみたいね。影薄すぎて気付かなかったか」 「――違う!」 それは彼にとって、何があっても許容できないことなのだろう。酸欠の魚のように目を剥いて口を開き、彼にとっての真実を主張する。 「君は僕を特別に見てくれたんだ。だから他の奴らのように殺さず、そのまま行ってしまったんだ」 「あれは追いかけて来いってことだったんだろ? 僕に追いかけてきてほしかったんだろ? 君は僕を求めているんだ! そうだと言ってよ!」 「いや、そういうのもういいから」 流石に切が無いから付き合いきれない。若干引き気味にフォルカーの哀訴を寸断しながら、この茶番を終わらせるべくルサルカは術を編む。 「まあとにかく、勘違いさせちゃってごめんなさいね。わたしのうっかりで、そんな変態になっちゃって」 「一応、少しは悪いと思ってるから、ここで後腐れなくきっちりと――」 影の中から、鋼鉄の塊が実体を持って立ち上がってくる。それは乙女を模した拷問具で、抱擁するように腕を開いて…… 「抱きしめて、あ・げ・る」 「僕は――」 「〈おやすみなさい〉《Gute Nacht》」 「あああああああぁぁぁぁァァッ――――」 死の抱擁に掛かったフォルカーの絶叫が轟き渡る。それにルサルカは腹を抱えて、指差しながら爆笑した。 「にゃははははははは、『ああああ』――だって、チョー受けるんですけどぉ」 「ねえどんな感じ? 気持ちいい? 鋼鉄の処女に抱かれて眠りなさいな、変態ちゃん」 「あー、まったく、童貞からかうと碌なことになんないわね。今度から気をつけよっと」 ひとしきり笑いくさったあと吐き捨てて、踵を返しかけたその時に。 「アン、ナ……」 「君は、僕の愛から逃げるんだね…だったら……」 「あー、なんだって?」 全身を貫かれ、ボロ屑のようになったフォルカーが何事か言っている。胡散臭げに振り返ったルサルカへ、彼は切れ切れの声で言葉を継いだ。 「君の、行く先には、何もない。誰にも、何処に、辿り着けないと……予言するよ」 「…………」 「カール・クラフトにも、言われたんだろう? なるほど、確かに彼は正しい。君は、そういう運命なんだと、確信した」 「僕を、受け入れなかった君に、光は、ないよ」 その末期、錯乱した敗者の戯言と断ずるにはあまりに不愉快な内容に、ルサルカは眉を吊り上げる。 「言うじゃない」 だったら、本当にそうなるかどうか見ているがいい。 永遠に、影の中で。 「その負け惜しみだけは、覚えといてあげるわよ」 跡形もなくフォルカーを喰い殺してから、ルサルカは今度こそ踵を返した。 「そう、あなたはずっと奪われ続ける。何も分かっていないから」 胸を文字通り串刺しにされ、魂ごと血を吸われながらもジェーンは満足げに笑っていた。 なぜならこれこそ、ある意味で彼女の望み。愛した吸血鬼の糧として、真に一つになれるのだ。瞳は潤み、心は桃源郷を浮遊している。 だが当のヴィルヘルムはと言えばまったく逆で、不快に眉を顰めていた。ジェーンの〈繰言〉《くりごと》が気に入らない。 「へえ、そりゃどういう意味だよ」 「自分で、言ってたことじゃない。総ては先着順なんだって」 「私も、そう思うわよ。私にとっては、あなたが始まりだったから……ずっとあなただけを追ってきた。あなただけを、思ってきた」 「それに決着をつけないと、次は何も始まらない。終わっていないことがあるから、別のことが出来ないのよ」 「一途なんでしょう、ヴィルヘルム。だけどあなた、浮気性よね」 「そんなことだから、邪魔が入ったり、邪魔者にされたり……」 「真面目な恋愛ができなくなる。私みたいに、満足できない」 淡々と、一言一言刻みつけていくように、目を見て、頬に触れ、口付けするような距離で囁く。 「ねえ、ひとついいこと、教えてあげるわ」 「神様ってね、とても意地悪でどうしようもない性格だけど」 「愛にだけは、怖いくらい真摯なの。不真面目な遊び人には、絶対望みを叶えてくれない」 まるで〈神〉《ソレ》も、一つの愛に想い焦がれているからとでも言うように。 自らの同胞には最大の祝福を。愛を軽んじる冒涜者には極限の呪詛を……それこそが、この世の法則。神威の超越者だからといって、超然としただけの不感症では断じてない。 むしろ血塗られた愛と狂気に満ちた世界の主に相応しく、誰よりも自己中心的な小児めいた者なのだと。 それをジェーンは確信している。だから自分は勝利したと思っているのだ。 「そのこと、肝に銘じておきなさい」 「そうかよ」 確かに、戦の勝敗とは目的を果たしたか否かによるもので、その点ジェーンは勝っている。 ならば己は敗者なのか? いいや違うとヴィルヘルムは首を振り。 「忠告、覚えといてやろうじゃねえか。だからおまえはもう逝っとけ」 「先約、片付けなきゃならねえんでな」 生ける〈死者〉《デッド》に真の死を与え、己は己の勝利を手にすると牙を慣らした。 「あぁ、フォルカー。あぁ、ジェーン。なんてことでしょう、悲しいわ」 「痛かったでしょう。怖かったでしょう。だけどそれより嬉しかったでしょう。どうかあなた達の魂に、深い安らぎがありますように」 「エイメン」 「――と、言ってあげたいのは山々ですが」 「なんとまあ、噂には聞いていましたが、随分と怖いお嬢さんですね。それらは全部、生まれつきですか?」 「半分くらいは」 この少女には、遠く離れた仲間の末路が一つ余さず見えている。魔術による感覚共有などはなく、先天的な“機能”としてそうした力を持っているのだ。彼女にとって、それは手足を動かすこととなんら変わるものではない。 手が四つある人間。目が三つある人間。喩えて言うならそうした類。 黒円卓の戦鬼は魔だが、これは異形の人間なのだ。無いはずのものが有るという醜悪さ、それがどれだけ人の心を破壊するか、トリファはよく分かっている。 なぜなら彼も、かつてはそういうモノであったのだから。 「精神感応。思念同調。加えて透視? 他には何です?」 「予知が少々。後はお遊び程度の手慰みですが、スプーンもなんとか曲げられますわ。これで瞬間移動と発火もできれば、完全制覇なんですけどね」 「レーベンスボルンのノウハウは、主に東側諸国で今も継承されています。私は、まあその、中々優秀だったサンプルのようで」 「芸は身を助くと言いますでしょう。ソ連崩壊で、私達のような子供は生き場を失いましたからね。困窮していたところを拾っていただいたのが」 「正教会」 「はい、そういうことになるんですの。こんな私ではありますが、恩義の何たるかくらいは理解していますから。それに、まあ、正直申しまして」 「あなた方に恨みを抱く――権利が私にはあるのでないかと」 「そうしたほうが、健全なのではないかと」 「確かに。否定は出来ませんねえ」 これもまた、大戦の闇が生んだ落とし子だ。トリファらの世代にはその責任が存在するし、まして黒円卓がどれだけ後世に禍根をばら撒いたかなど、考えるだけ馬鹿らしい。 ヒロシマ・ショックすら問題にならない混沌の一端を、トリファもまた担っている。そこは言われるまでもなく、明確に弁えていた。 「なら、リザ・ブレンナーは何処ですの? 一言二言、私は彼女に言ってやりたいことがありまして」 「やめておきなさい。彼女はあれで強心臓だ。真に恨んでいるのならともかく、テープを内蔵した人形のごとき言葉は、一切耳に入りませんよ」 「ですが、彼女の内面を抉る目と耳なら持っていますよ。かつてのあなたがそうだったように」 「ねえ神父様、今の私は醜悪ですか?」 「ええ、見るに耐えません」 「まるで鏡を見ている気分ですよ。それも極め付きに歪んでしまった……」 己というものが気に入らない。それがトリファの真実で、彼は自分を世界最高の屑だと思っている。ゆえに鏡は見たくないのだ。 「ああ、あのままいけば私はこうなっていたのかと、思えばなんとも遣り切れない」 「今ここにいるのは、少女の形をした音叉だ。他者の不協和音に反応し、それをそのまま撥ね返す。あなたの人格と呼べるものは、もはや欠片も残っていない」 「ですが、だからこそあなたの不協和音とやらも感じることが出来るのですよ」 「ベアトリス・キルヒアイゼンを始末したかったのでしょう。共に黄金を忌む者同士、だけど目指す先が違っている。彼女はあなたにとって危険だから」 「後々のことも考慮しつつ、代行として非の打ち所がない大義名分が必要だった。満場一致で処罰に値するような、そういう状況を作るには……」 言葉を切って小首を傾げ、焦らすように間を置いたジークリンデは、猛禽の微笑を浮かべて言った。 「戦乙女をただの娘に戻すことこそ、肝要だと」 「素晴らしい」 それにトリファは、心底からの賛辞で返す。 「お見事ですよ、何ら口を挿む余地がありません」 ヴァレリア・トリファは黄金の〈鍍金〉《メッキ》を被ったままその威光を掠め取りたい。 ベアトリス・キルヒアイゼンは黄金に囚われた上官を正すため、その威光を消し去りたい。 これでは手など組めるはずもなく、むしろもっとも邪魔臭い存在だ。 「櫻井の兄妹を宛がえば、いずれ馬脚を現すと踏んでいたのでね」 「本当、なんてひどい人。最低の男ね、神父様」 「タイムリミットが存在するトバルカインと接すれば、否が応にも焦ってくるということかしら」 「まして、兄が飲み込まれれば次は妹。あんな可愛らしい女の子まで、狂気の戦争に巻き込まれる」 「そりゃあ防ぎたくなっちゃうわよねえ、普通の神経をしていたら」 「その普通の神経というやつが、惹起されるかどうかは賭けでしたが……」 「まあ、私は信じていましたよ。キルヒアイゼン卿はああいう人だ」 「清冽で、高潔で、愚かしくも愛すべき騎士なのです。平たく言うと、欲張りなのでしょうね。誰も彼もを救いたがる」 その清廉さ、なんと誇らしい同胞かとベアトリスを讃えるように。 「実に素晴らしい、鴨だ」 戦乙女など都合のいい愚者にすぎぬ。そうトリファは断言した。 「じゃあ、わたし達はねぎ?」 「さて、それほどの価値があるのか」 「お嬢さん、私は正直、ドッペルアドラーなど眼中に無いのですよ。今回、あなた方は我々に対して一定の戦果をあげています。鎧を剥げたというだけですが、それは決して軽くない」 「ゆえにここらで一時引き上げ、次に繋げるという戦略的判断も間違いではありません。黒円卓の二位と五位を、実質潰せるわけですし」 「部下を残らず捨て駒にし、あなたが得ようとしたのはそういうものじゃないのですか? 頭が残れば問題ないのは、蛇も鷲も同じですから」 「それとも、本気で我々を全滅させることが出来るとでも?」 「さあ、どうでしょうね」 瞑目して意味深調に、ジークリンデははぐらかす。彼女にトリファの心は見えていても、今のトリファに彼女の心は分からない。 「ただ、目的はまだ果たしていませんの」 「ほう、それは?」 「ええ、少し言うのが恥ずかしいんですけれど」 一歩踏み出し、そして二歩目、三歩目と……ジークリンデはトリファの間近に歩み寄って、父に甘える娘のようにお願いをした。 「わたしを優しく、抱きしめてくださらないかしら、神父様」 その言葉が意味するところは分からない。だがトリファに、それを断る理由はまったくなかった。 「はああぁァッ――」 「…………」 共に必殺を期した一撃を放ち合い、擦れ違う形で動きを止めたベアトリスとアルフレート。 ふと気になることを思い出したとでも言うように、ぽつりと男は呟いた。 「これで、何勝何敗目になる?」 「三十二勝三十一敗、五十六引き分け……」 「私の勝ち越しですね、アルフレート」 「ふ……」 微かに笑って、同時にアルフレートの口元から血が滴る。 「おかしいな……確か私も、三十二勝だったような、気がするが」 「それは確か、おたふく風邪で私が稽古に出られなかったのを、あなたが勝手に不戦勝だと言っていただけです」 そんなことが確かにあった。あれはいつだ? おそらくお互い、十にもならないくらい子供の頃で、どんなに喧嘩をしても次の日には歌を歌って笑いあって…… 当時は当たり前に出来ていたことを、絶対不可能だと感じるようになったのはいつなのだろう。 彼は変わって、自分も変わって、それでも彼は自分が変わってないから駄目だと言って…… しかしそれを言うのなら、この彼だって変わってないところがあるじゃないか。 「いい歳をして、負けず嫌いも大概にしてください。あなたのそういうところ、昔から……」 「なんだ……?」 「嫌いじゃ、なかったですよ」 〈Hänschen klein〉《ちょうちょ》を歌えば機嫌が直る男の子……鷲になっても、飛ぶのが好きなところは変わっていない。 「ふふ、ふふふふふふ……」 「残念だ、残念だよ。せめて私の手で幕を引いてやろうと思ったのだが……」 「まあ、いいさ。一足先に、ヴァルハラとやらの煮え具合を見てきてやろう。おまえもいずれ、そこに来ることになるのだろうから」 「生憎ですが」 それはない。静かに首を横に振って、ベアトリスは宣言する。 口に出したら、間違いなく戻れなくなることを。 「私はヴァルハラを落とします。あなたをそこに送るのは申し訳なく思っていますが、すぐに救いますから勘弁してください」 ここはシャンバラ、ヴァルハラを産み落とす魔の子宮だ。 この場でそんなことを言ってしまえば、必ず黄金と水銀の耳に届くだろう。彼らの恐ろしさがどれほど人智を超えているか、嫌になるほど分かっている。 分かっているから、宣言しなければ覚悟も信念も叩き折られると思ったのだ。 前を向くため、道を照らす光となるため。それがベアトリス・キルヒアイゼンの誇りであり、アルフレートへの陳謝と哀悼。 そして、今も敬愛する上官への、変わらぬ想いに他ならない。 「では……」 「エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグに、貴様の意を報告しておいてやろうかな」 「頼みます」 剣を鞘に戻しながら、ベアトリスは頷いた。 「さようなら、親友」 「さらばだ、腹立たしい馬鹿娘」 「一度くらいは、貴様を手に入れてみたかったよ」 そして、アルフレートはゆっくりと崩れ落ちた。降りしきる雨を見上げて、ベアトリスは嗚咽にも似た声を漏らす。 「……ごめんなさい」 「でも私には、こうするしかなくて……」 自分が正義だなんて思っちゃいない。ただケジメは付けなければならないと思うのだ。 若かりし頃に浅慮のまま、悪魔と契約してしまったツケがあり責任がある。 今の時代に地獄の修羅道などを顕現させては断じていけない。若い世代が幸せになれるように命を懸ける。 それが自分たち、みっともない年寄りの役目だろうと思うから―― どうか見ていてくれと祈った瞬間、場違いな拍手の音がベアトリスの思考を裂いた。 「はぁい、はぁい、はぁーい」 「すっごい感動、すっばらしい。かっこいいねえ、ヴァルキュリア」 「――――――ッ」 いつからいて、見ていたのか。舞台役者へ喝采を送る観客さながら、ルサルカ・シュヴェーゲリンがそこにいる。 「ちょーっとメロドラマ臭かったけど、老境の恋?って感じで、そのお爺ちゃん渋いじゃない。せめてこう、抱きしめて、腕の中で死なせてあげるくらいしてあげればよかったのに」 「剣は立つのに、そっちは奥手だねえ相変わらず。まあそこが可愛いと言えば可愛いけど」 「マレウス……ッ」 「あまりからかうものではありませんよ。彼女は今、傷ついているのでしょうから」 「シュピーネ……ッ」 「もう一戦やらかす元気はあるかい、キルヒアイゼン中尉殿」 「ベイ……ッ」 三人とも、口調と表情は仲間に対する砕けたものだが、目はまったく笑っていない。それは確かにそうだろう。 「詰みだわ、おまえ。こりゃもう言い訳きかねえよ」 「聞こえたぜ、さっきの台詞。ヴァルハラを落とすだぁ」 「あなた自分が何を言ったか、ちゃんと理解してるんでしょうねえ」 「それはハイドリヒ卿への反逆を意味する」 「頭ぶっ壊れてんのか」 「どう考えても正気じゃないわね」 「あの方に刃向かおうなどと、狂気の沙汰と言うしかない」 彼らはラインハルト・ハイドリヒの恐怖に魂まで呪縛されている。圧倒的な破壊のカリスマに屈服した奴隷として、目は見えず耳も聴こえず、思考すら停止した死人と同じだ。 ゆえにベアトリスを理解不能なものとしか見ておらず、だからこそ彼女もまた思うのだ。 「………で」 「あん?」 「言いたいことは、それだけですか? 笑わせないでください。何が正気かも分からない破綻者の分際で」 自分は違う。生きている。悪魔の奴隷ではない人間だと、信じているから戦うのだ。 「狂っている? 結構です。あんなものに膝を折り、隷属するのがまともだという言うのなら、私は狂気で構わない」 「あなた方の忠誠など、しょせん保身と欲望で成り立っている紛い物だ。騎士に対する侮辱です」 聖槍騎士団? 笑わせるのもいい加減にするがいい。そこは死者と戦奴の吹き溜まりで、無限の髑髏が積み重なった羅刹の毒壷でしかないだろう。 よって自分は、その存在を許さない。凛冽な剣気が昂ぶり雷気となって、白刃を研ぎあげるかのように帯電する。 戦姫の意志はとうに固まり、もはや論ずることなど何も無いのだ。 「気に食わないなら、かかってきなさい。私は獣の群れごときに退いたりしない!」 「くく、ふふふ、ははははは……」 清開な啖呵に真っ先で反応したのはヴィルヘルム。彼は心底から嬉しそうに、喉を鳴らして嗤っている。 「面白ぇ、面白ぇよ、おまえはほんとに。相変わらず勇ましいこった」 「そっちこそ、相変わらず下種ですね。救いが全然見えませんよ」 「だから、言ったろ。そんなもんは生まれてこの方、ただの一遍だって感じたこたァありゃしねえよ」 それは期せずして、彼らが初めて遭遇した日の焼き直し。 当時とまったく同じ台詞を重ね、当時と同じく向かい合い、そして当時とは比べものにならないほど二人は強くなっている。 「それは今から手に入れるんだ。ああ、思い出すぜこの感じだ」 「てめえはあの時、あのベルリンで、俺に殺られるはずだったんだよォッ!」 充血した眼球が反転し、髪が逆立ち牙が伸び、沸騰した魔性の〈血〉《バラ》が杭と化して爆発する。 そう、あの頃にこんな力は持ってなかった。しかし今も変わらないのは、血と暴力のみを絶対の法と信じる魂。それこそ救いと奉じる心。 まずは己の血を顧みろと、不滅の黄金に言われたのだ。よってヴィルヘルム・エーレンブルグは自己を知り、畜生の血を絞りつくして新生を願う、夜に羽ばたく不死鳥となった。 そしてそれは、ベアトリス・キルヒアイゼンも同じこと。奉じる騎士道、軍人としての誇りと魂、今もまったく変わっていない。 閃光になりたいから―― 闇を払い、道を照らす光になりたいと願うからこそ、戦乙女は黄金の修羅道を認めないのだ。 ゆえに双方、等しく相手を生かしておけない。この場で殺すと決めていた。 迅雷の速度と放電の刃こそがベアトリスの真骨頂。見た目は華奢な乙女だが、その実力は黒円卓でも指折りだ。 雷撃を纏った戦姫の剣は、最大出力で空母戦艦すら両断する。 対してヴィルヘルムは吸収、略奪、蹂躙の魔性。敵が何者であろうとも、エネルギーを発するならば吸い上げて咲き誇る薔薇なのだ。 たとえ正真の落雷でも、己にとっては餌にすぎないと狂信している。 激突し、爆散する武威の衝撃が周囲一帯を破壊していく。そしてこれは、なお激しい嵐となって強化と拡大を続けるだろう。 その天井、臨界に達した果てがどうなるか……現状では非常に読みにくく測りがたい。 「ねえ、どう見る?」 だからルサルカは、傍らのシュピーネへ問いを投げた。 「さて、正直私ごときの力量で、予想を立てられるほど甘い勝負でないことだけは分かりますが」 「残存黒円卓の、実質最強決定戦ね」 「然り。ベイ中尉もヴァルキュリアも、共に生半可な腕ではない。つまり現状、陳腐ですが世界最強の二人と言ってよいはずです」 マキナ、ザミエル、シュライバー……三人の大隊長は流石に別格だとしても、彼らはラインハルトと共に城へ旅立ったのだから現世においてはカウント外だ。 ゆえに今、残留した八人の中で高位に拮抗しているのはベアトリスとヴィルヘルム、彼らに間違いないと言えるだろう。 「ただ、ちょっとだけベイが有利かもしれない。ヴァルキュリアは速いけど、薔薇の夜からは逃げられない」 「相手が強ければ強いほど、ベイはどんどん強くなる。あれだけ気合いが乗ってれば、同調率も相当なものになるでしょうし」 「では、ベイ中尉に賭けますか?」 「そうね、あなたは?」 「ふぅむ、でしたら……」 顎に手をやり、間を置くシュピーネ。それは悩んでいると言うよりも、何かを待っているかのようだった。いや、実際そうなのだろう。 背後から近づく足音、それを聞くとまったく同時に振り返って。 「私は大穴狙いをしてみましょうか」 ようこそと言わんばかりに、シュピーネは“彼”を迎えた。 「どいてくれないか」 「え……?」 「おやおやおや」 「ベアトリスの相手は僕がする」 現れた戒が一歩踏み出しそう言うと、ルサルカは軽い困惑顔で顎をしゃくった。 「いや、ちょ……それは別に勝手だけどさあ。あなた状況分かってる?」 「あんな中に首突っ込んだら、普通に人生終了しちゃうわよ」 「問題ない」 「問題ないって……」 「今の僕に触ろうなんてする馬鹿は……」 瞬間、渦中に歩み始めた戒に向け、飛び散った瓦礫の悉くが溶け崩れて塵となった。 「な――」 「これは……」 「この世に、一人もいないはずだから」 言って、なおも歩いていく戒を誰も止めない。止められようはずもなかった。 「――どけ、ベイ」 「あァッ?」 いきなり背後から肩を掴まれ、激昂したヴィルヘルムは振り向き様に杭の嵐を叩き返す。 「どけと言ったぞ」 「――――なッ」 だがそれは、瞬時にして残らず分解され塵と化した。ヴィルヘルムの驚愕に、ベアトリスもまた事態に気付く。 「戒―――」 「これは僕の役目だ。引っ込んでてくれ」 「うおォッ―――」 そのまま力任せに放り投げられ、背後に吹き飛ぶヴィルヘルム。膂力の面では黒円卓でも屈指の彼をこうも容易くあしらうのは、単純な力だけのものではない。 「てめえ――」 「駄目よ、待ちなさいベイ」 「見たでしょう、あれ。あんなものに近寄ってどうするのよ。死にたいの?」 「ぐッ―――」 「ほら、もう腕だって腐り落ちそう」 「求道の創造……しかも腐敗毒の一種ですか。なんともはや、これはまた」 「確かにやめておいたほうがいいですね、ベイ。致命的に相性が悪すぎます」 「あれは炎に並ぶ吸血鬼の鬼門だ。土に還されてしまいますよ」 「タチの悪さだけで言うのなら、マキナ卿に伍するものがあるでしょう」 「そういうことだ。死にたくなかったら、誰も僕に近づくな」 「それでベアトリス……」 これで邪魔が入らないということを確信してから、戒は目の前の彼女へ目を向けた。 「君を止めるのは僕の役目だ。これ以上、勝手な暴走はさせない」 「あなたは……」 その様に、ベアトリスは言葉が出ない。どうしてこんなことになったのか分からないのだ。 「あなたは馬鹿よ」 なぜ大人しくしていないのか。なぜ若い命を粗末にするのか。もっとも見たくなかった光景を見せられて、自然と語調が強くなる。 「図に乗って……私に勝てるとでも思ってるの?」 戦いたくないと思うからこそ、彼女は彼にそう言うが…… 「君が僕に気を遣うのは、有り難迷惑だと言っているんだ」 「何が――」 まるで見透かされたように言われてしまい、瞬時に顔が熱くなった。 「有り難迷惑……ですって?」 「違うのか?」 「違うわよ!」 駄目だ、駄目だ、冷静に……冷静にならなくてはいけないと分かっているのに追い詰められて、もっとも愚かな選択をしてしまう。 「子供のくせに、余計なことをするんじゃない! 私は私の目的があってこうしている」 「自惚れないでよ、戒! あなた達のことなんか、ただのついでに過ぎないわ!」 そう、とても大事で捨てられない“ついで”だ。 彼ら兄妹と出会ったからこそ、自分は人の本分を取り戻せたのだと知っている。 「だから――」 「退きなさい。今ならまだ許してあげる」 私が助けてあげるから。全部終わらせてみせるから。そうすれば少なくとも戒と螢は、幸せに生きていける。 ねえ、そうでしょうと祈って、祈って…… 「…………」 「……分かった」 その返答に、安堵したのは一瞬のこと。 「僕も退けないんだよ、ベアトリス」 「そんな……どうして……」 もっとも単純で明快な答えに、ベアトリスは今さらながら気付いてしまった。 「言っただろう。今じゃ僕のほうが強いと」 「君を死なせたくない。君を救いたい。汚れるのも、腐るのも、僕が全部引き受ければいいんだから」 「僕は後悔なんかしちゃいない。これが唯一最良の選択なんだ」 「――――――」 彼女は彼を救いたいと思っていて。彼も彼女を救いたいと思っていて。 そして二人が愛した無垢な少女は、今も人質に取られていて。 もはや誰かが死ななければ収まらない。 「そんな、だからって、あなた、そんなになって……」 「私と螢が、喜ぶとでも思ってるなら、大馬鹿よォッ!」 だけどそれは、きっと自分にも言えることだ。先ほど有り難迷惑だと言われた通り。 答えは出せず、退くことも出来ず、ならば道は一つしかなかった。 「どうするのよ、これ。どうなるのよ、あなた。本当に、分かってるの!? もう、後戻りなんかできない……!」 偽槍の呪いは凶悪だ。創造を発動するほどシンクロしてしまったら、たとえ今すぐ解除しようと余命は無きに等しくなる。 まして戦闘など行えばさらに危険だ。いいやもう、すでに手遅れなのかもしれない。 戒はそれを悟ったからこそ、こうすることを選んだのかもしれなくて…… だけど、だけどそれじゃあ、あの子はどうなる? 「螢には――」 「君がいればいいだろう」 「――――――」 その言葉は、もはや戒が命を捨てているのだと告げていた。 そして、彼にそうさせた原因の一端は、間違いなく自分にもあるのだとベアトリスは痛感する。 「どのみち僕は間に合わない。いま始めても意味がないなら、時が来るまで耐え続ける。カインであり続ければいい」 「螢が普通に、幸せに、生きていくことができればそれで――」 「だけど――」 「言ったろう、こうするしかないんだ」 「聖餐杯に約束させたよ。僕が勝てば、君は罪に問われない」 だからこの場は諦めて、次の機会まで命を繋げと戒は言う。それは確かに道理であって、賢い者ならそうするだろう。 事実、当初のベアトリスが描いた絵図は、すでにどうしようもないほど破綻している。ここから巻き返して完遂するなど、ほぼ絶対に不可能だ。 そして何事も失敗したなら、それ相応のツケを払わねばならない。 「頼む、聞き分けてくれベアトリス。僕は君を――」 「何だっていうのよ!」 「死なせたく、ないんだ……!」 再度、呪いの槍が哭き始める。魂を寄越せと叫喚して、櫻井戒を人ならざる腐蝕の屍へと変えていく。 「だから早く――」 「僕が壊れてしまう前に――」 「負けを認めてくれ、でないと――」 「君を殺してしまうかもしれない」 「~~~~~~ッ」 「お願いだから」 「ふざけないで――!」 まるで泣き叫ぶように頭を振って、ベアトリスは怒号した。 さっきから好きなことばっかり勝手に言って、なぜ自分がそんな理屈に従ってやらねばならないのだと。 「それは私の……私の台詞よ、戒!」 この失敗に対して支払うツケを、どうしてあなたの命にしなければならない。 螢を守り、育てる役が、どうして私でなければならないんだ。 そんな決まりも、理由も一切ない! 失敗したのは私。螢の兄はあなた。常識でものを考えてよ、配役が逆でしょう。 なるほど確かに、櫻井戒には時間が無い。 だが、だからこそ、ここで無駄を食うわけにはいかないんだ。 「早く――」 「早く――」 あなたが人でいられるように。 お願い、剣よ……力を貸して。私の魂に応えてちょうだい。 「一秒でも早く私が勝つ!」「一秒でも早く僕が勝つ!」 「だって私は、あなたのことが……」 「何だっていうんだ」 「―――ッ、言ってやらない」 「知りたければ、生きなさい!」  皆死ぬ。誰も救えない。貴様の閃光は死神の鎌だ。……いや、地獄へ行進させるレミングかな。  似合いの二つ名だよ、戦乙女。カール・クラフトはこう言っているのだろう。 「〈Donner Totentanz〉《雷速剣舞》――」  その夢、青臭い祈りはグラズヘイムを肥え太らせる。  ラインハルト・ハイドリヒの、忠実なる死神だと。  違う。違う――認めない。私は死神なんかじゃない。  ただの女で、ただの馬鹿。男性一人、ろくに翻意させられない未熟者だというだけのこと。  でもそれはそんなに悪いこと? 情けなくはあるけれど、地獄に落ちるほどの罪だと言うの?  お願い、答えて。誰か教えて。私と彼に、いったいどんな他の手があったというのよ。 「――〈Walküre〉《戦姫変生》――!」  教えてください、ヴィッテンブルグ少佐…… 「ほら、見えるでしょう? 聞こえるでしょう? これがこの戦争のクライマックス。わたしが見たかったのは、この光景」 「この因果を作り出すためだけに、他の総てはあったのよ。それをあなたに、教えてあげたいと思ったから」 言われたままジークリンデの〈矮躯〉《わいく》を抱きしめ、彼女から流れてくる映像を鑑賞させてもらいながら、その腕に力を込めてトリファは続ける。 「ふむ、いまいち要領を得ませんが」 「つまり、こう言いたいわけですか? 勝利したのは自分だと」 「ええ、これが私の、勝利に繋がる……」 「今日のこれを境にして、総てが音もなく狂いだす。言ったでしょう、予知もできるの」 「あなたは負けるわ、ヴァレリアン・トリファ。カール・クラフトも、ラインハルト・ハイドリヒも……みんなギロチンにかけられるの。その光景が、目に見える」 「うふふ、あはは、ははははは……それが証拠に、今だって、あなたは自分の業から逃れられない」 「子供、殺すのが、好きだものねえ……わたしを抱きしめて、抱き殺して、愛しながら殺さずにはいられない」 「可哀想な、男。滑稽な、男。自分が総てを操ってると自惚れながら、操られてることに快楽を見出している……」 「ラインハルト・ハイドリヒになりたいから、破壊の真似事しか出来ないのねえ……あなたは、抱きしめた子供を殺してしまう」 「この、今が、何よりの証拠……」 「あなたは、勝てない。永遠に、邪なる聖人……」 「いつか、分かるときが、くるでしょう。勝ったのは、わたし達だということを……」 「蛇を滅ぼす……その引き金を引いたのは、このわたし」 「おやすみなさい、神父様……あなたの大事な、お嬢ちゃんも、こうして抱き殺してやるがいいわ」 「あはは、あははは、あはははははははははははははは――――」 「……………」 事切れたジークリンデの身体を無造作に放り捨て、トリファは溜息をつきながら顔を上げた。 「なんともはや、奇怪なことを」 「私は負けぬ。私は死なぬ。私は永遠に歩き続ける。止まりなどしません」 「ですがまあ、否と言うなら見ていればよろしい。この私の、聖道を。何者にも侵させない、巡礼の旅を」 「さらば、安らかに眠りなさい。奇妙で奇怪で、そして哀れなお嬢さん」 「あなたが何を呪おうが、聖餐杯は砕けませんよ」 「……終わったのね?」 「ええ、そしておそらく、いまキルヒアイゼン卿も死にました。思えばこれは、必然だったのかもしれませんね」 「つまり自死衝動……あなたはそれで片付ける気?」 「他に何がありますか。私の奸計とも言えぬ謀など、ただ状況のひとつに過ぎぬでしょう。彼女は自ら死を選び、ハーメルンよろしく断崖へ走ってしまったのですよ」 「ああ、とても辛い。心荒む出来事です。結局我々は、何処までいっても人間臭い。たとえ身体が滅びても、魂だけは永遠に……などとまったく、誰が言い出したことなのやら」 「ともかく、私は立場上、穴を埋めねばなりません。従ってこれから先、しばらくお暇させていただきます。テレジアにはまあ、何か適当な理由で誤魔化すようにしてください」 「承諾できませんか?」 「……いいえ」 「どうせなら、そのまま帰ってこなくてもいい。あなたはあの子を……」 「ああ、可愛らしいお嬢さんでしたねえ。サクライの血族にしては少々マトモすぎますが」 「私はあの子をカインにしないと約束した。ええ、それは守りましょう。ただ……」 「他の席に据えないとは、一言たりとも言っていません」 「ふふふふ、ははははは、はははははははははは」 「それではこれで、カインの処置はあなたのなさりたいように。キルヒアイゼン卿の弔いは……まあ必要ないでしょう」 「しょせん大局を見誤った愚かな女。黒円卓の恥部にすぎない。リザ……あなたもそうならないよう、お気をつけなさい」 「分かっているわ」 「ならばよろしい。ただ憎め。真に私を憎め。愛しい我が同胞よ」  そして――  この日、私の子供時代は終わりを告げた。  大好きだった人たちをいきなり失い、その空隙を埋めるため悪魔に魂を売ったこと。  それが正しかったのかどうなのか、今でも私は分からない。分からないけど、他に選択肢はなかったのだ。 「私についてくるならば、二人はあなたのもとに帰ってきます。ええ、生き返らせることができるのですよ。まあ、それ相応の苦痛と覚悟を要しますがね。お嬢さん、あなたはいったい、どうされる?」  死んだ人が生き返る。そんな有り得ないことを有り得ないと言えるほど、私は大人になれてなくて。  頷き、剣を握ったそのときから、もう戻れなくなったのだ。  後悔は、していないけれど…… 「戒……」  大好きだった兄さん。 「ベアトリス……」  私の憧れだった理想の女性。  二人がこんな私を見たらどう思うかなって……それだけが、ずっと気になって仕方ないの。  だから、お願い。願わくば……  私にとって二人は永遠の英雄だと、信じ続けることを許してほしいって……そう思うの。  なあ、聞いてくれないか、ベアトリス。  霧咲さんが言っていた、今年中にもう一回は絶対あるって、そういうやつ。  また、上手く気持ちを伝えることが出来なかったから、今ここで言わせてほしい。  呆れているかもしれないし、怒っているかもしれないし、たぶんその両方なんだろうけれど、僕の本音はたった一つで、他にはない。  君はキレイだよ、ベアトリス。  誰よりも、何よりも、櫻井戒はベアトリス・キルヒアイゼンを愛しているから。  それを誇りに思っていること、どうか宣言させてほしい。 2066年――ドイツ、ベルリンに向かう車窓から。 「前略──先輩、お元気でしょうか。こちら、あなたの〈後輩〉《あいけん》です。わんとか言いましょうか?」 「もう伝わっていることかと思いますが、私も先輩の後を追い、この度ベルリン芸術大学への留学が決まりました。今はこうして電車に揺られ、流れ行く景色を風情たっぷりに眺めていたりするわけです」 「本当は、パリとかの方が私に合いそうな気がするんですけど」 「まあそこはそれ、いかにもドイツ~な先輩はドイツ人以上にドイツっぽいので、やっぱり友達いないんじゃないかと心配だから、こうして世話を焼きに行こうというわけですよ」 「後は、その、我ながら驚くことではありますが。どうやら私、根っから忠犬根性の持ち主だったようでして……先輩の愛が籠もった鉄拳がないと、どうにも生活に張り合いが出ない出ない」 「……正直、年頃の乙女が、彼氏よりも同性の先輩に調教済みってどうなんでしょうか」 「え、知らんわ馬鹿者? はいはいツンよりデレください。ちょっと私の彼氏マジかっこいいんですけど、そんなイケメンすら日本に置いて、先輩のこと追いかけてるんですからね。これは是非とも感謝してほしいところです」 「おまえにそんな世話を焼かれる謂れはないとか、飼い犬なら黙して尻尾を振っていろとか、いつものように罵倒されちゃうんでしょうけどね。これも愛。そう、先輩をボッチにしないための愛ゆえでございます」 「ああ、こんなこと言うとまた鬱陶しがられるって分かりますよ。ええ、はい、そうですね。今なら非常によく分かります……」 「子犬は眺めているからよいのであって、飼うとなると何たる手間暇。最初の内は可愛くとも、相手をするのが疲れてくるというか何と言いますか、なのに潤んだ目で寄ってくるとか反則でしょう。振り払うにも一苦労です」 「人の振り見て我が振り直せ……含蓄のある言葉だと、思った理由が何かと言うと──」 「ねえねえ、お姉ちゃん。どこ行くの? ねえってば」 端的に言って──私、なんか懐かれちゃいました。真っ白ふわふわの子犬ちゃんに。 「確か、憧れの先輩に会いに来たんだよね? それもはるばる日本から。すごいなぁ、私も〈お母さん〉《ムッター》に会いに来たんだけど、そんなに遠いとお小遣いが足らないよ」 「あ、なんで〈お母さん〉《ムッター》に会うのに電車乗ってたかっていうとね、仕事で二年ほど出稼ぎに出ているからなんだって。なんだっけ? たしか日本だとタンシンフニン、って言うのかな?」 「そんなだから、〈お父さん〉《ファーター》と二人だけだと寂しくて。こうしてわたしは、毎日のおやつ代をこつこつ溜めて、こっそり〈お母さん〉《ムッター》に会う大冒険へ繰り出したのです。すごいでしょ?」 「ていうかさ、迷惑かけないよういい子にしてようね、って言う〈お父さん〉《ファーター》の方が、〈お母さん〉《ムッター》に会いたくてうずうずしてるのにね。本当、大人は面倒くさいね」 「お姉ちゃんも恋人ができたら、一緒にいるのが一番いいよ。仲が良いのに距離が遠いと、電話代すごくかかっちゃうから。うちみたいに」 「あれ? これってさっきも話したっけ?」 「ええ、すでに七回ほど」 耳にたこが出来るほどに。そんな私の反応を、このアンナというらしい少女は、なんとも可愛い仕草で首を傾げながら眺めている。 見かけはまるで絵本の妖精。非常に愛らしいと分かるのだが、しかしその中身は── 「ふーん……まあいいや! それでね、それでね、今から会いに行く〈お母さん〉《ムッター》なんだけどさ。すっごい格好よくて優しくてさ、バリバリできる女ってわけ」 「それでね、当時うだつの上がらなかった〈お父さん〉《ファーター》は、そりゃもう必死に〈お母さん〉《ムッター》のことを射止めようとして──」 「は、はは……はぁ……」 こういう感じに、いやあよく喋る喋る。 途切れることのないマシンガントーク。聞いていない家族構成から、ママに会うための大冒険まで……いったいぜんたい、この懐きようは何なのだろうか。 いやまあ分かりますよ、きっかけは私だって。たまたま電車で隣に座ったから、ちょっと飴玉あげたらまあこの通り。 日本のお菓子が気に入ったのか、はたまた別の理由があったのかは知りませんが、気づけばこうして、ずっと彼女の話を聞かされているわけなのです。話の内容は主に家族自慢。パパとママが大好きだって、そればっかり。 なんというか、その表情がとても幸せそうなだけに振り払えず……はいはい自業自得ですねー、そうですよ。 「うぅ、私の馬鹿。かわいいからって気軽に犬を拾っちゃいけないって、分かってたのに……」 べったりくっついているアンナちゃんには、どうやらぼやきは届かなかったらしい。ああ、撫でて撫でて、ハグしてハグしてオーラが純真すぎて今も辛い。 コアラにしがみ付かれた木のように……先輩に会ったらまた扱き下ろされるであろう姿のまま、駅のホームを歩いていく。 そして当然、そんな様だと歩き難いわけでして。 「──わきゃっ」 「っと──なんだよ、ふらふらしてんじゃねえぞてめえ」 バランス崩した瞬間に、こんなチンピラとぶつかってしまい大ピンチです。 何か明らかに野蛮で粗雑で低俗そうな男との遭遇に、すわ乙女の貞操一大事か。なんて稲妻の速度で嫌な予感が駆け抜けるものの── 「…………うっわぁ」「…………うっへぇ」 何でしょうね、胸から湧き上がるこの気持ち。面倒くさそうというか、趣味じゃないというか……ねえ? 「礼儀を知らねえのかてめえらは……喧嘩売ってるのかよ、言い値で買うぞ」 とまあ、口を開けばするりと出てくるこの不良感。まんまチンピラ、ザ・チンピラだ。どうやらこういう種類の馬鹿男は、万国共通でいるらしい。 男の癖に色白の肌してくれて。何だか分かりませんが、妙にカチンとさせてくれるじゃないですか。 そのままアンナちゃんと軽く目配せ。二人の心は一つなのか、軽く頷いてからガン付けて睨み返してやった。 「はいはい。どうも、すみませんね。ですが喧嘩、喧嘩ですか。女性に向かって開口一番その台詞とは……ふう、やれやれ」 「しょうがないよお姉ちゃん。この蝋燭ノッポ、見るからにモテなさそうだもん。女の子の扱いなんて知らないんだよ、紳士には程遠いね」 「そうよねぇ、アンナちゃん。可憐で清楚な女の子二人に対して、ありえないよねー?」 「ねー」 「はっ、馬鹿かてめえら鏡見ろ。初対面で毒吐く女のどこが可憐で清楚だよ。いいとこ黄猿と人形だろうが」 「第一、その貧相な身体つきのどこが女だって? おおそいつは悪かったな。あるのかないのか分からなかったもんで、どっちなのか気付かなかったよ。悪い悪い」 「ほ、ほっほぅ……」 い、言ってくれたなこの野郎。いいのよ脂肪の塊なんて。こいつこのまま引き摺って、私よりナイ先輩の下へ連れて行ってやろうかな。 あの人全部筋肉だぞ、筋肉。肺活量すごいんだぞ! 「お生憎様、私は彼氏持ちの勝ち組ですぅ! あなたみたいな寂しい寂しい独り者じゃないんですよ!」 「おおー、すごいやお姉ちゃん! ……でもわたしは〈お母さん〉《ムッター》がばるんばるんしてるし、成長期だからきっとまだ大きくなるけどねっ」 「なにっ」 おぅジーザス、神は死んだ。にこやかに裏切られたんですけど、こんちくしょう。 この容姿で将来巨乳ですか……ちょっと何それ最終兵器ではないですか。無邪気なその微笑みが今は恨めしい、ぎりぎり。 しかもこの男にまで鼻で笑われるとか、おのれ一生の不覚。今直ぐここでノックアウトして、ママのおっぱいにゴーホームしてくれよう。 などと、思った折に── 「──お兄様。そろそろ時間が近づいておりますよ」 「これ以上は、先方にご迷惑がかかります。お戯れはそこまでにして、早く共に参りましょう」 「あぁ? ……ち、マジかよ。もうそんな時間か」 「は? え、お兄様?」 ……なんか、あり得ない反応を見た気がした。 遠くから手を振っているこれまた美人ちゃん……というか、明らかにお嬢様風の女の子。まさかと思いますが、こやつもしかしていい所の出とか? 確かに服とかよく見ると、結構なブランドものっぽい気がするんですけど。 ていうか、うわぁ何そのいかにも──まったくあいつはしょうがねえなぁ、みたいな兄貴風吹かせつつも、妹にまったく頭の上がらなそうなその感じ。 私いま、何か世界が崩壊したような気がしました。ぶっちゃけ、キモいこと山の如しです。 「じゃあな。さっきの戯言は忘れてやっから、次はちゃんと前見て歩け。狂犬じゃねえんだからよ」 「手当たり次第噛み付いてると、いつかしっぺ返しを食らうだろうぜ」 「…………」 と、最後まで身の丈に合わない大物風を吹かしながら、白チンピラは去っていったのでした。 妹に手を引かれている姿を見ながら、鳥肌の立った身体をそっとさする。生理的に駄目とはああいう奴をいうのだろう。 「うーん。妹好きで、ボンボンで、チンピラかぁ。完璧に救いがないねえ、あいつ」 まったくもって同意である。 「まあ、そんな紆余曲折あれども」 悪い出会いがあれば、良い出会いもあるわけで。 「よく来た。まあ月並みだが、長旅ご苦労」 ホームを出て駅前に行けば、長身の女性が待っていて。私は思わず笑みがこぼれてしまう。 「んー、この子があなたの後輩。聞いてはいたけど、なんか対照的な感じねえ」 しかも、隣にはもう一人知らない子がいて、どうやら二人で私のことを待っていてくれたようだった。 その事実に、軽い感動を覚えてしまう。だって、だってさ―― 「先輩、おめでとうございます! やっと、やっと私以外にもまともな友達が出来たんですね!」 「黙れ、この馬鹿娘が」 「ふぎゃっ」 出会い頭にまず一撃。遠慮なく、かつ的確に、頭頂部のつむじ一直線に落された拳骨が懐かしく脳を揺らす。 「あらあら、ひどい先輩ね。自分を追ってきた後輩に、再会一発愛の鞭はないんじゃない?」 「ここはほら、優しく抱きしめるのがあなたの故国、なんだっけ、〈MOE〉《もえ》の文化ってやつじゃなかったかしら」 「知らん。歴史の浅い惰弱な言葉を口に出すな。一世紀程度も続いていない新参の文化など、生憎私は認めていない。歌舞伎や能ならまだしもな」 「何より、こいつに手加減などそもそも要らんさ。手紙でも電話でも常に男がどうのこうのと、年中頭が沸いているから多少締めてやったほうがいい」 「ああ、なるほど。つまりそっち方面では後輩に後れを取っているのが腹立たしくて妬ましいと」 「そうか、どうやら貴様も頭の螺子が若干緩んでいるようだ。遠慮はするな、こっちへ来い──絞め直してやろう」 「自分でするから結構よ。……まったく、これが日本のツンデレってやつなのかしら」 「そろそろデレてもいいと思うんだけどねぇ。その辺、あなたはいったいどう思う?」 「ああ、そりゃ一年以内じゃ無理ですよ。私なんて中学から頑張って犬なんですから」 「あはは、残念。前途は多難ってわけか」 「まったくです」 「ほう……楽しそうじゃないか二人とも。初対面でそれほど親しくなってくれたようで、何よりだとも。連れて来た甲斐があったものだ。喜ばしいよ」 「一つ私も混ぜてくれ。これから時間をかけて、存分に語り明かしてもらおうじゃないか、なあ?」 そう言いながら先輩、目が凄まじく恐いんですけど。 そして、ええっと、この彼女。あなたは本当に動じないんですね。青筋浮いた先輩に睨まれてるのにその態度。ちょっと私、感服します。 「ま、そんなことはともかくとして……」 「少し遅れちゃったけど、初めまして後輩さん。わたしはアンナ。ベルリン芸術大学の特待生で、あなたの先輩に当たるわ。所属は声学科なんだけどね」 「ちなみに、飛び級してるからあなたより歳下だけど、そこはあまり気にしないでくれると嬉しいかな。よろしくね」 「はいっ、こちらからもよろしくお願いします!」 握手して、互いに微笑み合う。しかし、アンナ、アンナですか。なにやらその名前に縁があるような気がしますが、ともかく笑顔が素敵な女の子って感じです。これからは赤アンナさんと呼びましょう。 「だけど……」 ちょっと疑問に思って、先輩に視線を移す。こんな可愛い子が、いったいどこでこの人と接点を持ったのか分かりません。 地元の不良すら裸足で逃げ出す女傑だけに、まあ昔からミーハーな女子には絶大な人気を誇っていた人だけども…… 「何やらよからぬことを考えていそうだが、こいつはロシアからの留学生だよ。つまり我々と似た境遇だ」 「そう。だから親近感っていうのかな? あとは気づけばこんな感じってわけ」 「はぁ、つまりホームシックの共有ですか。先輩にもそういう人並みの感覚があったんですね……意外です」 こう──燃やし尽くせぃ、ふぅははははァ! とか似合いそうだったから特に。 「やはり一度、貴様とはきっちり話をつけねばならんようだが……まあよかろう。それよりもだ」 「うん、それよりも」 す、と二人は私の背中を指差して── 「おい後輩。ずっとおまえの背に張り付いているその白い毛玉、いったい何だ?」 そんなことを言われたが、おっといけない。これは確かに忘れてましたよ。 べりっとはがすと、途端に寒くなる背筋。ふっくら暖かかった部分に初春の冷気が肌寒いものの、抱えた少女をひょいと掴んで差し出した。 「それじゃあ──はい。これ、おみやげのワンコです。どうぞっ」 「ほら、白アンナちゃん。アピールアピール!」 「くうん、わんわんっ。そこの凛々しいお姉さん、いい子にするから抱きしめてっ」 上目遣い。ちびっ子。満面の笑み──ここに炸裂ッ! 勝った! 完璧なる三重奏の不意打ち。これで落ちない者など血も涙もない人間に違いなく── 「──鬱陶しい、元の場所に捨てて来い」 「やっぱり血も涙もなかったッ! この人やっぱり、骨の髄まで鋼鉄製の軍人なんだ!」 「よもや後輩が少女誘拐に手を染めるとは、誠に遺憾だ。ああ残念だよ。この手でおまえを鉄格子の向こうへ引き渡す日が来ようとは……」 「自首をするなら早くしろ。魔が差しただけなら、執行猶予も今ならつくかもしれん」 「え、嘘なにこの展開。知らない内に私、犯罪者にされてるんですけど!」 「実際その通りだろうが」 いやまあ絵面だけ見たらそうなんですけどね、もうちょっと私の人間性を信じてほしいんですが。そこのところはどうなんでしょう? 「心配するな。一緒についていってやる。親御さんには、まあ、私から説明しておこう」 「だから、その憐れみと同情のこもった視線はやめて! 後輩のお茶目な冗談って分かってくださいよ、ねえってば」 白アンナちゃんも我関せずといったそぶりで赤アンナさんに懐いてるし。身の潔白を証明してくださいよ、このままだとお姉ちゃん豚箱行きになっちゃいますよ。この人、ほんとに警察連れてくような人なんですから。 「……って、あれ」 「ねえねえ、ちっちゃいお姉ちゃん。なんか向こうの二人は大変そうだね。私って誘拐されてたみたいだよ? 知らなかったなぁ」 「そ、そうね……けどあなたも、ちょっと離れてもらえると嬉しいかなぁ」 「何だかわたし、さっきから変に落ち着かなくてね。理由も自分じゃわかってるんだけど、でも流石に拭いがたい記憶があって」 「へぇ……ふふ、面白ーい。わふん、ぺろぺろ」 「──わひぃっ、やややだ。味見は無理っ、白い色だともっと無理ぃ! たたた助けて二人ともッ」 ありゃ、何ともまあ。 「愉快なことになってますねえ」 「そうだな。おまえの犯罪を問い質すより愉快そうだ」 パニックに陥っている友人を見てそれですか。先輩、しばらく会わないうちにまたドSぶりが増してますね。 頬を舐められながら涙目で助けを呼ぶ赤アンナさん。何だか可愛かったけれど、さすがに本気で嫌がってるので白アンナちゃんの首根っこ掴んで引っぺがす。何だか満足そうにしているので、こっちはとても楽しかったらしい。 対してあちらは、何とも憐れだ。すぐに先輩の後ろへ隠れて、警戒しながら鼻をぐしぐしやっている。 「うう、白は、白は駄目なの……あいつらは吹雪に紛れてやってくるの。わたしをぐるりと取り囲んで、味見するみたいにべろべろ舐めてくるんだものぉ……」 「ああ、そういえばシベリアオオカミは白いのが多いか」 「幼少期のトラウマがぶり返しちゃったわけですか、これは酷い」 「誰のせいだ、誰の……」 不幸な事故は恐ろしいことですね、と白アンナちゃんに軽くデコピンをして反省を促す。私のせい? いえいえまさか。 先輩も先輩でやはり面倒見がよいせいか、赤アンナさんをあしらおうとはしていない。ため息をつきながら、それでも仕方ないと肩を竦めて皮肉気に笑う。 「おまえに懐いた犬はさておき……これからどうする」 「先に学舎を見ておきたいというなら、先達の務めだ。案内ぐらいはしてやろう。元より、今日はそのためにわざわざ迎えに来たのだからな」 「そりゃまあ、私が粗相をすると、日本からの留学生全体の品位に関わりますからねえ」 「よく分かっているではないか。私に恥をかかせるなよ」 「ヤヴォール」 笑って語る口ぶりは、なんともまたこの人らしく、一々決まって格好いい。 荷物はすべて先に送っているので、目立った持ち物もない。それに初の海外だから、見て回りたいものも数多くある。 たとえば、そう。これから通う学舎も、確かにいいのだけれど── 「ですがその前に、私、この街が見たいんです」 「ベルリンに何があって、どんな風景があるのか。実はちょっと、楽しみにしていたんですよ」 なぜか、心が躍るのだ。それは幼い日の探検に近い気持ちだった。 まだ隣町さえ、知りもしない秘境だったあの日。未知の景色に心馳せていた興奮が、胸に生じているのが分かるから。 それはこのベルリンへ留学すると決めた瞬間から、そっと芽生えていた感情で。どうしてか、駆け出したいほどに、私はこの街がどういう営みを育んでいるのか知りたがっている。 自分でも驚くほど、輝かしい希望と共に。 「おまえもか……」 それはもしや、一年前のこの人も同じだったのかもしれない。ほんの一瞬、不覚だと言わんばかりに目を伏せながらも、私に同意してくれた。 「そういうことなら。──そら、ここに適任がいる」 「かくいう私も、かつてこいつに案内してもらったのだ。これで中々、この手のことは得意な奴だぞ。数少ない太鼓判を押せる部分だ」 「なにそれ、ひどーい。わたしの親切さと、美声あっての名観光よ。去年の今頃、それでしきりに感心していたのは誰だったかしら?」 「ここはいっそ、ツアーコンダクター・アンナちゃんと呼んでほしいわね。任せてちょうだい」 「うわぁ、かっこいーい。わたしも一緒に行っていい?」 「う……ま、まあね。別にいいけど」 自信満々にしたり、いたずらっぽく笑ったり、たじろいだり。ころころと変わる赤アンナさんの表情にくすりと笑う。 きっと、これはいい出会いなんだって。 「それじゃあ、是非ともお願いします」 そう感じられるし、思えるから。その厚意に対して、私はとても素直に甘えることが出来ていた。 そして──ベルリンの観光は始まった。 駅前から離れて見渡せる町並みと、それを謳いあげるような軽やかさで説明する赤アンナさんの声。それは非常に含蓄とユーモアに溢れていて、まるで妖精に案内されているような気持ちになる。 恐らく彼女は、こういう知識を蓄えて活用する行いが、生まれついて上手いのだろう。 自分だけが高尚な真理を分かっているという賢者とは違い、その言葉は誰もが分かり易く、そして楽しめる非常に素晴らしいものだ。少なくとも、万人が好むであろう語り口はとても活き活きとしていて、聞いているだけでこちらの心さえ躍ってくる。 私や白アンナちゃんははしゃぎつつ、先輩は静かに嗜むように。それぞれ確かに楽しみながら、ベルリンの風景を心に刻んでいく。 観光名所とも言えない日常の景色すら、特別なもののように。 何故かその光景に……救いすら覚えながら。 徒歩から始まり、バスに乗り。やがて私たちは、とある有名な場所へと辿りついた。 そう、ベルリンに訪れる観光客のほとんどが足を運ぶであろう地── ブランデンブルグ門。ベルリンのシンボルとされている門であり、そしてその両脇にあったはずのもの。 それは…… 「1989年11月10日……ベルリンの壁、崩壊」 「第二次世界大戦での敗北を機に生み出された、ドイツ分断の証。それがかつて存在し、人々の手によって乗り越えられた証よ」 ベルリンの壁、跡地。 かつて一つの国が引き裂かれた敗北の象徴。 そして再び、統一を果たした再起の証だった。 「…………」 それを前にして声を出すことが、できない。胸は鉛でも飲んだかのように詰まっている。息をするのだって一苦労。喉はからからに渇いていた。 噛み締めろと、胸の奥で熱い何かが脈打っている── それが何かは分からないけれど、それでも言われるまでもなく目の前の光景を刻み込む。心の深奥、魂が輝く刹那の何かへ。 鳴り響く、雷鳴のように。 「前日、当時の東ドイツ政府が自国民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を発表したの。けれどそれを、事実上の旅行自由化と受け取れる表現で誤発表した事がきっかけにより、僅か一日で破壊された東西の〈閾〉《しきい》」 「国を二つに割っていた壁は、両市民が溜め込んだ鬱憤を下地に、ほんの些細な誤りが引き金となって……あっけなく取り除かれてしまいましたとさ」 「難攻不落にして、不変の象徴。冷戦そのものであったとも言える物理的な壁。それが崩壊すると同時、まるで蓋が取れたかのように『我ら等しくドイツ国民である』という意識が市民の間で急速に高まっていったの」 「もちろん、その後統一にこぎ着けたからといって、すべての問題が解決したわけじゃなかった。むしろ東西間にあった経済格差が浮き彫りになり、その時代に発生した不況の影響が、何十年も尾を引いたという側面もあるわ」 「御伽噺や英雄譚のように、栄光は常に恩恵をもたらさない。勝利を得たとしても、次に待つのはまた別の戦い。一歩進むたびに踏み出した足元には問題が転がっていて、それを解決するにも数多の苦難が待っている」 「けど、それでも──」 「この地が、歴史の節目であったことには変わりない」 「少なくともこのドイツにおいては、敗北の負債を清算し、誰憚ることなく戦後の復興へ歩み出せた……偉大なる墓標なのだろう」 墓標──ああ、確かにそうなのかもしれない。ここは大戦時から続くあらゆる痛みの傷痕であり、それがようやく眠りにつけた場所だから。 戦いの日々に吐いた嘆きや、その子孫にまで続いた重荷の数々。世代が移り変わり、もはや誰が悪いというわけでもないのに残った、狂気渦巻く大戦の残滓。それが塗り固められたものこそ、ここにあった壁だった。 だから、それを超えたことは紛れもなく偉業なのだろう。古くから続く文化の象徴たるブランデンブルグ門もまた、再びその輝きを取り戻したのだ。 眺めるたびに先代の敗北を想起させ、未来を不安で彩っていた壁面はもはやない。それはすなわち、かつて戦場で充満していた破壊光よりも、今を生きる者たちが閃光を追い求めたことの証なのだから。 負けたくない。挫けたくない。どうか未来を望む我らの願いを、こんな壁で遮らないでと── 思ったからこそ些細な言葉でそれは砕けた。あまねく総てに光は降り注ぐものであり、だからこそ今こうして旧き日の墓標となっている。 感慨深い、そういう前向きな気持ちは時代や国籍を超えて胸に来る。 何より私はこういうのが大好きだ。希望に満ちた昔の人々を感じ取れると、自分たちも頑張らなくちゃと思えるし。 「なんか、この壁を一番に崩した人とは友達になれそうですよ。こう、自分が真っ先に光となってぶち壊してやるぜ、的な」 「私もその時ここにいたら、きっといの一番にツルハシ抱えて飛び出したんじゃないですかね」 「また貴様は、頭の悪そうなことを誇らしげに」 だって、そういう力仕事もたまにやってみたくなるじゃないですか。 踊る阿呆に見る阿呆。どちらも阿呆なら……そりゃもう、楽しんで参加したほうがよろしいでしょうに。 「でも、今は壁も無くてよかったね。わたしたちの他にたくさん人も見に来ているみたいだし」 「それは観光地として有名になったせいよ。まさか取り壊された後は文化財扱いにされるなんて、敗戦当時のベルリン市民は夢にも思わなかったでしょうね」 「自分たちの国を分けた建造物が、こうしてベルリンに活気を生む一つの要因に成るだなんて」 だが、塞翁が馬と言い切るには少々不足ではあるだろう。戦争で負けた代償は、一つや二つの文化財では到底賄うことなどできはしない。 そこに根付いた文化や価値観、そして人命の損失を前に楽観視していられるのは他人だけだ。 けれど、だからといって立ち上がらないでいい訳もまた、存在しないはずだから。 せめて乗り越えた証として、これに希望を見出したい。明日へ残し、誇りたい。そう願う心は、間違いなく当時の人たちにあったはずだろうから── 「ええ──ですから、壁が長く残っている場所では、多数のデザイナーが壁面をキャンバスにしていたものが見られますよ」 「壁の崩壊から二十年を機に、それまで描かれていた落書きを塗り替えてしまおう……という試みから始まったものでして。ユーモアに溢れ、中々に素敵な風景へと生まれ変わっていました」 「イーストサイドギャラリー。お嬢さん方もお暇なら、是非とも見に行ってはいかがでしょうか?」 ……などと、ふいに横合いからかけられた言葉は、見知らぬ男性のものだった。それも奥さんらしき人と、小さなお子さんを連れていて。 「えっと……」 何だかひょろいというか、ちょっと不健康そうな人にいきなり話しかけられたのでびっくりした。赤アンナさんに目で問うも、どうやら知らない人のようだし。 私にとっても、初めて会った人なんだけれど…… 「もう、あなたったら。いきなり見も知らぬ男性に声をかけられたら、この人たちも困惑するわよ」 「ごめんなさいね。お嬢さんたちがとても楽しそうにしていたから、ついついこの人、自分も説明したくなっちゃったみたい」 「はは、そうですね……まったく余計なことでしたか。すみません」 「どうにも歳を取ると、若い人に余計な世話をしたくなってしまうらしい。まだまだ自分では若いつもりでいたんですが、ちょっと自重しなければいけませんか、これは」 「まったくね。せっかくの家族旅行くらい、仕事の時みたいな薦め方はやめてほしいわ」 「お仕事? さっきみたいに話すのが?」 「そう。この人ね、教師をやっているの」 「ついこの間まで、生徒の進路相談に乗っていましてね。ですからこう、若い方が意気揚々としていますと、思わずといいますか……あ、決してやましい気持ちはありませんよ」 「私は生涯、妻一筋ですので」 と、はにかみながらのろける様はなんとも自然で、年季の入った信頼関係が伺える。 そんなものを堂々と見せられて、私たちに出来る反応はそう多くなく…… 「なるほど、幸せそうでなによりですよ」 「ええ、ありがとうお嬢さん」 微笑んで、彼女は旦那様にそっと寄り添っていた。 うーん、はたから見てもいい距離感です。おしどり夫婦というやつでしょうか。 私も将来、こんな風になれたらなと思います。 「いいなぁ、ロマンチックよねぇ」 「そうですねぇ、憧れますよねぇ……」 「むぅ……」 だけど、お子さんの方はさっきから何やらむすっとふて腐れている。両親が自分よりも私たちに構っているせいか、ずっと口をへの字にして、所在無く退屈そうだ。 「申し送れました。私、カリフォルニアの〈高等学校〉《ハイスクール》で教鞭を取っている者です」 「こちらは妻と息子で……」 「よろしくね、お嬢さんがた」 「…………」 「ほら、あなたも挨拶、ちゃんとお姉ちゃんたちにできるでしょう?」 「……こんにちわ」 ぺこり、と彼は頭を下げたかと思うと、そのままお母さんの後ろに隠れてしまいました。 二人とも苦笑しているところを見る限り、どうやら少し気難しい性格のようだ。もしくはちょっとシャイなのかもしれない。これくらいの年頃の子は、こういうものだろう。 「すみませんね。この子はどうにも、私たち以外には人見知りしてしまうタチでして……」 「いえいえお気遣いなく、思春期にはつきものの行動ですし」 「それにそもそも、ここにいるのは私以外、いい歳しながら女子力皆無の干物系ばかりです。男の子に懐かれない、そんな程度で挫けるようなガラスハートは持ってませんから」 「いや、干物なんて軽そうな感じではないですね。むしろ鉄系、機甲師団、大火力〈88mm砲弾〉《アハトアハト》みたいな」 「おい、アンナ。至急葉巻と火を持って来い。どうやらこの犬、躾が足りないらしい」 「ええ任せてちょうだい……一人だけ余裕ぶっこいてる後輩には、わたしたちが優しく優しく根性入れなおしてあげないとね」 「あ、痛い。痛い――ちょっとそれ、本気で痛い。折れる、折れますってえ!」 「あはははは、お姉ちゃんってやっぱり学習しないなあ」 白アンナちゃん、そういうのなら助けてくれると嬉しいなぁって……骨、骨軋む。先輩方に掴まれた肩、さっきからみしみし鳴ってるんですけどっ! そんな私たちを見て、ご夫妻はにこやかに微笑んでいらっしゃいます。私の肉体が破壊される瞬間を、慈しむような眼差しで──見ないでください。助けてくださいよう。 「いいですねえ、青春の輝き」 「私もまた、もう一度教壇に立ってみたくなる光景ね」 「ちょっと、〈真剣〉《マジ》、放置しないで。そりゃ確かにじゃれてますけど、か弱い私にとってはゴリラに絡まれてるようなものなんですよぉ!」 「ほう、言ったな貴様。誰の、どこが、どうゴリラだ」 「先輩の、その握力が!」 「父様、母様」 と、私の絶叫を完全無視して、お子さんが嘆息気味に言いました。 「……こんな人たち、もう放っておいて先に行こうよ」 「僕は、早く聖堂が見たいのに……」 「せ、聖堂? なんですかそれ?」 どうにか先輩のアイアンクローから逃れつつ、そう訊いてみたけど彼はむっつりと黙り込む。 それに苦笑するご両親だが、白アンナちゃんはそんな男の子にも怯まない。 「──ねえ、キミ。ちょっといい?」 「それって、ベルリン大聖堂だよね。わたしの〈お母さん〉《ムッター》が働いてる場所、その近くなんだ!」 「キミたちもそこ行くの? うわぁ、すごい偶然だなあ。ねえ、どこにあるの? 案内して、案内して」 「………………」 こういうとき、天然の押しの強さって便利だなあ。自己中、考えなしとも言うけれど。 「ほら、無視しちゃ駄目よ」 「女の子には優しくと、いつも言っているでしょう」 「ねっ? だから一緒に連れてってよ」 「…………」 「いやだ」 「うわぁ……」 「取り付く島、ないですね」 「ここまでくると大物だな」 ある意味感心している私たちとは対照的に、白アンナちゃんはぷりぷりと怒っていた。 「えぇぇっ、なんでいじわる言わないでよ。そんなむっつりしてると、将来ろくでもない大人になっちゃうんだぞっ……って、テレビで言ってたんだから」 「知らないね。僕は静かなのが好きなんだ」 そう言ったきり、つんと顔を背けてしまう。 まだ小さいというのに、この歳でインテリっぽさが出ているようだ。両親が教職の人間なせいか、もしかしたら図鑑や本を読んで育ったりしたのかもしれない。 しかし、それはともかくとして── 「ふむ。ベルリン大聖堂、か……」 その単語もまた、私の胸に不思議な波紋を広げていく。 おかしな話だが、それは郷愁に近いもので。 「当然、この後案内するつもりだったわよ。一見の価値は十分ありだし」 「それに、何だかあそこって──」 呟く赤アンナさんの声もまた。 〈器〉《カラダ》から溢れそうになった〈何か〉《タマシイ》を、ほんの一瞬だけ噛み締めるようで。 遠い遠い過去の刹那に、思いを馳せるようで。 「不思議と、懐かしい気分にさせてくれるしね。きっと、みんなもそう感じると思うわ」 「そうですか……」 きっと、その心は今の私と同じだろう。 隣ですまし顔の先輩だって、そこは同じだ。いや、この場にいる誰もが、言葉に出来ないものを感じていると思う。 どうしてか、それが分かって…… 「なんだか、引力みたいなものを感じます」 小さく、自分だけに聞こえるよう呟いた。 引力、自分はそこに行かなきゃいけない。その直感が、驚くほどしっくりと胸にきたから── 「ええっと……」 疑うことなく、それを信じてみることにした。ここにいる私たち全員で、これから同じ光景を見てみたいと。 それに意味があるって思えたからこそ、笑顔で彼らに提案したのだ。 「これも何かの縁だと思いますし、これから一緒に、みんなで大聖堂まで行きませんか?」 返答は聞くまでもなく、返ってきた微笑に私も笑顔で頷いた。  ゆえに時折、彼は漠然と思うのだ。  己はなんと不敬極まる信徒なのだと。  自分は天を仰げない。  両の手を合わせられない。  膝を折り、主の威光に頭を垂れることがついぞ出来ると思えない。  驚くほどに冷めている心神と共に、ため息をこぼしながら胸元に輝く〈十字架〉《ロザリオ》を指先でなぞった。  ともすれば、そのまま暴力的に握り潰してしまいそうな衝動と共に。端正な美貌を無表情に染め上げながら、荘厳な大聖堂の意匠を見上げた。  ……果たして、始まりは何だったのだろう?  信仰心の厚い、敬虔な両親に育てられた結果のことか。それともこの世に生を受けた瞬間か。  はたまた、羊水に包まれながら泡沫の夢を見ていたときからか。  判別はつかない。理屈が見当たらない。そう、最たる原因などないままに、ふと彼は自らを形作る精神に一つの異常を見出していた。  信仰の欠如──すなわち、神を敬うという気持ちが欠片も芽生えない己のことを。  いや、正確に語るのなら少し違うのかもしれない。敬意の有無というよりも、それは抱くべき感情の種別。天に住まう絶対者に対して思う彼の情緒は、些かならず奇怪な構造をしていると言わざるを得ないのだから。  恐らくは一笑に伏され、家族には諌められるであろう愚考の類。  彼は、神と呼ばれる存在にある種の〈親〉《 、》〈し〉《 、》〈み〉《 、》を感じている。  日々の感謝を捧げるのではなく、形無き光へ友人にも等しい不可思議な情の動きを覚えていた。  ゆえに、彼は真に祈れない。あまねく万象へ与えられる祝福に、感心は出来ても感謝することが出来ないままだ。  信心深くなれぬのはそれが理由。  見事なことだ、ああ美しいな。愛おしいぞ、よくやっている──などと、まるで同僚の仕事に対するが如き感想。まったくなんと気安いことか。  明らかに、天と己が水平であることを前提のまま、彼は聖書を読んでいる。度し難いと言う他なく、見習いとはいえとても神父であるとは思えぬ思考回路だろう。  少なくともこのような感性は実に危険だ。余人に聞かせたその瞬間、倣岸の極致と罵られても文句は言えまい。何よりもまず、単純に生き難いだろう。  宗教とは、あくまで現実を生きる者らに安寧をもたらすための思想論。形無き主は架空であり、崇拝とはすなわち、遠回しに行なわれる自律と自戒に他ならない。  狂信者でもない限り誰もが即座に気づくことだ。信仰とはそういう類の寄る辺であると。  神とは、あくまで個々人の中に住まう戒律の象徴。それだけでいい。いや、そうでなくてはならない。  誰も破格の力を有し、人を気ままに翻弄する絶対者など求めてはいないから。ソレは民を慈しみ、眺め、照らすだけで十分すぎる。  法なくば存在できぬ民たちが、未来という暗闇に迷わぬように。  無明を照らすための一助であれ。そう思える。  仮に、凄まじく最善とも言える理想を述べるなら──  神の導きなくとも自己を保ち、誠実に生を歩めるような精神を誰もが獲得した社会だろうが……それこそまさに夢物語だ。  神は在るべき。心の中に、規律の中に。  導きとなり、輝きとなって。絶え間ない祝福を地に注いでいるべきなのだ。 「たとえ、それが如何なるものであろうとも」  共感できる。溢れんばかりの愛と、それの行き着く情の極み── 「それが覇者に相応しき、黄金の威光であろうとも。愛は至高だ。砕けようとも受け入れたいと思えるほど」  御心は無限大に、雄々しく。  天は加護を授けてくれる。時に宗派の違いゆえ、他者を壊してしまうほどに。それもまた愛の産物には違いないから──  だが、それも所詮は推論の一つだ。結局は自分が戒律と呼ぶものをそう定義し、神をそのように捉えているというだけにすぎない。  そうした答えに至る彼の思考は冷静そのもの。  実在を叫ぶほど狂信しているわけでもなく、現実と教義をすり合わせた上で非常に堅実的な考えを有している。  ──なのにたった一つ、天の光へ対してのみ、認識に理屈が合わない。果てしてこれはどういうことか?  神への友情。馴れ馴れしい親しみ。壊れるほどに抱きたいと願う奇怪な想いは何なのか。教義にも常識にも反していて身動きが取れない。  先の論と照らし合わせれば潜在的な自尊心に落ち着くだろうが、それでも納得には程遠い。  疑念は裡で渦巻いている。答えがついぞ出てこないから── 「私は惑う。惑いながら生き、死ぬのだろう」  だがそれも悪くない。そのようにも思うゆえに。 「答えは、永劫出ないほうがよいのかもしれない」  そっと囁くように呟いて、彼は静かに踵を返した。 「そう、だからあなたはそれに気づかない。極々単純な解答だとも。自己の中に有する〈法則〉《かみ》が、女神の愛に比するほど強大であるに過ぎないというだけ。ああ、そこの因果についてははぐらかしたままであったし、分からぬのも無理はない。どうか分からぬままでいてほしい。それが皆にとっての最良だ。私にとっても、あなたにとっても、彼ら彼女らにとってもまた」 「私がこうして在る以上、あなたの〈神性〉《しかく》も無くならない。ゆえにその感性は正しいとも。仰ぎ見るなど出来はすまい。その魂は、未だ確かに我らと同格のものなのだから」  そこで──悩める青年を眺めるモノは、穏やかに微笑していた。  陽炎のように揺らめくその輪郭は、一向に定まらない。  青年のようでもあり、老人のようでもある奇怪な人物……かつて水銀と呼ばれていた旧時代の影は、自らの片割れを喜ばしげに見つめている。  かつて黄金の獣と呼ばれた盟友が、人として悩みを抱いている光景。それを眺めながら、感謝をするようにその笑みを深くする。  彼があと一歩の域で、本質と渇望を思い出さないこと。その事実に対し心からの謝辞を贈っていた。 「ありがたいことだ。敗者の矜持、潔いな。あなたはやはり素晴らしい」  己が敗北した力の証明が成されなければ、私は何度でも戻ってくる。確かに彼はそう言った。しかしそれは裏を返せば、証明され続ける限りこの世界の〈範〉《のり》に従うということ。  まさに矜持だ。彼はこの結末を尊く思い、だからこそ〈黄〉《 、》〈金〉《 、》〈の〉《 、》〈獣〉《 、》〈は〉《 、》〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  そこまで思いつけば至れるであろう結論に、表層意識は決して到達しようとしなかった。地を踏みしめる、神の慈愛を受ける人間として生きるために。  その自尊から達するであろう、己もまた神に成れるという認識を無意識に遠ざけていたのだった。  かつての部下、その言葉を借りるなら〈終焉〉《せつな》を穢すなということだろう。  魂を燃焼させた暁に刹那へ見惚れ、女神の治世を認めたのだ。  その栄光と絆の物語を彼の魂は誰より深く覚えている。だからこそ、黄昏の女神がもたらす抱擁を受け入れた。  ──元より、彼は総てを愛するもの。  たとえそれが結果として破壊に繋がろうとも、確かに彼は愛しているのだ。だからこそ、この今を受け止めている。自らに勝利した彼らの選択もまた、深く深く愛しているから。 「ゆえに、いつか……いずれまた」  再会もまたあるだろう。それがどのような形であろうと、必ず再び巡り合えると思うのだ。  なぜならもはや、既知の円環は存在しない。  この空が総ての命を寿いでいる限り──放逐された影と、眠りについた獣にさえも、女神の祝福は与えられているはずだから。 「我ら共に、この世界を見守っていくとしよう。今のところ、私も死にたいなどとは思っておらぬし、あなたにそれを求めようとも思わない。願わくば、〈永久〉《とこしえ》に……」  その時、続けようとした言葉と同時に大聖堂の扉が開く。  そこに集った顔ぶれへ、確かに水銀の影は含み笑い── 「粋な計らいを感謝するマルグリット。ここに改めて言わせてほしい。今また私は、あなたに深く恋をした」  これこそ最高の既知であり、また未知であると断言できる。 「〈既知〉《わたし》から解き放たれ、されど再び、集ったこの〈絆〉《レギオン》に ──〈未知の喜びを見よう〉《アクタ・エスト・ファーブラ》」 そして── 聖堂の中、輝く意匠とステンドグラスから差し込む光を前に、私たちは心を奪われた。 「すごい……」 口から漏れたのは、そんな陳腐そのものの言葉だった。けどそれこそが、自分にとって心から生まれた最大の畏敬でもあったのだ。 壮麗ながら時代を感じさせる光景は、それだけで一枚の絵に見える。滲み出る神聖さは祝福の息吹に満ちていて、暖かい抱擁にでも包まれているようだ。 そう──ここには、刹那が残っている。 過ぎ去るはずの一瞬が、消えていくはずの祈りが、時の流れから切り離されてかつての輝きを残しているから。今もこうして魂へ響く。 誰もが心を奪われていた。静かに何かを噛み締めていた。神の洗礼を受けたかのように、優しい光を浴びている。 「どうだ。ベルリンも悪くはないだろう」 「は、はい。追いかけてきて、よかったです」 素直にそう頷けてしまうので、我ながら恥ずかしくなってしまう。私はきっとこれからも、この先輩から離れられないんだろうなあ。 「素晴らしい……受け持ちの生徒達も、ここへ連れてきてあげたかったですよ」 「家族サービスも忘れないようにね。あなた」 「分かってますとも」 あちらもあちらで、しみじみといい家族している。食い入るように見つめている息子さんを真ん中に、寄り添いながらそっと肩を触れ合わせていた。 その光景を横目にして鼻を鳴らす先輩と、肩をすくめる赤アンナさん。まあ突っ込んだら負けなんでしょうが、傍から見てると羨んでいるようにしか見えないのでやめた方がいいですよ。 などと思っていたところ、袖を引く感触に振り向けば、白アンナちゃんが微妙な顔で聖堂内の一角を指差していた。 「ねえお姉ちゃん。ほら、あれ……」 「ん? なになに……って、うげ」 「素敵ね、お兄様。まるで神様が、私たちのことを見守ってくれているみたい」 「……そうかねえ。だとしても俺に言わせりゃ、誰かに見られ続けてるってのは落ち着かねえが」 いたよ、シスコンが。しかも妹にめっちゃ摺り寄られている形で。 それもやっぱり仕方ねえな、とかいうポーズのくせに気を許しているの見え見えだよ。あいつ完全に妹以外眼中にないよ。犯罪者予備軍だよ、おまわりさん。 「悲しいけど……神様もさすがに不治の病は治せないんだね、お姉ちゃん」 「うん、心の病気は特にね」 嫌なものを見たと思い、軽く視線を逸らして頭を振った。 「────?」 その、時。 チンピラの隣──そこに立っている後姿を見せた二人の神父が、なぜか妙に気になった。 煌びやかな金髪を〈靡〉《なび》かせた後姿と、鉄か岩を連想させる無骨な背中。 端麗優美と質実剛健、まったく相反しながら共通する異質な存在感。およそ一度見たら生涯忘れられないであろうと、自然に思わせるであろう人物がいる。 そのことが、どうしてか確信できて。 ほんの僅かだけ、そちらに気を取られかけて。 網にかかった魚のように。足がつい、導かれるように、そちらへ引き寄せられたかけた瞬間── 「──神様、ですか」 万感を刻まれた心揺さぶられる言葉に、意識が然りと戻ってきた。 何気なく呟いた言葉で注目されたのが予想外だったのか。彼は見つめられたことに驚きながら、言葉を選ぶように頬を指でかいて、続ける。 「ああ、いえ……これはいつの話だったか。そう、確か百数十年前、大戦の黎明期に、神の声を聞ける神父様がいらっしゃったという話を小耳に挟んだことがありましてね」 「噂じゃその方、呪いだか信仰だか分からないような思念が纏わりついた遺物……その探索がすこぶるお上手だったみたいでして。この時点で、かなり胡散臭い話ではあるんですけど」 「察するに、今風に言えばサイコメトラー、それともテレパシストってやつでしょうか。つまるところ、人や物の記憶と思考が、見える、読める、聞こえてくる」 「へえ……何だかそれ恐いわね、先生。仮にそんなことが出来ちゃったら、夜も満足に眠れないわ」 「ええそうでしょうね。自分の周囲縦横に、止められないテレビとラジオがひしめいている、それに等しい状況だ」 「まあ、それでもぎりぎり、その人は幸運だったと言えるのでしょうが。何せそんなことが出来たなら、もう百年二百年早く生まれただけで火刑台に直行ですよ」 まあ、確かに。異端に対する弾圧はいつだって過激だ。現代さえ未だ人種や国境の違いで争っているのに、そんな時代に超能力など油に放り込まれた火種だったろう。 「それで、どうして今そんな話を?」 「さあ……どうしてですかね。自分でもよく分かりません」 「強いて言うなら、この荘厳な神の家を見てふと思い出した、といったところでしょうか。先の話が創作であれ、偽りであれ、果たして神はその人物を救ったのだろうかと」 「そして、願いが叶ったならば──いったいどのような方法でその方は救われたのだろうと、そう思ったのです」 救われないまま、とは思いたくないのだろう。自分もそうだ。理不尽に訪れた不幸が不幸のままなど、そんな話は大嫌い。 物語はいつだってハッピーエンドが最高だから。博識ぶって、不幸な終わり方をこれ見よがしに讃えている人の方が、よっぽどおかしい。底が浅いというものだ。 人の不幸を、単なる誰かの不幸としか捉えていない。それは自分に関わりのないことだから関係ないって……確かにその通りなんだけど、それで片付くようじゃあ殺伐としすぎている。 誰かが苦しんだり悲しんだりしていると、こっちも辛くなって当然なんだ。逆に誰かが笑顔でいると、自分も嬉しいに決まっている。 他者の人生に心が動かず、自分に関係ないと愛せない。そんな閉じ篭った大馬鹿者は、天狗のように自画自賛していれればいいだけだろう。 自分には関係のないところだって、御伽噺の中だって、幸福な結末が待っていてほしいと思う。甘いだの、馬鹿だの、理想家だのと罵られても、それは何一つ恥じることのない想いだから。 「……なんかさ、そういう辛そうなの、やだよ。目の奥がじんじんして、何だか涙が止まらなくなりそうなんだ」 純粋なこの子は、より強くそれを感じている。理不尽の残酷さを想像しただけで、胸の奥を傷めていた。 「うーん……でもその人が本当にいたとして、救済は難しいわね。だってそれ、別人にならなければ解決しない願いだから」 「別人、ですか?」 「そ、最先端の脳外科移植で、こう……身体ごとまるっと他人に入れ替わるの。頭の回路が変な方向に繋がっているなら、別人の頭に換えることでそれは消えるんじゃないかと思うし。そうしないと無理っぽくない?」 「だからいっそのこと、魂そのものを抜き出して、身体丸ごと別人のものに宿るとか……あちゃあ、駄目ね。これじゃあただの妄想だ」 「まったくだな、雲を掴むような話だとも」 「けど、ちょっとした死後概念を取り入れると話はまったく別なんだけどね。ていうか、一番手っ取り早い解決法になっちゃう」 「例えば……そうね、生まれ変わりとかどうかしら?」 「東洋だとよくある、輪廻と呼ばれているものね」 「そう。天の国に召し上げられて、神様の一部になったり、裁かれたりするんじゃなくてさ。生きてる間に辛いことがあった分だけ、次は幸せになれるって仕組み」 「これならほら、さっき話に出た神父どころか、みんなみぃんな救われちゃうでしょ? どうかな、先生」 「へぇ……」 それは、確かに素敵な言葉であり。 聖女の如き願いでもあって、ああ、それだけに── 「意外にロマンチストだったんですね、赤アンナさん」 「あなたもここでツッコミは止めなさいよ! 何か冷静に返されたら、恥ずかしくなってきちゃうじゃない……」 いやいや、少女漫画もびっくりのヒロイン力ですよ。ほら、先生だって顔がほころんでいますし。 「いいですね、夢がある。そういう救いは好きですよ」 「教義的に、この場でするには些かそぐわない話なのかもしれませんが……」 「なぜか、そんなに場違いでもないように思えるわね。実は今、私は妊娠しているんだけれど」 「へ?」 「そうなの?」 いきなりの発言にびっくりする私たちに、彼女は柔らかな、まさしくお母さんの笑みを浮かべて、続ける。 「だからこの子も、幸せになるために私のところへやってきてくれたんだと信じたい。そういうわけで、ちゃんと協力してね二人とも」 「それはもう」 「……うん。弟しっかり、可愛がる」 「おお、それは、また……」 いつもむすっとしている息子さんが、微かにいま笑いましたよ。弟って、お母さんのお腹具合を見る限りそこまで判明しているとは思えないけど、ちゃんとお兄ちゃんになる自覚はあるみたいだ。 「まあそれはそれとして、輪廻とやら、私は少々過保護であろうと思いますがね。こいつのように、追い込まれんと本気になれない馬鹿娘がいるというのに」 「また先輩はすぐそういうことを……私のことはともかくとして、少しは空気読みましょうよ」 「知らん。だいたいその空気がどうたらというのは、日本の悪しき風習だ。全否定はしないが、あまり良いものでもないぞ。無駄に萎縮した輩を増やしてしまう」 「和の文化は誇っているが、その根源が打算ではつまらんだろう。嫌われたくないとか、怒らせないようにとか、端的に女々しい。性に合わん」 「だいたい貴様、私にまったく遠慮をしておらんくせによく言うものだ」 「そうよねえ。だってあなた、言ってたもんねえ」 「あいつだけは私に物怖じしないから、まあなんだ。悪い気はしない――とか。あははははは!」 「貴様っ――」 「え、ちょ、マジですか!?」 そんな、この人、なにそれ可愛いじゃないですか! 「せんぱ~い、ついに、ついにデレたんですね。うおお、ここまでほんとに長かったっ!」 「ええい、寄るな触るな纏わりつくな鬱陶しい!」 「とにかくっ」 「私が言いたいのは、その時々の感情に打算から蓋をするのは、人生に対して不誠実だということだ」 「そこは同感」 「思いやりも、慈しみも、今を素直に生きるということの上ですからね。ええ、その通りだと思います」 「それなら、ここで一緒に記念写真でも撮っておきましょうよ」 「今を大事に。楽しい一瞬を、いつでも思い出せるように切り取って。そうすれば今日という思い出を、何度でも見つめることができそうですし。ね?」 言いつつ、私は持ってきたデジカメを取り出してみる。ナイスな提案に対し、まず一番元気のいい声があがった。 「さんせーいっ」 「へえ、日本人が撮影好きってやっぱり本当なんだ……あ、わたしも賛成ね。綺麗な思い出は好きだから」 賛成二名、そして他のみんなも頷いてくれている。若干、一名の少年だけは渋々といった具合だが、彼もまたいつか分かってくれるだろう。 時が経ち、青年になり、大人に成ったその時に……積み重ねてきた日常の輝きというものを。 振り返ってみればそれだけで優しい気分にしてくれる、刹那の美しさをきっと感じてくれるはずだから。 そうと決まれば話は早くて…… 「ええっと……すみませーん、そこの清掃員さーん!」 「はいはい。この私になんでしょうか、元気なお嬢さん?」 「お願いなんですけど、私たちの写真を撮ってはもらえませんでしょうか? 出来るならちょっと離れて、バックがよく映るようにしてもらいたいんですが」 「はは。そういうことならお安い御用ですとも。ささ、どうぞ並んでくださいな」 「こう見えても私、観光に来られた方を撮影するのは得意でしてね。一年に何度かこうして声をかけられているので、お手の物なんです」 おお、いい人だ。ひょろ長の冴えないおじさんだけど、歯を輝かせて微笑み返す様子からは妙な自信が伺える。 なので安心してデジカメを渡し、そのまま皆さんのもとまで駆け足で戻る。家族写真のように全員が横一列に並んでいる場所へ、私もそそくさと歩を揃えた。 それが何だかおかしくて……どうしようもなく、嬉しくて。 「──それじゃあ、この出会いが輝ける奇跡であると願いつつ」 「まあ、それなりに悪くない今」 「抱きしめてくれる温もりや」 「抱きしめてあげられる喜びに、感謝して」 「届かないものを羨むんじゃなくて。いつだって、安らぎはわたしたちの隣にあると信じましょう」 「一日の終わりに、慈しむ黄昏の光に抱かれることで」 「……僕は、煌びやかなものが好きだけど」 一人だけすねた言葉に苦笑する。 けれど、そういう好みの違いもあっていいと思えるからこそ。それら総て、全部まるっとひっくるめて── 「生きてるっていうことは、なにより素晴らしいということで」 最高の笑顔を、思い出に変えてくれるレンズへ向けた。 「それでは、お嬢さんにあやかって日本式に──」 「はい、チーズ」 ああ、私は帰ってきた。 そんな場違いだけど、不思議なくらいにしっくりくる、暖かい充足感に包まれていた。  ──そう、光はあまねく総てへと降り注ぐ。  優しい母の愛が如く、分け隔てなく、不変の輝きで照らすから。  それは海に落ちた一粒の宝石。原石である代わり、何者にも左右されない一滴の至宝は……出会いと別れによって急速に磨き上げられていった。  触れ合う喜びに、別離の痛み。  守りたいと思える人たちに、抱きたいと願う総て。  舞台の主演とされた女神はそうして目覚め、抱擁の喜びとともに流れ出す。  自らを高みへ導いてくれた者たちへの感謝と共に。そして、誰よりも大切な愛しい一人の青年のために。  青臭くも美しい刹那の輝きに守られて──黄昏の温もりは、今もこの宇宙を包み流れ出ている。  〈恐怖劇〉《グランギニョル》を演じた彼らすらそうであるように、それに立ち向かった〈絆〉《レギオン》もまた…… 「──だから、大丈夫なのかって聞いてるんだよ」 あの子の〈願い〉《ソラ》に抱かれて。 「もう歳なのに、まだ若いつもりでいるからじゃないの?」 ここに、再び在ると、信じられる。 「そう思うなら、それらしく労わってくれたらどうかしら? 私は、あなたたち曰く、か弱いお年寄りなんでしょう?」 「ちっちゃい頃から面倒見てきて上げたのに、どうしてこんなに手の付けられない放蕩小僧になっちゃったのかな」 「そりゃアレだろ、お節介な誰かさんのしつけがよかったからじゃねえの? そうだろ、香純」 「なんせオレら、あの孤児院で歴代ナンバー1の問題児だし? まあ伊達に初代チャンプながら未だ防衛、王座譲らず。若手の追随許さねえってことでどうよ」 「むしろ最近の若い子に骨がないと思うんだよねえ。誰かガッツ溢れるちびっ子いないの、香純ちゃん。あたしらがみっちり、立派な後輩に育ててあげるからさ」 「残念、出直してきなさいな。うちのかわいい子たちに悪い影響はお断りです」 「うーわ、ひでえの。毎年クリスマスにおもちゃ寄付してる足長おじさんに言うことか、それ?」 「ええ感謝してるわよ。うさぎさんのぬいぐるみが、勝手に合体変形してミサイル飛ばしたりしなかったら……特に」 「残念、それはこいつの発案だ」 「どうよ。カッコいいでしょ、あれ。何気に結構自信作だし」 ああ……本当に、変わっていない。 何度注意しても、育ての親を名前で呼んでくるところ。そのふてぶてしい態度も、この心地いいやり取りも。総て、総て。 記憶にある姿のまま、二人は目の前で悪びれもせずベッドに腰掛けている私へ向かって笑っている。 子供のときから手の付けられない悪戯っ子で、その癖やることなすこと完璧に仕上げるハチャメチャさ。人一倍どころか、ここまで育つのにいったい何倍苦労をしただろう。 自由奔放で、ちっとも年長者として敬ってくれなくて、まるで往年の友人みたいに話しかけてきて……まったく、本当にやめてほしい。その度に私はいつも、顔がほころびかけてしまうのに。 そういう心には誰より敏感で、それは今も変わっていない。 いつもは素っ気ないふりしておきながら、こういう時はいの一番に駆けつけてくるんだから。 そういうところは誰より真面目で、誠実で、外見からは欠片も似合っていないのに……本当にこの子たちらしいと思えてしまう。 「ふふ、ふふふ……」 「おいおい、何だよいきなり笑って」 「あれ? そんなにツボ入った?」 「いいえ」 だから、そうやって自分ばかりからかわれるのも癪だったから。 あの頃とは違って時を重ねてきたからこそ、私も彼らに悪戯な笑みを送ることが出来る。 「そうやって息ぴったりなんだから、早く孫を抱きたいわねえ……と思っただけよ」 「もうそろそろ、あんた達もいい歳でしょう? 家庭を持って、腰を据えて、素敵な親孝行してほしいわあ、って」 言うと、どうにも罰が悪そうに顔を背ける片方と、目を細めて相方の脇腹を肘で小突きはじめるもう片方。 「いやそれがね、聞いてよ香純ちゃん。こいつったらあたしの周期完全に把握してるわけだから、丁度都合のいい日は避けるわけ」 「なんでも……ほら、あたしら海外への出稼ぎ組じゃん? 確かに一発当ててはいるけど、軌道に乗るまでもう少しだし。うまく現地任せで安定するまであと一年はかかる計算でさ」 「子供つくるにしても、産むにしても、あっちの方になっちゃうわけ。だからこいつ、猛烈に渋ってるの」 「……おい、要らんことを」 「あら、どうして?」 渋面を作って頭をかいている仕草からいつもの悪童らしさは出ていない。どこか居心地悪そうに、歯切れが悪く眉間へ皺を刻んでいる。 対して、彼女の方はそれはもういい笑顔で。 「だからさぁ」 「日本じゃないと──香純ちゃんにも、赤ちゃん抱かせてあげられないじゃない」 すとん、と心へ収まる答えを告げられた。 ああ、なるほど。それはつまり、この子にしては随分とベタな種類の孝行だけど── 「そういうわけだよ。ねえ?」 「……まあな。婆の楽しみなんて、孫を甘やかすことぐらいだろ?」 「老後の楽しみ奪っちまって、後でねちねちいびられるのも面倒ってこと。そういうわけで、感謝しろよな香純」 「などとすかさず言い繕っちゃう、お婆ちゃん先生思いなのであったとさ」 「ああ……」 ……ああ、参った。なんていう不意打ちをしてくれるのか。 そんな嬉しいことを言ってくれるものだから、なんだかむず痒くて、こっちまで照れくさくなってしまうじゃない。 「……男の天邪鬼は、困り者ね」 どいつもこいつも、どうして彼らはこう意地っ張りで、素直になってくれないのだろう。 それが男の見栄だと言うのなら、うまく見抜くのが女の寛容さだとでも思ってるのか。少しくらいは正直に言ってくれてもいいはずなのに。 苦笑しながら、確かな幸福を噛み締める。自分はちゃんと思われている……そのことが嬉しいと感じられる。 求めていた未来の欠片は、確かに目の前で再び育まれていると強く思えた。 そして、それは何もこの子たちだけじゃなく── 「どうぞ」 「失礼します……ほら、君たちも」 「しつれいします」 「しつれい、します……」 ──あの日輝いていた刹那は、こうして私を包んでくれている。 「おお、どうしたちびっ子ども。お兄ちゃん先生の引率で、お婆ちゃんのお見舞いか?」 「そうだね。特にこの子たちは、絶対行くんだって聞かなかったから……って、ああ二人とも。そんな僕の後ろに隠れないで」 「だ、だって……」 〈孤児院〉《うち》の新米先生……その影に隠れながら、小さな二人は明らかにこの悪童そのままな大人を警戒している。 「お兄ちゃん先生と違って、たばこ臭いもん……」 「あっちいけ。うさぎさんの恨みは、忘れてない」 などと、小さな手でぎゅっと先生のズボンを掴みながら、抗議の声をあげている。 まあ、確かに彼はあまり手本にしてほしくないタイプなので懐かれているほうが心配だけど、だからといってこの子たちも、別に怖がっているわけじゃない。 これで中々、幼いながらもしっかり人を見ているらしく、要は相手に合わせた付き合い方をしているのだ。世代が違うのでこんなだが、基本的に〈昔〉《 、》〈と〉《 、》〈関〉《 、》〈係〉《 、》〈は〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 それが私にはなんとも微笑ましく思えるのだが、当の本人は知らん顔だ。 「あはははは。相変わらず女の子ウケ悪いよね、あんたって」 「ケツの青いガキんちょどもに、オレ様の格好良さは分かんねえってことだよ」 「いい男の価値に気づくのは、いつだって男の方が早いのさ。実際オレ、男のちびっ子からはヒーローなんだぜ?」 「男の子たちに上手い悪戯の仕方を教えたり、喧嘩のコツを伝授したりするのがかい?」 「親がいないからって、育ちで舐められたら終わりだからな。けどその代わり──」 「男の沽券にかけて、友達と女の子は意地でも守れ──だろう? まったく、そのせいで叱るに叱れない……」 いい歳したガキ大将は、してやったりと口角をつり上げた。実にその表情は様になっていて、こちらはため息しか出てこないというものだ。 「あなたも、ごめんなさいね。ちょっと体調崩しちゃったばかりに、この子たちのこと任せちゃって」 「大事を取って入院したのも大げさだったし……私としても、出来ればもっと早く復帰したかったんだけど」 「気にしないで下さい、園長先生。それが僕の仕事ですし、やりがいもあるので、苦に感じてもいません」 「この子たちの世話を負担に思ったことなど、僕には一度もないですから」 済んだ瞳は本心で……いい青年だと心から思える。 ああ、それに比べて── 「そして何よりぃ」 「愛しの恋人が留学しちゃったからねぇ」 「あ、はは……ははははは……」 ……的確に彼を困らせるこの二人は、育て方を間違えたと思わざるを得ない。対比が浮き彫りになるほど脱力させてくれるのだ。 まあ、彼のように好青年すぎるのもまずいのだろうけど。何せ年下の子から近所の人妻まで、私が知っている限りでも本当によくモテる。 うちの園でも、大きくなったらお嫁さんにして発言を最も言われた先生だろう。ここ数年は、大半の女の子に彼が初恋をプレゼントするのが恒例になっているし。 まあ、それも含めて教育の一環と言えなくもないように思うけど。 「むうぅぅぅ……」 「駄目だよ、ひいちゃ。りゃくだつあいなら応援するから」 ここにも一人、彼の犠牲者がいるみたいだし。 ほっぺたを膨らませてむくれている少女の姿に、思わずくすりと笑みがこぼれる。 笑うと可愛くて。小動物のようで。警戒心が強くて。引っ込み思案で。けれど本当は芯が強い、とてもとても優しい子で── こんな歳相応の姿さえ、自分はかつて見ることが出来なかったから。それが今目の前にある現実が、寂しくも嬉しい。 「ほら……おいで。二人とも」 「お見舞いに来てくれてありがとね。あなた達の顔を見てたら、お婆ちゃんすっかり元気になっちゃったわ」 「……ほんと? お婆ちゃん先生」 「もうだいじょうぶ? 無理しちゃだめだよ?」 「ええ、まだまだ私は現役だもの。ほうら」 そっと抱き寄せて、温もりを分かち合う。 腕の中で笑顔になっていくこの子たちがたまらなく愛おしい。若いときと同じくらい健康だとは言えないけれど、幼子の重みぐらいは慈しみながら抱えられる。 お婆ちゃん先生と言われる通り……顔も手も皺が寄ってしまったけれど、それは私が守り続けたことの証。何も悔いることはないし、まして恥じるようなことなどない。 だって、私は追いつけたもの。暖かい陽だまりを守ってくれと頼まれて、そして守り抜いたからこそ今がある。 そう、そして、だからこそ── 「そういえば、あの子は?」 「おかたづけをした後、そのまま眠ってしまったみたいでして。本当は自分も来るって言っていたんですが」 「そう──」 この子たちには言えないけれど……少しだけ、楽しみにしていることがあるから。 「ねえ、みんな」 小さな予感がある。今日この日に小さな奇跡が起こると。漠然としながら、けれど心にさざめくものがあるから。 そして、そこにはきっと〈彼〉《 、》の姿もあると信じている。 「久しぶりに日の光を浴びたいから、屋上に行ってみたいわ」 ……ここにいる全員で。 懐かしいあの日の続きを見るために、私は久しぶりに若い頃のような我侭を口にした。  思えば、いつもそうだった。  自分は常に蚊帳の外で、彼らはいつも渦中の人。  危ないことが過ぎ去って、傷だらけで帰ってきて、なのに言うのは──おまえは〈日常〉《そこ》にいてくれよ、と。そんな都合の一点張り。  何だそれはと憤慨すれば、おまえだから頼むんだよと真顔で告げて。  不承不承に頷けば、彼はふらりとまたもどこかへ消え失せた。  それからざっと半世紀。孤児院の園長として、たくさんの子供たちを導いて、今も自分はその言葉を守り続けている。  あいつのように、戦うことで過ぎ去る刹那を守り抜くんじゃない。  これから巣立っていく小さな命の輝きを、陽だまりのように見守っていきたい。彼らが望んでくれた役割を、胸を張って遂げている。  その甲斐もあったし、そう生きてよかったと私は思える。  再び会えたあの子たちの全員が私の誇り、私の勲章。  自慢できる。だからこそ── 「────、よう」  ──それを、一番に自慢したい奴がいて。 「遅いじゃないの……色男」  憎たらしいほどこういう時は外さない幼馴染に……私は微笑んで、少女のように目を潤ませた。 ……風が吹いている。二人の間に、何十年もの時を経て。 変わらない姿のまま、時を留めたかのようにかつてと同じ仕草で、彼は所在なく視線を寄こしていた。 真一文字に閉じた口元は愛想のないままで、不器用で。 ばつが悪そうになるとだんまりを続けるところも……ああ、何一つ変わっていない。 こちらが話しかけないと口を開きそうもない頑固さ。これから長く生きるんだから、もう少し上手くなればいいと思うのに。 「久しぶり。相変わらず、色んな場所をふらふらしてるみたいじゃない」 「変なもの食べたりしてない? 腹に入ればみんな同じとか、屁理屈こねて不摂生しちゃ駄目よ。いつまでも私が料理作ってあげられるわけじゃないんだから」 「おまえな……久々に会ったらそれかよ」 「あんたが家事でも出来るようになったら、そんなことは言わないわよ。それが出来ないならいっそ、どこかに腰を押し付けなさい。ここじゃなくてもいいからさ」 「不良息子かよ、俺は」 「似たようなものでしょ」 あんたはまた、きっとどこかに行ってしまうもの。それを止めようとは思わないけど、これぐらいの口煩さは許されていいはずだ。 自分のことには無頓着で、誰かの傷には敏感で。そんな性格だからこれぐらいの苦言は言わせてほしい。現に、今も…… 「だいたい、気をつけるのはおまえの方だろ。こんな場所の世話になるくらいなんだからな」 「いつまでも、その、若いつもりでいるんじゃ……」 「そんな心配御無用よ。まだ三十年は生きるつもりですから。ひ孫を抱くまでは死ねないわ」 「だから、ね──あんたにはあんたのやることがあるんだから、こんな時だけ飛んでこなくて結構よ」 「別に……たまたま通りすがっただけだ」 まったく、どこが。そんな態度で、嘘が分からないとでも思っているのだろうか? 普段は見向きもしないくせに、何か有ったらいの一番に駆けつける。そんなあんたの行動をさ、私がわからないはずないでしょうが。 見くびらないでよ。これでも私、あんたの幼馴染だったんだから。 「ねえ、そうでしょう。──〈蓮〉《 、》」 「…………香純」 そして、ちゃんと見なさい。あんたが傷だらけになって守り抜いた証を。 少し身体を逸らして、背中にいた人たちを見せる。私たち二人の会話を見守っていた懐かしい顔ぶれを。 「……なあ、あいつ」 「うん。見たことない顔だけど、外見的にはあたしらとタメっぽいし……」 「園長先生のお知り合いの方ですか?」 「お婆ちゃん先生の、おともだち?」 「……無駄にイケメン」 と、一人一人が感想を漏らした、そのとき。 「────っ」 彼は小さく、そして間違いなく息を呑んだ。 悲痛からではない。堪えきれない驚きと、確かな喜びと共に。 私と並び立つ人たちを眺めて、胸に湧き上がる衝動を噛み締めていた。 「どう? 大したものでしょう、私が守ったこの場所も」 「……最初から、馬鹿にしてなんていない」 だからこそ、彼らしく、ここで褒める代わりに。 「おまえはこういうのが得意だってこと。俺たちの共通見解だっただろ」 素直じゃないことを言いながら、ようやく蓮は口元に笑みを浮かべた。 真っ直ぐじゃないけれど、誰よりも誠実な感謝を乗せて、私たちの姿を眩しそうに眺めている。 「…………はっ」 「なんだ、久しぶりじゃねえの。おまえ何処行ってたんだよ、なあ蓮」 「え?」 「ああ、君の知り合いだったのかい?」 「そういうこと。えらく外見変わってたんで、初見じゃちょいと分からなかったけどな。じっくり見たらピンと来たよ」 「お察しの通り、オレらの〈同期生〉《タメ》さ。なあ、そだろ? ほら、あいつだよ……あいつ」 「……ああ、そういうこと」 「ごめんごめん、あたしもすっかり忘れてた。昔はもうちょっと女顔だったからさ、性別間違えて覚えちゃってたよ」 「おひさ、蓮くん。元気してた?」 「おまえら──」 話し合わせな──貸し一つね。 二人のアイコンタクトとしては、きっとそんなところだろう。 「……薄情だな。俺は一目で、二人のことを思い出したのに」 「バイク、あれから三ケツしてないだろうな。おまえにとっちゃ鬼門なんだから。身体壊したくないなら、間違ってもするんじゃねえぞ」 「お、おう……つーか、おまえにそれ言ったっけか?」 「さあな。でもおまえはそれやると、女幸せにできなくなるから、気をつけろよ」 「君たちも……将来、こいつみたいな馬鹿にひっかからないように」 「できればそこにいるお兄さんみたいな、誠実で、優しい人を好きになるといい。見ていてハラハラさせるような男は、いつも相手に心配ばかりかけてしまうからさ」 「まあ俺も、大概そういう系なんだけど」 「……は、はい」 「分かった。玉の輿狙いはちゃんとする」 その返答に薄く微笑んで、眩しそうに目を細める彼。 満足した。安心したと。だからこそ、きっとそれだけでこいつは満足すると分かっていた。 報われたと感じたろうから、私たちの傍を離れようとしているのが分かる。相も変わらず変わっていない。ささやかな喜びを胸に秘めながら、きっと邪魔しないようにとか、余計なことを考えている結果なんだろうけど── 「だから、待ちなさいって。もう、またあんたはいつもそうやって、言うだけ言って去っていく」 「もうちょっとだけここにいなさい。話はこれで終わりじゃないし……」 「何より、私からあんたに送る最高のプレゼントがあるんだからね」 「別にいいよ、十分だ。俺はとっくに報われてる」 「ありがとうな……香純」 そう言って、ぶっきらぼうながら確かな感謝を告げて去ろうとした、その時に。 過ぎ去っていく、刹那── 「ん、しょっ……と」 小さな、小さな女の子が。 柔らかい日向の薫りと共に。 「────お婆ちゃん先生、ここにいる?」 守り抜いた輝き、その証として現れた。 「──ぁ──、あぁ」 ──その姿を前にしたとき、きっと彼の中で総ての言葉は奪われた。 愛し、守り、共に駆け抜けた色褪せないあの日の女神。 彼女の面影を宿した少女を前に、魂を抱かれたように停止する。 「あ、いた。お婆ちゃん先生」 「これ、おみまいのお花。はやく元気になってほしいから、お昼ねおわったらあげようって……」 はい、と手に握っていた一輪の花を笑顔で渡してくる。 小さな手……柔らかい手。心まで温かくなるような温もりに、彼は身体を震わせることしか出来ないから。 「ほら──」 「っ……ぁ、ああ──」 戸惑う背をそっと前へ押す。沸き上がる感情のまま、彼は少女の前に片膝をついて目線を合わせた。 目尻には涙。早鐘を打つ心臓。今にも決壊しそうな心を抱えて、神聖なものと向き合うように視線を向ける。 今にも泣き出してしまいそうな……くしゃくしゃに歪んだ、男前が台無しの顔を。 「えっと……ふえ?」 「……お兄ちゃん、どうしたの? おなかいたいの? かなしいの?」 「ほら、いたいのいたいの……とんでけ。つらいのみんな、どこかにいっちゃえ」 「ね、これで大丈夫だよ。ころんだときもね、こうしてくれるとイヤなこと、ぜんぶまとめてふっとんじゃうの」 「だから、お兄ちゃんもだいじょうぶ。こわいことも、つらいことも、ずっと続いたりなんてしないもん」 「みんな、みんな、あしたは笑顔になれるから」 「幸せになれるんだから、ね」 「──っ、────」 刹那、頬を伝う涙と同時──彼は彼女を抱きしめた。 大切なものを包み込むように。与えてくれた抱えきれないほどの幸福を、少しでも返してあげるかのように。 「マ、リィ……マリィ……っ」 万感の思いを、愛しさと共に。 「えっ? お兄ちゃん、どうして、わたしの名前──」 「わたし、の……なまえ───」 「────」 抱擁されたまま、丸い瞳が見開かれていく。 彼と私を、そして困ったように見ている周囲の人影を見て。小さな女神様もまた、涙を流した。 悲しまないで。きっとまた会えるから。そうやって交わした大切な約束が、いま── 「───レ、ン……? かす、み?」 ……確かに、私たちの前で叶ったのだ。 「ああ。そうだよ……」 「俺は、俺たちはここにいる……もう一度、こうして会うことが出来たんだ」 「君が抱きしめてくれたから、どんな奴だって分け隔てなく光を与えてくれたから。優しく包み込んでくれる黄昏の輝きになったから……」 「ありがとう、ありがとう、ありがとう……ありがとうっ」 再び巡り会えた奇跡に──伝えきれない喜びと愛情を、泣き笑いに変えて。 「おかえり。マリィ」「おかえり。マリィちゃん」 「──うんっ」 「ただいま、みんな!」  魂は巡る……善人も、悪人も。幸福な者も、不幸な者も。  争いをなくすことは出来ないし、悲しい結末を総て掬い上げることも不可能だけど。それでも命ある限り、それらは平等に幸せになれる権利があるはずだから。  優しい女神は微笑んでいる。それら総ての命を愛している。砕き貪る破壊の黄金光ではなく、母性に満ちた母の愛を流れ出させて。  幸せになって、幸せになって。大丈夫だよ、私が抱きしめているからきっとあなたは立っていける。未来を、光から目をそらさないで。  この宝物みたいに輝く〈茜空〉《そら》で、今も生まれているだろうたくさんの笑顔。そこに何物にも代え難い、幾万幾億もの尊さを感じるからこそ、永遠の刹那は……藤井蓮は一人の男として謳うのだ。  時よ、止まれ──君は誰よりも美しいから。  さあ、祝おう。この小さな奇跡と、可愛らしい小さな君に。  今も変わらず胸に息づく、この揺るぎない愛と共に── 「生きていこう。ずっと、一緒に」  君を守ろう。もう一度ここに誓うよ。流転する命の輝きを、傍で〈永久〉《とこしえ》に見守ろう。  それこそ自分の存在理由で、魂懸けて譲れない誓い。  たとえこの先、何があろうと、どんな悲劇が待っていようと、忘れない。忘れない。  何も見えず聞こえなくなっても、そのことだけは忘れない。 「君を誰より愛している」  その言葉に、黄昏の女神は満面の笑みを浮かべてくれた。  みんなの記憶の中で永遠に輝くような──無垢で、優しい、ほころぶような微笑みが、この座を象徴する光だった。 『前略。お元気ですかアンナさん。私はまあ、なんとか無事にやっています』 『今まで返事が遅れてごめんなさい。手紙は届いていたのだけど、現実を直視するのが少し辛くて、有り体に言うと逃げていました』 『ただがむしゃらに、精一杯戦って、その日その日を乗り越える。そうしていれば、何も考えないでいられるから』 『なんて、駄目ですね私って。それは一般に、死亡フラグというやつじゃないかと、最近になって気付いたんです』 『後ろ向きなまま進んでいるんだと、分かったんです』 『ヴィッテンブルグ少佐はもういない。あの人ならこんなとき、前を向けと仰るでしょう。死者を抱きしめる者など反吐が出る。おそらくそんな感じのことを言って、私を蹴り飛ばすに違いない。ええ、すごく簡単に想像できます』 『だから立って、顔を上げて、前に歩こうと思います。少佐の鉄拳はまた受けてみたいとも思いますが、あれ痛いですからね。女じゃないんですよ、あの人のパンチ』 『一応、まあその、私もそこそこ美人さん? じゃあないかと思っているので、パンダみたいな顔になるのはご勘弁くださいと。戦乙女はキレイじゃないと、むくつけき野郎どもの士気だだ下がりですからね』 『本当、どいつこいつも気合いの入った馬鹿ばっかりで、女性の九割くらいが聞いた瞬間に絶句しそうなことしか言わない超絶お下品軍団ですが、泥だらけで笑う彼らはかっこいいです。大好きです』 『なので、私はその道を照らす光になりたいと思います。彼らが迷うことなどないように、あの笑顔が曇らないように』 『ちょっと偉そうですけどね。それが私の本音だから』 『アンナさん、あなたにも……ヴィッテンブルグ少佐を失って、道を見失いかけていた私をずっと気にかけてくれたあなたにも、何かお返しをしたいです』 『だから、この手紙が届いたときに間に合えばいいんですが、聞いてください。彼が、そっちに帰ってきますよ』 「え……?」 『ほら、あそこの部隊に、有名人いるじゃないですか。その人がまた、人間離れした戦果をあげたものだから、総統閣下に勲章を授与されるって話、聞いてません?』 『彼、それに随伴して、一時ベルリンに戻るはずです。確かな筋と言うか、実際に本人から聞いたんで間違いありません』 「ちょ……」 『でもほら、彼ってあれだから。どうせなーんにもあなたに教えてないんでしょう? 正直同じ女として、アンナさんの立場に立つとムカつくこと山の如し。とっ捕まえてシメちゃってください。絶対逃がしたりしないように』 『式典が終わった後でも、少しくらいなら時間はとれるはずだから』 『そこでああやって、こうやって、むふふ……事の顛末、ちゃんと教えてくださいね』 『彼がそちらに到着するのは、六月二十五日だと聞いています』 「――って、今日じゃん!」 『そこでベルリンの赤い雨という二つ名の意味、思い知らせてあげましょう。いやまあ実際、上手くいっても女的には血を見るわけだし』 「~~~~~~ッ」 「あんたなに軍隊お下品空間に毒されてんのよ」 『アンナさんって処女ですよね?』 「やっかましい!」 『私は、うふふ……どうでしょう』 「知るかっ、見栄張んなバカ!」 『そんなわけで、頑張って。ああもしかして、もう走り出しちゃったりしてますか?』 『急いだほうがいいですよー。ていうか、彼と件の英雄さん、絶対やばいです引き離しましょう』 『あれはこう、なんちゅーんですかね。男同士の絆ってのはぶっちゃけ萌えます。私もそういうのいっぱい見てきて、正直ごちそうさまって感じです。変な趣味に目覚めそうです』 『早いとこ手を打たないと、二人の間に入り込む余地無しなんてことになるかもしれません』 『きゃー、夜のティーガー。みたいな』 『て、あれ? もしかして聞いてないです?』 『まあともかくそんなわけで、武運を祈りますよ戦友』 『今は遠く離れているけど、同じ空の下から勝利を祈って』 『ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン』 「こうしちゃいられねええええっ!」 「はあ、はあ、はあ――もう、あのバカちん!」 そんな悪態をつきながら、わたしは一目散に走り出す。 なんでこんなに焦っているのか。どうしてこんなに慌てているのか、すべてはそう、あのときから。 「俺、前線に異動することにしたよ、アンナ」 それは1942年、7月のこと……ラインハルト・ハイドリヒSS大将が暗殺されてから、一月後に訪れた晴天の霹靂だった。 遺産管理局に勤めていた彼が、前線に異動する。わたしにとって、今までどこかお祭りのような喧騒としか捉えていなかった戦争というものが、一転して得体の知れないものに変わった瞬間だったと言っていい。 「ちょっと、面白い奴と知り合いになってさ。そいつ、今は怪我してこっちに帰ってきてるんだけど、一緒に士官学校入ろうかって話になって……」 聞こえない。聞こえない。彼の言ってることが分からない。新しく出来た友達を誇るように色々語っていたけれど、一切わたしの耳には入らない。 だから、そのまま何も言えず…… 「じゃあな。俺、行ってくるよ」 その年のうちに将校教育を修了し、年明けから東部戦線に派遣される彼の背を、黙って見送るだけだった。 これが最後になったらどうしよう。そんな想像をするのがとても怖くて……だから今しかないって気持ちになるのが、とても辛くて…… わたしは座り込んで動けないまま、そこに置いていかれたのだ。 「よお、アンナ。久しぶり」 でも幸運なことに、彼はまた帰ってきた。件の友達は確かにすごい人であるらしく、何十両もの戦車を撃破して総統から勲章を授与される。 それに随伴してきた彼に再会できたのは、嬉しかったけど。 「ずいぶん友達に差をつけられちゃったのね。もうタメ口なんか利けないんじゃない?」 「うるせえな、ほっとけよ」 安心して、ほっとしすぎて、またわたしは言いたいことを言えず。 掴みたいその手に触れることも出来ず…… 「でもまあ実際、ミハエルはすげえよ。あいつと一緒に戦う限り、負ける気は全然しないな」 彼はそう言って笑うけれど、わたしには分かっていた。 英雄に安息はないということ。激化していく戦況が、それを許さないであろうこと。 だから、その男といる限り、彼はむしろ危険なのだ。一般の凡人が、翼の生えた者と一緒に飛ぼうとしたら墜落する。 わたしは、そんなの見たくないから―― 「はあ、はあ、はあ――」 「―――ぬ」 「なんだ? どうしたミハエル」 「ロートス……!」 「って、はあああ?」 「ちょっとロートス、こっちきて!」 「うおわっ! ――ちょ、なんだいきなり」 「いいからっ!」 それで今、わたしはこいつを捕まえたのだ。 そのあと具体的にどうしようかなんて、正直このときは考えていなかったけれど。 ただ、このまま行かせていいはずがないから勇気が生まれた。 そう、勇気。 その言葉自体は好きだけど、それを振り絞るという表現は好きじゃない。 もともとあったものを上手く使えなかっただけなんだと、まるで言い訳しているようで、過去の自分に誠実じゃないような気がするのだ。 本気出せばすごい。やれば出来る。要はそういう言葉と同じもので、なんだか遠吠えしているように感じてしまう。自己暗示で実力以上を引っ張り出すとか、そんな思惑もあるのだろうけど、やはり個人的には嫌いな考え方だった。 なので、それについての反論はお好きにどうぞ。 別に議論するつもりはない。 ただ、自分を好きになれるかどうかは自分次第なのだから、大事な局面には自分理論を大事にしたい。 だって、この勝負のとき、頑張るのは自分自身で誰も助けてなんかくれないでしょ? だから―― 「どうなのっ?」 わたしはいま精一杯、胸に生じた勇気に縋って、一世一代の戦争をしている。 敵は今までの臆病なわたし。足が遅くて追いつけなくて、たった一人置いてけぼりな立場に甘んじていた過去の自分。 それはすごく手強い敵で、勝利するための難易度はヴィレル・ボカージュの戦いにだって劣らない。 でも負けたくないし、勝ちたいし。だいたいこの人、そこから生還してきた一人なんだし。 「どうせまた行っちゃうんでしょ? だったら――」 ようやく伸ばして掴んだこの手を、今は絶対に離したくない。 「あ、あんたみたいな一般人、そんな都合よく何度も生き残ったりしないんだから! それなら、せめて可哀想だし、最後にいい思いさせてあげようって言ってるのよ。か、感謝して、もらっときなさいよ!」 「…………」 「う、嬉しいって言えーっ!」 恥ずかしくって、逃げ出したくって、心臓ばくばくいわせながら彼の胸板をばんばん叩く。こんな風に触ったのは初めてだけど、予想外に逞しくて頭がどうにかなっちゃいそうだ。 「アンナ、おまえな……いきなり何を言うかと思えば……」 ロートス・ライヒハート。お偉いさんでも、お金持ちでも、英雄でもないただの一ドイツ軍人。 どうせ大した出世もしないだろうし、要領もよくないから貧乏くじとか一杯引きそう。 正直、男としては本当にしょっぱい感じの奴なんだけど、それでもわたしはどうしてか、この人が気になって気になってしょうがない。 「俺、早く隊舎に戻らないといけないんだけど」 「あんた馬鹿なの? ウホなの? 英雄様に夜のティーガーぶっ込まれるのがそんなに好きなの? あんな人殺しがやたら上手いだけの奴に尻尾なんか振っちゃってさ!」 「ミハエルは、そんな奴じゃねえよ」 「うるさいな、わたしはあいつのことが嫌いなの!」 叫んで、ここに至った経緯を回想する。我ながら暴走しているのは分かっているけど、もう後がないって分かっていたから自然に手が伸びたのだ。 そのとき生じた小さな勇気を、忘れず強く感じるために。 いま自分に出来る精一杯を、この刹那に現実のものとしたいから。 「柏葉剣付騎士鉄十字章? それが何ぼもんなのよ。戦争負けそうだから景気よく、都合のいいプロパガンダに利用されてるだけじゃない」 だっていうのに浮かれちゃって。こっちの気持ちなんか知りもしないで。 「口を開けばミハエルミハエル、なにそれ、ちょー腹立つよ」 「ツレの自慢しちゃいけないのかよ」 「わたしはあんたのことを話してるの!」 金切り声一歩手前になっちゃったけど、泣き声よりはマシだろう。彼の呑気な応対は、もしかしたらわたしを宥めようとしているからかもしれないけれど、そうだとしても騙されない。 戦争がいともあっさり命を奪っていくっていうことくらい、もうわたしだって実感している。 「去年、エレオノーレ死んじゃったんだよ? あんな強い人だってそうなっちゃうのに、あんたみたいな弱そうなのがカッコつけてもカッコ悪いよ。だ、だから、せめて今くらい……」 「なんだよ?」 「わ、わたしに、甘えてもいいんだからねっ!」 それは何度も練習してきた台詞なのに、みっともないほど決まらない抑揚になってしまった。声、震えちゃうわ。早口だわ。語尾かすれちゃうわでもうサイテー。 こう、イメージとしてはお姉さんっぽく、大人な感じにしたかったのに。 「わ、笑うなーっ!」 再度、彼の胸をばんばん叩く。これじゃあ本当に子供みたいだ。 うぅ、全部この幼児体形が悪いんだよ。全然成長しないから。 こんなしょっぱい男一人すら、思い通りに誘惑も出来ない。 でも、今さら後にも引けない。 「甘えるなら、もうちょっと豊かな胸のほうがいいんだけどな」 「ナマ言ってんじゃないわよ。あんたなんかこれで充分、ていうか、これでも贅沢。立場分かってんの?」 「何がだよ?」 「ど、どどど童貞の、くせに」 「……………」 「へ、あれ、違うの?」 「……さあ」 「おいぃぃぃ、おまえふざけんなあああっ!」 それは、ちょっと、いくらなんでも、この展開的に邪道すぎる話じゃないの。 ねえ、神様は鬼ですか? 「いたっ、ばか、おい引っかくなコラ」 「いつ、どこで、誰とあんたは」 あれか? 戦地でどこぞの町娘でも手篭めにしたのか? 今日の収穫は上々だぜとか、そんな一昔前の傭兵みたいなノリでこいつは。 「い、いや、違うよね。そういう肉食臭、皆無だし」 「何を勝手に納得してんだ、おまえは」 「じゃ、じゃあ、あれかな」 従軍してる女と? 男が二人以上集まれば、景気づけに抜いてこうぜとか、頭の悪い展開になるって聞くし。 「おのれミハエル~~~~っ」 「だから、なんでまたあいつの名前が出てくんだよ。だいたい――」 暴れるわたしの両手を掴んで、裏切り者が見上げてくる。それで、本当にそれだけで、目が合っただけで黙らされちゃうんだからもう本当に救いがない。 「おまえのほうこそ、どうなんだよ?」 「わ、わたしぃ?」 「ああ、言ってみろよ」 「そ、そりゃあ、その……」 そんなの、訊かれるまでもないっていうか。 「ま、まあ、十人、二十人くらいは余裕でね。酒場のアンナちゃん、大人気だし……出兵前に、思い出として一回お願いとか、結構言われたことあるし」 「…………」 「な、なによその目は。信じてないの? ほんとなんだよ? わたしとベアトリス、ベルリンの赤い雨って言われてるんだからっ!」 「あいつは全然男っ気ないじゃねーか」 「わたしはありありなの、モテモテなの、引っ張りだこでウハウハなのっ!」 「だったら別に、わざわざ俺なんぞの相手をせんでも」 「だからあんたは~~~~」 たまに、こいつのこういう態度はわざとなんじゃないかと思ってしまう。 昔っからあんまりにもつれないから、嫌われてるんじゃないかと不安になって。 「め、迷惑、なの?」 そんな、縋るような恥ずかしいこと、言っちゃうじゃない。 「そういうわけじゃないけど、こんなの逆に不吉だろうが」 「じゃあ、この戦争終わったら云々ってやつにしたいって言うの? そっちのほうがすごいビシバシとやば気な匂いするじゃない」 「む、いや確かに、そりゃそうだが」 「だいたい、あんた言ってたじゃない。今を生きようって」 あのクリスマスの夜に彼は間違いなくそう言った。 戦争中で、明日も知れなくて、いつ死ぬか分からない。だけど、だからこそ一瞬を大事にしたいと強く思う。そういうことで、乾杯しようと―― 現実を精一杯生きようって、言われたから、わたしだって…… この〈刹那〉《いま》から逃げないよう、頑張ってるのに。 「そのあんたがケツまくってどうすんのよ! 勝負挑んでんだから受けなさいよ!」 「そうは言うけど、男はメンタリティな生き物でだな……」 「まさか、おまえじゃ勃たねえとか言うつもりじゃないでしょうねええっ!」 危険な台詞が返ってきそうな気配を感じて、思わず叫ぶ。さすがに、それはいくらなんでも、わたしも木っ端微塵になっちゃうぞ。 言われてみればお尻の下、なんか反応が鈍いような気がしないでもないけど! 「ま、任せなさいよ。へっちゃらだもん。わたし経験豊富だから、あんたみたいなしょぼい男の一人や二人、いくらでもフルマックスにさせられるし! お、大人しく観念して、ここはお姉さんに委ねなさい。そしたら、て、天国に連れてって、あげるんだもんね!」 「ぷっ――」 「だから笑うなーっ!」 「ちょ、おま、泣くなよ」 「泣いてないもんっ!」 言いながら、頭をぶんぶん振ったら涙が飛んだ。そしてわたしの髪の毛が、馬鹿野郎の頬にぺちぺちと往復ビンタを繰り返す。それが、なんかもう情けなくて、いい加減挫折しそうな感じだった。 「ああ、もう……」 ……結局、これが限界なのかな。こいつを一発KOするパンチなんか持ってないし、もうどうしていいか分からないし。 諦めてお手上げ降参しようとしたとき、ぽつりと、どこかで誰かが呟いていた。 「わたし、ロートスの子供がほしいだけなのに」 軋むベッドの音に紛れて、そんなことを。 「へ?」 「え?」 口にしたのは誰? わたし? 「あ、え? いや、なんだそれ?」 「え、え……うええええええええっ!」 ちょ、ちょちょちょちょちょ待っ―― 「ち、ちがっ、違う、違う違う何でもないからあああっ!」 「子供ほしいって……」 「記憶を失ええええっ!」 「――ごふっ! ばっ、おまえ鳩尾殴るな」 ああ……ああ、そうだった。記憶奪うんなら頭だ頭。 「て、コラ待て、そうじゃねえだろ!」 脇の花瓶に伸ばした手を、がっちりと掴まれる。 「落ち着け、いや落ち着こう。深呼吸しようぜ、な?」 「すー、はー」 「よし。で?」 「やっぱり死ねええええっ!」 「なんでさっきより物騒になってんだてめえええ!」 どったんばったん、くんずほぐれつ。 そんな取っ組み合いがどれくらい続いただろう。一向に会心の一撃を許してくれない馬鹿を見下ろし、わたしは言った。 恥ずかしいのも腹立つのも一周回って、なんだか悟りの境地みたいな気分になって。 「この戦争、あんた勝てるとでも思ってんの?」 さっき、思わず漏れたわたしの本音。口にするまで自覚もしていなかったけど、それが真実の望みなんだと気付いてしまった。 こいつの子供を授かりたい。今を未来に繋げたい。 だって、あのときみんなで誓ったから。いつも上と前を向いていようって、乾杯したから。 「あんたが頑張ってるのも、ミハエルがすごいのも、分かってるよ」 「だけど、ロートス……きっと駄目だよ。負けちゃうよ」 わたしみたいな一介の町娘だって分かるくらいに、戦争はもう敗色濃厚。 おそらくは今年中、いや一年以内にこのベルリンは落とされる。 そんな風説がそこかしこに溢れていて、事実彼ら兵士は疲弊していて。 大丈夫なんて見栄切られても、カッコつけさせてあげられない。そんな包容力は持っていない。 わたし、胸小さいから。痩せ我慢を受け止めてはあげられないよ。 「だからお願い、前を見させて。この今が大事だから……あんたを先まで、続けさせてあげたいの」 「それはリザの……」 「うん、彼女の受け売り」 レーベンスボルンのお偉いさん。本当はわたし達が呼び捨てにできるような人じゃないけれど、友人のよしみで今でも懇意にしてもらってる。 国体も、そして家族も結局同じ。女と子供なくして存続できない。 だから命を生んで、守って、そして育む。未来に光があるように。 そうした彼女の考えに、わたしは今共感している。 「あんたが死ぬだなんて、思いたくないし、思ってない。だけど、ロートス、だからこそじゃない? 男が身体を張って戦うなら、女も身体を張る場所があるでしょう?」 「……………」 「それ、わたしにちょうだいよ。一人だけ置いてけぼりなんて嫌だ」 リザもエレオノーレもベアトリスも、こいつやミハエル、神父様も、それぞれ自分が決めた戦場に立った。 なのにわたしだけ、わたしだけ何もない。そんな自分に引け目を感じて、自信を持てなかったのが総ての原因。 ずっとこいつを掴めなかった勇気のなさは、そのせいなんだって今ようやく分かったの。 「だから、勇気がほしい」 光がほしい。この刹那に抱かれたい。 「ねえ、ちょうだいよ。ロートスの子供、ほしいよ」 「俺は……」 「だいたい、わたしくらいしかいないわよ。あんたで妥協するような、物好きは」 「てめえ……」 苦笑する顔に、こっちも笑みがこぼれてくる。 うん、まあ、これでいい。わたしのちっちゃい胸に生まれた勇気は、まだこんなところが限界だ。 これから先も、これより上も、彼から受け取ったものを育みながら手に入れよう。 勇気は搾り出すものじゃない。生んで、育てて、与えられるものだから。 「じゃあ、俺からも二つ条件がある」 「なに?」 「一つ、子供は……いや、孫でもいい。とにかく日本に住まわせてくれ」 片目を閉じた幼い仕草で、そんなことを言うロートス。それはいつもの彼らしく、冗談めかした口調だったけど。 「俺が行ければいいんだが、駄目だったときはそうしてほしい。すぐには厳しいだろうけど、リザやベアトリスに頼めばなんとかなるだろ。コネ使いまくれ」 なぜか、その願い事は、絶対に叶えなければならない真摯なものなのだと直感した。 「ずっと、あのクリスマスからずっと、俺は日本に行きたくてしょうがなかった。なあ、頼むよアンナ」 「…………」 「駄目か?」 「ううん……分かったわ」 理由は全然不明だし、いつになるかも分からないけど約束する。 だって、あんたがそうまで日本に行きたいって言うんなら、この先どうなろうとそこでまた逢えるような気がするから。 「それで、もうひとつは?」 「ああ。ていうか実は、これが一番問題なんだが」 今度は、一転して深刻な顔。いったい何事かと思いきや―― 「勃たねえんだけど、俺」 「…………」 「いや、困った。どうしよう。おまえ、リザの声真似とかできる? あれ、すごいエロくて目ぇ閉じて聞けばガチ燃えすると思うんだけど」 「………………」 「なあ?」 「ぶ……」 「ぶ?」 ちょっと誰か、パンツァーファウスト持ってこい。 「ぶっ殺すぞこのふにゃちんがああああぁぁぁっ!」 そんな、乙女の夢も希望も木っ端微塵に吹き飛ばす、恥辱の泥にまみれた初体験。 ようやくやっとのことで星を掴んだ、酒場のアンナちゃん夢見る乙女の忘れられない夜だった。 「――で、私は言ったわけですよ。こう、想像力を最大限に膨らませつつ、きっとこんな感じで仰ったんだろうなと確信を込めて」 「女はしょせん、駄菓子にすぎん。欲しいときにいくらでも手に入るものに、私はいちいち拘らん」 「は、はあ……」 「やばくないですか?」 まどろみから覚めつつあるわたしの横で、なんだか頭の悪いことをだらだらと話している声が聞こえる。 「そうするとですね。リザさんの頬がちょっと赤くなったんですよ。ええ、間違いありません。私の目は誤魔化せません」 「当時、まあ今もですが、乙女はそういうのに敏感ですからね。伊達にせっかくのクリスマスを上官の横暴で犠牲にされ、愛に飢えていたわけじゃないんですよ。可哀想でしょう、私」 「え、ええ、それはまあ……その頃のキルヒアイゼンさんは、まだ十代だったんですよね? 確かに、時代のせいとはいえ、もったいないというか」 「そう、そうなのですよ。よくぞ言ってくれました」 うるさい。うるさい。うるさいよそこの婆さん。いい年こいて若い子相手に恥ずかしい昔話してんじゃないって。 「ああ、でも、今のは減点一ですよ。私のことは、こう呼んでくれと言ったでしょう。ベアトリスって」 「は、はは、はははは……」 「ほら、もう一度」 「ベ、ベア…トリス」 「はい。なんでしょうか、戒さん」 ……………… 「え、えっと、あの、僕はちょっと、妹の様子を見てくるんで」 「あらあらあら、駄目ですよ。彼女は今、香純ちゃんやエリーちゃんや鏡花さんと一緒に、玲愛ちゃんの衣装合わせをしてるんですから。勝手に入ったら痴漢扱いされちゃいますよ? それともまさか、覗きに行くつもりですか? 許しませんよ、浮気だけは」 「う、浮気って……」 「ああ、そんな、なんてつれない方なんでしょう。初めて逢ったときに仰ったじゃないですか。これから僕が、ずっとサポートさせていただきますって。あれはプロポーズじゃなかったのかしら?」 「いや、それは業務としてというか……」 「まあ、まあ、まあ、どうしましょう。戒さんが私を捨てるつもりだなんて、今にも胸が張り裂けそうです」 「なっ――、僕は決してキルヒアイゼンさんを――」 「ベアトリス」 「ベア、トリスを……」 ……………………………… 「悪ぃ、戒兄さん。オレ、ちょっとタバコ吸ってくるわ」 「ちょ、待ってくれよ司狼くん――」 「うふ、うふふふ、これで邪魔者は消えましたね」 ……………………………………………… 「さあ、いよいよ年貢の納め時というやつですよ。ここまできたらいっそのこと、私達も便乗して――」 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「ここに永遠の愛を――」 いや、ちょっと待ってみようか。 「色ボケてんじゃねえこの妖怪ババあああ!」 バターン、と派手に扉が開く音で、わたしもようやく目を覚ました。寄る年波の影響か、眩しすぎて即座に視界は戻らないけど、ともかく現れた彼によって、純朴な青年の貞操は守られたわけだ。 「司狼から聞いて来てみりゃあ、また懲りもせずにこのセクハラ婆あは。戒さんも、どうせこんなのからかってるだけなんだから、真面目に相手しなくていいんだって」 「あ、うん……いや、ごめん」 「ちょっと、あなたは相変わらず目上に対する口の利き方がなっていませんね。私はともかく、戒さんにはもっと敬意を払いなさいと言ったでしょう」 「そういうことは、あんたが慎み覚えてから言ってくれよ。頼むから」 「もう、本当にああ言えばこう言う子です。今日からようやく、形だけでも一人前になるというのに。そんなことでは玲愛ちゃんを幸せになんてできませんよ?」 「そりゃすみませんね。こういうところはガッツリ誰かさんに似ちゃったもんで、残念ながら」 「ふふ、ふふふふ……」 「はは、はははは……」 と、まるでお互い威嚇しあってるような笑い声。 そこらへんは阿吽と言うか何と言うか。確かにまあ、産みのなんとかより育てのなんとかってのも真理だろうけど。 なんか正直、起きたはいいけど絡みづらい展開だわね。もうちょっと寝てようかしら。 て思っていたのに。 「えっと、あの、その……あ、アンナさんが目を覚ましたみたいですよ」 「んっ?」 「あら」 ……おいおい。 そんな一度に注目されたら、さすがに狸寝入りもできないじゃない。 しょうがないので観念しつつ、まだしぱしぱする目をこすってぼやくだけはぼやいておいた。 「戒く~ん、あなたはいい子だけれど、たまに空気読まないわよね」 「え……あ、そうですか。すみません」 「いい、いい。いいわよ、冗談。実はちょっと前から目が覚めてたし。誰かさんの馬鹿話でね、ベアトリス」 「あらひどい。私のせいですか、アンナさん」 「だって、あなたのせいなんだもの」 まどろみの中、懐かしい夢を見たことも。目覚めた現実が、それと繋がっていることも。 みんなみんな、あなたという友達がいてくれたから。 あの人がわたしに授けてくれた、未来をここに感じていられる。 「えっと、じゃあもう一度、確認しときたいんですけど」 同じ声。同じ顔。この子と会って四年経つけど、今でもたまにはっとする。 本当に、怖いくらいあの人に生き写しで。 血なんて関係のない別次元で、二人が重なっているように見えるのは、気のせいかしら? 「玲愛の希望で、バージンロードは曾お祖母さんの友達だった二人のどちらかに頼みたいって話です。本当なら、それで片がつくことなんですけど」 「君も一緒に歩くんだよね?」 「……まあ、なんでか知らないけどそういうことです。戒さんからも言ってくださいよ。野郎のバージンロードとか、はてしなく間違ってますよ」 「男が今さらごちゃごちゃ言うんじゃありません」 「ちょっと、誰のせいでこんな面倒をアンナさんに頼むことになったと思ってんだよ。あんたが、一緒に歩くなら玲愛ちゃんとがいいわあとか我が侭言うから」 「だって私、まだ結婚を諦めていませんのよ。だから間近で、今後のためにもじっくり観察したいと思いまして」 「これだよ。マジ気ぃつけて、戒さん」 「あぁ……うん、はははは……」 「本当、すみませんアンナさん」 「いいえ。わたしも楽しみよ」 そう。本来なら、彼の隣には育ての親であるベアトリスが立つべきだろう。たとえ約束を守るためでも、この子を手放したわたしには資格がない。 だから当然、わたしが何者なのかも教えていない。 真実を知っているのは、今やベアトリス一人だけ。そこを酌んでくれて、こんな演出をしてくれた彼女には感謝してもしきれないけど…… 「ありがとう、ベアトリス」 「いえいえ、どういたしまして」 その察しがいい性格だけに、きっとこの友達は気付いている。わたしが彼に真実を話さない、もうひとつの理由を…… 「わたし、幸せよ。夢だったの、これが」 ロートス……あなたとこの子が、わたしの目には重なって見える。似ているのは当たり前のことだけど、そんな常識を度外視して強く思うの。 わたしはまだ、生きています。前を向いて、光の中、再びあなたに出逢いたいと願っていたから。 曾お祖母ちゃんとか、そんな枠に入れてわたしを見ないで。 ただの一人の女として、駆け抜けた刹那に追いついたと思いたい。 今、捕まえたのだと信じたい。 それだけが、何にも替え難いわたしの望み。誰にも言えない、真実の本音。 玲愛ちゃんには悪いけど、害のない妄想だからこれくらい構わないでしょ? わたしは今、心だけ少女に戻って―― 「じゃあ、行きましょうかアンナさん」 差し出された手をそっと握り、呟くのだ。 あのとき自分に不足していた、勇気をみんなに貰いつつ。 「愛してるわ、ロートス」 彼の魂に捧ぐ、七十年にも及んだこの想いを…… 「――でね、ついに念願叶ったのはいいんだけどさあ、のっけから現実がハードすぎて、流石にへこみそうなんですよ」 「こう、学校って、もちょっと楽しいとこだったはずなんだけど」 「立場が変われば、そりゃあねえ……」 知らずぼんやりしていた私は、はっとして我に返った。 「それは分かってるんだけど、やっぱり釈然としないものがあるんだよ。今どきの子たちって、なんか妙に冷めてるっていうか覇気がないというか」 「あたし的には、もっとがつんとぶつかってきてほしいわけ。喩えるならインファイト? そんな感じで関係したいと思うんだけど」 「現実はアウトボクサーだらけだったと」 「それならまだマシ。むしろ狙撃兵の集団みたいな」 「関わり方に熱がないんだよ。感情見えなくて困っちゃう」 「ねえ、聞いてる玲愛さん?」 「え? あ、ああ……」 実は呆けていたことを悟られないように、相槌を打ってお茶を濁す。基本的に怠け者な私の表情筋も、こういうときは役に立つというものだ。 対して香純ちゃんは相変わらず顔面が騒がしい人――悪口じゃないのよ――で、そういうタイプのご多分に漏れず大雑把だから、あまり細かいことには気付かない。 直感的な人物眼は間違いなく優れているだろうと思うけど、正直なところ心配だ。この子、教師として大丈夫だろうか。 一昔前ならいざ知らず、今の子たちはとても繊細だと聞くし。 「でも、そういうジェネレーションギャップはいつの時代だってあるもんでしょ。あたしらだって同じようなこと言われてるはずだし、実際、婆ちゃん連中はこっちから見たら妖怪だし」 「……ああ、うん。確かに」 「お兄さんは骨身にしみているだろうね」 曰く妖怪に絡まれるのが仕事の人が身内にいるので、櫻井さんも複雑な顔をしている。実の兄が五十幾つも年上のお婆ちゃんから求愛されているなんて現状は、妹としてもどう反応していいのか分からないのだろう。 あんなものは冗談半分だから真面目に考えることはないって、私の彼は言うけれど、それはつまり半分本気ということではないのか。 たまにその流れが行き着くところまで行った場合を想像し、夜中に一人で悶えてしまったりするのだけど。 ぶっちゃけたところ、そうなったら面白いからそうなっちゃえよと思っていたりするのだけど。 香純ちゃんと違って彼女は鋭いから、あなたのお兄さんが困ってるの笑えますなんて本音、今のところおくびにも出さないでいる。 そのほうが長いこと楽しめそうだし。 「何かよからぬこと考えてません?」 「ううん。私はいたってジャスティスな人」 「それ、自分の正義にだけ忠実だって言ってるように感じるんですが」 「まあともかく、兄さんはなんだかんだで喜んでると思いますよ。困ってるのも確かでしょうけど、あれはあれで、綾瀬さんが言うところのインファイトだから」 「それもガチのね」 「そういうこと。で、そんな兄さんが言ってたんだけど、綾瀬さん」 「世代なんか関係なく、何か分からないのが近づいてきたら誰だって普通は逃げる」 「だから間合いが縮まらないと感じるのは、それだけ相手に信頼されてない証だってことらしいわよ」 「ぐっ……」 あるいは本人も自覚していたことなんだろう。痛いところを突かれたというように、詰まってしまう香純ちゃん。 「まあ、この子は体育会系だから」 そもそも逃げるな。立ち向かって来いというタイプだろう。信頼はぶつかり合って育むものだこの野郎とか、臆面もなく言いそうだし。 それはそれで正しいけれど、そういうのが通じない人も当然いるから一本調子じゃ行き詰る。教育者として彼女の壁は、現状そのへんの柔軟さということか。 「色々大変だと思うけど、あまり気負わないほうがいいんじゃないかな。あのお婆ちゃんだって体育会系だし、それで児童施設の園長とかやってたんだから、きっと大丈夫だよ」 「え、あたし、あんな風に……なっちゃうの?」 「問題あるの?」 フォローをしたつもりだったのに、そんな微妙な感じで返されると心外だ。仮にもあれ、彼を育てた人なんだけど。 「ああ、なるほど」 しかしエリーちゃんは、何かを得心したようにしみじみと言う。 「たぶん、あんたそんなだから男できないんよ」 「だってあの婆ちゃんも独身だし」 「なっ――――」 「おお……」 そうか、そういえばそういうところは盲点だったかもしれない。 「な、な、なんじゃそりゃああっ!」 「またあなたは、すぐそうやって余計なことを」 「我ながらすごい的確な突っ込みいれたつもりなんだけどねえ」 「むしろ的確すぎて殺っちゃったみたいな」 「なによ、なんなのみんなして! だいたいあたしの職場の悩みが、なんで男関係の話題に摩り替わっちゃうのよ!」 「いや、それを言うならそもそもからして」 「この場で玲愛さん相手に仕事の愚痴を始めるほうがおかしいというか。そこからして、もう色々と駄目というか……」 「こういう話のほうが、今日は自然ってもんでしょうよ」 言って、背中のホックを止めてくれるエリーちゃん。まあ確かに、彼女の言う通りかもしれない。 「ん、ありがとう。似合うかな?」 着付けを手伝ってもらったウエディングドレスを翻して、感想を尋ねてみる。正直、こんな私でも今の自分を鏡で直視するのは恥ずかしい。 「ええ、とっても。よく似合ってますよ、玲愛さん」 「いいね。さすがクォーターだけあって、衣装負けしていない」 「うん、本当に。でもそれを言うなら、あたしだってクォーターだよ」 「あんたはその滲み出るがさつさがなあ」 「どちらかと言えば、特攻服のほうが似合いそうだし」 「そうだね。だからそういう人を捜しなさい」 「いねーよ! 今どきそんな奴」 騒がしく、それでいて和やかで暖かく、今日という日をいつも通りのノリで迎えられたことを、私は何より嬉しく思う。 昔から、毎度のように弄られ倒されている香純ちゃんには悪いけど、私はこの空気が好きなのだ。一応、今日の主役の望みとして、ここはその残念なキャラに甘んじてくれると嬉しい。 「ブーケ、香純ちゃんに向けて投げるから。それで特攻服が素敵な彼と出会える未来を掴みなさい」 「いや、だから特攻服のネタはもういいって」 「だけど、ブーケくれるって本当に?」 「うん、そのつもり。あなた達には悪いけど」 「気にしないで、あたしはいいよ。どうせそのうち、司狼を締め上げるつもりだから」 「私も、同じく気にせずに」 「え、なに? 櫻井さんって彼氏いるの?」 「いないけど……て何よその嬉しそうな顔は、失礼ね。単に考え方の違いってだけ」 「相手もいないのに、漠然と結婚を望むほど想像力が豊かじゃないの。そういうの、未来の旦那様? にもどこか不実な気がするし」 「だいたい、私は毎日忙しすぎてそれどころじゃないから」 「あー、それを言うならあたしもそうか。エリーもね」 「医者も警察も先生も、激務なところは同じだねえ」 人を救うこと、守ること、導くこと。確かにそれぞれ大変な仕事で、だけど彼女たちにはとても似合った道だと思う。そういう選択をこの友人たちがしたことに、私は最大の祝福を送りたい気分だった。 だって、想像してみるといい。女医姿のエリーちゃん。婦警スタイルの櫻井さん。女教師と化した香純ちゃん。 実にこう、突っ込みどころが多くて萌えない? 「それに比べて私は〈主婦〉《ニート》。なんて勝ち組」 「女性の地位向上委員会とか、その手の団体を本気で敵に回しかねない発言ですね」 「いいのよ。だって守ってくれる人がいるから」 そして私も、彼の日常を守っていこうと思っているから。 守るに足る価値があると、そう信じさせる家庭を築きたい。 それが私の、お嫁さんたる自宅警備員の務めではなかろうか。 「はいはい。惚気は今後いくらでも聞いてあげるから、そろそろ時間だし気合入れて」 「ある意味、女の人生的最大の決戦場なので、呑まれないように」 「新郎殺っちゃうくらいのつもりで」 「うん。駄目押しにハートぶち抜いてくる」 彼がこの日を、生涯記憶するように。 最高に麗しい刹那だと、互いの胸に刻みたいから。 「いざ、出陣」 ちょっと緊張してきたけれど、それも楽しみつつ彼との人生、その第一歩を踏み出そう。 「キレイだ……」 「キミも、すごくカッコいい」 病めるときも健やかなるときも、喜びのときも悲しみのときも、貧しさ? 裕福? そんなのまったくどうでもいい。 神父様が告げるお決まりの言葉なんて、全部右から左へ抜けていく。 私は彼しか見えなくて、彼も私だけを見つめていて。 傍からはだいぶ馬鹿っぽく見えるだろうなと思えるほどに、そんなごく当たり前のことを私たちは言い合っていた。 「俺は正直、全然大したことない男だけど……玲愛と一緒に生きていきたい」 「生きるんだってことの意味を、誰よりも考えてる人だから」 「私も、そこは同じだよ」 「蓮はいつどんなときでも、その一瞬を誰より大事に考えられる人だから」 お互いの何処がどう好きなのか、はっきりと言える。 そして、腹の立つところも十個二十個くらい簡単に。 「だから好き」 「愛してる」 死が二人を別つまで? ううん、死すら私たちを引き裂けやしない。 死を想うことは二度とないんだと断言できる。 幸せになって、幸せになって。今このときも私たちを包み、抱きしめてそう囁いてくれる何かとても大きなものを感じるから。 “彼女”が見守ってくれているのを何より信じられるから。 「ありがとう」 「本当に、ありがとう」 この〈幸せ〉《せつな》よ、永遠に。 私と彼は等しく同位に、強くそう祈っていた。  時間が止まればいいと思った。  無論、何が人生最高の瞬間かなんて、死ぬ時に全てを振り返らなければ分からない。  だけど誰でも、一度くらいはそう思ったことがあるだろう。  楽しい時を持続させたい。その瞬間を繰り返したい。  飽きるまで、いや飽き果てても、留めておきたい大事な瞬間が今なんだと。  それを失うのが恐ろしい。その先にある未知が恐ろしい。  この手の不安は、きっと誰もが経験していることのはずだ。  まして、俺みたいな学生なら。  リアルでそうした気持ちを持つこと自体、珍しくはないだろう。  進学とか、就職とか、将来に関わる選択をしなければならない時期で、大人と子供の中間めいた、アンバランスな浮遊感がそうさせる。  それは地に足がついてないとき特有の、現実逃避めいた刹那的価値観。  青いと言ってしまえばそれまでの、たいして問題にもならない流行り病。  一種の〈麻疹〉《はしか》――だが、俺はそれにいつまでも〈罹〉《かか》っていたいと思っていた。  今まで、あまりにも居心地がよかったから。  特別何かがあるわけじゃない平平凡凡とした毎日を、いつまでも続けていたいと思っていた。  楽しい時は瞬く間に過ぎるというなら、積極的に楽しまないことでその時間を引き伸ばそう。  誰でも知ってる手垢の付いた、デフォルトの道を選ぶことで未知の〈幸不幸〉《トラブル》を避けていこう。  そんな馬鹿げたことを考え、実践するほど、俺は今ある環境を好いていた。  未知を〈忌避〉《きひ》して、既知を是とする――平たく言えば攻略本を見ながらのゲームプレイ。  それが俺、〈藤井蓮〉《ふじいれん》の人生観で、今も昔も、たぶん未来も変わらない。  そうしていれば、時間の体感速度を遅めに設定できると思っていた。  止めることは、不可能だし。  これは現実的な手段としての悪足掻きで、一種の妥協策とでも言うべきもの。  だから、ちゃんと分かっているつもりだった。  理解しているつもりだった。  何事も永遠には続かない。  いつか終わるということは、いつ終わっても不思議じゃないということに。 「じゃあおまえ、たとえば自分の人生を小説だと考えてみろ」  あの日、あいつがあんなことを言い出すまでは。 「マンガでもゲームでも何でもいいが、とにかく一人称語りで進む長編だ。 自分をその主人公だと考えろ」  揺り籠から棺桶まで続く物語。些細なものから大事なものまで、自分に絡むあらゆる人物・事件を〈纏〉《まと》めた大河巨編。  人生をそういうものだと仮定しろと、こいつは言う。 「そこで質問。今自分が〈綴〉《つづ》ってる小説は、実際のトコ面白いのか? 主人公として、おまえはキャラが立ってるのか?」  昔から、唐突にワケの分からないことを言う奴だった。そしてその大半が、俺をからかうのが目的だと分かっていた。 「文法が怪しいとか、語彙が貧弱だとか、そういうスキルのことを言ってんじゃない。ただ〈物語〉《ドラマ》として、売りになりそうな華なり棘なり毒なりを持っているか。さらに同じジャンルを囲った中でも、抜きん出ている何かがあるか」 「自分がやらなくても、他の誰かがやるような人生なら生き続ける意味はない。こんなところやそんなところで、誰でも出来るような〈生き方〉《ジャンル》やっててもしゃあないだろ」 「ツレと駄弁って馬鹿やって、女作ったり部活やったり、悪くはないけど珍しくもない。そんなの日本中の同年代が、リアルタイムで経験してる。 オレは別に、数が多いことを馬鹿にしてるわけじゃないぜ。要はそれだけ、選びやすい道だってことを言いたいのさ。 選択肢があるように見せかけて、実は人生、一本道なのかもしれないってな」  つまり――俺たちは選んでいるんじゃなく選ばされているだけだとでも? 「少なくともこの国じゃあ、最大公約数が強いだろ。出る杭は打たれる。天才は孤独。ハブられる馬鹿。いじめカッコ悪い。なんでもいいがよ。まあ、それは現実的な解釈で理屈つけた場合の話で…… オレはなんてゆーかな、デジャヴるんだよ。これ、前にもやったんじゃねーのかなぁって。 楽しくないんだ。新鮮味がない。前にも読んだことある気がするんだ、この〈人生〉《はなし》……だから、おまえに協力してほしいんだよ」  何を? 「フラグ立てとフラグ折りさ」  それはどういう…… 「言っても分かんねえかもしれねえなぁ」 「だっておまえ、好きだろ〈退屈〉《それ》。何もかもが既知の〈範疇〉《はんちゅう》。一から十まで同じことを、生まれて死ぬまで繰り返したい。――そんな変人、他に知らんし。 そもそも、オレの話に出てくるおまえは、なんかズレてるトリックスターみたいなもんなんだよ」  それは、こっちも同感だった。  こいつは読めない。何を考えているのか分からない。  本来、自分が望む〈人生〉《はなし》に出てくるはずがないようなキャラクター。  それでいて、深く中核に関わっているという違和感。  〈喩〉《たと》えるなら、誤植のような…… 「そんなおまえをここでどかせば、話が変わってくるかもしれない。 んな顔すんなよ。おまえだって分かるだろ」 「オレらはお互いガキの頃に、色んなもんから弾かれてる。 本来なら、気楽に学園ドラマやってられるような身分じゃないんだ。 そして、だからこそ今まで〈普通〉《それ》をやってきた。なのにデジャヴが止まらない」 「挫折もんだよ。泣きたくなる。だから根性なくて悪いけどよ、オレは抜けるぜ。もう付き合わねえ。 人生は短い。エンディングが来る前に、選択肢の総当たりをやらせてくれ。 この一本道、絶対どこかに別ルートがあるはずだ。オレはそれを探したい。結果がたとえ、バッドエンド一直線でも――」  未経験のルートなら、乗ってみる価値はあると。 「だったらここで、おまえと切れるってのもなかなか面白いと思うだろ?」  それは見飽きたいつもの笑み。  軽い調子で気負いのない、こいつらしい不敵な〈表情〉《かお》。  だから、もはや何を言っても無駄だった。  何を言っているのかも分からなかった。  ただ一つ、こいつの言う〈生き方〉《ジャンル》とやらが、この時完全に俺とズレたと―― 「死んだら化けて出てくれよ。 オレまだ、幽霊見たことねーし」  そのことだけは、分かっていたから。  普通、素手の喧嘩には限度がある。  生身の手足でやり合う以上、それがイカレたら続けられなくなるのが当然だ。  刀折れ、矢、尽きた。武器が無いからもう止めよう。勝負はつかなかったけど、ここは痛み分けということで。  なんて、殊勝な展開には絶対ならないと分かっていた。  喧嘩じゃない。言うなれば、あれはただの潰し合い。  視界の全てが真っ赤に染まり、夕暮れの屋上が血に染まる。  両の拳はとうに砕け、骨が皮膚を突き破っても殴り殴られ、倒し倒され……破れた鼓膜は音を拾わず、ざあざあとノイズが流れて思考もろくに回らない。  脱臼した肩、割れた顎、アバラはキレイに粉々で、幾つか内臓に刺さっている。  血ぃ噴いて血ぃ吐いて、何が楽しいのか爆笑している司狼の顔が脳裏に焼き付き、離れない。  どうして、あんなことになったんだろう。  どうして、おまえはあんなことを…… 「だから、言っても分かんねえって……ただ、この街に住んでいたら――」  続く台詞は、今に至るも思い出せない。  ただ、あの勝負は互いの身体が動かなくなるまで続行したと記憶している。  どっちかが降参したとか気絶したとか、そういう綺麗なものじゃなく。  単に意志の力でどうにかできるレベルの負傷を超えたせいで、文字通り糸が切れた人形よろしく動けなくなっただけ。  本当にボロボロのズタズタの雑巾みたいに変わり果て、このまま放置されたら両方死ぬんじゃないかと思うくらいに最悪の結末だった。それなのに…… 「……楽しいな」  ふざけるなよ。こんなの楽しくも面白くもあるものか。  だから、司狼――この馬鹿野郎。 「こっちに来たけりゃ、いつでも言えよ」  自分が先に進んだみたいな、勝ち誇ったことを言うんじゃねえ。  来ると言うなら、落ちたおまえこそ上がって来いよ――くそったれ。 左頬骨及び、上顎骨、下顎骨骨折。右眼底骨骨折。鼻骨骨折。左鎖骨完全骨折。左上腕骨、及び左中手骨不完全骨折。 右肩脱臼。右尺骨、中手骨及び手根骨完全骨折。右肋骨三番四番不完全骨折及び、五番六番複雑骨折。左肋骨四番五番六番完全骨折及び、七番八番複雑骨折。 右大腿骨不完全骨折。右脛骨、左腓骨及び、両中足骨完全骨折。その他、捻挫、打撲、擦過傷及び裂傷、全身合わせて四十八箇所。 まるでダンプカーと喧嘩でもしたかのような、生きているのが不思議なくらいの怪我を負って俺は病院に放り込まれた。 だが正直、そのまま死んでも大した後悔はなかったんじゃないかと思う。 未練がない、とは言わないが、死ぬなら死ぬで構わないと達観していた部分があり―― いや、無気力になっていたと言うべきか。 一生分に値するほど暴れまくったせいもあり、しばらく何もやる気が起きず、世間のことは上の空。自分自身のことさえも、どうでもいいような気がしていて…… とにかくそんな、あまりよろしくない精神状態でいたにも関わらず、身体の方は医者が驚くほどの回復を見せたのだから皮肉な話だ。 本音を言うと、もう少しだけ入院生活を続けたい気持ちもあったんだが、全快した奴を遊ばせておくベッドの余裕はないらしい。治ったのなら、速やかに退院しろと言われてしまった。 残念だが仕方ない。俺が居座っているせいで、不利益を被る人がいたら困る。ここは言われた通り、従わねばならないだろう。 俺の気持ちがどうであれ、地球は回って時間は流れて、全ては過去になっていく。 終わったことは、もう戻らない。 今は前向きに、今後のことを考えなければ…… やれるやれないは別として、必要に迫られているという事実を認めろ。そうでないと、話にならない。 だから、さあ、気を取り直して―― 「…………」 退院の手配を済ませた俺は、私物を片付けに病室へと戻ってきた。 とはいえ、もともと代えの衣類とMDプレイヤーくらいしか持ち込んだ物はなかったし、都合二ヶ月近く世話になった部屋の片付けは、ものの五分と掛からず終わるだろう。 実際には、十分近く掛かったが。 そのプラス分は、香純が見舞いの度に持ち込んできた漫画やら小説やら、あと、何を考えているのか成年用のグラビア雑誌が十数冊……面倒くさいので、一つにまとめてあいつの家に送り返してやろうと思う。 「じゃあ皆さん、お大事に」 「いや、あいつは今ごろ学校ですよ。来るとうるさくなるんで、一足先に……って、そうですか? ヘンな趣味してますね」 同室の患者たちから、退院祝いに冷やかされる。正直、あまり社交的とは言えない〈性質〉《タチ》だし、こういうやり取りは苦手なんだが、やはりこれも香純のせいで、やたらと話し掛けられるようになってしまった結果だろう。 まあ、無視するわけにもいかないし。相槌打ってたらいつの間にやらこういう状況。病院自体は陰の空気がある場所だから、香純のような陽性気質は人気が出るってことかもしれない。 「ならあいつの進路に、看護師って選択も入れるように言っときますよ」 数少ない私物を収めたバッグを担ぎ、病室を出ようとした。 その時に。 「……司狼、ですか?」 俺と同日、同時刻に運び込まれてきた重傷患者。手術後三日もしないうちに姿をくらまし、今にいたるも行方不明の馬鹿野郎。 「知らないですね。あいつがどこで何してようと、俺には関係ありませんよ」 そう、関係ない。知ったことじゃない。あいつのことを考えるのは、もうやめるんだ、自分のために。 「じゃあ」 そう言って、今度こそ振り切るように部屋を出た。 そして久しぶりの屋外。見上げてみると、空が高い。入院していたこの二ヶ月で、秋が終わり冬になった。街に出れば、クリスマスの準備が始まっている頃だろうか。 「…まあ、遠回りなわけでもないし」 ほんの軽い、浦島太郎の気分になるのもいいかもしれない。 実際、病室の窓から見る味気ない風景には、いい加減うんざりしていたんだから。 気分を切り替えるためにも、それはきっと必要なことだろう。 「……て、思ってたんだけどな」 この中心街まで足を伸ばしてみた結果、予想していたクリスマスムードはそれほどでもなく、意外に呑気な街なんだなと再認識するだけになった。 〈諏訪原〉《すわはら》市――戦前から戦中にかけて街が起こり、海と山に囲まれた地形のせいで、やや孤立している地方都市。のわりにはそこそこに栄えているのが街の光景から見て取れるが、それはお偉方が優秀なせいだろう。 特にこれといった名産品や伝統があるわけでもない歴史の浅い街なのに、国内でも有名なアミューズメントパークや巨大タワーなど、その手のいわゆる客寄せパンダがやけに充実しているせいで、ちょっとした行楽地として機能しているというのがここの実態。言うなれば、地方成金。 かく言う俺もつい二年前に越してきたばかりの余所者だし、偉そうなことは言えないが。 個人的に、諏訪原の風土や街並み、気質や住み心地は気に入ってる。何と言うか人の出入りが激しいようで、その実ゆったりと停滞しているような雰囲気は……まるで揺り籠の中めいた、とでも言うべきだろうか。 大多数の奴等はまったく逆の、要するに小洒落た行楽地とか賑やかで楽しいとか、そういう認識をしているようだが、俺や先輩、あと司狼も、ごく少数は先に述べた感想をこの街に持っていた。 別にどっちが正しいとか間違ってるとかの問題じゃないし、意見の食い違う連中に自分の主張を通す気もないから、どうでもいいと言えばどうでもいいことだけど。 とにかく、こうして久しぶりに街へ出てきた感想は、前と何も変わってないなという実に当たり前のものになってしまい。 「……帰るか」 という、面白味のない結論へと至るわけだ。 ――が。 「れ・んーーっ!」 背後から聞こえてくる、この〈傍迷惑〉《はためいわく》〈甚〉《はなは》だしい声量が俺の気だるい午後を木っ端微塵に吹き飛ばす。 「蓮ーーってちょっと、聞こえてるんでしょ? おーい、こらー」 「無視するなーー、蓮でしょー?こっち向きなさい、そこ、藤井れーーーんっ」 「…………」 なぜ俺は、あんなのと知り合いだったりするのだろう。少し真剣に考えたくなる。 だいたいおまえね、この街中で人の名前を恥ずかしげもなく連呼するなよ。 「おまえ、ちょっと声でかすぎ――」 「退院、おめでとー」 「ねぇ? どう? 元気かな? もう痛いトコない?」 「ってなーによその顔、どうかした?」 「…………」 今さっき叩かれた肩が一番痛いんだよ馬鹿力。――とは口に出さず、俺は仏頂面で〈嘆息〉《たんそく》する。 〈綾瀬香純〉《あやせかすみ》――同い年の幼なじみで、同じ学校に通っているクラスメート。ちなみに剣道部の女主将で、全国大会に出場するような体育会系の元気者だ。 相変わらず、にこやかな笑顔が眩しくて結構ではある。 「おまえ、なんでここにいるわけ?」 「なによ、いちゃ悪いの?」 「悪いって言うか、不自然だろ」 今日、平日だし。まだ昼間だし。学生たる者、学校はどうした? 「サボったのか?」 「へへへ、まーね」 「なんで?」 「なんででしょう?」 知るわけがない。俺はお手上げのポーズで答える。 「あたしね、一刻も早く蓮ちゃんに逢いたかったの」 「…………」 「逢いたかったの」 「…………」 「逢いたかったのぉっ」 「……ああ、そうなの」 キミは今日も、絶好調で頭が悪いね。 「留年希望か、おまえ」 「大丈夫よぉ、あんたよりはあたし日数足りてるし」 などと、こっちの気持ちはお構いなしに、バシバシ俺の背中を叩いてくる。マジで痛い。 「とまあ、それはそれとして、あんた何一人で勝手に帰ってんのよ」 「迎えに行くってあたし言ったの、覚えてないわけ?」 「いや、そりゃ覚えてたけど」 まさか学校サボって来るとは思わなかったし、それまで待つのもだるいじゃないかよ。 その旨、簡潔に説明するが、香純の追及は止まらない。 「じゃああんた、あとで電話とかする気だったの?」 しないと思う。 「てゆーかおまえの番号って、何番だっけ?」 「っかぁー、これだからまったくこの野郎はよぉ!」 「何? なんデスカ? キミはケータイ使えないんスか? いつの時代の人ですか? 着信履歴の見方すら分からんお人なのデスカ?」 「……失礼だな。それくらい分かるぞ」 「じゃあ貸せこのクソ」 俺の携帯電話を奪い取り、すごい早業で入力をする香純。 「はい、電話帳のトップに入れといたからね。消したら怒るぞ。つーかシメるぞ」 「笑顔で言うなよ。……ところでこれ、なんだ“愛のヴィーナス”って」 「あ・た・し」 「とりあえず、狂気のベルセルクに変えとくけどな」 「変えんな! てゆーかそれ、頭痛が痛いと同じレベルの重複表現!」 「それくらい強調したいんだよ」 「そもそもヴィーナス名乗るなら、少しは女の子らしい言葉を使ってくれ」 「誰が怒らせてると思ってんのよ、このバチあたり」 「本来なら、こう、あたしの手とかがっしり握って、ありがとう香純、君は僕の天使だよ――とか、そういう感謝の一つや二つ――ってほら、こっち見る」 「あんたいきなり大怪我して入院して、あたし心配して心配して、毎日お見舞い行ったのに当の本人は上の空で、あげく勝手に退院してこんなところをぷらぷらしてるたあ何様ですか? マジですか? やる気あんのか? つーかやんのかコラ!」 「…やる気も何も」 いきなり出てきてテンション高すぎるんだよ、おまえは。 君は僕の天使云々を実行すれば機嫌が直るのかもしれないが、何か面倒なのでパス。 「そもそもあんたは――」 代わりに、この説教マシンガンを黙らせるネタがあったのでぶん投げた。 「とりあえず、おまえが病室に持ち込んだ諸々は、家の方に送っといたぞ」 「はい?」 「捨てるわけにもいかないだろ。だから家に送ったんだよ。気が利くだろ」 「ちょい……待ち。それ、全部?」 「そう、全部」 漫画とか小説とか、裸の女がいっぱい載ってる雑誌とか。 「えっと、その、待って待って……家って、あの、どっちの方よ?」 「実家」 「嘘ぉ!?」 「じょ、冗談だよね?」 「冗談は苦手だな」 「……マジで?」 「マジだ」 うん、まあ……そりゃあ娘さんの私物ですと言われて送り届けられた日には、親御さんも辛いだろう物体だ。 「あ、あ、あ、あ……」 「あんた、最悪」 「買うの恥ずかしかったのに」 「じゃあ買うなよ」 「…でも、あのさ……」 「……役に、立った?」 「……………」 そりゃあ、少なくとも隣の患者さんは喜んでたけど。 その間はつまらないことで話し掛けられることもなかったし、そういう意味で役に立ったかと訊かれれば…… 「そこそこは」 「うっそ、ほんとに? あんたそんな奴だったの!?」 「……どんな奴だよ」 「ねえちょっと、具体的にどの号の何ページが役に立ったの? 試しに言ってみなさいよ」 「…………」 「うぇぇっ」 答えた瞬間、香純は光の速さで引いていった。 「…………」 「…………」 「……キモ」 「……おい」 「あははは、いやいやごめん。今のなし」 「またまたこいつめ、照れちゃって」 「ま、あたしは別にいいけどね。蓮がどんな趣味してたって」 「とにかく、怪我が治ってよかったじゃない。とくにこことか」 びっ、と親指立てたあと、人の頬をつんつんしてくる。 「昨日までおっきい絆創膏してたから、傷が残ってるのかと思ったよ」 「……ああ、これね」 司狼の奴がアーマーリングをつけたまま殴ってくれたものだから、入院当初俺の頬はバックリと裂けていた。 別に傷が残る残らないはどうでもいいことだったんだが、こいつがやたらと治癒の経過を気にするので鬱陶しくなり、隠していたというだけの話。 なんだけど…… 「せっかくキレイな顔してるんだから、痕が残ったらもったいないよね」 こう、仮にも男を捕まえて、キレイとか可愛いとかいう単語を連発されるのが非常に嫌だ。 しょっちゅう女に間違えられてた幼少時の記憶はトラウマだし。今でもたまに間違えられるし。 身長は低くない方なんだが、街を歩いて(女)モデルのスカウトに声かけられる経験なんて、男としては屈辱以外の何ものでもないだろう。 うんざりしながら、俺は言う。 「わざわざ学校サボって、それだけ言いにきたのかおまえは?」 「退院おめでとうって?」 「ああ。他に用がないなら帰るぞ俺は」 「あーあー、なーにその言い方。可愛くないなぁ。遊びたいなら遊びたいって言えばいいのに」 「は? なんだそれ?」 「だからぁ、このままデートとかしたくなぁい?」 「全然」 「早っ」 「ま、まあいいわよ。あたしもそんなつもりなかったし。上等だもん。帰ったるもん。痛くも痒くもないんだもん」 ぷるぷる拳を震わせながら、なにやらよく分からんキャラになっている。 「でもね、あとで玲愛さんになんか言われたら、全部あんたのせいにするからね」 「何?」 なぜそこで、そんな名前が出てくる? 「先輩が何だって?」 「だ、だからぁ、命令されたの。藤井君と、デートしてきなさい……って」 「…………」 何それ? 何考えてんだ、あの人は。 「それで、おまえは頷いたわけ?」 「そ、そりゃあ、だって……断ったら怖いじゃない」 怖いっていうか、何考えてるか分からないような人ではあるけど。 だからって、なあ…… 「デートねえ……」 「蓮は嫌なの?」 「嫌ってわけじゃないけどな……」 ただ、どこに行けと言うのやら。今さら香純と遊園地もないだろう。 「俺、たいして金持ってないけど?」 「あたしもないわよ」 じゃあ無理だろ――て言おうとしたら。 「ああ、でも大丈夫。先輩、その辺はそつのない人だから」 突如いそいそとバッグを漁り、取り出したのは―― 「チケット二枚。準備万端でしょ?」 博物館の――渋い趣味だな、氷室先輩。 というか、これはもうデート決定ってことになったのだろうか? 「ほら、そいじゃ行くよー」 どうやら、そのようになったらしい。 「けどおまえ、芸術に興味なんかあったっけ?」 目的地は市街地の外れにある。そこに行くまでの道すがら、素朴な疑問をぶつけてみた。 そう大きくはない博物館だが、わりと〈頻繁〉《ひんぱん》に絵画や陶器やらの展示が行われているアーティスティックな場において、香純はちょっと…… 「似合わないって?」 「どうだか。ただ、先輩なら〈嵌〉《はま》るかもな」 「あのぉ、なんかそれ、あたしが非生産的な奴みたいで嫌なんですけど」 「おまえ何か生産できたか?」 「料理作れるよ」 それは威張れるようなことなんだろうか? いや、全然からっきしの俺に比べりゃマシではあるんだろうけど。 「とりあえずおまえの料理は置いといて、結局何がコンセプトの展示なんだよ」 「見て分からない?」 チケットをひらひらさせる香純の顔が、心なしか邪悪っぽい。 そこにでかでかと書かれている文字には、当然俺も気付いていたけど。 「……一応、確認だけな」 幻覚であってくれたら嬉しいなぁ、と淡い望みをかけていたのだ。相性最悪な物のオンパレードだったから。 だというのに。 「世界の刀剣博物館」 だ、そうである。 おまえね、退院早々嫌がらせかよ。 その後、半ば無理やり引きずられつつ無事到着。目眩を堪えながら、しばらく館内を連れまわされた展開は省略する。そんなのわざわざ語りたくもない。 で。 「ねえちょっと、いつまでそんな顔してるのよ」 ククリとかいうネパールのナイフを見ながら、呆れたように言う香純。悪いが昔から、俺はこの手の刃物を見ると気持ち悪くなってしまう。 だいたいこいつ、俺が光り物を苦手なの知ってるくせに。 「情けないなぁ、別に噛みついてきたりしないのに。なんでそんなに嫌がるわけ?」 「なんでっつわれても……」 不思議そうに訊かれるが、生憎と理屈じゃないので答えられない。 「おまえ、毛虫嫌いなのに理由があるか?」 「え? 毛虫可愛いじゃん。なんか健気で」 「じゃあゴキブリは?」 「見つけたら叩いて潰すね」 「…なら、蛇とかは?」 「巻きつけると気持ちよくない? ひんやりしててさ」 そうか。おまえに真っ当な女子の感性を期待した俺が間違っていたんだな。 「何か言った?」 「気にするな」 とにかく、俺は生理的にこういう物を受け付けない。剣道命の香純にとっては面白いのかもしれないが、生憎こっちは全然駄目だ。 「もう一通り回ったし、そろそろいいだろ。帰らないか」 「えぇ、つまんないよ、デートでしょ?」 「おまえ、俺とデートしても楽しくないだろ」 「それはあんたの態度次第ね」 よく言うよ。 「俺の態度は昔からこんなだろ。病み上がりなんだし、高いハードル持ってくるな」 「もう、ほんとしょうがないなぁ…」 香純はやれやれとため息をつく。分かってくれたかと思いきや―― 「じゃあ、最後にもうひと回りして帰ろうか」 全然、分かってくれちゃいなかった。 そんなこんなで、なるべく周りを見ないようにしながら再び館内を一周する。なぜこんなにも刃物を毛嫌いするかは上手く言葉にできないが、別に怖がっているわけじゃない。 ただ、なんとなく合わなくて…… 直視したいと思わない。関わりたいと思わない。 スイカと天ぷらみたいなヤツと一緒で、ある種破滅的な組み合わせの予感がしてしまう。 だから、平穏無事にやっていきたいならそれに近づかないのが賢明だろう。 たとえば司狼。あいつもまた、そういう意味では似たようなものだったし…… 「…………」 いけない、悪い癖だ。あいつのことを思い出しても、ろくなことにならないのは分かっている。 そもそも今はデートらしいし、あまり不毛な考えに沈んでないで可能な限り香純のことを考えよう。 できるかどうかは別として、それがマナーなのだろうし…… 「……?」 「何、どうかした?」 「…いや」 気のせいか? 今何か聞こえたような…… 「…………」 やはりだ、どこからか声のような…… 「…蓮?」 「…………」 耳を澄ます。場所柄、騒がしい所じゃない。気のせいじゃないなら、聴き取れるはず。 ――こっちだ。 「あ、ちょっと待ってよ。どこ行くのっ?」 香純の声を無視して走る。なぜ、こうも衝動的に動いたのかは分からない。声が聞こえようが聞こえまいが、よくよく考えれば別にどうでもいいことのはず。 だがなぜか、俺は吸い寄せられるようにその場所へと辿り付いた。いや、導かれたと言うべきか。 館内の隅。普通にコースを歩いていたら、まず誰も見つけないような死角。フロアの構造上、こんな所に展示物が置いてあるとは信じられないような場所に“それ”はあった。 「……ギロチン?」 それはいわゆる断頭台――罪人の首を刎ねる有名な処刑器具から、刃だけを取り外した形で置かれていた。 巨大な刃。他の刀剣類とは明らかに一線を画する寒々しいまでのシンプルさ。 何の装飾も外連もなく、ただ首を刎ねるためだけに設計され作成され、その役にしか立たない物……そしておそらく、その一分野においては他のどんな物よりも特化し、優れ、洗練された鋼の塊。 なぜ、こんな物がここにある? 確かにこれも刃物だが、他の展示品とは性質が違いすぎる。少なくとも、これは武器でも祭事の道具でもないはずだ。 そしてなぜ、俺はこんな物に……この場所へ…… 「うわ、何これ。あたし全然気付かなかったよ」 遅れてやってきた香純が、俺の肩越しにギロチンを覗き込む。 「蓮、よくこんなの見つけたね。えーっと、何? ぼ、ボイス……?」 「〈Bois de Justice〉《ボワ・ド・ジュスティス》――正義の柱。ギロチンの正式名だよ。あと、フランス語な」 「それから、マクシミリアン・ロベスピエール……知ってるだろ? 18世紀の政治家だけど」 「恐怖政治の?」 「そう、そいつに使った物だって書いてる」 フランス革命における中心人物の一人であり、自らが布く恐怖政治の反対派をギロチン台へと送った男。その最期は、皮肉にも彼が政敵や民衆にしたのと同じく、ギロチンによるものだったという話だが。 これがその時の物だって? 「なんか〈胡散臭〉《うさんくさ》いな。信憑性はなさそうだ」 「うーん、でも、そんな風に書かれてるとなんかヤな感じだね」 「同感だ」 真偽はともかく、あまりセンスはよろしくない。そもそも、こんな物を展示してる時点でその辺りは言わずもがなだ。 これは、何と言うか生々しすぎる。処刑器具であり、それ以外には使えない物……つまり、これを観るということは…… 「これ、どれくらい殺したのかな……?」 そういう風な想像を、つい誰もがしてしまう。なまじ無骨で華がない分、凶器の凄惨さが剥き出しになっているためだろう。 「あまり不謹慎なこと考えるなよ。これは興味津々に拝むような物じゃない」 「そうだけど、そもそも見つけたのはそっちじゃない」 「誰だって、嫌な物には敏感なんだよ」 血の残像。悲鳴の残響。死のイメージ……刃物が持つ負の部分――あるいはそれが本質だろうが――を、ここまで想起させる物も珍しい。 ロベスピエールの名を冠する以上、18世紀の代物だろう。これがフランス革命時に使用されていたのなら、刎ねた首の数は百や二百じゃ足りるまい。 一説には、もっとも慈悲深いと言われた刃。一瞬の苦痛さえ与えずに、計算された角度と速度と重さをもって、罪人の首を斜めに断つ。 電光石火。刹那の死。なるほど、確かに慈悲深い。遺体の惨さと大量の出血が凄惨な印象を与えるが、やられる側としては絞首刑の方が辛いだろう。 それも、斬首された人間が苦痛を感じる間もなく絶命するという仮定の上だが…… ……いけない。香純に注意したことを、俺がやってどうする。 「……行こう。正直、気分が悪くなってきた」 「あー、そうだね。ごめん。顔色悪いけど、大丈夫?」 「平気だよ。別に体調が悪いわけじゃあ――」 ない――と〈頭〉《かぶり》を振ろうとした時に。 「――――ッ!?」 また声。しかもはっきりと。 響く声に、なぜ反応したんだろう。 聞かなければよかった。無視すればよかった。そして、見なければよかったんだ。 反射的に振り返り、あの場所へと――忌まわしい刃が置かれた場所へと目を向けようとさえしなければ―― ギロチンの前に立つ、浮世離れした異国の少女――その口から〈紡〉《つむ》がれた、俺にとって最大級の〈忌詞〉《いみことば》を聞くこともなかったはず。 なぜ、おまえがそんなことを知っている? そして、俺と同じだと? 〈白皙〉《はくせき》の肌に赤い断線。コントラストが目に焼き付いて離れない。 それは珊瑚の首飾りのようでいて、しかし紛うことなき斬首刑の痕だった。 思えば、これが全ての始まり……  やあ、彼女はどうだね――ツァラトゥストラ。 俺と彼女は、こうして“奴”に出逢わされた。 そうして家に戻ってきた時は、もう日が暮れていた。 博物館の一件で危うく昏倒しそうになり、どうにか踏みとどまったものの、まだ気分は優れない。 それについて香純に迷惑をかけたわけだが、基本的に面倒見のいい性格だから嫌がられてはいないだろう。 ただ、その反面…… 「ねえ蓮、ほんとにもう平気なの?」 それは〈翻〉《ひるがえ》すと超のつく心配性だということで、今はどのように言いくるめて追い返すかを思案している真っ最中だ。 放っておくと、こいつ泊り込んで看病するとか言いかねないし。 「辛いなら、横になったら? あたし、お粥とか作ろうか?」 「……いいよ別に。大丈夫」 「もう寝るから、おまえも帰れ」 向こうは善意で言ってるわけだし冷たい言い方をしたくないが、やはり本調子じゃないので頭が回らず、〈巧〉《うま》い言葉を見つけられない。 「別に俺、虚弱体質ってわけじゃないし」 「怪我はとっくに治ってるから、病人扱いするなって。あんまり心配されてると、ほんとに気分が滅入ってくる」 「うん、でも……」 「今日、誘ったのはあたしだし。なんか責任感じちゃうし。蓮ちょっと頼りないし……」 「おまえ、さりげなく失礼だな」 そりゃあ実際、誰かに頼られたことは一度もないけど。 「頼り甲斐のあるおまえが、俺に付き合って倒れたら困るだろ。だから――」 「あたしそんなに柔じゃないよ」 「俺もそんなに柔じゃないよ」 「だいたい俺を気遣ってるなら、不毛な遣り取りに付き合わせるなよ」 「ただでさえ、明日から学校行くのが億劫なのに……」 「あ、そうだった。駄目だよ蓮、サボっちゃあ」 「今日サボった奴に言われてもな」 「あたしはいいの。ちゃんと毎日通ってたから、一日くらい平気だよ」 「でも蓮は、入院してたぶん日数足りてないんだからね。留年しちゃうよ、怠けてると」 「一緒に卒業したいもんね」 「……………」 「ね?」 「……そうだな」 「ようし、だったら早く寝るっ」 「だから、さっきからそう言ってるだろ。それをおまえがごちゃごちゃと」 「うるっさいな、この不健康児は。口答えするんじゃないのっ」 バサッと俺の頭にシーツをかけて、ベッド行きを促す香純。まったくこいつは、強引な…… 「じゃあおやすみ。明日起こしにくるからね」 「それはいいけど、おい香純」 「うん?」 「ちゃんと玄関から出ていけよ?」 「…………」 「…………」 「えへへ~」 「……おい」 こいつ、何を笑って誤魔化そうとしてるんだ。 「それはー、ちょっとー、めんどいなー、とか」 「普通はその面倒なことが常識なんだよ。だいたい……」 俺は傍らに顎をしゃくって、ため息。 「いい加減、大家に怒られるぞ。いくら隣同士だからって……」 こんな、勝手に壁ぶち抜いて、通路なんかにしてるのバレたらえらいことだ。絶対部屋から叩き出される。 今の学校に入学する際、一緒にこのアパートに越してきて、一週間もしないうちにこの面白通用口ができていた。 「でも、同じアパートの隣に住んで助け合う、ってのが独り暮らしの条件だったし。いいじゃない、このほうが密にフォローできるんだから」 「けどな、親もまさかここまでやってるとは思ってないだろ、絶対に」 「そうかな?」 「そうだよ」 「あたま固いなぁ」 「だいたい、ことの発端は司狼なんだし?あたしに言われても困っちゃうよ」 そう、このアパートに、香純、俺、司狼の三人が横並びで部屋を借りてた。 あれは確か深夜だったか、いきなり司狼が隣の部屋からハンマー片手に壁ぶち抜いて、何事かと思えば急に対戦格ゲーがやりたくなったとかなんとか……馬鹿かあいつは。 「で、何をトチ狂ったかおまえも真似したんだよな、ご丁寧に」 「へへ、あたしはハンマーなんて野蛮なことはしてないけどね」 翌日、ホームセンターに電動カッターとブルーシートと、マスクを買いに行ったこいつが野蛮じゃないといったい誰が決めたんだろう。 とにかく、不幸なことに真ん中の部屋だった俺としては、両サイドに穴が空いてるせいでプライバシーのプの字もない。香純や司狼が通路代わりに横断していくのはしょっちゅうだったし、何かあれば集まるのは確実に俺の部屋だし。 「せめて司狼の穴だけでも塞がせろよ」 「駄目よ。戻ってきたらどうするの」 どうするも何も、あいつはもう戻ってこない。香純はそれを知らないんだ。 「きっと、またみんな元通りになるんだから。あたしと、蓮と、司狼とで……ね?」 「…………」 「蓮?」 「……だな」 「うん、じゃあおやすみっ」 にっこり笑って、そしてやっぱり玄関を使わず、俺の部屋から出て行く香純。 あいつはたぶん、俺が入院してる間もここと司狼の部屋を掃除したりしてたんだろう。全然埃が積もってないし、それくらいはすぐ分かる。 その気遣いがむず痒い反面、何かとてもそぐわない、そんなことをしてもらう立場なのだろうかとも考えた。 香純は何も知らない。 本来なら、今ごろは―― 「…………」 やめよう、馬鹿馬鹿しい。 それきり俺は、くだらない感傷を頭から追い出した。いつまでも昔のことに囚われてるから、幻覚や幻聴に踊らされる。 あの時の、あの女……あんなものが実在するはずがない。あれは幻覚で、幻聴で、情緒不安定な俺の精神が生み出した意味のないガラクタだ。 「そうさ」 そうに決まってる。 だから寝よう。ぐっすり眠って、今日という日の〈残滓〉《ざんし》を洗い流そう。 明日になれば、全て忘れてしまえるように。 およそ二ヶ月ぶりになる自室のベッドと天井に、懐かしさよりも違和感を覚えたまま俺は眠りに落ちていった。  では、今宵の〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めよう。  〈は〉《 、》〈じ〉《 、》〈め〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》、親愛なるツァラトゥストラ。  私はこのオペラを提供するしがない道化。  取るに足らない詐欺師の類。  名は――そうだな、カリオストロとでも言っておこうか。  今宵君に語るのは、私がそう名乗っていた頃に出逢った少女の話。  麗しき断頭台の姫君。  彼女の成り立ち、そして私との馴れ初めを。  ごく簡単にだが、君に語ってしんぜよう。  そもそも事の始まりは、単に運が悪いという一言ですまされるものだった。 “生まれ”というものは人を縛る。  たとえどれだけの善行、悪行、愚行を積もうと、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈生〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈の〉《 、》〈天〉《 、》〈然〉《 、》には誰も勝てない。  これはつまり、そういう話。  とかくその辺りの機微を解せぬ者が多いゆえに、多少の愚痴から入ることをまず謝罪しておこう。  強者、狂者、あるいは弱者……なんでもいいが、突き抜けた個を見たとき、程度の低い者ほどその外れ具合に何らかの理屈を求めるものだ。  努力したから?  覚悟があるから?  または何らかのトラウマを持っているから?  くだらない。  感情移入。自己投影。  きっかけさえあれば、己もそうなったかもしれない。  いや、なれるだろうという思い込み。  異端を手の届く域に堕とし、理解できる〈範疇〉《はんちゅう》に押し込めようとする醜悪なる自慰行為。  他者が自分と同じ論理で存在していると盲信せねば、人を愛でることすら出来ぬ〈蒙昧〉《もうまい》ども。そういう輩は鏡と話していればよい。  君は彼女の生い立ちを苦々しく思うだろうが、その手の野暮を行うほど低俗な魂を持ってはいまい。  この世には、混じり気のない特別というものが存在する。  それが彼女だ。  その異常性は唯一無二。  全て生まれつきのものであり、後天的に得たものは一つもない。  首の斬痕は消えることなく。  〈紡〉《つむ》ぐ言葉は呪いでしかなく。  誰とも交われず愛されない。  私などでは及びもせぬほど、彼女は奇跡のように外れていた。  ゆえに、その存在を麗しいと――  およそ人というものの素晴らしさは、意図せずしてこれだけのものを生み出せるのかと感動したのを覚えている。  それは、後付けで達することのできない境地。  魔道を極めても届かぬ地平。  究極と言って差し支えない純粋なる異物。  恥を忍んで告白すれば――私は彼女を羨ましいと思っていたのだ。  君は滑稽だと笑うだろうがね。  〈徒刑〉《とけい》のごとき我が人生で、唯一誇るべきは彼女と出逢ったことだろう。  それは一つの敗北だったが、打ちのめされる挫折の味はなんと甘美であることだったか。  私はその時、確固たる目的を見いだしていた。  愛しの君よ、あなたの前に〈跪〉《ひざまず》こう。  この全霊をもってして、あなたの魂を救済しよう。  それこそが、私のオペラだ。  〈法則〉《ゲットー》を破壊する怒りの日だ。  さあ――主演は君だよツァラトゥストラ。  彼女と上手く踊るがいい。  それが劇的なものになるよう、期待する。  そうして――ふと、俺は耳に響く波の音に気がついた。  ――海? それは夕暮れの、何処とも知れぬ黄昏の浜辺だった。  波のせせらぎ。鳥たちの声。およそ都会の喧騒とはかけ離れた情景。  沈む太陽が海に溶け、全てを赤く染めあげる一瞬の――儚いけれど鮮烈な〈一時〉《ひととき》は、しかしそこで止まっていた。  水平線に半ばまで埋もれながら、決して落ちない太陽。寄せては引き、引いては返すも、どこか現実味を欠いた潮騒……  ああ、なるほど。これは夢だ。こんな浜辺は街にないし、そもそも日本だという気がしない。  どこか遠い異国の地。それもおそらく、〈現在〉《いま》じゃない。  特にこれといった根拠もなく、俺はそう確信していた。  疑問や困惑、違和感よりも、ただ目の前の景色に心を奪われ、魅せられる。  なぜならこういう、ノスタルジックな雰囲気は嫌いじゃない。いや、正確に言うとこの停滞感を気に入ってるのか。  落陽がもたらす一瞬の美景を内包したまま、切り離されて止まった世界。ここに時間の流れは存在してない。  ただ、いつまでも続く黄昏。永遠に落ちない太陽。それは昼でも夜でもない境界の、些細なことで崩れそうな現実の中の非現実。  凝縮した刹那……それが俺には心地よく、ある種の安らぎを感じさせる。  そのまま砂浜に腰を降ろし、何をするでもなく波の音を聴いていた。  そうして感じるのは、奇妙なデジャヴ。  初めて目にする場所だというのに、全てが既知だと思ってしまう。  所詮錯覚と言うか夢なんだが、正直その感覚は悪くない。  知っているということは、つまり対処が出来るということだから。  怖いものは避け方を。  楽しいものは持続法を。  より良く、深く選択できる。  それは一つの安心感で、揺り籠のような心地良さだ。  俺の理想は、おそらくそんな――  何から何まで既知の〈範疇〉《はんちゅう》――  一から十まで同じことを、生まれて死ぬまで繰り返したい。  君の望みはそれだったかな。 「――――――」  振り向くのと殆ど同時に、“彼女”は俺の目の前を掠めすぎた。  息を呑むとは、きっとこういうことを言うのだろう。  それは一言でいうと神秘的。この浜辺で彼女に出会った者ならば、俺じゃなくても目を見張ったに違いない。  〈身形〉《みなり》は貧しく、みすぼらしく。ドレスは粗末な代物だが、他の娘たちがどれだけ着飾っても敵わないほど、この少女には似合っている。  燃える夕日に染めあげられ、金褐色に輝く髪。  濡れた砂浜をかすめるように、優雅に歩く白い足。  穏やかな光を湛えたまま、見返してくる緑の瞳。  まるで〈人形〉《ひとがた》の宝石めいた、そんな彼女は物憂い微笑を浮かべつつ、静かに歌を口ずさむ。  あまりに甘く、あまりに切なく、天使のような歌声で――〈紡〉《つむ》ぎだされるリフレインを。  L'enfant de la punition――不意に浮かんできたのはそんな言葉。意味はよく分からない。  なぜ、そんなものが浮かんだのか。彼女が何を歌っているのか、やはり俺には分からない。  ただ、響くこのリフレイン……それは誰も知らない賛美歌か、祈りの一種なのだろう。  なぜなら彼女は清らかで、およそ俗な気配を感じさせない。ひたすら無垢で無邪気で透明で、その口から出てくる調べが祈りでなくて何だという。  聴いたことのない歌詞と、聴いたことのないメロディ。夢でそんなことが有り得るのかは知らないが、細かいことは考えまい。  彼女はキレイで、胸を打つ。ただそれだけで、問題なんかあるはずが…… 「………?」  ……だが、何だ今の違和感は?  俺は何か、大事なことを見落としているのでは? 「――――――」  まるで波が引くように、俺の中から感慨が失せていく。それと同時に、今まで意味が分からなかったこの歌詞の……一語一句が聴き取れるようになっていく。  ああ、そうだった。  昼でも夜でもない境界の、現実の中の非現実。そういうものが一般的に何と言われ、形容されるか、それをすっかり忘れていた。  黄昏刻は逢魔ヶ刻――人でないモノに逢う刻限。  彼女は――気がふれていた。 「血、血、血、血が欲しい。 ギロチンに注ごう、飲み物を。ギロチンの渇きを癒すため。 欲しいのは、血、血、血」  先ほどまでと寸分変わらぬ物憂い微笑を浮かべたまま、歌い続ける異国の少女。その緑の瞳は澄みきって、邪気の欠片も感じさせない。それがゆえに恐ろしい。  彼女は赤ん坊のような無邪気な心で、何の良心の〈呵責〉《かしゃく》もなく、呪いの言葉を口にしていた。 「血、血、血、血が欲しい」  頭の中で、割れるようにその歌が反響する。肩口に乱れ落ちるブロンドの向こう側、透かして見えるのは首に走った赤い断線――ギロチンの痕。 「欲しいのは、血、血、血」  それはあの時、博物館で出会った少女。  ギロチンの――斬刑に処せられた呪いの子。  〈L'enfant de la punition〉《罰当たりな娘》―― 「血が欲しい」  鈍器で殴り倒されたような衝撃とともに、俺の意識は暗転した。  そして………  広場の中央、据えられた処刑台を取り囲む群衆のざわめきを感じ取った。  辺り一帯を覆い尽くさんばかりの狂騒は、恐怖と嫌悪と愉悦に満ちて、混沌と化し荒れている。そして、耳を〈聾〉《ろう》する大合唱―― 『Je 〈veux le sang, sang, sang, et〉《血 血 血 血が欲しい》 sang.  〈Donnons le sang de guillotine.〉《ギロチンに注ごう 飲み物を》  〈Pour guerir la secheresse de la guillotine.〉《ギロチンの渇きを癒すため》  Je 〈veux le sang, sang, sang, et〉《欲しいのは 血 血 血》 sang.』  熱狂する群衆が口にするのは、やはりあのリフレイン。この時代、彼らはギロチンの前に陣取って、聖歌のようにそれを歌っていたのだろう。  権力者が、聖職者が、そして名もない民衆が……首を断たれて絶命するその瞬間を観るために。俺の首が飛ぶ瞬間を観るために。  何の因果かどういう理屈か、今ギロチンに繋がれてるのは他でもない俺自身。役人らしき男がよく分からない言葉で何やら喋り、群がる民衆に呼びかける。どうやら、死刑執行人をここから募っているらしい。  そして、やがて現われた男によって刑が始まり、刃が落ち、俺の首は――  永遠の夕焼けに染まった刑場で、胴から離れ、転がった。  電光石火の衝撃に脊椎を切断され、運動失調を引き起こす。  脳と身体の有機的つながりが断たれたことで、苦痛を感じる暇もない。  ただ身体から血が噴き出し、辺りを染め上げていくその光景を、俺は地面に転がったまま食い入るように凝視している。  鼓動、心臓の脈打ち。もう届かない肉体へと、手を伸ばしたいがそれもできない。首だけになった俺にできることといえば―― 「血、血、血、血が欲しい」  忌まわしいそのリフレインを、ただ聴き続けていることだけだった。 「――――――」 「はぁ、……ぁ」 ……朝? 泡を食って飛び起きれば、すでに夜は明けていた。反射的に首へと手をやってみるが、むろん無事繋がっていて…… 「……夢、か」 脱力する。いくら夢でも、冗談じゃないぞああいうのは。 趣味が悪いし、何よりも…… 「ねえちょっと、どうしたのよ?」 毎朝不法侵入してくるこいつに、一部始終を見られるからだ。 「うなされてたよ、大丈夫? やっぱりまだ怪我の具合が……」 「……いや」 全快したから退院したのであって、怪我は夢と関係ない。心配してくれるのは有り難いが、すっぱり切って捨てないと、こいつ終いには暴走するし。 「デリケートなんだよ、俺は。枕が替わって、うまく寝付けなかっただけ」 「あと、ヒトの寝顔をじろじろ見てる変態がいたせいだな、うなされてたのは」 「むっ、それあたしのこと?」 「他にいったい誰がいると」 「うーわ、何この恩知らず。そんなこと言ってると、もうご飯作ったげないよ」 自室から持ってきた包丁をひらひらさせつつ、香純は呆れたような顔をする。 そんな物を持たれて寝顔の観察とかされた日には、誰だって悪夢の一つや二つ見るだろう。 そう思い込むことで、俺は気持ちを切り替えた。 「危なっかしいから、仕舞えよそれ。俺の前でそんなもんちらつかせないでくれ」 「それはあんたの部屋に包丁がないから悪いんでしょ。まったく、あたしがいないとレトルトばっかり食べるくせに」 「少しはそのへん感謝して、多少の役得をくれたっていいじゃないの」 「役得?」 何それ? 「蓮の寝顔。可っ愛いんだなぁ、これが」 「…………」 「起きたら小生意気なんだけどね」 す巻きにして、窓から放り出してやろうかこの女。 「抱きしめて、唇奪ってやろうかこの女」 「…………」 「へへ、図星?」 「んなワケあるかよ」 「とにかく、朝飯なら勝手にキッチン使っていいから、さっさとしてくれ」 「はーい。なんか蓮って、意外に亭主関白くさいよね」 とかなんとか言いつつ、やっぱり包丁ひらひらさせてキッチンに引っ込む香純。今度真剣に、壁の穴を塞ぐ方法を考えよう。 まあ、朝っぱらから騒がしいのがいたお陰で、夢見の悪さは相殺されたが…… とりあえず、そのことだけは感謝。 で、今は七時二十分。ご飯に焼き魚に味噌汁という、実に日本的な朝食を香純と二人で囲んでいる。学校までは歩いて三十分くらいかかるから、十分で食って十分で片付けて十分で支度をすればちょうどいい頃合いか。 「ふぇいひゅひゅ、ふひゅーひんふひへはははへ」 「……は?」 「ひゃ、ひゃひゃら」 ごっくんと、お茶で口に詰まった飯を飲み下す。行儀悪い奴だな、こいつ。 「制服、クリーニングしといたからね」 「……ああ」 確か、〈血塗〉《ちまみ》れ〈埃塗〉《ほこりまみ》れの傷だらけになってたっけ。白い生地だから、相当目立っていたことだろう。 「クリーニングでよく片付いたな。新しいの買おうかと思ってたのに」 「ああ、そう言うだろうと思って注文もしといたけど。なんか少し時間がかかるって言われたから」 「新品がくるまで、ちょっとみっともないけどこれで我慢しなさいね」 味噌汁すすって、香純は傍らに畳んであった制服を俺の膝の上に置く。広げてみると、ところどころが継ぎ接ぎだ。 「……………」 「……何、その顔」 「……いや、もしかしてこれ、おまえが?」 「うっ、わ、悪いかこのっ。文句あるかっ?」 「文句は別にないけどさ……」 料理は人並み程度にこなせるが、こっちは全然からっきしだな、相変わらず。 「まあ、ありがと。あとは冬だし、ずっとコートでも着てりゃいいかな」 「授業中も? それって校則違反じゃない」 「固いこと言うなよ。病み上がりなんだ、俺は」 「昨日は病人扱いするなって言ったくせに……」 と、なにやら恨めしげな目を向けて、香純は皿の上に一個だけ置いてあった明太子をかじりだす。 「……からい」 そりゃそうだろう。 「てゆーかおまえ、それ二人で分けるんじゃないのかよ。何一人で丸ごとトライしてるんだ」 「やかましいわね、あんたには絶対やらない。これ、うちのお母さんがくれたんだからね」 そしてまたもそもそと、明太子をかじる香純。ご飯に交ぜたりせず、そのまま直でだ。 「……………」 「……………」 「……からいよ」 なんか涙目になってたりする。 「おまえ、あたま大丈夫か?」 「大きなお世話ですーっ、ばかっ」 身体ごとそっぽを向いて、あんたとは口ききませんモードに入ってしまった。 ……まあ、いいけどな。ただその状態で、辛い……でも美味しい……とかぶつぶつ呟くのはやめてくれよ。怖いから。 香純がそんな感じになったので、俺はどことなく手持ち無沙汰になってしまい、今まで適当に垂れ流していた朝のニュース番組に目を向ける。 天気がどうだとか今日は冷え込むでしょうとか、とにかくそういうどうでもいい類の話。政治家の汚職も芸能人の不倫騒動も、俺たち大多数の一般人には特に関係ないことだ。 そんなニュースが延々続き、いい加減ダレてきたこともある。そろそろ香純の機嫌も直ったろうかと、そっちに意識が向かいかけた時だった。 『――――され、死亡』 「……?」 おい待て。今、なんて言った? 『――昨夜遅く、諏訪原市の公園で男性の他殺死体が発見され、同市警は殺人事件として捜査を――』 死体? この街で殺人事件? 『現在のところ、通り魔的なものであるとの見解がなされており、それというのも被害者の頚部が切断されるという、猟奇的な犯行であることから――』 『凶器の断定はまだできていないとのことですが、おそらくは鋭利な刃物――日本刀、もしくはそれに類する刃渡り60cm以上の刀剣であるという説が有力視されています』 『――なお、被害者の男性は諏訪原市の会社員、生野健児さん24歳であり、死因は頚部の切断による――』 「………ぁ」 食い入るように報道を観ていた俺は、香純が取り落とした食器の割れる音で我に返った。 朝食の場に、いきなりふって湧いた殺人事件のニュース。こいつが驚くのも無理はない。犯行現場の公園は、この街の人間ならかなり馴染みの深い場所なのだし。 香純の反応はおかしくない。おかしいのは、むしろ事件の内容。 死因は頚部の切断……つまり、首を切り落とされたということか? 他に外傷がないというなら、それは一瞬の所業だろう。 すれ違い様か、追い抜き様にやったのか。あるいは何らかの手段で気絶させたあとにやったのか……分からないが、凶器は鋭利な刃物だと言ってる以上、一撃で切り落としたとみて間違いない。 仮にそんなことができるなら、怪力の持ち主だろう。きっと大男に違いないし、そんな奴が刃物片手に歩いていたら、嫌でも目立つに決まってる。 にも拘わらず、テレビは不審者の目撃情報などないと言う。ならピアノ線のトラップでも張っていたのかもしれないが…… 「…………」 知らず俺は、自分の首に手をやっていた。さっきから、現実的な解釈で凶器を特定しようとやっきになっている。 というより、なんとかして“あれ”から切り離した解釈をしようとしている。 可能不可能の話ではなく、単純な連想として斬首に直結する刃物の存在を考えまいと…… 昨日、俺は“それ”を見ている。 そして奇しくも、それは昨夜夢に見た…… 処刑場にそびえ立つ、あのギロチン。夢の中で、俺はあれに首を切られた。目が覚めると、やはり首を切られて死んでいる人がいた。 これは偶然なのか? 関係ないと、俺は笑い飛ばせるのか? 少なくともあの少女は、夢と現実の両方に登場した。なら双方の境界なんて当てにならない。夢で起こった出来事が、現実には起こりえないといったい誰が保証できる。 つまり、俺が見た夢は―― 「――蓮っ」 「……もう行こう。遅刻しちゃうよ」 「…………」 そう、そうだな。あまり考えすぎるのはよくない。ましてこんな、現実的じゃない仮定など…… 「分かった。着替えるから、部屋戻っててくれ」 「あは、別に照れなくてもいいのに」 「うるさいな、それより……」 「はいはい、玄関使えでしょ? 面倒だから嫌ですよ」 「とりあえず、先に食器だけ片付けとくね」 そんな普段どおりのやり取りも、どこか微妙にぎこちなかった。 「ほら、もたもたしてない。さっさと行くっ」 とはいえ、基本的にしゃきしゃきしてる香純なので、俺と違っていつまでもぐだぐだしてない。アパートの前でせっついてる様子からは、さっきまでの暗い雰囲気は消えていた。 「もう、なんで男のあんたが、あたしより準備に時間かかるのよ」 「あ、それともアレかな? もしかしてお化粧してたりしたのかな?」 「殴るぞ、おまえは」 他人の容姿について意地悪言っちゃいけないって、そういう教育をこいつは受けなかったんだろうか。 「そっちこそ、少しは洒落っ気くらいつけろよな。いつも汗まみれで竹刀ばっかり振ってるから、男じゃなくて女にモテ――」 「ケンカ売ってるわけ?」 「先に売ってきたのはおまえだろうが」 「なによ、昔はそれがいいとか言ってたような気がするのに」 「気がするだけかよ」 しかも確実に言ってねえよ。 「だいたい、あんただって女の子にモテ――」 「なくても別にいい。特におまえには」 「ちょっとなにこれ。ほんと可愛くないですよ」 「だから、可愛くなくていいんだよ。あと、これってなんだ? 俺は物か?」 「オーイエス、この木石野郎」 「…………」 まあいい、相手にしてられない。 とにかく、いくら俺でも復学後にいきなり遅刻する気はないので、さっさと登校してしまおう。 「ほら、行くぞ」 「はーい、って、ほんとにコート着てきたんだね。まだそんなに寒くないのに」 「今日は冷えるって言ってただろ」 「そうだっけ?」 そうだが、ニュースの話題を蒸し返すのも気が引ける。 「俺、寒がりだしな」 あと、このぼろぼろの制服も恥ずかしいしな。 と、後半は心の中で呟いておくことにした。 その後、アパートからしばらく歩くと、まずこの十字路に行き当たる。ここが街の中心的な位置にあるため、全ての道がここに集まり、また派生するという寸法だ。 感覚的には、京都の朱雀大路みたいなものだろう。都市が碁盤の目の形になっていた平安京よろしく、交差する大道で街を分割、山側には教会や病院があり、海側には公園や遊園地があるという区画配置。ゆえにここを起点に動いていれば、余所者であっても道に迷うことはあまりない。 そのへん、行楽地として有名な諏訪原の面目躍如というところか。交通の便が悪いような所では、観光客もやってこないに決まっている。 とはいえ、主にそういうお客が集中する海側の一角、公園で殺人事件が起きたというのは街にとっても痛いだろう。おそらく今ごろ、警察は威信にかけて犯人捜しをしているはず。 これはしばらくの間、夜出歩かないほうがいいだろうな、色んな意味で。 「蓮」 ――と、そんなことを考えながら歩いていたら、 「……そっち、方向違うよ」 「……は?」 「そっちは、その……」 ああ、そうだっけ。 「……悪い」 登校するのにもっとも手っ取り早い道筋は、公園を突っ切ること。いつもの感覚でその道を通ろうとしていたが、今は駄目だ。好きこのんで殺人現場などに近寄りたくない。 「……久しぶりなんで、道忘れたかも」 「よければ、手とか引いてくれると助かる」 「あ、あのねぇ……」 「馬鹿な冗談言ってると、ほんとに置いて行くからね、もうっ」 まあ、そうだよな。 謝罪も兼ねて軽口を叩いてみたが、どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。 が、何だかんだ言いつつもほんとに置いて行くようなことはなく、しっかり先導してくれた香純に感謝。 そんな気のいい幼なじみにお礼として、一つ忠告をしようと思う。 「おまえ、先に教室入れ」 「は?」 「だから、俺のことはもういいよ。気にしないで、ほら、教室」 「んー……あんた何言ってんの?」 「分かんないかな、おまえ鈍いよ」 あけすけというか大雑把というか、それが長所なのかもしれないが、もう少し勘が良くなってほしかったりする。 ここに至るまでの道程で、何かしら感じるものとかなかったのか。空気読もうぜ、いい加減。 「いま俺と一緒に教室入ると、おまえ変な目で見られるぞ」 「なんで?」 「なんでも何も……」 俺はもともとクラスの連中と疎遠だったし、そんな奴が同級生と大喧嘩して入院――約二ヶ月間休学した後、今が復学第一日目という状況だ。 常識的に考えれば、俺はいわゆる腫れ物というやつであり―― 「そんなのと仲良くして変な噂たてられたくなかったら、ここは当らず障らず……って」 「…………」 どうやら、失言……だったかな。 綾瀬香純は、今時珍しい正義の味方だったりする。 「ムカつくなぁ、あたしそういう考え大嫌い」 「ほら蓮っ、一緒に行くよっ」 がっしと俺の腕をつかんで、問答無用。 「たのもーっ!」 バシーン、と勢いよく戸を開けるが、しかし決まったのはやはりそこまでの話だった。 ……… ………… …………… 「……あは、何かなこれ」 「おまえのテンションに、引いてるってのがたぶん三割」 あとの七割は、まあ言わずもがな。 香純にゃ悪いが、世の中正義が〈罷〉《まか》り通るとは限らなかったりするのである。 そんなこんなで久しぶりの学校生活が始まったんだが、今のところいい感じにクラス内で浮いている。 諦めの悪い香純がどうにか俺を馴染ませようとあれこれ世話を焼いてくるが、正直勘弁してほしい。 孤高がどうだの、クールがどうだの、気取るつもりはさらさらないけど、今は慌てず騒がずのんびりやっていきたいんだ。リハビリっていうか、そういう意味で。 暴力事件を起こした奴を、周りが警戒するのは当然のことだ。腹は全然立たないし、ここで妙に仲良くされたらビビられているみたいで気持ち悪い。 そもそも俺、香純と司狼と先輩以外、友達なんかいなかったしな。別にいいんじゃないかな、このままでも。 だから、なあ……いい加減無駄な抵抗は諦めて―― 「早くメシでも食ってこいよ」 「だから、蓮も一緒に行くのっ」 昼休み――俺は光栄にも学校の人気者であらせられる幼なじみに、ランチのお誘いを受けてるわけだが。 「何が悲しくて、一回も口きいたことない女五人の集団に俺が交ざらなきゃならないんだよ」 「それは誤解を解くために」 「やめとけよ、馬鹿らしい」 香純の背後――廊下には、名前も思い出せない女子たちが〈怪訝〉《けげん》な顔でこっちを見ている。 「あれ、友達だろ? だったら嫌がらせみたいなことしてやるなって」 「なんでよ? 蓮もあたしの友達じゃない」 「そう言ってくれるのは有り難いんだけどな……」 友達の友達はみな友達とか、そんな理屈を捏ねられても……正直、困る。 「とにかく、こういうのは最初が肝心なのっ。あんたもこれを機に、マイナスイメージを払拭して――」 そして日々の生活を有意義なものに云々と、まるで熱血学園ドラマみたいなことを言い始める。 ごめんそういうの俺パス。 「ちょっと蓮、聞いてるのっ?」 あーあもう、参るな実際。 「俺は別に、周りの評判なんか気にしてないし」 「あたしは気にするのっ」 「みんな、何も知らないで勝手なことばっかり言ってんだから。悔しいのよ、そういうの」 「だから――って、ほらちゃんとこっち見るっ」 両側から俺の顔を押さえつけて、有無を言わせぬ説教モードだ。 何か説得しようという行為自体が、とても無駄なように思えてくる。 「あのなぁ、俺はこれでも俺なりに……」 「何よ? なんか文句あるわけ?」 ないわけないだろ――と言いかけたその時に、 不意に、割って入るような電子音。 「嘘……蓮にメールがきた」 「…きちゃ悪いのかよ。ほら、放せ」 俺の弁護をしようってわりには、失礼な反応をしてくれる。愚痴りつつ手を振り解いて、携帯を見てみれば…… 「どしたの?」 「……いや、悪いな香純」 「は?」 「先約があったの忘れてた」 「え、ちょっと待ってよ。あ、こら――蓮っ」 「メシはまた今度誘ってくれよ」 脇をすり抜け、廊下に出たところでそう言っとく。ふと傍らに目を向ければ、香純の友達らしき連中が胡散臭そうに俺を見ていた。その後、露骨に目を逸らすし…… ほら、結局こういうことだ。植え付けられたイメージはそう簡単に消えないし、あながち誤解でもないのだから弁解なんてナンセンス。 無駄な労力を使ったうえに、全員メシが不味くなるようなイベントをわざわざ起こす必要もないだろう。 これでも俺は俺なりに、気を遣ってるつもりなんだ。香純が大雑把すぎるから。 それで説教されるなんて、まったく理不尽な話である。 「おいコラ、そこのキミ」 席を立ち上がろうとした瞬間に、がっしと肩を掴まれた。 「もしかして、逃げようとか思ってない?」 「…どうだろうな」 もちろん、逃げる気満々だったわけだけど。 「とりあえず、その手を放せ」 「嫌よ。だって放したら逃げるでしょ」 「信用無いな」 「あるわけないじゃん、目が嘘ついてるもん」 「おまえ、もうちょっと人を見る目を……」 「だいじょーぶ。蓮を見る目は確かです」 「ほらだからぁ~、ゆっくり席につきましょうねぇ~~」 素晴らしく爽やかな笑顔のまま、両肩にギリギリ体重を掛けてくる。 〈伊達〉《だて》に青春の全てを剣に捧げてるわけじゃないらしく、そこらの男より香純は力が強いのだ。 哀れな奴め。女の子としての君の人生、何か途方もなく狂ってるよ。 「……何、その目は? すごく失礼なこと考えてない?」 「おまえ、被害妄想が激しいな」 言いつつ、不意に俺は力を抜いた。 「え――わっ、きゃあっ!」 思いっきり俺の肩に体重かけてたものだから、香純はつんのめってすっ転ぶ。 一応、怪我しないようにフォローだけはしておいたが、体勢が崩れまくってるので逃げる俺を妨害できない。 「コラ、ちょっと待ちなさーいっ!」 「悪いけど、また今度な」 脇をすり抜け、廊下に出たところでそう言っとく。ふと傍らに目を向ければ、香純の友達らしき連中が胡散臭そうに俺を見ていた。その後、露骨に目を逸らすし…… ほら、結局こういうこと。植え付けられたイメージはそう簡単に消えないし、あながち誤解でもないのだから弁解なんてナンセンス。 無駄な労力を使ったうえに、全員メシが不味くなるようなイベントをわざわざ起こす必要もないだろう。 これでも俺は俺なりに、気を遣ってるつもりなんだ。と自嘲したその時―― 不意にメールの着信音。 珍しい。いったい誰からかと驚いたが、よくよく考えれば俺の狭い交友関係なんてたかが知れてる。 携帯の液晶を見て、苦笑。ちょうどいい避難場所が見つかった。 『退院おめでとう。藤井君のいない学校は寂しかったよ』 『そっちはどう? 色々話がしたいから、屋上で待ってます。ちなみに、周りは誰もいません』 『二人きり!?(〃゚∇゚〃)』 『二人きり!!?(/д\*))((*/Д\)』 『藤井君と二人きり……(* ´ 3`*)』 『早くきてね。氷室より』 「……………」 なんだかな、あの人は。 どうやら相変わらずのようで、呆れたような笑えるような微妙な感じだ。 もう最上級生なんだから、下級生いじってないで他にやることはないのだろうか。その辺、不思議でたまらない。 そりゃあ受験や就職であくせくしてる様はちょっと想像できないし、ある意味らしいと言えばらしいのだが。このマイペースぶりは、ちょっと奇特な域に入っている。 まあ、何はともあれ屋上か。せっかくのお誘いだし、断るのは気が退ける。香純を撒くのに都合も良いし。 そんなことを考えながら階段をのぼり、ドアを開けて屋上へと―― 「……寒」 季節は冬、十二月。この時期、屋上が殺人的な気温になるのに、今さら説明は必要ない。 休学前は、昼休みともなるとそこらに生徒が溢れていたが、さすがに今はそんな物好きなど存在せず…… いや、一人いるんだったか。物好きというか変人というか、そんな感じの不思議な人が。〈嘆息〉《たんそく》しつつ、ぐるりと辺りを見回せば、 ……いたよ。よりによって、一番寒そうなフェンス際のベンチに座って、黙々とサンドイッチ食ってる御方が一人。 「――先輩」 呼びかけても反応が鈍いので、そのまま隣に腰をおろした。 「…………」 「…………」 「…………」 「……あの」 ベンチに座って、約十秒間ほど会話なし――どころか、目も合わせないとはどういうことか。 この人、もしかして寝てないか? 「……先輩?」 「…ぁ……ぅ……」 「は?」 「……さむい。こおった。あっためて」 「…………」 一瞬、このまま帰ろうかという気にさせる彼女は〈氷室玲愛〉《ひむろれあ》――いっこ上の先輩で、俺の数少ない友人なのだが…… 「……それ、暖かそうね藤井君」 「貸してくれると、私嬉しい」 「ていうか、むしろ貸せバカ」 中身はまあ、こんなんだ。 「正直、ちょっと甘く見てた。天気予報もなかなかやるね」 「それで藤井君、私とても寒いんだけど。優しさ見せてはくれないの?」 「……どうでしょうね」 寒い寒い言ってるわりには、ぴくりとも震えてないし表情だって変わってない。どこまで本気なのか知らないが、俺のコートをじろじろ見ている。 はっきり言って、その視線の方が遥かに寒かったりするんだけど。 「ちゃんとあとで返すなら」 制服は香純の裁縫で愉快なことになっているが、このまま無視し続けるのも忍耐力の要る作業だ。俺は立ち上がってコートを脱ぐ。 「なんだったら、二人で着る? こう、仲良く肩寄せ合って……」 「遠慮しときますよ」 すっぱり断り、小柄な肩に俺のコートをかけてやった。 「うん、暖かい。藤井君は優しいね」 「そっちはどう? 寒くない?」 「暖かいって言ったら嘘ですね」 「じゃあ遠慮しないで、ほら入りなさい」 言いつつ、コートの裾をひらひらやって俺を誘ってくる先輩。実はこの人、これがやりたかっただけかもしれない。 「で、俺と何を話したいんです?」 「さりげなく無視するのね……まあいいけど」 「まずは退院おめでとう。綾瀬さんにはもう言われた?」 「お陰さまで。昨日しっかり」 「じゃあ、デートした?」 「お陰さまで。そこそこしっかり」 「そう、良かった」 何がどう良かったのか、激しく疑問だ。 「まあ、これでも食べなさい」 そしてご褒美だと言わんばかりに、タマゴサンドを渡してくる。 「しっかり食べないと、大きくならない。苦労するよ、色々と」 「健全な精神は、健全な身体に宿るらしいし。早く真人間になりなさいね」 まるで俺が、〈人非人〉《にんぴにん》みたいな言い草だった。 少なくとも、あなたよりはマトモな人間だと自負しているつもりですけど。 「何?」 「いや、別に」 「思ったことは言いなさいよ。そんなだから喧嘩になる」 「遊佐君とも、どうせそうでしょ」 「…………」 「食べてる?」 「一応」 タマゴサンドの封を切って、もくもくやりながら生返事。 「話したいことってのは、それですか?」 「そうって言ったら、帰っちゃう?」 「微妙ですね」 我ながら曖昧な答えを返し、宙を仰いだ。 なんで退院して早々、みんな説教してくるんだろう。俺、そんなに問題視されるようなことしたか? そりゃあ常識的に考えれば、喧嘩の域を遥かに越えた暴力事件になるんだろうが……別にイジメやリンチってわけじゃない。 特に親しくもない奴等に〈忌避〉《きひ》されたり、説教癖の香純に小言を言われるのは仕方ないと思えるが、よりによってこの人まで言ってくるとは思わなかった。 「先輩に説教ってのは、似合いませんね」 「そっち系は、香純だけで足りてますよ。あいつが二人もいたら、マジで胃に穴が空く」 そもそも、うるさいのが嫌だから俺はここにきたのだし。 「苦労人だね」 「お陰さまでね」 肩をすくめて、ため息一つ。あっちはあっちで、再び何事もなかったようにサンドイッチをパクつきだす。 まあ、この人はだいたい終始こんなんだ。やる気があるのかないのか分からない、何事も希薄な感じの〈茫洋〉《ぼうよう》さ。〈喩〉《たと》えるならまるで幽霊。しかし局所的にエキセントリック。 こう、適度な距離を維持するスタンスは俺にも言えることなんで、香純よりは波長が合うけど。だから数少ない友人の一人として、関係が成立しているわけであり―― 「さっきのは、ちょっと綾瀬さんの真似してみたの。キミ、めんどくさそうな顔しながら、まんざらでもなさそうだし。そういうのが好きなのかなって、一度試してみたかったから」 「でも、似合わないならやめようかな。そんなに私、変だった?」 「そりゃあね、だいぶ」 空気に話しかけるような口調で説教されても、普通は困る。 「で、ほんとのところは何の用です? まさか、香純の物真似したかっただけでもないでしょう。……いや、下手したら有り得るけど」 「うん、まあ用ってほどじゃないんだけど、聞きたいことが一つだけ」 ちらっとこちらに目を向けて、いつも通りの平板抑揚。 「キミと遊佐君、どっちが勝ったの?」 「結構話題になってるのよね。〈月乃澤学園〉《ツキガク》最強決定戦」 「今のところ、6:4で遊佐君有利。でも、復学してきたのはキミだけだから、その辺り揺れてるね。どうなの、実際」 どうも何も、意外にミーハーな人だな、先輩。 俺と司狼の、どっちが勝ったか……つまりどっちが強いかと訊かれれば…… 「俺ですよ」 「本当に?」 「嘘ついてるとでも?」 「さあ。ただ、遊佐君に訊いても同じことを言いそうだから」 そうかもしれない。いや、あいつはそう言うに決まってる。 「怖い顔。やだね、これだから男の子は」 「勝ったの負けたの、そういうのがそんなに大事?肩凝らないかな、プレッシャーだよ」 「訊いてきたのは先輩でしょうに」 「そうだけど……うん、そうだった。ごめんなさい」 「じゃあ質問を変えようか。どうして遊佐君と喧嘩したの?」 「…………」 「答えたくない?」 「そうですね」 そもそも、人に言えるような理由じゃない。あの後、ここでぶっ倒れていた俺と司狼を発見し、救急車を呼んでくれたのは先輩だ。そういう意味で恩義はあるが、それとこれとは別の話で…… そんな俺を横目で見つつ、彼女は軽いため息をつく。 「まあ、三角関係のもつれとか、そういうお手軽いネタじゃないのは察するけどね。君と遊佐君、そんなジャンルのキャラじゃないし。綾瀬さんモテそうに見えないし」 さりげなく酷いことを言われているが、否定はしないでおこう。その手の熱い理由で喧嘩をするほど、俺も司狼も真面目じゃない。 あと香純も――俺たちにはモテてない。 「そんな君たちが、なんでか友達だったのが不幸の始まりだったのかな。実は私、前からこうなるような気がしてたよ」 「だから、神様は性格悪いなって思ってた。うん、今度一発、キミの代わりに殴っとこうか。遠慮しないで。善意だから」 「そりゃどうも」 仮にも教会住まいが言う台詞じゃないだろうが、別に止める義理はない。キリスト殴りたいなら殴ってくれ。罰が俺の頭上に落ちなきゃいい。 「だいたい、キミに喧嘩なんて似合わないよ。怪我とかしたら、みんな悲しむ」 「うちのシスターなんて、きっと卒倒するんじゃないかな」 「シスター?」 シスターって、あのシスターか? 以前何度か会っただけだが、ごく控えめに言ってもモデル級の美人だった。 ああいう人が〈尼僧〉《にそう》やってること自体が大きな損失。キリストくたばれという感じの…… 「名前、なんでしたっけ?」 「シスター・リザ。青い瞳のぼいんぼいんFカップ」 「…………」 「ちなみに私はBカップ」 いや、訊いてないから。 「そのうち大きくなるかもしれない」 淡い希望を持ってるようだが、まあ夢を見るのは勝手だろう。 「で、そのFカップさんは元気ですか?」 「Bカップは興味ないの?」 「それはとりあえずノーコメントで」 言いつつ、食い終わったタマゴサンドのラップを丸めて、先輩が羽織ってるコートのポケットに突っ込んどく。 すると間髪いれず、今度はトマトサンドを渡された。 「彼女、今寝込んでるよ。お見舞いくる?」 「風邪ですか?」 「ううん、そうじゃなくて」 いったいどこに仕舞ってるのか、再びサンドイッチを取り出しながら、相変わらずの無表情。 その小揺るぎもしない顔のまま、さらりと軽く―― 「殺人事件、見ちゃったから」 先輩は、そんなことを口にした。 「ニュース見てない? 公園で殺人事件。首ばっさり。血がどばー」 「怖いね。私も食欲なくなるよ」 なんて言いつつ、トマトサンドをパクパク食ってるのは誰だろう。いや、今はそんなことなどどうでもよくて…… 「見たって、つまり犯人を?」 「ううん、そっちじゃなくてやられた方。つまりその――」 「死体を?」 「第一発見者。私もね」 事も無げに、頷く先輩。それが本当ならただ事じゃない。人によっては、一生トラウマになるレベルだろう。 「お陰で私、一晩中警察で事情聴取。リザはあんなだから先に帰しておいたけど、大丈夫かな。ちょっと心配」 「それより、先輩は平気なのか?」 「私? 私は寝不足なだけ。かつ丼くれるかなと思ったけど、あれってドラマの中だけなんだね。がっかりしたよ」 「どうしたの藤井君、変な顔して」 それは、あんたが変だからだよ氷室先輩。前からおかしな人だとは思っていたけど…… 「もしかして、ほんとに話したかったのはそれなんですか?」 「どうかな、話の流れで思い出したから言ったんだけど、もしかしたらそうかもしれない。容疑者扱いされてショックだったし、ちょっと愚痴ってみたかったのかも」 「ねえ私、愚痴っていいかな?」 「……まあ、いいですけど」 殺人事件……飯時のネタにしては不適切極まりないし、本音を言うとご免である。 だがしかし、気になることもあるわけで…… あの夢が、やはりどうにも払拭できない。ゆえにこの話は聞いておきたい。 「十一時……過ぎだったかな。あそこの夜景が好きだから、よくリザと観に行くの」 「いつもはカップルばっかりで、たまに痴漢とか出るんだけど……昨日はなぜか誰もいなくて……」 「思えば、嫌な感じがしてたんだよね。寒いのに生温いっていうか、ちょっと変な雰囲気で……あの時に帰らなかったのは失敗だったよ。後悔してる」 珍しく自嘲するような口調のまま、先輩は話しだした。 公園――といっても緑が豊かで遊具があって、主婦が子供を連れてデビューするという類じゃない。 立地的には、湾の対岸にあるスカイタワーとアミューズメントパーク、ショッピングモールや高級ホテルを一望できる海浜公園。実際行ったことはないんだが、東京のお台場辺りが雰囲気的に近いのだろう。 ゆえに、いわゆるデートスポットとして扱われるのが一般的で、深夜遅くまで人が絶えない。しかし、先輩曰く昨夜はそうじゃなかったらしい。 「橋の袂、あるじゃない?ほら、よくキミと遊佐君がバイクで遊んでたところ」 「あそこって、不意に暗くなるんだよね。地元の人間でもあまり知らないような場所……街の死角っていうのかな。とにかく、現場はそこだった」 「最初に気付いたのはリザの方。彼女が言うには、スプレーかと思ったらしいよ。落書き、結構多いから」 「でも、実際はそうじゃなくて――」 壁を染め上げる赤い塗料。それは粘つき、生々しく、強烈な匂いを発する噴水めいた―― 「私の第一印象は、コルク抜いたばかりのシャンパンかな。栓が外れちゃってるっていう感じで」 「少し離れたところに、転がってたよ。こう、ごろんと」 「首って結構飛ぶんだね。それに、血もいっぱい出るんだ、驚いた」 人間の血液量は、体重の8%から10%――大の男なら、5・6リットルはあるだろう。誇張ではなく、辺りは血の海だったはず。 「よく失神とかしなかったですね」 「女の方が、血に耐性があるんだよ。あと、いざという時の度胸もね」 「とにかく、そのまま帰るわけにもいかないから、警察に電話して、家まで送ってもらおうと思ったんだけど……」 「任意同行を求められて、朝まで事情聴取ですか」 「そう、失礼しちゃうね。丸腰の女二人に、あんなことができるわけないのにさ」 つまり、人間の首を瞬時に切断してのけること。確かテレビの話だと…… 「日本刀か、そういう感じの刃物なんじゃないかって」 「そうらしいね。だから今、博物館を調べてるんじゃないのかな」 「何か、なくなった展示品がありはしないか……もしくは、どれかに血痕があったりするんじゃないのか……」 馬鹿な、と笑い飛ばすのが難しい。 「その推理、ちょっとマンガ的な気がしますけど……」 「でも、同じ街にあれだけ凶器を置いてるところがあるんだし。無視するわけにもいかないんじゃないのかな」 それは、確かにそうかもしれない。 「その辺り、藤井君はどう思う? 昼間あそこに行ったんでしょう?」 「……どうって?」 「何か、思い当たることはなかったの? 例えば、伝説の妖刀がこっそり紛れてそうな雰囲気とか」 「…………」 それは本気なのか冗談なのか……今時ダサイ例えには目を〈瞑〉《つぶ》るとしても…… 「藤井君?」 「……いえ、特には」 「そう、ちょっと残念」 ちっともそう思ってなさそうに呟いて、再び先輩は食事に戻る。俺はただ宙を仰いだ。 首を切断する殺人事件。猟奇的で、不可思議で、凄惨さに肌が粟立つ。この街に住む者なら、誰もが恐怖を覚えるだろう。 なぜなら、この手の事件は連続するのが常だから。もしかしたら今夜にも、次の犠牲者が出るかもしれない。 そしてそれは、他ならぬ自分自身かもしれなくて…… 「実際、みんな落ち着かない感じだね。きっとしばらく、部活とかは中止になるよ。早く家に帰りなさいって」 「もし周りの子たちが、藤井君を過剰に怖がってるような感じなら、それはきっとそういう理由もあるんだよ。だからあんまりショック受けない」 「……俺は別に、そんなことはどうでも……」 「そうなの? じゃあどうして元気ないかな、おかしいね」 「ああ、もしかして綾瀬さんと喧嘩でもした?」 「違いますよ」 「嘘ばっかり」 ばさっ、と貸してたコートを頭からかけられた。 「駄目だよ、好きな子には優しくしないと。物騒なんだし、キミが守ってあげなくちゃ」 「じゃあね藤井君、コートありがと。あと、話聞いてくれてありがとう」 「ほんとは、うん……私も少し怖かったから。お陰で気が紛れたよ」 珍しく〈仄〉《ほの》かに笑って、ちょっと照れたような顔をする。 いつもこういう感じなら、この人にもメジャーな人気が出るんだろうに。 だが、それはともかく先輩。 「俺の好きな女とか、勝手に決めないでくれますか」 「俺は別に、香純なんか……」 「はい、それも嘘」 「とにかく、いい加減裏に回る癖を直しなさい。もう、遊佐君はいないんだから」 「じゃあね」 言って、さっさと屋上から出て行く先輩。残された俺は、ただため息。 やっぱり何だかんだ言いつつも、説教されてばかりである。 面倒な。 屋上は寒いけど、授業に出る気は失せてしまった。このまま、サボることにしようと思う。 「……ん」 その後、どうやら眠っていたらしい。薄らぼんやりと目を開ければ…… 「……おいおい」 呆れた。辺りはすっかり夜だ。よく風邪ひかなかったもんだな、俺。もしかしたら馬鹿なのかもしれない。 自嘲しつつ、横になっていたベンチから起き上がる。 携帯の時計を見ると、六時半――そんなに遅い時間でもなかったが、この時季なら真っ暗だろう。ひょいと別棟の方に目を向ければ、まだ職員室の電気は点いていた。 やばいな。教師に見つかると、何かとうるさいかもしれない。もう説教はご免だし。 教室に戻って、荷物を取りに行こうと思ってみれば―― 『この馬鹿、あんたなんか留年しちゃえ! うがーっ!!』 と、ご丁寧にそんなメモが机に貼られていたりした。 まあ、心配するな香純。おまえより俺の方が成績いいぞ。ここは進学校だから、大概のことはテストで良い点とってりゃどうにでもなるのだよ。 とはいえ、その大概のことというのに当て〈嵌〉《は》まらない事件を起こしたのが俺なんだが…… とりあえず、それはいい。 セロテープできっちり貼られたメモ用紙を引っ剥がし、丸めてゴミ箱へポイ。ナイスコントロールで吸い込まれた香純の怨念に供養を捧げ、そのまま教室を後にした。 夜の学校……あまり気分のいいものじゃない。今は冬だが、夏場になれば怪談話の巣窟だ。 なんと言うか、幽霊ってのは苦手である。どこがって、物理攻撃が効かない辺り、特に嫌。 パンチもキックも金属バットも効かないのに、向こうは好き勝手やってくるんだから始末が悪い。そういう不公平で不条理な、フェアプレー精神の欠如した輩は美学がないと思うのだがどうだろう。 そんな感じで、かなりどうでもいいことを考えながら歩いていた時、ふと窓の外に目がいった。 「剣道場……?」 そこから、明かりが漏れている。氷室先輩の話だと、おそらく部活は休止状態になるはずだということだったが…… 「……香純か」 他に考えられない。あの剣道馬鹿、まさか殺人犯を想定した新技開発してるわけでもないだろうに。 呆れつつ、しかし気付いてしまった以上は帰るわけにもいかなくなった。一応、氷室先輩に言われた手前もあることだし。 あいつに俺の護衛なんぞが、要るかどうかは別として。そもそも、帰り道は一緒だからな。 そして道場――中には予想通りの人物がいたわけだけど…… 「…………」 (これ、ミスったかな) 軽くからかって怒られて、いつもの小言をのらりくらりと〈躱〉《かわ》せばいい。そんな程度の気持ちでやってきた道場だが、当の香純は大マジだった。 こと剣道に関しては、手抜きも妥協も一切なし。普段の騒がしさは何処へやら、ストイックを絵に描いたような顔で凛と竹刀を構えている。なるほど、この横顔を見せられたら、下級生の女子たちが胸トキめかすのも無理はない。 ここで声をかけるのも無粋に思えてしまったので、下足箱に背を預けたまま、しばらく見守ることにする。 剣道のことはまったくもって分からんが、あれは正眼の構え……だったか?たしか基本中の基本のはず。 真面目だねえ。全国大会の上位入賞者が、今さら基本の居残り稽古か。まあ、そういうところが強さに繋がるのかもしれないけど。 すでに数分――実際にはその数倍以上やってるのだろうが――姿勢は揺るがず、乱れない。まるで禅を組んでる坊主みたいだ。心頭滅却というやつか。 その様を見るにつけ、ふと思う。何か、平常心を保たねばならない理由でもあるんだろうか。いや、もともと武道ってのはそういうものなんだろうけど。 「本当に強い奴は、何もしなくたって強いんだよ――」  そういや以前、香純の試合を観戦しながら、司狼がそんなことを言っていたっけ。 「最初から強い奴には、リハも稽古も必要ない。武道は弱い奴が強くなろうとする手段で、だから精神論が幅利かすのさ。礼に始まり礼に終われって――そういう具合に。 もとが弱いから、力に耐性ないんだろうな。自分を律するのが最優先で、それができなきゃ破綻する。……哀れすぎるぜ。まあ、仕方ないとは思うけど。 つまり、香純はそっち系だ。背伸びしてるあたり可愛いけど、生まれつきじゃないから無理してる。誰かさんとは違うのさ。 まったく、なんでこんなことになったのかねえ。ウサギちゃんに夢見せたのはどこのどいつだ。なあ、蓮ちゃん」  肘で俺を小突きながら、ニヤニヤ笑っていた司狼の顔。あの時ぶん殴っていればよかったのか。 「おまえ、責任とってやれよ。そもそもあんなことやったから――」 「……………」  うるさい。  おまえにそんなことを言われる覚えはない。  誰のせいだと思っている。  リスクジャンキーの変態野郎が、マトモぶったことを言うんじゃねえ。  おまえはただ、場を引っ掻き回すのが好きなだけのアホだろうが。  だから俺は…… 「―――――」 「えっ――あ、あれ、蓮?」 「……ぁ」 しまった。何をやってる、俺。 「え、えっと……どうしたの? ていうか、いつからいたの」 「…………」 「……悪い、ちょっと声かけづらくて」 どうかしている。今さらあんなことを思い出すとは…… 下足箱をぶち抜いた拳を戻して、我ながらみっともなく視線が泳いだ。バツが悪いことこの上ない。 「その、一緒に帰ろうぜ。物騒だろ、一人だと……」 「……え?」 「ど、どうしたのよ? ヘンだよ蓮、珍しいよ」 「あんたが、そんなこと言い出すなんて……」 「いや……」 「夜道はおっかないから、おまえに守ってもらおうかなと」 「…ほ、ほっほぅ~~……」 「つ、つまり、何? あんたは自分が怖いから、あたしにガードしてくれと? あんたがあたしを守るんじゃなく……?」 「その通り」 即答したら、香純がキレた。 「こ、こっ、この軟弱モンがぁーっ! それでも男かっ、恥を知れぇ!!」 「あと、今思い出した。あんた午後の授業サボったでしょ!どこ行ってたのっ!?」 「屋上で寝てたんだけど」 「はぁ、屋上? 信じらんない、何こいつ?うっわー、呆れた。目眩がするよ」 「分かった。もういい。ちょっとそこで待ってなさい、着替えてくるから」 ドスドスと地響き立てる勢いで、香純は更衣室に引っ込んだ。しかし、ひょいと首だけ出して…… 「覗いたら、奥義食らわすからね」 そして、ぴしゃん、と戸を閉められた。 ……やれやれ。 ともかく、初期に思い描いていた展開は、こんな感じでよかったのかな。香純、なにやら張り詰めた雰囲気だったが、いつも通りに戻ったし。 俺も俺で、くだらないことをいつまでも考えるな――忘れてしまえ。 「それじゃあ、お世話になりました」 道場に一礼して鍵を閉めると、香純がこっちにやってきた。 「お待たせ。どう、何か食べてく?」 「いや、せっかくだから、香純が何か作ってくれよ」 「え? でもそれだと、遅くなるよ?」 「別にいい。どうも俺、他の料理が口に合わない」 「そうなの?」 「そう。昼飯は適当だったし、腹減ってる。慣れないモンは食いたくないよ」 「だから、香純の料理がいい」 「うーん、でも買い置きないし」 「面倒か? だったら外食で我慢するけど」 「あ、いや、そうじゃなくて」 「その、なんか照れるね。まいったな」 「そういう風に言われると、下手なもの作れないっていうか」 なにやら、もじもじうにゃうにゃとやりだす香純。だが、それも一瞬で、 「よーし、だったらあたし、頑張っちゃうよ」 「頼むわ」 単純な奴で助かるよ。 その後、近所のスーパーで買い物をし、二人で帰る。 まだ時刻は七時かそこらのはずなんだが、驚くほど人がいない。 「やっぱりみんな、怖いんだね」 「だろうな」 同じ街で殺人事件があった直後に、ふらふら出歩いてる奴などいないだろう。しっかり戸締りして、家から出ない。それが賢明な選択だ。 いくら一人じゃないとはいえ、こうして見ると俺たちはかなり無用心だと言えるはず。 「先生もね、犯人が捕まるまでは、各自まっすぐ帰りなさいって」 そりゃそうだ。 「でも、だったらおまえ、なんで居残りなんかしてたんだよ?」 「あー、それはその……」 「なんかもう、日課になっちゃってるもんだから。今さらやめるのも半端だし」 「それにほら、もしかしたら犯人逮捕とかできるかもしれないし」 「てなによその顔、もしかしてこいつ馬鹿だとか思ってるでしょ?」 ばっちりそう思っていた。 「……おまえな、そういうことは公僕に任せとけよ。なんでいち女子校生が、身体張らなきゃならないんだよ」 「そこはほら、あたし正義の味方だし」 あー、そりゃ結構だね。 「前から思ってたけど、おまえ頭悪いよな」 「なにー? ちょっとあんた失礼よ」 「とにかく、正義感も程々にしとけよな」 犯人がどんな奴かは知らないが、首を切断するなんて絶対にまともじゃない。その手の狂人と対峙した時、冷静さを保つのはおそらく至難の業だろう。 「〈血塗〉《ちまみ》れの凶器持って、ニヤニヤ笑って、たぶん奇声あげながら襲い掛かってくる奴相手に、おまえの剣道がちゃんと発揮できるかどうかは微妙だぞ。自信あるのか?」 「…んー、どうだろうね。確かにちょっと怖いかも」 「だろ?」 命の取り合いなんて普通はまず経験しないし、それがゆえにそういう場ではきっと硬直してしまう。こればっかりは慣れか、もしくは天性の素質がないと凌ぎきれないんじゃないだろうか。 そんな展開に慣れることも、まして素質があることも冗談じゃない話だが。 「とにかく、物騒なこと考えるなよ。また稽古続けるなら、俺も一緒に残るから」 「……やだ蓮、心配してくれてるの?」 「心配だよ。俺一人で帰るの、マジ怖いし」 「……はぁ、そうですか。いや、素直で結構だとは思うけどね」 「でもさ……」 「だいぶ前の調子が戻ってきたね。入院したばっかりの頃は、なんだか幽霊みたいになっちゃってたけど」 「だからね……」 ふっ、と優しく微笑む香純。妙に大人びた顔だった。 「今度何かあった時は、ちゃんとあたしに話してね。また前みたいに、知らないところで無茶しちゃ駄目だよ?」 「約束」 と、ベタに小指を出してくる。 「ほーら」 「……おまえ、俺の母さんじゃないんだからさ」 「そんなようなものじゃない。あたしに守ってほしいんでしょ?」 「ね?」 「…………」 これは、逆らわないほうが無難なのかな。 「善処するよ」 「ん、よろしいっ」 がしっと俺の手を掴んで、無理矢理指を絡める香純。 まさか今時、指切りなんかするはめになるとは思わなかったが…… 何かあったら、ちゃんと話せ……か。 俺だって、話せないようなことが起こってもらっちゃ困るんだよ。そんな修羅場は、もう沢山だし。 でも、昔からこの手の約束を守れないのが、俺って奴の定番で…… だから逆に、この指切りが不吉に思えてしまったんだ。いずれ取り返しのつかないことが起こるような、そんな予感が…… 〈纏〉《まと》わりついて、拭えない。食事の後でベッドに入り、眠ると同時に囚われる。 またあの夢に。断頭台の赤い夢に…… 見てない、見てない。あれは気のせい。努めてそう言い聞かせ、さっさと帰ることにする。 校門を出る際、もう一度だけ剣道場に目を向ければ、すでに電気は消えていた。そこはかとなくミステリーだ。 幽霊? いやいやそんなわけない。 「わっ」 「づあぁッ!?」 不意に背後から肩を叩かれ、たぶん一メートルくらい飛び上がった。何事かと振り向けば…… 「藤井君が大声出した」 「……あのなぁ」 そこには、こういう人がいたりした。 「どうしたのかな、青い顔して」 背後から人驚かせといて、どうしたのもクソもないだろう。 「心臓ばくばく?」 「お陰さまで」 「私もドキドキ」 「……いや、手ぇ導かなくていいですから」 自称Bカップに触れさせようとする手をやんわり解いて、深くため息。 「残念。意外に身持ち固いね、硬派なの?」 「少なくとも軟派じゃない……つーかそんなことはどうでもよくて」 「先輩、今ごろになって下校ですか? 随分のんびりしてますね」 「そっちこそ。まさかあのまま、ずっと屋上にいたりした?」 「そのまさか」 「なるほど、藤井君は馬鹿なんだね」 無表情で、失礼なことを言ってくる。 「ん」 そして、おもむろに手を出してくる。 何これ? 俺にどうしろと? 「ナイトになりなさい」 「は?」 「命を懸けなさい」 「何に?」 「か弱い乙女を守りなさい」 「……えーっと」 つまり、〈纏〉《まと》めると家まで送れということか? 「藤井君は、鋭いくせに鈍いふりをするのが悪いところ」 「こういうことを、女の子から言わせちゃ駄目でしょ」 「…………」 「なにその顔」 「いいえ何も」 ただ、もの凄く〈胡散臭〉《うさんくさ》いと思っただけだ。 「でも、いいですよ俺でよければ」 内心呆れ返りつつ、さっきから差し出されている手を取った。 命懸けて守るかどうかは、ちょっと保証できないけどな。 「で、藤井君。昨日のデートはどうだった?」 道すがら、先輩はそんなことを訊いてくる。 「話さなかったですかね、それ」 「そこそこしっかり、としか聞いてないけど」 そうだったか? よく覚えてないんだが。 「あんまり、聞いて楽しいようなことはなかったですよ。博物館行って、気分が悪くなったから帰って、寝て……」 「気分が悪い? どうして?」 「ああ、先輩知らなかったっけ?」 言うなれば、一種の刃物アレルギー。ガキの頃からあるその弱点を、〈掻〉《か》い〈摘〉《つま》んで説明する。 「なんか、光り物見てると落ち着かなくなるんですよ。昔ほど過剰反応はしないようになりましたけど、まだ家に包丁置いてないくらいだし」 「そうなんだ。でも、だったら料理とかはどうしてるの?」 「たいがい香純が作りますかね。それ以外はレトルトばっかり」 「なるほど、駄目亭主だね藤井君」 「仕方ないでしょ。体質なんだし」 「体質……ね」 ちょっと考え込むように、先輩は小首を傾げる。 「知り合いに、金属アレルギーの人がいるけどね。でもそれは、精神的なものだったよ。安い指輪とかネックレスとか、そういうのを付けてる自分が許せないって、触れただけで肌が荒れちゃう」 「それ、鍍金アレルギーなだけなんじゃ」 「ううん。本物の貴金属でも、気に入らなかったらそうなるみたい。重度のナルシストなんだね、きっと」 「藤井君も、そんな感じじゃないのかな? 体質じゃなくて、何かの心的要因で起こるショックというかヒステリー」 「…………」 「もしかして、怒った?」 「……いえ」 ただ、あまりその辺りを深く突っ込んでほしくはない。 「鉄が嫌なの? 尖った物が嫌なの?それとも切れる物? つまりは凶器が?」 「……先輩、しつこい」 少し〈渋面〉《じゅうめん》になったかもしれない。 「ごめんなさい。可愛い弱点があるんだなって、少し〈弄〉《いじ》りたくなっただけ」 「もうしないよ。機嫌直して」 まあ、怒ってるわけじゃないとは、さっき言ったが。 「でも、あれだね。そうなると藤井君も辛いよね。やっぱり私、ここでいいよ」 「は?」 「だから、送るの。藤井君も怖いでしょ」 「あー、えぇっと……」 やたら簡潔に喋るのがこの人の特徴だが、それはたまにこういう事態を引き起こす。 つまり、何を言ってるのかワケが分からん。 「殺人事件。犯人は大きい刃物を持ってます。藤井君とは相性悪すぎ。出遭わないように気をつけましょう」 「だからね、キミはまっすぐ帰りなさい」 ああ、なるほどね。 「でも、先輩も怖いだろ? 何せ、その――」 殺人現場を、見てるんだから。 「大丈夫、私は神に仕える身。主が守ってくれたりする……たぶんだけど」 昼間、その〈主〉《イエス》にパンチをぶち込むとか、言ってたような気がするが。 「そんなに気ぃ遣わなくても、俺、男だから大丈夫ですよ」 「男の子だから、怖いの我慢しなくちゃならないって決まりはない」 「もっとね、肩の力抜きなさい。でないといつか無理がくるよ。ポーカーフェイスが得意になっても、いいことなんて何もないから」 「それ、先輩もだろ」 「私は自分に正直です。愛嬌のある先輩です」 「…………」 「なにその目は?」 「いや、愛嬌のある台詞だなと」 しかし、ここまで言うのなら、厚意に甘えたほうがいいのかな。 「分かりましたよ。じゃあ」 「うん、また明日」 多少なりとも不安はあるが、先輩が住んでる教会はここからそう離れてないので大丈夫だろう。 俺も、帰るか。そう思って〈踵〉《きびす》を返せば…… 「――藤井君」 「あそこ、綾瀬さんがいる」 「……?」 本当だ。言われるまで気付かなかったが、道路を挟んだ向こう側に香純がいる。道でも訊かれているのだろうか、見知らぬ女となにやら話している様子だが…… 「誰です、あれ?」 「さあ?」 ちょっと、この辺りでは見ない奴だ。俺たちとそう歳の変わらない感じだけど、少なくとも同じ学校の生徒じゃない。 「こっちにくるね」 話は終わったのか、香純を残してその女はこちらへと…… すれ違い様、ざあ、と長い黒髪が傍らを流れていく。そして、後に残る微かな香り…… 今のは…… 「ライオンハート――ユニセックスだね。凛々しい、って感じかな」 「そういう意味じゃ、藤井君にも似合いそうな気がするけど」 おそらく香水の銘柄だろう。たったあれだけで嗅ぎ分けられるとは驚きだが、先輩はそっちに詳しいのかもしれない。 だが俺はそれよりも、さっきの女が気にかかる。 なぜなら、あいつが向かった先には…… 「綾瀬さん」 そんな俺を気にもかけず、先輩が香純を呼ぶ。あちらもこっちに気付いたのか、駆け足気味にやってきた。 「玲愛さんと、蓮も一緒? なんだか珍しい組み合わせ……」 「そう? 珍しいかな、藤井君」 「そこで俺に振られても……」 なんだか、妙にバツが悪いのはどうしてだろう。まあ、いいや。 「おまえこそ、こんな時間に何してんだよ? まさか……」 「うん。ちょっと残って稽古をね。――って、なによその顔?」 「……この剣道馬鹿が」 じゃあ道場から漏れてた明かりは、そういうことかよ。 「おまえね、少しは危機感持てよ。新聞に名前でも載せる気か?」 「部活は、しばらく休みになってたような気がするけど……」 「あ、いや、それはその……そうなんですけど」 「なんていうか、もう習慣みたいになっちゃてるから。あはは……」 「…………」 「…………」 あはは、じゃないだろ。 「で、でも、それはそっちも同じじゃない。先生に真っ直ぐ帰れって言われたはずじゃあ……」 「私、寝てたから覚えてない」 「俺、HR出てないから聞いてない」 「あー、そうだっ、思い出したっ!」 「あんた、何午後の授業サボってんのよっ。昼間、あれからどこ行ってたのっ?」 襟首掴むような勢いで、ずずいと香純が詰め寄ってくる。 「別にただ、屋上で寝てたんだけど」 「は? 屋上? 一人で?」 「それは……」 ちら、と傍らに視線を流せば、 「何か、忙しそうだから私行くね」 俺とランチを共にした先輩は、さっさと〈踵〉《きびす》を返し去っていく。 かと思えば振り返って、 「藤井君はFカップが大好きだから、私はお呼びじゃないって言ってた。とても傷ついた」 「…………」 「…………」 「それじゃあ、今度こそさようなら」 おいコラ、ちょっと待てそこ。 「今の、いったいどういうことかなぁ~?ちゃんと説明してほしいなぁ~」 この、笑顔で俺の首を締め上げてる奴、なんとかしてから行ってくれよ。 「ったく、あーもう首が痛い。手加減しろよな、馬鹿力」 その後、どうにか単独であの場を切り抜け、思い切り締められた首を撫でながら不平を漏らす。 「おまえはね、力が強いの。特に握力。何キロあるんだ?」 「んー、60くらい?」 余裕で男の平均を上回っている。そのうちリンゴとか握り潰すようになるかもしれない。このゴリラ。 「もう稽古なんか必要ないだろ」 「そんなことないよ。日々の努力が大事なんだし。蓮も何かスポーツやったら?」 「性に合わない。遠慮しとく」 「なんで? 運動神経はいいはずなのに、もったいないよ」 「俺、汗かくの嫌いだし」 ついでに、痛いのも嫌いだし。 「うーわ何それ、なっさけなあ。青春が泣いてるぞ」 「生憎と、俺の青春はスポ根じゃないんだよ」 じゃあ何? と訊かれたら答えられなくなるんだが。 まあ、いいや別にそんなこと。何だかんだとジャレてる間に無事アパートまで帰ってきたし。あとは飯食って風呂入って、さっさと寝て…… ――と、そうだった。その前に、一つだけ気になってたこと。 「おまえさ、さっき話してた女……あれ、誰だ?」 長い黒髪が印象的な……美人だったが、どこか〈怜悧〉《れいり》で硬質的な雰囲気の…… 「知り合い?」 「う、ううん。違う違う。ただ、ちょっと道訊かれただけ」 「なんか、最近街に来たばっかりとかで、よく分からないから教えてくれって……」 「ふーん」 何をしどろもどろになってるのか知らないが、それは別にどうでもいい。 ただ、あの女…… 「ヘンな奴だな。あれ、公園に行ったんだろ?」 「……え?」 「方向で、なんとなく見当ついたよ。物好きもいるもんだ」 昨夜人が殺された場に、夜、単独で赴くとは。 俺の言いたいことを察したのか、香純も同調するように目を伏せる。 「やっぱりあたし、止めたほうがよかったのかな?」 「どうだろうな。もしかしたら、あいつが犯人なのかもしれないし」 だとしたら、どちらにしろ放置するのはまずかったのかもしれないが。 「やだ、本当にそんなこと思ってるの? あの子がそんな……」 「いいや、冗談」 少なくとも半分は。だがもう半分はよく分からない。 あの時、すれ違い様に感じた香り。先輩は香水の銘柄を口にしたが、俺には別の匂いをそれで隠しているかのような…… 二ヶ月前、あの夕焼けの中……嫌になるほど味わった鉄の香り、血の匂い。 それとまったく同じものを、さっきの女は濃密に〈纏〉《まと》っていた……ような気がする。自信はないけど。 「ちょっと蓮」 「ねえ、どうしたのよ、呆っとして」 ……いけない。昨日からよく分からないことが連続して起きるせいで、少し神経過敏になってるようだ。 夢とか幻覚とか、そんな埒もないことを現実に繋げようとしていったいどうなる。馬鹿らしい。 「なんでもない。大したことじゃないから気にするな」 「んーー」 「……?」 なんだよ、その目は? 「あんたがそういう顔してる時は、何かあたしに隠してる時」 「駄目だからね。また前みたいに、あたしの知らないところで無茶しちゃあ」 「…………」 「返事は?」 「了解……別に何も隠してないから気にするな」 「ほんとに?」 「ほんとに」 話したところで、信用されない。仮に信用されたら信用されたで、そっちのほうが厄介だ。 「じゃあ約束。今度何かあった時は、ちゃんとあたしに話すこと」 「ほら」 と、ベタに小指を出してくる。 逆らったらまたうるさいことになりそうなんで、ここは大人しく従っとくのが賢明だろう。 ただ香純、その、なんていうかさ…… 「ゆーびきーりげーんまーん」 俺、すごい恥ずかしいんですけどね。思わず額を押さえて宙を仰ぐ。 何かあったら、ちゃんと話せ……か。 俺だって、話せないようなことが起こってもらっちゃ困るんだよ。そんな修羅場は、もう沢山だし。 でも、昔からこの手の約束を守れないのが、俺って奴の定番で…… だから逆に、この指切りが不吉に思えてしまったんだ。いずれ取り返しのつかないことが起こるような、そんな予感が…… 〈纏〉《まと》わりついて、拭えない。食事の後でベッドに入り、眠ると同時に囚われる。 またあの夢に。断頭台の赤い夢に……  ――そう、夜は赤い。この街には獣がいる。  獣は夜行性なのだから、すなわち狩りも夜に行う。  ゆえに、夜が赤くなる。  血で。  肉で。  骨で。  命で。  獣は餓えを満たし、渇きを潤す。  際限なく再現して最限を知らず暴食する。  貪り尽くす。  ――だが。  同時にまた、その〈狩人〉《ハンター》も存在していた。  いや、この場合、獣同士の喰らい合いとでも言うべきなのか。 「――来た」  呟き、目を細めるのは少女のように見える獣。  彼女は〈狩人〉《ハンター》の側なのだが、本質的にその獲物とたいして変わるものではない。  むしろ同一。  まったく同じ術理によって獣となり。  まったく同じ理由によって狩りをする。  まったく同じ森で生まれた獣同士。  強いて言うなら彼女の方が若い獣ではあるものの、経験値はその逆だ。  殺した数なら、彼女の方が遥かに多い。  ゆえに、現段階で獲物を狩るつもりはない。  もう少しもう少し、経験を積んで老成して、それ相応のものになるまで静観しよう。獲物には、手に負えなくなるくらい強い牙を持ってほしい。  それは自らの力を過信しているわけでもなく、純粋に彼女の切なる願いだった。  自分一人に負けるようでは、話にならない。  〈狩人〉《ハンター》は、人外羅刹の集団である。  それら総てと拮抗するほど、強くなってもらわなくては…… 「まあ――」 「難しそうな話だけど……」  先ほど“来た”と言ったのは、獲物がという意味ではない。  彼女の仲間が、〈狩人〉《ハンター》がやって来たのを感じたのだ。  その上で分かる、難しいと。  獲物が自分たちと拮抗するのは、限りなくゼロに近い確率だろうと。  周りには誰もいない。  目の届くところに、音が聴こえるところに、仲間が現れたわけではない。  だが、感じる。  たとえ寝ていても、狭い部屋に複数の人間が入れば気配で目覚めるものだろう。それに近い感覚だ。  つまり、この諏訪原市という部屋の中が、窮屈になったような。  常人の存在密度を一とすれば、今この街に入ってきた者らの密度は千を超える。  まず間違いなく、千人以上の魂を喰らっている化け物共。  殺人鬼どころではない〈人喰い〉《マンイーター》。  もはやあらゆる意味で人とは言えない。  ああ――なるほど。個々の準備は万全というわけか。〈伊達〉《だて》に六十年も時間を置いたわけではないと見える。  その醜悪極まる魂には覚えがあり、ゆえに誰が来たのかを特定できた。 「まったく――」  最悪だ、と言いかけて、そうでない者などいないことを思い出した少女は苦笑する。 「ともあれ、ようこそシャンバラへ」 「ようこそ――お待ちしていましたよ、お二人とも」  橋の上、〈僧衣〉《カソツク》に身を包んだ、神父のように見える男はそう言った。 「本当にお久しぶりです、ベイ中尉にマレウス准尉。月並みですが、相変わらずのようですね」  その穏やかな声に応じるものは、歩く災厄のような二つの気配。  血の匂いがする。  硝煙の匂いがする。  腐臭にも似た、人殺しの匂いが立ち込める。  狂気の匂い。  凶事の匂い。  鬼の匂い――  ここにマトモな者など一人もいない。 「はンッ」  神父の挨拶を、鼻で笑い飛ばしたのはまだ若い男だった。 「相変わらずってぇことは、昔のまま進歩ねえって言いたいのかよクリストフ。言葉選ばねえと死ぬぞてめえ」  〈無頼〉《ぶらい》な物言いは、彼流の親しみを表すものなのだろう。神父は苦笑し、男もまた笑っている。  〈白蝋〉《びゃくろう》のような、人とは思えぬ肌の優男だ。  しかし貧弱な印象はまるでなく、体温を感じさせないしなやかな物腰は、どこか大型の爬虫類を連想させる。  対して―― 「ごきげんよう神父様。あなたは本当に変わってないわね。少し怠けすぎなんじゃないかしら」  鈴を転がすようなその声は、印象どおり可憐な少女のものだった。  声も、姿も、場にそぐわない。  そういう意味では、彼女がこの場でもっとも異彩を放っている。  愛らしい容姿だが、毒を持つ植物ほど花は美しいという見本だろう。 「私はしばらく、隠棲していたものでしてね。まあ怠けているのは今に始まったことでもなし、一応それなりの理由もありますが、説明責任を求めますか?」 「要らねえよ、知った仲だ。堅苦しいのはやめようぜ。 俺が知りたいのは一つだけだ。今、シャンバラには誰と誰が入ってる?」 「レオンハルト、ゾーネンキント、バビロンにトバルカイン……そしてあなた達の計六名ですよベイ中尉。私はあと四・五日の間、ここを動けないものでしてね」 「なぜ?」 「年寄りが出しゃばるなと、怒られたのですよ」 「あん?」  男の白貌に、〈訝〉《いぶか》るような色が浮かんだ。少女がその意を汲んで疑問を投げる。 「クリストフ、あなたさっきレオンハルトって言ったわね。それはヴァルキュリアの抜け番かしら?」 「ええ、あなた方も面識はあるでしょう。あのお嬢さん、どうしてなかなか大したものになりましたよ」 「へぇ」 「ほぉ」  少女と男の口許に、亀裂のような笑みが走った。  面白い。面白い。大したものになっただと? それは是非とも―― 「二人とも」  不穏な気配を感じ取ったか、釘を刺すように神父が続けた。 「分かっているとは思いますが、いま黒円卓に空きを作るわけにはいきません。それでは十一年前の繰り返しです。 たとえ新参でも、未熟者でも、黄色い劣等であろうとも、彼女の存在は要るのですよ。分かりますね?」 「ええ、それはもう。分かってるわよ当然じゃない。相変わらず心配性ね。 だからここは、せっかく女同士なんだし、あの子のことはわたしに任せていただきません?」 「…………」 「いいじゃねえか。あんたもあんたで暇じゃねえだろ。これで残ってるのはシュピーネだけだが、あいつはいつ来る?」 「彼は、もうしばらく掛かるでしょう。私が少々、調べ物を頼んだのでね」 「んん、何それ? 気になるなぁ」 「おいマレウス」 「言ったろ、別にいいじゃねえか。代行殿が腹黒いことやっててくれりゃあ、こっちも色々手間が省ける。俺らは掃除をしてればいいのさ」 「掃除っていうか、狩りでしょう? メルクリウスのクソ野郎が、代理を〈遣〉《よこ》しているんじゃなかったかしら」 「……准尉、副首領閣下に対する不敬な物言いは、あまり感心しませんね」  〈窘〉《たしな》めながらも、しかしそれは事務的なもの以上ではない。  随分と話題の人物は嫌われているようであるが、だからといって軽視されているようにも見えなかった。  むしろその逆。〈忌避〉《きひ》され、恐れられ、憎悪されている。その存在を無かったことにしたいと、仲間から思われるほどに…… 「……ともあれ、副首領閣下は盟約に従い、それを〈遣〉《つか》わしているはずです。あなた方は、まず“彼”を捜してください。そう難しいことではないでしょう」 「レオンは? あの子は協力してくれないの?」 「というか、この件に関しては彼女に一任しています。まあ、新兵に経験を積ませるという意味で、顔を立ててやってください」 「なるほど」 「了解、楽しくなりそうよ」 「では――」  呟き、神父は口調を改める。それに従い、男と少女も道化た態度を改めた。  目つきが変わる。厳粛と言っていい雰囲気が、辺り一帯に立ち込めていく。  彼らは兵士。力に溺れ、理知を軽んじる狂犬のごとき三下ではない。  黒円卓に、そのような愚か者は一人たりとも存在しない。  神父が告げた。 「あらゆる悪も、あらゆる罪も、あらゆる鎖も汝を縛れず、あらゆる禁忌に意味はない。汝の神、汝の主が、汝をこの地へ導き給う。汝はその手に剣を執り、主の敵を滅ぼし尽くせ。 息ある者は一人たりとも残さぬよう。生ある者は一人残らず捧げるよう。男を殺せ。女を殺せ。老婆を殺せ。赤子を殺せ。犬を殺し、牛馬を殺し、〈驢馬〉《ろば》を殺し、山羊を殺せ。 恐れてはならない。〈慄〉《おのの》いてはならない。疑うことなどしてはならない。汝は騎士。獣の軍勢。神が〈赦〉《ゆる》し、私が〈赦〉《ゆる》す。汝の主が総てを〈赦〉《ゆる》す。 獣の爪牙を自負する者よ、誉れ高きその名を唱えよ」 「――ヴィルヘルム・エーレンブルグ」 「――ルサルカ・マリーア・シュヴェーゲリン」 「汝が名誉は忠誠なり」 「我らが名誉は忠誠なり」 「聖槍十三騎士団黒円卓第三位、ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリーンの名において、此処に汝らを祝福する」  一拍置いたその後に、彼らは揃いの言葉で締め括った。 「〈我らに勝利を与えたまえ〉《ジークハイル・ヴィクトーリア》」 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 6/13 Swastika ―― 0/8 【Chapter Ⅰ L'enfant de la punition ―― END】 Other Story――Wehrwolf解放  あなたは、既知感というものを経験したことがあるだろうか。  既視ではなく既知。  既に知っている感覚。  それは五感、六感にいたるまで、ありとあらゆる感覚器官に訴えるもの。  たとえばこの風景は見たことがある。  この酒は飲んだことがある。  この匂いは嗅いだことがある。  この音楽は聴いたことがある。  この女は抱いたことがある。  そして、この感情は前にも懐いたことがある。  錯覚――脳の誤認識が時に生み出す、なかなか風情ある一種の錯覚。  あなたはそれを、経験したことがあるだろうか。 「たとえば我々は、以前も戦争に負けていたと?」  さて、それはそうなってみなければ分からない。そうなってみて、初めてそうだったと思うがゆえの既知感である。  あなたのそれはただの予感だ。いや――破滅願望と言うべきか。  この戦争、あなたは負けると思われるのか? 「ああ、負けるだろう」  なぜそう思われる獣殿。あなたはゲシュタポを掌握し、総統閣下の信篤き身……破竹の勢いで勝利を続ける、我が軍の勇姿を知らぬわけではありますまい。 「ならば問おう。卿は長官殿や総統閣下が夢想する、千年帝国とやらの完成を信じているのか? 〈稀代〉《きだい》の賢人、空前にして絶後の魔術師、世界の真理にもっとも近いとさえ言われるヘルメス・トリスメギストス――卿ほどの男が、あのような愚か者共の絵図を肯定するか。私はそう思わない」  彼らだけなら、確かに私も思わない。だが、この国にはあなたがいる。  それを手にした者は、必ず世界を支配すると言われた運命の槍の正当後継者――黄金の獣。破壊の君。あなたがここにいる以上、敗北など有り得ない。 「だが、彼らは私を殺すつもりだ」  ほう。 「初耳だ、などとは言えぬだろう。帝都にあって卿の知らぬことなどは、それこそ微塵も有り得まい。ゆえに私は、この戦争に負けると言った」  あなたは死なれるおつもりか? 「事実としての生死は些事だ。彼らの中で、私という存在がそのように位置付けられたことに意味がある。もはや取り返しは効かない」  なるほど。確かに死者を――概念はどうあれ生き返らせることなど不可能だ。私でさえそれは出来ない。  死者は死んだものゆえに、生者へ反転させることなど不可能である。この法則は甘くない。女子供の夢物語は、まさしく寝言と同義同列。 「ゆえに法則を曲げたければ、夢物語を排除せよ――卿の持論だったかな」  祈れば叶う。泣けば奇跡が舞い降りる。そのような〈ご都合主義〉《デウス・エクス・マキナ》、私に言わせればもっとも唾棄すべき邪悪でしかない。もし斯様な法則が成り立つなら、我が祈りは宇宙開闢すら起こしただろう。  万人に都合のいい幸せな夢などない。この世界は容赦なく、慈悲もなく、血と狂気で出来ている。ゆえに我が意を通したければ、血と狂気に染まるのみ。  一人の生者が欲しければ、その数千倍の死者を捧げよ。  破壊より再生の方が難しい。誰しも何かを奪い合う世界においては、それもまた真理の一つ。しかし、いささか話が逸れたか。  あなたは自らの死を回避するつもりがないようだ。少なくとも、長官殿や総統閣下には、そう思わせておきたいと見える。 「〈死を想え〉《メメント・モリ》――座右の銘でな。人はいつか死ぬということを忘れてはならない。死は、重い」  だがそれゆえに、あなたは生死を超越するに相応しい。 「超越は卿の〈印〉《ルーン》だったろう。私が司るのは破壊のみだ」  法則を破壊するから超越できる。……ふむ、前言を修正しよう。破壊は再生よりも容易いが、再生よりも意義がある。いや――  〈元〉《 、》〈に〉《 、》〈戻〉《 、》〈す〉《 、》〈必〉《 、》〈要〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「どういう意味かな?」  繰り返すということは、存外に苦痛であるという意味だ獣殿。たとえばそう、あなたといえども幼年期はあっただろう。  その時分、一日がとても長く感じられはしなかったか? 一年とは、永遠と同義に値するものではなかったか? 「確かに、子供であったなら世界は未知で溢れている。知らぬことが多い以上、学ぶべきことが膨大である以上、時はゆっくりと流れるだろう」  然り。まさしくその通り。すなわち人の一生とは、未知のものを学び、既知のものへと変える作業に他ならない。  それがゆえにこう思う。毎夜毎夜同じ説教を繰り返す父。同じ料理を与える母。同じ笑顔しか浮かべぬ隣人。同じ声で鳴く小鳥。同じ匂いしかしない家。  究極――同じようにしか沈まぬ太陽。  ああ、なんとつまらない。世界はこんなにも退屈だ。  これを“老い”と、人は言う。  一歩一歩着実に、死へと向かっていく強行軍。  だがそれでも、年月と共に減っていくとはいうものの、未知を経験できるだけ幸せだ。生きているのだから、人は。 「つまり卿は、未知を経験できない者は生きていないと?」  仮に、もし仮に、生まれた時から未知を排除された存在がいたとする。  ――〈既〉《 、》〈知〉《 、》〈感〉《 、》。  彼の生は、既に知っている世界で既に知っている出来事だけを、繰り返し繰り返し見せられるのみ。  なんという地獄の苦しみであることか。  始まりから生きていないのだから死ぬこともできない。  否、死ねない。  私はこの世界に生まれたという証が欲しい。  狂おしいほどに未知が欲しい。  私はあなたに、この世界の残虐なる秘密を教授しようとしている。  それを聞く勇気はお有りか? あなた以外の誰にも話そうとしなかった、真理にもっとも近いとやらいう、秘密を。 「答える前に一つ――なぜ卿は、それを私にだけ明かそうとする」  私があなたを、畏敬申し上げているからだ、獣殿。  あなたは強い。あなたは美しい。そしてあなたは恐ろしい。  私の生とは呼べぬ人生にあって、あなたほど地獄に近い人間は見たことがない。  あなたを除けば――  あなたは私が知り得る中で、もっとも悪魔に近い人間だ。 「陳腐だな、カール。悪魔などという呼び名、珍しくもない」  究極に近くなるほど、形容する言葉は陳腐になるもの。  火を水のようだとは言いますまい。  火は火のように。水は水のように。そしてあなたは悪魔のように。  あなたは私を魔術師と言ったが、生憎この身はそのようなものではない。  単純に言い表せるのは強き者のみ。  私は弱く、いい加減だ。  常に本質が揺れ動き、名前だけでも幾百幾千と持っている。  弱い。  どうしようもなく。  脆い。  それが私。  あなたのごとき絶対とは、比べるべくもない卑小な存在。  しかし、だからこそ分かることもあるのです。  答えをお聞かせ願いたい。 「よかろう」 「卿は私を絶対と言ったが、たった今、私にもそう思う者ができた。 カール、我が友……私も卿を畏敬している。卿の秘密に触れたいと願う。それすらも、既知感とやらの環の内なのか?」  残念ながら、そのようだ。そうなってみて、初めてそうだったと思うがゆえの既知感である。  口惜しい。呪わしい。あなたと出会い、あなたほどの地獄に触れても、まだ私は生きていない。このままでは死ねない。 「なるほど、分かるぞ。その無念。卿の苦しみが手に取るように」  ならばご理解いただけるか。あなたが破壊を司るなら―― 「……面白い。総てを壊すか」  そう、この国を、この世界を、目に付くもの総てを壊そう。  天国も地獄も神も悪魔も、三千大千世界の総てを壊そう。  〈壊〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈が〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》〈を〉《、》〈見〉《、》〈つ〉《、》〈け〉《、》〈る〉《、》〈ま〉《、》〈で〉《、》――  この〈既知感〉《ゲットー》を超越するまで――  それこそが―― 「ああ、そういえば、〈私〉《、》〈と〉《、》〈卿〉《、》〈は〉《、》〈前〉《、》〈に〉《、》〈も〉《、》〈こ〉《、》〈の〉《、》〈話〉《、》〈を〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈た〉《、》〈な〉《、》」  然り。然り。百億回も繰り返した。  我々は、未だこの牢獄に囚われている。  ゆえに“彼”が要るのですよ。  ――ツァラトゥストラが。 【諏訪原市連続首切り殺人事件・七人目の犠牲者が出る】 四日午前六時三十分ごろ、諏訪原市バイパス沿いのファミリーレストラン専用駐車場において、市内の会社員である渋谷正幸さん(28)と、その友人である同じく会社員、小田光徳さん(28)が倒れているのを、店員の男性が発見し、110番通報した。 諏訪原市中央署によると、二人もまた頚部を切断されるという手口であることから、同市で連続している殺人事件と同一のものであると断定。 犯人逮捕に向けて、さらなる調査を進めるとのことである。 なお、これまでの犠牲者に共通する事項は皆無であり、無差別連続殺人事件と見てほぼ間違いないと思われる。 【現代の切り裂き魔――諏訪原市を覆う恐怖の影】 今月一日から四日現在まで、諏訪原市で連続している殺人事件の犠牲者は計七名に達した。 これは戦後日本の犯罪史上、他に類を見ない凶悪かつ残虐なものであり、その規模もまた尋常ではない。 その犯人像は、欧米社会に多く排出されるシリアルキラーの類であると見なされてはいるものの、遺体からセクシャルな部分を持ち去るといった特徴が見られないことから、専門家の間でも意見が割れているようである。 【乱れる治安、諏訪原市で発砲事件】 二日午後十一時ごろ、市最大の歓楽街である丸山町において、少年数名による乱闘騒ぎがあり、駆けつけた大田貴雄巡査(31)が、うち一人の少年から発砲されるという事件があった。 幸いにも大田巡査は一命を取り留めたものの、現在入院を余儀なくされている。 同市では数ヶ月前から少年犯罪が多発している傾向にあり、今回の事件に使用された銃器の特定、およびその入手経路など、調査の必要があるだろう。 調べているうちにうんざりしてきて、俺はそこで見るのをやめた。 「…………」 今日の授業は、そのほとんどが自習になってる。俺はそれをいいことに屋上でサボってたんだが、教師連中は今ごろ会議でもしてるんだろう。 すなわち、この事件に片がつくまで休校するべきか否か。父兄たちから苦情が殺到しているようだし、生徒もその辺りは同感だろう。実際、クラスの出席率は70%を割っている。つつがなく授業、というわけにもいかないのが現状だ。 今も素直に自習してる奴は皆無に等しく、教室ではネットの暇人たちと大差ない議論が展開されてる。嫌気がさして帰る奴も続出していることを〈鑑〉《かんが》みれば、こうして校内に残っているぶん、俺は真面目なほうだろう。 怯え、焦り、〈猜疑心〉《さいぎしん》、そこから生まれるエマージェンシーハイな奴等。学校なんて狭いハコにこのまま夕方まで拘束されたら、暴動の一つや二つ起こりかねない。そんなことに巻き込まれるのは御免なので逃げてるわけだが、帰ると香純がやかましいし。 と、まあそんなことはどうでもいい。一人になりたかったのは、もっと別の理由があったからで…… ため息をつき、俺は給水塔に背を預けたままずるずると座り込んだ。 あの夢を、毎夜見ている。内容は全て同じで、俺がギロチンに首を刎ねられるエンディング。そして起きれば、決まったように殺人の報道だ。 あの女はなんだろう。結局会話らしい会話は一度もなく、それでも意味ありげなあの目が、歌が、忘れられず胸に残って拭えない。 ギロチン、女、首を断つ夢、首を断たれて死ぬ人たち。夢が現実を侵し、現実が夢を〈煽〉《あお》り、際限なく凄惨さを増していくこの悪循環。なぜこんなことが起きているのか…… 現状、考えられる答えは三つ。 その①――全て偶然。何の意味もなく、伏線でもない文字通りのガラクタ現象。もっとも現実的な答えがこれだ。 その②――いわゆる予知夢というやつ。俺は身近で起こる人の死を、夢というカタチで察知できる超能力者。その手の人は実際にいるらしい。 そしてその③――オカルト小説とかによくあるネタだ。 すなわち、 「俺が……」 殺しを……? 「するわけないだろ」 背後の給水塔に後頭部を叩きつけ、馬鹿な考えを否定した。 殺人なんて、そんなことをして何が楽しい? 何が得られる? むしろ失うものの方が圧倒的に多すぎる。 論理的に考えろ。クールになれ。たかが見知らぬ――こう言ってはなんだが――赤の他人が数人死んだだけのこと。その程度で取り乱すほど、俺は感受性が強い奴じゃないはずだ。 自分自身に激昂するほど強くそう言い聞かせねば、思考は何処までも暗い穴の底まで転がり落ちて行きかねなかった。 モラルがないとか不謹慎だとか、そういうことはこの際無視する。とにかく今はこんなことで、ああだこうだと悩むのは賢くない。 否定したいなら、自分は普通だと思いたいなら、気にしないようにするべきで…… この異常時に、そんなスタイルを採ってることもやはり普通とは言えないだろうが。 そんな愚にもつかないことを考えていたら、チャイムが鳴った。四時限目が終了したのか。 今後もし休校になるのなら、今日の授業はここで終わりという確率が高いだろう。いずれ校内放送があるかもしれない。 そう思いつつ、待つこと五分。予想通りかかった放送は、しかし内容が予想とは異なっていた。 半分呆れ、半分納得。大人は大変だねと少しだけ同情して、さらに五分。 そのままだれて、大の字になっていたとき―― 「…はぁ、やっぱりここにいたよ」 これも予想していた通り、そして微妙に予想とは異なる展開が訪れた。 「あのさ、あたし前々から思ってたんだけど、あんた学校嫌いでしょ」 呆れたように、俺を見下ろしてくる香純と、 「藤井君が嫌いなのは、面倒なこと。小言とか、そういうの全般」 その横で、しれっと毒を吐いてる先輩。前者は予想の〈範疇〉《はんちゅう》だったが、後者は少し驚いた。 頭を掻きつつ、俺は並んでる二人を見上げる。 まあ、その…… 「青、白」 「は?」 「……?」 「見えてるぞ、角度的に」 「……ああ」 「――うぇ」 なんとなく使命感に駆られたので、携帯のカメラ機能でフォーカスしといた。 「……エッチ」 「何してんのよこのど変態っ!」 慎ましく前を隠す先輩とは対照的に、香純は惜しげもなく脚線をさらして人の顔面に蹴りを放つ。俺はそれを華麗に躱して、 「寝てる奴の前で仁王立ちなんかする方が悪いんだよ」 「だ、だ、だからって……あんたっ」 色の報告まで、とかごにょごにょごにょごにょ…… 「ほら、これあげるから機嫌直しなさい、青色さん」 「い、や、その……むぅ~~~」 「キャラメル一個で買収されるなよ。安い青色だな」 「失礼ね、安くなんかないもん!」 「こら、藤井君もからかわない。青色さんも落ち着いて」 「……あー、その、先輩、嫌がらせですか?」 「? 何のことかな、藤井君」 「さあ? とりあえず、空のように広い心を持ってほしいんですけどね」 「青色だしね」 「そうですね」 「あは」 しみじみ呟く俺と先輩を見やりつつ、笑顔でビキッとこめかみ引きつらせている青色さん。器用な奴だ。 「ま、そんなどうでもいいことは置いといて」 「ど、どうでもいいことぉ!?」 「ラメ入りとか透け透けとか、秘密の小窓つきとかだったらどうでもよくないかもしれないけど」 「ウケが欲しかったら、もっと精進しなさいね」 ぽん、と香純の肩に手を置く先輩。ワケの分からない治めかただが、まともに相手をする気が失せるって意味では非常に効果的な人だろう。 「……もういい、なんだか疲れてきた」 「身体張らなきゃ、人気者になれないよ?」 「なんであたしが、パンツの種類で人気取らなきゃならないんですかっ?あとそこの盗撮魔、今すぐデータを抹消しなさいっ!」 「怖いね」 「おっかないですね」 「あーもう、なんなのよこいつら~~っ」 とりあえず、切りがないので〈弄〉《いじ》るのはこれくらいにしようと思う。 その後、香純に携帯を奪われて、青色激写のみならず、過去のデータを残らず消されるのに要した時間は二・三分。 「さっきの放送、休校はないって言ってたけど?」 おそらく、生徒のほとんどが落胆、もしくは怒っただろう校内放送。わざわざ俺を探しにきたのも、どうせそれについてのことだろう。 「まさか、一緒に抗議しに行こうとか言わないよな?」 「言わないわよ。先生がそう決めたんだし、反抗なんかしませんです」 と言ってるわりには、不満そうな顔なんだが。 「あたしはただ、あんたが午後の授業もサボらないよう、見張りにきただけ」 「先輩も?」 「私はご飯を食べにきただけ」 言いつつ、例によってポケットから無限にサンドイッチを取り出す先輩。前から不思議だったんだが、いったいあの中、どこに通じているんだろう。 「食べる?」 「……くれるなら」 「綾瀬さんは?」 「……じゃあ、あたしも」 お互いにやや引きつった笑みを浮かべ、先輩のサンドイッチを受け取った。 「仲良し三人組」 結構メルヘンな人である。 「けどなんでまた、この状況で休校しないんだろうな。どう思う?」 「子供じゃないんだし、ってことじゃない? これが原因で引き篭もりが増えても困るだろうし」 ベンチに仲良く三人座って、そんなことを話す俺たち。 右から先輩、俺、香純という順。どうでもいいが、なんで挟まれてんだろう。 「でも、これで生徒から犠牲者が出たら、きっとただじゃすまなくなるね」 「たとえば?」 「責任問題。学園長の首もばっさり」 シュピ、と首を掻っ切る真似をする。 「土曜日に生徒が殺された大学、あそこは休校になったらしいよ。賢明だね」 「身近に誰か一人でも犠牲が出ないと、日本人は目が覚めないようになってるのかな。ちょっと病気」 「ああ、そういや先輩、〈三世〉《クォーター》だっけ?」 「うん、おじいちゃんがドイツ人。会ったことないけど」 ぱくぱくサンドイッチを食いながら、頷く先輩。あまり、というかまるで顔に表れないが、この人はこの人なりに義憤を感じてるのかもしれない。 「ちょっと」 「んだよ?」 「何かフォローしなさいよ。日本人がアホみたいに言われてるじゃない」 「いや、だって俺も同感だし」 大人には大人の理屈があって色々大変なんだろうが、アホなことに変わりはないと思うんだよ。 「だいたい、〈学校〉《ここ》以外も呑気すぎ。コンビニとか深夜営業のお店とか、普通に開いてるし。危機感なさすぎだよ。そう思わない?」 「……さあ、どうでしょうね。警察頑張ってるみたいですけど」 別にテロが起きてるわけじゃないんだし、まさか戒厳令を発動するわけにもいかないだろう。そもそも、日本でそういうことが可能なのかどうかよく分からない。 俺が勉強不足なだけかもしれないが、そう考えるとやはり灰色な国だな、日本は。 「藤井君、聞いてる?」 「……一応」 「じゃあ、どう思う? ちゃんと答えて」 「あー、その……〈概〉《おおむ》ね同感なんですけどね」 今はただ、左側からバッキバキの熱視線を感じるので、困ってるとしか言えません。 「おい」 「何よ?」 「文句あるなら、おまえが言えよ。俺パスな」 「あ、ずるいよ」 「どっちが」 「何話してるの?」 「……や、別に」 ただ、同時に詰め寄ってくるのはやめてくれ。飯くらいゆっくり食わせてくれないだろうか。 女二人のアップというのも結構キツイものがあり、思わず仰け反ってしまうのだけど…… 「だからね、日本人は平和ボケしすぎだと思わない?」 詰め寄る先輩。 「ほら、ちゃんと言い返して」 詰め寄る香純。俺はまたさらに仰け反る。 「ねえ、何をこそこそ言ってるの?」 「あー、なんでもないです。ね、蓮」 詰め寄って詰め寄って詰め寄って。 仰け反って仰け反って仰け反って。 ギシ――とヤな音。 「あのさ」 「なに?」 「受身、とろうな?」 「は?」 つまり、説明するのも馬鹿らしいが、ここのベンチは足場を固定してるタイプじゃないのである。 すなわち、今みたいに重心が後方へと傾けば―― 「……あ」 「きゃあっ」 こんな風に、ベンチごとすっ転んでしまうのは自明の理だ。 「あっ、つぅ~~~」 「痛い……でもちょっと幸せ」 「って、あんた何どさくさ紛れに抱きついてんですかっ?」 「……腕枕」 「ちょっと先輩っ!」 「あーもう、おまえうるさいよ」 耳元でキンキン怒鳴られ、少し現実逃避したくなった。 見上げた空が――ああ、きれいだな。 「そろそろ五時限目が始まるね」 しばらくして、昼休み終了のチャイムが鳴った。午後の授業は自習じゃないとのことなので、さすがに顔を出さねばならないだろう。 「授業が終わったら、綾瀬さんは今日もこれ?」 言いつつ、両手で竹刀を持つポーズをとる。 「そうですね。休校しないんだったら、あたしの日課を奪う権利なんかないですよ」 「ほどほどにしたほうがいいと私は思うんだけど」 「で、藤井君も付き合うの?」 「当然っ」 「…………」 どうやら、俺の気持ちはまったく考慮されない様子全開。 「あんまり遅くなるのは勘弁だぞ」 「うん、素振りくらいにしとくから」 「あ、なんだったら、玲愛さんも付き合います?」 「私はいい。夜道は怖いし」 「それに、今日はお客が来る日だから。早く帰らないといけないの」 「お客? 教会にですか?」 「うん。じゃあね」 言って、さっさと先輩は〈踵〉《きびす》を返す。残された俺と香純は、互いに顔を見合わせた。 「教室、戻るか」 「そだね」 とりあえずあと二時間、授業を受けねば帰れない。 その後も、俺は剣道馬鹿のお稽古を見学しなければならないわけで。 考えてみると、結構ヘビーだ。 「お世話になりました」 そして放課後、この寒いなか汗だくになるまで素振りをして、着替えた後に香純は道場へ一礼する。 つくづく思うが、よくもまあこんなことを毎日やってられるよな。 「おまえ、飽きたりしないわけ?」 「飽きないよ。楽しいもん」 そうか。 無言で肩をすくめつつ、冷たい缶コーヒーを渡してやる。 「ん、ありがと」 断っておくが、嫌がらせじゃない。香純は極端な猫舌なので、真冬でもホット系の飲料を飲まないのだ。 俺は普通に、熱いお茶を飲んでるけど。 「でも、暗くなる前にやめてくれて助かったよ。そろそろ教師連中に目ぇつけられてるかもしれないし」 「んー、蓮そんなに真面目だっけ?」 「〈煩〉《わずら》わしいのが嫌いなだけ。それに先輩も言ってたろ。生徒から犠牲者が出たら、責任問題になるってな」 「おまえと一緒に朝のニュースとか出たくないし、そのせいで学園長の一家が路頭に迷うのも何か嫌だし」 「稽古もいいけど、これからは状況〈弁〉《わきま》えてほどほどにしとけよな」 「それは、そんなこと言われなくても分かってるけど……」 「ただ、身体動かしてたほうが楽なのよ。嫌なこと考えなくてすむっていうか」 「…………」 気持ちは分かる。俺も似たようなものだから、こいつの稽古なんぞに付き合っているのだし。 何かで気を紛らわせるのは構わない。だがそれが原因で、トラブルに巻き込まれては話にならないというだけだ。 とはいえ、俺が香純に説教なんてガラじゃないのもまた事実……か。 「……とりあえず、さっきも言ったがほどほどにな」 結局そんな、先輩と似たような言葉で締め括る。 「帰ろうぜ」 まだ空は明るい。夜じゃない。殺人者は夜にしか出てこないとか、そういう決まりもデータもないが、漠然と日が落ちないうちは安全だと思えてしまう。 それは平和ボケした日本人の感覚ゆえか、それとも他に理屈があるのか…… おそらく、後者だ。我ながら馬鹿馬鹿しい推測だが、俺が夢を見てない限り殺人事件は起こらない。 それなら試しに、今日から徹夜でもやってみようか……なんて、やっぱり馬鹿なことを考える。 まったく情緒不安定だ。思考が突飛な方向にシフトしやすい。 俺の隣を歩いている香純。何か話しているみたいだし俺も適当に応えているが、会話が右から左に流れていって一切頭に入らない。 仮に、もし仮に、こいつが殺されるようなことになったら、俺はいったいどうするだろう。 泣くだろうか。怒るだろうか。復讐しようとするだろうか。 それ以前に、こいつがいなくなるなんて状況を、受け入れることができるだろうか? ガキの頃から見慣れた顔。お互い長所も短所も知り尽くして、異性というより兄弟みたいなこいつのことを、死んだ者として流せるのか。 「…………」 やめよう、馬鹿らしい。 そもそもこいつは、殺しても死にそうにないから無意味な仮定というやつだ。 「……ん?」 と、そんなことを考えていた時だった。 「……なんだ、あれ?」 交差点の反対側、ちょうど俺たちから対角線上の歩道に、ヘンなのがいる。 「路上パフォーマンス……じゃないよね?」 香純も気付いたらしい。この距離からでも目立つほど――あれは外国人なんだろうか――鬱陶しいほど長い金髪を振り乱して、なにやら右往左往しているが。 道行く人たちに片っ端から声をかけ、しかし誰からも相手にされず、かといってめげもせずに次から次へと……ああ、馬鹿。 「きゃー、やだ、よらないでよ変態。バッチーン」 「ああ、待ってくださいお嬢さん。お願いですから私の話を……てズッガーン」 「気安く触らないでよこの強姦魔。……やだ、なんでまだついてくるの。気持ち悪い。助けて。イヤー」 「ドガン、ズガ、バキバキ、ガッシャーン」 「…………」 「…………」 「みたいな感じ?」 「……たぶん」 遠目にもそんなやり取りが容易に想像できるというか、とにかくそういうことをやってる奴が向こうにいる。……あ、馬鹿、また行った。 「あー、今のあれ、絶対痛いよ。うわ、大丈夫かなあの人、ゴミ箱に頭から突っ込んでるけど……て凄い、もう跳ね起きた」 「タフな奴だな」 さすがに皆気持ち悪くなったのか、遠巻きに観てた奴等もそそくさと去っていく。そして気付けば、ただ一人ぽつねんとしている外国人。痩せた長身が頼りなさげで、吹けば飛びそうな雰囲気だ。 まさしく絵に描いたような哀れさが漂ってるけど、よくよく考えれば仕方あるまい。今は時期が悪すぎる。 知らない――しかも見るからに不審な――奴に声かけられて、親切に応対できる奴など今のこの街にはいないだろう。むしろ警察に通報されないのが不思議なくらいで…… いったい何がしたかったのかは分からんが、間が悪かったな外国人さん。せいぜいパクられないうちに…… 「ハロー、ヘイミスター」 おいおい、おいおいおいおい。 「えーっと、カモーンじゃ失礼? ねえ、英語で敬語っていうか丁寧語ってどうするの?」 「知るかよ」 「てかおまえ、何やってんだよ」 「何って、あの人、可哀想じゃない。それに、このままじゃ日本人が嫌われちゃうよ」 「……またそれかよ」 なんでこいつは、そんなどうでもいい体面なんかを気にするんだろう。誰もおまえに日の丸背負えなんて言ってないのに。 「ヘーイ、えっと、えっと、カムヒアー」 「~~~~」 もういい。好きにやってくれ。 ラブコールに気付いたのか、件の外国人はぴくんと背筋を伸ばしてキョロキョロしている。……目が合った。 「……おい、大丈夫かあの外国人」 ひょろひょろふらふらと頼りない足取りで、しかしまっすぐこちらに歩いてくる。横断歩道や信号が目に入らないのか、走行中の車から罵声やクラクションが鳴り響いた。ちょっと頭が弱いのかもしれない。 場合によっては、香純の腕を引っ掴んで一気に逃げよう。そう思いつつ、目の前までやってきた金髪の外国人と向き合った。 「…………」 でかい。190はあるだろうか。しかし横幅と厚みがないので、巨漢特有の威圧感はまったくない。むしろ、枯れ木のような印象を受けてしまう。 「え、えーっと、ナイストミーチュー」 「ドゥーユーハブザトラブル? インザットケース…シャルウィ…ウィ……サービス?」 「…で、よかったっけ?」 「だいたいは」 所々怪しい英語で、香純がコミュニケーションを図っている。だが気付いた。そりゃ無駄な努力だよ。 「もしかして、氷室先輩とこのお客さん?」 「へ?」 「神父だろ?」 〈僧衣〉《カソツク》にロザリオ……典型的な格好だ。昼休みに先輩が言っていたのは、彼のことだとするならば…… 「日本語、分かる?」 「……ええ。そちらのお嬢さんのお心遣いが嬉しくて、言い出しそびれてしまいましたが」 「申し訳ありません。私はむしろ、英語の方が苦手なんです。いえ、分からないというわけではないんですがね」 思った通り、流暢な日本語で神父は応えた。香純の目が丸くなる。 「そ、そうなんですか? やだ、あたしったら馬鹿みたい」 「いえいえ、あなたの優しさには感謝していますよ。相変わらず、この国の方々はお優しい」 にっこりと、まさしく神父の教科書に載ってそうな笑顔だった。いったい何を照れているのか、香純はそれで真っ赤になる。 「あ、いえ、そんな……でも、その、大丈夫ですか? なんか殴られたりしてましたけど」 「ああ、あれは私が悪いのですよ。どうも宗教の勧誘と間違えられたらしい。こちらの配慮が足りなかった」 「いやでも、殴られた方が悪いっていうのは……」 「大丈夫です。私、ああいうのは慣れてますから」 「は、はあ……」 「慣れてる、ねえ……」 マゾなんですかと一瞬口にしかけたが、香純の手前だしやめておこう。それにだいたい、宗教家なんてのは基本的に全員マゾだ。 「で、神父さん。お名前は?」 「このお優しいお嬢さんが綾瀬香純。で、俺は藤井蓮。氷室先輩の、つまり後輩なんだけど……」 「ああ、そうでしたね。申し訳ありません。どうにも私、抜けていまして」 「トリファ――ヴァレリア・トリファといいます。ご推察の通り、神父なのですが……」 「道が分からなくて、迷ったと?」 「お恥ずかしい話ですが、その通りです。どうも私の土地鑑など、すでに無くなっていたようでして……」 参りました、と苦笑気味に頬を掻くトリファ神父。ここまで話した感覚では、無害が服を着て歩いてるような人物だ。 香純もそう思ったらしい。 「土地鑑って、〈以前〉《まえ》にもこの街に来たことがあるんですか、神父さま」 「ええ、随分と昔ですが……あの頃とはだいぶ様変わりしていて驚きましたよ。漠然とした記憶だけじゃ、役に立たなかったようですね」 「そりゃ、ここはそういう街だし……」 昔というのがどれくらい昔なのか知らないが、単純に十年と考えれば驚いても仕方ない。諏訪原が発展を遂げたのは、ちょうどその辺りからである。 そして、続く展開も至極仕方のないことだった。 「だったら、あたしたちが教会までお連れしますよ。ね、蓮」 「…………」 「ねっ?」 「…………」 こいつのお節介魂に火がついたら、何を言っても無駄。 「……オーケー、了解」 「おおっ、それは本当ですかっ!?」 「もちろんですよぉ」 「ああ、なんという慈悲。なんという愛。この巡りあわせこそ主のお導きに違いない。お嬢さん、もしやあなたは天使さまでは?」 「ないない。それ、絶対ない」 なにやら感激している神父にゃ悪いが、香純が天使なら俺は宇宙の神になれると断言できる。 「いやもう、冗談抜きで泣きそうだったとこなんですよ。私の同僚にも女性はいますが、みんなとても怖い人たちばかりでしてね。やっぱり女性は、優しいのが一番です」 「えへ、いや、それほどでも……」 「ないなら照れるなよ、気色悪い」 「うるっさいわねさっきから。何か文句があるとでも……って」 「はっは~ん、なるほどなるほど」 「あんた、もしかして妬いてるでしょ?」 「…………」 はあ? 「うんうん、分かるよぉその気持ち。でもね、いつも何考えてるか分からない男より、こう、ストレートに気持ちを伝えてくれる人の方が嬉しいっていうか安らぐっていうか、信用できるっていうのかなぁ」 「とにかく、男の嫉妬はみっともないからやめようね。ああ、でも、たまにだったらそれも結構嬉しいぞ」 「…………」 何舞い上がってんだ、こいつは。まあいいや。 「神父さん、教会に行くんだろ? 連れてってやるから、早く行こう」 「はあ……ですが、そちらはよろしいんでしょうか?」 俺の横では、未だに香純がにこにこしながらワケの分からないことを喋っている。言ってることの一割も理解できないところからして、どこか異星の言葉だろう。 「たまに電波受信する病気なんだよ。放置してればすぐ治るから、気にしないでさっさと行こう」 「いやしかし、女性を置き去りにするというのもですね……」 「大丈夫。こいつ色んな意味で女じゃないから」 「だからね、あたし思うにヤキモチ妬かない奴は可愛くないっていうか張り合いがないっていうか、つまんないのね。だからってわざと妬かせようとか、そういうことはしないけど、うーん、なんて言ったらいいのかなぁ」 「つまり――」 「つまり――」 こいつはとても頭が悪いと、遥か昔に結論付けた俺の判断は実に正しい。 だからこのまま、放置するけど異議はないよな。 とまあ、そんなこんなで、教会まで行くはめになってしまった。 ちなみに、放置してた香純は怒髪天を衝きかねない勢いでなにやら文句を言っていたが、そこでのやり取りは面倒なので割愛する。 今はそれより、トリファ神父。少々のんびりしすぎな感はあるが、全身から滲み出る〈柔和〉《にゅうわ》な雰囲気はなるほど神父に適任だろう。 いわゆるいじめたくなるタイプっぽいが、そういう人ほど女子供に好かれやすい。男の俺には若干煮え切らない印象があるものの、不愉快に思われることは殆どない人だろう。 嫌味にならない程度に整った容姿、柔らかな口調と物腰、それでいて、どこか頼りない雰囲気とくればもう完璧だ。 例の事件で街がこんな状態じゃなかったら、彼が邪険に扱われることはまず有り得なかったに違いない。まだ親しいわけでも何でもないが、トリファ神父には一種の人徳めいたものすら感じる。 つまり有り体に言ってしまえば、俺はこの、さっき出会ったばかりの神父に対して好感を抱いたわけだ。 それははっきり言って珍しい。人生初めてのことかもしれない。 俺でさえこんなんだから、当然香純も彼を気に入ってしまったらしく。 気付けば、神父に会うまでどこか暗かった俺たちは、すでにそんなことなど忘れていた。〈懺悔〉《ざんげ》を聞くでも説教をするでもなく、胸のつかえを消してしまったのだから、かなり優秀な聖職者と言えるだろう。 傍らを歩く長身の神父を盗み見つつ、そんなことを考えているうち、目的地に辿り付いた。 「ここでいいんでしょ?」 この街にある教会といったら、一つしかない。正式名称はよく知らないが、とにかく氷室先輩が住んでるここだ。 「玲愛さん、いるかな?」 「そりゃいるだろ。お客が来るから早く帰るとか言ってたし」 「神父さんは、先輩の身内なんだろ?」 「身内、というほどでもないですが、少なくとも私は彼女――テレジアのことをよく知っていますよ。かれこれ十年ぶりくらいになりますかね」 「テレジア?」 「何それ?」 耳慣れない名前に、俺と香純は首を傾げる。 「ああ、失礼。今のは彼女の洗礼名です」 「〈神の贈り物〉《テレジア》――彼女の誕生は、私を含めた大勢にとって希望そのものでしたから。その感謝をこめて、お贈りした名前なんです」 「てことは、神父さまが玲愛さんの名付け親?」 「そうなりますかね。彼女にとっては迷惑千万だったかもしれませんが」 「そんなことないと思いますけど……ああ、でも、だったら今の名前は」 「そうですね。便宜上、日本語向きに変えたものです」 「そっかあ……ね、なんかいいこと聞いちゃったね」 「…………」 「どしたの?」 「……いや」 ただ、少しだけ違和感があった。 どう多く見ても三十前後にしか見えない彼が、先輩の名付け親になることなんてできるのだろうか。当時はただの子供だったはずなのに。 「しかし、こうしてここに来ると、思い出してしまいますねえ。私とリザ――ここのシスターですが――は、一緒になってテレジアの世話をしたものです。なかなか彼女はお転婆でしてね」 「まだ立ち上がれもしないうちから、ちょっと目を離すとすぐ何処かへ行ってしまうような女の子でした。私たちが必死になって探してみれば、マリア様の下で気持ち良さそうに寝ていたりとか……いやはや、まったく手を焼きましたよ」 「そうなんですか。なんか想像できないですね」 「ほう、だったら今のテレジアは、立派な女性になったんでしょうね。その辺り、どうなんですか藤井さん」 俺の疑問に気付いてないのか、神父も香純も楽しそうに話している。 「まさか、グレて悪い子になっちゃったりしたってことは……」 「あ、いえ、そんなことはないですから」 「ちょっとあんた、神父さまを不安にさせちゃ駄目じゃない」 怒られる。 そりゃあ、見るからに心配性気質な人ではあるけど。 そういうところ、もしかしたら見た目より歳なのかもしれない。そもそも外国人の年齢なんて、判別し辛いものでもあるし…… 「ちょっと変わってるっちゃ変わってるけど、いい人ですよ。面白いし」 「あれで結構、コアなファンとかついてるみたいで……」 「そうなのっ?」 「そうだよ」 そこでおまえが驚いたら、嘘くさくなるだろうが。 「一応、人気者の部類には入るんじゃないかと。だから心配しなくても大丈夫……いやむしろ心配するだけ無駄みたいな……」 「そうですか。それを聞いて安心しました。恥ずかしながら、彼女には親にも似た感情を持っているものでしてね……」 「きっと将来は美人さんになるだろうと、信じて疑いませんでしたが……いや、そうですかそうですか。テレジアはやっぱり人気者になりましたか」 「あぁ……まあ、有名なのは確かだけど」 日独クォーターで教会に住んでて、ちょっとネジの狂った感じの人……そういう意味で有名人だ。 一応、控えめに見ても美人の〈範疇〉《はんちゅう》に入るというのもあるけれど。それだけなら裏ミス月乃澤なんて称号は貰えんだろう。 「なあ、表ミス」 「はい?」 こいつが表で、先輩が裏。学校の男子連中が、毎年陰でやってる人気投票の結果である。 俺個人の意見を言えば、どいつもこいつも目玉が腐ってるとしか思えないけど……今はいいやそんなこと。 「とにかくここまで来たんだし、話し込んでないでさっさと中に入ろうぜ」 「愛しのテレジアに、早く逢いたいだろ神父さんも」 「ええ、それはもう当然です」 「まだ幼かった彼女を残してここを去る時、身も世も無く泣かれましてね。私も一緒になって泣いたんですが、結局リザから叩き出されてしまいましたよ。あなたの目はなんだか危ないとか、そんな失礼極まる理由でです」 「まったく、あの方は私をなんだと思ってやがるんでしょうかね。よりによって十年以上も、メキシコの辺境に飛ばされるとはさすがに予想しませんでしたよ」 「しかし、しかしですね、こうして帰ってきた以上は、もう彼女の好きにはさせません。今後はこの私が責任もって――」 「テレジアをお風呂に入れてあげましょう――とか、どうせそんなことを考えていらっしゃるんでしょう、あなたは」 「もちろんですっ――って、………え、えぇ?」 不意に割って入った女性の声に、トリファ神父は凍りついた。 「お帰りなさい、神父ヴァレリア。相変わらず愉快なお話を捏造するのがお好きですね。なかなか楽しませていただきましたよ」 「ぇ、あ、ぁ……うぇ………」 「あら、どうなされたんですか神父さま。お顔の色が優れませんね。よければお薬を差し上げますけど」 「け、けけけけ、結構です。いやホントに!」 「そ、それであの、つかぬことを伺いますが、いったいどの辺りから私の話を……」 「そうですねぇ、『結局リザから叩き出されてしまいました』――の辺りでしょうか」 「まったく、人聞きの悪いことを言わないでくださいませんか。私はただ、玲愛の身の安全を憂慮しただけなんですけど」 真っ青になって後退るトリファ神父に、にっこり笑って詰め寄るシスター。なんか凄い楽しそうだ。 「ねえ、あのシスターって、あんな感じの人だったっけ?」 「たぶん、こっちの方が素なんだろ」 先輩の話じゃ寝込んでるってことだったが、思ったより元気そうだ。そして、聞きしに勝るFカップだ。 「ですから残念ながら神父さま、玲愛とお風呂は諦めてくださいましね。あなたも仰っていたように、彼女はもう淑女なので」 「それにそもそも……」 「私、別に泣いたりしてない。泣いたのは、私にお風呂を断られたそっちの方だけ」 「そんなぁ、そんなことはないでしょうテレジアっ!」 「あー、ちょっと待って」 「つまりこの人が追い出されたのは、それまで一緒に風呂入ってた先輩に断られたのが原因だと?」 「……あー、なるほど、よく聞くタイプの話だね。ご愁傷様」 「女の子は、大人になるのが早いんですよ神父ヴァレリア」 「ということだから、いつまでも恥ずかしいことをやってないで早く中に入りなさい。藤井君と綾瀬さんも、一緒にどう?」 「あたしたちもいいんですか?」 「もちろん。手の掛かる人のお守りで、大変だったでしょう。夕食の用意も出来てるわよ」 「どうする、蓮」 「別に断る理由もないけど……」 「のおおぉぉぉぉ、あなたがたは揃いも揃って、なぜ男の純情を分かってくださらないのですかっ!」 「藤井さん、あなたなら私の気持ちを理解していただけますよね?以前はお嫁さんになるとまで言ってくれた愛娘から、掌返したように冷たくされるこの切なさがっ!」 「いや、別に俺、娘と風呂入りたいとか思わないし」 そもそも娘なんかいやしないし。未婚だし。 「おぉ、なんたる無知。なんたる罪。神よ、この哀れな少年を〈赦〉《ゆる》したまえ。彼は何も分かっていないだけなのですっ!」 「…………」 「遠慮しないで。ぶっ飛ばしていいから」 「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すのが好きな人よ?」 そうじゃなくて、なんというか…… 例の事件で街がこんな状態じゃなかったら、彼が邪険に扱われることは有り得なかったに違いない? まだ親しいわけでも何でもないが、トリファ神父には人徳めいたものを感じているだと? 俺も結構、目玉が腐っているんだな。そう自覚して、少なからずヘコんでしまっただけの話だ。 そして、結局勧められるがままにご馳走され、食後の会話に華を咲かしていた時のこと。 「いつの間にか、すっかり遅くなっちゃったな」 ふと気付けば、時刻は九時前。まだ言うほどのものでもないだろうが、教会という場にあっては遅い部類に入るだろう。 「じゃああたしたち、そろそろお暇しますから」 「もう帰るの? もっとゆっくりしてけばいいのに」 「これ以上厚かましいのも何なんで。神父さんもこの有り様だし」 きっと辛いことでもあったんだろう、ワインをがぶ飲みしたトリファ神父は、前後不覚になってぶっ倒れている。 「……情けない人」 「……泣きながら寝ちゃってるね」 「本当に、いつまで経っても子供で困るわ」 女性陣は容赦がない。 「藤井君も綾瀬さんも、今日は色々とごめんなさいね。今後は彼もここで暮らすようになるから、また迷惑をかけるかもしれないけれど」 「いいえ、そんな、迷惑なんかしてないですよ。あたし、面白いヒト好きですから」 「あんまり甘くすると、一緒にお風呂入ってくれとか言いだすよ」 「……う、それはさすがに、ちょっと嫌かも」 「だって。よかったね、藤井君」 何がいいのか分からんのだが、俺は極めてナチュラルに話題を変える。 「でも何でまた、神父さんはこっちに戻ってきたんですか? 確かメキシコの辺境に飛ばされたとか言ってたけど」 「それはつまり、色々あって」 「最近は、この辺りも物騒でしょう? 正直、女の二人住まいっていうのも怖かったから……」 「……なるほど」 先輩とシスターは、死体を直に目撃したと聞いている。いくら気丈――というかズレている彼女らでも、それに恐怖を感じるのは仕方ない。不信心な言い方だが、教会にいても神が護ってくれるとは限らないんだ。 「こんな人でも、いれば何かの役に立つかなと思ったのよ」 「……でもガードにしちゃあ、ちょっと頼りない気がしますけどね」 「じゃあ、藤井君が泊まり込んで私たちを守ってくれるの?」 「あら、いいわねそれ。そうしてくれると、私も嬉しかったりするんだけど」 「むっ……」 急にそんなことを言われても。 「なによ、その顔」 「おまえこそ、なんだその顔」 滅茶苦茶ガン飛ばしてきやがって。 俺と香純が無言で睨み合ってると、横のシスターが笑いだした。 「ごめんなさい、冗談だから本気にしないで。藤井君は、綾瀬さんの専属ガードなんだっけ?」 「いっ――えぇ!?」 「……別にそんなことはないですけどね」 「またまた、照れない照れない」 だから、照れてないって。 「…………」 「おまえもなぁ、そこで黙るなよ〈胡散臭〉《うさんくさ》い」 「う、う、〈胡散臭〉《うさんくさ》いぃっ!?」 「はいはい、もうそういうの見飽きたから、それ以上は他所でやって。藤井君も、彼女単純なんだからからかわないの」 「た、単純って……あの、もしかして……あたしのこと馬鹿だと思ってないですか?」 「きっと気のせい」 「おまえが短気なだけなんだよ」 ため息をつきながら、トリファ神父に目を向ける。この人はこの人で、完全に落ちてるし。 「この様じゃあ、寝室まで運ぶの大変でしょ。俺がやるんで、部屋教えてください」 「あら本当に? ごめんなさい、助かるわ」 「構いませんよ。悪いけど香純、先に出て待っててくれ」 「ん、分かった」 「じゃあ、礼拝堂で待ってるから」 言って、部屋を出て行く香純と先輩。俺はそれを見届けてから、酔いつぶれているトリファ神父を背に担いだ。 「――よっと」 おお、意外にも結構重い。痩せてる人だが、タッパに見合う体重はあったようだ。これは先輩やシスターじゃあ、難儀したことだろう。 「ったく、聖職者が酔っ払うなよ」 この状態で、ゲロとか吐いたらどうしてくれよう。 ぶつくさ言いつつ歩き出すと、それに合わせてシスターが部屋のドアを開けてくれた。 「こっちよ藤井君。ついてきて」 しかし、いつも来る度思うんだが、何気に広い教会だよな。 「本当にありがとう。助かっちゃった」 長い廊下の突き当たりにある階段を上って、三階の一室にトリファ神父を放り込んでから一息つく。結構な重労働になってしまった。 これから服を脱がして着替えさせたりするんだろうが、そういう行為を見学するのも気が退けるので、俺はここで退散しよう。下で香純たちが待ってることだし。 「藤井さ~~ん」 「私、あなたとは仲良くなれそうな気がしますよぉ。また是非、是非遊びに来てくださいねぇ」 ……おいおい。 「もう目が覚めたんですか、神父ヴァレリア」 「当然ですよぉ。私、酔うのも覚めるのも早いって、あなたも知ってるじゃあないですか」 「…………」 「…………」 「まだ説得力に欠けますね。どうぞお休みになってください」 「あまり聞き分けがないようですと、ベッドに縛りつけてしまいますよ?」 「ひぃ――」 酔って紅潮していた神父の顔が、一気に蝋人形みたいな色になった。 「さあ、良い子ですから、大人しく寝てください。なんでしたら、子守唄でも歌いましょうか?」 「いや、それだけはご勘弁を……って藤井さん、見てないで助けてくださいよぉ!」 「ごめんなさいね、藤井君。もうちょっとだけ待っててちょうだい」 「ああぁ、神よぉ、なぜ我を見捨てたもぉ――――」 地獄に落とされたような絶叫を放ちつつ、トリファ神父は再び部屋に連れ戻された。 ノリについていくのが難しく、俺はしばらくぽかんとする。そうしているうち、シスターが戻ってきた。 「お待たせしちゃったわね、藤井君。まったくあの人ったら、本当に全然変わらないんだから、困ったものだわ」 「……はあ」 とは言ってるものの、迷惑がってる風にも見えない。むしろ手のかかる子供に対する、母親みたいな雰囲気だ。 「神父さんとは、長い付き合いなんですか?」 「ええ。私の一番古い友人の一人なの。あんな感じで、ちょっと困った人だけど、いいところもちゃんとあるのよ」 シスター・リザ――リザ・ブレンナー。氷室先輩の姉であり母であり、友人でもあるその女性は、柔らかに微笑する。 基本的に社交性が欠けているらしい俺だけど、この人の笑顔は例外だ。ありがちな〈喩〉《たと》えだが聖母のようで、見ると幸せな気分になってしまう。 この笑顔に凍りつくトリファ神父も、よくよく考えれば哀れな人だな。 「まあ、どう見ても悪者には見えない感じの人ですね」 「先輩も、ああ言ってるけどなんだかんだで神父さんのことが好きなんでしょ?」 「そうね、彼女はあれで照れ屋だから、きっと恥ずかしがってるのよ」 「それにね」 にこにこしながら、シスターが手招きする。なんだいったい? 「彼女、もうすぐ誕生日なの。ヴァレリア――神父さまを呼び戻したのは、そういう理由からなのよ」 「へえ」 誕生日……知らなかった。そうなんだ。 「いつなんです?」 「12月25日、クリスマスよ。覚えておいてね」 「わかりました」 しかし、なんとまあアレな日に生まれる人だな。教会住まいでクリスマスに生まれるなんて、神から最大級の祝福を受けてるとしか思えない。 〈畏〉《おそ》れ多くもそんな身で、キリスト殴るとか言ったら駄目だろ、あの人も。 「よかったら、その日は一緒に彼女を祝ってくれると嬉しいんだけど」 「いいですよ。香純にも言っときます」 「本当? ありがとう藤井君」 ぐい、と袖を引っ張られる。俺とほとんど身長の変わらないシスターは、そのまますっと顔を寄せて…… 「…………」 えーっと、なんだ。今のはつまり…… 「感謝の気持ちよ。だからあまり深く考えないで」 「はあ……」 まだ感触が残っている頬を掻く。まあ別に、ちょっと驚いたのは確かだが。 「じゃあ、そういうことにします」 「……あはは、こりゃ玲愛も綾瀬さんも大変ね」 となにやら苦笑しているが、フランクなシスターのお礼はそれなりに嬉しかったし、たぶん思われてるほど俺は朴念仁じゃないんだけどな。ただ表に出さないというだけで。 そこで出さなきゃ意味ないだろとか、とある馬鹿が言っていたけど、あいつもその辺りは同類だったし文句を言われる筋はない。 「それじゃ俺、帰りますから」 「ええ。よければ下まで送りましょうか?」 「遠慮しときますよ。さっきので俺、ちょっと舞い上がってますから」 「まあ」 我ながら似合わない台詞だったが、馬鹿のことを思い出したせいで馬鹿なことを言ってしまった。 とはいえ、シスターの反応を見る限り、そう悲観したものでもないんだろう。 「硬いのか軟らかいのか、よく分からない子ね、相変わらず」 その評価が、褒め言葉であるならの話だけど。 そしてシスターに別れを言い、無人の廊下を歩きだす。さっきも思ったことなんだが、この教会はかなり広い。ちょっとしたホテルか学校並みの広さがある。 ゴシックとかロマネスクとか、建築様式がどういう系統なのかは知らないが、〈俯瞰〉《ふかん》で見れば十字の形をしてそうだ。有り体に言えば、なかなか本格的な造りをしている。 それだけに、三人所帯じゃこの広さを持て余すに違いない。掃除をするだけでもかなりの手間だし、空き部屋ばかりというのも寂しい話だ。 そこら辺、シスターや先輩はどう思っているんだろう。今までの二人所帯よりはマシになったのかもしれないが、トリファ神父はあまり役に立たない感じだし。 だいたい、これだけ広い教会なら、普通は〈尼僧〉《にそう》の十人や二十人いて当たり前なんじゃないだろうか。 仮にそうなら、まず間違いなく男子禁制になるだろうけど。 そこまで考え、頭を振る。ちょっとばかりくらくらした。泥酔状態のトリファ神父を担いでいたから、酒気が回ったのかもしれない。 今ごろ、礼拝堂では香純と先輩が俺を待ってることだろう。あまり遅くなると何言われるか分からないし、早く行ったほうがいいのかな。 ここは、それが無難だろう。あまり人を待たせる趣味はないし、神の家を探検して回るのも気が引ける。 とりあえず今日は、先輩の知られざる過去を色々と耳にできて満足だ。これ以上のことは、縁があれば個人的に聞いてみたい……と思わないでもない。 私服姿……結構新鮮だったしな。 と、思いながら、俺は礼拝堂へと足を向けた。 そして。 「悪い、待たせた」 「あ、うん……」 「……?」 やって来た礼拝堂で、なんだか香純は微妙なテンション。 「どうした?」 「ん」 傍らの先輩が、角の方に顎をしゃくった。そこには―― 「訊きますが、あなたは何をしているんです?」 「えー、あー、その、私はですね。テレジアのご学友である彼らにちゃんとした挨拶をしなければと思ったわけでありまして……決してあなたから逃げようとしたとかそんなわけではなく、ああごめんなさいすみませんもう二度と逃げませんから許してください」 「…………」 シスターに問い詰められてる神父さんがいた。 てか、早えよ。あんたらどうやって、俺より先にここへ来ることができるんだよ。 何なんだこの教会。実は忍者屋敷だったりするんじゃないのか。 「あまり深く考えちゃ駄目」 「世の中、知らない方がいいこともある」 「特にあの二人は変人だから、常識で測らないのが賢明だよ」 「……そんなこと言われても」 「いいから。あの人たちのことは放っといて。細かいことを気にする人は嫌い」 「嫌いって、あんた……」 「あんた?」 「……じゃなくて、先輩」 なんだこの人、怒ってるのか? 珍しいな。 ぱっと見はいつも通りの無表情だが、こうして近くで観察すると、微妙にそわそわしているような…… 思い返せば、俺と香純が教会に来てからこっち、ずっとこうだったかもしれない。 寄っていけとか、もう帰るのかとか言ってた反面、いつもの何割か増しで絡んできてたような気もするし…… 「ああ――」 もしかしてこの人、恥ずかしがってる? 授業参観とかで、恥ずかしい身内を見られた時の子供みたいな、それっぽい反応だ。 でも年長者として、表面上は冷静を装おうとしている……とか? ふーん、なるほど。 だとしたら、こういう先輩もこれはこれで面白いな。 「何?」 「いえ、特に大したことじゃないんで」 ただ、あなたの変人ぶりも、いい感じで彼らに相対しているから恥ずかしがることはないですよ――とは言えないか。 傍らで繰り広げられているシスターの神父いじめと、それをぽかんとした顔で眺めている香純に一瞬だけ目を向けてから、俺は先輩に耳打ちした。 ここはせっかくなので、少し―― 「誕生日が近いらしいですね」 「え?」 「シスターに聞きましたよ。25日だって」 「……ああ」 「……?」 なんだ? なんでそんな、バツの悪そうな顔をするんだろう? よく分からなかったが、ともかく―― 「日頃世話になってるし、何かプレゼントしますんで」 「あんまり期待されても困るけど、ぼちぼち楽しみにしててください」 「―――――」 とまあ。 氷室玲愛の放心顔という、中々珍しいものを見せてもらった。 無論、プレゼントはしっかり渡すつもりだし、からかい気分で言ったわけじゃない。 多少、精神的な揺れにつけ込んだのでフェアじゃなかったのは確かだが、 「嬉しいよ。ありがとう」 本人も喜んでいるようだし、問題あるまい。 「結婚して」 「…………」 いや、おい。問題大有りじゃねえか、これ。 「いいですか、そもそもあなたみたいにだらしのない、いい加減で嘘つきな酔っ払いは、若い人たちの情操教育上よろしくありません。私から逃げたいと仰るなら、今度は南極辺りにでも飛んで頂こうかと思うのですが」 「ちょっと、南極ってあなた、それシャレになってないですよ。私に死ねと仰いますか。おお神よ、なんで私の周りにはいつもこういう――」 「なんです?」 「魅力的な、女性しか……いないのでしょうかねぇ……」 ……同感。 俺の周りにも、魅力的な女性しかいないみたいだよ、神父さん。 「…………」 とはいえ俺も男だから、冒険心みたいなものがそれなりに旺盛だったりするのである。 ほんの五分か、長くて十分、探検みたいな真似をしても罰は当たらないだろう。部屋を覗きさえしなければ、多少うろついても許してもらえる範囲のはずだし。 神はどうだか知らないが、先輩やシスターはその程度じゃ怒るまい。 そう思い、探検してみることにした。 別段、素晴らしい発見とかは期待してなかったけれど。 可能な限り歩き回って、再び一階に降りてきた。それで分かったことなんだが、やはりこの教会は十字の形をしているらしい。 頭に図を思い浮かべながら歩いた結果、ラテンクロスの上端が礼拝堂で、今俺がいるのは下端に位置する。つまりここが端っこで、探検の終着点だ。 ゆえに、本来ならここで〈踵〉《きびす》を返すべきだったんだが…… 「あれ、藤井さんじゃないですか」 「…………」 なんであんたがそこから出てくる。 「どうしました? あなたは礼拝堂に行かれたものだとばかり思ってましたが」 「……いや」 いたって普通に話しかけられ、少々俺は面食らう。 それは確かに、あっちこっちうろちょろしていたのは認めるが、だからといって時間的、物理的に、先回りされることなんて有り得ない。 「忍者屋敷ですか、この教会は」 「え? ああ、ははは、これはすみません、驚かせてしまいましたか」 「どうやってこんなところに?」 「秘密の抜け道です」 ……おいおい。 やっぱり、忍者屋敷じゃねえかよ。 「教会とは、大概そういう造りになっているんですよ。知りませんでしたか?」 知らない。が、神父が言う以上、そうなのかもしれない。 「はあ……」 俺は呆れ気味に〈嘆息〉《たんそく》して、 「それはともかく、復活早いね。シスターからどうやって逃げてきたわけ?」 「まあ、彼女は生真面目な人ですからね。騙すのはそう難しくないんですよ。水が欲しいとか言って、その隙に」 「でも、まだ逃げ回ってる最中ですから、黙っていてくださいね。今見つかったら、私半殺しにされちゃいますから」 「俺はいいけど、神父が嘘ついたら駄目なんじゃあ……」 「ですから、御内密にお願いしますよ。シスターにも、神様にも」 「で、藤井さんはこんなところでいったい何を?」 「ん……その、なんていうか迷ったみたいで」 反射的に、つかなくてもいい嘘をついてしまった。後悔したが、もう遅い。 「ほんとは礼拝堂に行きたかったんだけど、こんな所に出てきちゃって……あの、悪いけど道教えてくれないかな、神父さん」 「構いませんよ。しかしあなたも、私に劣らずなかなか方向音痴のようですね」 同類に会えて嬉しいのか、トリファ神父はにこにこ笑う。 それは不名誉な友情だが、今さら本当のことを言うわけにもいかないだろう。 「あのさ、神父さん」 「はい。礼拝堂まで案内するんでしたよね」 「いや、その前に一つ質問」 俺は視線で、彼が出てきた部屋のドアを示す。 「この教会って、他にも抜け道みたいなのがあったりするわけ?」 「は……? そんなことに興味がお有りなんですか?」 「多少は」 もしあるのなら、ちょっと見せてほしいと思わないでもない。 「確かに他にも幾つかありますが、そう楽しいものではないですよ。そもそも脱出口の類ですから、陰気ですしね」 「脱出って、何から?」 「敵です」 と、即答されても反応に困る。敵ってなんだよ。 「何と言うかですね、教会というのは古来から篭城場所に使われることが多いので、その名残ですよ。半ば建築様式の一環になっていると言いますか」 「ともかく起源が起源ですから、あまり雰囲気のいいものじゃありません。幽霊とか出そうですよ。平気ですか、幽霊」 「……苦手」 「ふむ、でしたらここらで、探検はやめておきなさい。元気がいいのは結構ですが、古い建物には時に良くないものも混じります。お分かりですね?」 「……はい」 なんだかんだで、俺の嘘は見破られていたらしい。そのへん、〈伊達〉《だて》に神父をやってるわけじゃないってことか。 「さあ、それでは行きましょう。あまり女性を待たせるのも悪いですしね」 だがそう言いつつも、まるでこの場から逃げるようなトリファ神父の足運びが、なぜか妙に気になった。 「どうも、ごちそうさまでした」 「それじゃあ、気をつけて帰ってね」 その後、改めて晩飯の礼を言った俺と香純は、これで引き上げることにする。 「二人とも、この辺りの夜道は暗いから、明るいところまで送らせてくれないかしら」 「あの、シスター……それはもしかして私に行けと?」 「ええ、そうですよ。どうやら元気が有り余っていらっしゃるようですし」 「……むぅ、しかしですね、私などがいたところで何の役にも立たないと思うのですが」 「盾代わりくらいなら、充分果たせるんじゃないかしら」 にこにこと笑顔のまま、シスターは物騒なことを口走る。それに気絶しそうな顔色の神父さんだが、まあ自業自得というやつだろう。 「一応、男手なら足りてるから、気を遣わなくてもいいですよ。そんなに遠いわけでもないし」 「それに、神父さんが盾になるのは先輩とシスターのためなんでしょ?」 「そう、そうです。その通りっ!」 「それに私、実は長旅の疲労が溜まっていまして、お役に立てそうもありません」 「ああ、残念だなぁ、悲しいなぁ、やっぱり旅費をケチって安い飛行機に乗ったのがまずかったのかなぁ。シートがどうにも小さくて、こう、身体をずっと丸めてたから節々が痛いんですよ」 「爺くさいね」 「実際、みなさんよりは歳ですからねえ」 情けない声で、わざとらしく目元なんかを拭っている。シスターは、呆れたようにため息をついていた。 「まあ、腰痛とか二日酔いとか気をつけて。先輩は風呂とか着替えとか気をつけて。シスターは胃腸薬と頭痛薬を欠かさずに」 「俺たちは、幽霊と殺人犯に気をつけて帰りますから。さようなら」 「また明日」 「うん、ばいばい」 「これからも、玲愛と仲良くしてやってね」 まるで母親のような――実際母親代わりなんだが――シスターの言葉に苦笑しつつ、軽く会釈をして外に出た。 ――と。 「藤井さん」 「すみません、言い忘れていたことがありまして。少しだけよろしいでしょうか」 「俺に?」 追いかけてきた神父に呼ばれ、振り返る。 「はい、申し訳ありませんが。綾瀬さん……彼をしばらくお借りしてもよろしいでしょうか? 時間はとらせませんので」 「あたしがいたら駄目なんですか?」 「そういうわけではないですが……いえ、そういうことになるんですかね。ご理解いただけると助かります……」 「むぅ、なんかそこはかとない疎外感を覚えますよ」 「男同士の話ってことだろ」 納得いかなげな香純の肩に手を置いて、顎をしゃくった。 「ちょっと先で待っててくれ。すぐ終わるから」 「いいけどぉ、エッチな話じゃないでしょうね」 「そんなの知るかよ」 「どうなんですか、神父さま?」 「……あの、綾瀬さん? 私は一応、神父ですよ?」 「女の子と、一緒にお風呂入るのが好きな神父さま」 「あ、あのですね、何か誤解をなされているようですが」 「もういいから、おまえもいちいち絡むなよ」 いい加減うるさいので、手を振って追い払った。 「じゃあ、なるべく早くすましてよ。あたしだって怖いんだからね」 「分かってるよ。目の届く範囲にいればいいだろ」 ということで納得させ、香純は十メートルほど離れたところに待たせておいた。 で、いったい何の話があるのか知らないが…… 「手短に頼むよ。知ってると思うけど、あいつ凄い短気だから」 「ええ、分かっています。ありがとう」 「それで話というのは他でもない、あなたと綾瀬さんのことなんですが……」 「お二人とも、生まれはこの街で?」 「……? 違うけど。それが何?」 いきなり予想外の質問に、若干だけ面食らった。なんでわざわざそんなことを? 「俺も香純も、今の学校に入学する時、こっちに越してきた口だけど」 「そうですか……いや失礼」 「どうやら今、あまりよくないことが街で起きていると聞いたので……もしもこの街の生まれでないのなら、と」 苦虫を噛み潰したような顔をして、トリファ神父は歯切れ悪く言葉を〈紡〉《つむ》ぐ。それはつまり…… 「田舎に帰ったほうがいいんじゃないかって? 勘弁してよ」 「ですが」 「あー、ごめん。ちょっと待って」 参ったな。 俺は頭を掻きつつ、何と言うべきか言葉を選んだ。 「学校が休校してるわけじゃないんだし、そんなことできないよ。俺、ただでさえ日数足りてないんだから」 「心配してくれるのはありがたいけど、これでも一応、用心はしてるんだし」 「一応とは、どの程度で? 失礼ながら、認識が甘いように思われますが」 「……食い下がるね」 少し意外だ。なぜこんなに心配されているんだろう。 「先輩も休校にならない件で怒ってたけど、そんなに危ないと思うならそっちこそって話だろ。俺たちの心配なんかしてないで」 「……それはその、私は神に仕える身ですから」 「十字架で追い払えるのは、吸血鬼だけなんじゃなかったっけ?」 神父であるとか聖職者だとか、そんなことが殺人犯の凶刃を逃れる理由になるとは思えない。むしろ逆に狙われそうだ。 「心配するなとは言わないけど、他人のことばかり気にしてると自分がおろそかになるんじゃない? これでも俺、そっちの心配もしてるんだから」 要するに、過度の心配をされると相手の方が気になってくる。 まず何よりも、自分のことを第一に。そういう風にしてないと、世の中うまくいかないような気がするんだ。全てが半端で、片手落ちになりかねないと言うべきか。 我ながら乱暴にその旨を伝えると、神父さんは困ったような顔をしつつも、柔らかに微笑んだ。 「参りましたね」 「私の古い友人にも、あなたと同じようなことを言った人がいましたよ。彼は臆病な私にとって、憧れの対象でしたが……」 「残念なことに、そういう人ほど早世しやすい。生きる速度が、私のような者とは違うんでしょうね。お陰でよく置いてけぼりをくらいます」 「ですから」 「ちょっとストップ。やめてくれよ、そういうの」 まったく縁起でもない。何を年寄りみたいなことを言ってるんだか。 神父さんといい香純といい、まるで俺が早死にするタイプみたいに言ってくるが、なぜそんな風に思うんだろう。これでも平和主義者のつもりなんだ。 「だいたい俺は、自分を第一に考えてるって言ってるのに」 「そういう人ほど、いざという時に自己を省みないものなんですよ」 「危険な局面において逃げること、または誰かに助けてもらうことを良しとしない。美感の問題ですが、あなたはそういう人のように見受けられます。違いますか?」 「…………」 そりゃあ確かに、前科はあるけど。 「結局、その……話っていうのはそういうこと? 悪いけど、説教ならミサの時にしてくれよ。なんだったら顔出すから」 「いえ、そうではなく、私はただ……」 「ちょっと蓮ー、いつまで話してんのよー」 「…………」 ほらきた。 「てわけで、なんか短気な奴が怒鳴ってるから、その話はまた今度」 「神父さんも、俺の心配してる暇があったらシスターにいじめられないように気をつけなよ」 「それじゃ」 どうにも堅苦しい雰囲気になりそうだったし、香純の短気を理由にこれ幸いと切り上げる。 トリファ神父もだいぶ変わった人だけど、やはり神父だけあって説教がお好きなようだ。俺はそういうタイプの人が、少々苦手なのである。 だが―― 「藤井さん、最後に一つ」 「あなたは先ほど、田舎に帰らないと仰った。それについて、ご両親は心配されていないのですか?」 「…………」 両親?  何だそれは? 「……心配も何も、会ったことないよ。俺が赤ん坊の頃に死んだって聞いてる」 「そうですか。これは申し訳ない。失言でしたね」 「いや……」 両親であろうとなんだろうと、顔も知らない人の死を悲しむことはできない。それは薄情とか冷血とかいう問題じゃなく、人間の心理……だと思う。 「では、逢いたいと思いますか?もしそれを叶える方法があるとしたら」 「質問が増えてるよ、神父さん」 いかにも聖職者らしい問いに苦笑しつつ、俺は答えた。 死人との再会だなんて…… 「そんな気持ちの悪いこと、思わないし願わない。そういうのを望む奴は、頭がおかしい」 愛に狂っている。死を軽く考えすぎてる。 その思考を素晴らしいとは思わない。むしろ究極的におぞましい。 亡くせば取り返しが効かないからこそ、人はそれを大事と思える。 ならば戻ってくる失せものなど、みな一様に価値が無い。命をゴミと同列に堕する考えだ。 「墓から這い出てくるのは、何であれ〈怪物〉《ゾンビ》だよ。親でも友達でも恋人でも……そんな気持ち悪いものには変えられないし、変えちゃいけない。俺はそう思うけど」 「…………」 「なるほど」 「確かに、あなたの仰る通りかもしれませんね」 「重ねて、失礼。それではまた、ミサに来ていただけるのでしたら、続きはその時に」 「……分かったよ」 まあ、いい人だとは思うんだが、話していると身体の中がむず痒くなる。 やはり、ちょっと苦手なタイプ……かもしれないな。 「さて……」  困ったような顔をして、去っていく少年……その背を見送り、神父は軽いため息をつく。  ちょっとした雑談のつもりだったが、それなりに話し込んでしまったようだ。すでに礼拝堂の灯りは消えているし、リザもテレジアも自室に戻ってしまったのだろう。  何とも冷たい扱いだが、仕方あるまい。今はその方が都合もいい。 「しかしまあ、正直肝を冷やしましたね。 ただの鎌かけだったのですが、まったくこれは……」  苦笑は深く、自虐的に……神父は肩を震わせながら、先ほどのやり取りを反芻していた。  そう、死者は蘇らないし、生者もそれを望むべきではない。  死者は朽ちて土となり、生者は〈悼〉《いた》み祈るもの。  確かにそれが、当然の常識と言えるのかもしれない。  だが世の中には、本音と建前というものが存在する。  モラルとしての常識と、感情論からくる常識は往々にして食い違うのだ。  ならばこの場合、単純な意味での少数派はどちらの方になるのだろう。  仮に、あなたの友が死んだとする。  彼、彼女は当然死にたくなかっただろうし、あなたも彼、彼女に死んでほしくはなかったはずだ。  ならば、どうする?  夜毎悪夢にうなされても。  死者の慟哭に精神を病むほど〈苛〉《さいな》まれても。  それでもなお、あなたは〈常識〉《モラル》に〈縋〉《すが》れるだろうか?  そう――たとえば思うだけなら?  都合のいい妄想。陳腐な奇跡。幼稚と言われようが間抜けと嘲笑われようが、冒涜的で〈涜神〉《とくしん》的で度し難いタブーだと分かっていても。  人は、それを願うのではないだろうか。 「あなたはどう思いますか、レオンハルト」 「…………」  吹き抜ける風と共に、少女は神父の背後に立っていた。  どうやら事の一部始終を見届けていたらしい。気配は完全に無かったのだが、両者共に暗黙の了解があったのだろう。特に驚いている様子は無い。 「どう、とはつまり、彼の意見に対してですか?」 「ええ、なにかしら感じるところがありましたかね」 「別に何も。思想は個人の自由です」 「ふぅむ……つまり気分は害していないと仰る?」 「…………」 「はは、怖いですね。冗談ですよ」 「ともかく、私としては助かりました。あなたが抑えてくれたのはもとより、カインに聞かれなかっただけでも僥倖です。あれはいささか手におえない」 「であれば、不用意な発言は控えていただきたいと思います。 あなたは少し……昔から悪戯がすぎる」 「確かに、これは汗顔のいたりですね。以後気をつけるといたしましょう」  緩い調子で笑いながら、トリファは眼鏡を押し上げる。  その様子を横目にしながら、少女は〈嘆息〉《たんそく》気味に言葉を継いだ。 「無礼を承知で言わせて貰えば、〈軽挙妄動〉《けいきょもうどう》ではないでしょうか。中の彼女達にしても、そういつまでも騙されてはくれないでしょう。 ただでさえ、あなたの魂は巨大すぎます。本来なら、もういくらか場が整うまでシャンバラに入るべきではなかったと思いますが……」 「それは前にも言ったでしょう。副首領閣下の法術は、私ごときの侵入でひび割れるほど脆い代物ではありませんよ。まあ、勇み足だったのは認めますがね」 「我々には加護があります。若いあなたには分からないかもしれませんが、少しはそれを信じなさい」 「加護? もしかして神のですか?」 「いいえ、私の神はもういません。では何の――という指摘もあるでしょうが、とりあえず今、そんなことはどうでもいい。ただやるべきことを、やるべき時に」 「リザとテレジアにはまた嫌われてしまうでしょうが、これも務め――なればやむなしといったところでしょう。私の言いたいことは分かりますね?」 「……はい」 「結構、でしたらば行きなさい。現場の判断はあなたに任せますが、ベイとマレウスがやりすぎるようなら止めるように。 あの少年、どうもキナ臭い。上手く言えませんが、何か良くないものが憑いている」 「まあ、このシャンバラはおかしな人間が生まれやすいし集まりやすい。当たり外れはともかくとして、網にかかれば試すことにもなるでしょう。 結果、何が釣れるかは分かりませんが……」 「それ次第で臨機応変。了解しました猊下」 「頼みましたよ、あなたには期待している」  軽く頷き、少女は身を〈翻〉《ひるがえ》した。〈慇懃〉《いんぎん》な態度とは裏腹に、その足取りからは明確な拒絶の意志が見て取れる。  本来なら、口を利くのもおぞましいといったところか。 「やれやれ、どうも嫌われていますねぇ」  だが、それも当然だろう。  うら若き乙女に嫌われるのは切ないことだが、関係の改善などという無駄な努力に戯れるほど暇でもない。  私は忙しい。  欲しいものがあるしやりたいこともある。  欲望は止め処なく湧き〈出〉《いず》り、この胸を焦がしている。  それは聖職者としても、彼の立場的にも相応しくない思想だったが…… 「残念ながら、私は俗物なのですよ。 〈誰しも死の前に幸福を得ることはできない〉《ネモ・アンテ・モルテム・ベアトゥス》――そんな戯言、欠片も信じられないのでね」  そうだ、私は忙しい。女子供の夢物語を実現するには、裏で骨を折る悪魔が一人くらいは要るだろうから。  時間がない。いずれ鬼が戻ってくる。  その時のために、今は打てるだけの手を打っておこう。  してみれば、今宵の歌劇もなかなか面白くなりそうではないか。 「でもさ、あの神父さまステキだよね。お父さんみたいな感じがして」  教会からアパートまでの道中、そして帰って来てからも、香純はそんなことを言っていた。 「ちょっと頼りないし変人っぽいけど、なんか愛を感じるじゃない?あたし結構羨ましいな」 香純がこういうことを言うのは珍しい。他人を羨むということも、それが“お父さん”という存在についてであることも。 こいつは父親を亡くしている。 俺も両親がいない。 ゆえにその辺の話題は、互いになんとなく避けるのが暗黙の了解みたいになっていた。 「蓮はどう思う?」 「ん……」 俺は少々言葉に詰まるが。 「いいんじゃないか、仲良さそうで」 「だよねっ」 まるで我が事のように笑う香純が、ちょっと奇異に見えてしまった。 いや、そんなことで戸惑う俺が、性格悪いだけかもしれない。 氷室先輩も、シスターも、トリファ神父も、血縁なんかじゃないだろうに家族のような関係だった。それは素晴らしいことだろうし、そのことを賞賛する香純がおかしいわけないだろう。 おかしいのは、俺だ。 「なに、どうかした?」 なんでもないと応えてから、気持ちを切り替える。 珍しいことではあるが、香純がそういう話をしたいなら特に拒絶する理由もない。神父さんにも言ったことだが、俺は顔も知らない両親に何の感慨もないのだから。 「で、おまえはホームシックにでも掛かったのか?」 「んー、ちょっとね。蓮はどう? ウチのお母さんに会いたい?」 「あの人……俺を女装させようとするから苦手だ」 「あはは、そういやそうだったねぇ」 そう。 俺に両親はいない。親戚筋もいない。 だから、父親の親友だったという香純の親父さんに引き取られ、物心つく前から綾瀬家に居候させてもらっていた。 そういう意味で、俺と香純は幼なじみというより兄妹に近い。こいつは姉弟だと言い張るが、真面目に考えてこんな姉は要らない。というか俺の方が誕生日は早い。 金の問題は両親の遺産みたいなものがあるので気にしないでいいと言われていたし、最低限の養育費以外は、そこそこ自由に使えるようにもなっている。 感謝してるんだ、こいつの家には。 もちろん、こいつ個人にも。 「でね、でね、あたしらが小さい時、一度お父さんが蓮を正式な養子にしようとしたことがあるんだって」 「でもそれ、お母さんが大反対して結局お流れになっちゃったらしいんだ。なんでと思う?」 「ん、いや……」 「んふふー」 「……なんだよ」 にこにこしながら、香純が顔を近づけてくる。何を言う気なのかと思いきや、 「そんなことしたら、香純と蓮が結婚できなくなっちゃうでしょーーっ!」 ズガーン。 と、効果音が鳴りそうな勢いで言うことかよ、それ。 だいたい、ちょっと待て。 「確か三親等以内の血族じゃない限り、養子だろうがなんだろうがOKじゃなかったか?」 「そうなの? 詳しいんだね、蓮。調べたの?」 「…………」 「えへへへへ~」 なんだその、はてしなく邪悪な笑みは。 「どうして蓮は、そんなに詳しかったりするのかなぁ?」 「……常識の〈範疇〉《はんちゅう》」 「ほんとにぃ? あたしとお母さんは知らなかったよぉ?」 「ねぇ、なんでかなぁ?」 「……そういうマンガとか、結構あるだろ」 「蓮、あんまりマンガ読まないじゃ~ん」 言いつつ、香純がナメクジのようににじり寄ってくる。 恐い、というかキモイ。 「あたしたち、実は許嫁だったのよぉ?」 「…………」 「ねぇ」 「…………」 「ねぇねぇ」 反射的に、チョップが出た。 「あいたぁっ」 「た、た、た、た……」 「いったいわねあんたいきなり何してくれんのよっ!」 「不気味な動きで近寄ってこないでくれ、痴女」 「痴女っ!?」 chijo――男性に対しセクハラい真似をしてくる女性、またはその行為。 「痴女、ちじょ、チジョウノアイトヘイワヲマモルタメ……」 「おまえアタマ大丈夫か?」 「あー、うっさい! おでこ触るな熱なんかない!」 「てゆーかアレでしょ、あんた照れてるからいつもそんなことばっか言うんでしょ、ガキ」 「ロボトミー手術を受けてくれ、バカスミ」 「ちょっとっ、それ子供の時に禁句指定したアダ名じゃない!この練炭!」 「……(ピキッ)」 「れ~んタン」 「萌えキャラみたいに呼ぶな」 「れんタンは、どうしてそんなに素直じゃないかな?」 「キミはどうしてそんなにおマヌケなんだ?」 「なにーーっ!?」 馬鹿なやり取り。頭の悪い会話。何の意味もない、ガラクタのような日常。 それはいつもとまったく同じ、後になって思い出すこともないような、ありふれた一コマ。 俺はこの日、この一瞬を、なぜもっと深く噛み締めておかなかったのだろう。 油断していた。甘く見ていた。分かっているつもりで分かってなかった。 何事も永遠には続かない。いつか終わるということは、いつ終わっても不思議じゃないということに。 藤井蓮にとって何よりも大切な、〈司狼〉《しんゆう》と決裂してまで守りたかったガラクタが…… この夜、終わる。  さあ――それでは今宵の〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めよう。 「――――――」  まず、俺は何がどうなっているかを認識することができなかった。 「……え?」  これはなんだ? どういうことだ? つい数秒前まで俺は自室にいたはずなのに、なんでこんなところで独りきり……  混乱覚めやらぬ思考のまま、辺りを見回す。間違いなく屋外だ。  冗談じゃない。酒に酔って記憶が飛んだとか、そんなわけでもあるまいに。 「どういう……ことだ?」  分からない。  いったい何がどうなっている。  記憶を〈手繰〉《たぐ》るのは、それほど難しいことじゃない。教会を出て家に帰り、風呂に入って就寝した。香純となにやら話したような気もするが、どうせつまらないことだろう。今、この状況においてはどうでもいい。  大事なのは、俺にとって最後の記憶は就寝したということだ。ならばこれは夢であり、現実ではないことになる。  夢――つまりはそうなのか?  だが、そう仮定しても不可解なことが一つある。  なぜ、あの夢じゃないのだろう?  ここ数日、毎夜見ていた黄昏の夢。断頭台の悪夢。あんなものをこれ以上見たいとは思わないが、ここにきて別の夢というのもおかしな話だ。違和感を覚えるのも仕方ない。  頭上には月。凍えるような蒼い光。スポットライトを当てられたダンサーのように、俺はこの光の中で孤立している。  おかしい。  おかしい。  何かが妙だ。  意識はあるのに、身体の感覚を捉えられない。まるで眼球だけの存在になってしまったかのような、どこか浮遊にも似た曖昧な感覚――夢とはそういうものかもしれないが。  俺が俺を、制御できない。鈍い頭痛を覚えるが、やはり判然としないまま気持ち悪くて吐きそうになる。とても爽快な心地とは言いがたい。  つまり、これもまたやはり悪夢だ。趣旨が変わっても、不愉快な類であることに変わりはない。  俺は〈酩酊〉《めいてい》感を覚えつつ、ふらふらと歩き出す。いや、歩いているらしい、と言ったほうがいいだろう。意識して歩行しているわけではないし、大地を踏みしめている感触もかなり〈朧〉《おぼろ》だ。  知覚できるのは映像と、微かで鈍い頭痛だけ。そして、そして……これは鼓動か? どこか遠くの方からだろうが、〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈鼓〉《 、》〈動〉《 、》が聴こえてくる。  俺のじゃない。なぜかそれだけは理解できる。……それが徐々に、徐々にだが近づいてくるような…… 「――づっ、あ――」  いきなり、首に焼けるような痛みが走った。 「――――ッ、ぎ、が、――」  痛い……なんてものじゃない。まるで焼けた有刺鉄線で〈絞殺〉《こうさつ》されかかっているような……その激痛に比例して、例の鼓動が近くなる。  音は止まない。頭の裏側に、別の心臓が出来た感覚。  なんだ……これは……? 「――ッ、ぁ、―――ッ」  その間も首が絞まる。呼吸が出来ない。 痛みは際限なく増していく。  〈絞殺〉《こうさつ》なんて生易しい。 ミリミリと肉に食い込んでくるこの感覚――  これは俺の首を捻じり切ろうとしてやがる。 「ぐっ……」  ワケが分からない。なんで俺がこんな目に……  もしかして、このままいったら八人目の犠牲者は…… 「ぐああああッ!」  突然、骨を削り取るような痛みが走り、悲鳴をあげた。  血は……出ていない。だが、分かる。  すでに俺の首と胴は、骨一本で繋がっている状態だということを。  ギリ……ギリ……と少しずつ、頚骨が削られていく。  頭蓋の中にある別の心臓……それが活性化していくのを感じ取る。  酷い違和感。  まるで生きながら、別の生き物に脱皮させられているかのような……  ――――――――――  なんだ?  今一瞬、何かが耳元で囁いた。  ――――――――――  分からない。いったい何を言っている。  すでに痛みは限界を超え、この場でのたうち回りたいほど追い詰められている状況だ。  不明瞭なノイズめいた囁きを、しっかりと聞き取れる余裕はない。 「―――づぅぅぅ」  首の軋みはなお激しくなり、ブレーカーを落とされたかのようにバツンと視覚が遮断された。  その暗闇の中で音が響く。  早く。  早く。  早く。  早く。  ガツガツと頭蓋を突き破りかねない鼓動の音が、ノイズと合わさり言語めいたものへと変わっていった。  それはどこか、聞いたことのあるレクイエムに。 Dies irae, dies illa solvet saeclum in favilla,teste David cum Sybilla. Quantus tremor est futurus,quando judex est venturus, cuncta stricte discussurus. Tuba mirum spargens sonum per sepulchra regionum,coget omnes ante thronum. Mors stupebit et natura,cum resurget creatura,judicanti responsura. Liber scriptus proferetur,in quo totum continetur,unde mundus judicetur. Judex ergo cum sedebit,quidquid latet apparebit,nil inultum remanebit. Quid sum miser tunc dicturus?Quem patronum rogaturus,cum vix justus sit securus? Rex tremendae majestatis,qui salvandos salvas gratis,salva me, fons pietatis. Recordare Jesu pie,quod sum causa tuae viae,ne me perdas illa die.Quaerens me sedisti lassus,redemisti crucem passus,tantus labor non sit cassus.Juste judex ultionis,donum fac remissionisante diem rationis.Ingemisco tanquam reus,culpa rubet vultus meus, supplicanti parce, Deus.Qui Mariam absolvisti,et latronem exaudisti,mihi quoque spem dedisti.Preces meae non sunt dignae,sed tu, bonus, fac benigne,ne perenni cremer igne.Inter oves locum praesta,et ab hoedis me sequestra,statuens in parte dextra.Confutatis maledictis,flammis acribus addictis,voca me cum benedictis.Oro supplex et acclinis,cor contritum quasi cinis,gere curam mei finis.  頭が割れる。首が切られる。内側から溢れ出すワケの分からない単語の羅列が俺の脳を駆け巡り、正気を保っていられない。  痛みの激流に抗うように、必死になって〈縋〉《すが》っていた理性という名の心棒から、俺はその手を―― 「づっ――ああァッ!」  放してしまった。  そうして、首は切断される。  ぐるん――と世界が裏返った。  頭痛はない。吐き気はない。〈酩酊〉《めいてい》感も消えている。視覚聴覚のみならず、全ての感覚が復活していた。 「―――は」  それも当然。首から上がすげ替われば、前の首が持っていた不快感など消え去るのが道理だろう。  張り詰め、先鋭化していく〈数多〉《あまた》の感覚。しかし反面茫洋で、どこか他人事のように思える曖昧さはそのままに、首は身体を操縦する。  挙動はまだぎこちない。主観が未だに揺れているのか、しかし藤井蓮の影響力はもはや軽微だ。問題視するほどでもないだろう。  じきに慣れる。すぐに慣れる。彼のことは誰よりよく知っているし、相性だって最高だ。  自分と彼は〈双頭の蛇〉《カドゥケウス》――二人で一人、表裏一体、陰と陽。  ああ、なんてロマンチックなのだろう。これを赤い糸と言わずに何と言う。  首はケタケタと笑いながら、夢遊病者の様子さながら、〈覚束〉《おぼつか》ない足取りで歩いていく。  何処へ? それは言うまでもなく――  獲物のところへ。  実際の話、それにとっては何でもよかった。別に犬でも猫でも構わない。  血があって、命があって、それ相応の刻み甲斐――つまり湧き上がる破壊衝動を満たすだけのサイズがあれば、たいして選り好みをする気はないのだ。  近場に動物園でもあったなら、そこで象でもキリンでも相手にしたろう。しかし、残念ながらそんなものはないわけで、別のものを狩るはめになってしまう。  すなわち……あえて言う必要もないのだろうが。  人間である。 「――あの」 「――すみません」  声が、口から零れ出た。 「よければ、公園の外までご一緒させてもらえませんか? ……怖くて」  ぎょっとこちらを振り向いたのは、二十代半ばの女性。水商売でもしているタイプか、派手な化粧とスーツ姿が印象的だ。  首はさらに言葉を継ぐ。 「友達とはぐれちゃって、電話したら、入り口で待ってるから早く来いって言われました。薄情な奴等ですよね」  微笑する。安心させるように、甘えるように、好きな相手を口説くように。 「駄目ですか?」  こうした場合、険がなく、優しげで、〈柔和〉《にゅうわ》な外見というのは隠れ蓑として最適である。  女は苦笑しながらも、首の願いを聞き入れた。しょうがないわね、などと言いながらも、口調に微かな安堵がある。彼女も恐れていたのだろう。  ああ、間抜けだな。  首がそんな印象を抱くのと、まったく同時のことだった。  それは右からだったか左だったか、本人すら認識できず記憶にもない。  ただ電光の迅さで振りぬいた刃の軌跡が、残像として目に残るだけ。  女の首は、一撃で切断されて宙を舞った。  のみならず、飛んだ首が地に落ちるより早く胴が五つに分断された。  抵抗はゼロ。奇術のようだが、これは元に戻らない。  女の身体が〈達磨〉《だるま》落としさながらに、ばらばらのブロックとなって四散する。  ぐるぐると回転を続ける手の上に、すとんと生首が落ちてきた。最前と同じく、やや引きつった笑みを浮かべた顔のままで。  それがもう一度宙を舞い――  中心から真っ二つに断ち割られた女の顔が、血と脳髄を撒き散らしながら花火のようにバラけていった。 「――く、ははっ」  噴き上げてくるのは、天を衝く〈哄笑〉《こうしょう》。 「あは、あははは、あはははははははははははははははは」  ギチギチと背骨が軋む。嬉しいのか怖いのか、あるいはその両方か。這い上がってくる蟲の〈蠕動〉《ぜんどう》めいた感覚に、釣られて顎がカクカク揺れる。止まらない。 「はは、はははは、あは、あははは、あははははははははははは」  笑いの発作はなお止まず、頭の中では〈数多〉《あまた》の思考が乱反射する。  まるで粗悪なドラッグでも舐めたような、サイケデリックでカオスな感じの超最低かつ最悪テンション。ああもう――なんて気持ちのいい。  あまりに気持ちいいものだから、勝手に首から上が切り換わる。  ジャガッ――  ジャガッ――  ジャガガガガ――  猛スピードでスイッチしながら、世界がストロボのように点滅する。  ジェットコースターとフリーフォールと、ほらなんだっけあのコーヒーカップが回るやつ。それらを足して3乗したら、きっとこんな感じになるだろう。  殺人の興奮。略奪の愉悦。絶対的な暴力に、それは骨の髄まで陶酔する。  今ごろになって、周囲十メートル以内にあった外灯やらゴミ箱やらが女と同じくバラバラに分解された。――あはは、勢い余ってそこまでいったか。  だから――  ねえ、もう少し――  遊ばせてくれてもいいんじゃあ――  残念ながらそうもいかん。どうやら嗅ぎつけられてしまったらしい。  バツン――と世界が閉じられた。  それはまるで、死のように……存在を否定されて〈排斥〉《はいせき》された彼女のように。  ギロチンに断たれて殺される、あの夢とまったく同じ感覚だった。  ああ、つまりこれもまた夢。  だから眠れ。このまま眠れ。目を覚ましては……  いけない―― 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白い骨、ピンクの臓物、黄色い脂肪、赤い筋肉、灰色の脳髄、濁った眼球、茶色い髪の毛……冷気にあてられて湯気すらあげるそれらから、鼻腔を抉るような血臭と死臭が流れてくる。 なんだこれ? なんでこんなものがここにある? この期に及んでそんなことを考えている自分のことが、どうしようもない馬鹿に思えた。 そうだ、部分的にだが覚えている。この物体が、さっきまでどんな形をしていたのか、どんな顔をしていたのか。 どんな風に―――― コ ロ シ タ ノ カ 「――ぐっ、げぉぉ」 内臓ごと身体が裏返りかねない勢いで、俺は〈吐瀉物〉《としゃぶつ》を撒き散らした。 「げぇっ――、がっ、ぐぉォ――」 血臭に反吐の匂いが混じる。寒々とした月光の下、赤い〈靄〉《もや》が見えるほどの血にあてられて、俺は胃を〈痙攣〉《けいれん》させた。 夢じゃない。夢じゃない。夢じゃない。夢じゃない。この寒気もこの熱さも、匂いも映像も何もかも―― 「俺がやった……ことなのか?」 「違うのかよ?」 「――――――」 「………なっ」 驚愕、した。 不意に声を掛けられたことよりも、それによって自分が取った行動に。 俺は今、四つん這いのまま何メートル後方に跳躍したんだ? 「ほぉ……」 愉快げに目を細め、こちらを見つめているのは知らない男。 こいつの位置が先ほどまで自分がいた所だとするのなら、俺は一瞬で十メートル近く飛び退ったことになる。 「いい反応してるな、ガキ」 にこやかに、穏やかとさえ言える声で、足下に散らばる死体を意にも介さず男は言った。 その様子には、死者に対する遠慮や畏敬など微塵もない。まるで空き缶でもそうするかのように、半片になった女の顔を無造作に踏み潰している。 「―――ぁ」 瞬間、形容しづらい悪寒が脳天から爪先まで走り抜けた。 “獣が来るぞ” 意識を取り戻す寸前に、誰かがそう言わなかったか? 「ぁ――っ、く―――」 やばい。こいつはやばい。身体中の全神経全細胞が警戒警報を鳴らしている。 死体を見たとか、誰が殺したとか、そもそもなぜ俺がこんな所にいるのだろうとか、些細な困惑など残らず吹き飛んでいく。 眼前に在る桁外れの脅威。 それは猛獣などと評するのも生易しい。何か得体の知れない人外の、怪物の鬼気とも言うべき異次元のプレッシャー。 突如現れた凶源に、その他一切の思考が駆逐された。 〈こ〉《、》〈い〉《、》〈つ〉《、》〈は〉《、》〈違〉《、》〈う〉《、》。 〈人〉《、》〈間〉《、》〈じ〉《、》〈ゃ〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。 「よぉ、なんか言えよガキ。こっちは気ぃ遣って、猿用の言葉で話してやってるんだぜ」 「口利けねぇってわけでもねえだろうが」 「――――ッ」 男が一歩、足を踏み出す。 さらに〈喚〉《わめ》き散らす警戒警報。それは本能に近い直感だった。 逃げろ―― ――〈喰〉《 、》〈い〉《 、》〈殺〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈ぞ〉《 、》。 無意識のうちに身体が動いた。先ほどの跳躍同様、いやそれ以上の速度で飛び退り、一気にこの場からの離脱を図る。 だが―― 「ばあ」 「―――ッ」 その試みは、背後にいた女によって阻止された。 冗談じゃない。今、俺は全身全霊、それこそ火事場のなんとかいう力を発揮する勢いで跳んだはずだ。たとえ障害物があったとしても、大抵のものは薙ぎ倒していたに違いない。 なのに、どうして、 「ねぇ、なんで逃げようとするのかな?」 どうしてこんな、吹けば飛ぶような女を突破できない。掴めば簡単にへし折れそうな細腕に妨害されてる。 軽く胸元を押さえられているだけだというのに、ぴくりとも身体が動かないのはどういうことだ。 「ぐッ……」 重い。それは信じられないほどの重圧だった。 まるでこの女の中に、数百を超える人間が詰められているかのような…… 「ねぇ、ベイ」 「この子、面白いわよ。わたしのナハツェーラーに抗おうとしてるみたい」 「へぇ」 先ほどの、白貌の男がにやにやしながら俺を見ている。逃げられるとでも思ったのかと、〈嘲〉《あざけ》るように笑っている。 その絶望的な人外感。笑いたくなるほどの非日常性。 こいつらは、同類だ。 人間じゃなくなるほど人間を殺している。 人間を喰うことで、人間より上の位置に達している。 「ツァラトゥストラ……だったか? メルクリウスの代わりにしちゃあ、えらく役者不足に見えるがよ」 「どうするマレウス、遊んでみるか?」 「そうねぇ、鉄は熱いうちに……なんだっけ? この国の諺だったような気がするけど」 「……ッ」 傍にいるだけで脳が揺すられ、意識が吹き飛びそうになる。 押し寄せてくるのは、尋常でない密度の血臭と死臭と腐臭の混合。 耐えられない。これ以上こんな奴等の気にあてられたら、それだけで潰れてしまう。 「あんた、ら……」 とにかく、何かしなければ……身体が動かないならせめて口だけでも動かして、そこからこの金縛りを解くとっかかりを掴まなければ…… 「なんだ……? 俺にいったい、何の用だ?」 「うん? 凄いね、あなた。喋れるんだ」 「普通の人間なら、気絶するくらいのことはしてるつもりなんだけどなぁ」 「意識があるだけじゃなくて、口も利けるか。うぅん、これはいよいよ堪んないね。わたしゾクゾクしてきちゃうよ」 言いつつ、俺の胸元から首にかけて、女は指を這わしながら訊いてくる。 「あれ、あなたがやったのかな?」 バラバラに切り刻まれ、地面に散らばっている女の死体。それは俺がやったのかと…… 「雑で荒いし、綺麗じゃないよね。少なくともわたしの知ってるあいつの趣味じゃないようだけど」 「メルクリウスの聖遺物がなんだったのか、わたしたちの誰一人として知らないのよ。だから、あれだけじゃ特定できない。あなた、あいつの代理なの?」 「もしそうなら、野郎の聖遺物もこれと似たようなモンなのか?」 何を……こいつらは何を言ってる? まるで意味が分からない。 それに、そもそも…… 「知らない、俺は……」 俺は、本当にここで人を殺したのか? 目の前に死体はある。死体ができた瞬間の記憶もある。 だがあれは、本当に俺だったのか?現実逃避でも責任転嫁でもなんでもなく、あれが俺だったとは―― 「思えない……殺しなんか……」 見てはいた。それは確実。だがやったのかと訊かれれば断言できない。俺がそう答えたら…… 「はっ」 「あはっ」 「あは、あはははははははははははは」 「ははは、はははははははははははは」 〈躁狂〉《そうきょう》的に、栓のイカレた蛇口のように、二人は笑いを〈迸〉《ほとばし》らせた。悪意の塊みたいな嘲笑を。 それは聞いているだけで正気が薄れ、狂気が〈伝播〉《でんぱ》してきそうな不協和音の集合体。 おぞましすぎて、吐きそうになる。これは断じて、人間があげるような笑い声じゃない。 「くく、ははは、そうかそうか、おまえ違うか。そうだよなぁ、ああ、そうだろうとも。面白ぇ」 肩を震わせて笑いながら、男が俺の前に来た。 その目は、まるで笑っていない。全身が総毛立つ。 「面倒くせぇな、身体に訊くかよ」 「――――ごっ、はぁッッ」 無造作に腹を蹴られ、ボロクズのように飛ばされた。 「が、ぐ――、げぇぇッ……!」 なんだ、今のは……? まるで力を込めたとも思えない適当な一発で、もう半殺し同然の状態だ。確実に、アバラが4・5本持っていかれている。 「よぉ」 「ギィッ――」 「それで、もう一度訊くんだけどよ」 上体を起こそうとした瞬間に、左肩を踏みつけられた。ギシギシと音を立てて、関節が壊されていく。 「聖遺物はなんだ? てめえはどこでメルクリウスのクソと繋がってる?」 「………づッ、ぁ」 痛みで視界が明滅する。叫び声すらあげられない。 だが、そんな俺とは裏腹に、男の声音は限りなく軽薄だ。 「おいおい頼むぜ、サクサクいこうや」 「実際、拷問は得意じゃねえんだ。俺が相手してるうちに吐かねえと、おまえあっちの馬鹿女に本格的なの食らわされっぞ」 「ちょっと失礼ねぇ。馬鹿ってなによ」 「いーわよ。じゃあ手伝ってあげないんだから。あなたもたまには、繊細な仕事をしてみるのね」 「頭さえ残ってれば、最悪なんとかなるんだしさぁ」 「だ、そうだぜ」 「――――ッァァッ!」 折られた。……いや、脱臼か?左肩から腕の先が、ピクリとも動かせない。 「ちく……しょう!」 反射的に、俺は残った右手で男の足首を掴みあげた。何とかどかそうと力をこめるが、しかしまるでびくともしない。 「おい、触んじゃねえよ、気色悪ぃ」 「―――――ッ!?」 ……嘘だろ? 男は片足の力だけで、俺を宙に吊り上げた。そしてそのまま、廻し蹴りの要領で振り回す。 「――が、はァッ!」 たったそれだけで、海沿いの柵まで7・8メートル飛ばされた。 洒落にならない。このままじゃ冗談抜きで殺される。早く、なんとかして逃げないと―― 「だったら海にでも飛び込むか?」 「そのザマじゃ溺れちまうだけだろうが、まあ何でも試してみるのはいいことだ」 こちらの思考を読んだように、ふざけた調子で言ってくる。今ので事実上、その手段は封じられた。 ならどうすれば―― 「なあ、あんまりシラケる反応するんじゃねえよ。役者こいてんならたいしたもんだが、気の長い性分でもないんでな。もったいぶられるとどうでもよくなる」 「最後だ。てめえの聖遺物は?」 俺の真横にある鉄柵を蹴り曲げて、男が問う。数秒、そのまま沈黙が流れたが、やはり分からないことは答えられない。 死ぬのか、ここで? こんなワケの分からない状況に巻き込まれて、意味も意義もなく潰されるのか? 嫌だ。〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈展〉《 、》〈開〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 話が通じない相手には、説明や弁解など意味をなさない。そして同じく、容易に逃げられる相手でもない。 ならどうする? 言葉は何の役にも立たず、逃げることも至難の業。 理不尽で不条理なこの現状を、他に打開する手段といえば…… 「残念だなガキ、時間切れだ」 心底つまらなそうな声と共に、熊手のような一撃が振り下ろされた。拷問する気はもはや失せたと、それは雄弁に語りつつ俺の首へと落ちてくる。 殺意があった。死を感じた。喰らえば確実に絶命すると、本能で理解した。 もはや選択の余地はない。 さっき俺は死体を見た。それは俺が殺したのかもしれないし、違うのかもしれない。 ただ、その答えがどうであれ、無残なそれが目に焼き付いて離れない。 だから、思うことはただ一つ――俺はあんな目に遭いたくない。 手前勝手で、意地汚くて、浅ましい生への執着。そしてそれだけに何より強く、俺の中に一本の鋼が入る。 殺されてたまるか。壊されてたまるか。 動け。避けろ。足掻きぬけ―― 死にたくなければ、生きたければ、やることは一つだろう。 〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈で〉《 、》、〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》――  やるかね。ならば助言をしよう。  〈彼〉《ベイ》は現存する爪牙の中でも一・二を争う。  人の〈業〉《わざ》では、どう足掻こうが〈斃〉《たお》せぬよ。 「……ほぉ」 素手でベンチと鉄柵を抉り飛ばし、舗装された地面も〈穿〉《うが》った腕を戻して、男は笑った。俺は転げるようにして距離を取り、体勢を立て直す。  ゆえに、さてどうするねツァラトゥストラ。  ここで彼を実験台に、〈私の秘法〉《エイヴィヒカイト》を習得するかね。  退くか進むか――  私に未知を見せてくれ。 頭がぐらつき、今にも倒れてしまいそうだ。耳元で爆発が起きたような衝撃に三半規管が揺さぶられ、平衡感覚が狂っている。 だけど―― 「……躱せた」 今のも、そしてさっきまでのも、威力は洒落にならないが、決して躱せない速度じゃない。 恐怖に〈竦〉《すく》みさえしなければ何とかなる。もう、こうなればやるしかない。 「ふん、ちっとは俺好みの展開になってきたかよ」 嬉しそうに口を歪め、こちらへ向き直る白髪白貌。ここで背を向けて逃げ出せば、その瞬間に殺されるだろう。なら今できる最善の手は、何とかして隙を生み出すという一点のみ。 負傷はあるが、まだこれくらいなら司狼の時より温いと言える。やってやれないことはない。 ――戦え。 そして突破口を開くしか――  よろしい。ならばまず、君の思うようにやってみたまえ。  力の差を知るというのも、また必要なことなれば。 「なあマレウス、こいつ殺すぞ。文句はねえな」 「駄目って言っても聞かないんでしょ?いーわよ別に。あなた昔からそんなだしね」 「ただ、さっきも言ったけど」 「頭は残せか? まあ善処してみらァ」 うす笑いつつ、男がこちらに近づいてくる。仕掛けるなら先手必勝―― 「ああ、ちょっと待ちなさいよ」 「どうせやるなら、もう少しやる気が出るようにしてあげるわ。たとえばあなたさ……」 俺の初動に先んじて、女が口を挟み、割って入った。 それによって虚を衝かれ、一瞬空白になった思考の中に、信じられない言葉が飛び込んでくる。 「今夜、ついさっきまで教会にいたんだよね」 「――――――」 ……何? 「んだよ。そうだっけか?」 「そうよ、だったら手っ取り早いじゃない」 待て。 待て、おまえら何を言ってる? 「逃げるとか誤魔化そうとか、そういう気が起きないようにしてあげるから、もっと死に物狂いで頑張ろうよ」 「あなた、自分が痛いのには鈍そうな感じだし、こういう状況の方が火ぃ点くんじゃなぁい?」 「ああ、なるほど」 やめろ。その笑みはやめろ。 そんな、何を考えているのか馬鹿でも想像がつくような、吐き気のする笑みでくだらないことを言い出すな。 俺が教会にいたことを見たんじゃなく、聞いたような言い草だったことに違和感を覚えたが、すぐにそんなことはどうでもよくなる。 ただ一瞬にして、血の気が引いた。 恐怖感と焦燥感が、同時に背筋を這い登ってくる。 あそこには今日、香純と一緒に。 先輩に会いに行って。 彼らとも話をして…… 楽しかったんだ。いい記憶なんだ。まだ、しっかりと覚えてるんだ。 なのにそれを…… おまえらみたいな、別銀河の連中が同じ地球上の出来事みたいに語るんじゃねえ。 「もし逃げたら――」 へらへらと笑う女の声が、耳障りだ。 止めないと。何としてでも止めないと。 その先を……言わせてはいけない! 「あなたの友達、皆殺しにしちゃうからね」 「――――ッ」 瞬間、何か思考するより早く、俺は前に駆けていた。 まだ平衡感覚は狂っている。真っ直ぐ走れている自信もない。それでも俺は特攻して殴りかかる。 怖い。怖くてたまらない。こいつらをこのまま行かせたらどうなるか、想像するのが恐ろしくてたまらない。 だから飛んだ。思考が切れた。吠えも叫びも泣きもせず、ただ機械的に突貫した。 それを―― 「まあ待てよ」 「どうしたおい、急に勇ましくなったじゃねえか。つっても、女相手にキレる男ってのはいただけねえな。度量が知れるぜ」 渾身の特攻は、いとも簡単に止められた。 首を掴まれ、それ以上一歩も前には動けない。――どころか、こいつの手にほんの少しでも力がこもれば、頚骨をへし折られかねないのも分かっている。 だけど、退けない。 背筋を走る悪寒の質は、さっきまでとは別のものだ。 歯を食いしばり、拳を握り締め、全身がガクガクと震えてくる。 これは怒り。 ここでこいつらを放置したら、とんでもないことになるという恐怖心。 「ふん、逃げ打とうって気がなくなったんなら、追加で俺からも発破くれてやろうじゃねえか」 「もう質疑応答は終了だ。こっから先は口以外で語り合おうぜ。力見せろよ」 ……力、だと? 「心配すんなよ、手加減してやる。“武器”は出さねえし、片手だけでやってやっから、おまえは銃でもナイフでも念力でも呪いでも、なんでもいいから使ってみろや」 「おまえが実際何者だろうと、要は遊べるかどうかだしよ」 「暇してたんだ、長いこと。待つってのは辛ぇよなあ。もうシケた祭りじゃ満足できねえ。だからよ――これは最後のチャンスだ」 「俺にここまで譲歩させて、萎えるオチつけやがったらおまえ……」 ぐいと俺を引き寄せて、何でもないことのようにこいつは言った。 「この街、地図から消しちまうぞ」 「――――――」 目眩がする。 喉はガラガラで呼吸することすらままならない。 なぜこんな目に遭っているのか、なぜこんな奴等がここにいるのか、俺は何も分からない。 だが、一つだけ。 こいつは本気だ。 ここで進退を誤れば、本気で実行に移すだろう。 そしてそれが可能だろう。 どうしようもなく間違いなく情け容赦なく防ぎようもなく良心の〈呵責〉《かしゃく》もなく嬉々として笑いながら総てを総てを総てを壊して殺して根こそぎ刈り取り粉砕すると。 俺の大事な〈繰り返し〉《にちじょう》を、未知で塗り潰す異物が今、目の前にいるんだと。 確信する。 なら――戦わないと――いけないだろう。 「……そうだ」 「あん?」 〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈未〉《 、》〈知〉《 、》〈の〉《 、》〈経〉《 、》〈験〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈か〉《 、》〈望〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》〈戦〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 ゆえに――迷うことなど何もない。 振りぬいた右拳を男の顔面に叩き込み、その反動を利用して飛び退った。 無理矢理引き剥がした代償として、首の皮膚が裂かれている。動脈は無事のようだが、楽観視できる出血じゃない。加えて―― 「ぐぅッ……」 拳を襲う激痛も凄まじい。今の一発で、右手の骨は粉々に砕けていた。まるで岩の塊でも殴ったような衝撃だったが、しかし―― 「なんだ今のは? やる気あんのか、おまえ」 こいつは吹き飛ぶどころか、さっきの場所から一歩たりとも動いていない。尋常でないその存在密度は、俺の攻撃くらいじゃびくとも揺るがないのだろう。 だが、だからといって、こいつをこのままにしてはおけない。こんな男を、香純や先輩に関わらすわけには断じていかない。 「ベイ、分かってると思うけど……」 「ああ、すっこんでろマレウス。ご指名は俺だ」 苦笑気味に、くだらない雑魚にじゃれつかれた程度のことだと言わんばかりに、男は連れを下がらせた。殴った拳が砕けるほどの力を込めたにも拘わらず、その顔には痣の一つすら残っていない。 もう疑いの余地はゼロ。こいつは人間外の怪物だ。〈彼我〉《ひが》の戦力差は圧倒的で、正面からぶつかる限り勝てる要素は微塵もない。 ……いや、そもそも戦いとして成立させることすら怪しいだろう。 しかしそれでも―― 「――ぎィッ」 外れた左肩を〈嵌〉《は》め直し、砕けた右拳を無理矢理ねじって矯正した。まだ感覚が〈朧〉《おぼろ》な足には、そこらの木切れを突き刺して覚醒させる。 そうだ、退いてはいけない。 俺は俺を取り巻くちっぽけな世界を好いている。それは香純であり先輩であり、シスターであり神父であり、名前も知らない学校の連中も含めたこの街の総て。 それを維持するためなら何だってやる。知らないものなんか何も要らない。予想外の展開なんか求めていない。 たとえばそう、司狼のように、選択肢の総当たりなんかこれっぽっちもやる気はないんだ。 俺の人生は、退屈な一本道で構わない。 だから――邪魔なんだよ、おまえ。 ジャンル違いが、俺の話にのうのうと出てくるんじゃねえ。  つまり、それは君にとって総てが既知であるという―― 「――――――」 なんだ? 一瞬、脳裏に走ったノイズのような思考があったが、しかしそんなものは忘却する。今、注視すべきはこの現状。 あの女が引っ込んだのは〈僥倖〉《ぎょうこう》だ。二対一という最悪の展開を避けるためにも、ここは〈日和見〉《ひよりみ》を決め込んでいてほしい。 あとはこいつを―― この男を、なんとかして出し抜いてやる。正面から〈斃〉《たお》すことはできなくても、きっと何か手はあるはずだ。 互いに武器を持たない素手同士。だが揮える暴力の規模においては、笑いだしたくなるほどの開きがある。 そういう意味で、さっきの一発は失敗だった。右拳を砕かれた今、もうこれ以上の下手は打てない。感情に任せて判断を誤れば、それがそのまま致命となり得る。 だから落ち着け。殺し合いじみた喧嘩は初めてじゃない。パニックに陥らず、冷静に、弱点を見極めてそこを潰す。 例えば目、例えば関節、化け物とはいえ人間の形をしている以上、急所は存在しているはずだ。 最悪、成す術がなくなろうとも、香純や先輩に危害が及ぶことだけは避けねばならない。 性根を入れろ藤井蓮。ここでぶっ壊されるくらいなら、〈司狼〉《あいつ》と切れてまで何を守ろうとしてたというんだ―― 「準備は済んだか?」 ゴキゴキと指を鳴らし、白貌の鬼が俺を見てくる。目眩すら覚えるその視線に、しかし威圧されている場合ではない。 「聖槍十三騎士団黒円卓第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイだ。名乗れよガキ、戦の作法も知らねえか」 「生憎と……知らないな」 こちらの素性が知れるような情報を、一切明かす気はないんだよ。 「名前が知りたきゃ吐かしてみろよ、白髪野郎」 「――面白ぇ!」 野獣の咆哮めいた叫びと共に、空を切り裂き男が迫る。繰り出してくるのは右の掌底――いや、これは鉤爪だ。胴がねじ切れる勢いで身体を捻り、その攻撃を回避する。 「ぐぅッ――」 ほんの僅かに掠っただけで、ごっそり服の胸元が裂かれていた。――のみならず、背後の外灯が握り潰されてへし折れる。 やはり、どう見ても人間業じゃない。こんなものをまともに食らえば、一発で内臓ごと持っていかれることだろう。 「はははっ」 男が笑う。その気になれば追撃して、俺を屑肉に変えることも可能だったに違いない。しかしあえてそれをせず、後退して距離を取るこちらの様子を楽しそうに眺めている。 舐めているのか、ふざけているのか、いずれにせよ好都合だ。本気になられる前に突破口を見つけなければ…… 「へぇ、こりゃ驚きだ」 「さっきに続いて二度連続かよ。ド素人に躱されるほど手ぇ抜いたつもりもねえんだけどな。俺が日和ったのかおまえがやるのか……」 「見たとこ鍛えてるってガラじゃねえが……くく、なるほど、いやいや本当にあのクソ野郎やってくれるぜ。おい、次はもう少し速く行くがよ……」 「てめえ、簡単に死ぬんじゃねえぞ――」 言いつつ、ゆらりと、ヴィルヘルムと名乗った男は奇妙に〈弛緩〉《しかん》した姿勢をとる。こいつの動きは格闘技とか武道とか、そういうお上品なものじゃない。 ただ無闇に速く、異常に重い。習って覚え、修めるような、努力次第で誰でもそれなりになれる程度の、貧弱な技術体系などまるで問題にしない純粋なる暴威の塊。 練習などしない。修行などしない。仮想敵など百万殺しても所詮は仮想。 実戦こそが全てだと―― 工夫は弱者の特権だと言わんばかりの力任せは、初めから強い奴特有の〈傲慢〉《ごうまん》さを誇示していた。 こういう奴はよく知っている。 そして、こういう奴とやり合うのは初めてじゃない。 ――死ぬ気で躱せ。 胸骨ごと心臓を抉り取らんと放たれた一撃を、俺は脇の下に通してロックした。そのまま突進の勢いを逆利用して反り返り、腕をへし折るべく極めにかかる。 スピード、タイミング、共に完璧。もう一度同じことをやれと言われても不可能なほどキレイに〈嵌〉《はま》ったカウンター。 文字通り全身全霊を込めた起死回生の技は、しかし―― 「で?」 「――――ッ!?」 腕を折るどころか、びくともしない。体格にそう差がないにも拘わらず、崩すことすらままならなかった。 馬鹿な……これはどういう! 「取らせてやってこの程度かよ。こりゃ見込み違いだったかな」 俺はそのまま、股間を蹴り上げる巴投げにシフトした。関節が駄目なら急所を潰す。これなら腕力の差は関係ない。 だが、〈怖気〉《おぞけ》が走るような音と共に、潰れたのは蹴った脚の方だった。 ふざけてる。冗談じゃないし有り得ない。こいつの身体は、いったい何でできているんだ―― 「どうした、おい? それで終わりか、根性見せろよ」 「ガッ、グァ――、ッ」 顔面を刈り取るようなアッパーを、咄嗟に交差した腕で受ける――が、威力を殺せず吹き飛ばされた。脳をぐちゃぐちゃにする衝撃に、嘔吐感が込み上げる。 「ご、ぁ……げぇ……ッ」 痛い。痛い。痛い――ちくしょう! 今のでガードした両腕もへし折れた。 血反吐を撒き散らしながら悶絶し、身体の被害状況を確認する。 両手、片足、アバラに内臓……まったく、これじゃああの時と同じじゃないか。せっかく退院したばかりなのに、好き勝手ぶっ壊してくれやがる。 だが、同じということは…… これくらいの負傷や痛みは、前にも経験しているのだから…… 「……まだ、まだ」 立てる、やれる、恐くない。 そんなもがく俺の様子を見下ろし、うすら笑うヴィルヘルムはやはり何のダメージも受けてなかった。 その背から立ち上る陽炎のような鬼気。捕食対象を観る人喰いの眼光。 ……来る! 続く攻撃は、先に宣言した通り片手しか使っていない。にも拘わらず速すぎる。 「――ぐぅッ」 そしてその一つ一つ、全てが致命の威力を持っていた。防御は不可能――掠っただけで肉が裂け、血が〈飛沫〉《しぶ》く死の旋風。 躱せない。いつまでも躱し続けられるものじゃない。 力学をまるで無視した〈片〉《 、》〈手〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈の〉《 、》〈多〉《 、》〈角〉《 、》〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》……桁外れの怪力がそれを実現させている。 しかも、これは徐々に速くなっていた。 一発躱す毎に少しずつ、まるでこちらの限界を測るかのように加速していく。すでに目で追えるレベルじゃない。 ゆえに勘――死線ギリギリで発揮される本能しか、俺が頼れるものはない。 だが所詮、それもジリ貧。 やおらヴィルヘルムの腕が有り得ない伸びを見せた。これまで一定のテンポで加速していた攻撃が、ここにきて一気に数倍――!? 「がッ――」 直撃を避けられたのは、運以外の何ものでもない。折れた右足が自重を支えきれずに転んだことで、結果的に命拾いした形になった。 どうやらまだ、ツキに見放されてはいないようだが…… 「……ッ」 アバラをへし折られた状態での運動は、気絶しかねない激痛を伴っていた。こんなことを何回も続ければ、肺に穴が空きかねない。 そしてそれ以上に、今一番の問題は…… にやついたまま、俺が立ち上がるのを待っているヴィルヘルム。こいつを攻略する手段が見当たらない。 その速さは、人間の動体視力と反射神経の限界を超え始めているように思える。おそらくまだ上がるのだろう。躱せるのは、奇跡が起きたとしてあと一・二発。 加え、こちらの攻撃が一切効かない。少なくとも、生身の打撃じゃどうにもならないと文字通り痛感した。 だったら…… 俺は傍の街路樹にもたれながら立ち上がる。 手足を折られた以上、代わりになる武器を確保しなければならない。 覚悟を決めろ。 「へぇ……」 こちらの意図を察したのか、ヴィルヘルムの殺意がより濃密になっていく。 そう。 こいつは俺を殺すつもりなのだから、殺し返す覚悟なしに戦えるはずがない。 横殴りの一撃が放たれる。喰らえば首から上が吹き飛びかねない攻撃を、街路樹を盾にしてやり過ごした。 結果、俺の胴回りはある街路樹が、真っ二つとなり木っ端に砕ける。恐ろしいまでの破壊力だが、ここではむしろ計算通り―― 宙を舞う木片から、瞬時に使えそうな物を選択する。先端が尖り、相応の太さがあり、武器として使えそうな形状の物―― つまり、即席の杭。折れた手では掴めないので、唯一無事な左足を使用した。 いわゆる胴廻し回転蹴り――踵と杭が垂直となるようポイントを合わせ、狙いはヴィルヘルムの喉元へ。 明確な殺意を乗せてそこに杭を叩き込む。殺人者になどなりたくないが、そうしなければ俺が死ぬ。他に選択の余地はない。 ゆえに、当然手加減などしていないし、ぶっつけ本番の曲芸も奇跡的に成功していた。 それなのに―― 「かはっ」 耳に届いたのは、小馬鹿にしたような嘲笑。 再び、ヴィルヘルムは俺の攻撃を躱しもせずに受け止めた。杭は刺さるどころか、先端から潰れて砕け散る。 信じられない。本当にいったいどういう身体をしてやがる。筋肉の薄い個所にすら、刺すことが出来ないなんて―― 「―――――ッ」 まずい。まずいまずい躱せ――! 「づぁッ――」 死に体に近い状態からの無茶な回避は、そのままダメージとなって俺の身体に跳ね返った。 今ので左のアキレス腱が切れたかもしれない。砕けた杭の破片は、その幾つかが俺の踵に突き刺さっている。 ……ちくしょう、嘘だろ。ここまでしても駄目なのか。 どういう種があるのか知らないが、こいつの頑強さはデタラメだ。急所を始めとする弱点が、存在しないようにすら思えてくる。 なら、いったい……どうやって? どうやって、勝つ? 「……ふん、しかし解せねえな」 「おまえ本当にそんなもんかよ?」 「…………」 「そこらの喧嘩自慢に毛が生えた程度の力でどうにかなると思うほど間抜けじゃあるめえ。キレたもん勝ちが罷り通るご都合主義はよ、シュライバーみたいな反則馬鹿以外にゃ起こせねえんだ。おまえにそういう素質はねえよ」 「それとも、くくく……カミカゼ主義ってやつなのか? 相変わらず東洋人はワケ分かんねえなぁ。気合いで勝てりゃあ、てめえら戦争に負けてねえよ」 そんなことは、言われなくても嫌になるほど分かっている。 今必要なのは、物理的な手段としての攻撃法。 隙を衝こうが、策を張ろうが、真っ当な手段でダメージを与えることは不可能だと理解した。 常識枠の暴力で、その〈埒外〉《らちがい》にいる者は〈斃〉《たお》せない。 ましてこいつは、ふざけているようでいて冷静にこちらの戦力を測っている。仮に何らかの手段を見つけることが出来たとしても、即座に対応してくるだろう。 だけど―― だからといって、俺はこのまま―― 「気に食わねえなぁ」 「おまえ、絶望が足りねえ。これから死ぬ奴の目をしてねえ」 「こんな戯けた国と時代じゃ、自分が死ぬって実感も持てねえのか? いいや、違うな。そうじゃねえ」 「覚えがあるぜ、そういう目ぇ……まるであのクソと同じじゃねえかよ。その、全て分かってますってなツラぁ……」 ぶつぶつと、誰に言うでもなく独りごちるヴィルヘルム。その視線には、無数の氷針がこもっていた。 「――――ぁ」 唐突、それに体温を奪われるような感覚。 嘔吐感と〈酩酊〉《めいてい》感と〈蟻走〉《ぎそう》感と〈掻痒〉《そうよう》感が、同時に襲ってくるような気持ちの悪さ。 「―――、――ッ」 呼吸が出来ず、瞬きも出来ず、指一本すら動かせない。 力が消える。奪い取られる。 まるで、生命力を略奪されているかのように。 いつの間にか、負傷個所から流れる血が蒸発を始めていた。 「おまえ、まさかな、もしかして……」 “自分がここで――死ぬ運命じゃないという確信を” 「くはっ」 「くく、くは、かははは……」 そうして一転、何が面白いのかヴィルヘルムは笑いだす。 抑えるように、堪えるように、ぶるぶると肩を震わせ、もう我慢できないと言わんばかりに―― 爆発する〈哄笑〉《こうしょう》。 「あは、あははは、あはははははははははははははははは――ッ!」 「あははは、かは、くははは、はははははははははははははは――ッ!」 「――面白ェなァッ!」 見開かれたその両眼は、サングラスの下からでも〈迸〉《ほとばし》る赤光を放っていた。 物理衝撃すら伴う鬼気が、突風めいた威力をもって俺の全身を打ちのめす。 この時―― 曲りなりにも意識を保つことができたのは、覚悟を決めていたからだろう。 もし、精神的に無防備な状態で今の凝視を浴びていたら、それだけで死んでいたに違いない。 「面白ぇ、面白ぇ面白ぇ面白すぎるぞこの虫ケラ劣等野郎ッ!てめえ、あのクソ気狂い馬鹿の腐れ理論を信じてんのか。笑わせるじゃねえか身の程知らずのカスがよォッ!」 「いいなぁ、いいぜおまえ。そそるぜ喰いてぇ堪んねぇ! 串刺して引き裂いて引き〈毟〉《むし》って、吊るして〈晒〉《さら》して吸ってやらァッ!」 狂喜――それは紛れもない歓喜の叫び。この男は、何か分からないことに喜び、そして激昂していた。 「侮辱だぜ。ああ冗談じゃねえ許せねえ!俺が小僧一匹殺れねえなんて、舐めてくれるじゃねえか相変わらずよォ!だったら試してやろうじゃねえか」 「ここでこのガキぶち殺せば、俺ぁてめえより上ってことだよなぁメルクリウス!」 押し寄せてくる殺意の波が、蒸発する血液が、俺の視界を赤く赤く染め上げていく。 目の前には凶人。タガが外れた本気の怪物。 その手加減なしの圧力に、俺は今、心臓が動いているかどうかも分からない。 ――死ぬ。 「ッゥオォォラアアァァァァッ!」 迫り来る致死の凶腕。それがやけにゆっくり見えるが、食らえば頭蓋を粉砕されて一撃のもとに即死だろう。 なら俺は――俺はここでこいつに殺される者として、そうなるべく死ぬのだろうか? 本当に? 俺はここで――? ――死ぬ、のか?  君は、既知感というものを経験したことがあるだろうか。  既に知っている感覚――  それは五感、六感にいたるまで、ありとあらゆる感覚器官に訴えるもの。  たとえばこの風景は見たことがある。  この酒は飲んだことがある。  この匂いは嗅いだことがある。  この音楽は聴いたことがある。  この女は抱いたことがある。  総ての事象は、以前に経験したことがある。  ならばどのような幸福にも喜びはなく、またどのような脅威にも恐れはない。  あらゆる感動を捨てる代わりに、君は君だけの楽園を手に入れられる。  そこでは何も壊れず、また奪われず、ただ繰り返し繰り返し既知の出来事を反復するのみ。  大局的に観るならば、それこそが時間という概念の否定ではないだろうか。  真なる意味で、何かを失うことなど有り得ない。君を取り巻く有象無象は、無限に死んで無限に生まれる。水車のようだと思えばいい。  水はただ汲まれ続け、流れ続け、回り続けて繰り返すだけ。  人も世界もそういうものだと自覚したらば、何を恐れることがあろうか。  君は日々の感動なぞ求めていまい。  未知を渇望する私と異なり、既知を是とするのが君の本質であるゆえに。  さあツァラトゥストラ――  君の願いを叶えるために用意した、贈り物を受け取ってはくれないか。 “彼女”は君と逢うために、君は“彼女”を使うために。  この世に生まれてきたのだから。  忌まわしい娘。呪われた娘。哀れな娘。罰当たりな娘。  彼女を憎み、彼女を愛せ。彼女を護り、彼女を壊せ。  彼女は世界の特異点。摂理の〈埒外〉《らちがい》に身を置く存在。  死者であって、死者ではない。この世の概念から外れている者。  永劫。無窮。不滅なるもの。神性。無限。死後の生。  ――エイヴィヒカイト。  聖遺物を操り、法則を破壊する術こそがエイヴィヒカイト。  私が編み上げ、盟友とその下僕たちに授けた秘法の銘がエイヴィヒカイト。  しかし、その真なる後継者は君をおいて他にない。  君に彼女を与える事が、その証明だと思ってほしい。  そう、たとえば――  彼を見ろ。君を殺さんとしている彼もまた、エイヴィヒカイトを操る一人。  千を超える魂を喰い、自己を強化している獣の爪牙を名乗る一人。  だがそれは、今の君が太刀打ちできない相手だという意味ではない。  聖遺物は魂を求めるゆえに、彼らは殺せば殺すほど、喰らえば喰らうほど強くなる。  しかし私は、数が質を圧するなどと説いたつもりは毛頭ない。  よろしいかね、ツァラトゥストラ――  私が君に贈るのは、人類最悪にして最美の魂。  彼女と共にある君が、たかだか千や二千の〈雑魂〉《ざっこん》ごときを、凌駕できぬはずがあるまい。  断言しよう。  君が“完成”した暁には、我が盟友に匹敵する存在にすらなるだろうと。  私はその時が待ち遠しい。  ゆえに彼女の魂と、魔法の言葉を贈らせてくれ。  〈時よ止まれ〉《Verweile doch》――〈おまえは美しい〉《Du bist so schön》。 無限に感じる刹那――秒を幾百幾千幾万幾億にも切り刻み、もはや停止しているといって過言でもない虚の〈空隙〉《くうげき》に、俺は奇妙な対話を終わらせていた。 迫る致死の一撃は、未だあんな所をのろのろと進んでいる。 躱せるだろうか? 躱して反撃できるだろうか? 反撃するならどのように? 両手は壊滅状態で、同じく両足もイカレている。仮に頭突きや噛み付きを試したところで、また砕かれるのが落ちだろう。 普通の攻撃じゃあ意味がない。ただの打撃や斬撃じゃあ、こいつの装甲は貫けない。 ならばどうする? どう戦う? 魂を破る技を、魂を喰らう術を。 永劫回帰の崩壊を―― 俺は―― それを―― 〈既〉《 、》〈に〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》―― ――そして、再び時は動きだす。 「ベイ……おまえは何をしている」 〈怜悧〉《れいり》ながらも、微かな苛立ちを含んだ声。我に返った俺が最初に知覚したのはそれだった。 眼前には、〈猛禽〉《もうきん》の爪のような形で〈膠着〉《こうちゃく》しているヴィルヘルムの手。そのまま放たれれば顔面を豆腐のように抉っていたであろう一撃を、横から片手で掴み止めているのは黒髪の女だった。 「何のつもりだ、レオン」 「てめえはなぜ、俺の楽しみを邪魔しやがる」 「まず、こちらの問いに答えてほしいな、カズィクル・ベイ中尉殿。おまえはいったい、何をしている」 「何をしているか、だと?」 「見て分からねえか、試してるのさ。ここでくたばるようなボンクラなら用はねえ」 「なら、彼は合格だろう。経緯はどうあれ、生き延びた」 「先の問いには、おまえの行動が聖餐杯猊下の意向を逸脱しているからだと答えよう。さらに言うなら、この件は私に一任されている。こちらの指揮には従ってもらいたい」 「俺がおまえの指揮下にあるだと?」 「猊下から聞いていないとは言わせないぞ。理解できなかったのなら、もう一度私から分かりやすく言ってやろうか」 ヴィルヘルムの右手首が、ギチギチと軋むような音を立てた。俺がどんなにしても傷一つ負わせられなかった肉体が、女の〈繊手〉《せんしゅ》に宿る握力で悲鳴をあげている。有り得ない現象だ。 「彼に関して、おまえに生殺与奪の権利などない。これ以上逆らうなら、黒円卓に対する叛意と見なすぞ。おまえの名誉は忠誠ではないようだからな」 「―――――」 「くはっ……」 「かは、くは、くははは……」 「面白ぇ――叛意ときたか。了解、了解したよお嬢ちゃん」 「黒円卓が出来た時に生まれてもなかった奴に言われちゃお終いだが、おまえが正しい。ああ正しいとも。名誉は大事だよなぁ、名誉はよ」 「だからこのガキのことはもういい。知らん。バラそうが逃がそうが、股ぐら開いて乗っかろうが好きなようにするがいいやな。――けどよ」 「おまえはなんで、俺に触れてる?」 「……何?」 それは唐突。 〈訝〉《いぶか》る女に、ヴィルヘルムは極大の怒気を叩きつけた。 「てめえは、劣等の分際で、何を馴れ馴れしく俺の身体に触れてやがるって言ってんだよォッ!」 「――――ッ」 「――が、ぁ」 地雷が爆発したような咆哮と同時――俺は女に足を払われ、肩の当身で吹き飛ばされた。その衝撃で内臓がグチャグチャに〈攪拌〉《かくはん》され、嘔吐感が込み上げるが、それについて不平を漏らす気にはなれない。 なぜなら今、彼女にそうされなければ確実に死んでいた。ヴィルヘルムの怒気が一瞬だけ垣間見せた映像に、俺は死を連想していた。 「……ぐッ」 吐く。血混じりの胃液をみっともなくぶち撒ける。自分がまだ生きているということが、信じられない奇跡に思える。 奴等は…… 「……やってくれるな。死にたいのか、ベイ」 「そりゃあこっちの台詞なんだよ。四半世紀も生きてねえチンケな猿が、誰にタメ口きいてやがる」 一触即発の睨み合い。いったいこいつらは何なんだ。 「殺す気だったのか?」 「それはてめえが防ぐんだろうが、レオンちゃんよ。事実そうなってるじゃねえか」 「…………」 「くく、かははははははは……濡れたか? 勃ったか? 発情中か?猿同士で乳繰り合いてえんだろうが劣等野郎。見ててやるから淫乱しろや」 「……殺すか」 「やってみろよぉ」 とにかく。 今、奴等の注意はこちらにない。動くなら―― 「ばあっ」 「―――ッ」 再び、こいつ。またしても…… 「んふ、んふふ……そんな顔しないでよ。別に酷いことなんかしないからさぁ」 「ねえ、一つだけ聞きたいことがあるんだけど」 「あなた、さっき何かしようとしてたでしょ?」 「――――」 それ、は…… 「わたしの目は節穴じゃないんだよねー。あっちの筋肉バカ二人と一緒にしてもらっちゃ困るのだよ美少年くん」 「あの時止められなかったら、あなたは何をしていたの? 何をやろうとしていたの? そしてどうなっていたのかな?」 「ほんと、空気読めない子って嫌だよね。余計な邪魔入れちゃうから、いいとこ見逃しちゃったじゃないの」 「でもま、それなりに楽しかったよ」 「だ・か・ら・ね」 つ、とその手が俺の胸に添えられた。それから腕へ、足へ、全身の負傷個所を撫でるように擦っていく。いったい何を…… 「いわゆる応急処置なのだ」 「面白いものを見せてくれたお礼だね。痛いの消してあげるから、あとでちゃんと病院行くのよ。飛んだり跳ねたりしたら駄目だからね」 「て、なーによその顔、人が親切心出してるのにさぁ」 「…………」 冗談なのか本気なのか、まるで理解できないが、それについて何か言うような状況じゃない。 「んー、まあいいや。特別に許してあげよう。それからさっきはごめんなさいね。教会がどうとか、冗談だから。てゆーか、そんなことできないから」 「……?」 「な・の・で」 とん、と俺の眉間に指を突きつけ、囁くようにこいつは言った。 「今夜はこれで、お終いにしよ」 同時に、俺の身体は制御を失い、膝から地面に崩れ落ちた。 「はぁいはぁーい、終了撤収ー、ほらそこ、いつまでジャレてんのよぉ。やめてくれないとわたし泣くよー泣いちゃうよー、わたしが泣くと大変だよー、だから仲良くしよーよー」 そんな、気の抜けた仲裁の声を聞きながら、俺の意識は途切れていった。 ……………… ……………… ……………… 「……うッ」 「が……はッ」 いったい、どれくらいの間気絶していたのだろう。ほんの数分かもしれないし、数時間かもしれない。 ともかく、不意に目覚めた俺は、誰かが活を入れてくれたらしいことに気付き、振り返る。 そこには…… 「……………」 黒髪の……そう判断していいのか微妙だが、俺を助けてくれたらしい女。彼女はつまらなそうな顔のまま、じっとこちらを見据えている。 他には周りに誰もいない。ヴィルヘルムも、赤い髪のあの女も。 そして、死体も……血痕さえも。 馬鹿な、これはどういう…… 「処理はマレウスがやった。それからベイも、今はあなたとあなたの周りに興味を無くしたようだから、心配は要らない」 「…………」 「どうかした?」 こちらの疑問を先読みされて面食らったが、よくよく考えればそう難しいことじゃないだろう。 処理とは、死体をということか。どうやって影も残さず……いや、よそう。そんなこと知りたくもない。 俺の様子を見て察したのか、女は軽いため息をつき、 「理解に至ったようなら、帰りなさい」 「忘れろ、と言っても無理でしょう。忘れてもらっても困るけど、今日のところはもうあなたに用はない」 「せいぜい、交通事故にでも気をつけることね」 「な……」 「身体は平気?」 「…………」 「平気みたいね。立って帰ることくらいはできるでしょう」 「それで、あなたの名前は?」 「…………」 こちらの心情など気にもかけず、こいつは好きなことを言ってくる。 帰れだと? ああ、帰ってやるさ。だが名前なんか…… 「……教えるわけがないだろう」 「ベイのことなら、心配ないと言ったはずだけどね」 「おまえを信じろって?」 「こんな嘘をついて、私に何か得があるなら教えてほしい」 それは確かに、そうなのかもしれないが…… 「自己紹介、しないの?」 「…………」 「藤井蓮……ただの学生だ」 一瞬偽名を使おうかとも思ったが、結局俺はそう答えた。 当面の危機が去って気が緩んだのか、それともこいつが、少なくとも日本人のようだからどこかで安心していたのか。いずれにせよ、あまり頭のいい選択ではなかった気がする。 一応、二度命を救われた相手ではあるんだが…… 「……そっちは?」 何とも言えない気分になり、俺は事務的にそう返す。 「私、名乗るなんて言ったかしら?」 「もったいぶるようなことなのかよ」 「それもそうね」 くだらなげに〈頭〉《かぶり》を振って、女は名乗った。 「螢……〈櫻井螢〉《さくらいけい》。どうでもいい名よ、もうあまり呼ばれないし」 「そんなことより、ベイとマレウスの気が変わらないうちに帰りなさい。これ以上怖い目には遭いたくないでしょ?」 「俺は……」 怖い目……そう、俺はここで、とてつもない目に遭った。 殺されかけたし、何よりも…… 「俺は、人を……」 「殺したのかもしれないし、殺してないのかもしれない。後から来た私には、正直何とも言えないところだわ」 「ただ、彼らは筋金入りの〈外国人嫌い〉《ゼノフォビア》だから、あなたを人間だなんて思ってないわよ。ここでいつまでも愚図愚図してて、またそんな奴等に捕まりたいの?」 酔狂ね、なんて言ってくる。 「それとも、私に家まで送ってほしいのかしら」 「………ッ」 冗談じゃない。 「余計なお世話だ。ああ、帰るよ」 「そうしたほうがいい。じゃあね藤井君、また会いましょう」 生憎だが、こちらは二度と会いたくないし、会う気もなかった。 「……気安く、呼ばないでくれ」 だから吐き捨てるようにそう言って、〈踵〉《きびす》を返した。 女――櫻井は無言のまま、肩をすくめているようだった。 俺はただ、どうしようもない苛つきに襲われる。 なんでこんなことになったんだ? 誰か教えろ。なぜ、こんな…… 「するわけないだろ。俺は帰る」 「そう。怖いなら家まで送ってあげましょうか?」 「余計なお世話だ」 吐き捨てて、〈踵〉《きびす》を返した。 「また会えるといいわね」 生憎だが、二度と会いたくないし会う気もない。 ちくしょう。なんでだ、なんでだよ? 俺は本当に人殺しなのか? 死体が消えてしまった今となっては、それを確かめる術もない。 「じきに、また増えるわよ」 まるでこちらの思考を読んだかのようなその台詞が、俺をどうしようもなく苛つかせた。 なんでこんなことになったんだ? 誰か教えろ。なぜ、こんな…… そうして、無事家まで帰れたのは奇跡だった。 きっと無意識に気を張っていたんだろう、部屋に入ると同時に再び吐き気に襲われて、止める間もなく玄関口にぶち撒ける。あれほど吐いたにも拘わらず、胃の痙攣は治まらない。 「おっ――げぇぇ――」 くそ……くそ、くそっ! ふざけるな。 こんなに汚してしまったら、また香純に説教される。朝になってあいつが起こしに来る前に、これをなんとかしなければ…… 「はあ……ぁ……ぅえ……っ」 際限なく込み上げてくるものを抑えながら、俺は自分の反吐を片付ける。途中……耐え切れずに洗面所で二回吐いたが…… 「香純……」 今ごろ……当然ぐっすり寝てるんだろう。悪いな、夜中にばたばたやって。匂いとか残さないようにするから、勘弁してくれ。 俺が人殺しかもしれなくて、妙な奴等に襲われて、今みっともなく怯えてるなんて絶対おまえに知られたくない。 心配性だし、あれで結構よく泣くし。 いつもみたいに馬鹿明るく、おまえが笑っててくれないと、俺、困るよ。 だから…… 「ぅ――げぇぇ――」 だから、約束破って隠し事するけど許してくれよな。いつか、たぶんそのうち謝るから。 もはや胃液すら出なくなった状態で、俺は口許の汚れを服の袖で拭い取った。 奇妙なことに、返り血と思しき血痕はどこにも付着していない。負傷も本当に癒えている。 あいつは応急処置だと言っていたのに、完治しているのは何故なのか…… 「……まったく」 常識外れだ。有り得ない。 全部が全部、夢であってくれたらいいんだけど…… そんな虫のいいことを考えつつ、俺はボロボロの服を脱ぎ捨ててゴミ箱に放り込んだ。そして少し迷った末に、壁の穴から香純の部屋を覗いてみる。 「…………」 「…………」 よかった。 込み上げてくる安堵と共に、俺はそこで意識をなくした。 …………… ………… ……… 「それじゃあまず、言い訳があるなら聞こうかな」 「裸で、しかも穴から上半身だけ出して、凄い寝相ですねキミは。何やってんのよ、マジで」 「…………」 翌朝、俺は香純に説教されてた。理由はまあ、こいつが言った通りなわけで、呆れられても仕方ない。 「……もしかして、夜這い?」 「……違う」 「じゃあなんで裸?」 「暑かったんだよ」 「あんた寒がりだって言ってたじゃない」 「……熱っぽくてな」 「うっそ、ほんとに?」 どうも、解答を間違ったらしく…… 「んー、言われてみればなんか本当に顔色悪いね。熱計る?」 転じて、心配と言うよりは戸惑ってる風な香純の顔。俺も空元気を振り絞ろうとするが、上手くいかない。 もとより、こいつにそんな芝居が通用するとも思えなかったが。 「今日は休んだほうがいいんじゃない? 病み上がりなんだし、無理するのはよくないよ」 「……大丈夫」 体調的に休みたいのは山々だが、部屋に閉じこもっていられるような気分じゃない。あの非日常的な体験をかき消すためにも、俺には日常が必要だった。 「行くよ、俺。日数やばいし」 「そんな一日二日で危なくなるほど、シビアな出席日数だっけ?」 「ていうか、あんた学校嫌いなんじゃ」 「別に嫌いじゃない。好きでもないけど……」 ただ、今は要るというだけだ。 頭を押さえつつ、立ち上がろうとしてみるが…… 「―――ぁ」 ふらつき、ベッドに倒れこむ。 なんてこった。そんな程度のこともできないなんて。 「決まりだね。あんた今日は休みなさい」 「なんだったら、あたしも休んで看病とかしてあげよっか?」 「…………」 「ほら、お粥とか作ってあーん、みたいな」 「…………」 「ちょっと何よ、嫌なら嫌って言いなさいよね」 「……いや」 「うわなにこいつほんとに言ったよありえねえ」 「違う、そうじゃなくて……」 一瞬、本気で葛藤していた。俺が動けない以上、こいつもここに居させたほうが安全なんじゃないだろうかと。 しかし、その考えは間違っている。今は朝だし、通勤や通学中の一般人と登校するほうが、香純にとって危険度は低い。 少なくとも、こんな所で俺と二人きりになってるよりはましだろう。こいつの善意に甘えていい状況じゃない。 「学校には行く……だけどすぐには無理そうだから、先行っててくれ」 「大丈夫なの? そんなんで」 「……大丈夫」 と言うしかできないが、無理矢理にでもそうしないといけない。言ったからには実行しないと。 「たぶん、昼までには行けると思う。担任には適当に言っといてくれ」 「分かった。じゃあ早く来ないと、あたしを襲ってきたからKOしちゃいましたって言うからね」 「ああ、好きに言いふらしてくれ」 実際、やってたことはそれとたいして変わらないし。 だが、そういえば…… 「香純、テレビで何かやってたか?」 「ん? どゆこと?」 「だから、その……あれだよ」 殺人事件。 「昨日も、やっぱりあったのか?」 「ああ……」 香純は所在なさげに目を伏せる。そりゃそうだろう。俺の訊きかたも良くなかった。 「今日はまだ、報道されてなかったね。犯人も、昨日はお休みだったんじゃないのかな」 「……そうか」 やはり死体は出なかったか。俺は複雑な気持ちでため息をつく。 「このまま、二度と起きなきゃいいのにね。そしたらみんなも――」 「……そうだな」 香純は――いや、俺とあの三人以外、昨夜のことは誰も知らない。知らなくていい。 少なくとも何かの確信が持てるまでは、俺の胸に呑んでおくべきことだろう。仮に今すぐ自首しても、死体という物証がなければ相手にされない。 まして、丸腰の俺がどのようにしてあれだけの破壊を成したのか……未だに夢かもしれないと思っている――もしくは思いたい――部分もあるし。 「手間取らせて悪かった。おまえも遅刻しないうちに行った方がいいぞ」 「了解――じゃあそっちも、早く後追ってきなさいよ」 「……分かった」 「覇気がなぁいっ」 「うざい、早く行けっ」 手を振って、香純を部屋から追い出した。大声出すとくらくらしたが、この程度でへたってられない。 気を強く持たなければ――理解不能だが負傷が癒えている以上、これはほとんど精神的なものが原因のはずだろうし。 ……とはいえ。 「香純の奴、やけにあっさり引いたよな」 あの説教好きの世話好きの心配性が、特にこれといった文句も言わず俺の言うことを聞いたのが今さらながら信じられない。普段なら、意地でも休ませて看病してきそうなところなんだが…… 「まあ、いいか」 女のバイオリズムは複雑すぎて、男の俺にはよく分からない。今は冬だが、秋の空ってやつだろう。 ともかくここは、さっさと体調を回復させねば…… そう思い、しばらく安静にすることにした。 眠気はあるが、睡眠だけは絶対摂るまいと思いつつ…… そうして、だいたい四時間くらい大人しくしていたろうか。全快、にはほど遠いが、多少胸がむかつく程度のところまで体調が戻ってきた。寝不足で頭が痛いのは、この際無視を決め込んでおく。 今から登校すれば、昼休み前に着けるだろう。午後の授業が何だったかなど、まるで覚えちゃいないけど…… 俺は立ち眩みを堪えつつ、制服に着替えてから外に出た。 ……寒い。気温の問題ではなく、全身の肌が粟立っている。見慣れているはずの風景なのに、どうしようもない違和感を覚えてしまった。 あいつらは、今もこの街のどこかにいる――そう思うだけで、いつもの通学路がまったくの別物に見えるほど。 正体不明の、未知の存在に対する恐怖……それが、俺の世界に不吉なフィルターをかけていた。 ……ともかく、早く登校しなければ。 途中、公園を通るか通らないかで迷ったが、結局遠回りを選択した。今、あの場所には近づきたくない。 早足気味に歩を進め、しかし本調子じゃないので所々休みつつ……無事学校に着いた時には、四時間目が終わっていた。 重役出勤としては、ちょうどキリがいいかもしれない。チャイムを聴きつつそんなことを思っていたら、校門から顔見知りが出てくるのに気が付いた。 ……氷室先輩? よかった、この人も無事なようでホッとする。 が、それはそうと何をしているんだろう。〈訝〉《いぶか》っていると、向こうもこちらに気付いたらしい。 「こんにちは。今頃来たの、藤井君」 いつも通りのポーカーフェイス。だが、もしかしてこの人、帰るところか? 「ピンポン。私帰るところ。残念だけど、入れ違いだね」 「はあ……」 どうやら、思ったことが顔に書いてあったようだが。 「先輩、体調でも崩しましたか?」 「それはキミの方じゃないの? 顔、真っ白だよ」 そうなのか? 自分じゃよく分からないが。しかし、そうなっていても不思議じゃないのは確かだろう。 「とっても美人。やつれた頬とか、色っぽい」 「…………」 「怒りんぼだね。すぐそんな顔する」 「……余計なお世話ってやつですよ」 少し険を帯びた口調になったが、この人に余所行きの態度を取るのも今さらだろう。 ともかく、ここでピントのずれた会話をしていても仕方ない。 大事なのは、平日の昼間という人の少ない時間帯に、彼女が独りで帰るという状況で…… 「先輩、今帰るのはちょっと……」 「私は帰るよ。誰が何と言っても帰るよ。神様の命令でも聞かないよ」 「…………」 「まだ何か?」 「……いえ」 俺は少し迷ったが、結局折れることにする。この人とは香純ほど接点があるわけじゃないし、それなら必要以上に関わりを持たないほうがいいだろう。 数少ない友達だし、そういう選択は辛いんだが…… 「じゃあ、俺は行くんで。先輩も、なんでサボるのか知らないけど、さようなら」 「うん」 頷く彼女に軽く手を振り、その脇を通り過ぎた。俺は校門を潜ったことで、あからさまにほっとする。 この敷地内にいるほぼ全員が同年代で、基本的に部外者は侵入できない閉鎖された空間だ。たとえ親しい奴がほんのわずかしかいないとはいえ、異物の含有率が極端に低いことには変わりない。 ここは紛れもなく昼の――つまり日常の象徴で、今の俺にとっては文字通りの砦と言える。 ……まったく、学校をそんな風に思うなんて、ちょっと前までは想像だにしていなかったが。 「――藤井君」 自嘲気味になってたせいか、不意に呼ばれて驚いた。反射的に振り返れば…… 「…………」 「気をつけてね」 「……は?」 いったい、何に? 面食らう俺を余所に、先輩はそれだけ言うと〈踵〉《きびす》を返した。まるで、一刻も早くここから去りたいとでも言わんばかりに。 解せない思いを持て余し、かといって彼女の後を追おうともせず、しばらくそのまま、俺はそこでぽかんとしていた。 『蓮ー、ちょっと今どこにいるのー?』 香純からそんな電話が掛からねば、ずっとそうしていたかもしれない。 『聞いてる? もしかして、まだ家にいるわけ?』 「……いや、校門のとこだけど」 『そうなの? あ、ちょっと待って。えーっと、ああ、いたいた。おーい、やっほー、こっち見ろーっ!』 振り返れば、校舎の三階から身を乗り出してこっちに手を振ってる香純の姿。 毎度毎度、恥ずかしい奴だよ、まったく。 『気分どう? 良くなった? 良くなったんならさっさとこっちにあがってきなさい。驚くよー』 「……すでにおまえの大声で、充分驚いてるんだけど」 電話が用を成さず、直で肉声が聞こえてくる。そのやかましさに、俺は携帯を耳から離して〈嘆息〉《たんそく》した。 まあ、何があったのか知らないけど、相変わらず元気で結構。少しその活力を分けてもらうか。 「すぐ行く。だからもう〈喚〉《わめ》くなよ」 『りょうかーい!』 ……してないだろ、それ。うるせえっつうのに、ほんと。 苦笑して、俺は校舎に入っていった。 ――が。 不意に強烈な違和感……いや、圧迫感に襲われた。 まるで校舎そのものが、深海に放り込まれたかのような……巨大な怪物の、胃の中にでもいるような…… 空気が凍り、ひび割れていく。そしてその亀裂から鮮血が滲み出てくるかのように、ゆっくり、ゆっくりと侵食してくる名状し難い異形の気配。 違う。まるで。昨日までとは――ほんのわずかに――しかし絶望的なほど知覚できる総てのものが変わっていた。 覚えがある。この、反吐が込み上げてくる感覚はあの時と同じものだ。 血臭と死臭と腐臭の混合――気絶しかねないほど濃密な、人殺しの匂いを撒き散らしつつ。 そいつらは、昨夜と同じく立って俺を見下ろしていた。 逆光に視界が歪む。正午であるにも拘わらず、陽射しがなぜか血の色に見えてしまう。 その輝きのなか、少女が二人……見慣れた制服に身を包んだ、しかし絶対に相容れない存在としてそこにいた。 見た目だけは麗しく、花のような可憐さで。 だがこれは、人を喰い、殺す花だ。棘には毒以外ありえない。 そう確信せざるを得ないような、現実から断絶している世界の中で…… 「〈は〉《 、》〈じ〉《 、》〈め〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》、フジイレンくん。わたしはルサルカ・シュヴェーゲリン」 「こっちの怖い顔はサクライケイ……ステキなところね、この〈学校〉《シューレ》。気に入ったわ」 揺らぐ紅の髪の下、あどけない顔に〈嘲弄〉《ちょうろう》の笑みをはりつけて……少女――ルサルカはそう言った。 そのなりは転校生? つまり、香純がさっき言っていたことは…… 「ご名答。わたしたち同じクラスよ」 「あなたと、カスミと……だから、ねえ、仲良くしましょう」 ――ツァラトゥストラ。 最後の一言は言葉じゃなく、直接脳に響いてきた。俺は激しい目眩を覚え、危うく階段から落ちそうになる。 もはや学校は砦たりえず、平穏なんてものもなく―― 日常に異物が混じる。全身が〈怖気〉《おぞけ》だつ。俺の知る世界の総てが、音を立てて瓦解していく。 逃げられない。 「そうね、楽しくやりましょう」 「……あなたが、賢明ならいいけれど」 一方は弄うように。もう一方は刺すように。 二対の視線に見据えられただ胸を侵食するのは絶望的な〈未知への恐怖〉《ゼノフォビア》―― この日、この時、この瞬間から、俺の日常に亀裂が走った。 そして、塞ぐ術を見いだせない。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 7/13 Swastika ―― 0/8 【Chapter Ⅱ Xenophobia ―― END】  時期外れの転校生二人は、表向き何の問題もなく学校に馴染んでいた。  ルサルカ・シュヴェーゲリン――明朗快活で人当たりがよく、男女を問わず人気を獲得した留学生。  櫻井螢――無口で冷淡、大人びたイメージから未だに壁が存在するが、〈忌避〉《きひ》というより高嶺の花と思われている前者の友人。  まるで正反対の二人だが、一緒にいればこの上もなく絵になるという組み合わせだ。実際、彼女らはその容姿だけで学内を制圧したと言えるだろう。  策も、暴力も何もなく、ただそこにいるだけで周囲を味方につける才能。  一種のカリスマとでも言うべきだろうか。なんであれ、俺には堪ったものじゃない。  そんな二人がこの学校で、いったい何をしているのか。いや、何を目的としてここにいるのか……  愚問すぎて、恐ろしい。彼女らの目的は俺にあり、俺の日常を観察している。  だから、ここにいる限り平常を装わなければいけない。隙を見せず、こちらも観察しなければならない。  今、学校には、危険な獣が二匹いる。それに気付いているのは俺しかいない。  香純、先輩、そしてその他……全ての生徒や教員たちを人質に取られているような状況で、すでに一週間が経過していた。  加え、不安要素は他にもある。  夢を見るわけにはいかない。特に夜は、絶対に眠っちゃいけない。  俺が眠れば、人が死ぬ。眠った俺が人を殺す。  それを裏付けるかのように、俺が不眠を始めてから殺人事件は止んでいた。  昼も夜も神経を尖らせて、休息すらままならずに過ぎていったこの一週間。  死ぬか、それとも気が狂うか――  俺は、自己の精神がぼろぼろに崩れていくのを感じていた。  そして、未だ悪夢は続いている。 チャイムの音で、俺は浅い眠りから目を覚ました。 眠る、といっても意識の片隅では起きていて、周囲の音や気配を察知できる範囲のものだ。間違っても熟睡なんてできないし、するつもりもない。 そんな程度の休息でも、しかし効果はあるわけで、実際ここまでなんとか保っているのはそのお陰だ。もっとも、そろそろ無理がきてるが。 日に、多くても二~三時間。授業中に限定したものであり、休み時間や放課後含め、それ以外では一睡たりともしていない。我ながら無茶をやってるとは思うけど、他にどうしていいのか分からないのが現状だ。 思考は常時混濁していて、意識は〈朦朧〉《もうろう》と煙っている。朝、鏡を見たら幽鬼みたいな顔だった。そういや、香純も心配してたな。 唯一の救いは――喜んでいいのかどうか微妙だが――連続殺人がストップしたということくらい。楽観する奴、不安がる奴と周囲の反応は様々だが、概ねみんな、思っていることは同じだった。 殺人犯は、もう街にいないかもしれない――と。 そうであってくれたら嬉しいが、しかしそうでないことを俺は知っているわけで…… 一刻も早く、何らかの形で決着をつけなければいけない。俺が人殺しであろうとなかろうと。二人の転校生が何者であろうとも。 頭と身体が、まだギリギリのレベルで正常に働いている今のうちに。この状況がこれ以上長引けば、正気を保っていられる自信がない。 櫻井とルサルカは、学校内にいる限り平たく言うと猫を被っている。 俺が家に引きこもるような真似をしたらどんな行動に出るか読めないが、少なくとも互いに制服を着ている時なら、接触してみるのも有りかもしれない。 この一週間監視を続けて、導き出した結論がそれだった。〈学校〉《ここ》を無茶苦茶にするのが目的なら、転校生を装うなどと、まどろっこしい真似はしないだろう。 それぐらいはもっと早くに分かっていたが、今一歩踏み出せなかったのはやはり恐怖心があったからだ。あちらの出方を窺うあまり、受身になっていたせいもある。 だが、今は後手に回るのが危険だという気がしてならない。問題は、どのようにして彼女らと接触するか。まさか昼飯に誘うわけにもいかないだろう。 知り合い――特に香純――には気取られず、かといって周囲に誰もいない状況も作らずに。それでいて、内密な話ができるような…… 無理だな。なにせあの二人は目立ちすぎる。極力一対一で向き合うような真似はしたくないんだが、どうするか。 腹の中で毒づきつつ、俺は机の上に突っ伏した。 時だった。 「あー、あのさ、ちょっとキミ」 「次、体育だから、これからあたしたち着替えないといけないんだけど…」 「…………」 そういや、そうだったか。 「……悪い」 席を立つ際、香純がなにやら言ってたが、右から左に聞き流して俺は教室を後にした。 しかし、去り際教室を見渡せば、櫻井とルサルカがどこにもいない。 ――どうする? 櫻井螢――彼女の方がまだ〈与〉《くみ》しやすい。一応、わずかながらも会話を交わしたこともあるし、少なくとも日本人だ。それほど構えずに向き合えるだろう。 廊下の突き当たりにちらっとそれらしい影が見えたし、きっとあれがそうだと思う。何と言って話し掛けるか、第一声に迷ってしまうが…… 「――櫻井」 結局、正攻法しかないと判断した。 「……おまえ、体育に出ないのか?」 「…………」 「サボるんなら、ちょっと付き合ってほしいんだけど」 「…………」 「なあ、聞いてる?」 何か、自分がどうしようもない馬鹿なことをしているように思いつつも、なんとか言葉を継ごうとする。これじゃあ下手なナンパにしか見えない。 「…………」 櫻井はそんな俺を〈一瞥〉《いちべつ》して、小さくため息。 「驚いた。意外に大胆なのね、あなたって」 「だけど、ごめんなさい。せっかくのお誘いだけど乗れないわ。先約がある」 「先約? 〈学校〉《ここ》でか?」 櫻井と交流のある一般生徒など、今のところ存在してない。なら先約とは、一般ではない者が相手となるはず。 「……ルサルカと?」 「いいえ。でも安心しなさい。別に何をどうしようってわけでもないから」 「悪いけど、デートの相手なら彼女にしてもらってくれないかしら」 「そういうこと。わたしでよければいくらでも付き合うわよ」 「――――」 櫻井の視線を追って振り返れば、いつの間にか背後にルサルカ。 まずいことに、挟まれた。 「レオ~ン、あなた何言ったのよ。レンくんが緊張しちゃってるじゃない」 「私は何も。彼が緊張しているなら、それはあなたが原因でしょう。自分の行動を〈鑑〉《かんが》みてみなさい」 「正直、あれで好感を持たれていたら、彼の正気を疑ってしまう」 「あー、酷いなぁ。何自分だけイイ子ぶっちゃってんのよ、感じ悪い」 「ごめんねぇ、レンくん。この子ってば、怖いでしょ? だからわたしとデートしましょ」 「…………」 「なによその顔、わたしじゃ不服ー?」 「……いや」 この一週間で見慣れてはいたものの、校内でのルサルカは完璧に女子校生だ。初対面時とのギャップには、未だに戸惑いを禁じえない。 「ねえ、もう酷いことしないからさぁ……あの時のことは許してよぉ」 「…………」 ここで許さないなどと言ったところで、事態がややこしくなるだけだろう。 まだ色々と半信半疑な部分もあるが、〈迂闊〉《うかつ》に喧嘩を売れるような相手じゃないのは確かだし。 「許す許さないは置いといて、櫻井が駄目ならおまえでもいい。付き合ってくれ」 「おいおーい、わたしはレオンの次ですか?」 「話がまとまったなら私は行くわよ。せいぜい彼を丁重に扱いなさい」 「それからくれぐれも――」 「はいはい、軽挙は慎めでしょ? 分かってますよそれくらい」 「じゃあねレオン。あなたも少し、ここじゃあ可愛く喋るように気をつけなさい」 「そっちの方こそ、猫を被りすぎて滑稽なことに早く気付いたほうがいい」 くだらなげに〈頭〉《かぶり》を振って、櫻井は〈踵〉《きびす》を返した。 「藤井君も、よければまた誘ってちょうだい。待ってるから」 そして、黒髪を〈翻〉《ひるがえ》し去っていく。台詞とは裏腹に、にべもないというやつだ。 「なーんかあの子、レンくんと話す時だけ妙に態度が違くない?やーねー、これだから差別主義者は」 「ま、それは別にどうでもいいわ。ねえレンくん」 「場所を変えましょ。こんなところで話してると、カスミに見つかっちゃいそうだし」 「困るんじゃない? そうしたら色々と」 「…………」 無言で頷く。 「決まりね。じゃあどこがいい?」 少なくとも校内においてなら、まだそっちの方が安全な相手に思えた。第一印象は最悪の部類に入るが、それだけに彼女を抑えておけばいくらか重圧も減るだろう。 さっき辺りを見回した時、廊下の突き当たりにそれらしい影が見えたような気がするんだが…… やはり気のせいだったかもしれない。くそ、どうする。櫻井に切り替えるか? 「レ~ンくん」 「――――ッ!?」 「なーに、どうしたのキョロキョロして。もしかしてわたしに用?」 いきなり背後から抱きつかれて、すぐさま言葉が出てこない。まるで接近に気付かなかったが、こいついったいどうやって…… 「あー、なんかその顔、傷ついちゃうな。別にとって食ったりしないのに」 「ほら、リラックスリラックス、笑ってみよー」 「…………」 「ふー、あのね、女の子のあと尾けといて、ちょっとその反応はないんじゃないかな」 「怒るよ?」 「……ッ」 掴まれた腕の、手の甲をつねられた。たいした痛みじゃなかったものの、それでいくらか平常心を取り戻す。 「……悪い。それで、ちょっと離れてくれないか」 「えー、なんでぇ?」 「人に見られる」 こんなところ、傍からはイチャついている恋人同士だと思われかねない。そんなのは、全力で御免〈被〉《こうむ》りたいところだ。 「あー、分かった。カスミに見られたくないんだね」 「ねえねえ、実際のところ、カスミとレンくんは付き合ってるの?」 「……どうでもいいだろ、そんなことは」 こいつの口から香純の名前など聞きたくない。胸糞が悪くなる。 埒があかないので、やや強引に〈纏〉《まと》わりつくルサルカを振り解いた。 「やん、もう乱暴ね。駄目だよ、女の子には優しくしないと」 「あなたって、カスミにもいつもこういう態度なの?」 「だから、そんなことは関係ないだろ」 「香純なんかどうでもいい。俺はおまえに用があるんだ」 「おー、大胆。〈朴訥〉《ぼくとつ》。日本男児だ」 「んふー、いいね。わたしこの国の男の子の、そういうとこ大好きよ」 「で、用があるからいったい何なの? 人気のないところで押し倒したりしてくれるの?」 「……生憎、押し倒すつもりも押し倒されるつもりもない」 「いいからちょっと付き合ってくれ。話がある」 「ふーん、なんだつまんない。あなたになら、そうされてもいいんだけどな」 「……おい、いい加減にしろよ」 こいつが危険なのは分かってるつもりだが、こうまでおちょくられると苛ついてくる。 まるっきり一般人のような顔をして、人を馬鹿にするのも大概にしろ。化けの皮を被ってくれてるほうがやり易いのは確かだが…… 「やー、キミ、結構短気さんねぇ。まあ、いいわ。そのうちくるだろうと思ってたし」 「それじゃあ場所を変えましょうか。どこにする?」 「…………」 俺は胸のムカつきをぐっと堪えて、呟いた。 「……屋上」 「うーん、いまいちムードに欠ける選択ね。さてはあなた、まだデートに慣れてないな」 「しょうがない。だったらわたしが教えてあげます。ほら、腕、こうやって」 言いながら、脇をあけるように指示してくる。腕でも組もうっていうつもりか? 冗談じゃない。 「あー、ちょっと待ってよ。一人で行くなんて冷たいよぉ」 背後でなにやら〈喚〉《わめ》いているのを黙殺して、俺は階段を上りだした。 あれは偽装だ。容姿や表面上の態度に騙されちゃいけない。気を許してはいけない。 〈疲労困憊〉《ひろうこんぱい》の頭でも、まだそう思えるだけの判断力はあるようだった。 そして屋上に到着。中ほどまで歩いてから振り返り、背後のルサルカと向き合った。 「さて、それじゃあどんな話をしようかしら。どういう風にお話する?」 にこにこと、邪気のかけらもない笑顔にどうにも調子を狂わされる。 が、相手のペースに巻き込まれてるようじゃ話にならない。ここは冷静にならなければ、望んだ結果は得られないだろう。 「……まずいくつか、俺の方から質問する。それに答えられる範囲で答えてくれ」 「ただし、嘘は絶対言うなよ」 「了解。じゃあそうしましょう。質問どうぞ」 「ああ……」 すんなり質疑応答が始められたことに戸惑いつつも、俺は訊くべきことを頭の中で整理した。 ここは、何を訊くべきだろう。 「おまえらは何者なんだ?」 もっとも根本的な、そもそもの疑問。俺はそれを口にした。 「普通じゃないのは分かる。あんなふざけたなりして、夜出歩いてる時点でまともじゃない」 それじゃあ、何のためにあんなことをしているのか。 「おまえら、殺人事件に何か関係でもあるのか?」 「んー、そうねぇ」 「関係あるのは、むしろあなたの方じゃないの?」 「俺が犯人だって?」 「あら、違うのかしら?」 そんなことを言われても、分からない。いや、分かりたくないと言うべきか。 確かに、そうであっても不思議じゃない条件が揃ってはいるけれど。 「……俺に、殺人なんかする動機はない」 「それが言い訳? 理屈としては弱いわねぇ」 「ここで起こっているのは、そんな真っ当なものなのかしら? あなたはどう思っているの?」 「…………」 「自分でもあてにならないと思ってることは、切り札になんかならないよ。もっと現実的になりなさい。そういう素質はありそうだけどね」 「どんなに不可解でも、納得ができなくても、他に答えがなければそれが真実。そういう考えかた、できないの? したくないの?」 「それとも、するのが怖いのかな?」 「……大きなお世話だ。俺のことなんかどうでもいい」 「訊いているのは俺の方だ。そもそもおまえは、質問に答えていない」 「んん、確かにそれもそうね」 やや語気を強めると、ルサルカはいともあっさり引っ込んだ。 そして何を言うかと思えば、 「わたしは〈Ritter〉《リッター》――そう思って」 「……は?」 なんだそれ? 正直ワケが分からない。 「〈Eques〉《エクエス》、〈Knight〉《ナイト》、〈Cavaliere〉《カヴァリエーレ》……つまりは騎士ね、そういうこと」 「あ、この国のサムライってのとは違うわよ。わたしたち、忠とか義とか、禄とかそういうの持ってないから」 「んー、でも、それだと騎士でもないのかな? まあ、別にどうでもいいけど」 なにやら一人で納得してるが、俺は完全に置き去りだ。 この二十一世紀に、よりによって騎士だって? 馬鹿な冗談にしか聞こえない。 「真面目に答えろよ」 「あー、失礼ね。わたし嘘なんか言ってないもん。正真正銘の本物だってば」 「そりゃあ今時剣も鎧も着けてないから、分かりづらいかもしれないけど」 「嘘でも冗談でもないのなら、頭のおかしな奴の戯言だ」 「なーに、さっきはまともじゃないとか言ってたくせに、ここでそんなこと言い出すんだ。おっかしいの」 「じゃあ、そうね。今度は別の言い方をしようかな」 「わたしに限って言えば、〈騎士〉《リッター》で〈魔女〉《ヘクセ》」 「つまりは魔法使いさんなのだよ。これで少しはピンときたかな?」 「魔法……使いだ?」 「そ、ホウキに乗って飛んだりはしないけどね」 「…………」 ふざけた物言いだが、こいつはいつもふざけているので真偽のほどを測れない。 だが一度、俺はこいつに魔法めいた真似をされているというのもまた事実。 ヴィルヘルムにあれだけボロボロにされた負傷を、こいつが治した。 あれは〈偽物〉《トリック》なのか〈本物〉《マジック》なのか……分からないが、とりあえずその疑問は保留しよう。訊いたところで、どうせまともな返答など期待できない。 「さ、他に質問は?」 まだ、完全に答えてもらった気はしないが…… 「ツァラトゥストラってのは?」 「さあ、なんでしょうね」 「俺をそう呼んでただろ」 「ええ、確かにそうだけど。あなたは否定したじゃない。違うの?」 「……違わない」 俺はそんな名前じゃない。 が、こいつらの言うツァラトゥストラとは、殺人犯のことを指しているんじゃないだろうかと。 「別に話してもいいんだけどね。あなた、理解できないでしょうし。どうしようかなぁ」 「ねえレンくん、少し訊きたいんだけど、あなた、ご両親は日本の人?」 「……何?」 「だからぁ、あなたの家系は純粋な日本人かって訊いてるのよ」 「…………」 なんで急にそんなことを? 〈訝〉《いぶか》りつつも、素直に答える。 「大昔のことは知らないけど、爺さん婆さんまでは日本人だ」 そう聞いている。 「それがどうした?」 「なるほど。じゃあ薄いわね。あながち外れてるとも思えないけど……」 「……おい」 何を勝手に納得している。こっちはワケが分からない。 「あなたの苗字は、父方? 母方?」 「だから、なんでそんなことを訊くんだって言ってんだよ」 「んー、いやね。みんな気にしてるようだからね」 「みんな……?」 「ええ、わたしの仲間。まだ全員集合してないけどね、半分くらいは揃ってるわ」 「そのうち勢ぞろいするはずだから、その時のために訊いてるの」 「…………」 仲間? こいつの仲間だと? 他にもあんなのが沢山いるのか? 「ツァラトゥストラはメルクリウスのエイヴィヒカイトを受け継いで、同じアーネンエルベを持っていると思われる……って、ああごめん。こんな言い方じゃ分かんないか」 「とにかくね。わたしたちの中に一人だけ、付き合い悪い奴がいるのよ。だから、ツァラトゥストラはその代役。欠番要員っていうか、番外役者ね」 「つまりそいつは……」 俺は…… 「おまえらの仲間だと?」 「さあ、どうだろうね。もともと敵なのか味方なのかよく分かんない、いけ好かない奴だったから」 それは…… 「メルクリウスって奴が?」 「そ」 メルクリウス……確か水星のラテン語読みで、ギリシャ神話のヘルメスを指す言葉だったか。水銀という意味もあるらしいが…… 「まあとにかく、わたしたちもツァラトゥストラについてはよく知らないのよ。語義以上のことは、今のところね」 「だから、そうね。気になるならニーチェの本でも読んでみるといいんじゃない? ドイツ語版でよかったら、貸してあげるよ」 「…………」 「いや、いい」 ドイツ語など読めないという以前に、こいつから何かを借りたりするつもりはない。 もういい。こんな話題は止めにしよう。 「もう一人いただろう。あいつは何処に?」 「ベイのこと?」 「そう、そいつだ」 白髪白貌の優男。言うまでもなく、あいつが一番危なかった。 櫻井はもちろん、このルサルカもまだ話せば分かりそうな感じがある。だけどあいつとは、会話すら成立させられそうにない。 あんな奴がまだこの街にいるかもしれないと思っただけで、心臓の鼓動が早くなるほど…… そんな俺の様子を見て察したのか、ルサルカはくすりと笑った。 「嫌われてるわねぇ、あいつったら。まあ、いつものことだけど」 「ベイは……いや、そうね、あいつはヴィルヘルム・エーレンブルグって名前なんだけど、覚えてる?」 「……ああ」 「ふふ、似合わないけど上品な名前でしょ。笑っていいわよ、構わないから」 ヴィルヘルム……自信はないが、語感からして中欧辺りの名前だろう。だが、それならどうして…… 「なんで、別の名前で呼ばれてる?いや、あいつだけじゃない。おまえも、櫻井も」 もっと別の……妙な名前で呼び合っていたと記憶している。 「んー、それはねぇ、ちょっとした渾名みたいなものなのよ」 「性格とか、特性とか、そういうのに合わせて入団する時に決められるの。わたしはどうでもよかったけど、創立者の趣味だね、あれは」 「で、ベイが何処にいるかだけど。正直なところ、わかんないな」 「…………」 「ちょっと何よぉ。ほんとにわかんないんだからしょうがないでしょ。もしかして疑ってるの?」 「……半分は」 そんな密に連絡を取り合う連中にも思えないが、見当もつかないなんてことはないだろう。 「街にいるのか、いないのか、それくらい分かるんじゃないのか?」 「知らないわよ、そんなこと。気まぐれな奴だし、どこかで遊んでるんじゃないかしら」 「ただ、昼間のうちは外に出ないと思うけどね」 「それはどういう……」 「教えなーい。なんか頭にきちゃったから、この話はもうお終いよ」 拗ねたようにそっぽを向く。……しょうがないな。不本意だが、こいつを怒らせるのは避けたほうがいいだろうし。 「じゃあ、なんでこの街に来た? いったい何が目的で……」 「えー、そんなの訊いてどうするのよ?」 「どうするも何も、それが分からなきゃ安心できない」 「分かれば安心できるとも限らないでしょ?」 「安心できないようなことなのか?」 「どうだかねぇ」 意味ありげな目をしたまま、ルサルカはくすくす笑う。 こいつ、このもったいぶった態度は性格なのか? だとしたらとても褒められたもんじゃない。 「おまえ、俺を苛つかせて楽しいのかよ?答える気がないなら素直にそう言え」 「そう言ったら、レンくんは納得するの?」 「……まあ、しないと思うが」 「でしょう? だからわたし困ってるんじゃない」 全然そういう風には見えないんだが。くそ、これじゃあ埒があかない。 「まあまあ、短気はよくないわよ。もっと我慢強いタイプだと思ってたけど、案外そうでもないみたいね」 「わたしとしても、訊かれたことぐらいは答えてあげたいつもりだよ? でも、そのまま言って理解できるとも思えないし、もしかしたらデタラメ言うなーって怒られるかもしれないじゃない」 「そういうの、お互い嫌でしょ? でも慌てるのは優雅じゃないし、色々言葉を選んでるのよ。だからそっちも、紳士になってくれないかな?」 「ねえ、どう?」 「…………」 仕方ない……か。 「分かったよ。さっきも言ったが、嘘言わないならそれでいい」 「だから――」 「やーん、もう、レンくんって優しいねぇ。大好きっ!」 「急に抱きついてくるな。ふざけてないで、さっさと話せよ」 「なによぉ、もう、この照れ屋さんめが」 などと言いながら、渋々といった風に俺から離れる。 こいつ、本当にあの夜と同一人物なんだろうか。軽い困惑すら覚えてしまうが…… 「わたしたちがこの街に来た目的はね、大まかに言うと約束を果たすため」 「もうずぅーっと前に、みんな揃って約束したの。いつか目的を果たしましょうって」 「内容は一人一人で違うんだけど、その前提条件としてやらなきゃいけないことがあるからそれを成すの」 「そのためにはこの街に来ないといけなくて、レンくんや他の人にも協力してもらわないといけないわけ。こんな感じで今は駄目かな?」 「…………」 正直、肝心なところは何一つとして分からない。 「協力って、俺や他の連中に何をさせるつもりなんだよ?」 「別に。何もしなくて構わないわよ。ただ居てくれるだけでいいから」 「何?」 それはいったい、どういう意味だ? 「だから、言ったところで理解なんかできないってば。あなたが本当にメルクリウスの縁者なら、これでピンとくるはずなんだけどなぁ」 「…………」 生憎、全然分からない。 「というわけで、この話はもうお終い。焦らなくても、いずれ分かるようになるかもしれないし」 「そんな顔しないでよ。別に酷いことしようとかは思ってないから。信用して」 「できるのかよ?」 「それはあなたが決めることでしょ?」 「…………」 「違う?」 適当にはぐらかされた気がするが、これ以上この話題を引っ張っても何も得るものはなさそうだ。 「おまえら、俺をどうするつもりだ?」 「どうするって?」 「〈攫〉《さら》って拷問にでもかける気か?」 「はあ? 何それ? レンくんそんな趣味があるわけ?」 「やぁだもう、やめてよね。ちょっともう、その発想面白すぎ」 まるで気の利いたギャグでも聞いたかのように、ルサルカは身をよじって笑い出した。 「あは、あははは、いや、いやいやごめんごめん。困ったな、その、ちょっと待って。レンくん、あんまり真顔で言うもんだから、可笑しくて、うふ、うふふ、あははははははは」 「…………」 ツボに入ったらしく、笑い転げるルサルカだが、俺は憤然とすることしかできない。 「面白い発想で悪かったな。初対面で殺そうとしやがったくせに」 しかもその翌日に転校してきて、プレッシャーかけてきたのはどこのどいつだ。お陰でこっちは、この一週間満足に眠ることすらできなかったってのに。 「あはー、はー、いや、その、ごめんなさい。なかなか想像力が豊かみたいで、いや、若いって素晴らしい」 「それで、えっと、さらって拷問? ぷぷ、あはは、ないない。そんなこと考えてないから、安心してよ。だいじょぶだいじょぶ」 「…………」 「あー、やだ、もしかして怒ってる? だったらごめんね、機嫌直して」 それはまるで、ガキをあやすような口調だった。同じ学年に在籍するタメ年の奴に、そんなことを言われたくはない。 が、ここで〈臍〉《へそ》を曲げたらガキ扱いされても仕方ないのもまた事実か。 「それで、結局答えの方は?」 「ああ、うん、それはね。正直、特に考えていないのよ」 「なんて言うかなぁ、初対面の時は色々あれしちゃったじゃない? でもね、あなたが違うなら別にどうでもいいっていうか、わざわざ追っかけてきたりしないっていうか」 「だから、これは偶然なのよ。ここに来たのは、別にあなたをどうこうしようなんて理由じゃなくて」 「おい、ちょっと待て」 今、こいつなんと言った。 「偶然だと?」 「そうよ。わたしたちが選んだ先に、〈偶然〉《、、》あなたがいたってだけ。こう言ったら信じるかな?」 「…………」 信じられない。だが、嘘を言ってるようにも見えない。 「じゃあ、俺がここにいたのは偶然として、おまえらがここを選んだのも偶然なのか?」 「おお、鋭いね。いいよいいよ、やっぱりあなた、結構切れる」 「茶化すなよ」 「ごめんねぇ、これ、性分だから」 「それでさっきの質問に対してだけど、答えはいいえ――ちゃんとそれなりの意味があるわよ」 「ここは何かと、わたしたちにとって都合がいいから。潜伏しやすいし、いざという時に融通も利くし、手間も省けるし」 「ってあれ、もしかしてわたし、不安にさせちゃったかな?」 「別に……」 つまり、俺個人じゃなくてこの学校自体に用があるような口ぶりだ。いったい何を考えているのか知らないが。 「俺には興味がないってことでいいのか?」 「そうでもないわよ。あなたがここに居るって分かった時は嬉しかったし」 「それに、もしかしたらこれもお約束の枠内かもしれないしね。個人的にも、あなたに興味は尽きないわ」 「だってほら、何か運命的なものを感じるじゃない?」 「…………」 「……そうだな」 確かに不吉すぎる巡り合わせだ。こんな奴等と偶然で再会などしたくなかった。 それはもう訊いただろう。 とりあえず、こんなところか。 今までのやり取りを反芻し、俺はフェンスにもたれて空を見上げた。 実際のところ、肝心なことは何一つとして分からずじまい。だけど、不用意に地雷を踏んでしまった時の危険を考えれば、今はこの辺りが限界だろう。 だから深呼吸――落ち着いて、肝を据えていかなければいけない。 これから俺がどうするか、どのように対処していかなければならないか。 話の半分も理解することはできなかったが、感覚的に分かったことが一つだけある。 即効性の危険はなくても、楽観できる立場じゃないと。 なぜなら―― 「ルサルカ」 「なぁに?」 こいつはおかしい。普通じゃない。どれだけ外面を装っても、滲み出てくる雰囲気が危険だと告げている。 「おまえが……」 おまえたちが…… 「この学校で、少しでも……」 「妙な真似をしたら許さない……かしら? うふふ、ほんとに勇敢だよね、レンくんは」 「あの時だってそう。ベイに立ち向かう姿勢なんて、感動ものだったわよ。正しく男の子してるよね。――でも」 「勝てない相手に挑むのが、勇気と言わないことくらい分かるよね?」 それは無謀。匹夫の勇。愚かな自己陶酔行為。 ああ、それくらい分かっている。だから安易に二の句が継げられない。 勝てる相手としか戦わない奴は腰抜けだが、勝機もないのに吠える奴はただの間抜けだ。 「うん、あなたはそんな馬鹿じゃない。だからわたし考えちゃうのよ」 「もしかしたら、勝てる算段があったりするんじゃないのかなぁ……てね」 「…………」 「言ったでしょ、あの時も。何かやろうとしてたんじゃないの、って」 「……別に」 「買い被りだ……」 「そう? じゃあ単純に、大和魂ってやつだったの? 武士道精神、神風特攻、敵前逃亡は士道不覚悟――みたいな」 「今、こんな状況に身を置いていることも含めてね」 言いつつ、ルサルカはわざとらしく小首を傾げる。 くそ――とにかく沈黙はよくない。これじゃあ猫にいたぶられている鼠の気分だ。 ほんの些細な選択ミスで、いともあっさり殺されかねない。そんな薄氷の上を歩いていることは自覚している。だが、だからといって…… 「わたしこれでも、結構人生経験豊富なのよね」 「あなたの目には、何かこう……確信っていうのかな。自信みたいなものの色が見えるんだけど、もしかしてさ――」 「自分はここで死ぬ人間じゃない――とかって思ってる?」 「――――」 それは、あの時とまったく同じ……  君は、既知感というものを経験したことがあるだろうか。  未知を渇望する私と異なり、既知を是とするのが君の本質であるゆえに。  彼女を憎み、彼女を愛せ。彼女を護り、彼女を壊せ。  我が代替としてこの〈法則〉《ゲットー》を破壊しろ。 知らず、俺は仰け反るように数歩後ろに退いていた。 「んふ、うふふふふ……」 笑うルサルカ。しかしその目の奥は、あの夜と同じく刃のように〈凍〉《こご》っている。 恐怖は――だがそれに対するものじゃない。こいつが言ったことの、意味に対して…… 俺が死ぬのはここじゃない。ゆえにどんな無謀も愚行も、最悪のケースには至らない。ならば恐れるものなど何もない。 確信。 既に知っている感覚。 ……馬鹿な。 違う。そんなものを持っているわけがないだろう。 口を押さえて原因不明の吐き気を堪える俺を見つつ、歌うようにルサルカは言った。 「あなた、とても面白いねぇ」 「強いのか弱いのか分からない。黒いのか白いのか分からない。とても半端で、なんかヘン。本当、よく分からない」 す、とそのまま、ルサルカは俺の横を通り過ぎた。 「……おい」 「大丈夫よ、心配しないで。レオンに合わせてあげなくちゃいけないし、おかしなことはしないわよ」 「でもねぇ」 振り返ったルサルカの目が細まる。彼女の影を、真昼の太陽が傍の金網に映していた。 そのシルエットは、何か得体のしれない異形めいて…… 「わたし、もう昔とは違うんだよ。今ならザミエルにも、シュライバーにも、マキナにだって負けやしない」 「だからあんまり甘く見てると、食べちゃうからね」 言い置いて、ルサルカは〈踵〉《きびす》を返した。そのまま去って行きつつも、〈白々〉《しらじら》しい台詞を付け加える。 「わたしは仲良くしたいと思ってるのよ。だってレンくん、可愛いしね」 「…………」 「じゃね、また教室で会いましょう」 先ほどまでとは別人のような明るさでそう言うと、ルサルカは屋上から出て行った。 それを見送り、知らず俺の口から声が漏れる。 「……冗談だろ」 仲良くだって? 笑えない。 金網に目をやると、さっきの影に触れていた部分だけボロボロになっていた。まるで数十年の歳月を経たように、掴めば錆ごと崩れていく。もう、フェンスとしての役目は果たせまい。 あいつがこれと同じことを、クラスでやったらどうなるか。もしそんなことをするようなら、なんとかしなければならない……けど。 「――くそッ」 いま俺は、何を思った? いっそのこと、俺もあいつらと同じだったら良かったのにと、一瞬でもそう思ったのか? ふざけるなよ。 俺は人間だ。化け物じゃない。あいつらが言うメルクリウスだのツァラトゥストラだの、そんな奴等じゃ断じてない。 目には目を、歯に歯を、化け物には化け物を――か? 安直すぎるその発想は、むしろ逃避と言っていいだろう。そんな選択は夢と同じで、寝言ほどの価値もない。 負けるのは嫌だ。逃げるのも嫌だ。なら頭を使ってどうにかしろ。あんな奴等をこの学校にいさせちゃいけない。 なら――どうやって? 「……ちくしょう」 ずるずると力なく、座り込んだ俺はそのまま大の字になってしまった。 考えても、答えなんか出てこない。出せるはずもないことだった。 「前から思ってたんだがよ、あの馬鹿、なんであんなに口軽いんだ?」  うんざりと、〈辟易〉《へきえき》したようにごちる声。男は宙を仰いで、理解に苦しむといった風に〈嘆息〉《たんそく》した。 「よくもまあ、次から次にペラペラペラペラ……あれで拷問の専門家ってんだから、信じられねえよな。そう思うだろ? なあ、おいよぉ、さっきから何黙りこくってんだ、おまえはよ」 「…………」 「レオン、おまえ俺の話聞いてんのか?」 「……ああ」  こちらもうんざりと、沈黙を破られたのが気に入らないと言わんばかりの不機嫌な声。  学園敷地内の一角、葉の枯れ落ちた樹に背を預けたまま、その裏側にいる男に向けて微量の皮肉が返された。 「無駄なおしゃべりが好きなのは、そっちも同じことだろう。私に言わせれば、どちらもそう大差ない。 それとも、陰口を叩かれたのが気に入らないだけなのか? だとしたら、案外狭量なんだなとしか言うことはないんだが……」 「別に。ありゃ女の特権だろ。そんなのいちいち気にしてられるか。第一、気付いて言ってるなら陰口じゃない。俺がこの陽気のなか出歩いてるのを、からかってるだけなんだろうよ」 「……なるほど。確かに私も、それには少し驚いた」  空は抜けるような快晴――冬だというのに、暖かな風が流れている。  彼にとっては不愉快な天気というところだろう。螢は苦笑しつつそう思う。 「とにかく、ここでその鬱陶しい殺気を散らされるのは迷惑だ。おまえがアルビノになったのは、私のせいじゃないだろう。 この陽気のなか、わざわざ出向いてきたのはどういう理由で? まさか、先日の続きでもしにきたのか?」 「あーん? なんだおまえ、若ぇくせにいつまでも粘着だな。あんなもんは洒落だろ洒落」 「笑えないにも程があったが」 「そりゃおまえの感性が鈍いんだよ。そっちの才能がないんだな」 「……だったら、未だ彼に興味でも?」 「アホか、言ったろ。あんなガキのことはおまえとマレウスでやってりゃいい。男のケツに、悪いが興味はないんでね」  鼻を鳴らし、校舎の屋上に視線を走らせるヴィルヘルム。直線距離にして百メートル以上離れている場でのやり取りを、彼らは完全に把握していた。  盗聴器など使ってない。読唇術でも無論ない。そもそも目視すらしていないのに、どうやって? 「二・三日中にシュピーネが来る。おまえ、あいつに会ったことは?」 「五年ほど前に一度だけ。あまり好きなタイプじゃない」 「おまえの好みなんか訊いてねえよ。好かれたくもねえことだしな。 とにかく、昔の〈伝手〉《つて》でシュピーネにあのガキのことを調べてもらった。クリストフもなにやら探ってたみたいだが――結果は白。五代前まで遡っても猿以外の血は混じってない。残念ながら、外れだな」 「…………」 「はン、仲間が増えるとでも期待してたか?」 「……別に」  落胆したのか安堵したのか、どちらともとれるような間を置いて、螢は首を横に振る。しかしすぐに〈怜悧〉《れいり》な仮面を被り直して…… 「それよりも、らしくなく勤労だな。彼には興味がないんじゃなかったか?」 「結果的に興味がなくなったって話だよ。あのガキはゾーネンキントの枝じゃない。つまり、メルクリウスに関係してる確率はえらく低い」 「が、必ずしもゼロというわけじゃないだろう」 「おまえはあいつのことを知らないからそう言うのさ」  小馬鹿にするかのようにせせら笑う裏側で、何か別の、粘性の〈翳〉《かげ》りめいたものが〈仄見〉《ほのみ》えた。  それは畏怖、嫌悪、〈忌避〉《きひ》の類。およそこの男には似合わない、生々しい恐怖の感情そのものだった。  螢はわずかに眉を〈顰〉《ひそ》める。 「そんなに危険な相手だったと?」 「ああ、やばいね。あいつはちょっとおかしすぎた。面と向かって口利けたのは、首領とマキナの二人くらいさ。 おまえはやっぱり知らないだろうが、ザミエルやシュライバーでも一線引いてたくらいなんだぜ? 並みのイカレ野郎じゃなかったのよ」 「……おまえにそう言われたら、おしまいのような気もするが。 我らが副首領閣下殿は、日本人がお嫌いだったということなのか?」 「いいや、強いて言うならみんなだ」 「みんな?」 「あいつは、全世界を舐めくさってた。まあ、そこらは首領も同類だったし、だからこそ馬が合ったんだろうがよ。 唯一の救いは、自国民にはそこそこ寛容だったってことくらいか。横の繋がりで猿にも甘いほうだったが、あの〈皆殺し〉《ホロコースト》野郎がレーベンスボルンの落とし子以外に手ぇつけるとも思えねえ」 「つまりメルクリウスが選ぶなら、俺たちと何らかの関わりがある奴だ。それ以外はあいつにとっちゃあみんな糞だよ。価値もねえ」 「…………」 「何黙ってやがる。文句があるのか?」 「いや」  素っ気なく首を振りつつ、しかし螢は疑問を覚える。  仮にメルクリウスがそういう手合いであるのなら、むしろ選り好みなどしないのではないだろうか。同朋には寛容だったと言っていても、ヴィルヘルムはその存在を明らかに〈忌避〉《きひ》している。そんな者が自分たちだけを特別視すると断言できるか? 否だろう。  全てを見下していたのなら、どれを選ぼうと大差ない。ヴィルヘルムら古参の者は、そう考えることができない――もしくは考えたくない――のかもしれないが……  いずれにせよ、今のところはまだ様子見か。螢は小さく、ため息をつく。 「そちらの言いたいことは理解した。一応、頭に入れておく。 ただ、聖遺物の使い手なら、間違いなく近くにいるな。この一帯、人口密度と魂の数が合わないし、ひどく曖昧だから断定はできないが、おそらく」 「あのガキか?」 「五分五分……いや、六分四分は。彼はそういうタイプだと思うから」 「まあ実際、キワモノに好かれそうな感じだわな。それにおまえ、気付いたか?」  にやりと笑って、ヴィルヘルムは屋上へと顎をしゃくった。 「あのガキ、たぶんな―――」 「……そう」  風にかき消された後の言葉は、螢だけにしか届かなかった。内容は分からない。しかしその表情は、微かに硬くなっている。 「おおかたマレウスも同じように思ってるぜ。あれはそういう奴が好きだからな。それで、おまえはどうなんだ? 親近感とか湧いたりするか?」 「興味がない」  どころか、すでに忘れたような言い草だった。必要以上に〈無頓着〉《むとんちゃく》だとも言えるだろう。 「ただそうなると、七分三分まであげるべきかもしれないな」 「つっても、所詮ただの木っ端だろうが。メルクリウスの術のせいで、釣られて湧いただけだろうぜ」 「だがおまえたちは、当初あれが当たりだと踏んだんだろう」 「そうだが、外れだったもんはしょうがない。黒円卓に、補欠席なんかないからな」 「…………」  議論の余地がないほどの断定。ヴィルヘルムに自分の説を曲げる気はないらしい。  とはいえ、彼が純粋な日本人だと分かっただけで、全てを否定するそのスタンスは何なのだろう。  いささか理解し難い選民思想と差別意識には〈辟易〉《へきえき》するが、それはいつものことである。いちいち相手にしていられない。 「その辺りは別の誰か、もう少し話の分かる相手に相談する。正体不明の聖遺物とその使い手を、この時期放置しておくのもまずいから。 とにかく今は、それも含めて慎重に行くべきだ。マスター不在でゲームを始めても仕方ないし。せいぜい自重するんだな」 「おい、そりゃ嫌味のつもりか?」 「どうとでも取ればいい――ただ」  ただ――どうしてもはっきりさせておきたいことが一つだけある。  と、螢は続く言葉を口にした。 「首領は……ハイドリヒ卿は本当に戻ってくるのか? それが保証できない限りは……」 「ああ、俺やおまえや、他の全員が〈狂い損〉《、、、》だな。まあ、あの人ならそういう冗談もやりかねんが、気にすんなよ」 「無理を言う」 「そうなれば、おまえも私もただの道化になるだけだ。それでもいいと?」 「ははははははは、なるほど道化か。そりゃそうだ」 「……ベイ、おまえはいつまでふざけている」 「まあ待てよ。落ち着きな」  くつくつと笑いながら、宥めるように声を落とすヴィルヘルム。今までとは、まるで態度が異なっている。 「これもやっぱり、おまえはあの人のことを分かってねえよ。生まれる前だから仕方ないが、発言には気をつけたほうがいい。 首領は戻る――戻ってくるとも。前にも言ったが、四半世紀も生きてないチンケな猿の人生観で、あの人を測ろうなんて思うなレオン。 あれは悪魔だ。他に相応しい言葉を俺は知らない。さしずめ愛すべからざる光の君……おお、時よ止まれ、汝はかくも美しい――かははっ」  〈訝〉《いぶか》る螢とは対照的に、ヴィルヘルムの含み笑いは消えず、止まらず、やがて狂的なものへと変わっていった。 「……〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》、首領の称号は知っている。ならファウストは?」 「この街さ」 「契約はあの時に、ベルリンで首領とメルクリウスが交わしてる。証拠に見ろよこの街を。これは俺たちのお陰なんだぜ。 あとは悪魔が出やすいように、地獄を作ってやればいいのさ」 「こんな風にか?」  背を預けている樹の幹を、螢は軽く拳で叩いた。  錯覚だろうか、その寸前まで、樹皮が臓腑のように〈蠢〉《うごめ》いていたような…… 「おまえが何に興奮するのも勝手だが、自重しろと言ったのを忘れないでほしいな、中尉殿。ここは私とマレウスの領域だ。侵すならそれなりの覚悟をしてもらうぞ」 「つんけんすんなよ。俺はおまえが、ここをスワスチカの一つに出来るとは思えないんでね」 「つまりそれは、舐めているのか?」 「何、老婆心だよ。俺もマレウスも歳だからな、こんなトコにゃ何の感慨も湧かないが……おまえは違うだろ、螢ちゃんよ。お似合いじゃねえか、その格好。可愛いぜ」  学生服のことであろう。ヴィルヘルムはなおも続ける。 「普通に生きて、恋して遊んで、泣いて笑って純愛感動青春万歳……暇な劣等どもが喜びそうな飴玉だらけの箱じゃねえか。おまえの憧れだろうがよ。 だから、体よく夢見てたいならそう言いな。俺が代わりに、猿の血で我慢してやるからよ」 「…………」 「ほら、よぉ、返答は?」 「くだらないな」  一歩踏み出し、螢はヴィルヘルムを振り返った。 「私をからかうにしろ、言葉を選べ。以後、侮辱は許さない」 「ほぉ、余計なお世話か。ならおまえ、分かってるよな?」 「愚問が好きだな。それとも頭が悪いのか」 「時よ止まれ、汝はかくも美しい――そう言わせてほしいんだろう? いくらでも言わせてやるさ。あまり甘く見るなよ、この私を」 「面白ぇ、二言はねえな東洋人?」 「誓ってほしいか、自称アーリア人」 「はは、はははは、ははははははは」  問いには答えず、ただ悪意に〈塗〉《まみ》れた笑い声が木霊する。さして声量はないはずなのに、辺り一帯の小鳥たちが一斉に飛び立つほどの〈怖気〉《おぞけ》立つ嘲笑だった。 「そうかいそうかい、こいつはいいぜ。せいぜいマレウスに先越されんなよ」  そして、陽光が雲間に隠れた一瞬のうちにヴィルヘルムは消えていた。その気配が遠のいていくのを感じつつ、螢は呟く。 「〈癪〉《しゃく》に障る」  どだいお喋りな男など、ろくなものであるはずがないのは自明の理か。 俺の気分とは裏腹に、今日もつつがなく授業が終わった。辺りではクラスメートたちが、帰り支度をしながら他愛もない話に花を咲かせている。 “結局休校にはならなさそうだね。そのうち部活も始まるのかな?” “犯人捕まるまではないんじゃない? でも、まだ街にいると思う?” “さあ? だけど、なんで急に殺さなくなったのかな?” “知らないよ、そんなの。でも、我慢してるんならそろそろ限界かもしれないよね。爆発寸前っていうかさー” “うわー、それ怖いって。もう、早く帰ろうよ” 「…………」 確かに、こっちはそんな感じだ。殺人云々ではなく、精神的にリミッター限界に近い。 殺しが起きなくなってたかだが一週間かそこらだが、それまでは日に二人ペースで連続していたんだから、彼女らの予想も間違っていないだろう。誰もが思っているはずである。 殺人犯はいなくなったか、いずれ前を上回るペースで再発するかもしれないと。 そして残念ながら、前者の線は薄いことを俺はよく知っている。 殺人犯は街にいる。息を潜め、衝動を抑えつつ、見た目は一般人のように装って、今この時も我慢しながら―― 「……なんてな」 呟いて、自嘲。昼間ルサルカと話したせいで、ろくでもない考えがより根深くなりかけている。 「どうしたの、レンくん。眠そうだけど、寝てないの?」 どんなに不可解でも、納得ができなくても、他に答えがなければそれが真実――こいつはあの時、そう言った。正論すぎて、反論できない。 が、はいそうですねと認めるには問題がありすぎる。第一、こいつに言われたことをすんなり納得したくはない。 「ねえ、なんで睨むのよぅ」 「…………」 「…うるさいな」 「……早く帰れよ。目障りだ」 「うわ、ひっどぉ~。なんかご機嫌斜めだねぇ、わたし邪魔かな?」 「邪魔だ」 傍からは虐めてるように見られるかもしれないが、もともと気にするような世間体など俺にはない。 「一緒に帰りたいとか思ってるんだけど、駄目?」 「駄目だな。おまえらが帰った後に俺も帰る」 でないと安心できない――そういう意味を込めて睨みつけるが、ルサルカは何処吹く風で笑っている。〈白々〉《しらじら》しい。 「それくらいにしときなさい。しつこい女は嫌われるわよ」 と、思いもよらぬところから救いが入った。ごねるルサルカを櫻井が制している。 「だいたい、あなたは昼間誘われたでしょ。それで満足しなさいよ」 「えー、でもー、まだ話したりないのに~」 「拗ねても駄目。それから、あんまり子供っぽいこと言ってると、余計に嫌われるだけなんじゃない?」 「じゃあなーに、レンくんは大人っぽい娘が好きなわけ?」 「……俺の好みなんかどうでもいいだろ。さっさとどっか行ってくれ」 「そう。じゃあ私たちは失礼するけど、藤井君も……」 言いかけて、なぜか櫻井は眉をひそめた。 「…………」 「……なんだよ?」 いきなり顔を覗き込まれ、反射的に退いてしまうが…… 「綾瀬さん」 「藤井君の顔色が良くない。看てあげて」 「え、ぁ、え、あたし?」 「そう、友達なんでしょ? 彼、なんだか今にも倒れそうよ」 香純がぎょっとして俺を見ている。というかこいつ、いつもは呼ばれなくても来るくせに何をしていたんだろう。まだ帰り支度すらしてないようだが。 「私たちは帰るから、あとお願いね」 「あ……うん。その、ありがとう櫻井さん」 「どういたしまして。それじゃあ、行くわよシュヴェーゲリン」 「えー、なんかわたしだけ蚊帳の外ー」 などと言いながらも、櫻井に促されて渋々教室を出て行くルサルカ。俺はそれを見届けてから、ほっと胸を撫で下ろす。 櫻井が何を考えていたのか知らないが、今日のところは助かった。あとは、まあ…… 「その、蓮……大丈夫?」 こいつをどうあしらうかだが。 「なんか、ほんとに顔色悪いね。ごめん、あたし気付かなくて」 「……いいよ別に。実際たいしたことじゃない」 「でも」 「大丈夫」 たかが七日やそこらまともに寝てないというだけで、ぶっ倒れるほどジジイじゃない。俺は努めて明るく言った。 「それよりおまえ、今日も剣のお稽古なんだろ?付き合うから、早く支度しろよ」 「あ、うん……だけど」 「あんたは、先に帰ったほうがいいんじゃない? 寝ないと駄目だよ」 ……寝てるほうがまずいんだよ。 とは、無論言えない。心配してくれるのは有り難いし、心配されるほど疲労が表面化している俺に問題があるのだが、ここは我が侭を言わせてもらう。 どうせ休むことが出来ないなら、誰もいない部屋に帰るより香純と一緒のほうがいい。我ながら情けないが、今はそういう気分なんだ。 そうしていれば、いくらか気持ちも楽になるし。 「ボディーガードなしで帰るなんて、そんな怖いことできないな。しっかり守ってくれなきゃ困る」 「…あたし真面目に言ってるのに」 「俺も真面目に言ってるんだけどな」 「どこがよ、もう。嘘ばっかり。……いいわよ。分かった。分かりましたよ」 「あんたがそんな感じなら、ほんとは稽古中止にしたいんだけど……」 「習慣なんだろ? 続けたほうがいい」 「そう言うと思ったから、困ってるんじゃない」 「あたしも、今日はサボりたくないし……」 真面目で結構――そう思ったが、わざわざ茶化す必要もないだろう。 「じゃ、なるべく早いとこ済ませてくれよ」 「偉そうに言わないでよね、この不健康児が」 軽い調子でそんなことを言い合いつつ、俺たちは教室を後にした。 「…………」 「…………」 「…………」 そしていつものように、俺は香純の稽古を見学しているわけなんだけど…… 今日はまた一段と気合いが入っているご様子で、鬼気迫るというかそんな感じのオーラが出ている。 いつもは舟漕ぎながらぼんやり見ている俺だったが、その気迫にあてられて眠気も忘れ、気付けば魅入られたように稽古の様を眺めていた。 「…………」 改めて思う。こいつ、つくづく真面目だよな。 日々の鍛錬を欠かさない姿勢だけでも大したものだが、そのうえこの真剣さ……とてもじゃないが、俺には真似できそうにない。 飽きっぽいわけでもないんだが、どうも昔から大概のことは適当に流す癖がついてしまって、今更本気になれるものが見つからない。 そうやって万事なぁなぁでやっていれば、時間の流れものんびりしたものになるだろうと思っていたわけなんだけど。 そうして引っ張りたかった日常は、まず司狼に壊された。そして今は、あいつらに…… 「…………」 やめよう。今はそんなことを考えたってしょうがない。 道場の隅っこで〈胡座〉《あぐら》をかいたまま、音が稽古の邪魔にならない程度に頭を壁にぶつけてやった。 くだらないことをすぐ思い出そうとする悪い癖は、いい加減に直さないといけない。でないと自己嫌悪まで癖になり、根暗君の出来上がりだ。 悩みとか、辛さとか、そういうものは綺麗に華麗に―― さっと流せれば、まあ、いいんだが……実際そうもいかないことは十二分に分かっているし、だから悩んで苦しくなる。 香純……こいつにはそんなこととかないんだろうか。 短気で単純で豪快で、正直女としてはどうなんだと突っ込みたくなる奴だけど、一応繊細な部分らしきものがあるっていうのは知ってるつもりだ。付き合い長いし。 だから、たとえば〈稽古〉《これ》なんかは、その対処法だったりするんだろうか。荒れた心を静めるための、儀式というかそんな感じの。 「――――」 香純の呼吸が感じ取れた。吸って吐いて、大きく吸って―― 面の一発と共に、剣先から気迫のようなものが飛んできた。それは俺のようなド素人にも分かるくらいはっきりとしたもので、ビリビリとした緊張感がこちらにまで伝わってくる。 やるな、香純、カッコいい。 と、いつもなら冷やかしの一つも入れるとこだが、再び正眼に構えなおした香純の顔は超マジだ。余計な茶々を入れたら殺されかねない。 どうやらまだ続くようだが、張り詰めた横顔を見て少し不信に思ってしまった。 (こいつ、いくらなんでもマジすぎないか?) 稽古はダラダラやるもんじゃない。真面目にやるのはいいだろう。だがこれは、なんというか乱暴だ。 さっきの技は確かに凄い。絵にしたら額に入れて飾れるレベルだと思う。ただし、必殺というタイトルで。 つまりその、あえてベタな言葉を使えば殺気立ってる。仮想敵を殺すつもりで、香純は竹刀を振っている。 少なくとも、俺の目にはそう見えた。 「……香純?」 「…………」 「……おい?」 「…………」 香純は俺に応えない。無視しているのか、それともそんなに深く稽古に没頭しているのか。 解せない。 いつだったか、剣道は活人剣だと他ならぬ香純に聞いた。 人殺しの技、殺人剣の歴史は文明開化と共に終わりを告げ、人を殺す術ではなく、人を活かす道として剣道が生まれたのだと。 自分の剣は人を護って活かすものだと、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなことを満面の笑みで言ってた優等生が……おい、ちょっと待てよ何やってる? 「…………」 一瞬、その横顔が禍々しい笑みに見えたのは錯覚だろうか。 わけもなく、突然心臓が跳ね上がった。 「――香純」 「――ッ」 「――――」 その一振りで、香純はあろうことか打ち込み用の練習機器を木っ端に破壊してしまった。 信じられない。防具をつけた人の形をした〈機器〉《それ》が、固定された台座から離れて道場の端まで吹っ飛んでいる。技も糞も何もない、力任せの一撃だ。――そして、どう見ても女の力では有り得ない一撃だ。 冗談じゃない。なんだよそりゃあ。 「おいッ」 俺は、香純に駆け寄った。 「おまえ、いきなり何やってんだよ」 両肩を掴んでがくがく揺する。香純は応えず、茫としていたが、しばらくすると目に光が戻ってきた。 「ぁ………蓮?」 「えっと、なによ、いきなり……」 「……なによって、おまえ」 さっきの一撃で、香純の竹刀は中ほどからへし折れていた。こんなこと、大の男でもそうはできない。 「どうしたのよ、ヘンな顔して。あたしがなにか……」 反応からして自覚がないようだったし、言っていいものかどうか迷ったが、隠しきれるものでもない。 無言で手を取り、へし折れた竹刀を目の高さまで上げてやると、香純は言葉を失った。 「……ぁ」 「……あたし、これ、あたしが……」 俺は答えず、 「とりあえず、手ぇ離せ。こんなの握ってると怪我する」 「それから、片付けは俺がしとくから着替えてこいよ。帰ろうぜ」 「で、でも……」 「香純」 ガラじゃないんだが、ぐしゃっと香純の頭を撫でつつ言う。 「俺、腹減ってんだよ。早く帰って、何か食わないと死ぬ」 「…………」 「な?」 「……うん」 指が固まっているのか、なかなか竹刀から離れない手を俺が解いてやると、香純は力なく頷いて更衣室へと入っていった。 混乱する。なんだこれは? 「まあ女には、そういう日もあるみたいだし……」 片づけをしながら頭の悪いことを言ってみたが、よりいっそう場を重くする以外の効果はなかった。 「お疲れ」 道場を出てきた香純にコーラを奢り、無言でバッグを〈引〉《ひ》っ〈手繰〉《たく》った。 「……ぁ」 「なに、すんのよ……」 「荷物持ち……やってやるから、いつまでもしょぼくれるなよ、気持ち悪い」 「…………」 「……うん、ありがと」 「でも、いいよ。体調、良くないんでしょ?」 「今のおまえよりかマシだ」 「あたしは別に、そんなわけじゃあ……」 「だったらシャンとしろよ、ほら」 ばん、とバッグで尻を叩くが、たいしたリアクションをしてくれない。 調子が狂うな。 「帰ろうぜ」 「…うん」 そうしてたいした会話もなく、俺たちは帰路についた。 相変わらず、香純はろくに喋らない。話を振れば反応するけど、聞いているのか聞いてないのか、ことごとく生返事だ。 まったく…… これだから、優等生は困ったもんだ。たかだか学校の備品一つ壊したくらいで、いちいち落ち込まれてちゃ敵わない。 この際、破壊方法が突飛だったということは、都合よく忘れておこう。過程はどうあれ、結果だけ見れば別に大したことじゃないんだから。 それを上手く伝えるには、どうすればいいんだろう。 「なあ、去年、プールの女子シャワー室がぶっ壊れたの覚えてる?」 「…なによ、いきなり」 「だから、女子シャワー室。水が出なくなったことあったよな」 「…………」 「あったような、気がするけど」 「あれ、俺のせい」 「……は?」 「正確には司狼のせいっていうか、とにかく原因はあいつなんだけど、やったのは俺。我ながら上手く〈隠蔽〉《いんぺい》したんだけど、バレちゃったな。内緒にしとけよ」 「…………」 「えっと、つまり何が言いたいのよ?」 「おまえ、右の胸にホクロあるよな」 「…………」 一瞬、思考が飛んだらしい。 「はあぁぁ!?」 「いや、司狼の奴がな、言ったんだよ。某占いによると、胸にホクロのある女が俺にとって一生の……ていうかとにかくそういうのになるって」 「俺はそういうの信じないから、そんな奴が都合よくいるはずないって言ったら、じゃあ賭けようかってことになって」 「次の体育の時間、二人で天井裏から忍び込んだっていう落ちだ」 「…………」 「一万円賭けてたんだよ、あの勝負。身近にそういう女がいるかいないか」 「だっていうのに、まったく……」 なんてこったと宙を仰いで、なにやら硬直している香純の、その、右の胸にデコピン? ……して、しみじみと言う。 「つけてんじゃねえよ、この馬鹿。俺の一万円返してくれ」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「さあ、とっとと帰ろうか」 「ちょぉっとあんた待ちなさいっ!」 「何? じゃあ何? あんたら二人して、あたしの着替え覗いてたって言いやがるわけっ?」 「いや別に、おまえに焦点を絞ってたわけじゃないぞ……」 「はっきりしてっ」 事実は事実。 「ああ、覗いてた」 「このド変態がぁっ!」 「ぐあっ」 取り返されたバッグで、情け容赦のない一撃をお見舞いされた。 「おま、ちょ、角で殴るな。鼻血出てるぞ」 「やかましいわねこの変態。何あたしの知らないところで馬鹿ぶっちぎりの勝負してくれてんのよっ!」 「落ち着け、ホクロ」 「誰がホクロよ、あたしのおっぱいに何か文句があるっての!?」 「俺は一万円の損害を被ったんだ」 「うるっさい黙れぇーー!!」 「司狼はともかく、あんたはそんなことしない奴だと思ってたのに」 「だって、あいつが挑発するから」 「あんな光速バカの口車になんかほいほい乗るなーっ!」 「もう、馬鹿バカ、バカバカバカッ」 「……だいたい、なんでよ?」 「はい?」 「だからなんで、あの〈司狼〉《バカ》急にそんなことを言い出したのよ!?」 「知らん」 あいつの考えることなんて、ガキの頃から異次元の彼方にあると思っている。 「ただ単に、俺をからかいたかっただけじゃないのか? もしくは金がなかったか」 「どういう意味よ?」 「だから、イカサマだったんだよ。あいつ前から知ってたんだ」 「へ?」 「ガキの頃、俺たち何度か一緒に風呂入ったことがあったよな。あいつ、その時のこと覚えてただけなんだよ。金渡してからそう言いやがった」 お陰で軽くムカついた俺は、暴れた拍子にどこかのバルブを壊してしまって、水が出なくなったという落ち。 いい加減にバッグ振り回すのも疲れたのか、肩で息をしている香純に近づき、もう一回デコピンしとく。 「な、なによぉ、変態」 「けど、そう考えると不公平だな」 「はあ?」 「俺が忘れたっていうのに、あいつだけ覚えてるってのはなんかこう……」 「おまえ、この際だからもっかい俺と入ろうぜ」 「………え?」 「あ、ああああ、あんた、い、いいきなり何言い出すのよ?」 「嫌なのか?」 「や、その、別にそんなわけじゃなくて……ね」 「だって、ほんとに子供の頃だし、あたしもよく覚えてないし、今さら言われても、ほら、困るし……」 「ちょっと傷つくな」 「ああああ、だからだから、なんで急にそんなこと言い出すのよ」 「昔とは違うんだから、あたしも、その恥ずかしい……し」 心の準備が……とか、なにやらごにょごにょ言っている。 「えっとね、別に司狼がどうとか、そういうことじゃないんだよ? 今さらお風呂とか言われても、昔みたいには、やっぱりさ……」 「だから嫌がってるとか、そういうのとは違くて、どっちかというと、嬉しくなかったりしないこともないなんて思わないこともなかったりするような気がしないでもないんだけど」 「やっぱり、今からすぐとか言われたら、困っちゃうって言うか……ね、分かるでしょ? ていうか分かってよ」 「…………」 「……蓮?」 「…………」 「ねえ、聞いてる?」 「香純……」 「な、なによ?」 がしっと両肩に手を置いて、しみじみと俺は言った。 「おまえさ……」 「やっぱり、凄い単純だよな」 「……は?」 「あ――ってあんた」 「今度から単純キングと呼ばせてくれ」 「もう、あったまきたー!」 うん、まあ、とりあえず、いつもの元気が戻って何より。 バッグでどつかれ、蹴りとパンチも貰ったが、これくらいの力があれば練習機器の一つや二つ壊してしまうのかもしれないだろう。 今はそう結論づけることが、一番いいと俺は思った。 「で、なんで公園なんかに来てんだよ」 あの後、一旦家まで帰ったものの、即座に引っ張り出されて街中を連れ回される羽目になった。いったいどういうつもりだろう。 料理が面倒だという理由で、ファミレスに付き合わされたところまではまだ分かる。問題は、むしろその後。 わざわざ街中まで出向いて服買ったり靴買ったり、ゲーセン行ったりカラオケ行ったりあれやこれやその他もろもろ。 なんだかんだでしっかり付き合っている身としては、不平不満を言う気もないが、少々解せない思いもある。 だってこれじゃあ、まるでデートだ。 香純とそれ紛いのことをしたのは一回二回じゃないけれど、なんで今さら、わざわざこんな…… 「疲れた?」 「結構な」 両手に余るほどの買い物袋をぶらさげて、やや呆れ気味に呟く俺。この時期呑気に出歩いて、あげくこの場所にやってくるなんて我ながら危機感が薄いにもほどがある。 吐いたため息の大半は、そんな自分に対するものだ。昼間のルサルカの態度からして、即何かされる危険は低いのかもしれないが、あまり賢い行為じゃない。 「買いすぎだろ、これ。生活費とか、大丈夫か?」 「平気――ていうか気にしない。ストレス解消しなくちゃね」 「俺のストレスは?」 「今日は荷物持ちじゃなかったのぉ?」 そりゃ確かに、そうは言ったが。 「きついなら、ちょっとだけ休憩していく?」 「いや、それは……」 遊び歩いている間に、日はすっかり落ちている。辺りはもう真っ暗だ。 時計を見たら、午後九時五十分。深夜――というにはまだ早いが、夜の〈帳が〉《とばり》深くなる時間帯だ。いつもはカップルだらけの時刻と場所だが、今ここにいるのは俺と香純の二人の他に、あと三・四組、ちらほらと。 「なによ蓮、そわそわして……もしかすると、怖がったりしてる?」 「……なんでだよ」 「ほんとに? なんか態度ヘンくない?」 「…………」 まずいな。 こいつはどうしてこう、妙なところだけ勘がいいのか。 「大丈夫だって。他にも人、結構いるし。いざとなったらあたしが守るし」 「ま、ほんとは誰もいないと思ってたんだけどね」 「…………」 「だからほら、休憩休憩っ」 「…………」 ……まあ、確かに、少なくとも人目があるうちは大丈夫だろう。この数日で神経が擦り切れかけてるし、香純に連れ回されたお陰で体力も限界だ。 少しだけなら…… ほんの五分か十分程度、休憩するくらい構わないだろう。 あまり焦って帰ろうとすれば、変に勘繰られるおそれもあるし。 「……分かったよ」 悩んだ末、俺はベンチに腰を下ろした。背筋がざわざわする感覚を抑えつつ、それを気取られないよう、意識して呑気に話す。 「最近事件がなかったし、楽観主義の奴も結構いるみたいだな」 「あたしみたいな?」 「ああ、おまえ筆頭」 「で、それより、誰もいなかったら何かあるのか?」 「何もないけど、他に人がいると恥ずかしいじゃない」 「そうかぁ?」 別に恥ずかしいことをおっぱじめるわけでもないだろうに。 というか、周りは恥ずかしいことをおっぱじめているわけなんだけど。 「うわ、すごっ」 「おまえはおまえで、何覗きやってんだよ」 「だって、目に入っちゃうんだからしょうがないじゃない」 「だったらこっち来いよ。そんなとこに一人でいるから、余計なものが目に入る」 「あのー、余計ってことはないんじゃない? 一応、みんな真剣なんだろうし」 「俺らにゃ関係ないことだろ」 所詮、赤の他人だし。 ベンチに座ったままため息をつく俺をよそに、香純はまだキョロキョロしていた。 「わ、わ、見てあれ、始まっちゃったよ」 「あー?」 「駄目、見ちゃ駄目っ」 「どっちなんだよ」 「だ、だから、その……」 もじもじと、全っ然似合わないが頬なんか染めたりして、俺を見てくる。 「隣……座っていい?」 「…………」 「ねえ」 「……まあ、ヘンなことしないんなら」 「なによヘンなことって、失礼ね!」 「そういうことだよ」 バッグ振り回して〈喚〉《わめ》いている。この単純キングが。 「こっ恥ずかしいんならさっさと座れよ。その代わり、暴力禁止な」 「……あんたが余計なこと言わない限りしないわよ」 「じゃあ黙っとく」 「いーや、それも駄目」 にっこり笑って、香純が俺の隣に腰をおろした。 「……その、さっきはごめんね、色々と」 「ん……ああ」 正直、何のごめんだかよく分からないが、おおかた道場での一件がらみのことだろう。 「あたしがやったのに片付けとかさせちゃって、ヘンな気とかも遣わせちゃって、こんな時間まで、無理に付き合わせたりしちゃったりして……」 「なんか今日、蓮に甘えてばっかりだね。呆れてない?」 「別に。いつも呆れてるし」 「それに、最初の二つはどうでもいいだろ。おまえ掃除下手だから片付けなんかさせられないし、次のも別に気ぃ遣ったわけじゃないし」 「ま、最後のだけはちょっとだけ勘弁してほしいんだけど」 「あー、ひどいな。あたしとしては、むしろそこだけ大目に見てほしいんだけど」 「現在進行中なのにか?」 「現在進行中だからこそなの」 言いつつ、香純が俺の手を取って、何かをそっと握らせた。 チャラ、と鎖の音。硬質の手触り。 これは……? 「プレゼント。迷惑かけたお詫びも兼ねてね」 「どうこれ、気に入ってくれたかな?」 掌に置かれたのは、シルバー製のチョーカー……だけど、少し変わったデザインだ。 「これ、俺に?」 「うん、きっと似合うよ。露店で見つけた時、ビビッてきたから」 「おまえにきても、しょうがないと思うんだけど」 だが、これはこれで結構いい物だと思う。 「高かった?」 「まあ、ちょっとだけね」 二万から三万というところだろうか。誕生日でもないのに、こんなの貰って、なんか悪いな。 「早めのクリスマスプレゼントだとでも思ってよ。気にしちゃうんなら、お返しくれればいいから」 「……分かった」 そういや、クリスマスは氷室先輩の誕生日だってシスターが言ってたな。あと二週間先くらいだけど、その時一緒にお返しも買っとこう。 金、ないけど。 「とりあえず、ありがとな。なるべく着けるようにする」 「今着けなさいよぉ」 言って、香純がチョーカーを持ったまま俺の首に手を回した。 「へへ、あたしが着けたげるね」 「…………」 まあ、いいけどさ。 「む、あれ、この…」 「えっと、ちょっと動かないでね。……あれ、おかしいな。これ、どうなって」 「…………」 この不器用め。 「痛っ、おまえ、髪の毛巻き込んでる」 「あ、ごめん。でも、動いちゃ駄目」 髪の毛〈毟〉《むし》られると敵わないんで、俯き気味になったら香純と額を合わせるような形になった。 「へへへ……どアップ、可愛いね」 「…………」 「なんでそんなに嫌そうな顔するかなぁ?」 「男に可愛いは禁句なんだよ」 「そうなの? でも事実じゃん」 「くどいな、おまえも」 たまに女という生き物は、可愛い以外の形容詞を知らないんじゃないかと思ってしまう。 それから、たかだかチョーカー留めるのにいつまで時間をかけてるのやら。 「なんか、いいね。こういうのも」 おまけに、まじまじ人の顔を覗き込んでくるし。 「その目、ムカつくから閉じろよ」 「い・や・だ――蓮が閉じたら?」 「絶対嫌だ」 「どうしてよ?」 「身の危険を感じる」 「いたずらとかしないからさぁ」 「それ、100パー嘘だろ」 ていうか、あれだ。 「おまえ、ちょっと今日おかしいぞ。何かあったか?」 「実は二日目なのですよ」 「アホか」 「アホってなによ。ほんとのことなのに」 「ほんとなら、なおさらそんなの公言するなよ。年頃の乙女が」 「うわ、おっさん臭っ」 「と思ったけど、やっぱりいいわ。乙女じゃないし」 「なにーっ」 まったく、これじゃあいつまで経っても埒があかない。うなじの辺りでごそごそやってる香純の両手を上から押さえて、そのまま自分で留めてやった。 「ケチ」 「おまえ、やっぱりわざとやってただろ」 のろのろのろのろ、いったい何を考えてんだか。 「うーん、でもそれ、やっぱり似合うよ」 「そうか?」 「そうなの。似合わない物をプレゼントするほど、あたしセンス悪くないもん」 「それでね、水星なんだって」 「はあ?」 「だから、水星。星。マーキューリー。オーケー?」 「……何が?」 いきなりワケの分からないことを言われて、俺の頭上にクエスチョンマークが飛び始める。 「それのデザイン、お店の人が言ってたけど、太陽系の縮図なんだって。もっかい見てみ」 「ね、そんな感じでしょ?」 「まあ、言われてみれば……」 ペンダントトップの装飾は、車輪か歯車、もしくは時計なのかと思っていたけど、こうして見ると、なるほどこれは太陽系だ。中心を囲うように、九つの星が円環している。 「だからそれに合わせて、九種類のタイプがあるんだって。それはその水星バージョン」 「……へえ」 未だに冥王星が入ってる辺り最新モデルというわけじゃなさそうだが、胸元の水星バージョンとやらを〈弄〉《いじ》くりながら、一応納得。 「でも、なんで俺に水星なんだ?」 「ぴったりだから」 「どこが?」 生憎と、水星人に知り合いを持った覚えはない。 〈訝〉《いぶか》っていると、香純は偉そうに鼻を鳴らして、 「まず時間にうるさい」 「すぐ逃げる。足が速い。そして意外に手も早い」 「水星はね、盗賊と旅人の星なんだって。あんたちょうどそんな感じ」 「…………」 おまえ、それは〈貶〉《けな》してないか? 「あたしに内緒で、すぐどっか行っちゃうとことか。自覚してる?」 「……一応」 「なんか距離置いてる感じにスカシてて、ちょっと感じ悪いのは?」 「…………」 「司狼と微妙に怪しかったり」 「……おい」 「あたしをすぐのけ者にしたり」 「それは……」 「何か悩んでるくせに教えてくれない」 「…………」 「ちょっとだけ、悔しいよ」 「香純……」 いきなり、なんだよ。おまえはどこまで…… 「ねえ、蓮」 「あたしは、あんたの味方だよ。つらい時は、頼ってほしいな」 「…………」 「剣道強いんだぜ、あたしって」 「……知ってるよ」 だが、だからって、おまえにあいつらをどうこうできるわけがないだろう。 いや、おまえだけじゃない。 氷室先輩だって、誰だって、例えば警察なんかでも、あれをどうにかできるはずがない。 なら俺は……今こんなところで何をやっているというんだ。 「あたしは蓮の力になりたいよ。忘れないでほしいな、そこんところ」 「だからね、それは戒めなの。勝手にいなくなるなよ、旅人さん」 とん、と胸を叩かれた。ついこの間も、似たようなことを言われた気がするけど…… 「司狼……がさ」 「あいつがいなくなっちゃって、その上あんたまでいなくなったら、あたしつらいし」 「えーと、つまり、これはそういうことなんですよ。いやー、なんか恥ずかしーね。こういうの」 「…………」 香純の苦笑が、痛かった。自然と目を伏せてしまう。 俺はこいつに、そんなことを言われる資格はないかもしれない。 なぜなら、ここで…… 駄目だ――考えるなそんなこと。 あんなことに、こいつを関わらせてはいけない。気取られてもいけない。 本来なら、今は特定の誰かと親しくするのも控えた方がいいと分かっている。 だけど…… 「約束、するよね?」 ここで香純を突き放す覚悟が持てない。ただ一つ残った日常との接点を、断ち切ることに〈躊躇〉《ちゅうちょ》している。 それは、どうしようもないほどふざけた甘え。 俺は人間で、あいつらの仲間なんかじゃないんだと。 そう信じさせてくれる香純を手離したら、もう戻ってこれないような…… 二度と再び、この陽だまりを感じることが出来なくなってしまうような…… 自分の馬鹿さ、間抜けさ、くそったれさを、これほど痛感したのは司狼の一件以来だろうか。 「俺は……」 女の前で空元気を振り絞るくらい、男ならやってみせろ。 「……蓮?」 立ち眩みがする。吐き気がする。視界が傾ぎ、暗転していく。 それは白昼夢と言うには語弊がある、〈酩酊〉《めいてい》した感覚。 全身から疲労が噴き出て、気絶しそうになっていくのを実感した。 いけない、これは…… 『――おかえり』 あの悪夢の夜と同じ感覚――よりによって、こんな時に。 『また逢えたね、カリオストロ』 歌うような少女の声を聞きながら、俺の意識はそのままそこで断絶した。  そしてこれより――刹那、夢幻の境界での〈邂逅〉《かいこう》を。  そこは黄昏の浜辺。黄金に輝く海と太陽の狭間にあって、永遠に時を止められた閉じた世界。  ここに人は存在しない。停滞した永遠にあって留まる者など人ではなく、生ですらない。  ならば死者は? 命無き存在であるならこの世界の住人足り得るのか?  否である。死ですらも流動し、変化し、磨耗して風化する。  ならばここに在る者は、すなわち不変であり無でなくてはならぬ道理。  在りながら、在りえざる。  矛盾。それゆえに永遠足り得る。摂理の〈埒外〉《らちがい》に身を置く存在。  誕生からして異端であり、〈排斥〉《はいせき》され隔離されたのはその業ゆえに。  罪深い。呪わしき哀れな娘。  彼女は、それゆえに美しかった。  この閉じた世界に相応しく、黄金を〈纏〉《まと》う〈忌児〉《いみご》として。  〈眩〉《まばゆ》いほどの不吉として。  彼女の名は―― 「やあ、また逢えたねマルグリット」  ――それが、少女の銘である。 「今度の旅はどうだった? お土産話を聞かせてほしいの。あなたが見てきた世界の話を……今でもあなたは、旅を続けているんでしょう?」 「ああ。そして君は、今でも歌っているのだね」  ブロンドの少女に応えたのは不可思議な、〈喩〉《たと》えるなら穴だらけの影絵のような存在だった。  ぼろぼろの外套で全身を覆った姿は、冥府の使者めいていて……目鼻立ちはおろか、男か女かも分からない。  いや、そもそも、その存在には〈貌〉《かお》がなかった。  意味などない。個性もない。それが〈数多〉《あまた》の記号を名とするように、決まった〈貌〉《スタイル》を持ち合わせない。 「寂しくはなかったかい? ずいぶん独りにさせてしまった。私を恨んでいるだろう?」 「……ううん、ただ、怖かった。もうあなたに逢えないかもって思っていたから。また逢えるって、また逢おうって、あなたは言ってくれたことがないのよ。知ってる?」 「そうだったかね、それはすまない。私は流浪の癖がついてしまって、その手の習慣を遠くに忘れてきたのだろうな。許してほしい」 「それで、謝罪の後に頼みごとをするというのも、いささか恥知らずな話なんだが……」 「歌でしょ?」 「ああ。よければここで聴かせてくれないか。私もまた、君のために些細な遊びを用意した。陳腐だが、それなりに手間と時間をかけたのだよ。以前王妃様にお見せした、パリのオペラにも劣らないほど」  Qu'ils mangent de la brioche――と、謳うようにそれは言う。 「あの時彼女がそう言ってくれたように、歌劇の始まりを君に飾ってほしいんだ」 「……カリオストロ、何を言っているのか分からないよ。わたしは王妃なんかじゃないって、知ってる?」 「無論、君はあれよりも上等だよ。長年に渡る〈流離〉《さすら》いを振り返っても、未だ君を超える“美”は知らない」 「わたしは誰にも、そんなことを言われないのに?」 「然り――それゆえにだよ」 「誰も彼もが君を恐れ、憎み、直視を〈躊躇〉《ためら》い、〈忌避〉《きひ》を選ぶ。何故か――それは君の美しさに絶望し、己の〈矮小〉《わいしょう》さを認めたくないがためだよ。人は理解不能なものを悪と呼び、恐怖するようにできている。くだらん。実にくだらんね。そんな保身や虚栄を大義に、いったいどれだけの輝きが失われてきたと思うかね。それは私が、もっとも嫌う行いなのだよ。 聞いてほしい、マルグリット――」 「忌まわしき罰当たり児、神の呪いを受けし君――私はその美を信仰している。是非、我がオペラの主賓となっていただきたい。見返りとして、君の呪縛を私が断ってさしあげよう」 「以前の旅で、とある友人ができたのだ。とても強く、恐ろしく、地獄の塊のような男だが、彼もまたある意味で美しい。その力を貸してもらう約束を、私はすでにとりつけているのだから」 「……彼? それは、怖い人なの?」 「ああ、怖い。とてもとても、誰よりもね。私が今まで会った中でも、あれほど凄まじいのは見たことがないほどだよ。まるで愛すべからざる光の君――我が生涯唯一の盟友だ」 「遠からず、彼はゲットーを脱けるだろう。ならばこそ、君の呪いも解けるはずだ。聞かせてくれ、マルグリット――君はこのまま永遠に、ここで歌い続けたいのか?」 「……分からない。でも、ここを出て何があるの?」 「それは私が答えるべきことではないよ。旅に出たいのか、出たくないのか。知りたいのか、知りたくないのか……もっとも君が望むなら、私はあの太陽すら堕としてみせるつもりなのだが……」 「……最近。最近、あなた以外の人がここにくるの。あれは誰? その人がやってくるとね、少し気持ちがよくなるの。なんでだろう、分からないけど」 「首を刎ねられても死なぬから――ではないのかな」 「……え?」 「私といえども、君に触れては無事にすまぬよ、マルグリット。だが、彼は違うのだろう?」 「…………」 「君の〈番〉《つが》い……あれを創りあげるのには苦労した。意中の女性へ捧げる贈り物として、なかなかいい出来であると自負しているがね。 あの首飾り……身に付けてみたいとは思わんかね? とても似合うと思うのだが」 「…………」 「答えを急ぎすぎたかな。では質問を変えよう」 「君は、あれにまた逢いたいと思っているかね? 逢って話したいと、わずかながらでも思うかね?」 「分からない……でも」 「気にはなる、と。よろしい、承諾したよマルグリット」 「ならば歌を歌いたまえ。甘く切なく、想い人を求める歌を。記念すべき第一幕は、悲恋の物語にしようじゃないか」 「……わたし、歌は一つしか知らないのよ? それでもいいの?」 「構わない――むしろそうでなくては意味がない。さあマルグリット、聴かせてくれ。今よりオペラを始めよう。もう変わり映えのない永遠など、続けていく意味はあるまい」 「そうすれば、楽しくなる?」 「楽しませよう」 「約束できる?」 「約束しよう。アレッサンドロ・ディ・カリオストロ――君にそう名乗った者の総てに懸けて」  影絵の存在はゆらゆら揺れて、まるで〈嗤〉《わら》っているようだった。  その右手からは二匹の蛇が絡み合いながら伸びていき、杖とも剣とも形容し難い異形のものを象っていく。 「さあツァラトゥストラ、我らが愛しの君がお望みだ」  歌い始めた少女の傍で、それは指揮者のように両手を掲げた。  すると外套が無限に広がり、空も海も太陽すらも、黒く黒く覆っていく。  それは永遠の黄昏であるこの浜辺に夜をもたらし、止まっていた時を強制的に動かしだす。  徐々に暗転していく世界の中で、〈祝詞〉《のりと》のような言葉が響いた。 〈Verum est sine mendacio,certum et verrissimum:〉《これは疑いもなく確か且つ、これ以上の真実はないというほどの真実である》 〈Quod est inferius est sicut id quod est superius,〉《すなわち下にあるものは上にあるものがごとく》 〈et quod est superius est sicut id quod est inferius,〉《上にあるものは下にあるものがごとし》 〈ad perpetranda miracula rei unius.〉《それは唯一なるものの奇跡の成就のためである》  彼はあらゆる名を持ち、あらゆる時代を流れてきた〈彷徨い人〉《アハスヴェール》。  影絵の術師が、その声なき声で〈嘯〉《うそぶ》いた。 「ではこれより、今宵の〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めよう――」  疾走――それは有り得ない速度で駆けていた。  およそ生物が発揮できる瞬発力の限界を超えている。  陸上最速の存在である猫科の猛獣は時速120㎞――だが、それの速度は優にその三倍から五倍強。  疾風としか形容できぬ姿を視認することは不可能であり、またそのようなモノが存在するはずないという“常識”がフィルターとなって、よりいっそうそれを不可視のモノへと変えていた。  〈迅〉《はや》い――人の形をしていながらこれほどの高速移動を可能にする存在は、もはや人とは言えぬだろう。  しかも、それはただ速く走っているというだけではなかった。  それが駆け抜けた後には、血の花が咲き乱れる。最大射程数十メートルにも及ぶ不可視の刃が、進行方向に存在するあらゆる生物を殺害していた。  例外はまったくない。  男であろうと女であろうと、若者だろうと老人だろうと子供だろうと動物だろうと――それは公平に、たった一つの方法で殺害していく。  すなわち、斬首。  死を巻く旋風は、さながら巨大な断頭台。その前に立つ者は、ことごとく首を断たれて絶命する。  翼のように広げた両腕は死女の〈腕〉《かいな》に他ならず、その抱擁にかかれば如何なるものも生きられない。  なぜならこれは凶器ではなく、処刑のためだけに存在するモノ。  殺害というただ一つの目的で生み出され、その役にしか立たぬモノ。  武器、兵器の類であれば持つ者の意志によって属性を変えられるが、これは極めてシンプルであるがゆえに、誰が持とうとアイデンティティは揺るがない。  ならばこそ、こと殺しに関して他の追随を許さぬのは至極当然のことである。  だがしかし、今その存在は追われていた。  走行中の車を爆発炎上させたのは、頭上から槍のように落ちてきた巨大な棒杭。いったい何の冗談か、電柱ほどの大きさを持つそれに貫かれたアコードは、炎上も束の間、一瞬にしてばらばらの鉄塊へと風化していた。内部の人間は、焼かれる以前にただのミイラと化している。 「……不味いな、クズが」  墓標のごとくアスファルトに突き立つ杭の上には、長髪を〈靡〉《なび》かせる〈死蝋〉《しろう》めいた白貌。  まるで血管のように張り巡らされた網目が杭を駆け上り、男の足から全身へと拡散していく。  吸い上げているのだ。ガソリン、水、そして血液……貫いた対象に内在していたあらゆる養分、稼動するための魂とも呼べるものを。 「カカ、逃がすかよ」  その間も疾走をやめず、駆けて行く獲物の背を見ながらヴィルヘルムはせせら笑った。 「楽しもうぜ、ツァラトゥストラ。今度こそ当たりだよなぁ」  連続してアスファルトを〈穿〉《うが》つ杭。その上を飛び跳ねるように走るヴィルヘルムのスピードは、実際のところ追跡対象の半分にも及ばない。にも拘わらずみるみる間を詰めていくのは、単純に歩幅の差と言えるだろう。  長さ十メートルを越す杭は全て彼の足から生えており、その延長として機能している。本体そのものが人間大のサイズとはいえ、一歩で稼ぐ距離の長さは巨人のそれと同等だ。  そしてまた、そうすることが当然だとでも言わんばかりに、足下の存在を踏み潰して〈顧〉《かえり》みない。彼にとって、ただの人間とその被造物など虫と同列のものなのだろう。  なまじこの一週間で事件が起きなかったこともある。煌くライトで装飾された街の名所は深夜にあっても人が集い、それらの〈悉〉《ことごと》くがギロチンと杭の餌食となった。  血に染まる橋。  朱色にライトアップされたその姿は皮肉なことになお輝きを損なわず、凄惨美とも言える光景のなか、さらに悪夢か冗談めいたものが現れた。  地響き――橋上を揺るがす重厚な連続音。  車輪である。そうとしか説明できない。  直径五メートルにも達するそれは、禍々しいスパイクでアスファルトを噛み砕きながら、やはり前方の存在を追っていた。  人を、車を、残らず轢き潰して〈轍〉《わだち》に変える〈荒唐無稽〉《こうとうむけい》なまでの理不尽さは、もはや笑い話ですらないだろう。  悲鳴と鮮血を巻き込みつつ、なお回転を高速化する車輪は刑具だ。有り得ないほど巨大であるが、異端審問の時代に使用された〈拷問器械〉《ペインアート》に他ならない。  そしてその上に立つ少女は、さしずめ審問官とでも言うべきなのか。 「ふぅん、今日はまた随分と見境ないのね。まあ、わたしも派手なほうが好きだけど」  口調には愉悦と興奮、そして緋色の媚が混じっていた。 「あなたはいつもそうやって、わたしたちを見下してるのね。 未だに自分が、上だとでも思っているつもりかしら」  続く言葉は喘ぎにも似て―― 「いいわ、わたしが試してあげる。追いかけっこを続けましょう。 ただし、紛い物だったらただじゃすまさないからね」  車輪が通過した跡から、放射状に広がる〈食人影〉《ナハツェーラー》。それは瞬く間に橋を覆い、全ての死傷者と破壊された車両を一つ残らず呑み込んだ。後には何も残らない。  なんと馬鹿げた、そして常識外れも甚だしい行為だろうか。一方的なジェノサイドによる口封じと証拠隠滅。――なるほど、ここまでやれば不条理すぎて、原因不明と世人は言うに違いない。 「おまえも毎度ご苦労だな。細かすぎると老けるぜマレウス」 「そう思うなら、少しは気を遣ってほしいわね」  目に映るもの総てを破壊、殺戮、〈隠蔽〉《いんぺい》しながら、駆ける〈赤白〉《せきびゃく》の魔女と騎士。その〈凄絶〉《せいぜつ》極まる所業とは裏腹に、交わす言葉は優雅な散歩の風情である。  人外の逃走者に人外の追跡者。ここに常識は存在せず、それに依る者は生きられない。  異界である。空気から塵の一片にいたるまで、常ならぬ法則で組み上げられた魔人たちの戦場だ。  凶光を放つ二対の瞳が、ついに標的の背を射程距離内に捕捉した。 「追いついたぜぇ、そこ動くなよォ!」 「ちょっと痛いけど我慢しなさい」  号令一下、ヴィルヘルムの右掌から大人の胴回りもある杭が砲弾のように射出され、ルサルカの影からは鋲で武装された鎖の束が一斉に噴出した。  串刺しにされるか、絡めとられて〈車裂〉《くるまざ》きか。  無論、彼らとてこの程度が決め手になるとは思っていない。  相手がかつての副首領、メルクリウスの代替であるのなら、まかり間違っても死ぬようなことはないだろう。  つまり逆に言ってしまえば、この程度で斃れる存在なら用を成さぬ。  死ぬのなら死んでしまえ。力なき劣等種が栄えある黒円卓に名を連ねるなど、およそ許されることではない。  そういう意味で、彼らの攻撃は〈呵責〉《かしゃく》ない本気だった。使用したのが形成位階……本来のものより一ランク下の技であるということ以外、遊びは一切〈挿〉《はさ》んでいない。  常人なら即死。たとえ実体を持たぬ死霊の類でも、聖遺物を武装化する彼らの秘奥はあらゆるものを殺傷する。  人であれ、魔であれ、神であれ、戦えば〈鏖殺〉《みなごろし》。  修羅の戦鬼のみが〈揮〉《ふる》える禁断の遺産とその攻撃を、無効化する法は事実上存在しない。  ゆえに、彼らの予想はこうだった。  死にはしまいが、無事でも済むまい。  全神経を防御か回避に集中させても、相応の手傷を負うはず。  その隙を衝いて捕縛しようと。  それは戦術的に間違っていなかったし、対象が生き残るには他に方法などないように思われた。  まさか、直撃されれば必殺必至の攻撃二つを、一切躱さず受けるなどとは―― 「――にィッ!?」 「――嘘ッ!?」  防御、回避など歯牙にもかけず、ただカウンターによって追跡者を撃墜するなど、蛮勇を通り越して狂気の沙汰だ。何処の世界に、放たれた凶弾を躱すより射手の殺傷を優先する者がいるだろう。  だがその狂行がもたらした結果として、数十メートル弾き飛ばされたヴィルヘルムとルサルカは、標的を射程距離から逃がしている。先の攻撃も大した威力を発揮してない。  負傷はしたろう。だが、それは双方同じことである。むしろその覚悟を持って事に臨んだあちらと違い、こちらは予想外のダメージを受けた身だ。  つまり、この状況を客観的に見るならば…… 「やられた……今のはこっちの負けね」  もはや標的の気配を捕捉できない。まんまと撒かれたことになる。 「肉を切らせて骨を断つ……か。あんまり好きな思考じゃないわね。この国の価値観に毒されちゃったのかしら。どう思う?」 「知るかよ」  立ち上がり様、吐き捨てた声は怒りと屈辱に狂っていた。 「追うぞ、マレウス。野郎も無傷じゃねえ。今夜中にカタつけてやる」 「分かってるわよ。こんな目に遭わされて、黙ってられるものですか」  聖遺物で受けた傷は、通常の負傷ではない。歴史を重ねることで蓄積された想念は呪いであり、致命的な毒となりうる。  ましてそれは、彼らのような外道の輩にこそ効力を発揮しやすい。  ルサルカの顔が苦痛に歪んだ。 「痛い……痛いわ。わたし泣いてしまいそうよ、耐えられない。 ねえベイ、あなたもそうでしょう? こんな痛い思いなんて、この六十年してなかったからどうしていいか分からないわよ」 「ああ、痛い。痛いよなぁ。……だがよマレウス、おまえは嬉しくならないか?」  久しく忘れていたこの感覚。一方的な殺戮を数こなすというのも快感だが、やはり闘争の本質とはこれである。  喰うか喰われるか、互いの全存在を懸けた〈鬩〉《せめ》ぎ合いでこそ感じられる緊張感と昂揚感。自らに匹敵する敵を長らく欠いていたせいで、どうやら〈日和〉《ひよ》っていたらしい。  あの輝かしい戦場の煌きを。命をぶつけ合うことで散華する刹那の火花を。  それはなんと美しく、官能的であることだったか。  そのことを再び思い出させてくれるとは、感謝してもしきれない。  もはや、身を灼く痛みすらも甘美である。 「感じさせてもらおうぜ……まだ始まったばかりじゃねえか」 「ええ……ええ、そうよねベイ。まさか、あの子だとは思わなかったけど」  通常とは〈識閾〉《しきいき》の異なる視界……いわゆる霊視と呼ばれる眼を開くのが戦闘時の癖となっている彼らにとって、〈顔貌〉《かおかたち》を確認せずとも魂の色で個人の特定は可能である。  加え、目に焼きついたのは禍々しい魔力の色……そこから全方位に飛ばされる凶悪な斬撃。 「発動個所は身体の末端。射程は二十メートル弱で近いほど威力があがる。典型的な融合型の力任せね。……ぱっと見はあなたに似てるわ」 「つっても、それだけじゃねえだろうよ。野郎のエイヴィヒカイトは、一人だけ主旨が違う――何せ本家本元だからな。 まあ、どのみち捕まえればはっきりするか」 「行こうぜ」  再生を始めた傷口から赤い煙を立ち上らせつつ、ヴィルヘルムとルサルカは再び追跡を開始した。  橋の上には、破壊と殺戮の痕跡など微塵も残されていない。  今夜ここで絶命した数十を超える民間人……彼らの死は、行方不明というただ一言で片付けられることだろう。  どだい人外の法理など、常人には分かるべくもないのである。  そして――やはり同様に“ソレ”の苦悩も、人には理解できないところにあった。  寒い。冷たい。そして苦しい……思考は千々に乱れ散り、ありとあらゆるマイナス感情に〈翻弄〉《ほんろう》されている状態だった。  猛毒の海で、渦に巻き込まれ溺れかけているとでも言うべきか……もはや正気など保っていられるわけがない。  いやそもそも、どこまでが正気でどこからが狂気なのか。自身を御せるか否かで線を引くというのなら、それは最初から狂っていた。  殺しの欲求などあるわけがない。そんなことはしたくない。だがそれでも、止められない。  なぜだろう。まるで頭が複数存在しているかのようで、主観と客観を分けることすらすでに出来なくなっている。  寒い。寒い。ひたすらに……苦しい。苦しい。どこまでも……  五分以上もの間に渡り、冬の海に身を沈めていたのだからそれは当然のことだろうが…… 「――――はぁ」  海面に顔を出した時、すでに追跡者たちの気配は消えていた。どうやら上手く撒けたらしい。  獣のように息を荒げ、それはみっともなく泳ぎだす。  両腕の感覚は、すでにない。寒さのせいだけではなく、先の狂乱めいた酷使が原因であることは明白だ。  この手で、何の変哲もないと思われる〈繊手〉《せんしゅ》でもって、人を、車を、十以上も断ち割ったのである。のみならず、それ以外の者たちを相手取り―― 「ぁ――、ぇ――っぉ」  吐血した。外傷はないように思えるが、〈腹腔〉《ふっこう》にどぶ泥のごとく溜まった悪寒が消えない。両脚にも、焼けた鎖が巻きついているようかのような痛みを感じる。  それは言うまでもなく、先の戦闘による負傷の名残だ。  ヴィルヘルムとルサルカ……彼らの攻撃が身体の中に呪いを残し、今もなお〈燻〉《くすぶ》っている。これではまともに泳ぐことすらできはしない。  悶えながら、水銀のように重い海水を掻き分けつつ、それはようやく岸壁へと辿り付いた。  今、ぼろぼろと溢れ出ているこの涙はなんだろう。  痛みか、恐怖か、あるいは歓喜か。  分からないまま、爪が剥がれるほど岸壁を掻き〈毟〉《むし》りつつ、よじ登る。その過程で、海水に濡れたコンクリートに亀裂が走った。  ビキリ、ビキリと割れていく。もはや怪力などというレベルではなく、人外の所業に他ならない。  その力が、囁いた。  足りない。  もっともっと、もっともっと。  斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って。 「―――あ」  声に突き動かされるかのように、海から這い上がったそれは笑った。  そうだ。まだ足りない。  もっともっと斬らなければ。  もっともっと食わなければ。  もっともっと捧げなければ。 “彼”が――強くなれないじゃない。  だから……あたしは……頑張らないと……  あの人の力になるんだ。あの人を助けるんだ。  それが願いで、それが全てで、他のことは考えられない。  だけど―――  どうしてあたしは、こうすることがいいと思うようになったんだろうか? 「――なるほど」 「つまり〈双蛇の杖〉《カドゥケウス》……頭が二つで、必要に応じ首から上が切り替わる……。そういうカラクリだったのですね。 すっかり騙されましたが、これで全て説明がつく。問題は、どちらが主体なのかですが……」 「あなたはどう思われますか?」 「さて、正直迷うところですね」  ゴキリ、と胸の悪くなるような音と共に、首の骨が砕ける音。連れが気絶させた守衛をゴミ屑のように踏み潰して絶命せしめ、ヴァレリア・トリファはうすら笑う。 「だがどちらにせよ、すぐに答えが出るでしょう。見なさい」 「これが彼らの聖遺物……まだ完全に同化はしてないようですが、それも時間の問題でしょうね。分かりますか?」 「……はい」  展示されているギロチン……その刃が血に濡れている。これは、今夜の犠牲者達のものなのか…… 「同調が進んでいます。予想より早かったですが、もう餌は足りたということでしょうか」 「まあ、ここは十一年前、キルヒアイゼン卿が〈斃〉《たお》れた場所でもありますからね。彼女と、彼女が集めた魂を上乗せしているのかもしれません。 であれば、数的な問題はない。これでおそらく、一つめのスワスチカが完成する。“殺し役”の方は、先ほどベイとマレウスが接敵しながら取り逃がしたそうですよ。彼らの性格上、素直に言うことを聞くとは思えませんが、こうなると連れ戻したほうがよさそうですね」 「では、私が」 「いえ、ここは私がなんとかしましょう。あなたが行っては余計にこじれかねないし。……ああ、そんな顔をするものではありませんよ。彼らは優秀な兵士ですが、それゆえに積み上げた年月を誇りに思っているだけです。 この六十年で、副首領閣下を超えたという証を立てるのが何より大事なのでしょう。だから逸る気持ちを抑えられない。……まあ、分からないでもありません。 何にせよ、結構ではないですか。戦いに身を置く者として、その気概は大事です。どのみち、競い合いはしなければならないのだし。 私はそれを全力で行えるよう、上手く場を整えるのが仕事です。あなたに手伝わせてしまったのは不徳のいたすところですが……それもしばらくの辛抱ですから」 「ここにスワスチカを完成させ、ハイドリヒ卿らを呼び戻す。副首領閣下もそのために己の代理を遣わしているのでしょうし、ここは静観しておきましょう。術の発動条件が私の予想通りならば、どうせすぐに戦となる」 「……分かりました」  言って、螢は一歩引いた。 「でしたら猊下、私は事の顛末を見届けてきます。それから……」  足下に転がる守衛の死体を見下ろして、低く呟く。 「この処理もしておきますので、なるべく自重してください。 あなたも、本心では暴れたくて仕方がないようですから」 「確かに……」  自重ならぬ自嘲しながら、神父は笑った。  そしてこの場に相応しくない、携帯電話などという物を取り出し、掛け始める。 「……ああ、私です。そちらの様子はどうですか? ええ、はい……なるほど、それは重畳。でしたらあとは……」 「…………」  すでに自分との話は終わったということだろう。螢は無言で死体を担ぎ、その場を離れた。 「申し訳ありませんがシュピーネ、あなたの裁量でベイとマレウスを抑えてください。私からの命令だと……はい、そういうことで構いませんので」 「…………」  シュピーネ、そうか、あの男もやってきたのか。ヴィルヘルムの話では二・三日中とのことだったが、随分早い……いや、もしかしてこれが予定通りなのか。  まあ、なんにせよ…… 「いよいよ、キナ臭くなってきたわね」  呑気な声で電話を続ける神父を捨て置き、螢は歩く。  完全に信は置けぬが、止めると言うなら止めるのだろう。ヴィルヘルムとルサルカが邪魔を入れないというのであれば、今自由に動ける自分の好機。  聖槍十三騎士団副首領、メルクリウスの代替品……その覚醒を、今後のためにも確認しておいたほうがいいだろう。  時刻は零時……急げば十分ほどで現場に着けるはずだから。 「約束、するよね?」 その返答に詰まってから、どれだけの時間が経ったのだろうか。 「――――――」 「………あ?」 気付けば俺は、公園のベンチに横たわっていた。 なんだこれ? 何があった? どうして俺は、こんな所で独りきり…… 時計を見ると、すでに零時二十分……最後に時間を確認してから、もう二時間以上が経っていた。 馬鹿な、いったいどういうことだ? ぼやけた頭を最大限稼動させ、現状を認識しようと試みる。 ――そうだ。 「――香純!」 あいつは何処だ? 見渡しても、人っ子一人いやしない。冗談じゃないぞ、これじゃあまるで…… 「づぁ……ッ」 立ち上がろうとした瞬間に、電流のような痛みが走った。俺はそのまま、ベンチの上から転げ落ちる。 「ぐっ……」 どういうわけか、全身の筋肉が軋んでいた。寝ていただけにも関わらず、なぜこんなことになっているのか分からない。 だってこれじゃあ、まるで限界を超えた身体の酷使をした直後みたいで。 俺はまた、あの時と同じ事をやってしまったとでもいうつもりか。 だとしたら、俺は香純を…… 「……いや」 違う。――違う違う違う違う! そんなことはやってない。 俺が香純を手に掛けるなんて、有り得ないだろやってたまるか。 あいつはきっと無事でいる。この辺、血なんか落ちてないし、悲鳴もメチャクチャうるさい奴だ。そんなの聞いたら飛び起きるに決まっている。 「……そうだ」 香純を捜そう。なんで今ここいないのか分からないが、たぶん俺が気絶してしまったせいなんだろう だから医者を呼びに行ったとか、そんな理由に違いない。 こんな所にほっぽっていくなんてちょっと酷い扱いだが、非は全面的に俺にある。さっさと逢って、平気だからとアピールして、ちょっと呆れられるか説教されるかすればいい。 そうしてしまえば、何のことはない。また、全て元通りの毎日に戻れるはず。 だから、立て……! 「……ぐゥゥッ」 強くそう思い込み、軋む身体に鞭打って立ち上がった。意識を失っていたのは二時間半……その間に、あいつは何処まで行ったのか。 危うく倒れそうになりながらも、俺はふらふらと歩き出した。 思考にノイズが走っている。視界は砂嵐で荒れている。 痛い、痛い、頭が痛い。身体の軋みに無視を決め込んでいたら、今度は脳が沸騰してきた。これじゃあ考えが〈纏〉《まと》まらない。 香純が行きそうなところとか、近場の病院は何処だったかとか、いやそれ以前に、人捜しをするなら他に便利な手段があったんじゃないだろうかとか…… 時代劇じゃないんだから、行き先不明の奴に連絡をつけたい場合、闇雲に捜し回ることなんてない。 もっと簡単、かつ確実な、二十一世紀らしい手段ってやつがあるだろう。 だから使えよ、今すぐそれを……分からないふりなんかしてるんじゃねえ馬鹿野郎。 だってこれじゃあ、まるで俺が、あいつに逢うのを怖がっているみたいじゃないか。 香純だぞ? あの馬鹿で雑で単純で、女と言うより兄弟みたいな腐れ縁の幼なじみ。 毎朝頼んでもないのに起こしにきて、美味くも不味くもない微妙なメシを作ってくれる、ベタベタもいいところな普通丸出しのあいつだぞ? そんな香純に、なんで俺が逢うのを怖がらなきゃいけないんだ。 馬鹿げている。ふざけているし有り得ない。 こんな不安は見当違いも甚だしい。だからほら、早く、さっさと……! 頭痛に頭を掻き〈毟〉《むし》りつつ、震えるもう片方の手が宙を泳いだ。 これを上着のポケットに突っ込んで、携帯電話を取り出せばいい。そしてあいつの番号にダイヤルすれば万事解決……いつもの元気全開な声が聞こえてきて、八方丸く収まるはずだ。 なのに、どうして…… どうして俺は、そのことに〈躊躇〉《ちゅうちょ》している? いったい何を恐れている? 俺は香純に危害なんか加えない。天地がひっくり返っても、そんなことは絶対しない。 だというのに、理性ではなく本能の部分が拒んでいるのはもしかして…… 今、香純に逢ってしまえば、あいつではなく俺の方が危険だと…… 「――ふざけるなッ!」 その考えに激昂し、頭をカチ割る勢いで額を外灯に激突させた。目の前に火花が散り、温い血の感触が伝わってくる。 ……ちくしょう、やっぱり、まだ夢を見ているというオチでもないらしい。 今のショックでノイズが消えた。ブラックアウトした視界のお陰で、砂嵐も見えなくなる。 落ち着け。落ち着け。落ち着け俺。とにかく身体の感覚を取り戻そう。 額から痺れるような痛みが全身を伝い、徐々に体機能が回復してきた。もう一度最初から、ゆっくりちゃんと目を開けば…… 「………ぁ」 雨? いつの間にか、雨が降っていたらしい。まるで気付かなかったけど、すでに全身が濡れている。どうやら短くない間、ここでもがいていたようだ。 降りしきる雨に打たれ、沸騰していた思考も冷めてくる。手に携帯電話を握りしめ、知らず俺は自問していた。 この数日で体験した、不可思議なことの数々。 悪夢と殺人の関連性。 ギロチン。斬首。飛び散る血。 人を殺した瞬間を目にしたのに、返り血を浴びてなかったという不思議。 どこか現実味が欠けていて、映画を観ているようだった客観性。 それはまるで、〈他〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈視〉《 、》〈界〉《 、》〈を〉《 、》〈覗〉《 、》〈き〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》違和感。 ――綾瀬香純は、あの時何をしていたのか。 取り落とす食器。妙に物分りがよかった朝。不自然なほどの猛稽古。破壊された練習機器。へし折れた竹刀。呆然とした顔。凶暴性。女じゃ有り得ない腕力。女でしか有り得ない細腕。俺が眠ると発動する異常―― 気付く種はいくらでもあったのに、あえて無視していた間抜けな俺。 櫻井、ルサルカ、ヴィルヘルム。 ツァラトゥストラ。 切り替わる首――二つの頭。 絡み合い、影響し合い、だけど絶対に向かい合うことだけはなく。 さながらそれは、月と太陽であるかのように。 陰と陽。 一方が目を覚ませば、一方が眠りに落ち。 一方が動く時は、もう一方の意志が表に立つ。 個の分解。 自身の所業を理解させず、混乱のまま操るにはこの上もなく便利なシステム。 〈双蛇の杖〉《カドゥケウス》。 つまり、その意味するところは…… 「殺す役と喰らう役が、二手に分かれていたということ」 「――さんが殺して、あなたが〈経験値〉《たましい》を蓄える。結果、強くなるのはあくまであなたで、彼女はそのための道具にすぎない。――なるほど、吸血鬼と下僕の関係によく似ている」 「お見事。実に趣味が悪くて、手段を選ばない策に私は感激しているわ。まさか、一つの聖遺物に複数の使徒をストックするなんて、そんなことが可能だとは思わなかったし」 「少なくとも、私たちには真似できないわね。副首領閣下の力にコンプレックスを抱いているベイやマレウスなんかには、認めたくなかった事実と言える類でしょう」 「…………」 櫻井? こいつ、いつからそこに居たのだろう。〈跪〉《ひざまず》く俺を、彼女は無感動に見下ろしていた。 「と、いうことだから藤井君、あとはあなたの好きにしなさい」 「……何?」 「言ったでしょう。この鬼ごっこ、一回戦目は私たちの完敗みたい。勝者のあなたは、堂々と景品を受け取ればいい」 「私は祝福しているのよ。負けず嫌いの年寄りたちが、つまらない劣等感に拘り過ぎるのは迷惑だったし……これでようやく、真っ当にゲームを始めることができそうだから」 「実際、あなたがまだ弱い時に、苛立った誰かが暴発するというのが一番良くない展開だったの。新参者の私以外は、みんな副首領閣下を病的に恐れていたから……鼠を捕まえるのに象撃ち用のライフルを持ちだしかねない」 「そういう意味で、この展開は理想的。どうしても弱い時期ができるなら、さらに分裂させて弱すぎる域にまで落としてしまう。そうしておけば、まずこちらのレーダーに掛からないから」 「事実、私もベイもマレウスも、一度あなたを見逃しているし」 「怪しいとは思っても、確信が持てない。そうして後手を踏んでいるうちに、分けたものを一つに戻してそれなりの域にあげてしまう」 「本当、もう一度言うけど見事な手並みね。私たちの気性を理解した上で手玉に取ってる。……正直、副首領閣下が憎まれるわけがよく分かったわ」 「だから――」 「待てよ」 だらだらと続く櫻井の長広舌に割って入った。 「いきなり現れて、さっきから何言ってるんだおまえ。俺は全然意味が……」 「分からないなんて嘘」 「もう気付いているんでしょう? ぼっとしてないで、携帯かけてみればいいじゃない。“景品”も、きっとあなたが来るのを待っているわよ」 「涙ぐましいじゃない。いつもあなたが寝ている間に、あなたを強くしようと手を汚してくれるなんて。たとえ操り人形だとしても、そうそうできることじゃない」 “あたしは、あんたの味方だよ” 「まあ、初めて会ったあの時は、あなたも夢遊病していたみたいだけど……」 “つらい時は、頼ってほしいな” 「それ自体、深いところじゃ薄々感づいていたっていう証拠なんじゃないかしら。彼女のことが心配で、無意識に眠ったまま後を追ってしまうくらいなんだし」 「結果、時がくるまで隠れ蓑に守られているべきあなたが、私たちと接触したのはまあイレギュラーといえばイレギュラーよね。本来なら、あの時怖い目に遭うのは彼女の方だったはず」 “あたしは、蓮の力になりたいよ” 「そう考えると、たぶん殺し役はいくらでも替えがきくのね。ベイやマレウスがやりすぎて殺しても、次の夜には新しい首斬り役人が誕生している。あなたはそれを、自分が出張ることで未然に防いだ。自己犠牲愛ってやつかしら」 「今だって、若干のダメージを共有しているみたいだし。察するにその直前、起きてる時に二人の絆を確認しあうようなイベントでもあったんじゃあ――」 “勝手にいなくなるなよ、旅人さん” 「――黙れッ!」 おまえは何を言っている?したり顔でべらべらと、〈誰〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 「言ったでしょう。分からないなんて嘘」 「認めなさいよ。1+1は2になるの。それを否定するのは馬鹿のやること」 だったら…… 「俺は、馬鹿でいい」 「馬鹿が相手じゃ、困るわね」 「あなた、そんなことで戦えるとでも思っているの?」 「まさか、私たちが殺人犯の退治に来たとでも思っているんじゃないでしょうね。別に誰が何人殺そうが、知ったことじゃないわよ」 「私たちはね、戦争をしに来たの。そのためにあなたが欲しい――」 「だから、乗ってもらうわよ藤井君。もう、あなたにとっての陽だまりなんか、この世界の何処にもない」 「上の意向次第ですぐに開戦となるかは分からないけど、遅かれ早かれあなたと私たちは敵対する」 「そのために、最低限力をつけてもらわないと、いつまで経っても勝負が実装できないじゃない」 「まずは“景品”を受け取って2になって……3になって4になって5になって……そうしてくれないと、私も困るし」 こいつは、ふざけたことをいつまでも…… 「おまえの事情なんか、知ったことかよ」 「じゃあ、ここで1のまま死ぬ?」 「何度も言うけど、私以外の年寄りたちはコンプレックスの塊よ。あなたがコンマ1以下でも、叩き潰して自分が上だと証明をしたがってる」 「この先、こんな絶好のレベルアップチャンスが、そう何回もあるとは思わないほうがいい。あなたに甘い聖餐杯猊下だって、塩を贈るのはあと一度くらいが限度でしょうね。それを超えれば、私はともかくベイやマレウスが絶対に暴走する」 「そうなった時、たぶん標的はあなただけじゃ済まなくなるわよ。彼女も、当然その中には含まれていて……」 俺の周りが、全てこいつらに巻き込まれて…… 「この街が地図から消える」 「――黙れって言ってんだろッ!」 怒声と共に掴みかかるが、櫻井はするりと俺の手を躱して距離を取った。つまらなそうに〈嘆息〉《たんそく》しながら、淡々とした言葉を継ぐ。 「それを止めたいなら、早く2になってしまえばいい」 「あなたが〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》、彼女も普通に戻るだろうし」 「男の専売特許じゃない。女から奪い取ってものにするのは」 「私たちが種に気付いてしまった以上、もう二手に分かれている意味はないし」 「これから先は、あなたが一人でやればいい。彼女のことを思うなら、殺し役をさっさと廃業させてあげなさい」 「それが終わるまでは、浮気しちゃ駄目よ藤井君。抱きしめるなら、私より彼女が先ね」 「ちょっと妬けるけど、そこは譲るわ。だってあの子、あなたが一週間も禁欲なんかしていたせいで、暴発しちゃったんだから」 「追いかけて抱きしめて慰めてあげないと、男が廃るってものじゃないの?」 「――――――」 「じゃあ、頑張って。カッコイイとこ見せてちょうだい」 「待て――」 再度手を伸ばしたがそれも届かず、櫻井は姿を消した。去り際の言い様からして、帰ったのではなく何処かで見物する気……らしいが…… 「……くそッ」 ふざけるんじゃねえ。何を好き勝手な戯言を抜かしてやがる。景品だとか何だとか、ワケの分からないこと……ばかりを…… 「――ちくしょうッ!」 携帯を地面に叩きつけようとするが、しかし寸前でそれが出来ない。 ああ、そうだ。俺は何となく気付いていた。櫻井に言われるまでもなく、ここ最近におけるあいつの変調とその奇妙さを。 だが、だからといって納得できない。あいつがおかしいと結論付けるくらいなら、俺の頭が狂ってると思うほうが遥かにもっともらしい答えだろう。 香純はマトモだ。俺や司狼みたいな馬鹿とは違う。そう信じてるしそう信じたいし、そうであるあいつを俺は……たぶん誰よりも……! だから、〈携帯電話〉《こいつ》は捨てられない。ここでこれを壊してしまえば、答えを恐れている自分を認めてしまうことになる。 それは〈癪〉《しゃく》だし、何より香純に対する侮辱だろう。 あいつの名誉を守るためにも、こんなふざけた状況をさっさと終らせないといけないんだ。 「………ッ」 噛み締めた奥歯が軋り、唇から血が出てくる。 〈寒〉《 、》〈さ〉《 、》〈の〉《 、》〈せ〉《 、》〈い〉《 、》〈で〉《 、》震える指をもどかしく思いつつも、俺は以前登録してもらった香純の番号をダイヤルした。 早く……お願いだから早く出てくれ。おまえの元気な声が聞けたらそれで…… …………… …………… …………… …………… 「くそ、何してんだあいつ!」 矢も盾も堪らず、俺は電話を掛けっぱなしにして走り出した。 こうしていれば、近づいた時すぐに分かる。時刻は深夜で、雨音以外の無駄な雑音は入らない。 何処だ香純、何処にいる? 俺はこの通り平気だから、早く声聞かせて顔見せてくれ。 雨の中、ずぶ濡れになりながら駆け続けること数分……実際はその何倍か、あるいは何分の1なのか……時間の流れを正確に把握できなくなるほど、焦りが臨界に達していた。 あいつを見つけたら何て言おう。どんな顔をしてどんな態度をとるべきだろう。たいして豊かでもない俺の語彙と感情で、今の気持ちを正しく伝えることができるのだろうか。 熱は去り、身体は凍え、吐く息は白く、逸る心は空回り。 そのまま喘ぐようにして走っていると、水溜りに足を取られた。 「――――くぁッ」 無様に、俺は転倒する。 「……づ」 立ち上がろうと手をつくが、ぬめぬめとした水が滑って上手くいかない。 くそ、なんだよこの水は。粘ついてて生臭くて、どろどろして鬱陶しい。 服が汚れる。手もメチャクチャだ。こんな気持ち悪い色をした、不気味なものがなんでここに…… こんな、赤い血のような…… 「――――」 どうして、夢じゃないんだよ…… 幻覚じゃない。錯覚じゃない。気のせいでも気の迷いでもなんでもない。 鼻腔を抉る鉄錆のような血の匂い。そして、今、俺の耳には…… 聴き慣れた、あいつの携帯の着信音。 なんだそれは、冗談じゃない。大概にしろよふざけるな。 これが個人のものだとするのなら、確実に致死量を越えた血の海のすぐ傍で、なんであいつの携帯が鳴っている? 「……ああ、いや、待てよ」 たぶん、偶然あいつが、このへんに携帯を落としたというだけだろう。意外にドジだし、そそっかしいし、そんなオチに違いない。 きっと今ごろ、あいつは慌てていたりするんじゃないのか。 「……そうだ」 そうに決まっている。 まったく、ホントに手のかかる奴。しょうがないから、俺が拾って持ち帰ろう。香純のドジに振り回されるのは慣れている。 お陰であいつを見つけるのが困難になったけど、こうなったらもう毒皿だ。 夜っ引いて街じゅう捜すくらいのことも已む無し。明日の学校なんかどうだっていい。 だからまず、香純の携帯を探してしまおう。たぶんそこらの草むらに落ちてるはずだ。間違いない。 きっと、きっと、きっと、きっと――絶対そう決まっている。 強く、強く、強くそう思い込もうとしていたのに―― 「ああ、蓮……来たんだ」 最後の希望を木っ端微塵に砕く声が、鼓膜を抉って頭蓋骨に反響した。 この時――思ったことはただ一つ。 神様なんかこの世にいない。いたとしてもすでに死んでいるだろうし、生きているなら俺がこの手で殺してやる。 どうしてこんなことになったのか。どうしてこんなものを見ているのか。 今すぐ両目を抉り取って、記憶を消してしまいたい。 それは少なくとも、俺にとって発狂に値する光景。 呆けた顔に、〈弛緩〉《しかん》した身体。血と雨でずぶ濡れになった幼なじみ。 首を断たれ、絶命している名前も知らない何処かの誰か。 「……何、してんだよおまえ」 声は、他人のもののようだった。微かに震えてはいるものの、白けるくらいに明晰だった。 そしてこの現状も、同じく白けるくらい明瞭明晰。 人が死んでいる。殺されている。この上もなく間違いなく、徹底的に容赦なくバラされている。 そのすぐ傍に立つ香純は、全身朱の返り血に濡れ、片手に生首をぶら下げている。 誰が、何処からどう見ても、答えは一つで他にはない。 おまえが…… 「やって、ないよな……?」 馬鹿丸出しのことを問う俺に、香純はあくまできょとんとした顔。小首を傾げる仕草につられて、ぶら下げた首がゆらゆら揺れる。 「おまえ、何もやってないよな? たまたまここで、そんなヘンなの見つけたから、なんとなく、その、好奇心で……」 言いながら、死にたくなる。 自分でも信じていないようなことは、切り札になんかなり得ない。必死でこの事態を否定しようと試みるも、一言口にするたび自己嫌悪が込み上げてきた。 ……ちくしょう。 もう決定的だ。どうしようもない。 殺人犯は綾瀬香純。だが、だからといって……それがどうした。 俺はこいつのことをよく知っている。藤井蓮の幼なじみである綾瀬香純は、人を何人も惨殺するような奴じゃ断じてない。 手を汚したのがこいつだとしても、そこに意志が介在しているはずはないんだ。 櫻井曰く、俺に〈経験値〉《たましい》を供給するためだけに利用された傀儡と同じ。 操り人形。 「だったら……何が悪いってんだ」 法なんかどうでもいい。モラルなんか知ったことか。この世の誰にも、香純のことを責めさせない。こいつは何一つとして悪くない。 殺された人の無念さや、残された遺族の悲しさ、辛さ……そんなものより、俺にとっては香純一個人の人生を守ることのほうが何億倍も大事に思える。 誰にも文句は言わせない。 死人のことより、生者のことだ。今こいつを守らなければ、決定的な最後の何かまでもが崩れ去ってしまうだろう。 だから…… 「……帰ろう、香純。風邪引くぞ」 携帯の呼び出しを切り、一歩足を踏み出した時も警戒なんかしていなかった。 する必要など見当たらなかった。 それなのに、 「――――ッ」 見えない何かが、俺の頬を切り裂いていた。  さあ、これこそが序幕の終幕。  我が盟友と愛しの君へと捧げる歌劇――主役として思う存分に謳え代替。 「……どう、して?」 今、いったい何が起きた? 香純との距離は約五メートル、言うまでもなく手も足も届かないし、何かを投げられたわけでもない。 だというのに、裂かれた頬からは血が流れている。瞬間に感じたその痛みは、紛れもなく鋭利な刃物によるものだ。いったい、何をどうやって…… いや、それ以前に……なぜ香純が俺のことを…… 「――――――」 “男の専売特許じゃない。女から奪い取ってものにするのは” “これから先は、あなたが一人でやればいい” 脳裏によぎるのは、櫻井の声。 それはつまり…… この状態の香純を制し、俺が“持ち主”であることを証明しろと? 見えない何かを勘で躱し、距離を取るが、頭は混乱したまま戻らない。 “彼女のことを思うなら、殺し役は、さっさと廃業させてあげなさい” 奪い取れと、櫻井は言った。その言葉を額面どおりに受け取るなら、香純を無力化させろということだろう。それは俺だって、こんな目に遭わずともそうしたい。 焦点がずれたような、濁った色をした香純の瞳は、明らかに忘我状態のそれだと分かる。そのうえで攻撃してくるということは、つまり操られているということだから。 今、糸を断ち切らないと、こいつはまた殺人を繰り返す。 それだけは、絶対に止めねばならない。 だけど……いったいどうやって? 「蓮……」 変わらず呆けた顔のまま、ゆらゆらと右手を上げて香純は言った。 「ちゃんと……避けてね」 同時、再び走る見えない斬撃――また勘を頼りに飛び退るが、今度は胸元を切り裂かれた。 そしてそれは止まらない。 続けて四回……視認できないゆえにおそらくとしか言えないが、危ういところで身体を掠めた斬風は、全てが喰らえば致命傷となる威力を持っていた。 この禍々しさ、殺傷力、そして何より、どんな角度で斬り込もうと常に首を狙ってくる偏執性…… ギロチン……この刃はギロチンだ。夢に見たあれと同じく、斬首のためだけに存在する処刑器械。 転げながら走る俺を追い詰めていくかのように、首刈りの刃が連続する。 肌で感じ取るその軌跡は、剣道を修めた香純が放っているとは思えないくらいデタラメだ。しかしそれだけに読み難く、避けそこなった幾つかが俺の身体を削っていく。 「――ッ、は―――」 「――――つァッ」 焼けるような、凍えるような、痺れを誘発する斬撃は、一撃ごと確実に、俺を死へと近づけていた。 その尋常じゃない苦痛の奔流。 これは猛毒を帯びている。ただ肉を斬っているだけじゃない。 もっと何か根本的な、生物として存在するために必要なものを刈り取っている。ゆえに掠り傷であろうとも、喰らい続ければ生きていけない。 発狂しそうな痛みと、叫びだしたくなる恐怖の中、降り注ぐ雨の雫さえもまた、今の俺には矢の嵐みたいに感じてしまう。 だけど――いくら痛いからって、怖いからって、そんな手前勝手な理由なんかで。 「―――ぐゥ、ぁぁ!」 退けない。そして、それ以上に…… 「……どうしたの?」 動きを止めた俺の方を、不思議そうに香純が見ている。今攻められたら間違いなく即死だろうが、そんな恐怖心など力ずくで抑え込んだ。 それより遥かに強い気持ちが、俺の胸に存在したから。 「……できねえよ」 「……?」 「おまえに、手なんかあげられない」 俺の本音はただそれだけで、他のものは取るに足らない。 「俺のせいなんだろ? 俺がヘンな奴だから、たまたま近くにいたおまえがそんな目に遭ってんだろ? だったら、おまえは被害者だ」 あの日、あの時、俺とアレさえ見なければ。 おまえはこんな目に遭うことなく、今までどおり普通に楽しくやっていけてたはずだろう。 何も悪くない。何もおかしくない。ただ単に運悪く、こんな状況に巻き込まれてしまっただけ。 そんなおまえに、どうして俺が敵対行動をとれるというのか。 俺は魔法も超能力も催眠術も使えない。暴れる香純を無力化しようとするのなら、殴るか何かして気絶させる以外に術がない。 だけど、そんなことはできねえよ。俺のせいで辛い目に遭ってるおまえに対し、どんな理由があろうと乱暴な真似はしたくない。 もし、俺が死ぬことで香純が元に戻るというなら、何の迷いもなく舌噛み切ってやるくらいはするだろうに。 よりによって、俺がこいつを制さなければ終らないだと? ふざけるんじゃねえ、できてたまるか不可能だ。 「目、覚ましてくれよ。おまえが正気になってくれたら、俺、なんでも言うこと聞くから」 「正直、たまにうざいとかうるさいとか思ってたけど、それでもおまえには感謝してる。これ以上、こんなものは見たくないんだ」 「…………」 「香純……頼むから」 反応の無さは、声が届いているからだと思いたい。大人しいのは、戦意が失せたからだと信じたい。 そして手を伸ばし、肩に触れれば、いつものこいつに戻ってくれると、甘い希望をもって何が悪い。 たとえそれが―― 「――ッッ、づぁぁァッ!」 こんな結果になろうとも。 右手が、中指と薬指の間からそのまま縦に、肩口まで切り開かれた。 「ぁ、く……ああァァァァッ!」 馬鹿が、叫ぶな抑え込め。大の男が、大騒ぎするようなことじゃない。 こんな痛みが何なんだ。今まで俺がたった一人で悩んだ気になっていた時、こいつが裏で何をしてたか、気付きもしなかった間抜け野郎には似合いの罰というものだろう。 ……いや、こんな程度じゃ全然足りない。 「……そうだ」 甘ったれた間抜けは間抜けなりに、ここでケジメをつける必要がある。 “追いかけて抱きしめて慰めてあげないと、男が廃るってものじゃないの?” その通りだ。全面的に同意する。ここで痛み怖さに退くような奴は男じゃない。 あいつの意見に賛同するのは〈癪〉《しゃく》だけど、やるべきことは今決まった。 香純を傷つけず、俺は傷を恐れずに、傍まで行って抱きしめよう。 それで許してもらえるとは思えないが、生憎アタマが飛びかけてるんでそんな方法しか思いつかない。 もう、司狼の時みたいなオチは御免だ。これ以上、俺は誰かを失いたくない。 大事なものであればあるほど、無くせば二度と戻らないと知っているから。 開きになった右腕を手首の部分で押さえつけ、俺はゆっくり立ち上がった。 すでに出血は洒落にならない域に達しているけど、そんなことはどうでもいい。 ただ一歩。 そしてまた一歩。 飛んでくる見えない刃を一切無視して、俺は香純に近づいていく。 腕が飛んでも、脚が消えても、たとえ首がなくなろうとも。 怖くなんかねえよ、こんな腐れギロチンごとき。本来俺が使う物なら、道具の分際で粋がるな。 「女を盾に取るような真似してないで、香純を放せ。俺の方に移って来い」 「そいつは、何の関係もないだろう」 「――――」 と、言ったその時だった。 「……どうして?」 不意に香純がぼそりと呟く。 「なんで、いつも、そんなこと……」 それは、危うく聞き逃してしまいそうなくらい小さな声。 だけど同時に、今までのような棒読みとはまるで異なる生きた声。 顎を上げて、俺を見て、そして香純は…… 「どうして、なんでいつもそんなことばかり言うのよ」 「どうして蓮は、あたしに気を遣ってばっかり……」 「いやだよ、そんなの。嬉しくないよ」 熱に浮かされたように、それでいて淡々と、笑い混じりに香純は喋る。 瞳は未だに〈朧〉《おぼろ》なまま、正気と狂気の狭間めいた顔のまま。 「ねえ、そんなにあたし、空気読めてないのかな? 大事なところで、あんたの邪魔とかしちゃうのかな?」 「あたしじゃ役に立てないのかな? あたしに出来ることはないのかな? あたしがあんたを、助けることってできないのかな?」 “ちょっとだけ、悔しいよ” “何か悩んでるくせに教えてくれない” それは、こいつの本音なのか。 「司狼、いなくなっちゃったし、蓮、態度に出さなくてもきっと辛いんだと思ったから……あたし、頑張ろうと思ったんだよ?」 「だから、いつもいつも考えてたの。どうしたら蓮は喜んでくれるのかな。どうしたら蓮は笑ってくれるのかな。どうしたら、蓮はあたしを……」 「態度、余所余所しいんだもん。冗談で誤魔化したって、あたし分かっちゃうんだもん」 “あたしをすぐのけ者にしたり” 「そんなのは、いやだよ」 「香純……」 今、斬風は止んでいる。身体の傷は増えていかない。だがそれ以上に、こいつの言葉が俺の心を切り刻む。 「司狼の時と、同じだよ。関係ないって、あたしに何も教えてくれない」 「ねえ、どうして?」 どうしてって、おまえに話せるようなことじゃないからだ。 関わらせてはいけないことだと思ったからだ。 俺はおまえを、軽々しく見てなんかいない。 むしろその逆。大事だと思うからこそ―― 「同じだよ」 「あたし、いつも悔しかった」 「あたしはいつも、蚊帳の外に置き去りで……司狼と蓮が羨ましい」 「俺とあいつは、おまえがそんなこと考えるような……」 「それでも、羨ましかったの」 「カタチなんかどうでもいい。ただ、特別なんだってことが羨ましいの。憧れるの。あたしもそこに入りたかったの」 「だから頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、でもどうしていいか分からなくて、分からなくて、分からなくて、分からなくて」 「だったらせめて、あたしは自分に出来ることをやりたいって。何か一つ、なんでもいいから、あたしにしか出来ないことで、蓮の力になれたらいいなぁって」 「ずっとずっと、あんたが入院してから今までずっと、そんなことを考えてたらね」 泣き笑いのような声で、香純は語る。 その思いに罪なんかない。ただこいつは、手段を見出せずに悩んでいただけ。 誰だってそう、最良の選択が何なのかなんて、容易に分かるはずがない。  ゆえに君は、既知であることを至上とする。 その〈空隙〉《くうげき》――採るべき未知が何であるかを逡巡していた香純の心に。 途方もない何か―― 関わってはいけない何か―― 耳を貸してはいけない何かが、毒のように入り込んだ。 「あたし、こんなになっちゃったよ」 「―――――」 視界が揺らぐ。呼吸が止まる。胸を引き裂いて心臓を掴み出したい衝動に駆られてしまう。 怒りが、今臨界を突破した。 噛み締めた奥歯が砕き割れ、顎の骨にまで亀裂が走る。 こいつをこんなにまで追い詰めた、自分自身が許せない。 そしてそれと同じくらいに、この無力さが許せない。 強く願った。力が欲しい。こいつを救える強さが欲しい。 それは、何を意味するのか…… 「あたし、今なら蓮の力になれるよね?」 斬撃が走る。左下方から突き上げるように、俺の首筋へと迫ってくる。 その軌跡、初動から到達までの斬線が、はっきり俺には見えていた。 「けど……」 躱さない。躱す必要などありはしない。 “これ”は、もともと俺の物だ。 香純にこれ以上、こんな真似をさせないためにも―― 今すぐこの場で、奪い取らなければいけない物だ。 「……え?」 そうして響いたのは、骨肉を断つ音じゃなく、呆気に取られたような香純の声。 宙を走る不可視のギロチンは、俺の首にあたる寸前で〈霧消〉《むしょう》していた。 「なんで?」 再度走る見えない刃。左右斜め上からまったく同時に、挟み込むような角度で俺の首を断ちに来る。 「……嘘」 実際、俺は何もしてない。 だがなぜか、刃はこの身に届かなかった。 意識してのものじゃない。狙ってやってるわけじゃない。だけど今、どうしてか、そうなることが当然であるかのように…… 放たれた横薙ぎの一閃を、今度は真っ二つにされた右手で受けた。すると腕が飛ぶどころか、傷口が合わさり、固定される。 「なんで? なんでなんでなんでどうして?」 分からない。分からないが一つだけ、強く言えることがある。 「おまえに、これ以上そんなことをしてほしくないんだよ」 「―――――」 「力になら、ずっと前からなってるよ。おまえが分かってないだけで、俺、随分救われてる」 嘘じゃない。特にここ数日は、こいつが居てくれたからこそ心の均衡を保てていた。 俺にとって大切な……つまらなくて退屈だけど、平凡で暖かい日常の象徴。 絶対に無くしたくない陽だまり。 「おまえがそこに居てくれないと、俺は帰ってこれなくなる」 「だから頼むよ。おまえはこっちに来ないでくれ。我が侭言って悪いけど、そうしてくれなきゃ俺はこの先……」 あいつらと、戦えない。 俺たちの日常をぶち壊した連中に、それがどれだけ高くついたか、思い知らせることが出来なくなる。 「じゃあ……」 すでに触れ合うくらいの距離で向かい合い、俺を見上げた香純は呟く。 ふっ、と一瞬だけ、自嘲するような顔をして。 「あたしはやっぱり、蚊帳の外ってことじゃないの」 ぐらりと、その身体から力が抜けた。俺は手を出し、崩れる香純を抱きとめる。 「あぁ……なんかもぅ、馬鹿みたい」 雨に打たれ続けたせいか、俺たちの体は冷えきっていた。 けど、わずかに感じるこの温もりが、今はとてつもなく嬉しく愛しい。 「ごめんな、本当……こんなことになっちまって、許してくれとか言えないよな」 「でも、大丈夫だから心配するな。あとは全部、俺が絶対なんとかするから」 「…………」 「蓮の馬鹿」 「結局、全然分かってないよ」 「あたし、あんたが一人で無茶するの、もう止めてって言ってるのに……」 「どうして、譲ってくれないかなぁ……」 「……仕方ないだろ、性分なんだ」 古臭いことを言わせてもらえば、男ってそういうもんなんだと俺は思う。 臆病だから見栄張って、やせ我慢して、カッコつけて、女のために前へ出る。 この役割を逆には出来ない。そんな奴を俺は男と認めないし、生きてる価値すらないだろう。 香純の不満と俺の願いは、結局水掛け論で答えが出ない。 だが共通して言えることは、お互いに失うことを何より恐れているって事実。 なら、出来ることは一つだけ。今まで色んな約束を破りまくってきた俺なんかに、はたして信用があるのかどうかは知らないけど…… 「帰ってくるから……」 そう言うことしか今は出来ない。強くここに約束しよう。 「絶対俺、戻ってくるから……おまえは何ていうか、留守守っててくれると助かるな」 「……もう」 「……勝手なことばっかり」 「ほんとう、面倒だよね、こういうの……」 「だけど、そんな蓮だからあたしはきっと……」 憑き物が落ちたような、安らかな声。 同時に、抱きしめた香純の身体から、何かが俺へと伝わってくる。 それは切り裂かれた右腕に侵入し、楔を打ち込むようにして傷口を塞いでいった。 この腕に、異物が入り込んだ感覚。力を受け取ったという実感。同時に、俺が純粋な人間じゃなくなったという恐ろしさ。 だが、今はそんなことより、香純からそれが抜けたという事実に何よりも安堵した。 もう、心配は要らない。香純はこれで、向こうに戻れる。 「絶対、勝手にいなくならないでよ……約束だから」 言って、意識を失う香純の身体を、俺はきつく強く抱きしめていた。 この温もりを忘れないよう。この覚悟を無くさないよう。 今夜俺は力を手にし、陽だまりから陰に足を踏み入れた。  そして、彼と彼女は番いとなった。  喜んでもらえるかな、マルグリット。そして……我が親愛なる獣殿。  これより彼は、私の代替として機能する。このシャンバラにスワスチカを完成させ、怒りの日を演出する。  まあもっとも、いささか前途は多難であるが……  これ以上の介入は無粋であろうし、私は大人しく観客に身をやつそう。  さしあたって問題があるとすれば、クリストフだが…… 「――素晴らしい」  あの男もまたどうして、私の好みにあうか。 「実に有意義。これで第一のスワスチカが完成し、副首領閣下の穴も埋まりました。準備はおおむね、整ったと言えるでしょう。 ああ、いや、しかし、まだ早いしまだ甘い。あとほんの少しだけ、最低でも“形成”を覚えるくらいにはなって頂かないと困るのですが、どうでしょうねそのあたり」  刃の部分だけ消失したギロチンを眺めつつ、トリファは大仰に手を叩いた。  その拍子に血が飛び散る。彼は両手、両足、脇腹から、尋常でない量の出血を起こしていた。  負傷というわけではない。これは〈聖痕〉《スティグマ》……何らかの超常意志によって引き起こされる感染霊障の類である。  なぜそんな現象が起きているのか、キリストの受難とまったく同じ個所から血を流す神父はしかし、とても聖なる存在とは思えない。  してみればこの場の空気も、何か言いしれぬ禍々しさに〈澱〉《よど》んでいた。  まるでそう、〈喩〉《たと》えるなら、数百数千の命を奪った爆撃の後に広がる焼け野のような……戦場跡地にも似た死の匂いが辺り一帯に充満している。  瘴気渦巻く、とでも言うべきだろう。真っ当な神経を持つ者なら、数秒たりともこの場に留まりたいとは思うまい。 「レオンハルトの報告次第になりますが、場合によっては間をおかず、次のスワスチカを起こすことになるやもしれません。となれば、誰を捧げるのが望ましいか。正直私も、そろそろ馬鹿し合いには疲れてきているのですがね」  滴り落ちる血は止まらず、床に広がり続けている。  その量は常軌を逸しており、出血多量でとうに死んでいてもおかしくはない。だのに神父は、倒れるどころか〈恍惚〉《こうこつ》とした眼差しで自らの〈聖痕〉《スティグマ》を眺めていた。  これは誓い。誇らしいこと。聖槍に貫かれた服従の印が鳴いている。  我らが主、偉大なる黄金の獣に刻まれた忠誠の証ゆえに。 「この疼き……いずれハイドリヒ卿がお戻りになられる。その時〈醜態〉《しゅうたい》を〈曝〉《さら》さぬよう、気を引き締めて参りましょう。 なにせ六十一年ぶりになるのですから、不手際があって処刑されてはたまりません」  どこかわざとらしい調子でそんなことを言いながら、神父は〈恭〉《うやうや》しく十字を切った。 「主よ、彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光もて照らし給え。 〈讃〉《ほ》め歌を捧げるはシオンにて相応しく、主への〈請願〉《せいがん》はエルサレムにて果たされん。 我が祈りを聞き給え。生きとし生けるもの、すべては主に帰せん。 彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光もて照らし給え」  そうして、鎮魂歌を口ずさむ。  それは誰に対するものなのか。ただ場を覆う瘴気の密度が、一層濃さを増したように思われた。 「今宵はここまで。 さあ忙しくなります。面白くなります。前座はこれで終わりました。 楽しみましょう。歌いましょう。踊りましょう。力の限り。 血沸く血沸く、胸が高鳴る。では一刻も早く、次なる手を打たなければいけませんねぇ」  長身を〈翻〉《ひるがえ》し、神父は足早に去っていく。  笑いを抑えられないその背はすでに、開戦の合図を告げているかのように思われた。 そうして……俺は気を失った香純を担ぎ、家に帰った。 今夜、俺とこいつにいったい何が起こったのか、今はまだ全体の一割も把握しきれていないと思う。 謎は謎。いずれはっきりする時がくるのかもしれないが、分からないことを考えるより分かることを整理する方が理に叶っているし現実的だ。 すなわち、一連の殺人事件の犯人。それは俺であり香純であり、俺たちを操っていた何者か。 メルクリウス――櫻井やルサルカがそう呼んでいた存在は、オカルトよろしく憑依でもしていたのか、人間を操作する魔法でも使うのか……分からないが、ともかく奴は俺を選んだ。 そして、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》からには俺としてもただでは起きないと胸に誓う。 もう、香純に手は出させない。もう、こいつに関わらせない。 状況を見れば香純は十人以上殺している犯罪者だが、もはや自首だの〈贖罪〉《しょくざい》だのいう次元の問題じゃあなくなっている。 現実として、俺たちに起こったことは法や常識で解決できるものじゃないのだし。 この問題を解決しようというのなら、常識を超えなければならないだろう。こちら側にいたままで、その〈埒外〉《らちがい》にある理屈や存在と対峙することは不可能だ。 常識を棄てる。今まで属していた世界から脱却する。言葉にすると抽象的だが、どうすればそれを実行できるかは分かっていた。 櫻井、ルサルカ、ヴィルヘルム……あいつらを、そしてじきに揃うという奴等の仲間を、一人残らずこの街から叩き出す。俺と香純の前から排除する。 出来るはずだ。今の俺なら、おそらくは…… 化け物には化け物を。不条理には不条理を、毒をもって毒を制す。 不本意だが、やはりこの選択しかなかったろう。それについて、後悔はしちゃいない。 なぜなら、香純…… おまえは何も知らなくていい。これ以上怖い目にも、危ない目にも遭わせない。 それが独善的だろうと何だろうと、正義だの道徳だのと俺の知ったことじゃない。 香純が大事だ。赤の他人の命よりも確実に。 こいつを誰にも渡さない。全部俺が引き受ける。 危険も、恐怖も、罪も、罰も……だからおまえは、一足先に向こうへ戻れ。こっちのことは、俺が片付けておくからさ。 「そして、ちゃんと帰ってくるから」 約束する。こんなイカレ狂った状況を、俺の世界にする気はない。 俺が生きるのは、生きたいと思うのは…… 「おまえがいて、先輩がいて、つまらない学校があって、うざい悩みとか不安があって……」 そんな、誰もが知っている、退屈だけど暖かい、かけがえのない日常…… そこに帰りたい。そこで生きたい。普通に歳とって普通に死にたい。 戻るために。 俺は今から逸脱する。 だから少しの間、目を〈瞑〉《つむ》っていてくれると助かるな。 「……ん」 「蓮……?」 「ここ、どこ……?」 「おまえの部屋だよ」 努めて何事もなかったよう、いつもの口調で話すのがこれほど難しいとは思わなかった。 「体調、平気か? おまえ、いきなり倒れたんだぞ。こっそり酒でも飲んでたか?」 「あたし……倒れたの?」 「ああ。連れて帰るのに苦労した」 「そう、なんだ……。ごめん」 「気にするな」 やはり。香純は殺しの記憶を無くしている。 結局のところ、こいつはオプションでしかなかったわけだ。メインである俺に力を譲渡すれば、あとに余分な記憶は残らない。 よかった。せめてそれだけは感謝しよう。こいつの人生に、殺人の記憶なんてものを背負わせるわけにはいかない。 そんなものは、俺だけで充分。 「……ねえ」 「なんか、前にもこんなことがあったよね。司狼がいなくなっちゃう前に……」 「蓮、あの時と同じ顔だよ。何考えてるの?」 「……別に」 なんでもない。たいしたことじゃない。 馬鹿が馬鹿と、馬鹿なことをするだけだ。あの時と同じように。 「おまえ脱がして着替えさせたの俺だから、そこらへん、どう言い訳しようか考えてただけ」 「ぁ……」 言われ、ようやく気が付いたのか。 「ばかぁ……見たなぁ……」 「悪い。……でも雨降ってたから、服濡れてたしな」 〈血塗〉《ちまみ》れの服は処分した。今度気付かれないよう同じ服を買ってきて、こいつのクローゼットに入れておこう。 「しょうがなかったんだよ。大目に見てくれると助かる」 「……うん」 「……ありがと。蓮なら気にしないよ」 「そうか」 「ちょっと、恥ずかしいけどね」 力なくおどける香純の顔を、見るのが辛い。俺の下手糞な芝居がさらに酷いことになりそうだ。 「もう寝ろよ。それで、なんだったらおまえしばらく学校休め」 「平気だよ。心配性だな」 「おまえに言われちゃお終いだ」 軽口を叩きあいつつ、しかしさすがに疲れたのだろう、香純はほどなくして眠りについた。 「安心して、寝てろ」 おまえの悪夢は終わった。何も心配することはない。 「あとは、俺が……」 右手の拳を、握って開く。傷はすでに癒えていて、そこに奇妙な感覚が残っていた。 腕が鋼鉄のように重い。骨が軋み、鈍い痛みが引くこともない。 理屈ではなく、俺は感覚で悟っていた。 この腕の中に、ギロチンが入っている。この腕は、〈容易〉《たやす》く人の首を切断できる。 そして…… 「ぐッ……」 焼け付くような、まさしく刃物で切られるような灼熱の痛みが首に走った。 ああ、なるほど。これはつまり、契約の証というわけなのか。 首を押さえ、そこに何が起きているかを、俺は鏡を見るまでもなく理解していた。 首に走る斬首刑の痕、あの少女と同じギロチンの刻印。 どうやらこの先、しばらくの間マフラー必須になりそうだけど…… 「利用したければ利用してみろ。こっちもそうするつもりだからな」 宣言に、答える声は無論なく。 俺はただ、決意を固めるのみだった。 明日から始まるであろう、非日常の世界――それに負けず、何が何でも生き残るという決意を。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 1/8 【Chapter Ⅲ End of Nightmare ―― END】  そこは暗い部屋、否、空間だった。  灯りがない、というのではない。微量ではあるものの、照明の類は存在している。  しかし、それが自らの存在意義を主張しているかといえばそうでもなかった。正確には、この空間に〈含有〉《がんゆう》された闇の強さに負けている。  どれだけ強力な火を焚いても、千の〈蝋燭〉《ロウソク》を灯しても、この闇は駆逐できない。  陰ではないのだ。空間そのものが〈昏〉《くら》い。そのような属性を、どのようにしてか獲得するに至った場。  つまりそれは、ここに集う者らの魂が闇色をしているということだろう。  すり鉢状の、コロッセオを思わせる広大な空間。無骨であるがどこかその造りは壮麗で、巨大な城の大ホールに見えなくもない。  その中心には、円卓。濡れ光るような漆黒の大円卓。  席は十三。そこに至る通路も十三。つまりこの空間は、たった十三人のためだけに〈誂〉《あつら》えられたものなのだ。  十三――不吉な数である。  イスカリオテのユダ。大アルカナの死神。十三日の金曜日。  魔女のサバトは、必ず十三人で行われるものだという。  それは、場の霊的環境を整えるために適した数であるからとか。  〈数秘術〉《ゲマトリア》では、統合と愛を意味する数。  であれば、今の状況には愛も統合も存在しまい。  もっとも、その愛とやらもひどく主観に左右されるものではあるが……  円卓には空きがある。十三の席は、内の八つしか埋まっていない。  すなわち〈二〉《ツヴァイ》・〈三〉《ドライ》・〈四〉《フィーア》・〈五〉《フュンフ》・〈六〉《ゼクス》・〈八〉《アハト》・〈十〉《ツェーン》・〈十一〉《エルフ》……  主を得ている席はその八つのみ。他の五つは沈黙している。特に〈十三〉《ドライツェーン》の席に至っては、完全に気配が死んでいると言っていい。  通常、その使用者なり所有者なりが存命、もしくは何らかの思い入れを〈遺〉《のこ》していれば、気配の〈残滓〉《ざんし》や念の欠片を感じ取れるものであるが。  しかるにこの状態では、席を使用していた者はすでに死んだか、自らの居場所に何の感慨も抱いていなかったに違いない。  しかし、そのことに〈頓着〉《とんちゃく》する者は一人もおらず。 「感じる」 「感じる」 「感じるな」  嬉々として、〈暗澹〉《あんたん》と、不機嫌げに呟かれる声は三者三様。  〈八〉《アハト》の席、赤い髪の少女が続く第一声を口にした。 「痛い、脇腹が疼くように気持ちいい。ハイドリヒ卿の影響が、わたしたちにも出始めている」 「ああまったく、懐かしいじゃねえかよこの感じ。おまえは初めての経験だろうが、どう思う」 「〈真に彼は神の子であった〉《ウェーレー・フィーリウス・ディー・エラット・イステ》……これが聖槍の〈聖痕〉《スティグマ》なら光栄だが、彼らは?」  〈七〉《ズィーベン》、〈九〉《ノイン》、〈十二〉《ツヴェルフ》。  未だ空席である三つに向かい、螢は視線を投げかける。 「私は団の上位にいる方々と面識がない。首領、副首領閣下のことはすでに充分聞き及んでいるが、幹部御三方については知識不足だ。 今後対面した時に恥をかかないよう、よければ教えてほしいのだが」  それに応じ、 「ウォルフガング・シュライバー」  〈恍惚〉《こうこつ》と、その名を告げたのはルサルカ。 「エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ」  投げやりに答えたのはヴィルヘルム。 「ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン」  そして、誇るように〈謳〉《うた》ったのはヴァレリア・トリファ。  この場で名を呼ぶことに何かしら霊的な意味でもあったのか、それによって三つの席が〈仄〉《ほの》かな光を発しだした。  白と、赤と、黒色の……ハーケンクロイツを象徴する三色に。 「聖槍十三騎士団最強の戦士であり、ハイドリヒ卿の直属でもある三人の大隊長。……言うまでもなく恐ろしい方々ですが、どなたも礼を強要する人格ではありません。そう〈畏〉《かしこ》まる必要はないですよ」 「そうね、特にシュライバーは、礼なんて概念自体知らないような奴だから」 「マキナにしろザミエルにしろ、新参者の小娘一人、今さら眼中にも入れやしねえよ。それでも、注意することがあるとすれば一つだけ」 「ハイドリヒ卿に絶対の忠誠を」 「我々の〈聖痕〉《スティグマ》は聖槍に貫かれた証であり、服従の印です。大隊長殿らは、その誓いを我々の数倍強く受けている。ゆえに、破る者を許さない。 とはいえレオンハルト、この場であなたにそのような心構えを説くのもまた、今さらな話だ。 〈聖痕〉《スティグマ》が疼く。血を流す……これはすなわち、ハイドリヒ卿が御帰還なされるという前兆であり、スワスチカが機能しだしたという証です」 「となれば皆さん、これより我々が成すべきことを、〈如何様〉《いかよう》に考えていらっしゃるか。この場でお聞かせ願いたい」 「当然――」  分かりきったことを訊くなと言わんばかりに鼻を鳴らし、答えたのはヴィルヘルム。 「条件が整ったなら、即行で発動させる。俺らで片っ端から陣を起こしていけばいい」 「そして、ベルリンの再現ですか? あなたは血の気が多くていけない」 「欲求不満が溜まっているのは分かりますがね、事はそう単純ではありませんよ。副首領閣下の術について、我々は知らぬことが多すぎる。 もし仮に、先走ってスワスチカの一角でも発動不能にしてみなさい。全てが水泡に帰してしまう」 「おい……ならクリストフ、てめえが預言でもしてくれるのかよ」 「……さて、私に神の声が聞けるとは思えませんがね。あなたでも、そのような信仰を持っているのですか、ベイ中尉」 「はン、堕落司祭が、抜かしやがる」 「おとぼけはいらねえ。たるいこと言ってんじゃねえよ。てめえはなんだ? 俺らを抑えて何企んでる?」 「企むとはまた、人聞きの悪い……私はただ、スワスチカを完成させる順序を見極めようとしているだけですよ」 「順序?」 「レオン、この手の問題はね、〈大儀式〉《アルスマグナ》になればなるほど融通が利かないものなのよ」 「手順、法則、公式、条件……魔道も科学も思想も政治も、高度なものほど厳格な決まり無しには回らない。まるでお役所仕事みたいな感じで、面倒なのよ基本的に。どこからいったいどのように、どれくらいの規模で進めていくのが正解なのか……まずはそれを見極めないとね。まあ、ベイが苛つくのも分かるけどさ。 わたしだって実際のとこ、気持ち穏やかじゃないんだよねぇ。ここ最近、誰かさんの命令で半端ばっかり踏まされてさぁ」 「つまらん理屈屋の論理に付き合って、もう六十年待たされちゃたまんねえぞ。おいクリストフ、考えてもみろ。思い出せ」 「メルクリウスの術に穴はねえ。忌々しいが、野郎は正真正銘のバケモンだったろ」  ざわりと、空間に込められていた闇が揺らいだ。  この場にいる全員が、その台詞に何かしら思うところがあるのだろう。  〈禁忌〉《タブー》に近いギリギリを、ヴィルヘルムは口にしている。 「手順? 法則? ああ、それは確かにあるだろうぜ。だが、俺らの行動がそいつを壊すって確証は? いや、てめえ〈壊〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?」  それは、つまり―― 「我々の一挙一動例外なく、副首領閣下の掌の上であると……驚きましたね、ベイ中尉。あなたの口から、まさかそのような言葉が聞けるとは」 「ていうかあなた、適当な理屈つけて暴れちゃいたいだけじゃないの?」 「否定はしねえよ。だがな――」 「これ以上後手に回るつもりもない。誤差は攻めながら修正すればよいと仰る。……ふむ、困りましたね」  言いながらも、トリファは愉快げに微笑んでいる。案外とこの神父も、そう思っていたのかもしれない。  いや、ことによると全員が全員とも。 「我々ごときが〈浅慮〉《せんりょ》したところで、事はなるようにしかならず、決まっているものは揺るがない。ならば小賢しい議論などやめ、ただの暴力装置として意義を発揮すればよいと……なるほど、いかにもあなたらしく、暴論ながら的を射ている。とはいえまだ、残念ながらホロコーストを承認するわけにはいきませんよ」 「なぜだ?」 「ごくごく個人的な事情ですが、その前に知っておきたいことがありましてね。いわゆる、鬼の居ぬ間にというやつです」 「鬼ぃ? あらちょっとクリストフ、今の台詞は不敬なんじゃないかしらぁ?」 「罰はハイドリヒ卿が御帰還なされた後に、謹んで受けますよ。ともかくこれは、あなた方のためでもある。 我が儘……と取られても仕方ありませんが、願わくば今しばらくの静観を。よろしいですか、皆さん?」 「……まあ、分かったわよ。あと一度だけあなたの顔を立ててあげる」 「現在の最高指揮権があなたにある以上、私も従うまでですが」 「結構、それでベイ中尉は?」 「……いいだろう」  歯軋りしながら、ヴィルヘルムは頷いた。 「あんたのことだ、どうせえげつねえこと考えてるんだろうがよ。俺も長くは待てねえぞ」 「もちろん、数日中に結論が出るはずです。彼も到着したことですしね」  言って、トリファは〈十〉《ツェーン》の席に視線を移した。  そこにいるのは病的に痩せた、異常なまでに手足の長い蜘蛛のような男である。  おかしい。奇妙だ。  この場にいる他の者らは、皆容姿に優れた美男美女ばかりなのに。  武でも知でも美においても、他の追随を許さない徹底した選民意識が彼らの〈矜持〉《きょうじ》ではなかったのか。 「同志諸君」  異形の男は、皆の視線を受け止めた後、薄笑みながら席を立った。 「久しぶりの再会早々恐縮ですが、聖餐杯猊下のご意向を尊重するため、しばらくの間私の指示に従っていただきたい。 ついてはレオンハルト、あなたに少々、協力してほしいことがありましてね」 「……私に?」 「ええ、あなたにしかできません。ベイもマレウスもバビロンも、残念ながら役者不足。カインは初めから論外ですし、ゾーネンキントは未だ協力的とは言えません。 あなただからお願いする。美しくなられたお嬢さん、返答は如何に?」 「…………」  螢は一瞬、不信げな目をトリファへ向けるが…… 「いいだろう。私に出来ることなら協力する」 「結構。決まりましたね。ではそのように」  得たりと――何かを確信したように〈嗤〉《わら》う聖餐杯。その決定に、今度は誰も異を挟まない。  なぜならその神父の笑みは、螢を除く全員の魂に強く深く刻まれた、恐怖の記憶を想起させていたからだ。  黄金の獣と呼ばれた怪物の、絶対的で破滅的な笑みの記憶を。 己が自制心というものに全幅の信頼を寄せられる人間が、はたして何人いるだろう。 「最近は、もう綾瀬さんの稽古に付き合ったりしないんだね」 ここのところ定番になったエスケープ場所である屋上に、これも定番になった抑揚のない声が流れている。 「ていうかキミ、綾瀬さんと話してる? そういう状況、見ないんだけど」 「別に、喧嘩してるわけじゃないんだよね?」 「どうなの、藤井君」 「別に……」 適当に答えて、俺はフェンスに寄りかかった。ベンチに座ってる彼女の横に、腰を下ろすような真似は絶対しない。 「喧嘩なんかしてないですよ。ただ……」 「何?」 「ちょっと、一人になりたいんで」 「ふーん」 「それはつまり、私もどっか行けっていうことかな?」 「ええ」 「ショック」 と言いつつ、この人は相変わらずの無表情だ。 ついでに言うと、この手のやり取りもここ数日毎回のようにやっている。 「私はキミを構ってるわけじゃなくて、ただこの場所が好きっていうだけなんだけどね。置き物だと思ってくれればそれでいいのに」 「キミはここ以外で、一人になれそうな場所を知らないの?」 「ええ」 「困ったね」 「そうですね」 目も合わせず、実のない会話を繰り返すうちに待ち望んでいたチャイムが鳴った。 「お昼休みおしまい」 この人のマイペースさは時に迷惑だが、こういう時は助かる。授業をサボってまで、俺に干渉しようとはしないから。 その辺りが、香純との違いと言えるだろうか。 ともあれ、これでようやく一息つける。俺が内心、胸を撫で下ろしていると…… 「じゃあ、バイバイ。私行くから」 「あと藤井君、もし寒かったらだけど――」 「――――ッ」 「…………」 「ああ、その……すみません」 「急に寄って来られたから、びっくりしたっていうか……」 「ショック」 「藤井君なんか嫌いだ」 言って、先輩は屋上から去って行った。 「……くそ」 ずるずると、その場に座り込んでしまう。罪悪感と自己嫌悪の念が同時に押し寄せてきたが、今の俺に彼女を追いかけてフォローを入れるような余裕はない。 あれから三日、一連の殺人事件に俺の中での決着をつけてから、それだけの時間が流れた。 もう殺人は起きない。起きさせない。少なくとも、俺の周りにいる奴等を関わらせるような真似だけは、絶対に防いでみせると誓ったんだ。 特に香純……あいつはあの時の記憶がないのだから、これから俺が黙ってる限り平穏無事にやってくだろう。櫻井やルサルカも、わざわざあいつになど構うまい。 だが、俺と一緒にいれば巻き込まれる確率が跳ね上がる。いや、それ以前に今一番の問題として…… 「づッ――」 時折、こうして首が疼く。〈頚椎〉《けいつい》を通して頭蓋骨を内側からくすぐられているような不快感が、〈纏〉《まと》わりついて拭えない。 それに比例して湧き上がる、暴力的な衝動。 さっきも俺は、先輩の首筋から目を離すことが出来なかった。 危険。 危険だ。 香純を含め、人付き合いを避けているのはそれが理由。うっかり気を抜けば、その瞬間に何をしてしまうか分からない。 ゆえに、本来なら家出でもして行方をくらますべきなのだろう。本気でそうしようかと思ったが、しかし寸でのところで思い直した。 あの日、ルサルカが言っていたこと、自分たちはこの学校自体に用があると。 あいつは以来、サボっているし、今は櫻井しか来ていないので口からでまかせだったのかもしれないが…… やはり、どうにも気にかかる。もし連中が校内で何かして、その時居合わせることができなかったら、きっと死ぬほど後悔するに違いないから。 俺がここにいることで、事態が悪化する危険性は確かに無視できるものじゃないだろう。だがそれと同等に、いなかった時何かあったらどう償っていいか分からない。 学校に来るか来ないか。 そんな究極の選択を突きつけられて、結局俺が選んだのは前者だった。 こんな追い詰められた思考で出した答えが、はたして正しいのかどうかはまるで自信を持てないけれど。 「抑え込むのに、ここくらい適した場所もないしな……」 最悪をリアルに想像できるこの学校こそ、理性を総動員するのに向いている。 それが、引き篭もらずに登校している第二の理由だ。 実際、こんなギャンブルめいた背水の陣を布かれて、そうとは知らずに綱渡りをさせられてる一般生徒たちは、堪ったものじゃないだろうが…… こうでもしてなきゃ、俺はそのうち…… 「…………」 メール? 〈訝〉《いぶか》りつつも、俺はそれにある種の確信を持っていた。 機械的に携帯を取り出し、開いてみれば案の定…… “そのまま放課後までそこにいなさい。あとで行く” “櫻井” 「――――」 正直、それは待ち望んでいた展開だった。 「……落ち着け」 ぶるぶると震えだす身体を力の限り押さえつけて、俺は呟く。 「早く、来い」 今なら、今なら俺はきっと…… そうして櫻井がやってきたのは、今にも日が落ちようという寸前の時刻だった。 「お待たせ」 なぜ俺のアドレスや屋上にいたことを知っているんだとか、普通なら当然の疑問を口に出すつもりはない。 こいつは普通じゃないのだから、そんな質問は愚問だろう。 黄昏時……あの夢の光景が脳裏をよぎる。司狼とやり合った時もまた、これと似た状況だったか。 まったく、縁起の悪い場所と時刻だ。 これからここで、何が起きても不思議じゃない。 「こうして話をするのはあの夜以来になるけれど、調子はどう?」 「…………」 「なんて、愚問か。辛そうね」 事務的で、感情の篭らない櫻井の声。そんな色気の欠片もない言葉にすら、危うく反応しそうになってしまう。 まるで欲情しているような息苦しさ。このままこいつの首を刎ね飛ばしたくなるような……そんな衝動。 そして俺には、それが出来るんだという凶暴な自信。 ……落ち着け。 まだその時じゃない。 「……分かるのか?」 「ええ。私もそれは経験したから」 「正直、少し驚いてる。随分我慢してるみたいだけど、よくないわよ、そういうの」 「何が?」 「ずっと2のままだから」 「言ったと思うけど、足し算続けていかないと強くなんかならないわよ」 「そのままで勝てるなんて、思わないほうがいい」 「――――」 待て――まだだ。まだ抑えろ。こいつには、訊くべきことが山ほどある。 震えるように深呼吸をし、俺は問うた。 「……勝てると思うなって、おまえたちにか?」 「違う、“それ”によ」 「ねえ藤井君、少し落ち着いてくれないかしら。それがどれだけ難しいかは理解してるつもりだけど、今のところあなたに対して敵意はないから」 「…………」 「信じられない?」 「何も言わないなら、都合のいいように解釈するわよ。あなた、私に訊きたいこととかあるでしょう?」 「マレウスよりは、親切だって自信もある。彼女と違って日本人だし、歳も同じはずだからね。共感できる部分も、もしかしたらあるかもしれないし」 「……歳?」 「そう。彼女、ああ見えて私たちの十五倍近く生きているから。嘘じゃないわよ」 「…………」 「馬鹿な……」 と言いながらも、俺は笑うことも怒ることもできなかった。 自分は“魔女”だと―― あいつはあの時、そう言ってなかったろうか。 「どうやら、少しだけ落ち着いてくれたようね」 「それで、まず私の方から訊いておきたいことなんだけど……あなたは今、私たちを敵視してる?」 「……今の俺が、友好的に見えるのか?」 「見えないわね」 くすりと、小馬鹿にしたように笑う櫻井。 「でも、私が訊いてるのはそういうことじゃない。あなたの戦意の、カタチを聞きたい」 「防衛なのか、攻勢なのか……つまり、買う気なのか売る気なのか」 「それは……」 正直、何とも言い難い。 ただ、こいつらを放置する気はまったくないし、こいつらにしろ俺を放置はしないだろう。 事実あの夜―― 「おまえら、戦争をしに来たって言っただろう」 「ええ――そして、開戦はまだ延びるかもしれないとも」 「こちらの事情はそんな感じよ。というか、あなたがそんなザマだから、延びてると言った方がいいのかしらね」 「まあ、それは後で説明するとして、まずこちらの質問に答えてよ」 「買う気なのか、売る気なのか」 「…………」 「たぶん、あなたはこう考えてる。俺と香純が、おまえらのせいでこうなったのなら……違うかしら?」 「違わない」 「そう。でもね藤井君、私たちが来ても来なくても、あなたは〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》はずよ」 「いえ、あなたがそうなると分かっていたから、私たちが来たと言うべきかしら」 「……つまり、おまえたちがあらかじめ仕組んでたってことだろう」 睨みつける俺の視線を真っ向から受け止めて、櫻井は頷いた。 「ええ。それが何?」 「何、だと?」 その、悪びれもしない態度に脳が一瞬で沸騰した。 だったらやはり、こいつらのせいで香純は―― 俺は―― 「落ち着きなさいよ」 「肥大化した好戦性と、それに伴う理性の磨耗……典型的ね。あなた、このままだと狂うわよ」 「うる、せえ……」 我慢するな。こいつは敵だ。それどころか、人間かどうかも怪しいだろう。 なら、いいんじゃないか? やってしまえよ。周りには誰もいないし、一対一だ。どうとでもなる。 ここでこいつを**しても、事実は〈隠蔽〉《いんぺい》できるだろうし―― そういうことなら、俺は前にも―― 「ふぅん」 「つまり、売る気ね」 瞬間、俺の身体は背から壁に叩きつけられた。息が止まるような衝撃と同時に、耳元で囁かれる。 「なら、買ってあげてもいいんだけど……」 「でもその前に、もう少しだけお話しましょう?」 目を開けばすぐ前に、数センチと離れていないところに櫻井の顔があった。覆い被さり、まるで俺を組み敷くようなカタチでこちらの自由を封じている。 密着しているその身体は、驚くほどに〈華奢〉《きゃしゃ》だった。重ねあった胸を通じて、櫻井の鼓動が伝わってくる。 それに、形容し難い〈怖気〉《おぞけ》が走った。 まるで乱れない、冷水のように凍えたリズム。医学の知識など欠片も持たない俺でさえ……いや、だからこそ本能的に理解できる異常性。 これは断じて、普通の人間の鼓動じゃない。 「……離れろ」 「どうして?」 「気持ち悪いんだよ」 「失礼ね」 身体は動かない。動作の起点となる部分を、効率的に押さえられているのだろう。特に右手は、櫻井の左手一本で壁に押し付けられている。 その壁に、亀裂が走った。 女の――いや、どう考えても人間の腕力じゃない。 だが、今はそれより…… 「痛くないでしょう?」 そのことの方が、不可思議だった。 コンクリートの壁にめり込むほど腕を押さえ付けられているにも拘わらず、ほとんど痛みを感じない。 いったい、なぜ? 「麻痺しているわけじゃないわよ。今のあなたの、これが正常な感覚」 「これくらいじゃあ、痛いなんて思えない」 つまり―― 痛覚とは、肉体の危険を知らせる信号だ。 それが働いていない以上、考えられることは二つだけ。その一つを、今櫻井は否定したわけだから…… 「蚊に刺されて、痛がる人はいないでしょう? そういうことよ、藤井君」 「私たちはね、とても鈍感になっていく。痛みに縁遠くなればなるほど、他人の痛みも分からなくなる」 「だからあなたの気持ちとか、私よく分からないの。何に怒っているのか、多少は察せられるけど……それもいまいちピンとこないし」 「そのことを前提にして、訊かせてもらうわ。ここで本当に私とやる気?」 「……ッ」 「あまり思い上がらないでほしいわね。あなたはまだ、私たちに及ばない」 「ああ、それともあれかしら。前にマレウスが言っていたけど……」 確信。既に知っている感覚。 俺はここで死ぬ人間じゃあないという―― 「違うッ」 そんな根拠のないモノを盲信なんかしていない。 「そう。だったらアドバイスをしてあげるわ」 「言ったでしょう? あなた、このままだと狂うって」 耳元で、囁くように話す櫻井。まるで誘惑しているような媚態交じりの声を聞いて、首の斬痕がギリギリと軋みだす。 殺せ。喰らえ。首を断て。今すぐこの女を〈蹂躙〉《じゅうりん》しろ。 目に殺意がこもりだすのを、俺は自分自身で分かっていた。しかし当の櫻井は、そんなこちらの様子などまるで意に介さない。 「殺し役を奪ったのに、殺さないなんて矛盾してるわ。ストレス溜まって、我慢できなくなってるんでしょう?」 「分かるわ、それ。私たち、みんなが通ってきた道だもの」 この、底から湧き上がってくる破壊衝動。櫻井はその正体を知っている。おそらく、こいつらも同類だからだ。 「……経験したって、さっき言ったな」 「ええ、今から十一年前に」 「その時、おまえは……」 「子供だったし、我慢なんか出来なかったわよ。もっとも――それでよかったと今は思う」 「“これ”はね、藤井君」 深く、深く俺の目を覗き込み、その奥にある何かへ囁くように、櫻井は言った。 「あなたの何十倍も歴史を重ねて、何百何千も殺してきた人喰いなの。二十年そこらの人生やモラルで、対抗できる相手じゃない」 「私たちの中でも、初めからこれを御せた人はゼロだって聞いているし」 「実際、あなたがどれだけ我慢強いのかは知らないけど……」 微かに哀れむような、それでいて自嘲しているようにも聞こえる声。 しかしそれも一瞬で、再び誘惑するようなことを言ってくる。 「無理しないで。溜まってるなら吐き出しなさいよ。私が教えてあげるから」 「おまえ……が?」 「綾瀬さんや、氷室先輩じゃ無理でしょう? こんなことしてあげられるの、私以外に誰がいるのよ」 「日本人だし、同い年だし……それに、あなた好みだしね」 「大丈夫よ、優しくしてあげるから」 同時に、ギチッ、と右手を掴む櫻井の握力が強まった。 骨が軋み、肉がひしゃげる。もしかしたら、とっくに折れているのかもしれない。 それでも痛みは曖昧で、むしろ心地よささえ感じてしまうのは何故なのか。 背筋を走り抜ける、奇妙なこの〈掻痒感〉《そうようかん》は。 まるで、脱皮の前兆めいた感覚。 「私と戦いたいならその後で。まずは同じ土俵に立ってから」 「ねえ、どうするの?」 「俺は……」 俺は、 「…………」 「放せ」 触れ合っている胸の間に手を入れて押すと、櫻井はあっさり離れた。 「私は振られたのかしら?」 「…………」 俺は答えず、壁にめり込んでいた右腕を引き戻す。馬鹿げたことに、あれだけのことをされても骨折どころか擦り傷一つ負っていない。 くそ、ある程度自覚はしてたが、いよいよ化け物じみてきたな。その事実と、櫻井に気圧されたせいかもしれないが、爆発寸前に荒れていた心理状態も多少は冷静なものになってきた。 「もしかして、おまえ俺に何かしたのか?」 「ええ。私の方が、今のあなたより位階が上だし。そのくらいはね」 「何?」 「つまり、平たく言うと私はそれの扱いに慣れているの。もともと今日は、そのことを教えるのが目的だったし」 「ねえ藤井君、私はあなたを敵視してないって言ったけど、あなたはまだ私が嫌い?」 「…………」 「まあいいわ。それ、しばらく保つだろうから、続きが聞きたいなら今夜もう一度会いましょう。十時頃に、正門のところで待ってるから」 「じゃあね」 言うだけ言って、櫻井は屋上から出て行った。その背を見送り、自問する。 あいつは危険だ。危険だが、このままの状況を続ける方が、さらに危険なのではないだろうかと…… 「……分かった」 言って、俺は触れ合っている胸の間に手を入れると、櫻井を引き剥がした。予想外にあっさりと、抵抗なく離れてくれる。 「腕は平気?」 「……ああ」 壁にめり込んでいた右腕を引き戻す。馬鹿げたことに、あれだけのことをされても骨折どころか擦り傷一つ負っていない。 くそ、ある程度自覚はしてたが、いよいよ化け物じみてきたな。その事実と、櫻井に気圧されたせいかもしれないが、爆発寸前に荒れていた心理状態も多少は冷静なものになってきた。 「もしかして、おまえ俺に何かしたのか?」 「ええ、あなたにその方法を教えてあげる」 「どうして?」 「善意……じゃあないけどね。私には私の都合があるのよ」 「それで確認しておくけど、まだ私のことが嫌いかしら?」 「……好きじゃあないな」 だけど…… 「今のところ、売る気は失せた」 「素直で結構。じゃあこの続きは夜にしましょう。十時頃に、正門のところで待ってるから」 「…………」 「心配しなくても、しばらく抑えていられるはずよ。私の方が位階は上だし、それくらいの強制は掛けたから」 「じゃあ、あとでね」 言うだけ言って、櫻井は屋上から出て行った。その背を見送り、自問する。 あいつは危険だ。危険だが、このままの状況を続ける方が、さらに危険なのではないだろうかと…… そして、結局のところ、悩むまでもなく結論はハナから出ていた。 あの夜、これから日常を逸脱すると決めた以上、ここで尻込みするわけにはいかない。だから覚悟を決めていこう。 気を強く持ち、できるだけ冷静に。そうしていれば、大概のことには対処できるはずだから。 と、思ってはいたのだが…… 「ごめん、お待たせ」 「…………」 自分で呼びつけておきながら、櫻井が三十分も遅れて来たことに驚いた。というか、拍子抜けした。 「……おまえ、そんな顔して時間にルーズなのかよ」 「ん……顔に何か関係あるの?」 「……いや、それはどうでもいいが」 ただ、俺は待つのも待たせるのも好きじゃない。香純や先輩も、一見ズボラなようで時間にはそこそこ正確なキャラクターだ。 「おまえ、時計持ってないのかよ」 「ごめんって謝ったじゃない」 おまけにこいつ、全然悪びれてないし。 「……とりあえず、おまえがどういう性格かは少し分かった」 「それで、今日はマトモな格好してるんだな」 「ああ、これ。プライベートだしね」 「プライベート?」 「ええ。夜に同年代の男の子と遊ぶの、初めてだし」 「…………」 「そんな嫌そうな顔されると、傷つくわね」 「まだ少し殺気立ってるようだけど、いい加減鬱陶しいからやめてくれないかな、そういうの」 「そんなに荒事が好きっていうなら、ベイ辺りと代わろうか?」 「…………」 まあ、ここで流れを脱線させていてもしかたない。 「わざわざ二回に分けて呼び出したんだ。説明責任は果てしてくれよ」 「優しく教えてくれるんだろう? だったら早く始めてくれ」 「分かった。じゃあついてきて」 そうして、櫻井は校舎の中へと入っていった。 「……けど、なんでまたこんな所に」 結局校内で話を進めるなら、屋上で一旦別れた意味が見えない。より人目を忍ぶのが目的なら、あのまま夜がふけるまで現地待機してればよかったろうに。 「ちょっと、調達しないといけない物があったからね」 「あと、あなたに考える時間と距離をあげたのよ。家から往復するだけでも、乗り気じゃないなら面倒に感じるでしょ?」 「つまり、意図的に二度手間を取らせたっていうことか?」 「ええ。そしてここに来た以上、もう途中じゃ帰さないわよ。覚悟ありと判断するから、ちゃんと最後まで付き合ってもらう」 言いながら、櫻井はすたすた歩く。 「さて」 そして、廊下の中ほどまで来ると振り返った。 「我慢はできてる?」 「一応、今のところ大人しくしてる限りは……」 「そう。だったら話を始めましょうか」 櫻井は、特になんでもない調子でそう言うと、言葉どおり話を始めた。 「まず、あの夜から以降、あなたの判断は概ね賢明だったと言っていい」 “あの夜”――それは言うまでもなく、香純を救った雨の夜のことだろう。 以降、俺が採ってきた行動は、櫻井に言わせると賢明だったという話だが…… 「屋上じゃあ、馬鹿にされてるような気がしたけどな」 「だから、概ねと言ったでしょう。過失がないとは言ってない」 「特に、活動位階の聖遺物を理性で抑え込もうなんて選択は愚の骨頂よ。そんなことをしたら良くて発狂、普通は死、最悪の場合は乗っ取られる」 「抑えるでも流されるでもなく、その中間を選択して最終的に乗りこなす。乗馬の経験はあるかしら? あれとは難度の桁が違うけど、まあ似たような感覚でしょう」 「あなた、基本的な方針をかなり間違っていたけれど、評価できるところは〈学校〉《ここ》を練習場所に選んだことね。それは紛れもなく英断だったと言っていい」 「学校を?」 「ええ。つまり非常事態にも拘わらず、毎日登校していたこと。訊いていいかしら、どうして?」 「どうしてって、そりゃあ……」 学校には、櫻井とルサルカがいる。俺がいないところでこいつらが何をするか分からなかったし、あとは単にモチベーションの問題だ。 「ここで暴走したら洒落にならないことになるから、あえて背水の陣?」 そう――だが、それは誉められるような選択じゃないだろう。どちらかと言うと、もろに愚策だ。 表情から俺の心理を察したのか、櫻井は小さく笑う。 「確かに。でも、それとは別のところであなたは分かっていたのかもしれないわね。〈学校〉《ここ》が特別だっていうことに」 「たとえば、雷があるでしょう?」 「は?」 こいつはいきなり、何を言ってる? 「だから、雷。落ちたら大変だし、撃たれたら死ぬ。災害よね。そして災害である以上、一定の確率で起きることは防げない」 「じゃあ、どうすればいいだろう。雷が落ちることは防げない。その場合することは? 個人レベルじゃなく、組織的な対抗策として」 「避雷針を、立てることか?」 「その通り。雷を特定の場所に呼び込むわけだから、正確には誘雷針と言うべきだけど」 「あなたはこの街の誘雷針で、〈学校〉《ここ》はそのアースの一つ」 「……何? おいちょっと待て」 「質問は後で受けるから、まず聞きなさい。いいかしら藤井君、災害は自然のものだけじゃないでしょう?」 「人災……つまり、人の悪意や過失によって起きるもの。経済恐慌とかいう話じゃなくて、超自然的な、あえて言うなら魔道、霊的、呪的な災害」 「京都とか江戸とか、聞いたことない? 外から厄が入り込まないよう、地相的に特殊な区画配置を施した街の話を」 それは、確かに聞いたこともあるが…… 「でも言ったように、災害を完全に防ぐことはできない。ならどうするか。分かるわよね、誘雷針よ」 「不幸を意図的に、ある特定の場所へと流し込む。早い話、餌になる生贄を用意するのよ。未だにこういうことをしている地域は、実のところ結構ある」 「例えば、霊道が走っているような街の玄関口に、憑かれやすい家系の人間を意図的に住まわせたり。彼らは自覚無自覚に関係なく、結果として呪いをその身に負わされる」 「大勢の人が幸せになるために、誰かが貧乏くじを引かされるのよ。これは、普通一般の世界でもよくあることじゃないかしら」 「あなたはこの街に起きる災害を――聖槍十三騎士団副首領、メルクリウスの再来という大災害を、その身に受けるべく用意された誘雷針。それを指して、私たちはツァラトゥストラと呼んでいる」 「だけど、あなたはまだ不完全で、自浄作用が低い。現時点で許容量を超える〈雷〉《さいがい》に撃たれたから、周囲の人間を感電させてしまうのよ。そうしないと、自分自身が燃え尽きてしまうしね」 「でも、それはどちらもあなたの望むところじゃないでしょう?」 「だからそういう意味で、毎日登校していたのは英断だった。ここは言ったようにアースだし、誰も感電させず放電するのに向いている」 「綾瀬さんとの二人三脚も、だいぶ役に立ったんでしょうね。今はあなたが一人で引き受けてるわけだけど、合計して都合十日――誰も殺さず、焼き切れもしない時間を確保できたのは〈瞠目〉《どうもく》に値する」 「少なくとも、人命を尊重するなら誇っていい。――と、こんなことを私に言われても、嫌味に感じるだけかしら?」 「いや……」 だが、それでも死んだ人間の数は……櫻井曰く“感電した”人間の数はゼロじゃない。 香純はただの道具として、利用されただけのことだ。銃やナイフに罪を問うことなど出来ないのだから、その責任は俺が背負うべきだろう。償うためにも、原因の排除をしなければならない。 こいつが言う災害とやらを。それをもたらした総ての元を。 「私たちが憎いでしょうね」 無感情に、櫻井は言う。 「いいわよ別に。好いてくれとは言わないし、そんな必要もないものね。確かにあなたの不幸は、私たちが存在しなければ起きなかったことなんだし」 「だから“元凶”を代表して、私があなたに教えてあげるわ。生贄の生贄らしさっていうものを」 「まるで、死ねって言われてるような気がするな」 「普通の学生としての藤井蓮には、今すぐ死んでほしいわね。もう、あなたは私たちの仲間なんだし」 「仲間だと?」 「私も、ベイも、マレウスも、それぞれ種類は違うけど誘雷針。身に〈雷〉《さいがい》を呑んでいる」 「その使い方を教えてあげるって言ったでしょう?」 「使い方……ね」 だが、災害と呼ばれるモノの使い方なんて知れている。 「殺し屋にでもなれっていうのか」 「そんなチャチなものじゃないわよ。……けど、まあなんであれ拒絶する気はないんでしょう? 私の提案、呑まなければ周りが感電していくだけよ」 「殺意を制御して、指向性を持たせること。今のあなたには必要なことじゃないかしら」 「…………」 「一つ」 指を立てて、俺は言った。 こんなことは言わない方がいいのだろうが、しかし言わずにはいられない。 「その指向性が、おまえらの方を向いてもいいんだな」 「望むところよ。言ったでしょう。あなたがそうなってくれないと私は困る」 「これはゲームよ、藤井君。半世紀以上前に、頭のおかしな魔術師が企画した鬼ごっこ」 「自分を捕まえ、屈服させてみせろ。それができればおまえたちに――」 「いや……これはあなたに関係ないか。とにかく、私たちはあなたを獲物と思っている。そして狩りは、危険なほど価値が高い」 「私たちの母体になった組織はね、入団の時に槍で猪狩りをしたそうよ。だから、あなたには強い牙を持ってほしい」 「殺して名誉を得るために……か」 つまりこいつは、俺を殺し甲斐のある存在へと変えるために強くすると。 笑いたくなるほど馬鹿馬鹿しい。なんてふざけた理由だろう。 だが、そうと聞いたからにはもう引けない。こいつらは、結局どこまでいっても敵なんだ。 力が要る。強さが要る。そして俺には、武器も与えられている。 死にたくなければ戦うしかない。 「その顔、承諾したと思っていいのね? じゃあ前置きはこれくらいにして、講義を始めようかしら」 櫻井は満足したようにそう言って、教室の方へと顎をしゃくった。 「長くなるから、中でしましょう。ここ、寒いし」 「まず、あなたが呑んでいる災害の名前を教えてあげる」 教室の、自分の机に腰を預けて、櫻井は淡々と話しだした。 「聖遺物……聞いたことある? この単語」 「一応」 意味も、語義程度なら理解している。 「宗教の聖人が遺した物だろ? 釘とか、杯とか」 「ええ、それはキリスト教のね。普通挙げられるのはその辺りだけど、聖人の遺物というカテゴリーなら、古今東西に該当する物が出てくるのは理解できる?」 「まあ、そうだろうな」 キリスト教が有名なんでそっち系の物が真っ先に浮かんでしまうが、この世に宗教なんていくらでもある。同じくらい、聖人という存在も大勢いたろう。 例えば空海の即身仏とか……見たことはないがあれだって聖遺物なんじゃないだろうか。 「それが?」 「うん、だったら質問するけど、聖人って何?」 「何って……」 「聖なる人。尊い人。人とは違う人。つまり超人。逸脱者」 「常識的に考えられないような、真っ当な神経じゃやれない偉業の達成者。それを聖人というのなら、度を越した人殺しも聖人と言えるはずよね」 「一人殺せば犯罪者だけど、千人殺せば英雄になれる。百万人殺せば征服者だし、絶滅させれば神よ」 「“それ”はつまり、そういうもの」 言って、俺の右手を指差す櫻井。 「俺の何十倍も歴史を重ねて、何百何千も殺してきた人食い?」 「そう。私たちが聖遺物と呼んでいるのは、主にそういう物ばかり。度を越して度し難いほどの血を吸った暴力装置――ないし、そういう事態を引き起こした原因である物」 「だから、常識じゃ有り得ないレベルの怨念や呪いを帯びているわ。ただの器物が、ある種の意思を持つほどに」 「あなたの“それ”……ギロチンでしょ? 最初は分からなかったけど、あの夜以降、博物館から消えたみたいだしね。間違いない」 俺の手の中に、ギロチンが入っている。だからこの手は、いとも〈容易〉《たやす》く人の首を切断できる。櫻井の言うことは、俺も感覚的に分かっていた。 理論は、まったく不明だが…… 「さっきも少し話したけど、このゲームの企画者……頭のおかしな魔術師がそういうシステムを作ったの。聖遺物と融合させ、災害のような人間を作る方法。つまり、超人錬成法とも言えるものを」 「超人? 変人の間違いだろう」 もしくは、魔人か。 「あの博物館に、ギロチンを運び込んだのはおまえらじゃないのか?」 「違うわよ。それこそ“偶然”の産物でしょう。理不尽に発生するから災害なんだし」 「もっとも、私たちはあらかじめ予測できていたけどね」 だからこの街にやってきたと、櫻井はそう呟く。 「それで、その聖遺物……それ自体は無秩序に不幸をばら撒く物だけど、制御法も存在する。――というか、有効利用法ね」 超人錬成。災害のような魔道の力と一体化し、それを自在に〈揮〉《ふる》う方法。 その存在は一騎当千。外道の法理に生きる者を、真っ当な人間が打倒することなど出来はしない。 「エイヴィヒカイト……それが名前」 永劫を破壊し、超越して勝利する。聖遺物を操り魂を喰らい、〈既知感〉《ゲットー》を超えるための…… 「藤井君?」 「あ……?」 「どうかした?」 「いや……なんでもない」 「とにかく……これからそれを俺に教えるっていうんだな」 「ええ――昼間はああ言ったけど、今のあなたはそれなりに強いはずなのよ。二人三脚が終わった以上、土台はすでに出来ていないとおかしいし」 「だからまあ、こんな面倒やってないで本番始めても結構対応するかもしれない。漫画っぽく、ピンチになったら力が目覚めるみたいな展開でね」 「実際、そうさせろって意見もあったけど。上の意向でそれは却下。だから私がここにいる」 「でも、これは手取り足取りやって伝えられるようなものじゃないのよ」 「大事なのは、魂で感じること。……身も蓋も無い言い方だけど、こればかりは才能の問題だから」 「努力すれば何とかなるなんて、思わないほうがいい。習えば誰でもそれなりになれるような、基準を底辺に合わせてるものとは違うからね」 「手、出して」 言って、櫻井はすぐ間近まで寄ってきた。 「そう、右手。力抜いてよ。それをこう……」 傍の机に、俺の右手を押し付ける。掌は下に、甲は上に。 「まだ、ちょっと痛いかもしれないけど」 「死ぬわけじゃなし、我慢しなさい」 「…?」 いきなり、だった。 「――――ギッ」 「ガッ――――クァッ!」 ――こいつ、なんてことやりやがる。 今、右手の甲を撃ち抜いたのは、銃……? 「痛かった?」 「ふざけろ――いきなり何の真似だッ!」 右手は動かせない。櫻井が万力のような握力で掴んでいる。激痛が俺の脳を焼いていた。 「まだ弾は残ってる」 「今から十秒後に、また撃つから。早くなんとかしないと、手首から先がなくなるわよ」 「――――ッ!?」 「9、8、7、6」 こいつ、本気か!? 「ギ――」 力の限り腕を振り解こうとするが、しかし櫻井の拘束はびくとも揺るがない。 「3、2、1」 「――――ガァッ」 「はい、また十秒後」 この野郎……! 「頭を使いなさい、藤井君。逃げる方法はそれだけじゃないでしょう?」 「何……?」 「7、6、5、4」 クソ――! いい加減にしろよこいつ。 腹立たしいが、確かに腕力じゃ敵わない。なら、どうするか。どうすれば…… 「3、2、1……」 「――――~~~ッ」 「呆れた。あなた鈍いのね、思いのほか」 「………ッ」 睨みつける俺を意にも介さず、再びカウントダウンを始める櫻井。このままいけば、間違いなく俺の右手はなくなってしまう。 考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。 拘束は解けない。密着しているから殴る蹴るはできないし、仮にできたところで効果は期待できないだろう。 つまりこの状況で、櫻井を振り解くことは不可能だ。ならば、もう一つの方法とは…… 右手に伝わる机の感触……台座になっているこれを壊す……? この状態で? 馬鹿な。そんな真似、人間の腕力で出来るようなことじゃない。――いや、待て。 道具を使えば? 腕力など必要としなくても…… 「3、2、1」 ――そうだ。俺は道具を持っている。こいつを使って…… あの時、香純がやったような…… 「――ゼロ」 瞬間。 「……お見事」 気付けば俺は、机を真っ二つに断ち割っていた。 「今のが“活動”……聖遺物の特性を生身に乗せる基本中の基本。あなたのはギロチンだから、こういうことができる。しかも、全方位に向くようね」 狙ったのは机の両断だけだったが、どうもそれで終らなかったらしい。拳銃は粉々になり、櫻井も指に傷を負っていた。 「…………」 以前、ヴィルヘルムに何をしても通じなかったことを思い出す。 あいつの身体は鋼よりも強靭で、殴ろうが蹴ろうが手足の方が砕き折れた。 それを今、同類であろう櫻井に傷を負わせることが出来たのだから…… こいつらは〈斃〉《たお》せる。これを使えば打倒できる。 「手はまだ痛い?」 「藤井君?」 「あ……いや」 俺は頭を振って気を切り替えた。撃たれた右手に視線を落とす。 「……常識外れだな、ほんとに」 熱さのようなものは感じるが、痛みそれ自体はすでに薄まってきていた。 「じきに何も感じなくなるし、そもそも銃なんかじゃ血の一滴も出なくなるわよ。その怪我だって、明日の朝には消えるでしょうしね」 またデタラメな……何だそれは。 「存在としての密度の問題。普通の人間なら魂は一つだけど、聖遺物を呑んでいるあなたはその分だけ強化されていく。つまり――」 「殺せば殺すほど強くなる、か」 「そうよ、察しがいいわね。聖遺物の本質は魂喰らい」 「銃を始めとする対人武器は、最大効率で使用しても一撃一殺が限度でしょう。そんな物じゃあ、何百何千も魂を〈纏〉《まと》めている私たちには傷一つ負わせられない。針で城壁を壊せないのと同じように」 「参考までに言っておくとね、ベイやマレウスは大空襲の中でも無傷だったらしいわよ。真っ当な手段で〈斃〉《たお》そうとするなら、核兵器くらい持ってこないと駄目かもしれない」 「……それが真っ当な手段かよ」 「少なくとも、普通の人間が想像し得る破壊という意味においては。一発で何千人も殺せる武器じゃないと、お話にならないわ」 「第一、ただの銃で殺せる相手なら、やり方次第で女子供でも殺せる相手ってことになる。そんなもの、脅威と言うには程遠いし超人なんてとても言えない」 「例えば、睨んだだけで物体を燃やせる存在がいたとして、それと戦うことになったらあなたどうする?」 「どうするって……そんなの簡単な話だろう。隠れて後ろから殴ればいい」 「そう。武器がどれだけ強力でも、それを使うのがただの人間ならどうとでもなる」 「大事なのは身体的な性能と勘の良さ。この部分が人間の〈範疇〉《はんちゅう》だったり、分かりやすい弱点があれば理論上誰にでも殺せるのよ。だから私たちは、そういう弱みを徹底的に排除している」 「……卑怯な話だ」 死角を消して臨むというのはあらゆる勝負事の鉄則だが、それを完璧に実現かつ実装されてはそもそも勝負が成立しない。 勝ちと負けが、均等の確率で場に存在するから勝負と言える。 櫻井の言ってることが本当だとするのなら、こいつらは常識の〈範疇〉《はんちゅう》内において無敵だろう。吸血鬼や狼男にも存在するお手軽な弱点が、一切存在しないことになる。 なるほど、だから災害なのか。 度外れた危険は脅威とさえ言わない。出遭ったことを不運と思い、逃げるか諦めるかするしかない不条理だ。 「卑怯……確かにそうでしょうね。でもだからこそ、私たちは勝てない」 「端から勝負にならないからね。ジャンルが違うのよ、私たちとその他じゃあ」 「皮肉な話よ。敗北を拭い去る力を磨けば磨くほど、私たちは勝てなくなる。ゆえに勝利を求めてやまない」 「あなたに逢えて、本当によかった」 「…………」 ジャンルか……その手の理屈は以前にも説かれたことがあるし、理解はともかく既知の価値観と言える。 だが、その一種病的とも言える独白に、俺は奇妙な違和感を覚えていた。 あまりにもぶっ飛んだ話を真面目な顔で語っているのが、おかしいと言えばおかしいのだが…… ともあれ、右手はもう痛みを感じない。今や俺もこいつと同類なのか。 「話が少し逸れたわね。ここからは端的に説明するけど」 「聖遺物を操るエイヴィヒカイトには、熟練度に応じた位階がある。どんなことにも共通する基本がそうであるように、慣れればより強くなるのよ」 「今のあなたは活動位階……基本中の基本、レベル1」 「さっき話した、睨むだけで燃やす云々と同じレベルね。意識するだけで物が斬れる。……でも、身体はまだそれほど強くない」 「致命傷を負わなければ大抵の怪我は治るけど、拳銃程度で血を流すし、急所を潰されれば死んでしまう。力や運動神経も、多少人より上ってだけで」 確かに…… 特別非力というわけでもない俺が、〈華奢〉《きゃしゃ》な櫻井に力負けするなんて普通なら有り得ない。 「人を怪力女みたいな目で見ないでよ。これでも仲間内じゃあ非力な方なんだけど」 「でもまあ、つまりそういうことね。今のあなたと私じゃ位階が違うから、基本性能に差が出ているだけ」 「私の位階はレベル3……ベイやマレウスも同じ領域だから、これが私たちの平均的な位階だと思って構わない」 「レベル3……」 それはつまり、未だ戦力差は桁違いということになるのだろう。櫻井の言うレベル1すらまともに使いこなせていない俺にとっては、まだこいつらの底を窺い知ることもできない。 「実際、各位階毎、慣れるための壁はあるけど、あなたのいる活動位階は特にそれがキツイわよ。言ってしまえば聖遺物に振り回されている状態だから、暴走しやすいし自滅しやすい」 「だったら、レベル2になればマシになるのか?」 「ええ。少なくとも、制御不能になって無秩序に周りを感電させることはなくなる。まずそこをクリアしないと始まらない」 「レベル2は“形成”……あなたの中にある災害、聖遺物の形を成すこと。狂気を凶器に具現化し、それを取り上げ武装する」 「ここに至れば、私たちとそう変わらないことが出来るようになるはずよ。たぶんあなたは、私と同じタイプかな」 「……?」 レベル2で、こいつらとそう変わらない真似ができる? じゃあ、レベル3は何なんだ。 「考えてること、結構顔に出るのね藤井君。でも、その疑問には答えられない」 「というより、答えるべきじゃないことかな。これに関しては、知識が足を引っ張りかねないし」 「だからあまり上を見ないで、今は形成位階を目指しなさい。もちろん、“活動”に慣れることが前提だけど」 「おまえと同じタイプっていうのは?」 「“形成”に入ることで、さらに四種類のタイプ分けがされるのよ。同じエイヴィヒカイトの使い手でも、そのスタイルには差異がある」 「聖遺物をどのように武器化するか、何が得手で、何が不得手か……これは使い手の性格や聖遺物の系統によって変わるもので、大別すると四つある」 「まあ、血液型性格判断みたいなものよ。それであなたは、私と同じタイプじゃないかと思っただけ」 「…………」 「嫌そうね。私と同じかもしれないっていうのは不名誉かしら?」 「別に。ただ、分かったようなことを言われたくないだけだ」 そもそも、誰かと似ているなんて言われて、喜ぶような奴は自尊心がなさすぎるだろう。 少なくとも、俺は御免だ。 「気に障ったのならごめんなさい。悪気は無かったんだけど」 「ともかく、話はだいたいこんなところよ。今日あなたは、“活動”をしっかりと意識した。その感覚を忘れなければ、今までよりは抑えられるようになるでしょう」 「そして、早く“形成”を覚えなさい。売るのも買うのもそれからよ」 「あなたの中にある災害を、狂気を凶器に具現化する。形を成して武装する。せいぜいイメージを膨らませるのね」 「手っ取り早いのは、〈殺人〉《けいけん》を重ねて聖遺物の形を掴むこと。綾瀬さんがやった分で、潜在的には近いところまでいってるはずよ。時間が惜しいならさらに足してみればいい」 「普通なら百人、不器用ならその三倍。センスがあれば二・三十人でものに出来るかもしれない。……〈学校〉《ここ》、そういう意味じゃあ丁度いい肉がいっぱい転がってるじゃない」 「お望みなら、私も手伝ってあげるから」 「おい」 瞬間、俺は櫻井の襟首を掴みあげていた。 「何?」 「ちょうどいい機会だから言っておくぞ」 ルサルカには言えなかった。あの当時は、それを口にするだけの資格が無かった。 しかし、今なら…… まだ未熟とはいえ、武器を自覚した今なら…… 「俺の目の届く範囲で人が死んだら、おまえを殺すぞ」 「二度とさっきみたいなことを口にするな。おまえらの目的が俺なんなら、俺だけの相手をしてろ」 「…………」 「浮気には厳しいタイプ?」 「ああ、俺はヤキモチ〈妬〉《や》きなんだよ。ふらふらしてる女は好きじゃない」 「心配するな、待たせはしない。すぐに満足させてやるから」 「そう……」 俺の〈恫喝〉《どうかつ》を歯牙にもかけず、櫻井は頬を緩めた。こちらの顔を両手で覆い、愛撫するように囁いてくる。 「いいわよ、だったら早くテクニシャンになってちょうだい。私は一途な女だけど、他の連中は違うからね。あなたが満足させてあげないと、何をするか分からない」 「誓うわ、ここに。私は以降、あなたとだけ恋愛する」 「あなたは私以外にも、残り十一人をイかせる義務があることを忘れないで。特にその中でも、四人は桁が違うんだから」 ザミエル、マキナ、シュライバー。そして、そして…… 我が生涯唯一の盟友……黄金の獣、愛すべからざる光の君。 「どうかした?」 「……なんでもない」 乱暴に手を放し、櫻井から距離を取った。 今のは何だ? こいつ、俺に幻覚でも見せたのか? 「顔色が良くないわね」 まあ、それくらいのことはする奴だろう。今さら驚くようなことでもない。 敵に塩を贈られた形だが、ようやく対抗手段も見えてきた。力を実感すると同時に鼻息を荒くするのは恥を知らないようだけど、格好つけてる場合でもない。 早く、早く強くならなくては。こいつらは、そういつまでも待ったりしない。 いずれ、本格的にゲームとやらが始まる。 襲ってくるのなら迎撃しなくてはならないし、襲ってこなくてもこいつらを放置はできない。 全体として、まだ疑問は残っているが…… 「……?」 何だ? 校内放送用のスピーカーから、唐突にノイズが流れた。 『……が、……閣下の、……です』 「――――」 「……シュピーネか」 呆れたような櫻井の呟きと共に、雑音めいた音声が明瞭さを増していく。 放送機器を介してはいるものの、それはまるで音楽に紛れ込んだ霊の声だ。この放送は、真っ当な手段によるものじゃない。 まさかずっと以前から、今の状況を別の奴に監視されていたというのか? 『まったく、素晴らしい勇気です。四半世紀に満たない人生とはいえ、それまで積み上げてきたものを守るために戦う時、人は何よりも強くなれる』 『私はあなたを、高く評価しますよツァラトゥストラ。さすがはさすが、副首領閣下のお眼鏡に適っただけのことはある』 『おまけにあなた、どうやらベイから聞いたとおりですね。今回のことが始まる前から、おそらくすでに経験を――』 「シュピーネ」 「今、横槍を入れてほしくない。野暮はするな」 『これは失礼。ですがレオンハルト、彼は我々全員の花嫁だ。あまり仲睦まじくされていると、嫉妬してしまいますよ』 「もてない男の〈僻〉《ひが》みか? 情けない」 「それで、顔は見せないのか?」 『遠慮しておきましょう。私はあなたのように美しくない。もともと今日はそれゆえに、代理を頼んだのですからね』 スピーカー越しに聞こえる声は甲高く、まるでガラスを擦り合わせるような生理的嫌悪感を〈催〉《もよお》すものだった。 口調こそ馬鹿丁寧であるものの、その裏には悪意に〈塗〉《まみ》れた暗い情念が渦巻いているのを感じ取れる。 まず間違いなく、まともな神経の持ち主じゃない。ヴィルヘルムのような〈無頼〉《ぶらい》でも、ルサルカのような〈嘲〉《あざけ》りでも、櫻井のような〈怜悧〉《れいり》さでもなく。 ただ、純粋に不快。俺を実験動物か何かのように見ている感じの寒気を覚える。 『ツァラトゥストラ――今回、あなたに助言を差し上げたのはこの私の意向です。お目汚しになるでしょうが、いずれ改めてお会いしましょう』 『私はシュピーネ。聖槍十三騎士団黒円卓第十位、ロート・シュピーネ。残念ながら本名はすでに捨ててしまった身ですので、その称号しか持ち合わせていませんがね』 『では今夜はこれで、レオンハルトにも感謝をしてあげてください。〈さようなら〉《アウフ・ヴィーダーゼーエン》』  ――狂気を凶器に具現化し、形を成して武装しろ。  それは、自己の内面と向き合えということなのか。  自分の中にある暗い衝動。人生平穏無事にやってきたいなら、 気付かないふりをして眠らせておくべきものを見つめろと。  つまり――  俺にとって最大の禁忌といえばただ一つ。  口に出すことはおろか、思い出すことも〈憚〉《はばか》られるタブーは、すなわち。  十一年前、この目に焼きついた“アレ”を……?  直視し、取り上げ、形にしろと……?  馬鹿な。そんなことは絶対に……  そうして、目を開けばそこは黄昏の浜辺。退院してからというもの、ほぼ毎日のように見続けていた夢の中に、俺は一人で立っていた。  ……いや、一人じゃないのか。 「いい加減、名前くらい名乗ってみないか?」  振り返れば、そこにいるのは淡いブロンドに緑の瞳。  粗末で、ボロと言っても構わないようなドレスに身を包んだ白人の女の子。  彼女はいつもと同じく呆けたような目をしたまま、俺の顔を見つめている。  首筋に走る斬首痕と、浮世離れしたその〈佇〉《ただず》まいからして、この子が生きている人間じゃないことくらいは理解しているつもりなのだが…… 「やっぱり、アレか」  俺の苦手な、幽霊だったりするのだろうか。 「キミ、いやあんた……俺に取り憑いてるとか、そういうのだろ? 俺をどうにかしたいわけか? 生前の未練とか恨みとか、あるんだったら言ってみろよ。聞いてやるから」 「…………」 「あぁ、その……参るな」  そんな顔をされた日には、まるで俺がいじめているような気になってくる。  櫻井は、俺を誘雷針だと言っていた。災害を吸い寄せる生贄だと。  なら、この子は“そういうモノ”のはずだろう。災害、雷という印象は欠片もないが、見た目で判断するのは危険なことだ。ルサルカのような奴もいる。  そもそも、今回のことに関わる大元はこの子から始まったのだし。  普通なら、ここで恨み言の一つや二つは言うべきなのかもしれないが……  なんだか、この子はどうにも、そういう気にさせてくれない。  そう甘ちゃんな性格でもないと自負しているつもりだったが、なぜかこの子に怒りをぶつけるような真似は〈躊躇〉《ためら》われた。  彼女は誰も傷つけない。傷つけようとする意志を持たない。  そんなことを漠然と、しかし確信に近いレベルで思っている自分がいる。  どうしてだろう。よく分からないが…… 「……歌」 「歌わないんだな、今日は」 「…………」 「いや、そんな驚いた顔されても困るんだけど、あんたいつも歌ってたろ。あれ、なんだ?」  正直、返答は期待していなかった。だから…… 「聞きたいですか?」  と、彼女が答えたことに驚いた。 「……喋れるんだな。正直、歌しか歌えないのかと思ってたけど」 「普通は……普通は、それしかしませんよ。カリオストロに、そうしてろって言われてたから」 「カリオストロ?」 「あなたに似た人」 「…………」 「でも、あなたが相手なら喋ってもいいって言われました。だから嬉しい。お話できますね、わたしたち」 「まあ、そりゃ……」  コミュニケーションを取れるならそれに越したことはないのだろうが。  彼女の言っていることは、何か危うい。  そもそも、そのカリオストロとはもしかして…… 「あんた……ていうかキミ、フランス人か?」 「……?」 「カリオストロってあれだろ、首飾り事件の」  アレッサンドロ・ディ・カリオストロ伯爵。  二百数十年前の十八世紀末に存在した、自称錬金術師。  王家の首飾りが騙し取られるという、一説ではフランス革命の原因とされている一大スキャンダルの首謀者だ。  〈稀代〉《きだい》の詐欺師にして、世界史で習うレベルの有名人。  彼女が言うカリオストロが、その人物を指しているのだとするのなら…… 「キミは、十八世紀のフランス人か?」 「……分かりません」  確かに、自分が何処の何者かを正確に記憶している幽霊なんて、〈胡散臭〉《うさんくさ》いものだろう。  そもそも彼女のナリからして、一般市民かそれ以下の身分だったと推察できる。そんな人間が、西暦を把握していたのかどうか微妙な話だ。  当時の識学率がどの程度だったかは知らないが、まともな人生を歩んだタイプにはとても見えない。  少し考え、俺は話題の矛先を変えてみた。 「“ここ”は何処だ?」 「どこって?」 「この浜辺、キミの故郷か?」 「うん」 「なんて名前?」 「サン・マロ」  といえば……やはり。  一応、そこそこの勉強はしているので理解できる。それはフランスの地名だった。 「ブルターニュのサン・マロか。……なるほどね。どうりで日本には見えないわけだ」 「日本?」 「ああ、それは俺の国……ていうかちょっと待てよ。 なんで言葉が通じてるんだ?」  俺は日本語で喋っているし、彼女も日本語で喋っている。  ……ような気がするんだが。 「……?」  いいか、別に。そんなことは。  夢の中で幽霊との対話なんかをしている時に、常識的な疑問を口にする方がそもそもズレてる。  それで。 「話を戻すけど、キミの名前は?」  俺の問いに、彼女は少しだけ困ったように目を伏せる。 「マリィ……」  それはおそらく、愛称のようなものなのだろう。しばらく無言で待ってみたが、姓までは名乗ってくれなかった。 「マリィか……分かった。 で、俺とは話してもいいって言われたそうだけど」  そのカリオストロとは。 「そいつのこと、少し教えてくれないか?」 「どうして?」 「興味がある」  どころか、聞き捨てならない。  なぜならそいつは、ここに俺が来て、彼女と話すことを知っていたわけだから。  何者なのかは分かっている。そしてだからこそ知らねばならない。 「そいつはどんな奴だった?」 「あなたに似てます」 「どの辺りが?」 「わたしに、優しくしてくれるところとか」 「…………」 「でもカリオストロは、もうここに来ないと思う。これからは、あなたがわたしと一緒にいてくれるからって…… ねえ、そうなんでしょう? ツァラトゥス……」 「違う」  知らず、俺はマリィの肩を掴んで詰め寄るように言っていた。 「俺は蓮だ。藤井蓮」 「……レン?」 「そう。それから、俺はキミが言ってる奴と似てなんかいない」 「…………」  戸惑うマリィの目を見据えて、念を押す。  やはり、彼女が言っているカリオストロとは、そういうことになるのだろう。  〈稀代〉《きだい》の詐欺師は獄死したとされているが、死後も生きて地上を放浪しているという伝説がある。それがまだ、存在しているということなのか。 “半世紀以上前に、頭のおかしな魔術師が企画した鬼ごっこ――”  櫻井が言っていたことが脳裏をよぎる。  メルクリウス。  俺とマリィは、そいつの駒として出逢わされたということなのか? 「あの……」 「痛いです……レン」 「……あぁ。その……悪い」 「…………」  手に残る感触は、やや冷たかったものの紛れもない人肌のそれだった。  この子は死人で、本当に霊なのだろうか? 以前ヴィルヘルムと対峙して死を意識した時、彼女について何かを語られはしなかったか?  忌まわしい娘。呪われた娘。哀れな娘。罰当たりな娘。  彼女を憎み、彼女を愛せ。彼女を護り、彼女を壊せ。  彼女は世界の特異点。法則の〈埒外〉《らちがい》に身を置く存在。  死者であって、死者ではない。この世の概念から外れている者。  永劫。無窮。不滅なるもの。神性。無限。死後の生。  ――エイヴィヒカイト。 「エイヴィヒカイト……」  彼女がそれを、俺に授ける?  あのギロチンを、俺に与える?  ……分からないな。 「俺がキミと、これからは一緒にいるって?」 「いてくれないんですか?」  そう言われても、答えられない。  無論、永久にこの浜辺にいるなんてのは論外だが、おそらくそういうニュアンスではないのだろう。  まさか、ずっと俺に取り憑いているとでも言いたいのか。それは正直、勘弁願いたい。 「わたしが必要になるって……」 「言われたのか?」 「はい……」  つまり、彼女は役に立つと。 「ギロチンは……」 「俺の首を落とすあれは、何処にある?」  問うと、マリィは無言で丘の上を指差した。  そこには、ギロチン。巨大で無骨で凄惨な、人を処刑するための刃がある。  血のような夕日の中で、ぎらぎらとぎらぎらと、鈍く輝く刃がある。  それが俺に、囁いてくるような感覚に囚われた。  首を斬り首を断ち、首を狩り首を捧げる。  処刑しろ。  この祭壇を、彼らの血で染め上げろ。  夕日よりも赤く炎より熱い首をここに。  狂気で飽食した戦鬼の首を。  一人残らず。  例外なく。  容赦なく遠慮なく〈呵責〉《かしゃく》なく慈悲もなく。  捧げてくれ――と。  でなければ君が死ぬ――と。 「……馬鹿言うなよ」  なら俺は、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》にここへ呼ばれてきたと言いたいのか? 「…………」  変わらず、呆けたように俺を見つめるマリィの目に、戸惑いを覚える。  この子を使えと、この子と共に戦えと。  こんな、なんでもない女の子にいったい何ができるというのか。  カリオストロ。メルクリウス。  頭のイカレた魔術師とやらは、気の狂った祭に気の狂った配役を提示してくる。  それに乗れと? 疑問を持たず、与えられた役を全うしろと?  馬鹿をノータイムで抜かしやがる。確かに俺は戦うしかない。もう逃げられないところにきているだろう。  だがそれに、誰かを巻き込むのは真っ平御免だ。  ましてこんな、幸薄そうな子を利用するなんてことは…… 「どうしたの、レン」  困惑したような、心配そうな顔でマリィは俺の顔を見ている。  本当にそれでいいのか? この子に人死にを見せていいのか?  道徳的な問題でも女だからということでもなく、なぜかそれは、それだけは……してはならないことのように俺は思えた。  その気持ちに、〈既知感〉《デジャヴ》を覚える。  ひょっとしたら俺は以前も、この子と逢っているのではないのだろうかと…… 「ふふ……レン、ヘンな顔」  屈託無く、〈稚気〉《ちき》とも取れるような邪気の無さで、マリィは緩く微笑んでいる。  この子に人死にを見せてはいけない。  道徳的な問題でも女だからということでもなく、なぜかそれは、それだけは……してはならないことのように俺は思えた。  その気持ちに、〈既知感〉《デジャヴ》を覚える。  ひょっとしたら俺は以前も、この子と逢っているのではないのだろうかと…… 「――――」 「朝、か……」 もはや定番になった夢見の悪い目覚めから、俺は数秒で気持ちを切り替え、さっさと制服に着替えだした。 飯は食ってないし髪も適当だし、たぶん目に〈隈〉《くま》でも出来てるだろうが、そんなことはどうでもいい。 早く、一秒でも早く登校してしまいたい。 それは無論、あそこなら周囲を感電させる危険も減るという理屈に基づく行動だが、今はそれより…… 「…………」 これが、堪らなく面倒くさくて俺の精神に爪を立てる。 「や、おはよっ」 「…………」 「蓮、最近起きるの早いよね。ていうかさ、昨日の夜、何処か行ってたみたいだけど……ちゃんと寝てるの?」 「あはは、なんかあたし気になっちゃって、あんたが帰ってくるの待ってようと思ったんだけど……なんか、壁の穴、通れなくなっちゃってて……」 「やっぱりー、今までプライバシーの侵害とかしすぎちゃったのかなぁって、ちょっと、反省しちゃったりなんかして」 「だから……訊いてみるんだけどさ、あのね蓮」 「最近あんた、もしかして……あたし避けてる?」 「…………」 「……ああ」 短く呟き、香純の横をすり抜けて俺は部屋の鍵もかけないまま外へ出た。そのまま無言で、早足気味に階段を降りていく。 香純は追いかけてこなかった。俺の態度に文句をつけることもなく、彫像のように部屋の前で突っ立っている。 ……くそ。 どうしてもっと、上手くやることが出来ないのだろう。 自分の不器用さと不甲斐なさにイラつきながらも、しかし結果的にはこれでいいんだと納得するしかない。 もう俺に関わるな―― そんな三文ヒーローの〈常套句〉《じょうとうく》めいたことを、思わず口にしてしまいたくなる。 いっそのこと、徹底的に嫌われるように振る舞えば、ここから引っ越してくれるだろうか。 「いや……」 たぶん、無理だな。 〈伊達〉《だて》に付き合いが長いワケじゃない。香純の性格はよく知っている。 俺が何を言って何をしようと、あいつは毎朝笑顔でやってくることだろう。 少なくともこんな逃げを打ってる間は、どれだけ無視をしようと意味はない。 そのことが腹立たしく、またどこかでそれを有り難がっている自分のことが、どうしても許せなかった。 今、考えねばならないことはそれこそ山のようにある。 まず何よりも優先すべきは周囲を感電させないようになることだが、本当の問題はむしろその後。 「おはよ」 こいつらを、いかにして撃退するか。 「……ルサルカは?」 「休みよ。しばらくあなたの顔は見たくないって。良かったわね」 「…………」 つまり、俺と顔を合わせたら何をするか分からないってことだろう。それは歓迎すべき状況じゃないが、まだ理解できる反応だ。 「じゃああいつとは、次に会ったら始まると思っていいんだな」 「たぶんね」 そっけなく言って、頷く櫻井。奇妙な話だ。 「気持ち悪いな」 「何が?」 「おまえがだよ。何平然と、俺に挨拶なんかしてるんだ」 「講義は昨日ので終わったんだろ。だったら、しばらく用はないんじゃないのか。学校くるなよ」 「それは私の勝手じゃない」 「おまえは別に、学校が楽しいわけじゃないだろう」 「いいえ、楽しいわよ」 嘘をつくな。友達の一人もいないくせに。 その〈白々〉《しらじら》しい態度に腹が立ち、睨みつけるが、櫻井は一向に堪えた様子がない。まるで〈暖簾〉《のれん》に腕押し状態だ。 「別に敵対してるからって、避ける必要はないでしょう。今のところ私は身の危険を感じないし、あなたをどうこうしようとも思ってないし」 「だったら顔見知り同士、会えば挨拶くらいするでしょう。何が変なの?」 「全部だ」 吐き捨てるように、短く言う。 「座りが悪いんだよ、今の状況。不自然で、わざとらしくて、嘘臭くて、気持ち悪いことこの上ない。そもそも……」 一番の違和感は、結局のところこいつらが何をしたいのかイマイチよく分からないところだ。 「まさか本当に、俺とやり合うのだけが目的ってわけじゃないだろう。得体が知れなさすぎるんだよ、おまえらは」 昨日はシュピーネとかいう奴のせいで〈有耶無耶〉《うやむや》になったが、まだ疑問は残っている。 俺を取り巻く現状の、全体の輪郭が見えてこない。 大元にある話の主題が分からないまま、巻き込まれて〈翻弄〉《ほんろう》されてるような感じだ。 それならそれで矢継ぎ早に攻めてくれれば、〈我武者羅〉《がむしゃら》に対抗しつつもいずれ見えてくるものがあるだろう。だけど現実は、こんな小休止を入れられているという始末。 座りが悪い。気持ちが悪い。〈弛緩〉《しかん》してダレた感じの間抜けな状況。 だからこそ、不明瞭な部分が気になって仕方ない。 「顔に似合わず好戦的なのね。まあ、今は聖遺物の影響もあるんでしょうけど」 「そんなにすぐ始めたいの? ぶっつけ本番がお望みかしら?」 「違う。俺がマシになるまで待つっていうなら、それはそれでありがたい。どのみち、無視は出来ないし」 「けどおまえ、やる気全然ないだろう。少なくとも、俺を相手にするのは事のついでっていう感じだ」 とても戦争をしに来たという感じじゃない。見る限り、櫻井には他の目的が絶対ある。 そして、そのことの方が遥かに看過できないという予感がある。 俺個人の身を守るためとか、香純に関する落とし前をつけるとか、それらはもちろん大前提として戦うための動機だが、もしかしたらそんなことなど問題にならないレベルで、こいつらを放置できない理由が生じるんじゃないのかと。 ルサルカやヴィルヘルムも、個人の力試しなんて理由でわざわざ集まってきているとは思えない。 事実、 「前にルサルカは、約束を果たすために街へ来たって言ってたぞ。目的は一人一人で違うとも」 「…………」 「だったら、おまえの目的っていうのはいったい……」 「たとえば」 「……?」 「綾瀬さんが死んだとする」 「何?」 「氷室先輩でもいいし、退学したっていうあなたの友達でもいい。他に誰か、大事な人がいるなら思い浮かべて。その人が死んだという状況を」 「……おい、待てよ」 唐突に、こいつは何を言っている。そして、そのたとえ話は聞き捨てならない。 「怒らないでよ。別に脅しをかけてるわけじゃない。ちょっとネガティブな世間話……私たちくらいの年齢だと、そういう話が盛り上がるんでしょ?」 「前に、クラスの子たちがそんなことを言ってたわ。自分の彼氏が、自分の彼女が、自分の親が兄弟が、死んでしまったらどうしようって」 「事故でも病気でも殺人でも自殺でも、なんらかの不条理で大事な人を奪われたらどうしよう。その時どうするべきだろう」 「泣いたり悲しんだり絶望したり、怒ったり悔しがったり恨んだり、みんなそれぞれ意見を言ってた。あなたはどう?」 「身近な誰かが死んだ時、あなたは何を思って何をする?」 「…………」 それは淡々とした物言いだが、どこか詰め寄るような、圧力を掛けてくるような口調だった。 若干面食らいつつも、俺は答える。 「状況による。事故と病気と殺人じゃ、思うこともすることも変わってくるだろ」 「自殺が消えてるみたいだけど」 「自殺は殺人だ。死ぬまで追い詰めた奴がいるってことだし、自業自得なら自分で自分を殺してる」 「なるほど」 「それであなたは結局のところ、死んだ人のために何をしてあげるというの?」 「死人のために?」 それはよく聞く〈類〉《たぐい》の概念だが、生きてる奴が何をしようと死人は死人だ。 なら供養とか仇討ちとか、そういうものは生者が自分の気持ちに決着をつけるためにやることだろう。癌を地上から撲滅しても、車を全面禁止しても、あらゆる犯罪者を抹殺しても、それらに殺された人たちが蘇ってくるわけじゃない。 誰もが知っている当たり前のこと。死人に口なし、未来なし。 なら死者のためにという奴は、結局のところ自己満足だ。綺麗な言葉で誤魔化すことを、別に悪いとは思わないが…… 「そういうことを言ってると、死んだ奴のためにじゃなくて、死んだ奴のせいにするかもしれないだろ。俺はそんな考え方をしたくない」 「だから自分も含めて、生きてる奴のことしか考えないな」 「そう」 「じゃあ、綾瀬さんが殺した人たち……彼らのために何かしようって意志もないわけね」 「……ケジメはつけるさ」 事の元凶を明らかにし、排除する。そのために俺は、今こんなことをやっているんだ。 そしてだからこそ、のらりくらりと煮えない態度のこいつが気に食わない。 「まあ、あなたの硬派な考えはよく分かったわ。実際に親しい人が死んでしまっても、同じ事を言えるのかどうかは知らないけど」 「ほら、そんな怖い顔しないでよ。別に脅してるわけじゃないって言ってるのに、疑り深い性格なのね」 「それで」 「うん?」 「答えろよ。おまえの本当の目的は?」 「目的ね……」 軽く間を置き、鼻で笑うように櫻井は言った。 「言ったでしょう、学校が楽しいのよ。さっきみたいに青臭くて、何年後かに思い出したら恥ずかしくなるような話をいっぱいしたい」 「他にも何処のケーキ屋さんが美味しいとか、何組の誰々がカッコイイとか、テスト勉強が面倒だとかね……そういうのを私は満喫したいのよ」 「でも、私がクラスの子達と仲良くしてると、あなたが邪推するでしょう? だからこうやって、藤井君にだけ絡んでるの。あまり邪険にしないでほしいわ」 「…………」 「そんなに迷惑?」 どころか、この場で殴り飛ばしたくなってきた。 学校生活を楽しみたいだと? 俺のそれをぶち壊しておいて、どの口がそんなことを言っている。 結局、目的を問うたところでまともに答える気はないってことか。ふざけて誤魔化すにしても、今の答えはかなり俺の〈癪〉《しゃく》に〈障〉《さわ》った。 「もういい。勝手にしろ」 舌打ちをして身を〈翻〉《ひるがえ》す。それとまったく同時だった。 「そう。だったら綾瀬さん、私と一緒に登校する?」 「――なッ」 唐突にその名前を聞き、俺は驚愕して振り向いた。すると電柱の陰から、香純がおずおずと顔を出す。 「あ……その、おはよう」 「おはよう、綾瀬さん。いい朝ね」 こいつ……いつから俺と櫻井のやり取りを覗いていたのか。間抜けなことに、まるで気付くことができなかった。 「藤井君は急いでるから先に行くって言ってるけど、あなたはどうする?」 「あ、うん、そうだね……どうしようか」 ちら、と俺の顔を見る香純。〈躊躇〉《ためら》うように間を置いてから、遠慮がちに言葉を継いだ。 「そだね。せっかくだから、あたしは櫻井さんと……」 「おい、待て」 俺は二人の間に割って入り―― 「行くぞ、櫻井」 腕を掴んで、有無を言わさず引っ張っていった。 「あ、ちょっと蓮……」 背後からの香純の声は黙殺する。 とにかく今は一刻も早く、この二人を離さなければいけない。 「いいの、あれ。放っといて」 「いいもクソもないだろ」 「ふぅん、でもあの子、何か泣いてるっぽいわよ」 「…………」 「まるで私が、藤井君をたぶらかしてる悪い女みたいに思われそうで嫌なんだけど……」 「似たようなもんだろ、それから黙れ」 「まあ、いいけど。でも彼女、ああいう扱いをされるのが一番嫌なんじゃなかったかしらね」 「あの夜も、本音を暴露してたじゃない。今は忘れてるんだろうけど、あれが嘘だったわけでもないんだし……」 「――黙れよ」 「ムカつく奴だな、おまえ。俺の相手だけするんじゃなかったのか」 「…………」 「了解……怒らないでよ、分かったから」 「あまりカリカリしてると良くないわよ。さっきの台詞も、何か誤解を招きそうな感じだし」 確かに、校門前で言い合いをしている俺たちは目立っていた。何人かの生徒が、奇異の目でこっちを見ている。 「……くそ」 だがとりあえず、香純を引き離せたので良しとしよう。あいつの気持ちは分かるけど、だからって他にどうしていいか分からない。 掴んだ櫻井の手を放し、俺は一人で校門をくぐった。 とにかく今は、一刻も早く“形成”とやらを覚えないと。 こんな様じゃあ、とぼけた様子の櫻井はともかく、ルサルカやヴィルヘルムに攻められた時、対抗することなど出来やしないのは〈瞭然〉《りょうぜん》だから。 「行くぞ、香純」 腕を掴んで、有無を言わさず引っ張っていった。 「え、あ、ちょっと待ってよ」 苦笑気味に〈嘆息〉《たんそく》している櫻井を黙殺して、俺は香純を連れて行く。 とにかく、こいつらを一緒に居させるわけにはいかない。 「ちょ、蓮……いた、いたいってば」 「なんなのよ、いきなり……あんたヘンっていうか、ねえ、ちょっと聞いてるの?」 「…………」 「もう、蓮ったら」 「…………」 「いたい、放して」 「―――――ぁ」 「…………」 「その、悪い……」 気付かないうち、手加減無しで香純の腕を握っていた。いくら剣道で鍛えているといっても、女の身体だ。乱暴に扱っていいわけがない。 「………ッ」 「……蓮?」 「……なんでもない」 “同類”ゆえか、昨日の一件が効いているのか、さっきの櫻井にはあまり反応しなかった欲求が、香純を前にして再び鎌首をもたげかけている。 「ねえ、櫻井さんと何話してたの?」 「…………」 「どこから聞いてた?」 「え、それは、別に……ケーキ屋さんがどうとか、櫻井さんが他の人と仲良くしたら、蓮が怒るとか……」 つまり、最後の方しか聞いてないということか。気付かれないよう、俺は胸を撫で下ろす。 「あ、あのさぁ」 何事か言い募ろうとする香純の前に手を出して、その先を制した。 「悪いけど香純、ちょっと一人にしてくれ」 「…………」 「ごめんな」 言って、俺は校門をくぐった。 香純にとって、蚊帳の外に置かれる状況がどれだけ辛いのかは分かっている。だけど、だからといって他にどうすればいいというんだ。 余計な記憶も、剣呑な力も、全て俺が奪い取ったのだから、普通の女子校生として平穏に生きてもらうのが一番いいとしか言えないだろう。 とにかく今は、俺が一刻も早く“形成”とやらを覚えないと。 こんな様じゃあ、とぼけた様子の櫻井はともかく、ルサルカやヴィルヘルムに攻められた時、対抗することなど出来やしないのは〈瞭然〉《りょうぜん》だから。 そうして、放課後になった。 今日は土曜日だから、半日で学校が終わる。全ての授業をサボって屋上にこもっていた俺は、この後どうしようかと考えていた。 学校はアースということなので、可能な限り校内にいたほうがいいのだろう。いっそのこと、ここに泊り込むべきかもしれない。 とりあえず、この土日はそうしてみようか。その間、やるべきこともあるのだし…… 目を閉じて、集中する。聖遺物の“活動”……昨夜教わったあれの練習。 朝からずっと、俺はそれを何百回も繰り返していた。 ゆっくりと目を開く。すでに五時間ぶっ通しで続けているが、未だにコントロールが上手くいかない。 これは全方位に力が向く。ゆえに指向性をちゃんと明確に持たせなければ、正面の物を斬りつつ後ろの物も斬るという、無茶な現象が容易に起きる危険があった。 正直、何かや誰かを守ることには向いていない。敵味方関係なく、近くに在るもの全てを攻撃しかねない凶暴さは、かなりの暴れ馬だと言えるだろう。 俺は深呼吸して、右手を伸ばす。肩から指先へ、そしてその延長に意識を集中し、“飛ばす”べきものをイメージした。 それはギロチン……断頭台の刃。退院してからつい最近まで、何度となく夢で首を切断された経験上、その威力はもはや骨身に染み込んでいる。 ゆえに、切れ味を再現することはそう難しくない。問題は、言ったようにコントロールだ。 その点、香純は俺より上手かったと言えるだろう。あの時は無茶な刃筋だと思ったものの、これを標的だけにあてるのは至難の業だ。褒めることじゃないし褒めたくもないことだが、全ての斬撃を俺の首だけに集中させた技量は〈瞠目〉《どうもく》に値する。 やはり剣道の経験が利いていたのか、それとも一本気な性格が作用した結果なのか……その辺りは分からないけど。 いずれにせよ、これまで何かに本気で取り組んだことのない俺のような半端者には、少々きつい課題だった。一向に上手くいかない。 今だって、そう。 ベンチに置いた空き缶を狙ったのだが、斬れたのはそこから三メートル近く離れた金網だ。 「……くそ」 我ながら、本当にノーコンだな。呆れ返るよりも疲れてしまって、そのまま大の字に横たわった。 怠けている余裕も〈不貞腐〉《ふてくさ》れている暇もないが、このままじゃ埒があかない。何かもっと効果的な、〈巧〉《うま》い練習の仕方を模索しなければならないだろう。 ずっとこんなことを続けていても、ただ〈徒〉《いたずら》に学校の備品を破壊してしまうだけだ。たいした成果は望めそうにない。 大事なのは形を掴み、それを取り上げることだと櫻井は言っていた。なら写生でもやればいいのかと考えるが、どうも違うような気がしてしまう。 たぶん、求められているのは内面にある攻撃性の結晶化。 刃物嫌いという性質上、ギロチンを具現するなんてのは相性が悪すぎるように思えるが、そもそもなぜ俺なんだろう。 たとえばマリィ……あの子はいったい何なのか。〈朧〉《おぼろ》げな夢の記憶を思い出してみる限り、何か運命的なことを言っていたような気もするけど…… 断言して、俺にフランス人の知り合いなんか存在しないし、過去に訪れたわけでもない。因果関係があるとは思えない相手である。 ただ、強いて言うなら一つだけ。 「……やっぱり、これか?」 首をなぞり、呟いてみる。今はファンデーションで見え難くしているものの、そこには彼女と同じ斬首の線が走っていた。 あの子はたぶん、ギロチンで首を斬られた人間なのだろう。罪人……という感じは全然ないが、十八世紀といえば革命やら魔女裁判やらの全盛期だ。無実の罪で処刑された人もたくさんいたに違いない。 なら、そういった無念や怨念がこの力の正体なのか。なるほどそう解釈すれば、無差別の破壊衝動も理解できるものがある。 当のマリィ本人には、邪気の欠片も感じとることができないのだけど。 「…………」 聖遺物は魂を喰らう。殺せば殺すほど強くなる。ゆえに、それと一体化した以上、殺人を我慢するのは愚の骨頂。自殺行為だと櫻井は言っていた。 つまり、生贄を捧げ続けない限り、俺自身の魂が削り取られ、死に至る。 なら今のところのストックは、香純が手にかけた十人弱……それはたぶん、決して多いと言えないのだろう。まともに戦いが始まれば、すぐに使い切ってしまいかねない。 とはいえ、何の罪もなく殺された人たちの魂を、そんなことに使い潰すというのは論外だ。絶対にやってはいけない。 ゆえに理想は、最初の敵を自分の魂だけで打倒する。あとは〈斃〉《たお》した敵の魂を、上乗せし続けていけばいい。 だいぶ……いやかなり無理があるように思えるが。 なんにせよ、戦うべき最初の一人を誰にするかというのが問題だった。 櫻井の口ぶりから察するに、敵の数は十二人。最終的にそれら全員を打倒することを〈鑑〉《かんが》みれば、最初に選ぶべきはなるべく弱い奴にするのが常道だろう。 魂を取り込むという意味では心許ない気もするが、背伸びをしていいことなどない。 なら、誰に照準を絞るべきなのか。 ヴィルヘルムは強い。ルサルカも得体が知れない。櫻井は……正直苦手意識が先行している。 それならあの、シュピーネとかいう奴……実際に顔を合わせてないのでどんな相手か分からないが、あいつはどの程度のものなんだろう。 そこまで考え、馬鹿らしくなってきた。 取らぬ狸の皮算用。今のザマじゃあ誰が相手でも勝てやしないという事実に目をそむけ、何をボケているんだ。みっともない。 「くそ……」 結局、出来ることをやるしかないのか。〈胡座〉《あぐら》をかいて座り込み、再び学校の備品破壊に〈勤〉《いそ》しむべく気を切り替えた。 まあ、鍵はかけているし、いきなり先輩とかが現れて、流れ弾を当ててしまう危険性もないだろう。 そうして四時間後。 日が沈みだす頃合いまで続けてみたが、やはりまったく上手くいかない。ここまで覚えが良くないと、才能がないんじゃないかと思ってしまう。 殺人能力の才能など無くて一向に構わないが、今の状況においては楽観視できることじゃない。正直、本気で焦ってきたけど。 「……一旦、帰るか」 この土日は学校に泊り込むのだし、それ相応の用意をしなければならない。少なくとも、食料くらいは調達しておかなければ…… 「よし」 立ち上がって、屋上を後にする。事態はまったく進展ゼロだが、丸半日の間、物を斬りまくっていたせいか、厄介な衝動は鳴りを潜めているようだ。 学校から外に出ても、まさか通行人をいきなり襲うようなことにはならないだろう。 せめてそれだけは、この情けない練習を続けて良かったと思えることだった。 なのに。 「あ、やっと来たなこいつ」 香純……なぜおまえがいるんだよ。 「靴があったからまだ残ってるんだと思ったけど、何してたの、今日一日」 「…………」 「別にあんたが不真面目なのは今に始まったことじゃないけどさ、ここ何日か、おかしすぎるよ」 「…………」 「あたしに言えないようなことなの?」 それは…… 言えない。 言ってはいけない。 こいつにあれを思い出させるのは論外だ。そして思い出さなくても、この問題に関わらせるわけには絶対いかない。 だったら―― 「ちょっと駄目よ。逃がさないからね」 身を〈翻〉《ひるがえ》そうとする俺の腕を、香純が掴んで引き止める。だが―― 「――え?」 まるで焼け火箸でも掴んだかのように、驚いて手を放した。 「…………」 その反応は、何かを感じ取ったということなのか。困惑したように俺を見ている、微かに怯え気味の視線が胸に痛い。 誤魔化さないと。 「……風邪気味だから、あんまり寄らない方がいいと思うぞ」 「そう、なの……?」 「ああ……」 だが実際、こいつをどうすればいいのだろう。率直に言って、今は構っていられるような状況じゃない。 とはいえ無視をし続けていても、それで退くような奴じゃないのは明らかだ。危機感もないまま、半端に周りをうろつかれるほうがよっぽど危険かもしれない。 なら何か、何でもいいから、事実を隠したまま納得させる方法を探すべきじゃないのだろうか。 今、俺に近づいてはいけないということを。 どうすれば、こいつに伝えることができるのか。 「ねえ蓮、あたしは役に立てないのかな?」 それは、あの夜と同じ台詞。 「男ってさ、あんまり干渉されたがらないっていうか、そういうところがあるの、本とかで知ってるけど……あたしは嫌だな」 「なんかこう、いてもいなくても関係ないみたいな、つまんない気持ちになっちゃうよ」 「…………」 面倒なジレンマだ。俺も一応、女にそういうところがあるっぽいのは知っている。こいつだって、女だし。 「でもほら、あたし体育会系じゃない? 説明してくれれば、わりとあっさり納得しちゃうかもしれないよ?」 「こんな風に、よく分からないまま避けられるのは、煮えなくて変な感じ」 「だから……」 煮え切らないダラダラとした引き伸ばしに苛立ち、真意が見えず〈我武者羅〉《がむしゃら》に足掻きたくなるその気持ちは、俺が櫻井に抱いているものとベクトルは違うが同系統のものだろう。 よく分かるし、他人事じゃない。ましてこいつは、竹を割ったような性格だから俺よりそういうのが強いだろう。 「あたしに出来ることはない? 空気読んでないのは分かるけど、やっぱりこんなんじゃ寂しいよ」 その台詞に、あの夜の光景がフラッシュバックする。こいつにそんな気持ちを抱かせたせいで、あんな目に遭わせてしまった。 なら、もう二度とそういうことのないように、俺が賢くならなければいけないのだろう。 本当のことを言えないのなら、せめてこいつを騙しきるくらいの上手い嘘を、上手い演技を。 ばればれの言い訳や不自然な無視なんかじゃ、むしろ構ってくれと言っているようなものでしかない。 考えろ。何かないのか。 この問題は引き伸ばしちゃいけない。今、速やかに終わらせる必要がある。 無駄な心配をかけず、それでいて一定の距離を確保できる言い訳といえば。 「蓮?」 〈怪訝〉《けげん》な顔で俺を見る香純から目を逸らし、一度大きく深呼吸した。 向き直って目を合わせ、苦笑を浮かべる。 「誰にも言うなよ」 上手くいってくれればいいが。 「俺、櫻井と付き合ってるんだ」 「へ?」 「だから、おまえと一緒にいるのはあんまりよくない」 「ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってよ」 多少苦しいけど、これしかないだろ。朝の一件が伏線になってくれると嬉しいが、とにかくこの線でいくしかない。 「な、なに? 櫻井さんって、櫻井さん?」 「他にどこの櫻井がいるんだよ」 「で、で、でもさ」 「あいつ、メチャクチャ嫉妬深いんだよ。俺が他の女と話してるだけで、すごい怒る」 「そ、そうなの?」 「そう。だからおまえとか、もろにヤバイ。朝だって、俺が引き離さなかったらどうなってたか、想像するのも恐ろしいよ。ちょっと思い出してみてくれ」 「あの時のあいつの目、人を殺せる目だったろ」 「あ……ぅ……」 思い浮かべてぞっとしたのか、慌てたような香純の顔。実際、嘘は言ってない。あいつは人くらい殺すだろう。 俺は努めて苦労人のような顔をしつつ、 「おまえが隣に住んでるって知られた時とか、大変だった。そのうえ壁に穴が開いてるとかまでバレたら、どうなるか分からない。だから塞いだんだけど」 「なんか、話し難くてな。そういうわけなんだけど、納得したか?」 「で、でも、全然そんな感じなかったじゃない。だいたい、子供じゃないんだからなんで内緒にする必要が」 「あいつ、照れ屋なんだよ」 「あと、なんていうか秘密の共有? そういうのが、こう、絆を深くするんだとかなんとか……おまえそういうの分かるか?」 「い、いや、あたしだったら、次の日に即行で言いふらして回ると思うけど。嬉しいし」 「って、そんなことはどうでもよくて、それホントなの?」 「……嘘じゃない」 「なんで間が空くのよ」 「……恥ずかしくてな」 というか、話してて寒気がしてきた。方便とはいえ、こんなことを口にするのは俺の立場的にどうなんだ。 とはいえ、こうなったらもう毒皿か。 開き直って片っ端からあることないこと言ってると、ボロが出るかもしれないし、ここで賢いやり方といえば…… 「そういうことだけど、質問あるか?」 「ぅ……」 こいつに訊かせて、一つ一つおかしなところを潰していこう。 「じゃあさ、いつから付き合ってたの?」 「三日前……だけど、そうなるまでの準備期間も入れると一週間くらいか」 「それだと、櫻井さんが転校してきてすぐじゃない。どんな一目惚れなのよ」 「ていうか、どっちから告白したのよ?」 「どっちからともなく」 「なにそれ?」 「だから、なんとなくっていうか、あいつはほら、美人だろ? 俺としても、そりゃ多少は気になるわけで」 「まあその、ちらちら見てたら目が合うこととか多くてな。……それでなんとなくっていうか」 「話すようになって、好きになってしまったと」 「…………」 「好きになってしまったと」 「…………」 「めためたのべたべたに惚れてイチャラブってしまったと」 「いやそんなことはないぞ」 「はっきりしなさい!」 「……なんで怒るんだよ」 「そ、それはその、同じ女としてそういう態度はいかんのじゃないかと思うのですよ」 「だいたいあんた、付き合ってるならなんで今一人なのよ。一緒に登下校とか、基本じゃない」 「そりゃ、まあ、ちょっと喧嘩したし……」 「朝のこと?」 「そう、かな、たぶん」 「ちゃんとフォローした?」 「いや……」 「うわー……こいつ駄目だよ。恋愛方向音痴だよ」 「おまえに言われたくねーよ」 「あたしのことはどうでもいいでしょっ」 「だから……」 自分で振っといてなんだが、いい加減続けるのが嫌な話になってきたな。 「とにかく、そういうわけで、もういいだろ。フォローしろって言うなら今からするし、おまえは早く家に帰れ」 「フォローって、櫻井さんの家に行くの?」 「いや、電話かな」 「あのね、駄目だよ、そういうのは直接逢ってやらないと意味ない。顔が見えないと、通じないことって多いんだからね」 「それに、あした土曜だよ? 三日前からっていうんなら、付き合い始めて最初の週末になるんだよ? そういうの大事にしないと駄目だってば」 「そうは言うがな……」 実際、俺は櫻井の家なんか知らない。以前の件でメールアドレスだけは分かっているが、他の情報は一切なしだ。 これ以上この方向で話していると、確実にボロが出る。 「まあ分かった。分かったから、おまえはもう帰れ。言っただろ、あいつヤキモチ凄いんだよ」 「世話焼いてくれるのは嬉しいけど、今が大事な時期だって言うなら、俺たちの問題は俺たちで片付けるよ。それが筋だろ」 それは実のところ、本音でもある。 「ぅ……ま、確かにそうだよね」 「じゃあ整理するけど、蓮は櫻井さんと付き合ってて、彼女がヤキモチ〈妬〉《や》きだから、信頼関係が〈磐石〉《ばんじゃく》になるまで、あたしを含めた他の女の子とは距離を置きたいと」 「そう」 「分かった。じゃあ好きって言って」 「は?」 ナニイッテンノコイツ? 「櫻井さんが好きだから付き合ってんでしょ? だったら今、ここでその気持ちを口にして」 「なんで?」 「なんででもっ! それ聞いたら諦める」 「何を?」 「あーもう、うっさいなこの男は。あんた鈍いふりばっかりかっ」 「…………」 「ほらほらほら~、櫻井さんが好きなんでしょぉ~、だったら言えるはずだよねぇ~」 「さあ恥ずかしがらず、おぉきな声で、世界の中心的に叫ぶ愛をっ、ラブをっ、リビドーをっ」 「……最後の違うだろ」 「違わないもーん。年頃の男の子と女の子だもーん。やること他にないんだもーん」 殴りてぇ…… 「あれぇ、いいのかなぁ? そんなことで彼女を大事にできるのかなぁ? お姉さんは心配だなぁ」 「勝手に言ってろ」 「ああもう、そうやってすぐ逃げる」 だがとりあえず、これで言いくるめることは出来たんじゃないだろうか。 妙な誤解を植え付けたとはいえ、俺の目的が果たされれば櫻井はいなくなる。なら今、多少不名誉な目でこいつに見られようとたいした問題になりはしない。 香純は未だに俺の横でよく分からないことを言い続けているが、一応納得はしているようだし。あとは適当な所で櫻井の家に行くなりなんなり言えばいい。 そうすれば、こいつも大人しく帰るだろう。加えてこの土日、ずっと学校に篭っていても怪しまれない理由が出来た。 まあ、冗談じゃないが、櫻井と仲直りして、デートをしてたとでも言っておけばいいだろう。 だから―― 「ねえねえところで、やっぱり二人の時は、ケイ……とか呼び捨てにしちゃってたりするんすかダンナ、うきゃー」 久しぶりに見るこいつのこういう馬鹿なノリに、俺はどこか癒されていた。 首の疼きも忘れ、誰かを傷つけたくなる衝動も凪ぎ、本当に久しぶりの、安堵した瞬間。 だったからこそ―― 暖かな夕日のなか、傍を通り過ぎた氷点下の存在に、俺は気付くのが遅れてしまった―― 「どうして、あなたもなかなか苦労人ですね、ツァラトゥストラ」 「――――――」 今の、声は…… 「ん、どしたの急に」 振り返っても、誰もいない。だが今、確実に、あいつは俺たちとすれ違った。 「――――」 動悸が早まる。息が荒くなる。さっきまで凪いでいた俺の心が、一瞬でざわざわと騒ぎ出す。 いけない。まずい。このままじゃあ―― 「――香純」 「な、なによ?」 「悪いけど、おまえ今から、すぐ帰れ」 「へ? いや、そりゃ帰るけど……」 「俺は用事が出来た」 「……用事って、櫻井さんに逢いに行くの?」 「ああ、ちょっとな。あいつ怖いから、早く機嫌とらないとやばいことになる」 「だからおまえは――」 「ああ、うん。分かったよ。さすがにあたしも、そこまでは野暮じゃないし……」 「じゃあ、帰るね。蓮、ちゃんと仲良くしないと駄目だよ?」 「分かってる」 「ほんとかなぁ、ぶっきらぼうだしなぁ」 「でも、あれだね。そんなに真剣になるなんて、ほんとに櫻井さんのことが好きなんだね」 「へへ、なんか、ちょっと羨ましいな」 「…………」 「あはは、何言ってんだろあたし。じゃあ蓮――」 「……ああ、気をつけて帰れよ」 そして、香純は帰っていった。 今は土曜日の夕方だ。辺りに人は溢れているし、危険は特にないだろう。これであいつは問題ない。 さあ、だったら俺はどうする? さっきの奴、間違いなくあの時の声の奴だ。名前は、確かシュピーネ。正直、俺がもっとも嫌う類の人種に思える。 あの、周りの反応を見物しつつ薄ら笑っているような。それでいて、右往左往する人の感情など化学反応程度にしか見てないような。 人の心を抉ることに、悦楽を見出す類の人種。ルサルカもそれ系だが、あいつは自分も渦中に入りたがるタイプだろう。〈翻〉《ひるがえ》してシュピーネとは、あくまで傍観しつつ、操り、〈嘲〉《あざけ》り、観察を続けるような…… 巣にかかった獲物をいたぶる蜘蛛のような…… いや、何を言ってるんだ俺は。〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈を〉《 、》〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》ことを考えるのは即刻やめろ。 とにかく今、俺は何をするべきか。 あいつを追うか? それとも、大人しく学校へ戻るか? 「…………」 とりあえず、見ざる聞かざるで済ますというのは論外だ。何を考えているのか知らないが、俺に接触してきたのは偶然じゃあるまい。 戦うかどうかは、分からないけど。 追おう。そして、奴の真意を突き止めないと―― それは、乱された思考特有の〈軽挙妄動〉《けいきょもうどう》。あるいは、聖遺物の影響下で発生する好戦性の〈発露〉《はつろ》だったのかもしれない。 いずれにせよ、俺は重大な見落としに、この時気付いていなかった。 結局、数時間辺りを捜して回ったが、奴を見つけることはできなかった。いい加減疲れてしまい、そのまま地面に腰を降ろす。 いったい、あいつは何をしたくて俺に接触してきたのか。尾行が出来ていたら何かしら掴めたのかもしれないが、これじゃあただの空振りだ。拍子抜けして、馬鹿らしくなる。 だが同時に、少なからず安堵もしていた。もし捕捉と同時に戦闘なんてことになっていたら、いま俺は息をしてなかったかもしれない。 まだ、“形成”を覚えていない。“活動”も満足に使えない。こんな状態で奴等に対抗しようなんて、冷静に考えると無謀すぎる。 そう考えると、やはり大人しく学校へ戻っていた方がよかったのだろう。もとから多くない練習時間を、無駄に使い潰してしまった。 「……くそ」 どうにも、いざという時頭が回らなくなる。自分ではもう少し切れる人間だと思っていたのに、情けない。 これじゃあ、香純を馬鹿だとは言えないな。俺もかなり抜けている方だろう。 そして、そんなザマだから当然のように。 「何してるの、藤井君」 〈怪訝〉《けげん》な顔で俺を見ている彼女に、声をかけられるまで気付かなかった。 「こんばんは。こんなところに座り込んで、どうかしたの?」 しかも、この人まで一緒ときた。 「いや……別に、今日は不意打ちの出会いが多い日だなと」 「ん? 不意打ち?」 「最近の藤井君は、ちょっと感じ悪いの。だから深く考えちゃ駄目だよ、リザ」 「そうなの? でも、よく見たら顔色が悪いわね。大丈夫?」 「ええ、それは一応」 「とりあえず、地面に座り込むとか、不良っぽくて良くないと思うな。しかも制服着たままで」 「うちの学校のイメージが悪くなるのは、もうすぐ卒業する者としてちょっと嫌」 「……すみません」 昨日のことを根に持っているのか、なんとなく先輩の物言いには棘がある。 だが、まあ、実際彼女の言う通りだし、俺はズボンのケツを叩きつつ立ち上がった。 ありがたいことに、今のところ首の痕は疼かない。どころか、なぜか彼女らに会った途端、〈霧消〉《むしょう》した。 「どうしたの、ヘンな顔して」 「……いえ、特に何も。それより二人は、何してるんです?」 「物騒でしょ、女の人だけで夜出歩くなんて。神父さんはどうしたんですか」 「んん、ああ、それはちょっとね」 「あの人は今、家出中」 「は?」 「だから、どっか行っちゃった。昔から、ちょっと苛めるとすぐに行方をくらますの」 「だいたいリザが……」 「あはは、私は何もしてないわよ? まったくあの人ったら、大きな身体してほんとに打たれ弱いんだから」 「せめて玲愛が、もう少し優しくしてあげればよかったのに」 「私のせいなの?」 「じゃあ私のせいなの?」 「つまり……二人のせいってわけですね」 察するに、また何かつまらないドジでもやったんだろう。あの神父、あれ以来会っていないが、要領メチャクチャ悪そうだし。 この二人に囲まれての生活は、さぞかし肩身が狭いだろうと推察できる。 「そこでキミは、なんで同情しているような顔をするの。言っておくけど、あの人はかなりこう、悪党だよ」 「悪党?」 「だから、なんでそこで笑うの」 「だって、あの神父さんでしょ? 悪党とか言われても……」 そりゃ笑うしかないだろう。 「まあ、〈伊達〉《だて》に神父をやっているわけじゃないから、外面はいいけどね」 「シスターも、否定はしないんですか」 「藤井君は人を見る目がない」 呆れたように言われてしまった。 「あの人と接する時はね、油断しちゃ駄目。私が知ってる中で、たぶん一番タチが悪い」 「〈喩〉《たと》えるなら、羊の皮をかぶった恐竜」 「しかもティラノザウルス」 「むしろサタン」 「かつ自覚がない」 えらい言われようだな、神父さん。本気で同情してきたぞ。 「とか、そういう人だけど、あれはあれでいい所もあるから、こうして捜しているわけ」 「……そうですか」 「私は別にどうでもいいけど」 「あらそうなの? 私が放っておけば戻ってくるって言った時、無言でずっと睨んできたのは誰だったかしら?」 「誰だろうね、それ。私知らないよ」 「ねえ、聞いてくれないかしら藤井君。この子ったら、私が教会で待ってなさいって何回言っても、黙ってついてこようとするのよ。ちょっとファザコン気味だと思わない?」 「思わないよね? だってそんなことないんだから」 「そこで同意を求められても……」 何かこう、幸せな喧嘩を見せ付けられているようで、微妙な気持ちになってしまうな。 この人たちが、こうして平穏無事に生活しているのは、俺にとっても嬉しいことなんだけど…… 「あのさ先輩」 「何?」 「それから、シスターも」 「ん、どうかした?」 「何ていうかな、さっきも言ったけど、物騒だから教会に戻りなよ。神父さんのことなら、俺が捜しておくから」 「私たちだと物騒で、藤井君なら大丈夫だっていう根拠はなに?」 「だって、俺男だし」 「うーん、そういうレディファーストはあまり嬉しくないなぁ。ちょっと馬鹿にされてる気になっちゃうわよ」 「藤井君の悪いとこだね。まあ、いいところでもあるけど」 「別に犬じゃないんだから、そんなに心配しなくても自分のことくらいなんとでもなるよ」 「じゃあ、神父さんも自分のことくらいなんとかするでしょ」 「それは揚げ足とり、別問題」 じゃないと思うけどな。どうも最近、この手の水掛け論ばっかりだ。 「とにかく、藤井君があの人を捜す必要はないよ。ていうか、捜しちゃ駄目」 「なんでですか?」 「それは……」 珍しく、先輩は言い〈澱〉《よど》んだ。よく分からないが、俺が神父を捜すことにあまり賛成ではないらしい。 だが、俺としても本気で彼を捜す気などない。これは単に、彼女らを家に帰すための方便だから。 首を斬る殺人事件はもう起きないが、それとは別の危険がある。 つい、さっきまで、ここにはあいつが存在した。美人の二人組などを、居させていいわけがない。 「玲愛はたぶん、自分で神父様を捜したいのよ。でもまあ、藤井君の言うことも分かるし、ここは男の人の顔を立てた方がよさそうかな」 「リザ」 「いやね、そんな怖い顔しないでよ。大丈夫、大丈夫だから」 「…………」 なんだ? よく分からないが。 「えっと、それで」 「ああ、教会に帰ってくれってことでしょう? 分かりました。じゃあ、申し訳ないけど、神父様のことをお願いね」 「……はい」 「ほら、玲愛。藤井君にお礼を言わないと」 「…………」 いや、だからなんで睨むんですか先輩。 面食らいつつ、困惑していると…… 「藤井君は馬鹿だよ」 「キミみたいな子は、きっと早死にする」 なんて、呪いみたいなことを言いつつ〈踵〉《きびす》を返した。 「あー……っと」 なんだそれ? 随分と嫌われてしまったみたいだが。 「ごめんなさいね。あの子、ちょっとずけずけとものを言うから」 「気を悪くしたのなら、謝るわ」 「……いえ、そもそも俺が、出すぎたことを言ったからだし」 「そう」 シスターは、困ったように微苦笑している。 しかしとはいえ、最近の先輩は少しばかり気難しいな。あまり怒ったりしない人だと思っていたけど。 「たぶんね、藤井君のことを心配しているのよ。私と話す時も、よくあなたのことを話題にするし」 「だからいい友達として、これからも仲良くしてほしいと私は――」 「リザ、ヘンなこと言ってないで、早く帰ろう。藤井君なんか、変態に襲われちゃえばいいんだ」 「可愛い顔してるから、きっと薔薇チックな目に遭う。ざまぁ見ろと私は思う」 「あのなぁ……」 「あははは、それは私も、ちょっと見てみたいかも」 あんたまで言うか。 「とにかく、俺のことはいいですから」 「はいはい、分かりました。じゃあ藤井君、私たちは帰るけど」 言葉を切って、シスターは一歩俺の方へと寄ってきた。 そして囁くように。 「神父様を捜すなら、気をつけてね」 「あの人、夜になると周りに危ないのが寄ってくるから」 「……え?」 なんだいきなり、それはどういう……? 「あと、あなた自身もね」 と、妙なことを言って、シスターも〈踵〉《きびす》を返した。 「…………」 「キミも遊佐君も、死ななきゃ直らない馬鹿」 「そんなんじゃあ、いつか本当に……」 振り返りもせず去っていくシスターとは対照的に、先輩は何度もこちらの様子を窺いながら、ぶつぶつと何事かを言い続けていた。 よく、分からない。対処に困る。いったい彼女は、何に苛ついていたのだろうか。 その小さい背が見えなくなるまで俺も色々考えたが、やはり一向に分からない。 分かっていることといえば。 「やれやれ……あなたも嫌われてしまったようですねぇ」 ということで……って、――え? 「しかし、気にする必要はありませんよ。彼女のあれは、一種の愛情表現というやつでしょうし」 ちょっ――嘘だろ? 「おや失礼、脅かせてしまいましたか」 「神父……さん?」 振り返れば、背後に神父が立っていた。俺は一瞬、どうリアクションしていいか分からなくなる。 なんだ? 今日はいったいどういうことだ? いくらなんでも、予期せぬ遭遇が多すぎるぞ。 「どうされました、藤井さん。そんな、呆気にとられたような顔をして」 「あ……それは別に……」 そして、なぜか動悸が早くなる。以前会った時は呑気と〈長閑〉《のどか》の塊みたいに思えたこの神父が、今はどうしてだか、妙にその…… 「しかし、テレジアも困った子ですねぇ。もう少しこう、淑女として隙のない成長をしてほしかったものですが」 「まあ、とはいえ、あれはあれで魅力的でもありますね。あなたに好意を抱いているのが見え見えである辺り、実になんというか微笑ましい」 「私としては、それを喜ぶべきなのでしょう。もしかしたら嘆くべきなのかもしれませんが、娘の成長を喜ばぬ父などいないでしょうし」 「藤井さん、あなたにとっても、テレジアは大事な存在であるのでしょう?」 「俺は……」 知らず、一歩後ろに退いていた。 なぜそうしたかは分からない。 だがまるで、目の前に氷の壁が立ち塞がっているようで…… さっきまで消えていた首の疼きが、再びギリギリと軋みだす。鉄線で〈絞殺〉《こうさつ》されかかっているみたいに、呼吸することすらできなくなる。 「もしあなたが、テレジアを大事に思っていてくださるのでしたら、私はとても嬉しいですよ。これこそ運命めいている」 「あなたは実際、お世辞抜きで素晴らしい若者だ。思いやりがあり、痛みに強く、それがゆえに心も強い。満点を差し上げてもいい」 「私は神に感謝しています。あなたと彼女が、縁を持っていたことに」 神父の言っていることは、やや大仰であるという点を除いて、別段おかしなものじゃない。むしろ祝福の類だろう。 だが、だというのに、全身から流れる冷や汗が止まらない。首の疼きも加速していく。 この人は、氷室先輩の父親代わりだ。シスターの友人であり同僚だ。だからこんなことを考えてはいけない相手だと分かっているのに……理性と別のところで叫ぶ警戒警報が止まらない。 俺は――〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈神〉《 、》〈父〉《 、》〈が〉《 、》〈恐〉《 、》〈ろ〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。 「……ふむ、これはどうやら、いささか時期尚早でしたかな」 「失礼しました、藤井さん。いきなり現れて先ほどのようなことを言われては、あなたが驚くのも無理はない。困らせてしまったようで、謝罪しましょう」 「―――――ぁ」 言って、神父が頭を下げると、それまで全身を捕らえていた圧迫感が嘘のように消え去った。同時に、呼吸も動悸も、首の痛みも消えていく。 気のせい……だったのか、今のは…… 「顔色が優れませんね。大丈夫ですか?」 「あ――ああ、いや、それはほんとに、大丈夫だから」 「ふむ」 相変わらず、神父はにこにこと微笑んでいる。その様は無害な善人としか言いようがなく、ついさっきまで感じていた得体の知れない恐ろしさなど、微塵も見えない。 落ち着け。呼吸を整えろ。今日は色々なことがありすぎて、パニックになりかけている。 この人が、〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》であるわけないだろう。 「……ごめん、なんでもないよ。ちょっと驚いたのは確かだけど」 「なんか今日、色んな人に偶然会うことが多くてさ。どう対処していいか咄嗟に分からなくなっただけだから」 「そうですか、なるほど、偶然色んな人に会いましたか」 「私にも、たまにそういう日がありますよ。いえ、過去にあったと言うべきですか」 「予期せぬ遭遇というものは、どうしてなかなか難儀なものです。何せ未知でありますから、良い悪いの判断もつき辛い」 「未知……?」 「ええ、未知は恐ろしい。希望であるかもしれないし、絶望かもしれない。加え、それが到来した時、やはり未知であるがゆえに正確な対処も難しい」 「であるなら、賢明な者はこう思うかもしれませんね。全て既知で構わないと」 「…………」 「ははは、まあ雑談はこれくらいにいたしましょう。あなたはリザとテレジアに、私を捜すよう頼まれたのでしょう?」 「それは、一応……」 「ふむ、でしたら恥を〈晒〉《さら》してしまいましたね。私はどうにもあの二人に嫌われていますから、よく苛められるのです」 「とはいえ、いい歳をして女性から逃げる男というのもまた、これはこれで乙なものなのかもしれませんが」 色男よろしく気取ったことを言う神父に、俺はただ適当な相槌を返すことしかできない。 とにかく、偶然だろうがなんだろうが、図らずとも先輩たちの頼みは達成できた。あとは彼に、教会へ戻ってもらうようお願いすれば…… 「ええ、言わずとも分かりますよ。教会には戻りましょう」 「ただ、ですね。よろしければその前に、一つ忠告をしてもよいでしょうか?」 「……忠告?」 いきなり何を言いだすのかと思えば、また説教の類だろうか。俺が〈怪訝〉《けげん》な顔をしていると、神父は緩く微笑する。 「そう構えずとも、年長者からの人生訓みたいなものですよ。たいしたことではありませんし、あなたの主義に反することなら、戯言と流してもらって構わない」 「如何ですか?」 「…………」 「別に、いいけど」 困惑しつつも頷くと、神父はありがとうございますと言って話しだした。 それは何か、何処かで聞いたことのあるような説…… 「まず、人は生きていれば、時に予期せぬ〈事態〉《もの》と遭遇します。たとえば今日のあなたのように」 「ですが、世に偶然というものなどないのですよ」 「…………」 「全て初めから、そうなるように、それ以外にはなれぬように出来ているのです、世界とは」 つまりこの人は、運命論を言っているのか? キリスト教の教義がどうだったかは知らないが、彼がそれを口にするということに、俺は妙な違和感を覚えた。 神父はそんな俺を見て笑い―― 「面食らっているようですが、私は何も、オカルトなことを言っているわけではありませんよ。ただこの世に起きることは、全て何かしらの意味があるということです」 「あなたは今日、色んな人に会ったと言った。その一つ一つを振り返り、検証することで、こう考えることはできませんかね。第一のものがなければ、第二第三もなかったと」 「…………」 「原因と結果、因果律の話です。そして時間を戻すことが不可能である以上、“あの時ああしておけばよかった”……などという考えは的外れでしかない」 「つまり、人の人生とは……」 選んでいるんじゃなく、選ばされているようなものと同じ。 だったら―― 「選択肢があるように見せかけた一本道」 「そう、よく分かっていらっしゃる」 俺の答えを聞き、さも嬉しそうに神父は笑う。それは以前、司狼が言ったこととまったく同じだ。 「そしてそうである以上、言ったように偶然は有り得ず、また無意味な事象も存在しない。私はあなたと会ったことで、こういう話ができましたし、リザやテレジアはそのきっかけを与えてくれた」 「それ以前にも、ここに至る何かが当然のようにあったでしょうが、その一つ一つ、どれも無意味ではありませんよ。必ず、何かしらの意味がある」 「ゆえにどんなものであれ、予期せぬ事態を楽観などしないように。ネジが外れてしまった時計は、必然的に止まります」 「と、私の話はこんなところなのですが……」 俺は、神父が言ったことを無言のまま反芻していた。 そう、無意味なことなどありえない。偶然なんてありえない。 あいつが俺と、ただ偶発的にすれ違っただけなんてありえない。 だったら―― 「――――」 不意に、俺の携帯が鳴り出した。 「ぁ……と」 「いえ、どうぞお構いなく。私の話は終りましたし、教会へ帰ります」 「あ……そう。じゃあ、神父さん……」 「ええ、ではごきげんよう。近いうちに、また会いたいものですね」 緩い笑みを残して、神父は身を〈翻〉《ひるがえ》す。黒い〈僧衣〉《カソツク》は、あっという間に夜闇の中へと消えていった。 「…………」 その間も、携帯電話が鳴り続けている。いったい誰からなのだろう。 俺の狭い交友関係などたかが知れてる。司狼を除けば、先輩か…… 「香純か……」 “愛のヴィーナス”、開いた液晶には、そんな馬鹿っぽい文字が躍っていた。 「…………」 不安がある。出てはいけないような気がする。俺はもしかして、またとんでもない下手を打ってしまったのかもしれないと、恐怖心が邪魔をする。 それは何か、絶望の匂いがする着信音のリフレイン。 「……もしもし」 …………… …………… …………… …………… 通話状態となったのに、何も音が聞こえてこない。いったいどういうことだろう。 まさかイタ電というわけでもあるまい。非通知設定もしないまま、こんなことをしても意味がない。 「香純……おい」 ちょっと最近、携帯ネタが多くないか? こんなシチュエーションばっかりじゃあ、さすがの俺でも飽きてくるぞ。 驚かせようと思うなら、もっと凝ったやり方をするべきだろう。こんなのは怠慢以外の何ものでもなく、思わせぶりに引っ張っていいようなネタじゃない。 だから、なあ、つまんねえこといつまでもやってないで…… 「――――」 ……なんだ、今のは? スピーカーの向こうから、グシャグシャと胸の悪くなるような音が聞こえてくる。 これはいったい、何の音だ? 不快な異音は止まらない。それに紛れて、ひゅうひゅうと〈喘鳴〉《ぜんめい》のようなものまで聞こえてくる。 「は………ぁ……」 「――おいッ!」 ふざけるな! いい加減にしろよ。これじゃあまるで…… 「ぁ……ひ、く……ぅぇ」 苦しげな〈喘鳴〉《ぜんめい》と、肉を磨り潰すようなハーモニー。 これで電話の向こうがどんな状態になっているか、想像するなという方が難しい。 冷静に考えて、いま香純の携帯から俺にかけているのは誰なのか。 あいつは、〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》。 「……てめえ」 握りしめた携帯に亀裂が走る。怒りに全身が総毛立ち、首の痕が軋みだす。 こいつは……あのあと香純を〈攫〉《さら》いやがったのか!? 「シュピーネだな」 その言葉に、ノイズのような〈喘鳴〉《ぜんめい》が止んだ。 同時に、内臓を抉り出す声。 断末魔というにはか細すぎて、哀願というには呪詛めいていて―― 一生涯耳にへばり付いて離れないであろう、〈糜爛〉《びらん》した慟哭。 「蓮……たすけてよぉ……」 「――――――」 そして爆発する〈哄笑〉《こうしょう》。 「ハハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――――」 「なかなか可愛らしい彼女ですねぇ、喰ってしまいたくなりますよ」 「後ろが気になっては、戦えないのではと思いましてね。ですから私が、あなたの不安要素を排除してさしあげます。いいえ、礼には及びません」 「オモチャはもっと、もっともっともっともっと――この街中にあるのですから」 「――おい」 それは、自分でも驚くほど冷静な声だった。怒りも限度を振り切れば、何も感じなくなるらしい。 ただ短く、抑揚なく告げる。 「そこを動くな、殺しにいく」 場所も何も聞いていないが、問題などありはしない。 首が疼く。殺意が囁く。獲物が存在する場所を、それらが如実に教えてくれる。 そうだ殺せ、首を斬れ――奴等の血でギロチンを染め上げろ。 なぜなら俺は、もともとそのためだけに用意された代替品なのだから―― 「まあ、最初の相手としては適当でしょう。今のあなたにちょうどいい。 さて、それではお願いしますよ。塩を贈るのも、これが本当に最後です。 何せ、ここまできてまだ目が覚めないようであれば、さすがにもう救いようがない。 ふふ、ふははははは……」 「〈だが誰が聴くだろうか。〉《Wer aber hört,》 〈大多数の人々が異教の神々に向いているのに。〉《Da sich der größte Haufen Zu andern Gottern kehrt.》 〈特別の快楽を司る最古の偶像が、人々の心を支配している。〉《Der ältste Götze eigner Lust Beherrscht der Menschen Brust.》 〈知恵が愚行を招き、ベリアルが神の家に居座っている。〉《Die Weisen brüten Torheit aus,Und Belial sitzt wohl in Gottes Haus,》 〈キリスト者自らも、キリストから走り去っているのだから〉《Weil auch die Christen selbst von Christo laufen.》」 「無事二つ目のスワスチカ……完成することを祈らせていただきますよ、ツァラトゥストラ。あなたの道とその未知に、幸と祝福のあらんことを。 ジークハイル・ヴィクトーリア」 そして現場に辿り着くまで、ものの十分も掛からなかった。 距離にして約4キロを、十分以内に完全走破――しかも笑わせてくれることに、俺は息一つ乱していない。 まったくオリンピック選手かよ。出れば金メダルでも取れるんじゃないか。 「――――」 場所はまたしてもここ……諏訪原市海浜公園。じりじりと焼けるような痛みが首に走り、奴が何処にいるかを教えてくれる。 向こうがどういうつもりであれ、俺の気持ちは決まっていた。右手を思い切り握りしめ、その感触を確かめる。 まだ“形成”は使えない。“活動”だって未熟なもんだ。しかしとはいえ、それでも櫻井に傷を負わせることが出来たのだから、当たれば殺す事だって不可能じゃないだろう。 要は、外すことがないほど近づいてからブチかましてやればいい。首を掴み、そこで放てば、いくらノーコンな俺であっても斬首は可能なはずである。 もっとも、その距離まで近づくことが至難であることくらい、十二分に分かっているけど。 もはや、四の五の言っていられる状況ではない。必要に迫られている以上、高難易度のウルトラ技でも成功させなければ死ぬだけだ。 そしてあいつを―― 「――――」 思考はやや断線気味。冷静ではあるのだが、所々でブツ切れになりかけている。 それは聖遺物の影響か、もしくは努めて抑えこんでいる怒りと焦りのせいなのか。 生きているよな? 死んでないよな? まさかこんな序盤の序盤で、ヒロイン死亡とか冗談事じゃないだろう。 ベタなおまえが、そんなお約束を分かっていないはずがない。 だから、生きているよな? 「……香純」 知らず漏れた声は、我ながら情けない、〈縋〉《すが》るようなものだった。 そしてその刹那に、張り詰めていた緊張感が緩まなかったと言えば嘘になる。 ならば無論、敵はこの隙を逃すような愚か者であるはずがなく―― 一閃――俺の首と右腕に、何かワイヤーのような物が巻きついていた。 「――――ッ!?」 瞬時にして縛り上げられ、引き寄せられる。あまりの早業に抵抗することすら出来ず、そのまま俺は、桁外れの怪力で数十メートルの無重力飛行を味わわされた。 「――――ッガァ!」 そして激突。――縛られていたせいで受身を完全に取り損ない、もろに後頭部から地面に落ちた。一瞬にして意識が〈朦朧〉《もうろう》と煙りだす。 「ぁ――、か――ッ」 その間にも、全身に巻きついてくるワイヤーの拘束は止まらない。これは木か外灯か、まるで〈磔〉《はりつけ》に掛けられた聖人よろしく、俺は身体の自由を封じられた。 中でも首と腕の押さえ方は偏執的なほどであり、呼吸が出来ないことでさらに意識が途切れていく。 ……いけない。ここで気絶したら全てが終わる。終われば楽になるのかもしれないが、だったらここに来た意味がないだろう。舌を噛んで飛びそうになるのを防ごうとしたものの、力加減を誤って盛大に噛み切ってしまった。 「……ごっ、はぁ――ッ」 自分の血に〈噎〉《む》せ返る。ちくしょう、意識は何とか繋ぎ止めることに成功したが、危うく自殺するトコだった。 加え、首を〈縊〉《くび》られているから頭に血が回ってこない。視界はさらに悪くなる。 「――――」 身体は動かず、目も見えず、外部の情報を得るためには耳と鼻に頼るしかない状況。 ぎゅ、ぎち、ぎり、ざき…… その耳が、不吉な音を拾ってくる。鼻は鼻で、吐きそうになる鉄臭さしか教えてくれない。 そして俺の顔に降り注ぐのは、生温い液体のシャワー。一定のリズムで、心臓の痙攣みたいに淀みなく、鉄臭いのが降りかかってくる。 ぎゅり、ざり、ざく、ばつん――ぶしゅー、ばたばた、びしゃ、どちゃん。 このライブを擬音にしたら、だいたいこんな感じだろう。どれだけ想像力のない奴でも、目の前で何が起きているか分かろうというものだ。 なおも拘束を強めていくワイヤーが、肉に食い込み血が〈飛沫〉《しぶ》く。つまり、さっきから聞こえてくる気持ちの悪い音は全て……… 「私の宴は、お気に召していただけましたか、ツァラトゥストラ」 こいつが、捕らえた人間を輪切りにしている音ということ―― 歯を食いしばり意識を総動員し、眼球運動を可能な限り暴走させる勢いで、視界の回復を試みる。 やがてぼんやりと像を結び始めるその光景は、俺じゃなくても見た瞬間に失明したくなる類だろう。 目の前に、人の顔をした蜘蛛がいた。それは公園の木と外灯の間に巣を張り巡らし、地上2メートル近い位置に〈嗤〉《わら》いながら留まっていた。 「―――――」 悪夢の光景というのも生易しい、まるで悪い冗談であるかのような、ぶっ飛びすぎて現実味が一切ないふざけた絵面…… こいつは何だ? どういうことだ? 俺は確かに常識的な世界から脱却しようと誓ったが、ここまでなのか、こっち側は。 その、あまりにふざけすぎた人外局面。泣けてくるほど軽すぎる人の命。 そこで蝶々みたいに縛り上げられ、絶命している女たちは、いったい何の罪があってそんな目に遭っている――!? 「か――ッ、――す―ぃ――ッ」 首を締め上げるワイヤーのせいで声が出せない。こいつを今すぐぶち殺してしまいたいのに、罵倒することすらできない自分をまず真っ先に殺したくなる。 「どうやら、お気に召さないようですね。あの副首領閣下の縁者にしては、また随分とまともな心をお持ちのようだ」 「さて、こんな格好で失礼かとは思いますが、改めて自己紹介をいたしましょう」 「私はシュピーネ、聖槍十三騎士団黒円卓第十位、ロート・シュピーネ。以後お見知りおきを、親愛なるツァラトゥストラ」 「だッ――ま、れ――!」 〈白々〉《しらじら》しいほど馬鹿丁寧な物言いに、怒気と殺意が込み上げる。激情に任せて身体を拘束しているワイヤーを引き千切ろうと試みるも、しかしそれはびくともしない。 どころか、力を込めれば込めるほど、肉と骨に食い込んでくる。 「無駄ですよ。今のあなたにそれは切れない」 ギチギチと締め上げてくるワイヤーは、まるで意志を持っているかのようにその圧力を強めていく。おそらくあの蜘蛛の巣も、これと同類の物なのだろう。 ならこいつは、もしかして…… 「そう、それが私の聖遺物。ワルシャワ・ゲットーで、数限りない劣等どもを〈縊〉《くび》り殺した代物です。歴史こそ浅いものの、吸い取った魂は百や二百じゃ効きません」 「同胞ゆえに試したことはありませんが、これに捕らえられたが最後、聖餐杯猊下といえども脱出できぬ逸品であると自負していますよ」 「せぃ、さん、はい……だと?」 「おや、御存知ないのですか? おかしいですねぇ、彼はあなたをいたく気に入っているようなのですが……」 セイサンハイ……その名は確か、以前櫻井も口にしていた。 こいつらの言い様から察するに、そいつが頭ということなのか? 「然り。我ら黒円卓を率いる首領代行、クリストフ・ローエングリーン……。恐ろしく、滑稽で、道化者ではありますが、油断のならぬ御方です。ベイやマレウスからは露骨に警戒されているものの、私はそれなりに信頼しているといっていい」 「少なくとも、あの五人に比べれば、人間らしい部分をお持ちのようですからね」 ……五人? それは誰のことだ? この状況にも関わらず、そんなくだらないことに意識が向いた。 その五人とやらのことを口にした時、シュピーネから〈仄見〉《ほのみ》えた心の動き。 畏怖、憎悪、〈忌避〉《きひ》、劣等感……拭い去りたくても拭えない嫌悪の感情。 こいつは、仲間を恐れているのか? 「ふむ、よろしい」 短く呟き、シュピーネは蜘蛛の巣から地面の上へと降り立った。そして、磔にされている俺の傍まで寄ってくる。 「もともと今夜は、あなたを殺しに来たのではありません。いささか聞いていただきたいことがありましてね」 「……?」 こいつは何を言っている? 俺を殺しに来たわけじゃないのなら、いったいどういう用件だ。 「レオンハルトから聞いたのではないですか? 我々は、あなたに強くなっていただく必要があると」 「正直、血の気の多い連中では教師に向きませんからね。彼女と、そしてこの私が、聖餐杯猊下からその役を仰せつかったというわけです」 「レオンハルトが講義を、そして私が実技の方を。適材適所というやつですか」 同時に、首を締めていたワイヤーの拘束が緩まった。肺に大量の酸素が流れ込み、〈噎〉《む》せ返る。 「ごっ、――はぁ――えぇ」 「あちらのアレは、あなたにやる気を出していただくよう、遊びで用意したものですよ。まあ若干、趣味の領域でもありますがね」 「ざッ、ける……」 怒りに目眩を覚えてしまう。遊びだと? よりによって、人を殺しておきながらこの外道がッ! 「人殺しということなら、あなたも同じ穴のムジナでしょう。まあ、そんなことはどうでもいい」 「せっかく得たこの機会、私は有効活用したいのです。目的を果たすためにも」 「あなた、それを知りたくはないのですか?」 目的…… それは櫻井にはぐらかされたこと。 俺と戦うということ以外に、必ず存在しているだろう謎の部分。 だが今、そんなことはどうでもいい。あそこで吊るされてるあいつは、生きているのか死んでいるのか!? 「物事には、順序があるのですよツァラトゥストラ。あなたの疑問には、こちらの用件が済んでから答えましょう」 「私はいささか、他の連中と趣が異なる変り種でしてね」 そして、にやつきながらシュピーネは語りだした。 「先ほども言いましたが、今現在我々を率いているのはクリストフ……すなわち聖餐杯猊下です」 「しかし彼は、結局のところ代行にすぎない」 「……代行?」 「そう、つまり仮の盟主ということですね。一時的な、今だけの、期間を限定された権力……ゆえに本来の首領閣下がお戻りになれば、その大半を剥奪されることになる」 「そうしたことから、この数日に及ぶ事態の引き伸ばし……彼が権力の座に固執しているからではないかと……まあベイ辺りは思っているかもしれません。実際、真偽のほどは分かりませんがね」 「ただ私が見る限り、あの方はそこまで俗な欲望を持っているようには思えない。ですので、ベイやマレウスの邪推を逸らし、いらぬ横槍が入らぬようにするという条件のもと、私は彼と協定を結びました」 「それが、今のあなたと第一に接触させていただく権利。骨を折りましたよ、実際ここまで漕ぎ付けるのはね」 嬉々として語るシュピーネは、舐めまわすような目で俺を見てくる。だがこいつらの権力闘争や派閥争いなど、こっちは欠片ほどの興味もない。 「聖餐杯猊下は権力の座や栄華栄達など歯牙にもかけない。むしろ鬱陶しいとさえ思う御仁だ。首領代行の地位など、あの方にとっては罰ゲームのようなものでしょう」 「私にはそれが分かる。なぜなら、真にそれを欲しているのがこの私なのですからね」 「よいですかツァラトゥストラ、あなたも覚えておきなさい。手を結ぶなら、自己と正反対である人種の方が信用できるものなのですよ」 「私は黒円卓を掌握したい。いや、別に同胞たちを虐げたいわけではない。ただ、約束させたいのですよ。私がやることに、以後一切干渉するなとね」 「この六十年、他の者らにとっては屈辱と退屈の期間だったかもしれません。だがしかし、私にとっては掛け買いのない至福の時だったと言っていい」 「誰にも縛られず、命令されず、自由に生を謳歌できた。殺したい時に殺し、喰らいたい時に喰らい、犯したい時に犯し、奪いたい時に奪う……これこそが人間! 今さら過去の遺恨や〈妄執〉《もうしゅう》に付き合うなど、くだらなすぎてご免被る!」 「そのために、あの五人には永劫眠っていてほしいのですよ。あなたがここにいる以上、〈副首領閣下〉《メルクリウス》の再来を防ぐのは困難でしょうが、それもまた不可能ではない」 「ツァラトゥストラ、私と手を組みませんか? あなたの力をお借りできれば、共に永劫の自由を獲得することも夢ではない」 「何?」 手を組まないかだと? それはどういう…… 「言ったでしょう。私はね、もはや誰の下にもつきたくない。……それが、怪物の下ならなおさらだっ!」 「怪物……?」 「黒円卓の首領、副首領、そしてその下につき従う、三人の大隊長――」 ザミエル。 マキナ。 シュライバー。 黄金の獣と、ヘルメス・トリスメギストス。 極限といって過言でない戦争の化け物たち―― 「そう、私は彼らに二度と会いたくない」 いつの間にかシュピーネの顔から薄笑いが消え、その身も小刻みに震えだしている。 やはり、こいつは恐れているんだ。その五人と再会し、膝下に組み伏せられることを病的に〈忌避〉《きひ》している。 「もう分かったでしょう。我々の目的……いえ、私以外の者らの望みは、あの五人をこちらに呼び戻すことです。そうすることで、彼らは個々の望みを達成できる」 「かつて副首領閣下は言いました。怒りの日まで、各々魂を蓄えよ。時至れば、それに見合った祝福をあたえようと」 「なぜ我々が人を殺し、魂を〈簒奪〉《さんだつ》するか……答えは単純な足し算ですよ。千人分の命を持てば、千倍の生命力を獲得できる」 「このシャンバラで起こるのは、そのストックを増やすための殺人競争遊戯です。大量の魂が散華した場は戦場跡として方陣と化し、それが八つ揃えばあの五人が戻ってくる。そして奪った魂に相当する、新たな力を授けてくれる」 「だが、私は嫌だ。もう沢山だ。あんな人とも呼べぬ怪物たちに再び隷属するなどと、考えただけで狂いそうになる」 「二度とあの五人には会いたくない。彼らは、この世に戻ってきてはいけない存在なのですよ!」 怯えを隠せない声で絶叫するシュピーネは、俺の顔を両手で挟み込んで、〈縋〉《すが》るように〈捲〉《まく》し立てた。 「彼らが完全な形で現界するには、八つのスワスチカが必要です。しかし不完全なままでよければ、おそらく二つ三つでも構わないはず。ならば今も、ひょっとして、私の裏切りを聞いているかもしれない」 「恐ろしい……そしておぞましいのですよツァラトゥストラ。クリストフも、私の真意は知らないはずだ。今ならまだ、この儀式を妨害して中止に導くこともできるでしょう」 「ですから、さあ、早くあなたの真の力を見せてください。これ以上スワスチカを増やしてはいけない。そして共に黒円卓を制圧しましょう」 「…………」 正直、まだ不明瞭なことは沢山ある。一気に情報を流し込まれても、それを整理してみなければ細かいところまで分からない。 だが、それでもただ一つ、確実に言えることが存在した。 目の前で恐怖に震えているシュピーネ。ただの人間なら何人でも殺す破綻者のくせに、こいつの言ってることは呆れるほどちっぽけで俗っぽい。 「つまり、おまえは連中の中でも凡人だっていうことだな」 「―――――――」 自己より圧倒的に上の存在を恐れ、〈忌避〉《きひ》し、弱い者をいたぶることしかできない腰抜け……それがこいつだ。 ヴィルヘルムやルサルカ、櫻井を擁護する気など毛頭ないが、まだ連中の方が敵というカテゴリーにおいて上等だろう。こいつはただの―― 「雑魚野郎、不細工なツラで気持ちの悪いこと言ってんじゃねえ」 「おまえはアホだ。臆病な凡人のくせに、頭も悪い」 俺に協力を申し出ていながら、なぜあんなものを見せた、聞かせた。 別に正義の味方でもなんでもないが、女をやられて何も感じないほどこっちは人間やめてない。 こいつ、まさか本当に、守るものがなくなれば俺が吹っ切れるとでも思っていたのか? 狂人のくせに俗人、凡庸なくせにメンタリティが壊れている……中途半端で鬱陶しい野郎だな。 ああ、ちくしょう。冗談じゃねえぞクソッタレ。 「死んじまえよ、カス。鏡見て出直して来い」 「なッ――」 「だから、てめえ近いんだよ不細工がッ!」 首の拘束が緩んでいるのをいいことに、頭を振った俺はシュピーネの顔面に頭突きを思い切り叩き込んだ。 「づォッ――」 案の定、それで奴はふっ飛んでいく。ヴィルヘルムにはまるで効かなかった肉弾攻撃だが、こいつはあのレベルの頑強さを持ち合わせてはいないらしい。 「……なんだ。やっぱり弱いじゃんか、おまえ」 挑発、軽口、トラッシュトーク。もうこうなりゃなんでも使ってやる。頭がかち割れて血が噴き出ているのを感じるが、別にこんなものなど痛くない。 たとえ不完全でも、今の俺は身に聖遺物を呑んでいる。多少の怪我くらいは平気のはずだ。 そして―― 「こ、この小僧がァッ!」 激昂した小物ほど、分かりやすいものはない。怒りに任せて俺を蹴り飛ばし、結果として括り付けていた外灯ごと吹き飛ばしてくれた。 「……ッ」 いやまあ、実際、たいした怪力ではあるだろう。内臓が口から飛び出るかと思ったし、鉄製の外灯をへし折るなんて普通の人間に出来る類の芸当じゃない。 だが、それも普通じゃない奴等の中では? 「この程度じゃ劣等だろ、おまえ」 少なくとも頭は足りない。外灯をへし折ってもらったお陰で、俺はワイヤーの緊縛から脱出できた。腹が痛いのを平気な顔で誤魔化しつつ、立ち上がる。 「き、貴様……!」 「うるせえバカ、しっかり喋れ」 とにかく、これでようやく対等だ。随分と長い前置きになったものの、たった今から戦闘開始。初陣の相手としては、これくらいの奴がちょうどいい。 「交渉決裂だシュピーネ。香純にちょっかい掛けた時点で、おまえはぶっ殺すって決めてんだよ」 「さあ、約束したろう。つまらん話を我慢して聞いたんだから、あいつが無事かどうか今すぐ答えろ」 「キ、キヒヒ……」 俺の台詞に、金切り声で笑うシュピーネ。その瞬間―― 蜘蛛の巣に絡め取られ、吊るされた女たち……その一つが、ハムのように輪切りとなった。血と内臓が飛び散り、バラバラのブロックになって四散する。 「あのザマで、生きていると思うのですか? 全員残らず、例外なく〈縊〉《くび》り殺してしまいましたよ」 「ハハハハハハ、アハハハハハハハハハ――」 「……そうかよ」 つまり、死にたいんだなおまえ。 「イヒヒ、ヒャハハハ……いいでしょう、確かに交渉決裂だ。あなたには、今ここで死んでいただく」 「この段階で代替品を潰してしまえば、少なくともメルクリウスは戻ってこない。そしてそうなれば、ハイドリヒ卿も完全な復活は出来ないでしょう」 「その後のことは、まあ立ち回り次第でどうとでもなる」 シュピーネの、異常なほど長い腕が持ち上がる。そして指の先、一本一本から極細のワイヤーが延びてくる。 「あなたはまだ、聖遺物の“形成”ができていない。そんなことで、私に勝つことはできませんよ」 「――ヒャアッ」 走るワイヤー。それは人体程度なら容易に切り刻む鋭度を持っているのだろうが、だからといって標的を〈断割〉《だんかつ》する類の凶器じゃない。 その正確な用途は〈縊殺〉《いさつ》……すなわち対象を捕らえて縛り上げ、〈縊〉《くび》り殺す絞首刑具だ。ゆえに警戒すべきは、切れ味よりも捕縛術―― 「くぉ――」 蛇のように軌道を曲げて追ってくるワイヤーを、寸でのところで躱しきる。肩口の肉が若干裂けたが、大流出しているアドレナリンのせいか痛みはまるで感じない。 さあ、それではこれからどうするべきか。 〈彼我〉《ひが》の距離は約五メートル。俺のコントロールで当てられる距離じゃない。ならば当然、間を詰める必要があるのだが…… シュピーネは、自身の周囲にワイヤーを張り巡らせている。このまま〈迂闊〉《うかつ》に近づけば、ズタズタにされるか繭にされるかのどちらかだろう。 どうやら臆病者らしく防御が主体の型みたいだが、理にかなっているスタイルだ。あのワイヤーを掻い潜って接近するのは、今の俺にとって不可能に近い。 ならせめて、こちらも質量を有した武器があれば…… 「“形成”か……」 “活動”すら満足に使いこなせていない状況で、それを望むのは無謀かもしれない。だがしかし、出来なければ突破口を開けない。 「どうしました、今さら〈怖気〉《おじけ》づいたというのではないでしょうね」 「まさか」 今、脳みそフル稼働でおまえを〈斃〉《たお》す術を考え中だ。耳障りな声で俺の思考を乱すんじゃない。 「なるほど、顔に似合わず好戦的だ。どうやらあなた、方向性は違えど私やベイと同じ系統かもしれませんね」 「そしてそうであれば、単純な経験の差がものを言う。それを覆す裏技など、持ち合わせてはいないでしょう」 「〈形成〉《イェツラー》――〈我に勝利を与えたまえ〉《ジークハイル・ヴィクトーリア》」 シュピーネを覆うワイヤーがより強く顕在化する。〈首括〉《くびくく》りの〈紐〉《ひも》、ワルシャワの〈絞殺縄〉《こうさつじょう》、数限りない捕虜を〈縊〉《くび》り殺した処刑器具。 そういう意味では、俺のギロチンと似たような物なのか。だったらその使い方から、何かヒントを見いだせるかもしれない。 再度走るワイヤー。それに“活動”をぶつけ、相殺を試みる。 しかし―― 「ハハハハ、無駄ですよそんなものでは」 「――――――ッ」 俺が放った一閃は、何条にも重なる網のようなワイヤーに文字通り切り刻まれた。切断はこちらの領分であるにも関わらず、完全にお株を奪われたことになる。 やはり、このままじゃ駄目なのか―― 傍の木を蹴り飛ばし、その反動で無理矢理に回避する。さっきまで俺がいた所はワイヤーに刻まれて、絡め取られたベンチや外灯はそれこそトコロテンの有り様だ。 着地と同時にもう一度、方向無視の一閃を放ってみる。どのみち半端ないノーコンだから、下手に狙いを定めない方がいいだろう。 そしてそれは、奇跡的にシュピーネへと向ったが、 「ですから、言ったでしょう。無駄ですよ」 奴を守っているワイヤーが、再び俺の“活動”を切り裂いていた。どうやら真剣に、このままじゃあ〈八方塞〉《はっぽうふさがり》であるらしい。 だが今は、何とかして回避を連続させなければ。捕まえられたら、そこで終わる。 目の前に広がるワイヤーは、さながら投網だ。完全に捕縛を前提とした攻め方に、回避がいつまでも成功するとは思えない。 数分か、数十秒か、それとも数秒程度のなのか……その短い〈間隙〉《かんげき》、刹那の時に、突破口を見つけ出せ。 俺は今日、死ぬためにここへ来たんじゃないだろう――! 「―――ッァ」 よし、今のもなんとか躱した。これであともう少しは―― 「違いますねぇ、すでに王手ですよツァラトゥストラ」 「――――ッ!?」 「ククク、ハハハハ」 いつの間にか、右腕にワイヤーが巻きついていた。――まずい! 「そぉら」 瞬間、再び怪力で引き寄せられる。意識が消えそうになる速さで宙を飛び、蜘蛛の巣に放り込まれた。 「―――づぁッ」 鉄も切断する網に高速で叩き込まれ、身体中のいたる個所から血が〈飛沫〉《しぶ》く。正直、バラバラにならなかっただけでも〈僥倖〉《ぎょうこう》だが、しかしこの状況では…… 「勝負ありですねぇ」 そう、一度拘束されてしまったら、自力でこのワイヤーを解く手段が俺にはない。 「………ッ」 すぐ横には、全裸で吊るされている女たち……死体になってまで辱められている彼女らの中には、当然あいつ……も……? 「ん、どうしたのです、呆けた顔をして」 「おまえ……」 一瞬、頭がパニックになりかけるが、シュピーネは俺に二の句を継がせない。 「まあ、なんでもいい。それでツァラトゥストラ、どうされます?」 「今、私の指先にほんの少しでも力がこもれば、あなたの五体はバラバラだ。そこの女たち同様、ここで死を選びますか?」 「いいや違う。そんなはずはない。死に瀕して恐怖を覚えない人間など、私は見たことがありません。ゆえにそういう局面に立たされれば、大概の主義や尊厳、まして遺恨など消し飛んでいく」 「ですからもう一度訊きましょう。あなた、私と手を組みませんか? 了解してくださるのなら、命は保証いたしましょう」 「もっとも――」 ギチ、と全身に絡み付いているワイヤーの拘束が強さを増した。肉を裂き、俺を輪切りにしようと食い込んでくる。 「断ればどうなるか分かりますね? 今度はもう逃がしませんよ」 「――ッ、ぁ――」 それは確かに、そうなのだろう。こいつの要求を呑まなければ、俺はここで殺される。 だが…… 今、俺は…… そんなネガティブな気持ちなど吹き飛ぶような心境で…… 「さあ、どうされますツァラトゥストラ。私と共に黒円卓を制圧し、有意義な生を謳歌するか、ここで死ぬか――」 「……おい、あのさ」 数秒、間を置いてから俺は息を吐き出した。 その、なんだ。 ちょっと、うるさいんだよおまえ。人が感激してるんだから、キンキンと鬱陶しい声で吠えないでくれ。 「あんた、巨乳の女ってどう思う?」 「……何?」 「だから、胸おっきい女。俺は好きだし、他の大多数だってそうだよな? 別に貧乳を馬鹿にしてるわけじゃないけど、男なんて基本、どいつも大艦巨砲主義なんだし」 「何事もでかいに越したことはない。大は小を兼ねるって、あーほら、あんたの国でなんて言うのかは知らないけど、たぶん万国共通概念だろ」 「でもそれは、そこらの半端マニアの話で、俺はちょっと違うんだな」 「何を……」 「分かんねえかな。小さいよりでかいに越したことはない。オーケー。それはそうだろう。でもな、でかけりゃいいってもんじゃないんだよ」 「形とか? 乳首の色とか? 大きさとか? 色々細かい判断基準があってだな。その中でも俺はまあなんていうか、マニアックな趣味してんだよ」 言われるまで自覚なんかしてなかったけど。 そこらへんを突っ込んできた、ムカつく馬鹿が昔いたんだ。 「一応、今だけあいつに感謝しようと思う。でなきゃ、選択をミスってたかもしれないし」 「――だから、あなたは何を言っている!?」 「簡単だよ」 口の端を吊り上げて、俺は笑った。 そう、はっきり言って別に全然信じてないけど、なんか運命の相手らしいし。 なんとなく、特徴を覚えてしまったのだから仕方ない。 「俺は、胸にホクロがある女がいいんだよ。ってわけで、この連中と心中する気も、あんたと手を組むつもりもない」 「女の趣味が、全然合わないみたいだしな」 「―――――――」 さあ、そして今こそ真価を見せろ藤井蓮。 「いいでしょう、これほど愚かな男だとは思わなかった。そんなに命が要らないのなら、ここで輪切りになりなさい」 「だから、死ぬ気はないって」 「――ほざけぇッ!」 引かれたワイヤーが俺の全身に食い込んでいく。肉を裂き骨を断ち、胴を両断するまでおそらく一秒もかかるまい。 それは絶望的な短さ――たとえどのような抵抗を試みようと、有益な効果を発揮できるような時間じゃない。 普通は死ぬ。必ず死ぬ。わずか一秒じゃ何も出来ない。 それなら、〈秒〉《 、》〈を〉《 、》〈切〉《 、》〈り〉《 、》〈刻〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。 時間を止めたいと思っていた。いつもそんなことを考えていた。 ゆえに俺は、こうやって、時の体感速度を操作することに慣れている。 ――切り刻め。 幾百幾千幾万幾億――もはや停止しているといって過言でない虚の〈空隙〉《くうげき》まで達すれば、抵抗手段の模索程度は余裕で可能なことだろう。 そして聖遺物を“形成”しろ。形を成し武装して、このワイヤーを切断しろ。 実際、刃物は嫌いなんだがこれも因果だ。 あの雨の夜、すでに毒を呑む覚悟は決めたはず。ならば未だに使いこなせない理由なんて、考えつく限り一つしかない。 マリィ……俺は彼女に片棒を担がせることに〈躊躇〉《ちゅうちょ》している。 あの子に人死にを見せてはいけない。戦いの場に引きずり出すような真似は出来ない。 それがおそらく、俺と〈聖遺物〉《かのじょ》を隔てていた溝の正体。 分かっていたはずだろう。気付いていたはずだろう。何度彼女に首を刎ねられたと思っているんだ―― あの子はギロチン、処刑器械。 その用途は首を断ち、人を殺す。もっとも効率のいいコミュニケーションが、斬首というただ一点に収束するのは自明の理だ。 ならば…… 停止した時間の中、俺は自己の奥の奥の奥の奥まで意識を飛ばし、〈聖遺物〉《マリィ》との対話を試みる。 キミを使ってもいいか?キミをそこから抱き上げるけど、了承してもらえるか? 俺は面白い男じゃないし、女の扱いにも慣れていない。だからきっと、つまらない目に遭わせることもあるだろう。 今だって、キミの属性につけ込み、何も分かってない無垢な心を血で汚そうとしている始末。 それでも許してくれるのか? 俺の相棒になると言ってくれるか? マリィ――頼む。答えてくれ。 俺の本音は、今でもキミに殺しを見せたくないという点で変わらない。 だがしかし、現実問題として力が要る。 奴等を叩き潰すための、結晶化した殺意が必要だ。 戻るために。守るために。俺たちにこんな選択を強制した〈法則〉《ゲットー》を、〈断割〉《だんかつ》するための刃をくれ。 キミを濫用するつもりはない。 誓おう――そしてここに契ろう。 主義に反してキミに血を見せる以上、俺は全てを〈曝〉《さら》け出す。その上で判断してくれ。 俺は果たして、キミに相応しい男か否か。 キミは俺を、どう思っているのか―― それは意識の最下層――〈無我意識〉《イド》すら超えた〈普遍無意識〉《ウヌス・ムンドゥス》の領域で、応える声が耳に届いた。 「〈愛しい人〉《モン・シェリ》……」 「―――――――」 そうか、ならもはや迷いはない。さあ俺と一緒に、〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めよう。 「〈形成〉《イェツラー》――」 「〈時よ止まれ〉《Verweile doch》――〈おまえは美しい〉《Du bist so schön》」 そうして――腕にギロチンが落下した。 「形成――」 呟いた声は誰のものか、ただ瞬間に爆発した意識の奔流が嵐となって、俺の中を駆け巡る。 「〈時よ止まれ〉《Verweile doch》――〈おまえは美しい〉《Du bist so schön》」 それは魔法の言葉。聖遺物を稼動させるために必要な、俺だけの〈祝詞〉《のりと》。 右腕に落ちたギロチンは形を変え、藤井蓮が使うに相応しい物へと昇華する。 剥き身の刃は黒く重く、長大でありながら無駄がない。これが俺の、意志のカタチ……再び日常へと帰るため、〈希〉《こいねが》った力の具現。 「血、血、血、血が欲しい」 そして耳に響くのは、処刑場を震わす黄昏のリフレイン。無垢で無邪気で透明で、地上もっとも美麗な殺意が祝福となり刃を包む。 共に唄い、共に戦い、共に生き残り共に踊ろう。 「ギロチンに注ごう飲み物を」 「ギロチンの渇きを癒すために」 血を捧ごう――これから共に。 焼きついた斬首痕こそが誓いの証だ。 奴等を一人残らず殲滅するまで、俺はこの首飾りを魂に刻み込む。 「――ひっ、ぎゃ、ぐがぁァッ」 「―――――」 “形成”を発動したことにより、俺を縛っていた鋼線は残らず千々に断たれていた。それにより、どういうわけかシュピーネの全身から血が〈飛沫〉《しぶ》いてる。 「あ、くッ――ひぎゃ、アァッ」 なるほど、つまり一心同体。聖遺物を破壊されれば、その使い手も砕け散るという理屈なのか。 ならこいつは、もはや再起不能だろう。鋼線をズタズタに断ったのだから、今生きているだけですでに奇跡の〈範疇〉《はんちゅう》と言える。 「ま、待ちなさい、私はあなたを――」 「ああ、もういい」 負けキャラの〈喚〉《わめ》き声など聞くだけ無駄だ。これからどんな〈醜態〉《しゅうたい》を〈晒〉《さら》す気なのか知らないが、そんなものを見たところで楽しくなんかないだろう。 むしろ慈悲。これ以上みっともない印象を抱かれてしまう前に、さっさと退場させる方があんたのためってやつじゃないのか。 「どうして、私の聖遺物が――」 さあ、なんでだろうな。絶対に断てないと豪語していたわりには随分と脆かったが、そう、強いて言うなら―― 「顔の差かな」 「―――――」 恐怖と驚愕に見開かれた目を見下ろしつつ、俺は努めて無感動に腕のギロチンを振り下ろした。 とはいえ、あんたには感謝する。これでようやく、形成位階に達することができたのだから。 櫻井の言ったことが本当だとするのなら、俺は奴等と〈伍〉《ご》するレベルにまで力をつけたことになる。 さようならシュピーネ。すぐにおまえの仲間も送ってやるから、先に一人で待っていろ。 「…………」 そうして。 シュピーネを〈斃〉《たお》したことにより奴の聖遺物は消滅し、またそれによって命を絶たれた犠牲者達の遺体も塵になって消え失せた。 魂を喰われるとは、つまりこういうことなのだろう。〈簒奪者〉《さんだつしゃ》が死んでしまえば、それに関係した全てが連鎖して消滅する。 俺は一時、今夜ここで死亡した名も知らない人たちを想い、〈黙祷〉《もくとう》した。 あなたたちが死んだのは、間接的に俺のせいなのかもしれない。 仇は討ったけど、それで死者が蘇ってくるわけではないし。 そして何より…… 「俺は人でなしだから、どこかほっとしてる部分もあるくらいだし」 「だけどこの先……もう二度とこんなことは起こさせないから」 独白に応えるものは無論なく、俺はしばらく〈黙祷〉《もくとう》を続けた後、落ちていた携帯電話を拾って帰路についた。 ……しかし、どうにも不可解だ。なぜシュピーネのような男が、代役を用意するなんて面倒なことをやったんだろう。 仮に誰かの命令だったとするのなら、聖餐杯とやらの意志なのか。 だとしたら、いったいそいつは何のために……? 「ぅ――げ、ぐぁ――」  藤井蓮が去っていった後、聞くに堪えない〈喘鳴〉《ぜんめい》が夜の公園に響いていた。 「ご、は――ぐぇぇ――ぐぁ、ぎ、ごがァ――は…… く、そ、くそ、クソクソクソクソクソ―――」  それは呪詛。文字通り死んでも死にきれぬという怨念が〈綴〉《つづ》る〈憤怒〉《ふんぬ》の声。 「おのれ、おのれおのれおのれおのれ――」  甘く見ていた。油断していた。まさか年端もいかぬ小僧ごときに、この身がここまで追い込まれるとは…… 「ゆるさんぞ……」  そうだ、絶対に許さない。あの小僧のみならず、それに関係する全ての者を地獄の釜で煮てくれる。 「キキ、キヒヒヒ……」  その光景を脳裏に描き、シュピーネは血に〈噎〉《む》せながらも〈嗤笑〉《ししょう》する。なかなか強力な聖遺物を発現したようであるが、しょせんは経験の浅いガキの業だ。標的が死んだか否かも分からぬようでは、まだ甘い。  覚えていろ。目に物見せてやろうではないか。そのためにはまず、回復を…… 「ギ、ハハ、アハハハハハ」  血の海にのたうちながらも、シュピーネは〈嗤〉《わら》っている。ひとまず何処かに身を隠しつつ、ある程度まで再生できれば仲間に助けを求めよう。バビロンならば、この傷もあるいは癒せるかもしれない。  そう、そうだ。手を組むならあの女がいい。何せカインの手綱を握っているし、性格にもクリストフほどの裏はない。 「ゲ、ハハ、ハハハハ」  〈嗤〉《わら》う。〈嗤〉《わら》う。おかしくて堪らない。  そうと決まれば、もはやあの男と協定を結ぶことなど―― 「やれやれ、また随分と無様ですねぇ」 「―――――」 「もう少し面白い戦いになるかと思ったのですが、しょせん器が違うということですか……まったく、本当に情けない」 「…………」  聖餐杯……なぜこの男がここにいる? 地を這うシュピーネを見下ろす神父は相変わらずの笑顔だが、そこには一切の温かみが欠落していた。 「あなたは、それほどまでにハイドリヒ卿が恐ろしいのですか、シュピーネ」 「―――ぃ」 「何、誤魔化すことはありません。別にあなただけでなく、私も含めた全員が思っていることでしょう。あの方が恐ろしいなどということは」 「とはいえ、違いがあるとすれば恐怖のカタチ……美感の問題でしょうかね。私もベイもマレウスも、カインもバビロンもレオンハルトも、怖いからといって逃げようなどとは思わない。 私は聖戦を指揮する身です。ゆえに戦士でない者にかける情けを持ちません。あなたは哀れで情けない。実に滑稽極まりますよ。黒円卓の第十位は、どうやら腐っていたようですね。 まあ、そんなあなただからこそ、役に立つこともあったわけなのですが……」  にこやかに吐かれる毒は止め処なく、黒い祝福のごとく降り注ぐ。  トリファは〈恭〉《うやうや》しく十字を切り、瀕死の同胞に断罪の剣を振り下ろした。 「せめてその穢れた魂……浄化し有効利用してさしあげましょう。光栄に思いなさい。私がハイドリヒ卿だったなら、あなたは喰われているところです。 第二のスワスチカ……その身をもって礎となる名誉を与えましょう」 「待――――」  命乞いを最後まで口にすることすら許されず―― 「〈天は神の栄光を語り、大空は神の手の業を示している〉《Die Himmel erzählen die Ehre Gottes,und die Feste verkündiget seiner Hände Werk》 〈話す事も語る事も無く、その声が聞こえなくとも〉《Es ist keine Sprache noch Rede,da man nicht ihre Stimme höre》」  頭を踏み潰され、今度こそシュピーネは絶命した。いかに瀕死の状態とはいえ、聖遺物も使わずに使徒を滅殺したこの神父は何者なのか。  いや、しかしそれよりも…… 「ふむ……いささか役者不足かとも思いましたが、どうやら上手く機能したようですね」  シュピーネの遺体は瞬く間に風化して、塵となり消え失せる。それと同時に、彼が蓄えてきた全ての魂がこの地で散華し、消えることなく〈澱〉《よど》みだす。 「くく、ははは」  そして〈聖痕〉《スティグマ》――神父の両手両足、脇腹から、再び血が〈迸〉《ほとばし》る。 「おぉ、これはこれは、とても痛い。痛いですねぇ。どうやらハイドリヒ卿、お怒りのご様子だ。罰は謹んでお受けしましょう。 ですが、私はともかくとして、他の者らには手加減をしていただけないものでしょうか。これほどの圧をかけられては、死人の一人や二人出かねませんよ」 「ふふふ、あははははは」  全身を朱の血に染め、神父は笑う。目を細め、口を釣り上げ、悪魔のように〈嗤〉《わら》い続ける。 「まあ、これで焼き切れる魂ならば、用を成さぬということですかな。相変わらず容赦のない、手厳しいお方ですねぇ。 加えてあの若者も、あなたの御期待に応えることが出来るのでしょうか……さすがにもう、このような茶番を仕組むことは出来ませんよ」  ましてこの先、今日のようなことはありえない。彼は替え玉の存在について疑問を感じているのだろうが、それを説明してやる義理はないし、二度と救ってやるつもりもない。  今回のことはほんの気紛れ……テレジアの手前、多少善人ぶった真似をしたというだけの話。 「さて――しかし本当に痛いですね。やむなしとはいえ、皆は大丈夫なのでしょうか」 「づぅッ――」 「あァッ……」 「………ッ」 「いたい、いたい、痛い痛い痛い痛い―――」 「ぐッ、は――ぁぁァアア」  ヴィルヘルムが、ルサルカが、櫻井螢が、黒円卓に集う全ての者が、身悶え、喘ぎ、絶叫している。  その尋常でない苦痛の暴嵐――彼らを発狂寸前にまで追いやっているのは他でもない―― 「どう、して……ハイ、ドリヒ、きょぉ……」 「――いいいぃぃぃ」  激痛は止まらない。〈聖痕〉《スティグマ》から噴き出す血が、黒円卓を染め上げていく。  忘れていた。甘く見ていた。己が強くなったと過信していた。  なんて愚かな思い上がり。  まだ自分たちごときでは、彼らの足下にも及ばない。 「シュライバァァァッ!」 「―――ギイィィッ」  〈十二〉《ツヴェルフ》の席に手を伸ばそうとしたヴィルヘルムが、落雷に撃たれたかのごとく吹き飛ばされる。  それだけではない。 「ギャアァッ」  〈九〉《ノイン》の席が。 「――ぐうぅ」  〈七〉《ズィーベン》の席が。  極大の霊圧をもって、その場にいる者たちを打ちのめしていく。 「まだ、スワスチカは二つだけなのに……」  これで八つの方陣が揃い、彼らが完全に現界した時、いったいどれだけの怪物がそこに座っているというのだろう。 「許して、許してハイドリヒ卿――、わたし、わたし、何も悪いことなんかしてないわ」 「俺たちは、クリストフの命令通りに……」  理屈など通用しない。  ただ一人でも、どんなに卑小な者だろうと、名誉と忠誠に反した愚者を、黒円卓に存在させた罪は罪。  ゆえに罰。  留守を預かる者として、主の家を汚した〈蒙昧〉《もうまい》――八つ裂きにされようと文句は言えぬ。 「なら、どうすれば……」  答えは明瞭――ただ一刻も早い開戦を。  〈大虐殺〉《ホロコースト》を。怒りの日を。スワスチカの完成を。 「……ジークハイル」 「ジークハイル」 Sieg Heil! Sieg Heil! Viktoria! Sieg Heil! Viktoria! 「仰せのままに……ハイドリヒ卿」  その時、誰も居ない〈一〉《アイン》の席に数百万規模の魂が降臨した。  ほんの一瞬、一刹那、しかしたったそれだけで、その場にいる全員を圧死させかねない桁外れの大霊圧。  獣は黄金の眼と〈鬣〉《たてがみ》を揺らめかせ、〈傅〉《かしず》く下僕達に短く告げた。 「――卿ら、私を失望させるな」  そう、もはや遊びは許されない。遅延も何も認められない。  真実、今、この時から、戦の火蓋は落とされた。  怒りの日は彼の日なり、世界を灰に帰せしめん。ダヴィデとシビラの預言のごとくに…… 「なあ、カールよ」 実際、無くさずにすんだのは単なる結果論であり、俺が下手を打ったという事実は何一つとして変わらない。 だけど今は、今だけは、このことを素直に喜んでおきたかった。 帰ってきたアパートの、俺の部屋から灯りが漏れている。家主が留守であるにも関わらず、勝手に侵入しているような奴なんて一人くらいしか思いつかない。 駆け上がる勢いで階段を登り、ドアを開けて部屋の中へと入ってみれば…… 「あ、蓮、遅かったね。お帰りなさい」 こいつが、いつも通りそこにいる。 「それでどう? 櫻井さんとは仲直りできた?」 「あんたって言葉足りないところがあるから、慣れないうちは誤解されちゃうことも多いとあたしは思ったりするんだよね」 「でも、なんだかんだいって頑張る時は頑張るし? まあ、やる気を出すパターンがものすごーく限定されてるって弱点もあるけどさ、基本的にナイスな男だと幼なじみは評価してるよ」 「だから、できればもう少しだけ女の子の気持ちを……て」 「何、どうかしたの蓮?」 「…………」 「あ、もしかして怒ってる? だったらごめんなさいなんだけど……あたし、この部屋に結構私物とか置いちゃってるもんだから」 「今のうちに片付けないと、あとで櫻井さんにバレたら危ないじゃない? ほら、マグカップとか、歯ブラシとか、そういうの特にNGだし」 「そんなわけで、無理矢理壁の穴を通ろうとしたら、蓮が塞ぐのに使ってた本棚、思い切り倒しちゃったりして……」 「こりゃまずいなーと思いつつ、今まで掃除してたのよ。あと、なんか携帯も無くしちゃってさ……もしかしたらここにあったりしないかなーって……」 「あのー、蓮? 何か言ってよ、ちょいプレッシャー」 俺は無言で、ポケットから香純の携帯電話を取り出した。 「へ? これ、なんで蓮が持ってんの?」 「落ちてた」 「どこに?」 「道端」 「道端って……」 香純の顔が、目に痛い。やばいな俺、このままじゃ…… 「えっと、なんかよく分からないけど、ありがと」 それが、もう限界だった。 「……え?」 「ちょ、ちょちょちょちょ、ちょっと蓮、何よいきなり。あんた櫻井さんと付き合ってるんじゃ……」 「う、うう浮気したらだめぇー」 顔を見られたくないんで、俺は強引に香純の身体を抱きしめた。 心の中で、ひたすら詫びる。おまえは今日、俺の不注意で死んでいてもおかしくなかった。 もう二度とあんなヘマはやらない。 だからごめん、許してくれ。 「なんで? 分かんないよ。めちゃアグレッシブだよ。何考えてんのよ」 「あたしとあんたは、ただの幼なじみで……こんないきなりじゃ心の準備が……って違ーーーうっ」 あぁもう、耳元でやかましい奴だなぁ。 その〈喚〉《わめ》き声が堪らなく心地よかったものだから、俺はそこで緊張の糸がばっさりと切れてしまい…… 「え? ちょ――待って待っていやよそんな押し倒すのは駄目だってばぁー」 「けだものー、櫻井さんになんて言い訳したらいいのよぉ」 「あんた、刺されても知らないんだからねぇ」 「…………」 「ちょっと蓮、聞いてるの?」 「…………」 「…………」 「…………」 「……おい、あんたもしかして」 「…………」 「うっそでしょー、こいつ寝てるよ、寝てますよ。何、あたし枕? 枕なの? ありえねーだろコラ馬鹿どういう了見なのよっ」 「うっわマジムカ、女のプライドずたずたじゃないの。あんたサイテー、もう大嫌い」 うん、まあ、分かったから……もうちょっとだけこのまま寝させてくれないか。 今夜俺は、奴等の一人を手にかけた。きっとこの先、一切遊びは入らない。向こうも本気になるだろう。 だからそれまで、夜が明けるまで、このまま……寝させて……くれると……助かる………… Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 2/8 【Chapter Ⅳ ODESSA ―― END】  悲劇の定義について考えてみようと思う。  簡単かつ有り体に結論を出してしまえば、おそらく重度の喪失を指す概念。  大事な誰か、あるいは何かを失うことで、人の魂にはそのカタチをした穴があく。  心の隙間、精神の亀裂……それを生じさせる出来事が、一般に悲劇と言われるものではないだろうか。  しかし、一概に大事なものといったところで、人の価値観は多種多様。  家族や友人、恋人などがその最上位に来やすいという一般論はあるものの、それらを失っても何一つ感じない人種がいるのを俺はよく知っている。  なら、万人に共通する悲劇とは何なのか。  とある本には、何を無くしたかではなく、どのように無くしたかが重要なのだと書かれていた。  落としたり見失ったりするよりも、奪われたり壊されたりするほうがより強い悲劇であると。  本当にそうなのだろうか。  分かりやすい加害者が存在する悲劇には、怒りという逃げ道が存在する。  〈簒奪者〉《さんだつしゃ》を憎むことで悲しみを忘れられるし、復讐という人生の目標まで与えてもらえる。  そんなものが、本当に混じり気のない悲劇なのか?  辛いというのは分かるけど。  それは俺レベルの凡人に該当する話であり、ここではもっと深いところを考えたい。  実際、人の精神というものは良く出来ており、強いマイナス感情を連続して持ち続ければ安全弁が作動する。  つまり、怒りや悲しみが快感に、それを過ぎれば無関心に。  何らかのカタチで心は均衡を保とうとし、〈歪〉《いびつ》であっても傷は修復されていく。  ならば――  塞がらない亀裂、癒えない傷口、常に出血をし続けている悲劇とは、どんなものを指すのだろうか。  もし、そんなものが有り得るのなら、それはきっと最初から持つことを許されないという存在。  その手は空虚。  何も掴めないがゆえに無くすことすら出来ず、最初から欠けているがゆえに癒すことも出来ない。  永遠の迷い児。  そんな、少女の夢を見た。  彼女の誕生にまつわる、忌まわしい物語を。  1793年――フランス、ブルターニュのサン・マロに一組の夫婦がいた。  夫はたくましく正直な港湾労働者で、妻は美しく気立てのよい女性だった。  彼らは幸せな生活を営んでいたと言っていい。  吹き荒れる革命思想の嵐は市民の考えを百八十度転換させ、貴族と僧侶が絶対の悪であると刷り込んではいたものの、夫婦はそれに疑問を持たず、わけも分からないまま憎悪する程度には愚鈍でいることが出来たのだから。  自分たちがいま幸せなのは、若い頃に援助の手を差し伸べてくれたある僧侶のお陰だということを、思い出すことが出来なかった。  彼は僧侶であり、僧侶は悪……夫の頭ではこの単純明快な論理に〈反駁〉《はんばく》することなど不可能だったし、妻はさらに熱狂的な共和派の信者だった。  処刑の日には何時間も前からギロチンの足下に陣取って、編物をしながら首が落ちるのを見物してしまうほど。  子を宿し、出産の日が迫っても、妻は毎日のように処刑場へと足を運んだ。  夫は彼女の騎士として、愛しい妻を特等席へとエスコートし続けた。  ギロチンが落ちる。首が飛ぶ。血、血、血、血が欲しい。  熱狂の祭りを仲良く見物した後に、二人はまもなく生まれる我が子の未来を語り合いつつ、家路につく。  幸せな夫婦。  彼らはごく真っ当であり、その価値観も、この時代においては善良な一市民の典型例にすぎない。  だが……  〈収穫祭〉《メシドール》のある日、サン・マロでは興味深い処刑が行われようとしていた。  犠牲者は救世主教会の前任司祭……この老聖職者を知らぬ者は誰一人としていなかったし、彼が処刑台でどんな表情を浮かべるのかと、皆がそれを見たがった。  当然、仲睦まじい夫婦もその例外ではない。  ギロチンの足下……妻は群集の中で激しい陣痛に襲われたが、英雄的な力で叫び声を封じ込め、僧侶が処刑台に上がる瞬間を待ちわびた。  彼らの父親代わりであった老司祭……サン・マロに生きる貧しい者たちの父として、尊敬と愛情の対象であった聖職者……  しかし、彼は敵なのだ。悪であり、罰せられるべき存在なのだ。  その首は断たれなければならない。  だというのに、その日、そこには死刑執行人の姿がなかった。 “なんてこと……”  妻の呻きは、失望に〈塗〉《まみ》れていた。  徳のある僧侶を処刑することに、恐れをなし逃げたのか。  共和国の役人が執行者の代役を群集に呼びかけるが、人々の心には老司祭に対する同情が蘇り、誰も名乗りあげようとしない。  このままでは、処刑が中止になってしまう。 “あなた……お願い……”  激しい陣痛の中、妻は〈縋〉《すが》るように夫の袖を握りしめた。馬鹿正直な彼にとって、それは至上命令と同じである。 “わたしがやりましょう!”  そう叫ぶや、処刑台の階段を駆け上った夫の勇姿に、妻は喜びの声をあげ、お気に入りの歌を歌い上げた。  血、血、血、血が欲しい。  ギロチンに注ごう、飲み物を。  ギロチンの渇きを癒すため。  欲しいのは、血、血、血。  おなじみのリフレインが、群集の同情心を魔法のごとくかき消していく。  喜びの輪が広がっていき、血生臭い大合唱が処刑場に木霊していく。  血、血、血、血が欲しい。  ギロチンに注ごう、飲み物を。  ギロチンの渇きを癒すため。  欲しいのは、血、血、血。  祝福の中、夫は代役を果たすべく恩人の首を切り落とし、妻への愛と国への忠誠心を証明した。  それは名誉。  誇らしいことであり、なんら恥ずべきことではない。  ゆえに妻のもとへと戻った時、彼女の腕に女の赤ん坊が抱かれているのを見て、感激にむせび泣いた。 “この子は祭りの日に生まれた。神様はこの子を幸せにする義務がある”  そう、神は許さない。 “なんて愛らしい。きっと誰もがこの子に夢中になる”  そう、誰一人として忘れない。 “マルグリット――サン・マロの宝石”  呪われた罰当たり児。  ギロチンの足下で生まれた少女。  その首には斬痕のような痣が刻まれ、生涯消えることはない。  十を過ぎても言葉を覚えず、ようやく口を開いた時に〈紡〉《つむ》がれたのは、断頭台のリフレイン。  母は気が触れ、狂死した。  父は首切り人と蔑まれ、密輸の罪でギロチンにかけられた。  彼女に罪などありはしない。  親の因果が子に報い……それは不条理な世の一つのカタチ。  ろくに言葉を発することなく、口を開けば血のリフレイン。  彼女が一歩外に出ると、町全体が不気味に静まり返るのみ。  その痛ましい狂気。誕生にまつわる忌まわしさ。  恐怖と、嫌悪と、〈忌避〉《きひ》と、憎悪と……それらに〈晒〉《さら》されて育った少女は、失う以前に何も持っていなかった。  〈痴愚〉《ちぐ》でこそなかったものの、まともに機能しない感情は哀しいという意味さえ分からない。  ゆえに悲劇。  滑稽でさえある外れ者。  美しいマルグリットに乱暴を働こうとする者も何人かは存在したが、彼女に触れた者は例外なく首が飛んだ。  ギロチンの加護。  触れれば斬れる呪いを〈纏〉《まと》う。  美は儚さであり、〈蹂躙〉《じゅうりん》される危険あってこそのものだと仮定すれば、彼女の美貌は美に非ず。醜にもなれぬ虚無だろう。  その永遠性。  両親が死んでからは犬猫のように徘徊し、何を食べているのか何処で寝ているのか誰も分からないにも関わらず、彼女はやつれも朽ちもしなかった。  あれは人間じゃない。  そう言われるのも、なるほど必然の成り行きだったと言えるだろう。  陳腐だが、魔女であると……そう断罪されても仕方ないほどマルグリットは外れていたし、彼女に触れて死んだ者は既に百を超えている。  生かしてはおけない存在であり、埋葬しなければならない過去だった。  だから……  マルグリットは捕らえられ、処刑場へと引き立てられる。  触れることが出来ない以上、その扱いは器具を介したものであり、家畜を追い立てるに等しい行為。  それでも、マルグリットは抵抗をしなかった。彼女がもしその気になれば、捕り手たちを皆殺しにすることも可能だったはずだろうに。  では、なぜそうしなかったか。  答えは簡単。マルグリットは死と処刑の意味を分かっていない。  斬首は彼女にとっての日常であり、飛ぶのが他人の首でも自分の首でも、そこに違いを見出せない。  処刑台の上。  あの日、父が代役を務めた場であり、自分が生まれた始まりの場所。  遠く夕焼けを眺めながら、マルグリットは無垢な心で歌いだした。  血のリフレイン。断頭台の賛美歌。祈りのような神の呪いを。 「あぁ……」  それは生涯初めての、そして最後になると思われた人としての彼女の言葉。  しかしこの時、マルグリットは悟っていたのだ。 「わたしは、ずっとここにいるのね」  その言葉が、耳に焼き付いて離れない。  群衆の中、戯れにそれを見物していた男は魂を打ち砕かれた。  かつてサン・ジェルマンと名乗り、パラケルススと名乗り、ファウストともローゼンクロイツともマグヌスとも名乗った〈流浪の男〉《アハスヴェール》。  アレッサンドロ・ディ・カリオストロは、彼女の在り方に打ちのめされた。  あれは法則から外れている。  死してもその場に留まり続け、永劫に回帰をしない至高の魂。  ならば私は、彼女を救済することに全てを懸けよう。  彼女の前に〈跪〉《ひざまず》き、この身は奴隷と成り果てよう。  どこまでも麗しい、断頭台の姫君。  それに相応しい首飾りを与えることこそ、私の求める究極の――  そうして刑は執行され、マルグリットは花と散った。  しかし、サン・マロの宝石はそれで輝きを損なわない。  もとより何も持たずに生まれた少女……ゆえに生を奪われることも、死を与えられることも有り得ない。  以来、彼女はただ一人。  永遠の黄昏の中、今も歌い続けている。  あまりに甘く、あまりに切なく、天使のような歌声で、呪われたリフレインを。  それに俺は、怒りを覚えた。  悲しむことも泣くことも知らない彼女の代わりに、俺が怒らなければ救いがなさ過ぎると強く思った。  余計なお世話であり、偽善の類と言えるだろう。  だけど俺は、マリィの人生に胸が震える。  なぜこの子が、こんな目に遭わなければいけないのか。  何が悪くて、何が間違っていたというのか。  真実、神というものがいるのなら、そいつこそが呪われるべきだろうと―― 「やっぱり、カリオストロとよく似ていますね」  誰もが恐れ、忌み嫌う少女に魅せられた者同士。 「あなたは、あの人の代わりなんでしょう?」  それは否定したくても、出来ないこと。 「レン、わたしの愛しい人……」  彼女は、その言葉の意味をどれだけ理解しているのか。 「これからは、一緒」  ただ、彼女の成り立ちを知り、これから先の戦いを見据えた結果。 「ああ……一緒だ」  俺には、拒絶の意志など持ち得ようはずがない。  だからマリィの手を取り、そう答えていた。  同情であり、打算であり、そして真実でもある契り。  罪悪感が胸を刺す。  俺もまた、“奴”と同じく彼女を救いたいと思っているのに、その存在を凶器としてしか使えないジレンマ。  だからだろうか……  全ての決着がついた後、マリィに人生をやり直させることが出来たなら、それはどんなに素晴らしいことだろうと――  そんな、夢みたいなことを思ったのは。 「――――ん」 ……朝。 それは本当に久しぶりの、ごく自然な目覚めだった。 悪夢にうなされたわけでもなく、睡眠が足りなかったというわけでもない。 爽快……ではなかったけれど、俺は静かな気持ちでこの朝を迎えていた。 マリィ……俺に宿った災害であり、悲しすぎる女の子。 彼女の呪いを消し去ることは出来ないが、制御することは可能だろう。 形成位階に達することで、形と指向性を持たせることが出来たのだから。 少なくとも俺と一緒にいる間、マリィは無差別な殺人を行わない。 そもそも、彼女に誰かを害する意志など微塵もないのだ。近づく者を斬首するのは、マリィにとって呼吸と同じようなもの。 ただ、そのように生まれついただけであり、そうなったのも彼女のせいなんかじゃない。 生まれたこと自体が罪であるなんて考えを、許容できるほど俺は達観していなかったから…… 「仕方ないよな……」 銃やナイフに罪を問うことなど出来ない。香純の時と同じく、その存在についての責任は、使用者である俺が持たなければならないのだろう。 これから先、しっかりと手綱を握って呪いを操る。それをもって、事の元凶を排除する。 再度決意を固め直し、俺は起きることにした。 今日は日曜だし、シャワーでも浴びてさっさと目を覚ましてしまおう。 そしてその後、今日一日をどのように過ごすかは……まあ決めちゃいなかったんだが。 「……ん」 なんかこう、なんて言うんだ? 妙に柔らかいもんが手に当たったりしたわけである。 「…………」 なんだろう、これは。俺のベッドに妙な物体が横たわっている。 「……んん」 しかも気持ちよさそうに、むにゃむにゃと寝息を立ててる。 「…………」 ああ、疲れてるんだな、俺。 昨夜は本当に修羅場だったし、トラウマになりそうな夢も見たし、加えてこれから、どのように戦っていこうかとか……そんな問題てんこ盛りだし。 幻覚にしてはまた随分とリアルだが、たまにはこういうこともあるだろう。世の中不思議が一杯だから、分からないことは考えずに、もっかい寝てしまったほうがいい。 うん、だからおやすみ。 そうして目を閉じたんだが、なんかその、上手く言えないけど……抱きついてきてないですかこの幻覚。 「…………」 「…………」 なんで裸なんだよおまえ。 危うく飛び起きようとしたその時に、幻覚が目を開いた。 「…………」 「…………」 そして見詰め合うこと数秒。 大きな緑の瞳が、きょとんとした感じで俺の顔を覗き込んでる。 そして小さな口が開き。 「おはようございます、レン」 「…………」 「いい天気ですね」 うん、まあ、そうね。 幻覚――ていうか、もういい加減そんなボケをやってても仕方ない。 これは現実だ。 「……マリィ?」 「はい」 なぜ彼女がここにいる? 「その、悪い、よく分かんないんだが……」 「これからは一緒だって言いました」 「…………」 いや、言ったけどさ。俺が知りたいのはそういうことじゃなく、この事態がどういう原理で起きているのかということで。 何の理論も説明もなく、可愛いからいいじゃんとか、愛の奇跡だとか、そういうトンでもファンタジーを容認できるほど俺は幸せな頭じゃないんだよ。 って、言ってもなぁ…… 「……?」 問い質したところで、彼女が答えられるとは思えない。 えっと、つまり、なんだ。無理矢理かつ強引に理論だてるとすればこんなところか。 俺は聖遺物を具現化する“形成”を覚えたから、それに宿っているマリィも形成することが可能になった。 と、そういうことになるのだろうか。 だったら俺の意志一つで、出し入れ可能なはずなんだけど。 「レン、ヘンな顔」 ああ、そりゃヘンな顔だろう。 「ちょっと、寒いです」 いやだから、抱きついてくるのやめろって。 キミ裸だし、出るとこ出てるし、あんまり動くとあたるっていうか見えるっていうかあぁもう、なんだこの真っ白さんは。俺の十倍近い歳のくせにガキんちょかよ恥じらい持てよ。 「あったかい」 「…………」 「ふふふ……」 駄目だこれ。 男女七つにして席を同じゅうせず――とかなんとか、我が国の素晴らしい価値観を説いて聞かせても、分かってもらえるとは思えない。 そもそも彼女は、人と触れ合うことがずっと出来なかった人間だ。その辺りの事情を〈鑑〉《かんが》みると、ここで〈無碍〉《むげ》に扱うのは人道に反するような気もするし。 「気持ちいいね、レンの身体」 そういう誤解を招くような発言は今後控えてもらうとして、とりあえずまあ、もうしばらくの間は…… 「ぎゅってして」 「……了解」 ご要望に応えたほうがいいのだろう。満足したら戻ってくれるかもしれないし…… 「くすぐったい」 だからその、なんていうか弁解しておきたいんだが、これは迷子の子供の頭を撫でているようなものであり、別によこしまな気持ちは全然……てことはないけど可能な限り抑え込んでる状況なんだよ。 「なあ、てわけであんまりごそごそ動かないでくれ」 「どうして?」 「男も色々と大変なんだよ」 「おとこ?」 不思議そうな顔をして、マリィはぺたぺたと俺の胸に手を這わす。 「……ない」 そりゃないに決まってんだろ。 てか、おい、ちょっと待て。その手ダメだから、こら、動かすなっつの。 「う~~~ん、うるさいぃ……」 「…………」 「…………」 すごいな、今度は幻聴か。今、ありえない声を聞いたような気がするぞ。 「ごはんは後で作るからぁ~、もうちょっと寝るぅ~~」 「…………」 オーケー、もう一度状況を確認しよう。 目の前にはマリィ。俺が形成したのか自分の意志で出てきたのか知らないが、とりあえず今すぐ消えそうにはない裸の女の子が〈同衾〉《どうきん》している。 そして俺の後ろには…… 「日曜なんだしぃ、のんびりさせてよぉ~~」 ベッドに突っ伏すようなかたちで、寝言のような愚痴を言ってる香純がいた。 何これ? どんな異次元だよ? マリィはともかく、なんでおまえが…… 「……あ」 なるほど、つまりそういうことか。昨晩俺は、あのまま意識を失ったんだ。 そして世話焼きであるこいつは、夜通し看病してくれたと。 なんてありがたい幼なじみだ。とても嬉しいし感謝もしてるが、おかげで洒落になってねえ。 「マリィ」 「ん?」 こんなところを香純に目撃されたら血の雨が降る。 「……頼む、今すぐ消えてくれ」 「消える?」 「そう、戻ってくれないか。出来るだろ? ほんとマジでお願いする」 「……?」 「レン、何を言ってるのか分からないよ」 「いや、つまりさ……」 幽霊みたいなもんなんだから、出たり消えたりは自由自在じゃないのかよ。 「……頼む、今すぐ隠れてくれ」 「隠れる?」 「そう、見つからないように。ベッド潜って大人しく」 「大人しく」 「あと、なるべく厚みも消すように、人がいるってバレちゃ駄目だぞ」 「どうして?」 「どうしてって、当たり前だろ。このままじゃ俺が酷い目に遭う」 「どんな?」 「いや、具体的にどうなるかは分からないけど、愉快な展開には絶対なりそうにないんだよ」 「……?」 「あぁもう」 なんつったらいいのかな。そもそも幽霊みたいなものなんだし、出たり消えたりは自由自在じゃないのかよ。 「だから、うーるーさーいー」 なんて、ばたばたやってたら、大魔神が起床した。 「――――ふぉあ」 ……とりあえず、新しい奇声のバリエーションを開拓したみたいだが。 「あ、あ、あ、あ……」 今、こいつの目に映っているだろう光景。 寝巻きの胸元を豪快に開かれたまま硬直している俺と、そこに手を差し入れ抱きついている、素っ裸の金髪美少女。 はい、弁解無理。 以降説明不要。 「あんたなにsfdじょhjvjvきkfsjdpふぉgklp――ッ!!」 はははは、何言ってんのかもう全然分かんねーよ。 「ヘンな人がいますね」 ああ、いまんとこキミがそのナンバーワンだ。 ――で。 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 重苦しいBGMが流れる中、無言のにらみ合いを続ける俺たち。 「なあ……」 「あん?」 「なんで俺……正座させられてんだよ」 「自分の胸に聞いてみなさいっ!」 香純はかなり手加減抜きでご立腹の様子だった。 「あんたって奴はほんとに~~~っ」 まあ、そりゃしょうがないとは思うけどさ。 「櫻井さんと付き合ってるくせして、あたしにあ、あ、あ、あんなことしたと思ったら、今度は見ず知らずの外人さんをかどわかしてくるなんて、いったいどうしちゃったのよ」 「そりゃあ昔からちょっと感じ悪かったし、ヘンな奴だし、何考えてるか分かんないところはあったけど、少なくとも良い悪いの区別くらいはついてると思ってたのに」 つまり俺は、男としてかなり最低レベルのゴミ野郎だと、こいつに思われているようである。 要するに、女の敵だと。 「それでもう一回訊くけど、あの女の子……いつ何処から連れて来たの?」 「…………」 「答えられないような筋から引っ張ってきたんかこの腐れ外道っ!」 「だから、ちょっと待てよ」 「待たない。そういやあんた、司狼と一緒でもともとチンピラ属性なの忘れてた。今でもたまに、怒ったら口調がべらんめえになるもんね」 「おうおうねーちゃん、いい身体しとるやないけぇ、なんやったらワシんとこきぃーひんかぁー、朝までひーひー言わせたるでぇー」 「とかなんとか言って、連れ込んだんでしょこの悪党っ!」 「言ってねえよ」 つーかおまえのは、チンピラ語でもべらんめえでもねーよ。 「だいたい、昨日の夜は俺が先に落ちたんだぞ。その後おまえがずっと枕もとに居たってのに、どうやってねーちゃんかどわかしてくるんだよ」 「む、そう言われると確かにそうね」 「おまえ、部屋の鍵閉めてたか?」 「ん、ん、ん~~」 「閉め忘れたんだな?」 「う、うん……」 「つまりそういうことだろ」 「で、でも、なんで裸なのよっ?」 「こっちが知りたいわ、そんなもん」 とにかくもう、ここは全力でしらばっくれる。嘘を補強する隙があったら逃さない。 「じゃああの子は、裸でふらふら外歩いてて、たまたまこの部屋の鍵が開いてたから侵入して、あげくあんたのベッドに潜り込んできたって言いたいわけ?」 「残念ながら、それしか考えられないようだ」 「他人事みたいに言うな馬鹿ぁ!」 「ありえないもん。そんなの信じらんないもん。絶対あんたがよからぬことをやったに決まってるんだもん」 「そう言われても俺には何も分からないんだもん」 「だから真面目に話を聞かんかぁ~~~っ!」 襟首つかまれてがくがくと揺すられるが、やっぱりどうにも無理があるな。 しかし生憎と、他に言い訳するネタが見当たらない。 「なあ香純、少し考え方を変えてみよう」 「たとえば刑事が、泥棒をトイレの個室に追い詰めたとする。いわゆる袋の鼠状態だ」 「それで?」 「うん、それで、刑事は鍵の掛かったドアを蹴破り、個室に突入するんだが、そこに泥棒はいなかった。この場合、星は何処に行ったんだ?」 「知らないわよ、そんなの」 「いや、ちょっと真面目に考えろ。わりと大事な発想だ」 「…………」 「天井に穴空けて出て行ったとかじゃないの?」 「違う。天井は刑事からも丸見えだ。当然窓なんかもない」 「じゃあ無理じゃないの。てゆーかあんた、いったい何が言いたいのよ」 「だから、常識に縛られるなっていうことだよ。一見ありえないようなことでも、他に答えがなけりゃそれが真実」 「ああちなみに、このケース、泥棒は水洗から流れて行ったっていうオチな」 「めちゃくちゃ言ってんじゃないわよスカポンタン! そんなこと出来るわけないでしょ!」 「でも他に答えないだろ。じゃあ何か、おまえは夜中に俺が抜け出して、ねーちゃん〈攫〉《さら》いつつあれやこれややってる最中、全然気付かずに寝てるほど鈍いのか?」 「むっ」 「剣道やってるわりには勘が働かないんだな。――はンっ」 「ぷっちーん」 「ぷりーん」 「ったまキた表出ろこんちくしょーーーーっ!!」 駄目だもう、どうにもできない。ここ最近嘘ばっかりついてるし、さすがにそう何度も騙されちゃくれないか。 だから―― 「あの……」 「レンをいじめないで……」 意外なところから助け舟が入ろうとは、正直思いもよらなかった。 ………… ………… ………… 「それじゃあ、えっと、マリィちゃん? ほんとにヘンなことはされてないのね?」 「はい……」 目の前には、実に奇妙な絵面が展開していた。 「わたしの大事な人に、レンがとても似てるから、ずっと話したいと思ってて」 「それで昨日、ついにやって来ちゃったって?」 「はい……」 まあ一応、彼女的に嘘は言ってないよな。俺を気遣ってくれているのか、それとも天然なのかは知らないけど。 「じゃあ、どうして名前知ってるの?」 「表札見たんじゃないのか?」 「あんたは黙ってなさい」 「そうなの? マリィちゃん」 「はい……」 どうやら前者であるらしい。だがあまり回転の速そうな感じはしないし、そもそもコミュニケーション下手だから、これ以上喋らせないほうがいいだろう。 「だいたいなんで裸だったの? 服は?」 「訊いてやるなよ、女の子だぞ」 「あたしだって女だもん」 「じゃあ察してやれよ。事情があるんだろ」 「むぅ~~~」 「それより、その服可愛いな」 「ほんとう?」 「へへ、あたしの趣味がいいからね」 「ああ、おまえには狂おしいほど似合わないだろ」 「なにー、あんたいい度胸してるわね」 「事実だ」 マリィの服は香純の持ち物からセレクトされたわけだけど、ゴスでロリなその格好は、それこそ人形めいた雰囲気の外人さんにしか合わないだろう。胴長短足偏平面の日本人には敷居が高い。 「それこそ氷室先輩くらいじゃないと、服に負ける。おまえじゃあな……」 「腹立つ言い方するわねこの男は。あたしだってそれくらい分かってるわよ。だからお蔵入りしてたんだし」 「で、どうするの?」 「どうするって?」 「この子の処遇――まさかほっとくわけにもいかないでしょ」 「ああ、それなんだけどな……」 「……?」 まさか役所に連れてくわけにもいかないし……実際どうしたものだろう。 「あんたまさか……ここに住まわせようとか思ってるんじゃないでしょうね」 「そりゃ、司狼の部屋が空いてるしな」 「そんなの駄目に決まってるでしょ! こことあの部屋、穴で繋がってるんだよ!」 「おまえの部屋だって繋がってるだろ」 「あたしはいいのっ」 よかねーよ。 「だいたい、どのみち穴は塞ぐって言っただろ。おまえも昨日は、了承したことだろうが」 「う……それはそうだけど」 「でも、駄目だからね。櫻井さんが怒るじゃない」 「ああ、それね……」 身から出た錆以外の何ものでもないが、また随分と馬鹿なことを言ったよな、俺。 「あの……わたしは迷惑ですか?」 「う……」 「…………」 「良心が痛まないか、香純」 「う、うるさいわね。だからってそれとこれとは違うのよ。日本国憲法は偉大なのよ」 「俺は九条辺り、そろそろ改正した方がいいと思うんだけど」 「あんたの野蛮な理屈なんかどうでもいいのよ」 「とにかく、この子はしかるべき所に連れて行かないと――」 「わたし、レンと一緒にいたい」 「ぐっ……」 「カスミは、わたしのことが嫌い?」 「い、や、そんなことは……」 「他に知ってる人がいないの……」 「く、く、くぉぉ~~~」 なんだろうな、今日のこいつは。奇声の新規開拓に〈勤〉《いそ》しみすぎだ。 「な、なんなのかなぁ、この展開。一番マトモなこと言ってるあたしが、まるで悪者みたいにされちゃってますよぉ。これはどうしたらいいのかなぁ」 俺はあえて無言を選ぶ。 「カスミ、お願い……意地悪しないで」 「ふ、ふぉぉ~~~」 ぷるぷる震える香純が、なんとなく危ない人に見えてしまった。 俺は思わず、マリィを傍に引き寄せようとしたのだが…… 「うきゃー、ごめんなさいお母さんもうあたし駄目ですぅ」 「え?」 どかーんと、そのまま香純は、マリィにタックルして押し倒した。 「え……ちょっと、カスミ?」 「やーん、もう、駄目。駄目よそんなこの子ったら可愛すぎー!」 「…………」 「ねえねえねえ、あんな奴ほっといてあたしの部屋おいでよ。お菓子あるよ。ケーキあるよ。服とかもう、いっぱいあるよ」 「……あるあるうるせえよ。中国人かおまえは」 「うるっさいバカ。あんたは隅の方で体育座りでもしてなさい」 「それよりマリィちゃん、どうかな? あたしの部屋こない?」 「ん、あの……」 やたら過剰なスキンシップに、マリィは面食らっているというか、ぽかんとしている。確かに彼女の経験上、ここまで他人にべたべたされたことはないだろう。 一瞬、ひやりとしたものだが、やはり俺が手綱を握っている限り、その身に触れても剣呑な事態にはならないようだ。 なら、こういう馬鹿っぽいのも、マリィにとってはいい経験になるかもしれない。 何も知らず、何も持つことを許されなかった彼女に、たとえ茶番であっても、こんな日常を感じさせることができたらそれは…… 「ちょっと、何〈和〉《なご》んだ目でこっち見てんのよ。あんた、ヘンな趣味あるんじゃないの?」 「おまえが言うなよ。だいたい、日本国憲法はいいのか優等生」 「問題なし、可愛いは正義っ」 「……そうか」 〈朝令暮改〉《ちょうれいぼかい》にもほどがある。 俺はむしろ、馬鹿こそが正義っていうか最強なんじゃないかと思ってしまった。 「あの、レン……」 「ああ、ちょっと我慢してろよ。すぐ終わるから」 どうせ香純の暴走など、そういつまでも続かない。案の定、しばらくマリィを揉みくちゃにしたら、それで気がすんだらしい。 「……うん、まあごほん。なんか取り乱しちゃってごめんなさい」 「で、マリィちゃん」 「はい?」 「とりあえず、しばらくあたしの部屋で寝泊りしなよ。でもいつまでもってわけにはいかないから、〈郷里〉《くに》のご両親とかと連絡取らないと駄目だよ?」 「両親?」 「ああっと、それは分かったから、ちょっとその髪、なんとかしてやれよ。ボサボサになってるだろ」 「あはは、そうだね。ごめんごめん。じゃあマリィちゃん、あたしが可愛い頭にしてあげる」 なんか〈有耶無耶〉《うやむや》というかぐだぐだというか、よく分からないまま力技で押し切った感じだけど、これはこれでいいか、もう。 「でさぁ……」 「なんでこんなことになってんだよ……」 諏訪原市見学ツアー……なぜかそういう〈催〉《もよお》し物がいつの間にやら企画されてた。 「別にあんたはついてこなくてもよかったんだよ?」 「そういうわけにもいかないだろ」 俺から離れたら、マリィがどうなるか分からない。昨日の事だってあるし、こいつらだけ外出させるのは危険すぎる。 本来なら、何を言われようと断固反対するべきだろうし、事実そうしていたのだけど…… 「カスミ、カスミ、あれなんですか?」 この子がな……もの凄く外に出たそうな顔で俺を見てくるもんだから。 「ああ、あれは諏訪原タワー。地上180メートルの展望台があって……」 「わたし登ってみたい」 「あ、やっぱり…?」 マリィは楽しそうだ……彼女の感情がどのレベルで機能しているのか知らないが、夢で見た印象とはすでにだいぶ異なっている。 もしかすると、俺と繋がったことで多少は人間らしくなっているのかもしれない。だったら…… 「マリィちゃんはああ言ってるけど、どうする?」 「じゃあ、登ろうか」 せめてもう少しだけ、この休日を彼女のために使おうと思う。 それは俺なりの謝罪。 止むを得なかったとはいえ、この子を戦いに引きずり込んだ負い目に対する、清算みたいなものだった。 そして意地。 俺はカリオストロと同じなんかじゃない。 マリィを自分の目的のためだけに利用しようなどとは思わない。 俺は、おまえとは違う。 違うんだよ、メルクリウス。 “さて――本当にそうだろうか” 「おー」 そうして、登った展望台から眺める景色に、マリィは目を丸くしていた。 「レン、あれなんですか?」 「遊園地……でっかい遊び場だよ。行ってみたいか?」 「はいっ」 「それで、どんなものがあるんですか?」 「んーとだな」 口だけで説明しても理解しづらいかもしれないし。 「マリィ、ちょっとこっち」 手招きして、望遠鏡のところまで連れて来る。コインを入れて使用できる状態にしてから。 「ここ、覗いて」 「……?」 「うおおおお」 「レン、レン、ここ、すごいのが見えます」 「ああ、うん……ていうか、手ぇ伸ばしても届かないから」 「どうして?」 「これは、遠くのものを近くで見えるようにする道具なんだよ。わりと昔からある物だと思うけど」 「わたし、初めて見ました。レンはお金持ちなんだね」 「いや、別に俺の物ってわけじゃないし」 「じゃあどうして使えるの?」 レンタルっていうか公共物っていう意味が分かるとは思えないな。 「まあ、それはいいだろ。で、遊園地はどう?」 「あ、うん……えっとね、大きい時計みたいなのが回ってます」 「時計?」 「丸いの。小さい箱がいっぱいついてて、そこに人が乗ってます」 「ああ、観覧車ね」 「観覧車?」 「遊覧……って意味分かるかな。要するに景色を楽しむ遊びのこと。簡単に言うと、この展望台が動くみたいな……」 「うおおおお」 「わたし行きたい、観覧車乗りたいです、レン」 「そう」 また随分とベタなものに興味を示したみたいだけど、ここから遊園地までは遠くないし、行ってみるのもいいかもしれない。 「なあ、おまえはどう思う?」 「え? あ、あたし?」 「他に誰がいるんだよ」 だいたいおまえ、何やってんの? 「あー、うーん、遊園地は別にいいけど、観覧車はこう、なんていうのかなぁ……」 「……?」 「他にもジェットコースターとかフリーフォールとかバイキングとか、ああいうのはやめた方がいいと思うのよ」 「なんで?」 今挙げられたものを潰して行ったら、遊園地なんてクソつまんないだろ。 「だ、だって危ないじゃないっ。マリィちゃんに何かあったら……」 「レン、早く行こ。わたし観覧車乗りたい」 「こう言ってるけど」 「だ、だから駄目なものは駄目なの! 人の世は危険がいっぱいで常に七人の敵がいるのっ!」 「ワケ分かんねえよ」 そもそもこのタワーにしろ遊園地にしろ、アミューズメントな施設ってやつは、基本的に地元民であるほど使わない。 そういう意味で、俺にしてもおまえにしても、こんなことがなければ行く機会とかないんじゃないのか? 「カスミ……なんでそんなところにいるの? こっち来て、一緒に遊園地見よう? そしたらきっと、行きたくなるよ」 「え? あ、そんなこと言われても……」 「……?」 「おまえ、もしかして……」 「ち、違うもん! あたしはただ、人より想像力が豊かなだけで――」 「つまり高いところが苦手なわけだな?」 「む、ぐ――」 どうやら図星らしい。 だけどこいつに、そんな弱点があるとは知らなかった。いい加減長い付き合いにも関わらず、なぜ今まで気付かなかったんだろう。 俺が鈍いだけなのかもしれないが、ちょっと妙な話だった。 「と、とにかく、そういうのはまた後にして、お腹減ったから何か食べようよ」 「ほらマリィちゃん、下のレストランに美味しいものがいっぱいあるから」 「レストランは〈展望台〉《ここ》にあるだろ。下のはただの軽食――」 「うるっさいバカいらんこと言うな」 「ほらほらマリィちゃ~ん、これ美味しそうじゃない? 一緒に食べようよぉ」 こっちに近寄らないようにしながら、パンフレットに載っているメニューを見せる香純。 まあ実際、マリィが気に入るんなら俺はなんでもいいんだが…… ………… 「よっしゃ決まりね」 なんかもう、子連れみたいな感じになってきたな。 とはいえ―― 「ん? どうかしたの蓮」 「……いや」 今一瞬、誰かに見られているような気がしたのは錯覚か? 少なくとも、〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》じゃない。もしそうなら、首の斬痕が疼きだすんですぐに分かる。 だったら、誰が…… 「あのー、蓮? 話聞いてる?」 これも“形成”を覚えた影響なのか。視野……というより五感で知覚できる領域が、自分でも戸惑うくらいに広がってきている。 まだ慣れてないから断言はできないが、いずれにせよ警戒は怠らないほうがよさそうだった。 「んぐ、むっ、ん、ん、ん、むぐむぐ」 「はぐ、もぐっ、もぐっ、はふ、はむ、はむ」 「んぐ、もぐ、んぐ……」 「もぐもぐんぐはぐごぶっ」 うん、だから警戒はしてるよ? 成り行きはどうあれ両手に花状態である以上、彼女らの身の安全は俺が全力で確保しなければならないことだし。 「もぐ、もぐ、んぐ、はぐ」 「ごぶぉ、ぐ、ぐ、れ、れん……み、みず、ぐぶぉ」 だがこの状況を見る限り、俺は全然別のことを警戒しなければならないような気がしてきた。 「だ、だからみずーっ」 「……ほら」 「ありがと、ん、ん、ん、ぷはー」 「はぐはぐはぐはぐんぐもぐはぐもぐ」 「いやおまえ、どれだけ食う気だよ」 「だ、だって負けられないじゃない」 「んぐ、もぐ、はぐ、むぐ」 「あぐはぐもぐむぐんぐはぐむぐもぐ――ごぶぉっ」 「れ、れん……」 「……ほら」 「あ、あ、ありがと」 なんか頭痛がしてきた。 目の前には、どこか圧倒的に間違ってるとしか思えない特大のパフェ(?)が二つ、鎮座ましましている。 なんでも三十分以内に完食したらタダだそうだが、これは人間の胃袋に入る代物じゃないだろう。 にも関わらずマリィは―― 「むぐ、んぐ、もぐ、美味しいです」 いたって涼しい顔のまま、リスっぽくほっぺた膨らまして特大パフェを食べ続けている。 それに対抗心でも刺激されたのか、香純は時間制限とは関係ない意味で鬼の早食いを始めていた。 「はぐもぐむぐあぐんぐむぐもぐはぐ」 「むぐ、もぐ、んぐ、はぐ」 「……なあ」 「ふぁにっ?」 「もうそろそろ、そのむぐむぐとかもぐもぐとか、やめないか? 凄いつまんないんだが」 「つまるつまらんの問題じゃないでしょっ。あたしが負けてもいいって言うの?」 「……そもそも勝つとか負けるとかの話じゃないだろ」 「なあマリィ」 「はい?」 「もうちょっとゆっくり食べよう。時間オーバーしても、俺が金払うから」 「あたしのは?」 「おまえは自分で払えよ」 「なんでよっ?」 「金持ってるだろ」 「なくしたっ」 「嘘つけ」 「なーくーしーたーのー」 「……子供みたいなこと言うなよ」 「あの、わたしは……」 「ああ、マリィはいいよ。気にしなくて」 「ひいきだひいき、いじめかっこ悪いね、がっかりだね」 「……金持ってる奴に自腹切らせようとして何が悪いんだよ」 だいたい、この状況でいじめられてるのは明らかに俺だろう。 店員さんとか、ご愁傷様ですって顔しながらこっち見てるし。 この特大パフェ、一つにつき七千円。二人分払うとすれば、実に一万四千円だ。さすがにたかがメシ代で、それは洒落になってない。 「分かってるわよ。冗談だもん。そんな嫌そうにしなくてもいいじゃない」 「でもあたし、本気でお金払う気ないからね。絶対時間内に完食してやるんだから」 「自分でケツ取る気なら、俺も文句はないけどな」 「……冷たい」 「あ?」 「蓮は最近冷たいよね、あたしにばっかり」 そんな拗ねられても。 「いいもんいいもん、彼女いるくせに、他の子にも色目使うような男はいらないもん。あんたなんか、櫻井さんにシメられちゃえばいいんだ」 まあ、シメられないようにはするつもりだけど。 「二人とも、喧嘩しないで……これあげるから」 「いや、それはマリィのだから、俺たちが食べちゃ駄目なんだよ」 そもそも俺は、そういう甘ったるいもの苦手だし。 「そうなの? みんなで食べたほうが美味しそうなのにね」 「ふ、ふぉ~~」 「……おい、ここで抱きついたりするなよ」 「しないわよ。でもこう……マリィちゃん見てると、自分がとてつもなく汚れた人間に見えてくるっていうか、蓮なんかどす汚れてるよね」 「余計なお世話だ」 「喧嘩しないで」 「ああ、うん、ごめん……」 なんかもう、本当に子連れの雰囲気だ。俺は香純と顔を見合わせる。 「こういうのって、所帯くさいっていうのかな?」 「たぶん……」 「所帯?」 マリィが目をぱちくりさせながらこっちを見てきた。 「じゃあレンとカスミは、夫婦なんですか?」 「ぶふぉーっ!」 「ばっ、おま、噴くな」 「だ、だって、げほ、ぐほ、ごほ」 「おい、もう10分しか時間ないぞ」 「い、いけない、こんなことしてる場合じゃなかった。マリィちゃん、ラストスパートするよ」 「はいっ」 で、結局―― 「……ねえ蓮、お金貸して」 こんなことになるんじゃないかな、と思ってたんだよ。 「この間、無駄遣いしたから今月きついの……」 「……分かったよ」 その無駄遣いの中には俺にプレゼントしてくれたチョーカーも含まれているのだろうし、結局俺が全額払うことになった。 唯一の救いと言えば。 「美味しかった。また来ましょうね」 マリィはしっかりと、時間内に完食したっていうことくらいか。 「そんなに痩せてるくせに……」 ほんと、都合6キロの特大パフェは、何処に消えたというのだろう。この子の腹の中は、よく分からない異空間と繋がっているのかもしれない。 「じゃあ、次はどこに行くんですか?」 とりあえず、楽しそうだからいいけどさ。 「ああもしもし、あたし。うん、そう。なんかよく分かんないラブコメやってるけど、彼の方は結構油断ならないね。 ていうか、鋭すぎ。後ろに目があるんじゃないかと思ったよ」 「そりゃあたしだってプロじゃないから、仕方ないかもしれないけどさ。向こうは完全に素人でしょ? 普通、自分が尾行されてるかもって発想自体、出てこないと思うんだよね。 やっぱりあれかな。あんたの言う通りかもしれないよ。うん、とにかくそんなワケで、結構神経すり減らしてるわけよあたしは。よかったらこう、何か〈労〉《ねぎら》いの言葉っぽいのをかけてくれない? ……あー、そう。凄い感激。やる気がめちゃくちゃ湧いてくるわ」 「あたしも一応、面が割れてるのを忘れてるんじゃないでしょうね。そりゃ、向こうが覚えてるかどうかは知らないけど。あんたのそういう、妙な演出に拘るところなんとかしてよ。友達だったんなら、スパっと会って話つければいいじゃない。 まあ、それはそうだけど……ああ、うん、はいはい。分かったわよ。じゃあそういうことで、あんたはホントにいいんだね?」 「りょーかい。それじゃ司狼――あんたの彼氏連れて行くから、せいぜいおめかしして待ってなさい」 「うは……もう駄目」 そうして結局、日が暮れるまで街のあちこちを歩き回った。さすがに疲れたのだろう。香純は完全にグロッキーだ。 「だいたい二人とも、体力ありすぎなんだけど。あれだけ歩き回ったのに、なんで平気な顔なのよ」 「なんでと言われても」 「カスミは疲れたの?」 「ああ、うん。ちょっと流石に……今日のところはダウン寸前」 「晩飯も(俺の金で)食ったし、おまえはもう寝てろよ」 「そうする。じゃあマリィちゃん、あたしの部屋いこ」 「あ、わたしは……」 「悪いけど、俺は少しマリィと話がある」 「話って何よ?」 「彼女の処遇――このままにするわけにはいかないだろ」 「あしたの学校もあるし、なんとかしなきゃいけないんだよ。おまえはそんな状態だし、俺が話を聞いとくよ」 「…………」 「なんだよその目は」 「別に~、なんかどうも二人にするのが心配だなぁって」 「あのな……」 少しは信用しろと言いたいが、こいつの危惧するところは的を外しているものの間違いじゃない。 少なくとも俺は、これからおまえが心配するようなことをやるつもりだ。 「やっぱりあたしも同席しようかなぁ」 「カスミ……無理しないほうがいいよ?」 「でもさあ、マリィちゃんこいつのこと信用できるの? 可愛いのは顔だけで、性根は喧嘩上等のチンピラなのよ?」 「それはおまえだ」 「え? あたし可愛い?」 「そこじゃねーよ。とにかく、妙な心配するなっての。俺がマリィに何かしても、おまえは隣の部屋にいるんだからすぐ気付くだろ」 「そうだけどさぁ……」 「ねえマリィちゃん、ほんとにあたしいなくて平気?」 「はい。レンはいい人」 「…………」 「…………」 「……分かった。どうもあたし、この子の笑顔に弱いみたい」 「じゃあ蓮、あとは任せたから、お願いね」 「ああ、おまえはゆっくり寝てろ」 「それから――」 「はいはい、もう壁の穴は使わないって」 「鍵開けとくから、マリィちゃんは話が済み次第あたしの部屋に来るんだよ?」 そうして、香純は自室に戻って行った。 さあ、それじゃああと少し―― 「どうしたの、レン」 「ああ、悪いけど三十分くらい、何か適当なことを話そう。どうせ香純が、壁に耳押し付けたりしてるだろうから」 「……?」 マリィは俺の言っている意味が分かっていない。だがそれを含めて、三十分後には…… 「ごめんな香純」 小さく呟き、今日一日の、もうこんなことは最後になるかもしれない休日を回想した。 「俺は楽しかったけど、マリィはどうだった?」 「うん、楽しかったよ。レンと同じ」 「そう……」 だったらいい。たとえ偽善臭い茶番でも、彼女がそう思ってくれたのなら危険を冒した甲斐もある。 事が問答無用で始まる前に、こうしてマリィと話せて良かった。 そうして三十分後、香純が完全に寝入ったのを確認してから、俺とマリィは外に出た。 香純の手前、明日の学校がどうとか言ってはみたものの、すでに俺は登校する気なんてない。次に櫻井やルサルカと顔を合わせれば、その瞬間に始まってしまうだろう。 なら早いうちに――そう、出来れば今夜中にあの二人を打倒する。香純や先輩、他の一般生徒に危害が及ばないよう、〈学校〉《あそこ》から異物を取り除かなければならない。 そのためには…… 「マリィ……俺に協力してくれ」 彼女の〈呪い〉《ちから》が必要だった。 「どこまで理解してるのか知らないけど、〈斃〉《たお》さないといけない奴等がいる」 「だからもう一度、今度は面と向かって答えてくれ。キミは――」 「わたしは、レンの言うことならなんでも聞くよ」 「カリオストロも、そうしろって言ったし」 「そいつのことはどうでもいい」 「え?」 「俺はマリィの意志が聞きたい。誰かに言われたとかそんなんじゃなくて、これは……」 人を殺すという選択だから。 たとえ彼女にとってそれがごく当たり前のことであっても、その意味も分からないまま繰り返すのは、あまりにも…… 「昔のまま、変わんないだろ」 呪われて生まれた少女。彼女は両親を死に追いやり、触れる者を斬首し続け、異端として処刑された。 そしてその呪いゆえに、死んだ後も死にきれていない。挙句にこんな、ワケの分からないゲームに付き合わされている。 人ではなく、処刑器具としての特性が強すぎるのだろう。情緒面が未発達で、特にマイナス感情の機能が怪しい。ゆえに、人死にに対してひどく無感動な精神を持っている。 ならば武器として、武器のままに扱えば、彼女は罪を負わなくても済むし、そうすることが優しさなのかもしれない。 事実、最初は俺もそう思っていたのだけど…… 「今日一日遊んで、気が変わったよ。マリィは器械なんかじゃない」 「このままじゃ、何も変わんないだろ。上手く言えないけど、なんていうか……」 メルクリウスの絵図に踊らされたくない。この子に自分が人間なんだと教えてやりたい。 指示され、使われるだけの道具じゃなく、自分で考え、決定できる人間なんだと…… 「わたし、レンの言ってることがよく分からないけど」 「レンは、わたしが要るんでしょう? だったらそれで、いいじゃない」 「人を殺すんだぞ? 俺と共犯になれって言ってるんだぞ」 「それが、なんなの?」 「何って……」 「わたしは、それしか出来ないよ。レンの言うことは分からない」 「マリィ……」 だったら、なんて言えばいいのか。 シュピーネの一件で契約は済ませたが、彼女の過去を知った以上、あんなもので終わらせるのは〈躊躇〉《ためら》われる。 第一、俺の言うことはなんでも聞くって…… 「俺が香純を殺せって言ったら、殺すのか?」 「カスミを?」 「ああ、どうなんだよ」 それに、淡い希望を持っていた。安易な反応を期待していた。 香純はマリィを気に入っているし、彼女もそう思ってくれるだろうと。 「レンがそう言うなら、わたしは別に」 「―――――」 だがしょせん、そんなものは俺程度の凡人が〈浅慮〉《せんりょ》する思い上がりにすぎない。 その事実に、打ちのめされた。 「ヘンなレン、どうしてそんな顔をしてるの?」 「今日、レンは楽しかったんだよね。わたしも、レンと話せて楽しかったよ」 「これからもずっと一緒。カリオストロと話すのも楽しかったけど、レンと話すのも楽しい。ね、だから笑って?」 マリィの手が、俺の頬をなぞっていく。その冷たい感触に、ワケもなく叫びたくなる。 彼女は本当に手遅れなのか。今日見せた笑顔は単に、俺がそこにいたからというだけのものに過ぎないのか。 以前、櫻井が言っていたことを思い出す。 俺の何十倍も歴史を重ねて、何百何千も殺してきた人食い……二十年そこらの人生やモラルで、どうにかできる存在じゃない。 俺の一言二言で救えるようなら、彼女はここまで外れることなどなかったろう。 呪いは深い。 メルクリウスが魅せられ、〈跪〉《ひざまず》くほどの異端。 甘くないのは当然。俺の手に余るのも当然。だが、だからといって…… 「わたしはレンを助けるよ。カリオストロから聞いているし、これから何をするかも分かってる」 「だからそんな顔をしないで。わたし、とても嬉しいの。レンの役に立てるんなんて、嬉しすぎて夢みたい」 「カリオストロの友達の、そのまた友達を斬るんだよね? 心配しないで、わたしと一緒なら、レンは絶対に負けないから」 人類最悪で最美の魂……つまり彼女一人分で、俺は奴等全員を凌駕すると言いたいのか。 だったら、香純を利用してまで魂を集めていたことに、何の意味があったというのか。 分からないことはまだ山ほどある。加え、マリィは何一つとして変わっていない。 あの日、処刑台の上で、自分はずっとここにいるんだと言ったまま。 一歩も動かず、その場所に留まっている。 それはある意味で、俺の理想なのかもしれない。 斬首という、ただ一つのことを繰り返し続けている彼女。 しかし、俺は…… 「レンは、わたしが要るんだよね?」 同じ繰り返すなら、もっと楽しいことをしたい。 それをマリィに教えたい。 この子は望んでこうなったんじゃない。他には何も知らないから、自分の在り方に疑問を抱かなかったというだけだ。 知ることが出来たら―― 今日のようなことを、大事だと思えるようになってくれたらどんなにか…… 「わたしとレンは似てるって、カリオストロが言ってたよ」 「でも、わたしとカリオストロは似てないの。そしてレンとカリオストロはよく似てるの。面白いよね、こんがらがっちゃう」 「〈愛しい人〉《モン・シェリ》……わたしはあなたのものよ。だから要らないなんて言わないで。分からないことを言わないで」 「〈Odi et Amo〉《オーディー・エト・アモー》……あなたを憎み、愛します。どうかわたしと」 〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めましょうと……マリィは優しく微笑みかけてくる。 自分を受け入れてくれという、昨夜とは逆の立場からの契約。 「カリオストロのオペラが観たい。わたしとレンが、主賓で主演だって言ってたから」 「きっと、それは楽しいよ」 「…………」 違う。メルクリウスのオペラとやらは戦争だ。俺と連中が殺し合うゲームにすぎない。 だけど…… 「レン?」 もはやそれから降りれなくなった俺は、その中で彼女と関わっていくしかないのだろう。途中で寄り道をしている余裕などない。 戦いながらでも、マリィを変えていくしか…… 「……分かった」 「でも、俺は諦めてないからな」 「?」 この子の魂を呪いから救済する。今は無理でもいつかきっと。 「マリィが同意してくれるんなら、今のところはそれでいい。焦ったこと言って悪かった」 「どうして謝るの?」 「だから、それはいいって。骨が折れそうだけど、こうして話も出来るんだし気長にいくさ」 「また分からないことを言いだしてる。本当にヘンなレン」 「でも、良かった。要らないって言われたらどうしようかと思ってたから」 いつの間にか、妙な丁寧語だったマリィの口調が少し砕けた感じになっていた。 今はその程度の変化しかないけれど、少しずつ積み重ねていけばいい。 俺はマリィの手を取り、そう自分自身に言い聞かせる。 真実、もうこれ以上は迷わない。 「だからまあ、なんか月並みだけど、よろしくな」 「はい、こちらこそ」 ――と、その時だった。 「話は終わった?」 「―――――」 「ああ、ごめん。驚かせちゃった? ええっと、あたしは……」 「エリーでいいっていうか、他の呼び方してほしくないんだけど……まあ二度目まして藤井蓮くん。あたしのこと覚えてる?」 「おまえ……」 いつからそこにいたのか、こちらを見てにやついている女は、確か前にも…… 「はは、覚えててくれたんだね。ありがと、お陰で滑った登場しなくてすんだみたい」 「でも、あれだね。今日一日、ずっと気ぃ張ってた蓮くんが、さっきはホントに抜けてたね。あたしに気付かないほど、大事な話をしてたわけかな?」 「…………」 「レン、誰あの人」 上手く説明はできない。ただ以前、一度だけすれ違った程度の相手だ。 しかし今の言いようから察するに、今日俺を尾けていたのはこいつだったということなのか。 「おまえ誰だよ。なんで俺を」 「知ってるのかって? んー、敵の敵は味方かもって論理でこっちは動いてるんだけど、なんか思ったよりマトモなリアクションするんだね。どうしようかな」 もったいぶるように間を置きつつ、女はからかうような目で俺を見てくる。 その視線。挑発的で挑戦的で、いつも面白がっているような…… それは、驚くほど〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》とよく似た―― 「司狼があんたに会いたがってる。顔貸してよ。殺人犯――」 「―――――」 喜ぶべきか、嘆くべきか、うんざりするべきなのか。 どうやらまだ、あの〈司狼〉《バカ》との縁は切れていないようだった。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 2/8 【Chapter Ⅴ Holiday ―― END】 「卿は変わらんな、聖餐杯」  〈厳〉《おごそ》かに、しかし滑らかで張りのある男の声が闇の聖堂に木霊する。 「六十年……決して短くはあるまい。我々が人として生きた年月の、倍に相当する期間だろう。時代は変わり、人も変わる。通常、それが自然であろうと私は思うが。 卿は変わらん。微塵たりとも。正直、呆れを誘う〈頑迷〉《がんめい》さだ。もはや〈妄執〉《もうしゅう》と言ってもいい。 問うが、何が卿をそうさせる?」 「さて……」  対話は、この上もなく奇妙な〈様相〉《ようそう》を〈呈〉《てい》していた。ここにいるのは長身の神父一人のみ。彼は無人の席の前に〈跪〉《ひざまず》き、〈頭〉《こうべ》を垂れて〈畏〉《か》しこんでいる。  一見すれば、ただの独り芝居としか言えない状況。  だが、違う。  目には見えず、触れることも出来ないが、この聖堂には明らかに別の者が存在していた。 「仰る意味が分かりませんね、ハイドリヒ卿。臣が愚直であることは、あなたにとって不都合でしょうか? 私が変わらぬということが、問題になると、あなたは仰るのでしょうか?」  〈喩〉《たと》えるなら、それは影。  位相の異なる世界から、本体の一部を投影している。  見えぬ壁の向こう側……地獄のように渦巻く魂の混沌が。  ごく一部だけの干渉で、空間を波紋のように震わせて。  黄金の眼と〈鬣〉《たてがみ》を有する獣は、その気配のみをこちらに〈顕現〉《けんげん》させていた。 「問題がある、とは言わん。だが、強いて不満を挙げれば、興醒めだ。私は卿が逃げ出すと思っていた」 「これはまた」 「カールと賭けをしていてな。それに負けたというのがまず一点」 「加え、いつの頃からか私の予想はことごとく外れるようになってきた。 ゆえにまるで先が読めぬが、そのこと自体は別によい。ただ……」 「結果が既知であるなら話は別だと……なるほど、心中お察し申し上げます。私はあなたを、楽しませることが出来ていないというわけですね」 「御期待に添えず、申し訳ありません。とはいえハイドリヒ卿、それも詮なきことでありましょう。私ごとき〈卑賤〉《ひせん》の身に、ゲットーは破れない。 そしてだからこそ、副首領閣下とその代替が必要なのではありませんかな」 「然り――確かにその通りだ」  かの者こそ、この戦に必要な御敵。あれなくして、願いの成就は叶わない。 「ならばこそ問わせてもらおう。卿はカールをどう思う?」 「言うまでもなく、あれはいささか奇矯な男だ。私はそれを好ましいと思っているが、卿らにとっては必ずしもそうではあるまい。 恐ろしいか? 〈疎〉《うと》ましいか? それとも、憎らしく恨めしいか? この六十年で、そうした思いが熟成され、火が点くまでに腐敗したか? 聖餐杯、卿はあれをどう思う?」 「特に……」 「副首領閣下は我らの師であり、父であります。畏敬の念を持ちこそすれ、憎むなどとは畏れおおい」 「ほぅ、では、なぜカールの術を懐疑する。あれの凄まじさ、知らぬわけではあるまいよ」 「それにつきましては、凡夫ゆえの偏狭さだと笑っていただければ幸いです。 元来黒円卓は、己こそが最優であると自負する者らの集まりであったでしょう。その〈矜持〉《きんじ》が、〈井底〉《せいてい》の〈蛙〉《かえる》にすぎないと副首領閣下は仰られた」 「我々とて愚かではない。魔道の〈薫陶〉《くんとう》を受けるにあたり、〈彼我〉《ひが》の間に存在する圧倒的な格差というものを感じずにはいられなかった。つまり……」 「それが屈辱であったと? くだらん。飛びかたを教わる際、母鳥を憎む雛がどこにいる」 「雛ならばそうでしょう。しかしあなたはともかく、我々はあの時点で地虫にすぎなかったのです。それがゆえに恥じ、そして恐れた。虫に羽を与えたもうた、副首領閣下の魔道の冴えに。 もっとも、私はすでに達観しておりますがね。虫が〈猛禽〉《もうきん》にならんとするから泥に塗れる。ならばこの身は、蝶でよい」 「虫は虫なりの空を欲しているのです。ハイドリヒ卿……臣はそう思っている次第ですが」 「卿の空とは?」 「らしくない愚問を仰る。私が望むものは、今も昔もただ一つのみ」  静かにそう断言する神父に合わせて、再び空間が揺らぎだした。  くつくつと漏れてくる忍び笑い。獣は臣下の愚直さを愛でているのか〈嘲〉《あざけ》っているのか……余人に理解できない含みを置いて、先を続ける。 「なるほど。ならば卿はそれでよい。だが、〈猛禽〉《もうきん》とやらになりたがっている者らは何とする。泥に塗れさせればよいと言うか」 「あなたがそうあるべきと仰るなら、そのようにいたしましょう。もとより虫の役目など、殊更確認するものではありますまい。 私は聖餐杯……あなたの忠実なる下僕であります。首領代行として、やるべきことは心得ているつもりですが。 閣下は私を、信用できぬと仰るか? あなたの陰であるこの私を」 「いや――」  問いに、答えは早かった。 「〈卿〉《 、》〈は〉《 、》〈信〉《 、》〈用〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈信〉《 、》〈用〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》。かくあれよ、聖餐杯。その渇望は度し難い矛盾だが、なかなかに旨かろう。もとより私とカールは、卿のそういうところを評価している。 ゆえに、失望だけはさせてくれるな。自身の〈狂気〉《せいぎ》を貫くがいい。私としては、所詮どちらであろうと同じことだ」  聖堂に響き渡る笑い声に呼応して、尋常ならざる霊的圧力が周囲を覆う。獣にとっては愛玩動物を撫でるがごとき程度のものだが、〈跪〉《ひざまず》く神父にとっては巨人の手が圧し掛かってくるのと変わらない。  しかし彼自身、この絶対的力量差にはすでに慣れているのだろう。常人なら恐慌必至、悪くすれば脳障害を起こしかねない重圧の中でも、柳に風と受け流すだけの心的余裕を持っていた。 「つまり閣下、引き続き私に指揮を任せて頂けると解釈してよろしいのですね」 「言ったであろう、好きにしろ。卿の手並みが面白ければ、あるいは最後まで……ということもありうるだろうよ。 だが、そうだな……」  言葉の途中で、不意にからかうような、悪戯げな間が開いた。〈訝〉《いぶか》りつつも面を上げない神父に向けて、獣は一言。 「一つ賭けをしてみるか」 「賭け?」 「そう。件の代替、その出来よ。卿は現状、どう見ている?」 「……さて」  予期せぬ問いというわけではない。あの少年に関わることは、すべて報告する必要がある。神父は率直に事実を伝えた。 「よく言えば順調……悪く言えば予定調和と言うべきですか。今のまま事が進めば、こちらの脱落者はせいぜいが二、三人。副首領閣下の手際にしては、いささか落としどころが真っ当すぎるやもしれません」 「つまり、私には届かぬと?」 「御身どころか、この〈聖餐杯〉《わたし》にすら届きますまい。大隊長らも言うに及ばず……ここに至るまでで二度、私は彼の成長を援護しました。内一つは、図らずも見苦しい茶番を誘発してしまいましたが、今思うことはこれにつきます。正直、こんなものなのか――と」  神父はため息混じりにそう語り、ゆえに以降も自分一人で事足りると締め括った。  件の少年は弱くない。だがあの程度では、これから先たかが知れているだろう。黒円卓全体で見れば、実に平均的なレベルにすぎない。  そしてだからこそ、続く獣の台詞に神父は耳を疑った。 「一度だけ、私が出よう」 「―――――」  この怪物が、自ら動く。それがどんな事態を招くのか、理解できない神父ではない。 「……ご冗談を」 「そう思うか?」  楽しげに笑う獣の気配。彼は未だ幻影にすぎず、こちらに干渉できるのは本体の数十分の一以下である。  だがしかし、それでも危険だ。現段階の少年では、おそらく対峙しただけで魂まで焼き尽くされる。 「……閣下は、この儀式すら破壊されるおつもりですか?」 「だから賭けと言ったであろう」  いつの間に礼を忘れ、面を上げていた神父を〈嘲〉《あざけ》るように、獣の声はある種の熱を帯びていく。 「友の手際を見てみたい。カールの代替が如何ほどか、直にこの眼で確かめよう。これはただの好奇心だ。卿の報告を疑っているわけではないが、弱ければ後は任す。強くとも二、三注文を付けるだけに留めよう。だが――」  その時、神父は頭蓋が割れるような凶念を感じ取った。  全身の肌が粟立つ。久しく忘れていた恐怖という感情が、内から湧き上がってくるのを自覚する。  彼は本気だ。もし藤井蓮が下手に獣を刺激するようなことになれば…… 「愚か者ならその場で喰らう。案外とそれによって、私とカールはゲットーを超えるやもしれんだろう」 「…………」 「どうした聖餐杯。卿はそれほど、私に眠っていてほしいのか?」 「……いえ」  何にせよ、結果は一波乱どころではないだろう。ことによると今夜中に、総てが終わるかもしれない。 「でしたらば、準備は私が整えましょう。どうか閣下、それまでは、臣にお任せくださいますよう」  控えめに進言しつつ、神父は持てる駒と想定し得る事態の総てを考えながら、しかしすでに答えは出ていた。  さてこの場合、自分にとってもっとも都合よく収めるにはどうするべきか。  残念ながら、他に方法が見当たらない。テレジアとの家族ごっこも、どうやら終わりが来たようである。  かの少年がいささか不憫だ。  彼は遠からず、真の怪物というものを知ることになるのだから。 「ほら、遠慮しないで入りなよ」 司狼の知り合いだという女に連れられ、俺とマリィはこの場所へとやってきた。 それは本来なら、絶対に足を踏み入れないような、およそ接点を見出せない類の空間。 〈喩〉《たと》えるなら、テレビや漫画の中めいた……現実味の薄い世界とでも言うべきだろう。まさしくジャンルが違うとしか表現できない。 「――まあ、リラックスして。別に捕って食ったりはしないからさ」 街のアンダーグラウンド……見るからにガラの悪い連中がひしめき合っている店内で、こいつはにこにこと笑っていた。 大音量のクラブミュージックが流れる中、充満している濃い煙が眼と喉にくる。マリファナか、それに類するドラッグがそこら中で摂取されていることは明白だった。ギラギラと充血した視線が、無数に絡み付いてくる。 「なによ、神妙な顔しちゃって。ビビってるわけじゃないんでしょ?」 「当たり前だ」 俺が今感じているのはただの嫌悪。街のゴミ捨て場に連れて来られ、呼吸に〈躊躇〉《ためら》いを覚えるという鬱陶しさにすぎない。 「長居するつもりはない。用件はさっさと済ませろよ」 「OKOK、なるほど、ほんとに優等生だね。あいつとは水と油だ」 「んじゃ、あたしについてきなよ。えーっと、二ヶ月ぶりになるんだっけ? 感動の……かどうかは知んないけど、あいつはドラマチックな再会にしたいみたいだし」 からかうようにそう言って、女は奥の部屋へ通じるドアを開けた。 「改めて、ようこそ藤井蓮くん。あたしたちの〈底なし穴〉《ボトムレスピット》へ――」 そして今、俺はあいつと対面する。 強いて今の心情を〈喩〉《たと》えるなら、幽霊を見るようなとでも言うべきだろう。もう終わったと、二度と会うこともないと割り切っていた奴との〈邂逅〉《かいこう》――。 だから怒る気も、悲しむ気も、そしてもちろん喜ぶようなこともなく。 微かな困惑、小波程度の苛立ちを胸に抱えて、俺は司狼と再会した。 「よぉ、ひさしぶり。突っ立ってないでそこに掛けろよ」 変わってない……俺の第一印象は、その一言に集約される。 クラブの奥――VIPルームと言うのだろうか――に通されて、向かい合うソファに腰掛けている遊佐司狼。こいつは最後に会ったあの時と同じく、薄笑いを浮かべて俺の顔を眺めている。 そのなりを見れば、こいつがこの二ヶ月間で何をしていたのかは明白だ。もともと反社会的な思想が服を着て歩いているような奴だったし、プラス度を越えた酔狂人。トラブルに首を突っ込み、かき回すのが、何よりも好きな奴で…… 「色々言いたいこともあるだろうが、まずはお約束通りにいこうぜ親友。元気そうでなにより」 「……おまえも、相変わらず馬鹿そうでなにより」 「キツイね。まだ根に持ってんのか? 怪我治ってんだろ」 「別に後遺症があるわけじゃなし、昔のことは流してカラっといこうや。〈久闊〉《きゅうかつ》とか〈叙〉《じょ》そうじゃない」 「お互い、新しい出会いもあったみてーだし」 「オレは好きに喋るから、おまえもそうしろ。〈エリー〉《こいつ》だってそうするだろうし、そっちの……」 「マリィだ」 「その子も含めて、まずはだらだら世間話を始めようぜ。平たく言えば、肩の力抜こうってこと」 「…………」 「オーケー?」 「……ああ」 大丈夫だ、俺は落ち着いている。 今日は喧嘩をしに来たんじゃないし、こいつだってそうだろう。 知りたいことも知られたくないことも無数にあるが、今は先を急がず、冷静にいくべきだ。 司狼は俺より、そういった駆け引きに長けている。口調や表情から余計なことを勘ぐられるのは、避けなければならない。 こいつが今現在何を知って、何をやろうとしているのか……まずはそれを確かめないと。 「で、おまえこいつとは初対面じゃないんだろ?」 「知ってるってほどでもないけどな」 上着を脱いで、司狼の隣に腰掛けている女。名前は、確か…… 「〈本城恵梨依〉《ほんじょうえりい》。苗字で呼ばれると嫌がるから、気をつけろよ」 「あのね、だったらなんで教えてんのよ」 「いやだって、こう言っとけばこいつが何て言うか楽しめるだろ?」 言われ、女は呆れたようにため息をつく。こいつも司狼のよく分からない遊びに、毎度付き合わされているんだろう。 だが本城という苗字、どこかで聞いたことがあるような…… 「とにかく、前に会ってるんだよな?」 「一度だけな」 「バカスミは元気かよ?」 「知ってるだろう」 俺の台詞に、司狼はうん、と首を傾げる。 こいつ、もしかしてそこまでは知らないのか? 「そっちの女」 「エリー」 「“本城”に今日、俺たちの尾行をさせてただろう。あいつが何をしてたか、聞いてるんじゃないのか?」 「ああ、それね」 「タワーでラブコメやってたって? あいつも何ていうか、ベタだよな」 「ていうか、あんたら……」 本城が物言いたげに睨んでくるが、無視を決め込む。これはかなり大事なことだ。 司狼が香純に起きたことを知っているのか知らないのか、それによって話はだいぶ変わってくる。 「蓮ちゃんに知らない女が出来たから、気が気じゃないってとこか、実際。そっちの彼女、マリィだっけ? あんたはあいつのことどう思う?」 「カスミのこと?」 「そう。どうせ一悶着あったんだろ。何言われた?」 「……えっと」 「おい、司狼」 悪いが、今はマリィに余計なことを喋らせるわけにはいかない。 「この子のことはどうでもいいだろ。ほっといてくれ」 「なんだよそりゃ。四人いるのに三人だけで話そうってのかよ」 「俺はおまえと二人で話してもいいんだ」 「うーわ、なにそれ。あたしら邪魔だって言いたいわけ」 「場合によってはそうだな」 「あー、まあ待てよ。んなピリピリすんなってば、二人とも」 「おまえの気持ちは分かったけどよ。ここまで来たら諦めな。野郎二人で話し合ってても花がねえし」 「お互い新しい女のお披露目会ってわけでもねーけど、あんまりないがしろにすると近頃フェミ団体がやかましいぞ」 「〈久闊〉《きゅうかつ》を〈叙〉《じょ》したいんじゃなかったのか? だったら部外者は関係ないだろ」 「おいおい、おまえ、オレのそんな台詞信じてねーだろ」 俺が言葉尻を捉えて突っ込みを入れると、司狼は愉快げに笑いだした。 「〈久闊〉《きゅうかつ》を〈叙〉《じょ》す? ああ、そりゃもちろんそうしたいがね。それだけの理由でわざわざこんな所に呼んだりしねーよ。ただ会って話すだけなら、オレの方から出向いてる」 「なあ蓮、これはオレなりの配慮なんだぜ? 説明なんかしなくても、理解してくれてると思ってたが……」 「それとも、知っててトボケてるのか?」 「…………」 「おまえも、今さら用も無いのにオレの呼び出しなんかにゃ応じねえだろ。来ざるを得ない理由があったから来た。違うのか?」 「違わないよね?」 俺は無言のまま、答えない。 確かに、普通に考えてこいつが俺を呼び出す理由はない。一度は完全に切れた縁だ。 人情家の香純はともかく、司狼はもっと割り切って冷めている。感傷でこんな場を設けるような奴じゃないのは分かっていたし、何よりも…… 「どうでもいいが、〈詰問〉《きつもん》口調だなさっきから。何の用か知らないが、昔のことは水に流したんじゃなかったか」 「おい、オレはなかったことにしようなんて言ってないぞ」 呆れたように、司狼は咥えタバコを揺らしながら俺を見た。 「お互いあの時のテンションじゃ、話にならないから気持ち切り替えろって言ったんだよ。喧嘩のケリは着いてないし、今だって続行中だ」 「何の用かって? そりゃおまえ、ケリの着け方に提案があるから呼んだんだよ。だが、とりあえずそれは置こう」 「もっかい訊くが、おまえこそ、なんでわざわざここに来た?」 「…………」 「呼ばれりゃほいほい面出すような、都合のいい女タイプの頭パープリンじゃねーだろう。おまえも、オレに用があるから来たんだろ」 「それ言わないで、こっちにだけ言わそうってのは不実だぜ。呼んだのはオレだが、応じたのはおまえだ。分かるよな、これくらいの理屈」 「エリー、おまえだろ。なんて言って釣った?」 「別に」 大したことじゃないけどね、と肩をすくめて、本城は言った。 「司狼があんたに会いたがってる。顔貸してよ、殺人犯」 「なるほど」 「おまえは殺人犯なのか、蓮?」 にやりと唇をつりあげて、からかうように言う司狼。だが、そんなことは…… 「答える必要もないな」 「じゃあなんで来たよ?」 「逆の立場で考えてみろ。無視できるか?」 「身に覚えがなかったらするけどな」 「……それは誘導尋問のつもりかよ」 ため息をつき、俺はソファに深くもたれた。マリィが不思議そうな顔でこっちを見てるが、今は彼女にかまってられない。 ああ、そうだ。 俺はわざわざ、こいつの顔を見にやって来たわけじゃない。香純が心配してるからとか、そんな理由でももちろんない。 来ざるを得ない理由があったからこそ―― 「おまえ、何を知ってる?」 「ていうと?」 「今は正義の味方ごっこでもやってるのか?」 「いや、そういうわけでもねーんだけどな」 苦笑気味に、司狼はグラスに注がれた酒を〈煽〉《あお》った。 「前にも言ったろ。オレは色々試したいだけ。善いことも悪いことも、考え付くことはなんでもだ」 「それで、なんでもやるってことは、なんでも出来なきゃ駄目だろう? 手っ取り早く言うと、力が要るわな」 「……それでチンピラの大将かよ」 「言うねえ。でもま、選択のハバ広げるにゃあ都合のいい立場だぜ。少なくとも、学生やってるよりは有意義だな」 「だから、なあ、そう呆れた顔すんなってば」 「無理言うなよ……」 こいつのことだから、本当に何でもやったことだろう。手っ取り早い悪事なら、ほぼ総てを試してみたに違いない。 馬鹿と言うか、阿呆と言うか、単にイカレていると言うべきか…… そこまでして、選択肢の総当りとやらをやる必要があったのだろうか。 「で、満足はしたのか?」 「それが全然。未だに試行錯誤の真っ最中だよ。おまえを呼んだのもその一環」 「まあ、四六時中デジャヴってるわけでもねーし、これがどう転ぶかはまだ分かんねーけど」 「とりあえず、オレはそんな感じで日々前向きにやってるよ。おまえと同じさ」 「一緒にするなよ」 「いや、一緒だろ」 含みのある口調でそう言って、司狼はわざとらしく片目を〈瞑〉《つむ》る。 「おまえも、あんまり〈他人様〉《ヒトサマ》に誉められることはやってねーみたいだし?」 「…………」 「と、お互い話の主旨はそこだよな。そっちの、えーっと、マリィだっけ? 暇そうにしてるけど、いいのか放っといて?」 「ああ」 マリィは状況がよく分かっていないんだろう。相変わらずぼうっとしたまま、俺たちのやり取りを傍観している。 とりあえず、今彼女はこのままでいい。相手にすれば上限知らずにはしゃぎだすが、放置すれば置き物みたいになるようだし。 それは危うい在り方のような気もするが、この場面では助かることだ。 この二人に、マリィが何者なのかを看破されるのは避けた方がいい。 俺は一つ深呼吸をして、問いを投げた。 「いつからだ、司狼?」 「あ? そりゃどの辺りから知ってるかってこと?」 俺が頷くと、司狼は軽い調子で話しだした。 「結論から言うと、ここ何日かのおまえの行動はほぼ完璧に把握してるな。正確に言うと、〈月乃澤学園〉《ツキガク》に転校生が二人来てからってことになるか」 「なんだと?」 それは、つまり…… 「当然、香純のこともよく知ってる」 「―――――」 こいつ、だったら初めから…… 「言っとくけど、ケーサツと連携したりはしてないからね。そっちの心配はしなくていい」 「てゆーか、それに関しちゃ〈隠蔽〉《いんぺい》工作してやったくらいだぜ。おまえ、血塗れのバカスミ担いで家帰るまで、誰にも会わずにすんだの誰のお陰だと思ってんだよ」 「…………」 「……なんで」 「なんでおまえがそんなことをする?」 我ながら、それは間抜けな問いだった。 幼馴染のよしみとか、そんな理由であるわけがない。司狼にとって、それがなんらかの利になる行為だったからだろう。 いや、そもそもそれ以前に…… こいつは、“奴等”のことも知っている? 「じゃあ、順序だてて話そうか」 「そもそもあたしらが知り合ったのは、司狼が病院をぬけてすぐ」 「まず、こいつがオレに一目惚れして」 「いや、こいつがあたしに一目惚れして」 とにかく馬鹿同士が意気投合して、効率的に遊ぶための手足になる奴等を組織したってことだろう。 それがボトムレスピット 諏訪原は観光都市としてそれなりにでかい街だから、相応の暗部がある。詳しい説明は省かれたが、そこからのはみ出し者を一緒くたにかき集めたものらしい。 つまり、他に行く当てがない……言い換えれば、ここを出たら生きていけない奴等の集団。 もともと存在はしていたが、何をするでもなくこの穴倉に引きこもっていた連中を、司狼と本城が一つに〈纏〉《まと》めた。 「まあ、あたしは結構前からここの連中と面識あったし、要は御輿があればよかったのよ」 それは外部勢力と先陣切ってやり合ってくれる、怖いもの知らずのリーダーというもの。 まさしく司狼にうってつけだ。 こいつはここの連中を〈庇護〉《ひご》下において、その組織力を利用している。アングラな奴等から見れば、常に頭が飛んでる司狼みたいなのはカリスマになりえるのだろう。 「そんなわけで、色々あれやこれややったわけよ。善いことも悪いことも」 「でも、結局ウチの連中はあれだから、慈善事業が出来るわけでもないんだよね」 「だから世間的には紙一重っていうか、さっき蓮くんも言ってたけど、正義の味方ごっこってやつ?」 「ここまで言ったら、分かるでしょ?」 「殺人犯捜しか」 「ま、その通り」 「先に見つけられちゃつまんねーから、ポリの邪魔もしたけどな」 「オレらがやってたのはそういうことだよ。その結果として、おまえを呼ぶことになったってわけ。腐れ縁だな」 と、そこで一旦間を置いて、司狼は俺の目を覗き込んだ。 その視線に、嫌な予感がする。 こいつがこういう目をする時は、まず間違いなくろくでもないことを考えている時だから。 「もう、〈殺人犯〉《おまえら》のことなんかはどうでもいい」 「あたしらが興味あるのは、あの連中」 「言ったでしょ? 敵の敵は味方かもって」 「おまえら……」 予想していたことだったが、改めて俺は目眩を覚えた。 馬鹿か、こいつら。何を考えてる。 あいつら、あの連中がどんな奴等か分かってるのか? 「言っとくけど、面識だってあるよ。ヴィルヘルム・エーレンブルグにルサルカ・シュヴェーゲリン」 「なんか言いたいこと顔に書いてあるけどさ、蓮くんこそあいつらのこと分かってんの?」 「……何?」 それは、いったいどういう意味だ? 「そのまんま。出自、経歴、そういうの。あたしらは知っている」 「連中はね、お尋ね者のハイエンドだよ。誰か一人でも首を取れば、人生七回は遊んで暮らせる」 「つっても、魅力的なのは金じゃねえ。要は連中が、ちょっと有り得ないレベルの変態どもだっつーことだ」 「…………」 目を細め、愉快げに、気の利いたジョークだと言わんばかりに司狼はその名を口にした。 「聖槍十三騎士団……おまえピンとこねえのかよ、この名前から」 「連中の格好見て、何も見当つかなかったわけじゃないんでしょう?」 ドイツ人、黒い軍装、常軌を逸した残虐性と選民思想に〈外人嫌い〉《ゼノフォビア》…… ああ確かに、これで分からない方がどうかしている。俺だって、それくらいの見当はついていた。 おそらく、近世において最悪の集団。しばしば世界の敵とも評される、悪名高き―― 「〈Letzte Bataillon〉《ラストバタリオン》……第三帝国だよ、あいつら。しかも二世や三世じゃない」 「〈第二次世界大戦〉《WW2》の末期に懸賞金をかけられて、今に至るも額が増え続けてる規格外の戦争屋たち。人間っていうより害獣だね。そんな奴等が十三人、この街に集まってきてる」 「そうなりゃ実際、ほっとけないでしょ。地元民としちゃあ、丁重にご退去願うしかないわけで」 「つまり――」 「手を組もうって?」 司狼はにやにやと、本城は〈飄々〉《ひょうひょう》と、俺の言葉を受け流しつつも反論はしない。 見たところ、こいつらがこの件に絡みたがる理由は単なる火遊び。断じて正義感なんかじゃないだろう。俺も人のことは言えないが、そういう殊勝な性格じゃないことくらい分かっている。 より有り得ない、日常から〈乖離〉《かいり》した奇異な状況を欲しているというだけだ。司狼に言わせれば、未体験のジャンルといったところだろうか。 馬鹿馬鹿しいし、理解し難いし、くだらない。だが、組むメリットは確かにある。情報戦という分野において、こいつらを利用するのはそう悪くない選択だ。 しかし…… 「お断りだな」 短く、俺は一言で切って捨てた。 「自殺の手伝いなんかできない。おまえら、死ぬぞ」 奴等の一番恐ろしいところは、真っ当な手段じゃ傷一つ負わせられないということだ。司狼が色々と人間離れしてるのは知ってるが、それでも荒事に関しては役に立たない。 不良の抗争なんかじゃないんだよ、これは。 「連中が人間じゃねえから、オレらの出る幕はねえってか?」 「そうだ」 いくらおまえでも、あれには勝てない。こんな愚連隊を率いるくらいだから色々武器の融通も利くんだろうが、それでもやはり意味はない。 戦争が趣味みたいな化け物に、そんな物が通用するはずないんだよ。 「じゃあ、おまえはどうなんだよ」 「俺は……」 言われ、一瞬だけ言い〈澱〉《よど》むが、しかしもう構わない。こいつらは気付いている。 「分かってるだろ。俺は別だ」 手段があり、武器がある。俺なら奴等を殺してしまえる。 「けど、おまえらは違う。関わっても死ぬだけだ。ずっと裏方に徹するほど大人しくもないだろうし、俺とつるんでたら狙われるぞ」 「だから――」 「オレは別に、おまえと一緒に戦わせてくれって頼んでるわけじゃねえんだけどな」 断固拒絶を貫こうとする俺の台詞を遮って、つまらなそうに司狼は言った。 「オレが何処で何やろうと、おまえにゃ関係ねーだろう。こっちはこっちで好きにするし、おまえはおまえで好きにやれよ」 「まあ、組めりゃあそれが一番いいがね。そうじゃなきゃ駄目だっていうわけでもない」 「オレが動くのを、おまえに止められる覚えはねえだろ」 「この……ッ」 反射的に、思わず腰を浮かしかけた。 頭にくる。ふざけやがって馬鹿野郎。俺だって本音を言えば、おまえなんか別にどうなろうと構わないんだよ。 ただ、それでも勝手に無茶をやられて死なれた日には―― 「まあ、いきり立ってないで座りなよ」 もう少しで殴りかかる寸前だった俺を制すように、本城が割って入った。気だるげに欠伸なんかしつつ、しかし眼はふざけていない。 「あの子、香純ちゃんだっけ? 〈司狼〉《こいつ》が死んだら悲しむだろうって、気ぃ遣っちゃってるわけだ」 「ねえ、そうやって優しいのもいいけどさぁ、実際大きなお世話だよ。あんただって、彼女に心配かけてるくせに」 「…………」 それは、確かにその通りだが、しかし確率ゼロのおまえたちよりは遥かにマシだ。 「百パーセント死ぬのが分かってる奴等を関わらせられるかよ」 「じゃあ、確率上がるように話してよ」 「……?」 一瞬、意味が分からず言葉を失った俺を〈嘲〉《あざけ》るように、司狼はマリィを指さした。 「この子、なにもんだよ蓮。おまえはどうやってあの連中と殺り合うんだ?」 「…………」 それは言えない。言ったところでどうしようもない。そもそも俺だって明確な理屈はよく分かっていないんだ。 「連中が色々と度外れてるのは知ってるよ。一番の問題は、何を食らわしゃ殺せるのかっていうことだ」 「蓮、おまえは奴等を殺れるんだろ? ならどうやって? どのように? どこから〈有効手段〉《それ》を手に入れる」 「…………」 「博物館の展示品が、一つ消えたってことくらい知ってんだぜ」 「―――――」 その台詞に、動悸が早くなるのを自覚した。 俺の腕に入り込んだギロチン。そこから具現化しているマリィ。おそらく司狼は、それすら〈朧〉《おぼろ》げながら気付いている。 こんな〈荒唐無稽〉《こうとうむけい》極まる話、普通なら誰も信じやしないだろう。だけどこいつは、そういった常識のフィルターで物事を判断しない。理屈が通ると思えば、どんな馬鹿げたことでも受け止めて理解する。 なら、いったいどうするべきか。 このまま俺が何も教えなかったところで、どうせこいつは止められない。だったら確かに、こっちの知ってることを伝えて生存確率を上げてやるべきなのだろうか。 しかし、それだと…… 「レン、どうしたの?」 「…………」 俺は無言で、マリィの手を取り立ち上がった。 「聞く耳持たねえってか」 「分かってるだろ」 「ああ、分かってるよ。おまえの性格くらいはな」 「…………」 「それで、おまえもオレの性格は分かってるよな?」 「……ああ」 こめかみに銃口を突き付けられたまま、俺は応える。 結局、これしかなかったんだ。こいつに分からせようとするのなら、実演してみせるしか。 「司狼」 「ん?」 俺は銃身を右手で掴み、目を〈瞑〉《つむ》る。 威力は出来るだけ最小限に。でないとこいつの腕を落としかねない。 空いた左手でマリィの手を握ったまま、俺は念じた。 “斬れろ”――と。 同時に銃身は真っ二つとなり、銃としての機能を無くす。どうやら上手くいったようで、司狼に怪我は負わせていない。 「行こう、マリィ」 俺は努めて平静を装い、そう言った。司狼と本城は特に何も言うことなく、切断された銃を興味深そうに眺めている。 ……くそ、こいつら、本当に分かってるのか? こっちはビビらせるつもりでやったのに、まるで効果があったように見えないのが不安だった。 もしかして、完全に逆効果だったかもしれない。そう後悔しながらも、今はともかく、ここから立ち去ることにする。 「それと同じ事が出来なきゃ、何をやっても無駄だぞ司狼。悪いことは言わないから、これ以上首突っ込まないでくれ」 「それから……」 これは、一瞬言うべきかどうか迷ったが。 「香純の件、おまえらがフォローしてくれたっていうなら礼を言う。けどあいつは、もうそんなこと出来ないからな。ちょっかいかけないでやってくれ」 言って、俺とマリィは部屋から出て行く。これであいつらを退かせられたかどうかは正直怪しいところだが、こっちも生憎と暇じゃない。 この土日で櫻井とルサルカを……〈斃〉《たお》すことが出来なければ香純に危険が及んでしまう。 今はただ、そのことだけに意識を集中するべきなんだ。これ以上こんな奴等と遊んでいる時間はない。 じゃあな司狼。出来ればもう会えないと助かるが、それでも一応、何と言うかおまえが生きててほっとしたよ。  苦々しげな顔で退室していった藤井蓮を見送って、エリーは軽いため息をつく。彼らに構うなと店の連中には言い含めておいたから、余計なトラブルが起こることはないだろう。だが、今はそれよりも…… 「あー、あのさ……気持ちは分かるんだけど司狼」 「んん?」  今にも飛び跳ねんばかりに喜んでいるこの連れ合いを、どうするべきかの方が問題だった。 「そのさぁ、いいオモチャ見つけたぁみたいな顔、締まり悪いからやめなよね」 「んーなこと言われてもな。事実そうなんだから仕方ねえだろ」  彼の手には、未だ切断された銃がある。暴発の危険をまるで意に介していないのか、トリガーの部分に指を入れて回しながら、陽気に口笛などを吹いていた。 「いや、なんつーかこう、笑えるな。マンガみたいで面白ぇ。やっぱ人生、こうでないとつまんねえよ。 〈蓮〉《あいつ》は昔から、色々飽きないネタを持ってきてくれるんだわ。自分は普通だって顔しながら、実は一番変態なんだぜ。ウケるだろ?」 「あー、うん、とりあえずそこのコメントは控えさせてもらうけど」 「まあ、なかなかいいんじゃない? 少なくとも、連中をどうにかする手段があるっていうのは分かったんだし。 正直、あたしとしてはここで一旦引くのも有りかと思うんだけど」 「冗談ぬかせよ」 「あぁ、だよねえ……」  駄目だ、完全に火が入っちゃってるよ。エリーはぼやきながら宙を仰いだ。 「オーケー、分かった。いってらっしゃい。その代わり、手ぶらで帰ってきたら許さないよ。あんたすぐ遊ぶんだから」 「ああ、言われなくても分かってるって。せいぜい期待して待ってろよ。 で――」 「はいはい、これでしょ」  言って、エリーは魔法瓶のようなものを取り出した。  内容物は分からない。だが気軽な調子で投げ渡したところからして、危険物ではないのだろう。とはいえ、ただの飲料とも思えないが…… 「現状、それが効かなきゃほぼお手上げだね。試してみて駄目だったら、さっさと逃げることをお勧めするよ。 て言っても、あんたはきっと……」 「なんだよ?」  軽薄に、〈飄々〉《ひょうひょう》と、手にした魔法瓶を〈弄〉《もてあそ》びながらうすら笑う遊佐司狼。  一度火がついたら止まらないその性分を、エリーは十二分に理解していた。  ゆえに、どこか諦めたように彼女は呟く。 「いや、あたしとしてはそれなりに長く遊びたいんで、あっさり逝かれたらつまらんわけよ。でも、言うだけ無駄だろうから困ったなぁって感じが本音?」 「ハッ」  一笑して、司狼は身を〈翻〉《ひるがえ》した。 「んじゃまあ、せいぜい長く楽しめるように遊んでくるわ」 クラブを出てから、俺はマリィを連れて繁華街を歩いていた。 この街は田舎じゃないが、やはり夜に外人の女の子を連れていれば目立つわけで、周囲から好奇の視線を強く感じる。 それは昼間も同じだったけど、やはりこうなった場合、採るべき手段は…… 「……?」 いや、そうだな。俺は思い直して、マリィの手を握りなおす。 「なあ、何処か行きたいところはある?」 「行きたいところ?」 「ああ」 と言われても、この街で彼女が知っている場所はごく限られているわけだから。 「じゃあ、タワーに」 おそらくそう言うだろうことは、なんとなく分かっていた。 そうしてやって来たこの場所、マリィはライトアップされたタワーを見上げて、ぼうっとしている。 「キレイだね、レン」 ここも一種のデートスポットだから夜でも人が多いけど、さっきの繁華街よりはマシだと思う。各々自分たちのことに集中しているので、他人の動向に注意を割かない。 視線の集まり具合が緩くなったことでようやくいくらか落ち着いた俺は、マリィを連れて傍のベンチに腰を下ろした。 「…………」 さて、それじゃあこれからどうするべきか。 やることは決まっているし覚悟もすでに完了してるが、具体的な方策がない。索敵しようにも頼りになるのは首の疼きくらいのもので、それもいまいちいい加減な感覚だ。 だから、わざと目立って誘いをかけるのも有りかと思ったわけだけど、無関係な一般人を巻き込みかねないので自重した。今のところ、現状は手詰まりに近い。 司狼に〈啖呵〉《たんか》を切って出てきた手前、連中の情報網をあてにすることは出来ないし、だからといって闇雲に捜し回っても成果は得られないだろう。 いっそのこと、奴等が現れる場所を事前に予測できたらいいんだけど…… と、そんなことを漫然と考えていた時、横から軽く袖を引かれた。 「ねえレン、あれ見て」 マリィが、ちょっと離れたところにいるカップルらしき男女を指さす。 「あの人、どうして泣いてるの?」 「あ……いや、なんでだろうな」 いきなり現実的な話題を振られて、若干だけ戸惑う俺。 見ればカップルの女の方が泣いていて、男がそれを慰めているような、よくある構図。 「どこか痛いのかな」 「ん……その、どうだろう」 「なにかね、女の人がごめんなさい、ごめんなさいって言ってるよ」 「それで、男の人は気にしてないとか、平気だからとか、そんな感じ」 「…………」 「あの人たちは、何を話してるのかな?」 「あー、えぇっと……」 なんだか随分と耳が良いようで驚いたが、また面倒な状況に興味を示したもんだと思う。 マリィの説明とここから観察してみる限り、どうやら男の方が告白して玉砕したか、あるいは女の方に何らかの落ち度があったという展開らしいが…… 「あれは別に、痛くて泣いてるわけじゃないと思うぞ」 「どういうこと?」 「心が痛くて泣くってこともあるんだけど、たぶんあれはそうじゃない」 逆切れならぬ逆泣きってやつ? 実際のところ、ほんとに泣きたいのは男の方なんだろうけど、女が先に泣いてしまったんで泣くに泣けず、責めることも出来ないという非常に鬱陶しい展開だ。 何かえらいもんを目撃してしまったが、訊かれた手前、俺なりの考えを説明してみることにする。 「あれは演技っていうか自己暗示っていうか、とにかく一種の保身かな。マリィは、あの人を見てびっくりしたろ?」 「うん」 「泣いてる奴ってのは、わりと特別扱いされるから。ああいう場合、具体的に言うと泣けば優しくされるんだよ」 加害者でも被害者になれる。自分も辛いんだとアピールすれば、一方的な悪者にならなくて済む。 「要するに、わたし可哀想だから虐めないでって言ってるんだよ」 「うーん……」 いまいち不得要領で首を傾げるマリィ。俺も半ば憶測で勝手なことを言ったものだが、そのまましばらく観察してると、どうやら的外れでもなかったらしく…… 「あ……」 「うわ……」 いきなり、女が男を引っぱたいた。 「今のは、どうして?」 「たぶん、男が嫌味でもいったんじゃないか?」 同性として、すごく同情してしまう。ああいう展開はリアル、フィクション問わず色んなところで見聞きするが、その場合の模範解答的な態度ってやつが俺にはさっぱり分からない。 なので、逆に訊いてみることにした。 「マリィは、ああいう女の気持ちとか分かる?」 「分かんない。ごめんなさいって謝るなら、謝った方が悪いんだよね? なのになんでか、最後は男の人が悪いみたいな感じになっちゃった。ああいうことが当たり前なの?」 「どうだろうな……」 おかしいと言えば間違いなくおかしいのだが、そのおかしな理屈が大半を占めればそれが当たり前のことになってしまう。 結局のところ、要はそういうもんなんだろう。 「たとえばカスミなら、何て言うと思う?」 「さあ……」 女の態度に激怒するか、もしくは逆に思いっきり共感するか…… いずれにせよ、あいつは極端なことを言いだすに違いない。 が、どうも俺目線の一方的なことばかりを言ってるような気もしたので、少しフォローを入れておくことにした。 「まあ、結局のところ感情が抑えられなかっただけかもしれないな。最後のビンタはともかくとして、謝りながら泣くっていうのは、正直分からないこともない」 酷いことをしてしまったという自己嫌悪。相手を傷つけてしまったという罪悪感。泣くのは卑怯だと分かっていても、一度溢れてしまったら止まらない。そこから先は悪循環のスパイラルだ。 「ある意味、ああいうのの方がすごく人間らしいことかもしれない。どっちが正しいとか間違ってるとか、全部理屈で説明ついたらそれはそれでつまんなそうだし」 「意識せずにって前提なら、矛盾も必要じゃあないかと思うよ」 「…………」 知らず、ガラにもないことを語ってしまい、少し恥ずかしくなった俺をマリィは〈真摯〉《しんし》な目で見つめていた。 そして、ポツリと。 「じゃあ、レンはシロウって人にもそういう気持ちを持ってるんだね」 「…………」 正直、今のは痛いところを衝かれたかもしれない。 「レンはシロウに怒ってたけど、嫌いなわけじゃあないんでしょう?」 もう二度と会いたくないと思っていたけど、顔を見たらそれ相応に安堵した。 はっきり言ってムカつく奴だし、何処でのたれ死のうと構わないけど、この件に巻き込むことは好まなかった。 心配している香純の手前というのはもちろん本音で、建前なんかじゃないけれど、それでも俺は…… 「別に。あんなのただのバカヤローだよ」 「昔から、あいつが絡んでくるとろくなことが起こらない。だから自衛っていうか、つまり自分のためにやったことで……」 「俺はもう、あいつに引っ掻き回されるのはうんざりなんだよ。ただそれだけ」 「ふふ…」 そんな俺の言い分を、マリィはにこにこして聞いている。そして何を言うかと思いきや―― 「レン、可愛いね」 「……………」 香純、先輩、ルサルカに引き続き、またしても俺をその言葉で評する女が一人。 だけど、なぜか今のはそれほど腹が立たなかった。恥ずかしくはあったけど、何かを言い返す気は起きなくて…… 「たぶん、また会えると思うよ。だってシロウは、レンのことが大好きだから」 「あー、その……」 そういう妙な誤解を招きやすい言い方っていうか、気持ち悪いことは言わないでくれないだろうか。 あいつの興味ってのは、こう……〈喩〉《たと》えるならオモチャやペットを前にした子供のそれだ。好奇心のまま〈弄〉《いじ》くりまわしてぶっ壊す。墓を作ることまで含め、娯楽のようなものでしかない。 と、そんなことを言っても理解をしちゃあくれないか。俺は呆れ気味に肩をすくめて、抗弁するのを諦めた。 その時だった。 「……レン、どうかした?」 「いや、人が……」 ついさっきまで少なくない数の人たちが周囲にいたのに、気付けば俺とマリィ以外の誰もいない。例のカップルも、いつの間にやら消えている。 「…………」 全身の毛穴が開くようなこの感覚。ギリギリとわずかずつ、首を圧迫してくる鈍い痛み。 もしや、これは…… 「マリィ、すまない。話の続きは、また後でしよう」 言って、俺は彼女の肩を抱き寄せた。 「本当に悪い。出来るだけこうやって、表に出してやりたかったんだけど」 彼女は、言わば幽霊のような存在だ。こうして触れ合い、会話できるのも、俺が“形成”によって〈現身〉《うつしみ》を保っているからにすぎない。 その形態を、〈今〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈物〉《 、》〈に〉《 、》〈変〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》〈必〉《 、》〈要〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。 なぜなら―― そして奴等を〈斃〉《たお》すために―― そして生き残るために―― 「マリィ、いいよな?」 一旦“形成”を解き、彼女を俺の中に戻す。おそらく強く念じれば可能なことだろうけど、それに同意が欲しかった。 マリィは、じっと俺の目を見つめて…… 「うん。いいよ」 微笑んで頷くと同時に、その姿がかき消えた。同時、右腕には重量感。今この部位に、彼女が宿っているという感覚。 俺は、一つ深呼吸をして立ち上がった。 「出て来いよ」 マリィを戻したからだろうか、より強く周囲の気配を感じられる。 ここはもう、さっきまで人が溢れていた広場なんかじゃ断じてない。息をするだけで体力を消耗するような、殺気に満ちた戦場―― 「少しはやれるようになったか、ガキ」 その殺意が、頭上から降ってきた。 咄嗟に後方へ飛び退る。さっきまで俺が立っていた場所を、見えない何かが砕いていた。舗装された地面が〈穿〉《うが》たれ、深い穴が空いている。 それはまるで、杭を打ち込まれたかのように―― 「眼を開け。肌で感じろ。古い目玉は抉って捨てろや。今ならてめえにも見えるだろう」 嘲笑まじりの口調と声には聞き覚えがある。――いや、こいつの声を忘れるなんて、俺には無理な相談だ。 そうか、狙いとズレたが、来たのはおまえか。 「……ヴィルヘルム」 それはあの時とまったく同じ、全身から陽炎のような鬼気を立ち昇らせて笑う白貌の怪物。 だが、俺はあの時と同じじゃない。以前は成す術もなく殺されかけた相手だが、今は戦うための武器と手段と、そして理由を持っている。 身構える俺を見据えるヴィルヘルムの〈双眸〉《そうぼう》は、サングラス越しにも分かるほど赤く赤く燃えていた。 歓喜と、そして愉悦の色に。 「てめえ、シュピーネを殺りやがったよなぁ」 「とりあえず、褒めてやる。これでちったぁマシな戦争になりそうじゃねえか」 その言い様には、仲間を殺された怒りや悲しみなど微塵もない。こいつらの人間関係などに興味はないが、どうやら復讐心は皆無のようだ。 「しかしまあ、実際情けない話だわなぁ。おまえみたいなガキに殺られたシュピーネも、最初の人捜しにハズレ掴まされ続けたこの俺も」 「なあ、よぉ、正味に欲求不満だぜ。おまえ責任取ってくれるか、オイ?」 ヴィルヘルムの右手が上がり、そこに凶念が集中する。これはさっきのやつと同じ―― 「試験だ。どの程度のもんか見てやるよ」 飛来してくる不可視の衝撃。――いや、これは見えないというわけじゃない。 目を開き、肌で感じ、古い目玉は抉って捨てろ。 〈識域〉《チャンネル》を切り替えて、常ならぬ視界に感覚を合わせれば―― 「―――――」 見える。分かる。捕捉できる。 これは杭。〈穿〉《うが》つ牙。ヴィルヘルムの持つ聖遺物―― 今度は勘でもなんでもなく、目で見て躱すことに成功した。常人には不可視であっても、今の俺に活動位階は通じない。 「――ハッハァ」 「―――――ッ」 杭の嵐から一拍遅れて、間を詰めてきたヴィルヘルム。右の一撃を躱すと同時に、跳ね上がった左の踵が側頭部へ迫ってきた。 それは以前を凌駕する速さの攻撃。もしもあの時のままの俺だったら、今ので三度は殺されていたことだろう。 だが…… 「ほぉ、やるねえ。たいしたもんだ」 ガードした腕は痺れ、感覚を失っている。こめかみに爆発が起きたような衝撃だったが、それでも俺は意識を保ったまま立っている。 舗装された地面を砕き、大樹をへし折り、鉄柵すら削り飛ばすヴィルヘルムの攻撃は、普通の人間が防御できるようなものじゃないにも拘わらず―― つまり、これで答えが出た。シュピーネを相手にした時はいまいち実感を持てなかったが、もはや疑う余地もない。 「その丈夫さから見る限り、どうやら形成位階までいったらしいな」 すでにこの身体は、奴等と同じく人の規格から外れているということを。 「いいねぇ、そそるぜ、堪んねえ。戦はこうでなくちゃあつまらねぇ」 「てめえも出せよ、見せてみろ。これまで待っててやったんだ、さぞかしいい具合に育ってんだろォ」 「チンタラ素手でやり合ってても、俺は聖遺物以外じゃ殺れねえぞ」 狂喜するヴィルヘルムに呼応していくかのように、首と右腕が疼きだす。無垢なマリィとは裏腹に、あのギロチンそのものは殺意と怨念の塊だ。“同類”が発する気配を感じとり、内から音を立てて俺の身体を組み替えていく。 しかし、そんな暴走を許しはしない。このまましっかりと手綱を握り、正気のまま使いこなす。それを可能にしなければ、こいつを〈斃〉《たお》すことなど出来ないだろう。自分を見失わずに理性を保てば、決して勝てない相手じゃないはずだ。 と、強く俺は思っていたが―― 「前にも自重しろと言ったはずだが、ベイ中尉」 それはあくまで一対一の場合の話で、この状況だと難しくなる。 「櫻井……」 こいつの登場により二対一。予想しなかったわけじゃないが、事態はより剣呑な〈様相〉《ようそう》を帯びていく。 「よぉレオン、てめえすっこんでいやがれよ。このガキは俺の獲物だ、渡さねえ」 「…………」 「もう鬼ごっこは終わったんだ。クリストフがてめえに渡した指揮権なんざ、今は何の意味もないんだぜ」 「分かっている」 「だが、その猊下からの新たな命令を忘れたのか? おまえに任せたら殺すだろう」 〈侮蔑〉《ぶべつ》するように言ってから、櫻井は俺の方へと向き直った。 「こんばんは、藤井君。一応訊いておくんだけど、今から私たちについてくる気はあるかしら?」 「……何?」 こいつは何を言っている。一瞬言葉の意味が分からずに困惑したが、ついてくるかとは、いったいどういう…… 「聖餐杯猊下が会いたがっている。今夜の私たちは、あなたを彼のところへ連れて行くのが仕事なの」 「セイサンハイ……だと?」 それは確かシュピーネが言っていた、現状におけるこいつらの頭の名だ。そいつのもとへ来いということは、つまり本拠地までついてこいと言いたいのか。ふざけるなよ。 「抵抗しなければ危害は加えないと約束するけど」 「アホらしい。もう止めろやレオン」 「危害を加えるだの加えないだの、そういう問題じゃねえんだよ。こいつは俺らとやり合う気だ。言うことなんか聞きやしねえ」 「だからよ、連れていくならブチのめすしかねえだろうが」 「…………」 肯定するのは〈癪〉《しゃく》だったが、確かにヴィルヘルムの言う通り。俺にこいつらの申し出を呑む気はない。 加え、圧倒的不利なこの状況にわずかな光も見えてきた。俺を積極的に殺す気がないのなら、そこに付け込まない道理はない。 それに、そもそも…… 「おまえら、さっきまでここにいた奴等を何処にやった?」 「あぁ?」 「殺したのか?」 「いいえ、そんなことはしていない」 「あなたを刺激しないように、ただの人払いをしただけよ。それをもって、こちらの誠意を汲んでくれると助かるけど」 「どうやら、聞く耳持たないようね」 櫻井の目が細まる。こいつの実力は未知数だが、少なくとも甘く見れる相手じゃないのは確かだろう。正直、女とやり合うのは苦手なんだが、そうも言っていられない。 「コラ、すっこんでろっつったのが聞こえなかったのか、てめえはよ」 「そっちこそ、猊下の命令を守る気があるのかないのか、はっきりしてほしいんだが……」 「このまま言い合ったところで平行線だ。早い者勝ちで納得しろ」 「面白ぇ……」 せせら笑うヴィルヘルムと、憮然としたままの櫻井。まるで対照的なその二人が、同時に俺の方を見る。 「さっきも言ったけど藤井君、無駄な怪我をしたくなければ変な抵抗をしないでちょうだい」 「いいや、俺は歓迎だぜ。てめえも男なら血反吐はいて足掻き倒せや」 まず、初撃はヴィルヘルム。さっきよりも数倍早い一撃を、それこそ紙一重で回避する。 「武器は使うなよ、ベイ」 それとほぼまったく同時に、上から踵が落ちてきた。奴等の態度から連携はないと踏んでいたが、このタイミングには呆れるほど隙がない。 「ぐッ――」 なんとか腕で防いだが、重い衝撃が足の先にまで響き渡った。向こうが素手だからといってこちらもそれに付き合う義理はないが、今のように矢継ぎ早で攻められると形成する暇がない。 結果、俺も徒手のまま、防戦を強いられる形となった。攻め込んでくる二人は性格どおり、その攻撃も対照的だ。 すなわち―― 速さと腕力に物を言わせて、型を無視した獣めいたヴィルヘルムと―― 嫌になるくらい的確で、格闘の教科書じみた動きをする櫻井―― 前者の大振りを補うように、後者がコンパクトに攻めてくる。これでは反撃するチャンスがない。 このまま続けてもジリ貧だ。未だ直撃は受けていないが、いずれ体力を削られる。だったら今、ここしかない。 櫻井の蹴りを、避けずに真っ向から受け止める。どちらか一方をあえて受けなければ反撃出来ないというのなら、そこに選択の余地はない。少なくともこいつの技は、一発食らったからといって即戦闘不能にはならないはず―― 「―――ッ」 思いのほかキツかったが、鳩尾に受けた蹴りはやはり内臓を潰されるほどでもなかった。俺の身体が以前より丈夫になっていることを差し引いても、殺す気はないと言った櫻井の台詞はどうやら真実だったらしい。 その足首を掴み、引き寄せる。 今、三人は一直線に並んでおり、この角度ならヴィルヘルムは攻撃できない。 取った―― 「阿呆が――ッ」 「―――――ッ!?」 だというのにヴィルヘルムは、お構いなしに攻めてきた。こいつ、まさか櫻井ごと撃ちぬく気か? 「――――ッ」 危険を察知した櫻井が、足を掴まれたまま身を捻るが一瞬遅い。迫り来る凶腕が彼女の胸を貫いて、俺の顔面へ伸びてくる様を幻視したその刹那―― 本当に間一髪で、その未来は回避された。俺に足を掴まれたまま旋転した櫻井が、もう片方の足でヴィルヘルムを蹴り飛ばしたことも、それによって三者が弾けるように離れたことも、今は特筆すべきことじゃない。 あの一瞬、轟いた銃声。俺と櫻井の身を救ったのは、つまるところそれだった。 「てめえ……」 立ち上がったヴィルヘルムからは、薄笑いが消えている。口調こそ静かなものの、激怒しているのは明白だった。 それは無論、櫻井に蹴られたせいでも俺を仕留め損なったせいでもない。 その原因を作った一発。歯で噛み止めた弾丸を吐き捨てて、軋るような声を立てる。 「クソガキがぁ……てめえよっぽど死にたいらしいな」 いつの間にか俺の背後に、背中合わせで〈佇〉《ただず》んでいる遊佐司狼。ヴィルヘルムの怒気を意にも介さず、こいつは〈飄々〉《ひょうひょう》と笑っていた。 「おーおー、相変わらず丈夫な歯ぁしてるな、おまえ。実は小魚とか好きなんだろ」 舐めくさったその返答には、微塵も恐怖心が伺えない。この馬鹿、あれほど関わるなと言ったのに…… 「おまえ……」 「よぅ蓮、今のはちぃーっと危なかったんじゃねえの実際。そのへん、オレに感謝の言葉とかないのかよ」 「…………」 「なあ、そっちの姉ちゃん、おまえもだよ。日本人なら礼儀正しく行こうや、お互い」 「別におまえを助ける気なんかなかったけど、結果的にそうなったんだから何か言うことがあるんじゃねーの?」 「…………」 櫻井もまた、俺と同じく無言で司狼の馬鹿げた放言を聞いている。 呆れているのか、困惑しているのか、あるいはその両方か…… 正直、俺自身も分からないが…… 「まあとにかく、これで二対二っていうことだよな」 今はっきりしていることといえば、こいつがこの戦いに首を突っ込んできたという事実だけ。 こうなったからには、もう後には戻れない。俺が何を言おうと退かないだろうし、そもそも奴等が退かせない。 「馬鹿が…」 おまえはほんとにアホだ。好きこのんでこんな修羅場に絡むなんて、今さらながら正気の沙汰とは思えない。 だから、無駄と知りつつも言ってしまう。 「帰れよ、司狼」 今すぐ戻れ。頼むから―― 「嫌だね、さっきも言ったろうが」 「オレが動くのを、おまえに止められる覚えはねえよ」 「…………」 「あんま束縛キツすぎると、人間関係上手くいかんぜ。バカスミにしろオレにしろ、おまえの都合に合わせて生きてるわけじゃねえんだし」 「おまえにとっちゃあ人生主役はおまえだろうが、オレにとっちゃあオレが主役だ。脇役の言うことなんか聞かねえっての」 「なあ、そうだろうが違うかよ」 司狼の問いに、俺は無言のまま答えない。 代わりに、声をあげたのはヴィルヘルム。 「よぉ、てめえさっきから、何好き勝手なことペラまわしてやがる」 「いきなり出てきて、気持ちよくラリってんじゃねえぞ小僧が」 「うるせえ、黙れ」 同時に、轟音。 一発、二発、そして三発。問答無用と言わんばかりに、司狼の銃が火を噴いた。 「こっちが話してる最中だろうが、口〈挿〉《はさ》むなよ白髪野郎」 「…………」 相変わらず、こいつは恐れというものを知らない。再度、人に向けて〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく発砲したことといい、前よりイカレ具合が増している。 ……だが、とはいえ、今回ばかりは相手が悪い。 「……おい、進歩のねえガキだな、おまえも」 呆れというより、鬱陶しいといった風情で撃たれた胸を払うヴィルヘルム。ひしゃげた弾丸が音を立てて、舗装された地面に落ちた。 「前にも言ったろ、学習しろや劣等人種」 そう、奴等に銃など通用しない。これでおまえも分かったろう。 「一緒に戦ってくれなんて頼んでない。悪いことは言わないから、早く逃げろよ」 「まったく……つれないねえ。どいつもこいつも」 なのにこいつは、未だこの状況でも笑っていた。 「なあ蓮、あいつオレにやらせろよ。チンピラはチンピラ同士、優等生は優等生同士……おまえ、女丸め込むの得意だろ?」 何を根拠に、そんなことを言っているのか……そのトボケた余裕はどこからくるのか。 「二対二でちょうどいい。オレはあいつで、おまえは――」 櫻井。 確かに今日の目的はこいつを〈斃〉《たお》すことだったが、ヴィルヘルムは洒落が通用する相手じゃない。 迷惑なんだよ。おまえの心配なんかしちゃいないが、それでも勝手に死なれた日には、香純になんて言えばいいというんだ。 「つまらないわね」 だがそんな俺の葛藤を、一蹴するような櫻井の声。 「もう手遅れよ。だって――」 「今さら逃がすとでも思ってんのか、これも前に言ったよなぁ」 「俺を攻撃した以上、次なんかねえ」 すでに〈賽〉《さい》は投げられている。退くことなど出来やしない。 ならせめて、どちらか一人を二対一で潰してしまうのが最善の策だろう。時間はかけられない。一瞬で。可能ならば強い方――つまりヴィルヘルムを叩き潰す。 そしてそのためには、ツレとの完璧な意思疎通が必要なのだが…… 「ところで、今月の星占いにあったんだけどよ」 「オレってほら、魚座じゃん? どーも蟹座と相性いいらしいのよ」 「…………」 こいつが何を考えてるのか、俺にはまるで分からない。 「おまえ、何座だったっけ?」 「…………」 「動物系だっけ? 物系だっけ? つーかおい、ノリ悪いんだよさっきから」 「おまえもしかして、ギョーザとかヤクザとかブリザード級のギャグ言おうとしてるんじゃないだろうな」 「……んなワケないだろ」 あまりにふざけた物言いに、頭痛どころか目眩を覚える。 ああ、やっぱりこいつ、死んだ方がいいかもしれない。俺は深くため息をつき、背中越しの馬鹿に告げた。 「フォローなんか期待するなよ」 「そりゃオレの台詞だっつの」 まったく、ほんとに、なんで今さらこいつと肩を並べなければならないのか。もう会うこともないと思っていたのに、腐れ縁にもほどがある。 「喧嘩のケリは、どっちがこれに生き残るかで着けようや」 それはまるで、どちらかが死ぬような言い草だったが…… 「じゃあ、てめえらよ――」 ヴィルヘルムの右手から、刹那禍々しい波動が〈迸〉《ほとばし》る。 聖遺物の“活動”。形成しないがゆえに不可視のそれは、少なくとも司狼の目に捉えられるものじゃない。 「揃って死ね」 虫でも捻るような気軽い調子で、見えない杭が俺たちを串刺しにせんと放たれた。 「――――――」 驚愕は、その直後。 司狼を突き飛ばそうとした俺の手が、空を切ったという事実。 こいつは今の俺より早く、この攻撃に反応していた。 「舐めすぎだろ、おまえ」 のみならず、ヴィルヘルムのこめかみに銃を突きつけていたということ。 そしてトリガー。 「―――――」 その早業に、櫻井が〈瞠目〉《どうもく》していた。俺も呆気に取られて二の句が継げない。 ただの人間でしかない司狼が、聖遺物の攻撃を躱しヴィルヘルムの間合いに入り、ゼロ距離からの発砲を成功させたという異常。 無論、それは致命打でもなんでもないが、有り得ないにも程がある。 「あなた……何?」 「あん? 見て分かるだろ、ただの通りすがりのイケメンだよ」 さっきまで場違いな〈闖入者〉《ちんにゅうしゃ》でしかなかった司狼が、今ではこの場でもっとも異彩を放っていた。デザートイーグルの連射を至近から受けたヴィルヘルムは、負傷こそしてないものの流石に数歩後ろに退いている。 「…………」 「へえ、なんだよ。意外に色男なんだな、おまえ」 サングラスを砕かれて素顔を〈晒〉《さら》したヴィルヘルムは、無言のうえに無表情。司狼の挑発にも反応せず、じっとその顔を見つめている。 そして、ボソリと。 「レオン――」 「気が変わった。そっちのガキはおまえがやれ」 「…………」 「……分かった」 「話は〈纏〉《まと》まったみたいだな。つーことだとよ、蓮」 「…………」 「んな顔すんなよ、さっきの見たろ?」 「オレもまあ、そう捨てたもんじゃねえんだからさ」 「……みたいだな」 理屈はまるで分からないが、どうやらこいつもマトモじゃない。少なくとも、二ヶ月前のあの時とは、まるで別人だと考えていいだろう。 「じゃあ、そういうことで――」 俺は櫻井、司狼はヴィルヘルム。期せずして生じた乱戦は、その展開へと〈雪崩〉《なだ》れ込んだ。  そしてヴィルヘルム・エーレンブルグは考える。  無頼、無双を地でいく性格の彼ではあるが、こと戦いに関してはシビアな目を持っていた。自惚れ屋ではあるものの、それが原因で窮地に立たされたことは一度もない。  ゆえに今、腸が煮えくり返る怒りを覚えながらも、冷静に眼前の相手を分析している。この少年は紛れもなく人間だと。  魔道を修めた者特有の、陰惨な匂いを感じない。  では、いったい―― 「まあ何にせよ、クリストフとやり合って命拾ったのは伊達じゃねえっていうわけか」  面白い。ただの雑魚かと思っていたが、予想外に楽しめそうだ。  猛獣であれ卒倒しかねない視線の凶光を浴びてなお、司狼は悠然と笑っている。もとから剛胆な性格ということもあるだろうが、ヴィルヘルムは否と断じた。それだけで説明がつく鈍さではない。  いくらか運動能力が優れているのは認めよう。切った張ったに慣れているのも見れば分かる。  だがしかしそれだけに、こいつは分かっているはずだ。彼我の間に存在する絶望的なまでの戦力差を。自分は勝てないということを。  恐怖、焦燥、緊張感……生物なら持って然るべき危機回避本能が壊れているとしか思えない。  一種の窮鼠と言える状態で、こいつはそれを楽しんでいる。 「そうか……なるほど、そういうことかい」  ならば導き出される答えは一つ。これはある種の暴走だ。壊れることを前提に、性能限界を振り絞っている片道燃料。〈脳内〉《コクピット》にはベルトもパラシュートも存在しない。  不感の兵士――それは昔も、そして今も、常に試みられてきた理想の一つだ。ゆえに当然、ヴィルヘルムにとっても未知の存在というわけではない。 「ふん、随分と懐かしいじゃねえかよ、おい」 「これも〈水星〉《ヤロウ》のふざけた遊びか、それともただの偶然か……まあ、どっちでも構わねえがよ。 何が原因でそうなったにしろ、おまえもう長くないぜ」  痛覚遮断にしろ五感増幅にしろ、それらを成す脳内麻薬はおしなべて劇薬である。通常は生命危機のごく刹那にのみ発揮されるその力が、加減知らずのだだ漏れ状態になっているのだと仮定すれば…… 「死相が見えるぜ、ガキ。そうなって生き残った奴はいねえ」 「ああ、だから?」  どうでもいい。知ったことじゃない。司狼は鼻で笑い飛ばした。 「そんなの今は関係ねえさ。分かってるのは、おまえら変態相手にしても、オレはある程度遊べるってこと」 「いや、もしかしたら殺れるかもしれねえぞ」 「カッ――」  傲慢。戯言。身の程知らずにも程がある。だがハッタリでも、それを口に出来るだけ大したものだ。悪くない。 「馬鹿が――吹きやがるぜクソガキが。笑わせてくれるよ面白ぇ」 「ああ、そりゃよかったよ中尉殿。マジで暴れんのは久しぶりで、調子でねえなら手加減しようか?」 「はははは――なんだおまえ、日和った俺とやり合いてえのか?」 「まさか、馬鹿こけ」  愚問とばかりに一笑して、司狼のコートが翻った。 「さっき、蓮の奴は強い方から潰そうと考えてたみたいだが、そりゃ違うよな。ゴチャマンするときゃ、まず弱い奴を潰すんだよ。確実に消せるところから消していく。つまり――」 「つまり?」  言うまでもない。そのためにこの組み合わせが生まれたのだ。 「あのガキがレオンを殺るまでの間、おまえは俺の足止めか? ははは、なるほど。意外に目端が利くじゃねえかよ。 だが、正直あの坊ちゃんに、女を殺せるかどうかは疑問だぜ。なにせ猿同士、ガキ同士、共感するところもあるだろうしな」 「まあそりゃ、実際怪しいとこだが。あいつはあれで、結構容赦ない性格もしてるんだよ。場合によっちゃあ、ガキでも遠慮なんかしやしねえよ。 それに、そもそも――」  闇夜に黒光りするデザートイーグル。重量2kgに達する世界最強の拳銃を左手一本で回しながら、司狼は愉快げに放言した。 「オレは一言も、おまえが強い方だとは言ってないぜ」  同時に、視界を漂白するマズルフラッシュと耳を聾する轟音が炸裂した。それは射撃の基礎もセオリーも一切無視した、曲撃ちと言って構わないデタラメな発砲だ。大口径の銃でこんな真似をしようものなら、普通は狙い云々よりもまず射手の手首が破壊される。  だが―― 「それなら訊くが、一番弱ぇのは誰だよ小僧」  すべての弾丸はヴィルヘルムの正中線、眉間から心臓にかける急所へと一分の狂いもなく飛来していた。問題があるとすれば、そのことごとくが素手で掴み取られたという事実。  ひしゃげた銃弾をバラバラと落としながら、彼はくだらなげに言ってのける。 「今さらこんなもんは、挨拶代わりにもならねえぞ。何か手があるならさっさと見せな。いくらか丈夫で鈍感ってだけの奴が、他に芸もなく俺の前に立ったってんなら、おまえ……」  言いつつ、ゆらりとヴィルヘルムの身体が揺らぐ。  その弛緩した姿勢と動作は、まさしく獲物に喰いかかる狩猟動物のそれ―― 「死んじまうぜェッ!」  繰り出された一撃に容赦はない。人の規格を遥かに上回る怪力と速度を乗せた、〈活動位階〉《このじょうたい》における手加減なしの本気である。  つまり、これをどう凌ぐかが分水嶺。常人ならば絶対に対処できず、一撃のもとに死ぬしかない。  ゆえに、もしも数瞬後生きていれば、眼前の相手は最低限超人と言って構わない。  そして、そうであるのなら――この場で喰うに値すると。  危険極まりないそのテストを、司狼は見事応じてのけた。  人間の腕力、耐久力、反射神経では、受けも回避も不能な致死の一撃。彼はそれを、まったく別の方法で凌いだのだ。  身体ごと躱す暇など存在せず、そもそも並みの神経では恐怖で指一本動かせない。  ゆえに、危機感の欠落した司狼をしても、出来たことは迫る凶腕の外側を銃把で殴りつけるだけだった。形としては捌きに近いが、軌道を変えることなどまず不可能。一見、何の意味もない足掻きに見えたが――  しかし、それで問題ない。攻撃を逸らすことは出来なくても、要はどう直撃を避ければよいかという話だから。  大型車両の突進に等しい威力と接触したことにより、司狼は真横に飛ばされていた。つまり、攻撃そのものではなく、自分自身を弾かせる。 「ほぉ……」  思いも寄らなかった回避の仕方に、感嘆の吐息を漏らすヴィルヘルム。  無論、無傷では有り得まい。よくて脱臼。悪くすれば骨が粉々に砕け散ろう。  だがそれでも、最小の被害で切り抜けたことに変わりはなく、そしておそらくこの相手は、その程度の傷に頓着などしないはず。  間を置かず、弾き飛ばされながらも撃ち出された銃弾が、それを雄弁に語っていた。もはや間違いなく、司狼は痛みを感じていない。 「くく、くくくくく……」  それを躱しもせずに受け止めて、小気味よい痺れがヴィルヘルムの全身に流れる。熾火のような双眸が赤く危険に揺らめきだし、犬歯が徐々に伸びはじめる。  そつなく着地を決め、立ち上がった司狼は苦笑した。 「おっかねえな。スイッチ入っちまったみてえじゃねえの」  そう、結果として彼の行動は、自らの首を絞めたにすぎない。先の攻防は賞賛に値するが、あれで死んでいたほうがマシだったかもしれないのだ。  なぜなら―― 「いいぞ。おまえ、悪くねえ」  この男をその気にさせてしまった者は、大半が死よりも惨たらしい結末を迎える。 「ギリギリ合格ってことにしてやろう。おまえの魂、俺が吸うに値すると認めてやる」  彼は暴虐のカズィクル・ベイ。文字通り血に飢えた鬼なのだ。 「誇れや、小僧。ただの人間相手にタイマンで、これ使うのは三十年ぶりくらいだよ。名乗りな、覚えといてやる」  ギチギチと、ギチギチと、空気が軋み、ひび割れていく。何か途轍もなく不吉なものが、ここに形を成そうとしている。  噴き上がる凶念の陽炎。辺りを覆い尽くしていく血の匂い。  胃の内容物を全て吐き出しかねない瘴気の中で、司狼は言った。鷹揚に。 「遊佐司狼ってんだ。忘れていいぜ。 どうせおまえ、すぐにくたばっちまうんだからよ」 「ははははははははははははははははは―――」  爆発する大笑が衝撃となり、舗装ブロックを粉砕して周囲の街灯までもを破壊した。身をよじりながら弾け笑うヴィルヘルムは、決してこの手の獲物が嫌いではない。  ああ、吠えろ粋がり跳ね返れ。俺に吸い尽くされる瞬間まで、鮮度を維持し続けろ。  萎えさせるなよ、頼むから。 「俺が死ぬだと?」 「ああ、死相が見えるぜ」 「カハッ――」  そのとき、バレェダンサーとしても通用しそうな、均整の取れた身体が歪んだ。盛り上がり、波打って、アメーバのように蠢動しだす。  まるで体内の血液が、意志を持っているかのように。 「ならそりゃ外れだ。〈夜〉《 、》〈の〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈な〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》。 死なせてくれねえんだよ。“こいつら”がな」  同時に、その“血”が爆発した。  それは発芽とでも言うべきか。人体を苗床に生えてくる奇形の植物。  しかし葉もなければ花もなく、実もなければ樹液もない。  その内部には、ただ凶気。鼓動と共に蠢いている殺意の延長であり牙の具現だ。 「こりゃ、また……」  さすがの司狼も言葉が出ない。呆れていると言っていい。  ヴィルヘルムを中心に、粉砕された舗装ブロックがさらに砂と化していく。点滅していた街灯が、やがて片端から消えていく。  まさに枯渇。搾取。略奪――“アレ”は水や電力に至るまで、ありとあらゆる命を吸い取り、反転させる〈邪悪の樹〉《クリフォト》だ。  無機物でさえその様である。もしも生体がアレを食らえば、どうなるかなど今さら言うまでもないだろう。 「一つ、忠告してやるよ」  もはや粘度さえ覚える血臭を全身に纏い付かせ、しかし声は対照的に優しげだった。  そして、それだけに続く言葉は、何の衒いもない真実だと司狼は即座に理解する。 「こうなると手加減できねえ。滾りだすんだよ、こいつらが、よォッ――!」  爆砕――まさしく目の前で砲弾が炸裂したかのごとき轟音が迸った。 「――――ッ」  見えない。何も感知できない。先ほど聴いた音でさえ、実のところ初撃を味わった後に認識したということを、司狼はしっかりと弁えていた。  つまり、ここで彼がとった行動は、完全な反射であり意識の埒外で成した超反応。  いや、正確には事前の立ち回りが抜け目なく、ゆえに計算ずくの行為であったとも言えるだろう。ただ計算外だったのは、発生した驚異の質が見積もりより度外れて上だったこと。  咄嗟の遮蔽物代わりに使った自販機が、煙草の空き箱同然にひしゃげていた。のみならず、吹き飛ぶその質量が凶器となって司狼の半身に激突する。  それだけではない。  視界を覆う鉄塊を貫いて、突き出てくる血塗れの杭―― 「―――づぉォッ」  苦鳴。紛れもない苦痛の呻きを司狼はあげた。直撃でこそないものの、杭の先端が彼の脇腹を削っている。 「痛ぇか? 痛ぇだろ――嬉し涙流せやオラァッ!」  自販機ごと蹴り飛ばした獲物を追い、さらに上から拳を撃ち込む。下敷きと串刺しの運命から司狼が脱出できたのは、彼の運動神経が常人を優越しているからこそ可能だった曲芸にすぎない。それを考慮しても奇跡としか言えない際どさ。  滑り出ながら片手一本でバク転すると、司狼は後退して距離をとる。それを追って杭が飛ぶ。  最初の一発目は勘だった。続く二発目は運だった。形成したことで視認可能になったとはいえ、そもそも速さが動体視力を超えている。ならば見えないことに変わりはなく、威力が倍増しになっている分その危険度は比較にならない。  だが――  それでも――  躱す。避ける。当たらない。 「ハッ―――」  じりじりと痺れる灼熱。込み上げてくる悪寒と戦慄。かすり傷に等しい脇腹の疵痕が、脱臼している肘関節の数億倍は狂おしい。  それは物質でなく、霊質に牙を突き立てた魔の領域にある激痛成分。魂を犯して喰らう呪いの武装は、痛点の有無に関係なく対象を蝕んでいく。  無論、司狼はそんな理など知らないし理解もしてない。  分かっているのは――いや、思っていることは一つだけだ。  ただ、腹を抱えて爆笑したい。  痛い。怖い。嬉しい。楽しい――そして嘆かわしく激怒する。  喜怒哀楽の一切が、笑いという形でしか表現できない。 「はははッ――またかよ? 面白ぇよ洒落じゃねえよ」  異常がそこに展開していた。すでに三桁を超えている必殺の牙が、常人なら百度は殺している猛撃が、ことごとく空を切って命中しない。  槍衾に等しく襲いかかる杭の弾雨。その総てを、司狼は前進しながら躱しだした。 「―――――」  それにヴィルヘルムは瞠目する。彼ならずとも、誰もが目を剥くしかないだろう。  司狼は遅い。速くはない。少なくとも機銃の弾幕に等しいこの嵐を、見て躱せるほどの身体能力は持っていない。  ではなぜ、こんな真似が可能なのか? 「勘だよ」  違う。そんな幸運を百単位で連続できるはずなどない。 「今日もいい感じでよく外れてるよ。笑っちゃうな、おい」  苦笑気味のそんなぼやきは、ヴィルヘルムのすぐ目の前で漏らされていた。  一切被弾を許さぬまま、ここまで自分に接近できた男を彼は知らない。  八十年以上に及ぶ殺人の遍歴で、初めて体験する異常事態だ。 「まあ、オレはオレで色々あんのさ。 〈ど〉《 、》〈の〉《 、》〈選〉《 、》〈択〉《 、》〈肢〉《 、》〈選〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》、〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈か〉《 、》〈早〉《 、》〈々〉《 、》〈死〉《 、》〈な〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」  ぽん、とまるで友人を労うような気安さで、司狼はヴィルヘルムの胸を叩いた。  ついで、悪戯を見咎められた子供のように破顔する。 「つっても、今たまたまそのモードに入ったっつうだけだけどな。四六時中ってわけじゃないんだぜ? だから、ショック受けんなよ中尉殿。別にあんたがショボいとかいうわけじゃねえんだしよ」  瞬間――  まとわりつく羽虫を払うかのような一振りで、司狼はいとも簡単に飛ばされた。先ほどまでのことが嘘のように、今はただの人間相当に脆さと鈍さを露呈している。 「…………」  分からない。なんだこの男は、理解不能。  強いのか、弱いのか。冗談なのか、本気なのか。不可解ながらも、しかしそれに耽れるような精神状態ではない。 「てめえ……」  怒りが、恥辱が、そして歓喜が……武器の形成に伴い単純な思考しか出来なくなっていることを差し引いても、彼に疑問の追求を放棄させた。  血が踊る。胸が高鳴る。この奇怪な獲物を前にして、カズィクル・ベイは狂乱せずにいられない。 「いいぞ」  いいぞ最高だ。溢れ出る激情に舌がもつれ、欲情するように声が震えた。  貴様は何を置いても俺が喰う―― 「とまあ、せっかくノってきたとこ悪ぃけどよ」  倒れたまま上体だけを起こした司狼は、ウィンクしつつ嘯いた。 「ジ・エンド――ばいばい」  轟音と共に、銃弾は一直線に胸元へ、心臓目掛けて放たれる。  無論、そんなものに意味はない。弾丸ごときで黒円卓の騎士は傷を負わない。  だが――  つい先ほど、司狼はその部位に触れていた。そしてヴィルヘルムはその意味を確かめなかった。  それが次の瞬間に、二つの異常を発生させることになる。 俺と櫻井はタワー前の広場を駆け抜け、隣接する諏訪原大橋――その袂にまでやってきていた。 それはこいつに誘導された結果と言っていい。司狼と引き離されるのは避けようと思っていたにも関わらず、絶妙としか言いようのない立ち回りで知らずここまで連れてこられた。歯噛みするが、もう遅い。 「司狼……」 大丈夫なのか、あの馬鹿は。妙な自信も伊達じゃないのはこの目で見たが、それでもあいつにヴィルヘルムは斃せまい。適当に逃げてくれりゃあいいんだが、そんな奴じゃないのも腹立たしいことによく知っている。 「落ち着きがないのね、相変わらず」 嘆息気味に漏らす櫻井。俺を焦らせている張本人が、他人事のような声で言う。 「別に他意があったわけじゃないわよ。ただ私が、戦ってるベイに近寄りたくなかっただけ」 「まあ、それであなたの友達がどうなるかは知らないけど」 「一応、もう一度だけ訊くわね藤井君。大人しくついてくる気、ある?」 「……そう」 俺の目を見て意を察したのか、櫻井は軽く微笑し、 「じゃあ、始めようか」 そのまま、瞬時に間を詰めてきた。 「―――――ッ」 速ぇッ!? 「さっきは手加減していたの」 地面を滑るような低空から、かち上げるような蹴りが鳩尾へ――両腕を交差してガードしたが、俺の身体が宙に浮く。 そこへ追い打ちをかけてくる右の拳。まともに食らって吹っ飛ばされた。 「……頑丈」 ちくしょう。女に殴り飛ばされるなんて初めての経験だぞ。場合によっちゃ喜ぶ奴もいるんだろうが、俺にそんな趣味はない。 「……つーか、女のパンチじゃねえよ」 顎が馬鹿になっている。鉄板さえ貫きそうな威力を感じた。 やはりこいつも、〈黒円卓〉《やつら》の一員。 人を容易く殺せる力を持ち、それを行使することに一切の躊躇がない。 「女と殴り合うのは主義に反する?」 「……いいや」 おまえを世間一般の女と一緒になんかしていない。 「じゃあ、かかってきなさいよ。私、男の人のプライド折るのはあまり好きじゃないけれど」 「あなたは、ちょっといじめたいわね」 「がッ――」 同時に、再度踏み込んできた櫻井の肘が腹にめり込む。そのまま俺の襟を掴み、アッパーでかち上げながら背負い投げ。 背中を強打して息が詰まり、後頭部を打って目が眩む。視界の黒は、しかしそのせいなんかじゃなく―― 顔面に落とされた軍靴に踏み潰される寸前で、首を捻って回避した。鈍い音を立ててアスファルトに亀裂が走り、衝撃で再び身体が浮き上がる。 その瞬間に、櫻井は俺を振り回して放り投げた。 「――――ッ」 鉄骨に叩き付けられ、痛みが全身を走り抜ける。それを実感しながらも、かつてこいつに言われたことを俺は同時に思い出してた。 ――“これくらいじゃあ、痛いなんて思えない”―― 痛覚は危険信号。コンクリートに腕がめり込んでも平気だったこの俺が、今は激痛を感じている。それはすなわち、櫻井の攻撃が脅威に他ならない証だろう。 そうだ。 こいつは凶器だ。 人を殺せる。 あのときのように。 あいつのように。 存在そのものが〈常識〉《せかい》を歪めている不条理だ。 「ああ、そうだよな……」 ずり落ちる俺のもとへ、追撃を与えんと迫る櫻井。 確かに速い。速くて強い。強くそして恐ろしい。 だが俺も、今はそれと同じなんだろ? だったら、なあ――おまえはなんで、躊躇いなくこんなことがやれるんだよ。 「―――――」 「……喧嘩が強くて誇らしいか、櫻井」 迫る拳を掴み止めて、俺は言う。 「殺し合いに長けているのが自慢か、おまえ」 「こんなもん、何が楽しいんだ、おまえらは」 痛くて、怖くて、胸くそ悪くて――自分が絶対なりたくない姿に相手をさせてご満悦かよ。 それで何か、生きてる実感とやらでも感じるクチか? ふざけるなよ。 「その気になった?」 「否応無いだろ」 こいつは苦手だし、絡みづらい。妙に幾度か関わったせいもあり、やりにくい相手であるとは思っている。 だが、とはいえ、当初の目的を忘れてはいない。 俺は覚えている、あの日の怒りを。忘れていない、あの誓いを。 俺達の日常をぶち壊した連中に、それがどれだけ高くついたか、思い知らせなければならないんだ。 「学校が好きとか言ってたな」 もっと通いたいとか言ってたな。 「残念。無理だ諦めろ。二度とおまえは〈学校〉《あそこ》に行けない」 「あら、どうして?」 腕を掴み止められた状態のまま、どこか楽しげに言う櫻井。胸の決意を目に宿し、骨ごと握り潰す勢いで力を込めつつ、俺は答える。 言葉にしろ、この覚悟を。 「死ぬからだ」 瞬間、俺は腕を引き、渾身の力で櫻井を後方に投げ飛ばした。 「―――――」 その一投で、フェンスを突き破り夜の空へと吹き飛ぶ櫻井。我ながらデタラメな力だったが、それの是非に心を砕いてる場合じゃない。 自分が何者で、何が出来、何をしようとしているのか。その倫理や正邪云々――全部終わった後で好きなだけ悩めばいい。 俺は今、ただ単に、目の前の状況へ全力を尽くすだけだ。つまりこいつらとまったく同じ、救いようのないくそったれになればいい。 願わくは香純、そして氷室先輩――彼女ら2人に、今の俺を生涯封印できるように。 ああ、くそ、まったく、俺も立派な下種じゃねえかよ! 櫻井が突き破った噴出口から後を追い、俺も宙に身を投じる。真下の海面まで約二十メートル。さっきこいつがやったように、空中では身動きがとれない。 だが、にも関わらず櫻井は、苦もなく宙で反転した。いったいどういう体重移動の妙技なのか、なんの足場もない空間で、返しの蹴りまで放ってくる。 「―――ヅッ」 「さすが――」 何がだよ――舐めるんじゃねえ! 落下しながら俺達は、腕を、脚を、ぶつけ合う。しかし業腹なことにその応酬は、技量において櫻井の方が数枚上手だ。 だというのに―― 「凄い。やっぱり伊達じゃない。あなたこそが、藤井君――」 落下と高速の打ち合いで耳を聾する轟風の中、こいつの声は熱を帯び、賛美と興奮に燃えていた。何を嬉しがっているのか知らないが、海面まであと数メートル。 「あなたこそが〈黒円卓〉《わたしたち》の恋人――」 聞き捨てならない台詞と共に、上から落ちてきた蹴りが延髄目掛けて叩き込まれる。間一髪で防御したが、俺は海に落とされて盛大な水柱を噴き上げた。 「くぁァッ――」 不覚を取ったことに歯噛みしつつ、即座に浮かび上がって周囲を見まわす。あいつは、櫻井は何処に落ちた? 「凄いわ、本当に信じられない……」 「―――――」 信じられないのは、こっちの方だ。 「たった数日でこんなにも……自分がとんでもない無能に思えてくる」 櫻井は、海面の上に立っていた。台詞は意味不明な自虐だが、こいつこそ伊達じゃない。 女で、しかも俺と変わらない年齢で、六十年も戦い続けた奴らと肩を並べるだけはある。一種の天才というやつなのか。 「天才ね」 だから、こいつの言ってることがこれっぽっちも理解できず―― 「私が今のあなたくらいのものになるまで、何人殺して何年かけてきたか知らないでしょう。言っても分からないんでしょうね、きっと」 「ああ、なんだか少し、ベイ達の気持ちも分かってきた。あなた、とても腹が立つわ」 「―――――」 そして同時に、なぜか呼吸が困難になっていく。 圧迫感は相応に、身体が沈んでいくような重圧も確かにある。 だが、それとは別の次元で、純粋に酸素が不足しているような―― 「喧嘩が強くて誇らしいかって言ったわね」 「ええ、誇らしいわよ。だって私にはそれしかないもの」 櫻井の微笑は薄く、かつ透明で、そして何処か危うかった。 今までずっと、取り澄ました顔で可愛げのないことしか言ってこない奴だったが、それもあるいは仮面にすぎないものだったのか。 「あなたみたいに血が嫌いで、大事な人も傍にいて、好いて好かれて幸せね」 「私みたいなのを糾弾してれば、さぞかし英雄気分でしょうよ」 「そうやって、カッコイイ自分に酔ってればいい。私が現実を教えてあげる」 微かに俯き、滑稽だと肩を震わせる櫻井。その寒々しい笑顔のまま、叩き付けられたのはむき出しの感情だった。 「馬鹿らしいわ、あなた死んでよ」 「〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ス〉《 、》〈ワ〉《 、》〈ス〉《 、》〈チ〉《 、》〈カ〉《 、》〈も〉《 、》〈近〉《 、》〈い〉《 、》」 「〈首〉《 、》〈を〉《 、》〈持〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈行〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈あ〉《 、》〈げ〉《 、》〈る〉《 、》」 「――――ッ!?」 その瞬間に起きたことを、俺は即座に理解することが出来なかった。 ただ俺の視界は、再び空中。海面は遥か足下―― 「水蒸気、爆発……!?」 海の一部が沸騰している。白煙を噴き上げて、俺が最前までいた場所が地獄の釜と化していた。 馬鹿な、いったい、どれほどの高熱があの一瞬に発生したというんだッ? 「言ったでしょう、睨んで燃やせる敵がいたらどうするのって……」 その疑問は、しかしすぐに氷解した。 「隠れて後ろから殴ればいい? 無理よ。私そんなに鈍くないもの」 熱源は櫻井自身。あいつそのものが、原因不明の超高熱を発している。 いや、原因は分かりきっていることだろう。 「それが――」 上空から見下ろして俺は言う。 「ええ、これが――」 下から見上げて櫻井が言う。 「おまえの聖遺物――」「私の聖遺物――」 「――形成」 熱が凝縮して形を成し、櫻井の手に握られる。それはまさしく烈火の具現。 周囲の酸素を根こそぎ食らって燃える緋色の剣――なるほど確かに、急に息苦しくなったわけだ。そしてどうやら、何かあいつの逆鱗に触れたらしいが―― 「俺も言ったろ、おまえの都合なんか知ったことかよ」 気に食わないのはお互い様だ。俺が平和ボケだろうがなんだろうが、おまえら戦争中毒野郎にごちゃごちゃ言われる覚えはない。 「ほら、そうよ。そうやって、結局あなたも私と一緒」 「自分だけが一端に、愛と正義のヒーローだなんて思い上がるな! 世界はそんなに単純じゃないッ!」 落下する俺を迎え撃つ形で、下から剣が跳ね上がる。それを右腕で受け止めた。 響く音は金属音。骨肉を両断される音はなく、刃同士が激突した痺れが腕に浸透するだけだ。 「それが何よりの証拠――」 共に弾かれる俺と櫻井。あいつの戦意に呼応して、右腕の変形が始まりだす。敵を斬首するという渇望が、黒い断頭の刃となって形を成す。 「あなた戦いが好きでしょう? 実は血に酔えるでしょう? でないと到底〈融合型〉《そんなもの》、形になんか出来るはずない」 だから、おまえはごちゃごちゃと―― 「ワケ分かんねえこと、言ってんじゃねえッ!」 同時に俺は、〈海〉《 、》〈面〉《 、》〈を〉《 、》〈蹴〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 それは特殊な技術でも何でもない。ただ単純に、沈む前に足を出し続けているだけのこと。ある意味――いや、間違いなく魔法以上に強引な力技だが、どんな荒唐無稽なものでも理屈として認識できるということが、俺に余計な常識を捨てさせた。 ただ、自分には可能だと思うこと。意志の強さと自負の固さ。それが何より強大な力を生む起爆剤になり得ると、誰に教わることなく理解できる。 櫻井の敵意に研ぎあげられていくように、俺の戦意も尖鋭化していくのが感じられた。その鋭角的な感覚で、勝負を制するべく全身の目を凝らす。 海面を併走しながら繰り出す櫻井の剣筋は、速いがしかし読みやすい。嫌味な堅物かと思っていたが、どうやら香純並みの短気でもあるようだ。そしてそれはどっちにしろ、融通の利かない猪突猛進型ということだろう。 ならば――俺はどうするべきだ? 短気な奴を乗せて嵌めるのは慣れているはずだろう。 より怒らせるにはどうするか、そこを衝くには何を優先するべきか。 挙動? 言葉? それとも何だ? 俺はこいつと多少なりとも関わってきたはずだ、思い出せ。 無数の記憶と感情が溢れかえり、そして同時にごちゃ混ぜとなって渦を巻く。あれこれ考えているにも関わらず、核として芯にすべき戦法というやつをなぜかまったく生み出せない。 ただ暴力。そして飢え。 いったいなぜ、どうして今は―― ちくしょう、まるで頭が回らない。 「ふ―――」 こちらの一撃を軽い動作で躱しながら、失笑する櫻井の声が流れた。 「無理よ。だってあなた、そういうタイプみたいだから」 「さすがに、いきなりそこまでどうにか出来るほどじゃないのね、よかった」 「―――――」 分からない。こいつの言ってることを脳が言葉と認識しても、その意味を深く理解できていない。 ただ分かっているのは、俺の攻めもやはり一切届いていないという事実だけ。 いや待て―― もしかして櫻井以上に、俺は単調な攻め方しかしていないのか? 「よほど上手く飼い慣らすか、それとも手綱ごと手放すか」 「〈融合型〉《あなたたち》は、そうしないと凄く半端よ」 瞬間、櫻井の攻め方が突如として変質した。 いきなりの刺突――これまで数十合打ち合って、一度も見せてなかった点の攻撃をなんの前触れもなく放ってきた。 その一閃は、燃える刀身にも関わらず冴え凍るほど隙がない。 こいつまさか―― 「私はあなたやベイほど爆発力を持ってないから」 間一髪躱した刺突に若干耳を削られながらも、体勢を立て直そうとする俺を、しかし続く続く二撃、三撃目が許さない。 先ほどまでとは比べものにならないほど速く、流麗に、容赦なく――精密機械のような連続突き。こいつはやはり…… 「見て、考えて嵌めるのよ。それが私の戦い方。器用貧乏だからね」 「――演技かッ?」 キレた振りも、単純な振りも、全部俺を嵌めるため、ブラフかましていやがった。 「全部が全部とは言わないけど」 弄うような笑みを浮かべて、櫻井は言う。 「そこは想像に任せるわ。女は秘密が多いのよ」 そして同時に、剣がしなりながら伸びてくる。しかも下段、足下へ。 「殺さない。けど逃がさない」 速度に乗っていた足運びは、ここで急停止も方向転換も出来はしない。つまりこれは回避不能だ。 「猊下の戯れを正気で乗り越えられたら褒めてあげるわ、藤井君」 「じゃあね。終わりよ――」 そのとき、だった。  唐突に、何かおぞましい違和感。  自分が、まるで研究用の鼠にでもなったような。  ケージに囚われている、取るに足らない生物にでもなったような。  いや、違う。  これはそんなものじゃない。  虫眼鏡で焼き殺される蟻と同じ――誰かが熱線に等しい眼で俺を見ている! 「―――――ッッ」 前方へ転がりながらもんどりうって、俺は海面を小石のようにバウンドした。 櫻井の攻撃なんか意中にない。正体不明の視線を避けたい一心で、とにかく無茶苦茶に暴れた結果だ。 転倒しながら海の上を跳ね飛んで、気付けば目の前には巨大な橋の鉄骨がある。俺は躊躇なくその上を、ここまで移動してきた勢いのままに駆け上がった。 「―――――」 背後から、そんな俺を追ってくる櫻井の声と気配。 ここでようやく、肩を負傷していることに気が付いた。どうやらさっきの一撃は、ここを抉っていたらしい。怪我の巧妙とでも言うべきか、深手だが機動力を奪われるよりは遙かにいい。 そもそも、今となっては櫻井などどうでもよかった。 怖い――ただそれしかない。 先ほどからろくに回らない頭のくせに……いや、だからこそなのだろう。ひどく単純で原始的な感情に俺は全身を支配されてる。 逃げろ、逃げろ――恥も外聞もかなぐり捨てて脇目も振らず逃走しろ。 でなければ、でなければ、俺は今夜殺される―― 「はあああああァァッ―――」 だというのに、この粘着女は律儀に俺を追ってくる。 おまえなんかどうでもいい。おまえの相手をしているような暇はない。 だいたいおまえ、気付いてないのか? この、桁外れと言うのもおこがましい視線の暴力。暗黒天体じみた死への引力。 おまえもヴィルヘルムもルサルカも、確かに難物だと言えるのだろうが―― 〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈の〉《 、》〈主〉《 、》〈は〉《 、》、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈数〉《 、》〈千〉《 、》〈数〉《 、》〈万〉《 、》〈倍〉《 、》〈は〉《 、》〈凄〉《 、》〈ま〉《 、》〈じ〉《 、》〈い〉《 、》。 「―――――」 そうだ。邪魔なんだよ、おまえ。 一刻も早くこの場を制し、俺は逃走しなくちゃならない。 おまえがそれを邪魔するって言うのなら―― 俺の障害になると言うのなら―― 何も言えず、出来ない死体に、今すぐおまえを変えるまで。 「―――――」 交差法で叩き込んだギロチンを受け、櫻井はいとも簡単に吹き飛んだ。つい先刻まで強敵と見なしていた相手だが、今は取るに足らない小物にしか見えない。 「――くッ」 場所は再び橋の上、だだっぴろいパノラマで、周囲に何の遮蔽物もないことが、余計に俺の恐怖を促進させる。 地を蹴り、一直線にこの不愉快な邪魔者を殺人しようと、俺は右腕を振り上げた。さっきの一撃は小生意気にもガードしたみたいだが、二度もそんなことを許す気はない。 霊格が違う。魂が違う。俺とおまえでは物が違う。 たとえ防御が間に合おうと、そのチャチな〈炎〉《たましい》ごと一刀両断してくれる。 それこそが―― 「―――――」 一瞬、ほんの一瞬だけ、何か蔑ろにはしないと誓ったようなモノが俺の脳裏を過ぎったが、しかしそんなものは忘却する。もとから余裕を持てるような状態じゃない。 「おおおおおおォォォッ―――!」 だから代わりに、俺は吠えた。雄叫びあげながら突進し、速やかに目の前の女を斬殺するべく腕の凶器を振り下ろす。 〈殺〉《と》った。 〈殺〉《と》られた――櫻井の顔がその絶望に強張る瞬間を目にしたと同時―― 「素晴らしい」 俺の刃は、たとえ何者であっても切り裂いてみせると自負した凶器は、それ以上の盾によって止められていた。 「が、いけませんねえ。拙劣です。死ぬならスワスチカで死ぬ程度の意地を見せなさい、レオンハルト」 「あんたは……」 その異常。その有り得なさ。二重三重の意味で俺はワケが分からない。 ヴァレリア・トリファ。 俺の知っているあの彼が、人畜無害の見本品めいたあの神父が。 素手で俺の一撃を止めたこと。櫻井を守ったこと。そして彼女を知っていること。 「なんで……」 白熱していた頭の中が、異常事態の混乱によって冷却される。激情の渦は千々に乱され、代わりに冷静な思考が戻ってくる。 だというのに、俺は今―― 「違う! 違う、そんなこと!」 香純のときとまったく同じく、理性を総動員して否定に走ることしかできなかった。 たとえそれが、秒瞬の後に砕かれると分かっていても。 「聖餐杯、猊下……」 ヴァレリア・トリファこそが聖餐杯。この街、俺達の世界を異常のどん底に叩き込み、なおそれを上回る何事かを画策している奴らの首魁。 その事実が…… 「さて、それでは戯れ遊びも終わりです。改めて自己紹介いたしましょうか、藤井さん」 「私の〈字〉《な》は聖餐杯。聖槍十三騎士団黒円卓第三位、首領代行、ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリーン。あなたの父祖に等しい我が師からは、邪なる聖人――などと〈祝福〉《のろい》を賜った男ですよ」 その言葉が、その意味が、香純に続いてあの人までも、この馬鹿騒ぎに関わっていると容易に連想させたから。 「では、今より開戦といたしましょうか」 紛れもない大敵を前にして、俺は身動き一つ取れなくなった。 「―――――」 そうだ。こいつに構っている余裕はない。身を捻って無理矢理に、斬撃の殺傷圏内から逃れ出た。 「……つゥッ」 正直、かなり無茶な運動だったという自覚はある。重力を振り切って真上に駆け上るほどの高速移動をしている最中、その速度を鈍らせずに真横へ直角の方向転換……慣性の法則が俺の全身に負荷を与え、肉と骨が軋んでいた。 いくら人より丈夫になった身とはいえ、やはり限界というものはある。着地を失敗して転げ込んだ橋の上、次の行動に移るまで数瞬の時間を要し―― おそらく余裕をもった減速から切り返してきたであろう櫻井と、それを再度躱す俺の動きは、無茶をした甲斐もなくプライマイゼロの同時だった。 「……くそ」 どうする? どうしたらいい? 向かい合う櫻井に隙はなく、また隙を誘うような思考なんて回らない。 ならば、ならば、ちくしょう! もはやこんな手しか選べないのか。 「―――――?」 一瞬、訝るような目をする櫻井。当然だろう。普通こんなことをする奴はいない。 だだっぴろく開けた橋の上で、俺はクラウチングスタートを取っていた。最短で最大加速を発揮できるよう、陸上競技で使用されているあの構え。 つまり、何の策もない中央突破だ。〈橋上〉《ここ》は弾丸ストレートだし、加速の乗った初撃で上手く櫻井を弾けたら、そのまま駆け抜ければいい。 「なるほど」 こちらの意図を察したのか――いや、逃げる気だとは思っていないだろう――櫻井が、険しい表情で俺を睨む。 「一見、無茶なようで理に適ってる。確かにそれなら、一撃の爆発力がものを言うから」 「でもね藤井君、分かってる? 狙い撃ちにされるってことが」 ああ、そんなことくらい分かっている。全力で突進する俺の総ては攻であり、防はない。 つまり、カウンターをお願いしているようなものだ。バクチに等しい。 「悪いけど、手加減できそうにないわよ」 剣を構え、腰を落とし、目を細めて迎撃体勢に入る櫻井。すでに俺も限界近く力を溜めた状態にあり、ここで反転して逆方向に逃げるという真似は出来ない。 ただ前へ、前へ、前へ――後退するという消極的な気持ちでは、この恐怖から逃げられない。 背筋が粟立つどころか蒸発しそうな悪寒の中、未だ謎の視線が俺に注がれているのを感じ取れる。本音は今すぐ叫び出してしまいたい。 だから全身全霊で、一刻も早くここから脱することに命を懸ける。そうしなければ、俺は、きっと―― マリィ、マリィ、頼む、すまない。俺に力を貸してくれ! 「おおおおおおォォォッ―――!」 恐怖をかき消す雄叫びと共に、俺は自身を弾丸に変えた。 「―――――」 櫻井の剣が僅かに動く。弧を描いてゆっくりと、嫌味なほど隙のない流れで迎撃の一刀が放たれる。 それは見る者が見れば、賞賛を惜しまないだろう華麗さ。 ああ確かに、技量はあちらが数枚上手だ。しかしおまえ、こうも言ったろ。 俺の持ち味は爆発力。 いくら器用で、万事平均的に優れていようが、極大の一点特化は時としてそれを砕く。 〈彼女〉《マリィ》の魂が宿った刃――そんな小枝で制せるものなら、上等、やってみるがいい! 「ガッ――」 櫻井の放った一閃は、俺の右脇下に命中した。そこから上に切り上げて、武器ごと腕を切断するつもりらしい。 だが、速さと重さと質量の差。加え魂の強度差が、その剣先をあらぬ方向へと弾き飛ばすことを可能にした。 「――――ッ」 瞬間、櫻井の顔は死を感じた者のそれだった。しかし俺には、これ以上何かやれることはない。 現状では、これが限界だったのだ。速さと力にものを言わせて、櫻井のカウンターを弾き飛ばす。その後でトドメの二撃目を繰り出す余裕も技量もなく―― 「――つああァッ」 ただのタックルによって吹き飛ばされた櫻井を一顧だにせず、一気にこの場から離脱するのが最良の選択だった。 「――よし!」 賭けに勝利した実感で、短い安堵の声が漏れる。あとは早く、一刻も早く逃走を成功させて―― 「なッ―――」 そのときだった。不意に俺の目の前に、何者かの影が立ちはだかったのは。 「馬鹿な――」 誰だ? 一般人か? そんな所にいたのを気付かなかったという以上、その確率が一番高い。仮にヴィルヘルムやルサルカだったら、俺はとうに察知していたはずだろう。 駄目だ、今さら止まれない。そしてこのまま激突すれば、相手は無事にすむはずもなく―― 関係ない人間を死なせてしまうという恐怖感に、思わず目を瞑った瞬間だった。 「―――――ッ」 落雷めいた轟音と共に、〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈が〉《 、》〈つ〉《 、》〈ん〉《 、》〈の〉《 、》〈め〉《 、》〈る〉《 、》。まるで鋼鉄の塊に激突でもしたかのように、反動で足が浮いてアスファルトが爆発した。 「がッ、は……」 息が、息が出来ず目も見えない。櫻井を吹き飛ばした加速の慣性エネルギーを、いとも容易く相殺したのは何者かの腕一本。攻撃でも何でもない、ただ胸に置かれたそれだけで、俺は停止させられた。 「洞察力が足りませんね、レオンハルト。彼は逃げる気だったのですよ」 「それさえ読めていれば別の手もあったでしょうに……まあよい、よくやりました」 そして流れてくるこの声、そんな――記憶にあるそれと照合することが俺には出来ず、したくはなく…… 「しかしまあ、あなたは大したものだ、藤井さん。もはや生け捕りなどという半端では、手に負いかねるということですか。素晴らしい」 「聖餐杯、猊下……」 俺の名を言う彼の声。彼の名を言う櫻井の声。そしてあの突進を、難なく止めたという疑いようがない事実。 白熱していた頭の中が、異常事態の混乱によって冷却される。激情の渦は千々に乱され、代わりに冷静な思考が戻ってくる。 だというのに、俺は今―― それらの現実を突きつけられて、香純のときとまったく同じく、否定に走ることしか出来なかった。 「違う! 違う、そんなことが……!」 あるはずは、ないと。 徐々に回復してきた視力さえ、俺の希望を打ち砕いた。 「さて、それでは戯れ遊びも終わりです。改めて自己紹介をいたしましょう」 「私の〈字〉《な》は聖餐杯。聖槍十三騎士団黒円卓第三位、首領代行、ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリーン。あなたの父祖に等しい我が師からは、邪なる聖人――などと〈祝福〉《のろい》を賜った男ですよ」 その言葉が、その意味が、香純に続いてあの人までも、この馬鹿騒ぎに関わっていると容易に連想させたから。 「では、今より開戦といたしましょうか」 紛れもない大敵を前にして、俺は身動き一つ取れなくなった。  放たれた銃弾が胸に届き、そして爆発が巻き起こる。  弾丸が爆ぜたという意味ではない。ヴィルヘルムの胸元、そこに仕込まれていた物体が急激に弾けたのだ。 「―――――ッ」  その正体は液体窒素。魔法瓶に内包されていた-196度の極低温物質が、瞬く間に彼を氷像へと変えていた。司狼の切り札とはこれである。  殴打も、斬撃も、穿孔も無効化する脅威の肉体。ならば薬品による細胞破壊ではどうか?  酸ではまだ心許ない。かといってサリンのような毒物では、こちらのリスクが高すぎる。  無軌道かつ破天荒な司狼だが、別に死にたがりなわけではないのだ。そうなったらそうなったで構わないという気持ちは確かにあるが、それはあくまで人事を尽くした上でのこと。まず己の目的を果たすためにも、早々死んではいられない。  つまり愚策と良策を判別するくらいのことはしている。場合によっては前者を選ぶかもしれないが、区別はついているということだ。  ゆえに、ここでは液体窒素。熱攻撃という手段はあらゆる物に有効だし、それならば威力、効果、入手のし易さ、そして携帯性という面において、高温よりも低温を狙うのが望ましい。  そして今さら言うまでもなく、これは最高域の低温物質。まず凍るだろうし、そうなれば―― 「ぶっ壊れろッ!」  彼の愛車であるVALKYRIE-RUNE――1800ccの大排気量が唸りをあげて、水平対向6気筒エンジンが350kgを超えるモンスターに鋼の〈轟哮〉《エグゾースト》を謳わせる。  総て、ここまで狙い通り。爆発的な加速で前輪が跳ね上がった愛機を操り、司狼は氷像と化したヴィルヘルムを木っ端微塵に粉砕する。  いや、粉砕したはずだった。 「―――――」  優に五十メートルは駆けてからアクセルターン。司狼は何とも言えない顔で、ダイヤモンドダストのように氷が瞬く一角を見つめると…… 「BANG!」  ピストルを模した指で撃ち真似を行い、再びアクセルを回してその場を離れた。  追っ手はない。そう確信しているように見える。 「…………」  だがヴィルヘルムは、一切無傷のまま立っていた。先の極低温も衝撃も、彼に何ら痛痒を与えていない。砕け散ったのは外套のみで、むき出しになった上半身が白く月光に映えているだけ。  追わない。彼は司狼を追跡しない。たとえ相手がバイクだろうと、その気になれば容易く捕捉することが出来るだろうに……  何故か、ヴィルヘルムは動かない。じっと凝視するように、ある一点を見つめたまま止まっている。 「こりゃあ、まさか……」  司狼を忘れたわけではない。憤怒も歓喜も屈辱も、等しく彼の歪んだ胸の中で燃えている。  だがそれよりも、今唐突に一つの異変……小癪な獲物を追うことよりも、その異常を無視することが彼には出来ない。誰にも出来ない。  黒円卓に名を連ねる者なら例外なく、この感覚が何かを知っているから――  白磁の肌に、異変が起こる。ヴィルヘルムの脇腹から、血と激痛が溢れ出す。  それは服従の印。彼が生まれて初めて敗北し、走狗となったことの証だ。  すなわち、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈刻〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈者〉《 、》〈が〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈ぐ〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈現〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》―― 「橋……か」  目を細めてそう漏らし、俯いてから含み笑った。 「了解、了解しましたよ。ただ、今こんな〈姿〉《ナリ》なんで、俺がご尊顔を拝し奉んのはまた後日っちゅうことで。 クリストフの野郎、相変わらずえげつねえ真似しやがるが……くくく、レオン、死ぬんじゃねえか? 腰抜かしてよ」  と、それだけ言って、ヴィルヘルムは姿を消した。  何か得体の知れない重圧が、この夜に圧し掛かる。  それはまるで、天が今にも落ちるような……終末前の静けさとしか言いようのないものだった。 「――ごっ、はぁッッ」 無様に無防備を晒した代償は、鳩尾に叩き込まれた一撃だった。 そのまま吐瀉物を撒き散らし、俺は後ろに吹き飛ばされる。何とか回転して着地を決めたが、膝が笑って立ち上がれない。 「さて、ようやく大人しくなりましたね、藤井さん。すぐには動けぬでしょうから、しばし良い子にしていなさい」 「猊下……」 「ああ、あなたもですよ、レオンハルト。そう無駄に恐縮する必要はない」 「命令は、それを告げたものが責任を負う。あなたが悪いわけではないのだから」 「私が悪く、そして〈彼〉《あいて》が悪かったのです。気に病むことはありません」 「…………」 「不服でも?」 「……いえ、申し訳ありませんでした」 俯いて、無感情にそう言った櫻井は、一歩引いて直立不動のまま黙り込んだ。 そこから察せられるのは、二者の間にある絶対的な上下関係。櫻井は、トリファ神父を上官のように扱っている。 そして彼は…… 「ああ、ですから、そういう杓子定規な対応をせずともよいと言っているのに、困りましたねえ」 彼は、やはり彼はちくしょう――俺が知っている通り頼りなげで、いつもの笑顔で、優しい声で、櫻井に上位者として接していた。 再度、こみ上げてくる嘔吐感。彼に殴られた腹の痛みが、別の痛みによってぶり返してくる。 俺は、俺はこの人とも戦わないといけないのか。そしてさらに―― 「まあここは、あなたの理解を得られただけでも、よしとしておきましょうか、藤井さん」 「それで聞いていると思いますが、私はあなたにお会いして、このように語り合う場を持ちたかった。その内容は他でもない、我々共通の隣人について」 「率直に答えていただきたい。あなたはテレジアを愛していますか?」 「……なに?」 それはこの場で、もっとも追求しなくてはならず、同時にもっとも話題にしたくなかった人のこと。 テレジア――つまり氷室先輩。 「愛……だと?」 「ええ、あなたがたの仲がいいのは知っています。友人とも、あるいはそれ以上とも、お互い憎からず思いあっているのでしょう? ならば個人的に興味が尽きない」 「あなた、大儀や名分が立てば、テレジアさえ殺すつもりでいるのですか?」 「―――――ッ」 俺は、俺はそんなこと…… 「あなたは私を憎みつつある。殺す大儀を見つけつつある。ええそうですよあなたは正しい。私は害しか及ぼしません。少なくともあなたにはね」 「ならば結構。敵、すなわち撃滅すべし。その至極簡単な公式を、あなたは彼女にも当て嵌めますか?」 「すでに殺人には手を染めたでしょう。経験者として言いますが、一人殺せば止まりませんよ」 「問います。今答えなさい。あなたはあのテレジアを、〈愛している〉《ころさない》のか〈いない〉《ころす》のか」 「俺は――ッ」 蹲ったままアスファルトに爪を立て、しかし顔をあげて怒号した。 俺は馬鹿で、アホで、間抜けで、ガキで……何も分かってなくて無力だけど。 この先、自分自身が生き残れるかどうかさえ怪しくて、誰かを守ったり助けたりなんて身の程知らずな話だけれど。 今でもまだあの日々を、覚えているし忘れていない。 俺が還る〈日常〉《ひだまり》には、当然氷室先輩も存在している。 だからそれを、彼女をおまえらなんかと一緒にするな! 「俺は絶対、おまえ達に負けたりしない!」 「たとえ、何がどうなろうと、俺があの人を殺すなんて――」 言えることは、一つだけだ。 「絶対しない! してたまるか馬鹿野郎ッ!」 「考えられない! そんなことは有り得ないッ!」 と、言ったその時だった。 「ふふ、ふふふは、はははははははははははははははははは――ッ」 俺の答えを聞いた神父は、壊れたように笑いだす。天を仰いで、身をよじって、声高らかに大笑している。 「くくく、なるほど、なるほどそうですか。ははは、これはこれは、なんともはや勇ましい!」 「負けぬと、勝つと言いますか。この私に? 我々に? あなたが? ははは――愛を信じて? 打倒すると? なんて眩しい!」 「美しく羨ましく妬ましく愚かしい! 実に実に実に至高! 流石は流石、副首領閣下はあいも変わらず狂しておられる!」 「ああ、よく分かりましたよ理解しました。それがあなたで偽りないと。ではではならば、彼の言葉をお聞きになりましたか、我が主」 神父の狂態に目を奪われていたのは一瞬。そして同時に、俺は気付いた。 先ほどから、ずっと感じていた異形の視線。それが何処から発せられていたかということに。 「これがあなたの盟友が代替――ツァラトゥストラですよ、ハイドリヒ卿」 瞬間、〈天〉《 、》〈が〉《 、》〈落〉《 、》〈ち〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》。 「―――ガッ」 「―――くゥッ」 押し潰される大圧力。骨まで砕ける存在感。天が落ちてきたとした思えない。 身動きとれず地に押し付けられ屈服させられ、亀裂が走っていくアスファルト。 橋が、海が、鳴動している。ただ存在が纏う威圧だけで、数千トンの質量はあろう鉄とコンクリートの塊が、紙屑同然にひしゃげかけてる。 「率直なご感想をお尋ねしたくありますね。どうでした?」 俺も櫻井も身動き取れない重圧の中、ただ一人飄々としている神父の頭上辺りから声が響いた。 「あ、ぁ……」 そこにあるのは、黄金の色をした大渦。いいや、あれは穴なのか? 「〈黒円卓〉《わたし》に負けぬと。よくぞ吠えた。その魂、敵に値する」 そこから投影するように、像が人型をとっていく。 たとえ俺が直立してても、遥か見上げることになるだろう長身。そのうえで均整の取れた体格は、まるで人体というものの黄金率だ。 夜気に踊る〈鬣〉《タテガミ》のような金髪と、自殺衝動すら覚える麗貌には、造形上なんの欠点も見つけられない。 切れ長で、涼やかで、そして地獄の底めいた……燃える光を放つ瞳も黄金―― 俺は疑いようもなく確信した。 こいつが―― こいつが奴ら総ての―― 「名乗ろう、愛しい我が贄よ」 「私はラインハルト――」 かつてそれと同じ名を持ち、第三帝国の斬首官と呼ばれた髑髏の黒太子がいたことを、同時に俺は思い出してた。 「聖槍十三騎士団黒円卓第一位、〈破壊公〉《ハガル・ヘルツォーク》――ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ」 「〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》……などと卿の縁者に〈呪われ〉《しゅくふく》た、曰く悪魔のような男らしいよ」 真の首領、ラインハルト・ハイドリヒ。その出現を前にして、俺は未だ、指一本すら動かせない。 だが、その状況を打破する異変が唐突に――あるいは予定通りに――現れた。 俺を含む、この場の誰もが数に含めていなかっただろう闖入者が、闇夜を切り裂く光明となって救いのエグゾーストを轟かせる。 「蓮、この馬鹿野郎! 気合い入れろ!」 叱咤は容赦なくて、口汚くて、しかし何より力強く、砕ける寸前だった俺の精神に活を入れた。 「ほぅ」 「これはこれは」 獣の重圧に負けまいと、顔を上げて手をついて、渾身の力を揮って身体を起こす。そうだ文字通り気合いを入れれば、恐怖を吹き飛ばせばこの圧力にも対向できる。 生身の司狼がやれているんだ。俺に出来ないわけがない! 「退くぞ、乗れッ!」 反対車線からバイクでかっ飛んで来た司狼が、分離帯を飛び越えて俺の横に着地した。伸ばされた手を掴むと同時に、驚くべき腕力でリアシートに引っ張り上げられる。 「生きてるか?」 「……なんとか」 とはいえそれが限界で、もはやまともに口を利く力もない。 「よっしゃ、振り落とされんなよォッ!」 あるいは司狼も、俺と似たような状態だったのかもしれない。ラインハルトにも、神父にも、一瞥、一言すらくれずに、問答無用のフルスロットル。 爆発めいた轟音と共に、ヴァルハラだかヴァルキュアだか忘れたが、とにかくそういう名前のバイクが吠え猛った。 あとは一目散に逃げるだけ。アレとまともにやり合えば、たとえ俺が百人いても木っ端微塵に砕かれる。どうにか出来る相手じゃないし、死ねばリベンジすることも出来ないんだ。 少なくとも、今はまだ……今の俺じゃあ奴には勝てない。 勝てないから…… 「……ちくしょう」 下を向いて力なく、バイクの走行音に紛れる形で弱音を吐いた。 奴らの戦力を軽く見ていた気はないし、俺は俺なりにシビアな覚悟を持っているつもりだった。 事実、櫻井にもヴィルヘルムにも、勝てたわけじゃないし勝てるかどうかも分からないが、それ相応に戦うことが出来ていた。 だというのに……トリファ神父の出現でいともあっさり心が乱れ、先輩のことを言われて余計に気持ちが昂ぶって…… 挙句の果てには、ラインハルト…… 「なにアレ? オレのキンタマ縮みあがったぞ」 あっという間に橋を駆け抜け、追っ手がないことを確かめてから、司狼はそんなことを言ってくる。 「いやマジ、ちょっとチビったっつーの」 人が忸怩たる思いを抱えて、暗くなってるというのにこいつときたら…… 「実は、俺もだ……」 「あ? マジで? 汚すなよ?」 「うるせえ。仕方ないだろう」 「バカスミに笑われるぜぇ」 「だから、おまえは……」 言いかけて、しかし何かもうあまりにもくだらなくて。 さっきまで死ぬの生きるの言ってたことが、ああくそ! ほんとにしょーもねえよ! 「ふ、ふふふ……」 「はははは……」 「ははははははははははははははは――」 びびって、逃げて、この様で、絵に描いたような負け犬だけど、そうだな、まだ生きている。 たとえ傍目には惨敗でも、あれだけの目に遭っていながら生き延びたのは、間違いなく一つの成果だ。 それは幸運でも何でもなく、今日を生き残ろうと足掻き倒した結果のことだと胸を張って断言できる。 だから―― 「おま、おまえだってチビってるくせに、カッコつけんなバーカ」 「アホぅ、オレはクールに報告したからいいんだよ。あとキャラ的に?」 「実はおまえ和ますために嘘言ったとか、そういう見方してくれっかもしんないだろ」 「誰にだよ」 「誰ってほら、世のおねーさんがただよ」 「ワケ分かんねえよ、相変わらず」 そして、まあ、実際のとこ、今日はこいつに助けられた。 昔のゴタゴタはともかくとして、今はそのことに感謝しよう。 「これでちったぁ気が変わったか?」 「ああ……ていうかもう、否応ないだろ」 「ご名答。んじゃまあコンビ再結成ってことで」 「命名、チーム“ヴェーアヴォルフ”――いい感じじゃね? ドイツ語的に」 ……なんつーセンスだ。 だいたいそりゃ、おまえの名前が自己主張しすぎてんだろ。 「俺はオマケか」 「だってそうだろ」 「おまえがオマケだ」 「はあ? 何言ってんスか」 互いに蹴ったり殴ったり毒づきながら、夜の国道を駆ける俺達。 それは紛れもない敗走でしかなかったのだが、束の間、笑い合えたこと…… 思えばかなり贅沢で、次に懸ける力を養う、意味のある敗走だった。  すでに見えなくなったテールランプから視線を切って、神父は傍らに目を向ける。  そこに立つラインハルト・ハイドリヒ……今の彼は虚像にすぎず、注視せずとも背景が透けているのを見て取れる。  つまり、この状態でも彼はただの影であり、本来の数十分の一以下しかない強度なのだ。にも関わらず予想通り、現状の少年では相手にもならない格差があったわけなのだが…… 「ご不満ですか、ハイドリヒ卿」  神父は恭しく探るように、彼の主へそう言った。 「卿は私の言葉を聞いていなかったのか、聖餐杯。 悪くないと、先ほど言ったばかりであろうが」 「ですが、ご満足はしておられぬご様子」  彼のことなら、手に取るようにとは絶対言えぬが、ある程度までは理解できる。  まあ、その、言うなれば、蟻の己が獅子の彼にとって餌ではないと、そう感じられるくらいのものだが。 「分かるか」  冷笑しつつ流し目を向けてくるラインハルトに、トリファは無言のまま頷いた。視線を合わせることは絶対にしない。 「いくらか脅せば、もうひと化けするかとも思ったがな。まあよい。確かに卿の進言通り、些か私が性急だった。 引き続き遊ぶがよい。蝶の空とやら、飛ぶがよかろう。私は卿の〈狂気〉《せいぎ》を見届ける」 「では」 「ああ、だがな」  身を翻して去る寸前、黄金の獣は足を止めた。その行為に意味はないが、そこで立ち止まったことには意味がある。  すなわち、今彼の足元で、平伏したまま地に額を擦り付けて動かぬ少女。  圧倒されて、格差を知って、他の者達より六十数年遅れて刻み付けられた獣の恐怖に、櫻井螢は声もない。  小刻みに震えてすらいるその矮小さに、ラインハルトは軽侮も憐憫も示さなかった。路傍の石くれ程度にも興味を懐かず、文字通り頭越しに、別の人物へと告げるだけ。 「一つ、命令だ。カインを起こせ」 「―――――」  その言葉が、はたしてどんな意味を持っていたのか。螢の震えは一瞬止まり、次いで別種の――何処か異質の震えへと変わったのだ。 「カインを、何故?」 「得意の〈諧謔〉《かいぎゃく》か、聖餐杯。ならば“これ”は、ヴァルキュリアに相違ないと?」 「ああ、いえ……これは報告が遅れまして申し訳ありません。“それ”はレオンハルト。ヴァルキュリア……キルヒアイゼン卿は身罷られましたゆえ、私めが補充した次第にございます」 「重畳。ならばこそだ。卿も励むがいい、レオンハルト」 「……はっ」  応える螢と、無表情の神父に甘く微笑み、ラインハルトは歩き去る。  歩きながら姿が薄れ、闇の中へ溶けていく。  そして、黄金の残光が消え去る寸前―― 「楽しませろよ、聖餐杯。卿の手並みに期待しよう」  言って、次の瞬間に、彼は跡形もなく消えていた。 「……やれやれ」  それから十数秒経った後、トリファは深いため息を吐きつつ肩をすくめた。 「相変わらず心臓に悪い。肝が凍るし肩も凝る。まったく健康に悪い御方ですよ、本当に」  獣が常時発散している押し潰すような圧迫感は、もはや完全に消えていた。一応、これでおそらくは、当面退いてくれたらしいが…… 「まあ、お立ちなさい、レオンハルト。ああ、立てませんか? どれ」  先ほどから哀れにも平伏したままの少女に近づき、腕を取って立ち上がらせる。 「見たでしょう、あれがハイドリヒ卿です」 「…………」  螢は、俯いたまま声もない。必死に平静であろうとしているようだが、途轍もない衝撃を受けていることは明白だった。  トリファはそれを見下ろして、慈しむように彼女の頭へ片手を置く。 「恥じることはありません。我々は皆そうです。 私も、ベイも、マレウスも、キルヒアイゼン卿やザミエル卿、そしてシュライバー卿にいたるまで……彼と初めて遭ったときは恐慌して跪いた。“アレ”はね、レオンハルト、違うのですよ」 「……違う?」  ええ、と頷き、神父は温顔を優しく歪めた。主君に対して不敬と言われても反論できない言質だったが、それをあげつらって糾弾しようとする者はここにいない。  というより、何処にもいないのかもしれない。 「世の中には、最初から違うものがごく少数……しかし確実に存在すると私は思っているのです。彼は中でも、徹底してそうなのでしょうね。副首領閣下もまた然り。〈西洋人〉《われわれ》にとって神とは祈るものですが、〈東洋人〉《あなたがた》にとっては祀り、鎮めるものでしょう。つまりお願いだから暴れてくれるな……そうしたものだと思いなさい」 「ですが……」  慈愛あふれる神父の言葉に、しかし螢は反駁した。  彼の言うことはよく分かるし、理解できる。神とは鎮める云々のくだりなど、大いに共感できるほどだ。一神教の妄信具合は、酔漢のそれだとさえ思っている。 「ですが、実際に我々は、ハイドリヒ卿を信じ祈らねばならないのでしょう? そうしなければ――」 「ああ、ですから、要は加減ですよ。バランスです。言ったでしょう、臨機応変。あまり真面目に考えていては、先ほどのように息も出来なくなりますよ。調子よく逃げたベイや、そもそも来もしなかったマレウスらの賢明さを学びなさい。ともかく、〈逃〉《 、》〈げ〉《 、》〈遅〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈我〉《 、》〈々〉《 、》〈は〉《 、》、せねばならぬこともありますしね」 「……はい」  頷き、螢は先の質問を留保した。上手くはぐらかされたような気もするが、実際に彼があの重圧に抗し得たのはそのせいかもしれないし、やらねばならないことも確かにある。 「では、一足先に戻りなさい。そしてバビロンにその旨伝えておくように。まあ以心伝心、言われるまでもなくそうしているとは思いますがね」 「…………」 「どうしました? 行きなさい」 「分かりました」  言って、再度頷くと、螢は音もなく去っていった。それを見るともなく見送ってから、トリファは呟く。 「だがさて、ハイドリヒ卿……何を言わんとしておられたのか」  カイン、螢、ヴァルキュリア……そこについて含むような言い様だったが、私が知っている以上の何かを、彼は知っているのだろうか。  いや実際、何を見通されても驚くつもりはないのだが…… 「まあよい。楽しませよと仰るならば、出来うる限り励みましょう。それが私の務めです。しかし、とはいえ、いかがすればよいのやら」  自重するように呟いて、トリファもまた歩きだす。  ともかく、この戦における最初で最大になるかもしれない危機局面を、お互い乗り越えられた幸運に安堵しながら。 「私の行いが良いわけなどありませんから、たぶんあなたのお陰なのでしょうねえ、藤井さん。 その一点については同志ということ。機会が許せば乾杯したいところですよ」  内密に。  そして心から笑い合い。  ああ、その日がもしも来るのなら、こんな幸せはないだろうと、神父は思った。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 2/8 【Chapter Ⅵ King of Hollow ―― END】 Other Story――Die Morgendammerung解放  だが、その中で……  魂ごと木っ端微塵に砕けそうな重圧の中で、俺は別の何かを感じ取る。  最初は微かに。  そして徐々にはっきりと。 「これは……」  音か? いったい何処からだ?  それはまるで鳴くように、音叉が共鳴して震えるように、徐々に徐々に、激しく強く―― 「レン……」  彼女の声が。 「わたし、よく分からない」  イメージ、混乱しているように感じられて。 「分からない。分からない。ねえ、これはなに?」  カタカタと、ガタガタと、震え振動する俺の右腕。 「あの人、なに? とても、とても、ねえ、なんて言うのこの気持ち」  それは、言うなれば共振だった。  目の前にある極大の魂に呼応して、それと同質の魂が天井知らずに高密度化を始めていること。  その結果に、起きたことは―― 「こ、わ、い……」 「こわい――」  彼女が変わる。変質する。まるで化学反応を起こすように。 「怖い、あの人が怖い――」  ラインハルト・ハイドリヒが恐ろしい。  今、俺の胸中、九割九分を占める気持ちが、マリィに伝染して爆発的に増殖している。  ならば、どうする? 「怖い。怖い。怖いよレン――ねえわたしはどうしたらいい?」  どうすればいい?  恐怖を感じた人間がすることなんて、今も昔も大別すれば二つしかない。 「逃げるか――」  それとも。 「あいつを――」  この恐怖の根源を――  瞬間、パチンと指を鳴らすように、俺の思考と視界が闇に落ちた。 「一刀のもとに断てばよい」 「ほぅ…」 「これは……」  獣は薄く微笑して、聖餐杯は瞠目した。それがそのまま彼ら2人の違いであり、魔軍を率いる指揮者としての差であると言えるだろう。  獣は恐れを懐かない。己以外は総て餌なり。玩具なり。  もはや天災としか言えぬ破壊の暴君は誰あろうと一顧だにせず、しかし絶対恐怖のカリスマが何者をも縛り付けて放さない。  対して、聖餐杯は人を知る。  その情、狂してはいるものの、性根は凡夫で俗を好み、ゆえにあらゆる状況に応じながら愛で縛る。憎で縛る。悔も悲も怒も怨も――彼の巣網からは逃げられない。  結果、聖餐杯はこの現象を凶と判じ、獣は吉と笑っていた。  正しいのは人を知るゆえに事態を看破している前者だが、恐ろしいのは最強ゆえに、何者であれ叩き潰せる後者だろう。 「あッ、が、――ぎぁ、ああッ」  獣の重圧に歯向かって、立ち上がろうとする藤井蓮。しかしその全身は悲鳴を上げて、秒刻みに壊れていく。 「暴走かな」 「というより、あなたがそうさせているのでしょう、ハイドリヒ卿」  片や優雅に、片や痛ましげに呆れながら、どちらもこの事態を止めようとはしない。 「これは共振。あなたの魂に呼応して、〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈作〉《 、》〈り〉《 、》〈変〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。副首領閣下のごとく評するなら、双頭の蛇が脱皮をしている最中ですな」 「ほぅ、ならば――」 「ええ、ならば――」  蓮の肉体は依然破壊を受けながらも、しかし同時に復元していく。その鬩ぎ合いの天秤が、徐々にプラス方向へと傾いているのを彼ら2人は感じていた。 「〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》、〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈を〉《 、》〈上〉《 、》〈回〉《 、》〈る〉《 、》〈や〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈ま〉《 、》〈せ〉《 、》〈ん〉《 、》」 「願ってもない」  瞬間、獣の前足に全身押さえられていた小鼠が、ついにそれを跳ね返した。 「―――――」 意識を失っていたのは、いったいどれだけの間だったか。分からないが、しかし事態は一変していた。 身体が軽い。あれほど重く圧し掛かっていたラインハルトのプレッシャーが、少なくとも苦にならないレベルになっている。 俺の抵抗力は向上して、同時に視界も開けたようだ。白熱しながらも芯は冷えた思考の中、ここでやるべきことを躊躇なく選択できる。 「よかろう、参れ」 典雅な仕草で俺を手招き、その傲慢な台詞にさえ気品を感じさせるラインハルト。 神父も、櫻井も遥か後ろに下がっており、今はまさに一対一だ。ここを逃したら次はない。 おそらく、この現状でラインハルトを斃せなければ、今後二度と俺にチャンスはないような―― 言いようのない予感に駆られて、瞬間、俺は駆けていた。 「さてカールよ、卿の考えを当ててみようか」 疾走する時間の中、振り上げたギロチンを見向きもせずに、ラインハルトは笑っている。何の構えも防御もしない。 「ここで私と、あるいは相討たせたところで意味などなく、どちらが斃れようと誓いは果たせん。ではどうするか」 「なに、至極簡単なことで苦にもならん。つまり卿、こう言うのだろう?」 その首目掛けて刃を落とす。全身全霊、全力で、総ての覚悟と決意を込めた、俺にとって最強と自負するに恥じない一撃。だがそれは―― 「〈戯〉《ざ》れろ――せいぜい可愛がれと」 「――――ッ!?」 皮一枚、髪の毛一本、断ち切ることさえ出来ないまま、俺の刃はラインハルトに何の痛痒も与えられない。 力は向上したはずなんだ。先刻より強くなっているはずなんだ。事実、マリィは恐怖を知り、俺はそれを刃に編み込み、そして奴の重圧を跳ね除けた。 なのになぜ……なぜまだこんなにも差があるのか。 「恐れで私は斃せぬよ」 首に当たる刃を静かに掴み、髑髏の王が俺を見る。 その、奈落のような黄金の瞳。目を合わせるだけで根こそぎ魂を吸い取られそうで……力が、意志が砕かれる。 「哀れな。婦人の扱いを知らぬ男に抱かれては、卿の美々しさもくすんでしまおう、歌姫よ」 「歓喜、哀絶、そして昂揚……花を飾るのはそれだけでよい。恐怖や憤怒などというものは、しょせん泥濘をのたうつ匹夫の業に他ならん」 「カールよ、ゆえに私なりの愛しかたを教授するが、よかろうな」 そのとき、耳と目を覆いたくなる事態が起こった。 「私は総てを愛している。それが何者であれ差別はなく平等に」 音が鼓膜を蝕んで、映像が目を抉る。 俺は俺は、俺は何も出来なくて――この怪物に何ら太刀打ちできなくて。 「私の〈業〉《あい》とは、すなわち破壊だ。総て壊す。天国も地獄も神も悪魔も、森羅万象、三千大千世界の悉くを」 「ああ、壊したことがないものを見つけるまでな。卿はどうだ、私に〈壊された〉《だかれた》ことがあったかね? 知りたいな」 ビキリ――と、ギロチンに深い亀裂が走った。 マリィが、彼女が、壊される。 「やめろおおおおォォッ――――!!」 絶叫は、しかし何の意味もなく虚しく響き、次の瞬間、それは起こった。 「卿も怒りの日の奏者なら、楽器の鳴かせ方は心得ることだ、ツァラトゥストラ」 「なに、すぐに返してやろう。もっとも、別の男に抱かれた女を、再度受け入れる度量があればの話だがな」 聖遺物を素手で粉々に砕き割られ、奈落に沈む暗転の中……俺の目に映ったのは、ラインハルトの腕に抱かれて呆然としているマリィだった。 死ぬのか、俺は。こんなところで…… 「――蓮! てめえら、こいつにいったい……」 この声、司狼……助けに来たのか? 馬鹿が、逃げろ…… あいつが怒っている。本気で怒号をあげている。滅多に見れたもんじゃないというのに、俺の目は開かない。 沈んでいく。ただ何処までも…… 沈んで……いく………… Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 2/8 【Chapter Ⅵ King of Hollow ―― END】 Other Story――Die Morgendammerung解放  暗く冷たい通路の中を、足音が響いている。  それは単独のものであり、他には何も聞こえない。  重苦しいほどの静寂と闇。  足音の主は手に〈燭台〉《しょくだい》を持っていたが、ほとんど役に立っていない。  通路は狭く、大人二人が並んで歩けば肩をぶつけそうな程だというのに。  〈蝋燭〉《ろうそく》に灯った〈火〉《ヒカリ》は、周囲の闇に負けていた。 「…………」  僅かに漏れるため息の気配。女は用を成さぬ灯りに呆れ果て、いっそ捨ててしまおうかと考える。  このまま進めば進むほど、なお一層暗くなっていくのは分かっていた。  地下墓所のような通路の奥……その先に在るモノこそが、〈念〉《サイコ》の闇を発している原因だから。  この段階で役に立たなくなる照明など、持っていても仕方がない。 「そういうわけで、悪いけどあなた、これを預かっていてくれないかしら」  気軽な調子でそう言いつつ、女は手の〈燭台〉《しょくだい》を横に流した。そこには…… 「なぜ、私が?」 「ここで待ち伏せしているくらいだから、暇なんでしょう?」  櫻井螢。  彼女はそれ以上〈反駁〉《はんばく》せず、無言で〈燭台〉《しょくだい》を手に受け取る。当たり前のことであるが、そうしたところでやはり周囲の暗さは変わらない。 「随分と早いお帰りだけど、他の者は?」 「…………」 「あなた、私に何か言いたいことがあるんでしょう?」 「……ここは」 「ん?」 「ここは、あれから変わってませんか?」 「…………ええ。私もこの十一年、ここには近寄っていなかったし。特に用もなかったからね。聖餐杯があなたを連れて行ってから、“彼”はずっとこの先よ」 「戦車に乗って買い物へ出かけるほど、私は好戦的な〈性質〉《タチ》じゃないから」 「……なるほど」  頷き、螢の片眉がわずかに上がる。 「つまりあなたは、この状況が不本意だと」 「本音を言えば、その通り。私は正直、このまま裏方に徹していたかったのだけど。ハイドリヒ卿も聖餐杯も、私のそういうところは知りつくしているんでしょう。先陣を任されたのは、誰よりも早く手を汚せという意味か……あるいは」  苦笑しながら、女は髪を掻き上げた。 「死ね、ということかもしれないわね。恐い恐い」 「…………」 「これから一つ、また一つ、スワスチカを開いていく度、ハイドリヒ卿は本来の力を取り戻していく。おそらく、その過程で残りの三人も戻ってくるわね。それが何を意味するか……」 「レオン、あなたは分かっているの?」 「シュピーネの件で、おおよそは」 「そう、〈ス〉《 、》〈ワ〉《 、》〈ス〉《 、》〈チ〉《 、》〈カ〉《 、》〈は〉《 、》〈私〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈死〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈開〉《 、》〈く〉《 、》。 要は、大量の魂をその場で散らしてしまえばいい。そういうことなら」  凡人が数百単位で死ぬことも、超人が一人死ぬことも、実質的には変わらない。  主の恩恵を得るに足らない者ならば、切り捨てて生贄にする。結果、どう転んでもスワスチカは開いていく。  そのための〈副首領代替〉《ツァラトゥストラ》。処刑儀式の執行人。  戦争の魔人を呼び戻すには、この街をより苛烈な修羅の混沌に変える必要がある。ゆえに、彼らには“敵”の存在が必要だった。弱者を一方的に虐殺し続けたところで、それを“戦場”とは言わない。 「人望のない副首領閣下の代替なら、まさに適任ということですか。見ようによっては、我々の仲間割れを防ごうとする慈悲深い処置とも言えますね。 一度訊きたかったことですが、なぜ皆はそれほどまでに彼のことを?」 「憎むのかって?」  自嘲するように俯いて、女は螢を流し見た。 「色々、としか言えないわ。私たちは各々に、彼から耐え難い仕打ちを受けている。魔道の〈薫陶〉《くんとう》を受けるにあたって、それまで〈培〉《つちか》ってきた〈矜持〉《きょうじ》を砕かれたというのも多少はあるけど……もっと別に、個人的なことで、みんなメルクリウスにはやられているのよ。たとえばベイ―― 彼は、〈望〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈と〉《 、》〈添〉《 、》〈い〉《 、》〈遂〉《 、》〈げ〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と言われたの。 〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈生〉《 、》〈は〉《 、》〈奪〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》と」 「それはどういう……」 「さあ? でもベイ自身には、思うところがあるみたいでね。それを崩したがっている。この間も、いいところであなたが邪魔をしたんでしょう? ああいうことが、起きないように」  つまり〈あ〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》が〈頻繁〉《ひんぱん》に起きる人生だというわけか。  もしそれが本当なら、〈些〉《いささ》か呪いめいている。他者から指摘されることで、更に深く〈拭〉《ぬぐ》い〈難〉《がた》くなる業のような……  そういったものを、自分以外の十一人は埋め込まれたというのだろうか。だとしたら…… 「副首領閣下は、計算ずくで憎悪の対象になったのですね。あなたがたも、それを分かっていながら……いや分かっているだけに許せない」 「そういうこと。何にしても鼻持ちならない嫌な男よ。まるで何度繰り返しても、私たちがそうとしか成り得ないと知っているような……だから、もしかして誰が脱落するのかってことも知っているかもしれない。あなたもあまりふらふらしていると、捨て駒にされて切られるわよ。 それで……」  軽く言葉を切り、女は口調を軟化させた。 「結局、何をしに来たのかしら? 私の心配……じゃあないわよね。なら、もしかして――」 「詮索は無用です」 「ただ、私には私の理由があるので、あなたに同行する許可が欲しい」 「許可?」 「聖餐杯猊下が見当たらない。そこであなただ、首領代行補佐殿。次の一戦、私の同行を認めてほしい」 「…………」 「返答は?」  それは、およそ目上に対する敬いの欠如した物言いだったが、女は気分を害した風でもなく、思案するように首を傾げた。  理由とやら、見当はつく。つくのだが、それを認めていいのだろうか。自分と行動を共にするということは、この少女にとって―― 「あなたは偽善者だ、バビロン。 程度の低い気遣いなら要らない。私がそんな子供に見えると?」 「まあ、あなたが幾つになっても、私から見れば……」  “子供だけど”と言いかけ、しかしやめる。実際のところ、そうまで言うなら構うまい。要は邪魔さえしなければいい。 「とりあえず、“彼”を起こすには一晩くらい掛かるだろうから、今夜は戻って休みなさいな。 それからレオン、私と行動する間、あなたに殺人を禁じます。守れるかしら?」 「……?」  奇妙な条件をつけられて、螢は若干鼻白んだ。殺す殺さないの是非などは、もっと加減を知らない輩にこそ言うべきだろう。自分はそれくらい〈弁〉《わきま》えているし、それに、そもそも…… 「解せませんね。今からの我々は、どれだけ殺すかという話になるのに」 「ええ、だから私の邪魔をするなということ。こちらの猟場を荒らさないでほしいのよ。次のスワスチカは、私と“彼”で開くから。あなたに分けてあげる〈魂〉《モノ》はないの」 「…………」 「ついてくるのは自由だけど、横取りはしないでね。つまらない仲間割れはしたくないから」 「……分かりました」  目を〈瞑〉《つむ》って頷く螢は、心なしか不機嫌な様子だった。 「そう。なら別にいいわ。私は行くから、言ったようにあなたは戻って休みなさい。じゃあ――」 「バビロン」  闇の回廊に去っていく背へ向けて、螢は何事かを言いかけたが、しかし…… 「……いや、なんでも。我が侭を聞いてくれて、礼を言います」 「どういたしまして。ああ、それからついでに」 「一ついいことを教えてあげるわ。あなたみたいな人にとって、一番警戒しなくてはならない相手を。〈聖餐杯〉《ヴァレリア》とザミエル……この二人には気をつけなさい。覚えておくのね」  言うと、〈尼僧〉《にそう》は〈踵〉《きびす》を返し、消えていった。螢はしばらく無言のまま、遠ざかっていく足音を聞いていたが。 「馬鹿馬鹿しい」  まったく、あの女は本当に…… 「偽善者だよねえ、相変わらず」 「―――――」  いつの間にか、背後に立っていたのは赤毛の少女。気配も何もなかったが、螢は別段驚かない。 「マレウス……」  むしろ、呆れ気味に〈嘆息〉《たんそく》して。 「つまらない冷やかしが目的なら、どうか他所をあたってくれ」 「んー、なぁに? ずいぶんツンケンしてるのね。 レオン、あなたはあいつについていくようだけど、学校はどうするのよ?」 「別に」  どうもこうもない。明日までは休日だ。そう言って肩をすくめると、ルサルカは噴きだした。 「あら、じゃあ何? もし明日中に終わらなかったら? あなたが帰ってこなかった時、〈学校〉《あそこ》はわたしの好きにしてもいいってわけ?」 「…………」 「レオォン、二兎を追うものは一兎をも得ずよ。妙な色気を出してると、貧乏くじ引いちゃうんだからね」 「そうかもな」  だが、それがなんだ。鼻を鳴らして螢は言う。 「大きなお世話だろう。おまえに心配される覚えはない」 「ふぅん。でも、あなたはなんだか危なっかしい感じなのよねえ。バビロンだって、忠告をしてたじゃない。どうせベイにも、色々言われてるんでしょう?」 「ねえ、老婆心が鬱陶しいなら、わたしがなんとかしてあげようか?」 「……何?」  それはどういうことだろう。およそ親切などとは無縁の相手だと分かっているので、螢は露骨に顔をしかめる。 「だからぁ、これ以上うるさいことを言われないようにしてあげるって言ってるのよ。邪魔臭いんでしょ、そういうのが」 「…………なぜ、おまえにそんなことをされなければいけない」 「ん? だって、わたし、あなたの教育係みたいなものだもん。クリストフにも、ちゃんと話は通してるわよ。あなたは若いし、わたしたちとは違うから、フォローしてやれって言われてるし」 「たとえば?」 「そうねえ」  薄く、からかうように微笑みながら、ルサルカは指を立てた。 「誓いを立てましょうか、今ここで」 「誓い?」 「そう。言っておくけど、ただの口約束じゃあないわよ」  両手、両足、そして脇腹……自らその部位を指して言う。  それは聖槍の〈聖痕〉《スティグマ》。彼ら全員に刻まれた服従の印である。 「あなたのそれは、わたしたちのものより随分軽い。 ヴァルキュリアが死んだ時に移植したって聞いてるけど、しょせんクリストフの手際でしょう? 彼を軽く見るつもりはないけど、ハイドリヒ卿から直接賜ったわたしたちに比べれば、意味も重さも、ちょっとお話にならないわ」 「つまり、私が不忠だと?」 「砕いて言えばそういうこと。何にしろ、あなたの束縛だけがゆるゆるのだるだるだし。だからあれこれ、うるさいことを言われるのよ。そこらへん、今後のためにもわたしが締め直してあげようってわけ」 「それはまた……」  本当に大きなお世話だ――と思ったが、ルサルカのルーンは〈束縛〉《ナウシズ》。  なるほど確かに、こういったジャンルにおいては彼女こそが第一人者だ。  先刻のラインハルトは未だ実体のない幻影にすぎず、長時間こちら側に干渉できない。スワスチカが開ききるまで、こんな些事に関わらせるわけにはいかないだろう。  ゆえに彼女の提案は、一応筋が通っている。団員の足並みを揃えるためにも、ここで規律を強めることは間違っていない。  とはいえ…… 「あれ、恐いの?」  螢は眼前の魔女がどういう人種か知っている。この相手に身体を〈弄〉《いじ》られるのは不快だし、何よりも危険なことだ。  が、しかし…… “他に選択の余地はないか……”  逆らったところで益などない。理屈が向こうにある以上、反発すれば自分の立場を悪くするだけ。  螢はため息混じりに頷いた。 「好きにしろ。ただし、誓約の内容を明確にしておきたい。私がそれに同意しなければ、この手の呪詛は成り立たないんだろう?」 「ええ。心配しなくても、無茶な強制はしないわよ」  朗らかに一笑して、ルサルカは更に二本、指を立てた。 「まず一つ。同胞に対する殺害と傷害の意図及び行為の禁止」 「同意する。ただし、同胞による殺害と傷害の意図、及び行為に〈晒〉《さら》された場合を例外とすること」 「受諾する。ただし、本誓約はその類に含まれない。 二つ。同胞を除く総ての者に対し、殺害と傷害の意図及び行為を戸惑わない」 「同意する。ただし、リザ・ブレンナーの前においてのみ、例外とすること」 「受諾する」  言いながら、ルサルカの指が宙に複雑な模様を描く。何かのシンボルなのだろうが、螢にはよく分からない。  とん、とその指先が臍のすぐ下、子宮の辺りに据えられた。 「三つ。聖槍十三騎士団黒円卓第一位、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒに忠誠を誓い、総ての行動は彼の利となるよう心得ること」 「同意する」 「ジークハイル」  同時に、ずぶりとルサルカの指が螢の子宮にめり込んだ。 「〈Noli me tangere〉《ノリ・メ・タンゲレ》」 「……ッ」 「……ぁ、く…」  不意に襲ってきた激痛に悶絶し、思わずその場に〈蹲〉《うずくま》る。  間違いなく、今何かを子宮に撃ちこまれた。形容し難い息苦しさを覚えて呻く螢。それを見下ろし、ルサルカは愉快げに笑っている。 「ねえレオン、あなたって処女よねえ?」 「……何?」 「いや、だったら面白いなーと思っただけ。とにかく、今わたしが撃ち込んだ〈聖痕〉《それ》……生きてるからね。誓約破ると、中からお腹食い破っちゃうわよ」 「…………」  すでに痛みは遠のいて、熱を帯びた疼きに変わっている。下腹に異物感を覚えながらも、螢はゆっくりと立ち上がった。  そして、〈侮蔑〉《ぶべつ》するように呟く。 「〈汝、我に触れんと欲するなかれ〉《Noli me tangere》――か。なるほど、おまえらしくて趣味が悪い」 「なによー。わたしなりの気遣いだったのに酷くない? 危なくなっても、ギリギリで回避できる可能性を残してあげたんだから感謝して欲しいわね」 「だから、それが……」 「余計なお世話だって? あー、はいはい。もういいわよ大和撫子さん。これだから処女って面倒くさくて嫌いなのよね。 んじゃまあ、ともかくそういうことで。あなた、バビロンと組むんだったら、月曜までに戻ってこないとわたしが学校貰うからね」  ひらひらと手を振って、ルサルカは〈踵〉《きびす》を返す。  かと思えば振り返って―― 「ねえ、暇ならちょっと覗きに来ない? わりと乙女力のレベルアップに、役立つかもと思ったり」 「帰れ」  一言で切り捨てると、螢はそのまま魔女を無視した。ルサルカはケラケラと笑ってから、影に溶け込むように消えていく。 「……役立つかも、だと?」  馬鹿なことを。  おぞましくて腹立たしくて、痛ましくなるだけだ。  あんなものは、見たくもない…… 「ベアトリス……」  ただ一人残された闇の中、更なる暗闇の先を見据えて、螢は呟く。 「カインはまだ……きっとあなたを覚えているよ」 「偽善者……か」  自分の五分の一も生きていない少女に言われたことを思い出し、リザ・ブレンナーは苦笑する。なるほど、確かにその通りだ。  この身は偽善者。表面上の言動だけ良識のある人間のように振る舞うが、本質は他の者らと何ら変わらない外道にすぎない。  あの少女はそれをよく分かっている。こちらも演技をしているわけではないが、実行動に移さない善性など何の意味もないだろう。事実今現在も、自分は破倫を犯そうとしているのだから。  すでに視界は闇一色。少女と別れてからどれだけ歩いたか見当もつかないが、実際のところはそれほどでもあるまい。  距離感覚は意味を無くし、たかが十数メートルが千倍にも長くなる迷宮めいた回廊の奥……手に触れた鉄扉の感触に、リザは小さく息を吐いた。 「〈Puteus aquarum viventium〉《プテウス・アクァールム・ウィーウェンティウム》――」  それは開錠のスペルだったのか、重苦しい音を立てて鉄の扉が開いていく。  強烈な死臭と腐臭が鼻を衝いた。粘性さえ帯びた臭気が闇の中に〈蟠〉《わだかま》り、一切流動せずに留まっている。  無理もない。ここを最後に訪れたのは十一年前……それ以来、一度たりとも開放しなかった玄室なのだ。  リザは無言で部屋の中央に立ち、両腕を広げて目を閉じる。その様は、儀式の祭壇に〈饗〉《きょう》された生贄を思わせた。 「さあ、いらっしゃい」  誰にともなく呟く声。それに呼応するかのように、周囲の闇が〈蠢〉《うごめ》きだした。 「〈Das sich die Himmel regen Und Geist und Korper sich bewegen〉《天が雨を降らすのも 霊と身体が動くのも》〈Gott selbst hat sich zu euch geneiget Und ruft durch Boten ohne Zahl〉《神は自らあなたの許へ赴き 幾度となく使者でもって呼びかける》」  同時に、何かが凝縮して形を成す気配。  圧倒的なその密度は重さとなり、肉となり、人型をとって具現化する。  闇の最深部に幽閉されていた、禍々しい何者か。  黒く、太く、巨大な腕が、〈尼僧〉《にそう》の背へと伸ばされていく。 「〈Auf, kommt zu meinem Liebesmahl〉《起きよ そして参れ 私の愛の晩餐へ》――」 「――――――」  地の底から響くような唸りと共に、巨腕が〈尼僧〉《にそう》を抱きすくめた。 結局俺は、またしても都合の悪いところを見ないようにしていただけみたいだった。 「まあ、おまえの悪い癖だわな。人を見る目なんかねえんだから、もっと世の中疑ってかかれよ」 「この時期、街で見かけた余所者なんか怪しすぎるぜ。それも外人、どう見てもアウトだろうが」 司狼の〈揶揄〉《やゆ》に、返す言葉は何もない。俺は、気付くことが出来なかった。 ヴァレリア・トリファ―― あの男の、正体に。そして、そこから連想できる更なる事実に。 司狼は以前、あの神父とやり合っているらしい。聞いた話を統合すれば、どうやら俺がヴィルヘルムらと初遭遇したのと同じ夜。 「なんかこう、出来すぎてるよな。オレとおまえ、あの時ほぼ同時刻にやられてたんだぜ。それで……」 また俺たちは、揃って同じ目にあった。 公園での一戦は、どう見てもこちらの負けだ。命こそ拾ったものの、あれは生かしてもらったと言っていい。 まだ弱すぎる。話にならないと、逃げることを許可された結果として生き長らえている敗残兵……それが今の俺たちだから。 〈ここ〉《クラブ》に戻ると同時に意識を失い、目が覚めれば丸一昼夜経っていたなんて情けないにも程がある。お陰で体力的には幾らか回復したものの、精神的には胸の辺りが重く濁っている感じだった。司狼の軽口は鬱陶しいが、口喧嘩をする気にもなれない。 事実、今はそれどころじゃないのだし。 「香純……」 「あん?」 「香純をどうにかしないとやばい。放っといたら、あいつ明日は学校に行っちまう」 この連休中に、ルサルカと櫻井を何としても排除するつもりだった。しかし結果は、そのどちらも〈斃〉《たお》せていない。 連中との戦いが本格的に始まってしまった以上、学校は危険すぎる。俺が登校すれば戦場になりかねないし、サボったところで香純の安全は保障できない。 それなら今夜、今のうちに…… 「拉致って、事が片付くまで監禁か? いいぜ別に。ウチのもんらにやらせても」 「でもよぉ」 「言うな。分かってる」 そんな強引な真似をしなくても、俺が行って全部話せばいいのにと言いたいんだろう。だがそれは論外だ。 「あいつに、なんて説明すりゃいいか分かんねえよ。それに、おまえとも会わせたくない」 「なんで?」 「自分の胸に聞いてみろよ。とにかく、そういうことだから」 「あー、はいはい。なんか一方通行な友情だなオイ。オレの人脈当てにしといて、こっちにメリットなさすぎっつーかなんつーか」 言われなくても〈厚顔〉《こうがん》なのは自覚している。しかしこればっかりはどうしようもない。 「オレも駄目。おまえも駄目。だったらかなり手荒になるぜ。バカスミはあれだしよぉ、ウチの連中も育ち悪ぃから」 「おい……」 「わーっかってるって。けどな蓮、労働にゃあ報酬がいるだろうよ。なんでオレが、おまえの頼みをすんなり聞かなきゃいけねーのよ」 言って、司狼はニヤニヤしながら右手を出す。 「金かよ」 「まあ、そりゃ実行する連中にくれてやれよ。オレには、もっと別のもんよこせ」 「………?」 いったい何を言っているのか、〈訝〉《いぶか》っていると、 「その子、ちょっとオレに貸せよ」 司狼は、俺の真横を指差した。 「はい……?」 そこには、先ほどから一言も発さずに座っていた女の子が…… 「そうそう、彼女、マリィちゃん? この子面白ぇよなあ。正直興味あるんだわ」 「……おまえな」 何を考えているのか知らないが、そんな条件呑めるわけがない。一言で断ると、司狼はあからさまな嫌気顔でぼやきだした。 「なんだおまえ、気が多いにもほどがあるだろ。ハーレム大王でも目指してんのかコラ」 「ハーレム?」 「ああ、こいつな、女は全部自分のものだって言ってんだよ。他の男とは口もきくなって……」 「わたしは、レンのものだけど」 「あ?」 「ぶっ」 「うん?」 いや、マリィ……ちょっと空気を読んで……くれるわけはないか。 「あーっと、ちょい待て、そうなわけ?」 「……違う」 「えー」 「おい、なんかショック受けてるぞ」 「意味が違うんだよ」 「どんな風に?」 どんなもこんなもあるかよ。 「いいか、俺とマリィは――」 「身体と身体を、一つにする関係なのです」 「だから……」 そりゃ間違っちゃいねえけど。 「つまり、セフレ?」 こいつマジで殺そうか。 「レンはわたしを、一番上手く使ってくれる人。それが気持ちよくて、わたしはとても嬉しいの」 「だからごめんね、レンが駄目だって言うなら、シロウとは話せない」 「あー……」 ぼりぼりと頭を掻きつつ、司狼は呆れと諦めと、その他諸々入り混じった目で俺を見た。 「おまえ、すげえ調教師だな」 「うん、レンは上手だよ」 「え、マジ? たとえばこう、どんな感じで?」 「おまえ少し黙れ」 なんでこんなワケの分からない方向に話が転がってるんだよ。マリィはともかく、この〈司狼〉《バカ》、〈緊迫感〉《きんぱくかん》の欠片もないのか。 「マリィ、別に誰と話してもいいけど、ただちょっと……」 「ちょっと、なに?」 ただちょっと、もう少し言い回しとかに気を遣ってほしいんだが……今は言うだけ無駄だろう。 とりあえず、相手をしなかったら置き物みたいになる反面、話し出すと〈些〉《いささ》か以上に強敵なキャラになるのは、なんというか心臓に悪い。その辺、徐々に改めてほしいから、俺も出来る限り形成しているわけだけど。 まあ、不思議と彼女の〈現身〉《うつしみ》を維持し続けることに、たいした疲労は感じない。案外こんなものなのか、それともマリィが特別なのかは知らないが…… 結局どう言うべきか言葉に詰まったので、俺は苦笑いしながらマリィの頭を撫でておく。 それで。 「司狼、別におまえが、マリィと話したいっていうなら構わない」 こんな変人、悪影響の塊だが、他人ってものの幅を広げるには役立つだろう。 何考えてるのか知らないけど、こいつみたいな奴を知っておくのも、マリィには必要ではないかと思える。 「けどおまえ、〈白々〉《しらじら》しいんだよ。分かってるくせに」 あるいは、分かってるからこそなのか。 司狼は、俺が戦う様をその目で見ている。マリィがどういう存在なのか知っている。 その上で興味を持つなら―― 「貸せ、とか言うな。マリィは物じゃない」 「ふーん」 ソファに座ったまま下から俺が睨みつけると、司狼は意味ありげに含み笑った。 「オーケー、失言だったみたいだな。他意はなかったんだが、まあいいや。言い直そう」 「彼女に興味がある。少し話したいんだが、別にいいだろ?」 「俺じゃなくて、マリィに言えよ」 「だな。どうだよマリィちゃん」 「わたしは……」 「…………」 「えっと……」 初め、彼女は戸惑うようにしていたが、 「うん。いいよ」 「決まりだな、商談成立」 言って司狼は口笛を吹くと、マリィの手を取って立ち上がらせた。 「んじゃそういうことで」 「おい、言っとくけど」 「ああ、分かってるって。口説いたりしねえから」 「いや、そうじゃなくて」 こいつ、最初の主旨を忘れてんじゃないだろうな。 「香純のこと、頼むぞ」 「おお、任せとけ。丁重にお越し願うよ」 なんて言いながら、マリィの肩に手を回して別室に連れて行こうとする。 ……こいつ、本当に大丈夫なんだろうな。 「おい」 「あーもう、しつけえな。いちいち何なんだよこのハーレム大王」 「香純をここに連れて来る役、本城には頼めないのか? あいつなら女同士だし」 「あー?」 振り向き、司狼は部屋のモニターを親指で指し示す。 「あいつは今、PCに囲まれて色々ガチャガチャやってるよ。もともとそっち系が専門だからな」 「やることないなら、おまえあいつのとこ行ってろよ。情報収集は大事だし、結構役に立つはずだぜ」 「ただし、手ぇ出すなよ。ありゃオレのだから」 「あのな……」 馬鹿なこと言ってんなよ。 「んじゃしばらく、嫁の交換っていうことで」 呆れる俺を笑いながら、司狼はドアを開けてマリィと一緒に部屋を出て行く。 だがその時、こちらに背を向けたまま。 「なあ、蓮」 「……ん?」 「香純を連れて来るのは別にいい。おまえにとっちゃあ兄妹みたいなもんだしよ、〈他〉《 、》〈の〉《 、》〈連〉《 、》〈中〉《 、》〈が〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》って、そういう気持ち、共感はできんが理解はできる」 「けどおまえ、氷室先輩はどうすんだよ?」 「…………」 その名前に、胸の動悸が早くなった。 俺は、彼女を…… 「捨てちまうか? 別にいいぜ。オレにとっちゃあどうでもいい」 「ただ、言ったよな。おまえ人を見る目ねえんだから、よく考えろってよ」 自分にとって都合の悪いことを忘れるな。体よく美化した〈希望〉《もうそう》なんかに、真実などありはしない。 ああ、分かっている。分かっているとも。おまえに言われなくても、それくらい…… 「判断材料がまだ足りないなら、なおさらエリーと話しとけ。連中がどういうもんか、そうすりゃおまえもよく分かる」 「じゃあ、また後でな。言うの遅くなったけど、せっかく一緒に遊べるんだから楽しく行こうぜ」 「しろ……」 呼び止めかける俺を無視して、司狼は部屋のドアを閉めた。二人の足音が遠のいていく。 「…………」 ああ、確かにおまえの言う通り。 俺には人を見る目がない。自分の現状維持にだけ固執して、周りの変化に気付かない。 だから香純も、おまえも、先輩も、俺の求めた関係から逸脱していく。 でも、だけど、だからといって……今までのことが全部夢や幻だったわけじゃないだろう? 甘い希望を捨てたとはいえ、過去の日々まで否定する気にはなれない。氷室先輩が何者であれ、あの人も俺の大事な…… 「―――――」 無言で壁をぶん殴り、その一点を陥没させる。以前なら拳が折れていただろうが、今はまるで痛みを感じない。 この身体になったことを後悔なんかしちゃいないが、今は少し、わずかだけ……痛みが欲しいと俺は思った。 「ああ、いらっしゃい。待ってたよー」 その後、十分くらいの間道に迷いながらも、俺はなんとか本城のいる部屋まで辿り着いた。 「意外に蓮くんって方向音痴だよねー。ここからずっと見てたけど、なんか行ったり来たりして、鼠っぽかったわ」 「……大きなお世話だ」 開口一番からかってくる本城に、憮然と応じる。ここはいわゆる管制室とでもいうやつだろうか。要するに、店内のあらゆる場所と状況を観察できるモニターだらけの部屋だった。 部屋の中の光源はそれだけ。思い思いの画像を映すモニターだけが、室内を照らしていた。足下は、色も太さもまちまちな得体の知れないコード類が埋めていた。 俺は機械音痴ってわけでもないんだが、やはりこう、自分には使いこなせない道具がぞろぞろと置いてある空間は、気分的に落ち着かないものがある。 「その辺掛けなよ。あたしんとこ来た理由は分かってるし、ちょっと待ってれば面白いもの見せてあげる」 言いながら、やたらでかいパソコンなのか何なのか、よく分からないタワーみたいなマシンに向かい、そのキーボードを〈弄〉《いじ》る本城。咥えタバコのまま、カチャカチャとリズミカルに指を動かしつつ、肩越しにこちらを見てくる。 「もう少しかかるから、暇ならそこのモニターでも見てるといいよ。ほら、〈司狼〉《バカ》と〈マリィ〉《てんねん》がじゃれ合ってる。会話も聞きたいなら、これどうぞ」 差し出されるヘッドホン。本城が目で指し示したモニターには、司狼とマリィが、その、なんていうか……綾取りしながら談笑している様子が映っていた。 「何話してる?」 「エッフェル塔の難易度がどうとかこうとか……あと、実物のエッフェルは世界三大ガッカリに数えられるくらいショボいらしいけどマジなのかとか……」 「はあ、世界三大ガッカリって、マーライオンとかじゃなかったっけ?」 「あいつはどうでもいいこと知ってるようで、その大半が間違ってんだよ。わざと言って、嘘教えようとしてる線もあるけど……」 果てしなく馬鹿らしくなり、俺はヘッドホンを耳から外した。 会話の内容がしょうもなさすぎるという理由もあるが、もともと盗み聞きをする趣味はない。 第一マリィにエッフェル塔の話題を持ちかけてどうするつもりなんだ。フランス人だからか? あまりに突拍子もないからマリィの生い立ちをあいつには説明していない。なのであげつらうのもフェアじゃあないが、フランス革命百周年を記念したエッフェル塔を、まさにフランス革命真っ只中の時代に生きたマリィが知るはずがない。話題の取っ掛かりにもならないだろうに。 「ほんと真面目だね、蓮くんは。あいつがあることないことデタラメ教え込みだしたら、どうするの?」 「後で何話したか聞いて、必要なら修正するさ。それに、今はそんなことどうでもいいだろ」 「ああ、はいはい。そうだったね。あと少しでいけそうなんだけど、ああ、これ、めんどいなクソ。なかなか性格悪いっつーか」 台詞とは裏腹に鼻歌交じりで、本城はキー操作を続けている。おそらく、こいつがやっているのは…… 「ハッキング……だろ、それ?」 「んー、まあそんなようなもん」 つまり全開で犯罪行為なわけなんだが、いったい何を探っているかは見当がつく。 こいつにこのスキルがあったからこそ、司狼はこの件に関われたんだろう。 「なあ」 「ん?」 「おまえ、なんで司狼なんかとつるんでるんだ?」 「いや、なんでって言われてもね……」 俺がそう疑問を投げると、本城は楽しそうに含み笑った。 正直、男の趣味が悪いとしか言えない。俺もかなり駄目な方だという自覚はあるが、あいつがそれよりマシだとは言い難いものがある。 「きっかけとかは?」 「別に。あいつが病院脱走した時、たまたまその場にいたからってだけ。なんか面白い奴だったし、そのまま拾って帰ったの」 「ボトム〈レス・ピ〉《ここ》ットは、あいつと知り合うずっと前からあたしの遊び場。蓮くんも、少しは見当ついてたんじゃない?」 「……まあ、それは」 今まで確証はなかったが、言われてついに合点がいった。道理でこいつの名前、どこかで聞き覚えがあると思っていたけど…… 「本城総合病院……だったな確か。おまえ、あそこの娘なのか」 「オーイエース。なかなか鋭いねえ」 ぱぱん、とキーを叩いて〈嘯〉《うそぶ》く本城。どうやら当たったみたいだが、だとしたらこいつ、この様で親が医者かよ。 「学校は行ってるのか?」 「うん、休みがちだけどね。幸徳女子だよー」 「幸徳って、おま……」 一瞬、目の前が暗くなった。 それ、諏訪原ナンバーワンの超絶お嬢学校だろ。生徒間の挨拶は『ごきげんよう』とか、そんな感じ全開の…… 「やだねえ、そんな目で見ないでよ。学校と家じゃ、ちゃんと猫被ってるし」 「そっちの方が、遥かにタチ悪いと思うけどな」 「そう? あたしはあたしなりに、親とか友達とか大事にしてるよ。なるべく期待には応えるし、そういうのを迷惑だとも思わない」 「でも、あたしが楽しいと思うのは何でかこういうことだから、それに付き合えない感じの人には黙っておくね。尻尾出さなきゃ、それはそれで相手にとっちゃ真実なんだし」 「あたしは変身ヒーローで、昼は本城さん、夜はエリー。誰でもそういうところはあるんじゃない? 司狼も香純ちゃんも、それから……氷室って先輩も……」 「…………」 「人間なんてそんなもんでしょ。だからあんまりショック受けない」 「……やっぱりおまえ、全部最後まで聞いてたんだな」 「ま、盗聴も趣味だし?」 おどけるようにそう言って、本城はウィンクした。それと同時に、今まで〈弄〉《いじ》っていたパソコンのモニターが変化し始める。 「そんな感じで、雑談お終い。いいもの見せてあげるから、ここから真面目な話を始めようか」 ワケの分からないプログラムの羅列が消え、画像が表示されてくる。そこに映っていたのは、他でもない。 「あたしはこれを見るの二回目だけど、ホント馬鹿みたいな額の賞金で、笑えてくるよ。本人が言うには、全員〈殺〉《と》ったら戦車の一万台くらい買えちゃうって話だけどさ」 本城は目を細め、トーンを落とし、ゆっくりと言い聞かせるように、表示された英文を訳しだした。 それは奴等、聖槍十三騎士団の個人データ。 「ヴィルヘルム・エーレンブルグ。1917年7月10日に、ドイツ、ハノーヴァーで生まれる」 第三帝国、負の遺産。〈生死を問わず〉《Dead or Alive》――そんな言葉が、液晶の上に踊っていた。 「27年9月、父親を焼殺し、〈姉〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈ヘ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ガ〉《 、》〈・〉《 、》〈エ〉《 、》〈ー〉《 、》〈レ〉《 、》〈ン〉《 、》〈ブ〉《 、》〈ル〉《 、》〈グ〉《 、》〈を〉《 、》〈も〉《 、》〈火〉《 、》〈に〉《 、》〈く〉《 、》〈べ〉《 、》〈る〉《 、》。少年院に送致されるも、同年12月に脱獄」 「その後も放火、殺人などを繰り返すが、41年に後のSS特別連隊、ディルレワンガーの一員となり、翌年2月のパルチザン掃討戦で戦果をあげる。これによって罪は免責」 「しかし、44年のワルシャワ蜂起戦において、市民、敵兵、同胞を問わず虐殺。街路の端から端まで、串刺しにして〈晒〉《さら》す。公的には、それで粛清されたとなっているが……」 「45年のベルリン市街戦時に、目撃情報あり。その他、70年のベトナム、82年のアフガン、85年のイラク等、各地の戦場でその存在を確認されており、もっとも新しいのが91年の〈湾岸戦争〉《GULF WAR》、〈砂漠の剣作戦〉《Operetion Desert Saber》においてである」 「――とまあ、ありがちだけど、いわゆる戦場のオカルトだね」 「なんでもこいつ、兵隊世界じゃ伝説になってるみたいよ。曰く、白い貌のSSを見たらとにかく逃げろ――何があっても戦ってはいけない」 「どう、少しは参考になったかな?」 モニターを見ながら、気だるげな感じで本城が訊いてくる。俺は正直、胸糞が悪くなっていた。 「まだ詳しく知りたいなら、翻訳かけてプリントアウトしてあげるよ。たとえばルサルカ・シュヴェーゲリン、こいつなんか傑作で……」 「いや、もういい」 連中の経歴なんかを聞いたところで、内臓が腐りそうになる不快感しか覚えない。情報が大事なのは理解してるが、それも種類によりけりだ。 「一人ずつピックアップしなくていいから、分かってる範囲のメンバー構成を教えてくれよ。顔写真があるなら、それだけでもいい」 「そう? じゃあざっといくけど、ヴィルヘルム・エーレンブルグ、ルサルカ・シュヴェーゲリン、ヴァレリア・トリファ、ロート・シュピーネ」 「それからベアトリス・キルヒアイゼン……はもう死んでるみたいで、その抜け番が櫻井螢。こいつらが高額の賞金首だってことはOK?」 「……ああ」 本城が言うには、どうもそういうことらしい。奴等は、その首に法外な懸賞金が掛かっている。 それについてさもありなんと思う反面、やはり嫌な気になった。 理由はどうあれ、相手が何であれ、殺人を金で〈煽〉《あお》ろうという考えが気に入らない。ネットにこういう所があるのは知っていたが、直に見るのは初めてだ。 「それ、どこのアングラサイトだよ」 うんざりしながら、俺が訊くと、 「国連」 「は?」 「だから、国際連合。WW2の戦勝国様。地球大統領府とか、馬鹿っぽい言い方をしてもいい」 「そこの人らにとっちゃあ、意地で抹殺しておきたい亡霊なんだよ、こいつらは。勝者の歴史ってやつがあるだろうし」 「だから当然、この情報だって簡単に閲覧できるものじゃない。コネと、金と、その他色々、裏技使わないと観れないよ。一般人じゃあ、まず無理だね」 「……おまえ一般人じゃないのかよ」 「実はただの一般人じゃなかったり」 咥えタバコで、シニカルに笑う本城。 こいつがそっち系に強いというのは聞いていたが、どうやら相当ぶっとんだスキルを持ってるらしい。国連のデータベースにハッキング紛いの真似をかけるなんて、そこらのパソコンマニアにできる芸当じゃないだろう。 まったく、類は友を呼ぶと言うべきなのか。あの〈司狼〉《バカ》、本当にろくな知り合いを持ってないな。 「でも、あたしが見れたのはこの五人、プラス故人一人の六人だけ。これじゃあ全然足りないよね。司狼から聞いたけど、見たんでしょ? 連中の頭」 「…………」 問いに、即答は出来なかった。とぼけているわけではなく、単にそれは脳が思い出すのを拒んでいるだけ。 ラインハルト……あれは駄目だ。デタラメすぎる。あれに比べたらここに表示されている連中など子猫に等しい。さらに、桁外れの怪物は他にもいる。 〈奴〉《 、》〈等〉《 、》〈を〉《 、》〈表〉《 、》〈に〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。仲間であるシュピーネさえもが恐れていた連中は、言うなれば核爆弾だ。使われたら、戦うことになったら総てが終わる。〈斃〉《たお》せない。 黒円卓の首領、副首領。その下に付き従う三人の大隊長。 「蓮くん?」 「とりあえず、何考えてるかは顔から想像できたけど、そいつら何人?」 「…………」 「ちょっと洒落にならなすぎるのが何人かいる。オーケー、それはいいんだよ。勝てない奴と戦う必要はないし、勝負しないならそいつらの出番を封じるように立ち回ればいい。問題は、そういうのがいったい何人いるかってこと」 「…………」 「ね、教えてよ。まだあたしらと組むのに抵抗があるのかもしれないけど、そんなのがいるなら好き嫌いも言ってらんないでしょ」 本城の言ってることは正論だし、俺も今さらこいつらと組むことに文句を言うつもりはない。無駄な人死には御免だから、そのためにも分かっている情報は開示する必要がある。 だから…… 「五人だ」 胸に手を当て、深呼吸するように俺は言った。 「奴等の一人から直に聞いた。そいつはもう〈斃〉《たお》したから、そこに挙がってる六人中、故人は二人ってことになる」 「だけど……もっと上がいるんだよ。連中はトップが二人で、その下に幹部が三人。この五人は、正直なところ……」 「どうやっても勝てそうにない?」 問いに、俺は無言で応えた。それは肯定の意思表示。 「そう。でも蓮くんが実際に見たのは、その内の一人だけでしょ? なのになんで、五人が全部一括りなわけ?」 「分からない。けど、そんな気がするんだ」 俺は奴等を知っている。判然としないが、その名前に既知感を覚えてしまう。 ラインハルト、メルクリウス――マキナ、ザミエル、シュライバー。 〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈俺〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈敵〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「ふーん」 本城は何事か考えるように首を傾げて、モニターの情報を再読していた。 「ヴァレリア・トリファ……あたしが恐いっていうか、気持ち悪いと思うのはこいつだけど、蓮くん的には別に問題じゃないって感じ?」 「まさか、そんなことあるわけないだろ」 ただ何というか、上手く言えないけど彼は他と毛色が違うように見える。そういう意味で、気持ち悪いという本城の評価は的を射ているだろう。 「その神父は、現状の司令官だ。首領代行って言ったか、例の五人が戻ってくるまで、連中を仕切る役目」 「つまり、頭脳労働専門ってわけ? まあ、確かにそんな感じの奴だったけど、だからってそれは別に、あたしらにとっちゃ大差ないっていうか」 そう、彼が弱いというわけじゃない。事実俺は、神父の一撃で吹き飛ばされた。黒円卓に、〈容易〉《たやす》く打倒できるような者は存在しない。 ヴィルヘルムも、ルサルカも、櫻井も、一筋縄ではいかないということに変わりはないんだ。 「とりあえず、色々突っ込みどころはあるけどそれは後に回すとして、今はあたしが思ってることを言っておくわ」 「まず、ベアトリス・キルヒアイゼンと櫻井螢は代替わりしてるから、実質あたしが見れた情報は五人分。それに蓮くんが言う五人も足して合計十人……足りないんだよ、あと三人」 「正直ね、幹部とか? その連中のことはなんとなくだけど分かってた。プロテクトの規模とか難易度とか、そういうことから、この下に何人いるかはだいたい見当つくんだよ。でもね……」 「残りの三人、これについては痕跡すらない。データが存在してないのか、あたしでも読めないくらい深いところにいってるのか、まるで分からないから恐くなる」 「情報の軽重で脅威度を測るなら、蓮くんが言ってる五人よりこの三人の方が遥かにやばいよ。楽天的に考えれば、大したことないから登録されてなかったとか……そんなオチも有り得るっちゃ有りなんだけど」 「もしかしたら、この三人は連中の切り札なのかもしれない」 「そして、あたしたちはその内二人に見当がついている」 紫煙を吐きながら、モニターに映った俺の目を見て話す本城。こいつの言わんとするところは分かっていたし、こっちも同じ事を考えていたから言葉に詰まった。 「教会にいる〈首領代行〉《神父》。あそこは他にもシスターが一人と、〈月学〉《ツキガク》の……」 「いい。言うな、分かってる」 「本当に?」 「ああ、さすがにそこまでおめでたくない」 思い返せば、幾つかそれらしいところはあった。俺が馬鹿で、間抜けだから、それを見ないようにしていただけで。 香純の時とまったく同じだ。友人というフィルターにかけて真実を歪ませている。 「だけど、それでもあの人は俺の先輩だ。シスターにしても、何度か世話になっている。だから――」 彼女らが俺の予想通りの存在だったとしても、もうこれ以上は迷わない。戦うとか救うとか、そんなんじゃなく、ただ―― 「あの人たちに誰も殺させない。あとのことは、その時になってから考えるさ」 「ふーん」 俺が言うと、なんだか物珍しげな様子で本城がこっちを見ていた。 「……なんだよ?」 「いや、なんかこう、意外に蓮くんって熱いよね。わりに恥ずかしいこととか、平気で言っちゃうタイプでしょ?」 「…………」 大きなお世話だ。 「あはは、ほら駄目だってば、そんな顔しちゃ。あたし、今の結構グっとくるもんがあったんだから」 「えーっと、ほら、司狼はマリィちゃんと遊んでるし、蓮くんはあたしと二人で盛り上がる? 実はこの脚線に、密かな自信を持ってたり」 「ミニスカ〈穿〉《は》いて脚あげるなよ……」 ついでにブーツも脱ぎだすな。 「ふざけてるなら俺は行くぞ。お嬢のくせに馬鹿なことやってんな」 「ぶー」 なんて口を尖らせつつ、わざとらしくため息なんかついている。 こいつは司狼の女版だ。まともに相手はしていられない。 「分かったよ。このことについてはまた後で、今度二人っきりになったら続けようね」 「で、さっきも言ったけど、あたし蓮くんの話に突っ込みたいところがあるわけでさ」 「ああ、言ってたな。で?」 とりあえず、今後こいつと二人きりになる状況は避けようと思いつつ、俺は先を促した。 すると。 「連中の頭が街に来たのに、なんで神父が未だに代行なんかやってるわけ?」 「…………」 面倒だから意識的に誤魔化したところを、本城は的確に突いてきた。そこは〈伊達〉《だて》に幸徳女子在学の身……馬鹿じゃないってことだろう。 「おかしいよね。なんで?」 「それは……その、なんて言うかな」 話せば、あまりにも〈荒唐無稽〉《こうとうむけい》な説明になるだろうし、本音を言うと黙っておきたい。 でもこれは実際かなり大事なことだし、隠すわけにもいかないだろう。 「ラインハルトは、まだ完全じゃない」 シュピーネが言っていた。街に八つの方陣が開けば、奴等はここに戻ってくると。それは裏を返せば、八つ揃わない限り戻れないことを意味する。 つまり概念として、人の行き来と言うより召喚に近い。何処から戻ってくるのか知らないが、厳密なところラインハルトはまだ街にいないのと同じ事だ。それを端的に、〈掻〉《か》い〈摘〉《つま》んで説明すると…… 「ああ、そうかなるほどね」 意外なほどあっさりと、本城はこのトンデモ話を受け入れていた。 「八箇所……要はそういうことか。とすれば司狼の奴、全部分かっててここにいたな。道理で妙だと思ったよ。あいつが丸一日以上、穴に篭ってるなんて」 ぶつぶつと早口気味に呟いて、本城は手早くコンソールを操作しだす。そして画面に映し出される監視カメラの映像を、食い入るように凝視しだした。 結果。 「――やっぱり」 低く、震える声でごちる本城。それは怒ってるような、喜んでいるような、複雑な顔と声。 「司狼、この馬鹿。あんた責任取んなさいよ」 マイクを手に取り、司狼とマリィが遊んでいる部屋へ繋げる。その時、俺も見てしまった。 「お客さんが来てる。もう手遅れだね」 背筋を走り抜ける寒気と悪寒。ついさっき口に出したばかりのことが、早くもここで、試されようとしていた。 「三つ目のスワスチカはここってわけか。……うちの奴等、たぶん皆殺しにされちゃうよ」 それはクラブのステージ上、監視カメラのモニター越しにこちらを見るのは、〈涙黒子〉《なみだぼくろ》に憂いを〈湛〉《たた》えたシスター、リザ・ブレンナー。 〈尼僧〉《にそう》服とは似ても似つかぬ黒いSS軍装に身を包み、彼女はそこに立っていた。  ぎらつく照明と暴力めいたサウンドの洪水の中、数百を超える人込みを意にも介さず、楚々とした歩調で彼女は歩みを進めていく。  人を避けているのでも避けられているのでもない。  にも関わらず、すし詰め状態に近いホールの中で、彼女の肩に触れた者すらいなかった。 「…………」  少女、櫻井螢の目が細まる。これからこの場で起こるだろう惨劇に思いをはせ、しかしすぐに益体もないと察したのか、その目は冷えた光を宿したまま、ステージ上に注がれていた。  自分と同じく、音も気配なくここに侵入した同行者。  照明の下、気だるげに長髪を掻き揚げて、佇んでいる黒い聖女。  リザ・ブレンナー……今夜の主役となる彼女を。 「さあ、あなたはどうするの藤井君」 ボトムレス・ピットのホールには、すでに多数の観客が入っていた。ある程度歳のいった男性から、まだあどけなさを残した少女まで、年齢も性別も違うあらゆる人間が集まっている。その全員が、半ば呆けた様子でステージ上を見上げていた。 そこにいるのはただ一人の女性。俺はこの人を知っている。トレードマークの眼鏡を外しているものの、見間違えるわけがない。 シスター・リザ――リザ・ブレンナー。 「ふん、面白いな。まるでお通夜じゃねえかよ」 「美人の凄味ってやつかねえ」 数百を超える観客が、誰一人として一言も発さない。大音量のクラブミュージックが流れる中、異常な静寂がそこにあった。俺も司狼も、本城も、魂を抜かれたように立ち尽くしている連中が邪魔になってステージまで近寄れない。 戦いになることを覚悟してマリィを内に戻してあるが、この展開はいささか想定外だった。次に何が起こるかまったく予想できないため、どうしていいか分からない。 彼女、もしかして俺たちが現れるのを待っているのか? だとしたらその瞬間に、戦いが始まってしまうのか? 俺は顔見知りの人間といきなり殺し合いを始めるほど、気が狂っちゃいない。それなら果たして、どうこの場を収めるべきか。 「こんばんは、藤井君」 「――――――」 だがそんな懊悩も束の間、切れ長の目がこちらに向けられ、視線が合う。 それは前に会った時とまったく同じ柔和な口調。今の状況があの日常から続いた現実なんだと自覚させられ、俺は吐き気が込み上げてくる。 彼我の距離は約二十メートル。間に硬直している観客たちを挿んだまま、彼女は静かに語りかけてきた。 「悪いことは言わないから、すぐにこの場を離れなさいな」 「正直私は、あなたと争いたくないの」 「だったら――」 思わず、俺は吠えていた。 「あんたがここから去ってくれ。俺だって、あんたと戦いたくなんかない!」 「きっと、氷室、先輩……だってッ」 「ええ、あの子はそうでしょうね」 自嘲するように呟くシスター。その瞳に憂いを湛え、しかし非情なことを口にする。 「でも私がここから退いてしまえば、代わりにベイかマレウスがやってくるだけ。事態は何も変わらない」 「シスター、俺は……」 俺はあなたの口から、奴らの名前など聞きたくなかった。 「どうして……俺にはあんたや先輩が、あの気が狂った連中と同じようには思えない。どうして、あいつらと行動を共にする」 「あなたと知り合うずっと前から、私は彼らの仲間だからよ」 「私とあなたが出会っていても出会わなくても、今日という日は起きていた。何かが変わったわけじゃない。私は最初から、こんな女」 「だからね、これが最後の忠告……」 す、とシスターの目が細まる。傲慢に、倣岸に、女帝のような圧力で、彼女は俺を見据えて言った。 「去りなさい、藤井君。あなたが死んだら、玲愛が悲しむ」 「――――――」 瞬間、脳裏に過ぎったのはあの日の情景。もう砕け散って戻らない、日常の記憶。 ああ、あんたは何も分かっちゃいない。 「――ふざけるなよ」 俺なんぞの生き死により、あんたがそんなことを口にするほうが彼女を悲しませると分からないのか。 死ぬとか殺すとか戦うとか何だとか、馬鹿みたいなことを言い合ってても埒があかない。 決めたぞ、もう考えるのはやめだ。 「シスター、ここから消えるのはあんただよ。口で言っても通じないなら、力づくで叩き出してやる」 「そう……じゃあ私も、その考えに倣うわね」 俺の台詞に頷いたシスターは、視線を逸らして宙を見た。 「退けないのはこちらも同じ。私にも理由があるし、叶えなければならない願いがある」 「その邪魔をするなら排除するわ。聖槍十三騎士団黒円卓第十一位、バビロン・マグダレナ=リザ・ブレンナー。今の〈騎士団〉《わたしたち》が有する最高戦力と戦って、勝てると思わないほうがいい」 同時に、シスターの斜め上方、何もない空間に孔が空いた。……いや、違う。 それは仮面……なのだろうか。一切の光を発さず反射もしない漆黒の物体が、宙に浮いたまま留まっている。 俺はそれに、寒気を覚えた。 「おいおい……」 「ああ、こりゃちょっと……」 今まで大人しく俺とシスターのやり取りを見ていた司狼と本城が、らしくなく引きつった笑みを浮かべていた。こいつらも感じたのだろう。 奈落のような黒い仮面……その奥から滲み出てくる常軌を逸した凶念に―― 「〈形成〉《イェツラー》――」 あれが彼女の聖遺物―― 「〈青褪めた死面〉《パッリダ・モルス》」 瞬間、闇が爆発した。 「――――――ッ」 〈仮〉《、》〈面〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈人〉《、》〈体〉《、》〈が〉《、》〈生〉《、》〈え〉《、》〈て〉《、》〈く〉《、》〈る〉《、》。おかしな表現極まりないが、目の前で起こっている現象をありのままに説明すればそうとしか言いようがない。 腕が、脚が、腰が、胴が、仮面の内から迫り出すように、ほんの数秒で出現していた。いまシスターは一人じゃない。 彼女の傍に佇むのは、優に二メートルを超える巨躯の怪人。太い筋肉の束で覆われたその肉体は、岩の塊から彫りあげた鬼神像を思わせる。左半身には複雑な模様の刺青が彫られており、見るからに奇怪な容貌に更なる拍車をかけていた。 なんだ……こいつ、人間なのか? とてもそうは思えない。 あれだけの巨躯を誇りながらも、まるで存在感を感じない。目の前に在るというのに、何かの冗談めいた非現実性を纏っている。 そしてそうでありながら、轟々と吹き付けてくる殺意だけは嫌になるほど本物だ。禍々しい負の波動が、ホール中に広がっていく。 シスターによって時間を止められていた客たちが、それで一斉に覚醒した。 皆、突然現れた化け物に恐怖している。恐怖は増大し、伝染し、飽和して溢れだす。恐怖に駆られた者はこの場から逃げ出そうとし、狭い出口に詰めかける。中には他者に暴力を振るって、我先に逃げ出す者もいた。 瞬間―― 「うるせぇぞ、てめえら!」 天に向けての発砲と、その轟音にも劣らない怒声一喝。ただそれだけで、恐慌状態に陥っていた数百人が沈黙した。のみならず、逃げるのを止めて脇に避け、ステージまでの道を開く。 「よぅし、分かってんじゃねえか。それでいいんだよ」 さながらモーゼの十戒めいた状況に呆気とする俺を余所に、司狼は悠然と通路を歩く。少し遅れて、やはり何事もなかったような顔で本城が後に続いた。 「たいしたものね、遊佐司狼君」 それに、感嘆したようなシスターの声。 「私達の時代に生まれていたら、あなたは英雄になれたかもしれない」 「じゃああんたは、さしずめマッドサイエンティストだったってところかな?」 気だるげに、失笑すら浮かべて本城が顎をしゃくった。その先には、出現から微動だにしない巨躯の怪人―― 「家業柄、分かるんだよあたしには。抹香臭いっていうかホルマリン臭いっていうか……とにかく、随分と破戒だよね、シスターも」 「ああ、なんつーか墓場臭ぇ」 「そうだね、死臭ぷんぷんだよ、そのでかいの。ヴィクター・フランケンシュタイン博士……あれって英国文学のはずだけど、いいわけ? ドイツ人がパクっちゃってさ」 「ふふ……」 本城の台詞に、シスターは笑みで返す。 否定しない。何も言わない。まるで先の指摘が、真実であるかのように…… 「じゃあ、あいつは……」 あのデカブツは、死体なのか? 死体だから、あれだけの巨体に関わらず存在感が薄いのか? してみれば、奴がかもし出す迫力は確かに〈歪〉《いびつ》だ。生命体としてのそれではなく、喩えるなら重機のような……大型機械が迫ってくる圧迫感に酷似している。 心無き、命無き殺戮機械――それがこいつ…… 「聖槍十三騎士団黒円卓第二位――トバルカイン」 「仰る通りよ、お嬢さん。彼は死体。生きていない。こうなった者を私が使う……最初から、そういう配役」 「まずはお見事。その統率力と洞察力、彼を前にして正気でいられる度胸も含めて、非凡だと言っていい」 「だけど……」 再度、シスターの目が細まる。彼女は俺を見ておらず、会話をしていた司狼たちすら、もはや眼中から失せていた。 「――――」 それと同時に心臓が跳ね、ある種の不安と焦燥が爆発する。 まずい。いけない。彼女はもしや―― 「指揮官としては最悪よ。今夜の私の目的は、ここのスワスチカを開くこと。あなた達と遊んでいる暇はないの」 「判断ミスね、二人とも。それだけ統制が取れるなら、あのとき逃がすべきだった」 「ねえ、カイン……」 瞬く閃光。カインと呼ばれた巨人の担ぐ無骨な鉄塊……おそらくは奴の聖遺物であろうその物体が、不吉な音を立てて鳴動する。帯電して咆哮する。 ステージ上、指揮者のように手を掲げて、謳うシスター。 彼女の声に呼応して、阿鼻叫喚の組曲が開始される。 奏者は巨人。楽器は人間。 これは殺戮のオーケストラ。 「――〈Crescendo〉《クレッシェンド》」 轟音と共に、ホールを紫電が迸った。 「――――ッッ」 爆ぜる雷光に視界が眩み、密閉空間での轟音が聴覚をぶっ壊す。ホワイトアウトした無音の中、駆けだそうとしていた俺はそのまま爆風に吹き飛ばされた。 「―――ガァッ」 壁に激突してから一拍遅れて、全身に飛び散ってくるのは血と肉塊。落雷に引き裂かれてバラバラになったかつての人体。その破片だ。 高温により沸騰した血液と、焦げ付く肉の匂いが鼻腔を抉る。眼が見えず耳が聴こえずとも充分すぎるほど理解できた。あの一瞬、一撃で、ホールが死体の山と化したことを―― 「―――司狼ッ!」 この、馬鹿野郎ッ、生きているなら返事をしろ。おまえまさか、今ので死んだんじゃねえだろうな。 「許さねえぞ、そんなの……」 歯軋りして、膝を殴る。雷撃の何割かを食らったようで、足が痺れたまま動かない。 立て、立て――立って戦え。この状況で、あの化け物とやれるのは俺しかいない。 感電の余波で顔中の穴から血が噴いているのを理解しつつ、しかし今はそれを忘れた。この惨状は、紛れもなく俺の甘さがもたらしたものだから。 シスター、シスター……あなたもやっぱり、あいつらと同じなのか。人を殺すことに何の躊躇も恐怖もない、あのイカレ狂った連中と。 だったら…… 「だったら、〈斃〉《たお》すしかない……」 戦いたくなかった。死なせたくなかった。誰もあなたに、殺させたくはなかったんだ。 そんなことすら守れない俺に出来る最後のことは、一刻も早くあの死体野郎を排除するということだけ。 シュピーネが言っていたことを思い出す。奴らの目的は街の特定八箇所における大量殺人。八つの戦場を生み出すこと。 ならここで戦うのはまさに思う壺だろうが、連中が“場”に執着している以上、別の場所に誘い出すことなど出来はしない。 そして何より、あいつをここから外に出したら死人が幾何級的に増えていく。 だから今出来ることは、即行でカインを斃す。ただそれだけで―― 「――――」 立ち上がったときとほぼ同時に、聴力が戻ってきた耳に銃声が聴こえてきた。 「そうか、生きてたかおまえ……」 俺よりも抜け目なく、目端も利く司狼と本城のことだから、いち早く安全圏に避難していたんだろう。これで少しだけ安心した。そして視界も戻ってくる。 「さあ、行くぞ……」 俺の視線に気付いたのか、それともシスターの命令なのか、ステージ上でこちらに向き直るトバルカイン。その挙動は、人と言うよりショベルカーが旋回するような印象を受ける。 ああ、まったく……どいつもこいつも全力で狂ってやがるな。 死人は死人らしく腐っていろ。こいつの存在とその在り方は、それだけで酷い歪みだ。正視に堪えかねるし、許容できない。 俺が一歩踏み出すと、それに合わせてカインもステージから飛び降りた。 地響きすら伴う巨体。おそらくパワーも桁外れに違いないが、この場にあっては、動き回って隙を衝くような戦法を採ることなど出来はしない。 先の一撃で半数近くが消えたとはいえ、まだホール内には多数の人間がひしめいている。彼らが無事逃げられるように、俺は正面から立ち向かわなければならないだろう。 だから、さあマリィ、一緒にやるぞ。 あの化け物を、墓場に叩き返してやろうじゃないか――!  初撃の轟音と共に弾け飛ぶ血と肉片。それにより消失した犠牲者の数を、リザ・ブレンナーは瞑目したまま知覚する。  即死者七十八名。致死傷を負った者五十一名……つまり、先の一撃によりこの場で散華する魂は、計百二十九名分。  いったか? ……いや、まだ足りない。  クラブ、ボトムレス・ピットに集う者らの魂は、なかなかどうして上質だ。霊的に鍛えられているというわけではなく、単に彼らは生き汚い。  警察、親、教師、あるいは〈極道〉《マフィア》から、生きるために逃亡してこの場に篭るアウトロー。表で生きられないと悟った彼らは、他の大多数がそうするように順応して我を殺すことを良しとせず、同類を求めて自らの居場所を作った勇気ある逃亡者だ。言わば臆病者と紙一重だが、昨今はそれが出来る者すら希少と言える。  遊佐司狼と本城恵理依の走狗であることを鑑みれば、我意そのものは薄いのかもしれないが、それでも部品として見るなら評価できよう。少なくとも、日々をただなんとなく生きているだけの者たちよりは、数段生死のなんたるかを弁えているに違いない。  ゆえに、彼ら凡人を捧げるならば五百は殺す必要があるスワスチカも、ここの者らなら二百か三百で足りるはず。  そう、つまりはあと一・二撃、カインが武器を揮えばいい。そうすることで、ひとまず自分の仕事は終わるはずだが…… 「凄いものですね、たいした威力だ」  いつの間にか傍らに並び立っていた同伴者の声を聞き、リザは思考を断ち切った。 「まるで爆撃……私が知る限り、一撃でここまで出来る者は他にいない。黒円卓の現有戦力中、最強はやはり彼か」  言いながら、螢は無感動に横の巨人を眺めている。その、些か完璧すぎる鉄面皮のまま、彼女はぼそりと口にした。 「しかし、随分と変わってしまった。 バビロン、これは本当に……」 「ええ、彼よ」  極度の集中により滲む額の汗も拭わぬまま、リザは簡素に肯定する。 「あなたも知っているように、トバルカインは代替わりする。彼は三代目だから、こうなったとき、初代と二代目の肉体と融合したのよ。つまりいみじくも、さっき髪の短いお嬢さんが言っていた通りね」 「フランケンシュタインの怪物か。死体を継ぎ合わせた身体……道理で代を重ねるごと巨大になる。そしてそのぶん強くなる。しかし、それだけに少々解せない」 「あなたは先ほど、〈徐々に強く〉《クレッシェンド》と命令したが、私なら初撃で〈極めて強く〉《フォルティッシモ》と言うところだ。最大効率で戦果をあげるとは、すなわちそういうことだと思うのですが……」  なぜ手加減したという言外の問いに、リザは疲れた苦笑で応じた。 「言ったでしょう。私は十一年、カインを使っていない。つまり、この彼を操るのは初めてなのよ。まだ手探りの状態なのに、初撃で全力なんて、下手をしたらこちらが焼き切れてしまいかねない」 「だから、言わば暖機運転ね。正直、それでもかなりきついの。実のところ、あなたとこうして話しているのも億劫になるくらい」 「日頃鍛えていないからそうなるのです。……が」  くだらないと頭を振って、しかし螢は生真面目に言葉を継いだ。 「どうやら、付き合って正解だったようですね。以前藤井君にした例え話……あなたは武器が強力でも使い手が脆弱だという典型だ。護衛がいなければ戦えない」 「そう。じゃあしっかり守って。それから彼は……」 「生きていますよ。そして、おそらく戦う気かと」  見据える螢の視線の先には、立ち上がりこちらを睨む藤井蓮。 「馬鹿ね、今のうちに逃げればいいのに……」 「彼がそういう男じゃないことは、私よりあなたのほうがよく知っていることでしょう」 「ええ……そうね、そうだった」  リザの視線に連動して、トバルカインもまた蓮を向く。顔面を覆った〈死面〉《デスマスク》からは何の感情も読み取れず、彼が意志のない機械同然であることを如実に物語っていた。 「まだスワスチカは開いていない。あなたが仕事をこなそうとするのなら、彼は全力で止めようとするでしょう。もはやどう足掻いても、戦うしかないですね」 「…………」 「心が痛みますか、〈シ〉《、》〈ス〉《、》〈タ〉《、》〈ー〉《、》」 「まったく……」  苦笑しつつ、リザは呟く。 「私が嫌いなのは分かるけど、意地悪なのもほどほどにね。でないとあなた、可愛くないわよ」 「別に問題ないでしょう」  やんわりとした苦言に、螢は鋼の声音で返答した。 「私をこんな女にしたのは、あなた達なのだから」  そして、そんな彼女らのやり取りを、恐れるでもなく淡々と観察している者らが二人。 「駄目だ、耳が馬鹿になってら。こりゃしばらく使えそうにねえけど、おまえは?」 「あたしも、正直だいぶ駄目。あんたの声が、明後日のほうから聞こえてくるよ」  先の一撃を受けて命があったのは僥倖だった。咄嗟に回避行動はとったものの、どだい雷撃など人の反応速度で躱せるようなものではない。蓮と違って生身の彼らは、あのとき死んでいても何らおかしくないのである。 「命中率が悪いのか、それともお目こぼししてもらったのか……は、なんにせよ全力で舐められてんなぁ」 「指揮官としては最悪とかね。まあ否定はしないけど、あんた最初からそんなガラじゃないのにね」  スワスチカが開くというのはどういうことか。何をして、何が起こり、その結果どうなるのか……おそらく司狼は、それを確かめるためだけに逃げる仲間達の動きを封じた。少なくとも、エリーはそう思っている。 「あんたのその、全開で人でなしなとこ……ぶっちゃけ連中といい勝負」 「褒めんなよ、照れるだろ」 「まあ、それはいいけど、耳が馬鹿になってもやれることはあるわけでね……」  もともとこの距離では、耳が正常に機能したところで相手の会話など分からない。なら一時的な難聴など、何の問題もないだろう。エリーはそれきり司狼を無視して、ステージ上の二人を食い入るように凝視した。 「おい」 「うっさい。少し黙ってな」  連れを諌め、そのままぶつぶつと口を動かし始めるエリー。ややあって、彼女は司狼を仰ぎ見た。 「あいつらが何喋ってんのか、分かったよ」  読唇術である。どこで訓練を受けたわけでもない。ほとんど自己流。足らない部分は観察力と集中力、そして思考力で補うしかない。  二人の会話を読み取ったエリーは、その内容を司狼に伝える。 「……だと、思う」 「頼りねえな」 「信じないならご勝手に」 「シスターを〈斃〉《たお》せばあのカインとかいう化け物も〈斃〉《たお》せるってことか」 「そういうことだね。ま、そのためにはまずシスターを守ってるあのお嬢ちゃんが邪魔なんだけど」 「そうだな……こんなのはどうだ」  司狼は思いついた案を説明する。それを受けたエリーは頷いて、身を低くし、足音も殺して、するするとその場から離れていった。  逃げ惑うギャラリーが、いい目くらましになっている。二ヶ月程度の付き合いだが、ときに手足として働いてくれた彼らのことを、司狼はそのくらいにしか考えていなかった。 「もうちっと使える奴らだと思ったんだが……ま、フツーってのはこんなもんか」  一笑して首を振り、それきり彼らの存在ごと忘却する。修羅場には積極的に参加して、楽しみぬくのが信条だ。ノリの悪い者らに興味はない。  エリーが姿を消したのを見計らい、司狼は手にしたデザート・イーグルを発砲した。完全な不意打ちになるはず。だが…… 「早速ありがとう」  不意打ちだったにも関わらず、銃弾は弾かれる。  異形の巨体が現れた時と同じく、螢の傍らに唐突に出現した、赤い刀身をもつ剣によって。 「ちっ、あのネエちゃんもバケモンかよ」  舌打ちし、間髪入れず2発目、3発目を連続させる。 「小うるさい雀ね」  宙に現れた剣に手を伸ばすと、掴んで軽々と振り回す。剣の腹で銃弾を弾いた上で、その衝撃を手首の僅かな返しだけで弾いていく。 「おいおい。50口径だぜ?」 「50口径125mm滑空砲を持ってきたのなら、両手を使ってあげるわ」 「戦車持って来いってか」  螢の言葉が、司狼には冗談に聞こえない。  銃弾を弾く。それには驚異的な動体視力と、そして50口径マグナム弾の衝撃を片手で受け止めるだけの筋力と握力が必要だ。無論、ビクともしない手首の強度も、人間が鍛えて届く領域をはるかに超えて余りある。  炎を〈纏〉《まと》った剣を掲げて、じっとこちらを見つめる少女。彼女がこの瞬間だけに見せた能力の片鱗だけでも、絶望を覚えて不思議はない。だが…… 「……ふん、なるほどね」  司狼は笑う。それは強がりでも自棄になったものでもない。 「〈拳銃〉《チャカ》程度食らっても平気な奴らが、わざわざ弾くか……どうやらドンピシャみたいだぜ、エリー」  カインを操るのはリザ。そしてその操作には、尋常ならざる集中力を必要とする。  で、あるのなら、たとえ小石を弾かれる程度にすぎない銃撃という妨害でも、暴れ馬の手綱を放すには充分すぎるということだ。  まあ、しょせん、補助の裏方という役回りが不服ではあるのだが…… 「そういうことだ、おら〈親友〉《タイショー》。さっさと行って、あのバケモンぶちのめせよ」 連続して響く司狼の銃声を耳にして、朧げながら奴の意図を理解した。 あいつにカインを〈斃〉《たお》す術はない。だがその代わり、奴の動きを妨害する気だ。 将を射んとすればの逆発想。〈馬〉《カイン》が洒落にならないから、〈将〉《シスター》の手綱さばきを封じる手だ。それさえ叶えば、敵はしょせん死体にすぎず、ただの木偶になりさがる。 「だったら、それまで保たせないとな……」 いずれ必ず生じる隙に備えて、ハナから全力でいってやる。シスターが俺の動きに集中せざるを得ないように、あの化け物を全霊で操らざるをえないように。 そしてそうなればなるほどに、司狼の策は効果を発揮するだろう。 意志の欠片も感じさせない仮面越しに、こちらを見るトバルカイン。その巨体めがけて、俺は―― 「づッ、……おおおおぉぉォォ――ッ」 フロアから足を蹴り剥がす勢いで疾走し、全身ごと砲弾と化して突撃した。 「―――――」 いける――あの巨体に速さ負けするとは思えない。このまま一気に間合いを詰めて、上手くすれば一撃のもとにその首を断ち切れる―― 走りながら瞬時に形成を終えた俺は、ギロチンと化した右腕を振り上げて眼前の怪人へと振り下ろす。秒瞬の後、腕に伝わるだろう斬首の感覚と勝利を半ば確信していた俺は、しかし―― 「なッ、にィ――!?」 カインの周囲に発生した落雷により、再びその場から吹き飛ばされた。しかも、それだけで終わらない。 「――――」 まさしく雷速かと思わせるほどのスピードで、カインが俺に追いすがる。こいつ、この図体で、あれだけの長物を持ち、その上で俺より速い―― 驚愕は、だけど一瞬。即座に俺は決断した。 ――退くな。ここで下がれば押し切られる。そして下手に俺が躱せば、カインの一撃は百人単位を消し飛ばす。 もはや、迎え撃つしか道はない。 「ぐッ、があああァッ」 大上段から振り下ろされる鉄塊を、右手のギロチンで受け止めた。同時にマリィの悲鳴が聞こえた気がする。あれだけの大質量に加えて、この速度とこのパワー、こちらの武器が砕けなかったということが、すでに奇跡めいた出来事だろう。 一撃で両断されるのは避けたものの、衝撃そのものはもろに食らった。俺を中心にしてフロアが砕け、クレーターのように陥没する。背骨がへし折れて身体から飛び出したかと錯覚するほどの威力と重さだ。 「………ッ」 加え、斬撃と同時に発生するこの雷撃……規模は桁違いに強力だが、櫻井が使っていた炎の剣とよく似ている。 攻撃の有効範囲を、刀身の長さと刃筋のみで限定できる相手じゃない。 こいつと武器を打ち合わせるのは危なすぎる。少なくとも、守勢に回ってこれ以上受け止められる自信はなかった。 だから……ここは攻めなきゃまずい。 攻めて攻めて攻め抜いて、こいつに武器を振らせるな――! 鍔迫り合いのまま押し込んでくる化け物めいた膂力を逸らし、身を捻って体を躱す。同時、フロアを叩き割るような轟音が炸裂したが、その余波である爆風を利用してカインの巨体を飛び越えた。 いけるぞ、今度は完全に頭上を取った。奴に俺は見えていない。 確信する必勝。だが―― 「――――ッ」 再度の雷撃は狙い〈過〉《あやま》たず、空中の俺を貫いた。四肢が痙攣して血が沸騰し、内臓がまとめて破裂しかねない大電圧。 比喩ではない血煙を噴きながら、俺はもんどりうってフロアに落ちる。呼吸が止まり、眼から血を噴き、服は弾け飛んで黒焦げだ。これがただの人間なら、五体バラバラに四散して骨の欠片すら残るまい。 しかしそんな負傷より、自分の間抜けさに腹が立つ。こいつの特性を理解しながら、押し潰されそうな圧力に負けて忘れていた。 カインは死体。機械にすぎず、こいつにフェイントなど意味はない。たとえ頭上や背後の死角を取ろうと、操縦者に見られていては何の意味もなかったのだ。 そう―― 「シスター……」 彼女が俺を観ている限り、カインは八方目の状態だ。そしておそらく、死体であるがゆえに人体の構造を無視した動きさえ可能だろう。 そしてその予想を裏付けるかのように、背を向けたままのカインが武器だけを百八十度旋回させた。 思わず躱してしまった俺の頭上を薙ぎ払い、背後の客席と人間達を木っ端微塵に吹き飛ばす。背中に血と肉片が飛び散ってくる。 「――ッ、てめえ……ッ」 全身を苛む激痛よりも、怒りで視界が眩みかけた。今のでおそらく、また百人単位が死んだはず……! いったい、どこまで殺せば気がすむんだ。ここが犯罪者の巣窟だろうがなんだろうが、おまえのような化け物に殺されるのは、断じて人の死に様じゃない。 歯軋りして立ち上がる俺に合わせて、ゆっくり向き直るトバルカイン。真後ろへの斬撃という、関節を逆回しにする技すらも、こいつにとっては力の一端ですらないのだろう。 だがそれでも、負けてたまるか。少なくとも俺はまだ、こいつに一撃すら与えていない。 その仮面に覆われた死人面、文字通り青くしてやらなければ気がすまない。こいつを操っているシスターにすら、予測できないほど速く強く。今の俺に可能な最速最強の一撃を―― 「…………」 深呼吸して、腰を落とす。右手を引いて、構えを取る。 身近に剣道馬鹿の幼馴染がいたせいで、その発想は容易に浮かんだ。最速の斬撃を狙うとなれば、選択肢はただ一つ。 居合い斬り――それしかない。思いつきの見よう見真似で、そのうえ武器の形状も全然違うが、やることは一緒だろう。全身を発射台に変え、刃という砲を飛ばすための姿勢といえば、自然に型は限られてくる。 起死回生の一撃必殺。それだけに、外せばこちらが致命となる諸刃の剣だ。今やれることはこれしかない。 俺の意図をシスターが察したのか、カインは無言で鉄塊を持ち上げた。 居合いに居合いで対抗しようというのではない。おそらくは雷撃……このあとすぐにも、銃弾より遥かに速い紫電の刃が落ちてくる。 だから集中、意を決して覚悟を決め、秒を切り刻み引き伸ばせ。一瞬を一秒に、一秒を一分に――俺はそういう考えに慣れているはず。 極限まで追い詰められたこの状況で、雷速を凌駕する。言葉にするとまるで笑い話のような展開だが、それが出来なければ話にならない。 周囲の悲鳴も銃声も一切消え、世界が閉じるような静寂の中、俺とカインは向かい合う。 刹那の後、分かたれるであろう明暗……命懸けの集中を維持したまま、そのときを待ち受けた。 速く、速く速く速く――誰よりも何よりも速く動き、こいつの首を切り飛ばすため―― わずかに前傾するカインの巨体。それに合わせて、俺も右手のギロチンを抜刀した。 その瞬間、フロアにいる総ての者の頭上から、等しくある異変が落ちることを、当然予測出来ないままに――  突如、フロアに叩き落されたのは暗色のヴェール。総ての照明が一気に消され、室内は闇と化した。 「――なるほど」  まさか偶然の事故でもあるまい。どうして、敵も頭が回る。  操縦者であるリザの視界を封じると同時、闇に乗じて攻撃しようという二段構え。螢は瞬時にそれを看破し、照明が消されてから一拍の間すら置かずに手の長剣を旋回させた。 「灯りが消えたのなら点ければいい」  虚空を薙ぎ払う緋々色金。その瞬間、フロアの中央地点に紅蓮の炎が爆発した。明度を取り戻したフロアを一目で見渡し、戦況確認も怠らない。  よし――タイムラグはほとんどなかった。カインの動きに支障はなく、むしろ蓮の方が急な灯りの明滅にその挙動を狂わされている。  勝ちだ、これで彼は死ぬ。してみれば、当然のように最初から友好的な仲ではない少年だったが、それでも知人との惜別に若干だけ哀悼し、彼亡き後の展開に思いを馳せた。  スワスチカを開く戦場は、この三つ目にして敵手を失う。となれば、残り五つはさらに輪をかけた大量殺戮で開くしかない。  結果として気の乗らない作業が増えることは億劫だが、敵は〈斃〉《たお》せるときに〈斃〉《たお》すが本道。遊び癖のあるヴィルヘルムやルサルカより、螢もリザも現実主義で合理主義だ。  よって…… 「さようなら、藤井君……」  どちらからともなく口にした別れの言葉が、奇しくも重なったその瞬間―― 「だから、舐めるなっつってんだろ――」  嘲笑混じりのその声が、螢を現実に引き戻した。つい先ほどまで司狼がいた辺りに素早く眼を向けてみれば―― 「いない――?」  遊佐司狼を見失った。逃げたのだろうか? いや違う。  取るに足らないと見過ごしたのは誤りだったか、照明を落とすことはむしろ囮で、狙いの本命はその後に―― 「タメの奴に言いたかねえけど、若いなおまえ」 「優等生は、意外に猪突猛進型なのよ」  小馬鹿にしたような声と共に、並んで銃口をこちらに擬す二人の姿を視界に捉える。螢はその意図を判じかねた。  撃ってどうする? 弾丸が二発になろうが、その距離なら弾くことなど造作もないし、万一受けたところで痛打にもなりえない。  意味など無いし、ただの無駄だ。なのにその余裕の笑みは―― 「ヴィルヘルムのコスプレでもしろ」  重なる銃声と、撃ち出される銃弾二発。問題なくその軌道を眼で捉える螢だったが、これは自分もリザも狙っていない――?  なら、もしかして……  と、気付いたときには遅かった。 「――――ッ」  カインの一撃に比べれば遥かにささやかと言っていい爆発音が鳴り響く。先の銃撃は螢の横を素通りし、ステージ上に設置された消火器を破壊していた。 「――くッ」  バレルロールさながらの勢いで跳ね回る消火器を、剣の腹で弾き飛ばす。しかし敵の狙いは当然そんなものではなく、中身である消化剤の散布にある。  そう、すなわち―― 「――しまったッ」  一面乳白色に煙る光景。視界を完全に奪われた。これだけの煙幕を瞬時に消し飛ばす剣風と爆炎――出来なくはないが、溜めが要る。  そして、それだけの時があれば…… 「―――ッ」  背後のリザから、焦慮の気配が伝わってくる。それだけで、充分すぎるほど理解した。事実上、今のカインは制御を失った木偶に過ぎない。 「―――ぁ」  そのとき螢の全身を、悪寒と戦慄が蹂躙した。  死ぬ。〈彼〉《 、》〈が〉《 、》〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。  嫌だ――嫌だ嫌だ嫌だ。私の前で、またしても、彼が遠くに行くなんて。  恐れと焦りは臨界を超え、一瞬にして弾け飛ぶ。 「くッ、そおおォォ――ッ!」  咆哮と共に螢はその身を〈颶風〉《ぐふう》と化し、煙幕を突き破ってフロアの二人へと駆け出した。  死なせない。死なせてたまるか。あなたをもうこれ以上、壊したりなんか絶対させない――ッ!  リザを前にした殺意の発露。および同胞の手による殺害を妨害しかねない横槍行為。  課せられた誓約を破って余りあるその行動にも、螢は一切躊躇しない。いや正確には、そんなものなど忘れていた。  ただ速く、速く速くあの場へ駆けつけ、あなたを助ける。死なせない。  時間にして秒にも満たない思考と疾走の果てに彼女は、最悪の未来をその眼で捉えることになる。 「――――」 居合いと落雷を撃ち合う瞬間、突如落とされた照明に俺はたたらを踏みかける。集中しすぎて司狼が何かしら狙っていたことを忘却していた事実に加えて、視覚を失うという異常事態に即応できるほど達観してはいなかった。 明鏡止水の達人域など、容易に至れるわけもない。ついこの前までただの学生だったこの俺が、予告もなしに眼を奪われて平静さを保つなど不可能だ。 そして同時に、フロアを揺るがす破壊と爆炎が俺の混乱に止めを刺す。おそらくは櫻井だろう。彼女が発生させたと思しきそれが、今度は視界をフラッシュさせた。 「―――ッ」 動けない。ほんの一瞬にすぎないその停滞が、刹那に賭けていた俺の狙いを致命的なまでに破壊する。 落ちる雷撃。それに貫かれて果てる俺。もはやどうしようもなく揺るがし難いその結末を幻視して、膨れ上がるカインの圧力に屈しかけたときだった。 「――――」 再度の銃声と、それに伴う小規模な爆発音。どういうわけか、それにより、カインの気が霧散した。いや、と言うよりも、俺の位置を見失ったかのような惑いの気配と焦りの感情。 もしや、シスターは今の俺を捉えていない――? そして次の刹那、疑惑は確信へと変わっていた。俺を直撃し消し飛ばすはずだった雷撃は、傍を掠めて空振りする。 状況は分からず、何が起きたか判別できない。だがそんなことはどうでもよく、大事なのは一撃必殺を狙い合っていた片方が、それを外したという事実のみ。 経緯はどうあれ、確実に後の先がとれるこの状況――利用しない馬鹿はいない。 「づッ、らあああァァッ」 腕を走らせ、たわめていた全身の筋肉を連動して加速させた。最大最速の威力を刃に乗せて、眼前の巨人を一刀のもとに両断する。 狙いは首だ。それしかない。死人を二度殺せるかどうかなど分からないが、マリィが宿る斬首の刃は、理を超えて対象を死滅させると俺は根拠も無く信じていた。 そして、おそらくその信仰こそ、聖遺物の力を最大発揮する原動力。俺がそう信じる限り、このギロチンは悪魔だろうと切り裂き殺すに――違いない! 振り向くカイン。盲撃ちなのか、それともこいつ自身に多少は迎撃する機能があるのか、分からないが、いずれにせよこちらが速い。 薙ぎ払われる鉄塊の上へ飛び乗るように跳躍し、完全な無防備で晒しているその首目掛けて一撃を―― 「――なッ」 だが次の瞬間、俄かに信じられないことが起きた。首へ振り下ろした刃の腹を、カインは頭突きで弾き飛ばす。奴の仮面、シスターの聖遺物にどれだけの強度があるかは知らないが、横から怪力で強打されれば斬撃の軌道は容易く狂う。 結果、俺の一撃は狙いを外し、カインの左肩甲骨から右肺までを切り裂くに留まった。並みの相手ならこれで致命傷は確実だが、こいつに通じているとは思えない。 つまり、不発。乾坤一擲の攻撃は、効果を発さず空転したのと変わらない。 だが、今俺の胸を占めるのは、そんな後悔でも悔しさでもなく、別のこと。 「こいつ……今自分で動いたのか?」 先の迎撃とは難易度の次元が違う。迫る斬撃の腹を狙って、しかも仮面を利用しつつ弾くなど、ただの木偶人形に出来るような事じゃない。 いったいこいつは、何者なんだ……? 斜めに切り裂かれた身体を意にも介さず、ゆらりと振り向くトバルカイン。その傷口からは血の一滴すら流れ落ちず、痛みも明らかに感じていない。 つまり、何処からどう見ても死人の身体だ。にも拘らず、シスターの命令が乱されたこの状況で、下手をすればより正確に動き出すとは。 「――――、〈ea〉《ア》………」 「〈ea〉《ア》………〈ce〉《ス》」 そのとき、それまで一言も発さなかった死体が喋った。 意味をまるで感じさせない、歯車が軋むような暗い響き……声と言うより駆動音。 だがその言葉といえない音の羅列に、俺の総身は凍りつく。 止めろ、喋るな、その声を聞かせるな―― こいつの声は、ただそれだけで、生きてる者にある種の狂気を叩きつける。 「〈ear〉《アァ》、〈earrrr〉《アアア》、〈OAHHHHHHHHHHHEEEEARRRRRRRRRRRR〉《オアアアアァァアアァアアァアアアア》―――ッ!!」 落雷にも劣らない大音声の咆哮が、俺の戦意を木っ端微塵に粉砕していた。  カインの雄たけびを耳にして、リザは小さく舌打ちした。どうやら隠しておきたかった彼の本性が、危うく発露しかけている。 「――くッ」  あれは危険だ。制御が困難になることより、カインがそういう面を持っているということ自体、誰にも知られてはいけないのだ。  まかり間違って聖餐杯かザミエルに知れたら最後、おそらく総てを粉砕される。そして、それとは別の意味であの少女にも―― 「レオン――ッ!」  消化剤の煙幕を突き切って、一瞬前に駆け出した少女を追う。彼女にあれを見せてはいけない。そうしてしまえば、きっとあの子は…… 「――――」  だが時はすでに遅く、螢は現場を目撃していた。立ちすくみ、呆然と、心ここにあらずの様子で呟いている。 「そんな……」  次いで、膨れ上がる螢の怒気。どうやら彼女、吠えるカインの狂態よりも、その負傷に眼を奪われているようだ。  不幸中の幸いとでも言うべきなのか、それなら別に問題ない。心配せずとも、彼はその程度で壊れたりはしないからと――  言いかけて、しかしリザは、なぜかその先を口にすることが出来ずに止まった。  あれは人形、死んでいる。腕が飛んでも脚が消えても、胸に風穴が開こうとも、操者である自分が健在である限り、肉塊になっても動き続ける怪物だ。  ゆえに心配するな、問題ない。あんなものは怪我と言えるほどではないのだからと――言おうとして、言いかけて、だけどそれが出来なくて。  必然、次に起こる破壊の具現を、彼女は止めることが出来なかった。  全力で振り下ろされる鉄塊と、先ほどまでの数倍を超える〈死の雷〉《デス・インドラ》――それはここに生き残っていた総ての者達……蓮や司狼やエリーはもちろん、螢やリザすら巻き込んで消し飛ばす極大の一撃だった。 紫電が眼を焼き、視界を覆う。 爆ぜる雷光の規模はこれまでの比ではなく、まともに食らえば今の俺でも五体バラバラに砕け散って命は無い。 それが分かった。直感していた。にも関わらず俺はこの時、動くことが出来なかった。 桁外れの破壊力に身が竦んだと言うよりも、こいつの存在そのものに呪縛されたと言っていい。このままいけば間違いなく、死の河を渡っていただろう俺の未来は…… 「――――」 どういうわけか、間に割り込んできた櫻井によって救われた。 フロアに響き渡る大音響。床も壁も砕け散って、俺自身も十数メートル吹き飛ばされる。破壊の残響も消えないうちに、俺の足元に落ちてきたのは…… ……櫻井。カインの一撃を受けたその身体は、言うまでもなくボロボロに負傷していた。 直撃されればこいつでも消し飛んでいたに違いないが、どうやら間一髪のタイミングで先んじていたらしい。振り下ろされる直前に身を張って止めたのだろう。酷い負傷には違いないが、死んだというわけでもなさそうだ。 しかし、今はそれよりも…… 「おまえ、どうして……」 まさか、俺を助けたわけでもないだろう。ならこいつはもしかして、暴走気味だったカインを制するためにこうしたのか? 先の一発は、見るからに全力だった。あれだけの破壊力を一度に搾り出すとなれば、使い手自身にも相当な負荷が掛かるに違いない。 まして俺との戦いで負傷していた身の上だ。自らの雷撃で身体が砕けてもおかしくなかったということなのか…… そう考えれば櫻井の行動は理解できないこともないが、ヴィルヘルムやルサルカには冷淡を地でいっていたこいつが、なぜそこまで身体を張る? まして、あんな化け物のために…… 「づッ……」 だがその疑惑は、不意に襲ってきた首の激痛によって掻き消された。空気が重く、淀みだし、なんとも言いようのない不快感がフロア内に充満する。 なんだ、これは…… 「どうやら、三つ目のスワスチカが開いたようね……」 「……ッ」 立ち込める粉塵の向こう側、薄らぼんやりとシスターの姿が透けて見えた。そしてそのすぐ横には、再び物言わぬ彫像と化したようなカインの巨影。 スワスチカが開くとは、つまり多数の人間が死ぬということ。先ほどの一撃とそこに至るまでの戦闘で、死人の数が必要とされる定量を超えたのだ。 「安心しなさい、今夜はもう帰るから……」 「それで藤井君、こんなことを頼める義理でもないのだけど」 怒りと悔しさに歯噛みする俺を余所に、シスターは言葉を継ぐ。彼女も負傷しているのか、その声には微かな苦い響きがあった。 「レオンを、その子のことをよろしくお願い。難しい性格だけど、根は悪い子でもないはずだから……」 「なッ、――待てッ」 「じゃあ、さようなら。心配しなくても、私達はもうあなたの前に現れないわ……これで仕事は、終わったのよ」 「シスターッ!」 叫び、手を伸ばすが届かない。落雷の余波で萎えた足腰が、俺に立つことを許さない。 行くな、行かないでくれ、お願いだから。俺は、あなたと先輩を―― 「ごめんなさい。でも許してなんて言えないわね」 「願わくは、あなたも生きて……死なないで……」 「―――――」 同時、視界を埋め尽くす漆黒の帳。カインの仮面に付属していた黒い布が爆発的に伸び広がり、フロア中を覆い尽くして総てを掻き消す。 「―――ぁ」 そして次の瞬間、開けた視界に彼女らの姿は無かった。のみならず辺り一帯に飛び散っていた血と肉片、死体の山も、残らずそこから失せている。 これはそう、あのときと同じ……初めてヴィルヘルム達と遭った夜、惨殺死体を一切の痕跡残さず消してしまったルサルカの手際……あれとまったく同じものだ。 つまり…… 「喰ったか。……は、来るときも帰るときも派手だな、おい」 「司狼……」 おまえ、あの爆発で生きてたのか。 「でもまあ、とりあえず、この場は命拾ったね。正直初っ端から、デタラメなの来すぎっつーか、どうなのさコレ」 本城……おまえも。 「で、立てるか蓮? 見るからに酷ぇけど、死んじまうほどでもねえんだろ?」 「あ、ああ……」 今はまだ立てないが、確かに死ぬというほどの怪我でもない。こいつら、どうやって逃げたのか知らないが、全身ホコリ塗れになってるだけで、たいした負傷はなさそうだ。 しかし、同時に思い出す。 「司狼、おまえな……」 「ん、なんだよ?」 「涼しい顔して笑ってんじゃねえよ。おまえがいきなり照明なんか消したお陰で、こっちはあやうく死にかけたぞ」 「ああ、それやったのあたし」 「ちなみに、オレの発案な」 「だから、そういうことじゃなくてだな」 事前に言えとか、もう少し配慮しろとか、言いかけたがしかし止める。どうせ何を言っても馬の耳に念仏だろう。 「まあ、生きてたんだからいいじゃんよ」 「……ああ、お陰さまでな」 憤然としつつ、なんとか俺は壁にもたれて立ち上がった。ついさっきまでフロア中にひしめいていた人間が、今では俺とこいつら以外誰もいない。 多少は逃げ切った奴らもいるのだろうが、状況を見れば全滅だ。それに胸が痛み、やりきれない。 「俺がここにいたから――とか、つまんないこと考えちゃ駄目よ」 「あちらさんはこの場所に用があったわけだから、あたしらや蓮くんが居ようが居まいが、こうなっちゃってたわけなのよ」 「まあ、後悔しても仕方ねえしな」 「はあ、ほんとよく言うよね、あんたって」 俺の気持ちを読んだように、司狼と本城がそう言ってくる。それは確かに、そうなのだろうが、だからといってそんな簡単に割り切れるほど、俺は単純に出来ていないし…… 「とにかく、こういうときは悪モンの退治に意識を向けるのが前向きな姿勢ってやつでしょう。そういうわけで、ひとつ問題」 びっと本城が指を立てて、俺の目を覗き込んだ。こいつ、気のせいだと信じたいが、どうも笑っているようないないような…… 「これ、どうするよ?」 彼女が指差した先は言うまでもなく、フロアに倒れている櫻井が…… 「……ああ」 それは確かに問題だ。大問題だと言ってもいい。 凄まじく処遇に困る置き物を残された感じで…… 「ぶっ殺せよ、蓮。オレの仲間の仇だぜ」 「と、〈司狼〉《バカ》は言ってるわけだけど」 「まじめな話、連中がどうやりゃ死ぬのかってことに興味がある」 「おい……」 不穏な台詞に思わず反駁しかけたが、司狼の言いたいことも理解できる。 これから先、あの化け物どもを相手に戦い続けなくてはならない。俺にはマリィという戦うための手段があるが、少なくともこいつにとっては、勝ち目すら見えてないのだ。 しかし…… 「人体実験でもしようってのかよ。趣味悪いぞ、おまえ」 そんな、いかにもルサルカ辺りが好きそうなこと、やりたくないし見たくもない。 そんな俺の反応を見て、司狼は呆れ気味に失笑した。 「まあなぁ、おまえはそう言うだろうなぁ。痛んでる奴にゃ甘いっつーか、フェアプレー精神のヒトだから」 「あんたの頭も相当痛んでる領域だと思うけど……」 「おまえ、そりゃあ……そのなんつーか、どうなんだよ?」 「どんなもこんなもあるかよ」 馬鹿かこいつら。修羅場が去ったと思えば、一瞬にして普段のノリに戻ってやがる。 とにかく、こいつらのジャレ合いに付き合うだけ時間の無駄だ。今の状況をどうするか考えなければ…… 「とりあえず、ここで櫻井を確保できたのは運がいいと……そう思おう」 甘いと言われればそれまでだが、無抵抗の怪我人を殺すなんてことはやりかねるし。そしてそれが出来ない以上、選択肢は一つしかない。 俺達には、まだ知らないことも沢山あるから。 「捕まえて、捕虜にしよう。こいつには聞きたいこともあるし」 「へぇ」 「ふーん」 「なんだよ……」 その、人を小馬鹿にしくさったような眼は。 「おまえさぁ、こいつのお陰で命拾いしたから、好感とか持っちゃってるわけ」 「そんなわけないだろ。むしろ苦手だ、こいつのことは」 「それはまた、微妙な評価を……」 うるせえよ、放っとけこの馬鹿。 「誤解がないように言っとくけど、俺はこいつと仲良くなんかないからな。最初っから、どうも馬が合わないんだよ、櫻井とは」 だから苦手だ。正直仲良くなれそうなタイプじゃない。 その旨、なんで説明なんかしなくちゃならないのか理不尽だが、とにかく俺はそう言った。司狼はそれに、分かった分かったと手を振りつつ。 「まあ、おまえが得意な相手なんて、バカスミくらいしかいねえしな」 「オーケー、オレは別に構わんよ。シャレでからかっただけだ、そう怒んな」 「てなわけで、おいエリー」 「ああ、はいはい。分かってるよ」 だるそうにそう言って、本城が櫻井の傍に腰を下ろす。こんなんでも一応病院の娘だから、基礎的な応急処置の知識くらいは持ってるのだろう。 「悪いけど、任せる」 だが、俺がそう言った途端に、ホールの照明が落ちて、辺りが一面真っ暗になる。 一拍置いて、ライターの炎に照らされた司狼の周囲だけが明るくなった。 「なんだぁ、停電かよ」 「さっきの戦闘で、電気系統のどっかがイカれたのかも」 「おい……大丈夫なのか?」 「んー、まぁ、大丈夫だと思うけど。詳しいことは調べてみないと分かんないね」 「そんなことより、とりあえずこの子の治療をする方が優先だと思うけど」 確かに、こんな闇の中じゃあ、ろくな手当ても出来やしない。 「んじゃ、まずは場所を変えよっか。あんたたち、この子を運びな」 本城の指示に従い、俺と司狼は櫻井の身体をVIPルームへと運ぶこととなった。 「これでいいかな……あんたたち、もう入ってきてもいいよ」 許可が出たので、廊下で待機していた俺と司狼はVIPルームの中へと入る。本城がソファの上で眠る櫻井の傍で立っており、こちらへ来いと手招きをしていた。誘われるがまま、ソファで横になる櫻井の様子を窺う。 彼女の身体には包帯が巻かれており、身体を覆い隠すように毛布がかけられていた。 「もう大丈夫なのか?」 「ん、まあ、とりあえずはね」 「なんか問題あんのかよ」 「うん……怪我はもう大丈夫だと思う。びっくりするほど早く塞がってるから。ただ出血が酷くて、身体が冷え切っちゃってる。なんとか温めてやんなきゃまずいんだけど……今は電源が落ちてて暖房も効いてないし」 「なんとかならないのか」 「つーか、おまえが温めてやりゃいいんじゃねぇの」 「ハァッ?」 おまえな、冗談を言っている場合じゃないだろうに…… 「あぁ、それいいね。蓮くん、一緒に寝て温めてあげてよ。もちろん、裸でね」 「なっ……!」 こいつら…… 「こういうのは言いだしっぺがやるもんだろ。こいつを捕虜にしようって言ったのはおまえだし。それに、この女が目覚めて暴れたりした時に止められんのはおまえだけだろうが」 「あたしは電気系統の復旧もしないといけないし、蓮くんだって司狼に任せるより自分でやったほうが安心するんじゃないの?」 こいつら、絶対に面白がってやがるだろう。 目眩を覚えつつ、俺は訊いた。 「……本当なのか?」 「何が?」 「その……血が足らないとか、体温とか、そういう話」 「ええ。低体温症を起こしかけてる。このまま外気に体温吸われてたら、分かりやすく言うと、凍死するわ」 嘘を言っているようには見えないが、しかし櫻井が本当に凍死なんかするタマか? 本城の診立てより、こいつらの体機能がどんなものか、いまいち不明瞭なので分からない。……しかし楽観して本当に死なれた日には、一度助けると決めた手前バツが悪いし。 死んだら死んだでそれまでだと、冷淡に言えるほどの強さを持ち合わせてないのが悔やまれた。 だから…… 「……わかったよ」 ああもう、結局俺は甘いんだろうな。 くそ……他人の命使って悪ふざけしやがってこいつらは…… 「んじゃ、決まりだ。なぁに、安心しろって、オレらは邪魔にならねーようにどっか別んトコ行ってっからよ」 「そうだね。それじゃあ、蓮くん、後は任せたよ。ちゃぁ~んと裸になって温めてあげなきゃダメだよ」 ムカつく茶化しを入れながら、二人は部屋を後にする。だがドアを閉める直前に、本城が大事なことを言い忘れたとばかりに振り向いて。 「一応、相手は病人なんだから、あんまり激しくしちゃダメだよ」 消えろこの馬鹿。セクハラ女。 と、怒鳴ってやろうかと思ったが、本城は既にドアを閉めた後だった。 「クソ……マジでやるしかないのか」 とりあえず裸はねえだろ思ったから、脱ぐのは上だけにしておいたけど、櫻井は全裸に近い状態なので、そこらへんあんまり意味ない。 ああ、これ、この状況でこいつが目を覚ましたら、全力で俺を殺そうとするんだろうな。 櫻井と戦うことには特に抵抗を感じなかったが、これは流石に躊躇する。なんでここで、こんなのと、こういうことになってるのやら…… 「とにかく、おまえ、目ぇ覚ますなよ……」 お互いのためにそうなることを祈りつつ、櫻井を膝に抱いて毛布を羽織った。 途中、あんまり余計なものが目に入らないよう努めながら、このおかしな状況を朝まで続けるしかないと割り切って考える。……ようにしよう、出来るだけ。 「はあ、まったくなんの因果で……」 ついさっきまでのデタラメな修羅場から一転して、どうにも間抜けな状況だ。そもそもシスター……なぜ彼女は櫻井を連れて帰らなかったのだろう。 実際、理由はどうあれこいつを助けるような真似をしてるのは、シスターから去り際に言われたことが多少なりとも胸に残っていたからだ。 レオンをお願いって、お願いされても、俺とこいつは全開に敵同士なんだけど…… いっそのこと、煮るなり焼くなり好きにしろと言われたほうが楽と言えば楽だった。あんな声で、あの人からお願いされたら、無碍に扱いづらくなる。 俺のそういう甘いところも計算済みで言ったのか……まあ多少はそれもあるだろうけど、それ以上の深い意味……つまり賢しらで狡猾と言うか、不穏で腹黒い意図があったとも思えない。 有り体に言ってしまえば、俺は彼女から信用されているわけだろう。お互いの立場を考慮すれば、それを光栄に思うことも素直に応えることもなんか違うって言うか、ああクソ、もう面倒くせえ。 「だいたい、根は悪い子じゃないとか言われてもな……」 ぼやきながら、膝に抱いた櫻井の顔を見下ろす。 まあ、確かにこうして見れば、香純と同じで年相応の女の子にしか見えないけれど。 そういえば、今まで何度か本人含めて色んな奴らに言われたように、こいつは俺たちと同い年なんだったか。 聖槍十三騎士団、第三帝国の残党……嘘か真か、ルサルカなんかは俺たちの十五倍近く生きているとかいないとか…… たとえそれが誇張の類であったとしても、奴らは最低でも八十歳を超える歳に違いない。 それは俺たちから見れば、祖父母や曽祖父母の年齢だ。そんな奴らの中に交じり、子供と言っても構わない、しかも日本人のこいつがいったいなぜ…… 第二次大戦中、日本とドイツが同盟国だったのは知っている。だから当時の、何かしら縁があるのかもしれないが、それにしたって若い櫻井の存在は明らかに浮いてるだろう。 事実、ヴィルヘルムなんかはこいつを仲間と認めているような節がない。むしろ恥に思うような勢いで嫌悪していると、そう感じた。 決して居心地がいいわけでもないだろう黒円卓に、こいつが在籍しているのはなぜなのか。 今まで〈斃〉《たお》すべき障害として単純に敵視していた相手だが、そう考えるとこいつはこいつで、何か抜き差しならない事情でもあるんだろう。無論、それを慮って、今後下手に遠慮するような真似は出来ないと分かっているけど。 なんだか、どうにもやりにくいな。櫻井の身体は本城が言ったように冷え切っていて、そのうえ余りにもか細く華奢だ。 思わず戸惑ってしまうほど脆そうな印象を受けるせいで、今までこいつに懐いていたひとつのイメージ……つまり鋼鉄の鎧を着込んだ可愛げのない女だという認識が、無様なことに崩れかけてる。 本気で、今苦しんでいる彼女をどうにか助けてやりたくなる。 まったく……司狼達にからかわれるのも無理はない。俺は本当に甘ちゃんで、些細な情に流されやすい馬鹿野郎だ。こいつがどれだけ危ない女か、よく分かっているはずなのに…… 「……ぅ」 と、そのとき櫻井が小さく呻いた。小刻みに震えながら、うわ言のように呟きだす。 「あ……し、……て」 「……?」 切れ切れに、意識もないまま何事かを呟く櫻井。それはやがて、徐々に言葉の意味が分かるようなものになっていく。 「………めん、さい……」 「ごめん、なさい……わたし、わたしが、子供、だから……」 「ゆるして、おねがい……ゆるして、ください……ぜったい、わたしが、あなたの…ことを……」 「ゆるして……」 「…………」 櫻井のうわ言を聞いたことで、言いようのない後悔の念が俺の中に広がってきた。 こんなにも無防備に、声も口調も歳相応に幼くなって、何かを詫びている櫻井。それを仕方ない状況とはいえ盗み聞きしてしまったことが、ひどく卑怯な行為に思えてしまう。 少なくとも、逆の立場なら絶対御免だ。誰だって、秘めていること、触れられたくないことの一つや二つはあってしかるべきだろうし、それに踏み入って暴こうなんて悪趣味以外の何ものでもない。 ましてこいつのような、見るからに矜持の高そうな奴にとっては、それを知らぬ間に聞かれるなんて屈辱でしかないだろう。俺の感覚で言えば、勝手に裸を見られるよりも恥なことだ。 しかも俺、その裸だってほとんど見てるし…… 「どうすんだよ、ちくしょう……」 参った。本当、なんだか非常に困った上に面倒なことになりかけている。こいつに感情移入なんかしちゃ駄目なんだが、だからといってここで放り出すわけにもいかないし…… そんな俺の懊悩とは関係なく、知らぬが仏の様子で櫻井のうわ言は続いている。 「わたし、勝つから、負けないから……待ってて、お願い、もう少し……」 「きっと、また、逢えるから……みんな、いっしょに、三人で……」 「ベアトリス……」 「…………」 聞かないようにしようしようとしながらも、至近で呟かれるうわ言は否が応にも耳に入る。だから、最後の一言に思わず反応してしまった。 「ベアトリス……だと?」 その名前、どこかで聞いた。判然としないそれを記憶から引っ張り出し、考えてみれば…… 『それからベアトリス・キルヒアイゼン……はもう死んでるみたいで、その抜け番が櫻井螢。こいつらが高額の賞金首だってことはOK?』 「ああ……」 そうだ、そうだった。今夜のカインによる襲撃のドタバタですっかり忘れていたけれど、その直前に本城から聞いていたこと。 ベアトリス・キルヒアイゼン……何時の話か分からないがすでに故人となっている団員で、おそらくは櫻井の前任者。 そのベアトリスとやらが死んだから、代わりとして櫻井が黒円卓に入ったのか。なら彼女達は、知り合いだったということだろう。 いや、おそらくそんな、顔見知り程度の関係というわけじゃあるまい。 重傷を負い、意識不明の状態で口にするのはもっとも大切な人のことだと……そういうのが定説だ。櫻井とそのベアトリスは、友人? あるいはそれ以上の…… 「づっ……」 と、そんな思索に耽っていたとき、不意に櫻井の様子が一変した。 細い身体が前にも増して震えだし、何かを堪えるように悶え始める。 「あ、――ぐッ、ッッ――」 「――おい」 苦しんでいる。しかも尋常じゃないほどに。 それは負傷によるものと言うよりは、何かもっと別のもの……分からないが、単純な怪我などより遥かに危険な何がしか、そんなように思えてならない。 こいつ、いったいどうしたんだ? 「あ――ギッ、が――、ッ」 櫻井が俺にしがみ付いてきて、肩の肉に爪を立てる。血が出るほどに強く強く、掻き毟るように縋ってくる。 正直かなり痛かったが、しかしそれ以上に俺もまた混乱していた。 こいつの身に何が起こり、何をしようとしているのか。もはや明らかに原因は負傷じゃない。数瞬、そんなどうしようもない時が流れて――― 「―――ぁっ」 小さなうめき声と共に、櫻井は動かなくなる。 「ちょ、おい――」 もはや恥ずかしいだの悪いだのと言ってられない。俺は毛布を引っ剥がし、彼女に起こった異変が何なのか、確かめるためにその身体を凝視した。 「なっ……」 そして、そこにあったものは…… 「なんだ、こりゃあ……」 櫻井の臍のすぐ下……位置にして子宮の辺りなのだろうか、そこに禍々しい刺青が施されていた。 いや、これは刺青じゃない。 首の斬痕がギリギリ疼く。この一見刺青のように見えるものは何か別の……危険極まりない生き物だ。 「蠍……?」 デザイン的にはそう見える。その真紅に染まった大蠍が、依然荒い息を吐く櫻井の呼吸に合わせて皮膚の上を蠕動していた。 「動いてる……」 蠍は徐々に、わずかずつだが、下へ下へと移動していた。牙を噛み鳴らし、鋏を振り上げ、獲物を前にした嗜虐の喜び……そんな気持ち悪いほど人間的な感情が、この物言わぬ二次元的な存在から滲み出ている。 こいつ、櫻井を喰うつもりか? 結果、具体的にどうなるかは分からないが、何にせよろくなことじゃないだろうと察した俺は、無言のまま思案する。 どうする? 俺はどうしたらいい? このまま放っておけば、おそらく櫻井は死ぬ。 敵の一人が消えるのだから、あるいは好都合だと司狼あたりなら言うだろう。だが俺は、そう割り切って考えられない。戦って〈斃〉《たお》すならまだしも、こんな状況で苦しんでいる人間を放っておくことなんて…… まして今のこいつのように、弱りきっている女を。不覚にも、その心の一端に触れてしまった状態で……冷淡に切り捨てるような真似をしては…… 俺もあいつら、あの連中と大差ない外道に落ちる。 そもそもの動機を思い出せ。俺が今の、殺すとか殺されるとかのふざけた状況に身を置いたのは、香純を始めとする日常を守りたかったからだろう。そして俺の日常には、瀕死の奴を見捨てるなんて選択はありえない。 ここで櫻井を切ってしまえば、もう戻れなくなる。 そう思った。思ったから…… この刺青を抑制する。 それしかない。出来るかどうか分からないが、以前櫻井は制御不能に近かった俺の破壊衝動を外側から抑え込んだ。あれを見よう見真似でやるしかない。 櫻井の位階はレベル3、対して俺はレベル2だ。その点を鑑みれば不可能に思えるが、おそらくこの刺青は、彼女の聖遺物と関係ない。 形成位階に至った今の俺の力量が、この蠍の呪詛に勝っているか……要はその辺りが問題だろう。内から身を貪られている櫻井には不可能でも、外からなら、彼女より未熟な俺にも出来ることはあるはずだ。 「……よし」 呟いて、意を決する。左手を右手首に添え、そのまま刺青の上へと右手を置いた。 「……ッ」 熱い。尋常でない熱を感じる。櫻井の下腹に置いた右手から、その下で蠢いている蠍の脈動を感じ取れる。 邪魔をするな。手をどけろ。貴様喰い殺されたいか――そんな、怨念めいた声なき声が、右手を通じて頭蓋に響く。やはりこいつ、生き物なのか。 「……冗談言ってろ」 こいつの喧嘩相手は俺なんだよ。何処の何者か知らないが、下種な横槍を入れるんじゃない。勝手に殺すな、馬鹿野郎が。 と、思念で呟くとほぼ同時に、俺の右手に痛みが走った。 「―――ッ」 それまで二次元的な平面だった紅蠍……その鋏が俺の右小指に食いついている。骨まで達する痛みに眉を顰めるが、問題ない。 何のために、俺が右手を使ったと思っている。これくらいのオカルト的反抗は当然予想していたし、だからこその右手使用だ。そんなチャチい鋏ごときで、この手に宿っている物を断てるはずがないだろう。 十数秒、そのまま好きにやらせつつ、蠍の焦りと疲れを感じた俺は、強く短く心で念じた。 いや、これは命令。逆らうことなど許さない。 すなわち―― 『――眠れ!』 同時、鋏は指から離れ、手の下で脈打っていた蠍の蠕動は沈静した。どうやら上手くいったらしい。 本当は『消えろ』と言いたいところだったが、曲がりなりにも櫻井の身体に宿っている存在だ。強制的に消してしまえば、同時に内臓器官の幾つかを道連れにする恐れがある。 そうなれば今度こそ櫻井にとって致命だろうし、そんな結末は俺もここでは望んでいない。 見れば、苦しみも失せたのか……櫻井は規則正しい寝息を立てて眠っていた。まあこれで、とりあえずは安心だろう。 今まで数度、善意じゃなかろうがこいつに助けてもらったこともある身だし、ついでに秘密の独白も盗み聞いてしまったわけだから。 おまえにとっては少々業腹であろうけど、これで貸し借り無しにしようぜ。俺は俺で退けないし、おまえもやりたいことがあるんだろう。 結果としてそれが相容れずにぶつかるなら、また戦うしかないわけだ。ならばせめて、その場がフェアなものであるように、余計な負い目はここで清算しておきたい。 というわけで、怒るなよ。つーか目ぇ覚ますなよ。 俺はそう思いつつ、再び櫻井を膝に抱き、毛布を羽織って朝まで過ごすことにした。 とりあえず、この蠍がどういう原理で、なぜ櫻井の身を侵しているのか……それが分からなければ対処のしようがないと思った俺は、しばらく迷った末、櫻井本人から聞くことにした。 「おい――」 「おい櫻井、起きろ」 乱暴な扱いをするのは気が引けるが、非常事態なんでしょうがない。肩をゆすって、目を覚ますように櫻井を促す。 「聞こえるか? 目を開け。おまえこのままじゃ」 死んじまうぞ……と、後の言葉は飲み込んで、さらに強く肩をゆすった。 「櫻井――っ」 「ん……」 と、ようやく声が届いたのか。軽く呻いて、薄ぼんやりと櫻井が目を開ける。 「よし、いいか? とりあえず俺の話聞けよ」 「……ぇ? あ……」 「―――――」 覚醒と同時に我に返ったのか、櫻井は凄い勢いで俺から飛び離れようとする。……するのだが、それが出来ずにへたり込んだ。 「な…んで……?」 「なんで、あなたが……」 「そんなことはどうでもいいだろ」 というか、そんなことを深く考えるな。ここに至るまでの経緯とか、俺が何を思ったとか、うだうだ話している場合じゃない。 「単刀直入に言う。これ、なんだ?」 「え……? ―――ッッ」 「おい、大丈夫か、おいッ」 下腹の蠍を指差す俺に、彼女もそれを認識したのか、再び思い出したかのように苦しみだす。 とにかく、俺のほうからさっさと訊くことだけ訊かないと。 「よく知らねえけど、なんかヤバイことになってるだろ。このまま放っといたら、おまえはその……危ないし。どうにかしなきゃいけないから、対処法とか分かるなら、今すぐ教えろ」 「……り」 「は?」 「む……り、……そんなの、できない……」 「出来ないって、おまえ……」 じゃあ手遅れだって言うのか? なんでこんな物騒なものを身体に埋め込んでるのか知らないが、発動したら死ぬしかないような代物なら、いったい何を考えて…… 「この馬鹿、おまえ死にたいのかよ。今まで散々偉そうなこと言っといて」 「だ、だって……」 苦しそうな顔で眉根に皺を寄せながら、櫻井が俺を睨む。 怒っているような、恨みがましいような、悔しがっているような。 恥ずかしがっているような…… いや、恥ずかしい? て何だそれ? 表情から読み取ったその印象に我ながら意味が分からず混乱する。 そりゃあまあ、お互いに裸みたいな感じだし恥ずかしいっちゃ恥ずかしいが、そんなこと気にしてる場合じゃないだろう。 「おい、あのなぁ……」 とにかく、俺が泡食ってちゃまずい。事態は一刻を争うが、意識してトーンを落とし、冷静に問いかけた。 「本当に手がないのか? 言いたくないけど、これ命に関わるだろ。俺に何かしてほしいならやってやるから、知ってること話せよ櫻井」 「…………」 「信用できないのは分かるけどな。おまえ今まで、何度も俺を振り回してくれただろう。俺はあのとき、ちゃんとおまえの言うこと聞いたはずだぞ」 “ちゃんと”と言うのは語弊があるが、今はあえてそう言っておく。 「度量がでかいとこ見せろよ櫻井。死にたくなかったら、今度は俺の言うこと聞け。そんで質問に答えろ。これはいったい、どうやったら治る?」 「…………」 「だから、そのさぁ……」 なんとも物言いたげな眼で睨んでくるのやめようぜ。俺が悪人みたいに見えるだろうが。 「………い」 「……なに?」 と、ようやく何か話す気になったのか、ぽつりと櫻井は呟いた。 「……アレ」 「は?」 「ふじい、くんの……その、アレが、いる……」 「…………」 ああ、ええぇっと、こいつは今、いったい何を言ったんだろう? アレって何さ? さっきからこっちの顔見てチラチラと、俺の命でも要るのかおまえ。 「だから――」 要領を得ない俺に怒ったのか、櫻井はだん、と拳で胸を叩いてきた。 「分かりなさいよ、馬鹿っ――その、あの、つまりほら……」 顔中真っ赤にして怒りながら、しかし声は尻すぼみになっていって。 「…………たい、えき」 「は?」 「っ──だから! 藤井くんの、唾液なり、汗なり、血液なりがないとダメなのよッ」 「――なッ」 その答えに行き当たり、今度は俺が絶句した。 「ば、馬鹿このおまえ、何をふざけ――」 「てるわけ、ないじゃない……馬鹿」 さっきから馬鹿と馬鹿の応酬だが、あまりに予想外の展開で、語彙まで単調になっている。 いやいやちょっと待て、なんだそりゃ。タイエキ? なんでそんなもんが要るんだよ? 「魔術じゃ、常套手段なのよ……」 口惜しげというか疲れたように、櫻井は言う。その間も息は荒く、依然としてあの蠍がこいつの体内で暴れていることを、それは如実に示していた。 「何でもするって、言ったじゃない」 何でもするとは言ってないぞ。 「度量の大きいとこ、見せてよ」 こいつ意外と根に持つ奴だな。 「いいじゃない、別に……人工呼吸、みたいなものだと、思えばそれで……」 「そ、その……キスぐらいすれば、唾液の一つや、二つ……」 馬鹿、それとは意味が違うだろう。 「いや、なの……?」 「だって、そりゃあ……」 「私だって嫌よっ。どうして、よりにもよってあなたなんかと、その……キス、とか」 「そんな力いっぱい言うなおまえ」 「だめよ、もう……あなた、私のこと、嫌いだし。私も、あなた嫌いだし……」 「そりゃ、否定はしねえけど……」 なんだかえらい言われようだ。 くそ、とにかく落ち着け。落ち着いて考える案件じゃないような気もするが、落ち着かないと落ち着かないから落ち着けなくて落ちも来ない。 「別にまあ、おまえに嫌われるのはむしろ歓迎だし、おまえも俺に好かれたくはないだろうから、考えようによっちゃあ……」 「……なによ?」 渡りに船でもあるのかな、と……そんなことを考えている俺は何処か精神的に病んでいるに違いない。 お互いに嫌々そういうことをするのなら、終わったあとは前にも増して相手が嫌いになるだろう。 凄まじく不純なうえに常識外の行為になるが、実りがあると言えばある。 理由はどうあれ、俺はこいつに何度か助けられているからそれを返済することで負い目を晴らせるし、こいつもまた、その手段がこれとなれば感謝する気など起きないだろう。 敵対関係……それを維持して、変に遠慮する必要がなくなる上に、今はこいつを助けるという初志もとりあえず完遂できる。 ただ、その、非常に言いにくいんだが…… 「気乗りしねえ……」 ていうか。ああ、もうぶっちゃけよう。 「何で俺の初めてがおまえなんだよ……」 「―――――」 「は、はぁっ?」 あ、やっぱり怒った? 「な、な、なによそれ……」 「なにそれって言われても、仕方ないだろ。男はメンタリティーな生き物なんだよ」 そりゃあ女よろしく後生大事に取っておいたつもりはないが、〈脳筋女〉《アマゾネス》にくれてやるのも、納得いかないというか何というか。 「おまえとキスとかなんか考えただけで鳥肌立つし。つうか、唾液って何だよ。俺の唇がっつくつもり満々じゃねえか」 「んな──ど、どうして私が襲う側になるのよ!」 「そもそも、男としてどうなのよそれはっ。女相手に躊躇うって、あなたもしかして不能なんじゃないの……?」 「それともまさか……その、〈彼〉《 、》とはもしかして……そういう仲、とか?」 ──おい、待てコラ櫻井。 「違う、断じて違う。永劫違う。あの〈司狼〉《バカ》は掛け値なしの〈腐れ縁〉《バカ》なだけで、んなわけあるかよこのバカ」 「やっぱり……むきになってるし、それに……」 「それ以上言ったら問答無用でシメるからな」 散々、幼馴染からも言われてきたこと蒸し返すなよ。俺とあいつの何処見れば、んな気色悪い関係に見えるんだ。 息荒いくせに、疑惑の眼差しを向けて、ああちっとも話が進まねえ! それに、俺も今気づいたが…… 「なあ。何で俺たち、唾液交換オンリーで話を進めていたんだ?」 「──あ」 お互い、というか櫻井もそれで頭が冷めたらしい。 まあ、そうだよな。変な意地張って脱線してたけど、必要なのは体液だ。身体に流れている水分使って、妖しい魔法の儀式みたいな真似しなきゃいかんわけで、嫌なら別のものにすればいい。 唾液は却下。汗をべろべろ舐めあうのも御免だし、涙流せと言われても俺は女優じゃないわけで……となると。 「……わかった。じゃあ、気乗りしないけど、血でいいわ」 「おまえ、最初からそうしとけよな……」 まあ、気乗りしないのはお互い様だろうが、そこらへんが妥協点というやつだろう。吸血鬼みたいで……嫌な奴を連想させるが、正直こだわっている状況じゃない。 なので…… 「……なに、この腕?」 「いやおまえこそ、なんで俺の方によって来てんだよ?」 「ほら、噛めよ、手首。血が吹き出るなら普通ここだろ。まさかおまえに頚動脈あけわたすほど、警戒してないわけじゃねえし」 「何より気分的に嫌だ」 「藤井君……あなた、本当に人の神経逆撫でするのが上手ね」 「あっ──ぅ、くっ……」 わなわなと、握り拳を作りながら苛立っていた顔が歪む。 馬鹿なやり取りをしている間に、蠍の刺青はより体内に潜り込んでいた。馬鹿やっている時間は、いよいよないから。 「いいからっ、腹くくれよ櫻井。目の前でゴネられたまま死なれると、こっちも目覚め悪いんだよ」 「ほら、いくぞ。……いち」 「……にの」 急かして、ふてくされ、そしてようやく覚悟を決めて。 「────さんっ」 目の前にある互いの腕へ、苦虫噛み潰したようなしかめっ面で食いついた。 薄い皮膚を破った途端、口に溢れ出す生臭い味。 それがまた生理的嫌悪感を催すものの……とりあえず、一口した感想は。 「……うげ」 「……まず」 なんというか、ロマンチックさや幻想など欠片もない、身も蓋もないものだった。 「あれだな……吸血鬼はゲテモノ好きの味音痴だ。あいつら、ぜったい味覚イカレてる」 「当然でしょ、血を飲む連中なんてネジの外れた変態ばかりよ……」 「ん、やっぱり気持ち悪い……」 吐きたい。偽りない本心からの感想としてそう思う。よく怪奇小説でネタにされてきた行為だが、ぶっちゃけそんなの妄想だろ。釣り上げた生魚からそのまま血を飲んでる気分だ。 だが、この気が滅入る行為のおかげか── 「ぐっ、つぅ……最悪、効き目抜群だなんて」 血を飲むたび、趣味の悪い呪いが悶えて苦しんでいるのだろう。俺も感じる。こいつと擬似的ながら繋がっている状態ゆえ、枷が祓われているのが何となく。 「本当に呆れた人。隅から隅まで、嫌になるほど卒がない……」 「一応忠告してあげるけど、マレウスに捕まるのは避けることね。こんな身体してたら……大切に腑分けられるのが目に見えてるもの」 「人を珍獣みたいに言うんじゃねえよ……だからおまえの血はまずいんだ。野菜食え、野菜」 「牛も豚も菜食主義だから美味いって聞くし──っ、いてぇ!」 「…………」 八重歯が食いついた箇所に食い込み、思わず悲鳴が漏れる。こいつ、躊躇なくマジ噛みしやがった……! 「ねえ、デリカシーって言葉……知ってるかしら?」 「時と場合と相手を見て使ってるつもりだ。敵に気をつかえって? 馬鹿言えよ」 「はぁ……まったく、どうして綾瀬さんはよりにもよってこんな男を──」 「全然優しくない……意地っ張りで……弱みも可愛げもあったものじゃない……」 「強がって、今だってそう……借りを返すだの何だのって。寝首でもかいておけばよかったのに」 「そんなところばかり、変に義理堅くて……」 「……やりにくいのよ、藤井君は」 「…………」 それきり無言で、櫻井は黙々と血を飲んでいた。 血は命の水だ。それを共有しあっているからか、今の俺にはこいつの何ともいえない気分がぼんやりと伝わっていた。 苛立ち、癇癪。安堵に後悔、そして歯痒さ。 穏やかな心持ちは表面上だけで、その実少しもまとまりを見せていない。自分自身の感情を持て余したまま、なのに譲れないものが決まっているから、心は幾度も掻き乱れていて…… 言葉に出来ない。形に出来ない。俺もまた、いま感じているものを表現できそうもなかった。 だからただ、俺たちは無言で相手の腕に口付ける。傷口を噛むことで小さな痛みを与えながら、顔を顰めて。 互いにうまく消化できない、曖昧で、もどかしい感情を抱いていた。 「後悔、するわよ。知らないから……わたしはあなたが、嫌いだから……」 「ここで殺したほうが、よかったって、きっと、ぜったい思うから」 「思わせるから、許さないから……誰にも、わたしの邪魔なんかさせないから」 「でも――」 そこで櫻井は俺に視線をよこす。眼が合い、数秒の沈黙の後…… 「今夜は、ありがとう」 「少し、少しだけ……あなたのことが、好きになった」 と、光栄なんだか物騒なんだか分からない台詞を残して── 魔女の呪縛が消え去ると同時、俺たちはそれに引き摺られるが如く倒れこむと、そのまま意識を失った。 なんともコメントにし辛い気持ちと、記憶に残る切ない微笑を残して。  雨が降る。  橋の上には傘も差さずに立ち尽くす女の姿と、その傍らにもう一人、主に付き従うかのような異形の巨影。  リザ・ブレンナーとトバルカイン。彼女たちはクラブでの戦闘の後、すぐには戻らず、この橋へとやってきていた。  海が、雨に打たれて鳴っている。  氷雨だった。  体温が、奪われていく。 「……まるでカタリ派の鞭打ちね」  自嘲するリザは、自らの罪がこの程度で流れ落ちてくれるはずがないことを熟知している。  どこか人気の無いところへ行きたい。そう思い、彼女はここへやってきた。深夜、しかもこんな雨の日にこんな場所へやってくるような人間はそうそういない。事実、周囲には他の人影など見当たらなかった。  どれくらいの間、そうしていたのだろう。長時間、雨に〈晒〉《さら》され、髪も服も既に濡れそぼっている。だが、肌に貼りつくそれの感触も〈厭〉《いと》わずに、彼女はぼんやりと彼方に光る街の灯りを見つめていた。 「ああ、そういえばクリスマスが近いのね」  忘れていた。あの子の大事な誕生日なのに。  いや、これは考えないようにしていただけか。  その日が来るのを恐れて、忌んで、そして同時に待ちわびて……  胸中に渦巻く、支離滅裂な感情。何を考えているのだろう。何を望んでいるのだろう。何を私は、こんなところで……  自分の仕事はもう終わった。任務も命令も、そして誓いも果たしたのだ。  後はただ、座して待つだけ。この六十年望んで望んで望みぬいて、疲れ擦り切れるほど待ち続けて……なぜだろう、ようやく成せることを成したのに、残ったのは恐怖と後悔と焦りのみ。  私の願いは叶うのか? 叶えば無くしたものを取り戻せるのか? 取り戻せたとき、新たに失うものを見ているのか? 「情けない。いい歳をして……」  フィクションの世界には、よく数百年を生きた超人というものが登場する。彼らは例外なく超越的で、俗な苦悩や煩悩など遥か遠くに置き去ってきたような者ばかり。あれは嘘だと、彼女は思う。  自分は九十年以上生きてきて、同年代の者らはほぼ全員他界して、それに数倍する数の人を殺めてきて……にも拘らず超然とした悟りや精神の境地など、皮肉なことに欠片も見えない。  この身が二十代の後半程度で時を止めているように、その心もまた小娘のまま、一切成長していないのだ。  私は依然、あの頃のまま、どうしていいか分からずに流れ流され、回る無様な風見鶏。  偽善者だと、年若い子供に言われるのも頷ける。自分は他の者らのように、自らの意志や欲望に狂うことも、強固な立ち位置を築くことも出来ないだけだ。  常に惑う。惑って悩む。悩みそして流される。これでは利用されているだけではないか。 「あなたも、そうね……」  傍らの巨人に、自嘲しつつ語り掛けた。意志持たぬ機械、兵器。それを使う者もまた、くだらぬ人形にすぎぬなどと皮肉が利きすぎて笑うしかない。 「だからせめて、あなたはそうじゃなければいいと私は……」  思ったから、〈そ〉《、》〈う〉《、》〈い〉《、》〈う〉《、》〈風〉《、》〈に〉《、》〈手〉《、》〈を〉《、》〈施〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》のは間違いだったの? そう思うの?  あなたは私を、どう思うの? 「ねえ、よければ聞かせてちょうだい。 カイン……いいえ」  その、彼に秘められた真の名を口にしようとした瞬間だった。 「風邪を引きますよ、リザ」  不意に、背後から声をかけられ、振り返る。 「ああ、失礼。驚かすつもりはなかったのですが、申し訳ありません」 「ヴァレリア……」  聖餐杯、クリストフ……〈称号〉《バビロン》ではなく〈本名〉《リザ》と呼んできた彼に合わせて、彼女もまた目の前の神父を名で呼んだ。 「風邪なんて、ひかないわよ。冗談がきついわ」 「いや、まあ、そう言わずとも。何にせよ今のあなたは、自虐的な行為に耽っていると感じたので」 「自虐?」 「違いますかな?」 「違う……ということもないでしょうね。実際に」 「ふむ……」  顎をさすりつつ、トリファはリザの方へと歩いてくる。……いや、その横をすり抜けて。 「ヴァレリア」 「まずはご苦労。大儀ですと言いましょうか。あなたのお陰で、第三のスワスチカは問題なく開きました。礼を言います」 「礼なんて……」  要らないし、筋でもない。……と、本来なら言うところだが。 「あなたは、何をしているの?」 「いえ、ただ少し、妙な〈魄〉《ハク》の動きを感じたものでね。時間にして、あれはスワスチカが開く直前であったでしょうか」 「どうも、私しかそれを感じることはなかったらしい。まあベイはどうだか分かりませんが、マレウスが何も言わないので単なる気のせい……ということもあるでしょう。 もしくは、私のみが感じたことに何か意味があるのかと……」 「それで、あなたはいったい何を?」 「ですから、それを確かめに」 「そこで?」 「ええ、そうですよ」  飄然とそう答え、彼が立っているのは物言わぬ巨人の前。  神父は190㎝を超える長身だが、それでもカインと並び立てば大人と子供だ。そこにリザまで加われば、遠近感の狂ったような戯画的な構図になる。 「静かですね。大人しい。……ほぅ、負傷しているようですが、すでに傷も合わさりかけている。大したものだ」  いくらリザの命がなければ動かぬとはいえ、破壊と暴力の塊であるカインの前でトリファは落ち着き払っている。その横顔に、言いようのない寒気を覚えた。  螢が言っていたように、黒円卓の現有戦力中、最強は紛れもなくカインだろう。それに次ぐのはおそらくベイ……この辺りは不動と言える。  だが、だがしかし、この神父が分からない。  〈優〉《やさ》でなよやかな外見とは裏腹に、いま内から静かに漏れているその圧力、凶の気配は尋常どころのものではなかった。長い付き合いだが、こんな彼を間近に見たのは過去に遡っても数度だけ……あまりに頻度が少ないせいで、半ば気のせい、勘違いだと忘却しかけていた事実。  ヴァレリア・トリファ――聖餐杯は“最強”でなければ“最恐”なのだと。 「ときにリザ、あなたは迷っておられますね?」  と、それまで見上げていたカインを捨て置き、神父はリザへと向き直る。  不思議なことに、それで彼から漏れていた凶の念は掻き消えた。 「仕事を終え、あとは待つのみ。もともと暴れ好きでもないあなただ、それは結構だし止めません。だが――」 「このカインは、まだ動かしたいと思うのですよ」 「…………」 「いかがですかな?」 「どうして?」  努めて平静を装いつつ、リザは言う。 「なぜ、まだ彼を使いたがるの? 手が足りないというわけでもないでしょうに」 「ふむ、それについては順序を追って。まずはあなたの悩みのことを」  会話しながら、しかしその実、まるでこちらの言い分を耳に留めてないかのようなトリファの態度に、リザは微かだけ眉を顰めた。  そしてそんな彼女の様子をやはり意に介さぬ風情で、神父は言葉を継いでいく。 「あなたの悩み、その迷い……口にせずとも分かります。私には妻も子供もいませんが、それに代わる者なら居たし居る。 大事でしょうし、大事です。そは掛け替えのない温もりだ。たとえ悪鬼羅刹と言われる身でも、我々とて人の心は持っている」 「ゆえにあなたが懐くその苦悩、胸に迫るほど理解できます。そも葛藤の根源は、子を抱くために子を殺す。矛盾が大きすぎてやりきれない。 だから選択できずに流される。当たり前ではないですか。我らは正しく似た者同士だ。リザ、私もまたあなたと同じく、テレジアの幸せを願っている」 「あなたは……」  一瞬、リザは神父の発する言葉の意味を判じかねた。  テレジアの幸せを願う。ああ、確かにその通り。その通りだがそれはすなわち―― 「あなたは、ハイドリヒ卿を……」 「あの方は、我々ごときの浅慮など意にも介しはしませんよ。 副首領閣下もまた同じ、彼らを自分の物差しで測るのはお止めなさい。愚行なうえに、意味もない。あの御二人にかかれば総て、どうでもよいと言われて終わりだ」 「でも――」 「聞きなさい、リザ」 「シュライバー卿にマキナ卿、あの二人もやはり気にはしない。一方は我執の虜で、もう一方はそもそも思考すらしていない。黒円卓の頂点は、ひどくぞんざいで言ってみれば大らかですよ。 まあザミエル卿、あの方だけは少々面倒でありますが、それもまた幸運なことに――」  言葉途中にその先を浮かしたまま、神父の姿が朧に煙った。 「―――――」 「万一彼女の出陣が起きたとしても、いい取引材料を見つけました。とはいえおそらく、今の調子なら必要ないと思いますがね」 「あ―――、か―――」  トリファの手はリザの胸板から胸骨を突き破り、心臓を掴み取ったまま背中へと貫けていた。 「な、なぜ……私を……」 「慈悲ですよ、リザ」  抱擁するように女の体重を受けたまま、慈愛に満ちた声で神父は呟く。 「本音を言えば邪魔ということになるのですが、それでも慈悲であることに変わりはない。これから先起こる未来……あなたは知らぬほうが身のためだ」 「あ、ぁ……」  眼が眩む。血が迸る。不滅の肉体が崩れていく。  武器を用いぬ徒手空拳による使徒の滅殺。そんなことが出来る者は、黒円卓でも二人しか存在しない。  マキナと、そしてヴァレリア・トリファ。死に逝こうとする己の身体に、この事態を起こした者が紛れもなく朋輩である神父なのだと、リザは絶望と混乱の中で再認することとなった。 「ヴァレリア、あなたは玲愛を……」 「救いますよ、それは誓って」 「あの子に聖櫃など使わせない。そしてあなたの望みも私の望みも、やはり必ず叶えてみせる。神懸けて誓いましょう」 「そんな……」  それはなんてひどい矛盾。そんなことが、出来るわけ…… 「出来ますよ、可能です」 「あなたと私は同類だが、決定的に違うところが一つある。共に惑い、悩み、揺れに揺れ、狂おしいほど葛藤する。それは確かにそうでしょう。だがしかし、それでもリザ――」 「私は行動に移すのです。 何度でも何度でも、失えば取り戻す。取り戻してまた奪う。不毛であろうが矛盾であろうが、私はそれを躊躇わない」 「リザ……あなたは優しい人だ。この狂った天秤には耐えられないし、テレジアと秤にかけて私が選んだ者はすなわち……」  その先を口にすることはあえてせず、神父は尼僧の心臓を掴んだまま腕を抜いた。 「―――ぁ」 「さようなら、リザ・ブレンナー。さようなら、我が愛しき同胞。 あなたは私が嫌いでしょうが、私はあなたが好きでしたよ。テレジアが娘なら、あなたは妻であり妹だった。 と言われたところで、迷惑千万でしょうがね。これは偽りのない真実です。 ですから……」  すでに風化し、灰と化した尼僧の亡骸を見下ろしつつ、雨と共に流れていくそれを見届けてから、神父は傍らの巨人に目を向けた。 「あなたの遺産は、私が貰い受けましょう。 ほぅ、やはり思ったとおり、彼女が朽ちてもこれは消えぬ」  リザ・ブレンナーが聖遺物、巨人の顔面を覆うデスマスクは、未だそこに健在だった。 「これが残っている限り、多少精度が落ちたところで他の者にもカインは使える。そしてなにより……」  巨人が手に持つ無骨な鉄塊……それを食い入るように凝視してから神父は笑った。 「カインの処置はお好きなようにと、確かに昔言いましたが、まさかこうくるとは思いませんでしたよ、リザ。 私が憎いですか、―――――」  雨音に掻き消されたその名前は、巨人に向けたものだった。  仮面が軋み、震えている。牙を噛み鳴らす鬼のように、眼前の神父を呪い、憎んで、許さぬ殺すと猛っている。  物言わぬ、思わぬ木偶あるまじき、生々しすぎる〈嚇怒〉《かくど》の念。  それを涼しげに受け止めてから、神父は彼の横をすり抜けた。 「戻りなさい、カイン。戻ってそう、マレウスの所へでも行けばよい。彼女ならば今のあなた、十全とはいかぬまでも使用してくれるでしょう。 私はこれから、リザを弔わなければいけません」  同時、大地から岩盤を引き抜くような抵抗の気配と共に、カインは静かに歩き出した。それを背に感じたまま、トリファも歩く。歩き続ける。  腰の後ろで組んだ彼の手には、未だ脈打ち続けているリザの心臓―― 「もう少しだけ、辛抱していてください、リザ。ここから近い場所と言えば、遊園地です。あそこなら、あなたも寂しくないでしょう? 昔に何度か、テレジアと一緒に出かけたこともありますしね」  氷雨降りしきるこの夜に、開いたスワスチカは実に二つ。  全体の半分が、これで成されたことになる。  身の〈聖痕〉《スティグマ》から血を噴きながら、赤い涙を流す神父は、優雅に陶然と笑っていた。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 4/8 【Chapter Ⅶ Death Indra ―― END】 「――――――」  言葉途中に口を噤み、リザは弾かれたように虚空を見上げる。  視線の先は遥か上方、橋塔の上。 「……まさか」  いや、そんなことは有り得ない。気のせいだろう、決まっている。  だが、何故かざわつくこの胸騒ぎと、押し潰されるような圧迫感は…… 「…………」  無言のまま微動だにせず、リザは視線を動かさない。そんな彼女の様子に感応したのか、傍に立つ巨人の仮面も、カタカタと震えだした。 「何か……くる」  ここではない何処かから、次元の壁に投影させて何かの影が落ちてくる。  その気配、この圧力、そして何より、総てを焼き尽くす紅蓮のごとき焦熱の魂――  リザはその名を知っていた。 「――ザミエルッ」  瞬間、諏訪原市を覆う結界を揺るがして、橋塔上にプロミネンスを思わせる緋の大輪が爆発した。 「――――ッッ」  飛散する熱線と爆風は、降りしきる氷雨を蒸発させて分厚い雨雲すら吹き飛ばす。まるで台風の目に入ったかのような穴を天に開け、尋常ならざる密度の魂がその場に像を成そうとしていた。  そこに立つのは、もうもうと煙る水蒸気と荒れ狂う火炎を纏い、血と業火を思わせる真紅の長髪を靡かせる女。  リザとは異なる種類の美貌の主だが、その半顔は醜く焼きつき引き攣れて、美醜入り混じった顔貌はまさに戦場しか連想できない。  黒円卓を統べる双頭の下、鉤十字の象徴である三色の一。 「なぜ、あなたが……」  聖槍十三騎士団黒円卓第九位、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ=ザミエル・ツェンタウァ。  紅蓮の騎士はリザの問いに、しかし己が象徴である炎熱とは真逆の冷厳な瞳を向けていた。 「なぜ、と問うか、ブレンナー。 貴様、私に何か言うことがあるのではないか?」 「…………」  出現と同時に、屑でも見下ろすような目と言葉を投げるエレオノーレ。  リザはそれに無言のまま、しかし目には強い意志を込めて真っ向から睨み返す。  エレオノーレは失笑した。 「ふん、変わらんな」 「ええ。あなたもね、と言いたいけれど……」  この女が、今の段階で完全に現れるなど有り得ない。おそらくあれはただの幻影。先のラインハルトと同じ虚像にすぎない。  はずなのだが…… 「あなたは、随分と変わったわ」  現状、開いているスワスチカの数からして、あれは本来の三割から四割程度の力しか持っていないはずである。  だというのにこの気配。この圧力。以前にも増して凄まじい。 「昔のあなたは、まだそこまで……」  人間離れしてはいなかったと……後の言葉を飲み込んでリザは言った。 「そうか? 貴様が腑抜けただけであろうがよ。 それでブレンナー、バビロンとは呼ばん。私は貴様に話がある」 「…………」 「察しはつくという顔か?」 「……ええ」  察しはつく。つきすぎる。リザはもうずっと前から、この日が来ることを見越していた。 「ヴァルキュリア――キルヒアイゼンは何処にいる」  やはり――彼女の問いなど、およそそれしか考えられない。 「このシャンバラに、奴の魂が見当たらん。いや正確には、四散して所在が掴めぬ。何処だ」 「…………」 「死んだか」 「……ええ」  短く、簡素にリザは言った。 「あの子、ベアトリスはもういないわ。今から十一年も前の話よ」 「そうか。死んだか、あの馬鹿娘」  く、と焼け爛れた半顔の口許が吊り上る。凄愴な笑みと共に、銜えたままの細葉巻が、それに合わせて虚空に揺れた。 「あの子の死を悼んでいるの?」 「ああ、悼もう。悼むしかあるまい。出来の悪い阿呆だったが、あれは私の部下だった」 「そうね……」  おそらくは、この紅蓮の女を唯一恐れていなかった少女。  その死を惜しみ、離別を悔やみ、哀悼の意を捧げると言うならそれで彼女も…… 「どうせ死ぬなら、私が殺してやればよかったよ」 「―――――」 「私の目の届かん所で死ぬとはな。つくづく骨の髄まで度し難い、物の役に立たん阿呆め。しょせんあれは、黒円卓に在るべき器ではなかったのだ」 「あなたは――」  あまりの言いように思わず声を荒げて反駁しかけ、しかしリザは―― 「そして、誰があれを殺した?」  次の瞬間、その総身は金縛りにあったかのように凍りついた。 「阿呆とはな、ブレンナー、身を儚むという雅も知らん。長命を倦んだ自死衝動など、あれに起こるはずがないのだよ。 で、あれば、頭の悪い我が〈手弱女〉《たおやめ》を、摘み取った者がいる。それは誰だ?」 「聞いて……いったいどうするの?」 「知れたこと、褒美をやるのさ。間抜けを消してくれた勲功にな」  悠然と微笑しながら、しかし熱線のごときその眼光は、明らかに凶の気配を孕んでいる。  言っては駄目だ。教えてはいけない。そもそもあの子の死に関わった者を総て挙げれば、今の黒円卓は半壊する。 「……ハイドリヒ卿は、おそらく気にもしておられないわ」 「だろうな。あの方はたとえ何者が死のうとも、その御心に細波すら立てられん」  エレオノーレにとって絶対服従の名を挙げてみても、彼女の凶は消え去らない。リザはそれに惑乱しかける。忠誠の権化たる身が、いったいなぜと…… 「やはり腑抜けたな、ブレンナー。頭のほうまで鈍ったか」 「〈ハ〉《、》〈イ〉《、》〈ド〉《、》〈リ〉《、》〈ヒ〉《、》〈卿〉《、》〈は〉《、》〈誰〉《、》〈が〉《、》〈死〉《、》〈の〉《、》〈う〉《、》〈と〉《、》〈気〉《、》〈に〉《、》〈も〉《、》〈せ〉《、》〈ぬ〉《、》。よって……」  細葉巻の火種が弾け飛ぶ。リザを見下ろす双眸に、魔性の〈焔〉《ほむら》が燃焼しだす。 「〈誰〉《、》〈が〉《、》〈誰〉《、》〈を〉《、》〈殺〉《、》〈そ〉《、》〈う〉《、》〈と〉《、》〈気〉《、》〈に〉《、》〈も〉《、》〈せ〉《、》〈ぬ〉《、》」 「――カインッ!」  咆哮と同時にリザは跳び、彼女を追ってカインの鉄塊が揮われた。  空中で武具の腹に着地して、そのまま巨人の怪力に乗り弾丸のごとく水平に跳躍する。 「ほぅ……」  失笑するエレオノーレ。すでにリザの姿は百メートル、二百メートル、遥か遠く、彼方まで、数秒もかけず橋を渡り、その先へ瞬く間に飛び去っていく。 「私の砲を知る貴様が、まさか逃げ切れると思ったわけでもあるまい」  そう、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグの砲撃からは、たとえそれが何者であろうと絶対に逃れられない。 「であれば、貴様の考えも透けて見えるぞ。そこは遊戯場か、ブレンナー」  闇の中、黒衣のリザはすでに五百メートル彼方にいる。肉眼どころか、たとえ望遠のレンズ越しでも容易には見つけられまい。  だが、紅蓮の騎士はその姿を、目で鮮明に捉えていた。  遊園地の中央。観覧車の鉄骨に捕まりこちらを睨む彼女の〈表情〉《かお》――髪の一本から衣服の皺に至るまで。 「そこに行かれては私としても、選択の余地はあるまいな。 見事だブレンナー、誇り高きかつての同輩。潔いぞ、褒め称えよう。 それほどまでにこの木偶を、私に差し出したくはなかったか」  弾け飛んでいた葉巻の火種が、宙に乱舞し印を描く。  落雷を思わせるその形状は、アルファベットのSに酷似したルーン文字。 「〈勝利〉《シゲル》を――我が印をくれてやる。これは敬意だブレンナー。貴様の勇気と誇りと覚悟に免じ、馬鹿娘の件はその一命をもって赦免しよう」  鳴動する夜気が唸りを上げて、印の向こうに存在する何がしか――有り得ないほど巨大極まる鋼鉄の怪物を“こちら側”へと招き寄せた。  その全体像は把握できない。見えず触れず、しかし聞こえる。  軋む鉄塊、油圧の音。装填、旋回、照準、そして―― 「〈さらばだ、戦友〉《アウフヴィーダーゼン・カメラード》……貴様もまた獣に呑まれ、その一部となる名誉を味わえ」  轟砲一閃――放たれた魔砲の一撃は、闇夜を真紅に塗り潰しながら標的へ……観覧車の上に立つリザの元へ。  迫り、至り、そして着弾――  爆裂した大火球は遊園地全域を飲み込んで、飲み込んでなお治まらず周囲の木々やビルまでも貪欲に――喰らい、燃やし、灼熱させる。  爆心の瞬間温度は、優に数千度を超える桁外れの大焦熱地獄。自らが生み出したそれを橋塔の上から遥かに見下ろし、しかしすでにそんなことなど忘れたような声と顔で、紅蓮の騎士は口を開いた。 「いい加減に出て来い鼠。そこにいるのは分かっている。 私が貴様に、気付いていないとでも思ったか」  と、その呼びかけに応え、現れたのは…… 「〈慧眼〉《けいがん》、恐れ入りますザミエル卿。お久しぶりですね、ご壮健そうで何より」 「貴様もな」  姿を見せたヴァレリア・トリファにそう応えると、エレオノーレは橋塔から掻き消えて、彼のすぐ前に現れた。 「ほぅ、こうして見るのは初めてだが、随分と癪に障る〈容貌〉《なり》になったな。 実のところ、私はそう久しいという気にもならん。何せ“城”には、以前のままの貴様がいたのでな」 「それはそれは」  微苦笑しながら、トリファは眼鏡を押し上げる。  今、彼の前に立つエレオノーレ。身長差で見れば彼女の目線は神父の顎辺りにしか届かないが、にも拘らず遥か上から見下ろされているような錯覚に囚われた。  つまり、先ほどのリザが口にしかけた印象と同じである。この女将校は、以前にも増して怪物的なものになっていると。 「どうやら、“城”での暮らしは有意義だったようですね。他の皆様方も、やはり?」 「さてな、知らんよ。 まあ、シュライバーあたりには退屈だろうが、私に限れば貴様の言うとおり、有意義ではあったな」 「それは何より」  言いながら、トリファは彼方に燃える遊園地の惨状に目を向けた。 「ご帰還早々の一仕事、感謝の言葉もありません。しかしザミエル卿、見ればまだ、本調子というわけでもなさそうですが」 「問題ない」 「確かにまだ〈現身〉《げんしん》は得ておらんが、それもいずれ成すだろう。なんとなれば今夜中に、残り総てのスワスチカを私が開いてやってもよいのだ」 「ご冗談を。いくらあなたでも、そのお身体でそうそう無茶は利きますまい。それにそもそも」 「分かっておるさ。 一夜のうちに三つも四つも開いていては、“核”の身が保つまい。そのまま走り抜けるならまだしも、今の段階では八つに届く前に自滅する」 「〈副首領〉《メルクリウス》の術は発動順序や底辺の常識に縛られるほど凡ではないが、さすがにそれだけは如何ともな」 「ええ、ご理解いただけているようで助かります。ですがそれなら」  なぜ今夜、わざわざ不完全な形で現れ、あまつさえスワスチカの連続開放などという事に及んだのか。  完璧を好み、必勝を期し、獣に対する鉄の忠誠と軍律の具現とも言うべき彼女が……  珍しいを通り越して、もはや奇行に属する行いだ。いったいあなたは、何を思い考えて……  と、答えの分かりきっているその問いを、今ここで投げてみたい。  投げて、この女がどんな反応をするのか見てみたい。  そのとき自分はどうなるのだろう?  殺されるか? 燃やされるか? そうされたら、この後どうなる?  抗い難い誘惑に陶然と懊悩するトリファを横目に、エレオノーレは鼻で笑った。 「下衆め。貴様のそういうところ、まるで変わらんなクリストフ。 他人の心を覗き込もうとするその悪癖、大概にしておけよ。もはや勘を失って久しかろうに」 「さて、いったいなんのことやら」  空惚ける神父の戯言を流しながら、エレオノーレもまた燃え上がる遊園地へと目を向けた。 「とはいえ、ああ――確かに昔からよく言う類のことでもある」 「何事も、持っているときは厭い、失ってから愛しくなる。この上もない身勝手、愚劣さ、実に人間的で甘露だよ。私もまた、その気持ちが分からんでもない。ブレンナーは朋輩だった。いけ好かぬし、互いに嫌いあってはいたのだが……今は泣いてやろう、奴のために。 〈誰〉《、》〈か〉《、》〈他〉《、》〈の〉《、》〈者〉《、》〈の〉《、》〈手〉《、》〈に〉《、》〈か〉《、》〈か〉《、》〈る〉《、》〈な〉《、》〈ら〉《、》、〈せ〉《、》〈め〉《、》〈て〉《、》〈私〉《、》〈が〉《、》……貴様の趣味に答えるなら、そういうことだなクリストフ」 「では、キルヒアイゼン卿もそのように?」 「ああ、だがもはやそれは叶わぬ」  一笑して身を翻し、エレオノーレは橋上を歩き去る。歩きながらその身は薄れ、夜の闇に溶けていく。 「ハイドリヒ卿からの御下命だ。まずは私、そしてマキナとシュライバーもやってくる。最後のスワスチカが開くまで、貴様に代行権限を与えるそうだ」 「ほぅ……ではザミエル卿、今のあなたは、私の指揮下にあると思ってよいのですね」 「そういうことだ。私を使う度胸があるなら、使ってみせるがいいクリストフ。貴様の願い、望み、戯れ言諸々、総て焦熱させてやる。 今夜は疲れた。像を解くゆえ、ベイやマレウスには私の帰還を伏せるがよい。その方が、貴様にとっても何かと都合がよいだろう」 「確かに……」  消え去る紅蓮の背に向けて、トリファは優雅に一礼した。 「ではゆるりとおくつろぎください、ザミエル卿。すぐに、もうじき、あなたと語らうこともありましょうから」 「……そして、やはり“これ”には何の興味も示されない。そういう方だ、あなたとは」  エレオノーレが去ると同時に、消し飛んでいた雨雲が再び戻り、辺りを氷雨が濡らしていく。  それを満身に受けながら、神父は身を起こし振り向いた。 「よかったですね。命拾いしましたよ、あなた。リザに感謝しておきなさい」  そこに在るのは、物言わぬ異形の巨影。リザを遊園地まで遠投してから、彼は動力の切れた機械のようにその動きを止めていた。  しかし、命拾いとはどういうことか。彼は死者であり、生きていない。もとより拾う命などないというのに。  ただの比喩ともとれる言い回しだが、なおもにこやかに話しかけている神父の姿は否と囁く。この巨人は死者に非ずと。 「しょせん、彼女流の〈諧謔〉《かいぎゃく》でしょうが、なかなか切ないことを言っておられたでしょう、ザミエル卿も。多少は、感じ入るものがありましたか?」 「そして……ほぅ、やはり思ったとおり、彼女が朽ちてもこれは消えぬ」  リザ・ブレンナーが聖遺物、巨人の顔面を覆うデスマスクは、未だそこに健在だった。 「これが残っている限り、多少精度が落ちたところで他の者にもカインは使える。そしてなにより……」  巨人が手に持つ無骨な鉄塊……それを食い入るように凝視してから神父は笑った。 「カインの処置はお好きなようにと、確かに昔言いましたが、まさかこうくるとは思いませんでしたよ、リザ。 私が憎いですか、―――――」  雨音に掻き消されたその名前は、巨人に向けたものだった。  仮面が軋み、震えている。牙を噛み鳴らす鬼のように、眼前の神父を呪い、憎んで、許さぬ殺すと猛っている。  物言わぬ、思わぬ木偶あるまじき、生々しすぎる〈嚇怒〉《かくど》の念。  それを涼しげに受け止めてから、神父は彼の横をすり抜けた。 「戻りなさい、カイン。戻ってそう、マレウスの所へでも行けばよい。彼女ならば今のあなた、十全とはいかぬまでも使用してくれるでしょう。 私はこれから、リザを弔わなければいけません」  同時、大地から岩盤を引き抜くような抵抗の気配と共に、カインは静かに歩き出した。それを背に感じたまま、トリファも歩く。歩き続ける。 「誰か他の者の手にかかるなら、いっそ私が……ああ、確かに仰る通りですねザミエル卿。 本来なら、私がこの手で彼女のことを葬りたかった」 「さようなら、リザ・ブレンナー。さようなら、我が愛しき同胞。 あなたは私が嫌いでしょうが、私はあなたが好きでしたよ。テレジアが娘なら、あなたは妻であり妹だった。 と言われたところで、迷惑千万でしょうがね。これは偽りのない真実です。 ですから……」 「あなたの墓所となるその地を清め、祝福してさしあげます。 そこで眠るなら、あなたも寂しくないでしょう? 昔に何度か、テレジアと一緒に出かけたこともある場所ですしね」  氷雨降りしきるこの夜に、開いたスワスチカは実に二つ。  全体の半分が、これで成されたことになる。  身の〈聖痕〉《スティグマ》から血を噴きながら、赤い涙を流す神父は、優雅に陶然と笑っていた。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 10/13 Swastika ―― 4/8 【Chapter Ⅶ Death Indra ―― END】  その衝撃は、閃光に似ていた。 「お初にお目にかかる、私のことはカールから聞いているかね」  身体を握り潰される感覚は一瞬、気付けばわたしは、この男性の腕にいた。  意識に霞がかかってくるような美貌。典雅な高貴さを感じさせる声。そして、わたしを抱きしめる腕の抗えない力強さ。  おそらく、彼は男性として完璧な美点を持っている。あらゆる角度からどう見ても、その輝きは決して陰らない黄金率。  だけど…… 「卿のためにこの夜会を用意した。僭越ながら共に踊ってはいただけまいか」  だけど、甘やかなその仕草がわたしの〈魂〉《からだ》を痺れさせる。高位の〈男〉《オス》に惹かれる〈女〉《メス》の心境というわけじゃない。  これは違うと、それだけは分かる。好意、尊敬、隷属、依存……そうしたものでは絶対にない。  では、いったい何なのか。  楽団の調べが聴こえる。ここは何処かお城の大ホールで、何十人というオーケストラに囲まれたわたしたちは、その中心に立っていた。 「彼らは私の騎士で、同志だ。皆が卿を歓迎している。さあ、共に一曲」  そして、事態を認識できないまま、その夜会は始まったのだ。 「彼は私を何と言っていたね、マルグリット」  不思議だった。分からなかった。わたしは踊り方なんて知らないし、貴族めいた社交場の作法なんか何も知らないはずなのに。 「理解を深め合う最良の一つとして、共通の知人を話題にするのは有意義だ。あなたの知る彼は、どのように私を評していたのだろう。是非聞きたい」  非の打ち所がないエスコートで、わたしは宮廷に生まれ育った娘のように扱われた。誰もこの身を蔑んだりしない。  これは何なの? どういうことなの? たぶん“常識的”に考えれば、女性の大半が夢見るような歓待を受けているのは間違いない。  およそ欠点が見つからない男性から、おそらく最高のもてなしで遇されている。すべてが華美で、豪華で、洗練されて……気後れはしても嫌がる〈女〉《ひと》は稀だろう。  でも、わたしはどうしてか、この男性もこの城も、この音楽も何もかもがどこか違って見えていた。  言葉にできない。分からない。これをどう表現したらいいのだろう。  まっすぐに見つめてくる金色の瞳から、思わずわたしは目を逸らしていた。  耳には流れるような管弦楽。荘厳な音色は透き通り、見事な技量で統率されているのがよく分かる。だけどその演奏を続ける一人一人は、どこかが〈歪〉《いびつ》に沈んで見えた。まるで喪に服している最中みたいに。  いや、それよりも…… 「………っ」  チェロを弾いている女性は左顔面が焼け爛れていた。  フルートを吹く少年は右目が丸ごと抜け落ちていた。  そして指揮を取る壮年の男性は、身体が鉄の何かと融合している。  なに? なに? 何なのこれは? よくよく見れば残らず全員、身体の一部かその大部分を失っている。中にはとても生きているとは思えない人達さえいて……  わたしは、直感的に理解した。  これは、死人の楽団なのだと。 「答えは?」  金色の男性は微笑する。彼は、彼一人だけは異常なほどに欠けているものが何もない。  まるで、そう、この人と、この世界は…… 「地獄……」  数え切れないほどの人間を呑み込んで、その死と苦痛を渦巻かせている。そんな印象をわたしは懐いて…… 「なるほど。変わらんな、あの男も」  彼は悪魔のように優しく言う。そうだ、異常は最初からあったのだ。  なぜわたしが、こんなにも情緒溢れた思考と感情を持つのだろう。本来知るはずがない語彙や概念を持ち得るのだろう。  今こんなことを考えているということ自体、すでに充分すぎるほど普通じゃない。 「これは…痛み?」  だから、知らずのうちに呟いていた。持っていないはずの知識がわたしのわたしである部分を壊していく。  演奏を続ける死者達と同じように。 「地獄、地獄か……個人的には呼び名など、心底からどうでもよいがね」 「だが無感であれば〈痛み〉《かんき》はない。私の世界においてそれは許さん。言ったろう、愛し方を教授すると」  だから分かった。これは恐怖。  わたしがこの男性に懐いた心は、どうしようもなく怖いというただ一つ。  ああ、だってカリオストロは言っていたもの。とてもとても怖い人だと。  レンも震えながら感じていたもの。この黄金が恐ろしいと。  その原因……具体的なものがわたしには分かる。 「あなたは、たった一人……」  わたしと同じだけど違うのだ。たった一人外れているのは同じでも、彼は一人で他の総てを塗り潰せる。 「かもしれん」  そう、喩えるなら。 「卿は大海に落ちても溶けぬ宝石。私は大海を染め上げる墨のようなもの」  共に一粒、一滴だけど、違いはその影響力。 「覇道と求道、カールはそう言っていたな。 前者は私、後者は卿だ。私としてはそちらの方が眩しく見えるよ。我が配下にも似たような資質の者が複数いるがね」  分からない。分かってはいけない。だけど嫌になる。分かってしまう。 「カールは覇道の激突を望んでいる。無論私も、そこは同じ。 ゆえに彼がいて、彼を愛する卿が要るのだ。問おうマルグリット、この〈地獄〉《わたし》をどう思うね」  演奏は終末のレクイエム。それを奏でるのは死者の楽団。彼の世界が海に落ちれば、総てその色に塗り潰される。  だから…… 「怖いよ」  わたしが、そしてあの人が……この死者の国に犯されて消えるのが怖い。  おそらく今、生涯初めて、わたしは拒絶というものの意味を知った。  黄金の男性は笑う。その一言を待ち望んでいたように。 「ならば共に天を戴かず――祝おう、ここに宣戦は布告された」  衝撃は閃光に似て、輝く槍の形になる。  城を揺るがす鬨の声が、数百万の〈痛み〉《かんき》となってわたしの胸に突き刺さる。 「その誓い、努忘れぬように呪いを贈ろう。痛みが胸にある限り、そは御身を溶かし続ける」  旅に出たいかと前に言われた。ずっと一人で歌い続けたいかと質問された。  わたしはあの時、それに答えることができなかったけれど。  そうすれば楽しませると、約束すると言ったカリオストロ。〈世界〉《うみ》の中でずっと一人、溶けない石ころであったわたしは、今この時から変わっていくのか。  ねえ答えて。  あなたは何を思ってわたしに接し、何をさせようとしているの?  薄れる意識の只中で、心は追憶に沈んでいく。  ああ、あれはいつだったろう。わたしとあなたが、初めて逢った時のこと。  教えてほしい、カリオストロ。あの時あなたが、何を思っていたのかを。  知れたら、これより変わっていく自分のことを、少しは受け止められる気がするから。  まず己が欠点を冷静に顧みた場合、この〈諧謔味〉《かいぎゃくみ》というものが上位にくるだろうことは分かっていた。  あとは無駄に多弁であることだろうか。浅慮な者の常として、私は必要なことを必要なとき、必要なだけ伝えるということが酷く不得手であると、自覚している。  ああ、要するに、今がそう。こんなことは単純に、「自分は一言多い性質である」――とでも言えば呆気なく片がつく。難しいことを難しく、簡単なことも難しく。そんな風に捉え、表現することを好む私は、なるほど確かに、周囲から煩がられる類の男だろう。  ゆえに、それが諧謔なのだ。私の持って回った言い回しに、あるいは不快。あるいは興味。そしてあるいは無関心の反応を示す老若男女……彼ら彼女らを〈弄〉《いら》いつつ、己が内を見つめ直すのがもはや癖になっている。  結局のところ、私にとって意思の疎通や伝達はさして重要なことでなく、つまりまたしても長くなったが、「私は喋りたいように勝手に喋る」――ただそれだけのことなのだ。  己の意図を解してほしい。何かを共有し、手を取り合いたい。  そんな風に思ったことは、些か締まりのない我が人生で二回きり。  そして、その記念すべきかどうかは判別できぬが、ともかく第一回目はこのときだった。 「あなたに恋をした」  この私が……〈迂遠〉《うえん》かつ〈婉曲〉《えんきょく》かつ理解を期待せぬこの私が……ここまで率直、簡潔に、他の解釈を寄せ付けない直言を口にしたのはなぜなのだろう。 「あなたに跪かせていただきたい、花よ」  無論、よく分かっている。つまるところ、私は緊張していたのだ。  恐怖で、そして羨望で……いやいや、もしかしたら憎悪かもしれない。  ただこの少女に、無視はされたくないと思った。  取るに足らぬ一人として、流されることだけは避けたかった。  ゆえに言葉の装飾は剥がされて、ひどく無粋な……婦人を口説くにしては雅の欠片もない直言を口にしている。  実際、このときの私は〈初心〉《うぶ》な少年のようだった。  私の少年時代などというものが実在したかどうかはともかく、青いと言われる時代はこのとき、この一瞬。  己の発言に「しまった」――などと恥じ入ったのもこのときだけ。  今に至るも不覚なのだが、あまりにそれが強すぎたため、一瞬の熱に紛れて判別できなかったのだ。既知か未知かを。  常時曖昧な私が初めて確たる態度を示した結果は、もっとも曖昧なものになったという笑い話。  これは私の、そうした甘苦い失敗談。  君に共有してほしい、彼女への愛情。 「あなたは、誰?」  藤井蓮か、ツァラトゥストラか、それともこの〈道化〉《わたし》かい?  君は私にとって三人目だから、三度目の直言をさせてもらおう。  一度目は恋を。二度目は友誼を。伝え共有したいと思い、装飾を剥いだ私の意思を。  君は私の―― 「あなたの奴隷だよ、マルグリット・ブルイユ。 あなたの所有物であり、あなたの力であり、あなたの分身としてあなたを救い、あなたのお陰で幸せを得るあなたの傀儡だ。私はそのために生まれた」 「俺は……」  ゆえに、さあ、目を覚ませ。実に喜ぶべきことではないか。  私の“二人目”が〈“三人目”〉《きみ》のために、〈“一人目”〉《かのじょ》を壊してくれただろう。  ああ、まったく、本当に――いい友、いい女、そしていい○○を持ったものだと誇りたくなる。素晴らしい。  〈双蛇〉《カドゥケウス》は切れぬ。断てぬ。引き裂けぬ。  今再び、前にも増して、強く深く絡み合え。  より完成へと近づくため、〈脱皮する〉《うまれかわる》のだよ、私の代替――私の息子よ。 冷たい。 最初に捉えたのは、皮膚感覚。 次に、視界の暗さに気がついた。 目は、いつの間にか開けていたらしい。一度きつく〈瞑〉《つむ》って焦点を合わせると、暗闇にも少しだけ目が慣れる。 真っ暗に近いが、完全な暗闇じゃない。 「んん……」 体を起こそうとして、全身の痛みに息が詰まった。 起き抜けで意識が緩んでいたせいだろうか。歯を食いしばって、少しずつ痛みが引いていくのをじっと待つ。 「……ク……ウ……」 声を殺しているわけじゃない。痛みのあまり呻くことしか出来ないだけだ。 その苦痛に耐えながら、記憶を辿る。 ここは、どこだ? 俺は、一体どうしてこんな? 俺は…… 「―――――」 そうだ、なぜ俺は生きている? 聖遺物を砕かれれば、身体にもダメージが及ぶはず。魂につけられた傷は、肉体にもフィードバックするのだとシュピーネのときに学んだことだ。 ならばあれだけ完全に、ものの見事に武器を砕かれたこの俺が、生きていられるはずはない。 「どうして……」 直前の記憶がようやく蘇り、一度に溢れた思考でまた混乱する。 まずい、落ち着け。今は、ひとまず自分の状態が第一だ。 ともかく死んではいないらしい。無事とは到底言えそうにないが、生きていることだけは間違いない。 なぜなら痛み……自分の姿勢を確かめようと少し身体を揺さぶるだけでも、全身が軋む。 俺は今、どういう姿勢をしているんだ? 「……くはっ」 顎を上げて、息を吸い込む。まるで水面に口を出してエサをせがむ鯉みたいだ。それだけでも、また激痛。だが頭を下げたままじゃ、まともに息も出来ない。 吸い込んだ空気に鉄の匂いがしたのは、多分俺自身の血の匂いだろう。口の中。それに、鼻の奥と喉。怪我を意識して初めて、口の中に血の味がしていることに気が付く。 肺から体を冷やしてくれる冷たい空気が、今は身体に心地よい。熱っぽいのは、それだけ重症ってことだろう。決して慣れようと望んだことなんかないのに、最近慣れ親しんでしまった負傷の感覚。クソ、そういえば最初は司狼、あのバカが…… 駄目だ。しっかりしろ。考えが散らばるのは、意識が集中してない証拠だ。 どうも、俺は呑気に眠ってたってわけじゃないらしい。きっと、何度かうっすらと意識を取り戻しもしたんだろう。その度に、痛みのあまり意識が持たなかったんだ。 今だって、失神しないだけで精一杯だ。 「くは……うっく……うぅ……」 少しだけ、声が出た。それだけで随分楽になる。 「……ぐ!」 少し多めに息を吸おうとしただけで、また激痛。肋骨が、締め上げられている。だがそのお陰で、すこしだけ自分の状況が分かった。 俺は拘束されている。背中と尻、それから足に冷たく、固い感触がある。多分、石の壁と床。 痛みを耐えながら両腕を動かそうとして、両腕とも持ち上げた姿勢で縛られていることを確信する。ジャラン、と鳴った硬い音は、おそらく鎖。 それでようやく遅まきながら、自分の立場を理解した。 なるほど……つまり俺は、連中に捕まったのか。 「……、……、……」 歯を食いしばったままなので、小刻みに息をする度に歯の隙間が音を立てる。耳障りだが、今は痛み以外の感覚であればなんであろうとありがたい。意識を保つとっかかりになる。 大きく息は吸えない。拘束は全身に及んでいる。肋骨にヒビが入った時みたいに、息をするだけで胸が痛む。 「ち、くしょ……」 声が出る。意味のある言葉が言えたのは、だいぶ痛みが落ち着いてきたおかげだ。 気が付くと、俺は暗闇を睨んでいた。 鼻の頭に力が入るのを止められない。 腹が立つのは、自分の間抜けさだ。 ヴァレリア・トリファ。あいつを、見抜けなかった。 答えを知ってから思い出せば、分かりそうなものじゃないか。 あの神父の、あの笑顔。 あの、優しい笑顔。 あれは、確かに慈愛の笑みだった。 道端で、犬や猫を見つけた時のような。 取るに足らない小動物に対する強者の余裕。あるいは、狂者の気紛れか? 違和感はあった。先輩の名付け親だという神父の、外見を裏切るであろう実年齢はもちろん、時折、存在の質量が圧し掛かってくるほどに増す時もあった。けどそれを感じた瞬間に、その違和感に心と体を〈委〉《ゆだ》ねることができなかった。 まさか、と思ってしまった。そんなはずない、と。騙されたのはあの〈僧衣〉《カソツク》にじゃない。とぼけた口調にでも、笑顔にでもない。 ただ、自分に都合よくあって欲しいという勝手な願いで、見えるものにフィルターをかけていたんだ。 俺は騙されたくて、自分で自分を騙していた。 もう少し、せめてもう少し早く気付けていれば、こんなことには…… ……いや。 いや、もうやめよう。 こんな考え、たらればに意味なんかない。 「ぐ……」 ため息をつこうと吸った息が、全身に痛みを走らせて俺の感情をクリアにしていく。 神父は騙そうとしていたかもしれない。だが、俺が騙されたのは、俺自身にだ。 情けなさと、それを数倍上回る怒り。自己嫌悪なんてもんじゃない。こんな痛みじゃ罰にもならない。 俺は、自分に都合の悪い話は初めっからなかったことにならないかっていう、そんな甘ったれた希望で現実から目をそむけていたんだ。 ずっと、うっすらと感づき続けながら、認めなかった。それは単に、認めたくなかったから。 ヴァレリア・トリファは聖餐杯で、そして…… そして当然、そうであるならば当たり前の事として順当に…… シスターと先輩も、その関係者なのだろう。 トリファ神父の目に、俺はどう映っていたのだろうか。 今思えば、ヒントは多すぎたくらいだった。間抜けを相手にしているようで、さぞ騙し甲斐もなかったろうな。もしかしたら、騙すつもりもなかったのかも。 「…………」 意識して、ゆっくりと息を吐く。相変わらず肋と背中が痛む。 自分への殺意が、歯の隙間から吐き出されていく気がした。こんなものを抱えながらじゃ、何も考えられない。 自分の頭を自分で叩き割るにしたって、こんな有様じゃそれもかなわない。 俺は、やっと暗闇なりに見通せるようになってきた目で、辺りを見回す。真っ暗な部屋の中には、他に誰もいない。念のため、息を殺して耳をそばだてるが、物音一つ、気配もしない。 さて、それじゃあこれからどうするべきか。 無論、脱出。それしかない。捕らえられたという以上即座に殺されることはないのだろうが、この現状が危険なものであることは間違いない。 ならば当然、逃げなければならないんだが、その手段を講じあぐねる。 「…………」 俺は目を閉じて、意識を自分の内側へ集中した。 無意識の内に、コツをこなしていける。もう何がコツだったのかも思い出せないくらい、それは俺の意識に備わっている。 だから今、はっきりと分かった。 繋がらない。 活動も、形成も、マリィの意識に接触することが不可能になっている。 やはり、あれか……ラインハルトにギロチンを砕かれたこと。 俺は生きているのだからもしかしてと思ったが、そう甘くはないようだ。 実に、この状況下で、ただの普通人に成り下がってしまったらしく…… 「は……」 自嘲と自虐と自己嫌悪。情けなさすぎて笑うしかない。 俺は無力だ。腹が立つほどに。 こんな状態の俺を繋いで、連中になんの得があるのかは知らない。 しかしそんなことよりも、目の前で彼女を奪われたこと、敗北したこと……香純、司狼、神父、そして氷室先輩…… 「くそッ」 落ち着け。彼女がいなけりゃ何も出来ないってのか俺は。 頼りきりだったっていうのか? 彼女の存在に。支えて行こうとか思ってたくせに、声が届かなくなっただけでなんだよ、この無力っぷりは。 息をする音がうるさい。心臓も、まるで耳元で鳴っているみたいに耳障りだ。リズムが早いんだよ、落ち着け。 普段なら頭でも振っているところだが、きつい締め上げと全身の痛みでそんなことできるはずもない。 どうする? どうしたらいい? これからどうなる? マリィは、司狼はどうなった? 俺にいったい何が出来る? イライラする。意識がかすれていく。まずい、このままじゃ…… 一瞬で、俺の体が固まった。 息をするのも忘れるほど。縛り付けられていなければ、きっと飛び上がっていたはずだ。 音のした方へ、見開いたまま瞬きも出来ないでいる目を向ける。 何の音かなんて、見なくても分かっていた。 蝶番が軋みながら回る音。重い、鉄の扉が開く音。 誰かが、部屋の扉を開けたのだ。 焦りで思考がバラバラになっていた俺は、近づいてきていた気配にまるで気がついていなかった。不意に開かれた扉から差し込む光には、小柄な影が一人分、切り取られていた。 それは…… 逆光の向こうに現れた影は、一つ。 来訪者を特定するのは容易かった。 儚げな輪郭が、記憶の中の面影と溶け合い像を成していく。 「こんばんは、藤井君」 見知ったはずの顔。聞き慣れたはずの声。 けれど、懐かしさは絶望の味に反転していた。 こんな風に、決して出逢いたくはなかった人…… 「思ったより、驚きはしないのね」 そう呟く先輩の声は、あまりにいつもと変わりがなく。 そう……驚きはしない。 自らの平静さで、俺は自分が何処かで何かを諦めていた事を悟った。 容赦なく奪われ、侵食されてきた俺の居場所。 オセロの盤面のように裏返っていく、日常と非日常。 その未練がましく残っていた最後の一駒が、今……遅ればせながら白から黒へと裏返ったに過ぎない。 そんな風に諦めてしまえば……もう何も失くさないで済むだろう。 俺はただ目の前にある現実を、感傷の外から凝視する事に専念した。 「そんな目で見られると、悲しいな」 相変わらずの平板な抑揚からは、先輩の感情を読むことができない。 何処か憧れ、好ましく思っていたその不思議さも、今は底知れぬ不気味と感じてしまう。 「ここで先輩が俺を助けに来てくれた……なんて真っ先に思えるほど、おめでたくはないんですよ」 「ずいぶん夢がないことを言うのね」 「まさか……助けに来てくれたんですか?」 「残念ながらそうじゃない」 思わず状況を忘れて脱力しそうになってしまう。 そんな人を食ったような先輩の〈佇〉《ただず》まいは、いつもと変わらないけど…… このまま学園ドラマの展開に雪崩れるわけにもいかなかった。 「ってことは、今のこの状況が、互いの立場そのものってわけだ」 身体を動かすと、じゃらりと鎖の音が鳴る。 「先輩が看守、俺が囚人」 「信じてとは言わない。けど、私は藤井君の敵じゃない」 先輩の言葉に、少しほっとした自分を恥じてしまう。 気を許すな。もう、誰の表の顔も信じちゃいけない。 これは騙しっこだ。選択ミスがバッドエンド直行の、超絶難易度の。 だから…… 「じゃ、トリファ神父は……?」 「…………」 あの神父と同じ教会に暮らし、あの神父に連なるこの場所に現れた先輩。 つまりは先輩もまた神父と同じ、黒に反転した白い駒。 そう考えるのが何よりも自然な結論だった。 「彼は俺の敵だった。俺は負けて、ここに連れて来られた。そして、その場所に先輩が現れた」 「…………」 「あの神父との関係を説明してもらえませんか? 話はそれからです」 「私の名付け親……」 「本当の事を教えてください。化かし合いはもうたくさんだ」 「嘘はついてないよ」 表情一つ変えず、俺にそう答える先輩。 強くもなく弱くもなく、ただ俺を見つめ返してくる視線。 先輩が俺に向ける、そんな冬の湖みたいな瞳に浮き足立ってしまう。 問い詰めているのは俺の方のはずなのに…… 「でも、知っていたんですよね」 精一杯の悪足掻き。 早鳴る動悸を悟られないように、俺は努めてぶっきらぼうに告げた。 「え?」 「神父のこと。あの連中のこと」 「……藤井君、さっきから、私のことはどうでもいいみたいだね」 「え?」 今度は俺が虚を衝かれる番だった。 「私に関係のない人たちの話ばかり、してる」 「それは……」 子供のような言い草だと頭では思った。けれど、言い返すことがなぜかできない。 それは、もしかしたら本当に、先輩の言葉に嘘がないせいなのかもしれなかった。 「それに最初から、私がキミを騙したり裏切ったり……そういうことをすると、思ってる」 「…………」 そんなことはない、とは言えないが。 さっきまで渦巻いていた憤りや恐れや様々な感情…… それが、今は尻すぼみにボルテージを落としているのが分かる。 「ただ、先輩がこの場所にいるって事実が、どうもしっくり来なくて……」 「そんなに不思議?」 俺の目は、もう完全に暗闇に慣れてきていた。 何処か見覚えのある、石牢の壁や天井の建築様式…… 「ここは、教会だよ」 「それは……分かってます」 「そう。だったら、私が自分の家にいるのは自然でしょ」 「問題はそうじゃなくて……」 何か重大な陥穽に〈嵌〉《はま》りかけているような、そんな危うさを本能が訴える。 それは、きっと……俺の頭が、だんだん痺れて役に立たなくなってきている警告なのかもしれなかった。 先輩が、近い。 今までに遭遇したどの時よりも。空間的にも精神的にも、先輩が近くにいる。 「先輩に悪意がなくて……でも俺を助けてくれる気もないっていうなら……どうしてここに?」 何をしにここへ? 胸につかえていた不可解の念を、言葉で吐き出す。 「藤井君……単刀直入に言うね」 それに答える先輩の息が、鼻先にかかった。 息が止まるほど甘くて生々しい……胸のざわめく、妖しさ。 「私を、抱いてほしいの」 だから、咄嗟に言葉の意味を判別できず―― 「は、はぁ!?」 我ながら素っ頓狂な声をあげて、俺はこの状況にも関わらず放心した。 彼女の言ったことはそれくらい、想像の〈埒外〉《らちがい》にあるものだったから。 「あ。単刀直入じゃないね。少し抽象的だったかな」 先輩の口にする、変な反省の弁はどうでもよく…… 抱け、とはつまり…… 「そう。多分、キミの考えてる想像で合ってる。キミの反応も正しいよ」 「な……」 まるで意味が分からない。彼女の立場も、目的も。 なぜ今、ここでそんなことを。 「難しく考えないで。今は、その為だけの女だと、思ってくれて構わないから」 「そんな……」 おかしい。 先輩の様子が、明らかにおかしい。 いや、おかしいのは俺の周りの何もかもだけど…… それよりも何よりも、こんな形で先輩となんて……あまりにもおかしいだろう。 「精神は肉体の玩具……なんだって。そういう言い訳もあるみたいよ?」 身を寄せてくる先輩の〈挙措〉《きょそ》に、〈躊躇〉《ためら》いはない。 そこに宿る明確な意志を感じ……俺は、先輩の誘惑が冗談や酔狂ではないことを悟った。 「駄目……だ」 だから──その異常性が理解できなくて。 熱を持って頬に触れた指先が、茫洋とした眼差しが、どうしてもその想いに違和感を刻んでいく。 そうまるで、自棄になっている子供のように見えたから…… 「どうして……」 「藤井君には……関係ないことだよ」 そんなことあるはずない。 先輩の様子は、明らかにおかしかった。 だって、彼女は今も震えている。怯えている。俺を見ているようで見ていない。 道を見失った迷子が、必死に逃げ込んだようにしか見えなかった。 「動かないで……脱がせにくいから」 「そんなこと……」 こんなワケの分からない形で……第一、俺の今置かれている状況は、こんな〈暢気〉《のんき》な状況じゃあないはずで…… だがそんな俺の思考も、どんどん遠のいて、薄らいでいく。目を伏せる彼女の仕草に、言葉も行動も封じられていた。 添えた指先は震えている。 瞳の奥は空っぽだ。 押し殺していて、何一つ教えてくれてなくて、なのに唐突なところはいつもの〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》仕草だから……胸は軋み痛んでいく。 「いったい、どうして……」 「…………」 俺の問いに、先輩は不自然に動きを止める。 ただ、迷っているようには見えなかった。 「要らないんだよ。藤井君」 「理由なんて要らないの。だから……」 先輩は体を起こし、目線の高さを合わせて呟いた。 「軽蔑してくれて、いいから」 「そんなこと……」 できるはずない。安売りの身投げじみた言葉を、どうして受け止めることができるんだ。 「今だけで……」 と言いかけて、そのまま口をつぐんでしまう。 「…………」 しばらく考えるような姿。彼女が外側の世界を隔絶してしまう時の、独特な気配。 今、俺が対峙している人は間違いなく、氷室玲愛なのだと思い知らされる。 なら俺は……俺はどうするべきなのか。 「──やっぱり駄目だ、先輩。こんなことはしちゃいけない」 「私じゃ嫌だというのなら、ごめんなさい。我慢してとしか言えない」 「ひどいことかもしれないけど、一度だけでいいから。私の我が儘を受け止めて……」 「それとも……私のこと、そんなに嫌い?」 「違う」 そうじゃない。そうじゃないだろ、なあ先輩。 「間違ってるのは行為じゃない。場所とか、相手とか、そういうものでもない」 自分だって、本当は気づいてるんだろう? 「そんな、自殺志願者みたいな目で縋るなんて……らしくないってことだよ」 この状況がおかしいことも、マリィの安否も、全てが不透明なのは思い知ってる。 けれどその代わり、見えていることだって一つぐらいはあるんだ。 一緒に日常を過ごしていた相手ぐらい、俺にだって分かるんだよ。 「自分から傷つこうとなんてしないでくれ。俺は、罰を与えるなんて趣味じゃないし、先輩を罰しなきゃいけない理由もない」 「気に病んでるんだよな? 悪いことしたって勘違いしてるんだよな? 痛みが欲しいって思ってるんだよな?」 だからそうやって、勝手に一人で先走って自分で自分を売り払おうとしてるんだろ。 これで許してほしい、だなんて……見当違いの謝罪がそこに宿っているのが理解できたから。 「〈謝〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。〈先〉《 、》〈輩〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈悪〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 ──きっと、これはシンパシーだ。彼女の境遇は、俺と似ている。 強烈な外的要因に翻弄されて、今も絶えず苦しんでいる。そうやって圧迫された感情が、こんな行動を選ばせたのだと強く感じた。 その言葉に、瞳が僅かに翳りを見せて── 「……本当に、キミは面倒臭いね。藤井君」 そんな言葉を、どうともとれる曖昧さと共に、吐き出した。 「別に、分かってほしいとか言った覚えなんてないのに。いつもそうやって、損なことばかり頭が回る」 「次があるなら直しておいた方がいいよ? 普通の人とは逆だけど、もう少し楽な意見に流されていいと思う」 「そういうところは、どうしようもないほどに、男の子で……」 唇を噛んで俯く。その姿は、陽炎のように弱々しくて。 「馬鹿じゃないの? ヒーローのつもり? やせ我慢と強がりだけ大得意で、格好つけて、ハラハラさせて、逃げればよかったのに……守る守る守るって」 「私は、心配される筋合いなんてないのに……こんなひどいイキモノなんか、見捨てた方がいいのに」 「キミ、分かってる? あんな連中に掴まってるんだよ。これから何が起こるのか、もっと不安になったりしないの? どうして平然としてるわけ?」 「どう、して……」 「先輩……」 何が言いたい? 何かを伝えたいと思っているなら、一言でいい、伝えてくれ。 俺は先輩を見捨てたりなんてしないから。性分なんだよ、知ってるだろ。譲るつもりはないんだって。 そう分かっているはずなのに…… 「馬鹿だよ、大馬鹿、バカバカバカバカ藤井君」 「もっとなじったってよかったのに。こんなひどい女だよ? よくも騙したなってさ、ここはそういう場面じゃない」 「おまえなんか知らない、この疫病神、今までずっと監視してたな……って。〈誹〉《そし》る場面のはずじゃない」 「なのに今も、先輩、先輩って……まるで時が止まったように。いつものように、変わらないままで」 「そんなキミだから、これじゃあ、私──」 ──嫌がることなんて出来ないよ、と。 暗がりに溶けた呟きが、確かに俺の耳にも聞こえていた。 押し殺した彼女の嗚咽と共に、確かに、聞こえていたんだ。 ……………… ……………… 「ごめんね。忘れて」 身を離したとき、先輩は再び無表情に戻っていた。 それだけ言って、俺の衣服の乱れを直すと、振り返りもせず去っていく小さな背中。 「待っ――」 俺は、俺は――何か言わなきゃいけなくて。彼女に伝えなきゃいけなくて。 それを纏める時間も、言葉を選ぶ余裕もなかったから、ただ感情のままに叫んでいた。 「俺は――先輩、俺は諦めてない!」 何を? もちろん総てをだ。 生きることも、帰ることも、香純も司狼もマリィも、そして当然あなたのことも。 この様で何を言っているんだという気持ちはあるし、そう思われても仕方ない。 だけど、まだ何も終わってないんだ。絶望も諦観も、認めるわけには絶対いかない。 「だから先輩も――」 この人が何を思い、なぜこんなことをして、何をやろうとしているのかは知らない。 だが連中の仲間じゃないなら、俺をまだ後輩だと言ってくれるのなら、氷室玲愛は変わらず大事な人として、今もこの胸に存在している。 「先輩も諦めるな! 一緒に勝とう!」 何のひねりもない、間抜けとしか言いようのない俺の叫びに、先輩の肩はぴくりと震え、 「キミは本当に馬鹿だよ」 振り返って、はにかむように苦笑すると、それ以上何も言わずに去っていった。 「……そうだよ」 馬鹿だよ。悪いかよ。 再び誰もいなくなった牢獄の暗闇で、俺は決意を固め直す。 諦めるな。俺は勝つんだ。生きるんだ。 強く強く、強くそれだけ念じつつ、先輩が残した温もりの残滓を抱いて、俺は闇を睨んでいた。 「……駄目だ」 考えて、考えて考えた末に俺は首を横に振った。 どう考えてもおかしい。脈絡がないうえに意味も見えず、そんな行為に実りがあるとは思えない。 それに、何より── ──気にかかるのはマリィのこと。 彼女はいない。砕かれた。あの化け物じみた黄金の手で、ギロチンが壊れる様を覚えている。 ならば……あれからどうなった? 俺がこうして生きている以上、あのまま死んだとは思えないんだ。それを思うと身を切る焦燥が蘇る。 「今さらだよ、藤井君」 ああそりゃ確かに、正直、魅力的だとは思うけど。 「今さらなんかじゃ、ないさ」 俺たちの中で、誰一人欠けてほしくはない。 あいつらに渡してはならないと思うから、自棄になった先輩の行動を受け容れるわけにはいかない。 だってまだ── 「諦めてないんだ。俺は」 だから、先輩の内罰的な行動を今は容認したくない。 ここで何かを諦めて、彼女の行いに身を任して、情けないままは御免だった。 こんなみっともない姿でも、まだ心の牙は折れてない。それを信じてほしいのだと、瞳へじっと眼を凝らす。 「…………」 「…………」 「…………」 しばらく睨み合ったまま、なかなか言うことを聞いてくれなかったが、とりあえず退くことにはしてくれた。 「言っておくけど、私諦めてないからね」 「……変な拗ねかたしないでくださいよ」 「うるさいよ、ばか。藤井君なんか嫌いだ」 その台詞、前にも言われたような気がするが。 とにかくこれで、一応話ができる状況にはなった。この人が何を考えてこんなことをしてきたのか知らないが、今は率直な気持ちを口にしよう。 「まあその、元気そうでよかったですよ」 「…………」 「心配してたし、気にしてた。また先輩と話せて、嬉しい」 「……うん」 目を逸らして、俯いて……恥じ入るように彼女は頷く。 俺はそれを、あえて気にしないようにしながら勝手に喋った。 「ていうか〈教会〉《ここ》、前にも思ったけど忍者屋敷みたいなとこですね。抜け道とか、地下牢とか、こんな状況じゃなかったら探検してみたいけど」 「ああ、それと、先輩のその格好はいったい何処目指してるんですか? 刺激的っていうか、なんていうか……ゲームで回復魔法とか使いそうだよ」 他にも強いて言うのなら、巫女、シャーマン的、あと何だったかあれは、確かそう、ドルイドとかそんな感じの。 「祭壇とかの上に乗せられて、祈ってそうなイメージ」 「つまり」 教会住まいらしいですね、と俺は言おうとしていたのに。 「生贄っぽいって、言いたいんでしょ」 「なっ―――」 そんな、いくらなんでも生贄って…… その予想外な切り返しに、俺は何も言うことができなくなった。 「ごめん。冗談」 それは本当に、そうなのか? だとするならさっきの口調は、あまりにも感情がこもりすぎてた。 諦観するような、〈嗤〉《わら》うような、呪うような……そして嘆き憤るような。 日頃抑揚の変化が薄い人だけに、ただの聞き違いとは思えない。 「いいよ、もう。きっとつけが回ってきちゃったんだと思う」 「この一年半くらい、楽しかったよね藤井君」 俺が入学して、この人と知り合い、そして今このときまでの約一年半。 「時間が止まればいいと思った」 それは、何処かの馬鹿も常に同じようなことを思っていて。 だけど地球は回って、時間は流れて、いつか終わるものはいつだって終わりえる。 「私、あまり怒ったりしないんだけど、いくつか許せないことがあるんだ」 ぽつりと自嘲するようにそう言って、先輩は俺を見た。 「それは、キミに逢ったこと」 「カール・クラフトが許せない」 誰だ? 初めて耳にする人名に疑問を懐くが、そんなこちらの気持ちは意に介さず、彼女は滔々と話し続ける。 「どうしてキミなの?」 手を伸ばし、俺の頬に触れ、静かだけど恨み言をぶつけるように。 「私、キミのこと嫌い」 「でも、この気持ちは私のものなの? 私に優しいキミの気持ちは、誰のものなの? キミがキミじゃなかったら、私とキミは出逢わなかったの?」 テレジアを愛しているのかいないのか。 ヴァレリア・トリファ――聖餐杯に言われたことが脳裏をよぎる。 この人は何を知っていて、何を言っていて、俺は何を知りたいんだ。 「キミと一緒にいるのが楽しいって思う私が、一番許せない」 「だからきっと、悪いのは私なんだね。つけが回ってきたっていうのはそういうこと」 「だってキミがどうだろうと、たとえ普通の男の子でも、今がくればもう逢えないって、分かってたんだもん」 「時間が止まればいい。今がやってこなければいい。たとえやってきてもね、藤井君……キミも綾瀬さんも遊佐君も、きっと何も知らないままいなくなっちゃうからそれでもいいやって……」 「友達のままさよならできるだろうから、それはそれでいいやって……」 「ずるいね。汚いね、私って……」 「だから今、こんな風に、痛い」 「先輩……」 下を向いて、肩を抱いて、下唇を噛み締めながら微かに震えている彼女。 つまりこの人は、いずれ始まるであろう今回の騒ぎを自覚していた? でも俺がそこに関わってくるとは思わなくて、だからこそ今までの日々は嘘じゃなくて、それを壊されたことが痛い……と。 俺と、自分のことが嫌いだと。 じゃあいったい、俺がなんの変哲もないただの学生であった場合、香純や司狼も含めてさよならしていたというのはどういうことだ。 それじゃあまるで、俺たち、ないし氷室先輩、あるいはその両方が、消えてなくなるみたいじゃないか。 「もう痛いのは、いや」 「キミが嫌がること、できない」 「そうするのが一番いいって分かってるのに、君が拒むから、できない」 言って先輩は、俺のズボンのファスナーをあげる。ベルトを締めて、衣服の乱れを直してくれて、もう何もしないと目で告げる。 そして自分も居住まいを正すと、はにかむように苦笑した。 その唇が、俺の唇と重なる。 「勝ってね、藤井君。負けないで」 「もう、それしかないよ」 キスはほんの一瞬だけ。触れたと言うより掠るようなものだった。 「待っ――」 立ち上がる彼女に手を伸ばそうとしたが、それも叶わず―― 振り返りもせず去っていく先輩の背を、俺は見送ることしかできなかった。 「――――ッァ」 悪夢に目覚めて、俺は自分の叫び声と共に覚醒した。 「ぁ、は……えェェ…ッ」 そしてその場で嘔吐する。身の毛もよだつようなおぞましい目に遭ったことだけは覚えているが、他はまったく思い出せない。 いったい、どこからが夢でどこまで〈現〉《うつつ》だったのか……確かここに誰かが来て、何かを話して、何かをされて……そして意識を失って…… なんとか思い出そうと試みるが、理性の裏で誰かが忘れろと言っている。 そんな状態だったせいか…… 「おはよう」 「――――ッ」 目の前にこの人がいたことに、たった今気がついた。 「あ……っ、え……?」 あまりに唐突、かつ落差のある展開に、頭がまるで回らない。 いや待て。落ち着け。俺はそもそも、彼女に用があるんじゃなかったのか? 「というか、こんばんはだね。目が覚めなかったらどうしようかと思ってたけど、よかった」 「せん、ぱい……?」 氷室玲愛……そしてテレジア……俺がよく知っている一つ年上の先輩。 そして、俺が認識していた通りの彼女なら、本来こんな所では絶対に出くわさないだろう人。 「なぜ……」 「うん?」 「なんで、先輩がこんな所にいる……?」 「なんでって言われても、ここは私の家なんだけど」 「…………」 それはつまり。 「教会か」 〈神〉《 、》〈父〉《 、》〈と〉《 、》〈シ〉《 、》〈ス〉《 、》〈タ〉《 、》〈ー〉《 、》〈と〉《 、》〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈が〉《 、》〈住〉《 、》〈む〉《 、》〈家〉《 、》。そして神様が絶対に不在の家だ。 「なぜ……」 再度、俺は同じ言葉を口にした。 「なんで、先輩がこんな所にいる……?」 台詞はまったく同じだったが、その意図するところは異なっていた。 なぜあなたが、奴らと同じ立ち位置にいるのかということ。そしてそれは、どれくらいの繋がりで“そこ”にいるのかということ。 意識を失う直前まで考えていたこと、そしてそもそも、今の俺がこんな所に繋がれている原因をようやくのことで思いだす。 ヴァレリア・トリファ――聖餐杯は言っていた。 テレジアを愛しているのかいないのか。 俺が〈先輩〉《かのじょ》を殺すのか殺さないのか。 つまりそれは―― 「先輩はあいつらの……」 「仲間なんかじゃないよ」 皆まで言わせず、あっさりと即答で返してきた。それに俺は隠しようもない安堵の念を懐いたが、しかし完全に鵜呑みすることはできない。 「じゃあ俺の仲間……ていうのはどうなんでしょうね」 「どうかな」 「〈鎖〉《これ》……どうにかしてくれませんか?」 「無理だよ。鍵がないし、道具もないし、私力持ちじゃないし」 解くことも切ることもできない。と先輩は言う。 「でも、そうだね。キミの仲間ではあると思うよ」 「それは?」 「籠の鳥」 やはり即答で、あっさりと、彼女はそう口にした。 「何もできないね、私。先回りされちゃったよ」 そして微かに俯くと、よく分からないことを言ってくる。 「今のキミは、その、なんていうか疲れてるし……それは普通の……じゃないと思うし……私にどうにかする方法はないし……」 「藤井君が女で、私が男だったらよかったのにね」 「……?」 いや、本当によく分からない。 「けどまあ、それは有り得ないことで、要するに私は、駄目なんだよ」 「あの人たちに勝てないんだよ、キミと同じで」 「…………」 相変わらずよく分からない。よく分からないが、しかし。 「俺は負けないですよ」 この様で何を言っているんだという感じだが、認めるわけにはいかない。 俺は勝つ。勝つんだ、そして生きるんだ。諦めるのはまだ早すぎる。 「だから先輩も勝てよ」 この人が何を思い、何をやろうとして、何を勝利と定義としているのかは知らない。 だが奴らの仲間じゃないというなら、俺と同じだと言うのなら、思うことは一つだけだ。 「一緒に勝とう。俺は諦めてなんかいない」 「…………」 それに、先輩は一瞬虚を衝かれたような顔をして。 「キミは本当に、どうしようもない馬鹿だね」 辛辣な言葉とは裏腹に、優しく微笑むと俺の頬に指を這わす。 「でも私、そういえば……あの人たちの怖さとか強さとか、よく考えると全然まったく知らないよ」 「脅されたことも殴られたことも、殺されたこともない。何かいつも周りにいた、変な人たちって感じね。藤井君のほうが色々、私を怒らせたり苛々させたり、驚かせたり喜ばせたりしてくれた」 「そんなキミが言うのなら、そうね……あの人たち大したことないのかもしれないね」 「だってキミは、脅されたり殴られたり、色々されたんでしょう?」 黒円卓を、ラインハルトを、直に知って叩きのめされた俺。 その俺が、まだ諦めないと言っている。奴らなんかに負けはしないと、痩せ我慢であろうと吠えられる。 「それなら私も……うん、ごめんね。キミの言う通りだよ」 頷き、先輩は立ちあがった。そして部屋から出て行こうとする。 「ちょっ――」 途端に、俺は不安を覚えた。 確かに諦めるなとも一緒に勝とうとも言ったけど、この人いったい何をする気だ? まさか有り得ないとは思うが、これから神父なり誰なり相手に、喧嘩を売るつもりじゃないだろうな。 そんな真似は自殺行為で―― 「心配しないで。大丈夫」 俺の不安を諌めるように、彼女はもう一度優しく微笑み…… 「私がキミを守ってあげる。大丈夫だよ、安心して」 「もう痛かったり怖かったり、そんなのキミに味あわせたりしないから」 言って、そのまま、牢を出て行く。 残された俺はただ一人、彼女の真意が読めずに悩んでいた。 もしかして、失敗だったのかもしれない。 馬鹿な俺の考えなしな台詞のせいで、あの人を抜き差しならない立場へ追いやったのかもしれないと……  束の間ともいえる想い人との逢瀬を終えた玲愛は、そのまま地下牢を後にした。  本当は目論んでいたこともあった。意趣返しを画策もしていた。けれどその拙い覚悟さえもまた、彼と言葉を交わすたびくすみ萎びてしまったから。  ……結局、自分は何をしたかったのだろう?  思ってしまったのは、そんなところ。あの連中への反抗か、それとも彼への愛情か。ひどいことなどできないと、優先したのはそういう気持ち。 「…………」  もしそれを……感傷だけを抱きしめて、彼の元に戻れるならば。  自らを苦しめるだけの、不可能なゆえに甘美な夢想が微かによぎる。  よぎりはするが…… 「…………」  玲愛はそれを諦めた。いつもそうしているように。感傷をアンインストールする。それは課せられた義務ではなく、心の平安を保つ為の技術。  自らの身体に刻み込んだ、痛みと〈疵〉《きず》。それを勝ち取った小さな達成感だけを噛み締めながら……玲愛は歩を進めていく。  願うことはただ一つ。どうかこれ以上、彼に傷ついてほしくないというその一点。  心も身体も切創だらけで、なのにまだ格好つけようとしている男の子。  諦めが悪くて、女みたいな顔をして、それでいて誰より頑固で強がってばかりの彼に、これ以上無理などしないでほしいと願う。  そんなことは不可能だと分かっているのに。  彼と自分に付き纏う閉塞感と絶望は、願えば溶けて消えるような生温い見せ掛けじゃないんだって── 「汝、ただ思うままに不浄たれ」 「―――――」  そしてその絶望は、羞恥と驚愕に塗り潰された。  見られた。知られた。自分がしたこと、思ったこと、その果てに抱えている不条理への憤りを。 「純潔など夢想にすぎぬ。穢れよ、さすれば開かれん。世はいついかなるときも、行動の選択により転換する。 座り込み守ったままでは、何を知ることも成すこともできない。 ……と、あなたにこの言葉を贈ろうと思うの」  闇の中、通路の壁に背を預け、話し掛けてきたのはルサルカ・シュヴェーゲリン。それは彼女にとって通常通りの歌うような口調だったが、どこか異質な響きがあった。  強いて言うなら、共感……だろうか? 玲愛の行動とその結果を嘲笑しながら、しかしある意味で称えているような。労わりに近い心情がほんのわずかだが混じっている。  意外――そう素直に思いながらも、秘め事を知られた事実に玲愛の血は熱くなった。何かを汚されたような怒りが視線に宿るのを止められない。 「ごめんなさいねえ。別に無視してもよかったんだけど、あなたがあまりにもアレだから、つい老婆心が疼いちゃったわ。……ああ、アレってつまり、馬鹿ってことね」 「余計な……」 「うん?」  お世話だ、と言いかけて、玲愛はそのまま視線を逸らす。今は誰とも話したくないし、まして相手は―― 「そう邪険にしないでよ。あなた的には初対面かもしれないけど、一応、おしめ替えてやったこともあるのよ、わたし。 クリストフに言わせれば、あなたは〈黒円卓〉《わたしたち》の娘だからね」  言って、にこにこと微笑むルサルカ。それは無邪気で、事実他意もなさそうな様子だったが、言葉の内容には吐き気がした。  娘。娘……自分はこの悪鬼達に育てられた娘なのだと。 「否定しないのね。随分と物分りがいいっていうか、不自然っていうか、適応力が早いようで助かるけどつまんないな。別に一から十まで知ってたわけじゃないでしょうに。 あの〈バビロン〉《ぎぜんしゃ》と〈クリストフ〉《ヘンタイ》は、意外にもあなたをきちん“教育”してたってことかしら? だとしたら、うん、少し評価を改めないといけないね。わたしてっきり、ギリのギリギリまで普通の女の子だと思い込ませてるんだとばっかり」 「……ない」  ぽつりと、独りごちるように玲愛は言った。 「初対面じゃ、ない」  それは会話をする気になったわけでも、警戒を解いたわけでもなく、ただ放っておくといつまでも喋り続けているだろうルサルカを黙らせるために出た言葉だった。  実際には、黙らせることなど不可能だろうが。  それでも、延々と続く長広舌を寸断したかったという、ただそれだけ。 「私、前にもあなた達を見たことが、ある」 「へえ……。つまり、なるほど……ああ、はいはい。そういうことね」  あれか、と呟き、ルサルカは笑いだした。 「うふふ、なんだ。だったらさっきの忠告要らないじゃない。あなたは弁えてるよテレジアちゃん。あはは、こりゃお守り役の二人は辛いとこねえ。 いや、〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈ら〉《 、》? うふふ、あははは、参った参った。一本とられちゃったよ凄い凄い」  笑うルサルカを一瞥して、玲愛はそのまま何も言わず、彼女の横を通り抜けようとする。  だが―― 「待ちなさい。気が変わったわ。 あなた、これからどうする気?」  牢を出た後、無言のまま歩く玲愛は一つの異常に気付いていた。  いや正確には、牢の中からすでに気付いていたと言っていい。  別に魔法とか魔術とか、超能力だの何だのというものじゃない。  肉体的、感覚的には凡にすぎない彼女だが、それでも男という性には絶対備わらない特殊能力を、必然として持っている。  すなわちそう、女の勘だ。 「臭い、マレウス」  言いながら、歩みを止めない玲愛の足元。そこでは何故か、影が二重になっていた。  牢の中では蓮の影が二重であり、その一つが今は玲愛についてきている。 「出てこないと踏み潰すよ。私、あなたに怒ってるんだから」  すると―― 『ふふ、うふふふふ……何? 何よそれ、ひどいじゃない。 臭いってあなた、これは彼の匂いだよ』 「そこにあなたの余計なものが混じってる。不愉快」  足元の影が、口を開いて喋っている。その、常人なら目をむいて卒倒するだろう状況に、玲愛は眉一つ動かしてない。意外と言えば、意外な度胸だ。 『あらら、やーねー嫉妬しちゃって。まあ気持ちは分かるけど、あんまりショック受けないでよ。男なんて、誰でもこんなもんなんだから』 「それより、早く――」 『あー、はいはい。そんな可愛いあんよで踏まれたら泣いちゃうからやめてやめて』  けらけらと嘲るような笑いの後、歩き続けている玲愛を追うように影が立ち上がって厚みを持った。  そして後ろから肩に手を置き、振り向かせる。 「ばあ――とまあこんな感じでどうかしら?」  どう、とは何だ──そう喉までせり上がっていた言葉を、寸でのところで飲み下す。  親切心で? 声をかけた? それとも自慢? どれにしても質が悪い。魔女の性根は捻じれている。 「…………」 「というか、むしろ感謝してほしいくらいだわ。せっかくあなたが無駄骨折って、無力感とか自己嫌悪とか、そういうのに鬱々とするのを防いでやったわけなんだし」 「無駄骨?」  相手が指摘する自分のやろうとしていたことを否定も肯定もしないまま、玲愛は尋ねる。 「何が無駄なの?」 「それよそれ」  臍の下……玲愛の子宮辺りを指差しつつ、さも同情していると言わんばかりに溜息をついて魔女は答えた。 「あのさあ、あなたがやろうとしたことなんて、しょせん子供の浅知恵なわけよ。〈純潔〉《しょじょ》散らせばオッケーとか、あなた舐めてるでしょ、真面目な話」 「〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈処〉《 、》〈女〉《 、》〈宮〉《 、》〈は〉《 、》〈欠〉《 、》〈落〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。膜がなくなってもいいとかじゃなくて、膜がなくならないのよ、何しても。 まあ、ある意味いいんじゃない? 一定数の男にはブラボーとか言われるかもよ? もっともあなた自身にとっては、冗談じゃないでしょうけど。 だから優しいわたしが、それを未然に防いだまでで。 ああ、そりゃ白状すると、個人的エッチ心もあったんだけどさ。 彼、予想外に頑張るわ、あなた、本気で邪魔するわ……ちょ~~っとムカついたけどそこはおあいこってことにしましょうよ」 「…………」 「ね?」  白々しく和解を求めるルサルカに、玲愛は無言のまま何も言わない。  ただ、しばらく黙った後、別に話題を口にした。 「さっきの、聞いてたでしょう」 「ああ、うん。なんかこう、よさげな雰囲気だったやつね」 「わたしたちが大したことないとか怖くないとか、まー正直舐めまくってくれてるみたいだけど、そこはそれ、クリストフの教育が悪いんだわ。別に怒ってなんかないわよ、わたし。 それにさ、進んで色々やろうとするあなたは、こう、なかなかいいわよ。いくら無駄なことだとしても、その選択をしたことは褒めてあげる」  声の調子はいつも通り、歌うように嘲るように、つまり馬鹿にしているようにしか聞こえないが、しかしそこにはある種の真摯さも含まれていた。  どうやらこの魔女、半分は本気で言っているらしい。 「汝、ただ思うままに不浄たれ。穢れよ、さすれば開かれん――とかまあ、そういう格言があってだね。あなたはそれに則ろうとしたんだから評価してあげるよ」 「そう。だったらさようなら。私に顔見せないで」  そっけなくそう言って、場を去ろうとする玲愛。それを、ルサルカが捕まえた。 「まあ、待ちなさいよ。言ったでしょう、聞いてたって。 あなた、これから何する気なの?」 「…………」  問いに、やはり玲愛は答えない。袖を掴まれたまま、十数秒時が流れる。  その間、彼女の脳裏には、先ほど蓮に言われた台詞がよぎっていた。 “俺はまだ諦めていない”――  状況を見れば馬鹿としか言いようがなく、事実彼女も馬鹿と言ったが、実に彼らしい……好ましい馬鹿さだと思った。 “だから先輩も諦めるな”――  本当、軽々と言ってくれる。諦めるなって、いったい何? それは私の人生の全否定だ。  氷室玲愛の大半は、諦観というもので出来ている。諦めと無関心と逃避と忘却……それが自分の主成分で、挑戦とか不屈とか執着とか、そんなものは自分の中にない。  いや、ないと思ってはいたのだが。 「不浄たれ、なんでしょ?」  わずかだけ、本当に微かな笑みを浮かべて、玲愛はそう呟いた。  自分はすでに、その有り得ない挑戦というものを試みた後なのだ。執着心を見せた結果がこの様なのだ。  ならば、ならば今さらなんだ。不屈というもう一つのらしくない選択を、したって別にいいじゃないか。  彼はおそらく、何度負けても諦めない。動ける限り立ち上がる。  彼のそういうところが好ましく、羨ましい私としては、真似たいし共有したいし、そして出来れば認められたい。 “先輩も勝て”――  ええ、ええ、そうだよね藤井君。私が諦めないで頑張って、勝てたらキミも笑ってくれる?  私がキミを幸せにできる? 「あなたの好みそうなことよ、魔女さん」  目を合わせず、しかし意を決して玲愛は言った。 「不浄なことが好きなら付き合ってほしい」  それに、ルサルカは笑うでもなく目を細めてから、訊いてきた。 「魔女の言うことを信じるの?」 「魔女の言うことだから、信じるの」  この相手に善意はない。  万事を嘲笑し、泥沼に落とし、沈めて遊ぶ〈水辺の悪霊〉《ルサルカ》――  だが、だからこそ、その娯楽には誰よりも真摯だろう。  旅人を魅了する歌声は不浄でも、歌い手はその業を誇っているはず。  ならば―― 「いいわよ。協力してあげる。 見物よね、せいぜいお互い楽しみましょう」  今から投げるのはほんの小石にすぎないけれど、何も変わらないかもしれないけれど。  あるいはそう、もしかしたら――黒円卓という船を泥沼に沈ませる波が起こるかもしれない。 「ところで、さっきの」  もはや引き返せない決断をしたことによる昂揚が成せる業か、常よりも動悸を早めた心臓が、ついどうでもいいことを口にさせた。 「誰の受け売り?」  不浄たれ。穢れよ、さすれば開かれん。  育ちがら、聖典やその系統の格言には一通りの知識が有る身だったが、先の言葉は聞いたことがない。  ルサルカ本人の創作か? いいやそれとも…… 「わたしの〈人生〉《じゅんけつ》を奪った男の格言よ。そいつを捜した時期もあるけど、たぶんもう死んでるわ」 「そう……」  呟き、そして忘れてしまう。どうでもいい質問にどうでもいい答えだから、それは自然で、当然で……おそらく当のルサルカも、なんとなく思い出したというだけなのだろう。  だが今、二人は気付いていない。  何十年、いやもしかしたら何百年も前に、とある男から這い出てきたというただの言葉に、自分達が操られ始めているということを……  牢を出た後、無言のまま歩く玲愛は周囲の異常に気付いていた。  いや、その表現は正確性に欠ける。こんなものは彼女にとって日常であり、何も特殊なことではないのだから。  いつも見張られているような気がしていた。自分の人生、一秒漏らさず、いつ何処で誰と何をやっていようと、監視されているみたいに思えてならなかった。  それは例えば今のように、嘲り笑っている女の気配、呆れ返っている男の気配、そして無感動に努めている女の気配……というような、人間めいた者らから受ける間接的だが直接的な耳目の集中――だけではない。  言うなれば運命……だろうか。陳腐な表現極まりないが、自分に関係することを格好良く飾り立てた言葉で形容するつもりはない。  とにかくその、なんだかよく分からないものの虜であること。それの手から出られない籠の鳥である自分としては、言ったように今感じている複数の視線……絡みついてくる他者の意識なんか気にもならない。  これは日常。私の日常。今まで通り、いつも通り、多少うざったいだけのどうでもいいもの……  であるはずなのだが。 「…………」  腹が立っていた。苛々していた。少々どころか限界近い領域で、彼女の自制心が悲鳴をあげている。我慢がならない。  嘲り笑っている女はいい。呆れ返っている男もいい。無感動に努める女は多少気持ちを逆撫でしてるが、許してやらないこともない。  だが、他の二つが問題だ。  見ざる聞かざる。自分は何も気付いていませんとポーズを取っている女が一人。正確なところこれは感じ取っているわけではないが、あえて一切の耳目を向けていないということから、そういうスタンスであることが窺える。  正直、冗談ではない。  だったら何? 私を労わるとかプライバシーを尊重するとか、そんな気持ちが回るのならば、どうして助けてくれないの? なんで何も言ってくれないの? あなたは迷って悩んでいても、〈結〉《 、》〈局〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈偽〉《 、》〈善〉《 、》〈者〉《 、》。何も出来ないしする気もないなら、理解あるふりなんてやめてほしい。  そして、一番問題なのが最後の一人だ。  哀れんでいる。嘆いている。涙を流して悲しみながら、しかし同時に恍惚としている変態男。まるで自分が、神の試練に立ち向かう聖人にでもなったかのように、この相手は己の痛みを美酒同様に好いている。  私はあなたの飴玉か? 毒で甘い飴玉か? ふざけないでよいい加減にしてよ。あなたのそういうところが本当に―― 「大嫌い」  立ち止まり、闇を睨んで、搾り出すように玲愛は言った。 「大嫌いだよ、みんな。死んじゃえばいい」  傷つくよね。悲しいよね。でもあなたそれが好きでしょ?  だったら喜んでよ。笑ってよ。いつもにこにこしてるんだから、どうせそんな仮面でも被ってるんでしょ? 何処に売ってるのよそれ。私も欲しいよ。  そのまま十数秒、睨み続けても何の反応もないことに呆れ果て、玲愛はこの場を去ることにした。  その間際に―― 「リザとは仲良くしなさい。これは命令です」 「うるさい」  自分にしては驚くほど、大きな声が出たと思う。  そうしなければ後悔しますよ、と続ける神父に言い放った。 「後悔って何? 後で悔やむの“後”っていつ? 私にそんなものが――」  叫びは、しかし人を食った台詞に掻き消される。 「彼女がいなくなってしまえば、誰が朝寝坊なあなたを起こして学校に行かせるのですか」 「うるさい、馬鹿。もう話しかけないで、馬鹿!」  怒鳴るようにそう言って、玲愛は闇の中を駆けて行った。  それに千切られ霧消した、笑う女と呆れる男と無感動な女の気配。にも関わらず、今まで気配を消していた気遣わしげな女の念が、闇に溶けていく玲愛の背をおずおずと追い始めたこと……  大嫌いと言われた男としては、それに苦笑するしかない。 幻のように鼻先に香る、先輩の匂い。 その残滓が消えないうちに、それは起こった。 再び、扉が開く音。彼女が戻ってきたとは考えられず、また隙間から漏れてくる気配がその予想を肯定している。 敵意はなく、悪意もなく、だが友好的では決してない。 そして何より、ただの人間では有り得ない密度の存在感。数百数千の人間が一度に動いているような、奴ら特有の気配。今やそれを隠してもいない。 扉が開いた。来訪者の顔は―― 「災難でしたね、藤井さん」 ヴァレリア・トリファ……どうやらやっと、この状況に相応しい人物と展開がやってきたらしい。 「立場上、テレジアの非礼はお詫びします。あなたは丁重に扱わなければならない」 「これが丁重だって?」 鎖に全身拘束されて、身動き取れない状態である事実を指摘する。 「少なくとも、あなたを精神的に疲弊させるつもりはない。重いでしょう、そういうものは」 「別に」 先輩の意図がどうであれ、彼女と接した短い時間を重荷だなんて思っていない。むしろ救われているくらいだ。 「今、あの人は何処に?」 「さて、怒っているようでしたからね。そういう状態の女性には、近づかない主義なのですよ。張り手くらい受けてやってもいいのですが、生憎今はそういうわけにもいかない。不忠になる」 「……?」 微かに笑いながらよく分からないことを言う神父は、近づいてくると俺の片腕を拘束から解いた。 「後は自分でおやりなさい」 そして、鍵を渡してくる。俺は無言のままそれを使い、数分の時間をかけてようやく身体の自由を取り戻した。 その間、神父は何も言ってこない。それどころか、俺が立ち上がると無防備に背を向けて部屋から出て行く。 そうした態度に、思わず舌打ちしたくなった。俺の逃走や反撃など一切警戒していない。こちらを信じているという意味じゃなく、やっても容易くねじ伏せられるという自信の表れ。 こいつ……今の俺が無力であることに気付いているんだ。見栄を張って軋む身体を無視しつつ、さも平気そうに立ちあがった意味がない。 ……いや、少なくとも最低限の格好だけはつけられたのか。この男の前で、たとえ戦術的に意味がなくても、情けない姿を晒したくはない。 もはや意地だな。そして今の俺には、それくらいしか武器がないというわけだ。 「何をしているのですか? ついてきなさい」 「何処へ?」 おおよそ分かってはいたのだが、つい訊いてしまった。 そして結果、案の定―― 「ハイドリヒ卿がお待ちです」 この先待ち受けている展開の苛烈さに、訊くんじゃなかったと思ったのは仕方のないことだろう。 「ところで」 だが、ここまでくればもう毒皿だ。暗い石畳の通路を歩きつつ、俺は再び問いを投げた。 「シスターは今何処に?」 「さて」 それに神父は、若干だけ苦笑すると…… 「おそらくテレジアの所……というか、部屋から閉め出されたドアの前で、埒もないことを語りかけているのでしょう。彼女はそういう人だ」 「私は素晴らしいと思いますよ。あの方は女性というものを見事に体現していらっしゃる。情を捨てられず流されながらも、芯の部分ではひどく精度のよい天秤をお持ちだ」 「こと選ぶという行為において、女性は男のようにみっともなく揺れたりしない。泣いていようが叫んでいようが正反対のことを言っていようが、するべきことは最初から決めているのですよ、彼女たちはね」 「…………」 「リザは信用に足る。私にとってもあなたにとっても、テレジアにとっても……まあそれだけに、痛ましくもありますが」 「この先あなたと対峙するような事態になっても、何か上手いことやってくれるでしょうよ、彼女ならね」 「少なくとも、私よりはあなたに好ましい対応をするはずだ」 「じゃあ……」 あのシスターと、敵同士として対峙する。そんな場面を思い描きたくないが、先のことは留保する。今はそれより、目の前の問題をどうするか。 「あんたはどうなんだよ、神父さん」 「私ですか? 言ったでしょう。あなたに害しか及ぼしません」 それはまるで、今度お茶でもおごりますよ――とでも言うような軽さだった。 「なら、あんたに案内されてるこの先は、俺にとって最悪の場所ってわけだ」 「否定は出来ませんねえ。何をもって最悪とするかはともかく、私はあなたと同じ立場にはなりたくない」 「シスターのことを話してるときは、俺にもまだ先がありそうな言い回しだったけど?」 「分からないのですよ、分からない」 ポーズではなく真剣に、彼はそう言っていた。俺には少なくともそう見えた。 「ハイドリヒ卿の意図するところなど、私には分からない。ゆえにあなたがどうなるかも分からない」 「別に脅すつもりはありませんが、楽観しないほうがよいでしょう。一度生かされたからといって、二度目があるとは限らない」 「あの方は何と言うか、こちらの都合など一切お構いなしなのですよ。彼の中では自然な理屈があるのでしょうが、昔からはっきり言って理解できない。要するに、常識で測れない」 「……あんたに常識が云々言われたくはないけどね」 だがまあ、確かにそうなのだろう。アレには理屈も常識も通用しない。俺が今生きているということ自体、すでにルールを外れている。本来なら、間違いなく即死の目に遭ったというのに。 それについて確かめたい気持ちはあったが、この場で訊くのはやめにした。分からないと言った相手の所業など、神父には答えられまい。 だから代わりに、俺は別の問いを投げた。 特に深い意味もなく、真剣に知りたいと思っているわけでもない。どうでもいい問い。だけど同時に、この神父がどうしようもなく普通ではないと、確認するための問いを。 「歳、いくつ?」 それに、彼は―― 「さて、九十の半ばを超えたあたりでしょうか。おおよそ一世紀生きていると言えばいいですかね」 「我々の中では、比較的年長な方ですよ。とは言っても、あなたから見れば九十も八十も大差ない年寄りでしょうが」 「そう、やっぱり」 いつか懐いた、彼が先輩の名付け親であるという事に対する違和感は、間違いじゃなかった。 この神父は第二次大戦を余裕で経験している年齢で、当時と変わらぬまま今もいて……不死身に近く、人間じゃない。 「なら、アレはやっぱりアレでいいんだ?」 「ハイドリヒ卿のことですか? ええ、有名な方ですから、あなたも知っているでしょう」 「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ大将閣下。真実の一割も記されていない教科書でさえ、彼がもっとも恐ろしい魔将だったと言っているでしょう」 「その評価は、間違っていない。万分の一以下の過小評価ではありますがね。それでも彼は図抜けていた」 「唯一例外は、副首領閣下くらいでしょうか」 「そいつの名前は?」 「おや、知らないのですか? まあ確かに、この国の学生が知っているほど著名ではないですが……」 「それについては、ハイドリヒ卿ご本人からお聞きなさい」 長い通路の突き当たり、目の前には巨大な扉が存在していた。 この向こうに、あいつがいる? 「ちなみにここは、私が潜る門でもあります。原則として、一門につき一人しか通れませんから、今は私が開けるわけにもいかない」 「ですからどうぞ、お一人で。これは真実本音ですが、あなたの安全を祈ります」 「…………」 不吉な言い様に何か言い返してやりたくなったが、もはやそんな余裕はない。動悸が早まり、汗が噴きでて、呼吸も困難になっていく。 この門を潜ったら、もう逃げられない。 「……分かったよ」 だが、この神父の前で弱気を見せたくないという一心。今の俺を何とか両足で立たせている意地だけを頼みに、俺は目の前の扉を両手で押した。 蝶番が軋む音と共に、縦の亀裂が入って門が開く。相当な重量があるだろうと思っていたが、意外にも呆気なく、軽いとさえ言える手ごたえで奥の部屋へと入室できた。 「座って、しばしお待ちなさい。だが、副首領閣下の席だけはやめた方がいい。そこはハイドリヒ卿と近すぎる」 「〈六〉《ゼクス》、〈七〉《ズィーベン》、その辺りがよいでしょう。対面ですし、あながちあなたと無関係でもない席だ」 背後からのそんな声を聞きながら、扉が閉まる音と共に、俺は一人残された。 さあ、どうする? 進退窮まってしまったうえ、ここには鬼と悪魔しか出てこない。 まな板の上の鯉に等しい状況で、しかし俺は、生を諦めることだけは出来なかった。 「しかし、円卓か……」 とりあえず室内の状況を把握しておこうと周囲を見回し、最初に目に入ったのはそれだった。 黒い、漆黒の大円卓……黒曜石か黒檀か、とにかく闇色に濡れ光る重厚で巨大な円卓が、この部屋の中心を占拠している。まさしくそう、黒円卓だ。 闘技場、または劇場を思わせるすり鉢状の空間で、底にあたる平地にはそれが設置されている。加え、円卓を取り囲む席が十三。 これはつまり、この場所が奴らの本営ということだろう。ここでヴィルヘルムが、ルサルカが、神父が、そして櫻井が……日々胸くその悪くなるような議題を掲げて、討論していたに違いない。正直、ぶっ壊してやりたくなる。 座って待てと言われたが、こんな席に腰など下ろしたくはなかった。まず不愉快だし、そして何より座ってしまえば初動が遅れる。 檻の中で化け物と向き合わなければならないときに、呑気な真似はしていられない。 だが、席を見ていると、なんとなくその使用者の人となりが分かるような気もしてきて、俺は一つずつ注視してみることにした。 まず目の前……神父が自分の門だと言った入り口からもっとも近いこの席は、やはり彼のものなのだろう。背もたれに木と枝のような印が刻まれているのだが、他にはこれといった印象がない。だが、その横は最悪だった。 神父の席の左隣、横向きの三角形めいた印が刻まれている席からは、腐臭しかしてこない。まるでつい今しがた、バケツ何十杯もの腐った血をぶちまけた直後のようだ。 これは間違いなくヴィルヘルムだろう。素材は石に違いないが、席そのものが骨と臓物で出来ているような錯覚さえ覚える。吐き気を催しながらさらに左へと目を移せば…… たぶん、これは櫻井あたりなんだろう。上向きの矢印にしか見えない印が刻まれた席からは、先の二つよりも随分若々しいものを感じる。 だが、だからといって華やいだ雰囲気はなく、固いというか厳格というか……有り体に言えば余裕がない。その張り詰め具合が、いつもしかめっ面をしてるあいつのことを想起させる。 なるほど、これが三番、四番、五番か。連中の名乗りに数字が付いていたのは記憶してるし、それが今のところ席の印象と合致している。 なら、神父が着席を勧めていた六番と七番。俺にとって無関係でもないという席はこの次になる。 しかし…… 「…………」 俺は同時に思い出す。今、目の前にある六番と思しき席……神父が言った通り何の不快さも感じず、確かに座るならここくらいしかないだろうと思える席。 その対面にラインハルトの席があると。 真円に近いテーブルは、むしろ上座を作らないためのものであるはず。だというのに、分かる。目ではなく、感覚ではっきりと。 あれこそが、この部屋の主の席。 刻まれた印は変形したNかHの文字に見えるが、そこには何か、〈途轍〉《とてつ》もなく不吉な意味が込められているように感じた。 たとえ漢字の読めない西洋人であったとしても、“殺”や“滅”の字を見てそれが〈愛〉《ラブ》や〈平和〉《ピース》とは思わないだろう。つまりあれは、そういう字だ。 呪う? 憎む? いいや違う。まるで核兵器の象形文字でも見ている気分だ。 あれはおそらく、いや間違いなく―― 「〈破壊〉《ハガル》――」 大伽藍から降り注ぐような声が、黒円卓の間に響き渡った。 「崩壊、終焉、旧秩序の死とそれを成す力。抑制出来ぬ自然。〈大災害〉《ジャガーノート》」 「旧神共の黄昏……最後の戦争。〈怒りの日〉《ディエス・イレ》だよ、私はそれを待っている」 声と共に今再び、俺の目の前で圧倒的質量を持つ魂が像を結んだ。 黄金の色をした髪と瞳に、一切の隙もない典雅な顔立ち……紛れもない邪悪なのに、王侯貴族のような気品と威厳に満ち溢れている。 黒円卓の首領、ラインハルト・ハイドリヒ。 威嚇の意図はないのか、あの問答無用で平伏を強制するような圧力は薄れているが、それでも直視は躊躇われる。本当に皮肉なことだが、生身に鈍磨した感覚と身体のお陰で、こいつの怖さを最低限しか感じ取れていないようだ。 もし、あの内部に渦巻いている魂……その数や密度まで見通せる目があったなら、俺はこの場で狂死していたかもしれない。 「掛けたまえよ、そう警戒せずともよい」 「聖餐杯に何やら脅されたのだろうが、私も礼は重んじる。ここの主人として、客への対応くらいは弁えているつもりだよ」 「…………」 「掛けたまえ」 再度促し、俺の前にある六番の席を目で指し示すラインハルト。情けない話だが、奴の言葉には抗い難い何かがある。 まあ確かに、座っていようが立っていようが、この男が何かをする気ならどうにも出来ないことではあるけど。 せめて完全な言いなりではないと証明するため、俺は七番の席に腰を下ろした。 「ふふ、なるほど」 「なかなか面白い選択だ。象徴的とでも言うかな」 「卿、そこが誰の席か知っているのかね?」 「別に……」 単に意地を張った結果のことだが、この席の座り心地も、まあ悪くはない。あまり考えたくない予想だけど、ここに座っている奴とは気が合うかもしれないと思った。 が、今はそんなことなんかどうでもいい。 相手はどういうつもりか知らないが、こっちは優雅に会談していられるような状況じゃない。言葉のやり取りに終始しても、これは俺にとって戦いだ。 守るべきは自分の命。そして勝利条件は奴に奪われたものを取り返すこと。 すなわち、マリィ。たとえ五体満足でここから出ることが出来たとしても、そのとき彼女が横にいなければ意味がない。俺の負けだ。 ラインハルト・ハイドリヒ……確か三十代の若さで大将位にまで上り詰めたこの男なら、当然のように政治的な陰謀、暗闘、権謀術数を日常的に見てきただろう。たとえ論戦に限定しても、危険すぎる相手であることは間違いない。 まともに考えて、二十年も生きていないただの学生には荷が勝ちすぎる。異次元の生物に等しい。 そしてだからこそ、気持ちで呑まれることだけは避けないと。 「一つ、訊きたい」 とにかく、まずは会話の主導権を得ようと思い、積極的に口を開いた。受身になっていてはいけない。 「なんで俺は生きている?」 問いに、ラインハルトは薄く笑い…… 「聖遺物を砕かれれば、その使い手も砕かれる。それに対する矛盾かね? ならば何も問題はない。単なる卿の勘違いだ」 「勘違い?」 「そう。その理を何処で知った? 目で見たのか、あるいは聞いたか。前者であれば結論を急ぎすぎ、後者であれば言葉が足りんな。結果だけを見て、過程に目を向けていない」 「なぜ卿は、器物の破壊が肉体の破壊に直結すると判断した?〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》……ではあまりにも短慮だろう」 「聖なる遺物に宿る魂。それに溶け合い、融合した己の魂。この二つを砕かれるからこそ、霊質の破壊が物質の破壊に繋がるのだ。蓋をこじ開け、中身を抜き取った程度では、私も卿も誰も死なぬよ」 「つまり……」 それは、俺とマリィの魂が引き離されただけで、無傷であるということか。武器の破壊イコール肉体の破壊というわけではなく、そこに込められた魂を壊されることで身体も壊れる。 なら今、マリィは無事だということ。その事実が分かっただけでも安堵の吐息を禁じえない。 しかし、はたしてそれは簡単な作業なのか? この男は軽々しく言っているが、とてもそうとは思えない。豆腐に傷をつけず容器を握り潰すような芸当だろう。 「理解したかね」 疑問はあるが、俺は目を合わさず無言で頷く。 ともかく、こいつの神業的な技量のお陰で、俺は命を拾ったわけだ。 とはいえ、ならばそもそもなぜ? 「なんで、そんな面倒なことをする?」 いともあっさりと殺せたはず。今でもそう出来るはず。たとえ俺が百人いても、こいつに勝てる気がまるでしない。 「俺をいったいどうするつもりだ」 「どうする? ……ふむ」 それが、そんなに突飛な質問だったというのか。 ラインハルトは俺の言葉を〈鸚鵡返〉《おうむがえ》して、思案顔を作っていた。 「私はただ、卿と話をしたかったのだよ」 「な……」 何を馬鹿なことを言ってやがる。 そう怒鳴ってやりたかったが、しかし、それを実行に移させない圧迫感が、部屋中に満ち始めていた。 こいつは今、何か危険なことを口にしようとしている。 聞けば呪われてしまうような、知ってはいけないようなことを俺の耳に流し込もうと…… 「ツァラトゥストラ。たとえば卿は、今と同じ状況を以前にもあったと、感じたことはあるまいか」 「未曾有の恐怖。絶対の危機。最悪の絶望。死を前にしたその瞬間ですら、ふとそんな醒めた感慨に浸ったことは?」 「…………」 まだ新しい記憶が、脳内でざわつく感覚があった。 ラインハルトが俺に向かって放っている、この言葉は…… ――デジャヴるんだよ。 同じだ…… 表現が異なるのは、おそらく二人の人間性の違いだろう。だが、俺は直感する。これは同じ話題なのだと。 「逆であってもいい。舌を蕩かす美酒。心震わす楽音。傾城の美女――人生を彩る快楽が、単なる焼き増しの追体験だと感じたことは?」 最後の言葉に、先輩の面影を思い出した。 まだ覚えている、先輩の温もりが……俺に捨身の蛮勇を奮い起こさせる。 対峙するだけで寿命を削られていくような、金色の男に俺は向き直った。 「それがいったい……どうしたというんだ……?」 「ふむ――その悲壮感。正に死という未知に向かう挑戦者の姿勢だ。ならばこそ、私の話を聞くがいい」 こいつ、からかってやがるのか? 馬鹿にするなと睨みつけると、ラインハルトは誤解するなと言うように肩をすくめた。 「そうではない。既知というものの恐ろしさを説くに当たって、死こそが最良の教材であるからだ」 「ゆえに私は、死を心に落とした卿に説く。真に恐ろしいものは死ではない。その畏怖も、その尊厳も、何もかもが剥奪され、死が死でなくなる既知の方だということを」 死よりも恐ろしいもの、だって? 「たとえば私は……この瞬間、卿と対峙するこの空間、空気に、覚えがある」 「かつて私は、卿に同様のことを説いた。それを、覚えているのだ」 こいつは、何を言っている? 俺にそんな覚えは無い。だが、ラインハルトの言葉は物の喩えとは聞き取れなかった。 「思い出さないのかね?」 「人違いだろ……」 そう返すのが精一杯。 「卿の記憶に誤りは無い。ここでこうして私と卿とで話すのは、たしかに初めてだろう」 黄金の悪霊は口元を緩ませ、奇妙なことを口にした。 「つまり私が覚えているのは、過去ではないのだよ」 「過去じゃ……ない?」 「私は、今を覚えているのだ」 頭が働かない。身体が動かない。途轍もなく気味の悪い話題に感じ、嘔吐感がせり上がってくる。 今にも心臓を抉り出されそうな恐怖の中で、俺は聞こえてくる声の意味をそのまま探るのがやっとだった。 「かつて、私は私の人生を生きた。その中で、卿とも出会い、そして、このように話をした。卿は忘れているようだが、私は覚えている」 勝手な物言いだ。そんなことを言われても、俺は何一つ思い出すことは無い。 前世、とでも言い出すのだろうか。 「無論それは過去ではない。この日この時、この空間での話だ。私は、それを覚えているのだよ」 「予知能力でも持っているのか?」 「……本当に、覚えていないらしいな。卿は、あの時の卿とは別人なのか?」 そんなこと聞かれたところで答えようがない。こいつの言葉は一人語り同然で、俺には何一つ、ピンとくるものがない。 「未来を予知することが出来れば、どれほど楽だろうな。残念ながら私にそんな力は無いよ」 自嘲気味に、その口元が歪む。 「今この瞬間の経験、体験を、私は覚えている。いいかね、類似した体験を思い出しているわけではない。かつての生に於いて、同じことをしていたのだと、思い出しているのだ」 「かつての……?」 「かつて私が、今と同様にラインハルト・ハイドリヒであった時、今と同じようにこの日この時、卿を呼び出して同じような問答をしたと、思い出しているということだ」 訳が分からない。 俺にとって、今は今、現在のこの瞬間だけだ。 「卿にとって今とは、今この瞬間だけなのだな」 「幸せなことだ。妬ましいほどに」 「何が言いたい……?」 「確認をしておきたかった。卿が何者であるのかを。私もまた、カールから何も知らされていないのだよ」 「カール……」 カール、誰だそれは? 「カール・クラフト。私と知り合ったときは、そう名乗っていた男だよ。卓越した異常者だ」 「曰く、千単位で名を持っているらしいがな。内の幾つかは卿も知っているのではないのかね? 例えばファウスト、サン・ジェルマン、パラケルスス、カリオストロ……」 カリオストロ――? 「そしてメルクリウス……この名が一番通りがよいか」 「…………」 頭がおかしくなりそうだ。だったらそいつは、いったい何年生きている? マリィと関わりがあるだけでも、最低は二百年。そのもっとさらに以前から、そいつは存在していたと? そして大戦中はカール・クラフトと名を変えて、黒円卓に関わっていた。 のみならず、ラインハルトを、トリファ神父を、少なくとも当世に生まれた人間であっただろう彼らに接触し、そうでないものへと変えたのか。 馬鹿げている。今、目の前にその証人がいるにも関わらず、おいそれと許容できる話じゃない。 「……信じているのか、それを」 「どちらでもない。どちらでもよい。そんなことは重要でない」 「ただ、彼には力があり、面白い男で、私と目的が合致している。ならば何一つ問題はあるまい」 「目的?」 「言っただろう、既知感だ」 憎むべき敵のように、打倒すべき運命のように。しかしある種、神聖なものへ対する畏敬に近い念を込めて、ラインハルトは語りだした。 「私はカールと友誼を結んで、それに触れた。お陰で以降、世が常にくすんで見えるよ。元から情熱のない生き方をしていたのだが、余計にね」 「私は一度も達成感や開放感、満足と言えるものを胸に懐いたことがない。当時はそれにすら気付いておらず、ゆえに幸せではあったのだろうな。愚かという名の祝福だが」 「しかし、“ない”ということに気が付いた」 「私に出来ぬことも、成れぬ地位も、倒せぬ敵も、落とせぬ女も、得られぬ財もなかったが、余人であればたとえどれだけ小さな山でも、越えたときに感じるだろう歓喜、興奮、胸の高鳴り……それが私には欠落していたと気付かされた」 「カールは言ったよ。あなたは本気を出していない」 「陳腐だろう? まるで万能感に酔う少年の日の妄想だ。しかし彼はこうも言った。究極に近くなるほど陳腐になる」 「つまり私は、どうも生まれる世界を間違えたらしい。難易度が低すぎる。取るに足らぬ。だが生まれた以上は生きていくしか他になく、私なりの順応法……知らずのうちに纏っていた不感という名の甲冑を、カールは容赦なく剥ぎ取ったのだよ」 「ゆえに既知感だ。私は何をしてもつまらぬという気持ちを、無限に味わわされている。ある意味、彼は仇だな。私を壊した。人であろうとした私を」 「…………」 ラインハルトの言葉の意味を、たぶん俺は半分も分かっていない。だがこいつの目的とは、結局のところ…… 「満足したい、だけだと?」 「他に何があるのかね」 呆れるほど〈衒〉《てら》いなく、幼ささえ感じる素朴さで即答された。 「具体的には二つ。私が全力を行使しても容易ならざる事態の発現。かつそれを乗り越えた先が未知であること。どちらが先になるかは分からん」 「ここは私の世界ではない。〈ゆ〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈私〉《 、》〈が〉《 、》〈在〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈を〉《 、》〈創〉《 、》〈造〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》。踏破するに足る山を出現させて乗り越える」 「それが〈旧秩序〉《きちかん》の終焉だ。我らは〈牢獄〉《ゲットー》と呼んでいるが、的を射ているだろう。誰でも繋がれれば暴れたくなる」 自分はこの世界の人間じゃない。だから相応しい世界を創る。現状を壊す。 〈破壊〉《ハガル》。旧秩序が終わる日。〈怒りの日〉《ディエス・イレ》…… 脳裏に、シュピーネが言っていたことが蘇る。 奴らをこの世に戻してはいけない。化け物。怪物。絶対に共存できない。 方陣の組み立て。帰還の儀式。殺人競争。捧げられる魂。 そうか……つまりこいつは…… 「まだ完全じゃないのか」 これで、この桁外れぶりで、本来の数割、あるいは数十分の幾つかくらいにしか力を発揮できていない。ならば本当に、もはや別次元の怪物だ。 こんな奴が在るべき世界の姿なんて、絶対に見たくない。それは悪魔が跋扈する地獄だろう。 「慧眼だ。確かに今の私は影にすぎない。本体、とでも言っておこうか。ともかく私の大半は、私が創った私の世界に今も在る」 「どうやって、そんなことを」 「卿がカールの秘法を理解すれば、分かるようになるだろうよ。何も特別なことをやっているわけではない」 「まあ、些か大掛かりな真似はしたがね。旅立つのも戻るのも、相応に大道具を必要とする」 「かつてはベルリン。そして今は……」 黄金の眼が細まる。意味深に間を置いて、自らその先を言おうとせず、俺に想像させて俺の口から言わせるように。 そのとき俺が浮かべる反応を、楽しみつくす悪魔のように。 「この街か……」 軋むような声で、俺はそう搾り出した。 「然り」 「じゃあ――」 じゃあ何か? おまえ、こう言うつもりなのか? 「この街と、〈その住人〉《おれたち》が道具だとッ!?」 なんて傲慢。なんて非道。およそ人間が思い浮かべ、実行に移すような発想じゃない。 「その憤りは的外れだな。そも我々がいなければ、この街など生まれておらん」 「なにッ?」 「ハウスホーファーという男がいてな。地政学の権威であり、魔術師崩れであり、私とカールの……まあ、有り体に言えば玩具だ」 「彼は〈日本〉《このくに》に駐在していたこともある。さて、何をしていたのかな」 「………ッ」 おぞましい連想が脳裏をよぎった。 俺や香純、司狼や本城……この街に今生きている者が生まれる遥か以前に、こいつらはこの地に目をつけ、遊戯盤を作るように都市区画とその設計を組み上げていった。 「シャンバラ思想。東方の楽園。彼が傾倒していた理想的国家の何たるかを探る〈幻想〉《ロマン》だよ。なかなか面白い男ではあったがね。カールに目をつけられたのが運の尽きだったと言うしかない」 「ハウスホーファーがシャンバラ足り得ると記録していた幾つかの地……中でも上位の霊格を有するこの地が、哀れにもカールの目に留まる。後は言うまでもなかろう」 そのハウスホーファーという奴とカール……つまりメルクリウスでは、あらゆる意味で格が違う。 魔術師なんて、勉強のしすぎで頭がおかしくなった奴の奇矯な趣味……前者はその程度だったのだろうが、後者はどうしようもなく本物だった。 街一つを丸ごと舞台装置へと変えるほどに。 「〈其は超人へと至る道程〉《ツァラトゥストラ・ユーバーメンシュ》」 「〈黄金の錬成〉《ゴルデネ・ハガラズ》。〈錬成陣〉《スワスチカ》……〈シャンバラ〉《このまち》は私の理想を内から流れ出させる契約の箱だ。聖典に言うところの、〈聖櫃〉《アーク》。つまり都市規模の聖遺物に他ならん」 「街だけではない。シャンバラに住む総ての命は、一人の例外もなく我々の糧として存在している。生命に意味を付与するのは哲学者か坊主の領分だが、この場合においてはその限りに非ず」 「すなわち、この都市総ての生命は、形而上的な概念ではなく、れっきとした存在の意味が与えられているということだ」 「……ッ」 こいつ……よりにもよって言い切りやがった。 「餌だと?」 「道具という表現が気に食わぬならと言い換えたのだが、これもお気に召さんかね。ならばどうする?」 「スワスチカを開くのは戦場だ。数多の血と魂の散華。ゆえにどうしようもなく敵手という存在が要る」 「武器すら持たぬただの民を殺戮しても、それは刑場であって戦場とは言わん。無論、開かぬこともないが、私の好みではない。霊格が落ちる」 「分かるだろう、だからこそ卿なのだ。このシャンバラに〈地獄〉《わたし》を具現させるため、八つの戦場を制覇しろ。拒絶したところで無駄な人死にが増えるだけだ。否応もあるまい」 確かに、選択の余地も否応もない。ほぼ完全に詰まされている。 逃げ回っても戦っても、ラインハルトの完全帰還は防げない。現状思いつく手といえば、一つのスワスチカで複数の敵を撃破するということくらい。それがどれだけの難関かは、考えるまでもなく分かっていた。 カール・クラフト。異常なほど狡猾で性格が悪い。ヴィルヘルムらに嫌われているのも頷けるが、そうした自身に向けられる悪感情すら、この馬鹿げた茶番に利用している節がある。 俺は、黒円卓の連中にとって賞金首みたいなものなんだ。以前櫻井が言っていた、鬼ごっこという表現は的を射ている。 かつて憎悪と殺意の対象であった〈副首領〉《クラフト》の代替。その首級をあげることに執心している奴らが何人もいるのだから。 しかし、それなら…… 「どうするね? 理解に至ったなら決断のときだ。退くか進むか」 「ここで私と……」 「―――――」 瞬間、俺の心臓が自分で聞き取れるほどの音で脈打った。 ここだ。今だ、今しかない。 ずっと圧倒されていた。まともに目を合わすことも出来なかった。 そのあまりに度外れた思想と傲慢さと存在感……ラインハルト・ハイドリヒは違いすぎて、呑まれないようにするのがやっとだった。 けど、今こそ千載一遇の好機であると強く感じる。この場の目的を果たすため、成功率など考えたくもないバクチを打つのは今しかない。 俺はその場で立ちあがった。 「マリィを返せ」 直言で、一切の無駄を省き、身体が蒸発しそうな悪寒と焦燥を抑えながらも、目の前に在る黄金の怪物を凝視する。 「試してみろよ、喰えるかどうか」 「万全じゃないと彼女がいる俺とは向き合えないのか?」 挑発。もはやそれは、綱渡りどころじゃない。こいつがその気になったなら、ただの人間を殺すくらい指一本すらいらないだろう。 しかし今までの話を聞く限り、ラインハルトは俺に敵手としての役割を望んでいると解釈した。真にふざけた話だが、満足とやらをするためにも強い敵が要るらしい。 ならば今の俺なんて、まさしく殺すにも値すまい。だがだからと言って、怯えやへつらいの気配を見せれば、こいつは興醒めして俺を殺す。 強者でなくてはならない。獣が全力で戦いたいと渇望するほど、強く猛々しく英雄的に―― もつれるな、舌。震えるな、手足。うるさいんだよ静まれ心臓――! 「マリィがいれば、今のおまえくらい斃せるんだよ……!」 その、間違いなく生涯最大のハッタリに―― 「ふふ、くくくく……」 ラインハルトは俯いて、喉を鳴らし、やがて天を仰いで大笑した。 「ははは、ははははは、はははははははははははははははは――――!」 「見事、ははは――まったく、いや……上出来ではないか、教育が行き届きすぎだぞカール!」 「しかし、これは……くくくく。過程として詮無いとはいえ、腹立たしいな。彼の命懸けも既知だ、無意味だ。いや、福音へ至る道として甘受するかな。終わりは近い!」 すると、端正な顔を覆っていた手が輝きだし、周囲の暗闇が黄金に蹂躙される。 「持っていけ」 「――がッ」 飛来した何かが胸に激突した衝撃で、俺は後方へ吹き飛ばされた。目を焼く金色は徐々にその面積を縮めていき、奴が消えていくのを感じられる。 「もとより盟友の女に手を出すほど下種ではない。だが間男を意識すれば、睦み合いの手管も、そして情熱も、磨き高める気になったであろう?」 「ではしばしの別れを、ツァラトゥストラ。よもや逃げまい。今の私では不足と言った卿ならば」 「――待て!」 消えていくラインハルトの気配に向けて、俺は叫んだ。 もう一つ、もう一つだけ、こいつに訊いておかなければならないことがある。 それは―― 「氷室先輩は、テレジアはおまえらの何だッ!?」 「―――――」 問いに、ラインハルトは数瞬の間を空けて。 「それは神父に聞くがよかろう」 そいつじゃ信用ならないから訊いたのに、愉快がるような答えを返しただけだった。 「面白いな、面白い。イザークの胤が卿の友誼を得ていたか。いや、あるいは恋情か? 気の多いことだよ、カールよりは男だな。ははははは――」 「楽しみだ。実に実に楽しみだ。私に未知を見せてくれ。この回帰を壊してくれ」 「決戦はそのときに、我が〈軍勢〉《レギオン》をもってお相手すると約束しよう」 伽藍を揺るがす哄笑と、反比例して収縮していく黄金が飽和とゼロに達したとき、再度俺を吹き飛ばす爆風を残してラインハルトは消失していた。 ………… ………… ………… ………… 「……くそ」 気を失っていたわけじゃない。ただ最後の最後まで圧倒されていたこと。奴の余裕を消せなかったこと。そして今、誤魔化しようがないほど安堵していること……それらを恥じて、悔しくて、俺は知らずに舌打ちしていた。 「けど、まあ」 傍らに目を向けて、溜息をつく。どうにか当初の目的は果たせたらしい。 「お帰り、マリィ」 「……ん、あれ、わたしどうしたの?」 彼女は俺の横にぺたんと座り、首を傾げてきょとんとした顔。 「何も覚えてないのか?」 「え、いや……なんだろう。ちょっとまだよく分からない」 「そうか……」 二人して、かなり尋常ならざる目に遭ったんだが、今はとりあえず置いておこう。やるべきことも考えるべきことも、他にいくらでもある。 ラインハルトはよもや逃げまいと言っていたが、あんな奴とまともに戦うのは愚の骨頂だ。これから俺はどうにかして、あいつが二度と出張ってこないように立ち回らなければならない。 そのための方針を、急遽決める必要がある。 「マリィ、どこか痛いところとかあるか?」 「痛い? ううん、平気だよ」 「立ってみて」 言って彼女を立ち上がらせると、上から下まで何か異常がないかを確認する。 それは正直、武器の刃こぼれをチェックしているようで気の進まない作業だったが、この場では必要なことだと割り切ることにした。 実際、見た目同年代の女の子に、至近距離から全身じろじろ見て回るのはかなりぶしつけな行為だけど、この子はまあ、そんなの気にしないだろう。と言うか、気にされたら俺も照れて出来ない。 だからここは、彼女の無頓着ぶりを幸いにと思い…… 「…………」 出来れば袖まくったりスカートめくったりもしたいのだけど…… 「…………」 えっと、その、なんだこれ? なんでそんな、微妙な顔してんのキミは? 「レン、近いよ」 寄るな、と言わんばかりに、胸を両手で押されてしまった。 「……なっ」 そんなに強い力じゃなかったけど、あまりの驚きに俺はたたらを踏んでしまう。 「なにしようとしてたの?」 「いや、何って……」 だから怪我してないかを確かめようと。 「平気って言ったでしょ。じろじろ見ないで。恥ずかしい」 「はず……」 恥ずかしいだあ? この子が? 嘘だろ、なんでまた。 「目がいやらしかったです」 「いやらしいって……」 いつどこでそんな言葉覚えたんだよ。と言うか、羞恥の感情なんかこの子にあったか? 予想外の事態に混乱している俺を他所に、マリィは周囲を見回している。そして、やはり今まで見たことのない、真面目な顔をして。 「レン、早くここから出よう。なんだか嫌な感じがする」 「あ、ああ……」 不得要領、かつペースを完全に奪われた形で、俺はすたすたと歩く彼女の後に追従していくことになった。 そして、何かに挑むような目をしつつ、マリィは出入り口の扉を開ける。 そこには―― 「おや?」 「これはまたお嬢さん、随分と見違えましたね」 ヴァレリア・トリファ……俺をここまで連れてきた神父を前に、マリィは敵でも見るような顔で立ち塞がっている。……いやまあ、実際にこの神父は敵なんだが。 彼はそれに苦笑すると。 「藤井さんも、よくぞご無事で。話は聞こえていましたが、あのハイドリヒ卿を前に啖呵を切るとは大したものだ。私に言われても嬉しくはないでしょうが、尊敬に値しますね」 「ああ、別に……」 そりゃどうも、と言いかけたとき。 「あなた誰? おかしい」 これだけは相変わらず空気読めてないようで、マリィが間に割って入った。 「二人……? ううん、変な人……顔が違う。ねえあなた……」 「はい、お嬢さん。トリファといいますが」 「トリファ、身体はどこ?」 「……?」 「ほぉ……」 マリィの言葉に俺は意味が分からず首をひねり、神父は感心するように目を細めた。 「それはですね、お嬢さん。これは内緒のお話ですが、本当の私はお城に囚われているのですよ。ですから勇敢なお姫様なり王子様なり、哀れな私を助けに来てくださると嬉しいのですが……」 「なんでしたらあなた方が、その役を買って出ていただけるのですか?」 「ええ、そうね。今からでもいいけど」 「なるほど。これはこれは、ふふふふ……」 「――おいッ」 大概の意味不明なやり取りに焦れた俺は、マリィの腕を掴んで下がらせた。 「この子に関わるな。とにかくもう、用はすんだろ」 「ああ、ええそうですね。ハイドリヒ卿から受けた命は、すでに私も果たしました。あなたも今日はお帰りになるか……」 「それとも……」 言葉尻を浮かしたまま、糸のような目が開いていく。凍結した湖面を思わせる碧眼が光を放ち、口元が弦月の形に吊り上る。 ここでやるか? 神父は、暗にそう言っていた。 「…………」 ああ確かに、それも一つの手だ。今はラインハルトがおらず、俺はマリィを取り戻した。ここでこの神父と戦うという選択は、決して悪手ではない。 だが…… 「いや、帰るよ」 気持ちを静めて、息を吐きながら今は撤退を選択した。 「そうですか。安心しました。ここであなたと構えれば、テレジアの身が気にかかる」 そう。ここは教会で、あの人もいる。そしておそらく、ヴィルヘルムも、ルサルカも、櫻井も…… 俺が考えなしに暴れたら、あの人の身に何が起こるか分からない。 「私に信用などないでしょうが、一応、神に仕える者として約束しましょう。私はテレジアを害する気などありませんし、他の誰にもさせません」 「あんたの神ってのは、ラインハルトだろ」 「仮にそうでも、あの方もまた、テレジアを害したりはしませんよ」 「…………」 数秒、そのまま睨みあう。途端に気持ちが揺れてきた。 ここで戦う道を選ばなくても、先輩を引っ攫って逃げるという選択もある。地の利を完全に取られているので成功率は怪しすぎるが、こんな連中の下に彼女を置くより、危険でもそうした方がいいんじゃないのか? 「ねえレン、聞いて」 そんな逡巡をしていた俺の袖を、横のマリィが引いてきた。 「この人、嘘は言ってないよ」 「…………」 本当か? しかしマリィは何かを確信している様子だし、そもそもさっきからこの子はおかしい。 ちくしょう、不安要素だな。彼女の変化が何を意味して、どう転ぶか分からない以上、バクチのような真似は出来ない。 「どうしてそう思う?」 「だってこの人の本物が、わたしには見えるから」 「…………」 くそ、本当によく分からない。神父は神父で、何が面白いのか笑いを堪えて肩を震わせている始末。 決断しなきゃいけないか。 「…………」 今までとは別人のような真摯な目で、まっすぐ俺を見てくるマリィ。 この子が変わった原因がなんであれ、それは喜ぶべきことだろう。 楽しいことも辛いことも何も知らず、人形のような彼女をメルクリウスから貰った道具として使うことに俺はずっと躊躇していた。 その彼女が今、こうして自発的に己の意見を口にしている。パートナーとして俺に信じてくれと言っている。だったらそれを、否定してはいけないだろう。 「……分かった」 神父は信用ならないし、これっぽっちも気を許していない。もう二度と、この男の道化芝居に付き合わされては堪らない。 だから俺は、マリィを信じる。神父ではなくマリィを、彼女を信じるんだ。 「今日は帰る。外まで案内してほしい」 「ええ、分かりました。ではこちらへ」 恭しく頭を下げて、俺たちを先導するべく歩きだすヴァレリア・トリファ。 「言い忘れましたが、あなたの友人も死んではいない。心配しているでしょうから、早く帰って安心させてあげなさい」 「友人? 司狼か……」 そうか、あいつも無事だったか。まあ俺の心配なんかするタマじゃないだろうが、今から戻るとしたらあのクラブしかないわけだから、そこで再会できるだろう。 これで、いいんだよな? 先輩、俺は……あなたも掛け替えがないほど大事だけど。 「えへへ……」 今、俺の傍らで、初めて笑った者のように顔を綻ばせているマリィ。 彼女の笑顔も、守りたいと思ったんだ。 「ありがと、レン。わたし嬉しい」 内心の煮えない気持ちも、その言葉で癒される。 俺は初めて、この子を魅力的な女だと思った。 「……駄目だ」 呟いて、頭を振る。そうだ、やはりどう考えても、このまま黙って帰れはしない。こんな連中の下に氷室先輩を残したまま行くなんて、俺には出来ない。 マリィの手を強く握り、意を察してくれるよう目で訴える。 頼む、頼む、すまない、ごめん。俺の大事な人を助けるために君が要るんだ。その力を貸してくれ。 「……いいよ、分かった」 頷くマリィ。そうか、よかったありがとう。どうなるかは分からないが、今から一緒にひと暴れしよう。 さあ、だったら行くぞ―― 「お待ちなさい。仕方ありませんね」 「――――ッ」 駆け出しかけた瞬間に、神父が待ったをかけてきた。 馬鹿、無視しろ。やるなら今だ。それが分かっているにも関わらず、あまりに絶妙なタイミングだったせいで虚を衝かれ、動けない。 しかし、そんな焦りを吹き飛ばす驚愕は、次の刹那。 「あなたにテレジアを渡しましょう。ですからここで、乱暴な行動は控えていただきたい」 「な……」 今、こいつは何と言った? テレジアを渡す? 俺に? 本当か? 「それさえ疑われては、もはやどうにもなりませんがね。繰り返しましょうか、あなたにテレジアを渡します」 「…………」 「やれやれ、そんな顔をされては心外ですねえ。単にリスクを慮った上での決定ですよ。他意はない」 「ここであなたに暴れられては、まず私が一番危ない。加え、知らないでしょうが、このすぐ近くに火薬庫よりも剣呑なものがあるのですよ。アレに火が点いてしまったら、もはやしっちゃかめっちゃかだ。リザの機嫌を取る必要もある」 「もちろん形式上、共に並んで門を出るというわけにはいきませんがね。他の者に気付かれぬよう、隙を見てあなたの所へ送りましょう。それで如何に?」 「…………」 考える。だけど神父が言うように、これまで疑いだしたら切りがない。 だから…… 「レン、本当だよ。嘘じゃないから」 先刻から様子の変わったマリィの主張を、ここでは信じることにした。 そう、神父じゃない。俺はマリィを信じるんだ。 「分かった。そうしてくれ。今日は帰る」 「はい、では出口まで案内しましょう。ご心配なく、必ず約束は守りますよ」 恭しく頭を下げて、俺たちを先導するべく歩きだすヴァレリア・トリファ。 「言い忘れましたが、あなたの友人も死んではいない。心配しているでしょうから、早く帰って安心させてあげなさい」 「友人? 司狼か……」 そうか、あいつも無事だったか。まあ俺の心配なんかするタマじゃないだろうが、今から戻るとしたらあのクラブしかないわけだから、そこで再会できるだろう。 これで、いいんだよな? 先輩は俺たちの所へ……また前みたいに、みんなで仲良くやれるんだよな? 「ありがと、レン。信じてくれて」 「いや、そんな……」 マリィのまっすぐで曇りのない笑顔が照れくさく、バツも悪い。 だって俺、最初はこの子の言ってたことを無視したしな。あげく、無謀な行動に付き合わせようともしたわけで…… 「その、ごめん」 「ん、なにが?」 にこにこしながら訊き返してくるマリィにもう一度、俺は心中で深く詫びた。 先輩、何か大変なことになってきたけど、言った通り一緒に勝とう。 諦めないし負けないし、生き残ろう、みんなで一緒に。 「さて……」  教会の敷地を出て行く藤井蓮の背中を見送り、トリファはゆっくりと〈踵〉《きびす》を返す。  同時に、先ほどまでの名残は失せて、荘重な声音で告げていた。 「お待たせしましたね。茶番は終わりです。 ベイ、マレウス、レオンハルト――バビロン、そしてトバルカイン」  声に、彼らは姿を現さない。だが聞いているのは間違いなく、ゆえに神父は先を続けた。 「じき、夜が明ける。そのときをもって、本格的な開戦とします。もはや止めぬし、邪魔も入れぬ。 存分に、狂い乱れるがよろしかろう。今現在、開いたスワスチカは二つ」 「そのどちらも、ハイドリヒ卿へ捧げる有資格者を欠いている。第一はキルヒアイゼン卿、第二はシュピーネ。この二つにおいて、黄金の恩恵は誰にも授けられることはない。 だが、残り六つ――そして我らもまた六人。まあ、無駄に欲をかかなければ、丸く収まるわけですが……。 ハイドリヒ卿は血を望んでおられる。あの御方は昔と何ら変わっていない。各々、その旨考慮して、彼の爪牙としての責務を果たしなさい。 まずは五つ――」  詩を吟じるような明朗さで、トリファは告げた。 「すなわち、これより三つ。開くことを許可します。ただし、同日のうちに行うのは避けなさい。早い者勝ちですが、そこは守らねば“核”の身が保たぬ。重複しても二つまで――虐殺よりも戦争を、汝ら皆に幸いあれ。 ジークハイル」 「ジークハイル・ヴィクトーリア」  斉唱と共に気配が散る。それを見るともなく見送ってから、トリファは声を落として含み笑った。 「ふん、まったくこれは救いがなく、かつ面倒なことになって参りましたよ、本当に。 もはや是非もないですね。優雅に謀りなどと言える時期も終わりましたか」  そう、もはやここより安息はない。この未明を皮切りに、諏訪原市は地獄の戦争へと沈んでいくことになる。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 2/8 【Chapter Ⅶ Sakrament ―― END】  斉唱と共に気配が散る。それを見るともなく見送ってから、トリファは前方に視線を移した。 「あなたは行かれないのですか、リザ」 「……ええ、まずは三つというのなら、あの三人に任せればいいでしょう」 「ふむ、まあ強制はしませんがね」 「なに?」 「いえ、そうやって問題を先送りにするあなたの気性は、これからの局面、些か辛くなるのでは、と」  それは皮肉でしかない言い草だったが、神父の口調には純粋な憂慮と労わりの響きがある。リザは苦笑して頷いた。 「そうね。もう“ごっこ”もお終いね」 「さて、お終いと言うのなら、それはいつからだったのか。 母というものはリザ、良くも悪くも子を美化するものだと思いますよ」 「……え?」 「そんなことはない。あの子なら、あの子に限って……月並みな言い様ですが、愛とは盲目の同義語でしょう」  何か不吉なことを言いつつ真横をすり抜けた神父を目で追い、リザは言った。 「じゃあ、あなたは? あなたは違うの?」 「ええ、違います。私も盲目ではありますが……これも月並みですが、よく言うでしょう。見えぬゆえに、より観える。 リザ、テレジアをもう一度、藤井さんに逢わせてあげなさい」  それが己の愛であると。 「あなたに彼と会わす顔がないというなら、マレウスにでも預ければよい。どうせ第一陣は血気盛んなベイが切るに決まっている。彼女とレオンハルトは今日一日程度なら暇でしょう。 リザ、これは勘ですが、少し面白いことが起きそうだ。一つ質問があるのですが、テレジアに反抗期はありましたか?」  問いの意味が理解できず、リザはそのまま黙り込む。肩越しに振り返ってそれを見やり、トリファは低い笑みを漏らした。 「そこにいるのでしょう、テレジア。ここはよいので、彼の所へ行きなさい。 〈ど〉《 、》〈だ〉《 、》〈い〉《 、》〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈の〉《 、》〈逢〉《 、》〈瀬〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》、〈お〉《 、》〈互〉《 、》〈い〉《 、》〈悔〉《 、》〈い〉《 、》〈が〉《 、》〈残〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」 「――玲愛!」  ずっとタイミングを窺っていたのか、外出着に着替えた玲愛は彼らの横を駆け抜けて、白み始めた夜の中に消えていく。  なんだこれは? いったい何が起きている? 事態を把握できず呆然とするリザはただ、小さくなっていく玲愛の背を見送ることしかできない。  そんなことはない。あの子なら、あの子に限って……  ああ確かに、私は彼女をそういう風に、ある意味で軽視していたのかもしれないけれど。  そんな当惑が邪魔をして、今の刹那――すれ違う寸前にトリファが玲愛に囁いたある言葉を、リザは認識することができなかった。  無論、彼女のそうした隙に付け込んだ所業である以上、気付けなかったのは当たり前のことなのだが……  この結果が、玲愛の投げた小石をさらに巨大な波へと変えることになる。 「まあ、呆れるほどの綱渡りではありますがね」 「ハイドリヒ卿は血を望んでおられる。言ったでしょう。たとえそれが誰のものでも」 「……?」  不可解な言葉に、訝しむのはしかし一瞬。 「あなた、まさか――」  続く台詞は言葉にならない。あまりにも突飛すぎて、馬鹿げていて、思慮の埒外であった悪手――いいや、これは鬼手なのか? 「素晴らしい子だ、テレジア。正直私も、その手は考えていませんでしたよ」 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 2/8 【Chapter Ⅶ Sakrament ―― END】  その日は、今までの人生でかなり悪い部類に入る朝だった。 「………っ」  だから顔を洗って意識を正す。ちゃんとご飯も食べてエネルギー充填。  気持ちを切り替え、学生らしく、何はともあれ朝になったのだから学校へ……  と、思うのだが。 「駄目だ、やっぱりムカつく」  おはよう。あたし、ただいまめっちゃ怒ってます。  いつもいつもあたしに内緒のまま勝手に盛り上がってどっか行って、こっちのイライラとかムカムカとか心配とか、その他諸々お構いなしのダメンズ一号二号、あいつらマジで本当に、子供の頃からこれっぽっちも変わってない。 「あんにゃろがぁ~~~」  ええ、そりゃ怒るよ。怒りますよ。結局昨日は丸一日中、行き先不明のまま帰宅もしてない。しかも、何処の誰だか知らない女の子を連れたままっていうのが許せない。 「いや別に、嫉妬とかじゃないけどね」  あたしは別に、あんなバカタレ好きでもなんでもないけどね!  保護者的な気持ちなんだと、強く言い切っちゃうわけだけどね!  さすがにちょっと、最近蔑ろすぎじゃあないかしら? マジで泣いちゃうぞ本当に。 「くそぅ、ばかやろ。練炭吸って死ね!」  無人の隣室に向かって壁にキックを叩き込み、手早く制服に着替えてしまう。でも登校する気はさらさらなかった。  昨日に続いてもう一度、街中捜し回ってやるから覚悟しろ。微妙にストーカーっぽいと思わないでもなかったが、何も説明しないあいつが悪い。  彼女が出来ても、放蕩しても、何したってそりゃいいけれど、話くらいしてくれたっていいじゃんか。あたしはそんなことすら教えてもらえない、どうでもいい立場なのかと。 「あ、やばい。なんか泣けてくる」  いやいや違う。泣いてないもん。寂しくなんかないんだから。  地団駄踏みたい気持ちを堪えて、部屋を出る。勢いよくドアを開けて、晴れ渡っている空を見て、この胸のムカつきを叫びつつ―― 「ほんとあたしの周りって、バカ男ばっかり!」 「同感」 「へ?」 「おはよう。寝つきはいい方かな?」  えっと、その、アナタイッタイドチラサマ? 「ばきゅん」 「――うぎゃっ」  なんかいきなり、黒い長方形の物体をお腹に当ててきたと思ったら、そこからバチンと火花が散って。 「ありゃ、まず、ちょっと改造しすぎたかも」  なにこれ? ちょっとなにこれ? どこのマンガなのよこの展開。 「まあ、いいや。見るからに頑丈そうだし、平気っしょ。 〈CHCl3〉《クロロホルム》とこれのどっちにしようか迷ったけど、暴れられたら恐いもんね~。あたしってほら、か弱いし?」  とりあえず、か弱い女子は出会い頭にスタンガンなんか使いません。  そんな突っ込み、入れたいけど、口、動かない…… 「ん――――」 目覚めると、見慣れぬ薄暗い天井が目に入った。 ああ、そういや昨日はあのまま〈クラブ〉《ここ》に泊まったんだっけ。 クラブの天井を見上げながら、俺は少しずつ昨夜のことを思い出していた。 シスターが現れて……カインとかいう化け物とやりあって…… それで…… ぼんやりとした頭は、ひどく回りくどく思考を巡らす。 「…………」 空調が効いてないのか、室内はやけに冷えていた。照明も点いていないところを見ると、電気系統はまだ復旧していないらしい。 「レン、おはよう」 突然、目覚めの挨拶をされた。 身体の芯まで響く、清らかで澄み切った声。この声には覚えがある。目覚めの際にこの声を聞くのは二度目なのだから。 天井を向いていた首を横に傾げる。 マリィが床に座り、俺の顔をぼうっと眺めていた。 「…………」 マリィの姿を見て、俺の頭が思考を始める。 彼女が実体化している。しかも、前に香純に貰ったゴスロリ調の服を着ている。一体、どういう理屈で? いろいろ考えてはみたが、さっぱり分からない。 そうこうしている間に意識は徐々にはっきりとしてくる。少しすると、俺の意識は完全に現実と迎合した。 「おはよう、マリィ」 横になっていた身体を起こし、マリィに朝の挨拶をする。 「うん、レン、おはよう」 マリィはにこっと笑って立ち上がり、俺の隣に座った。くっついてくる彼女の仄かな温もりが、冷えた身体に心地よい。 「…………」 寝癖のついた髪を手櫛で梳かしながら、さてどうしたものかと考える。 しかし、我ながら面倒なことをしたもんだ。いくら寝起きだからといって、周りの状況が目に入ってないわけじゃない。 「…………」 「…………」 「………?」 何かいるんだよ、目の前に。 向かい側のソファに不機嫌な顔をして座ってるのが約一名ほど。 まあ別に、この朝が和やかなものになるとは微塵も思ってなかったけどな。 だからそれはいい。いいんだが…… 「なんか言うことないのかよ、櫻井」 俺は呆れ気味に嘆息して、ともかくこの状態を動かすべくそう言った。 「おはようでいいんなら言うけど」 「お礼なら期待しないで。別に頼んでない」 「そうかよ」 なんて感じの、無感動を地で行くような返答。 いや本当に、清々しいくらい可愛げのない反応で恐れ入ったよ。 「なに?」 「何もねえよ。俺だっておまえにそんなの期待してない」 昨夜のことは俺が判断してやったことだ。もともと恩に着せるつもりはない。 きょとんとしてるマリィはとりあえず放置して、素朴な疑問を投げてみた。 「おまえ、なんで何もしないんだよ」 「は?」 「絶好のチャンスだったろ。俺、寝てたんだぜ」 些か間抜けな話だが、俺の寝込みを襲おうとしなかったのが不思議だった。恩に着てないと言うのなら、こいつはそれくらい平然としてきそうなものだろう。 櫻井は、その問いに肩をすくめて。 「理由は幾つかある。まずここでこれ以上の流血は意味がないし、だったらあなたは放置しておいたほうがいいのよ。その方が役に立つから」 「それに、今は私だって万全じゃない。お陰さまで大分良くはなったけどね。藤井君が凄い馬鹿で、同時に結構手強いことは知ってるし、安全策ね」 “お陰さまで”というところと“凄い馬鹿”というところに妙な力の入った口調だった。 「あと、その彼女がさせてくれそうになかったし」 マリィ……ああ、つまりそういうことか。 「凄いの持ってるのね、藤井君。形成できる魂なんて初めて見た」 「貰い物?」 「おい……もうやめろ」 櫻井ならマリィがどういう存在か、感覚的に分かるんだろう。だが言い方が癪に障る。 凄いだの貰い物だの、彼女を何かのレアアイテムみたいに言ってほしくない。 俺の目を見て察したのか、櫻井は失言だったみたいね、と溜息をついた。 「……まあ、いいさ。で、だったらもう一つ、なんで帰らない」 「俺と揉める気がないんなら、用なんかないだろ。こんな所に」 「気持ち悪いから」 「は?」 今度は俺が訝る番だったらしい。 「藤井君がなに考えてるのか分からないから気持ち悪いのよ。頭悪いのもいい加減にしてほしい」 つまり、瀕死の自分を救ったのが解せない、と。 「さっきの質問、そっくり返すわ。絶好のチャンスだったでしょ」 「あなた、自分の立場分かってる? と言うより、私の立場分かってる?」 そりゃまあ、理解はしてるつもりだけどな。 「正直、屈辱。そこらへんはっきりさせときたかったから、起きるの待ってたの。あなた、行動が矛盾してるもの」 「殺されかけたの、忘れてないわよ」 橋の上で、海の上で、俺はこいつとやり合ったし、確かにあの時はそういう気だった。 「答えてよ。あなたのそういうところ、気持ち悪い」 「そんなこと言われてもな」 俺は俺で、色々と思うところがあっただけだ。正直説明したくもないが、しかしこいつがそう言うのなら、これもカードの一つになるのかな。 少し考えてから、俺は言った。 「おまえ、風呂でも入ってこいよ」 「はぁ?」 だから、そんな殺気だってないでよ。 「答えてやるから、おまえも俺の質問に答えろよ。さっきの、今は俺を殺さない云々のところ、突っ込みどころが色々ある」 加えて他にも、こいつら全体のことについて俺は知らないことが多すぎる。 それらの情報を引き出すために、櫻井と話すのは重要だろう。 「長くなりそうだから、まずさっぱりしろよ。おまえ、臭うし」 怪我は粗方治ったようだが、血の匂いがぷんぷんする。正直、一緒の部屋にいたくない。 そう思ったから、とりあえず身綺麗にしろと言ったんだが。 「…………」 なんか凄い顔で睨まれた。肩がわなわなと震えている。 「……分かった。あなたの友達に訊いてくる。不快な思いをさせて悪かったわね」 「あ、おい」 櫻井は立ち上がると、そのままさっさと部屋の外に出て行った。 「……なんだあれ」 ね、のところにえらく力が入っていたが、あいつは何を怒っていたんだろう。本当のことだし、風呂入らなきゃ気持ち悪いのは当たり前のことじゃないか。 わけ分からん。一応、俺なりの親切だったんだが、まあいいや。 そんな感じで、首を捻っていると。 「ねえレン、わたしもお風呂入ってきていい?」 「あ? でも、そりゃ…」 別にいいけど、まさか櫻井と一緒に入るっつーわけじゃないよな? 「わたしも臭い?」 「いや、別に…」 マリィは新陳代謝とかしてなさそうだし、そういうのとは無縁だった。 「むしろ、まあ、なんつーか、いい匂いがするよ」 女子特有のってやつとはちょっと違うような気もするが、強いて言うなら日向っぽいというか、そんな感じの匂いがする。 俺がそう言ったら。 「本当? 嘘ついてない?」 「嘘はつかないよ」 「さっきの人、レンに臭いって言われたのが凄く気になってるみたいだったよ」 「あいつはいつも何かしら怒ってるんだよ」 俺にだって人並み程度のデリカシーはあるが、あいつにそういうものが備わってるとは思えない。 マジな話、あれじゃないのか? 常在戦場っていうか、いつもそういう感じでいるから身なりなんか気にしてない、みたいな。 「だから、さっきのはたぶん、俺にはぐらかされたのが気に食わないだけだろ。あいつに女っぽい恥じらいとか、そんなもん……」 ないだろ。絶対にない。 「そうかなぁ…」 「そうだよ」 と、言ったときだった。 不意に、俺の携帯が鳴り響く。傍らに脱ぎ散らかしていた上着から電話を取り出し、何事かと出てみれば。 『よぉっす、タイショー。お目覚めか?』 「……おまえかよ」 同じ建物内にいるにも関わらず、わざわざ携帯使ってくる辺り、こいつも何を考えているのかさっぱり分からん。 「おまえも、今お目覚めか?」 『ん、ああ、ついさっき目ぇ覚めたよ。おまえもそうか?』 「まあ、そんなもんだな」 『気があうじゃん。そんでまあ、寝起き早々、おまえに苦情っつーか言いたいことがあってだな』 「苦情?」 なんだそりゃ? 俺からおまえに文句言いたいことは山ほどあるが、その逆は心当たりまったくないぞ、正味な話。 〈訝〉《いぶか》っていると、司狼は電話越しにも分かるほど大仰に嘆息して。 『あの姉ちゃん、もっとがっつり調教しとけよ。いきなり人のこと蹴り飛ばして、シャワー室何処? とか抜かしちゃってくれちゃったよ』 「ああ……」 それはまあ、なんというか、災難だったな、おまえ。 「櫻井は、今シャワー浴びてんのか?」 『そういうこと。まだ復旧作業は100パーいってねえけど、それくらいは終わったみたいだな。エリーのやつ、どうせろくに寝てねえぜ』 「そうか。じゃあ悪いことしたかな」 あいつが徹夜状態なのに、俺たちはぐーすか寝てたというわけだ。消耗からして仕方ないところはあるが、若干申し訳ない気分になる。 「で、その本城は何処行ったんだ? 今から寝るのか?」 『あ? なに言ってんだよ。そもそもおまえの要望だろうが』 「は?」 『だから、バカスミだよバカスミ。あいつ拉致りに行ってきた』 「ああ」 そうだった、忘れてた。今日からあいつを学校に行かせるわけにはいかない。 「しかし本城、大活躍だな。あとで礼でも言っとくか」 『いや、別にいいんじゃね? あいつそういうの鬱陶しがるし』 『それよりよ、今こっちはこっちで、面白ぇことになってんだけど』 「面白いこと?」 意味が分からず聞き返すと、なにやらガタガタと機材を運ぶような音が聞こえて、一拍の後…… 『そっちの部屋にモニターあるだろ。電源入れろ。たぶん大丈夫だから』 「はん?」 訝りつつも、あまりに司狼がうるさいので渋々言う通りにしてみたら…… 「…………」 「…………」 えーっと、これ、いったいなんだよ。 『画質荒い? 音聴こえっか? どうよ?』 「どうよって言われても……」 おまえ、これ、もしかして…… 『………によ、そんな……っかり……』 『臭いとか、ムカつく……そんなことないし……臭くないよね、たぶん…』 『なんなの、あの人……まったく、ふざけて……』 「…………」 「…………」 『どうよ?』 「どうよじゃねええぇっ!」 俺はもう、全力で叫んでいた。 「おまえ馬鹿か? 馬鹿なのか? いや馬鹿だったよな、何やってんだてめえ!」 『まあ落ち着けよ、じっくり見ようぜ』 「うん、じっくり見る」 だからおまえら、なんなんだよこの気が抜ける展開は。 『こういう舐め腐った女にはな、男を怒らせたらどういう目に遭うかっつーのを教えてやらにゃあならんと思うわけよ』 低い。レベルが低すぎるぞ司狼。 「もう一回言うぞ、何してんだおまえ」 『んー?』 「高貴な男性様であるおまえは、ムカつく女に対する報復として何をやってんだって訊いてんだよ」 『覗きだ』 「自信満々に言うなよ……」 そのまま崩れ落ちてしまいそうになる。 香純のホクロ事件といいこれといい、こいつ日頃は女なんか興味ねえみたいな顔しといて、やらかすことの一発一発がいちいち犯罪的なんだよ。 『このむっつりめ、もっと健康的な反応しようぜ』 『見せモンとしちゃあ、結構いいだろ。場合によっちゃあ金取れるんじゃねえか、これ』 「そうかあ…?」 正直、櫻井に女を感じたことは全然ないので、よく分からない。 『あれ、マジで? 強がってるわけじゃなくて?』 「…そうだよ」 『ほんとかあ? オレどーも信じらんねえ』 しつけえな、こいつ。 そりゃ、マリィは興味津々で見てるけどさ。 別に冷静になって考えれば、どうだっていいや、こんなもん。さっさとモニター切っちまおう。 「消すわ、もう。おまえもアホなことやってないで、少しは今後のこととかも……」 『あー? なんだって? もっと別アングルとか色々見たいぃ?』 「だから、なあ……」 あんまり鬱陶しい馬鹿なんで、一言いってやらずにはいられなかった。 そのスポンジみたいな脳みそに、思いっきり染み込ませてやろうと思い―― 「俺は、断じて、櫻井の裸なんか見たくもねええぇ!」 とエコーがかかるくらい怒鳴り上げた。 ……て、エコー? 『……ねえ、藤井君』 同時に、怒りに打ち震える櫻井の声が、備え付けのスピーカーから部屋中に響き渡った。 まるで地の底から響くような。それは臓腑を締め上げる呪詛の声。 『あとで、大事な話があるの。絶っ対に逃げないでね』 「あ、こっち見てるよ」 そしてぶっ壊される監視カメラ。 「…………」 ああ、まずいな俺。ちょっと真剣に命が危ないかもしれない。 ただ今はそんなことより、心の底から殺したい奴が一人いるんだ。 『あー、エリーがいねえから暇でよぉ』 おまえだおまえ。ほんとに真剣、絶対殺すから覚悟しとけよ。 「とまあ、そんな些細なジャレ合いは置いといてだな」 「オレはおまえらが好きだ。実にいじり甲斐があって萌える」 俺が蹴り飛ばしたテーブルを櫻井がぶん殴り、飛来したそれを鼻歌交じりに避ける司狼。 「おおぉ~~」 それを見て、マリィは拍手などをしつつ感心していた。 「あなた、友達は選びなさいよ」 「おまえに言われたくねえよ」 俺と櫻井は俺と櫻井で、非常に険悪なムードだった。 そうじゃなくても、じきここには香純が来る。この状況下であの人間爆弾ぶち込んだら、どんな惨事が起きるやら……想像するだに恐ろしい。 「おい、櫻井」 だから無駄と知りつつ、駄目もとで言ってみた。 「これから先、しばらく話合わせてくれ」 「どういうことよ?」 「香純がここに来る」 「ふぅん」 だから何よ、と言わんばかりの顔で、冷たく俺を見る櫻井。 「話を合わせるって、具体的に何をどうするっていうのよ」 「そこらへんは臨機応変だ」 マリィは空気読めないし。司狼は読んだ上で引っ掻き回すし。どうせ本城もそんなんだし。香純はパーだし。 非常に不本意かつやりきれないが、手を組めそうなのが櫻井しかいない。 「嫌よ。なんで私が。だいたいあなたのこと、嫌いだし」 俺だって嫌いだよ、という台詞が喉まで出掛かったが、ぐっと堪える。 「なによ」 「別に」 ていうか、やっぱムカつくなこいつ。なんでこう、一方的に睨まれなきゃいけないのか。 さっきのあれは不可抗力だって言っただろうに。 「なにか言いたいことがあるなら言えば?」 「粘着女」 「いやあ、女なんて基本的にどいつも粘着だろ」 「ねえねえわたしは?」 「あ? キミはそうね、きっぱりっつーかばっさりっつーかどっきりっつーかびっくりっつーか」 「ついでにオレはすっきり爽やかっつーか」 今度は櫻井が傍のキャビネットを蹴り上げて、俺が灰皿をぶん投げた。またしても司狼はそれを躱す。 「おおぉぉ~~」 「危ねえなあ。ヒトんちの備品、勝手に壊さないでくれるか」 「…………」 多少は〈司狼〉《バカ》に免疫がある俺とは違い、櫻井はかなりヤバイ領域で肩を小刻みに震わせていた。 「……こんなに腹の立つ男、初めて」 「やっぱり私、もう帰る。なんでこんな所にいるのか、よく考えなくても変だし」 「じゃあね、藤井君。せいぜいあとは頑張って」 「おい、ちょっと待てよ」 「うるさいわね、何よ」 何よ、と言われても、こいつには色々と聞かなきゃならんことが多々あるし、そのために介抱したんだから、ここで逃げられたら本末転倒もいいところだ。 が、面倒なことにほぼ全快してしまったらしく、無理に引き止めるとなれば力ずくになりかねない。 今の状況で、その展開は正直かなり困る流れだ。いつ香純が来るか分からないのに、ここで暴れるわけにも暴れさせるわけにもいかない。 「だから言ったでしょ。頭悪いのもいい加減にしろって」 「藤井君、なんか色々考えてるようでいつも行き当たりばったりなんだから」 「いや、こいつは色々考えて頑張れば頑張るほど、事態が悪い方向に転がるっていう稀有な才能の持ち主でだな」 「ほっとけ」 「そうよ、あなたは関係ないでしょ」 「じゃあ、関係あるの連れてきたよー」 と、にこやかに、とびっきりの笑顔で本城が帰ってきた。 しかもこいつ、救急病院で患者を運ぶような台車つきの担架を押しながら。 その上では、死体袋みたいな芋虫状の物体がうねうねともがいている。 「…………」 「…………」 「…………」 「ん、どうかした?」 どうかした、じゃねえよ。 「あ、カスミだ」 マリィが死体袋のファスナーを開けると、中からなんかもう、名状し難いヘンなのが出てきた。 「むごーっ、もががー、ぐもー」 「蓮、おまえの知り合いかこれ?」 「いや、知らん。誰だこれ」 「もがーっ、もが、むごご、もがーっ!」 「あはは、なんかあたしもメンド臭かったからさー」 とりあえず、いま目の前にある物体がどういう様になってるかは語りたくないんで、好きに想像してほしい。 ただ、俺の気持ちを率直に言うと。 「……馬鹿ばっかり」 櫻井がものの見事に代弁してくれたんで、もはや溜息しか出てこなかった。 それで。 「むぅ~~」 再度重苦しいBGMが流れる中、香純に説教をされている俺。 姿勢はまたしても正座で、マリィは付き合いよく横に倣い、櫻井は知らんぷり。司狼と本城は香純の後ろで、マジック片手になにやら紙に書いていた。 「今度という今度は、ちゃんと説明してもらうからね」 「蓮、あんたいったい何やってるのよ。なんでこんな所に、マリィちゃんや櫻井さんと一緒にいるの」 「なんでっつわれても……」 櫻井に目を向けても清々しいくらいのシカトだし。マリィには期待するだけ無駄だろうし。 と思っていたら。 「レンが3Pしようとしたんだけど、ホテル代がないからってここに連れてこられたの」 「はあっ?」 「……マリィ、後ろの奴らのカンペは見るな」 『なんだったらおまえも入るか? 俺は絶倫だぜ、へっへっへ』本城筆。 『ああ、でもやっぱおまえ、剣道部の防具臭いからいらね』司狼筆。 『でもレンは匂いフェチだよ?』本城筆。 『そうね、藤井君はちょっと変態的なところがあるから』司狼筆。 『昨夜だってそう、私の身体をまるでケダモノのように貪って』本城筆。 『いやだわ、思い出したらまた火照ってきた。ねえ綾瀬さん、よかったら慰めてくれないかしら』司狼筆。 『えぇ、そんな、あたしそっちの趣味はないのに。あー、だめよやめて、蓮が見てるぅ』本城筆。 「え、えっと……」 「…………」 「おまえら、帰れ」 『ここはオレんちだ』司狼筆。 『いや、あんたは勝手に住み着いてるだけだし』本城筆。 「って、何をふざけとるかそこぉーーーっ!」 『いやん、怖い』本城筆。 『怒っちゃやだ』司狼筆。 「口で喋らんか、口でぇっ!」 まあ、落ち着け香純。 今はそれより、全身から負のオーラを発している櫻井のほうが俺は怖い。 「だいたい司狼、あんたいなくなったと思ったら、こんなところで遊んでるし。何がどうなってるのか、あたしちっともさっぱり分かんないっ」 「まさかあんたら、あたしに内緒でずっと連絡取り合ってたんじゃないでしょうね?」 「いや、それはない」 「蓮と会ったのは、一昨日の話だ」 「ほんとにっ?」 「ほんとに」 「ほんとに」 「あたしの目を見てっ」 「こうか?」 「近いっ、よるなバカ、タバコ臭いぃっ!」 切れて喚きだす香純と、にやにやしながらそれを弄る司狼の図。非常に懐かしいというか少し前まで定番だったやり取りを目の前にして、和む……というわけにもいかないが妙な気分になってしまう。 「だいたい、この子誰?」 大声の出しすぎで疲れたのか、肩で息をしながら本城を指す香純。 「学校に行こうとして部屋から出たらいきなり目の前にいて、なんか羊羹みたいなのお腹に当ててきたと思ったら、いきなりバキュンとなってあたしは」 意識を飛ばされ、気付いたらここに連れ込まれてたというわけか。 「……おまえ、マンガの人攫いかよ」 「だって、メンド臭かったんだもん」 「まあ、こいつなら死にゃしねえだろ。スタンガンくらいで」 「すたん…?」 「とにかくっ」 ばしばしとソファを叩いて、一同に注目を促す香純。さっきから大暴れだ。 「あなたはいったい誰ですかっ! うちのバカ男どもとどんな関係なんですかっ!」 「うちのって、おまえ」 「オレらはおまえの息子かよ」 「うっさい、あんたら黙ってろダメンズコンビ」 「それで……って、うおおぉい、こっち向けぇ!」 「え、なに、あたし?」 本城は香純の言うことをまるで聞いてなかったようで、携帯弄りながら遊んでいた。 そのまま手を止めず、やる気のなさそうな様子で呟く。 「そんな、誰、とか言われてもねえ。強いて言うならセックスフレンドとしか」 「――ぶっ」 「せっ……」 「くす……?」 「ふれんどぉぉっ!?」 「あれ、違ったっけ?」 違うわボケ、何を適当なこと抜かしてんだこのアマ。 おまえと司狼の関係がどうだかは知らないが、今の流れで言ったら俺までそこに含まれるだろ。いい加減にしろ。 「そうなの?」 しかも、なんでおまえにまでそんな汚らわしいゴミでも見るような目を向けられなきゃならないんだよ。 「せっ、せっ、せっ、せっ……」 こいつはこいつで、口をパクパクさせながら硬直してるし。 「衝撃的事実だな、おい」 「まあ、あんたのが使い物になったらそうなるんじゃないかなっていう話をね、仮定だけどね、してみようかと」 「はん?」 ちょっとよく分からないやり取りに一瞬意識が向かいかけたが、同時に何かとてつもない見落としがあったような、洒落にならない〈陥穽〉《かんせい》が、間近でばっくりと口をあけているような。 そういう、何ていうか非常に不吉な予感がした。 さっき本城が言ったこと。あれはあらぬ誤解を受けると同時に、それに連なる二次的な大問題をこの場で発生させかねない爆弾というか電気椅子のスイッチというか。 そんな感じの、ほらアレだよ。やばい、忘れてたのに思い出したぞ。 「蓮っ!」 ほらキタ―― 「あんた、櫻井さんと付き合ってるんじゃなかったのっ!」 「――――なっ」 「え……?」 「ヒュウ~」 「ありゃりゃ」 「どこまで不実カマせば気がすむのよ、この最低最悪のろくでなしがぁっ!」 ああ、もう。俺は頭を掻き毟りたい衝動に駆られてしまう。 「付き合う、付き合う……私が、え……藤井君と?」 「違うのっ?」 「え、あ、違……うっていうか、その、これは……」 「なあ、どうだっけかエリー」 「とりあえず、状況的にはすでに肌を重ねた仲っつーか」 おまえら黙れ、マジでほんとに。 「センセー、蓮くんがまた物に動じてないって顔でぐるぐる言い訳考えてます」 「それに比べて、櫻井ちゃんはまだ分かりやすいね」 「何処がよ!」 「顔、赤いよ?」 「よぉし、分かったぁっ!」 何をトチ狂ったのか、香純はその場に胡坐をかいて、ばちんと膝を強く叩いた。 何処の仁侠映画のノリだよ、それ。 「蓮、あんたあれ言いなさい」 「あれ?」 「分かってるでしょ、あれよあれよ。前に一回、この話題であんたが煙に巻いたやつっ」 前に一回、この話題……ていうと、おい、まさか―― 「好きって言えっ、今すぐここで」 やっぱりそれかよ。 「全世界に向けて愛をっ」 「ラブを」 「リビドーを」 「連携すんなおまえら」 「えっと、じゃあわたしは何を……」 いや、マリィ……無理して入ってこようとしないでいいから。 「言えんのかぁっ」 「言えるか馬鹿」 「ちょっとどうなの奥さんこのヒト」 「諦めの悪い男ってやーねー」 「おまえらなぁ……」 本当、いい加減にしとけよ。そもそも本城、さっきから茶々入れてくる傍らでずっと携帯弄ってるし。やる気がないなら片手間みたいなノリで場を引っ掻き回さないでくれ。 そこらへん、ちょっと真剣に抗議しようと思っていたら。 「あ、よし、オッケー」 いきなり、そんな感じで小さいガッツポーズなんかをしてやがる。 一同の視線が集中した本城は、にやっと笑って香純に携帯を見せていた。 「何これ、うちの学校のHPじゃん。……て、えぇ!?」 「なんだよいきなり。どうしたんだ?」 「あ、ちょ、これ見てよ」 言われて本城の携帯を覗いた俺は、愕然とした。 「休…校?」 そこには、こんなことが書かれていた。 『依然として逮捕されない連続殺人犯の脅威を慮り、生徒達の安全を考慮した結果、休校措置をとることに云々……』 「おまえ……」 「いいタイミングだったね」 むしろ、よすぎるだろう。こいつ明らかに、何か裏技を使ってる。 「へえ」 「こりゃまた」 感心したような櫻井と、薄ら笑っている司狼の態度からも、こいつらが俺と同じことを考えてるのは明白だった。 「やだな。そんな見ないでよ」 本城、こいつは学校のHPを改竄したのか。そりゃあ国連のデータに比べりゃザルも同然のものだろうが、携帯で遊び感覚にやったというのが信じられない。 「もしかして、トキめいた?」 「アホか」 なんて悪態をつきながらも、これはでかい借りだと思った。素直に感謝の念が込み上げる。 なぜなら…… 「そっかあ、休校なんだね。まあしょうがないか」 俺じゃあどうやったところで、こいつをここまですんなりと諌めることは出来なかったろう。香純は単純だから、ごく普通に休校を信じている。 と言うより、普通は疑う余地もないだろう。まさか自分と同年代の奴が、こうまで鮮やかなハッキングをするなんてことは一般人にとって思慮の外だ。 俺も本城のスキルを知らなかったら、訝りつつも信じていたに違いない。 だから…… 「とりあえず、そういうことでよ。怒鳴り続けてんのも疲れたろ。今は一服入れようぜ」 「あ、でも……」 「おまえの疑問にゃ、そのうち蓮が答えるだろうよ。なあエリー?」 「そうね。んじゃまず、ご飯でも食べようよ。あたしお腹へっちゃって」 「だな。んじゃ香純、おまえあいつと一緒にオレらのメシ作ってくれよ」 「え、ちょっとそんないきなり言われても」 「悪い、頼むよ」 「……ぐっ」 呻いて、一瞬不満そうな顔をする香純だったが。 「……はあ、分かった。分かりましたよ。ともかくご飯作るから、色々話はその後で」 「じゃあ香純ちゃん、こちらへどうぞぉ」 「~~、ていうか、なんであなたがあたしの名前を……」 「エリーよ、エリー。よろしくね」 「うん、まあ、その……よろしく」 単純なのか人が善いのか、どっちでもあるんだろうけど、香純はぶつぶつ言いながらも大人しく本城の後についていった。 さて、それなら俺はどうするべきか。 「上手くやったじゃない。とりあえず良かったわね」 「とりあえず、か……」 ああ、本当にとりあえずだ。これで一つごたごたは片付いたが、問題はまだ山詰み。 「〈香純〉《あいつ》が大人しくなり次第、こっちは本題に移るからな」 「そうね、もう出来るだけ茶番はうんざり」 こいつから、可能な限り情報を引き出す。多少緩んだ時間を挿んだからと言って、櫻井の本質が変わるわけじゃない。 その冷えた目を見ることで、俺も妙な幻想を懐くのはやめにした。 さっきまでのやり取りが、仲のいい学生同士のジャレ合いみたいだったとか……そんなものは錯覚。 俺とこいつは相容れないんだと、そう強く思わなければ何かまずいことになりそうな気がしたんだ。 けど…… 「じゃあ本当に、二人は付き合ってると思っていいんだよね?」 「ああ……」 「……まあ」 時刻は夜半をすぎたというのに、これが一向に終わらない。 ぶっちゃけた話、こんな話題はどうだっていいんだが、香純がやたらとそれについてだけ気にするので、引き続き猿芝居を打つ羽目になっていた。 「絶対、絶ぇぇっ対、嘘じゃないよね? これで騙したら、あたしもうほんと怒るよ?」 俺は無言で両手をあげて、嘘じゃないとアピール。 「櫻井さんはっ?」 「あ、ええ、おおむね……」 櫻井も面倒くさいのだろう。早く終わってくれという態度が見え見えだが、一応口裏合わせてくれている。 ちなみに、司狼と本城はここにいない。晩飯買ってくると言っていたが、まあおそらく嘘だろう。昨夜の一件でここの奴らがほぼ全滅したから、武器なり情報なりを自ら動いて集めないといけなくなったんだと思われる。 まだ懲りずに関わる気なのかと言いたかったが、身近に人死にが出た以上、あいつらだって引っ込みはつかないはずだ。本音を言えば止めたいが、どう言って止めたらいいのかもはや俺にも分からない。 だから、今はこっちを優先する。マリィはさっさと寝てくれたんで問題ないし、あとは香純を抑えることに成功すればひとまず落ち着く。 はずなんだけど。 「おおむねってどういうこと?」 しつこいんだよ、こいつが。いつまでもしょうもないネタを引っ張りすぎっていうか拘りすぎっていうか、別に俺と櫻井がどうだろうが構わないだろうに。 「なによ、そのすっごい嫌そうな顔」 「だって、なあ……」 さすがにうんざりしながら、俺は言う。 「さっきからおまえ、どれだけこの話題でいってんだよ」 「こんな、いかにもつまんねえこと」 「つまんない?」 「悪い、失言」 まあ、理屈は分かるよ。とりあえず複数人に関わることで、ガチに真実ってことが一つはないと、他の全部もまとめて信憑性が怪しくなるって言いたいんだろ? 香純から見て、もっとも嘘をつかなさそうなのが櫻井なんだろうし。 それは分かる。分かるけどさあ…… 「友達に休校のことメールしても返信ないし、いい機会だから今まで〈有耶無耶〉《うやむや》にされてたあれやこれやを、まとめてはっきりさせようとあたしは思うの」 ただ、これさえ無かったらな、と思わずにはいられない。 香純のツッコミは、おおまかにいって以下の三つだ。 まず第一に、なぜ俺が司狼と会っていたのか。本当につい最近まで連絡を取ってなかったのか。 そして第二に、なぜ櫻井はともかくマリィまでもが一緒なのか。 そして第三に、あんた本当に櫻井さんと付き合ってんの? とまあ、残らず総てしょうもない。 その一は本城に半ば無理矢理連れてこられたという、ほとんど真実を話しただけなので特に問題なかったし、その二も当のマリィが寝入ってるんで、勝手についてきたと言っておけばどうにかなった。 だが、その三がやたらと手強い。 そりゃ俺だって、逆の立場だったら絶対信じないと断言できるくらい胡散臭い話だけど。 とにかく、櫻井がいつまでも付き合ってくれるとは限らないし、さっさと納得させてこの馬鹿は寝かすべきだ。俺は俺で、やらなきゃならないこともある。 「どうすりゃ納得するんだよ……」 「だから、さっきから言ってるじゃないの。分かってるくせにしらばっくれるなんて男らしくない」 「櫻井さんだって聞きたいでしょ?」 「え、ああ、それはまあ……」 「ということだから蓮、ここはがっつり漢を見せて――」 「おまえは珍しく俺をいたぶれるのが楽しいだけだろ」 「えー、そんなことないですよー」 嘘だ。絶対嘘だこの野郎。 「さあ、それじゃあいってみよぉー。藤井蓮がぁ、いま一番好きな女の子の名前はぁー」 「ダラダラダラダラダラダラダラダラダラダラダラ、――ジャジャーン」 「――はいっ」 殴りてぇ…… 殴りてぇけど…… 実際、本を正せば俺がつまんない嘘をついたから悪いんだしな。 香純を振り回して騙してばっかりなのは悪いと思うし、反省もしてる。 してるから…… 「おまえだ」 わりと素直に、俺はそう言っていた。 「へ、あ、あたしぃ?」 「そう」 なんか文句があるのかと言わんばかりに指差して、わたわたと手を振ってる幼なじみに一言一言、俺はゆっくりと言い含める。 「腐れ縁だしな。女っていったら、まずおまえが浮かんでくるのは当たり前だろ。実際、好きかって言われりゃ好きだし」 「で、でも、だったら櫻井さんは」 「こいつはまた別問題」 ていうか別次元。 「そ、それはつまり、ライクとラブの差なのでは?」 「さあ、俺はそういうのよく分からんし」 「だ、駄目よそんなの。友達に対する好きと彼女に対する好きはきっちりぱっきり分けないと」 「携帯とかに、こう、ずらーっと、ずらずらーっと、女の名前が百も二百も入ってて、誰これって訊いても平気な顔で友達とか言うイケメンあたし絶対認めませんっ」 「ていうか男女で友情なんかあるかバカぁーっ!」 ……何をムキになってるんだ、こいつは。 だいたい、あれだ。 「おまえ、前に俺のこと友達とか言ってただろうが」 復学初日に、いまいちクラスで敬遠されてる俺のことを友達としてなんたらかんたらと。 「あ、あれはまたちょっと違うって言うか、あのときと今じゃ友達の概念? ニュアンス? ちょっと違うのよ」 「意味が分からん」 「だからぁ」 「まあ、それについての議論はどうでもいいけど」 「どうでもよくないっ」 どうでもよくしようよ。 「そんなん語りだしたら一晩かかっても終わらないだろ」 「じゃあ、今から一晩語ろうよ」 「……勘弁してくれ」 そんな腐れ鬱陶しい話題引っ張れるかよ。一晩どころか五分で燃え尽きる自信があるぞ。 「そもそもあなたがそっち方向に話を持っていくから悪いんじゃない」 「なんでおまえまで不機嫌なんだよ」 「そんなことも分からんのかこのバカちんがぁーっ!」 「ほんと、馬鹿」 「ばーっか」 「……ああ、もうだったら馬鹿でいいから」 「その投げやりな態度はなんなのよーっ!」 再びソファをばしばしやりながら、転げまわるバカスミ。 ほんと、今日も全開で頭が可哀想な人だな、おまえ。 「あたしはただ、あんたがヘンなこと言うから櫻井さんに嫌われたらどうしようって思ってるのっ!」 「ああ……」 「別に嫌ってはいないけど」 「本当っ?」 と、櫻井が何か言うより早く俺が間に割って入った。 「そういうことなら、これ以上邪魔しないでくれ」 「じゃ、邪魔ってなによ」 「おまえが喚き続けてるせいで、さっきから二人きりになれないだろ」 「ふた――」 「……んないちいち硬直すんなよ。こっちが恥ずかしくなってくる」 「でも、そうね」 櫻井が苦笑して、香純の肩に手を置いた。 「私は彼と話があるから、少しの間席を外してくれないかしら。そんなに心配しなくても、本当に話すだけだし」 「あ、あたしは別に、心配なんて」 「そう、だったら――」 くい、と親指でドアの方を指す櫻井。香純はそれに何かしら言いかけたが、結局言われた通り、渋々ながら部屋の外へ出て行った。 まあ、この辺りは貫禄の差だろうな。 去り際、思いっきり俺のことを睨んでいたけど。 「可愛い子よね、綾瀬さんって」 「そうかあ?」 「ええ。あなたは近すぎて気付かないのかもしれないけど」 「で――」 静かに俺の方へと向き直り、櫻井は表情を改める。 「そんな彼女を締め出してまで、私と話がしたいんでしょ? 用件は分かっているけど、何かしら?」 ともあれ、これで櫻井と二人きりになる状況は出来あがった。香純に対する諸々のフォローは全部片がついた後に纏めてやるということで、今はこいつと話をつけなければいけない。 「何か飲むか?」 気を切り替えて落ち着けるため、まずはそう提案した。 酒の味なんか分からないし酔ってる場合でもないんだが、こいつとの微妙な関係を考慮すれば何かしらの景気付けが要る。 それに、これは推測だが、今の俺にアルコールはたいした効果を発揮しないだろう。 櫻井が無言で手を出してきたから、俺はそこらにあったウィスキーか何かのボトルを適当に掴んで放り投げた。 「注いではくれないのね」 「そういう仲でもないだろ」 肩をすくめて、瓶の蓋を開ける櫻井。グラスを渡そうかと思ったら、こいつそのままラッパ飲みで半分くらいいきやがった。 「はい」 「…………」 「なによ、恥ずかしがるようなガラでもないでしょう?」 「そんなんじゃねえよ」 ただ、こいつも、ときたま顔に似合わないことを平然とやる奴だな。 なんとなく後に引けなくなったので、櫻井から瓶を受け取り、俺もラッパ飲みで残り半分を一気に飲み干す。 「~~~」 「美味しい?」 「……くそ不味い」 「ええ、私も同感」 とりあえず予想通り、無茶な飲み方をしたにも拘わらず、酔いそうな気配はまるでない。 「お酒も、煙草も、麻薬も、毒も、全部分解されるわよ。まあ慣れれば、抵抗力を抑えて無理矢理酔うことも出来るみたいだけど」 「そういうことを好んでやるのは、ベイくらいね。参考になった?」 「別に」 俺はいつまでもこんな身体でいる気なんかない。この先、酒や煙草を嗜めなくても不都合はないが、あまりに万能すぎる体機能なんて、便利どころか気持ち悪いだけだろう。 まあ、味がちゃんと分かるだけでも、飲んだ意味はあったけど。 不味すぎる酒のお陰で目が覚めた。さっきまでの馬鹿漫才は、これですっぱり忘れよう。 「座れよ、櫻井」 言って、ソファの方へと顎をしゃくる。頷いて腰を下ろした彼女に倣って、俺もその対面に腰掛けた。 さて、それじゃあ丸一日遅れになったけど、こいつを介抱した目的を果たさないといけない。 「まずは一つだ」 「もう〈クラブ〉《ここ》で流血は意味がないとか言ってたけど、それはあれだろ」 シュピーネから聞いたことを思い出す。 「スワスチカ――」 この街に用意された八つの戦場。 その位置、そしてこいつらが攻める順。後者は訊くだけ無駄だろうが、前者は絶対に知らないといけない。 「今、開いているのは三つか?」 俺の問いに、櫻井は若干だけ考えるような間を空けてから、返答した。 「いや、もしかしたら四つかもしれない」 「なに?」 「なんとなく分かるのよ。あなたは感じない? 言葉じゃ上手く言えないけど」 「それより藤井君が三つだと思った根拠と、その場所は何処?」 「そんなの決まってるだろう。考えるまでもない」 現状、この街で曰くつきの場所になっているのが三つあるというだけだ。 マリィのギロチンがあった博物館。シュピーネとやり合った公園。そして昨夜、大量の人死にが出た〈クラブ〉《ここ》。 俺がそう答えると、櫻井はそうねと言って頷いた。 「普通、スワスチカが開いた場所は、真っ当な神経の持ち主なら立ち入れないくらい汚染されるものなんだけど、ここはホールに集中したから、それ以外は無事のようね。綾瀬さんに障りを起こさせたくなかったら、あそこには近づかせないほうがいい」 「そんなことは分かってる」 そのホールで暴れた当のこいつに言われたので腹が立ったが、今はそんな恨み節をぶつけている場合じゃない。 ただ、一つ気になることはあるのだが…… 「あなたが知りたいのは、残り総ての場所でしょう?」 間を置かずにそう言われて、訊くタイミングを逸してしまった。仕方なくその疑問は後にまわすことにして、残りの中から、あからさまに臭い場所を挙げてみようと考える。 「うちの一つは、学校だろう」 「…………」 「おまえとルサルカが、何の目的もなく転校してきたわけはない」 事実、あいつもそう言っていたし、そして何より…… 「前に、アースがどうこう言ってたしな」 聖遺物という雷が起こす災害を、効果的に散らすための場。それはすなわち、聖遺物に喰われる魂を散華させるフィールドということ。 「ええ、ご名答よ。その通り」 「なら、結局……」 こいつらは、学校中の生徒や教師を皆殺しにする腹だったということだろう。ルサルカが言っていた『居てくれるだけでいい』とは、つまりそういうことだったわけだ。 だったら、〈学校〉《あそこ》は今後さらに危険となる。休校したっていうのは、まず間違いなく本城のハッタリだ。なんとか香純だけは遠ざけることに成功したが、他の一般生徒たちを見殺しにはできない。 櫻井はすでに四つのスワスチカが開いたかもしれないと言っていた。じゃあもしかして、その四つ目とは学校か? 有りえる話だが、大量虐殺があったというニュースはないし…… いや、あいつらならば、完全に隠蔽してのけるだろう。街の住人を生贄扱いしてるなら、最後の最後まで隠密裏に運んだ方が効率はあがる。 だから何にせよ、俺は学校に行かないといけないだろう。あの空間は、やはり私情としても最優先で守りたい。 俺がそんなことを思っている間にも、櫻井の話は続いていた。 「スワスチカを開くのは戦場……武器も戦意もない普通人を捧げたところで、そう簡単には開かないし、何百人も使って無理矢理こじ開けても霊格的には落ちるでしょう」 「だから、私達には戦いが要るの。あなたという敵がいて、そこに巻き込まれる人がいて、大量の血と魂が散華すれば、そこは戦場跡として方陣と化す」 「といっても、それが最良というだけで、あなたがいなければどうにもならないわけじゃない」 「戦場予定地に敵がいなければ民間人を、それさえいないのなら仲間同士で、結局スワスチカはこじ開ける。多少霊格が落ちようが、総てそうでもない限り許容範囲……副首領閣下の術に穴は無く」 「俺に選択の余地はないってことか」 「そういうこと」 こいつらと戦えばスワスチカが開き、放っておいたら一般人が大量死する。俺には何も打つ手は無い。 強いて言うなら、一つの場所で複数人を纏めて〈斃〉《たお》すことになるが、それがどれだけの難関かは今さら言うまでもないだろう。 この場で櫻井に仕掛けることは香純の手前できないし、手は完全に封じられた。こうなったらどんな難関であろうとも、一箇所複数殺を狙っていくしか道はないのか。 唯一の救いがあるとすれば、学校というコミュニティには生徒や教員以外は入り辛い環境であること。これで少なくともあの場所では、無関係の人間が死ぬことはなくなるはず。 と、思いたいが…… 「他の場所は?」 感情を押し殺して問う俺に、櫻井もやはり無機質な口調でそれに応じた。 「教会、タワー、遊園地、それから病院」 「うち三つは、至極簡単に開けるわね。あなたがいてもいなくても、あそこは人がとても多い」 確かに、こいつの言う通り。タワーと遊園地はクリスマスを控えた行楽地だし、病院には医師や患者が山ほどいる。 「私がこんなことを、べらべらと喋る理由は分かってるのよね?」 「ああ」 一般人の大量殺戮より、敵と戦う戦場のほうがよりベターだという以上、俺をその場に突っ込ませるのがもっとも効率のいいやり方だ。 つまりこいつは、あくまで向こう側として俺に情報を渡している。そしてそれが分かっていながら、思うように踊らされるしか今は出来ない。 「副首領閣下の性格の悪さには、私もつくづく感心するけど」 「まるでどっちが鬼か分からない鬼ごっこね。〈あなた〉《じぶん》を捕まえ、屈服させてみせろ。〈代替〉《あなた》は追われながら追わなければいけない」 「と、これくらいでやめておきましょうか」 それ以上話せば俺が激昂しかねないと思ったのか、櫻井は先ほどまでの硬い態度を改めて、口調と表情を軟化させた。 「あなたの性格は、だいぶ分かってきたし。ここでやり合うつもりもないから」 「で、次は私の質問に答えてくれない? どうして――」 「いいや、まだだ」 知りたいことはまだあるし、なによりこのまま、こいつのペースで終わらせるのは癪だった。 さっきの話で保留していた疑問を一つ。 「博物館は、なんで開いた?」 確かに、あそこにはギロチンがあった。ならば香純が殺した十何人かの魂が引き寄せられたのかもしれないが、それで開くのは数が少なすぎるだろう。 香純は殺し役だのなんだのと言われたから、当初は俺に供給されているんだろうと思っていたけど、それも違う。 力に慣れ始めた今なら分かる。あのギロチンに詰まっているのはマリィ一人の魂だ。それ単独で、こいつら全員を圧倒できるとメルクリウスは言っていた。 なら、香純が狩った魂は博物館か、何処か別のところに行っている。そしてそのどちらであっても、あの場所のスワスチカは開かない。 俺の覚醒――とでも言っておこう――が引き金になったのは確かだろうが、燃料になる魂が一定数存在しないと、爆発――つまり散華は起こらない。 なら、博物館をスワスチカに変えたのは、いったい誰の魂だ? その不可解さが攻略のヒントになるかもと思い訊いてみたが、櫻井は眉を顰めて露骨に嫌そうな顔をするだけだった。 「それは大事な問題なの?」 「大事じゃないなら、隠さず話せよ」 「…………」 と、あからさまに不機嫌げな顔をする。やはり、こいつらにとってバレるとまずいようなことなのだろうか。 「別に、たいした問題じゃないけど」 「〈博物館〉《あそこ》で昔、仲間の一人が死んだのよ。ただそれだけ」 「死んだ?」 黒円卓の面子は、すでにほぼ割れている。俺の頭に、ある種のピースが填まった気がした。 すでに死んでいる団員。櫻井がコメントを躊躇するような存在。 それはつまり―― 「何よ?」 「…………」 いや、やっぱり止めておこう。こいつの背景みたいなものを知りすぎるのはよくない。 「何もないなら、次こそこっちの質問に――」 「待てって、まだだ」 言いかけた櫻井をまた遮る。 「……あなた、本当に勝手よね」 「そんなうんざり言われても、俺も好きでやってんじゃない」 「だったら、あといったい幾つよ?」 「二つだ」 お互いに切り口上でそう言って、可愛げなく顎で先を促す櫻井に俺は訊いた。 「氷室先輩は、何者だ?」 「…………」 「勘だが、あの人はおまえらの仲間じゃない。かといって無関係でもない」 つまり、彼女の配役が分からない。 インドア気質のダウナー運動音痴が、殺人を苦にもしない戦闘員なんて有り得ないだろう。だがそれなら、あの人はどういう立場に置かれているのか。 これもやはり勘だけど、この謎が一番重要なことの気がする。 氷室先輩は何者で、何のために、何を思って今まで人生を送ってきたのか。 「俺はあの人が、すべて計算ずくで動いてたとは思えないんだ」 「仲がよかったの?」 「ああ、少なくとも俺はそう思ってる」 こいつらにしても、初対面で俺の配役を見抜いたわけじゃないだろう。ならそのずっと前から、街がこんなことになるまで一年以上友達だったあの人が、最初から俺に狙いを定めていたなんてことは絶対に有り得ないんだ。 「それは大事なことなのかしら?」 「大事だよ。おまえには分からないのか」 「分かってないのはあなたよ」 言って、櫻井は呆れたようにかぶりを振ると立ち上がった。 「さすがにもう、我慢できないから帰るけど、その前に教えてあげるわ」 「誰だって、優先順位がある。父親と母親のどちらかが死んでどちらかが助かるとしたら、皆、より大事な方を選ぶでしょう」 「兄弟でも友達でも恋人でもそう。皆大事、皆一緒、誰も離したくない選びたくない――そんな綺麗事通用しないわ」 「あなたは彼女と友達だったのかもしれないけど、要するに切られたのよ。シスターだってそれは同じ」 「藤井君と仲良く青春してるより、もっと大事でやりたいことがあったんじゃない?」 「………ッ」 何か言いかけ、しかし俺は何も言えずに口ごもる。 確かに、その理屈は分かるんだが…… じゃあ、その大事なことってのは何なのか…… 「分かり合えないわよ。無駄ね」 櫻井は目も合わせず、そっぽを向いて吐き捨てた。 「あなたとこういう話をしてると、私はとても苛々する。言ってもどうせ、分かってなんかくれないし。分かってもらおうとも思わないし」 「だから、氷室先輩が何者かなんて、あなたが知ってもしょうがない」 「あなたは知ったところで何も出来ない」 「おまえな――」 刺々しい物言いに腹が立って、櫻井の肩に手を伸ばそうとした瞬間だった。 「―――うッ」 急にこいつは、腹を押さえて蹲る。 「な、おい――どうした?」 「―――ッ、ぁ……く」 「なん、でもない……ほっといって……」 「ほっとけって、おまえ……」 そう言われても、その苦しみようは尋常じゃない。まさかまた、昨夜と同じ症状が出てきたのか? 「いい、わよ、別に……二度も、助けてなんかくれなくても……」 「あなた、なんかに、これ以上触られたくない……」 「…………」 確かに二度も助けるような義理はないし、今だって口喧嘩の真っ最中だったが、まだ話は終わってないんだ。 とりあえず、どうするにせよ今は横にして休ませないと…… 「触られたくないのは分かったけど、ちょっとだけ我慢しろ」 俺は憮然とそう言って、蹲る櫻井をソファに運ぶべく抱き上げようと身をかがめたら、 「馬鹿……」 「馬鹿ねほんと、甘いわよ、藤井君……」 「私、あなたのそういうところが……」 すでに力も入らないのか、しなだれかかるように体重を預けてきて、瞬間―― 「大嫌い」 「―――――」 首に重い衝撃を受けた俺は、一気に目の前が暗くなっていくのを感じていた。 「ごめんなさい、でもあなたが迂闊なのよ」 「女はあまり信用しないほうがいい。昔からよく言うでしょ」 「まっ……」 目が開かない。意識が途切れる。完全な無防備で、かなりいいのを貰ったらしい。 櫻井、てめえ…… 「言ったでしょう。私の立場を分かってるのって」 「それに、氷室先輩のことをあなたに話すわけにはいかない。だって彼女は……」 朦朧とする意識の中、自嘲するように微笑んでから、踵を返して部屋から出て行く櫻井の後姿が目に映った。 待て、行くな――話はまだ終わっちゃいない。 氷室先輩がなんなんだ? 彼女がどうしたっていうんだよ? 声をあげることも出来ずに俺は、まんまと一杯食わされた形で、そのまま意識を失った。  夜の学園は不気味なほど冷え切っていた。  当然のことながら、廊下には人の影などありはしない。 「―――――――――――――」  その中で、響くのはかすれた声。  廊下を吹き抜ける風に混じって微かな音色が運ばれてくる。  いや……これは、悲鳴か。  絶望、諦観、内包しているのは負の一色。奏でられるは呻き声。  暗闇に閉ざされた校舎の一室にて、押し潰された助けての合唱が切れ切れの声で続いている。  赤黒く染まる鉄の処女から──〈匣〉《はこ》から出してと、誰も彼もが啼いていた。 「ほらほら、もうちょっとよ頑張りなさい。後もう少しだけ力を篭めれば、そこから出ることが出来るんだから」 「仮にも貴方たち、適当に集められたとはいえ〈水銀〉《あいつ》の選んだ供物でしょう? 根性だせば奇跡の一つぐらい起こせるかもよー?」 「ほーら、ファイト! ファイト!」  明るい声で声援を送る小柄な魔女──ルサルカはその口調に反し、捉えた獲物を逃すつもりなどない。  数多の棘で串刺しにされた有象無象を眺めながら、リズムよく手を叩く。かつて同じ教室で談笑していた彼らは、既に全身を穴だらけにされながら死の棺桶に抱かれ、もがき続ける。  赤黒い肉片混じりの流血を、足元で蠢く影に食われながら……  教壇に立つ魔女と、教室に犇く鋼鉄の処刑具。  生かさず殺さず、致命傷寸前で生かされながら捕食者による〈魔女の宴〉《サバト》は行なわれている。  それは彼女の趣味、という点と同様に擬似的な練磨でもあった。  蝋燭は消える瞬間にこそひときわ煌くかのように。  生と死の境を体験させ、生存欲求を揺り動かすことで魂の格を引き上げる。規模や手法は違えど、それは藤井蓮が聖遺物を体得した一連の流れと同じこと。彼らは今、ルサルカという存在に絶望と激痛にて鍛えられつつあった。  もっとも、大半はすぐに生き延びることを諦める。身体を破壊されながら、血を流しながら、それでも抵抗を選べる人間は極々稀だ。  通常は〈腕〉《 、》〈一〉《 、》〈本〉《 、》も削いでしまえば、それだけで彼らはこぞって死にたがる。  現に教室で鳴動していた棺桶は、既に八割方その振動を止めていた。もういいと思うその寸前で、身を侵す影に食い尽くされたから。  命が最大限輝く一瞬を狙い──  甘美な瞬間を逃さず、熟した果実のように貪っていく。  そしてまた一つ。全身を鉄の中で穿たれながら、それでも諦めなかった女生徒がその動きを止めたところで…… 「さぁて、次はどのコにしよっかなー」  妖艶なる笑みを浮かべ、次なる獲物を選び始める。  味わった魂の感触など魔女は既に忘れていた。 「フン、フン、フン、フン、フン、フン、フン、フン、フン、フン、フン、フン、フーン、フフーン」  束の間の〈間〉《 、》〈食〉《 、》を終えた赤毛の魔女は、一瞬目を細め、自らを認識しなおす。  この黒衣こそが忠誠の証。我が寄る辺。  聖槍十三騎士団黒円卓第八位。 「マレウス……マレフィカム……」  自らを通り名で呼ぶと、人格に芯が通る感触があった。これは儀式だ。一度快楽に溶け切った人格を、再構築するための儀式。 「待たせたわね。ベイ」 「そう思うんなら、ちったあ慎みなよババア」  上機嫌で振り返るルサルカに、呆れたような声が答えた。 「歳のわりにお盛んなのも結構だがね、こっちの身にもなれってんだよ」 「あらいやだ。退屈だったなら、あなたも混ざればよかったのに」 「おいおい」  机に腰を下ろしたヴィルヘルムの鼻の頭に、皺が寄った。  皮肉も程々にしろということだろうか。常に本命を求め続け、振られ続けてきた男は、鬱陶しそうに不快感を顕わにした。  〈つ〉《 、》〈ま〉《 、》〈み〉《 、》〈食〉《 、》〈い〉《 、》はどうでもいい──そう言わんばかりに。 「男だけじゃなくて、女の子もいたと思うけど? そのコたちで遊べばよかったのに」 「はっ、劣等の雌猿なんぞ抱けるかよ」 「まったく、ベイはわがままなんだから……」  細く微笑む。それは、まるで老婆の笑みだった。 「まだ若いのね」 「はあ?」 「そのうち分かる時が来るわよ」 「そんなもんかね」  つまらなそうな生欠伸で、魔女の微笑を受け流し続ける。 「それよりマレウス。クリストフから預かったカインの制御だけどよぉ……おまえ、どうすんだ?」 「どうするもなにも、バビロンの聖遺物は残っているじゃない」 「使えんのか?」 「冗談。聖遺物は一人に一つ。彼女でなければ“活動”も用いることはできない。けど、どういう仕組みで操っていたのかを解析するのは、難しくなかったわ」 「再現できたのか」 「…………」  小さな舌打ちを、ヴィルヘルムは聞き逃さなかった。 「おいおい。大丈夫なのかよ」 「うるさいわね。カインを思い通りに動かせれば良いんでしょ? それくらいなら簡単よ」 「ということは、何か欠陥があるんだな」 「たいしたことじゃないわ。――魔力を、外部から注入しなくてはならないだけ。メンテナンスが今まで以上に必要になっただけよ。でもわたしがいるんだもの。関係ないわ」  ヴィルヘルムはそれに答えず、軽く肩をすくめて話題を逸らした。彼は自身が超常の域にありながらも、魔術体系自体には興味を持たない。  銃を撃つことに長けていても、日々の整備で必要とされる以上の専門知識には、興味が無いように。 「にしても、あのガキどもがバビロンをやっちまうなんてなぁ。思ってもみなかったぜ」 「へえ……その割には随分嬉しそうじゃない」 「クク……そりゃあなぁ、期待外れだと思ってた奴等がこうまで善戦してるんだぜ。やり合うのが楽しみってもんじゃねぇかよ。 あの司狼ってガキもまだ生きてるみたいだしなぁ」  嬉しそうに話すヴィルヘルム。その顔には軽薄そうな笑みが張りついていたが、目元には猛獣のようなぎらつく光が照り映えていた。 「ふふ、随分その彼に執心なのね。だったら、わたしはツァラトゥストラを貰っちゃおうかなぁ」 「レオンの奴は? 生きてんのか、死んでんのかもわかんねぇのか?」 「あの子には呪いがかけてあるわ。もし裏切ったのなら今ごろどこかでのたれ死んでるわよ」 「ははっ、そうかよ」 「それにレオンが生きてて、わたしたちの邪魔をするようなら、その時は殺しちゃえばいいじゃないの」 「だな……まぁ、せいぜい奴等には愉しませてもらおうじゃねぇか」 「ふふっ、楽しみ……ふふふふ」 「ああ、楽しみだ……ハハ…ハハハハハッ」  闇が濃くなる室内で、魔人の歓喜が木霊する。  そして、不意に思い出したと言わんばかりに、ヴィルヘルムが口を開いた。 「ああ、そういやあ、一つクリストフから頼まれたことがあったぜ」  彼が何を言ったのかは分からない。  だがそれを聞いた魔女の笑みは、さらに淫靡なものになった。  深く、深く、どこまでも陰惨に……  そして、螢がクラブを出たときには、すでに日付けが変わっていた。 「…………」  ルサルカとの約束であった月曜までという期限はとうに過ぎた。もはや手遅れかもしれないが、このまま譲るつもりもない。学校のスワスチカをあの女に渡す気は毛頭なかった。 「急がないと」  気が逸る。焦って思考が乱される。縄張りを取られたくないということとは別の次元で、何か無性に学校へ行きたくて仕方がない。  よく分からないが、この感覚は何なのだろう。 「藤井君の病気が、〈感染〉《うつ》ったのかしらね」  呟いて、自嘲した。  そもそも彼には、よくもまあ、あそこまで色んな人間を気にかけることが出来るものだと、呆れると同時に感心する。ついさっきも、まさかあんなに上手く嵌るとは思わなかった。  嫌われている自覚はあるし、嫌いだけど、だったらなぜ放っておこうとしないのか。  心底から甘ちゃんというならともかく、頭の回転も危機の察知も人並みかそれ以上にはあるだろうに、どうもよく分からない男だ、馬鹿に見える。  ああ、とにかく、今あんな人のことはどうでもいい。  早く、一刻も早く学校へ。  あそこは私の場所なのだから、誰にも渡さないし壊させない。  いっそのこと、本当に休校となった方が好都合だったと言えるだろう。一般生徒の登校がなくなれば、意味のない人死には防げるし、それなら彼も心置きなく…… 「だから……」  なぜそういう風に思考が転ぶのかワケが分からず、小さく舌打ちしたときだった。 「あれ、櫻井さん?」 「――――」  なぜ、この子がここにいるのか。一瞬、螢は呆気に取られた。 「何してるの、蓮は?」 「あ、いや、彼はその、寝ているけど……」 「ああ、そうなんだ。じゃあどうしようかなぁ……実はあたし、明日って言うか今日だけど、学校に行こうと思うんだよね」 「……え?」  なぜ? 意味が分からない。  〈学校〉《あそこ》は休みになったのだと、彼女は思っているはずなのに。  そもそも、〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈に〉《 、》? 「それがね、なんだか行かなきゃいけないような気がしてさ。よく分からないけど、どうしよっかなって思ってたら、メールがじゃんじゃか入ってきたのよ。ほら、見る? 凄いでしょ?」 「…………」  手渡された携帯電話の液晶には、優に三十件を超えるメール着信。  おそらくは、すべて香純の友人だろう。一人につき一件のみで、被っているのは一つもないのに、その文面はなぜか残らず同じだった。 『明日は登校する。香純もおいで』 「……これは」 「もしかして、一日で休校解除になっちゃったのかな?」 「…………」 「ねえ、どう思う櫻井さん」  休校は狂言。ゆえに友人伝いで真実が発覚するのはおかしくない。  おかしくないが、これは何処かが…… 「〈Pied Piper〉《パイド・パイパー》……」 「え?」 「ハーメルンの笛吹きって、知ってる?」 「ん、それって童話だよね? どんな内容なのかは知らないけど。それがどうかしたの?」 「いや……」  そう、タイトルは著名だが、その内容がどんなものかを知っている人は意外に少ない。  魔性の笛の音に誘われて、町中のネズミが、子供が、連れ去られる。  意識していてもいなくても、笛吹きの引力には逆らえない。  そしてそれとよく似たモノが、スラブの伝承にあると知る人はさらに少ないはずだろう。  魔性の歌声に誘引されて、旅人達を水底へ……暗く冷たい世界へ落とす湖の死神。  魔女――ルサルカ。  すでに自分達は誘われている。  学校が休みであろうが何だろうが、そんなものは関係ない。  たとえ一度でも彼女と接触した者は、抗えない引力によって引きずり込まれれて囚われる。  魔女の猟場へ。暗く冷たい水の底へ。  ああ、つまりもう、〈惨劇の夜〉《ワルプルギス》は始まっているのだ。生贄達が招集されてる。  だけど…… 「綾瀬さん」 「なに?」  少なくとも、いま彼女を正気に戻すことは可能だろう。何百人の中の一人を解放したところで支障はないし、この身に撃ち込まれた聖痕もそんなことでは反応すまい。  だから、この子を行かすべきか帰すべきか……生かすべきか死なすべきか……その選択は、いま自分に委ねられている。 「ねえ、どうしたの難しい顔して」 「あ、やっぱり櫻井さんってば怒ってる? あたしがあんまりしつこく疑うから、気分悪くしちゃったのかな? あは、あははは……いや、ほんとにごめんね。蓮の彼女だからとか、そんなの関係なしにしても、あたし櫻井さんと仲良くなりたいし。だから嫌われると痛いなぁっていうかヘコむなぁっていうか、その、許して?」 「…………」 「ねえぇ、ごめんごめんごめんってばぁ……」 「……平気よ」 「ほんとうっ?」 「……ええ、別に気にしてないわ」  そうだ、私は何も気になどしていない。  この少女がどうなろうが、それで藤井君がどう思おうが、何も関係あるものか。  人には優先順位がある。  皆大事、皆一緒、誰も離したくない選びたくない――そんな綺麗事など通用しない。  誰よりも、私はそれを分かっている。  分かっているから…… 「行きましょう、綾瀬さん。藤井君には私があとで連絡を入れるから」 「そう? だったら女同士、朝まで一緒に遊ぼうよ。カラオケでもゲーセンでもマンガ喫茶でも、あたし櫻井さんといっぱい話したいし」  その誘いに、迷いが生じなかったと言えば嘘になるが。 「……ええ、何処へだって付き合うわ」 「やったあっ! へへへ、見てろよ蓮のやつ。女の友情は彼氏情報が筒抜けになるって恐怖を教えてやるぜ」  そうだ。女が怖い生き物であるということを、彼はよく分かっていない。  せいぜい、朝になって思い知るがいい。  あなたが馬鹿な甘さで助けた女が、どれだけ悪辣で性質の悪い、最低の恩知らずであるかということを。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 4/8 【Chapter Ⅷ Pied Piper ―― END】 「………っ」  目覚めは、ひどい頭痛と共に訪れた。 「……ぅ、…っ」  ああ、なんだか全身もだるい。疲労や体調不良とは縁遠い体質なのに、なぜか上手いこと意志と身体を連結できない。  何時ぶりだろうか、こんな風にだらしない朝を迎えるのは。  少なくとも七・八年ぶり……あの頃はまだひどく未熟で、目眩や負傷などしょっちゅうだった。  それが何時の間にかコツを覚え、自信と共に力を獲得してからは、こんな倦怠感溢れる朝など存在すら忘れていたのに。  ――いや、だからこそか。  今はなんとなく、この妙な身体の不自由さが新鮮で面白い。  まるで歳相応の、朝が苦手なただの学生になった気分。自分と同年代の子達は、みんな日々、こんな朝を経験しているのかも。  そう考えると、これはこれで悪くない。毎日は御免だが、年に一・二回なら有りなのではないだろうか……などと、らしくない感慨に耽っている自分に気付いて、少女は小さく自嘲していた。  とにかく、詮無い感傷にはこの辺りで区切りをつけ、早く身体を起こさないと。 「………え?」  だが、開いた目に映った光景……それが少女、櫻井螢の思考を再びおかしな方向に転がしていく。 「え……ここ、何処?」  目に映る天井に見覚えはなく、素早く上体を起こして見回した室内は、さらに見覚えのない場所だった。 「えっ…と……」  軽い混乱を覚えつつ、呆けた顔で記憶を手繰る。何かとても思い出さないほうが身の為みたいなこともあったような気もするが、生来の生真面目な性格がそういう逃避を許さない。 「あ、ちょ……えぇ?」  そして、記憶のパズルがはまるより早く、肌を刺す寒さに気付いたのは幸か不幸か。 「な、な、なんで裸……?」  全裸。限りないオールヌード。身体に巻かれていた包帯はすでにだらしなく解けており、彼女の細い裸身は朝の寒気に容赦なく晒されていた。  包帯……そう、なんで包帯などを巻いたあとがあるのだろう。血の滲んだそれを見る限り、自分は負傷をして、誰かが治療してくれて、そして、そして…… 「―――――」  思い出した。思い出してしまった。え、ほんとに? 夢じゃなくて? あれは現実……? 「あぁ~~……」  やらかしてしまった。なんてことだ。今、隣を見るのがとても怖い。  項垂れたまま顔に手をあて、どうしたものかと考える。 「マンガじゃないんだから……」  酔った勢いで過ちを犯した後、我に返った朝のベッドで苦悩する妻子持ちの男性……そんな絵面が脳裏に浮かび、自嘲だか自己嫌悪だか自己憐憫だかよく分からない感情がふつふつと湧き上がる。  逆じゃないか、普通。なんで女の自分が、こんな気持ちにならなければいけないのだ。  と怒ってみても、昨夜の行状を思い返すに加害者はもろ自分。  どうしよう。謝ろうかな? でもそれって、汚くないかな? こういう場合、言い訳しないで堂々とするのが男らしい……ていうか私女だし。  そんな感じでぐるぐると悩んだ挙句、とりあえずは、まあ…… 「……おはよう、藤井君」  手で顔を覆ったまま、指の隙間から見える隣の少年にそんなことを言ってみた。 「忘れましょう。そうしてくれないと、凄く困る……〈昨夜〉《ゆうべ》の私は、私じゃないの」  言い訳めいた、というか言い訳でしかないことを口にしつつ、素早く、しかし隣を刺激しないように立ち上がる。  とりあえず、全裸はまずい。いま彼が目を覚ましたら、どんなリアクションをしていいか分からない。  まず服を着て、顔を洗って、歯を磨いて。このぼさぼさ頭を整えてから、できればお化粧なんかもしておかないと……  外面を考え付く限り武装しないと、今朝は彼と向き合えない。 「……いや、逃げればいいのか」  別に仲良く朝食を囲むような仲でもないし、さっさとこの場から退散するのがよりベターだ。そしてそのためには、何を置いてもまずは服…… 「て、なんでないのよ」  全裸のまま室内をうろついて、呻くように呟く螢。ここに服がないとなれば別室を探るしかないのだが、そのためには裸で歩き回らないといけなくて。  今でも大概恥ずかしいのに、そんなこと出来るわけない。  でも……やるしかないのか、この場合。 「…………」  そうだ。数秒考えた末、名案が閃いた。というより、今までそこに思い至らないことの方がどうかしていた。 「……藤井君、起きないでよ」  彼が使っている――さっきまで二人で使っていた毛布。これを身体に巻けばいい。そう考えて、起こさないようにそろそろと毛布を引っ張る。 「…………」 「…………」 「…………」  何をやっているんだ、私は。  自分の行動がとてつもなく情けない。だんだん腹が立ってきた。  そもそも、この男の子は何を呑気に寝入っているんだろう。  今まで散々人に悪態をついて露骨に警戒しておきながら、無防備にもほどがある。身の危険とか、感じないのかしら?  まさか、まさかとは思うが彼、昨夜私とああいうことになったから、その、なんというか、あの、上手く言えないけど、つまりつまり…… 「……男って、馬鹿ばっかり」  腹立ち紛れにそう呟き、次いで本当に腹が立った。  いやまあ、冷静に考えれば当たり前のことなのだが、それだけに許せない。  元来気の長い性分でもない彼女が、ついに行き場のない怒りを爆発させかけたその瞬間―― 「アロハ~」 「…………」  狙い済ましたようなタイミングで、闖入者が現れた。 「おぅ、大胆、セクシーっすね。お目覚めはよろしいアルか?」 「……あなたね」 「ん?」 「私の服、返して」 「あぁ」  そのことね、とエリーは肩をすくめて一笑する。 「服ならここに持ってきたから、あんたも面白い格好で固まってないで着替えなよ。あと、蓮くん剥きたいんなら手伝おうか?」  螢は答えず、大股でエリーに歩み寄ると、彼女が持っている服を引っ手繰った。 「あらら、相変わらず無愛想だねえ。知らない仲でもないんだし、もうちょっと砕けて接せないもん?」 「……あなた達が、まだ関わっているとは思わなかった」  どうかしてるとしか思えない。以前、遊佐司狼と本城恵理衣は、自分とそしてヴァレリア・トリファ、加えてヴィルヘルムやルサルカとも対峙して、その実力差を骨身に味わったはずなのに。  自殺志願者のネガティブな選択というならともかく、陽性のポジティブなノリのまま、生身のくせに前向きな姿勢で嬉々と躊躇なく関わってくるこの二人、彼らに対する印象を、率直に言えば狂人だ。 「あなたたちのことは理解できないし、会話したいとも思わない。ただ、一応お礼は言っておく。〈昨夜〉《ゆうべ》は助かった」 「ああ、そりゃお互い様だしね。あんたがあのデカブツ止めてくれなかったら、あたしらやばかったし。 とりあえず、お礼が言いたいなら、そこの寝ぼすけくんに言っとけば? あたしらに恩を感じることなんてないない」 「…………」  内心、なんとも言えない気持ちになりながら、とりあえず今はさっさと着替えてしまうことにする。  だが…… 「ねえ、あなた……」 「エリー、そう呼べって言ったでしょ?」 「エリー……これ、その、下着が私のと違うんだけど」 「ああ、あれ? 可愛いからあたしが貰った」 「…………」 「だってほら、あたしとあんたって、身長とかスタイルが被るじゃん? こりゃ貰っとこうかなぁっと思ったわけで。ちなみにそれは、そこらのコンビニで買ったやつね」 「……普通、他人の下着は欲しがらないと思うけど」 「あれ、そうかな?」 「たぶん……」  だが、どうなんだろう。世間一般の知識が皆無に等しい螢にとって、その印象が正しいという自信はない。目の前の少女も相当ズレている感はあるが、少なくとも自分よりはマシだろうし。 「ただ、あれは高かったんだけど」 「ああ、だろうねえ。そんな感じがしたからパクろうと思ったんだけど。ていうかあんたらって、資金源どうなってるのさ。ヴィルヘルムのグラサンとか、あれパッと見だけどブランドもんでしょ?」 「…………」 「やっぱあれなの? 南米とかの不動産にコネがあったり」 「あのね、あなた……」  頭は大丈夫なのか、この少女。なぜそんなにこにこしながら、私に話しかけられるのか。  危機感とか、警戒とか、仲間を多数死なせた者に対する怒りとか……そういう気持ちは湧かないのか?  自分からそのあたりを指摘するのもなんだか間抜けな話なので言わないが、対処に困るということに変わりはない。  そんな螢の戸惑いをエリーはどう解釈したのか、ケラケラ笑って肩などを叩いてくる。 「まあまあ、そうケチくさいこと言わないで。あんたのブラとパンツは、ここの宿泊代と治療費代ってことにしときなよ」 「さっきは、恩に着るなって……」 「あ、そうだっけ? じゃあ蓮くんの肉代」  にく、にくって……なによそれ。 「一昔前のブルセラ的お店に売ったら、結構いい値段になるとあたしは……」 「ちょっとあなた――っ」 「え、なに? あたしなんか言った?」  言った。とてつもなく不穏当なことをボソっと言った。この女。 「治療中、デジカメで“持ち主”撮ったし。 ついでに脱がすところもしっかり撮ったし。 とどめに、ゆうべのアハンウフンも隠しカメラで録画済」 「―――――っ」 「ああ、嘘。うそだよ嘘嘘。ジョークだってば、そんなまっぱで凄まないでよ、怖いから。 あんたの下着は、ちゃんと今あたしが着けてるもん。脱ごうか? ほらほら」 「いい、分かった。分かったから……」  色んな意味で目の前の少女が怖くなり、螢は数歩後ろにさがる。 「ん、オーケー。じゃああたしは野暮用でちょっと出るけど、戻るまで大人しくしときなね」 「…………」 「なに、どした?」 「いや……」  やはり駄目だ。言うまい言うまいと思っていたが、不可解すぎて納得できない。  この少女、いったい何を考えて…… 「あなた、私が怖くないの?」 「ん、ぜーんぜん」  返答は、呆れ返るほどの即答かつそんなもの。 「私が大人しくここにいるとでも思っているの? 藤井君や、あなたの彼に、何もしないとでも思っているの?」  目に力をこめて問う螢に、エリーは苦笑しつつ肩をすくめて、傍らを指差した。 「蓮くんが寝てる」 「まだ知り合って日が浅いけど、そんな太平楽な坊ちゃんでもないでしょ、彼。 今のあんたが本当によからぬこと考えてるなら、とっくに目ぇ覚ましてるよ、蓮くんは」 「…………」 「まあ、買い被りかもしんないけど」 「少なくとも、司狼のそういうところは動物並みでね。そんなあいつが、今寝てる。普段ろくに眠らない奴なのに、今はなんでかよく寝てる。 つまり、そういうことよ櫻井ちゃん。今のあんたに毒気はないし、毒気を持ったら男連中は即飛び起きる。疑うなら、試しに一回やってみたら? きっと面白いことになると思うよ」 「…………」 「んじゃね。すぐ戻るから、また後で」  それだけ言って、わざとらしくウィンクなどしながらエリーは部屋から出て行った。 「何を、馬鹿な……」  毒気がない? 逃げる気がない? そんなことは有り得ない。 「何も、知らないくせに……」  あなたに私の何が分かる。私の人生の何を知っている。  何も、何も知らないくせに……敵のくせに……  友人面して、分かったような顔をされるなど屈辱だ。 「あなたもそうよ……」  呟いて、足元の蓮を見下ろす。  どう見ても無防備ではないか。今の彼を殺すことなど、赤子の手を捻るより容易いだろう。  なのに、どうして…… 「そんなこと、あるわけないでしょ、馬鹿……」  乱暴に頭を振って、螢は身を翻した。すでに全裸がどうのこうのは気にもならなくなっていたが、何時までもこのままではいられない。とりあえず服を着ることにする。 「ほんと、安物……嫌な女」  エリーがコンビニで買ってきたという下着のごわごわとした感触に知らず螢は毒づきながら、なぜ目の前の少年を殺そうとも、この場から去ろうともしないのか、それについて考えていた。  すでにここのスワスチカは開いている。ならばこれ以上の殺人は無駄になるし、彼を生かしておいたほうが新たな戦場を生み出しやすい。  殺さないのは、そういうこと。  逃げ出さないのは、ここで彼らに懐柔された振りをするのも、先の展開を見据えれば一つの手だと思ったからだ。 「そうよ」  他意はない。自分の心は一寸たりとも揺れていない。  そう思い、思い込んで、着替え終わった螢は、なぜかいたたまれなくなって、ともかくこの部屋から出ることにした。 部屋から出て行く櫻井の気配を感じてから、俺はうっすらと目を開けた。 まったく本城のやつ、傍で聞いてりゃ冷や冷やもんの綱渡りみたいな会話をしやがって。お陰で起きるに起きれなかった。 とはいえ、櫻井…… 「あいつ、結局なにもしなかったな」 本城の言う毒気云々が抜けたのか抜けてないのか、またそれの有無で俺の目が覚めたのかどうかは分からない。ただ枕元でばたばたやってりゃ誰だって起きるだろという、実に当たり前かつ面白みのない事実に従って、俺は結構前から目を覚ましてた。 正確には、おはよう藤井君と声をかけられたのとほぼ同時に。 その後櫻井は、服がないない呟いて部屋中うろついてたし、あの状況で、やあおはようなんて言えるほどの強心臓は持ち合わせていない。 まあ、毛布剥がれそうになったときは、流石にちょっと焦ったけど。 分かっているのは、結局のところ今の櫻井がどういう精神状態なのか不明だという事実だけだ。 少なくとも俺に危害を加える気はないようだったが、このまま逃げないとも限らない。やはりここは、追うしかないか。 「……よし」 と決意して、上体を起こしたときだった。 不意に、俺の携帯が鳴り響く。傍らに脱ぎ散らかしていた上着から電話を取り出し、何事かと出てみれば。 『よぉっす、タイショー。お目覚めか?』 「……おまえかよ」 同じ建物内にいるにも関わらず、わざわざ携帯使ってくる辺り、こいつが何を考えているのかさっぱり分からん。 「本城がおまえは寝てるって言ってたけど?」 『ん、ああ、ついさっき、目ぇ覚めたよ。おまえもそうか?』 「まあ、そんなもんだな」 『気があうじゃん。そんでまあ、寝起き早々、おまえに苦情っつーか言いたいことがあってだな』 「苦情?」 なんだそりゃ? 俺からおまえに文句言いたいことは山ほどあるが、その逆は心当たりまったくないぞ、正味な話。 〈訝〉《いぶか》っていると、司狼は電話越しにも分かるほど大仰に嘆息して。 『あの姉ちゃん、もっとがっつり調教しとけよ。いきなり人のこと蹴り飛ばして、シャワー室何処? とか抜かしちゃってくれちゃったよ』 「…………」 『いかんね、どうも。あれは男っちゅーもんを舐めてるね。しかも蹴り飛ばされるまで目ぇ覚まさなかったオレを見下ろして、ふんやっぱりこんなものよ、とかボソボソ言ってたぜ。どうなんだよ』 「ああ……」 まあなんというか、災難だったな、おまえ。 「とりあえずそれについては、本城に苦情言っとけ」 『ああ? エリー? あいつがどうかしたんかよ?』 「いや、あいつが妙なことを吹き込んだせいっていうか、とりあえずそれはいい」 「櫻井は、今シャワー浴びてんのか?」 『そういうこと。まだ復旧作業は100パーいってねえけど、それくらいは終わったみたいだな。エリーのやつ、どうせろくに寝てねえぜ』 「なるほど、じゃあたぶん、嫌がらせの当て擦りだな」 自分が徹夜状態なのに、ぐーすか寝てる男連中。腹に据えかねたので、櫻井煽って蹴り飛ばさせたということか。 いい性格してるな、あいつ。 「で、その本城は何処行ったんだ? なんか野暮用とか言ってたけど」 『あ? なに言ってんだよ。そもそもおまえの要望だろうが』 「は?」 『だから、バカスミだよバカスミ。あいつ拉致りに行ってきた』 「ああ」 そうだった、忘れてた。今日からあいつを学校に行かせるわけにはいかない。 「しかし本城、大活躍だな。あとで礼でも言っとくか」 『いや、別にいいんじゃね? あいつそういうの鬱陶しがるし』 『それよりよ、今こっちはこっちで、面白ぇことになってんだけど』 「面白いこと?」 意味が分からず聞き返すと、なにやらガタガタと機材を運ぶような音が聞こえて、一拍の後…… 『ちょ、だからやめなさい。あなたなんなの、あ、だめ、駄目だったら、変なとこ触らないで』 『ケイは背が高いねぇ、なに食べたらそんなに大きくなるの? 教えてー』 『いや、なにって、別に……ていうか、あなたの胸こそなに食べたらそんなに大きくって、うひゃあっ』 「…………」 えーっと、その、なんだこれ? 『あ、ちょっと、いやよ、だめだったら、どこ舐めてんのよ、こら、ほんとに駄目だってっ』 『でも昨日、ケイはレンにこういうことしてた』 『――ッ、ちょ、待ちなさいよ。あなたなんで知ってるの? あいつ? あの女、やっぱり本当に盗撮してたの? ねえ、ちょっと、聞きなさいっ』 『とうさつってなにー?』 『なにって、それはその……覗きっていうか』 『なにを覗くのー?』 『だから、そういうことを、あの、その、ああもう、本当に怒るわよっ、やめなさい』 「…………」 司狼、おまえ…… 「何してやがんだ、こら」 『盗聴だ』 「自信満々に吹いてんじゃねえこの大ボケ野郎っ!」 香純のホクロ事件といいこれといい、こいつ日頃は女なんか興味ねえみたいな顔しといて、やらかすことの一発一発がいちいち犯罪的なんだよ。 「すぐ消せっ、いま消せっ、マッハで配線抜いて機材ぶっ壊せ、このアホ!」 『うるっせえなあ。ここはオレんちなんだから、家主権限ってもんがあらぁな』 「おまえの家主権限は盗聴権とイコールなのかよ。いっぺん死ね、頼むから」 『だぁーかぁーらぁー、なんでおまえが怒るんだよ。いいじゃねえか声くらい』 『絵は届いてねえんだから、こんなもん銭湯で壁越しに聞こえる会話と何が違うっつーんだよ』 「む……」 確かにまあ、そう言われればそうなのかもしれないが…… 『ケイは、わたしのことも嫌いなの?』 『嫌いって言うか、あなたのこと知らないっていうか……そもそも、“も”ってなんなのよ』 『きらいよ、フジイくんなんてきらいなんだから。絶対わたし、許さないんだから』 『―――――ッ!?』 『後悔するから、知らないんだから、誰にもわたしの邪魔なんか、させないんだから』 『でも、今夜はありがとう』 「―――――ッ!?」 『あっはっはっはっはーっ!』 司狼、このクソボケ、マジ殺す。 『いいキャラしてんなあ、マリィちゃん』 「てめえのキャラは何処を目指して走ってんだよっ!」 なんかこれまでコツコツと積み上げてきた緊張感とかシリアス感とか、そういうものを残らず木っ端微塵に吹き飛ばす。てめえバカくそ、どうしてくれんだ。 『いいじゃねえか、もう。一度落ちるところまで落ちてんだから、開き直っていこうや。むしろこっからの巻き返しはすげえぞ』 「ワケ分かんねえこと言ってんじゃねえよ」 とにかく、こんなところで携帯相手に怒鳴ってても仕方ない。 「司狼、おまえ何処にいる。今すぐ行くから場所教えろ」 『んー、おまえのところからだと、まずドア開けて左に曲がって、最初の信号を右見て左見てバックオーライ』 「こらァッ、てめえ! 舐めとったらいわすぞ」 『怒んなよ。なんだおまえ、珍しくいきっちゃって。やっぱりあれか? あのお姉ちゃんのことがちゅきになりまちたか?』 「んなワケあるか、バカ!」 『あー? なんだって? よく聞こえんなー?」 「だから、なあ……」 キレた。キレました。近年まれに見るくらい、この阿呆にキレました。 「俺は、断じて、櫻井なんか好きじゃねえぇぇッ!」 とエコーがかかるくらい。 て、エコー? 『……ねえ、藤井君』 同時に、怒りに打ち震える櫻井の声が、備え付けのスピーカーから部屋中に響き渡った。 まるで地の底から響くような。それは臓腑を締め上げる呪詛の声。 『あとで、大事な話があるの。絶っ対に逃げないでね』 『レン、そんなにケイのことが嫌いなの?』 いや、嫌いだよ。嫌いだけど、今はそれ以上に、心の底から殺したい奴が一人いるんだ。 『あー、エリーがいねえから暇でよぉ』 おまえだおまえ。ほんとに真剣、絶対殺すから覚悟しとけよ。 「とまあ、そんな些細なジャレ合いは置いといてだな」 「オレはおまえらが好きだ。実にいじり甲斐があって萌える」 俺が蹴り飛ばしたテーブルを櫻井がぶん殴り、飛来したそれを鼻歌交じりに避ける司狼。 「おおぉ~~」 それを見て、マリィは拍手などをしつつ感心していた。 「あなた、友達は選びなさいよ」 「おまえに言われたくねえよ」 俺と櫻井は俺と櫻井で、非常に険悪なムードだった。 そうじゃなくても、じきここには香純が来る。この状況下であの人間爆弾ぶち込んだら、どんな惨事が起きるやら……想像するだに恐ろしい。 「おい、櫻井」 だから無駄と知りつつ、駄目もとで言ってみた。 「これから先、しばらく話合わせてくれ」 「どういうことよ?」 「香純がここに来る」 「ふぅん」 だから何よ、と言わんばかりの顔で、冷たく俺を見る櫻井。 「話を合わせるって、具体的に何をどうするっていうのよ」 「そこらへんは臨機応変だ」 マリィは空気読めないし。司狼は読んだ上で引っ掻き回すし。どうせ本城もそんなんだし。香純はパーだし。 非常に不本意かつやりきれないが、手を組めそうなのが櫻井しかいない。 「嫌よ。なんで私が。だいたいあなたのこと、嫌いだし」 俺だって嫌いだよ、という台詞が喉まで出掛かったが、ぐっと堪える。 「かっこ悪。場当たり的な嘘ばっかりついてるから、後になって困るのよ」 それは確かに、返す言葉もないが。 「だいたい、藤井君はいい加減なのよ。あっちにふらふら、こっちにふらふら、みんなにいい顔しようとするから、そうなったんでしょ」 「その子のことだって、よく知らないけどなんだか仲がいいみたいだし」 「あ、マリィのことか?」 「外国人は嫌いなんじゃなかったかしらね」 そりゃあおまえの仲間連中のことだろう。 だいたい、あれだ。こいつならマリィが何者かってことくらい、感覚で気付きそうなものなのに。 ここ数日における形成具現の乱発で、いとも容易くマリィを出せるようになったのはいいんだが、どうもこの子、俺の意志に関係なく勝手に出てくることもあるようで。 その辺り、彼女は特別なのかもしれない。だから櫻井も、未だマリィの正体に気付かないのか。以前一度、タワー前でニアミスしたにも拘わらず、聡いこいつにしては随分と勘が鈍い。 まあ、知られないほうがいいのは確かだけど、今の櫻井はらしくなく注意力散漫だった。 「なによ」 「別に」 ていうか、やっぱムカつくなこいつ。なんでこう、一方的に睨まれなきゃいけないのか。 「なにか言いたいことがあるなら言えば?」 「粘着女」 「いやあ、女なんて基本的にどいつも粘着だろ」 「ねえねえわたしは?」 「あ? キミはそうね、きっぱりっつーかばっさりっつーかどっきりっつーかびっくりっつーか」 「ついでにオレはすっきり爽やかっつーか」 今度は櫻井が傍のキャビネットを蹴り上げて、俺が灰皿をぶん投げた。またしても司狼はそれを躱す。 「おおぉぉ~~」 「危ねえなあ。ヒトんちの備品、勝手に壊さないでくれるか」 「…………」 多少は〈司狼〉《バカ》に免疫がある俺とは違い、櫻井はかなりヤバイ領域で肩を小刻みに震わせていた。 「……こんなに腹の立つ男、初めて」 「やっぱり私、もう帰る。なんでこんな所にいるのか、よく考えなくても変だし」 「じゃあね、藤井君。せいぜいあとは頑張って」 「おい、ちょっと待てよ」 「うるさいわね、何よ」 何よ、と言われても、こいつには色々と聞かなきゃならんことが多々あるし、そのために介抱したんだから、ここで逃げられたら本末転倒もいいところだ。 が、面倒なことに一晩で全快してしまったらしく、無理に引き止めるとなれば力ずくになりかねない。 今の状況で、その展開は正直かなり困る流れだ。いつ香純が来るか分からないのに、ここで暴れるわけにも暴れさせるわけにもいかない。 「だから言ったでしょ。後悔するって」 「藤井君、なんか色々考えてるようでいつも行き当たりばっかりなんだから」 「いや、こいつは色々考えて頑張れば頑張るほど、事態が悪い方向に転がるっていう稀有な才能の持ち主でだな」 「ほっとけ」 「そうよ、あなたは関係ないでしょ」 「じゃあ、関係あるの連れてきたよー」 と、にこやかに、とびっきりの笑顔で本城が帰ってきた。 しかもこいつ、救急病院で患者を運ぶような台車つきの担架を押しながら。 その上では、死体袋みたいな芋虫状の物体がうねうねともがいている。 「…………」 「…………」 「…………」 「ん、どうかした?」 どうかした、じゃねえよ。 「あ、カスミだ」 マリィが死体袋のファスナーを開けると、中からなんかもう、名状し難いヘンなのが出てきた。 「むごーっ、もががー、ぐもー」 「蓮、おまえの知り合いかこれ?」 「いや、知らん。誰だこれ」 「もがーっ、もが、むごご、もがーっ!」 「あはは、なんかあたしもメンド臭かったからさー」 とりあえず、いま目の前にある物体がどういう様になってるかは語りたくないんで、好きに想像してほしい。 ただ、俺の気持ちを率直に言うと。 「……馬鹿ばっかり」 櫻井がものの見事に代弁してくれたんで、もはや溜息しか出てこなかった。 それで。 「むぅ~~」 再度重苦しいBGMが流れる中、香純に説教をされている俺。 姿勢はまたしても正座で、マリィは付き合いよく横に倣い、櫻井は知らんぷり。司狼と本城は香純の後ろで、マジック片手になにやら紙に書いていた。 「今度という今度は、ちゃんと説明してもらうからね」 「蓮、あんたいったい何やってるのよ。なんでこんな所に、マリィちゃんや櫻井さんと一緒にいるの」 「なんでっつわれても……」 櫻井に目を向けても清々しいくらいのシカトだし。マリィには期待するだけ無駄だろうし。 と思っていたら。 「レンが3Pしようとしたんだけど、ホテル代がないからってここに連れてこられたの」 「はあっ?」 「……マリィ、後ろの奴らのカンペは見るな」 『なんだったらおまえも入るか? 俺は絶倫だぜ、へっへっへ』本城筆。 『ああ、でもやっぱおまえ、剣道部の防具臭いからいらね』司狼筆。 『でもレンは匂いフェチだよ?』本城筆。 『そうね、藤井君はちょっと変態的なところがあるから』司狼筆。 『昨夜だってそう、私の身体をまるでケダモノのように貪って』本城筆。 『いやだわ、思い出したらまた火照ってきた。ねえ綾瀬さん、よかったら慰めてくれないかしら』司狼筆。 『えぇ、そんな、あたしそっちの趣味はないのに。あー、だめよやめて、蓮が見てるぅ』本城筆。 「え、えっと……」 「…………」 「おまえら、帰れ」 『ここはオレんちだ』司狼筆。 『いや、あんたは勝手に住み着いてるだけだし』本城筆。 「って、何をふざけとるかそこぉーーーっ!」 『いやん、怖い』本城筆。 『怒っちゃやだ』司狼筆。 「口で喋らんか、口でぇっ!」 まあ、落ち着け香純。 今はそれより、全身から負のオーラを発している櫻井のほうが俺は怖い。 「だいたい司狼、あんたいなくなったと思ったら、こんなところで遊んでるし。何がどうなってるのか、あたしちっともさっぱり分かんないっ」 「まさかあんたら、あたしに内緒でずっと連絡取り合ってたんじゃないでしょうね?」 「いや、それはない」 「蓮と会ったのは、一昨日の話だ」 「ほんとにっ?」 「ほんとに」 「あたしの目を見てっ」 「こうか?」 「近いっ、よるなバカ、タバコ臭いぃっ!」 切れて喚きだす香純と、にやにやしながらそれを弄る司狼の図。非常に懐かしいというか少し前まで定番だったやり取りを目の前にして、和む……というわけにもいかないが妙な気分になってしまう。 「だいたい、この子誰?」 大声の出しすぎで疲れたのか、肩で息をしながら本城を指す香純。 「学校に行こうとして部屋から出たらいきなり目の前にいて、なんかハンカチみたいなの鼻と口に当ててきたと思ったら、あたしはすぅーっと」 意識が飛んで、気付いたらここに連れ込まれてたというわけか。 「……おまえ、マンガの人攫いかよ」 「だって、メンド臭かったんだもん」 「クロロホルムは、発癌性があるんだけど……」 「まあ、こいつなら死にゃしねえだろ」 「くろろ…?」 「とにかくっ」 ばしばしとソファを叩いて、一同に注目を促す香純。さっきから大暴れだ。 「あなたはいったい誰ですかっ! うちのバカ男どもとどんな関係なんですかっ!」 「うちのって、おまえ」 「オレらはおまえの息子かよ」 「うっさい、あんたら黙ってろダメンズコンビ」 「それで……って、うおおぉい、こっち向けぇ!」 「え、なに、あたし?」 本城は香純の言うことをまるで聞いてなかったようで、携帯弄りながら遊んでいた。 そのまま手を止めず、やる気のなさそうな様子で呟く。 「そんな、誰、とか言われてもねえ。強いて言うならセックスフレンドとしか」 「――ぶっ」 「せっ……」 「くす……?」 「ふれんどぉぉっ!?」 「あれ、違ったっけ?」 違うわボケ、何を適当なこと抜かしてんだこのアマ。 おまえと司狼の関係がどうだかは知らないが、今の流れで言ったら俺までそこに含まれるだろ。いい加減にしろ。 「そうなの?」 しかも、なんでおまえにまでそんな汚らわしいゴミでも見るような目を向けられなきゃならないんだよ。 「せっ、せっ、せっ、せっ……」 こいつはこいつで、口をパクパクさせながら硬直してるし。 「衝撃的事実だな、おい」 「まあ、あんたのが使い物になったらそうなるんじゃないかなっていう話をね、仮定だけどね、してみようかと」 「はん?」 ちょっとよく分からないやり取りに一瞬意識が向かいかけたが、同時に何かとてつもない見落としがあったような、洒落にならない〈陥穽〉《かんせい》が、間近でばっくりと口をあけているような。 そういう、何ていうか非常に不吉な予感がした。 さっき本城が言ったこと。あれはあらぬ誤解を受けると同時に、それに連なる二次的な大問題をこの場で発生させかねない爆弾というか電気椅子のスイッチというか。 そんな感じの、ほらアレだよ。やばい、忘れてたのに思い出したぞ。 「蓮っ!」 ほらキタ―― 「あんた、櫻井さんと付き合ってるんじゃなかったのっ!」 「――――なっ」 「え……?」 「ヒュウ~」 「ありゃりゃ」 「どこまで不実カマせば気がすむのよ、この最低最悪のろくでなしがぁっ!」 ああ、もう。俺は頭を掻き毟りたい衝動に駆られてしまう。 「付き合う、付き合う……私が、え……藤井君と?」 「違うのっ?」 「え、あ、違……うっていうか、その、これは……」 「別に違うってことはねえんじゃねえの?」 「ある意味一足飛びで“ツキアッタ”のは事実みたいだし」 おまえら黙れ、マジでほんとに。 「センセー、蓮くんがまた物に動じてないって顔でぐるぐる言い訳考えてます」 「それに比べて、櫻井ちゃんはまだ分かりやすいね」 「な、――わ、私の何が分かりやすいって言うのよっ」 「顔、赤いよ?」 「よぉし、分かったぁっ!」 何をトチ狂ったのか、香純はその場に胡坐をかいて、ばちんと膝を強く叩いた。 何処の仁侠映画のノリだよ、それ。 「蓮、あんたあれ言いなさい」 「あれ?」 「分かってるでしょ、あれよあれよ。前に一回、この話題であんたが煙に巻いたやつっ」 前に一回、この話題……ていうと、おい、まさか―― 「好きって言えっ、今すぐここで」 やっぱりそれかよ。 「全世界に向けて愛をっ」 「ラブを」 「リビドーを」 「連携すんなおまえら」 「えっと、じゃあわたしは何を……」 いや、マリィ……無理して入ってこようとしないでいいから。 「言えんのかぁっ」 「言えるか馬鹿」 「ちょっとどうなの奥さんこのヒト」 「諦めの悪い男ってやーねー」 「おまえらなぁ……」 本当、いい加減にしとけよ。そもそも本城、さっきから茶々入れてくる傍らでずっと携帯弄ってるし。やる気がないなら片手間みたいなノリで場を引っ掻き回さないでくれ。 そこらへん、ちょっと真剣に抗議しようと思っていたら。 「あ、よし、直った」 携帯を弄っていた本城の指が止まり、同時に室内の液晶テレビが電源オンの状態になった。 のみならず、他にも幾つか沈黙状態だった電気系統が復旧する。 こいつ、ずっとカチャカチャ何をやってるのかと思っていたけど。 「おまえ、それで直してたのか?」 「ん、まあ手作業が必要なとこ以外はね。〈携帯電話〉《ここ》からパソコンに情報飛ばして、セキュリティとか予備電源とか、そういうのを間接的に」 「面倒な作業だし、直にマシン弄ったほうが早いっちゃ早いんだけど、ここにいたほうが面白いもん拝めるかなあと思ったし」 「…………」 「なに? あたしのテクにトキめいた?」 「アホかおまえは」 と言っておいたが、正直呆気に取られていた。最近の携帯が色々と便利なのは知っているが、そんなことが出来るなんて知らなかったし。 いやもしかしたら、その携帯自体を改造しているのかもしれない。こいつならやりかねないなと、そう思った。 しかし、とはいえ…… 「蓮、あんたなに他人事みたいな顔で余所向いてるのよ」 それがこの状況を打開するわけでもないしなぁ……どうすりゃいいんだか、本当に…… 適当な嘘をついてきた手前、自業自得ではあるんだが、そろそろ真剣に疲れてきた。それに、さっきから何も言わない櫻井のことも気になるし。 どうせ呆れ返って何も言えないだけだろうけど、やはり口裏合わせてくれるわけもないことだった。いっそのこと、香純にはもう一回クロロホルムでも嗅いでもらおうかと思っていたら…… 「…………」 櫻井は、何か神妙な顔でじっと黙り込んでいた。 いや、こいつだけではない。 「…………」 「…………」 司狼も、そして本城も。 訝った俺は、そのまま連中の視線を追ってみると…… 『昨夜遅く、諏訪原市の―――一帯が、原因不明の火災により、炎上』 「……え?」 「ちょっと、おい、待て……」 一瞬、俺は耳を疑った。 火災? しかも昨夜に? この街で? 『延焼は同市の行楽地である湾岸のテーマパークと、それに隣接するホテル及びショッピングモール一帯を覆い尽くし、今なお消火活動が継続されている状況ですが、火勢は一向に衰えを見せず』 『これによる被害はまだ正確に出ていませんが、人命的にも金額的にも、未曾有の大惨事となろうことはもはや疑いようもなく』 「そんな……」 「遊園地が、吹っ飛んだ?」 「ありえねえだろ、さすがに」 香純はもとより、司狼や本城すら愕然としている。もちろん、俺も同様だ。 遊園地一帯を総て燃やし尽くすなんて、たった一晩のうちにそんなこと、どう考えても出来るはずない。あの辺りには石油タンクや原子力発電所といった、いわゆる火種になりそうな施設は何も存在していないんだ。 だがテレビには、そんな常識的意見など嘲笑うかのように燃え上がる炎の柱が映っている。超高熱で飴のように溶け崩れたジェットコースターや観覧車の鉄骨と、今このときにも崩れ落ちようとしている高層ホテルが幾つも幾つも…… 「信じ、られねえ……」 いったい何をどうやったら、こんなことが出来るっていうんだ。これはどこからどう見ても、火事なんて言葉で治まるようなものじゃない。 まるで戦場。爆撃だ。街中で核爆弾でも炸裂したかのような、桁外れの大破壊。 「………まさか」 呟く櫻井の顔色は、恐ろしいほどに蒼白だった。気丈なこいつが、怯えるように肩を抱いて小刻みに震えている。その様子からも、この事態が奴らの手によるものであることは明白だった。 連中の中に、これだけの真似を行える奴がいる。――いや、あるいは戻ってきたのか? 櫻井の怯えは、おそらくそのせいなのだろう。シュピーネ曰く、絶対にこちらへ戻してはならない怪物の一人が帰還したのだ。 「…………」 「おい――」 崩れ落ちる櫻井の身体を、俺は咄嗟に抱きとめる。彼女は気を失っていた。 「司狼……」 「ああ、こりゃジャレてる場合じゃねえな」 それでもやはり、司狼はどこか楽しげに一笑して、こちらも放心している香純の肩に手を置いた。 「とりあえず、おまえ今日は学校休みな。外がこんな騒ぎになってちゃ、授業どころじゃねえだろう」 「あ、で、でも……」 「おまえの疑問にゃ、そのうち蓮が答えるだろうよ。今は聞き分けよくしとけ」 「う、うん……」 「よぉっし、じゃあどうすっかなエリー」 「まずは朝飯? 腹が減ってはってよく言うし」 「だな。んじゃ香純、おまえあいつと一緒にオレらのメシ作ってくれよ」 「え、ちょっとそんないきなり言われても」 「悪い、頼むよ」 「……ぐっ」 呻いて、一瞬不満そうな顔をする香純だったが。 「……はあ、分かった。分かりましたよ。ともかくご飯作るから、色々話はその後で」 「じゃあ香純ちゃん、こちらへどうぞぉ」 「~~、ていうか、なんであなたがあたしの名前を……」 「エリーよ、エリー。よろしくね」 「うん、まあ、その……よろしく」 単純なのか人が善いのか、どっちでもあるんだろうけど、香純はぶつぶつ言いながらも大人しく本城の後についていった。 さて、それなら俺はどうするべきか。 「なんつーか、意外に神経の細い奴だよな、その姉ちゃんも」 「ああ、そうだな……」 俺の腕で気絶している櫻井を見下ろし、思う。 おそらくは、遊園地もまたスワスチカの一つだったに違いない。昨夜のシスターが〈クラブ〉《ここ》を三つ目と言っていたのを考慮すれば、これで四つ。全体の半分がすでに開いたことになる。 あとは何処だ? うち一つはなんとなく気付いているが、他はまるで分からない。 だから櫻井、俺はおまえから、それを聞きださなければいけないんだ。 「レン……」 歯噛みする俺を気遣うように、マリィが声をかけてくる。見れば彼女の緑の瞳は、微かに震えているように感じられた。 喜んでいるような、困っているような、そして怯えているような…… 「カリオストロが笑ってる。怖い人が来たって、もう止まらないって笑ってる」 「…………」 「ねえレン、わたしはどうしたらいいのかな?」 答えるべき言葉が浮かばない。彼女と共に、これから俺は、何に向かいどう戦うのか…… 甘いのか、馬鹿なのか、しょせんガキの安い覚悟に過ぎないことだったのか。 本物の戦場。掛け値なし、純粋な戦争の怪物。 その出陣を予感して、櫻井を抱いたまま、俺は湧き上がる恐怖心を抑えることしか、今は何も出来なかった。 そうして結局、本格的な事情説明が始まったのは、櫻井が目を覚ました夜半になってからのことだった。 「じゃあ本当に、二人は付き合ってると思っていいんだよね?」 「ああ……」 「……まあ」 ぶっちゃけた話、こんな話題はどうだっていいんだが、香純がやたらとそれについてだけ気にするので、引き続き猿芝居を打つ羽目になっている。 「絶対、絶ぇぇっ対、嘘じゃないよね? これで騙したら、あたしもうほんと怒るよ?」 俺は無言で両手をあげて、嘘じゃないとアピール。 「櫻井さんはっ?」 「あ、ええ、おおむね……」 とりあえず、どういう心境の変化か知らないけど、櫻井が口裏合わせてくれてるのには助かった。後が怖いとか、そういうことは今考えないでおこう。 ちなみに、司狼と本城はここにいない。晩飯買ってくると言っていたが、まあおそらく嘘だろう。昨夜の一件でここの奴らがほぼ全滅したから、武器なり情報なりを自ら動いて集めないといけなくなったんだと思われる。 まだ懲りずに関わる気なのかと言いたかったが、身近に人死にが出た以上、あいつらだって引っ込みはつかないはずだ。本音を言えば止めたいが、どう言って止めたらいいのかもはや俺にも分からない。 だから、今はこっちを優先する。マリィはさっさと寝てくれたんで問題ないし、あとは香純を抑えることに成功すればひとまず落ち着く。 はずなんだけど。 「おおむねってどういうこと?」 しつこいんだよ、こいつが。いつまでもしょうもないネタを引っ張りすぎっていうか拘りすぎっていうか、別に俺と櫻井がどうだろうが構わないだろうに。 「なによ、そのすっごい嫌そうな顔」 「だって、なあ……」 さすがにうんざりしながら、俺は言う。 「さっきからおまえ、どれだけこの話題でいってんだよ」 「こんな、いかにもつまんねえこと」 「つまんない?」 「悪い、失言」 まあ、理屈は分かるよ。とりあえず複数人に関わることで、ガチに真実ってことが一つはないと、他の全部もまとめて信憑性が怪しくなるって言いたいんだろ? 香純から見て、もっとも嘘をつかなさそうなのが櫻井なんだろうし。 それは分かる。分かるけどさあ…… 「おまえ、しばらく学校休むってことにはちゃんと納得してるんだろうな」 「まあね」 そっちには特に言い返すでもなく従ったのに、俺と櫻井の関係についてはごらんの通りとてもしつこくやかましい。 「ていうか、さっき友達からメールがあったし。さすがにあんなことが起きたから、学校お休みになるってさ」 あんなこと……つまり遊園地一帯を丸ごと焼失させた大破壊。 言ったように、あの辺りには爆発を誘発するような可燃性の施設などない。にも拘らずあんなことが起きたから、さすがにテロだなんだとテレビで言われ始めている。 連続殺人事件に続いて、テロ紛いの大爆発。ここまでのことが起きてしまえば、たとえ呑気なうちの学校でも休校になるのは当然だろう。喜ぶべきことじゃないし喜んではいけないんだが、そのことだけは助かったし安心したというのが俺の本音だ。 「なので、しばらく暇になるし、いい機会だから今まで〈有耶無耶〉《うやむや》にされてたあれやこれやを、まとめてはっきりさせようとあたしは思うの」 ただ、これさえ無かったらな、と思わずにはいられない。 香純のツッコミは、おおまかにいって以下の三つだ。 まず第一に、なぜ俺が司狼と会っていたのか。本当につい最近まで連絡を取ってなかったのか。 そして第二に、なぜ櫻井はともかくマリィまでもが一緒なのか。 そして第三に、あんた本当に櫻井さんと付き合ってんの? とまあ、残らず総てしょうもない。 その一は本城に半ば無理矢理連れてこられたという、ほとんど真実を話しただけなので特に問題なかったし、その二も当のマリィが寝入ってるんで、勝手についてきたと言っておけばどうにかなった。 だが、その三がやたらと手強い。 そりゃ俺だって、逆の立場だったら絶対信じないと断言できるくらい胡散臭い話だけど。 とにかく、櫻井がいつまでも付き合ってくれるとは限らないし、さっさと納得させてこの馬鹿は寝かすべきだ。俺は俺で、やらなきゃならないこともある。 「どうすりゃ納得するんだよ……」 「だから、さっきから言ってるじゃないの。分かってるくせにしらばっくれるなんて男らしくない」 「櫻井さんだって聞きたいでしょ?」 「え、ああ、それはまあ……」 「ということだから蓮、ここはがっつり漢を見せて――」 「おまえは珍しく俺をいたぶれるのが楽しいだけだろ」 「えー、そんなことないですよー」 嘘だ。絶対嘘だこの野郎。 「さあ、それじゃあいってみよぉー。藤井蓮がぁ、いま一番好きな女の子の名前はぁー」 「ダラダラダラダラダラダラダラダラダラダラダラ、――ジャジャーン」 「――はいっ」 殴りてぇ…… 「……櫻井」 もはやそう言うしかなかったんで、俺は言った。 「そんな嫌そうな顔でそっぽ向きながら言われても」 「ねえ、こんなんじゃ気分悪いでしょ、櫻井さんも」 「いや、私は別に、そういうのはどうだって」 「えぇ、ほんとにぃ~~」 「本人がいいって言ってんだからいいだろ」 「だってさあ、これじゃああたし、なんか納得できないし」 と、未だにぶつぶつ言っている香純の様子に櫻井は溜息をついて、いきなりとんでもないことを言いだした。 「だったら、もっとそれらしいところを見せればいいの?」 「えっ?」 「キスとか、抱き合うとか、なんだったらその先も」 「え、あ、うえ……」 「見たいの、そんなのが。綾瀬さん」 「う、うぅぅ~~~」 一転、香純は、寒い日のスズメみたいに縮こまってぷるぷると震えだした。 「れ、蓮~~」 いや、そこで俺に救いを求められてもな。 なんだか妙な罪悪感を覚えたが、ここで下手にフォローするのは藪蛇だし。 「見ててね」 その間にも櫻井は、やたら堂々とした感じで香純の前を横切ると、俺の方へやってくる。 「藤井君、動かないでね」 そして、こっちの首に両腕を回してくると、もたれるように体重を預けつつ顔を寄せて…… 「わー、わーわー、分かりましたごめんなさいすみませーん」 あと数センチで互いの唇が触れ合うかというときに、香純は降参して両手をあげた。 「そ、その、もういいから、分かったから、疑ってないからそのへんで」 「あら、見ていかないの?」 「み、見るも何も、人前でそういうことしちゃ」 「じゃあ、出てってくれる? 私は続きがしたいから」 「え、で、でも……」 「おい――」 さすがに見ていられなくなり、俺は櫻井をやんわりと引き剥がした。 「悪ふざけがすぎるぞおまえ」 「だって、もともとあなたが言い出したんでしょ」 「そりゃ、自覚してるけどな」 いくらなんでも、ここまでするのは悪趣味だろう。俺は言いようのない自己嫌悪を覚えながらも、おろおろしている香純の方へと目を向けた。 「悪いけど、隣の部屋に行っててくれるか? 俺はこいつと話があるから」 「え、あ、うん……」 「心配しなくても、別にヘンなことしねえから。本当に話すだけ」 「わ、分かった。あの、ごめんね、櫻井さんも」 「ああ…」 と、香純はぎくしゃくした挙動のまま、逃げるように部屋から出てった。 まったく…… 「何か私に言うことは?」 「ねえよ」 さっきまではほんの少しだけ感謝してたが、今のでムカついたからプラマイゼロだ。 「勝手ね、あなた。まあ、私の周りはそんな男ばっかりだけど」 「あんな奴らと一緒にするなよ」 ともあれ、これで櫻井と二人きりになる状況は出来あがった。香純に対する諸々のフォローは全部片がついた後に纏めてやるということで、今はこいつと話をつけなければいけない。 「おまえだ」 もう面倒と言うか、妙な嘘をつきたくもなかったのでそう答えた。 「へ、あ、あたしぃ?」 「そう」 なんか文句があるのかと言わんばかりに指差して、わたわたと手を振ってる幼なじみに一言一言、俺はゆっくりと言い含める。 「腐れ縁だしな。女っていったら、まずおまえが浮かんでくるのは当たり前だろ。実際、好きかって言われりゃ好きだし」 「で、でも、だったら櫻井さんは」 「こいつはまた別問題」 ていうか別次元。 「そ、それはつまり、ライクとラブの差なのでは?」 「さあ、俺はそういうのよく分からんし」 「だ、駄目よそんなの。友達に対する好きと彼女に対する好きはきっちりぱっきり分けないと」 「携帯とかに、こう、ずらーっと、ずらずらーっと、女の名前が百も二百も入ってて、誰これって訊いても平気な顔で友達とか言うイケメンあたし絶対認めませんっ」 「ていうか男女で友情なんかあるかバカぁーっ!」 ……何をムキになってるんだ、こいつは。 「それについての議論はどうでもいいけど」 「どうでもよくないっ」 どうでもよくしようよ。 「そんなん語りだしたら一晩かかっても終わらないだろ」 「じゃあ、今から一晩語ろうよ」 「……勘弁してくれ」 そんな腐れ鬱陶しい話題引っ張れるかよ。一晩どころか五分で燃え尽きる自信があるぞ。 「そもそもあなたがそっち方向に話を持っていくから悪いんじゃない」 「なんでおまえまで不機嫌なんだよ」 「そんなことも分からんのかこのバカちんがぁーっ!」 「ほんと、馬鹿」 「ばーっか」 「最低」 「最悪」 「最狂」 「最萌え」 「いや最後の違うだろ」 馬鹿はおまえだ。 「なにうっかり本音言ってるのよ」 「違うっ、違うのっ!」 再びソファをばしばしやりながら、転げまわるバカスミ。 ほんと、今日も全開で頭が可哀想な人だな、おまえ。 「あたしはただ、あんたがヘンなこと言うから櫻井さんに嫌われたらどうしようって思ってるのっ!」 「ああ……」 「別に嫌ってはいないけど」 「本当っ?」 と、櫻井が何か言うより早く俺が間に割って入った。 「そういうことなら、これ以上邪魔しないでくれ」 「じゃ、邪魔ってなによ」 「おまえが喚き続けてるせいで、さっきから二人きりになれないだろ」 「ふた――」 「……んないちいち硬直すんなよ。こっちが恥ずかしくなってくる」 「でも、そうね」 櫻井が苦笑して、香純の肩に手を置いた。 「私は彼と話があるから、少しの間席を外してくれないかしら。そんなに心配しなくても、本当に話すだけだし」 「あ、あたしは別に、心配なんて」 「そう、だったら――」 くい、と親指でドアの方を指す櫻井。香純はそれに何かしら言いかけたが、結局言われた通り、渋々ながら部屋の外へ出て行った。 まあ、この辺りは貫禄の差だろうな。 去り際、思いっきり俺のことを睨んでいたけど。 「可愛い子よね、綾瀬さんって」 「そうかあ?」 「ええ。あなたは近すぎて気付かないのかもしれないけど」 「で――」 静かに俺の方へと向き直り、櫻井は表情を改める。 「そんな彼女を締め出してまで、私と話がしたいんでしょ? 用件は分かっているけど、何かしら?」 ともあれ、これで櫻井と二人きりになる状況は出来あがった。香純に対する諸々のフォローは全部片がついた後に纏めてやるということで、今はこいつと話をつけなければいけない。 「ぶぶぶーっ」 鬱陶しいんで適当に答えたら、香純が餌を貰う雛鳥みたいに顔突き出して、両手をぴこぴこやりながら挑発してきた。 「嘘でーす。そんなのありえませーん。ていうかそんな選択認めませーん」 「あんたここまできてそんな展開がありえるとでも思ってるのー? いい加減夢見るのやめてもらえないかなー、こっちも色々と疲れるっていうか追い詰められるっていうか、全部ぶっちして入院したくなりまーす。ついでにひどいときは田舎に帰りたくなりまーす」 「またそういうときに限ってお母さんから電話がかかったりするから堪りませーん。ついでに手紙なんか貰った日には自殺もんでーす。だいたいあんたがうちの実家にエロ本なんか送るから、面倒なことになってるの知らないでしょー」 「これでもしお母さんが様子見にやってきたら、あたしいったいどうすりゃいいのよー。部屋にエロゲのポスター貼ってるのがバレちゃったら、娘的には群青の空越えちゃうしかないでしょうがー。あんたの部屋にだって失楽園が――」 「うるさい黙れ」 意味の分からない台詞内容より、やたら近い香純の顔にムカついたんでそのまま頭突きをお見舞いした。 「うぎゃっ」 そして、よほどいいところに決まったのか、香純は一発で昏倒した。 まあ、最初からこうやっときゃよかったんだよ。 「……いいの?」 「ああ、こいつ馬鹿みたいに頑丈だから心配要らない」 心なしか引きつった顔の櫻井を無視して、俺は気絶した香純を別室に運び込んだ。 結局スマートにとはいかなかったが、これで櫻井と二人きりになるのは成功したことになる。 香純に対する諸々のフォローは全部片がついた後に纏めてやるということで、今はこいつと話をつけなければいけない。 「何か飲むか?」 気を切り替えて落ち着けるため、まずはそう提案した。 酒の味なんか分からないし酔ってる場合でもないんだが、こいつとの微妙な関係を考慮すれば何かしらの景気付けが要る。 それに、これは推測だが、今の俺にアルコールはたいした効果を発揮しないだろう。 櫻井が無言で手を出してきたから、俺はそこらにあったウィスキーか何かのボトルを適当に掴んで放り投げた。 「注いではくれないのね」 「そういう仲でもないだろ」 肩をすくめて、瓶の蓋を開ける櫻井。グラスを渡そうかと思ったら、こいつそのままラッパ飲みで半分くらいいきやがった。 「はい」 「…………」 「なによ、恥ずかしがるようなガラでもないでしょう?」 「そんなんじゃねえよ」 ただ、こいつも、ときたま顔に似合わないことを平然とやる奴だな。 なんとなく後に引けなくなったので、櫻井から瓶を受け取り、俺もラッパ飲みで残り半分を一気に飲み干す。 「~~~」 「美味しい?」 「……くそ不味い」 「ええ、私も同感」 とりあえず予想通り、無茶な飲み方をしたにも拘わらず、酔いそうな気配はまるでない。 「お酒も、煙草も、麻薬も、毒も、全部分解されるわよ。まあ慣れれば、抵抗力を抑えて無理矢理酔うことも出来るみたいだけど」 「そういうことを好んでやるのは、ベイくらいね。参考になった?」 「別に」 俺はいつまでもこんな身体でいる気なんかない。この先、酒や煙草を嗜めなくても不都合はないが、あまりに万能すぎる体機能なんて、便利どころか気持ち悪いだけだろう。 まあ、味がちゃんと分かるだけでも、飲んだ意味はあったけど。 不味すぎる酒のお陰で目が覚めた。さっきまでの馬鹿漫才は、これですっぱり忘れよう。 「座れよ、櫻井」 言って、ソファの方へと顎をしゃくる。頷いて腰を下ろした彼女に倣って、俺もその対面に腰掛けた。 さて、それじゃあ丸一日遅れになったけど、こいつを介抱した目的を果たさないといけない。 「どういう心境の変化か知らないけど、俺の馬鹿な嘘に付き合ってくれる気になったのはなんでだ?」 「状況が変わったのよ。私は早く戻らないといけない」 淡々と、感情の篭らない声で櫻井は言う。 「力ずくっていうのも、賢くないしね。ここはもう“場”として機能しないから、あなたと争っても仕方がない。質疑応答で片がつくなら、さっさとすませて帰りたいの」 「俺が大人しく、おまえを帰すって保証はないだろ」 「あるわよ。ここには綾瀬さんがいるし」 「あの子の前で、無闇に暴れたりは出来ないでしょう? 短い付き合いだけど、あなたのそういうところは分かっているし」 「だったら……」 俺の質問になんか答えようとせず、強硬に帰ろうとしたって同じだろう。司狼と本城がいない今、それはこいつにとって容易なはずだ。 と、疑問に思いはしたが、あえて言うことでもないので黙っておく。 「状況が変わったっていうのは?」 「分かってるでしょう、遊園地よ」 「あんな真似が出来るのは、一人しかいない。広範囲を壊すのが私達に出来ないわけじゃないけど、その手段がオンリーワン」 つまり、爆発。文字通り火の無いところに煙どころか、獄炎を生み出す能力。櫻井と似てるが、桁が違う。 「おまえの親戚じゃないだろうな」 「違うわよ。恐れ多くてそんなこと言えないわ」 皮肉まじりに冗談めかして言ってみたが、無感動に返された。そしてこいつの言いようからして、相手が目上なのは間違いない。 若年にも拘わらずヴィルヘルムやルサルカにはタメ口だったこいつが、本人を前にしているわけでもないのに畏敬の念を払っている。それだけで、嫌になるほど理解できた。 やはり、俺の予感は間違っていない。あの大破壊をやらかしたのは…… 「エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ――ザミエル卿ね。私は面識がないけれど、聞く限り怖い人よ。ハイドリヒ卿の近衛と言ったらいいかしら」 「だから、私は一刻も早く戻りたい。彼女が帰ってきた以上、半端なことをしていると何をされるか分からないの。正直、それだけは避けたいし」 「質問は、これで終わり?」 「いや……」 むしろ、今までのは前振りだ。そんな簡単に言えるほど軽々しい事態じゃないのが困りものだったが、本当に訊きたいことは別にある。 「スワスチカ――」 この街に用意された八つの戦場。 その位置、そしてこいつらが攻める順。後者は訊くだけ無駄だろうが、前者は絶対に知らないといけない。 「今、開いているのは四つか?」 「ええ」 「それは何処に?」 「博物館、公園、遊園地、そして〈クラブ〉《ここ》」 「全部心当たりはあるでしょう?」 「ああ……」 博物館にはマリィのギロチンがあり、公園ではシュピーネとやりあった。遊園地は昨夜の爆発で消し飛んだし、このクラブもまた同様に…… 「普通、スワスチカが開いた場所は、真っ当な神経の持ち主なら立ち入れないくらい汚染されるものなんだけど、ここはホールに集中したから、それ以外は無事のようね。綾瀬さんに障りを起こさせたくなかったら、あそこには近づかせないほうがいい」 「そんなことは分かってる」 そのホールで暴れた当のこいつに言われたので腹が立ったが、今はそんな恨み節をぶつけている場合じゃない。 ただ、一つ気になることはあるのだが…… 「あなたが知りたいのは、残り総ての場所でしょう?」 間を置かずにそう言われて、訊くタイミングを逸してしまった。仕方なくその疑問は後にまわすことにして、残り四つの中から、あからさまに臭い場所を挙げてみようと考える。 「うちの一つは、学校だろう」 「…………」 「おまえとルサルカが、何の目的もなく転校してきたわけはない」 事実、あいつもそう言っていたし、そして何より…… 「前に、アースがどうこう言ってたしな」 聖遺物という雷が起こす災害を、効果的に散らすための場。それはすなわち、聖遺物に喰われる魂を散華させるフィールドということ。 「ええ、ご名答よ。その通り」 「なら、結局……」 こいつらは、学校中の生徒や教師を皆殺しにする腹だったということだろう。ルサルカが言っていた『居てくれるだけでいい』とは、つまりそういうことだったわけだ。 「スワスチカを開くのは戦場……武器も戦意もない普通人を捧げたところで、そう簡単には開かないし、何百人も使って無理矢理こじ開けても霊格的には落ちるでしょう」 「だから、私達には戦いが要るの。あなたという敵がいて、そこに巻き込まれる人がいて、大量の血と魂が散華すれば、そこは戦場跡として方陣と化す」 「といっても、それが最良というだけで、あなたがいなければどうにもならないわけじゃない」 「戦場予定地に敵がいなければ民間人を、それさえいないのなら仲間同士で、結局スワスチカはこじ開ける。多少霊格が落ちようが、総てそうでもない限り許容範囲……副首領閣下の術に穴は無く」 「俺に選択の余地はないってことか」 「そういうこと」 こいつらと戦えばスワスチカが開き、放っておいたら一般人が大量死する。俺には何も打つ手は無い。 強いて言うなら、一つの場所で複数人を纏めて〈斃〉《たお》すことになるが、それがどれだけの難関かは今さら言うまでもないだろう。 この場で櫻井に仕掛けることは香純の手前できないし、手は完全に封じられた。こうなったらどんな難関であろうとも、一箇所複数殺を狙っていくしか道はないのか。 唯一の救いがあるとすれば、学校が休みになったということくらい。これで少なくともあの場所では、無関係の人間が死ぬことはなくなるはず。 と、思いたいが…… 「他の場所は?」 感情を押し殺して問う俺に、櫻井もやはり無機質な口調でそれに応じた。 「教会、タワー、それから病院」 「うち二つは、至極簡単に開けるわね。あなたがいてもいなくても、あそこは人がとても多い」 確かに、こいつの言う通り。タワーは遊園地と並ぶ行楽地だし、病院には医師や患者が山ほどいる。 「私がこんなことを、べらべらと喋る理由は分かってるのよね?」 「ああ」 一般人の大量殺戮より、敵と戦う戦場のほうがよりベターだという以上、俺をその場に突っ込ませるのがもっとも効率のいいやり方だ。 つまりこいつは、あくまで向こう側として俺に情報を渡している。そしてそれが分かっていながら、思うように踊らされるしか今は出来ない。 「副首領閣下の性格の悪さには、私もつくづく感心するけど」 「まるでどっちが鬼か分からない鬼ごっこね。〈あなた〉《じぶん》を捕まえ、屈服させてみせろ。〈代替〉《あなた》は追われながら追わなければいけない」 「と、これくらいでやめておきましょうか」 それ以上話せば俺が激昂しかねないと思ったのか、櫻井は先ほどまでの硬い態度を改めて、口調と表情を軟化させた。 「あなたの性格は、だいぶ分かってきたし。ここでやり合うつもりもないから」 「話は終わったみたいだし、帰っていい?」 「いいや」 知りたいことはまだあるし、なによりこのまま、こいつのペースで終わらせるのは癪だった。 さっきの話で保留していた疑問を一つ。 「博物館は、なんで開いた?」 確かに、あそこにはギロチンがあった。ならば香純が殺した十何人かの魂が引き寄せられたのかもしれないが、それで開くのは数が少なすぎるだろう。 香純は殺し役だのなんだのと言われたから、当初は俺に供給されているんだろうと思っていたけど、それも違う。 力に慣れ始めた今なら分かる。あのギロチンに詰まっているのはマリィ一人の魂だ。それ単独で、こいつら全員を圧倒できるとメルクリウスは言っていた。 なら、香純が狩った魂は博物館か、何処か別のところに行っている。そしてそのどちらであっても、あの場所のスワスチカは開かない。 俺の覚醒――とでも言っておこう――が引き金になったのは確かだろうが、燃料になる魂が一定数存在しないと、爆発――つまり散華は起こらない。 なら、博物館をスワスチカに変えたのは、いったい誰の魂だ? その不可解さが攻略のヒントになるかもと思い訊いてみたが、櫻井は眉を顰めて露骨に嫌そうな顔をするだけだった。 「それは大事な問題なの?」 「大事じゃないなら、隠さず話せよ」 「…………」 と、あからさまに不機嫌げな顔をする。やはり、こいつらにとってバレるとまずいようなことなのだろうか。 「別に、たいした問題じゃないけど」 「〈博物館〉《あそこ》で昔、仲間の一人が死んだのよ。ただそれだけ」 「死んだ?」 黒円卓の面子は、すでにほぼ割れている。俺の頭に、ある種のピースが填まった気がした。 すでに死んでいる団員。櫻井がコメントを躊躇するような存在。 それはつまり―― 「ベアトリス・キルヒアイゼン」 「―――――」 俺がその名を言った瞬間に、櫻井の目が見開かれた。 「なんで、その名を……」 「本城が調べたんだよ」 昨夜のうわ言云々は口にしない。実際、そのキルヒアイゼン某が故人というのは、あいつから聞いたことだし。 「そいつ、おまえの前任なんだろう?」 「そう、だけど……」 「どんな奴だった?」 「そんなことを聞いてどうするのよ?」 「興味があるんだ」 特に他意もなくそう言うと、櫻井は一瞬だけ言葉に詰まり、次いで悩むような顔をして、最後にこっちを睨みつけると、深呼吸をするように溜息をついた。 「別に、どう、と言われてもね、おかしな人だったわよ」 「名前で分かると思うけど、女性で……だけど、私やマレウスとは全然違うタイプの人で……」 「……ああ、強いて言うなら、綾瀬さんと似ていたかも」 「はあっ?」 今度は俺が目を見開いた。 よりによって、香純みたいなのがこいつらの中にいただと? 冗談にしても笑えないし、まるで全然信じられない。 「だから言ったでしょう。おかしな人だったって」 ふっと苦笑気味に口許を綻ばせ、櫻井は遠くを見るように目を細めた。 「若いのよ。いつまでも歳をとらないというか、そんな感じで……男の人ならたまにいるみたいだけど、子供のまま大きくなったような、そんな人」 それはつまり、馬鹿ってことじゃないだろうか。 頭に浮かんだ率直な感想を、思わず口に仕掛けたが黙っておく。それを言ったら、何か面倒なことになりそうだし。 「おまえは、そいつのことが好きだったわけだ」 「まさか、嫌いよあんな人。いつも私のことを子供扱いして」 「あなたに分かる? 子供から子供って言われる気持ちが」 「いや、まあ、そりゃあ……」 分かるが、七十年八十年生きてるような奴から見れば、俺もおまえも子供だろう。 「だいたいおまえ、誰にでも嫌い嫌い言ってそうだし」 「……大きなお世話よ。それに、もしそうだとしても、本当に嫌いな相手には嫌いって言うしかないんだから、勘違いしないで」 「私は、あなたが嫌いなの」 「ああ、そりゃ、別にいいけど」 しかし、俺から言うならともかく、なんでこいつにそこまで嫌われるのか、よくよく考えると意味不明だな。 「そういうことで、私今度こそ帰るわよ」 「待てって、まだだ」 立ち上がった櫻井の手を掴んで、引き止めた。 「……本当にしつこい」 「そんなうんざり言われても、俺も好きでやってんじゃない」 「だったら、あといったい幾つよ?」 「二つだ」 お互いに切り口上でそう言って、可愛げなく顎で先を促す櫻井に俺は訊いた。 「氷室先輩は、何者だ?」 「…………」 「勘だが、あの人はおまえらの仲間じゃない。かといって無関係でもない」 つまり、彼女の配役が分からない。 インドア気質のダウナー運動音痴が、殺人を苦にもしない戦闘員なんて有り得ないだろう。だがそれなら、あの人はどういう立場に置かれているのか。 これもやはり勘だけど、この謎が一番重要なことの気がする。 氷室先輩は何者で、何のために、何を思って今まで人生を送ってきたのか。 「俺はあの人が、すべて計算ずくで動いてたとは思えないんだ」 「仲がよかったの?」 「ああ、少なくとも俺はそう思ってる」 こいつらにしても、初対面で俺の配役を見抜いたわけじゃないだろう。ならそのずっと前から、街がこんなことになるまで一年以上友達だったあの人が、最初から俺に狙いを定めていたなんてことは絶対に有り得ないんだ。 「それは大事なことなのかしら?」 「大事だよ。おまえには分からないのか」 「分かってないのはあなたよ」 言って、櫻井は呆れたように俺の手を振り払った。 「誰だって、優先順位がある。父親と母親のどちらかが死んでどちらかが助かるとしたら、皆、より大事な方を選ぶでしょう」 「兄弟でも友達でも恋人でもそう。皆大事、皆一緒、誰も離したくない選びたくない――そんな綺麗事通用しないわ」 「あなたは彼女と友達だったのかもしれないけど、要するに切られたのよ。シスターだってそれは同じ」 「藤井君と仲良く青春してるより、もっと大事でやりたいことがあったんじゃない?」 「………ッ」 何か言いかけ、しかし俺は何も言えずに口ごもる。 確かに、その理屈は分かるんだが…… じゃあ、その大事なことってのは何なのか…… 「分かり合えないわよ。無駄ね」 櫻井は目も合わせず、そっぽを向いて吐き捨てた。 「あなたとこういう話をしてると、私はとても苛々する。言ってもどうせ、分かってなんかくれないし。分かってもらおうとも思わないし」 「だから、氷室先輩が何者かなんて、あなたが知ってもしょうがない」 「あなたは知ったところで何も出来ない」 「おまえな――」 刺々しい物言いに腹が立って、櫻井の肩に手を伸ばそうとした瞬間だった。 「―――うッ」 急にこいつは、腹を押さえて蹲る。 「な、おい――どうした?」 「―――ッ、ぁ……く」 「なん、でもない……ほっといて……」 「ほっとけって、おまえ……」 そう言われても、その苦しみようは尋常じゃない。まさかまた、昨夜と同じ症状が出てきたのか? 「いい、わよ、別に……二度も、助けてなんかくれなくても……」 「あなた、なんかに、これ以上触られたくない……」 「…………」 くそ、だったらどうしろってんだ。 確かに二度も助けるような義理はないし、今だって口喧嘩の真っ最中だったが、だからといってこのまま放置するのも躊躇われる。 とりあえず、どうするにせよ今は横にして休ませないと…… 「触られたくないのは分かったけど、ちょっとだけ我慢しろ」 俺は憮然とそう言って、蹲る櫻井をソファに運ぶべく抱き上げようと身をかがめたら、 「馬鹿……」 「馬鹿ねほんと、甘いわよ、藤井君……」 「私、あなたのそういうところが……」 すでに力も入らないのか、しなだれかかるように体重を預けてきて、瞬間―― 「大嫌い」 「―――――」 首に重い衝撃を受けた俺は、一気に目の前が暗くなっていくのを感じていた。 「ごめんなさい、でもあなたが迂闊なのよ」 「女はあまり信用するなって、私もベアトリスに言われたわ」 「まっ……」 目が開かない。意識が途切れる。完全な無防備で、かなりいいのを貰ったらしい。 櫻井、てめえ…… 「言ったでしょう。私は早く帰らないといけないの」 「それに、氷室先輩のことをあなたに話すわけにはいかない。だって彼女は……」 朦朧とする意識の中、自嘲するように微笑んでから、踵を返して部屋から出て行く櫻井の後姿が目に映った。 待て、行くな――話はまだ終わっちゃいない。 氷室先輩がなんなんだ? 彼女がどうしたっていうんだよ? 声をあげることも出来ずに俺は、まんまと一杯食わされた形で、そのまま意識を失った。 「……あっ」  痛い。痛い……全身が骨がらみ悲鳴をあげて軋んでいる。  身体が動かない。声も出ない。昨夜から、いや正確にはその数日前の雨の夜から……自分の身体は徐々に変調を来たしている。  まるで全身の血が固形物に変わっていくような感覚。身体の内側から、蝋人形になっていくような不随感。まるで頭の中までも、記憶や思考という流動的なものから、絵や記号の羅列に置き換えられていくような……  自分が何かの部品へと、変質していく恐怖感。 「……っ、…ぁ」  ついには立っていられなくなり、少女はその場に座り込んだ。壁にもたれ、ずるずると、崩れるように腰が落ちる。  何が起きたのか、なぜここまでの消耗を強いられているのか、問うまでもなく、彼女はその答えを分かっていた。  一晩のうちに同時二ヶ所、連続で“アレ”が開いた。その分だけ強力に作用するようになった“アレ”の力が、今の自分のキャパシティを危ういレベルで圧迫している。  喩えるなら、それまで運転していた車が軽から10tトラックにいきなり変わったようなものである。ハンドルは切れず、ブレーキも踏めず、ギアやクラッチなど重すぎてびくともしない。  徐々に馴らしていこうという、操者に対する気遣いなどまるでない。さしずめ断崖絶壁目掛けて全力疾走させるチキンランだ。結果乗り物と運転手が壊れようとも、終点まで走ればそれでいいという冷淡かつ容赦のない目論見が嫌になるほど透けて見えた。  そして、そうなるよう仕向けたのが誰なのか……今までとは明らかに方針の異なる苛烈な意向と、街の一角を丸ごと消し飛ばすという馬鹿げた破壊の所業が合わさって、おおよその事実を推察することは容易だった。  つまり―― 「どいてろ」  彼女を無造作に突き飛ばした男もまた、この事実に気付いて当然。  それを裏付けるかのように、彼の所業は乱暴であったものの手加減を忘れてなかった。  今の少女が、ほんの些細なことで砕け散りかねないほど消耗していると読んでいる。およそ他者に対する気遣いなど無縁な男が、理由はどうあれその暴力的性根を抑制している。  崩れ落ちて意識を失う氷室玲愛に一瞥すら与えぬまま、礼拝堂から外に出て行くヴィルヘルム・エーレンブルグは、彼女以上にこの現状を知悉しているのだった。 「よぉ、ちっといいかよクリストフ」  すでに日は落ち、辺りは闇に包まれている。陽光を忌む性癖の彼にとって、この時間帯こそが主となる活動時間と言っていい。背を向けたままこちらを見ない神父に対し、抉りこむような視線を送って詰問した。 「ザミエルは何処だ。なぜ俺らに何も言わねえ」  探りや様子見など一切ない。いきなり核心に切り込むその口調。いかにも彼らしい物言いに、神父は無言のまま、肩を震わせて笑っていた。 「おまえ、俺をアホかなんかと思ってねえか? あれだけ癖の強い魂が落ちてくりゃあ、どんな間抜けでも気付くんだよ。それに、消えたもう一つもな」 「…………」 「バビロンが死んだんだろう。いや――」 「ええ、彼女は処刑されましたよ、ザミエル卿にね」  隠しても無駄と思ったのか、それとも隠す気など端からないのか、至極あっさりと神父はそれを肯定した。 「遊園地を、いいえ、その周辺一帯に至るまで丸ごと灼熱させ燃やし尽くす……そんなことが出来る者など、彼女しかいませんからね。さすがに私も、もはや惚けるのが面倒くさい」 「ほぉ、じゃあおまえ、一応惚けようとは思ってたわけだ」 「まあ、上官命令でしたので」  さも迷惑だったと言わんばかりに、トリファは肩をすくめてみせた。 「ベイ、あなたはこれで、なかなか聡い男です。鼻が利くと言うか、ともかく一種の勘が鋭い。ゆえに下手な隠し立ては無駄と考え、洗いざらい喋りますが」 「確かにザミエル卿は帰還しておられる。だが、では何処にいると問われても答えられない。なぜなら――」 「まだ身体を維持できねえっていうわけか」 「ええ、彼女は矜持が高く、完全主義者だ。不完全な状態で皆と会うのが嫌なのでしょうね。そのあたりの意を汲んで、察してやるのも必要かと」 「ふん」  くだらなげに鼻を鳴らして、ヴィルヘルムはトリファの背から視線を切った。そのまま見るともなく空を見ながら、独り言のように呟く。 「規律第一、完璧主義者の軍人女が、わざわざ不完全な形で戻ってきてまで仲間殺しかよ。随分とまあ、支離滅裂な矛盾じゃねえか」 「女性の心理が不可思議なのは、古今東西の共通でしょう。我々男が、理屈で考えようとしたところで詮無いもの。それに、矛盾が矛盾でなくなる魔法の存在、あなたも知っているのでは?」 「ハイドリヒ卿の命令か? 確かにあの人がやれって言やあ、なんでもやるのがあの女だ。おお、そりゃあ分かってるがよ。だったらなぜ、バビロンは消されたんだ? あいつが何か、そうされざるをえないヘマでもやったってのかよ?」 「ほぅ……」 「あなたがそこまで仲間思いだったとは知らなかった。彼女の死を、承服できないと仰るのですか?」 「そうじゃねえさ。 よく分かんねえ理由で俺まで殺られちゃ堪んねえしな。だから、そのあたりをはっきりさせときたいんだよ。 クリストフ、あいつはいったい何をやった?」 「ふむ……」  どこかわざとらしげに顎を擦り、トリファは答えるまでの間を空ける。問題児だが見所のある生徒を教え諭すように、ゆっくりと丁寧な口調で言葉を継いだ。 「やった、と言うよりやりかねない、と言ったほうが正しいのでしょうね、この場合」 「あん?」 「彼女はゾーネンキントと深い縁だ。加えて女、母でもある。その思考は複雑怪奇どころではない。土壇場で裏切らないと、いったい誰が保障できます?」 「カインも持ってやがるし、か?」 「ええ、用が済めば除いておくのが賢明であろうと、ハイドリヒ卿に、副首領閣下やザミエル卿、そして私……この辺りの人種なら思って然り。そうおかしなことではありません」 「なるほど」  得心したと頷いて、しかしヴィルヘルムは、再び神父の背へと殺気まじりの視線を送った。 「だがゾーネンキントと縁が深いのは、誰かさんも同じじゃねえのかクリストフ。加えて言やあ、神父で親父ときたもんだ。俺に言わせりゃあ、おまえも充分複雑怪奇なんだがよ」 「これはこれは」 「シュピーネ、バビロン、どうもおまえに近い奴らから消えていってることも釈然としねえ」 「ついでにひとつ答えろや。おまえはシュピーネに、いったい何を調べさせてた?」 「…………」 「気になるなあ、おい、気になるぜ。まるで口封じしたみてえじゃねえか。そう思うだろ?」 「シュピーネを〈斃〉《たお》したのは藤井さん、ツァラトゥストラであり私ではないのですがね」 「あのガキに、真っ先でシュピーネをぶつけたのはおまえだろ」 「ふむ、確かにそれは否定しようもありませんが」  言いながら、神父の背は笑っている。ヴィルヘルムもまた笑っていた。 「洗いざらい喋るんじゃなかったのかい、クリストフ。つっても別に、おまえの生い立ちだの、食ってきた女の数だの、そんなことは訊いてねえ」 「いいでしょう。シュピーネの件でしたね」  言って、トリファは振り向いた。夜風に金髪が舞いあがり、彼の表情を隠している。  それが何か、妙な具合に陰影を作りあげ、目の前の神父を何処か別人のように見せていた。 「バビロン、リザの息子のことはあなたも覚えているでしょう」 「ああ、それが?」  ゾーネンキント第一世。あれが誕生したからこそ、今日のこの日があると言って構わない。 「聖櫃、スワスチカという都市規模の聖遺物を起動させるための“核”、依代……あれを生むことがレーベンスボルン機関の……そう、言うなれば裏の悲願だ。リザは見事にそれを果たした。当時はまだ、不完全であったとはいえ」 「少なくともあのベルリン崩壊の日、ハイドリヒ卿並びに大隊長の方々を“城”へ飛ばし、完全なるゾーネンキントとスワスチカ、それに副首領閣下の代替が機能するまでの実験措置……聖櫃創造の試行を図るという意味において、初代は役に立ちましたよ。あくまで試行であったがゆえに、死なずにすんだわけですしね。 だが、こう考えたことはないですか? もしもあのとき、彼が死んでいたらどうなっていたのかと」 「どうって、そりゃあ……」  言いながら、ヴィルヘルムは呆気に取られた。次いで、数秒の間思考した末、抑えきれない失笑が堰を切ったように零れ出る。 「くく、くくくく……なるほど、なるほどそういうことかよ。俺らは本当に間抜けだなあ、クリストフ」 「恥じることはありません。これは我々全員に共通する欠点だ」  なまじ強大な力を持っているゆえ、さらに上の怪物的存在を日常的に見ていたゆえ、些細な陥穽に気付かない。  獣が是と言えば総てが是になる。初代は死なぬと言われたら、死ぬはずがないと思い込む。死んでいたらどうなるかなど、その可能性を露ほども考慮できない。 「あのとき初代が死んでいたら、当然二世も三世も生まれることなく、総てが御破算になっていた。なぜそんなことにも気付かないのでしょうねえ、我々は。 結果的に死ななかったから今があり、その点でハイドリヒ卿と副首領閣下はやはり絶対的である、勝利万歳……と諸手を上げるのは、また次元の違う話でしょう。それこそ、そういうことはザミエル卿にでもやらせておけばいいのです。 問題は、あのときあらゆる計画が頓挫する可能性があったということ。そして本当に、誰もそのことに気付いていなかったのかということ。 シュピーネ、バビロン、彼らは臆病で心脆弱な凡人ですが、ある意味で我々より数段優れていましたよ、ベイ中尉」 「リザの子供は双子であり、うち一方は死んだと聞く。……私がシュピーネに調べさせたのは、つまりそういうことなのです。 本当に死んだのか? 墓は何処に? 遺骨があるならDNAは? もし生きていたと仮定するなら、彼とその子孫はいったい何処に? 今何を? ツァラトゥストラ覚醒に使われた殺し役……あれは本当に、たまたま偶然選ばれたのか? 副首領閣下の法術で編まれたこのシャンバラが、そんなザル的人選を行うのか? いやいや、だからこそ読みづらいということもありえる。しかし、とはいえ――」 「ああ、分かった。もういいぜ」  鬱陶しげに、それでいてどこか愉快げに手を振って、ヴィルヘルムは神父の言葉を断ち切った。 「理解したって言ったろう? これ以上、てめえの間抜けさ加減を自覚してもしゃあねえわな。 ただクリストフ、今の話でふと思ったんだが…… てめえは本当に、最近までそれに気付いてなかったのかい? 俺の勘じゃあ、おそらくだが……」  数秒、そのまま二人の視線が交錯する。ややあって、神父は悲しげに苦笑した。 「私のことなどより、リザの名誉のために言っておきましょう」 「彼女はおそらく、生き別れた子をていのいい代替品などとは考えていなかったはず。あくまで推論の領域ですが、何処か自分も知らない遠い地で、普通に幸せを得てほしいと……そう願っていたのではあるまいか。私はそのように思うのです。 そしてならばこそ、そうした母の愛までもが副首領閣下に絡め取られ、このシャンバラに引き寄せられていたなどと……彼女は知らぬほうがよいのですよ」 「母、ねえ」  胡散臭そうに呟くヴィルヘルムに、トリファは慈父の笑みを浮かべて問うた。 「あなたとて、母御はおられたでしょう、ベイ中尉。もはや思い出しもしませんか?」 「どうかねえ。俺ぁクソ溜めに生まれたような身だからよ、そういうのは分かんねえ。とにかく、おまえさんのやってることはなんとなくだが分かったよ。まあせいぜい好きにしろや。 スワスチカが問題なく動くってなら、“核”がなんだろうと俺にゃあ特に関係ねえ。そこらへんは、ハイドリヒ卿だって同じだろうよ。 それで、代行殿? 次は何を悪企んでる?」  悪童めいた目と口調で問うてくるヴィルヘルム。それは神父が次に下すであろう命令に、おおよそ察しがついているという顔だった。 「月乃澤学園……次はあの地のスワスチカを開きなさい。それが戦争だろうと虐殺だろうと、あそこならどう転んでも可能でしょう。非常にやりやすい地と言える。 カインはマレウスに預けましたし、今頃彼女が下準備をしているはずだ」 「了解。――と言いてえが、一つだけ問題がある」 「何か?」 「レオンだよ。俺ぁあいつに、あそこで暴れんなと釘を刺されているんでな」 「これはまた、あなたがそのようなことを気にする性格でしたかな?」 「いいや、だけどな……」  首を振って笑いながら、表面上だけはさも参ったというようにヴィルヘルムは嘆息した。 「あいつは若ぇしガキなうえに、あんたに言わせりゃ複雑怪奇な女なんだよ。持ち場離れて遊んでるほうが悪いだろとか、そういう真っ当な理屈が通用するとも思えねえ。 なあ、どうすりゃいいかなクリストフ。もしもあいつが、俺に喧嘩売ってきやがった場合はよ」  愚問。こんなやり取りは茶番以外の何ものでもない。二人は互いが言うであろうことを知りくさったうえで、台本を読むような問答を開始した。 「私は言いました。それが戦争であろうと虐殺であろうと」 「誰が死のうと誰が殺り合おうと?」 「要はスワスチカが開けばよい」 「そして、それこそがハイドリヒ卿への忠誠である?」 「然り、〈斯くあれかし〉《エイメン》」  話は、そこで終わりだった。 「くく、かかかか、ははははははは」 「容赦ねえなあ、あんた血も涙もねえのかよ神父様。あいつぁ、弟子みてえなもんなんだろうが」 「ええ、それだけにとても悲しい。さっさと戻ってくればよかったものを、ふらふらしているからこんなことになる」 「じゃあこれでまた、あんたに近い奴から死んじまうことになるなぁ」 「そのようですね。おそらくこれが私の業でしょう。拭いがたいのはあなたと同じだ」 「違いねえ」  未だ喉を震わせて笑いながら、ヴィルヘルムは神父の横をすり抜けて、夜闇の中へ消えていく。  行く先は言うまでもない。次なる戦場、虐殺の場。血に飢えた吸血鬼がその地へと放たれる。 「だが、しかしいいのかい? あんたの大事なお嬢ちゃんは、今にも死にそうなくらいへたってたぜ。また間髪いれずに開いた日にゃあ」 「それは問題ありません」 「一夜のうちに連続開放などするから無理がくる。今夜一晩時間を置けば、負荷もさほどではありますまい。 それに、そもそも」 「代わりもいるし、か? おーおー、確かにバビロンが死んでよかったな。あいつがいたら、あんた今頃刺されてるぜ」 「それも一興。そのように私は思っていましたよ」 「かは――っ」  再び、耐え切れぬとばかりにヴィルヘルムは弾け笑った。 「ははは、はははは、はははははははははははははははは――。 了解了解。それならお優しいあんたのために、俺が代わりを攫っといてやろうじゃねえか。 それに、レオンのことも手加減しねえぞ。知ってるだろうが、俺ぁあいつが仲間だなんて欠片も思っちゃいねえからよ」  放言するヴィルヘルムに、トリファは困ったような笑みで応じる。 「まあ、あくまで敵対したらという仮定の話であることを忘れずに」 「するさ。いいやさせてやる。ヴァルキュリアはいい女だったが、あいつはクソだ。認めねえ」  哄笑を響かせて、去っていくヴィルヘルム。その気配が消えるのを確認してから、神父は誰にともなく呟いた。 「私にとって、近しい者から死んでいく。ああ、確かにその通り。 であれば今このとき、もっとも私に踏み込んだのが誰なのか……そこに思い至らないのが、あなた達の欠点なのです。 とはいえ……」  トリファは教会の扉を開け、礼拝堂で倒れている玲愛の身体を抱き上げた。 「彼女の代わりを確保すると、その申し出には感謝しましょう。テレジア、あなたの寝顔をこうして見るのも、今夜が最後になるかもしれない。 何も知らず、何も分からず、何も悔いることなく眠りなさい。明日が終われば、あなたの役目は別の者に委任される。この先何が起ころうと、それだけは必ず守ってみせますよ」  神父の腕に抱かれた玲愛の顔、苦痛の残滓を湛えたまま閉じている瞳から、涙が一筋、流れ落ちた。  そして、螢がクラブを出たときには、すでに日付けが変わっていた。 「…………」  ルサルカとの約束であった月曜までという期限はとうに過ぎた。もはや手遅れかもしれないが、このまま譲るつもりもない。学校のスワスチカをあの女に渡す気は毛頭なかった。 「急がないと」  気が逸る。焦って思考が乱される。縄張りを取られたくないということとは別の次元で、何か無性に学校へ行きたくて仕方がない。  よく分からないが、この感覚は何なのだろう。ザミエル卿の帰還によって、以降の不手際は即処刑になりかねないという強迫観念のせいなのか。  それとも、何かもっと別の…… 「藤井君の病気が、〈感染〉《うつ》ったのかしらね」  呟いて、自嘲した。  そもそも彼には、よくもまあ、あそこまで色んな人間を気にかけることが出来るものだと、呆れると同時に感心する。ついさっきも、まさかあんなに上手く嵌るとは思わなかった。  嫌われている自覚はあるし、嫌いだけど、だったらなぜ放っておこうとしないのか。  心底から甘ちゃんというならともかく、頭の回転も危機の察知も人並みかそれ以上にはあるだろうに、どうもよく分からない男だ、馬鹿に見える。  まさか本当に、一度成り行きで言葉を交えた程度のことが原因でもあるまいに。  ああ、とにかく、今あんな人のことはどうでもいい。  早く、一刻も早く学校へ。  あそこは私の場所なのだから、誰にも渡さないし壊させない。  してみれば、休校になったのは好都合だと言えるだろう。一般生徒の登校がなくなれば、意味のない人死には防げるし、それなら彼も心置きなく…… 「だから……」  なぜそういう風に思考が転ぶのかワケが分からず、小さく舌打ちしたときだった。 「あれ、櫻井さん?」 「――――」  なぜ、この子がここにいるのか。一瞬、螢は呆気に取られた。 「何してるの、蓮は?」 「あ、いや、彼はその、寝ているけど……」 「ああ、そうなんだ。じゃあどうしようかなぁ……実はあたし、明日って言うか今日だけど、学校に行こうと思うんだよね」 「……え?」  なぜ? 意味が分からない。  〈学校〉《あそこ》は休みになったのだから、登校しても仕方ないし。  そもそも、〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈に〉《 、》? 「それがね、なんだか行かなきゃいけないような気がしてさ。よく分からないけど、どうしよっかなって思ってたら、メールがじゃんじゃか入ってきたのよ。ほら、見る? 凄いでしょ?」 「…………」  手渡された携帯電話の液晶には、優に三十件を超えるメール着信。  おそらくは、すべて香純の友人だろう。一人につき一件のみで、被っているのは一つもないのに、その文面はなぜか残らず同じだった。 『明日は登校する。香純もおいで』 「……これは」 「もしかして、一日で休校解除になっちゃったのかな?」 「…………」 「ねえ、どう思う櫻井さん」 「〈Pied Piper〉《パイド・パイパー》……」 「え?」 「ハーメルンの笛吹きって、知ってる?」 「ん、それって童話だよね? どんな内容なのかは知らないけど。それがどうかしたの?」 「いや……」  そう、タイトルは著名だが、その内容がどんなものかを知っている人は意外に少ない。  魔性の笛の音に誘われて、町中のネズミが、子供が、連れ去られる。  意識していてもいなくても、笛吹きの引力には逆らえない。  そしてそれとよく似たモノが、スラブの伝承にあると知る人はさらに少ないはずだろう。  魔性の歌声に誘引されて、旅人達を水底へ……暗く冷たい世界へ落とす湖の死神。  魔女――ルサルカ。  すでに自分達は誘われている。  学校が休みであろうが何だろうが、そんなものは関係ない。  たとえ一度でも彼女と接触した者は、抗えない引力によって引きずり込まれれて囚われる。  魔女の猟場へ。暗く冷たい水の底へ。  ああ、つまりもう、〈惨劇の夜〉《ワルプルギス》は始まっているのだ。生贄達が招集されてる。  だけど…… 「綾瀬さん」 「なに?」  少なくとも、いま彼女を正気に戻すことは可能だろう。何百人の中の一人を解放したところで支障はないし、この身に撃ち込まれた聖痕もそんなことでは反応すまい。  だから、この子を行かすべきか帰すべきか……生かすべきか死なすべきか……その選択は、いま自分に委ねられている。 「ねえ、どうしたの難しい顔して」 「あ、やっぱり櫻井さんってば怒ってる? あたしがあんまりしつこく疑うから、気分悪くしちゃったのかな? あは、あははは……いや、ほんとにごめんね。蓮の彼女だからとか、そんなの関係なしにしても、あたし櫻井さんと仲良くなりたいし。だから嫌われると痛いなぁっていうかヘコむなぁっていうか、その、許して?」 「…………」 「ねえぇ、ごめんごめんごめんってばぁ……」 「……平気よ」 「ほんとうっ?」 「……ええ、別に気にしてないわ」  そうだ、私は何も気になどしていない。  この少女がどうなろうが、それで藤井君がどう思おうが、何も関係あるものか。  人には優先順位がある。  皆大事、皆一緒、誰も離したくない選びたくない――そんな綺麗事など通用しない。  誰よりも、私はそれを分かっている。  分かっているから…… 「行きましょう、綾瀬さん。藤井君には私があとで連絡を入れるから」 「そう? だったら女同士、朝まで一緒に遊ぼうよ。カラオケでもゲーセンでもマンガ喫茶でも、あたし櫻井さんといっぱい話したいし」  その誘いに、迷いが生じなかったと言えば嘘になるが。 「……ええ、何処へだって付き合うわ」 「やったあっ! へへへ、見てろよ蓮のやつ。女の友情は彼氏情報が筒抜けになるって恐怖を教えてやるぜ」  そうだ。女が怖い生き物であるということを、彼はよく分かっていない。  せいぜい、朝になって思い知るがいい。  あなたが馬鹿な甘さで助けた女が、どれだけ悪辣で性質の悪い、最低の恩知らずであるかということを。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 10/13 Swastika ―― 4/8 【Chapter Ⅷ Pied Piper ―― END】 「なんか囚われのお姫様って感じだね」 目が慣れるよりも早く、耳に飛び込んできたその声で、俺は逆光に浮かぶ影の主を察していた。 「じゃあ、わたしは王子様? ガラじゃないけど、どう思う?」 「…………」 歌っているような口調には、覚えがある。 こいつは…… 「……ルサルカ」 「ピンポーン」 「なんだけどぉ、別に名前当ててくれとか言ったわけじゃないじゃない。ちゃんと会話のキャッチボールしようよ」 「く……っ」 女としても小柄なルサルカだが、床に腰を下ろした体勢の俺は、さすがに見下ろされる格好になっていた。 「辛そうねえ。不安でしょ? そういう状況になってるときって、色々余計なこと考えちゃうもんね」 「分かるよ。うん、よく分かる。それでさっきの質問だけどぉ」 「…………」 わざとらしく間延びした物言いで、流し目を向けてくる。率直な気持ちを言えば最悪だ。 囚われの身で楽観していたわけじゃ無論ないが、想定していた中でもかなり性質の悪い展開が訪れたことを理解する。 俺の現状を指して王子様だのお姫様だのとふざけた喩えを口にしてたが、これはそんなものじゃなく…… 死刑執行人か、あるいは拷問官の登場としか思えない。そんな俺の考えを読まれたらしく、ルサルカは笑い出した。 「あはっ」 「あはは、あははは、きっつい目だねえ。そんな邪険にしないでよ」 「わたしこれでも、ちょっとは残念だなって思う気持ちくらいあるのよ」 「正直、あなたとこういう関係になるのはあまり望んでなかったから」 「…………」 「信用してくれないのね」 俺は無言で、答えない。以前こいつと話したとき、仲良くしたいと言っていたのは覚えてるが、それを鵜呑みにしたことなんか一度もないんだ。 こいつはどうだか知らないが、少なくとも俺は、最初から危機感を懐いていた。今のように完全な敵対関係になったところで、ショックも何も感じない。 「まあそりゃ、わたしが嫌われてるのは分かってるし、好いてくれとも思わないけどさ」 まるで世間話口調のルサルカ。いや、内容だって、こいつにとっては取るに足らないものだろう。 意識して呼吸を整える。目の前に飛び込んできた状況の変化は、霧散しそうになっていた意識を幸い一瞬で束ねてくれた。ふつふつと煮えていた精神が、急激に冷えていくのが分かる。 「おう、いいね。そうやってすぐ状況に合わせられるとこ、あなたの美点だとわたしは思うよ」 「…………」 返事はしない。こんなところで、〈和気藹々〉《わきあいあい》と打ち解ける気になんか、なれやしないからだ。 「いやあ、でもレンくんは自分自身のそういうところ、あまり好きじゃないのかな。切り替え早すぎて常人離れしてるもんね」 「だってレオンとか、殺す気だったんでしょ? 真面目に考えて凄いよね。仮にも同じ国の、同い年の、一応クラスメート相手にも容赦なしって、ちょっと稀有なメンタルだよ」 「ねぇ、そう思わない?」 「…………」 「やぁだ。ちょっとくらいおしゃべりに付き合ってくれてもいいじゃない。そりゃ、気分じゃないのは分かるけどさ」 聞く耳持たない。俺のメンタルがどうだろうがそんなのこいつには関係ないし、知ったことじゃない。 「ふぅむ、徹底して無視ですか」 「でも、ま。そういうところも、レンくんの魅力だよねー、なんて、きゃー!」 「……馬鹿かよ」 黙ってればいなくなるとは無論思っちゃいなかったが、それにしても相変わらずふざけた反応をする女だ。 「なあに、やっとまともに喋ったと思ったら、随分ね。もっと気の利いたことは言えないの?」 「…………」 「意地張るのもいいけどさあ、こういうときは適当にでも話し合わせてたほうが長生きできたりするもんよ」 「これ、経験者からの忠告ね」 経験者? いまいち意味が分からなかったが、そんな俺を無視してルサルカは言葉を継ぐ。 「崖っぷちに立ってるんだから、掴めそうな藁を必死になって探しなさいってことよ。会話も有限。なら有意義に」 「わたしに聞きたいこととか、ないの?」 「…………」 無論、ある。ありすぎる。だがこいつの言うことに考えなしで乗っかるのは躊躇われた。 「今、一個くらいならいいよ。次があるかどうかは知らないけど、質問があるなら答えましょ」 「ほら、遠慮しないで」 目を細めて微笑みながら、何かを期待するように促すルサルカ。 俺はそれに…… 「……なぜだ」 「うん?」 「なんでそんなことを言う」 こいつが俺の疑問に答えようという意図が見えない。いやそもそも、何を考えてここにいるのか。 「なあに、そんなつまんないことでいいわけ?」 「つまらないか……俺にとっちゃ最重要問題だ」 少なくとも、今この現状における限りは。 ここは何処だとか、なぜ俺は生きているとか、それはそれで気になるが、現実問題としてこの場を支配しているのはルサルカだ。だからこいつの意向を読めない限り、他の諸々に意味はない。 ここをどう凌ぐか、すなわちルサルカをどうやり過ごすか……それについての光明を見出さなければ、後の展開などやってこないのは確かだろう。 つまり…… 「何がしたいんだ、おまえは……」 そこを知らなければどうしようもない。そう答えたら。 「ふぅむ……何がしたい、ねえ……」 目を閉じて、首を傾げ、考え込むような間を空ける。 そしてぽつりと。 「分かんない」 そんな、いい加減なことを言いやがった。 「ああ、いや、別にふざけてるわけじゃないからそうムキになんないでよ。実際わたしも、言われて不思議になっちゃったわけで」 「まあ、そうね。最初はからかいにきたわけよ。ちょっとちくちく苛めてやろうかなって、そんな程度だったんだけど」 「今は、なんだろう。どうも他人事に思えなくなってきちゃったよ」 「……?」 訝る俺を見下ろしながら、ルサルカは何事かを思案している。少なくとも危害を加えようという雰囲気ではない。 なら他人事に思えないとは、どういうことだ? 「端的に言うと、ちょっとした感情移入かな。デジャヴ感じちゃってるの」 「デジャヴ?」 「そう。前にもこんなことがあったなって思うこと。あなたの今の状況見てると、嫌なこと思い出しちゃう」 「…………」 それはつまり、こいつの過去が何かしら今の俺にだぶるという意味なのだろう。そういえば櫻井曰く、ルサルカは俺達の十五倍近い年齢ということらしいが…… 「おまえも、捕まったことがあるってわけかよ」 「ええ、そうよ。その通り。言ったでしょう、経験者だって」 「聞きたい?」 問いに、俺は何と返すべきか躊躇する。だがその沈黙を、こいつは肯定と取ったらしい。 特に何の感慨も込めず、さらりとした口調で言った。 「いわゆる、魔女狩りってやつよ」 「まあ、ああいうのって、ほっとんどが迷信重視の濡れ衣なんだけどね」 「あとは単に、嫉妬やら何やら。要するに、下手な目立ち方すると密告されちゃう社会システムなわけ」 「自分の好きな相手が別の異性に惚れちゃったから、そいつを魔女ということにして排除してしまおう。誰々の家畜は他の家よりおっぱいの出がいいから、きっと魔術を使ってるに違いない」 「極端な話、夕食時に煙突から出てくる煙が、他とちょっとタイミングずれてるだけで、魔女裁判は成立する」 「馬鹿みたいでしょ? でもしょうがないのよ。衆愚が足引っ張り合うのは古今東西の共通だし、権力者は体のいいスケープゴートを欲しがるもの」 「重税も、戦争も、お天気の問題も、民衆の不満を逸らすために、何か適当な悪役を仕立て上げるのは今も昔も変わらないよね」 「あとはまあ、禁欲思想で自慰も満足に出来なかった〈教会〉《れんちゅう》が、合法的な陵辱システムを作ったってのもあるかもしれない」 「とにかくそういう目に遭ったことがあるわたしとしては、今のレンくんにデジャヴを覚えるし感情移入もしちゃいそう」 「繋がれてるあなたを見るとね、そんな気分になってきちゃった」 「…………」 微笑むルサルカの表情に翳りはない。だがいつもの冗談めかした嘲弄の気配は薄まっているように感じられた。 魔女狩り……無論それが何かは知っている。こいつが櫻井から聞いた通りの年齢なら、ちょうどその全盛期に近い時代の生まれだろう。そのときの記憶が想起されると言っているのか。 「だったら…」 顔を上げて、俺は言った。効果は期待していなかったが、半ば売り言葉に買い言葉で。 「これ、解けよ。今の状況、冗談じゃない」 「えー、でもなあ」 「おまえは逃がしてもらったから今ここにいるんだろ」 「わたしは自分で逃げたわよ」 睨め上げる俺を見下ろしてからかうように、ルサルカは肩をすくめる。 「でも誤解しないでね。それはわたしが本物だったからじゃない」 「ううん、正確に言うと捕まってから〈魔女〉《ほんもの》になったのよ。ちょうどこんな状況で、変な奴がやってきてさ」 「あいつ、何だったんだろうなあ……告解師を名乗ってたけど、顔も声も思い出せない。もしかしたら全部わたしの妄想なんじゃないのかなって、たまに思うよ」 「……じゃあ、何か?」 要するに、こいつが俺にしようとしているのはそういうことかよ。 「おまえがその、告解師だかの役割をしてくれるって?」 「懺悔することがあなたにあればね」 そんなものは微塵もない。少なくともこいつに対して、告白するべき罪なんてものを持った覚えは皆無だった。 「聞いた話じゃ、なんでもハイドリヒ卿に正面切って立ち向かったそうじゃない。頭おかしいでしょ、あなた」 「あれを前にして喧嘩売れるなんて、まっとうな神経じゃ絶対ないわよ。だから罪があるとすれば、そういうところ」 「ねえ、レンくん」 顔を寄せて覗き込んできたルサルカに、俺は反射で仰け反っていた。息がかかるような近距離で、囁くようにこいつは言う。 「どんな気分だった? あの人を前にして」 「まさか、勝てるなんて思ったわけじゃあ、ないわよね?」 「……っ」 その問いには答えられない。今ルサルカと正面から接することを、俺は直感的に忌避していた。 「気になるなあ。あなたのそういうところ、とても気になる」 「痩せ我慢が通用する格差じゃないと思うんだけどねえ」 ルサルカの額が、俺の額に触れる。のしかかる影が、俺の顔を覆う。 「確か、前にも言ったよね。何か確証があるんじゃないのって」 「自分はこんなところじゃ死なないって、心のどこかで信じてるんでしょう」 おかしい。 ルサルカは額を合わせて微笑しているだけで、動いてなんかいない。 それなのに、どうしてこいつの影がこうまで動く? 「だったら……」 「その自信の源を見せて。わたしはそれが知りたい」 「何を根拠に、あなたは強いの?」 「それ、わたしも欲しいよ」 「………ッ」 先ほどから身を走る悪寒の正体が何なのか、ようやく分かった。 ルサルカは歓んでいる。 まるで獲物を捕らえた食虫花のように。 「もうわたしには、あまり時間がないの」 「だから……」 こいつの言葉は、すでに俺へ向けられていなかった。 それ以上に、その粘るような吐息が。手に浮かぶ汗が。額から伝わる熱が。毒のような甘さで流れてきて…… これから起こることが何なのか……俺はすぐに知ることとなる。 「あなたを、全部見せて。レンくん……」 その瞬間、粘性を有した暗闇が俺の身体に被さった── 「……づッ」 冷たい──熱を略奪する沼地に沈むような、感覚。 悲鳴が漏れなかったのは警戒していたために過ぎず、体表を覆い尽くす影は意識ごと俺の身体を締め上げていく。 これは何だ? 身体が沈む。束縛しながらゆっくりと埋没させるこの異常、まるで密林に在る底無し沼だ。 血流を締め上げ、獲物の動きを制限しながら…… 逃がさないと縋りつく亡者の如く、俺を水底へ誘っていくようで…… 「く……っ、う……」 「うはぁ……レンくん可愛過ぎ。その表情、わたし、〈滾〉《たぎ》ってきちゃうなぁ」 暗闇に呑まれていく俺へ腰掛けたルサルカが、優雅に妖しく笑みを漏らす。 黒に侵食された身体を素足が這うたび、背筋に奔るのは歪な熱。 俺はいま、こいつに検分されている……科学者が鼠を解剖するように、存在を嬲りながら見透かされているんだ。 「ごめんね。苛めたいわけじゃないんだよ。でもわたし、こういうやり方しか知らないんだ」 「こういうやり方でしか、人のことを知れないの」 「だから、我慢しないで気持ちをぶつけて。ぶっ殺してやるって感じ?」 「……ッ」 視線が合った瞬間に、ルサルカは身体を縦に震わせた。 「あ……その目、すっごくいい……」 「レンくんのそういう目……顔……わたしの好みそのものなの。すごいわ、あなた……ホント、仕込んだって、こうはいかない」 「ぐっ……」 ルサルカの、足の親指が蠢く。 刹那、瞼の裏に光が散った。肉体には付随しない激痛、魂を撫でられた異物感に吐いてしまいそうな気分を催して── 「そう。その生の反応が欲しいの」 「仕込んだ相手って、結局演技なんですものね。楽しむこっちも気を遣っちゃって、どっちも作り物になっちゃう。だから今、わたしたちは本物ってこと……」 「……!」 歯を食いしばって、声を飲み込む。目を閉じて、気を逸らす。何か、別のことに集中して…… でないと、文字通り〈解体〉《バラ》される。存在の芯から末端に至るまで喰われると分かっているのに…… 「気を逸らしたいのね? ふふふ、手伝ってア・ゲ・ル」 ルサルカの声にこもる剣呑な空気に、俺は目を開く。 奇怪な影が、揺れていた。 炎のように揺らめく不自然な影が、俺を取り囲んでいる。 まるで、エサを前にしておあずけをくらっている猛獣のように、俺には思えた。 「フフ……レンくん大人気ね。みんな、あなたにうずうずしてるみたい。分かるけどね。その気持ち」 こいつらはなんだ? 生き物? それとも、ルサルカの一部なのか? 「みんなで可愛がってあげる。泣いちゃうかもよ?」 ルサルカが、赤い舌で唇をなぞる。 それが、合図だったかのように、影たちが、いっせいに俺へ殺到した。 「な……!」 訳が分からない感覚。 影が俺の肌に落ちた瞬間、皮膚が沸騰したみたいに感じた。熱さも痛みも無く、体の表面が沸く。影たちは、俺の体の内側により深く〈沁〉《し》みこんで来る。 今まで感じたことの無い感触に、なんと声を上げていいか分からない。喉から零れたのは、絞め殺された鳥のような、声というより音だった。 あなたも一緒に──わたしも一緒に──みんな仲良く横並び。 ぞわぞわと、内側に入り込んでくる不快な雑念。数多の思念が混じりあった負の群体。それらが互いに手を繋ぎながら、悲鳴と共に、仲良くしようと囁いていて…… 「分かる? この子達は記憶。わたしと……」 「いいえ……多分、わたしと出会う前の分も含めて、わたしの聖遺物と遊んでいるうちに、壊れてしまった命たちの記憶よ。みんなとっても寂しがり屋なの。だから……」 絡み付く感覚。痛みはそこに無い。だが…… 「仲間が……欲しいのね」 「……ッァ」 全身に絡み付いていた影たちが、皮膚の下で俺の肉を擦りあげる。 神経が露出したかのような痺れ。鋭く駆け抜ける痛みは、来ると分かっていても悲鳴を堪えることもできなかった。 「フフ……無理よ。我慢なんて出来ないわ。お医者様の検査で、膝を叩くと足が跳ね上がるってやつがあるでしょ? それと同じ。痛みで出てる声じゃないんだもの」 なんせ実体験だからよく分かる──と。 呟いた、ルサルカの顔がすぐ目の前にある。俺を覗き込み、頬を撫で、視界の半分を覆いながら…… 「なんだかなぁ……」 「本当に、そんなところがそっくりで……ひどいね、レンくん。わたしのこと、もう顔の段階で苛めっぱなし」 「疼かせて、手を出させて、なのにこうして触れ合えば……なんだろ。それからどうしたいんだろって、変な気分にさせてくれるし」 「あなた、とことん青臭いし……」 「……瓜二つすぎて、さ」 そのとき、俺の頬に落ちてきたのは何だったのだろうか。 血ではない。汗でもない。正体不明のよく分からない液体。 この女の中に、それ以外の水分が存在するとは思えないのに…… 「ごめんね、結局いじめちゃって……」 そして──こいつは、何を言っているのか。 「本当にハイドリヒ卿が戻ってきた。私の願いはもうすぐ叶う」 「だけど、なんでだろう。怖いよ……」 「これ、どうにかしないと、駄目な気がするのよね……」 「おまえ、は……」 つまるところ、何がしたかったのか……急激に冷えていく思考の中で、そんなことを考える。 こいつは悪辣でろくでもない。こんなやり方しか触れ合えないというのも、嘘じゃあるまい。 だけど…… 「わたし、どうしても会いたい奴がいるの」 「それが叶うまで、死ねない。死にたくない」 「だからこの、よく分からない不安、消したくてさ……」 ラインハルト・ハイドリヒが恐ろしい。その下につき従うことが間違いでないと信じたい。 ゆえに、玉砕したとはいえ、あいつに立ち向かった俺のことを知りたいと? 本当に? 「ただ、それだけ」 「あれを利用してやるくらいの気持ちじゃないと、たぶん駄目なの」 「わたし、臆病だからねえ」 ルサルカの身体が、俺の上に倒れてくる。 いや、と言うよりも、俺の中に入り込んでくるような…… 「あなたが欲しいものは何?」 俺の、俺の欲しいもの? 「それを見せて。何を頼みにしていたのか」 「何を得ようとしていたのか」 「まあ、見当はつくけれど……」 言って、ルサルカは淡く微笑み…… 「学園生活……早々に破綻しちゃってもったいなかったねえ」 そのまま、俺の意識は溶け落ちた。 暗い…… 真っ暗だ。 上も下も、自分の体の重みさえ分からない。 全身が、闇に溶けてしまったかのよう。 今、俺はどんな姿をしている? 自分と、周りとの境界線が感じられない。浮遊感も無い。ただ、存在が自覚できない。不安にすらならない。それを、感じる部分すら。 何も無い。 俺は、どうなってしまったんだろう。 これから、どうなってしまう……? 俺…… 俺は…… ………… あれ……? おれって、なんだ……? 「ん……」 「こーらー、あんたはいつまで寝とるかぁー!」 顔にむずがゆさを感じて薄目を開ける。 差し込んできた朝の光が、俺の顔にかかっていた。 「おい、レースだけでいいから閉めろよ」 「なんでよ。良く晴れていい天気じゃない」 「眩しい。それに、外から丸見えだろうが」 「いいじゃない、別に。おはようございまーすって、挨拶してやんなさいよ」 「おまえは今日も朝っぱら……」 「ハイハイハイ。いいから、さっさと着替えちゃってよ。あたし、朝ごはん作るから」 「ん……」 香純の言葉を聞き流しながら、俺は体を起こす。寝たままだと、ちょうど顔のところに朝日が直撃するからだ。 「……あれ?」 いつもの勢いに圧倒されていたけど、これ、おかしくないか? 俺は…… 俺は確か…… 「おい。魚くせぇぞ。魚」 「な……!」 香純の部屋とは反対側につけられた通用口が開いて、見慣れた……見慣れていた顔が入ってくる。 「香純ぃ、魚とかビンボくせぇからよせよ。パン焼いてくれ。目玉焼きは両面で」 「あんたねえ、いきなり出てきてわがままゆーな。黙って食え」 「えー、オレ今朝は和食って気分じゃねぇんだよなぁ」 壁に開けた穴に、でかい図体を器用に通して、そいつはいつもの席に自分のカバンを投げると、制服の埃を払った。 「お」 目が、合う。 この風景は…… 「なんだおい。まだ寝ぼけてんのか」 「あ、いや……」 「さっさと着替えろよ。寝癖、ついてんぞ」 「これは……」 そうだこれは…… これは、いつもの風景。 「ちょっと、うろうろしないでよ。邪魔」 「ひでぇな。喉渇いてんだよ」 「それ、蓮の牛乳でしょ。何勝手に飲んでんのよ」 「仕方ねぇって、牛乳しかねえんだから。おい、蓮。オレ、オレンジジュースが良かったんだけど、ねえの?」 「あんたはどこまで図々しいのよ」 まだぼやける視界に二人がじゃれあう姿を映して、俺は、寝起きのぼうっとした頭で理解した。 これは、いつもどおりの朝だ。 だって、こんなにも良く知っている。 朝の光。二人の騒ぎ声。味噌汁と、焼き魚の匂い。 「おまえらどっちもどっちだ。朝っぱらから人の部屋にズカズカズカズカ」 台所からの死角に体を滑り込ませると、ちょうどハンガーにかかった制服がそこにある。家主のはずの俺がコソコソしているみたいでちょっと嫌だけど、それが一番いいポジショニング。 「なぁによぉ。ヒトに起こしてもらっておいてその言い草」 「あいつ、オレたちの有難味ってのが全然分かってねぇのな。言ってやれ香純、言ってやれ」 「こっちのデカいのは邪魔なだけだとしても、あたしはあんたたちの朝ごはんまで作ってあげてんのよ。ありがとうは? つーかまず、おはようございますは?」 「おい蓮、言われ放題だぞ。なんか言ってやれ」 「おまえはどっちの味方だ」 探すまでもなく、時計を見ながら無意識に伸ばしていた手が、いつもの場所にある携帯とサイフをつかんだ。 ポケットにねじ込み、台所へ。いつもの椅子を引いてカバンをそこへ。ここが、俺の席。 ……ま、俺の部屋なんだから、全部俺の椅子なんだけど。 「おはよ」 「はいオハヨー。すぐできるよ」 「はよ。もしかしてソレ、わざと?」 司狼の手の動きを真似て頭のすぐ上で手を前後させると、てっぺんに直立した髪が一束、手に触れた。 「あれ」 「アハハハハ、なんかかわいー」 「わざとのわけないだろ」 「そうか。あんまり似合ってたから、あいつの趣味なのかと思ったぜ」 誰の? 「顔、洗ってきなよ」 「ああ。こんな酷い寝癖久しぶりだな。直してくる」 顔を洗って、ちょっと苦労しながら寝癖を整える。 「じゃ、いただきます」 「まだダメ。蓮が来るまで待ってなさい」 「すぐ来んだろ。先いいじゃんかよ」 「あんた和食な気分じゃないって、さっき言ってたじゃないの」 「そんな昔の話は忘れろ」 「蓮~、ほら一緒に食べよ」 「ああ。今行く」 いつもの朝。 いつもの朝食。いつもの雑談。いつものニュース番組。そしていつもの通学路。 「かわいかったよねー、あの子犬」 香純は、今朝のニュースで流れていた子犬がよっぽど気に入ったらしい。 「よちよちしちゃって。あーもう、抱っこしたい! 撫で回したい! すりすりしたい! 全部しながら部屋転げ回りたーい!」 「あの部屋ペット禁止だろ」 「それを言うなら壁に穴を開けるのも禁止だ」 「済んだことだろ」 「あんたたち、ちょっとはこう、小動物を見て癒される心の余裕を持ちなさいよね。アニマル・セラピーよ。特訓だわ。帰りにペットショップ寄りましょう」 「おまえが犬見てぇだけだろう」 「第一アニマル・セラピーって、小動物で心を静める、みたいなもんじゃなかったか?」 「オレら小動物なら毎日こと足りてるしな」 「え? 初耳。何? 雨の日に捨てられてた子犬でも拾った」 「どんな想像だよ」 「ねえねえ、どんな子飼ってるのよ。犬? 猫? 名前は?」 「犬でも猫でもねえな。名前はバカスミ」 「へ?」 「ああ。なるほど」 「ちょっと待てぇ! バカスミってのはアレか。あたしのことかーっ?」 「自分の名前も忘れちまったみたいだぞ。この小動物」 「小動物だからな」 「脳も小さいんだろ」 「てめぇらあ! さっき食った朝飯返せー!」 「賑やかね」 後ろから掛けられた声に、俺のうなじが一瞬泡立つ。 ――誰だ? 「よ」 「香純ちゃんは今朝も両手に花? うらやましいわね」 「やめてよぉ。こいつらときたらホンット恩知らずでさ、飼い犬に手をかまれるとはこのことよ」 「そりゃ仕方ないわ。蓮くんはともかく、こいつときたらオオカミだし」 「あ、えっと――」 こいつ、知ってる。 えっと……いけない。誰だ思い出せ。何か、すごく重大なとっかかりが…… 「ね、蓮くんもそう思うでしょ?」 「え?」 「おい、蓮。どうした?」 「んー。あたしもしかして、恨まれてるのかな」 「あ?」 「あんたのこと、取っちゃったし」 そう言うと、エリーはごく自然に司狼の腕に手を回す。 エリー……エリー……ああ、そうだ。こいつの名前は本城恵梨依。でもどうしたんだこの違和感。何か、何か印象と違って…… 「なんだその冗談。朝っぱらから気色悪い……。おい、面倒だろうけど愛想の一つもくれてやってくれ」 「あ……」 そうだ。 本城は、最近できた司狼の彼女で…… 「おはよ。目ぇ覚めた?」 「あ、ああ。おは、よう……」 知ってる知ってる。司狼の彼女で…… 違うクラスの、子だ。 「なんか楽しいよね。こうやってみんなで登校するのも」 「そおかあ?」 「あんたはいつものことだから気がつかないのよ。あたし、ちょっと憧れてんだー。こういう仲良しグループ」 「ノリ悪いのよそいつ。へそ曲がりだから」 「知ってる。つむじもね、曲がってるよね?」 「見たことねぇよ」 「…………」 「ん、どうしたの蓮?」 「いや……」 とりあえず、よく分からないこの違和感は、まだ寝ぼけてるせいなんだろうと思うことにした。 「大所帯だね。藤井くん」 だが教室の扉を開けた瞬間に、俺は教室の表札を確認する羽目になる。 「藤井蓮さまご一行ってかんじ。……ご一行って、なんだかジジ臭い言い方だね」 「だとよ、小姑」 「誰が小姑か」 「あの……先輩、ここ、うちのクラスだけど……」 「そうだけど。ちょっとうちの居候二人に用事があって」 「居候……?」 「お世話になってます。……おはよう。みんな」 「あ……?」 「おはよ、櫻井さん」 「綾瀬さんは今朝も元気ね」 「櫻井さんは低血圧気味?」 「この子はいつも、こんなもの。テンション低いのよね。不思議ちゃん?」 「あなたに言われたくないんですが」 ……そうだ。そうだった。 この先輩は、氷室玲愛。この街の教会に住んでる一個上の先輩で、ちょっと変わった性格をしている。 うまく言い表せないが、独特のテンポで孤独というか孤高というか、そんなポジションを保っているが、仲良くなって見ると、意外と面倒見が良くて、それでいておせっかいでもなく、俺には心地よい距離感。 隣にいるロングヘアの美人は、クラスメートの櫻井螢。先輩と同じ教会で暮らしている。ドイツに留学していて、最近俺たちのクラスに転校してきた。 その美貌は転校初日からうわさになったが、鋭さを感じさせるその外見を裏切らず、言動がちょっと……いや、時にはかなりきつい。 でも……あれ? なんだろう。何か……何かが、違うような…… 「よ。がっかりしてんのか?」 「は?」 知り尽くしていたはずの日常の一角。すべて知っていた、予想していた通りの流れの一部に微妙な違和感を覚えて立ち尽くす俺の背中を、司狼が叩いた。 「がっかりって、何が?」 「藤井くん。いまさら照れるのは反則だと思うの」 こっちを見ずに先輩は言う。よく分からないが、怒ってんのか? 「あいつなら、すぐに来るわよ」 「あいつ?」 「あーもう。これですよ。このとぼけっぷり。これで隠せてるつもりっていうのが、あたしなんだかムカつきますよ」 「いや、だから何が」 「そうだ先輩、今日、例のCD持って来たぜ」 「ありがと。櫻井さんも聴く?」 「ジャンルによります」 「ちょっと前のデスメタル」 「あ、懐かしー。これ、あたしも持ってる」 「……あまり冒涜的な歌詞なら、教会内で聴くのはいかがなものかとは、思いますけど……」 「ね? この娘、意外と考え方が古いのよ」 「あなたがエキセントリックなだけでしょう。ねえ、綾瀬さんもそう思うでしょ?」 「え、えーと、どんな歌詞なの?」 「デモニック……なんだっけ。『悪魔の降る夜』、みたいな題名。あれがいいのよ」 「おまえが褒めるのって立ち上がりがイイ曲ばっかな」 「ていうか、それはやっぱり教会的に全然駄目な歌っぽくないですか?」 「平気よ。英語だもの。普通意味なんて分からない」 「玲愛さん、あなた英語は?」 「洋画の字幕って、いっつも邪魔だなあって思うのよね」 「意味分かってるじゃないですか。シスターにどやされますよ。あの人だって英語ぺらぺらなんだから」 「イエス様ってヘブライ語しか分からないと私は思うの」 「あのですねぇ」 櫻井が、引きつった顔で震えている。純和風の黒髪に似合わず、教会で暮らすだけあって敬虔なクリスチャン……なんだろうか。 「……残念。礼拝堂って反響がいいから、大音量で聞いてみたかったんだけど」 「いいじゃん! それすっごいクールだよ。アタシも聞きに行きたぁい」 「絶対駄目です」 「口うるさい保護者ができた気分ね。少し、藤井くんの苦労が実感できているのかも」 「あれ。オレは?」 「せんぱーい。蓮の口うるさい保護者ってのは誰のことですか? なんで視線外すんですか、せんぱーい?」 それはいつもどおりの、平和なじゃれあい。 俺は若干困惑しながらも、席について会話に交ざる。 「ちょっとそのCD見せてもらえます? そのジャケット、見覚えが……」 先輩に向かって手を伸ばした、ちょうどその時。 「だーれだ?」 俺の両目が急に塞がれる。 そして、この声。これは…… 「あ……」 「おはよう。ルサルカ」 「ちょーっと! バラしちゃダメぇ!」 「朝のスキンシップの邪魔しちゃったかしら?」 「なんであたしに聞くんですか? ていうか、先輩わざとですよね、今の」 「冬とはいえ、今日はけっこう日差しが暖かいから。あんまりアツアツなの、よくないかと思って」 「良くないって……何にどう良くないってのよー」 「地球温暖化?」 「それはちょっと」 「苦しい?」 「大変」 「じゃあこういうのは? トイレから出てきてすぐの手を、藤井くんの顔で拭くっていうのは、ちょっと感心できなかったり」 「ちょ! 何言ってんのよレア! そんなはずないでしょ!」 「じゃあ、どこへ行っていたの?」 「えと……そりゃあ……ト、トイレ、だけど……」 「だからって……別に用を足していたとは限らないじゃない」 「…………そうね」 「じゃあ質問。どんなことしてたの?」 「セクハラですよ。玲愛さん」 「私も下品かなって思わなくも無いのよ。けど、もしこれで藤井くんがアブノーマルな道に目覚めてしまったら、私、どうしていいか分からないし」 「あ、アブノーマルって……」 「もちろん、それが二人の有りようだと言うのなら、私からは何もないけど」 「あ、ありよう……」 「ちょっと、誤解を招く言い方するなー!」 「趣味って、人それぞれ自由だと思うの」 「そんなんじゃないもん! ねー、レンくんもなんとか言ってやってよ」 「あ……」 ……あれ? 「ぼーっとしてんな。お待ちかねだったろ」 「あ、いや、俺はそんなこと、全然……」 「教室に入ってくるなり、『なんでルサルカじゃなくてこいつ?』みたいな顔されたよね」 「ええ。私なんか『おはよう』って言ったのに、『おまえじゃない』って顔で無視されました」 「いや、無視はしてないだろ」 「おはよう。藤井くん」 「あ……ごめん。おはよう」 そう言われてみれば、返事をしてなかったか。 「ったく、どうしたんだかなあ。こいつさ、今朝はぼーっとしっぱなしなんだよ」 「疲れてるんじゃないの? 誰かさんのせーで」 「え? わたしのせい? なんで? 螢、どういう意味?」 「分からなくていい意味だ」 「え? そういう意味? それで疲れ気味なの?」 「待て待て待て。何納得してんだ、どういう意味だよ」 「んふふふ。分かってるくせにぃ」 「おい。こいつそういうのダメだから。その辺にしとかないとセクハラ親父全開だぞ、おまえ」 「ちょっ……自分の恋人に親父ってひどくない?」 「レンくん、今日はお疲れなの?」 急に顔覗き込まれて、思わず俺はのけぞった。 「いや、そういうわけじゃないけど、ちょっと気になることが……」 「そ。良かった。気になることって、何?」 「それは……」 それは…… あれ? なんだったっけ? 「どうしたの? 今日のレンくん、本当にヘンよ?」 「どうしたの、じゃない。言ったでしょ。日本じゃ、朝会った時はまず……」 「はいはい。もう、螢ったらホント口うるさいの」 「口うる……? まったく。さっきの悪ふざけといい、どこからそういう日本文化を仕入れてくるんだか」 「ほんと。不思議ね」 「…………」 「おはよう。レンくん」 「あ、ああ。おはよう」 「あと、その他大勢の諸君もおはよう」 「あははは。おはよー」 「その他……」 「ごめんなさいね。この、見た目委員長キャラな人がちゃんと躾てないものだから」 「私一人の責任ですか?」 「だって、あなたが面倒を見るからって名目で、二人同じクラスになったんでしょ?」 「わたしは要らないって言ったのに。日本語だって、ちゃんとしてるでしょ。ねえレンくん?」 「あ、ああ……。流暢だよな。初めは驚いたよ」 ……初め? 「ホントホント。あたしよりもことわざとか詳しいしぃ」 「そりゃ比べる相手が間違ってるだろ」 「なにぃ!」 「訛りも無いしねー。あ、まあ、ドイツ訛りって、どんな感じか分かんないけど」 「語尾がイッヒ」 「言いません」 「言わなイッヒ」 「……怒りますよ」 「怖イッヒ」 「玲愛さん」 「中国人って、やっぱ語尾はアルなの?」 「知るかよ」 なんだかどんどん話題が逸れてるな。 「わたし一人でも不都合なかったのにぃ」 ルサルカは不満げに、頬を膨らませていた。 「……じゃあ、別のクラスにしてもらう?」 「え?」 「わたしのサポートなしでも生活に不都合が無いというなら……本来学校側に無理を言って同じクラスにしてもらったんだし。変えるなら今からでも」 「ど、どうしてわたしが、ここと別のクラスになる、みたいな話になってるのよ?」 「別に。ただそうなったら私は楽でいいなと」 「うぅう~……」 「さ、櫻井さん。ちょっと意地が悪いよ……」 「綾瀬さんはコレに甘いの。だから付け上がる」 「いや、それは、えっとぉ……」 「はーいはいはい。分かったわよ、わたしの負け。言うこと聞きますー」 「そういう態度が……」 「大変ね」 「玲愛さんからも言ってください」 「なんだか老け込みそうだから……パス」 「…………」 「でも、本当にヘーキなんだけどなぁ」 「あっという間に馴染んでたしね」 「でしょ? それもレンくんのおかげだよ?」 「俺の……?」 「うん」 満面の笑顔だ。 「いや。俺なんか、別に何も……」 して、ないよな? 俺は、ただ普通に、いつもどおりの学園生活をしていただけで…… 「そんなことないよ。いつもアリガト」 ルサルカの顔が近づいて、頬に、柔らかな感触があった。 それは、心の準備もできないほどに、本当に、あっさりと。 「……な」 「……あら」 「うおっ」 「ほー」 「どうやら心配要らないみたいね」 「ああ、もう……」 「ちょっと蓮! あんたが近づきすぎなのよ!」 「……悪いの俺かよ」 「……もしかして、見せ付けられているのかしら。私たち」 「そうなの?」 「だから悪いのは俺なのかよ」 「ああ、そこで照れたらダメだね。恋人なんだし、堂々としてないと」 「いやエリー。だからって人前でキスというのは……」 「ん、悪いの? どうして?」 「ど……どうして、と、言われても……」 「恋人同士なら、別にしたくなったらいつでもどこでもするわよ。ね?」 「なぜオレに訊く」 「やあね今さら。ナニ照れちゃってんの?」 「そ、そういうのは、公序良俗的に、どうなんですかね……」 「あら。カタいの。意外にムッツリスケベっぽい意見じゃない?」 「ムッツリって……」 「ちょっとちょっと。こんな程度のキス、ただの挨拶だって」 盛り上がる周囲に戸惑ったみたいに、ルサルカが笑う。 「そ、そう。挨拶、なんだ……」 そうか。まあそうだよな。 ルサルカは、ヨーロッパ人なんだし、キスなんて、挨拶だよな。 「つまり、挨拶じゃない程度のキスもあるってことね」 「そうなの?」 「そ、そりゃ、ある、けど……」 「そういえば聞いたこと無かったわよね。二人ってさぁ、ぶっちゃけドコまで進んじゃってるわけ?」 「また親父モードだよ」 「こいつには聞かせないでいいからさ、ちょっと教えてよ」 「え? なに? そんなこと……ねえ、レンくん?」 「え? あ?」 あれ? そっか。そうだった。 俺は、ルサルカと恋人同士で…… 「やることはやってんでしょ? 学校公認のカップルなんだから。先輩と香純ちゃんも聞きたいってさ」 「ひえ? そ、そんなことないよ?」 「…………」 「どっちでもいいから、正直にキリキリ話しなさいよ」 「えっと、それはー、そのー……」 「あー……」 そんなこと言われたってなあ…… 「ま、まだ……」 「まだ?」 「まだ……挨拶まで、なん、だよね。アハ。アハハハハ」 なんだか、空気が抜けるような音を聞いた気がした。 「んだよ、つまらん。もったいぶりやがって」 「よかったわね。綾瀬さん」 「ど、どーしてあたしなんですか! あたしは、そんな……別に、もう……」 「ちょっと、何よこの流れ。とにかく、レンくんはもうわたしの恋人なんだから、取ったらダメなんだよ」 「……ねえ、なんで私に言うんだと思う?」 「私にはどうしてそれをこっちに聞くのかの方が疑問ですが」 「この幸せモノ~」 言いながら、本城が俺の脇腹に肘を入れる。 「痛い。やめろ」 「コノコノォ~」 それから香純に、思い切り足を踏まれた。 「つかおい、本気で痛え。それから先輩、なんでカンペンで素振りしてんスか?」 「私もどさくさに紛れて、一撃しようかと思って」 「櫻井さん、トンカチ持ってない?」 「持ってないですね」 たくもう。 朝から大騒ぎだ。 でも、それがなんだか心地いい。 「あ、そうだ。今朝見たニュースでね……」 だから、時間が止まればいいと思った。 「遊佐くん。これ、歌詞カード抜けてる」 飽きるまで、いや飽き果てても、留めておきたい大事な瞬間が今なんだと。 「ありゃ、おかしいな。カバンの中にはあるはずだけど……」 今を失うのが恐ろしい。その先にある未知が恐ろしい。 「ああ、香純ちゃんも見たんだアレ。ねえ、帰りペットショップ寄ろうよ」 地に足がついてない時特有の、現実逃避めいた刹那的価値観。 「せめて自室で、ヘッドホンをつけて聴いてくださいね」 青いと言ってしまえばそれまでの、たいして問題にもならない流行り病。 一種の〈麻疹〉《はしか》――だが、俺は―― 「蓮も放課後行く? ペットショップ」 だが俺は、それにいつまでも…… 「いや、やめとく。放課後は俺、別に用事があるんで」 俺はいつまでも、この病に罹っていたいと、そう思ったんだ。 「あ……」 「あれ。これ予鈴だよね?」 「馬鹿。本鈴だよ」 「ヤッバ。行かなきゃ。司狼、後でね」 「おー」 「玲愛さんも」 「そうだね。じゃ、また昼休みに」 「はい。またー」 クラスの違う先輩と本城が教室を出て行くのを、みんなが見送っている。 俺は、そっちを向いていなかった。 ルサルカが、俺の肩に寄りかかって、身を乗り出して耳元に囁いたからだ。 「カスミの誘い、断ってくれてありがと」 甘い香りは、シャンプーだったか、それとも俺の気のせいか。 俺は教室の前側、自分の席に駆けていくルサルカの背中を見送りながら、頬が熱くなっていくのを感じていた。 「減らないわね」 そして昼休み。先輩が神妙な表情でそう呟いていた。 「一応、ナニがって、聞いておきましょうか?」 「そういう優しさって、男の子に大事な要素だと思うわ。藤井くん」 「はあ。そうスか」 「最近、サンドイッチがあんまり減らないのよ」 屋上で、やっぱり朝と同じメンバーの昼飯。 最近は、なんか恒例のようになっている。 晴れているといっても、風もあるし気温も低い。屋上でランチ、なんて物好きは、幸い俺たちくらいのもんだ。 「減らないのよ」 「……はあ」 「なんでかしらね」 「分かりましたよ、聞こえよがしに。私がいただきます。いただきますから」 「私は、藤井くんの意見が聞きたいのよ」 「それはその、えーっと……」 「…………」 「ねえ。なんで、減らないんだと思う?」 「自分が食べる分だけ、持ってくればいいんじゃないの?」 「…………」 「……バカ」 「え? なんでなんで?」 えーと、それはだね。 先輩は、君が作ってくる弁当を俺が食うものだから、今まで俺がつまみ食いしていた分のサンドイッチが減らないなー、と当てこすりをしているわけなんだよ。当てこすりの意味、分かる? と思ったけど、さすがに先輩の目の前では言わない俺だった。 「けど羨ましいよなあ、弁当持参なんてよ」 「はいぃ? 何か言いたいことがあるようですけど。伺いましょうか?」 「いんやなんも」 「あの、先輩。司狼にあげるってのはどうですか?」 「ダメ。なんか腹立つから」 「おい、おまえはオレの栄養士か。いいじゃねぇかよナニ食おうが」 「あたしはねー、あんたがミノムシ食べても文句言う気は全然無いけど、他の女に貰うってのはなんか違うと思うのよ」 「食……うわけねぇだろうがミノムシなんか。つーか、なんでそこでミノムシなんだよ。だいたいあれだ、この人に貰うとなんか違うのか? 呪術師なのか、先輩は」 否定はできない。 「なんか混ぜてそうだよね、髪とか、血とか」 「なんで分かったの?」 「混ぜてたのかよっ?」 「とにかく」 「彼女がいんのに、別の女から料理貰おうって神経が、あたしは信じられないんですけど」 朝食は毎日香純が作っていることは、司狼は黙っているらしい。わざわざ言うほどのものでもないと思っているのだろう。 「あはははははは。……はぁ」 世話焼き好きの香純が、ここんとこ自分の分しか弁当を作れないことに、ねじれた欲求不満を溜め込んでいることがなんとなく伝わってくるため息をつく。 司狼は、学食のコロッケパンをかじっている。 まあそれに比べれば…… 「ねぇねぇ。その一口ハンバーグ、おいしい?」 「あ、ああ。これ、冷凍とかじゃないよな」 「エヘヘ。手作りだよ。頑張ったんだぁ。冷めちゃって、どうかなあーって、思ったんだけど」 「愛妻弁当かー。なー、うらやましいねぇ!」 「言いたいことはハッキリ言えよ」 「じゃあ、明日からオレの弁当作ってきてくんない?」 「嫌よ面倒くさい。朝に料理する時間なんかあったら、あたしは寝るし」 「なあ、蓮よ。どう思うあの女? おかしいよな。言ってることおかしいよな」 そんなことより、結局本城の言うことに従っている司狼の方が、俺にとっては驚きだった。それだけ大事にしてるってことだろうけど、残念なことに、それは当人にあまり伝わっていないらしい。 「ねえ……レンくんは、さ……」 「ん?」 付け合せの、にんじんのグラッセを食いながら、俺は答える。 「レアのサンドイッチ、食べたい?」 「あ、いや……それはー……」 「明日から、お弁当の量減らしてもいいよ? どうする?」 「んー……」 俺は顔を上げて、見上げてくるルサルカの頭を撫でた。 「ああこら! 何すんのー」 「別にいいよ。今のままで」 そう。 今のままが一番いい。 今が、いつまでも続くのが、一番。 「うわ……なんですこれ? むやみにクリーミーなんですが……」 「生クリームと果物のサンドイッチってあるでしょ?あれの応用なんだと思うの……」 「だったら果物を合わせてくださいよ。なんでツナなのー」 「私に言われても……〈月乃澤学園〉《ツキガク》の売店はホントにチャレンジャーだからとしか言えない」 ベンチでは、三人がガヤガヤとサンドイッチ談義をしている。 それをぼんやりと眺めていたら、クイ、とルサルカに袖を引かれた。 「ん?」 「ねえレンくん。あれ……」 「あれ……?」 ルサルカが指差したのは、ベンチとは反対側。 「……あ」 そこでは、司狼と本城が抱き合っていた。 こっちからだと、はっきりとは分からないが、あれは…… 「ちゅーしてる?」 「……たぶん。ていうか見るなよあんなの」 言って、俺はルサルカの目を手で覆った。 「あぁん、なんでよぉ」 「なんでも何も……留学生には教育上良くないだろ」 「えー、だってあんなの、街角で普通に見かけるじゃない」 「いや、見かけないから」 「ドイツではどうだか知らないけど、日本じゃああいうのは多数派じゃないんだよ。ああいうのがこっちの普通だと思って帰られたら、国際的に良くない」 「そう? この間、レアと一緒に電車に乗った時普通にいたよ。彼女、『愛し合う二人にとって世界はお互いだけが光を放っているの。素敵ね』って」 「あの人の意見を一般論にされてもな……」 「……それで、櫻井にはその話をした?」 「うん。なんか怒ってた。ヘンだよね」 「櫻井が普通なんだよ」 「そうなの?」 「そう。あんまり先輩が普通だと思うな」 「ねえ、今とても不名誉な罵倒を受けた気がするんだけど、藤井くん」 「――うお、って先輩、いつのまに」 「あ!」 仰け反る俺とほとんど同時に、香純がベンチから立ち上がる。 「司狼とエリーは?」 「……さぁ」 視線を彼方に飛ばしながら、櫻井がサンドイッチの最後の一欠片を、自らの口を塞ぐみたいに放り込んだ。その横顔は、心なしか頬が赤くなっている。 ……こいつ、実は見てたな。さっきのキス。 「二人してして何処かへシケこんだみたいね」 「しけこむ?」 「玲愛さん……そういう日本語ばかり教えないでください」 「しっ、しけこ……! え? じゃあ午後の授業は?」 「サボリね。愛する二人には、お互いさえあればそれで足りるのよ。青春」 「え? あれ? じゃあ、放課後のペットショップは……」 「戻ってくるんじゃないかしら。ことが済めば」 「コトってぇー!」 「そんなことより、午後は体育よ綾瀬さん。そろそろ行きましょ」 「あ、でも……」 「あ、そうだっけ。着替えなきゃだね」 「えぇええぇ? でも、だって……あれぇ?」 ショックが大きかったのか、香純は目を回さんばかりに混乱しているようだった。 「じゃ、ちょっと早いけど、私も教室に戻る」 「ですね」 「年寄りには、この寒さは正直厳しいものね。どっこいしょ」 「……すねないでくださいよ」 「別に。私だけ学年が違うのは、仕方の無いことだもの。すねてなんかないもの」 すねてる。きっと仲間はずれだと思ってる。 「あの……放課後一緒にペットショップへ行きますか?」 「じゃあ私、オウムが見たい。店でヘンな言葉を覚えたら、値段が下がるかもしれないし」 「やっぱり玲愛さん、来ないでください」 「冗談なのに」 いや、絶対この人はやる。 そう思って腰を上げた俺の肩に、軽く背伸びをしたルサルカの手がかかった。 「あ、あのさ……」 「放課後、なんだけど……」 「ん? ああ。断ったろ」 「そうじゃなくて、〈屋上〉《ここ》で会おうよ。ふ、二人っきりで……」 言うと、ルサルカは小走りに駆け出して、櫻井の腰に抱きついた。階段を前に背後から奇襲された彼女は何か大声で〈喚〉《わめ》いていたが、俺にはなんと言っているかまでは分からない。 というより、どうでも良くなってしまったというか。 ルサルカの息がかかった耳には、こそばゆさと一緒に独特の熱が残っていた。 冷たい風が吹く。一向に冷えない耳の熱さは、俺の内側から沸いてくるものなんだろう。 耳に手を当てた瞬間、さっきの司狼たちを思い出してしまう。 きっと、ルサルカもあの二人を見て、頭の中では俺と同じ置き換えをしていたはずだ。 司狼に影響されるというのは、なんか〈癪〉《しゃく》だが…… しかしまあ、それも悪くないと思うようになっていた。 その日の午後は、なんだか、ずっと上の空な時間だった。 何を考えてても、集中できない。 いや、正直に言おう。同じことしか考えられない、だ。 頬に触れた、挨拶の感触。 耳にかかる、内緒話の吐息。 そして、司狼が見せたあの…… 考えが邪な方へ向きそうになる度に、俺は教科書に目を落とす。でも、教師の声なんて全然耳に入ってこない。 落ち着かない。 ずっと、心がうわついていた。 これで俺一人だけが盛り上がっているんだったら、とんでもなく滑稽だよな、と自嘲してみる。 ルサルカに、そんな他意は全然無いのかもしれない。 だとしたら、気にしているだけ俺が間抜けだ。欲求不満みたいで痛々しい。 でも…… でもなぜか、そう考えても心は落ち着かなかった。 それは、確信。 きっと、あいつも俺と同じことを思ってる。同じものを、望んでいる。 だから…… 放課後の屋上は、風が巻いていた。 「寒いね」 「そうだな」 俺たちは並んで、フェンスに指を絡めていた。 すぐ隣にお互いを感じながら、目はどうしても風景から剥がれてくれない。 見飽きた屋上からの眺めが、なぜだか今日は初めて見た景色のようだ。 しばらく、俺たち二人は並んで、風の音聞きながら、計画的に作られた観光街を見下ろしていた。 「…………」 「…………」 体の右に、わずかながら体温を感じる。手を伸ばせばきっと、細い肩をつかんで抱き寄せられる。そんな距離。 「……えっと」 「この間登ったタワーって、あれだよね」 「あ、うん……そうだな」 「高かったねー。街が全部見渡せちゃうかと思ったよー」 「見渡したところで、べつに何にもない街だけどな」 「そんなことないよー。いっぱいあるじゃん」 「そうかな」 「そうだよ」 「そうか」 「そう」 ………… いけない。何をしてるんだ俺は。 こんな話をするために、呼び出されたんじゃないことは分かってる。 けど……どうしてもきっかけってものがあるはずだ。こういったものには。 今の会話には、偶然それがなかっただけ。そう。それだけだ。 「…………」 「…………」 また、沈黙だ。 もしかして、俺が思っているようなことじゃないのか? 沈黙に不安を抱えたまま黙っていると、不意に右手の小指に何かが触れた。 「あ……」 「え……」 思わず傍らに顔を向けると、お互いの真ん中辺りで手と手が触れていた。 「ルサルカ……」 青い目が、俺を捉える。見たものに、強烈な印象を残す目。 その目に、その声に、頭のどこかが刺激される。 なんだろう? この感じ。朝から、ずっと感じている不安。 「レンくん……」 艶やかな唇が動いて、掠れるような声が、俺の名を冷たい風に刻んだ。 「…………」 「…………」 そして、俺たちはお互いに引き寄せられるように近づいて…… 俺は左手を。ルサルカは右手を。フェンスに指をかけたまま、不自然に体をひねって、互いの唇を重ねた。 「ん……」 「……あ……」 遠ざかっていく温もりに、つい追いすがろうとした俺を窘めるように、左手が掴んだままのフェンスが音を立てた。 「……挨拶じゃ、ないよ?」 「分かってる」 「もうちょっと……濃厚でも、い、いいん、だけど……」 「…………」 「わたし、結構頑張ってるんだから」 「みんなの前で、キスしたり……ペットショップは、ほんとのところ、わたしもちょっと行きたかったんだけど。でも、今日は……今日はって、決めてた、から」 「それで、わたしの方から声もかけたし、それで、レンくん来てくれた、けど……」 「だから……だからさ」 風に、ルサルカの赤毛が踊った。 「今度はレンくんに、頑張ってほしいんだけど……な」 俺は、つま先に落とした視線を上げ、空を見上げて、雲を見て、目を閉じて、正面を一度向いてから目は開かず、右へ首を振って、〈瞼〉《まぶた》を上げた。 青い目が、まっすぐに俺を見上げていた。 楽しむような、挑むような、けしかけるような、試すようなその目。 そこから、目に見えない電光が走って、それは一瞬で全身を駆け抜けて、感電したように、俺の左手はフェンスから剥がれて落ちた。 「ルサルカ」 俺の手が、フェンスに絡むルサルカの指に触れた。 まるでそれが鍵だったみたいに、ルサルカの手も、フェンスから剥がれる。 向かい合って、見つめる。 いつもきれいな、桜色の唇。 いや? いいや。 ああまったく。なんて間抜けだったんだろう。 いつもの? いつもと同じだってのか。これが。 なんで今まで気が付かなかったんだ。違うだろ。こんなの。 口紅だ。 間近でよく見て確信する。ちょっとしか違いは無いかもしれない。けど少なくとも、俺は見たことの無い色。 きっと、全然気がついてなかったわけじゃない。なぜなら、ずっと違和感があったんだから。 そう思うと、いろんな不自然もいちいち今更納得がいくってもんだ。 俺は、今日一日ずっとこいつを空回りさせてたんだな。 そう思うと、自然にその小さな体を抱き寄せていた。 「……あったかい」 互いの温もりが伝わってくる。制服越しなのが、もどかしい。 頭にひどくたくさんの言葉が浮かぶ。 暖かい。誰かが入ってきたらどうしよう。いじらしい。髪、柔らかそうだな。何か言わなくちゃ。風でフェンスが揺れる音がする。小さい。どこかでビニール袋が風になびいている。細い。遠くで部活動の掛け声が聞こえる。冷たい。寒い。いい香りがする。 いとおしい。 でも、それら全てが浮かぶ度、シャボン玉みたいに弾けて消える。 どんな言葉よりも、どんな表現よりも。 こうして抱き合っていることが、一番伝わってくる。 「手、冷たくなってる」 「うん……今日は、ちょっと寒かったね」 言って、ルサルカがためらいがちに指を絡めてくる。 「レンくんも、冷たいね」 「でも、おまえよりはあったかいよ」 「うん……」 指を絡めなおして、俺の胸にルサルカはあらためて顔をうずめる。 「あったまるよ……」 細く凍えた指を、俺は力が入り過ぎないように気をつけながら握った。 「ちょっと、はしゃいじゃったね」 「……キスの話?」 「うん。でも、あんなのごまかしだよね」 「…………」 それって、つまり…… 「……そう、かな」 「レンくんは、あれで満足?」 あれは、あれとして満足。 でも、もちろん…… 「…………」 「昼休み……すごかったよね」 「何……が……?」 分かってて、とぼけてしまうのは、多分俺が臆病だからだ。 「エリーちゃんと司狼くん。映画みたいだった」 「ドイツじゃ普通だって言ってただろ」 「言ったけど……でも……」 分かってる。 「きゃっ」 俺は力を込めてルサルカを抱き締めると、無我夢中で唇を奪った。 「あ……」 一瞬だけの、反射的な抵抗。でもそれは、溶けるように抜けていく。 「ん……あ……んふ……」 触れ合ってみて、初めて自分の唇が乾いていることに気がついた。こんなんじゃ気持ち悪いだろうなと思いながらも、甘やかな感触を放すことができない。 「ん……」 俺の下唇に、しっとりとした組織が触れる。口の内側と外側、そのぎりぎりの境界線辺りを丁寧になぞっていく。 「ぁ……」 自然と、抱きしめる腕から力が抜けた。その時やっと、ルサルカが背伸びをしていることに気がついた。 匂いが嗅ぎたくて、大きく息を吸い込む。伸び上がりそうになる俺の首に、ルサルカは腕を回して引き寄せる。 俺の乾いた唇を潤すように、ルサルカの唇がそれをついばんでいく。 「ん……フフフ……」 くすぐったそうに、ルサルカが笑った。 「すごいね、わたしたち」 俺の鼻を、その白い鼻で撫でながら、さえずるようなルサルカの声。 「ここ、学校の屋上なのに」 「誰も来ないよ」 確信があったわけじゃなかったけど、ここで終わって欲しくなかった。 「うん。でもここ……いつも、みんなでお昼食べたりしてる場所なんだよ?」 「あー……」 もっと、ロマンチックな場所の方が、良かったろうか。 だけど俺は…… 「わたし、こういうのが好き」 首に回されていた腕が解けて、温かい手のひらが、俺の頬を包んだ。 「いつもの場所。よく知ってる日常」 「そういう場所の方が、安心できる」 「…………」 思わず、ため息が出た。 「俺もだよ」 「フフフ……」 くすぐったそうに笑う吐息が、顔にくすぐったい。 「なんか、ヘンタイっぽいね。わたしたち」 「……どこでそういう言葉覚えるんだよ」 頬に触れる手に俺が触れると、ルサルカの指が解けて、俺の指を絡めとる。 「レンくんは、わたしの日常だよ」 それは、安心できる日常。 「ああ……」 少し冷たくなり始めていた頬と頬と寄せると、互いに冷たかったのに、だんだんと温かくなってゆく。 そして── 「俺も、一緒だ」 夕焼けを背に、彼女の小さな身体を抱きしめた。 温もりと共に伝わるのは、彼女の薫りと、鼓動のリズム。黄昏に染まる景色を見つめながら、俺たちは二人で屋上の風を感じていた。 「こういうとき、レンくんはすごくロマンチックだよね」 「気づいてないような顔しながら、最後はいつも女の子が求めていることしてくれるし」 「素っ気ないのに優しくて……思うよ。時が止まればいいなって」 「…………」 ささやかな喜びと、そこに混じる切なさ。 安らいでいるように見えて、なのに声は憂いに満ちている。視線は遠くを眺めている。 それに気づいてしまったからには、問いかけずにはいられなくて。 「なにか……辛いことでも、あったのか。ルサルカ?」 「……ない、かな。なんにも」 「今はすごく幸せだよ。繰り返してほしいと思うし、嬉しいって思う」 「あ、もしかして似合わなかったかな? ひっどいなぁ」 「誤魔化すなよ」 強がらせないために、腕へ力をこめる。同じ方向を見つめながら呟いた。 「そういうのはさ、失いたくないから生じる願いなんだよ」 「今が幸せで、宝石で、失いたくないって感じるから。わけわかんねえ理屈なんかに譲ってはならないって、強く強く思うから……」 「……そのまま止まってくれたらいい?」 「ああ。どうか、胸を張れる輝きのままでいてくれと、そう思うんだ」 それを守るためならば、俺はきっと誰が相手でも戦える。 戦える──それはこの場にそぐわない、剣呑な響きだけど。なぜか適切だと思えたから。 「失くしたものは返ってこない。後でどれだけ追い求めても、伸ばした指先の間からすり抜けるだけだろう」 だからいま、この手を離してはならないとルサルカを抱きしめている。 どうしてか今日はひどく不安なんだ。 この瞬間がおぼつかない。藁の足場で歩いていると錯覚する。まばたきすればそれだけで、沼地に沈んでしまう気分がしてる。 けど、その言葉も── 「怖いね……レンくんの言うこと。すごく強いけど、とても脆い」 「誰だって、最初はみんなそういうの。自分なら大丈夫、この想いがあるから、前を向いている限りは、意地を張っていられる限りはきっと、ううん必ず守り抜ける」 「それが当たり前で、正しい答えなのは万人に分かる解答だけど……」 「ねえ、それなら──望まないまま失くしちゃったら、どうすればいいのかな?」 「ミスしたあなたが馬鹿だとか、力不足なのが駄目だとか。仲間がいないから、誓いが足りなかったから、相手が強かったからとか……色々と理由は並べられるけど」 「本当にどうしようもなかったとき、全部の力を出し切ってそれでも不可能だって突きつけられたら……ねえ、わたしたち、どうすればいいと思う?」 「それは……」 答えられない。より悲しみを縁取った声は、吐息となって黄昏に溶けていく。 「自分は何も悪いことしてなくて、毎日を精一杯生きていて……」 「笑ったり、泣いたり、時には失敗もしながら、また歩き出していて……」 「何も間違ってない、誰に恥じることもない生き方をしていても、残酷な運命ってあるものでしょ?」 ああ……ある、だろう。それは。だからこそ、ここで安易な否定など出来るはずがなかった。 天災のようにやってきて、どんな備えでも食い破る暴力的な不幸の数々。確かにそういうものは世に溢れていて、最善を選んでいても防げるものは小数だ。 努力じゃ追いつけない才能の差。生まれた瞬間に定められた格差。 それは端的に、ただ、辛い。 「自分に非のある場合ならいいの。反省するのも絶望するのも、そこは自業自得って言えるじゃない」 「けどね……何も悪くないのに奪われたら、おまえじゃダメだって言われたら、また立ち上がることなんて出来ないよ」 「仕方がなかったじゃ済まされないのに、実際仕方がないんだもの。その一言で終わっちゃうから残るのは失くして消えた痛みだけ……」 「もう一度前を向け、やり直しに手遅れはないんだ、とかさ……ドラマの主人公がよく言うけど、わたしはあの手の言葉、嫌いかな。どうしようもなく無責任」 「正しいから、そうすべきだから、あなたもちゃんとそうしなさい。失ったものは戻らないから、残ったものを守り続けろ、さあ誓えって……」 「空っぽになった相手に、言っちゃダメだよ」 「何も悪いことなんてしていないのに。勝手に妬まれて、勝手に恨まれて、吊るし上げられて、あげくはけ口にされた相手にそれは……ひどいな」 それは誰のことを言っているのか? そんな不幸は知らない、だってそんなものがないからこそ日常は尊いのに。 まるで見てきたかのように、体験してきたかのごとくこいつは語って…… 「それでも──」 それが今は、不思議と腹の立ったものだから。 「おまえは、ここにいるだろ?」 抱きしめたままの手で、俺はルサルカの頬に触れた。 〈置〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈け〉《 、》〈ぼ〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈悪〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》と、湧き上がる奇妙な懐古心と共に。 「あ……」 「それとも、何だよ。俺の体温は幻か? そりゃよく出来た偽物だな、司狼のイタズラだって出来そうにもないぞ」 「失ったものは返らない。仮に失くしちまったものが出来たあとでも、まだそんな言葉を吐けるかどうかも……体験するつもりないから、どうでもいい」 「結局、その時その場で考えたらいいんだよ。そんなものは」 「先のことなんて分からないし、過去ばっか見てると引き摺るだろ。真面目に駆け抜けないといけないのは、いつだってこの刹那にしかないんだ」 だから、誰もが今を精一杯生きている。 それが無責任であろうと、守り抜いた勝者の傲慢であろうとも、失くしたあとなんて考えたくないから瞬間の輝きを大切に思うのだ。 どれだけ理屈を捏ねたとしても、行き着くのは常にその結論しか存在しない。無傷な者も、傷だらけの者もそれを信じて生きるしかない。そうじゃないと、俺たちはいつしか別の何かに逃げてしまう。 現実に生きることが耐えられないから、おぞましくも輝かしい破壊の光に縋ってしまう。それが永遠に魂を焼く、災厄の業火であろうともだ。 それに、何より俺は、まだ── 「あいつらや……何より、おまえを失ったわけじゃない」 「それじゃあ不服か?」 ぶっきらぼうに、気恥ずかしなりながらそんな言葉を吐いた。 「…………」 「……ぷっ、く、ふふ」 「ふふふふふ、あははははは……うん、そうだね。レンくん!」 「あなたの言うとおり。今こうして、わたしの傍にいてくれている! 幸せだよ……うん、夢みたいに」 その笑顔は、今まで見てきた中で一番綺麗な笑みだった。 いや、恐らくはこのとき初めて、俺はルサルカの笑顔を見れたと思えたのだ。 「こうして温もりを分かち合える」 「あなたに抱きしめられているこの刹那こそ、わたしが意地張ってきた成果だって思えるもの」 「それだけで──わたし、追いつけたって思うから」 「……言われなくたって、俺はどこにも行かねえよ」 「えー、うそ、ほんとぅ?」 「あんなに女の子にモテるのに、ぶっきらぼうなイケメン彼氏さんは、それほどわたしにメロメロなんだー? ふっふーん」 「モテてない……」 あれは見世物にしてるだけだ。俺が好きなのは── 好、き──なの、は── 「うふふふ、うーそ。もう、そんなにツンケンしなくていいじゃない……わたしだって、嬉しいんだからさ」 「ずっと好きだった男の子に、こうして抱きしめられて……」 「〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈日〉《 、》〈失〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》を、やっと虜にすることが出来たんだから」 「だ・か・らぁ──」 そして── 「もう、ぜったい、離さなぁい」 その時、いきなり世界が歪んだ。 「あは。やっっっと、捕まえたわよ──■■■■」 聞こえない──俺じゃないはずなのに、どこか懐かしい名前を呼ばれて。 俺は、何も考えられなくなって…… いや、もしかしたらずいぶん前から、何も考えていなかったかもしれない。 だって、これは…… 「苦痛に耐えることはできても、幸福には、誰も耐えることができない」 歪んでたのは世界じゃなくて、俺だった。 俺は歪んで、伸びて融けて広がって……そして。 「これがあなたの望んだ世界? わたしが入ったことでちょっとだけ歪んだけど、これがあなたの願った夢?」 「あなたが溺れたかった水底はここなの?」 俺は…… 俺がこいつに引きずり込まれたこの世界が、俺の夢だと? 「違うと言えば違う」 その通りだと言えばその通り。 俺は日常に帰りたくて、こんな日々をいつまでも続けたくて。 だけどまだやることが残っている。走るべき時に転んで立ち止まってはいられない。 それでは、俺が俺じゃなくなる。 「そうねえ。まだ深いところに沈まないと、見えてこないか」 呆れたように、そして心なしか嬉しそうに、俺の足を引いて沼に沈めた魔女が言う。 まだ潜ろうと。もっともっと底の底へと。 「そうしないと、あなたの〈根源〉《ルーツ》が見えてこない。そうよそもそも、あなたの人格、いったい誰なの?」 「それを一緒に探しましょう。答えはそこにある気がする」 「あなたの魂は何者なのか、それさえ分かれば……」 「わたしの不安も、なくなると思うの」 「………ッ」 同時に、言いようのない悪寒が俺を襲った。理屈なんか度外視して、そんなものは知りたくないと魂が忌避している。 「や、めろ……」 「あら、どうして?」 「知りたくない……」 俺は俺で、藤井蓮で、他の何者でもないんだ。 自分のルーツに関わることなんて、全部残らずどうでもいい。興味がないし、そんなものなど…… 「―――――――」 今、脳裏を過ぎったものはいったいなんだ? 「……どうも、かなり危ないものを溜め込んでるみたいだけど」 「ごめんね、わたしが知りたいのはそういうものなの」 「やめ……ッ」 口も咽喉も分からない状態で、あらん限りの拒絶を叫ぶ。それにどれだけの効果があるかは知らないが、無抵抗のままではいられない。 「たぶんあなた、ハイドリヒ卿を憎んでるのね。だとしたら稀有だわ……あの人にそんな感情懐ける奴なんて、誰もいないのに」 ルサルカの声は聞こえない。聞いてはいけない。 ここ至るまでの諸々すべて、一切合切忘れて目を覚ませ。こんなやり取りを記憶していて得などない。 「ますます知りたくなってきた。絶対に何が何でも、底まで引きずり込んであげる」 「どんなに必死に頑張っても、目なんか覚ますことはできないよ。誰かが起こしてくれない限り」 「誰、か……?」 「そう、誰か」 「溺れている時は助けがないと、浮上なんかできない」 「だったら……」 一人、たった一人だけ心当たりがある。 それを認めるのはある意味俺にとっては辛いことで、だけど今はその手が欲しくて…… 頼む――心から切実に願う。 黒円卓の虜囚となった俺のことを、この現状から救ってくれる誰かがいるなら、それはすなわち―― 「藤井君」 「―――――――」 「え――――?」 この人以外、思いつくことなんか出来ないから。 「起きて」 差し出された手を、俺は力の限り掴んでいた。  翻る大外套と床を踏み鳴らす軍靴の響き。主の帰還を出迎えるように辺りは粛々と静まり返り、その他一切の物音はない。  塵一つ落ちず、鏡のように磨き上げられた床材は大理石――のように見えるのだが、はたして本当にそうなのだろうか。  王の道として中央に敷かれた赤絨毯に半ば隠されてはいるものの、一見したところ継ぎ目が存在していない。  まさかこれは、たった一つの巨岩から切削された一体成形なのだろうか。そうした思いを、見る者の胸に懐かせる。  だが無論、そんなことは有り得ない。何より建築の常識として、優に500㎡はあろう面積を一枚で覆うことなど、それが薄かろうと厚かろうと運搬が不可能だ。  ゆえに、他の何がしか、例えば石紋を上手く使って繋ぎ目を誤魔化しているだとか、そういうことであろうと思われる。これがあくまで、見た目通り大理石であるならの話だが。 「お帰りなさいませ、ハイドリヒ卿。客人は仰せの通り、無事送り返してございます」 「ご苦労」  ここは彼の居城、玉座の間。曰く、己に相応しい己の世界と言ってのけた、常ならぬ異空の地だ。であれば、たとえそれが建材一つであろうとも、常人に馴染みの物であるはずがない。  見た目はあくまでも城である。豪壮かつ豪奢な殿堂としか思えない。  にも関わらず、なぜだろう。ここは〈地下墓所〉《カタコンベ》のように沈んでいる。およそ“生”と呼べる一切が、徹底的に駆逐され尽くしている。  あるのはただ、静寂と停滞と冷気と暗さ……確かに魔王の城としては充分な威容を誇っているが、黄金を纏う華美な偉丈夫にはどうも合致していない。これはむしろ、彼の盟友にこそ相応しい城に思える。 「卿らもよい退屈しのぎになったであろう。事前演習の一環としては奇態だが、客が客だ。緩んだ〈箍〉《たが》を締め直す役には立つ。 事によれば卿ら、身を保てずに離散するやもと思っていたがな」 「ご冗談を」  からかうような主の言葉に、半顔を戦傷で覆った女は跪いたまま苦笑で応えた。 「確かに仰る通り、脅威に値するとは思いましたが、しかし――」 「無茶と冗談総動員みたいな人なら、僕ら毎日見てるでしょ」  女の台詞を引き継いだのは、銀髪隻眼、単身痩躯の少年だ。彼も一応跪いてはいるのだが、口調と表情に畏まった様子がまるでない。  とはいえ、主を敬っていないわけではないのだろう。ころころと笑いながら軽口を叩くその様は、飼い主にじゃれつく仔犬を地でいっていた。 「あれってなんです? 〈副首領〉《クラフト》の女なんでしょ? はっきり言ってワケ分かんないですね」 「それは彼女がという意味か、シュライバー」 「はい、ハイドリヒ卿。そうじゃありません。僕が分かんないのは彼の主義と言うか……」  軍隊調に“はい、いいえ”で答えながら、銀髪の少年――ウォルフガング・シュライバーは首をひねった。少ない語彙から自分の感想に見合う表現を探そうと試みている。 「あの子は澱みがない。真っ白です。それを〈偶像〉《ゲッツェ》として崇めたり、新雪に泥の靴跡残したいっていうなら、まあ珍しくはないから分かるんですよ」 「でもクラフトは、自分じゃ何もしないじゃないですか。額に入れて飾るでも、触れるでもなく他人任せ。そそらない女への適当な扱いにしか見えませんよ。 もっとこう、男性的征服欲ってやつですか? あと所有欲とかそういうの、あって然るべきじゃないんですかね。僕には理解できません」  この少年にとって、自分と主以外の総ては殺戮の対象でしかない。そそるとかそそらないとか、そういう感性自体をそもそも持っていないのだ。先の言葉はあくまで客観的な一般論として、雄が好むであろう雌の扱いという観点から事象を分析したにすぎない。  僕には理解できないと締め括ったが、彼が理解できるものなど初めから何もないのだ。現象として知っているか知らないか、そう言ったほうが正しい。  カール・クラフトの愛情は、その形がシュライバーにとって既知の概念ではないというだけ。ラインハルトも、臣下のそういった異質さを弁えている。この少年は、人間並みの知能を持った昆虫に等しい。  つまり、一種の〈自動機器〉《マシーン》だ。そして〈機械〉《マシーン》ならば、新たな〈機能〉《プログラム》をインストールすることができる。たとえ情動は解せなくても、そうしたものだと覚えこませることは可能だ。 「おおかた、自然を愛でる感覚に近いのだろうよ。あるいは、エデンの園というやつかな」  ゆえにラインハルトは、人の形をした別種の部下に盟友の価値観を教授した。あくまで、彼自身が推測する価値観だが。 「そうした意味で、男女の営みという概念ではないのさ。カールを人がましく見ようとする卿の視点は面白いが、それは徒労だなシュライバー」 「つまりペット同士交配させて遊ぶってやつですか? でもそれって――」 「ああ――」  なるほど……と何事かを思い至ったシュライバーは手を叩き、赤い女は無言のまま、しかし眉を顰めていた。  ラインハルトは微笑すると、玉座に腰を下ろして呟く。 「〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈は〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈出〉《 、》〈ず〉《 、》〈り〉《 、》〈天〉《 、》〈地〉《 、》〈創〉《 、》〈造〉《 、》、〈も〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈形〉《 、》〈を〉《 、》〈成〉《 、》〈し〉《 、》〈動〉《 、》〈き〉《 、》〈だ〉《 、》〈す〉《 、》――」 「思うに、つまりそういうことなのであろうよ。蛇は楽園を追われる。 で、それはそうと、一人足りんな」  この常ならぬ城にあって、王に傅く近衛は三人。だというのに、今は二人しか侍っていない。 「病気が出たか」 「みたいですねえ。もう我慢できないんじゃないですか」 「なるほど。ふふふ……」  だが、そう他人事のように言うシュライバー自身、内で猛り狂っているのを感じ取れる。薄皮一枚裂いてみれば、狂奔する野獣の本性が曝け出されるに違いない。 「ならば相手をしてやれ、シュライバー。雑兵連れを一個軍屠ったところでマキナは満足などすまい」 「それを言うなら、誰が相手でも彼は満足なんかしないでしょう」 「だが大事の前だ。あれに殺されてはたとえこの城内でも面倒になる。 卿ならそう易々と死にはすまい」  主の言葉に、シュライバーは俯いて含み笑う。やがて肩が震え、腕が震え、全身が抑え難い欲求に駆られて滾りだす。 「分かりましたよ――ですがハイドリヒ卿」 「無論、試し合いではない。殺し合え。共に加減など卿らは出来まい。 それで枠が欠けるとなればそれまでのことよ。行くがいい」 「〈了解〉《ヤヴォール》――」  言うが早いが消え去って、狂乱の〈白騎士〉《アルベド》は鋼鉄の〈黒騎士〉《ニグレド》のもとへと駆けて行く。  残された紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》は、そんな同輩二人に何の感情も懐いていないかのように沈黙を守っていた。忠臣とは主の決定に従うのみで、無駄な自己主張をするものではない。 「ザミエル」 「はッ」  ゆえに、今がそのときだ。獣が下すどんな命にも、彼女は何の疑問も懐かず徹底的に遂行する。  そうした局面において、この女に遊びはない。一切の過不足なく目的を果たす装置の役割をこなすだけだ。  それは破壊と暴力しか成せない装置だが…… 「第五は卿の手で開け。多少無理もあろうが、少々強引に出て構わん。後続が潜り易いよう、道を大きくしておけよ。 然る後、カールの代替と遊んでやれ。卿の〈炎〉《ローゲ》でな、鍛え直すがいい」 「〈了解いたしました、我が主〉《ヤヴォール・マインヘル》」  恭しく頷く〈赤騎士〉《ルベド》はそう言ってから立ち上がると、一礼して玉座を出て行く。すると彼女の後へ続くように、壁と床と天井が波うって紅蓮の背を追いかけ始めた。  それは出陣に臨む鬨の声。  一個軍団規模の魂が城より剥がされ、〈赤騎士〉《ルベド》の手勢として戦場へ投入される。 「さて、彼女は加減を知らんぞ。芯のない〈鈍刀〉《ナマクラ》ならば溶け落ち砕ける。 これが正念場……というところかな」  一人玉座で笑うラインハルト。まるで城そのものが震えるように、百万を超える彼の軍勢が〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を待ち望む。  ああ、その日は近い。もうすぐ、もうすぐ、もうすぐだ…… 教会を出て街中へ降りた頃には、もう夜が明けていた。 こうして見る限り、ごく普通で当たり前の早朝風景にしか感じられず、ついさっきまでの出来事が悪い夢のようにすら思えてくる。 だが、それは甘い感傷で。今もこの街にはあいつらがいて……何も知らない一般の人達も、危険な状態にあることは揺るがしようがない事実。 もし俺がもっと大人で、社会的な地位と立場のある人間だったら、今すぐ全市民を避難させるように働きかけていただろう。 だけど現実、俺は残念ながらただのガキでしかないわけで。大勢の人間を動かせるような力もなく、こうして歯噛みしながらも奴らの戦争とやらに付き合うしか術がない。 この街の住人、その命すべてをチップにした勝負。降りることは許されず、負けることも許されない。ちらほらと目に付く早朝出勤のサラリーマンや、ジョギングしている学生の一人一人に、土下座して謝罪したい気分だった。 俺のせいじゃないとはいえ、何の事実も告げず彼らの命を盤上に乗せてる立場なんだ。仮に勝てても、一生後ろめたさを懐く羽目になるだろう。 ……けど、まあ、今はそれを気にしている場合じゃないか。やるべきことは、最悪の結果を防ぐためにも労を惜しまず、時間を無駄にしないということで。 こんなことにうだうだと悩んでいる今そのものが、言ってしまえば最大の無駄だろう。 「……よし」 呟いて、気を切り替える。ともかくまずは、連中のことをもっとよく知らねばならない。そしてそのためには、非常に不本意だが協力者がいる。 司狼、そして本城……あいつらは〈黒円卓〉《れんちゅう》のことを俺より知っている風だった。神父の話じゃ無事だとのことだから、例のクラブに行けば再会できるはずだろう。 ここは一旦あいつらと合流して、お互いの情報を交換しつつ今後の作戦を立てねばならない。次に何かが起こる前に、事前の対策を講じておく必要がある。時間がない。 「ねえ、レン。あれ見て」 と、マリィが俺の袖を引いてきた。何事かと思って振り向けば…… 「あの人達は、レンとカスミの友達?」 「ん?」 「部屋にかけてあったのと、同じ服着てるよ」 「……ああ」 言われて彼女が指差すを方を見てみれば、同じ月学の生徒が数人、制服姿で歩いていた。まだ登校には早い時間だが、部活の朝練か何かだろうか…… 「――って、おい待て」 部活? 朝練? そんなもんは例の首切り事件以来、ほぼ機能していなかったはずだろう。約一名シカトぶっちぎってた奴もいたが、あれは特殊な馬鹿の所業だ。その他一般生徒達は誰もそんなことなどしていなかったはず。 それに何より、〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈今〉《 、》〈日〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈休〉《 、》〈日〉《 、》〈で〉《 、》…… 「あ……」 自分の誤解、馬鹿さ加減……その可能性に思い至って愕然とする。 俺はいったい、どれくらいの間拘束されていたんだろう。 橋で気を失ってから目覚めるまで、はたして何時間かかったのか……俺はそれを一切確かめていなかった。 「マリィ!」 「は、はいっ」 思わず彼女に詰め寄るが、この子に訊いたところで今日の日付など分かるはずもない。きょとんとしているマリィの前で口をぱくぱくさせながら、次の手段に思い至って上着とズボンのポケットを探る――が。 「……ない」 携帯電話は紛失していた。それは確かにそうだろう。あれだけ暴れまわって無茶苦茶やって、一度敵の手に落ちるというハードな展開をこなした直後に、何も落し物がないなんて有り得ない話だ。 「くそ……!」 急ぎ周囲に目を配って、見つけたコンビニに駆け込むと店員に日付を尋ねる。 結果―― 「月、曜日……?」 やはり、ちくしょうなんてこった! 俺は丸一昼夜気絶して、その間に土日が明けてしまったらしい。 泡を食ってコンビニから飛び出ると、わけも分からず俺の後についてきていたマリィとあやうく衝突しそうになった。 「きゃっ」 「――悪い。今すぐ家に帰る」 それも全速、全力で。のんびりしている暇はない。 「どうして?」 「香純が学校に行っちまう!」 低く叫ぶようにそう言うと、俺は返事も待たずに駆け出していた。 「ちょっ――レン、待って。待ってよ!」 「――――ッ」 だが、再度袖を掴まれて仰け反りかかる。反射的に振り解いてしまいそうなところだったが、振り向いた俺に彼女は…… 「一人で行かないで。置いて行っちゃ、いやだ」 「…………」 そうか、そうだよな。この子を一人放って行くわけにはいかない。あやうくテンパリかけていたが、今のでいくらか落ち着いた。 けど、急がなきゃいけないことに変わりはない。 「一緒に走るぞ。きついかもしんないけど、ゆっくりしてられない」 「うん、大丈夫。わたし走るの得意だよ」 それがどの程度でどのくらい持続できるのかは知らないが、いざとなれば抱き上げてでも走ればいい。 もはやそんなことで、人目を気にするような状況じゃないんだから。 「行くぞ」 言ってマリィの手を掴むと、俺は今度こそ全力疾走を開始した。 胸は焦燥感に満たされて早鐘のように鳴っている。 もし香純の登校を許してしまえば、そこで櫻井とルサルカに遭遇するのだ。俺が奴らにとって完全な敵となってしまった以上、その展開は危険以外の何ものでもない。 それだけは、絶対に防いでやる。 「ちくしょう……!」 我ながら、あまりの独善的な選択に目眩がした。今こうしている間にも、俺は同じ月学の生徒たちと何人かすれ違っている。 彼らには何も言わず、教えずに、香純だけでも助けようとしているエゴ。 今や俺にとって友人と言える存在は、校内じゃ香純しかいないから……氷室先輩がある意味奴らの一員である以上、香純だけが俺のアキレス腱になっているから…… 救う対象を取捨選択している現状は、そうした事実を盾に言い訳もできる。俺と何の関わりもない一般生徒らは、人質にもならないという理由で香純より安全だと言っていい。 だが―― 「屑だ、俺は――」 本音はただの、主観的な命の軽重。 香純を失うくらいなら、他の名前も知らない奴らがどうなろうと知ったこっちゃない。 ついさっきまで殊勝なことを思い悩んでいたくせに、いざ追い詰められるとそんなエゴ丸出しの選択をして何ら恥じないのが本音だった。 「くそ、くそ、くそ――!」 何をいっちょまえに自己嫌悪なんかしてやがる。どれだけ僕も辛いんですなんてポーズをとっても、香純を最優先に助けようという決定を変えるつもりは微塵もない。 微塵もないのなら、せめてケジメを――ふてぶてしく開き直るくらいの男気見せろよ、くそったれ! 「泣かないで」 だから、別に泣いてなんか全然ないけど、そんな風に言われたらほんとに泣いちまうかもしれないから勘弁しろよ。 「レンは正直だね」 掴んだ手を強く、そして優しく握り返してくるマリィ。 さっきまで無邪気にはしゃいでいただけだったのに、一転してこの落差だ。やっぱりこの子、どこかおかしくなったのかもしれない。 「大丈夫だよ、わたしがついてる」 でもそれは、今の俺にとって救われるような変化で。 「だから怖くないよ。一緒だよ」 ああまったく、頼もしいよ本当に。 「マリィ、全部終わったら――」 「うん?」 全部終わったら、またあのトチ狂ったようなパフェとか食べよう。 そのとき香純も先輩も、司狼たちも一緒にいてくれたら最高だなって…… そんな未来を思い描いても、別に悪くなんかはないだろう。 「―――――」 そして、ものの数分以内にアパートへ到着。階段を三段飛ばしで駆け上がり、香純の部屋のドアを叩く。 「おい、俺だ! いんのか、香純! 出て来いコラッ!」 まるで性質の悪い借金取りだが、そんな体面を気にしているような状況じゃない。 「起きろ、寝てんのかオイ! 香純!」 反応がないのでドアノブに手をやると、それは抵抗なくガチャリと回り…… 「……鍵が開いてる?」 言い知れない不安を懐きつつ、俺とマリィは香純の部屋に入っていった。 「…………」 「いないね」 マリィが言う通り、部屋はもぬけの空で誰もいない。念のために壁の穴から俺の部屋を覗いてみたが、そちらにもあいつはおらず…… 「まさか、もう出たのか?」 しかし、それはいくらなんでも早すぎるだろう。時計を見ると、まだ七時になったばかりだ。ここのところあいつのお稽古は放課後限定で、朝練はやっていない。 「あのお揃いの服はないね」 俺の背後で室内を漁っていたマリィが、制服の紛失を指摘した。替えのもう一着はクローゼットに見つけたが、いつも着用しているやつは何処にもなく、これはもう着て出て行ったとしか思えない。 つまり…… 「遅かったのか?」 そういうことになり、そういう風にしか考えられない。ただ奇異なのは、ここまでの道中であいつと鉢合わせなかったことだ。 わざわざ今朝に限って、通学路を変えたなんてことはないだろう。ならいったい、香純はどれだけ早いうちから登校していたというんだ。 「追いかける?」 「いや……」 何か引っかかる。確かにここは即行で追うべきだろうが、あいつは本当に学校へ行ったのか? そもそも鍵を開けっ放しというのが怪しすぎる。香純は決して几帳面な奴じゃないけど、外出するなら戸締りくらいするだろう。 なら、まさか攫われたのか? だとするならいったい何処に? 黒い不安が膨れ上がり、爆破しそうになった瞬間だった。 「ひゃあっ」 唐突なコール音にマリィが驚いて飛び上がり、俺に抱きついてきてこっちは派手にぶっ倒れた。 「――づあッ」 「いたたた……」 いや待て、痛い、痛いけど……窒息するからどけって、おい。 「なに、なになに、あれなに、なんで音がするの?」 だから、それは電話の音で、呼び出し音で……って、電話ッ? 「ちょっ、マリィ。頼む、どいて」 「いやー、やだやだー! 何か光ってるよ怖いー!」 「おまえの胸のほうがよっぽど怖ぇよ!」 そんなもんに窒息させられてたまるか。 「きゃん」 人の頭を抱え込んでばたばたやってるマリィをぶん投げ、今このときも鳴り続けている香純の家電に目を向ける。 液晶に表示されているのは、知らない番号。 「誰だ……?」 正直、嫌な予感がする。真っ当に考えて、これは誘拐犯からの身代金コールってやつじゃないのだろうか。 「マリィ、どう思う?」 この子なら、そういうお約束みたいなものに捉われず、純粋な勘かそれ以外の何かで事態を判別してくれるかもと期待してたが…… 「おまえ、おまえ、おまえ……」 なんかよく分からんけど、ぺたんと尻餅をついたまま、ぽーっとした顔でぶつぶつ独り言をいっていた。 「おまえ、おまえ、えへへ……おまえって呼ばれた。うふふ……」 「…………」 とりあえず、パンツ丸見えなんだよ。隠せよ。 埒が明かないのでマリィのことはうっちゃっておき、俺は目の前の電話に再度視線を移す。 実際これ、取らないわけにはいかないよな。今こうしている間にも、事態は悪化しているのかもしれないのだから。 「……もしもし」 俺は意を決して受話器を取ると、低く探るように質問した。 「どちらさんで?」 すると…… 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 人間、切れるってことは案外と簡単なんだなと、俺はこのとき実感した。 「ふざっけんなよてめえェッ!」 何? 何これ? 俺が馬鹿丸出しじゃねえか、やってくれるよ本当に。 「なになに、どうしたのレン、大声出して」 背後から肩越しに顔を出してくるマリィに、俺は無言で受話器を渡す。彼女の耳にそれを宛がい、気持ちを鎮めるために大きな大きな息を吐いた。 「あ、あー、えーっと、これどうするの? 喋ればいいの? ねえ」 悪いが、いちいち説明してやる気になれない。 まあ確かに、これは誰が悪いというわけでもなくて、むしろ感謝すらするべきで、俺の憤りは逆切れに近いってことも実際のとこ分かってる。 『おー、その声マリィちゃん。あんたも無事だったんだね、よかったよかった』 ただその、こいつのテンションがあまりに緩すぎて呆れ果てたと言うか何と言うか…… 一人でシャカリキになってた俺が、完全に空回ってる間抜けみたいで切れる以外にどうしようもなかったんだよ。仕方ないだろ。 なぜならこの〈本城〉《バカ二号》、〈司狼〉《一号》と同じレベルで手段というものを選ばない。 『香純ちゃん、あたしが拉致っといたから安心して戻っといで』 『なんか今も、ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー喚いてるしさあ、説明責任? はたしなさいよ色男――ってそこのぶすくれてる人に言っといて』 『んじゃ、この通話が終わると同時にその電話機は爆発します。ピーっという発信音が鳴った後……』 「うるさい黙れ。おまえ絶対いつかパクられるからな、日本警察舐めんなよ! 馬鹿!」 我ながらワケの分からん啖呵を切りつつ、叩きつけるように受話器を置いた。 「うぅぅ~~」 「……いや、マリィ、ほんとに爆発なんかしないから」 耳を押さえて縮こまってるマリィに、心配するなと言って溜息。いくら様子が変わったとはいえ、やはりこの子はとんでもなく純で素直だ。下手な冗談は言えないし聞かせないほうがいい。 「……大丈夫なの?」 「ああ、だいたいどんな仕組みで、家電を遠隔爆破させられるんだっていう……」 「きゃあっ!」 「するのかよっ!?」 別段被害はなかったが、ちょっとした破裂音と共に電話機が白煙を噴いてショートした。 本城……なんなんだよ、あの女。 「う、嘘つき」 「あ、その……まあ、ごめん」 なんで俺が謝らなきゃいけないのか凄まじく理不尽だが、しかしとにかく香純は無事? なんだろう。たぶん。 ただそうなると、やはり説明責任ってやつがたまらなく面倒かつ困難な課題として、非常に逃げたいような気がしないでもない。 とはいっても本当に逃亡するわけにもいかず、一時間後には例のクラブへ到着していた。 普通に考えてこんな朝っぱらからナイトクラブの門が開いてるわけもないんだが、入り口にいた大柄な男は無言で俺とマリィを通してくれる。 あれは〈用心棒〉《バウンサー》ってやつなんだろうか、いかにも荒事専門という外見だったが、今は張子の虎にしか見えない。 だけど、それも仕方ないよな。俺は冗談抜きで比喩でもなく、怪物の巣から帰還した直後なんだ。普通なら向き合うだけで萎縮してしまうような巨漢を前にしていても、なんら恐怖を懐けない。むしろ安心さえ覚えるほどだ。 マリィはマリィで、もとからそういう感性が鈍いのだろう。特にどうということもなく俺の後に続いたまま、壁のような体躯の〈用心棒〉《バウンサー》を気にもしてない様子だった。 それで…… 「や、お帰り」 ホールに入ったところで、出迎えの本城が現れる。 「怪我とかしてない? なんだったらあたしが診るけど?」 「いや、大丈夫」 まるで医術の心得があるような言い草だったが、それは別にどうでもいい。 「司狼と香純は?」 「寝てるよ二人とも。起こそうか?」 「おまえさっき、香純が喚いてるとか言ってただろうが」 「やー、そうなんだけどさあ。あんまりうるさいから黙らしちゃったよ、ごめんね」 「…………」 「ああ、けど乱暴はしてないからね。この必殺夢見るハンカチでちょちょいっと」 「いい、もう分かった」 たぶんクロロホルムとか、そういうやつなんだろう。犯罪紙一重、というか犯罪なんだが、今はやかましいのを黙らせてくれたことに感謝しよう。 ついでに、あいつが登校するのを力ずくでも阻止してくれたのはありがたい。方法に問題があったとはいえ、俺がやったところでたぶん似たようなものになったはずだし。 「ま、礼なら司狼に言ってよね。あいつがやれって言ったんだからさ」 「で、どうする? 司狼だけでも起こそうか?」 「後でいいよ。おまえとも話がしたいし」 「あれれ、前は露骨にすっこんでろビッチ――みたいな態度とってたくせに」 「……事情が変わったんだよ。それにビッチ云々は思ってないぞ」 「ねえ、ビッチってなに?」 「こいつみたいな女」 と、本城はにやにや笑って俺を指差してくる。 「つまり気が多くて一人に定まらない。あっちもこっちもみんな大好きラブイズオール」 「じゃあ、いい人のことなんだね」 「その“いい人”ってのは、どうしようもない奴を無理矢理褒めるときに使う便利な言葉なんだよ」 「おぅ、よく分かっていらっしゃる」 うるせえな。 「とにかく、いいだろ。司狼の前に、おまえからもちょっと聞きたいことがある」 「そんな、あたしの性感帯なんか聞いてどうするのよ、変態」 俺は完璧に無視しつつ、マリィの手を引いて例のVIPルームというやつに入っていった。 「ちょ、ちょっと兄さん、どスルーですか」 なあ本城、それから司狼も今のうちに言っとくが、本当いい加減真面目にやろうぜ。 それで。 「電話爆破の仕掛けが知りたいの?」 「違うって」 確かにそれも、気になるっちゃ気になるが。 「あれはねえ、別に遠隔とかそんなんじゃなくて、あたしがあそこで香純ちゃん攫ったときに直接仕込んだネタなんだよ」 「具体的に言うと、一回受話器を取って戻したら十秒後にBOMB」 「ま、子供の理科実験レベルだよ。そんな真剣に不思議がられても困るって言うか照れるって言うか、いや褒めたいなら有り難く賞賛を受けるけど」 「心配するな。絶対褒めない」 そもそも他人の家電をわざわざ爆発させる理由がまったく見えない。ただの遊び演出で何をやらかしてくれるんだとしか言いようがなく。 「そのことはもういいから、ちょっと真面目に答えてくれ」 「司狼、あいつ何なんだ?」 「ん?」 「俺の知ってるあいつじゃなかった。おまえなら知ってるんだろ」 ヴィルヘルムとのタイマンを最後まで見たわけじゃないが、それでもあいつが以前よりさらにおかしな奴になっていたのは間違いない。でなくば今頃生きてなんかいないだろう。 「司狼、重傷とか負ってないのか?」 「んー、何箇所か脱臼はしてたけどね。でもそんなもんだよ。嵌めりゃ治るし」 「それなりに疲れはしたみたいだけどね。日頃あんまり寝ないくせに、今はバタンキューしてるから」 「…………」 「で、あいつは何者なんだって言われても、蓮くんは心当たりないわけ?」 ない。まったく分からない。確かに司狼は喧嘩の強い奴だったし、俺よりそういう荒事に慣れている男だった。 だけどそれは、あくまでどの学校にも一人はいるだろう好戦的な不良レベルというやつで、あの連中と切った張ったを成立させられるほどのものじゃなかったはずだ。 事実俺は、一度ヴィルヘルムに成す術もなく殺されかけてる。俺と引き分けて病院送りになった司狼が、あれとやり合って無事に済むなんてのは有り得ないことだろう。 なら司狼の変化は、あいつが病院を脱走してからの二ヶ月間……本城と知り合ってから今までの間に何かが起こったとしか思えない。ではその、“何か”とは何なのか。 「あんたはあんまり人のこと詮索するタイプじゃないと思ってたんだけどね」 「ああ、ガラじゃない。けどそれも時と場合だ」 「おまえら、その、ここで引っ込むつもりはないんだろう? 俺も、まあ、おまえらを当てにしてる事があるし、情報交換は必要だろう」 「お、それって二日遅れの同盟成立と取っていいわけ?」 「…………」 「ねーえ、どうなの?」 「……ああ、そう取っていい」 ここまできて渋っていても仕方ない。前々から自覚はしてたが、なんでも一人で片付けようとするのは俺の悪い癖なんだろう。 その主義……と言うか、拘りを捨てようと思ったのは、やはり弱気のなせる業か。ラインハルトと対面して、一人じゃ手に余ると痛感している。よく言えば合理主義になったんだろうが……とにかく今はこいつらの力も要るんだ。 「仲間なら、あいつのことをちゃんと把握しておかないといけない」 「仲間なら、三角中継してないで直接訊けばいいじゃんよ」 「あいつ絶対真面目に答えないだろ」 実は俺様、神に選ばれた伝説の英雄なのでうんたらとか、平気な顔してのたまいそうだ。 「だからおまえに訊いてんだけど」 「うーん、実はあいつ、神に選ばれた伝説の英雄で」 「おまえら思考回路まったく同じかよ」 「や、や、どうどう。冗談だからそんなにムキになんないで」 深呼吸深呼吸と、宥めるように笑う本城。いつでも緊張感の欠片もないところとか、本当にあいつと似通っている。 「まー、でも真面目な話ね、こういうのはちょっとどうかと思うわけよ。やっぱりいかんでしょ、本人がいないところで秘密をべらべら喋るってのは」 「あいつがどう思うかは別として、あたしは好きじゃないのよね、こういうお喋り」 「だいたいほら、マリィちゃんだってつまんない話だから寝ちゃったじゃない」 「…………」 言われてみれば確かにそうで、マリィは俺の肩にもたれたまますでに寝息を立てていた。 「それでもまだ知りたいなら、交換条件ってことでフェアにいこうよ。あたしは今寝ちゃってる司狼のことを話すから、そっちも同じく寝ちゃってるマリィちゃんのことを話して」 「…………」 「もしくは、起きてるあたし達二人だけのことを話すか」 「どう?」 「……分かった」 俺は頷く。 「後者でいこう。お前の言う通り、隠れて噂話ってのは趣味が悪い」 司狼のことはまた後で、あいつ本人から直接聞くしかないようだ。別に本城を信用していないというわけじゃないが、マリィの事情を吹聴するのは気が引ける。 「オケ、じゃあ先攻はそっちでいいよ。一回につき一問一答」 そんなこんなで、俺はこいつと一騎打ちみたいな質疑応答をする羽目になったわけだが……  分からない。というか全然聞こえない。  全部聞かせてあげるからと〈隣室〉《ここ》で待機を命じられたが、これは些か盗み聞きには無理のあるロケーションじゃないかしら。 「いや、でも、ところどころ聞こえなくも……」  ないことも、ないような。でもやっぱり厳しいものがあるような。  本心は、今すぐこのドアを蹴り破って乱入したいところだけど、そんなことをすれば絶対蓮は口を噤む。それくらいあたしにだって分かってる。  だから、これしかないわけだ。  人攫いの提案に諾々と従うのは癪だけど、他に手がないのは承知している。今はこうしているしか道がない。 「だいたい、なによ……」  人が寝たのを見計らって、何も言わずに行方をくらますなんて最悪だ。あいつはどうして昔から、何かというとあたしをのけ者にしたがるのだろう。  まあ、そんな悪戯めいた事情ではないことくらい、当然分かってはいるけれど……  でも、だからこそちゃんと相談してほしい。一人で悩んで抱え込んで、それでいい気分になるのはあんただけだ。あたしのこのもやもやとか苛々とか、どこに持っていけというんだろう。  たいした力にはなれないかもしれないし、むしろ邪魔にさえなるかもしれない。だけど一緒に悩むくらいならできるんだし、悩ませてくれたっていいじゃないか。 「ああ、もう……ほんとに聞こえないよ」  ぼそぼそと、腕が……とか、首が……とか言ってるけど、話がまったく繋がらない。どうしよう、これ。やっぱり乱入したほうがいいのかな。 「ねえ、ねえねえ」  そんなこんなで焦りつつ、後ろでソファにふんぞり返っているであろうもう一人に、香純はドアの隙間へ耳を押し付けた姿勢のまま手を振った。 「司狼、あんたはいいの? 聞かなくて」 「あー、オレは別に興味ねえわ」  無論、真っ赤な嘘である。香純が気付いていないだけで、司狼は片耳にイヤホンを挿していた。 「〈蓮〉《あいつ》が口割るとすりゃあ、特に面識のないエリーになる確率が一番高いし。だからこのセッティングにおまえも了解したんだろ。 ここは大人しく待っとこうぜ。気になりゃ後でエリー伝いに聞けばいい」 「それは、そうだけど、でもぉ……」  ぶつぶつと、納得いかなげな様子で香純は口を尖らせる。本当に相変わらず人が善くて単純で、実に愛すべきバカスミだ。司狼は苦笑を禁じえない。 「おまえオレがいない間に、ちったあ蓮と進んだか?」 「す、進んだって何がよっ?」 「だからあ、実質住んでる部屋同じなんだし、〈邪魔者〉《オレ》がいなくなりゃあ出来ることもやれることも増えるだろうがよ」 「で、で、出来ることって……あんたそんな」 「んだよ。万年処女かよ。終わってんな、おまえ」 「や、や、やっかましゃーっ!」 「おい、声、声」 「あ、あわわわわわわわ」  馬鹿だ。本当に馬鹿だこいつ。 「でもまあ、おまえはそういうところがいいんだろうな。たぶん」 「う、うるさいわね。あんたこそいきなりいなくなったと思ったら、こんなところでふらふらと」 「あー、はいはい。その説教はもういいだろ。何回目だよ」 「まだ一回もちゃんと最後までしてないわよ」 「じゃあ、あっちの話はもうシカトか?」 「それは駄目」  言って、再び香純はドアの隙間にかぶりつくが、いくら耳を澄まそうとあちらの会話を把握することは出来まい。そうなるように、司狼とエリーは手を打ってある。  香純は気付いていないだろうが、あちらとこちらの間に小型のアンプを置いて微量のノイズを流しているのだ。お陰で肉声など、まず聞き取ることはできない。  エリーの服に仕込んだ盗聴器から直で音を拾っている司狼を除き、この部屋から隣室の会話を探ることはほぼ不可能になっていた。 「うぅ~~、全然聞こえないよぉ」 「だから、今は諦めろって。いいじゃねえか、オレら二人そろって蚊帳の外っつーことは、逆説あいつが蚊帳の外だ」  結局、蓮が口を割ったという既成事実さえ認識させておけばいい。  香純は何のかんのとごねているが、今はこれが限界だと弁えているはずだろう。  これは司狼なりの、幼なじみ二人に対するサービスだ。蓮は下手な嘘をつくことなく真相を誤魔化せて、香純は騙されることなく、現状における最良と思える手を実施できた。  いや、サービスと言うより罪滅ぼしか。なぜなら今からこの二人を、司狼は自分の都合で利用するつもりなのだから。 「しっかし、何話してんのかねえ、あいつらは」  完全に隣の会話を把握しつつ、さりげなく顎を掻いてみせた司狼の指には、小型のマイクが摘まれていた。 「だいたいエリー、〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈学〉《 、》〈校〉《 、》〈サ〉《 、》〈ボ〉《 、》〈り〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》」 「だから、〈今〉《 、》〈一〉《 、》〈番〉《 、》〈危〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈学〉《 、》〈校〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」 都合十五回目になる俺からの質問に、本城はそう答えた。 「蓮くんは引越し組だから知らないかもしんないけど、あたしは〈諏訪原市〉《ここ》の生まれだからさ。有名なんだよね、その話」 つまり、俺がラインハルトから聞いたこと。第二次大戦と前後して、この街が奴らの関係者の手により創られたという〈事実〉《デタラメ》を。 「実際、異説俗説入り混じって、今じゃ何が正しいのかよく分かんないけど」 「この街に都合八箇所、重要ポイントっていうのがあるらしい。風水とか錬金術とか? 色々言われてるけど、それを線で繋ぐとやばいんだってさ」 「で、その中でも、ほとんど絶対に近い確率で八個の一つに数えられてるのが……」 「月学なのか?」 「そう」 聞いて、俺は目眩を覚えた。いや、なぜもっと早く気付かなかったんだと、自分自身に怒りを感じる。 前に櫻井は言っていた。〈学校〉《ここ》は特別な場所なんだと。だから自分やルサルカがいるんだと。 そうだよ、なら学校は、今一番危険な場所に間違いない。俺がそこにいようがいまいが、奴らはその場所にこそ用がある。 「なんか、朝練っぽい生徒らが何人か登校してたって言ったよね」 「おかしいんだよ、それ。だって今は例の事件で、部活動やってなかったはずなんでしょ?」 本来ありえない形で、学校に集まっていく生徒たち……さながらそれは、笛吹きの魔力に子供が連れ去られる童話のようで…… 俺はあのとき、生徒の一人でも捕まえて確かめるべきだったのだろう。彼らが正気なのかどうなのか、それを確認さえしてれば今頃…… 「助かったよ、本城」 言って、俺はソファから立ち上がる。支えを失ったマリィも同時に、驚いて目を覚ました。 「え、あ、どうしたのいきなり?」 「今から学校に行く」 きょとんとしているマリィの手を取り、立ち上がらせた。朝から行ったり来たりで忙しないが、ここでのんびりしてるわけにもいかない。 相手は櫻井か、ルサルカか、あるいはその両方か……分からないが無視は出来ない。奴らの勝手を許していれば、いずれラインハルトが完全な形で戻ってくる。 あれだけは、あれだけは絶対に阻止しないといけない。 「いいの? このまま行っちゃって」 それは、香純や司狼に会っていかないのかということだろう。 「いい。顔見ると決心が鈍りそうだ」 「それに、目でも覚まされたら面倒だろ」 「そりゃあね。確かに」 苦笑しながら肩をすくめる本城には、俺もだいたい知ってることの総てを話した。言っていないことといえば、それこそマリィの生い立ちと最期に関わるエピソードくらいのもので、他にカードは何もない。 こいつが俺の言うことをどれくらい信じたのかは知らないが、そこはもうこっちの領分をすぎた話だ。お互いの情報は情報として、取捨選択は各々好きにやればいい。 「でもそっかー、魂かー。液体窒素も効かないとか、どんだけギャグ一歩手前なのよって思ったけど、ほんとに悪い冗談が相手なんだね」 出来ればこれでこいつらも、前に出るのを控えてくれれば助かるんだが…… 「香純のことは頼むよ。俺は――」 「あー、はいはい。いってらっさい。出来れば首とか? 持って帰ってくれると嬉しい。標本にするから」 さらりと凄ぇことを言う女だ。 「それからこれ、プレゼント。改造してるから地球のどっからでも通話できるよ」 と、携帯電話を投げてよこす。 「あたしと司狼の番号入ってるから、なにかあったら連絡して」 「分かった」 「じゃね、マリィちゃん」 「…………」 「あれ、どうしたのかな? あたしの顔になんかついてる?」 「……ううん、さようなら。えぇっと…」 「エリー。名前ちょっと被ってるよね、あたしらって」 「エリー……そうだね。あなたもわたしと同じになるよ」 「そりゃ光栄だわ、凄い楽しみ」 「行くぞ」 正直二人のやり取りは、俺の理解の外だった。 女同士、〈男〉《おれ》から見れば暗号の言い合いみたいな会話をするのは、香純や先輩で見知っていたし。 だからたぶん、今のもそういう、女の友情や親愛表現における一形態にすぎないのだろうと…… 勝手に見切り、すぐ忘れたこと。 それが俺の愚かさで、どうしようもない間抜けさを表している失態だった。 「うーん」  部屋から出て行く二人の背を見送ってから、エリーは肩を抱いて唸り声を漏らしていた。 「やだな、あたし震えてる」  何が怖いというわけでもないのに、全身鳥肌が立っている。マリィと目を合わせた瞬間にぞくりとしたのだ。理由はよく分からない。  だが強いて言うなら、これはトキメキに近いのか? 別にそっち系の趣味はないのに、動機息切れが早くなってる。 「うーん」  再度、首をひねって唸るエリー。それともひょっとしたら、嫉妬みたいなものなんだろうか。  いい奴だなーとか、悪いことしたなーとかの気持ちはあるし、彼にはあまり嫌われたくない。でもたぶん、近々嫌われてしまうだろうし。  彼と一緒のマリィにちょっとだけ複雑な思いを懐いた瞬間、それを見透かされたようでドキリとした。とまあそんな感じじゃなかろうか。  いや別に、どうだっていいんだけどね。 「ちょっと!」  だからそんな、愚にもつかない諸々は、隣室からばたばたと駆けてくる香純の登場で脇に置いた。とりあえずこっちの作戦は成功したのだから問題ない。 「あいつ、いきなり何処行っちゃったのよ」 「デートしてくるってさ」 「で、デートって……」  今、そういう状況なの? と香純の目が白黒しながら言っている。 「なんか凄い真面目な顔して出て行ったけど、そんな雰囲気じゃなかったような……」 「じゃあ追いかける?」 「や、でもさすがにそれは……」  うにゃうにゃとやっている香純の頭に手を置いてから、エリーは後ろのもう一人に目で合図をしつつ促した。 「司狼、あんたが代わりに経過見届けてきなさいよ。香純ちゃん、そっちのほうが気になるみたいだし」 「そりゃ別にいいけどよ。なんだおまえ、随分そいつにゃ甘いじゃん。気に入ったんか?」 「うん。なんかチワワみたいで可愛い」  言いつつ、ぐりぐりと香純の頭を撫でまくる。と言うより、いたぶってるようにしか見えない。 「痛い、痛い痛い痛い。禿げる禿げる禿げちゃうから煙出るからー!」 「おまえの頭はいつも煙噴いてんだろ」 「んじゃまあ、エリー」 「ん、分かってる」  香純の苦情を放置したまま、二人は何かを了解しあうように微笑んだ。 「〈ど〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈が〉《 、》〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈恨〉《 、》〈み〉《 、》〈っ〉《 、》〈こ〉《 、》〈な〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》」 「〈理〉《 、》〈想〉《 、》〈は〉《 、》〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈そ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈レ〉《 、》〈ア〉《 、》〈モ〉《 、》〈ン〉《 、》〈ゲ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈ト〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈ど〉《 、》〈ね〉《 、》」 「つーより、オレはよ……」  司狼は身をかがめて、座っているエリーに視線を合わせた。間に香純が挟まっているのだが、まるで頓着していない。 「あいつらみたいな関係も、悪くはねえかなと思ってんだよ」 「あんた、あたしに飼われたいの?」 「さあね、言ったろ。どっちでも恨みっこなしだ」 「あ、あの~……」 「二人とも、近いって言うか、あたしの顔貫通して話すのやめてほしいんだけど……」 「起伏のねえ扁平面だから障害物にゃなんねえよ」 「それはブスっちゅーことかぁー!」 「違ぇって」 「味のある顔ってことよ」 「たとえば?」 「ふむ……味ねえ」  瞬間。 「うひゃあっ!」  左右同時に、司狼とエリーから頬を舐めあげられた香純は、頓狂な声と共に飛び上がった。 「な、な、な、な……」 「味しねえよ」 「ちょっと塩味ききすぎかも」  ピキピキと音がしそうなほど硬直している香純の頭に砂糖を振りかけ、司狼は身を起こすと部屋から出て行く。 「これで少しは味変わったろ。そいつのことはおまえに任せる。オレは行ってくっからよ」 「はいはい、いってらっさい」 「てかあんた、なんでそんな都合よく砂糖なんか常備してんのよ!」 「他にも色々あんだぜ」 「そ、色々ね」  事情も種類も、と言って再び顔を寄せてきたエリーに、砂糖まみれの香純は飛び退くように仰け反った。 「あん、美味しそうなスイーツなのに」  ていうか、なんだこのヘンな〈女〉《スイーツ》。  あたしの周りって昔から、マトモなのが一人もいないのはどうして神様。 クラブを出てから俺はずっとあることについて悩んでいたが、それが実に間の抜けたものであったと、ようやくここで気がついた。 〈彼女〉《マリィ》をどうやって違和感なく校内に潜り込ませようかと……なぜそんなことを大真面目に考えていたんだろう。 この子は俺の意思で、自由にその存在を出し入れできる。そもそも今から戦いに行くのだし、だったら初めから内に収めておけばいい。少なくとも人型のまま連れてるよりは、そうした方がいざというときにも役立つはずだ。 にも拘わらず、俺はついほんの今まで彼女を完全な一個の人間として認識していた。思い返せばクラブへ行く前、香純の部屋へ全力疾走したときも、マリィの結像を解くという手を物の見事に失念していた。手を引いて走ることしか咄嗟に思いつけなかった。 それは単に、俺がボケていただけなのか。それとも自覚がないだけで、彼女に対する見方が変わっていたのだろうか。 分からないが、しかし恥じることじゃないとも思う。間が抜けていたのは確かだが、悔やむ必要なんてないことだ。 この子を人間として認識しつつ接するのが、間違いだとは思わない。 だから―― 「驚いた。意外に似合うな」 制服に着替えた俺の前で、同じく制服姿のマリィがコメントを求めるような目をしていたのでそう言った。 香純の予備を勝手に拝借してしまったんだが、もともと彼女の私服もあいつのなんで別に構わないだろう。黙ってりゃバレやしない。 「おそろいだね。でも意外ってどういうこと?」 「あ、や……そりゃなんつーか」 別に悪い意味なんかじゃなく、マリィは外人だから日本の学生服というファッションに違和感が出るだろうと思ったんだが、いざ着てみると結構自然だったということで。 まあ、可愛い子は何着ても似合うってやつだろう。後はそう、強いて言うなら…… 「つい最近、金髪に白い服って組み合わせでとんでもないの見たから、そのせいかな」 「ああ……」 マリィも思い至ったのか、参るよねと言わんばかりに苦笑した。 「あの人、怖いもんね」 ラインハルト……あいつはこの子にいったい何をしたんだろう。自嘲するような今の笑みは、もはやどう見てもただの女の子にしか思えない。 「レンも怖い?」 「……そうだな」 あれを怖くないなんて虚勢は、どうしても言いかねる。そして奴が怖いからこそ、思い通りにさせてはいけない。 「とにかく、学校へ行こう。その格好なら、まあ……」 「大丈夫?」 「だとは思う、けど……」 ルサルカみたいに、形式上留学生という立場の奴もいるのだから、最低限なんとかはなるだろう。私服のまま連れて行ったら即アウトだが、少なくとも生徒間では疑問の目を向けられるくらいに留まるはず。 「基本、堂々としてりゃいいから」 つまり、いつも通りにこにこ笑っててくれればいい。見知らぬ白人美少女に正面から突っ込み入れられる日本人など、たぶんそうはいないはずだ。 ――が、そうした俺の心配は、いざ学校について見ると杞憂に終わった。 「…………」 「ここが学校? なんだか静かね」 生徒はいる。教師もいる。〈学校〉《ここ》は平常通りつつがなく、五百人からの人間で溢れている。 だというのに、話し声一つ聞こえてこない。 廊下で何人ともすれ違うが、俺とマリィに何の注目もしていない。どいつも無言のままふらふらと、そこら中を徘徊するだけ。明らかにおかしかった。 「……そもそも今、授業中だぞ」 本来なら、三時限目の真っ最中。にも関わらずどの教室でも、一切授業をしていない。 まるでゾンビの学校だ。 「マリィ、ちょっと歩こう。校舎中を見て回る」 本城が言ったように、これはどう見てもマトモじゃない。だが今すぐ何かが起こるという感じでもなく、俺は冷静であるように努めながら校内を巡回してみることにした。 結果…… 「どこも一緒だったね」 つまり、校内全域で同じことが起きている。一年から三年まで全部の教室を回ったし、職員室にも顔を出した。 そしてその何処であっても、無人の場所は一つもなく……にも関わらず人間らしい人間が一人もいない。 「催眠術……とか、そういうのかな」 安直にそんな発想が浮かんだが、担任の耳元で大声出したのに無視された。停学覚悟でぶん殴っても、教頭は何の反応も示さなかった。 こんなデタラメな催眠術って、存在するのか? 「レン、こっち座ろう」 表面上は平静を装いながらも、内心は見事なまでに混乱している。そんな俺に気を遣っているのだろうか、マリィが休めと言ってきた。 「ほら早く、こっち来て」 「いや、その……」 それは確かに、今のところ誰かが死んでるわけでも攻撃を受けたわけでもないんだが、だからといってのんびりしていられるような気分でもない。 「目がこーんななってるよ。全然休んでないんでしょう? だから座って」 「…………」 「ね?」 まあ、腰を下ろすのはいいとしてもだ。 すぐそこにベンチがあるのに、なんでこの子は芝生の上でペタンと座っているのだろう。 「チクチクしないの?」 ズボンはいてる俺はともかく、ミニスカートで芝生に座り込むってのは、なんかこう、違うだろ。 「気持ちいいよ」 だけどマリィは、そんなの意に介していないというように微笑んで俺の手を引く。 「はーやーくっ」 そして、無理矢理自分の隣に座らせてきた。 「えへへへ」 その笑顔と、触れ合う肩の体温に、すとんと俺の中で何かが落ちた。 それは張り詰めていた緊張感や、誤魔化していた疲労感……正直、しばらく立てそうにない。 そのまま俺はずるずると、彼女にもたれるような格好になってしまった。 「……悪い」 小さく、聞こえないようにそう呟く。甘えん坊のようでみっともないが、人肌ってやつがこんなに安らぐものだとは知らなかった。 時刻はそろそろ四時限目が終わるくらい。昼休みを間近に控えた中庭は日に照らされて暖かく、マリィの髪がきらきらと輝いて俺の頬をくすぐっている。 どこか懐かしくなるような日向の匂い。彼女はいつも茫洋として黄昏にいたけれど、この爛漫とした笑顔の質は、むしろこうした昼の光こそが似合っているんじゃないだろうか。 そして俺は…… 「……腹、減ったな」 前に彼女と香純で街中を歩き回ったとき以来、ろくに食事を摂っていないことを今頃になって思い出してた。 「レン、お腹すいてるの?」 「……ああ、少し」 実質、丸二日飲まず食わずの状態だから、少しなんてもんじゃないけど。 「マリィは平気か?」 「わたしは大丈夫だけど、どうしようか。何か探してくる?」 「いや、いいよ……」 苦笑して、首を振る。それは、なんていうか辛すぎるし。 昼時に、この中庭で、日に当たりながらメシなんていう展開…… 「なんか、しょうもないこと考えちまいそうだから」 いったい、俺は何をしているんだろう。 今日ここに来たのは戦うためで、一応決死の覚悟も決めてきていて、実際この学校は異常な感じだと分かっているのに…… 「レンはいつも、〈学校〉《ここ》でどんなことをしていたの?」 まるでマリィが、同じ学校に通う友達でもあるかのような状況に、平和な錯覚を懐きたくなる。 ここで何もかも放り出して、ずっと寝ていたい気持ちに駆られる。 「同じくらいの歳の人が、いっぱいいっぱいいるんだね。建物もお城みたいでキレイだし、なんだかとても楽しそう」 断頭台の下で産まれ、断頭台の下で死んだ少女。 彼女は親も、兄弟も、友達も……何かを共有できる相手は一人もいなかったに違いない。 だからこんな、今の時代に生まれていればごく当たり前に享受できる、学校なんていう空間…… それがマリィには、見たこともない宝石にでも感じられるというのか。 俺はそのことが、どうしようもなく切なくて。 「楽しい、よ……」 「本当っ?」 「ああ……」 楽しい。ここは楽しい場所だ。殺すとか殺されるとか、血とか戦争とか無縁の場所で……俺もここを好いていたし好いている。 また再び、ここでの日々に戻りたいと思っている。 「香純と司狼が、俺と同じクラスでさ。あいつら馬鹿で騒がしいから、色々面倒なこと吹っかけてくるんだけど……」 それも本当は楽しくて。 「ずっとそれが続けばいいと思ってた」 続くはずだと思っていた。 「屋上、俺の避難場所でさ」 そこで一年のとき、変な先輩に会って。 「追いかけてくるんだよ、バカスミが」 お陰で〈屋上〉《そこ》は、ただの溜り場になってしまい。 「司狼は気付けば何時の間にかっていう神出鬼没で、先輩はいつも微妙なサンドイッチ食っていて……」 「ほんのちょっと前まで俺たち、だいたい四人一緒だったよ」 それが今では―― みんな、みんな、ぶっ壊れたし、何より俺が一番あの頃の俺じゃない。 見慣れた学校も、それを好いていた俺たちも、全て変わってしまったというのに…… 「じゃあレン、わたしが五人目になってもいい?」 「―――――」 そんな風に言うマリィが、この異常化した現実ゆえに出逢えた相手だという事実。 そして俺が日常を取り戻せば、彼女は消えてしまうのではないかという予感。 俺がただの俺に戻れば、当然マリィとの繋がりも無に戻る。 それはおそらく、いやまともに考えて避けようのない確定事項だ。 「ねえ、駄目かな?」 そしてだから、だからこそ……俺はこのぬるい錯覚に酔っていたいと思ったんだ。 彼女も含めた、歪で幸せな日常を夢想したいと。 「……いいよ」 櫻井も、ルサルカも、なぜか今ここにはいない。 死人か人形めいた生徒たちに満ちたこの学校で、ただ二人だけ生きている俺とマリィ…… それはまるで、あの夕暮れに染まった浜辺と同じ……ある種時間が止まった世界の中で取り残されているかのようだった。 「まあ、なんつーか、耳痛いねえ」  中庭でのやり取りを見下ろしながら、自嘲気味に司狼は零した。  盗み聞きをするつもりはなかったが、周りが静かすぎるので仕方ない。彼の耳には届いてしまう。  しかし、それはともかくとして、やはり読み通りだった。〈学校〉《ここ》は連中にとっていつでも取れるし、唾をつけてる奴が自分の物だと主張している。  あからさまな異常空間を演出しているのは他でもない。仲間に横取りするなと言っているのだ。  で、あれば、現状ここはただのキープ。陣取りゲームを行うなら、さらに別の地を確保するのが常套だろう。欲深な者なら必ずそうする。  馬鹿正直にこの学校を狙ってくる可能性も捨て切れなかったから一応ついては来たものの、もう半ば確信した。三番目になるのはここじゃない。  だったら、もっとも確率が高くなるのは何処かという話で……  八番までを無事開くつもりなら、常に大量の人間が流動するような場所は真っ先に潰すだろう。一般の者らが警戒心を持たないうちに、最大効率で彼らを生贄に捧げねばならない。  だから終盤に残るのは、もともと大人数が集る立地ではない場所か、あるいは何があろうとその地を離れられない者らがいる場所になる。  そういう意味で、今の〈学校〉《ここ》は後者だ。皆が操り人形よろしく、大雨だろうが大火事だろうが登校するに違いない。  それらの事柄から推理すれば、答えは見える。  煙草を揉み消し、苦笑する司狼。  今現在、もっとも危険な地は三箇所あり、その中でも連中が好んで第一目標にしそうなのは一つだけだ。  なぜなら自分は、ヴィルヘルムに狙われている。そのことを自覚している。  ゆえに…… 「さて……」  ともかく〈学校〉《ここ》が外れだと分かった以上、もう出歯亀はやめよう。客が待ってるだろう所に帰らねばならない。  まあ、今は休めよ。  またすぐに会えっから。  バカスミはたぶん、悪運強ぇから大丈夫だと思うぜ。  と呟いて、司狼は踵を返していた。 そうして、どれだけ経ったのか。どうやら俺は寝ていたらしい。 「…………」 「おはよう」 「…………」 「疲れてたんだね。急に寝ちゃうからびっくりしたよ」 目を開ければ、マリィが俺を見つめていた。 「どうしたの、レン。ヘンな顔」 「いや……」 何でもないと言いながら、視線を彷徨わす。 ただ、何かとてつもなく嫌な夢を見たようで……その残滓に俺は凍えてしまいそうで…… 香純も司狼も氷室先輩もいない学校。もしも起きたときに一人だったら、俺は泣いていたかもしれなくて。 「マリィ……?」 「うん。なあに?」 彼女がずっと、俺の傍にいてくれたこと……それが震えるほど嬉しかった。 「悪い……なんていうか、重かったろ?」 上から見下ろしてくるマリィの顔はとても近く、頭の下に感じる柔らかいのは彼女の膝になるんだろう。 「気付けば夜だし」 俺って奴は本当に、あの状況で何時間眠っていたんだ。馬鹿としか言いようがない。 「平気。だからもうちょっとこのままでいて」 起きようとする俺の肩を優しく押さえて、大人しくしなさいとマリィは微笑む。 「レンが寝てる間、何も変わったことはなかったよ。夕方ごろ、他の人たちはみんな帰っていっちゃったみたい」 「だから今、ここにいるのはわたしたち二人だけ」 「帰った?」 なら、あの夢遊病みたいな連中は、みんな帰宅したというのか? 「たぶん、明日も来るんじゃないかな。学校って、そういうとこなの?」 「……まあ、そりゃ平日には毎日来るけど」 あいつら、明日も明後日もあの状態で? それじゃあまるで鴨撃ちどころか射的だろう。完全ロックオンされてる状態だと言っていい。 だが、少なくとも今夜は乗り切ったということなのか。俺は何もしてないし結果論にすぎないけど、この学校が今すぐ血で汚れる可能性は低いと思える。 ……よかった。とりあえずそのことだけは本当に助かった。些か以上に間抜けな空振りだったけど、修羅場なんてないに越したことはない。 「わたしね、レン……ちょっとよく分からなくなったんだ」 そして、俺がそんな安堵に浸っていたとき、マリィはぽつぽつと話しだしてた。 「一度レンと離されたとき……〈胸〉《ここ》にね、何かが刺さったの。その穴が残ってるの」 「それはあの、怒らないでほしいんだけど、ココロ……が痛いとかそういう意味じゃなくて、レンと離れたのが嫌だなあって、そういうことじゃないの」 「わたしは、だって、ほんとは何も分からないから」 「えっと、その、分かる……?」 「……ああ、分かるよ」 マリィの言葉はかなり拙いが、それだけに理解できる。この子は本来、俺と離されようが何をされようが、“ああそうか”とも思わないはずだ。 カリオストロ、カール・クラフト……僅かでも彼女を左右できたのは、知る限りそいつしかいない。俺のところに来たのだって、もとはその要望だからというだけだったはずだ。 「じゃあ、何が刺さったんだ?」 「それがよく分からないの」 申し訳なさそうにマリィは言う。ラインハルトに何をされ、彼女がどうなったのか……俺たちはそれをお互いに分かっていない。 いや、あるいは…… 「マリィ、本当は分かってるんじゃないのか?」 「え?」 「だからつまり、さっきみたいに……」 言葉が足りず、意思の伝達に慣れていないというだけで。 「何でもいいから話してくれよ。ちゃんと聞くから」 「でもわたし、自分で何言ってるのか分からなくなっちゃうよ」 「大丈夫だよ。俺、そういうの慣れてるし」 香純も司狼も、多分にデタラメな日本語をぶん回す連中だ。そんなあいつらと幼なじみをやってる経験は伊達じゃない。 「それでもう一度訊くけど、何が刺さったって?」 「何か、長いの……とても恐ろしい物」 「恐ろしい?」 それはどういう…… 「いっぱいなの。数が分からないくらいいるの」 「その長いのがいっぱい?」 「ううん。いっぱいが一つで長いの。えっと……こんな感じ」 言って、マリィは自分の髪の毛を一房掴むと、棒状に伸ばしてみせた。 「ああ、なるほど、分かったよ」 個が複数というんじゃなく、集合体が一つだという意味か。それも数が判別できないほど膨大で、恐ろしい集まりだと。 「塞げないのか、その傷」 「分からない……けど塞ぎたくない」 「どうして?」 「だってそこから、レンのことが分かるんだもん」 「俺の?」 「うん、今ちょっと怒ってる」 「そんなことは……」 ないことも、ないかもしれない。 俺はマリィの説明で、なんとなく刺した物とやらの正体が読めていた。 おそらくそれは、ラインハルトの聖遺物。マリィはそれに貫かれ、魂の傷口から直に心を流し込まれている。 そしてその心とは、おそらく彼女と繋がっている俺のもの。 つまり、ここでマリィと触れ合うのも、絆が深まったような気がしたのも、結局奴の掌なんだ。いずれ肥え太らせて喰うために、キャッチアンドリリースされた魚にすぎない。 「嫌なの? わたしがこうなったのはレンのせいだよ」 「レンがわたしをこうしてるんだよ」 「…………」 「これを塞いじゃったら、わたしはまた何も分からなくなっちゃうよ」 「それは嫌だな、もったいないし……」 緑色の瞳がじっと俺を見つめてくる。彼女の声は、震えていた。 「怖いよ」 恐怖……それは俺が、おそらく初めて彼女に流し込んだ心。 あのときラインハルトと対峙して、芽生えた極限の恐怖心がマリィを壊す先触れとなった。 ああ確かに、何もかも俺のせい。たとえきっかけはあの男でも、俺があいつに勝てなかったからマリィをこんなに怯えさせてる。 なら今、この状況で、つまんねえ屈辱感じてる場合じゃないだろう。 馬鹿な真似をしてしまったと、後悔させてやればいい。 「俺の気持ちが分かるんだろう?」 下から、今にも泣きそうなマリィを見上げて、俺は言った。 「ちょっと照れくさいだけだよ。別に怒ってなんかない」 「本当に?」 「ああ、ていうかそれ、そのままで大丈夫なのか? 俺はそっちの方が心配なんだけど」 「あ、うん。それは平気。穴は開いてるけど、埋まってるから」 「……?」 ちょっと意味が分からない。 傷口は塞がってないけど埋まっているということは、つまり刺さりっぱなしだということなのか? それを彼女は心地よく思っているなら、えっと、なんだ。 その、率直にもの凄くアレな連想をしてしまい…… 「なに変な想像してるの、バカ!」 「――ッァ」 肘……肘打ち顔面に落とすか普通? 「いきなり香純みたいな反応すんなよ、痛ぇだろ!」 「だ、だって、女はこういうときはこうしてくるって、レンが思ってるんだもん」 「思ってねえよ!」 「思ってた!」 断固否定してやりたいが、深層心理のレベルで香純の蛮行が染み付いている可能性も捨て難く、だとしたら俺はとんでもない女性観を抱え込んでいるのかもしれない。 じゃあ氷室先輩を……駄目だ。本城は……さらに無理だ。櫻井、ルサルカ……話にならん。 強いて言うなら、シスター・リザくらいしか女性としてまともそうな知人がいない。 マリィが俺の女版みたいになったら困ることこの上ないんで、可能ならあの人のイメージを参考にしてほしい。あくまで現状の俺が知っている限りの彼女をだが…… 「いやだ」 だっていうのに、なに拗ねてんだよ。意味が分からん。 「真似なんかしないよ。わたしはわたしだもん」 「レンは、その人が二人ほしいの?」 「……いや、別にそういう意味じゃなく」 じゃあどういう意味なのかと訊かれたら困る。そんな風に思っていたとき―― 不意に携帯電話が鳴り出した。 「…………」 正直、驚く。 「あいつ……なんで俺の着メロ知ってんだよ」 本城に貰った新しいやつなのに、以前と同じ着メロなのはどういうことだよ。たぶん偶然なんだろうが、一概にそうとも言えないのがあいつの不気味なところだった。 違いといえば、これがメールだということで。 いったい誰が……と出てみれば。 『悪ぃけど、しばらく会えねえ。すぐ戻るから待ってろ』 「……?」 これは、司狼か? 文面の意味が分からず首をひねり…… 「あ……」 「なッ――」 そして同時に、俺とマリィがある異変に気付いたのは、そのすぐ直後だった。 「どう? 落ち着いた?」 「ど、どうも」  さっきまでの威勢はどこへやら、当り散らす男たちが二人とも退散するや、香純は途端におとなしくなってしまった。出されたグラスのカラフルな液体に、おっかなびっくり口をつける。 「大丈夫。お酒とかじゃないから」 「は、はあ……」  舐めてみると、ミックスジュースのようだった。一気に飲み干してしまいたくなるが、半分で我慢する。 「あは。ちょっと緊張気味? まあ、あたしのこと良く知らないだろうから無理もないだろうけど」 「……あの、訊いてもいい、ですか?」 「ですか、は要らないよ。あたしらタメだし」 「あ、はい。って、ぅえええぇ? そ、そう、なんだ……」 「あれー?」  僅かに俯く香純の顔を、エリーは覗き込む。 「今、老けてるなーとか思ったでしょ?」 「おっ、おお思ってない。思ってないで……ないよ」 「いーよいーよ。散々司狼に言われて慣れてるから」 「司狼に……」  その名前を呼ぶ時に、一瞬見せたエリーの表情の変化を見落とすほど、香純もがさつではない。 「ん? どうかした?」 「え、あー、いやその……。 そういえば、エリーさんのこと……」 「エリーでいいよって、ここ来る途中にも言ったでしょ」 「あ、ゴメン……エリーのこと、あたし、今日会ったばっかりだし、全然知らないからそのー……」 「あらためて自己紹介といきます?」 「あっ。うん」  いそいそと、ソファの上で居住まいを正し、膝の上に柔らかく握った拳を二つ並べる。ベッドなんじゃないかと思えるほどにふわふわしていて、なんだか落ち着かなかった。 「えーと、あたしは綾瀬香純。月ノ澤学園の……」 「あはははは。そっちはいいよ。知ってるから」 「あ……」  恥ずかしそうに俯く香純に、エリーは微笑む。 「司狼から聞いてるし、ちょっと興味がわいたから自分でも調べたしね。ま、そう考えればたしかにフェアじゃあないよね。知ってるの、一方的にあたしの方だけだし」 「はい……あ、いやそんなこと……」 「でも、自己紹介っつってもあたし、別にもう言うことそんなにないんだよね。名前はエリー。本名はワケあって内緒。年は、香純ちゃんとタメね。趣味は、ちょいネクラなイメージあんだけど、パソコン」 「はあ……」  気のない相槌を打つ香純。 「どう? 何か質問は?」 「え? いえ、えっと、そのぉ……」 「ふふふ。なんか、聞きたそうな顔してるよ?」  指摘されて、香純は視線を部屋の四隅へうろうろさせた。 「あ、あの、ね……司狼とは……その……」 「あいつがね、病院抜け出した時に出会ったの」 「そ、そうなんですか」 「そう」  余裕の有る笑みで、香純を見つめる。香純が気になっていることなど、全てお見通しといった顔つきだ。 「もっと聞きたいこと、ないの?」 「えっと、それじゃ……司狼とは、もしかしてその……えっと……」 「恋人じゃないわよ」 「あ、そうな……」 「セックスフレンド」 「うえいっ?」  しれっと答えられて、慌てて飛びのこうとする香純だったが、予想外にふかふかのソファに倒れこんでしまう。 「ていうのは冗談」 「冗談なのぉ?」 「なんでがっかりしてるのよ」 「いや、別にそういうわけじゃないけど」  もぞもぞ身をよじる香純は、差し伸べられた手を掴んで体を起こす。 「まあ女同士なんだからさ、もうちょっとリラックスしようよ」 「そ、そうね。そっすね」 「まだ怒ってるの? 蓮くんのこと」 「………………はふぅ……」  香純はため息をついて、空気が抜けた人形のようにエリーへ寄りかかった。 「そりゃ……うん。もちろんYES。人がせっかく心配してんのにさ」 「ふふふ」  エリーの笑い声には余裕があって、こんな場末で聞くには不似合いなほど品を感じられた。そんな笑い方一つだけで、香純は自分の子供っぽさを思い知る。 「男なんて身勝手がデフォだし、百パー全力で当たっても疲れるだけだよ。要所要所だけ、押さえてりゃいいの」 「要所要所……って?」 「あいつらが疲れてる時、さみしい時、打ちのめされてる時……エトセトラ。そういうネガってる時にポイント稼いどきゃ、大抵大丈夫だって」 「それってなんか……都合のいい女にされてるだけじゃない?」 「うん。都合のいい女になってあげるの。されるんじゃなくてね。そこ大事」 「う~ん。なんか自虐的?」 「そお? 香純ちゃんも充分Mっぽい感じがするけどなあ」 「え、Mっ? あたしがっ? 全然そんなこと。むしろSっすよ。ビシビシ小突くし」 「うんうん。古き良き、尽くして尽くして耐え忍ぶ女の匂いがするよ~」 「あんっ……ってエリー近すぎ!」  思わず仰け反った香純と、それを見つめるエリーが同時に固まった。 「ちょっとリラックスできた?」  柔らかい微笑が、エリーの口元に浮かぶ。 「あ……ごめん、タメ口」 「全然オッケー。てゆうか、他の呼び方してほしくないし」 「うん。分かった」 「じゃあ」  ソファから立ち上がり、グラスに手を伸ばす。 「オネーサンがイロイロ教えて、ア・ゲ・ル」 「ひええええええっ?」 「なあんてね。あたしが教えられることって少ないけど、それで良ければ色々聞いて。司狼が病院抜け出してからのこととか、聞きたいでしょ?」 「なんだ、そういう意味か。 え、でもいいの?」  ふにゃっ、と脱力したかと思えばすぐに飛び起きる。香純のテンションの乱高下に、エリーは自分が久しぶりに気取らない笑顔を浮かべていることに気付いていた。 「都合のいい女になってやるには、必要な情報ですものね。ちゃんと、知らないフリするのよ?」 「うんっ。エリーありがと……」  女二人の意気投合を中断したのは、ノックもない〈闖入者〉《ちんにゅうしゃ》。  エリーが注ごうとしていた酒瓶を逆さに持って振り返る。  そこに立っていたのは、無作法にドアを開け放ったバウンサーだった。 「あ、あの……」 「待って」  立ち上がりかける香純を、エリーは片手で制する。  バウンサーはエリーも見覚えのある顔だったが、しかし様子が奇妙だった。  そしてその口が何事か言葉を〈紡〉《つむ》ぎ出そうとした瞬間――  部屋中に、赤い〈飛沫〉《しぶき》になって散った。  文字通り弾けたのだ。内側から、血と肉と骨を飛び散らせて。 「あ……」  香純の服に頬に髪に膝に額に手の甲に首筋に。  37度程の、生暖かい汁が、柔らかな塊が、飛ぶ。  骨片が混じっていたのか、頬がかすかに切れた。 「ああ……」  瞬間、それらに香純は感じた。  体の芯で。皮膚感覚が奥底に熱を灯し、深い場所が湿りを帯びる感覚を。 「あ」  甘美なる、血肉の香り。消え行く命の熱。  殺戮の味。 「アはハ、ハ……」  忘れていた呼吸が、横隔膜の痙攣によって引き起こされる。  高揚。官能。衝動。殺意。優越。飢餓。充実。劣情。  吸い込んだ息を吐き出すことすら忘れ、貪るように短く鋭く吸い続ける。香純の循環器系は全身に血をめぐらせる。心臓が早鐘を打ち、狩りへと誘う。 「あーーーーーーーーっ!」  ボスン、と、ソファが沈む音がする。  エリーは、一瞬で過呼吸に陥ってからその場に崩れ落ちた香純に、目を配る余裕は無かった。  それは客観的には、あまりの惨劇のショックに気を失ったようにしか、見えなかったからである。 「せっかく仲良くなれそうだったのに、ごめん。待ち人来たれりってね――」  返り血を指でぬぐいながら、弾け飛んだ肉片を見やる。  これは招待状。いや、挑発だ。 「ということは、もう」  心を沈めて耳を澄ますと、かすかにここまで悲鳴が聞こえてきていた。 「司狼……」  呟き、エリーは拳を握る。  口元には、笑み。 「意外と早かったよ。あたしの方が、先に〈玩具〉《オモチャ》もらっちゃうかもね」  VIPルームの数倍、いや数十倍の惨状がダンスホールには広がっていた。  この場にて行われたのは、小規模だが紛れもないホロコースト。  破壊され、寸断された、人間の破片の中に〈佇〉《ただず》むのは赤毛の少女。  大量の死を生産したばかりの、勤勉な殺戮者の小さな身体が、新たなダンサーへと振り返る。 「はぁ~い。誰かと思ったら、いつぞやの素敵なカップルの片割れじゃん」 「良い夜ね」  残酷劇の中央へ、エリーは臆せず進んでいく。それは、いかなる残酷もまた笑いとしてしまう、シュールな残酷劇の一幕のように。 「いいえ。素晴らしい夜、よ」  それを眺める少女の笑みは空を切り取る三日月のように鋭く、そして冷たかった。  その目に、エリーは一目で圧倒的な場数を感じ取る。  やはりこの女は、かぶってきた血の雨の数が違う。 「愛しのクライドはお留守なの、ボニー? もうちょっと待てばよかったかな」 「うぅん――」  首を振ると、短めに刈ったエリーの髪が、首筋をさらさらと撫でる。 「ドンピシャだよ、あんた」  少女は歌う。  鎮魂のためではなく、歓迎のために。  新たに永遠を歩む列へと加わった同胞を、抱きしめるように。 慈しむために。  歌う。  殺し、愛し、歌い、そしてまた殺す。 その繰り返しが、永遠への約定であるがゆえに。  少女は歌う。  血塗られたダンスホールは、ただ彼女のためだけの舞台。  そこに生者は一人として亡く。  現実を遠のける、血臭にけぶる空気の中を、少女の歌声が響く。  観衆はただ息を飲み、静かに揺れながら、彼女の歌へ耳を傾ける。  そう。  命ある者のいなくなったこのダンスホールにも、観衆がいた。  彼らは壁際に並び、音も無く踊る。  それは彼女の足下から伸びる、無数の影たち。  彼女とともに、永遠を歩くものたち。  〈僕〉《しもべ》ども。  女主人を称える揺らぎの中央で、少女は不意に、歌声を止めた。  命ある者の気配を、感じて。 「あら。お客様?」 「ほぉう……」  室内を〈一瞥〉《いちべつ》して、司狼は察する。  血の臭い。鼻腔を刺すこの鉄錆の香り。  閉鎖空間に立ち込める、行き場をなくした命の持つプレッシャー。  ここは、たった今まで戦場だった。  だが、異様なことに何も無い。  血痕の一つも。肉片の一かけらも。 「きれいな声してやがる」 「あら。きれいなのは声だけ?」 「ハッ。あつかましいぜ」  だが、生者を拒絶するこの空間へ、司狼は気負いも無く足を踏み出して見せた。 「ヘェ」  少女の片目だけが、少女の装いを忘れ魔女の目となって引き絞られる。 「とんだ命知らずね。あなた」 「そうかい?」 「でも残念。少し遅かったわよ、クライド」 「縁起の悪い渾名をつけるんじゃねえ。フェイ・ダナウェイを連れて歩いた覚えはねえよ」 「あら酷いの」  悪戯っぽい笑みで、少女は下腹を撫でる。 「そんなこといったら気の毒よ。せめて男なら、フェイより美人だ、くらいは言ってあげなきゃ」 「なあるほどなあ」  その仕草に、司狼は全てを察してホールを見渡した。 「道理ですっきり片付いているわけだぜ。喰ったんだな。ここにいた奴等全員」 「身体だけはね」 「血の一滴まで?」 「大喰らいの女は嫌い?」 「年も喰って太るまでなら構いやしねぇよ」 「まあ。ワイルドな答えね。ロマンティックじゃないけれど、そういうストレートな男もおねーさん好みよ?」 「言ってろ」  大きく深呼吸して、理解する。  この場所が、既に今まで過ごしてきた場所とは、階層のずれた存在へとスライドしてしまっているのだという、事実に。 「じゃあ、この場所も落ちたってわけだ」 「あれ? あなた、知ってるの?」  魔女の表情が明るくはじける。 「スワスチカの、なんたるかを」 「……答える義理はねえよ」 「あん」  そっけない答えに、身をよじる少女。 「今の、ちょっとキュンてきちゃったわ。久しぶりの狩りで、少し興奮気味みたい」 「ハッ。下品な女は勘弁だな」 「そういう男を虜にするのが好きなの。わたし」  魔女の舌が、より血の色をした唇をなぞる。 「面白いわ。いいよあなた。ベイにあげるのはもったいない」  幼さを残したルサルカの頬が、笑みに歪んだ。 「ベイ……ってあの変態蝋燭野郎か。奴はいないのか?」 「今夜は一人遊びしたい気分だったの。だからこうしてあなたと二人きり。正解だったでしょ」 「もう少し、抱き甲斐のある女とだったら歓迎するんだがな。で……」  前髪を掻き揚げた指で、黒い親衛隊服に隠されたルサルカの腹を指す。 「エリーは、そこか」 「ここよ」  指されるままに、自分の腹部を押さえた。 「わたしは気に入った人間の魂しか食べないの。あなたとあの子みたいなね」 「そりゃ光栄だ」  その場を微動だにせず、司狼は薄い笑みを浮かべていた。否、微動だにしないのではない。できないのだ。ルサルカの足下から伸びた影の揺らめきは、とっくに司狼を呑み込んでいた。 「あのさ……一応言っとくけど、今やばいよ? あなた」 「改まって今更アドバイスか?」 「あなたの足下。わたしの影、あるわよね」  身動きできなくなっている司狼の足下を指す。 「影踏み遊び。わたしの“創造”の能力。わたしの影を踏んだら、許しの無い部分は指一本動かせない。しゃべれているのは、首から上は特別に許してあげているからよ」 「ルールが分かってないぜ、おまえ」 「え?」 「影踏みってのはたいてい、影を踏まれた奴が負けってもんだろうが。それとも、ドイツじゃ影を踏んだ側が動けなくなるルールなのかよ。それじゃ影踏ませだぜ」 「ああ、それ?」  ルサルカは、両手を広げて笑い飛ばした。それは、彼女自身はこの影踏みの中で、自由に行動できることを示す。 「ええ、あなたの言う通りよ。でも逆にしたの。そのまんまじゃ面白くないし、なによりこっちのルールの方が、わたしに楽しみが多いんですもの」 「勝手な話だな」 「怒っちゃった?」 「オーケー。気にすんなって。どうせ少しばかり動けたところで、手も足も出ないんだからよ」  そう言いながらニヤける司狼の立場に、ブラフをかます余裕などあるはずもなかった。ルサルカの影に侵食された者は、全ての体機能を停止させられ、意識のあるままに呑み込まれるしかない。  生きながら大蛇に丸呑みにされる。そんな状況でこんな風に笑える人間など、ルサルカの永い人生の中でもお目にかかったことはなかった。  この夜までは。 「……ふーん」  つまらなそうに少女の鼻がなると、司狼の足下が〈蠢〉《うごめ》き始める。  それは、影と血の集大成。  骨の色をした牙と、形を取った闇の塊。少女の暴走した欲望そのもののような、禍々しい口の化け物。  この魔女の生きてきた世界が、形状を取って現出したかのようだった。 「そういう居直った態度って、感心しないなあ」 「じゃあ泣き叫べば見逃してくれるのかよ」 「まさか。でも、そういうのとは別に、泣き叫ぶもんなんじゃないの?」 「あー……」  司狼は、並の人間ならば直視するだけで精神が焼ききれるほどに異形な牙の群れを〈一瞥〉《いちべつ》し―― 「はあ」  ため息をついた。 「どう? 今なら……」 「最悪だぜ」 「え?」  言葉を遮られた不快感で、ルサルカは顔を歪める。 「最悪のタイミングでデジャヴりやがる。こいつ、見たことあるわ」 「なん、だ、と……?」 「早くしろよ。どうせこいつで、俺を丸呑みにするんだろ」 「…………」  一瞬だけ、ルサルカは〈躊躇〉《ちゅうちょ》した。  今まで幾度と無く、こうして生贄を喰い散らかしてきた。  そいつらの多くは狂い、強靭な精神を有する一部の者は許しを乞う。  その姿は、彼女の楽しみでもあった。  だからこんな態度は、初めてなのだ。  今夜までは。  だから〈躊躇〉《ためら》う。  一度も出遭ったことの無い反応に。  〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈反〉《 、》〈応〉《 、》〈に〉《 、》、〈今〉《 、》〈夜〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈二〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈出〉《 、》〈会〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈に〉《 、》〈お〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。  一人目はついさっき飲み込んだ少女。  そしてその恋人らしき、この男が二人目。  女の時は、何も無かった。その肉はもちろん、魂もまた美味だった。  同じなのか。これもまた、壊れてしまった一つの形なのか?  なかには、この牙の列を目にするなりケタケタと甲高い笑いを止められなくなるものもいる。それと同じなのか?  だが、それは一つの爆発した感情だ。目の前の男は落ち着き払い、いかなる感情にも支配されていない。  何かあるのか? あるとしたら、一体何が?  ルサルカは、司狼が何か手を隠している可能性を一瞬だけ探し、そしてすぐに結論を下す。  そんなこと、あるはずがない。 「じゃ、さよなら。ちょっと期待外れだったかな」  結論を下した彼女は果断だった。  司狼の唇が動いたようにも見えたが、ルサルカの影はあっさりと未練を残さずその全てを呑み込んだ。  司狼が浮かべた、最後の表情。 「あれは……」  見覚えがあった。その直前、喰われていったエリーもまた、同じ目をして…… 「気持ち悪い子たち……」  だがその胸に、三日月のように鋭く、そして冷たく突き刺さった視線を、ルサルカは無視できずにいた。  あの目。あの視線。この鋭さ。この冷たさ。  まるで見下されているような。  取るに足らないものを蔑むような。 「まさか……」  そんなことはない。自分は勝ったし、目的を果たした。これで〈黄金〉《キセキ》は約束されて、わたしはきっと……  恐怖が過ぎる。それは彼女が知る怪物の記憶。  絶対に勝てないし絶対に逃げられないと思ったから、屈服せざるをえなかった。  あの二人に従うことが、自分にとってどんな結末をもたらすのか……そうだ、二度と誰からもあんな目で見られることなどないように。  追って、求めて、だけどわたしは……  その果てに、いったいどうなる? 「……ふふふ……ふふふふふふ……ア、ハハ……アハハハハハ……アハハハハハハハハハハハハハ!」  疑念は、しかしすぐ狂笑に取って代わった。 「どうしちゃったっていうのよ、わたしったら。なんで? どうして今日に限ってこんなにも臆病なの?」  肩が震えるのが止まらない。それは恐怖と、そして滑稽さのためだ。 「ああ、もうっ。やめたやめた。なーんか最後で醒めちゃったなー」  退屈な宴席に飽いたかのように、屍なき殺戮現場を魔女は立ち去っていく。  後に残るのは、ただ、静寂と暗闇。  ルサルカの胸に些細な違和感を残しながらも、厳然として確かなことが一つある。  今夜ここで、第三のスワスチカが開いたということ。それだけは、揺るがしようがない真実である。  そして、その事実は当然のように皆が感じ取っていた。  分かる者には分かる。超常の感覚を有するならば、そうしたものに鈍感ではいられない。  魂の大量散華は、彼ら異能の徒にとって花火の爆発に等しいだろう。音が聴こえるし目に見えるし、叫びが震動となって届くのだ。  ゆえに、皆が気付いている。  蓮もマリィも。  そして、彼も―― 「…………」  橋の上でただ一人、ヴィルヘルム・エーレンブルグは散華する魂の花火を見ていた。  彼が今、何を思っているのかは分からない。なぜならこの現実が奇妙だからだ。  血気盛んなカズィクル・ベイ。血と暴虐の信奉者。そんな彼の性分を考慮すれば、本来進んで一番槍に名乗り出たはずである。だというのに行動を起こさず、その役を奪われた。奇妙としか言いようがないだろう。 「ふん……」  加えて言えば、にも関わらず怒りの色が見えないこともまたおかしい。  穏やか、とは言えないものの、彼は別段憤っているようでもなかった。ゆえに何を考えているのか分からない。 「よぉ、てめえ何のつもりだよ」  だから、ここは―― 「もう邪魔は入れねえんじゃなかったのかい、クリストフ」  彼が呼びかけたこの相手に、奇行の原因があると思うべきだろう。  ヴァレリア・トリファ……現れた彼は常通り微笑したまま、振り返ったヴィルヘルムの前に立っていた。  先の台詞から推測すれば、この男がヴィルヘルムの行動を妨害したという意味なのだろうか? 「失礼。別にあなたを邪魔立てする気はなかったのですがね。 結果的にそうなったようだ。謝罪したい」 「まあ、別に怒っちゃいねえがよ」  ただ気持ち悪かっただけだ、とヴィルヘルムは鼻を鳴らした。 「今日一日、俺のケツに張り付く必要でもあったってのかい?」 「ええ、あなたの行く先に私も用がありましたので。この結果は、こちらとしても遺憾です。 ベイ中尉、私はてっきりあなたが先陣を切るものだと、そう信じていましたから」 「俺もそのつもりだったがよ」  背後に胡散臭いのがいた状態で、暴れ始めるほど間抜けではない。彼は直感の人間だが、それゆえに虫の知らせという類を大事にする。 「てめえを背負ったまま動いたら、ばっさりやられそうな気がしたのさ。お陰でこの様だよ、笑っちまうぜ。 なあクリストフ、おまえ何を狙ってた?」 「ですから、あなたが行くはずだった所に用があると……いや、まあ、しかし参りましたね。それなりに本気で隠れたつもりですが、あなたには効かなかったようだ。我が身の不明を恥じるべきか、そちらを賞賛するべきか」 「俺の鼻を舐めんなよ」 「ええ、そうですね。あなたは鋭い。リザやマレウス、レオンハルトなどとは比べ物にならないと言っていいでしょう」 「褒め殺しなら効かねえぞ」  彼はもう分かっている。神父はヴィルヘルムが行くはずだった場所……すなわち第三のスワスチカに隠密で忍び入る必要があったのだ。そこで何をするつもりだったのかは不明だが、結局それは果たされていない。  誤算は、尾行者を察知したヴィルヘルムが行動を起こさなかったこと。結果として二人はお互いを牽制し合い、こんな状況になってしまった。 「マレウスは漁夫の利でしたね。しかし不幸中の幸いと言うか、まだ取り返しは効くようだ」 「どういう意味で?」 「私の都合的にという意味ですよ」 「ほぉ…」  抉るような、ヴィルヘルムの眼光。それしか言うことはないのかと。 「てめえの都合で、俺の邪魔をして、そんな言葉で逃げられるとでも思ってんのかよ、クリストフ」 「そうしたいのは、山々ですがね」  どうやら無理そうだ。トリファは肩をすくめて溜息をついた。 「ベイ、言ったようにあなたは聡い男です。鼻が効くと言うか、ともかく一種の勘が鋭い。ゆえに下手な隠し事は無駄と考え、この件に対する謝罪も兼ねて話しますが」  殊勝な物言いに、ヴィルヘルムの目が細まる。ならば訊きたいことがあると、彼は質問を口にした。 「おまえはシュピーネに、いったい何を調べさせてた?」  それはこの件に何も関係ないようで、しかし核心をついた問いだった。沈黙するトリファの態度が、そのことを雄弁に物語っている。 「気になるなあ、おい、気になるぜ。まるで口封じしてたみてえじゃねえか。そう思うだろ?」 「シュピーネを〈斃〉《たお》したのは藤井さん、ツァラトゥストラであり私ではないのですがね」 「あのガキに、真っ先でシュピーネをぶつけたのはおまえだろ」 「ふむ、確かにそれは否定しようもありませんが」  言いながら、神父の肩は笑っている。ヴィルヘルムもまた笑っていた。 「洗いざらい喋るんじゃなかったのかい、クリストフ。つっても別に、おまえの生い立ちだの、食ってきた女の数だの、そんなことは訊いてねえ」 「いいでしょう。シュピーネの件でしたね」  言って、トリファは眼鏡を僅かに持ち上げた。夜風に金髪が舞いあがり、彼の表情を隠している。  それが何か、妙な具合に陰影を作りあげ、目の前の神父を何処か別人のように見せていた。 「バビロン、リザの息子のことはあなたも覚えているでしょう」 「ああ、それが?」 「ゾーネンキント第一世。あれが誕生したからこそ、今日のこの日があると言って構わない。 不死創造、スワスチカという都市規模の聖遺物を起動させるための核、依代……あれを生むことがレーベンスボルン機関の……そう、言うなれば裏の悲願だ。リザは見事にそれを果たした。当時はまだ、不完全であったとはいえ」 「少なくともあのベルリン崩壊の日、ハイドリヒ卿並びに大隊長の方々を“城”へ飛ばし、完全なるゾーネンキントとスワスチカ、それに副首領閣下の代替が機能するまでの実験措置……聖櫃創造の試行を図るという意味において、初代は役に立ちましたよ。あくまで試行であったがゆえに、死なずにすんだわけですしね。 だが、こう考えたことはないですか? もしもあのとき、彼が死んでいたらどうなっていたのかと」 「どうって、そりゃあ……」  言いながら、ヴィルヘルムは呆気に取られた。次いで、数秒の間思考した末、抑えきれない失笑が堰を切ったように溢れ出る。 「くく、くくくく……なるほど、なるほどそういうことかよ。俺らは本当に間抜けだなあ、クリストフ」 「恥じることはありません。これは我々全員に共通する欠点だ」  なまじ強大な力を持っているゆえ、さらに上の怪物的存在を日常的に見ていたゆえ、些細な陥穽に気付かない。  獣が是と言えば総てが是になる。初代は死なぬと言われたら、死ぬはずがないと思い込む。死んでいたらどうなるかなど、その可能性を露ほども考慮できない。 「あのとき初代が死んでいたら、当然二世も三世も生まれることなく、総てが御破算になっていた。なぜそんなことにも気付かないのでしょうねえ、我々は。 結果的に死ななかったから今があり、その点でハイドリヒ卿と副首領閣下はやはり絶対的である、勝利万歳……と諸手を上げるのは、また次元の違う話でしょう。それこそ、そういうことはザミエル卿にでもやらせておけばいいのです。 問題は、あのときあらゆる計画が頓挫する可能性があったということ。そして本当に、誰もそのことに気付いていなかったのかということ。 シュピーネ、バビロン、彼らは臆病で心脆弱な凡人ですが、ある意味で我々より数段優れていましたよ、ベイ中尉」  リザの子供は双子だったと、トリファは言う。  〈金色〉《ゴルト》と〈銀色〉《ズィルヴァ》。レーベンスボルンが生んだ運命の双生児。  だが内の一方は、“城”の核たる負荷に耐え切れず自壊した。  そう聞いているし、そのはずなのだが…… 「本当に死んだのか? 墓は何処に? 遺骨があるならDNAは? もし生きていたと仮定するなら、彼とその子孫はいったい何処に? 今何を?」 「ツァラトゥストラ覚醒に使われた殺し役……あれは本当に、たまたま偶然選ばれたのか? 副首領閣下の法術で編まれたこのシャンバラが、そんなザル的人選を行うのか? いやいや、だからこそ読みづらいということもありえる。しかし、とはいえ――」 「ああ、分かった。もういいぜ」  鬱陶しげに、それでいてどこか愉快げに手を振って、ヴィルヘルムは神父の言葉を断ち切った。 「理解したって言ったろう? これ以上、てめえの間抜けさ加減を自覚してもしゃあねえわな。 ただクリストフ、今の話でふと思ったんだが……。 てめえは本当に、最近までそれに気付いてなかったのかい? 俺の勘じゃあ、おそらくだが……」  数秒、そのまま二人の視線が交錯する。ややあって、神父は悲しげに苦笑した。 「私のことなどより、リザの名誉のために言っておきましょう」 「彼女はおそらく、生き別れた子をていのいい代替品などとは考えていなかったはず。あくまで推論の領域ですが、何処か自分も知らない遠い地で、普通に幸せを得てほしいと……そう願っていたのではあるまいか。私はそのように思うのです。 そしてならばこそ、そうした母の愛までもが副首領閣下に絡め取られ、このシャンバラに引き寄せられていたなどと……出来れば彼女に知らせたくない。まあしかし、それも今回の失敗で難しくなりましたが」 「母、ねえ」  胡散臭そうに呟くヴィルヘルムに、トリファは慈父の笑みを浮かべて問うた。 「あなたとて、母御はおられたでしょう、ベイ中尉。もはや思い出しもしませんか?」 「どうかねえ。俺ぁクソ溜めに生まれたような身だからよ、そういうのは分かんねえ。 とにかく、おまえさんのやってることはなんとなくだが分かったよ。まあせいぜい好きにしろや。 スワスチカが問題なく動くってなら、“核”がなんだろうと俺にゃあ特に関係ねえ。そこらへんは、ハイドリヒ卿だって同じだろうよ」  それだけ言って、彼は身を翻した。用は済んだと言わんばかりに、この場から去っていく。  だが最後に、一つだけ。 「自分にとって、近しい者から死んでいく。確かおまえの業ってなあ、それだったっけか?」  そんな言葉を残したのは、結果的に邪魔をされた彼流の嫌味だろうか。 「そうですね。それが副首領閣下に指摘された私の業。拭いがたいのはあなたと同じだ」 「違いねえ」 「だったら、次に死ぬのはおそらく……」  と言いかけて、ヴィルヘルムは笑いだす。笑いながら夜の闇に溶けていく。 「まあ、おまえはおまえで頑張れや。勝利を祈るぜ」 「ええ、あなたにも。この宿業から共に解放されんことを」 「ジークハイル」  ジークハイル。形だけの答礼を行った後、ヴィルヘルムの気配が消えるのを確認してから、神父は誰にともなく呟いた。 「私にとって、近しい者から死んでいく。ああ、確かにその通り。 であれば今このとき、もっとも私に踏み込んだのが誰なのか……そこに思い至らないのが、あなた達の欠点なのです」  そして彼も身を翻す。  笑みに吊り上ったその口は、別れの言葉を告げていた。 「さようなら、ベイ中尉。おそらくもう、二度と会うことはないでしょう」  まだどう転ぶかは分からないが、そのことだけは確実に言える。  そう、これは確実。確実なのだ。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 3/8 【Chapter Ⅷ Nachtzehrer ―― END】 「はっ、――ぁ、は――」  息を切らし、肩を震わせ、玲愛は明け方の街を駆けていた。  時刻は六時に差し掛かろうとしていたが、この時期、この時刻はまだ暗い。  慣れない全力疾走と払暁の暗闇が、彼女の足を縺れさせる。 「あ――――っ」  一気に駆け下りてきた坂の勾配で予想以上の勢いがついてしまい、目の前の交差点に飛び出してしまいかけた。止まれない。  そもそも自分は、なぜこんなに急いているのだろう。別に追われているわけではないし、仮に追われていれば絶対に逃げられないことくらい分かっているのに。  ひたすら無意味で、無駄でしかない全力疾走。藤井君に逢ってこいとは言われたが、正直合わす顔があまりない。  バツが悪いし、後ろめたいし、そしてなにより恥ずかしい。  彼に逢いたいかと言われれば逢いたいけれど、今はそのために走っているわけじゃなくて。  じゃあいったい、なんのために?  たぶん、理由なんか特にない。  自分はただ、ガラにもなく昂ぶっているというだけだ。  ドキドキして、そわそわして、とても落ち着いてなんかいられない。  これから先のことを思えば。  自分がやろうとしている結果を思えば。  怖い気持ちと、嬉しい気持ちと、罪悪感にも似た自己嫌悪がちょうど等分。  これでいいのか、よくないのか。上手くいくのか、いかないのか。  喩えとして不適切ではあろうけど、悪戯な男の子って、こういう気持ちを好いているのかもしれないな――と。  躓いて転びかけている一瞬の間に、そんなことを延々と考えていた自分が少しだけ可笑しかった。  走馬灯でもあるまいに。  いや、このまま車道まで転がっていき、タイミングが合えば車に轢かれるかもしれないから、あながち間違いでもないのだけど。  もしかしたら、それが一番いいのではないのかなと、何処か他人事のように考えていたとき―― 「―――きゃっ」  運動音痴ゆえに、受身も取れず顔からアスファルトに突っ込む寸前、横合いから伸びた手に抱きとめられていた。  それは―― 「……意外に、足が速いんですね」 「…………」 「朝からジョギングですか、先輩?」  他意はないのか、ズレたことを無表情で言ってくる。  〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈口〉《 、》〈を〉《 、》〈き〉《 、》〈く〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈久〉《 、》〈し〉《 、》〈ぶ〉《 、》〈り〉《 、》〈だ〉《 、》〈が〉《 、》、相手は学校で見知った顔だ。 「ジョギングするなら、ジャージでするよ」 「そういうの、持ってなさそうですけどね」 「持ってるよ。学校指定のだけど」 「そうですか」  失礼、と螢は言って、玲愛を立たせると踵を返した。そのまま無言で目も合わせず、この場を去って行こうとする。 「あ―――、待って」 「何か?」 「それで終わり?」 「終わり、とは?」  つまり、何をしているんだとか、何処に行こうとしてたんだとか、そういう言葉はないのかと。  螢はしばらく黙っていたが、やがて軽い溜息をついた。 「私はあなたに何の感情も持っていないし、人の管轄に口を挿むつもりもない。ただ一つ言うことがあるとすれば、猊下の手から出られたと思っているなら、それは勘違いだろうというだけです。 氷室先輩、私はあなたより、あの人のことをよく知っているつもりですよ」 「…………」 「言いたいことはそれだけですか? だったら――」 「つれないね」  ぽつりと、独り言のように玲愛は言った。 「私もあなたのことはどうでもいい……というか、あまり好きじゃないけど」 「結構です。もともと初対面に近いし、口をきくのも初めてだ。別に仲良くする理由はない」 「確かに、仲良くしようとは思わないね」  ただ、と玲愛は短く言葉を切る。さっきまで全力疾走していた影響か、動悸が早くて息が上がる。だけど口調は驚くほど平静に、いつも以上に起伏のない抑揚で、続く言葉を紡いでいた。 「〈初〉《 、》〈対〉《 、》〈面〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》、〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈よ〉《 、》」 「……?」 「〈話〉《 、》〈を〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》、〈初〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「それはどういう……」  言いかけて、しかし螢は、次の瞬間に眉を顰めた。  まるで、未だ癒えていない傷口に、毒を塗られたかのように。 「思い出した? 昔に一度だけ話したよね」 「記憶曖昧だけど、あれはあなたでいいんでしょう? 他にも二人、一緒にいて」 「それが――それがいったい、どうしたと」 「あなたはあの日、ううん、あの後なにをしてたの?」 「だから――」  いったい何の話だと、螢は苛立ったようにかぶりを振る。しかしすぐに落ち着きを取り戻したのか、自嘲するように返答した。 「……寝てましたよ。子供は寝る時間だと言われてね。 だけど、あなたには関係ないことだ。わざわざそんなことを言うために、この寒い中出てきたんですか?」 「別にあなたじゃなくてもよかったけどね、ついでにひとつ訊かせてちょうだい」 「何を?」  問いに、玲愛はうん、と頷き。 「ねえ、櫻井さん――」 「ヨハンって誰?」 「……?」  それは本当に、螢にとって理解できない問いだったらしい。 「ヨハン?」 「――は生きてるって言われたから」  先刻、教会を出ようとしたとき、件の神父が言ったこと。その意味を玲愛は分からず、そして螢も分かっていない。  だが、ある種の効果は確実にあった。 『それは本当かしら、テレジアちゃん』  突如、下方からかかる声に、二人の表情が強張った。玲愛の影が喋っている。 『情報源はバビロン……じゃあないわよねえ。 クリストフがそんなことを? 何を根拠に? ……ああ、もしかてアレかな。シュピーネかな。だったらあながち』 「マレウス」 「いちいちしゃしゃり出てくるな。彼女と話しているのは私だ」 『あら、なによ。随分な言い草ね。どうせあなたにはチンプンカンプンな話でしょうに。 あなたが分かる話なら別にあるから、今は黙ってなさいな。ねえテレジアちゃん――この子引っ掛けるなら、ズバっと直球がお勧めよ。脳みそ筋肉なんだから、あまり深く考えない性質みたいだし。 それとも、ねえ、まさかここにきて、迷ってるとか言うつもりじゃあ――』  言葉途中に、この後も続くであろう長広舌は断ち切られた。 「〈素人〉《あなた》に気をつけろとか、言うだけ無駄なのは分かっているけど。 あまり〈魔女〉《あれ》と関わらないほうがいい。こういう小賢しい術にだけは、人一倍長けているから」  玲愛の後頭部に回していた手を戻し、相手の眼前に突きつける。赤毛の長髪が一本、螢の指に摘まれていた。 「アンテナを挿されていましたよ、先輩。いつからマレウスと親しくなったんですか?」 「…………」 「まあ、それはいいとして」 「彼女、妙なことを言ってましたね。〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈る〉《 、》〈話〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈別〉《 、》〈に〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈か〉《 、》……私を引っ掛けるとは、どういう意味です?」  詰問するような螢の態度に、玲愛はよく分からないといった風に肩をすくめる。  そして…… 「よければ今日一日、付き合って。あなたと一緒なら安全そうだし。 行きたいところも、見たいものも、話したいことも……」  逢いたい人も――と付け加え。 「色々、あるから」 「…………」  螢は応えず、ただ訝るように目を細める。  そもそも相手は、こちらの質問に答えていないし、お姫様の遊びに付き合っている暇も義理もないというのに。 「駄目?」  どうしてか、その誘いには曰く断り難い何かがあった。 教会を出て街中へ降りた頃には、もう夜が明けていた。 こうして見る限り、ごく普通で当たり前の早朝風景にしか感じられず、ついさっきまでの出来事が悪い夢のようにすら思えてくる。 だが、それは甘い感傷で。今もこの街にはあいつらがいて……何も知らない一般の人達も、危険な状態にあることは揺るがしようがない事実。 もし俺がもっと大人で、社会的な地位と立場のある人間だったら、今すぐ全市民を避難させるように働きかけていただろう。 だけど現実、俺は残念ながらただのガキでしかないわけで。大勢の人間を動かせるような力もなく、こうして歯噛みしながらも奴らの戦争とやらに付き合うしか術がない。 この街の住人、その命すべてをチップにした勝負。降りることは許されず、負けることも許されない。ちらほらと目に付く早朝出勤のサラリーマンや、ジョギングしている学生の一人一人に、土下座して謝罪したい気分だった。 俺のせいじゃないとはいえ、何の事実も告げず彼らの命を盤上に乗せてる立場なんだ。仮に勝てても、一生後ろめたさを懐く羽目になるだろう。 ……けど、まあ、今はそれを気にしている場合じゃないか。やるべきことは、最悪の結果を防ぐためにも労を惜しまず、時間を無駄にしないということで。 こんなことにうだうだと悩んでいる今そのものが、言ってしまえば最大の無駄だろう。 「……よし」 呟いて、気を切り替える。ともかくまずは、連中のことをもっとよく知らねばならない。そしてそのためには、非常に不本意だが協力者がいる。 司狼、そして本城……あいつらは〈黒円卓〉《れんちゅう》のことを俺より知っている風だった。神父の話じゃ無事だとのことだから、例のクラブに行けば再会できるはずだろう。 ここは一旦あいつらと合流して、お互いの情報を交換しつつ今後の作戦を立てねばならない。次に何かが起こる前に、事前の対策を講じておく必要がある。時間がない。 「ねえ、レン。あれ見て」 と、マリィが俺の袖を引いてきた。何事かと思って振り向けば…… 「あの人達は、レンとカスミの友達?」 「ん?」 「部屋にかけてあったのと、同じ服着てるよ」 「……ああ」 言われて彼女が指差すを方を見てみれば、同じ月学の生徒が数人、制服姿で歩いていた。まだ登校には早い時間だが、部活の朝練か何かだろうか…… 「――って、おい待て」 部活? 朝練? そんなもんは例の首切り事件以来、ほぼ機能していなかったはずだろう。約一名シカトぶっちぎってた奴もいたが、あれは特殊な馬鹿の所業だ。その他一般生徒達は誰もそんなことなどしていなかったはず。 それに何より、〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈今〉《 、》〈日〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈休〉《 、》〈日〉《 、》〈で〉《 、》…… 「あ……」 自分の誤解、馬鹿さ加減……その可能性に思い至って愕然とする。 俺はいったい、どれくらいの間拘束されていたんだろう。 橋で気を失ってから目覚めるまで、はたして何時間かかったのか……俺はそれを一切確かめていなかった。 「マリィ!」 「は、はいっ」 思わず彼女に詰め寄るが、この子に訊いたところで今日の日付など分かるはずもない。きょとんとしているマリィの前で口をぱくぱくさせながら、次の手段に思い至って上着とズボンのポケットを探る――が。 「……ない」 携帯電話は紛失していた。それは確かにそうだろう。あれだけ暴れまわって無茶苦茶やって、一度敵の手に落ちるというハードな展開をこなした直後に、何も落し物がないなんて有り得ない話だ。 「くそ……!」 急ぎ周囲に目を配って、見つけたコンビニに駆け込むと店員に日付を尋ねる。 結果―― 「月、曜日……?」 やはり、ちくしょうなんてこった! 俺は丸一昼夜気絶して、その間に土日が明けてしまったらしい。 泡を食ってコンビニから飛び出ると、わけも分からず俺の後についてきていたマリィとあやうく衝突しそうになった。 「きゃっ」 「――悪い。今すぐ家に帰る」 それも全速、全力で。のんびりしている暇はない。 「どうして?」 「香純が学校に行っちまう!」 低く叫ぶようにそう言うと、俺は返事も待たずに駆け出していた。 「ちょっ――レン、待って。待ってよ!」 「――――ッ」 だが、再度袖を掴まれて仰け反りかかる。反射的に振り解いてしまいそうなところだったが、振り向いた俺に彼女は…… 「一人で行かないで。置いて行っちゃ、いやだ」 「…………」 そうか、そうだよな。この子を一人放って行くわけにはいかない。あやうくテンパリかけていたが、今のでいくらか落ち着いた。 けど、急がなきゃいけないことに変わりはない。 「一緒に走るぞ。きついかもしんないけど、ゆっくりしてられない」 「うん、大丈夫。わたし走るの得意だよ」 それがどの程度でどのくらい持続できるのかは知らないが、いざとなれば抱き上げてでも走ればいい。 もはやそんなことで、人目を気にするような状況じゃないんだから。 「行くぞ」 言ってマリィの手を掴むと、俺は今度こそ全力疾走を開始した。 胸は焦燥感に満たされて早鐘のように鳴っている。 もし香純の登校を許してしまえば、そこで櫻井とルサルカに遭遇するのだ。俺が奴らにとって完全な敵となってしまった以上、その展開は危険以外の何ものでもない。 それだけは、絶対に防いでやる。 「ちくしょう……!」 我ながら、あまりの独善的な選択に目眩がした。今こうしている間にも、俺は同じ月学の生徒たちと何人かすれ違っている。 彼らには何も言わず、教えずに、香純だけでも助けようとしているエゴ。 今や俺にとって友人と言える存在は、校内じゃ香純しかいないから……氷室先輩がある意味奴らの一員である以上、香純だけが俺のアキレス腱になっているから…… 救う対象を取捨選択している現状は、そうした事実を盾に言い訳もできる。俺と何の関わりもない一般生徒らは、人質にもならないという理由で香純より安全だと言っていい。 だが―― 「屑だ、俺は――」 本音はただの、主観的な命の軽重。 香純を失うくらいなら、他の名前も知らない奴らがどうなろうと知ったこっちゃない。 ついさっきまで殊勝なことを思い悩んでいたくせに、いざ追い詰められるとそんなエゴ丸出しの選択をして何ら恥じないのが本音だった。 「くそ、くそ、くそ――!」 何をいっちょまえに自己嫌悪なんかしてやがる。どれだけ僕も辛いんですなんてポーズをとっても、香純を最優先に助けようという決定を変えるつもりは微塵もない。 微塵もないのなら、せめてケジメを――ふてぶてしく開き直るくらいの男気見せろよ、くそったれ! 「泣かないで」 だから、別に泣いてなんか全然ないけど、そんな風に言われたらほんとに泣いちまうかもしれないから勘弁しろよ。 「レンは正直だね」 掴んだ手を強く、そして優しく握り返してくるマリィ。 さっきまで無邪気にはしゃいでいただけだったのに、一転してこの落差だ。やっぱりこの子、どこかおかしくなったのかもしれない。 「大丈夫だよ、わたしがついてる」 でもそれは、今の俺にとって救われるような変化で。 「だから怖くないよ。一緒だよ」 ああまったく、頼もしいよ本当に。 「マリィ、全部終わったら――」 「うん?」 全部終わったら、またあのトチ狂ったようなパフェとか食べよう。 そのとき香純も先輩も、司狼たちも一緒にいてくれたら最高だなって…… そんな未来を思い描いても、別に悪くなんかはないだろう。 「―――――」 そして、ものの数分以内にアパートへ到着。階段を三段飛ばしで駆け上がり、香純の部屋のドアを叩く。 「おい、俺だ! いんのか、香純! 出て来いコラッ!」 まるで性質の悪い借金取りだが、そんな体面を気にしているような状況じゃない。 「起きろ、寝てんのかオイ! 香純!」 反応がないのでドアノブに手をやると、それは抵抗なくガチャリと回り…… 「……鍵が開いてる?」 言い知れない不安を懐きつつ、俺とマリィは香純の部屋に入っていった。 「…………」 「いないね」 マリィが言う通り、部屋はもぬけの空で誰もいない。念のために壁の穴から俺の部屋を覗いてみたが、そちらにもあいつはおらず…… 「まさか、もう出たのか?」 しかし、それはいくらなんでも早すぎるだろう。時計を見ると、まだ七時になったばかりだ。ここのところあいつのお稽古は放課後限定で、朝練はやっていない。 「あのお揃いの服はないね」 俺の背後で室内を漁っていたマリィが、制服の紛失を指摘した。替えのもう一着はクローゼットに見つけたが、いつも着用しているやつは何処にもなく、これはもう着て出て行ったとしか思えない。 つまり…… 「遅かったのか?」 そういうことになり、そういう風にしか考えられない。ただ奇異なのは、ここまでの道中であいつと鉢合わせなかったことだ。 わざわざ今朝に限って、通学路を変えたなんてことはないだろう。ならいったい、香純はどれだけ早いうちから登校していたというんだ。 「追いかける?」 「いや……」 何か引っかかる。確かにここは即行で追うべきだろうが、あいつは本当に学校へ行ったのか? そもそも鍵を開けっ放しというのが怪しすぎる。香純は決して几帳面な奴じゃないけど、外出するなら戸締りくらいするだろう。 なら、まさか攫われたのか? だとするならいったい何処に? 黒い不安が膨れ上がり、爆破しそうになった瞬間だった。 「ひゃあっ」 唐突なコール音にマリィが驚いて飛び上がり、俺に抱きついてきてこっちは派手にぶっ倒れた。 「――づあッ」 「いたたた……」 いや待て、痛い、痛いけど……窒息するからどけって、おい。 「なに、なになに、あれなに、なんで音がするの?」 だから、それは電話の音で、呼び出し音で……って、電話ッ? 「ちょっ、マリィ。頼む、どいて」 「いやー、やだやだー! 何か光ってるよ怖いー!」 「おまえの胸のほうがよっぽど怖ぇよ!」 そんなもんに窒息させられてたまるか。 「きゃん」 人の頭を抱え込んでばたばたやってるマリィをぶん投げ、今このときも鳴り続けている香純の家電に目を向ける。 液晶に表示されているのは、知らない番号。 「誰だ……?」 正直、嫌な予感がする。真っ当に考えて、これは誘拐犯からの身代金コールってやつじゃないのだろうか。 「マリィ、どう思う?」 この子なら、そういうお約束みたいなものに捉われず、純粋な勘かそれ以外の何かで事態を判別してくれるかもと期待してたが…… 「おまえ、おまえ、おまえ……」 なんかよく分からんけど、ぺたんと尻餅をついたまま、ぽーっとした顔でぶつぶつ独り言をいっていた。 「おまえ、おまえ、えへへ……おまえって呼ばれた。うふふ……」 「…………」 とりあえず、パンツ丸見えなんだよ。隠せよ。 埒が明かないのでマリィのことはうっちゃっておき、俺は目の前の電話に再度視線を移す。 実際これ、取らないわけにはいかないよな。今こうしている間にも、事態は悪化しているのかもしれないのだから。 「……もしもし」 俺は意を決して受話器を取ると、低く探るように質問した。 「どちらさんで?」 すると…… 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 人間、切れるってことは案外と簡単なんだなと、俺はこのとき実感した。 「ふざっけんなよてめえェッ!」 何? 何これ? 俺が馬鹿丸出しじゃねえか、やってくれるよ本当に。 「なになに、どうしたのレン、大声出して」 背後から肩越しに顔を出してくるマリィに、俺は無言で受話器を渡す。彼女の耳にそれを宛がい、気持ちを鎮めるために大きな大きな息を吐いた。 「あ、あー、えーっと、これどうするの? 喋ればいいの? ねえ」 悪いが、いちいち説明してやる気になれない。 まあ確かに、これは誰が悪いというわけでもなくて、むしろ感謝すらするべきで、俺の憤りは逆切れに近いってことも実際のとこ分かってる。 『おー、その声マリィちゃん。あんたも無事だったんだね、よかったよかった』 ただその、こいつのテンションがあまりに緩すぎて呆れ果てたと言うか何と言うか…… 一人でシャカリキになってた俺が、完全に空回ってる間抜けみたいで切れる以外にどうしようもなかったんだよ。仕方ないだろ。 なぜならこの〈本城〉《バカ二号》、〈司狼〉《一号》と同じレベルで手段というものを選ばない。 『香純ちゃん、あたしが拉致っといたから安心して戻っといで』 『なんか今も、ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー喚いてるしさあ、説明責任? はたしなさいよ色男――ってそこのぶすくれてる人に言っといて』 『んじゃ、この通話が終わると同時にその電話機は爆発します。ピーっという発信音が鳴った後……』 「うるさい黙れ。おまえ絶対いつかパクられるからな、日本警察舐めんなよ! 馬鹿!」 我ながらワケの分からん啖呵を切りつつ、叩きつけるように受話器を置いた。 「うぅぅ~~」 「……いや、マリィ、ほんとに爆発なんかしないから」 耳を押さえて縮こまってるマリィに、心配するなと言って溜息。いくら様子が変わったとはいえ、やはりこの子はとんでもなく純で素直だ。下手な冗談は言えないし聞かせないほうがいい。 「……大丈夫なの?」 「ああ、だいたいどんな仕組みで、家電を遠隔爆破させられるんだっていう……」 「きゃあっ!」 「するのかよっ!?」 別段被害はなかったが、ちょっとした破裂音と共に電話機が白煙を噴いてショートした。 本城……なんなんだよ、あの女。 「う、嘘つき」 「あ、その……まあ、ごめん」 なんで俺が謝らなきゃいけないのか凄まじく理不尽だが、しかしとにかく香純は無事? なんだろう。たぶん。 ただそうなると、やはり説明責任ってやつがたまらなく面倒かつ困難な課題として、非常に逃げたいような気がしないでもない。 ――と、思っていたとき。 「そっちの話は終わり?」 「――――――」 いきなり背後から肩を叩かれ、俺は弾かれるように振り向いた。 「おっとと、怖いなあ。そんなオーバーアクションしないでよ」 「おまえ……」 こいつ、何時からそこにいたのか。驚愕を隠せない俺の前には、制服姿で微笑しているルサルカがいた。 「なーんか、あれね。レンくんっていつもカスミカスミ言ってない? ちょっと過保護っていうか、気ぃ遣いすぎに見えるんだけど」 「ほら、諺にもあるじゃない。二兎を追う者は一兎をも得ず――とか、あっちもこっちも見てると、本当に大事なもの落としちゃうよ」 「て、あれ? どうしたのかな?」 どうしたもこうしたもない。 「一番手はおまえかよ……」 ラインハルトが言っていた通り、今や戦争は始まっている。わざわざ追ってきた以上、ここで俺とやるつもりなのか。 だったら、こちらとしても否応はない。 「おまえ、やりに来たんだろう? いいぞ、相手してやるさ」 ここがスワスチカの一つだなんてことはないだろうが、何にせよ挑まれれば逃げられないんだ。 しかし、それに、この女は…… 「ぷっ」 肩を震わせ、いきなり弾けるように笑いだした。 「あははは、はははは、はははははは――」 「いや、いやいや、まいったなあ。どうしてそんなに、思考回路野蛮人なの」 「前の時から、顔を合わせたら切ったとか張ったとか、もっとホモサピエンスな考え方しましょうよ」 「あなた達男がそんなことばっかりやってるから、いつまでも経っても戦争がなくならないんじゃない」 「ねえ、あなただってそう思うよねえ。男絶滅させちゃったら、つまんない犯罪とか無くなりそうな気がしない?」 「え、あ、その、どうだろ」 呆気に取られてるマリィの肩をばしばしと叩きながら、気安い調子でルサルカは言う。 「まあでも、本当にそれやっちゃったら文明が原始時代レベルまで落ちそうだけどね。それはそれで有りっちゃ有りか」 「いやそれより、そもそも男いなくなっちゃったら子供産まれないから人類終了しちゃうわね。あー、わたしったら、なに言ってんだろ、本当に」 「レンくんが真顔で面白いこといきなり言うから、ツボ入っちゃったじゃない。あはははは――」 それはまるで、前に学校でこいつと話したときの焼き直しみたいな状況だった。こちらの敵意を柳に風と流しながら、ルサルカは笑っている。 「別にここであなたに何かしようなんて、思ってないわよ慌てんぼさん。あたしはただの使いっぱしり」 「クリストフと約束したんじゃないの? お姫様の身柄を引き渡すってさ」 「忘れちゃったの?」 「…………」 下から覗き込むようにして問うルサルカに、俺は無言のまま考える。 無論、忘れてはいない。確かに神父は、あの人を俺に渡すと明言した。 じゃあ、こいつの言っていることは、つまり…… 「おまえが引率を仰せ付かったって?」 「ううん、クリストフが何も言わないもんだから、わたしが空気読んでるのよ。放っといたらすれ違っちゃうでしょ、あなた達」 「だから感謝してほしいなあ。キューピッドやってあげてるんだから、いつまでも怖い顔してないでよ。だいたい――」 「今ここで始めちゃったら、大事件になっちゃうでしょ?」 「…………」 確かに、こいつの言う通り。 「……そうだな」 「うん。物分りが良くてよろしい」 今は通勤や通学の時間帯にもろ被っている。ルサルカに戦意がないなら、この場で始める選択は採れない。 口惜しいが、俺から進んで巻き添えが発生するような勝負に踏み切るわけにもいかないだろう。 だから深呼吸して、気を切り替える。 「先輩は何処にいるんだ」 「ついといでよ。逢わせてあげるから」 「誘き出して嵌めようっていうんじゃないだろうな」 「あら、怖い?」 「怖くない――って風には言えないな」 「でも来るんでしょ?」 「当たり前だろ」 司狼や本城、香純のことも気に掛かるが、とりあえずあっちの無事は確認できたので今はいい。この状況で何よりも優先すべきは先輩の保護だ。あの人をこんな連中のもとに置いてはおけない。 俺は傍らに目をやって、もう一人の同行者にその旨を伝えた。 「いいよな、マリィ」 「カスミたちは放っておくの?」 「ああ、放っとく。ていうかやっぱり、無駄に俺と絡まないほうがあいつらにとっては安全だろう」 「ねえちょっとぉー、ついて来るなら早くおいでよー」 「うるさいな、表で待ってろよ」 玄関口で急かしているルサルカにそう返して追い払いながら、俺はそんなことを考えていた。 情報は大事。協力者は必要。だけどやっぱり、香純たちを巻き込みたくない。 図らずもこういう展開になった以上、知りたいことはルサルカから引き出そう。前は適当にはぐらかされたが、あのときと違って今や俺も“同類”だ。 状況も変わっているし、以前は踏み込めなかったところまで突っ込むことは出来るはずだ。 マリィも原因は不明だが少し様子が変わってきたし、ここからは先輩も含めて、後戻りのできないメンツだけで片付けるのが最良だと俺は思った。 が―― 「ねえ、本当にそれでいいの?」 マリィはなぜか、神妙な顔でそんなことを言ってくる。正直、俺は少なからず驚いた。 「反対、なのか?」 別に自惚れていたわけじゃないが、この子が俺の方針に異を唱えるような展開を、まったく想像してなかった。 「ううん、そういうわけじゃないけど」 「ねえ、レンはカスミたちを放っておくんだよね。それってつまり、大事だから?」 「大切に思ってるから、そうするんだよね?」 「……ああ、そうだけど」 彼女が何を考えてそんなことを訊いてくるのか、俺には分からず…… 「わたしは、そんな風に気を遣われたら、なんか嫌だなって思うよ」 「カスミたちは駄目だけど、わたしはいいっていう、違いは何?」 「順番があるの? それとも、立っているところが違うの? 大事だから関わらせないっていうことは、つまり関わらせてくれるわたしは、その……」 「いや、ちょっと待てよ」 「別に俺は、なんていうか……」 反射的に、俺はマリィがその先を言うことを止めていた。 しかし、だからといって俺は何を言おうとしてるんだ? 「そんな極端な話じゃなくて、俺は単に、ただ……」 「ただ?」 ただ、この子は俺の武器だから、当たり前のように戦場を引っ張りまわす。それについての是非なんか、考えたこともないって、そう言うのか? 違うだろう。 だが結果を見れば言い訳できない。事実彼女に言われなければ、俺は何も考えずマリィを連れて行くつもりだった。それに意見されることすら考えていなかった。 自分と香純たちの何処が違うと、問うてくるマリィに答えられない。愕然として、二の句が継げない。 いま口を開いたら、全部言い訳になりそうで…… 「ごめん。なんでもないよ」 だから、自嘲するように声を落として謝るマリィに、俺は何も言えなかった。 「ちょっと、不思議だっただけ。レンに置いていかれたら悲しいけど、そうされるのが優しさ? なのかなって思ったら、なんだかこんがらがっちゃって」 「おかしいね。わたしよく分からないことがいっぱいあるよ」 「俺は……」 「うん。だからレンは気にしないで」 自分でも何を言おうとしていたのか分からない俺を制して、マリィは微笑む。 「もっと簡単に考えるよ。レンと一緒にいられるわたしは得なんだって」 「カスミ、可哀想だけど、ちょっと嬉しい。わたしの方が近いところにいられるから」 「こういうの、何て言うんだろう。優越感? そんな感じ」 「だからレンは、何も気にしないで。ね?」 「…………」 俺の手を握って上下に振り、無理にはしゃいでいるように見えるマリィ。反応に困ったが、結局曖昧に微笑み返すことしか出来なかった。 「……まあ、あいつはそういうキャラだし」 「いつも置いてけぼりなんだ? ひどいね。わたしにそんなことしたら怒っちゃうよ?」 「怒るマリィっていうのも、見物ではある、かな」 そんな、意味のない軽口の応酬。やはり彼女は、以前に比べて明らかに様子が変わってきている。 語彙も、冗談も、それに付随してくる感情も。 マリィが人間らしくなればなるほど、俺は彼女をどう扱うべきか分からなくなる。 だが、そのことを考えるよりも…… 「ねえ、それで、これから逢いにいく人は、レンの中でどういう扱いなの?」 その問いに対する答えのほうが、今は難問であるように思えた。 「あそこに見えるのが病院、学校、そしてすぐそこにある遊園地…… 加え、〈タワー〉《ここ》を入れれば計八つ。以上、私から教えられるのはこんなところです」  そう事務的に話し終えると、螢は連れの少女に向き直った。 「この街はあなたの分身であり、今挙げた施設は臓器のようなものですね。我々が一つずつ開く度に、肺や肝臓が潰れていく。それは最終的に心臓へ達し……」 「そのとき私の、鼓動が止まる」 「まるでカウントダウン……いや、棒倒しっぽいのかな。分かる? 小さい頃に砂場で遊んだりした、あれだけど」 「私は砂場で遊んだような経験はないですが。 棒倒しと言うより、地上げプラス井戸掘りですね。私達は乾いているから、湧き出てくる水が欲しい。その場所にあった家と住人には申し訳ないですが、我々のために溺れてもらう」 「いや、水の栄養になってもらうと言うのが正しいか。 あなたも、そして彼らも」 「都合よく追い出すことは出来ないの?」 「出来ませんね」  展望台の中、少なからず周りにいる一般客達に目を向けて、螢は無感動に肩をすくめた。 「私の個人的感情や都合はともかく、誰かが彼らを追い出しても、また新しい住人が同じ数だけ入ってくる。ここはそういう家だ。 あなた同様、私にとっても面識のない方ですが、副首領閣下の陣を甘く見ない方がいい」 「カール・クラフト」 「ええ。よくご存知で。猊下らに聞いたのですか?」 「別にそういうわけじゃないけどね」 「ただ、なんとなく分かるの。〈記〉《 、》〈憶〉《 、》〈が〉《 、》〈生〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈る〉《 、》」 「それは……」  言い回しとして不可思議なものだったが、おそらく玲愛の表現で正しいのだろう。  記憶とは過去の蓄積。ゆえに思い出すものであり、発生するものではない。  だが、彼女は記憶が生まれるのだ。血に残る情報が身体の成長、ないしこの街の異変に反応して化学変化を起こす。知りもしない知識や経験を、かつて通った道として再編する。  まるで先祖返りのように。 「私のお祖父ちゃん? お祖母ちゃん? 分からないけど、その人が知っていたことは理解できるようになるみたいね。まだ時間はかかりそうだけど」 「……おそらく、井戸掘りが進むほど近づいていきますよ。初めの一人に」 「名前は?」 「さあ? ただ、男性だったとだけは聞いています」 「そう。じゃあお祖父ちゃんなんだね」  呟き、淡く微笑む玲愛。螢はそれに、説明しがたい違和感を覚えた。 「どうしたの? 変な顔だよ。私が頭おかしい子にでも見える?」 「……率直に言わせて貰えば、そうですね」  なぜ笑うのか。なぜ悲壮感がないのか。螢の感覚では理解できない。  しかしそれをそのまま指摘するのは、あまりにも間抜けなので躊躇われる。 「殺す相手が取り乱してないと不安? あなたの経験に、こういうケースはなかったの?」 「…………」  だから、その問いは直言すぎて、螢には答えることが出来なかった。代わりに溜息を一つ吐いて、気分を瞬時にリセットする。 「まあ……」  考えるだけ意味がない。コレはそういうものなのだろうし、理解できないのも不気味なのも、先祖返りの兆候だ。  どだい常とは掛け離れた外法の産物。まともな理屈で説明できるものではないだろう。 「私の感情がどうかはともかく、あなたに恐怖がないのなら結構です。抵抗されても何がどうなるわけではありませんが、煩わしいことに変わりはない。 大人しく水に沈んでくれるなら、掘る側の私は楽が出来る。 気持ち悪くはありますがね。言ってしまえば、それだけのことだ。 で……」  この話はもうお終いだと、螢は話題を別へ変えた。 「藤井君に逢いたいとのことですが、別れの挨拶でもするんですか?」 「うん。まあ、そんなようなもの。 最後に怒らせちゃったかもしれないし、色々とね、話したい」 「色々、ですか」 「そう。色々」 「気になる? 私がどんなことを話すか」 「おおよその見当はつきます」  つまるところ、好いたとか惚れたとか、そういう類に基ずく諸々だろう。あまり面白そうな話ではない。 「マレウスなら聞き耳でも立てたがるかもしれませんがね、私はアレほど下世話じゃない。 そういうのは正直……」 「興味ないの?」 「ありませんよ」  思わず、苦笑が漏れていた。 「というより、想像できないので共感もできない。その手の話題は、自分に置き換えることができないと楽しめないものでしょう」 「もったいないね。顔だけはいいのに」 「それはどうも。 ですが顔だけ云々言うのなら、彼も同じじゃないですか?」 「藤井君は違うよ。男の子はハートが大事」 「彼のハートはだいぶ特殊な仕様だと思いますけどね」 「それは同感。でもそこがいいの」 「蓼食う虫も好き好きですか」  と、やや大仰な仕草で呆れる螢に、玲愛はからかうような目を向けた。 「よかったね」 「何がです?」 「今のが女の子的な会話」 「…………」 「無駄なおしゃべり。誰が好きとか格好いいとか、あなたが興味ないって言ってたお話だよ。 本当にそう思ってるのかどうかは知らないけど、できるじゃない。わりと自然な感じだったよ。 私はこういうの得意じゃないけど、それでも簡単に乗ってくるくらいだから素質あるのかもね、櫻井さん。 意外に、綾瀬さんあたりと気が合うかもしれない。だったら……」 「なんです?」  短く、冷たい声で螢は玲愛の台詞を寸断した。 「私に呑気な学園ドラマでもやっていろと? まあそれもいいですが、あなた方の始末がついた後に堪能させてもらいますよ。今はその時じゃない。 すみませんが、あまり気の長い性分でもないので、そろそろ本題に入りましょう。氷室先輩、あなたは私に、お願いがあるんでしょう?」  そしてその内容も、螢には見当がついている。なぜなら〈タワー〉《ここ》は、スワスチカの一角だ。 「この状況、至極簡単に取れる」  今日は平日だが、諏訪原市においてここは一・二を争う行楽地だ。人はいくらでもいるし、いくらでも狩れる。これを見逃す理由が螢にはない。  無差別大量殺人を楽しむ趣味は無論ないが、必要ならばやるだけである。まして―― 「そのうち彼が来るのなら、私にとって本当に好都合だ。一度不本意な流れで勝負を止められましたからね。ベイじゃありませんが、個人的にも収まりがつかない」 「ですがそれは、あなたにとってやめてほしいことなんでしょう?」  だから、お願いとはつまりそれだ。 「私に自制を促したい。この場において、手を出すなと」 「うん。自制」  衝動を殺すのではなく、別の何かで緩和する。自制とはそういうことで、すなわち玲愛は一方的に我慢しろと言っているのではない。  いやそもそも、螢に対してそんな強権を発動する力など彼女は持っていないのだ。  ではいったい、何を代価に? 「聞いてくれる?」 「話だけなら」  不戦の確約など出来かねる。そう鷹揚に言いながらも、螢はおそらくこの条件を呑むことになるだろうと予感していた。  なぜなら一つ、どうしても気になることがあったから。 「藤井君のこともそうだけど、ここは結構好きな場所だから汚してほしくないんだよね。そういう意味じゃ学校もだけど、あそこはマレウスに取られてる」 「だから彼女には、もう何らかの話は通したと?」 「うん、まあ、とりあえずだけど」  螢より早く、玲愛と繋がっていたのはルサルカだ。現状、あの性悪を自制させているくらいだから、相当な綱渡りをしているに違いない。  それが何か……興味があるし聞いておきたい。  自分とルサルカ……同じネタで縛る気なのかどうかは知らないが…… 「あのね」  期待と不安を等分にして待つ螢に、玲愛は告げる。 「あなたの大事なあの人たち……どうして死んだのか、知ってるよ」 「―――――」  その真実。  それは螢にとって、絶対に無視できない質量を持つ、まさに切り札としか言いようのない情報だった。 「ああ、藤井君、来たみたい」  そんな言葉も、眼下に到着したという客のことも、一切目と耳に入らない。 「うんとねー、だからそれはこうなって~」 その後、ルサルカに連れられて歩く最中、すでにおおまかなことは聞き出した。とはいっても、別に俺が絶妙な駆け引きをしたというわけじゃない。 「とまあ、こんなところでいいかしら?」 こいつがあまりに呆気なく、何の躊躇もせずこっちの質問に答えただけだ。正直、簡単すぎて逆に疑わしくなってくる。 「もうハイドリヒ卿が宣戦布告しちゃったし、クリストフも好きにしろって言ったから好きにするわよ。隠して困るようなことでもないし、むしろ隠してた方がわたしらにとって効率悪いし」 「レンくんなら、それくらいの理屈分かるでしょ?」 「まあ、な……」 どこか釈然としない気持ちながらも、こいつの言う通りなんで渋々頷く。俺が訊いたのは、残りのスワスチカとその位置だ。 「この先何処が舞台になるのか、あなたに知ってもらった方が戦場を作りやすい。だって大量殺人を見過ごしたりは出来ないもんねえ」 「ていうより、もうハイドリヒ卿に遭いたくないかな? ともかく何にせよレンくんは、ゲームから降りられなくなっちゃってるわけだ」 「いやあ、ほんと、メルクリウスの性格悪いところは神懸ってると思うわよわたし」 「……おまえも、いい勝負で性格悪いと思うけどな」 不快さを吐き捨てるように俺は言う。ここまでの道中、質疑応答のタイミングに合わせながら、こいつは人通りの多い道を選んで歩いた。 お陰で情報を引き出すまで殺せないということと、一般の巻き添えを出せないという意味で、俺の精神に二重のロックを掛けたと言っていい。 加え、終点となった場所が〈タワー〉《ここ》ときた。それで少なくとも俺の方からは、絶対に手を出せない状況にさせられている。 いま始めればスワスチカ一つという失点は確実で、ルサルカを殺せるという得点の確証はない。人が溢れているこの場所なら、こいつは俺を暴れさせて逃げ回るという選択を採っても構わないんだ。 ゆえにどう転ぼうと、ここは後手に回るしかない。不意打ちだけは警戒しつつ、俺はにやついている性悪に問いを投げた。 「若作りが長いと、みんな性格歪むもんなのか?」 「んー、わたしは昔からこんなんだけどねえ。まあ、褒め言葉と受け取っとくよ」 「褒めちゃいねえよ」 「でも、あいつといい勝負だって意見は、複雑な気分だけど悪くないよ」 「あいつ……」 それはすなわち、さっきこいつ自身が言っていた人物のこと。 「カール・クラフトか」 「そ。名前、ハイドリヒ卿に聞いたの? あの二人、気持ち悪いくらい仲いいからね。普通、異端同士ってのは馴れ合わないもんなんだけどさ」 「異端ね……」 ここで聞くその言葉には、単語の意味以上の重さがある。 なぜならこのルサルカも、一般から見れば充分すぎるほど異端だろう。そんなこいつが、さらに外れているというほどの存在。 カール・クラフト。ラインハルト・ハイドリヒ。 ああ俺だって分かってる。確かにこの二人は、おかしいなんてものじゃない。 端的に、これ以上なく単純に言えば、悪魔二匹だ。 「その顔、何考えてるのかなんとなく分かるけど、まあ同感だって言っとくわ。思えばあの二人に遭ったから、わたしの人生詰んじゃったのかもしれないし」 「まあともかく、あなたのお目当てはこの上にいるから行ってらっしゃいよ」 「その代わり、その子はここに置いてってもらうけどね」 「なにッ?」 いきなりの聞き捨てならない条件に、俺の語気は荒くなった。 「マリィを置いてけだと?」 「そうよ。大したことじゃないでしょう?」 「え、なに、わたし?」 急に水を向けられて、マリィはぽかんと放心している。当たり前だろう。まるで脈絡がない。 「なんでだよ」 「なんでも何も、テレジアちゃんが藤井君と二人きりで逢いたいな、とか言うんだもん」 「その条件でわたし動いてるんだから、呑んでくれないと逢わせらんないわよ。子供のお使いじゃないんだからさ」 「どうするの? 言ったでしょ? 二兎を追う者は一兎をも得ずって。女二人どっちも欲しいなんてこと、女のわたしの前じゃ通んないよ」 「だからって、おまえ……」 唐突な展開に面食らい、俺はマリィと、そしてタワーの上にいるだろう先輩の方へと視線を彷徨わす。 だが、逡巡は一瞬だけ。深く考えるまでもなく答えは一つだと分かっていた。 「そんなこと、出来るわけないだろう」 「あら、どうして?」 「俺がいない間、おまえが大人しくしてる保障が何処にもない。ここはスワスチカだぞ」 「じゃあなーに、わたしもついて来いって言うの? 欲張りねえ。4Pってのは、さすがにどうなの」 「ふざけてんじゃねえぞおまえ」 背筋が寒くなるような喩えは無視して、こっちの意向だけを簡潔に告げる。 「俺はおまえを信用してない。だから目なんか離せないし、マリィを預けるなんて論外だ」 「あの……」 「だいたいおまえ、何考えてこんな使いっぱしりやってんだよ。絶対そういうの面倒くさがるタイプだろう」 「あの……」 「その時点で、怪しすぎるし信用できない。とにかく俺は、おまえが何を言おうとこれっぽっちも――」 「あの――!」 苛立ちでまくし立てる俺を制すように、マリィが大声で叫んでいた。 「わたしの話、聞いてよ。一人で勝手に喋らないで!」 「――――」 そうは言うが…… 「でもさ……」 これは譲れない話だろう。ルサルカの口車になんか乗っていいわけがない。 だというのに―― 「レンは気にしないで行ってきていいよ。わたしはここに残るから」 「は……?」 今、この子は何を言った。 「だから、心配しなくていいの。わたしがこの人見張ってるから」 「見張るって言われても……」 「わたしはレンの何?」 当惑する俺を責めるように、マリィが拗ねた顔でこっちを見てくる。 「ちゃんと頼って。言ったでしょ、カスミみたいな扱いしたら怒るよって」 「レン、態度が一貫してない。そういうのは、えっと」 「男らしくない」 「そう、男らしくないよ!」 「…………」 そんなことを言われてもな。 「そういう問題じゃないだろ」 「そういう問題なの!」 「…………」 反論したいが、聞く耳持ってくれそうにない。 「で、おまえは何を笑ってんだよ」 「えー、だって面白いから」 「いいじゃない。彼女はこう言ってんだし」 「よく分かんないけど、この子メルクリウスに貰ったの? だったらわたしとしても、そんなブラックボックスの塊に手なんか出したくないわよ」 「言いたくないけどさ、そういう理屈は分かるでしょ?」 「うるさいな。黙ってろよ」 カール・クラフトは別格の異端。それはルサルカ自身も認めていたし、俺だってそう思う。 だったらその肝いりであるマリィに対し、格下のルサルカが何かを出来るとは思えない。 それは正論で、その通りなんだが、じゃあ問題なしと楽観することは出来ないだろう。俺は舌打ちして首を振る。 「はいはい。じゃあ手早く決を出してちょーだいね。おねーさん待ってるから」 「何がおねーさんだ」 実際はクソババアのくせしやがって。 と、ぼやきたくはあったが、今はそれより…… 「わたしが信用できないの?」 「そういうわけじゃないけどな……」 この、唐突に不機嫌なマリィをどう扱うべきか分からない。 まあ確かに彼女の気持ちも分かるんだが、しかしいざという時大丈夫なのか? ルサルカがマリィに直接何かをする確率は低いとしても、こいつがここで暴れだしたら止めねばならない。 その際、マリィに実力行使が出来るかどうかは不明だし、仮に出来たとしても任せるか否かは別の話だ。 なぜなら彼女は、戦うって選択を未だによく分かってないだろう。どういう理屈か、以前よりは数段情緒が豊かになったが、それだけに心配でもある。 とはいえ、ここでこれ以上こうしていても埒が明かないのは確かだし…… ああ、くそ。何か巧い落とし所はないのかよ。 「レンはあの上に行くんでしょ?」 そんな俺の懊悩を他所に、マリィはタワーの展望台を指差して言った。 「前にわたしも上がったから、覚えてる。あそこからなら、ここのことよく見えるじゃない」 「だから何かあったらすぐ分かるよ。心配しないで行ってきて」 「…………」 「ね?」 俺は答えられず、ルサルカに目を向ける。すると呆れ気味に溜息を吐かれた。 「仕方ないわねー。そんな疑り深いレンくんのために、わたしが誠意ってやつを見せましょう」 「大人しく言うこと聞いてくれるなら、あと一つ……凄い特ダネ教えてあげる」 「特ダネ?」 なんだそれはと訝る俺に、ルサルカはにやりと笑って…… 「わたし達の能力……知りたくない?」 「はあ?」 いきなりそんな、ありえないことを言い出しやがった。 「おまえらの、能力だと……?」 「そうよ。今日のわたしにやましい気持ちはないってこと、これで了解してちょうだいよ。あなたの位階は形成みたいだけど、ここでいう能力ってのはその上にある必殺技」 「ぶっちゃけた話、誰のものでも知らずに受けたら本当に必殺なんだからね。こんなの普通、話さないよ」 「と言っても、レオンとメルクリウスだけは知らないけどさ。言い換えれば他は全員知ってるのよ」 「さすがにハイドリヒ卿とわたしのは除くとして、それ以外なら誰のものでも一人だけ、こっそりレンくんに教えてあげる」 「いい取引じゃない? これ、はっきり言って利敵行為に近いんだよ?」 「じゃあ、なんで……」 こいつがそこまでして俺と氷室先輩を逢わせたがる理由が見えない。 「そうした方が面白くなりそうだからよ。わたしはわたしで色々あるの」 「こうまで譲歩してるのに、まだ信じてくれないなら傷ついちゃうなー。そうなったらわたし、何しちゃうか分かんないなー」 「簡単な二択だよ、レンくん。わたしを信じて得をするか、わたしを疑って損をするか」 「だから、ねえ、ほらどうするの?」 「…………」 「大丈夫だよ、レン。この人、嘘言ってないから」 「またそれかよ……」 確かマリィは、神父にも同じことを言っていた。そして事実彼は嘘を言わず、俺に氷室先輩を引き渡すように動いたと解釈できる。 ならマリィの言うことには一定の信憑性があるって結論になるんだが、もはやここはそれに賭けるしかないみたいだ。 「なによ、怖い顔して」 これ以上下手に意地を張っていると、このままこいつと戦いになりかねない。それは避けるべき未来だろう。 どっちを選んでも危険なら、僅かでも無害の可能性がある方に張るしかない。だから問題があるとすれば、俺の気持ちだけになる。 結果がどう転んでも受け止められるよう、軸にするべき思いは何か。 すなわち…… 「分かった。条件を呑む」 「オーケー。賢い選択だね、それでいいよ」 「ただ、勘違いはするなよ」 マリィを傍に引き寄せて、俺は言った。 「俺が信じたのはこの子だ。おまえには気を許しちゃいない」 「あー、うん。分かってるから。そんな露骨に嫌ってるの強調しなくてもいいってば」 「レン……」 「てまあ、そういうわけだよ」 「うん、ありがとう。わたし嬉しいよ」 「そう言ってくれると、助かる」 何せ俺は、神父のときにマリィを信じてやらなかった。その負い目というわけでもないが、彼女をぞんざいに扱うつもりもない。 「けど無茶はするなよ。危ないと思ったら逃げてもいいから」 「大丈夫だよ。わたしに任せて」 「ああ、信じてるよ」 と頷いて。 「じゃあ、さて……」 約束の交換条件だが…… 「分かった。条件を呑む」 「オーケー。賢い選択だね、それでいいよ」 「おまえが何考えてるのかは知らないけど、俺をおちょくるにしては条件がシビアすぎるからな」 仲間の能力を教えるなんて、冗談で済む問題じゃないだろう。いつもふざけているような女だが、それだけに洒落や騙しであんなことは言わないはずだ。 「うふ、うふふふふ……」 「……なんだよ」 「いや、なんかね。まさかレンくんがわたしを信じてくれるとは思わなくてね。ちょっとびっくりしてるのだよ」 「こういう気持ち、久しぶりだけど嬉しいぞ」 「……ああ、そうかよ」 どこまで本気で言っているのか知らないが、何にせよ誤解されては困る。 「けど勘違いするなよ。別に気を許してるわけじゃない」 「うんうん、そうねえ。冷静に考えた結果だよねえ。そういうことにしときましょうか」 「好きに勘繰ってろ」 にやにや笑ってるルサルカから目を逸らして舌打ちする。 「ともかくマリィ、そういうことだからこいつの見張りは頼むよ。だけど無理はしないでくれ。やばいと思ったら逃げていいから」 「うん、大丈夫。任せといて」 「ああ、頼むよ」 「じゃあ、さて……」 約束の交換条件だが…… 「もう一つ何か教えてくれるって言うなら、別のことがいい」 「へ?」 俺の台詞に、ルサルカは目を丸くして呆気に取られる。まるで予想だにしなかったという顔だ。 「なんで? ほんとにいいの? ていうか、別のことって何よ」 「それはな……」 こいつらの能力とやらは確かに有意義な情報だろうし、聞いて損は絶対にない。 だけど今はそれ以上に、俺は知りたいことがあったから。 「氷室先輩のことだ」 彼女は何者で、どういう立場にある人なのか。それをちゃんと知っておきたい。 「何か分かるなら、教えてくれよ」 だけど、俺が投げたその問いに…… 「な~んだ。ふふふ……そういうこと」 「だったら全然問題ないよ。条件外れてなんかいないんだもん」 目を細め、口許を吊り上げ、邪悪に笑うルサルカ。 その、歌っているような声でこいつは…… 「テレジアちゃんはね、〈黒円卓〉《わたしたち》のお姫様だよ」 「聖槍十三騎士団黒円卓第六位、ゾーネンキント」 「ハイドリヒ卿を呼び戻して、わたし達に黄金を与えてくれる雌鳥ちゃん」 「つまり生贄。人柱ね」 そんなことを、笑顔でこいつは言い切りやがった。 「ハイドリヒ卿を呼び戻す黄金錬成。五色で成される奇跡のうち、彼女はど真ん中の〈翠〉《グリューン》」  俺はこの時、完全に我を忘れた。何も見えなくなるくらい激昂し、思考が吹き飛んだのを理解する。  それは客観的に見て言い訳無用の失態だったのかもしれないが、しかしそうならない俺なんて俺じゃないと断言できる。  なぜなら―― 「この街そのものが、あの子の聖遺物になるわけよ。第八が開けば皆残らず絞り上げて、その総てが黄金の生贄になる」  こんなことを聞かされて、平常を貫ける精神なんか欲しくない。  俺は――藤井蓮はそんな男で、そんな自分を守りたいと思うからこそ今がある。 「黄金とは完全のこと。不滅に輝く生命のこと。 わたし達の目的は、つまりね……」  だから俺は、このふざけた事実をぶち壊さねばならないだろう。 「彼女とこの街を残らず捧げて、不滅の生き物になることよ」  そんな〈奇跡〉《おうごん》は認めない。そんな結末は許さない。  彼女に味方がいないなら、俺だけは何があろうと裏切らないって――  強く強く、強く心からそう誓った。  だってそもそも、あの人には何一つとして罪などない。  人柱? 生贄の〈運命〉《さだめ》? そんな立場に進んでなりたがる奴などいないし、彼女は変わり者であっても厭世的な性格じゃなかった。  少なくとも俺の知る氷室玲愛はごく普通の……笑うし冗談も言うし怒るし悲しみもする女の子で…… 「血なのよ。あの子はそういう生まれなの」  ただそう生まれたというだけのことに、いったい何の責任があるというんだ。 「だからこれはわたしのサービス。 可哀想なお姫様の、一生一度、最初で最後の我が侭。 それに付き合ってあげているだけ。 わたしも足引っ張るのが好きだからね。 悲しい? 腹立つ? 許せない? だったらちゃんと頑張って、彼女の役に立ったげなさい」  手が、俺の額にあてられて…… 「さあ、行きなさい。彼女が待ってる。 まともな生まれじゃない者同士、シンパシーがあるでしょう?」  初めてこいつに会ったときとまったく同じく、そこで意識を失った。  失態だろう。無様だろう。一度ならず二度までも、敵の前で無防備な思考的空白を生じさせ、まんまとそこに付け込まれた。  俺は今、死んでいてもおかしくなく、結果論的な言い訳など出来ないくらい間抜けを晒したのも分かっている。  だけど――そんなことに憤るのも恥じるのも、全部残らずどうでもいい。ルサルカが言った最後の言葉が、耳に残って離れない。  まともな生まれじゃない者同士……そうだ、俺がこれほどまでに氷室玲愛を案じるのは、何よりもそのことからくるシンパシーだと理解する。  ただそう生まれたというだけのことに、いったい何の罪があるというのか。  そう生まれたというだけのことに、なぜ翻弄されなければならないのか。  そのことに対する諸々が、俺の中で日常から切り離していたモノを想起させた。  忘れることは出来ない代わりに、封印して埋葬した過去。  その、不確かで非現実的な〈出生〉《せってい》を……  俺には親がいない。血を分けた肉親は一人たりとも存在せず、皆死んだと聞いている。  そう、聞いているだけなのだ。そこには何の保障も確証も存在せず、そんなことで嘘を言うわけがないだろうという、常識的見地のみが信を成立させる総てだった。  しかし、俺は努めて考えないようにしていたが、信用の確度を問うなら情報源の人となりは無視できないファクターだろう。犯罪者やホラ吹きの言い分など、普通は誰も信じない。  君の名前は藤井蓮。娘と同い歳の子供であり、事故で他界した私の親友が君の両親にあたるんだよ。  だから、私は君を引き取り、育てることに決めたんだ。  これからは私を父、彼女を母、そして〈香純〉《むすめ》を妹だと思ってくれ。  遠慮は要らない。ここは君の家であり、私たちは家族なんだ。  さあ、おいで。仲良くやっていこう。  その言葉を覚えている。その笑顔を覚えている。非の打ち所がない父親の目で、笑みで、そういう名前の仮面があれば、最高級の逸品であろうと断言できる柔和な温顔。  俺はそれを信じていたし、信じたいと思っていたが……  思い返せばあの顔、あの笑み……非常に似通ったものを俺は最近目にしていた。  香純が素敵だと言った彼。お父さんみたいだと言った彼。ああ、その通りだ。あいつはあいつによく似ている。  あれは詐欺師の笑顔なのだと……  あの顔をする男が、どういう人種であるかなんて俺は知りつくしていたはずなのに……  なぜ見落としたのだろう。なぜ気付かなかったのだろう。気付けていれば何か出来たのかという疑問なんか度外視して、単に見落とした事実が許せない。  察しの悪い俺の無神経な一言一言、それが彼女をどれだけ磨耗させていたのだろうか……慮ろうとすればするほど死にたくなる。  ゆえに単純な話だ。藤井蓮は氷室玲愛を救わねばならない。  俺が俺であるために、このふざけた呪縛を断たねばならない。  そう生まれたというだけで、そういう人生を強いられるなど、あってはならない理不尽だと知っている。  だから零してはいけないんだと再認し――  気付けば、俺は目を覚ましていた。 「…………」 まず目に映ったのは沈む夕日と、赤く染め上げられた空だった。 ほんの先刻、つきさっきまで時刻は午前だったはずなのだが、不覚にも意識を失った間にそれだけの時が流れたらしい。俺は展望台のベンチに座り、視界には街のパノラマが黄昏の色に揺れている。 どうやら、生きてはいるようだ。今日は危害を加える気がないと言ったルサルカの言葉通り、俺の身体に異常はない。 そのことに対する諸々は、とりあえず今、棚に上げよう。マリィが見当たらないのも気になるが、感覚で彼女が健在なのも分かっていたのでひとまずいい。 思考が平常に戻ると共に、現状を正確に認識できて、少々困ったことに気付いたのだ。 これはいったい、どうしたらいいんだろうと…… 「…………」 俺の膝を枕にして、寝息を立てている氷室先輩。どういう流れでこうなったのかまったくもって分からないが、正直なところ固まるしかない。 眠りを妨げるのは躊躇われるという以前に、不意討ちすぎて呆気に取られていたからだ。 意識を失っていた俺がどうやってここまで来たかは、この際もうどうでもいいが、何にせよ少なくとも五~六時間……馬鹿みたいに無防備な状態を彼女の前に晒していたことになる。 その間、この人は何を思っていたのだろう。何を感じて、何をしていたんだろう。ここから一望できる街の景観を目にしながら、自分の未来に思いを馳せていたのだろうか。 同じ学校に通う、一歳年上の先輩。つい先日まで、そんな当たり前の存在でしかなかったこの人が、今ではまったく違うものに見える。 〈諏訪原市〉《スワスチカ》が、〈氷室玲愛〉《ゾーネンキント》の聖遺物。この街総てを絞り上げ、黄金を生む人柱。 ルサルカの言ったことが事実なら、ここから見える景色総てがこの人の分身で、また棺桶だ。それを眺める心境がはたしてどんなものなのか、俺には到底想像できない。 人間、いずれ死ぬのは誰でも皆分かっているが、その明確な時期と形、カウントダウンを叩きつけられてる心境とは、いったい何だ? 末期癌患者の気持ち? いいやそんなことはないだろう。 なぜなら、この日頃掴みどころがないちょっと不思議な先輩は、癌になるために生まれてきたようなものなんだ。発病前からそれを知り、そうなるしか未来はないと〈出生〉《せってい》の段階で決められている。 しかも、それは人為的に。人はいつか皆死ぬと、その理から逃れたがっているたかが十数人の勝手な都合で、彼女だけが死を想い死を受け入れろと言われている。 そう考えたら、喉が震えて…… 「……ふざけろ」 自分のものとは思えないほど、掠れて乾いた声が漏れていた。 誰だって死にたくない。俺だって死にたくない。いつか死ぬと分かっていても、じゃあいつでも殺せなんて思うわけがないだろう。 不死身になりたい? 不滅の生き物? 冗談じゃねえぞ、そんな理由で…… なぜこの人が、生を諦めなければいけないんだと、そう思ったから。 「なあ、先輩さ……」 自然と、俺は彼女に語りかけていた。 「一個だけ、質問させてくれないか?」 聞いてなくても構わないし、答えてもらおうとも思わない。だけど一つ、どうしても問わずにはいられないことが存在したので、それを訊く。 「俺のこと、どう思います?」 漠然としすぎて答えにくいこと間違いなく、それだけに返答なんか期待していない疑問。だけど俺の素直な気持ちは、文字通りその言葉に集約されていた。 だから…… 「可愛い後輩」 間を置かず返ってきたその声は、予想外だっただけに俺の胸にすとんと落ちた。 「と、いうことにしたいけど、ちょっと恥ずかしいからあんまり顔見たくない」 「なので藤井君、できれば行間読んでほしいと、私は思うの」 「…………」 その、いかにも彼女らしい態度に、思わず苦笑が漏れてしまう。 まったく、この人は本当に…… 「それが恥ずかしいって態度ですか」 「そうだよ。ふとんがあったら被りたい」 言いながら、俺の膝にぐりぐり頭を押し付ける。まるで猫みたいだった。 「こっち、向きましょうよ」 「いや」 「いつ目が覚めたんです?」 「最初から寝てない」 それは相変わらず抑揚がなく、だけど冷たいという感じでもなく、いつも通りな彼女の声。 寝てはいないということらしいが、じゃあどうしてこんな体勢になっているのか。 そんな俺の疑問を彼女は察知したようで、やはり抑揚なくぼそぼそと言った。 「藤井君が、目を覚ましそうな感じだったから……」 「なんていうか私、恥ずかしくて、緊急避難」 「別に見て照れるような顔じゃないと思いますけど」 「タイミングが悪いの」 膝の上に、溜息の熱を感じた。 「とにかく私は、そんなこんなで、キミの顔を見るのが恥ずい。だからこのまま話しましょう」 「そりゃまあ、俺は構いませんけど」 ただ、寝心地悪くはないのだろうか。俺の膝が、枕としての使用に耐えるほど上等だとは思わない。 「ごつごつしません?」 「するけど、それがいい」 「キミが男の子なんだって、分かる」 「まあこの気持ちは、藤井君が薔薇に目覚めたら理解できるよ」 「したくないですけどね」 「されても困るし」 と、埒もないことを話そうと思えばいくらでも続けられるが、今はともかく―― 「逢えて、よかったですよ」 「……うん」 俺の台詞に、彼女はそっと頷いた。 「あれが最後じゃ、お互いバツが悪いですからね」 「まあ、そうだね。私はそうするつもりだったけど」 「一応、反省はしてるんだから、あんまりそこらへん突っ込まないでよ」 「別に俺は、迷惑だって風には思ってませんよ」 「なに、じゃあ嬉しかったの?」 「そりゃあ、多少は」 「多少?」 「……いえ、結構」 「えっち」 なんて言いながらも、微かに先輩の声は笑っている。そんな彼女の様子を見て、俺はこれでいいんだと解釈した。 結局、総ては最初の一言……俺をどう思っているのかということ以外、彼女の口から聞きたいことは何もない。 ルサルカが言ったことの真偽や、それについてこの人は何処から何処まで自覚があるのか……そんなことはどうでもいいんだ。 彼女は同じ学校に通う一つ年上の先輩で、仲が良くて、友達で……と言うには多少語弊があるような関係に片足突っ込みかけているけど。 「私は、藤井君のこと好きだよ」 「俺も好きですよ」 「どういう好きかは」 「まあ想像に任せるけど」 互いにそう認識しているというだけで、相手のために身体を張る理由は成立する。 それは逃避や、現実から目を逸らしているわけじゃなく、あくまで俺自身の問題だから。 たとえこの人がなんだろうと、絶対に諦めないし絶対に救う。そう誓ったのだからそうするだけで、後は自分の気持ちを再認する以外にやることなどない。 どうすれば、この人を救えるか。 どうすれば、この人を解放できるか。 ああ、分かっている。分かっているからもう少し、今はもう少しだけこの瞬間を引き伸ばしたいと、そう思う。 だというのに―― 「私はね……とても危ない女なんだよ」 この人は苦笑気味に、そんなことを言ってくる。 「生かしておくと碌なことがない。生かしておいても何の得にもならない」 「キミなら優しく殺してくれるかもしれないって、そういう期待も、少しある」 「だけど、駄目だよね」 「…………」 俺は答えず、しかし身体の強張りが伝わったのだろう。先輩は残念そうに呟いた。 「分かってるよ。藤井君は意地悪いから、こんなの聞いてくれるわけない」 「キミのそういうところ、可愛いと思うし……」 「男の子が格好つけようとしてるとき、格好つけさせてやるのがいい女だって、マンガで読んでさ」 「私もそれは、分かるんだけどさ」 間を置いて、いつもの声で、しかし搾り出すように先輩は言った。 「お願いだから、格好悪くなってよ」 「…………」 涙…… 顔は見えず、声からは察せらず、だけど膝に落ちて染み込んでくる水の正体が何なのかくらい、俺がどんな馬鹿野郎でも理解できる。 「逃げてよ。いいじゃない。誰も文句なんか言わないし、言う人頭おかしいんだよ」 「バツが悪いのは分かるけど、キミらしくないのも分かるけど、退くに退けないとかそんな理由で、こんな馬鹿な話に関わらないで」 「頑張れば勝てるだなんて、世の中甘くないんだから……」 「子供みたいな意地、張らないでよ」 「…………」 俺は答えない。 彼女の哀訴に答えるべき言葉を持たない。 「キミに言いたかったのは、それだけ」 「キミに聞いてほしかったのは、それだけ」 「これは私の家の問題。藤井君には、関係ない」 言って、氷室先輩は、こちらに顔を見せないまま身体を起こすと、立ち上がった。 そのままゆっくり歩きだすと、展望台のガラスに触れる。 「ねえ藤井君、私は嫌な女なんだよ」 「みんなみんな、みんな死んじゃうって分かってたのに、今まで何もしようとしてない」 「確証が、どうだとか、信憑性が、なんだとか、そんなの言い訳にもならないよ」 「もしかしたら、ひょっとしたら、いつかこういうことが起きるかもしれない」 「根拠も何も関係なくて、予感がしたの。そんな気がしたの。分かってたの。分かってたのよ」 「だからまず、第一に目を閉じよう」 声は、か細いけれど明晰だった。 彼女がこれまで貫いてきた〈生き方〉《スタイル》とは、何も見えず何も聞こえず、全部気付かないふり。現実逃避。 「耳を塞いで、口を噤んで、呼吸を止めて微動だにしない」 「心は石みたいに頑ななまま」 そうして自分の楽園は維持されるから、と…… 「感じたくないものが多すぎて」 「気付いちゃいけない事実も多すぎて」 「閉じた環の中だけでいい。その外側で回り続けていたモノなんて、ほんの少しだって感知しないし、したくない」 「そうやってればね、藤井君」 やはりこちらを見ようともせず、背中を向けたまま彼女は言った。 「こんな私を知られないまま、みんな一緒に死んじゃうからどうだっていいやって……思ってたのよ」 「〈死を想え〉《メメント・モリ》……知ってる? 人間、誰だっていつか絶対死ぬんだから、そんなにじたばた恥さらすなよって、そういう意味」 「大人しく、死ねっていう意味」 「私は、そういう奴で、だから……」 切れ切れになっていく先輩の声に、俺はとうとう割って入った。 「誰が……」 「今の、誰の受け売りですか」 「…………」 先輩は答えない。 だが、聞かなくても分かる。今のはキリスト教の考えだ。 死後に楽園が待っているから、生きることに執着するな。現世利益を求めるな。 しかし自殺は禁じられているものだから、奴らは戦死できる戦争を好む。穿った見方かもしれないが、それはキリスト教の一側面に違いない。 教会で生まれ育ったこの人には、そういう考えが刷り込まれている。 だったら、俺にやれることは何だ? 俺にできることは何だ? 考えるまでもない愚問だろう。彼女のためにやれることは一つしかない。 それを今、俺は強く再認できて…… 「そんなことより」 彼女の心情も、同時にある程度理解できた。 「もうすぐ、私の誕生日」 「ねえ藤井君、前にプレゼントくれるって言ったよね」 自嘲するように、先輩は呟く。 「物はいらないから、ひとつだけ言うことを聞いてほしい」 それはこの人らしくない、憂いを帯びた口調。 俺は、彼女が何を言おうとしているか分かっていた。 何をやろうとしているのかも分かっていた。 これまでの人生……彼女の在り方だった定義の形を覆す。つまり、じたばたするというのだろう。 いずれ死ぬのだから座して待つスタイルをやめ、いずれ死ぬのだから精一杯生きる。 それもまた〈死を想え〉《メメント・モリ》だが、今までのものより遥かにましなスタイルだと言えるだろう。 だが、そのためには…… 「もう逢いたくない」 きっと、この人はそう言うだろうと分かっていた。 「二度と私に逢わないって約束して」 俺が考えていることと同じように、彼女は彼女でやるべきことを認識している。 街から出すつもりだった。ここから逃がすつもりだった。俺が馬鹿なことをやってる間、この人を安全な場所に避難させるのがもっとも賢い選択だと分かっている。 だけど、それは受け入れられない。さっき、彼女からのまったく同じ要望を拒絶した俺に、こちらの意向だけ聞き入れろとは言えなかった。 この先輩は、頑固だし。 力ずくなんて真似も、俺には出来ない。 「学校、楽しかった。キミがいて、綾瀬さんがいて、遊佐君がいて、私こんなだから分かり難いかもしれないけど、キミたちが大好きだよ」 「だから……」 俺がこの街で送った日常を好いているように、彼女にとってもそれは宝物なのだろう。 ゆえに、自分だけ都合よく逃げるなんて出来ない。 まったくの同感。だからこそ、俺はこの人を止められないんだ。 次に続く、言葉さえも…… 「もう終わりにしよう」 「でないとキミ、死んじゃうよ」 「…………」 「勝てるわけない」 こんなとき、どうすればいいんだろう。どんな顔で、何を言えばいいんだろう。 心配要らないって強がるか? 死ぬより怖いことがあるってぶっちゃけるか? どれも駄目だ。この人はそんな答えを期待していないし、水掛け論をやっている暇もない。 じきに夜だ。日が暮れる。 そのとき、彼女に血を見せないでいられる保障はどこにもなかった。 なかったから…… 「分かりました」 そんなことを。 今の俺に出来ることは、あらゆる感情を断ち切って短くそう言うだけだった。 ……まったく。 ここ最近で、随分嘘が上手くなった気がするな。 逢うなと言うならそうしよう。だけど先輩、残念ながら、すべてそっちの思惑通りに動く気はない。 彼女を守り、彼女を救う。それを実現するためにも、今は共にいるべきじゃないという事実を受け入れよう。ある意味で、俺と一緒にいないほうがこの人にとっては安全なはずなのだから。 〈氷室玲愛〉《ゾーネンキント》は黒円卓の人柱。ゆえに八番目が開くまでは、鉄壁に死守されると分かっている。 そのときまでは毛ほどの危害も加えられない。 だったら…… タイムアップの瞬間までに、俺が片をつけるしかないだろう。 「さようなら、氷室先輩」 これ以上余計なことは口にしない。俺が今誓ったことを、意地でも彼女に悟らせない。 どうか生きて。 あなたを縛っているあの男を…… ヴァレリア・トリファは俺が殺す。 「さようなら、藤井君」  これでいい。これでいいんだ。もともと言葉が足りない者同士、互いの真意を半分も伝えきれていないことは分かっていたし、それでいいと考える。  彼は自分を救いたい。自分は彼を傷つけたくない。共にそう考えているのだから、どれだけ言葉を尽くしたところで平行線になるのは目に見えていた。  ゆえに、ここでは別離を選ぶ。双方、自分が強くないことを知っているから、一緒にいたのでは足を引き合う羽目になるだろう。  してみれば、なるほどマレウス……彼女はそうなることを期待していたのかもしれない。  玉であるゾーネンキントも、敵手であるツァラトゥストラも、共にこの騒ぎにおいてど真ん中に立っている。渦中の人どころではない。  そんな二人が一緒にいれば、爆弾同士が連れ添っているようなものなのだ。些細な火花で誘爆し、大惨事を招くだろう。  これはお互い、そういう論理を経た上での選択なのだと弁えて、玲愛は苦く笑みを浮かべた。 「半端だね、私たち」  そう、何もかもが中途半端。  二人が一緒にいることの危険に気付けないほど馬鹿ではなく、気付いた上でなお寄り添うほど強くない。いっそ全部放り出して、共に逃げることが出来たらどんなにいいことだろう。  だけど、それは叶わぬ夢だ。せめて相手だけでも逃げてほしいと思っているが、彼はそういう男じゃない。  格好いいけど、素敵だけど、馬鹿なんだよね、この男の子は…… 「だからそんなキミに、私は……」  言いかけて、しかし首を振り口を噤む。余計なことを言ってはいけない。  その先を口にすれば、彼に縋り付きたくなりそうだから。  自分のせいで、彼を苦しめそうだから。  この男の子はきっと退かない。殊勝に「分かりました」なんて言っていたけど、きっと絶対分かってないんだ。  だから、これはある意味勝負。彼が無茶なことをする前に、自分が全部終わらせる。向こうも同じようなことを考えているはずだから、どっちが早いか競い合う展開になるだろう。  負けないよ――そう心の中で呟きながら。  逢瀬なんて甘いものじゃなかったけれど、この場を設けることが出来た喜びを玲愛は胸に沁み込ませていた。  本当の本当に後戻りが出来なくなる一瞬前、夜が訪れる黄昏の刹那に、彼と逢って話したかったということ。  これが自分にとって一生一度、最初で最後の我が侭だから。  いいよね、なんて思うこと。  それが、最大の後悔と失敗を生むことになる。 「おーそーいー」  これで都合何度目になるか分からないそのぼやきに、呆れを多分に占めた声が応じた。 「ああ、まあ、んなじたばたしてないで座んなさいよ。騒いでりゃ帰ってくるってわけでもないんだし」 「でも、でもさ!」  さすがにもう待てないよと、地団太踏みかねない勢いで香純は不満の声をあげる。 「いくらなんでも遅すぎない? もう日が暮れちゃったんだよ? ありえないって」 「そうねえ。どこほっつき歩いてんのかねえ」  切迫した香純の声とは対照的に、清々しいほどやる気の感じられないエリーの声。実際彼女は、携帯ゲーム機で遊びながら完全にくつろいでいた。 「ちょっとそこの人攫い! 真面目にやんなさいよ――て、うお、なに?」 「いや、暇なら一緒に遊ぶ? ドラゴンしばきに行こうよ」 「あと、あたしの名前はエリーちゃん。ほら、キャラの上に表示されてるでしょ、E・R・I・I」 「あー……、うん、確かに、エリー」 「はい香純ちゃん。そんじゃそういうことで、クエスト選ぼう。そのキャラ、プレゼントしてあげるから」 「ちょっ、これすっごいレア装備」 「やっぱ剣道部員としてはポン刀極めないといかんでしょ」 「あ、でもあたしはハンマー振り回してがつがつやるのが好きなんだけど」 「じゃあドラゴンやめてヤドカリいじめに行く?」 「いいね。あれぶっ壊すときスカーっとして」  と言いかけたところではっとする。そんな問題ではない。 「行くかーっ!」  渡されたゲーム機を突っ返し、大声で叫んでいた。 「ほんとさっきから全然真面目に答えないし、あたしが何言ってものらりくらりとあんたは、あんたは……」 「エ・リ・イ」 「エリー、せめてこっち見なさい!」 「……もう、うるさいな。日本武道やってんなら、侘びとか寂びとか覚えようよ。心頭滅却すれば云々ってのもあるでしょーが」 「それ、今はまったくこれっぽっちも関係ないから」  言いつつ、エリーのゲーム機も取り上げて、こっちはいい加減我慢の限界なんだと鼻息荒く香純は詰め寄る。 「いきなりヒトんち来て、問答無用で、ばきゅんと一発攫ってくれたのはまあいいよ。まだお腹痛いし、指先ちょっと痺れてるけど、それは、まあ、いい」 「効いたっしょ、あのスタンガン」 「思い出すと腹立つから黙ってなさい!」  下腹の疼痛が未だに結構な自己主張をしているが、ともかくそのことは棚に上げよう。まさか現代日本で朝一から人攫いに遭遇するとは思わなかったが、今追求したいのはそこじゃない。 「蓮、ここに来るんじゃないの?」 「来るだろうとは思うんだけどねえ」  エリーが電話で蓮と接触を持ってから、すでに十二時間近く経っていた。本来ならとっくに再会しているはずなのだが、待ち人が現れる気配は未だにゼロで、暇な時間が続いている。 「ま、確かにちょっと遅すぎるか」  だからそれについて、彼女自身も香純ほどではないにしろ訝っていたと言っていい。何かあったのかもしれないと小首を傾げ、傍らに目を向ける。 「あんたどう思う?」 「さあ? けど何にせよ、計算狂ったかもしんねえな」  その問いに、これまでソファに寝そべったまま沈黙していた司狼が口を開いた。 「あのヤロ、また病気出しやがったかもしんねえ」 「ていうと?」 「おまえらすっこんでろ」 「なるほど」 「むむむ…」  このうえなく端的に、分かり易い司狼の一言。エリーは苦笑して、香純は困惑気味に向き直った。 「ねえそれって、あいつが何か危ないことをしてるって意味?」 「分からん。どうだか」 「司狼、いい加減はっきりしてよ……」  不安げに、声を落として香純は言う。彼女がこれまで約十二時間、こんな場所に大人しく居続けたのはそれが理由だ。 「あんたがいなくなってから何してたかとか、もういいからさ……今どうなってるのかだけでも答えてよ。 学校行くなって、どういうこと? 蓮はいったい何してるの?」 「そりゃあ、あいつが来たらあいつに聞けよ」 「来ないじゃない、あのバカ」 「だわなあ」  さすがの司狼も面倒くさくなったのか、あてが外れたと言わんばかりに肩をすくめて、エリーを見た。 「や、もう無理。めっちゃ警戒されてるし、ステゴロやったらあたし負けちゃう。黙らせたいなら、あんたやりなよ」 「なに、やるの? かかってくるの?」 「そんなカンフーポーズ取られてもなあ」  がしがしと頭を掻いて、盛大に溜息をつく。どうやら彼にしても、これは間抜けな状況になったと認めざるを得ないらしい。 「まあオレとしちゃあ、知ってること洗い浚いゲロってもいいんだけどよ。問題はおまえが信じるかっちゅー話で」 「それはあたしが決めることでしょ」 「でもオレ、信用ねーだろ」  だからたぶん、何を言っても意味などあるまい。司狼はそうぼやきながらげんなりしている。 「徒労の匂いがぷんぷんすんだよなあ」 「しゃあないね。日頃の行いが悪い」 「だもんで、今はそのネタ、保留にしない?」  蓮がここにやってくるまで――と言っても、その時が訪れる保証はないし、来たとしても素直に答えるかどうか分からない。  むしろ、どっちの確率も皆無に近いのではないだろうか。  それは香純も、分かっているらしく。 「じゃあしょうがないから……」  と、一本指を立てて言った。 「一個だけ。それだけでいいから答えてよ。嘘くさいこと言えないような質問にするから」 「オーケー。オレのスリーサイズでよけりゃあいくらでも答えましょう」 「そんなのは知ってるからいいの!」 「知ってんのかよ」 「あ、香純ちゃん、あとであたしに教えて」 「だから……」  もうふざけんなと吼えたい気持ちをぐっと堪えて、問いを投げた。 「あのさ……」  それはこの現状に何の関係もないようでいて、もしかしたら連鎖的に総ての解を得られるかもしれないこと。  ずっとずっと、ずっと気になっていた一つの疑問を…… 「あんたと蓮、いったいなんで喧嘩したの?」  口にした、瞬間だった。 「――――――」  不意に、部屋の明かりが断ち切られる。いきなりブレーカーを落とされたように、暗闇が出現していた。 「なに……?」 「タイムアップか」  突然のことに目が慣れず、驚いた香純の口に素早く手が回された。 「ちょっ――」 「し、黙って」  傍らでそう囁いたのはエリー。声は心なしか硬い感じで、さっきまでの余裕が失せている。いったいどうしたというんだろう。  こんなのただの停電で、なんでもなくて、別に大したことじゃないというのに……  よく分からない緊張感に沈黙したまま数秒間……ようやく周囲の暗さに目が慣れてきた。 「聞こえる?」 「ああ、出来るなら耳取っ替えてやりてえよ」 「何が……」  いったいどうしたんだと困惑する。香純の耳には何も聞こえない。辺りは完全な無音だった。  ついさっきまでは、クラブミュージック特有のビートが遠くに聞こえていたのだが、停電になったのだからそれが消えるのは当たり前だ。何もおかしくなんかない。  はずなのだが…… 「ぁ……」  そうだ。ここで香純は異常に気付いた。〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈聞〉《 、》〈こ〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》?  いきなりの停電なのだ。唐突な暗闇なのだ。大したことでないとはいえ、それは人を驚かせる出来事だろう。事実、自分がそうだった。  なのになぜ、誰の声も聞こえない? このクラブには数百人、電気が落ちても騒げる者らがいるはずなのに…… 「ここで待ってろ」  小さな悲鳴をあげかけた香純を制し、司狼が呟く。いつもの飄々とした口調だったが、やはりどこか硬かった。 「でも……」 「いいから。ちょっとうちらの計算違いだ。あんた巻き込むのは本意じゃないんだよ」 「蓮がいりゃ違う展開もあったろうが、まあタイミングの問題か。一度あいつを呼び戻すにゃあ、おまえ連れて来るしかないと踏んだんだけどな。 オレらが単に読み違えたか、他の誰かが邪魔したか、あるいはあいつが浮気もんなだけなのか…… 何にせよ、大人しくしてろバカスミ。ここでいつものにぎやか発揮してると、死ぬぞおまえ」 「死ぬって……」  ありふれた、聞き慣れた言葉だが、今は異次元の言語に感じる。その言葉が持つ重さ、質量、そして意味……総てが明らかに変わっていた。 「いいから、言うこと聞いときなよ。 こうなりゃぶっつけ本番でやるしかないし。 せめて事前に、レンくんから色々聞いときたかったんだけどねえ」  それもまた、と香純の前で二人は苦笑し。 「日頃の行いか」  同時に、懐からある物を取り出していた。 「な―――――」  それを目にして、香純は瞠目してしまう。 「じゅ、銃……?」  しかも映画に出てくるような大口径。もはやノリや冗談ではすまされない。  だって、これは本物だ。火器に対する知識など皆無だったが、そのことだけはなぜか分かる。  そして香純自身驚いたのは、目の前にいる二人が銃など持っていたことよりも、それが意味する事態へと気持ちのベクトルが向いていたこと。 「ほんとに……ほんとに、冗談じゃないんだ」  今ここに、銃で武装しなければならない脅威が近づいている事実。自分がそれに晒されている恐怖。  そして、この二人がそれに立ち向かおうとしている現実。 「だ、駄目だよ、そんなの、逃げようよ」 「どうやって?」  エリーは香純の提案を、至極あっさりと切り捨てた。 「出口はそこだけ。んで、抜けた先はホールまでの廊下一直線。袋の鼠だわ。 虎穴に入らずんばって、言うでしょう?」 「そりゃ言いえて妙だな。虎子もらいたいから胃袋に突っ込めと」 「まあ、食あたりくらい起こさせてやろうよ」 「そうすっか」  言って、二人の肩が下がる。這うように、しかし素早く、止める間もなく彼らは行動を開始したと思った矢先―― 「―――――っ」  不意に、唯一の脱出口であり突破口であるドアが開いた。不吉なくらいゆっくりと、蝶番の軋む音が響いてきて……  誰か、蓮じゃなくても誰かが助けに来てくれたのかと、一瞬でも考えた自分の甘さを、香純は呪った。 「ぐっ……」  なぜなら、救いを期待したがゆえに現れたモノを凝視してしまったから。  それの正体を看破しようとしてしまったから。  こんな、よりによってこんなもの……直視して正気なんか保てるわけない。  言うなれば、それは映画でお馴染みの〈人狼〉《ワーウルフ》。人間の四肢を持った狼が、直立してこっちを見ている。  その目で睨まれた瞬間に、絶叫をあげることも出来なくなった。  あの異形は覆面じゃなく、正真の人狼というわけでもない。  頭部は剥製。  何処から調達してきたのか、剥製の首を人間の胴体に繋げているのだ。  つまり、狼の頭を乗せた首なし死体が動いている。  ガラス玉にすぎないはずの獣眼が、ぎょろぎょろと蠢きながら熾火のように燃えていた。 「な、なによ……これ…」  有り得ない。有り得ない。有り得ない。有り得ない――  首をなくした人間が歩くことも、首だけの獣が唸ることも。  それぞれ死んでいるはずの物体を貫いて、無理矢理動かしている杭の存在なんてどんなに狂おうと認められない。  まるで子供の粘土細工だ。違いがあるとするならば、骨の変わりに埋め込んだ心棒が意志を持っているということで……  狼の口が軋みながら開閉し、本来絶対に発音できないはずの人語を綴った。  聞けば生涯悪夢に魘されると分かっていながら耳を覆えず、それは香純の鼓膜に突き刺さる。 「こ、い、よ……」  一緒に遊ぼう。  そう漏らしたのとまったく同時に――― 「ははははははははははははははは――――ッ」  割れんばかりの哄笑が炸裂し、繋ぎあわされていた人獣の死体が爆発した。 「――――――」  何が起こったのか分からない。何をされたかなど知りたくもない。ただ頭を抱えてしゃがみ込んだ香純の耳には、死体の内部から弾けた血と、それ以外の何かが盛大に飛び散る音と突き刺さる音。  そういえば、手榴弾の恐ろしさは爆発による熱じゃなく、木っ端微塵に飛散する破片によるものが大きいのだと、そんなどうでもいいことを意味もなく思い出していた。  あの不出来な〈人狼〉《ワーウルフ》は手榴弾。  メッセージを送る伝令であり、示威を目的とした遊びであり、獲物に対する些細な皮肉を込めた〈演出〉《ブラックジョーク》。  そうしたことは、香純に分かるはずもなく…… 「意外と根に持つ野郎だな」  総てを察して立ち上がる司狼を、呆然と見上げることしか出来なかった。 「あ、あたし……」 「いいから。おまえは大人しくしてろ」 「すぐ戻ってくるから、香純ちゃんは隠れてて」  二人とも、先の爆発をもろに浴びたらしく、全身返り血に染まっていた。いや、香純が気付いていないだけで、三人とも同じ様なのかもしれない。 「だ、駄目。行っちゃ駄目だよ」  何がどうなっているかなど欠片も分からないが、このまま行かせたら二人は帰ってこないと直感できる。  だってあまりにも非現実。  笑っちゃいそうなくらい非常識。  自分が知っている当たり前など、ここには一切存在しないと、そんなことだけは確信できる。 「逃げよう。相手にしちゃ駄目だって」 「だから、この先一本道だって言ったじゃんよ。 もうだいぶ前になるけどね、名前が底なし穴だからって、非常口をみんな潰しちゃったんだわ。当時は洒落の一環だったみたいだけど。 結果として、ここの奴らが自分で棺桶作っちゃったことになるのかな」 「それが偶然かどうかはさておき……」  呆れの失笑を漏らしながら、司狼は言う。 「まあ、面白ぇよ。オレがそんなお手軽いモブかどうかはすぐ分かる」 「ともかく、こりゃご指名だからな。行くしかないだろ」  香純には、二人の言っていることがよく分からない。まるで何かの運命論的なものを語っているようにも感じたが、今はそんなことより、黙って行かせていいわけがないという一点だけ。  それだけが、ただ一つ確かなことで。  逃げ道がないというなら、選択肢は他になかった。 「あたしも、行く」  呆気に取られたような二人の顔。だけどこれは、退けないことだ。 「あたしも、行くから。〈銃〉《それ》、他にもあるなら貸してよ」 「え、いや、その……」 「ないなら、鉄パイプでもいいから」  というか、そっちのほうがいいのかもしれない。これから修羅場に臨むなら、可能な限り使い慣れた武器を選ぶべきだと考える。 「ないの? じゃあちょっと待ってて。作るから」  言いつつ、香純は室内を見回して使えそうな物を物色した。金属バットでもあれば最適なのだが、ここにそんな物はない。だったら椅子をバラして、その足を使うくらいが関の山か。工具がないから力任せになるけれど、腕力にはそこそこ自信があるのでたぶんなんとかなるだろう。 「ごめんね、すぐ済ますから」 「ちょ、いやいや、あのね香純ちゃん」 「なに? 大人しくしてろとか言ったらあたし怒るよ」  香純の剣幕に、エリーは思わず一歩退く。 「そりゃ怖いけど、わけ分かんないけど、今はどうにか乗り切らなきゃいけないじゃん。あんたらだけ危ない目に遭わせて、あたしだけ蚊帳の外? ふざけんなバカ。 ていうか、あたしがここに残ったら、あんたらが危ない奴をぶっ飛ばさないと手詰まりになっちゃうでしょ? だったらそれより、三人で中央突破するほうが色んな意味で確率高いよ」 「まあ、そりゃ、確かに仰る通りで……」 「でしょ? 二人がやられちゃったら、あたし一人でどうしろって言うのよ。運よく見逃してもらわない限り、全滅しちゃうじゃない。 だからここは、三人力を合わせて一緒に逃げる。それがベストで、一番賢い。分かった」 「ああ、はあ……」  予想外の正論に面くらい、エリーは視線を彷徨わした。香純の言い分は確かに正しく、反駁する余地がない。 「けどさあ……」  しかし、それでも何事かを言おうとするエリーの台詞に、これまで黙っていた司狼の声が被さった。 「おまえ、やっぱりすげえな」 「え?」  今度は香純が呆気に取られる。なぜなら司狼の声音には、本音の賞賛が篭っていたから。  この幼なじみにそんな対応をされたのは、もしや初めてのことかもしれない。 「すごいって、何がよ?」 「そういうタフなところだよ」  冗談を言い合える状況ではないし、事実冗談じゃないようだ。真面目な声で淡々と、彼は香純に対する評価を述べる。 「プラス、健全で前向きだ。ああ、本気で大したもんだよ。並みの奴なら野郎でも卒倒してるぜ、この状況。 やっぱおまえは昔っから、正義の人で友情の人だな。蓮のアホに爪の垢でも煎じて飲めって言いたいよ」 「負けだ。全面的におまえが正しい。てなわけで、武器ならあの奥にステンレス製のモップがあるから、それ使え。 ただし、無茶だきゃ絶対すんなよ」 「あ、うん……」  予想外の援護射撃に戸惑いつつも、言われた通りにしようとする。 「だよね、そうだよね」  笑顔が若干引きつり気味になったのはしょうがない。実際怖いし、先ほどの光景がまだ目と耳に焼き付いている。  だけど、ここで思考停止していても始まらないのだ。自分の周りで何が起こっているのか見当もつかないが、それを知るためにも生きる努力をしなくちゃいけない。  全部は、ひとまずこの場をなんとか切り抜けた後で。  そう思い、でも一つだけ今すぐ知りたいこともあって…… 「ねえ、司狼……」  武器として薦められたモップを取りに行く途中で立ち止まり、香純は呟く。  それはさっき、答えを聞かないまま宙吊りになっていた質問のこと。  目を見て話さなくてはならず、目を見て聞かねばならないこと。 「あんたと蓮が、喧嘩しちゃった理由って……」  その問いに対する答えは、しかし―― 「分かんねえよ」  本音としての曖昧さと、そして後頭部への衝撃となって訪れた。 「ぁ――――」  何をされたか頭が理解するより早く、司狼の言葉が耳に届く。 「実際、本当に分かんねえんだ。いや、表面的な理由なら説明できるぜ? でもおまえが知りたいのはもっと深い、そもそもの原因についてだろう?」  司狼が当身を仕損じたのか、それとも香純が僅かに身を捻ったからか。分からないが、即座に気絶とはいかなかった。朦朧とした意識のまま、落ちてくる声をしっかりと認識できる。  口も、かろうじてだが動かせて…… 「十一年、前……?」 「ああ」  それが総ての発端で、導火線に火がついた日。  では、なぜ彼は着火したのだろうか。 「分からねえんだよ。 本当に、分からない。なんでオレは、あんなことやっちまったんだ。 おまえには悪いと思うけどよ、マジで未だに意味不明なんだ。すまねえな」 「じゃあ、これは……?」  この仕打ちは、と問う香純に。 「おまえの要望どおりだよ。一番全員が生きる確率の高い道だ。 逃げる気ねえ奴と組んだところでしょうがねえだろ」 「つまり……」  司狼らは、ここで戦う選択にこそ意義を見出しているのだということ。 「なんでそんな風に思うのかも、突き詰めていきゃ分かんねえんだが……まあ、いいさ。ともかくそういうことでおまえは寝てろ。おら、行くぞエリー」 「はいはい。しっかしあんた、これ蓮くんに知られたら喧嘩どころじゃすまないんじゃない?」 「知らんね。けどあいつにだって落ち度はあるだろ」 「なんかあたしは、あんたが喧嘩したがってるように思うんだけどさあ」 「かもな。でも本当に分かんねえんだよ。 なんでこう、オレがやりたいようにやると決まって……」  そこから先は、もう聞き取ることが出来なかった。 「待っ……」  待って、待ってよ。待ってったら。  どうして司狼はいつだって、こんな無茶苦茶ばっかやりだすのか。  〈十一年前〉《あのとき》も、〈二ヶ月前〉《あのとき》も。  司狼が進んで動き出すと、決まって蓮の世界にひびが入る。  仲が悪いわけでもないくせに。壊そうと意図してるわけでもないくせに。  結果はいつだって、どこだって、あいつを苦しめる方向にしか転がらない。  だから、そんな二人の関係をずっと見てきた香純としては、この結末が嫌になるほど予測できる。  みんな生き残る確率が高い道? ああそう確かに、これがそうかもしれないけれど。  司狼が逃げずに戦う気なら、こうするしかないのかもしれないけれど。 「だめ、なんだよぉ……」  このパターンは、よくないのだ。最悪な結果にしか転がらないのだ。  つまり、香純の口からはとても言えず、頭で考えたくもないことだけど。 「よぉ、お嬢ちゃん」  司狼は負けて、エリーも負けて。 「一度会ったな。覚えてるかい?」  身動き取れない自分も当然、見逃されることなんか有り得ないって……  嫌になるほど、香純はそれが分かっていたのだ。 「……っ」  そして、その事実は当然のように皆が感じ取っていた。  分かる者には分かる。超常の感覚を有するならば、そうしたものに鈍感ではいられない。  魂の大量散華は、彼ら異能の徒にとって花火の爆発に等しいだろう。音が聴こえるし目に見えるし、叫びが震動となって届くのだ。  ゆえに、皆が気付いている。  無論、彼も―― 「第三が、開きましたか」  空を見上げて、独りごちるように呟いたのはヴァレリア・トリファ。その様子は、些か以上に奇異だった。  命令したのは彼である。好きに任せたのも彼である。だというのにこれはいったい、どういう了見なのだろう。  胸前に組んだ彼の手が震えている。それは歓喜でも興奮でもなく、取り返しのつかない失態を悔やんでいる者のように、神父は自身が招き寄せた結果を恐れていた。  らしくない。本当にらしくない。ヴァレリア・トリファという名の男が、こんなに脆く揺れているなど有り得ないと言っていい。  本来なら、今頃高笑いでもしているような場面なのに。 「どうしたの、ヴァレリア」  挙句、自身の動揺を他者に看破されることなど、本当にらしくない事態と言えた。 「あなた、朝方からおかしいわ。いったいどうしたというのよ」 「いえ、なに……」  背後から声をかけたリザの疑問ももっともだろう。冗談抜きでこんな彼は、六十年以上記憶にない。  眉を顰めて問う彼女に、トリファは背を向けたまま低く答えた。 「私の望みが、たった今粉砕された。それだけですよ」 「……?」 「ですから、この私が六十年待って待って待ち望み、焦がれに焦がれた奇跡への道が閉ざされたのだ」 「それは、どういう……」  リザとて、第三のスワスチカが開いたことは感知している。  しかし、逆に言えば分かっているのはそれだけで、他のことは読みようがない。自分の与り知らぬ領域で、何らかの不都合があったとでもいうのだろうか? 「黄金錬成に問題が生じるとでも?」 「いいえ。問題は何もない」 「むしろ、最大にして唯一の不安要素が消え去ったと言っていい。誰も分かっておらぬでしょうし、本人も無自覚でしょうが、ベイは抜群の軍功をあげましたよ。もう後戻りなど出来ない。 ゆえにリザ、どうかこの問いに答えてほしい。あなたはテレジアを愛していますか?」 「…………」  それは気のせい……だったのかもしれない。 「あなたは彼女を、罪に対する〈贄〉《バツ》として火にくべるのか?」  彼の言ったことが何かの天啓めいたものに感じて。 「あなたにとっての黄金とは?」  リザは、意思と無関係に動く口を、このとき初めて自覚した。 「私は、あの子が恐ろしい。 でも、自分にとっての黄金が何なのか、たまに分からなくなるときもある」 「なるほど。では、今の私と同じですねえ」  苦笑と言うには凄惨すぎる、まるで激痛に耐えているような呻き声。その余韻を引きずりながら、トリファは変わらず夜の空を見上げている。 「リザ、あなたも覚悟を決めた方がよいでしょう。これで黄金錬成は滞りなく執行され、以降は当たり前の展開が続くのだ。 ハイドリヒ卿が、大隊長御三方が、万全整えて戻ってきますよ。藤井さんにとっては最悪の流れだ」 「そう……」  だったらそれは……おめでたいわね。  と、言うことがなぜか出来ず。 「それであなたは、いったい何をもって望みが粉砕されたと言っているの?」  代わりに、ぽつりとそんなことを。  神父の不可解な態度に対する疑問だけを投げていた。 「なに、至極簡単な話」  それにトリファは、やはり凄惨な笑みを漏らして答える。 「私は黄金の代行、クリストフ・ローエングリーン。ゆえに主の影として、破壊の愛を示したまでだ。 しかしおかしいですねえ、矛盾ですよ。逆臣の己と忠臣の己……前者であろうとすればするほど聖餐杯は堅牢に、私と黄金を結びつけたが。 後者の真似事をすればほれこのように、一瞬にして私と黄金がぶれ始めているのですよ」 「―――――」  首だけ振り返ったトリファの顔に、リザは絶句して二の句が継げない。  なぜならその輪郭は二重に揺れて、〈肉体〉《うつわ》と〈魂〉《なかみ》が乖離を始めようとしていたからだ。 「ああ、今になってようやく分かった。つまり私は、ただの道化だったということですねえ」 「いや、面白い。愉快じゃないですか傑作だ。これはいよいよもって素晴らしい。テレジア、あなたに心よりの感謝を。 私は今、己が真実の愛をついに自覚することが出来たのだ。 ふふふ、ふふふふ、ふはははははははははははははははは――――」  割れんばかりに轟く哄笑。  それは壊れた狂人の嘆きのようで、同時に赤子の産声めいた歓喜だと……  リザは、そんな風に感じていた。  人気のない夜の中、並べたグラスにシャンパンを注ぎながら、彼女は客の訪れを待っていた。  別に祝杯をあげるほど目出度いことがあったわけでもないのだが、気分的に今夜は飲みたい。相手はまあ、誰でもいい。  実際のところ、本当にどうでもいいわけではないのだが。  少なくとも、知人に限定されている。ここにそれ以外の者らは近づけない。  そうなるように細工をしたし、そうであるからこそ彼女の知人ならこの場所を見つけられる。まさか気付いたうえで無視だなんて、つれない真似はしないだろう。  さて、それならいったい誰が来るのか。 「出来れば男、……いや、女同士もたまには」  などと考えながら、やっぱり男がいいやと考え直した。 「だってさあ、ここって一応、あれ系でしょ? 夜景が痺れる、みたいなスポットじゃない? そんな場所で女同士はどうなのよと、わたし思うわけですよ」  橋の上である。とは言ってもその端であり、海上のパノラマが展望できる場所ではない。だがなんとなくここの方が、ムードがあると思ったので選択したのだ。風防も何もない海上では、絶景かもしれないが髪型とか乱れるし。 「だからほら、早よ来いっつーの。本命はレンくんだけど、クリストフでも別にいいや。カインは……ないって言うか無理だし。だったら後はぁ……」 「なに遊んでんだよ、おまえ」 「……げっ」  と言った傍から、こいつになってしまったわけで。特に不満はないけれど、こいつはなぁ……と、ルサルカは諦め気味に嘆息した。 「はあ、まあ、いいけどね」  一番馴染みのある相手なので、面白くない。しかしこの際、贅沢は言わないでおこう。気を切り替えて、訪れた客を笑顔で迎えた。 「いらっしゃい、中尉殿。おひとついかが?」 「はあ?」  グラスを向けられ、呆れたような声を漏らすヴィルヘルム。なにやら怪しげな空気を感じたので寄ってみれば、案の定怪しげな真似をしている奴がいるのだ。当然の反応だろう。 「なんの祝いだよ、こりゃ」 「んー、とりあえずは、あなたの栄誉にってことでいいんじゃない? 三つ目、ものにしたんでしょ?」 「ああ、それか」  クラブ・ボトムレスピットを全滅させ、つい先ほど第三のスワスチカは開放された。それを成したヴィルヘルムは、この時点で黄金の祝福を約束されたことになる。  ルサルカは、それを祝福しているのか。 「一番乗り、おめでとう。よかったじゃない――ほら、プロージット」 「は、そりゃどうも」  言って、打ち合わせたグラスの中身を一気に飲み干す。同時に彼は、そのままそれを捨ててしまった。後ろに投げられたグラスは砕け、当然だが二杯目は注げない。 「ありゃりゃ、不味かったかね?」 「別に。ただ気分じゃねえな」 「それはどうして?」 「さあねえ」  嘯くヴィルヘルムは苦笑いこそ浮かべているが、確かに乗り気ではないようだ。ルサルカはそれを横目に、自分のグラスに再びシャンパンを注ぎながら、気軽に言った。 「当てましょうか。あなた、満足してないんでしょう」 「…………」 「まだ獲るつもりなんでしょう、スワスチカ。残りは人数分しかないっていうのに。 分かってるの? 〈戦争〉《ケンカ》になるわよ」 「おまえよぉ……」  そのとき、ヴィルヘルムの口調に険が混じった。 「俺にそれ言いたくて張ってたのかよ」 「馬鹿言わないで。そんなのしょせん三分の一だし。 来たのがあなたじゃなかったら、別の人と別の話をしてたわよ。自惚れ屋さんね、中尉殿は」 「は、そうかい。そりゃすまねえなあ」 「で?」  さらりと流したことで爆発は起きなかったが、未だ剣呑な空気が揺蕩っている。ヴィルヘルムが不完全燃焼だと言うのなら、対応次第でその穴埋めを求めにきかねない。  だがルサルカは、特に動じてもいないようだ。 「もしかして、また邪魔が入るか逃げられるかした? あなた、いっつもそうだったものね。気合い入れて何かに望めば、決まってそう。同情してるわ。 今回もそうだったわけ?」 「さあな。だが、スカされたような気分はあるぜ。ほれ、あのガキどもがいただろう」 「ああ、あの子達?」  司狼とエリーのことであろう。ヴィルヘルムは頷いて先を続ける。 「一応はな、あいつら吸ったからそんなに不満でもねえんだよ。歯応え云々で言やあ不服だが、柔けりゃ不味いってもんでもねえだろう。狙った奴らは居たし殺した。だが足りねえ。 なんで今夜、俺はもう一人とは会えなかった?」 「偶然でしょ?」 「ああ偶然だ。けど俺ァ偶然ってやつが嫌いなんだよ。スカされたときはそう思わねえことにしてる」  ボトムレスピットに攻め入って、全滅させ、第三のスワスチカを開放した。それはいい。  だが、最大の獲物がそこには不在。それが彼を苛立たせている。  来るまで待っていればよかったという問題でもないだろう。彼に言わせれば、これは縁があるかないかの話だから。 「何か言うことはあるか、マレウス。てめえ小細工しやがったろう」 「またこの男は、勘だけでものを言って……」  と、呆れながらも、ルサルカは否定をしない。 「もしそうだったら、わたしあなたに落とし前とかつけられちゃうのかしら」 「アホか、知ってるだろ。てめえはそそらねえよ、守備範囲外だ」 「ご老体はいい加減に落ち着きなって話だよ。茶々入れんのも結構だがね、くだらん真似しやがるから、また一人落ちることが決まっちまったぞ。俺はあのガキと当たるまで引っ込まねえ」 「てことは、レオンが落選? 当面はあと二つだし、わたしに興味がないって言うならそうなるよねえ」 「おまえがあいつと競り合って負けりゃあ、話は別だな」 「そんな立ち回り絶対しないし」 「そりゃそうだろうよ。したら間抜けもいいところだ」  言って、ヴィルヘルムはもう話すことなどないと歩き出す。何処に行くつもりかは知らないが、ねぐらの三つ四つは用意しているのだろう。引っ込むつもりがないと明言した以上、彼は未だに戦争中。すでに指揮官から任務を受けた〈駐屯地〉《きょうかい》になど、まず間違いなく帰りはすまい。  銃弾にしろ爆弾にしろ、一度放たれれば戻ってこないのが殺人兵器というものだから。  手のシャンパンボトルを弄びつつ、去っていく背に別れの挨拶を告げておいた。 「じゃあね、ベイ。あなたが満足できたらまた飲みましょう。そのときはもうちょっとだけ付き合ってよね」 「おまえの遊びが俺の邪魔をしてなけりゃあな」 「しないわよ」  むしろ助けようとしてあげてるんだから。  と、ルサルカは呟いた。もはやヴィルヘルムの背は見えない。  本当、勘だけで生きてるような男のくせに、鋭いんだか鈍いんだか分からないから困ってしまう。  そういうところ、何処かの誰かとそっくりだ。もともと似たような環境で育ち、似たような性質を持つ者同士、相通ずるものがあるのは当然だろうが。  きっと彼も気付いている。  求める相手と縁が持てないという、厄介なその定めが、何時何処で誰と関わってから頻繁になったのか。  結局のところ、最初にケチがついたそれをやり直さない限りおそらくは…… 「て言っても、難しいよねえ」  橋の欄干にもたれながら、しみじみと言う。  あれは黒円卓黎明のとき、あの戦いを最初に邪魔したのは彼女で、それをさらに叩き潰したのがあの人で。  加えて言うなら、十一年前も…… 「ヴァルキュリアとは惜しかったのにねえ」  だから、願いを叶えてあげる。今夜スカされたという程度のことは、しょせん大事の前の小事にすぎない。  お姫様の意向に乗ったのはただの気紛れだったけど、段々その気になってきたし。  それというのも―― 「なんか、思い出してきちゃったからね」 「何を?」  ヴィルヘルムと同じく、自分が持っていると指摘された忌まわしい呪いのことを。それを壊す手段のことを。  ああ、待ってたよレオン。網を張っていればあなたとベイは絶対掛かると思っていた。  男がいいとか女でもとか、ムードがどうだのだらだら言っていたのは冗談だから。  わたしは今夜、あなた達二人だけを待っていたの。 「ようこそレオン、グラスひとつしかないけど一緒に飲む?」  こちらを見つめる険しい瞳は、疑惑と怒りで揺れている。どうやら姫に一撃食らった後らしい。 「今、ヴァルキュリアがどうとか言っていたが」 「あら、聞きたい?」 「いったい何を思い出したと?」  問いに、ルサルカは欄干にもたれたまま俯いて自嘲する。  口にするのは今が始めて。こんな呪い、たとえ自分の声でも聞きたくない。  〈黎明の日〉《モルゲンデンメルング》の直後にわたしが、あの男から言われたことは―― 「わたしね、誰にも追いつくことが出来ないんだってさ」  だからみんな止まってしまえ。  それがわたしの、胸を焦がす魂の〈渇望〉《うえ》なのだ。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 3/8 【Chapter Ⅷ Memento mori ―― END】 「んー、眠い。眠いぞお」  夜が明けて、学校前までやってきた香純は大きく伸びをしつつ欠伸をした。 「やっぱ朝までカラオケオールは無茶だったかなあ。さすがにちょっと、喉が痛いや。ねえ、櫻井さんは大丈夫? 喉もそうだけど、目がしぱしぱしない?」 「私は平気」  肩をすくめて応える螢。まあ確かに、少々きつくはあったけど、それは体力的な面と関係ない。 「見た目細いのに、タフだよね。まああたしも、これくらいのだるさなら若さで乗り越えちゃうけどさ。昨夜は楽しかったもんね。櫻井さんはどんな歌を歌うのかなって思ってたけど、洋楽ばっかりで驚いちゃった。しかも発音、超上手いし」 「…………」 「ね、また行こうよ」 「ええ」  そんなことがもしあるのなら。 「でもさ、なんであんなに英語ペラペラなの?」 「外国暮らしのほうが長かったから」 「へ、じゃあ帰国子女なんだ?」 「そんなようなものね」  十歳になる前から中南米……それから北米、欧州、ロシアに渡り、ここ二年ほどはチベットや中国、北朝鮮。  特に感慨もなくそう話すと、香純は目を輝かせて感動していた。 「す、すごい。そんな映画みたいな暮らし、私もしてみたいっ」 「そんなにいいものじゃないわよ」  中米では聖餐杯に教えを請い、自立してからは南米でシュピーネに援助を受け、北米ではヴィルヘルム、東欧ではルサルカに……  世界中に散らばっていた彼らと面識を持ち、それぞれなんらかの施しを受けながらの生活だった。  金、力、戦意と〈敵愾心〉《てきがいしん》や狡猾さ……魔道、武道、言語、文化、歴史、宗教、哲学諸々……自分は正しく、黒円卓に育てられた彼らの子供だ。香純に羨ましがられるような人生じゃない。 「いったい、何ヶ国語話せるの?」 「六か七……だけど、一箇所に落ち着かなかったから、みんな片言よ」 「それでもすごいよ」  驚きと尊敬が入り混じった目で、香純が両肩を掴んできた。 「櫻井さん、――ううん、これからは螢様と呼ばせてっ。テスト前とか、あたしに英語教えてください。蓮が言うには、あたし物覚え最悪だからカンニングしろってことなんだけど、そんなの嫌だし」 「…………まあ、いいけど」 「やったあっ!」  意味のない安請け合いをしているな、と思いつつ、螢は目の前の校舎を見上げた。  さて、今あの中は、いったいどれだけの魔窟と化しているのだろう。  見る限り、外面上はなんらおかしな気配はない。だが、周囲に異常を知らしめる結界など、下の下であり欠陥品だ。その実態は、中に入らないと分からない。 「行きましょうか」  言って、香純と共に校門を潜り、昇降口から校舎に入る。  その間、断言して螢は油断などしていなかった。別に敵陣というわけではないが、他者の思念が張り巡らされた領域に入るとは、別種の生き物の胃に呑まれる行為に等しい。それなりに気を張っていなければ、比喩ではなく溶かされる。 「あれー、なんだろ。これってちょっと……」  だから、これは異常であり、また考えようによってはごく当たり前のことだった。 「―――――」  いない。誰も。ついさっきまで横を歩いていた連れまでも。 「綾瀬さん……」  見失った。気配の欠片さえ感知できない。 「…………」  香純の存在を忘れていたわけではないが、些か自己防衛の心構えが強すぎたのか。連れ去られる彼女に気付くことができないとは…… 「まさか……」  すでに螢は、香純の所在を探ることなど一切考えていなかった。もともとそんな義理はないし、やってみたところで無駄だろう。  これは、今この学校を覆っている空間は、ただの外界遮断を目的としたようなレベルのものじゃない。  捕食の庭。〈殺戮劇場〉《キリングフィールド》……紛れもない異界。 「創造……」  エイヴィヒカイトの第三位階。校舎がそれに飲み込まれている。  だが、誰のだ?  個々の必殺兵器とも言うべきその業は、仲間内でも知らぬことが多い。共に大戦を駆け抜けた古参同士なら見せる見られるということもあったろうが、新参者の螢は一切知らない。  順当に考えればルサルカのものとするのが自然とはいえ、何か違うような気もする。 「…………」  焦れる。なぜかとても疲労する。まさか創造位階の中に放り込まれることになるなんて、欠片も考えていなかった。  これでは、自分を殺そうとしているようにしか見えないではないか。 「遅い朝帰りね、レオン」 「―――――」 「やっほ、元気?」 「マレウス……」  いつの間にか背後に立っていた赤毛の少女に、螢は当惑しつつも警戒心を滾らせる。  これはいったいどういうことだ? あなたは私と、ここでやり合うつもりなのか?  疑念と怒りに揺れる螢の目を見て、ルサルカは失笑した。 「落ち着きなさいよ。“ここ”であまり気合い入れると、一瞬で吸い殺されちゃうわよ、あなた」 「吸い、殺す……?」 「そう」  気だるげに溜息をついて、窓の外に目をやるルサルカ。その視線の先に、異変が起こった。 「―――なっ」  日が、蒼茫と暮れていく。まだ午前八時台であるにも拘わらず、一瞬にしてあたりは夕焼けに包まれた。 「わたしも迷惑してるのよ。あいつの創造、敵味方関係なしだし」 「おまえじゃ、ない?」 「そうよ、見れば分かるでしょ」  日は沈み、落ちて消え、瞬く間に世界は夜となっていく。月齢を無視した銀盤の満月が空を覆い、周囲に血臭と腐臭が充満する。  壁や床をうぞうぞと這い回る黒いゼリー状の粘塊は、血と臓物が凝り固まって腐れ落ちた成れの果てだ。  まるで吐き気を催す夜魔の世界――螢はそれで理解した。 「ベイ……」  ヴィルヘルム・エーレンブルグ……この世界は彼のもの。だがなぜ―― 「待ちなさい」  今にも駆け出そうとする螢を抑えるように、ルサルカが手を上げて静止した。 「言ったでしょ、ここで野蛮なことを考えちゃ駄目。心拍数と血の流れを調節して、アドレナリンを抑えなさい。あいつに言わせれば、せいぜい不味そうな女になるのよ。ここでベイをそそっちゃうと、一瞬で喰われるわ」 「………ッ」  不可解な言い様だったが、少なくともルサルカに螢を害する意図はないらしい。そうでなければ、この場における保身の術など教える意味はないのだから。 「おまえは、〈学校〉《ここ》をベイに譲ったのか?」 「そういうわけでもないけど」  髪を梳きながら、面倒そうにルサルカは言う。 「わたしはわたしで手一杯なの。慣れないことはするもんじゃないわね」  流れたその視線を目で追って、螢は同時に硬直した。 「………ぁ」 「いくらわたしがあなた達よりキャリアが深いっていってもね、他人の聖遺物なんてそうそう簡単に扱えないのに。だから、自己流でちょっと改造しちゃったけど」  ルサルカの言葉は、もはや螢に届いていない。今の彼女は、思考が完全に停止していた。 「カイン……」  中庭に彫像のごとく立ちすくむ巨躯の怪人。その手に、脚に、数多の影が絡み付いて、マリオネットのごとくルサルカへと繋がっている。 「まあ、操縦はこんな感じ。わたしじゃバビロンのやってたことの二割も出来ないから、足りないところは創意工夫でね。でもその代わり、メリットだってあるんだよ。この方法なら、遠隔操作も可能だし。隙だらけの姿を敵に晒すこともない」 「バビロン……?」  そう、バビロンだ。螢ははっとして、思考を取り戻す。  なぜ、ルサルカが彼を操っている。本来の操者であるリザ・ブレンナーは何処に行った? 「あれ、気付いてなかったの?」  意外そうに目を見開いて、しかし次の瞬間には邪悪に細く歪められ、魔女は螢に事実を告げた。 「彼女、死んじゃったよ」 「―――――」  そんな……馬鹿な。視界が一瞬で暗くなる。  リザが死んだ? 死んでしまった? じゃあ彼は、彼はどうなる?  〈屍体操繰者〉《ネクロマンサー》亡き今となっては、あれは真実ただの屍。腐り、崩れ、消えていく。  おそらく後、数日保つまい。 「クリストフは転んでもただじゃ起きない、ていうか、ほんとに転んだのかどうかも分かんないけど、要は有効利用したいんでしょ。どうせ近々消えるといっても、それまで遊ばせとくのは惜しいからね、あのバケモノちゃん」  螢の表情から読んだのだろう。からかい気味に、そして若干迷惑そうに、ルサルカは言った。 「言ったように、わたしはわたしで忙しいし、あなたも来てくれたから仕事をあげる」 「仕事……?」  矢継ぎ早の展開に即応できず、素で訊き返した螢に向け、再びルサルカは迷惑そうな顔で嘆息した。 「この子がさあ、なんか知んないけど来ちゃったみたいで」 「あ……」  氷室玲愛。なぜ彼女が、この場所に…… 「冗談じゃない……ッ」  それまで鬱積していた混乱、驚き、怒りのすべてが、目の前の少女に向けられるのを自覚した。 「あなた、何を考えてるの? 今ここが、どうなっているか……!」  死にたいのか、この馬鹿お嬢。そしてあなたが死んだら、いったいどうなると思っている。 「あるいは、自殺しに来たのかもねえ」 「――マレウスッ」  能天気な物言いに、思わず声を荒げて食ってかかる。だがルサルカは手をひらひらふって、それを制した。 「まあ、いいじゃない。面白いわよ。死のうと思って簡単に死ねるほど、世の中甘く出来てないし」 「メルクリウスがどれだけ性格悪い奴か、あなたもこの子も分かってないのよ。ハイドリヒ卿も含めて、あの二人が死なないって言えば、それは死ねないってのと同じ意味。なんだったら、そこから外に放り投げてみれば? たぶん、大丈夫よ」 「…………」 「とはいっても、実際、面倒なお荷物ではあるわけで」  玲愛をその場に残したまま、ルサルカは踵を返した。 「レオン、あなたはお姫様のお守りをしなさい。拒否なんか認めないわよ。まったく、クリストフの監視もザルっていうか、何考えてんだか。もしかしてあいつ、わざとその子を行かせたのかもしれないわね」 「……わざと?」  どういうことだ? 訝る螢を嘲るように、ルサルカは微笑する。 「勘よ勘。長く生きるとね、世の中疑い深くなっちゃうのよ。けどまあともかく、どうであってもその子はあなたが責任もって管理するのよ。返事は?」 「…………」 「レオ~ン、遅参は一昔前じゃ処刑ものの失態だって分かってるの? 目を瞑ってあげるんだから、反抗的な態度をとらないでよ、お嬢ちゃん」 「……分かった」 「よろしい。じゃあ若者同士、隅の方で仲良く青春の悩みでも語ってなさいな。わたしとベイは、ここでレンくんと遊ぶから。来るんでしょ、彼?」 「……おそらく」 「オゥケェ、じゃあ状況開始」  そして、笑いながらルサルカは去っていく。残された螢は、傍らのお荷物に目を向けて溜息をついた。 「何か言いなさいよ」 「別に」 「ただあなた、似合わないわね、こういうの」 「………ッ」  思わず殴り飛ばしたくなる衝動に駆られながら、しかし寸でで自制する。  結局香純が何処に行ったのか訊きそびれたが、よくよく考えればそんなことはどうでもいい些事だった。  そう、くだらない。関係ない。あの子がここでどうなろうと、私の世界は変わらない。  と、思い、確信しているはずなのに、なぜか致命的失態を犯したような、よく分からない不満と不安に胸がざわつく。苛々する。 「藤井君とは、逢えるかな?」 「逢ってどうするの?」 「さあ、でも久しぶりだから」 「久しぶり、ね……」  実質、三日かそこらぶりのはずなのに、何を言っているのやら。 「今日を逃すと、もう逢えないような気がしたから。逢えるといいな。でも、怖いな。どんな顔をすればいいのか、わかんない」 「あなたはどう?」 「別に」  あんな馬鹿で腹の立つ人、会ったら張り手の一つもくれてやりたい。強いて言えば、それだけだ。 「嘘ばっかり」  嘘じゃない。彼には会いたいが、それはあなたの心情とは別の気持ちだ。  だから、怖いなんて思わない。 「めんどくさい子だね、あなた」  どこか哀れむような物言いに思わず激昂しかけたが、螢は舌打ちをしただけで、特に何も言わなかった。 結局、俺が身体の自由を取り戻したのは、夜が明けてからのことだった。 「まあよ、そういつまでも自己嫌悪してないで。ヒーローが色仕掛けに弱いのはお約束じゃねーの」 それからこっち、学校に来るまで同伴してきた司狼は、ずっとそんなことを言っている。 「だから、色仕掛けなんか食らってないって言ってるだろ」 「じゃあ、なに食らったわけ?」 「それは……」 「言えないような手なら色仕掛けみたいなもんだろ」 ケラケラ笑って、肩なんかを叩いてくる。 確かに、こいつの言うとおり。色仕掛けじゃないにしても似たようなもんだろう。いい加減、この話題を続けている状況でもない。 「そんで、あのバカメスどもはここに行ったんか?」 「たぶんな……」 目の前にある、月乃澤学園。櫻井が香純と共に向かう場所など、もはやここしか想像できない。 くそ、あいつ、よりによって香純を連れて行きやがって。 怒り、悔しさ、自己嫌悪、その他諸々が胸の中に渦巻いてるが、今それを主張している場合じゃない。 香純がここにいるなら救い出し、敵がいるなら排除する。この校門を潜ってしまえば、そこはもう戦場だ。 「オーケー、じゃあ行こうか」 朝方戻ってきて、事態を知った〈司狼と本城〉《こいつら》は、どっちが行くかをじゃんけんで決めていた。よく知らないが、どうしても外せない用事とダブルブッキングするらしい。 結果、勝って付いてきたのは司狼。確かに女の本城よりはマシだろうが……いや、どっちでも同じことか。 「ん、どした? なに見てんだよ」 ただ、その、なんというか、なんでおまえはそんな格好してんだよ。 「制服、もう持ってないのか」 「いや、あるにはあるけど」 「じゃあそんなステージ衣装みたいな格好してんなよ。目立ちすぎだろ」 「これはオレのユニフォームなんだよ。かっけーだろ?」 「かっけーっつーか……ああ、もういい」 馬鹿らしくなって、司狼から視線を切る。 こいつの軽口が緊張を緩和させるためなのか、それとも悪意ありなのか天然なのかは判断に迷うところだが、茶目っ気が通用するのもここまでだ。 「おまえ、本当にいいんだな?」 「しつけえな、今さらなんだよ。芋なんか引かねえって」 「そうかよ……」 だったらもう気にしない。生憎と、こっちの身体は一つしかないんだ。 荒事は俺の役目。 櫻井にしろ、ルサルカにしろ、やり合うとなればそれは俺がしなきゃならない。だったら司狼に頼むことは、一つだけだ。 「香純の救出はおまえがやれよ」 「わーかってるって。余計な邪魔が入ってなきゃあそうしてやるよ」 そう願いたいし、そうじゃなきゃ困る。 俺は深呼吸を一つして。 「行くぞ」 と、校門を潜った。 ――瞬間だった。 「―――ッ」 「―――っと」 何かよく分からない、ぬるい粘膜を通り抜けたような違和感。 一気に呼吸が苦しくなり、自分の身体が重く感じる。 なんだ、これは……? 目眩に頭を振る俺の背後で、呆気に取られたような司狼の声が。 「おい蓮、あれ見ろよ……」 そう言われて、振り仰いだ先には…… 「―――――」 月――〈夜〉《 、》〈空〉《 、》〈に〉《 、》〈巨〉《 、》〈大〉《 、》〈な〉《 、》〈満〉《 、》〈月〉《 、》〈が〉《 、》〈浮〉《 、》〈か〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 肌を刺す赤紫の月光。凍える寒気と、言いようのない疲労感。 いや、それよりも―― 「なんで、夜に……」 呟く俺の眼前に、司狼が腕の時計を持ってくる。時刻は午前八時半―― 「今日は満月の日じゃねえんだけどな」 「ここは夜で、月が丸い。たぶん何時でも――」 「――くッ」 「待てよッ」 再び校門を潜って外に出ようとした俺の手を、司狼が捕まえた。 「やめとけ。分かんねえけど、〈出〉《 、》〈て〉《 、》〈戻〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》?」 「……あ」 そうだ、こいつの言う通り。 今の学校、この空間はどう考えても尋常じゃない。すんなり出られるとは思えないし、仮に出られても、再び入ることが出来なかったら最悪だ。 「外側からじゃ、何も変わってなかったのにな」 校門を潜った瞬間に出現した異界。朝に発生した局地的な夜―― 「心当たりあるか?」 ない。これは俺の知っている範囲で成せるような業じゃない。 喩えるなら、マリィがいるあの浜辺を現実に出現させるようなものだ。そんなこと、どうやったら出来るのか。いやそもそも可能なのか……俺は知らない。分からない。 「悪い、役立たずだ」 「そうか。けどまあ、悲観すんな」 俺の背を叩いて、司狼は笑う。 その笑みは、いつものように軽薄とはいかなかったが、この状況で笑えるだけでも大したものだ。知っていたが、やはりこいつの心臓には毛が生えてる。 「おまえは平気か?」 「ああ、俺は大丈夫」 だが、問題はこの疲労感だ。原因は不明だが、高山に連れて行かれたような目眩と酸欠、虚脱感…… 手足が痺れ、握力すらかなり怪しい。 「とりあえずだな、あまり息すんな。あとキレるな。心拍数もあげるな」 「無茶苦茶言うな、おまえ」 「無茶なとこ来たんだから無茶しねえと駄目だろうがよ」 「まあ、そりゃあな……」 冷静に言われたので、とりあえず司狼の指示通りすることにした。それで何が良くなるのか分からないが、気の持ちようってこともあるだろう。 心なしか落ち着きを取り戻した俺は、抑えた声で言った。 「行くぞ」 「おうよ」 そうして俺たち二人は、夜に覆われた校舎の中へと入っていく。 戦場は覚悟していた。殺すことも殺されることも、慣れてはいないが呑みこもうと思っていた。 けどこれは、この局面は、そんな生易しいものじゃないと告げている。 悪い予感がするんだ、香純。 今日ここで、俺はかつてない恐怖と絶望に直面するのではないのかと…… 「さぁて、こりゃ何処行っても同じだな、おい」 一階から四階まで一通り校舎を回って、漏らした司狼の感想はそれだった。 辺りは暗色、夜に塗り潰されている。日の光が刺し込むところなど一切ない。 全身を苛む疲労感は依然継続し、体力を奪っていくが、それでも一つだけ、助かっていることもあった。 「とりあえず、さっきのは礼言っとく」 「ん、ああ、オレのここはちょっと色々あれだからな」 人差し指で鼻を突っつき、苦笑する。 そう、この校舎に入る前、派手な呼吸は控えろとこいつに言われなかったら、正直なところやばかった。 辺りを這い回っているゼリー状の粘塊は、人体から搾り出し、あげく何百年も放置したような血と臓物。鼻を使っていないにも拘わらず、その臭気に脳みそが溶けそうだ。 この腐り果てた血の海で、真っ当に呼吸をしてたら俺は狂っていたに違いない。 「こりゃあれか、ブラム・ストーカーのあれっぽいわな。分かるだろ?」 司狼の言わんとすること、それはこの夜を生み出したのか誰かということ。 ああ当然、俺もそれには気付いていた。 校舎の中に入れば嫌でも分かる。ここに入った者は誰であれ、搾り取り餌にすると言わんばかりの貪欲な攻撃性……血と夜と満月が象徴する鬼の狩猟場。 さながらそれは吸血鬼。つまり―― 「ヴィルヘルム……」 あいつがこの校内にいる。櫻井とルサルカだけではない第三の……そしておそらく、その三人の中ではもっとも危険なあの男が…… 「参ったな。あの野郎オレに目ぇつけてやがんのかも」 髪を掻き揚げ、司狼は愉快げにぼやいていた。 「前にちょっとおちょくったからなあ。いきなりマジかよ。そうなるとさすがにオレもきっついわ」 「あいつはこう、適度に舐めててくれたほうがやりやすいんだよ。分かるだろ?」 「ああ」 俺だって、かつてヴィルヘルムに殺されかけた覚えがある。その経験上言わせて貰えば、あいつを本気にさせてはいけない。 悪意と戦意、殺意の塊。向かい合えば殺すか殺されるしかないと認識させられる相手だから、戦法としては奴の〈一速〉《ロー》にこちらの〈五速〉《トップギア》を合わせるのが絶対条件だろう。 手加減なしで正面からやり合う以外に許されない状況になってしまえば、今の俺達は単純な実力差で潰される。 「こりゃバカスミ早いとこ引っ攫って、逃げたほうがいいんじゃねえ? あの女の話じゃあ、戦場にならないと駄目なんだろ?」 「そうだが……」 しかし、気になることがある。 「本当に、〈学校〉《ここ》には俺たちしかいないと思うか?」 「ん?」 「そうあってほしいとは思うし、そうでなきゃ最悪だけど、最近は楽観主義が出来なくなってな」 ここに陣を張って俺たちを迎え撃つ。それは確かに、奴らの第一目的なのだろう。 だが、もし来なかったらどうしていた? これだけの場を誂えて、空振りしたら仕切り直しだなんて、そんな間抜けを奴らがやるか? 「〈敵〉《おれ》が来ても来なくても、どうなろうと対処できるようにするのが普通だろう。ヴィルヘルムはそんなこと考えなくても、ルサルカは……」 あいつは狡猾で抜け目がない。戦場にならなければ虐殺の処刑場にシフトするくらいの手は打っていて然るべき。 「なるほどね。でもざっと回ってみた結果、人っ子一人いなかったぜ」 「ここが普通の場所に見えるか?」 「いいや全然。もしかしたら忍者屋敷並みの仕掛けが働くかもしんねえし」 「たとえば壁の中、天井裏とか地面の下とか、侵入者を飲み込むことが出来るんだったら――」 「それとも、目に映る景色を実際とは違うように歪めて見せることが出来るとしたら――」 ここには、普段と同じく五百人からの生徒が集められているかもしれない。 「けど、確かめる方法はない」 「答えが“分からない”なら、用だけ済ませて逃げるわけにもいかない」 「オゥ、そりゃ参ったね」 「いきなり攻撃してくる気配もないしな」 自らの腹へ飲み込んだに等しい俺たちを、未だ放置しているヴィルヘルムの意図も気に掛かる。 何かを待っているのだろうか。だとしたらいったいそれは…… 罠か? それとも開戦の号砲か? 「こっちから探ったりは出来ねえの?」 「さっきからやろうとはしてるんだけどな」 都合よく殺気とか気配とか、そういうものを察知できるような訓練なんて受けていない。以前よりは大分鋭くなったという自覚はあるが、本職の連中が隠形に徹したら俺のレーダーなんてないも同じだ。 とはいえ、諦めている場合でもない。 「少し、真剣にやってみる。しばらく話しかけないでくれ」 「了解。じゃあオレはオレで試してみるか」 何をする気なのかは知らないが、司狼は耳をそばだて始めた。 いや、別にいいけどな。こいつは動物並みの感覚とか持ってそうだし。 「先に見つけたほうが、メシ奢りだからな」 苦笑して、俺は両目を閉じ、集中した。 人間に限らず、生き物なら誰でも自分のテリトリーを持っている。それは親しくもない赤の他人に侵されたら、不快に思う個々人の距離感覚。 喩えるなら公共の食堂やトイレ、遊戯場、なんでもいい。隣の奴から一つ二つは席を開けて、無意識のうちに間合いを取るという行為がそれだ。一般に、若い男であればあるほど、その範囲は広いらしい。 ならば、俺が自分の周りに日頃張り巡らせているテリトリーは、いったいどれだけのものなのか。 何の自慢にもならないが、普通の奴よりかなり広い自信がある。社交性が欠けていると香純に言われ、実際に友達もほとんどいない俺みたいな奴は、他人が踏み込んで不快に思う間合いの範囲を、広く設定しているはずだから。 目を閉じれば、それを肌で感じられる。俺から一メートルも離れていないところに司狼の気配。こいつの呼吸、心音、精神状態……それらを察し、知覚してから、テリトリーを拡大させた。 二メートル、三メートル、四メートル、五メートル……前後左右上方下方、等しく球形に広がるテリトリー。 ヴィルヘルムの意志で覆われたこの空間に、内側から俺の世界を作り出す。それは当然縄張りの鬩ぎ合いになり、広がりは牛歩の遅さだが、確実に自分の知覚可能領域を広げていった。 結果―― 「―――――」 「おっとぉ」 がばりと顔をあげた瞬間に、司狼と目が合う。 「下の階だな。話し声がした」 「……………」 マジかよこいつ。蝙蝠みたいな奴だ。 その洒落じゃ効かない鋭さに少々どころじゃなく驚いたが、ともかく俺が感じ取ったのもそこだ。 それに…… 「……先輩」 「ん?」 「氷室先輩が、いる」 「マジで?」 「気のせいじゃない」 すぐ下の三階、さっき見て回ったときは誰もいなかったはずなのに、俺ははっきりと知覚していた。 氷室玲愛、彼女の気配。香純と同じくらいに……いや、ある意味ではそれ以上に気に掛かっていたあの人のことを、俺が間違えるはずはない。 「一人?」 「分からない」 俺が先輩を察知できたのは、彼女が言ってみれば素人だからだ。ただでさえそれほど精度が高いわけでもない感覚を無理矢理広げて、隠形に徹した戦争屋どもを捉えられるわけがない。 「けど、無事ではいる、と思う」 俺が感じ取った彼女の気配は、いつも通りの泰然自若に、茫洋曖昧。つまり何者かに襲われている最中といった感じじゃなかった。 だったら、選択肢は一つだ。 「行くぞ司狼、あの人を確保する」 なぜ氷室先輩がここにいるのか。連中といったいどういう関係なのか……問い詰めている場合じゃないが、放ってはおけない。 「オレらを釣る餌ってことはないんかよ」 ああ、分かっている。その可能性が高いことも、そうだったら洒落にならないということも。 だけど―― 「俺は行くぞ。誰がなんて言っても」 「へいへい、オレも言ってみただけだよ」 頷き、俺達は廊下を駆けると、一気に三階までの階段を飛び降りた。 「で、何処よ?」 司狼の問いに、俺は無言のまま手をあげると、指でその場所を指し示す。 「四組」 「俺らのクラスだ」 ついでに、櫻井とルサルカもここだ。 「いやあ、思い返すと濃いメンツだったよなあ」 大きなお世話だが、否定も出来ない。 ここは学校という、俺にとって日常の象徴的場で、かつもっとも最初に粉砕された世界。 たった四十人そこらの生徒が笑って怒って、勉強やったり恋愛やったり、話して遊んで毎日会って…… そんな些細な、何処にでもあるつまらない日々。 それを繰り返すだけで終わると思っていたはずなのに、それを許さなかった残酷で小さな箱庭。 ゆっくりと、そして嫌に響く引き戸の音と共に、彼女は俺たちの前に現れた。 「藤井君……」 氷室玲愛。俺達の先輩。そして今は、立ち位置不明の小さな爆弾。 彼女は何者で、俺と奴らのどちらに属する存在なのか……その答え如何では、この人とも敵対しなければならない――かもしれない。 その思いが焦りとなり、そして油断となっていた。 「――――」 櫻井……先輩の後に続くような形で教室から出てきたこいつを見て、思考が止まらなかったと言えば嘘になる。 もし今の隙に攻められていたら、成す術もなく殺られていたに違いない。 「よぉ姉ちゃん、オレになんの断りもなく帰るなんてひどいじゃんよ」 そんな俺を庇うように、一歩前へ出て笑う司狼。その口調にも態度にも、驚きや焦りは一切ない。 おそらくは、先輩に同伴者がいるであろうことをすでに見越していたんだろう。 「オレは蓮よりだいぶ薄情だからな。餌は食っても釣られねえぞ」 「で、お二人さんはここで何をしてるわけ?」 「遊佐君こそ、何してるの?」 「オレはあんた、見りゃ分かるっしょ。修羅場にしゃしゃってくんのはいつものことじゃん」 「それで」 視線の先を、再び櫻井へと向ける司狼。ここに来て、俺もようやく冷静さを取り戻した。 「悪いな司狼、もう大丈夫だ」 前に出て、司狼を下がらせる。ここに櫻井がいる以上、何か起きたときは俺が矢面に立たねばならない。 「先輩は、まあ、後で話そう。とりあえず無事そうで安心しました」 「藤井君も」 「ええ、それで櫻井――」 これまで抑えていた諸々の感情。それらが一気に噴出して目に宿る。 先輩の前だからとか、彼女を威嚇する意図はないから穏便にとか、悪いがそんなことは考えられない。 白状すれば、昨夜からずっと、俺は腸が煮えくり返っている。 自分の甘さ、間抜けさに、香純を連れ去ったこの女に―― 「あいつは何処だ櫻井。答えないと――」 今すぐこの場で殺す。多少こいつの内面を知ったからといって、許容できる範囲の怒りをすでに俺は超えていた。 「――――」 瞠目する先輩の気配すら、とうに意識の埒外だ。傍らで司狼が何か言っていたような気もするが、それすら耳に入らない。 今、俺の目に映るのは櫻井のみ。こいつの出方、返答しだいで、俺は自分を抑えられる自信がない。 なかったが―― 「綾瀬さんなら、知らない」 拍子抜けどころじゃないその返答に、冷水を浴びせられた気になった。 「知らない、だと……?」 「ええ、訊かれても答えられない」 「…………」 嘘を言ってる風には見えなかった。そして同時に、その場合予測できる最悪の展開も…… 「じゃあ今は、他の奴のところかよ」 正直、拉致られるなら櫻井のもとが一番良かった。ヴィルヘルムにしろルサルカにしろ、あの二人は危険すぎる。 「どうするよ蓮? おまえはこいつを締め上げたいんだろうけど、そういう状況でも、それでカタがつくわけでもなさそうな感じだぞ」 「分かってる」 腹に据えかねるが、今最大の優先事項は櫻井を糾弾することじゃない。 とりあえず、この状況じゃあこいつの処遇云々なんかどうでもいいんだ。 まずは香純を確保すること。さらにプラス、それ以外にも…… 「先輩――」 「今の〈学校〉《ここ》に、他の奴はいないのか?」 「え、あ、それは……」 両肩を掴んで引き寄せると、彼女は驚いたように目を見開く。 「教えてくれ、先輩――他の生徒はいるのかいないのかッ」 「…………」 俺の詰問に、彼女は目を伏せて答えない。 ――いや、違う。 彼女は目を逸らして頭を下げることで、先の問いに答えていたのだ。 「あれは……」 校舎の中庭に、一人また一人と人影が増えていく。それは見知った顔に知らない顔、男も女も様々だが、残らず俺と同年代の―― 「おいおい……」 司狼も呆気に取られている。それだけ異常な光景だった。 すでに中庭へ集う生徒の数は、目算で二百人以上……制服、私服、酷い奴は寝巻きのまま、心ここに有らずといった忘我の顔で一箇所へと集まっていく。 「香純は?」 いない。ざっと目を走らせた限り、あいつの顔は見当たらない。 だがしかし、それでもこれは、何処からどう見ても楽観できる事態じゃなかった。 「見ろよ、あれ――」 叫ぶ司狼の声すらも、珍しく真剣だった。こいつが指し示すその先には、生徒達が集まろうとしている一角……中庭の中央で、彫像のごとく立っている巨躯の怪人。 「――カインッ」 あいつが、あの化け物までもがここにいる。だったら、その近くにはシスターも? 「駄目だ、もう遅い」 司狼の声は、言葉通り諦観していた。櫻井は瞠目し、先輩は腕の中で小さく震え、俺は何も出来ずにその光景を凝視する。 凝視する以外出来なかった。 振り下ろされるカインの鉄塊――クラブのときとまったく同じく、紫電を撒き散らす大質量に吹き飛ばされた生徒達が、一気に半分――百人以上、木っ端微塵の血煙となって四散した。 「―――――」 「見ないでっ」 俺の顔を覆うように、先輩が力いっぱい抱きついてくる。まるでそうすることにより、自分も目の前の悪夢から逃れられると、信じるように。 だが、遅い。小柄な彼女の抱擁で、直立している俺の視界を隠しきることなど不可能だ。 弾け爆散した百人分の血と肉と骨と臓物――それらは三階にいる俺達の目の前にも飛来して、窓ガラスに叩きつけられたままへばり付いて離れない。 手があった。足があった。心臓があり肺があった。 誰のものかも分からない眼球、下顎、髪がこびり付いたままの頭皮と顔―― 彼らが俺を睨んでいる。なぜもっと早く来なかった? なぜおまえみたいな奴が〈学校〉《ここ》いる? おまえが学生なんかしているせいで、僕は私は俺達は―― 「―――――ぁっ」 壊れる。世界が崩れていく。 俺の日常、帰るべき場所。なぜ俺みたいな馬鹿野郎が、彼らを守ろうなんてふざけた妄想を持ったのか……! 「……くそォッ」 溢れる悔し涙を止められない。友達なんかいなかったし、死んだ奴らの名前も顔も分からない。 そのことが、彼らの死を何よりも侮辱してると――俺は許せず、我慢できず。 「――カインッッ!」 抱きつく先輩を振り払い、目の前の窓ガラスに本気の拳を叩き込む。だというのに、どういうことか、薄っぺらなそれ一枚すら砕くことが出来なかった。 おまえは何も出来ない。誰も救えない。ここで弾け飛ぶ数多の魂と同様に、死に絶え、腐り、糧となれ―― 「出て来い、ヴィルヘルムッ!」 喉が張り裂けんばかりの大声で、俺は怨敵の名を呼ばわった。 許さねえ。絶対殺す。おまえもカインも、神父にルサルカ、そして櫻井、シスターまでもッ! 「てめえら、俺とやりたいなら買ってやるッ! つまらねえ雑魚殺して悦に入ってんじゃねえぞ腰抜け野郎ッ!」 『――いい度胸だ』 そのとき、辺りの気温が瞬時にして、一気に十度は低下した。 哄笑嘲笑失笑憫笑――ありとあらゆる悪意が入り混じった笑い声。 その裏に潜む、凶悪な殺意―― 『じゃあ、本番いこうか小僧』 『せいぜい喰いでのある、粋のいい餌になれや』 始まる――ヴィルヘルムはまだ、この世界の本当の姿を見せていない。 今までのはむしろ余興……ここで奴が本気になったら、おそらくは…… 『〈Sophie, Welken Sie〉《枯れ落ちろ 恋人》――〈Show a Corpse〉《死骸を晒せ》』 『〈Sophie, und weiß von nichts als nur: dich hab' ich lieb〉《私の愛で朽ちるあなたを 私だけが知っているから》』 夜に殷々と響く声。 それはエイヴィヒカイトの第三位階――誰に教わるまでもなく、俺はこいつがやろうとしていることを直感で理解していた。 『〈Briah〉《創造》――』 『〈Der Rosenkavalier Schwarzwald〉《死森の薔薇騎士》』 「――――ッ」 「―――あッ」 「―――うォッ」 今までとは比較にならない、圧倒的な虚脱感が全身を蹂躙する。立つことはおろか、呼吸すらろくに出来ない。 領域に入った者、総てを吸い殺す吸血鬼の夜。それがこいつ、ヴィルヘルムの―― 『創造だ。さあどうするよ小僧』 増加した吸精力に呼応して、周囲がより赤黒く血に濡れていく。それどころか、壁や天井、床までもがひび割れ、枯渇し、崩れていく。 「司狼――ッ」 叫び、残った気力を総動員して飛んだのはまったくの勘だった。 崩れかけていた床や天井、壁面から、一気に出現した杭、杭、杭―― 「―――なッ」 「――先輩ッ」 蹲る彼女を抱きかかえ、咄嗟に跳躍しなければ槍衾になっていた。 ここは奴の胃、腹の中――何処からでも出現する杭の数は、もはや数えることすら出来ないだろう。 十本? 百本? 千本? いいや―― 万を超えて生い茂る、悪夢の〈荊棘〉《イバラ》――薔薇の夜。 「動けるか?」 「まあ、なんとかな」 「よし、だったら」 少なくとも俺のほうが、司狼や先輩よりもこの世界に対する抵抗力を持っている。ならばヴィルヘルムを〈斃〉《たお》すのは俺の役だが、しかしそれならカインはどうする――? いや、それよりもルサルカは? 香純は? 「――――」 そのとき、腕の中の先輩が小さく震えた。 「――――ッ」 視界を埋め尽くす杭の森には、数多の白骨死体が刺さっている。 ボロきれのように僅かだけ残ったその衣服は、紛れもなく現代の……そして中には、見慣れた同じ学校の制服も―― 『足りねえ、足りねえよ小僧』 『マレウスが集めたのは三百人……それっぽっちの劣等じゃあ、俺の腹は膨れねえ。ここのスワスチカは開かねえ』 『戦るんだろ? 買ってくれるんだろ戦争を? 退屈させんな色男。てめえの面ァあいつに似すぎて、そこの女ども姦りたくなるぜ』 『くくく、はははは、はははははははははははははははは――』 「香純は――ッ」 墜落してくる哄笑を跳ね除けるように咆哮して、俺は今一番確かめなければいけないことを問い質した。 「香純はいったい何処にいるッ? おまえが攫ったのかヴィルヘルムッ!」 『くだらねえ濡れ衣だな。俺ァ殺し合いに来たんだぜ。人攫いの真似事なんぞするかよ阿呆』 『そういうのはマレウスの領分だ。探してみろよ。急がねえとえらい目に遭うぜ』 「―――ッ」 膨れ上がる怒気を抑え込む。ここで再び、キレるわけにはいかない。 香純はルサルカの下にいる。救うにしろ戦うにしろ、こちらの手が圧倒的に足りない。 敵はカイン、ルサルカ、ヴィルヘルム。守るべきは香純、先輩、そして学校の生徒達…… だというのに、こっちは俺と司狼の二人だけだ。 どうする。いったいどうしたらいい。迷ってる時間はないんだ。即断しなけりゃいけないのに、俺は答えを見出せない。 「仕方ねえな」 そんな俺の逡巡を見越してか、司狼が無感動な声で言った。 「下の奴らは見捨てろ。優先順位だ」 「………ッ」 優先順位……それは櫻井にも言われたことで、事実その通りなんだろうが…… 「それから先輩も無視だ。別に放っといても死にゃしねえよ」 「なあ、そうだろう? それがおまえの役目じゃねえの?」 「…………」 司狼が問いを投げたのは、先ほどから一言も喋らない櫻井。 「割り切ろうぜ、蓮。こりゃもうしょうがねえ」 葛藤――そんな言葉じゃとても言い表せない葛藤。 だが、司狼の言うことは間違ってない。 『だなぁ、そうするがいいぜ小僧ども。で、オレの相手はどっちだよ』 「うるせえッ!」 同時に、俺と司狼は吼えていた。 「てめえの相手は――」 「オレだ」 「なッ―――」 ヴィルヘルムに飛びかかろうとしていた俺を遮るように、司狼の腕が目の前にある。 「第二ラウンドいこうぜ、吸血鬼野郎。てめえはオレがシメてやる」 「つーわけで、おまえはとっととバカスミ取り返して来い。もたもたすんな」 「………ッ」 即座に返答できなかったのは、今口を開けばろくでもないことを言いそうだったからだ。 勝てるのか、とか。どうする気だ、とか、そんなことを言っても仕方ない。 香純を奪い返すことが大前提の勝負なら、確かにルサルカの相手は俺がするしかないだろう。 カインは、カインは、くそ―― 「あとな、この割り振りはオレが判断したことだからよ、おまえにゃ責任とかそういうのはねえ」 「まあ、なんつーんだ。悪いツレの口車に乗っちまったとでも思えよ」 「……馬鹿野郎」 そんな言い訳、通るはずがないだろう。だけどこいつが、珍しく俺を気遣ってるのはよく分かる。 よく分かるから…… 「死ぬなよ」 それだけ言って、踵を返した。目の前には、先輩がいる。 その顔を見た瞬間、絶対にこの場で流しちゃいけないものが込み上げてきそうになった。 だから―― 「俺は先輩を信じてる」 呟き、細い彼女の身体を抱きしめる。 見知った顔、数少ない友達……俺は馬鹿で甘いから、この人の立場も考えも分からないけど。 俺の言動一つ一つが、彼女を追い詰めることだってあるだろうけど。 今はただ、思っていることを口にしたい―― 「俺にとって大事な人だから、なくしたくない」 「俺は何も知らないし、分からないけど、だからもっと話したいし、一緒にいたいと思ってる」 「藤井……くん」 「これが終わったら、俺たちと帰ろう。先輩は、こんなところにいちゃ駄目だ」 「私、は……」 何事か言わんとする彼女の台詞を断ち切って、俺はその場から駆け去っていく。背後では戦いを始めたヴィルヘルムと司狼の気配。 死ぬなよ、マジで。敵わないならなんとしてでも逃げ回れ。俺がルサルカを打倒して、香純を取り返すまで生きていろ。 だが、その間際に…… 「気に入らない」 そんな呟き。 「本当に気に入らない。彼を汚すのも、いい加減にしろ」 聞こえたような気がしたのは、気のせいだったのかもしれない。  蓮の姿が見えなくなったのを合図に司狼とヴィルヘルムが動く。  初撃は同時に。されど重なったはずの攻撃は、絶対的な差異をもって具現した。  迸ったはずの銃声は掻き消え、轟くは大気引き裂く杭の飛翔。  戯れに放ったはずである魔の業は、現代火器など意にも介さず襲来する。 「オラッ!!」  一喝と共に、掻きむしるように突き出される右手は、ひた速い。  狙いもなければ、手加減もない。ただ無造作に、最大威力のみを求めた死の鉤爪。大気を切り裂くほどの勢いで繰り出されたその腕を間一髪で躱そうと、それがいったい何になろうか?  銃など効かない。かつて試した手段だ。弾丸の連射程度で、魔人の体表は貫けない。 「チッ――!!」  眼球、鼓膜、間接から爪先に肋骨まで──当たる。されど通じない。  神業じみた兆弾技術。弄ぶように振るわれた豪腕を躱しつつ、全弾的中させた司狼の体捌きはそれだけで抜きん出た異常の証明だった。  以前と変わらず、視認など出来てはいない。当たれば終わることも変わっていない。司狼は以前常人のままだ。  触れれば崩れる藁の案山子であるに等しいと、誰より強く己自身が理解している。  ゆえにこれは紛れもない健闘であり、同時に、結果の決まりきった一報的な遊戯だった。 「オラオラ、どうしたぁっ!! そんなもん効かねぇのは分かってんだろぉ」  初戦の邂逅を終え、様子見は既にお互い終わったのだ。生物としての格という隔絶した差はあれど、戦闘の形態が如何なものかは割れている。  串刺し公──血と暴虐の吸血鬼。  夜の祝福を身に纏い、全身から杭を形成する悪逆の無頼漢。  本人の気質に違わぬ凶悪さと、攻防一体の理を実現した戦い方はあらゆる面で隙がない。蓄積した戦闘経験から自力の差、あらゆる面で遊佐司狼の遥か上空に存在している。  今もそうだ。戦闘が開始してから一度も、彼はヴィルヘルムの攻撃をまともに捉え切れていない。  血濡れの杭も、音速を超えた豪腕も、廊下が全壊するほど繰り出されながら誓って一度も見切っていない。予備動作から予見する、という行いさえ彼我の差を考えれば不可能なのだ。  だからこそ、司狼は〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈避〉《 、》〈け〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》。  直感に身を任せ、天啓を掴み取る。それこそ喜劇のような出鱈目さで、千に一つ、万に一つの奇跡を起こして今も躱し── 「なんかあるだろ? 考えてきたんだろ? 用意してきたんだろ? ホラ出せよっ。殺しちまうぞお?」  それゆえに、ヴィルヘルムもまた、その理解不能な優性に興を引かれる。  対等にやり合うだけの力も持っていない劣等の猿が相手だが、前回のこともある。このガキはきっと俺を愉しませてくれるに違いないと――考えているのはそんなところ。  要するに物珍しいのだ。この獲物は。  彼の殺人遍歴において出現した珍種中の珍種。隻眼の白騎士ではないが、ぜひともこの男の中身が何なのかを知りたがっていた。 「この野郎っ――」  そして実際、司狼は一度も諦めていない。  止めていないのは肉体よりも思考の方だ。  抉れ砕ける建物と、暴風となって吹き荒れる杭の掃射。徐々に増えていく細かな傷など気にも留めず、今まで繰り返した攻撃の意図に意識を裂く。  まず第一に検証したのは黒円卓の魔人、その耐久性が挙げられる。  この一戦だけではなく、これからも連中と相対しなければならない以上、自らの打てる手で通用するものを模索するのは、当然の判断だった。  一撃を受ければ即死する状況で先を見据えるなど、それこそ正気の沙汰ではないだろう。何より司狼は、彼らが人間として当然の欠点を潰している事実を知らない。  よって傍から見ればこれは愚行そのものであり、彼に与えられるのは打つ手無しという無慈悲な絶望に他ならないのだが……  だが少なくとも、そういう検証相手としてヴィルヘルムは最適だった。自らに興味を持ち、且つある程度は付き合ってくれる。圧倒的な強者特有の諧謔ゆえに、色々と試すにはもってこいの相手だったから。  それに── 「胡散臭いんだよ、〈無〉《 、》〈敵〉《 、》なんつーのは。ガキの妄想かっつーの」  ──何より、蓮だけが決め手を持っているのが気に入らない。  聞くものが聞けば一笑に付すであろう私的な理屈を呟きながら、司狼は今も杭の雨を掻い潜って死の舞踏を潜り抜けていた。  そして、試した結果としては最悪という言葉に尽きるだろう。  霊的な強度という胡散臭い文句は真らしく、眼球や鼓膜すら弾丸を受けてかすり傷一つない。怯みもしない。  人間時代にあった人体構造上の急所は綺麗さっぱり消え去っているらしく、少なくとも現行火器による破壊では、夜の魔人に痛痒一つ与えられないらしいときた。  劣は優に敵わない。  大は小を兼ねるという万物不変、当たり前の道理。  馬鹿みたいに簡単な方程式を絶対のものとしたこれは、全ての攻撃手段を単なる悪あがきに変えている。  そもそも、絶対的な強さとは元来変わらずそういうものだろう。もしもや、仮に、は存在しない。疑問の余地など生じないし、まず挟ませない。  完璧に作られた食物連鎖を前にしては、科学技術に与えられた手軽な強さは総じて無意味。  無意味──のはず、なのだが。 「……まあ、そういうタマじゃねえよな」  ああ分かっている、この男はそういう誰からも傷つけられないような、可愛げのない、無難な強さとやらを求めている輩じゃない。  詰まらない闘争や順当な勝利など、端から御免だ。  自らに歯向かうものは餌であれ獲物であれ敵手であれ。粋がいいに越したことはなく、同時にそういう手合いをこそヴィルヘルムは歓迎する。  要するに、スリルの問題なのだろう。生きているという実感に対して、困難と達成感は常に比例している。彼が心地よく喝采するためには、それに値する戦場が無ければならない。  その渇望が、深く吸血鬼の中に食い込んでいるのなら── 「どうした、悪足掻きは決まったか?」 「急かすなって。どれにしようか選んでるんだから、よッ」  守勢から攻勢へ。言い放つと同時、一転して司狼は杭の弾幕に向けて駆け出した。  共に揺るがず傲岸不遜。勝つのは己だ、愉しませろよと。  奇怪な〈共感〉《シンパシー》すら交錯させて、彼らはようやく本当の殺し合いに魂を興じた。  ……そして。  司狼とヴィルヘルムが戦闘をしている一方、中庭では螢が暴れるカインを止めようとしていた。  暴れる死兵との間はさほど離れてはいない。一息に到達できる距離だが、それでも── 「やめなさい、カイン!」  この声で止まってほしい、どうか自分の言葉で止まってほしいと静止の言葉を掛ける。  女々しいことだと分かっている。触れることに躊躇しているだけとも分かっている。それでも螢は、思わずそうせずにはいられなかった。 「っ……!!」  刹那、その訴えを拒絶するかのように強烈な光と轟音に襲われる。  落雷が身を打ち、肉と骨を焼いていく。神経は絡みつく雷気に弛緩し、駆け寄ることさえ出来ない。  激痛が足を止める。だが、けれど、そんなものよりも痛いのは心だ。  自らを打ち伏せた稲妻が今も嘆き続ける、あの人の絶叫に思えたから。 「ぐっ、あああぁぁ……」  回避不能の百雷に打たれ、噛み締めた歯から苦悶の声が漏れてしまう。  身体に流れる強烈な電流の衝撃に幾度となく気を失いそうになるが、それでもカインだけを見据え、足は前へと進んでいく。  それだけで、彼女は不安だった。  逃げられないだろうか、いやそもそも自分を正しく認識しているだろうかと。並の人間ならば幾度死んでいるか分からない苦しみさえ、その想像を前には生温い。  足を動かしている感情は諦観にも似ていた。  ああ──これは、自分に与えられた罰なのだと。  だって、そんな姿は見たくなかった。  たとえ操られているとはいえ、意思など欠片も残ってないとはいえ、それでも彼には美しいままでいてほしかった。魔女に操られたまま、道具として動いている姿など嫌だった。  本当に、なんて矛盾だろう。自分も今まで散々殺しておきながら、今更善人ぶっている。嗤ってしまう。  それともバビロンならよくて、マレウスなら駄目なのか。結局はどちらも誰かを殺させるのに、良識のありそうな側ならば彼が穢れてないとでも思うのか。それは自己満足と何が違う?  自分は最低だ。最低だ。最低だ。そう思う心に否はなく、けれど、でも、だからこそ── 「あ、ぁ──お願い。もう、やめて……」  自分はこんな、みっともない懇願しかできない。  強く、強く抱きしめて、言葉をかけるしかできなかった。 「私、強くなったから……少しは前より辛いこと、我慢できるようになったから。だからお願い、今は止まって。誰ならいいというわけじゃないけれど、このままなら、あなたは……」  真実、使い捨ての屍に他ならない。  このまま捨て駒として消えうせるか、地星の魔女が引きつれし屍操兵。ただの道具。そんなこと── 「私は、絶対に──ッ、ぁあ!」  言葉を続けようとしたその瞬間、下腹部に鋭い激痛が走る。  ずるりずるりと、身体の中を昆虫が這い、内臓を鋏で傷つけられるような痛みは、まさに。 「くっ、これは……」  ルサルカにかけられた呪いが発動している。脳裏によぎるのは、幼い姿で偽った老獪な魔女の嘲笑。  彼女は言った――裏切れば呪いが発動すると。  確かにカインを止めようとするその行動は背信そのものであるだろう。だが、それが判っていながらも、抱きしめる腕を決して緩めようとはしない。してはならない。  ここで手を離してしまったら、それこそ自分が何をしたいのかさえ曖昧になってしまう。  何のために止めたいと願っているのか、大切なその芯まで譲り渡してしまうと思ったから。 「クスクスクス――」  ──だから、その耳障りな声は一等の不快さをもって、彼女の耳に入り込んだ。  見上げた先にあるのは、先ほど想像したままの姿。  校舎の屋上、フェンス越しに中庭にいる螢を見下ろし、実に可笑しそうに笑みを浮かべていた。 「やっぱり裏切ったわね、レオン」  眼下で苦しむ螢に対し、嬉しそうに話しかけるルサルカ。  唇が読めるわけではないが、これだけの距離がありながら声が耳元に届く。  その口調から、彼女は螢が裏切ると確信していたようだった。 「ツァラトゥストラにもだいぶ肩入れしていたみたいだし、わたしやベイのやり方も気にいらなそうにしてたから、いつか裏切るんじゃないかって思ってたのよね。ま、でも、その調子じゃこれ以上何もできそうにないわね。ふふっ、そこで何も出来ない自分を呪いながら、苦しみ悶えて死んじゃいなさい。カイン、なんだったら、そこの裏切り者、一思いにやっちゃっていいわよ」  そう言ってルサルカはフェンス越しから離れていった。  中庭にいる螢は激しい怒りのこもった目であの女の──いや、〈敵〉《 、》があった屋上を睨む。 「裏切り者? そう、優しいのねマレウス……あれだけ侮っていた私のこと、あなたは一度でも仲間と思ってくれてたなんて。光栄ね。けれどごめんなさい。そんなお情けにも等しい情さえも、私はおまえに──」  一度も抱いたことが無いのだから。  簡単に、斬り捨てることができるのだから。  その一点をもって、自分は黒円卓の戦鬼だと証明しよう。ええ、あなた達と同じろくでなしであるのだと。  カインは体が劣化するのも構わず、暴走に身を任せている。  死者の動きを止めるためには、それを繰る彼女を〈斃〉《たお》さなければならないだろう。ならば成すべき事など一つしかない。その他諸々遍く事情、全てはその一点に比べれば塵芥。  決意を固め、抱きしめていた腕を放し、そして――彼女は呟いた。 「形成――」  呟きと共に聖遺物が〈顕現〉《けんげん》する。  緋々色金――神代の万国史といわれる竹内文書に記された伝説の金属を用い鍛えられた、揺らめく炎を〈纏〉《まと》い太陽のごとく朱く輝く古代剣。  無骨な、しかし研ぎ澄まされた剣を構え、斃すべき魔女のいる屋上を見据えた。 「誤射、裏切り、同士討ち──戦場なら何もおかしなことはないでしょう? ならいいわ、教えてあげる。誰にも何にも譲れない、こんな私にだって逆鱗があるということを……!」  なぜならこのために、自分は剣を取ると決めたのだ。そのためならば何者にも立ち向かえるし、裏切り者にだってなれるから。  そして思い知らせなければならない。自分の大切な宝石は、古びた魔女などに負けてなどいないのだと。  嘲笑われても俯いて耐えるだけではないと、見せてやるのだ。  フェンスの傍から屋上の中央に戻ったルサルカは、その場に気絶して倒れている一人の女生徒の姿を舐めるように見つめ、笑みを浮かべた。 「カスミ、さあ目覚めなさい……カスミ」  ルサルカの小さな手が女生徒――香純の頬をそっと撫でる。壊れやすい陶器を扱うように優しくゆっくりとした手つきで。 「んっ…………」  その刺激にくすぐったさを覚えたのか、香純の身体が小さく震えた。  眠り沈んでいた意識がゆっくりと浮上を始める。  うっすらと〈瞼〉《まぶた》を開いて、周囲を見回し、状況認識を行う。  まず見えたのは黒い服に身を包んだルサルカの姿。次に真っ暗な空。そして最後に、見慣れた学校の屋上の風景。  ここまで確認し、ようやく香純の意識は現実に迎合した。 「おはよう、カスミ」 「ルサルカ……? えっ……どうして? なんであたしこんなとこで寝てるの? あっ、もう夜になってるじゃないの。何? 一体、何がどうなってるの!?」  慌てて起き上がろうとして、香純は自分の身体が全く動かないことに気付いた。  自分の身体は至って普通の状態だ。何か薬を盛られ、筋肉が〈弛緩〉《しかん》していたり、硬直している様子は感じない。意識も鮮明である。  何も問題は無いはずなのに、まるで金縛りにでもあったかのように身体を動かすことができなかった。 「ふふっ、カスミってば、本当に騒がしいわね。頭の悪い子犬を見ているようで楽しいわ」 「ひっ……」  ルサルカの笑みに恐怖を覚え、香純は小さく息を呑む。理屈ではなく本能的に感じたのだ。目の前のこれが、何か違うものであるということに。 「んー、どーしちゃったのかなぁ。今度は、借りてきた猫みたいに大人しくなっちゃって……んふふっ」  怯える香純の様子にルサルカの〈嗜虐心〉《しぎゃくしん》がくすぐられる。 「いい顔をするじゃないの、カスミ。わたしね、そういう人の怯えた表情を見るのが大好きなの。だから……」 「な、何……?」 「あなたのその怯えた顔、もっともっとわたしに見せてちょうだい」  ルサルカがそう告げると、彼女の足下の影がゆっくりと盛り上がり始める。  立体を形作ったその姿はファンタジーなゲームに出てくるスライムのようであった。  うねうねと身を震わせて〈蠢〉《うごめ》くその影に、香純は生理的嫌悪感を覚える。  影はうぞうぞとその身をくねらせながら、動けない香純にゆっくりと這い寄っていく。そうして身動きの取れない獲物を取り囲み、一斉にその肢体を締め付けていった。  無数の巨大なミミズが皮膚の上を這い回るようなその気色の悪い感触に、香純は鳥肌を立て、悲鳴をあげる。 「い……嫌ぁぁっ! 放してっ! ひぃっ、やぁぁ、放してっ、放してってばぁっ!!」 「ダーメ……まだ始まったばかりじゃない」  ルサルカの言葉を合図に、触手たちは更に強く香純の身体に絡みつく。強烈な締め付けに彼女の身体はミシミシと軋みの音を立てる。 「ぃぎ……っっっ!! ひっ……ぐっ、あ……が……ああぁ……!!」  全身を駆け巡る痛みの激しさに、声にならない悲鳴をあげる香純。目端から涙が零れ、喘ぐ彼女の頬を濡らした。 「ぐ……うぅぅっ……」  一本の影が香純の首に巻きつき、締め上げる。呼吸を止められた香純は餌を食べる鯉のように口をパクつかせる。 「ぁ……ぅ……っ……ぁ……」  顔を涙と涎と鼻水で濡らしながら、香純は呼吸をしようとパクパクと口を開き、足掻く。  だが、巻きついた触手は容赦無く、骨を折らんばかりの勢いでギチギチと首を締め上げていく。  無呼吸状態が続き、香純の意識が徐々に混濁していく。ぼやけた視界には残酷なほどいやらしい笑みを浮かべるルサルカの姿が映っている。 「ぁ…………」  死ぬかもしれない……香純がそう思ったその時、首に巻きついていた影が、するり、と解けた。 「はぁっ……げほっ、がはっ、ごほっ!」  急に肺に流れ込んできた新鮮な空気にむせる香純。 「くすくす……ごめんねー、苦しかった?」 「げほっ、けほっ……もうやめて、ルサルカ……」 「だからダメだってばぁ、これからが本番なんだから。ふふ……大丈夫、今度は優しくしてあげるからね」  ルサルカが指をパチンと鳴らす。その音を聞いた影が香純を覆い始めていた。 「あああ……嫌っ、嫌あぁぁぁっ……やあっ、やめ……待って、そんな……や……あっ、やあぁっ!?」  素肌の上を這い回りながら、ぶるぶると身を震わせる影から与えられる刺激に香純は悲鳴を上げる。今までに体験したことのない未知の感覚に香純は心底怯えた。  なぜならそれは、今まで生きて感じたことの無い冷たさだったから。  皮膚? いいや違う。触れられているのはそのような表層ではなく、身体の中に秘められた芯──魂を侵食されていると直感した。  綾瀬香純という存在の人生の根幹、譲れぬ土壌、育んできた価値観。  それらが凝縮された輝きを、不可思議な影が土足で踏み荒らそうとしている。 「いや、ああ、あっ……やあああっっ」  当然、耐えられない。気が触れそうになる。  現実がどこにあるのかすら不確かになり、正確な判断力など取り戻せるわけが無い。  同じ平凡なはずの学生に、非現実的な暗闇をけしかけられて命を脅かされようとしているのだ。これは夢だと思いたいのに、怪物の口の中で美味そうに転がされている核心が止まらない。  喉から出るのは悲鳴だけ……香純にできることはもはや、捕食者たるルサルカを悦ばせる獲物であることだけだった。 「もう、やめて……こんな、酷いこと……っ、んっ、ぁぁ」 「酷いこと? 一体何のことかしら、わたしはただ、あなたと遊んでるだけだし……あなただって、とても喜んでるじゃない」  それにそもそも、この少女にそんなことを言われる覚えはない。  悪逆に関してなら、そちらも中々のものだろうに──と考えて、はたとルサルカは思い至った。 「あなた、あの事件のこと覚えてないの?」 「っ……な……なんの、こと……?」  香純に〈白〉《しら》を切っている様子はない。ルサルカはそんな彼女の姿を見て、真実――あの事件についての記憶が抜け落ちているのだと悟る。 「へぇ……あなた、記憶を失ってるんだ」  これは面白い。  もし彼女にあの時の記憶を蘇らせてやったら、一体どんな反応をするだろうか。泣くだろうか。叫ぶだろうか。壊れてしまうだろうか。  それとも――狂ってしまう? かつて、あの冷たい牢獄で生まれて初めて神を呪い、そして辿り着いてしまった自分のように。  どれにしても、きっと面白いことになるに違いない。ルサルカは笑みを浮かべ、甘い声で囁く。 「ふふっ……あなたの記憶、呼び起こしてあげる」  動けない香純の傍に寄り、その目をじっと覗き込んで。 「さ……よぅく見て。わたしの目を……」 「あ、あああ、ああ……」  ルサルカの瞳に映る自分が、じっと自分を見つめ返してくる。  青い目に映る女――香純自身――が、かつて何をしたのか。  忘れていた記憶が、押し込められていた記憶が、ゆっくりと、花開くように蘇る。  あれは赤。血の香りがする、赤い花。 「あ、ああ、あああ……ああああああっっ!」  その脳裏を、公園で起こったあの惨劇が支配する。  おびただしい量の死。肉の感触。骨の手応え。浴びる血の温もり。  忌まわしい記憶を見せられ、悲鳴を漏らす香純。逃げ出したくなり、身体を動かそうとするが、呪縛に囚われたままではそれも叶わない。 「くすくす……どう? 真実を知った気分っていうのは?」  香純の悶える姿を見て、興奮するルサルカ。上気して微かに朱に染まった顔は邪悪な笑みで歪んでいる。 「嘘ッ……こんなの嘘……イヤッ、嫌ぁっ、嫌ぁぁぁぁぁっ!」  〈劈〉《つんざ》くような絶叫を上げ、香純は大きく目を見開く。そうして息を吐き切り、声が出なくなったと同時に事切れたように気を失った。 「あれれ、カスミ? カスミちゃあん?」  ペチペチと香純の頬を叩くルサルカ。幾度叩かれても香純は目覚めようとしない。 「あらら。気を失っちゃうなんてまだまだ他人事なのかしらね、この子ったら。意外と図々しいのかも」  評するルサルカの笑みは三日月形に歪んでいた。  それはつまり、こちら側へ至る可能性があるのだということ。 「んふふふ、でも、はしたないの。こんな無防備になっちゃあ……誘われてると思われちゃっても、仕方ないんだからね」  ペロリ、と舌なめずりをして香純の内面──そこに宿る魂の姿形を見やる。  ああ、なるほど。つまりそういうことかと。少女の内界へ侵食していた影から得た情報に、彼女が如何なる配役であるかを理解した。  この少女が最初に首切り役に選ばれたこと。それは単に彼の幼馴染であるからとか、まして無作為に選別されていたとか、そういう底の浅い意味ではなかったのだ。  むしろ納得、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈血〉《 、》〈筋〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈仕〉《 、》〈方〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  結果だけ見れば水銀の策謀によりこうして事態の渦中にいるものの、当時の黒円卓の過半数を欺いたバビロンは、中々大したのものではないだろうか。  同じ女として、素直に母の愛へ感心を覚える。  だが悲しいかな、老齢の魔女として接するならば──自らの手にこうして面白い手札を託してくれたこと。酷薄な感謝をするだけだから。  さあ、だからこそ、もう一人の魔城の継嗣を──  ──甘美な魂ごと、取り込もうとしたその刹那。  屋上と校内を仕切る鉄扉が、勢いよく音を立てた。 ──俺は、駆け上った勢いのままに鉄製の扉を体当たりで押しのけた。 手を堅く握り締める。頭は白熱して焼き切れそうだ。予想はしていたはずの光景を前に、今にもキレそうな意識を強く噛み締めている。 赤く輝く月光の下、そこで微笑む魔女を前に。 「お楽しみ中なのに、無粋ね」 「でもあなたなら歓迎しちゃうわ。いらっしゃい、レンくん」 「ルサルカァッ」 「ちょっと早かったわね。ふふ、ざーんねん、あと少しだったのにぃ」 ルサルカがちらりと足下へと視線を落とした。視線の先には、倒れ〈臥〉《ふ》す香純の姿があった。 香純の身体は黒い影のようなもので覆われ、顔だけがそこから飛び出している。確認できるのは表情だけで、それさえ苦悶と苦痛に歪んでいたから。 「香純──」 ああ──上等だよ、糞野郎。おまえは一番、やるべきじゃないことをしたらしいな。 息はしている? どうやら気を失っているだけ? ふざけろよ、叙情酌量が通じる余地はとうに消し飛んでいると知れ。 だから── 「待ってろ、今助けてやるから」 こいつを、殺すことで。 「今すぐに、馬鹿げた非日常から解放してやる!」 刹那、俺は純粋な殺意と共に断頭の刃を形成した。 アスファルトが砕け散るほど強く踏み込み、猛る怒りのまま一閃にて決しようとした寸前── 「──〈形成〉《イェツラー》」 同じく、聖遺物を形成する言葉がルサルカの口から漏れた。 現れたのは、長く歪な鉄の鎖。まるでそれ自身に意思があるように、加速した俺の動きを追尾してくる様は、情念にも似た念を感じさせた。 行かせない。行かせない。逃げるな引き摺り下ろしてやる、と……振られた女が縋りついてくるような、これがあいつの聖遺物。 陰気で、似合いで、反吐が出るぜ。こんな碌でもない力の形で、俺の疾走を邪魔すんじゃねえッ。 「な──ッ!?」 だから、その結果を前に俺は瞠目する。 鎧袖一触。あまりに呆気なく、ただのギロチンによる一振りで、ルサルカの聖遺物は砕け散った。 何だこれは、ありえない。魂と融合を果たした特級の危険物、それも古参の魔女が有するそれがこれほど脆いはずがなく── 「あはは。やるねー、レンくん。でもまだ終わりじゃないよ」 ──何より、どうして魂を砕かれたのに、こいつは未だ死なない? 疑問は一瞬。出現した表面を棘で覆った巨大な石壁を前に霧散する。 右側と左側に一つずつ、刺殺と圧殺を両立した処刑具が高速で閉じきる前に、渾身こめて跳躍した。 「ぐ、づぅ、ッ──」 間一髪──脚の肉を削ぎ落とされながらも、生きている。 「アハハハハハハ。上手上手ー」 そして、やはりというべきか。回避の瞬間、鉄の棘を幾つか斬り飛ばしていながらルサルカには僅かな苦痛も存在しない。聖遺物の原則をまるっきり無視しているようだった。 クソ、このままでは埒が明かない。逃げ続けるだけでなく、攻めなくては。いつまで経っても香純の元には辿り着くどころか、こいつを斃すことだってできないのに── 「でも、まだまだ不慣れね。ほうら、こんなに暦が浅い」 耳に入った明るい声が、最大の不吉を孕んで背筋を撫でた。 〈顕現〉《けんげん》していたのは、少女を象った鋼鉄製の人形。前部が観音開きになっており、その内部は鋭い無数の棘が生やされている。 「レンくんだって、聞いたことくらいあるでしょう? アイゼルネ・ユングフラウ――日本語でいうと鉄の処女だったかしら」 『鉄の処女』――俺だってその名を聞いたことくらいはある。アイアン・メイデンとも呼ばれる狂気の拷問器具のことだ。 その名の通り鋼鉄製で、いってみれば棺桶だ。大きな違いは表面に施された女性のレリーフと、内側に向け伸びた鉄の針。生きたままこの棺桶に押し込まれた犠牲者は、蓋に取り付けられたこの針によって全身を串刺しにされて死に至る。 拷問道具、というよりも、効率的に被害者から血を抜くための処刑器具。それが先の鎖や壁と同様に、これもまた奴の聖遺物だと告げていたから。 「どうなって、やがるッ!」 あり得ない。どれもこれも明らかにあり得ないが──考えている暇もない。 開いた全部に俺を取り込もうと鉄の人形が俺に迫ってくる。こいつに取り込まれたら最後、勝手に蓋が閉じて俺は穴だらけって寸法だ。 トンボを切って回避すると、着地点に先ほど切りつけた鎖が待ち構えていた。 「ちっ……一体、どうなってんだッ」 そうだ、明らかにこれはおかしい。今更こいつらのすることに常識を持ち出すつもりなんかないが、これは間違っている。ルール違反じゃねえか。 聖遺物は一人一つではないのか? あいつは複数の聖遺物を持っているのか? そんなことが可能なら、どうして他の奴はやっていない? 相対した奴らはそう多くないため、検証材料としては心もとないだろう。だがそれでも、ルサルカだけは明らかに異質だ。手数が多く、例外が多く、形態としてあまりに歪。 率直に言ってしまえば、〈巧〉《 、》〈い〉《 、》という一言に尽きる。 小細工も極めれば神業になるように。あいつはどうにも、この手の抜け穴を熟知しているように見えていた。 睨みつけた視線には焦燥が滲んでいたのだろうか。ルサルカは余裕の表情でこちらのことを様子見て、今も妖しく微笑んでいる。 鼠をいたぶる猫のように──男を堕落させる毒婦のように。 「んふ、理解できないって顔してるねえ。一体何が分からないのかなあ。ほらほら、疑問があるなら、お姉さんに訊いてごらんなさい」 「うるせえ。黙ってろよ、若作り」 「あはは、怖い怖い。ま、教えてくれなくても、レンくんが何を悩んでるのかなんてお見通しなんだけどね……ズバリ、わたしの聖遺物のことでしょ」 「分からない? 理解不能? 嬉しいわね、ゾクゾクしちゃう。その顔が悔しそうに歪んでいるところを見れるだなんて、思ってもいなかったわ」 「聖遺物は原則一つ。魂が結びついているから、壊れれば術者も死ぬ。何も間違ってはいないわよ、あなたの懸念は至極真っ当」 「強いて言うなら、何事にも例外はつきものということ。車に乗ることと馬の手綱を握ることは違うけれど、どちらも距離を詰めるということは同じでしょう。芸達者になれば、それだけ見えるものが違うのよ」 要するに、それは深度ではなく領域の違い。俺や他の黒円卓が体得した聖遺物とは別の手法に対する理解が、こいつを例外たらしめている要因なんだろう。 技巧に長けた魔道の探求者。深淵に潜む古参の魔女。俺の抱いた感想を証明するかのように、取り出されたものは── 「わたしの聖遺物は一つだけ。それがこの日記」 日記、だと? それが、ルサルカの聖遺物? ならば── 「だとしたら、こいつらは一体何なんだよ!」 瞬間、襲い掛かる鉄の処女を躱し、追いすがる鎖を断ち切り疾走する。 会話しながら罠のように仕掛けていた老獪さには辟易するが、何より話の内容が合っていない。 あの薄気味悪い紙の束が奴の獲物なら、どうしてこのような鉄の拷問具が出てくるのか。 「不思議なことなんて何一つないわよ。だって、聖遺物は魂と想念を糧に生まれるもの。重要なのは形じゃなく、そこにどんな妄念が詰まっているか」 「ほら、この国でもあるでしょう? 死を裁く恐ぁい〈閻魔〉《やま》が、あらゆる罪状と裁きを刻んだ手記とか。仮にそれが選ばれたら……ねえ、いったいどうなると思う?」 「まさか、そのまま殴りつける形になるとは言わないわよね。レンくん」 つまり、それは魔道書とでも言いたいのか。 それ自体を武器として振り回すのではなく、それを魔道たらしめている記載情報を用いて発現するイカレた絵本。そう考えた瞬間、俺の中で一気に全ての辻褄が合い始めた。 鉄の処女。拘束用の鎖。赤黒い棘。 今までルサルカが出した獲物、その全てに共通していたのは── 「拷問具っ……そうか、そいつに記されているのは!」 「ええ、ご明察。わたしの聖遺物はエリザベート・バートリーの日記なのよ」 「彼女が晩年、それらの拷問器具を使用して愉しんだ経歴が赤裸々に書き綴っているわけ。だから、ねえ、後はもう分かるでしょう?」 そう揶揄したと同時、鎖が津波の如くルサルカの影から殺到した。 聖遺物並の呪いを孕んだ拷問器具、それらを扱う聖遺物だと。ふざけるな。 「反則じゃねえかそんなもん」 「でしょうね。まあそれでも、形成位階の頃は〈顕現〉《けんげん》させた拷問器具のダメージも、あたしの肉体にフィードバックしてたから、さほど万能ってわけでもないのよ」 「けれどほら、わたしったら努力家だから。根気よく年月をかけて練り上げるのは得意なのよ──ほうら」 視界を埋め尽くした鎖の波濤を寸断していくものの、まるで効いている気配がない。確定だ、この器具類はどれだけ攻撃したところでルサルカのダメージにはならないらしい。 先ほど出した車と馬の例えだろう。俺たちが一つのやり方を与えられているのとは違い、こいつは他の手法を知って応用している。それゆえの器用さがこんな例外を可能としたのか。 だから、こいつに聖遺物の破壊で勝利を狙うのは不可能だ。狙うべきは日記じゃない。ルサルカ自身を断ち切らなければ意味がないと理解した。 「良いのかよ、そんなにベラベラと自分の聖遺物について語っちまってよ」 そして、その余裕がどこから来るかと言えば── 「ええ、構わないわよ。拷問器具のびっくり箱なんて、所詮、形成位階の能力なんだから。知られたところで何も変わらないわ」 つまりまだ、何も本気は出していないということ。こうして嬲っている手段は、奴にとって全て児戯。 今の俺では達していない深奥。そこにルサルカがある限り、しれは紛れもなく油断でも慢心でもないという事実の裏づけだった。 「あら? レオンから聞いてないの? 活動、形成、創造、流出――聖遺物を操るエイヴィヒカイトには、4つのレベルがあるっていうこと」 確かに前に櫻井からその話は聞いたことはある。しかし、あの時は創造と流出についてまでは詳しく説明をしてくれなかった。 俺の表情からそれを悟ったのか、嘲りと共に笑みを深める。 「そう。それより上の位階については教えてもらってないんだ。あの子はそういうサービス精神が足りないといつも思うのよね。でも、安心してレンくん。わたしはレオンと違って、いっぱいサービスしてあげちゃうもの。それこそレンくんが昇天しちゃうまでね」 「そいつは嬉しくて涙が出るよ。それで残り二つっていうのは一体どんなものなんだ?」 ウインクをしながら投げキッスを飛ばすルサルカに呆れながらも、俺は創造と流出について尋ねた。苛立ちがないはずもないが、引き出せる情報は多いに越したことはない。 「まずは創造位階についてね。創造っていうのは自分と自分の聖遺物にとって都合のいいルールを一つだけ生み出すってこと。そして、このルールは物理常識には縛られない。どんな〈荒唐無稽〉《こうとうむけい》なことだって、現実と化すの」 「そんな――」 そんなことが本当に可能なのか? だが、ルサルカが嘘を言っているようには思えない。 「んふふふ。まるで〈出鱈目〉《でたらめ》な話でしょう? いってみれば、世界をペテンにかける能力。それが創造位階よ。でもまあ、それもまた物理法則の内側といえば内側なんだけれど」 「創造の効果が及ぶのは、発動させた術者が規定する範囲の中にいる者全て。これが覇道ね。世の中がどうあってほしいか、と願う気質を持つかどうか。ベイなんかがその代表例だわ」 「そして逆に、自分の体を変性させる場合。これは求道ね。クリストフなんかがこれに当たるけど、代表的なのはマキナかしら。レンくんは会ったことがないけど、ね」 「そうした性質の差異はあれど、どちらにしても創造は強力無比な奇跡の業よ。どんなルールを授かるかは、術者の渇望と聖遺物の相性で決まる」 「渇望──」 希って、希って、追い続ける見果てぬ夢。それを叶えることが創造だというのなら──俺は。 俺が求める渇望は、恐らく── 「覇道か、求道か。こればっかりは自然に決まるものだから、後天的に変えるのは難しいけれど。どちらにしてもここに到達できて一流、それ以下は紛れもなく凡俗でしょうね」 ああなるほどな。だからか、その余裕の出所。今の俺がおまえにとって、紛れもない塵に過ぎないと言いたいんだろう。 「じゃあ、その上の流出っていうのはなんなんだ」 「流出位階に関しては誰も到達していないから、詳しくは知らないわ。せいぜいが創造の超強力版ってことくらい」 「仮説だけはあるけれど。……おそらくは、創造のルールが術者の意識する範囲から流出する」 「ま、こればっかりは、到達してからのお楽しみよね」 「もっとも──」 ふいに、その表情を一瞬だけ歪ませて。 「〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》、〈考〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈ど〉《 、》」 とても複雑な、矛盾した感情を覗かせながら攻撃を再開した。 巨大な石板と、針と呼ぶにはあまりに長く鋭い槍のような金属塊が襲い掛かる。石板を躱し、針を振り払おうとした俺の左腕から肉が消えた。 「ぐあっ」 針は触れるだけで、まるで酸のように服を溶かし肌を焼く。骨ごと蝕んでいく身体の末端を前に、ルサルカは再び嗜虐的な笑みを貼り付けた。 「どお? わたしの説明、分かりやすかったかしら?」 「ああ……それなりにな」 楽しそうなルサルカの声。 流出については詳しくはわからなかったが、創造についてはだいぶ理解ができた。 どんなに非常識な現象でも自分に都合のよいルールを作り出し、それを自分、もしくは他者へ強制的に作用させるということ。 だとすれば、今、この学校を覆っている漆黒の闇。そして空を支配している赤い月。あれらは…… 「この夜も創造の発動によるものなのか?」 「ええ、そうよ。これはベイの創造。創造が発動した今、この世界全体があいつの腹の中ってわけ」 「もっとも今の場合、強固な異物が多すぎて十全に威力を発揮できていないけどね。あとは……まあ、おもちゃがすぐ壊れないように遊んでるからかな? そんなところじゃないかしら」 俺、ルサルカ、櫻井、カイン……それら四人を同時に取り込んでいることと、司狼に興味を惹かれていること。それが原因で、これがまだ〈こ〉《、》〈の〉《、》〈程〉《、》〈度〉《、》〈で〉《、》〈済〉《、》〈ん〉《、》〈で〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》と暗に語る。 腹の中、という表現は恐らく比喩でもなんでもない。仮に俺しかこの場にいない仮定で、そして奴が本気なら、それこそ数分もかからず魂を溶解され吸血の闇に変貌していたことだろう。 今現在、俺が抱いた疑問は解消された。そして──いや、だからこそ。 「──さあ、サービスはここでおしまい」 名残惜しむようなその声に、俺は茶番が終わったことを悟る。 「よーく見ててね、レンくん。わたし、全部見せちゃうんだから」 ヴィルヘルムが遊んでいたように、ルサルカもまた遊んでいたということ。そしてこいつは、端から俺を逃すつもりなどないということに、気づいた。 変わった動作などなかったのに、殺意など何処にも存在しないのに、大気が一気に張り詰めていくのが分かる。 出る──この童姿をした、老獪な魔女の〈創造〉《かつぼう》が。 月と同じ色をした長髪が〈翻〉《ひるがえ》り、闇に踊った。 「〈In der Nacht, wo alles schläft〉《ものみな眠るさ夜なかに 》」  それは、声とはまた異質な響きだった。 「〈Wie schön, den Meeresboden zu verlassen.〉《水底を離るることぞうれしけれ。》」  空気ではないものを伝わって、鼓膜ではなく魂を震わせる振動。 「〈Ich hebe den Kopf über das Wasser,〉《水のおもてを頭もて、》 〈Welch Freude, das Spiel der Wasserwellen〉《波立て遊ぶぞたのしけれ。》」 「〈Durch die nun zerbrochene Stille,〉《澄める大気をふるわせて、》〈Rufen wir unsere Namen〉《互に高く呼びかわし 》 〈Pechschwarzes Haar wirbelt im Wind〉《緑なす濡れ髪うちふるい……》」  何かが来る。俺を取り巻いていた拷問器具たちの姿は、現れた時と同じく唐突に消えていた。だが、逃げ出せない。足が駆け出すことを忘れてしまうような禍々しい歌声。  それは瘴気。そして、妖しくも麗しい魔女の呪言。 「〈Welch Freude, sie trocknen zu sehen. 〉《乾かし遊ぶぞたのしけれ!》」 「〈Briah〉《ブリアー》―」 「〈Csejte Ungarn Nachtzehrer〉《チェイテ・ハンガリア・ナハツェーラー》」 唱え終えたその瞬間──漆黒の影が、塗り絵のように広がった。 「────ッ!」 咄嗟に飛びのいたのは、絶大な悪寒から。子供が絵の具をぶちまけたかのように、急速に地面という領土を侵食していくルサルカの影。 そこに危険性は見られない。明確な危害を与えられたわけでもない。むしろ香純を拘束していたものと同一のものしか感じ取れない。 だが──だが、やばい。理屈や根拠抜きに、第六感がアレをまずいと感じている。アレに嫌悪感を催している。 絶対に触れるな、アレを踏むな。これはまさしく俺にとって、非常に鬱陶しい渇望だから── 「勘がいいのね。でも、まだ遅いわ」 「さあ──足を引いてあげる」 声と共に、影のほんの切れ端が俺の爪先に触れた。瞬間、その効果は現れる。 「ガ──ぁ、ぐッ……!」 停まっていく──身体が、全てが。 肉体のみならず、精神から魂まで絡みつくのは、影の魔力だろうか? 追いすがる逃亡者のように、あるいは堕落を誘う妖精のように、俺の存在を停止させる。 その強制力は絶大で、完全に囚われれば全てが掌握されると理解した。爪先が重なっただけでこの強制力。半身でもこの影と触れ合えば、呼吸だって奴の許可なしにはできないだろう。 影踏みの真逆──ならば、つまり、これこそが。 「おまえの、創造──ッ」 「そう。そして、あなたと私にある決定的な位階の差」 言葉を証明するように、放射状に伸びる影を振り切れない。俺は既に屋上を逃げ惑う鼠となり、魔女の御手から逃れられずにいる。 いや、だがそれでも── 「地味だって? 確かにね、ベイの創造に比べたら効果は単純。範囲も限定。空間そのものを塗り潰すような派手さはないし、悪辣な力業でもない」 「でもね、言ったでしょうレンくん。わたしは技巧派。繊細なの。強力無比な唯一よりも、あらゆる状況に対応可能な千変万化を選んだだけ」 「絶対強固な業であるほど改変は難しく、また融通も利かなくなる。単調ということは、即ちアレンジが容易であると知りなさい」 「だから、ほうら──」 その瞬間、子供が自慢するような囁きと共に、厚みを伴った影が〈起〉《 、》〈き〉《 、》〈上〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 「こんなこともできちゃう。驚いちゃったかしら、これもわたしの……影」 想像外の光景に、喉は驚嘆しすぎて声すら出ない。 現れたのは漆黒の巨人……地面に広がった落書きが、そのまま巨躯となって俺の眼前に立ちはだかったから。 「驚いた? この世界にはね、エイヴィヒカイト以外の魔術も存在するの。世界真理へ挑める高尚な勇気を保てる人間なんて、聖槍騎士団ですら、あとは副首領くらいだけどね。あなた方の常識なんて、世界のホンのひとかけら」 「どう? 神秘の端に触れてみたいなら、レンくんも影に仲間入りする? きっといいお友達になれると思うわ」 魔女の言葉を証明するかのように、巨人の表面が蠢いた。垣間見えたのは、こいつの食らってきた人魂だろう。 他者の魂を材料に、丁寧に、大胆に、蓄えた闇の使い魔。一蓮托生の横並びにされた犠牲者が、そこに囚われた悲鳴を確かに聞いた気がして── 「そおれっ」 陽気な声に、怒りと怖気が走る。他者の疾走を妨げる不快な巨人が、その腕を伸ばしてきた。 「ち、ィィ──」 気に入らねえ──〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈願〉《 、》〈い〉《 、》〈は〉《 、》〈認〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 魂ごと締め上げられる不快感を振り切りながら、伸ばされた巨大な腕を断ち切り躱す。平面の影はそれすら意に介さず腕を伸ばし、無形の影として再生したが、そんなことさえどうでもよかった。 この渇望は気に入らない。足を引くだと? 横並べ? おまえのくだらない願いに喰われ、まっ平らになりながら仲良しこよしで踊りましょうだと? ふざけんなッ。 「おまえが願っていることは、単なる卑屈な嫉妬だろうが」 自分じゃ届かないから、駄目だから。無い物ねだりの八つ当たりに、無関係の人間を巻き込んでいるだけじゃねえか。そんな負け犬根性丸出しの糞女が、何を偉そうにコいてやがる。 ましてや、それで── 「俺の疾走を、妨げようとかしてんじゃねえぞォ!」 斬撃で消し飛ばし、影の巨人を両断する。カウンターに放った一撃で脇腹に食らうも、渾身の一振りは確かに邪魔な従僕を破壊した。 だが──そんなもの、焼け石に水だ。影は変わらず地を這っている。 ルサルカの足元から、術者という発生源がある限りそれこそ無限に出てくるだろう。自称した技巧派の名の通り、消耗による負荷は一切見られない。持久戦ではジリ貧だった。 奴も当然、それを分かっているのだろう。幼くも妖艶な表情から、欠片も焦りは伺えない。 跳ね回る小動物を追い回すように……ゆっくりと、ゆっくりと、俺から余力を削いでいる。 「頑張る頑張る。うふふふふふふ。でも、どこまで逃げたってわたしの影は追いかけ続けるわ。さっさと諦めて、このわたしに協力しなさい」 「協力だと!?」 「そうよ! 一緒に協力して、目的を叶えるの」 ああ、何だそれは。馬鹿馬鹿しい。 「ふざけるな! おまえの目的なんざ知ったことか!」 「あら。冷たい返事じゃない……でも、そういうところもあなた素敵よ」 ルサルカのピンクの舌が指先を舐める。俺の否定を見越した上で、それでもなお瞳が嗜虐的な色に染まった。 「だから誘っちゃうのよね。ねえ、わたしと一緒になりましょ。今なら永遠が手に入るのよ?」 その、夢見るような言葉を前に── 「永遠だと?」 初めて、この魔女の本音が覗いた気がした。 変わらない永遠。永久に在り続ける刹那の輝き。こいつの提案など願い下げだが、なぜかその言葉にだけは珍しく澄んだ響きがあった。 堕ちた女が縋りついてでも守り通したような、似つかわしくない純情の輝きが…… 「そう、永遠よ。エイヴィヒカイトによって、いくら怪我や病や老化をしのげる身体になっても、魂は違う。人間の魂は百年程度で衰弱し、死んでしまうの。わたしのように魔道を修めて人間の枷から外れたとしても、せいぜい三百年かそこらが限界なのよ」 「わたしの寿命は尽きかけているの。このままじゃ、そう遠くないうちに魂が死滅してしまう。でも、そんなのはイヤ! わたしはもっと生きたい。まだ足りない。もっともっと、もーっといっぱい殺して、犯して、愉しむの!」 「この街の八つのスワスチカを完成させれば、今まで集めた魂の数に相当する恩恵が得られるの。わたしが今まで殺してきた人数は、黒円卓の中でもかなり上位だから不老不死だって夢じゃない!」 「そして──」 ふいに、妄執の情熱を吐いた間隙に。 「わたしは、ようやく星に成れる」 恐らくは、この陶酔によって意図せず紛れてしまったものが。 誰に見せるつもりもなく、本人すら虚ろに忘れてしまった真実が、垣間見えた気がしたから。 「夜空に輝くあの光に、もう羨みながら手を伸ばさなくて済むから……」 「〈魔女への鉄槌〉《マレウス・マレフィカム》だなんて言わせない。星座を眺めるんじゃなくて、永遠に愛される不変になる。水銀を眺めて喘ぎ続けるようなままじゃ、きっと──」 ──きっと、追いつけなどしないから。 そう唇が紡いだのは、果たして幻だったろうか。ルサルカは俺の表情を見ながら、別の何かに思いを馳せている。 それが堪らなく苛立って……今までで一番、頭に来た。 ああ確かに、俺も永遠が好きだ。不変は好きだ。終わってほしくないと思うし、続けてほしいと願っている。今だってその思いは捨てきれないさ。 だからこそ。そう、だからこそ──未練たらしく追いかけてんじゃないと思うから。 間違ってるんじゃねえよと思うからこそ、履き違えてるその姿が認められなかった。 「ふふ……ふふふ……ふふふふふ……」 睨みつける視線を前に、ルサルカの表情に狂悦が戻る。 垣間見えた悲哀はそれで消えた。恐らくは二度と、奴は俺にあの表情を見せることはないだろう。 「でも安心して。あいつの代理だからって、あなたが悪いわけじゃないものね」 打って変わった優しい笑みは、駆け出しかけていた俺の背筋を走り抜けて一本の氷の芯を突き立てた。 「レンくん……わたし、あなたのことすっごく気に入ってるのよ。だから、わたしのモノになりなさい」 「あなたはね、数少ないあの男の魔術サンプルなの……まるで賢者の石なのよっ。あなたと一緒になれれば、あなたを知れば、わたし、もっと高く飛べるわっ」 ヒステリックな声にあわせて、影の巨人も再起動していた。平面の巨体は更に巨大になり、倒れこむようにして屋上の面積を覆っていく。 漆黒の壁が落ちてくる、逃げられない。 「あなたも不老不死になって、一緒に生きてあげても良いわ。全人類を殺して、あなたとわたしが新たなアダムとイヴになるのも素敵ね。そうしていっぱい子供を生んで、人間が増えたら気分で間引く。きっと、とても楽しいわ」 「お願い、レンくんっ! わたしと一緒に来てちょうだい!」 狂ってる……そんな世界、軽く想像しただけで吐き気が込み上げてくる。そんなことを永遠にしたいのか、おまえにとって不変とはそんな歪に過ぎないのかよ。 どこで間違えてしまったのか、そんな簡単なことも分からないのかよ。 あげくがこれか。力の全ては、自らの享楽にくべる供物に過ぎない。冗談じゃねえ、反吐が出る。 「俺が求めるのは、そんな光景なんかじゃねえんだよ……」 生きてるものが美しいから。何気ない日常が、日溜りが愛おしいからこそ留めたいと願うんだ。 自分の好き勝手に手を加えて、それで嗤うような下種な願いを── 「絶対に、認められるかァァ──!」 だから──その気概と共に、俺は魂を励起させる。 少しずつ引き延ばされていく体感時間と共に、その錯覚を真としながら影の波濤を潜り抜けた。 「そう──それがあなたの答えなのね、レンくん。日常をまだ愛でて、二度と戻れないと分かっていながら、まだ足掻く」 そうだ。それをこそ、俺は誇りにしているから── 今こそこの願いを、形にするべく、祈りを捧げようとして── 「でもゴメンね、そのやせ我慢はもう遅いわ。なんたって」 「わたし、さっきカスミに教えちゃったもの。あなたはもう何人も殺してる、とってもとっても悪い子なんだって」 「なん、だって……!?」 紡ぎあげかけた気概が、像を結ばずに霧散した。 教えた? あのことを? 香純に? せっかく忘れていたあの惨劇を、おまえはあいつに伝えたと…… 加速が落ちる。力が一瞬弛緩する。上空から墜落してくる停滞の巨人を前に、俺の思考は完全に凍りついたから。 「あなたが来る少し前にね、教えてあげたの。ふふっ、この子ものすごく錯乱してたわ。気が狂うんじゃないかっていうくらいね。あはっ、この子ほっといたら自殺でもするんじゃないかしら?」 黙れ…… 「それとも、鬱陶しいから殺しちゃう? 罪人だもの、レンくんのそのギロチンで首刎ねちゃうのも、エスプリが効いてて面白いわね。きっとカスミだって嬉しいに違いないわ。大好きなレンくんに殺されるんだから」 「でもちょっと待ってね。わたしが拷問して、その後がいいわ。あ、でも殺しちゃうかも。カスミってば可愛いし」 黙れ……黙れ……黙れ…… 「ねえ、どうする? 自殺? 首刎ね? 拷問死? ねえ、どうするの? ねえ、どうするの? ねえねえねえねえねえ!」 「っ…………!!」 刹那、俺の中で何かがぶち切れた。 渇望に代わり、沸きあがったのは憤怒の波だ。 五月蝿ぇんだよ婆が。これ以上、薄汚い口であいつを喋るな。狂った言葉が〈紡〉《つむ》ぎ出されるその頭を、今すぐ身体から切り離してやる。すぐに。今すぐにだ。 漆黒の巨人に孔が開き、その瞬間生み出した隙間を疾走する。 それは不完全な、赫怒の混じった祈り。殺意に穢された渇望ゆえに不完全ながら、それでも既に魔女の魔道を上回りつつある加速だった。 遅い、遅い、遅すぎる──加速に比例して開いていく絶対速度。上から迫る影を裂き、地を這う顎門を斬滅し、更なる疾走を開始する。 影を幾筋に分けて俺に差し向けるが、しかし身体には触れられない。こんなものは容易に躱せる。腕の一振りで撃滅できる。 十二、二十一、三十七……魔的な概念を悉く討ち払い、奴への射程距離に到達していく。 数多の業を、純粋な質の差で凌駕し淘汰し打ち崩す。覚悟を決めろよ、なあ老いぼれ。今更、そんな真剣な表情しても遅いんだ。 無駄に時を重ねただけの魔女が、荘厳な俺の願いに勝てると思うな──! 「──やっぱり、あなたはあいつの代替だわ。嫉妬すら覚えるほどよ、レンくん」 「そして、やはりというかいつもそう。生まれ持った質だけで、〈量〉《わたし》を凌駕しようとするなんて」 「ずっと祈り続けてきたのよ……そういう選択、わたしが積み上げてきたもので侵してやりたいって!」 瞬間、突如として足場そのものが影の〈顎〉《アギト》に侵食された。 「……ッ、がぁあ、ァァ!」 亀裂が走り、牙が乱雑に並んだおぞましい口が敷き詰められる。 質ではない、量による飽和。足場そのもの、駆け抜けるべき地が汚らわしい生きた虎鋏へと変貌した。 それを回避するためには、加速が足らない。速度が足らない。まだ俺の疾走は、〈大〉《 、》〈気〉《 、》〈を〉《 、》〈踏〉《 、》〈み〉《 、》〈台〉《 、》〈に〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈域〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈至〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 鋼鉄の処女と影の融合。研鑽した業の冴えを前に、〈至〉《 、》〈り〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》の俺は容易く絡め取られた。 そして止まっていく、止まってしまう。確固たるはずの誓いごと、こいつから流れる〈妄念〉《かげ》を前に。 止められて、いく、から── 「…………ッ」 「死体からだって情報は読み取れるのよ……バラバラにして保存してあげる。部位ごとに分けてね。内臓は一瓶ごとに仕分けして、脳から直接情報を読み取らせてもらうわ。その目は特別にガラスケースで飾ってあげる。永遠に、わたしだけを見続けるように」 影が皮膚を租借しながら、骨まで食い込んで身体を這い登っていく。 捕まえた。捕まえた。追いついたわ、もう逃がさない……と縋る病んだ気性のままに。 「残念よ、レンくん……わたし、あなたのことを気に入っていたのに。本当よ?」 「普段はこのまま拷問するから、声くらいは出せるようにしてあげるんだけれどね……今日はダメ。レンくん、なんだかあなた……」 瞳の色が、郷愁から──妄執に入れ替わり。 「なんだか今日は……。あなたが……メルクリウスみたいに見えるんですもの」 感じた死の気配と意思を前に、意識を確たる域へ届かせようとする。 もう一歩、あと一歩で到達できるであろう創造へ。現状を打破するにはそれしかないと知っていて、なのにその心神ごと影に止められていっているから。 断頭台の刃に宿る、彼女の温もりが遠い。その事実を知りながら、俺は足掻こうとしたところで── 「じゃあね、レンくん……いただきまーす」 言葉の通り、醜悪な牙が俺の身体へ喰らいついた。 だが―― 「え?」 刹那──響き渡った肉を裂く音に、捕食者の身体が傾ぐ。 喰われゆく寸前、飛翔したのは黒鉄の輝き。怨嗟すら宿した刃が、ルサルカの胸から黒々とした輝きで貫いていた。 「レ……オ……ぶっ」 それは、櫻井が持っていた剣。 自分の胸から伸びた血塗られた刃を見て、ルサルカは呆然としている。何かを呟こうとした口を、逆流した血がふさいだようだ。 それは恐らく、俺の知らない因果応報ともいえる結果の代物であり、老獪な魔女の遊戯へ向けた溢れる殺意の返し風で。 「ぐっ」 そして、俺にとっては望外たる唯一無二の絶対勝機。 考えるより早く、肉体が活動する。影の束縛を振り切り、魂を鳴動させながら── 「っらああああああああああ!」 「ひっ……」 俺はその隙を逃さず、ギロチンの刃を振り落とした。 「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!」 ゆえに、決着はもはや一瞬。いや恐らくは、既に不意打ちの一撃で決していたのだろう。 〈引〉《ひ》き〈攣〉《つ》ったルサルカの顔が首から離れ、床の上に落下する。同時に屋上へ広がっていた影もその姿を消した。 こいつが己の内に溜め込んでいた無数の魂が解放され、青白く周囲に漂い始めていき…… ルサルカの遺体は瞬く間に消滅し、呆気なく塵と化した。 永遠に成りたいと願った女の末路としては、無情なほど、一瞬で。 そして──耳に届いた物音が、俺の意識を促したから。 「香純っ!」 駆け寄り、抱き起こして名前を呼んでみるが目覚める気配はない。 ルサルカに事件の真相を聞かされて、ショックを受けたのだろうか。目尻には涙の跡が残っていた。それを見ながら、やるせない感情が胸をつく。 歯を噛み締めながら、気絶した香純を背負う。地面に落ちていた櫻井の剣を拾って、そのまま屋上を後にした。 「借りが出来ちまったな……」 俺たちの命を助けるため、などという殊勝な気遣いなんかじゃないとは分かっている。 だが、背中から感じる香純の温もりと鼓動に、俺はあいつに初めて些細な感謝の念を抱いた気がした。 「っ、ぅぅ……」  屋上にいるルサルカに向かって緋々色金を投げた螢は、急激な下腹部の痛みを感じ、その場に膝をつく。今までにないほどの呪いの痛みに、螢の顔は青ざめ、冷や汗が滲む。 「ぐ、あああぁぁぁ……」  死を覚悟して投じた緋々色金。あの一撃でルサルカが倒せるかどうかは不明であったが、それでもカインを救うためにはああする他に手はなかった。ゆえに後悔の念はない。 「く、ぅ……」  螢の身体から徐々に力が抜けていく。視界が歪み、周囲の音が小さくなる。乱れた心臓の鼓動が螢の頭に響いた。 「カ、イン……」  霞む視界で彼を見つめ、螢はその名を呟きながら気を失った。  そして同刻──校内においても、二つの影が激突していた。  常人と魔人の逢瀬は、挑む側が疾走した瞬間から刹那の佳境を迎えている。  一気に近づいた司狼は迅速なれども、ヴィルヘムはそれを遥かに凌駕する音速の暴力。  振りかぶったまま突き出された腕は狙い違わず、加減なく。圧倒的な初動の差で、突進する頭部を爆砕せんと唸りを上げたが。  寸前、脳髄が〈石榴〉《ざくろ》と散るより先に、中空へ投げられた鉄塊が破裂した。  視界を埋め尽くす光源の元は、炸裂した〈閃光手榴弾〉《フラッシュグレネード》のもの。  強烈な閃光は魔の夜に喰われ瞬く間に消滅するが、炸裂したのは吸血鬼の眼前。輝きのベールはほんの一瞬、確かにヴィルヘルムから司狼の姿を覆い隠した。  だが、しかしその程度── 「阿呆がッ」  闇夜の申し子を前に、視覚への牽制など何の役にも立ちはしない。  夜の肌触りさえ感じ取れる超感覚を前にして、数ある感覚の一つへ妨害を施されようと、無駄な足掻き。それがいったい何だというのか。光を裂いて繰り出された杭は、正確に獲物へ向けて飛翔する。  この程度か、これが策かと、失望と共に放たれた一撃は──されど続く二波によって覆される。  焼ける臭気と共に、溢れ出たのは絡みつく熱波。〈焼夷手榴弾〉《フレイムグレネード》の焔が、司狼の眼前で牙を剥いた。  ──直後、暴風を生じた杭のおかげで火達磨を免れたのは、この展開を読んでいたとしても度し難い。  使用者すら巻き込む近距離で、躊躇なく生存するために爆炎を選択する無鉄砲さ。  狂気に近い行動、それでありながら生を諦めないゆえの判断力を前に、戦場を練り歩いた魔人すら微かに瞠目した。  だが──炎で暴虐そのものが止まるわけもなく、杭は司狼の肉体を掠め飛ばす。  皮膚を引っ掛けるだけの損傷に留めた直感は、紛れもなく天賦の才によるものだろう。しかしその僅かな接触だけで、五体駆け抜ける衝撃と共に後方の壁へ激突した。  骨に亀裂が走り、片足の間接が外れる。たったそれだけで、人間である司狼は戦闘不能に近い状態へ追い込まれたから。  そして── 「ハ、ボケが。いい加減、学習しろや」  都合五発、直撃をもらうと同時に発射した銃弾をヴィルヘルムは避けなかった。払うことすらせず、総身で浴びながら無傷の姿を悠然と曝す。  小細工。無効化。度し難い。  思い切りと発想は面白いくせに、よりによって最後に決め手が今までと同じとは、最後の最後で落胆したと言わざるをえないのだろう。  効果的な部分だの、人としての弱点など、そのような甘い考えを否定するためにも夜の魔人は無防備に悪童の足掻きを受け止める。  そう、受け止めていたのだが──ここに初めて、彼の頬に一筋の赤が刻み付けられた。  司狼の放った弾丸ではない。正確には、事前に彼の手で投げられ、そして斜線上にあった物体が弾丸に弾かれてぶつかったことによる傷。  必死に勝ち取った成果は小指の先で引っかかれ、皮膚に皺をつけた程度でしかないだろうが…… 「――――」  それは常識的に考えればあり得ない出来事で、何とも奇怪な現象だ。  人体を吹き飛ばすほどの大口径による一撃は無傷であり、衝撃で二次的に当てた物体の方が高威力、という訳の分からない事態に繋がるのだから。  即ち、口蓋や眼球に撃ちこんだ銃撃よりも、弾き飛ばした物体の方にこそヴィルヘルムに対する特効性があるわけであり── 「オッケー、オッケー……検証終了。おまえさん、やっぱ典型的な王道ヴァンプか。吸血鬼の不文律、どれもきっちり守ってくれて大助かりだぜ。最近はこう、無敵でチャチなお手軽モンスターが流行りだからよ。熱烈信者はこういうときに助かる」  それを証明するかのように、血液混じりの唾を吐きながら遊佐司狼は立ち上がった。  手には先ほど弾いて当てたものと同型の物体……十字架の形をした、シルバーアクセサリーを弄びながら。  激痛と損傷を引き換えに、司狼が試したものは都合三つ。光、炎、そして銀の十字架だ。  これらが示す共通項とは、つまるところそういうこと。 「この夜の空間内でかなりパワーアップしてるみたいじゃねえか。夜のバケモノっていえば定番だろ。もしかしたらと試してみたら、マジで効くとはな」  吸血鬼……それが今のヴィルヘルムであるならば、この考えに至るのは自明の理というものだろう。それを確認するためだけに、司狼は命を懸けていた。  戦場を席巻する数々の兵器を揃えても、魔道に通じるものを害することはどうやら一切不可能らしい。  そんなもの、当然初手で見抜いている。理屈や根拠に先走り、肌を刺す存在感から見抜いていた。  ゆえに、穿つべきは敵手の拘り。  戦場を居場所と断ずるような連中ほど、往々にして常道に反する哲学を持つ。言わば自己の魂に誓った祈りだが、意外なことに奇妙なことにそういう不条理を持つものほど、合理的な存在を上回る。  骨の外れた足を嵌めなおしてから、意気揚々と司狼はその事実を噛み締めていた。 「というわけで……これで俺にも、勝ちの目が見えてきたということならだ」  ああ、仔細な理屈はどうでもいい。こうまでくれば、やってやれないはずがないわけで── 「さあ、二回戦の開始だぜ吸血鬼。前半はちょっとポイント取られたが、まあ気にしねえよ。問題なし。なんせこれから、俺様が楽勝で勝つんだからな」  いけしゃあしゃあと、妄言そのものとも言える戯言を口にした。  見せ掛けでも強がりでも何でもなく。真実、今から自分はヴィルヘルムを打倒できると宣言したのだ。 「くっ、くくく……はは、はははは……はははははははははははははははッ。ははは……アハハハハハハハハハハハハ! ……クククク……てめえ、マジでサイッコーだな……」 「あんがとよ……なんなら、もっと愉しませてやるぜ? そうだな、今度はもっとキツいのを喰らわしてやるよ」  そうは言ったがこれ以上は何もない。目の前の怪物に同じ手は二度通用しないだろう。おまけに吹っ飛ばされた時のダメージと左肩からの出血のせいで、思うように動かなくなっているのを感じた。拳を叩き込んだ右腕にも違和感がある。  ダメージが及ぼす全身の不調を、司狼は冷静に分析し、感じ取っていた。積み重ねた経験測から鑑みれば、まず間違いなく自分の敗色は濃厚だろう。  ――またか。  だが、感じたのは高揚でも戦意でもなく、純粋な落胆。  心の中で舌打ちする。毎度毎度、危機的状況に陥ると常に脳髄を蝕む感覚を前に、内心で反吐を吐き捨てた。  既知感。既知感。既知感。既知感。  こうなれば無敵であり、つまり要するに、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈に〉《 、》〈敗〉《 、》〈北〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「ははっ、堪んねぇなぁ、オイ。いいぜ。認めてやるよ。俺が間違ってた。いや、正しかったのか? どっちでもいいな。どっちも同じだ。てめえの血は〈啜〉《すす》る価値がある。てめえとはやりあう甲斐がある。事実だ。認めるぜ」  心底可笑しくて堪らない。こみ上げてくる笑いが肩を震わせる、止めることができないと白貌が嗤う。  かつて彼をこれだけ愉しませた餌がいただろうか。これほどまでに諦め悪く足掻く人間が。ヴィルヘルムがその血を求める水準を超えてきた敵手は過去幾人か居たが、目の前の獲物はその中でも極上だろう。  平和ボケしたこの国で、こんな餓鬼と出会えるとは……これだから人生ってやつは面白い。こういう愉悦は永遠に楽しみたいものだと願い、喜悦を纏う。 「どこまで付き合える? 俺はどこまででも付き合うぜ。てめえの可能性をぶちまけろ。放っておいたらてめえがこれから生きるだろう可能性と命、全部まとめて俺に叩き込んでくれよ。てめえが掴むはずだったもん全部に、俺の手が届くようになるかもしれねえ」 「ヨタッてんじゃねえ。言ってること、ワケ分かんなくなってんぜ」 「ククク……そうだったそうだった。悪ぃな、独り言さ。ただ俺には、俺の手じゃ短すぎるんだ。だからずっと探してた……おまえは合格か?」  その物言いが明らかな上から目線、というのもあるが── 「聞くなら意味が分かるようにしゃべれよ」 「じゃあこれなら分かるだろ」  司狼へ胸をさらすように、ヴィルヘルムは両手を広げた。  それはただ無防備なだけではない。広げられた両腕が閉じれば、それはすなわち司狼の人生が終焉を迎えることを意味する。 「さあ……」  牙を見せて笑う。そう。その犬歯は、以前よりも確かに肥大化している。 「さあ、次の手を見せてみろよ」  どう見ても動けるような状態にない司狼の前で、ヴィルヘルムは笑みを浮かべて無防備に立つ。  だがそれを前に、司狼は激昂することも、ましてや銃を構えることもしない。ただ眉間に皺を刻みながら、嗤う吸血鬼を眺めている。  なぜなら──  この状態を、学園内の雰囲気が一変するこの展開を〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「ちっ、いいところで――」  これからというところで邪魔が入り、ヴィルヘルムは舌打ちをする。軽く押さえる脇腹――疼く聖痕が、学園のスワスチカが完成したことを告げていた。消えたルサルカの臭いを感じたのか。ならばもはや、彼にとってこの場所に用は無くなる。  忌々しく、命令を思い出す。  スワスチカを開いたならば、即座に撤退せよ――聖餐杯、首領代行たるクリストフ・ローエングリーンの言葉があるために。 「残念だ。てめえとの決着はまたお流れだな。次はもっと楽しませろ。今回は時間がかかりすぎだ。会う度にマシにはなってる。熟成しろ。そうでなくちゃあ食いでが足らねえ」  身を〈翻〉《ひるがえ》し、ヴィルヘルムは背を向ける。その背に向かって司狼は言葉を投げかけた。 「次は殺してやるよ」 「……カハッ」  自らの口から出た言葉を思い出し、ヴィルヘルムは笑った。 返事は、それだけ。  司狼の言葉に振り返ることなく闇夜の魔人は去っていく。  その時のヴィルヘルムの表情がいかなるものだったか、司狼は見ることは叶わなかったが容易に想像が出来た。  それは獰猛で邪悪な獣の笑み。  先の再戦を思い描き、自然に形作られた笑顔。  去っていった者のそんな表情を思い浮かべ、自身も口の端を吊り上げて笑みを作る。 「次、殺せっかなぁ……」 「う…………」  意識を取り戻した螢がうっすらと目を開ける。そうして、自分が地面に倒れていることに気がついた彼女はゆっくりと起き上がり、周囲の状況を確認した。  学園は静まり返っており、カインも動きを止めている。呪いの痛みも先ほどに比べれば減り、耐えられるレベルとなっていた。 「マレウス……」  まぶたを下ろし、気配を探る。あの隠しようもない妖気が、どこからも感じることができなかった。 「…………」  ルサルカが死んだ。否、自分が殺したのだ。カインの肉体をこれ以上劣化させないため。自らが、騎士団へと名を連ねた目的のため。  後悔は無い。しかし、胸に去来した感情は螢自身にとっても不可解な重さを伴っていた。  あの魔女を仲間と思ったことはない。むしろ憎んでいた。だが、自分が奴を殺したのだという現実は、螢にはやや非現実的だった。  ただなんにしろ、自分は賭けに勝ったのだ。  螢は、機能を停止したカインに近づく。 「カイン……」  名前を呼び、その身体にそっと触れる。死体であるカインに人間のような温もりはない。リザが死んだことにより、進行を始めた身体の腐敗は既にかなりの域まで達していた。このままではそう遅からず肉体は崩壊を始めるだろう。 「待ってて……私が必ず助けるから……」  物言わぬカインにそう語りかける螢。それはまるで、自らの意思を改めて確認しているように強い意思を含んだ声だった。 「先輩――」 屋上に行く前に俺が言ったように、先輩はここで俺がやってくるのを待っていた。あの時真っ青だった顔が今は幾分かましになっているように見えた。 「藤井君……綾瀬さん、無事に助けられたんだね」 「ええ、おかげさまでなんとか」 「そう……」 俺の言葉に、彼女はほっとしたような表情を見せる。 「先輩、これからどうするつもりですか?」 「え?」 今後のことについて俺が尋ねると、先輩は小さく驚きの声を上げた。 「俺たちと一緒に来てくれませんか?」 神父とシスターが敵であったのだから、先輩も連中の関係者なのには違いない。けれど、先輩自身は俺たちと敵対するつもりはない様子だ。俺だって、彼女が敵だとは思わない。 「…………」 「ほら、先輩」 言って、彼女に手を差し出す。香純を背負っているからって、もう一人くらい抱えることは出来るんだ。 「言ったでしょ、俺にとって大事な人だって」 氷室玲愛が何者であろうとも、彼女は俺の掛け替えのない日常の一つだ。 取り落とさないし、零したくない。 だから―― 「さあ……」 伸ばした手が、その肩に触れようとした瞬間だった。 「〈Mein lieber Schwan.〉《親愛なる白鳥よ》 〈dies Horn, dies Schwert, den Ring sollst du ihm geben.〉《この角笛とこの剣と 指輪を彼に与えたまえ》」 「――――――」 何かが、光って俺たちを―― 「ぁ――――」 「―――先輩ッ!」 弾ける黄金の爆光に視界が眩み、互いの位置も声も心も届かなくなる。 ほんの刹那。その一瞬でしかない異変の果てに、俺は…… 「嘘だろ……」 目の前から、氷室玲愛の姿を完全に見失っていた。  ゆえに、これは彼の勝利。  最大の賭けであり、最大の危険を完全に乗り越えた彼の勝利。  なぜなら、これで…… 「大隊長御三方は、封じられたことになる」  気絶した玲愛を抱き上げ、トリファは己が目的に王手をかけた喜びを感じていた。  第五のスワスチカ開放。その瞬間こそが大隊長出陣の時。  加えて、“もう一つの条件”は反転した。死を想うこと……玲愛の中でその天秤が生に傾き、生きたいと願った刹那でなければ事を成せない。  だから、今日、この場に黄金の近衛三色を呼び寄せてしまう危険を承知しながら、あえてやらねばならなかった。  しくじるわけにはいかなかった。  まさに一髪千鈞。紙一重であったと言っていい。  冗談ではなく、寿命が縮む思いだったが…… 「勝ったのは私だ」  目的を遂げたのは私だ。 「そして、救われたのはあなただ」  テレジア……これであなたは救われる。安心して眠るがよい。 「藤井さんのもとに行きたかったのでしょうし、出来れば行かせてあげたかったが、それではどうにもならぬのですよ。誰にもハイドリヒ卿は斃せない」  ゆえにこれしか方法はない。 「総てを知れば怒りますか? 私を憎みますか? 憎むのでしょうね」  だが、構わぬ。もとより父とは、そうしたものであるべきだろう。  子に嫌われようと疎まれようと、汚れて骨を折るのが本分なれば…… 「せめて、彼が悪魔の贄とならずにすんだ幸運を喜んでほしい。あなたに生きる意志を与え、呪わしき血継から解放される一助となった彼のことを」  感謝をもって、私が高き所へ送ってさしあげると約束しよう。 「悪魔の城は、これで流出せずにすむ」  少なくとも、この聖餐杯が健在である限り。 「要は、私が負けねばよいのだ」  〈勝利万歳〉《ジーク・ハイル》。祈るように呟いて、神父は静かに十字を切った。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 5/8 【Chapter Ⅸ Muss Murderer ―― END】 「んー、眠い。眠いぞお」  夜が明けて、学校前までやってきた香純は大きく伸びをしつつ欠伸をした。 「やっぱ朝までカラオケオールは無茶だったかなあ。さすがにちょっと、喉が痛いや。ねえ、櫻井さんは大丈夫? 喉もそうだけど、目がしぱしぱしない?」 「私は平気」  肩をすくめて応える螢。まあ確かに、少々きつくはあったけど、それは体力的な面と関係ない。 「見た目細いのに、タフだよね。まああたしも、これくらいのだるさなら若さで乗り越えちゃうけどさ。昨夜は楽しかったもんね。櫻井さんはどんな歌を歌うのかなって思ってたけど、洋楽ばっかりで驚いちゃった。しかも発音、超上手いし」 「…………」 「ね、また行こうよ」 「ええ」  そんなことがもしあるのなら。 「でもさ、なんであんなに英語ペラペラなの?」 「外国暮らしのほうが長かったから」 「へ、じゃあ帰国子女なんだ?」 「そんなようなものね」  十歳になる前から中南米……それから北米、欧州、ロシアに渡り、ここ二年ほどはチベットや中国、北朝鮮。  特に感慨もなくそう話すと、香純は目を輝かせて感動していた。 「す、すごい。そんな映画みたいな暮らし、私もしてみたいっ」 「そんなにいいものじゃないわよ」  中米では聖餐杯に教えを請い、自立してからは南米でシュピーネに援助を受け、北米ではヴィルヘルム、東欧ではルサルカに……  世界中に散らばっていた彼らと面識を持ち、それぞれなんらかの施しを受けながらの生活だった。  金、力、戦意と〈敵愾心〉《てきがいしん》や狡猾さ……魔道、武道、言語、文化、歴史、宗教、哲学諸々……自分は正しく、黒円卓に育てられた彼らの子供だ。香純に羨ましがられるような人生じゃない。 「いったい、何ヶ国語話せるの?」 「六か七……だけど、一箇所に落ち着かなかったから、みんな片言よ」 「それでもすごいよ」  驚きと尊敬が入り混じった目で、香純が両肩を掴んできた。 「櫻井さん、――ううん、これからは螢様と呼ばせてっ。 テスト前とか、あたしに英語教えてください。蓮が言うには、あたし物覚え最悪だからカンニングしろってことなんだけど、そんなの嫌だし」 「…………まあ、いいけど」 「やったあっ!」  意味のない安請け合いをしているな、と思いつつ、螢は目の前の校舎を見上げた。  さて、今あの中は、いったいどれだけの魔窟と化しているのだろう。  見る限り、外面上はなんらおかしな気配はない。だが、周囲に異常を知らしめる結界など、下の下であり欠陥品だ。その実態は、中に入らないと分からない。 「行きましょうか」  言って、香純と共に校門を潜り、昇降口から校舎に入る。  その間、断言して螢は油断などしていなかった。別に敵陣というわけではないが、他者の思念が張り巡らされた領域に入るとは、別種の生き物の胃に呑まれる行為に等しい。それなりに気を張っていなければ、比喩ではなく溶かされる。 「あれー、なんだろ。これってちょっと……」  だから、これは異常であり、また考えようによってはごく当たり前のことだった。 「―――――」  いない。誰も。ついさっきまで横を歩いていた連れまでも。 「綾瀬さん……」  見失った。気配の欠片さえ感知できない。 「…………」  香純の存在を忘れていたわけではないが、些か自己防衛の心構えが強すぎたのか。連れ去られる彼女に気付くことができないとは…… 「まさか……」  すでに螢は、香純の所在を探ることなど一切考えていなかった。もともとそんな義理はないし、やってみたところで無駄だろう。  これは、今この学校を覆っている空間は、ただの外界遮断を目的としたようなレベルのものじゃない。  捕食の庭。〈殺戮劇場〉《キリングフィールド》……紛れもない異界。 「創造……」  エイヴィヒカイトの第三位階。校舎がそれに飲み込まれている。  だが、誰のだ?  個々の必殺兵器とも言うべきその業は、仲間内でも知らぬことが多い。共に大戦を駆け抜けた古参同士なら見せる見られるということもあったろうが、新参者の螢は一切知らない。  順当に考えればルサルカのものとするのが自然とはいえ、何か違うような気もする。 「…………」  焦れる。なぜかとても疲労する。まさか創造位階の中に放り込まれることになるなんて、欠片も考えていなかった。  これでは、自分を殺そうとしているようにしか見えないではないか。 「遅い朝帰りね、レオン」 「―――――」 「やっほ、元気?」 「マレウス……」  いつの間にか背後に立っていた赤毛の少女に、螢は当惑しつつも警戒心を滾らせる。  これはいったいどういうことだ? 彼女は自分と、ここでやり合うつもりなのか?  疑念と怒りに揺れる螢の目を見て、ルサルカは失笑した。 「落ち着きなさいよ。“ここ”であまり気合い入れると、一瞬で吸い殺されちゃうわよ、あなた」 「吸い、殺す……?」 「そう」  気だるげに溜息をついて、窓の外に目をやるルサルカ。その視線の先に、異変が起こった。 「―――なっ」  日が、蒼茫と暮れていく。まだ午前八時台であるにも拘わらず、一瞬にしてあたりは夕焼けに包まれた。 「わたしも迷惑してるのよ。あいつの創造、敵味方関係なしだし」 「おまえじゃ、ない?」 「そうよ、見れば分かるでしょ」  日は沈み、落ちて消え、瞬く間に世界は夜となっていく。月齢を無視した銀盤の満月が空を覆い、周囲に血臭と腐臭が充満する。  壁や床をうぞうぞと這い回る黒いゼリー状の粘塊は、血と臓物が凝り固まって腐れ落ちた成れの果てだ。  まるで吐き気を催す夜魔の世界――螢はそれで理解した。 「ベイ……」  ヴィルヘルム・エーレンブルグ……この世界は彼のもの。だがなぜ―― 「待ちなさい」  今にも駆け出そうとする螢を抑えるように、ルサルカが手を上げて静止した。 「言ったでしょ、ここで野蛮なことを考えちゃ駄目。心拍数と血の流れを調節して、アドレナリンを抑えなさい。 あいつに言わせれば、せいぜい不味そうな女になるのよ。ここでベイをそそっちゃうと、一瞬で喰われるわ」 「………ッ」  不可解な言い様だったが、少なくともルサルカに螢を害する意図はないらしい。そうでなければ、この場における保身の術など教える意味はないのだから。 「おまえは、〈学校〉《ここ》をベイに譲ったのか?」 「そういうわけでもないけど」  髪を梳きながら、面倒そうにルサルカは言う。 「わたしはわたしで手一杯なの。慣れないことはするもんじゃないわね」  流れたその視線を目で追って、螢は同時に硬直した。 「………ぁ」 「いくらわたしがあなた達よりキャリアが深いっていってもね、他人の聖遺物なんてそうそう簡単に扱えないのに。だから、自己流でちょっと改造しちゃったけど」  ルサルカの言葉は、もはや螢に届いていない。今の彼女は、思考が完全に停止していた。 「カイン……」  中庭に彫像のごとく立ちすくむ巨躯の怪人。その手に、脚に、数多の影が絡み付いて、マリオネットのごとくルサルカへと繋がっている。 「まあ、操縦はこんな感じ。わたしじゃバビロンのやってたことの二割も出来ないから、足りないところは創意工夫でね。でもその代わり、メリットだってあるんだよ。この方法なら、遠隔操作も可能だし。隙だらけの姿を敵に晒すこともない」 「バビロン……?」  そう、バビロンだ。螢ははっとして、思考を取り戻す。  なぜ、ルサルカが彼を操っている。本来の操者であるリザ・ブレンナーは何処に行った? 「あれ、気付いてなかったの?」  意外そうに目を見開いて、しかし次の瞬間には邪悪に細く歪められ、魔女は螢に事実を告げた。 「彼女、死んじゃったよ。ザミエルが蒸発させちゃったみたい」 「―――――」  そんな……馬鹿な。視界が一瞬で暗くなる。  リザが死んだ? 死んでしまった? じゃあ彼は、彼はどうなる?  〈屍体操繰者〉《ネクロマンサー》亡き今となっては、あれは真実ただの屍。腐り、崩れ、消えていく。  おそらく後、数日保つまい。 「クリストフは転んでもただじゃ起きない、ていうか、ほんとに転んだのかどうかも分かんないけど、要は有効利用したいんでしょ。どうせ近々消えるといっても、それまで遊ばせとくのは惜しいからね、あのバケモノちゃん」  螢の表情から読んだのだろう。からかい気味に、そして若干迷惑そうに、ルサルカは言った。 「まあそんな感じでね、ヴィッテンブルグ少佐殿がやらかしてくれちゃったから、急な人事異動で困ってるのよ。だから、あなたの遅刻は大目に見てあげるわ」 「言ったように、わたしはわたしで忙しいし、あなたも来てくれたから仕事をあげる」 「仕事……?」  矢継ぎ早の展開に即応できず、素で訊き返した螢に向け、再びルサルカは迷惑そうな顔で嘆息した。 「この子がさあ、なんか知んないけど来ちゃったみたいで」 「あ……」  氷室玲愛。なぜ彼女が、この場所に…… 「冗談じゃない……ッ」  それまで鬱積していた混乱、驚き、怒りのすべてが、目の前の少女に向けられるのを自覚した。 「あなた、何を考えてるの? 今ここが、どうなっているか……!」  死にたいのか、この馬鹿お嬢。そしてあなたが死んだら、いったいどうなると思っている。 「あるいは、自殺しに来たのかもねえ」 「――マレウスッ」  能天気な物言いに、思わず声を荒げて食ってかかる。だがルサルカは手をひらひらふって、それを制した。 「まあ、いいじゃない。面白いわよ。死のうと思って簡単に死ねるほど、世の中甘く出来てないし」 「メルクリウスがどれだけ性格悪い奴か、あなたもこの子も分かってないのよ。ハイドリヒ卿も含めて、あの二人が死なないって言えば、それは死ねないってのと同じ意味。 なんだったら、そこから外に放り投げてみれば? たぶん、大丈夫よ」 「…………」 「とはいっても、実際、面倒なお荷物ではあるわけで」  玲愛をその場に残したまま、ルサルカは踵を返した。 「レオン、あなたはお姫様のお守りをしなさい。拒否なんか認めないわよ。 まったく、クリストフの監視もザルっていうか、何考えてんだか。もしかしてあいつ、わざとその子を行かせたのかもしれないわね」 「……わざと?」  どういうことだ? 訝る螢を嘲るように、ルサルカは微笑する。 「勘よ勘。長く生きるとね、世の中疑い深くなっちゃうのよ。けどまあともかく、どうであってもその子はあなたが責任もって管理するのよ。返事は?」 「…………」 「レオ~ン、遅参は一昔前じゃ処刑ものの失態だって分かってるの? 目を瞑ってあげるんだから、反抗的な態度をとらないでよ、お嬢ちゃん」 「……分かった」 「よろしい。じゃあ若者同士、隅の方で仲良く青春の悩みでも語ってなさいな。わたしとベイは、ここでレンくんと遊ぶから。来るんでしょ、彼?」 「……おそらく」 「オゥケェ、じゃあ状況開始」  そして、笑いながらルサルカは去っていく。残された螢は、傍らのお荷物に目を向けて溜息をついた。 「何か言いなさいよ」 「別に」 「ただあなた、似合わないわね、こういうの」 「………ッ」  思わず殴り飛ばしたくなる衝動に駆られながら、しかし寸でで自制する。  結局香純が何処に行ったのか訊きそびれたが、よくよく考えればそんなことはどうでもいい些事だった。  そう、くだらない。関係ない。あの子がここでどうなろうと、私の世界は変わらない。  と、思い、確信しているはずなのに、なぜか致命的失態を犯したような、よく分からない不満と不安に胸がざわつく。苛々する。 「藤井君とは、逢えるかな?」 「逢ってどうするの?」 「さあ、でも久しぶりだから」 「久しぶり、ね……」  実質、三日かそこらぶりのはずなのに、何を言っているのやら。 「今日を逃すと、もう逢えないような気がしたから。 逢えるといいな。でも、怖いな。どんな顔をすればいいのか、わかんない」 「あなたはどう?」 「別に」  あんな馬鹿で腹の立つ人、会ったら張り手の一つもくれてやりたい。強いて言えば、それだけだ。 「嘘ばっかり」  嘘じゃない。彼には会いたいが、それはあなたの心情とは別の気持ちだ。  だから、怖いなんて思わない。  ただ、悔しいのだ。どうしようもなく情けなくて惨めなのだ。  彼の甘さに付け込んで、彼の大事な子を死地に連れ去り、かつ見失い……怒る彼と刃を交えて、死ぬか殺すかするならまだしも、それすら禁じられた今の状況。  私はいったい、この虚しさを、何処の誰に向ければいいのだ。  誰でもいい。誰か私を詰ってくれ。詰って罵倒し、痛めてくれ。  そして胸に燻るこの不満を、そいつが受け止めてくれるなら……  思うさま、暴れ、狂い、すべてを忘れてケダモノにもなれように…… 「めんどくさい子だね、あなた」  どこか哀れむような物言いに激昂する気力すらなく、螢は下唇を噛んだまま、恥辱に震えることしか出来なかった。 結局、俺が身体の自由を取り戻したのは、夜が明けてからのことだった。 「まあまあ、そういつまでも自己嫌悪してないで。ヒーローが色仕掛けに弱いのはお約束でしょ」 それからこっち、学校に来るまで同伴してきた本城は、ずっとそんなことを言っている。 「だから、色仕掛けなんか食らってないって言ってるだろ」 「じゃあ、なに食らったの?」 「それは……」 「言えないような手なら色仕掛けみたいなもんでしょ」 ケラケラ笑って、肩なんかを叩いてくる。 確かに、こいつの言うとおり。色仕掛けにじゃないにしても似たようなもんだろう。いい加減、この話題を続けている状況でもない。 「それで、彼女らはここに行ったのかな?」 「たぶんな……」 目の前にある、月乃澤学園。櫻井が香純と共に向かう場所など、もはやここしか想像できない。 くそ、あいつ、よりによって香純を連れて行きやがって。 怒り、悔しさ、自己嫌悪、その他諸々が胸の中に渦巻いてるが、今それを主張している場合じゃない。 香純がここにいるなら救い出し、敵がいるなら排除する。この校門を潜ってしまえば、そこはもう戦場だ。 「オーケー、じゃあ行こうか」 朝方戻ってきて、事態を知った〈司狼と本城〉《こいつら》は、どっちが行くかをじゃんけんで決めていた。よく知らないが、どうしても外せない用事とダブルブッキングするらしい。 結果、勝って付いてきたのは本城。俺としては司狼の方がまだマシに思えたのだが……いや、どっちでも同じことか。 「ん、どした? この格好可愛い?」 ただ、その、なんというか、なんでおまえがうちの制服持ってんだよ。 「月ガクの制服はマニアックで有名だからさあ、入手経路は色々あるのよ」 どうせ公には言えない類の、怪しげな経路だろう。スカートの裾を持ってひらひらさせてる本城の軽さ加減に、俺はうんざりしながら溜息をついた。 「知らねえぞ。そんな薄手のひらひら着ててどうなっても」 「アクションでパンツ見えるくらいあたし気にしないし」 「俺もパンツなんかどうでもいいけど」 「それ、隠す場所がないだろ。バレバレすぎるぞ」 本城は、ニーソックスにやたらでかいリボルバーの拳銃を差し込んでいた。そっちに詳しくないので名前は知らないが、どう考えても女が使うようなもんじゃない。 「堂々としてれば、意外と誰も気にしないもんだって」 「それから、この制服可愛いのはいいけどやっぱ寒いね。デザインした奴、かなりキレたセンス持った変人でしょ」 「知るか、興味ない」 肩の穴に手を突っ込んで、わざとらしく震えてる本城から視線を切る。 こいつの軽口が緊張を緩和させるためなのか、それとも天然なのかはまだ分からないが、茶目っ気が通用するのもここまでだ。 「おまえ、本当にいいんだな?」 「さっきオーケーって言ったでしょ」 ああ、だったらもう気にしない。こいつが司狼の女っていうなら守ってやらなきゃならないが、こっちの身体は一つしかないんだ。 荒事は俺の役目。 櫻井にしろ、ルサルカにしろ、やり合うとなればそれは俺がしなきゃならない。なら本城には、香純の救出を頼むべき。 「わーかってるって。あたしは司狼より、まだなんぼか常識あるよ」 そう願いたいし、そうじゃなきゃ困る。 「はい、手ぇ出して」 言って、拳を胸の高さにあげる本城。俺はその意を察して、こっちも握った拳を彼女のそれに合わせようとした。 したのだが。 「いやん、えっち」 「…………」 なんで躱すんだよ、おまえ。お陰で触っちまったじゃねえか、胸。 「いい思いして、気合い入ったでしょ?」 「つーか、気合いが抜ける」 「じゃあ、上手い具合にリラックスしたと考えよう」 「女のおっぱいは偉大っ!」 「でかい声で喚くな」 「無事帰ったら生乳っ!」 「黙れセクハラ女」 と、おそらくはこいつなりのガッツを入れられて、俺達は校門を潜った。 ――瞬間だった。 「―――ッ」 「―――っと」 何かよく分からない、ぬるい粘膜を通り抜けたような違和感。 一気に呼吸が苦しくなり、自分の身体が重く感じる。 なんだ、これは……? 目眩に頭を振る俺の背後で、呆気に取られたような本城の声が。 「蓮くん、あれ見て……」 そう言われて、振り仰いだ先には…… 「―――――」 月――〈夜〉《 、》〈空〉《 、》〈に〉《 、》〈巨〉《 、》〈大〉《 、》〈な〉《 、》〈満〉《 、》〈月〉《 、》〈が〉《 、》〈浮〉《 、》〈か〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 肌を刺す赤紫の月光。凍える寒気と、言いようのない疲労感。 いや、それよりも―― 「なんで、夜に……」 呟く俺の眼前に、本城が腕の時計を持ってくる。時刻は午前八時半―― 「今日は満月の日じゃないのにね」 「ここは夜で、月が丸い。たぶん何時でも――」 「――くッ」 「待ってッ」 再び校門を潜って外に出ようとした俺の手を、本城が捕まえた。 「やめたほうがいい。分かんないけど、〈出〉《 、》〈て〉《 、》〈戻〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》?」 「……あ」 そうだ、こいつの言う通り。 今の学校、この空間はどう考えても尋常じゃない。すんなり出られるとは思えないし、仮に出られても、再び入ることが出来なかったら最悪だ。 「外側からじゃ、何も変わってなかったのにね」 校門を潜った瞬間に出現した異界。朝に発生した局地的な夜―― 「心当たりある?」 ない。これは俺の知っている範囲で成せるような業じゃない。 喩えるなら、マリィがいるあの浜辺を現実に出現させるようなものだ。そんなこと、どうやったら出来るのか。いやそもそも可能なのか……俺は知らない。分からない。 「悪い、役立たずだ」 「そう。でもまあ、悲観しないで」 俺の背を叩いて、本城は笑う。 その笑みは、いつものように軽薄とはいかなかったが、この状況で笑えるだけでも大したものだ。肝の据わり方が半端じゃない。 「死ぬの生きるの人生劇場見て育ったからね。多少のことじゃビビんないよ」 「蓮くんは平気?」 「ああ、俺は大丈夫」 だが、問題はこの疲労感だ。原因は不明だが、高山に連れて行かれたような目眩と酸欠、虚脱感…… 手足が痺れ、握力すらかなり怪しい。 「歯をこうやって、口から息して。ゆっくり、だけど規則正しく」 「あとは、そうだね。キレないこと。心拍数上げるとやばいよ」 冷静にそう言われ、とりあえず本城の指示に従う。それで何が良くなるのか分からないし保障もないが、気の持ちようってこともあるだろう。 心なしか落ち着きを取り戻した俺は、抑えた声で言った。 「行くぞ」 「はいな」 そうして俺たち二人は、夜に覆われた校舎の中へと入っていく。 戦場は覚悟していた。殺すことも殺されることも、慣れてはいないが呑みこもうと思っていた。 けどこれは、この局面は、そんな生易しいものじゃないと告げている。 悪い予感がするんだ、香純。 今日ここで、俺はかつてない恐怖と絶望に直面するのではないのかと…… 「さぁて、こりゃ何処行っても同じだね」 一階から四階まで一通り校舎を回って、漏らした本城の感想はそれだった。 辺りは暗色、夜に塗り潰されている。日の光が刺し込むところなど一切ない。 全身を苛む疲労感は依然継続し、体力を奪っていくが、それでも一つだけ、助かっていることもあった。 「とりあえず、さっきはありがとな、本城」 「ん、まあ、あたしのここはちょっと敏感だからね」 人差し指で鼻を突っつき、苦笑する。 そう、この校舎に入る前、口で息をしろとこいつに言われなかったら、正直なところやばかった。 辺りを這い回っているゼリー状の粘塊は、人体から搾り出し、あげく何百年も放置したような血と臓物。鼻を使っていないにも拘わらず、その臭気に脳みそが溶けそうだ。 この腐り果てた血の海で、真っ当に呼吸をしてたら俺は狂っていたに違いない。 「ヴラド・ツェペシュ・ドラクル公……五百年前のルーマニアの王様は、オスマントルコと戦争したとき、捕虜を何千人も串刺しにして、国の街路に晒したらしいよ。しかもそのまま、何年も超放置」 「当時のトランシルバニアは、きっとこんなんだったんだろうね。そりゃブラム・ストーカーもネタにするわ」 本城の言わんとすること、それはこの夜を生み出したのか誰かということ。 ああ当然、俺もそれには気付いていた。 校舎の中に入れば嫌でも分かる。ここに入った者は誰であれ、搾り取り餌にすると言わんばかりの貪欲な攻撃性……血と夜と満月が象徴する鬼の狩猟場。 さながらそれは吸血鬼。つまり―― 「ヴィルヘルム……」 あいつがこの校内にいる。櫻井とルサルカだけではない第三の……そしておそらく、その三人の中ではもっとも危険なあの男が…… 「参ったね。あたしあいつが苦手なんだよ」 髪を掻き揚げ、本城はぼやいていた。 「なんていうか、単純に怖い。得体が知れないのは神父だし、ギャップが気持ち悪いのはルサルカで、強いと思うのは死体野郎だけどさあ」 「あいつはこう、上手く言えないけど向かい合うと緊張するじゃん。分かり易すすぎて洒落と希望的観測の入り込む余地ゼロっていうか」 「同感だ」 悪意と戦意、殺意の塊。向かい合えば戦うしかなく、そうなればイコール殺すか殺されるしか結末はないと思わせられる。 ゆえに、策やペテンが逆に通用しそうにない。連中に対する有効手段を未だ持ち合わせない本城はもちろんのこと、地力となる位階で劣っている俺にとって、ヴィルヘルムは一番厄介な相手だと言っていい。 正面からやり合う以外に許されない相手と戦えば、今の俺達は単純な実力差で潰される。 「こりゃ香純ちゃんを早いとこ引っ攫って、逃げたほうがいいかもよ。櫻井ちゃんから聞いた話じゃ、戦場にならないとスワスチカは開かないんでしょ?」 「そうだが……」 しかし、気になることがある。 「本当に、〈学校〉《ここ》には俺たちしかいないと思うか?」 「え?」 「そうあってほしいとは思うし、そうでなきゃ最悪だけど、最近は楽観主義が出来なくなってな」 ここに陣を張って俺たちを迎え撃つ。それは確かに、奴らの第一目的なのだろう。 だが、もし来なかったらどうしていた? これだけの場を誂えて、空振りしたら仕切り直しだなんて、そんな間抜けを奴らがやるか? 「〈敵〉《おれ》が来ても来なくても、どうなろうと対処できるようにするのが普通だろう。ヴィルヘルムはそんなこと考えなくても、ルサルカは……」 あいつは狡猾で抜け目がない。戦場にならなければ虐殺の処刑場にシフトするくらいの手は打っていて然るべき。 「なるほどね。でもざっと回ってみた結果、人っ子一人いなかったよ?」 「ここが普通の場所に見えるか?」 「いいや全然。もしかしたら忍者屋敷並みの仕掛けが働くかもしれないし」 「たとえば壁の中、天井裏とか地面の下とか、侵入者を飲み込むことが出来るんだったら――」 「それとも、目に映る景色を実際とは違うように歪めて見せることが出来るとしたら――」 ここには、普段と同じく五百人からの生徒が集められているかもしれない。 「けど、確かめる方法はない」 「答えが“分からない”なら、用だけ済ませて逃げるわけにもいかない」 「オゥ、ジーザス。さあ困った」 「いきなり攻撃してくる気配もないしな」 自らの腹へ飲み込んだに等しい俺たちを、未だ放置しているヴィルヘルムの意図も気に掛かる。 何かを待っているのだろうか。だとしたらいったいそれは…… 罠か? それとも開戦の号砲か? 「こっちから探ったりは出来ないの?」 「さっきからやろうとはしてるんだけどな」 都合よく殺気とか気配とか、そういうものを察知できるような訓練なんて受けていない。以前よりは大分鋭くなったという自覚はあるが、本職の連中が隠形に徹したら俺のレーダーなんてないも同じだ。 とはいえ、諦めている場合でもない。 「少し、真剣にやってみる。しばらく話しかけないでくれ」 「了解。じゃあ周り見てるから集中して」 日頃はやる気がなくて茶化した態度の目立つ奴だが、こういうときは話の早いタイプで助かる。なるほど、司狼が気に入るのも納得だ。 結構いい女だよ、本城は。 「全部カタがついたら、メシでも奢るよ」 「あたし、わりと舌が肥えてるよ?」 「大病院の院長令嬢だもんな」 苦笑して、俺は両目を閉じ、集中した。 人間に限らず、生き物なら誰でも自分のテリトリーを持っている。それは親しくもない赤の他人に侵されたら、不快に思う個々人の距離感覚。 喩えるなら公共の食堂やトイレ、遊戯場、なんでもいい。隣の奴から一つ二つは席を開けて、無意識のうちに間合いを取るという行為がそれだ。一般に、若い男であればあるほど、その範囲は広いらしい。 ならば、俺が自分の周りに日頃張り巡らせているテリトリーは、いったいどれだけのものなのか。 何の自慢にもならないが、普通の奴よりかなり広い自信がある。社交性が欠けていると香純に言われ、実際に友達もほとんどいない俺みたいな奴は、他人が踏み込んで不快に思う間合いの範囲を、広く設定しているはずだから。 目を閉じれば、それを肌で感じられる。俺から一メートルも離れていないところに本城の気配。彼女の呼吸、心音、精神状態……それらを察し、知覚してから、テリトリーを拡大させた。 二メートル、三メートル、四メートル、五メートル……前後左右上方下方、等しく球形に広がるテリトリー。 ヴィルヘルムの意志で覆われたこの空間に、内側から俺の世界を作り出す。それは当然縄張りの鬩ぎ合いになり、広がりは牛歩の遅さだが、確実に自分の知覚可能領域を広げていった。 結果―― 「―――――」 「どした?」 がばりと顔をあげた俺の方を、本城が覗き込んでくる。いきなり動いたから驚いたんだろうが、生憎とこちらはそれ以上に驚いていた。 「……先輩」 「ん?」 「氷室先輩が、いる」 「それはほんとに?」 「気のせいじゃない」 すぐ下の三階、さっき見て回ったときは誰もいなかったはずなのに、俺ははっきりと知覚していた。 氷室玲愛、彼女の気配。香純と同じくらいに……いや、ある意味ではそれ以上に気に掛かっていたあの人のことを、俺が間違えるはずはない。 「一人?」 「分からねえ」 俺が先輩を察知できたのは、彼女が言ってみれば素人だからだ。ただでさえそれほど精度が高いわけでもない感覚を無理矢理広げて、隠形に徹した戦争屋どもを捉えられるわけがない。 「けど、無事ではいる、と思う」 俺が感じ取った彼女の気配は、いつも通りの泰然自若に、茫洋曖昧。つまり何者かに襲われている最中といった感じじゃなかった。 だったら、選択肢は一つだ。 「行くぞ本城、あの人を確保する」 なぜ氷室先輩がここにいるのか。連中といったいどういう関係なのか……問い詰めている場合じゃないが、放ってはおけない。 「あたしらを釣る餌ってことはないのかな?」 ああ、分かっている。その可能性が高いことも、そうだったら洒落にならないということも。 だけど―― 「俺は行くぞ。誰がなんて言っても」 「はいはい、あたしも言ってみただけ」 頷き、俺達は廊下を駆けると、一気に三階までの階段を飛び降りた。 「で、何処?」 本城の問いに、俺は無言のまま手をあげると、指でその場所を指し示す。 「四組」 「俺のクラスだ」 そして香純や司狼、櫻井やルサルカもこのクラス。 「そりゃまた、随分と濃いメンツで」 大きなお世話だが、否定も出来ない。 ここは学校という、俺にとって日常の象徴的場で、かつもっとも最初に粉砕された世界。 たった四十人そこらの生徒が笑って怒って、勉強やったり恋愛やったり、話して遊んで毎日会って…… そんな些細な、何処にでもあるつまらない日々。 それを繰り返すだけで終わると思っていたはずなのに、それを許さなかった残酷で小さな箱庭。 ゆっくりと、そして嫌に響く引き戸の音と共に、彼女は俺たちの前に現れた。 「藤井君……」 氷室玲愛。俺達の先輩。そして今は、立ち位置不明の小さな爆弾。 彼女は何者で、俺と奴らのどちらに属する存在なのか……その答え如何では、この人とも敵対しなければならない――かもしれない。 その思いが焦りとなり、そして油断となっていた。 「――――」 櫻井……先輩の後に続くような形で教室から出てきたこいつを見て、思考が止まらなかったと言えば嘘になる。 もし今の隙に攻められていたら、成す術もなく殺られていたに違いない。 「やあ櫻井ちゃん、あたしになんの断りもなく帰るなんてひどいじゃない」 そんな俺を庇うように、一歩前へ出て笑う本城。その口調にも態度にも、驚きや焦りは一切ない。 おそらくは、先輩に同伴者がいるであろうことをすでに見越していたんだろう。 「あたしはそっちの先輩と面識ないし、彼よりだいぶ薄情だからね。餌は食っても釣られやしないよ」 「で、お二人さんはここで何をしてるのかな?」 「あなた、誰?」 「エリーと申しますですテレジア先輩。この場は遊佐司狼の名代と思ってちょうだい」 「遊佐君の? 彼は元気?」 「元気は元気だけど、あいつはあいつで色々ね。まあ近いうちに会わせるよ」 「それで」 視線の先を、再び櫻井へと向ける本城。ここに来て、俺もようやく冷静さを取り戻した。 「悪いな本城、もう大丈夫だ」 「ん、気にしない。そこが蓮くんのいいところ」 前に出て、本城を下がらせる。ここに櫻井がいる以上、何か起きたときは俺が矢面に立たねばならない。 「先輩は、まあ、後で話そう。とりあえず無事そうで安心しました」 「藤井君も」 「ええ、それで櫻井――」 これまで抑えていた諸々の感情。それらが一気に噴出して目に宿る。 先輩や本城の前だからとか、彼女らを威嚇する意図はないから穏便にとか、悪いがそんなことは考えられない。 白状すれば、昨夜からずっと、俺は腸が煮えくり返っている。 自分の甘さ、間抜けさに、香純を連れ去ったこの女に―― 「あいつは何処だ櫻井。答えないと――」 今すぐこの場で殺す。多少こいつの内面を知ったからといって、許容できる範囲の怒りをすでに俺は超えていた。 「――――」 瞠目する先輩の気配すら、とうに意識の埒外だ。傍らで本城が何か言っていたような気もするが、それすら耳に入らない。 今、俺の目に映るのは櫻井のみ。こいつの出方、返答しだいで、俺は自分を抑えられる自信がない。 だから―― 「ごめんなさい」 その一言があまりにも意外で、不明で、想定外で……俺は激昂することも出来なかった。 「ここであなたに応えられたらいいんだけど、今の私はそれも出来ない」 「笑ってちょうだい。今日この場の戦いから、私は弾かれてしまったの。あなたの気持ちに、応えられない」 「それは……」 いったいどういうことだ? つまりこいつに、戦意はない? 俺と戦うつもりはない? ふざけるなよ、それはそっちの事情だろう。 「殺されるわけにはいかないけど、それ以外なら何をしてもいいわよ」 「あなたの気がすむのなら、何だって」 「まあ、待った」 一拍遅れで激昂しかけた俺の肩を、本城が強く掴んだ。 「仮にも女の子ちゃんが、何してもいいとか言うのはどうかって話は置いといて、あんたまだ彼の質問に答えてないね」 「香純ちゃんは何処? あたし同性の友達少ないから、あの犬っぽい子が気に入ってるんだけど」 「それは……」 床を睨み、黙る櫻井。だがそれも数秒で、顔をあげたこいつは平然と言った。 「知らない。私は綾瀬さんが何処にいるかなんて、訊かれても答えられない」 「ここにいないのか?」 「いいえ。ついさっきまで一緒にいた。でも……」 「知らないうちに、いなくなった。今の〈学校〉《ここ》は、私の感覚が及ぶ世界じゃないの」 つまり――それに続く俺の思考を、本城が代弁した。 「ヴィルヘルム、だね?」 「ええ。さっき私は、あなた達に見つけられ易いようにしただけ。ベイが隠す気になっているなら、隠されたものはここにいる限り誰にも探せない」 「なんであいつが香純を隠す?」 「分からないわよ」 「その中尉殿は何処に?」 「分からない。……いいえ」 ゆっくりと周囲を見回しつつ、櫻井は呟いた。 「今は、この学校自体が彼。何処にでもいるし、何処からでも出てくる」 「私達の位置も、会話も、すべて筒抜けになってるはずよ」 「吸血鬼の腹の中、ね」 「どうする蓮くん? あんたは櫻井ちゃんを締め上げたいだろうけど、そういう状況でも、それでカタがつくわけでもなさそうな感じだよ?」 「分かってる」 腹に据えかねるが、櫻井が嘘を言っているようには見えないし、優先事項はこいつを糾弾することじゃない。 「もうおまえのことなんかどうでもいい。やる気がないなら、何処かそのへんで寝てろ」 「……そうね」 自嘲するような、耐えるような、複雑な顔と声で呟く櫻井。とりあえず、言ったように、今はこいつの処遇云々などどうでもいい。 香純は今何処にいて、プラスそれ以外にも…… 「先輩――」 「今の〈学校〉《ここ》に、他の奴はいないのか?」 「え、あ、それは……」 両肩を掴んで引き寄せると、彼女は驚いたように目を見開く。 「教えてくれ、先輩――他の生徒はいるのかいないのかッ」 「…………」 俺の詰問に、彼女は目を伏せて答えない。 ――いや、違う。 彼女は目を逸らして頭を下げることで、先の問いに答えていたのだ。 「あれは……」 校舎の中庭に、一人また一人と人影が増えていく。それは見知った顔に知らない顔、男も女も様々だが、残らず俺と同年代の―― 「始まる」 ぽつりと呟く櫻井の声が、やけに遠くから聞こえた気がした。 すでに中庭へ集う生徒の数は、目算で二百人以上……制服、私服、酷い奴は寝巻きのまま、心ここに有らずといった忘我の顔で一箇所へと集まっていく。 「香純ちゃんは?」 いない。ざっと目を走らせた限り、あいつの顔は見当たらない。 だがしかし、それでもこれは、何処からどう見ても楽観できる事態じゃなかった。 「見て、あれ――」 叫ぶ本城の声すらも、珍しく逼迫していた。彼女が指し示すその先には、生徒達が集まろうとしている一角……中庭の中央で、彫像のごとく立っている巨躯の怪人。 「――カインッ」 あいつが、あの化け物までもがここにいる。だったら、その近くにはシスターも? 「駄目だ、もう遅い」 本城の声は、言葉通り諦観していた。櫻井は目をそむけ、先輩は腕の中で小さく震え、俺は何も出来ずにその光景を凝視する。 凝視する以外出来なかった。 振り下ろされるカインの鉄塊――クラブのときとまったく同じく、紫電を撒き散らす大質量に吹き飛ばされた生徒達が、一気に半分――百人以上、木っ端微塵の血煙となって四散した。 「―――――」 「見ないでっ」 俺の顔を覆うように、先輩が力いっぱい抱きついてくる。まるでそうすることにより、自分も目の前の悪夢から逃れられると信じるように。 だが、遅い。小柄な彼女の抱擁で、直立している俺の視界を隠しきることなど不可能だ。 弾け爆散した百人分の血と肉と骨と臓物――それらは三階にいる俺達の目の前にも飛来して、窓ガラスに叩きつけられたままへばり付いて離れない。 手があった。足があった。心臓があり肺があった。 誰のものかも分からない眼球、下顎、髪がこびり付いたままの頭皮と顔―― 彼らが俺を睨んでいる。なぜもっと早く来なかった? なぜおまえみたいな奴が〈学校〉《ここ》いる? おまえが学生なんかしているせいで、僕は私は俺達は―― 「―――――ぁっ」 壊れる。世界が崩れていく。 俺の日常、帰るべき場所。なぜ俺みたいな馬鹿野郎が、彼らと一緒に生きていけると、ふざけた妄想を持ったのか……! 「……くそォッ」 溢れる悔し涙を止められない。友達なんかいなかったし、死んだ奴らの名前も顔も分からない。 そのことが、彼らの死を何よりも侮辱してると――俺は許せず、我慢できず。 「――カインッッ!」 抱きつく先輩を振り払い、目の前の窓ガラスに本気の拳を叩き込む。だというのに、どういうことか、薄っぺらなそれ一枚すら砕くことが出来なかった。 おまえは何も出来ない。誰も救えない。ここで弾け飛ぶ数多の魂と同様に、死に絶え、腐り、糧となれ―― 「出て来い、ヴィルヘルムッ!」 喉が張り裂けんばかりの大声で、俺は怨敵の名を呼ばわった。 許さねえ。絶対殺す。おまえもカインも、神父にルサルカ、そして櫻井、シスターまでもッ! 「てめえら、俺とやりたいなら買ってやるッ! つまらねえ雑魚殺して悦に入ってんじゃねえぞ腰抜け野郎ッ!」 『――いい度胸だ』 そのとき、辺りの気温が瞬時にして、一気に十度は低下した。 哄笑嘲笑失笑憫笑――ありとあらゆる悪意が入り混じった笑い声。 その裏に潜む、凶悪な殺意―― 『じゃあ、本番いこうか小僧』 『せいぜい喰いでのある、粋のいい餌になれや』 始まる――ヴィルヘルムはまだ、この世界の本当の姿を見せていない。 今までのはむしろ余興……ここで奴が本気になったら、おそらくは…… 『〈Sophie, Welken Sie〉《枯れ落ちろ 恋人》――〈Show a Corpse〉《死骸を晒せ》』 『〈Sophie, und weiß von nichts als nur: dich hab' ich lieb〉《私の愛で朽ちるあなたを 私だけが知っているから》』 夜に殷々と響く声。 それはエイヴィヒカイトの第三位階――誰に教わるまでもなく、俺はこいつがやろうとしていることを直感で理解していた。 『〈Briah〉《創造》――』 『〈Der Rosenkavalier Schwarzwald〉《死森の薔薇騎士》』 「――――ッ」 「―――あッ」 「―――くゥッ」 今までとは比較にならない、圧倒的な虚脱感が全身を蹂躙する。立つことはおろか、呼吸すらろくに出来ない。 領域に入った者、総てを吸い殺す吸血鬼の夜。それがこいつ、ヴィルヘルムの―― 『創造だ。さあどうするよ小僧』 増加した吸精力に呼応して、周囲がより赤黒く血に濡れていく。それどころか、壁や天井、床までもがひび割れ、枯渇し、崩れていく。 「本城――ッ」 叫び、残った気力を総動員して飛んだのはまったくの勘だった。 崩れかけていた床や天井、壁面から、一気に出現した杭、杭、杭―― 「―――なッ」 「――先輩ッ」 蹲る彼女らを抱きかかえ、咄嗟に跳躍しなければ槍衾になっていた。 ここは奴の胃、腹の中――何処からでも出現する杭の数は、もはや数えることすら出来ないだろう。 十本? 百本? 千本? いいや―― 万を超えて生い茂る、悪夢の〈荊棘〉《イバラ》――薔薇の夜。 「動けるか?」 「まだなんとか」 「よし、だったら」 少なくとも俺のほうが、本城や先輩よりもこの世界に対する抵抗力を持っている。ならばヴィルヘルムを〈斃〉《たお》すのは俺の役だが、しかしそれならカインはどうする――? 「――――」 そのとき、腕の中の先輩が小さく震えた。 「――――ッ」 視界を埋め尽くす杭の森には、数多の白骨死体が刺さっている。 ボロきれのように僅かだけ残ったその衣服は、紛れもなく現代の……そして中には、見慣れた同じ学校の制服も―― 『足りねえ、足りねえよ小僧』 『マレウスが集めたのは三百人……それっぽっちの劣等じゃあ、俺の腹は膨れねえ。ここのスワスチカは開かねえ』 『戦るんだろ? 買ってくれるんだろ戦争を? 退屈させんな色男。てめえの面ァあいつに似すぎて、そこの女ども姦りたくなるぜ』 『くくく、はははは、はははははははははははははははは――』 「香純は――ッ」 墜落してくる哄笑を跳ね除けるように咆哮して、俺は今一番確かめなければいけないことを問い質した。 「香純はいったい何処にいるッ? おまえが攫ったのかヴィルヘルムッ!」 問いかけた声に、返ってきたのはどちらとも取れるくぐもった嘲笑。激昂寸前の俺を、どことも知れない場所から愉快そうに眺めているのか。 「―――ッ」 膨れ上がる怒気を抑え込む。ここで再び、キレるわけにはいかない。 あのヴィルヘルムが、櫻井にも気づかせず香純を攫ったこの男が、あいつの生死を断言しない。 それはつまり、まだ希望があるということ。 「分かるな、本城」 「おおよそはね」 こいつになら、皆まで語る必要はない。ほんの一言二言だけであっても、こっちの意図を分かってくれる。 そして腹の立つことに、そういう勘の鋭さはヴィルヘルムも同じだった。 『選べや、小僧。上か下か』 『どっちと戦う? どっちを助ける? どれを選んでも構わねえぞ』 目の前の窓ガラスが枠と壁ごと溶け崩れ、中庭までの道を開く。事ここに至り、俺の選択は固まった。 「信じてるぞ、本城」 「まあ、期待に沿えるよう頑張るよ」 今、カインの殺戮を止められるのは俺しかいない。そして反面業腹だが、ここでヴィルヘルムを〈斃〉《たお》せなくても、香純を始めとする一般生徒を救い出せればそれでいい。 時間が勝負だ。俺にしろ本城にしろ、長引けばヴィルヘルムに吸い殺される。中庭の連中を見殺しには出来ない以上、俺が戦うべき相手はまずカイン――他に選択の余地はない。 「ルサルカには気をつけろ。あいつもきっと何処かにいる」 「それから――」 座り込んだままこちらを見上げている先輩に、俺はしゃがんで視線を合わした。 見知った顔、数少ない友達……俺は馬鹿で甘いから、この人の立場も考えも分からないけど。 俺の言動一つ一つが、彼女を追い詰めることだってあるだろうけど。 今はただ、胸の言葉を口にしたい―― 「俺は先輩も信じてる」 呟き、細い彼女の身体を抱きしめた。 「先輩が好きだ。大事な人だからなくしたくない」 「俺は何も知らないし、分からないけど、だからもっと話したいし、一緒にいたいと思ってる」 「藤井……くん」 「これが終わったら、俺たちと帰ろう。先輩は、こんなところにいちゃ駄目だ」 「私、は……」 何事か言わんとする彼女の台詞を断ち切って、俺は再び立ち上がった。本城と目が合うと、こいつは何か知らないが、妙に赤くなっていた。 「えっと、あの、こういうこと言う場合じゃないのは分かってるけど、一つ忠告をさせてよ蓮くん」 「忠告?」 なんだそれは? 奴らに対する必勝法でも、編み出したというわけじゃあるまい。 「あんた天性の女たらし。あんまり今みたいなこと、誰にでもぽんぽん言うもんじゃないってば」 「…………」 よく分からない。 「誰にでも言ってるわけじゃねえぞ」 香純だったり、先輩だったり、マリィだったり……そしてこれからは、たぶんおまえにも言うかもしれんが。 「気に入ってる奴にしか、言わない」 「いや、だから、そういうことじゃなくてさあ……」 本城の言いたいことはよく分からなかったが、先輩は俺の袖を掴んだまま、じっとこちらを見上げていた。 「ああ、もう、絶対勘違いされるよこれ。あたしどうなっても知んないからね」 どうとでもなれじゃ困るんだが、とりあえず本城の肩に手を置いて、再度頼んだ。 「香純と先輩は任せる」 「オゥケェ、了解っ!」 投げやり口調が気になるものの、俺はそれで気持ちを切り替え、まず密集している杭の帳を睨みつけた。 この状況と、俺達のやり取りをせせら笑っているヴィルヘルムの気配。おまえも絶対許さないし、いずれ必ず〈斃〉《たお》してやる。 だけど、今から俺がやるのは―― 決意を固め、中庭を見下ろす。 トバルカイン――おぞましい死体野郎。俺はおまえのその在り方が、一番気に喰わねえんだよ。 「グッドラック」 「ああ、ヘマすんな――よォッ」 叫び、俺は一気に校舎の三階から飛び降りた。着地と同時に、多少乱暴になろうが周囲の生徒達を吹っ飛ばす。 さあ、それじゃあこの間の続きだ。 右腕にギロチンを形成させ、戦闘開始。 「〈ea〉《ア》………」 「〈ea〉《ア》………〈ce〉《ス》」 おまえは絶対に、〈斃〉《たお》さなければいけない。目の前でもっとも多くの人命を奪った相手だというのとは別の次元で、おまえは俺が殺らなきゃいけない。 なぜかそう、強く胸に迫るような……強いて言うなら使命感みたいなものを、俺はこのとき感じていた。  蓮が飛び降りるとほぼ同時に、エリーは玲愛の手を引いてこの場から離脱した。  追撃は、ない。今のヴィルヘルムがその気になれば、逃げる彼女らを捕らえることは容易だろうし、またことによれば、蓮が中庭に着地する前、身動きのとれない空中で串刺しにすることさえ可能だったかもしれないのに。  戦いを好み、殺しを好み、血と叫喚の信奉者であるカズィクル・ベイ――その具現とも言える自らの世界にあって、殺せる相手を見逃したという彼らしからぬ行動に、螢は眉を顰めて訝しむ。 「何を考えている、ベイ」  必然、詰問口調になった彼女の台詞に、杭の森が震えて笑った。 『そりゃあこっちの台詞だぜ、レオン。てめえはなんで、ゾーネンキントを確保しねえ。逃がしていいと、誰が言った?』 「別に……」  くだらない。そんなことはどうでもいい。かぶりを振って、短く告げる。 「求められるのは、彼女の安全。藤井君たちが、あの人に危害を加えるとは思えない。少なくとも、今のおまえの傍に置くより――」 『ほぉ……』  ヴィルヘルムの武装形態は、聖遺物と自己の肉体を一体化させる融合型。このタイプは、同調が進めば進むほど凶暴化し、理性を削る。  敵味方の区別なく吸い殺す、この空間が何よりの証拠だろう。第三位階、創造を発動すれば、術者の渇望、本質がさらけ出され、表層的な体面など屑同然に消し飛ぶのだ。  事実、今このときも、螢は拭い難い虚脱感と疲労感に苛まれていた。薔薇の夜に在る者は、等しくヴィルヘルムの餌にすぎない。  殺戮衝動の化身――今の彼には、ルサルカでさえ近づこうとしない。 『俺ァおまえより、同義ってもんを弁えてるつもりだがなあ。 黒円卓は俺の家だ。仲間も、そして兄弟も――交わした流血の契りを忘れちゃいねえ。 ハイドリヒ卿にメルクリウス、マキナ、ザミエル、シュライバー……ゾーネンキントにクリストフ、バビロン、カイン、シュピーネ、マレウス――そしてもう一人ヴァルキュリア。 奴らは俺の親父で〈仲間〉《ダチ》で、兄弟であり同時に女だ――おお、そりゃあ気に喰わねえ奴もいるしいた。死ねば腹抱えて笑うだろうって相手もいるぜ。 だがな――俺ァてめえみたいにスカシ面で、自分は違うんだってな線引きなんぞ連中にはしちゃいねえ』 『てめえは蝙蝠だレオン。俺らとは違う。あのガキ共とも違う。どっちにも片足突っ込み、どっちにも成りきれねえ。 無様だ、醜い半端野郎――仲間でもなく、敵なんて価値もねえ。おまえは生きてて何が楽しい?』 「楽しい?」  ふざけたことを。これまで自分の人生を、楽しもうと思ったことなど一度もない。謳歌という言葉の意味、知る以前から持っていない。 「私はおまえ達に育てられた、おまえ達の子供だ、ベイ」 「私もまた、ゾーネンキントと――」 『違う――』  反論など許さない。密集する死の荊棘から、ヴィルヘルムの狂気が迸る。 『おまえは太陽の子じゃねえ。獣の爪牙でも、〈鬣〉《タテガミ》でもねえ。何者でもなく何者でもない』 「だったら――」  いったい何だというんだ?  敵である藤井蓮に見捨てられ、仲間であるヴィルヘルムにも存在を否定され、何処を向いて何処に立てと―― 「私はレオンハルト・アウグストだ。聖餐杯猊下にその名を貰い、ベアトリスに代わって五位を継いだ。それを誇りに思っているッ」  そうだ、後悔など一度もしてない。  辛いことも、痛いことも、苦しいこともあったけど、これから先もそんな道が、無限に続くのだとしても――  胸にはただ、あの日の記憶が、未だ焼き付いて離れない。  あの日をやり直せるのなら――あの日を再び取り戻せるなら――  誰に憎まれ、誰と戦い、誰を殺して誰をこの手から零そうとも―― 「私は迷わない! ベイ、私も黒円卓の一人だ!」 『おまえが?』  失笑――ガキの戯言どころか、小虫の鳴き声でもそうするかのように、ヴィルヘルムは螢の哀訴を切り捨てた。  いや、〈穿〉《 、》〈ち〉《 、》〈貫〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 「――――ぁ」 『言ったろう。誰が誰の仲間だ、小娘』  床を突き破って現れた杭の一本……それが螢の腹腔を貫いて、彼女を百舌の速贄のように吊り上げる。 『俺が認めた黒円卓の第五位は、ヴァルキュリアただ一人だ。レオンハルト? そんな奴は知らねえ』 『おまえは臭い。このしょうもねえ〈学校〉《シューレ》が似合いの、陽だまり臭ぇ寝小便が染みたガキの寝具だ。ヴァルキュリアは阿呆だったが、あいつからはまだ硝煙の匂いがしていたぜ。 つまりな、小娘、さっきの質問に答えるとだ』  己は何者で、何を成すべく何処に向けて存在したのか。  その問い、答えるとするならば―― 『餌だ。それ以上でも以下でもねえ。てめえはハナから、捧げられ要員としてクリストフに飼われてた犬っころよ』 「あ――ッ、くッ―――ゥ」  吸い取られる。吸血鬼の牙に貫かれた身体から、血と精気が根こそぎ奪い取られて枯渇する。 「あ、駄目――」  魂が、魂が、今まで私が集めてきた魂が――  何百人も殺して、斬って、彼と彼女のために蓄えてきた私の宝が――  たった一つの私の希望が―― 『てめえが五番目のスワスチカになれ。ハイドリヒ卿を呼び戻す餌となれ』  嫌だ――私は死ねない。死にたくない!  ここで死んだら、ここで消えたら、今までいったい何のために――  男がいた。女がいた。老人も若者も、ことによると自分より年下の子供もいた。  彼らを殺して、その命を奪い、血塗れになってまで生きてきたのは何のため?  汚れ、拭い去れぬこの両手に、掴もうとしたのはいったい何?  忘れるな。思い出せ。自分は何を願い生きてきた?  もう一度あの陽だまりを。二度と取り戻せないあの日々を。  奇跡にすがり、外道に落ち、涙なんかで報われない、祈りなんかで叶えられない、修羅道の果てにある夢を掴むため――  今まで、生きてきたのではなかったのか? 「――嫌だ」  死にたくない。ここで終わることなど許されない。  私が死んでしまったら、誰があの馬鹿な人たち……愛すべき二人の騎士を、救ってやれるというのだろう。  それは精神の爆発。魂の咆哮。  虚空に伸ばした螢の右手に、緋色に燃える獅子の剣が顕れる。  掴み、握り、揮われる。 「私を殺すと言うなら、ベイ――」  一刀両断。腹腔を貫いていた杭を断ち切り、着地した螢は剣を構える。  傷は重く、すでに奪われた精気も膨大。しかしまだ、自分は立って、ここに生きてる。戦える。 「おまえを殺す。黒円卓に私の席がないと言うなら、おまえを〈斃〉《たお》して、その資格を手に入れる――!」  下腹の聖痕は沈黙している。同胞の殺意に晒され、自衛を目的とした行動ならば、それは誓約の範囲外。ここでヴィルヘルムを殺しても、呪詛は私を侵さない。 『よく言った』  愉快に、そして放埓に、満腔の喜悦を滲ませて夜が笑った。 『ようやくてめえが、少しは好きになれそうだ。そうだよレオン、それでいい。戦場で泣き言なんざ誰も聞かねえ。 意に沿わねえ流れはねじ伏せろ。向かってくる奴は牙を剥いて喰い殺せ。俺はそう生きてきたし、他の連中もみんなそうだ』  万本を超える杭の森。うちの一本を断ったところで、ヴィルヘルムは薄皮一枚裂かれた程度の痛痒すら感じていない。  対して螢は、腹に大穴。全身から未だ精気を吸われ続けている状況。  形勢不利どころではなく、勝負そのものを成立させることすらもはや危うい。  だが―― 「おまえには感謝する。カズィクル・ベイ中尉殿」  螢は微かに、しかしはっきりと笑っていた。 「誰でもよかったんだ、誰でも……」  この惨めで情けない今の自分を責め苛み、爆発する激情を受け止めてくれる相手がいれば、ただそれで―― 「ありがとう。私もようやく、あなたのことが好きになれそう」 『かは――ッ』  震撼する薔薇の夜。弾け笑うヴィルヘルムの大笑が、校舎内に轟き渡る。 『まあ気にするな、お嬢ちゃん。この件に関しちゃクリストフも了承済みだ。万に一つてめえが勝っても、罪に問われるこたァねえよ』 「万に一つ、ね……」  苦笑しながら、螢は言う。 「あなたはどんなに些細なものでも、自分の敗北なんか考えない男だと思っていた」 『なぁに、こりゃ言ってるだけだ』  死の荊棘が割れ開き、中から白貌の鬼が現れる。  愉悦に歪んだ口許と、血走り反転した赤い眼光を滾らせて―― 「いわゆる〈諧謔〉《かいぎゃく》ってやつよ。俺ァこれまで、ハイドリヒ卿にしか負けたことはねえ」  誕生から修羅を生き、黒円卓の最初期団員であるヴィルヘルム・エーレンブルグ。  魔道も武道も知らぬまま、半分以上ヒトを辞めていた人間獣は、彼とウォルフガング・シュライバーの二人のみ。 「来いや嬢ちゃん、思い出すぜ。最初に会ったときのヴァルキュリアも、今のてめえみたいに膝震わせながら俺に剣先向けてたもんだ」 「そう、それは光栄な話」  私がほんの少しでもあの人に似ているなんて、そう言ってくれる他者が一人でもいるのなら。  私もまた彼女のように、誰かのためにこの剣を揮うのだと、信じることが出来るから。  血に濡れたこの身でも、愛を忘れてないと思えるから。 「聖槍十三騎士団黒円卓第五位、レオンハルト・アウグスト――」 「同じく第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイ――」 「我らどちらかの命により、ここに五番目のスワスチカを現出させる」 「ラインハルト・ハイドリヒとカール・クラフトの僕として」 「この身捧げ、散華させよう」 「てめえがな」 「いいや、あなただ」  膨れ上がる戦意と殺意。炎と血煙が激突する。 「おおおおォォォッ―――」  ぶつかり合う黒衣と白衣は、校舎の内装を砕き、割って、抉りながら、暴風雨となって駆け抜けた。  夜は消えず、赤い月光が世界を覆う。  第二の死闘、ここに開幕。結末は、未だ不明―― カインの速度と剛力は、前より明らかに鈍っていた。 巨重を無視した雷速の身軽さは見た目どおり鈍重に、巨躯に見合った圧倒的膂力は似つかわしくない軽いものに。 今のこいつは怖くない。避けることも受けることも、恐れることなく戦える。 だが―― 「―――ぐッ」 この赤い夜。未だ校内を覆い尽くすヴィルヘルムの創造が、同じく俺の力を奪っている。 共に消耗し、本来の実力を発揮しきれない者同士。ならばこれは互角なのか、いいや違う。 俺はともかく、カインの弱体化は目に見えるほど深刻だ。こいつは薔薇の夜に吸われているのと別次元で、その戦力を減衰させてる。 言うなれば、ぎこちない。人形であるこいつの特性を考慮すれば、操りが下手だと表現するべきなのか。 滑らかに、無駄なくかつ強壮に……オーケストラを指揮する手腕でこいつを繰っていたリザ・ブレンナー、彼女の身に何か異変があったとしか思えない。 「シスター……」 あの人は何処にいる? 戦闘前に周囲の生徒を残らず吹き飛ばして退避させたこの中庭で、俺の視界は開けている。近くに彼女がいれば気付かないはずはない。 「校舎? それとも……」 屋上、あるいは体育館の窓辺りか? 戦況を視認しなければ操れないという彼女の弱点は、無防備な姿を敵の眼前に晒すことにある。だがこの学校のような場所において、隠れながら狙い操るのはそう難しいことじゃない。 しかし、とはいえ…… 「シスター、あんた何処にいるッ?」 動きの鈍い今のカインは大した脅威じゃない。それならば捨て置いて操者を〈斃〉《たお》し、無力化してからヴィルヘルムと戦うべきだ。それがなれば一気に三人――ひとつのスワスチカで敵の三殺が可能になる。 振り下ろされる鉄塊の腹を右の裏拳で弾き飛ばし、たたらを踏むカインを蹴り飛ばした。この化け物がそれだけで、無様に転倒し立ち上がれない。 いや、立ち上がろうとはしているのだが、その挙動はメチャクチャだった。関節がデタラメに折れ曲がり、まさしく壊れたマリオネットの様相で、ギクシャクとした音まで聴こえてくる。 分からない。いったい何があったんだ? シスター自身が、ヴィルヘルムの世界に消耗しているというのはあるだろう。だが俺はこの通り、未だ立って戦える。戦闘暦数日程度の俺に可能な範囲のことが、六十年以上のキャリアを持つ彼女に出来ないとは思えない。 ではなぜ? 「まさか――」 そのとき脳裏に閃いたのは、我ながら悪魔的な直感だった。 人形の操り方が上手くない。そこから連想される事実はむしろ、こちらの方が理に叶っている。 今までの操者が人事不省に陥ったのではなく、別の者に代わったということ。 つまり―― 『あー、もう。やっぱり慣れないことはするもんじゃないわね』 ようやく立ち上がったカインの口から、場違いな声が漏れてきた。 細く、高く、可憐で軽快。紛れもない女の声音で、いつも歌っているようなその口調は…… 「ルサルカ……」 『ご名答。いや、こんなはしたない格好でご免なさいね』 「なぜ、なんでおまえが……」 ワケが分からず、混乱しかける。 カインを使うのはシスター・リザ。そしてその仮面は彼女だけの聖遺物。 別の者がこいつを使うなんて、そんなことが出来るのか? いや、出来ないからこそ、さっきまでの無様な戦いぶりがあったのだろう。 だが、今はそんなことより―― 「シスターはどうしたッ?」 なぜ彼女がこいつを使わない。なぜおまえが彼女の物を使っている。 敵と割り切った。許せないとも思った。この中庭に下りたときは、カイン諸共シスターを殺すと覚悟した。 そしてだからこそ、先輩の視線が痛くて、目を合わせられなくて、逃げるように抱きしめてからここに来たんだ。 なのになんで、おまえなんかが彼女の代わりをやっている―― 「あの人は……」 そうだ、あの人は言っていた。 自分の仕事は終わったと。もう俺達の前には現れないと。 悲しげに、気のせいかもしれないが泣きそうな顔と声で、リザ・ブレンナーはそう言ったんだ。 そんな彼女の連れであるトバルカインが、ここにいるというのがすでに最初からおかしかった。 俺はその違和感に、今の今まで気付かなかった。 本来なら、カインとシスターは二度と俺の前に現れなかったはず。 だったらなぜ―― 『あなたは理解が早いけれど、それをなかなか認めないのが悪いところね』 呆れと嘲りを等分させて、ルサルカの声が響く。 『答えが他にないのなら、それが真実だと言ったじゃない。そんな身体で、わたし達と同じになって、メルクリウスの力を継いで、それでもまだ、あなたは全然変わっていない』 『その意志、強固な自我と頑なさ、褒めてやりたいけど腹立たしいわね。わたし達が求めて、狂って、憎みながらも涎をたらして擦り寄った彼の力を、屑な汚点のように思うあなたが』 『レンくん、あなたのことは好きよわたし。可愛い顔だし、いじらしいし、勇ましくて女に優しい男の子だし』 『あなたが彼の代替だと知ったとき、悲しかったのは本当。泣かせたくないし、痛くしたくないし、戦いたくないし殺したくなかったのも少しだけ』 『でも、今やっと、わたしはあなたのことが憎くなりそう』 「――――」 カインから、いやそれを操るルサルカから、陽炎のような殺意が立ち昇る。 ゆらゆらと、ゆらゆらと、少しずつ徐々に徐々に、まるで爆発を起こす寸前に、ガスが充満していくような。 『バビロンは死んだ。ザミエルが殺した。だからこのバケモノちゃんは、わたしが使う』 『ねえレンくん、あなたは本当のカインがどんなものか、知らないでしょう? こいつの一番怖いところを、リザから聞いていないでしょう?』 巨人が動く、じりじりと、長大な鉄塊を担いだまま、静かに間合いを詰めてくる。 『カインと戦い負けた者は、その武器も力も奪われる』 『〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》――ハイドリヒ卿にしか許されない魂のレギオン。複製だけど、こいつのこれも、どうしてえげつない代物よ』 『だから、あなたの力をちょうだい。メルクリウスの秘蔵品は、こいつに喰わせてわたしが貰う』 掲げた鉄塊から、紫電が爆発し迸る。目を焼く雷光が地面に落とした影が蠢き、密度を持って震えだす。 『さあ、それじゃあ本番行こうかしら』 『バビロンの真似事じゃあ勝てないし、ここからは自己流で行くからね』 「―――ッ」 中庭が、影と紫電と殺意の波で塗り潰される。これは実質二対一だ。 シスターが死んだ。あの人はもういない。それを悲しむべきか喜ぶべきか、選ぶことすら出来ないまま、しかし嫌になるほど分かっているのは一つだけ。 ルサルカは、操繰という意味においてシスターより数段劣る。 だがその反面、カインと自らの術を連携させられるのはこいつだけ。 雷光が生み出す影、影、影――敵に回せば最悪のコンビネーション。 『〈In der Nacht, wo alles schläft〉《ものみな眠る小夜中に 》』 『〈Wie schön, den Meeresboden zu verlassen.〉《水底を離るることぞうれしけれ》』 光と影の世界の中で、響く歌声が木霊する。 『〈Ich hebe den Kopf über das Wasser,〉《水のおもてを頭もて》〈Welch Freude, das Spiel der Wasserwellen〉《波立て遊ぶぞたのしけれ》』 『〈Durch die nun zerbrochene Stille,〉《澄める大気をふるわせて》〈Rufen wir unsere Namen〉《互いに高く呼びかわし 》〈Pechschwarzes Haar wirbelt im Wind〉《緑なす濡れ髪うちふるい》』 『〈Welch Freude, sie trocknen zu sehen.〉《乾かし遊ぶぞたのしけれ》』 影が厚みを持ち、起き上がった。 地面から剥がれるように鎌首をもたげ、割れた口には何重にも並んだ牙の列。 まるで〈蚯蚓〉《ミミズ》、いいや〈多頭竜〉《ヒドラ》だ。カインの足元から四方八方全方向に、伸びて蠢く影の竜は、その数すでに数百以上―― 『〈Briah〉《創造》――』 『〈Csejte Ungarn Nachtzehrer〉《拷問城の食人影》』 同時に、総ての影が俺目掛けて殺到した。 『あなたに〈創造〉《これ》はまだ出来ない』 そうだ、今の俺にはこいつやヴィルヘルムのような真似が出来ない。 俺のそれがどんなカタチで、どうすれば発現するのか、それすらも分からない。 『勝てないわよ。地力が違いすぎるということを教えてあげる』 ああ確かに、今の俺はおまえ達より劣っている。 しかし、とはいえ、ここで諦めるつもりも死ぬ気もない。 「マリィ――」 答えてくれ。俺はどうしたらこいつらに勝てる。 香純を、先輩を、本城を救いたい。 爆ぜるカインの雷撃に総身を貫かれ、黒焦げになって落下する俺のもとへ数多の影が殺到する。 呑まれる。あれに呑まれて喰い殺される。 地に落ちるまで一秒もない。 たったそんな、刹那の間に、起死回生の有効手段など見つけられるはずもなく―― 「くッ、そぉォッ――」 空中で反転した俺は、眼下の影――いや正確には、まだ奴らが達していない地面の一角に向けて右手のギロチンを叩きつけた。 スペース的には、三十センチ四方もなかったろう。だが衝撃でコールタールのような影は飛び散り、一瞬だが足場が出来る。そして跳躍―― ルサルカは、カインの操作がそれほど巧みというわけじゃない。シスターだったら跳ぶと同時に雷撃の狙い撃ちを受けただろうが、今のところ俺を追ってくるのは影だけだ。 さっき一発撃ったばかり。連続してあの馬鹿げた雷撃を飛ばすのは、さすがに不可能な事らしい。となれば、このあといったいどうするべきか。 跳躍先だった校舎の壁面を再び蹴り、渡り廊下の上に立つ。すると影の侵攻が、若干だが遅くなった。 やはり―― 『うん、いいわよレンくん。わたしはあなたみたいに聡い子が好き』 何処かでにやついている顔が容易に透けて見えるというか、そんな感じの声が響く。 今、この中庭で、もっとも強い光源はカインの武器から迸る雷だ。ゆえに奴より高い位置を陣取れば、そこに辿り着くまでの間に影は薄まる。なまじ雷光が激しいことで、月光が落とす影は弱まっている。 だが―― 『そんなあなたに、一ついいことを教えてあげる』 『わたしの影に、触れたら駄目よ。触れたらそこでお終いよ』 変わらず余裕を滲ませて、朗らかに笑っているこいつの声が言っていた。 そんな浅慮、問題にもならない。あなたは逃がさないし逃げられないと。 『いぃぃ、よいしょおぉっ!』 「――――ッ!?」 次の瞬間、カインが真上に跳躍した。その高さは校舎の四階、一気に十メートル以上。 そして再び、今度は空中で長大な鉄塊が振り回される。爆発する紫電―― 上空で蜘蛛の巣のように拡散した雷撃が、辺り一帯に影を落とす。無論、俺のすぐ背後にも。 「チィッ――」 渡り廊下の屋根を蹴って、空のカインに向け跳躍する。そのまま一気に、首を断とうと攻め込むが、 待ち構えたように振り下ろされた鉄塊を受け、俺は錐揉み状に飛ばされた。 威力も、速度も、やはり以前より遥かに劣るが、踏ん張りの利かない空中で攻撃されたら、弾き飛ばされるしか道はない。 「―――ガァッ」 窓ガラスを突き破り、廊下から壁をぶち抜いてどこかの教室にまで飛ばされた。痛みと衝撃に息が止まり、目が眩んで吐きそうなる。 が、呑気にもだえている場合じゃない。どうせここにも、すぐに影がやってくる。屋内はまずい。 もっと開けた場所、できれば中庭より校庭がいい。遮蔽物がなくなれば影も異様に伸びるだろうが、その分密度は薄まるだろうし、何よりこちらも動き易い。 今のカインに以前の速度は失われているし、ルサルカの影にしても躱せる速さだ。スピードを活かして速攻勝負に賭けるのも悪くない。 ただでさえ、今の俺はヴィルヘルムのせいで消耗し続けているのだから…… ――と、そう考えて、ふと思い当たった。 「あいつは、何処に?」 ヴィルヘルムが戦いの見物だけに徹するなんてありえない。だったら本城たちを追ったのか? いや、でも…… 数秒そんなことを考えて、俺は今いる教室が自分のクラスだということに気が付いた。どうやら再び、ここに戻されてしまったらしい。 そしてそのまま廊下に出ると―― 「――え?」 廊下の端から端まで、いたるところが抉り、削れ、砕けていた。 喩えるなら、鋼鉄の竜巻がここで暴れ狂ったような……螺旋状に床や天井、壁が抉れ、とんでもない有様になっている。 ヴィルヘルムはここで戦い、そしておそらくまだやり合っている最中なのか。 だったら、いったい相手は誰だ? いくらなんでも本城や先輩に対して、ここまで大袈裟な真似はしないだろう。 これはどう見ても人外同士、常識の埒外で成立する戦いだ。そしてそうなら、消去法で答えは一つ。 「櫻井……」 あいつがヴィルヘルムと戦っている? なぜ? いったい何のために? 意味もワケも分からないが、状況を見る限りそうとしか考えられない。 確かに奴らの仲は険悪だったし、俺の前で仲間割れ紛いの真似も何度かしている。こういうことは連中にとって、日常茶飯事なのかもしれない。 でも、なぜ今、どういう経緯で…… 「…………」 予想外の事態に当惑しつつ、しかし考えようによっては漁夫の利を得られそうな局面に立たされて、なぜか俺は幸運だとかツいてるだとか、そんなふうに考えることが出来なかった。 櫻井、おまえヴィルヘルムと、あの殺人戦争中毒みたいな奴と戦ってるのか? 「死ぬぞ、おまえ……仮に勝ったとしてもただじゃすまない」 それは無傷じゃ終わらないという意味と同時に、黒円卓への裏切り行為になるのでは、と。 そう考え、なぜあいつの心配なんかしなきゃならないんだと腹が立ち、ただ破壊の爪痕を俺は目で追う。 戦いは三階から四階へ、そしてその先、屋上へと…… 「ワケ、分からねえ奴……」 吐き捨てて、それきりあいつのことを無理矢理頭から追い出して……俺は再び、自分の戦場に帰るべく窓から中庭へ呼ばわった。 「来いよ、ルサルカ。俺が相手してやりゃ、〈生徒達〉《そいつら》なんか要らないだろ」 それに応え、喜色満面笑うルサルカ。再びカインを跳躍させて、影を引き連れつつ俺のことを追い始める。 戦場は校庭。あそこで決着をつけてやる。 屋上でやり合ってるらしい、ワケの分からねえ馬鹿二人のことなんて、もはや眼中にもあるものか。 そう、俺は櫻井なんか嫌いだ。 香純や先輩、マリィや本城、おまえと彼女らは一緒じゃない。 してみれば、さっき本城に言われたこと。誰にでもそんなことを言うもんじゃないとか何とか。 今の俺に唯一例外的な対人関係があるとするなら、それは櫻井なんだろう。 あんなムカつく女、見たことねえし。 「マジで喧嘩相手だろ」 司狼のそれとはまたベクトルが違う感じの、なんだかよく分からないおかしなポジションにいる女。 だから、まあ、できればおまえも、俺との喧嘩にケリがつくまで死なれちゃ困ると――思わないでもない。  狂乱する暴風は四階の天井を突き破り、校舎の屋上へと達していた。 「はッ――ァ」  抉りこむような回転を乗せたヴィルヘルムの廻し蹴りが、螢の腹に直撃する。――のみならず、インパクトと同時に踵から伸びた杭が数本、彼女の腹腔内を掻き回して胃と腸を千切り潰す。 「――がァッ」  勝負にならない。最初から重傷を負い、精気を吸われているというマイナスファクターを抜きにしても、櫻井螢はヴィルヘルム・エーレンブルグより劣っている。  吹き飛び、金網に激突する寸前、人外の速度で背後に先回りしたヴィルヘルムは、螢の後頭部を鷲づかみにして前方の床に叩き付けた。  それにより、屋上が陥没するほどの怪力と衝撃。叩き付けた勢いもそのままに、彼女の身体を人形のごとく投げ捨てる。  床を砕き、削りながら、給水塔まで二十メートル近く飛ばされた。それだけでも甚大なダメージを被ったが、その程度で済んだだけまだ僥倖と言えるだろう。  掴まれた瞬間、もしも掌から杭を出されていたのなら……螢の頭蓋は串刺しとなっていたに違いない。 「………ぁ」  だから立つ。立って戦う。まだ勝負は終わっていない。  だが、当の相手であるヴィルヘルムは、金網に悠然と背を預けたまま、にやにやと笑うのみだ。  舐めきっている――その事実に目眩を覚えたが、実際に螢はまだ、一度たりとも有効打を与えることが出来ずにいた。  落ち着け。ただでさえ実力が劣っている上、ハンディキャップマッチを強いられているこの状況で、冷静さすら奪われてはより一層勝ち目はなくなる。 「ほぉ……」  呼吸を整えつつ立ち上がる螢を見て、ヴィルヘルムは感心したように鼻を鳴らした。 「今の俺にゃあ、なかなか出来ねえことをする。――はッ、よくやるもんだよレオン」  融合型プラス創造位階、殺戮の狂獣に限りなく近づいている今の彼は、理性、判断力、洞察力……それら総てが希薄になる。してみれば舐めくさっているとしか思えない態度も、螢を激怒させて自らの土俵に引きずり込まんとするためなのか。 「少し、意外だ」 「あん?」 「あなたは、そんなものに執着していない人だと思っていたから」  ろくに回らせることが出来ない頭を使うより、衝動のまま白熱させたほうが爆発力は跳ね上がる。事実、この薔薇の夜は、それを前提として創りあげられているとしか思えない。  なのになぜ、ここにきて小賢しい駆け引きをしたがるのか。 「てめえを狂わせてえんだよ」  素っ気なく、特に他意の見えない素の口調でヴィルヘルムはそう言った。 「相手がキレりゃあキレるほど、醒める類の奴とは相性が悪い。てめえや、そうさな、バビロンなんかがそんな感じだ。 つまんねえじゃねえか。こっちがどれだけ燃えてもよ、ノリに付き合ってくれねえ奴は面白くねえ。自慰に嵌るような歳でもねえしな。 その点、他の連中はいいノリしてるぜ。種類はバラバラだが、一緒にイってくれようとはしてくれる」  足元に転がる拳大のコンクリを蹴り上げて、眼前でキャッチしたヴィルヘルムは、それを無造作に螢の方へと投げよこした。 「つまり、今のおまえじゃそそらねえ」  飛来したコンクリは螢の頬を掠めて背後の給水タンクにめり込むと、そのまま豆腐のように貫通した。 「せっかく少しゃあ見直したんだ。退屈させんなよ、レオン」  タンクから水が迸り、螢の全身を濡らしていく。今このときも奪われ続けている精気の減衰と合わさって、彼女の体温を下げていく。  だが、それはしょせん表面上のものにすぎない。 「私がそそらない?」  ああ、なんだか、つい最近も誰かからそんなことを言われた気がする。  確かに私は可愛くないし、嫌な女で、魅力なんかないだろう。  でも、だけど―― 「もっとはっきり見てちょうだい」  冷静さは大事。理性も判断力も洞察力も、手放せないし忘れない。 「ベイ、私は――」  だけど自分は、今までずっと十一年間、胸の奥では常に狂い続けてきた。  それは確かに、六十年以上狂気を継続してきた彼らより、拙いものかもしれないけれど。  短く、刹那的に擦り切れるまで駆けようとした自分の炎が、チャチだなんて言わせない。 「私は、外側だけ格好をつけるのが変に上手くなってしまったから……分からないんでしょうね、あなたには」  頭は冷え、思考は明晰。だけど魂は灼熱に――  櫻井螢はそんな女。内も外も四六時中大火災を地でいっている、あなたのような人には分からない。  私がどれだけ猛っているか。たとえ動機がネガティブでも、この戦いにどれだけ心を燃やしているか。 「ありがとうって、言ったじゃない」  感謝してると言ったじゃない。 「あなたと盛り上がっていくことに、異存なんかないわよ、ベイ。 穿って刺して貫いて。痛めつけて罵倒してよ。せめてあなただけでもそうしてくれなきゃ、私なんて――」 “もうおまえのことなんかどうでもいい”――  彼にまで、あの馬鹿みたいなお人好しにまでそう言われちゃった自分なんか、何の価値もないじゃない。 「マゾ野郎が……」  ゆらりと、背を預けた金網から身を起こすヴィルヘルム。右手を顔の横に上げ、甲を前へ向けていた拳が音を立てて握り込まれる。 「てめえも結構な変態だってのは分かったよ。 いい面だ、レオン。お望みどおり、グシャグシャにしてやる」  一足飛び――二十メートルの距離を一度の跳躍でゼロに変えたヴィルヘルムは、握り込んだ右の拳を螢の顔面に叩き込んだ。 「――――ッッ」  しかし、それでも彼女は倒れない。その場を一歩も動かない。 「グッ、――あッ――づゥッ」  嵐のような拳撃は終わらない。薔薇の夜に餌があり、吸い続けている限りヴィルヘルムの体力は無限に等しい。このまま数分、数十分、丸一昼夜それ以上――彼がやめようとしない限り、この責め苦は永劫続く。 「おっとォッ――」  至近距離。数十発以上の拳を受けるまで引き付けてから放った刺突は、しかし難なく躱された。加えてその返礼だと言わんばかりに、避けざま旋転した肘打ちが凶悪な遠心力を乗せてこめかみに爆発する。 「あァッ――」  さすがに今度は耐え切れずに身体が流れ、たたらを踏んだ彼女の顎先を蹴り上げる軍靴の一撃。  少なくとも四・五メートルは直上に飛ばされながら、それが落下に移行するよりなお早く、ヴィルヘルムは螢の上へと――  赤い眼光。逆立つ頭髪。巨大化して歯茎を突き破りながら伸びる犬歯。  彼は今、心身ともに吸血鬼。それは比喩でも何でもなく、ただの紛れもない事実だった。  血を吸う鬼になりたい。殺戮と暴虐と耽美と不死と――他者を吸い殺して己を新生させる夜の不死鳥。  ヴィルヘルム・エーレンブルグが胸に懐く、最大の渇望はつまりそれだ。  この夜、この創造世界、彼は紛れもないドラクリア。再度空中で放たれた刺突を牙で噛み止め、杭の生えた右の拳が螢の心臓に叩き込まれる。 「―――ァァァッ」  串刺し公。その名の通り細い女体を刺し貫いて、地面に縫いとめてからヴィルヘルムは立ち上がった。 「どうだい、嬢ちゃん。少しはいけたか?」 「……ええ、感じすぎて、もう動けない」  地面に縫い止められているという物理的意味を差し引いても、聖遺物で心臓を貫かれた螢はもはや疑いようもない致命傷だ。たとえ即死を避けたとはいえ、指一本すら動かせまい。 「そりゃよかった。遺言がありゃ聞いてやる」 「優しいのね、意外と……」 「なぁに、こんなもんはただの名残だ」 「戦の前にゃあ遺書を書く。出撃前には〈仲間〉《ダチ》とそれを交換する。俺もなレオン、人間やってた頃はそれぐらいの可愛げを持ってたもんだ。 みんな死ぬ。全員死ぬ。残るのはいつも俺。ちょいと周りを見回しゃあ、似たようなのが十人そこらいたってだけの、そんな話よ」 「だから……?」 「あん?」 「だからあなたは、〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈ふ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》? 戦友たちと、一つになりたかったの?」 「違うね」 「そういうのはマキナ――いや、あいつも何考えてんのか分かんねえが、俺はそんなガラじゃねえ」 「だったら、どうして?」 「さて、知らんねえ。昔すぎて忘れたよ」  嘯きながら、ヴィルヘルムは宙を仰いだ。  赤い月の、薔薇の夜。この世界にいる限り、彼は不死身の血を吸う鬼で、そして、そして…… 「分かったような、分からないような」  そんな彼に、螢は下から、切れ切れの苦笑を浮かべたまま呟いた。 「ただ、あなたの創造がどんなものか、それは分かった。 ねえベイ、せっかくの白い肌に、火傷なんかつけてどうしたの?」  螢のよく分からない問いに、しかしヴィルヘルムは無言のまま、足元の彼女を見下ろしていた。 「さっき、私の剣を、噛んだとき? 治りがずいぶん、遅いのね」  確かに、言われてみればヴィルヘルムの口許から頬にかけて、細い火傷が走っていた。  先の刺突を噛み止めたとき、螢はすでに瀕死であり、その生命力に見合う規模しか剣は燃えていなかったにも拘わらず。  本来なら、瞬く間に消え去るだけの些細な火傷が、未だ彼の顔に残っている。  それはなぜ? 「創造位階は、ルールの創造」 「術者、自身の、魂に刻まれた強い渇望。それを、ルールに変えて、世界を変える。変えて、新たに創り出す。 あなたの、〈渇望〉《ユメ》は吸血鬼」  血を吸う鬼になりたい。  陽光を忌む不具の畜生児として生を受け、ならば夜こそ我が世界。 「夜が永遠に明けなければいい」  夜に無敵と化す魔人になりたい。 「それが、あなたの〈渇望〉《ルール》」 「つまり?」 「吸血鬼には、弱点がある」  銀に十字架、陽光、流水、聖餅、そして―― 「炎に弱い」  本来なら、そのどれもが黒円卓の騎士には通じない。  だがここでは、ヴィルヘルム・エーレンブルグが自ら創造した世界においては――極大のパワーを得る代わりに、彼は本来有り得ない弱点を帯びる。 「おかしいと、思ったの。だって今のあなたは、強すぎるから」  創造を発動して自らの世界に身を置けば、地力にプラスの補正がかかるのは皆同じ。  だがヴィルヘルムの強化具合は、それにも増して凄まじすぎる。 「論理の逆転による自己肯定。日の光に忌まれたんじゃない。自分が日に背を向けたんだと……そう信じたカタチが吸血鬼という〈願い〉《ユメ》。 結果、弱点すら受け入れる願望ゆえに、〈夜〉《ここ》のあなたは誰より強い」 「その通りだ」  愉快げに歪んだ口許から、今ようやく火傷が消えた。面白くて堪らないと宙を仰ぎ、ヴィルヘルムは大笑する。 「ふふふ、はははは、ははははははははははは―― いいぞ、レオン。てめえなかなかいい女だよ。俺としちゃあ見え見えのつもりなんだが、これが意外にほとんどの奴は気付かねえ」 「それで、さあどうする? どうしてくれる? せっかく盛り上がってきたんじゃねえか。まさかこのまま、種明かしだけしてサヨナラなんてこたァねえよなあ」 「ええ、出来るだけ期待に沿うわ」  螢の口調は、先ほどから徐々に平常のものへと戻っていた。  あれだけの連撃を受け、心臓を貫かれ、本来なら喋るどころか、とうに死んでいてもおかしくないはずなのに―― 「私の〈創造〉《ルール》を教えてあげる」  胸には炎。魂を灼熱に。意志と理性は手放さず、だけど戦意は荒れ狂う猛火と化せ。 「〈Die dahingeschiedene Izanami wurde auf dem Berg Hiba〉《かれその神避りたまひし伊耶那美は》〈an der Grenze zu den Ländern Izumo und Hahaki zu Grabe getragen.〉《出雲の国と伯伎の国 その堺なる比婆の山に葬めまつりき》」  同時、螢の髪が、肌が、緋色に変わり、そして徐々に透き通っていく。 「〈Bei dieser Begebenheit zog Izanagi sein Schwert,〉《ここに伊耶那岐》〈das er mit sich führte und die Länge von zehn nebeneinander gelegten〉《御佩せる十拳剣を抜きて》〈Fäusten besaß, und enthauptete ihr Kind, Kagutsuchi.〉《その子迦具土の頚を斬りたまひき》」  胸を貫き、地面に縫い止めていた杭をもすり抜けて―― 「〈Briah〉《創造》――」  櫻井螢は、その全身を炎の化身へと変生させる。 「〈Man sollte nach den Gesetzen der Götter leben.〉《爾天神之命以布斗麻邇爾ト相而詔之》」  瞬間、屋上に爆発と火柱が発生した。  ヴィルヘルムは一気に火炎の有効範囲から跳び退り、大仰なアクロバットでバク宙しながらフェンスに降り立つ。  立ち上がった緋の少女。その姿にあらん限りの期待を向けて。 「これで少しは、いい勝負になると思うわ」 「ああ、そう願いてえなあ」  共に発動した創造位階。だが螢のそれは、ヴィルヘルムのものとあまりにも違いすぎる。  片や周囲を空間ごと変え、片や己の身だけを変え――  その差異は? 優劣は? 「あなたの世界は、戦争を前提にしている」  緋色の火炎と化した身を文字通り燃焼させつつ、しかし氷の声音で螢は告げた。 「何十人、何百人を巻き込んで、纏めて殺す大量破壊兵器」  一対多数――それを前提にした上での能力行使。なるほど確かに、鉄風雷火吹き荒れる戦場でこそ無類の真価を発揮しよう。 「創造位階はルールの創造。つまりこの夜も、この疲れも、あなたの常識を周りに押し付けているだけのこと でもね、ベイ……常識なんて、人の数だけ存在するのよ」  夜が最美、最優であり、明ける必要などないとするのはヴィルヘルムだけの価値観だ。  現実には昼を好み、夕日を好み、月よりも雲や雨、雪――そんな者達がいくらでもいる。 「創造世界に大勢巻き込めば巻き込むほど、常識がぶつかり合って威力が落ちる――〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈有〉《 、》〈り〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と、世界を否定する因子の数だけ、あなたの〈常識〉《ルール》には亀裂が走る」  この世界に巻き込まれた者――その総数は三百以上。それだけの異分子を内包し、なおここまでの夜と異能を発現させるヴィルヘルムの自我の強さは、なるほど確かに並みじゃない。  かつて彼が、数多の戦場を薔薇の夜で染めたように、その自我を塗り潰して消し去れる者などおそらく何処にも存在しない。  例外があるとすれば黒円卓の双首領――他の者には不可能だろう。  だがしかし、それでも今は―― 「私に、マレウス、藤井君……」  自我なきカインは除くとしても、超人の域にある者が三人いる。 「致命的とは言わないまでも、だいぶ苦しいんじゃないかしら?」 「確かに、腹具合はちと悪いが。 まあ、さっきてめえを殺しきれなかったみたいによ、そういうことも多少はあろうさ」 「だが、それで?」  フェンスに、床に、そして何もない空間からも――杭が、杭が、杭が生える。 「俺にとっちゃあ、戦いってなそういうもんだ。タイマンだろうがなんだろうが、関係あろうが無かろうが、纏めて刺して吸い殺す。 俺の周りにいるってこたァ、俺に殺されてえってことなんだよ」  同時、バルカン砲のごとき杭の嵐が螢を襲った。 「火になったからすり抜けるだのと、楽観するなよお嬢ちゃん」  ここは依然、彼の夜。  炎は穿てず、斬れず、砕けず――そんな常識は通用しない。 「じゃあ、どっちの方が頑固者か――」  前傾姿勢で身を屈めると、螢は一気に地を蹴った。 「試しましょうか―――ッ!」  炎塊と化した身を躍らせて、杭の嵐に身を投じる。  螢の世界は彼女の内面にだけ展開し、彼女だけを異に変えるもの。  櫻井螢が一つの異世界。誰も巻き込まず邪魔されず、己一人で完結する無人の恒星――  ならばこそ、多少なりとも威力を減じ、炎と吸血鬼という相性問題。勝算はある。絶望などない。  だが―― 「ぐゥッ――」  炎が抉れ、削られる。未だヴィルヘルムの創造を壊せない。  怪我と消耗のマイナスに、相性はプラスの天秤。秤はゼロか? いいやそれとも―― 「てめえが下だ」  螢の斬撃でフェンスが蒸発するより一瞬早く、宙に飛んだヴィルヘルムから再び杭が撃ち下ろされる。  それと同時に―― 「嬢ちゃん、戦争ってもんを分かってねえ」 「――――ッ」  螢の真下、床の上から、突き上げてくる薔薇の杭。  剣山の様相と化した足元と、上から落ちてくる挟み撃ちはさながら巨獣の〈顎〉《アギト》のようだ。挟み込まれて喰い殺されんとする状況で、螢は文字通り獅子奮迅の抵抗を見せるがしょせんそれまで、限界がある。総ては躱しきれず、捌ききれない。 「ああァァッッ――」  上と下、両方向から貫かれた身体は、しかし土壇場で炎の特性を発揮して逃れ出た。  ――が、言うまでもなく被害は甚大であり、深刻だ。穴は埋まり、血も流れないが、直で魂を攻撃されているのと変わらない。  そして、休む間もなく連続で放たれる杭の砲弾。  上下左右、四方八方――躱しきれないと悟った螢はダメージ覚悟で反撃を試みる。  床を切り裂き、コンクリートも溶解させて振り上げられる緋々色金。その刀身もすでに炎と化しており、ゆえに伸びる。逃がさない。  刃渡り五メートルと化した火炎の斬撃は、空中にあるヴィルヘルムの右肩を断ち割った。噴き上がる鮮血すら一瞬で蒸発し、肉が焼けて骨が燃え、髄液までが沸騰する。  発狂に値する激痛に晒されながらも、しかし彼は怯まない。  一瞬の躊躇、停滞、隙も見せず、そのまま螢の全身を槍衾へと変えていた。 「―――づあァァッ」  つまり、先ほどヴィルヘルムが指摘したのはそういう意味だ。  螢は一対一に慣れすぎている。多角的な攻撃に酷く弱い。  多勢に無勢を経験したことがないわけでもあるまいが、彼女の精神、魂がそのように出来ている。  自分一人、胸に懐いた望みと信念だけを〈縁〉《よすが》にして、その他一切を眼中に入れない狭窄視野。良く言えば孤高だが、それは一般に脇が甘いと言われる類。だから四方に目がいかない。  対してヴィルヘルムは、生まれたときから周囲を悪意に囲まれていた。  己以外は総て敵。時代と環境がその思想を促進し、結果として生み出されたのが薔薇の夜――彼の性根は黄金以外を信じておらず、他は何者であれ吸い殺す。  ばら撒く殺意はしかし同時に、一対一をするのに向いていない。  先ほどからほぼ螢を圧倒しているにも拘わらず、未だ殺しきれないのがその証だ。数百数千を常に殺したがっているせいで、殺意を絞り先鋭化することに慣れていない。  つまり、二人の特性は一長一短。どちらが優れ、劣っているというものではない。  喩えるなら、戦闘の専門家と戦争の専門家だ。  己一人が突き詰めていく求道。  周囲を食い潰して広げる覇道。  螢は前者ゆえに万本の杭に対応できず。  ヴィルヘルムは後者ゆえに炎の少女を未だ消せない。  とはいえ、この状況が長く続けば、勝負の〈趨勢〉《すうせい》は明らかだった。  普通よりやや殺しにくいというだけで、ヴィルヘルムの攻撃はほぼ確実に命中するのだ。このままいけば遠からず、螢は削り殺され、死に至る。  再び炎の特性を活かして密集地帯から逃れた彼女を、連続して杭が追う。 「ぐうゥゥ――」  斬り返し、弾き飛ばし、あるいは躱し、もしくは逸らし、止むことのない杭の弾雨。すでに三十、四十、五十、六十――まだ終わらない。  螢が創造を発動してから、ヴィルヘルムは完全な遠距離戦法を採っていた。彼にとって致命となり得る火炎の身には、決して触らないし近づかない。  ――いや、本当にそうなのか?  殺戮の権化となった今の彼が、そんな賢しい選択をするのだろうか。  分からないが、ともかくこの間合いでは勝機が無い。刀身を伸長させる斬撃では、一刀で斬り伏せない限り隙が大きすぎて反撃される。  それならば、何にせよ接近できるタイミングを狙わなければ――  と、都合二百八本目の杭を弾いたその刹那に、生じた再装填の溜めを螢の目は見逃さなかった。  ――いける。  地を蹴り、炎の彗星となって吸血鬼へと疾駆する。敵をこの緋色で包み、叩き斬って紅蓮に燃やそう。  起死回生を狙った一撃必殺。紛れもない乾坤一擲に総てを懸けて、しかし瞬間―― 「――甘え」  ヴィルヘルムもまた螢と同じく、いや、さらに速い悪魔の踏み込みで肉弾の間合いへと入っていた。  背中を見せるほど上体を捻転し、引き絞られた弩弓のように筋肉が軋んでいる。  そこから放たれるのは渾身の一撃―― 「逝けやヴァルハラァッ――!」  拳に生やした杭をメリケンサックのように握り締め、火炎がその身を焼くのも意に介さず、凶虐の化身となった鬼の拳が放たれる。  狙いは喉。  頚骨を粉砕し気管を潰し、爆撃に等しい破壊力がその一点に炸裂した。 「―――――ッッ」  もはや声すら上げられず、吹き飛んだ痩身は給水タンクを突き破ってその背後にある壁面へ。  叩き付けられると同時に水蒸気爆発が巻き起こり、辺りを粉塵と煙が覆い尽くす。  全身をバラバラにするような衝撃に、今まで繋いできた意志の線が、残らず纏めて断ち切られた。  そう、これで――勝負あり。 「あ、ぁ……」  動かない。今度こそ立ち上がれない。  全力を出した。命を懸けた。なのにそれでも、負けるのか? 「いや、だ……」  死ねない。死ねない。死にたくない。だけど身体が動かない。  助けて―― 「まだ生きてんのか」  拳を振り抜いた姿勢を戻し、そこから螢を見下ろすヴィルヘルム。  炎の身体を殴ったせいで右手は重度の火傷を負ったが、まるで気にしている様子はない。  それも当然。曰くキレてのっていたのなら、些細な負傷など痛くないのだ。  つまり、彼は彼なりに戦いを楽しんだということだろう。 「そう悪くはなかったが、経験不足だな、レオン」 「おまえ、自分が何か新しい概念を体現したとでも思ってたのか? 黒円卓にゃあ、てめえだけを変えるって奴が他にもまだ、何人かいるぜ。 しかも、残らずおまえより数段上だ」  それは子供を諭すような、この男にしては優しげな口調だった。  螢は何も言えないまま、死の淵に〈揺蕩〉《たゆた》いつつそれを聞く。  そう、自分は子供。無知で無力で無能で馬鹿で、何の役にも立たないどころか重荷になって、大事な人たちをなくしてしまった。 「わた、しは……」  許されないの? だからこんな終わりがきたの? 私、頑張ってきたつもりだけど、駄目なのかな?  ねえ、答えて…… 「マキナに、そしてシュライバー。……ああ、あとはヴァルキュリアもだな、そういう変化を起こすのは」 「ベア、トリス……?」  そうだ、ベアトリス。彼女は今の私をどう思うだろう?  怒るだろうか? 呆れるだろうか? それとも笑うだけだろうか?  どうせ子供扱いされるだけだし、嫌だけど、叶うならば彼女に訊きたい。  あなたなら、こういうときどうするの?  どう戦いどう生きるの?  私はまだ死にたくない。  あなた達に逢いたいから、謝りたいから……ここで終わるわけにはいかないの。  だから、ねえ、答えてよ。  教えてよ。  私を助けて、お願いだから―― 「くくっ……」  螢の目に僅かだけ戻りつつある光を見て、ヴィルヘルムは笑みを漏らした。  面白い。喰い足りない。まだ折れてないというのなら、骨の欠片になるまで立ち上がり、俺と戦え。  この夜に血をばら撒け。  おまえにはその義務がある。  俺を心底から楽しませ、〈殺意〉《アイ》で枯れ落ちる〈恋人〉《バラ》となれ――  あいつのように―― 「おお、おまえの好きなキルヒアイゼン中尉だよ。俺が知ってる範囲で言やあそんなもんだが、まあ良かったじゃねえか。喜べよ。 おまえの創造、練度も強さもだいぶ劣るが、あの阿呆のによく似てるぜ」 「――――」  その台詞が、引き金となった。 「あッ―――く……」  立ち上がる。もはや〈毫〉《ごう》も動けぬと思われた少女の身体が、再び活力を得て起き上がる。  そんなことを聞かされたら、そんな嬉しいことを言われたら……  いつまでも、こんなところで、寝ているなんて出来るわけない。  胸の魂を灼熱に変え――燃え上がる〈闘志〉《テュール》こそが私のルーンだ。  致命傷など受けていない。  死の河なんか見ていない。  この身は炎、破壊不可也――  私がそう信じる限り、吸血鬼の夜になんか負けたりしない。  たった今、強くそれを確信できる。  なぜなら―― 「彼女は、どんな……」 「そうさなあ」  言って、ヴィルヘルムは破顔した。  本来なら、ここで螢の問いに答えてやる必要などない。  真っ当に考えれば回復の時間稼ぎか、隙を探ろうという苦肉の策でしかないはずだ。  懐古や、哀愁、思慕の念から本当に知りたがっているという面も多少はあろうが、普通に考えてそんな思考は一割未満。三割に届けば間抜けとしか言いようがない。  ゆえに、彼の見立てでその辺りに近いと判断すれば、有無を言わさず止めを刺していただろう。  それが答える気になったのは、目の前の少女が度外れて度し難い、狂人の領域にあると思ったからだ。  実に、この状況で、限りなく十割近く――螢は純粋に、そのことしか考えていないのだ。  なぜなら目が、強く光を放つ彼女の双眸が言っている。  ベアトリスと私が同じなら、あなたなんかに負けるはずない。  彼女の技を真似できるなら、絶対に私は勝てると―― 「くくっ、くははは……」  可笑しい。可笑しい。可笑しくて堪らない。  なんて愚直な信頼。何処までも笑える愛情。  ああ、ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン――おまえは本当に馬鹿で阿呆で、最高にいい女だよ。  死んで、喰われて、十一年……もう口も利けず触れもしない。  スワスチカの一つとなってシャンバラに散ったおまえさんが、まだこれだけ狂ったガキを俺の前に立たせるなんて――  なあおい、それは奇跡ってやつだろう。 「見ろや、レオン――」  喜悦に細まる赤い瞳。視線の先は、中庭を抜けて校庭へと。 「ヴァルキュリアの創造、それはな――」  両手の十指が、優雅華麗に舞い踊る。  リザ・ブレンナーの操繰がオーケストラの指揮者なら、ルサルカ・シュヴェーゲリンのそれはピアニストだ。主旋律の花形であり、高慢なまでの自己主張すら時に許されるその特性。  つまり、叩いて弾いて激しく楽しく。  〈強く〉《forte》、〈強く〉《forte》、〈極めて強く〉《fortissimo》――  彼女は“楽器”の耐久度などまるで考慮していない。どうせリザがいない今、あれは腐り果てて消え去るのみ。ここで使い潰しても問題ない。  そう、そしてだからこそ、ここでやらねばならぬこと。  藤井蓮の力を奪う。彼の聖遺物とその能力、あれを自分が手に入れる。  メルクリウスの秘蔵品というだけでも蒐集癖が刺激されるし、何よりとても強力だ。彼は未だその力を揮えないのか、自覚が無いのか、不明だが、あれはおそらくマキナの一撃に匹敵する。  斬首刃、処刑器具。首を斬られて死なぬ者など存在しない。  〈も〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈と〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》、あれはどんな魔人、怪人、死人や聖人に至るまで、きっと殺せる。絶対殺せる。  たとえば、ハイドリヒ卿やメルクリウスをも。 「うふ、うふふふ……」  零れる笑みを止められない。  ああ、でも勘違いはしないでね。わたしに反逆の意志なんてない。  メルクリウスは嫌いだし、ハイドリヒ卿は怖いけど、彼らと争おうなんて思っていない。  これはただ、プライドの問題だ。魔道の徒として、抗い難い本能だ。  生き続ける限りひたすら高みへ。歩ける限りただ前へ。  進み、上り、昇華を目指す。それが悪いなんて言わせない。  だからいいでしょ、好きにして。わたしはあなた達の僕として、もしかしたらあなた達よりほんの少しだけ強くなる――かもしれない。というだけのこと。  そもそもが、あんなモノを創った時点でその可能性はあったはずだ。  ラインハルト・ハイドリヒただ一人にしか扱えず、彼にしか許されなかった超絶の業――すなわち喰った〈能力〉《モノ》を奪い取るなんてデタラメを。  〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》――それは運命の聖槍の複製品。  見た目は似ても似つかないが、その特性は真に迫った。  あるいはもしかして、“略奪”でなく“複写”なのかもしれないけれど。  結果的にトバルカインは、〈斃〉《たお》した者の武器と力をものにできる。  それこそが彼の――いいえ、あの聖遺物固定の創造位階。  ゆえに、ここで藤井蓮の断頭刃を略奪、複写し終えれば、あの死体人形が砕け散ろうと構わない。  必要なのはその聖遺物と。  狂気の執念で聖なる槍をも複製した、あの血族がいればいい。  それさえあれば、トバルカインは何度でも創り出せる。  リザがそういう野心を持たず、十一年前から何もしなかったというのが不思議でならない。  わたしなら、世界中のあらゆる聖遺物を掻き集め、何千何万もの人を攫い、適正者を選び出して残らずカインに喰わせるだろう。  そうして強化を続けるだろう。  なぜそうしないのか? 気付かないのか? 頭が悪いのねシスターは。  でもこれからは大丈夫。  わたしがあのバケモノ一族――末代まで使ってあげる。 「待っててレオン、すぐ行くわ」  呟き、艶然と微笑んだその瞬間―― 「――あいたっ」  可愛い声とは不釣合いな轟音が響き、ルサルカの顎が後方へと跳ね上がった。 「ちゃ~~、やっぱ駄目か。どうしよう」  剣道場――〈結跏趺坐〉《けっかふざ》の姿勢で目を瞑り、何やらにやついていたルサルカに一発お見舞いしたはいいが、やはり銃弾など効きもしない。 「あんたらさあ、そこまでいくとギャグに見えるから空気読もうよ。てゆーか、真剣にどうなってるのか、解剖したくなるじゃない」 「あら、あなた……」  涙目で額を擦りながら起き上がったルサルカは、頬を膨らませて抗議する。 「ちょっとぉ、いきなり何するのよ。分かんないだろうけど、それなりに痛いんだからね」 「それなり、ね……」  本気なのか冗談なのか分からない。マグナム弾すら笑って受け止めるヴィルヘルムのような者がいる以上、おそらく本当は痛くもなんともないのだろう。 「まあ、そりゃいいとして、あんたは何してたのさ?」 「わたし? 見りゃ分かるじゃない、演奏よ」 「演奏?」  見ればルサルカの十指は忙しなく、蜘蛛のように今このときも蠢いている。事態は判別しかねたが、どうせろくでもないことには違いない。 「それであなた、会うのは二度目ね。わたしに何か用かしら?」 「別にあんたにゃ用はないけど……」  香純はここにいないようだ。どうも先走って要らぬ地雷を踏んだらしい。  らしくなく焦っていたのか、ろくに確かめもせず発砲なんかするんじゃなかった。  しかも―― 「あれ? ちょっとそこの、出てきなさいよ」  いったいどういう感覚をしているのか、戸口の外に隠しておいた玲愛の存在まであっという間に看破される。 「出ておいで」  その言葉に、何か引力でもあるのだろうか、陰から怯えと躊躇いの気配が伝わり、氷室玲愛が現れて―― 「え――?」 「――ぬッ?」 「あ……」 「これは――」  そのとき、学園の敷地内にいる超常者四名が、まったく同時にある異変を感じ取った。  いや、これは前兆と言うべきだろう。 「あ、あぁ、あああああ……ッ」  もっとも敏感にそれを察したのは、瀕死ゆえに抵抗力の落ちた螢だった。 「ちょ、待ってよ……」  次いで、魔力と魂の流れに鋭敏な知覚を有するルサルカ。 「野郎が……」 「いったい……」  蓮とヴィルヘルムはほぼ同レベルに。 「―――うッ」  最後に、常人ながら非凡な感覚を持つエリーが悪寒を覚えた瞬間に。 Dies irae, dies illa solvet saeclum in favilla,teste David cum Sybilla.  校内全域が、嵐のような凶念の渦に巻き込まれた。 トバルカインが咆哮する。ルサルカの影はいきなり掻き消え、今までの数倍はあろうかという極大の紫電が奴の鉄塊に集まりだす。 「〈ea〉《ア》………」 「〈ea〉《ア》………〈ce〉《ス》」 仮面の間から漏れる声。聞きたくない、聞かせるな。おまえの声は気持ちが悪い。 込み上げる嘔吐感を堪える一方で、ワケの分からない圧力が薔薇の夜を揺るがしていた。 それによって、身体を覆っていた虚脱感が心なしか軽減したようにも感じるが、今はそれより目の前の異常―― クラブの時もそうだった。こいつは、この死体野郎は、人形師の気配が消えると不可解な暴走を開始する。 以前より強く、以前より速く、以前より正確に―― 「……ア……ス…」 ひび割れ、今にも砕けそうな仮面の奥から、これまでより明晰な声が届いた。 「…ア……トリス…」 「ベア……トリス…」 ベアトリス――? その名は確か…… 「――ベアトリス」 すでに死んでいる団員。博物館のスワスチカに捧げられた、櫻井の前任者。 曰く、強いて言うなら香純に似ているという、おかしな女。その名前を―― 「どういう――」 俺が何かを口にするより速く、雷速で―― 以前は櫻井のお陰で命拾いした、極大の雷撃―― あのときよりもなお凄まじく、なお激しく―― 夜を粉微塵にする勢いで、紫電の暴威が目の前に炸裂した。 「――クソがァッ」  校庭からこの屋上にまで達する雷撃に舌打ちして、ヴィルヘルムは飛び退る。 「野郎、こりゃあどういうこった」  薔薇の夜が軋んでいる。内包する異分子が許容量の限界近くに迫り危険だと、彼の本能が告げている。  だが―― 「舐めんなァッ――」  再度加重させる夜の層。ここは彼の国、彼の世界――誰にも破壊などさせやしない。  常人ならば万人呑んでも支障などなく、同類だろうと容易に崩せるはずはない。  事実、今このときまで、螢に蓮にルサルカと、三人呑んでも己の支配力が勝っていた。  だというのに―― 「カイン、てめえは……」  なぜ、命も自我も無き死体人形が薔薇の夜に抗っている。おまえはいったい何者だ?  不可解極まる事態に眉根を寄せつつ、しかしとりあえずそれはいい。  理屈は不明だが、異分子の列にカインが加わったところでまだ四人。その程度なら問題はない。  問題はないはずなのに、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈か〉《 、》。 「〈五〉《フュンフ》、〈六〉《ゼクス》、〈七〉《ズィーベン》、〈八〉《アハト》……」  新たに四人――しかも残らず超級の魂持ちが、この夜に入ってくる。  一人は焦熱。一人は暴嵐。そして邪聖と鋼鉄の魂が―― 「クリストフッ――!」  牙を剥いて激昂し、ヴィルヘルムは内の一人に吼えかかった。 「てめえ、俺を謀りやがったなァッ!」  殺して構わんと言っただろうッ!  好きにしろと言っただろうッ!  だというのにこれはいったい、貴様どういう了見だッ! 「――私はあなたを謀ってなどいない」  姿は見えず、位置も分からず、しかし間違いなくすぐ傍から、そして伽藍に響くがごとき荘重さを持ち、聖餐杯の声が響いた。 「〈死を想え〉《メメント・モリ》――それはテレジアの恐怖。テレジアの執着。彼女が希望ないし絶望を知り、生死のどちらかを“渇望”した瞬間に、大隊長殿らは招かれる」 「これはつまりそういうこと。それまでにレオンハルトを殺しきれず、戦いを長引かせたあなたの不手際。あなたの敗北。私の預かり知るところではない。 残る御二人が帰還するには、第五のスワスチカが必要なれば――」  瞬間、月を貫く黄金の光―― 「あ――」 「………ッう」 「捧げられるべきは、敗北者こそ相応しい」  夜の外側から赤の月を貫いて、黄金光が世界に差し込む。  そしてそこには、月から吐き出されて光に貫かれている香純の姿が。 「てめえ……」  ヴィルヘルムは知らない。このとき距離と空間を一切無視して、もう一人貫かれた者がいたことを。 「核の移譲はこれで成り、我が望みの半分は成就した。 眠れ戦友、ヴィルヘルム・エーレンブルグ中尉殿。あなたは私が知る限り、もっとも優秀かつ勇敢な戦士の一人でしたよ」 「ざけんなァッ――」  針の先ほどの穴を開けて、何を勝った気になっている。  依然、我が夜は崩れない。俺は誰にも負けていない。  眠れだと? 敗北者だと? いったい誰が今の俺を、無敵の吸血鬼を斃せるという――!  激怒の瞬間、ヴィルヘルムの意識は戯言を抜かす神父だけに向けられており、他の総てを忘却していた。  思慮を極限まで薄めざるを得ない融合型の特性を差し引いても、先ほどの台詞は彼を狂わせるに充分すぎる。  百万の罵言、千万の呪詛、億の暴虐を叩きつけてもまだ足りない。  俺を負け犬だなどとほざく貴様、引き裂き串刺し貫いて―― 「そんなあなただからこそ――」  今、立ち上がった櫻井螢に気付かない。  極限の負傷と、極大の魂にあてられた状態ゆえに、事態が分からず忘我と化している彼女のことを。  愚直なまでの戦意と闘志を炎に変えて、燃え尽きるまで進むしか知らない彼女の強さを。  その剣を―― 「もう一度言う。あなたの負けだ、ベイ中尉」 「貴様ッ――」  いったい、聖餐杯は何処まで予想し、何処まで考えていたのだろう。  藤井蓮と接触した氷室玲愛が、希望を懐き恐怖を知る。  それによって招かれる大隊長。  混乱したルサルカが糸を放し。  人形が人形ならざるモノへと変わり。  集う超級の魂が薔薇の夜を軋ませる。  そして―― 「ここに、第五のスワスチカは成る」  総て計算の上だったのか。あるいは本人が言うように、たまたま螢が粘った結果の偶然なのか。  答えは分からず、確かめる術もない。  ただ、今は―― 「さようなら、我が愛しき同胞。この聖痕を抉る痛み、私があなたの代わりに受けましょう」  ヴィルヘルム・エーレンブルグの死をもって、この戦いは終了した。  それだけが、偽りのない真実である。 「あ……、は……」  呼吸が止まっていたことすら今思い出したと言わんばかりに、螢は息を荒げてその場に倒れた。 「ベイ……」  勝った。斃した。無我夢中でほとんど覚えていないけれど、自分の剣がヴィルヘルムを両断した感触だけは、まだこの手に残っている。 「やった……」  安堵の吐息を漏らしながら、しかしすぐに、そんな気持ちは消え失せた。  ここでいつまでも寝ているわけにはいかない。  この場で命を拾ったのなら、確かめないと……行かないと……  彼が戦っている、その場所へ―― 「……さん」  逢いたいの。もう一度あなた達と逢いたいの。  逢って、話して、抱きしめて……抱いてほしいの、昔みたいに――  だから――  床を掻き毟るように爪を立て、螢はもがき、這い進む。  それは無様で哀れを誘い、手を貸さずにはいられない。  だからだろうか。 「大人しくしなさい、レオンハルト」  現れた神父はそっと優しく、彼女の身体を抱き上げていた。 「……あ」 「今、無茶をすれば命に関わる。彼が気になるのなら、ここから見ようではないですか」 「猊、下……」  なぜこの人が、そして何時の間にここへ来たのか。  呆然と見上げる螢に甘く微笑みながら、トリファはフェンスの向こう側へとさりげなく顎をしゃくった。 「なかなか見応えがある。……ほぅ、藤井さんもやりますね。“あの”カイン相手にまだ立っている」  視線の先、校庭では紫電と剣閃が瞬いていた。ナハツェーラーが消失した今、眼下の戦いは紛れもない一対一。 「雷速を凌駕し、雷撃を掻い潜る。なるほど、あれを〈斃〉《たお》すには確かにそれしかないでしょうが、また随分と無茶をする。もはやボロボロではないですか。 いけませんねえ。リザやテレジアが見れば目を剥いて卒倒しかねない。彼はもう少し、自分がどれだけ周囲にとって価値を持つか、弁えたほうがよろしい。 あなたもそう思うでしょう、レオンハルト」 「あ、わた…しは……」  遠目に見る校庭での戦いは、確かに神父が言う通りの様相だった。  止むことなく迸るカインの雷撃と、それに迫る雷速の身のこなし。巨体に見合った人外のパワー。  それに立ち向かう藤井蓮は、もはや削り殺されかけている。速さも力も劣る上に、飛び道具まで有する相手に彼が勝利する手段はない。まるで自分とヴィルヘルムの戦いを再現しているような有様だ。  そう、トバルカインは〈斃〉《たお》せない。  それこそ、雷速を凌駕し雷撃を掻い潜りでもしない限り、黒円卓の第二位は不沈艦。 「ところで――」  やおら、急に思い出したと言わんばかりに、トリファは言った。 「我ながらこんなことを訊くのも間抜けですが、あなたの心を捉える“彼”とはいったい?」 「……え?」 「ですから、あそこにいるどの“彼”なのかと」 「どれ、って……」  そんなことを言われても、どう答えればいいのか。  藤井君なんかどうでもいい。  あんな腹の立つ人、嫌いだし。彼も私を、嫌っているし……  もし次に顔を合わす機会があっても、そこには戦い以外ありえないし。  私のことなんか、相手にもしたくないと思っているようだけど、私は戦わないといけないし。  殺さないと、いけないし。  きっとひどいことを言って、言われて、そんなことしか出来ない相手なのだから。  藤井君なんか、いっそここで死んでしまえばいいんだと――  私の“彼”は、彼なんかじゃなく。  もう一人の――  と、言おうとして、言いかけて、しかしなぜか、螢はこのとき―― 「どうなのです?」  それを口にした瞬間に、何か不吉なことが起きるような。  今まで積み上げてきた総てのものを、残らず粉砕されるような。 「わた、しは……」  この神父が、何を考えているのか分からない。  分からないから。 「どうでも、いいです」  曖昧に言葉を濁し、問いから逃げた。  答えるのが恐ろしい。会話するのが恐ろしい。  自分を抱いているこの神父が、なぜか怖くて堪らない。 「ふむ」  トリファは困ったように微苦笑すると、そのまま宙に視線を向けた。 「ベイの創造も、だいぶ解かれています。このままここにいれば大騒ぎですが、とはいえあれを放置して去るわけにもいかぬし、さて……」 「あ……」  そうだ、自分はヴィルヘルムを殺した。仲間を斬った。  挑まれた末の流れだし、罪には問われないとも言われたけど。  それでもやはり多少なりとも恐縮するから、神父が怖いと思うのだろうか? 「まあ、もうしばらくは大丈夫でしょう。よっぽど驚き……いや、納得出来なかったのでしょうね。死してなお、壊すまいとするその執念。素晴らしい、さすがはカズィクル・ベイ。 ともあれ、大儀でしたレオンハルト。ここのスワスチカはあなたのものだ。ベイ中尉と彼の集めた魂、ハイドリヒ卿への供物として、それに見合う恩恵がいずれあなたに与えられましょう」 「…………」 「嬉しくないのですか?」 「いえ、そんなことは……」  そうだ。これで自分の望みは、ほぼ確実に叶えられたと言っていいはず。  ヴィルヘルムは屈指の魂持ちだから、それを捧げた自分には相応の恩恵が約束される。  そう聞いているし、そのはずなのだ。加えて、自分が今まで集めた分をも上乗せすれば、なんだって叶うはず。  だけど―― 「〈勝利万歳〉《ジーク・ハイル》。ここまでくれば、もはや先も見えたというもの」  栄光ある未来への展望を、唾棄すべき戯言でもあるかのように語るのは、なぜですか、猊下。  あなたはそれを、まるで欠片も信じていないかのよう。 「で、ある以上、ここでこれ以上の流血は意味がないうえにもったいない。 ですからあの二人、止めねばなりません。なかなか面白い見世物ではありますが、ここで死なすには惜しい」  言って神父は、再び校庭の戦いへと目を向ける。  下から見上げる彼の顔は、何処か別人のように見えて。  糸のように細められた目の色が、ぎらぎらと輝く金色のようで。  神父と言うより、巨大な獣に抱かれているような気がして、私は―― 「下ろしてください、猊下。 もう、立てます。心配要りません」 「ふむ……」  螢の言葉に、トリファはやはり困ったように微苦笑するのみ。 「娘というものは、どうしてこう成長が早いのでしょうか」 「……娘?」 「ええ、〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈を〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈私〉《 、》〈だ〉《 、》。テレジアと同じ、あなたも私の娘ですよ、レオンハルト」 「子を腕に抱くという至福、可能な限り味わっていたいと思ったのですがね。どうも私は、あまり愛されない父のようだ。仕方ありません。 ただ――」  トリファは笑う。言葉どおり娘の機嫌を取るような、さも頼りない父であるかのような。  普通なら呆れと失笑を誘うような、締まりのない顔。  だけど、なぜそれがこんなにおぞましく見えるのか。 「せっかくですので、先の質問に答えてください。お願いを聞くのはその後に」 「あなたの心を捉えて放さない“彼”とやら……それがあそこにいるというなら、いったい誰?」 「ですから……ッ」  それはいい。どうでもいい。言いたくないし聞きたくない。  だって私は知らないから。何も知らないから信じられて―― 「藤井さん、ですよね? そうでないとおかしい」 「なぜなら今、あそこには……」  やめて、やめて――言わないで。私に何も聞かせないで。 「〈彼〉《 、》〈と〉《 、》〈呼〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈者〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》、〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」 「ふふ、ふふふふ、ふははははははははははははははははははは――」  目を瞑り耳を覆い、首をすくめる螢の上から、神父の哄笑が降り注ぐ。  それのみならず、ぼたぼたとぼたぼたと、生温い血の雨が落ちてくる。  ヴィルヘルムの創造による影響で、開放が遅れていたスワスチカが今開いた。聖痕から血を噴くトリファと同様に、螢にも刻まれた聖槍の痕がそれを告げる。  私の誇り、ベアトリスから継いだ誓いの聖痕。  だけど今は、それが痛くて―― 「つまり、そういうことですよ。ご理解いただけましたか、ザミエル卿。 愛ゆえに其は憎む――実に、実に素晴らしい!」 「笑える話だ」  トリファの背後に燃え上がる、紅蓮の獄炎。  螢は怯え、震えながら、自分とはあまりにも格が違いすぎる焦熱の化身に何も言えず。 「キルヒアイゼンもいい面の皮だな」  知らず、助けを求めるように校庭の戦いへと目が行く。  そこでは今、“彼”がまさしく…… 縦横無尽に宙を走る雷撃と、それにも劣らない速度の体術。一撃で大地を断ち割り、陥没させる超絶のパワー。 こいつの強さには穴が無い。 雷撃だけなら撃たせないよう立ち回るし、速いだけの蚊トンボなら身体を張って捕まえる。力だけならさらに容易く、掻き回すのは簡単だろう。 だが、それら三つが等しく機能する存在なんて、どう攻略していいか分からない。 速くて強く、近接・遠距離の両方をこなす。言うなれば、こいつはヴィルヘルムの強化版だ。あいつの性能を、満遍なくもう一ランクあげたものだと言っていい。 しかも、それにプラスアルファ。 死体のこいつは痛みを感じず、人体の構造すら無視して動く。 薙ぎ払いの一撃を躱した瞬間、肘関節が逆に曲がって先の一発が戻ってきた。馬鹿げた質量のジャックナイフに巻き込まれ、鉄塊とカインの肉体に挟み込まれる。 そして放電―― 「あッ、ああ、あああああァァァッ―――」 意識が遠のく。先ほどから何度食らったか分からない雷撃に、俺はもはや全身の感覚が消えかけていた。 死が近い。どうにも出来ない。諦めちゃいけないし諦めるつもりもないというのに、モチベーションを無視して絶望を叩きつけるほどこいつの強さには隙が無い。 文字通り命懸けでもがくものの、万力めいた拘束を俺の腕力で解くことなど不可能で―― 迸る紫電の轟音すら朦朧と煙る死の淵……無音に近い闇の中で、死者の声だけが響いていた。 「貴様、誰カ……」 それは哭いているような、吠えているような、囁いているような…… 仮面の隙間から漏れる音の羅列を言葉だと理解するのに……死に瀕した俺の感覚で数十秒の時間を要した。 「私、誰カ……」 「此処ハ、何処カ……」 〈鬼哭啾啾〉《きこくしゅうしゅう》……それはまさしく、そう表現するしかないような声。 おまえは誰かと問い、自分は誰かと問い、ここは何処かと問う。 すでに死んでいるはずの亡霊。死せる男が、死に直面した俺にそんなことを訊いてどうする? そもそも、おまえは何者なんだ? シスター・リザの人形かと思えば、彼女が死に、代理のルサルカが糸を放してもまだ動く。 動いて戦い、言葉を話す。 「おま、え……」 そもそも、こいつは俺を見ているのか? 何処にいて、何と戦っているつもりなんだ? 「貴様、誰カ……」 「俺は……」 亀裂が走る仮面。シスターがいない今、彼女の聖遺物であるデスマスクは崩れ去ろうとしている。 その奥に隠れて見えないこいつの目は、今いったい何を見ている? 「貴様、聖餐杯カ……」 「―――――」 その名、セイサンハイという単語を口にした瞬間に―― 「聖餐杯ハ――何処ニイルッ!」 轟く咆哮と〈死の雷〉《デス・インドラ》――カインの武器も、その身体も、紫電の稲妻へと変生した。 「ガアアアアァァッッ――!」 自己を雷の化身に変える。その信じられない所業と共に電圧は跳ね上がり、俺の全身で血が沸騰した。 「がッ、あ、――ギァ、ああッッ」 死ぬ――こんなデタラメ、数秒も耐えられない。一刻も早く放れて、逃げて、そして、そして―― 「聖餐杯、聖餐杯――聖餐杯ハ何処ニイルッ!」 逃げてどうする。今のこいつはまさしく稲妻――何処へ逃げようと正真正銘の雷速で追ってくる。たとえこの拘束を解いたところで、一秒も逃げられまい。 いや、仮に逃走できたとしよう。そうしたらその後は? 「殺ス――殺ス! 許サヌ、殺ス、聖餐杯――――ッ」 鬼の哭き声。そこから噴き上がる呪詛と怨念、憎悪と〈嚇怒〉《かくど》―― こいつは怒り狂っている。死んでまで忘れられない妄執に、まさしく鬼となっている。 こんな怪物、化け物の怒りを買ったまま俺が逃げたら―― 何十、何百、何千、何万――いったい何人死ぬというのか。 クラブのように、〈学校〉《ここ》のように、今日とあのとき死んだ数百を超える奴らのように。 何の罪もなく、罪があったとしても司法で片がつくだろう世界に生きている人間が。 こんな化け物に千切り殺されることなんて、いったいどう予想し得るというのだろう。 「ざッ、ける……」 血が沸騰する。雷撃に焼かれるのとは別の次元で、全身の血が熱くなる。 てめえがいったい、何に怒ってるのか知らないが。 生憎と俺の方も、すでにやばいくらいキレてんだよ――ッ! 「おお、おおおおォォッ――」 もがく、動く、諦めない。こいつはここで絶対斃す。 これ以上、無関係の奴を誰も殺させないため―― 今まで殺させてしまった奴らのため―― 友達なんていなかったし、死んだ奴らの顔も名前も分からない。 だけど、そんな彼らのためにやれることがあるとすれば―― 彼らの死に報いる手段があるとすれば―― それはもう、こいつを斃す以外に何もない。 俺にはそれしか出来ないから―― 「トバルカイィィンッ!」 見栄も外聞もかなぐり捨てて咆哮する。このまま死ねない。死んでたまるかッ! 力で劣るのは分かっている。速さで負けるのも分かっている。だがそれで八方塞なんてこと、俺は絶対認めない。きっと手はある――考えろ。 ヴィルヘルムの薔薇の夜。ルサルカのナハツェーラー。そしてこいつの稲妻変生。 それらは総て、自分に都合のいい世界の創造。――そう、創造だ。 吸血鬼の夜を、触れるだけで致命的な影を、紫電の雷神に変わる身体を―― 求め、願い、創り出す。それがおそらく、エイヴィヒカイトの第三位階。 だったら俺は……俺が求め願う世界とは? 脳裏に浮かぶ黄昏の浜辺……永劫に時を止められた閉じた世界。 斬首の少女が落とされた時の牢獄。それはきっと―― 「―――――」 そのとき、唐突にカインが俺を解放した。雷撃で感覚を失っていた四肢がもつれ、崩れるように膝をつく。 「あ――、はァ……」 視界が赤い。眼球の毛細血管が切れたのか、それとも世界そのものが血に染まっているのか。 分からないが、どっちにしろ俺の身体は血塗れの黒焦げだ。もういくらも動けない。 だったら…… 俺は立ち上がり、振り返った。 長大な、何かの冗談としか思えない規模の鉄塊を担ぎなおし、黙然とこちら見下ろすトバルカイン。ここで残る総ての力を振り絞り、こいつとの勝負にケリをつけよう。 なぜ一度捕まえた俺を解放したのか不明だが、そんなことはどうでもいい。 こいつは俺の目の前で、もっとも多くの人命を奪った相手。 学校という日常風景を、あらゆる意味で壊す異物。 動き、話す死者という、甚だ気に喰わないその在り方―― こいつとは、もはやどう足掻いても相容れない。文字通りの不倶戴天。 あくまでただの人形だというのなら、ここまで不快ではなかったろう。 銃やナイフに怒る奴がいないように、あるいは哀れんでいたかもしれない。 しかし―― 「聖餐杯……」 こいつは人形じゃない。そうであるかのように見せかけて、死者であるかのように見せかけて、屍の身に生々しすぎる怨念を宿している。 生ける亡者、生かされている死者……外部、もしくは自らの意志で、この世にへばりついている妄執の鬼。 同じ死者でもマリィとは違う―― 死んだくせに、彼女と違い真っ当に死ねるくせに――何処のクソ馬鹿がそんなおぞましい在り方を許容させたッ? 「貴様、聖餐杯カ……」 「――違うッ!」 大概の的外れな問いに、俺は激昂して怒号した。 「俺はそんな名前じゃねえッ!」 右手のギロチンを抱くようにして吠える。 貴様にこの子の姿が見えるかッ? 彼女は生きてるときも死んだ後も、何処にも居らず何処にも行けず、永劫あの浜辺で止まっていたんだ。 流転と円環が定めの世界で、止まるということ―― それは確かに、俺にとって一つの理想ではあるけれど―― メルクリウスに目をつけられ、こんな凶器に宿らされ、あげく俺のような馬鹿に使われる。 使われ、おまえのような化け物と戦わされる彼女―― それでもマリィは、怒りも恨みも知らないんだ。 それがどれだけ悲しいことか―― 分かるまい。貴様のような未練がましい亡霊には。 だから―― 「俺が……教えてやる」 止まるということ。停止の世界。それを今から見せてやる。 時間が止まればいい。時間を切り刻んで分割し、極限まで引き伸ばす。 一秒を一分に、一分を一時間に。雷撃だろうと止まる領域まで時間というやつを斬首する。 そしておまえに、もう一つの停止。一撃の死という終焉を―― 「聖餐杯、デハ……ナイ?」 「……ああ」 今にも爆ぜんとする紫電の束……稲光に漂白された世界の中で、俺は言った。 「おまえは誰だ」 会話できるなら、名前くらいあろう。トバルカインというのはただの称号。人形の名であり、今のこいつを指すものじゃない。 「私……」 「私、誰カ……」 「私ノ、名前ハ……」 爆ぜる極大の〈死の雷〉《デス・インドラ》――紫電の化身となった身体ごと爆散させ、これまでで最速最強、最大規模の一撃が放たれる。 その、天をも砕く轟音の中で―― ■■ea■■■ce――■ch■■■■se■ 怪物の名乗りは、俺の耳に届かなかった。 それに続く、この業の銘も―― 「――Briah――」 「Donner Totentanz――Walküre」  解れ、消えていく薔薇の夜。第五のスワスチカが開いたことで、強大な魂が新たに二つ現臨する。  一つは暴嵐。一つは鋼鉄。   〈白化〉《アルベド》と〈黒化〉《ニグレド》――凶獣と機人。 “城”より招かれた彼らはここに像を成し、六十年ぶりの帰還を遂げる。  凶獣は歓喜した。  何者よりも貪欲に、何者をも貪る魂が悦に奮えて止まらない。  殺そう。総てを飲み込もう。  彼はその巨大な〈顎〉《アギト》で、天地を喰らう〈悪名の狼〉《フローズヴィトニル》。目に映るモノ悉くを引き裂き貪る嵐の化身。  ああ、〈開戦の角笛〉《ギャラルホルン》が鳴っている。  〈戦乙女〉《ヴァルキュリア》が舞っている。  みんなみんな、残らず消える〈黄昏〉《ラグナロク》はすぐそこに。  近い。近いぞ、よく分かる。  今こそ我ら、〈不死英雄〉《エインフェリア》も戦場へ――  だから、これは最後の我慢。  より多くより惨たらしく喰らうため、あと一度だけの我慢をしよう。  〈戒めの鎖〉《グレイプニル》はすでに千切っているけれど。  この身を律せるのは至高の黄金だけだけど。  今は一度だけあの代行――鍍金の偽者に使われてやる。  その意味を噛み締めろ。その価値に涙しろ。  ウォルフガング・シュライバーに殺戮を諌めさせるなどという君の“迷令”――悪意すら感じて笑えるじゃないか。  どうか褒めてください、ハイドリヒ卿。  この地上でただ一人、僕を負かしたあなたへの敬意と忠誠――あなたの代行である鍍金に一度だけ使われるという、地獄の屈辱に耐えることで証明します。  だから―― 「帰るよ、アンナ……ここにもう用は無い」  現臨したウォルフガング・シュライバーは、傍らで呆気に取られている少女の肩に手を置いてそう言った。  溢れる殺意。煮え滾る狂乱。メルトダウン寸前の原子炉めいた凶念を、薄皮一枚の下で隠しきって無邪気に微笑む。 「“その子”はもう要らないし……〈死人〉《カイン》は〈死人〉《マキナ》が回収するから」  音は消え去り、総てが遅く、雷さえもが止まって見える。  これが俺の世界。俺の創造。時の体感速度を遅らせるという俺の〈渇望〉《ルール》。  傍目には、俺一人が加速しているように見えるだろう。  それは確かにその通り――  真実、今このとき俺は――  爆ぜて迫る〈死の舞踏〉《トーテンタンツ》、その雷速すら凌駕した―― 「―――――」  しかし、自己の内外に生じた時間落差に、俺の感覚はまだ追いつかない。  視覚を除く他の総て――つまりカインを斬った手ごたえも、それが必殺となりえたかも、あがる咆哮が断末魔なのか、それともただの苦鳴や驚愕の呻きなのかも……噴き上がる血の匂いすら感じられない。  これで勝利できたのか? 俺はこいつを打倒したのか?  未だ確かめる術はなく、引き伸ばされた無限の刹那――俺の世界を。  圧倒的存在密度を持つ何者かが、外側から打ち砕いた。 「―――――」 総ての感覚が強制的に戻される。俺は解除などしていないし、その方法すら分からない。 だが結果として、トバルカインはまだ〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。先の一撃は砕けかけていた奴のデスマスクを断ち割ったのみ。 干からび、ミイラと化した形相に、縫われ光を閉ざされた双眸……剥き出しになっている歯列が震え、言葉を発する。 「ア、ア……」 それは、怨念でも呪詛でもない哀絶。 まるで羞恥と悲しみに震える子供のような……その声で。 「マキナ、卿……」 こいつは、怪異の名を口にした。 「――双方退け」 寂を含んだ重い声。同時に、俺とカインを隔てる空間が歪み捩れて像を成す。 それは異世界から顕れる超級の魂。 投影されたその形は、レンズ越しの陽光が薄紙を焼き焦がすかのようにして、世界の壁に穴を開ける。 漆黒の軍装に包まれた、強壮としか言いようのない体躯。 俺より頭一つは高く、カインより一回りほど小さい理想的背丈。 服の上から見ても分かる、極限まで鍛え込まれた筋肉の鎧。 それは鞭のようにしなやかで、鋼のように頑健な、あらゆる男の規範、原型、まるで古代の男神像を思わせる……武と暴が究極域で合致した神造作品としか思えない。 こいつは―― 「ここでこれ以上の流血に意味はない」 マキナ――マキナと言ったのか? 「聖槍十三騎士団黒円卓第七位」 その、光を発さない暗い瞳……堂々たる体躯と身に纏う破滅的な重圧にそぐわない、まるで死んだ魚のような目を俺に向けて。 「ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン……懐かしいな、兄弟」 漆黒の大隊長は、鉄槌のような声を絞り出した。 「ほぅ……」  遥か屋上、現臨した黒の騎士を目に留めて、トリファは感嘆の声を漏らす。 「お久しぶりだ、マキナ卿。やはりあなただけは何一つ変わっておられぬ。素晴らしい。再会を〈寿〉《ことほ》ぎましょう、旧き友よ」  それは〈韜晦〉《とうかい》と〈諧謔〉《かいぎゃく》の権化である彼らしくない、真実心底からの言葉だった。 「“城”は如何でしたかな? 狂おしく待たれましたか? 御身の〈渇望〉《ユメ》は今そこに。ああ、しかしその行き着く果ては無限の虜囚……あなたは変わらず終われない」 「当然だろう」  失笑するエレオノーレ。彼女は浮かれる神父と対照的に、冷厳かつ荘重な声音で告げるのみ。 「〈死せる英雄〉《エインフェリア》は解放されぬ。変化を望み流転を求め、終わりを祈るがゆえの渇望だ。変われぬからこそ〈希〉《こいねが》う。 〈印〉《ルーン》は〈流れ〉《ラーグ》に、でなくば〈幕引き〉《マキナ》などと呼ばれはせぬさ」 「確かに……」  糸のように目を細め、微笑む神父の腕の中で螢は未だ震えていた。  ヴァレリア・トリファ。  エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ。  ウォルフガング・シュライバーにゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン……  四人の超人、四者四様の実力者が放つ強と狂と凶の念――その圧力と魂に、潰されかけて動けない。  怖い。怖くて恐ろしい。恐ろしくて逃げ出したい。  彼らの会話を理解できないということが。理解しては駄目だと囁く誰かの声が。  つい先ほど、ヴィルヘルムを斃すまでは黒円卓こそ自分の居場所だと思っていたのに。  今ではなぜか、その場所が人外百鬼の〈禁断〉《パンドラ》にしか思えない。 「ともあれ、マキナ卿がお出でくださった以上、後顧の憂いはありません。騒がしくなる前に引き上げましょう。ついてはレオンハルト」 「あ……」  慈愛に満ちた顔と声。誰が見て誰が聞いても、娘を思いやる父のものとしか思えないのに。 「あなたの仕事は終わりました。最後のスワスチカが開くまで、お好きなようになさりなさい」  どうしてか、螢にはそれが死刑宣告のように感じられた。 「後のことは我々が。あなたは座して待てばよい。夢叶うそのときまで」  降り注ぐ黒い祝福と共に、神父は螢を地に下ろす。下ろして、一顧だにせず歩き去る。 「あ、あ……」  待って、待ってください。まだ私は――  それに“彼”は―― 「ではザミエル卿、私は去らせていただきますので、ご随意に」 「ああ、だが一つ訊こうか。 五色の再編、本当に機能するのであろうな? 私とベイを一緒にせぬほうが貴様のためだぞ」 「もちろん、あなたにお教えした件のこと、あれも真実だったでしょう? それに、そもそも……」  冷笑しつつ何事かを問い質すエレオノーレに、トリファは恍惚とした笑みで応じた。 「私の業を疑うことは、すなわちハイドリヒ卿の業を疑うこと。恐れ多くもあの方が、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈わ〉《 、》〈け〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈ま〉《 、》〈す〉《 、》〈ま〉《 、》〈い〉《 、》。 そう、あなたの忠誠が、六十年ごときで揺らがぬのと同じようにね」 「ふん、下種めが。抜かすものだ」  話はそこで終わったのか、トリファは一礼してその場を去る。そして気のせいだろうか、何時の間にか彼の腕には、誰か分からない別の人間が抱かれているのが見えたような……  だがそんな一瞬の困惑も、すぐさま忘却せざるを得なくなる。 「貴様、櫻井というらしいな」  今、この場に残された自分と向き合うエレオノーレ。ここで螢は、初めて彼女の容貌を視認した。 「話は概ね聞いている。随分とまた、クリストフの趣味に付き合わされて育ったようだが」  そこらの男なら、容易に凌ぐであろう長身。真紅の長髪が風に流れ、焼け爛れた半顔が露出している。 「…………」  まさに凄惨としか言いようのない外見だ。なまじ美女であるだけに、落差が凄まじく直視できない。  加え、険の強い顔つきは、同時にある種の気品を感じさせた。俄かに信じがたいことだったが、この女性は誇り高い家柄に生まれ、優美を糧に貴種として育ったに違いない。 「まあそれはいい。私についてどんな風評を受けていたかは預かり知らんが、少なくとも血統を重んじる人種ならば評価はする。ベイを前にして折れなかった気概も見事だ。そう怯えるな」 「クリストフが言ったように、貴様の仕事はもう終わった。我が君、ハイドリヒ卿は虚言を弄さぬ。願いは成就したと安堵していろ」 「あ、ですが、それは……」  ようよう、螢は言葉らしき言葉を口に出来た。エレオノーレに害意はなくとも、負傷した身で彼女の傍に立てばそれだけで消耗する。 「あなたも、猊下も、私はもう、必要ないと……?」 「見ろ」  エレオノーレは応えない。螢の言葉など聞こえないと、会話をする気などないと言わんばかりに一方的な言葉を継いでいくのみ。 「血族を愛おしむのは結構だ。複製ゆえに聖槍の真価が歪み、今はあのような無様な木偶にすぎぬがな。いずれ本物として蘇る。貴様の望みはそれであろう? もしくは、〈己〉《 、》〈の〉《 、》〈順〉《 、》〈番〉《 、》〈が〉《 、》〈回〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈る〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈に〉《 、》〈片〉《 、》〈を〉《 、》〈つ〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈か〉《 、》?」 「ふふ、ふははは、何にせよ、〈寿〉《ことほ》ごう。貴様らは名誉アーリア人とやらの身で、〈大隊長〉《われわれ》を除く八名中、もっとも早く獣の祝福を約束されたわけだからな」  エレオノーレは螢を見てない。彼女を素通りしてフェンスの向こう、校庭の一角を見下ろしつつ笑っている。 「貴様もだ、キルヒアイゼン。敗者復活など、本来なら有り得んぞ。ブレンナーに感謝しておけ」  この人は何を言っているのだろう。何処を見て誰に向かい、何のことを言っているのか。 「〈死せる英雄〉《エインフェリア》は蘇る。〈戦乙女〉《ヴァルキュリア》に導かれ、〈最終戦争〉《ラグナロク》を征く不滅の〈軍勢〉《レギオン》――永遠に、永劫に、無限に蘇り無限に戦う。 そう――」  ここで、初めてエレオノーレは螢を見た。  瞳の色は倣岸だったが、そこに皮肉や嘲りは伺えない。  彼女は真実本心で、彼女自身の範に則り、螢を祝福しているのだ。  狂うほどの信仰。一片も疑わない鉄の忠誠。まるでそのことだけが、天上の至福であるとでも言わんばかりに。 「貴様らは、〈大隊長〉《われわれ》と同じものになるのだよ」  そんな、本当にヨクワカラナイコトを口にした。 「―――ぁ」  壊れる。自分の中の、何か決定的なものが崩れていく。  それはたとえば子供の頃、雷に怯える自分を優しく抱きしめてくれた彼女の匂い。  それはたとえばある夜の中、眠れぬ自分に本を読んでくれた彼の声。  駄々をこねてねだった末に、譲り受けた彼女の竹刀はまだ宝物として持っている。  その柄を握り締める感触も、彼の大きな手に撫でられる心地よさも。  みんなみんな、掛け替えのない宝石で。 「獣の〈鬣〉《タテガミ》、そして爪牙――不死を望む者、死者の復活を願う者、皆ハイドリヒ卿の一部となれば総てが叶う」  私はそれを、あの陽だまりの日々を取り戻したかっただけなのに。 「〈死者の城〉《ヴァルハラ》へようこそ、レオンハルト。名誉に奮え、歓喜に泣け。貴様らには獣の祝福が約束された。 ふふふ、ふははは、ははははははははははははははははははは――――」  哄笑と共に、一陣の熱風となってエレオノーレは掻き消えた。残された螢はただ独り、胸を押さえて喘ぐように震えるのみ。 「あ――、っ……」  息が出来ない。思考も理性も本能も、肉体までもが事態を拒絶し、凍りつくことで自己を守ろうとしている。  そうしないと、バラバラに砕け散って戻らないだろう自分がいる。  そんな、そんな、そんな、そんな――私は何も分からない。私は何も聞いていない。  今の女が何を言っていたかなんて、私は馬鹿だから分からない。分かってはいけない。 「……さん」  フェンスに縋りつき、金網を掴んで哀絶する。  逢いたかったの。私はあなた達に逢いたかったの。  だから頑張って、頑張って、頑張って、頑張って――  痛いのも辛いのも我慢して、我慢して、我慢して、我慢して――  そのうち私は鈍感になって、それを強くなったんだと思い込んで――  昔の私みたいな男の子に、意地悪を言ったり、やったり、苦しめたり――  ねえ、私間違っていたのかな? やっぱりまだ子供なのかな?  ごめんなさい。私もう、どうしていいか分からないよ。 「助けて……」  死んでしまったあなた達と、また昔みたいに生きたいと思うのはいけないことなの?  それがそんなにおかしなことなの?  藤井君が言うみたいに、やってはいけないことなのかな?  思ってもいけないのかな?  願いは叶うって、方法はあるって、私は知ってしまったから。  それに、命を懸けたのに……  〈死せる英雄〉《エインフェリア》は蘇る。  〈最終戦争〉《ラグナロク》を征く不滅の〈軍勢〉《レギオン》――  獣の〈鬣〉《タテガミ》、そして爪牙――  永遠に、永劫に、無限に蘇り無限に戦う。  ああ、それはなんて呪わしい死者の生。 「もう戦うのは、いや……」  戦争なんて、嫌い。 「もう痛いのも、いや……」  辛いのも、嫌い。  私が心から望んでいたのは、大好きなあなた達と過ごす平穏な日々なのに。  終わらない戦争に駆り出される、戦奴の列に加わるなんて。  私だけならまだしも、私のせいであなた達をそこに引きずり込むなんて。  死んでまで、戦い続けなければならないなんて。 「嫌でしょ? 嫌よね?」  だって私の好きなあなた達は、優しい普通の人だったんだもの。  そんなあなた達だからこそ、私は好きになったんだもの。  なのに、なのに…… 「許して……」  もう取り返しはきかないのか、やり直すことはできないのか。  この罪、どう償えば許されるのか……  視線の先、すでに消えかけている夜の中、校庭で対峙する三つの影。  黒い鋼鉄の〈大隊長〉《エインフェリア》と。  馬鹿な私がたくさん迷惑をかけた男の子。  そして、そして―― 「……さん」  涙に咽び、声が出ない。大好きなあの人のことを呼べない。  許されないのは分かっている。償えないのも分かっている。  でも辛いの。苦しいの。助けてほしいの。  私が助けようとして、逆に地獄へ送ることになってしまったあなた達。  ベアトリス・キルヒアイゼンと、そして――  叫ぶ。眼下の校庭にいるもう一人に向けて。  死してまで奴隷として戦わされる定めを憂い。  その呪詛と〈軛〉《くびき》を断ちたいと願い。  それに囚われているあなたを救いたいと思ったのに。  結局、偽の聖槍による呪いは、真の聖槍による獣の祝福に塗り潰される。  より完璧な、逃げ場のない〈絶望〉《ヴァルハラ》。  私はあなた達にとって、きっと最悪の〈死神〉《ヴァルキュリア》。  それが悲しくて、悔しくて、情けなくてやりきれなくて―― 「――兄さんッ!」  もう私みたいな奴のこと、誰も愛してなんかくれないだろう。 「――――ッ!?」 屋上から届いた声に耳を疑う。 見ればそこには、傷つきボロボロの姿で叫ぶ櫻井が。 泣きながら、兄と呼ぶあいつの姿が。 「……兄さん?」 それは誰に言っているのか。あまりのことに混乱した俺は、頭も身体も完全に動きが止まり―― 再び迫る雷速の〈死の舞踏〉《トーテンタンツ》――その殺傷圏内に、間抜けなほど無防備な姿を晒してしまった。 「―――ちょッ」 駄目だ、今からじゃ何をやっても間に合わない。もう一度俺の創造を発動する暇などないし、暇があってもまた出来るかどうか分からない。 言うなれば、さっきのはマグレだ。あのときの一撃でこいつを殺しきれなかったということが、そのまま敗北に直結する。 しかも救いがないことに、俺はこの状況で気付いてしまった。 櫻井が兄と呼んだ存在、それが誰か。消去法でいけば簡単すぎる。 この場にいるのは三人。俺は当然のように有り得ず、残りの二人は―― 今、紫電の稲妻と化し、俺に迫るカイン。 そして―― 「静まれ」 「―――――」 六十年以上前から、ラインハルトの近衛であったゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン……この黒い男は、櫻井の年齢を考慮すれば俺以上に有り得ない。 つまり…… 「嘘……だろ?」 二つの衝撃が同時に襲い、俺はその場で呆然とする。 まず一つ、櫻井が兄と呼べそうなのはトバルカインしかいないということ。 そして二つ。 「退けと言った。聞き分けろ」 そのカインを、拳一発で黙らせたこの男の、あまりに桁外れなデタラメぶりに。 「信じられねえ……」 知らず俺は、声に出して呟いていた。 カインが紛うことなき怪物なのは、さっきまで戦っていた俺が一番よく分かっている。 全身を稲妻と化し、雷の速度で動き、山をも砕かんという膂力の持ち主。それがこいつだ。 そのカインを、武器も持たない素手の一撃で黙らせるなんて、目の前にしながら何かの冗談としか思えない。 今や、カインは完全に沈黙している。男の拳にどんな効果があったのか、こいつは〈雷〉《 、》〈で〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈殴〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈砕〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 砕いて、稲妻と化していたカインの身体を生身に戻した。 一撃必殺。文字通りそうとしか言えず、問答無用で事態を終了させる〈幕引き〉《マキナ》の拳…… 「―――――」 屋上からさらに櫻井が何か言っているのを感じたが、こっちはそれどころじゃない。 カインが何者で、櫻井とどういう関係で、兄さん云々の真意や真偽はどうなのか……確かに気にはなっているが、今は目の前の男から目を放せない。 ここでこいつの一挙一動、どんなに些細なものであろうと、見逃せばただじゃすまないと肌で感じられたから…… 「…………」 倒れ伏し、動かなくなったカインのすぐ傍に立ち、こちらを凝っと見つめるベルリッヒンゲン。死魚のような暗い瞳が、俺を値踏みするかのように細められている。 そして…… 「蘇る死者は醜いか?」 こいつは、唐突にそんなことを。 「気が合うな。俺も同感だ」 常に激烈な苦痛に耐えているような、重い声で口にした。 「……あッ」 同時、形成していた右腕のギロチンが、何の前触れもなく掻き消える。 俺は解除していないし、そもそもこいつの前で武装を解くなんてクソ度胸は持っていない。 だというのに、いったいなぜ……? 「おまえにも、退けと言ったはずだ」 「続きはまた。そのときこそ総てを終わらせよう。次はない」 それだけ言って、男はカインの巨体を軽々と担ぎあげると、身を翻す。 何か抗えない強権にでも縛られているのか、そっけない態度とは裏腹に、ここで俺を見逃すことをこいつが一番我慢できていないような気配があり―― 迂闊な真似をしようものなら一触即発――俺はその背に何か言うことも、後を追うことも出来なくて…… 「―――――」 次の瞬間、何かが砕けるような音と共に、学校を覆っていた薔薇の夜は消えていた。 「……あ」 太陽が眩しい。いきなり戻ってきた明るさに眼が眩み、同時に足腰も萎えて俺はその場に座り込む。 「あいつは……」 ふと見れば、カインと担いで去った男は、すでに影も見えなくなっていた。 と、いうことは…… 「終わった、のか……?」 身体はすでにボロボロで、生きているのが不思議みたいな状態だが、ともかく局面は乗り切った。カインを斃せなかったのは業腹だし、さらに面倒そうな奴まで出てきたのは非常にまずい事態だけど、命は拾ったのだから最悪のケースというわけじゃない。 それに、カインとの戦いには収穫もあった。 あのときの、あれ……エイヴィヒカイトの第三位階。まだとっかかりを自覚しただけにすぎないが、あれを使いこなせれば相当な強みになる。自惚れるつもりも楽観するつもりもないが、真実、俺は切り札を得たに等しい。 それというもの、他でもない彼女のお陰で。 「ありがとう、マリィ。聞いてるか?」 「……おい、どうしたんだ。出て来いよ」 反応の無さを不審に思い、彼女を形成具現しようとしたとき―― 「蓮くん――」 校庭を突っ切ってこっちに駆けてくる、本城の声と姿に気が付いた。 「良かったあ。無事……ってわけでもなさそうだけど、とりあえずは平気みたいね」 「……ああ、見ての通り、なんとかな」 「ん、頑張ったんだね、男の子。で、あたしの方はっと……おーい、ちょっとー」 「ほら早くー、っていうか足遅いー。日頃運動してんのー、せんぱーい」 ちっちゃい身体で、ちょこちょこと駆けてくる氷室先輩。……あ、こけた。 「あちゃー、駄目だありゃ」 うん、確かに駄目だな、あの人。 でも、まあ…… 「おまえら、無事でよかったよ」 今日、この学校は正真正銘の戦場であり魔窟だった。そこから彼女らが無事生還できたというだけでも、身体を張った甲斐はある。 とはいえ…… 「なあ、本城……」 さっきから、俺はずっと校庭の向こう、こいつと氷室先輩がやってきた方角を見つめている。 一人足りないんじゃないか? あと一人、駆けてくるんじゃないか? そしてそのまま、俺の前にヘッドスライディングとかして、起きるなり耳がぶっ壊れそうな大声量の説教マシンガンが始まるんじゃないか? 俺はそれを、さっきからずっと待っているんだが。 「その、ごめん」 本城は、およそこいつらしくない、沈鬱な顔と声でそう言った。 「あたし、香純ちゃんを見つけられなかった。それに……」 それに、白状すればもう一人。どうしても気になっている奴がいるんだ。 「聞いてよ、蓮くん。あたしも確証はないんだけど、たぶんあの子……」 たった今、校舎の屋上から俺を見下ろしている、俺と同じくらいボロボロのあいつ…… 遠目に見る櫻井は、やっぱり泣いているようで…… あの可愛げのないムカつく奴が、今にも消えそうなくらい憔悴して見えて…… これはきっと、修羅場を乗り切って気が緩んだことによる、幻覚か夢の類なんだろうと…… 「――てわけで……ねえ、蓮くん、本当に聞いてる?」 聞こえない。本城の言ってることは分からない。 屋上の櫻井っぽい奴は、もう何処にも見えないし。 だからあれは幻覚で、おまえの言うことも幻聴で。 今にもあのバカスミ、きっと意表を突いて、そこらの樹上にでも吊るされているのが見つかるだろうと。 ミノ虫になって喚くあいつを、みんなで爆笑しつつ弄り倒すという、そんな展開―― 「ねえ――」 「ああ、分かってる」 期待できるほど、現実逃避が上手ければ良かったんだけどな。 「とりあえず、憶測で話してても仕方ない。少なくともおまえと先輩は無事だったんだし、贅沢は言わないさ」 「あ、うん……ありがと」 「でも、蓮くん……」 「なんだよ?」 「……いや、分かった。いったん戻ろう」 「そうだな、今は休まないとやばい」 どうせ俺の下手糞なカッコつけ演技など、本城は当然のように見抜いているだろう。 その上で何も言わず、こちらに合わせてくれている。 「肩、貸そうか?」 「悪い、頼む」 「藤井君、私も」 「じゃあ、先輩もお願い」 結局俺は、煮え滾る怒りと焦りを彼女らに優しく包まれ、ぶっ壊れ寸前の身体を休めるためにも、ここは戻るという道しか選べない。 今追えば、百パーセント確実に迎撃されて全員死ぬ。 なぜなら相手は戦争のプロだ。退却時の〈殿軍〉《しんがり》は、最強の者だと相場が決まっているだろう。 せっかく助かった彼女らを、そんな危険に巻き込めない。巻き込めないから…… 「ちくしょう、両手に花だな」 「なんでちくしょうなのよ?」 「照れ隠し?」 「まあ、そんなようなもんです」 実際に俺の周り、いい女が多すぎて参るんだよ。 だから一人たりとも失えない。必ず何とかしないといけない。 と、考えて、ふと俺は些細なことに気がついた。 今の俺にとって、唯一例外的な対人関係。 〈櫻井〉《あいつ》をいったい、どのように扱うのが果たして適当なんだろうかと。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 12/13 Swastika ―― 5/8 【Chapter Ⅸ Einherjar ―― END】  聖なるものと、邪なるもの。  醜なるものと、美なるもの。  森羅万象を二極一対で推し量る世界観は、洋の東西を問わずに普遍的なものだ。  邪を忌むからこそ人は聖を求め、美は醜に〈倦〉《う》んだ目にこそ感動を呼ぶ。  いかな美女とて、その皮下に悪臭放つ糞尿と怪奇な臓物を秘め隠しているように、この世をまことそうしたものと定義するのならば……  漆黒の常闇に閉ざされたこの空間ほど、この世の戯画と呼ぶのに相応しい場所は他にあるまい。 「…………」  教会――神の棲まう家。その足下に人知れず広がる、幾多の人の血と怨嗟を塗りこめたかのような、陰鬱な石壁の地下牢……  聖槍十三騎士団、その諏訪原市内における拠点である。  その石壁の回廊を、女が歩く。  尼服を脱ぎ捨てたその身が〈纏〉《まと》うのは、漆黒の軍服。  〈長靴〉《ちょうか》が刻む石打つ響きが、女――リザの沈黙の重さを代弁するかのように陰々と響く。 「……誰?」  その硬い靴音が止まった。リザの呟きは誰何と呼びかけの中間のような色合いを帯びていたが、行手の影から現れた姿は無言でそれを肯定した。 「…………」  櫻井螢……すでに出撃を命じられ、一度この教会を出た彼女が再び戻ってきているという事態に、リザは僅かだけ眉を顰めた。  この少女は遊びや怠惰と無縁であり、無駄なことはしない性分のはずなのだが、と。 「学校はいつでも取れるので。 私が貰うスワスチカは、六番目以降で構わないと思っています」 「そう」  リザの疑問を読んだのか、螢は簡潔に自分の方針を説明した。ルサルカがクラブを手中にした以上、学校は彼女の領分と言っていい。トリファが先だって言ったように、無駄な欲をかかない限り残存の戦力とスワスチカの数は合致している。 「それであなた、私の仕事を見物でもするつもり?」 「そういうわけでもないですが、少し気になることがあるので」 「それは?」 「猊下の姿が見当たりません」  やはり短く簡潔に、螢は答えた。 「心当たりは?」 「さあ……」  問われ、リザは首を傾げる。言われてみればなるほど確かに、神父の気配を補足できない。少なくともこの教会内で、彼の魂を感知することはできなかった。 「私はあの人がどういう人種か、それなりに知っているつもりです。 そしてあなたも、そうでしょうバビロン。 正直、いいのですか? あれほど常に見ていないと何をするか分からない男というのは、かなり稀だと思うのですが」 「同感だけど、彼が本気で隠れたら、誰にも見つけられないわよ」 「昔から、逃げるのと隠れるのだけはずば抜けていたからね。だからそういうとき、どうするのが一番いいのか……もうずっと前に答えを出してる」 「聞かせてください」 「動くのよ」  言葉通り、間を置かずにリザは答えた。 「早く、できるだけ迅速に、迷っていては駄目」 「たとえそれが拙速でもね。仕上げてしまえば何とかなる。人生、そんなものでしょう。あなたの歳じゃあ分からないかしら」 「…………」 「後悔には慣れているのよ」  俯いて、自嘲するようにリザは言った。 「彼はあれで、何も人に嫌がらせをするのが趣味というわけでもないのよ。仮に動くよう誘導されていたとしてもね、だいたい動かないほうが悲惨な目に遭う。それは昔に経験した」 「あなたにも関係がある、あの時よ。動かなかったこと、後悔している。 だから今、私は動くわ。少し状況も似ているしね」 「そうですか」  低く、無感動に呟く螢。何か激情を殺しているのは見て分かったが、それはこの少女にとっての逆鱗だ。不用意に触れるような愚をリザは冒さない。 「あなたは、彼が嫌い?」 「あなたはどうなのです?」 「さあ、どうなのかしらね」  ただ、恩はある。共有している秘密もある。不快な目にもかなりの回数遭わされたが、共に笑顔の仮面を被ったママゴトが楽しくなかったわけでもない。  朋輩ではあろうし、唾棄すべき奸賊のようにも思える。共犯者めいた連帯感を持つ一方で、同類とだけは思われたくないような……  ああ、つまり、よく分からないのだ。彼のことは昔から…… 「あれはあれで、いいところもちゃんとあるのよ」  結局そんな、前にも誰かに言ったような言葉で閉める。まるで長年連れ添った夫に対する、老女の諦観した言葉のようだ。  いや、まあ、その喩えは言い得て妙すぎるのだけど。 「結局、気にするな。あなたの意見はそういうことですか」 「そうね」  正しくは、後手を踏むな。そういうことだが、あえて言い直す必要もなかろう。リザは再び歩きだし、螢の横を通り抜ける。 「ともかく、今は第五までを一気に開く。ベイも動いているでしょうし、あなたが六番目以降でいいと言うなら、そうね、ついてきなさいよ。お手本を見せてあげる。 それで少なくとも、何かしら変化は起きるはずだから」 「つまり、第五の開放には特別な意味があると?」 「ええ」  そのまま、歩みを止めずにリザは答えた。五番目が開けば本当に後戻りが出来なくなるという、決定的な理由を。 「そのとき、大隊長三人が戻れるようになる」  〈黒騎士〉《ニグレド》、〈白騎士〉《アルベド》、〈赤騎士〉《ルベド》……ラインハルト・ハイドリヒの近衛にして最強の戦鬼三人。彼らの帰還は第五の開放をもって達成される。 「〈不死創造〉《おうごんれんせい》には五色要るのよ。だから第五で彼らは戻るし、残り三つのうち二つで黄化と翠化が完成する。そして第八は黄金」 「一つ忠告をしてあげるけど……その五色以外はハイドリヒ卿にとっていてもいなくてもいい。シュピーネやベアトリスがそうであったように……。 気をつけないと、ただの捨て駒にされるからそのつもりで」  言いながら、それはむしろ自分にこそ言い聞かせるべき訓戒だろうとリザは思い、苦笑した。  大隊長三人が揃うのは第五の開放以降だが、単騎であればおそらく今でも不完全ながら帰還できる。事実ラインハルトがそれをやった。  ゆえに、ならば、ああなるほど……消えた聖餐杯はそのことについて、何かしらやろうとしているのかもしれない。  第五の開放に前後して、必然的に起きるであろう指揮権の移動。自分が首領代行でなくなる前に、私たちを使って行なわければならない何かが彼にはあるのだ。  本当、油断も隙もない男。あなたの目的は分からないけど、私の選択によって零れるものを、あなたの選択が掬ってくれるのならどう転んでもあるいは……  なんて、都合よく考えるのは甘いだろうか。 「あなたが出て、ベイも出る。そして猊下はおられない」  もはや後方、振り返っても姿を視認できないだろう闇の奥から、独り言のような声が流れた。 「つまりそのとき、〈教会〉《ここ》はもぬけの空なわけだ。彼女を除いて」  この局面において、戦力的空白地帯が発生する可能性。それはつまり、螢がここに留まらず、リザに同伴することを告げていた。 「無論、それは一瞬で、事がすめば皆戻ってくるでしょう。第三の開放からすでに丸一昼夜は経っているのに、なぜかマレウスが帰らないのは奇妙ですがね。仮に何かしら負傷をしたと考えても、さすがに今日明日中には戻るでしょう。 ゆえに図らずも、再度皆が〈教会〉《ここ》へ集うのは同時期になる確率が高いわけだ。 そのとき大隊長三人をも含めて、一同に会すと。ぞっとしますね。私が彼女の立場なら自殺します。 〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈く〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈時〉《 、》〈間〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈し〉《 、》」  一瞬だけ、完全な空白となる教会。その束の間に救いの手が現れなければ、後は順繰りに鬼が帰ってくるだけである。  恐怖とは、絶望とは、助かるかもしれないと期待させてから叩き潰すこと。であればこの状況、件の少女にとって過酷どころの話ではない。  偶然か、意図的か、もし後者であればそれは誰の?  そして、そんな追い詰め方をする理由はいったい何? 「言ったでしょう。だから早く、迅速に、迷っていては駄目」 「なるほど」  螢は肩をすくめて、闇の突き当たりにある玄室を開こうとしているリザに、先の質問へ対する答えを返した。 「猊下のことは嫌いです。逆恨みですが、どうしても許せない。 だけどあなたは、純粋に不愉快な人ですね。肉親殺しは黒円卓の業みたいなものですか」 「そうみたいね」  応えて、開いた玄室が閉じていく。ここでこれから、誰にも見せられない破倫のはてに生と死が逆転する。  それは出来損ないの〈不死創造〉《おうごんれんせい》。  すなわち、死んでいるものを無理矢理動かす所業である。  ああ、だから、二度とこんなことをしなくてもすむように、私は完全な〈黄金〉《きせき》が欲しい。  かつてこの手にかけた数百数千の幼い命……それを再び抱けるのならば、どうして自分の血族だけは救いたいなど、虫のいいことを言えるというのか。 「さようなら、テレジア」  願わくばあなた、恨むのなら私だけにしてちょうだい。  誰も知らないし言う気もないけど、私はあなたに流れている血が恐ろしい。  かつてこの身をアレに捧げてしまったことが、リザ・ブレンナーという女が犯した生涯最大の罪なのだから。  ある時、ふと気がつけばそこにいた。  記憶はない。直前まで何をしていたかなど思い出せず、いやそもそもそんな考えすら浮かんでこず、ただ漫然と俺はそこに存在していた。  不満はなかったように思う。  現状に対する比較の対象がないのだから、この今を厭うという気持ちなど生まれるはずもないだろう。  そして俺というものは、どうやら“ない”ということに満たされる性質であったようだ。  ゆえに心地よく、この揺り篭が心地よく、ふわふわと〈揺蕩〉《たゆた》いながら永劫ここに浮かぶものだと、勝手にそう解釈していた。  目に映るものは瞬く水銀。雪にように舞い散るそれらはあまりに綺麗で輝かしく、純化された俺の世界を規則正しく円環している。  その繰り返しに魅せられた。その停滞に安堵した。  血の赤も、骨の白も、焼け爛れる肉の黒も腹から噴き出る臓腑の灰も。  銃剣の煌き弾丸のメタル。軋む戦車の振動に塹壕の饐えた匂い。  〈揺蕩〉《たゆた》う俺の意識の中で、知らず掻き集めた〈欠片〉《きおく》は残らずそうしたものだと認識したとき、前にもましてこの停滞を好ましく思い始める。  もう、あれは要らない。  おそらくあの〈愁嘆〉《せんじょう》を駆け抜けて、辿り着いた安息がここなのだろうと、思い信じて決定する。  なぜならあれらは、俺の頭を腐らせるから。  俺に殺人を強要するから。  誓い、断じてこの俺は、そんなものを好いてはいないと。 「さて、本当にそうだろうか」  そうだ、嫌いだからこそ終わらせた。ゆえに全霊をもって殺戮した。  望みはただ、還ること。積み上げた屍の地平にしか、その先にしか俺の世界はなかったという、ただそれだけ。  そこに何の間違いがある? 「逃げなかったこと」  退いては踏破などできまいが。 「君は矛盾に気付いていない」  だからおまえは何を言う? 「分からんかね、至極簡単なことなのだが」  揺れる水銀。瞬く気泡。その隙間から俺を覗き込んでいるのはいったい誰?  おまえは何を言おうとしている? 「つまり――前のめり駆け抜けて、辿り着く安息とやらを何故還る場所などと形容するのだ? それは普通、背後に残してきた〈過去〉《しあわせ》を指す表現ではないのかね?」  分からない。おまえの言っていることは分からない。  いや、分かってはいけないような……  この問答に隠された真意というやつ……それに気付けばもう戻れなくなるような。  戻る? 還る? 行く? 進む?  ああ、少し、ちょっと待て。何かがおかしい。〈歪〉《ひず》んでいる。  これは真っ当な論理が立たない。 「そうだよ、君は歪んでいる」  低く、暗く、深く、笑う。思考の乱れに呼応して、揺らぎ始める俺の形をそいつは愛でるように覗いている。  その視線に、蛇を連想したのはなぜだろう。 「尾を食う蛇のジレンマというやつ。ああ私も、あれとは違うが蛇ではあるね」  そして、なぜこの自称蛇は、俺の思考を読めるのだ?  俺は言葉など発していないし……いや待て、そもそも俺の口は何処にある? 「それは、尾を食うべき部位がないという嘆きかな? 還るべき前進、行くべき戻る場所が示されぬと不安かな?」  論理として矛盾する言葉を吐きながら、蛇が笑う。  駆け抜けたと思っていた。極点へ辿り着いたと思っていた。  しかしそれは釈迦の掌。天体の構造が知られる以前に、広く信じられていた世界の幻想。  世に最果てなど存在せず、突き進んだ先にあるのはただの始まり。  すなわち―― 「前進の果てに起点へ辿り着くならば、其は言うまでもなく円環なり」 「君の魂はそのように出来ている。 甘美なるいつかを無限に味わい続けるため、永劫走り続ける止まらずの星。 ゆえに何処へも行けず回り続け、繰り返すだけの君は止まっていると言ってよい」  そうだ、俺は止まっているのだ。走り続けることでしか、停止を実感できないのだ。 「お分かりかな、大尉殿。武名高き英雄殿よ。 その身は〈終われぬ〉《しねぬ》、私と同じく。この円環に乗っていると知ったが最後、君は何処にも辿り着けない」  俺は何処にも辿り着けない。  ではいったい、何度あの〈地獄〉《せんじょう》を巡ればいいのだ。 「知れたこと、無限なり」  ではいったい、無限の果てに何があるのだ。 「無限の起点があるのみだ」  ならば、ならば、俺はいったい、いつ眠れていつ終われる? 「眠れはせぬし、終われぬよ」  憤怒は水銀に埋もれていく。絶望は鋼で鎧われ沈んでいく。  ああそうだ、俺は確か……〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》。  ならばここにいる俺はなんだ? 俺に話しかける貴様はなんだ?  俺の身体は、俺の命は、俺の〈魂〉《えいこう》は何処に行った? 「言っただろう、回るのだ。 君はまた君と成り、君として生きそして死ぬ。 そして繰り返すのだよ。永劫、永遠、止まらずに。 君はそれを拒絶するかね? 狂おしく壊したいと願い終わりを祈るか?」  俺はそれに、自分が何者であるかをひたすら自問することで答えていた。  駆け抜けた戦場。辿り着いたと夢想した安息。  この手にしたと信じていた栄光は、次の戦場に臨む起点でしかなかったという愚かしさ。  要らない。もうあれは要らない。  血の赤も、骨の白も、焼け爛れる肉の黒も腹から噴き出る臓腑の灰も。  銃剣の煌き弾丸のメタル。軋む戦車の振動に塹壕の饐えた匂い。  避けられぬなら今一度だけ、また全霊をもって殺戮するしか術はなく。  俺は繰り返す俺を殺さぬ限り終われない。 「よろしい、ならばこうしよう。君の矛盾は疾走しなければ停止できないところにある。 ではその背反を、二つに分けてはどうだろう。 走り続ける繰り返しを望む君と。 真実終わりのみを求める君に。 もちろん、今の君が有する個我は、内の一つにしか宿れぬが。 選ぶならば、どれがよい?」 「後者ならば、〈終焉の幕引き〉《デウス・エクス・マキナ》」 「前者ならば、そう……」  俺は、俺は……俺がこのとき選んだ答えは…… 「―――――」 落ちる感覚に驚いて、俺は危うく叫びかけた。 「あ、……っ……」 どうやら、眠っていたらしい。椅子に腰掛けたままだったから、ずり落ちかけて反射的に目が覚めた。 ……で、いいんだよな? 何か得体の知れない不吉な夢でも見たかのように、全身汗まみれで動悸も早い。頭痛がするし、吐き気もする。 きっと疲労が溜まっているんだろう。ここのところ、ろくに食っていないし寝ていない。まあ場所柄を考えれば、何かしら処方してもらいたい気分ではあるけど。 「マリィ?」 呼びかけて、見回してみたが彼女は近くにいなかった。俺が寝てしまったものだから、つまらなくなって散策でもしてるんだろうか。 何か妙なことでもやってなきゃいいけど…… 「……捜すか」 呟いて、立ち上がる。少しばかりくらくらしたが、弱音を吐いていられる状況じゃない。 ここは病院。俺がついこの間まで入院していた“本城”総合病院だ。 たぶん、おそらくだけどここは〈本城〉《あいつ》の家というか、親父さんなり祖父さんなりが経営してるんじゃないだろうか。 医術の心得があるような台詞を口にしていたことがあるし、苗字で呼ばれるのを嫌がっているという設定もあった。それは確かに、大病院の院長令嬢という身分なら、あんな不良娘やってる事実は隠したくもなるだろう。 あいつが〈病院〉《ここ》の関係者なら、入院後に即脱走した司狼と繋がりを持てた事情も、何となくだが察しはつく。 おおかた院内の何処かで出会い、〈司狼〉《バカ》菌に感染したとかそういうのだ。まったく、あいつら俺を嵌めやがって…… 「くそッ……」 吐き捨てて、自己嫌悪する。他人のせいになんかしてるんじゃねえよ。 結局、全ては俺の甘さと迂闊さが招いたことだ。この街に都合八箇所、戦場になりうる危険地帯が存在すると分かっていたのに、俺はその全部を把握しようとしなかった。目の前に掲げられた一つにまんまと食いついて空ぶった。 本城、司狼、おまえら何を考えていたんだよ。おまえらが拠点にしていたあのクラブも、危険区の一つだったんだろう? それを知っていたんだろう? 俺を追い出しておまえらだけで、いったい何をしようとしてたんだよ? 携帯を取り出し、最後に受け取ったメールの文面を確認する。 『しばらく会えねえけど、戻ってくるから待ってろ』 ちくしょう、おまえら何処に行った? 生きているのか、死んでるのか。もし生きているなら絶対ぶん殴ってやると決めたから、一刻も早く戻って来い。 クラブの事件は、おそらくこのメールをあいつが送信した直後に起こったものだ。 一昨日の夜、クラブ・ボトムレスピットでの惨劇。 死体なき大量虐殺の現場……ただ一人そこに倒れていたのは、香純だった。 現場はその後、警察によって検証されたが、常識の〈埒外〉《らちがい》にあるあんな事象をどうにかできるものではないだろう。 ただ、ダンスホールに残されたおびただしい血痕と、VIPルームでバラバラになっていたバウンサーの死体から、殺人事件と司直では断定。 香純は、唯一の生存者として病院に収容された。幸か不幸か、あいつはカスリ傷一つ負っていないと聞いている。 ただ、意識が戻らない。 俺は携帯をポケットにねじ込みながら、眠ったまま目を覚まさない香純の姿を思い起こした。 まるで、前の晩夜更かししすぎた休日に、昼まで寝こけている平和な寝顔と変わらない。 どこにも外傷は無く、意識が回復しない理由は、おそらく重度の精神的ストレスによるものだろうと医者は言った。 ずっとついていてやりたいと思う。 けど、それすら俺には出来ない。 さすがに容疑者とまでは言わないが、事件の真相を知りうるほぼ唯一の重要参考人として、警察がつきっきりになっているんだ。 肉親でもない俺は、一緒にいることも出来ない。むしろ、いま身柄を拘束されてないのが奇跡に近いと言っていい。 「……くそッ」 再度吐き捨て、俺はなんでもいいから殴りたくなる衝動に駆られていた。 情けない。 俺には何も出来ない。 そんな苛立ちに囚われながら、やってきた屋上でようやくマリィを発見した。 「ここにいたのか……」 人気のない屋上で、一人佇みながら空を見上げているマリィ。それはどこか、あの浜辺での姿を想起させる。 彼女のイメージは黄昏。今は夜だから新鮮な組み合わせと言えなくもないが、俺としては昼のマリィが一番魅力的なのではないかと、学校で感じたことを思いだす。 いや、昼と言うより朝なのかな。夕日の対極として、朝日をバックにした彼女はどんな風に見えるだろうかと、そんなことを考えた。 そして気付けば、ついさっきまで荒んでいた心が静まっていることも。 「マリィ、何してるんだよ」 だからだろうか、自分でも驚くくらい、穏やかな声が漏れていたのは。 「寒いだろ。風邪……は引かないかもしれないけど、こんなとこにいてもしょうがないぞ」 「何か、見たい景色でもあったのか?」 「うん」 問いに、マリィは頷いて。 「屋上……レンが好きだっていう屋上」 「俺が?」 そんなこと、言っただろうか。 「言ったじゃない。そこでいつも、みんな一緒だったって」 「わたしが五人目になってもいいんでしょう?」 ああ、確かにそういえば…… 「だから、練習。いつその時がきてもいいように、今から屋上の空気を知っておくの」 「ここでどんな話をするんだろう。どんなことをしてどんなことが起きるんだろう。そんな風に考えてるとね、なんだか少し面白い」 「屋上って、いい場所ね」 「……まあ、何かしら事件起こしやすい立地ではあるよな」 マリィの言葉があまりにも真っ直ぐなので、俺はついひねくれたことを言ってしまう。 我ながら性格の悪さが滲み出てるが、この子に比べりゃ大概の奴はどす黒いことになるだろうから仕方ない。 「よく不良が隠れてタバコ吸ってたり、下級生シメたりしてるのも屋上だ」 「そうなの?」 「あぁ、いや、そりゃ体育館裏のほうが正しいのかな。どっちでもいいけど」 「じゃあ、ケンカとかもしちゃうんだ?」 「したな。そういや」 「どうしてしたの?」 「色々あったんだよ」 本当に色々と。ありすぎて簡単に説明できない。 「痛かった?」 「ああ、痛かったよ。お互いに」 といっても〈司狼〉《あいつ》は、顔面血だらけで笑っていたような変態だから実際のところ分かんねえけど。 「複雑だね、色々と」 「〈胸〉《ここ》に感じるよ、レンの気持ち。色々思い出したり、考えたりしてる」 「わたしの心は、どうなっているのかな。何処から何処までが自分のものかは、よく分からない。それが少し、もどかしいね」 言いながら、少しおどけるように首を傾げるマリィ。 ラインハルトに貫かれたという胸の穴。彼女の情緒は、その空隙に写された俺の感情が、文字通り影を落としているだけだ。 言うなれば、今までのマリィはダイヤモンド級に硬い鏡だったのだろう。何をしても傷つかないし、混ざらない。 綺麗ではあるが孤立。こちらの感情をぶつけても上滑りして伝わらず、彼女の中には届かない。 それに、ラインハルトは穴を穿った。だからマリィの内部では、俺の感情が乱反射を起こしている。 無垢な、魂の芯の部分に、影絵の要領で俺が投影されているのだろう。 それは正直、お互いに精神的な強姦じゃないのかと。 いや、こんなことを考えても仕方ないことくらい分かってはいるんだが。 事実、俺は不快じゃないし。ふざけたキューピッドに憤る心はあっても、今のマリィが以前より近く感じることに文句はないんだ。 ただ、はっきりさせておきたいことが一つだけあるってことで…… 「ねえ、レン」 夜気に髪を靡かせながら、俺の目を見てくるマリィ。 その表情は微笑っているが、何処か迷子の子供を連想させた。 「わたしに心はあると思う?」 「もしこの穴が塞がっても、今を忘れたりしないですむかな?」 「屋上でケンカしたり? それもやってみたいなって、思うんだけど……」 「…………」 「これはレンの気持ちで、わたしのじゃないような……でも、だったらわたしは、いったい何処にいるんだろうって」 「そう考えると、少し怖いね」 俺がはっきりさせたいこと。信じたいことはつまりそれだ。 「大丈夫だよ」 マリィの〈精神〉《なかみ》は、決して空っぽのガランドウなんかじゃないんだと信じている。 この子は単に、外殻が強固すぎただけなんだ。心を通わす接触が出来なかったというだけで、彼女は決して不感じゃない。 「その、なんていうか少しだけ分かるんだよ。こうして話してると、特に」 上手く言葉に出来ないが、マリィの魂……その温度を感じられる。 それは凶器や人形なんて、味気ないものじゃ絶対なく…… 「だからマリィも、あまり悲観的なこと考えるな。……そりゃまあ、最近の俺がずっとネガティブだったから、巻き添え食わしてることは自覚してるんだけど」 「今は前向きに行こうぜ。難しいけど、できるだけ楽しく行こう」 「楽しく?」 とは例えばどうするの? とマリィは目で問うてくる。 俺はそれに、少しだけ考えてからこう言った。 「したいことをやるんだよ」 「マリィ、今は何をしたいと思ってる?」 「わたしは……」 呟き、ブロンドが風に流れた。パフェが食いたいとか、何かそういう、微笑ましくなるような答えを俺は予想してたんだけど。 「こうしたい……かな」 「レンに触れてると、安心するの」 「…………」 マリィはしなだれかかるように、俺の胸に顔をうずめてそう言った。 「身体、固いよ」 そりゃ、いきなりだったから驚いたわけで。 「どきどきしてるね」 この状況で心拍数が上がらない男など、そうはいないだろうと思うわけで。 「……やっぱ、情けないな」 励ますつもりが、逆に癒されてばかりだよ、さっきから。 カール・クラフト、いやメルクリウスか……そいつは今の俺を見て、嘲笑っているのだろうか。 思えば実際、俺はそいつのことを何も知らない。 「なあ、マリィ」 「カリオストロってのは、どんな奴だ?」 「変な人」 「よく喋る人。レンより口数は多いけど、それしかしようとしない人」 「色々褒めてくれたり、認めてくれたり、教えてくれはしたけれど、絶対触れてはくれなかった」 「わたしに触ることはできないって……」 彼女に触れると首が飛ぶ。危うく忘れかけていたが、この子はそういう存在だった。 「だから、レンしかいないんだよね」 「わたしが触れる人も、触ってくれる人も」 「ねえ、どうしてレンは平気なの?」 分からない。そこは本当に不明な部分だ。 俺は別に、少なくとも自覚している限りはただの平凡な学生だ。〈黒円卓〉《れんちゅう》からは色々と言われているが、未だにそんな自覚はないし。 だから理屈は分からないけど、事の因果関係を推測すれば何となく見えてくるものもある。 「マリィはその、そいつに触れてほしかったのか?」 自分で彼女を使えないなら、使える者を用意する。つまり俺はそいつの代わりで、要するに代替なのだ。 「俺はカリオストロの代わりか?」 「…………」 「分からないよ」 「でも、あの人にお礼は言いたい。レンに逢わせてくれてありがとうって」 「気持ちいいんだもん、こうしていると。嬉しくなるんだもん、分からないけど」 「わたし、この手に何も持ったことがなかったから」 「今、ここにレンがいるよね。こういう、ほっとする気持ち、知らなくて……もしかしたらわたし、色々損をしてたのかなって、そう思うの」 「だから、最初の話に戻るんだよ」 「……五人目ってやつ?」 「うん。わたしも学校とか、行きたい」 「それは……」 確かに、そうなればいいなと、俺も思うが。 「できないの?」 司狼は生死不明で、香純はあの様、そして氷室先輩はあっち側にいる。 こんな状況で、何をどうすればあの頃に戻れるのか分からない。 「前向きに行こうって言ったのに」 「そりゃ、分かってるけどね……」 マリィの頭に手を置いて、苦笑する。 ともかく今は、自分が生き残ることと奴らの目的を挫くこと。そのためにもマリィと協力していかなければならないし、こうして彼女が俺といるのを好んでくれるのは、純粋に嬉しいし有り難い。 立て続けに仲間と言える奴らを失った俺にとって、今はマリィだけが唯一の味方だ。 だけど…… 「なあ、本当に分かってる?」 「何が?」 「だから、その……このまま俺と一緒でいいのかよ」 今まで損をしていたかもしれないと言ったマリィ。触れ合うと安心すると言ったマリィ。 それはつまり、彼女が優しいものを求めているということで……俺と行く道にそうしたものは存在しない。 ぶっ殺したりぶっ殺されたり、それを乗り越えた果てなら、あるいはマリィが夢見ている〈屋上〉《きぼう》に辿り着けるのかもしれないけど、何にせよ血を覚悟しないと駄目だという現実。 これはそういう、認識の話。 「前にも同じこと訊いたけど、あのときは別に気にしてないって言ったけど、今はどう思うんだ、マリィ」 「俺が君にさせようとしてること、分かって、それでも一緒でいいのか?」 「血なんか、気持ち悪いだけだろう」 「だって……」 知らず吐き捨てるように言っていた俺の腕から、マリィの感触が消えていく。 そのまま彼女は、声も姿も薄れさせていきながら…… 「レンが一番、それを嫌っているじゃない」 「だから二人で一緒に行こう。大丈夫だよ、わたしもいるから怖くない」 「俺は別に……」 俺は別に、どうでもいいんだ。俺が耐えたり我慢したり、そういうのなら平気じゃなくても問題じゃない。 大事なのは、それに付き合わされるマリィの気持ちで…… 「違うよ」 像を解いていきながら、マリィは静かに首を振った。 「これはわたしが決めたことなの。そうすれば楽しくなるって、カリオストロに言われて勝手に決めたの」 「だから、付き合わされてるのはレンのほう。ごめんね。だけど嫌わないで」 「わたしは、でないと……」 そして彼女は、溶けるように再び俺の中へと還っていった。 「…………」 誰もいなくなった屋上で、自分の右腕を見ながら思う。 そういえばあれ以来、一度ラインハルトに叩き折られてから、マリィをこの状態に戻したのは初めてだった。 ゆえに違和感を覚えてしまう。ここのところずっと傍にいた彼女の姿が目に映らないこと。距離的なことを言えば今のほうがよっぽど近くにいるんだが、何か物理的な喪失感に近いものが湧き上がってくる。 「でないと、なんだよ……?」 ああいう類の、何かしら言いかけて〈有耶無耶〉《うやむや》にするっていうのは胸に残る。別に喧嘩したわけでも泣かしたわけでもないというのに、どこか後ろめたい気持ちになってきた。 いや実際、俺が悪かったのかもしれないが。 「俺のほうこそ、悪い。変なこと訊いたな」 右手を見つめて、謝っておく。彼女が聞いているかどうかは知らないが、今は言ったように前向きな考えを持たないといけない。さっきのは、マリィを気遣うというより俺の愚痴に近かった。 たとえ彼女が戦うのは嫌だと言っても、じゃあ全部やめて一緒に逃げようなんて俺には言えない。だったらあんな質問に意味はなく、結局のところ意見を伺ったという免罪符を得て、自分がすっきりしたかっただけだろう。 そんなものは優しさじゃない。同意してくれという脅迫だ。 事実こうしている今だって、抜き差しならない状況なのを自覚しているんだから。 「まあ、これも前向きに考えてる結果ではあるか」 自嘲して、俺は屋上からの景色を見渡した。街の全景とまではいかないが、ここからだいたい目ぼしい場所はチェックできる。 俺だって、いつまでも落ち込んでいたわけじゃない。クラブの件があって以来、自分なりに調べたし推理もした。 この街に用意された、八箇所の戦場。確定的なのはクラブと学校。そしておそらくシュピーネとやり合った公園。それからマリィと出逢った博物館。 この四つはほぼ間違いないのだから、残り半分もおおよその察しはつく。本城は抽象的にしか言わなかったが、各ポイントが図形を描くのならあいつらの象徴なんて考えるまでもないだろう。 すなわち、それは鉤十字。そしてその図を描くために必要と思われるポイントには、どれも特徴的な施設があった。 教会。タワー。遊園地。そして〈病院〉《ここ》。 奴らを迎え撃つために、俺はここで待っている。学校も気になるが、もっとも大惨事を発生させやすいのは病院だ。 数百単位の人間が、昼も夜も常在している稀有な場所。しかも大半が病人や怪我人という始末だから、狩場としては理想的と言えるだろう。 ゆえになんとかして医者や入院患者をここから退避させたかったが、そのための効果的な手段がない。ただのガキにすぎない俺が何を喚いたところで、誰も聞く耳持たないだろう。 そして、力ずくというのも論外だ。追い出すどころか、警察やマスコミを無駄に引き寄せてしまいかねない。本城がいれば何かしら裏技めいた手を用意できたのかもしれないが、現状それは不可能になっている。 気がかりなのは香純だが、この状況で〈重要参考人〉《あいつ》を引っ攫えば大騒ぎだ。間違いなく俺が疑われて今後の動きが取れなくなる。 だから、いま出来る最良はこの地の死守。もしも奴らの誰かが来れば、命懸けで撃退すること。ここをクラブの二の舞にさせはしない。 そう思い、決意して、一時間ほど経っただろうか。 「……よりによって、そうきたか」 予想しうる中でもかなり最悪なものに位置づけていた展開が、容赦なく襲ってきたのは日頃の行いというやつなのか。 「それとも、神父の命令ですか?」 屋上から見下ろした一角には、夜に溶け込むような漆黒のSS軍装。俺が知っている彼女とはあまりにかけ離れた佇まいで、シスター……リザ・ブレンナーがそこにいた。 「似合ってないですよ、その格好……」 やはり、きつい。分かっていても対峙するだけで胸を抉られるものがある。なるほど逆の立場なら、これは非常に効果的な人選と言えるだろう。 こちらを見上げる彼女の目は、冷たく細められていた。いつも柔和に笑っていた、先輩の誕生日を共に祝ってくれと俺に言った、あの日のシスターはここにいない。 見た目も、そしてその中身も…… 俺はフェンスを飛び越えて、そのまま彼女の前に着地した。軽く十五メートルはあろう高さからの落下だったが、無論何の怪我も負っていない。落ちるということに対する潜在的な恐怖心すら、欠片も感じられなかった。 それは俺の身も心も、すでに普通じゃなくなっている証だろう。そして当然、この人もそこは同じ。 常人では有り得ない密度の存在感。数百数千の人間が一度に動いているような特有の気配。それが何より雄弁に語っている。 彼女は桁の違う人殺しで、かつ桁の違う殺人をこれから行うつもりなのだと。 させない。絶対にそれだけは許さない。 「退く気はありますか、シスター」 俺は短く、それだけ言った。今さらお互いの立場や状況に対する問答なんて意味がない。 どうしてとか、なぜとか、そんなこと……言ったところで聞きたくもない台詞が返ってくるのは火を見るより明らかだから。 「ここは通しません。諦めて帰ってください」 目に力をこめて、俺はこの地を死守する意を告げる。 それに、彼女は…… 「あなたこそ、退く気はないの、藤井君」 優しく、嫌になるくらい穏やかな声でそう返した。 まるで、駄々をこねる子供を諭す母親のように。 その声、口調、いつか教会で話したときとまったく同じで―― 「今すぐ綾瀬さんだけでも連れて逃げなさい。他は認められないけど、それだけは許してあげる」 「あなたにとって、他はどうでもいい相手でしょう」 「――――」 だからこのとき、俺は激昂したのだと思う。 「……ふざけるな」 自分で驚くほど抑揚のない声だったが、俺は目眩を覚えるほどに怒っていた。 この期に及んでこの人が、見当違いの気遣いをしていること。 その条件を俺が飲むと、たとえ僅かでも思っていること。 ああ確かに、俺は聖人君子なんかじゃないけれど。 「あんたは何も分かっていない」 俺がここに立ちはだかり、あんたに退けと言っている最大の理由は彼女のことだ。 ラインハルトの帰還を阻止? 大量殺戮を見逃せない正義感? 今はそれより、単純に―― 「あんたにそんなことをさせたら、先輩に会わす顔がない」 「だから、誰も殺させないぞシスター。香純も、そして他の奴らも」 「俺は全部終わったら、先輩と仲直りしなくちゃいけないんだ。そういう落ちをつけるって、ついさっき約束した」 マリィを屋上で遊ぶ五人目として迎えると。 「だから、あの人の機嫌損ねちゃまずいんだよ。氷室先輩は絶対に、あんたがこんなことをするなんて思ってないし望んでいない!」 母親のように、姉のように、長年共に過ごした彼女のことを先輩は慕っている。それは誰が何と言おうと、絶対に間違いないと確信している。 だったら俺は友人として、あの人の〈理想〉《ゆめ》を守ってやらなきゃいけないだろう。 「たとえあんたが何者でも、先輩にとっちゃ家族なんだ。いったい何処のふざけた世界に、身内が人殺しで喜ぶ馬鹿がいるんだよ!」 「――――」 それに、シスターは数瞬絶句していたが。 「ありがとう。あなたにそこまで持ち上げられて、正直光栄」 「だけど無理よ」 俯いて、笑みを浮かべて、そして彼女は―― 「あなたみたいに優しい考え方が出来ない私は、つまりそういう女だから。玲愛もそれを見切っている」 「あの子は私を嫌っているし、私はあの子が怖いのよ」 カツン、と軍靴が前に出る。俺の存在をまるで無視し、その先にある病院へと彼女は歩を進めだす。 「―――ッ」 なんだこの無防備さは? 攻撃されないと高をくくっているのか? それとも―― 「彼の足止めをしなさい、レオンハルト。ついて来たのだからそれくらいの役に立ってもいいでしょう」 「私と“彼”はここのスワスチカを開く」 「――了解」 「―――――ッ」 シスターを飛び越えるように落ちてきた一撃を、俺は真横に飛んで回避した。それは斬撃でありながら高熱を帯び、地を走る炎が進行方向にあった大樹を一瞬にして燃え上がらせる。 俺はこれを、この攻撃を以前にも見て知っていた。 「正直、願ってもない展開です。彼とは決着がついていないし、前のものを私の実力と思われたら堪らない」 「だから、早く用をすませることですね。彼の命でスワスチカが開いたら、あなたにとっては殺し損だ」 「なッ――、おまえ!」 唐突な事態の変化に混乱し、即応できない。 馬鹿な、櫻井―― こいつもここに来ていたのか? だったら、くそ――シスターは!? 「読みが甘い。楽観にすぎる。とてもカール・クラフトの代替とは思えない」 「そんなあなたは素敵な男の子だったけど、ここでは最悪の目に出たわね。誰が一対一でいくと言ったの」 「あなたが私たちの時代に生まれていたら、ただの敗兵。それじゃあ誰も守れない」 「待ッ――」 振り向き、手を伸ばすがそれも届かず―― 「―――ッァ」 「前も言ったでしょう、浮気しちゃ駄目よ藤井君」 「今は私と、一緒にいこう? 年増趣味なわけでもないでしょう?」 「……このッ」 危うく胴を両断されるところだった斬撃を紙一重で躱しつつ、前方の櫻井に向き直る。 「おまえ、本当にいちいちムカつく女だな」 いつもいつも、この野郎……俺の神経を逆撫でする言動だけは神業的だ。 「それはお互い様でしょう。あなたも相当、私の我慢強さを鍛えてくれたわ。自覚はないでしょうけどね」 「その証拠に、今もそう。私を舐めてる」 「全力で、一刻も早く私を制し、彼女を追おうと思っているでしょう。それが出来るつもりでいるでしょう」 「だから言われるのよ、読みが甘い」 緋色に燃える櫻井の剣。その、ここまで伝わる熱気が徐々に、なぜか段々と失せていくのを俺は感じ取っていた。 気のせいじゃない。あからさまな異常事態。あれだけ燃えている物が熱くないはずないというのに。 ではいったい、これはどういうことなのか。 「第一は活動。第二は形成。あなたの位階はまだそこまで」 「だけど私がいるのは第三だって、忘れたのかしら。教え甲斐のない人ね」 「〈形成〉《まえ》の私と互角以上に戦えたから、いったい何? 今はもう、加減する理由も必要も何処にもないのよ」 「だからちゃんと教えてあげる。私の本領と、それがどういうものなのか」 燃え上がる炎の勢いと反比例するかのように、体感する熱気がゼロ同然へと落ちていく。こんなことは有り得ない。 まるで櫻井そのものが、この世界から切り離されていくかのように。 俺は、以前こいつから聞いたことを思い出してた。 魂を糧に聖遺物を揮うエイヴィヒカイトの第三位階……あのときは語られなかったその真実と、その意味を。 「〈Die dahingeschiedene Izanami wurde auf dem Berg Hiba〉《かれその神避りたまひし伊耶那美は》」 「〈an der Grenze zu den Ländern Izumo und Hahaki zu Grabe getragen.〉《出雲の国と伯伎の国 その堺なる比婆の山に葬めまつりき》」 何かがずれるような感覚と共に、櫻井の口から歌が漏れる。 それは暗示とでも言うべきだろうか、自身の在り方を強力に固定しようという意志の力が、〈瞑想〉《トランス》状態へと誘う詠唱。 「〈Bei dieser Begebenheit zog Izanagi sein Schwert,〉《ここに伊耶那岐》〈das er mit sich führte und die Länge von zehn nebeneinander gelegten〉《御佩せる十拳剣を抜きて》〈Fäusten besaß, und enthauptete ihr Kind, Kagutsuchi.〉《その子迦具土の頚を斬りたまひき》」 もしや―― もしやこれが―― 「創造位階……ルールの創造。魂の渇望が満たされる世界を創ること」 「私の〈渇望〉《ルール》はね、藤井君」 瞬間、爆発する火柱と共に櫻井が〈変生〉《へんじょう》した。 髪も、肌も緋色に染まり、今や背景すら透けて見える。まさしく炎そのものへと―― 「この〈誓い〉《ねつ》を、私の中で未来永劫なくさないこと」 「誰も巻き込まない。誰にも邪魔させない。二度と私のせいで好きな人たちを死なせない。取り戻してみせる」 「そしてそれが叶うまで、誰も要らない。一人でいい」 口調は静かで、冷静に、表面上の熱さがないのは、この怪奇な炎とまったく同じでありながら―― しかしその実、こいつの〈魂〉《うち》は灼熱の色に猛っていた。 その咆哮が、爆発する。 「私の邪魔をするものは残らず全部、燃えてなくなってしまえばいいんだ!」 「〈Briah〉《創造》――!」 「――――ッ」 爆ぜる炎の轟音と共に、走る緋色の剣閃が俺に迫る。 「〈Man sollte nach den Gesetzen der Götter leben.〉《爾天神之命以布斗麻邇爾ト相而詔之》」 火は斬れず、穿てず、砕けず、折れない。遅まきながら形成した断頭刃さえ、炎と化した櫻井を捉えられず―― 剣が、その渇望が、ギロチンを透過していく。防御が出来ない。 切り札――それは確かに、必殺の技と言って間違いない第三位階の発現だった。  轟いた爆発音にリザは一瞬足を止めたが、しかし振り返らず院内へと入っていった。  レオン、派手にやりすぎだ。今ので間違いなく大半の者が目覚めただろうし、騒ぎに気付けば慌しくなる。避難しようとする者も、少なからず出てくるだろう。  そうなれば、後は凄惨な殺戮ショウだ。まさしく蜂の巣を突いたような騒ぎの中、自分は逃げ回る者たちの悲鳴と叫びに囲まれながら事を完遂せねばならない。出来れば苦痛も恐怖も与えず、一瞬で片をつけたかったというのに、まったく…… 「あてつけ? いや、違うわねたぶん」  あれは単に、あの子の性分なのだろう。若さのせいもあるだろうが、ひどく直情的で視野が狭い。何かをすると一つ決めたら、他は一切眼中に入らなくなる。  もうだいぶ以前、自分が彼女の成長に危惧を懐いた通りの様になってしまった。若年ながら短期間で黒円卓に名を連ねた才は認める。覚悟も結構。だが直線に突き進むだけのものは、いとも容易く折れるのだ。  そうならないよう、幅と厚みを蓄えていく時間もなければ、回り道をして枝葉を増やす余裕もない。結果として櫻井螢は、鋭利だがただのガラス。もしくは針とでも言うべきか。いずれにせよ脆い。ああいう人種は長生きできない。それが戦場ならばなおさらに……  とまあ、そう思いながらも何一つしようとしない自分が言えたことではないけれど。  玲愛にも、藤井君にも、そして他の総てにも……それぞれ思うところはあるのだが、結局私は何もしない。こんな感傷はただの自慰。かつて友人だった同期なら、きっとそう辛辣に面罵してくることだろう。  そして、彼女の部下であったあの子なら、暇な人ですねと失望の目を向けてくるに違いない。あの二人、性格は正反対だが、そういう妙に厳格なところは似通っていた。生まれのせいというやつだろうか。  と、愚にもつかないことを考えながら入院棟までやってきたが、予想に反し未だそこは静寂に包まれていた。 「…………」  おかしい。表で繰り広げられている戦闘の余波は、今このときも響いてきている。だというのに、なぜ誰も外の異常に気付かない。  鼻をつく薬品の匂いと、足から伝わるリノリウムの冷たい感触がリザの心を波立たせる。それらは二つとも彼女にとって、ひどく不愉快なものだった。  いやそもそも、病院という施設自体が好きじゃない。  治療、研究、成功、失敗、誕生、そして死の温床……ここはそういう場所であり、命を弄る庭なのだ。  ゆえに、自分が貰うスワスチカはこの場所こそ相応しい。かつて暗黒の時を過ごしたあの機関と、よく似た属性を持ったここ。この地を葬り捧げることで、私は〈黄金〉《きせき》に手をかける。  だが…… 「出てきなさい。何のつもりか知らないけど、あなたの手は要らない」  その呼びかけに応じるかのごとく、室内灯が点滅してからやがて消えた。  闇に落ちた廊下の奥……いつの間にかさらに深い影が一つ、長身の人型をとって現れていた。  ヴァレリア・トリファ。行方を眩ましていたこの男が、なぜ今こんな所にいるというのか。 「ああ、見つかってしまいましたか。流石にあなたの目は誤魔化せませんね。ずっと隠れているつもりだったのに」 「嘘を言いなさい。あなたが本気で隠れたら、誰にも見つけられはしないわよ」  常通り緩い調子で笑う神父に、リザは懐疑の目を向けて詰問する。 「それで、いったいどういうつもり?」 「どう、とは?」 「この状況よ。私の助けをするというの?」 「まあ、そんなところですかね。長い付き合いだ。あなたのことはそれなりに分かる」  表の騒ぎに誰も気付かず、深い眠りに落ちた病院。常識的に有り得ない事象が起きれば、そこに常識外の存在が絡んでいるのは自明の理だ。 「私とて、弱者を苦しめる趣味はない。老人、子供、そして病人……痛ましいでしょう、彼らが嘆く様などは。 避けて選べぬ犠牲なら、せめて速やかに、かつ慈悲深く。あなたと同じですよ、リザ」 「…………」 「どうしました、やらないのですか? アレを解き放てば、この程度の施設は一瞬でしょう。建物ごと潰してしまえばよろしい。 それであなたには黄金の恩恵が約束される。 かつての罪を清算できる。違いますかな」 「ええ、そうね」  頷き、しかしリザは次の行動に移らない。変わらず神父を見つめたまま、深海のような闇の中で微動だにせず佇立している。  トリファは笑った。呻くように。 「切ないですねえ。私は黒円卓でただ一人、あなたの背信行為に手を貸した男ですよ。ハイドリヒ卿と副首領閣下の目を本当に誤魔化せたかはまったく自信を持てませんが、少なくともザミエル卿……彼女に知られなかっただけでも御の字ではないですか。 母たる者の何たるか……あの御方には分かりますまい。女性としてはひどく劣等ですからね。総て〈正否〉《ろんり》で片がつくと思っていらっしゃる」 「〈感情〉《あい》の天秤が、必ずしも高きから低きへ流れるとは限らないという事実を御存知ない。ゆえにあなたを理解できない。 リザ、我々はそうした意味で同類でしょう。何を警戒しているのです。 それはまあ、嫌われて然るべき真似も何度かしてきましたが、あなたを裏切ったことはないつもりだ。だというのに……」 「もういいわ」  呟き、リザはようやく歩みを再開した。神父との問答を避けるように、そのまま彼の横を通り抜けて行こうとする。 「あなたの言いたいことは分かったから、後はもう放っておいて。正直、見られたくないのよ」 「殺人に自己嫌悪ですか?」 「ええ、笑うでしょう? 今さらよね」  諦観に近い苦笑を頬に刻みながら、リザは続ける。懺悔のような独白を。 「でも私は昔からそうなのよ。いつもいつも嫌だ嫌だと思いながらも、他の道を選ばない。選べないんじゃない。選ばないの」 「私はあなたが羨ましいし恐ろしい。あなたは私の理想に近すぎて、見ていると目が潰れそうになる。 あなたみたいに、微塵も揺れない強さは欲しい。だけど要らない。私はこの〈自慰〉《かっとう》が、大事なものだと思っているから。 それを乗り越えてしまったら、きっと本当に人じゃなくなる」 「なるほど」  殺したくない。けど殺さなくてはいけない。  救いたい。けど切り捨てなければいけない。  リザ・ブレンナーは決して己が選択を変えないが、その迷いを懐き続けていたいのだ。  自慰と言えば自慰。茶番と言えば茶番。それは単なる出来レース。  悪辣非道な行いも、罪悪感に浸ることで許容する。  卑怯者の発想だと人は言うに違いない。最悪の偽善者だと、自他共に認めている。  だけど…… 「偽善者には偽善者なりの意地があるのよ。あなたを責めたり、疑ったり、人のことを言えた義理じゃないのは自覚してるわ。でもねヴァレリア――。 〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈永〉《 、》〈劫〉《 、》〈救〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》、〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈男〉《 、》〈は〉《 、》〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈救〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  痛烈にそう浴びせ、二人がすれ違う寸前のこと。 「リザ」  ぽつりと、不意に思い出したと言わんばかりに、トリファは言った。 「結局、父親は誰だったのです?」 「――――――」 「あなたの息子は二人いた」  ではなぜ、〈金色〉《ゴルト》を捧げ、〈銀色〉《ズィルヴァ》を生かした? 「その〈自慰〉《かっとう》とやら、共に腹を痛めた我が子という点で差異はないのに、一方を黒円卓の生贄に、もう一方を人として生かそうとした判断基準は何処にある? そんなに似ていたのですか、父親に。怖かったのですか、その血脈が。だから今もこうやって、あなたはテレジアを切り捨てようと――」 「――――ッ」  弾かれたように振り向いたリザの手が、鞭のようにしなって神父の頬へ―― 「これは答えていただきたい。私にもひどく重要なことなのです」  自らを打とうとした手を掴み止め、トリファは憤怒に眉を歪めるリザを冷厳に見下ろしていた。  淡々と、抑揚なく、しかし抗い難い何かを滲ませつつ問いを続ける。 「ゾーネンキント第一世。あの日ベルリンを生贄に、“城”を創造したのはイザーク――すなわちテレジアの祖父でありあなたの息子だ。では父親はいったい誰? リザ、あなたには夫がいたが、あの副首領閣下までが絡んだ優生学研究の集大成が、馬の骨の胤であるなど有り得ない話でしょう。まあ、人の良いキルヒアイゼン卿あたりならば、そんな〈与太〉《ゆめ》を信じていたかもしれませんがね。 皆それが気になっていたし、各々想像はしていたはずだ。何せあなたは、頑としてその真実を明かさない。 ヒムラー卿か、ゲッベルス卿か、あるいはヘス卿? それとも総統閣下ご本人? 太陽の子を名乗るなら、帝国の中枢に至る血が必要だとは思いませんかね?」 「あなたに、それが……」  いったいなんの関係があると……怒りに震えるリザはしかし、次の瞬間凍りついた。 「ですから、関係あるのですよ。なぜ私はこんなにも、テレジアを愛しているのだろうかと。 理屈ではなく、魂があの子を守れと命じている。父性とはそういうものなのかもしれませんが、たまに不思議なのですよ。なぜ私のような男がと。 リザ、これは本当に、私の〈感情〉《あい》と言えるのでしょうか。何処から来て、何処へ導くものなのでしょうか」 「もしかしたら聖餐杯は、“これ”を封じるためのものなのでは、と」 「――――ッ」  おぞましい考えが脳裏をよぎり、リザは掴まれた腕を力任せにもぎ離した。そのまま数歩下がって距離を取り、無表情に見下ろしてくる神父を見上げる。 「仮に……」  そう、あくまで仮にの話だが。 「仮にあなたの想像通りだったとして、だからいったいどうだというのよ。 あなたの中に愛なんかない。それを証明できたら嬉しいの?」 「さて……しかし試したくはありますね」 「何を?」 「ですから愛を」  飄々と、しかし内から湧き上がる喜悦の色を隠そうともせず、トリファは言った。 「私がテレジアに懐く想い……〈愛〉《これ》が誠、己のものなら、彼女以外を切り捨てられるはずだ、あなたのように。 そしてよしんば、ただの借り物であったとしても、真実に変える方法が存在する。なぜならば――」  僅かの間を置き、リザの注意を十二分に引き付けてから、彼は呪いを口にした。 「あなたが逃がし、母として幸せを願ったもう一人のゾーネンキント。ヨハンの血脈もこのシャンバラに存在する」 「なッ――」  それは、総てを嘲笑う悪魔の掌。  母と呼ばれることも、この腕に抱くことも、総て放棄する代わりに人として生きてほしかった愛息の行方。  偽善と罪悪に満ちた自分の生で、ただ一つだけ勝ち取った成果であり誇りであると信じていたことまでもが――  カール・クラフト。その〈黄金錬成〉《アルスマグナ》の陣からは逃れられず、絡め取られていたというのか。 「本来、あなたに教えるつもりはありませんでしたがね、バビロン」  掛け値なし、心からの哀れみと共に、トリファは彼女を魔名で呼ぶ。  大淫婦。世に悪徳の萌芽を生んだ罪の女を罰するように。 「私はそちらを捧げることで、テレジアへの愛が己のものであると証明する。 なぜなら、もとは双子ですからね。同じ我が子の片方は殺し、片方は生かすなど、およそ人の所業ではない」 「〈聖餐杯〉《ここ》にへばりついているやも知れぬ父親の情? 私がそんなものに引きずられているわけではないと、ヨハンの血を断つことでしか実感することが出来ぬのですよ。 もはや言わずとも分かりますね、それが誰かは」 「――――ッ」  そうだ、総て分かったがゆえに理解した。  逃がせないし逃げられないのだと痛感した。  ああ、つまり、自分は後に退けないのだと再認することが出来たから――  瞬間、リザの掌中に闇が凝縮して渦を巻く。密度を持って形を成し、彼女の武装が具現化する。  黒く、黒く血に塗れた、それは数千枚を超える人皮が重なり、出来た仮面。  その総ては赤子のもの。聖人の顔が浮き出た聖なる〈骸布〉《シュラウド》と同様に、これは死者をこの世に留める呪われたデスマスク。 「〈青褪めた死面〉《パッリダ・モルス》……それを出してどうするのです? まさか私に」 「黙りなさいッ!」  声は風刃となり空を切り裂く。リザは即座に決断していた。 「させない、絶対にそんなこと……あの子は生かすと私は決めたのッ!」 「では、テレジアは死ねと仰る?」 「そうよッ!」  胸が痛い。張り裂けそうだ。でも総てを救うことなど出来なくて、私は選ばないといけなくて。  文字通り身を切る末の決定に、今さら変更など有り得ない。  したら私の六十数年が無意味となる。 「あなたなんかに、自分の気持ちが誰のものかも分からないあなたなんかに、私を否定させはしない。 自分が強くなるためだけに、〈黄金〉《かいぶつ》の身体を受け入れたあなたなんかに……!」 「それはあなたも同じでしょう」 「結局、最初の問いが図星ですか。〈金色〉《イザーク》は父親に似すぎていたから愛せない。〈銀色〉《ヨハン》は出来損ないだから愛せたと。 俗ですねえ。実に素晴らしき醜さだ。あなたはバビロン、やはりテレジアの母として相応しくない。 いや、そもそも最初から、女であっても母ではなかったということでしょうね。なぜならどちらも育てていない」 「産んで捨てるだけならば、そこらの雌犬でも可能なことだ」 「――カイン!」  悪罵を掻き消す大音声は、屍兵の召喚を意味していた。  この仮面を被り暴威を揮う、破壊と死の塊を―― 「無駄です。分かっているでしょう」  だが呆れと失望にまみれた神父の声は、やぶ蚊を追い払うかのように鬱陶しさを隠しもしてない。  今、彼の前に顕現した巨躯の怪人……190cm超えるトリファをしても遥か見上げるその威容は、岩から削り上げた鬼神像を思わせる。  鋼の筋肉と血の通わない土色の肌は不気味な上に剣呑で、この巨人が見た目以上の凶を纏っていると誰でも分かりそうなものなのに…… 「たとえ彼でも、聖餐杯は壊せない」  枯れ枝のように〈優〉《やさ》な神父は、振り上げられた身の丈を超える鉄塊を前に微動だにしていなかった。  まるでじゃれつく子供に辟易した親のような……圧倒的上位に立つ者特有の、ある種諦観した溜息さえついている。  その声で―― 「是非もない。死にますか。 あなたはここで終わったほうが、テレジアの心も壊れずにすむ。 親に見限られる子の嘆きなど、私は二度と見たくないのだ」 「一番壊れているのはあなたよ!」  それは少なくとも十数年、一人の少女を〈鎹〉《かすがい》として成立していた家族の終焉。  振り下ろされる大質量が叩きつけられ爆裂したのは、砕け散った彼らの絆なのかもしれなかった。  が、それとは関係なく――  今、この地で起きようとしている一つの異変。  リザも、トリファも、蓮も、螢も……誰一人それに気付いておらず、そして気付くのはまったく同時のことだった。 「―――――」 総身を駆け抜ける悪寒と戦慄に、俺は愕然として宙を仰ぐ。炎と化した櫻井から飛び退いて下がりつつも、追撃を警戒するより無視できない事態が起こった。 「まさか――」 「第四が開いたようね」 込み上げる嘔吐感。ぎりぎりと軋む首の疼き。それは奴らにクラブを落とされた時とまったく同じで、気のせいなんかじゃ有り得ない。 今、間違いなく、この街の何処かで大量の魂が散華した。 「たぶん、ベイでしょう。これであと四つ」 「そして〈病院〉《ここ》で五つ」 「――――ッ」 焦りが極限まで膨れ上がる。ちくしょう、こんなことをしてる場合じゃない。 シスターを、早く彼女を追って止めなければ―― 「だから、それはさせないと言ったでしょう」 「なッ――」 真横になぎ払われた一撃は、剣の間合いを無視して俺に届いた。寸でで仰け反り躱したものの、十メートル近い距離を取っていたにも関わらず胸元を切り裂かれる。 「火は不定形」 つまり、伸びる。今の櫻井に距離は何の意味もない。 「これで分かったでしょう。私のほうが強い」 「ずっとそうやって避け続ける? それもいいけど、あなたに私を斃す手はない」 火は掴めない。火は切れない。俺に出来ることはまさに躱すことだけで、防御も攻撃も封じられた。 じゃあいったい、どうすれば…… 「仮に今日、ここで綾瀬さんが死んだとする」 「そしたらあなたは、どうするの?」 歯噛みする俺に向けて、冷淡な櫻井の声が飛ぶ。それは以前、確か同じことをこいつは訊いてこなかったか。 「俺は生きてる奴のことしか考えない? 死んだ奴のためと言って、死んだ奴のせいにするのはお断り? ああ、本当にカッコイイよね、藤井君は」 「幸せで、おめでたくて、想像力のない腹の立つ人。そして、本当にそれを実行できるなら、強いけど冷たい人ね。誰も愛したことがないんでしょう」 「ふふ、はははは……そういえばあなた、猊下にも言ってたわよね。死人との再会だなんて、そんなことを望む奴は頭がおかしい」 俯いて、肩を震わせ、櫻井は笑っている。俺の過去の台詞をあげつらい、心底馬鹿にするように。 許さないと糾しながら罵るように―― 「ご名答よ、私はおかしい! こんなのとても正気じゃやってられないッ!」 「いい気味よ、ざまあ見ろ。あなたも私と同じになる」 「それでどう? どうするの? そのときあなたは何を選ぶ? 私と一緒に残るスワスチカを開いていく?」 「いいわよ、一緒に頑張りましょう。二人で競争しながら〈殺して〉《ささげて》さ、仲良く並んでハイドリヒ卿にお願いしようよ。私たちの大事な人を返してください」 「あと四つ開いて黄金錬成を完成させれば、死人だって生き返る!」 「安い取引よ、藤井君。名前も知らない何処かの誰かを千か二千か殺すだけで、亡くしてしまった掛け替えのない人を取り戻せる」 「それが私の望む〈黄金〉《きせき》。この街の〈錬成陣〉《スワスチカ》が成す不死の創造――否応もない!」 俺に剣先を突きつけて、櫻井は吼える。だから殺すのだと。戦うのだと。 生き返らせたい死者がいるから、奇跡の代償である生贄を捧げ続けているのだと。 それは真摯で、純粋で、善悪を通り越した一つの究極的愛なのだろう。なるほど確かに、こいつはただの殺人狂というわけじゃない。事情を知らない俺から悪党呼ばわりされるのは、さぞかし不愉快だったことだろう。 だが…… 「ふざけろ」 あまりの短絡さに目眩を覚える。 おまえは馬鹿だ。度し難いほど頭が悪い。 「〈殺した相手〉《そいつら》にも大事な人はいただろうって? 綺麗事よ。私にとっての唯一無二は、そこらの有象無象と比べられない」 「当たり前だ」 俺だって綺麗事は好きじゃない。命の価値なんてそんなもの、人それぞれの主観によって激変するのが当然だろう。 「おまえ、自分で言っても気付かないのか」 「何を?」 だからこのどうしようもないほど残念な女に、俺は言ってやりたかった。 それほど大事なら、そこまで愛していたのなら。 たとえ何を引き換えにしようとも、釣り合う天秤なんかないってことを。 「掛け替えがないってことは代えが利かないってことだクソ馬鹿。千か二千か〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ぽ〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》で、戻るもんなんざ安っぽすぎて唯一でも無二でもねえんだよッ!」 香純も司狼も先輩も、そしてマリィもおまえが亡くしたという何処かの誰かも――断じてそんな代価じゃ戻らないし戻してはいけない。 「地球とだって釣り合ってたまるか! おまえがやってることは舐めてんだよ、ふざけんじゃねえッ!」 「そんなクソくだらねえもんのために、俺のものは渡さない。おまえはそこらのゴミ山で漁ってろ」 「……ゴミ?」 俺の怒声に、虚を衝かれた顔をしたのも一瞬。 「ゴミと言ったの? ――取り消せ」 「ゴミだろうがよ。おまえらが捻り殺したエキストラで生き返る命なんか」 一千人だろうが一万人だろうが、こいつはそれらを安い取引だと断じた。 かつて喪失したという大事なものより、自分にとっては価値が無いものだと言い切った。 だったらそんな代価で取り戻そうという宝物は、“そんなもの”でしかないだろう。 「人殺しが蘇生だ不死身だの図々しい。ゴミ屑いくら寄せ集めても、黄金になんかなるわけないんだ」 「おまえは、安い取引で好きなものの価値を下げてるんだよ!」 「――うるさいッ!」 「うるさい、うるさいうるさいうるさいッ! あなたに、あなたに何が分かる! 何も亡くしてないくせに、のうのうと今まで生きてただけのくせに! 私の、私のいったい何が――」 怒号は爆炎となり広がって、それが推進力に変換される。憤怒に顔を歪めた櫻井は、泣き叫ぶように吼えて地を蹴った。 「何が分かるっていうのよッ!」 そのまま、激情の爆発と共に斬り込んで来る。しかし唐突、次の瞬間―― 「見苦しい。貴様の負けだ小娘」 「ああぁァッ――」 一瞬、本当に一瞬で、何かに叩き潰されていた。 「――なッ!?」 いったい何が起こったのか、俺には理解できず、察しもつかず…… 「そして貴様の口はよく回るな、小僧。流石は〈副首領〉《クラフト》の代替か」 「ぁ、ぐ……ぅぁ……」 正体不明の圧力に潰された櫻井は倒れたまま、しかし恐怖の相で上空を見上げている。 その視線を追い、俺もまた異常に気付いた。 赤い、赤い、紅蓮の陣。病院の敷地を覆い尽くすそれは、内部にいる総ての者を瞬時に消し去れるであろう圧倒的な力を感じさせる。 まるで巨人の掌にでも乗せられた気分だった。真紅に瞬く方陣は炎の塊。その熱量も禍々しさも、櫻井のそれとは桁が違う。 地獄――それも大焦熱の――そんな考えが脳裏を過ぎった。 「ラインハルト……」 いや、違う。あれは〈赤化〉《ルベド》―― 「全員動くな。蟻の一匹も逃がさん」 櫻井が、震える声でその名を呼んだ。 「ザミエル、卿……」 そうだ、あれは―― 「我が君より命を受けて推参。もって第五を開き同輩らを呼ぶ先駆けとする」 「聖槍十三騎士団黒円卓第九位、大隊長――エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ=ザミエル・ツェンタウァ」 「さあ参れ、〈副首領〉《クラフト》の落とし子。私の〈炎〉《ローゲ》でハイドリヒ卿へ捧げる刃の切れ味を見てやろう。〈鈍刀〉《ナマクラ》ならば骨も残らんと思え」 遥か上空……渦巻く紅蓮の炎を纏い、空間に巨大な穴を穿って現れた焦熱の化身。それを見ただけで直感した。 格が違う。次元が違う。こいつもラインハルトとまったく同じ、この世界に在るべきではない地獄の住人そのものだと。 「マリィ……」 俺は、こいつに勝てるのか? ちくしょう、まるで勝機が見当たらない。 「――――」 「――――ッ」  異常を同時に感じ取り、トリファとリザは弾かれたように距離を取った。死せる巨人はその中央で佇立したまま、二者の緩衝材として沈黙している。 「……参りましたね、噂をすればというやつですか」  漏れた呟きは微かだが苛立たしげで、常に緩さを失わない彼にしては珍しい。そしてそれも当然だった。 「ザミエル卿……随分と気が早いではないですか」  本来、彼ら大隊長の出陣は、五つを超えるスワスチカの開放と、プラス“ある条件”を踏まなければ成されない。それらを無視した強引な介入では、先のラインハルトと同じく影を送り込むのがせいぜいだ。つまり、相当に不完全な状態となって然るべきはずである。  だが、にも関わらずこの重圧。実力を大幅に制限されているだろう状況下で、なお手に余ると言わざるを得ない。乱入を想定していなかったわけではないが、その戦力に対する見積もりは甘かった。  ここが潮か――トリファは瞬時に判断を下す。 「一時休戦としましょう、リザ。こんなことをしている場合ではない。 どうやらザミエル卿、第五を開く命を受けておられるようだ。分かるでしょう、すでに照準を合わせられている」  病院の敷地全域が、今や〈赤騎士〉《ルベド》の掌に握られていた。これは喩えるなら、巨大な銃口を上から被せられたに等しい。〈銃爪〉《ひきがね》を引かれれば人も建物も粉微塵と化し、引かれなくても脱出が出来ない。  命を握られた状態で、逃走は不可能。確かにつまらぬ小競り合いをしている場合ではなかった。 「それなら、あなたが彼女の前に出て行けばいいでしょう」  しかしリザは、冷淡に感情をこめずそう返す。この相手の提案には、必ず何か裏があると知り抜いているのだろう。馬鹿正直には乗ってこない。 「ザミエル……エレオノーレに〈聖餐杯〉《あなた》を攻撃することなど出来ないわ。今すぐその隠形を解いて、矢面に立ちなさいよ。そうすれば彼女も、この檻を開けるしかない」 「正論ですが、そういうわけにもいかないのでね」  トリファはこの状況下でも、己の気配を極限まで薄めていた。今、面と向かっているリザ以外、彼の存在に気付いている者はいないだろう。  本気で隠れたら誰も見つけられないと評されたのも伊達ではない。実際に院内全域を掌握しているエレオノーレの目すら眩ましているのは、確かに脅威の隠形と言えた。  問題は、その意図が見えないということなのだが。 「ザミエル卿は、その気性も技も大味な方ですから、索敵を得手としない。私としては、そこにつけ込みたいのですよ。 あなたにとっても、私が出て行ったところで益などないのではないですか? あの方は、今我々が争っている人物の生死になど興味がない。 それはつまり――」 「誰かが“彼女”を守らなければならない。ええそうね。そしてそれを、あなたに任せろと?」 「現状、あなたはザミエル卿に補足されている。そこのカインも同様に。 であれば、私がやるしかないでしょう。そして私ならば、彼女の砲にも耐えられる」 「どちらのゾーネンキントを使うかという争いは、後日改めて決着をつければよいでしょう。現実問題として、私も今“彼女”を失っては困るのだから」 「利害は一致している。そう言いたいわけね」 「然り。如何か?」 「お断りよ」  短く切って捨てるように、リザは神父の意見を跳ね除けた。 「“彼女”を守る者が要る? なるほどその通りよ、あなたは正しい。確かにエレオノーレは、ここにもう一人ゾーネンキントがいると言っても、正統が無事なら問題なしと断ずるでしょう。 それどころか、純度を下げる邪魔者として積極的に処分しようとしかねない。彼女がどういう性格かは、あなたより私のほうが知っている」 「ではどうして? それほど私が信用ならぬと?」 「違うわ。言ったでしょう、あなたは正しい」 「ならば……」  要領を得ない返答に、トリファは眉を顰めて訝しむ。何を意地になっているのだ。文字通り銃口を突きつけられたこの状態で。 「まさかリザ、あなたは己が手で“彼女”を救いたいとでも言うのですか? それで何か、自慰のような達成感にでも浸りたいと? くだらない。 現実を知りなさい。あなたが今、不用意に動けばザミエル卿は〈銃爪〉《ひきがね》を引く。そのとき残るのは私だけだ。そんな落ちに何の意味があるという」 「だから、あなたは……」  呆れと、失望と、そして隠しようのない哀れみを込めて、リザは深い溜息をついた。  なぜこんなことも分からないのだろう。  なぜこんなにもズレているのだろう。  昔からこんな男だったわけじゃない。  出会った頃は頼りなさ気で風采のあがらない〈末成〉《うらな》りだったが、それでも彼は人だった。  人の善に、悪に、苦しみ迷う、神の子であり聖職に身を捧げた男だった。  その苦しみを越えるため、黄金の〈聖餐杯〉《うつわ》に逃げたのが彼の悲劇だったのか。 「強固すぎる外殻を纏ったせいで、もう人の心は読めないのね神父様。 昔のあなたが持っていた〈異能〉《ちから》……それがどれだけ重荷だったかは知らないけど、そんな〈聖餐杯〉《から》に篭っているから中身が腐っていくんでしょう。風通しが悪すぎて、ずっと傷が治らない」  膿んでいる。爛れている。彼が気付いてないだけで、かつての神父はもはやぼろぼろに崩れているのだ。あの〈聖餐杯〉《なか》はもうガランドウ。  あるいは、腐汁で煮えくり返った混沌なのか。 「なんにせよ、こういうことよ。私もあなたも相応しくない。 “彼女”を守るなら、それは藤井君の役なのよ。あの子の安全を託すのに、彼ほど相応しい人はいない。 だって、しょせん私たちは、殺人でしか事を成せない人でなしでしょう。守るなんておこがましいわ。 だから、ね……」  瞬間、リザは自らの右目に親指を突き刺した。 「あなたはそこで、ずっと大人しくしていなさいな。目を置いていくから、動けばカインに攻撃させる」  すると、巨人の仮面に象嵌されていた紅玉が、人の眼球に変わっていく。リザの右目はすでに再生を始めていたが、その機能は切り離されているのだろう。目を置いていくという表現は、つまり監視カメラを残すという意味。 「いくらあなたでも、戦いながら身を隠すことは出来ないでしょう。じゃあね、ヴァレリア。もしかしたらこれが今生の別れかもしれないけど」 「待ちなさい」  背を向けて去るリザに、トリファは静かな声で話しかけた。行動を封じられたにも関わらず、そこに焦りや怒りの色はない。  むしろ、愛すべき妹に対する兄のような穏やかさで。 「これでお別れやもしれぬというなら、その名はやめてもらえませんかね。正直、締りが悪いのですが」 「別にいいでしょう。〈女の名〉《ヴァレリア》で充分よ。ハイドリヒ卿の〈陽中陰〉《アニマ》に引きずられているあなたなんか。 今ここにいる男は藤井君だけ。だから女を助けるのは男の仕事で、そんな彼を助けてあげるのは〈母〉《わたし》の仕事」  僅かにおどけるような口調でそう言うと、リザは上階へと上っていった。エレオノーレに何かしら具申するつもりだろうか。相手が悪すぎるように思うのだが…… 「ふむ……しかしどうでしょうね」  残されたトリファは考える。  リザの眼球は巨人の仮面に顕現し、まさに彼女の目として監視を続けている状況だ。これでは確かに動けない。  しかし、今はそれよりも、一つ気になることがあったのだ。 「リザ、妙なことを言っていましたね。〈今〉《 、》〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈男〉《 、》〈は〉《 、》〈藤〉《 、》〈井〉《 、》〈君〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》。 なぜあなたが頭数に入っていないのだ、カイン」  これは傀儡であり死体人形。黒円卓第二位の存在は、そうした自我無き道具である。ゆえに一個人格としての立場を認めなかったのかもしれないが、その手の冷淡なリアリズムはリザ・ブレンナーらしくない。  単なる失念か、言い間違いか、もしくは…… 「それで正しいのか」  無言のまま見下ろしてくる巨人の威容を、トリファは無表情で見上げている。やがてその口許がつり上がり、笑いの形に歪んでいく。 「詰めが甘かったですね、リザ。人が良いのも結構ですが、戦場でうっかり本音など口にするべきではない。 ああ、どうやら本当にさようならだ。去り際のあなた、背に死神が乗っていましたよ」  抑えた声で、〈嘆く〉《わらう》ように、神父は朋輩への別れを告げる。巨人はそれを見下ろしている。  いつ終わりが来るやもしれぬ闇の中で、異形の二人は微動だにせず向かい合い続けていた。 「……ふん、動くなと言ったはずだが、相変わらず人の話を聞かん女だ。まあよい」 屋上の給水塔に降り立った赤い女は、視線を俺に向けたまま冷笑している。今のはシスターのことを言っているのか。 「立て小娘。行動を許可する。ここまで上がってくるがいい」 「何やら雌犬が意見具申をしたいようだが、奴の戯言など聞く耳持たん。貴様が相手をしておけよ。私は任務を果たさねばならん」 「……は」 地面に叩きつけられていた櫻井はぎくしゃくと起き上がり、物言いたげな目で俺を睨んだ。奴の一撃を食らった影響か、すでに生身の身体へと戻っている。 「…………」 そして跳躍すると、街灯と壁面を蹴り上げて屋上へ。もはやここからは見えないが、今あいつのことはどうでもいい。それどころじゃなかった。 「さて、貴様には参れと言ったはずだがな、小僧」 黒円卓の大隊長、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ。この赤い女を前にして、別のことを考えていられる余裕などない。対峙しているだけで嫌になるほど理解できる。 その魂。規模、密度。総てにおいて尋常じゃない。ラインハルトは巨大すぎて見当もつかないのが恐ろしかったが、こいつはなまじ見える、感じる。それだけにより現実的な恐怖を覚える。 最低でも一個軍団規模。あいつ一人で、数万を超える軍隊の塊だ。数値化できる単純な話でもないだろうが、櫻井の十倍以上と思って間違いない。 なら俺は、俺とこいつの差はどれくらいある。 「どうした、来んのか。そうしていても活路はないと、分かっているはずだ。これは貴様の距離ではあるまい」 「ああ、それとも……」 血のように赤く、業火のように揺れる長髪がざわめきだす。背筋を悪寒が駆け上がった。 「私の技を見抜いているのか」 「――――ッ」 瞬間、ほぼ無意識に飛び退いたのとまったく同時に、俺がいた場所から火柱が噴き上がった。 「いい勘だ。まずは及第。しかし逃げるだけか?」 続く爆発は間断なく連続し、炎と土煙を巻き上げる。街の病院という見慣れた場所が、今や地雷原の有様だ。 いや、むしろ爆撃機による絨毯爆破か。 先ほど奴が言ったように、これは俺の距離じゃない。この右腕が届く間合い、つまり接近戦じゃないとこちらからの攻撃は不可能だ。 「くッ――つァッ」 しかし、だからといって詰め寄れない。直感が告げている。 あいつは〈射手〉《ガンナー》――狙撃手ないし砲撃手だ。迂闊に間を詰めようものなら、間違いなく狙い撃ちにされるだろう。そもそも位置関係が悪すぎる。 ここから奴がいる屋上まで、直線でも二十メートル以上。ジャンプで届く距離じゃないし、届いたとしてもやはり格好の的になる。 そして、院内に逃げ込むというのは論外だ。あれと屋内戦でもしようものなら、何人巻き添えで死なせてしまうか分からない。 つまり、最初から詰んでいる。遠距離攻撃を主とする奴に、頭上の利を取られた時点でもはや打つ手が何もない。 被弾覚悟の特攻は、相手の火力が低い場合にのみ通じる策だ。奴の攻撃をまともに受けたら、おそらく一撃で再起不能になるだろう。 卑怯と罵りたかったが、それもただの戯言だ。あいつは戦争屋であり、これは戦術。そもそもシスターに言われた通り、最初の一対一しか想定してなかった俺の甘さが総て悪い。 くそ、くそくそ――どうする、いったいどうしたらいい? 「打つ手なしか。あまり落胆させるなよ」 「貴様その様で、ハイドリヒ卿に愚戦を舞わせる気なら死ぬがいい。鍛え直せとは言われたが、殺すなとも言われておらん」 「さあ、どうする」 「――――ッ」 戦慄――今まで下から噴き上がるだけだった火柱が、不意に横からのものに変化した。何もない空間から唐突に、しかも俺を囲い込むような形で四方同時に噴出する。 躱すには跳ぶしかなかった。実際跳躍した俺は、身動き取れない空中で無防備な姿を晒すしかなく―― それを狙い撃つ紅蓮の炎。視界を覆い尽くす灼熱に、文字通り撃墜された。 「ぁ……、が……」 動けない。声も出ない。火炎の熱に焼かれるよりも、まるで転がり落ちる巨岩に激突したかのような凄まじい衝撃に見舞われた。爆発的なその奔流に俺の身体は弾き飛ばされ、すでに痛みすら感じられない。 「ほぉ、燃え尽きんか。大したものだ」 「では、これならどうかな」 見上げた視界に映るエレオノーレ。その前方に炎が集まり、宙に印を描いていく。今までとは比較にならない熱量が、そこに凝縮しているのを感じ取った。 「ッ、ぁ――く……」 駄目だ、駄目だ、あれは駄目だ。あれを受けたらどうしようもない。 だから動け。這ってでも逃げろ。あの直撃を受けたら魂まで蒸発する。 「いいぞ足掻け。避けてみろ。私の砲から逃れられた者は一人もおらんが、試してみるがいい。あるいは――」 「これを凌げるかが分水嶺だ。行くぞ」 「ぐッ……があああああァァッ!」 地に両手をつき、絶叫して顔を上げた。こちらに照準を合わせた魔性の焔は、刹那の後にも発射される寸前で―― 立て、立ち上がれ、この位置はやばすぎる。 仮にあの一撃を躱せても、放たれた獄炎は地面に着弾して爆発する。 そしてもしそうなれば、まず間違いなくこの病院が消え去ってしまう。そのとき香純は――ちくしょう、そんなこと考えたくない! 立つだけじゃ駄目だ。避けるだけじゃ駄目だ。ここで俺が取るべき手段はたった一つで、他の選択は有り得ない。 大地を蹴りぬき、陥没させる勢いで渾身の力を振り絞り――  「――跳べッ!」 四つん這いの姿勢から、四肢を叩き付けるようにして跳躍した。あらゆる意地と気合いと脳内麻薬のフル稼働で、瀕死の身体を無理矢理動かす。 そう、これで―― 「見事、英雄的だな。だが愚かだ」 魔砲の射角は水平となり、その炎が病院を粉砕することはない。後は俺が―― 「真っ向勝負か、面白い」 空中で回避不能の狙い撃ち。この一撃を耐えるか、それとも―― 轟砲一閃、放たれた大火砲が、視界を真紅に染めながら俺に迫る。その熱量も、その威力も、鋼鉄すら蒸発させる弩級の脅威であることは嫌になるほど分かっていた。 防御など出来ない。これをまともに受けて無事な奴など、おそらく何処にも存在しない。 だから、断つ。全身全霊、全力で、乾坤一擲の覚悟と共にこの砲撃を断ち割ってやる。右腕に全神経を集中し、今一度だけのご都合主義を―― 無茶も無謀も知ったことか。俺には出来る。絶対出来る。信じろ、断じて疑うな。 この意地を信仰の域にまで昇華させ、混じり気なしの力に変えろ――! 「おおおおォォッ――!」 走るギロチン。空を裂く絶叫。燃焼して弾けろ魂――後のことなど考えるな! マリィを信じてる。何よりも信じてる。彼女の希望を叶えたい。 また再び日常へ、彼女も含めた陽だまりへ―― 届かないなんてことはない。還れないなんてこともない。 だから生きろ――俺は死ねない。 死んでたまるか、俺は勝つッ! 迫る紅蓮の焦熱に刃が重なったその瞬間、弾ける火炎の爆発と共に俺の意識も吹き飛んでいた。  轟く大音響と炎の大輪が夜に咲く。四散した火砲の一撃は地に落ちる前に消滅して、それを成した者は煙を噴きながら屋上に墜落した。 「……ふむ」  目を細めて笑うエレオノーレ。自らの砲を断たれたことに憤りはない。むしろ芯から賞賛していた。 「私が万全であったなら……などと言うのは侮辱だな。見せてもらったぞ、素晴らしい意気だ」  現状、開いたスワスチカは四つ。単純に考えて、今の彼女は実力の半分ほどしか発揮できず、加えて先の一撃は形成ですらない。  つまり、あくまでも試しである。とはいえ〈赤騎士〉《ルベド》は、戦場において戯れるような性でもなかった。  ここで行使するべき火力の上限を自ら選び、その枠内においてはまったく手加減していない。それを凌がれた以上、勝敗は明らかで、勝者の名誉を汚す言動は無粋だと弁えている。  ゆえにとりあえずこれで一つ、主命を果たしたことになるのだが…… 「しかし困ったな。もう一つの任務は依然果たしていない。貴様がその様では、結果を盗んだようで心苦しいではないか」  第五のスワスチカ開放。すなわちこの病院に存在する命を捧げた大量殺戮。それを防ごうと奮闘していた少年は、全霊を使い果たし気絶していた。これでは面白くない。 「男の意地には応えてやる主義なのだがね。貴様にとってこの地を失うのは敗北だろう。先の一戦は貴様の勝利、ならば二戦目も尋常にいきたいな。私にとって、勝利は盗み取るものではない」 「立ちたまえよ少年。勇者ならば無理を通せ。 ハイドリヒ卿は私ほど甘くないぞ。 常識を超えてみろ。無から振り絞れるものがその人間の真価だ」  もはや立てぬという状況から立ち上がる力。圧倒的戦力差を覆す奇跡。史上英雄と呼ばれた者は、絶対不可能とされた事柄を成したからこそ称えられる。  それは言うなれば、神に愛された者の特権だ。  無理という単語など、彼らにとってはさらに飛躍するための起爆剤。苦境にあって翼が生えるか、生えないか。結局のところ人間など、その二種しかないとエレオノーレは思っている。  そして無論、翼とは飛翔するための道具を指し、自らの背から生えるものに限定しない。  たとえば―― 「局面を打開する天使の降臨……それも有りだ。女神に愛されるのも英雄の条件」  倒れ付す蓮の前にマリィが、そして屋上の入り口からは、リザが扉を開けて現れた。 「ふふ、くくくくく……」  エレオノーレは苦笑する。  新たに現れた二人を見回し、彼女らへと語りかける。  一方へは恭しく、もう一方へは嘲るように。 「また会いましたな、姫御前。ハイドリヒ卿の近衛を務めるエレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグと申します。 そして、貴様とは六十年ぶりだなブレンナー。相も変わらず男には節操がないようで結構だよ」 「ああ、それから小娘。貴様にも幾つか言いたいことがあったのを忘れていた。さて、どうしようかな」  先ほどから一言も発さず隅に佇立していた螢にまで、エレオノーレは視線を向ける。笑っているが、その真意は読み取れない。  気絶した蓮を囲むように、女が四人。  口火を切ったのは――意外と言うべきか――マリィだった。 「近づかないで。これ以上彼にひどいことさせない。 だからさがって。それ以上近づいたら、絶対許さないんだから」 「ほぉ……」  それは拙い、拍子抜けするとさえ言える啖呵だった。本気なのは伝わるが、凄みというものが一切ない。印象としては、恐竜に吠えかかっている子犬の風情だ。 「それはつまり、我々全員を相手にするという意味ですかな」 「ううん」  問いに、マリィは首を振る。螢とリザに視線を走らせ、再度エレオノーレを睨みつけると、確信を込めて断言した。 「あなただけ。あなた以外は怖くない」 「なるほど」  怖くない――その台詞から読み取れる意味は二つある。  一つは額面通りそのままに、敵としての最上脅威をエレオノーレが有しているという意味で、もう一つは…… 「他の人たちにその気はない」  螢とリザには、蓮を害する意がないということ。エレオノーレは微笑した。 「然り。あなたの言う通りだ。これで私の勘が気のせいではないと証明されたわけだが、さて……」  言葉尻を浮かしたまま、残る二人に目を向ける。やはり微笑を浮かべたままだが、返答を誤ればただではすまないと螢は悟り、即答した。 「この場の指揮権はあなたにあります、ザミエル卿。私はそれに従うのみで、自分の意を持ちません」  嘘ではない。本心だ。自分とリザの現状は聖餐杯の命から派生した行動だが、エレオノーレはラインハルトの命を受けている。指揮系統としてどちらが上位にあるかは言うまでもない。 「よって、今はあなたの命なくして動けません。 先ほど言われた通り、私は――」 「よい、分かった。誰の仕込みかは知らんが、教育が行き届いているようで結構だよ。ただの兵卒だがな、そういう思考の凍結は。 それでブレンナー、貴様はどういうつもりなのだ?」  愉快がるようなその問いに、リザは軽い溜息をつく。どこか芝居がかった様子で肩をすくめ、恐れ気もなくエレオノーレに言い返した。 「〈第五〉《ここ》は私のものだからよ。何をあなたは後から来て、好きに仕切っているのかしら。相も変わらず偉そうな人ね」 「なッ……」  信じられない。そう驚愕したのは螢だけだった。マリィは依然として蓮を守るように立ちはだかり、リザは平然と目上を罵り、罵られたエレオノーレは笑っている。 「ここにいる人間の生殺与奪は私にある。引っ込んでなさいよ、エレオノーレ。あなたの出る幕じゃないわ」 「くっ――」  それが何か、彼女のツボにでも嵌ったのか。 「はは、はははは、ははははははははは――。 これはまた、随分と余裕が無いなブレンナー。いったいどうした? 貴様から喧嘩を売ってきたのは、もしや初めてではないのかな。どうしてそれほど、この地を取ることに執心する」 「残りの数が合わないからよ。あなたに余計なことをされたら、一人あぶれてしまうでしょう」  残るスワスチカは、この第五を含めてあと四つ。そして未だ開放を成していない団員は、螢、リザ、カイン、トリファの計四人。  ここをエレオノーレに渡したら、一人脱落者が出てしまう。 「〈ハイドリヒ卿〉《おうごん》を〈呼び戻す〉《れんせいする》〈錬成陣〉《スワスチカ》、その一つ一つに捧げられた魂の数だけ私たちは恩恵を得られる。だから横取りしないでよ。あなたはもう、そんなもの要らないでしょう」 「え……?」  一瞬、意味が分からず呆けた螢に、リザは簡潔な説明をした。この上もなく分かりやすく、短い言葉で言ってのける。 「レオン、彼女は不死なのよ」  エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは、すでに黄金の恩恵を授かった身なのだと。 「あとはマキナとシュライバー、彼らも同じ。ベルリンの生贄で六十年前にそうなっている。 だから、必要ないでしょう? 今さらこの場所にある魂くらい」 「確かに、要るかと言われれば、要らんよ。 だがハイドリヒ卿に言われたのでね、第五は私の手で開けと。 つまりあの方は、ここを使い潰すおつもりなわけだ。翻してそれは、すなわち一人切り捨てよという意味でもある」  じろりと底冷えのする目を向けて、リザの内面を抉るように見るエレオノーレ。次いで、再び笑いだした。 「よせよせ、つまらん。長い付き合いだ、貴様の考えることくらい分かっている」 「どういう理屈かは不明だが、何やら死なせたくない者がいるらしい。私に喧嘩を売って怒らせて、自分が死ぬことで第五を開くつもりなのか? 任務を果たせば私がそれ以上の行為はせんと、まあ確かにそうだがな」  笑いながら、エレオノーレは一歩前に、蓮を守るマリィへと歩きだした。 「なッ――待ちなさい!」 「待たん。今さらだが、私は貴様が嫌いなのだよ。雌犬の口車に乗ってやるなどお断りだな」 「死にたければ自害でもしろ。出来るか偽善者、いいや出来まい。貴様はいつも状況に廻されるだけの風見鶏だ。殺されなくては死ねまいが」 「――――ッ」 「下種め、嘆かわしいよその中途半端。貴様のような女はな、一般に都合がいいと言うのだよ。 私と、そしてキルヒアイゼン、同じ〈BDM〉《ユーゲント》に籍を置いた身でありながら、貴様だけは屑だ。母だと? 笑わせるな毒婦が。 そこの小娘、能無しな貴様に分かりやすい命令をくれてやる。その阿呆が動いたら殺せ」 「選べよブレンナー、何かを成したけば行動に移してみろ。私相手ならともかく、それが相手なら勝てるかもしれんぞ。 どう揺れるか不明な天秤に、命を乗せる度胸はあるかね? さあ賭けを始めようか。 貴様が聖女よろしく身を散らすか、それとも再び己の都合で〈子供〉《ガキ》を殺すか。 どだい私の知らぬところでキルヒアイゼンを死なせた貴様ら、皆殺しにしても飽き足らん。 早々におのれら二人、どちらかで第五を開いてしまわぬと、私が纏めて殺すやもしれんぞ」  息を呑む螢とリザをそれきり無視し、エレオノーレはマリィの目の前にやってきた。そこらの男を凌駕する長身の彼女は、無言で睨みつけてくる金髪の少女を愛でるように見下ろしている。 「と、いうことでしてな。そちらの彼には、あちらの阿呆どもを煽るためにも踊ってもらわねばなりません。起こしてもらえますまいか」 「……嫌。絶対駄目」  言葉だけは友好的なエレオノーレに、マリィは断固拒絶を返す。  それがどういう事態を招くか、分かっているのかいないのか。 「なるほど、そうやって彼を守ると。実に結構。しかしあなたには、似た立場として一つ訊きたいことがあるのですがね」  手が、立ち塞がるマリィの肩へと―― 「戦うとは何か、あなたは理解しているのか」  瞬間、その手が触れると同時だった。 「―――――」  エレオノーレの首に朱腺が走り、側面から血が噴き出る。それがマリィの顔に、髪に、服の上に降りかかった。 「ぁ……」  声が出ない。息が出来ない。そうだ、自分に触れるというのはこういうこと。蓮に意識がない以上、この身はただの処刑器械。当たり前で、当然で、だけど、だけど…… 「血の何たるかを知っているのか」 「ひ、――や……」  掴まれた肩に強い力を込められる。信じられなかった。分からなかった。なぜどうしてこの人は、首を斬られたのに生きているの? 「聞いていませんでしたかな、私は不死身だ」  首の朱線が見る間に消えて、噴き出る血も止まっていく。斬首されたにも関わらず、すでに傷一つ残っていない。 「とは申せ、あなたに殺意があればどうなったか分からない。やはり殺人の何たるか、まるで理解がないようだ」 「さつ、い……?」 「そう、殺すという意志、覚悟。あなたにはそれがない」 「だ、だって……」  昔から、わたしに触る人はみんな死ぬもの。だからそういうものなんだって、そんな風にしか思えなくて。  レンにもそんなことを言われたけど、覚悟とか、分からなくて…… 「わた、わたしはただ、五人目になりたいだけなの。だから、レンにいなくなってほしくないし、ここにはカスミもいるし……」  大事だから――と。  ではなぜ、何がそう大事なのか。 「レンが一緒なら、みんなに触れるし、触ってくれるもの」 「ゆえに私を〈殺す〉《さわる》と? 矛盾に気付きませんかな」 「ぁ――」  触れ合いたいと思うようになったこと。その心地よさを自覚してしまった今があること。  得られるという認識。得たものがあるという事実。  それがゆえにこの時わたしは、〈殺す〉《うばう》ということを初めて知った。  奪われるという怖さ、手から零れ落ちる切なさ。  わたしが今まで、何の感慨も懐かずやってきたのはそういうことで…… 「や、やだ、離して――」  掴まれた肩を振り解こうと暴れる。だけどこの人の手を掴むのが怖い。  血が、カスミから借りた服が血で汚れている。わたしが汚した。わたしがやった。なんてひどい。なんてひどい――!  レンはこれを言っていたんだ。この怖さを言っていたんだ。  戦うということ。殺すということ。心臓がひっくり返って暴れだし、歯はがちがち鳴って言葉が出ない。手足の先から冷たくなって、骨まで凍りそうなそうなこのおぞましさ。  これを自覚しているのかと。自覚した上で一緒にいるつもりなのかと。  馬鹿、意地悪、ひどい人。わたしこんなの知りたくなかった。  だけど―― 「ならば再び、ただの道具に戻りますかな。〈副首領〉《クラフト》が彼に与えた、見た目麗しいだけの〈花〉《ギロチン》。あるいはその方が強いかもしれない。ご要望ならすぐにそうしてさしあげるが」  だけど――それだけは絶対嫌で。今の自分を無くしたくなくて。 「わたし、嫌だ、このままがいい」  震える声でそう言った。胸の穴を塞がれて、以前の自分に戻りたくない。  だって、許せないんだもの。  レンがどんなに怖くて痛くて逃げ出したくて、それでも歯を食いしばっていた事実を知らず、ただ馬鹿みたいに喜んでいた自分のことが。 「よろしい。では始めますか」 「え、ぁ――きゃあッ」  肩を掴まれたまま、凄い力で投げ飛ばされた。地面にぶつかって跳ね飛んで、壁に叩きつけられて目が眩む。 「……痛い」  痛い。怖い。わたしこんな目に遭ったことない。 「幸せな人だ。生い立ちはどうであれ、自分の血の味すら知らんとはね。あらゆる意味で〈未通娘〉《おぼこ》なわけか。〈副首領〉《クラフト》の趣味も変質的だな。 まあいい。とにかくお望みなら、少し教えてあげましょう。触れ合うとは傷つけ合うことを意味する。 痛みを学習するのも、悪い経験ではない。女はすべからく、それに強くあるべきだ」 「あ――、つぅッ」  お腹を蹴られて、また飛ばされる。それは痛くて、苦しくて、わたしは吐いてしまいそうで……  ねえレン、あなたはいつも、こんなひどいことに耐えていたの? 我慢してたの? 「すごい、な……」  素直に、心からそう思う。だって泣いちゃいそうだもの。  こんな辛さを飲み込んで、わたしに優しくしてくれたあなたはすごい。  わたしはただの邪魔者なのに。わたしがいるから怖い目に遭ってきたのに。  ねえどうして、あなたは一言もわたしを責めようとしなかったの?  言っても分かってくれないと思ったから?  それともかっこ悪いと思ったから?  ごめんね、まだわたし複雑なことよく分からなくて、それくらいの予想しか立たないんだけど。  たぶん、全然違うよね。レンはすごい人だから、わたしなんかじゃ考えつかない答えを持ってるんじゃないかと思うの。 「だから、教えて……」  ちゃんと聞くから。今度こそあなたの言葉もあなたの気持ちも、全部しっかり受け止めるから。 「わたしも、レンみたいになりたいの……」  顔を殴られるなんて初めてで。鼻と口から血が出ることも初めてで。  痛くて辛くて怖いけど、少し嬉しい。だってあなたに近づけるから。  戦うのは怖い。殺すのは怖い。だけど乗り越えないといけないって気持ち。  これが覚悟。そうなんだよね? 「また還りたいから、行くんだよね」  だからわたしも恐れずに、いいや恐れを飲み込んで、自らこの人に触れようと思う。  ええ、分かっている。彼女は不死身。〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈本〉《 、》〈体〉《 、》〈が〉《 、》〈別〉《 、》〈に〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。  殺せないんじゃなく、殺しても生き返る人。  だったらどうすればいいのだろうかと考えて、それは上手く言葉にできないけれど、なんとなく分かるようなものもあり……  わたしがゆっくりと手を伸ばした、そのときだった。 「―――――」  急に、がしっと後ろから抱きしめられる。あともうちょっとだったのに、それでわたしは必殺のチャンスを逃しちゃった。 「お目覚めかね、気分はどうだ?」 「……てめえ」  だけど不思議なの、おかしいの。わたしなんだか嬉しくて、泣きたいくらい嬉しくて、レンはめちゃくちゃ怒っているのに、それすら余計に嬉しくなる。  ねえ、もしかしてわたし壊れちゃった? 「なに俺の女ボコってんだ、殺すぞ」 「え、ぁ……えぇ?」  俺の女って、なに? 「それは失礼。主命の一環だったものでね。どうやら効果はあったようだ」  えっと、あの、二人とも、わたしを無視しないでよ。  これでも結構頑張って、色々考えて悩んで迷って、やっと行動を起こしたのに。  なんでいいとこ持って行くのよ。ひどいよ馬鹿。レンなんか嫌い。  とか思いながらも、どうしてわたしは頬が緩みかけてるの? 「マリィ」 「――はい」  名前を呼ばれるのがこんなに気持ちいいなんて初めて知った。 「すまない。俺のせいで、痛かったろ」 「ううん、全然、そんなこと……」  労わりの言葉に心が震えて、声も震える。  わたし平気だよ、大丈夫だから―― 「ねえレン、一緒に戦おう」 「え……?」  驚いたような声。可愛い。  だからもっと驚かせたい。喜ばせたい。あなたをわたしが幸せにしたい。 「一緒に勝とうよ、わたしがなんでもしてあげるから」 「あ、と…その……なに?」  しどろもどろになる彼を無視して、決め台詞。  わたしを抱きしめるレンの手が、ぼろぼろに焼け焦げてるのが許せない。  よくもよくも、よくもこんな――精一杯怒った顔で睨みつけて、思いっきり言ってやろう。 「わたしの男ボコってんじゃないわよ、誰にも渡さないんだから」 「なッ――」  それに、目の前のこの人は…… 「ふふ、ふふふふ……」  俯いて、肩を震わせ、待ちかねたと言わんばかりに笑いだした。 「いいぞ、まったく面白い。実に小気味いい啖呵だよ、かかって来い! あまりもったいぶっていると、この区画ごと消し飛ばしてしまうぞ」 「そんなこと――」  気持ちがシンクロしているのを理解できる。次にレンが言う台詞だって分かるほどに。 「――させるかよッ!」  だから瞬間、わたしたちは、驚くほど速やかに戦いの形態へと移行することができていた。  わたしが武器に、不死の彼女でも斃せる刃になれたなら、きっとレンが誰より上手く使ってくれると信じてる。  勝とうね、絶対。負けないよね。  わたし正直まだ怖いけど、この気持ちをあなたと共有できて嬉しい。  カリオストロよりあなたのほうが、色々教えてくれたから。  わたしにとっての唯一無二は、きっとレンなんだと強く思う。 「……それで、あなたは何をしてるの」  呆れたようにそう言って、リザは傍らに流し目を向ける。 「別に何も。命令を守っているだけですが」 「命令、ね……」  馬鹿正直に言われた通り、リザの動きを監視して、何か不穏な気配を見せれば斬り捨てるという示威行動。喉元に突きつけられた剣を見下ろし、疲れたような苦笑が漏れる。 「本当に頭の足りないお嬢さんね。能無し扱いされて、何を諾々と従っているのかしら」 「軍隊とはそういうものでしょう。私に言わせれば、あなたのほうが解せない。先ほどザミエル卿が言われたことは本当ですか? 死ぬ気だったと、何を考えているのです」 「別に死ぬ気はないわよ。彼女は大袈裟なだけ」  とリザは言うが、真実は分からない。少なくとも何割かは、その気もあったのではないのか。 「では、私を殺しますか? あなたはどうしても、この第五が欲しいのでしょう。今は好機と言えば好機だ」  蓮とエレオノーレの戦いは再開された。とはいえこれが長引くとも思えない。  冷笑を浮かべて後退を続けるエレオノーレに、逃すまいと追いすがる蓮。一見して間合いの取り合いをしている膠着状態だが、それだけに均衡が崩れれば一瞬だ。  いや、というよりも…… 「ザミエル卿は溜めている。まるでカウントダウンだ」 「〈病院〉《ここ》ごと総て吹き飛ばすためのね」  病院の敷地全域を覆っている〈赤騎士〉《ルベド》の炎陣。それを燃焼させて爆発させて、内部に存在するあらゆるものを一撃で蒸発させるだけの力を溜めている。無論、螢やリザをも含めた残らず全部を。 「だから私なんかに構ってないで、さっさと逃げたほうがいいわよ。彼女は昔から威嚇のような真似はしないし、やると言ったら必ずやる」 「実際に、言ってたでしょう。皆殺しにしても飽き足らないって」 「それなんですが……」  探るように、螢は言った。 「彼女はベアトリスと懇意だったのですか?」 「ええ、直属の上官よ。仲が良かったのかどうかは知らないけど、あの子は彼女に懐いていたわね。 だからその抜け番のあなたは、はっきり言って認められていない。本当に殺されるわよ、早く逃げなさい」 「…………」 「というか、あなたが逃げてくれないと私も逃げられないのだけど」 「それでは第五をザミエル卿に取られるでしょう」  つまり、螢は信用できないのだ。ここで今剣を引けば、リザが何をしてくるか分からない。逃げなければいけないのは十二分に分かっているが、隙を見せるリスクが剣呑すぎる。エレオノーレに反抗してまで、第五を欲した相手が目の前にいるだから。 「あなたは今、エレオノーレに誘導されて縛られてるのよ。目を覚ましなさい」 「私がいくらなんでもあなたを相手に、カインを使うはずないでしょう」 「―――――」 「そんなに信用できない?」 「できるはずがないッ!」  強く、吐き捨てるように螢は言った。リザはそれに、哀れむような笑みを浮かべて。 「仕方ない。じゃあとっておきの札を切るしかないか」  集まり、高まり、充実していく魔砲の炎気。もはや射爆まで秒読みに近い。  そしてその時こそが、唯一絶好の機会となり―― 「実は今、ここにはクリストフも来ているのよ。カインは彼のところに置いてきてるわ」 「え……?」  虚を衝かれた螢の意識が、一瞬剣先をぶれさせる。それと同時に―― 「間に合わなかったな小僧。さてこれには耐えられるかな」  射爆の瞬間、極度の精神集中がエレオノーレを忘我の〈瞑想〉《トランス》状態へと導く。  ならば―― 「――今だ」  この短い空白の刹那、ヴァレリア・トリファが見逃すなど有り得ない。  即座に巨人の横をすり抜けて、目的の病室へと一気に駆ける。だが想定していた追い討ちは、なぜかその背に向けられず―― 「なに――?」  巨人はその場で跳躍すると、監視していたはずの神父を無視して屋上へと躍り出ていた。 「だから言ったでしょう。誰が誰を助けるのが一番いいかって」  屋上の床を突き破って、突如現れた巨人兵。その唐突な出現に、螢も蓮もエレオノーレも、個人差はあれ一様に反応が遅れた。  ただ一人、リザを除いて。  ここまで読みきっていた彼女だけが、唯一自分の目的を達成させる。 「ごめんなさいね、藤井君。本当に勝手なお願いなんだけど。 こうなったら、出来れば玲愛も一緒に助けてあげて」 「なッ――」 突如、床を突き破って現れた化け物に驚愕したのも束の間、そいつが振りかぶった馬鹿げたサイズの鉄塊が俺めがけて叩き落とされる。 「うッ、おおおおおおおぉぉォッ――!」 防御が間に合ったのは奇跡に等しい。もしかすると、故意に防御させたのではと思うくらいに絶妙の角度およびタイミングで、そいつは俺を弾き飛ばす。 「ぐッ、がああああァッ!」 デタラメ、とんでもない怪力だった。俺の身体は下へ、階下へ、何枚もの床と天井をぶち抜きながら一直線に落下していき―― 終点は〈偶〉《 、》〈然〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》、香純の病室になっていた。 「ば、かなクソ――なんだこりゃあ!?」 痛みと衝撃と混乱と焦燥。意味が分からないまま、しかし俺はこの状況が天佑であると解釈する。 今このときも、足元から膨れ上がってくる極大の気配。まるで噴火直前の火口に立たされているような危機感が全身を走りぬけ、もはや時間がないことを直感した。 迷っている暇はない。選択の余地もない。今の俺に出来ることは、とにかく香純をここから一秒でも早く連れ去ること。 だから―― 「おのれがァッ、舐めてくれたなブレンナー!」  エレオノーレは激昂する。目の前で獲物を攫われたということが、誰も逃がしたことがない彼女の矜持を粉砕していた。 「消し飛べ、望み通り貴様を第五に変えてやる! 屑には過ぎた名誉だ、喜ぶがいい。 貴様もまた獣に呑まれ、その一部となる栄誉を味わえ!」 「そんな、バビロン――」  どうして――と叫ぶ螢の声もすでに遠い。なぜなら蓮に一撃を加えた直後、カインは彼女を抱いてこの場からの逃走を始めていたから。 「さようなら、レオン」  それをリザはただ一人、屋上から柔らかな微笑で見送り。 「この後あなたがどうするかは、自分で考えて決めなさい。いい、自分で考えるのよ。頭は飾りじゃないんでしょう?」  ああ、本当に、我ながらよくも偉そうに言えるものだ。リザは自嘲を禁じえない。  結局私は放棄した。過去の罪業とその清算を、総て放棄する道を選んだ。  何百人殺しただろう。何千人殺しただろう。残らず子供、子供ばかりを。  生き返らせてあげたかった。一人一人をこの手で抱いてあげたかった。  それを望み、願って六十年……自分の子供を一人捧げて生贄とし、その痛みを罰として私は奇跡を手中にしようとしていたのに。 「ごめんなさい。許してとは言わない。でも最初の大前提を覆されるのだけは、どうしても嫌だったの」  畜生道に落ちた自分が、唯一生かすと、救うと決めた一つの命。  生き返らせるのではなく、死なせないという誓いの輝き。それを私は守りたかった。誰に何と言われようと、この気持ちだけは譲れなかった。  だって、大事なのよ私にとっては。しょせん自慰みたいな感傷なのは分かっているけど。 「もう一度、さようなら。私の子供たち」  玲愛はこの先、一人で毎朝起きれるかしら。ご飯はちゃんと食べるかしら。  料理も洗濯も掃除も下手で、女の子としてはかなり駄目よね。もう一人のほうも似たり寄ったりみたいだし。  やっぱり血が悪いのかな。きっと私に変なところで似てるんだろうね。ごめんなさいね。  でも、男を見る目だけは私と違って有るみたい。だからそれを大事にして。  じゃあ、これで本当に…… 「終わりだ、死ね。その薄汚い思想諸共、蒸発して失せるがいい。 〈さらばだ、戦友〉《アウフヴィーダーゼン・カメラード》。この腐れ縁がまだ続くなら、ヴァルハラで会おう」  そして爆発する大火砲。病院全域を飲み込んで、炎が総てを覆っていく。  赤く、赤く、凄烈に――葬列と化しリザを送る。  九十年と少し生きた罪の女は、今夜このとき無に帰った。 「づッ、おおおおおおぉぉォッ―――!」 香純を胸に抱いたまま、俺は全身全霊の疾走をする。 背後から追いかけてくる炎の壁。それを未だ振り切れず、むしろすぐにも追いつかれそうだ。 「ぎッ、ぐぅぅゥッ」 脚力じゃ駄目だ。俺の限界はすでに超えてる。意地や根性でどうにかなるものじゃない。 これを凌ぐならただ一つ、この場で位階を上げるしかない。 つまり―― 「そう、ぞう……!」 櫻井が言っていたこと。あいつが俺に見せたこと。 ルールの創造。魂の渇望が満たされる世界を創ること。 俺の渇望とはいったいなんだ? どんなルールを創りあげれば、この局面を打開できる? ちくしょう、時間が―― 時間がないのに――! 「―――――」 瞬間、俺を取り囲む世界の総てが変質したように見えたのは錯覚だろうか。 音は消え去り、空気は凍り、炎は侵攻を停滞させる。 まるで俺を中心に、総てが遅くなっていくような。 これはいったい―― 「時間が止まればいい」 「―――――」 マリィ? すまない、今なんて言ったんだ? 「時よ止まれ――ねえ、そうなんでしょ?」 「俺は……」 そうだ、俺が思うこと。俺が願い求めることは、つまり時間を―― 時の体感速度を遅らせて、誰よりも早く疾走すること。 だったら―― 「うおおおおおおおおぉぉぉォォッ――――!!」 絶叫と共に最後のスパートで駆け抜ける。何をどうやってどのように、どういう理屈で事を成したのか分からない。そんな余裕は何処にもない。 だが瞬間、明らかに俺は時間の〈軛〉《くびき》を外れていた。追いすがる魔性の焔を突き放し、一気に敷地外まで走破する。 これが創造位階。俺の〈渇望〉《ルール》……意志力しだいで上限知らずの加速を行う停滞の疾走―― 「――つッ、あああぁッ」 安全圏に達したことで気が緩み、俺はそのまま転倒した。かなりの高速で走っていたから幾つも木々を薙ぎ倒し、止まるまで数十メートル滑走する。 とにかく、香純の身を守らねばならない。きつく抱いて頭を押さえ、そのまま七転八倒しながらようやく止まり…… 「助かった……のか?」 紅蓮に燃え上がる大火球……その爆心範囲からなんとか脱することが出来たようで…… 俺は、続く異常に対処が遅れた。 「小賢しい、誰が逃がすと言った」  もはや跡形もなく消滅した病院の上空。自らが生んだ火球の上に佇立して、〈赤騎士〉《ルベド》は傲然と胸を反らす。 「逃がさんぞ、まだ終わっていない」  その火球が、徐々に広がり始めていた。有り得ない現象である。  一度頂点に達して飽和した爆発が、さらにそこから拡大するなど―― 「私の砲は決して外れん。敵を飲み込むまで追い続ける。 さあ、逃げるか。それとも立ち向かうか。英雄たる代価として、貴様に試練を与えてやる。 見事乗り越えてみせろ小僧。私を、ハイドリヒ卿を失望させるな」  咆哮と共に、火球がさらなる拡大を起こそうとした瞬間、唐突それは現れた。 「退けザミエル。ここが潮だ」 「―――――」  彼女の背後に、何時の間にか鋼鉄のような声と気配。 「おまえの任務とやらは果たしただろう。これ以上は私闘の部類だ、それが分からんわけでもあるまい。 もし、聞き分けず、退かぬというなら……」  重く、重く、深い漆黒。激烈な苦痛に耐え続けているかのごとき寂びた声と、暗く一切の光を発さない死魚の瞳。  およそ生気と呼べるものが欠片もない。それでいて破滅的な鬼気を滲ませている偉丈夫は、あえてその続きを言わなかった。もとより極端なほど無口な男なのである。  一触即発にも似た静寂は、しかし一瞬。  エレオノーレは失笑した。 「……了解。了解だ、心得ているよ英雄殿。貴様の獲物を奪う気はない。 まあ、少し熱くなったのは認めるがね。性分だ、許せ」 「…………」  彼もまた、黄金の近衛である黒円卓の大隊長。銘は〈黒騎士〉《ニグレド》、または〈幕引き〉《マキナ》。エレオノーレに勝るとも劣らぬ人外の怪物である。  第五の開放が成されたことで、ついに二人までの戦鬼が揃った。では残る一人は? 「シュライバーは何をしている? 貴様殺してはおるまいな」 「ゾーネンキントのところだろう。ハイドリヒは第六までを開くつもりでいる」 「ほぅ……それはそれは」  業火の中で一人は冷笑、一人は泰然と無表情に、しかし同じ一点を見つめている〈赤騎士〉《ルベド》と〈黒騎士〉《ニグレド》。彼らはその存在に気付いていた。 「見ろよマキナ、鼠がいるぞ。私の〈炎〉《ローゲ》に耐える者など、奴しかおるまい。さてどうしてくれようか」 「おまえの不手際だろう、ザミエル。私刑も構わんが、俺に頼るな」 「そう言うなよ。私は聖餐杯に手を出すことが出来んのだ。ゆえに許せん。神聖な誓いを破らせた下種めが」 「…………」 「貴様がご執心の小僧はあれで、中々良いぞ。決戦に便宜を図ってやる。手を貸せ」  大上段からの物言いに、鋼鉄の騎士は沈黙したまま何も言わない。  だが、ややあって。 「そんなことより、おまえは自分の首を心配しておけ」  そっけなくそう言うと、笑う〈赤騎士〉《ルベド》と共に姿を消した。 「やれやれ、見られてしまいましたね」 「な……」 炎の中からいきなり現れた人物に、俺は呆気として二の句が継げない。 「藤井さんも見たでしょう。彼はマキナ卿。ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン……私にとっては、まあ天敵のような方ですね」 「な、な、あんた……」 なぜあんたがここにいる? そしていったいどうやって、あの炎の中を無傷のままやり過ごせたんだ。 「ともかく、場所を変えましょう。ああご心配なく、別に危害を加えるつもりはありませんよ。状況が変わりました」 「今さらですが、ひとつ同盟を結びたい。あなたの知りたいこと、なんでも答えようじゃないですか」 「つきましては、まずレオンハルトの後を追いませんか? 彼女もやり方しだいで引き込める」 「…………」 こいつ、いったい何を言っているんだろう。わけが分からず、混乱して、しかし俺は―― 「リザが死にました。仇を討ちたいとは思いませんか、藤井さん」 その問いに、ふざけるなと言うことは出来なかった。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 11/13 Swastika ―― 5/8 【Chapter Ⅸ Kreuzung ―― END】  そもそも、きっかけは何だったのか。  不満というものには限度がない。どんな時代、どんな環境であろうとも、現状に完全な満足、あるいは諦観を懐き、何も求めない者など皆無であると分かっている。  なぜなら、それが人の性だから。  今よりもあと少し、先へ先へ、前へ前へ……そうした飽くなき探究心、飢餓の心が人の歴史を創っているのだ。  ゆえにそれは、別段悪いことではない。欲望という名の飢えが原動力になってなければ、人は未だに猿のまま、一歩も進化していなかったことだろう。  だから否定はしない。人間の営みには不平と不満と恐怖と飢えがへばりついて拭い難く、それなくして人は人足り得ないのだ。  分かっている。誰よりも分かっている。  自分も、そうした人間そのもの。  そんなことは、ちゃんと分かっているつもりなのだ。  しかし――と、ここで一つ考える。  より先に、より前へ、より高く、より上へ……それら人が有する欲望は、向上心として発明を生み翼を創る。言わば飛翔するための揚力であり、正の属性を帯びた祈りであろう。  だが人間というものは強くない。否、正しく言うなら闇があるのだ。  まるでコインの表と裏。正があれば負も生じる。  つまり…… 「なんでわたしばっかり……」  現状から進む飛翔もあれば、引きずり落とす陥穽もある。翼を創造することに執心する者がいるなら、落とし穴を掘ることに生涯を費やす者もいるのだ。  不平や不満は誰もが持つ。ならば自己を高みへ立たせようとするのが人の性だが、別に飛ばなくてもそれを叶える方法があるだろう。  より容易く……それもまた、人の欲望であり飢餓が生み出す一概念だ。  有り体に、嫉妬と言えば理解に易い。自分より優れた者、恵まれた者、高みにいる者らを穴の底に引きずり下ろす。暗い水底に溺れさせる。  そうしてしまえば何のことはない。自分が恵まれた上位者だと錯覚することが出来るのだから。  飛翔に伴う努力という代価を拒絶して、労力は使うがより容易く――己が高みに立っていると感じることが出来る手段。  それもまた、人間という種が持つ一つの本能なのだろう。非生産的ではあるものの、恐怖を払拭する手段として理屈は立っている。間違っていない。  そう、持てる者の足を引く。  その行為とその思想は、決して拭えない人の業の一つなのだ。  ゆえに、このようなくだらない、掃いて捨てるほど存在する安っぽい悲劇が生まれる。  その村は山間部にある、さして珍しくもない片田舎。人々は素朴であり、凡庸であり、この時代における典型的な不満を胸に、日々をただ生きていた。  一様に貧しく、一様に愚鈍。読み書きが出来るかどうかなどより明日の天気を心配するような、ありふれた農村だったと言っていい。  つまり、ある種閉塞的なコミュニティ。  飛翔する才覚を持つ者は存在せず、それがゆえに維持される言わば社会の底辺層だ。そうした場所では、横並びであることが至上とされる。  飛ぶことが出来ないのだから、共に上を見て愚痴を漏らす。その不満を共有する。  そして、列から飛び出ようとする者を捕まえて引きずり下ろす。  ここはそんな、ごく当たり前の小さく淀んだ牢獄だった。  悪いのは誰か。問題は何か。もっともらしく語ることは出来るだろう。その手の転嫁、吊るし上げこそまさに底辺層の真骨頂だ。翼がない者ほど何でも周囲が悪いと言う。  ゆえにここは、もう適当に全部悪いと言うべきか、あるいはそういうものだと達観するしかないかもしれない。いずれにせよ、事の元凶など突き詰めたところで何も得るものはないのだから。  きっかけなど何でもいい。 「わたしは、綺麗にしているのが好き」  一介の農家に生まれながら、似つかわしくない美貌に育った血が悪いのか。  それを隠しもしない娘の無邪気さが悪いのか。  袖にされた男達が無能なのか。  嫉妬する他の娘達が醜いのか。  どうでもいいし、どれでもいい。ともかく娘は、横並びの列から飛び出ていた。それだけが、断言できる唯一の事実と言っていい。 「だけどわたしが何をしたの?」  娘は別段、己が優位性を鼻にかけて悦に入るような人種ではなかった。少女たるものの常として、身綺麗であることを好み、愛らしいものを良しとして、華やかさに憧れた。  単にそれだけ。本当にそれだけ。数多いる求愛者の中からもっとも愛すべき男に恋をして、契りを交わし伴侶とする。そうして後は貞淑に、選んだ夫のために妻であろうとしただけだ。懲りずに言い寄ってくる男達や、それに横恋慕する女達、彼ら彼女らに毒婦のごとく罵られる覚えはない。  たとえ夫が、そんな生活に疲れ始めていたとしても。  妻の愛を信じられず、疑心暗鬼に囚われ始めていたとしても。  言ってしまえば、迂闊だった。その一言につきる。  自分の一挙手一投足、日常における万事総てに至るまで見られていると、彼女は自覚が足りなかったのだ。  掴まれる足を出せば引きずり下ろされる。その閉塞した横並びのコミュニティで、絶対の法則である事実に気付けなかった。迂闊と言うしかないだろう。  ある日、隣家に牛乳を貰いに行った。その際、牛は乳の出が悪かった。  ほんの偶然。些細な出来事。しかし迷信が当たり前に機能していたこの時代、それは彼女を引きずり下ろすのに充分すぎるものとなった。  嵐のような熱狂と共に、魔女裁判が幕を開ける。 「なんで、どうして……」  狂喜する女達の顔が忘れらない。  下卑た快感に歪む男達の笑みが胸を引き裂く。  そして、ああ、そして何より、生涯守ると誓ってくれた夫の顔。  照れたように苦笑して、愛を囁いてくれたその顔が、今は重荷を捨て去った者のように安堵を浮かべて緩んでいる。  アンナ・マリーア・シュヴェーゲリン……彼女はこの時、総てを悟った。  これか。こんなものなのか。  卑屈で、卑小で、薄汚い臆病者ども。  つまり人間とは、そんなものかと。  ならば自分が、輝ける純潔であらねばならぬ理由など何処にある。 「あるわけが、ない」 「そう、あるわけがない」  捕らえられた先で待っていたのは、茶番以外の何ものでもなかった。  魔女の印とやらを探す名目で裸に剥かれ、何十回犯されたか分からない。そうした陵辱の果てに生じた傷を、サバトの黒山羊と契った証とされる始末だ。自作自演どころの話ではないだろう。 「彼らは素直で実直だ。少なくとも数日前の君よりかは、人生の何たるかを弁えているのだろうよ」  処刑を待つばかりの暗い牢獄……訪れた告解師を名乗る男がそう言ったのを覚えている。  汚れ、絶望し、憤怒に狂う、魔女を見下ろし笑っていた。 「今の君がそうであるように」  笑っていた……と思うのだが。 「汚れた君は美しいよ、魔女殿」  なぜだろう。その声もその顔も、思い出すことが一切出来ない。  まるで幕越しに映った影を相手にしているようだった。  それも桁外れに分厚く、常識違いに高い壁。蟻の視界では人間の容姿を判別できないのと、同じようなものかもしれない。  悪魔? 天使? いいや違う、これは何だ?  呆ける彼女を前にして、影は訥々と話し続ける。 「汝、ただ思うままに不浄たれ。 純潔など夢想にすぎぬ。穢れよ、さすれば開かれん。世はいついかなるときも、行動の選択により転換する。 座り込み守ったままでは、何を知ることも成すこともできない」  勝手に、理解や返答など期待していないかのように。  自分が喋りたいから喋っているのだと、独り言めいたその口調だけが唯一特徴的だった。  ああ、そうだろう。蟻と会話する人間など存在しない。 「何事にも分相応というものがある。汚泥に生まれたことを自覚して、輝ける者をその沼に引きずり込むのを悪いとは思わない。人とはそういうものだろう。墜ちた気分はどうかね、魔女殿。中々に心地よかろう。天の星もあれば地の星もある。ならば君は、地星として穢れの輝きを纏えばよい。横並び手を取れとは言わん。他者の光を簒奪し、汚す影の女王が相応だ。 こうして一度墜ちた以上、天の星にはなれぬからね」  男の言っていることは分からなかったし、特に分かろうとも思わなかった。  しかし一つだけ確かなことは、これが自分に道を示そうとしていること。  確固たる何者かにしてやろうと言っていること。  それがあくまでも遊びであり、気紛れの座興にすぎないであろうこと。  これは飽きて飽き果てているから、ごく稀にこうしたことをするものなのだと、なぜかそれだけは理解できた。  だから…… 「あなた……全員殺したわね」 「さぁて、ただ汚泥がここに流れ込んではきているようだ」  男の背後から、天井から、ぽたぽたと滴って牢に流れてくる血が見える。この獄舎に存在していた者達は、残らずその沼に沈んだのだと彼女は悟った。  拷問官も、処刑人も、空々しい信仰などを口にしていた司祭達も。  みんなみんな、みんなこの血泥に沈んでいるのだ。  あたかもここは、穢れの水底。 「どうされるね、魔女殿」  影の男が揺らめいて問う。 「この沼に沈んで終わるか?」  血の沼に溺れて窒息し、哀れな人間として生を終えるか。 「それとも……」  答えは、すでに決まっていた。 「選択を迫ろう。君はどうする?」 「わたしは――」  穢れよ、さすれば開かれん。  世はいついかなるときも、行動の選択により転換する。 「座り込み守ったままでは、何を知ることも成すこともできぬよ」  ああそうだ。その通り。  溺れるのは嫌だ。でも二度と飛ぶことは出来ない。  ならば自分は地星として、この忌まわしい汚泥を従える者になりたい。  こんなものと横並び手を取り合って堪るものか。 「わたしは、引きずり下ろしてやりたい」  そうされたのだから、そうしてやる。みんなみんな、残らず総て―― 「わたしは、綺麗なものが好きだから」  天に煌く星々を、この手に捕まえ墜としたい。  みんな残らず輝き総て、影の汚泥に沈めたい。 「重畳」  だって目の前に影絵がある。これはきっと、遥か高みにあるモノだ。  いつかきっと、そうだきっと―― 「あなたみたいになりたい」  あなたのようなモノをこの足下に従えたい。  その呪詛を良しと取ったか、影は微笑み…… 「では、この縁が無為とならぬよう私も祈ろう。良き旅を送られい、水底の魔女殿」 「私を確と捉えられる者はそう多くない。君の汚泥が足場となり、私を視認できるまでに近づけるか、あるいは……」  彼について、記憶しているのはそこまでだった。  獄舎に津波のごとく押し寄せた血に呑み込まれ、気が付いたときに自分は自由であったこと。  満腔の喜び共に汚泥を引き連れ、生まれ育った村を襲った。一人たりとも逃がしはしない。  嘲笑っていた女達、加虐に酔っていた男達、そして自分を捨てた夫を追う。追って追って引きずり込む。  心配しないで、怖がらないで。大丈夫だよ一緒だから。  あなた達が大好きな横並びに、厚みすらない平面の影に呑み込んであげる。  そう、これからもずっと一緒。  わたしと一緒に、みんな溺れさせてあげましょう。  嬉しいよね。本望だよね。だってわたしをそうさせたくらいだから。  一生、ずっと守ってね。 「あははははははははははははははははははは―――――」  それが、今より二百三十年ほど前の話。  件の告解師とやらに施されたのがいわゆる魔道と呼ばれるものであり、その理を理解するのに五十年ほど費やした。  肉体の老化を食い止めて、かつ、ある程度自由に弄れるようになったのが十年後。総ては、もう一度彼に会うため、早々死んではいられない。  ゆえに捜した。捜し続けた。常人の一生に相当する八十年をたっぷりかけて、世界中を捜し回った。  しかし、彼は見つからない。もとより顔も声も記憶できていないのだから、あるいはすれ違っても気付けないものかもしれない。自分の力が未だ彼に遠く及んでいないのならば、そういう結論になってしまう。  だから、それは否定した。もはや自分は、昔のような小娘じゃない。魔道の世界においても相当な年長者となっており、最初の百年を突破しただけでも人の限界域を超越したという自負がある。  きっと彼は、もう死んだ。年経た者の常として、自壊の衝動に負けたのだろう。  口惜しくは、あるけれど。  遣り切れなさは、残るけれど。  せめてもう一度彼に会って、呑み込んでやろうと思っていたけど。  いないのならば、しょうがない。  死んだのならば、それまでの男ということ。  自身をそう納得させて、今や屈指の魔女と化したアンナ・シュヴェーゲリンは故郷のドイツに帰還した。  何をするでもなく、何を求めるでもなく。  漫然とした時を二十年ほど無為に過ごした。  張り合いがなくなったということだろう。彼女にとって生まれ変わる原因となった渇望は、他者を引きずり下ろすことだ。頂点に近くなってしまった以上、その在り方には空虚なものが生じてしまう。  ああ、もしかして、こうした停滞から自壊の衝動が生まれるのかと、そんな自嘲を覚え始めた1939年。  彼女は再び桁の違うモノらと出会い、地星である己の宿業を深く思い知らされることになる。  そして、“彼”とは違うがもう一人……  再び会いたいと思う相手が同時期に…… 「なんて、またどうでもいいことを」  埒もない追憶に浸っていた自分に苦笑して、ルサルカ・シュヴェーゲリンはかぶりを振った。  何かにつけて動機を思索するような自問は好みじゃない。単に自分はやりたいことを、やりたいように、己らしい選択の果てに今を迎えて、今を楽しむ。 「それでいいじゃない」  単に足を引っ張っているだけのこと。  溺れさせようとしているだけのこと。  〈水底の魔女〉《ルサルカ》の名に相応しい真似をやっているだけにすぎない。 「だから、まあ、ちゃっちゃと終わらせますか」  病院の屋上に一人立ち、足元から影という名の汚泥を周囲に広げていく。  初めてこれを使った時のように、一気に呑み込んで一気に殺す。欠伸が出るほど簡単な作業であり、それをもって第四のスワスチカを開くのだ。  邪魔は入らないと確信している。だってそうなるように段取ったのだから。 「ごめんね、テレジアちゃん。でもわたし、別になんでもあなたの都合がいいようにしてあげるなんて言ってないよね」  わざとらしく詫びるように言いながら、次の瞬間―― 「だけどこれだけは確約するわ。今夜黒円卓のほぼ全員が溺れ死ぬ。 残存六名――わたしの総取りになるはずよ」  うねくる汚泥が溢れ出し、病院全域を呑み込まんと〈食人影〉《ナハツェーラー》が爆発した。 話は、一昨日前に遡る。 「さようなら、先輩」 「さようなら、藤井君」 共にそう言ってからもしばらくの間、俺達は無言でその場に留まっていた。 時間にして、数十分かそこらだろう。感覚的にはその数倍あるようで、同時に一瞬のようでもあって…… 俺も彼女もお互いから目を逸らし、沈んでいく夕日をただ眺めていた。 日が落ちて、夜になって、タワーがライトアップされ始めた時のこと。 それは、唐突に訪れたのだ。 「……っ」 小さく呻いた先輩が、蹌踉めいて倒れかかる。咄嗟に手を伸ばそうとした瞬間に、俺は気付いた。 「――――なッ」 喩えるなら、目に見えない花火の爆発。音のない落雷と言っていい。そして同時に、込み上げてくる悪寒と吐き気と、首筋に走る激痛…… 「……嘘」 腕の中の先輩が、震える声でそう漏らしていた。 「どうして、違う。これじゃあ、そんな……」 「まさか……」 今のは、もしかして…… 「ごめん、藤井君……ごめんなさい」 「私の、せいだ。まだ今日は大丈夫だって、勝手に安心、しちゃってた」 「三番目が、開いちゃったよ……」 「―――――」 視界が一瞬にして暗くなった。それじゃあやはり、さっきの感覚はそういうことなのか。 目には見えず、耳にも聞こえず、しかし本能で感じ取った爆発は、つまり魂の大量散華だ。どういう理屈でこれを知覚できたのかは知らないしどうでもいい。 ただ俺は、もはや疑うこともなくスワスチカの開放を確信していた。いきなり変調をきたした先輩の容態が、それを何より雄弁に肯定している。 「馬鹿か、俺は……」 いったい、何を呑気に構えていたんだろう。こんなこと、当たり前に予測できていたはずなのに。 「藤井君は、悪くないよ」 苦しげな息の下、先輩はそう言うが、俺は自分の無能さに目眩を覚える。 「私がキミに逢いたいって、言ったんだもん。藤井君は一人しかいないのに、私の所に来させたんだもん」 「キミなら絶対来てくれるって、思ってた。そして実際、来てくれた。それがちょっと嬉しくて……ううん、凄く幸せで……何やってたんだろう、私。馬鹿みたい。馬鹿みたい」 「可哀想な私のこと、無視できないキミの優しさ、弄んじゃったよ」 「けど……」 反論しようとするが、咄嗟に言葉が出てこない。 俺が今日、この人に逢う選択をしたのは自分の意志で、言い訳なんか出来ないことで…… そして何より、彼女に逢いたいと思った気持ちを失敗だったなんて思いたくない。 だけど、だったらどうすればよかったんだ? 俺の身体は一つしかないし、二兎を追えないのは分かっている。ルサルカにだってそう言われただろう。 俺に出来たはずの、見落としたかもしれない選択はあったのか? 「藤井君は、悪くない」 「キミには、選べる道なんかなかったよ。そういう性格、なんだから……」 自問する俺の気持ちを読んだように、切れ切れの声で先輩はそう呟く。細い肩は、震えていた。 「だから、これは私のせい。キミをちょっとの間独占したいって思ったから、その代償は払わなくちゃいけない」 「我が侭を言う穴埋めは、私がしなきゃいけなかったの」 この一瞬を持つために。俺達二人が逢うために。必然として生じる危険は、自分の手で封じねばならない。 彼女は、それが自分の責任だと言っていた。我が侭を通そうとした自分の義務だと。 「私はキミに傷ついてほしくないし、生きててほしいよ」 「関わってほしくないから、藤井君の出番を奪うつもりで、奪おうとして」 「でも、だからって他はどうでもいいと思ってるわけじゃなくて……」 「せめて、今夜は何も起きないように、やれるだけのことをやったつもりだったけど」 「ごめん。上手くいかなかったよ」 「じゃあ、誰が……」 いったいどいつが、何処を開いた? 先輩の口ぶりから、彼女が連中の行動を何らかの手で封じていたというのは分かっている。事実としてルサルカは、この場を戦場にしようとはしなかった。 ならば櫻井か? ヴィルヘルムか? それともルサルカが別の場所に行ったのか? もしくは神父か? そうじゃなければ…… 「リザじゃないよ。あの人は悩んでる自分が好きだから、ぎりぎりまで動かないはず」 「神父様も違う。リザとはまた別の意味で、早々表に出てこない」 「だったら……」 残りは三択。 「マレウスは、私の味方じゃないけど協力してくれてるし……」 「櫻井さんには、一応、話は通したから」 答えは、一つしか残ってなかった。 「ヴィルヘルム……」 知る限り一番危険で、一番警戒しなければならない男が、野放しになっていた。 「ごめんなさい……」 だから先輩はそれを詫びるが、そんなことを責めるなんて誰にも出来るわけがないだろう。 いったいこの人がどうやって、あいつを止められたというんだ。 「止められるはずだったの」 「私には出来ないけど、上手く櫻井さんを動かせれば……」 「今日、何かが起こるとしたら、あの二人がぶつかることだと思ってた」 「言ったよね、藤井君。私は嫌な女だって」 「…………」 「引いちゃった? しょうがないよね。私、あの人達に仲間割れさせようとしてるんだよ」 「そういうこと、考えられる奴なんだよ」 偽悪的な言葉が、胸に痛い。彼女が俺にどういう態度を欲しているのかも分からない。 だから、俺は単に率直な気持ちを口にするしか出来なかった。 「そんなことは、分かってましたよ」 じたばたすると言ったこと。俺に関わるなと言ったこと。そこから導き出される結論は、黒円卓の内部崩壊しか考えられない。 「先輩に殴り合いのバトルなんか出来るわけないし」 全部放り出して逃げられるほど、頭が良くないのも分かっているし。 そこらへんは、俺と一緒。 「だったら狙うのはそんなところだろうって、分かってた」 「具体的に、どういう風にってのは分からないけど」 そのつもりなのだろうとは、感じていた。 「実際、私にしか出来ないことなんだよね」 「あの人達は、何があっても私のことは殺せない」 「だから一番無茶が出来るのは、私なの」 「藤井君より絶対上手くやれるって、思ったの」 なのにこれは、なんて馬鹿な思い上がり。自嘲する先輩はそう呟いて首を振る。 「いきなり失敗しといて、お話にならないよね」 櫻井か、ヴィルヘルムか。 今夜何かが起こるとしたら、この二人による殺し合いだろうと先輩は予測していた。そうなるように立ち回ったと言い、そしてそれは失敗したと言う。 「説明してもらえますか? どういう理屈でそんな絵図を描いたのか」 「話すと、長くなっちゃうよ」 「それに、言ったでしょ。藤井君には関係ない」 「…………」 この人は、本当に頑固だな。 「キミだって、色々分かったら自分で勝手に何とかしようとしちゃうでしょ。得意だもんね、そういうスタンドプレー」 「今の先輩に、言われたくない」 「ごめん。でもこれも言ったよね。私の我が侭なんだから、融通効かせられないよ」 「でも、失敗したんだろ」 「まだ一回だけだもん」 睨むように、俺を見上げて彼女は言う。 「今日、少なくとも、藤井君のことは守れたから。私は全部失敗したわけじゃない」 「ひどい奴だって思っていいよ。だって本当にそうなんだから」 「今夜死んだのが、何処の誰だったのかは分からない。櫻井さん達の命はすごく特徴的だから分かるけど、それを感じられないってことは、つまりどうでもいい人達だったんだよ」 どうでもいい。またそんな、偽悪的な台詞。 ヴィルヘルムや櫻井が死んだとしたら、その特異な魂から個人の特定が可能だと言う。スワスチカとリンクした立場として、自分にはそれくらい分かるのだと。 ゆえにこの現状は、第三の開放が殺し合いじゃなく殺戮で開いた事実を意味していた。何処の誰だか分からない奴らが、最低でも数百人……犠牲となって散華して…… 「そんな人達の命より、キミの安全の方が大事だよ。これくらいの失敗じゃあ、諦めない」 「だから、藤井君に何も教えてなんかあげない」 「―――――ッ」 そんな台詞、俺はこの人の口から聞きたくなくて。 「ぶたないの?」 振り上げた手は、しかし空気に接着されたかのように止まってしまった。 「……最低だ」 何よりも、俺に嫌われようとしている彼女にショックを受けているという事実が。 なんだよ俺は。なんでこの人にこんなこと言わせてんだよ。 「俺も先輩も、これが人生最後ってわけじゃないんだよ」 この先、何年、何十年、きっと生きていけるはずなんだよ。 そういう未来を、捨てたくなんかないんだよ。 「いつか笑い話になんて、そりゃ出来ないだろうけどさ」 非日常の記憶。血の匂いも人の死も、殺したという罪悪感も…… 「面倒なことは全部俺が、俺だけ背負ってりゃいいだろう。“それ”は俺のもんなんだよ。勝手に取るなよ」 「こんな、ふにゃふにゃした細い肩でさ……」 「何を背負う気満々になってんだよ。馬鹿だろあんた、潰れちまうぞ」 「死体、何百人分も担ぐだなんて、変なオリンピックでも目指してんのかよ」 そうまでして、そんなに歯を食いしばってまで…… 「藤井君の肩も、いい感じに撫ってるじゃない」 どうして俺のことなんかを、最優先しようとしてくれるんだ。 「力持ちっぽくは、見えないよ」 「最低だ……」 もう一度、そう呟く。 「うん、最低だね」 彼女もそう言って、苦笑する。 人が死んだのに。何百人も死んだのに。 「いま私、ちょっと時間が止まればいいとか思ってるよ」 誰もいない今この場で、あと何分? あと何秒? お互い背を向けて別離して、今夜の失敗を取り返そうと、個々の我が侭を通すために動き始めるまであとどれくらい? 「都合よく、キミを一週間くらい眠らせる薬があったなら、迷いなく飲ませるけどね」 「俺だって、そうしますよ」 自分の我を通す間、相手は大人しくしていてほしい。だけどそんなことは出来なくて。 「拉致監禁っていうのも、現実的じゃないし」 「そんなことが出来そうな場所、知らないし」 俺に限れば心当たりがないこともないんだが、そうすることで新たに巻き添えを増やしてしまう。せっかく切り離した連中を、渦中に引きずり込むことは出来ないだろう。 だから…… 「時間が止まればいいのにね」 そんな馬鹿げた願望を、いま恥知らずにも思っている。 「あともう少し、もうちょっと」 「見詰め合ってたら、何か起こったりするのかな?」 「私、頑張らないといけないから、力の源になるようなこと」 「一秒が百倍くらいになったとして、一分くらいなら待ってもバチがあたらないような気がするの」 「それだけあれば、何か、ちょっと、素敵なこと……」 「私が、勇気出すことも……藤井君が、さすがに空気読むことも……」 「期待できそうな、気がして、ごめん……」 「不謹慎だって、ふざけるなって、怒って、いいよ……」 「私、嫌な奴だから……」 「俺は――」 掠れるようなその声に、もはや我慢は出来なかった。 「俺だって――」 強く彼女の肩を掴んで言う。 「俺だって、気合い入りそうな何かが欲しいよ」 これから先、待っているだろう諸々を、乗り越えるための力が欲しい。 その源になる何か。断固たる決意を生み出せる何か。 それが俺も、俺だって欲しいんだ。 そして、どうすればそれが得られるかというのも分かっている。 だけど……そんなのはあまりにも舐め腐った甘えだから躊躇して…… 一秒を百倍くらいに出来たなら、一分くらい猶予を貰えることでなんとか答えを出せるかもしれない。 と――、俺は思っていることの半分も口に出来ず黙り込む。 黙り込むしか出来ない自分を、ぶっ殺したくて堪らない。 「むちゃくちゃにしてくれていいのに」 それは冗談なのか、本気なのか。 「私、これから少し、幽体離脱するから」 「ここに身体は残るけど、それはまあ、どうぞお好きにしてていいよ。私はちょっと、熊本県にでも行ってくる」 「……なんで熊本なんですか」 「温泉、入りたいの。あと地獄めぐり」 「地獄めぐりは、大分のはずじゃ……」 「うるさいな。とにかく」 そのまま明後日の方を向きながら、小さい声で先輩は言った。 「男の子の不安とか、苛立ちとか、受け止められないようじゃ失格」 「ぶつける度胸がない根性なしも、やっぱり失格」 「だから熊本、行ってくる」 そして、彼女は黙ってしまった。 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 まあ…… きっと今頃、阿蘇山上空にでもいるんだろう。身体が小刻みに震えているのも、額に汗をかいて頬が真っ赤になっているのも、火口の熱気に当てられているからに違いない。 もしくは、温泉に浸かっている最中なのか。そんなことを考えながら…… 「いいですね、熊本。全部終わったら、みんなで一緒に行きますか」 卒業祝い、ないし修学旅行みたいなノリで。 この先にはそんな未来が待っていると信じよう。 それを掴み取るんだとここに誓おう。 その気持ちを胸に刻み付けるため、俺はそっと彼女の口に顔を寄せて…… 「嫌だよ。その他大勢邪魔者はいらない」 「熊本行ってたんじゃないんすか」 あまりにも至近距離で目が正面から合ってしまい、互いに硬直してしまった瞬間だった。 「――レンッ!」 不意に、俺を呼ぶマリィの声。 「ぁ……」 「え、ちょ……」 「ぅえ、な、なに……」 いきなりのことすぎて、三人が三人とも面食らう。 だが一番早く事態を察したのは、意外と言うべきかマリィだった。 「あ、その、ごめん……別に邪魔しようとしたわけじゃないんだけど」 今、俺と先輩がどういう状況で、それに割り込んだのがどんな意味を持つことで、そのあたりの機微を即座にマリィが理解したのは、不思議を通り越して異常だった。 しかし、そんなことに対する驚きや疑問など、残らず後に回してしまえと俺の直感が言っていた。 「あのね、どうしよう……わたし、わたし……」 エレベーターの使い方が分からなかったのか、ここまで階段を駆け上がってきたと思しきマリィは、息を荒げながら肩を上下に揺らしている。 それだけで、何か尋常でないこと。彼女が焦り、取り乱すほどの何かが起きたのだと理解した。 「ごめんなさい、レン。わたしが悪いの、わたしのせいだ」 「何が……」 いったいどうしたんだと言いながら、同時に俺の身体が氷のように冷えていく。指先が震えだし、なのに心臓は早鐘のように脈打って…… 「まさか……」 そう、まさか…… 今夜この街に起こったことは俺達も知覚していて、少なからずショックも受けて。 それ以上に動転しているマリィの様子が、何を意味しているのかなんて想像するのが怖すぎて。 「ごめん、わたしが余計なこと言ったから……」 俺達にとって、ある種最悪の結末が起きてしまったということを、連想せずにはいられなかった。 「カスミが――」 俺の陽だまりのような幼なじみ。 あいつがいるからこそ踏ん張れて、あいつが待っているからこそ帰る場所を見失わず。 あいつだけはあいつだけは――あいつだけは何が何でも関わらせないと強く誓っていた日常の象徴が。 「死んじゃったかもしれない」 すでに砕け散ったということを、俺と先輩は知ってしまった。 それが一昨日前の話。 即座にタワーを出た俺達は、司狼らが待っていたはずのクラブへ向かい、そこで絶望することになる。 誰一人として残ってなかった。少なくとも、生きている者は一人たりともいなかった。 死体の山が積み重なっていたわけじゃない。誰かが殺される瞬間を見たわけでも、犯人を目にしたというわけでもない。 だがそれでも、分かったのだ。〈クラブ〉《ここ》がスワスチカの一角として、すでに機能していることを。イコールここで、数百単位の死者が出たのだということを。 ホールや、そして幾つかの室内には飛び散った血痕が見て取れたが、この場にいたであろう全員を殺戮したのだとすれば、それでもささやかすぎると言っていい。 結論として、死体ごと貪り食われたと見て間違いない。ここを襲った――おそらくはヴィルヘルムに、残らず吸い殺されたのだ。 その惨状……その現実……認めるには抵抗感がありすぎて、俺は一晩中クラブの中を捜し回った。 司狼が、本城が、そして香純が……何処かに隠れているのではないのかと。 この暴虐の嵐に巻き込まれず、上手いことやり過ごせているのではないのかと。 司狼は目端の利く奴で、頭だって悪くない。万事喧嘩上等すぎるのが問題だが、おめおめと殺されるようなタイプじゃないのは分かっている。 本城のことはよく知らないが、あいつだって似たようなもんだろう。並みの神経と才覚じゃあ、司狼と付き合ってなんかいられないのは考えるまでもなく確かなことだ。 だから、そんな二人に保護されていたはずの香純が、死んでしまったなんてこと…… 認めない。信じない。絶対俺はそんな展開を許容しない。 捜さなきゃ、見つけなきゃ…… あいつはきっと、あいつらはきっと、俺の陰口でも叩きながら無事生きているに違いないって…… 絶叫する自分の声が誰のものかも分からないほど、我を忘れてクラブの中を走り回った。 走り回って、そして糸が切れたように気を失って…… 「おはよう」 今、この状況になっている。 「何か飲む? お酒しかないみたいだけど」 ソファから身を起こした俺の横には、先輩が腰掛けてグラスの液体を煽っていた。そしてさらにその横には、同じくグラスを――ただし舐めるように傾けているマリィの姿が。 「……二人とも、仲良くなったんですか」 「まあ、キミが寝てる間に色々と話したし」 「所々要領を得なかったけど、この子のことはだいたい分かったよ」 「ただ、ちょっと鬱陶しいね。すごく私の邪魔する」 「だ、だって、そんなこと言われても……」 淡々とした毒舌に、マリィは俯いたままぼそぼそと答えた。 「センパイが、隙を見せたらすぐに出て行こうとするんだもん。そんなのレンは嫌だよね。だから……」 「……ああ、助かったよマリィ」 「キミに先輩呼ばわりされる覚えはないんだけど」 「あぅぅ……」 睨まれて、さらに小さくなるマリィ。そんな風に恐縮しながら、しかしグラスに注がれた酒だけはしっかりと舐め続けている。 先輩はそれに目を向け、軽く溜息をついていた。 「一応、言っておくけど藤井君、私は別に八つ当たりしてるわけじゃないよ」 「この子が私を止めようとするのは百歩譲るとしても、止め方がめちゃくちゃ」 「めちゃくちゃ?」 「椅子とか、コップとか投げられて、さらにモップで殴られた。ほらここ」 袖をまくって見せた腕には、なるほどそれっぽい痣があった。どうやらかなり乱暴な真似をされたらしい。 「さすがに私も頭にきたから、引っ叩いてやろうとしたんだけど」 「この子ね、そしたら逃げるのよ。触っちゃ駄目とか言いながらダッシュで逃げて、五メートルくらいの距離を保ちつつ投擲、投擲、たまに突き」 「付き合ってらんないと思って私がここから出ようとしたら、追いかけてきてモップ使った足払い」 「私こける。私怒る。起きて追いかけてまた逃げられる。鉄壁の五メートルを維持しつつ、投擲、投擲、突き、ところにより足払い。私の心は嵐で雷注意報」 「だからちょっとくらいこんな態度でも別にいいでしょ? ていうか、だいぶ優しい部類でしょ?」 「藤井君、キミ、しっかり教育しときなさい」 「はあ、まあ……」 随分と凄まじい修羅場があったようだが、マリィも別に悪気があったわけじゃないだろう。 というか、それしか手段がなかったはずだ。 「あ、あの、センパイ? 今ならわたしのこと、引っ叩いてもいいよ」 「どういう意味?」 「いや、だって、レンが目を覚ましたから」 「全然分かんないんだけど」 つまり、俺が意識を失っている間、マリィには枷がない。その状態の彼女に触れたら、最悪相手の首が飛ぶ。 試してないので実際どうなるかは分からないが、マリィはそれを恐れたのだろう。この子がそういう風に考えて手段を選んだのは驚きだが、俺としては助かった。 目覚めに先輩の生首なんて、心の底からご免こうむる。 今はただでさえ、そういうネタに神経過敏な状態なんだ。 「藤井君、一人で納得してないで説明」 「いや、それについてはいいでしょう」 マリィ本人の前でべらべらと話して回ることじゃない。 「ともかく、有り体に言うと俺のせいですよ。文句は聞きますし、引っ叩くのも俺にしといてください」 「……キミは本当に、たまに私をイラっとさせるの上手いよね」 「もういいよ。ていうかキミら、さっさと飲みなさいよ」 「あ、はいっ」 「何で俺も?」 「だから強行策。この子が私を閉じ込めようとするから、酔い潰すことにしたの。あとキミも」 「さっさと二人でべろんべろんになって、あと三・四日は寝てなさい」 「て、何よその顔」 「いや……」 相変わらずと言えば相変わらずだが、真面目にやってるつもりでも何処かずれてるよな、この人は。 色々言いたいことはあったのだが、ともかく気付けを兼ねて飲むことにする。 ただし、グラスでではない。 「あ……」 「ちょ……」 呆気に取られる二人を無視して、俺はボトルを掴むとそのまま一気に飲み干した。咽喉が焼けるような感覚と、お世辞にも上手いとは言えない味が口いっぱいに広がるが、そんなもんはどうでもいい。 「俺は潰れませんよ。たぶん何やってもね」 胃に堪る酒精なんか、片っ端から駆逐される。そうなるだろうと予測してたし、事実その通りだった。 口を拭って立ち上がり、即座に次の行動を選んでいた。今、最優先でやるべきことが何なのか、そんなの考えるまでもないことだから。 「行こうか、マリィ」 「え、でも……」 「香純らを捜しに行く」 「…………」 「…………」 「……なんだよ」 ちくしょう、なんで黙るんだよ。 その沈黙が痛くて、辛くて、イラついて―― 「あいつの死体なんか何処にもないだろ!」 知らず、俺は声を荒げて怒鳴っていた。 「そんなもんは見てないんだ。見てないってことは、ないってことなんだよ。ないってことは、違うってことじゃねえのか!」 つまり死んじゃいないってことだろう。 「俺は絶対信じない。見てもないんだ。何をどう諦めるんだよ。そんな理屈、百万回でも論破してやる。ていうか、言葉も必要ない」 「あいつら見つけて、捕まえて、確認すりゃそれで終わりだ。こんなとこで馬鹿晒してるより、ずっと現実的だろう」 「だから、なあ……」 二人とも、頼むから俺の目を見てくれよ。何を言葉に詰まったような表情で、無言貫いてやがんだよ。 「ああ、くそッ!」 苛立ち任せにテーブルを蹴り上げると、まるで発泡スチロールのような軽さで飛んでいく。ふざけた力で、ふざけた事態で…… 俺の剣幕に二人の肩がびくりと震えていたことが、より一層やり切れない気持ちに拍車をかけた。 マリィと先輩をびびらせてどうすんだよ。アホか俺は。 「ごめん」 だから、謝ってなんかほしくはなくて。 「ごめんなさい」 なんでこの二人は二人とも、自分に一番の責任があるみたいな顔をしてるんだ。 「私がつまんない我が侭言ったから……」 「わたしがカスミに、優越感なんか持ったから」 そんなの一切、まったくもって関係ない。 選んだのは俺で、その結果は俺のもんで。 おまえら二人が感じてるっぽい、わけ分かんない後悔、責任? 全部俺のもんなんだよ、返せクソ! 「わたしね、カスミよりレンの近くにいれるのが嬉しいって言ったし、思った」 「ずっとそうだったらいいって、思った」 「だからごめんね、ごめんなさい……」 「関係ない!」 壁を思いっきり殴って言う。 「そんなの、いったい何の因果関係があるんだよ。マリィがそう思ったらそうなんのかよ! どこの神様の話だ、そりゃあ!」 「でも……!」 「いいんだよ! 理屈通んないこと言わないでくれ。マリィに何の落ち度もない!」 「でもわたし、カスミを放っとくってレンの考えを止めなかったよ」 「最初は止めようとしたくせに、途中でずるいこと考えて、すぐに意見引っ込めちゃったよ」 「それは……」 だけどそれは、しょうがないだろう。 「俺はあの時、マリィが何言おうとそうするつもりだったんだ。気にする必要なんかない!」 「じゃあ、やっぱり私が一番悪いんじゃない」 俯くマリィとは対照的に俺を睨んで、自分自身を切りつけるように先輩は言う。 「キミにそうさせたのは、私だよ。マレウスなんかと手を組んで、キミを引っ張り出したのは私」 「私が余計なことしなかったら、キミはきっと〈クラブ〉《ここ》に来てた。そしたらこんなことにはならなかった」 「呼べば絶対来てくれるって、分かってたから呼んだんだもん。弁解の余地ないよ」 「じゃあ、あんた死にたいのかよ!」 助けを求めて何が悪い。俺にそれが出来るかどうかは関係なく、溺れかけてるなら手を伸ばすのが当たり前だ。 そしてそれを掴んだ以上、引きずり込まれたって恨んだりしない。 「見損なうなよ、俺はそんなクソ野郎じゃない……」 「もうやめてくれよ。二人してわたしがわたしがって……」 「俺は二人のせいだなんて思ってないし、そんな風に責任感じてほしくないんだ」 「でも……」 「それは……」 終わらない、意味のない水掛け論に、切れちゃいけないと思いながらも激昂しかけたときだった。 「あなたがいつも言ってることなんじゃないの?」 「――――――」 唐突な、そして聞き覚えのあるその声に、俺は弾かれたように振り向いていた。 「こんばんは。荒れてるようね。ご機嫌いかが?」 「櫻井……」 こいつ、いったい何しにきやがった。事と次第によっちゃただじゃすまさない。 「やめてよ。気持ちは分かるけど、八つ当たりなんかされても困る」 「まあ、ここで私を殺せればそっちの得になるんだけれど、そのつもりなら逃げるわよ。そしてあなたは損をする」 「損……だと?」 「周りの人には、笑っていてほしいんだよね、藤井君は」 部屋の入り口に立ったまま、どこか自嘲するように話す櫻井。俺の疑問には取り合わず、苦笑を交えながら言葉を継ぐ。 「自分の好きな人達が笑っていたら、幸せな気分になれるもんね。だから献身するし、骨も折る。あくまで隠れて、たった一人で、誰にもそれを見られないように」 「見られてしまったら、知られてしまったら、好きな人達の笑顔が曇ってしまう。そんなものは見たくないし、頑張ったご褒美が泣き顔じゃあ報われない」 「頑張るためにも、笑顔がほしい。それさえあれば奮い立てる。どんなにボロボロになっても折れない剣に、輝かせてくれるのは陽だまりの記憶」 「うん。分かるよ。理解できる。上手く嵌れば最強になれるかもしれない方程式」 「だけど……」 マリィを、そして先輩を、見回してから櫻井は言った。 「一度掛け違えると、血で血を洗う羽目になる。彼女達も同じ理屈で、あなたに笑ってほしいのよ。だけど無理よね、こうなったら傷つけ合うことしか出来ない」 「どっちも血に濡れてるもの。それじゃあ駄目で、刃は錆びる。輝かないし、折れて朽ちる」 「綾瀬さんは、あなた達の太陽だったわけだ。ご愁傷様」 「――――――ッ」 そこが、俺の我慢の限界だった。 「べらべらと、死にに来たのかおまえ」 伸ばした手で胸倉を掴み、殴りつける勢いで壁に強く押し付けた。それに櫻井は抗わず、冷めた笑みすら浮かべている。 「言ったでしょう。そんなつもりはない」 「ただ、不毛なことをやってるから、第三者の私が手っ取り早く纏めてあげる」 「単に責任の所在をはっきりさせておきたいんでしょう? なのに三人とも譲らないから、面倒なことになってるのよ」 「だから私が客観的に、一人一人の過失を挙げていきましょうか」 「まず、あなた」 その目が、横に滑ってマリィへと。 「さっきあなたが言ってたことには嘘がある。本当は怖かったんでしょう。彼に嫌われるのが」 「氷室先輩に逢いたがっている彼を止めて、面倒な女だと思われるのが怖かった。だから理解のあるふりをして、今も本音を誤魔化している」 「その臆病さ。ちゃんと気持ちをぶつけられない、接触の下手さがあなたの過失」 「そんな……」 「そして」 今度は先輩へ。 「最悪、第三が開くことを想定していながらも、何処を開かせるかまで誘導できなかったのがあなたの過失。ロシアンルーレットで弾かれる何処かに、誰かが、運悪くいるかもしれない可能性を考慮していなかった」 「ここの、遊佐君? 彼がベイに狙われているのを知らなかった以上、しょうがなくはありますが。それでも詰めが甘かったことに変わりはない」 「あと、私はあなたが思ってるほど単純馬鹿じゃありませんよ。賢くはないと、自覚はしていますけどね」 「…………」 「それから」 言葉もない二人を無視して、櫻井は俺に向き直った。 そのまま、ひどく端的に言ってのける。 「あなた、方向音痴でしょ」 「どうせ藤井君のことだから、マレウスからスワスチカの場所を聞き出したと思うけど、そこに〈クラブ〉《ここ》は入ってなかった。違う?」 「………ッ」 俺は、何も答えられない。それは図星で、その通りで…… 「あいつのことは信用できない。ええ、その通りよ。あんなの信用したら馬鹿を見る。だから疑っていたはずなのにね」 「何処か、ここ以外の何処かをフェイクとして挙げられた時、頭の中で地図を思い描かなかった。だから方向音痴だって言ってるのよ」 「スワスチカは鉤十字のこと。八箇所繋げば図形になる」 「頭の地図が正確だったら、虚実はすぐ割れたのにね。それがあなたの過失」 「…………」 「反論は?」 ない。こいつの言う通りで何も言えない。 確かに、ルサルカから聞いた場所の中に〈クラブ〉《ここ》は入っていなかった。それを見破る種はあったのに出来なかった。 言い訳の効かない俺の過失で、返す言葉は出てこなかった。 「離してくれる?」 だからその自省と、あくまで冷たい櫻井の声に怒りも萎えて、俺は手を離していた。 「けど……」 しかし、それでも一つだけ、気になることが存在する。 「なんでルサルカはそんなことをしたんだ」 あの日、俺が不在のうちに〈クラブ〉《ここ》をヴィルヘルムに襲わせる。その行為に、いったい何の意味があったというのか。 ただの嫌がらせというわけじゃあるまい。ヴィルヘルムのサポートというのも絶対違う。 あいつは何か、必ず何か、それに利があったからそうしたはずだ。 「まあ、朧気ながら分かるような気もするけど」 櫻井は、俺の肩越しに先輩の方を見ていた。 「確認したいことがあります。ヨハンとは誰ですか?」 「ヨハン?」 初めて聞くその名前に、意味が分からず困惑する。 だがそれは、当の先輩も同じだったらしい。 「それはもう言ったでしょう。分からないよ。むしろこっちが知りたい」 「ですがマレウスは、明らかにその名を聞いて態度が変わりましたよ」 「そうだね。それはそうだけど……」 「あなたが猊下から聞いたというのは?」 「嘘じゃないよ。でもそれが何?」 「櫻井さんは、何か分かるっていうの?」 「いいえ……仮説に仮説を重ねすぎた考えなので、言うつもりもありません」 「ただ、ですね。あれが狙っているのは、〈黒円卓〉《わたしたち》の仲間割れによる全滅でしょう? まあそれは、あなたの願いでもあるようですが……」 「ともかくマレウスは、残存六名の中で一人だけの勝ち抜けを狙っている。そのことは間違いない」 「そしてそうなると、一番の障害は誰か」 ルサルカにとって、もっとも攻略が難しいと思しき脅威は? 小賢しく立ち回っているあの女の、さらに上をいくかもしれない奴は誰だ? 「私? いいえ。ベイ? 違うでしょう。バビロン? カイン? 有り得ない」 「じゃあ……」 「ええ、猊下ですよ。彼が一番恐ろしい。ヴァレリア・トリファは最恐だ」 「…………」 間に入り込めない二人の会話に、俺は無言を通すしかなく、マリィも同様に黙っている。 だが櫻井の言ってることから推測する限り、一連の諸々はルサルカが神父を詰むためのものらしい。それが当たっていればの話だが。 「これは勘ですが、おそらく半ば終わっていますよ。今頃勝ち誇っているような気がする」 「ですが、まあ、あれの狙いがなんであれ、私としては自分が死ななければいいだけのこと。競争相手が減るのなら、こちらも別に構わない」 「でもあなたには、有意義な情報を教えてもらった借りが一応ありますからね。お義理程度に、そのことを伝えに来たというだけです」 「教会に戻ってはいかがですか? 先の話、どうするにせよ、猊下とバビロンをあなたは無視できないでしょう」 「…………」 「ここで後ろ向きな喧嘩をやっているより、ずっと有意義だと思いますがね」 その言葉に、先輩は数瞬の間、躊躇してたが…… 「うん、そうだね」 やがて首を縦に振り、教会に帰ると言っていた。それを目にして、マリィが心配げな顔を向けてくる。 「いいの?」 「よくはないけど、止められないだろ」 彼女は彼女でやることがあり、俺も俺でやることがある。 連れ回すことなど出来ないのだから、他にどうしようもないだろう。 今、下手に先輩と口を利けば色々余計なことを言いそうだから、俺は努めて冷静になろうとした。 なれるかどうかは別問題だが、気の持ちようってこともあるだろう。 そもそも俺がこの現状で、最優先すると決めた事柄は変わっていない。 「それから藤井君」 「ああ、分かってるよ」 深いところまでは聞いていないが、先輩がこいつに何かの情報を提供したのは知っている。そしてその結果、何が起こると予想していたのかも。 「友達の生死を確かめるのに、一番手っ取り早い方法を試す気なんでしょ?」 「当たり前だ」 俺は香純らの生存を信じているし、それを確信するための最良手は言うまでもなく分かっていた。 「じゃあベイに直接、糾せばいい。私も彼に用がある」 「一緒に来るの? 来ないの? どっち?」 答えは、すでに決まっていた。  心臓の音が聞こえる。脈打つ魂の震えが分かる。その揺らめきを〈縁〉《よすが》にして、“ソレ”は長い眠りから目を覚ました。  ああ、夢を見ていたかもしれない。思えばソレの生涯通じて、現実味というものが希薄だったし、その概念すらよく分からない。  よく分からないのだから、分かる必要はないと断じた。原理が単純であろうと複雑であろうと、そこには必ず一定の法則が存在するのだ。転ぶ者がいるのなら足を払う何かがあったということで、躓くという結果がもたらした損害など、論じたところで意味がない。  そう、転んだ後ならば。速やかに立て直す手を打てばいい。  そうした場合の修復は、無論元通りという進歩のない結果になってはならないだろう。以前と同じ足払いでは、二度と転ばせられないように補強する。  すなわち、一種の超回復が求められるということだ。  薮蛇であったのだと、思い知らせる必要がある。  そうしなければ、真に状況を改善したとは言えないのだから。  ソレが目を覚ましたのは、つまりそういうことである。  言うなれば、危機回避システム。もしくは、自動防御か迎撃装置と評するべきか。  まあ、どうでもいい。何であろうと同じこと。  あらゆるものには、そう易々と壊れないための機構がある。  人体ならば白血球。つまり、己が〈肉体〉《せかい》を守るための軍隊であり、外患を駆逐する英雄達だ。  その出撃を促すのは、脳という指揮官ではない。  血に溶けている〈英雄〉《かれら》を効果的に操るのは、心臓という名の動力である。  そう、心臓。だから心臓の音が聞こえる。ソレが目を覚ましたという現実が、百万の地獄を震わせていた。 「よかろう」  〈脳髄〉《しきかん》の許可が下りる。本来、そんな一言に意味はない。  心臓は不随意筋なのだから、この世界が在る限り脳の下知など必要としていないのだ。  止めよと言ったところで動き出し、やれと言ったところで条件が揃わなければ動かない。  そういうもので、そういう歯車。動くか否かは、あくまで動力を構成している法則上の決まりである。  ゆえにこれは、脳の独り言に等しいもの。  己の意志で制御できない部分に向けて、何を言おうと滑稽に響くだけだろう。  だが、しかし本当にそうなのか? 「悪くないぞ。忠道、大儀だ」  原理が単純であろうと複雑であろうと、そこには必ず一定の法則が存在する。心臓は不随意筋だが、その仕組みを構築した者から見れば結果が不本意であることなど有り得ない。  ある条件下で動くよう、創られた歯車ならば、その理に則る限りソレの意志は彼の意志。  であれば、脳の昂揚はプラシーボとなって心臓にも届く。  彼がやれと命令すれば、ソレは絶対の精度をもって己が仕事を全うするのだ。 「存分にやれ、イザーク。城の理を知らしめるがいい。 〈愛〉《かな》しきいと小さき者ども、卿ら殺し合わずにおれないならば……」  そう、等しくこの〈地獄〉《ヴェルトール》に渦巻くがいい。 「それこそが人間。 私の愛する、私の血肉となる者らよ」  そのよく分からない感覚に、リザ・ブレンナーは目を覚ました。 「――――――」  顔を上げた視界に映るのは、見慣れた教会の一室で、自分が寝入っていたことを自覚する。 「あ……っ…」  なんだろう、全身がだるい。何か悪夢を見たような気もするが、意識が鮮明になるのと反比例して、その輪郭がぼやけていく。思い出そうとしても思い出せない。  上体をテーブルの上に投げ出したまま、リザは纏わりつく倦怠感に抗おうとはしなかった。  正直言って、面倒くさい。別に物臭な性分というわけでもないのだが、気を張っている意味が見当たらないので少々だらしくなくてもいいだろう。  なんだか、不良娘の行状に憔悴している母親みたいで、滑稽ではあるけれど…… 「まあ、それも言い得て妙か」  少なくともこの十数年、こんな夜は一度もなかった。傍らにはいつも玲愛がいて、小さい頃は枕元で本を読んだり子守唄を歌ったり、ここ何年かは友人同士か姉妹のように、他愛ないことを話し合ったりしたものだ。  あれで結構、怒りっぽいところもある子だから、対応には手を焼いたものだけど。  当たり前と言えば、当たり前。なぜならあれが自分にとって、初めての子育てだったと言えるのだから。  その毎日が終わりを告げて、久方ぶりに一人となったこんな夜……自分を持て余すのは、なるほどしょうがないことだろう。  以前はこういうとき何をしてたか、今ではもう思い出せない。  だから…… 「O Tannenbaum, O Tannenbaum Wie treu sind deine Blätter Du grünst nicht nur zur Sommerzeit Nein auch im Winter wenn es schneit O Tannenbaum, O Tannenbaum, Wie grün sind deine Blätter! 」  自然と口から漏れ出たのは、聖夜を祝う歌だった。 「O Tannenbaum, O Tannenbaum, Du kannst mir sehr gefallen! Wie oft hat schon zur Winterszeit Ein Baum von dir mich hoch erfreut! O Tannenbaum, O Tannenbaum Du kannst mir sehr gefallen!」  去年も一昨年もその前も、毎年これを歌ったものだ。あまり声に自信はないのだけど、ガラにもなく練習したのを覚えている。 「Ich wünsche dir viel Glück für dein neues Lebensjahr」  あなたの新しい一年が、幸運の光に包まれますように。  そんなお決まりの言葉で締めくくり、誕生日を祝った。  だけど今年は、もう面と向かって言えないだろう。だから今、一人で呟く。まるで詫び言を述べるように。 「まったく……」  馬鹿みたいだな、と自嘲して、リザは上体を起こすと椅子の背もたれによりかかった。  誰もいない。誰も見てない。にも関わらずこんな形だけのポーズを怠らない。随分まめだと、我ながら感心する。  自分の偽善者ぶりというやつも、相当筋金が入ったものだ。事によれば世界代表クラスにでもなれるのではないか。 「ふふ、ふふふふふ……」  だから、そんな現状が可笑しくて。 「すごいな、私。涙なんか出てる」  嗚咽するような声のまま、リザは肩を震わせ笑っていた。  ああ、本当に身体がだるい。まるで月のものが来たみたいだ。とっくに止まっているはずなのに。  どういうことだ。いったいどういうことなんだ。自分はもう今後一切、子供なんか作れないし作る気もないというのに。  お腹、痛いじゃない。ちょっと目眩までするじゃない。どうせ気のせいだろうけど、胸まで張ってくる。有り得ない。  これじゃあまるで、本当にまるで、自分が母親にでもなったかのような。  子供が、自分に会いたがっているかのような。  それこそ、本当に有り得ないことだと分かっているのに。  顔を天井に向けたまま目を閉じて、啜り泣くような笑みと共に声が漏れる。 「ヨハン……」  そして…… 「イザーク……」  と、呟いた時だった。  部屋の外から、不意に扉をノックする音。  それに続いて、気遣うような声が届いた。 「リザ、私ですが……今、よろしいですか?」 「え? あ……」  まさか聞かれてはいないだろうが、リザは慌てて居住まいを正すと、涙を拭って立ち上がる。 「その、ごめんなさい。ちょっと待って」  いったい何の用か知らないが、いきなり現実に引き戻されて面食らった。動揺を悟られないよう深呼吸を一つすると、声の調子を落ち着かせてから、ドア向こうの男に入室を促す。 「どうぞ」 「失礼」  と、ノブが回り、長身の神父が相変わらずの温顔を浮かべて入ってきた。  しかし、その様子は些か以上に奇異だったと言えるだろう。 「ああ、お構いなく。どうぞ気にせず掛けてください。別にどうもなっていませんよ」  口調はいつも通りで、顔色に変化はなく、だけど彼が入ってきた瞬間に匂いで分かった。  リザは、半ば困惑した声で言う。 「あなた、もしかして酔ってるの?」 「ええ、まあ、そうですね。ほんの多少ではありますが」 「ともかく、こんな夜だ。よければご一緒にと思いましてね」  言いつつ、手のワイングラスとボトルをテーブルの上に置く。呆気に取られているリザを無視して、トリファは彼女の対面に腰を下ろした。 「ご心配なく。別に新手の悪ふざけをしているわけではないですよ。 他意は何もありません。さあ」  目の前のグラスに注がれていくワインを見やり、リザはしばらくの間目を瞬いていた。 「飲まないのですか?」 「……え、ああ、いえ、そうね。じゃあ、いただこうかしら」  正直、不可解を通り越したような事態だが、別に気分が悪くなるようなことでもない。彼女自身、少なからず感傷的になっていたせいもある。 「どういう風の吹き回しか知らないけど、そうね、私も言われてみれば、飲みたいような気分だわ。 あなたと差し向かいでやるのは初めてだけど、まあそんな日もあるか」  言って、二人はグラスを合わせた。何に乾杯しようとか、そうしたことは口にしない。  意味がないし、つまらないネタが出てきて酒が不味くなるのも嫌だから。  お互いに深く味わうような緩やかさで、半分ほどグラスを空ける。良く言えば趣があり、悪く言えば年寄り臭い飲み方だ。人生の酸いも甘いも噛み分けたような、そうした空気。  トリファが、軽い調子で話題を投げた。 「あなたとこうして二人で飲むのは、初めてでしたかね?」 「ええ、たぶんそう。記憶にないわね。いつもは……」  玲愛もいたから……と、その言葉を飲み込んで、リザは続ける。 「だってあなた、私と二人きりになるのを避けてたでしょう。それくらい、分かってるんだから」 「ふぅむ、いや確かに、それを否定は出来ませんが…… 私としては、あなたが望んでいないだろうと考えたからですよ」 「嫌われてると思ってた?」 「ええ。違うのですか?」 「違うわね。大っ嫌い」  おどけたように呟くリザ。トリファは変わらぬ微笑を浮かべて、やっぱりですかと返すだけだ。 「機会があれば捕まえて、七日七晩でも絡んでやりたかったわよ。三日三晩くらいじゃ全然足りない」 「本当、あなたには昔から、色々言葉に出来ないくらい苛められたような気がするし」 「それは不徳のいたすところですねえ」 「でも……」  今、振り返ってみればと付け足して。 「私の傍を離れなかったのは、考えてみればあなただけか」  これもいわゆる、腐れ縁というやつだろう。他に表す言葉が見つからない。 「友達と、そう呼べるような相手は、残らず私を見切っていったわ。まあ、しょうがないことだけど」  リザが好ましいと思う人種は、良かれ悪しかれ真っ直ぐな心根を持つ者だ。その信念や生き方に、軽い羨望と嫉妬を覚える。  なぜなら、自分が歪んでいるから。これは無い物ねだりに近いだろう。 「察するに、ザミエル卿ですか?」 「ええ。彼女のああいうところ、私はそう嫌いじゃないのよ。 だけど、向こうにしたら腹立たしくてしょうがないのでしょうけどね」  並んで立つには、噛み合わないものが多すぎる。お互いの本音はどうであれ、摩擦と削り合いしか起こせない関係だ。  ゆえに、この上なく歪んでいるヴァレリア・トリファという男が、リザにとっては噛み合っている。好悪を度外視して、心の凹凸が嵌るのだろう。  まあ、とは言ったところで、彼を理解できるというわけでもないのだが。 「それで思い出したのだけど、最後に私と二人で飲んだのはベアトリスだったわね」 「これはまた」  その場を想像したのだろう。トリファの笑みが苦笑に変わった。 「あの方もあれでなかなか、厳格でしたからねえ」 「融通が効かないのよ。そういうところ、誰かさんとそっくり」  あれが騎士道とでもいうやつなのか。まるでタイプが違うくせに、可笑しみを覚えるほど似通った二人だった。……なるほど彼女らの間に立たされれば、色々堪ったものじゃない。 「五十年くらい前かしらね。馬鹿じゃないですか、あなたは――腐った根性が感染るんで近寄らないでください……って、そんな風に言われたわよ」 「はっはっはっは」 「それからずっと、口も利いてくれなくて、ようやく話してくれたのは十一年前……そのとき、お酒はなかったけれど」 「いったい、何を話したのですか?」 「内緒よ。ただ、五十年前の続きだったわね。 私、あれからずっと考えましたけど、やっぱりあなたのことを軽蔑します……って、何なのあの子は。四十年も間を置いて、いきなりそんな、こっちがびっくりしちゃうわよ。 まるで、そのとき言っておかないと後悔するみたいな……きっと分かっていたんでしょうね。自分の未来を」 「ふむ。いつのまにか、私への嫌味ですか」 「ええ、言ったでしょう。三日三晩くらいじゃ足りないって」 「キルヒアイゼン卿は自業自得と思いますがね。しかし……」  ぼやくような響きに乗せて、トリファは軽く喉を湿らす。  そしてなんら気負いもなく、リザの言葉に紛れていたある事実を指摘した。 「それは正直、初耳だ。つまるところキルヒアイゼン卿は、あなたしか知らない何かを知ったということでしょう。 彼女の愚行は、そこに原因があったとでも?」 「…………」  問いに、リザは何も答えない。ただ神父の目を見据えたまま、グラスの残りを煽るだけだ。  そのまま、しかしややあって。 「言ったでしょう。内緒よ」  彼女は表情をまったく変えず、空になったグラスを置いた。それにトリファがワインを注ぐ。 「いくら飲ませたって、秘密は秘密よ」 「ええ。分かっていますよ。私も言ったでしょう。他意はない」  とは言うが、その目はまるで笑っていない。思わず髪をかきあげて溜息をついた。 「なんだかゲシュタポに尋問されてるみたいだわ」 「ああ、懐かしいですね。そういうこともありました。 あなたと初めてお会いしたのは、その時で……」 「ええ。それから皮肉くらい、ちゃんと理解してほしいわね。虚しくなってくるじゃない」 「いやいや、無論分かっていますよ。私とこうして向かい合うのが、視覚的にゲシュタポじみていると。それはすなわちあなたにとって――」 「ねえ、ヴァレリア」  まるでその先を遮るように、リザはトリファの台詞を寸断した。  今度は私が訊く番だと、逆に問いを投げ返す。  玲愛のことも、彼の様子も、そして自分自身どこか情緒不安定な今夜の気分も……  総て、それが原因であるように思えてならない。 「この前言っていたのは、どういうこと?」 「はて、私は何か言いましたかね?」 「あなたの望む道が閉ざされたって」  第三のスワスチカが開いた夜。彼は確かにそう言っていた。その意味が分からなくて、リザは問わずにいられない。 「一応、あなたの望みが何なのか、私は分かっているつもりなのよ」 「それが駄目になったということは、つまり連座で私達全員も失敗する。はずなのに――黄金錬成はむしろ鉄壁になると言ったわね。それじゃあ意味が分からないし、理屈が全然通らない。 いいえ。と言うより、分かり易すぎて理解できない」  つまり逆転の発想だ。彼の失敗が、リザ達の成功を不動にする。  と言うことは。 「正気なの?」  答えを、口に出すことは不可能だった。それを音声化して舌に乗せるという作業が、たとえ他人事でも理解を絶することだと分かっていたから。  そうだ、正気の沙汰ではない。だってそれじゃあ…… 「あなたは、私が正気などという贅沢なものを持っているとでも思ったのですか」  自分は、この神父を一から十まで見誤っていたことになる。 「私は救いなど求めない。私は永遠に罪人だ。罪を帳消しにする魔法など要りませんよ。ただいつまでも、血で血を洗い続けるだけだ。 こういうのを、俗にマッチポンプというのでしょうね。まあ、あなたに理解は出来ないでしょうが、そういう道もあるということ」 「でも、それは諦めたんでしょう?」 「さて、実際どうですかね。ただ、諦めるだの諦めないだの、そんな一言で片付けられるものではありません。 私は単に――いや、これは、いつの間にやら私が尋問されていますね。あなたもなかなか怖い人だ、リザ」 「……よく言うわよ」  トリファの言っていたことは、分かるようで分からない。しかし不吉さは感じていた。  この男は破滅型の人間だが、性質の悪いことに周りをその渦に巻き込むようなところがある。そして中心に立つ彼だけは、傷一つ負わない類の人種なのだ。 「私はエレオノーレやベアトリスみたいに、砲火の下を走ったわけじゃないけれど。なんだか背筋が寒いわね。あなたとこうして話していると、嫌な予感しかしてこない。 ねえヴァレリア、私の望みは叶うと思う?」 「それはいずれ分かりますよ」  そう、すぐにでも。  と言いながら、彼は最後の一滴をグラスに落とした。 「ただ、あまり買い被らないでいただきたい。私とて揺れることはあるし、分からないことも当然ある。 常に事態を俯瞰して、諸々残らず掌の上……などと、副首領閣下でもあるまいに、そんなことはありませんよ。私はつまらない男です。 ただ、逃げたくはないと思っていますが……」 「…………」  赤いワインが血のように揺れる。すでにボトルは空となり、今二人のグラスに波打っているそれを干せば、この何だか分からない酒席も終わりだ。  リザは、そのことがどうにも怖くて。  死刑執行を待つ囚人のような気分になって。 「ゆえにあなたも、逃げぬがよろしい」  まるで聖餐のような赤ワインを、じっと見続けることしか出来なかった。 「これが私の聖餐杯」  それを飲み干す。そして砕く。握り潰したグラスの破片をばらばらと落としながら、彼はゆっくりと立ち上がった。 「強制はしません。ですが、常に同輩から見切られてきた女に母が務まるとは思えぬし、これ以上は人間性の浪費だ。 私はテレジアを愛している。結局、それを不動のものとして確信したかっただけなのですよ」 「待って――」  歩き去ろうとする神父の背に呼びかけるが、リザは二の句が継げなくて。  自分は何を言いたいのか。いったい何を聞きたいのか。  そして、何をするべきなのか……  ただ、もう少し、もう少しだけこの男と話したい。今、一人にされるのがわけもなく怖い。 「答えを期待しない問いを投げれば、聞きたくもない答えが返ってくると思いなさい。 そうした時は沈黙するものですよ。そして深く自問する」 「あるいは……」  言葉途中に身を翻し、リザを残したまま出て行こうとする。  それと同時に。 「あの、私……」  扉が開き、家出同然にいなくなっていた氷室玲愛が帰ってきた。 「玲愛……」  これは偶然なのか? 狙ったのか?  分からないが、確かなことは一つだけ。  ああ本当に、これじゃあ自分は逃げられない。嫌でも罪と向かい合う羽目になる。 「そう、懺悔も一つの選択ですよ。 それに何だかんだと言いながら、カインを起こしているのも知っています。走ると決めているのなら、後は方向性の問題だ。そこは彼女と話して決めなさい」  言って神父は、玲愛の横をすり抜けると場を辞した。  その間際に、深く祈るような声で言う。 「あなたに感謝を、テレジア。 お陰で、ようやく目が覚めましたよ」  そして、扉が閉まる音。  一人が入って一人が出て行き、部屋の人口は変わらないのに、もはやまったく別の状況に変わっている。  その中で、若干の躊躇を含んだ玲愛の声が耳朶を打った。 「ねえ、その……私、あなたに聞きたいことがあるんだけど。 教えてくれないかな、リザ」  自分はどうするべきだろう。この少女をどう扱うべきだろう。  ここでリザは、ようやく身を苛んでいた倦怠感の正体に気付いた。 「ああ……」  そうだ結局、自分は安心していたのだ。  気が抜けて、ほっとして、少なくとも十数年被り続けた仮面を外して、素の自分を持て余していたというだけのこと。  落差に、戸惑っていたというだけのこと。  なんのことはない。つまるところリザ・ブレンナーは、この少女が重荷だったのだ。六十年前の時と同じく、直視したくなかったのだ。  いなくなってくれて安心していた。そのまま自分の知らないところで、事態が勝手に進むといい。  二度と会わず、二度と話さず、何か言うことも言われることも、憎まれることも失望されることも――  何もないまま、終わればいいだなんて、そんなこと。  思いながらも、だけど苦しんでるような葛藤には酔いたくて…… 「なんて、偽善……」  涙が出てくる。 「リザ……?」  訝る玲愛から目を逸らし、テーブルの上に一つだけ残されたグラスを見下ろす。  これが自分の、罪を湛えた聖餐杯。  逃げるなと言われた。しかし強制はしないとも言われた。  どうするべきか。飲むか、それとも飲まないか。  血のように揺れる赤ワインが、真実の葛藤に震えるリザの顔を映していた。 「つまり、私の方針は簡単」 クラブで先輩と別れ、ヴィルヘルムを捜すべく櫻井と行動を共にした俺だったが、こいつの案には少なからず驚かされた。 「ここで私と戦えばいい」 そこは、紛れもなくスワスチカの一つである遊園地。すでに深夜なので閉園し、誰一人いない無人の周囲を見回しつつ、そんなことを言ってくる。 正直、意味が分からない。 「なんでそうなるんだよ」 現状、俺の第一目標はヴィルヘルムだ。あいつを捕まえないといけないのに、ここで櫻井とやり合う理由などない。 「おまえの相手は、後でいくらでもしてやるよ。俺はそんな暇じゃないんだ」 櫻井との勝負はいずれ不可避となるだろうが、今はまだその時じゃない。 まずは絶対にヴィルヘルム。そしてすぐさま取って返し、教会にいるだろうヴァレリア・トリファ。 優先するべきはこの二人で、それによって香純らのことも、先輩のことも、何らかの決着を着けられる。その方針を譲る気はない。 櫻井、ルサルカ、そしてシスター……このあたりはそれが済むまで完全無視だ。実際に危険度的にも、神父とヴィルヘルムの方が剣呑な存在だと分かっている。 「だいたい、おまえが俺に協力めいた真似する理由も曖昧すぎて分からないな。ヴィルヘルムに用があるとか言ってたが、結局上手いこと言って、この状況にするのが目的だったんじゃないのか」 「まあ確かに、それも完全には否定できない」 「藤井君とは、決着ついてないものね。白黒つけたい気持ちは、実際あるわよ」 「じゃあ――」 「いいから、聞きなさいよ」 軽く手を上げて制しながら、櫻井は傍らの柵に寄りかかった。 「ベイを舐めちゃ駄目よ。捜し回って簡単に見つけられるような相手じゃないから。一種の猛獣だと思えばいい」 「鼻が利くのよ、あの男。だから見つけるのが上手いし、隠れるのも上手い」 「隠れまわるタイプでもないけどね。それでも捜そうとしたら見つからない。これは私の経験則」 「だったら、誘き寄せるのが一番手っ取り早いでしょう」 「……………」 ヴィルヘルム・エーレンブルグ……あの戦争中毒みたいな野郎を誘い出すため、血と戦いの匂いを派手にばら撒く。 猛獣を狩るならば、追いかけるのではなく罠を張って待つのだと。 「私なりに、これでも気を遣っているのよ。ここなら人目を気にせずすむし、誰も犠牲にならない」 「仮に捜して見つかって、それが病院やタワーだったらどうする気? そんな所で始めるの?」 「出来ないでしょう、あなたには。だから一番やりやすい場所に誘うのよ。それがここ」 この遊園地。確かに〈夜〉《いま》のここならば、余計な巻き添えを増やさずにすむ。 そういう意味で一番適したのは学校だが、たとえ無人であってもあの場所で派手な真似はしたくない。こいつは俺のそういう心情も慮っているのだろうか、あるいは…… 「……………」 いや、そんなことはどうでもいいか。 「つまり、これが最良だって?」 「そう。誰も後悔しないですみそうな道」 「ここで俺とおまえが戦って」 「嗅ぎつけたベイが乱入してくればよし」 「仮に来なくても」 「私達の決着はつけられる」 まあ、そんな理屈は立つわけだ。 「俺としちゃあ、余計な消耗をしたくないんだけどな」 ヴィルヘルムとは万全な状態でいかないとやばい。あいつを舐めるなと言われたが、そんなの当たり前に分かっている。 何せ、一番最初に〈黒円卓〉《こいつら》の怖さを俺に叩き込んだのはあの男だ。舐めて掛かれるわけがないだろう。 「あいつが狙い通り来たとして、タイミング的に終わった後だったら最悪だ」 「私に勝つこと前提で話してるのね」 「負けること前提でもの考える奴がいるなら紹介してくれよ」 「それに来なかったとき……」 「空振りした挙句に、四番目が開く。私としてはそうなっても別にいいわよ。ここを自分のものに出来るんだし」 「俺に勝つこと前提かよ」 「負けること前提で話す人はいないんでしょ?」 「実際――」 「ああ、実際――」 櫻井は敵なのだから、全部俺の都合に合わせて動いてくれるなど有り得ない。 こいつにはこいつの理由と目的が存在して、そのために俺を利用しようとしているだけだ。 そして、それはこっちも同じ。片方だけの意見や事情を、完全に優先することは出来ない。 「分かった?」 微笑しながら問う櫻井。なんとも変な流れになってきたのを自覚しながら、俺は深く溜息をついた。 やるしかない。気は進まないが、もはやそうするしかないだろう。 だけど…… 「一つだけ、いいか?」 どう転ぼうと否応ないなら、確認だけはしておきたいと俺は思った。 「なに?」 先ほどから、なんだか妙に機嫌が良さそうに見える櫻井。俺と話すのが悪い気分じゃないと言わんばかりに、戦いを促しながらも口調はどこか穏やかだった。 「何が面白い」 ヴィルヘルムにどんな用があるのか知らないし興味もないが、今のこいつはそれよりも、俺と話すことに意味を見出しているような気がする。 そのわけは? 「だって……」 問いに、櫻井は俯いて、肩を震わせ…… 顔を上げると、笑顔で言った。 「すごく興味あるんだもん」 「――――――ッ」 同時に、音も立てず踏み込んでくる。 「あなたもこれで、私と一緒になったね」 一瞬のうちに形成し、振り下ろしてきた緋色の長剣。真っ向唐竹割りの一撃を咄嗟に受け止めた俺を見据えて、櫻井は言う。 震えるような声。面白くて面白くて仕方ないと言うように。 「自分の彼氏が、自分の彼女が、自分の親が兄弟が、死んでしまったらどうしよう」 それはいつだったか、こいつが俺に言ってきたこと。 「事故でも病気でも殺人でも、何らかの不条理で大事な人を奪われたらどうしよう」 そのときどうするべきだろう。 「泣いたり悲しんだり絶望したり、怒ったり悔しがったり恨んだり……」 それに、俺が以前返した言葉は…… 「俺は生きてる奴のことしか考えない」 「ためと言って、せいにするのはお断り」 そう言った。確かに言った。覚えているし忘れていない。 だけど…… 「また同じこと言ってよ」 櫻井は、その撤回を促していた。今ここで、同じことが言えるのかと。 「言ってみせてよ。ねえ、言えるなら聞かせてよ」 「口先だけの男じゃないって、感心するから証明してよ」 「それがすごく、とてもとても興味ある!」 「………ッ」 死んだ奴は生き返らない。何を引き換えにしようと戻ってこない。 掛け替えがないということは、替えが効かないということ。 だから、たとえ取り戻す手があったとしても、そんな選択をした瞬間にその宝物は塵に堕する。 俺はそう思って、そう信じて、今でも気持ちは変わらないけど…… 「いいから、素直になりなさいよ。恥ずかしがることないじゃない」 どうして俺は、その思いを口にすることが出来ないんだ。 「今の藤井君、素敵よ」 「迷って、困って、怖がって……必死に目を背けてるその顔、可愛い」 「滅茶苦茶にしてやりたくなる!」 櫻井の剣圧を跳ね返せない。昂ぶっているこいつの心がより強大な力を引き出し、俺は完全に気圧されていた。 だけどそれは本当に、櫻井の爆発力が増したからというだけなのか? 単に俺が、燃焼できずにいるというマイナスは存在しないのか? 分からない。分からない。分からないけど―― 「今のあなたなら、仲良くできそう」 俺はこいつらを斃すと誓った。氷室先輩を救うと誓った。 だったら今、こんなところで、膝なんかついていられないだろ―― 「黙れよ、櫻井……」 右腕が熱を持つ。燃える刀身を掴んでいるせいじゃなく、俺の魂が猛りだす。 「おまえらは負け犬だ」 何を失い、何を奪われ、何に絶望したかなど知りたくもない。 だがその傷を埋めるため、悪魔に魂を売ったこと。その時点ですでに人生の敗北者だ。 ラインハルトの奴隷であり、死を想って踊り続ける髑髏の群れでしかないだろう。 それはなんて無様な〈死者の舞踏〉《トーテンタンツ》。 「俺はそんな奴らと同類になんか、なるつもりはない!」 「でも綾瀬さん、死んじゃったじゃない」 「てめえはあいつの死体を見たってのかよッ!?」 信じない。信じない。俺はあいつが死んだなんて、何があろうと信じない。 ゆえに―― 「生き返らせたいなら、手を貸したっていいのよ」 そんな、反吐の出るクソ同盟――天地が入れ替わっても結ぶものか。 結ぶ必要など見当たらない! 「一人でやれ、馬鹿女!」 「じゃあ……」 もういいわよ、とこいつは呟き。 「死んじゃいなさいよ」 「………ッ」 同時に剣が、さらに強く――俺を両断しようと迫ってくる。 だけど無論、そんなものに屈して堪るか。 「後を追わせてあげるから」 「てめえが死ねよッ!」 爆ぜる怒号が衝撃となって、俺達二人を弾き飛ばした。砕け、飛び散る遊具の残骸を足場にして方向転換、同じように体勢を立て直した櫻井と視線が合う。 「可哀想な綾瀬さん」 その目は本物の憐憫と、そして戦意に燃えていた。 自分は自分の望みのために、ここで俺を殺してやると。 「結局あなたも、人命に価値の優劣をつけている。要はこういうことでしょう」 「綾瀬さんは大事だけど、氷室先輩を犠牲にしてまで取り戻したいほど好きじゃない」 「可哀想。ああ、可哀想ね。同じ女として同情する」 「だから詫びなさい、彼女に」 「全員、私が一人残らずハイドリヒ卿の所に送ってあげるわ」 「それが、いいえそれこそが――」 刃を返し、瓦礫を蹴って、俺のもとへ一直線に跳躍しながら―― 「あなた達にとって、きっと一番幸せな結末」 再度振り下ろされる烈火の剣。その斬撃を紙一重で回避しつつ、俺も刃を形成する。 マリィ……彼女もこの事態に、何か思うところがあるのだろうか。 自分のせいだと、自分が悪いと、そう悔やんでいた彼女。 君は今の俺をどう思う? 香純の生死をどう捉える? やっぱり死んだと思ってるのか? 俺はそのことから目を逸らし、櫻井の問いにも真っ直ぐ答えず、切れて暴れてるだけの馬鹿に見えるか? そして先輩……あの人は俺を傷つけたくないと言っていたけど。 ごめん、もう後戻りなんか出来ねえよ。 俺が俺が私が私が――いつまでも言い合ってたってキリがないし。 ただ俺は、彼女を救うために全力を尽くす。そのために、この身がどうなろうと構わない。 たとえ二度と、太陽を拝めないようなモノになっても―― 「おおおおおおおおぉぉォォッ――――」 先輩に死を想わせているこのクソ馬鹿ども、俺が残らず地獄に叩き込んでやる。 それだけは――何があろうとそれだけは、絶対叶えてみせるのだと、強く魂に刻み付けた。 シンクロする罪悪感。我が身を顧みないデタミネーション。 それが今、過去最高に研ぎあげられる刃の鋭さとなっていく。他には何も感じられない。 何も感じられなど――しないんだ!  血の匂い。憤怒の匂い。絶望の匂い。戦いの匂い。  弾け飛び散る戦意と殺意が、花火のように輝き燃える。  そう、彼は待っていた。自ら求めて追えば追うほど、欲するものは手をすり抜けていく定めを背負った身であるゆえに。  比喩ではなく微塵も動かず、呼吸すら止めた状態でその瞬間を待っていた。  その不動心。極限級に徹底した待ちの姿勢。もしも〈狙撃手〉《スナイパー》が彼を見れば、生涯の師と仰いで足下にひれ伏すだろう。  だが、しかし間違いなく彼はこう言うに違いない。 「クソくだらねえ」  そんな選択は本意でないのだ。そんな戦法は軽蔑している。  突撃し、ぶち当たり、引き裂いて血を啜る。彼はそういうものであり、他の道など一顧だにしない。  鮮血に濡れた夜の帳こそ我が王道。月光に映える殺戮の世界こそ我が覇道。  ヴィルヘルム・エーレンブルグは吸血鬼。同じ闇に生きる者であっても、死を盗み取るような愚昧ではない。  死はばら撒くもの。血は飲み尽くすもの。  総ては真紅の夜に君臨し、翼を広げる闇の不死鳥がためにある。  だから、さあ、血の海を創りに行こう。 「くく、ふふふふふ……」  ぎちぎちと音を立てて、その身体から杭が生える。脈打って蠕動し、伸縮を繰り返すそれは紛れもない彼の一部だ。  他の誰にも使えないし、他の誰にも移植できない魔性の薔薇がここにある。  吸って吸って吸い尽くし、喰って喰って喰い尽し、この世を赤い砂漠に変えてやろう。 「ははははははははははははははははははは―――」  哄笑と共に薔薇が飛ぶ。飛んで走ってその場所へ――  〈殺意〉《アイ》で枯れ落ちさせるため、血を吸う鬼が修羅の戦場を求めている。  そう、彼は地上唯一の吸血鬼。夜に無敵と化す魔人ゆえに。  誰であろうとその牙の前――屍骸を晒せ、塵のように。 「まあ、お帰りなさい。座ったら」  二日ぶりに帰ってきた教会で、目当ての人物を見つけた玲愛は、しかし言葉に詰まっていた。 「どうしたの? そんな所に立ちっぱなしじゃ寒いでしょう。こっちに来たら?」  何か、妙にバツが悪い。喩えるなら、親の情事を目撃してしまったような……見てはいけないものを見てしまったような気がするのだ。 「えっと……」 「ヴァレリアのことなら放っておいていいから」  ついさっき、自分と入れ違いで退室していった神父のことを、リザはぞんざいに言ってのける。それが玲愛にとっては、居心地の悪い原因になっていた。 「喧嘩……したの?」 「いいえ。そんな風に見えた?」 「分からない」  実際、彼らが何を話していたかは不明だった。しかし、和やかに談笑していたわけではないだろう。それくらい分かる。  だって彼女は目に見えて…… 「泣いてた……よね?」  今もその目は微かに潤み、涙の跡を残している。これで何もなかったなどと言われても、信じる者は誰もおるまい。  リザはそれに、苦笑しながら小さく頷く。 「ええ、そうね。泣いてたわ。家出娘が戻ってきたんだもの。当然でしょう。私は今まで、あまりうるさいことを言ってこなかったけど、それはあなたが特に問題を起こさなかったから。 少し物足りなくもあったけど、さすがに遅すぎる反抗期にはびっくりしたわ。正直、どうしようかと思って…… 何が起きたのかと思って……色々、考えちゃったじゃない」 「……ごめんなさい」  嘘だ。そう思いながらも、玲愛は頭を下げていた。リザの声音が、予想外に憔悴していたせいかもしれない。  いや、それは自分もか? 「あのね、正直あまり、時間がないの。 用だけ済ませたら、私はまた出て行くから」 「そんなにここにはいたくない?」 「そういうわけじゃあ、ないけど……」  この場にいたくないと言うより、別の場所が気になっている。  蓮と螢がヴィルヘルムを捜しに行った。あの二人はどう見ても相性悪いし、どんな方法で目的を果たすつもりか知らないけど、放っておいたら高確率で喧嘩になるだろう。間違いない。  だからそうなってしまう前に、否応なく彼らが協力するような状況を生む種は撒いた。しかしそれでも、蓮の安全が確定するわけではないし、結果がどう転ぶか分からない。  すでに一度、致命的な読み違いを犯している。もとよりこの手の計算紛いに自信なんか持っていないし、不安と常に戦っている状態なのだ。焦ってはいけないと分かっているが、急がなくてはならないだろう。  冷静に、それでいて迅速に。かつ効果的な選択を続けて選び、進めること。我ながら無茶な注文だと思うけれど、泣き言は言ってられない。こうして迷っている時間こそが、何より最大の無駄だから。 「もう今更、面倒なお芝居しなくていいから、本音で話そうよリザ。 私、いつまでも子供じゃないよ」  氷室玲愛にとってのリザ・ブレンナーは、互いにもっとも近い間柄で、同時にもっとも壁を隔てた相手でもある。 「今まで一番話した回数が多いのはリザ。 一番付き合いが長いのもリザ」 「私のことをたぶん一番知っていて、私が一番知らないのは、きっとリザ」  藤井君は、綾瀬さんは、遊佐君はこういう人。至極簡単に説明できる。  螢もヴィルヘルムもルサルカも、そして神父もそこは同じだ。あれらはああいうモノだと分かる。  だけどこのシスターは? 今までずっと十数年、一緒にくらして一緒にすごして、リザ・ブレンナーという女性のことはきっと一割だって分かっていない。 「今みたいな日が来ること、これまで何も話さなかったよね。 始まる前も、始まった後も、リザはリザのままだったよね」  騙しているつもりはないだろうし、騙せている気もないだろう。そういう次元の問題ではなく、彼女は自分がそうしたいからそうしているだけなのだ。  言わば趣味か、もしくは逃避か。  真相は分からないが、確実に言えるのはこういうことだ。 「リザは私に一番近くて、一番遠い人」  だから一番知る余地があるのは、この彼女だという結論になる。  そこに踏み込むことが出来たなら、局面を打開する何かを見つけ出せるかもしれない。玲愛は半ば祈る気持ちで、その一点に賭けていた。 「座ったら?」  それにリザは、感情の篭らない声で再度着席を促してくる。何も感じていないのか、何かを押し殺そうとしているのか。 「何にせよ、立ち話じゃ落ち着かないわ。だからまず座りなさい。総てはそこから」 「…………」 「座りなさい」  強い口調ではなかったが、抗えない威厳のようなものを感じて、玲愛は渋々従った。ともかく前に進まなければ始まらない。 「で?」  促す尼僧服の存在に、問うべきことを口にする。まず何よりも第一に、訊かねばならぬことは決めていたのだ。 「歳、いくつ?」  その疑問がもっとも根深く、解消することによって連鎖反応を起こせるもの。彼女がどうしようもなく常人ではない証明となり、仮面の裏を覗くためには絶対必要なものだった。 「見た目、二十七、八歳くらいにしか見えないけれど。 知る限り、十年くらいそのまんまだよね」 「答えて」 「…………」  問いに、リザは微かに困ったような顔をして……本当に普通の女性が、不躾な質問に躊躇するような気配を見せて。 「1915年、2月11日生まれ。 だいたい、あなたの五倍くらいの年齢よ」  意外なほど呆気なく、自身の異常さを肯定していた。 「ヴァレリアは、私よりもう少し年上になる。まあ、あなたから見ればどちらも大差ないでしょうけど。 知りたいことは、それだけ? 他には?」 「軍属だったの?」 「ええ、レーベンスボルン機関っていってね、有り体に言えば後方支援みたいなところの出身よ。 国家の血を絶やさないように、子供を産んで、そして育てて……次の時代に送り出す。女なら、誰でもやっていることでしょう。 あなたの生まれは、そこになるわ」 「そう……」  実年齢は九十歳以上。  第三帝国の一員で、今もその暗部に関わっている。  リザの告白はそういう事実を意味していたが、不思議なことに、これといった失望はなかった。むしろある種の安堵さえ感じている。  彼女がこの期に及んで誤魔化すことなく、真っ直ぐ答えてくれたこと。  まだほんの触りだけだが、知らない一面を見せてくれたことにほっとしたのだ。自分の生まれが少々奇異だと知ったところで、今更どうということもない。  そんなものは状況からして、まともじゃ有り得ないと分かっていたから。  今はただ純粋に、この会談が無為に終わらないと確信できたことを喜ぼう。  そして、さらに一歩先へ。そのまた先へと踏み出すために。 「正直なところあなたの前で、こういう話をする気はなかったんだけど。 想定していなかったから……駄目ね、要領を得ない受け答えになるかもしれない」 「別にいいよ」  自分だって、流れるような会話が出来るタイプではない。時間があまりないとはさっき言ったが、端的に纏められすぎても意味がないのだ。 「適当なことを言われて、煙に撒かれたくないし。ちゃんと自分の言葉で話してくれるならそれでいいよ」 「口が上手すぎる人は、ちょっと苦手」 「ああ、誰のことを言っているのか分かるわね」 「あの人は何処に?」 「さあ? でも、いたって邪魔臭いだけでしょう。彼がいたら、私達が喋る暇なんてなくなるわ」 「口、達者だもんね」 「ええ、本当に」  今頃くしゃみでもしているかもしれない神父の顔を思い浮かべて、肩の力が幾分抜けたのを自覚した。しかし反面リザの声は、心なしかまだ硬い。  それで、続く問いもすんなり出てきた。 「リザは、私が怖いの?」 「あなたがと言うより、この状況がね。言ったでしょう。想定外なの 実際、少し逃げ出したいわ。苦手なのよ、真っ直ぐに見られるのが」 「ねえ、私天井向いて喋っていい?」 「駄目」  と言ったが、しかしそれも当然か。彼女の心情を慮れば、バツが悪いどころではないだろう。 「私に死んでほしいと思ってる人が、情けないこと言わないで。どうせなら、もっとこう、鬼ばばあみたいな感じになってくれるとやりやすい」 「それとも、そういうの作戦?」 「違うわよ」  参ったわねと自嘲するリザ。どうも本気で困っているらしい。  では、どうするべきか。少し考えてから玲愛は言った。 「ちょっと好きに喋ってみてよ。私、基本黙ってるから、色々話してくれると助かるな」 「色々って?」 「色々は色々だよ。いつ、何処で、何があって、どうして……今のリザになった経緯。動機とか、諸々。 あんまり好きな言葉じゃないけど、私には知る権利があるって思わない?」 「まあ、ね……」 「じゃあ、話して」  促され、リザは宙を仰いで溜息をつく。何から話したものだろうかと、思案しているような様子だった。 「まさか、昔すぎて忘れちゃってるわけじゃないよね?」 「それこそ、まさかよ」 「何年経っても、忘れられないことはある。ただ、そうね。その前に一つ訊きたい。 玲愛は、そう……私達の目的っていうか、黄金錬成の意味を分かってるの?」 「マレウスから聞いてる」 「あの拡声器」 「でも、それとは別に何となくだけど分かってたよ。特にこの一週間くらいで、妙な気分になることがあるの」 「妙って?」 「私が私じゃないような」  自分の目と耳を通して、誰かが見聞きしているような。  翻して、自分が誰かの記憶を見ているような。  二重に重なっていくような感覚。  リザは、その答えに一瞬だけ表情を固まらせていた。 「心当たりがあるんだね」  頷く彼女に、玲愛は今の自分が分かっていることを口にした。 「黄金とは不滅のこと。つまり、死なない生き物になること。 そして、死んだ人を生き返らせること」  それが、今この街で屍を積み上げている者らの、最終的な目的だ。 「リザはたぶん、後者かな? 櫻井さんなんかも同じっぽい。とにかくあなた達はそれが欲しくて、色々やってる。 要は、交換なんでしょう? 返して欲しい誰かがいるから、代わりに捧げるものが要る。 リザが誰をっていうのはひとまず置いて、とにかく天秤なんだよね。欲しいものがとても重たいから、釣り合うように積み上げる。私はその生贄の一つで……」  すなわち、玲愛の命はリザが欲するものに比べて軽いということ。でなくばこんな取引は成立しない。 「等価交換、って言うのよ」  人命という同じ括りにできるものでも、その軽重は主観で異なる。 「分かるよ。私も藤井君が助かるなら、みんな死んじゃえばいいと思う」 「だから家出? マレウスに唆されたわね。あれは性質悪いわよ」 「リザも人のこと言えないじゃない」 「ごもっとも」  そうした彼女の〈諧謔〉《かいぎゃく》も、総ては取り落としたものを再び掬い上げるためなのか。 「私、リザが間違ってるとか言う気はないよ。気持ち、分かるもの。頭から否定したりなんか、できないもの」  やり直せるならやり直したい。犠牲を払って取り戻せるならそうしたい。  よく分かる。痛いほど分かる。今や他人事じゃないのだから、眠たい綺麗事なんか通用しないと骨身に沁みるほど理解できる。 「だから教えて。どうして――」  この人は、いったい何を失ったのか。  何を取り返そうとしているのか。  その、切実な問いに…… 「……初めはね、単につまらない意地だったのよ」  ぽつぽつと、まるで独白するように、リザは己の過去を語り始めた。 「もう七十年以上前になる。私が今のあなたと同じくらいの年頃で、まあ要するに学生みたいなものだった時、なんだか無視できない友達がいてね」 「友達?」 「そう。とは言っても、あなたにとっての藤井君とか綾瀬さんとか、そういう関係じゃなかったわよ。あれはもっとこう、何て言うのかな。 犬猿? 腐れ縁? いいや違うな。喧嘩した記憶しかないんだけど、お互いにいなくなると張りがなくなるみたいな……」 「強敵と書いて友?」 「ああ、それ面白い表現ね。そんな感じに近いかもしれない」  過去を懐かしむように、リザは目を細めてそう漏らす。その表情は意外なほど幼く見えて、彼女の黄金期はその時だったのかもしれないと玲愛は思った。 「とにかく、その友達とは喧嘩ばかりでね。何かにつけて争ったと思う。それこそ、どっちが早起き出来るかなんてことまで…… 終いには彼女、丸五日くらい不眠不休になっちゃって、それでも日々の課題は完璧にこなしてて、どうだ貴様とは鍛え方が違うのだ、とかね。さすがにこれは頭がおかしい人だと呆れたわよ」 「私は、そんな彼女が苦手だったけど、芯から嫌いなわけでもなくて……たぶん、負けたくなかったんだろうなぁ。単純なライバル心ともちょっと違って、ただ競い合いを続けたかったと言うか。 くだらないことで、いつまでも争う日々が悪くなかった。……うん、それを続けていたいと思ったのよ。 だから私は、彼女と常に並ばないといけない。引き離されたら、競えないから…… 走って、走って、お互い子供じゃなくなって……気付けば、遊びじゃすまされないところに足を踏み入れてしまっていた」 「それが……」 「ええ、想像の通り」  当時のドイツ、そして当時の世界状況。玲愛にとっては教科書でしか知ることの出来ない環境だが、まるで想像不可能なわけでもない。  学生が二人いて、互いに負けたくないと切磋して、走り続けた末に得られるのは優秀という二文字だ。社会はそうした者らを放っておかない。  ゆえに競い合いの場は変わる。より高みへ、より中枢へ、後戻りできない重責を負い、止まることのできないモノへと変わらざるを得なくなる。 「実際、戦争も始まったしね。言い訳をするつもりはないんだけど、自分に出来ることをやらないわけにはいかないでしょう。立場があり、責任がある。 国が勝とうが負けようが、自分に迷惑が掛からなければどうでもいいよって……そういう考え、当時もあるにはあったけど、だいぶ理解の範疇を超えていたわね。少なくとも、私の知ってる常識的には有り得ないこと。 そのあたり、この国の現代っ子なら少しは分かったりするのかな?」 「ううん」  玲愛にも、そういうことは分からない。たまたまこの国に生まれて、この社会に生きてきたというだけで、自分はそれに隷属しているわけではないという意見もあるようだけど。  それは、歴史の概念を知らない人の浅はかな考えだ。受け継いできた文化も、そして伝統も、みんな合わさって自分というものの骨格を作っている。亡国とは、それらが消滅する事態に他ならない。 「説得力ないかもしれないけど、リザが国を? 守ろうって思った気持ち、分かるよ。友達もそうだったの?」 「ええ。彼女は軍人になったわね。凄い速度で力をつけていった。もはや国民的にもちょっとした有名人よ。確かに映えるからね、戦乙女っていうのは。 そしてそうなれば、その後に続こうって子達も当然出る」 「女の子の軍隊?」 「今では珍しくないようだけどね。それでも基本、前線に出るようなことはあまりないでしょう。だから当時としては、本当に稀有」 「ちゃんと育てるシステムも怪しいし、周囲の理解なんか無いに等しい。ジェンダーフリーもいいけれど、適材適所の意味を履き違えちゃ駄目よ。 そういう意味で、例の友達はまさに能力的な適材適所を体現していたわけだけど、他の子達はどうなると思う?」  問われ、玲愛は考える。率直な印象として、かなり厳しいのではないだろうか。 「なんだか、すごく邪魔者扱いされそうだね」 「それですめばいいけどね」  戦場に出るということは殺し合いをするということ。そしてその適性に不安があるということは、殺される確率が高いということ。 「女が、戦場に出て、銃弾を食らい、殺される。それが愛国? 冗談じゃない。〈女〉《わたし》達には、〈女〉《わたし》達にしか出来ないことがあるでしょう。なぜそれをしない。戦う場所を間違えるな。 ――とね、若い私は思ったわけよ」  ああ、つまりなるほど。そういうことかと玲愛は思った。  この人は、それで極限の果てまで友達と競い合うしか出来なくなった。 「彼女はいい。あれは確かに、その役にしか立たないような人だもの。常識外れの才能と、それを錆びつかせない克己心の相乗作用で、他の生き方を潰してしまったのは惜しいけれど」  リザと同じく、全速力で駆け抜けたから戻れなくなっただけ。 「だから彼女のことは否定しない。だけど他の子が後に続くのは駄目。 あれほどの才能にあれほどの努力、兼ね備えた子が早々出るわけないでしょう。勘違いをさせちゃいけないし、それをお節介と言えるほど優雅な状況でもない」 「まるで政治家の票集めだね」 「そうね。その通りだったかもしれない」  どちらが、より多く同性の支持を得られるか。その勝負から、リザは降りられなくなったのだ。  何よりも、自分が信じる愛国の精神のために。 「私は、彼女に勝たなければいけなかったの」  自嘲と言うには擦れすぎた笑みを浮かべて、リザは呟く。総ての発端は、そんな意地にすぎなかったのだと。  そして、玲愛もここまでのやり取りで分かっていた。 「その友達っていうのは……」 「ええ、いるわよ。今でもね」  黒円卓に、リザの同窓生が今も変わらず在籍している。  当然、螢ではないだろう。ルサルカも絶対違う。  では…… 「エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ……ハイドリヒ卿の近衛よ。いずれあなたも、彼女と対面することになるかもしれない。 あれは確か、1939年の今頃だったかな。 その日私達は、ハイドリヒ卿に出会った」  そして彼女ら二人の勝負は、さらに破滅的な階層へと上がっていった。 「エレオノーレは桁違いに強くなっていく」  ゆえに追わなければ、追わなければ。負けてはいけない。国のために。  人でなくなる領域にまで上がっていく。 「私がいたレーベンスボルンは、言ったと思うけど次世代の子供たちを育むのが目的。ええ、たくさん育てたわよ。百発百中の神経衰弱が出来る子とか、ボールを坂の下から上に転がせられる子とかをね。 そしてみんな、私の育て方が悪くて死んじゃった」 「…………」  サイキック・チルドレン――玲愛も知らないわけではない。軍隊にも少年兵がいるように、およそ技術と呼べる総てのものは、より早い段階で開発するほど絶大な効果を発揮する。  まだ頭が柔らかく、固定観念や常識の希薄な幼児のうちに、ある種のリミッターを解除すること。コップを持ち上げるのに手など必要ないと教え込めば、疑うことを知らない子供は信じてしまう。信じて、そして実現させる。  もっとも、それは常人が使用していない〈識域〉《チャンネル》を開くことに他ならず、度を越えればオーバーヒートだ。火事場の力を発揮すれば筋肉が断裂するのと同じように、脳を酷使すれば廃人、もしくは死に至る。 「ひどい矛盾……」  女として国につくす道を選び、その証明として子供を育ててきた彼女。  だけど結果は、リザ・ブレンナーを稀代の毒婦に変えたのだ。世に彼女ほど、子供を殺した女はおるまい。 「それがあなたの後悔?」 「ええ、それが私の罪」  かつて火にくべた子供達を救いたい。それがリザ・ブレンナーの欲する願い。玲愛を交換条件として捧げても、狂おしく叶えたいと祈る望みだ。 「そっか。分かった、そうなんだ」  ゆえに当然、もう一つの矛盾にも気付いていた。 「私は、リザの孫か曾孫なんだね」 「……………」  沈黙は、肯定を意味するのだろう。玲愛は続ける。 「数は聞きたくないけれど、何人も何人もリザは殺した」  いっぱい、いっぱい子供を殺した。 「それを償おうっていうのに、〈子供〉《わたし》を殺しちゃったら矛盾だよ。だから少なくともリザにとっては、そのことが贖罪にならないといけない」  他人の子供を数多殺した罪の清算。それを成すのにも殺しが要るなら、身を切る選択しか有り得まい。  すなわち、己が血族を切り捨てること。痛みを罰として受け止めること。  ああ、だとしたら、なんて不器用で生真面目で、色々もったいない人なんだろう。 「大変だったんだね。うん……リザのこと、よく分かったよ」  そのとき玲愛が浮かべたのは、透き通るような儚い笑み。 「嫌なこと話させてごめんなさい。だからもう、そんなに自分を責めないで、お祖母ちゃん」  リザは、それを直視することが出来なかった。 「やめてよ……!」  泣き叫ぶような声になる。椅子から立ち上がって蹌踉めいて、玲愛の視線を避けるように顔を伏せるが、零れる涙を隠せない。 「意地、悪い子ね……そんな、心にもないこと……」  鬼のような女だと普通は思う。あるいは救いようのない馬鹿者か。何にせよそうした非難や軽蔑なら、リザは覚悟していたし受け止めたろう。  だが、だがしかし、これは何だ? 「つまらないお芝居は、もうやめようって言ったじゃない。なのにあなた、それ卑怯よ」 「なにが?」 「死ぬ気なんか、ないくせに……」  そんな、殉教する聖人みたいな顔をして、悪魔に魂を売った者を哀れむ。 「本当、誰に似たのかしら。私も結構、面の皮は厚いつもりだったけど……あなたはちょっと、女優すぎるわ。 狙い通り、すごいダメージ……受けちゃったじゃない」 「そんなつもりはないし、言ったことは本音だよ。 ねえリザ、私よく分かんないんだけど……」  本当に、本当に、心から首を傾げて、玲愛は目の前の尼僧に言った。 「私が死んであげないってことと、あなたを嫌いになれないってこと、どうして両立させちゃいけないの?」 「―――――」 「頭固いんだから」  そんなだからつまらない失敗をする。視野が狭くなって意固地になる。  1か0しかないような、そういう考え方は好きじゃない。 「仮にも〈尼僧服〉《そんなの》着てるなら、もっと前向きになればいいのにね」  でないと人の悩みなんか聞けないでしょ、と言う玲愛に。 「……あなたが、能天気なだけなのよ」  リザは、疲れた声でそう返していた。 「だって、勘違いしてるもの。私はもっと、ドロドロした女よ」 「自分でそんなこと言う人、信じられないよ」 「あなたに兄弟か姉妹がいると言っても?」  不意を突かれたその言葉に、玲愛は一瞬放心した。 「え……?」  兄弟? 姉妹? なんだそれは? 「私の子供の話よ。双子でね、イザークとヨハン」 「ヨハン……」  そうだ。そういえばその名についても、質問しなければならなかった。 「あなたはイザークの孫よ、玲愛」 「分かるかしら? つまり私は、同じ自分の息子を天秤にかけたのよ。要る方と要らない方、役に立つ方と立たない方、そして愛せない方と愛せる方。 前者はイザーク、後者はヨハン。 だからね、贖罪がどうとか大外れよ。あなたを捧げる痛みを罰にするとか、実は全然思ってない。 力があるのはイザークだった。父親に似ていたのもイザークだった。適性があるのは彼の方で、だから私は愛せない。これなら捧げても構わないって、冷めた思考で選んだのよ。切り捨てても痛くない方の子供をね。 そしてそれが、あなたの血筋。 これでもまだ、私を嫌いになれないとか言える?」  ヨハンは生きている。  神父に聞き、ルサルカが態度を変えた言葉の意味は、つまりそういうことなのか。  自分の他にもう一人、生贄の血筋が存在すること。 「じゃあリザは……」 「ええ、ヨハンだけ逃がしたわ。死んだということにして、その後は一切会ってないし行方も知らない。 でも、きっと何処かでその血筋は生きてるでしょうね。こんな酷い話に巻き込まれないまま、安全に、平穏に。 あなたみたいな目に遭わないように」  だから憎んで。力の限り罵倒して。リザがそう叫んでいるように玲愛は見えた。  そうじゃないと、そうしてくれないと……あなたを捨てられなくなりそうだから、と。 「そう、良かった。リザもちゃんとお母さんだったんだね」 「――――――」  予想外の――少なくともリザにとってはそうだろう返しを受けて、彼女は絶句してしまった。  しかし、玲愛にとってはそうじゃない。  偽悪的な態度はべたべたすぎて、ちっとも胸に響かないのだ。むしろ彼女が悪ぶれば悪ぶるほど、泣いている子供みたいに見えてしまう。 「やめようよ、もう。すごくそういうの似合ってない」 「あなたは……本当におかしな子ね」  憔悴したように壁にもたれて、しかし何処か可笑しげに、リザは肩を震わせる。 「そんなお人好しな性格でもないでしょうに」 「うん。でもいいこと聞いて、少し希望が見えてきたから」  何を、と問うリザに、玲愛は両手を胸に当てて、結構重要なことを口にした。 「そのうちおっぱい大きくなるかもしれない」 「……………」 「リザが私の曾お祖母ちゃん? ていうことは、ここに無限のポテンシャルが詰まってる可能性があると思うの。ねえ、実際まだ成長期だよね?」 「……………」 「リザがそんなけしからん感じに育ったのは、何歳くらいのとき?」 「……………」 「ねえ?」  どうも思考が正常に戻ってくるまで、十数秒を時を要したらしく。 「聞かない方が、いいと思うわ」  ようやくそれだけ言ったリザは、耐え切れずに笑い出した。 「ふふ、はははは、あははははははは」  まるで何十年もそうした行為を忘れていたかのような、屈託のない笑い声。玲愛は拗ねた様子でそんな彼女を睨んでいるが、当の本人は込みあがる発作に身を任せて、腹を押さえながら震えている。 「そうか、ふふふ……なるほどね。玲愛にとっては、それが一番……問題、なんだ……ぷふふ」 「……まあ、Bカップじゃ物足りないような態度を前に取られたから」 「藤井君が? そんなことを? あなたの被害妄想でしょう」  そのままひとしきり笑った後、リザは目元を拭ってなんとか呼吸を整えている。玲愛としては別に受けを狙ったわけでもないのだが、こうまで面白がってもらえるのならそう悪い気もしない。  問いの答えは、少々どころじゃなく残念ではあったけど。 「ねえ玲愛。それであなたは結局、どうしたいの?」  憮然とそっぽを向いていたら、仮面ではない柔和な笑みでリザがそう訊いてきた。  答えは、無論決まっている。 「言ったでしょう。藤井君を助けたいだけ」  死なせたくないだけで、傷つけたくないだけだ。 「でも私、喧嘩とか出来ないし……やれることって言ったら一つだけで」 「私達を争わせて自滅を狙う……か。それでマレウスね。いい目の着けどころよ。あれはそういうのが好きだから。 他人の足を引っ張って喜ぶ。競争相手を罠にかけて引きずり下ろすのは、実際彼女の十八番。 あなたのシナリオだと、私は誰に殺される予定なの?」 「そこまで考えてないよ。ていうか、今までの話の流れでどうしてそういうことになるのよ」  玲愛はリザのことを嫌いになれない。かといってすんなり生贄になる気もない。だったら言えるのは一つだけだ。 「味方になってよ。私達に手を貸してほしい」 「つまり私に、諦めろって」 「そういうんじゃない」  善悪や道徳を論じる気は無く、命乞いをしたいわけでもない。  ただ純粋に、単純に、自分の中にある〈記憶〉《これまで》を大事にしたいと思っているだけ。 「今まで、結構楽しかったよ」  友人のように、姉妹のように、母娘のように、ずっと一緒にすごしてきて、ずっと一緒にいられると思って。  それがいきなりもうお終いって、じゃあしょうがないと思えるわけがないだろう。 「なんだか、色々酷いことになってるけどさ…… 今が来るまでのこれまでが、無くなったわけじゃないじゃない」 「全部茶番だったとしても?」 「茶番だったらいけないの?」  嘘だから。演技だから。計算だから何だと言う。それで何が壊れると言う。 「言ったでしょ。楽しかったって」  そのことだけは、変わらない。リザ・ブレンナーのこれまでが、自分のこれまでを幸あるものにしてくれたこと。彼女の思惑がどうであれ、自分が感じたことは微塵たりとも変わらないのだ。  楽しかった。寂しくなかった。それは絶対に揺るがない真実。 「リザはどうだったの?」  内心面倒臭いと思いながら、早く死ねばいいのにと鬱屈した気持ちを抱えていたのか? 「答えて」  問いに、リザは何も言わない。ただその視線が、なぜかテーブルのワイングラスに注がれているのが奇妙と言えば奇妙だった。  張り詰めたような静寂は、時間にして十数秒。  ぽつりと、呆れたようにリザは言った。 「結局、最後は泣き落としか。あなたはあまり、策士に向いてるタイプじゃないわね」 「正直だって言ってよ」 「ええ、本当に……」  先の問いへの返答はまだない。 「玲愛、交渉の基本はね。相手を翻意させる条件を出すことなの。私が望みを捨てる代わりに、あなたは何かくれるというの?」 「私の子供を一番最初に抱かせてあげる。 名前も決めてよ。そして今度こそちゃんと愛して」 「それはまた……」  すごく当てにならない皮算用だと、リザは呟く。 「相手は藤井君?」 「その予定だけど」 「なんで彼のことがそんなにいいの?」 「なんでって、言われても……」  正直、よく分からない。  顔が可愛いとか、性格がほっとけないとか、確かに色々あるけれど。  否応なく惹かれるこの気持ちは説明できない。 「私はね、少しそれが気になるし怖い」 「怖い?」  いったいどういう意味だろう。訝る玲愛と目を合わせず、リザは変わらずワイングラスを見つめている。  そして、 「私ね、死体を操れるのよ」  いきなりそんな、何の関係もないようなことを言い出した。 「ここで実演する気はないけれど、まあとにかくそういうことが出来ると思って。いつも死人のことばかり考えてたから、一種の業みたいなものなんでしょうね」  死人を愛す。死を覆したい。戦禍に散っていく同胞も、日々壊れていく祖国のことも、そして自分が潰していった子供らのことも。 「翻せば、死にゆくモノしか愛せない。死体を抱きしめることに安らぎを覚え、救われる。 〈死化粧師〉《エンバーマー》……おまえはそういう者だろうと、指摘した男が昔いた」  声は、微かに震えている。恥辱のようで怒りのようで、その矛先は彼女自身へと向いていた。 「否定できない自分のことが、許せなかったわね。かなり嫌な男だったけど、彼の言うことはいつも恐ろしいほど的確だった」 「ねえ玲愛、そんな私みたいな女が、普通に恋をして結婚して、子供なんか産めると思う? イザークとヨハンの父親は、血の通った人間だったと思う?」 「…………」  玲愛は、何も答えられない。話が完全に脱線しているようでいて、しかし聞き逃すことも半畳を入れることも出来ない。  直感的に悟っていたのだ。これはひどく重要で、何かの核心に触れる話なのだと。 「私は死人しか愛せない」  おまえは死体しか抱くことが出来ない。 「ならば、そう、近々極上の死体が生まれる。 そう言われてね、実行したのが1942年、六月の出来事。 これは当の本人も知らない」  リザの言いようは、少なからず奇妙だった。  死体を操れると言った彼女。死体しか抱けないと言った彼女。  ゆえにイザークとヨハンの父親は死人であると言ったのに、まるでその相手が今も生きているような…… 「イザークは、普通の五倍くらい成長が早かった。 お腹の中にいる時もね、二ヶ月ちょっとで産まれたわよ。 黄金錬成に関わる五色……中核の〈翠化〉《グリューン》を創れず焦っていた私に、カール・クラフトが道を示してからちょうどきっかり一年後。 成果は出たわ。そして同時に後悔した」  自分の歩いてきた道を振り返ることになったから。  望んだモノの誕生が、望み通りの怪物として生まれたから。 「私が望んでいたのはこれか」  血を吐くような声で言う。 「こんな父親とそっくりなものが……」  悪魔に魂を売った事実を痛感させる罪の結晶。 「それで後は話した通り、私はイザークを切り捨てたけど。 ねえ、分かるでしょう。見えてきたでしょう。 私が、何を恐れているのか」 「じゃあ……」  知らず、玲愛は口を押さえて呻いていた。 「彼とカール・クラフトは、異様なほど惹かれ合っていた。 そしてあなたは、藤井君に惹かれている」  だから恐ろしい。その事実に因果を感じずにはいられなくて、リザは戦慄を覚えている。 「それでも言える?」  藤井蓮が好きだと誇れる? 「自分の気持ちは自分のものだと、強くあなたは断言できる?」  自分たちのような人生の敗北者に、眩しいと思える意志の輝きを見せられるのかと。 「その血に負けず、死を想わずにいられるの?」 「――関係ない!」  強くテーブルの上を叩いて、玲愛は立ち上がっていた。 「私の気持ちは私のものだよ。茶番の何が悪いって言ったじゃない! リザがどういう気持ちで接していても、なんで藤井君が好きなのか分からなくても――私が感じてる〈真実〉《ほんとう》のことは〈胸〉《ここ》にあるもん! リザと違って薄いから、いつでもしっかり分かってる!」 「またその話なの」 「BにはBの良さがあるって、藤井君に教え込むから気にしないことにした」  しょせん身体的なことなどは、何の障害にもなりはしないと宣言する。 「私の血筋がどうだとか、それは確かにショックだけど。 そんなの、結局、おっぱい大きいとか小さいとかと変わらない問題だよ。 むしろ私、ロミオとジュリエットみたいで燃えてきたね!」  叫ぶ玲愛の返答には、多分の虚勢も入っていた。こんな事実を聞かされて、平常心を保てる者がいるはずなどない。  実際、彼女は激しているし、今にもアイデンティティが崩壊しそうな瞬間で…… 「藤井君にも、選ぶ権利はあるんじゃない?」 「うるさいな。私がお婿さんにするって決めたんだからそれでいいの!」  再度テーブルを強く叩き、ワイングラスが倒れかかる。リザはそれを受け止めていた。 「ねえ、だからいい加減に答えてよ。リザは私といてどうだったの?」 「…………」  返答は、返答は……今も易々とは帰ってこない。  だが、リザは玲愛を見つめている。今度は逃げずに、正面から、震える瞳に向けられたまま揺るがない。  逸らすことは簡単だろう。危うい均衡で立っている玲愛を壊すのも簡単だろう。  どれだけ気丈に振舞おうと、しょせん彼女はまだ子供だ。曲がりなりにも地獄を見知っているリザからすれば、文字通り赤子同然に捻られるはず。  なぜなら、子供殺しこそリザ・ブレンナーの真骨頂。他の追随を許さない。  だけど…… 「そうね……」  少しだけ、本当に少しだけ彼女は照れたような顔をして。 「ええ。これでなかなか、楽しかったわよ」  満面の笑みを浮かべるとワインを飲み干し、そしてグラスを叩き壊した。 「――カイン!」  同時に、裂帛の気合いを乗せた大音声。それに呼応するかのごとく、地震のような轟音と共に教会全体が激震する。壁と床に亀裂が走り、天井が崩落して瓦礫の雨が降り注いだ。 「ちょ――」 「安心なさい。別に不吉なものじゃないわ」  いきなりの異変に当惑する玲愛とは対照的に、女帝のごとき傲岸さでリザは虚空を見上げていた。まるでその空の向こう、見えない何かに宣戦を布告するように。 「仮にも〈尼僧服〉《こんなもの》を着ているなら、か。そうね、本当にその通り。 私の子供達が安らかに眠れるよう、原因を取り除かなければいけないか」  肩にまわされた手は力強く、そしてどこまでも柔らかい。玲愛の視界に映ったのは、凛々しいけれど暖かな、母親としての顔だった。  その包容力。その慈愛。わけも分からず泣きたくなる。  ああ、きっと、これで安心。 「大丈夫よ、玲愛。私達が守ってあげる」  その言葉も、その意味も、一人称が複数形になっていることも―― 「そうでしょう、ヴァレリア。私も今、目が覚めたわ」  嬉しくて面映くて、万軍を得たに等しい安堵が込み上げてくる。 「ええ、そうですね。もはやこうなっては後に退けぬ」  彼も同じく、虚空を見上げ呟いていた。闇色の天蓋を見透かして、その奥に蠢くモノらを睨んで言う。 「待っていなさい、我が愛児たちよ。必ずそこから救いましょう」  亀裂が入る頬も、二度と裏返らない碧眼も、彼が彼として彼であることを誓った証。  今や壊れかけた渇望は、しかし同時に祝福だった。 「あなたも付き合いなさい、マレウス。結果論ですが、この状況を作ったのはあなただ」  わざと足を引かれてやったことで、彼は真の白鳥へと生まれ変わる道を見つけたのだから。 「なに……?」  病院を影の海に呑み込んだルサルカは、しかし不吉な気配に宙を仰いだ。 「これは……」  何かそう、凄まじいものがこの空を突き破って現れようとしている。  たった今、第四が開いたことによる場の変質などでは断じてない。 「まさか、まさか……」  知っている。知りつくしている。  戦下のベルリンを喰らいつくして異空へ消えた地獄そのもの。数百万の戦鬼で煮えたぎったヴェルトールが降りてくるのだ。  その殺意。その歓喜。降り注ぐ破壊の覇道―― 「そうか……なんだ、そうなんだ」  あれは総てを呑み込む気でいる。つまり黄金錬成とはそういうもので…… 「馬鹿みたい、わたし……あはははははははは」  なぜ気付かなかったのだろう。そんなの当たり前のことなのに。 「そりゃそうよねえ。ハイドリヒ卿から見れば総ては餌か」  ああ、だから等しく殺し合えと?  永遠に? 永劫に?  横並び手を取り合って踊り続ける亡者になれと? 「―――ふざけるなッ!」  虚空を睨み、声を枯らしてルサルカは絶叫した。 「わたしは、もう二度と引きずり込まれたりなんかしない!」  それをやるのは自分だけだ。二度と二度と、二度と汚泥に沈んだりしない。 「あなた達には翼があるからいいでしょうよ! 先へ先へ、前へ前へ――そうよね、地面なんか見やしない!」  地を這うモノの歩みなんて一顧だにせず、高みで翼を広げて飛び、その影で覆いつくそうという〈黄金の神鳥〉《グリンカムビ》――  天の星として生まれた者らに、地星の気持ちなんて分かるわけない。 「分かって――たまるものですかッ!」  その輝きに魅せられた。その光に恋焦がれた。歩みの遅い自分は無駄に年月だけを重ねてしまい、あらゆる意味で翼持つ者たちに追いつけない。 「だから――」  そう、だから―― 「わたし、こんなところで死ねない!」  いつの日か、果てしなく先へ行ってしまった者に追いつけるよう―― 「みんな止まってしまえばいいと思って、足を引くのよ!」  だからお願い。何処にも辿り着けないなんて……言わないで。 「――重畳」  心臓の音が聞こえる。脈打つ血の流れが分かる。湧き返る鬨の声が彼の世界を震わせる。 「〈愛〉《かな》しきいと小さき者ども。その哀絶、その悲憤、そして閃光のような情熱よ。ああ、甘いぞ。卿ら英雄の資格あり。〈怒りの日〉《ディエス・イレ》の尖兵たるに相応しい」 「なあ、そうであろう、イザーク」  黄金は笑い続ける。微細なる者らの足掻きが愛しくてたまらない。  そうだ、何も、何一つとして、理は歪んでいない。  原理が単純であろうと複雑であろうと、そこには必ず一定の法則が存在するのだ。 「死を想え」 “あちら側”の扉が開かぬというのなら、“こちら側”からこじ開けるのみ。 なぜなら―― 「待っててイザーク……あなたも抱いてあげるから」  死人しか抱けぬ女がそう思っている。 「その人も、救わないといけない」  死体と〈褥〉《しとね》を共にして、創造された胤がほざく。 「滑稽」  滑稽――愚かなり。 「母様……」  私を抱くと? あなたが言うか? なるほどよく理解した。 「ならば私は死である」  想え、私を。  遍く総て、このヴェルトールに呑み込んでくれよう。 「ゆえに……」  大隊長三人の出陣は第五の開放を要する以上、一人散ってもらわねばならない。 「誰がよいか、イザーク」 「無論、御身の美感に反する者を」  それが誰かは、言うまでもない。 「―――――ぃ」 交戦の最中、突如として櫻井が硬直した。 「え、ぁ……なに…?」 まるで、見えない巨大な手に掴み取られてしまったかのよう。いや、実際俺には見えた。そして感じた。 「なッ……」 空間を突き破り、万を超える髑髏の群れが手の形となって櫻井を鷲掴みにしている光景。それを統率している何者かの、あまりに桁外れな空虚ぶりに戦慄する。 「あ、がッ……あああああああああぁぁぁァァァッ――」 あの拘束は、絶対に解けない。あれに囚われて脱出できる者など存在しない。 櫻井の技量も、意志の強さも、魂の質や総量も関係なく、あれはそういうモノなのだと直感する。 溶かすと、呑み込むと、それだけしか考えていない歯車。 あれはラインハルトの動力そのもの。奴の世界を動かしている心臓なのだ。 「動機は羨望。それによる憎悪。眩しき者を認めようとせず、その堕天に悦を覚え、嗤う極めて卑小な魂、英雄に非ずと私は断ずる。 無論、同種の者も存在するが、彼の者は己が地星であると自覚しており、天星の〈堕墜〉《だつい》を自ら行う気概あり。それこそを渇望とする潔さは賞賛に値しよう。ゆえに城へ招くと決定する。 如かしてこの者、前述の通り卑小なり。爪牙足らず、〈鬣〉《タテガミ》足らず、細胞の一つとして溶けるが相応と思うが如何に?」 「あ、っ……わた、しは……」 頭蓋を揺るがす機械音声じみた声。何を言っているのか分からないし誰に問うているのかも分からない。 だが、何をやろうとしているのかだけは理解できた。 こいつはここで、櫻井を殺す気でいる―― 「私は――」 「私は、あなたに忠誠を誓いました。あなたの下で、あなたを信じて――」 「その報いが、これなのですかハイドリヒ卿!」 「否。否。これこそが祝福。おまえが求める者ら総て、黄金の内に溶けている。総てを呑み込む〈至高天〉《グラズヘイム》こそが救いと知れ。 私は総てを愛している。 ゆえに総てを呑み込み溶かす。 その事実、私を決定する黄金率の前において、総ての者に何ら一切の差異はない。 溶けよ。墜ちて散れよ。〈怒りの日〉《ディエス・イレ》の尖兵たる英雄達の贄となれ」 「―――――――」 話は、そこで終わりだった。 「ねえな」 「――――――ッ!?」 その時、空中から落ちてきたのは杭の嵐―― 「あああああああああああああぁぁぁァァァッ――」 「一番要らねえ奴が最初に切られる。常識じゃねえか。あるわけねえだろ、異存なんてよ」 「ベ、イ……」 ヴィルヘルム―― こいつ、仲間の櫻井を何の躊躇もなく―― 「よぉ、懐かしいなイザーク。ご機嫌じゃねえか、見違えたぜ」 「その評価は的外れと答える。私に機嫌などというものはない」 「ただ在るがまま、理に従い、黄金の意志を執行するのみである」 「はッ、変わんねえな、そういうとこはよ」 何が起きたのか、何が始まるのか、俺にはまるで分からない。 だが、いま目の前にいるのはヴィルヘルム。今夜俺が、もっとも会いたかった男が目の前にいるんだ。 気持ちを切り替えろ。即座に態勢を立て直せ。ここでの気失や油断の類は、死へ一瞬にして直結する。 「ベイ、ベイ、ベイィィィッッ―――!」 「うるせえ」 槍衾となり、絶命の淵へ落ちていく櫻井の顔にも声にも、心を囚われてはいけない。 「教えて、あなたは、ベアトリスを……」 「あぁッ?」 「殺した、の……?」 俺と同じく、こいつもまた、ヴィルヘルムに誰かを殺されたのかもしれない。 その答え、その真相……だけどそれは…… 「知るかボケ。てめえで勝手に考えろ」 顔面を貫通した杭の一撃によって、未来永劫闇に消えた。 「―――――――」 「あ、ぁ、ぁ、ぁ……」 干からびて、粉々に砕けて、塵になっていく身体。 俺にはどうでもいいはずで、関係ないことで、そもそも櫻井なんか嫌いなわけで…… 「ごめん、ごめんなさい……私、こんなに無様で、弱くて、情けなくて……」 「結局、何もできなかったよ……」 今はそれどころじゃないはずなのに――ちくしょう、なんで目が離せない!? 「許して兄さん、ベアトリス……」 その魂が散華する一部始終を、俺は凝視し続けていた。 「ははははははははははは――」 ヴィルヘルム・エーレンブルグ。 「第五開放を確認。勲功を讃えよう、白貌」 そして貴様、イザークと言ったな。 「だが先の言、私の中で齟齬が生じた。必要に伴い修正せねばならぬので、問いを投げたい。ヴァルキュリアを落としたのはおまえなのか?」 「違ぇよ」 「殺り合いはしたけどな。てめえも知ってるだろう。俺がどういうもんかはよ」 「なるほど、理解した」 すでに自分達がしたことなど忘れたかのように、砕け散った櫻井を一顧だにせず会話しているその姿。その神経―― 俺にはそれが、反吐を催すほど許せない。 「であれば、この状況。私がおまえの邪魔をしたことになってしまうのか?」 「ああ、まあ、そうだが気にすんな」 こちらを向く赤い瞳が、殺意と愉悦に燃えている。そしておそらく俺もまた、まったく同じ目でこいつを見ているに違いない。 「このガキ殺るのはまた後だ。まずは根っこを修正しねえとよ、毎度毎度同じ展開じゃあ、さすがにやってらんねえんだよ」 「おら、いいから始めてくれやイザーク」 「了解した。譲歩、感謝しよう。黄金もおまえを評価するに違いない」 「賓客として礼をつくす。こちらのけりが付くまで、ひとまず休め」 「ははは――いいぜ、美味い酒飲ませろ」 「待てよ……」 待てよ、てめえら。 勝手に何を納得し、何を始める気か知らないが―― 「逃げられるとでも、思ってんのかよッ!」 怒号と共に、俺は右手を振り上げて跳躍した。しかし笑いながら後退するヴィルヘルムは、髑髏の巨手に飛び乗って高く高く、遥か上へ―― その姿が消えていく夜闇の中心に亀裂が走り、そこから何かが―― 「急くな、クラフトの代替。おまえも招けと、我らが黄金は言っている」 「―――――ッ」 「では地獄巡りを始めよう―――La Divina Commedia」 空間を押しのけて、途轍もなく巨大な何かが現れ出ようとしていた。 「〈Dieser Mann wohnte in den Gruften, und niemand konnte ihm keine mehr,〉《その男は墓に住み あらゆる者も あらゆる鎖も》〈nicht sogar mit einer Kette, binden.〉《あらゆる総てをもってしても繋ぎ止めることが出来ない》」  その時、リザと玲愛はそれを聞いた。亀裂の走った空から降り注ぐ、虚無を音にしたような子供の声を。 「〈Er ris die Ketten auseinander und brach die Eisen auf seinen Fusen.〉《彼は縛鎖を千切り 枷を壊し 狂い泣き叫ぶ墓の主》〈Niemand war stark genug, um ihn zu unterwerfen.〉《この世のありとあらゆるモノ総て 彼を抑える力を持たない》」  トリファも無論、それが聞こえているし分かっている。自分たちの選択が、もっとも恐ろしくもっとも危険な、魔城の〈私生児〉《バスタルト》を目覚めさせてしまった事実を。 「〈Dann fragte ihn Jesus. Was ist Ihr Name?〉《ゆえ 神は問われた 貴様は何者か》」  ルサルカとて例外ではない。これはもはや逃げられず、後に退けぬと覚悟を決めるしかない現実だ。 「〈Es ist eine dumme Frage. Ich antworte.〉《愚問なり 無知蒙昧 知らぬならば答えよう》 〈Mein Name ist Legion〉《我が名はレギオン》――」  ゆえにヴィルヘルムは歓喜した。ついに己が、望みに望んだ至高の天へと上る瞬間――腹の底から大笑したい。 「〈Briah〉《創造》――」  彼はイザーク=アイン・ゾーネンキント。  氷室玲愛の祖父にして、リザ・ブレンナーの息子にして、墓の王を父に持つ魔城の心臓――今その聖務を全うしよう。  すなわち。 「〈Gladsheimr〉《至高天》――」  誰も彼も残らず総て、この黄金に溶けるエインフェリアとなればいい。 「〈Gullinkambi fünfte Weltall〉《黄金冠す第五宇宙》」  そう、それこそが―― 「私の愛だ。よく噛み締めろ」  破壊の君へと捧げる供物。さあ、その輝ける魂で、彼の飢えを満たしてくれ。死者の踊りを魅せてくれ。 「否も応も聞かぬ。ここは私の世界で、私が法だ。 聖餐杯、マレウス、バビロン、トバルカイン―― 卿ら、望むものがあるのなら」 「屍を踏み越え、進むがいい。私のもとに辿り着ければ、どのような諫言であれ聞き入れると約束しよう」  例えば氷室玲愛を解放しろ。  このグラズヘイムに溶ける誰かを返却しろ。  そうしたものでも一向に構わない。  代価は、これより彼らが潜る地獄をもってよしとするゆえ。 「そう、私に死ねというものでも構わんぞ」  もしも本当にそんなことが、この魔天に存在するというのならば。 「あるいは未知かもしれんだろう。なあ、カールよ」  含み笑って、不滅の黄金は千客万来を歓迎した。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 5/8 【Chapter Ⅸ Non omnia possumus omnes ―― END】  自らの下腹部へ伸びていた手を、目の前に〈翳〉《かざ》す。  そこにはもう、痛みは感じられなかった。  だというのに、何かが残っているような違和感があるのだろうか。気がつけば、そこに触れている自分に気付く。 「つッ……」  今は亡きルサルカの言葉を思い出す。自分は、名誉と忠誠の誓いが軽いのだ、と。  自らの行為を思い起こし、それは確かに、そうなのだと頷く。 「よう、レオン」  回廊の奥へと続く暗闇から、その一部が滲み出したような声。  主はヴィルヘルムだった。待っていたのか通りすがったのか。どちらであるのかは定かでない。 「マレウスがドジ踏んだらしいな。聞いてるか?」 「…………」  ヴィルヘルムの真意が何処にあるのか。  図りかねた螢は、会話の間を取った。 「どうした? ショックかい?」 「別に。殺し合いをしたなら殺されることもあるだろう。それだけのことでは?」 「まあなあ。けど首と胴体が泣き別れってな違くねえか? 魔女ってなあ、火刑と相場が決まってんだろ」 「…………」  どういうつもりで言っているのか分からない。螢は努めて、無感動に返す。 「首を刎ねるのがギロチンだ。彼と戦って負けたなら、それが当然の結末だろう」 「ところがだ。マレウスは胴体の方にも風穴を開けられてた。刺し傷だ。 ギロチンじゃ斬っても刺せはしねえ。これってなぁ一体どういうカラクリなんだろうな、ええ?」 「私達は死体を残さない。ベイ、つまらない嘘をつくな」  ヴィルヘルムを見上げる螢の視線に険がこもる。しばし、二人は凍りついたようにそのままの姿勢で固まった。 「……ご名答。今のは口から出まかせだ。さすがに引っかかる程の甘ちゃんじゃねえか。謝るよ。嘘は良くなかったよな。勘弁してくれや。そう。仲間に嘘を吐く奴は最低だ。裏切りだもんな。そうは思わねえか、レオン」  鼓動が乱れ、冷たいものが胸の中に広がった。  見抜かれた、という事か? 「何を言っているのか、分からない。 しかし、私は別に気にしていない。おまえの戯言はいつものことだ」 「いい加減おとぼけはよせよ、レオンちゃん。ええ?」  手首を掴まれた。手袋がギチギチと軋む音を立て、骨の髄まで痛みが走る。 「おまえはマレウスに呪われてた。良かったな、そいつが消えてよ。普通は死んだほうが強くなるもんらしいんだが、あいつは自分が死ぬことなんか考えねえ。そこは運が良かったってことだ。 つまりあの坊主は、まんまとおまえに利用されたってぇわけだ」 「三秒以内にこの手を離せ。マレウスの後を追いたくなければな」 「勇ましいな、お嬢ちゃん。殺れんのか? 今度は不意打ちじゃあねえぜ」  頭の中を、冷徹な計算が走り抜ける。  ヴィルヘルムは確証を掴んでいるのだろうか。もしそうならば、この男の口は自分にとって災禍を呼びかねない。ことに、トリファへの漏洩は致命的だった。  殺す――しかしその意志は、不安に大きく揺らいでいた。  自らの腕を介して伝わってくる、その力。  一度殺し合いに突入すれば、生半な覚悟では相手に出来る男ではない。  勝算よりもまず、不退転の闘志と迷いのない殺意が必要とされるだろう。  だが―― 「勘違いするなよ」  螢の覚悟が定まる寸前、赤い目が螢を覗き込んだ。 「俺は別に責めてる訳じゃねえ……殺しに理屈は要らねえだろ。殺りたいから殺る。それでいいじゃねえか」  手首が軋む。ぎちぎちという音。  まるで何かの秒読みのように、回廊の静寂にその音が響く。 「つまり、殺したくなったら……おまえは黒円卓の者にも容赦しないと?」 「ハッ、仲間殺しはてめえの方だろ?」 「どうだかな……」  螢は機を探っていた。それは向こうも同じかもしれない。 “始まり”の瞬間を見誤らぬように。  いざとなれば、掴まれたこの腕一本はくれてやらねばならないか。  仮に、“創造”の発動が間に合えば―― 「ま……俺はまた、奪われたって事になるのかね」 「……一体何の話だ?」  吹き込んできた隙間風に、〈燭台〉《しょくだい》の炎が揺れた。  ヴィルヘルムの赤い瞳が、一瞬だけ遠くを見るように〈翳〉《かげ》ったのは……〈蝋燭〉《ろうそく》の揺らめきが見せた幻影だったのだろうか?  それを確かめようと、視線を向けるが……白貌は既に、元通り〈兇悪〉《きょうあく》かつ陽気な〈嗤〉《わら》いに歪んでいた。 「気にすんな。つまらねえ昔話よ」  手首を掴んでいた力が、不意に消えた。  ヴィルヘルムの殺気が変質しているのを、螢は確かに感じた。  油断はできない。けれど、殺気の“芯”のようなものが抜け落ちている。  振り払った手に、抵抗はなかった。 「まあ、ともかくだ。今んところシュピーネ除きゃあ女ばっかりくたばってるみたいだしよ。おまえさんも気ぃつけな。バビロンが死んだのを忘れるんじゃねえぞ? 人形に命を吹き込む人形師は、もういねえんだ。今のカインは、少しずつ腐ってく肉の塊に過ぎねえよ」 「…………!」 「ほお、いい顔するじゃねえか。劣等同士、文字通り“腐っても”同族ってわけだ。なんせあの化け物はおまえの――」 「言うな!」  螢の眼差しが細くなっていく。〈総身〉《そうみ》の血がざわつき始めていた。  触れてはならない領域に、ヴィルヘルムは踏み込んだ。  先程までとは異なる“芯”の通った殺意が、腹の底にみっしりと充填されていく。 「この場所のスワスチカ――貴様の命で開くか」  ヴィルヘルムの白い犬歯が、大きく剥き出された。獣の笑みだ。 「いいねえ。畜生、ゾクゾクしてきやがった……今まで見た中で一番セクシーな顔してるぜ、レオン。そう来なくっちゃ面白くねえってもんだ」  中断されていた秒読みが、再開された。今度は早回しのように。  振り切れる瞬間は、すぐそこに―― 「お揃いで、何か相談でも?」  煮詰まった空気を、一瞬にして穏やかな声が消し飛ばした。 「―――――」  振り向いた螢の視線を受けて、悠然と微笑むその〈僧衣〉《カソツク》。長身と、〈蝋燭〉《ろうそく》の灯を受け煌く黄金の髪。 「聖餐……杯、猊下……」  舌打ちに続き、ヴィルヘルムがその通り名を呼ぶ。 「クリストフ……」 本城の寄越したバンで、俺たちはクラブに戻ってきていた。 移動中、香純はずっと気を失っていた。こうやってソファに横たえてもまだ意識は戻ってこない。その口もとに耳を近づける。香純の呼吸は…… 「…………」 「…………」 呼吸は……弱々しかった。でも乱れてはいない。 首筋にそっと指先を触れる。頚動脈に、はっきりした脈拍が感じられた。ゆっくりだけれど、安定したリズム。 「どう? 何か問題ある?」 本城が、自分の作業を――司狼の腕の手当を続けながら訊ねてきた。 「……いいや。こっちは平気だ。気絶しているだけだな」 「ん。そ」 「そっちは?」 「全然たいしたことねえよ」 「みたいよ」 あきれたような本城の声色からすると、そんなことはないんだろうな。まあ素人目に見ても、司狼はボロボロだ。 「ん……」 不意に、香純の寝息が乱れた。小さな呻き声。苦しそうに顔を歪ませる…… 「…………!」 ……でも、それだけだった。眉根の強ばりは徐々に解けていく。息もだんだん落ち着いていく。どうやら良くない夢でも見てるらしい。無理もない。あんなことがあった直後なんだから。 今、俺に言えるのは、無事に香純を保護できて良かったってことだけだ。 「おい。あんまりぐるぐる巻くなよ」 腕に包帯を巻かれながら、司狼が声を上げた。 「何言ってんの。本来ならベッドに革ベルトでぐるぐる巻きにされる怪我だってのに」 「だからおまえに頼んでんだろ」 「限度があるって言ってんの。動くんじゃない」 「だからよせって。そんなガッチガチに固められたら動きがとれねえ」 「当たり前だって。へし折れてんだから。骨が。腕の。ぼっきーんって。動かそうったって動くもんじゃないのよ」 「体重支えるわけじゃねえなら筋肉だけで動くもんだろ」 「バカったれ。折れた骨が肉突き破ったら、それもできなくなるのよ」 仲がいい、ほほえましい……って思うんだろうな。会話内容の剣呑さを無視するなら。 司狼の傷はヴィルヘルムとの戦闘で負ったものだ。本城が言うように、本当なら病院直行ものの大怪我だ。 それをこんなところで身内手当してるのは、当の本人が病院へ行くのを拒否したからだ。司狼いわく“見も知らない他人が信用できるか”だそうだ。ごもっとも。俺もそう思う。この状況下では。 で、俺の方は…… 「…………」 無言で自分の体を見降ろす。手を握ったり開いたりする。傷が付いてたところを撫でる…… 何も残っていなかった。傷口も。ダメージも。 体のそこここに確かに開いていた傷口は、もうすっかり塞がっている。服が破れてなければ、どこに傷があったかすらもう分からないだろう。 一番大きかった傷口が、ほんのかすかな線になって皮膚に残っていた。かさぶたが自然に剥がれた跡みたいな、注意して見なければそれと分からない痕跡。そして、それは…… 「…………」 その痕跡は俺の目の前で、皮膚に沈みこむようにして完全に消えた。 これで俺はまったくの健康体だ。あえていえば、軽い疲労感。そして右腕の芯に異物感。前者はただ疲れただけ。後者はきっと“気のせい”だ。聖遺物には重さがない。内臓に異物感があるはずないように、あの分厚い刃ももう俺の一部分なのだから。 「……おい。何してんだよ、大袈裟だな」 「何? まだ痛いの? ひ弱い奴」 「違うって」 司狼が左手を上げると、〈副木〉《そえぎ》を当てようとしていた本城は首をかしげる。 「動かしづらいだろうがよ」 「あんたねえ……!」 本城は呆れましたって声を立て、無理矢理左腕の関節を固定する作業を再開した。 「そんなバカ言ってると、いいかげんこの腕使いモンにならなくなるよ?」 〈副木〉《そえぎ》を当て、しっかりと包帯を巻きつけていく。医者の娘だけあって、本城の手際はかなり様になっている。司狼の文句なんて気にも留めてない。 包帯の巻かれていない方の右腕をぶんぶんと振り、司狼がアホみたいに笑った。 「平気だっつーの。まだ〈右腕〉《こっち》が残ってんだから」 「だからバカだつってんの! そっちだってヒビ入ってんだから。あんまチョーシくれて振り回してっと、自然にバキっといっちゃうよ?」 「そんなヤワじゃねえよ」 「おとなしくしてないと折れる前にあたしが叩き折ってやるって言ってんの」 「おいおい、物騒なヤツだな」 脅しとも本気ともつかない本城の言葉を聞き、司狼は右腕を振り回すのを止めた。両腕を怪我しておきながら、どうしてこんなに元気なんだろうか、こいつは。まるで痛みという感覚がなくなってしまっているみたいだ。 「はい、左腕終わりっと。んじゃ、次そっちの腕、寄こしな」 「……ん。そっとやれよ」 「だ・か・ら! そっとやってるだろ。これ以上ないくらいそーっとそーっとやってるっつーの」 本城の作業は手際良く終わり、司狼の両腕はきっちり包帯が巻かれた。特に左腕の肘から先はがっちりテーピングされる。 「あとコレ。熱が出るだろうから、熱さまし」 「おう」 渡された錠剤を飲み下す。医者嫌いの司狼が意外と素直に従っているのは、本城を信頼しているからだろうか。 ……いや、違うか。そんなロマンチックな理由じゃない。こいつはただ、自分の戦闘能力が落ちるのがイヤなだけだろう。いわば本能だ。 漫画みたいな満身創痍だが、司狼ならたしかにこれで人並み以上に〈闘〉《や》れるだろう。ただ、“人並み以上”で対抗できるような相手じゃないことだけが、問題なんだ。 「ねえ。なんか食べる?」 「要らねえよ。つうか、無えだろ。食いもんとか」 「買ってくるって、そんくらい。そっちは?」 本城がこっちを見たけれど、俺は何も答えずにいた。本城は軽く眉をひそめた。 「……駄目だよ。何か腹に入れとかないと持たないよ?」 「……何が持たないって?」 「気持ちが」 「…………」 そうだ。確かにそうだ。本城の言い分は完全に正論だ。俺たちは顔を見合せた。 「…………」 「……焼きうどん。豚肉山盛り。ニンニクびたびた」 「ん。俺も」 「はいよ……って、焼きうどんにニンニクぅ? んもう、男って……」 「理由があるんだよ。たっぷり頼むぜ」 「はいはい」 ぶつぶつ言いながら上着を羽織り、本城は出ていった。あとには俺と司狼、そして気を失ったままの香純が残された。 「…………」 「…………」 沈黙。 気まずい沈黙じゃない。俺には言いたいことがある、司狼はそれが分かった上で待っている――そんな沈黙。 「…………」 「…………」 「……なあ」 最初にその沈黙を破ったのは司狼の方だった。 「香純、大丈夫か?」 「ああ。大丈夫……だと思う。俺には詳しく分からないけど……」 「何されたんだよ」 司狼に問われて、ルサルカの言葉が蘇る。 香純の封じられた記憶を、あいつは呼び起こしたと、そう言っていたが…… だがそれを司狼に説明するには、まず香純の行いを告げなくてはならない。一切の理屈を抜きに、俺はそれが嫌だった。 口にしたくなかったから。 「それも分からない。俺が辿り着いた時には、もう気を失っていたし」 「別に怪我とかしてるわけじゃないんだろ」 「ああ……」 「だとしたら、奴等お得意のオカルトか。確かに、オレたちにゃあ手出しできねえな」 「…………」 司狼が納得したとは思えないが―― 「…………」 それ以上は聞かないようにしてやるよ、と、目が語っていた。 そして、また沈黙。 それでも俺は切り出せない。言葉にまとまってくれない。 手助けを感謝するべきだろうか。助かったのは事実だ。 ヴィルヘルムのことも、聞いておきたい。どうやって助かったのか。 だが、だからといって、これからもずっと司狼とつるんでいくのか? 本城も連れて? それは駄目だ。助かるはずがない。今日だって、冷静に思い返せば俺は、こいつを犠牲にして香純を選んだだけだ。 一方で、あの時はこいつだって戦いたがっていた。逃げろといって、逃げるタマでもない。そしてそれは、多分これからも。 でも、だからといって…… 結局、俺は司狼にどうなってほしいのだろう。 「…………」 「…………」 「…………なあ」 やっと沈黙を破った俺だったが、それでも結局口にしたのは…… 「本城の料理って、どうなんだ?」 「おまえどうも何も、一回食ったろ」 「香純との合作じゃわけ分かんねえよ」 「まあ、あいつよりは上手いんじゃねえの。たぶん」 戻ってきた答えは、予想より遥かにいい加減だった。 「って、言うなよ、こんなこと。つけ上がるからな、あいつ」 「つけ上がるんだ?」 「つけ上がるさ。あれで相当調子モンなんだよ」 「別にいいだろ。調子モンでも。おまえもそうだし」 「はあ? おいおい勘弁しろよ」 珍しく司狼の方から視線を外して、笑った。 「なんとなく分かった気がするよ。あいつがいるからおまえは、風船みたいにどっかに飛んで行ったりせずに、まだこの街にいるんだな」 「あいつもあれでふらふら飛んで行きたい風船だぜ」 「でも学校〈退学す〉《やめ》るほど滅茶苦茶でもない」 「分かってねえよ。そんな理由じゃねえんだ」 司狼の目に、ドロリとした剣呑な光が戻った。 「オレもあいつも、色々考えた挙句、この街ほど面白い街はなかなかねえって思っただけさ」 「面白い……」 「物騒、って言い換えたって良い。現にここ以外じゃあ、こんな怪我はできやしねえだろ」 「普通それは残る理由じゃなくて、街を出て行く理由だ」 「何が普通かなんて関係あるのか?」 「ん……」 俺の視線は、自然と自分の右腕に落ちていた。 「関係ないか」 「だろ?」 「…………」 そしてまた沈黙が来た。しばらく黙ってから、俺は椅子から立ち上がった。 「……どうするんだ?」 ひっかかっていた話題は、散々つまらない話をしてからやっとだるま落としみたいに口から転がりだした。 「どーするもこーするも――」 ルサルカを〈斃〉《たお》したとはいえ、現状はまったく好転していない。逆に新しいスワスチカが完成したぶん、こっちの分が悪くなっているとも見える。 その現状ははっきりさせとかないとならない。ここから先は殺し合いだ。今までだって殺し合いだったけど、ここから先はもっと血みどろだ。途中離脱は許されない。 だというのに司狼は、まったくいつも通りの顔で笑った。 「やらなきゃならないことをやる。邪魔する奴がいたらぶっ飛ばす。つうか、殺す。それだけだよ」 「……で? 分かってるだろ?」 俺の服を、司狼に見せた。破れている服の、その下の肌を。かさぶたが自然に剥がれたばかりの肌みたいな、生まれたての皮膚組織を。 俺の場合は、こういうことになる。服が破れるだけって結果に。 だが司狼と本城は違う。このまま二人をこの騒動に付き合わせていたらどうなるか……想像に難くない。 「……だから?」 でも、そんな俺の脅しに返ってきた返事は、司狼そのものだった。 「あとは俺に任せろーとか、おまえらはどっかに隠れとけーとか、そういうことを言うわけか?」 「…………」 「おまえが?」 司狼の答えが正しい。 俺には、そんなことを言う資格がない。 第一、俺がそんなこと言ったって、状況は何も変わらない。世界は俺たちが回してるわけじゃないから。むしろ俺たちが逆に激しくぶん回されている側だ。 だから、現状をどうこう言う権利は俺たちにはないんだ。たとえ司狼や本城がこのまま突っ走って殺されるような羽目になっても、それは司狼たちの事情だ。 気にするなって話か。 「おまえはそれでいいかもしれないけど……」 「エリーのことは気にすんな。オレよりあいつの方が目端は効くくらいだぜ」 「死ぬぞ」 「その方がマシだね」 肩をすくめようとして、さすがに顔をしかめた。左肩が動かなかったのだろう。 「第一おまえ、横から入ってきてあとは全部任せろって調子がいいんだよ」 「横から?」 「ああ。おまえが絡んでくる前から、オレはこの事件の当事者なんだよ」 「なんでおまえが……」 「やっぱ勘違いしてやがったな」 俺の眉間を、司狼がまっすぐ指さす。 「オレもエリーも、あいつらは歓迎してんのさ。事情があってな、ああいう化け物じみた奴等じゃなきゃ、オレらにかけられた呪いは多分解けてくれねえ。もしかすると……」 司狼の視線が、俺を突き抜けて別の何かを射抜いた。 「この呪いそのものも、あいつらの仕業なのかもしれねえ」 「呪いってなんだ?」 「んー……てめえは駄目だ」 そこまで言っておいてか。 「駄目だってなんだよ」 「言ったって分からなかったろうがよ」 「言ったって、いつ?」 「ほれ見ろ。お話になんねえ」 「なんだよそれは」 「それにフェアじゃねえだろうが。てめえは山ほど隠し事して、オレには全部話せって?」 「…………」 それを言われると、確かに弱い。 「まあ相変わらず、おまえは難しく考えすぎなんだって」 司狼は大きく口を開け、でも声は立てずに笑った。 「気に入った女がいたら、抱く。邪魔する奴がいたらシメる。まだ突っかかってくるようなら、殺す」 「それでいいじゃんか。なあ?」 「…………」 それだけなら、確かに気が楽だ。本当に。 少なくとも今この状況では、俺より司狼の方が正しい。たぶん。きっと。 だが―― 「勝手に死ぬなよ」 「約束はできねえ」 「おまえなあ」 「お互い好き勝手にしあってるだけだ。オレは、藤井蓮のオプションじゃねえ。まあまずは、あいつらにそれを教え込んでやらねえとだがよ」 まだ動く右手を、確かめるように司狼は握った。 こういう目をした司狼は、もう何を言っても止まらない。 なら、俺が言えることは一つだけだ。 「俺も、好きにやるぞ」 「そうしろって言ってんだろ?」 こいつが死ぬのを止めるのも、俺の勝手。 今はその言質をとっておくことだけが、全てを守る力なんてない俺の、精一杯だった。 やがて本城が帰ってきて、焼きうどんを山のように作ってくれた。俺たちはそれを黙々とすすりこんだ。司狼は今片腕だけど、箸が使えなくはない様子だった。 正直、俺が同じ有様だったらあんな真似はできないだろう。こいつには、痛みってもんが無いんだろうか。 「これ……なんか麺の太さが違わねえか?」 「贅沢言わないでよ。コンビニなんだから、うどんの玉なんてそんなたくさん置いてるわけないでしょ。半分くらいはカップうどん」 「いらねえ創作料理のアイディア発揮しやがって。なんか食いにくいぜ、コレ。彩りもイマイチだしよ。カツオブシと紅ショウガなかったのか?」 「注文の多い男ねー……」 「だっておまえ、焼きうどんって言ったら定番……」 「うまい」 俺は一杯目を食い終えて、真ん中の大皿から手元の紙皿へおかわりを盛り付けた。 「お……」 「あらぁ……」 いくらでも腹に入る。自分でも気が付かなかったが、相当腹は減っていたということだろうか。 「おいおい。全部食うつもりかよ」 「んー。気持ち良い食べっぷりね。作った方も嬉しくなっちゃうわ」 「いや、うまいよ。ほんと」 答えながら、自分がごく自然に笑えていることに気がついた。 確かに本城の言うとおりだ。腹が膨れると“気持ち”が戻ってくる。ぺしゃんこになってた気持ちが、風船みたいに。 ゆっくり味わって食おう。この焼きうどんだけじゃなくて、これから先ありつける飯は一食一食全部。それが最後になるかもしれない。 「……で? おまえはどうするつもりなんだって?」 「俺か?」 「ああ。おまえ」 司狼が俺に尋ねてくる。まずは俺から旗色を鮮明にしとけってことだろう。 「んー……」 ちょっと言葉をためらわせた。何を言っていいか分からなかったんじゃなくて、 腹に物を入れてちょっとだけ盛り上がってきた場の雰囲気を台無しにしたくなかったからだ。 「…………」 でも、それはあまり意味のないためらいだった。どう言葉を取り繕ったって今の状態は変わりやしないんだ。相談は直球勝負でいこう。 どうせ遠まわしな腹の探りあいにしたら、司狼に敵うはずもない。 「……シビアな話するぞ。いいよな?」 「いちいち前置きすんなって。言えよ」 「結論から言って、俺たちは負け続けてる。今回も、前回のクラブの時もな。こないだからずっと連中のペースだ。その原因は……」 「…………」 本城の箸が止まった。司狼はマイペースで食べ続ける。 「んぐ……続けろよ」 二人とも俺の言葉に集中してるのは分かった。 「その原因は、俺たちがいつも後手後手に回って来たからだ。どうしても攻撃側に立てない。だから勝てないわけだ。負けか引き分けしかない」 「え? でもさあ……」 本城が箸で俺を指さした。 「学校じゃ、ルサルカを〈斃〉《たお》したんでしょ? 一本返せた、これで連敗脱出……って言っちゃダメなわけ?」 「ああ。勝ちじゃないな。あいこでもない」 「だな」 「どうして?」 「簡単だ。あの女は勝ち負けを左右する条件じゃねえのさ。何本シュート打ったって、枠に入ってくれなきゃあ得点にはなんねえってこった」 「でも……」 司狼は片手で苦労しながら、取り皿におかわりを盛る。 「連中の企みは全然止まってない。むしろ奴等のペースで進行してる」 「連中の戦力も全然削げてない。学校でだって、もしあのまま奴等が戦い続けてたら、俺らは今ごろこんなふうに焼きうどん食えてなんかいない……おまえもな、司狼」 「ま、そうだろうな。生きててヨカッタってやつか……ん。こりゃニンニク効いてんな。注文どおりだ」 司狼の軽口に本城が眉をひそめた。 「あーもう。脳天気なんだから」 「結局、学校のスワスチカも完成しちまった。俺たちが守り切れなかったってことだ。選手は一人減らしたけど、得点は向こうに入った――それが今の現状だ」 「連中の目的は、八ヵ所のスワスチカを開くことだからな。そのために誰が死のうと構わねえってことだろ。それをやられたら連中の勝ちが確定、オレらは負け……ってことになる」 「八ヵ所全て完成させると、どうなるのかな?」 試してみようか、とでも言い出しかねない目の色で、本城が問う。 「連中のボスと、幹部クラスが復活するらしい。ボスは司狼も見たろ。あれはどうにもなんねえよ。出てきたら終わりだ。幹部もな」 「…………」 「…………」 改めて口にしてみると、やっぱり現実は苛酷だった。俺と本城は黙りこんでしまう。 だが…… 「だが考えようだぜ。オレらの方が有利とも言える」 「え? どうして?」 〈司狼〉《バカ》が口を挟んだ。 「現状がどうこうじゃなくって、元々オレらの方が有利なゲームなんだよ。こいつは」 「どこがだよ」 相手は化け物揃い。攻撃は一方的。これで自分が有利な情報を引き出せるなんてどこまで楽天的なんだ。 「プレーヤーの技量は置いとくぜ。そいつはルールと関係ねえ。残りあと四回あるんだろ? で、俺らはそのどこかで一勝すりゃいい。そうすりゃ今までの奴等の得点は全部パーだ。違うか?」 「……あきれた。相変わらず脳天気なんだから」 本城がまた眉をひそめたけれど、今度はだいぶ口調が違った。希望が見えてきたって調子だ。 でも、俺はまだシビアに現状整理を続けた。 「言うのは簡単だけどな。まずその最初に置いておいたプレーヤーの技量ってのが段違いなんだよ」 「しかも俺たちは守備側で、さらに言えばステージが選べない」 「前もって準備、なんてことも出来ないわけか」 「だから連中にとって俺たちは、ゴール前のほんの障害物に過ぎないってわけさ。対する俺たちは連中そのものがゴールだ。俺たちはどこまでも後手に回る」 「連中は好きな場所を、好きな時間に体勢を整えてから好きに攻められる。失敗したら撤収するだけだ。さっきみたいに……」 「そこだ」 司狼の指がズバッと俺の眉間を指す。 「奴等、なんで撤退した?」 「そりゃ……ルサルカが、死んだから」 寄り目になりながら、我ながら間の抜けた答えを返してしまう。いつの間にか会話の主導権は司狼に移っていた。 「仲間が死んだらなんで撤退だ? あそこはもう一歩踏み込んで、こっちの数を減らさないのか?」 「そんなことされてたら、おまえ死んでただろ」 「オレの都合はこの際関係ねえよ。むしろ、こっちの不都合は向こうの好都合だ。なのになんでオレは生きてる?」 「それは……」 「安全策なんだよ。その方が」 なんだって? 「こっちの数を減らさないのが、向こうの有利ってこと?」 「数ねえ……もともとあいつらにとっちゃ、こっちの陣営の数はただ一人──蓮、てめえだけだ」 「……なるほどな」 司狼にとっては屈辱的だろうが、司狼や本城が敵にとって脅威になっているとは思えない。なるほど相手にとっては、警戒しなくちゃならないのは俺一人だ。それは納得がいく。 「だからオレをどうしようと、相手にとっては数は増えもしなけりゃ減りもしねえのさ」 「なんかそれムカつくわね」 「まったくだ。だがひっくり返してやるにはそれくらいで丁度良い」 根性の悪い笑みで、司狼は続ける。 「さっき安全策って言ったよな。あそこであの白髪野郎が残ってるよりも、撤退した方がずっと相手にとっては有利になるんだよ。考えてみろ」 「ん?」 分からない。あそこで撤退する意味だって? 「あそこであの野郎が退がれば、少なくとも学園であいつが死ぬ可能性は0になる」 「死ぬ可能性って……」 「向こうの大将……それが神父だかなんだかは知らねえが、どっちにしろ指示を出しているヤツが恐れてるのは、“すでにスワスチカが開いた場所で手駒が死ぬ”ことさ」 「ああ……」 なるほどな。それは俺も、前に櫻井と話したときに考えたことだ。 スワスチカのあるエリアで奴等が死ねば、スワスチカは開く。司狼の言葉に従ってプレイヤーの戦力差を度外視すれば、あいつらがルール的に有利なのは自軍の駒の敗退で戦略的目標を到達させることができる点にある。 既にスワスチカが開いている場所で死んだ団員だけが、無駄死ににカウントされる。俺たちにとって勝利を決定付けるわけでないポイントに数えられるのは、それだけか。 けど、だとしたら…… 「随分過大評価されてるみたいだな……」 それは俺が、二連破できることを前提にした憂いだ。学園のケースで言えば、俺があの後取って返してヴィルヘルムを〈斃〉《たお》せるかどうかにかかっているわけだ。 「まったくだ。こんな穴倉で勝手に追い詰められてる気になって、頭抱えてるとは思うめえよ」 「こんな穴倉で悪かったわね」 「すっかりニンニク臭くなっちまったしな」 「このっ!」 本城が脛を蹴ろうとして、司狼はそれを靴で受け止めた。 「さて、だったらどうするか、だ」 「決まってる」 それさえ分かれば俺だって分かる。 「次の交戦で、二人倒す」 「……だな。もうスワスチカが開いてるってとこへ相手を引きずり出すことができない以上、まあそうなるだろ」 頷くと、司狼はまた焼きうどんをすすり始めた。 「それができる前に、もし幹部クラスが復活するってことになったら、そこで試合終了ね。あたしたちの惨敗ってわけだ」 「で、だよ」 口いっぱいに詰めこんだ麺を飲みこんでから、司狼が言った。 「具体的にどうするかだ」 「ああ。スワスチカはもう五つ完成してる。全部で八つ。残りは三つだ」 俺は無意識のうちに、首の傷跡を撫でていた。意識すると、痛みが増す。 ルサルカとの戦いで経験を積んだからだろうか。前に櫻井が言っていた“なんとなく分かる”という感覚を俺も持つようになってきた。 その上で推理した結果、いつ開いたのか分からない四番目で、おそらく奴らの誰かが死んでいる。それは誰か、消去法でいけばシスターだ。 なぜなら、彼女は学校にいなかった。カインを操るべき彼女があの場に不在だったというだけで、充分そのことは察せられる。 しかし、だとしたら彼女はいったいなぜ死んだ? 殺されたとしか思えないが、では誰に? 「…………」 考えたが、答えは出てこないので保留することにした。あの人の死が先輩に陰を落とした事実も考えられるし無視は出来ないが、言ったように今は地理的な先手を取ることに執心しなくちゃいけない。 「ともかく俺たちは、その三ヵ所から、どこか一ヵ所選んで、そこで待機する。他は捨ててもいい」 「順番は違うかもしれないけど、連中は必ずやってくる。俺たちはそこを邪魔する」 「待ち伏せってわけか、なるほど。それならこっちが、守りながら攻めに回れるもんな。いいんじゃねえか」 「ああ……でも、問題が一つある」 「なんだよ、問題って?」 「五つ開いてんのは分かってるけど、そのうちの一つが不明なんだよ」 まず開放ずみのスワスチカは、公園、クラブ、博物館、そして学校。これは完璧に間違いない。 残りである病院、遊園地、タワー、教会……このうちのどれかが開いてるはずなんだが、分からない。 「櫻井の話じゃあ、スワスチカが開くと真っ当な奴は立ち入れないくらい汚染されるらしいんだけどな。〈クラブ〉《ここ》のホールがそうなってるみたいに」 「教会はともかく、他の場所でそんな話は聞かねえよ。なあ?」 「そうねえ。客足が途絶えてるとかはないみたいだけど」 「じゃあ教会か?」 「違ぇだろ。誰があそこで死ぬんだよ」 「確かにそうだが、どうだろうな」 実際のところ、五つ開いてるのは間違いないんだ。感覚がそう告げている。 なら現場に行けば分かるのかもしれないし、何にしろ怪しい個所を総当りしてみるしかないようだ。 俺がそう言うと。 「じゃあ、ここから一番近いのぁどこだ?」 「ここからだと――行き易さなら展望タワーじゃない?」 展望タワー。テレビの電波塔なんかを兼ねた公共の建物だ。この街一番の高層建築で、ついこの間香純とマリィを連れて上ったばかりじゃないか。 もしあの時、襲われていたらと思うとぞっとする。 「どうするの? 見に行ってみる、タワー?」 「…………」 本城は今確かに、司狼に向かって尋ねた。だが司狼はそれには答えず、俺の目を見つめた。 俺がどんな決断を下すか、楽しんでいる目だ。こいつの中にはもう答えは出ているだろうに、あえてそれを俺に言わせようっていうのか。 俺は頷いた。多少腹は立つが、それ以上に初めて自分の方から動ける高揚感の方が強かった。 「行こう。これからすぐ」 「よし、行こうぜ。腹ごなしの散歩には丁度良い」 「そーね、ちょうどよかったんじゃん? 途中にスーパーあるからカツオブシと紅ショウガ、買い置きしておきなさいよ」 「んだよ根に持つなよ。おまえが拗ねたって可愛げねえんだから」 「あらあら。酷い言い草じゃない? ねえ蓮くん」 司狼と本城……二人はいつものペースだった。自然体というか、強がりでもなんでもなく腹ごなしの運動程度にしか感じていないみたいだ。 でも、これはピクニックじゃない。社会見学で電波塔に登りましょうって話じゃないんだ。 本城の予想が当たっていれば、そこには遅かれ早かれ連中がやって来る。スワスチカを完成させるために。出会ったら最後、戦いになる。それは命のやりとりになるだろう。 もちろんそれは分かっているはずだ。司狼も、本城も。でも二人はいつものままだった。俺が何を言っても止まらないだろう。もちろん俺だって、事ここに至って何か言うつもりはなかったけれど。 「じゃ速攻で出ようぜ。善は急げだ。ついでの買い物、他に何かあるか?」 「ついでって……私も行くけど」 「いや、おまえは香純を見ててやれ」 「大丈夫でしょ、ここなら。もう開いたスワスチカに、あいつらが近づくはずないし」 司狼がさっき言っていたことが間違いないなら、奴等はなるべくスワスチカには近づきたくないはずだ。下手に立ち寄って、偶然俺と戦闘になって万一負けた場合、単純な戦力減少になってしまう。そういう意味では、ここはどこよりも安全かもしれない。 だが、それなら―― 「本城も残れ。ここの方が安全だ」 「蓮くんまで馬鹿なこと言わないでよ。そういうことは、あっちの体ぼろぼろにしてるヤツに言うべきでしょ」 「おいおい。今度はこっちに矛先かよ」 そうだった。あまりにいつもどおりなんで忘れかけていたが、司狼も本来ベッドに縛り付けられているような有様だ。 「司狼、おまえもここで香純を――」 「行こうぜ、エリー。自分の面倒は自分で見ろよ」 「今更」 「おまえらなあ」 「多数決で決める? 蓮くんが一人でいくべきか」 「ここまでオレらに頼っておいて、一番おいしいトコ独り占めってその根性は関心しねえぜ」 いきなり同時に二人が敵に回る。 この二人はパートナーだ。相身互い。ベストハーフ。本当に同格の、相棒同士。 でも俺は…… 「…………」 ソファに近づいた。横たわる香純を、無言で見下ろす。 「…………」 香純の息は安定していた。さっき浮かんでた苦しい表情ももう解けている。夢も見ない休息の刻。これなら大丈夫だろう。鍵を掛けていけば、ここに入ってくる人間は誰もいない。 「誰か一人見張りに残すなら、おまえって手もあるんだぜ?」 「……バカ言うな。行くぞ」 「おう」 「折れてる腕、いちいち振り上げるんじゃないの、バカっ」 俺たちは出発した。香純の眠るこの部屋に、厳重に鍵を掛けてから。 「お揃いで、何か相談でも?」  その声は高くもなく低くもなく、威圧するでもなく宥めるでもない、ただ静かな声だった。  だというのに、高まり、〈鬩〉《せめ》ぎあっていた二人の間の空気が、今にも沸点を超えようとしていた殺気と殺気のぶつかり合いが、そのたった一声で消し飛ばされていた。 「――――」  駆け抜けたのはただの音ではない。それは、存在力そのもの。  それまで感じることもなかった存在感が唐突にその場に現れたのだ。二人分の闘気、殺気がそれだけで押しのけられる。  金色に輝く、闇の気配に。 「聖餐……杯猊下……」 「クリストフ……」  ヴィルヘルムの声は、決して友好的ではなかった。しかし―― 「――へっ」  そのまま喉元に食いつきかねない殺気は、宿主自身の肩が小刻みに揺れると、振り落とされた。 「どうかなさいましたか?」 「いえ……」  ヴィルヘルムを横目で警戒する。悪意に満ちたこの男の事だ。あっさりとルサルカ殺しをぶちまけたとしてもおかしくはない。  その時は―― 「なんでもねえよ、クリストフ。あんまりにものどかで退屈だからよ、俺たちで一つ模擬戦でもおっ始めようかと思ってただけさ」  意外にも、ヴィルヘルムはそうしなかった。  ルサルカの死、もっと言えば仲間殺しを〈咎〉《とが》めるつもりはないというのは本音のようだ。 「ほう、随分と余裕がお有りなのですね。マレウスを失ったばかりだというのに」 「ありゃあ、あのズベが間抜けだったのさ。なあレオン?」 「…………」  邪悪な光を湛えた赤い瞳から、螢は視線を逸らした。  その赤を覗き込んでも、恐らくは狂気しか見ることは叶うまい。あらためて、それを悟ったのだ。 「それはそうと、レオンハルト」 「はい」 「カインを封印したようですね?」  トリファの言葉に、居住まいを正す。動揺を、そして真の目的を、悟られてはならない。 「カインは暴走し始めています。バビロンが、自壊して以来」  彼らは、少なくともそう説明を受けていた。リザは寿命で死んだのだと。  有り得ない話ではない。肉体的には不老かつ、ほぼ不死に近いと言っても、核となるのはその個々人が持つ人としての魂だ。  人間の魂は、百年も存在すれば〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈る〉《 、》。元々そういう創りであり、この理は甘くないのだ。  ゆえに、実年齢が九十歳以上のリザは危険域にあったと言っていい。加えて彼女は人間臭さが抜けなかったし、ルサルカのように数百年単位で持ち堪えるような生き汚さとは無縁だった。  自らの役目であった第三の開放……それを成したことにより、気が緩んだという可能性は大いにある。タイミングが出来すぎているような気もしたが、螢はそう思うようにしていた。  しかし――  ヴィルヘルムは笑っていた。くだらない茶番劇を見せられているとでも言わんばかりに。  螢はそれを一切無視して。 「カインは、コントロールを失っています。しかも、その後の対応がよくありませんでした」 「マレウスですか」 「はい――」  その名ではもう、動揺は無い。 「彼女のやり方は、カインの肉体に無理を強いていました。今の彼は、もういつ砕けてもおかしくない。つまり効率を考えての事です。カインの戦力劣化を最小限に留める為にも、稼動時間は抑えておくのが肝要かと」 「だとしても――です」  指を立て、首領代行は言った。 「すぐ封印を解除してください。これは、カインが必要な指令なのです」 「…………」  あくまであっさりと、トリファは言った。〈反駁〉《はんばく》しかけて、飲み込む。 「お忘れですか? これはハイドリヒ卿の決定ですよ。あの方は仰いました、カインを放てと」 「それは――」  ラインハルト・ハイドリヒ。愛すべからざる光。黒円卓の第一位。聖槍十三騎士団が首領。  その名は、全ての反論を封じる魔力をもっていた。 「それに――これは通過儀礼なのですよ。レオンハルト」 「通過儀礼……?」  しかし、螢に問い直す間は与えられなかった。トリファは続ける。 「あなたの、黒円卓への忠誠心を量る為のね。入団経緯の特殊性を考えれば、このような試験も致し方ないと考えてください」  一瞬、螢の脳裏で帰らぬ赤毛の魔女が〈嗤〉《わら》い、薄れて消えた。 「……承知しました、猊下」  言葉を呑みこみ、頭を垂れる。選択の余地は存在しなかった。 「よろしく頼みましたよ」 「……必ず」  返礼し、螢は暗闇へと引き返す。カインの眠る氷室へと。  回廊の闇奥へと消えていく螢の背中が見えなくなると、トリファの眼鏡が白貌に向いた。 俺はタワー広場に立ち、顔をしかめた。 「…………」 「んー……?」 タワーには、まったく活気が無かった。 人の気配、命の気配が無い。 「ここ……何の建物なんだっけ」 「展望タワーだろ? 確か電波塔も兼ねてんだよな」 「中の階はコンベンションホールとかにもなってるわよね。いや、そんなことは分かってんのよ」 「…………」 コンベンションホール。やっぱりここもお〈誂〉《あつら》え向きだ。スワスチカを完成させる条件――大量の生け贄ってのを集めやすい。 「ふうん……ま、言いたいことは分かるぜ」 司狼がタワーを見上げて頷く。 「それにしちゃあ静かすぎる」 「嵐の前の……ならいいけどコレ、後の祭りってことはないわよねえ?」 そうか、と俺は気が付く。 これを感じているのは、俺だけか。 「……二手に分かれよう」 俺は提案した。マフラーの上から、首を押さえる。 「いいの? 戦力が手薄になっちゃわない?」 「大丈夫だ」 「なぜ?」 「ここは、あまりにも人の気配がないだろ」 「生け贄が足らない?」 「そう……いうこと、かな。クラブで見たろ。普通の人間だと相当殺す必要がある。けどここの様子じゃ……」 「なるほどね……生け贄が居ない場所には近づく意味がないってことか」 「……おい」 司狼がにやっと笑った。そしていつもの、ふざけてるんだか真剣なんだか分からない口調で言った。 「もう完成してる……って話だったら、どうする?」 「コンベンションホールの扉開けたらよ、死体がゴロゴロなんだ。みんな行儀よく椅子に腰掛けてて、よく見りゃ首から上が無い……そしたら、どうする?」 「それなら、どのみち一緒だ。戦力は必要にならない。死体は襲ってこないからな」 「なるほど、そりゃもっともだ」 「よし、別々に行こうぜ。俺たちは下から昇ってく。いいよな?」 「え?」 「逆にするか?」 「……あ、いや。じゃあ、俺は上から降りてくることにするよ」 考えすぎだろうか。司狼はもしかして、全部分かっているんじゃないかと思うことがある。多分そう思わせることこそが、こいつの会話術なんだが。 「OK。階段で上がるから、真ん中らへんで合流しようぜ」 「本当にホールが死体だらけだったらどうするの?」 「キャーって叫べよ。大声で。二人揃って」 「ふざけんなっつうの。おまえこそ助けて欲しくなったらタスケテーって叫べよ」 「そうしたら助けに来てくれるのか?」 「さてねえ。とりあえず笑うだろうな」 「絶対叫ばねえ」 「じゃ、私が先に行くから。怪我人は後ろからついて来て」 「仕切ってんじゃねえよ。おまえこそ俺の後ろからついて来い」 二人は仲良く並んでタワーに入っていった。俺もすぐ後に続く。 一階は完全に無人だった。司狼たちは階段で二階に上っていった。 エレベーターは生きていた。上りのボタンを押すと最上階から――展望台から降りてきた。つまり、誰かが展望台にいるって事になる。 「…………」 ガラス張りのエレベーターは、途中どこにも停まらずに昇っていく。 考えてみれば、こんな簡単なことを司狼が見逃すのも不自然だった。せめてエレベーターがどこに止まっているのかくらいは、あいつなら確認しそうなもんだ。 と、いうことは―― 「気付いてんだろうな。あいつ」 それが、ヤツの感覚によるものなのか、それとも俺の様子から察したのかは分からない。でも、それでも―― 俺が、展望台に用事があることを、あいつは気付いていたんだろう。だからあえて、俺を上の担当にした。意識はしていたのだが、展望台を見上げる俺の目は、あいつにとってはよほど雄弁に見えていたんだろう。 「居るのは……誰だ?」 そう。俺は気付いていた。 ここに、奴等がいるのだということ。 気配を、隠してはいる。だがそれは、存在を隠すためではない。まるで、感情を押し殺しているかのよう。奴等独特の、垂れ流される殺意が無い。 これは、誘いか……? 「だとしても」 簡単な消去法だ。誰がいるのか、俺には想像ができている。 このやりかた――ヴィルヘルムではありえない。 だとすれば、もう―― 命のやりとりに、なるだろうか。そうなるならば、二手に分かれたのは正解だ。相手が聖遺物持ちなら、司狼や本城は足手まといにしかならない。 ぐんぐん下になっていく町並みを見下ろしながら、俺はいつしか、自分の二の腕を抱きしめていた。 長く引き伸ばされた十数秒の後、俺の前からエレベーターの扉が左右に退いた。 「……そうか……」 俺はエレベーターを踏み出し、自分に言い聞かせるように呟いた。 「おまえか。櫻井」 「…………」 展望台に差し込む月明かりを、二つの人影が切り取っていた。 「そして……」 俺は、視線を引き付ける巨漢へと目をやる。無論―― 「……カインも」 「……惹きあうものね」 〈嘆息〉《たんそく》するような、櫻井の声色。 「誘っているわけじゃなかったのか?」 「見ておきたくなっただけよ。この街を。あと、少しだけ仲間にさよならを言いたくなっただけ」 櫻井は顎を引き、じっと俺を見据えていた。覚悟の決まった目だった。 そして、俺もまた。 叩きつけられる視線に、俺も視線を返す。ここで戸惑っては、死ぬ。 睨み合いの中、先に口を開いたのは櫻井の方だった。 「斬り結ぶ前に、ちょっとお話でもしておきましょうか。それともいきなり始めたい?」 「……いいや。俺としても、できれば丸く納めたいんでね」 「そう……」 カインの腕が動いた。手に持つ巨大鉄塊が刃鳴りする。だがそれを、櫻井は手をかざして制した。 「これ、〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》っていうんだけど」 「意味合い的には、いわゆる陰打ちって言ってね。神剣の劣化品。二振りある中で、出来の悪い方を公の目に晒すの」 「それは真打ちを秘匿して神秘性を高めるためだったり、単純に乱暴な扱いから守られるようにだったり、まあ有り体に言えば、広告塔代わりの偽物かな。これは黒円卓のために創られた、聖槍の陰打ち」 「本当の運命の槍は、ハイドリヒ卿にしか使えないし触れない。だから、こういう物が必要だったみたい」 櫻井は訥々と、自嘲するような声で言う。 聖槍の陰打ちとは、つまり複製品のことなのか。 あれが? それだと? 「私がするのは、〈陰打ち〉《それ》を創らされた運の悪い家の人たちの話」 「当初の黒円卓はね、ハインリッヒ・ヒムラー長官……彼が首領だったんだけど、言ったように本物の聖槍は、ナンバー・ツーのハイドリヒ卿にしか使えない。これじゃあ面子が立たないってわけ」 「だから長官は、真槍を表向き世の穢れから秘匿するためとか、そういう理屈で封印して、自分にも使える陰打ちが欲しかったのよ。いずれそれこそが本物だと喧伝して、ハイドリヒ卿ごと真槍を葬るために」 「そういう理由で、陰打ちは秘密裏に創られなければいけない。しかも、見た目が似てるだけの粗悪なコピーじゃ意味がない」 「本物と摩り替えてもバレないように。精巧で精密で、真に迫る陰打ちがいる。だから、日本のある一族に白羽の矢が立てられた」 「そこの家は、代々神職でね。ちょっと珍しい金属の精錬方法を知っていたの。目をつけられた理由はそこでしょうね。だって本物の聖槍は、朽ちず錆びず決して折れない……ただの鉄じゃないんだもの」 「それが……」 カインを、そして陰打ちという鉄塊を見ながら、櫻井は言った。 「私の家。私の曽祖父はドイツに呼ばれて、この陰打ちを創らされた」 「でも可笑しいのよ。もともとは〈小物〉《ヒムラー》でも使えるようにっていうのがコンセプトだったはずなのに、結局それも、凄く持ち主を選ぶ代物になってしまった」 「ある意味、当然なのかもね。だって曽祖父は、真に迫る偽物を創れと言われた。だったら誰にでも使えるものが出来るわけないじゃない」 櫻井は笑っている。泣きながら笑っているように引きつった顔で話し続ける。 「運命の槍の陰打ち……〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》は、創造主である櫻井の一族にしか使えない。いいえ、櫻井の一族だけを狙い打つの。〈他〉《 、》〈の〉《 、》〈魂〉《 、》〈は〉《 、》〈一〉《 、》〈切〉《 、》〈吸〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 それは、つまり―― 「私達は、もう六十年以上〈陰打ち〉《これ》に吸われ続けている」 「逃げられないのよ。櫻井は槍に吸われて生きる屍になる。そうなった者を黒円卓ではカインと呼ぶ。そうして十年、二十年、肉体維持が限界を超えたら、また次の櫻井が選ばれるの。選ばれてカインになるの」 「じゃあ、そいつは……」 その動く死体は、櫻井の家族なのか? そして今のこいつが滅びれば、次は櫻井がカインになると? 「この〈カイン〉《かれ》は、三代目。十一年前まで、私が兄さんと呼んでいた人よ」 「――――――」 正直、俺は絶句していた。しかしその半面で、なるほどと妙に納得してもいる。 トバルカインは、櫻井の血縁者で構成された〈群体〉《レギオン》だ。あの陰打ちという槍の中には、こいつの家族が詰まっている。 「誤解しないでね。生前の兄さんは、こんな有様じゃなかった。格好良かったし、ハンサムだったし、優しかったし、強かった」 「代を重ねるごとに、彼らは肉の総量が巨大化していくのよ。より強く、より堅固に、フランケンシュタインね」 「これが私の、戦う理由」 「これが私の、死ねない理由」 こいつは、家族を救うために。 「ハイドリヒ卿の恩恵は、死人も蘇らせてくれる。不死創造……黄金錬成とはそういうものよ」 「私たち櫻井は、ずっとずっとその日を待ったの。この陰打ちから解放される日だけを夢見て」 「ずっとずっと戦ってきたの。大好きな人たちを取り戻したくて」 「だから言ったでしょう。自分だけが愛と正義のヒーローだなんて思い上がるな。私はあなたの動機なんかに、微塵も負けてるつもりはない!」 「譲れないのよ、藤井君。誰だって優先順位がある」 父親と母親のどちらかが助かり、どちらかが死ぬ。ならばいったいどちらを選ぶ? 大事な家族と赤の他人の命を天秤に賭け、はたして一対一は成立するか? 答えはNO――誰だってそうする。俺だってそうする。学校で香純の救助を優先し、名前も知らない一般生徒を見殺しにした事実は揺るがない。 だからこいつは、何の縁もない諏訪原市民八十万を皆殺しにしたところで、別に構わないと思っている。 「そうかよ…」 そして、俺は痛感した。こいつとは、もうどうやっても相容れないということを。 「おまえの理屈は分かった。けど、だからって俺がどうぞと言うわけがないのは理解してるな」 「もちろん。あなたにとっては、何の縁もない〈私〉《たにん》の理屈で生活が壊されようとしてるんだもの。抵抗するのは正しい」 「でも、私だって自分が間違ってるとは思ってない。つまりそういうことなのよ」 「どちらが正しいでも、間違ってるでもない」 これは、フェアだと。公正だと。 「ごめんなさいね、こんな話をして。だけど私はどうしても我慢できなかった。あなたが、彼をただの化け物みたいに思うことが」 「そんな風に思われたまま私が勝っても、あなたは気持ちよく恨むことができるもの。絶対悪に殺された哀れな被害者……そんな似非臭い役柄、のうのうとやらせはしない!」 「私は私の正義があって、信念があるの。それを知ってほしかったって、ただそれだけ」 「さあ、これでお喋りはお終い。始めようよ、どっちが勝つか」 そして。 先に構えたのは俺。右腕に現れるのは処刑道具。首を刎ねる分厚い刃。 同時に櫻井の手にも、赤い〈剣〉《かたな》が握られていた。 カインはじっと動かない。櫻井と俺が命のやりとりを始めるのを、そのまま見守るつもりなのか……? その仮面の下からは、何の感情も伝わってこない。 「……勝てるつもり? その鈍重な刃で。私の剣に」 「勝つ? そういう言いかたは、俺には適当じゃないな」 「……どうして?」 「おまえの〈剣〉《かたな》は、勝負の道具だよな。戦いのための武器だ。だから勝った負けたって話になる」 「でも、俺のは違う。俺のギロチンは……っっ!」 皆まで言わないうちに、赤い〈剣〉《かたな》が真上から振り下ろされてきた。それを分厚い刃が受け止める。俺の刃の方が重くて厚いけれど、櫻井の刃の方が、鋭くて速い。 「―――ッ!」 「く、ァ…」 鍔迫り合い。金属の軋り音を立てながら、二つの聖遺物が魔術の火花を散らし合う。どちらもその一斬りでお互いの使い手の命を奪う刃だ。俺は退けないし、櫻井も下がれない。 「俺のギロチンは……その続きは?」 爆発するかのような殺気で襲い掛かってきていた櫻井は、一転凪いだ海のような静かな口調で尋ねた。 「……俺のギロチンは、処刑のための道具だ」 「裁くだけ……そう言いたいの?」 赤い刃が上から押してくる。だが力比べならこっちが強い。厚くて重い刃が、鋭くて軽い刃を押し返していく。櫻井の顔が少しだけ歪んだ。 「じゃあ勝負をしに来いよ。勝ちに来い」 「ええ。言われなくてもそうする……わ!」 櫻井は激しく体をよじった。ガキガキと激しい刃鳴りがするが、赤い〈剣〉《かたな》はもう動けない。 「……つあっ!」 「どうした。勝ちに来るんじゃないのか」 「んっく……」 俺だって察している。 櫻井の様子は、おかしい。 聖遺物を用いる闘いでは、殺気と殺気のぶつけ合いであり、比べ合いでもある。闘気、殺気、それを根源とした魔力が上回った方が勝つ。 技術は、実は二の次だ。そうでなければ、殺しの技術を半世紀以上磨き続けた連中に、俺が敵うはずも無い。技術だけであしらうつもりだったとすれば、俺も相当舐められたものだが、そんな慢心、櫻井がするとは考えにくい。 櫻井はその殺気を、その燃焼によって生じる魔力を、ある程度以上にならないよう抑制しているように見える。こっちの隙を見抜く集中力も足らない。一体何を気にしているのか。 「んんん……」 体勢は、俺の方が強かった。分厚い刃の重みが、鋭い刃をガッチリ抑え込む。 だが、そこまでだ。〈膠着〉《こうちゃく》状態。俺はこの姿勢を解けない。解いたが最期、今度はあの深紅の月が下弦に上り、俺の首を狙ってくるだろう。もう一撃受け流す自信はなかった。だから俺は叫ぶ。 「離せよ、そいつを……。そしてとっとと逃げろ。そうすれば……処刑しないでおいてやる」 「……寝言を言わないで。勝負の最中よ……」 俺の目を、櫻井の強い視線が受け止め、弾き返す。〈鬩〉《せめ》ぎあう殺気と殺気。燃え上がった魔力がうねる。その瞬間―― 「―――――」 突如、いきなりの爆発。 「なッ――!」 俺と櫻井の鍔迫り合いに踏み込んできたのはトバルカイン。その長大な鉄塊が振り下ろされる。 「つあァッ――!」 体が勝手に動いていた。右手を前に突き出しながら後ろに飛び退る。ガィン!と震える手応え。ギロチンの分厚い重たい刃が、自分より分厚くて自分より重たい刃で弾かれた振動! 「っ!!」 ものすごい踏み込みだった。雄叫びと一緒に一瞬で間を詰めてきた。反射的に後ろに飛んでなければ、そして俺の右腕がギロチンでなければ、サクっと真っ二つにされていたところだ。 だがカインは、それ以上の追撃はせず、唐突に動きを止めた。 「…………」 「…………つはあっ!」 止まっていた呼吸が荒く再開する。吊り上がり一瞬フリーズしていた心臓が早鐘を打ち始める。 「はあっ……はあっ……!」 「カ……イ……!」 「…………」 仮面の下から、カインが俺を見ている。倒れている仲間を気にかける様子はまったくない。その眼は俺だけを見ている。目の前にいるやつは、それが人間であれ、人間以外の何物であれ、ただ排除して前に進む――殺人機械のレーザーポイントのような視線。 そして。 「ぐおォッ!」 受け止めた衝撃は物凄い手応え。まるで全力稼働している大出力チェーンソー同士を打ち合せたようなショックに全身の骨格が軋み、内臓が悲鳴を上げた。 「ぐあ……っ!」 そしてカインは、また動きを止めた。 これはあの、クラブの時と同じだ。この化け物、外部からの指示がなければただ、殺気に反応するだけか。 「つッ、……は……」 俺は無様に喘ぐ。だがカインはまったく乱れない。生き物だという気配すらない。戦いの為に作られた人形。“処刑できない”相手。 このままだと殺られる。あれと武器を打ち合せちゃいけない。 だから―― 今度は躱した。受けなかった。大槍は俺がコンマ数秒前までいた空間を貫く。 ――今だッ! 「ぅおらああァァッ」 目の前にある大槍の柄。俺は右腕を、その柄に沿って滑らせた。その先にはカインの腕がある。腕は肩につながっている。そして二つの肩は首で合流する。狙い目はただ一点、そこだけだ。 「――ッ?」 火花が散った。また金属どうしの手応え。だが今度は骨格に響かない。チェーンソーのようには軋まない。 俺の刃を止めたのは櫻井だった。カインの巨体の後ろから、細い体が現れる。 「……やらせ……ない……ッ」 視線が絡み合う。文字通り火花を散らしているように。 「くッ……」 だが、今はこいつの相手をしている場合じゃない。 「どけよ…」 すっこんでろ櫻井。こいつはさっき乱入したカインの一撃を躱し損ねている。戦力の減耗した奴を相手にしてる場合じゃないんだよ。 なぜなら―― 「つおォォォッ!」 「きゃああああああ!」 こいつを前に、気を逸らしている余裕なんかない。 突如、大槍が爆発したように見えた。 同時に奴の全周囲、四方八方にほとばしる閃光。そして破壊的なエネルギー。直後、追うようにフロア中を駆け抜ける甲高い蛍光灯の破裂する音。 これは雷撃だ。放電の爆発に直撃されて吹っ飛ばされる。もちろん櫻井もお構いなしにその破壊に巻き込まれ―― 視界の隅に跳ね飛んでいくあいつが見えた。俺よりずっとカインに近かった櫻井の方が、むしろ重大なダメージを受けている。 「がッ……ぐッ…」 たった一瞬の放電。まったく制御されていないエネルギーの奔流。ダメージの大部分はギロチンが防いでくれたが、眼窩の底でマグネシウムフラッシュを焚かれたようなきな臭さが鼻腔に残った。 そして…… 「ぐ、うう……カ……イン……」 櫻井がカインの名を呼ぶ。しかしこいつは何も答えない。その声は分厚い仮面に遮られ、カインの耳には届かない。 爆発する雷光―― それが俺に放たれた。しかも今度は一瞬じゃない。完全に未制御で破壊的なエネルギーの奔流。 「ぐああああ……っ!」 またギロチンで防ぐ。だが押された。俺の体は展望台のガラス窓に激しく押しつけられた。肺がひしゃげそうになる。 だが、櫻井は…… 「やめて……やめて!」 櫻井は、カインの腰にしがみついていた。片手でしがみつき、もう片手で剣を構え、雷撃を弾く。だがその剣は細く、雷撃は容赦なかった。櫻井の服を、皮膚を、肉を破っていく。でも櫻井はカインの腰にしがみついたまま、絶叫を続けた。 「よしなさいカイン……あなたは戦っては駄目ッ」 この瞬間、俺はさっきまで櫻井を圧倒できていた理由に気が付く。櫻井は、これを恐れていたのだ。 俺と櫻井の戦いに、魔力と殺気に〈中〉《あ》てられて、カインが起動してしまうことを。おそらく、シスターによってコントロールされていたカインは、術者をなくして暴走し始めているのだろう。 「お願いやめてえ!」 櫻井の絶叫は、しかしカインに届かない。 強烈な光が目を焼く。目前に突然太陽が現れたかのような、青白い〈帳〉《とばり》が視界を覆い尽くした。衝撃を伴う膨大な光の奔流。一瞬にして俺は全てを奪われる。 視覚。聴覚。嗅覚。触覚。味覚。 瞬時にして外界との接触を断ち切られ、俺は光に焼き尽くされた暗闇へ放り込まれた。 肉体が軋んでいる。だが感覚が訪れない。自分がどうなっているのか、知覚の全てが遮断された。 そして。 「――――ッ!」 ギロチンで体をかばう。同時に前方向、その白熱が放たれる源があろう方向へ向かって“活動”を全開にする。 一瞬だけ意識が飛んで…… 俺は、虚空にいた。 衝撃は感じない。今までで最大級であったそれを感じずに済んだのは、幸せだったろうか。まずは視覚が、続いて皮膚感覚が。嗅覚、聴覚の順に戻ってくる。意識が断絶していたのは、おそらくはほんの瞬き一つ分の時間。 だがそれで、十分だった。 落下感覚。今、俺の体を支えてるものは何もない。 俺の体は、宙を舞っていた。周りは夜空。足下方向にゆっくりと遠ざかっていく展望台の窓。俺と一緒に飛び散った壁やらガラス窓の破片、その一つ一つのスローな動きがはっきりと見えた。 「…………」 「……なるほどな」  その時、俺の中で何かの撃鉄が下りた。 「なるほど……」  ああ、本当になるほどだ。これは断じて、死に際の走馬灯なんかじゃないと理解できる。  俺に死ぬ気はないし負ける気もない。これはあくまで、この戦いを生き抜くために発現させている時間感覚の変調。  そうだ、ルサルカは言っていた。  創造位階はルールの創造。自分に都合のいい価値観、常識、誓い、祈り……それらをもって現実の〈常識〉《ルール》を侵食すること。  あいつが、おそらくはその嗜虐性から発現させた不動縛の呪いを操ったように――  俺が望むもの、俺が願う世界と価値観。  それはなんだ? 言うまでもない。  時間が止まればいい。 「今が永遠に続けばいい」  いつもそんなことを思っていた。  好きな日常を失いたくなかった。 「それなら……」  今この時、この一瞬、その〈願い〉《ルール》を創造するなら他に何時があるという――  だからこの場で、声に出せ。魂に刻まれた渇望を具現化しろ。  俺は死ねない。死んではいけない。  また再び日常へ、待ってる〈香純〉《あいつ》の所へ帰るんだ。 「時間が――」  祈るんだ、何より強く。 「止まればいい――」  その瞬間、一気に視界は開かれた。 「―――――」 時の体感速度を引き伸ばす……そうやればどうなるか、なんとなく分かった。だから俺は、目を見開いた。 「…………」 そこには確かに“道”があった。カインの雷撃で吹き飛んだガラス片。窓枠。そして壁……無数の残骸が。それらは俺の体に合わせるように、ゆっくりゆっくりと動いていた。 「よっ……と」 そのうちの一つ、大きめの窓枠を掴んだ。そして引き寄せる。もちろん固定されてるわけじゃないから、体を支える役には立たない。だがそいつの重みの分だけ、俺の体もそっちに動いた。頭が下だった体勢が立て直せる。 「……っと」 次はガラスを踏む。体重を掛けるとぐぐっと下がったけれど、似たような破片はいくらでも浮いていた。一つが沈みきる前に、別の破片へと次々に足場を移しつづける。一つ踏むごとに俺の体は少しずつ上昇していった。 「……っ! ……っ!」 壁のでかいコンクリ塊に手が届いた。俺の何倍か目方がある石塊だ。ありがたい。手をかけて掴む。引き寄せ、足場にして思い切りジャンプした。俺の体はゆっくり宙を泳ぎ、展望台の窓まで届いた…… 展望台の床に着地したところで、ちょうど創造の効果が消えた。危険を脱したからなんだろう。まだ完全にコントロールできないようだが、今はとりあえずこれでいい。 時間の体感速度が通常に戻るなり、俺は派手につんのめり、踏ん張りが利かないままに前転し、向かいの壁に激突した。 「あぐ……っ!?」 したたかに背中を打った。強烈な衝撃が全身に走る。めまい。吐き気。俺はその場に派手に嘔吐した。 「…………え?」 「う……ぉ、ぇ! ぇぇ……あ、うぉぇ……! がはっ、げほっ……」 カインの電撃は止まっていた。ラッキーだ。今度ふっ飛ばされたら、残骸群の足場はもう空中にはないんだから。 「そんな……そんなバカな……」 櫻井は、カインの足下に倒れこんでいた。首だけを上げた姿勢で固まって、驚愕しているが無理もない。雷撃の爆発でふっ飛ばされた俺が空中を走って戻ってきたんだから、足場が何であったかなどおそらく分かりはしないだろう。 櫻井のさっきの絶叫が通じたのか、カインはじっと動かなかった。思うさまゲロを吐きまくってから、俺はよたよたと立ち上がった。手で口を拭いながらカインを睨みつける。 「はぁっ……はぁっ……ははっ。すげえだろ。もう一度やれっていわれても、ゴメンだけどな」 「藤井くん……あなた……」 「……って。なんだよカイン。あんた、もうボロボロじゃんか」 動かなかったんじゃなくて、動けなかったらしい。カインの体は、まるでミイラみたいにぼろぼろと剥がれ落ちはじめていた。もうじき全身が崩れ落ちるだろう。 「駄目……来ないで。来ないで……!」 俺の闘気に応じて歩き出そうとしたカインの腰に、櫻井はしがみついた。先刻の、展望台の外壁を吹き飛ばした雷撃を間近で受けたはずの櫻井は、高圧電流でおそらく俺よりもずっと体の自由は利かないはずだ。 櫻井の抱擁は、カインを止めることはできなかった。ただ、崩壊を遅らせる役にしか立たない。 「トバルカイン……」 俺は、ゆっくり二人に近づいていった。 こいつを見逃すことはできない。たとえどんな事情があるにせよ、学校で救えなかった一般生徒のことを俺は忘れていないんだ。 ケジメは、つけなくちゃいけない。 「くっ……!」 櫻井がカインから手を離した。よろよろと立ち上がり、俺へ剣を向けようとする。 「くあっ……!」 だがそれは叶わず、床の上に崩れ落ちた。精神力ではフォローできない肉体の限界。雷撃をもろにくらったその体は、感電してまともに言うことを聞くはずもないのだろう。 「……櫻井は、おまえを守ろうとしていたのにな。もう、敵も味方も分からないのか」 こいつは櫻井の兄だと聞いた。ならば嫌だろう。暴走したその様を、これ以上妹に見られるのは。 「終わりにしてやるよ」 生前のこいつがどういう奴だったかは知らないが、死体になってまで戦わされる境遇が好ましいとは思えない。歩み寄る俺の前で、その左腕が根元から崩れ落ちる。 こいつは、もう駄目だ。シスターがいないことで、身体の崩壊を止められずにいる。 だから、せめて速やかに―― 自らの身を滅ぼす咆哮。それに呼応するようにカインの手にした偽槍が激しく発光し、黒の雷を纏う。再び、あの雷の雨を降らそうとしているのだ。 しかし、すぐ目の前に立つ俺がそれを許すはずない。 走る断頭の一閃で、カインの首がぐらりと傾ぐ。そのまま一滴の血も漏らさずに離れ落ち―― 「……あ……あ……」 あとには、大槍を手にしたカインの胴体だけが残された。 が―― 「―――――」 首を落とされたカインの肉体はまだ動く。残った腕一本で、再び大槍を振り上げると打ち下ろしてきた。 「なるほど、一撃ってわけにはいかないか」 推測するに、これこそがこいつ本来の恐ろしさ。 不死の肉体。 初めてクラブで会った時のコンディションならば、もしかしたら首を失った状態からでも再生したのかもしれない。 だが―― 「もう、終われ……ッ」 ギロチンが月明かりに舞う。 逆袈裟に、横薙ぎに、袈裟懸けに。反応する前に回り込み、そして横。斬り上げ、振り下ろす。 裏から逆三角を描き、表から三角を重ねる。 転がった首からではなく、巨大な槍が轟哮した。櫻井が言うには、聖槍の陰打ちとやら――そうか、本体はそっちかよ。 その、屍兵最後の一撃に、俺もまた全霊の魂を込めて―― 走る刃と刃が激突し、轟音と共に爆ぜたのは呪いの偽槍の方だった。同時に、そこに込められた魂が散華して六番目のスワスチカが開く。 その声なき絶叫、死せる巨人の断末魔を聞きながら…… 再び視界が開けたとき、もうその姿は何処にもなかった。 「…………」 俺は向き直る。もう一つの標的へ。 「…………」 「……櫻井」 名前を呼びながら、櫻井に近づいた。ギロチンは出したままだ。身を屈め、処刑のためだけに在るその刃を彼女の首にそっと当てる。 「…………」 それは攻撃と呼べる動きではなく、おそらくは身をよじる程度で躱すことができたはずだった。でも櫻井の目は、俺を見ていなかった。 刃の気配が皮膚を撫でるこの瞬間にもまだ、転がったままのカインの肉片を眺めている。 「…………」 「櫻井……っ」 大きく右手を振りかぶる。そんなことをする必要はなかったけれど。ただ重みを掛けるだけで、櫻井の首はカインと同様に胴から離れるけれど。でも俺は、大きく右手を振りかぶった。 そして、俺は―― 俺は、その右腕を―― 「……っ……」 それでも……出来なかった。俺は右手を振り下ろせなかった。“気持ちが持たな”かったんだ。 折れた心を表わすように、ギロチンはいつしか姿を消していた。 「どうしたの」 冷たい声が、俺を打った。 「情けを、かけるつもり?」 「…………」 俺は答えない。答えられない。答える気力が無いままに、俺は櫻井の目を、ぼうっと眺めた。 「見下されたものね。わたしを、止めるんじゃなかったの?」 「…………」 答えようと吸い込んだ息も、ため息になって漏れていく。 「……じゃあな」 体を起こした俺は、辛うじてそれだけを言葉にして、櫻井へ背を向けた。 「今殺しておきなさい。でないと、あなた後悔するわ」 「……」 振り返る。櫻井はまるで視線だけで灯をともせそうなほどに、俺を睨んでいた。 けれど、俺にはもうその視線を受け止め、押し返すだけの気力が無い。疲れきっていた。脳の芯がぼやけて、考えがまとまらない。 そしてカインの電撃を浴びすぎた櫻井には、立ち上がるだけの体力が残っていない。おそらくは全身が痺れ、感覚も〈疎〉《まば》らだろう。筋肉の〈弛緩〉《しかん》は気力だけでは補えない。 「死ぬなら、勝手にしてくれ」 〈煩〉《わずら》わしかった。 自分の覚悟が足らないのだと分かっている。だが、俺はこの右腕のギロチンを櫻井の首に振り下ろす、その疲労感に耐えることができなかった。 「わたしは死なない」 櫻井の声には、呪詛があった。 「あなたを殺すまでは」 「……そうかよ」 後ろを振り返らず、階段へ歩く。櫻井と、カインの骸と、そしてあの槍を置き去りにしたままで。 「お! 蓮ー! 無事かよ、おまえ」 タワーから出るなり、司狼と本城が駆け寄ってきた。上の様子を見るため外に出たらしい。 途中で会うかと思っていたが、さっきの爆発を受けてそれでも展望台だけを目指して上ってくるほど〈螺子〉《ネジ》が外れている連中じゃないようだ。 「何? さっきの爆発」 「ああ。罠だよ。ここはもう、攻略済だった」 「え……? スワスチカになっちゃってるってこと?」 「ああ……そうだ。でもって、俺らが来るのを見越して罠が張ってあったんだよ」 「ふーん。よく無事だったな……って。あ、そうか」 「……ああ。そうだ」 右手を叩いて見せる。司狼は頷いた。こいつは俺の再生能力を知っている。 「で? 下はどうだった?」 「どうもこうもねえよ。ひとっ子一人いやしねえ」 正直ほっとする。少なくとも、誰も巻き込まずに済んだのか。 「本当にここ、もうスワスチカになってしまってるの? ……全然人が居ないのと、何か関係とかあるのかしら」 「さあ。そこまでは……。とにかく、用は済んだ。長居は無用だ。撤収しようぜ」 「う、うん……」 ちょっと腑に落ちてない顔の本城を尻目に、俺はすたすたと歩き出した。 「…………おい」 そんな俺の背中に、司狼が声を掛けてきた。 「ちょっと聞くぜ。マジに答えろよ……いいな?」 「……ああ。何だ?」 「展望台には誰も居ねえのか?」 「…………」 「…………」 俺が振り返らず、そして答えずにいると、司狼はもう一度訊ねてきた。 「展望台には、誰か、居るんじゃないのか?」 「…………」 ゆっくりと二人に振り向く。そして俺は、首を横に振った。 「いいや……誰も居ないよ。誰も居なかった」 「…………」 「…………」 「……ん。そっか」 司狼は頷いた。 「よし。じゃあ撤収しようぜ。香純が目ぇ覚ましたら泡食うだろうからな」 俺を追い越して、司狼はクラブの方に歩き出す。本城も続いた。 「……うん。ほら、そっちも早く」 「ああ……」 帰路に踏み出す前に……俺は一度だけ、振り返って上を見上げた。無残に破壊された展望室が視界に入る。 あそこで俺は、一人殺した。トバルカイン……既に人を捨てた化け物のような存在だったが、だが、それでも―― 「…………」 吐く息が白かった。 善行だけをして生きてきたとは言わない。 仕方ないことだったとも言わない。 ただ…… 「冷えるな」 そして俺は、もう二度と振り向かなかった。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 6/8 【Chapter Ⅹ Pallida Mors ―― END】  正直なところ、ルサルカ・シュヴェーゲリンはうんざりしていた。 「ああ、やっぱり“こっち”はいいねえ。しばらく見ない間に随分と様変わりしたもんだよ。その点“城”は、どうも味気なくってね。 ほらアレなんか、キラキラして飴みたいじゃないか。鉄とガラスで出来た塔かい? あんなの昔はなかったねえ」  言葉どおりキラキラと目を輝かせ、目の前の建造物を見上げるシュライバー。学校を後にしてから半日以上、ルサルカはこの調子で彼に連れまわされていた。 「けど、〈シャンバラ〉《ここ》はドイツの何処なんだろう? 面影が無さすぎて分かんないけど、まさかベルリンじゃあるまいし。 ドレスデン? シュトゥットガルト? それともミュンヘン? ハンブルクかい? 正直、デュッセルドルフだったら嫌だなあ」 「……日本よ」  この男はそんなことも分からない……いや、忘れているのか。ルサルカは呆れながら溜息をつく。 「ヤーパン、ジャパン、同盟してた東洋の国があったでしょ? そこの一都市」 「〈日本〉《ヤーパン》?」  不思議そうに目を見開き、やがてシュライバーは手を叩いた。 「ああ、そういやそんな国があったねえ。東洋の……どのあたり? チベットのへん?」 「そのもっと東。中国から朝鮮半島、そこから海を渡った所にある島国」 「中国? 朝鮮? なんだいそれ? そんな国が地球にあるの?」 「だから、あなたは……」  本当にうんざりする。自分は子供のお守りなんかじゃないのに。 「日本語、話せてるじゃない。それがなんでそんなことも分からないのよ」 「だって、言葉は、ねえ……」  歯切れ悪く言いながら、右目の眼帯を指で突付くシュライバー。悪戯を見咎められた子供のように苦笑する。 「“この中に”、その日本人もいたっていうだけだと思うよ。言語野なんてのは共有しやすいからこの通りだけど、食べた相手の記憶や知識まで投影してたら、僕はどれだけ多重人格になるんだって話さ。 アンナだってそうしてるんじゃないの?」 「別に……」  というか、そんなことが出来るのは彼くらいだ。  狩り集めた魂はあくまで聖遺物を揮うための燃料であり、また鎧でしかない。個々一つ一つを情報として分解し、かつ租借するような真似をしていては、それだけで演算能力がパンクする。有り体に言えば、数千人分を超える〈魂〉《ガソリン》の自伝を読みながら、車の運転はできないということだ。普通は間違いなく事故を起こし、最悪の場合、自我を喰われる。  それなのにこの男、いや少年ときたら…… 「ふーん、意外だな。君はそういうのが好きな人だと思っていたけど」  バラし、分解し、観察して弄くりまわす。犠牲者を二重の意味で喰いたがるという、偏執的な嗜虐性……一見は能天気な痴呆としか見えないのに、異常なまでの情報処理力を持っている。だから彼のことは好きじゃない。 「まあ、確かに嫌いではないけど、速読は苦手なのよ」  もし自分にそれだけの演算能力があったなら、知識は無限に広がるのに……と思わずにはいられない。それを可能とするおそらく唯一の少年が、見た目痴呆のようだということも、またなんとも皮肉が利いていて泣けるじゃないか。 「そうかい。まあ君は頭がいいから、そんなことする必要がないんだろうね。羨ましいよ」 「ありがとう……」  もう一度、心の中で嘆息し、肩をすくめたときだった。 「ん?」  甲高い、口笛のような音が響いて、思わずそちらを振り返る。 「なんだい、ありゃ」  見れば、あまりガラのよくない少年少女数人が、こちらを指差して何やら囃し立てていた。  まあ仕方あるまい。見た目自分達は、十代前半から半ばくらいのお子様カップルで、しかも異邦人だ。加えて言えば、漆黒のSS軍装という頓狂な格好をしている始末。  あの手の頭が軽い輩じゃなくても、見ればからかいたくなるだろう。 「ねえ、なんなのアレ?」 「ほっときなさいよ、何処にでもいる暇人だから」  まったく厄日だ。シュライバーなんか連れてるせいで、鬱陶しいのが絡んでくる。  優雅に、いつも余裕を持って、万事に嘲笑的な態度を崩さずというのが自分の信条だというのに。  普段なら、あの手の輩は赤くなって放心するか、せいぜいが携帯のカメラ機能をフル活用することしか出来ないだろう。早い話、憧れと羨望の対象を茶化すような真似は出来ないのだ。  しかしシュライバーには、そういった一種の美的威圧感がない。容姿は天使のように愛らしいが、何処か抜けて見えるのだ。そして、実際にこの少年は大分色々と抜けている。  そう、良心、常識、道徳、美学……人の行動を縛る種々様々な精神的枷が、ごっそり抜け落ちたモンスター。自分の言動すら次の瞬間には忘れているような節があり、行動を律するものが何もない。  強いて例外を挙げるならハイドリヒ卿の命令にだけは従うのだが、あの人は昔から、この少年をほぼ放し飼いにしている始末。  だからウォルフガング・シュライバーは、今も昔も核爆弾のスイッチだらけの部屋で遊んでいる赤ん坊だ。しかもタチが悪いことに、嗜虐性だけは普通の千人分くらい持っている。  なおもしつこく、頭の悪い連中が女性器と男性器の隠語をもじった卑猥な冗談を口にしているのを聞いて、終わったなとルサルカは思った。  あなた達はコレがどういう生き物か知らない。  あなた達の浅い知識と経験じゃあ、想像も出来ない危険生物がいるということを、数秒か数十秒以内に思い知るだろう。  同情はするが、自業自得だ。人間も、〈本能〉《ハナ》が利かなければ生きていけないという真理、その命で勉強すればいい。  ともあれこれで、自分は爆弾坊やのお守りから解放されるし。  と、思っていたら。 「んー、ちゅ」  何を思ったのか、唐突に顔を寄せてきたシュライバーが、その唇を頬に押し付けてきた。 「な……っ」  いきなりのことに唖然とするルサルカを余所に、盛り上がった野次馬連中へシュライバーは笑顔で手などを振っている。 「な、なにをするのよ……」 「んー、だってさ。やれ、やれって、あの人達言ってたじゃない。 僕はまあ、君も知ってる通りの身体だから、彼らの要望どおりの真似は出来ないけど、これくらいならね」 「…………」 「嫌だったかい?」 「別に、嫌じゃないけど…」  というか、くだらなすぎて嫌も嬉しいもないのだけど。 「じゃあよかった」  言うなり、今度はルサルカの身体を抱き上げた。 「ちょっ……」 「お姫様だっこって、これだよね? いやあ、君は軽いなあ」  そしてそのまま、くるくる回ったり飛んだり跳ねたり走り回る。 「な、こら――ちょっとやめてよ、シュライバー」  抗議の声を黙殺して、踊るシュライバーは声高らかに歌いだした。 「〈Silberner Mond du am Himmelszelt,〉《天に輝く銀の月よ》 〈strahlst auf uns nieder voll Liebe.〉《その光は愛に満ちて 世界の総てを静かに照らし》 〈Still schwebst du über Wald und Feld,〉《地に行きかう人達を》 〈blickst auf der Menschheit Getriebe.〉《いつも優しく見下ろしている》」  ドヴォルザークの歌劇、『ルサルカ』――いかに小柄とはいえ、少女一人を抱えたまま羽のように飛んで回って踊る姿は、体重を感じさせない月面舞踏を思わせた。加えて、聖歌隊のように澄んだ高音域のボーイソプラノ。先ほどまで下品に囃し立てていた者たちも、最初は戸惑い、そして次には感嘆の吐息を漏らしだす。 「〈Oh Mond, verweile, bleibe, sage mir doch, wo mein Schatz weile.〉《ああ月よ そんなに急がないで 教えてほしい 私の愛しい人は何処にいるの》」  まるで童話の光景だ。月を背にして跳ね踊る美少年が、美少女を抱いて愛の歌を歌っている。そのパフォーマンスに胸を打たれ、周囲の者達は皆恍惚と目を細めた。  彼らは愛し合っている。きっとここではない何処かからやってきて、また何処かに去るのだろう。  罪穢れの一切を知らないような天使の笑顔。ああ、この少年と、彼の愛する少女に幸せが訪れますように。残酷な世界が彼ら二人を、引き離すことも悲しませることもないように。  およそ信仰心などというものが希薄な現代日本、しかも他者に無関心を常とする都市部の人間が、そろってそう思い、願わざるをえないほどシュライバーの踊りは巧みであり洗練されていた。  そう、人知を超えるほどに。 「〈Sage ihm, Wandrer im Himmelsraum,〉《天空の流離い人よ 伝えてほしい》 〈ich würde seiner gedenken: mög' er,〉《私はいつもあの人を思っていると》」  その跳躍力は、すでに垂直で三メートルを超えていた。見物人の一人、また一人が異常に気付いて目を見張り、そしてついには絶句する。 「〈leucht ihm hell, sag ihm, dass ich ihn liebe.〉《ああ 伝えてほしい 私があの人を愛していると》」  〈タ〉《 、》〈ワ〉《 、》〈ー〉《 、》〈の〉《 、》〈壁〉《 、》〈面〉《 、》〈を〉《 、》〈歩〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈上〉《 、》〈り〉《 、》〈だ〉《 、》〈す〉《 、》〈少〉《 、》〈年〉《 、》。キャットウォークのような爪先立ちで、重力に逆らい夢の光景を演出している。  とびっきりの悪夢を。 「〈Sieht der Mensch mich im Traumgesicht,〉《愛しい人が 夢の中に私を見るなら》」  ガラス張りの壁面を、銀盤に見立てて〈回転跳躍〉《アクセル》――  フィギュアスケートでも〈四回転半〉《クワッド》が最高難度とされているその技を、助走なしの上に壁面で、シュライバーは一気に十倍以上更新した。 「――――」  唐突な加速と遠心力に、さすがのルサルカまでもが息を呑む。高速回転しながら突っ込む先は、先ほどまで彼らを囃し立てていた少年少女のグループ。 「〈wach' er auf, meiner gedenkend.〉《その幻と共に目覚めてちょうだい》」  歌う竜巻は腹の部分が膨れた楕円だった。ルサルカの両手を持ち、振り回している。  ダンスパートナー兼、撲殺用途の鈍器として。  ――いや、撲殺ではなく轢断だった。  一気に四人、高回転で振り回される少女の矮躯は、その華奢な脚で周囲を血煙に染め上げる。頭部を消し飛ばし、胴を二つにし、およそ人体とは呼べないような肉塊へと変えていく。 「―――ちょっ」  無論、言うまでもなくルサルカ本人の意志ではない。彼女も殺人など歯牙にかけない人種だが、今回に限って言えば罪に問うことは出来ないだろう。  あがる絶叫。悲鳴と恐怖と混乱が、飽和し弾け爆発する。  これは殺戮のミュージカル。自分達が見惚れていたのは天使じゃなく、その皮を被った何か別のものであるとその場の全員が気付いたときには、もはや総てが遅かった。 「〈O Mond, entfliehe nicht, entfliehe nicht! Der Mond verlischt〉《ああ 月よ 行かないで そんなに早く逃げないで》」  彼は、この場の誰一人として逃がさないと言っている。  鮮やかに〈着地〉《ランディング》を決め、再び〈回転跳躍〉《アクセル》――  人一人を抱えたまま、軽々と七・八メートルの高みに飛ぶシュライバー。のみならず、腕の少女をさらにその倍、上空へと放り投げた。 「〈verzaubert vom Morgentraum,〉《あの人をその光で照らしてほしい》」  胸前に交差された両手には、何時の間にか二挺の拳銃が握られていた。  偏執的なまでの使い込みにより、一切の光沢を発さなくなったガンメタル。〈狼のルーン〉《ヴォルフスアンゲル》が刻み込まれたこのモーゼルとルガーこそ、〈殺戮部隊〉《アインザッツグルッペン》の凶獣と呼ばれた少年の牙であり爪である。  彼は〈暴嵐〉《シュトゥルムヴィント》のシュライバー。  悪魔の〈白騎士〉《アルベド》、日と月を呑み込む蝕の凶星――  〈悪名の狼〉《フローズヴィトニル》は何者であれ喰い殺す。 「〈seine Gedanken mir schenken.〉《その輝きで あの人が何処にいても分かるように》」  鼻は鮫、眼は猛禽、耳は蝙蝠の〈昆虫〉《キメラ》――  隻眼のハンディなど意にも介さぬ高性能索敵器官は、空中で高回転状態という曲撃ちにあっても遺憾なく発揮された。  異常なまでの精密射撃で、三十人からの人間が残らず頭を撃ち抜かれる。撃ち抜き、そして倒さない。 「〈O Mond, entfliehe nicht, entfliehe nicht! Der Mond verlischt〉《ああ 月よ 行かないで そんなに早く逃げないで》」  もはや、周囲の人間は一人残らず〈鏖殺〉《みなごろし》だ。にも拘らず連続で撃ち込まれ続ける銃弾が、死者たちの身体を抉り、穿って、躍らせる。  〈弾〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  装弾数を無視した銃撃は、すでに百発、二百発、それ以上――  拳銃の形をした、弾数無限のマシンガン。この銃撃は、犠牲者達の肉片が消滅するまで終わらない。 「〈Oh Mond, verweile, bleibe, sage mir doch, wo mein Schatz weile.〉《ああ月よ そんなに急がないで 私の愛しい人は何処にいるの》」  上空に放り投げられた姿勢のまま、眼下で狂い咲く血と肉の花を見やって、ルサルカは眉を顰めた。  彼女とて、一個の外道。殺人行為に恐怖しているわけでも、嫌悪しているわけでもない。  ただ、シュライバーの殺しは何かが少し違うのだ。  常人とは比較にならない嗜虐性を持ち、その発散手段として殺人を行い、遊興のように楽しむのは自分やヴィルヘルムも同様だ。しかし、それをもってシュライバーと同類のように扱われるのは我慢ができない。  彼が自分達にはない、何か悪魔的なプラスアルファを持っているというのではなく、強いて言うなら足りないのだ。  この少年には動機がない。喩えるなら鮫の好奇心であり、噛み付いて喰い破るしかコミュニケーションの手段を知らない。  赤ん坊が何でも口に入れるように、彼は何でも喰ってしまう。  だから――  わたしはウォルフガング・シュライバーと関わりたくない。  この男に仲間意識や愛や友情など存在しない。  仮にあったとしても彼の愛は喰い貪ることに直結する。 「よっと――、やあアンナ、空の旅はどうだったかな?」  落下してきたルサルカを、再び地上で受け止めて朗らかに笑うシュライバー。この少年は今も昔も、黒円卓の一員となる前から人間外のモノだった。曰く狗からでも産まれてきたに違いないと、畜生腹のヴィルヘルムにさえ言われていた彼。  ラインハルトやメルクリウスとはまた違う。それとは別の異なる次元で、ルサルカはシュライバーが苦手だった。率直に言って、会話をしたくないし変に懐かれたくない。  コレに興味を持たれるのは避けたい。 「楽しかったから、もう下ろして」  だから、なるべく刺激しないよう、努めて優しく言ってみた。しかし当のシュライバーは、聞いていないのかキョロキョロ周りを見回して、悲しげに溜息などをついている。 「ねえ、なんでもう誰もいないのさ」 「だって、それは……」  ザミエルがこの国と時代の〈範〉《のり》を無視したパワーゲームをやらかしたから。  捧げるべき贄である者達は、その大半が家に引き篭もって出てこない。  だからわたしが、彼らを誘い出さなくてはいけなくて。そのために今夜はここに来たのであって。  その先駆けとして使えたであろう手近な者達を、今シュライバーが全部殺してしまったから手駒はゼロだ。  それについて遅まきながら腹が立ってきたルサルカは、未だ嘆いている少年の腕から半ば強引に飛び降りた。 「塔の上にはザミエルとクリストフもいるんでしょ? わたしは彼らと話があるから、あなたはそこで待っていて」  あなたじゃ話にならないし。  と、言外に嫌味をまぶして踵を返す。  まったく、本当にどいつもこいつも使えない。学校のスワスチカはレオンなんかに取られるし、カインはクリストフに押さえられたし、多少は気心の知れたベイは死んでしまうし……  残っているのは、殺人だけが取り得という爆弾坊やに、融通の利かない軍人女。口も利けないのではと思うほどの無愛想男に、口から生まれてきたのではと疑うような堕落神父……  なんなんだ、この残存メンツは。まともなのが、もはや自分しかいないじゃないか。  憤懣やるかたないといった風情のルサルカに、背後からシュライバーの声が掛かった。 「ごめんねえ、僕らは役に立たなくってさ」  そうだ、彼らは役に立たない。たまたま殺人能力が他より優れているというだけで、上に立てたのは大戦中だけの話だろう。  自分のほうがもっとずっと、頭もいいし有能なのだ。壊すしか能のない〈大隊長〉《あなたたち》は、戦士として一級でも指揮官なんてガラじゃない。それが証拠に、〈第一師団〉《LAH》も〈第二師団〉《ダス・ライヒ》も〈第三師団〉《トーテンコープ》も、あなた達の大隊は残らず全滅したじゃないか。  いや……あるいは全滅させたのか? 「まったく、君には本当、頭がさがるよ」  一瞬、不吉な思考が脳裏をよぎった間にも、シュライバーは未だぐだぐだと詫びていた。 「もう、役に立ちそうなのは君しかいないんだよ、アンナ。迷惑かけるけど、ごめんねえ」 「…………」  そして、なぜこのとき、何も言い返すことが出来なかったのだろう。 「〈生贄〉《ヒト》がいない。ここのスワスチカを開けない。ああ、僕らは確かに役立たずだから、君に頼るしかなさそうだよ」  〈迷〉《 、》〈惑〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈ご〉《 、》〈め〉《 、》〈ん〉《 、》。  〈役〉《 、》〈に〉《 、》〈立〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈君〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》。  〈君〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  〈君〉《 、》〈に〉《 、》〈頼〉《 、》〈る〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》―― 「―――――」  瞬間、ルサルカは数メートル後方に飛び退っていた。 「………ぁ」  いや、気のせいだ。有り得ない。頭に浮かんだ暗い連想を論理的思考で封殺する。  マキナもザミエルもシュライバーも、筋金入りの戦争屋である反面、魔術戦はド素人だ。おそらく、初歩の初歩である探知や催眠すら満足に使えまい。  現状、そういったことを得手とするのは自分だけで。だから自分は有用で。切り捨てるわけにはいかなくて…… 「どうしたんだい?」  たまたま、彼が四六時中発散している鬼気に過剰反応してしまっただけのこと。この子はいつもおかしいし、まともに相手をしていたら馬鹿を見る。  と、思ってはいるのだが。 「そんなに怯えないでよ、アンナ」  にこにこと、にこにこと、天使のように微笑むシュライバー。なぜこんな、知恵も教養もないネジの飛んだ少年に、総てを見透かされているような気になるのだろう。 「君は本当に可愛いなあ。昔から怖がりで、ハイドリヒ卿や〈副首領〉《クラフト》だけじゃなく、僕や〈赤化〉《ルベド》や〈黒化〉《ニグレド》までもが怖いのかい? 長く生きると、世の中怖いものだらけになっちゃう人なんだね。……ああ、だったらさ」 「わたしは――」  それ以上、喋らせてはいけない。自らの直感に従って、ルサルカはシュライバーを制止した。 「上でクリストフ達に用があるの。だからあなたはここにいて。いい? ここにいるのよ?」 「ああ、うん。いいよ別に」  まただ、またこの感じ。  見透かされているような、抉られているような、心をバラし、解体され、弄くりまわされているような……  その感覚……ルサルカの不安は実際に当たっていた。  およそ人間の心理など欠片も解さないシュライバー。しかし彼は、決して痴愚や痴呆ではない。  鼻は鮫、眼は猛禽、耳は蝙蝠の〈昆虫〉《キメラ》――  狼の牙と四肢は殺戮の役にしか立たないが、それ以外の器官は獲物の内面を抉りぬく。抉って、理解ではなく現象として受け止める。  彼は、浴びた血と悲鳴の数だけ〈獲物〉《ヒト》というものを知り抜いていた。  目線、表情、心音、発汗、アドレナリン……そうしたものを観て、聴いて、嗅ぎ分ける。  つまり、先ほどから忙しなく回っていたルサルカの思考など、彼の前では丸裸も同然だった。 「じゃあ……」  逃げるようにそう言って、実際逃げるためにタワーのエレベーターに乗り込んだルサルカへ、シュライバーは優しげに微笑んだ。 「待ってるよ、アンナ。出来れば僕のところへ来てくれると嬉しいな」  その言葉の意味するところ、それはすなわち…… 「やれやれ、シュライバー卿も人が悪い。余計なことを言って、あたら怖がせる必要もないでしょうに」  展望台から遥か眼下のやり取りを見下ろしつつ、ヴァレリア・トリファは苦笑する。 「家に帰るまでが遠足……任務も達成するまでが命令……と言ったところで、馬の耳に念仏ですかね。ここはリザとテレジアが好んでいた場所なので、無辜の民から犠牲を出すつもりはなかったというのに。 この有様では意味がない。正直、心が痛みますよ」  シュライバーの無意味な殺戮により、三十名弱の命がここで散った。眼下の広場には、点々と赤い血の花が咲いている。 「まあよい。必要最小限の犠牲だったと割り切りましょう。残るスワスチカは、〈タワー〉《ここ》を入れてあと三つ。もはや“核”の身など私が気にする必要もありませんし、今からは走り抜けます。 で、あればザミエル卿、あなたはどうなると思われますか?」 「さて、私としては貴様が選ばれると面白いが」  冷笑しつつ肩をすくめたエレオノーレは、まず眼下を見下ろし、次いでこの展望台にいるもう二人の影へと目を向けた。 「〈マレウス〉《あれ》の考える狡すからい打算など、容易に見当はつく。まずシュライバーでは相性が悪すぎて、私ではさらに駄目だ。とはいえ……」 「マキナ卿とは一見して好相性だが、その特性が剣呑すぎる。……ふむ、となれば私ですかね?」 「他に誰もいなければな」  呆れと失望を等分させて、エレオノーレは鼻を鳴らした。 「言ったろう、〈マレウス〉《あれ》は狡すからい。確実に勝てるような相手としか戦わん。貴様は奴に言わせれば、さしずめ“正体不明”だ」 「ならば……」  視線を横に流す神父に、エレオノーレも追随しつつ頷いた。 「それしかなかろう。木偶人形相手にどうやったら負けられる? そして、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》に戦を挑むような恥知らずなら、私も要らん。貴様の方針に乗ってやろう」 「〈タワー〉《ここ》をブレンナーが好いていた云々の真偽はともかく、誰と戦うかを選ばせてやる以上、五分の四の確率で無効にするという貴様の条件……これでもまだ凶を引くなら、もはや救えん。 願わくは、〈マレウス〉《あれ》が賢しい魔術師ではなく、戦士であることを祈るばかりだ」 「まあ、そういった矜持は、あなたとキルヒアイゼン卿の専売でしたからねえ。彼女に期待するのは如何とも……おや?」  と、わざとらしく首を傾げて、トリファは周囲を見回した。何時の間にか、一人いなくなっている。 「これはマキナ卿、くだらなすぎて付き合えぬという意思表示ですかな?」 「だろうな。奴は私以上に小細工を好まん。貴様とは別の意味で愚直だよ。 で、それはそうとだ」  エレベーターが、この展望台に近づいてくる。あと五階、四階、三階…… 「いいのか、下の〈シュライバー〉《あれ》を放っておいて。何処に飛んで行くか分からんぞ」 「ええ、申しました通り、これからは走り抜けます。もとより、彼が私に従うなど一度きりが限度ですよ」 「だが、あれはスワスチカの場所すら意に介さん男だ。ハイドリヒ卿への供物を無駄にばら撒き、浪費した場合は何とする?」 「そのときはそのとき。私はあなたの理解さえ得られれば、それでよいと思っていますよ」 「なるほどな」  そのとき、エレベーターが展望台に到着した。場にそぐわぬ軽い音がそれを知らせ、扉が開き、中から少女が現れる。 「では、訊くだけ無駄と思うがいってみるか」 「ええ、よろしくお願いします」  悠然と笑って身を翻すエレオノーレに、恭しく頷くトリファ。彼はそのまま、傍らに目を向けて事務的に告げた。 「カイン、聞こえていますか? 〈あ〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈聖〉《 、》〈餐〉《 、》〈杯〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》」  魔法の言葉と共に、巨人が震え、動きだす。歯を噛み鳴らし、肉を軋ませ、腐汁を滴らせながらも許さぬ殺すと猛りだす。  なんという憎悪。なんという妄執。なんという…… 「愛、でしょうかね。素晴らしい……」  ああ、確かに許せぬだろう。忘れぬだろう。それは胸に迫るほど理解できるシンパシー。 「そして、行きましたかシュライバー卿」  我慢が出来なくなったのか、あるいはこの場にいる意味すら忘れたのか。眼下の広場に彼は居らず、鎖を千切った凶獣はもはや誰にも制御できない。  あれは強者と血の匂いに狂乱する。つまり手負いの“獅子”が何よりの好物だ。 「さぁて……」  失意に震える獅子の少女は、狂った狼の餌食になるのか。  それとも……  背後では、予想通り凶の〈籤〉《クジ》を引いた少女が、死者の怨念に引き裂かれて断末魔の悲鳴をあげている。聖痕から血を噴きながら、赤い涙を流して神父は笑った。 「私はあなたを買っているのです、レオンハルト。 マレウスとは違うところを、見せてほしいのものですね」  今、第六のスワスチカが解放され、大隊長三人は八割近い力を取り戻している。  不滅の〈死せる英雄〉《エインフェリア》、無敵の〈軍勢〉《レギオン》……手負いの少女が、一人でどうにかできる相手ではない。  となれば…… 「あなたはどうされますか、藤井さん」  つまり何事も彼次第……期待に胸を膨らませつつ、神父は恭しく十字を切った。 本城と先輩を伴ってクラブに帰ってから、俺は電池が切れたようにぶっ倒れた。 気持ち悪い話だが、負傷のほうは帰路の間にあらかた治ってしまっている。ただ、疲労感だけは拭えない。 朝に生まれた夜の中での戦いは、俺が今まで経験した最大の修羅場であり、またそれが学校という特殊な場所であっただけに、精神的なダメージがでかい。 加えて、マリィの反応がやけに希薄……というより感じられないのが不安だった。 力そのものが消えてなくなったわけじゃない。俺の腕には未だギロチンが入っており、むしろ以前より使いこなせるようになっている。 と、感じられるにも関わらず、これはどういうことなのだろう。 あまり考えたくないことなのだが、上達したことで道具存在という彼女の属性が強まってしまったのかも……だとしたら、これは由々しき事態だろう。 マリィを適当に利用して、片がついたら使い捨てるような流れは本意じゃない。俺は彼女も救いたいと思っているし、それは先輩や本城、香純にも言えることで…… くそ……なんて気が多い男なんだ。そんな誰でも彼でも救えるようなスーパーマンなら、そもそもこんな事態になっていない。 今まで何人死んだと思っている? 何人助けられなかったと思っている? 俺は非力で、ガキで、たいしたことのない馬鹿野郎だ。 そして、だからこそ、今はしょげてる場合じゃないということも理解できる。自分の無知や無力を嘆くなら、それを埋める努力をすべきで…… と、思ってはいるんだが…… 「つん、つん」 その、なんだ。一刻も早いパワー回復のために、必死こいて休んでる俺のほっぺた突付いてるこの人、いったい何すか。 「可愛い……」 「ほんと、寝顔だけはねえ」 しかも、なにやら写真撮ってるような音まで聞こえるし。 「ムラムラするね」 「するね」 「ちょっとあたしの口で言えないようなところが、じゅんじゅん刺激されるっつーか」 「ポーズとらせる?」 「てゆーか」 「脱がそうか……」 「よっしゃ」 「よっしゃじゃねえっ」 叫んで、俺は飛び起きた。 「――うおっと」 「………ちっ」 いや、“ちっ”って、“ちっ”ってあんた。 「もうちょっと寝ていたほうがいいと私は思うの」 「……俺のベルトから手ぇ放してくれたら寝ますよ」 「これは気にしちゃ駄目」 いや、気にするだろ。俺は大声出してくらくらする頭を抱えながら宙を仰いだ。 まったく…… 「少しは復活した?」 笑いを堪えるような表情で、本城が訊いてくる。俺は憮然としつつ頷いた。 「どれくらい寝てた?」 「ざっと十二時間。今は夜の十時だね」 まあ、それだけ休めれば上等だろう。心身ともに全快とは言い難いが、あまり呑気に構えていられる状況でもない。 その間も人のベルトをカチャカチャやってる先輩の手を掴んでうっちゃりながら、室内を見回せば。 「よぉ、お目覚めか」 こいつときたら……危うくえらい目に遭いかけてた俺を助けようとか、そういう気が起きないのかよ。本城、おまえの女だろ。 「大分ご活躍だったみたいだな、ヒーロー」 「……そうでもねえよ」 直接は誰一人斃すことが出来ず、そもそも初期の目的を達成することが出来なかった。少なくとも俺は活躍というほどの働きをしていない。 「でも収穫はあったんだろ?」 「そりゃ、本城の手柄でな」 そう、香純を見つけることが出来なかった代わりに、俺達が獲たカードは彼女。 氷室玲愛……おそらくは、〈黒円卓〉《やつら》の中核に関わる秘密を握ったこの人を。 「オーケー、オレも今戻ったとこだしよ。おまえも寝起きで頭回らねえだろうから、まずはメシでも食って落ち着こうや」 「……分かった」 呑気に構えてる場合でもないんだが、焦ってもいいことなどない。ここは大人しく、司狼の案に従うことにする。 「じゃあテレジア先輩。あたしらレディースは炊事係なんで」 「私、料理できないよ」 ただ、なんかこう、もの凄く普通に馴染んでるこの人が、何考えてるのか分からないのが不安だった。 「それから、その名前で呼ばないで……」 「…………」 と、思ったけど、そうでもないのかな。彼女はきっと、彼女なりに…… 「じゃあオレが作ろうか?」 「あんた、味覚ぶっ壊れてるじゃない」 司狼と本城は、そんな先輩の様子に気付いてないのか、それともフリか……とにかく意に介さない様子で軽く流している。俺はその様を、苦笑しながら眺めていた。 すると。 「藤井君……」 「ごめんね」 「でも私、今嬉しいよ」 いったい、何がごめんで、何が嬉しいのか……何処か儚げに笑う彼女は何者で、何を知っているのか。 問わねばならない。知らねばならない。それは必要なことだけど。 「……俺もまあ、先輩とまた話せて嬉しいよ」 今は一応、素直に喜んでおこうと思う。 この後、どうしても三対一で詰問するような場にならざるを得ないのだから。 そのことだけが、嫌と言えば嫌だったし。 そして…… 「結局、バカスミがどうなったのかは、正確なところ分かんねえんだろ?」 こいつの作った殺人的にまずいメシを食った後で、本城の説明を受けてから開口一番、そんな感じ。 「死んじゃあいないとは思うけどね。だってあのとき、中庭にいなかったんでしょ?」 「ああ」 中庭でカインに弾き飛ばされた者、そしてヴィルヘルムに吸い殺された者……その中に香純らしき奴はいなかった。 「連中、死体処理は徹底してるみたいだから、今朝のことが大騒ぎになってないのは、まあ良かったけど……それでも百人単位の行方不明者が出たわけでね。そこらへん、もうちょっと時間があれば、突っ込んで調べられないこともないけど」 「調べたところで、あいつも行方不明の一人なんだから意味ねえし。助かったもんの中に、正気だった奴がいたなら話は別だけどよ」 「駄目だろうねえ、みんな確実に夢遊病してたから。パジャマの子とかいたもん」 「そりゃ分かってる」 問題は、なぜ香純がその他大勢の生贄と違う扱いを受けていたのかということで。 そしてなぜ、あいつは今も死んでいないと予想できるかということで。 それらは一つ、本城が聞いたという一言に集約される。 「要らないって……そいつは確かにそう言ったんだな?」 「そ。もうなんか、すっごいヤな感じの奴」 いつもおちゃらけている本城が、珍しく本当に嫌そうな声だった。思い出したくもないと言わんばかりに眉根を寄せて、新種の病原菌でも見つけたみたいな調子で言う。 「これくらいの、背が低い男の子でね。見た目は中坊くらいの子供だよ。銀髪で、右目に眼帯」 「これがさあ、にこにこ笑ってるんだけど、中身は煮えくり返ってるわけ。怒ってるとかそういうんじゃなくて、嬉しいとか悲しいとか、とにかくごちゃごちゃのカオス」 「ありゃ駄目だわ。頭っから爪先まで別の生き物だよ。コミュニケーションなんか取れないし、喩えて言うなら癌細胞」 「へえ」 心底嫌そうな本城とは裏腹に、司狼は興味深げな顔で笑っていた。 そしてそのまま―― 「知り合いかい、先輩」 俺がいまいち矛先を向けられずにいた相手へ、なんの躊躇いもなく話題を振った。 「…………」 「要らないっていうことは、代わりに要る相手を確保できたからって風にも取れるよなあ」 そう、俺たちが香純生存を半ば確信しているのは、つまりそういうことだった。 「〈香純〉《あいつ》と先輩の立場が、入れ替わったということかい?」 「あんたは連中に用無し扱いされたから、今ここにいて、その代わりに香純の奴が、ナっちゃんのお姫様になっちゃったと」 「……おい」 デリカシーの欠片もない言いように俺は眉を顰めたが、先輩は無反応だ。 そしてぽつりと。 「ウォルフガング・シュライバー」 「その、癌細胞みたいな人のこと。名前だけは知ってるよ」 「それじゃあ……」 知らず漏らした自分の声に、失望の色が含まれていなかったと言えば嘘になる。 やはり彼女は、連中と深い関わりを持っていたということなのか。今さらだが、本人の口から聞いたことでついにそれが確定された。 「ねえ藤井君、私は何を話せばいいのかな?」 「知らないこともいっぱいあるし、知ってることも、最近まで信じてなかったことばかりだし」 「私はあまり、役に立たないと思うけど……」 「そりゃこっちが決めるよ、先輩」 「とりあえず、その狼少年が言ったことと、オレらの予想は先輩的にどうなわけ?」 「それは……」 戸惑うように目を伏せた後、しばらく迷って、先輩はよく分からないことを訊いてきた。 「ねえ藤井君、遊佐君でもいいけど」 「綾瀬さんって、日本人?」 「は?」 「なにそれ?」 「お祖父さんか、お祖母さんか、つまり……」 「〈三世〉《クォーター》じゃないのかってこと?」 「うん、それもドイツの人じゃない?」 「なんでそんなことを……」 「お祖父ちゃんかお祖母ちゃんが兄弟で、親が従兄弟だから、〈再従姉妹〉《はとこ》かな? 私と綾瀬さんがそうだったら、そうかもって、思ったから」 「へ?」 「うそ?」 この人は、いきなりとんでもないことを言い出した。 「再従姉妹ぉ?」 あの英語に限らず語学力ゼロで、扁平な顔した雑い単純キングが先輩の親戚なうえにドイツクォーターかもしれないだぁ? 「うわ、今すっげえ不気味な系譜が頭に浮かんできた」 「たぶん、どっかでチワワの血でも入ったんだよ、きっと」 本人不在をいいことにかなり失礼なことを言ってるのが約二名いるが、俺の気持ちもだいたい似たようなもんだった。 「先輩、さすがにそれはちょっと、無理ありすぎっていうか……」 「でも、そうとしか考えられないんだもん」 「どうなの?」 「どうなのって言われても……」 司狼と目が合う。 「あいつの親父はガキのときにおっ死んでるけど、ハーフって面じゃなかったなあ。たぶん」 「ああ……」 「お袋さんもそんな風にゃ見えねえけど、まあ聞いたわけじゃないから外見だけで判断はちょっとね」 「ついでに言うと、祖父さん祖母さんが家に遊びに来たなんてこともない。だろ?」 「ああ、知る限りない」 「オレもこいつも、あんまり血とか家とかに執着しないタチなんでね。特に気にしちゃいなかったけど、普通に考えりゃちょっとおかしな家ではあったかもな。親戚関係、不明だし」 「そういや、盆や正月に誰も来ないし、行くこともなかったな」 「そう」 「つまり、結構謎な家系なわけね。先輩は、自分の祖父さん兄弟っていうか、親戚筋のこと知らなかったの?」 「いないって聞いてた」 「じゃあ」 「まあ待てよ」 面白くなってきたとばかりに、司狼が間に割って入る。 「一地域丸ごと同じ苗字だらけとかいう、辺鄙クソ田舎ならまだしもよ、普通はハトコ領域までいったら面識なんかないのは当たり前だろ」 「あたしは結構知ってるけどな」 「おまえんちは特別だ」 「蓮、おまえだって知らねえだろ?」 「そりゃ、まあ……」 俺なんか、親の名前すら分からないような男だし。 でもこれはこれで特殊ケースだから、参考にはならんだろう。 「だいたい、仮に香純と先輩が親戚だったとして、それが何の……」 「血だろ? 要するに」 「ああ、優生学ってやつね」 得心したと本城は手を叩いて、何も言わなくなった先輩を流し見てから、簡単に説明してくれた。 「えーっと、つまりね。ブランド米あるじゃん。あれと一緒」 いや、簡単すぎて分かんねえんだが。 「要は品種改良だよ。競馬だ競馬」 だから、なんでこいつらの喩えは人間適用外の方向へ転がっていくんだよ。 「親父が理系でおかんが文系の天才なら、子供は完璧超人ってことで」 「ついでにジジイが格闘家でババアが日舞の師匠ならもはや隙はねえ」 「そんな簡単なものじゃないと思うけど」 まあ、とにかく要するに。 「サラブレッドってことか?」 「そういうこと」 〈香純〉《あれ》が? 「いま藤井君、〈玲愛〉《これ》が?って思った」 「いや、思ってないすよ」 思いそうだが。 「つまるところ、先輩はナっちゃんに都合がいいように掛け合わされた血筋の人で、香純もその枝だったとしたら、連中に攫われてもおかしくないっていうことな」 「本当の優生学っていうのは、悪性遺伝子の淘汰が目的なんだけどね。たとえば癌家系で早死にの一族を救うためだったり」 「チビ家系とかデブ家系とかハゲ家系とかを治したりな」 「おまえはもう黙れ」 どんどん話が不謹慎な方向に転がっていく。 というか、もともとあまり褒められた主旨の学問じゃないのかもしれない。 人間のサラブレッド化。人為的に作る優性人種。 それがオリンピック選手だの学者だのを求めて行われるのだとしても、交配という単語を人間の男女に適用するのは何か異様な嫌悪感を伴う。 大昔の政略結婚なんてものも大概気持ち悪い概念だが、これはもっとこう、言うなれば神様に喧嘩を売ってるような感じがして。 だったら氷室先輩、この人は…… 「いいよ別に。あまり気にしてないから」 「子供じゃないしね。お父さんとかお祖父ちゃんとか、そのまた上の人がどういう事情で結婚したとしても、私は特にショックじゃないよ」 「まあ、愛ある結婚云々はともかく、望まれた子供ではあるわけだしね」 ただ、その望まれたカタチってのが、怪しすぎるほど剣呑に思えるのが問題なんだろう。 先輩は学業不振じゃないものの天才というほどじゃないし、運動全般はからっきしだ。他に絵や音楽の才能があるというわけでもない。 そして、連中が求める素質や才能なんてものが、そんなものじゃないのは嫌になるほど分かっている。 だったらあのとき、香純があんなことになったのは、その血が影響したのかもしれない。仮定に仮定を重ねることになるが、そのほうが辻褄は合う。 偶然の要素も確かにあろう。俺達がこの街に越してきたのは、本当にたまたまでしかないわけで。 だが、だとしたら…… 『お二人とも、生まれはこの街で?』 そうか、あのとき、〈神父〉《あいつ》はこのことに半ば気付いていたのかもしれない。思い返せば、こちらの出生を探るような……他にも鎌をかけるようなやり取りがいくつかあった。 香純を攫ったように見せかけたシュピーネ。それを指示したと思われる聖餐杯……あれもまた、何かしらの意味があったのかも。 少なくとも奴ら二人は、あの時点で香純のことに気付いていた。でなくばわざわざ替え玉を用意するような真似はしない。 俺を煽りたいなら、あそこで本当に香純を殺していたはずだ。それをしなかったのは、すなわちあいつが要るからということで…… しかしそれなら、なぜいっそあのときに香純を攫わなかった? 今の今まで、俺の手元に置いていた理由は何だ? 「…………」 「どしたの、蓮くん。黙り込んで」 「いや、ちょっと……」 何かが見えかけている。いずれ奪取する予定だった香純を当時は見逃し、今になって連れ去る理由。 おそらく当時の黒円卓には、香純の存在を知らせるべきでない者がいたんだろう。今はそいつがいないから、気兼ねすることなく堂々と行動に移し―― 「………あ」 そのとき、パズルのピースが嵌った気がした。あくまでも推論だが、たぶん間違いないと直感が言っている。 祖父母が兄弟である再従姉妹。それはつまり、曽祖父母は同一だということで…… 現時点における死亡確定の団員は誰かといえば…… 「……?」 シスター・リザ……彼女はおそらく、先輩と、そして香純の…… 「まあ、オレもおまえと同感だよ」 未だ不得要領の女性陣を差し置いて、司狼はへらっと笑いつつそう言った。 「いったい、どういう……」 「いや別に。ただ先輩、もう一回訊くけどよ」 「あんたは、香純みたいなハトコがいるかもしれないってことを知らなかった」 「うん」 「ついでに、祖父さん祖母さん、そのまた上のご先祖様は顔も名前も分からない」 「……うん。知らない」 つまり、〈曾〉《 、》〈祖〉《 、》〈母〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「なるほど。こりゃガチだわ、蓮」 内心、忸怩たる思いを隠せない俺を余所に、司狼は性格の悪い数式でも解いたような、呆れと面倒が入り混じった苦笑を浮かべていた。 「ああ、そうか。そういうことね」 そして、どうやら本城も気付いたらしい。 これにより、俺たち三人の理解が統一されてしまったわけだ。となれば、次に質問するべきことは一つしかない。 一番訊きたくないし、知りたくないこと。だけど絶対に聞いておかなければならないことを。 すなわち先輩の――加えて香純の――血が持つ役目を。 おそらくは、黒円卓の最終目的。それについて…… 「何を言ってるのか、よく分からないけど」 「でもその様子なら、少なくとも遊佐君は気付いてるよね? どうすれば一番いいか」 先輩は諦観したような、肩の荷がおりたような、ある種の安堵すら感じさせるような声で言う。 その笑顔は儚げで、キレイではあったけど……何処か危うい透明さを持ち、まるで背景まで透けて見えるような、そんな顔で。 「私を殺せば、丸く治まるかもしれないよ」 ぽつりと、そう口にした。 「言ったように、私はそれほど詳しいわけじゃないけど」 この人を殺す。それが出来れば丸く治まる。俺はその言葉に頭が凍った。 そんな真似が出来るわけない。仮に司狼がそうしようとしたのなら、また喧嘩をしてでも止めるだろう。 そもそも、なぜ彼女を手にかけるような選択肢が出てくるというんだ。 「何となく、分かるの。八つそろうと手遅れになっちゃう」 「そのとき私がいたら、いけない」 「じゃあ、つまり……」 その意味するところ……頭はショックで凍ってるのに、別の部分は嫌になるほど冷静に回転している。 俺は気付いた。皆まで言わなくてももう分かる。彼女に課せられた役割とは、すなわち…… 「〈諏訪原市〉《このまち》自体がでかい装置で、それが完成するとあんた自身が生贄になって」 ラインハルトが戻ってくる。 何千、何万、何十万もの魂と引き換えに。 この街が、一個の巨大な聖遺物。八つの戦場からなる〈諏訪原市〉《スワスチカ》……先輩の血筋とは、その“核”――つまり起動スイッチになるよう、特別に品種改良されたもの。 だから、自分を殺せば終わるとこの人は言っている。 だが、しかしそんなことは…… 「ニグレド、アルベド、ルベド」 唐突に、本城がよく分からない呪文みたいな言葉を口にした。 「錬金術の超必殺技的なアイテムの錬成仮定でね、黒化、白化、赤化ってのがあるんだよ」 「あたしが見た、あの坊やは〈白化〉《アルベド》」 ならば、俺が見たあいつは〈黒化〉《ニグレド》? 「ついでに、ハーケンクロイツもその三色」 「学派によってまちまちだけど、他にも黄色と緑がプラスされる説もあったり」 「それで五色合わせて黄金を生む。そう考えた場合、この説で金色が与えてくれる恩恵って言えば……」 「ああ、それ知ってるぜ。有名だよな」 「〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈返〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》、〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈不〉《 、》〈老〉《 、》〈不〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。つまり連中の目的はそれなわけだ」 金は不滅と完全の象徴であり、黄金錬成とは不死創造の暗喩だと司狼は言う。 先輩は否定しない。その読みは当たっていると、無言のまま肯定していた。 「くだらねえなあ。散々デタラメやっといて、要は自分が死にたくねえっていうだけかよ」 あるいは、蘇らせたい死者がいる。奴らはそれを望んでいる。 この街総てを生贄に、不死か死者の生を求めて他の者を吸い殺す。 奴らが魂を狩り集めるのはそのためだ。不死や蘇生という条理を覆す真似を成すなら、魂の補強、譲渡は一対一じゃ終わらない。 一人の死を覆すために、数千数万を殺して捧げる。その天秤は一見デタラメに見えるけど、実のところ嫌になるくらい人間的で隙がない。 自分や自分の大事な人間のためならば、その他大勢がどれだけ死んでも構わないというエゴイズム。命の重さは、人それぞれの主観によって激変する。 実に当たり前であり、ゆえに等価。この天秤は、感情的な意味において冷徹なまでに公平だ。認めたくないが、理屈は分かる。 俺は自分が不死身になろうとも死んだ奴を生き返らせようとも思わないが、今生きている奴を救うためなら…… あのとき、香純が殺した人間よりあいつ自身の身を案じたように、俺だってそうした天秤を是とするエゴは持っている。 だが、今はそんなことを考えている場合じゃないか。先輩の話と、こちらの推理を統合して予想するに、おそらく八つのスワスチカが開いてしまえば…… 「先輩も、いや今は香純か。とにかくあいつも逝っちまうんだろ?」 そう考えるのが妥当だろう。生贄の祭壇の中心地に立つ身なら、死亡率は一番高い。そしてだからこそ、彼女はその役から無理矢理に降ろされた。 「どうもあの神父さん、先輩にだけはマジで甘いらしいな」 「優先順位、か……」 知らず、俺はそう呟いていた。 父親と母親のどちらかが死んで、どちらかが助かるとしたら、どっちを選ぶ? 誰でも、より大事なほうを選ぶだろう。 〈神父〉《かれ》にとって、先輩は大事だが香純はどうでもいいということだ。 「けどそういうことなら、八つ開ききるまでは鉄壁に守られるってことだろう。逆に身の安全は保障されたわけだ」 「それにオレは、もともと正義の味方的理由で働いてるわけでもねえし」 言って、司狼は身を翻す。 「あんたを殺して治めようとか、特に考えちゃいないよ。そもそも、今は香純がその役みたいだから意味ねえし」 「あとオレは、丸く治めるっていうのが嫌いでね。ともかく必要なことは分かったし、続きは蓮と話してりゃいいさ」 「だね」 肩をすくめて、本城も後に続いた。 「それに、理屈と過程はどうであっても、先輩は死なずに済みそうなワケなんでしょ? だったらそんなポーカーフェイスしてないで、少しは喜べばいいんだよ」 「別に、あんたが悪いわけじゃないんだしね」 「でも……」 代わりに香純が連れて行かれたということが、彼女の心に陰を落としている。いやそれ以前、この人は自分の生死に関わることすら、茫洋に受け止めていた節がある。 そんな俺たちを尻目に、にやりと笑った本城が先輩に何事か耳打ちした。どうにも小声で聞き取りづらいが、何やら俺が以前言ったフレーズを妙に色男っぽく囁いているのは気のせいだろうか……? 「…………」 ていうか、先輩もなぜそこで頬を赤らめるかな。 「あれで少しは気が変わったんじゃない?」 「……うん」 「じゃあよかった。少しは前向きにね」 ケラケラ笑って、司狼に続き場を辞す本城。つーか、どうでもいいがおまえの物真似、似てねーよ。大事なんだから大事な人だって言っただけだろ、訳分からないっての。 「ごめんね」 「いや……」 咄嗟にどう反応していいか分からなかったので、とりあえず上目遣いでこちらを見てくる先輩の頭を撫でてみた。 半分以上脊髄でやったような行動だったが、それによって、今実感したこともある。 暖かい。この人は生きていると。 だから知りたいこと、訊きたいことはまだあったが、司狼が言うように必要なことは分かったのだし、これ以上あえて何かを問うまでもない。 彼女が今回の騒ぎについて、どの時点からどのくらい知っているのか……そんなことをわざわざ訊かなくてもいいと思った。 「先輩に謝られるのは、なんか新鮮だよな」 「……藤井君、年下なんだから頭触らないで」 俺とこの人は友達で、仲が良くて、今も昔も互いに悪感情は懐いていない。だったらそれで、いいじゃないか。 ヴァレリア・トリファ、聖餐杯……彼の思惑がどうであれ、この人に降りかかる危機が激減したというのなら、今はそれを喜ぼう。 後はそう、香純さえ取り戻せば問題ない。 助けられなかった人も、死んだ人も、俺は忘れられないし、忘れちゃいけない。だけど〈後悔〉《ししゃ》に囚われて、生きてる彼女らを蔑ろには出来ないから。 俺たち二人はそれからしばらく、本当に取り留めのない、くだらない世間話をすることにした。 シスター・リザが何者だったか、俺がその予想を口にすることはなかったし。 先輩もまた、彼女の死について語ることはなかった。 それはネガティブな現実逃避なんかじゃなく。 生きてる俺たちが前向きであるために、今はただ笑いたかった。それだけのこと。 「でも藤井君は、誰にでも好きって言うよね」 なんかそこらへんを、やたら突っ込まれるのがアレだったが。 「無自覚。たち悪い。もっと語彙を増やしてほしい」 「誰にでも嫌い嫌いって言ってる人も、そういえばいるし」 「似てるよね、キミ達。頑固でツンデレなところとか」 呆れているような、恨みがましいような、なんとも微妙な口調でそんなことを言いながら、先輩は眠りに落ちた。 「……しかし、垂直落下だな、この人も」 まあともかく、今はゆっくりと寝かせておこう。俺はこれから、やることがあるし。 さっきのお返しというわけでもないが、先輩の寝顔を携帯のカメラに収めてから、俺はその場を後にした。 携帯を仕舞い、どうせモニター室で覗いてるだろう本城を意識しつつ、監視カメラに手を振っておく。無反応だったんで了承を得たと解釈し、俺はクラブの外に出た。 「よぉ、意外に早かったな」 「先輩も疲れてんだろ」 表では当然のようにこいつが待ってたわけなんだが、まあ予想してたことなんで今さらあえて何も言わない。 俺と司狼は、そのまま二人で夜の繁華街を歩きだした。 「タワーでよ、殺しがあったらしいぜ。ついさっきの話だ」 「…………」 「つっても、数は多くねえ。いや、少なくもねえんだが、とにかく半端だ。あれじゃ足りねえ」 「おまえはどう思う?」 「楽観はしない。六つ目も開いたと思う」 「気が合うね。オレも同感だ」 遊園地を消し飛ばした〈赤〉《ルベド》、先輩の前に現れた〈白〉《アルベド》、そして俺が見た〈黒〉《ニグレド》…… 〈黒円卓〉《やつら》の中枢、主戦力が三人そろった。その面子さえ存在すれば、他の者は要らないとでも言わんばかりの自負を感じる。 なぜなら…… 「たぶん、ヴィルヘルムは櫻井が斃してる」 「タワーで殺られたのは、おそらくルサルカだ」 急加速で開いていくスワスチカ。それに反比例して、数を減じていく団員。 奴らを下っ端と表現するのは憚られるが、事実そうなのだから仕方ない。真に必要な駒以外は、残らず切られる方向へと転がっている。 「つーと、残りは?」 「切り捨ててよさそうなのは、櫻井とカインだな」 「ドンピシャ。残り二つで、二人かよ」 「そうなるな」 ヴァレリア・トリファは首領代行。おそらく最後のスワスチカが開ききるまで、彼は指揮権を有している。 そして三人の幹部も同様に、最後まで残るだろう。 ラインハルトを呼び戻すまで。 「フィーア・ハガル」 「連中の有名な思想でな。第三帝国を背負って立つ、優秀な人材を指すんだと」 「〈破壊〉《ハガル》ってのは、アルファベットのHだ。この頂点は四つある。だから〈四〉《フィーア》」 「つまり、文字通り第三帝国の頂点ども……四人の〈H〉《ハガル》」 「世界史で習うレベルの、有名人ぞろいだな」 「おお、だからこりゃあ“表”なんだよ」 紫煙を吐きつつ、笑う司狼。街灯りに目を向けて、愉快げに言う。 「ロンギヌス・サーティーンってのは、本を正せば高官連中の趣味にすぎねえ。言っちまえば、ただのオカルト遊びなんだ」 しかし、それを遊びじゃなくした奴らがいる。 「〈黒円卓〉《やつら》はその裏、暗部だな。遊びがマジに変わったから、色んなもんが本気でヤバイものに変わる。たとえば〈四人の破壊〉《フィーア・ハガル》が、〈五人の破壊〉《フュンフ・ハガル》に」 「さっきエリーが言ってたのはそういうことだろ。黒化、白化、赤化、それにプラス黄化に翠化……計五人」 「黄色ってのは神父のことか?」 「さあ? そうかもしんねえし、違うかもしれねえ。とにかく総大将が出てくるには五人必要なんだとオレは読むね。だからこのメンツ以外、全滅したってあちらさんは構わねえんだろ」 錬金術に則るなら、五色合わせて黄金を生む。幹部三人に核とプラスもう一人……必要なのはそれだけで、他の者はいてもいなくても構わない。 いや、むしろ全滅させようという意図さえ見える。結局のところヴィルヘルムもルサルカも、シスター、そして櫻井も……用途は生贄だということだ。 「馬鹿だねえ。殺しまくる気満々で来たくせに、自分が切られる可能性はあまり考えてなかったなんてよ」 「そういうの、戦争屋にあるまじきって思わねえ? ぶっ殺すのが商売なら、ぶっ殺される覚悟もしとけっての」 「ああ、俺もそうだと思うよ」 殺し合いなんて大袈裟な話にしなくても、殴れば殴り返されることくらいは子供だって知っている。 「ただ、仕方ないところもあるんだろうな」 あいつらは、限度を超えて強い力を持ちすぎた。周囲に敵無しなんて状況を、六十年も送ってしまった。死の恐怖という本能が擦り切れ、嗅覚が麻痺してしまうほど、奴らは外れてしまったんだ。 「そう思えば、シュピーネが一番優秀だったのかもしれないな。あいつは今みたいな状況になるのを読んでいて、それを防ごうとしてた」 結果、おそらくは聖餐杯の思惑通りに使われてしまったわけだけど。 「正直、少しは同情してる。普通に生きてりゃ、たぶん普通に死ねただろうに」 とはいえ、戦時なんて極限状態に産まれて、生きて……そんな考えを持てと言うのも無理な話か。 『わたし達が求めて、狂って、憎みながらも涎をたらして擦り寄った彼の力』 ルサルカの言っていたことを思い出す。結局あいつらは、メルクリウスの掌で踊らされたということだろう。 拒めないと知った上で力を与え、生贄として肥え太らせる。生き残れば不死というのがたとえ真実だとしても、奴らの首尾など屑ほども頓着してない。 しょせん、どうなろうが構わないという使い捨ての駒だ。そのうえ、生きていれば褒美をやろうという犬以下の扱い。……なるほど、嫌われるのも頷ける。 「オレはよぉ……」 そんな思索に耽っていた俺の傍で、司狼は独り言のように言っていた。 「マジもんの不死身とか、死んだ奴が生き返るとか、そりゃねえよって思うんだわ」 「旨い話にゃ裏がある。一人助けるために千人殺せってのも……まあ、えぐいと言やあえぐいけど」 「本当に、それだけやれば全部解決ってほど甘いのかね? オレなら、もう一枚くらい裏がないかを疑うな」 「死んだ奴が、どんなカタチで生き返るのか。自分がどういう風な不死身になるのか」 「おまえはどうだ?」 「さあ、どうだろうな」 不死身願望も、死者蘇生の願望も俺にはない。そんな気持ち、共感出来ない。 「おまえ、俺が死んだら?」 「笑うね」 「オレが死んだら?」 「墓にエロ本でも供えてやるよ」 しょせん、俺たちの死生観なんてそんなものだ。死んだ奴は生き返らないし、どんな奴でも死ぬということをガキのときに経験している。 「死人が生き返るなんて気色悪ぃよ」 「ああ、想像するだけで最悪だ」 「そんなもんが出てきたら、どタマぶち抜いて墓に叩き返すだろ」 「相手によっては、そうだろうな」 俺たち、いいや少なくとも俺個人の考えを言えば―― 「人殺しが、不死身だ蘇生だのどんなギャグだよ」 「同感だな。身の程ってもんを弁えてねえ」 誰か一人でも殺して埋葬したのなら、墓を暴こうなんて思わない。 それが同義で、それがケジメだ。さっき司狼が言っていた、戦争屋にあるまじき云々と要は同じことだろう。 殺人者なら、死人は死人だということくらい受け止めてしかるべき。障害の究極的排除として殺害を選んだのなら、それを覆す事象など認められない。 「……ああ、そうか」 「それで俺、あいつが気に食わねえんだな」 「ん?」 司狼が訝しげに眉を顰める。だが、すぐに気付いたらしい。 「けど向こうだって、かなりおまえのことが気に食わねえと思うぜ」 「そりゃ、分かってる」 俺とあいつは、完全に水と油だ。先輩には似てるなんて言われたが、なまじそういう部分もあるだけに、もはや溝は埋めがたい。 「まあおまえは、つーかオレもだが、最悪バカスミやエリーが逝っちまっても、そういうことはしねえだろうからなあ」 「ほら、なんだっけか。おまえの名言あったじゃん」 「戻ってくるものは価値がない、か?」 「おお、それそれ。結構真理ついてるとオレは思うぜ」 「百円落としても、また拾うことは結構あるがよ。百万落としたらそうは拾わねえよ、そんな大金」 「それをあいつは、百円一万回拾うことでなんとかしようとしてるわけだ。絶対それ、もとの百万じゃねえだろうに」 本当に心底大事だと思うなら、たとえ人類を絶滅させても釣り合わない。価値を重く見れば見るほどに、それは手が届かない遠くへ行く。 なのに千人か、万人か、その程度で取り返せると思うなら、知らずに価値を下げている。司狼が今言ったように、必ず何処かが歪んで戻るはずだろう。 その盲目具合、思慮分別に欠けた狭窄視野は、いったい何なのかと考えれば…… 「血がな」 「あん?」 「血筋の話、さっきしたろう?」 香純と氷室先輩が、血縁かもしれないということ。そしてその大元は、シスターかもしれないということ。 「俺もおまえも、そういうのには淡白だよな」 俺なんか、自分の親すら気にしていない男だし。それはこいつにしたって同じことで。 血の濃さ、強さ……おそらくあいつを狂わせてるだろうその絆を、俺達は実感できない。 「人のことを反抗期のクソガキみたいに言うなよ」 「客観的な話だよ。おまえは突然変異だのなんだのと、色んな奴らに言われてただろ」 「ああ、特におまえが言ってたような気ぃするけど」 こいつの家は絵に描いたような中流で、そこそこに有りがちな学歴主義で、つまり普通すぎるくらい何処にでもある家庭だった。 だというのに、こいつ一人だけが変だった。 「で、それより血がどうしたよ」 「ああ、そのことなんだが……」 俺もおまえも、自分の家やルーツに愛着がない。喩えるならある日いきなり生まれたような感覚で、そこに至るまでの系譜や枝に興味がない。 だから、親兄弟親戚その他……そういうものに対する家族的な情が薄い。そんな俺たちが、こんなことを話すのは滑稽で無駄なことかもしれないが…… 「あいつ、櫻井な……兄貴がいるんだってよ」 「へえ」 案の定、それがどうしたと言わんばかりの司狼。その兄貴がただの兄貴じゃないと察しをつけたうえで、こいつは何とも思ってない。 「死体野郎か?」 「そうだ」 「ま、それくらいしかポイのいねえし。前の一件で挙動不審だったから、なんかしら繋がりはあるんだろうと思ってたよ」 「で?」 どうすると言われれば、俺の考えは決まっている。 「今から、櫻井とケリつけにいく」 「ヒュゥ~」 その口笛は何処かわざとらしくて、ぶっちゃけた話バレバレだった。 いや、バレバレなのをバレバレにしようとするのがバレバレだった。 「見当ついてたくせに、白々しいんだよ、おまえ」 「だってさすがに、今から教会〈特攻〉《ぶっこ》もうってほど馬鹿じゃねえだろ」 〈教会〉《あそこ》はおそらく、連中の本拠地だ。まだ疲労を残している上に単独で、何の策もなく突っ込んでどうにかなる場所じゃない。 一刻も早く香純を取り返したい焦りはあるが、だからこそ闇雲じゃ駄目だというのは俺だって分かってる。 「一応訊いとくが、味方につける気か?」 「櫻井を?」 「ああ、なんせこっちは圧倒的に戦力不足だ。仲間増やして、かつ向こうの駒を一つ削る。一石二鳥だろ」 「だったら、おまえがそうしろよ」 「キミは間違ってるし騙されてる。だからボクらと協力して奴らを倒し世界を救おう――ハッ、バカか冗談抜かせ」 「何が悲しゅうて、価値観の違う奴に自分の論理押し付けなきゃならんのよ」 「なら、俺にもそんなの期待するなよ」 「そこはおまえにしか出来ねえやり方ってもんがあるんじゃねえの?」 「……?」 こいつはたまにというかしょっちゅうだが、よく分からんことを言う奴だ。 「冗談だ。忘れろ」 しかも、自己完結しやがるし。 「まあ、なんでもいいけど」 「俺は今から、喧嘩を売りに行くんだよ」 「そうねえ。おまえは意外とキレやすいもんねえ」 俺を一番キレさせる奴に言われたくはないことだったが。 「そりゃ、あの姉ちゃんには同情票も集まりそうだが、諏訪原皆殺し計画立ててたのはガチだろうし、バカスミのことも無関係じゃなかろうし、何より死体野郎の味方するってなら、こりゃどうしようもねえもんな」 「おまえの性格なら、売りに行くだろうとは思ったよ」 「ただ――」 と、間を開けて、司狼は俺を流し見た。 「喧嘩売って、喧嘩して、それでどうすんだよ。その後は?」 「考えてない」 こいつの言うその後とは、つまり殺す気なのかどうなのかということだろう。 「けど、あいつは放っといたら高確率で切られる。もともと傍から見ても立場は微妙だったし、〈黒円卓〉《れんちゅう》から見りゃ要らないだろ、もう」 「だから?」 「そうなる前に捕まえて、言うこと言って、どうせ喧嘩になるから喧嘩して、後は知らん。どうとでもなれだ」 「ははっ」 「何が面白いんだよ」 「いやいや了解。じゃあオレは、隅の方で見物するわ」 「いいじゃん。やっとけ。すげえ馬鹿だけどおまえらしいわ」 「自覚はしてるよ」 櫻井はそんじょそこらの、世間一般的な女じゃない。あいつと揉めれば相応に被害も受けるし、消耗する。香純のことや敵の残存面子を考慮すれば、本来あいつに構っている場合じゃないし、構うなら生贄として利用される前に殺すという、明確な指針を持たねばならない。 それくらい、分かっているけど。 「俺もおまえと一緒で、他人に自分の価値観を押し付けようとは思わないからな」 「ただその分、一方的に文句言うつもりもないんだよ。血の絆ってやつを、実感できない身としては」 「どっちが正しいとか間違ってるとかの話じゃない。あいつにとっちゃ兄貴でも、俺にとっちゃ違うから」 カインを斃す。その旨を、せめて親族であるあいつに伝える。死んだ兄貴を取り戻すために総てを〈擲〉《なげう》ち、これまで血に濡れてきたであろう櫻井。それは種類が違うとはいえ、日常へ帰るために非日常を受け入れた俺の覚悟と、相通ずるものがあると思ったから。 あいつの希望を壊す身として、話を通すのが筋であろうと。 「そう思うから、喧嘩だ」 それがどれくらいの激しさで、どんな結末に向かうのか、今は思慮の埒外だ。くだらないと言えばくだらない拘りだし、損得抜きにしてぶつからざるを得ない相手なのだから…… 殺し合いなんて大仰な表現より、ここは喧嘩と言ったほうが相応しい。 「頭に痴話がつきそうだって思うのはオレだけかい?」 「つかねえよ。俺は――」 「ああ、分かったよ、クソ真面目君。おまえの言うことは、ガキの頃から理屈臭くて長ったらしい」 「それで、結局〈喧嘩〉《デート》のお誘いはどうやんの?」 「さっき、メールを打った」 馬鹿な勘繰りにうんざりしながら呟く俺。すると。 「お?」 今、どうやら返事がきた。 『学校で待ってる』  短いその文面を返すのに、いったいどれだけの時間と勇気を要したろう。加えて送信ボタンを押してからも、慌てて取り消すという行為を三回もやってしまった。 「馬鹿みたい……」  私は何をやっているのか。あれからずっとここに独り、やることもなく黙然と突っ立っていただけ。  今日、ここで死んだ一般生徒は亡骸ごと隠滅されたので大事件にはなっていないが、それでも生き残りの百名前後がいる以上、いずれ事が露見する可能性もあるだろう。いやそれ以前に、ヴィルヘルムの死によって第五のスワスチカと化した学校は、もはや異界と化している。真っ当な神経を持つ者なら立ち入れないし、月乃澤学園の永久封鎖は、あらゆる意味で避けられない。 「俺の日常、か……」  彼が事あるごと、宝物のように言っていた概念の代名詞……学生という身分、学校という存在が、その中でも大きな比重を占めることは容易に分かる。  その学校が、今日死んだ。いや正確には、自分が殺した。ここはこの先どうなろうと、人が集まれるような場所じゃなくなる。  悲しいだろう。許せないだろう。彼が帰るべき場所と定めたその一つを、私は確実に消したわけだ。  その気持ちは、よく分かる。〈学校〉《ここ》を大事に思っていたのは、何も彼だけというわけじゃない。 「私も……」  好きだった。気に入っていた。学校が楽しいと、以前冗談めかして言ったことは嘘じゃない。  日本で、同年代の男の子や女の子……彼らに囲まれていると、何か救われたような気分になった。自分が送ってきた人生とは関係なく、ごく普通の平和な世界が存在すると感じることが出来たから。  自分が日陰だからといって、世界総てを陰にしてくれとは思わない。自分が泣いているときは、周りも泣いてほしいなんて思わない。  櫻井螢の魂は、他者の共感なんて求めていない。  辛いことを共有し、重さが軽減するなど有り得ないのだ。そんなものはただ単に、倍々算で〈感染〉《うつ》していくだけの伝染病。呪いを撒き散らしている傍迷惑な馬鹿だろう。  だから、自分と関係ないところで平和に回っていた世界の象徴……おまえの苦悩など、世の中全体で見れば取るに足らないと一蹴してくれるような昼の世界が、とても大事に思えていた。  そして、だからこそ〈学校〉《ここ》を他の者に渡したくはなかったのだ。  自分の中の優先順位、その最上位にある事柄を成すためなら、他は総て切り捨てる。  身勝手だし、傲慢だし、馬鹿だろう。それを自覚しているからこそ、切るのは自分の手で行いたいと……私はそう思っていた。  後悔はしない。躊躇いもない。泣き言など口にする資格はない。  私は自分の望みのために、他の悉くを切った女だ。切られたものに詫びることなど出来ないし、どの面さげて私も辛かったなどと言えるというのか。  藤井君は、きっと私を許さないだろう。彼から届いた、『何処にいる』という短い文面に、並々ならぬ決意を感じる。  今から数分か、数十分後、彼はここに来て私を糾弾し、そして殺そうとするはずだ。それだけの動機が向こうにはある。  だけど…… 「嫌だな……」  私、本当は、あなたに謝りたいと思っているの。  戦意は折れて、意志も挫かれ、炎なんか消えてしまった。  私のやってきたことなんて、馬鹿な子供の思い込み。何もプラスを生み出さず、不幸をばら撒くだけの暴走だった。それを今日、思い知った。  永遠に解放されない戦奴の誉れ。そんな狂った祝福を得るために、私は戦ってきたんじゃない。  だから考えて、考えて、あれからずっと考えて――  今のうちに私が死ねば、獣の祝福から逃げられるのではないのかと……  そしてもしそうならば、自殺ではなく私を憎む人の手にかかるべきではないのかと……  それが、せめてもの誠意ではないのかと。 「でも藤井君、馬鹿だから」  ある意味で残酷だから。  殺してちょうだいなんて私が言ったら、そうしてくれないかもしれない。  だから嫌なの、苦しいの。萎えた戦意を無理矢理起こし、消えた炎を再び灯し、いつも通り憎々しげで可愛げのない、敵としての櫻井螢を偽装しなければならないことが。 「ごめんなさい、勝手よね……」  今は誰もいないから、ここには私独りだから、弱音を吐くのを許してください。  私を殺して、あなたに嫌な気分を味あわせるつもりはないの。  私が辛いとか苦しいとか、そんなの藤井君には関係ないから。  分かってもらおうとは思わないし、重荷を分けるなんて出来ないから。  もう少し、もう少しだけ、弱い私でいることを許してほしい。  私頑張る。頑張るから。外側だけ格好をつけるのは得意だから。  あなたも、どちらかと言えばそういう人でしょ? 綾瀬さんの前じゃあ、いつも格好つけてたもんね。 「嫌い」  呟く。それこそ祈るように。 「嫌いよ。藤井君なんて嫌い」  あなたは敵で、邪魔な人で、戦わなくてはならない相手。  私の望みを叶えるために必要で、同時に障害となるべく用意された駒。  〈希望〉《ヴァルハラ》へと至る戦場。その敵手としてゲームに配された、〈黒円卓〉《わたしたち》の〈恋人〉《ツァラトゥストラ》。 「カール・クラフト。 ラインハルト・ハイドリヒ」  黒円卓の双頭に忠誠を誓い、彼らの力を求めて祝福を願った獅子心剣。馬鹿で愚かな櫻井螢。  そんな自分を今一度だけ取り戻し、藤井君の前に立つ。だからお願い、一つでいいから望みを聞いて。  私が可愛げのない女であるように。あなたの嫌いな櫻井螢であるように。  あなたもまた、私の嫌いな藤井蓮でいてほしい。  私を奮い立たせる魔法の言葉を、どうか口にしてほしい。  分かり合えず、混じり合えず、相容れない不倶戴天。敵同士。  それを強く感じさせてくれるなら、私もまた完璧に、あなたを憎む獣の爪牙へと戻るから。  重い鉄扉が開く音。この屋上にもう一人、誰かがやってきたことを告げている。  螢は目を閉じ、呼吸を整え、意を決してから振り向いた。  これが私の、最後の戦い。  〈希望〉《ヴァルハラ》を求めて〈絶望〉《ヴァルハラ》に落ち、愛すべき〈二人の騎士〉《エインフェリア》を戦奴にしてしまった〈獅子心剣〉《ヴァルキュリア》。  〈櫻井螢〉《レオンハルト・アウグスト》の罪を清算する戦場であり、刑場が今ここなのだ。 「オレはその辺にいるから、おまえは一人で行ってこいよ」 校門を潜るなりそう言って、司狼はさっさといなくなった。俺は無言で頷いて校舎に入り、階段を上って一直線にその場所へ向かう。 互いに示し合わせていたわけじゃなく、また気配を感じたというわけでもない。 ただの勘。おそらくあいつはそこにいるだろうと思っただけで、何の根拠も確証もなかったけど。 鉄扉を開けて、屋上へ。冬の凍えるような夜気の中、目的の人物は微動だにせずその場所に佇んでいた。 「待たせたか」 「いいえ、ちょうどいいタイミング」 櫻井……制服姿のまま首だけこちらに振り返り、気負いのない口調でそう答える。長い黒髪が風に舞い、薔薇の夜に覆われていた午前とは違う本物の月光が、彼女の華奢な肩や首を照らしていた。 見る限り、負傷している様子はない。だが、それは外面だけを無理矢理取り繕ったという印象だ。 「中、ぼろぼろだなおまえ」 あのヴィルヘルムとやり合って、無傷ですむはずはない。こいつが勝利したというだけでも驚きなのに、ダメージがないなんてことは有り得ないだろう。 感覚で分かる。こいつの魂は穴だらけで、未だ槍衾になっていると言っていい。本来なら、話すどころか意識を保っているだけでも驚愕に値する負傷だろう。見た目や態度とは裏腹に、櫻井は身も心も瀕死だった。 触れば砕けそうなくらい脆く儚い。ガラス細工のようなか弱さ、鋭さ、そして怜悧さ……こいつはまるで…… 「薄いぞ、櫻井」 自己を砥ぎあげ、鍛えすぎて、切れ味だけは人一倍だが芯がないゆえに易々折れる。 ガラスで作りあげた剃刀……今の櫻井はまさしくそんな感じだった。 「それはあなたも」 「消耗してるのはお互い様でしょ、藤井君」 「いくらあなたが丈夫でも、いくらあなたが馬鹿な人でも、もう余裕なんて何処にもない」 カインと戦い、黒の大隊長と対峙して、香純を奪われた今の状況……確かに俺も、こいつの言うとおり後がない。 「まあ、否定はしないよ」 「本来なら、こんなことしてる場合じゃねえんだけど」 自覚はしてたつもりだが、当の櫻井にまで言われるとは考えなかったわけで。 「実際、馬鹿やってるとは思うけど、性分でな。大事の前の小事って言うか、気になることを放置してると本命までコケかねない」 「気になること?」 「今まで、何度か訊いたろう。おまえの個人的な目的は何なのかって……あれ、分かったよ」 ついでに、なぜ俺とこいつは事あるごとに口論してたか。その〈理由〉《わけ》も。 「そう」 櫻井は、自嘲気味に笑っていた。嫌なことを知られてしまったと、悪戯がばれたときの子供みたいな顔。 「困ったな。あまり知られたくはなかったんだけど、さすがにヒントはありすぎたか」 「藤井君、結構鋭いものね」 「それで」 何が言いたいのか、どうしたいのか、櫻井の目はそう言っている。 俺とこいつは、根本的に考えが異なる。ただ価値観の相違という問題だけじゃなく、お互いの立場上ぶつからざるを得ない仕組みになっている。 死人を生き返らせたい? 好きにしろ。俺には共感できない望みだが、そういうことを願う人間がいるという事実を否定するほど傲慢じゃない。 俺とは関係ないどこか余所で、死体を抱きしめつつ泣きでもしたら奇跡が起こって蘇る。そんなハッピーエンド、陳腐と思うのは俺個人の価値観であり、それに感動する奴がいること自体は構わない。むしろ拍手くらいしてやるさ。 だが、こいつの望み……黒円卓の祝福はそんな少女趣味の夢物語じゃないというだけ。 一人生き返らせるのに、数千数万を殺して捧げる。その魂が、奇跡の代金として持っていかれる。 ましてこいつが生き返らせようとしているのは、俺の前で何百人も殺したあの男…… 許容できない。認められない。それをさせるわけには断じていかない。 この街の人間を全滅させて叶う夢など、この街の住人である俺が許すはずもないことだ。 当然、櫻井もそれは分かっているだろう。自嘲の笑みを浮かべたまま、静かな口調で言ってきた。 「そういえば、前にも一度、訊いたっけ」 自分の彼氏が、自分の彼女が、自分の親が兄弟が、死んでしまったらどうしよう。 「事故でも病気でも殺人でも、何らかの不条理で大事な人を奪われたらどうしよう」 そのときどうするべきだろう。 「泣いたり悲しんだり絶望したり、怒ったり悔しがったり恨んだり……」 あるいは、こいつがしているように…… 「まだ、答えはあのときと同じまま?」 「…………」 「今の状況でも、硬派な考えは変わらない?」 「ああ……」 頷き、そして目を合わせる。俺の気持ちは変わらない。 「だけど、勘違いするなよ櫻井」 「俺は別に、どっちが正しいとか間違ってるとかの話をしに来たんじゃない」 ガラじゃないんだよ、説教なんて。香純がいれば、何かしら熱いことでも語りだすのかもしれないが、俺にそんな趣味はない。 それに、そもそも、 「せいぜい、二週間かそこらだ」 「おまえと知り合って、まだその程度しか経ってない」 そんな俺の一言二言ごときなんかで、こいつの十一年を覆せるわけがないだろう。 他人の価値観を自分の色に染めようだなんて、思い上がりも甚だしい。 他人の言動で軽く人生変わるなんて、幸せすぎる局面はとうの昔に終わっている。 「だから、そっちはそっちで、思うように生きてりゃいいだろ。誰がおまえみたいな変なのに干渉するか、馬鹿らしい」 「…………」 「じゃあ、いったい何の用なの?」 「俺は俺で、やることがあるんだよ」 ケジメはつけると、以前言った。 今日、この学校で起こったことを、看過するなんて俺にはできない。 当事者として、元凶として、清算しなければならない筋がある。 そのひとつとして、こいつには話を通しておく必要があったから。 「いいか、櫻井――」 続く台詞は爆弾になる。口に出したらその瞬間に、こいつは俺を許さない。 櫻井螢という人間にとって、それは宣戦布告に等しい言葉。 分かっていた。そして分かっていたからこそ、言わねばならない。 「俺は―――」 風が吹く。言葉は冬の夜に攫われて、俺たち二人以外の耳には入らない。 だけど……充分に事足りた。 「そう」 沈黙はほんの一瞬。こいつも予想していたんだろう。さして驚いた風でもなく、ごく自然に空気が変わった。 「つまりあなた、私の敵っていうことね」 同時に、形成する緋々色金。月明かりを断ち切るように、赤い聖遺物が具現化する。 その狂気。凝縮した魂の塊。 なあ櫻井、おまえそんなもののために、何人殺してきたんだよ。 そしてこれから、何人殺すつもりなんだよ。 ……馬鹿野郎。 「おまえみたいな奴は嫌いだ」 「私も、あなたみたいな人は嫌いよ」 俺は吐き捨て、櫻井は笑っていた。 本当に、こいつとは反りが合わない。どこまでいっても水と油で、何度繰り返してもこういうことになるんだろう。 それは既知感。既に知っているような感覚で。 「ちょうどいいわ。あなたとは決着がついてなかったし」 「私も、今デジャヴを感じた。……なるほど、これが副首領閣下の法術なのね。恐ろしくなる、本当に」 「でも……」 緋々色金が燃え上がる。櫻井の戦意に呼応して、より強く激しく形を成す。 だけど、それが泣いているように見えたのは何故なのか。 「私はそんなもの認めない」 「だから足掻く。なんだってする。泣いて祈れば起きるような奇跡なんて、要らないのよ」 「ねえ、藤井君」 ぽつりと漏れた声と共に、櫻井の姿が朧に霞んだ。 「あなた、邪魔だわ」 獅子の剣が迫る寸前、炎に蒸発した涙の欠片を見た気がしたのは、俺の錯覚だったのかもしれない。  振り抜いた一閃は、我ながら最悪と言っていいほど稚拙で力のない剣だった。 “これが今の私の全力か……”  情けなくて涙も出ない。藤井君が言うように私の中はぼろぼろで、急場しのぎの治癒なんかじゃ埋まらない。  武器の重さにすら翻弄されて、空振った剣の遠心力に身体が流れる。そのまま倒れなかっただけでも僥倖であり、二の太刀へ繋げることなど不可能だ。  でも―― 「は――、ぁ」  肩口を押されてみっともなく仰け反りながら、私はこのとき笑っていた。  嬉しい。ありがとう。目の前の彼には感謝してもしきれない。 「殺す、ですって……?」  カインを、あの人を、私の大事な彼を殺すという藤井君。  あなたがそう言ってくれるのを願っていた。その言葉を待っていた。  許せない。そんなことさせない。私の望みを砕こうとするなら殺してやる。 「誰にも邪魔させないって、言ったでしょ」  闘志が満ちる。戦意が少しずつ蘇る。私の魂が燃え始める。 「後悔させてやる。私と会ったこと、私を助けたこと、私に喧嘩を売ったこと。藤井君みたいな甘ちゃんに、負ける私じゃない」 「おまえみたいなアホに、俺が負けるかよ」  ええ、そうね。きっとそう。色んな意味で、私はあなたに負けちゃった。  でも、今からこの場を支配するのは私。あなたは私を、憎むべき馬鹿な女と認識したまま戦い、斃す。そして気分晴れやかに、次の戦場へ向かえばいい。  私の目的は、今この場で終わることだ。獣の祝福から逃れるために、すでに開いた〈学校〉《スワスチカ》で命を落とす。もはやそれしか道はない。  だから―― 「勝つのは私。あなたなんかには分からない」  分からせない。だって今、私は嬉しいのと同時に心底から怒っている。  あなたが魔法の言葉を口にしたから、下手な演技をしなくてすみそうだし。  闘志も、戦意も、はったりじゃない。理屈とは別に感情が、藤井君を許せないと言っている。  あなたに私の真意は悟らせない。この戦いは私の掌、真に勝利するのは櫻井螢。  女に騙される藤井君。ねえそれって、よく分からないけど男冥利につきるんでしょ?  振り下ろした渾身の一撃は、片手で受け止められてしまった。そのまま両断しようと力を込めるが、剣はぴくりとも動かない。私の炎は、彼の髪の毛一本焦がせない。 「くっ――、…」  強い。強いな藤井君。彼も負傷を残していて、精神面でも消耗しているはずなのに。  この二週間足らずの間に起こった出来事、激変した周囲の環境や自分自身の身体と力……並みの人間が彼と同じ目に遭えば、とうに発狂するか自殺していただろう。 「そんなもんかよ、おまえ」  でも、彼は折れていない。そして全然変わっていない。  初めて会ったときと同様に、人間らしさを失わず、力に振り回されもせずに立っている。  女の子みたいな甘い顔で、でも性根はびっくりするくらい男の子で……  なんて、なんて嫌な奴―― 「綾瀬さんって、頭悪いよね」  だから、私は何か色々と文句を言いたい。 「私と、仲良くなりたいんだって。 私と、また遊びたいんだって。 私に、英語を教えてくれって……」  馬鹿、信じられない偽善者。能天気。 「私なんか、いなくなっちゃえばいいと思ってるくせに」  藤井君に彼女が出来ることなんて、絶対嫌だったはずだろうに。 「ああいうの、悲劇のヒロイン病っていうのかしら? 我慢して笑ってる私、可哀想って……酔ってるのよね。 だから、騙すのなんて簡単だったわ。ほいほいついてくるんだもの」 「…………」 「笑っちゃうわよ、誰と誰が付き合ってるって? 誰と誰が友達なのよ? あんな馬鹿な子、騙されるために生まれてきたような単純女…… ねえ、あなただってそう思うでしょ? 散々嘘ついてたみたいだし」 「ああ……」  刀身を掴む藤井君の手に力が篭る。身体が圧搾されるような感覚は、彼がその気になれば私の剣を握り潰せるということを告げていた。  ついこの間まで、ただの学生だった男の子。十一年間戦い続けてきたこの私が、十日程度のキャリアしかない藤井君に心の強さで負けている。  それが悔しくて、情けなくて、眩しくて―― 「あなたも綾瀬さんも、遊佐君もエリーも、笑っちゃうわ」  このまま私の剣も魂も、一気に抱き殺してほしい。 「あなたなんか、大っ嫌い」  あなたに逢えてよかった。 「私には私の人生があって、価値観がある」  私とは相容れないあなたが―― 「分かってもらおうなんて思わないし、あなたを分かろうとも思わない」  自分と違う考えの人が、自分より強いというのは幸せなこと。 「だって、世界には色んな人がいて」  ちっぽけな自分を認識できて。  この迷いも、痛みも、苦しさも……くだらないと一蹴できる誰かが何処かにいるんだと……  そう思えば、奮い立てる。  共感なんて要らない。  私が泣いているときに、誰かも泣いてほしいなんて思わない。 「あなたが怒ってるとか、許せないとか、知ったことじゃないわよ」 「ああ、俺もそう思うよ」  だから―― 「他人と価値観を共有しないと生きていけないような人は――」 「みんな、自分と一緒じゃないと嫌だなんて言う奴は――」  真っ向から睨み合う。  私とは相容れず、私より強いあなたに感謝を。 「鏡と――話していればいいんだ!」  それが奇しくも重なってしまったから、台詞の内容と正反対の出来事すぎて……私は笑ってしまったのだ。 掴んだ剣を捻り、そのまま櫻井を引き倒した。 「―――ぁっ」 ろくに受身も取れず屋上のコンクリートに叩きつけられ、短い呻きを漏らし、それきり…… 馬乗りの姿勢で見下ろす俺を、櫻井は振り落とそうとしなかった。 「終わりかよ、櫻井」 彼女の身体は弛緩して、もはや抵抗の気配など伺えない。 「随分と呆気ない。弱いぞおまえ」 「あなたが、強いのよ」 苦笑気味に、掠れる声でそんなことを言ってくる。 「悔しい、悔しいな……あなたなんかに負けるなんて、こんな結末、冗談じゃない」 「そう思うなら、抵抗しろよ」 「無理よ、できない」 櫻井の剣は俺が右手で押さえているし、左手も同様だ。以前ならばいざしらず、“同類”となった今は男女の腕力差がもろに出る。この体勢で、俺を跳ね除けることは出来ないだろう。 だが…… 「これじゃあ、俺も止めがさせない」 こいつの剣は右腕じゃないと押さえ込めず、そして同様に右腕じゃないと止めをさせない。 「面倒な膠着状態になった。投げるときに剣を弾けばよかったのに、間抜けだな俺も」 「…………」 「やっぱり駄目だな。どんなに気ぃ張っても、経験不足は否めない。ここぞってときに、馬鹿なミスする」 「俺の十日くらいじゃこの辺りが限度みたいだけど、おまえの十一年はどうなんだよ」 「わたし、は……」 「俺みたいな甘ちゃんにあっさりやられるほど、薄っぺらなのか?」 「……違う」 「なに?」 「違うわよっ!」 叫ぶ櫻井。それは怒声と言うには儚すぎて、泣き声と言うには烈しすぎて。 「違う、違うわ……違うもの」 薄く開いたその瞳から、滂沱と涙が溢れ出る。 「なんで、なんでそんなこと言うの。どうしてみんな、私のことをいじめるの」 「薄くない。甘くない。私の想いは……チャチなんかじゃない」 「頑張ったもん。頑張ったんだから……私本気で、命懸けでやったんだから」 命懸けで、殺してきたんだからと。 「同情なんかいらない。褒めてほしくないし、分かってくれなくていい」 「でも私、走ったんだよ。いい加減にふらふらと、あっちに行ったりこっちに行ったり、してないもの」 「蝙蝠なんかじゃない。餌なんかじゃない。レオンハルトじゃなくても、ヴァルキュリアになれなくても、私は最後の……櫻井だもの」 「私がやらなくちゃ、誰がやるのよ。私が逃げたら、私がやめたら、いったい誰があの人たちを……」 「兄さんとベアトリスを、救えるっていうのよ」 「…………」 「ねえ、答えてよ。言ってみてよ。他にどうすればよかったのよ」 「あなたに、何が出来るって言うのよ」 「俺は……」 俺に出来ること、やるべきことが何かっていえば、そんなのは決まってるんだが。 とにかく感極まってる櫻井は激情に任せて支離滅裂なことを言ってるし、そもそも俺に問いかけてるというつもりすらないのだろう。 ただ悔しくて、情けなくて、許せないと、泣いている。 「もう嫌、何も上手くいかない……」 そして、何より自分自身に失望している。 「これ以上、自分の馬鹿さ加減を自覚したくない」 「だから、殺せって?」 「そうよ」 挑むように俺を睨み、櫻井は言う。 「私のこと、嫌いなくせに、下手糞な芝居しないでよ。何が膠着状態なのよ、笑わせないでよ、馬鹿」 「言ったよね、後悔するって。私をここで殺さないと、沢山沢山殺すんだから」 「遊佐君も、エリーも、綾瀬さんも、みんなみんな、殺すんだから」 「させねえよ」 「じゃあ――」 「だから……」 こいつと話してると苛々する。 「なんで俺が、おまえの言うこと聞かなきゃいけねえんだよ。価値観押し付けんな、馬鹿」 「な……」 「兄貴とベアトリスだかを生き返らせたい? ああ好きにしろよ、勝手にやれ。ただし邪魔はするけどな」 「…………」 「櫻井、おまえさ……」 こいつの支離滅裂っぷりから事態の裏を読むのは困難なようで、その実少し考えれば容易に分かることだった。 「なんで諦めてんだよ。命懸けでやってきたことなんだろう」 俺には分からないというか出来ないことだが、何千人殺してでも生き返らせたい死者がいる。 それがこいつの願いで、望みで、人生の総てを懸けて追い求めた奇跡。 その成就を目前にして、たまたま弱ってるときに俺とやり合って負けたから諦める。 有り得ねえ、有り得ねえよ櫻井。 「そんなに怖いのか、おまえ」 「……え?」 「ラインハルトが、メルクリウスが」 「ヴァレリア・トリファが、マキナが、ザミエルが、シュライバーが」 「そんなに怖いか? てめえ、あいつらには勝てないって諦めてんだろッ!」 「―――――」 「だから薄っぺらだってんだ、おまえは」 だから俺なんかに負けるんだ、おまえは。 「いったい何があったのか知らねえけど、どうせおまえが考えてたような甘いご褒美じゃなかったっていうだけだろう」 だったら、なぜ吠えない。騙しやがってと、怒らない。 「連中がおまえの望みの邪魔になるなら、なんでぶちのめそうとしない。俺にはやれるくせに、あいつらにはやれないって、舐めてんのかこの野郎」 「ムカつく、すげえ腹が立つ。おまえ俺が、あんなクソどもより弱いって思ってんだな」 「だ、だって……」 「俺はあんな奴ら、怖くない」 言い切る。断言してやる。俺が苦手なのは香純の説教だったり本城や氷室先輩のセクハラだったり、マリィの空気読めなさっぷりや司狼のアホさ加減くらいのもんで…… ああ、あと、やたら俺のムカつき琴線に触れまくる、おまえという存在そのものも。 「カビの生えた九十歳オーバーのジジイやババア、何が怖いってんだ、俺は若いぞ」 「おまえも、俺とタメなんだろう? あんな前世紀の遺物ども、二十一世紀には要らないんだよ。なに萎縮してんだ、馬鹿じゃねえのか」 「まあ、別におまえが根性なしでもなんでも構わねえけど」 そんなに奴らが怖いなら、震えて縮こまってりゃいいけど。 「俺はムカついた。あいつらより下に見られたのが我慢できない」 「だから見てろ。俺は負けない。そんで全部片がついた後、おまえにこう言わせてやるよ」 「ごめんなさい、私の目が曇っていました。藤井君は強いのね、って」 「そう決めたから、おまえはここで殺してやらない。ざまあ見ろだ、馬鹿」 「…………」 櫻井は呆気にとられたような、呆然とした顔で俺を見上げている。 そして、 「……勝てる気なの?」 「ああ」 「あの人たちがどんなものか、知らないわけじゃないんでしょう?」 「だからなんだ、関係ない」 第三帝国だろうが悪魔だろうが、宇宙怪獣だろうが知るかそんなの。 「そもそも俺は、あいつら全員とやり合うための役なんだろうが」 「おまえとは違うんだよ。しょぼい枠に入れて過小評価すんな、腹が立つ」 「俺の生きてる話の中じゃ、人生主役は俺だからな」 「知ってるか、主人公ってのは無敵なんだよ」 「…………」 少なくとも、俺が好きで求めてるジャンルは王道だ。 主人公が死んだりヒロインが死んだり、最後に悪が勝つようなひねくれた落ちは要らんし嫌いだ。そんなジャンル違いが、俺の話にのうのうと出てくるなんて許さない。 「おまえの話は、悲劇のヒロイン病みたいだけどな」 「……っ」 「なんだよ、何か文句があるのか?」 香純は確かにパーだしアホだが、おまえみたいに妙な趣味したマゾ臭いナルシストじゃない。 「私だって、そんな話は好きじゃない……」 「だったら、どんな話が好きなんだよ」 「私は、私も……」 皆まで言わせず、こっちはこっちで勝手に喋る。 俺が好きな王道は。 「同年代の奴と仲良くなって、一緒に遊んだり勉強したり」 「何処のケーキ屋さんが美味しいとか、何組の誰々がかっこいいとか、話したり」 「たまに喧嘩して、口きかなくなったり」 「でも仲直りしたくて、どう謝ろうか、迷ったり」 「そんな――」 「そんな話が、私も好き」 同時、櫻井は一気に上体を起こすと、仰け反る俺の首に抱きついてきた。 「――――」 予期せぬいきなりの行動に、俺は何も出来ず硬直する。 「好きな人と、こうしたり」 「びっくりしてるその人を、からかったり」 「藤井君じゃ、役者不足だけど」 ほんの少しの間だけ触れ合っていた唇を離し、櫻井は微笑んだ。 「他に適当な人がいないから、今だけ代役にしてあげる」 「おま……」 こいつ、余裕で跳ね返せるじゃねえかよ。か弱いふりして、何が“できない”だ怪力女。 「いま何か、腹の立つこと考えてるでしょ?」 「つーか、おまえ俺のファーストキスを……」 「なに少女漫画の女の子みたいなこと言ってるのよ」 いや、少女漫画って…… 「おまえ、そんなの読むようなキャラかよ」 「悪い?」 悪くは、ないが…… 「変な幻想、持たないでよ。私だって女なんだから」 「いや、おまえは、世間一般の女じゃねえし……」 「私なんかにおたおたしてて、よくあの人たちに勝てるなんて言えるよね」 カチーン。 「無敵なんでしょ、主人公さん」 「私の目が曇ってるかどうか、確かめるから」 「もっと、藤井君の顔を見せてよ」 とか言いつつ、なんで目を閉じてるんだよこの女は。 そして、さっきから何無抵抗でいいようにやられてるんだ俺は。 舌まで入れてくるし、こいつ。 どうかしてるだろ、お互いに。 「ん……む、は…ん……」 あのさあ、櫻井。 俺の予想っていうか、立ててたプランにはこんな展開なくてさ。 何も言えなくなったおまえを華麗にうっちゃって、後ろも見ずに去っていく漢の背中、大勝利みたいな。 少なくとも、主人公は無敵発言あたりから、そっち方向へもっていこうとしてたんだけど。 それが、なんでこうなってんだよ。いきなりコケてんだけど、主人公。 「ん…ぁ、藤井君……」 「…………」 「見せてくれるんでしょ、強いところ」 「私が死んじゃったら、見れないよ」 嘘くせえ。はてしなく嘘くせえ…… 「女は信用するなって、俺は誰かに言われたような……」 「誰それ?」 「確か、頭に“さ”のつく奴」 「佐藤さん?」 「誰だよそれ」 「私の、隣の席に座ってる子」 「知らねえよ」 「クラスメートの名前も覚えてないんだ」 「私は、全員覚えてるのに」 「ていうか、そんなことより」 さっきから妙なスイッチが入ってるらしい櫻井はともかく、俺自身はいったい何をやってるんだ。 こいつのことは苦手だし、嫌いだし、お互いの立場上、こんな展開は有り得ないわけで。 「分かってんのかよ、俺はおまえの兄貴を……」 「殺すっていうなら、邪魔するわよ」 言いながらも、櫻井の微笑は鉄壁で崩れない。 「でも、それはそれでしょ? あなたも私も、自分の価値観を他人に押し付けるような性格じゃないから」 「私は私で、好きにするの。あなたもそうしてるんだし」 「ここで私を殺してくれないんなら、それでもいい。ただ腹が立つから、いじわるがしたい」 「意地悪って、おまえ……」 「困ってる藤井君を見てると、私はすごく面白い。ざまあ見ろって思うもの」 「…………」 「嫌いな女に襲われるのって、どんな気分?」 「……嫌いな男を襲う気分はどうなんだよ?」 「悪くない、かな。うん、楽しいかも」 「……おーい、変態がいるよ」 「じゃあ、なんで逃げないの?」 だよなあ。俺自身も、その辺りがなんでなのかよう分からん。 「男の子なんだから、据え膳貰っとけばいいじゃない」 女が口にするかね、そういうことを。 「頭と下半身は別だって聞くし」 「俺はわりと連動してるクチだぞ」 「じゃあ」 悪戯っぽい響きを口調に乗せて、櫻井は言った。 「藤井君、もしかして私のこと好きなの?」 「…………」 「なんで即答しないのかな?」 「…………」 「私は好きよ、あなたのこと」 嘘をつけ、嘘を。 「おまえ、さっきから言ってることメチャクチャだし」 「あなたもわりと、メチャクチャじゃない」 「そんなことはない」 「あるわよ」 どこが、と言いかけた俺の口に指を当てて、櫻井は呟く。 微かに震えているような、しかし不思議とよく通る声で。 「私みたいな奴のこと、本気で相手にしてくれるのはもうあなただけだから」 「絶対、逃がさない。ずっと、付き纏ってやる」 「後悔させてやるんだから」 ああ、すでに大分後悔してる。 「私、いま弱ってるし……元気が欲しいな」 「今度はあんな生臭い〈血〉《もの》なんかじゃなくて、最初に話題が挙がった方で……ね」 「別のものが、ほしいな」 しかも、カマキリみたいなことまで言いだすし。俺の唇、熱っぽい目で見られてもだな…… 「……論理的に、意味が分からん」 「なんでもいいのよ、私としては」 両側から俺の顔に手を添えて、櫻井は微笑んだ。 「何かしら言い訳があれば、藤井君は言うこと聞いてくれそうだから」 「しょうがないから、どうしようもないから、他に選択肢はないし、逃げたくないし、嫌だけど、面倒だけど、我慢して、しなくちゃいけない」 「いつもいつも、そんな風に思って、やせ我慢しながら戦ってたでしょ?」 「馬鹿みたいって、思ってた」 「…………」 「こういう奴、嫌いだって」 「それは……」 同属嫌悪みたいなもんだろうと言いかけたが、寸ででやめた。 こいつと俺が似てるとかなんだとか、そういう類の話はしたくない。 「藤井君は、舐められるのが嫌いだから、生き残って私を見返したいんだよね?」 「だったら、今は私が死なないようにしてくれなきゃ駄目」 「それとこれと、どう関係があるんだよ」 「言ったじゃない、常套手段だって」 つまり、精だか気だかを注いでくれと。 「ベイは、強かったから。正直、どうやって勝ったのかも覚えてないし。未だに信じられないところもあるし」 「今の私、外側だけ小奇麗にしてるけど、中はぐちゃぐちゃなの」 魂は穴だらけ。〈荊棘〉《イバラ》で槍衾にされ、薔薇の夜に吸い殺されかけた負傷はそのまま。 「そんな状態であなたと喧嘩しちゃったから、ちょっと危ない。今は死なせないっていうなら、責任とってよ」 「そもそも、売ってきたのは藤井君じゃない」 「女を傷物にしといて」 ああもう。そりゃ確かに、俺もおまえもお互い噛み付いた仲ではあるけど、だな。 なんかこいつの台詞を聞いてると、胸の辺りがむしゃくしゃしてくる。 「タチ、悪すぎるんだよおまえ」 「そんな私に、構うからいけないのよ」 「馬鹿だよね、ほっとけばよかったのに」 「どうして、そんな相手にしてくれるの?」 「どうしてって……」 言われても、その、なんていうか…… 「おまえは、凄いムカつく女だし」 目に入っても入らなくても、さりげなく俺をいつも苛つかせてるし。 「出会い、最悪だったし」 殺されかけたこともあるし。 「助けてくれたこともあるし」 助けたこともあるし。 「なんかこう、分かんねえけど」 櫻井螢って嫌な女が、俺の中から消えないんだ。 それなのに、現実のこいつは放っておけば消えるだろうことが分かっていたから。 「嫌なんだよ、我慢できない」 いなくなった奴が、二度と会えない奴が、胸の中にいつまでも残っているという不自然さが気持ち悪い。 「そういうの、苦手なんだ。聞こえるんだよ、俺には……」 俺の中に、誰だか分からない奴らが渦巻いている。そいつらの声が聞こえてくる。 マリィと契り、こんな身体になってからその感覚は強くなった。 これは、あのギロチンにかけられた奴らの声か。それとも―― 「とにかく、死人ってのは重いんだ。出来れば担ぎたくない」 「何を言ってるのか、分からないけど」 俺自身も、意味不明なことを言ってる自覚はあったから、返す言葉もない。 ただ、有り体に纏めると。 「ただでさえ、おまえは粘着で鬱陶しいんだから」 キレやすいし、恨み節だし、思い込み激しくて視野狭窄だし。 何かって言うと、すぐ俺の台詞を流用して揚げ足取るし。 「そんなおまえを死なせたら、凄い怨霊になりそうだろう」 毎晩枕元に出てきそうだろう。 「さすがに、それは俺も嫌だっていう話だよ」 「…………」 と、言ってやったら、櫻井は一瞬目を丸くして。 「……ぷっ」 いったい何が面白いのか、人の胴を両脚で挟んだまま派手に爆笑しやがった。 「あははは、ははははははははははは、ははははは――」 「はははは、あはは、ふふふふ、ははははははは……」 「ふふ、そう、そうよね。私たしかに、ふふ、そういうのに、あはは、なりそう。ははははは……」 「…………」 どうもツボにはまったらしく、怨霊予備軍は涙目になって笑っている。 「そうか、それは藤井君も、つらいよね。うん、うん、わかった。なるべく、ははは、わたし、気をつける、あはは、ように、するから」 「で……」 受けてもらったようで光栄だが、やはりこの後、他に選択肢は無いわけか? 「逃げたら、祟っちゃうから」 「……すげえ色気のないお誘いだな」 「じゃあ、優しくして」 「急にぶりっ子しても気持ち悪いし」 「今夜は寝かさないわよ」 「何のキャラだ、何の」 こいつ、絶対さっきからおかしいだろ。やばい薬でも打ってるとしか思えない。 「私は私、なんでもいいわよ」 だが櫻井は、何事も無かったように口調を戻して、再び俺の顔に手を這わした。 「笑ったのなんて、久しぶりだったから、ちょっと調子に乗っちゃったけど」 「もう好きとか嫌いとか、なんでもいいの……今はただ、藤井君をちょうだい」 「今だけ、私のものになって」 「…………」 「いや……?」 「別に……」 何か適当な言い訳さえあれば、大概のことはやってしまうという櫻井から見た俺の人物評……悔しいが、わりと当たってるんで何も言えない。 もちろん本当に何でもするわけじゃないが、前言を翻したり途中放棄したりするのが出来ない性分を、凄まじくピンポイントで突かれた気がする。 「ハイドリヒ卿よりも、副首領閣下よりも……強いって言った主人公さん」 「あなたのお陰で、目が覚めたから。結果を見届けさせてほしいの」 「見届けさせて、くれるんでしょ?」 「…………」 確かに。 じゃあ、せいぜい今は、見損なわれないようにしないといけないのかな。 言い訳も、幸か不幸かあることだし。 「ん……」 そして、俺達はどちらからともなく唇を重ね合わせた。 前のときに意地を張っていたこと……それを今は納得しながら、俺は唇を明け渡したのだった。 「で、結局どう転んだんだよ、〈喧嘩〉《デート》の結果は」  肩に担いだスコップもそのままに、呑気にタバコを吹かしながら司狼は屋上を見上げていた。  屋上で激しくやり合っているのは聞こえていたが、その後がどうもよく分からない。おそらく何らかの決着をつけたものと思われるが、それはどんな感じの落ちだったのか。  まあ、予想がつかないわけでもない。ここからちょっと声でもかければ二人して顔を見せることだろう。こっちの“作業”も終わったし、ひとつ暇潰しにからかってみようか。  と、少し考えたものの。 「やめやめ、だるいし」  あっちはあっちでお疲れだろうし、こっちもこっちで労働のあとだ。スコップを放り投げ、あたりを見回す。  予定ではこの中庭全域もやるつもりだったのだが、結局数が足りなかった。少々手落ちなのは否めない。  しかし、仮に数あったとしてもそこまで気力が続いたかどうか。正直なところ、今の学校は数分も留まりたくないくらい不快な空気が充満している。  第五番目のスワスチカ……ここは常人ならば立ち入れないほどの汚染区域と化していた。どうもその性質は散華した魂によって変わるらしく、ここは特にそれがきつい。根城にしているクラブのホールより、数段禍々しい気配が満ちている。  ヴィルヘルムと、彼が集めた魂によって開かれた場であるゆえに、辺り一帯が呪詛と怨念と憤怒と憎悪で煮えくり返っていた。  事実、注文の品を運ばせるために呼びつけたトラックの運転手など、校門を潜った瞬間に嘔吐して失禁したほどである。話にならないので荷だけを降ろさせ、あとは手運び、手作業だ。肉体的な疲労はほとんど感じない体質だが、精神的には些か疲れたと言わざるを得ない。  敏感と鈍感の同居。あくまで人の範疇に留まっている司狼がこの場にまだ耐えられるのは、ひとえにそうした特異の感覚を有しているがゆえである。エリーや生き残りの一般生徒達が耐えられたのは、午前中という陽性の気が強かった時間帯と、開いた直後で本格的な異界化がまだ甘かったからという理由に他ならない。深夜の学校は、もはや完全に一種の魔境と化していた。 「そんな場所で、ようやるよなあいつらも」  今ここでメシでも食ったら、二秒で吐ける自信がある。これが抵抗力の差というやつか……と、呆れ半分に思っていたとき―― 「……お?」  相棒からの連絡だ。どうやら、案の定何らかの動きがあったらしい。 「どした? 今度は〈病院〉《おまえんち》でも吹っ飛んだか?」 『いや……』  電話越しの声は硬い。冗談ごとではないと言っている。 『国道で、事故多発だよ。今もライブで続行中』 「へえ……」  それはつまり、何者かが国道を走っているということ。 『何もない、〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》〈車〉《 、》〈が〉《 、》〈撥〉《 、》〈ね〉《 、》〈飛〉《 、》〈ば〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。分かるよね?』 「ああ」  目に見えないほどのスピードで、車と正面衝突しても弾き飛ばすような存在が一直線に駆けている。 『〈学校〉《そっち》に向けてね、ご出陣』 「じゃあ、お出迎えしねえとな」 『ねえ司狼』 「んあ?」  およそ緊張感の欠如した反応に、電話越しの声は苦笑しつつ。 『あんた、ここで目立たないと影薄いよ』 「了ー解。いっちょ決めるから待ってろ」  電話を切り、神経を尖らせる。遥か遠く彼方から、徐々に、そして急激に近づいてくる破壊と暴虐と死の気配。  血に飢えたケダモノが、この場所へとやってくる。 「こりゃ、狂犬だなおい」  もはや“場”として機能しないこの学校へ。  まともな理性、まともな思考、まともな精神を持つ相手ではない。  あるのはただ、煮え滾る殺意と〈糜爛〉《びらん》した喜悦。  強者と血の匂いに狂乱した、最悪の嵐がやってくる。 「癌細胞ねえ……」  無限に増殖し無限に喰い貪る壊れた鬼。  今からここにやってくるのは、きっとそんな…… 「―――――ッ」  弾ける爆音。学園の敷地に隣接した国道から、黒煙と火柱が噴き上がる。  走行中の大型タンクローリーを踏み台に蹴り飛ばして横転、爆発させたのは、少女と見紛うばかりの矮躯だった。  半月を背に宙を飛ぶソレ――  両手に銃。右目に眼帯。月光に輝く銀髪の下、見開かれた碧眼は決して満たされぬ飢えと渇きに狂った凶獣。  〈白騎士〉《アルベド》のシュライバー。  髑髏の〈大隊長〉《エインフェリア》が、戦場跡地をさらなる血に染めんと夜闇を引き裂いて現れる。 「名乗れェッ――ベイ中尉の墓に立つおまえ! 〈真〉《マコト》、その身が〈兵〉《ツワモノ》なら、彼の殉死者として微塵に砕け散るがいい!」 「遊佐司狼だ、てめえあいつのダチかよ」  地対空――ともに笑み、ともに銃を擬し、ともに狼を冠する二人の視線が交錯する。 「仲間の敵討ちしようってツラじゃねえなあ」  この少年に理由などない。何を言い、何をしようと、片端から忘れて暴れる血煙のハリケーン。  先ほどの妙に時代がかった言い回しなど、おそらく気紛れに遣ってみたかったというだけにすぎまい。 「聖槍十三騎士団黒円卓第十二位、大隊長――ウォルフガング・シュライバー=フローズヴィトニル」  溢れる悦と殺意を口調に乗せて、蝕の凶星は六十年ぶりの戦争を予感する。  ああ、この匂い、この敵意、この重圧、この疾風――!  血と鋼鉄と肉と骨と、硝煙の帳に燃えて砕けろ光輝の〈戦場〉《ヴァルハラ》――  遍く総て悉く、僕の〈愛〉《キバ》で歓びのうちに滅びるがいい――! 「泣き叫べ劣等――」  ルガーが吠える。モーゼルが哭く。  今これより〈恐怖劇〉《グランギニョル》――ヴァナルガンドの殺戮劇場へようこそ恋人。  栄華を誇る天の光も、僕は喰らい喰らい蝕の暗い冥牢へ―― 「今夜ここに、神はいない」 「んなもんハナから信じてねえよ」  同時、三つの銃口から等しく轟音が迸った。 「――――ッ!?」 爆発、そして連続する銃声が耳朶を打つ。同時に感じる、桁外れと言っていいこの圧力は―― マキナ――いや、違う。奴じゃない。しかしあれに勝るとも劣らない怪物だ。 「〈暴れ狂う嵐〉《シュトゥルムヴィント》……」 「シュライバー卿の渾名……たぶん彼よ」 硬い声で、恐怖を抑え込むように櫻井は呟いた。 「本当に、噂通りの人なのね。何も考えてない暴走竜巻……デタラメすぎるわ、意味がないもの」 すでに開いたスワスチカで、誰をどれだけ殺しても意味はない。ここにいる俺達を攻める理由なんて、一片すらないというのにやってくる。 その無軌道ぶり、支離滅裂どころか条理そのものを持ち合わせていないような在り方はまるで―― 「狂犬じゃねえか」 「違うわよ」 「ただ見境のない暴れ好きっていうだけで務まるほど、黒円卓の大隊長は軽くない。彼らはハイドリヒ卿の近衛だから」 「その忠誠、緊縛と誓い、どれも私達の比じゃないわ。彼らはどう動いても、ハイドリヒ卿の利となるように創られている」 「創られて?」 「それは……いま話してる場合じゃないけど」 「とにかく、あの人達は何をやっても許されるし、何をやっても行動自体が失敗だなんてことは有り得ないの。だから、一見無茶苦茶に見えても……」 「何かしらの伏線になるってわけだ」 ここで俺か、あるいは櫻井を殺すことに。 じゃあ、いったいそれは何を意味するものなのか…… 「藤井君?」 「いや、まあ分かった」 とりあえず、今はそんなことを考えている場合じゃない。 さっきの銃声からしておそらく司狼が迎撃しているんだろうが、いくらあいつでもこれは相手が悪すぎる。 ただでさえ有効的な攻撃手段を持ち合わせていないんだ。俺が攻め手を買って出ないと、あの馬鹿今度こそ死んじまうぞ。 「あ……」 窓を開けて飛び降りようとする俺に、櫻井は何か言いたそうな感じだった。 「あの、その……」 「本当に、やるの?」 「……くどいな、おまえも」 俺はこれでも、有言実行派のつもりなんだ。口にしなきゃ何もしなかったりすることはあるけど、一度言ったからにはそこから逃げないし、やり通す。 「勝てないよ……今までとは格が違うんだから。あなた、分かってない」 「…………」 「行ったら、藤井君、きっと死んじゃう……」 「あのな、櫻井」 おまえはもっとこう、喩えるなら本城のような女になってくれ。 俺はなんていうか、頭でうだうだ考えてるわりに、言葉はちょっと足りない奴だし。基本的にカッコつけだし。 あいつみたいな、色々読んだ上でこっちのプライド守ってくれる女のほうが相手にしやすいんだよ。 「言っただろ、舐めんなって」 「俺が、こんなところで負けたり死んだりするわけないんだ」 「でも、私は……」 「まあ、半病人は大人しく見てろ」 ちくしょう、手が震えてやがる。ここからでも感じる凶気は凄まじすぎて、確かに今までとは格が違う相手だと本能で理解できる。 黒円卓の大隊長、ウォルフガング・シュライバー……何千、何万の魂をその身に渦巻かせている白化の混沌。 だけどこいつをここで斃せば、スワスチカを開かずに連中の戦力を大幅に削ぐことが出来るんだ。 気合いを入れろ。むしろ好都合だと笑ってやれ。 怖くない。びびってない。これは武者震いだよ文句あるか――! ここで俺がおたおたしてたら、また櫻井がワケの分かんねえテンパリかたして鬱陶しいだろ。 「ふじ――」 背後の声を黙殺して、俺は一気に中庭へ飛び降りた。 「司狼――ッ」 腹から大声絞って呼ばわる。あの馬鹿、何を走り回りながら滅多矢鱈に拳銃乱射してるんだ。 そもそも、当のシュライバーはいったい何処に? 「おお、やっときたか。どうだったよデートの方は?」 「今、そんなことはどうでもいいだろ」 軽口と悪態を吐きながら、俺達は背中合わせの姿勢をとる。シュライバーが何処にいるか分からない以上、こうしてないと一気に瞬殺されかねない。 「で、奴は?」 「あぁ、見えねえのか?」 「なに?」 「だから、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」 「それはどういう――」 言いかけて、しかし途中で気付き、愕然とした。 「まさか、いるのか?」 「ああ、見えねえだけだ」 シュライバーは隠れてなどいない。この場所に、堂々と、俺達と同じく存在している。 「透明になってるとか、そんなんじゃねえぞ」 これはもっと単純で、それだけに恐るべき事実。 「速すぎて――見えねえんだよ」 ヴィルヘルムより、カインより、疾風より、迅雷より――俺が今まで見た何よりも速いスピードスター。 銃弾など鼻歌混じりに走って追い越す神速に、触れるのはおろか視認することさえ出来はしない。 右手にある校舎の壁面が、巨人の槌でも受けたかのように陥没した。それだけではなく、地面も、反対側の壁面も―― 音など遥か置き去りにして、奴は空間を三次元的に跳ね回っている。その後を追うように発生する、爆撃じみた衝撃波。奴が真横を走り抜ければ、それだけで並みの人間は五体粉微塵になりかねない。 まさしく死をばら撒く嵐の化身だ。〈暴嵐〉《シュトゥルムヴィント》の銘は伊達じゃない―― 「ベイが死んだ。アンナが死んだ。シュピーネ、バビロン、ヴァルキリュア」 「みんないない。消えていく。僕の兄弟、愛する同胞――流血の契りを交わした黒円卓の〈戦友達〉《カメラード》。ああ、君らのヴァルハラはいったい何処に?」 「――――ッ」 一際激しい衝撃と共に、大地が陥没して土砂が舞う。 見上げた上空――四階建ての校舎すら飛び越えた高みの空に、そいつはいた。 「君らの黄昏は何処にある?」 細く小さく、二次性徴すら始まってないと思える身体に、女のような顔と声。しかしその隻眼は、本城が言ったようにあらゆる情念で煮え滾っている。 悲哀憎悔、喜悦快楽の泥濘、混沌、メチャクチャだ。なんでも飲み込み、なんでも吐き出す。人型をして生まれただけの、これは最初から別種の生き物。服を着て、言葉を話している災厄でしかない。 その凶眼が、真っ向から俺を射抜く。 「やあ久しぶりだね、〈副首領〉《クラフト》二世。随分大きくなったじゃないか」 「“城”ではハイドリヒ卿が、君を焦がれて待っているよ」 ワケの分からない狂人の戯言など、微塵も聞くに値しない。奴の言葉は不協和音だ。 会話なんか出来ないし、するだけ無駄というものだろう。 地を蹴り、空のシュライバーへと斬りかかる。すでに俺の右手はギロチン、マリィの存在が希薄になったにも関わらず、以前よりも速く強く、形成するのにほんの刹那すらかからない。 いかに奴が神速とはいえ、滞空状態ではろくに身動きできないはずだ。たとえ必殺とはいかなくても、必ず何らかのダメージを与えてやる。 「うふ、うふふふふはははははははははは―――」 哄笑と共に、両手の拳銃を俺に擬すシュライバー。あれが奴の聖遺物なのか、月すら映さないガンメタルは血に錆びつき、一切の光沢を発さない。 そこから吐き出される銃弾の幕。俺は右手の刃を盾代わりにしてそこへ突っ込む。 「おおおおぉぉォッ――」 弾丸は残らずギロチンに跳ね返されて飛散した。そこから察して見る限り、こいつは馬鹿げたスピードを誇る反面、武器は凶悪というほどでもない。 喩えるならアウトボクサーみたいなものだろう。必殺の一撃を持たないのなら、被弾覚悟で飛び込むことで活路を開ける。 しかし―― 「触ることが出来たらね」 「――――ッ」 間合いに入ると同時に放った一閃を、シュライバーは事も無げに飛び越えた。全身のバネと筋肉をしならせて、空中を二段に跳躍してのける。 しかも、そこから間髪入れずに急降下。発達した犬歯が俺の首を噛み千切らんと迫り来る。 「――首引っ込めろッ」 背後からの怒声に反応していなければ、そのままやられていただろう。 轟く銃声は司狼のもの。俺の頭上すれすれを風切って走る弾丸が、シュライバーの顔面に命中する。 いや、命中したように見えただけだ。 「あっ、はァ―――」 頭を下に、逆さ状態で俺に迫っていたシュライバーは、内へ巻き込むように首を丸めて司狼の銃弾を回避した。 のみならず、そのまま回転して鉈のような踵を落とす。 「つァ――ッ」 衝撃は、しかし味方に撃たれまいと首をすくめたことにより、延髄の急所からわずかに外れた。 それは僥倖、だが―― こいつの手には二挺拳銃……一つは俺へ、一つは司狼へ、交差するような構えを取り、未だ硝煙立ち昇る銃口が一気に火を噴く。 連続で吐き散らかされる弾丸は百発以上。落下状態の俺にそれを躱す術はなく、再びギロチンを盾にするものの防ぎきれない。 なぜなら、拳銃の常識を超えたその弾数は、もはや完全な面攻撃だ。鉄槌に叩き落されるような衝撃を受け、俺は背から地面に激突する。 「―――ッァ」 呼吸が止まり、目に火花が散って眩みかけた。バウンドするように跳ねながらも、しかし痛がっている場合じゃない。 未だ空にはシュライバー。再び宙を疾走して迫り来る―― 頭を踏み潰される寸前で身体を捻り、もんどりうってそこから逃れた。土砂が爆散して舞い上がり、中庭にクレーターが出現する。それを目にして、俺は込み上げる悪寒を禁じえない。 圧倒的な速度はすなわち破壊力。軽量だろうとなんだろうと、桁外れの速さに乗せれば関係ない。紙の名刺でも割り箸を断てるように、こいつの肉弾はカインやヴィルヘルムと同等以上に剣呑だ。 とはいえ、それだけに解せないのは、やはりあの銃だった。そもそも弾丸より速い奴が、銃器で武装して何になる? さっきのように使い方しだいで厄介なのは確かだが、所詮は補助程度の威力しかない。それが証拠に、俺はまだ決定的なダメージをなんとか避けることが出来ている。 こいつは銃など使わずに、素手で暴れまわった方が強いはずだ。 なのにいったい―― 「ただの趣味だろ」 舞い上がる土砂の粉塵に向け、背後から銃声が轟いた。 同時に土煙から飛び出ると、側宙しながら弾を躱すシュライバー。遊んでいるつもりなのか、今度の動きはなんとか目で追える範囲に留まっている。 「ありゃ単に、銃が好きっていうだけだ。あんまり深く考えんな」 「司狼……」 こいつ、さっきの銃撃を凌いだのか…… 「おまえ、よく無事だったな」 「いや、何発かもらったよ」 右肩と脇腹と左大腿部……弾が掠めて血の滲んだその箇所を指しつつ、司狼は笑う。 「んで分かったんだが、あいつのあれはただの銃だ」 「なに……?」 「だから、ヴィルヘルムの〈杭〉《アレ》みたいな感じじゃねえ。だって痛くねえもんよ」 その間も銃撃を続けつつ、こいつはいまいち曖昧なことを言う。 「まあ、ただのってわけでもねえだろうけど、そうやばいもんでもねえよ。少なくともおまえにはな」 確かに、シュライバーの銃にはそれほど大した威力がない。俺も数発食らったが、せいぜい血が滲む程度のもので強化ゴム弾といった感じだ。頭か目にでも受けない限り、致命的な負傷はしないだろう。 しかし、そういうことなら、まさか―― 思い至った解答に、俺は血の気が引いていく。 シュライバーの聖遺物は銃じゃない。奴はまだ、武器の形成すらしていない。 おそらくただの活動位階……神速という特性を生身で発揮しているだけだろう。 そして、にも拘らず俺は奴の動きについていけない。それは言うまでもなく、彼我の間に存在する圧倒的な実力差を意味していた。 「どうしたんだい。君はそんな程度でハイドリヒ卿と遊べる気か?」 「あの人につまらない戦場を宛がうなら、要らないなあ」 銃口をこちらに擬し、天真爛漫に笑うシュライバー。しかしその目は狂熱で煮え滾り、殺戮への欲求に満ち満ちている。 こいつは戦いに手加減をし、力を出し惜しむようなガラじゃない。主義と呼べるものを持ち合わせているとは思えないが、何がその破壊衝動に抑制をかけているのか。 「僕は一番最初の獣の牙だ」 「〈赤〉《ルベド》よりも〈黒〉《ニグレド》よりも、誰よりも早くハイドリヒ卿に忠誠を誓ったのはこの〈白〉《ぼく》だ。あの人に挑んだのも、あの人に屈したのも、あの人のシモベとして魂を捧げたのも――総て総て僕が最初だ」 「出来損ないなら要らない。要らないんだよ。君があの人の渇きを、あの人の飢えを、あの人の願いを叶えて満たす〈恋人〉《ツァラトゥストラ》なら証を見せろ――」 「僕は〈殺戮駆除部隊〉《アインザッツグルッペン》。物の役に立たない劣等なら絶滅させる――」 「僕に触れもしないノロマの愚図が、ハイドリヒ卿の前に立つなど図にのるな」 「うふふふ、ふははははは、あははははははははははははは―――」 「司狼――ッ」 爆ぜる殺意。奴の体当たりをまともに受けたら、俺はともかくこいつはバラバラに吹っ飛ばされる。 「俺が引きつけるッ、おまえは下がれッ!」 同時、全身を砲弾と化したシュライバーが俺達の方へ爆走してきた。 「―――ごっ、はぁッッ」 咄嗟に司狼を突き飛ばして反応が遅れた俺は、もろにその直撃を受けてしまう。腹にめり込んだ肘の衝撃に服の背中が弾け飛び、口から血反吐が迸る。 そしてそこへ―― 「しゃぶりなよ。美味いだろォ、ええェ?」 「がッ――」 鋼の銃身が根元まで口内に突き込まれた。いくら霊格の落ちる武器とはいえ、この状態で撃たれたらただじゃすまない。 「避ける? 避けてみる? 噛み破ってみろよほらァァッ――!」 〈発砲〉《トリガー》――轟音。白熱して弾ける意識―― 「―――ッ」 だがその瞬前で、シュライバーは身を翻し飛んでいた。迸った銃声は、横合いから発砲した司狼のもの。 「――ガァッ」 切り返しの踏み台代わりに蹴り飛ばされた俺は、そのまま校舎に激突する。なんとか命拾いしたものの、やはり奴の動きを捉えられない。 再び不可視の神速となって空間を跳ね回るシュライバー。司狼の銃撃を笑いながら、いとも容易く避け続けている。 ……いや、待て。避けるだと? 「どうやら、敵に触られるのが我慢ならねえ性分らしいな」 そうだ。奴にとっては銃弾など、本来躱す必要もない。特にさっきのような、必殺に近い状況でわざわざ回避を優先するのは有り得ないこと。 「絶対避けてくれるんなら、それはそれであり難いわな」 司狼の言わんとすることは理解できた。自分を攻撃するものが脅威であろうとなかろうと、シュライバーは必ず躱す。受けや防御の概念など奴にはない。 それは自らの神速に対する矜持なのか、あるいは他の何かなのか……奴の考えなど分かりたくもないが、攻められればどんな状況だろうとまず回避を優先するという性質は、つけ込むべき点だろう。 「オレが相手をしてやる。掠るだけでもいいからまず一発食らわせろ」 「ああいう奴は、プライドぶち折ってやれば案外壊れるかもしれねえぞ」 「……つっても、すでに最初から壊れてるだろ」 「だから、そのうえで壊しゃあ木っ端微塵だ」 「……なるほどな」 一理ある。そこはイカレた馬鹿同士、相通ずるものがあるのだろう。 「それともう一つ、なんとかして野郎を校庭に誘き寄せるぞ」 「〈中庭〉《ここ》じゃあアレはピンボールだ。狙い定まんねえし、そのぶん余計に速く見える」 「けど校庭なら、いくら速くても〈直球〉《ストレート》だ。勘でも打てないことはねえ」 「でもその代わり、〈死球〉《デッドボール》を食らえば即死だぞ」 「まあ、そこはそうならねえよう、色々小細工してあるよ」 「なに……?」 こいつ、俺が知らない間に、何か策でも張ったのか? 「今朝方言ったろ? 今日は外せない用事があるから、オレとエリーのどっちかが行かなきゃいけねえって」 「あんときじゃんけんで負けてよかったよ。さすがにエリーにゃ、こんなバケモンの相手はさせられねえ」 「…………」 「おら、来るぜぇッ」 不適に笑って、再び発砲。その弾道を縫うようにして、狂乱の〈白騎士〉《アルベド》が迫って来る。 「力を見せろッ、資格を示せッ、ハイドリヒ卿を失望させるなら許さないッ」 「Ach! Ach! Tiefe Nacht! Wahnsinn! Oh! Wut――!」 「なに言ってっか分かんねえよ」 「あいつの言ってることなんか聞くな」 そう、外部の狂騒や狂乱など、意識の外に締め出してしまえ。 司狼がたとえ数秒でもシュライバーを引き受けるというのなら、俺はその間隙に自己の内部へ埋没する。 あの時のように、もう一度、雷速すら凌駕した俺のルールを、創造を―― マリィ……君は何処にいる? 俺の声が聞こえているなら再び力を貸してくれ。 俺の〈渇望〉《ルール》と、君の世界……それは総ての時間停止。たとえ絶速を誇るシュライバーでも、極限まで時を遅めれば追い抜ける――! 「Ach! Jammer! Schlaf Schlaf tiefer Schlaf! Tod――!」 襲い来る〈暴嵐〉《シュトゥルムヴィント》――刹那の後に待ち受けている死の〈顎〉《アギト》を感じながらも、俺は明鏡止水の域に入った。 勝つ。俺はこいつに必ず勝つ――! そう言ったんだ。約束した。それを〈違〉《たが》えることなど許されない。 敵は大隊長、シュライバー。ここでこいつに負けるようでは、所詮ラインハルトになど届かない。 だから見ていろ、俺は勝つ。こんな壊れた気狂い野郎に砕かれるほど、藤井蓮は安くない。 おまえの望みだってそうだろう? なあ櫻井、許せねえよな。 俺には共感できないところもあるけど、おまえがどれだけ本気だったか―― それくらいのこと、俺だって分かってんだよ。  そうだ、私は本気だった。本気で願って、本気で求めた。  愛する人達を取り戻したい。彼らと優しい世界に生きていきたい。  それは叶わぬ夢となったけど。  歩んだ道は血と呪いに満ちていたけど。  私の願いは、私の祈りは――全霊を賭した真実だったと、今も胸を張って断言できる。 “そんなに怖いか――”  ええ、だから怖かった。希望を砕かれたこの世界に生きることが。 “あいつらには勝てないって――”  ええ、怒る気すら起きなかった。  私の炎は薄れて、消えて……何のために剣を執るのか、何のために血を流すのか、道を見失ってしまったから。  でも―― “俺は負けない――”  あなたがあまりにも馬鹿だから。 “なんで諦めてんだよ――”  私の邪魔はするくせに、そんな勝手なことを言うものだから。 “命懸けでやってきたことなんだろう――”  消えたはずの〈炎〉《たましい》が、再び私の中で燃え始める。  今度は無理矢理起こした炎じゃない。  殺されるための虚勢でも、他人に点けてもらったわけでも。  まして、〈過去〉《ししゃ》のために灯したなんてこともない。 「藤井君……」  私、あなたが―― 「あなたが死ぬのは、嫌なの――」  だから―― 「〈Die dahingeschiedene Izanami wurde auf dem Berg Hiba〉《かれその神避りたまひし伊耶那美は》」  知らず、口から〈詠唱〉《いのり》が零れ出る。 「〈Die Sonne toent nach alter Weise In Brudersphaeren Wettgesang.〉《日は古より変わらず星と競い》 〈Und ihre vorgeschriebne Reise Vollendet sie mit Donnergang.〉《定められた道を雷鳴のごとく疾走する》」  それは聞いたこともなく知りもしない。しかし確信をもって分かる俺のルールを具象化する〈詠唱〉《うた》。 「〈an der Grenze zu den Ländern Izumo und Hahaki zu Grabe getragen.〉《出雲の国と伯伎の国 その堺なる比婆の山に葬めまつりき》」  取り戻した想いが、炎が、私の空隙を埋めていくから。 「〈Und schnell und begreiflich schnell In ewig schnellem Sphaerenlauf.〉《そして速く 何より速く 永劫の円環を駆け抜けよう》 〈Da flammt ein blitzendes Verheeren Dem Pfade vor des Donnerschlags;〉《光となって破壊しろ その一撃で燃やし尽くせ》」 「〈Bei dieser Begebenheit zog Izanagi sein Schwert,〉《ここに伊耶那岐》〈das er mit sich führte und die Länge von zehn nebeneinander gelegten〉《御佩せる十拳剣を抜きて》〈Fäusten besaß, und enthauptete ihr Kind, Kagutsuchi.〉《その子迦具土の頚を斬りたまひき》」 「〈Da keiner dich ergruenden mag, Und alle deinen hohen Werke〉《そは誰も知らず 届かぬ 至高の創造》 〈Sind herrlich wie am ersten Tag.〉《我が渇望こそが原初の荘厳》」 “俺はあんな奴ら怖くない――”  ええ、ええ――そうね、藤井君。このまま泣き寝入りなんて情けないよね。  兄さんとベアトリスを取り戻したい。その願いにどう決着をつけるのか、彼らをどうすれば救えるのか……答えは、まだ出ていないけれど。  今の〈櫻井螢〉《わたし》は、ここで〈藤井蓮〉《あなた》を死なせたくない。  だって私も、あなたに舐められるのは嫌だもの。  薄くない。甘くない。私の〈炎〉《おもい》はチャチなんかじゃない。  そう信じてるから――ねえ、いいでしょ?  私が、あなたと一緒に戦っても。 「〈Briah〉《創造》――」  そのとき、奇しくも重なった二つの詠唱。 「〈Man sollte nach den Gesetzen der Götter leben.〉《爾天神之命以布斗麻邇爾ト相而詔之》」 「〈Eine Faust ouvertüre〉《美麗刹那・序曲》」  瞬間――荒れ狂う暴嵐を炎と閃光が迎え撃った。 「―――――ッ」 息を呑むシュライバー。自らの速さに迫り、かつ凌駕する存在などこいつは見たこともないだろう。 それに加えて―― 「はあああァァッ―――」 裂帛の気合いと共に、頭上からは櫻井が斬りかかる。なまじ脅威のスピードで突進していたシュライバーに、これを躱す術はない。急停止など不可能だろうし、後退することはさらに無理だ。 左右どちらかに避けようとも、その瞬間に生じる刹那のロスを今の俺は見逃さない。 確信する勝利の手応え。櫻井の唐突な参戦には少なからず驚いたが、結果としてそれは俺達の必勝を決定付けた。 ――が。 「―――――」 血走ったシュライバーの隻眼と視線がぶつかる。そこに渦巻くのは判別不能な狂気の混沌。 縦に細長い獣めいた瞳孔が微かに揺らめき、口許が吊り上る。 笑み。嘲笑。こいつはそのとき、紛れもなく嗤っていた。 「〈Yetzirah〉《形成》――」 極限まで遅まった世界の中で、紡ぎ出された呪いの銘は―― 「〈Lyngvi Vanargand〉《暴嵐纏う破壊獣》――」 「―――――」 大音響の爆発と共に、土砂の粉塵が舞い上がる。平常に立ち戻った感覚に目眩と耳鳴りを覚えながらも、俺はたった今起こった現象が信じられない。 「そんな……」 櫻井の声も驚愕に震えていた。あのタイミング、あの連携、あの速度でいったいなぜと…… 俺達二人の斬撃は、どちらもシュライバーに掠りもしてない。奴はあの瞬間、あの状態で、一切の減速をせずに真後ろへ飛び退った。 いや、真後ろに加速したのだ。慣性の法則、物理常識を無視した逆走。時の体感速度を遅らせて、一度は奴を上回った俺の刃すら追えない速さでベクトルを反転させた。 その、異常と言うのも生易しいデタラメぶり―― 「うふ、うふふふふふ……」 「――――ッ」 立ち込める土煙の向こう側……聞こえてくる忍び笑いに全身が総毛立つ。 この世のありとあらゆる悪意の精髄を抽出して、その選りすぐりを大釜で煮詰めたような笑い声。そして鼻腔を抉りぬく、吐き気どころか骨まで腐り落ちそうな血の匂い。 もはや誰にも想像出来ないレベルでおぞましく血を啜ったであろう殺戮兵器が、この粉塵の向こうに顕現している。 それが何か……目で確かめるまでもなく俺達は悟っていた。 魔獣の咆哮めいたエグゾースト。 夜と土煙を切り裂いてこちらを照らす、主と同じ単眼の〈光芒〉《ヘッドライト》。 そう、あれは―― 「出させたね、これを……」 現れたのは鋼鉄の獣。機械の心臓に可燃性の血を流して猛る二輪の暴威。 現存する数多のモンスターマシンに比べればむしろ小型とさえ言える設計だが、その禍々しいフォルムと重苦しい排気音は魔性のものとしか思えない。 これが駆けるのは公道でも競技場でもなく、〈競争〉《レース》などという遊びを目的に創られた玩具とは明らかに一線を画している。 言うなれば、戦車や戦闘機と同じモノだ。戦争のために生み出され、その存在証明として血肉を貪る人喰い機獣―― 「〈Zündapp KS750〉《ツェンダップ》……」 櫻井が漏らしたのは、あのバイクの名前だろう。確かに第二次大戦中のドイツには、二輪の特殊部隊が存在したと俺も聞いたことがある。 その役割は偵察、斥候、そして敵軍を強襲する神速の電撃戦―― 中世の騎士が馬に乗って戦場を駆けたように、こいつは鋼の魔獣を駆って欧州戦線を血に染めた。 これがシュライバーの聖遺物。 活動位階における特性が常軌を逸した走力ならば、こいつの武器が疾走兵器であろうことは明白だった。 そして今、それを形成したことにより、狂った嵐は以前にも増して速くなる。 「さぁて、君は誰かな? 会ったことがないねえ」 「…………」 「名乗りなよお姉ちゃん、君からはベイ中尉の血の匂いがする」 「……櫻井、螢」 低く、噛み締めるように呟く櫻井。それにシュライバーの目が細まった。 「へえ、サクライ? 懐かしい名前だな。すると君は……」 「私は、トバルカインではありません」 「ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン中尉を覚えていますか? 私は彼女の代わりです。いいえ――」 静かに言いつつ首を振って、櫻井は手の長剣を旋回させた。 全身を緋色に燃やし、何かを吹っ切ったように宣言する。 「今の私は、あなた達の仲間でもハイドリヒ卿の奴隷でもない。私は私、ただの生きている人間でいたいから」 「獣の祝福なんていらない。私も彼も、そして彼女も――〈死せる戦奴〉《エインフェリア》になんて絶対ならない。そんなヴァルハラ欲しくない」 「シュライバー卿、〈大隊長〉《あなたたち》は狂ってる。どうしてそんな、呪われた生を名誉だなんて思えるんですか」 「くはっ―――」 笑う。シュライバーが笑いだす。 切実とも言える櫻井の言葉に。まさしく命懸けの造反宣言に。 失笑し、憫笑し、嘲笑して狂乱する。乗機である鋼の魔獣が、血を啜らせろと咆哮する。 「要らない? 要らないだと? そこの劣等、君はあの人の祝福を要らないと言ったのか?」 度し難い――掛け値無しの狂人であるシュライバーをして、この女はイカレていると殺意に滾る隻眼が言っていた。 「ああ、この単語を遣うのは嫌いなんだが、あえて言おう。君、愛せないよ」 「サクライ、サクライねえ……君の祖父さん、でいいのかな? 彼のことはそれなりに好きだったんだが、惜しいねえ」 「………ッ」 櫻井の身体が強張る。同時に俺も感じ取った。 もはや遊びは一切ない。黒円卓の大隊長が、ついに本気で殺しに来ると。 「逃げろ。逃げろよ今のうちだ。僕から逃げられるなら逃げてみろ」 「音速だろうと光速だろうと、たとえどれだけ速かろうと僕は絶対逃がさない。ハイドリヒ卿の愛を要らないとほざいた貴様、消えてなくなるまで引きずり回して磨り潰してやる」 「さあ、始めようか戦争だァ」 瞬間―― 「ボケが突っ立ってんじゃねえッ」 背後から俺と櫻井の襟を掴んで引き倒した司狼がいなければ、どうなっていたか分からない。 吠えるヴァナルガンドの轟音と共に、流星と化したシュライバーが目にも映らぬ速さで駆け抜ける。瞬前まで俺達がいた場所は抉り取られて消滅し、発生した爆風と衝撃波に三人纏めて吹き飛ばされた。 「くゥ―――ッ」 「ガアァ―――ッ」 咄嗟に櫻井と司狼を引き寄せて壁への激突から庇ったものの、あまり意味があったとは思えない。俺達は鉄筋コンクリートをぶち抜いて、校舎の廊下にまで飛ばされた。 「ぐッ……」 「藤井君――」 大丈夫、大丈夫だ。五体がバラバラになるような衝撃だったが、俺もおまえもこんな程度じゃ死んだりしない。 でも、だけど、俺達なんかと違ってこいつは…… 「……おい、キモイな。男が男の心配してんじゃねえよ」 「あなた……」 この馬鹿……いつもの軽口発揮してる場合かよ。 司狼の負傷は、目にも明らかなほど深刻だ。俺は本城じゃないから正確にどうなのかは分からないが、左半身は血塗れになっている。その中でも特に腕……これはもう、おそらく一生使い物にならないだろう。 「……おまえ、左利きだったよな」 「ん、ああ気にすんな。サウスポーの半分以上は両利きだし」 言いながら、司狼の比較的無事な右手が宙を泳いで。 「片方ありゃおっぱい揉めるし」 「…………」 「…………」 「あれ、怒んねえの?」 「……怪我人じゃなかったら張り倒してる」 「それより、いつまで触ってるのよ」 「だって、蓮が無反応だし」 「別に……」 どうだっていいんだよ、そんなことは。 「俺もまあ、本城の胸触ったしな」 「あらまあ」 「和むんだったら、しばらく揉んでろ。それはその間おまえのもんだ」 「私の胸は私のでしょ……」 「とにかく」 小声でぶつぶつ言ってる櫻井は無視する。 「それだけ馬鹿やる元気があれば、死ぬことだけはなさそうだ」 「でも、おまえはドクターストップだよ。すぐ終わらせるから寝てろ」 「ターコ」 冗談ぬかすなとばかりに一笑して、司狼は立ち上がろうとする。 「おいッ」 「うるせえなあ、さっきも言ったろ」 「野郎をなんとかして校庭まで連れて来い。そうすりゃオレが決めてやるから」 「決めるって……」 「何言ってんだ、おまえ」 シュライバーを殺しきる手段など、持ち合わせてはいないだろうに。 「ああ、確かに止め刺すって意味じゃねえが、そのチャンスを作ってやるよ」 「要は一瞬、百分の一秒でもあいつの動きが止まればいいだろ。まあ任せとけ」 「…………」 「…………」 「な?」 「分かったよ」 「――ちょっと」 「もう何言っても無駄だ。あと櫻井、この〈司狼〉《バカ》をっていうか、馬鹿の馬鹿っぷりを舐めんな。こいつはやるって言ったらやる」 「そうねえ。誰かさんと一緒で有言実行派ですからねえ」 「……あなた達、友達なのよね?」 「そうよ」 「違う」 「…………」 「とまあ、こいつは限りなくデレが少ないツンなんだが、そこらへんはそっちも同じみたいだし、気が合うようでよかったよかった」 「私は、別に……」 「おい、司狼」 今はこいつの馬鹿話にいちいち反応している場合じゃない。 いったい何をする気なのかは知らないが、シュライバーに隙を生み出す策があるというなら信じよう。あいつがどれだけデタラメだろうと、馬鹿勝負でおまえに勝てる奴なんていない。 ただし―― 「喧嘩は続行中だって言ったよな。俺に負けるのが嫌なら絶対に生き残れよ」 「はいよ、そっちこそくたばんじゃねえぞ」 言って静かに立ち上がると、血塗れの身体を引きずって司狼は校庭の方へ去っていく。 「おー、痛ぇ。やっぱこれがねえと生きてるって感じがしねえわ」 「…………」 櫻井は、その背をしばしの間見送っていたが。 「ねえ藤井君、彼ってもしかして……」 「なんだよ?」 「……いや、なんでもない。それより、あの……」 「ああ、共闘だろ? 別に文句はないし止めもしない。おまえはおまえで好きにやりゃいいさ」 「ただ、シュライバーは俺よりおまえのほうを狙ってるぞ」 「分かってる」 ラインハルトに絶対の忠誠を誓っているらしい大隊長……俺のことは主君への貢物みたいに思っているのか、こちらの〈力量〉《しつ》を推し量るような言動が散見されたが、櫻井にはまるで遠慮していない。 黒円卓の裏切り者、ラインハルトへの背信……その罪万死に値すると、奴は全身で言っていた。 「おまえ、身体は平気なんだな?」 「……まあ、なんとか。これが終わって、また危ないようだったら助けてね。正直、期待してるから」 「…………」 こいつの冗談は、なんていうか色んな意味できっついな。 「……とりあえず、臆病風に吹かれてないなら結構だよ」 「言ったでしょ、私だって負けず嫌いなの。舐めないで」 「心配しなくても、有言実行してみせるわ。口にした以上、絶対退かない」 立ち上がり、俺と並んで廊下の奥を見据える櫻井。共に気配で感じていた。シュライバーはあそこから来る。 「しかし、校庭まで連れて来い……か」 簡単に言ってくれたが、逃げれば追いかけてくるという単純なものでもないだろう。今のシュライバーは、創造を発動した俺でも追いかねるほど常軌を逸して速すぎる。迂闊に背を向けようものなら、その瞬間に致命打を受けかねない。 「……来たわ」 「……ああ」 再び剣を構える櫻井の全身が緋色に変わり、俺もまた時の体感速度を少しずつ遅らせていく。 十倍で駄目なら百倍で、それでも駄目なら千倍で……いくら奴が速かろうと、これを極限まで持っていけば真の停止までいくはずだ。俺がそれさえ実行出来れば―― さあ来い、〈廊下〉《ここ》は弾丸ストレート。避けにくいのお互い様だ。 深夜の校舎に、轟音を爆発させて鋼の騎兵が現れる。 「Lebe Leb und laß mich sterben――!」 キレたらお国言葉が出るクチか、ケダモノ野郎。 廊下を螺旋状に回転しながら迫り来るシュライバー。まさしく鋼鉄の竜巻と化したその中心へ、俺と櫻井は意を決して飛び込んでいった。  一方その頃――  諏訪原市を分割する大道が交差した十字路は、阿鼻叫喚の地獄絵と化していた。  今夜一晩で起こった交通事故は五十に達し、死亡者数は百を超える。しかもその原因が分からない。  生き残った当事者達は、皆が口をそろえてこう言うのみだ。 『何もないのに、いきなり車が撥ね飛ばされた』と――  重量数トンを超える鉄の車体が、人を乗せて走行中に木っ端屑のごとく飛ばされる。そんなことなど常識的に有り得ないが、直線数キロに及ぶ惨状が総て同じ様相であり、証言者の声も判で押したように変わらない。つまり、その有り得ないことが現実に起きたとしか考えられないのである。  いったい何故、そしていったい何事が――  今現在、この惨事に関わっている警察、消防、救急の面々には、きっとそれが一生の謎になるだろう。しょせん常識の枠に生きる者達には理解し得ないことなのだから。  ともあれ、そうした疑問を懐きながらも、彼らは各々の職務を全うしていた。道路を封鎖し、火を消しとめ、負傷者の救護に奔走する。時刻は深夜であるにも関わらず、まるで蜂の巣をつついたような有様だ。  そしてその中、“彼”は現場のある一点に目を向けていた。  国道沿いの民家が炎に包まれ、赤々と燃えている。火元である二階には、乗用車が突き刺さっていた。 「…………」  まさしく悪い冗談のような光景であり、この事件の異常性をもっとも端的に表現していると言っていい。写真でも撮って送れば、何らかの賞を得られるだろう悪夢の情景……だがこの家に住んでいた者らにとって、これはどうしようもない現実なのだ。 「哀れな……」  しみじみと呟いて、彼はその家の前にやってくる。玄関前には、年端もいかない少女が一人、寝巻き姿のまま呆然と突っ立っていた。  おそらくは、この家の住人だろう。他の家族はいないのか、死んだのか、傍目には分からない。そしてそれは、当の少女にとっても同じことであったらしい。  彼女は何も見ていない。目から光は消え失せて、口を開けたまま痴呆のように、身動きもせず立ちすくんでいる。  心が死んでいた。壊れていた。あまりに常軌を逸した不幸に直撃されて、まだ幼い精神が負荷に耐え切れず砕けていた。 「泣きなさい。あなたは今泣くべきだ。涙の出し方は、一度忘れてしまえば最後、二度と思い出せないものですよ」  背後から優しく肩に手を置かれ、少女はのろのろと振り返る。  そして…… 「あ……」 「あ、あ……」  小刻みに、ぶるぶると、小さな身体が震えだす。色を失っていた瞳に光が点り、ある種の感情が揺らめきだす。 「そう、それでいい」  慈父の笑みを浮かべて頷く神父が、いったい少女にはどのように見えていたのか。  まるで海難事故から生き残ったのも束の間、鮫の群れに囲まれたかのような掛け値なしの絶望が、あどけない顔いっぱいに広がっていく。 「あ、あ、あああああああああああ―――ッ!」  絶叫し、肩に置かれた手を振り払い、少女は燃え盛る炎の中に飛び込んでいった。それは錯乱者の自殺と言うより、明確な意志を持った上での逃避にしか見えない。  焼け落ちる寸前の自宅に戻ったほうがまだ助かると――そう言わんばかりの行動であり顔だった。 「哀れな……」  それを見届け、再度神父はしみじみ呟き、身を翻して歩き出す。燃える民家から魂が、引きずられるようにして後に続く。 「子供の泣き声とは痛ましく、さりとて泣かぬ子供というのもまたやりきれない。悲しいですねえ、なんとも心荒む出来事だ」  言いながら、歩く神父の影法師……炎に照らされアスファルトに揺らぐそれは、なぜか二人分のものだった。 「そう辛辣なことを言わないでいただきたい、ザミエル卿。 私は私なりに、あの子を救ってあげたのですよ。 そして、他にも救わねばならぬ子供がいる。少々急ぐといたしましょう」  独り言のように呟く神父に、応えるものは無論ない。彼はそのまま苦笑を浮かべ、破壊の痕を追うように夜の街を歩いていた。 空間ごと周囲を抉り抜くようなシュライバーの暴威に、俺と櫻井は未だなんとか対抗していた。 「くッ――」 「はあァァッ――」 司狼が待っている校庭には依然辿り着けないまま、刹那でも意識を逸らせば粉々に引き裂かれるだろう鋼の魔獣とのダンス・マカブル。 今や魔性の速度領域に達したシュライバーは、身に纏う爆風と衝撃波だけでこちらの身体を切り刻む。 創造位階に達した俺に可能な最大加速――すなわち停滞を駆使しても、まだこいつの方が一歩速い。目で捉えることはなんとか出来ているものの、こっちの攻撃は相変わらず掠りもしない状況だ。 しかし、それでも俺はまだいい。遅れを取っているとはいえ、戦闘という天秤をギリギリで成立させられる速度域に上がることが出来たのだから。 だけど、反面―― 「――ッ、つああァッ」 櫻井はその領域、俺とシュライバーの時間軸から明らかに遅れている。別にこいつが弱いという意味じゃなく、神速を競うこの戦いにおいては最前線にいるべき特性じゃないというだけ。 本来なら、一歩退いて後方支援に専念させるべき戦力を、しかしシュライバーが許さない。自らに迫る速度の俺よりも、こいつは櫻井を第一目標として狙っている。 多勢を相手にするときは、まず劣る者から優先して殺すという実に冷静な戦況判断――ないし野性の本能だ。なるほど確かに、こいつはただの狂犬じゃない。 殺し合いにおける嗅覚、生き残るための選択と殺戮にかける機転、性質、あらゆる意味における瞬発力と運動神経――そのどれもが、狂乱のケダモノでありながら精密機械の正確さを有している。 いったい何百、何千、何万の屍を積み上げればこんな奴が生まれるのか。こいつは戦いと殺しのスペシャリストであり、その点においては一切の隙がない化け物だ。 ゆえに必然、俺は櫻井を守りながら戦うという選択を強いられており、ただでさえ不利な戦況が刻一刻と悪化していく。 自分のことに集中してその間に相棒が死んでしまえば、待っているのは共倒れのみ。未だ圧倒されながらも何とか命を繋いでいるのは、二対一で戦っているからに他ならない。 俺も櫻井も、一対一では瞬殺される。どんな攻撃でも回避するというシュライバーの性質を利用して、こちらの手数を倍にしているからこそ凌げた局面が今まで何度あったことか。 「藤井君――ッ」 そんな中、シュライバーのハングオンにより発生した衝撃を無理矢理剣で受け流しながら、櫻井が怒号した。 「言ったでしょ、舐めないでッ!」 自分に構うな。守ろうなんて思ってくれるな。炎に変生した身で文字通り燃える眼光を叩きつけつつ、こいつは言った。 「あなた、間違ってる!」 「誰かが囮にならないと駄目!」 そしてそれは自分の役だと。シュライバーを校庭まで引っ張り出すのは櫻井であり、そこから隙を発生させるのが司狼であり―― 「あなたが止めを――」 曲がりなりにもシュライバーに迫る速さを持つ俺以外、刹那に総てを懸けたこの勝負にケリをつけられる者はいないと。 「だからあなたは――」 瞬間、極限の殺し合いで他者に声をかけるという愚を犯した櫻井に、飢えた凶獣が牙を剥く。 「がッ、あああァァァッ―――」 今や音速の百倍を超えるだろう速度で走るバイクとの正面衝突。そこに発生する運動エネルギーの爆発は、隕石の直撃を受けたのと変わらない。 粉微塵に砕ける魂――その衝撃で櫻井が有する命の何割かが消し飛んだのを感じ取った。もはやこいつに、今までの耐久力は期待できない。 しかも、そこに追撃するのは人外の嗜虐性を有するシュライバー。 「目か耳か鼻か口かァッ―――何処がいい、穴だらけにしてやるよ劣等ォォッ」 二挺の拳銃がゼロ距離で櫻井の顔面に擬される。バイクの形成に連動して銃まで強化されるのか、もはやあれは以前の物に非ず。血に錆び付いたバレルから立ち昇る凶念の凄まじさは、必殺兵器と言って構わない。 「―――――」 死ぬ――櫻井は殺される。 だが俺は―― 俺がこのときすべきことは―― 「信じて――」 司狼を信じて任せたように、こいつの魂を信じること。 「――ありがとう」 血と炎に染まった顔で、櫻井は俺に微笑み。 同時に、シュライバーの銃が絶望を告げんと火を噴いた。  爆ぜるマズルフラッシュが視界を覆い、刹那の後に到来する〈弾丸〉《キバ》と死に抉られる。  その運命、もはや回避不能の定めを前に、しかし螢は微笑んでいた。  諦観でも自棄でもない。  長らく忘れていたこの感情……誰かを信じ、また信じられるという面映さ。照れくさいような誇らしいような気持ちがあまりにも嬉しすぎて、他の表情など忘れてしまった。  恐怖はない。迷いもない。私は私の役目を果たす。  この状況で怖いことがあるとすれば、それは自分のミスで彼らを死なせることだから。  生き抜いて、勝利して、共に明日を迎えよう。  こんな私を信じてくれたあなた達……絶対に死なせないし私だって死にたくない! 「―――――ッ」  そのとき、突如消失した手応えにシュライバーは訝しむ。  今の自分から逃げられる者など存在するはずはなく、事実依然として獲物の身体は、前輪で串刺しにしているはずなのに。  弾丸も、〈聖遺物〉《ヴァナルガンド》も、〈敵〉《 、》〈を〉《 、》〈す〉《 、》〈り〉《 、》〈抜〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》―― 「私は、炎だ――」  耳をつんざく轟風の中、祈るように螢は呟く。 「斬れず、穿てず、砕けない――」  そう信じ、そう念じ、己の〈創造〉《せかい》を揺るぎないルールに変える。  その難易度は極限級。  遥か格上の怪物相手に、狙ってやれることではない。  だけど、今〈奇跡〉《これ》を成功させずにいつやるのだ。  相手が燃やせないほどの暴嵐ならばそれでいい。ただ掻き消されることなく意識を保ち、この身を透過させてしまえば―― 「後ろは――校庭ッ」  そうなるように立ち回った。これで自分の役目は終わり―― 「遊佐君――ッ!」  廊下から教室を突き破ってその場所へと吐き出されるシュライバー。そこで待ち構えている“仲間”を信じ、螢は叫ぶ。 「あとは――」 「オーライ、まあ任せとけ」  瀕死の重傷すら意に介さない気軽さで、司狼は凶獣と対峙した。  さあ、ここがおまえの終点。六十年に渡る狂気と戦争の遍歴を、今夜この場所で終わらせてやると。 「そもそもてめえ、名前からしてオレと被ってるから邪魔臭いんだよ」  吠える鋼のエグゾースト。シュライバーの心が歓喜に満ちる。  面白い。面白い。面白い。面白い――なんて飽きさせない獲物達だ。  すでに開いたスワスチカは六つを数え、無敵の〈大隊長〉《エインフェリア》である自分の力は八割近く顕現している。  その状態で、己が聖遺物であるヴァナルガンドを形成し、なお未だ殺しきれない者が三人もいる。ああ、これこそが僕の〈戦場〉《ヴァルハラ》――光り輝く栄光の舞台に他ならない。  しかも―― 「“これ”は君の仕事か?」  吐き出された校庭でアクセルターンを決めながら、この場所に張り巡らされた“罠”の存在を知覚する。  目の前に徒手空拳のまま立つ少年……生命としてのレベルはこの場の誰よりも低い相手だが、こいつは〈や〉《 、》〈る〉《 、》。  他の二人よりも戦に長け、自分と同じくある種の人間味が欠落した精神を有する獲物。もっとも先に喰らうべきはこの男だと、第六感の域に達する殺しの嗅覚が告げていた。  そう、匂うのだ。  分かるのだ。 “城”に繋がる戦鬼の中で、もっとも混濁しているがゆえに純粋なシュライバーだからこそ理解できる。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈が〉《 、》〈神〉《 、》〈に〉《 、》〈愛〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》。 「うふふふ、あはははははははははははははは―――」  ならば引き裂き貪ろう。今夜この場に神などいない。  噴き上がる狂笑と共に、ヴァナルガンドが咆哮する。その身を不可視の流星と化し、敵を轢殺せんと超絶の疾走を開始する。  この校庭に何があるのか、そんなものはたった一目で看破していた。伊達に地獄の戦争を駆け抜けてきたわけではない。  爆裂し、轟音と共に飛び散る凶器の鉄球――駆けるシュライバーの足元から弾けるそれは、すなわちクレイモア対人地雷。司狼はあらかじめこの校庭を、地雷原へと変えていたのだ。 「あははははは、無駄無駄無駄ァッ――」  しかしそれでも、シュライバーには当たらない。発動の起こりが読めない装置であり、かつ面の攻撃を行うこの手の罠は、確かに神速を誇る彼にとっても些か苦手なものだろう。だが、しょせんそれだけだ。  地雷に掛かってなお躱すという、冗談どころか悪夢のような操車技術とその速度――すでに魔性の業であり、この程度の小細工で狂える〈白騎士〉《アルベド》は止まらない。 「まあ、当然そうだよなあ」  そして、司狼もそのことは読んでいた。もとより最初から、これが決め手になるとは思っていない。  地雷はシュライバーの走行を限定し、誘導し、把握するためだけのもの。言うまでもなく罠を張った張本人である司狼なら、何処にそれが埋まっているかを完璧に把握している。  どんな攻撃でも必ず回避する相手なら、その走行ルートは見えたも同然。たとえ不可視の超スピードで迫ろうが、球筋さえ分かっているなら打ち返すのもまた可能。  ゆえに、この作戦で難点があるとするならただ一つ―― 「オレが逃げられねえってことなんだが」  呟いて、苦笑する。  先に死んだほうが負けだという喧嘩の決着……自分で言い出したこととはいえ、面倒な約束をしたものだ。 「しかもデジャヴってやがるし……」  参る。本当に困ってしまう。  〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈が〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈場〉《 、》〈を〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈残〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈確〉《 、》〈定〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》。  なぜ死なないのだろう。なぜ生きている気がしないのだろう。自分はいったい何者で、このふざけた〈既知感〉《むてき》モードが何なのか、まったくもって分からない。  もしも神がこの世にいるなら、是非ぶちのめしてやりたいと強く思う。  自分はおまえの玩具じゃないと、証明してやらねばならないだろう。  ああ、ゆえに今、こうなったからにはより破天荒な真似をせねばなるまい。  死ぬわけにもいかないが、デジャヴを伴う勝利など、さらに輪をかけて最悪だから。  まあ、要は一発食らわせればいい話。動きを封じ、隙を生み出そうというのなら、それは出来るだけ衝撃的かつ屈辱的な、狂人の精神を木っ端微塵に破壊する一撃でなければならないだろう。  すなわち―― 「オレ個人の感覚で言やあ、超絶ムカつく攻撃ってのは古今東西決まっててだな」  目前に迫り来るシュライバー。司狼は友人宅のドアをノックするような気軽さで、手のリモコンのスイッチを押した。  自らのすぐ前に埋めていたそれだけは、地雷でなくダイナマイト――踏んでもいない物が突如爆発したというその異変が、クレイモアに慣れていたシュライバーの感覚を刹那だけ狂わせる。  加え、発生した爆炎が幕となって標的の位置を不明にした。 「―――――」  それは万分の一秒以下の反射。どんな攻撃も躱さずにはおれないという魂が、ゆえに絶対不可避の引力をもってシュライバーをその場所へと誘導する。  そう―― 「へいお待ち」  火薬の爆発に生身のまま晒されて、なお笑みを失わない生存本能の壊れた精神。ぼろぼろの血袋と化し要を成さない半身など、切り捨てて構わぬと断じる冷徹なまでの客観性。  〈殺戮部隊〉《アインザッツグルッペン》の凶獣とまで呼ばれたシュライバーと比べても、それは何ら遜色ない一種の狂気。  曰く、馬鹿勝負でおまえに勝てるものはいないと、蓮に思わしめた彼の本領とは、すなわちこれだ。 「どタマかっ飛べぇェェッ―――!」  より有り得なく、破天荒に。  より衝撃的かつ、屈辱的に。  司狼はずたずたになった〈左腕〉《ききうで》を、自ら引き千切って鈍器に変えた。 「―――ァッ」  ダメージなどない。傷など負わない。  だが何者にも触れられない神速の〈白騎士〉《アルベド》が、生身の人間によって顔面を殴打されたという事実。  いったい、これ以上の不条理が何処にあろうか―― 「効くだろ? ツラはたかれっとよォ」  それはリーチを瞬時に倍化し、本来届かない標的を捉える唯一の方法。  常人にはもちろんのこと、狂人にも思慮の埒外であった蛮行の極致。  己の一部を永久に失ったにも関わらず、司狼は爽快に笑っていた。視界の隅、この状況を食い入るように凝視していた仲間に向けて、短く告げる。 「決めろよ蓮、今しかねえぞ」 同時に、俺は全身を弾丸に変えて疾走した。 「おおおおぉぉォッ――」 決める。絶対ここで決めてやる。櫻井が身体を張り、司狼が腕一本犠牲にしてまで生み出したこの勝機――逃すことなど許されない。 今、シュライバーは完全に沈黙している。おそらくは、奴が生まれて初めて体験したであろう驚愕と屈辱。その衝撃が激怒に移行するまでのほんの一瞬、刹那の空隙こそがこいつを殺しうる最初にして最後のチャンスだ。 今の俺に可能な最大限の時間停滞――それはたかだか五十メートル前後の距離など、瞬く間に踏破するはず。 それなのに―― 「……あ」 なぜか、いつまでもその間合いが縮まらない。断言して躊躇などしていないし、踏み切りのスタートダッシュも完璧だったと自負しているのに。 いったいどうして―― 「あ、あ……」 呆然と突っ立ったまま、殴られた右頬を押さえているシュライバー。吹き飛ばされた眼帯の下、空洞になっている右目を晒して呻くだけの奴よりも、俺が遅いというのはどういうことか。 まるで、〈こ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈ど〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈加〉《 、》〈速〉《 、》〈し〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈上〉《 、》〈を〉《 、》〈行〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》―― 「あ、あ、あぁ、ああぁぁあああぁぁあぁぁぁぁ――――」 「―――――ッ!?」 そしてそのとき、おぞましい異変が起こった。 奈落のような口を開けるシュライバーの右眼窩……そこから血と膿と腐汁が堰を切ったように溢れ出す。 いや、それだけではない。 蛆虫が、精液が……そして細切れになった人体の残骸がドロドロの汚液に塗れて流れ出る。 指があった。目があった。耳があり鼻があり舌があり性器があった。 これがシュライバーの狂気の源泉――奴が今まで喰い貪り、殺し続けてきた総ての犠牲者。 「――いけないッ」 致死レベルの悪臭と渦を巻く怨念の中、何時の間にか背後のスリップストリームに乗って追走していた櫻井から、恐怖に切迫した声があがった。 「創造を出される――」 「―――――」 じゃあこれが、この歪み狂った時間軸の変調が奴の創造だというのか!? どれだけ加速しても追いつけない。どんな速さで攻め込もうと、さらに一歩上を行く。 〈何〉《 、》〈者〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈触〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈渇〉《 、》〈望〉《 、》。〈己〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈が〉《 、》〈最〉《 、》〈速〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈ル〉《 、》〈ー〉《 、》〈ル〉《 、》。 それがこいつ、ウォルフガング・シュライバーの―― 「〈Vorüber, ach, vorüber! geh, wilder knochenmann!〉《ああ わたしは願う どうか遠くへ 死神よどうか遠くへ行ってほしい》」 未だ忘我の顔と口調で、破滅の〈詠唱〉《のろい》が紡がれる。それに呼応するかのように、奴の銀髪がおどろに乱れて伸びていく。 すでに銃もバイクも消え失せて、今のシュライバーは徒手空拳。にも関わらず跳ね上がり続ける重圧は、この姿こそが真のものだと告げていた。 「融合型――、そうか、そういうことだったのね」 それは血を好み、殺しを好み、悲鳴と断末魔を愛する使い手が発現させる戦闘形態。 ヴィルヘルムよりも、シュピーネよりも、殺戮の権化たるシュライバーは、他の誰よりそのスタイルに相応しい。 バイクに跨っていた状態など、こいつにとってはただの偽装だ。本人すら制御できない狂気が爆発した瞬間こそ、シュライバーは真の姿と力を発揮する。 「〈Ich bin noch jung, geh, Lieber! Und rühre mich nicht an.〉《わたしはまだ老いていない 生に溢れているのだからどうかお願い 触らないで》」 鋼鉄の魔獣と融合し、狂戦士と化す〈不死の英雄〉《エインフェリア》。文字通りの最速にして絶速を誇る人面獣心の怪物に―― 「〈Gib deine Hand, du schön und zart Gebild!〉《美しく繊細な者よ 恐れることはない 手を伸ばせ》〈Bin Freund und komme nicht zu strafen.〉《我は汝の友であり 奪うために来たのではないのだから》」 「〈Sei guten Muts! Ich bin nicht wild,〉《ああ 恐れるな怖がるな 誰も汝を傷つけない》 〈sollst sanft in meinen Armen schlafen!t〉《我が腕の中で愛しい者よ 永劫安らかに眠るがいい》」 総てを喰らい尽くす〈悪名の狼〉《フローズヴィトニル》――詠唱の進行と共にその骨格が組み変わり、さながら獣人化とでも言うべき変身を遂げていく。 駄目だ、早く一刻も早くあいつを殺せ! この詠唱が終わったら、奴に完璧な創造を発動させたら、俺達は一人残らず殺される―― どれだけ加速しても追い抜かれるというのなら、もはや残された手段はただ一つ。 時を止める。完全な停止をもって無限速度を凌駕する。 それしかない。それしかないと分かっているのに―― 「くッ、そおおおおォォォッ―――!」 どれだけ吠えても、どれだけ駆けても、シュライバーに追いつけない。 死ぬのか? 負けるのか俺達は?これだけ必死に頑張って、命を懸けて戦って、司狼も櫻井もそして俺も、持てる全力を限界まで発揮したにも関わらず―― 「〈Briah〉《創造》――」 最後の一節が紡がれる。未だシュライバーに刃は届かず、ほんの数メートルにまで迫った距離が何処までも遠く長い。 頼む。誰か、誰でもいい。俺に力を貸してくれ。 創造で届かないなら、さらにもう一つ上――エイヴィヒカイトの最上位階に達することで、真の停止が起きるはずだ。 その時は、その瞬間は、今をおいて他にない。 俺に仲間を救う力を―― もう誰一人として失わずにすむ世界を―― マリィ、君はもういないのか―― 「〈Niflheimr Fenriswolf〉《死世界・凶獣変生》――」 あと一歩、本当にあと一歩まで達しながら俺は届かず―― 黒円卓の大隊長、無敵を謳う敵の前に敗れ去った。 「―――――ぁ」 そう、これは勝利でなく敗北だ。 「あ、が……なぜ………」 目の前にある光景を、その場の誰もが認識できず、理解できない。 「別に、たいした意味などありませんよ。どうせあなたは忘れておられる」 「だが、我が愛し児達の安寧のため、あえて言っておきましょうか」 ただ一人……突如現れ、背後からシュライバーの心臓を突き破っている彼を除いて。 「実に爽快だ。心地よい。ああ、泣いても泣かなくても、殺してよい子供といえばあなたくらいですねえ、シュライバー卿」 陶然と、至福の笑みを浮かべつつ、ヴァレリア・トリファがそこにいた。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 12/13 Swastika ―― 6/8 【Chapter Ⅹ Vanalgand ―― END】  地響きを伴って、ジェットコースターのレールが倒壊していく。  バラバラと人が降り、カラフルなコンクリの上に血の花を咲かしていく。  軋み、倒れてくる巨大遊具に、しかし悲鳴をあげる者も逃げ惑う者もない。  皆、死んでいたのだ。  完全に、一人残らず、この場にいたモノは鳥や犬猫、観賞魚に至るまでが〈悉〉《ことごと》く死滅している。 「つまらねぇ」  〈白皙〉《はくせき》の魔人は、それを振り返りもせずに吐き捨てた。  しょせん、こんなものは座興にすぎない。任務の一環という体裁をとっただけの、要は単なる憂さ晴らしである。  そしてその結果、憂さが晴れないとなれば、なるほどぼやきたくもなるだろう。  思えば、いつもそうだった。  九十年近く生きてきて、その大半を略奪と殺戮に費やしてきたものの、何故か興味を懐いた獲物に限って他の者に〈攫〉《さら》われる。真から求めたものほど手に入らない。  そうした観点で語るなら、ヴィルヘルム・エーレンブルグは奪われ続けてきた男だった。彼の人生に、勝利は未だ一つもない。 「……はっ」  漏れ落ちるのは自嘲の笑み。それが〈韜晦〉《とうかい》であったとしても、この男にしては珍しい。 「ここまでくると業ってやつかね。もう一滴残らず絞り尽くして、交換したはずなんだがな」  血を流すのはそのために。他者から吸い上げるのもそのために。  彼の〈出自〉《ルーツ》は、畜生のそれと変わらない。  そんな境遇を嘆く繊細さなど持ち合わせていなかったが、己の宿業を破却するには、とりあえず血の〈縁〉《えにし》をリセットする以外、思いつかなかったというだけだ。  ゆえに――  まだ足りぬというなら繰り返そう。他の方法など思いつかない。  血を流し血を吸い上げ、己を新生させ続ける。そのためにはこのような、雑種劣等を数百潰した程度で追いつきはしないのだ。 「となれば――」  言いかけ、数瞬だけ思案した。  ああ、しかしどうしようか。別段思い入れのある相手じゃないが、それなりに長い付き合いなのも確かである。  そして何より、今思ったことを実行に移した場合、誓いの聖痕がこの身を焼き尽くす可能性は……? 「くは、かはは……」  口の端がめくれ上がり、尖った犬歯が零れ出る。コートの裾が、風に踊る。  愚問。実に馬鹿馬鹿しい。我らが成すべき忠誠は、スワスチカの完成という一点のみ。その大前提さえ〈遵守〉《じゅんしゅ》すれば、あとは何をやろうと構うまい。 「そうだよ」  火の手が上がり、爆炎が男の白貌を赤く照らし上げていた。 「やっぱり、やるしかねえよなあ」  コートのポケットに差し込んでいた手が抜かれ、倒れてきた鉄骨を無造作に殴り飛ばす。  木っ端の如く吹き飛ぶそれを〈頓着〉《とんちゃく》せず、ヴィルヘルムは呟いた。 「待ってろや、今から行くぜぇ」  風に〈煽〉《あお》られた白い呼気が、魔人の殺意を孕んで広がり、消えていく。  それの後を追うように、黒いコートはブーツの音を伴って、夜闇の中へと融けていった。 「〈Pater Noster qui in caelis es sanctificetur nomen tuum.〉《天にまします我らの父よ 願わくは御名の尊まれんことを》 〈Requiem aeternam dona eis, Domie et lux perpetua luceat eis〉《彼らに永遠の安息を与え 絶えざる光もて照らし給え》」  聖堂の〈静寂〉《しじま》に響く、〈厳〉《おごそ》かな声。〈綴〉《つづ》られる鎮魂歌は、誰に捧げられるものなのだろう。 「〈exaudi orationen meam.〉《我が祈りを聞き給え》 〈ad te omnis caro veniet.〉《生きとし生けるものすべては主に帰せん》 〈Convertere anima mea in requiem tuam, quia Dominus benefect tibi〉《我が魂よ 再び安らぐがよい 主は報いて下さるがゆえに》」  声は血に濡れていた。苦鳴の旋律ではなかったが、消え散った御魂に対する〈悼〉《いた》みと憐憫、そして〈悔恨〉《かいこん》に満ちていた。  氷室玲愛――少女は誰もいない聖堂で、〈跪〉《ひざまず》いたまま動かない。  身を焼く聖痕の激痛は、つい今しがたスワスチカの一つが開いた証だ。それはすなわち、街のどこかで数百規模の人間が死んだということを意味する。  なんて酷いことだろう。――そう思いつつも、しかし彼女には何も出来ない。止めるだけの力もなければ、泣いて叫ぶだけの大義もない。  まして、祈りなど何の役にも…… 「あと、四つ……」  細い声が、礼拝堂に溶けていく。  自らの重さに耐えかねるように、少女は固めた指に力を込めた。  閉じた〈瞼〉《まぶた》の裏で、金髪の男の顔が浮かぶ。人の良い笑顔の男。 「あなたは、いったい何を求めて……」  問いに答える者は存在しない。  ヴァレリア・トリファが教会内にいないことは、確かめるまでもなく理解していた。  今、彼がどこで何をやっているのか、その結果、どんなことが起こるのか…… 「…………」  無言のうちに、少女は助けを求めていた。  何から? 誰に? どうやって? ――そんな確たる方向性をもったものではなく、もっと深く根源的な、よく分からない暗い何か。  たとえば痛み。スワスチカが開く度、身体を突き抜けていく死の奔流。  たとえば恐怖。その結果訪れる、破滅という名の自己の終焉。  そしてたとえば――  たまさか奇跡のように授かった、もう戻らない陽だまりの記憶……  血が出るほどに、玲愛は絡めた指に力を込めた。  まさか自分が神に祈ることになるなんて……教会で育ちながらも、信心深いと思ったことは一度もない。今だって、信じて祈っているわけではないと分かっている。  だが、だけど、そうしていなければ私はこのまま――  いつしか息をすることも忘れていた。  顔を上げると、〈蝋燭〉《ろうそく》で照らされたキリスト像の陰影が、彼女を冷たく見下ろしている。  その視線に非を責める色を感じたのは、きっと自責の念からか。 「リザ……」  彼女は、こんな私を見てなんと言うだろう。  呆れるか、哀れむか、それとも笑うか。  分からない。  ヴァレリア・トリファにリザ・ブレンナー。  彼と彼女の人生が、敬虔に神へ祈りをささげ、教えを広めるものとは真逆であったことは知っている。  そもそも、あの二人は聖職者などではない。そして、彼らに育てられた自分もまた――  神に祈る資格などない。 「だけど、私は……」  〈懺悔〉《ざんげ》の言葉を探して、押し黙ってしまう。  何を〈懺悔〉《ざんげ》すればよいのだろう。  何から〈懺悔〉《ざんげ》すればよいのだろう。  生まれる前から、すでに人とは呼べないほど〈弄〉《いじ》りまわされてしまった自分の声が、神に届かないことなど分かっているのに。  そう、こうなることは分かっていたのに。  獣と水星と呼ばれる悪魔たちの計画を、阻むことなど出来はしないと分かっていたのに。  だから、諦めたのではなかったのか。  全てから距離をとり、孤独を求めて過ごしていたのではなかったか。  悪魔の計画の一部となり、道具として死ぬと諦めていたはずなのに。  彼にさえ、出逢わなければ…… 「藤井君……」  誰もいないはずの屋上。一年間、自分一人だけの空間だったあの場所で、彼と出逢いさえしなければ……  いや、出逢ったとしても、それまでと同じように拒絶することが出来ていれば……  何故――私はそうしなかった?  疑問は宙に浮き、流れていく。  少なくとも当時の彼は、何の変哲もない只の少年にすぎなかった。  出逢いは劇的なものでも何でもなく、初期の頃から彼を意識していたわけではない。  ただの気紛れ。本当になんとなく。たまたま偶然そうなっただけのこと。  〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈何〉《 、》〈万〉《 、》〈回〉《 、》〈繰〉《 、》〈り〉《 、》〈返〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》、〈そ〉《、》〈う〉《、》〈な〉《、》〈る〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈し〉《、》〈か〉《、》〈許〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈よ〉《、》〈う〉《、》〈に〉《、》。 「―――――」  いいや、違う。そうじゃない。そんなよく分からないもののせいにして、責任転嫁する気は毛頭ない。  悪いのは自分。  つまらない夢をみた、氷室玲愛が何より悪い。  孤独を選んでおきながら、それに耐えることが出来なかった自分が負うべき、これは罰。  藤井蓮に、彼の周りの人々に……綾瀬香純に、遊佐司狼に、寄りかかってしまった自分の弱さが、悪いのだ。  しかし、だけどそれならば……  それならば、と、祈らずにはいられない。  それならば、どうか傷つくのは自分だけにしてほしい。罪を犯したのは、弱かったのは、自分一人だけなのだから。  どうしてそのために、彼が傷つかなくてはならないのだろう。  きっと今頃、彼は戦っている。そして、その相手も分かっている。  リザだ。おそらく間違いない。  今二人が……リザと藤井蓮が傷ついている。血を、涙を流している。  そして、どちらかが死ぬのだ。 「どうか……」  無理だと頭で分かりながらも、祈らずにはいられない。  どうかどちらも、傷つくことなく……  しかし、その願いを言葉にすることは出来なかった。 「――――!」  閉じていた〈瞼〉《まぶた》の裏に、稲妻が走る。 「これは……」  先程と同じ感覚。聖痕を抉る激痛と、突き抜けてくる死のイメージ。 「スワスチカが……開いた……」  見開いた目から、一滴の涙が流れ落ちた。 「あ……」  それだけで、全てを悟る。  スワスチカを成したのはリザの命なのだと、玲愛は確信に至っていた。  ああ、そんな……では、つまり…… 「……〈Pater Noster qui in caelis es sanctificetur nomen tuum.〉《天にまします我らの父よ 願わくは御名の尊まれんことを》 〈Requiem aeternam dona eis, Domie et lux perpetua luceat eis〉《彼らに永遠の安息を与え 絶えざる光もて照らし給え》」  胸に湧いた想いのおぞましさに吐き気を覚えて、玲愛は聖句を口にした。  しかし、込み上げてくる自己嫌悪が彼女に二の句を継がせない。  リザが死んだということは、つまり藤井君は生きている。  それは、なんと罪深い安堵だろう。  ため息が、ひどく生臭く感じた。  あの時、自分を拒絶した男の生が、リザの死に勝るというのか。  自己嫌悪で心臓が止まるならば、このままいつまでも〈蹲〉《うずくま》っていたいと思う。  しかし…… 「開いたみたいね。あの方角は……病院かな」  不意に掛けられたその声に、玲愛は思わず腰を上げて身構えた。 「ずいぶん熱心だったじゃない? わたしが入ってきたのにも気がつかないなんて」 「あなたは……」  礼拝堂のテーブルに腰掛けたまま、薄ら笑っているのは赤毛の少女。  ルサルカ・シュヴェーゲリン。まともに口をきいたのはほぼ初めての相手だが、彼女のことはよく知っている。  見た目で判断してはいけないという言葉が、これほどしっくりくる者もいまい。 「はぁい。気にせず続けてくれていいわよ。それとも、もう終わったのかな?」  友好的でにこやかな態度とは裏腹に、周囲の〈蝋燭〉《ろうそく》が少女の影をおどろに乱れさせていた。  生き物のように。臓腑のように。〈蠢〉《うごめ》いて伸縮している。 「ねえ、何をそんなに祈っていたの? それとも〈懺悔〉《ざんげ》? 〈曾祖母〉《おばあ》ちゃんの命より、レンくんが大事だなんてわたし悪い子、みたいな感じで」 「―――――」  看破されたのは何なのか。そして、知らなかったのは誰の方か。 「あれ、もしかして知らないとでも思ってたわけ、テレジア・ヒムラー」  強張る玲愛の表情を〈見咎〉《みとが》めて、ルサルカの顔に邪笑が浮かぶ。〈淫靡〉《いんび》に、〈貪婪〉《どんらん》に、それは食虫植物が浮かべる笑み。 「なーんだ、あなた知らなかったの。そうよ、彼女はあなたの〈曾祖母〉《おばあ》ちゃん」 「…………」  赤毛を指で梳きながら、ルサルカは嘲笑する。玲愛はそれから視線を外し、表情を前髪で隠すように俯いた。 「なぁに、ずいぶん露骨に嫌ってくれるじゃない? まあ、いいけどさ」 「ねえテレジアちゃん、そんな気に病むことはないんじゃないの? わたしも人のことは言えないけど、あなたの〈曾祖母〉《おばあ》ちゃんだって、相当な悪党なのよ」  リザ・ブレンナー。レーベンスボルン機関の一員。  大戦中における彼女の任務は、人為的に生まれながらの超人を生みだすこと。 「優生学……早い話が人間のサラブレッド化ね。誰と誰と交わらせれば、より良い子供を作れるか。どんな条件でどんな刺激を与えれば、生まれつきの天才が出来るのか」  神に弓引くかの如きその思想は、実のところ、そう珍しいものではない。  少なくとも当時は、世界中がそんな狂気で煮えたぎっていた。 「彼女が死なせてしまった子供の数、そして愛の欠片もなく契ってしまった男女の数、どちらも千や二千じゃないわよテレジア。当時の彼女の研究施設は、まるで聖書にある退廃の都」  脳が肥大しすぎて、頭蓋が変形した子供たち。腕が三本、脚が四本など生易しい。  透視力、念動力、果ては予知や読心に至るまで。  超常の力を行使する〈識域〉《チャンネル》を、生まれながらに無理矢理こじ開けられた異形異能の集団は、自身の力に耐え切れず、皆圧壊して死んでいった。  ゆえにバビロン――淫虐と背徳に狂った魔都の女王。 「とまあ、陰口叩いてもしょうがないけど、あなたの〈曾祖母〉《おばあ》ちゃんは、そんな人よ。でも、それだけだったら、時代のせいにして被害者ぶることも出来たでしょうね。 彼女が本当に最悪で、わたしが何気に感心しちゃってるのは、むしろその後。あいつ、それを自分の子供にも、例外なくやっちゃったのよ。 つまり、あなたのオジイちゃんに」  肉親としての情など、屑ほどにも〈頓着〉《とんちゃく》しない。そこにあったのは、徹底した実利主義と現実主義。  ある意味公正ではあるだろうが、世の母親という概念からは著しく〈乖離〉《かいり》した思想と言える。 「酷いわよねえ。数千単位の実験で〈培〉《つちか》ったノウハウを、一番信用できる自分を母体にして試したのよ。結果、見事大当たり。レーベンスボルンの悲願だったゾーネンキント第一世は誕生し、三世のあなたで完成したわけ」 「まあ、間に東洋人の血を混ぜたのが、こっちとしては痛恨っていうか情けない話だけど。唯一成功したあなたが、初期の構想からいったら失敗作でしかないなんて笑い話ね、そう思わない? だからテレジア、気に病むのはやめなさいよ。あなたが今の立場になったのは、元を質せばあの女のせい。黒円卓の一員としては不謹慎かもしれないけど、あなたが望むなら一緒に笑ってあげてもいいのよ、わたし」  〈嗜虐〉《しぎゃく》の笑みに目を細めたまま、魔女は〈諸手〉《もろて》をあげて大仰に叫んだ。 「ざまあみろリザ・ブレンナー。おまえが死ぬのは自業自得だ。わたしの怒りを思い知れ。――ほら、早くぅ、遠慮しないで言いなさいよ。 だって、どうせあなたもさぁ――」 「黙って」  べらべらと続く独演を、短く、しかし断固たる口調で玲愛の声が遮った。それを受けて、ルサルカは目を丸くする。 「なぁに? もしかして、怒ってるわけ?」 「…………」  無言の玲愛を嬲るように、部屋中の闇が〈蠢〉《うごめ》いた。  テーブルに降ろしていた腰を上げ、踊る影を引き連れつつ赤毛の魔女が近づいてくる。 「こっち見なさいよ、ねえ」  覗き込んでくるルサルカに、しかし玲愛は目を合わせない。それは控えめであったものの、不快の意思表示としては充分すぎた。 「ふぅん、まあいいけどさ。あなた、自分の立場分かってる? もう、中身ボロボロじゃない。どっちにしろ長生きできそうにないからって、自棄になられても困るんだけど」  魔女の指先が玲愛の胸に……ちょうど心臓の真上部分にそっと置かれた。  そこから聖痕は全身に。骨どころか魂にまで食い込んで、もはや絶対に剥がせない。 「えげつない術ねえ、こんなの解除できる奴いないわよ。何、呪いにも優生学? 初代を身篭った時にかけた〈術〉《モノ》が、遺伝で増幅されるって寸法かしら。普通は劣化するものなんだけど……。 あーあ、やっぱり〈副首領閣下〉《メルクリウス》はイカレてるわね。これ、いったいどうやってるのよ、わたしサッパリ分からない。 それに、こんなワケ分からない術、子供に仕込むバビロンってばホント最悪――」 「やめて」  再度、玲愛は呟いた。一瞬、ルサルカの〈双眸〉《そうぼう》に怒りが走ったことにも気付いていたが、構わない。  ただ、不快だ。なぜだかよく分からないが、この魔女に喋らせるのが不愉快でたまらなかった。 「あなたに、あの人の何が分かるの?」  六十年以上昔のことなど、自分は知らない。自分が知っている彼女は、もっと―― 「リザはね、ほんとは朝が弱いの」  だけど学校に行く私に合わせて、いつも早起きをしてくれた。  お料理が出来ない私のために、朝ご飯を作ってくれた。  毎日、毎日、何年間も。  まるで本当の母親のように―― 「私はあの人のことが好き。いなくなっても、それはずっと変わらない」 「へぇ、ずっと?」  やおら、細い手が鞭のように伸びてきた。 「ずっとって何? それ、どういう冗談かしら? まさかあなた、自分に〈未来〉《サキ》があるとでも思ってるの?」  襟首を掴まれて引き寄せられる。自分より遥かに小柄な相手なのに、巨人に掴まれているかのような錯覚に囚われた。  腕力一つをとってみても、眼前の魔女は人間を超えている。彼女がもしその気になれば、自分は一瞬で殺されてしまうだろう。  だが―― 「無理して気取ることはないのよ。もう、たいした時間はないんだから。 開いていくスワスチカはカウントダウン。全部揃えば、あなたはお終い。この街もろとも、ハイドリヒ卿に捧げられる生贄よ」 「それで……あなたはどうなるの?」 「はあ?」  〈訝〉《いぶか》る魔女の目を真っ向見据えて、玲愛は言った。 「あなたはどうなるのって訊いているのよ、アンナ・マリーア・シュヴェーゲリン。もう、寿命が尽きかけているんでしょう?」 「百年? 二百年? あなたは何年生きてきたのよ。限界が近づいて、私に頼らないと死んでしまいそうなくらい怯えているくせに。 〈副首領〉《メルクリウス》の領域には、どう足掻いても届かなかったくせに」  どれだけ肉体を強化しても、人の魂は百年程度で死に絶える。才能有る者が魔道に通じ、超常の技を修めたところで延命限界は二百年から三百年。それが、人に生まれた者の必然。そこから上を目指すためには…… 「あなた、聖櫃が要るんでしょう? 私が動かす〈八つの魔方陣〉《スワスチカ》が」 「――うるさいッ」  力任せに、ルサルカは玲愛を投げ捨てた。椅子と机を薙ぎ倒しながら、少女の身体が吹き飛んでいく。 「それが何なの? ええ、あなたの言う通り、わたしは死ぬのがとても恐いわ。でもね――。 そうはならない。何のために、今まで魂を掻き集めてきたと思っているのよ。ハイドリヒ卿が完全に戻ってくれば、わたしはそのぶん力を貰って――」 「彼は、そんなに甘い相手?」  その一言で、ルサルカの身体は硬直した。  スワスチカを開く条件は、特定の場所における大量殺戮。すなわち、一人で数千の魂を有する団員たちの死でも足りるということ。  それはいい。構わない。儀式の過程で脱落していく劣等種など、主の恩恵を賜るには値しない。むしろ間引かれていくべきだろう。  だが、だがしかし、忘れてはいないだろうか。自分が知っている黄金の獣。ラインハルト・ハイドリヒという男の本質は―― 「一人で全て足りている。国も仲間も、部下も家族も、彼は必要としていない」  頂点には横に並ぶ者など存在しない。彼が何を思い、何を成そうと、それは彼一人の者になる。共有など誰にも出来ない。  唯一例外があるとすれば、かの魔術師。カール・エルンスト・クラフトだけ。  思えば腹立たしい男だった。憎らしく、許し難い男だった。  自分の五分の一も生きていない若造の分際で、同じ魔術という領域で遥か高みにいた男。その秘術に頼らねば延命できないという現実に、狂おしいほど焦燥した恥辱の記憶。  だが、もしかしたらあの男――わたしなどよりずっとずっと、気の遠くなるほど昔から――  黙りこむルサルカを睨んだまま、玲愛はゆっくりと立ち上がった。法衣は裂け、所々を負傷してはいるものの、目に宿った意志の光は消えていない。  そして見下すように、事実を告げる。 「きっと誰も助からない。ハイドリヒ卿が蘇ったら、みんなあの人に吸収される」 「そんなこと――」 「ねえ、あなた」  絶叫しかけるルサルカに、玲愛は今気付いたといった様子で、冷たく自然に疑問を投げた。 「お腹、痛いの? 苦しそうよ」 「―――――」  一瞬の静寂を置いて、おそらくは無意識に、ルサルカは下腹部を押さえていた自分に気付く。  これは、いったい…… 「よぉ、ちょっと邪魔するぜ」  唐突――扉を開く音と共に、〈闖入者〉《ちんにゅうしゃ》が現れた。そこに女たちの視線が集中する。 「なんだぁ、おい。揃って余裕のねえツラしやがって。俺が来ちゃ悪かったのかよ」 「……ベイ」  軽薄に、〈飄々〉《ひょうひょう》と、薄い笑みを浮かべて戸口に〈佇〉《ただず》むのはヴィルヘルム・エーレンブルグ。その長身を目に留めて、ルサルカは笑顔の仮面を被りなおした。 「なによ、あなたはずいぶんご機嫌な様子じゃない。どうかしたの?」 「ああ、そう見えるか?」  そう見える。  その〈無頼〉《ぶらい》かつ〈放埓〉《ほうらつ》な態度はいつも通りのものだったが、どこかおかしく見えている。  よく分からない不吉さのようなものを感じ取り、ルサルカは目を細めた。  そう、言うなれば……何かが欠けて――いるような。 「……止まれ」 「あん?」 「そこで止まりなさいよ、ベイ中尉。あなた、なんだかおかしいわ」 「おいおい、おかしいのはおまえだろうが」 「止まれとわたしは言っているのよ」  尊大な物言いと共に、魔女の殺意が礼拝堂を〈蹂躙〉《じゅうりん》する。しかしその直撃を受けてなお、ヴィルヘルムの薄笑いは変わらない。 「ヒスってんなよ。ワケ分かんねえ奴だな、おまえ。俺がいったい何したって……」 「何もしてない」 「はあ?」 「何もしてないから問題なのよ。なんであなたが、そんな涼しそうな顔をしてるの」  いつも剥き出しに、誰彼構わず放射していた殺気がない。  ヴィルヘルム・エーレンブルグと向かい合うということは、いつ喉元に喰らいついてくるか分からない餓狼と対峙するに等しい行為だ。  それは彼にとっての名刺代わり。もはや日々の挨拶に等しい行為。  その殺気が、一切ない。これを異常と呼ばずに何と言う。  違和感の正体に気付いたからか、そこでルサルカはいくらか表面上の態度を軟化させて、言葉を継いだ。 「初めて見るけど、それって、あなた流の、屈折した欲求不満の表現かしら? わたしが遊び相手を取っちゃったから、怒っているわけ?」 「んー?」 「あの子……司狼って言ったわね。あなた、よっぽど気に入ってたみたいだし。憂さ晴らしにひと暴れしたはいいけど、誰もあの子の代わりにはならなかったって、そういうこと?」 「……まあ、当たらずとも遠からじだが」  やる気のない仕草で髪をかきあげ、ぼやくように言うヴィルヘルム。この男らしくない持って回った言い回しが、ひどく不気味で不穏だった。 「でもよぉ、んなこた別にいいだろマレウス。俺が返せって言ったらよ、おまえはそうしてくれんのか?」 「無理よ。だってあの子、食べちゃったもん」 「だよなぁ。そんくらい分かってんだよ」  なら、いったい何がしたいというのだろう。  まさか、本当にやる気がなくなったというわけでもあるまい。 「わたしと、やる気?」 「ああ?」 「だってそうでしょ。あなたの考えそうなことなんて、それくらいしか思いつかない」 「はは――こりゃまた、随分と短絡的だな」 「あなたの頭に合わせているのよ」 「あー、はいはい。そうですか」  ここでようやく愉快げに、くつくつとヴィルヘルムは笑いだした。そして、指を一本突き立てる。 「確かに、まず一つ――それもあながち考えてないわけじゃねえ」 「へぇ……」  つまり、戦意ありということか。ルサルカは笑顔のまま、しかし背後で揺らめく影が礼拝堂を覆い始める。それは、もしも仕掛けてくるようなら受けてたつという意思表示。露骨な警戒であり、挑発と言っていい。 「わたし、あなたとは仲良くやってきたつもりだけど、儚い友情だったのかしらね」 「まあ、俺に言わせりゃ、女と友情築けるなんてハナから思っちゃいなかったけどよ」  本音であろう。そもそもこの男の友情は、根本的に歪んでいる。 「寂しいことを言うのね、ベイ」 「いいや、大半の男はそう思ってるはずじゃねえの? てめえらメンヘラ馬鹿の〈妄想〉《ユメ》に合わせて、ダチごっこをしてるだけさ。 なあ、疑問なんだが……やる気も起きねえ女なんざ傍において何の得があるんだよ」 「―――――」  ざわり――と、その時空間がざわめいた。  恐れるように、避けるように。秒瞬の後、爆発しようとしている何かから逃げるように。  サングラスの奥、赤い瞳が燃え上がる。 「俺にとっちゃあ、男も女も二つに一つだ。そそるか、それともそそらねえか、てめえじゃそそらねえよマレウス。 守備範囲外なんで放置してりゃあ調子くれて、俺の餌ァ〈攫〉《さら》うなんざ舐めた真似こきやがってよォッ!」  咆哮は轟音に近かった。  そこで、初めてヴィルヘルムの殺意が〈爆〉《は》ぜる。今まで抑え込んでいた反動か、〈迸〉《ほとばし》る凶念は床が砕け、壁面に亀裂が走るほど凄まじい。  常人なら間違いなく、物理的に身体が損壊するレベルの念。  だがルサルカは、顔を〈顰〉《しか》めただけで後退もせず〈佇立〉《ちょりつ》していた。やはり、彼女もまた尋常ではない。 「……その理屈でいくと、あなた、わたしを攻撃する気はないって風にもとれるんだけど」 「ああ、そうだ。てめえはイラつく馬鹿女だが、正直ぶっ殺そうとは思わねえ。だから、もう一つの展開を俺は期待してるんだよ」 「もう一つ?」  解放した殺意はそのままに、しかし攻撃してくるでもなく泰然としたヴィルヘルムにルサルカは眉を〈顰〉《ひそ》める。  いったい、この男は何を言っているのだろう。錯乱したのか? いや違う。  先ほどまでの不安定さはすでに失せ、今の彼は平静だ。むしろ、情動を制御できていないのは自分の方。  ちら、と傍らに目を流せば、氷室玲愛は気絶している。おそらくヴィルヘルムの殺意に〈中〉《あ》てられたせいだろうが、それはとりあえずどうでもいい。  心が乱れかけている。あの小娘に言われたことが、胸の奥に蟠ったまま拭えていない。  しょせん、あんなものは苦し紛れの戯言にすぎないだろうが、今の自分が万全の状態だと言えないのもまた事実だ。ならば、ここは仕切りなおした方がいい。 「分かった」  低く呟き、ルサルカは〈踵〉《きびす》を返した。 「喧嘩はまたにしましょう、ベイ。わたし、なんだか疲れちゃって、ちょっと休みたい気分なのよ」 「へえ、疲れる。どうして?」 「どうしてって……」  あんたがワケの分からない絡み方をしてくるからでしょう、と言いかけるが、結局ため息で返答する。 「どうでもいいでしょ。歳なのかもね、わたし行くから」  それを―― 「いいや、おまえは今ここで死ね」  〈嘲〉《あざけ》るように、呪うように、去ろうとする魔女を吸血鬼の言が縫い止めた。 「……死ね、ですって?」  振り返ったルサルカの目には殺意のみ。そうまで言われてしまった以上、もはや後に引く気はない。 「ワケが分からない。何なのあなた? いったい何がしたいのよ」  手加減なしの殺意をぶつけて殺す気はないと言い、去ろうとすれば死ねと言う。  元々曲者ぞろいの黒円卓だ。条理の通じない問答も決して珍しいものではないが、いくらなんでもこれはあまりに…… 「一人で狂ってんじゃないわよ、カズィクル・ベイ! もういい、ここで――」  そうここで、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈教〉《 、》〈会〉《 、》〈で〉《 、》――  戦闘の意を決したルサルカは、内から聖遺物を取り上げるべく咆哮し――  そして―― 「おまえの命で、六番目のスワスチカをこじ開けろやクソババア」  それは、その言葉と同時だった。 「お……」  不意に両手で腹を押さえ、ルサルカは〈蹲〉《うずくま》る。 「おご……あ、お……うぶっ、お……おげえぇぇえええええ!」  びしゃびしゃと、吐瀉物が床に落ちる。 「おーおー、いい感じじゃねえか」  ルサルカは見た。ヴィルヘルムの笑みと、目に刺さるほど白い犬歯を。  そして、聞いた。 「――待てよ」  低く、礼拝堂に響く声を。それが何処から聞こえてくるかを。 「カハッ」  前髪をかき揚げ、笑ったのはヴィルヘルム。 「うそよ……うそよ……ありえないわ。こんな……こんなこと……ッ」  ルサルカの表情は歪んでいた。  それは痛みでも苦しみでもなく。  恐怖。 「あぐ……お……ぎいいいぃぃぃぃいいい!」  四散したのは、二百数十年を生きた魔女の内から出た血と臓物。  礼拝堂の天井にまで飛び散ったそれらと共に――  のけぞった細い体、ちょうどその子宮辺りから這い出てくるモノがあった。  じゃらりと音を立てて、鎖が這う。  礼拝堂の床に引かれる赤い線。それは、今まで主だったルサルカのもの。  魔女の腹を裂いて現れたモノは、自らの手にある鎖を握りなおす。 「ふぅん……だいたいこんなもんか」  とぼけた声。およそ緊張感の欠如した、どこか酔っているようなノリはそのままに―― 「復っ活――とでも言やァいいのか、この場合はよ」  遊佐司狼――彼はここに、人ならざるモノとして再生していた。 「ふふ、はははは、あははははははははははは―――ッ!」  同時に、礼拝堂を揺るがさんばかりの〈哄笑〉《こうしょう》が轟きわたる。  白貌の吸血鬼は身をよじり、可笑しくて堪らないといった風に笑い転げた。  ああ、これこそが求めていたもの。自分は宿業を超えたのだと。 「やる、やるねえ! まさか本当にこうなるとは恐れ入ったぜ、大したもんだ。なあおい、クソガキ、聞かせろよ。てめえ自信はどれだけあった?」 「あー?」 「ご都合主義だぜ、笑かしやがる。こんなデタラメ、ハナから博打にもなりゃしねえよ」 「――はッ」  それは同意の意思表示か、鼻を鳴らして司狼は笑う。 「まあ、確かに傍から見りゃご都合だわな。オレは別に、勝算なんて特に考えてなかったからよ」 「はぁん?」 「だから、狙ってやったわけじゃねえのさ。そこはおまえの言う通り、ハナから博打にもなってねえ。 けどよ――オレは死ぬとも思ってなかったぜ」  さらりと口にされた司狼の言葉に、ヴィルヘルムはまず絶句して、目を見開き、次いで再び、腹の底から爆笑した。 「勝算も――負ける気も――ッ、てめえそりゃ、何も考えてねえってことじゃねえかよ! ハハハ、アハハハハッ――まったくこのガキ、どこまで笑わせりゃあ気が済みやがる!」 「オレは別に、おまえの受けを狙おうなんざ微塵も考えちゃいねーよシロ助。 前にてめえとやりあって、一応仕組みは掴んだからな、あとは奪い取るための算段さえ立てりゃあいいだろ」  魂を喰らい、その力で駆動するのが聖遺物。それはすなわち、喰われたからといって即座に死ぬというわけではない。少なくとも霊的な意味においては。 「身近にいいサンプルもあったしな。某金髪お茶目なユーレイさんはよ、自立行動してるようにオレは見えたぜ」  つまり強靭な魂なら、喰われた後も自我を保てる。質感を持った存在として、現世に戻ることも可能になる。 「だったらその時、内から乗っ取れねえって理屈はねえわな」 「ああ、確かにその通りだ」 「しかしよ、そんな奴は万に一人もいやしねえぜ。乗っ取る乗っ取らないの話じゃねえ。“形成”で形を持てる魂なんざ、実際にゃあそんなところだ。 それをてめえは、いやいや、もういい。これ以上ペラ回しても白けるしな。やることやって、一緒にイこうや」 「ああ、そりゃいいんだけどよ」 「おまえの方は、オレが出てくるって読んでたのか?」 「まあ、二割程度、そんなもんだが」 「おい、そりゃ低いのかよ高いのかよ」 「高いぜ、言ったろうが。真っ当に考えりゃ万分の一以下の確率だってよ。 いよいよとなりゃ、俺がマレウスの腹引き裂いてやろうかとも思ってたが。……ああ、とりあえずそこんところは感謝するぜ。あんなんでも、一応古い馴染みになるんでな。この手で殺るのは、少しばかり気が引ける」 「へえ、意外と真っ当なこと言うじゃねえのよ」 「そりゃまあ、そういうのに見境のねえ狂犬なら、ちゃんと他にいるんでな」 「あん?」  〈訝〉《いぶか》り、〈弛緩〉《しかん》した一瞬の隙に―― 「オラ、行くぜぇぇ――!」  人外の速度で間合いへ踏み込み、繰り出した拳が司狼を捉える。吹き飛ばされた細身の体躯は、それを追う黒衣の影と共に壁を突き破り地面をえぐり、レンガの舗装を砕きながらもまだ止まらない。 「――この、クソジジがッ」  鎖が走り、離れた街路樹へと絡みつく。それを引いて飛ばされるベクトルを無理矢理曲げることにより、司狼は追撃から逃れ出た。今の挙動で、支点となった杉の巨木は幹の中ほどからへし折れている。 「はぁ、上手ぇ上手ぇ、マレウスの腹ん中は随分とお勉強になったみたいじゃねえか。ツァラトゥストラよりサマになってるぜ」 「寝起きにクソくだらねぇ名前聞かせるなよ」 「おぅ、そりゃ悪かったな。あんまり嬉しかったもんでよ、はしゃいでるんだ。勘弁しろよ――なあッ?」  ヴィルヘルムの全身から杭が飛ぶ。夜の闇がそれを覆い、漆黒に塗り固めて司狼の全周囲から襲い掛かった。人間の視野では、捕らえきれない角度からも。  だがそれらは、瞬時に絡めとられていた。ギチギチと軋みながら闇色の杭を縛り上げる銀の鎖は、司狼の手から生えている。  融合型――肉体と聖遺物を一体化させる攻撃力に特化した戦闘スタイル。  それを目に留め、ヴィルヘルムの口許が吊り上がった。 「いいねえ、俺と同じかよ。やっぱりそいつぁ、その型が似合いだよなぁ」  自らの攻撃が凌がれたことに、驚きはないようだった。白い手袋に覆われた手が掲げられ、小指から順に力を込めつつ、握りこまれていく。 「今夜は随分しゃべるな、おまえ」 「いいじゃねえか、語らせろよ。こんな気分は久々なんだ。狙った野郎と殺り合えるのは、俺の人生的に珍しい。 だからよ、邪魔が入らねえ内にとっととカタぁつけるのが賢い選択になるんだが。生憎と俺、馬鹿でな」  呟き、ヴィルヘルムはサングラスを弾き飛ばした。真紅の瞳が、紅蓮の炎のごとく凄烈に燃え上がる。 「楽しもうや、てめえ全力を搾り出せ。俺を退屈させんじゃねえぞ」  繰り出される右の一撃。大気を切り裂くのではなく引き千切るかのような勢いに、防御したところで突き破られると司狼は悟った。  躱すしかない。  しかし、身を逸らしたその場所に、肘から突出した杭が迫る。必要に応じて全身いたる個所から出現するヴィルヘルムの聖遺物は、攻撃の軌道と間合いの概念をいとも〈容易〉《たやす》く破壊するのだ。一定以上の接近を許した時点で、すでにどうしようもない失態である。 「づぉ――ッ」  鎖を絡みつけた腕を盾代わりにして防御するが、それは構造上一枚岩になりえない。杭は隙間をすり抜けて、司狼の右腕を3cmほど抉り飛ばした。  すれ違い様の発砲も意味をなさず、弾丸は残らず弾かれて地に落ちる。避けることも至難ならば、〈中〉《あ》てることも同じく至難。攻防一体とはこのことか。  こと格闘戦においてなら、ヴィルヘルムを凌駕する者などそうは存在しないだろう。  加え、杭が掠めた右腕は徐々に干からび始めていた。直撃されれば〈木乃伊〉《ミイラ》は必至。躱したところで、完全に避けられなければこの有り様だ。  やはり強い。分かっていたが、聖遺物を得たからといって簡単に〈斃〉《たお》せるような相手ではない。 「たく、このハリネズミが。相変わらず鬱陶しい技使いやがる」  まさに吸血鬼の牙。その貪欲な殺傷力こそ、〈串刺し公〉《カズィクル》の名に相応しい。 「おまえ、俺と殴り合いでもする気かよ。度胸は買うが〈巧〉《うま》くねえぜ、そのやり方はよ」  ヴィルヘルムの挑発に、司狼は苦笑で返答した。 「生憎、まだ手探りでな。色々と試してみるさ、こうやって――よォッ」  鎖が走る。蛇行するそれは一息で二十メートルまで伸びきった。裏を返せば、それが現時点における射程距離の限界なのだが。 「面白ぇ……力比べがしてえのかよ」  手首に絡みついた鎖を見やり、愉快げに〈嘯〉《うそぶ》くヴィルヘルム。彼の速さなら躱すことも出来ただろうに、この展開を良しとしたのは、つまりわざとか。 「まあ、おまえにゃ基本的なことを教えてやったほうがよさそうだしな」 「喧嘩のキモは、まず腕力だって?」 「おぅ、当然それもあるがよ――」 「―――――ッ」  引き絞られ、鎖は一気に遊びを無くす。そのまま音を立てて引き合うが、まだ均衡は崩れない。  いや、これはそう見えてるだけなのか。 「甘ぇ、甘ぇよクソガキが。俺と力で勝負できる奴なんざ、カインとマキナくらいのもんだ。おまえもまあ、そんなに悪くはねえけどよ」 「――ッ、――グ」  徐々に、徐々にだが引き寄せられる。実にこの時、鎖にかかる張力は悠に十トンを超えていた。引きずられる司狼の足場は砕き割れ、摩擦で靴が煙を上げる。 「言ったよなぁ、俺と殴りあうのは〈巧〉《うま》くねえ。そりゃつまり、離れて動き回れっていうことだ。おまえ、このままいったらよう――」  一際強く手繰られて、司狼の身体は宙を舞った。そのまま身動きの取れぬ空中で、ヴィルヘルムの元へと引き寄せられる。 「――こうなっちまうぜぇ」 「――だからどうした」  咆哮するデザートイーグル。空中にいる司狼同様、ヴィルヘルムもまた、攻撃を回避できる体勢ではない。  だが―― 「―――ハッハァ」  掲げられた左腕で、残らず銃弾を叩き落す。司狼の銃は、あくまでもただの通常武器だ。魔人の肉体に傷を負わすことなど出来はしない。  そう、普通は考えるところだろうが。 「――何!?」  あにはからんや、ヴィルヘルムの腕からは白煙が上がっていた。その一瞬、予想外の打撃で生じた隙を衝き、再び絡みついた鎖がしなる。 「オオラアアァ―――ッ!」  全身のバネを使って回転し、着地した司狼はヴィルヘルムを投げ捨てた。方向を定めている余裕などなく、ゆえに一切遊びのない全身全霊、全力である。  人外のパワーが乗ったこの一撃なら、いかにヴィルヘルムといえども無事では済むまい。  しかし―― 「―――――」  咄嗟に司狼は、鎖の拘束を解いていた。遠心力で吹き飛ぶ長身は木々を薙ぎ倒しながら林の中へと突っ込むが、あれではダメージなど与えられまい。ヴィルヘルムを〈斃〉《たお》そうとするのなら、聖遺物を介した攻撃こそが必要になる。  つまり、これはミスなのだろうか? いいや、違う。 「勘がいいじゃねえか。おまえ今、死ぬトコだったぜ。自覚してるか?」 「……まあ、なんとなくな」  木々を押し分けて現れたヴィルヘルムは、左腕に幾つか弾痕が刻まれているものの、他はまったくの無傷である。そのまま、笑みを噛み殺すように低く告げた。 「覚えたてのチャチな“形成”なんざ、俺がその気になりゃ千切れるんだよ」  聖遺物の破壊は、すなわち使い手の死。  その法則を、司狼は誰から習うでもなく悟っていた。これから先、鎖での拘束を狙う戦法は諸刃になると。 「ふん、物分かりがよくて結構だが、てめえずっと笑ってるよな」 「それが?」 「いやなに、最初からそうだったと思ってな。こうしてツラ合わせるのは三回目だが、にやついてる顔しか記憶にないぜ」  一度目は教会からの帰り道。二度目は夜の公園で。 「どっちの時も俺の相手にゃならなかったが、それでもおまえは笑ってやがった」 「なあ、なんでだよ?」  ゆらゆらと〈弛緩〉《しかん》した構えのヴィルヘルムは、しかしその実、必殺のタイミングを狙っていた。  会話は意識をそれに傾け、隙を生じさせる手段にすぎない。司狼もそこは〈弁〉《わきま》えている。 「おまえは、戦いに何かを求めてる。名誉か、闘争そのものか……あるいは……」  軍靴が静かに音を鳴らす。楽しげに。軽やかに。 「――未知か!」  一息で踏み込んでくる猛獣を、正面から迎え撃てば潰される。左右に避けても杭がある。 「てめえにそれが――」  瞬時に、司狼は判断した。 「――関係あるかよ」  後方に跳躍し、鎖を教会の天頂へ……巨大な十字架へと絡みつけた。そのまま一気に巻き上げて、屋根の上へと退避する。無論、ただ闇雲に逃げたというわけではない。  腕力、機動力、ともにヴィルヘルムの方が数段上手だ。ならば平面のフィールドでは、どう足掻いても敵わない。まともに戦おうと思うなら、戦闘区域を限定する必要がある。 「やっぱりそうか。戦いってのは読み合いだ。相手が何をしてくるか。そしてそれを上回りあう。 敗北ってのは予想の上を行かれることだ。てめえの希望が未知なんなら、今の状況は楽しいか?」 「そう単純なもんでもねえよ」  適当に応じつつ、しかし司狼は如才なく状況を分析していた。  ひとまずこれで距離はとったが、安全圏というわけではない。この程度離れたところで、ヴィルヘルムが本気になれば詰めてくるのは一瞬だろう。  だがそれでも、これこそが自分の間合いだ。  数合のやり取りで、司狼は手に入れたばかりの聖遺物――血の伯爵夫人の特性を理解していた。ヴィルヘルムとの相性は、決して悪くない。  なぜならこれは、単一でなく一揃え。その正体は、『鎖』の聖遺物などではない。  先ほど銃弾へ乗せたように、かなりの応用がきくはずだ。  それら手段の数々をシミュレートしながらも、口先だけは依然として〈軽佻浮薄〉《けいちょうふはく》。 「まんまと逃げ延びたって、やってやったとは思えなかったね。“あぁ、またか”って感じだよ。いつだって、全部終わってから襲ってくるのさ。ガッカリってのは、そういうもんだ」 「……なるほど、メルクリウスに聞かせてやりてえ言葉だな」  肩をゆすって笑う魔人。だがその笑いは、唐突に収まった。 「それならてめえに、いいもんをくれてやるよ。こいつを見ても、まだ未知じゃねえとは言わせねえ」 「―――――」  何かが来る。  司狼は咄嗟に理解して、鎖を網状に滞空させつつ壁を作った。しかし胸騒ぎは止まらない。 「もう充分だ。面白かったぜ。手抜きはここらで止めにするわ」  これは……この感じはおそらく――― 「〈Wo war ich schon einmal und war so selig〉《かつて何処かで そしてこれほど幸福だったことがあるだろうか》」  闇夜に殷々と響く声。謳うヴィルヘルムを中心にして、周囲の位層がズレていく。 「〈Wie du warst! Wie du bist! Das weiß niemand, das ahnt keiner!〉《あなたは素晴らしい 掛け値なしに素晴らしい しかしそれは誰も知らず また誰も気付かない》」 「〈Ich war ein Bub', da hab' ich die noch nicht gekannt.〉《幼い私は まだあなたを知らなかった》 〈Wer bin denn ich? Wie komm'denn ich zu ihr?〉《いったい私は誰なのだろう いったいどうして》 〈Wie kommt denn sie zu mir?〉《私はあなたの許に来たのだろう》 〈Wär' ich kein Mann, die Sinne möchten mir vergeh'n.〉《もし私が騎士にあるまじき者ならば、このまま死んでしまいたい》 〈Das ist ein seliger Augenblick,〉《何よりも幸福なこの瞬間》―― 〈den will ich nie vergessen bis an meinen Tod.〉《私は死しても 決して忘れはしないだろうから》」  アメーバのように揺らめく闇。夜が、更なる夜に包まれていく。 「――〈Sophie, Welken Sie〉《ゆえに恋人よ 枯れ落ちろ》」  舗装された地面がひび割れ、枯渇し、粉砕された。 「〈Show a Corpse〉《死骸を晒せ》」  木々が砂になるまで朽ちていく。 「〈Es ist was kommen und ist was g'schehn, Ich möcht Sie fragen〉《何かが訪れ 何かが起こった 私はあなたに問いを投げたい》」 「〈Darf's denn sein? Ich möcht' sie fragen: warum zittert was in mir?〉《本当にこれでよいのか 私は何か過ちを犯していないか》 〈Sophie, und seh' nur dich und spür' nur dich.〉《恋人よ 私はあなただけを見 あなただけを感じよう》 〈Sophie, und weiß von nichts als nur: dich hab' ich lieb〉《私の愛で朽ちるあなたを 私だけが知っているから》」  瞬間、爆発する深い闇―― 「――〈Sophie, Welken Sie〉《ゆえに恋人よ 枯れ落ちろ》」  白貌を喜悦に歪め、高らかに謳うヴィルヘルム。  凶暴に、〈放埓〉《ほうらつ》に、この上もなく満足げに――  呪言が、ここに完成した。 「〈Briah〉《創造》――」 「〈Der Rosenkavalier Schwarzwald〉《死森の薔薇騎士》」 「―――――ッ!?」  その時、夜が生まれていた。  すでに闇が支配するこの時間に、なお深く、さらに厚く。  総てを枯渇させる死森のヴェールはその昏さを増し、一方で月は煌々と輝きだす。  明るさと暗さ。それらが共にいや増す空間。  術者の根源とも言える渇望を、〈原則〉《ルール》に変える異界創造。  すなわち―― 「これが創造位階だ。その様子じゃあ……」  黒いコートが夜に融ける。 「ここまでは達してなかったか。ちっとばかり残念だが……まあそれも仕方ねえか」  白い手袋が。髪が。肌が。闇に浮かび上がるように、魔人は夜と同化していく。 「おまえは死ぬ。ここまで楽しませてくれた礼を込めて、加減はしねえ」  司狼はそれでも、闇に浮かぶ赤い眼光から目を逸らさない。 「せいぜい足掻けや」 「―――――」  轟音は、それと同時に炸裂した。  一気に十メートル近く跳躍し、月を背に舞うヴィルヘルムの両掌から、杭が連続して放たれる。  バルカン砲にも匹敵するその速度。  音速を超えるパイルバンカーの連撃は、教会の屋根を瞬時に剣山の〈様相〉《ようそう》へと変えていた。もはや〈絨毯爆撃〉《じゅうたんばくげき》と言って構わない。 「避けろ避けろ避けろ避けろォ! 豚みてえに逃げ回ってよぉ、俺を絶頂させろやッ! 止まるんじゃねえッ!」  狂笑と共に、なおも連続する杭の嵐。それを紙一重で躱しながら、司狼は己の体力が刻一刻と削られていくのを感じていた。 “〈死森の薔薇騎士〉《ローゼンカヴァリエ・シュヴァルツヴァルド》”――ヴィルヘルムが創りだしたこの空間で、彼以外の者は搾り取られる餌にすぎない。足場となる屋根は溶解どころか徐々に砂と化していき、何もせずとも司狼は精気を奪われていく。  加え―― 「ハッハァ――ッ」  着地と同時に攻め込んでくるヴィルヘルムのスピードは、明らかに先程よりも上昇していた。  なるほど、ここが彼の世界だというのなら、地力にプラスの補正がかかるのも頷ける。闇に強化される吸血鬼の戦闘力は、夜に夜を重ねることで更に極限まで上がっていた。平面では勝負にならないと場所を変えたこの屋上も、こうなっては自分が動きにくいだけの死地にすぎない。 「――ヅッ、オォ」  飛んでくる杭も、繰り出される拳も、蹴りも――目視することはほぼ出来ない。深い闇が保護色となり、攻撃の筋を隠している。直撃すれば一撃死に近い威力を持つヴィルヘルムとその聖遺物にとって、ここは確かに必殺の空間と言えるだろう。  死の〈荊棘〉《いばら》で編まれた夜は、薔薇の騎士を無敵に変える。 「――かどうかは、全部試してみねえとなァッ」  再度飛来する杭の嵐を掻い潜るように躱しながら、司狼は闇に乱舞する二つの赤光――血色に燃えるヴィルヘルムの〈双眸〉《そうぼう》に向けて発砲した。  無論、これがただの銃撃なら牽制にもなりはしない。だが――  屋根を踏み抜く爆砕音と共に、暗色の迷彩に身を包んだまま標的は横に飛んだ。その着地位置を狙って鎖が走る。  足首を絡め取ろうとした一閃は、しかし突如現れた杭に巻きついただけだった。当のヴィルヘルム本人は、その上に〈佇立〉《ちょりつ》して笑っている。 「ハッ、色々やるねえ。なかなか往生際が悪いじゃねえか」 「ああ、まったく。竹馬なんざ見たのはガキ以来だぜレトロ野郎」  交わした軽口も束の間、再び始まる戦闘は何度やってもこの繰り返しだ。身を削って十回攻撃を凌いでも、こちらが攻められるのは一度か二度。しかも、その〈悉〉《ことごと》くが当たらない。  速さだけでも相当厄介なのは確かだが、真に問題なのはやはりあの杭だろう。接近すれば槍ぶすまになり、離れれば飛び道具。加えてついさっきのように、盾や身代わりとしても使用できる。  現段階でヴィルヘルムの聖遺物を直接壊すことは不可能に近い以上、武器をぶつけ合うのは愚の骨頂だ。確実に仕留めるなら、肉体に直接ぶち込む必要がある。 「つってもな……全身ハリネズミ相手にどうしろって話だよ」  単純に、ほとんど隙間が存在しない。〈弾〉《 、》〈丸〉《 、》〈を〉《 、》〈弄〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈銃〉《 、》〈撃〉《 、》はそれなりに有効だが、密着して、かつ動きを止めた状態でなければ決定打にならないだろう。  かといって、相打ち狙いの特攻では武器ごと身体を貫かれる。今分かっている情報だけで計算すれば、こちらが死の確率十割に対し、向こうは三割といったところか。  聖遺物を砕かれれば、そのダメージが跳ね返ってくることをさらに考慮するならば…… 「――ハッ」  そのまま数十合の攻防を交わした後、ふっと司狼の顔に苦笑が浮かんだ。 「……まあ実際、三割ありゃあクリーンナップは張れるわな」 「あぁ?」 「とりあえず、もう少し塁埋めてやるよ。おら、いつまでも見下ろしてんじゃねえ!」  発砲。発砲――さらに発砲。この距離で捉えることなど出来ないが、司狼は撃ちながら試していた。〈弾〉《 、》〈丸〉《 、》〈に〉《 、》〈聖〉《 、》〈遺〉《 、》〈物〉《 、》〈を〉《 、》〈宿〉《 、》〈ら〉《 、》〈す〉《 、》〈方〉《 、》〈法〉《 、》と、先ほど気付いたある可能性を。 「ほぉ、やるねえ。器用じゃねえか」  出現させた杭の上を飛び跳ねて躱しながら、ヴィルヘルムもまた思考する。  ただの弾丸なら躱すまでもないのだが、これはまったくの別物だ。  一発一発に、聖遺物の特性を乗せている。  まだ癒えきっていない腕の銃創こそがその証。 「――最初は毒液。 そして今は――」  瞬間、目前に迫った50AE弾が轟音と共に爆発した。 「――針かッ」  散弾のように飛び散ったそれは、数十を超える針と化した。一撃の殺傷力こそ低いものの、目にでも〈中〉《あた》ればただではすまない。当然、狙いはそこだろう。 「ハッ――見え透いてんだよォ」  だが白貌の吸血鬼は、その総てを躱すことに成功していた。  信じられない超反応。  音速を超える速度で迫り、眼前数センチで〈爆〉《は》ぜた散弾を回避するなど桁外れにも程がある。いくら読んでいたとはいえ、その反射速度はもはや人知を超えていた。  そのまま傍の杭を蹴り飛ばし、続く弾幕からも逃れ出る。そこに向かってくるのは巨大な車輪―― 「――阿呆が」  〈侮蔑〉《ぶべつ》と〈嘲〉《あざけ》りに顔が歪む。  こんなでかい的を形成して何になるのだ。まさか忘れたわけでもあるまい。  迫る車輪を避けもせず、それを真っ向から迎え撃った。聖遺物同士をぶつけ合えば、練度と強度で結果が決まるのは自明の理である。  必然、車輪は砕け散り、破片は背後の十字架を薙ぎ倒した。甲高い音を立てながら、銀製と思しきそれは闇の底へと滑り落ちていく。  勝負有り。今ので〈趨勢〉《すうせい》は決してしまった。  いったい何を考えてこんな無謀を犯したのかは知らないが、解せない以上に満足できない。 「つまんねえことやってんじゃねえよ。さっき俺が言ったことも忘れたのか、あぁ?」  聖遺物を砕かれれば、その使用者も砕け散る。車輪を破壊された司狼はその場に膝をつき、口から血を吐いていた。 「おいよぉ、まさか今ので終わりかよ。途中まではいい線いってたってぇのにおまえ……」 「心配すんなよ……試しただけだ」 「あん?」 「思ったとおり、一個潰されたくらいじゃオレは死なねえ」  〈訝〉《いぶか》るヴィルヘルムを〈嗤〉《わら》うように、〈跪〉《ひざまず》いたまま不敵に〈嘯〉《うそぶ》く遊佐司狼。  そう、ここに至るまで、“形成”を試みた武器の数は実に十二――  鎖。針。車輪。〈桎梏〉《しっこく》。短刀。糸鋸。毒液。椅子。漏斗。〈螺子〉《ねじ》。仮面。石版。  多岐に渡り、その総てが人を責め〈苛〉《さいな》むよう設計された刑具たち。  司狼が手に入れた聖遺物は、すなわちそういうものだった。  名を〈血の伯爵夫人〉《エリザベート・バートリー》――血を抜き、集めることに特化した、狂った伯爵夫人のコレクション。  晩年、窓一つない自城の密室に幽閉されて、死に直面した彼女が〈綴〉《つづ》った悪夢の手記だ。  あらゆる拷問具と拷問法が網羅された、それは血と絶叫に彩られた阿鼻叫喚の呪書である。  ゆえに、そこに記された器械は何であれ形成可能。一個でなく一群である以上、うちの一つを壊されたところで即死にはいたらない。 「……つまりこれで、タフさの差はほぼ修正されたっていうわけだな」  質より量。たとえ個々は脆弱でも、一撃で全壊しない限り勝機はある。 「そうなりゃ最低でも確率五割……あの女が使ってた影でも出せりゃあもっと話は早かったんだが、やっぱそんなに甘くはねえか」  ルサルカの〈食人影〉《ナハツェーラー》は、彼女の“創造”が元になっているオリジナルだ。司狼が使いこなせる道理はない。  それに、こうなった今はそんなものに頼らずとも―― 「ケリ着けようぜ、なあ」  立ち上がり、再び“形成”。一度に出せる限界域まで持てる刑具を搾り出し、それらを周囲に展開する。  その総てが武器兼鎧。続く攻撃は捨て身になるが、そう悪い賭けでもない。 「この中の一つでも潰し損ねたらおまえの負けだぜ。まさか逃げねえよな、中尉殿?」 「…………」  現実問題として、司狼はこの空間内におけるヴィルヘルムの速さを捕捉出来ない。ゆえに離れた所から杭の連射を受けてしまえば、〈容易〉《たやす》く王手となるだろう。  それをさせないための挑発。はたして吉と出るか、凶と出るか―― 「クハッ。 ハハ、カハハハ、ハハハハハハハハハッ。 アハハ、ハハハハ、ハハハハハハハハハハハハ――ッ!」 「――面白ェなァッ!」  〈哄笑〉《こうしょう》と共に発した狂喜の念が、ヴィルヘルムの答えだった。 「ああ、ああいいぜ。受けてやらァ! ガキの遊びにゃ付き合ってやるのが、大人の……余裕ってもんだからよォ。 来いよ、宴もたけなわだ。ここらで派手にやろうじゃねえか。てめえの魂はこの場で喰ってやるからよ、出来るもんなら俺の腹も裂いてみやがれ」 「おい、あのなあ……」  それに、呆れたような司狼の声。 「んなホモ臭い絵面は、ぶっちゃけた話ありえねえだろ」  言いつつ、一歩足を踏み出す。  次いで、一気に加速した。 「――来るか。来るか来るか来いよォ!」  十二の拷問具を形成して駆ける司狼を、ヴィルヘルムの〈哄笑〉《こうしょう》が迎え撃つ。 「おおおおおおぉぉぉォォォォッ!」  轟く雄叫びが、〈二重〉《ふたえ》の夜を震撼させた。  両者の生死を分かつ一瞬――心臓に走る薔薇の杭を、刹那の後に待ち受けて…… 「……ん」  酷い頭痛と共に、氷室玲愛は目を覚ました。 「……これは」  全身がだるく、ろくに身体が動かない。なんとか周囲を見回せば、目に入るのは礼拝堂の壁を〈穿〉《うが》つ大穴と、そこから暴風にごとく吹き込んでくる戦意の奔流。  今、外で誰かが戦っている。記憶を手繰って気絶する前の状況を思い起こせば、おそらくそれはヴィルヘルムと―― 「……ぅ」  一方の相手と思われたルサルカは、瀕死の〈様相〉《ようそう》で血の海に沈んでいた。 「くそ……くそぅ……やめてよ、ベイ…ここで“創造”なんか、使わないで」  自らの血に〈噎〉《む》せながら、弱々しく呻くルサルカ。彼女の身に何が起こったのか知らないが、その様子からして刻一刻と死へ近づいているのは明白だった。 「やめてよ、お願い、やめてったら……。わたし……わたし、このままじゃ……」  単純な負傷とは別の次元で、ルサルカの生命力は弱まっていく。してみれば玲愛自身も、ひどく疲労を感じていた。身体を起こすことすらままならない。 「どういう、ことなの……?」  外での戦闘が原因なのか。まるで周囲の生命力を無作為に搾り取っているかのようだった。このままでは自分も危ない。 「……ぁ」  喘ぎながらもなんとかこの場を出ようとするが、すでに這うことすら不可能だった。凶念渦巻く聖堂で、潰されるように息すら出来ない。  その重圧のなか、玲愛は思った。  ――死ぬ?  ここで私は、死んでしまう?  ああ、だったらそれは、喜ぶべきことではないのだろうか。  きっと自分は、このまま死んだ方がいい。そうすればひょっとして、藤井君が死なずに済むかも、しれない……し。  私は、生きてていいモノじゃないし……  だからお願い。お願い神様……どうか私を、このまま早く……  声にならない痛切な祈り。いかに異形と異能の巣窟とはいえ、ここは神の家である。  少女の切なる全霊の願いを、主が聞き届けてくれると期待するのは決して間違いではないだろう。  だが、しかしそれは叶わぬ。  ここは聖堂であると同時に闇の胎盤。  そして少女の器には、魔の遺物が魂にまで深く食い込んでいるゆえに―― 「ああ、なんだかいい匂いだねぇ」 「―――――ッ」 「―――ギイイイィッ」  殺意。それも桁外れな――今までこの場を覆っていた念を吹き飛ばし、数倍の重圧を新たにかけるほどの天災じみたハリケーン。 「あ、ギッ、ぎゃぎゃ、ガ――」  痙攣するルサルカは口から血泡を噴き出して、瞳孔の裏返った眼球は毛細血管が破裂していた。  ――何かが来る。  恐い、恐い、とても恐ろしく不吉なモノがやってくる。  ソレは抽象的な表現など一切出来ない。混じり気のない狂気と凶気と悪意と殺意。  ただそれだけで構成されている嵐の魂。 「ま、まさ、か――」  死に濁った視界の中、物質化するほどの念が渦を巻いて集束するのをルサルカは目撃した。  血の聖堂に舞い降りる白い御使い。  その容姿は天使のように、されどその精神は狂った野獣。  魔人ぞろいの黒円卓で、もっとも直接ヒトを喰らった貪りし者―― 「やあ、アンナ――六十年ぶりだね、懐かしいよ」  聖槍十三騎士団黒円卓第十二位、ウォルフガング・シュライバー=フローズヴィトニル。  狂乱の白騎士が、魔女と聖女の前に降臨していた。  氷室玲愛は知らない。  ラインハルトの側近とも言うべき三騎士が、常に一人、自分の傍に控えていたということを。  その生命危機が、彼らを喚ぶ引き金になることを。  ゆえに―― 「――ッギャアア」  今、この少年は……玲愛を害する者に対してあらゆる行為を許されている。 「い、いたい、痛い、お願い、やめて、どいて、シュライバー」 「んん?」  出現と同時に、シュライバーはルサルカの上へと降りていた。瀕死の魔女に腰掛けて、泣き〈喚〉《わめ》く彼女の様子を無邪気な顔で見下ろしている。 「アンナ、君は何やってんだい? あの子をいじめちゃ駄目じゃないか」 「違う――違うの、わたしじゃない」 「わたし、何もしてないわ。ハイドリヒ卿の、命令にだって、逆らってない!」  哀訴は掛け値なしの真実であり、またその悲嘆ぶりには誰もが同情したくなるだろう。  ルサルカは泣きじゃくりながら必死に叫ぶ。  事実、ここでシュライバーを篭絡することが出来なければ、間違いなく殺されるのだ。 「お願い……どうかハイドリヒ卿に……」 「んん、でもそうは言うけど、あの人は今いないんだよね」 「……え?」  それは、どういうことだろう? よく意味が分からない。  血に溺れながらも目で疑問を投げるルサルカに、シュライバーは首を捻った。  なんと説明するべきか、〈巧〉《うま》い言葉を探すように。 「〈僕〉《 、》〈ら〉《 、》〈三〉《 、》〈人〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈時〉《 、》〈に〉《 、》、〈ま〉《、》〈だ〉《、》〈あ〉《、》〈の〉《、》〈人〉《、》〈は〉《、》〈出〉《、》〈て〉《、》〈来〉《、》〈れ〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈よ〉《、》。少なくとも、あと一つ二つはスワスチカが開かないとね。 分かるかな。僕らはハイドリヒ卿の一部なんだ。〈赤い人〉《ルベド》と〈黒い人〉《ニグレド》と、そして〈僕〉《アルベド》の三つに分かれてるって言えばいい? えぇっと、つまりね」  形成位階における魂の具現化。ルサルカは痛みも忘れて絶句する。  忘れもしない。つい先ほど、それを逆手に取られたばかりである。 「だからアンナ、〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈僕〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈三〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈ハ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ド〉《 、》〈リ〉《 、》〈ヒ〉《 、》〈卿〉《 、》だと言ってもいいんだ。各々の自由意志で動くことを許されてるし、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈同〉《 、》〈士〉《 、》〈で〉《 、》〈仲〉《 、》〈間〉《 、》〈割〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》、怒られたりしない。 とまあ、そういうことでね。あの人に言いたいことがあるならここで言いなよ。結局同じことなんだし」 「ちょ……っと、待ってよ……」  ではなんだ。つまりシュライバーもマキナもザミエルも、ハイドリヒ卿に喰われているということなのか? そんな馬鹿な――  瞬間、脳裏に忌まわしい台詞が〈過〉《よ》ぎった。 “きっと誰も助からない。 ハイドリヒ卿が蘇ったら、みんなあの人に吸収される”―― 「ひ――」  嫌だ。  嫌だ嫌だ、そんなのは嫌だ。  わたしはわたしのままで生きていたい。  自分の智恵と力だけを寄り処にしたい。  なのにそれを、あんな〈化〉《 、》〈け〉《 、》〈物〉《 、》――  いったい何百万渦巻いているか分かりもしない魂の混沌に落とされて、その一部となり永劫に――? 「どうして……ッ!?」  なぜこの少年は、平気な顔をしているんだ?  自分がどれだけおぞましいモノになっているのか分からないのか? 「ヘンなアンナ。君は死にたくないんだろう? ハイドリヒ卿の一部になれば、それで願いが叶うじゃないか。 あの人は、誰にも嘘なんか言っちゃいないよ。スワスチカを完成させれば、君らは集めた魂に見合った不死になれる。 それが死人だってなんだって、捧げてしまえば獣の〈鬣〉《タテガミ》として生き返ることが出来るんだからさ」  それの何処が問題なんだと、狂える凶獣は放言した。  彼にとっては、己が何に属しているかなど関係ない些事なのだろう。 「僕は人さえ殺せればいい。一日でも長く、一人でも多く、そしていずれは……一人残らず――。 それが叶うなら、ねえアンナ、僕はこんな幸せないと思うよ」 「あなたは……」  戦慄く唇が邪魔をして、すぐに二の句を継げられない。  狂っている狂っている。狂っている狂っている狂っている狂っている――!  なんて度し難い壊人だろう。知ってはいたが、もはや人と話しているという気がしない。  聞くまでもなく他の二人も、ベクトルが違うだけで本質はシュライバーと同じなのだ。  ザミエルは狂信で。マキナはおそらく執念で。  己という個に依らない。ただ一つの渇望にのみ憑かれた怪物たち。  だけど――  だからといって、わたしはこのまま―― 「ねえ、シュライバー……聞いてちょうだい」  弱々しく〈頭〉《かぶり》を振って、ルサルカは口を開いた。  まだ、絶望などしていない。そんなものは凡愚の業だ。  たとえ全身が、負傷で言うことを聞かなくても。  失血が、意識を奪い始めていたとしても。  まだわたしには、智恵と経験が残っている――  〈副首領〉《メルクリウス》を除けばただ一人、自分は黒円卓に属する前から魔道に踏み込んでいた人間だ。  エイヴィヒカイトに触れる前から、死を回避する研究を突き詰めてきた自負がある。  その事実を頼みにすれば、この状況も決して悪いものじゃない。  ここに来たのがマキナやザミエルでなく、シュライバーであったことがその証。  真の天才とは、才能の煌きでも積み上げた努力でもない。  運……それも土壇場での運! ツイてないと思った時に、一瞬だけ訪れる幸運に手を伸ばせるかどうか。  そのためには絶望しない精神力。腹を裂かれても諦めなかった自分は今、幸運を掴みかけている……ッ! 「わたし、とても悲しいわ。せっかく、あなたと逢えたのに、もう、顔もよく見えない」  喋りながらもルサルカは、自己に強力な暗示をかけた。  命令はごく単純なもの―――“今、眼前にいる男を愛せ”――――  己を騙し、相手を騙し、偽りながらも真実の愛でこの苦難を乗り越えよう。  即興ゆえに陳腐な手であることは否めないが、それでもルサルカには勝算があった。  なぜなら―― “シュライバーは、たぶんわたしのことを好いている”――  女の勘などと言う気はない。無論それなりの根拠がある。  黒円卓でただ一人、彼女を“アンナ”と呼ぶシュライバー。  団員としての称号でも、魔術名でもない。それは遠い昔に置いてきた、人としての本名だ。  その名で自分を呼ぶこの男が、何を考えているのか知らないし知る気もない。  分かっているのは、少なくとも彼にとって自分が特別であるということ。  ならば、そこに希望を見出す。全力でそこにつけ込む。 「愛しているのよ、わたしは……あなたを……」  すでにルサルカは、自身の台詞を信じていた。頬を流れ落ちる涙の雫も、偽りであると同時に掛け値なしの本物である。 「君が、僕を……?」 「ええ、だからお願い。わたしを、助けて……」  媚態はより一層真に迫り、シュライバーを幻惑する。  それと同じく、負傷もまた僅かずつだが癒え始めていた。  たとえ聖遺物を奪われても、ルサルカ・シュヴェーゲリンの力は終わりじゃない。細胞の〈賦活〉《ふかつ》を促す再生魔術は自動で行うよう施してあるし、集中の邪魔になる痛みも一定レベル以上はカットしている。  〈瞠目〉《どうもく》すべきは、その徹底した生き汚さだ。  こればかりは、他の団員たちにも不可能な芸当だろう。ほんの六十年そこら前まで素人だった者たちより、自分は遥か先にいる。 「わたしは弱いの……ここで死んだら、あなたみたいには、きっとなれない。 そんなのは嫌。あなたに触れて、感じたい。わたしはこのまま、生きていたいの。 ねえ、愛しているのよ……シュライバー」  震える腕を上に伸ばして、シュライバーの首に〈縋〉《すが》りつく。そして、唇が触れ合った。 「アンナ……」  それに、呆とした少年の声。 「君は僕を愛しているの? 僕と君は恋人になるの?」 「ええ……あなたが、わたしを助けてくれたら」  その、消え入りそうな少女の声に。 「そうか……そうかなるほど、僕と君は恋人同士か」  まるで自らの魂に刻み付けるかのごとく、ひっそりと呟くシュライバー。  最初は僅かに、そして次第にぶるぶると、〈華奢〉《きゃしゃ》な肩が震えだす。 「愛、愛ね……うん、とてもいい言葉だ。僕も色んな人に愛されて……。 分かるよ、アンナ……僕も、僕もね……」  変質し、変貌する声と〈表情〉《かお》。傍から見れば、それはいささか以上に唐突なものだろう。  しかし、彼の精神を解することなど誰にも出来ない。  おそらくは、本人にさえ―― 「う、うぅ……うぐ、うぅ……っ」  ゆえに今、その常軌を逸した躁鬱の振り幅を、理解出来ないまでも視野に入れて動いたルサルカの狡猾さは賞賛に値するものであり、また功をそうしたと言えるはずだ。 「あ、……ぐ、ぅ……っ」  事実、徐々に漏れてきたのは切れ切れの嗚咽。  そして数秒の後、轟いたのは魂切る絶叫―― 「うう、うああ、うああああああああああああああああああ―――ッ! ああああああ、ああ、うわああああああああああああああ―――ッ!」  身も世も無い慟哭が、聖堂内に響き渡った。  惜しげもなく涙を流し、身悶えながら、シュライバーは危ういほどに泣き〈喚〉《わめ》いて〈憚〉《はばか》らない。 “恋人”を失うのがそれほどまでに悲しいのか。血に濡れた少女の身体を抱きしめて咆哮する。 「ああ、アンナ! アンナ! 僕のアンナァッ! しっかりしてよ、大丈夫だから! お願いだから目を開けてよォォッ!」 「……ッ、…ァ」  その狂態を目の当たりにしながらも、自己暗示にかかった表層意識の裏側で、ルサルカは目まぐるしく計算を続行していた。  焦ってはいけない。ここでシュライバーの機嫌を損ねたら一巻の終わりである。せっかく〈巧〉《うま》く〈嵌〉《はま》ったのだ。さらに慎重を期さなければ…… 「あぁ、シュライバー……」  聞き分けの無い子だけど、とても素直なわたしのシュライバー……今、この世でただ一人、わたしに明日をくれる優しい子。 「ねえ、わたし、の……部屋へ……つれて、行……って?」 「い、いやだ。いやだいやだ、そんなこと言わないでアンナ! こんなに、こんなに指が冷たくなってる! 僕の、僕のアンナが死んでしまう! そんなこと耐えられない。君が、君がこのままいなくなってしまうなんてえぇええええ!」 「わ、たし……は、だいじょ……ぅぶ……部屋に、戻れば……すぐ……。だから……」 「ねえ誰に? アンナ、誰にやられたの? 一体誰がこんな酷いことを?」 “今、息が詰まっているのはあんたの馬鹿力で抱きしめられているからよ!”  心の中でそう叫ぶが、それを指摘するのはもっとずっと後でいい。  傷を癒して、元気になって、笑い話が出来る時にすればいい。  今大事なのはそんなことではない。  部屋に戻れば、あそこには多重の魔術結界を敷いてある。中に入るだけで、生命維持に使っている魔力を活性化することが出来るのだ。  損傷は深刻だが、おそらく三日もすれば問題なく回復するはず。  そう、部屋にさえ帰れれば―― 「うあぁああ……どうして、アンナ、こんな姿に。誰が、誰が僕の君をこんな姿に……」  滂沱と涙を流しながら咽び泣くシュライバーの銀髪を、ルサルカは撫でさすった。  内心の焦りと苛立ちは表に出さない。しかしいつまでも同じ質問をされるのは億劫だ。ひとまずは答えを与え、彼の激情を他所に逸らす必要がある。  だから―― 「遊佐……司狼……」 「ユ、サ……?」 「わたし……から……聖……遺物を、奪った、の……。だから一緒に……殺して、奪い、返しましょう? お願――ゲボッ」  言葉の途中、肺にたまった血に溺れかけたのは、細い身体をさらにシュライバーが抱きしめたからだった。  ギシギシと背骨が軋み、折れた肋骨が〈内臓〉《なか》を抉る。開いた下腹の傷口から、腸が零れ出て床に落ちる。 「……ぁ、え……あ…ッ」  もしかして、何かを致命的に間違ったのか? 赤く明滅する視界の中、膨れ上がるシュライバーの殺意にルサルカは総毛だった。  まずい。まずい。まずいまずいまずいまずい――― 「ああ…そうだね。一緒に殺そう。 ハイドリヒ卿と一緒にいたくないんなら、僕と一緒にいればいいよ。君は僕の中で生きればいい」 「ガハッ……あぐぶ……ぶぐうぅぅぶぶぶ……」  血の泡を噴きながら、両腕が粉々に砕かれたことを理解した。  傷口から更に内臓が〈迸〉《ほとばし》る。  すでにシュライバーは泣いてなどいない。 「だから殺そう。ユサシローを殺そう。僕の全てで、愛で、悲しみで、憎しみで、全てで殺そう」 「ぎゅぶぐうぅ……」  駄目だ、諦めるな意識を保て!  まだ! まだわたしには運があるんだ絶対にもう一度まわってくる機会があるんだそれを掴むのよだってわたしは天才なんだからこれで終わったりなんかするはずない!  失血と呼吸困難で酸欠になった脳細胞を、魔力が強制的に再構築していく。  所々断線する情報から、いくつか記憶がクラッシュしたことを悟りつつも、しかしルサルカは気絶しない。  いや、出来ない。  まだ……まだ終わりじゃない。生きられる限りわたしにはチャンスがある。  ああ、でも血が……血が臭い! 溺れる――畜生! 「あは、あははは、あははははは……。 ははははは、ははははははははは、アハハハハハハハハハハハハ――!」 「いい! イイよこの感じ!」  喜悦に隻眼を血走らせて、声高に叫ぶシュライバー。  復讐――それはなんて甘い響き。実に、実に――素晴らしい! 「こんな理由で人を殺すのは初めてだ! ああ、ああ――アンナありがとうッ! 君の仇は僕が絶対、この手で討ってあげるからね! アハ、アハハ、アハハハハハハハハハハァ――――ッ!」  少女の血を絞り尽くすように抱きしめたまま、シュライバーは〈哄笑〉《こうしょう》する。  その狂乱を目の当たりにして、再び氷室玲愛は昏倒していた。 「……ごふっ」  粉砕された十二の刑具が、ばらばらと崩れ落ちる。 「ああ……まあこんなもんだ」  心なしか切なげにそう言って、ヴィルヘルムは吐息を漏らした。 「もう少しやれるかと思ったが、割にあっけねえ締めだったな。てめえの負けだよ、言うことはあるか?」  右掌から突出した杭が、司狼の胸板を突き破っている。言うまでもない致命傷で、確かに勝負は決していた。 「……ッ、は……」  ゴキゴキと音を立て、さらに杭が埋まっていく。ヴィルヘルムの手が背中へ貫けた。 「何もねえなら、これで終わりだ。あばよクソガキ、それなりに楽しかったぜ」 「―――はっ」  だが、その瞬間。 「そりゃこっちの台詞だ。あばよ中尉」 「……あ?」  異様な言葉と、そして異様な感触に、吸血鬼の顔が歪んだ。 「――――おッ」  突如、肘に走る激痛。灼熱。――そして、〈肉〉《 、》〈を〉《 、》〈食〉《 、》〈い〉《 、》〈千〉《 、》〈切〉《 、》〈る〉《 、》〈湿〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈音〉《 、》――  まさか、今のは―― 「うおおおおおおおおおお! てめえええァァッ!」  司狼の胸に突き立てたヴィルヘルムの右腕――その肘から先が消失していた。咄嗟に後方へ跳躍するが、すでに遅い。 「〈さよならだ〉《アウフ・ヴィーダーゼーエン》。これ食らってヴァルハラ逝けや」  眉間に押し当てられた銃口が連続で火を噴いた。首から上を粉砕される様を幻視しながら、しかしヴィルヘルムはまだ諦めない。 「――ぐぅううおおおおおォォォッ!」  仰け反りながらも首を逸らし、なんとか額の半分を削り飛ばされるだけに留める。常人なら疑いなく即死レベルの損壊だが、彼にとっては肉体機能を完全に消失するほどではない。  跳ね上げた左足で司狼の銃を蹴り飛ばし、追撃を封じると同時に杭を飛ばした。緊急事態にあってなお、ほぼ無意識にそれだけのことを行う戦闘センスはやはり〈稀代〉《きだい》の怪物と言えるだろう。  だがそれも、覿面な効果は期待出来ない。狙いの逸れた杭は的を掠めて、闇の中へと消えていく。 「〈伊達〉《だて》に長生きしてねえか。ほんと諦め悪いな、おまえらってよ」  呟く司狼の胸には、巨大な穴が開いていた。外周に無数の牙を生やしたそれは、さながら魔物の口である。そこに入った者は串刺しになり血を搾り取られ、〈比喩〉《ひゆ》ではなく食い殺される死の〈顎〉《アギト》。  〈血の伯爵夫人〉《エリザベート・バートリー》の代名詞とも言うべき、最悪の拷問処刑具――  その名を、〈鋼鉄の処女〉《アイアンメイデン》。  司狼が最後まで隠していた、切り札の銘である。  胸に攻撃を受けたのも、ここへ誘い込むための罠にすぎない。おかげで安くない傷を負ったが、食い千切ったヴィルヘルムの腕を糧にすれば復元することも可能になるのだ。 「で、さっきの言葉、そっくり返すぜ。おまえの負けだ」  右腕を失い、半顔を吹き飛ばされて、しかしヴィルヘルムはまだ〈斃〉《たお》れない。  むしろ、わずかに肩を震わせ、笑って……いる? 「ふふ、ははは、はははははははは……。 なるほどそうか。そうだよなそうさっ。こいつは案外いい手だぜ。血を入れ替えるだけで足らねえなら、肉も骨も入れ替えちまえばいい」  〈熾火〉《おきび》のように光る瞳は、憎悪と〈憤怒〉《ふんぬ》に燃えていた。  〈夥〉《おびただ》しく流れる血は、彼の命が長くないことを告げていた。  しかしそれでも、この状況でなお〈嗤笑〉《ししょう》する吸血鬼。  まだ戦いは終わっていない。  否、終わらせないと牙を剥いて咆哮する。 「馬鹿が、効かねえんだよこんなもん! 俺を殺りたきゃ首切り落として心臓潰しな! こんな半端で、片ぁついたと思ってんじゃねえぞヒヨっこがァッ! 俺は負けねえ……誰にも、絶対、死んでもだ。ましてこんな所でよぉ……」  吠えながら、一歩一歩近づいてくるヴィルヘルム。司狼はそれに目をやって、今度はコルト・アナコンダ――エリーが使用していた銃を取り出す。 「さすがは戦争経験者か」 「その程度の怪我、別に珍しくもないってわけかよ。いいぜ、きっちりカタ〈嵌〉《は》めてやる」  そう飄然と告げる司狼だったが、実のところ彼の消耗度合いも半端ではない。  動かないのは、余裕を見せているのではなく動けないから。  発砲しないのは、目が霞んで必中させる自信がないから。  十二の武器を〈悉〉《ことごと》く破壊され、復元が始まっているとはいえ胸を貫かれた直後である。立って喋っているだけでも命を削る行為に等しい。  つまり――確かにまだ勝負は終わってなかった。  ダメージはほぼ五分のまま、勝敗を分ける天秤は依然危うく揺れている。  時間をかければ司狼の傷は徐々に癒えていくものの、詰め寄ってくるヴィルヘルムの歩みは明らかにそれより速い。共に必殺の時が生じるまで、あと数秒も必要ないのだ。 「さあ、続けようぜ。まだ終わりじゃねえ……アタマかっ飛ぶまで殺り合うとよ、見えてくるものがあるんだよ」 「あれはよぉ、いつだったかな……ワルシャワの火は綺麗だったぜ。思えばアレが、俺にとっちゃ初めての……」  そして、二人の間合いが致命的に交錯する――それはほんの刹那の直前。 「見苦しいなぁ、いい加減邪魔だから消えちゃってよ」 「―――――ッ!?」  驚愕に目を見開いたのは、いったいどちらだったのか。 「………あ?」  戦闘でへし折られた教会の十字架が、背後からヴィルヘルムを貫いていた。 「お、おぉ、おおおぉぉぉぉあぁぁぁァァァッ!!」  次いで絶叫が〈迸〉《ほとばし》る。同時に、二重の夜を破壊する魔狼の嘲笑。 「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ―――ッ!」  赤い月がひび割れ、ズレる。夜が音を立てて瓦解していく。 「てめえ、ふざけやがってシュライバァァ……!」  声は怒りと怨嗟と、そして屈辱に〈塗〉《まみ》れていた。こんな時に、こんな形で、こんな男に勝負の決着を崩されるとは。 「〈さよならだねぇ〉《アウフ・ヴィーダーゼーエン》、ベイ中尉。まあ色々言いたいこともあるだろうけど、今はとりあえず、君の命でここのスワスチカを開いちゃいなよ。 ハハハ、アハハハ、ハーハッハハハハハハハハハハハハ」  噴き上がる白騎士の狂笑で、白貌の吸血鬼は断末魔さえ掻き消された。  なるほど振り返って見るのなら、この回帰における彼の人生は奪われ続けたものだと言えるだろう。  崩れ落ちるヴィルヘルム。彼が集めた魂はこの地で散華し、ここに六番目のスワスチカが完成した。  そもそも、どうしてこうなったのか……  彼女は考えずにいられなかった。  自分にはまだ次があるはずなのに。  次の次も、そのまた次もあるはずなのに。  だから、予想外の結果を生んだ事象は必ずその原因を究明しておく。  それが、魔道の徒としてルサルカ・シュヴェーゲリンが身に付けた癖のようなものだった。  ゆえに、今も考えているのだ。  いったい、何処をどう間違ったらこんなことになるのだろうかと…… 「ハハ、しかしやるねえ君」  教会の前庭に降り立った司狼は、掛けられた声に振り返る。  ヴィルヘルムが死んでから、空気に混じり物を感じていた。胸がムカつき、吐き気を〈催〉《もよお》すようなこの感覚。  スワスチカが開くとは、つまりこういうことなのだろう。  気分が悪く、この場に居るだけで唾を吐き散らかしたくなってくる。 「……何か用かよ」  だから、見覚えのない少年に対する返事が無愛想であったのも、至極当然のことと言えた。他の理由は、特にない。 「君はちょっと普通じゃないね。やあ、今は当然そうなんだけど、最初からただの人間じゃなかったでしょ?」 「てめえ……」  司狼は、ジッポーが見当たらずに、まだ火が点いていない煙草をくわえたままだった。そんな彼を覗き込むようにして、白い少年は言葉を継ぐ。 「脳みそから漏れる汁が、少し供給過剰な感じなのかな? 以前事故にでも遭ったかい? 痛覚、味覚に、それから嗅覚も怪しいね。君は三感がイカレた代わりに、他が限界突破してるみたいだ。 うん、いいねえ。なんか懐かしくなっちゃうよ。昔は僕の大隊にも、君みたいなのが複数いてさ。〈自動化猟兵〉《マリオネッティン・イェーガー》っていうんだけどね。みんな頭が沸騰して死んじゃったよ」  アハハ、と楽しげに、旧知の友人へと笑いかけるように話すシュライバー。  ここにきて、司狼は眼前の少年に目眩を覚えた。  一言でいえば、殺気の塊。屈託なく笑ってはいるものの、この相手にはそれしか存在していない。あのラインハルトさえですら、こと殺意の純粋さに関しては一歩譲らざるを得ないだろう。  人型をとって、言葉を話し、服を着込んでいるだけの異物。コレはただ、人を殺戮することしか出来ない野獣だ。いくら会話を交わしたところで、コミュニケーションなど取れはしない。  してみれば、爛々と輝く隻眼が異常な精気を発しているのに気が付いた。加え右手にぶら下げた、上半身のみになっている赤毛の少女も…… 「僕、君を殺すよ」 「へえぇ……」  その台詞は至極当然で、驚くことなど何もない。彼はこの場に現れた時から、殺すと全身で告げていたのだ。 「アンナの聖遺物を盗ったの、君なんだろユサシロー」 「いちいちフルネームで……」  言いかけた言葉は最後まで吐ききらずに、下がってきた前髪を後ろへと撫で付ける。 「ああ、俺が遊佐司狼だが、それで?」 「……すけ、て……」  その時、微かな囁きが風に乗って、司狼の耳にまで届いてきた。 「おね、がい……部屋まで……部屋まで連れて、行ってくれ……る、だけで……いいの……」 「…………」  困ったような笑顔を浮かべ、シュライバーは右手を目の高さまで持ち上げた。  ルサルカの頭髪は、掴んだままで。 「おねがい……おねがいシュライバァ……いい子だから……」 「ねえアンナ……僕は今、彼と話をしてるんだよ。ちょっと後にしてくれないかな」 「お願いよ! なんでもするか……げぶっ」  顔面に、左拳がめり込む。 「後にしてって、言ってるだろ?」 「ご、ごべ……ゆどぅじ……ぎひいいい!」 「んん、ほんとごめんね、ユサシロー。まあちょうどいいから訊いちゃうけどさ、これやったの、君なんだよね?」 「…………」  流石の司狼も絶句した。  上半身だけになりながら生き続けているらしいルサルカにも、それを笑顔で殴りつけるシュライバーにも。笑顔のまま、これ、と指差せる精神構造にも。  殴ったのはお前だろ、と言いたくもあったが、向こうの質問の意図が分からないわけではない。会話をしたくない一心で、唇に張り付いたままの煙草を地面に吐き捨ててから、とりあえず頷く。 「よかった。じゃあ決まりだ。実は僕、彼女の恋人なんだよね」 「はあ?」  瀕死の〈懇願〉《こんがん》に、顔面パンチで応じて恋人? 「だから、彼女を殺した君は必ず殺すよ。なぜだか分かる? それが僕の、愛の証明になるからさ」 「おいおい……」  これは笑うところなのか? どう反応するべきか迷ったが、結局ため息しか出てこない。  シュライバーは破顔した。 「今、確かに伝えたよ。敵討ちにも決闘にも、宣言って大事だからね」 「はあ、そりゃ律儀な坊ちゃんだな。で? どうすんだよ。すぐ始めんのか?」 「ん? 何言ってんの君?」  理解できない、とばかりに目を丸くするシュライバー。ドサリ、とルサルカの身体が落ちた。 「始めるわけないだろ? だってこれは、敵討ちだぜ?」 「何……?」 「助け……て……ねぇ、お願い……許して……」 「見なよ。彼女はまだ生きてる。だったら君をココで殺しても、敵討ちにならないじゃないか」 「…………」  司狼は髪を掻き揚げて、そのまま上を見上げ、足下を見て、首を傾げて、片目だけ〈瞑〉《つむ》って、そして言った。 「つきあってられっか」 「おい、ちょっと待ってよ。それはないだろ。人が折角盛り上がってんのにさあっ」 「もお……もおいいでしょシュライバー……お願い、だから……」 「ああもう!」 「なんだここは、馬鹿ばっかりか! シャンバラには馬鹿しかいないのかよお! ちょっとはマシな女だったのに、六十年経ったら馬鹿になっちゃったわけ? どうなんだよアンナァッ!」  投げ出したルサルカの髪を引くと、シュライバーはその耳元で怒鳴りつけた。 「僕が助けるわけないだろっ。これはさあ! 敵討ちなんだよ! いい? 分かる? か・た・き・う・ちっ! 君が生きてたら、あいつはカタキにならないだろおぉぉォッ? ねえ、分かってんのォッ?」 「ひぃ……ひうぅ……あっ……」  耳元の大音量に脳みそを直接かき回されたような衝撃を受け、ルサルカはついに白目をむいた。口の端から、血の泡を吹きながら。 「まったくもぉ。本当に困っちゃうよなあ……」  肩をすくめながら立ち上がったシュライバーは、そこで疲れた様子の司狼が教会の門を潜っていくのを見つける。 「あ! 帰るの? ねえ、なるべくさあ! 遠くへ遠くへ逃げろよな! 僕って足速いからさあ! いつもすぐ捕まえちゃって面白くないんだよねえ!」  ぶんぶんと腕を振るシュライバーに、司狼のリアクションは何もない。 「なあユサシロー! 君がこれから何処に逃げても、僕が捜し出して殺すから! アハハハハハ! アハハハハハハハハハハハ! アーハハハハハハハハハハハハハハハハー!」  〈哄笑〉《こうしょう》を背中で聞きながら、司狼はひどく疲れていた。  尻のポケットに手を伸ばすと、いつもはそんなところに入れるはずのないジッポーがやっと見つかる。  煙草に火を点け、深く吸い込み、紫煙の芳香に安堵した。胸の空気が、吐く息が、なぜか生臭くて仕方ないのだ。 「一人消えたと思ったら……たまんねぇよな。倍疲れる馬鹿が出てきやがる」  淀んだ目で呟きつつ、視線は空へと…… 「ん?」  その、見上げた視界の片隅に何かが映った。  通常の視覚では、違和感として認識することすら困難な微小の揺らぎ。 「……今の、は」  ついさっきまで深い夜の底で戦っていたせいか、目が暗闇に慣れたのかもしれない。二口吸っただけの煙草を踏みつけて消すと、司狼はそれの後を追う。  ヴィルヘルムとの闘いで受けた傷は、もう癒えはじめていた。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 12/13 Swastika ―― 6/8 【Chapter Ⅹ Nigredo Albedo Rubedo ―― END】  渦を巻く。  傷が、苦痛が、罪が、嘆きが――数百万の〈人生〉《ものがたり》が終わりに向かって渦を巻く。  死ぬということ。死後という概念。生あるうちに成した諸々、因果に則り向かう終わりへ、自然の現象として流れ込む。  そう、獅子の尾を踏めば食い殺されるより他になく、火口に飛び込めば焼死は必至。たとえそうした真似をしなくとも、穴を飛び越えれば靴裏は確実に磨り減るだろう。  生きるとは、削られるということだから。  終わりに向かって歩くということだから。  必然として、その時はやってくる。どの道を行こうが結末は変わらない。  差異は早いか遅いかの話であり、誰でも間違いなく〈死〉《ここ》に来る。  〈城〉《ここ》はそうした、ある意味一つの終着点。死後の世界であり、断崖の先に待ち受けているものなのだ。 「ゆえにおまえ達、勘違いをしてはいけない」  すでに悟っている者も、未だ不徳要領でいる者も、等しく事実を弁えるべきだと彼は言う。 「これは祝福だ。おまえ達が望むものを授かるように創造された、本来有り得ぬ〈黄金〉《キセキ》と知れ」  定命の者は死ぬ。死ねばすなわち終わりであり、そこに達した者は帰ってこれない。  物事には原因と結果があるのだから、そう生まれたモノはそうなるのみだ。  そして、そう生まれないモノは本来何処にも存在しない。 「断崖より先にも道が欲しい。転げ落ちた者らをその上に拾い上げたい。 ああつまり、おまえ達は今ある法則を嫌っている。それを唾棄し、認めようとせず、別の〈法則〉《もの》を欲しているのだ。否定はすまい」  だから至極単純、明快に、彼ら彼女らの気持ちを言うならこういうことだ。 「おまえ達は、死後という概念に答えを求めている」 「死ねば終わる。では終わりとは何だ? 消えることか? 墜ち続けることか? それとも始まりに帰ることか? 分かっているのは、見知った風景から突如として切り離されるという事実だけ。それが嫌なのだろう?」  分からないから怖い。怖いから避ける。しかし絶対に避けられない。 「ゆえに死を想う」  その先を想像して創造したがる。断崖の先にも道があると思いたがる。 「歓喜しろよ。〈城〉《ここ》が〈死後〉《それ》だ。 在るか無きか分からぬものに、確固たる、そして都合のいい答えを求めた。死を想うおまえ達の意志が活動し、形を成して創造された。望み通りだろう、不満などあるまい。 ならば、それを絶対の法則として流れ出させ、おまえ達が厭う旧秩序を塗り替える。一掃して消し去ってしまう。 それこそが黄金。奇跡を錬成するとは、そういうことに他ならない」 「この城こそが、おまえ達の求めたもの。 この城こそが、おまえ達の憎む法則を打ち破るもの。 分かるだろう? これを祝福だと言った意味が」  殷々と響く魔城の声が、決定的な事実を告げた。 「遍く総て、この〈至高天〉《グラズヘイム》に溶けよ」 「定命の者、理を曲げたくば死をもって生まれ変われ。 終わらない死後を駆けよ。修羅のように。英雄のように。 黄金は、それをおまえ達に望んでいる」  空を突き破って現れたのは、巨大な髑髏を模した建造物。死者が折り重なった城であり、ラインハルト・ハイドリヒの〈軍団〉《レギオン》に他ならない。  その魂、総軍勢は実に数百万を上回る。常軌を逸した規模と密度で煮えたぎる万魔の威容は、死後の概念を具現化した一種の地獄。曰く断崖の先にある世界がこれなのだ。  ゆえに、この城内で斃れた者はその一部と化す。死しても無限に蘇り、戦い続ける戦奴となるのだ。  それこそが黄金。それこそが断崖の先。不死を望む者も死者の蘇生を願う者も、等しくこの渦に溶けるがいい。  祝福はそこにあり――と呟いて。  魔城の核たる少年は、門を開いて客達を迎え入れた。  瞬時にして視界が闇に包まれる。空から降り注ぐ子供の声を聞いたと同時に、玲愛は周囲の位置感覚を喪失した。  何が起こった? 何があった? 分からないまま押し流されるように翻弄され、自分の身体すら何処にあるのか分からなくなる。  リザがいなくなっていた。つい先ほどまで傍らに立っていたはずの彼女が存在しない。  震える自分の肩を抱いてくれた。自分を守ると言ってくれた。あの優しい顔、声、そして力強く温かい手の感触――  それらがもう、何もない。何もないところに引きずり込まれる。千々に引き離されて落ちるのだ、地獄へと。  その虚無と、相反する飢餓の念は、この事態を引き起こしたと思しき子供の声を想起させる。玲愛は同時に悟っていた。  ああ、そうか。これがイザーク。  自分の祖父であり、リザの息子であり、彼女が切り捨て、〈黄金〉《キセキ》のために捧げたという〈私生児〉《バスタルト》。  彼は何もない。  その精神は 眠っているようにも、死んでいるようにも、生きているようにも感じなかった。もっと有り体に言うならば、人間のように思えない。  これは、まるで歯車だ。単一の機能に特化した部品であり、他の如何なるものも持っていない。  感情は、ある。むしろ極大の渦を巻いて荒れ狂い、常時絶叫しているような印象だ。にも関わらずその表面は鏡のように凪いでおり、微かな揺らぎも起こっていない。  おそらく、ベクトルの問題だろう。回転する方向にのみ総ての心が向いている。ゆえに葛藤という激突が起きず、疑問や不安という波が起きない。高速で回る液体は固体のようで、実際の勢いとは裏腹に停止して見えるのだ。  そして、だからこそ玲愛は彼を怖いと思う。イザークの〈心〉《うみ》は、超高水圧で回る渦。一度それに呑み込まれたら、自力では絶対に浮上できない。深海の底まで引きずり込まれ、ばらばらに溶かされるのみ。  ゆえに抵抗を――何か抵抗を試みなければ――  そう、強く思っているのに…… 「ようこそテレジア、私のゾーネンキント」  回る歯車の声と共に、玲愛は生きながらにして地獄へ墜落していった。  リザ……そして藤井君……  みんなは無事か? 自分はどうなる? これから何が起きるか分からなくて、だけど不吉であろうことだけは理解できて……  嫌だ、死ねない。死にたくない。死んでほしくない。生きていたい。  と、叫ぶ声すら音にならず……  諏訪原市上空に出現した悪魔の城は、今ゆっくりと開いた門を閉じていった。  それは未だ半実体であり、常人が視認できる密度を得ていない。  第五開放は、あくまで大隊長三人を自由に動かすためのもの。  門を開けたのは、客の希望に応えるためのもの。  同胞同士殺し合いたいと言われたので、相応しい場所へと導いた。  城主である獣が告げる。 「私の愛だ。よく噛み締めろ」  願い、成就させたくば〈玉座〉《ここ》に来い、と。  死を想え。死を想え。地獄を駆けて戦鬼となり、屍を積み上げ〈玉座〉《ここ》に来い。  果たせば望みを叶えてやろう。 「そう、私に死ねというものでも構わんぞ」  嘯く響きを、城に呑まれた皆が等しく聞いていたのだ。 「なるほど、つまりこういうことですか」  重くのしかかる鉛色の曇天の下、現状をもっとも早く、的確に把握したのは彼だった。  ここが何処であるかなど百も承知。空間変異と強制的な座標の移動により、今この場に集められた者は皆が黒円卓の初期団員。説明も確認も不要であり、おそらくこの面子が纏められたのも偶然ではない。強制的なシャッフルだ。  魔城ヴェヴェルスブルグ――かつて黒円卓の総本山であった聖地にして、六十年前に異界へ消えた死者の城。  ラインハルト・ハイドリヒが誇る究極の創造世界。 「同士討ちによる全滅を目指すなら、この地で行えと仰っている。まあ確かにここならば、どう転ぼうが誰の腹も痛まない」 「それはどういう……」 「すぐ分かりますよ。あなたは悟りましたか、マレウス」 「……なんとなくね。凄く外れてほしいんだけど、ここってヴァルハラ?」 「然り。そして――〈戦死者の館〉《ヴァルハラ》にはある掟がある」  もはや皆まで言うまでもない。ルサルカはもとより、リザも本音のところは察していたのだろう。  誰の腹も痛まないとはトリファ流の諧謔で、事実上詰まされたと言っていい。  氷室玲愛を守るため。自分一人が勝ち抜くため。  動機と目的がどうであれ、その手段として仲間同士の潰し合いを選択したのが、今ここにいる面子なのだ。  であれば、それを行うのにもっとも相応しいのが〈城〉《ヴァルハラ》であろう。なるほど、確かにラインハルトは、部下を愛しているに違いない。彼らの願いに真摯であり、平等な裁決を下している。  ここは死せる英雄達の修練場。無限に戦い、無限に蘇る繰り返しの中、ラグナロクを待つ永劫の戦場だ。それを誉れとする死生観も存在するが、東洋においては修羅道という名の地獄に他ならない。  ゆえに―― 「〈玉座〉《グラズヘイム》で言上するには、屍を踏み越えなければいけませんね。まずはあなたがお相手ですか、マキナ卿」  地響きを伴う歩みと共に、闘技場が震撼する。まさか、最初から彼の突破を命じるとは、まさしく修羅の法だった。 「訊くだけ無駄かとも思いますが、そこを通してくれませんかね」 「――愚問」  地響きにも劣らない、鉄槌のような声が絞り出される。そう、彼がこの地に入った者を、黙って行かすはずなどない。  ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン――死せる鋼鉄の〈黒騎士〉《ニグレド》が、光を発さない瞳で侵入者達を睨み据えた。 「知っているだろう、聖餐杯。俺は〈闘技場〉《ここ》で加減が出来ん」  戦奴の蠱毒。ここで生まれ、ここから出られない身であるゆえに、彼はこの地に入った者を残らず殺す。情も何も存在しない。  そうするより望みを果たせず、それしか選べない機械神――ただ幕引きのみを追い求める〈人形〉《マキナ》なのだ。  そして、仮にここを突破できても、待っているのは〈赤騎士〉《ルベド》と〈白騎士〉《アルベド》。どちらも地獄であることに変わりはない。 「つまりカインも入れて四対三……いえ、四対一の三掛けをしろってことかしら? 出来ると思う?」 「無理ですね」  嘆くでもなく、素の口調でトリファは言った。 「一見して我々に有利なようにも感じますが、そんな甘い話ではない。文字通りの命懸けを三連続で、かつ、こちらの戦力が徐々に減っていくだろうことを鑑みれば、最後までいける確率など無に等しい。ですから――」 「ここは発想を転換するべきでしょう。数字の有利を活かしつつ、先に進むとなれば引き算だ」 「そうね。それしかないみたい」 「つまり――」  同時に、黒騎士の鉄拳が迫り来る。轟風を伴う一撃から逃れるように、トリファ達は散開した。 「一対一を三手に分ければ、一人は確実に残るわけね」  要は、誰かがラインハルトの下に辿り着くまで保てばいい。四人一丸となって三回の修羅場を潜るよりは、そちらの方が生存確率は高いはず。  などと、否応ない選択を突きつけられているこの現状は何なのか。  ああ、本当に最悪だろう。くだらなくて馬鹿馬鹿しくて間抜けすぎて腹が立つ。爆散する闘技場の瓦礫に紛れて飛びながら、ルサルカはそんな苛立ちを禁じ得ない。  だって自分は悪くない。遊びの気持ちが強くあったのは認めるが、それでも黄金錬成における許容範囲だ。少なくとも反逆など、微塵も意図していなかったのに。  今ではもう、そうするしか生き残れない道に立たされているなんて――  不快じゃない。舐めてるじゃない。あまりに酷すぎる話じゃない。  だから―― 「〈In der Nacht, wo alles schläft〉《ものみな眠る小夜中に 》」  何ともしても是が非でも、この場を切り抜けてやると誓う。二度と引きずり落とされて堪るものかと胸が猛る。 「〈Wie schön, den Meeresboden zu verlassen.〉《水底を離るることぞ嬉しけれ》」  着地した客席の上に立ち、最速で術を紡いだ。口訣は淀みなく、瞬く間に自己の精神を内なる深淵へと埋没させる。  その手際、その手順、誤ることなど有り得ない。  なぜなら自分は知っているから。今までずっと、これからもずっと、胸に在り続ける誓いの形を強く強く理解している――忘れはしない。  願っていたのだ。焦がれていたのだ。天に輝く星の光を、暗い水底から憧憬と共に見上げていたのだ。  そう、己は地星。翼はないが手は伸びる。  影の血泥を従えて、空の者たちを落としたい。  ゆえに―― 「〈Ich hebe den Kopf über das Wasser,〉《水のおもてを頭もて》 〈Welch Freude, das Spiel der Wasserwellen〉《波立て遊ぶぞ楽しけれ》」  今、この位置こそが理想的。影はマキナへ、標的へ、何処までだって伸びていく。逃しはしないし逃げる気もない。  すでにトリファとリザは反対側の客席から、ゲートを潜ろうとしている最中だったが、脅威を押し付けられたという不満もなかった。  恐れていないと言えば嘘になる。黒の大隊長を前にして、そんな余裕を懐ける者など存在しない。  なぜならあれは、死の塊だ。あらゆる者を砕き壊して終わらせる。まともに打ち合えば命がなく、たった一度の被弾も許されない。  そんな怪物。規格外の戦鬼――ああ間違いなくこの男は、翼を持って生まれている。英雄という名の、戦場に輝ける星なのだ。 「〈Durch die nun zerbrochene Stille,〉《澄める大気をふるわせて》 〈Rufen wir unsere Namen〉《互いに高く呼びかわし 》 〈Pechschwarzes Haar wirbelt im Wind〉《緑なす濡れ髪うちふるい》」  だから、疼いてくるのよ止められないのよ。わたしの渇望が溢れてくるのよ。  ねえマキナ、それになんだか、〈城〉《ここ》であなたを見ているとね―― 「〈Welch Freude, sie trocknen zu sehen. 〉《乾かし遊ぶぞ楽しけれ》」  なんだかヘンな気分になる。  それはわたしの、もう一つの渇望を刺激しているようで……  あなたの中に、その答えがあるような気がして……  知りたいの。知りたいの。また逢いたくて逢いたくて、逢いたくて堪らない人の残滓を微かに感じてしまうのよ。  不思議ね。だけどだからこそ、今この時を生きるために―― 「〈Briah〉《創造》――」  みんな止めてしまえばいい。  それがわたしの、求め願い〈創造〉《つく》った〈世界〉《ルール》。  誰にも追いつくことが出来ないなんて、そんな〈運命〉《のろい》認めない。  わたしは生きて、生き残って―― 「〈Csejte Ungarn Nachtzehrer〉《拷問城の食人影》」  またもう一度、わたしを穢したあいつに逢いたい。  逢いたいから――待っていてほしいの。 「さて――」  死の闘技場から脱出したリザとトリファは、城の回廊を駆けながら現状の確認をし合っていた。 「もはや説明は不要ですね、リザ」 「……そうね、あなたはこれを?」 「ええ、無論気付いていましたよ。黄金錬成とはそういうことだ」 「〈城〉《これ》を外に流れ出させる」  数百万の死者を呑み込み、その屍で構成された〈地獄〉《ヴェルトール》。ラインハルトがいる限り、無限に蘇る〈不死英雄〉《エインフェリア》の軍勢だ。  これが流れ出したが最後、全世界が死者の国に塗り替えられる。過去に死んだ者も、これから死ぬ者も、一人残らず魔城の戦奴として永劫の闘争を続けるのみだ。  つまるところ、黄金とはそうしたもので、スワスチカの全開放はその法則を流れ出させる。不死も、そして死者蘇生も、成就はラインハルトに喰われるカタチでしか成されない。  リザは、思わず失笑していた。 「情けない……私の目は六十年も閉じていたのね。いや、それとも最初からついてさえいなかったのか。 あの二人に、いったい何を期待していたというのよ」 「悪魔に魂を売るとはそういうことです。代価を払うときにならねば、己の愚かさに気付けない。 別段、自虐することではありませんよ」  そっけなくそう言う神父は、労わりや気休めを口にしているわけではない。  ただ、馬鹿な選択をした者は頭が悪くて当然だと、至極単純なことを言っているだけだろう。自分も含めて黒円卓は、愚か者の集団なのだと事実を述べているにすぎない。 「〈城〉《これ》を出された以上、たとえ奇跡が起きて近衛の一角を崩しても意味がない。ヴァルハラにおいて彼らは不死だ。 黄昏と共に、無限の復活を繰り返すのがエインフェリア……我々もここで死ねばそれになる。 ゆえに詰まされましたよ、ほぼ完全にね。しかも性質が悪いことに、論理上ハイドリヒ卿は間違っていない」  だから、騙されたなどと憤るのは的外れだろう。 総ては契約書に書いてあるのだ。  ラインハルト・ハイドリヒとカール・クラフト…… 黒円卓の双首領は、確かに嘘など言っていない。  黄金を生めば望みが叶う、ああ、本当にその通り。 ただその代償に、地獄で奴隷になれというだけだ。 「〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》……」  そうサインされている契約書に、名前と望みを書き込んだ。 それだけで、もはや言い訳無用というものだろう。  リザは、胸に手を当てて呟いた。 「私の子供たちはここにいる。彼らに形を与えたくて、彼らに心を与えたくて、名前も、そして人生も……命を、返してあげたくて。 私が教えてあげられなかった、幸せと温もりを知ってほしい。そう、願っていたんだけどね……黄金を得れば、それを与えられると思ったんだけどね」  自分の力では及ばないから、悪魔の超常性に期待した。可能だと言われたから盲目的に信じた。  そして結果が、この様だ。  黄金に目が眩んだこと。  その輝きに汚染されたこと。  古今そうした者たちは、例外なく地獄に落ちる。  これはただそれだけの、当たり前でつまらない必然にすぎない。 「ではどうします?」  横を走るトリファに問われ、リザはその場で立ち止まった。連れもまたそれに倣い、彼女を無表情で見下ろしている。 「あなたの望みは叶わない。火にくべた幼子たちを救うため、我が子すら切り捨てた結果がそれだ。〈胸〉《そこ》に在るという子供たち、彼らを城に放ることなど出来ぬでしょう。それではイザークとまったく同じ運命だ」 「この場における選択と、その着地点……あなたはどう定めている」 「…………」 「まさか否応もない状況なので、とりあえず当座の生存のみを念頭に置いて後は棚上げ……などと考えているわけではないでしょう。 あなたはあなたで、中々に強かな女性であると私はよく知っていますよ」  リザは無言で答えない。だが、ややあってから口を開いた。 「あなたは? 前から気付いていたと言ったからには、相応の策と方針があったんでしょう。あなたがその点、如才ないのを私はよく知っている。 まさか今、どうしようもないので途方に暮れているなんてことはないわよね」 「もちろん、と言いたいのは山々ですが」  トリファは眼鏡を押し上げて、緩く微かに苦笑した。 「策など、もはや無いに等しい。いや実際に、私の構想は数日前に破綻している。自らそうさせてしまった。まさに痛恨というやつです」  言いながらも、しかし彼に絶望の色は見られない。リザにはトリファの構想がどんなものだったか分からないが、それでもこの男が諦めていないということだけは理解できた。 「まあ、一種の賭けだったのですよ。私の中で、ある一つの疑念が生じてしまった。これを放置したまま、先に進むことはできない。そうすれば私の渇望に亀裂が走る」 「ゆえに試した。私にとって、最重要な駒の未来を、運命とやらという賽の目にね。 その結果が吉と出ればそれでよし。私は迷わず信じるままに、己が〈狂気〉《せいぎ》を執行する。 だが凶と出れば……」  皆まで言わせず、リザはその先を口にした。 「ハイドリヒ卿を、斃す」 「……ええ、あなたと同じだ、リザ」  言った瞬間、彼ら二人の呼吸が止まった。意識は薄れ視界は眩み、危うく昏倒しそうになる。  別に何かの攻撃を受けたというわけではない。  自分で言葉にしたことなのに、その台詞を吐いたというだけで身体が拒絶反応を起こしているのだ。 「情けない、わね……」 「ええ、本当に、情けない……」  吹き出る汗。回らない呂律。爆発しそうな心臓と、手足の先から冷えていく血流……  ラインハルト・ハイドリヒの世界であるこの城内において、二人は叛意を口にしたのだ。もはや後戻りはできない。  が…… 「ふ、ふふふ……」 「ふふふ、ははは……」  しかし、彼らは笑っていた。蒼白な顔も震える身体も、恐怖に叫んでいる魂も……それら残らず一切無視して、リザとトリファは笑っている。  このとき二人は、ある一つの事実に気付いたのだ。  ああ、今までの自分こそが死人そのものだったのだと。  ああ、この決意こそが生きている証なのだと。  彼ら二人は知っている。嫌になるほど分かっている。  ラインハルト・ハイドリヒは斃せない。誰であろうと手に負えない。  あれは完全に位相のずれた怪物であり、同じ世界の存在に非ず。  この場でどう立ち回ろうが、自分達にはあれを打倒も封印もできないだろうと。  だが――ならばどうしろという。〈頭〉《こうべ》を垂れて〈傅〉《かしず》いて、奴隷にしてくれと哀願するのか、昔のように――  否。その結果がこの様なのだ。忘れてはいけない。  真実の元凶が何だったのかを。そこから目を逸らした過去の己を。 「結局、私は逃げたのだ。分かり易すぎるほど瞭然なのに、採るべき道を選ばなかった 」 「こんな〈僧衣〉《かっこう》に身を包んで、聖職者みたいな顔をして、当たり前のことをしなかった」  愛児の御霊を高き所へ送ること。彼らが安らぎを得られるように、その冥福を祈ること。  そしてそれを成すために、総てを呑み込む地獄の存在を許してはいけない。  本当に償うならば、そうしなければならないのだと今になってようやく気付いた。気付かされた。  総ては、彼らに比べれば遥かに非力な、一人の少女の選択で。 「玲愛は強い子ね」 「ええ。彼女が誰よりも一番早く、ハイドリヒ卿に立ち向かうことを選択した。……いや、もしかしたらキルヒアイゼン卿なのですかな。どちらにせよ、我々には及びもつかない強さだ。 まあ、とはいえ、この状況に後悔がないと言えば嘘ですがね」  言って、トリファは参りましたと肩をすくめる。そんな彼の態度に、リザは思わず噴き出していた。 「ええ、そうでしょうよ。詳しくは訊かないけど、どうせ私に知られたら不味いことでも、あれこれ考えていたんでしょう。自業自得だと思いなさい。 心配しなくても、あなたの逃げ癖がそんな簡単に直るだなんて思っちゃいないわ。ギリギリまで悩んで、迷って、都合のいい手が見つかれば遠慮なく前言撤回すればいい。そういうあなたの方が、頼もしい。 まさか本当に勝機なしで、何の計算もなくこんなことをしてるわけじゃないでしょう?」 「それは確かに、そうですがね」 「じゃあ期待してるわよ。格好つけただけで結果は犬死にの玉砕だなんて、冗談じゃないから」  困った顔で見下ろしてくる神父の胸元を、リザは軽く拳で叩いた。 「六十年ぶりね、ヴァレリアン。また会えて、嬉しいわ。 あなたはこの中でとうに溶けたか、消えてしまったんじゃないかと思っていたけど。 友達が一人、生き返った。今はそれだけで、充分よ」 「さっき、策は無いに等しいって……つまりゼロじゃないってことだものね」 「策と言うか、他力本願と言うか……」  苦笑しながら、トリファは再び歩き出した。リザの笑みから逃げるように、背を向けたまま言葉を継ぐ。 「ともかく、まずはテレジアを城から出さねば始まらない。あなたの前で口にしたくはありませんが、このままではイザークに捕まる。……いや、もう遅いかもしれない」 「…………」 「彼は恐ろしい存在です。善悪を問うべきものではないのでしょうが、今や城そのものだ。 当然、分かっているし聞こえていることでしょうよ。あなたがここにいることも、城を落とすと決めたことも。 二度までも、母から捨てられた〈私生児〉《バスタルト》……これが剣呑でないほうがおかしい」 「そうね」  長身の背に追従して歩くリザの声音は固かったが、動揺は見られない。そのまま宣言するように言い放つ。 「あの子も救ってあげないといけないわね。六十年もこんな所で一人っきり……だからみんな残らず呑み込もうなんて考える」 「ハイドリヒ卿と同じようにね」  そして辿り着いた回廊の奥……門の前に並び立って歩みを止めて、二人は同時にそれを押した。  扉が熱を帯びている。触れただけで煙が上がり、彼らの掌を焦がしていく。  まるでこの向こう側に、灼熱の世界が在るかのようだ。  その意味するところが何なのか、リザもトリファも分かっていた。  ここが地獄の二番目で、自分達の会話を聞いた紅蓮の英雄が猛っていると。 「リザ――」  だが、トリファはそんなことなど意にも介していないように、漏れ出てくる魔性の炎気を無視して言った。 「結局、父親は誰だったのです?」  その質問を彼女にした者は、未だかつて一人もいない。  答えを匂わされたのは、現状、玲愛ただ一人であり、明確に名を知った者は皆無である。  ゆえにそれは、黒円卓最大の謎であり疑惑だった。  皆が怪しみ、皆が躊躇い、皆が知りたがったが踏み込むことを避けた問答。  初代ゾーネンキント、イザークの父親とはいったい誰か?  なぜ今この時、トリファが答えを知りたがるのか?  そんな諸々の謎に対して―― 「―――――よ」  扉が開かれる音の中、リザは至極あっさりと返答していた。  そしてそれは、黙れと言わんばかりに放たれた火炎流によって掻き消される。 「レン、レン――起きてっ」 まるで見えない大渦に飲み込まれたかのような位置感覚の喪失を味わった後、意識を失っていたらしい俺が最初に知覚したのはそれだった。 「ねえ、早く。目を覚まして、お願い!」 切迫した声でそう言ってくるマリィ。彼女の慌てぶりは相当なもので、まだ感覚が曖昧な俺の身体を掴んでがくがくと揺する。 「やだよ、そんなの……目を開けてよ。ここで倒れちゃったら駄目」 ああ、どうやら死んだと思われているらしい。大丈夫、そんなことはないから、少し待っててくれ、目を開くよ…… 「………ッ」 呻いて、深海から一気に浮上するかのように、俺は上体を起こしていた。 「あ………」 「悪い、心配かけた」 視界は未だにぐらぐら揺れて、目の焦点も合わさらない。込み上げてくる嘔吐感が、三半規管のパニック状態を告げていた。 「それで……ここ、どこだ…?」 周囲の状況を正確に捉えることはまだ出来ないが、それでも尋常ならざることが起こったのは理解できる。だって少なくとも、見えている範囲だけでも間違いなくさっきまでいた遊園地じゃない。 「分からない、けど……」 「わたし、ここに来たことあるよ」 「なに?」 その言葉は聞き捨てならない。頭で血が踊ってるのか目眩は全然治らなかったが、無視して続ける。 「どういう、ことだよ……来たことあるって」 「いつ、いったいどうやって……?」 「あ、駄目だよ。落ち着いて」 「わたしね、あの、一回壊されちゃったじゃない?」 「あのあと、気がついたらここにいたの」 「それは………」 苦い記憶が脳裏を過ぎる。実際あれから、まだ数日も経っていないのだから当然だ。 「ラインハルトか?」 「うん……」 俺は一度、奴に彼女を奪われた。今はこうして共にいるが、切り離されていた間に何があったかは分からない。 あれからあまりにもトラブルが連続したので、その辺りを確かめている暇がなかった。疑問は常に懐いていたが、正直後回しにしていたというのが本音。 「そうか……あのときマリィは、ここにいたのか」 「とりあえず無事に帰ってきたことに安心して、その他諸々保留してたよ。ごめん、ちゃんと聞いてあげなくて、悪かった」 「う、ううん。そんなことないよ」 ぶんぶんと手を振って否定するマリィ。彼女がそうやって俺に落ち度はないというけど、やはり異常事態を看過した事実は消えないだろう。 「ここで、何かされたのか?」 あれ以来、マリィは目に見えて人間臭くなっている。それは悪くない変化だと思って戸惑いながらも許容したが、やはり尋常な事態じゃなかったのだ。 おかしいことが起きた以上、おかしなことが彼女の身に振りかかってなければ理屈が合わない。それがラインハルトの手によるものなら、悪くない変化などというのは甘すぎるだろう。 だから、今はそのことをはっきりさせるべきだと考える。 「覚えてることがあったら言ってくれ。何が起きて、どうなったのか」 「うん……上手く言える自信ないけど」 問いに、マリィは胸に手を置いて思案している。言葉を選んでいるようで、ややあってから口を開いた。 「〈胸〉《ここ》にね、何かを刺された」 「何か?」 「そう。それで溶け続けろって言われた」 「…………」 「レンがなんていうか、戸惑ってるの分かるよ。わたしだってそう、だって全然今までと違うもんね」 「わたし自身、不思議なの。知らなかった気持ちがいっぱいいっぱい溢れてくるの。初めて自分の血を見たみたいな、そういう感覚」 「それに、レンの気持ちもこの穴に入ってくるの。だから伝わるよ、考えてること」 「わたしの中にレンが響いて、わたしの中が溶かされてる。ずっと石ころだったけど、段々水になってるみたいな……」 「ごめん、分からないよね。こんな下手糞な説明じゃあ」 「いや……」 まるで理解できない、というわけでもない。 ラインハルトに貫かれたという胸の穴。彼女の情緒は、その空隙に写された俺の感情が、文字通り影を落としているのだろう。 言うなれば、今までのマリィはダイヤモンド級に硬い鏡だった。何をしても傷つかないし、混ざらない。 綺麗ではあるが孤立。こちらの感情をぶつけても上滑りして伝わらず、彼女の中には届かない。 それに、ラインハルトは穴を穿った。だからマリィの内部では、俺の感情が乱反射を起こしている。 無垢な、魂の芯の部分に、影絵の要領で俺が投影されているのだろう。 溶け始めている。石が水に変わり始めているという表現は、つまり俺という凡俗のテンプレみたいな奴を知ることで、彼女が人情を理解し始めているということ。 「分かるよ。なんとなくだけど、災難だったな」 「そんなことない。わたし嬉しいよ」 「でも、レンは嫌じゃない?」 「恥ずかしいだけさ」 俺って人間がどういう奴か、彼女には筒抜け状態であるに違いない。単にそれが面映いというだけで…… 「不快じゃないよ」 ふざけたキューピッドに憤る心はあっても、今のマリィが以前より近く感じることに文句はないんだ。 満足したいだけだと言っていたラインハルト。あいつは俺達を強くして、食いでのある存在にしたいのだろう。だったら馬鹿なことをしてしまったと、後悔させてやればいい。 彼女の変化を朧気ながらだが理解して、同時にもう一つの現実も認識する。 「それで、つまりここはラインハルトの世界なんだな?」 話しているうちに目眩はなんとか治まって、周囲の状況を知覚できるくらいには回復した。俺の目に映るのは、豪奢で絢爛な建造物の内装…… 「私の創った私の世界に今も在る……か」 「思い出したよ。確かにあいつはそう言っていた」 すなわち、ここにはラインハルトがいるということ。 「あいつが俺達をここに引きずり込んだのか」 「分からない。どうだろう……そうだとしても半分半分」 「ただ、ここは怖いところだよ。ねえ、人間って死んだらどうなると思う?」 「どうって……」 訊かれ、返答に躊躇する。だって目の前にそういう死後の存在がいるのだから。 「誰も分からないんだよね」 マリィは俺の気持ちを知ってか知らずか、自嘲するように言葉を継いだ。 「死にたくないって、みんな思う。今ならわたしも、その気持ちが分かる」 「じゃあどうしてって考えたら、それはどうなるか分からないからなんだよ」 「分からないから、怖い。分からないから、避けたい。自分がそんな目に遭うのは不安だし、大事な誰かがいなくなっちゃうのも嫌だ」 「消えてなくなっちゃうかもしれない。一人きりになっちゃうかもしれない。引き離されたまま二度と逢えなくなったらどうしよう」 「レンと一度離されたから、その気持ちよく分かる」 「寂しくて、辛くて、震えちゃうよね」 「だからみんな考える」 死後というもの。その先にある事象を想像して創造したがる。 死を、想いたがるのが人間の性だから。 「ここはそれなんだよ、レン」 マリィは、落とした声でそう言った。意図的にではあるまい。 彼女はこの世界を忌まわしいものとして畏怖している。 「死んだらどうなるか分からないから死にたくない」 死んだ奴らがどうなるか分からないから死なせたくない。 「だからそれに答えをあげる。心配要らない。誰も離れ離れになんかさせない」 「私は総てを愛している」 「あの人は、そう思ってるんだって感じたよ」 「…………」 つまり、これはそういうことか。俺はたいして頭もよくない馬鹿野郎だが、察しがつかないほど間抜けじゃない。 「これが答えかよ」 不死身の、そして死者蘇生の。 死後の生という永遠を共有すること。 そこには誰もが溶けていて、誰もが存在し続ける。離れ離れにはならない。 「ここは、お城だよね」 先が見えない、伽藍のような天井を見上げてマリィは言った。 「建材は、死んだ人の魂。数え切れないくらいたくさんいるよ」 まるで地獄だ。ここは死者で出来た城で、俺達はそれに呑みこまれたということになる。 現状、まだ生きてはいるようだが…… 「ここで死んだら、俺達も城の一部に?」 「たぶん。きっとそうなるよ」 じゃあラインハルトの完全帰還は、〈城〉《これ》の増殖……いや、流出に他ならない。そんなことが可能なのかどうかは知らないが、地獄の釜が開くというやつだろう。 「ていうか、外は大丈夫なのか?」 こんなものが出現した以上、街が無事だとは思えない。 「たぶん、まだ平気だよ。このお城、ずれてるから」 「ずれる?」 「だから、ここは本当なら有り得ないものでしょう? 外側とは理屈が違うから、ずれてるの。少なくとも、まだ今は」 「完全に出てきちゃったらどうなるか分からないけど、今吸い込まれたのはわたし達と、あと何人かだけ」 「現状、それが限界ってわけか」 そうだ、あのとき……イザークと呼ばれた声は、櫻井が死んだときに第五開放と言っていた。まだスワスチカは完全じゃなく、ゆえに城も完全じゃない。 俺達を呑み込んだことにどういう意味があるのか知らないが、見ようによってはチャンスだとも言えるだろう。 いや、むしろ今しかなかった。 あまりにも想定外かつ、唐突すぎて覚悟を決める暇もないが…… 「どうする、レン」 問うてくるマリィに目を向け、搾り出すように言った。 「ラインハルトを、斃そう……」 そうしないと、声の震えを押さえ込めそうになかったから。 「あいつはまだ完全じゃないんだから、今しかない。それに今やらないと、外がどうなるか分からない」 つまり、否応がない。 つい先日、まるで勝負にならなかった相手に再び挑む。勝算も何もない状態で、しかしやらざるを得ない流れだ。 「ラインハルトに、俺達を殺す意図があるかどうかは分からないけど」 むしろ、奴が全力とやらを出すためにも、その可能性は薄いとさえ思うけど。 「楽観してたら絶対駄目だ。半端な気持ちでいたら死んでしまう」 「マリィ、一緒に来てくれるか?」 「……うん」 少し間を置き、頷いて、マリィは差し出した俺の手を握ってきた。 震えている。彼女も当然怖いんだろう。俺が恐怖を拭えてないから、この子もそれに連動している。 ……情けない。空元気を振り絞ったところで、バレバレじゃねえか。 「だけどレン、よく考えて。本当にそれでいいの?」 「ここには今、センパイもいるみたいだよ」 「…………」 やはりか。薄々そうじゃないかと思ってはいたけど…… 「二兎を追う者は……か」 ルサルカに言われたことを思い出す。あのとき俺はそれで香純たちを見失い、未だにその安否を確かめられていない。 そんな状態で、再び二択を迫られている。 優先するべきはラインハルトの打倒か、氷室先輩の救出か。 理屈では、前者を成功させるのが一番いいと分かっている。それさえ成せば、連鎖式に先輩だって助かるだろう。 だけど、そんな甘い考えが通用するのか? 現実的に考えるなら、勝算の怪しすぎる勝負は捨てて救出と退却を選ぶべきだろう。 だがその場合、何だかんだ言ったところでラインハルト打倒の可能性はさらに薄まり、かつ無関係の人間を大量に見捨てる結果となりかねない。 「俺は……」 どうするべきだろう。 「うん、分かった」 俺の答えにマリィは頷き、優しく柔らかに微笑んだ。 「じゃあ、これは覚えておいて。レンの心の、一番深いところにある望み……それを強く思ってほしいの」 「俺の望み?」 「そう。ここはね、あの人の望みが形になった世界。だからレンも、それを強く思ってないと取り込まれちゃうし、いま選んだことを果たせないよ」 「……………」 「ごめん。なんだか分からないことばかり言ってる奴だと思ってるかもしれないけど、そんな気がするの。だから……」 「ああ……分かったよ」 俺の望み。俺が強く願う世界。それを思い信じろと。 確かにその通りだろう。こんな現実離れしすぎた城の中で、意志を砕かれちゃどうにもならない。 「俺の世界、ね」 それを確固として持つ限り、この地獄には取り込まれない。 「レンの望みは?」 「簡単さ」 口にするのは恥ずかしいけど、本当にそう思ってるんだから仕方ない。マリィの目を見て、俺は言った。 「日常、楽しかったんだよ」 「香純がいて、司狼がいて、先輩がいて、今はマリィもいる」 そしてついでに、本城も入れておこう。まだろくに口を利いちゃいないけど、司狼の女なら身内も同じだ。色々問題はありそうだが、これから先の風景に不可欠なキャラであってほしい。 だからみんな、俺の永遠であってほしい。 「いつか終わるかもしれないなんて、考えたくないんだよ。一期一会だからこそ、その一瞬を大事にしたい」 「それがずっと続けばいいと思ってる」 つまり、俺の望みなんてのは単純で。 「時間が止まればいいと思ってるんだ」 「今も?」 「ああ、マリィとこうしてる今も大事」 「だから、こんなふざけた状態を終わらせたい。早くまた前に戻って、全部元通りになるように……」 「そこにわたしは?」 「いるさ。当たり前だろう。一人も欠けちゃいけない」 「それを強く願うよ。俺が望んでるのは、そういうこと」 「うん……」 マリィはちょっと照れたような、困ったような、はにかむような顔で俺の馬鹿な望みを聞いてくれた。 「素敵だね。レンらしい」 「そうか? たまに頭おかしいって突っ込む奴もいるんだけど」 たとえばそう、司狼とか。 あいつはいつも、いつだって、俺の望みをぶっ壊すようなことばかりやるから喧嘩が耐えない。 だけどあんな奴もいてくれなきゃ困るだろう。喩えるなら刃物は好きだが、切れ味がいいと危なくて嫌だと言っているようなものだ。 時間なら終わり、刃物なら切創。その概念が有している因果を無視して愛でることはできない。 「どれだけ楽しい時間でも、いずれ終わって流れてく。それが分かってるから好きなんだ、刹那ってのが」 「その瞬間こそ永遠であってほしいって……まあそういうことだよ。マリィは?」 我ながら青臭いどころじゃない本音を晒したので照れ臭くなり、訊き返す。 すると彼女は…… 「内緒」 そんな、悪戯っぽい微笑を浮かべて。 「でも、そうだね。わたしはみんなのそういう気持ちを、守れたらいいなって思うよ」 「えへへ、ちょっと偉そうかな?」 「いや……」 なんだか慈愛の女神みたいな物言いが、妙にマッチしてると思わなくもなかった。 「じゃあ、行こうか」 「うん、わたし頑張るから」 そして俺たちは、果ての見えない異空の城内を歩きだす。必ず目的を果たさねばならない。 だが、しかし、僅かだけ胸に引っ掛かった事実もあって…… 「なあ、マリィさ……」 「なに?」 さっき言っていた、わたしがみんなの気持ちを守りたいってやつ…… 全部自分が背負い込もうって、その姿勢…… 「あんまり無茶はすんなよ」 「レンに言われたくないですぅ」 いざ言われてみると、なんだか心配になるもんなんだな。  極限の集中における忘我の心が、精神の深淵にある記憶を呼び覚ます。  それ自体は、別に珍しいことでもない。自己の渇望を世界とするため、その根幹となった事象を喚起しつつ展開するのは、創造位階の発現に伴う必須の作業と言っていい。  だから今、生死の境にありながらもこんなことを思うのは、奇異でも何でもないと弁えている。  ただ単に、〈記憶〉《これ》は随分な深度に沈んでいたから、久しぶりに見たというだけ。  これが出てくるほどかつてない集中を自分はしており、つまりそれだけ敵が強いというだけのこと。  そう、本当にそれだけの話なのだ。 「つまりおまえは、野次馬根性で見物人を決め込んでいたら、巻き添えでくだらない目に遭ったと……要するにそういうわけかよ、アンナ」  それは1939年、暮れの出来事。ラインハルト・ハイドリヒとカール・クラフトに遭遇し、ある種運命を決定付けられた直後のことだ。 「こっちはいい迷惑だな。身内からゲシュタポなんぞにしょっぴかれる間抜けが出ると、後々難癖をつけられかねない。俺の怠惰な日常を掻き回してくれるなよ。反省してくれ」  彼は、有り体に言えば同僚というやつだ。ドイツ古代遺産継承局、通称アーネンエルベ機関に属していた、とある男。 「だがまあ、帝国の悪名高き斬首官殿の下から生還したのは褒めてやる。全体の一割もいないそうじゃないか、生きてあそこから出られたのは」  いや、おめでたい。そう嘯いて笑う彼は、端的に奇妙な人格の持ち主だった。自分から見れば子供も子供で、能力的にも突出した何かがあるわけでもない凡夫だったが、面と向かうとなぜかペースを握られる。  悪い人間ではないのだろうが、口が悪く自堕落で、先ほどのような遠慮のない皮肉や軽口を叩いてくるのだ。それにいちいち気分を害すほど子供ではないけれど、からかわれていると分かっていながら苦笑してしまうのはなぜだろう。  彼はとにかく、そんな不思議な気分に自分を引き込む存在だった。 「けど面倒だなあ。どうせこの先、俺らも軍事利用されるんだろう。ここはただの蒐集家が寄り集まってるだけだってのに。 レーベンスボルンを見てみろよ。あれなんか、元は福祉施設だったんだぜ? それが今じゃあ、天才作るにはどうたらいう、ネジの飛んだ理念に汚染され始めてる。ここをおかしな方向に転がすのだって、そう難しくはないだろうさ。 知ってるか? 日本じゃアメリカの大将を呪殺する儀式だか魔法だかを、坊さんらがマジにやろうとしてるらしい。近頃言われ始めたノストラダムスの予言云々も、それと似たようなもんだろう」 「言わば今は、幻想と科学が入れ替わろうとしてる過渡期だな。だからこの二つが同位に存在して融合する。人類史上、何度かあったろう混沌の季節だ。 俺らはさしずめ、呪われた伝説の武器とやらを解析して汎用化する、現代最先端の馬鹿にして頂けるわけだ。魔術師、錬金術師……諸先輩方はそういう名で呼ばれたが、後世俺らにはどんな名前がつくのかね」  その魔術師、魔道に踏み込んだ者が目の前にいると彼は知らない。  言う気も、自分にはなかった。 「何にせよ、そうなったら困るよなあ」  言う理由が、そもそもない。いたずらに身分を晒して周囲を畏怖させ喜ぶなど、三流以下の所業だろう。  魔道とは隠秘学。隠れて秘める学問であり、知られないことにこそ意味がある。だから彼は何も知らない。付き合いはそれなりだが、アンナ・シュヴェーゲリンをただの女と信じて疑っていないだろう。 「仮にそういうものがあったとしても、俺は集める側で愛でる側だ。自分自身が幻想になろうなんて思わない」 「アンナ、おまえもここにいる以上はそうだろう?」  問いに、曖昧な笑みで応じる。愚かにも人を見る目がない男を前に、このとき顔が引きつったのは結構な不覚であり、なぜ狼狽えたのかという不可解さが自分の胸に沈殿していた。 「遺産は在りし日の輝きを内包したまま止まっている。それがいい。 彼らは永遠だ。俺は永遠に憧れる刹那でいたい」  そう、彼を指して奇妙な人格と評した理由はここにある。  この男は永遠性を好みながら、一瞬の刹那を愛していた。  あくまでも一期一会、それを信条としているのに、終わりがないものに憧れる。だが無限に歩くのは嫌だと言う。  つまり、時間を止めたいのだろう。刹那の輝きを消したくないのだ。流れ過ぎる風景ではなく、固定された美の一点――麗しく思う瞬間こそを眺めていたい。  車窓から見る景色より、額に飾られた絵画を愛でる。なるほどそうした性分は、遺産継承局の主旨に合致していた。これほどこの機関に相応しい者は他におるまい。  言ってしまえば、度を越えた子供なのだろう。彼の渇望はあまりにも青すぎて、誰にも叶えられないと分かっている。  皆が早々に諦めて、記憶の底に置き去って、埃を被ったまま捨てられているその願いを、今でも飽きずに愛でているのだ。もはや奇特と言うしか他になく、やはり筋金入りの遺産嗜好者と呆れるしかない。  ゆえにこのとき、生まれのせいか……と、そんなことを確か問うたと記憶している。 「さあねえ。だが、だとしても、俺の遺伝子が見てきたのは血の記憶だぜ」  彼の家系は、何代にも渡る由緒正しき刑務執行官であるらしい。数千数万の首を刎ねてきた血と終焉の映像が遺伝子レベルで組み込まれ、人生における刹那の輝きを愛するようになったのかもしれない。  人はいつか死ぬ。ゆえに麗しき閃光の煌きであれ。  その光こそ不変でありたい。  好意的に見れば人の儚さに対する哀悼であり、悪意的に見ればギロチンに魅せられた殺人狂の理屈だろう。どちらでもあり、どちらでもないような、あるいはどちらも正しいような……  彼は変わらず、いつもの皮肉めかした口調で言った。 「ともかく、これから慌しくなるだろうさ。俺もおまえも立ち回りには気をつけないとな」  大ドイツ帝国の最暗部に呑み込まれていくかもしれない予感。 「だから嫌なんだ、激動ってのは。おまえとこうして話してる今、そう悪くないと思ってたんだがな」  永遠の遺産と刹那を集め、それを愛で続けていたいと言った彼。 「俺は幻想になりたくないが、時の止まった不変は好きだよ」  だから、ああ、だから……もしもわたしがその幻想だと告白すれば、あなたは何と言うだろう。  不変たるものを愛しく思うあなたなら、この〈魔女〉《わたし》を愛すのか? 見限るのか?  知りたい。知りたい。言って試して確かめて、その結果を見てみたい。  そう、間違いなく思っていたのに…… 「ほんとう……あなたは変人ね」  このとき、何も言えなかったこと。流れ去っていく〈現実〉《にんげん》である彼を掴めなかったこと。 「おまえに言われたくないぞ、アンナ」  それがわたしの記憶の中、もっとも深い部分に〈澱〉《おり》として残り続けた。  刹那の永遠を求めた彼は、しょせん定命の凡夫にすぎない。その渇望がどれだけ希少であろうとも、流れ過ぎ去り消えていくのだ。  この僅か数年後、つまらないありきたりな戦場で、名もない一兵卒のまま死んだらしい。止まりたいと願っていても、彼は断崖に歩いて行かざるをえない生物なのだ。自分とは生きる時間が違う以上、さっさと先へ行ってしまう。  それが少し、本当に少しだけ悔しかった。  執行官の一族である彼は、〈魔女〉《じぶん》にとって仇敵に等しい。  そんな相手を逃がしてしまった。閃光のように去らせてしまった。  これはただ、それだけのこと。  何の意味もなく、どうでもいいはずの、だけどなぜか消せない過去の遺産。  彼が愛したという刹那を不変のものとして、胸に残し続けているルサルカ・シュヴェーゲリンの記憶だった。  耳を聾する爆発音と、ここまで流れてきた熱風に、ルサルカは眉を顰めて呟いた。 「今のはザミエル……相変わらずデタラメやるわね、あいつったら」  彼女の武器である大火砲が炸裂したに違いない。あの直撃を受けて五体満足でいられる者などいるはずがなく、それはすなわち、先行した二人が危機に瀕しているということだ。 「まあ、クリストフはなんだかんだで上手く立ち回りそうだけど、バビロンは危ないわね。あの子、鈍臭いっていうか、馬鹿だから」  エレオノーレを無駄に挑発などしていないか心配だ。〈赤騎士〉《ルベド》の業火が〈闘技場〉《ここ》まで届くようなことになれば、こちらとてただではすまない。  それというのも―― 「あなたさ、何食べたらそんな馬鹿力出せるのよ」  声には、苦痛と疲労が滲み出ていた。自らの創造位階である不動縛――影に触れた者の動きを問答無用で停止させるという能力が、相手に効いていないわけではない。  事実マキナは一歩も動けず、未だ闘技場の中央に縛り付けられている状態だ。しかし、裏を返せばただそれだけ。  本来、これは蜘蛛の巣で、縛った獲物を捕食する術は当然のように有していた。食人影の海に沈めることも、拷問器械にかけることも、何の苦もなくこれまでやってきたというのに。  かつては一個大隊をまとめて屠ったことすらある能力が、今は目の前の対象を止めているだけで精一杯とは……納得いかないにもほどがある。  結果として、極度の精神集中を余儀なくされ、ルサルカもまた動けない。喩えて言えば、膠着している綱引きの状態に近かった。 「まあ別に、ずっとこのままでもいいけどね。待ってりゃクリストフがなんとかするでしょ」 「マレウス」  と、そのときだった。 「一つ訊きたい。おまえはなぜ、こんな所にいる」 「え?」  一瞬、耳を疑った。  この男が自発的に話しかけてきたのは初めてだったし、何よりまた、その内容に驚いた。 「幻聴かしら、何だって?」 「おまえはなぜ、こんな所にいるのかと訊いている」 「なぜって……」  どうやら、聞き違いでもないらしい。なぜと言われれば、連れ込んだのはそっちだろうと返したかったが、そういう意味の問いではあるまい。 「まさか、同士討ちを煽ったのが気に入らないわけ?」 「いいや。だが少々解せん。 おまえは賢しい性分だ。欲望よりも保身に走る。ベイなら不思議なことでもないが、おまえのガラではないだろう」 「そうかしら? わたし結構、周りを弄るのが好きな性質よ?」 「今の立場も含めてか?」  淡々と追求してくるマキナの言に、ルサルカは思わず数歩退いていた。未だ緊縛の鬩ぎ合いは続いているが、会話で集中が途切れるほど柔ではない。相手もそれを狙っているわけではないだろう。  ただ純粋に、彼は疑問をぶつけている。そしてそれだけに気味が悪く、適当にいなすことも難しく―― 「ていうか、今のあなたの方がわたしにとっては驚きだったりするんだけど。 意外に喋るじゃない、マキナ卿。手足が動かないと、口だけでも回したくなる?」 「訊いているの俺だ」 「…………」 「ゾーネンキントに情が湧いた、などということも有り得まい。おまえは己の都合でしか動かん人種だ」 「分からん。何か譲れぬものでも見出したか、思い出したか……大方の見当はつくが、しかし」  瞬間、有り得ない現象がそこに起こった。 「多少の敬意を示してやった。貴様が昔のままならとうに殺していたところだ」 「な―――ッ」  一歩。まるで無造作に、ナハツェーラーに緊縛されていたマキナの足が前に動いた。それに伴い、術に亀裂が走ったことでルサルカの額から血が噴き出る。 「そんな、どうして――」  気力を総動員して緊縛を強めるが、まるでなんの効果もありはしない。一歩一歩近づいてくる歩に合わせ、肩が、腕が、脚が爆ぜる。 「俺を止める? 無駄なことだ。なぜなら最初から〈死んで〉《とまって》いる。 まして〈城〉《ここ》で、この〈毒壷〉《ばしょ》で、俺を縛るならあと二十万は魂を持ってこい。 さあ、いいのかそのままで――」 「くッ――」  振り上げられた鉄拳が落ちるのと、創造を解除したのはほぼまったくの同時だった。  大音響と共に闘技場が激震し、寸前までルサルカがいた客席は完全に消し飛んで跡形もない。もはや単純な威力だけでも、中型のミサイルを凌駕する一撃だ。  そして、この拳が持つ真の恐ろしさは別にある。  触れてはいけない。防御することも捌くことも不可能な鋼鉄の双拳。  なぜならあれは、条理を無視した〈ご都合主義〉《デウス・エクス・マキナ》――どんな武器も魔術も肉体も、あれの前では木っ端微塵に砕け散る。 「そうだ。そうした方がいい」  間一髪、破壊の一撃から逃れ出て、足元に食人影を展開したルサルカにマキナはゆっくりと向き直った。  軋むように、無造作に、それは戦車の砲台が旋回しているとしか思えない。 「安易な形成も止めておけ。自殺行為に等しい」 「そんなこと――言われなくても分かってるってば」  創造を半ば破壊されたことで、すでにルサルカは瀕死の重傷を負っていた。この上、形成した聖遺物まで砕かれたら、まず間違いなく絶命必至だ。残る手は一つしかない。 「わたし――、こんな所で死ねない!」  影を――アンナ・シュヴェーゲリンが初めて手にした地星の異能を。  これは黒円卓の法理から外れているモノ。水星ではなく、謎の影から貰った力だ。ゆえに今はこれしかない。  何百人も引きずり込んだ。何千人も溺れさせた。総てはただ一つの〈渇望〉《おもい》がゆえに。 「なんでここにいるのかって、言ったよねッ!?」  わたしは綺麗なものが好きだから。  刹那の輝きに魅せられたから。  行かないで、行かないで。地を這うわたしを置いてかないで。  残る全精力をつぎ込んで、ナハツェーラーを操作する。地を走る食人影がマキナに迫り、そのアギトに捕らえることが出来れば、それで―― 「怖かったのよ、置いて行かれるのが! 嫌なのよ、抜かされるのが!」  だから翼持つ者たちの足を引くのだ。  でないとまた置いて行かれる。誰もわたしを待ってくれない。そんなのは嫌だ。我慢できない。  夫に捨てられ、牢に入れられ、あいつに出会って追い続けて――  わたしは惨めで、一人きりで、そのまま死ぬのは辛すぎたから、今の今まで生きてきたのに――  結局、なおさら、手は誰にも届かなくなるばかり。 「わたし、歩くの遅いのよ――!」  みんな、歩くの速すぎるのよ。 「追いつけないなら止めてやろうって、そう思ったのよ――文句あるッ!?」  氷室玲愛が藤井蓮を守るため、同士討ちによる黒円卓の全滅を願うというのなら。 「わたし以外、みんな〈死ぬ〉《とまる》ように手伝っただけ!」  不死創造もスワスチカも、わたし一人で独占して。  生きて生きて生き抜いて、過去の死者も未来も生者も、残らず追いついたと自覚するまで。  自分は死ねない。死にたくない。  麗しく思われる輝きになりたいから。  刹那が愛でる〈永遠〉《キセキ》が欲しくて―― 「だからわたしは、こんなところで――」  その、魂からの絶叫に、迎え撃つ鋼鉄の黒騎士は―― 「くだらん」  ただ朴訥に、再度拳を振り下ろしただけだった。 「―――――」  同時に、影は残らず雲散霧消し、砕け散る。  もはや完全に万事休す。マキナが攻勢に転じてから、まだ十数秒しか経っていない。たったそれだけで決着した勝負であり、圧倒的なまでの格差だった。 「置いて行かれるのはいつの世も、死ぬべきときに死ねぬ者だ。 死んだ者には追いつけん。おまえの考えでは溝が余計に開くだけだ」 「…………分かってるもん。 だけど……」  結局自分は、この世界の誰とも年齢が噛み合わない。黒円卓の中にあってもそうだから、彼らの生きる速度についていけない。  愛すことも、狂うことも、何もかも――  自分のペースは遅すぎる。輝くものは皆この手をすり抜けていく。  ならばせめて、より年齢を重ねることで積み上げるしか、わたしは答えを知らなくて。  あの影を認識できるくらいになれば、あるいは、と……  でもそうすればそうするほどに、溝は開いていくばかりになって。  辛くて悲しくて寂しくて――走り抜けた〈光〉《セツナ》を掴めない。 「自死、自壊の衝動だ。おまえがそれを自覚したとき、寿命がきていたということだろう。 マレウス、おまえの行動は自殺志願者のそれと変わらない。羨ましいぞ、終わりに出来るな」  労りなど欠片も見えない突き放した言い草だったが、そこに本気の羨望がこもっていたのは間違いない。 「もう、なによ、それ……ほんとに、ムカツク」  荒い砂煙が立ち込める中、力なく座り込んだルサルカは自嘲するような嗚咽を漏らした。 「大っ嫌いよ、あんたたち……最初から、全員嫌いだったんだから」 「もういい。なんか白けちゃったし……ちょっとは頑張ったから、もういいや」 「…………」 「ねえ、ほら早くやりなさいよ」 「そうだな」  再び、破滅の拳が振り上げられる。そこに救いがあるとすれば、痛みを感じる暇もないというだけだろうが…… 「ねえマキナ、〈城〉《ここ》は幸せなところなの?」 「さてな」 「誰もわたしを置いて行かない?」 「皆がハイドリヒの混沌になるのみだ」 「そっか……うん、ならわたしはそれでも……」  いいや、と呟くルサルカに、黒い拳が落ちていく。  その間際に。 「だが、俺はこの世界の終わりを望む」  最後まで労わりの欠片も見せなかった〈死せる戦奴〉《エインフェリア》に、三百年を生きた魔女は呆れ果てて笑ってしまった。  それは何の虚飾もない、心からの微笑み。  タイプはまるで違うのに、まるで“彼”と話しているみたいだと。  もう今では永劫届かない、刹那の男を想った微笑だった。  熱風と共に粉塵と爆煙が空間内を埋め尽くす。呼吸をすれば肺が焼かれ、常人ならばいるだけで死は免れない高熱の中、場違いと言えるほど優雅に立ち昇っているのは一条の紫煙だった。  血と業火を思わせる紅蓮の長髪。焼け爛れた半顔は凄惨だが、無傷なもう半顔は怜悧な美女と言って差し支えない。  激情と冷徹。醜貌と美貌。相反する炎と氷を同居させた〈半人半魔〉《ツェンタゥア》が、絶対零度の灼熱を放射しながら呟いた。 「聞き間違いかな。何やら戯けた密談が、私の耳に入ったのだが。 分際を弁えぬ間抜けが二人、我が君を愚弄していたように思うのは気のせいか」  〈城〉《ここ》は彼らにとっても自身そのもの。ゆえに密談など不可能であり、総て筒抜けになっていると言っていい。  紫煙を燻らせながら目を細め、エレオノーレは二人の客を眇め見た。 「クリストフ」  先の火炎から連れを守り、盾となって立ちはだかっているヴァレリア・トリファ。 「ブレンナー」  その背後に立ちながら、強い眼光で睨み返してくるリザ・ブレンナー。  共に揺るぎない覚悟を持って、彼らは黄金の近衛である紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》と相対している。  だがそれを、出来の悪い茶番だとでも言わんばかりにエレオノーレは失笑で迎えた。 「まあ、なんでも構わんさ。貴様らがどういう狂気に侵されたかなど、正直知ったことではない。 私はただ、近衛として、主に刃向かう〈奸賊輩〉《かんぞくばら》を誅戮するのみだろう。 来いよ、見苦しい恥知らずども。誓いの聖痕を受けながら、黄金の偉大さも理解もできん屑めらが。 貴様らのような癌は放置できん。後腐れなく、切除してくれる」  苛烈な台詞とは裏腹に、口調は優しげでさえあった。事実、彼女は喜んでいるのだろう。  愛も殺意も友情も、敬意も敵意も総て等価に――永劫の殺し合いに生きるエインフェリアであるがゆえ、殺人は彼女にとって友を抱擁する行為に等しい。  その膨れ上がる熱波の奔流。内に渦巻く膨大な魂。先のマキナとまったく同じく、これは打倒できるような存在ではない。黒円卓の大隊長は、皆が分かたれた黄金の一部なのだ。  ゆえにどう斃すかではなく、どう出し抜くか。  どのように気を逸らし、どのように足止めするか。  トリファとリザはそこに執心するべきだろうが、エレオノーレには隙がない。近衛三人の戦鬼中、もっとも難攻不落なのは彼女であろう。  マキナのような個人主義者でも、シュライバーのような狂人でもないのだ。  主への忠誠は鉄より固く、遊びも情も暴走もない。  だから付け込むべき点があるとすれば、その滅私。何よりもラインハルトを優先するという直線的な思考だろう。  が…… 「これは少々、厳しいですね。余計なことを言うものではなかった。 今の私は、あなたにとって代行ですらないということですか」 「鍍金の剥げ落ちた貴様ならばな」  当然だと言わんばかりのエレオノーレ。リザは、そこで異常に気付いた。 「あなた……」  トリファの顔に、そして手に、比喩ではなく亀裂が走り始めている。それが何を意味しているのか、この場の全員が分かっていた。 「もはや貴様に玉体は御せん。失せろよ。本来の矮小な〈身体〉《うつわ》にな」  パチンと指を弾く音。侮蔑を露にしたそれと同時に――  瞬間、彼は粉々に砕けていた。 「――――――」  拒絶反応――そう表現するべきだろう。エレオノーレの攻撃を受ける前に、トリファは限界を迎えていたのだ。内側から彼の魂が弾き出され、僧衣も吹き飛んだ抜け殻がそこにある。  それを前にしたときの、リザとエレオノーレの反応は奇妙だった。  後者は恭しく拝礼して、男の裸身から目を逸らし――  前者は己が罪でも見るように、嫌悪と後悔の表情を浮かべていた。  その静寂は、しかしほんの数秒で。 「それが貴様の本音か」  城の床に、男の身体が沈んで消える。二人きりとなったホールの中で、エレオノーレは呟いた。  そこに混ざった感情は、なんと言い表せばいいのだろう。 「貴様にとって、あれは汚点か」  嘆くような、憤るような、羨むような、恐れるような……  理解できない者への諸々。  エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは、リザ・ブレンナーを認めてやることが終生出来ない。不可能なのだと、瞳に渦巻く魔性の焔が言っている。 「聞こえていたのね。 私が、彼の問いに何て答えたか」 “結局父親は誰だったのです?”  トリファが投げたその問いに、リザがどう返答したか……声を掻き消すように火炎を放った一方で、エレオノーレも真実を欲していたのかもしれない。 「そんなに憎い?」  だから立ち上がって、語りかける。 「そんなに許せない?」  ヴァレリア・トリファは死んでいない。〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈引〉《 、》〈き〉《 、》〈剥〉《 、》〈が〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。  しかしこの場を退場させられたことに違いはなく、リザが〈赤騎士〉《ルベド》の前に単独で放り出された事実は変わらない。客観的に見るまでもなく、まさしく絶望的としか言いようのない状況だろう。  だが―― 「私が、彼の死体を操ったのが」  リザの掌中に、仮面が形を成していく。  そこに死臭が凝縮されて膨れ上がり―― 「ええ、確かに私は淫婦よ。最悪の」  瞬間、巨躯の怪人が出現した。 「だけどあなたに、文句を言われる覚えはない!」  リザに絶望の色はない。勝機云々の問題ではなく、退けない意地があったのだ。 「汚いとか、卑怯とか、女としてどうだとか――あなたに何を言う資格があるのよ、エレオノーレ!」  轟音と共に床を蹴り上げ、屍兵がエレオノーレに吶喊した。巨体からは想像もできないほど速く――迅雷としか言いようのない鋭さで肉迫する。  そして、それに劣らぬ風刃のごときリザの声が空を裂いた。 「誠実じゃない? 出し抜いた? 笑わせないでよ、女の戦場に立ったことすらないくせに。 あなたの感情なんて嫉妬ですらない! それを懐く前提条件――気持ちの形すら掴めていない分際で。 私に何かを言おうなんて、六十年以上遅いのよ!」  猛る紫電の奔流と共に、刃渡り三メートルを超える巨大鉄塊が振り下ろされる。だがそれを前にして、エレオノーレは…… 「そうだな」  一歩も動かず、超重の一撃を無防備のまま受け止めていた。 「私は女の感情など知らん。複雑怪奇で理不尽で、正否も計れぬ壊れた代物。自己中心的な都合を正当化するためだけに振り回す、狂った武器など知りたくもないし持ちたいとも思わんよ。 そうした意味で、私が貴様の戦場に立っておらぬと言うならそうなのだろうさ。理解など出来んからな」  彼女は一切動じずに、屍兵の剣を肩口に受けて苦鳴ひとつ漏らさない。足元の床が陥没するほどの衝撃を、小枝の一撃でもあるかのように流している。  その目が、僅かに細まった。 「さしずめ“これ”も、貴様の言う戦場とやらに身を投じた馬鹿者か?」 「……ええ、そういうことになるんでしょうね」  打ち込まれた刀身は帯電しており、今も激しく瞬いている。その意味するところは何なのか、彼女ら二人は理解していた。  ゆえにここで、無駄に言及するようなことでもない。 「では、こうだ」 「―――――ッ」  一瞬、ほんの一挙動。エレオノーレが葉巻を揺らし、飛んだ火種が巨人に触れたというだけにすぎない。  たった本当にそれだけで、屍兵の巨躯は紅蓮の炎に包まれていた。 「火葬してやろう。見るに耐えん」  もはや滑稽なほどの実力差だ。噴き上がる灼熱に跡形もなく消滅していく巨人と同様、リザの身体も焼けていく。発火の瞬間、彼女は咄嗟に自己の聖遺物を消していたが、しかし無傷ですむはずがない。  全身に焼痕を負いながら呻くリザに、エレオノーレは淡々と言葉を継いだ。 「自ら破滅へ向かいながら、断崖があるから悪いなどと抜かすなよ。 貴様らの言う戦場とやらは、〈炮烙〉《ほうらく》の上と変わらない。焼けた銅柱に立って踊り、焼死も墜落死も嫌だと言う。飛翔できぬことを理不尽だと言う。 黄金に救いを求めた。ならば〈代価〉《たましい》を支払えよ。貴様らは盗人だ。焼かれる業がありながら、火を恐れている戯けにすぎん。 そしてそんな痴れ者に、翼が生えることなど起こり得ん」  一度ラインハルト・ハイドリヒに跪いておきながら。  その力に魅せられ、焦がれ、数多の屍を積み上げながら。 「ハイドリヒ卿を斃す? その恵みを文字通り掠め取り、あまつさえ汚点に思っているような貴様がか? 笑わせるなよブレンナー。私は心底、貴様のことが気に入らん!」  事情も、理屈も、心情も、何一つとして認めない。エレオノーレは静かに、だが確実に激昂していた。 「なぜそこまで恥知らずになれる」  なぜそこまで筋というものに囚われないのだ。 「物事には原因と結果がある。貴様の過去に、〈現在〉《いま》が答えを出したのだ。積み上げた屍は献上するのが道理だろう。 すでに一度、同じことに手を染めた身で――」  言いながら、エレオノーレの背後に無数の銃口が出現した。槍衾のようなその切っ先に晒されながらも、しかしリザは恐れていない。  ただひっそりと、溜息を吐くように言っただけだ。 「イザークのように?」  かつてこの城の核として、黄金に捧げた実の息子。  後に奇跡を手にするため、生贄にした実の息子。 「あの子は私を、ずっと恨んでいるのかしら」  向けられた銃口など意にも介さず、リザは天井を見上げて呟いた。  今やヴァルハラの心臓と化している自分の息子は、母を恨んでいるのだろうかと。 「私はあの子が怖かった。その目を正面から見られなかった。自分の罪を叩きつけられているように思うのよ。 だから、ええ、切り捨てたわ。あれは私の業で、汚点で、向き合えない弱さそのものだったから。 あまりにも、似すぎていたから」 「…………」  独白に、エレオノーレは眉を顰めるだけで何も言わない。不愉快な主張だし、著しく彼女の美感に抵触する戯言だったが、即座に黙らせることがなぜか出来ない。  その不確かな感覚が自分自身理解できず、より一層眉間の縦皺が深くなるだけ。苛立ちのみが増していく。  だから、意図して無理矢理に口を開いた。 「彼は……他者を恨むなどという感情を持っておるまい」  イザーク=アイン・ゾーネンキントは何も持たない。それが構築される土壌すらないのだから、当然の帰結だろう。  そして、彼をそうしたのは誰あろう、他ならぬリザだ。 「悲哀憎悔。そうしたものは、何かを奪われなければ発生しない。貴様は彼に、何か一つでも与えたか?」 「いいえ」  そうだ、何も与えなかった。何も構築させなかった。奪われるべきものが何もなかった〈私生児〉《バスタルト》に、無くして生じる負の感情など生まれ得ない。 「だからあの子は、全部呑み込もうとしているのね」  何も無いから。何も持っていないから何かが欲しい。  その定義を見出すために、天国も地獄も神も悪魔も、森羅万象、三千大千世界の悉くを―― 「我が愛とは、破壊の業」  目を細めて過去とその言葉を回想し、リザは疲れたような苦笑を漏らした。 「何のことはない。結局私が、私自身が、あの子を父親と同じにしたのよ。怪物を産んだんじゃない。怪物にしてしまった……それを、今になって気付いたのよ」 「だから、ねえエレオノーレ、私はあの子達を救いたいと願う。初志とは逸脱しすぎてるけど、これが今の私の本音なの。 あなたの美感に照らし合わせて、やっぱり私は醜いのかしら」 「そうだな」  同時に、銃口の一つが火を噴いた。 「貴様の論理は塵のそれだ。重荷ゆえに捨てた事実を棚上げし、今更になって母親面か。私は女でないかもしれんが、貴様が腐っていることだけはよく分かる」 「世の女、世の母たる者、己がその代表者であるかのごとき主張、言動、厚顔無恥極まりない。侮辱であり愚弄であろうよ。貴様こそが女の敵というやつだ。端的に言おう、ブレンナー。〈毒婦〉《バビロン》は下種だ。 世を腐らせる悪徳の芽しか生まん」  続いて一発、二発、三発、四発……弾丸がリザの肩を、胸を、腹を抉る。彼女は無抵抗で受け続ける。 「醜い。醜いよブレンナー。貴様殉教する聖女にでもなったつもりか? 苦痛を快楽にすり替えているのだろう。 ならばこそ楽には死なせん。肉の一片すら残さず無にしてやろう。削り殺してやる。 己が罪業を悔いると言うなら、泣き喚いて絶望しろよ。それこそが子供たちへの〈鎮魂歌〉《レクイエム》だ。自己満足の偽善など反吐が出る」  徐々に、そして段々と、発砲の数と速度が上がっていく。エレオノーレの口上が終わった頃には、もはや鉛の豪雨に等しかった。 「……そうね、確かにあなたの言う通り」  だが、それでもリザは倒れない。いやそれどころか、僅かずつだが進んで……いる? 「私が女として最低の部類なのは自覚している。 偽善者なのも、自業自得なのも、それを棚上げしているのも……」 「ええ、本当に、何処の女性からどう言われても、言い訳なんか出来ないわよ。私が全部悪いのだから」  もはやズタズタの血袋同然の身でありながら、それでもリザの声音は明晰だった。舌も歯も声帯も、すでに原型を留めていないはずなのに……  一歩、そしてまた一歩、前に出てくる足らしきもの。  近づいてくる声らしきもの。  硝煙の帳と機銃掃射に伴う轟音の中、エレオノーレにはそれが見えた。それが聞こえた。  不可解――不可解すぎて不気味極まる。彼女の常識でこの現象を説明できない。 「逃げないでよ」 「――――――」  だから、今この瞬間、自分が後退しかけていたという事実をエレオノーレは気付かされ。 「おのれ屑めがァッ!」  怒号と共に放たれたのは、銃弾ではなく砲弾だった。  迫り来る弾頭。身を焦がす灼熱。ああ、これはさすがに死ぬなと思いながらも、リザは知らずに苦笑していた。  本当、この相手とは昔から、徹底的に噛み合わない。六十年ぶりの再会すら、こんな展開にしかならないのだ。笑ってしまうしかないだろう。  いつも争っていた。いつも競っていた。〈BDM〉《ユーゲント》に所属していた時分は特に、それこそどちらが早起きできるかなんてことまでも……  子供っぽくて、実際子供で、だからこそ輝いていた遠い日々を追想すれば、いつでもそこにあなたがいる。ねえ、それはそっちも同じでしょう?  腹立たしいわよね、エレオノーレ。記憶に出てくる登場人物、その割合がお互いとても偏ってるから。  もうその顔は見飽きた。もうおまえは何処かに行け。私もあなたもそんな風に思いながら、未だに無視できないのはなぜかしら? こんな所でこんなことを、うんざりしつつも飽きずにやっているのはなぜかしら?  嫌になるほど争ったのに。  呆れ返るほど競ったのに。  いつまでもいつまでも止められないまま、人生が様変わりするまでいってもまだ足りない。  あなたは私を許せなくて、私はあなたに負けたくないから。  このいい加減に頑固すぎる女二人、止められないのは、いったい何が原因だと思う?  どっちが女性の代表かなんてどうでもいい。国を捨てた今現在の私達が、票なんか集めてもしょうがないでしょう。  だからこれは、思うにやり残したことなのでは、と。  みっともなくも齢を重ねて、時間だけは無駄に経て、こんなヴァルハラまで走り続けてきた結果――  きっとその遥か背後に、忘れ物があったから取り戻そうと足掻いている。  ねえ、そうだと思わない、エレオノーレ。 「汚らわしい――!」  削り殺すと宣言した。絶望の声を上げさせてやると言ったのだ。  エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは己の決定を曲げたことなど一度もなく、言葉にすればどんなことでも実行してきたという自負がある。  しかしこれは、この様は、私の矜持は何処に行った?  なぜパンツァーファウストを発射した?  なぜ瞬時に破壊しようと思ったのだ?  そうしなければ危ないとでも?  そうしなければ自分が壊されていたとでも?  いいや、馬鹿な。有り得ぬ夢想。逆転など天地が入れ替わっても起こり得ないと分かっている。  しかし――だがしかし腹立たしいのだ。言葉に出来ぬ敗北感を覚えるのだ。  幾度も争い、幾度もぶつかり、もはや面倒だどうでもいいと、なぜそう片付けてしまえない? 餓鬼の背比べでもあるまいに、意地の張り合いなら数え切れぬほどやってきている。  もう飽いているはず。もう白けているはず。  だというのにこれほど些細な、くだらぬ齟齬を無視できない。  おのれ不愉快だよブレンナー。やはり私はどうしても、貴様が癪に障るらしい。  なあ、これはどうしてだろうな。  きっと私達は子供の頃、若いからこそ出来る争いをやらなかった。  何十回も何百回も、何千回も喧嘩をして、なのにそれだけはすっぽり抜け落ちていたと気付いたの。  だって玲愛がね、あまりにも可愛いから。  とても女の子だったから。  私達に足りなかったのはそれなんだろうって、思い知らされちゃったのよ。  私の青春はあなたとの青春――  だから、ほら分かるでしょう? やった記憶のないことが。  ありきたりで、当たり前で、女同士の華とも言えるようなことなのに――  それをやらなかったものだから、私達はずっと馬鹿な小娘のまま、女にも母親にもなれなかった。  ゆえに――今、リザ・ブレンナーは母親になりたいと強く願う。  玲愛を、イザークを、そして私の胸にいる子供達を……  抱いてあげるには、ねえエレオノーレ。  あなたとちゃんと、しっかり喧嘩しなければいけないと思うから、お願い。  どうか、あと、まだもう少し、この穢れた身体よ――崩れないで。  そして、百の砲弾が破裂を起こした、まさに瞬間。  祈りは、はたして届いたのか。  銃声でも砲声でもない、乾いた音が周囲に響いた。  これまで連続していた鉄火の調べに比べれば、あまりにも小さすぎる一瞬の異音。  エレオノーレはその正体を計りかね、そして同時に頬へ伝わる痺れの感覚が分からなかった。  自分は今、いったい何をされたのだ? 「言ったでしょう、エレオノーレ。あなたにだけは、とやかく言われる覚えなんかないのよ。 女の戦場に、上がってすらいないあなたにだけは……」 「…………」  帳の中から現れたリザが放った張り手の一発……それがエレオノーレの頬を弾いていた。 「結局あなたとは一回も、ちゃんと喧嘩ができなかった。 あなたはいつも、逃げてばっかり……」  先の集中砲火は全弾命中。リザは躱していないし防御もしていない。  ただ、単純に耐えたのだ。致命傷を受けながら、消し飛ぶ肉体を意志の力で繋ぎ止め、絶命を数瞬の先へと遅らせた。  断じて、その行為は軽くない。理屈を超えた所業であり、奇跡と言って差し支えない領域だろう。ゆえにエレオノーレには理解できず、たかが張り手をまともに受けた。  強いてこの現象を説明するなら女の執念。自ら然に非ずと言った〈赤騎士〉《ルベド》には、なるほど条理の埒外にある法則だろう。 「あなたの本音は、一度も見てない。 外面を取り繕って格好つけて、非の打ち所がない正論だけを武装している馬鹿…… その下に隠れた本当のあなたは、ただの臆病者よ、エレオノーレ」  リザ・ブレンナーは醜い。リザ・ブレンナーは倫理にもとる。ああ確かにその通りだが、それに対する憤りを歪めて発している輩に言われたくはない。 「私のことが嫌いなら、ちゃんと嫌いな理由に真っ直ぐでいなさいよ」 「社会がどうとか、国家がどうとか、もっともらしい理屈をつけて、いつも逃げてる。隠れてる。 好きな男を取られたのが悔しい。要はそれだけなんでしょう?」  エレオノーレは答えない。彼女が何を思っているかは窺い知れない。  ただリザの指摘に対し、特に反論もせず黙っていること。  それが同輩の最期へ捧げる情けなのか。  呆れて絶句しているだけなのか。  もしくは返す言葉を持たないのか……  分かっているのは、この場で否定していないというだけである。  ついに力尽きたリザの身体が、エレオノーレの胸に沈んだ。 「私たちの青春は、碌なものじゃなかったけれど……もしもそんな理由で喧嘩ができれば、ねえ、素敵だったと思わない?」 「勝手な話だ」  突き放すように、それでいて何処か苦笑気味な声が流れる。 「貴様も、キルヒアイゼンも、そういうところが気に食わん。自分がそうだからといって、周りも同じだと信じて疑わないところがな」 「ああ、だから女は嫌いなんだ。それしか頭にないらしい。 貴様らの脳内では、男に抱かれない女は惨めな敗者ということにでもなっているのだろう? 人生など、人の数だけあるというのに」 「じゃあ、抱かれたいと思ったことは?」 「あるさ」  問いに、エレオノーレは即答した。 「むしろ常に思っている。だが私のそれは、貴様らの言う甘温いものではない」 「欲しいのは温もりでなく、炎。私を焦がす輝きに、永劫焼かれていたいだけだ」 「また情熱的な、告白だこと」 「好きに勘繰れ。何とでも言わせてやる。 貴様は下種だが、その意地とやらに不覚を取った。 ならば敬意を払うことに〈否〉《いや》はない。 眠るがいいブレンナー。私と喧嘩がしたいのなら、以後いくらでも出来る」 「〈城〉《ここ》にハイドリヒ卿がおわす限りな」  その、送別を告げる彼女の台詞に…… 「だから、残念、だっていうのよ」  リザは淡く微笑み、そう返していた。 「ああ、ごめんなさい。やっと抱いてあげられるわね、イザーク。 私がいってあげるから、どうか玲愛を……」  消え行く声と共に魔城が震える。それはまるで揺り篭の中、母の子守唄を聞く赤子そのものを思わせていた。 「……母様」  弾ける魂の声を聞き、彼はゆっくりと〈首〉《こうべ》を巡らす。  実際に身体を動かしているわけではないし、そもそも彼はそんなものを持っていない。  あくまでも、この混沌に渦巻く総体の一。  大海の一滴が彼であり、同時に心臓という名の歯車が彼だった。 「今、母様が溶けた」  ゆえによく分かる。彼が管理する海の上に、新たな雫が落ちたこと……生じた波紋が起きた総てを教えてくれる。  ああ、そうか。――と、魔城の核たるイザークは、増加した分の〈水滴〉《たましい》を新たな建材として城の一部に組み込んでいった。  別段、他には何も感じない。  彼はそういうものであり、この海に落ちた〈魂〉《モノ》をこの海の範に則り扱うだけだ。  やがて溢れ、流れ〈出〉《いず》り、総てを呑み込むその日まで。  この海を、この城を、維持し続けることが彼の歯車としての意義なのである。  だからこそ、いま呑み込んだものが母であると理解しながら、彼は何も感じていない。  歓喜はなく、悲哀もなく、憎悪や憤怒や〈寂寥感〉《せきりょうかん》……飽きるということすらまったくなく、ただ茫漠とした意識が波紋で揺らいだ。単にそれだけのことなのだ。  彼は総てを愛している。  ゆえに総てを呑み込んでいく。  産まれたばかりの乳飲み子も、鬼畜と呼ばれる罪人も、皆このヴェルトールに渦巻く混沌。なんら一切の差別はない。  その在り方が、黄金の寵児として生を受けたゾーネンキントの証だから。  そう、いつもなら。  今までの彼ならばそれで終わる……はずだったのだが。 「……何だ?」  微かな違和感。歯車である彼は淀みなく回転し、その役目を文字通り機械的に遂行したが、そこで些細な異変に気付く。 「泣き声?」  あるいは叫び声? 〈歯車〉《イザーク》が淀みなく回った結果、そういう軋みが生じたのだ。  歯車の回転は稼動音を伴う。だから当然であり問題ないと、断ずることは出来ないだろう。それはあくまで、普遍的な理においてのみ言える常識なのだ。  ここで、彼が管理する海の中で、そういったものは通用しない。  歯車同士が噛み合い、奏でるメロディは、極論してしまえば擦過音だ。ぶつかり合って削り合い、磨耗していく悲鳴である。  ゆえに歯車には耐久年数があり、交換やメンテナンスが必須となる。  音を立てる部品は永久不変になれない。  であれば、いったい何が生じた?  断言して、イザークに変化はない。彼は何も感じていない。  にも関わらず磨耗が起きた。それはすなわち、彼以外の誰かが泣いたということだろう。  ならば…… 「そうか……」  ここでようやく思い出した。リザと同様、何の感慨もなく飲み込んだので忘れていたが、今は歯車が二つあるのだ。 「母様の死に、おまえは泣くのか、テレジア」  魔城が揺れる。己の仕事であり存在意義である聖務に不穏な影を落とされ、イザーク=アイン・ゾーネンキントはどうするべきか考えた。 「おまえがそのまま泣き続ければ、いずれ私たちは削れて消える」  それでは永久不変の歯車になれない。  黄金より賜ったこの任を全うできない。 「要らぬ何かを持っているのか」  自分にない何かをこの娘は持っているのか。 「私は母様を知らぬ」  だがおまえは、母様を知っているのか。 「ゆえに泣くのか」  ゆえに私を削るのか。 「いいだろう。ならばその愛、この私が呑み込んでやる」  同時に、イザークは目を開いた。  その瞳は黄金に輝き、総てを見通すようでいて、しかし何も見ていない。  彼の目が捉える諸々は、聖も邪も美も醜も、悉く木石と同じ。  リザ・ブレンナーが終生恐れ、直視できなかった魔眼がそこにある。  この目が――この目があったからこそ、彼はこういうものになったのだ。  他に生きる道を与えられなかったのだ。  それを恨む激情も、それを嘆く感性も、一片たりとも持ち合わせない。  だからこそ、今イザークは禁断の果実を食そうとしている。  その味を知ろうとしている。  同じゾーネンキント。違いがあってはならない。 「おまえも、私と同じにしてやろう。 いや……そもそも……」  言葉に混じった微かな揺らぎは何だったのか。  あるいは嘲弄……だったのかもしれない。  彼は総てを愛している。  ゆえに総てを呑み込んでいく。  産まれたばかりの乳飲み子も、鬼畜と呼ばれる罪人も、皆このヴェルトールに渦巻く混沌。なんら一切の差別はない。  はずなのに…… 「私が憎いの……?」  たった今、魔城に溶けたリザ・ブレンナー。壮烈とさえ言える彼女の母性が起こした波紋と、それを与えられてきた氷室玲愛に対する認識が、もしもそういうものだとした場合……  その在り方は、黄金の寵児として生を受けたゾーネンキントとして不完全。 「地獄を知れ、テレジア」  ほんの微か、僅かな軋みにより生じた磨耗。  たった一度のそれだけで、初代の〈歯車〉《ゾーネンキント》は狂いだした。  ではまず、地獄というものの定義について考えるがいい。  罪人が死後に落とされる阿鼻と叫喚の世界。雑把に言えばそういうものになるのだろうが、ならば阿鼻と叫喚とは何なのか。  単純に身体的な苦痛。すなわち針の山なり炎の海なり、あるいは氷の谷なりと、想像力に欠ける者でも五つ六つは即座に浮かんでくるだろうし、おそらくその認識で間違いない。  要は、無限に死に続ける場所を地獄と言う。  それが罪に対する罰であるとするならば、大多数の者にとって歓迎しかねる場を揃えるのは、なるほど至極当然と言えるはずだ。  しかし善悪の定義は時と場所で形を変えるし、法など更に当てにならない。  針の山に落ちる者、炎の海に沈む者、そして氷の谷を彷徨う者……彼らはいったい何を基準に、そこへ導かれているのだろう。  もったいぶるつもりはない。結論を言う。選んでいるのはおまえ達だ。  あれは良い、これは悪いと、城の創造主である黄金は選り分けていない。  この城において、何処に行くかというのは個人の自由だ。  各々、自分に似通った仲間を作り、共同体として固まっていき、結果としてそれが場を形成していくというだけのこと。  おまえ達自らが創るのだ。己に相応しい阿鼻叫喚を。  そこではそれぞれ、死に至った原因によってお互いを拘束し合う。  どういう体たらくだったから死ぬ羽目なったのか。  好戦的すぎたためか、消極的すぎたためか、それとも運が悪すぎたのか。  似たような者らが集まって、似たような死に方しか出来なくなるのだ。  互いの業が絡み合って増幅され、その場における一つの法則と化していく。  つまり、焼け死んだ者らは焼け死に続けるということだ。  同病相哀れみながら、殺し合い続けているということだ。  彼らに自覚が有ろうが無かろうが、その在り方は紛れもない修羅道だろう。  そこから頭一つ抜け出た者、個々の共同体において己以外を殺戮し尽し、存在自体が一つの地獄と化した者らに〈英雄〉《エインフェリア》の号が冠される。  この〈城〉《せかい》は、そうした創りになっているのだ。  ゆえにテレジア、おまえもその理に則るがいい。  ぱちん、と手を叩く音。それと同時に―― 「では地獄巡りを始めよう。La Divina Commedia」 「―――――――」  落ちるような感覚に驚いて、玲愛は目を覚ましていた。 「……ぁ」  呻いて、そのまま周囲を見回す。  記憶が飛んでいる、などということはなかったし、現状に至る経緯も把握してはいるものの、それでも理解しかねたのだ。  ここは、なんだ……? 「お花……畑…?」  地獄を巡り、地獄を知れと言われたからには、凄惨な責め苦や光景を味わわされると思っていたが、ここにそんなものはない。  春の陽気と花の香りを、優しい微風が運んでくる。髪をくすぐるその柔らかさに玲愛は当惑を覚えていた。  感覚は気のせいじゃない。  座り込んだ花畑には植物特有の瑞々しさを感じるし、その下にある土の温かさも感じ取れる。  ここが城の一角であることは間違いないのだろうけれど、これが地獄か? むしろ天国と言ったほうがいいのではないか? 「…………」  イザークの声も思念も伝わってこない。傍観しているのか、感覚を切り離されたのか……分からないが、いま彼は近くにいないようである。  しばらくそのまま呆けていたが、玲愛はやがて立ち上がった。  ともかく、ここのことをよく知らなければいけない。座り込んでいても得るものはないのだ。  花嵐とも言うべき薄桃色の風の中、玲愛は地獄と呼ばれた楽園の中を歩き始めた。  イザークの言っていたこと――正確には言葉で聞かされたものではないが、その情報について整理してみる。  選ぶのはおまえ達。  この城において何処に行くのか――つまりどの獄舎に堕ちるかは、個人の自由だと言っていた。  つまりそれは、ある種の引力が存在するということだろう。  似た者同士が寄り集まり、〈一族〉《クラン》、あるいは〈群体〉《コミューン》か……とにかくそうしたものを創るのだ。  どのような理由で死に至ったのか。どのような魂を持っているのか。  各々の業に則り、その引力によって同類が集まる場所へと招き寄せられる。  では、いま自分が見ているこの世界は、自分に相応しい自分の地獄だという意味なのか。ここに同類達が溢れていると?  実感は、ない。  ないが、仮にそうだとするなら、ここはどういう死者の国だ?  玲愛は自分がまだ死んでいないことを自覚しているし、同類という存在をいまいち定義できていない。  別に自分が世のオンリーワンなどとは思っていないが、氷室玲愛と死の因果が重なる存在とは、いったいどんな者たちなのか。 「どういう、死……?」  どういう〈死生観〉《メメント・モリ》?  分からないまま花畑を歩くうち、玲愛の耳に響いてきたものがある。  それは…… 「O Tannenbaum, O Tannenbaum Wie treu sind deine Blätter Du grünst nicht nur zur Sommerzeit Nein auch im Winter wenn es schneit O Tannenbaum, O Tannenbaum, Wie grün sind deine Blätter! 」 「歌……?」  舞う花弁の向こう側、子供達が微笑みながら、異国の歌を歌っていた。  皆で十人ほどの数だろうか。男の子も女の子も同じくらいの年頃で、笑いさざめき合う様子からも非常に仲良しであろうことが見て取れる。  裕福な生まれというわけでもなさそうだったが、粗末な衣服はつぎはぎで補修されていたし清潔だ。貧しいなりにも愛情を注がれている子供らなのだと、何の疑いもなく理解できる。 「O Tannenbaum, O Tannenbaum,」 「Du kannst mir sehr gefallen!」  だって、彼らに嘆きは見られない。今が幸せでない者は、こんな楽しそうに歌わない。 「Wie oft hat schon zur Winterszeit」 「Ein Baum von dir mich hoch erfreut!」  彼らは何者なのだろう。なぜこんな所に、いつからこうしているのだろう。  少なくとも昨日今日では有り得まい。  それが分からず……いや、分かってはいけないような気がしてきて…… 「O Tannenbaum, O Tannenbaum」 「Du kannst mir sehr gefallen!」  玲愛は茫と立ちつくしたまま、子供たちの歌を聞き続けていた。  彼らが歌い終わるまで、動く気にも喋る気にもなれなかったのだ。  だから…… 「やあいらっしゃい。よく来たね」 「――――――」  不意の呼びかけに驚き、硬直する。 「ここにお客が来るのは久しぶりだ。歓迎するよ」 「え、ぁ……その……」  咄嗟に言葉が出てこない。どう反応していいか分からない。 「あなた、は……?」 「アンナっていうのさ。この子らの、まあ、遊び相手みたいなものかな」  いつの間にか、子供たちの中に見知らぬ少女が現れていた。  年齢は、玲愛より幾つか下に見える。他の子らよりは年長で、その頭を撫でたり手を握ったりしている様子から、彼女がお姉さん代わりということだろう。  一人だけ高級そうなドレス姿なので浮いているが、それはいい。それは別に構わない。  そんなことより…… 「あなた、いつから……?」 「最初からいたけどね。見えなかったのかい?」  そう、玲愛は今の今までこの少女の存在に気付かなかった。  歌に聞き惚れていたのは事実だし、茫としていたのも認めよう。だけどこんなに目立つ存在を、見落としていたなんて考えられない。 「波長がちょっとずれてるのかな。あるいはここに、わたしを入れたくなかったのかな。 まあ何にせよ、今はこうして見えるし話せる。だったらそれでいいじゃないか。細かいことは抜きにしよう。 改めまして、いらっしゃい。君に会えて、この子たちも喜んでいるよ」  言って、アンナと名乗った少女は微笑する。こうして見ると、ずいぶん整った容姿の持ち主だ。  透けるような白い肌に、色素の薄い銀の長髪がよく映えている。右目が包帯に覆われているのが痛々しいが、無事な左目は〈青金石〉《ラピスラズリ》を思わせるほど澄んで青い。まるで高級なピクスドールが、命を持って動きだしたような印象だ。 「…………」  しかし、なぜだろう。それでいながら、玲愛がこの少女に懐いた思いはまったく別のものだった。  人形のような少女。美しくて愛されるだろう少女。微笑は魅力的で陰りなどなく、ショーウィンドゥに飾られれば誰もが足を止めるに違いない。  そう、彼女はまるで、商品のようだった。生きた人間であるはずなのに、値札を貼られて店先に並ぶ玩具に見えた。  玲愛にはこの少女が人間に見えない。  人間として生きてきた存在に見えない。  そう感じるのは、気のせいだろうか。 「ねえ、ねえ、早く行こうよぉ」 「わたしも、早く会いたいよぉ」 「ああ、そうだったね。ごめんごめん。忘れていたわけじゃないんだけどね」  だが、そんな玲愛の気持ちを他所に、子供たちは口々に何かをせっついている様子だった。小さい手足をぱたぱた振って、何処かに行こうと言っている。 「来るんだよね、あの人」 「うん。ていうかもう、来てるんじゃないかな」 「きっと来てるよ」 「じゃあ、また会えるの?」 「嘘ついたら、めーだよ」 「嘘じゃないって。じゃあほら、行こうか」 「わーい」 「君もおいでよ、一緒にどうだい?」  白い少女が手を伸ばす。満面の笑みで、無邪気な声で、楽しいことがあるから是非おいでと誘ってくる。  玲愛はそれに、なぜか妙な違和感があって……  咄嗟の受け答えが出来なくて…… 「お姉ちゃんも行くのっ」 「あ……」  焦れた子供の一人に引っ張られ、その集団に飲み込まれる羽目となってしまった。 「誰に……」  何に会いに行くんだ? 手を引いているのはあくまで子供の腕力なのに、なぜかまったく振り払えない。踏ん張ることも出来ていない。  いやそもそも、抵抗しようという気が自分にあるのか? それすらどうも疑わしい。  気付けば玲愛は、手を引いている子供と同じ目線になっていた。身体がいつの間にか幼児の頃に戻っている。 「………っ」  そして、そんな玲愛の困惑を無視したまま、歩き続ける子供たちは歌っていた。まるで平和な午後のピクニックを、無邪気に楽しんでいるだけのように…… 「待って、離して、お願い、ちょっと……」  抗おうとするが抗えない。 「私、嫌だ……こんな、行きたくない」  どうしてそう思うのか、何が嫌なのかも分からない。 「この先に、行って、いったい……」  そこには、何が待っている? 「ああ、無理だ。諦めなよ」  傍らの白い少女が肩をすくめて、子供になった玲愛を見下ろしていた。 「ここはそういう〈領域〉《クラン》なんだ。君はそこに落ちた以上、ここの決まりには逆らえない。 総体の意志というものがあるからね。まあぶっちゃけて言えば、ここにいる時点でこれは君の業でもあるんだよ」  イザークが言っていたこと。地獄を巡れ。地獄を知れ。似た者同士が寄り集まって、同じ死を共有しながら互いが互いを殺し続ける。 「じゃあ……」  この花嵐……薄桃色の地獄を構成している業とは何だ?  玲愛の問いに、少女は隻眼を亀裂のように細めて言った。  吐き気が、喉から込み上げてくる。  その答えは―― 「親に殺される――だよ」  それが、ここを決定している世界のカタチなのだった。 「とある男の話をしよう。 そいつは生まれつき目と耳がおかしくて、周りの人間と五感を共有できないことに嘆いていた。 人間が本に見える。木や石がラジオに感じる。有り体に言えば、彼は何でも分かってしまう男だったわけだ」 「そういうの、見ようによっては便利そうだが、真面目な話苦痛だろう。 世の中、知らないほうがいいことなんて山ほどある。 なあ、君だってそれくらい分かるだろう?」  無論、言われるまでもなく、玲愛もそれは分かっている。  見たくないものが多すぎて。  知りたくないものが多すぎて。  耳を塞いで、口を噤んで、呼吸を止めて微動しない。  心は石のように頑ななまま。  そうして自分の楽園は維持されると……今まで思ってきたのだから。 「そうだね。君と同じように、わたしやこの子たちにも知らないほうがいいことは沢山あった。 きっと誰にも、気付かないほうが幸せなのにって事柄はあるんだろうさ。 人生、適度に鈍感じゃないとやっていけない局面はある。 喩えるなら、痛風かな。 風が吹いただけでも苦しむようじゃあ生きていけない。 鋭敏で、繊細で、傷つきやすいこと……神経を丸出しにして歩いている生き物なんてこの世にいないし、いたとしたらそいつは壊れているだろう。 だから、そいつは壊れているんだよ」  とある男の話。  鋭敏で、繊細で、傷つきやすく脆すぎる感性の持ち主。  そういう者が望むこととは、いったい何だ? 「病人が望むことは病気の治癒。だけど、すでに全身が死病に侵されているのなら、患部を切り落とせばいいという話じゃなくなる。 究極的、完全的に病の根絶を願うなら、生まれ変わるしかないんだよ。つまりまったくの別人になること。 彼はそれを渇望したんだ」  言って、少女は顎をしゃくる。手を引かれるまま、子供たちに引きずられていた玲愛もそれを見た。そして知った。  ここが、彼らの目指していた終点なのだと。 「この子たちの親だ」  花畑が終わる場所……朽ちて寂れた教会の壁に、その男は磔にされていた。蔦が全身に絡まって、植物に飲み込まれているような印象を受ける。 「誰……?」  知らない顔で、見たことのない人物だ。年齢は三十そこそこなのだろうが、ひどく老いているようにも見える。  げっそりとこけた頬に、閉じたまま青黒く落ち窪んだ両目……病的としか言いようがなく、そのやつれぶりは木乃伊か骸骨めいていた。 「ねえ、誰なの?」 「だから、この子たちの親さ」  問いに、少女は軽く笑ってそう言うだけ。玲愛が訊いているのはそんなことじゃない。 「神父さま」 「ねえ、起きて神父さま」 「僕たちずっと待ってたんだよ」  子供たちはそう言って、物言わぬ男に語りかける。確かに彼は僧形で、なるほど神父なのだろう。  それが、玲愛には言いようもなく恐ろしかった。初対面としか思えぬ神父と、彼を慕っていると思しき子供たち……そして、白い少女が先ほど言っていたことに……  その意味するところは何なのか。  自分が今、ここにいるという理屈は?  イザーク……なぜこんなものを見せる? 「こいつはねえ、この子たちに自分を救ってほしかったんだよ」  背筋がざわつくような不安に駆られる玲愛を他所に、少女は変わらず笑っていた。  笑顔で、淡々と話し続ける。 「彼は重度の痛風で、時代は風に鉄と炎を混ぜていた。だから我慢の限界がきてたんだろうね。彼は逃げたよ、この場所に」  この、薄桃色の〈地獄〉《らくえん》に。 「ここはいい風が吹くだろう? いい匂いがするだろう? それでも彼は削れていくけど、棺桶としては悪くない。献花にだって困らないさ。 この子らは、彼の最期を飾る花だ。ここで眠る彼のために、ずっと永遠に解放されない。その身を、花として捧げ続ける。 ヴァレリアン・トリファ――彼の渇望に対する生贄として」  瞬間、玲愛の横にいた少女の頭が弾け飛んだ。 「――――――」 「その望みを叶える代償として」  今度は、別の少年の胸に穴が空く。 「彼らはずっと死に続けている。六十年、ずっとずっと……親に殺されたんだよ、この子たちはね」 「ひっ……や、ぁ――」  声が、出ない。呼吸も、出来ない。右も左も前も後ろも、自分を囲んでいた子供たちが次から次へと弾け飛ぶ。  その血と肉片が玲愛の全身に降りかかる。 「神父さま」 「神父さま」 「泣かないで」 「悔やまないで」 「幸せだったから」 「楽しかったから」 「愛してるわ」 「愛してるの」 「だから笑って」 「また抱きしめて」 「忘れないから」 「覚えているから」 「こいつが逃げ続けている限り――」 「僕らはずっと、死に続けている」  濁流のような記憶と感情、そして痛みが玲愛の全身に流れ込んだ。  痛い。痛い。痛い。痛い――  この子供たちは誰も何も恨んでいないが、神父が己を憎悪している。  自分自身を許さない。自分自身を否定している。だからこその変身願望。  その渇望が、子供たちを魔城に縛り続けている。 「黄金の代行、クリストフ・ローエングリーン。彼はそうなることで痛みを超えたが、そうなった自分を狂信すればするほどに、その代償である子供たちの死は必然になる。 ああ、つまり本当の自分は屑だと思っている限り、屑な結果が繰り返されるっていうことだよ。こいつは屑で屑だから、可愛い子供らが死んじゃうのさ。屑だねえ」  薄桃色の風が朱に染まり、血と鉄の匂いが周囲を覆う。弾ける子供たちの残骸を浴びて放心する玲愛の顔を、血に濡れた隻眼の少女が愉快げに見下ろしていた。  いや、これは本当に少女なのか?  その手には、牙のような硝煙を立ち昇らせている鈍色の拳銃。子供らを撃ち殺したのは彼女だった。  違和感の正体にようやく気付く。先の子供たちはこの存在と、一度も言葉を交わしていない。彼らの会話に、これが勝手に割り込んでいるだけだったのだ。  じゃあ、いったい…… 「あなたは、なに……?」 「イザークから聞いているだろう。〈英雄〉《エインフェリア》だよ」  存在自体が一つの地獄。それぞれの〈領域〉《クラン》において最強の魂を持ち、その世界を統べる獄卒鬼。 「マキナは戦死を、ザミエルは殉死を、そして僕は情死を支配し、司る。ああ、それとも狂死なのかな。そのへん曖昧だけど似たようなもんだろう。どっちも頭いっちゃてる理屈だからね」  愛してる。愛してる。愛している。愛してる――  その果てに生まれる死。  矛盾している原因と結果。  それは砂糖菓子のように甘やかで、麻薬のように断ちがたい薄桃色の狂気。  花畑のような地獄がそこにある。 「君は、そうやって死ぬんだ」  だから、自分はここに落とされたのだと玲愛は知った。 「みんな君を愛してる。ハイドリヒ卿も僕たちも、バビロン、クリストフ、みんなみんな――」  愛しているから死んでくれ。愛している誰かのために死んでくれ。  氷室玲愛に訪れる死のカタチは、愛という概念が絶対的に絡んでいる。  ゆえに人柱。魔城の核となるゾーネンキント。 ――私は総てを愛している――  それが分かって、あの子供たちは自分に重なりすぎていて…… 「藤井、くん……」  自分に関わる愛のカタチは、死ぬことでしか成されないのだとここに思い知らされた。  風が舞い、空気が変わる。  十人の子供たちは血煙となり、それを目にした玲愛は耐え切れず掻き消えた。  後に残るのは一人――いや二人。  殺戮者である白い少女は、本来の姿に立ち戻ってそこにいた。  もともと、コレは少女などという存在ではない。 「目は覚めたかい、神父様。 ここを預かる者として、感想の一つも聞きたいんだが、どうよ?」  銀の長髪は短くなり、右目の包帯は髑髏を象嵌した眼帯に、そして真白いドレスは漆黒の軍装へと変わっていく。  ウォルフガング・シュライバー。情死の地獄を統べる悪鬼は、磔となっている男に語りかけた。  やつれ果てた男。  死霊のような男。  愛する者を必ず死なせてしまう業を背負った邪なる聖人。 「ザミエルに弾き出されたんだろう。残念……と言いたいが、もしかして狙い通りかい?」 「さて――」  声と共に、目が開いた。実に六十数年ぶり、本来の肉体に戻った男が苦笑しながら花畑に降り立つ。  彼の名はヴァレリアン・トリファ。聖餐杯と呼ばれた黒円卓の首領代行……その本名であり、真実の姿がここにある。 「ああ、金メッキの剥げた君のほうが好感持てるよ、クリストフ。正直、ハイドリヒ卿を僭称している聖餐杯は八つ裂きにしてやりたかった。 屑は屑なりに、分相応な器のほうがお似合いじゃあないか」  総ては彼の渇望である黄金への畏敬と憧憬。  そして狂おしいほどの自己嫌悪。  己の無力を嘆き、憎み、辿り着いた答えがラインハルト・ハイドリヒになりたい―― 「私としては痛恨ですよ。お陰でリザを死なせてしまった。 この業、未だ拭えない。 まして、あなたのような怪物を前に生身で放り出されるとはね。 まさに絶体絶命というやつだ。 聖餐杯を捨てた私は、ただの凡夫と変わらない。 狙い通りなどと、買い被りもいいところですよ」  彼の聖遺物は黄金の器。ラインハルト・ハイドリヒの玉体という、究極の鎧に他ならない。それを失った今のトリファは文字通りの生身であり、まさしく何の力もない状態だ。  ゆえに彼は首を回し、嘆くように溜息をつく。 「懐かしい、という気にはなれませんねえ。 ここに鏡があれば、即座に打ち壊していたでしょう。 そこには必然、この世でもっとも見たくない男の顔が映っている」  生まれ持った自己の肉体……それに再び帰ったトリファに喜びはなく、ただの嫌悪と失望があるのみだった。己の手足に目を落とすことすらせず、ただ眼前のシュライバーだけを見つめている。 「お陰で嫌な過去を見せられましたよ。 忘れたことなど一瞬たりとてありませんが…… まあよい。それでシュライバー卿、あなたは私を処刑なさるか?」 「さあて、ねえ。正直どうしたもんか」  首を傾げて、もったいぶるように間を置くシュライバー。そのまま無邪気な口調で言葉を継いだ。 「君らの会話は聞こえていたが、結果だけ見りゃ反逆どころか忠勤だ。ゾーネンキントを落とし、遊びが過ぎたアンナは死んで、葛藤好きなバビロンは排除。そして君は聖餐杯を返上した」 「落とし所としちゃあ、代行として非の無い手際だよクリストフ。実に上手いこと、ハイドリヒ卿に対するお膳立てを整えた――と言えなくもない。 だから〈大隊長〉《ぼくら》としちゃあ、それを褒め称えてやるべきで、これからもよろしく頼むよって言ってもいい。 まあ、もっとも……」  隻眼を細めつつ、シュライバーはトリファを見る。その凶眼に宿るのは、殺意ただ一色だった。 「そんな理屈で僕を縛ろうなんて思ってんなら、失笑もんではあるけどね」  首尾よく第五開放までを完遂させ、黒円卓の不穏分子を焙り出しつつ一網打尽。それに一役買ったトリファは忠臣であり、ゆえに殺すべきではないということ。  聖餐杯を捨てた今の彼は、贄として何の価値もないのだから生かしておいたほうが役に立つ。残りのスワスチカを効果的に開くため、邪聖の業と策謀は黄金を利する結果に向くだろう。  それは理屈で、確かなことだが、しかしシュライバーはそんなものなど一切頓着してない。 「順番、悪かったねえ。この状態でここにいるのが、マキナかザミエルなら命拾ったのかもしれないのにさ」 「ええ、それは充分理解しているつもりですよ。あなたの中には、殺人という一択しかない」  状況がなんであれ、相手の態度がどうであれ、殺すという選択しか持ち得ない。計算、打算、作戦、駆け引き、そういうものが彼にはない。 「まさに凶獣ですね、狂犬などと生易しい」 「無論、私とて、そんなあなたに命乞いが通じるなどと思ってはいませんよ」 「そうかい、じゃあ――」  共に気負いも何もない素の口調と態度、物腰。  その、あくまで世間話としか思えぬやり取りと空気のまま…… 「ヴァルハラへようこそ、神父様。君の子供たちもずっと君を待っていたよ」  音もなく放たれたシュライバーの手が、トリファの胸を貫いていた。 「……っ、…ぁ……」 「ああ、いいねえ。生きている血の温かさ、心臓の鼓動を感じるよ。この六十年、死人ばかりを殺し続けるのは味気なくて、僕は欲求不満だったからね」  陶然と呟く〈白騎士〉《アルベド》に容赦はなく、潜り込んだ手がトリファの心臓を握っている。 「さようなら、これが君の死だ」  邪なる聖者と呼ばれた男。  黒円卓でもっとも屈折し、捉えどころがなく、狂気に等しい愛を懐いた男。 「私の、死……?」  これがその死? 「まあ、確かに疑問ではあるよ」  噴き出る血に濡れながら、シュライバーは微笑んだ。 「ヴァレリアン・トリファはまともじゃない。僕には普通であることの定義なんて分からないが、君が他と比べて特殊だってことくらいは理解できる。 何人も殺したよ。何万人も喰ってきたよ。その経験を重ねる中で、人間の心理ってやつを学習したさ。実際、そう何種類もあるもんじゃない」  喩えるなら、人は動物と会話することなど出来ないし、互いを理解することも出来はしない。  だが、狩人なら獲物の種族がどんな習性を持っているのか、狩りの中で学習する。捕食という究極の交情を繰り返すうち、相手のことは必然として詳しくなる。 「僕ほど人間を知ってるモノはいないと自負しているんだよ」  彼は生粋の〈食人鬼〉《マンイーター》。ゆえに〈獲物〉《ヒト》のことは誰よりも詳しい。  その経験則に照らした上で、ヴァレリアン・トリファは異端であると、シュライバーは言っていた。 「君ほど諦めの悪い男はそういない」 「人間ってのは、意外と危機に淡白なんだよ。すぐ壊れるし、すぐ諦める。もういい。駄目だ。限界だ。〈人間〉《きみら》の大好きな思考、上位三つはおおかたそれだ」  〈死を想え〉《メメント・モリ》……いずれ死ぬのだから執着しない。いずれ死ぬのだから今しか見ない。  避けられない破滅があることを理解する知能を持つゆえに、そうした哲学を皆が持つ。  諦観という概念は人類特有のものであり、同時に最大の発明だろうとシュライバーは考えていた。 「戦場でもそうだったろう。雄々しく死に立ち向かえる奴が何人いた? 最後の最後まで足掻き続ける奴がどれだけいたのさ? たいていの奴は、どこかで折り合いつけるんだよ。別に生きるだ死ぬだなんて局面じゃなくても」  自分に出来ることと出来ないこと。  理想と現実のギャップを弁え、理解すること。  危機において、神の恩寵が都合よく舞い降りる奇跡。  眠っていた底力が発揮される希望。  そんな夢みたいなこと、自分に可能なはずはないと誰もが思い、自嘲と共に〈諦観〉《ぜつぼう》する。 「それが普通だ」  それが大半の人間だと、人食いの鬼が言う。 「器を知ること。それが〈人間〉《きみら》をして死に向かわせる病だ。 なあ、だったらさ……」  手の心臓をこねくり回し、降りかかる吐血を瞬きもせず受け止めながら、シュライバーは問いを投げた。 「器そのものを替えようなんて考えた希少種が、なんでこんな簡単に詰まされてんだい? 諦めの悪さは筋金入りの君が、さ」 「ふ、…は……」  返答は、血にむせる音。痛みに呻く声。そして、苦笑する顔だった。 「まさかあなたに、異常者扱いされるとはね……光栄と言うべきか、心外と愚痴るべきか」 「僕のことはどうでもいいよ」 「ごっ、は……」  さらに深く食い込む腕に、トリファは血を吐いて身をよじるが、やはりその笑みは崩れない。 「珍しい、ことも、あるものだ……あなたは生者に興味などない人でしょう。 駆け抜けた後の屍しか見ないあなたが、私の在り方ごときを気にすると?」 「ああ、だって君はもう、死んでるじゃないか」  何をおいてもまず殺し、総てはその後で考える。ウォルフガング・シュライバーはそういうもので、生きている人間と対話などしない。 「致命傷だよ。今さらどうしようと助からない。 だから〈轍〉《わだち》となった君を振り返り、訊かせてもらおう。何を考えてたんだい?」  これほどあっさり、成す術もなく、終始後手に回って命を落とす。  それは黒円卓の首領代行を知る者ならば、誰もが疑問に思うことだろう。まして彼を人の希少種だと評したシュライバーなら尚更だ。  曰く、この神父は己の器を破棄した男であるゆえに。自己のアイデンティティすら捨て去って、高次への飛翔を渇望した白鳥なのだ。  その魂に諦観はなく、絶望も限界も認めないはずだろう。  なのに、なぜ? 「要は……」  切れ切れの、枯れた声が問いに答えた。 「テレジアさえ、助かればよい。そういうことですよ、シュライバー卿。 それから、ここにも来たかった。私が過去に零したものを再認し、掬い上げるためにね」 「つまり?」  未だ不徳要領のシュライバーに、トリファは満面の笑みで応じていた。  その頭に手を置いて、宣言するように言い放つ。 「五色を狂わす。私の狙いは、終始一貫してそれだけだ。 ゆえ、あなたを壊しましょう。〈白化〉《アルベド》の枠を、ここに消す」 「――――――」  瞬間、シュライバーの脳に電極が突き刺さった。 「がッ、――な、あああァァ――」  鷲掴みにされた頭皮から頭蓋を抉り、脳髄を焼く電流の正体が何なのかシュライバーには分からない。何かの感情なのだろうが、それがどういう類なのか理解することが出来なかった。  分かっているのは、ただ一つだけ。 「いた、い……」  痛い。痛い。狂おしいほど容赦なく、激痛を伴う〈電流〉《ココロ》であること。彼自身が認識を拒んでいる〈痛み〉《きおく》であること。 「今の私には、人間が本に見える。木や石がラジオに感じる。あなたの本質も、手に取るように理解できる。 アンナ・シュライバー、本当のあなたが路傍に打ち捨てられて傷付き喘ぐ、ただの仔犬でしかないことも…… ああ、あなたは私を希少と言ったが、確かにそちらから見ればそうかもしれない」 「今、ここにいる少年は、ひどく凡庸で分かり易い少女だ」  精神感応、思念同調能力者。ヴァレリアン・トリファの脳に宿っていたその力は、他者の記憶と心を引きずり出す。たとえ本人が忘れているようなことであっても、彼の目と耳は誤魔化せない。  トリファの顔が、肉体的なそれではない苦痛に歪んだ。 「あなたの痛み、あなたの憤怒、胸に迫るほど理解できる。なるほど、確かに致命傷だ。こんな〈記憶〉《モノ》を背負ってなお、人として生きることなど出来ますまい。狂うよりなかった心情、分かりますよ。誰であろうと耐えられない」  痛風の罹患者に喩えられた彼。  壊れていると言われた彼。  ただ生きているだけで他者の痛みという風に晒され、削れていくしかなかった男。  ゆえに自己の器を捨て去った。ラインハルト・ハイドリヒの玉体という、究極の〈聖餐杯〉《うつわ》に逃げたのだ。  それを返上するということは、彼にとって渇望の終焉。すなわち死を意味するが、同時に捨てた力の復活を意味する。 「であれば、この場において……」  この局面に限定した場合において。 「黄金の近衛、〈白騎士〉《アルベド》――あなたを壊せるのはヴァレリアン・トリファしかおりますまい。 先の言葉をそのまま返しましょう。順番が悪かったですね。 ここにいたのがリザかマレウスであったなら、気付かれずにすんだ」 「この〈妖精界〉《アルフヘイム》……永遠の子供たちに満ちた世界が、あなたの逃避先なのでしょう。〈死界〉《ニブルヘイム》に落ちたあなたにとって、唯一の楽園なのでしょう」  情死の地獄。薄桃色の風が舞う、花畑の国。  親に見捨てられて殺された、哀れな哀れな子供たち。  己もその一員であるという思い込みが、ウォルフガング・シュライバーを紙一重の均衡で立たせている。  真実を狂乱の檻に封じて忘却し、己に都合よく捏造している。 「テレジアが、当初あなたを見つけられなかったのはそういうことだ」  〈花畑〉《アルフヘイム》の子供たちが、ただの一度もシュライバーと話さなかったのはそういうことだ。 「あなたは彼らと一緒ではない。なぜなら――」  頭を掴んだ手に、力がこもる。そこに全身全霊の思念を乗せて、トリファは真実を叩き付けた。 「あなたは、誰にも愛されていない。 愛されてなど、いないんだ!」 「ぎッ―――」  シュライバーの、細い四肢が痙攣した。トリファもまた歯を食いしばり、脳を焼く精神の激痛に耐えている。  そのとき、彼ら二人が共有した記憶とは何なのか。 「言葉に出して、説明する気にもなれない」  言葉にした瞬間に、舌が腐る。 「だが、珍しい話でもない」  曰く、ありきたりで凡庸な悲劇。  ピクスドールのような外見も、天使のような微笑みも、総て〈需要〉《ニーズ》に沿った商品としての売り。  彼は生まれる前から玩具として、ただ弄ばれるためだけに製造された〈人形〉《プッペ》であり〈花〉《ブルーメ》。  人間として何も期待されていないし、希望も祝福も授かっていない。 「父親が? 母親が? あなたを愛していた? 笑止千万。 そもそも、あなたからして彼らを愛してなどいないでしょう!」 「があああァァッ―――」  余人には解せない領域で、二人の鬩ぎ合いは続いている。今、切開されたシュライバーの〈傷〉《トラウマ》は、その痛みに同調しているトリファにとっても危険である。  痛風の身で浴びるにしては、猛毒すぎる風なのだ。シュライバーを壊すと言ったが、先にトリファが決壊しても何ら不思議はないだろう。  だが…… 「違う……」  そのとき、〈白騎士〉《アルベド》に異変が起こった。 「嘘を、つくな」  眼帯に覆われた右目から血が滴り、再びその髪が伸び始める。 「〈お母さん〉《ムッター》は、僕がいなけりゃ生きていけなかったんだ。 〈お父さん〉《ファーター》は、僕じゃなけりゃ相手にできなかったんだ。 必要と、されてたんだ。替えの効かない、場所にいたんだ。 愛されてた。愛されてた。愛されてたんだ――嘘をつくなあァァッ!」  縋り付くような怒号。泣き喚くような絶叫。吼えるシュライバーの嵐に晒され、しかしトリファは淡々と話し続ける。  すでに出血は致死量同然、視界も霞み始めている中で冷徹に、容赦なく―― 「ではなぜ、あなたは父母を殺した?」 「―――――」 「その一点、ただそれだけでもあなたは私の子供たちと異なっている。愛されていたと言い張るのなら、愛していたと信じるなら、その殺意は愛だと言うのか?」  否。彼の殺意の源泉は憤怒。  ひどく生臭く、濁っていて、この薄桃色の〈花畑〉《アルフヘイム》には似合わない。 「あなたは私と同じだ」  憎悪に駆られ、アイデンティティを見失い、その渇望に重大な矛盾を抱えた者同士。 「私は二度と、この手にあるものを壊さぬよう、不滅の〈聖餐杯〉《うつわ》を欲し、求めた」  己が知る最強にして無敵の存在、不滅の黄金であるラインハルト・ハイドリヒになりたい。  その属性が破壊であり、それに宿ることが総てを壊す道であるという矛盾から目を逸らした。 「あなたもそうだ」  ただの惨めで臆病な逃亡者にすぎない。 「真実の光に背を向け、魔道に落ちたのが私やあなただ」  本当に狂おしく求めたものから間逆のベクトルに駆け抜けて、道を究めんとすればするほど掛け離れていく。  戻ってくることが出来なくなる。 「ゆえに今、この状況があるのですよ。私の六十年を水泡に帰す選択。もっとも避けようとした流れを看過し、邪なる聖路の求道者としては無能極まりない展開を是とすること」 「私が私らしく立ち回れば立ち回るほど、私の愛するものは壊れていくのだ。 ならば、こうするのが最善だとは思いませんかね? あなたをして忠勤だと言わしめる、このヴァレリアン・トリファらしくない選択こそが―― 私の愛児たちを解放すると、私はついに悟ったのだ!」  それは確たる答えに達した者特有の、晴々とした声だった。自らの矛盾と相対し、逃げることなく、真実に辿り着いたことで、トリファにもはや悔いも迷いもありはしない。 「おま、え……」  そしてだからこそ、シュライバーには彼を理解できなかった。それまで己を立たせてきた渇望の否定など、断じて試しや思いつきで成せるものではないだろう。  なぜならそれは世界の崩壊。あらゆる意味での自殺を意味する。矛盾だろうとなんだろうと、一度最高速まで達しながら反転すれば、その瞬間に壊れるだけだ。 「自死、衝動、か……ハイドリヒ卿の、〈英雄〉《エインフェリア》になれない劣等……貧弱な、魂の限界点が、そこだったという、だけだろう。 図に、乗るな。勘違いをするなよ間抜け……何か自分が、高みに達したとでも思っているなら、それは錯覚、錯覚なんだ」 「まあ、どう捉えようと構いませんがね」  確かに、結果だけ見ればトリファの行動は自殺志願者のそれであり、事実その死は決定している。ゆえにシュライバーの指摘も、間違いではないのだろう。 「死せる英雄は殺せない。ヴァルハラのエインフェリアは不死であり、副首領閣下の黄金錬成は完全無欠と……なるほど、ええ、なるほど確かに、私は〈大隊長〉《あなたがた》を斃せませんよ」  だが…… 「先ほどから、何度も言っているでしょう。壊すと」  ウォルフガング・シュライバー、彼の渇望の矛盾を突いて、黄金錬成の一角である在り方を崩すために。  その魂を破壊する一撃を送るために。 「それは……」  その矛盾とは。 「本当は、こうされたかったのでしょう」 「―――――」  そっと優しく、労わるように、自らの胸を抉るシュライバーを抱きしめ、告げた。 「あなたがこの〈花畑〉《アルフヘイム》に馴染めないのは、それを否定しているからだ。 私の愛児たちと、決定的に違うのはその一点」  玲愛も、そしてトリファが零したという子供たちも、知りたいのは温もり。求めていたのは抱きしめてくれる誰か。  その存在を許容して、おまえは居てもいいのだと言ってくれる誰か。  生きて愛されていいのだと、信じさせてくれる存在を欲している。 「魔城の核たるゾーネンキントも、劣等として迫害された特定の人種も……生きていてはいけないと思い込まされ、死を想い死に縛られる。 なんと哀れな子供たちであることか。光は誰の上にも降り注いでいるべきはずなのに」  だから、トリファは彼らを愛す。全身全霊をかけて救うと誓う。  彼らが光を求める限り、決して見捨てることなどない。 「なぜなら手を、その小さな手で握られると、逆らえない。そういうものなのですよ、シュライバー卿。 あなたが決してやろうとしない、それこそが……」  強く、強く、強く抱きしめ、トリファは告げた。決定的な〈白騎士〉《アルベド》の矛盾を。 「誰にも触られたくない。あなたの渇望はそれでしょう」  駆け抜ければ駆け抜けるほど、真に求めたものから遠ざかっていく間逆の渇望。  それはトリファとまったく同じ、完全に壊れた破滅に向かう在り方だ。  誰よりも何よりも温もりを求めながら、接触を忌むその魂は疑いの余地なく矛盾している。 「だからあなたの後ろには、屍という〈轍〉《わだち》しかない」  総てが凍結した〈死界〉《ニブルヘイム》に落ちたがゆえ、どう足掻こうと温もりを得られない。  彼自身が、光の対極に走り続けているのだから当然の結果だろう。 「黙れ……」  そしてだからこそ、シュライバーにそれを認めることは絶対に出来ず。 「逃げた先には、ろくなことがありませんよ」  トリファはこの事実をもって、五色の一角を崩さねばならない。 「あなたは――」 「僕は――」  不死身の英雄。黄金の近衛である絶対無敵のエインフェリア――  その矜持を粉砕する一言。 「ただの痩せさらばえた、捨て犬にすぎない」 「黙れぇぇェェッ――!」  薄桃色の風は千切られ、舞う花弁が砕け散る。  〈花畑〉《アルフヘイム》に亀裂が走り、割れていき―― 「僕は不死身の〈英雄〉《エインフェリア》なんだァァァッ――!」  文字通り天地を呑み込む〈凶獣〉《フローズヴィトニル》の咆哮に、いま〈死の世界〉《ニブルヘイム》が出現した。 「よってここにまた一人、おまえの業による死者が出る」  狂奔する嵐の渦に巻き込まれ、バラバラになっていく神父の姿を玲愛の瞳は捉えていた。 「おまえが存在しなかったら、彼は別の生を得られただろう」  氷室玲愛に関わらず、彼女を愛することなどしなければ、この結末は有り得なかった。 「おまえが彼を殺したのだ、テレジア」  呪わしく嘆かわしい。おまえの存在そのものが、斯様に死の嵐を生んでいると、感情の篭らない声が事実のみを告げていた。 「彼はこれで本望なのか? 真実、悔いなしの最期と言えるのか? テレジア、おまえは彼の結末をどう捉える?」  問いに、玲愛は答えるべき言葉を持たない。目を閉じても背けても、砕け散っていく神父の姿が心の網膜に焼印されて、その形をした傷になる。  ああ、そうか。そうなのだ。これが歯車としての自分なのだ。  リザを、トリファを、削り取られて凹凸を形成していく心が分かる。  自分にとって大事な総てを奪われたとき、氷室玲愛は無謬の歯車として完成するのだ。これ以上削りようがないほど削られて、以後一切磨耗しないものに変わるのだ。  そうしているのはイザークで、そして何より自分自身。だって氷室玲愛が存在したから、彼らは削り取られていくのだし。  これをどう捉えるかと訊かれれば、答えは一つしか存在しなくて…… 「私が、悪いの……?」  自分を愛する者は死ぬ。自分に関わった者は消えていく。  そういう業。そういう理。今さら否定するには地獄を見せ付けられすぎて……  どうすれば、どう抗えばいいと言う。血統に刻み込まれた破壊の愛が、総てを呑み込もうとしているのに。  何をやる気になっていたのだろう。この絶対法則を覆せる根拠も力もないくせに……  私だって何か出来ると背伸びして、大好きな人を守ってやるんだと意気込んで、結果は自分が原因となった死の渦に、誰も彼もを引きずり込んで死なせるだけだ。地獄の底に落とすだけだ。  まったく同じではないか、イザークと。何が違うというのだ、この歯車と。  無力。ただ無力で価値がない。  だったらいっそ、そうだよいっそ―― 「私が死ねば……いなくなっちゃえばもうそれで……」  だけど、その考えは…… 「死を想え」  断崖の先にこそ救いがあると、そう信じる心は地獄を開く。 「あぁ、あぁ……」  逃げられない。逃げられない。壊せないし崩せない――  心はもう決壊寸前。遠からず自分がただの歯車と化すだろうと、分かっていながらどうしようもない。 「助けて……」  お願い、誰か助けて。  救いを求めて伸ばす手は、しかし―― 「藤井君……」 「なるほど。それがおまえの削るべき最後の部分か」  自分は救われる者じゃなく、引きずり込む者なのだと……  再度、強く思い知らされる羽目になった。 「――――――」 奇妙な感覚に囚われて足を止める。依然、誰にも出会えず何処にも辿り着けないまま、無限に続くのかと疑わしくなる廊下を進んでいる最中、俺は誰かに呼ばれたような気がしたのだ。 「なんだ……?」 錯覚だと思う。事実、声など聞こえていないし、手足を掴まれたわけでもない。 しかし、それでも後ろ髪を引かれるような……無視できない引力を感じた俺は振り返って背後を見る。 「…………」 変化は、ない。ここまでやって来たのと同じように、ただ無限の廊下が続くのみだ。今さら引き返すことはできないし、するべきじゃないだろう。 いい加減、この城とこの廊下の異常性には気付いている。大雑把な感覚だが、すでに十キロ近く走っているはずなのに未だ終わりが見えてこない。 ここは閉じていると考えるべきだろう。道はあくまでも直進だが、次元的な円環になっているような気がしてならない。 だったら、前に進むのが俺という人間の信条だ。ここでらしくない選択をしようものなら、それこそ永劫に囚われる。こんなところでうだうだと時間を食ってる場合じゃないんだ。 先輩を救う。まずはその第一目的を果たすため、前だけを見ようと再び踵を返した、とき…… 「――――、――ッ」 何か、言いようのない違和感が…… 景色が歪み、意識が混濁し、目眩と共に嘔吐感が込みあがる。 そしてそんな酩酊の中、嫌になるほど鮮明なのは赤い薔薇と血の匂い。 これは、なんだ……? 何を、言っている? 何が言いたい? 聞こえてくる声には覚えがあり、無論当然のようにそれが誰のものかは分かっていたけど…… 認めない。認めない。これが何を意味しているかなど、絶対認めるわけにはいかなくて…… だから、やめろ。聞かせるな。俺にそんな現実を、認識させようとするんじゃない。 勝って帰ると覚悟を決めた。一人も失わないと胸に誓った。俺には帰る場所が必要で、それがなければ進めなくて、ここに膝をついて倒れるわけには断じていかないと分かっている。 分かっているんだ。ゆえに見せるな聞かせるな―― 死ぬほど悔やむのは後でいい。受け止めるのは先でいい。やらねばならぬことをやる前に、後ろを見ると進めなくなる。 たとえ都合がいいと言われても、逃げてるだけだと言われても、今はまだ壊れるわけにはいかないんだ――! 残っているものを逃さないように、生きてる人間から目を逸らさないように。 俺はそういう奴で、そういう主義で、常に前を向いていたいから――― 救えなかったその過去に……まだ引きずり込まないでくれ。 「つまり――」 そのとき、視界が完全な闇の中へと落ちていった。 「それがおまえの答えかよ」 「…………ッ」 聞こえてくるのは子供の声。しかし幼さは微塵もなく、牙を噛み鳴らす餓犬の唸りめいていた。 自分は飢えている。渇いている。だから引き裂き血を啜るのだと言わんばかりに…… ぽつぽつと、ぽつぽつと、滴り落ちる血の雫……それが落ちると同時に芽を出して、真紅の薔薇を咲かせていく。 気付けば俺の目の前には、赤と黒に塗り潰された血の庭園が広がっていた。 「……………」 そして、そこに佇むのは、浮浪児のように薄汚れた子供だった。病的なほど痩せ細り、肌にも生気がまるでない。一目で栄養失調に近い状態だと見て取れる。 「おまえ……」 だが、この子供が不幸の側……被害者と言えるような存在じゃないことも同様に感じ取れる。 「おまえは殺す側ってわけだ、俺と同じ」 そうだ、こいつは捕食者だ。生まれも育ちも置かれた現状も関係なく、喰らい貪ることしかしない。 「ああ、まあ、別に珍しいこっちゃねえ。こんなもんは単に言い回しの問題で、よく言や前向きっていうことさ」 「壁があるとするだろう。落とし穴があるとするだろう。前に進めなくて困難なとき、どうするかっつうだけの話なんだよ」 「ある奴は引き返す。ある奴は迂回する。そしてある奴は立ち止まる。そうさ、どれも間違いじゃねえ。どれもそいつの選択だ」 「俺やおまえは、ぶち当たってぶち壊す。ぶっ殺して排除する。それしか選べねえっていうだけだ」 「間違いじゃねえだろう。おかしくなんかねえだろう。てめえの人生、誰が文句なんざ言えるんだよ。壁の種類が健全? ならよ、馬鹿ども褒め称えるんじゃねえのかな」 「キミは努力の人だ。血の熱い人だ。逃げずに立ち向かう勇気と志を持っている。素晴らしいよ感動した―――かははっ」 「じゃあよ、今もいつもの俺達らしくいこうや」 「――――――」 同時に、闇から浮き出てくるのは三つの人影。 「香純……」 そして…… 「司狼、本城……」 「こいつらは虎バサミだ」 現れた三人に目をやって、子供は憎々しげに吐き捨てる。 「壁じゃあねえがよ。こっちの足を引きやがる。何処にも行くな行かないで。ずっとこのままここにいて」 「ボケが、重てえっつんだよなあ」 闇に佇む香純達は何も言わない。だが目が、もの言いたげなその目が俺に訴えていた。 「痛い、助けて。怖い、置いてかないで」 自分達は、苦しいんだと。 「誰のせいだと思ってるの? 誰が悪いと思ってるの? あなたが助けてくれないからこうなったんじゃない」 「だから責任とって。優しくして。見捨てないでよ忘れないでよ。勝手に思い出になんかしないでよ」 「わたし達はずっとずっと、こんなにこんなに辛いのに」 「しょうがないとか、主義じゃないとか、きっとあいつらそんなことは望んでないとか、都合のいい自分理論でわたし達を無視しないでよ」 忘れるな。忘れるな。目を逸らすな。ちゃんと見ろ。 おまえの無力さや臆病さ、その他つまらない拘りで、死者の気持ちを蔑ろにする自己完結など許さない。 「生き返りたいのに」 大事な者が懐いているその気持ちを、なぜ手前勝手な理屈で否定する。 そう糾弾されているような気が、俺にはして…… 「助けてよ。抱きしめて」 死んだら用も価値もないのか―― 「この薄情者――おまえに人を愛する資格はない!」 自分の精神構造を、歪かもしれないと思った、それが初の瞬間だった。 「――うるせえんだよォッ!」 「―――――――」 血が、俺の顔面に降りかかる。 怒声と共に子供が振り払った腕の一発で、司狼の顔面が吹き飛んでいた。 「知るか阿呆が! 死人は腐れよ、ごちゃごちゃくだらねえこと抜かしてんじゃねえ!」 「なあ、よお! こいつら鬱陶しいだろう。邪魔臭ぇよな、いらねえよな」 「だったら俺達らしく排除しようや」 「待っ―――」 手を伸ばして制止しようとしたが、遅かった。 「こいつらは虎バサミだ。噛みついて縋りついて絡みついて離れねえ」 続く蹴りの一撃で、本城の胴が真っ二つに千切れ飛ぶ。 「じゃあどうする? 座り込んで一緒に腐るか? ああ、それも一つの選択だがよ」 「俺達は俺達らしく、足引き千切ってでも進むんだよ。痛ぇの何だの知ったこっちゃねえ!」 喪失の痛みなど意に介さない。足が消えようが腕が無くなろうが、構わないと言いながら―― 「俺らは牙だけあればいい」 その歯で、子供は香純の首に喰らいつくと、一瞬にして噛み千切った。 「ほら、自由だぜ」 降りかかる鮮血の赤。 「てめえがやろうとしてるのはこういうことだ」 目眩を起こすほど濃密な血の匂い。 「薄情? 冷酷? 人間味がない? ざけんな、これが人間だ。俺らァてめえのルールに生きてんだよ。素直で、強固で、前向きだ」 「後ろなんざ見ていたら、何処にも行けねえだろうがよ」 それは確かに、俺自身が言っていたこと。 生きてる奴のことしか考えない。後ろを見ていては進めない。 表現の過激さが違うとはいえ、本質的にはまったく同じで、俺の主義はそういうことだ。 香純を、司狼を、本城を――過去のものとして押し流し、踏み潰して一顧だにしない。 壁や、穴や、そして罠……それらに対する処方を攻撃というカタチでしか表現できない。 なぜなら、他に道を知らないから。 他にどんな道があると言う。 「しかし、だ」 やおら、わざとらしく思い出したように、子供は言った。 「ここに鍵があるとしよう」 咲き誇る幾千幾万の薔薇を指差す。その一つ一つをよく見ろと言う。 「この中のどれか一つ、罠を外す鍵がある。と言ったらおまえはどうする?」 「…………」 それは、だったら考えるまでもないことで。 「無論、簡単にゃあ探せないぜ。何せこれだけあるんだからなあ。ミスって摘まれる二千や三千は出るだろうさ」 「加えて、こっちは虎バサミに掛かってる。手ぇ届く範囲は狭いしよ、やるだけ無駄になるかもしれねえ」 「つまり摘みやすいと思う花。実際簡単に取れるもんを片っ端から取っていく。素手でやるんだ、手も痛ぇさ。一つ摘むたび棘が刺さって、千もやる頃にゃあズタズタだ」 「それでも――」 それでも、やるかと。 「足引き千切って失って、欠損抱えながら進むの嫌なら、薔薇の千や万ぐらい構わねえだろう」 「――と、思うなら俺ゃ止めねえよ」 「選びな。おまえの本音を見せろ」 「――――ッ」 同時に、俺の両足が虎バサミに噛みつかれた。バランスを狂わされて転んだ先には、滴るような赤色に濡れた薔薇の大輪…… それは血のようで、心臓のようで、命のようで…… 「鍵………」 〈薔薇〉《これ》がそれに成り得ると言う。千か二千かまだ上か、ともかく片っ端から摘んで試せば、罠の口が開くかもしれない。 総ては両足という、自分にとってなくてはならない大事なものを取り戻すため。 手が届く範囲、すなわち〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈や〉《 、》〈す〉《 、》〈い〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》こと。 棘による些細な痛みは伴うけれど、両足を捨てるよりはマシな取り引き。 俺は…… それを…… やるのか? 薔薇の赤に手を染めるのか? 答えは? 「さあ……」 子供は笑う。 愉快げに、期待を込めて、契約書のペンを執らせる悪魔のように。 「恥じるなよ。揺れるのもまた人間だ」 己の弱さを愛してやれと―― 「安全圏でなら何とでもホザケる。直面しないと分からないこともある」 失って、壊されて、初めて知る感情もある。 「知らなかったんだ、しょうがねえさ。食わず嫌いっていうやつだよ」 「経験は想像を凌駕する。逆も真なりだが、そりゃ両方ありえるっつーこった。つまり現実は揺れてんだよ」 「今まで最悪だと思ってたもんが、予想外に美味かった。なあ、よくある話だろうが。何を意固地になってやがる」 「ここにゃあ俺とおまえしかいねえんだぜ? 曝け出そうや、今の素直な気持ちをよ」 無言のまま薔薇を見続けている俺に向け、こいつはついに、決定的なことを口にした。 今まで否定し、目を逸らし、希望を捨てないよう信じ続けていた事実を―― 粉砕する、一言。 「おまえのツレなら、全員俺が殺しちまったよ」 「――――――――」 その瞬間に、俺の総てが沸騰した。 「〈Die Sonne toent nach alter Weise In Brudersphaeren Wettgesang.〉《日は古より変わらず星と競い》 〈Und ihre vorgeschriebne Reise Vollendet sie mit Donnergang.〉《定められた道を雷鳴のごとく疾走する》」  その瞬間に、わたしの総てが沸騰した。彼にこんな現実を知らせてはいけないし、何よりも許してはいけない。 「〈Und schnell und begreiflich schnell In ewig schnellem Sphaerenlauf.〉《そして速く 何より速く 永劫の円環を駆け抜けよう》」  だってそうしないと壊れてしまう。彼の世界が崩れてしまう。そんなことをわたしは絶対させたりしない。  ああ、だってなぜだか、よく分かるもの。レンの気持ちが流れ込んで、わたしの中を溶かしているもの。  今まで何も、何一つ、役に立つことが出来なかった。彼をこんな世界に引き込んで、こんな目に遭わせておいて、その心すら救ってやれない。  そんなのは嫌だ――嫌だからわたしが立つ。 「〈Da flammt ein blitzendes Verheeren Dem Pfade vor des Donnerschlags;〉《光となって破壊しろ その一撃で燃やし尽くせ》」  それがいったい、どういう意味を持つことなのか、まだ朧気ながらにしか分からないけど。  誓うよ。絶対生きて〈城〉《ここ》から出してみせる。  レンも、レンに残った最後の一人も。  ねえ、だからお願い我が侭を聞いて。わたしに出来ることをさせてほしい。  目を瞑っていてほしいの。耳を閉じていてほしいの。総ては一瞬、わたしが一瞬で終わらせるから。 「〈Da keiner dich ergruenden mag, Und alle deinen hohen Werke〉《そは誰も知らず 届かぬ 至高の創造》 〈Sind herrlich wie am ersten Tag.〉《我が渇望こそが原初の荘厳》」  レンがこの現実を知って壊れる前に、刹那を無限に引き伸ばして全部の片をわたしがつけよう。それさえ成せば、あなたの前から消えるから。  ごめんね、本当にごめんなさい。  これがきっと最初で最後、わたしが送る非日常へのレクイエム。 「〈Briah〉《創造》――」  わたしを含めた残らず総て、レンの求める太陽の下にはいられない。  黄昏は黄昏に、闇は闇に還りましょう。  だから―― 「〈Eine Faust〉《美麗刹那》――」  あなたの渇望を無断で借りる――この罪、どうか許してほしい。  何が何でも是が非でも、わたしがレンの全部を守るから…… 「〈Ouvertüre〉《序曲》」  今だけ、抱きしめさせてほしいと願うの。 「なるほど」  子供の声が変質する。歪んで、そして奈落のように。 “彼”が持つ真実の在り方――まるで少し前までのわたしのように、何も感じていない零の感性が表出してきた。 「よく足掻く。おまえ達にはまだ地獄が温いか」  そうだ、これは見た目通りの存在じゃない。まるでこの城そのものが、取り込んだ魂に合わせて数百万もの貌を使い分けているみたい。 「更なる深部へ導こう。逃がさん。戻さん。溶けよ。墜ちて散れよ。 私がここにいる限り、誰も何も、光さえも外には出さん」  これは悪魔だ。以前この城で見た黄金の男性と、まったく同じ匂いがする。  暗黒天体のような飢餓の塊。  そう、名は確か―― 「おいこら、イザーク」  そのとき、周囲を覆っていた薔薇の園が掻き消えた。 「勝手に人の中身使って遊んでんじゃねえよ。こいつらは俺に用があるんだろう」 「―――――――」  再び開けた視界には、赤い目を細めて笑う白貌の男性。 「だったら直でこっちに持ってこいや。こうまで熱心に追われるとよ、さすがに無視しちゃ悪いだろうが」 「あなた……!」  無論、わたしだって忘れていない。この男性が、何よりレンを追い詰めた人だから。見逃してはいけないと、強く強く感じられる。  これが怒り。これが殺意。レンから流れ込んだ心が混ざり合って、無色だったわたしの魂に色をつける。  嬉しい、とは言えない。哀しい、とも言えない。  だってこれは悲劇だから。なのに心の繋がりを実感できて、満たされているわたしも存在するから。  そんな自分のことが許せないから――  ここで皆の仇を討って、二度とこんなことが起きないように決着をつけよう。  本当の本当に笑える日を、再びレンに返してあげたい。  その喜びを最後に共有して抱かせてほしいの。  だって、それくらいしなきゃあ、わたし―― 「なんだ? ちっと印象変わったな。 まあ、何でもいいさ。来いよ、一緒に踊ろうぜ」  単にレンを苦しめるためだけにやってきた、疫病神になっちゃうじゃない。 「―――――――」  だけど、最初の一歩を踏み込もうとしたその瞬間――― 「なッ――――」  廊下の壁を突き破って、何か恐ろしいものがやってきた。 「Vorüber, ach, vorüber――!」  これは―― 「言ったはずだぞ、更なる深部へ」 「―――――ァァッ」  現れたのは、白銀に光る髪を靡かせた獣だった。横合いから突如として割り込まれ、一撃を食らったわたしは、そのまま吹き飛んで宙を舞う。それを逃がさじと白い流星が追ってくる。 「いた、い……」  痛い。痛い。わたし初めて誰かに殴られた。 「けど、嬉しい……」  不謹慎なのは分かってる。それどころじゃないのも重々承知。  だけど、わたしはこの痛みが嬉しい―― 「レンの気持ちが分かる」  彼が感じていたこと。彼が耐えていたこと。彼が乗り越えると誓ったもの。  全部、みんなここにある。だからわたしだって耐えてみせるし乗り越えてみせる。  役に立つって、マリィと出逢えてよかったよって、あのちょっと照れたような声で言ってもらうんだ。  そのためには―― 「Und rühre mich nicht an――Und rühre mich nicht an――!」  たとえ相手が何だって負けたりしない。  そうだ、いつもこういうとき、彼は何と言っていただろう。  思い出せ、思い出せ――何かすごくカッコイイ台詞だったような気がするから。 「………のォッ」  食らいついてくる白光を睨みつけ、力一杯言ってやろう。 「わたしは負けない――」 「ジャンル違いが、のさばってんじゃないわよォッ!」  彼が求める彼の世界に、あなた達みたいな種類は要らないんだ。 「………ちッ」  絡み合いながら瞬く間に駆け去っていく二人を見送り、ヴィルヘルムは舌打ちしていた。 「まあ、どうせそうなるだろうと思ったがよ」  それでも腹立たしさは拭えない。深く息を吐いて気を静め、ようやくのことで顔を上げた。 「こらイザーク、てめえ調子いいこと言いやがって。しっかりかましてくれんじゃねえかよ。 つっても、私に調子などというものはないってか? おお、だったらそりゃそれで構わねえがよ」  間を置いて、含み笑うヴィルヘルム。彼はそのまま、宣言するように、低く言った。  次は誰にも邪魔させない。これだけは譲らないと。 「ああ、俺の望みってのは、今も昔も一つなんだからなぁ」  そして踵を返し、その場から去っていく。これから城内で起こるだろう戦闘には、すでに興味をなくしたようだ。 「間違ってもくたばるんじゃねえぞ、馬鹿野郎。てめえを消すのは、俺なんだからなぁ」  それは、誰に対する言葉なのか。  ただ薔薇のように赤い瞳が、血への渇望に燃えているのだけは確かだった。  アルフヘイムで破壊の嵐が吹き荒れていた時、その暴風とは対照的に遅々とした歩みが城の中を這いずっていた。  それは何らかの意図があってそうしているのではない。隠れ忍んでいるわけでも走るのが億劫なわけでもなく、今のそれに可能な全速力が、文字通り地を這いずるという行為なのだ。  さながら、蟲と言うしかないだろう。翼がなければ羽もなく、四肢は右腕と左脚が残るのみで、まさしく地蟲の有様だった。  その無様さ。惨めさと矮小さ。  絢爛たる黄金の居城において、これほど卑しい存在も珍しい。ただいるだけで周囲の美観を損ねる塵屑は、しかし這いずりながら笑っていた。 「ふ、はは、は……」  狂を発したわけではない。事実もう、それの中に、血迷うほどの中身はなかった。ここに這いずってくるまでの道中で、血も内臓も残らず零しつくしている。  では、なぜ笑うのか…… 「ああ、痛い……」  ああ、苦しい。 「ああ、目が眩む……」  ああ、舌が震える。 「ああ、今、私はこんなにも……」  こんなにも、必死になって生きている。  と、それは歓喜していたのである。  蟲であり塵屑の名はヴァレリアン・トリファ。彼はシュライバーに致命傷を負わされながらも、暴走して自我をなくした凶獣の目を盗み、まんまと逃げおおせていたのである。  実際に、そう難しいことではない。今のシュライバーは命に反応しているのだから、瀕死となったトリファは目にも鼻にも掛かりにくくなるだろう。  ゆえに、狙い通りと言えば狙い通りで、これを成功と言えば成功と言えなくもない。  だが、ここまでの肉体的損傷と苦痛を良しとする精神は、いったいどういうものなのか。  そして、ここまでの犠牲がなければ成しえぬ成果とは如何なるものか。  依然、這いずりながら進むトリファは、しかし変わらず笑っていた。自嘲するように口を歪め、血に噎せつつも後悔の念を見せてない。 「申し訳、ありませんねえ……リザ、それにマレウスも…… 結局、私はこういう男だ。いくらか肝が据わったところで、性根はあまり変わっていない。 まあ、すぐに参りますから、小言ならばその時に…… 今は、目的を果たさねばなりません」  そう呟く彼の前には、玉座へ続く巨大な門。ラインハルトの下に辿りつくため、彼はリザとルサルカを利用したのだ。  単独で大隊長三人を突破するなど誰にも出来ない。ましてその内の一人とは、絶対的に相性が悪すぎるのだ。ゆえに自分だけで事は成せないと弁えつつ、他の二人を捨石にした。己がここまで来れるよう、チェスのように駒を進めていったのだ。  もっとも厄介なマキナをルサルカに押し付けつつ、リザとエレオノーレの確執に付け込んで聖餐杯を返上し、かつシュライバーと対峙すること。その上で〈白化〉《アルベド》の枠を可能ならば破壊、無理でも染みを発生させる。  そして今、ただ一人……最終的な目的である言上の瞬間を迎えている。 「開、門……!」  振り絞った声と共に、玉座の間へと道が開いた。自分の望み、自分の願い、その総てを叶えるために。  生まれ持った塵屑同然の己として、彼は至高の黄金に拝謁する。 「来たか。大儀だ聖餐杯。いや……今は何と呼べばよいのかな」  三つの地獄を潜り抜け、何もかもと引き換えにここまで辿り着いたトリファに向けて、ラインハルトは常通りの態度を崩さない。  すなわち、天上天下に唯我独尊。王の威厳と愛をもって、足下に蹲る蟲の奮闘を讃えている。 「実際、少なからず驚嘆したよ。卿が私から離れられるとは、正直思ってもみなかった。 お陰で楽しめたと言うべきだろうな。問うが、何が卿をそうさせた?」 「さて……」  命は、今にも消え去る寸前。ここまで保ったのが奇跡に等しく、次の瞬間にもトリファは事切れてしまいかねない。  にも関わらず、彼は何ら焦っているように見えなかった。むしろ会話を楽しむような気配さえ見せ、血の気の失せた頬を苦笑の形に歪めている。 「仰る意味が分かりませんね、ハイドリヒ卿。臣が道化であることは、あなたにとって不都合でしょうか? 私が変わったということが、問題になると、あなたは仰るのでしょうか?」 「問題がある、などとは言っておるまい」  応じて、こちらも楽しげに笑うラインハルト。彼は当然気付いていた。  この会話が、いつぞやの時とまったく同じ流れであることを。ここで既知感でもなぞるつもりかと。  ああ、つまり、これがトリファの答えなのだ。ラインハルト・ハイドリヒに意図して既知を叩きつけるということは、すなわち彼に対する叛意の証明に他ならない。 「何がそうさせた、などと、それこそ愚問というものでしょう。私が己を曲げる可能性を持つとすれば、たった一つしか有り得ない。 他ならぬ、テレジアが、我が聖道を歪め始めた。彼女に自覚はなかったでしょうが、あの選択はそういうことだ」  黒円卓の内部分裂。そこに席を置く者ら全員に争いの火種を撒くというなら、連座である特定の人物を引っ掛けてしまう可能性が生じる。  理屈ではない。根拠は何だと言われても答えられない。ただそうなるような気がしたのだ。どうしようもなく、致命的に。 「ヨハンは生きている」  だからその爆弾を投げた。本当にそうなるのか。ならないのか。単に見極めるためだけなら、あまりにもリスキーすぎる札を切った。それはなぜか? 「私はね、ハイドリヒ卿……ずっと分からなかったのですよ。 テレジアを愛している。何よりも大事に思う。この気持ちが誰のものか、分からず、見えず、迷い続けた」 「今回、彼女の無謀な真似も、もしやイザークの意志なのでは……と、疑いましたよ。だってそうでしょう。 彼はヨハンに逃げられている。ゆえに捕まえようとしているのでは、と。 そして仮にそうならば、私の愛は誰に向いているのだろう。何処から生まれているのだろう。考えて、考えて、考え続けても答えは出ない」  だから、確かめるしかなかったと言う。賭けに出て、結果がどうなり、そのとき己が何を感じ何に変わるか。  あるいは、どうなろうと変わらないのか。 「結果は凶。私の目論見は他ならぬテレジアにより崩されて、この身は聖餐杯と乖離を始めた。 本来なら絶望して然るべき事態でしょうが、笑いましたよ、盛大に。 なぜなら今も! この時も! 私はテレジアを愛していると分かったからだ!」  ゆえに忠勤という名の反逆を起こし、この状況を生んだのだと、死に瀕しながらもトリファは朗々と謳いあげた。ラインハルトは、そんな彼を見下ろして柔らかに語りかける。 「黄金の代行、クリストフ・ローエングリーン……奇跡を得るためその座に固執し、六十年間縋り続けた聖餐杯こそ、卿の業だ。 なぜなら私の愛は、破壊の情」 「ええ、私がそれを求める限り、この手は何も掬えない。 副首長閣下は正しかったというわけですね。私が逃げ続けている限り、そこには愛児の屍が積みあがっていく。 ならば、前に向かうと悟ったまでです。我が手を引いてくれた最後の愛児を、この忌まわしき地獄に落とさぬよう。落としてしまった子らを解き放てるよう。私は今、ここにいるのです、ハイドリヒ卿」 「素晴らしい」  賛辞は、真実の響きだった。ラインハルトはトリファに対し、本気の賞賛を送っている。 「カールの呪いよりの脱却、見事だ。未だ達せぬ者として、先人に敬意を払おう。その身は光り輝いて見えるぞ、ヴァレリアン・トリファ。 卿は今、真実の白鳥となったのだ」 「光栄ですが、気が早いですよ……」  まだ、己の選択が業を突破したかどうかは分からない。トリファはそう言って言葉を継ぐ。 「テレジアが、愛児達が、救われなければ意味などない。カタチだけを見るならば、私は彼らを追い詰めただけなのだ」  現状、総てはラインハルトに都合よく回っている。そうなるように仕向けるのがトリファ流の反逆なのだから当然だが、このままいかれては自分でギロチンを落としただけの間抜けにすぎない。 「それに正直、後ろ暗いこともある。私は私の都合のみで、テレジアに重い罪悪感を与えてしまった。リザを道連れに巻き込んだ。この所業は邪なる聖者のものに他ならない。 ゆえに……」 「ああ、分かっている。違える気はない。約束したであろう」  この場に辿り着けた者の願いを叶える。たとえそれが自身の破滅を意味しようと、総て聞き届けるとラインハルトは明言した。トリファが玲愛や子供たちの解放を願うなら、違えることは出来ない。 「城の法でな。私が等価と定めたものを受け取れば、英雄の願いを断れん。 さあ、欲しい〈黄金〉《キセキ》を言うがいい」 「では……」  間を置き、そしてトリファは願いを告げる。  ここに今、ことによれば魔城そのものが崩壊するやもしれぬ絶大な取引が成立するのだ。その結果に、その選択に、誇張ではなく世界の命運がかかっている。  邪なる聖者と呼ばれ続け、そこから脱却したいと願う男が、墓の王に求める奇跡は…… 「一度でよい。イザークとお話になられてください、ハイドリヒ卿」 「………なに?」  そんな慮外な、何の意味もないようなこと。ラインハルトが眉を顰めて訝しむほど、それは理解不能な願いだった。 「どういう意味だ?」 「言葉通り、そのままに。あなたは彼の出生をどう捉えておられるか?」 「どう、とは何だ?」  引き続き、ラインハルトは疑問を口から出している。珍しいを通り越して異常事態と言っていい。 「眼中にないのでしょう。あなたにとって己以外は、等しく破壊の愛を与える対象でしかない。 誰が、何者で、何処より生じ、何処へ向かうかなどご興味ない」 「ゆえに考えたこともないのでしょう。私が先ほど申したことも、聞き流しておられるのでしょう」  自分の愛が何処から来るのか、誰に向けられているのか分からないゆえ狂おしい。トリファは確かにそう言ったが、その文言はラインハルトの胸に届いていない。  なぜならこの黄金に、それは欠落している思考だからだ。桁外れと言うのもおこがましい器を持ち、全世界を覆い尽くさんという王の〈業〉《アイ》は平等すぎて、特別な他者への執着など理解できない。 「それをあなたに、深く考えていただきたい。破壊の愛は、真に総てを照らしているのか……私が望むのはそれのみです。親に見限られる子の嘆きなど、もはや二度と見たくないのだ」  言いながら、トリファの身体から生気が急速に失せていく。目的を果たした安堵からか、これまで奇跡的に繋ぎとめていた命の火が、今にも消え去ろうとしていた。 「些細な、見落としがあるのですよ……昔、この私が聖餐杯を試験的に賜った際、暗殺されたとして墓まで用意されていた玉体が、ほぼ完全な無防備になっていた一瞬の空隙……」  あれはそう、1942年、六月の出来事で…… 「常より五倍は成長の早いイザークは、その八月に産声をあげる……そして彼の母親は、言うまでもなくリザ・ブレンナー……さあ、見えてくるものがあるでしょう? それと同じなのですよ」  今際の際の独白に、ラインハルトは何も言わない。彼が考えていることも、事の真偽も、結局不透明で分からない。  ただ確実なのは、トリファが何かの勝利を信じるように、満ち足りた顔で逝こうとしている事実だけ。それのみが、この場で分かっている総てだった。 「あなたは、強大すぎて見落としていることがある。イザーク然り……」  そして、何だ? 「どうか是非とも、我が願いを聞き届けていただきたい。それさえ叶えば、私は本望……テレジアの、我が愛児の勇気に殉じたい。彼女が思い描いた〈計略〉《りそう》のカタチに、私が最後のピースを嵌めたのだと……リザに自慢が出来たなら、ああ、それはなんて幸せな……」  幸せな、勝利だと小さく漏らして…… 「褒めてください。私は最期の最後、今この時だけは、逃げずに生を全うしたのだ……」  ヴァレリアン・トリファは、そのまま塵と化し消えていった。 「………………」  一人残された玉座の間に、沈黙が下りてくる。ややあってラインハルトは立ち上がると、先ほどまでトリファが蹲っていた所へ歩み寄ると膝を折った。  もはや塵すら残っておらず、血痕すら消え去ろうとしているそこへ手を置き、低く囁く。 「勝ち逃げか、神父よ。だが逃がさんぞ」  ここは〈至高天〉《グラズヘイム》・〈第五宇宙〉《ヴェルトール》。戦死者達の殿堂であり、無限の復活を生む地獄である。ゆえにこの場でトリファを蘇生し、再び喋らせることも不可能ではない。蘇った死者は戦奴として、ラインハルトに逆らえないモノになるからだ。 「卿の口上、興味深い。これより無限の彼方まで、私を楽しませると約束しろ」 「で、あるならば、一時の眠りを許してやろう。契約外だが、これも褒美の一種と思え。 ああ、心配するな。願いは叶えて遣わそう。だが、その前に……」  顔を上げた彼の背後へ控えるように、黒化と赤化の英雄達が現れていた。それぞれリザとルサルカを破壊して、主の下へ参じたのだろう。  ラインハルトは振り返らず、己が手足である彼らに命じた。 「最後の客をもてなそう。加減は要らん。本気でやれ。 ああ、今は無性にそんな気分だ。私を楽しませるがいい」 「〈心得ました、我が主〉《ヤヴォール・マインヘル》」  そして暴嵐が近づいてくる。もうすぐ、ほらすぐ、今そこに―― 「これが〈怒りの日〉《ディエス・イレ》の前哨戦だ。さあ、存分に乱れようか」  城を揺るがす鬨の声が溢れ出し、次の瞬間――  大音響の爆発と共に、玉座の扉が砕け散って客の到来を告げていた。  狂乱する嵐は城内を跳ね回り、周囲を瓦礫に変えながら疾走する。 「Gib deine Hand, du schön und zart Gebild!」  今のシュライバーに意識はない。自我などとうに吹き飛んで、ただ無制限の殺戮を発生させる死の風と化していた。  その暴嵐――猛り狂う凶獣を相手取り、台風の目とも言える中心に在るのは彼――いいや、彼女だった。 「―――、ッァァ」  蓮の自我を意識下に封じ込め、代わりに表出しているのはマリィ。端的に言えば聖遺物の暴走だが、これはそうした負の表現で括られる事象ではない。  彼女は彼を守りたいと思っている。その魂を救ってやりたいと願っている。なぜなら藤井蓮という少年は、たまに腹が立つほど男だから。  泣きたいくらい悲しいときも、逃げたいくらい怖いときも、いつだって痩せ我慢、空元気。傷つき、血を流すのは自分の役目だと言わんばかりに、なんでも引き受けようとしてしまう。  だから、この現状を彼に渡してはいけないのだとマリィは思った。  香純が死んだ。司狼が死んだ。エリーが死んだ――氷室玲愛が戻ってこない。  そんな現実、一度に総てぶつけたら、蓮はきっと壊れてしまう。自分一人だけを責め続け、誰にも痛みを渡そうとせず、内から崩れていくだろう。  それは嫌だ。させてはいけないことなんだ。 「わたし――」  わたしだって同罪なのだから、と。 「わたしも、ううん――わたしが悪いの」  螢に言われたことを思い出す。面倒な女だと思われるのが嫌だったから、理解のあるふりをして玲愛のところへ蓮を行かせた。それが香純を見捨てる結果になったのは不幸と言うしかない偶然だが、運が悪かったの一言で片付けられる問題じゃない。 「一緒にいられるって思ったの。一番近くにいられるって思ったの」  蓮の隣は自分の席。そんな調子付いた思い上がりが、彼から太陽を奪ってしまった。  香純は要らない。要るのは自分。だからそれを嬉しく思い、アイデンティティのように思った罪。  それが、香純の死というカタチで現れた。事の因果など関係なく、マリィはそう思っている。そう思わないと卑怯すぎる転嫁だろう。  だから、これが罰なのだ。思いつく限り最悪の状況に巻き込まれたこと。  イザークの地獄巡りは容赦なく、魔城に取り込まれた者のすでに大半が斃れている。  ならばこそ起死回生――絶望のグラズヘイムを吹き飛ばせるよう、命を懸けるのはもっとも罪深い自分でなければならない。  彼の太陽を奪った暗黒を、必ず切り払ってみせると胸に誓う。そうした意味で、今のマリィはまさに究極的な覚悟と戦闘思考を持っていた。蓮の渇望を借用し、無理矢理喚起させるほどシンクロ率は高レベル。  研ぎあげられた〈殺意〉《やいば》の鋭さ。それを揮う技術の精緻さ。まさしく断頭台の姫に相応しい。斬首という理において、マリィほど長けている者は存在しないと断言できる。  だが―― 「――――――」  未だ、その斬撃は掠りもしない。言ったように技術は極限。覚悟も至高。速さにおいては形成時の四百倍を超えている。蓮の創造は時の体感速度を遅らせることによる超疾走だ。それと同調しているマリィの目には、総てのものが止まって見えるはずなのに。 「なんで――」  シュライバーの速さを追いきれない。停止同然に遅まった世界の中で、〈白騎士〉《アルベド》だけが超速の流星と化している。 「Und rühre mich nicht an――Und rühre mich nicht an!」  空を爆砕する衝撃波を纏いながら、魔城を震撼させる凶獣の轟哮――理性は欠片も残らず吹き飛んだ状態で、なお口にしているその文言は何なのか。  私に触れるな。私に触れるな。近寄るな、去れ死神よ――消えろ消えろ私に触れるな。 「触れない――」  つまり、これはそういうことだ。  ウォルフガング・シュライバーは、肉体の接触を狂気の域で忌避している。その渇望を満たすために選んだのが、誰にも追いつかせず誰にも触らせないという禁断の魔高速。ゆえに彼が発揮し得る速度には限界がない。  五百倍、六百倍――時速に換算すれば冗談の領域に達している今のマリィを、シュライバーは悉く上回った。その事実に彼女は恐怖し、愕然とする。  そう、たとえどれほどの刃であろうと、当たらなければ意味がない。触れないことには、マリィであろうと斬首することは出来ないのだ。  最悪の相性であり、最悪の状況だろう。双方共に無限の速度を発揮するのは同じだが、技の前提が異なっている。  どこまでも速く駆ける者と、誰よりも速く駆ける者。  この競い合いでマリィが光速に達したとしても、シュライバーはそれすら上回るに違いない。理論上、彼は相手が速ければ速いほど加速するのだ。  なまじマリィが優れていることが仇になる。この組み合わせは、狂乱の〈白騎士〉《アルベド》を最強に変えるカードだった。  振り下ろした一閃は、残像を両断しただけで空を切る。同時に、側頭部が爆発するような衝撃を味わった。 「あッ―――きゃあッ――」  蹴りか――それとも拳か肘か? もはやそれすら判別できない。だが視界に混じる血の霧は、お互いの身体から噴出したものだろう。  シュライバーは接触を忌む。にも拘らず攻撃手段は徒手空拳による肉弾だ。それは異常を兆倍した矛盾に他ならない。  己の渇望、己の世界、その理を発揮しながら破壊している。  何だこれは? 何なのだ? 「あなたは――何より自分を消したいの?」  触られない世界を求めた以上、触られれば崩壊する。ゆえに本来シュライバーは、高速機動する紙細工であるべきだろう。渇望を壊されるとは死と同義なのだから、触れた瞬間に崩れ去るのが理屈というもの。事実、攻撃を繰り出した部位が、鮮血を噴いて壊れているのに―― 「Ich bin noch jung, geh, Lieber!」  今の彼は、そんなことすら忘れている。地獄の底まで破綻した魂が、自身の矛盾を認めていない。  触れれば壊れる。触れれば死ぬ。しかし己は〈死の世界〉《ニブルヘイム》――断崖の先で永劫の殺戮に酔う不死不滅の〈英雄〉《エインフェリア》だ。  その狂信が、世界の崩壊を認めない。壊れようが破綻しようが、一切意に介さない。  悪鬼の理とはこのことか。矛盾の狂気とはこのことか。  殴った腕が崩れようと、シュライバーは気づかないのだ。接触の事実すら認識することが出来ない以上、致命崩壊は起こり得ず、魔性の法理に従って傷の超速再生を開始する。  すなわち、より多く殺した者ほど強くなる。  接触忌避という渇望を持つゆえに、シュライバーは肉体的頑強さを持ち得ない。しかし代わりに、彼が喰らい続けた者達は再生燃料として機能するのだ。  今このとき、この一点――〈白騎士〉《アルベド》が真実の凶獣と化した状態でのみ、まさしく最速の再生を可能にしていた。  狂う狂う凶気の殺意。壊れて壊れて渦を巻く。  我は暴嵐、絶速の人外――天地を喰らう〈悪名の狼〉《フローズヴィトニル》。  そう、より多く殺した者ほど強くなるのだ。  破壊と再生を同時に繰り返す彼の〈軍勢〉《レギオン》――怨念の源である右目に詰め込んだ死者の数は、実に十八万五千七百三十一人。  雑魂の塊ではあるものの、単純な数で言えばマキナとエレオノーレの三倍以上だ。直接殺した人数の世界レコードに間違いなく、今も昔もそして未来も、これは絶対に破れない。  ゆえに―― 「Gib deine Hand, du schön und zart Gebild!」  マリィがどれだけ覚悟を決めて、どれだけ健気に立っていようと、今のシュライバーを斃すことは日を西から昇らせるよりも不可能なことだった。 「――――――」  弾き飛ばされた衝撃にもんどりうって、しかし即座に態勢を立て直す。見回せば、そこは開けた玉座の間だった。 「ようこそ、よく参られた。我が城、楽しんでいただけたかな」 「ぁ――――」  その声、その顔、そして奈落のようなその魂……マリィの中に恐怖の心が込み上げてくる。  ラインハルト・ハイドリヒ――  これでは地獄からの脱出どころか、最深部に導かれたのと同義ではないか。 「イザーク……」  あの子供、確かそういう名前だったか。どこまでもやってくれると言うしかない。  歯噛みするマリィに目を向け、ラインハルトは眉を顰めた。  そして、優雅に微笑する。 「これはこれは。随分と奇矯な形で再会となったものだな。いや、面白い」  彼は、今現在表出しているのがマリィであると気づいていた。黄金の瞳が総てを見透かし、そしてまったく驚いていない。  面白いなどと言っていたが、これもまた何も感じていないのだ。イザークと同様に、感性が狂っている存在だろう。  いや、あるいは、擦り切れているだけなのか。 「予想外とはいいものだ。それが既知あれ、未知であれ、悪くない。 ふふふ、どうかな、この状況。カールは慌てているのかね? それとも笑っているのかね? 知りたいな。そして卿の歌舞も見てみたい」 「―――――」  背を向け、玉座へ上っていくラインハルトに連動し、再度の轟音が爆発した。壁を粉微塵にして突き破り、シュライバーがやって来る。  そして、この場の敵はそれだけじゃなかった。 「言った通りだ、加減など不要。――楽しませろ」  玉座の両端に控えていた〈赤騎士〉《ルベド》と〈黒騎士〉《ニグレド》。魔城最強の大隊長三人を、同時に相手取るという展開が―― 「御意。仰せのままに」 「…………」 「Bin Freund und komme nicht zu strafen――!」  今、極限の絶望と共に幕を開けた。 「そんな……」  当惑どころの話ではない。シュライバー一人にすら対抗することが出来なかったのに、それと同格の怪物が二人もいる。  加えて、玉座にはラインハルト。  これでは、王の前で舞う道化にすらなれそうにない。 「―――つァッ」  咄嗟の反応でシュライバーを回避したが、この後いったいどうすればいい。  蓮の肉体はすでに相当な傷を負っている、一刻も早く逃げるべきだが、それは目の前の三人が許さないだろう。  ならば、最低でも誰か一人。包囲網の一角を崩さねば、待っているのは押し潰される運命だけだ。 「――――――」  先ほどまでとまったく同じ、絶速の嵐と化して狂乱するシュライバー。これの相手は手に余る。  それなら、他の二人はどうなのだ? マリィは万分の一秒以下でその答えを即決し、再び神速の刃となった。 「ほぉ…」  狙うのはエレノーレ。完全な勘だったが、もう一人の鋼鉄は不吉すぎる気配を放っていた。あれと正面切るのは絶対に得策じゃない。  だからこそ、ここでの標的に〈赤騎士〉《ルベド》を選ぶ。シュライバーには追い越されたが、蓮の渇望が非常に強力なものであるのは疑いの余地もない。戦いにおいて速度差が明暗を分けるのは、すでに身をもって経験しているのだから。  駆けて、駆け抜けて、刹那もかけず間合いへ入り、紅蓮の女騎士へとギロチンを落とす。この一撃で近衛の一角を崩せれば、あるいは光明が見えるかもしれない。  だからお願い。どうかこのまま思い通りにいってほしい。蓮を守って、彼の世界を抱きしめて、罪を償い役に立ったと褒めてもらえるように――  祈るような、一瞬。しかし結果は―― 「舐めすぎだな」 「―――――ッ」  あろうことか、千倍の加速を発揮していたにも拘らず、側背から迫ったマリィはエレオノーレに喉首を掴まれていた。 「なんで……?」  どうして? なぜ読める? 速度は明らかにこちらの方が上だった。仮に偶然であったとしても、避けるならともかく捕まえられるなど有り得ない。  なぜ自分は、彼女の挙動を見切れなかった? 「私を何だと思っている。これでも英雄の一角だぞ。 千の戦場、万の殺し合い。一言で言えば経験だ。速かろうが見えなかろうが、一直線すぎる殺意など欠伸が出るよ。至極読みやすい。 翻して、読まれにくくする術もある。虚と実、基本だ。 戦士と殺人狂を、一緒にされては困るな」 「くあァッ――――」  そのまま床に頭から叩きつけられ、衝撃と共に意識が眩む。凄まじいばかりの怪力で、喉元を掴みあげている手を振り解けない。 「さあ、我らが君を失望させるな」  次いで、人形のように投げ捨てられる。宙を飛びながら向かった先には、無言で拳を握り締めている黒の騎士。 「―――――」  そのとき、マリィは直感した。先ほど感じた不吉さは気のせいじゃない。  あれは駄目だ。絶対駄目だ。あの拳に殴られたら死んでしまう――  だから、あれと蓮が戦う未来を封じないと――  振り下ろされる鋼鉄の拳。やはり速さはそれほどのものじゃない。  ゆえに躱せるはずだ。躱さなくてはいけない。全身全霊を振り絞り、回避にのみ専念しろ―― 「うッ、わああああああァァッ―――」  空中で錐揉み状に身体を捻って、紙一重の回避を実現させた。しかし拳圧の威力が轟風となって、マリィを彼方に吹き飛ばす。  それを待ち構えるように喰らい付いてきたのはシュライバーだ。間一髪で頚動脈を庇ったが、上腕の肉がごっそりと噛み千切られて大出血を引き起こす。 「レン――!」  ああ、レン。どうしよう。どうしよう。  あなたに無断であなたの身体を使っているのに、助けるどころか負傷ばかりさせていく。これじゃあ最初からわたしなんて、いないほうがよかったの? 「――違う!」  そんなこと、ない。そんなのは嫌だ。  自分たちの出会いには必ず意味があったのだと信じたいから、それを証明するためにもこの局面を切り抜けないと―― 「あきらめちゃ、いけない!」  絶叫と共に力の限りを振り絞って、過去最高の加速を発動させた。その倍率は、実に形成時の三千倍。 「わああああああああぁぁァァッ――」  閃光と化し、無敵を謳う〈不死英雄〉《エインフェリア》へ吶喊する。狙いを定めている暇もなく、一番近くにいたマキナへと切りかかった。  今度は絶対に回避させない。読みや勘でどうにかなる次元を超越したスピードだ。唸りを上げる斬首刃が、奇跡の速度で標的の首に叩き込まれる。  なのに―― 「え………」  なのに、なのに、今度は何だ? なぜ命中しているのに切り裂けない!? 「信念が足りん」  鋼の軋むような声が、ぼそりと流れた。 「逃げる気でいるのだろう。俺たちを残らず殲滅する気がないのだろう。一人斃し、あるいは制し、綻びを衝いて逃走することに気を割いているのだろう。それではぬるい。 俺も言わせてもらおうか。舐めるな」 「ひっ―――」  まるで蛇に睨まれた蛙の気分だ。〈黒騎士〉《ニグレド》の殺意――あるいは怒気か――にあてられて、マリィは全身硬直を起こしていた。 「俺の聖戦を愚弄するなよ、娘。奴を出せ。 おまえなど捻り潰したところで、俺は永遠に終われない」 「だ、だって……」  自分はレンを守りたくて。こんな修羅場に彼の魂を晒したくなくて。  いっぱい傷ついているんだもの。いっぱい我慢していたはずなんだもの。  だからわたしは、彼を抱きしめてあげたくて…… 「死を感じねば目が覚めんか、兄弟。 いいだろう。この娘、殺す」 「――――――」 「総て失え。おまえの不甲斐なさが皆を殺すのだ。 俺のように、あらゆる不純物を削ぎ落とすがいい」  そのとき、だった。 「え―――」  マリィの意志に反して身体が動く。硬直状態だったにも関わらず、一足飛びに後方へ跳躍していた。 「レン――」  もしや、彼が起きたのか? だけどその気配を感じられない。  じゃあ、これはいったい何なのだと、疑問を懐くが、しかし―― 「きゃあああああ――」  まるでいきなり空気が爆発したかのように、宙にあったマリィは撃墜されていた。 「あまり飛び回られても面倒なのでね。区画を限定させてもらったよ。この檻からは出られん」 「――――――」  見れば、空中に極小の火種が数万単位で浮いている。その一つにでも接触すれば、弾け爆発するということなのか。  なんという非情。なんという徹底ぶり。これはまさしく炎の檻で、触れれば燃やされる結界だ。エレオノーレは微塵たりとも、マリィを逃がす気などないらしい。 「まあ、それも人並みの神経を持っている相手に限るわけだがね」  そしてその言葉の意味は、即座に判明することとなる。 「Und rühre mich nicht an――Und rühre mich nicht an!」  殺意の嵐を身に纏い、シュライバーが駆けて来る。己に触れるなと絶叫しながら、しかしエレオノーレの結界に片っ端から激突していた。 「長い付き合いだが、初めて見たよ。しかしなるほど、これは確かに凶獣だ」  百の爆発、千の焔に焼かれながら、それでもシュライバーは止まらない。炭化した皮膚も、接触を起こしたことで弾け飛んだ四肢も、瞬く間に再生していく。その増殖には終わりがない。 「興味深いな。今まではただの狂犬と思い捨て置いたが、ここまで徹底すれば〈狂戦士〉《ベルセルク》だ。剣を抜きたくなる。 私の全力を受けてなお、これは動けると思うかね。どうだ?」  問いに答えられる余裕など、マリィにはない。 「きゃあああ――」  炎を突き破ったシュライバーに吹き飛ばされ、その先で火種に激突し、弾かれる。落ちた先には鉄拳を握り締めたマキナがいて―― 「漢の戦場だ。消えるがいい、娘」  振り抜かれた破滅の拳――その直撃を受けてしまった。 「無力だな」  憐憫すら浮かべて失笑するラインハルト。 「それでは誰も守れまい」  そう、誰も。誰一人として、掬い取れず手から零す。 「卿の嘆き、胸に迫るよ。人類共通の悲しみだ」  悪鬼羅刹の王として、墓に君臨する男が人類種の悲哀を謳う。 「ゆえ、それを埋めるために私はきた」  どうやって? 何のために? おまえは他人の魂をしゃぶりつくすのが好きなんだろう。 「絶望を奏でろ。哀絶を歌え。卿ら、私を楽しませる楽器であろうが。〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を聴かせてくれよ。 さすれば、そう、奪われたものを返してやるぞ。 テレジアの命と引き換えにな」 「――――――」  その言葉が、“俺”の魂を完全に焼き切った。 「――――――」  突如生じた魔城の揺らぎに、イザークは奇妙な感覚を味わった。  なんだこれは? 理解不能。〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈が〉《 、》〈震〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  城の魂を統制できない。解れ、歪み、事象の中心から悉くが飛散していく。  まさか、まさか、有り得ぬ不可思議――黄金の幕下にある戦奴の群れが、私の制御下にある英雄達が、恐怖し逃げようとしているなどと。  認めぬぞ。我は〈至高天〉《グラズヘイム》の〈中核〉《しんぞう》なり。  何人たりとも何があろうと、地獄の法は覆させぬ。  絶望を。絶望を絶望を――歓喜と共に断崖の先を知るがいい。 「藤井くん……」  彼の声が聞こえた気がした。彼が慟哭しているのが分かる。  泣かないで。ねえ、お願いだから泣かないで。  キミがそんなに悲しんでたら、私も泣きたくなっちゃうから。  こんな物騒な女は忘れて、キミは幸せになってほしいの。  だから、生きて。死なないで。  私はどうなっても構わないから、キミだけは生き延びて。  お願い。お願い。神様、本当にお願いします。  藤井君を、大好きな彼を助けて―― 「レン……」  終幕の一撃を受けたことで黄昏に戻される落下の中、入れ替わりに浮上していく彼の魂にマリィは叫ぶ。 「ごめん――わたし、ごめんなさい!」  何の役にも立たなくて。何の力にもなれなくて。 「結局、全部レンに押し付けちゃう……!」  どうしたらいいの? どうすればいいの? どうやったらわたしもあなたの力になれるの?  お願い。誰か答えを教えてください。  それさえ分かれば、彼の嘆きを止める方法さえ知らせてくれたら―― 「わたし、なんでもするから――!」  その、切なる絶叫に応える声。 「では――」  それは神か、はたまた悪魔か、どれでもあってどれでもない。 “座”の中心にあるモノが、含み笑って〈指揮棒〉《タクト》を振る。  満悦の相で、舞台監督のように、心からの祝福と愛を込めて。 「 」  瞬間、“座”から流れ出る意志が、ここに一つの超越を具現させた。 「〈Die Sonne toent nach alter Weise In Brudersphaeren Wettgesang.〉《日は古より変わらず星と競い》 〈Und ihre vorgeschriebne Reise Vollendet sie mit Donnergang.〉《定められた道を雷鳴のごとく疾走する》」  紡がれる詠唱はマリィが行ったものと同一だが、しかし語りかける位相がずれている。それが証拠に今度は深く奈落のように、何処までも何処までも落ちていく殺意と憎悪の歌だった。 「〈Und schnell und begreiflich schnell In ewig schnellem Sphaerenlauf.〉《そして速く 何より速く 永劫の円環を駆け抜けよう》」  マリィが呼びかけたのは蓮の渇望。彼の魂にある輝きを喚起しようとしたに他ならない。  しかし今、この祈りは何処へ行く? 「〈Da flammt ein blitzendes Verheeren Dem Pfade vor des Donnerschlags;〉《光となって破壊しろ その一撃で燃やし尽くせ》」 “座”の中心――事象の根源たる蛇の所へ。 この世界においておよそ無二の存在に、力を寄越せと吼えているのだ。 「〈Da keiner dich ergruenden mag, Und alle deinen hohen Werke〉《そは誰も知らず 届かぬ 至高の創造》 〈Sind herrlich wie am ersten Tag.〉《我が渇望こそが原初の荘厳》」  その結果に発生するのは、グラズヘイムにも劣らない極限の異世界。 「〈Briah〉《創造》――」  すなわち、もう一つの地獄である。 「〈Eine Faust〉《涅槃寂静》――」  魔城が修羅道ならば、これはさながら〈氷地獄〉《コキュートス》。 「〈Finale〉《終曲》」  無限に凍結した永久停止の世界だった。 「―――ぬ」 「ぎィ―――」 「これは……」  その発現を前にして、地獄の住人であるはずの〈大隊長〉《エインフェリア》らは驚愕した。当然だろう、今の彼らは万倍を超える重力を被せられたに等しいのだ。  それは時間という、絶対論理で編まれた縛鎖。如何な悪鬼羅刹と言えども、この拘束からは逃れられない。 「ほぉ……」  ただ一人、笑みすら浮かべて見下ろしているのは黄金の破壊公。彼にも当然停止の強制は掛かっているが、一切意に介していない。 「覇道か。なるほど、それが現状の究極系というわけだな」  効果範囲はどれほどか。少なくとも蓮が認識している周囲総ては停止する。そして、その中でさえ、彼は己の時間を数千倍に加速させていた。  結果、何が起こるかは言うまでもない。 「おおおおおおおおぉぉぉォォッ―――!」  凶獣の轟哮にも劣らない雄叫びが放たれる。それによって壁が、床が、天井が――百万の地獄たちが粉微塵となり砕け散る。  踏み潰される髑髏の悲鳴すら追い越して、無間地獄が疾走を開始した。 「――――――ッ」  その標的は紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》。人選に意味はなく、単に一番近かったからというだけだろう。そんな理由でこの炎魔を、ムスペルヘイムの戦鬼を斬ろうとしている。 「おのれ――」  許せぬ、許せるはずがないだろう。 「図に乗るなァッ!」  迫る停止の魔人に向けて、放たれた獄炎は秒間千発を超えていた。その一つ一つ、どれをとっても、並みの者なら五十回は殺すであろう〈鏖殺〉《おうさつ》の噴流である。  しかし――  炎が止まる。停止する。蓮の間合いに入った瞬間、それらは総て動きを止めた。まさしく凍りついたと言っていい。  そして、無傷のまま炎陣を踏破すると、今や数十条にも分裂した刃が死の風となってエレオノーレに落とされた。 「ぐおおおおぉぉォッ」  瞬時に展開した炎の障壁も切り裂かれ、衝撃で玉座の最奥まで転げ飛ぶ。致命傷を避けただけでも超絶の技量であり、彼女であったからこそこれで済んだと言うべきだろう。  しかし、そんな理屈は何よりエレオノーレ自身が許さなかった。 「誰に、何を……やったつもりだ」  主の前で、無様に地を這わされた。  黄金の近衛である英雄が、匹夫のごとく狼狽えたのだ。 「舐めるなよ、人形風情が! 貴様の渇望ごとき、影も残さず蒸発させてくれるわッ!」  立ち上がったエレオノーレは大喝し、同時に絡み付いていた停止の縛鎖を弾き飛ばした。どれほど強力な技であろうと、所詮は創造――同じ位階である以上、鬩ぎ合いは可能なのだ。  そしてそれは、他の二騎にも同様のことが言える。 「Und rühre mich nicht an――!」  触るなと、近寄るなと、絶叫する凶獣も時の縛鎖を粉砕した。蓮にとってもっとも難敵なのは彼であり、速度を競う戦いになれば狂える〈白騎士〉《アルベド》は捉えられない。 「ようやく目が覚めたというわけか」  無論、彼とても例外ではなかった。触れたもの総てを終焉させる鋼鉄が、寂びた声音に僅かな喜悦を滲ませている。 「俺の獲物だ。退けよ貴様ら――と言っても聞かんかな」 「――ふん」 「…………」  返答は、鼻で笑う声と唸り声。どちらも愚問だと言っている。  彼らは主に絶対の忠誠を誓っており、その黄金が楽しませろと言ったのだ。  ならばそれは、地獄に相応しい舞踏をもって応えねばならないだろう。 「〈死者の舞い〉《トーテンタンツ》だ。気に食わぬなら来いよマキナ。貴様とは一度ケリを着けておきたかった。そしてシュライバー、貴様もな」 「屍となっても踊り続けるか」 「〈城〉《ここ》らしいだろう」  つまり、敵味方を無視したバトルロイヤル――それすら是だと言っている。なるほどヴァルハラに相応しい。  彼らは不死身のエインフェリア、この城内に在る限り何度死のうが蘇るのだ。主の興を満たすためなら、同士討ちすら歯牙にもかけない。 「より絢爛に、より華々しく壮烈にだ。御前で舞うなら首級を競うのが英雄だろう。譲りなどせんよ」  嘯いて、エレオノーレは背後から巨大な砲身を出現させた。 「餓、亜、我餓、覇……」  自我のないシュライバーも、研ぎ澄まされた殺戮の嗅覚で獲物の血を求めている。 「是非もあるまいな」  マキナもまた同様に、破滅の拳へ気を注ぎ込んだ。同輩二人が邪魔をするなら、皆殺しにしてでも蓮を〈殺〉《と》るつもりであろう。  そして、戦鬼三人から殺意を向けられている彼の方は―― 「殺す……」  こちらも同じく、微塵たりとも臆していない。  むしろ好都合だと、上等だと、極大の殺気をもって返している。  その絶対零度。総て凍らせてやるという赫怒の念。膨れ上がる大霊圧にグラズヘイムが震撼していた。 「クラフトの代替」 「やはり化け物の子は化け物か」  あれは何処か、ここではない何処か、人では届かない無謬の領域に繋がっている。言葉にして説明出来ぬが、マキナとエレオノーレはそれを直感で悟っていた。歴戦の英雄であるがゆえ、目の前の存在が紛れもない怪物であると理解している。 「Gib deine Hand, du schön und zart Gebild!」  そして、だからといってそれがどうした。条理を超えた怪物ならば、六十年間見続けている。 「魅せろ、美々しく舞うがいい」  不滅の黄金を超える怪物など認めない。  ここに今、神曲の最終楽章が開始された。  ――Neun. SS-Panzer-Division Hohenstaufen――  魔城に響く〈私生児〉《バスタルト》の思念。発生した異分子を排除するべく、イザークが地獄の軍勢を召喚する。  武装親衛隊第九師団――純粋なドイツ人のみで構成され、血の優秀性を謳いながらも壊滅した悲劇の部隊だ。その総てが、今は黄金の混沌に溶けている。  玉座の壁面から百門を超える砲塔が出現し、残らず蓮へと照準を合わせた。息をつかせる暇もなく、鉄風雷火が吹き荒れる。  それに続くのは三色の英雄達。  玉座を炎で埋め尽くし、瓦礫を塵へと変えながら、乱れ合う彼らの様はまさしく〈死者の舞い〉《トーテンタンツ》に違いない。  エレオノーレは自身の火炎に誰が巻き込まれようと気にもせず、マキナも破拳の流れ弾など無頓着だ。そして言うまでもなくシュライバーには、敵味方の概念自体最初から存在しない。 「おおおおぉぉォッ―――」  空転した拳がエレオノーレの頬を擦過して皮膚をこそぎ取る。 「燃え尽きろォッ!」  空間を爆発させる獄炎が、蓮ごとシュライバーを燃やしている。 「Vorüber, ach, vorüber! geh, wilder knochenmann!」  跳ね回る凶獣は、マキナの脇腹を抉り取っても疾走を止めようとしない。  ――Acht. SS-Kavallerie-Division Florian Geyer――  イザークは、そんな修羅場にただ鉄量のみを投入し続ける。  まさに地獄。まさに修羅の殿堂だ。弾ける戦意と殺意の混声合唱。たとえ天上の楽隊であろうとも、こうまで麗しく生と死の饗宴を奏でることは出来ないだろう。  そしてその中心には、血涙を流して吼える無間がいた。  言葉は届かない。思考は働かない。理性は憤怒一色に染まっている。  何よりも自分自身に。  誰一人救ってやれない弱さに。  壁があれば叩き壊すしか知らないくせに、それすら出来ずにいる無能。  おまえは何だ? 俺は何だ? 何を一人前に吼えている?  死者は虎バサミだと言われた。足を引くので邪魔だと言われた。  ならばどうする? どうすればいい?  鍵を探すために千の薔薇を摘み取るか。  前へ進むために足を千切るか。  それとも座り込んで共に腐るか。  嫌だ。嫌だ。総て嫌だ。  そんな選択はしたくないから、そもそも失いたくなかったんだ。  満ち足りた刹那を永遠にしたかったんだ。  ぶっ壊れたモノは戻らない。  過ぎた時間も巻き戻らない。  ああ、まったく、なんて馬鹿な渇望だ――無くした後でどれだけ止めても、意味は全然ないだろう。  許してくれ香純。  許してくれ司狼。  もう声は聞けないし喧嘩も出来ない。  手前勝手な自分理論でしか、おまえたちを測れないんだ。  生き返りたいのか? 眠りたいのか? それとも俺を殺したいのか?  俺も俺を殺したいよ。  おまえらのところに行きたいよ。  櫻井だって言ってたもんな。  それが一番幸せな結末だと、ああ、結構マジにそう思うよ。  なあ、だけど。  だけどさ、エゴい本音を一つだけ。  たった一つだけ言わせてくれよ。  俺はやっぱり、どうしても――  おまえらを、こんな城にしたくはないと思うんだよ。  再度の雄叫びに、無間地獄の渇望が弾ける。  炎も鉄も嵐も何も、残らず凍りつけと命令する。  そして―― 「均衡は崩れてきたか」  徐々に、だが確実に、永久停止の理が大隊長三人を捕らえていく。性質上、シュライバーだけは未だ拮抗しているが、マキナとエレオノーレは確実に止まり始めていた。  なぜなら、渇望の深度が違う。完全に跳ね除けることは不可能であり、僅かでも捕まれば明確な優劣が生じるのだ。現状、開放されたスワスチカは五つであり、そのぶん彼らが不完全な状態ということもある。  ゆえに今、ミリ単位で傾いていく天秤。  それが、ついに振り切れた。 「ぐッ―――」  最初に止まったのはエレオノーレ。彼女は性質上、マキナやシュライバーのような特化性能を持ち得ない。万能ゆえに隙がないのが強みだが、それは同格以上の敵と対した場合に決定力を発揮できない事実を意味している。  無論、〈赤騎士〉《ルベド》を総合力で上回る存在など絵空事に等しいのだが―― 「――死ね」  ここには今、それがいた。硬直したエレオノーレに、死を巻いて斬風が走る。 「甘いぞォッ!」  横合いから割って入ったマキナは、同輩を助けようとしているわけではない。単に戦場では、首を取ろうとする瞬間がもっとも危険であるという事実に忠実なだけだろう。  放たれた鉄拳は、刃の三本を粉砕した。それによってエレオノーレは、紙一重だが致命傷を免れる。首を三分の一ほど裂かれたものの、まだ死には至っていない。 「だったら――」  熾火のように燃える瞳がマキナを捉えた。そう、彼は三本の刃を砕いたのではなく、三本しか砕けなかったのだ。そこまで破壊を成した時点で、エレオノーレ同様に止まっている。 「おまえが死ね」  振り下ろされる断頭の一撃。自らの首筋に食らいついてきたシュライバーすら意に介さず、そのまま一気に斬首しようと――  したとき、だった。  耳に届く、何かが。  刹那、あらゆる意味を伝えてきて。  それを無視することは、無意識でも出来ず。    必殺の瞬間、蓮は自ら飛び下がっていた。 「―――――――」  負傷のせいではない。  限界がきたわけでもない。  情けをかけたわけでも正気を取り戻したわけでも断じてない。  ただ、魔性の本能で察したのだ。絶望的な事実を。 「どうしたね? 宴もたけなわというところだろう。白けさせてくれるなよ」  玉座から見下ろしてくるラインハルト・ハイドリヒ。  優雅に微笑しているその佇まいは泰然として、何ら暴力的なものを感じない。  それが、何よりも異常だった。  今、極限と言っても足りぬほどの密度をもって戦鬼の饗宴が行われていた。  この場に在る者は皆が鬼神の領域であり、渦を巻く殺意と戦意は天すら砕く咆哮となっていたろう。  だがしかし、これは何だ?  ラインハルトはその嵐を、涼風程度にしか感じていない。いや、彼の表現に倣うならば、耳に心地よい楽器の調べか?  何にせよこういうことだ。黄金は未だ遥か高みに在る。 「がッ――ぎ、ぐ……」  がくがくと、蓮の身体が震え始める。停止を解除されたマキナとエレオノーレは飛び退いて、シュライバーさえ何を感じたのか退避していた。 「ふむ……」  そんな状況を、ラインハルトはつまらなげに見回して。 「興が削げたな。よかろう」  立ち上がると、驚天動地の真似を実行に移した。 「卿の覇道、中々に面白い。ゆえ、試させてはくれんかな」  まるで照準を合わせるように、右手を前にかざして構えを取る。それが何を意味するか、即座に察したエレオノーレらは驚愕した。  やる気なのかと。  ここで今、その神威を揮うのかと。 「〈Yetzirah〉《形成》――」  収束する黄金光。魔城の全魂が渦を巻き、そこに形を持った〈宇宙〉《ヴェルトール》が顕現する。  それは最強にして究極の聖遺物。神を殺し、その血を吸った伝説の―― 「〈Longinuslanze Testament〉《聖約・運命の神槍》」  無窮の質量を弾けさせ、運命の神槍が形成された。 「――――――」  その神気、その霊力、規格外どころの話ではない。常人ならば穂先を向けられただけで蒸発し、黒円卓の戦鬼でも見れば気失は免れまい。  猛り狂う破格の波動を漲らせ、しかし黄金の声は対照的に、どこまでも穏やかで優しかった。 「これを止められる力量が有るか無しか。ああ、実に興味がつきぬよ」 「では、いざ参ろうか」  愛すべからざる光の一撃――力の解放を渇望して、数百万の戦鬼が鬨の声をあげている。  その直撃を受けて生き延びることは不可能であり、停止させられるとも思えない。  だが――  このとき、蓮は――  そこに、何を見たというのだろう。 「見事、よくぞ槍を抜かせた」  それが何を意味するのか。 「これより、流出の兆しが生まれる」  そうなったらどうだと言うのか。 「さあ、私の〈聖遺物〉《うつしみ》として意義を果たせ」  自分はいったい何だと言うのか。  疑問。困惑。狂乱。焦燥。恐怖。哀絶。激昂。  そして―― こいつはつまり――〈助〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈と〉《 、》〈言〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈助〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 「はははははははははははははははははははははははははは―――!」  その極大の狂気。  放たれる黄金光。  迫る破壊を前にして……  刹那、脳裏を過ぎった映像は何だったのか。  その答えを得ると共に、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》〈場〉《 、》〈合〉《 、》〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈起〉《 、》〈こ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》……  〈終〉《 、》〈曲〉《 、》〈の〉《 、》〈行〉《 、》〈き〉《 、》〈着〉《 、》〈く〉《 、》〈先〉《 、》〈が〉《 、》〈ど〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈を〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。  ゆえに―― 「セン……パイ……」  今、真にやらなければいけないことが何なのか、ようやくここで思い出した。生きている彼女を蔑ろには出来ない。  やはり自分はどうしても、そういう性分なのだと分かったから。  やるべきことは、一つしかない。今が唯一にして最大のチャンスなのだと直感する。  つまり――  聖槍を形成し、一撃を放つために地獄の魂を収束させた。それはすなわち、他の部分が薄くなるということに他ならない。  数百万の混沌で煮えくり返り、文字通り一寸先も見えなかったグラズヘイムが、今は底まで見通せる。  本来なら、こんなことはないだろう。たかが一撃・二撃放った程度で、ラインハルト・ハイドリヒの世界が透けるなど有り得ない。  だが、未だ開いたスワスチカは五つだけ。プラス、近衛である大隊長らが現状における全力状態。そしてイザークまでもが参戦したということは――  城における戦力の大半が、玉座に集中したという事実を意味している。  だから見えた。だから感じた。この地獄に囚われて、今も死を想いかけている彼女のことを。  氷室玲愛が、何処にいるかを。  聖槍の一撃を受けるでも止めるでもなく回避して、そのまま死者の海を掻き分ける。それも容易いことではないが、マリィに言われたことを覚えていた。  自分の世界を強く持て。気持ちを信じて強固に、強固に――胸の誓いを忘れなければ、たとえ地獄であろうと踏破できる。  だから――  今、徐々に、徐々に彼女が見えてくる。  グラズヘイムの中心で、血に濡れながら絶望している氷室玲愛が闇に浮かぶ。  ああ、大丈夫だよ、そんな顔するな。自分は生きてちゃいけないなんて、頼むからそんな悲しいこと思わないでくれ。  逢えて良かった。仲良くなれて嬉しかった。俺は楽しかったし先輩だってそうだろう?  だったらそれを誇ってくれ。自分の気持ちを信じてくれ。ワケの分からない因果や縁や設定なんて、そんなの何も関係ない。  ただそう生れたというだけのことに、なぜ縛られなきゃいけないんだ。  この人は何も何処も悪くないし、生きてちゃいけないモノなんかじゃない。  いないと困るよ。俺が辛いよ。大事なんだ、死んでほしくない。  だから、さあ、こんな所から早く出よう。  俺が絶対助けるから、どうか頼む――信じてくれ。  信用無いのは分かってるし頼りないのも自覚してるが、この手をちゃんと掴んでほしい。  二度と離さないと誓うから。  引きずり込まれたりなんかしないから。  もうこれ以上――死を想うのはやめてくれ。  そして、瞬間――  ついにこの手が、彼女へと届いていた。 「―――――――」  耳を聾する轟風の凄まじさと、急加速で落下するGの威力に玲愛は首をすくめて縮こまる。目も明けられないし呼吸も出来ない。 「――――、――ッ」  いったい、何が起きたのだ。即座に事態を認識できず、しかし本能的な部分で誰かに抱えられていると気付き、その相手に力一杯縋りついた。  腕に伝わる感触は硬く、そしてどこまでも冷たかった。まるで鋼鉄の塊にでも抱きついているかのようで、非現実的なリアリティのなさが全身に押し寄せてくる。  それは喩えるなら、悪魔の花嫁になった気分とでも言うのだろうか。今、自分を抱いている存在はどう考えても絶対に人じゃなく、その気になればペットボトルを握り潰す程度の力で、ビルすら破壊してしまうだろう。  直感で分かるのだ。“コレ”はそれほどまでに度外れた、怪物そのものなのだろうと。  だけど、なぜだか怖くはなくて。  ただ、どうしようもなく哀しくて。  花嫁の気分と感じたのは、この悪魔がとても優しく、自分を壊れ物のように扱ってくれているという事実によるもの。他の何よりも優先して、氷室玲愛を守ろうとしているのが分かっていたから。  気付けない――わけがない。  分からない――わけがない。  悪魔云々言うのなら、つい先ほどまで自分は地獄に落ちていたのだ。そこから連れ出し、攫ってくれて、かつ大事にしてくれるのが誰なのか……そんなの分からないほうがどうかしている。  だから、言うんだ。声にならない声を絞り、何も見えない目を開いて、傍らの彼を癒してあげたい。自分に出来ることがあるのなら、なんでもしてあげたいと強く思う。 「―――じ……」  お願い。神様――どうか私からこの人を―― 「―――じ、い――」  この人だけは、遠くに持っていかないで―― 「――藤井君!」  叫んで、同時に視界が晴れた。 「―――――――」  ……ああ、やっぱりキミだ。キミだったよ。たとえどんなに姿形が変わっても、一目で即座に判別できる。  キミが助けてくれたんだね。私を救ってくれたんだね。  だけど、ねえ、だけどこれじゃあ…… 「あんまり、だよ……」  なんて酷い変貌なのか。この姿も彼なんだって、分かってしまえるからより一層の痛ましさが込み上げてくる。  赤銅のような肌も、血の涙を湛えた瞳も、まるで錆びた折れかけの剣。藤井君の心は磨耗して、今このときも紙一重の均衡に立たされている。  そうさせているのは私。彼をこんなにしてしまったのは他ならぬ私なのに…… 「ごめん、ねえ……」  何も、何一つしてあげられない。藤井君を癒してあげたいと思うのに、彼を痛みから救う手段が分からなくて……  ねえ、やっぱり私、いないほうがいいのかな? 生きてちゃいけないものなのかな?  重たいなら、放り捨ててよ。キミの手で終わらせてよ。  そんな辛そうな顔をして、傷つきながら我慢なんかしなくていい。  だって、何より一番許せないのは…… 「藤井君、藤井君、藤井君藤井君藤井君藤井君―――!」  彼に抱きしめられて抱きしめて、この瞬間を永遠に引き伸ばしたいと思っている私の汚さ――  恥を知らないそんな気持ちが、今、一番大きいって事実だから。  よく見て。そして幻滅してよ。キミにそんな優しくされたら、私いつまでも甘えた夢を捨てられない。  声、聞こえてる? 顔、見えてる? 氷室玲愛なんて物騒な女、藤井君には釣り合わないよ。 「キミは意外に短気で嘘つきで、隠し事多いうえに素直じゃなかったりするけどさ……鋭いくせに鈍いふりして、すぐ痩せ我慢してカッコつけてさ……」  そんな欠点いくらでも、十個でも二十個でも言えちゃうのに、眩しいくらい素敵に見えるから堪らない。  少なくとも私から見て、世界最強の男の子だと思ってる。  思ってるから…… 「いい加減、もうやめてよ。 いつまで無理してるのよ、馬鹿じゃないの」  なんて、私はかなり本気で言っているのに。 「―――黙ってろ」  筋金入りに馬鹿なキミは、きっと聞いちゃくれないだろうって、分かっていたのよ。 「――――――ッ」  背後から追い縋ってくる気配に反応する。依然、蓮の意識は断続的な絶と覚を繰り返しており、思考回路は完全凍結。本能で動く獣のそれと変わらない。  そして、そうであるがゆえ、いち早く察知することが出来たのだ。殺意の暴嵐を身に纏い、狂乱する怪物がすぐ真後ろに迫っていると。 「――来たか」  無論、このまま見逃してもらえるなどと楽観してはいなかった。理性が吹き飛んだ状態ならでは、魔性の感覚で蓮もそれを弁えている。  いったい誰がとは思いもしない。今の自分に後発しながら追いつけたという時点で、それはもうたった一人でしか有り得ないのだ。 「Und rühre mich nicht an――Und rühre mich nicht an――!」  空を噛み砕く咆哮と共に、白化のエインフェリアが迫ってくる。改めて尋常な速度ではないだろう。  今も、そして先ほども、シュライバーは常に蓮より一歩速い。たとえ〈終曲〉《フィナーレ》の状態でも、縛鎖を弾き飛ばして最速の理を具現している。  己を縛れるのは黄金のみだと、血に狂った隻眼を滾らせながら言っていた。 「――――――」  であれば、先ほどと同様に、圧倒的に蓮が不利。あまりに相性が悪すぎる。たとえどれだけ時間の停滞を行使しようと、速さで〈白騎士〉《アルベド》を抜くのは不可能なのだ。必ず後手に回る羽目となる。  加えて、さらにもう一つ。 「―――――ッ、ッァ」  玲愛を抱えている今の蓮は、自由に戦うことが出来ない。行動が制限されるという以上に、超音速の疾走を繰り返せば生身の彼女が保たないだろう。  無意識――あるいはなけなしの理性で、蓮は玲愛を守っている。翼のような刃が盾代わりに展開し、今や凶器どころではない暴風から彼女の身を庇っていた。  そしてそれは、狩猟する側から見て格好の隙になる。 「Bin Freund und komme nicht zu strafen――!」  ついに追いついたシュライバーが、追い越し様に刃の一枚を噛み千切った。そこから鮮血が噴き出して、蓮は翼をもがれたようにバランスを失い失速する。  後はもはや、虐殺のショーでしかない。  空中で、共に落下している状態にも関わらず、シュライバーは反転した。そのまま大気を蹴り破るようにして跳ね返り、再度蓮へと追いかかる。 「藤井君――!」  玲愛には何が起こっているのか分からない。そもそも目に映らないし、蓮が見えるようにしていない。以前、刃は彼女を抱きしめて守るように、外界の暴嵐から庇い続けていた。 「やめて――、もういい、もういいよ!」  蓮が削り取られていくのが分かる。衝撃と、轟音と、血の匂いと、それらが渾然一体となって玲愛の心をも削っていく。 「どうして……」  なぜそんなにしてまで、自分を守ろうとしてくれるのか。苦鳴ひとつ漏らさずに、耐え続けていられるのか。 「―――ッ、……ァ――」  連続するシュライバーの攻撃は終わらない。空を飛べるわけでもないだろうに、上下左右四方八方、あらゆる角度から攻めてくる。  今や桁外れにも程があるその速度は、筋肉の躍動一つで大気に爆発を起こしていた。その反作用で空中を跳ね回り、それに弾かれている蓮と玲愛も落下させない。許さない。  そして、彼らを追う者はもう一人いた。 「逃がさん」  城から髑髏の巨腕が伸びてくる。そう、もっとも二人の逃走を許していないのは彼だろう。 「イザーク……」  絶望に、玲愛の声は強張り、震える。 「Vorüber, ach, vorüber――!」  轟く凶獣の咆哮は、獲物に止めを刺さんとする雄叫びだった。発生した衝撃波が、ついに玲愛を庇っていた刃の守りを粉砕する。 「―――――」  ここに、進退は窮まった。  見上げた上空、天の魔城から伸びる髑髏の手と、それを背負った〈白騎士〉《アルベド》が総てを喰らおうと落ちてきて……  絶死、まさにその瞬間。 「下がれ、イザーク、シュライバー」  執拗に二人を追っていた凶獣と〈私生児〉《バスタルト》は、黄金の一言によって停止した。 「死なれては困る。だが、このまま行かすのもつまらんな」 「――――――ッ!?」  しかし、続く展開は九死に一生ではなかった。 「相応に加減してやろう。中々によい舞踏だったぞ、これは褒美だ」  城門から眼下を見下ろし、蓮に目掛けて聖槍を擬しているラインハルトが低く謳う。  楽しませろと、まだ終わらせぬと。 「もうひと化け、飛躍を期待しているよ」  同時に、地を焼く黄金の光が放たれた。  その一撃には、確かに明らかな加減がされていたらしい。  シュライバーの攻撃で満身創痍に近かった蓮が、その直撃を受けても生きていたこと。玲愛もほぼ無傷なまま無事だったこと。  ラインハルト・ハイドリヒの技にしては座興にしても軽すぎるという疑問はあったが、ともかくこれで、今夜は乗り切れたことになる。  だが――  その一撃には、確かに明らかな加減がされていたらしい。  シュライバーの攻撃で満身創痍に近かった蓮が、その直撃を受けても生きていたこと。玲愛もほぼ無傷なまま無事だったこと。  ラインハルト・ハイドリヒの技にしては座興にしても軽すぎるという疑問はあったが、それもそのはず。今のは攻撃を意図したものではなかったのだ。  叩き落された場所は教会で、先の一撃は地獄巡りの犠牲者を一人、生贄としてスワスチカに捧げるためのものだった。  それが誰だったのかは分からない。  しかし結果として、六番目がここに開かれ――  より顕在化を強めた魔城が、ついに諏訪原市全域を覆い尽くした。  みんな死ぬ。死んでいく。  そんなの、あまりにも酷すぎて…… 「おおおおおおおぉぉぉォォッ―――」  地に落着し、粉塵が周囲を覆う帳の中……激昂した蓮は空の魔城を見上げて憎悪の絶叫を放っていた。  許さない。許さない。許さない。許さない。  殺す、殺す、殺す、殺す、殺す―――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――  溢れ返る殺意、ただ一色。  玲愛にはそれが、もう見ていられなくて。  彼をよく知る、おそらく最後の一人が自分なのだと思えば辛くて……  自然と、本当に自然な流れで、蓮の頭を抱きしめていた。 「もう泣かないで……」  声が届いているかは分からない。自分を認識しているかも分からない。  だけどこうして、この体温を……心臓の音を聞いてほしい。鼓動の響きを感じてほしい。 「藤井君は悪くない。何も、全然、間違ってないよ……」  こんな言葉がどれだけ意味を持つのだろう。言っていることは紛れもない本音だったが、気休めにもならないかもしれない。  だけど、それでも言っておきたいと思うのだ。  伝えたいと感じているし、分かってほしいと願ってる。  いったい自分が、どれだけ彼の存在に救われているか想像もつかないから。 「藤井君がいてくれなかったら、私なんか駄目駄目なんだよ。 今頃、ここにこうしていないよ」  身近な人を、総て失ってしまったから。  リザも、神父様も、綾瀬さんも、遊佐君も……  これでキミまでいなかったら、今頃自分は城の歯車。もう削れないくらい削ぎ落とされて、二度と帰ってこれなかったろう。 「せめて、それだけは分かって」 「ほら、聞こえてる? 私、生きてるよ。 藤井君のお陰で、生きてるよ……」 「…………」 「さっきも、守ってくれたよね。 もう、いいから、放り捨ててって……私本気で思ってたけど。 やっぱり男の子は力強くて、振り解こうとしたけど駄目だった」  そして、抱きしめられることに喜びを感じた。 「私、自分でも呆れるくらい気持ちぐらぐら揺れちゃってさ……最初は、絶対何とかしようって強気だったのに、すぐ折れちゃう。 ひどいことがいっぱいあって、ひどいものもいっぱい見て……そしたら自分はもう駄目だって、逃げ出したくなっちゃうの」  自分がいるから周りが死ぬ。それは事実で、受け止めることができなくて。  死を想ってしまう心の弱さ。そこに救いがあるかもって、きつくなるとすぐ逃げてしまう。 「血筋、なのかな? あんまり人のせいにしたくないし、実際よく分かんないけど……それを、いつも思い止まらせてくれたのは藤井君なんだよ?」  すぐ死にたがってしまう私。  根性なくて、逃げ腰で、ふらふらしてしまいがちな私のことを…… 「キミだけが、いつも助けてくれるんだよ。 〈心臓〉《ここ》、まだ動いてるだろって、教えてくれるの」 「私、キミと生きたいから。 キミと一緒にいたいから」  もう泣かないで。そんなに自分を責めないで。  少なくともここに一人、キミのお陰で救われてる私がいるって知ってほしい。 「あ……俺、は………」 「俺は、誰も守れなくて……」 「それ、悪い癖だよ」  いつもいつも俺が俺が……キミがすごい男の子なのは知ってるけど、ちょっとは私にも頼ってほしい。  そうやってずっと一人で傷ついて、苦しんでいるキミを見たら、今度は私の悪い病気が出てきちゃいそう。 「藤井君が、どうしても悔やみきれないっていうんなら……」  それは実際、自分自身迷わなかったと言えば嘘になるけど。 「私一人を諦めれば、みんな戻ってくるかもしれないよ」 「―――――――」 「キミにとっては、その方が幸せじゃない?」  負けを認めて、総て投げ出して、城に溶ければみんなとずっと一緒にいられる。 「藤井君がそうしたいなら、私はいいよ。 だから、ねえ、お願いもう傷つかないで。 私は、他の何よりもキミのことが……」 「俺は―――」  言葉途中に、私の台詞は断ち切られていた。 「それは、駄目だ。それだけは……やっちゃいけない……!」  血を吐くような、彼の声。言葉の内容とは裏腹に、身体が震えるほど葛藤しているのがよく分かる。  よく分かるけど、それには気付かないふりをした。 「ありえない、ありえない! 香純も、司狼も、他のみんなも……あんな所に繋ぐなんて、絶対にさせない!」  だって、男の子が格好つけようとしてるとき、格好つけさせてやるのが女の役目だって思うから。 「その道だけは、何があっても選ばない! 氷室、先輩を、死なせたりなんか、しない……!」 「うん……」  うん、ありがとう。 「やっと、私の好きな藤井君に戻ってくれたね。 じゃあ、さ……前に教会で言ってくれたこと、もう一回言ってよ」  あの時は馬鹿にしてごめんなさい。本当はとても胸が痺れたの。  それをここで、もう一度聞きたいと思うから……  お願い、私に藤井君の勇気をちょうだい。 「俺は絶対、諦めたりしない……!」  そうだ、絶対諦めないために。 「一緒に、勝とう……!」  勝って帰ろう。 「生きるんだ、俺達は……」  その誓いを胸に刻み、私達はお互いに、また立ち上がる力をもらったのだ。 壊れていく意識。散っていく身体。死はとうに自分を捕らえて、魂ごと黄金の奈落に溶けていく。 それもまた仕方ない。不平不満はあるけれど、すでにもう諦観した。しょせん自分はここまでの存在で、望む奇跡など得られるはずがなかったのだと…… 自嘲して、自虐して、そして少し後悔して、ああもう早く、何も考えられない混沌の海に落としてほしいと切に願った。 そのときを待った。 はずなのに…… 「…………」 目を開いた先には、空が見えた。星空の下、自分は仰向けに横たわり、月の光を浴びている。 「な、ん……」 事態が、よく分からない。何がどうなっているのか判別できない。あのときこの身はマキナに敗れ、終焉の幕を下ろされたはずなのに…… 見上げる空には黄金の魔城。やけに小さく見えるその姿が、しかしはっきりと視認できる。 「ああ……」 なんだ、つまりそういうことか。 「どこまでも、地星は地星って、言いたいわけね……」 「今すぐ溶ける、資格すらないと……」 ゆえに、体よく利用された。城から引き剥がされ、スワスチカを一つ開く生贄として地上に叩き落されたのだ。 ここはおそらく、第六として機能する何処かだろう。遠からず砕ける自分は、そこに散華して場を整える仕事をこなさなければ眠ることができない。 「ひどい、なあ……容赦、なさすぎ……」 都合、二度の死を与えられたことになる。マキナに敗北した瞬間の恐怖、絶望、同じものをもう一度味わえと? 「ふふ、ふふふふ……」 いいけどね、別に。構わないけどね、全然。 どうせわたしは誰にも追いつけず、何処にも辿り着けない泥亀だ。こうして空を見上げながら、手を伸ばしたい渇望に焦がれながら生を終える。似合いな末路ではないか。 「ああ、恋しい……」 ああ、妬ましい。 「ああ、眩しい……」 ああ、届かない。 「追いつけないなら、止めてやろうって思ったのに……」 この刹那の煌きを愛しく思うと、昔そう言ったのは誰だったか…… 思い出せなくて、分からなくて、不変に留めたかったその記憶すら、ぼろぼろに崩れていくのが感じられて…… 「待ってよ、置いていかないで……」 と、呟いたときだった。 「……………」 誰かが、わたしを見下ろしている。 「あ………」 分からない。誰だ……? 「あ、た……」 分からないけど、なぜか無意識に手が動いた。砕ける寸前の身体を軋ませ、わたしを見ている誰かの手を掴もうとする。 「……て、……まっ…て……」 届いて。 届いて。 届いて――お願い、行かないで。 「わた、わたし……あいたい、ひと…いるの……」 一人はわたしを、この道に引き込んだ謎の影。 そしてもう一人は…… 「えいえんが、いいの……」 それが好きだと言っていたから、わたし永遠になりたくて…… 「えいえんになれば、またあえるかも、しれなくて……」 「えいえんになれば、あいされるかも、しれなくて……」 分からないけど、保証もないけど、ただ思うことは二度と置いていかれたくない。 「だから……」 手を。 死に際の今、手を伸ばす。 引きずり下ろすためじゃない。泥に沈めるためじゃない。 ただあのとき、掴もうとしなかった手を。 流れ過ぎ去っていく彼に届かなかった手を。 「おねがい……」 伸ばして、求めて、心より望んで…… 「――――――――」 届いた瞬間、わたしは悟った。 「ああ……」 顔は見えない。何も分からない。これが誰で、何をしていて、わたしをどう思っているかなんて知らない。 ただ、魂で感じたのだ。 「なんだあなた、そんなところにいたのね……」 これは彼だ。きっと彼だ。絶対そうに違いない。 だから…… 「あの、ね……」 何を、わたしは言うべきだろう。 考えるより先に、口は動いた。 「いまでも、せつなが、いとしい……?」 それを、永遠にしたいと願っている? 「たとえば、この、いまも……」 麗しきものとして、愛でるべき輝きとして、わたしの死をあなたは記憶してくれるだろうか? ずっと保管してくれるだろうか? そう問うて、答えは、答えは…… 「ああ……」 「時の止まった不変は好きだよ」 まったく昔と同じことを、彼は今も変わらず言ったのだ。 「ふ、ふふ、ふふふ……」 おかしくなる。おかしすぎて涙が出てくる。断じてこれは、他の何かよく分からない感情によるものじゃない。 「ほんとう……あなたは変人ね」 「おまえに言われたくはないぞ、ルサルカ」 〈既知感〉《デジャヴ》を覚えるそのやり取りに、満足し。 「さようなら。今度はわたしが先に行く」 ずっと言いたかったことを口にして、微かな喜びを覚えながら夜に溶けていったのだ。 Silberner Mond du am Himmelszelt, strahlst auf uns nieder voll Liebe. Still schwebst du über Wald und Feld, blickst auf der Menschheit Getriebe. Oh Mond, verweile, bleibe, sage mir doch, wo mein Schatz weile. Sage ihm, Wandrer im Himmelsraum, ich würde seiner gedenken: mög' er, leucht ihm hell, sag ihm, dass ich ihn liebe. Sieht der Mensch mich im Traumgesicht, wach' er auf, meiner gedenkend.  歌え、踊れ、水辺の妖精。月よ、すべてを優しく照らしてほしい。  わたしはついに見つけたから。彼に出逢うことができたから。  総ての影を、あなたの光で消し去ってほしいと強く望み――  そして、信じることにする。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 13/13 Swastika ―― 6/8 【Chapter Ⅹ Sol lucet omnibus ―― END】  じゃあ――人が人を殺したら、どうなるの?  そんな疑問を口にしたことがある。まだほんの小さな頃だ。  TVで、アフリカのライオンがガゼルだかシマウマだかを襲って殺しているのを見たのが、きっかけだったと思う。  大人たちの答えはマチマチだった。  お母さんの答えは、ケイサツに捕まってシケイになる――だった。  それもそれなりに怖そうな答えだったけど、もっと恐ろしかったのは近所のお婆ちゃんが言った言葉だった。  人を殺した人間は、必ずジゴクに落ちるんだよ。  人は死んだ後、それで終わりにはならないらしい事を初めて知った。  そのジゴクという言葉の響きは、ケイサツよりも怖かった。実際、ケイサツよりも恐ろしい場所らしい。  なぜそうなるのかというと、人間が犯す罪で最悪なのが人を殺すこと、つまりはヒトゴロシなのだからだそうだ。  一番悪いことをしたのだから、一番恐ろしい罰を受ける。  その仕組みを理解した時はとても怖かったけど、すごく納得した覚えがある。  きっとそうなのだと信じたから。命を奪うのは悪いことだと。  もし自分がヒトゴロシになってしまったら、きっと死ぬか気が狂ってしまうだろう。一番悪いことをした人間のまま生きていくなんて、とても耐えられることじゃない。  そう、ずっと思っていた。  でも。  今、あたしの心臓は普通に動いているし、頭がおかしくなってもいない。  生きていられる。そうなってしまっても。  生きていたい。そうなってしまっても。  それは。  その理由は、きっと―― 「ふぅ……」 深いため息が零れる。 戻ってからずっとこんな感じだ。櫻井がタワーから去っていく時に残した言葉が忘れられず、思い返す度に心が重くなっていた。 「なんだよ、まだ悩んでやがるのか。いい加減忘れちまえよ」 「そうそう。悩んでたってどうしようもないんだからさ」 「おまえら……」 帰る途中のうちに、司狼たちには俺が櫻井に残された言葉を説明しておいた。 おいたのだが…… 「なんとも思わないのか?」 こいつらは、俺のように悩んだりはしないようだった。 「そう言われたって……なあ?」 「あー……まあ、ね」 俺の非難がましい口調を受けて、二人は顔を見合わせた。 「別に驚くような話じゃねえんだよ。特に、オレらにとってはな」 「意味が分からないんだが」 「てめえに言ったって仕方ねえんだが、まあよくある話じゃねえかってコトだよ」 欠伸交じりに答えてくれる司狼には、さすがの俺でもムカッとくる。 「ま、それにさ、本人がいないところであたしらがウンウン考えたところで、なんか結論出るわけ? 出たとしたって、それで――」 「あの女が納得するわけもねえよな。特に依怙地そうな目ぇしてやがる」 「眉毛なんかこーんなだったもんね」 「ハハハッ、似てんじゃねぇか」 こいつらに何か期待するのは無駄だったか。 「はぁ……」 俺の口から再びため息が零れた。 その時だった。 「う……んん……」 「……っ」 小さな呻きを上げて、香純が目を覚ます。ゆっくりと目を開いて、周囲の様子を確認していた。 その視線につられるように俺は司狼を見、本城を見る。二人とも、香純ではなくて俺を見ている。ただ見ているだけでなく、その目で同じコトを言っている。 “おまえがなんとかしろ”、だ。 仕方なく香純へ視線を戻すと、丁度キョロキョロしたあと俺で視線を止めていた香純と目が合う。 「よ、よお、おはよう……」 「ああ……うん……おはよう……」 なんだ、この不自然な挨拶は…… 「ふああぁ……なんかすっごく身体が硬いんだけど……あたし、どれくらい寝てたの?」 身体を伸ばしながら、香純が携帯電話の時刻表示を確認する。それを見て、目がまん丸に見開かれる。 「えっ!? 何、コレ! あたし、ほぼ丸一日寝てるじゃん!」 「は?」 こいつ、まさか…… 「ああもう信じられない。ヘンな夢見るし、寝すぎで一日ふいにしちゃったし……」 「おい、香純。ヘンな夢ってどんなのだよ?」 「えーっと、学校が舞台で、なんかライトノベルみたいな展開になっちゃってて……」 「あーいや、待て待て」 香純が夢で見たという話の内容を話し始める。出だしで理解できる。つまり香純は今朝のことを夢だと思い込んでいるということだ。 「はっ、マジかよ」 「なんとまぁ、都合のいい子ねえ」 司狼と本城は呆れて苦笑を浮かべている。俺はというと、眉間を押さえて考え込んでいる。 なんて言うべきだ? 本当の話をするべきか? 「どうかしたの?」 「どうかしたも何もおめえ……」 「いやいや、待て司狼」 全部バラしそうな口調の司狼を、俺は慌てて止める。このまま夢だと思ってくれた方が都合がいいのではないだろうか。 下手に思い出させたら、全部思い出させてしまうんじゃないか? 気になっていることがある。 ルサルカの言葉。 香純の罪を、全て思い出させたのだとあいつは言っていた。 そこまで含めて全部、思い出してしまうんじゃないか? 「ああ、もうこうなったら明日はめいっぱい遊んでやるんだから! 蓮も司狼も付き合ってよね!」 「あ?」 「“あ”じゃなくて明日」 「……ああ、そういや日曜日か。明日」 「そうじゃないだろ」 人が考えている横で、明後日の方に話題をスライドさせないで欲しい。思考が追いつかないから。 「大体、司狼、遊ぶって言ったってなあ……」 「う~ん…………そうだ!」 何か案が思い浮かんだのか、香純の顔がぱっと輝く。 「遊園地! みんなで遊園地に行って一日遊んじゃおう。ほら、漫画とかでたまーにあるじゃない。Wデートってやつ。あたしと蓮と、司狼とエリーでさ」 「いや、今はそういう話をしているんじゃない」 危機感の欠片もない香純の発言に呆れて突っ込んでしまったが、ありがたく思えたのもまた事実だ。 あれだけ危険な目に遭っても、まだ日常を引きずっていてくれる事への感謝。 俺にとって、香純はそうであって欲しい人間の代表格なのだから…… 「香純、詳しくは言えないけど……」 「遊園地か……面白えな」 「おいっ」 からかっているのかと思って司狼を振り返ると、好戦的な光が俺を捕らえた。 「んー?」 ふざけているのではない。もっとたちが悪い目つきだ。 バケツで水を掛けられるよりも一発で、俺の頭が冷静になる。 「まさかおまえ」 「何がまさかだよ。どうせ近い内に遊園地には行くつもりだったろ」 「いや、ちょっと待てよ」 あの場所は、おそらく開放済みのスワスチカだとタワーの時に当たりをつけた。シスターが死んだ地だと思われる。 そういう意味で危険度は薄いのだろうが、汚染されていないのが奇妙だった。ゆえに俺も司狼も、一度探索を試みるべきだと思っている。 思っているけど、どうなんだよそれ。香純を連れて行って大丈夫なのか? 「なになに? なんかあんの?」 「遊園地で素敵なアトラクションがあるかもしれないのよ」 「え? ホント?」 「…………」 無邪気な香純に喜んでいいのか、それを焚き付ける二人に怒るべきか。 複雑な心境に、気分はまるでハムレットだ。 アトラクション――つまりは、月乃澤学園を襲った出来事の再来。 この二人を嫌うことも軽蔑することも、俺にはどういうわけだかできないが、それでも人死にを平然と受け入れる感性だけは、共有できないものがある。 「悪趣味だぞ、本城」 「……」 「あーあ……」 「決まりね、香純ちゃん。明日は遊園地にしましょ」 「ほえ?」 「蓮くんが嫌なら留守番してればいいのよ。二人っきりでも行ってみましょ」 しくじった。 今一瞬見せた本城の目。俺が苗字を呼んだことにイラッときたんだろう。そういう目だ。 そして、本城が司狼と同じ種類の人間なら、こうなってしまったら最後…… 「久しぶりだな。あの遊園地。入り口新しくなったんだって?」 「あんたいつの話してんのよ」 こいつら、勝手に話を進めていく始末だ。 「おい、頼むから待てよ」 「ほえ?」 「待・た・な・い。香純ちゃん、どんな服着て行こうかー?」 「だとさ」 「司狼、おまえな……」 そりゃこっちだって、もう撤回されそうにないことくらいは気付いているさ。 クソ、こうなりゃ仕方ないのか。一回行くだけ行ってみよう。 もし遊園地が未開放だったら、何が何でも引き返す。開放済みで汚染されていたら、やはり同様に引き返す。 唯一、開放済みで汚染されていないという場合のみOKだ。確率的にかなり怪しいが、もしそうだとしたら見てみる価値もある。 学校やこのクラブを、ちゃんとした状態に戻せるかもしれないんだから。 「あんまり羽目外すなよ」 「蓮も来る、よね?」 「あぁ……」 ただ、覚悟を決める時間がほしいな。 俺は大きく息を吐いた。諦めの溜息に似ている。 「行こうか」 「ヤタッ」 俺がそう言ってやると、香純はさらに笑顔を輝かせた。 「蓮くんったら随分気合入れちゃってるんだ」 「本当にいいの? 司狼は? オッケー?」 「俺は初めから乗り気だったろうが」 首を縦に振って、肯定の意を示す二人。 「やったねっ」 「それじゃ、明日は朝から遊園地に出かけるとするか」 飛んで火に入る何とやら――という俺の心境をよそに、遊園地行きはこうして決まった。 せめて土砂降りの雨でも降ってくれないかという俺の〈倹〉《つま》しい望みは、天気予報の一言に一蹴された。 絶好のお出かけ日和です、か―― 次の日…… 「えへへ~」 香純が俺の腕を取り、身体を密着させてくる。 「あんまりくっつくなよ」 正直恥ずかしいので少し引き剥がそうとするが、香純は腕を掴む力を強めてよりいっそう身体を密着させてくる。 「えへへ、いいじゃん。せっかくのデートなんだしさ」 「だからって……」 香純の笑顔。満面に浮かべたそれが、俺の言葉を濁らせる。 風は十二月の冷たさを帯びていたが、暖かい陽射しは俺たちの背中を押しているようだった。 まあ確かに、そう悪くはない。 悪くないと思う理由は明白で、俺が結局ここまで来てることからも分かるだろう。 「香純、なんか気持ち悪くなったりはしてないか?」 「気持ち悪い? どうして?」 「いや、平気ならいいんだ」 敷地内に入って実感する。ここは開放済みのスワスチカだ。微妙に首周りがひりつくし、上手く表現できないが膨大な魂が周囲に浮いてるような気がする。 だが、にも拘らず暗い感じが一切ない。恨みとか未練とか、そういうマイナスの感情をまったく感じられなかった。 「遊園地、だからか?」 「ん、なに? 何か言った?」 強いて言うなら、ここに散華した魂は浮ついている。まるで飴玉を前にした幼児のよう、とでも言うべきだろうか。 そう、幼児だ。ここの魂は幼い。ゆえに邪気がない。と、そんなことを考えている。 「ねえ、ちょっと無視すんなよー」 しかし逆に、幼いからこそ手加減なしで邪悪ということもあるんじゃないのか。俺はそんな懸念も懐いてしまうが、こうして感じ取る限りここの空気は陽性そのもので。 「おい、コラァ。あんたそうやって、いっつもシカトばっかりするよね。そんなにあたしと一緒じゃつまんないわけ?」 やかましく喚いてる香純が、まあ実際微笑ましい。 だから。 「いい加減に、聞けぇ!」 一発二発殴られても、そこは洒落ですまそうと思う。 「なあ、俺たちもあれやってみるか?」 「あれって……腕組みのこと? あんた、正気なの? 熱でもあるんじゃない」 「一応デートなんだろ、これ」 「まぁ、それはそうだけど……」 「んじゃ、やってみようぜ」 「……OK。けど、どうなっても知らないよ」 本城は司狼の腕を取り、寄り添うように身体をくっつける。 「……………………」 「……………………」 「やっぱよすか」 無言で腕を組んで歩く二人。だがほんの2、3歩歩いただけで二人は腕を組むのをやめてしまう。 「分かったでしょ」 「ああ」 「自分の腕が折れてるんだって事忘れられるってえのは、あんたどこまで幸せな脳みそしてんの?」 「〈違〉《ちげ》えって。ただ、雰囲気じゃねえや」 「まあ……あたしらには明るすぎるかもね」 それは雰囲気のことなんだろうか。それとも陽の光のことなんだろうか。 「で、どうするつもり?」 「あ、香純、あれ見ろよ」 「え? なになに?」 本城が司狼に話題を振ったのを聞いて、俺は慌てて香純の意識を逸らした。適当な雑談をしながら、二人の会話に耳を澄ます。 「ああ?」 「あたしたちの目的、履き違えてない? それとも何、まさか本当にデートでもしようっていうの?」 「そうだなぁ……」 司狼が俺の方を見る。一瞬視線が合った後、司狼は口元をニヤリと歪めた。 「まあ俺たちがハンターで、あいつらはオトリのエサだ。んでまあオトリであるからには、自然に泳がせとくのが一番だろ」 「へえ、気を遣うなんて、あんたにしては珍しい。なんか悪いもんでも食った? それとも、悪人が余命幾ばくもなくて善行に目覚めたとかそーいう系?」 「なんだよ。逆の方が良かったか? 俺たちがオトリ担当」 「ご冗談」 「デジャブも吹っ飛ぶかもよ」 「そんな未知の世界は遠慮しとくわ」 「素直じゃねえな、ったく。まあ、ハンターがオトリの周りをうろうろしてても何だろ」 司狼は背を向け、俺たちが進む先とは違う方へと歩いていく。 「はいはい……」 呆れたように肩をすくめ、本城もその後についていった。 だいぶ離れていたのだが、俺には司狼と本城の会話が聞こえていた。身体能力の上昇に伴って、聴覚も上がっているらしい。ただそれ以外の騒音を拾わないのは、無意識の内に取捨択一をしているということなんだろうか。 ったく、あいつら変に気を遣いやがって…… 「ねえねえ、まずは何乗ろっか?」 香純は、司狼たちがそっと別の場所へと移動していったことに気付いていない。キョロキョロと辺りを見回し、何の乗り物に乗ろうかと考え、楽しそうにしていた。 「そりゃ、おまえ、ここの名物っていや……」 俺は首を上に向けて、それを見上げる。 「アレだろ」 俺の視線の先には、高さ50メートル、一周約13分かかる観覧車がある。他にたいした乗り物のないこの遊園地の中ではマシな方の乗り物として人気がある。 「…………」 観覧車を見上げ、香純が固まっている。おそらくこれに乗って見える景色でも想像したんだろう。 「とりあえず、ここまで来たらアレには乗っとかなきゃな」 香純が高所恐怖症ってのは、最近手に入れたからかいネタだ。 意地悪くそう言ってやり、その身体を引っ張って観覧車の方へ行こうとする。 「だーだーだー、いやいやいやいや、ないから、それないから!」 しかし、香純はその場に固まったまま微動だにしない。まるで、石像か何かになったような感じだ。 「なんだよ、早く行こうぜ」 更に力を込めて引っ張ると、ゴーレム化した香純も引きずられて動く。 「だ……ダメダメダメ! 絶対、ダメ!」 香純が慌てて抵抗する。だが、女の細腕でこの俺の突進を止める事はできない。 「あっはっは、さあ行こうか、香純」 「いや~! 司狼、エリー、助け……ってあれえ?」 助けを求めた二人が揃って消えている事実に、事ここに至って初めて気付いた香純。 その瞬間の顔は、中々の見物だった。 「あいつらなら、さっき二人で別の場所に行っちまったぞ。ほら、観念して大人しくついてこいって」 「い~や~~! た~す~け~て~!」 観覧車は結局お預けになった。香純が本気で暴れた為だ。 歯医者へと強制連行される子供のように、頑強かつなりふり構わぬ抵抗ぶり。 こうなると、こいつをからかって遊ぶ楽しみよりも……周囲の視線がもたらす〈羞恥心〉《しゅうちしん》の方が俺には痛い。 「コーヒーカップになんて乗るの、小学生以来だよ……ったく」 今ひとつ、エンターテイメント性に欠ける選定になってしまった。 それでも…… 「次は何乗ろうか」 相方は、すこぶるご満悦の様子。 しかし、色々振り回された俺の方は少し疲れてきていた。 「少し疲れた。ちょっと休もうぜ」 「う~ん、そっか……。じゃあ、あたし何か飲み物買ってくるから、蓮はその辺のベンチで座って待ってて」 「ああ、わかった」 俺は言われた通り、ベンチで香純の帰りを待つ事にした。 「…………」 空を見上げる。 左腕にずっとぶら下がっていた重さが消えた寂しさみたいなものと、解放感みたいなものとの丁度中間。そんな淡くてどっちつかずの今の感情に、空の色は良く馴染んでいた。 平和そのものを絵に描いたような、この風景。 遊園地という場所は元々そういうもの……ステロタイプな幸福のテーマパークではあるのだろう。 それだけに……それが裏返った時の違和感は、筆舌に尽くしがたいものがあるに違いない。 血で赤く塗られたメリーゴーランドの馬。臓物をばらまきながら疾走するジェットコースター。空高く飛んでいく、生首をぶら下げた色とりどりの風船…… 「冗談じゃない……」 理屈抜きの嫌悪感。それは、自分のテリトリーを土足で踏み荒らされる事への強い反発心だった。 スワスチカ――残った数は、あと二つだ。 そして、連中の生き残った数も。 シュピーネ。シスター。トバルカイン。ルサルカ。 頭の中で、死んでいった人間たちの顔を反芻する。 俺の把握している限り、黒円卓の生き残りはあと三人のはずだ。 つまり――神父。櫻井。ヴィルヘルム。 まあそれも、ラインハルトらがこのまま出てこなければの話だが。 実際、そうなったら本当に困る。だから何とかして、次の一戦を最終のものにしなければならないだろう。 黒円卓の首領、副首領、そして三幹部は手に負える相手じゃない。 残っているヴィルヘルムらが易いという意味じゃなく、あれより強い奴らが出てきたら冗談じゃなくなるということだ。 ゆえに出来れば、一気に三人打倒なんていう綱渡りめいた方針じゃなく、もっと明確的で現実的な案がほしい。 たとえばこの場所。開放されたスワスチカなのに他とは毛色が違う〈遊園地〉《ここ》なんかが、そういったヒントになるんじゃないかと思えてならない。 そんなことを、漫然と考えていたせいだろうか。 「くす、くすくす、ふふふふ……」 何か、俺の耳は妙な音を拾っていた。 「うふふ、きゃははは、あはははははは……」 それは無邪気に笑い、はしゃぐ子供の声。 「あははははは、きゃはは、ふふふふふ……」 「うふふふふ、あは、ひひひひ……」 紛れもなく幸せそうな幼児たちの笑い声であるにも関わらず、俺にはなぜか、虫がキチキチと鳴いているように聞こえてしまった。 その声が…… 「イザーク、イザーク可哀想だね。僕らと一緒」 「うん、可哀想。可哀想だよイザーク。どうしていつも君ばかり」 「不公平だよね」 「不公平だよね」 「ねえ、なんであいつだけ生きてるの? おかしいね」 「うん、おかしいね。変だよね。僕らは、ぼぼぼぼぼ僕らは」 「ななななな名前、ななな名前、名前なんだっけ」 「ヨハン、ヨハン、ヨハンだよ、一人だけ仲間はずれのヨハン」 「可哀想だね」 「可哀想だね」 「ああ、だから」 「うん、だから」 「ヨハンも仲間に入れてあげよう」 「そうしよう」 「きゃははははははははははははははははははははは」 声は何かを言っている。不吉なことを言っている。 子供特有の無邪気さで、寒気がするような悪意を乗せて。 俺はそれを、何かの白昼夢のように感じてしまい…… 煙る視界の中に立つ、数千の乳幼児に囲まれた男の姿を、ついぞ認識できなかった。  分かっていた。弁えていた。そのつもりだった。  これは続きではなく、只の引き伸ばしなのだと。  幸福な〈日常〉《あのころ》の、希釈された縮小再生産。  それでも、来訪者の顔を目の当たりにした瞬間……  香純を襲った感情は、激しい落胆だった。 「櫻井さん……」  目の前の少女の姿は、否応無くあの日の記憶を蘇らせる。  香純にとっての、学園生活最後の日。  そこで見せられたもの、味わわされたもの、その全ての記憶を。 「楽しんでいるみたいね、綾瀬さん」  自分たちの様子を、今まで見ていたかのように言う。  それが、香純の落胆と嫌な予感に拍車を掛ける。 「そうやって楽しんでおくといいわ。今の内に」 「それ……どういう意味」  不安から、語気が強くなる。 「彼はいずれ死ぬから。私たちの、誰かの……いや、私のこの手で」 「――!」  心臓が、冷たい手で握り潰されるようだ。  汗が出てくる。皮膚だけじゃなくて、身体の中から冷たくて苦い汗を掻いている感じ。 「どう……して?」  ルサルカの顔を思い出す。思い出すだけで呼吸が苦しくなってくる記憶。  そういえば……彼女とルサルカは一緒のタイミングで月乃澤学園に転校してきたのを忘れていた。  現実に対する認識は、本人がそれを自覚するより常に一歩早く到達している。いつだって追認に遅れてしまうのは、そうあって欲しくはないという甘い願望がそうさせるから。 「彼は、私の大切なものを奪った。だから、殺す」  螢はそう宣言した。  そう、それは宣言。絶対の成就を己に誓った、強い意志を内包する呪詛。 「殺す? 殺すって、蓮を? 冗談でしょ。そんなこと、絶対あたしがさせないから」  反射的に言い返していた。自分でも驚く程の迷いの無さで。  その言葉も、また宣言。螢のそれに負けないだけの意思は込められていた。 「あなたに、いったい何ができるの」  言い放つ螢の言葉に、挑発の気配はない。つまりは、端的な事実のみ。 「でもあなたに恨みはないから、警告だけしておく。死にたくなければ、今すぐ彼を置いてこの街から立ち去りなさい」 「嫌よ」  そんな選択は有り得ない。螢は香純は無感動に見下ろして、やおら唐突に話題を変えた。 「私に英語を教えてくれとか、言ってたよね」 「え?」 「私みたいな人生を送ってみたいとか、言ってたよね」 「それは……」  確かに、そんなことを言ったような気もするけれど。  いったいここで、何の関係があるというのか。 「綾瀬さん、私と同じような目に遭いたいのね。 大好きな人を奪われる気持ち……知りたいのね」 「…………」  螢は冷笑していたが、能面のようにその表情は固まっている。  まるで泣いているようだと、香純は思った。 「知りたいなら、残っていればいい。お勧めはしないけど、あなたがそう言うのなら仕方ないよね。ああ、でも、出て行った方がそうなるのかな。ここに残っていれば、むしろみんな一緒に……」  それ以上、何かを言わせてはいけない。香純は咄嗟にそう判断した。  話を具体的に理解することは出来ないけど、強い悪意と絶望のようなものは伝わってくる。だから言った。 「負けないもん」  そうだ、絶対に負けたりしない。 「あたしも、蓮も、司狼も、エリーも、負けないもん」 「また一緒に学校行って、お弁当食べて、みんなと遊んで、一緒に帰って……そんな普通の……普通の生活を……」 「普通……? 普通の生活?」  鼻で笑われた。  その短い一言は、自分と蓮が積み重ねた全てに対する否定だった。 「あなたの普通ってなに? 教会住まいの先輩と、親交を深めたりすること? 教えておいてあげるけど、あそこに住んでいる人はみんな“こちら側”よ。あなたの普通とか日常なんて、そんな薄氷の上。ほんの小石で割れる」 「だけど――」  だけど――と、言っていた。  教会の人たちが普通じゃない? 神父様もシスターも玲愛さんも?  仮にもしそうであっても、言うことは決まっていた。 「こんなのは現実じゃない。あたしと蓮の現実だとは認めない。だから、悪い夢はあたしが覚ましてあげるんだ。頬っぺた引っ叩いて、朝だ起きろって耳元で叫んで……」 「そう……なら、あなたはあなたの思うことをすればいいわ」  螢は視線を逸らした。それ以上は香純に興味を失ったとでも言うように、空気のように傍らを通り過ぎていった。  その背中が見えなくなるまで、香純はじっと睨みつけていた。  踏ん張りすぎて筋肉が硬直した両足も、そこから一歩も退くことなく。  身体の震えはまだ残っている。  相容れぬ者と対決した、興奮と恐怖の戦慄。  しかし……たった数分足らずだった櫻井螢との〈邂逅〉《かいこう》は、香純の中の何かを決定的に変えていた。  来るべきものが来た、その自覚を香純に与えていた。  心なしか背筋が緊張している。きっと顔の表情もだろう。  こんなんじゃ、駄目だ。きっと一発で、見抜かれてしまう。肝心な所は鈍いくせに、変な所だけ〈目敏〉《めざと》い奴なんだから。  笑わなきゃ。今日は、『そういう日』なんだから。  これから先、もう一回あるかどうかも分からない、そんな貴重な時間なんだから。  ゆっくりと、深呼吸をするように……戻らなくてはならない。自販機でジュースを買いに行って帰るだけの自分に。  もはや思い出すのにすら努力を要する、〈日常〉《あのころ》の感覚に。  ずっと見つめていた足下の影から、顔を上げる。  取り戻した笑顔の前に―― 「こんにちは、綾瀬さん」  ――〈柔和〉《にゅうわ》な笑みを浮かべて、ヴァレリア・トリファが立っていた。 遊園地でのデート?を終え、俺たちはクラブへと戻ってきた。司狼と本城は用事があると言って、そのままどこかへ行ってしまったため、今のこの部屋にいるのは俺と香純の二人だけだった。 室内があまりにも静かすぎるせいか、なんとなく話しかけづらい雰囲気になっている。香純も微妙に居心地が悪いのか、さっきからそわそわして落ち着きがなかった。 そんな静寂を破ったのは香純の方からだった。 「ねえ、蓮。そっちのソファ、行って良い?」 今、香純は俺の座っているソファとは別のものに腰掛けている。距離があるのが嫌なのだろうか、香純はそんなことを俺に言ってきた。 「別に構わないけど」 俺の答えを聞いた香純は嬉しそうに微笑むと、今座っているソファから立ち上がり、俺の隣へと移動して腰掛けた。 俺はなんとなく気恥ずかしい気持ちになって、香純に背を向けるようそっぽを向いた。 すると、香純は俺の背中にもたれかかるようにぴとりと頭をくっつける。 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 沈黙が、そうさせたのだろうか。 「なあ」 「うん」 「俺、おまえに一つ言っとかなきゃいけないことがあるんだけど」 「櫻井と付き合ってるとかいうの、嘘だから」 「ああ、それ」 知ってたよ、と香純は笑う。 「いくらなんでも、ちょっと無理ありすぎだもんね」 確かに、そりゃそうだよな。自分でも有り得なすぎて苦笑する。 「怒んないのか?」 「まあ、少しはだけど……蓮としては、優しい嘘のつもりだったんでしょ?」 さあ、それはどうだろうな。 「あたしだって、同じだし」 「ねえ、蓮……」 「なんだよ」 「あのさ……色々ごめん」 「なんだよ、その大雑把な謝り方。言われた方は何がなんだか分からないって」 「…………」 香純が沈黙する。それを口にする気はないらしい。 それでも、香純は俺に対して何かを負っている。 少なくとも、こいつ自身はそう感じている。 「ノーヒントかよ。おまえ、昔からそういう反則っぽいナゾナゾ好きだったよな」 だから、あえて深刻ぶらずに付き合ってやる。 香純のやりたいように、こいつの流儀に合わせてやる。 それが男の〈嗜〉《たしな》みってもの……なんて事を、司狼辺りなら照れもせず平気で口にするだろうけど。 「それも含めて、ごめん」 「余計わかんね」 「今の気持ち的に、そういう方向性ということで」 「まあ、わかった」 「……あたしらしくないかな、こういうの」 「そんな事はないだろ。大体おまえらしさって表現もどうかと思うぞ。らしかろうがらしくなかろうが、香純は香純だ」 ちょっと、我ながら臭かったかな。 それでも背中の気配は笑ったりせず、何が心地いいんだか相変わらずベッタリくっついたままでいる。 「ねえ、蓮……」 「ん?」 「必ず帰ってきてね……」 「……覚えてるのか? 俺が言ったこと」 背筋に冷たい感覚が〈過〉《よ》ぎった。 あの夜――香純から俺にギロチンが移った運命の夜。 俺は、気を失う前のこいつに言ったんだ。 絶対に戻ってくるから、留守を守っていてくれと。 忘れているものだと思っていた言葉…… 「うん、覚えてる……でもさ、なんだかそれってプロポーズの言葉みたいじゃない?」 「…………」 はにかむような香純の仕草。そして物言い。 そこに陰は感じない。俺が香純とは永遠に切り離していたい、暗い陰は。 きっと気の回しすぎに違いない……たまたまあの夜の記憶の一部が、断片的に残っているのに過ぎないだろう。 青空の下の遊園地。北風の寒さ。左腕にもたれた重さ。 そして――香純の笑顔。笑顔。笑顔。 もしもあの夜の全てを覚えていたのだとしたら…… きっと、人は、あんな風に笑えるはずがない。 「あっ、コラ。なんとか言え、バカレン」 焦ったように、顔を真っ赤に染めている。 「…………」 香純はいつだって、決して失くしちゃいけない陽だまりで―― 「ちょっとお、何黙っちゃってんのよ?」 だから、俺も―― 「……別にそう思ってくれて構わないけど」 「えっ!?」 「なんだよ、その反応は……嫌なのか?」 「ううんっ。そんなことない。そんなことないよ」 「えへへ。少し、嬉しすぎて……」 「……俺は恥ずかしい」 「ねえ、蓮……こっち向いてよ」 振り向くと、目の前に香純の顔があった。 息と息が吹きかかりあう距離。 「香純……」 「蓮……」 互いの名前を一度呼び合い、俺たちの距離が近づいていく。 静かに唇が重なる。 伝わってくる温もり、甘い香り、蕩けるような感触に俺はゆっくりと浸っていった。 「んっ……んんっ」 かすかにこもれ出る吐息がなんだか心地よかった。 そっと彼女の中に舌を差し入れる。 香純のなかが俺を、受け入れるように、そして捜し求めるように、〈蠢〉《うごめ》き絡まりあう。 俺の舌が、まるで口の中で溶かされてしまいそうだ。 二人の滴がそっと交じり合っていく…… つかの間の休息。 この次いつ訪れるともしれない静寂、平和な一時を今は大事にしたい。 長い長いキスからの解放── 名残惜しさを感じながら、俺は目の前にいる香純を見つめた。 どこか照れくさそうな、それでいて愛しそうにこちらを見つめ返す香純。 「ふふっ……、ヘンな感じ。こうして蓮の傍にいるだけで、蓮の顔見てるだけで、なんか幸せな気分……」 「……そっか」 「ねえ、蓮は? 蓮はどう?」 香純は瞳を潤ませながら、じっと俺を見ている。 幼なじみの顔がこんなに愛しいと感じたことはなかったかもしれない。 「俺は……」 俺の言葉を今か今かと待ち望む香純。 そんな彼女の髪をそっと撫でてやる。 「あっ……」 「……なんか照れくさいな」 言葉を濁す俺に、髪を撫でられる感触に酔いしれていた香純の表情が曇る。 「もう! ちゃんと言葉で言ってよ」 「香純……」 「蓮の言葉であたしを安心させてよ……」 真剣な言葉を、笑って誤魔化すわけにはいかない。 うなじの辺りまでそっと指を這わせ、香純の温もりを確かめる。 ……こいつも、いつまでも生意気で勝気な女の子じゃない。今、目の前にいるのは俺を魅了して止まない一人の女だ。 こいつを安心させるのも男の務めだよな…… 「俺も……、幸せすぎて怖いくらいだ……」 「蓮……」 「おまえの傍、絶対離れないからな……」 きっと今の俺は誰が見ても真っ赤になってるに違いない。 けれど、そんな俺を嘲笑うことなく香純は真剣な眼差しで見つめていた。 「私も……。私も一生くっついてる。蓮が嫌がったって絶対離れないんだから……」 そっと瞳を閉じる香純。 俺たちはもう一度、唇を重ね合わせながら互いの身体を抱きしめた。 強く、強く……もう何があっても離さないという意思をこめて。何が相手でも、こいつを守り抜くという誓いと共に。 強く──強く── ……………… ………… …… 「ん……」 ジグソーパズルのピースみたいにかっちりと、抱きしめあったままの体勢で、香純はくすくす笑った。 「……うふふっ」 「なんだか、とっても……なんだか、ほんとに……」 「しあ……わせ……」 「もう、ジゴクに落ちても……いいよ……」 「…………」 その時、俺は何か名状しがたい違和感を、香純の言葉に感じてしまった。 今、こいつはなんて言った……? ジゴク……地獄に落ちてもいいって、そんなことを言ったのか? なんで地獄? 「なあ、今なんて……」 「すぅ……すぅ……」 返って来たのは、浅い寝息だけだった。 聞き間違いだったのかもしれない。香純の口から出る言葉としては、あまりにも不似合いすぎる。 そんな言葉が相応しいのは……俺一人だけであるべきだ。 香純の体重を受け止めながら、香純の温もりを感じながら、俺は香純の細い体を、しっかりと抱きしめていた。 この一時が永遠に続けばいい――そんなわりとありがちなことを、その時の俺は真剣に願いながら。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 6/8 【Chapter ⅩⅠ Speculum Sine Macula ―― END】 「Haenschen klein ging allein in die weite Welt hinein. Stock und Hut steht ihm gut, ist ganz wohlgemut, Aber Mutter weinet sehr, hat ja nun kein Haenschen mehr. Wuensch dir Glueck, sagt ihr Blick, Kehr nur bald zurueck.」  艶やかな声音で紡がれた異国の歌が、緩やかに流れていく。それはどこか郷愁をかきたてる、この国でも馴染みの深い民謡だ。歌詞がまるで違うとはいえ、聴けば誰でも心当たりを連想できる。 「ちょうちょ?」  だから、少女はそう言った。まだ十にも満たない年齢だが、この歌くらいは知っている。彼女は歌い手の袖を引きつつ、澄んだ瞳を瞬かせて再度尋ねた。 「ちょうちょでしょ、いまの」 「ええ、正確にはその原曲。私があなたくらいの頃、よく友達と歌ったわ」  と、微笑しつつ応じたのは、貴族の令嬢もかくやといわんばかりの美女だった。腰まで届く豪奢な金髪と深い湖のような碧眼は、凛冽な気品と風格を漂わせている。今は相好を崩しているが、およそ一般の凡人が持ちえるようなものではない。 「なんとなく、この街は私の故郷と空気が似ている。そのせいでしょうね、ふと思い出したのは」 「ねえ、さっきの歌はなんて名前?」 「〈Haenschen Klein〉《幼いハンス》」  だからだろう。代わりに答えた長身の青年が、ひどく枯れて見えたのは。容姿云々の問題ではなく、彼には生命としての華がない。物腰は柔和だが、どこか病床の老人めいた感がある。 「だけどベアトリス、子供に嘘を教えちゃいけないよ。蝶々の原曲は、スペイン民謡」 「そうだったかしら?」 「ああ。でも、だからといって代わりに歌ってみせろというのは勘弁してくれ。僕が恥をかくだけだから」 「えぇ、そんなのつまんなーい」  不満を露にする少女だったが、男は苦笑しながら首を振り、弱音めいた弁明をした。 「彼女の後で披露するような喉も、それに耐えられる心臓も、生憎持ち合わせちゃいないんだよ。僕は小心者だから、君に呆れられたらどうしようとか、そんなことを考えてしまう」 「わたし笑ったりしないのに……」  納得いかなげに見上げてくる少女の目を、男は困ったような顔で受け止めた。もとが弱々しい雰囲気だけに、そんな表情をすると一層老人のように見えてしまう。 「観念したら?」 「いや、そう言うけどさ……」 「私、あなたのお経みたいな歌、わりと好きよ」 「おきょー、おきょー」  それはつまり、度外れた音痴だと言っているのだろう。男は髪を掻き揚げて宙を仰いだ。 「ひどいな。確かに否定はしないけど、そもそも語学は苦手なんだよ」 「語学って、あなた……」  それは何の関係もないと思うのだが、あまり苛めてもしょうがない。  女はもう少しからかってやりたい気持ちを抑えながら、上機嫌で鼻歌など歌っている少女へと目を落とした。  そう――  この子は何も知らない。  自分がどういう立場にあるのか、そして彼らがどんな存在であるのかも。  時間がない。時間がないのだ。  己は悪霊。陽だまりがしょせん泡沫の夢ならば、消えゆくことに否はない。  だが、この少女にとっては、その夢こそが唯一の現実であるべきだろう。  だから、今だけはせめて――  ねえ、私はあなたが―― 「ベアトリス」  女が考えていたことを読んでいたのか、不意に名を呼ばれてはっとする。見れば諭すような面持ちで、男が彼女を見下ろしていた。 「君にこんなことを言うのは釈迦に説法かもしれないが、ひとつ忠告をしてもいいかな」 「忠告?」  唐突に、何を言うのかと思いきや、 「聖餐杯には気をつけろ。あの男を信じちゃいけない」  その言葉は、一気に彼女を現実へと引き戻すだけの力があった。 「“僕ら”は君らと違って、ハイドリヒ卿やメルクリウスを覚えていない。だから理解の及ばない存在より、手近なところが気になるんだよ。まあ、これも小心のなせる業かな」  微苦笑する男だったが、しかし眼までは笑っていない。彼の特徴である甘い声も、心なしか硬い響きを含んでいる。 「ベイやマレウスもそこは同じだ。君らは黄金と水銀に毒されて、眼が悪くなっている。忘れてはいけないよベアトリス、いま僕らを率いているのは、あの男だということを」 「…………」  圧倒的すぎる頂点をなまじ見知っているがゆえ、それ以外をつい見落としてしまう悪癖……足元が疎かであり、間近で口をあけている陥穽に気付かないという狭窄視野は、ほぼ総ての団員に共通する欠点だ。 「まあ、あるいはそれを見越した上で、彼のような男を代行に据えたのかもしれないけどね。 そのあたり、流石は黒円卓の双頭と言うべきかな。……ああ、今の発言は不敬だったね。別に忠誠を蔑ろにしてるわけじゃないんだ。僕はただ……」 「いい。分かっている」  ただ、無粋だなと女は思った。せっかくのこの瞬間、他に言うことはないのだろうかと。  まったく、彼はいつもこうだ。他人のことばかりを心配して、自分のことを顧みない。  そんなことで、これから先…… 「ねえ、ベアトリス。どこかいたいの? つらそうだよ」 「ん? ああ、ごめんなさい。そんなことはないんだけど……私おかしな顔をしてたかしら」 「うん。なきそうな顔だった」 「そうだね。戦乙女の名が泣きかねない」 「あなた達は……」  いったい、誰のせいだと思っているのか。内心噴飯ものだったが、なぜか楽しくなってくるあたり救いようがない。 「君はキレイだよ」  だから、そう言われて頬が熱くなってくるのも、何かの間違いなのだろう。 「ベアトリスはきれい」 「ああ、昔から変わらないね。僕がこんなことを言うのは、生意気かな?」 「……そうね、まったく偉そうに」  彼など、弟みたいなものだ。十年早い。 「誰があなたに剣を教えたと思っているのよ」 「今じゃ僕のほうが強いさ」 「あら、どうかしら」 「けんかはだめよ」  拙い言葉で仲裁に入る少女の手……そこから伝わる温もりが優しすぎて、女は自分が人であった日を思い出さずにいられない。  だから、期することはただ一つ。この血塗られた修羅の螺旋を、今代で終わらせること。  騙し合うのも、殺し合うのも、魔道に生きるのもいささか飽いた。  戦争の怪物を、これ以上生んではいけない。  せめて、平和な世に生まれたこの子だけは幸せに…… 「私が何とかしてあげる。カイン、あなたは……」 「その名で呼ばないでくれよ、ベアトリス。僕はまだ――」 「……そうね。そうよ、そうだった」  泣き笑いのような男女の顔。  少女にとっての英雄であり、誰よりも愛と信頼を捧げた二人の騎士。  彼らと最後に語らったこの日のことを、少女は生涯忘れなかった。  ゆえに、今でも悔いがある。  あの日、自分がもう少し大人だったら……彼らを止めることが出来たのかもしれないのにと。 「………ぁ」  忘れられない、そして取り戻せない過去の情景を夢に見て、螢はまどろみから目を覚ました。 「つ……」  そのまま緩慢な動作で上体を起こし、頭に手をあてて考え込む。なぜ自分はこんなところにいるのだろう。 「ああ……」  そうだった。思い出した。“あの後”、重傷の遊佐君を藤井君と一緒に抱えて、帰ったのだ。本来なら病院直行レベルの怪我だったが、あの場所に入院するのは危険すぎる。だからエリーと、彼女の知り合いだという闇医者に治療を任せて、〈クラブ〉《ここ》に戻ってきたのが確か朝方……  疲労困憊だったこともあり、そのまま泥のように眠ったのだろう。部屋の時計を見ると、午後五時だ。つまり…… 「十二時間くらい寝てたのね……」  自分にしては随分と長い休眠だが、仕方ない。それくらい倒れても当然なほど疲弊していたのだし。  むしろ半日程度の休みで意識を取り戻せたのが不思議なくらいだ。そう思っていたら…… 「残念。正確には三十六時間だよ、櫻井ちゃん」  と、開いたドアの前に立ち、やんわりと螢の認識を訂正したのはエリーだった。片手に持ったトレイの上には、簡単な食事が載せられている。 「三十六時間……?」 「そ」  ぽかんとする螢に苦笑しつつ、室内に入ってきたエリーはテーブルの上にトレイを置く。慣れた手つきでお粥を回し、スプーンにすくって。 「ほれ、あーん」 「…………」 「食いなよ。なに恥ずかしがってんの、女同士で」 「……別にそんなわけじゃないけど」  まあ、強硬に拒む理由も確かにない。ちょっとした逡巡の末、大人しくお粥を食べることにした。 「美味しい?」 「いや、その……」  どうしよう。言うべきなのか、これ。 「何か……変なもの入れてない?」 「ん?」  エリーは一瞬きょとんとして、自分もお粥を食べてみる。 「うげ、なんじゃこりゃ」  どうもえげつないと言うか、ぎとぎとしてると言うか、胸焼けを催すと言うか…… 「スタミナドリンク……紅マムシとかそっち系? うわ、見てよやっぱりだ」  お粥の底を掻き回してすくい上げたスプーンの上には、まさしく蛇の頭が乗っていた。 「…………」 「あのさ、普通はこういうとき、きゃーとか言うもんじゃないの、女の子的に」 「あなただって言わないじゃない」 「いや、だって、あたしはそりゃ、そんなガラじゃないし」 「ていうか、あなたが作ったんじゃないの?」 「ノンノン、これはテレジア……じゃなかった。氷室先輩」  ああ、そういえば。 「彼女が?」 「あんたのご飯用意するって言ったら、自分がやるって言い張るから任せたけどさあ……なんか恨み買ってんじゃないの?」 「…………」 「まあ、あの人、わりと電波入ってるから、案外とマジに作ってこれなのかもしんないけど」 「とりあえず先輩のことは後で話すっていうか会わせるとして、そっちはいったいどうなのよ?」 「どうって、何が?」 「だから、今なにがいったいどうなってるかってこと。司狼は流石にダウンだし、蓮くんもいないし」 「え……?」  呆気にとられた。彼が、いない? 「藤井君、ここにいないの?」 「そ。あたしが戻ったのは昼過ぎだけど、こんなの置いていなくなってた」  と、エリーが見せたのはメモ用紙に書かれた簡素な文面。内容は以下。 『すぐ戻るから。司狼と櫻井をよろしく頼む』 「…………」 「なーんかあいつ、あたしのことを都合のいい雑用係だとでも思ってんじゃないのかな。別にいいけど、男っつーのはなんでこう自己中なんだか」 「それで、よろしくお願いされたあたしとしては、あんたに事情説明をしてほしいんだけど、どうなの?」 「…………」 「一昨日の晩、司狼があんなんなった夜、何があったの?」 「それは……」  呟いて、あのときのことを回想する。  そう、あれは、あの夜のことは…… 「正直、私だって意味が分からなかったわよ」  黒円卓の大隊長、ウォルフガング・シュライバー。  自分と、遊佐君と、藤井君……三人がかりで全力を尽くし、なおそれでも勝てなかった過去最強の敵は…… 「さようなら。なに、これも一時の別れですよ」  理解を超えた闖入者の出現によって、唐突に消えたのだから。 「あ……ぁ……」  絶対の死と敗北を感じたその瞬間に……私達を救ったのはヴァレリア・トリファ、彼だった。 「不死のあなたにとって、この程度のことは小石に躓いたようなものでしょう。ひとまず今は、大人しく“城”へお戻りなさい、シュライバー卿。 長くとも数年、早ければ数日後、また顔を合わす機会もあるでしょう。ご不満ならば、続きはそのときにということで」  不滅の〈英雄〉《エインフェリア》である彼らに、死の概念は存在しない。ラインハルト・ハイドリヒがいる限り、無限に蘇る永遠の戦奴……  しかし自律個体としての再生は、これで主の完全復活まで成されない。六つ分ものスワスチカを触媒に像を結んでいた身体は解れ、再び“城”へと……黄金の混沌へと還っていく。  つまり、現在におけるシュライバーは、儀式の中枢から外されたのだ。  いったいなぜ……? 「別に、たいした意味などありません。そう申し上げたはずですが」  すでに消え去った〈白騎士〉《アルベド》を一顧だにせず、トリファは螢達に向き直ると、肩をすくめた。 「まあ、強いて言うなら無駄遣いを避けるため……ということになりますかね。彼は〈代行〉《わたし》の指揮に従うような方ではありませんし、愚挙を諌めるとなればこうするより他にない」 「大隊長御三方には、確かにハイドリヒ卿の意志が強く反映されている。してみればシュライバー卿の暴走癖も、あの方が有する心の側面……ゆえにどんな理不尽でも主命に等しく、本来なら容認せねばならぬのですが。 現状、指揮権は未だ私にあるのでね。もちろん、いかにそうとはいえ、単独でこのような真似をすることは出来ませんが……」  滔々と話すトリファの横に、熱風を伴い紅蓮の魂が像を成す。 「他、御二人の同意を得られれば問題はない」 「そういうことだな」 「――――」 「………あ」  それまで半ば放心状態だった螢達は、身を走る戦慄によって覚醒した。 「もとより、マキナはそこの小僧にご執心だ。すでに機能もせぬ〈戦場〉《スワスチカ》で、シュライバーの牙にかけるなど認めはせぬよ。そして私は……」  焦熱の〈英雄〉《エインフェリア》、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ……首領代行であるトリファに続き、彼女まで現れたとなれば到底勝ち目などありはしない。シュライバー一人さえ斃せなかった自分達が、この二人を前にいったい何が出来るというのか。  彼らに殺意がないのは状況から分かっていたが、そんなものなど関係なしに絶望が押し寄せてくる。  自分は、彼は、本当にこんな者達と戦うつもりでいるのかと。 「レオンハルト、貴様には生きてもらわねば困る。すでに役目を果たした以上、どう動くのも結構だが、黒円卓に名を連ねた身ならハイドリヒ卿に忠をつくせ」 「あ、私は……」 「よい。シュライバーに刃向かった無礼は見逃してやる。あれもハイドリヒ卿の一部なれば、本来なら許しがたいが大事の前だ。そこの小僧に与するのもよし。私がそう言っているのだ、胸を張れ。 ともあれ、八つのスワスチカ……聖櫃を回す五色の中から〈白化〉《アルベド》が欠落した。代理のエインフェリア、その空席はさて、いかにして埋めたものかな、クリストフ」  意味深に流し目で問うエレオノーレに、トリファは苦笑しつつ首を振る。何を今さらと言わんばかりに嘆息して。 「要はハイドリヒ卿が認める英雄ならばよい問題。ならばあなたにとっては一択でしょう。そもそも我々はそのために――」 「ああ、確かにその通りだよクリストフ。〈貴〉《 、》〈様〉《 、》〈の〉《 、》〈考〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈キ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ヒ〉《 、》〈ア〉《 、》〈イ〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ン〉《 、》〈も〉《 、》〈賛〉《 、》〈同〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈だ〉《 、》。 では、行くか。正直、同日のうちに同じ場所へ顔を出すなど、間抜けを晒しているようで性に合わん」 「あ……」  身を翻すエレオノーレに、螢は何事かを言いかける。  何を? いったい、何を訊こうとしているんだ?  自分を殺さない理由? シュライバーを見切った理由? それとも、ベアトリスがどうしたのかということか?  分からない。彼らの話は、本当に理解できない。  聖餐杯もエレオノーレも、各々会話をしているようでしてないような。何処か微妙に噛み合っていない不自然さのみが感じられる。  何かが狂っている違和感……黒円卓に明確な反逆の意を示した自分のことなど、まるで眼中にないような。  いや、それすら見越した上で踊らされているだけのような…… 「私は……」  あなた達は、私にいったい、どうしろと? 「トリファ神父」  と、一歩踏み出しかけた螢を制するように、蓮が間に割って入った。 「二つ訊きたい」  見上げた横顔に表情はない。混乱の極致にあるのは彼も同じことだろうに、そんなものは度外視して、凪いだ湖面のような静謐さのみがその瞳に映っていた。 「藤井、くん……」  分かる。この目の色は、何かを決意した者のそれだ。  無表情に近い仮面の奥で、決して折れない不退転の覚悟を決めた者特有の… 「香純は、あんたのところにいるんだな?」 「ええ、聡いあなたなら、おおよその事情は読めているでしょう。その通りです」 「それなら……」  第二の問い。それを告げようとする瞬間に、抑えようのない怒りが表出するのを螢は見た。  ほんの刹那、注意して見なければ分からないだろう一瞬だけ。  しかし、間違えようはずもない嚇怒の念を。 「先輩は、代わりにくれると思っていいんだな?」 「ええ……」  トリファもまた、一瞬だけ間を置いてから短く告げる。 「“あれ”はもう要らない。せいぜい可愛がってあげなさい」 「一方的に奪うというのは好まぬのでね。そう悪くない代価のはずだ。 あなただけでなく、リザもまた……しょせんは過去に捨てた子の系譜。生きているのか死んでいるのかも知らなかった者の処遇など、彼女に不満を述べる権利はない」 「あの人が死ぬまで動かなかったくせにか?」 「そうですよ。それがせめてもの慈悲。世の中知らぬほうがよいこともある」 「そうか、よく分かったよ神父さん」  気を抑えるように嘆息して、蓮は眦を決した。  静かに、しかし断固として、宣言するように言い放つ。 「けど俺は、欲張りだからな。〈香純〉《あいつ》も返してもらいに行くよ」 「ええ、分かりました。ではお待ち申し上げておきます。テレジアの誕生日までにおいでなさい。 欲張りなあなたが、そこの〈レオンハルト〉《かのじょ》も欲しいと仰るのでしたらね」  もはや会話をする気などないとばかりに無言で応じる蓮に向け、トリファは大きく頷いてから感嘆した。 「いやあ、素晴らしい。この世にはあなたのような人がいるのですねえ。さすがは副首領閣下、私などとは器が違う。 美しく愚かしく羨ましく憎らしい。あまりにあなたが眩しいので、カインとぶつけたくて堪らなくなる。 ふふ、ふはははは……どうするのですかねえ、どうなるのですかねえ。みんな救うなど出来ませんよ。私はその選択に負けましたが、あなたは勝てるか。はてさて、ははははははははははははははは――」  壊れた笑いを響かせて、神父は夜に消えていく。  追うことは出来ず、重傷の司狼に思いつく限りの応急処置を施してから、その場を後にしたのだった。  そして、帰路の途中、印象に残っていることといえば…… 「あいつはもう駄目だ」  怒りも憎しみも通り越して、諦めるように呟いていた蓮。  ヴァレリア・トリファ……彼がシュライバーよりもエレオノーレよりも、他の誰より手遅れなのは、螢もまた分かっていた。  何も知らない。分からない。無知で愚かな子供のまま、現実に翻弄される風見鶏みたいな自分でも、彼が最悪の癌であるということだけは、感覚で察することが出来たから。  ねえ兄さん、ベアトリス、そもそもあなた達、どうして死んだの?  今まで聞いていた事情なんて、もう信じることは出来ないよ。 「と、いうことで……」  事態の説明を終えた私は、自分の無知さ加減を改めて再認することになってしまい、鬱々とした気分になる。 「結果的に命拾いしたからこうしていられるわけだけど、勝った負けたで言えば負けたとしか言えない。遊佐君にも、申し訳ないと思ってる」 「ふーん」  だけど目の前の、やたら軽いこの子ときたら、頬杖ついてぽやーんとしてるだけだった。 「でもまあ、やばいのが一人消えて、こっちは生き残ったんだから問題なくない?」 「そうは言うけど……」 「プラス、味方が一人増えたわけだし」 「…………」 「櫻井ちゃんは、これからこっちの陣営なんでしょ?」 「なんでしょって言われても……」  そんな単純な話じゃないような。将棋じゃないんだし、取った駒を自陣に据えて云々というのは、お互いあまりに厚顔無恥すぎないか? 「私は別に、味方とかそういうのじゃ……」  このクラブで数百単位の人が死んだ出来事に、自分は深く関わっている。彼女はそんなこと気にもしてないようだけど、こちらとしては感情の整理が色々あるのだ。切り替えの早すぎる変節漢はみっともないし、時間をかければ変えていいというわけでもないだろう。 「ただ私は、もうあの人達にとって必要ないみたいだし、好きにしていいとも言われているから好きにしているだけよ。別にあなた達と仲良くしたいわけでもないし」 「意地っ張りだねえ」  我ながら自分に言い聞かせるような言葉に、エリーはにやにや笑って目を細める。 「らしいっちゅうか、顔に似合わずっちゅうか、意外と煮えない子だね櫻井ちゃんは。まあそこが可愛いと言えば可愛いけど。 だったら一つ聞かせてよ。あんたがやってる好きなことってのは、いったい何さ?」 「それは……」  その返答には少しだけ躊躇したが、結局素直な言葉が出た。 「私は、知らないことが多いから」  何も知ろうとせず、深く考えようとせず、与えられた現実だけを見て猪突猛進してきたから。  自分は本気で走ってきたと今でも自負しているけれど、それが誘導された道であったという感は否めない。  だから…… 「ちゃんと自分の頭で考えて、動きたいの。何が本当で、何が嘘で、そこから私はどうしたいのか」  獣の祝福はいらない。そんな誉れは欲しくない。  でも、だけど、だからといって望みを完全に捨て去ることもまだ出来ない。  そんな簡単に割り切れないから。そんな軽い気持ちじゃないから。 「馬鹿だと思う?」  自分の望みが何なのか、何を犠牲にして何を得ようとしていたのか、それは当然、すでに割れているだろう。藤井君は呆れ返っていたようだけど、この子はどう思うのか。  今まで他人の意見など聞こうともしなかった自分にしては珍しく、そんなことが気になった。 「そうねえ」  エリーはそれに、少し考えるような顔をして。 「あたしはまあ、家業柄、人死には見慣れてるし、そういう意味じゃそのへんいたってドライだね。個人的には反対派だけど、遺族の気持ちってやつも分かんないことはない。 たださあ」 「臓器提供とか、あれの現場見たことある? 死人に口無しっていうのは、ああいう状況のほうがなんかこう、当てはまる。 本人が自分の内臓使ってくれってドナー登録してたのに、周りの親だの子供だの、嫁やら旦那やらが騒ぐんだわ。それってどうなんって思うわけよ。故人の遺志を尊重するっていうのは、万国共通概念だと思うけどねえ。 これがたとえばもっと別の、棺おけに生前の愛用品を入れてくれとかいうやつだったら、一も二もなく従うでしょ。でも、それがすっごいお宝だったらはたしてどうかな? 財産分与とかにも言えることで。 あとはそう、安楽死なんかも同じだね。運良く助かっても植物状態決定の身で、人間生きたいと思うもんかな? そういう人達を大枚はたいて永らえさせるのは、さていったい誰のためでしょ?」 「…………」 「とあたしは思うけど、ただ誤解はしないでね。別にそういう気持ちがおかしいとも、悪いとも言ってない。 ただ、強いて言うならはっきり堂々と胸張って言えとは思うけど」 「何を?」  問いに、エリーは笑顔で即答した。 「〈死人〉《こいつ》の気持ちなんか知るか。俺が嫌だから嫌だって言ってんだよ」 「…………」 「つまり、要はエゴいこと言ってんだから、もっとふてぶてしくしろってことよ。可哀想ぶって、口も利けない誰かのせいにしてる卑怯もんは嫌い。 その点まあ、あんたのことは嫌いじゃないよ。少なくとも人前じゃあ、妙な言い訳しないプライドはあるみたいだし」 「でも……」  それは分かる。分かるがしかし…… 「よく復讐物の話なんかであるフレーズよね。あの人がそんなことを望んでいたと思うのか、とか」 「ああ、あれ、あたし見るたびイラっとくるわ」 「ええ、私も」  死人の気持ちを慮ることが出来ないのなら、いいように美化して行動しないのもまたエゴだ。ならば自分は、動くエゴを通したい。 “ため”と“せい”が混同する危険性は確か藤井君にも言われたけど、私は自分勝手な女だからまだ望みを捨てきれない。  ただ、以前とは違うところがあるとすれば…… 「今までは、特に疑いなく信じてた。事がなれば、全部丸く治まるって。 だけど、そう上手くいかないケースもあるんだって、知ったから」  獣の爪牙、〈死せる戦奴〉《エインフェリア》……本当にそんな方法しかありえないのか、どうなのか…… 「だから知りたい。そして出来れば、逢ってまた話したい。どうしてほしいって……放っておけば、あの人達は今よりもっとひどい目に遭う。それは私の主観だから分からないし、エゴだけど。 あなた流に言えば、私が嫌だから止めるのよ。その後で、また別の手段を探す……かな。とにかくもう一度逢って、訊きたい。私が余計なことをしたのかどうか」 「それで思いっきり嫌がられたら?」 「それはそれで仕方ないわよ」  無条件で喜ばれると思っていた。笑ってくれると信じていた。  でも、必ずしもそうじゃないだろうという可能性に気付いた今、それでも捨てられないのは私のエゴ。  だって…… 「逢いたいんだもの」  あまりに唐突に、離別してしまったから。  どうしてそうなったのかも、よく知らないから。 「諦められない。声が聞きたい。今は私の視点でしか測れないから、第一声は罵詈雑言かもしれないけど……そのときは償える道を探すつもり」 「墓に手を合わせてさようならって選択はないわけね」 「少なくとも、今のところは」 「ふーん」  エリーは感心したような、呆れたような、微妙な顔でこっちを見てくる。 「あたしは全部知ってるわけじゃないから所々分かんないけど、察するに皆殺し儀式じゃよろしくないカタチの蘇生になるから、それはやめるってわけ?」 「そう」 「んで、その後、もっとクリーンな手段がないかを探してみると」 「ええ、調子がいいと思う?」 「思うよ。思うけど、あんたがそうしたいならやればいいじゃん。 ただ場合によっては、また誰かさんと揉めるかもね」 「その辺りは、お互いに納得してる……と思う」  数千対一という命の天秤は、すでに成立させてしまった。今さら過去を拭い去ることは出来ないし、私が集めてきた数多の魂を解放するなら、自ら剣を叩き折って死と引き換えにするしかない。  最終的に何も打つ手がなかったら、そうしてもいいとは思うけど、今はやるべきことがまだあるから。  戦奴として以外の蘇生……そんな都合のいい道があるのかないのか分からないけど、言ったように今願っているのは彼らともう一度逢って話すという、ただそれだけ。  たとえ死者のままでも構わないから、この十一年に何かしらの決着をつけない限り、私は一歩も前に進めないのだ。  と、そこまで考え、思わず自嘲の笑みが漏れた。我ながら、本当に諦めが悪い。粘着だの怨霊みたいだのと言われるのも納得だ。 「普通はあなたが言うように、墓前でケリをつけるべきことなんでしょうね」  いきなりの離別で途方にくれている人達は、今現在も世界中に沢山いるはず。自分自身、そうした嘆きを数限りなく生み出してきた人間だ。  殺人者が、随分と虫のいいことを言うものだと周りは思うに違いない。だけど、仕方ないじゃないか。特に親しくもない千人より、大事な一人がいたんだから。 「でもなんか、そうまで言われるとかえって興味湧いてくるね」  エリーは物珍しげに目を輝かせて、言ってきた。 「どんな奴だったの、あんたの兄貴」 「どうって……」  そんなことを訊かれても。 「ていうか、なんであなたがそのことを知ってるの?」 「学校で叫んでたじゃん。あたしもあんとき、近くにいたし」 「ああ……」  そういえば、そうだったかも。 「知りたい。おせーて」 「…………」 「ついでに、櫻井家のあれやこれやも」 「…………」 「黙秘するなら、あんたの全裸写真をネットに流すよ」 「あのね……」  本当にやりそうだから怖いんだ、この子は。 「あたしの家もごっちゃごっちゃしてるしさあ、遊佐家は別の意味でおかしいし、藤井家は正体不明だし、綾瀬家と氷室家は人外魔境だし」 「そもそも、なんで純日本人の家系が第三帝国に関わっちゃってんの? 昔は同盟国だからって、付き合い良すぎでしょ。なんか弱み握られてるわけ?」 「弱みというか……」  そういう問題じゃなくて。 「ああ、でも……離れられない理由はある」 「どんな?」 「それは……」  言いかけて、躊躇した。どうもこの子を前にすると口が軽くなって困る。  話したって仕方ないし、関係ない人に愚痴を聞かせてもお互い嫌な気分になるだけなのに。 「……って、なに携帯いじってるのよ」 「ん? なんか誤魔化そうとしてるみたいだから発破をね」 「ほら、このボタン押すと、全国に櫻井螢のあられもないヌードが発信されちゃう~ん」 「…………」 「有料サイトにしたらなんぼくらい取れると思う?」 「知らないわよ」  だいたい、私の裸なんか見て喜ぶ人が何人いるか知らないけど、そんな見せびらかすほど大層なものは持ってない。 「とにかく消して。話すから……」 「えー、勿体なーい。じゃあせめて、あたしの待ち受けにするのは駄目?」 「……人に見せたら、怒るわよ」 「オーケーオーケー」  なんだか、凄く信用できない約束だけど。 「あなたはもっとこう、他人に干渉しないタイプだと思ってたのに」 「あー、そりゃ違うな。あたしは好きな子いじくりまわすのが趣味」  好きとかヌードとか、女同士でそんなさあ……  別に変な嗜好の持ち主ってわけでもないだろうけどさあ……  私って、そんないじめやすそうなタイプに見えるわけ? 「で、ほら話しなよ」 「…………」  ……仕方ない。まあこの子なら、変に気を遣ってはこないだろうし。 「ただ言っておくけど、面白い話じゃないから鬱陶しいと思ったときはすぐに言って」 「了解。つまんなかったら寝る」 「あと、誰にも言わないで」 「分かった分かった。さあどうぞ」  促され、私は溜息をついてから、話しだした。  こんなこと、身内の恥を晒すものでしかないんだけど…… 「事の起こりは、六十年以上前になる……」  確か1940年、第二次大戦が始まって、間もなくの頃。  聖槍十三騎士団が結成されたときの話。 「当時の黒円卓は、そう危ないものじゃなかったらしい。 SS長官が仕切るそれは、帝国の指導者を名義上だけの首領に据えて、他にはラインハルト・ハイドリヒ、カール・ハウスホーファーを含んだ当時のトップ……後諸々、つまり上級将校達の秘密クラブみたいなものだったの」 「ただ問題があるとすれば、彼らは本物の聖槍を持っていて、それに触れるのが一人しかいなかったこと」  大ドイツ帝国に覇権と勝利を約束する運命の槍。その究極的な聖遺物に持ち主と認められたラインハルト・ハイドリヒは、権力を拡大していくと同時に恐れられていく。 「表向き、ハイドリヒ卿は槍の管理者として長官の下にいたわけだけど、実質的な力関係がこの時点で逆転していることは言うまでもない」 「だから長官は、もっと簡易な槍を欲しがった。早い話、複製品をね。 ハイドリヒ卿にしか持てないような真槍は、危険すぎると思ったんでしょう。いずれ持ち主ごと封印することを前提に、シンボル的な偽槍を求めて、その結果」 「櫻井ちゃんのご先祖が?」 「ええ。当時黒円卓の幹部だったカール・ハウスホーファーは、著名な地政学者で、錬金術の知識もあって、ついでに言えば日本に駐留していた経験もあった」 「私の家はなんていうか、少し特殊な金属の精製方法を持っていて、それを奉納する神職だったから」  錆びず、折れず、朽ちない聖槍……運命の槍を複製する者として、白羽の矢を立てられた。 「ハウスホーファーに招かれて、ドイツに渡ったのは私の曽祖父。そして彼が創った複製品が〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》……あなたも見たでしょ。あれよ」 「ああ……でも、でかすぎない?」 「あの金属は、使用者の質によって変形するの」  私のそれが、高温を発する剣の形を取るように。 「つまりね、結局偽の槍も、特定の人間にしか扱えないものになったのよ。トバルカインというのは、聖槍を創った鍛冶の始祖を指す名前。 〈櫻〉《 、》〈井〉《 、》〈の〉《 、》〈血〉《 、》〈族〉《 、》〈は〉《 、》〈み〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈ト〉《 、》〈バ〉《 、》〈ル〉《 、》〈カ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ン〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》」 「じゃあ、それって」 「そう。今の彼が朽ちれば、次は私。これはあの偽槍がある限り、絶対に逃げられないの」 「だったら、壊せばいいじゃない」 「ええ。でも私には、そんなこと出来ない」 「偽槍を使えるのは櫻井の血筋だけで、しかも必ず〈あ〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》から」  それは聖槍なんて破格の霊器を複製してしまったリバウンド……呪いなのだと思っていた。でも、本当は違う。  あれはまさしく、運命の槍の劣化複製品なのだ。死を超えてなお戦う〈戦奴〉《エインフェリア》を生み出す槍……それに魅入られた櫻井は、皆が生きる死者となる。 「あの中には、私の家族が詰まってる。壊せないわよ」 「なるほど。じゃあ結局、長官殿の目論見は大失敗っていうわけか」 「そうなる。そして同時期にハイドリヒ卿が暗殺されて、真槍も偽槍も行方不明。黒円卓は崩壊し、第三帝国は破滅の坂を転がっていき……」  カール・クラフトとラインハルト・ハイドリヒの二人が統べる、今の黒円卓が動き出した。 「思えば、偽槍を創るにあたって、ヒムラーとハウスホーファーを裏で利用したんでしょうね。誰がそれをやったのかは分からないけど、今となってはどうでもいい」 「ただ、黒円卓にバビロンがいたのは良かったのか悪かったのか……偽槍の継承で必ず屍兵になる櫻井を、彼女は効率的に操って長持ちさせる術を持っていたから。 あの人がいなかったら、私の家はとうに絶えていたかもしれないし、あの人がいたから、未だに逃げられないとも言えるのよ」 「ちょい待ち。それなら今、シスターはいないんだから、あのデカブツっていうかあんたの兄貴は……」 「彼がああなって、もう十一年……たぶん保たないわね。あと数日以内で朽ちるでしょう」  偽槍によるエインフェリア化は完全じゃない。バビロンがいなければまともに動くことも出来ないし、腐敗という理から逃げられるのも、せいぜいが数年だろう。 「だったら、あんたやばいじゃん」 「そうだけど、要は使わなければいいのよ」 「そんな簡単なもんなの?」 「正確に言うと、〈順〉《 、》〈番〉《 、》〈が〉《 、》〈回〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈者〉《 、》〈は〉《 、》〈徐〉《 、》〈々〉《 、》〈に〉《 、》〈吸〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》、使えば一瞬。だから、時間はまだある」  一年か二年か、私が偽槍に魅入られて、何も考えられない壊れたエインフェリアになってしまうまで、それくらい。 「今のトバルカインは、代々の櫻井が融合した死体の塊……〈群体〉《レギオン》なの。兄さんは大きい人だったけど、さすがにあそこまでじゃなかったわ。 身体が朽ちて、代替わりするたびにより大きく復元する。当代の櫻井を核にして、その周りを霊的な肉の鎧で覆っていると言えばいいのかな。兄さんの遺体をこのまま朽ちさせるのは辛いけど、それは流石に諦めないといけないみたい。本当に守るべきは魂だし。 問答無用で吸われた初代を除いて、〈櫻井〉《わたしたち》は待って待って待ち望んだのよ、この呪縛から逃れられる日を」  何もしなくても緩やかに死んでいくのだから、黒円卓の一員となって儀式に参加するしか道はない。偽槍に囚われた魂を再生させ、ただの人間に戻った上であの槍を破壊する。それが私の、いいや櫻井の悲願だった。 「さっきの臓器提供云々と、少し似た話になるわね。どのみち槍を使えばああなるから、口が利けるうちにドナー登録しておくの。自分の集めた魂を、ちゃんと再利用してくれって」 「それは親族に頼むわけ?」 「本来ならそうだけど、兄さんは自分の代で終わらせるつもりだったみたいだから、何も話してくれなかった。代わりにベアトリスへ頼んだみたい」 「でも、彼女もまた死んでしまったから……」  今代のトバルカインは、他の者らに分割譲渡されかねない、まさしく臓器売買の対象になってしまった。 「私が黒円卓に入ったのは、そのことを防ぐため。兄さんの魂をベイやマレウスに切り取らせるわけにはいかないし、私自身が集めた分は、ベアトリスの再生を目的にする」  そうして迎えたこの戦い……私は一族の悲願と個人的な望みを叶え、勝利を獲得する――はずだった。  結局、そうは問屋が卸さなかったわけだけど。 「それで、今みたいな状況になっている。こんなところでいいかしら?」 「うーん」  私の長話を聞き終えて、エリーは眉を顰めつつなにやら考え込んでいた。 「なんとなくは分かったけど、いずれにせよあんまり悠長なこと言ってる時間もないわけでしょ? だったら感情的な問題はとりあえず棚上げして、あんたの方に中身を移すことはできないわけ? お墓とお骨を移動させるようなもんだと思えば」 「無理ね。と言うより意味がない。言わなかったけど、私の剣も同じ金属で出来てるから、そんなことをすれば新しい偽槍が生まれるだけ」 「それなら、あとは……」  まあ、彼女が考えていることは分かる。でもそれは駄目だ。 「言ったでしょ。誰にも言うなって」 「この状況で、隠そうとする意味がむしろあたしには分かんないけど」 「肉親の魂を他人に預けられると思う?」  それは感情的な意味だけじゃなく、単純に危険なのだ。 「少なくとも偽槍の中にある限り、櫻井の魂は核として残る。私の家系だけを狙い撃ちにしてるんだから、そのためには元の情報を保存しておかなければならないでしょう? でも別の聖遺物……たとえば何処かの女顔した人の物に移したら、それはただの燃料よ。消費されておしまいだし、そうなったらもうどうしようもない」  そしてそのとき、私は彼を本当に許せなくなる。あるいはそれだけが、獣の祝福から逃れる唯一の手段なのだとしても。 「だから駄目。言わないで」  そうじゃなくても、彼は色々と抱え込んでいるのだから。  こんな私の事情なんかで、重荷を背負わせるつもりはない。 「けどさあ、放っといてもそうなる確率大っていうか」 「そうね。だからどうしようかなって思ってる」  ただ仮に、藤井君が兄さんの魂をちゃんと保管してくれたとしても、それは彼に〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈強〉《 、》〈要〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》。  あの人は、そんなこと望んじゃいない。  日常に帰りたがっている彼に、私が妙案を見つけるまで付き合えとは言えないし、そもそもそんな協力をする義理も理由もないだろう。 「でも、少し驚いた」 「何が?」 「あなた、意外と親身に考えてくれてるようだから」 「ああ、まあ暇だしね」  と、正直ちょっとは狼狽えたり照れたりするかなと思ったけど、彼女は平然とそんなことを言うだけだった。  可愛くない。きっとこういうところは私といい勝負だろう。 「んで、まだお兄ちゃんの人となりを聞いてないけど、今のところあたしの意見を言うとだね」  そのとき、だった。 『話はすべて聞かせてもらった』  唐突に、部屋のスピーカーから大音量でそんな声。 「………つぅ」 「あ、なんかキーンとする。キーンと」 『話はすべて聞かせてもらった』 「いや、先輩、しつこいっつーか、うるさい」 『あ、あー、てす、てす、本日はお日柄もよく』 「…………」  何をやっているんだろう、あの人は。  スピーカーの向こうから機材をガチャガチャと弄るような音が聞こえ、しばらくしてから音量の調整に成功したのか。 『話はすべて聞かせてもらった』 「またそれっすか」 『うるさいな。始めが大事だと私は思うの。 話はすべて聞かせてもらった』 「あんたそれが言いたいだけでしょ」  よく分からないが、たぶんそういうことなんだろう。以下同じようなやりとりを五周ほど繰り返したあと、機械音痴丸出しの先輩は言ってきた。 『櫻井さん、あなた早く藤井君を捜してきなさい』 「…………」 『私のお婿さんにする予定だったのに、あなたなんか紅マムシ粥十杯食べて鼻血出しちゃえ。そしてそのまま、二人で燃え上がってればいい』 「…………」 『ねえ本城さん、私この子見てるとめためたにいたぶりたくなるんだけど、どうしたらいいかな?』 「あー、うん。とりあえずその名前で呼ぶのやめようね、テレジア先輩。 あと、話に交ざりたいんなら顔出しなよ」 『あなたが用意してくれた服はゴスパンクすぎて、お客様に見せられない』 「気に入ってるくせに」  小声でそんなことを言いながら、失笑するエリー。いったいどんな格好をさせられたのか知らないが、スピーカー越しの文字通り電波な人は、顔を見せる気がないらしい。 『とにかく、藤井君は勘が鋭いくせに馬鹿だから、放っとくと全部一人で解決しようとしちゃうよ。それでいいの?』 「よくはないよねえ」 『というわけで、首に縄かけてでも引きずってきなさい。私はか弱いから無理だけど、あなたはごっついからオーケー』 「先輩、あたしはあ?」 『あなたは真面目にやらないから駄目』 「今一番不真面目なのは誰かっちゅー話を……」 『櫻井さん』  抗議の声を黙殺して、先輩は言う。 『藤井君を死なせないで』 「…………」 『あと、綾瀬さんを助けて』 「やれやれ。恥ずかしがっちゃって」  と、エリーは肩をすくめて苦笑する。 「事情はだいたい読めてるんでしょ、櫻井ちゃん」 「それは、まあ……」  直で誰かに聞いたわけではないが、自分とてそう愚かではない。おおよそのあらましは見当がついている。 「〈香純ちゃん〉《あれ》はお姫様ってガラじゃないけど、クライマックスは救出作戦な感じなのよ。あんたも皆殺し儀式は止めるって言ってたし、手ぇ貸してやってくんないかな」 「あなたは、いいの?」 「あたし? あたしはか弱すぎて、そんなヘビーなとこにゃいけないよ」  とても本音を言ってるようには思えないし、そもそもそういう意味で言ったんじゃないんだが。 「私なんかを信用していいの?」 「しつこいね。あんたの粘着具合はよく分かったし、香純ちゃんをぶん取り返すのに関しちゃ利害は一致してるようだからそれでいいよ。 お兄ちゃんの処遇については、その後で蓮くんと交渉したら? あたしは知んない」 「…………分かった」 『藤井君をいじめたら、怒るよ』 「だから、そういうことは顔見せて言いなさいよ」  彼に関しては、こちらの方が明らかにいじめられていると思うのだけど、それはまあいい。  とにかく、私としても藤井君に勝手な真似をされては困るし、人が寝てるのをいいことにさっさといなくなったのは腹が立つし、何を考えているのか知らないけど、絶対付き纏うと言ったのを忘れてもらっては困る。  綾瀬さんも、おそらくこんな気持ちだったのだろう。  彼は何と言うか、中途半端に人を助けてから逃げようとする。そういうことをするから、余計に追い縋られるのだ、馬鹿め。 「んじゃ、行ってらっさい」  立ち上がった私を見上げて、手を振ってくるエリー。 「遊佐君は、放っといていいの?」 「ああ、あいつはちょっと特殊でね。無駄にタフだから死にゃしないよ。 そのぶんきっと懲りてないから、目ぇ覚ましたら首突っ込んでくるだろうし、そうなりゃあたしも付き合うし」 「なら、今の内にってこともあるか……」  彼らが心身ともにちょっと普通じゃないのは読めている。それでもやはり私達とは違うから、これ以上関わらせないほうがいいだろう。  たぶんこの子は、そういうところも計算に入れて私を煽っているんだろうけど。 『ねえ櫻井さん。神父様は、その……』 「…………」  やや歯切れの悪いスピーカー越しの声には、逡巡の気配が見受けられた。彼女は彼女なりに、何かしら思うところがあるのだろう。  ヴァレリア・トリファ……彼とこの人がどの程度の深さで繋がっているかは分からない。でも私が知る限り、聖餐杯という男は“最恐”だ。面識がないも同然のハイドリヒ卿や、顔すら知らない副首領閣下より、私は彼が恐ろしい。  その得体の知れなさ、正体不明さ、善悪の混沌みたいな精神を知っている。  言いたくはないけど氷室先輩、彼と共にいた期間はあなたより私の方が長いのだから。 『あの人は、生きてる限り駄目だと思う。 救ってあげて。よかったら……』  それは殺せということなのか。いや、あるいは…… 『あの人なら、たぶんみんな知っているはず。あなたのお兄さんのことも、あなたの前にいた人のことも』 「……そうでしょうね」  分かっている。分かっているんだ。私が問いを投げるべきは、彼しかいないだろうということくらい。  でもその結果、どうなるのか……それを知るのが私は恐くて……今まで無意識に目を逸らしていて……  だけど、もう楽で都合のいい方には逃げないと決めたから。自分の頭で考え、動くと決めたから。 「分かりました」  私は彼を避けられない。対峙して、問わねばならない。この十一年がなんだったのか、そもそもの始まりである離別の真相がどうだったのかを…… 「私にとっても、あの人は父親だから」  櫻井螢を獅子心剣にしたのは彼。ゆえにその名を捨てるなら、ヴァレリア・トリファを避けて通ることなど出来はしない。 『ごめんね。他力本願で』  私を嫌っている人に謝られるというのは、心なしかむず痒いものがあったけど。 「じゃあ」 「ん、またね」 『できれば、あなたも死なないで』  今、私と彼女らの関係を定義付けるとするのなら、はたしてどんなものが適当だろう。  仲間? 友人? 協力関係? どれも違うし、当てはまらない。  でもそのいい加減さが、なんだか少しだけ面白かった。  一方で物事をはっきりさせようとしている反面、もう一方ではこの様だなんて、かなり矛盾しているけれど。  そもそも今から捜さねばならない相手のことが、一番定義に困る位置の人だし、曖昧なのだから仕方ない。  いずれ、そうした諸々もはっきりさせるべきなのだろう。だから今は、まず何よりもお互いに生きなければ。  クラブを出ながら、私はそんなことを思っている。  三十六時間もの休眠は、傷と疲労を快復させるに充分なものだった。 「ああ、どうも。いえ、別にそんなんじゃないんですけど」 「本当、大したことじゃないんで、心配しないでください。大丈夫ですから」 「え、ああ、あいつはその、どうなんですかね。一応、元気にはしてるみたいですけど」 「ええ、はい。じゃあ司狼には、連絡入れるように言っておきます」 「香純にも、はい……分かりました。今は寝てるんで、具合がよくなったら電話させますよ」 「じゃあ、おばさん、そういうことで。ええ、俺は大丈夫です。……ああ、そうですね。ごたごたが片付いたら、三人で一度里帰りもいいかもしれない」 「学校、休みですからね。せっかく長い冬休みなのに、香純も馬鹿っていうか、馬鹿は風邪引かないんじゃないのかっていうか……」 「とにかく、正月には顔見せますよ。……はい、約束します。絶対に」 言って、俺は携帯の通話を切った。 「…………」 「約束、か……」 呟いて、自嘲する。最近は破りまくってるものの象徴的概念だが、今度ばかりは反故に出来ない。そういう意味で、珍しい人からの電話は渇を入れるのに役立った。 香純のおばさん……娘そっくりで口やかましく、元気な人で、普段は俺の話なんか聞きやしないタイプなんだが、珍しく狼狽している様子だった。 まあ、しかしそれも当然だろう。今の諏訪原市は連続殺人に続いて爆破テロ、タワーでの大量殺戮に続いて謎の大交通事故といった風に、事態の裏を知らない人から見ても異常すぎる。 加えて、そんな状況の中、一人娘が電話に出ないとなれば気になるのも当然だ。二ヶ月前に退学したまま音信不通の司狼については、あっちでも色々言われているようだし、残った俺が質問攻めにあうのも仕方ない。 香純のおばさんは苦手……というか、諸々の負い目があって距離を置いている相手なんだが、これもやっぱり娘と同じで空気読めないところがあるし。そうじゃなくても、この状況で心配するなというのが無理な話だ。 正直、寝顔の写メでも送れと言われたらどうしようかと思ったが、どうにか口頭のみで信じてもらえたことにほっとしつつ、そして同時に罪悪感を覚えていた。 信用、されてるんだよな、俺……本当はとんでもない嘘つきで、今回のことに限らず、周りを騙し続けているというのに。 「……くそ」 吐き捨てて、そのまま携帯を海に投げ込もうかと考える。だが寸前で思い直した。いくらなんでもそれはあんまり、意味がなさすぎる八つ当たりだろう。 今朝目を覚ましてから、一人でふらふらしているのは、何もそんな安っぽいヒロイズムを満たしたかったからじゃない。 確認して、刻み付けて、再度覚悟を固め直そうと思ったからだ。今月に入ってから、立て続けに起こった出来事を…… まず、退院して最初の一週間は夜毎の悪夢と殺人事件。 次の一週間は、〈黒円卓〉《やつら》との遭遇に加え、力の獲得とそれを制御するまでの日々。 そして最後の一週間は、文字通りの戦争だ。目の前で何百人も死んでいき、殺されかけて、殺そうとして……これから最後の戦いに、俺は今から臨もうとしている。 「まったく、とんだクリスマスだ」 今日はイブ、そして明日は聖誕祭。これは勘だが、おそらく奴らはその日を狙って動いていると思ったから。 根拠は、あの神父が言ったこと。氷室先輩の誕生日に、獣からの祝福を……そしてこの読みが正しければ、もはや時間などありはしない。 イブの深夜、午前零時に八つ目のスワスチカが開かれるなら、その前に総てを終わらせる。残っているのはあと二つだ。 すなわち、教会と病院。本城の親が経営しており、俺自身も世話になったあの場所を、戦場にも処刑場にもさせられない。あそこをそんな場に変えることなど断じて出来ない。 だから、攻めるべきは教会だ。氷室先輩とシスターの家であり、過去に何度か遊びに行ったあの場所は、やはり俺にとって特別な場ではあるけれど…… 少なくとも、無関係の人間を巻き込むことだけはないだろう。そう考えれば、他に選択の余地はない。 連中の本拠地であろう教会に突っ込むという行為自体、自殺に等しい真似であると分かっていながらこの有り様だ。おそらく奴らも、それを見越した上で俺を誘っているのだろう。 悔しいし、業腹だし、許せない。そしてだからこそ、気持ちだけは負けたくないと強く思える。 すでに黒円卓は半壊し、初期の頃から見知っていた奴はほぼいない。だけど反面、それは下っ端が消えたというだけであり、連中の戦力が減退したというわけじゃないんだから。 残っているのは、カインを除けばその総てが幹部級。 ヴァレリア・トリファ、マキナ、ザミエル……シュライバー一人にさえ三人がかりで勝てなかった俺が、奴らを全破出来る可能性は限りなくゼロに近い。 いいように踊らされ、成す術もなく自棄になって突撃する……そんな考えで行ってしまえば、香純を奪い返すことも生還する確率も完璧なゼロだ。他に道がないというなら、それは自身で選んだものだと信じなければならない。 俺は勝つ。絶対勝つ。誰にも文句をつけられない大団円に辿り着くため、罠に引き寄せられるのではなく、まとめて斃せる好都合な場に向かうのだと…… そう思い、心から念じ、勝って帰るために決意と覚悟を不動のものへとしたかったから。 クラブを出て、今までずっと、俺は街の中を歩いていた。 学校にも、家にも、タワーや博物館、遊園地の跡や橋の上……この戦いの爪あとを感じられる場所へ赴き、その総てを心に刻んだ。 そして最後に、仕上げとして立ち寄ったのは此処。 諏訪原市海浜公園……ヴィルヘルムやルサルカと初めて遭遇し、香純の殺人を目にして力を奪い、かつシュピーネを相手に初陣を飾ったこの場所こそ、俺にとってもっとも思い入れが深い地だ。 二番目のスワスチカとなり、かつては雑多な人達で賑わっていた公園が、今では墓場のようになっている。クリスマス前であるにも関わらず、もはやここを訪れる者は誰もいない。 タワーや学校、博物館もそうだった。敷地ごと燃え尽きた遊園地などは言うまでもなく、戦場跡地はあらゆる意味で死んでいる。今後いかなる形であれ、人が集まる“場”としては二度と機能しないだろう。 俺が奴らを斃しきれば、これらの場所はまた以前のようになるのだろうか……分からないが、いずれにせよこんな光景、こんな空気を、この街全体に拡大させるわけにはいかない。 そう思える気持ちがあればこそ―― 「……よし」 あともう少しで日が暮れる。夜になれば、教会へ向かおう。 スワスチカは、七つで完全に終わらせる。奴らがクリスマスに八つ完成させるつもりなら、今夜の戦いで二手に分かれ、二箇所同時開放という真似は防がなくちゃいけない。 そして、これもまたやはり勘だが、戦いはおそらく一対一の連続になるだろう。少なくともマキナとザミエル、あの二人はそういう人種だ。こちらが一人なら、一人で来る。ならば俺一人で行ったほうが事態の混迷度は防げるはずだし、下手にパーティ組んで行かないほうが気楽でいい。 司狼の負傷は目を覆うばかりだったが、とりあえず一命は取り留めたようだから安心している。とはいえドクターストップを聞き入れるような奴でもないし、このままあいつが寝ているうちに片をつけられるならそうするべきだ。 それと、まあ、もう一人……出来れば来てほしくない奴もいるし。 そう思い、今さらながら携帯の電源を切ることにした。これから先、あいつに出てこられると困る。 と、そのときだった。 狙いすましたようなタイミングで、着メロが鳴り響く。液晶に表示されている番号は、誰だか分からない初見のもの。 「…………」 たぶんこれ、あいつだよな。今までメールでのやり取りをしたことはあったけど、通話目的でかけたりかけられたりしたことはなかったから、当然のように番号登録なんかしていないし。 少しだけ考えて、結局俺は呼び出しを切った。そのまま電源ごと切ろうとしたとき―― 「……今度はメールかよ」 しつこい。さすがは怨霊予備軍。粘着具合は相変わらずだ。 俺は半ば呆れつつ、メールの文面を見てみれば。 『シカトすんなバカちん。いいものやるから、これ見て元気出せ。エリーちゃんより』 「…………」 なんだ、おまえだったのか。なら無視しなくてもよかったな。 そう思い、添付されていた“いいもの”とやらが何なのか見てみると。 「……おい」 それはその、なんというか……とある女のオールヌード写真だった。胸とか下とか、大事な部分はご丁寧に黒線引いて隠してるけど。 「撮られてんじゃねえよ、おまえも」 そして、送ってんじゃねえよ、こいつも。 『どうすかアニキ、気合い入りましたか?』 「つーか、気合いが抜けるって言っただろうが」 『鼻血なんか出しちゃって、えっち』 『藤井君、どうせならこっちで出しなさい』 「あのな……」 今度は先輩からだし。なんかこの人、凄い服着て写ってるし。 まるでいかがわしい領域のメイド喫茶みたいというか、パンクのステージ衣装みたいというか。 『おっきした?(〃゚∇゚〃)』 しねえよ。あんたら俺にセクハラするしかやることないのか。 人が結構シリアスなことを考えていたというのに、三秒でぶちやぶるようなことばっかりしてくる。 まあその、気を遣ってくれてるらしいのは分かるし嬉しくもあるんだが、このまま放置してたら無限にメール攻撃されかねない。とりあえずなにかしら返信をして、さっさと電源ごと切ってしまおう。 そしたら―― 「ああ、もうっ」 分かった、出るよ。出りゃいいんだろ。 「はい、もしもし」 いい加減しつこいぞ、とうんざり気味に言いつつ電話に出ると。 『私がしつこいのは、今に始まったことじゃないでしょ』 「……げ」 てっきり本城だろうと思い込んでろくに確かめもせず出てみると、相手はあろうことかこいつだった。 『げ、って何よ?』 「あ、それは別に……」 参ったことに完全な不意打ちだったから、咄嗟に何も言えなくなる。 『まあ、いいけど、あなたどういうつもりなの?』 「どういうって、言われても」 『そんなに私を怒らせるのが楽しい?』 「いや、楽しくはないぞ」 『嘘。いつもいつも私のことを馬鹿にして』 『藤井君はあれでしょ? 私が邪魔だって思ってるでしょ?』 「ああ、まあ……」 よく分かっていらっしゃる。 『でも、言ったよね。私もあなたが邪魔だって。ずっと邪魔をしてやるって』 『だから、勝手なことなんかさせない』 「…………」 『聞いてる?』 「一応……」 「それで、おまえ何処だよ?」 『あなたこそ、何処よ?』 「内緒だ」 『じゃあ私も、内緒』 電話越しに、苦笑の気配が伝わってくる。なんだか面倒なことになってきた。 櫻井とはそりゃ、色々ごちゃごちゃ揉めたうえに共闘関係になったものの、あれはシュライバーという天災みたいな奴に対抗するための成り行きであり、俺達の間にあったズレや溝を埋めたというわけじゃない。 今さらこいつと喧嘩しようという気は起きないが、だからこそ顔を合わせたくなかったわけで。 しかし各々勝手にすると決めた以上、俺が逃げるのも櫻井が追いかけてくるのも、必然と言えば必然だろう。文句を言う筋でもない。 『藤井君は、ずるいというか要領が悪いよね』 対応に困る俺をからかいつつも責めるように、櫻井はそんなことを言ってくる。 『色々考えてるようで、いつも行き当たりばったり。私を生かしておけばこうなるって分かってたくせに、対処法は逃げるだけ? もっと劇的な、起死回生の案はないの?』 「ないな」 そんな都合のいい落としどころは、残念ながら見つからない。 「何回も何回も、同じ話題をループさせるのはさすがに疲れた。そういうのも、実は嫌いじゃないんだが」 いつも同じ毎日で、劇的な幸も不幸もない陽だまりの停滞……俺はそういうのが好きだけど。 「おまえ絡みの話は、色々と重すぎる。何度も繰り返したいとは思わない」 『それはつまり、もう決めたから話す必要はないってこと?』 「そうだな。おまえはまだ話したいのか?」 『さあ、どうだろう。なんとも言えない』 ただ、と少しだけ間を開けて、櫻井は言う。 『どんな結果になるとしても、それを後で知るだけなのはもう嫌なの。私は傍観者じゃなくて、当事者でいたい』 『望みはね、捨てられないよ。あなたは呆れるんだろうけど、一度見た夢は忘れられないし。そんな簡単に割り切れない』 『諦め、悪いから……私』 「…………」 『なんだって、やり直せるかやり直せないかの見極めは難しいよね』 確かに、そういう逡巡は理解できる。 まだ間に合うのに手遅れだと思ったり、取り返しが効かないのにやり直せると思ったり。 その見極めを誤ると、まず間違いなく痛い目に遭う。直面している問題自体で差はあっても、生きてりゃ毎日、そんな選択の繰り返しだ。 『言い訳をするつもりは別にないけど、私は子供だったから上手く選べなかったみたい』 『でも、子供は子供なりに走ってきたから、今さら引き返せないのよ』 「それは、そういう風に思ってるだけじゃないのか?」 『そうかもしれない。けど、昔選んだことの結果に今の私があるんだから、出来あがった性格は曲がらないわよ。誰かと一緒で』 『ねえ藤井君、あなたにとって、人生最大の失敗って何?』 『そのとき選んだことに、後悔してる?』 「俺は……」 俺にとって最大の罪、失敗……それが何かと言われれば、一つしかない。 後悔は、しているが……やはり今さら引き返せないとも思うこと。 『違ったら、ごめんなさい。それは十一年前じゃないかしら?』 「…………」 『少し、考えたの。どうして兄さんとベアトリスが死んだのか。なぜいきなりそんなことになったのか』 『1995年は、何かの節目だったんじゃないのかって』 『あのとき、誰も知らないところで何かが狂ったんじゃないのかって』 それは大戦から半世紀……今から十一年前というその時期に、総てを巻き込み狂わせる何かしらの動きがあった。――かもしれないと。 櫻井は、そんなことを淡々と言う。 『誰かのせいにする気はないし、そんなの癪だから認めないけど、なんとなく思ったの』 『あなたも、遊佐君も、綾瀬さんも……そのとき何かを無くしたんじゃないのかなって』 『黒円卓も、一度に二つの駒を失った。兄さんについては、まあ、彼らにとって予定調和だったとしても』 『ベアトリスは違う。彼女は初期からの一人だし。そんなところで、まだ何も始まってないのに落ちるなんて有り得ない』 『結果、聖餐杯猊下は私を連れて街を離れ、氷室先輩は父親代わりの人を失って』 『ただのこじつけかもしれないけど、なんだかそういう、うねりみたいなものがあったように思えてならない』 『どう? 心当たりある?』 俺は答えない。無言のまま、しかし櫻井はそれを肯定ととったらしい。 『そう。じゃあこれも別に、答えなくていいんだけど……』 『あなた、誰か殺してない?』 「…………」 『ベイがね、前に言ってたの。シュピーネも、たぶんマレウスも同じように思ってた』 『黒円卓には、家族殺しの人間が多いから匂いで分かる。そんなことを』 「ヴィルヘルムが?」 『ええ、彼は両親を一番初めに殺してる。確かシュライバー卿も似たようなもので、マレウスは夫、シュピーネは妻、猊下やバビロンはたぶん子供』 『そして私は、兄弟を』 「おまえは違うだろ」 『同じようなものよ。自虐するつもりはないけど、私は当時の兄さんを救えなかったんだし』 『それであなたも、そうじゃないかって。答えなくてもいい。ただ私が、勝手にそう思うだけで』 『藤井君が、死んだ人の蘇生を毛嫌いするのは、そういう理由じゃないのかなって』 『人殺しが、都合のいい夢を見るなってことのなのかと』 『私は、そんな風に今思うの』 「…………」 「仮に」 「もし仮に、俺が誰かを殺ったとしたら、それはそいつがどうしようもない邪魔者で、いるだけで害だから消したっていうだけだと思うぞ。別に泣きながらしたわけでも、悔やみながら埋めたわけでもない」 「おまえが考えてるような、愁嘆場じゃあきっとないさ」 俺はたとえばこいつのように、心底から大事な誰かと死別したわけじゃない。 喪失の重さで言うのなら、櫻井よりだいぶ甘い環境だろう。 だからその気持ちは分からないし、分かりたくもないから今こうしている。 香純にしろ、司狼にしろ、本城、先輩、マリィ、それから何処かの約一名……頼むから俺が片付けるまで寝ていてほしいと。 「自分勝手なんだよ、俺は。色んな奴に言われるけど、あまり人の気持ちとか考えない」 他人の価値観も、生き方も、慮って尊重するのは俺に関係ない次元においてのみの話だ。 放置して不都合が生じると思ったら、勝手に動いて自分に都合のいい方向へ持っていこうとしてしまう。 こちらの主張を押し付けるような真似をしない反面、妥協も支援も同じくしない。 「別にカッコイイ何かの主義があるわけじゃない。ただ俺が嫌だから嫌だって言ってるだけだ。エゴだよ、しょせん」 「だから、おまえの予想が当たってようと外れてようと、俺の動機なんてそんなもんだ」 『でもあなたは、〈失敗〉《それ》を忘れられるような性格をしてないでしょ』 『普段考えないようにすることは出来ても、忘れたふりは出来ても、ずっと思っていたはずでしょう? これで本当に良かったのかって』 『私はね、やり直せるって言われたら飛びつかずにいられない。なかったことに出来るなら、どんな犠牲を払ってでもそうしたい』 『過去の失敗を帳消しに出来る魔法を、信じたくなっちゃうの。別に今回のことに限らなくても』 『だけどあなたは、違うのね。是正より維持、拾うより、落とさないように……私が言っているのは、そういうことで』 「おまえ、もしかして褒めてんのか? だったら気持ち悪いんだが」 『別に褒めてるわけじゃないわよ。実際今、苛々してるし』 「そうかよ。でも……」 結局、何をもって終わったとするかは人それぞれ自由勝手だ。俺にとってはお終いだと思うことでも、まだ続いてると考える奴はいるだろう。 極論すれば、櫻井は死んでも終わりじゃないとする人種だから、こんな議論に意味なんかなく…… 「なんかもう、面倒くせえよ。俺はこの手の話が嫌いだから、おまえと絡みたくなかったのに」 『ねちねちと粘着?』 「ああ、端的に言うと鬱陶しい」 『ごめんなさい。でも性分だから』 『だいたい藤井君、言ったじゃない。私に舐められるのが嫌だから、ちゃんと見てろって』 『それにね、これも言ったけど――』 ピッと、〈携〉《 、》〈帯〉《 、》〈の〉《 、》〈通〉《 、》〈話〉《 、》〈を〉《 、》〈切〉《 、》〈る〉《 、》〈音〉《 、》〈が〉《 、》〈間〉《 、》〈近〉《 、》〈で〉《 、》〈聞〉《 、》〈こ〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》。 「私も、あなたに舐められるのは嫌なの」 「…………」 「だから、逃げないで見てほしい」 街灯越しに背中を合わせ、櫻井はそんなことを呟く。 なんでここにいるのが分かったのか、いつから俺を見つけていたのか、言いたいことは色々あったが。 「おまえ、気配消して近づくなよ」 「あなたが、鈍いの」 ああ、確かにそうかもしれない。だってこいつの考えてることが読めないし。 「おまえ、分かってんのか? 俺はあいつを……」 おまえの兄貴と、これから戦いに行くんだぞ。 「止めるとか、邪魔するとか言うんなら、もっとそれらしい態度を取れよ」 「うん、そうだね……」 「でも私、どうしていいか分からないから」 「前に、偉そうなことを言ってごめんなさい。優先順位がどうとかって」 「今の私は、選べない。本当に、困ってる」 「もう失敗は出来ないから。色々歩きながら考えたけど、駄目よね。彼を見逃してとかお願いしても」 「俺は……」 それに答えるべきことがあるとすればたった一つで。 「別に、生き返らせたいとかまた逢いたいとか、そういうのはおまえの勝手だし、やればいいさ。俺と考えが違うからって、否定する理由にはならない」 そこまで傲慢な価値観押し付けの趣味はない。 「ただ、学校のスワスチカはおまえのもんだろ。なら、あそこで死んだ奴らと、今までおまえが殺した奴ら、生贄にするっていうなら許さない。絶対邪魔する」 「それは……」 「ああ、分かってるよ。もうそんな気はないんだろ」 そう思ったから、俺はこれ以上櫻井と喧嘩をするつもりもなくなった。 けど、だからって好きにやれと言えない事情があるんだよ。 「なあ櫻井、あれは本当におまえの兄貴か?」 「え?」 「仮にクリーンな手段でおまえの望みが叶ったとする。けど、もう一枚裏がないかを考えろよ。一度騙されてるんだろ」 なぜなら、カインには謎がある。あいつは無害な死体じゃなく、その身に危険な怨念を宿している。 何か別の、禍々しい存在を兄と錯覚しているだけじゃないのか? 兄と思って蘇らせようとしているのは、もしかして別人じゃないのか? 「おまえの兄貴、どうして死んだ?」 「…………」 「言ってみろよ、何があった」 「…………」 数秒、迷うように間をおいてから、櫻井はぽつぽつと話しだした。 「東方正教会、〈双頭鷲〉《ドッペル・アドラー》……」 「知っていると思うけど、〈黒円卓〉《わたしたち》には敵が多い。特に宗教勢力からは、忌み嫌われている」 「十一年前に、この街で、彼らとの戦争があったのよ。結果的に撃退したけど、こちら側も二人死んだ」 「それが……」 ベアトリス・キルヒアイゼンと、トバルカイン。つまりそういうことなのか。 「信じられないと思ってるでしょう? でも〈双頭鷲〉《あそこ》だけは別なのよ。猛禽は何の天敵だと思う?」 問われ、俺は考える。それほど時間もかけずに、答えは出た。 「蛇か」 「ええ。双頭の鷲は東ローマ帝国のシンボルだけど、元々かなり昔からあった紋章で、それを旗印にしていた結社もある」 「彼らの目的は、蛇の排除」 「双頭の蛇を殺すことが存在意義……それが〈双頭鷲〉《ドッペル・アドラー》」 「副首領閣下が何者か……なんてのは誰も深く考えたがらない謎だけど、彼を徹底的に追い回してる組織だと思えばいい」 「だから彼らは、〈黒円卓〉《わたしたち》に対抗できる手段を持っている……としてもおかしくない。だって、その両方に通じている人が、実際身近に一人いたから」 「あいつか……」 宗教勢力……そこから連想できる人物は一人しかいない。 ヴァレリア・トリファ。やはりあの男の存在が浮かび上がる。 「ベアトリスは攻め込んできた彼らを迎え撃って、兄さんはそんな彼女を助けようとして……」 「それは本当のことか?」 「私はそう聞いているけど……」 今はもう分からない。何を信じ、何を思って何をするか……その選択に櫻井は揺れている。 それに対し、深い事情を知らない俺が軽率なことを言うべきじゃないのは分かっていたけど。 「殺したのは、神父じゃないのか」 ずっと思っていたことを、言わずにはいられなかった。 あのとき、憎悪とともにセイサンハイと言ったトバルカインが忘れられない。 あれは断じて…… 「そんな風に、逆恨みしたこともあるけど」 「違う」 あれは断じて、神父の存在が双頭鷲とやらを呼び寄せてしまったことに対する怨恨じゃない。 おまえがいたから不要な戦い巻き込まれたとか、そういう逆恨みで出せる怨嗟を超越している。 自分が死んだことすらも飛び越えて、さらに許せない裏切りを受けたとしか俺には思えず…… 「いや、まあいい」 ともかく、現状で分かっているのは、俺も櫻井も〈カイン〉《やつ》の真実を見誤っているんじゃないかということだ。 こちらの言いたいことを理解したのか、櫻井は小さく困ったように苦笑した。 「もっと疑え……か。そうね、私もそのつもりだったけど」 「……本当、私って何も知らない。それに相変わらず考えも浅い」 「もう一枚裏があるかもなんてこと、言われるまで思ってもいなかった」 「ねえ藤井君、でもだからこそ、私は彼を壊したくないの」 「見極めたい。何がどうなっているのかを」 「まあ、そりゃ……俺も同じだけど」 カインの怨念は剣呑すぎる。あれはシスターが手綱を握ってない限り、どう暴発するか分からない爆弾だ。 仮に奴を除く他の連中を斃したとしても、カインが大人しくなるという保障は何処にもない。ゆえに俺としては、一番最初に排除するべきだと考える。 あれを放置して、その間に惨事が起きたら悔やんでも悔やみきれない。俺は櫻井が言うように、拾うより落とさないようにするのを優先する人間だから。 「藤井君の考えは分かるよ。たぶんあなたが正しいことも」 「でも私だって自分勝手……あまり人の気持ちとか考えないから」 言って、櫻井は静かに俺の手を握ってきた。 背中合わせのまま、間に街灯を挟み、触れ合っているのはそこだけ。 まるで俺達の微妙な関係を、象徴しているような距離感で。 「二つだけ、譲歩して。今夜あなたについていくこと、何も言わずに認めてほしい」 「それと……」 絡めた指に力がこもる。櫻井の手は微かに汗ばみ、その決意と覚悟、何を考えているかが容易に分かった。 この馬鹿、病み上がりのくせによりにもよって―― 「あなたが彼と戦う間に、私は残り全員を斃す。どっちが早いか、恨みっこなしにしましょうよ」 「…………」 「それで藤井君があの人を消しても、怒らない。でもその代わり、私の方が早かったら言うことを聞いて」 「勝負よ。それでいいでしょう?」 「……何をいきなり」 ヴィルヘルムに半殺されて、シュライバーに惨敗して、俺にもあっさりやられた奴が、あの三人を連破するだと? ヴァレリア・トリファを? マキナを? そしてザミエルを? 「死ぬぞ、おまえ」 「言ったでしょ、舐めないで」 街灯越しに、櫻井が震えているのを感じられる。無論、武者震いなんかじゃないだろう。 怖いんだ、こいつは。なまじ黒円卓の一員であっただけに、奴らの恐ろしさを知っている。 その上で、なお無茶なことを言い出すのは、それほどまでに兄貴が大事だからということなのか。 「一つ、訊いていいか?」 「なに?」 「スワスチカに散った魂は、もうどうやっても呼び戻せないんだろ?」 「ええ、あれはハイドリヒ卿への生贄だもの。昔はそれでも呼び戻せると思っていたけど、今は駄目。彼の一部として〈死せる戦奴〉《エインフェリア》になってしまうと知ったから」 「マキナ卿もザミエル卿もシュライバー卿も、〈す〉《 、》〈で〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」 「それはつまり……」 奴らはすでに喰われており、ラインハルトの形成具現によって形を成した死者にすぎないということか。 無限に蘇り、永遠に解放されない戦争奴隷、なるほど確かにエインフェリアだ。それが不死や蘇生の正体だなんて笑わせる。 「ベアトリスはもう博物館のスワスチカに散っているから、ハイドリヒ卿が戻ってきたらそうなってしまう。そして兄さんも、教会で斃れたら……」 「もういい、分かった」 やはり、こいつの話に付き合うとろくなことがない。まだ幾つか隠していることがありそうだけど、たぶん聞かないほうがいいだろう。 「それは私がついていってもいいってこと?」 「私の条件に乗るってこと?」 「…………」 「答えて、藤井君」 「俺は……」 やめろと言いたい。馬鹿なことを考えないで、大人しくしていろと、そう言いたい。 でもこいつは、それを聞き入れるような奴じゃない。 言っても駄目。力ずくは論外。ここでこいつとまたやり合って、体力消耗なんて愚の骨頂だ。 「性格悪いぞ」 「お互い様でしょ」 ああ、確かにその通り。こんな無茶を言い出すまで譲らなかったのは、どう考えても俺のせいだ。 けど、仕方ないだろう。他にどうしようもないんだから。 「兄さんが兄さんじゃないかもしれないって、あなたの意見……一応頭に入れておく。そもそも今の彼は単独で、ほとんど何も出来ないはずだし」 「なのにそうじゃないところをもし見せられたら、それは私が知らない何かがあるってことだから」 「じゃあそのときは、俺からも一つ条件出させてくれよ」 「なに?」 黙って見てろと言っても聞かないだろう。帰れと言うのはさらに無理だ。 なら、妥協点は一つしかない。 「もっとフェアな勝負だ、櫻井。どっちが早いか競うなら一対一。つまり」 「……猊下ね」 「ああ、あいつだけはおまえに任す。色々知りたいならあの神父だろ」 「分かってる」 頷く気配。そして再び、苦笑の気配。 「でもその後で、俺が勝ったらおまえは帰れとか、言わないでよね」 「そう思うなら、おまえが勝てよ」 「……うん、頑張るよ」 言って、絡めた指が心なしか軽くなった。結局俺もこいつも、傍から見ればくだらない意地っ張りで。しょうもないほどに頑固なんだ。 少なくとも、もう少し柔軟で頭の回る奴が相手だったら、お互いにもっと利口な落としどころを見つけられたのかもしれないけどな。 でも、それは意味のない仮定だろう。何度も喧嘩して、言い合って、もう鬱陶しいほどムカつく相手だからこそ、俺もおまえもこうなって…… 「ねえ、これは関係ないんだけど」 無論、口に出してなんか言えないが、俺は俺で色々と思うところがあったから。 「藤井君、綾瀬さんが好き?」 この状況で、そんなことを訊いてくるこいつが何を考えてやがるんだとか。 「私のことは、やっぱり嫌い?」 それについて、俺の本音はどうなんだとか。 「化けて出そうだから、死ぬと困るとか言ってたけど」 ああ、そりゃ、ほんとに本音だけど。 「私もね、あなたが死んだら嫌だなって思うのよ」 だったら、それはどうしてだと訊きたい気持ちが何なのか。 「いい加減、何か言ってよ」 「あなたどうして、私のときだけ黙るのよ」 それが分かれば、苦労はしない。 「綾瀬さんのときも、氷室先輩のときも、なんだかカッコイイこと平気な顔で言ってたくせに」 「私にだけ愛想がないのは、やっぱり嫌いだからって、そういうことなの?」 「…………」 「言いたくないなら、私は私で勝手に言うけど」 「いいよ、別に」 「じゃあ、一緒に言おうよ」 何がじゃあ、でそうなるのか、さっぱり分からん。 「出来るだけ大声で、どうせ周りに誰もいないし」 「ね、いいでしょ?」 「……オーケー」 ただ俺は、表面上の軽いところだけ読むのはどうやら長けてるようで。 「せーので、いくわよ。さん、はい――」 「俺は――」 「私は――」 「櫻井螢が――」 「藤井蓮が――」 さあ、いったい何なんでしょう。想像に任せる。 「なんで何も言わないのよ」 「おまえも言ってねえだろうが」 「だってあなた、いつも意地悪ばっかり言うから、たまには私が……」 「バレバレだ、おまえ。そんな古典的な手には乗らない」 「~~~~っ」 怒るな。殴るな。蹴るな。痛ぇよ。 「聞きたくないの?」 「俺はそういうの気にしない」 「男って、こんなのばっかりなのかしら……」 そんな、俺一人がやったことを、十把一絡げで批判されても困る。 「ちゃんと答える男だって、何処かそこらへんにいるだろうよ」 「私は、藤井君に言わせたかったの」 「ああ、そうですか。諦めろ」 「……最悪」 「だから?」 「条件、一つ追加する。私が勝ったら、絶対さっきの続き、言わせるからね。負けないから」 「――って、何笑ってるのよ、もう」 と、真っ赤になって言う櫻井が、なんだか面白いと思わないでもない。 てことは当然のように言わないし。 カインについて、実は試すべき案を閃いたということも。 ただのバクチだから、今は言えない。 成否がはっきりしないのに、希望だけ煽るような真似は出来ないと思ったから。 今は言えないと、そう思う。 「……ろう。しろう……」  声に、彼は目を覚ました。 「……なんだよ、もう起きる時間か?」  呟いて、上体を起こす。包帯だらけのその身体は惨憺たる有り様であり、傷に埋め尽くされていた。  左腕欠損に加えて骨折数箇所、夥しい打撲と裂傷及びに、ほぼ全身第二度火傷……本来なら起き上がるどころか口を利くことすら不可能であり、そもそも麻酔によって昏睡状態のはずである。  だが司狼は、特に苦痛も眠気もないといった風情で室内を見回し、傍に置いてあったタバコを手に取ると、銜えてから火を点ける。 「ああ、おまえか。遅刻しそうだったから起こしてくれたんだな、ありがとよ」  それは誰に対して言っているのか、断言して、ここに彼以外の者は存在しない。  エリーの伝手で司狼を診た闇医者は、今別室で眠っている。すでに医師免許を剥奪された不真面目な男だが、その腕は悪くない。重症患者に施した処置は完璧に近かったし、峠を越えた以上、しばらくの間仮眠を摂るという判断にも過失はなく、間違ってはいなかった。  が、彼には知らされていないことがあった。  この患者が、普通とは違う体質であることを。 「司狼、あんたどうしてそんな……」 「へえ、おまえ見えてんのかよ」  声に、薄く笑って応える司狼。“見えている”とは、負傷についてか、それとも別の…… 「夏に、海へ行ったとき? あんたが一人で帰ったとき、バイクでこけたって聞いたけど。 だったらごめんね。あたしがよけいなことを言ったから……」 「別に、オレはなんとも思ってねえよ」  紫煙を吐きつつ、声だけの存在と会話する。いや、あるいは、見えているのかもしれない。彼の目には…… 「むしろラッキーだと思ってるぜ。色々便利だしな、こういうときは」 「でも、それじゃあ……」 「ああ、あと何年も保たねえらしい。エリーが言うには、そのうちオーバーヒートするとかなんとか。 けどまあ、お陰でケツに火も点いた。おまえと蓮にゃあいい迷惑だったろうが、だらだらやってる暇もなかったんでな、勘弁しろよ。 で、わざわざ見舞いに来てくれたのは、あいつのことだろ? ほら言えよ」 「…………」 「遠慮なんかするガラか? 一応オレにだって、負い目みたいなもんはあるんだよ。おまえの頼みなら聞いてやる。 あんまり要らん気ぃ回してんなよ。どうせ何も言わなくたって、オレは行くつもりだし。 おまえの考えてることくらい、簡単に分かるさ」 「うん、ありがとう」 「どういたしまして」  言って、司狼は立ち上がる。その動作で肌が割れ、火傷を負った表皮が幾つか剥がれ落ちたが、気にもしてない。 「脚が折れてないのは助かった。いくら痛くねえって言っても、構造は変わんねえしな。あとはまあ、解熱剤とエスのちゃんぽんでもすりゃしばらく保つだろ。それでほら、オーダーよこせ」  片手で上着を羽織りつつ、誰もいない室内の一角に目をやる司狼。  返答は、あった。彼にしか聞こえぬ声で、彼の耳にははっきりと。 「了解。まあ待ってろ」 「おまえ今、なんかやばい目とかには遭ってないよな?」 「うん、大丈夫」 「色々聞いたり聞こえたりしたか?」 「なんとなくは……」 「じゃあ、先輩とも逢いたいだろ」 「そうだね」 「なら期待してろ」  嘯いてから、司狼は病室のドアを開けて出て行こうとする。その背後から、微苦笑するような気配が伝わり。 「みんな、上手くいくといいよね。新しい友達も増えたし、全員で」 「ああ、そういうことならいつもの調子で気合い入れろ。辛気臭いのは似合わんし、気色悪いぞ、バカスミ」 「分かった。ごめん……」  そして、ドアが閉まるとほぼ同時に。 「頑張ろうね。絶対、絶対――」 「おお、今回はハッピーエンドに付き合ってやる」  だから諦めるなよと言い置いて。 「エリー、おまえの病院、火でも薬品でもブチ撒いて中の連中叩き出せ」  そんな無理難題をいきなり電話で告げながら、司狼は楽しげに笑っていた。 「――ぬ?」  不意に生じた違和感に、ヴァレリア・トリファは眉を顰める。 「気のせい……いや、違いますね、これは」  十字架に掲げられた少女の前に跪いて祈りつつ、独りごちる。  糸のように細められた目が開き、そのまま見るともなく宙を仰いだ。  澄んだ碧眼、湖面のように凪いだそれが、徐々に揺らめき変色しだす。  黒く、白く、赤く、翠に、そして燃えるような黄金に…… 「マキナ卿にザミエル卿、何処に行かれた?」  二人がいない。彼らの気配が、今唐突に消失した。 「何を考えておられる、ハイドリヒ卿。いや、それとも副首領閣下ですか。 解せぬ。なぜここにきて……」  思案して、しかし答えは出せぬと判断し、立ち上がった神父は身を翻す。 「まあよい。ならば私は、私の〈狂気〉《せいぎ》を貫くのみ。あなたがそう仰ったことだ、ハイドリヒ卿。 御身の期待に沿えるかどうかは分かりませぬが、それなりに盛り上げましょう。聖誕祭に向けて」  物言わぬ香純を一顧だにせず、歩くトリファ。傍らで彫像のように立ち尽くす巨人の前を通るときも、特に感情のない事務的な声で告げるのみ。 「じきに来客です。出迎えなさい、カイン。 〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈聖〉《 、》〈餐〉《 、》〈杯〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》」  巨人が震え、動きだす。歯を噛み鳴らし、肉を軋ませ、許さぬ殺すと猛りだす。 「愚かしい。だが有益だ、その憎悪。 何かを成すとき、もっとも効率の良い燃料は怒りである。後には何も残りませんが、そもそも胸に新しいものを生み出そうなど勘違いも甚だしい」 「ええ、分かりますよ、私も同じだ。この渇望が満たされるなら何も要らぬ。そのような不退転、背水の陣でこそ叶うというもの。 これもまた、愛の発露……我々なりの、生き様でしょう。 どだい、他者には共感できぬことかもしれませんがね」  リザも、そしてテレジアも、加えて言うなら―― 「レオンハルトも。あなたはどうですか、藤井さん」  どこか嗤うように呟いて、神父は巨人と共に歩き出す。  じきに日は暮れ、夜がくる。  おそらくこれが、今回の祭りにおける最後の戦場。  聖誕祭の〈前夜〉《イブ》にむけて、今宵七つ目のスワスチカが開かれる。  そして八つ目も開けば、そのときこそ―― 「あなたには、申し訳ないと思っていますよ、綾瀬さん。ですが何も、見捨てようというのではない」  この手は神の手でないがゆえ、総てを一度に救えないだけ。  零れ、漏らし、落とし続けるが人の業なら、私は何度でも拾い上げよう。  無くせば埋めて、奪われれば取り戻す無限の螺旋。この身は永劫の徒刑囚。  邪なる聖道を歩み続ける巡礼者であり、罪人であり続けることこそ我が誇りであり使命なのだ。  ゆえに、私はこの歩みを止めなどしないし、止めさせもしない。 「それがたとえ、あなた方であろうとも」  カール・クラフトにラインハルト・ハイドリヒ……御身ら二人は、そんなことなど承知の上で私を代行に据えたのだろう。ならば踊ってみせるまで。 「まあご観覧ください、逃げませんから」  その結果どうなろうとも、あなた方は特に気になどしないはずだ。  総ては既知感、その〈軛〉《くびき》さえ破れればそれでよいと。どうせ思っているのでしょう? 違いますかな?  いったい他に、どんな渇望があるという。  しょせん、怪物の願いなど慮れぬ。それが証拠に、あなた方お二人の御心だけは、今も昔も読めなかった。  この聖餐杯、何者にも同調し何者にもなれる無限数の混沌にも。 「ふふ、ははは……」  渇いた笑いを響かせて、神父は再び目を細める。黄金に燃えていた瞳はすでに、凪いだ湖面の〈碧〉《あお》へと戻っていた。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 12/13 Swastika ―― 6/8 【Chapter ⅩⅠ Covenant ―― END】  およそ万事に共通する価値観として、鮮度というものがある。  そのもっとも単純かつ一般的な例と言えば経年劣化……衣食住に関わる諸々が代表的なものだろう。  ならば思想的、概念的、感情的なものにおける鮮度とは何なのか。  思うにそれは、知らないということ。  未知に対する驚き、感動、あるいは嫌悪……初体験ゆえに感じ得る鮮烈な喜怒哀楽。  それを求める好奇心。  人をして万物の霊長とならしめたのは、紛れもなく“コレ”だろう。  たとえどのような名画名曲、美酒の芳香や美食の味わい、美男美女との〈衾〉《しとね》といえども、日々繰り返せばそこにあるのはただの“飽き”――日常という名の停滞に堕す。  恐るべきは人の慣れだ。  どんなものでも連続すれば順応し、犬のような反射でしか動かなくなる飽きやすさ。鮮度を失った事象になど、人は価値を見出さない。  であるなら――総てが既知でしかない男、彼の人生はいかなるものになるのだろう。  おそらく、初めは足掻きぬく。あらゆる場所であらゆる事を、試して試して試し尽くす。しかし、それでも既知を超えられないと自覚すれば、次は何もしないだろう。眠るように、死ぬように、ただ漫然と時を過ごし、深く静かに絶望した末、やがては狂へと至るのだ。  そんな彼の頭にあるのは、ただ一つの〈渇望〉《おもい》だけ。  未知を。瑞々しく清らかな、鮮度に満ちた瞬間を――  かいつまんで要約すれば、男の人生はそのようなものだった。  彼は独り、黄昏の浜辺に〈佇〉《ただず》んだまま思考する。  どれだけ歩いてきただろう。どれだけ流れてきただろう。 自分にとってもっとも古い記憶とは、さていったい何時だったのか。  砂漠の王国で〈神々の書記官〉《ジェフティ》と呼ばれていた頃、すでに怠惰な飽きに〈苛〉《さいな》まれていたのを覚えている。  ならそれ以前は? いったいどこまで遡れば、自分の起源が見えるのだろうか……まったくもって分からない。  ゆえに男は、遥か昔に一つの仮説を立てていた。  おそらくは創世期、ヒトの始祖とまでいくかどうかは不明だが、それに近いことは間違いないと。  なぜなら――  彼の既知感が流れ出し、結果としてこの世界があるように思えてならないから。  卵が先か、鶏が先か。  既知などという概念を見出したがゆえ、未知に焦がれる。  未知が欲しいと渇望するから、既知が生まれる。  そのルール。既知感の〈牢獄〉《ゲットー》に囚われる世界の創造。そして流出。思うに、そういうことではないだろうか。  ならば、彼は人類の根に近い。ここにもう一つの仮説が生じる。  それは、根を切り倒された植物がいったいどうなるのかという……  これといった延命手段を試みたことは一度もないのに、悠久を超えて存在し続ける〈放浪者〉《アハスヴェール》。無限の永劫回帰という〈世界〉《ルール》の創造者であるがゆえ、それが存続する限り決して死なない。  仮に殺すことが出来たとしても、その行為は全人類の抹殺に等しい。 根を切り倒せば大樹も倒れ、一つの世界が崩壊する。  つまり―― 「私を殺せる者を創って総てを破壊し尽くすか。私を超える者を創ってこの法則から抜け出すか……結局のところ二つに一つ。さて、どちらが既知でどちらが未知か。私はその時どうなるのか」  それは上書き。新たな〈世界〉《ルール》の流出による既知の改竄。  くつくつと笑いながら、男は黄昏の浜辺をそぞろ歩く。  もうすぐ、もうすぐここに墜ちてくる。特異点であるこの浜辺に、破壊と超越の二者が揃えば、その時こそが怒りの日。 「ならば、これが最後になるのか」  特に感慨もなさそうに呟く男の傍らで、マルグリット・ブルイユの歌が静かに流れていた。  その声は甘く切なく、カリオストロとしての彼が知る頃のものより、聴く者の心に訴えてくる情緒がある。  この少女も変わりつつあるのだろう。 「彼が愛しいか、マルグリット」  独りごちるように呟いて、男はあえかに微笑した。  ああ、では最後に自ら、我が代替に彼女の〈使い方〉《あいしかた》を示さねばならないか。  おそらくは、それによって鍵も外れるであろうから。 病院の修羅場から生還した俺は、まず香純の安全を第一に考えて行動した。 未だ目を覚まさずに、眠り続けているこいつ。心配ではあったけど、正直なところ有り難いとも思う。 これから先連れて歩くわけにはいかないのだから、全部片がつくまでこのまま大人しくしていてほしい。自分に降りかかった諸々は、残らず夢だったと思ってほしい。 確かついこの前も、まったく同じシチュエーションで同じことを思ったような気がするけど、これが偽りのない俺の本音だ。 今やこの街に安全な場所など存在しないが、少なくとも〈自室〉《ここ》がスワスチカの一角じゃないことくらい分かっている。目を離すのは不安だが、俺と一緒にいるよりは確実に安全だ。 奴らとて、わざわざ何の役にも立たないこいつ一人を狙いなんかしないだろう。香純はここに寝かせておけば問題ない。 だから…… 「ごめんな、もうちょっと待っててくれ」 それだけ言って部屋を出る。努めて考えないようにしているが、病院の破壊を許してしまったことに忸怩たる思いを懐いていた。 全力は尽くしたし、あのときは他に方法などなかったと思う。だがそんな言い訳は、犠牲になった人達にとって何の意味もないことだ。 他の全員を見殺しにして、香純一人を優先したのはそれしか出来ない状況だったからだけど、そこに個人的感情がなかったと言えば嘘になる。 「お前に全部知られたら、嫌われそうだしな」 だからそんな自嘲を、今は禁じえなかった。 「終わりましたか?」 「……ああ、もう用はすんだ」 とはいえ、いつまでも感傷に囚われてはいられない。俺はアパートの前で待っていた神父に頷き、気を切り替える。 今やこうして行動を共にするには違和感を覚える相手だが、これも状況の変化というやつ。 「さすがに、深夜といえども騒がしくなってきましたね。まあ、あれだけ派手に事を起こせば仕方ないことでもありますが」 「こんな場所で我々のような組み合わせが立ち止まっていると人目につく。話は別の場所でしましょうか」 「櫻井を追うんじゃなかったのか?」 「ええ、ですがその前に、あなたは安心が要るでしょう。今の私が敵ではないと、了解してほしいのですよ。ずっと警戒されていては何かと不便だ」 「まずは同盟の成立を優先するということで」 緩く笑って、神父は俺を先導する。少し考えてから、彼の後へ続くことにした。 「ところで、例のお嬢さんは?」 「マリィのことか? それなら今は休ませてる。そうしてやりたいんだ」 「ふむ、察するところ、ザミエル卿ですか」 「…………」 「あの方は、色々と容赦がないご気性ですからね。あなたの情人にも、何かしら耳の痛い面罵なり何なりを行ったのでしょう。しかし、とはいえ」 「どうでもいいだろ、そんなことは」 意図的に半畳を入れ、俺は神父の台詞を寸断した。この男を好きに喋らせるというのはよくない。 向かい合うなら、主導権は常にこっちが握って離さない。そういう気概を要する相手だ。 「とりあえず、なんでも教えるって言ったからには、俺が訊くことだけに答えてくれよ神父さん」 その態度をもって、彼を量る。同盟云々は、その先にある話だ。 「まず……」 深夜の戸外を歩きながら、俺は未だはっきりしていない事柄を一つ一つ挙げていった。 残りのスワスチカ、残りの敵とその詳細、そして氷室先輩は無事なのか。無事なら彼女の役割とは何なのか…… 感情的には知りたくもない事が多すぎて、だけど知っておかなくてはいけなくて……煩悶しながらも問いを続ける。神父はそれに、無感動な抑揚で答えていく。 爆発炎上した病院の惨状に、消防と救急と警察のサイレンが鳴り響く中、俺は神父の話を大人しく聞いていた。 慌しい街のパニックと彼の話……いったいどちらが俺の属する世界なのかと益体もないことを考えながら、今はどちらも現実として受け止めなければならないだろう。 つまり…… 「氷室先輩が、シスターの曾孫?」 この、悪い冗談みたいな新事実も。 「ええ、もっともテレジアは知らないでしょうがね」 神父は肩をすくめて、どこか哀れむように溜息をついた。 今後教えるつもりもないし、それこそが誠意だと言わんばかりに。 「レーベンスボルン機関。昔のリザが属していた組織ですが、要するに人の次世代進化を目指した牧場ですよ。優生学と言うのですがね」 「オランダ人の父とフランス人の母から生まれた子供は良いとか悪いとか、あなたは馬鹿げた悪ふざけと思うかもしれませんが、当時はそう珍しい考えでもなかった。我々だけではない。アメリカやイギリスの方々も似たような議論や研究をしておられたそうですよ」 「進化だって?」 まるで動物のブリーダーみたいな言いように、俺は嫌悪感を隠せない。 それは確かに、優秀な遺伝子の掛け合わせで子孫の性能を上げるという理屈は分かるが、人間の営みってのはそんな化学式みたいなものじゃないだろう。 「まあ、その憤りは正当ですが、事実として優性種の誕生をある程度狙えるというのは分かりますね」 「もっと分かりやすく、サラブレッドと言えばよいでしょうか。異なる雌雄の掛け合わせによる突然変異の創造」 「それじゃあ〈純血〉《サラブレッド》じゃなくて、〈混血〉《ハイブリッド》だろう」 「能力に対する純血化ですよ。馬の足を速くするなら、豹と掛け合わせればよい。もっとも、出来ればの話ですが」 「そんなの……」 出来るわけがない。俺の気持ちを察したのか、神父は微笑して頷いた。 「ええ、出来ない。出来るわけがない。ですがね藤井さん、これもあなたには分からないことでしょうが、戦時という特殊な状況下にあって、無理です出来ません不可能です――などという真っ当な意見を述べる贅沢は許されないのですよ」 「やれと言われれば、やるしかない。百万の失敗を繰り返しても、一の成功を求められる。その価値があると判断されたことならば、拒否など出来ない」 「価値?」 「だから言ったでしょう。サラブレッドですよ。次世代進化。超人の創造」 「今さら言うまでもないですが、大戦において〈ドイツ〉《われわれ》は負けた。そして敗北とは、ある日突然訪れるものではない」 「その予兆。要するに負けそうな気運というものは、どうしようもなく当事者全員が感じ取れる。ならば局面を打開する一手が要るでしょう」 「超人の軍隊。陳腐ですがね。それが成れば戦況を覆すことも可能だった。ゆえに求められた。何もおかしなことはない」 「けど、それなら、あんたらがいるだろう」 口に出して言いたくはないが、〈黒円卓〉《かれら》はまさしくその超人だ。たとえ軍隊相手でも、単騎で圧倒できるはず。 「藤井さん、我々は確かに古い時代の年寄りですが、だからといって剣と槍のみで戦っていた中世の騎士ではないのですよ?」 「戦場はすでに、一個人の武勇でどうにか出来る〈幻想〉《ロマン》ではなくなっていた。爆撃機が飛び交い、火砲が轟き、〈日本〉《このくに》では核などという破壊兵器までが使用された弩級の修羅場だ。十人そこらの頭数で、いったい何が出来ますか」 「局所的、散発的な勝利は得られる。事実それをやった者も我々の中には少なくない。ベイやザミエル卿に、マキナ卿、そしてキルヒアイゼン卿……は御存知ないか。とにかく彼らは戦場の英雄、または死神として、幾つかの絶望的戦況を覆した」 「が、それまでですよ。手が足りない。物量というものは途轍もなく正直で容赦がなく、ゆえに絶対覆せない。理論において算数を上回るものはないのです」 「だから数。なんとしてもそれを増やさねば話にならない。そこで最初の問題に戻るのです」 「豹と掛け合わせてでも足の速い馬を創れ」 「結果は、まあ、歴史が証明していますがね」 苦笑するトリファ神父に、嘆きの色は見られない。むしろ馬鹿馬鹿しい試みだったと、呆れているような表情だ。 ともかく、その超人創造計画とやらは失敗したということなのか。 そしてそれは、同時に膨大な幼い命を使い潰したということであり…… 「シスターがそんなことを?」 「ええ。ですが彼女を責めてはいけない。確かに人道的見地で言えば許し難い行いですがね。誰とても、壊れていく祖国を救うためなら鬼になりえる。彼女は彼女なりに、守りたいものがあったのですよ」 「悪いのはむしろ、副首領閣下だ。傑出した人物特有の歪みですが、彼の超人創造、ないし魔人錬成ですか――それは汎用性という面において、まったくどうしようもない欠陥品だった」 「つまり、難易度が高すぎるのですよ。こんなことを言うのは口幅ったいのですが、あなたやそして我々は、奇跡的に優越な人種だからこそ彼の秘法に耐えられたというだけにすぎない」 「本末転倒とはこのことだ。副首領閣下の超人創造とは、もともとそうであった者にしか祝福の光を与えない。超人を生むためには超人が要るなどと……それはどういう理屈ですか。ふざけているとしか言えないでしょう」 「よって、彼の秘法を汎用化させることは不可能。生まれついて聖遺物を操る適性に特化した人種……そんな者を多数生み出すことなど出来はしない」 「ゆえに……」 言葉を切って、神父は俺を見下ろしてくる。もはや言わずとも分かるだろうと、シスター・リザの行いが、何処に着地したかを察しろと…… それを自分の口で言わないのが、あるいは彼女に対する敬意であると言わんばかりに。 だから俺は、低く答えた。 「自分の子供か……」 超人の遺伝子を最初から持つ子供。先ほどの喩えに乗るなら、豹の子供と言うべきか。 百も千も用意することは不可能だが、一人は高確率で生み出せる。それはおそらく彼女にとって、最終手段だったのだろう。 一人。たった一人で覆す。ならばその方法も見当がついたから。 ラインハルトが有する、桁外れの〈軍団〉《レギオン》。その総軍を〈具現〉《ふし》化させるためのキーマンとして。 「リザは生真面目な人なのですよ」 神父は残念がるように、落とした声で呟いていた。 「数え切れぬほど他人の子供を消費して、今さら我が子だけはなどと言えなかった。思うにそういうことではないですかね」 「〈生命の泉教会〉《レーベンスボルン》は破倫の機関だ。優生学研究という人の交配を目的としたものである以上、恋愛感情による男女の結合など夢物語に等しい」 「こうした場合、泣くのは女性だ。男は種をばら撒くだけで、腹を痛めないし子への愛着もない」 「リザは苦しんでいたのでしょうよ。己だけが汚れずにいていいわけがない。そんなことは許されないと」 「彼女が孕んだ子の父親は、結局誰だか分かりません。我々の誰一人としてそれを知らない」 「分からないほど、リザと関係した男は多すぎた。そうして相手を選んでいたのか、あるいは自らを汚したかったのか……真実は不明ですがね。そんなことはどちらでもよい」 「ただ彼女の子の血脈が、黒円卓の核となった。来たる日、我々の望みを成就するために必要な〈神の贈り物〉《テレジア》」 「私たちの望みとは何なのか……もう知っているのでしょう?」 問いに、俺は無言で頷く。それは櫻井から聞いている。 不死創造。死んだ人間を生き返らせる。あるいは生者を不死身に変える。 黄金っていうのは、確かそうしたものの暗喩であると何かで読んだこともあったから。 「じゃあ、シスターの望みっていうのは……」 「ええ、自らが国家のために消費してきた幼子たちの命……その復活でしょうね。今となってはもはや叶わぬことですが」 つまり、あいつと同じなのか。 「……櫻井が言ってたよ」 千単位の命を捧げることで、死人を蘇らせ得ると。 「そのとき先輩はどうなるんだ?」 「スワスチカは黄金錬成の陣。その核となる者はハイドリヒ卿に吸収されます。つまり生贄だ」 「…………」 やはり、やはりそうなのか。じゃあシスターは、先輩を捧げようとしていたのか。 そして、結果それを拒絶し、おそらく俺と香純を逃がしてくれた。だからエレオノーレに処刑された。 そういうこと、なのだろうか…… 「彼女は自身の葛藤を、何よりも大事にしていると私に言っていましたよ」 言葉もない俺の気持ちを慮るように、じっと見下ろしてくるトリファ神父。 だけど、もし彼女がそう思っていたのなら、なぜ何も言ってくれなった。 俺はシスターと戦いたくなかったし、事実そんなことはしてないし、先輩を救いたいというなら手を取り合えたはずなのに。 「だから贖罪でしょう。リザはあなたに託した」 「罪をあがなうという望みを捨てて、テレジアを救うというそれもまた罪。彼女が手にかけた幼子たちを救わないなら、そのツケは己の命で払うしかない」 「葛藤。葛藤ですよ藤井さん。リザ・ブレンナーという人間は、つまるところその概念に終始する。彼女は土壇場まで悩み、迷って決断した。そういうことです」 「そして、だからこそ今、私はこうしてここにいる」 「じゃあ、何か……」 長身の神父を見上げて問う。俺と同盟を結びたいという申し入れは彼女のためだと? 「あんたはシスターのために、その望みを叶えたいって?」 「面映いですが、そういうことになりますね。言ったと思いますが、私もテレジアを救いたいと思っている」 「だったら、あんた自身の望みはどうなるんだよ。だいたい……」 彼の望み、それが何なのか分からない。 不死身になりたいのか。あるいは生き返らせたい死者がいるのか。 おそらく前者ではないだろう。そんなタイプには見えない。 では後者なら? 誰を蘇らせたいのか知らないが、それはそんな簡単に割り切れるようなことなのか? 「以前、あなたは仰いましたね。死人との再会を望むなどおかしいと」 櫻井が蒸し返して罵倒してきた俺の台詞を、彼もまた口にした。 「ええ、その通りだ。あなたは正しい。私とてそれくらい弁えている」 「ですが、理屈ではないのですねえ。分かっていても許容できない。聖職につく身で、情けなくもありますが……」 「しかし、それだけに揺れている。リザは私と同類だと思ってましたが、ああも見事に出し抜かれては彼女の葛藤、その決断と心変わり、認めぬわけにはいかぬでしょう」 「実のところ、我々はあの病院であわや殺し合いの寸前でした。要するに、勝負の途中で一方的に勝ち逃げされた心地なのですよ」 「ならばこそ、彼女の選択を見届けたい。どちらが正しいのか、その結末をね」 「…………」 神父の言っていることは、まあそれなりに理解できる。だが結局のところ、彼は望みを捨てていない。 だったら今は害意なしと言っていても、潜在的に敵であることは何も変わりないんじゃないのか。 「はっきりしろよ神父さん。前にあんたが俺に言ってきたことと同じ質問をするから答えてくれ」 「氷室先輩を死なせる気なのか助ける気なのか」 「後者ですよ」 問いに即答。一切の間を空けず、淀みなく彼は答えた。 「だったら矛盾するだろう。あんた言ってること無茶苦茶だぞ」 望みの成就には、氷室先輩の命が要る。彼女を死なせないと言っているのに、望みを捨てるとは言っていない。 「方法は常に一つではない。そういうことですよ藤井さん」 「これは魔道に関わる問題ですから、あなたには理解しづらいかもしれません。ゆえに簡潔な説明をしますが、黄金錬成には五色要ります」 「五色?」 「ええ、白。黒。赤に、緑と黄色」 「つまるところ、この一角でも欠ければ完全な黄金は生まれない。私の望みはね、不完全な黄金だからこそ成せる類のものなのです」 「あなたには、是非この五色を削り取っていただきたい。特に〈白化〉《アルベド》、〈黒化〉《ニグレド》、〈赤化〉《ルベド》の三つ」 「内の二つ、いえ一つでも構わない。これが欠けてしまえば〈ハイドリヒ卿〉《おうごん》は出てきませんよ。すなわちテレジアも死なずにすむ」 「…………」 それは初耳、というか思慮外だった新事実だ。神父の言が本当なら、彼は最初から黒円卓の逆徒だったことになる。 しかし思えば、シュピーネもそうだった。あいつと手を組んでいた以上、この男の立ち位置と方針には一定の信憑性がある。 「緑と黄色ってのは?」 「テレジアと、そしてハイドリヒ卿の聖遺物。前者は言うまでもなく論外。後者は破壊不可能だ」 「不可能? どうして?」 ラインハルトの聖遺物がこちらにある。そんなことは初耳だったが、それが本当なら真っ先にぶっ壊すべきはどう考えてもそいつだ。 なぜなら―― 「それを媒介にして、奴は戻ってくるようなものなんだろう。一番危ないのはそいつじゃないか。なんで壊そうとしない」 「藤井さん、あなたは素手でダイヤモンドを砕けますか?」 「なに?」 「ですから、単純な強度の話ですよ。ルールを忘れたのですか? より多く殺したモノほど強くなる」 「ハイドリヒ卿の総軍が内に渦巻く器など、いったいどうやって壊すのです。やれるものならとっくに私がやっていますよ。あれは規格外だ、どうしようもない」 「一番難易度の低い選択が、その他三色の消去なのですよ。だからこその提案なのです」 「…………」 神父の言ってることの真偽は、この場で量りようのないことだった。俺としては試すべき案件に思えるが、彼に己の意見を曲げる気はないらしい。 ならば〈白化〉《アルベド》、〈黒化〉《ニグレド》、〈赤化〉《ルベド》……それを削るしかないと言うのか。もとよりオカルトなんて分野に詳しくもない俺にとっては、何かの呪文かと思うような語句だったけど。 「それは、もしかしてあいつらのことか?」 病院で、僅かながらもやり合ったエレオノーレ。そして遠目だが、その存在を確認した偉丈夫。 「ええ、ハイドリヒ卿の近衛三人。黒円卓の大隊長」 奴らを斃せと? あの連中を? 直にその実力を味わったのは現状エレオノーレ一人だけだが、あれははっきり言って格が違う。 こちらは命懸けの全力だったにも関わらず、向こうは明らかに余裕があった。その上で病院のスワスチカを持っていかれた。 今後負ける気は無論ないが、どうしたら勝てるのか分からない。 「私は言ったでしょう。リザの仇を討ちたくはないのかと」 それは確かに、そうなのだが…… 「そして、何もあなた一人でどうにかしろと言っているのではない。お互い手に余る障害なので、同盟を結ぼうと言っているのです」 「それにそもそも、ハイドリヒ卿と正面切るよりは随分とましだ」 「まあ、とはいえ、冗談でないレベルの難関ですがね。ゆえに味方は多いほうがいい」 「…………」 言われ、俺も考える。 ああ、なるほど。だからなのか。 「櫻井を引き込むって言ったのは……」 「そういうことです。彼女もまた私と同じく、不完全な黄金で望みを叶えた方がよい。本人はそれに気付いていませんがね」 「些か偏狭な性格なので手を焼くでしょうが、そこは私がなんとかしましょう。もっとも、彼女と足並みをそろえることに、あなたが了承すればですが」 「…………」 確かに、俺とあいつは水と油だ。何気に一番やり合っているし、感情的にもぶつかっている。犬猿の仲と言っていい。 仲間意識の持てない味方は、敵より面倒。そう思うが…… 「そっちは任すよ。あんたの裁量でやってくれ」 別にこの神父をすべて信用したわけじゃない。今まで言ったことのどこまでが本当か、疑わしいと思っている。 だがそれでも、一つだけ……彼が先輩を死なせまいとしていることだけは、直感的に信じられた。その一点においてのみ、神父は偽りを言っていない。 だから協力して大隊長の一角を崩す。その提案には旨みがあった。現実問題として、俺一人じゃどうにも出来ない局面に立たされているのだし。 トリファ神父が真実奴らの手先ならば、偽りの同盟で背中から騙まし討ちなどする必要がないだろう。ただ圧倒的物量差、一対多数の構図で押し切ればいい。 なぜなら、他ならぬ彼自身が言っていたことだ。算数は覆せないと。 ゆえにこれは、俺を陥れるための提案じゃないと理解できる。 だったら…… 「話は分かった。まず櫻井を捜そう」 「あいつをあんたが取り込めたら、そのとき同盟云々は考えるよ」 とりあえず、この場はこう返すのが最良だと判断した。 「何処か心当たりは?」 「大丈夫。彼女の位置は把握していますよ。問題ありません」 「では、急ぎましょう。すでに六番までスワスチカが開きました。おそらくシュライバー卿でしょうが、ベイとマレウスはもはや死んだと思っていい」 ルサルカとヴィルヘルム。俺が一番最初に遭遇した異常であり、だからこそ印象深いあの二人が殺された。実行犯と思しき相手は、まだ顔を合わせていない最後の大隊長、〈白化〉《アルベド》…… 敵の頭数が減ったというのに、楽観する気が一切起きない。事態はそれほど深刻化している。 先導する神父の後に従って歩きながら、俺は先の展開を考えていた。 大隊長を斃す。それはいい。ラインハルトが戻ってこない。最高だ。加えて先輩の命も救えるなら、文句なしの万々歳と言っていい。 だが…… その後、俺はどうするんだ? 神父と櫻井。彼らはこれまで奪ってきた数多の魂と引き換えに、何処かの誰かを蘇らせる。それを看過するのか? していいのか? 第一、ラインハルトを復活させる規模じゃないとはいえ、スワスチカは生きている。俺の手落ちで、クラブと病院に数百単位の死者も出してる。 だったらそれを犠牲にして叶える夢など、見逃していいはずがない。結局俺は遅かれ早かれ、神父らと戦わなければならないだろう。 なんだかんだ言ったところで、これは互いに利用しあうだけの条件付き休戦と共闘でしかない。 そういうシビアな人間関係があまりにも戦争的で……腹立たしいと同時にやるせなかった。 せめて誰か、一人でも……信用の置ける即戦力が味方にいれば、こんな提案は一蹴したろう。しかし所詮無い物ねだりだ。 今ある状況の中だけで、どうにかしていくしか道はない。 そうした苛立ちを紛らわしたい気持ちも手伝い、俺は意図的に話題を変えた。 「ところで、櫻井を連れ去ったっていう、あのでかい化け物は何なんだよ」 「カインですか? あれは――」 どこか失笑するような声と共に、首だけ振り返るヴァレリア・トリファ。 正直、先の問いは失言だったと思う。 俺はその答えを、聞くべきじゃなかった。 「レオンハルトの望みそのもの、彼女はあれを生き返らせようとしているのですよ」 そんなことを―― 香純や氷室先輩を死なせまいとする俺が今いるように……あいつは死なせてしまったそいつを取り戻そうとしている。 「真に大事だと思うからこそ、やり直しがきくと思ってはいけない。あなたの高説は胸に来ましたが、我々はもっと俗なのですよ。手段があれば躊躇わない」 「まあ、議論したところで平行線でしょうがね。しょせんは殺人でしか事を成せない人でなしの夢……歪んでいるのは当然だと笑ってください」 人殺しが殺人をもって不死や蘇生を願うという矛盾。俺はそれを許容できないし、する気もない。 だが、彼らは彼らなりの愛を原理に、狂う道を選んだのだという事実を改めて知らされた。 それはどういう悲しみで、どれほどの覚悟だったのだろう。知りたくもないから失わないように奔走している俺にとって、これから櫻井と会うのは限りなく憂鬱だった。 なあ、おい……おまえはいったい、どんな気持ちで今まで生きてきたんだよ。 なまじ同年代であるだけに、そんな櫻井の半生を慮るのは躊躇われ…… ほんのわずかな掛け違い。運命にもしもがあれば、あいつだって俺たちと同じただの学生として生きられたんじゃないのかという、馬鹿な考えを懐いてしまった。 甘い、そんな感傷だけで成り立つ夢を……  見たのは、いったい誰だったのだろう。  ただ、ある時、私はふと思ったのだ。  昨日に続く今日。今日に続く明日。絶え間なく繋がる毎日の連続で、自分はどれだけの〈選択肢〉《かのうせい》を逃してきたのだろうかと。  たとえば朝食の献立や外出時に着る服の種類……そんなごく些細なものでさえ、何年後かに振り返れば大きな転機を意味するものになるかもしれない。  極端だが、交通事故などがその最たる例じゃないだろうか。  ほんの数分、あるいは数秒の誤差で明暗が分かれる局面は確かにある。玄関で靴紐を結んだり、髪の手入れにもう少しだけ手間をかけたり、たったそれだけのことで人生が変わる。どのようにでも転ぶ。幸にも不幸にも、どうとでも。  だから、ふと思ったんだ。  もしかして、もしかしてだが、私にもまるで違う人生が用意されていたのかもしれないと。  今ではかけ離れすぎて辿り着けない……過去の分岐路で些細なことから派生した〈可能性〉《もしも》。  そんなことを、私は今なんとなく考えている。 「たとえば、帰りのHRがもうちょっと早く終わってたら、今頃あたしら、すっごいイケメン軍団にナンパされてたかもしれないとか」  ……いや、そういうことじゃなくて。 「じゃあ今日、部活サボってなかったら、さっきのお店でお客様一万人目とかになっちゃって、シュークリーム食べ放題券もらっちゃったりとか」  それはちょっと、心揺れる展開ではあるけど。 「私が言いたいのは、その、なんていうか……もっと全然違う世界みたいな」 「いい男捕まえるのも世界が変わる出来事でしょーよ」 「スイーツに囲まれると楽園が見えてこない?」 「あ、うん……それはそうかも、だけど」  たとえば、そう……私という人間そのものの生き方が変わるみたいな。そういうもしもに、ちょっとだけ憧れている。 「螢ちゃ~ん、なんとなく言いたいことは分かるけどさあ。 そういう、なんてーの? 十四歳的? クラスの馬鹿男子が考えそうな妄想、顔に似合わず好きだよね。 学校に謎のテロリストが攻めてきて、それに一人で立ち向かうヒーローな俺様とか考えてんでしょ」 「あはは、受ける。それ絶対、遊佐とかが考えてるよ。間違いないって」 「むしろ綾瀬でしょ。あいつ絶対考えてる」  今頃お冠に違いない部長について、二人はそんなことを言っている。  まあ、そりゃ確かに、彼女はそういうことを考えてそうな感じだけど。 「あいつもなー、いい奴なんだけど竹刀持ったら人が変わるから」 「それなりに加減はしてくれるじゃない」 「螢ちゃんはまだ強いからいいんだよー。わたしらなんてさー」 「マジきついから。綾瀬のシゴキ。今時うさぎ跳びで神社の階段登れとか、それ違うから。軍隊だから」 「足太くなっちゃうよねー。自分は男いるから関係ねーぜみたいな顔してさー。あーもう、羨ましいなーちくしょー!」 「ていうか別に、藤井は綾瀬と付き合ってなんかいないでしょ」 「あれ、そうなの?」 「そうでしょ。ねえ?」 「ねえって言われても、どうなのかな……」 「どこ情報よ、それ」 「どこも何も、見りゃ分かるじゃん」 「なんで?」 「なんでって、それは、その……」 「あーっ! 分かった、藤井のことが好きなんでしょ!」 「なッ――」 「嘘……」 「違う、違うったら! あんたいきなり、何を根拠にそんなこと――」 「うわーマジだよ。超キョドってるよ、かわいー!」 「……なるほど、ああいうのが趣味なのね」 「う、う、うるさいなもう! ちょっとよ、ほんのちょーっといいかなって思ってるだけ!」 「ふむふむ、これはどう思いますか、螢ちゃん」 「もう完全にイカレちゃってると私は思う」 「だよねー。藤井かー、なるほど確かにー」 「顔はいいよね」 「頭もまあまあ」 「運動は人並み?」 「苦手と違う? 前の球技大会で全打席三振だったし」 「……真面目にやってないだけでしょ、あれは」 「おろ?」 「へえ」 「な、なによその目は」 「さっすが愛だね、よく見てるぅ」  そんな、おかしくて、暖かくて、和やかで……恋とか勉強とか部活とか、他愛ない諸々に一喜一憂できる日常。  だけど―― 「螢ちゃんは好きな男とかいないの?」  私はそんなの、考えたこともなくて。 「将来、やりたいこととかある?」  この道の先に続く未知が、何も想像できなくて。 「ねえ、なんでこんなところにいるの?」  私にとっての〈非現実〉《もしも》とは、今この瞬間なのだと思い知った。 「ここはあんたの居場所じゃないよね」  そう、分かっている。分かっているの。遥か遠くに掛け違えた、もう戻れない何時かの何か……  それをもしも別の選択でやり直せたら、あるいはこんな日々もあったんじゃないかという私の〈妄想〉《ユメ》。 「分かってるよ」  色褪せていく風景。聞こえなくなる雑踏。親しく話していた友人たちさえ、よく考えれば名前も知らない。  昨日に続く今日。今日に続く明日。絶え間なく繋がる毎日の連続で、取りこぼしたものが今はこんなに大きな隔たりを生んでいる。  だから私は、奇跡に縋るしかなかったの。  涙は流した。祈りもした。  だけど到底それだけじゃあ、埋まることがない隔たりに選べる道なんかなかったから。  積み上げた屍の山で埋めていくしかなかったから。  ねえ、他にどうすればよかったの? 諦めてしまえばよかったの?  嫌よそんなの絶対嫌。私はそんな分別なんて持っていないし持ちたくない。  だって――  大事だったんだもの、温もりが。総てだったんだもの、彼らの愛が。  だったら私がそのために、躊躇なんかしちゃいけない。  誰に憎まれ、誰と戦い、誰を殺して誰をこの手から零そうとも――  私は迷わない。迷ってはいけないんだと強く信じた。  そう思い、願って駆け抜けた十一年を、誰にも否定させはしない。  だから―― 「―――――」  その、有り得ない彼の背を幻視したのも、私の妄想なんかじゃないのだろう。 「あ――、っ……」  振り向いて、追いかけて、訊きたいことも聞いてほしいことも数え切れないくらいあるというのに。  私はそれが出来なくて……出来ない自分が情けなくて……  ただ、すれ違った風だけが、懐かしい彼の温もりを伝えていた。 「――――――」  忘れられない別離の記憶の追体験に、螢は震えて目を覚ました。 「ぁ……」  ここは、公園? なぜこんな所に、ああ、そうか……  第五のスワスチカ、病院での出来事を思い返す。バビロン、彼女は死んだのか。でもなぜ私を助けたのだろう。  分からないまま、しかし現実に自分をここまで避難させてくれた存在に、立ち上がって振り返る。 「彼女の命令? それとも……」  それとも、いったい何だというのだ。目の前には無言のまま、石像のように動かない巨躯の威容があるだけだ。彼は自らの意思で動いたり喋ったりしないし、できない。  それは分かっているのだけど、甘い何かを期待せずにはいられなかった。都合のいい解釈をしてしまいたくて辛くなる。 「さっきね、夢を見たの」  螢は、物言わぬ巨人に向けて訥々と話しだした。 「もしもの夢。私が、その……なんて言うかもっと普通で…… 学校に通って、友達がいて、しかも部活までやってるのよ。笑うでしょ? そんな私が、もしかしたら何処かに生まれていたかもしれないとか……詮無いよね。別に弱音を吐いてるわけじゃないんだけど。 あれはあれで、楽しそうだと思わないでもなかったよ。 だって……」  昨日に続く今日。今日に続く明日。絶え間なく繋がる毎日の連続で、自分はどれだけの〈選択肢〉《かのうせい》を逃してきたか知れないから。  たとえば朝食の献立や外出時に着る服の種類……玄関で靴紐を結んだり、髪の手入れにもう少しだけ手間をかけたり、たったそれだけのことで人生は変わり得る。幸にも不幸にも、どうとでも。  だから、ふと思ったんだ。  もしかして、もしかしてだが、私にもまるで違う人生が用意されていたのかもしれないと。  今ではかけ離れすぎて辿り着けない……過去の分岐路で些細なことから派生した〈可能性〉《もしも》。 「あれは私の〈希望〉《ユメ》なのかな。それとも、あなたの願い? 顔も後姿も見れなかったけど、そこですれ違った気がするのよ。 私もう、あの頃のあなたと同じくらいの歳になっちゃったし。すぐ追い越しちゃうかもしれないけど。 それは嫌だなって、思うよ」  独白に、巨人は何も答えない。螢もそれを期待してない。  ただ、気持ちを刻み付けていた。そして己が何者かを確認していた。  折れないように。立てるように。また戦っていけるように。  だからこそ――だったのだろうか。 「出てきなさい。盗み聞きなんかしてて楽しい?」  螢はこの状況下でも、周囲の状況を敏感に捉えていた。 「正直、驚いた。凄い人ね、あなた」  その言葉に、応えた者は…… 「んー、まあ、お褒めに預かって光栄だけどよ」  遊佐司狼。今の彼は、ただの酔狂な道化じゃない。螢の賛辞は、それを看破していることを告げていた。 「なんかあれだな。展開的にオレが悪者みたいで納得いかねえんだけど」 「だったら、放っておいてくれないかしら。今は私、あまりそういう気分じゃないし」 「遊佐君……だった? もう一人の女の子は何処?」 「ここだよ」  自らの胸を指差し、何でもないことのように司狼は答える。螢に名乗った覚えはないが、その辺りは特に不可解とも思わない。  誰かに聞いたか、調べたか。そんなところだろう、どうでもいい。 「オレとあいつのどっちが主導権握れるかってのは、まあ、恨みっこなしの出たとこ勝負さ。結果こうなっちまったけど、あいつも納得はしてるだろ」 「どうして?」 「あん?」 「あなたたち、何が楽しくてそんなものになりたがるの? 私たちを見て羨ましいとでも思った?」 「おい説教かよ。萎えること言うなっつか、気取んなバカ」  鬱陶しいとでも言わんばかりに、司狼は髪を掻き揚げて宙を仰ぐ。たまたまナイーブな気持ちになってるらしい奴の戯言になど、興味を持たない。 「オレはオレで、こうならなきゃいけない理由があったんだよ。これでもリーチかかってたんでな。 エリーは、まあ、おまえに言っても分かんねえさ。あいつはあいつで、何かしらぶっ飛んだ体験を探してたってことだ。 それで……」  言いつつ、司狼は目を眇める。今の彼はこうなる過程で、すでに必要な情報をほとんど得ていた。ゆえに直言で問う。持って回った言い方はしない。 「カインってのはそれかい? おまえが生き返らせたい相手なんだろ?」 「詳しいのね」 「チビ女から半分くらい毟り取ってきたからな」  ルサルカが集めてきた魂。そして彼女自身の知識と記憶。一時的にそれと同化していたゆえに、自立する際奪い取った。結果として魔女は臓器を失ったに等しく、致命傷に近い損壊を受けてリタイヤした。 「ついでに言うと、ヴィルヘルムもくたばったぜ。片目のガキだ、知ってんだろ」  ウォルフガング・シュライバー。今や司狼は螢以上に、件の少年に対する情報を持っている。 「つまり残りのスワスチカは二つで、チビ女が逝っちまったから学校の連中も目が覚める。そうなりゃあそこは、誰かと誰かの殺し合いで開くしかない。 じゃあその人柱は、誰がなる?」 「…………」  無言。螢は何も答えない。司狼の問いが意味するところは、彼女とて分かっていた。  もはやどうしても数が合わない。残りは二つで、未だスワスチカの所有権を持ってないのは螢とカインとヴァレリア・トリファ。確実に一人は脱落してしまい、その落伍者が第七の生贄になる公算は大だ。  そして、司狼は蓮の仲間なのだから…… 「ここで私たちを排除できれば、だいぶ都合がいいんでしょうね。人並みに頭が回れば、誰でもそう思う」 「人並み、ね」 「でもあなたは、筋金入りの馬鹿みたいだけど」 「ははは」  朗らかに笑って頷く。悪童特有の、稚気に溢れた顔だ。 「きれいな姉ちゃんに分かってもらえてるようで嬉しいね。その通りだよ。 祭り始まってんのに途中で止めさせるような野暮はしねえさ。見せてくれるんだろ、凄ぇのを。期待してるんだから盛り上がっていこうぜ」 「そっちの親玉とはぶっちゃけ利害が合うんでね。見届けさせてもらうさ、ただし――」  同時に、二人はお互いから視線を切った。 「なんか面倒くせえことになりそうではあるな」 「ええ、そうね」  その先、現れた人物は…… 「――司狼」 櫻井を追って辿り着いた公園。そこで見咎めたこいつの姿に、俺は呆気として二の句が継げない。 「よぉ、ご無沙汰」 「ご無沙汰って、おまえ……」 軽いノリでそう言われ、どうリアクションしていいか分からなくなる。こいつ、生きてたのか。今まで散々、人のことを無視して好きなことやりやがって…… 「なんだよ、心配してくれたのか? 言ったろ、すぐ戻るから待ってろって」 「オレは嘘言わねーよ。まあ、一人寂しい思いをさせて悪かったけど、あんま細かいこと根に持つな」 「分かるだろ、これが欲しかったんだよオレは」 「あ……」 そこで、ようやく俺は気がついた。 司狼の様子が変わっている。外見はそのままだが、内面はまったくの別物だ。 その感覚に、俺はしっかりと覚えがあり…… 「マレウスを内から乗っ取ったそうよ。あなたもそうだけど、彼も凄いのね。自信喪失しちゃう」 「櫻井……」 司狼の傍ら、こいつは疲れたように自嘲している。その様子に覇気や戦意は欠片もなく、むしろ何も興味がないといった風情だ。 そして、そんな櫻井の横には、蹲ったまま石像のように動かない異形の姿が…… トバルカイン……だったか。こうして見ると、これはただの抜け殻だ。病院で一瞬だけ交わった相手だが、あのとき感じた危険さが嘘に思える。 シスター・リザが操る死体人形。聞いた限りの情報通り、操者がいなければ自立して動けないというのは確からしい。そして、こいつが櫻井の…… 「それで、私を追ってきたみたいだけど、どうしたいの?」 「〈公園〉《ここ》は二番目のスワスチカとして、すでに〈開放〉《おせん》されている。一般の人達じゃよっぽど鋭くないと見つけられないし、鋭い人ほど入ってこれない」 「都合がいいわよね、あなたには。ここで私と彼を斃せば、失点なしに敵を減らせる。もっとも、ただやられはしないけど」 「わざわざ追い討ちを掛けに来たんでしょう? いいわよ。喧嘩の続きがしたいんならしましょうよ」 「おい蓮、なんか言われてるぜ。どうすんだよ」 「言っとくが、女相手にオレの手なんか期待すんなよ。んなカッコ悪ぃ真似できっか」 「おまえも、俺を誤解すんなよ」 司狼と二人がかりで〈櫻井〉《おんな》一人をぶちのめす。見損なうなよ、俺だってそんなかっこ悪い真似できるか。 「んじゃタイマンかい? あっちのデカブツは動かねえし、いいぜ、ならオレが審判やってやるよ」 「だから……」 こいつら、二人とも結論急ぎすぎだろう。確かに普通、この状況で俺の行動を予測するならそれしかないと思うだろうが…… 「俺は別に、櫻井とやりあいに来たわけじゃない」 「え?」 「じゃあなんだよ?」 「それは……」 言い淀んで、顔をしかめる。正直なところ、自分で口にしたくない。 というか、これは俺の仕事じゃないという約束だろう。無性にむしゃくしゃする気持ちを抑えて、ぶっきらぼうに言った。 「出てこいよ。なに面白がってんだ、あんた」 「な――」 「……へえ」 目をむく櫻井。うすら笑う司狼。反応は全然違うが、共に驚いていることは間違いない。俺だって悪い冗談のように思う。 「失礼。若者同士の会話を聞くのが好きなものでね」 「猊下……」 ヴァレリア・トリファ。俺がこの神父と行動を共にしているという現状は、それほど奇異なことだった。 「こりゃまた、珍しい組み合わせだね。お久しぶり神父さん、オレのこと覚えてるかい?」 「ええ。以前にお会いしたときは、話す暇もありませんでしたからね。まともに顔を合わせるのは、あのとき以来ですか。健勝そうでなにより」 「それでレオンハルト、見れば分かると思いますが……」 事態がつかめず呆然としている櫻井に向き直り、穏やかな笑みを浮かべるトリファ神父。さてこの堅物、どんな反応をするのだろう。 怒りだすか、笑いだすか、それとも理解を拒絶するか。予想できるのは大方その三通り。俺としては1のパターンが濃厚だろうと思っていたが…… 「私は彼と……」 その結果を、しかし見届けることは出来なかった。 「―――――ッ」 まるで空気が引き裂かれ、砕け散ったかのような凄まじい轟音。耳を聾する閃光の爆発に、俺はいきなり吹き飛ばされた。 「なッ――」 「おいおい…」 あまりに唐突な出来事すぎて、何が起こったのか分からない。だが今の音、今の閃光、その意味するところは一つしかなく―― 「落雷、だと……?」 天候に関係なく、いきなり発生した稲妻。いやそもそも、雷は真横に走ったりなんかしない。 ならば今のは、自然現象と異なる雷電。そんなものを起こす力は、言うまでもなく超常の業であり―― 俺の横にいたトリファ神父は、成す術もなくその稲妻に直撃された。どうやらさっきの一発は、彼を狙って放たれたものらしい。 俺は爆発の余波に飛ばされただけだったが、全身が痺れて動けない。辺りを焦げ臭い匂いが充満し、耳と鼻から血が流れてくる。 「が、…くッ……」 強烈無比、とんでもない威力の一撃だった。今さら雷のエネルギーがどれだけ凄いかなんてこと、わざわざ語るまでもないだろう。 紫電の暴威をまともに受けて、砕け散った舗装ブロックが粉塵を巻き上げている。その帳の向こう側に、俺は黒焦げとなった神父の姿しか想像できない。 だが、にも関わらず―― 「……やれやれ、やはりこうなりましたか」 「……は?」 ひどく間の抜けた、頓狂な声がどこかで聞こえた。それが自分のものであると、瞬間的に気付けないほど俺は呆気にとられていた。 「そんな……」 「タフすぎだろ、いくらなんでも」 司狼と櫻井の声が聞こえる。驚愕は奴らも同じだったらしい。 「言いませんでしたかね、いくら彼でも聖餐杯は壊せない」 無傷。まったくのノーダメージ。あの稲妻に直撃されて、神父は何の痛痒も受けていない。信じ難いほどの頑強さだ。 回避したわけでもなく、防御したわけでもない。彼は間違いなく無防備で、猛る紫電に不意打ちされた。それは間違いないはずなのに、呆れの失笑さえ浮かべている細面には焦げ目すら残っていない。 そして、そもそもの驚愕はもう一つあったのだ。 つい今しがたまで、石像のように動かなかったトバルカイン。奴が立ち上がり神父を見ている。その巨体をも上回る冗談のような鉄塊を担ぎ上げ、無言の殺気を放っている。 先の稲妻は、こいつが放ったものなのか。 それは二重の意味で理解できない。異常と言うしかない状況だった。操者のシスターがいなければ木偶にすぎない人形が、いま単独で動いていること。そしてその行動が、神父を攻撃するものであること。 なぜだ、どうして? わけが分からなくなり混乱する。 「おそらく、リザが遺したプログラムのようなものでしょう」 「言ったでしょう、藤井さん。私は彼女とあわや殺し合う寸前だったと」 「しかし、やれやれ、付き合いが長いというのも大変だ。私の行動をそこまで読んで、きっちり置き土産を残していく。見事と称えるべきか執念深いと愚痴るべきか」 「ともかく、まずはこれをどうにかしないと始まりませんね」 瞬間、異形の巨体が地を蹴った。 それは図体からとても想像できないほど――いや、そんな表現じゃ追いつかない。 迅雷――まさしく雷速かと見紛うほどの超高速だ。〈カイン〉《こいつ》の速度は間違いなく、俺が今まで見た誰より速い。 そして振り下ろされる巨大鉄塊。神父の長身が子供に見える巨躯から繰り出された一撃は、威力も重さも桁が違うと簡単に予想できる。 なのに―― 「愚直。だから無駄だと言っているのに、まあ理解する頭などありませんか」 またしても、彼は何のダメージも受けていない。無造作に掲げた腕でカインの武器を受け止めたまま、困ったように笑っているだけ。 断じてその攻撃は軽くない。事実神父の足元は陥没して、クレーターのようにひしゃげている。単純な威力だけでも、削岩機に匹敵するものだったはずだろう。 攻め手も受け手も、共に常軌を逸していた。そしてこの現状は、後者がより有り得ない。 ヴァレリア・トリファ……いったいこのトボケた神父は何者なんだ。 「藤井さん」 「よければ協力してほしいのですがね。今の我々はそういう関係のはずでしょう?」 「あ――、え、けど……」 瞠目しているところにいきなり言われて、反応が遅れる。 協力しろと、助けろと。そうは言うが、しかしそんなものが必要なのか? 見る限り、彼は窮地に陥っているような様子はないのに…… 「私は鎧が強力なだけで、剣を持っていないのですよ。少なくとも、この場で効果的な剣はね」 「ですから、助勢をお願いしたい。私が盾になってあげますから、これを黙らせてくれませんか」 同時に、カインが蹴りを放つ。見るからに重そうな、自分が食らう様など想像したくもない一撃が、神父の鳩尾に突き刺さった。 しかしやはり、彼の余裕は崩れない。 「ほら、まあ、私はこの通り平気ですので」 その態度に激昂したようなカインの猛攻。蹴りで引き剥がした距離は巨大な武器を揮う間合いに最適で、超重の斬撃が連続で打ち込まれる。それに雷撃が付与して弾ける。 十発、二十発、それ以上――もはやどれだけ打ち込んでいるか分からない。 俺なら真っ向受け止めることだけは絶対に避け、全弾回避する選択を間違いなく採るだろう猛撃を、神父は笑みさえ浮かべて一歩も動かず耐えている。ほぼノーガード、棒立ちに近い状態で受け続けている。 格闘の技能で言えば、どう見ても大したことない。むしろ拙劣とさえ言える有様だ。要所要所で防御らしきものもしているが、カインの攻撃を真っ芯から自分に向けて、一発たりともその威力を逃せていない。 サンドバッグ――形容するならそうとしか言えない様であり、にも関わらず消耗が一切見えない規格外の頑強さ。 盾になるとはこういうことか。神父は全弾その身に受けて、流れ弾を発生させない。そうして俺は、ようやく身体の痺れが薄れていき…… 「よぉ、何のショーだよ、こりゃあ」 知らずのうちに傍までやってきていた司狼が、腕を引いて起こしてくれた。 「シスターのプログラム? なんか胡散臭ぇなあ、本当か?」 「まあ何にせよ、チャンスではあるようだけどよ」 今ならカインを、労せずして斃せるかもしれない。司狼はそう言っていた。 「なあ、どうすんだよこれ」 「…………」 「デカブツやるのか? 少なくともあれはこっち見てねえぞ」 確かにカインは、神父以外をまるで眼中に入れてない。今のうちに背後からの一撃で、どうとでもなりそうな気がする。 しかし…… 「…………」 櫻井、あいつがどう動くか分からない。最初の衝撃も冷めたようで、今は真剣な表情で事態を見ている。 あいつがここにいる限り、カインの打倒は至難だろう。まず絶対に邪魔される。 そして後々のことを考えれば、櫻井の不興を買うのは得策じゃない。あくまで同盟ってやつを成立させるならの話だが…… 「なんだよ?」 思案する俺を、不思議そうに見てくる司狼。図らずもこいつが戦力として帰ってきた以上、見るからに怪しげな神父や犬猿の仲である櫻井と足並みをそろえる必要が見当たらない。 俺とこいつの二人なら、楽観はできないが怪しい同盟を結ぶより堅実と言えるんじゃないのか。 だから、どうする。時間にして十秒かそこら、感覚的にはその4・5倍くらいの間悩んでいると―― 「ああ、なーる。そういうことね、アホらしい」 「おい、よお。んなとこでしかめっ面してないでこっち来いよ」 痺れを切らしたのか、俺が決定を口にするより早く司狼が状況を動かしていた。 「ばッ――、おまえ」 「うだうだ悩んでんじゃねえよ、七面倒くせえ。腹探りたいなら腹割っちまえばいいんだよ」 「て、おいこら、無視すんな根暗女。――たく、しゃあねえ。行くぞ蓮」 言って、俺の腕を引くと、櫻井の元へ連れて行く。こいつ、破天荒なのは昔からだが、またデタラメになってないか。 今、状況はどうしようもなく無茶苦茶だ。ノリと思いつきで行動されたら困るし、危険極まりない。 その旨、なんとか理解させつつ諌めようと思っていたが…… 「言っとくけど、この場で一番事情通なのはオレなんだぜ」 こっちの不安を読んだように、不敵な顔で司狼は笑う。 俺が逡巡していた内容も察知されていたらしく、馬鹿にしたような調子で言われた。 「チビ女から情報引きずり出したからな。おまえも、あっちのあの女も、オレほど詳しくなんかねえだろう」 「だからやめとけ。あの神父と手なんか組めるわけがねえ。ありゃあどうしようもないイカサマ野郎だ。何言われたのか知らんけど、マジで一切信じるなよ」 「人のいいおまえさんが、利用できるようなタマじゃねえって」 「…………」 「なあ、おまえもそうだろう? あいつのことが嫌いで、恨みもあるんだろうが」 「…………」 「だから、よぉ」 共に訝りの目を向ける俺と櫻井の視線を受けて、司狼は屈託なく破顔した。 そのまま、とびっきりの悪戯でも思いついたように提案する。 「ぁ―――」 「そうだよ」 同時に、俺もそこに気付いた。正確にはある可能性を―― 度外れて頑強なヴァレリア・トリファ。決して砕けないダイヤモンド。 俺はつい先ほど、他ならぬ神父自身からそうしたモノの存在を聞いたのではなかったか。 「ここで一緒に、あの神父を片しちまおうぜ」 もしこの勘が正しければ、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈五〉《 、》〈色〉《 、》〈を〉《 、》〈削〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》。  轟爆する紫電と剣閃は衰えを見せず、超重の力を乗せて連続する。  すでに繰り出された斬撃は五十を超え、なお百撃を加えんと乱れ舞って終わらない。  その対象はただ一人。徒手空拳のまま無防備に立つ神父のみ。  総てを食らわし、総てを与え、何度でも殺してみせるという鏖殺の剣――  騙しやフェイントなど一切なく、残らず殺意を込めた殺し技だ。この猛撃に巻き込まれ、無事でいられる者などいるはずがない。  だというのに――  未だ剣は爆撃のごとく、しかし事態は薄ら寒さを覚えるほどに冷たい停滞が続いている。  断言して、屍兵の打ち込みにミスなどないし躱されているわけでもない。  彼の攻撃は総て命中。しかもその威力は急所の概念など意味を成さないほど凄まじい。  本来なら、とうに原形を留めず四散して、跡形すら残っていないはずなのに―― 「徒労ですねえ、嘆かわしい」  狂い咲く魔性の雷電と怪力を余すところなくその身に受けて、神父は憫笑すら浮かべていた。〈優〉《やさ》な細面には痣一つ、焦げ目一つ、血の一滴すら見受けられない。  膂力は圧倒的にカインが上。速さも比較にならないほど開いている。  純粋に戦闘力――すなわち敵を効果的に殺戮せしめる武器において、ヴァレリア・トリファはカインの足元にも及ばない。  だが、たった一つだけ。絶対にして完全無欠と言って構わぬレベルの優越を、神父はその身に宿していた。  すなわち、それは耐久力。絶対に壊されぬという頑強さ。彼を象徴する魔の〈印〉《ルーン》が、〈保護〉《エオロー》であるという一つの設定。  その事実に偽りはなく、また当然無意味でもない。  聖餐杯を破壊可能な存在など、黒円卓にも一人だけだ。ご都合主義とも言えるほどの〈渇望〉《ルール》を持った彼以外、ヴァレリア・トリファを砕ける者は天地に居らぬと自負している。  ゆえに―― 「私が憎いですか――――」  轟風の連撃を変わらず無防備で受けながら、囁くように神父は言った。  紫電の爆発。超重武器の炸裂。弾け砕ける暴威の嵐に、そんな小声は掻き消されて聞こえない。  少なくとも、いま近距離で対峙している二人以外、誰にも届かないだろう。  ならば、それは戯言だ。壁へ話しかけているに等しく意味がない。  彼は死体。生者に非ず。なのに神父は言葉を投げる。  哀悼でも、鎮魂でも、独り言でもない戯言を。  他の者に聞かれてはまずいと言わんばかりの囁き声で。 「ならばそう、猛りなさい。私を殺すと吼えるのです」  許してはいけない。忘れてはいけない。ああ、その怨嗟、胸に迫るほどのシンパシー。誰よりそれを理解できる。 「あなたのそういうところこそが、今の私にとって役に立つ」  こうなることは分かっていた。リザの失言から読んでいた。  なるほど状況はかなりの混沌。綱渡りのような我が願いを叶えるためにも、あなたの憎悪を利用しよう。  まったく、人生何があるか分からぬものだが、過去の茶番もこの日の布石だったと思えば悪くない。  狂え、哀れな愛の〈亡者〉《ピエロ》よ。  あなたが望んだ救済は、邪聖の祈りに食い潰されるが幸いと知れ。 「藤井さん――!」  やおら、トリファは大音声で呼ばわっていた。 「早くしなさい、もたもたしていてはテレジアが死ぬ。 〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》、〈五〉《 、》〈色〉《 、》〈の〉《 、》〈一〉《 、》〈角〉《 、》〈を〉《 、》〈崩〉《 、》〈さ〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》!」  釣れるか――? 一種の賭けだったが、人並みに賢明ならその可能性に気付くはず。  だから、さあ――愚者でないならば乗って来い。  祈るような刹那の一瞬、毒蛇のようにしなる鎖が神父の下へと走っていた。 つまり、これは状況から推察される極めて論理的な選択だ。 決して砕けないという黄化の枠に、いま桁外れの頑強さを発揮する聖餐杯はどうしようもなく嵌っている。 加え、ルサルカの情報を得ている司狼が、神父を第一に排除しようと決定したこと。 もはや疑う余地はない。 ヴァレリア・トリファは何がしか、ラインハルトの聖遺物による加護を得ている。 ならば―― 「ここでてめえを消すのが一番手っ取り早いんだよ!」 あとは単純な優先順位だ。どちらの選択がより困難かという、極めて現実的な取捨選択。 先輩を救い、ラインハルトを封じ込め、思い描く大団円へと至るために五色を削る必要があるのなら―― 今ここで、本当に破壊不可能かどうか試してやるのみ。 「騙しはおあいこだよなあ、蓮」 その通り。 騙され、ゆえに騙し返す。だから後ろめたさなど感じない。 元々神父が持ちかけた同盟は、大隊長の脅威に対抗するためだった。俺がたった一人でしかなかったからこそ、その提案には意味があった。 ならばもう、状況はまるで違う。司狼が復活し、カインが暴走し、櫻井はその味方だという事態の変化に、神父は四面楚歌へと落ちている。 今、何よりも優先すべきは、もっとも効果的な解決手段。 櫻井は邪魔さえしてくれなければいい。こいつのことは後に回す。 戦いずく、戦闘に次ぐ戦闘だった今夜。俺の疲労もマリィの消耗も不安要素ではあるけれど―― あのとき、香純を連れて病院から――〈赤騎士〉《ルベド》の火砲から逃げ切った技を。 創造位階を―― 危機に瀕した無我夢中で、半ば偶然の産物だったがその感覚は覚えている。 今こそあれを使いこなすべく、瞬間――俺は駆けていた。 「――――――」 時間が引き延ばされる感覚。迫る神父の表情は驚愕だったか焦りだったか。 それとも、いや――そんなことはどうでもいい。 間合いに入った。届くか――? 「……なるほど、そう来ましたか」 「――ッ」 まだ駄目だ。まだ遅い。先の一撃は空振りに終わり、神父は刃圏から逃れ出ている。あのときの速さにはほど遠い。 だけど…… 「俺のは躱すんだな、神父さん」 「そうですね、咄嗟でしたが総毛立ちましたよ。珍しいと言うか、本来ありえぬことですが……」 言葉途中に、空を砕かんばかりの轟風が飛ぶ。 「これ、このように、私は破壊不可能なはずなのです。いや実際には三通りほど、手段がないわけでもないのですがね」 カインの横薙ぎを無造作に受け止めて首を傾げる。確かに度外れた耐久力で、単純な威力で言えば今の方が剣呑だったはずだろう。 だが神父は、俺の攻撃をより脅威と見なしたらしい。事実どうだかは不明だが、心当たりはある。 マリィとの結びつき、そして彼女の変わり具合。創造位階へ達しかけている今の俺は、急激に力を増し始めているという予感にも似た確信がある。 いけるはずだ、ここで聖餐杯を打倒できると―― 「あなたはもう少し固い人かと思っていたが、意外にも心変わりが早いですね。信を裏切り、胸が痛みませんか?」 「――全然」 ないと言えば嘘になるが、そもそも同盟の成立はまだだった。あれは神父が、櫻井を説き伏せた場合の話。 あいつとセット扱いのカインに攻撃された時点で、そんな可能性は崩れている。 「リザの仇を討つというのは?」 「あんたからして、あの人に敵扱いされてたんだろう」 加えて、そもそも自分が五色に関わると黙っていた。それを隠蔽しようとした事実は重い。 後退するトリファ神父に、俺と並んで追い縋るトバルカイン。この屍を動かしてるのがシスターのプログラムなら、彼女のためになんて大儀をあんたが口にする資格はない。 「大隊長は斃す――!」 五色のうち四色、先輩を除く総てを消す。マキナもエレオノーレもシュライバーも、そして当然あんたも消えろ。 なぜなら―― 「オレが戻ってきたのは誤算だったかい、神父さんよ」 今の俺にはこいつがいる。馬鹿で阿呆でどうしようもないチンピラだが、こいつと一緒に喧嘩しに行って負けたことはないんだよ。 素直に喜べないところもあるが、これも勝利するためのリアリズム。司狼が俺と同じ身体になった以上、もはやその参戦に難色を示す理由はない。 「なるほど。ならばあなたはどうする、レオンハルト」 俺とカインと司狼の攻撃を避けて受けて弾きながら、しかし未だ聖餐杯に焦りはない。危険な兆候だ。こいつに余裕を与えちゃまずい。 「彼らの選択、実に結構。戦士として清々しいまでの現実主義だ。ではあなたは?」 「ただ目的の成就のみを最優先。その姿勢に倣うなら、あなたは何をすべきと考える」 それは絶対の耐久力を誇るからこそ可能な行為。神父は俺の攻撃にのみ注意を払い、三対一にも関わらず未だ隙を晒さない。 だったら速く、さらに速く――今こそ力を振り絞らなければいけないのに。 「……ッ」 加速どころか、遅くなる。この機を絶対に逃すなというデタミネーションを無視するほどに、病院での消耗は深刻だったということなのか。 「己に問いなさい、レオンハルト。あなたの魂、それは何を求めている」 「あのハイドリヒ卿に賜る〈祝福〉《ヴァルハラ》――その〈英雄〉《エインフェリア》になりたいのですか?」 「……ぁ」 「わた、しは……」 「くッ、おおおォォッ」 創造の成り損ね、半端な速さで斬りかかっていた俺の刃を、神父は事も無げに払いのけた。それで突進のベクトルを曲げられてしまい、横のカインに激突する。 必然、俺たちは同時に弾き飛ばされた。 「死せる英雄とは如何なるものか、ハイドリヒ卿の〈坐〉《ま》す“城”とは何なのか、よくよく考えてみることですよ」 「さて、それでは藤井さん。残念ながら同盟は成立せずということになりましたが……」 嘆かわしげに肩をすくめて、倒れる俺を見下ろすヴァレリア・トリファ。 その目は、しかし揺るぎない決意に満ちていた。 「結果的には変わらない。見事、私がテレジアを救い出してみせるため、あなたは大隊長御三方を押さえるしかありますまい。その頼もしい仲間と共に」 「決行は明晩。助勢を期待しますよ。黄金の近衛三色に守られた彼女を単独で救うなど、誰にも出来ませんからね」 「せいぜい奮闘して命を懸け、鉄壁に穴を開けていただきたい。神の家から乙女を攫う。実に素晴らしい響きではありませんか」 「待ッ――」 去っていく神父に俺が手を伸ばすより速く、櫻井が叫んでいた。 「待って――!」 「待って、ください……猊下」 しかし声は尻すぼみになっていき、櫻井は二の句を継げない。そんなこいつに、神父は憫笑を浮かべながら道を示した。 「レオンハルト、まだ迷いがあるなら問えばいい。彼と行動を共にして、大隊長御三方と対峙すれば答えも見える」 「あるいは……ふふふ、まあそこはあなたの自由だ。己で考え決めなさい。頭が飾りでないのならばね」 「では今夜はこれで。中々に有意義な会談でしたよ。無事に事を成せたなら、共にテレジアの誕生日を祝いましょうか、藤井さん」 「ふふふ、ふはははははははは――」 「待て――!」 ようやく立ち上がって吼えたときには、すでに神父は影も見えなくなっていた。後には重い静寂が残るだけで…… くそ、結局空振りかよ。得難い好機だったにも関わらず、俺はその瞬間を逃してしまい…… 「そろそろ夜が明けるな」 修羅場の連続だったこの夜が終わり、さらに激しくなるだろう明日の到来を告げていた。 「しかしまあ、惜しかったね。あともうちょっとってとこだったんだが」 白み始めた夜の中、特に残念でもないという風に司狼は愚痴る。 「実際、タイミングも悪かったからしょうがねえわな。オレもおまえも疲れてるし、あれが限界の追い込みだったわけだしよ」 「ここは一つ、癪だが神父の話に乗るしかねえな」 「…………」 「なんだよ?」 「……いや」 確かに、癪だがこうなった以上、神父の話に乗るしかない。 大隊長三人が守護する教会から、先輩を救出する。俺と神父、共に相手を陽動として利用しつつ、鉄壁を潜るしかない。 だが…… 「またデカブツは止まっちまったなあ。朝になると動けなくなったりすんのかい、そいつ」 「よぉ、いつまでも固まってないでこっち来いよ。おまえはこの先どうすんだ?」 無言の櫻井に気安く声をかけている司狼。今さらだが、どうにもこいつらしくない。 ルサルカから、必要な情報は引き出したと言っていた。ゆえに俺や櫻井よりも事情通だと言っていた。 その上でさっきの、そして今の選択。つまりラインハルトの帰還を阻止しようという、俺の意向に合致した方針。 常識的に考えて、十中十人がその結論に至るはずだ。普通はそう思うはずだ。 ならば共闘関係にある相手と、方針が合致していることに不思議はない。通常そうなって当たり前。 だけど…… 「司狼、おまえは……」 「あん?」 こいつはいつも、俺と壊滅的に正反対な奴だった。常識なんてそんなもの、歯牙にもかけない破天荒な性質だった。 不安が過ぎる。 まさかこいつ、もしかして…… 「……、……っ」 問おうとした言葉が、なぜか出ない。舌がもつれ、足が震え、目の前が暗くなる。 「おい、蓮、どうしたおまえ」 司狼の声が、遠くなって聞こえない。 ちくしょう、マジかよ。こんなに疲労が溜まっていたのか。 悠長に構えている暇はまるでないのに、身体と心が強制的に落ちていく。抗い難い波に飲まれて沈んでいく。 連戦に次ぐ連戦と、ろくに休息をとっていなかった反動。そして香純や先輩、膨大な数の命を賭け金にされているというプレッシャー。 それらが総て、無意識のうちに俺を極限まで蝕んでいた。ついさっきの戦闘が、ギリギリで保っていた痩せ我慢を決壊させた。 まるで狙い済ましたような、このタイミングで…… 「司狼、誓え……!」 今は怒っている暇などない。苦情なんか馬耳東風と聞き流す奴に、ごちゃごちゃ言ってる状況じゃないんだ。 このまま落ちてしまう前に、出来うる限りこいつを縛らないといけないから。 崩れ落ちる寸前に、渾身の力で搾り出す。 強く司狼の服を掴み、縋りつくようにして俺は言った。 「目が覚めたら、教会に行くぞ……先輩を、救い出す!」 彼女も絶対失えない。友人であること以上に、約束したんだ、俺はマリィと。 誰か一人でも欠けちまったら、俺はまた嘘つきになる。これ以上、誰も裏切りたくないんだよ。 だから、おまえも…… 「ああ、分かったよ。付き合ってやる」 「寝てろよ蓮、いい夢見な」 その返答を聞くと同時に、俺は抗えない眠りの中へと転げ落ちた。 司狼は俺を駄目押しで消耗させ、神父との同盟を蹴るように誘い、そして彼を意図的に泳がせている。 何のために、何を思って、言いたいことは色々あったが、こいつを責める気にもなれなかった。 それは俺の迂闊さを恥じるがゆえというよりも、もっと別の…… 何か、総てを含めて誰かの掌。その場の即興なんかじゃない、遠大なカラクリに絡め取られているような……そんな気持ちがしていたから。 俺の傍には〈司狼〉《こんなやつ》ができてしまうに違いない。だから必然こうなるだろうと、読みきられていたように思うのだ。 ならば。 そもそも俺とは、そうした因果を引き寄せている俺とはいったい、何なのかと。 そんな疑問を、今懐く。 マリィに惹かれ、彼女を想い、ラインハルトに熱望されて奴の配下に狙われる。 そんな俺とは、そもそもいったい…… 「それは、これから教えよう」 単純な疑問。カール・クラフトの代替とはすなわち何者なのだろうか。 それを俺は、知っておかなければならなかった。  崩れ落ちた蓮の身体を担ぎ上げると、司狼はどこかバツの悪い、照れ笑いのような表情を浮かべていた。 「まあ心配すんなよ。別にオレだって、おまえに嫌がらせするのが好きな変態ってわけじゃねえし。 先輩助けられんのなら、それはそれでいいんじゃねえかな。そこを邪魔するつもりはねえよ」  ただ、ほんの些細な違い。自分はあくまで自分の基準で、より盛り上がりそうな展開を選んでいるだけのことだ。その上の判断にすぎない。  例の神父と共闘などするべきではないと思ったのは事実。そこに他意はなく、偽らざる本音と言える。  敵の敵だが、味方とするには問題がありすぎる人物の処方。蓮なら監視を怠らないか一気に叩くかという選択をするだろうが、司狼は違う。放置する。  つまり敵味方の総てに影響を及ぼす撹乱だ。足を引かれるリスクの変わりに、土壇場で望外の幸運を招き寄せるかもしれない一手。  確率的には、7:3か8:2だろう。無論、前者がリスクなのだが、それだけにハイリターンも期待できる。  要はギャンブル。面白そうじゃないか、そっちの方が。 「だから、意外と全部丸く収まるかもしんねーし、目ぇ覚ましたときにキレて喧嘩売ってきたりすんなよ、おまえ。 決着はどっちが生き残るかっつーことになってんだからさ」  と、自嘲するように独りごち、司狼は傍らに目を向けた。そこにはずっと無言の螢がいる。 「で、おまえさんはどうすんの? ついてくるなら歓迎するよ」 「…………」 「さすがにそのでかいのは置いてってもらうけどな」  もはやこの公園に、一般人は近寄れない。ゆえにカインを放置しても問題はないだろうと司狼は言う。  それに螢は、低く答えた。 「いい。私は彼と一緒にいる」 「そりゃ飾りじゃない頭使った上での答えかい?」 「ええ。迷ってるなら問うしかないし、私が問うべき相手は決まっているから」 「ふーん」 「…………」 「いや別に。じゃあ好きにしろよ」  その問えと言った張本人は、螢が誰に問おうとするかも当然弁えているはずだろう。  つまり誘導されているわけなのだが、司狼はそんなことを口にしない。彼に言わせれば、螢もまたギャンブルの駒だ。  とりあえずお義理程度に、現状だけを認識させておく。 「おまえら居残り組の八人は、帰還組が戻ってくるたびブッ殺されてる。それってどうしてなんだろうな」 「下手打ったから? 生意気だから? それとも連中、ただの見境ねえ殺人狂か? どれもそれっぽいけどよ。 たまには逆転して考えるのも面白ぇぞ。もしかしたら、そうしてやるのが仲間の証だとでも思ってんじゃねえのかなって……。 だとしたら、奴らの不死身ってな何なんだろうな」 「…………」 「とまあ、オレは考えるわけだよ。じゃあな」  それきり司狼は振り返りもせず、蓮を担いだまま去っていく。  クラブは大量殺人の現場として警察に押さえられたが、さすがにもう人払いはすんでるだろう。あそこもスワスチカと化したのだから、まともな奴なら本能的に近寄れない。  今さら、幼なじみ三人で過ごしたアパートに戻る気も起きないし、帰るとしたらボトムレス・ピットの一択だ。その方が落ち着く。 「さて……」  器用にタバコを咥えて火をつけながら、呆れと興味が入り混じった声で司狼は呟く。 「しっかしこいつ、どんな夢見てんのかね、すげえ汗だわ」 「ではこれより、刹那――夢幻の境界での邂逅を」 「問一、君にとって最古の記憶とは何だろう」 「思い出を時系列通りに並べる作業は、どうしてなかなか容易くない。 幼年期、少年期、青年期、壮年期。老年期に至れば後は死期。 そうした括りで、雑把に分けることは出来るだろう。だが一つの期間を細分化しようと試みれば、途端にあやふやとなっていく。齢を重ねれば重ねるほど、それが困難になっていく」 「ならば問二、君の年齢は幾つだろう」 「馬鹿な質問だと笑うかな。しかしよく考えてみるがいい。 己が誕生した瞬間の曜日年月、その日を正確に記憶している者がはたしてこの世にいるだろうか。 結局、皆、親を名乗る何者かに教えられただけではないのかね? おまえは何時何時産まれたと、そう言われたからそう信じているだけではないのかね?」 「ゆえに問三、君の親とは誰だろう」 「名前だけ聞いている、顔も声も知らない何処かの誰か。その程度の認識しか君にはなく、特にこれといった感慨もない相手だろう。 ではこうとも言えることになる。そんな者らはいないも同じ。 君には親というものがない」 「だから、四つ目の問いを投げよう。君は何だ?」 「最古の記憶を選べず茫漠。己が年齢を証明できず、親の存在すら模糊として曖昧。 そんな君は、いったい何だ? 藤井蓮などという〈名前〉《きごう》に縋られては困る。世には例えば私のように、〈記号〉《それ》を売るほど持っている者もいるのだからね」 「カール・クラフトという私は黒円卓を創ったが、要するにそれ用の〈役割〉《パルス》を指すものでしかない。 君が縋る〈藤井蓮〉《そんなもの》は、この国この時代に生きる少年としての〈役割〉《パルス》。たかだか十数年前に被せられ、ゆえに状況が変われば脱ぎ捨てるだけの衣にすぎない。 春と冬では装いも変わろう。日常と非日常では人生も変わろう。人生が変われば以前の己など別人にすぎない」 「分かるだろうか、君の真実。〈超越する人の理〉《ツァラトゥストラ・ユーバーメンシュ》」 「君は私の……」 「――――――」  誰かに呼ばれたような気がして、俺は弾けるように目を覚ました。 「……ぁ」  目を、覚ましただと? いや違う。 「ここは……」  ここは依然、〈現〉《うつつ》じゃない。これまで何度となく夢に見てきた黄昏の浜辺。  彼女の、マリィの世界に俺はいた。 「…………」  起き上がり、周囲を見回す。辺りは潮騒の音しか聞こえてこず、俺以外に誰もいない。  マリィは何処だ? 彼女はいったい…… “そもそも、人の死とは何なのだろう” 「―――――」 “老いや病による肉体機能の低下。外傷を受け損壊した身体が鼓動を止めて停止する” “死とはそれか? どう思うね” 「……ッ」  いきなり響いてきた謎の声に、顔をしかめて頭を押さえる。再度周囲を見回すが、やはり人っ子一人存在しない。  気のせい? 幻聴? 何だ今のは? “違うと私は考える。なぜなら知る限り、人の子は不死なのだから” “アダムとイヴのそれではないよ。知恵の実を食した原罪により、神の子である質が劣化したというあの説も嫌いではないがね。蛇の誘惑が事の発端であるあたりなど、なかなか好みだと言ってもいい” “だが、違うのだ。総ては円環。終わりは始まるに還るということ” “心臓が止まったその瞬間、刹那の誤差もないまったく同時に、それは再生を開始するのだ。子宮の中で” “あらゆる個人は唯一無二の己として、唯一無二の己を繰り返す。朝は四本。昼は二本。夜は三本足の生物。太陽は回るだろう” “ならば次の夜明けには、昨晩三本足だった老人が四本足の赤子に戻る。そういうことだよ。人は同じ生を繰り返すのだ、まさしく不死と言って構わない” “分かるかな。そう思うだろう?” 「…………」  声は俺の反応などまったく無視して、好きなように勝手に喋る。問いの形式を取っているが、明らかにこちらの返答を期待してない。  この現象がただの気のせいじゃないのなら、〈声〉《こいつ》は単に遊んでいるのか、それともそういう性分なのか。  判別できない俺を無視して、やはり勝手に喋り続ける。 “そこで興味深い疑問が生まれる。人の子は不死、刹那の誤差もなく〈生〉《あさ》と〈死〉《よる》とを繰り返すなら、死後という概念がなくなる” “つまり霊体、成仏なり昇天なり地の獄なりなんでもいい。そこへ旅立ち、ないし落ち、あるいはこの世に留まる死者の霊など存在しないという結論になる” “魂は、肉体と共に回帰し続けているのだからね。それのみが別に行動する可能性は、本来皆無であると分かるだろう” “だが無論、古代から数え切れぬほど記録されてきた心霊の現象を、頭から否定しているわけではないよ。私もそういう学問を些かながら修めている身だ、あれはあれで間違いではない” “ただ、正確に捉えていないというだけだ。一般に霊と言われるものは残留した思念。心が残る、遺したい。その願いがルールとなって、己が渇望を映し出す映写機を創造した結果なのだよ” “ゆえに広く認識されている霊とやらは、単一のことしか出来ない虚像。自我など持たぬ渇望の影。魂の残像と言って構わない” “分かるかね、本来の意味に則る霊体など、存在し得ないということが” “すると、矛盾した例外が思い浮かんでくるだろう” “彼女はなぜ――?”  同時に、視界が切り替わった。夕焼けだけはそのままに、変質した場は処刑場。断頭台の下に引き出された少女の姿が目に映る。 「マリィ……」  これは、彼女の最期の光景なのか? ギロチンの下で産まれたマリィが、ギロチンの下で生を終えた日。  そうだ、彼女はこの日に死んだのだ。死んだはずだったのだ。 “ならば理に従って、再び罪深き母の子宮に回帰せねばならない”  いつの間にか、俺はマリィの処刑を見守る群集の中にいた。目線の高さも身体の重さも違和感はない自分の身体……なのに服装だけは中世風のものに変わっている。  これは俺か? 誰なんだ? 俺にしか見えないが俺じゃない。それに形容しがたい吐き気を覚えた。 “アレッサンドロ・ディ・カリオストロ――私はこの日、彼女を見ていた”  ただの気まぐれ、戯れとして、だがなぜか惹きつけられたのだ、既知感ではない。  予感があったのだ。総身が震えるような―― 「あぁ……」  処刑台の上、遠く空を見上げながらマリィは呟く。  それは生涯初めての、そして最後になると思われた人としての彼女の言葉。  サン・マロの宝石、マルグリット・ブルイユ。ギロチンの花と散り、ギロチンの下で産声を上げる円環に入ると思われた彼女は、しかし―― 「わたしは、ずっとここにいるのね」  外れたのだ、その枠から。 “初めて見たよ。そんな者を”  永劫に回帰する理を超え、本来有り得ぬ霊体という現象で留まるマリィ。彼女の在り方は完全なイレギュラーだ。 “〈私〉《 、》〈が〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》〈渇〉《 、》〈望〉《 、》〈を〉《 、》〈超〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。完全な敗北だよ、膝を折るしかるまい” “なぜそんなことが、などとは考えもしなかったしどうでもよかった。 父母の涜神的な行い? 笑い話にもならんよ。私のルールはそんな程度で崩れはしない” “神などいないと知っているのだからね。〈光〉《みち》よあれと意志を流れ出させた身としては、件の父母が行った愚挙ごとき、別段私に対する冒涜ではない”  ではなぜ―― “言っただろう。どうでもよいよ。彼女は私より強かった。それでよいのではないのかな” “理解の及ばぬものを納得できる理屈に嵌めて、その聖性を貶めつつ安堵する。くだらん。それこそが冒涜だろう” “ゆえに分かるかな、私の代替。本来ならば新たな光が生まれた時点で、旧秩序は一掃されて然るべき。そもそも私はそれを狂おしいほど望んでいた” “しかし、しかし惜しむらく、彼女の創造は内に向く。どうしたいではなく、どうありたいという渇望なのだ。レオンハルトと言ったかな、あれと同種だと思えばいい” “覇道に対する求道。創造の位階はその二種に分かれ、流出の位階はそれが流れ出し世界法則を書き換える。だが求道の質は己一人が完全永遠となるだけで、その他一切に影響を及ぼさん” “覇道が要るのだ。この既知感を残らず洗い流すために。そうした意味で、彼女は私の望む存在ではなかったと言える” “だがね、いったいこれまでどれだけ待ち望んでいたか分かるまい。今後再び、これほどの魂と出逢える保障などないのだよ” “そして無論、言うまでもなく、彼女が私以上であるという敬意の気持ちが何より強い。率直な人情として、お近づきになりたいと思うのは道理だろう” “だから……” 「あなたに恋をした」 “恥をかいたよ、笑いたまえ。愚者を絵に描いたような告白だ” 「あなたに跪かせていただきたい、花よ」 “だが、それでよし。後悔はない。これが偽らざる私の本音だったのだから何をか言わんや、胸を張ろう” “いずれ必ず、私が必ず、あなたを解き放ってみせると誓う。あなたは新世界を包む女神の器だと認めるゆえに迷いはない” “理解したかね、ツァラトゥストラ。黒円卓も、そして君も、私が彼女に捧げる貢物だ。これより百三十年経った後、髑髏の帝国で究極の覇道を見出したときに総ての絵図は完成した” “君こそ私の〈聖遺物〉《やくわり》だ。彼女に私の愛を伝えてくれ” “奮えよ、これ以上の栄誉はあるまい” 「俺は……」  理解が追いつかず呆然とする。俺がこいつの聖遺物だと……? 「馬鹿な……」  馬鹿を言うな、俺は人だ。意志を持って動いている。 “狂える想念を込められて、意志を持つに至った器が聖なる遺物。そこに何の違いがある” “人とは、肉体、精神、魂の三位一体。比して聖なる遺物とは、〈肉体〉《うつわ》の〈精神〉《いし》が他者の魂を略奪する三位一体” “つまり、擬似的な人なのだよ。魔人器、私が錬成した新種の生命体と言ってよい” “分かるかな、この意味が。他者の魂を奪い取り、数百数千と内に混沌させる行いは、彼らの回帰を妨害している所業に他ならん” “黒円卓の爪牙ら然り、それを統べる獣然り。その総軍は魂の円環運動を止めている。無限に死者を飲み込み続け、膨れ上がる屍により出来た世界が我が盟友の〈坐〉《ま》する城。本来存在しないはずの、地獄という概念の具現化だ” “曰く修羅道。死しても無限に蘇る〈英雄〉《エインフェリア》が、永劫殺し合い続ける〈殿堂〉《ヴァルハラ》こそが彼の世界” “それは喩えるなら、血栓だ。回帰の流れを堰き止め続け、その限り巨大化していく〈地獄〉《ヴェルトール》。ならばいったい、どうなると思うね” “弾け飛ぶ。そう弾け飛ぶのだよ血管が。そのとき現行宇宙は死に至り、旧秩序は一掃される” “つまり覇道だ。〈地獄〉《かんき》は飽和し溢れ出し、流れ出ずり征服して書き換える。その時こそが怒りの日” “ぶつかれ、彼と。彼女を持って流出に至れ。私の既知感を洗い流し、新たに芽吹く世界が見たい” “〈己〉《こ》は全。全は〈己〉《こ》。凡夫の賢しい偏狭さなど、彼女の光で吹き飛ばすがいい” “己こそが〈全〉《せかい》であると、強くそう信じるのだよ。でなくば到底、黄金には太刀打ちできない” “君は私の〈聖遺物〉《うつしみ》なのだ。他の誰より聖遺物を操ることに長けている” “ゆえに、理解しているだろう”  間を置き、そして弄うように、声は――いやカリオストロは――  黒円卓の副首領、カール・クラフトは謳うように締めくくった。  祝福の箴言を与えてやるとでも言わんばかりに。 “〈双蛇〉《カドゥケウス》は切れぬ。断てぬ。引き裂けぬ。今再び、前にも増して、強く深く絡み合え” “より完成へと近づくため、〈脱皮する〉《うまれかわる》のだよ、私の代替――私の息子よ”  そして同時に、声も気配も違和感も、奴を感じさせる総ての要素が波のように引いていった。  後にはただ、茫漠とした黄昏が残るだけで…… 「俺が……」  俺が奴の〈聖遺物〉《むすこ》だと? 奴が俺の〈創造主〉《ちちおや》だと?  これまで培ってきたアイデンティティを破壊するようなその言葉に、俺は声もなく佇んでいるだけだった。  響く潮騒の音と共に、今では耳慣れたリフレインが聞こえてくる。  マリィ、俺は……俺は君をどうしたらいいんだろう。  自分の感情、自分の選択、確固たる意志を持って進んできたと思える道も、奴の言葉が真実ならば意味を持たないことになる。  総ては覇道の流出とやらを起こすために、ただそれだけのためにある傀儡。  怒りも悲しみも苦しみも、死にたくないし死なせたくないという思いからくる〈黒円卓〉《やつら》への敵愾心も。  そして、君に対するこの気持ちも……  嘘ではないのに、真実なのに、源泉が何処にあるのか分からない。  だからといって止められないのに、それすらおそらく奴の掌。  じゃあいったい、俺は何を信じればいい。  何を寄る辺に、何を核として立てばいい。  教えてくれ、マリィ。俺は君をどうしたらいい? 「あなたに恋をした」  なんの外連もないその直言に、わたしは驚いて硬直する。 「あなたに跪かせていただきたい、花よ」  当時は意味が分からなかった。でもなんとなく嬉しかった。  きっとこの人は何かが違う。自分が知っている諸々とはかけ離れていて、わたしが知らないことを教えてくれる人なのだと直感した。  それは実際、楽しかったと思う。わたしに笑顔で話しかける――というか笑顔しか見せない人だったけど、そんな人物は彼だけだったし。  包まれているような、許されているような、そうした柔らかい気持ちを常に与えてくれていた。居心地が良かったという事実は否定できない。  でも、違うよね。今なら分かる。  あれは言うなれば、雛鳥の盲愛。初めて見た相手を特別だと信じ込んでいただけのこと。0か1しかないわたしの対人経験で、当時彼しかいなかった〈友好〉《いち》は言うまでもなく最上位になる。  比べる相手がいないのだから、そうなって当たり前。  だけどわたしは、最近知った。色んなものを経験した。  それは恐怖――  それは痛み――  そして胸が苦しくなるこの甘苦さを。  見たいものが増えた。知りたいものが増えた。触りたくて触ってほしくて、経験したい未知が止め処なく溢れてくる。  同時に、絶対避けなければならない絶望という存在も。  乗り越えなければならない脅威も。  奪われるという怖さ、手から零れ落ちる切なさ。  わたしは色んなものを知った代わりに、それを失う恐ろしさを理解した。  失わないように頑張るという覚悟も。  だから、ねえ、そんな顔をしないでレン。  わたし嬉しかったよ。誇らしかったよ。あなたが与えてくれたものは、こんなにもこの胸を溶かしている。  あの人の代わりなんて言ってごめん。  あの人に似ているなんて言ってごめん。  あなたと彼は、全然違う。 「だけど……」  いつも強く、ぶれない決意に満たされたレンの瞳が揺らいでいる。  道に迷った子供のように、彼が彼であるための大事な何かを見失ってる。  まるで少し前までのわたしみたいに。 「俺は、誰なんだよ。どうしたらいいんだ」 「やらなきゃいけないことは分かってる。 分かってるさ、今さら引けない。 選択肢がないんだよ。 そうするしかないんだから迷ってるわけでもない。 ただ……」  それが紛れもなく自分の意志なんだと信じられずにいる。  選択肢がない道は彼の望みで、そしてわたしの〈人生〉《これまで》で……  だけど大元にあるべき意志を確信できないから、彼はその結果を恐れている。 「わたしね、レンに聞きたいことがあるの」  だから、彼に知ってほしい。  わたしがどれだけ、あなたを特別に見ているか。  どれだけあなたの意志を信じているか。  ううん、と言うより信じてほしいの――わたしのことを。 「わたしのことが邪魔じゃない?」  彼の日常に異物を混ぜたのはわたし。わたしこそが彼の嫌う〈非日常〉《いぶつ》そのものなのに。 「怖くて、痛くて、苦しいよね。全部やめて無かったことにしたいよね。 分かるよ、わたしやっと分かった」  彼の日常とは〈学校〉《あれ》――  彼の非日常とは〈血臭〉《あれ》――  どちらが好ましく尊いかなんて、今さら考えるまでもない。  だってわたしも、彼の〈日常〉《いばしょ》を魅力に思った。彼の〈非日常〉《たたかい》に恐怖した。  五人目になりたい。〈日常〉《そこ》で笑ってる皆の中に入りたい。  そう強く感じた今だからこそ、自分がどれだけ彼の毒になっていたかということを理解できる。  だから―― 「わたしなら、泣いちゃうよ。恨み言が言いたいよ。だってこんなの酷すぎるよ。 俺が何をしたんだって、おまえなんか関係ないって、怒って文句を言って関わりたくない。それが当たり前だしそれが普通。なのにどうして?」  どうしてあなたは…… 「どうしてわたしに優しいの?」  どうしてわたしを責めないの? 「どうして……」  今も自分を責めてるの? 「教えてレン、ちゃんと聞くから」  血が怖い。戦いが怖い。殴られたら痛いし殺されたくない。  そして殺すのはとてつもなく辛い。  〈日常〉《むかし》に戻れなくなる気がする。〈非日常〉《ちがうもの》に変わる気がする。  わたしは、そんなものにあなたを変えた。 「レンはわたしを逆に変えたよ。でもそれって仕返し?」  あなたの日常を知ったから、自分がどれだけどうしようもなかったかを知って苦しい。確かにそれは、ある種の意趣返しになるけれど。 「違うよね。そんなんじゃないよね?」  ううん、たとえそうだとしても感謝してる。素敵なことを教えてくれて、あなたは最高のプレゼントをくれた。  彼はわたしへの〈贈り物〉《くびかざり》、かつてあの人はそう言ったけれど。  違うよ、〈藤井蓮〉《このひと》は物なんかじゃない。 「別に……」  戸惑うように目を伏せて、レンはぽつぽつと話しだす。  まるで言い訳するみたいに。 「別に俺は、何も考えてなかったよ……そんな余裕、なかったんだ。 状況が目まぐるしく変わりすぎて、深く考えてる暇はなかった。 ただ、じっとしてるわけにはいかないし、あとはその都度、単に俺は……」  死にたくなかったし、死なせたくない人がいる。だから否応もないとレンは言う。 「結局、利用したんだよ。当面、君のことが必要だから、機嫌取ってただけかもしれない」 「嘘だよ」 「そうかな。そうかもしれないけど……そういう打算も、確実にあったと思うよ。マリィがいなけりゃ、俺は無力だ。 愛想つかされるわけには、いかないだろ」 「でも……」  でもあなたは、わたしの在り方を気にかけてくれたじゃない。  単に道具として使うだけなら、そんなのどうでもいいはずなのに…… 「あんまり頭良くないからさ。卑屈なこと言う気もないけど……」  自嘲するように苦笑して、レンは軽い溜息をつく。  その仕草も、わたしに気を遣った痩せ我慢だということが痛いほど分かった。  本当は、今にも叫びだしてしまいたいほど混乱しているはずなのに。 「やっぱり、少しおかしいのかな。特別フェミニストなつもりもなかったけど、普通は文句の一つや二つ言うか」 「櫻井やルサルカには、マジで怒るもんな、俺……」 「そうだよ」 「じゃあ、言っていいかな」 「うん、言って」  恨み言でも、罵倒でも、今あなたを不安にさせてる全部をわたしにぶつけてほしい。  そうして楽になってほしい。 「できることなら、なんでもするよ。なんでも受け止めてあげるから」  わたしの言葉に、彼はちょっと困ったような、驚いたような顔をして。 「あのさ、マリィ……」  瞬間、わたしを抱きしめていた。 「その、空気読めないところは本当にどうかと思う」 純粋で、飾りがなくて、自分の言動が相手をどういう風にしてしまうか、まるで分かってないのは最初っから俺の悩みの種だった。 なんでもするとか、そんなこと……女が素で言うなよ、危ねえっつの。 「あ、ぇ、あれ……?」 その証拠に、ほら今も、わけが分からなくなって驚いてるし。 「俺は怖いよ、マリィ」 彼女がそんな感じだから、つい俺も他の奴には絶対見せない弱い部分を晒してしまう。 「自分の気持ちの元が見えない。それが何処から生まれたのか自信が持てない」 マリィを大事だと思う。この温もりを愛しいと思う。だけどこれは俺の気持ちか? 当たり前だと断言したいが、どうすればその裏が取れる。 「色々考えたよ、言い訳探した。さっき言ったことだって嘘じゃない」 ある日いきなり放り込まれた修羅場を潜り抜けるため、都合のいい〈武器〉《マリィ》を磨くように優しく接した。 彼女と信頼関係を築くことが、イコール戦力向上の必須条件だと理解していたのは誤魔化しが効かない。 だからそういう、いかにも俺らしい打算を盾に、それとは別に湧き上がってくる気持ちを封殺してしまいたかった。 衝動は怖い。説明できない引力ってやつが、今の俺には恐ろしい。 「理屈じゃ説明できない何か……そういうのって、操られてる気がするだろ」 確固として厳然たる〈理屈〉《せんたく》に縋る。そうすることで俺は俺であると思いたかったのに、どうして…… 「マリィがヘンなこと言うから、ぶっ壊れちまっただろ。どうすんだよ」 「俺、何を信じればいいんだよ」 「…………」 我ながら、本当に情けない台詞を口にしていた。こんな、自分でも気持ち悪くなる弱音の典型。傍から見たら馬鹿でしかない。 まして、女からしたら全力で引くこと間違いなし。俺がマリィの立場でもそう思う。 情けない。情けねえぞ藤井蓮。だけどそう思う自分すら、真実は誰なのかも分からないんだ。 「俺は、奴の〈聖遺物〉《どうぐ》なのか? 一番古い記憶ってどれだよ? 俺の歳は幾つだよ? 親は? 俺は誰だ?」 「なんで今まで、自分のルーツに何の興味もなかったんだよ。おかしいだろ、親がいないんだぜ? 普通調べようとかするよな? それが、当たり前だよな?」 なのに、なのに俺って奴は今の今まで…… 〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈設〉《 、》〈定〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈キ〉《 、》〈ャ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈ク〉《 、》〈タ〉《 、》〈ー〉《 、》〈み〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈さ〉《 、》〈で〉《 、》、自分の核心に迫る事柄へ無頓着。 あれだけの異常事態に放り込まれて、世界がガラリと反転して、にも関わらずそんな俺はそもそも何者なのだろうかと、ろくに考えてさえいなかった。 「わけ分かんねえ。誰だよこいつ、頭おかしいだろ狂ってるよ」 それは人間の思考じゃない。出来の悪い脚本に出てくる架空の人物めいている。 意志を持って動いてる? 馬鹿を言うなよ、俺の意志って何だそれ。記号の羅列か? ふざけんな! 「なに順応してるんだ、ありえないだろ。いきなり殺されかけて、巻き込まれて、ちょっと悩んだようなポーズ取れば殺すことにも躊躇なしかよ。絶対おかしい、普通じゃない。そんなただの学生がいるわけない」 挙句、殺し合いの専門家どもが六十年かけて何千人も殺して至った境地に、俺は実質二週間かそこらで達している。 天才……櫻井はそう言っていた。〈化け物〉《クラフト》の代替……奴らの全員がそう言っていた。 聖遺物を操る聖遺物。他の誰よりその扱いに長けている者…… 違う……そうじゃないと今はもう言い切れない。 じゃあ俺は、俺が俺であるために何を信じればいいというのか―― 「わたしを信じて」 膝から崩れ落ちそうになる俺を抱きとめるように、マリィは静かにそう言っていた。 「あなたが必要だと思うわたしを信じて。わたしの気持ちはわたしのものだよ。レンが自分を分からなくても、わたしがあなたを分かってる」 「あなたがいて嬉しい。あなたに逢えて嬉しい。だからあなたと一緒にいたいよ。ねえ、これも信じられない?」 「……けど」 けどそれは、あれだろう。俺が奴の代わりだから…… 「レンとあの人は違うよ」 俺の〈怯懦〉《きょうだ》を諌めるように、淀みなくマリィはそう言い切った。 「ごめんね、いっぱい、ほんとにごめんね。彼の代わりになってくれとか、すごい馬鹿にしてるよね、ごめんなさい」 「だからこれは、それを取り繕うための言い訳じゃないよ。わたしはレンがいい。レンを選ぶの」 「カリオストロは大事。特別だし感謝もしてる。でもあの人は、さっきレンが言ったみたいな見方しかしてないの」 ついさっきまでの俺こそが、奴の人形ではないと足掻いて出来なかったその姿こそが、カリオストロの本質に近い。 マリィは、そんなことを訥々と言う。 「確固として厳然な〈理屈〉《せんたく》に縋る? あの人はそういう人だよ。説明できない引力なんて、一度も感じたことがないはずの人」 「だから、今のレンは全然彼と違ってるよ」 奴のような考え方が出来ない俺。今、無様に自信をなくし、どうしたいか分からないまま衝動に流されてる俺こそが俺らしいと。 「それって、褒められてんのかな……」 自虐的な苦笑が漏れる。漏れるけど…… 「わたしは、そっちのほうがいいよ」 「だってね、わたしも同じだから」 「説明できない気持ちがあるから」 自分が矛盾しているの、とマリィは小さく呟いた。 その答えを、俺は想像だに出来なかったと白状する。 まさかこの子が、そんなことを言うなんて思いもよらなかったから。 「カリオストロを、殴ってやりたいよ」 「―――――」 それは冗談めかした苦笑まじり。だけど覆い隠せない怒りの気持ちが確かにあったのを感じ取る。 マリィにとって、〈カリオストロ〉《カール・クラフト》は知りえる世界の総てだった。奴の基準で物を知り、奴の思想に疑問を持たず、奴の〈脚本〉《オペラ》に歌い踊る空虚な〈歌姫〉《フール》。 そんな彼女が、神にも等しい脚本家に憤ること。 その意味するところは何なのか。朧げながらも理解しつつ、しかし俺は言葉もない。 だって、なぜなら俺は…… 「……、……ッ」 嬉しかったんだ、どうしようもなく。マリィが俺を選んだことが、声も出ないほど嬉しかった。 何を信じればいいか、何を寄る辺に、何を核として立てばいいか。その答えを与えられた気がしたから。 俺と奴の双方を知り、その上で俺を選んでくれたのは彼女しかいない。 「感謝はしてるの、あなたに逢えた。彼がいなかったら今はなかったって思うとね、怖くなるしお礼も言いたい」 「でも、それがレンを辛くさせてる。あの人のあなたに対する扱いが許せないの」 いつも我慢していた。意地を張ってた。痛いのも怖いのも耐えながら、砕けそうになる自我をずっと一人で支えていた。 それを殊更誇るつもりはないし、不幸に自己陶酔なんかしちゃいない。 だけど―― 俺は何処かで、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。甘えた泣き言は心底毛嫌いしているはずなのに、辛さを分かってほしかった。 今まではたった一人、自分自身でしか守れなかった心の芯。 俺が俺であるという気概があやふやになったとき、覚悟は折れる。二度と立てない。 それを彼女は―― 「おかしいよね、理屈になってないの。わたしはレンに逢えて嬉しいけど、レンはわたしなんかと逢わないほうがよかった」 「でも、だからってさよならなんか言えないよ」 言って、強く縋りついてくるマリィ。俺たち二人は二人とも、互いがいないと立てないくらいに絡み合う。 それは依存なのか、逃避なのか、あるいは何だ? 分からない。 だけど俺も、とうに理屈の範疇で説明できる精神状態を超えていて。 「一緒にいたいよ。また学校に行きたい。この手を、離したくないし離さないでほしい」 言われなくても、俺だってどうやったら離せるのかもう分かんねえよ。 「ごめんなさい、ごめんなさい。わたしが悪いの、でも嫌わないで」 「一緒に勝とうよ、戦おう? わたしそれしか出来ないから、それだけは誰よりレンの力になれるよ」 「俺も……」 呟くように、搾り出す。俺が誰で、何者で、何のために存在するのか――そんなの言うまでもない、決まってる。 何処の誰が何と言おうと、これは俺が決めたことだ。もうぶれないし迷わない。 俺はただ、この子のために…… 「俺はマリィを、幸せにするためだけにいるんだ」 「わたしも、レンのためだけにいるんだよ」 そこから先、言葉はもう必要なかった。 「ん……」 唇を重ねあう。貪るように、溶け合うように、二人で一人だということを強く確かめ合うように。 あるいはこれも、カール・クラフトの掌かもしれない。しかしそれがどうだというんだ。 関係ない。好きに言ってろ。この女は俺のものだし、他の誰にも渡さない。 結末がどう転ぼうと、それが俺たち二人の望む〈大団円〉《ハッピーエンド》だ。おまえの趣味の悪い脚本ですら、マリィが主演ならどこまでも輝く。俺がそのように彼女を愛す。 祝福しろよ、拍手でもしろ。あるいは嘲笑うか、歯軋りか? 何にせよ、こういうことだ。おまえじゃマリィを愛せない。 彼女を変えるのも、解き放つのも、おまえじゃない。俺がやるんだ。 俺がやりたいと思ったからこそ、マリィもそれに応えてくれる。おまえが入り込む余地なんかない。 だから今のうちに、得意の独り言をずらずら並べて悦に入っているがいい。必ず後悔させてやる。 勝つのは俺と、そしてマリィだ。俺たちは二人で一人。もう離れないし離れたくない。 だから見ていろ。文字通り首を洗って待っていろ。 カール・クラフト。ラインハルト・ハイドリヒ。 おまえたちは、俺が必ず…… 「必ず勝とう、マリィ」 「うん、うん……うん、そして……」 また再び、あの〈陽だまり〉《にちじょう》へ。 皆で帰るんだ、絶対に……! 誓いを胸に刻みつけ、この夢幻に逢瀬は果たされた。 優しい黄昏に包まれながら、俺たちは互いを強く抱きしめあい、その温もりを分かち合う。 時が止まればいいと願いながら──刹那の輝きを、魂へ刻み込んでいた。 「ゆえに、〈善哉〉《よきかな》――それが君らの覇道なのだね。 〈非日常〉《われわれ》の存在できない時空……宣誓、受け取ったよ胸に留めよう。 では、後はあなただ獣殿。私は約束を果たしたぞ。 あなたの全力、その総軍を魅せてもらおう」  そうだ、全身全霊、全力で、俺は戦い、そして勝つ。  たとえ相手が、百万を超える地獄の塊であろうとも。  俺とマリィが、負けることは有り得ない。 「―――――」 「よぉ、お目覚めかい?」 「ああ……」 だから今、直面しているこの状況がどれだけ絶望的だろうと諦めない。 傍らにはマリィ、魂で繋がった彼女がいるから。 「教会に行くぞ。邪魔する奴は潰す」 「了解」 神父が告げた決行の夜。待ってろ先輩、皆で一緒に帰るんだ。  そう、帰りたい。自分にとってもっとも古い感情は、そうしたものだったと記憶している。 「あなたにこれから、三つほどこの場における処世術を教えましょう」  ある日、ふと気付いたとき、傍らに立つ男からそんなことを言われていた。  自分の手を引き、横に並び、目の前にある巨大な門を見上げる男。名前は知らないが、どうやら彼が自分をここに連れて来たということらしい。  そこは城。城だった。巨大で絢爛で豪壮で……しかし墓所のように暗く重い。まるで神話にある戦死者の館……死せる英雄たちが集う〈地獄〉《ヴァルハラ》のようだと感じたのを覚えている。  だから自分は、この門を潜りたくないと思った。ここを潜れば、自分も彼らと同じになる。その善し悪しを判別することは出来ないが、直感的に忌避したことは間違いない。  ゆえに、それが最古の記憶だ。  帰りたい――何処へなんて答えもないまま、とにかくこの場からの逃避を自分は望んでいた。 「この向こうにいる者たちは、その大半があなたのことを恐れている。憎悪、期待、憐憫、好奇……細かく言えばそうしたものになるでしょうが、その根源にはあなたに対する恐怖があると知りなさい。 無論、私とて例外ではない。皆、あなたが怖いのですよ、イザーク」  イザーク……それが自分の名前なのか。しかし何の感慨も懐けない。  なぜなら正直なところ、今この瞬間まで自分は石か何かだと思っていたのだ。それが人間の男性を指すものであり、加えて〈微笑〉《イツハーク》を語源とする名であるなど、あまりにもそぐわない話だろう。 「ゆえに忠告その一です。喋らないこと。特に笑みは厳禁だと覚えなさい」  だというのにこの男は、その名と相反する態度を命じる。  それが現状における処世の術とは、いったいどういう意味なのだろう。  ただ、何にせよ、彼は自分を門の向こうへ連れて行く気なのだということだけは理解できて、その未来に恐怖した。 「おや、震えていますね。結構、あなたも怖いですか。 逃げに関してなら私も一家言ある身です。その立場から、忠告その二」 「何処へ帰ればよいか分からぬのなら、まずは己の居場所を見つけなさい。あなたの年頃ならば母の愛……などと、そうしたものを探してみるのもよいでしょう。 〈母〉《 、》〈を〉《 、》〈飲〉《 、》〈み〉《 、》〈込〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈後〉《 、》〈に〉《 、》〈問〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈イ〉《 、》〈ザ〉《 、》〈ー〉《 、》〈ク〉《 、》。 〈己〉《 、》〈が〉《 、》〈帰〉《 、》〈る〉《 、》〈場〉《 、》〈所〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》……とね」  扉が開く。否応もなく、もはや自分は逃げられない。  行き先の定まらない逃走は暴走にしか成り得ず、ならば寄る辺となる何かを見つけなければそもそも何処にも辿り着けない。  だからそれを探し、見出せと彼は言う。なるほど理に適っているが、しかし自分に母などというものが存在するのか? 「そして最後の忠告です」  開く扉の音に紛れて、名も知らぬ僧衣の男は囁くように呟いた。  まるで自分たち以外、誰にも聞かれてはならないことだとでもいうように。 「ここにはあなたを恐れぬ者が二人います。彼らの目を見てはいけません。 以上三つ、それらを守るならば誓いましょう。私が必ずあなたを救うと」  そしてイザーク――黒円卓の寵児である〈太陽の御子〉《ゾーネンキント》は、その日その場所へと引き出された。  1945年4月10日……髑髏の帝国が破滅の坂を転がり落ち、もはや必敗を決定付けられた時節の只中。  その邂逅は、彼ら十三人が一同に会した最初で最後の時となる。  玉座へと続く道の左右に、九人の男女が並んでいた。  左側に女性が四人。右側に男性が五人。それぞれ僧衣の男が言ったように、イザークという名の子供を見る目は多様な感情を宿しながらも芯の部分は共通している。  すなわち、恐怖だ。彼らはこの、外見上十歳児前後にしか見えない少年を、何かおぞましい怪物のように見ていた。  ある意味で、それは正しい。彼が誕生したのは42年の八月であり、本来ならばようやく物心がつくかつかないかという幼児の年齢なのだから。  肉体的にも精神的にも、到底普通の子ではなかった。ましてその知能など、すでに六ヶ国もの言語を習熟していたほどである。  天才と、そう片付けるのは容易いが、ここまでくれば異形・異能の領域だろう。一種の怪物と言って差し支えない。  ゆえに、彼は畏怖されていた。右側の男たちは鈍感なのか意地なのか、恐怖の上に好奇や無関心の気持ちを偽装して、自分を完全に騙している。こんな子供に恐れているなど絶対認めず、己の本音に気付いていない。  だが、左側の女たちはそうした見栄とは無縁だった。  強烈な嫌悪。憐憫。倦厭感。そして猜疑と渦巻く嫉妬……それらの気持ちを隠しもしてない。当のイザークが面食らってしまうほどに、彼の存在は彼女らにとって無視できないものらしい。  いったいなぜ、と当惑する。女たちの反応は過剰だが、よくよく考えれば男たちの反応も自然ではない。  断言して、ここにまともな人間など一人もいない。たかだか成長が常より早い程度の子供ごとき、この面子がこうまで気にかけるはずはないのだ。  まるでイザーク本人よりも、その背景……彼の生誕に関わる事象を恐怖しているかのように。  すなわち――居並ぶ男女らが同一の疑問を懐いているのを理解した。  おまえ、父親は誰なんだ? 「近こう」 「参られい、御子よ」  ゆえに、彼はこのとき直感する。  ああ、そうか。そうなのだ。  自分を恐れない者が二人だけいる。彼らの目を見てはいけない。  それはつまり、こういうことかと。 「私は……」  禁を破って口を開く。顔を上げて彼らの目を見る。  しかしそれは、さて本当に〈私〉《イザーク》の行動?  笑おうとしたけど笑えなかったのは、いったい誰? 「どちらが私の父様なのです? 私はあなた方の部品でしょう」  帰りたいと最初に思った。行くあてもなく逃げたかった。  その満たされぬ渇望こそを、玉座の二人は望んでおられる。  母の愛――知らぬ。分からぬ。何処にある。  ならば私はそれを探して、世の総てを飲み込もう。  この〈魔城〉《グラズヘイム》こそが世界の縮図だ。何もかも私の〈魂〉《ヴェルトール》に渦巻く混沌と化せばいい。  私自身が法を定めた契約の箱を創造しよう。戒めは十もいらない。  いずれ溢れ出す私の愛で、母様、あなたを抱かせてほしい。  ゆえに――  〈私〉《イザーク》の〈聖遺物〉《ぶんしん》であるスワスチカ……その契約は子宮に宿る。  産み落としてくれ私の後継……おまえが父を、私を、そしてスワスチカに溶けた母様を、この〈聖櫃〉《シャンバラ》から流れ出させる母になるのだ。  〈己〉《 、》〈が〉《 、》〈帰〉《 、》〈る〉《 、》〈場〉《 、》〈所〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》……問えよ私の〈愛しい御子〉《ゾーネンキント》。  今や母様を喰った〈私〉《おまえ》が、〈楽園〉《ヴァルハラ》と定めた〈場所〉《モノ》を飲み込みに行こう。  血統に刻み込まれた呪詛が囁き、訴える。  母を飲み込んだ後に問えと言われた。  おまえが寄る辺とする逃げ場所は何処にある? 「何処って……」  それは、今さら言うまでもなく………  夢と言うには鮮明すぎる幻に、氷室玲愛は目を覚ました。 「……ぁ」  今のはいったい、何なのか……理解が追いつかず茫と頭をもたげるが、目に映る光景も夢のそれと大差ない。  すなわち、一種の非現実。巨大な城で人型の獣と影絵に拝謁したのも突飛ならば、今の状況も充分すぎるほど現実からずれていた。 「お目覚めかな、気分はどうだ」 「――――」  黒円卓六位の席。そこに座らされていた自分も、今声をかけてきた存在も。  反射的に振り向くが、同時に激痛が全身を走り、玲愛は小さく呻いていた。 「無理をしないほうがいい。昨晩開いたスワスチカは一気に三つ、御身に掛かった負担は相当だろう。私も女だ、察しがつかぬわけでもない」 「…………」  そう、この痛み、この倦怠感、決して男には分からない。  玲愛自身初体験の感覚だったが、本能的にこれが何かは理解できる。女なら、おそらく誰もがそうだろう。  つまり産みの苦しみ、陣痛だ。 「あなたは……」 「ああ、初めましてになるのかな。エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ。ブレンナーとは旧知だ、楽にされよ。 拝顔の栄に浴し光栄だ。よければお近づきの印がてら、雑談でもしないかね」  玲愛から見て、二つ間を取った左側の席に、彼女は腰掛け笑っていた。慇懃な様子で細葉巻を咥え、紫煙をくゆらせつつ目を細めている。  そのいがらっぽい匂いが鼻につき、玲愛は噎せた。 「失礼。配慮が足りなかったか。これは癖でね、悪意はないのだ。謝罪しよう。 煙が好きな性分なんだ。火種から立ち上る煙をね、見て吸って嗅ぐと落ち着く。説明できぬが、嗜好品とは概してそういうものだろう」  言いながら、エレオノーレは咥えた葉巻を揉み消した。戦場の追憶にでも浸っているのか、漂う紫煙を愛しげに眺めている。  そうか、あの後……礼拝堂の修羅場に巻き込まれて昏倒した自分を、彼女がここに連れて来たのか。〈白化〉《シュライバー》に比べれば話が通じそうな相手だし、こうして向かい合っても身の危険は感じない。  雑談しようと、そう持ちかけてきたことにも他意はおそらくないだろう。  だけど…… 「ともかく、御身に大事がないようで結構だよ。礼儀を知らん輩どもにぞんざいな扱いを受けたのだろうが、玉体を安んじ奉るのは、近衛である〈大隊長〉《われわれ》の最重要任務だ。以降あなたに、毛筋ほどの危害も加えさせん。 ゆえ、安堵されよ。私はあなたの味方だ、テレジア」 「味方……?」  それは額面通りに受け取れない。裏の意味を含む言葉だった。友好的な態度も労わりも、氷室玲愛個人に向けられたものではない。  下腹の疼きはなおも消えず、臨月に入った妊婦のように身体が重く鈍っている。自力で立ち上がることさえ出来るかどうか……  そう、先ほど彼女が言った玉体とは、これのこと。 「あなたが大事なのは、“ここ”から出てくるものでしょう」  この身が遠からず産み落とす存在。それを宿す“容れ物”として今は丁重に扱っているだけだ。母体を食い破って誕生するモノこそが、真の玉体。  痛みに耐えながら睨む玲愛に、エレオノーレは失笑した。 「なるほど、面影がある。そういう顔はイザークとだぶるよ」 「どうも昔から、女子供には徹底的に嫌われる星回りらしい。彼も私に懐いてはくれなかったが、あなたも私がお嫌いかな?」 「…………」 「だが結構。そうした者に好かれるのは、下種か愚物と古今相場が決まっている。クリストフにブレンナー、あれらがいい例だろう。 戯れに尋ねるが、彼らは善き父、善き母だったか? あなたは何を聞き、何を知り、何を思って今このときを迎えている?」  問いに、玲愛は無言となる。答えられないわけではない。  ヴァレリア・トリファにリザ・ブレンナー、彼らに何を聞いたかと言われれば何も聞いていない。  あの二人は自分に何も教えなかった。真意は各々異なるだろうが、今日に繋がる何がしかを口にしたことは一度もない。  しかし、自分が何も知らなかったかと言われればそんなこともなかった。  なぜなら…… 「一切年老いぬ。そんな者と十数年共に過ごし、何ら疑問を持たぬ子供がいるはずなどない。まして……」  異常というものはどうしよもなく感じ取れる。子供であればなおさらに、その手の感受性が鋭敏だ。  日常、顔をあわす存在が、何か常と違うものであると気付けないはずがない。玲愛は学校に通う生活をしていたのだから、〈教会〉《いえ》にいる者がその枠から外れていると、人並みの感性があれば誰でも気付く。当たり前だ。 「決定的な現場も過去に体験したのだろう? キルヒアイゼンが落ちたのは何年前だ? その際、あなたは見ているはず」 「少なくとも、ベイやマレウスとすれ違うくらいはしただろう。当時は幼女だったのかね? あれらは口が軽いから、犬猫の前で雑談でもするような認識のまま、いらぬことを口にしたと容易に想像できてしまうな」  子供の前で、どうせ理解など出来まいと垂れ流される大人の話は、しかし意外なほど記憶されているものなのだ。まして幼ければ幼いほど、それがどんなに突飛なことでも信じてしまう。 「あとは自分で調べたか予想をつけたか、あるいは血の記憶かな? 己が何者であるかというのを朧げにでも、あなたは自覚していたわけだ。たとえ半信半疑であったとしても」  そしてそれは、ここ数日で確信に変わる。 「その上で、上っ面の戯れ事を続けていたのは逃避かな? まあ、そうした心情は理解しよう。私も常識が崩れ去る瞬間というのは過去に経験しているし、否定したい気持ち、分からんでもない」  もしかして、いいやでもそんなこと……あるわけがない、大丈夫と。  なまじ十年以上も平穏が続いたから、ずっと続くのではないかと錯覚していた。ずっと続いてほしかった。 「ゆえに、あれらは下種なのだよ。〈幼気〉《いたいけ》な少女に夢を見せた。脆く儚い、吹けば飛ぶような虚飾と欺瞞に満ちた夢をね。 それを優しさと思ってはいけない。優柔不断な先送りという答えも違う。教えようか、テレジア」  俯いて、肩を震わせ、エレオノーレは喉を鳴らす。神父と尼僧の行いを下種と侮蔑しながらも、同時に褒め称えているようだった。 「〈死を想え〉《メメント・モリ》――それが我々とハイドリヒ卿を招く渇望だ。いずれ必ず到来する〈死〉《いま》を自覚すること。それを切実に願うか、避けたいと望むか、何にせよ祈りは絶望の形をしている。そして御存知かな、絶望とは希望が既知でない限り生まれない概念なのだよ。 〈希望〉《ゆめ》は甘かったろう、テレジア。いつか来る今日、それを叩き潰すために下種の戯れ遊びが続いたわけだ。 転機となる第五の開放に際し、クリストフとブレンナーは〈教会〉《ここ》を空けた。なぜか? 無論あなたを独りにするため。孤独も絶望に花を添える演出として望ましい」 「とまあ、如何か? あくまで主観による分析だが、そう外れてはいないと思う。随分と念入りに追い詰められた身として、恨み言のひとつもあるかね?」  エレオノーレの言い様は、笑みを含んでいたが嘲りではなかった。彼女はあくまで事実のみを――少なくともそうだと思っていることを告げただけだ。別に玲愛を嬲って楽しんでいるわけではない。 “これ”はそういう境遇のものなのだから、おまえはそうなのだよと教えただけ。曰く虚飾と欺瞞を排した偽りない現実……彼女が奉ずる美感に従った結果にすぎない。 「リザは……」  だから玲愛は、自分でも驚くほど冷静に口を利けた。先の分析とやらを信じる信じないは別にして、この相手は嘘を言わないと直感していた。 「リザはわたしのお祖母ちゃんなの?」 「正確には曾祖母だ。私もあれとは同年なのでね、そう思うと感慨深いが」 「イザークっていうのは?」 「ブレンナーの息子。つまりあなたの祖父だよ。初代のゾーネンキントと言えばよいかな」 「じゃあ、その人は……」  死んだのか、と問う玲愛に。 「いや。しかし定義が難しいな。どちらとも言える」  含み笑うエレオノーレ。もったいぶっているわけではないだろう。真実“そういうこと”らしい。 「ハイドリヒ卿の創造位階を、我らは“城”と呼んでいる。イザークはそれを永久展開させたのだよ、ベルリンを生贄にしてね」 「時間にも外圧にも崩されない。確固世界として在る以上、当然城は“こちら”とずれる。通常の創造なら、長くとも数時間、その辺りが限界なのだが、ハイドリヒ卿のそれは六十年間消えていない。今や完全に一つの異界だ。 イザークの魂、その核は城にあるが、抜け殻はすでに死んだ。つまり――」  言葉を切って、エレオノーレは片眉をあげる。無言のまま蒼白の玲愛を見て、まあどうでもいいことだと肩をすくめた。 「何にせよ、心安らかにその時を待てばいい。溢れ流れ〈出〉《いず》るハイドリヒ卿の〈新世界〉《ヴェルトール》と一つになるのは天上の祝福だ。皆、そこで永遠に生きる」  永遠に殺し合いながら永劫に〈愛し〉《もとめ》合う。  修羅道――〈至高天〉《グラズヘイム》の〈楽園〉《ヴァルハラ》。  淡々と、だが誇らしげに、〈赤騎士〉《ルベド》は主の世界をそう評した。 「この国、この時代の感性では理解できんか?」  それは戦奴の誉れ。死生観の一つとして確かに存在する概念だったが、エレオノーレが言うように玲愛は理解することが出来ない。 「私は私なりに、同胞を愛しているよ。好き嫌いの別はあるがね。 ブレンナーを殺した私も、ベイを殺したシュライバーも、殺意の根源は彼らを〈永久〉《とわ》の朋友と認めているがゆえのことだ。スワスチカに飲まれた魂は黄金錬成の触媒として、〈城〉《ヴァルハラ》に召しあげられる」 「愛も殺意も友情も、敬意も敵意も総て等価に。元来、〈我々〉《エインフェリア》とはそういうものだ。殺し殺され、蘇りまた殺し合う。共に億万の戦場を黄昏の果てまで駆けるため、比べ合うのだ、その魂を。 もっとも、第八開放まで勝ち残れなかった彼らは、我々と同格には成れぬがね。少なくとも最初は、城に溢れる有象無象と同じ立場からのし上がらなければならん。 ゆえに願うよ。ブレンナーとは馬が合わんが、あれと喧嘩が出来ぬ生もまた虚しい。再び私に食いかかって来る日を待ちたいと、今はそんな風に思っている」  リザを殺した。一片の容赦もなく徹底的に。  しかし、それが自分の友情だとエレオノーレは独白する。この先何度でも殺したいほど、彼女のことを思っていると。 「そして、仮にそれが叶わずとも、部下として、従者として、その魂を所有しよう。一種、究極的な愛ではないかな。あなたもそうしてやればよい。 手に入れたい他者はいないか? 誰にも渡したくない想い人は? テレジア、あなたは来たる〈地獄〉《ヴァルハラ》の流出に何を願う?」 「私は……」  直前、夢に見た光景が脳裏を過ぎった。  自分が欲しいもの。自分が寄る辺としたいもの。  世界が壊れる前の世界。それは虚飾に満ちたものだったけど、今ではあの日々が何より恋しい。  楽しかったのは嘘じゃない。大好きだったのも真実。いつか壊れるかもしれないと思っていたって、ああやっぱりと諦観できるはずがないだろう。  自分に〈楽園〉《ヴァルハラ》なんてものがあるなら、それは間違いなくあの場所で…… 「物語の佳境には、典型というものがある。王道、ゆえに外さないもの」  自問する玲愛を余所に、エレオノーレは宙を見上げて独り言のように呟いていた。 「軟禁された姫に、それを囲う城壁と番人。難攻不落でありながら、その障害を突破しようと英雄は奮闘する。 もしも件の少年が〈教会〉《ここ》に来るなら、我らは総力をあげて迎撃しなければならないだろう。まあ……。 〈姫〉《 、》〈は〉《 、》〈消〉《 、》〈耗〉《 、》〈著〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》、〈見〉《 、》〈張〉《 、》〈り〉《 、》〈役〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈必〉《 、》〈要〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈放〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈問〉《 、》〈題〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》」 「…………」  それに、玲愛は言葉をなくした。口舌の弾丸で心臓を撃ち抜かれたように、呼吸も忘れて茫然とする。  今のは、つまり…… 「〈あ〉《 、》〈あ〉《 、》、〈せ〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈ク〉《 、》〈リ〉《 、》〈ス〉《 、》〈ト〉《 、》〈フ〉《 、》〈が〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈場〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》、〈奴〉《 、》〈に〉《 、》〈守〉《 、》〈り〉《 、》〈を〉《 、》〈任〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈が〉《 、》〈ね〉《 、》。 〈や〉《 、》〈れ〉《 、》〈や〉《 、》〈れ〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈非〉《 、》〈常〉《 、》〈時〉《 、》〈に〉《 、》、〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈で〉《 、》〈油〉《 、》〈を〉《 、》〈売〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》」  笑いながら、エレオノーレの姿が薄れていく。硬直する玲愛に流し目を向けると、終始一貫していた慇懃無礼さで締めくくった。 「ともあれ、中々有意義な時間だったよ。私だけが喋り続けたようで、些か心苦しいがね。 御身に幸あれ、ゾーネンキント。遠くない未来、〈城〉《ヴァルハラ》で皆と語り明かそうではないか。 ふふ、ふははははは……」  そして、まさしく煙のように掻き消える。後には低い苦笑の余韻が、闇に木霊するだけだった。 「わた、し……」  どうする? いったいどうすればいい?  明らかに誘われている。そうするように煽られている。  だけどそれは、こちらの行動を少なからず看過するという事に他ならず…… 「ぁ……くっ…」  震える手で肘掛けを掴み、渾身の力をこめて重い身体を立ち上がらせた。 「うご、ける……」  大丈夫だ、まだ動ける。まだ歩ける。  私はまだ私でいられる。  だけど…… 「藤井、くん……」  逢いたい。キミに逢いたいよ。  王子様を待つお姫様なんて、そんな役になってみたい。キミに助け出される時を夢見て、ここに大人しく繋がれたヒロインになりたい。  けど。 「来ちゃ駄目、死んじゃう」  黄金の近衛三人、不死身の〈大隊長〉《エインフェリア》を一気に連破なんて出来るわけない。私がここにいる限り、あの子馬鹿だから助けに来ちゃう。そんなの駄目。  逢いたいけど。  逢いたくて縋りたくて抱いてほしくて大好き――好きなの。  だから藤井君、死んじゃやだ…… 「……ごめんね、ほんとにごめんなさい」  涙が零れる。失恋と言えば失恋だが、こんな屈折したパターンはきっとそんなにないだろう。  でも、みんなきっとこうするんじゃないのかな。別におかしなことじゃないよね、たぶん。  自分がここを出て行けば、おそらく大隊長は分断される。自分を泳がせ、誰かを釣る気だ。間違いない。  それはきっとヴァレリア・トリファ。 「だから、もうキミには逢えない」  私がいる場所、以降そこがもっとも最悪な修羅場になる。キミのところにはいけないよ。  ただ、その代わり、キミの面影を感じられるあの場所だけは私にちょうだい。  最後に日向の思い出を抱きしめて、全部終わりにしたいから……  身を引きずるように玲愛は歩く。身体は重いが、急がなければならない。  自分が蓮を避ける以上、今や三つの核爆弾を引き連れているゾーネンキントに執着するのは一人だけだ。それで彼がどうなるかは分からないが、少なくとも蓮の危険は軽減できる。  リザ……色々言いたいことも聞きたいこともあるんだけど、あなたとも再会しないほうがいいんだよね。分かってる。  ただ、今になって一つだけ疑問があるの。 「どうして私、あなたに比べてあの人が苦手なんだろう」  思えばずっとそうだった。偽りのごっこであっても家族同然にすごした仲だし、二人が自分に接する態度もそう差があったわけじゃない。  良くも悪くも、あらゆる意味で彼らは両親の代わりだった。なのになぜか、片方にだけ、どうしても気を許せないし馴染めない。  それは別に、彼が十一年間音信不通だったからというわけじゃなく、根本的にあの神父が苦手なのだ。リザとは何かが違って見える。  単純な好悪じゃない。それを言うならリザにだって、そんな二元論で割り切れない感情がある。  だけど確実に言えることは、たとえ藤井君を生かすためでもリザが相手ならこんな真似は出来ないということ。  殺すことが愛だなんて言い切る存在と、進んで鉢合わせようとするなんて……  私はどうして、あの人にだけはこれほど冷徹になれるのか。  特にこれといった恨みもないのに。  それどころか、リザより彼のほうが私を大事にしてくれるのに。  なぜ? どうして? 分からない。 「父親って、何……?」  知らず、そんな言葉が漏れ落ちていた。  父はたいした理由もなく疎まれてぞんざいに扱われると、そういう話を聞いたことならあるけれど。  これは、そういう次元なのか? そもそも、彼は別に父なんかじゃないし。  いや、待て。 「そうだ……」  なぜ見落としていたのか分からない、些細な陥穽に気がついた。  リザが私の曾祖母なら、曽祖父はいったい誰?  夢に見たイザークという名の子供……彼の父親は誰なんだ?  瞬間、フラッシュバックが玲愛を襲った。 “どちらが私の父様なのです?” 「―――――」  仰け反って倒れかかる。あまりにおぞましい連想が脳裏を過ぎり、それを破壊しようと壁に頭を叩きつけた。 「ぁ――――」  違う。違う違う、そんなことない! 「違うよねリザ……違うと言ってよ、ねえ」  膝から崩れ落ちそうになる。ばらばらに砕け散って戻れなくなりそうだ。  恐慌に乱反射する思考の欠片が、さらに一つの記憶を照らし出した。  あのとき――夢の中でイザークとなった自分が門を潜ったとき、そこには黒円卓十三騎士が総て揃っていたということ。  玉座には獣と水星。向かって右にはマキナ、ベイ、シュライバー、シュピーネ、そしてトバルカイン。  左は先ほどまでここにいたザミエルと、十一年前に死んだヴァルキュリア。リザもいたし、マレウスもいた。  そこに〈私〉《イザーク》を足して十二人。ならあと一人は、いったい誰だ? 「あなたにこれから、三つほどこの場における処世術を教えましょう」  そう言って、〈私〉《イザーク》の手を引いていたあの男は誰だろう? まったく全然見覚えがない。  だから名前も知らない〈僧〉《 、》〈衣〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》と、〈私〉《イザーク》は表現していた。私もそう流していた。  あれが彼か? 彼なのか? なぜどうして顔が違う?  黒円卓第三位、〈聖餐杯〉《クリストフ》とは何者なんだ? 「ぁ、あ……くっ…」  悪寒と頭痛に耐えかねて、玲愛は掴んだ髪を引きむしる。額を血が流れ落ちた。 「この、中に……」  〈血〉《こ》の中に、悪魔の遺伝子が入っている。証拠はないし推論だが、そう考えれば総て辻褄が合ってしまう。 「私、生きてちゃ駄目だ……」  改めてそう思う。だけどその渇望は〈死を想え〉《メメント・モリ》で――悪魔を呼び戻す座右の銘で。 「あ、ぁ…うっ、あぁぁ……」  絶望の嗚咽が漏れ出ていた。何をどうしてどうやっても、カール・クラフトの〈黄金錬成〉《アルスマグナ》から逃げられない。  だけど、いいやだからこそ――私は彼に問わなければならなくて…… 「ぅ……っく、ぅ……」  小さくしゃくりあげながら、玲愛は黒円卓の間を後にした。  全部無駄になるかもしれないし、私じゃ何も出来ないかもしれない。  でも、このままここで座り込むことだけは選べなかった。  たとえ何がどうなっても、藤井君に生きてほしいと願う気持ちだけは譲れないから。  ふらつきつつ、石造りの廊下を歩く自分に〈既知感〉《デジャヴ》を覚える。  確かあのときは腹立たしくて堪らなかったリザの気配が、今は何も感じられない。  それが、ただどうしようもなく遣る瀬なくて、切なくて……  彼女が私を捧げて得ようと願った反魂も、頭から否定する気にはなれなかった。 「――で、だからどうだってんだよ、おまえ」 身支度を済ませてクラブを出た後、俺が投げた質問に司狼は顔を曇らせた。 「エリーを生き返らす気はないのかって? 生き返らすも何もあいつ死んでねーよ。勝手に殺すな」 「だいたいそれを言うならおまえだって、つーか、あーもういいやメンドくせえ」 つまり、もう昨晩の話だが、司狼が神父を泳がせるように誘導したのは、本城を生き返らせるのが目的なんじゃないのかと。 そう考えたから言ってみたが、こいつは言下に否定した。 流石に下種の勘繰りすぎたか、これは。 「悪い、本城生きてるのか」 「ああ。失礼なやっちゃな、おまえ」 「だから、悪かったって」 あいつの死を俺は目撃したわけじゃない。少なからず驚きだったが、生きているならそれはめでたいことだろう。先入観でものを言うべきじゃなかったか。 「どっかに入院でもしてるのか? 病院は……あれだから、おまえらみたいなのが贔屓にしてる闇医者とか、そういうののとこで」 「んー、まあ安全なとこで寝てるよ。全部片がついたら会わせっから」 「そうか…」 そうだな。全部片がついたらか。 だったら本城も、そのとき誘うべきだろう。鬱陶しがられそうだが、祝い事は大勢でやったほうがいい。 「なあマリィ、屋上での打ち上げは本城も入れて六人だ。いいだろ?」 「え? あ、ぁ、うん……」 「……?」 どうしたんだ? きょとんとして。 「あの、シロウ……彼女は」 「オーケー、なんか分からんけど屋上だな? 覚えとくよ、伝えとこう」 「やっぱあれかね、雰囲気出すならオレらも制服着たほうがいいんかな。コスプレパーティみたいになっちまうけど」 「なあマリィちゃん、制服持ってる? ないならエリーに調達頼むぞ」 「あ、それは平気。一応、カスミに借りてるの。勝手にだけど」 「そう。んじゃいっか。あいつは家で寝てんだろ?」 「ああ、今はずっと寝ててほしいな。様子見に行きたいけど、俺らが近づいたら逆に危ない」 「だなあ。あれは放っときゃいいだろう。下手に起こせば説教うるせーし」 「好き好んであれに何かするようなメリットも、あちらさんには全然ないしな」 「そういうことだ」 香純は俺たちと切り離すのが一番安全。その考えに異論はない。 積もる説教は全部終わった後にまとめて聞こう。司狼も連座になるのなら、それはそれで笑えるイベントかもしれない。 「じゃあ、あとは先輩だけか」 そうなる。そしてそれが、現状一番の難関だった。 「おまえ、復活したのは教会でだったんだろ? なんでそのとき……」 「気付かなかったんだよ、それどころじゃなかったし」 「つーか、気付いててもありゃ無理だ。あんときのオレが、あのガキ突破しようなんて真似してたら秒殺だろうぜ。今頃ここに立ってねえよ」 「…………」 「まあ、不細工なことになってんのは認めるさ。同じ場所に行って帰ってまた行って……締まらねえよな、自覚してるよ」 と、自嘲気味に司狼はこぼす。 ウォルフガング・シュライバー、まだ俺は直接会っていないが、こいつがここまで言うなら相当だろう。それにマキナとエレオノーレ…… 今さら言うまでもなく、奴らが守る教会は死地に等しい。だからこそ万全の態勢で臨まなければならず、たとえ些細なことでも不如意があってはならない。 「おまえ、回復したのか?」 「まあ、大分ね。クラブで休むのは今のオレにとって効率がいいみたいだわ」 ボトムレスピットを潰したのはルサルカだから、あいつが開いたスワスチカは今の司狼にプラスの補正を掛けるのだろう。素直に喜ぶことは出来ないが、現状、背に腹は変えられない。 「おまえらは?」 「問題ない」 「うん、大丈夫」 マリィと目を合わせて、共に微笑む。若干気恥ずかしい感覚だが、今の俺たちは心身ともに充実していた。 ゆえに、他にも出来るだけ不確定要素を摘み取らなければならないと思う。今から勝負をかけるにあたり、どう動くか分からない奴の存在を無視できない。 司狼は肝が小さいと笑うだろうが…… 「途中、公園に寄ろう。どうしても気になる」 櫻井――つまりあいつが、今夜をどう捉えているのか。 あいつとやり合って無駄な消耗をする気はないが、何にせよ神父よりは御しやすいはずだろう。 櫻井の行動を把握して、そこからヴァレリア・トリファをたとえ一端でも予測できれば損はない。 そう思い、立ち寄った公園には、しかし誰もいなかった。 「あいつ……」 何処に行った? 何をしている? しかもカインまで行方が知れない。 「もしかして、七番目を取りに行ったのか?」 「どうやってだよ。無理だろ」 司狼の指摘は正確だった。それは確かに、その通り。 「今の学校には誰もいないし……」 「タワーだって閑古鳥が鳴いてるはずだぜ」 つまり残るスワスチカには、現状、捧げるべき生贄がいない。 病院爆破と遊園地破壊の影響で、今夜の諏訪原市は人通りがほぼ絶えていた。ここに来るまで街の様子を見てきた限り、少なくとも呑気に遊んでるような奴らはほとんどいなかったと言っていい。 深夜の学校がもぬけの空なのは言うまでもなく、タワーのような場所が人で溢れている確率はかなり低いはずだろう。 ならば、それらは強者同士の殺し合いで開くしか道がなく、人柱となる敗者が要る。 神父と俺たちが先輩奪還の共同戦線を張る以上、櫻井が単独で第七を取るのは不可能なはずなんだが…… 「いったい、どういう……」 嫌な予感がする。 俺たちはもしかして、何か重大な見落としをしているのではと…… そんな不安が、細波のように胸中広がり始めていた。  ゆえに同刻――錯綜する個々の思惑は絡み合い、事態は混迷の度合いを深めていく。  まず特筆すべきは、聖餐杯の悪辣さ。彼は一言も己が教会に行くとは言っていない。  要は今夜、蓮たちがそこを攻めることによって、大隊長三人の目が玲愛から外れ得る状況を可能性として生み出すこと。  その隙が――非常に低確率だが発生することに総てを賭けた。たとえあちらが意図的にそうしたとしても構わない。  大事なのは、そのとき玲愛が自主的に教会を出ること。その行き先を誘導すること。  仕込みは二重に張っていた。  まず第一は、戯言めかしてリザの死と“その場所”を直結させるよう玲愛の意識に刷り込んだこと。  そして第二は、母を飲み込んだ後に寄る辺を問えと、過去のイザークに言ったこと。  リザ・ブレンナーが死んだ後、ゾーネンキントがどう動くかを六十年前から誘導していた。  ゆえに今、ヴァレリア・トリファはここにいる。  学校……そうだ、砕け散った〈日向〉《にちじょう》に縋るなら、それは絶対不可避の引力となって〈玲愛〉《かのじょ》をここへ呼び寄せる。  であれば、まさに一石二鳥。蓮には教えず、螢も知らず、ルサルカの情報を得た司狼でさえも知らなかった事実がある。  ヴァレリア・トリファとリザ・ブレンナーのみが共有した秘事。  もう一人のゾーネンキントが何者で何処にいるのか……それを調べさせたシュピーネを最初の生贄として排除した今、このことを知っているのはトリファしかいない。  再度言う。特筆すべきは聖餐杯の悪辣さ。今、彼の手元に綾瀬香純が在る状況は、誰の落ち度でもないだろう。  トリファの読み勝ちであり誘い勝ち。謀り勝ちであり逃げ勝ちだ。  なぜなら、ここで止めとなる一石三鳥。 「ああ、待っていましたよ、レオンハルト」  今夜彼は、玉の奪取と共に第七のスワスチカを手中に収める腹なのだから。 「…………」  やって来た夜の学校……その屋上で対峙した神父に目を向け、螢は当惑を禁じ得ない。  誘い出されたかもしれないのは自覚していた。彼の居場所が教会でなくここであると分かったとき、自分を第七の人柱にする気なのではと薄々だが察していた。  しかし…… 「なぜ、彼女がそこにいるのです猊下」  神父の後方、ベンチに寝かされているのは紛れもなく綾瀬香純だ。なぜ彼女がここにいる? まるで意味が分からない。 「あなたには関係ないことですよ。旧友の名誉に関わることですから、べらべらと語るわけにもいきません」 「旧友? それはバビロンですか?」 「さて。それはともかく、よくここが分かりましたね。逃げ回るのは得意だと自負していた身なのですが」 「…………」  問いに、神父は答えない。それどころか、逆に問い返してくる始末。  教える気はないというのか。教えても無駄だと言いたいのか…… 「藤井さん達までこちらに来られては困りますからねえ。それ相応にこそこそと動きましたが、なぜ見つかってしまったのでしょう。真に不思議だ」 「……もう、おとぼけはいいでしょう」  うんざりと嘆息し、螢は懐から“それ”を取り出すと掲げてみせた。青い闇色の仮面が月光に映える。 「ほう、〈青褪めた死面〉《パッリダ・モルス》……」 「〈バビロン〉《かのじょ》が……いや、〈カイン〉《かれ》ですか。 教えてくれましたよ、あなたの匂いを」 「今、カインはその中ですか?」 「……ええ、元々他人の聖遺物、まともに使えなどしませんが。 彼を御するという意味だけでなら話は別です。“血族”ですからね、出し入れくらいなら出来ますよ。 その上で問いたい、猊下。なぜ彼は怒り狂っているのです?」  螢が取り出した屍兵の仮面……リザ・ブレンナーの聖遺物は小刻みに震えていた。持ち主が死んだことですでにひび割れ、崩れ落ちる寸前だが、不吉な音を立てて鳴いている。  螢の手が震えているわけではない。仮面が――いや正確にはその中身が、憤怒に猛り狂っているのだ。 「正直、抑えるのが辛いです。ここから出せ、殺させろと、あなたに対して彼は激昂していますよ。まるで意味が分かりません。 トバルカインはそれ単体では動けない。彼はそういうもののはずだ。 なのに―― なぜ彼は自我めいたものを持ち、それがあなたに対する憎悪なのです。答えてください」 「ふむ……」  問いに、トリファは顎を揉みつつ目を細める。次いで、何かを確かめるように螢の台詞を鸚鵡返した。 「なぜ彼は自我めいたものを持ち……彼、彼、彼ですか……それは彼女だからじゃないですか?」 「バビロンのプログラム云々なんて信じない。私には分かる! これは彼だ、彼の〈魂〉《こころ》だ! 私を馬鹿にするな、聖餐杯!」  怒声は、哀絶の叫びに似ていた。先ほどからの人を食った神父の態度に、もはや目上への礼節など吹き飛んでいる。  いいやそもそも最初から、螢は目の前の男を敬ってなどいない。  その性根もその性質も、声も姿も何もかも、心底嫌いでおぞましい。これまで慇懃に徹していたのは、それが逆恨みにすぎないという認識からの自戒。  熱は内面にだけという己が〈誓い〉《ルール》に則って、表面上取り繕っていた、ただの仮面だ。 「なぜ、彼があなたを憎悪している? あなたは彼に何をしたッ!?」 「ですから、彼女だと言っているのに」 「まだそんなことを――」  言うのかと、吼えかけて、しかし瞬間、螢は息を飲んでいた。 「私が憎いですか、レオンハルト」 「―――――」  断言して、聖餐杯に変化はない。変化はないのに―― 「憎悪結構。何かを成すにあたり、実に効率のよい燃料だ。愛などより、よほど信に足りる。 ああ、分かりますよ。私も六十年憎悪の虜だ。赦せないのですよ、私が、私自身のことを」  これまで緩く穏やかに、柔和な物腰を貫いていたヴァレリア・トリファ……声も態度もそのままに、しかし何かが決定的に違っていた。 「ゆえに罰。私は永劫苦しまねばならない。救いなど要らぬ。祝福は遠ざかっていけばいい。たった独り、何処までも、歩き続けるのだ、永遠に」 「あなたの? 彼の? 彼女の憎悪? 断罪? 笑止。私が科す私への罰。それに勝るものなどない」  剥げ落ちる。そう表現するべきだろう。仮面を被っていたのは、螢だけではなかった。  おそらくは、他の誰も見たことがないだろうヴァレリア・トリファという男の地金。それが今、確実に晒されようとしているが、にも関わらずその印象は正体不明という不条理だ。  何を言っているのか分からない。何をやろうとしているのか分からない。怒気も殺気もまるでないのに、対峙しているだけで吐き気を催す。その渇望が腐臭を垂れ流していることだけは理解できる。  これは駄目だ。壊れているし終わっている。螢の第六感が告げていた。  怖い――ヴァレリア・トリファという歪みが怖い。  これを理解しようとすれば飲み込まれる。バビロンのように。  いや、あるいは、私の大事なあの人達も……? 「うッ、ああああああぁァッ――!」  瞬間、絶叫と共に螢は目の前の〈不条理〉《かいぶつ》に駆けていた。 「言ったでしょう、聖餐杯は壊れない」  渾身の一撃だった。手加減などしていなかった。恐慌に衝き動かされた一撃は、型として滅茶苦茶だったが威力だけは最大最高、本気だったはずである。  だというのに―― 「あなた達ごときが万人集まってきたところで、私を断罪など出来はしない」  無傷。またしてもまったく無傷。不滅の聖餐杯は崩れない。 「あなたは、いったい……」 「ただの負け犬。臆病者の末路ですよ」 「ぐッ、はあァッ――」  鳩尾に掌底を叩き込まれ、螢は弾き飛ばされた。 「私は強くなりたかった」  膝立ちで呻く螢を見下ろしつつ、トリファは両手を広げて低く呟く。  誰にともなく、嘆くように、懺悔めいた独り言を。 「私は弱い。心も身体も魂も、矮小でくだらなく、程度の低い凡俗だ」 「なぜ失ってしまうのだろう。なぜ守ることが出来ないのだろう。なぜ、なぜなぜ……答えは自明だ、その卑小さゆえに。 人は持って生まれた器に従い、掬い取れる絶対量が決まっている。私の掌で掬えるものはあまりに少なく、またいとも容易く外圧で崩される。 ではどうすればいい? 零れ落ちた何がしかを、己が未熟さを盾に見捨てるのか? それが神たるモノの思し召しか? 否――断じて否! 認めぬ、赦さぬ、私は微塵も納得せぬ! 強くなりたい。より大きく、より堅固な、絶対に壊されぬ器が欲しい。それさえあれば何度でも、何度でも何度でも掬ってみせよう。誰も零さぬ、見捨てはしない! 私が知る最強にして完全なる〈黄金〉《うつわ》。聖餐杯は私の〈呪い〉《ねがい》だ。永劫、永遠に掬い続けていくための」 「〈永久〉《とわ》に償い続けるための」  螢には神父の言っていることが分からない。  いや、分かるような気がするが、分かってはいけないと誰かが強く言っている。  何か……この男が言っていることはどうしようもなく破綻しているような気がしていて。 「あなたは、何を救う気なのです……?」 「無論、総てを」  だから、それ以上喋らせてはいけないと直感した。 「己に問えと、私はあなたに言いました」  しかし、螢の全身全霊は、彼の口を噤ませられない。 「愛しい者を取り返したい。その手に抱かれて、抱きしめたい。 ああ、実にそれこそ人間。何かを得るため、何かを切る」  振り下ろした一撃も、薙ぎ払った一閃も、抉り貫く一刺しも――なぜだ、どうして弾かれる。  敵はただ立っているだけ。無防備に身体を晒している丸腰なのに。 「その選択に迷い、悩み、揺れに揺れ、狂おしいほど葛藤する愛。 愚劣さ、愚鈍さ、愚直さを――信じ、崇めて、ひた走る。 結果得られる〈祝福〉《ヴァルハラ》は、安息の陽だまりでなければ意味がない。修羅道の果てが地獄道など、いったい誰が認めるという」  そうだ、私が欲しいのは陽だまりの夢。そこで笑い合う至福の永遠。  たとえ誰かの〈日向〉《ユメ》を血の暗黒に沈めようとも、自分は自分の〈幸せ〉《ヴァルハラ》が欲しい。  詫びない。そして省みない。だってこれは戦いだから。それを勝ち取るためにみんな命を懸けているから。  私が勝つために踏み潰す何処かの誰か……彼らに感情移入をしたら負ける。  負けられないのだ、私は私が欲しいものを得るために。 「はああああああぁぁァッ―――」  だけど、だけど、どうしてなの? どうして私の剣はこんなに無力。  想いが足りない? 覚悟が甘い? いいやそんなの認めない。  私は色々零して、色々捨てて、不退転の決意を胸に立っている。  ボタンを掛け違えた過去。二度と交わらないだろう世界。夢にまで見た一学生としての〈櫻井螢〉《じぶん》なんて、もう要らないから彼らだけでも返してよ――! 「その願い、胸に迫るほど理解できる」  私とあなたの、いったい何が違うと言うの。  いったい何処に差があると言うの。  あなたも零れ落ちたものを求めて、殺戮の地平を駆ける人でなしじゃない!  だから、最悪でも互角。そうじゃないとおかしい。  私が、私があなたに劣るところなんて―― 「だが――」  もはや都合何撃目になるか分からない剣を無造作に受け止めて、トリファは低く呟いていた。  自分と相手、彼我絶対の隔絶、その差を。 「己も救われようなどと、戯けた夢を見てはいけない」 「―――――」  それは、総ての救済を否定する声だった。  拒絶する祈りだった。  彼は、トリファは、己に如何なる安らぎさえも赦していない。 「過去に失った想い人……その幸せを願う。結構。素晴らしい。ならばなぜ純粋に、彼らのことだけを想わない」 「自己愛から得られる祝福などありません。よろしいかレオンハルト、あなたは彼らと共に在る己の幸せを追っているだけだ。 ならば、鏡を抱擁でもすればよいだけでしょう」 「―――ッ」  咄嗟に、螢はトリファの腹を蹴り上げていた。相手は一歩も動かなかったが、反動で自分が弾かれ、ともかく距離を取ることだけは成功する。  そんな彼女に、神父は痛ましげな目を向けながら言葉を継いだ。 「己のみを愛してほしい。己のみが幸せになりたい。その自己愛性人格、否定できますまい」 「――違う!」  断じて、違うと、そんなこと……言いたいが、しかし…… 「私は、私は……」 「別に殊更責めているわけではありません。人とは元来、そういうものだ」  笑っているあの人が好き。それを見る自分が幸せ。結局動機はそんなもので、煎じ詰めれば自分のためだと言っていい。  だが、それは悪いことか?  責めはしないと言いつつも、そんな見下されるようなことなのか? 「あなたはあなた自身が救われるために、屍山血河を駆け抜けた。顧みなさい、その身は血と絶望に汚れている。 〈自己〉《かがみ》を愛したあなたは、そこに映った〈自分〉《しゅら》しか得られない。帰ってくるのは、今のあなたとまったく同じ戦争の怪物だけだ。永劫に殺戮の地平を駆ける〈戦争奴隷〉《エインフェリア》」 「さしずめ、あなたは〈死神〉《ヴァルキュリア》だな。それが救済と信じて、愛しい騎士達を終わらない戦争に駆り立てる。ハイドリヒ卿の〈城〉《ヴァルハラ》に召し上げ、地獄に繋ぐ。 要はそういうことですよ。私に言わせれば、救いようがない」 「ッ――」  何かが分かりかけていた。しかし理解を拒んでいた。  彼の言うことはとても不吉で、度し難くて、だけど無視するのも危険すぎて―― 「私は違う。〈地獄〉《ヴァルハラ》の流出など起こさせない。 この〈聖餐杯〉《うつわ》のみを頼りに、不死創造という黄金だけを掠め取り続けてみせましょう。 〈さらば、眠りなさい〉《アウフ・ヴィーターゼン》レオンハルト。あなたもいずれ、次かその次には救うと約束いたしますよ」  夜気が鳴動して唸りをあげる。これまで積極的な攻勢に出なかった邪なる聖者が、今ここにその剣を抜こうとしている。 「――――」  螢は動けない。肉体的ダメージは無いに等しく、精神も混乱気味であったが立て直せないというほどでもない。  だが、魂が――彼女の根源に至る本質が、抵抗の無駄を悟っていた。  その溢れ出る極大の神気。自分を貫こうとする何かの顕現に魅入られている。瞬きも出来ない。  傍らで狂ったように震動し続けている〈青い死面〉《デスマスク》も、螢が呼び出さない限り屍兵の動きは封じられていた。  あるいは、面が砕けることで解き放たれるかもしれないが――  遅い。もはや何も間に合わない。 「〈Mein lieber Schwan.〉《親愛なる白鳥よ》 〈dies Horn, dies Schwert, den Ring sollst du ihm geben.〉《この角笛とこの剣と 指輪を彼に与えたまえ》」  その、瞬間だった―― 「――やめてッ!」  切なる叫びが、凍り付いた場の空気を一撃のもとに粉砕していた。 「―――――」  呪縛を解かれた螢は飛び退り、仮面を拾い上げて距離を取る。  危なかった。今、あのまま呆けていたら、間違いなく殺されていただろう。それは絶対の予感だったと言っていい。  爆発寸前の鼓動を抑えて、救い主の方へ目をやる。 「やめてよ、お願いだから……〈学校〉《ここ》でそんなことしないで」  氷室玲愛。なぜ彼女がここにいる? 命を拾った安堵より、螢はその疑問に囚われた。この人は教会に軟禁されているのではなかったのか? 「これはこれは、予想より早かったですねテレジア。一人ですか?」  だが、そんな螢の戸惑いを余所に、神父は優雅に笑っていた。突然の闖入者に、まるで驚いた様子が見えない。 「藤井さん達が随分と頑張ったのか、あるいは……まあいい」 「渡りに船とはこのことだ。出来れば“これ”を、日に何度も使いたくないと思っていたところなのです」 「え……?」 「なッ――」  玲愛は目をむき、同時に螢は絶句した。トリファは出しかけていた物――おそらく彼の奥義――の矛先を、何の躊躇いもなく彼が愛する少女へと向けたのだ。 「〈Dies Horn soll in Gefahr ihm Hilfe schenken,〉《この角笛は危険に際して救いをもたらし》 〈in wildem Kampf dies Schwert ihm Sieg verleiht〉《この剣は恐怖の修羅場で勝利を与える物なれど》」  何が起き、何をされようとしているのか理解できない。殺す気なのか、この神父は―― 「〈doch bei dem Ringe soll er mein gedenken,〉《この指輪はかつておまえを恥辱と苦しみから救い出した》」  神気が増大し、集束しつつ先鋭化していく。謳いあげる詠唱の進行に呼応して、それがトリファの胸前に形を成そうと具現化していく。  本気だ、彼は間違いなく、玲愛に向けてあの光を放とうとしている。  螢は、即座に決断した。 「伏せなさい! 速く!」  彼の意図も、彼の言葉も、胸に渦巻く数多の疑問もどうでもいい。  ただ、分かっていることは一つだけ。氷室玲愛を死なせてはいけない。 「――――ッ」  逡巡は、半ば無理矢理にねじ伏せた。自分が死ぬかもしれない――そんな思考は脇に飛ばして忘却する。  まず何よりも第一に、ゾーネンキントがいなければ黄金錬成は不可能になるという事実のみ。  それだけが、この場における最優先の絶対事項だ。  だから―― 「おおおおぉぉぉォォッ――!」  要らぬ諸々を吹き飛ばす雄叫びと共に、螢はトリファに特攻した。  止めねばならない。防がねば水泡だ。何がどうなってどう転ぼうとも、この男の思惑を完遂させるのは危険極まると直感できる。  間に合え、せめて軌道を逸らすくらいはしなければ――  〈玲愛〉《かのじょ》がこれを躱せるはずない。 「〈der einst auch dich aus Schmach und Not befreit!〉《この私のことをゴットフリートが偲ぶよすがとなればいい》」 「させない、やめろォッ!」  ――だが、結果は今夜何度も繰り返してきたように、螢の渾身など彼の前では何の意味もないものだった。 「〈Briah〉《創造》――」  羽虫を払う程度の挙措さえ見せぬまま、トリファは振り下ろされた一撃をまともに受けて微動だにせず、掠り傷一つ負っていない。  当然、ここに組み上げられた術式は何の妨害もされておらず―― 「〈Vanaheimr〉《神世界へ》――」  彼の〈創造〉《ルール》が発動する。  己が知る最強の存在。二度と失わず無限に掬い続けるために、狂おしく欲した器と力。  黄金たる〈獣〉《モノ》へ変生せんとする渇望こそが彼の世界―― 「〈Goldene Schwan Lohengrin〉《翔けよ黄金化する白鳥の騎士》」 「―――――」  爆風が螢の頬と肩を擦過して突き抜けた。  目に映ったのは輝く黄金光と神気の奔流。  止められないし防げない。今の一撃は自分の常識を遥かに超えて余りある。  神槍――それは運命の、黒円卓の象徴である伝説の聖槍に他ならなかった。 「私は……」  走る黄金の光に晒されて、玲愛は茫然と自失していた。  死ぬの? 殺されるの? 私はここで?  ああ、だったらそれは、それでいいのかもしれないけれど。  ねえ、どうして? 私分からないことが多すぎるよ。  あなたは何を考えて―― 「答えて」  声は叫びというほど激しくなく、願いというほど切実でなく、祈りというほど真摯でもない。  ただ、純粋に疑問だけ。自分が何をされるのか分からないという当惑にのみ染まっていた。 「――心配無用」  ゆえに、時間的には百分の一秒以下。刹那より短い時の中で会話が成立していたのは、共に一切の雑念を排除した無想の境地だったゆえだろう。 「あなたは救われるのだ、テレジア。その忌まわしき〈血継〉《けっけい》をここに絶つ」  走る聖槍。迸る光芒が乙女の子宮を貫かんと空を裂く。  そう、この黄金に燃える穂先が“城”に繋がる〈産道〉《みち》を断ち――  たとえ一瞬、一秒でも、資格を剥奪することによりスワスチカが選ぶ〈母〉《 、》〈体〉《 、》〈の〉《 、》〈順〉《 、》〈序〉《 、》〈が〉《 、》〈次〉《 、》〈に〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》。  それは第五の開放以降にしか意味がない業。後戻りが効かなくなった黄金錬成は、ゆえに致命的な狂いを生む。  王手――今こそ積年の大望にその手を掛けたと、トリファが勝利を確信した瞬間だった。 「くだらん。神父の強姦趣味か、呆れたものだ」  必殺必中の聖槍は、まるで真の持ち主を恐れるかのようにその光を屈折させた。  穂先は玲愛から外れて床を穿ち、光線が校舎を完全に貫通している。  爆砕を意図した一撃ではなかったために対象が消し飛ぶことはなかったが、それでも落雷に等しい轟音と衝撃が辺り一帯に木霊していた。 「そんな……」 「なに……」  だが、少女二人の驚きはその破壊に対するものではない。  槍の一撃をずらしたこと。絶対に逸らせないと思えた光を曲げたこと。  それを成した存在が、残響と粉塵の舞う場に傲然と仁王立ちしていた事実に対して。  癖の強い香りを乗せて紫煙が流れる。業火のような髪をなびかせ、焼け爛れた半顔を不快さに歪める紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》がそこにいる。  焦熱を纏う〈大隊長〉《エインフェリア》は、しかし同時に快哉を叫んでいた。  ここで獅子身中の虫を処刑できる喜びに魂まで打ち震えて。 「馬脚を現したな、下種が。鍍金の剥げた〈代行〉《きさま》など、もはや一片の価値もない。分際を知れよ、劣等。貴様ごとき、どれだけ望もうとハイドリヒ卿にはなれん」 「……まあ、おそらくあなたはお出でになるだろうと思っていましたよ、ザミエル卿」  糾弾する絶対零度の灼熱に、トリファは本心からそう零す。彼はこの状況下でも、まだ計算の内だと言うのだろうか。 「むしろ好都合だ。あなたでも、いいやあなただからこそ私には勝てない」 「ほざけ。貴様は知らんのだよ」  紅蓮の背が朧に揺らめく。陽炎のように、嘲りを乗せて、この不遜な賊を絶望の淵に叩き落してくれると彼女の心情を吐露していた。 「チェス盤でしか物を量れん〈篤学〉《とくがく》気取りが。戦場の駒は桝目通りにしか動けぬものだと、勝手に思っているのだろう。敗因を教えてやる。 貴様は戦士の何たるかを分かっていない。誰が一人で来たと言った」  先の王手を防いだのはキャスリングで、彼女は〈女王〉《クイーン》。その役ではない。  ならば、ここにはもう一人。〈城兵〉《ルーク》が存在するはずなのだ。  その侵攻は強烈無比。正面からぶつかる限りは無敵を誇る移動要塞。  彼の一撃で、今〈僧正〉《ビショップ》は詰む。 「例の小僧を餌にしたつもりだったのだろう?」  不敵に冷笑するエレオノーレ。その背に、彼が、鋼鉄が、漆黒の闘気を纏って現れる。 「共に英雄ならば全力でだ。今の我々が誅するなら、それは貴様のごとき卑賤の鼠がお似合いだということだよ」  ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン。鋼で鎧われた〈黒騎士〉《ニグレド》は、ただ無言のままに〈赤騎士〉《ルベド》の台詞を肯定していた。  そう、共に〈英雄〉《おれ》ならば全力で。  一切の過不足なく、負い目もなく、純粋な戦意のみをぶつけ合おう。  なぜならそれが、俺にとって最後の戦い。  駆け抜けた戦場。辿り着いたと夢想した安息。  この手にしたと信じていた栄光は、次の戦場に臨む起点でしかなかったという愚かしさ。  要らない。もうあれは要らない。  血の赤も、骨の白も、焼け爛れる肉の黒も腹から噴き出る臓腑の灰も。  銃剣の煌き弾丸のメタル。軋む戦車の振動に塹壕の饐えた匂い。  避けられぬなら今一度だけ、また全霊をもって殺戮するしか術はなく。  俺は繰り返す俺を殺さぬ限り終われないのだ。 瞬間、教会が爆発した。 「―――なッ」 「―――ツォッ」 それは礼拝堂に踏み入ったのとまったく同時で、俺達はその破壊に巻き込まれる。 「うッ、うッ、おおおおォォッ――」 爆破の衝撃で吹き飛ばされ、石畳を転がりながら顔を上げた。かなりギリギリのタイミングで、致命的な負傷を避けられたのは僥倖としか言いようがない。 もしかしたら意図的に、それくらいの規模を想定したのではと疑うほどの際どさだった。 ここは敵陣と意識して、最初からマリィを内に戻していたことに安堵する。今の爆発は、誰かを庇いながら凌げるようなものじゃなかった。 が…… 「どういう、ことだ……?」 燃え上がる教会を見上げたまま、事態が掴めず茫然とする。俺達を迎撃しようというのは道理だが、これじゃあ先輩もただじゃすまない。 戦争……この行為も戦争だと言うならいったい何だ? 奴らにとって、今のは何を意味している? 「まさか、〈囮〉《デコイ》か!?」 「だな、スカされた」 傍らの司狼が立ち上がり、眉根にしわを寄せて呟いた。こいつはそんな顔をしながらも、口調は相変わらず何処か面白がっている。 だが、それにイラつきを覚えているような場合じゃない。 「プラス、宣戦布告代わりの示威行動。鬼さんこちらってなもんだ」 「要するに、見透かされたな。腐っても、つーか狂っても〈大隊長〉《しきかん》だね。ここでやり合っても何のメリットもねえって、きっちり弁えてやがる」 俺達にとって、開放済みのスワスチカで奴らの戦力を削るのは大きなプラスだが、連中にとっては何の得にもならない。 だから逃げる。相手にしない。もはや戦場として機能しない陣地などあっさり捨て去り、こちらへの示威としてこれ見よがしに爆破した。 これはつまり、そういうことで。 「もぬけの空だ。先輩もここにゃいねえよ」 「じゃあ、神父は何を……」 「さて、もしかすっとオレら、完全に嵌められたんじゃねえか」 教会決戦という都合のいい展開を意識に刷り込まれて誘導された。この状況ではそんな風に思えてならない。 掌で踊らされたことを自覚して、歯噛みした――そのときだった。 「何だ、あれ……」 焼け落ちて倒壊する教会から、何かが俺達の足元に転がってきた。 炎に包まれたサッカーボール大の物体は、まるで意思を持っているかのようにまっすぐこちらへ向かってくる。 その正体を見咎めて、俺は思わず口を押さえた。 「なッ……」 不快な匂いが鼻につく。焼けるタンパク質と脂肪の匂い…… じゅうじゅうと音を立て、白濁した目でこちらを見上げているのは見知った女の顔だった。 「ルサルカ……」 死んだと聞いた。それは知っていた。しかしこれは、あまりにも…… 嫌な女だったし敵だった。死んでざまあ見ろとまでは思わなかったが、安堵したことは間違いない。こいつは俺にとって、排除すべき障害だった。 けど―― 「仲間なんじゃ、ねえのかよ……」 シスターを殺したエレオノーレ。ルサルカとヴィルヘルムを殺したシュライバー。奴らは何だ? どうしてここまでの真似が出来る。 「やめとけ。どうせ考えても分かんねえよ」 俺だって、分かりたくもない。依然足元で燃え続けているルサルカの生首から目を離せず、見ていると……その口から血泡が溢れ出た。 ゴボゴボと音を鳴らし、焼け爛れていく唇が開閉する。 「こいつ……」 生きているのか、いや違う。 ルサルカは間違いなく死んでいるが、別の誰かがこいつの口を使っているんだ。 つまり、これは…… 「趣味悪ィな、メッセージのつもりかよ」 そういうことで、間違いない。 「Wir sind das Heer vom Hakenkreuz, Hebt hoch die roten Fahnen」 「Der deutschen Arbeit wollenwir Den Weg zur Freiheit bahnen」 壊れたラジオならぬ壊れた人体のパーツを使い、そいつは俺達に歌いかける。 これは何だ? 耳慣れない曲調だが、軍歌か何かのように聞こえる。 「Wir schließen keinen Bruderpakt Mit Roten und mit Welschen」 そこから滲み出る悪意は露骨な嘲笑を含んでおり、俺達を小馬鹿にしているのが容易に分かった。吐き気と共に肌が粟立つような蟻走感が込み上げてくる。 そしてそれは、司狼も同じだったらしい。 「うるせえ」 拳銃の一撃ちで、歌い続けていたルサルカの生首を木っ端微塵に吹き飛ばす。凄惨な絵面だったが、こいつがやらなければ俺がやっていただろう。 それほどに、今の歌声は不快だった。 「こういうことする奴なんだよ。さすがにオレもマジ引くわ」 ウォルフガング・シュライバー。今ので充分すぎるほど理解できた。気が狂ってるどころじゃない。 しかも―― せっかち、だね……最後まで、聞きなよ まだ、メッセージは終わってなかった。千切れ飛んだルサルカの舌が蛭のように蠢いて、その震動を音声に変換していく。 Lust und Liebe…… zu einem Ding macht alle Mühe und Arbeit gering 俺も司狼も、あまりにグロテスクな光景に絶句していた。こいつは、信じられないレベルの下種だ。 聴こえてくるのは、まだ変声期すら迎えていないような〈子供〉《ガキ》の声。 だけど、ここまでおぞましく思える子供の声は、初めて聞いた。 「愛と欲望、そのためなら、たとえ火の中水の中……」 「ああ、つまり、無理も通るってことさ。いいかな?」 「君は女心ってもんを少し勉強するべきだ。避けられてるのを自覚しなよ」 俺が先輩に避けられていると、〈声〉《シュライバー》は嘲り笑いながら指摘する。 馬鹿な、どうして――なぜあの人が俺を避ける? 疑問は、しかしその答えを与えられず。 「それでも追うかい? 追ってくるかい?いいね、おいでよ、一緒に遊ぼう」 「二択だ、そんなに難しくない。今ならまだギリギリで、間に合うかもしれないし助けられるかもしれない」 「させないけどね。近寄ってきたら迎撃するよ。君らまだそんな程度で、ハイドリヒ卿の〈英雄〉《エインフェリア》に立ち向かおうなんて五十年早い」 「さあ、どうするよ? 命懸けて来なよ〈主演〉《ヘルト》。〈副首領〉《クラフト》の脚本通りなら僕らを殺せるんだろ、殺してみろよぉォ」 「僕の頭が切り落とされて、噴き出す血飛沫の音をこの耳に聴かせてくれ。ずっとずっと、僕はずっと、それを待ってたんだ。最高の娯楽だ」 「共に〈城〉《ヴァルハラ》で永遠に殺し合おう。ハイドリヒ卿の〈世界〉《ヴェルトール》で総てを覆い、飲み込もう」 「逃がさないぞ、君ら。だから来いよ、遊んでやる」 「僕は〈白騎士〉《アルベド》――五色の白で」 もはやそこが、俺の我慢の限界だった。 「空白の白だ」 それ以上聞くに耐えず、右手の一閃で足元の肉塊を斬り飛ばした。 「ついでに、面白くねえの白だな」 そして司狼はジッポのオイルを振りまくと、一気に残りの残骸を燃やし尽くす。 それでようやく、この壊れた長広舌を断ち切ることが出来ていた。精神的にひどく疲れる。あれは会話が成立しない類の相手だ。 とはいえ…… 「で、どうするよ?」 「決まってるだろ」 先輩が俺を避けた。助けられることを拒絶した。しかしそれは絶対に、彼女が奴らに屈したからというわけじゃない。 先のシュライバーを体験したことで理解する。あの人は俺達に、あんな連中とぶつかってほしくなかったんだ。自惚れじゃなくそう思う。 「あの電波先輩も、あんな顔して健気じゃねーの。いい女だな」 「ああ、いい女だ」 だから、そんな彼女を死なせてはいけない。男が廃る。 「さっき二択って言ってたな。つーことは」 「学校か、タワーか……」 この状況で、あの人が行きそうな所。俺達にも街の住人にも被害を与えず、その他全員を誘導できるような場所は前者だろう。高確率でそう思う。 「でも……」 同時にこれが、あの人を救う最終チャンスだ。次にスカされたら終わる。 「二手に分かれるか」 言って、司狼は俺にバイクのキーを投げ渡してきた。 「おまえは学校に行けよ。オレはタワーだ、こうなりゃもうしょうがねえ」 戦力分散は愚作だが、絶対にすれ違いを起こせない以上そうするしかない。奴らはそこまで読んでいるのだろう、周到すぎる。 俺は無言で頷くと、司狼のバイクに飛び乗った。 「こかすなよ。ちょっと〈バイク〉《それ》には、ジンクスがあってな」 「夏におまえとバカスミ乗せて海行った帰りに事故ったんだわ。あれ以来、三ケツはしないことにしてる」 「今のおまえは実質二ケツ状態なんだから、それ以上誰も乗せるな。事故るぞ、マジで」 「ああ、そういや確か、そんなこともあったな」 こいつはほぼ無傷状態だったけど、思えば司狼の様子がなんとなく変わってきたのは、あれ以降だった気がする。 「でもそんなこと言ったら、ここに来るまでだって三ケツだろ。俺と、おまえと、マリィで」 「いいんだよ、そりゃあ。とにかく、おまえは学校つくまで彼女以外の奴を乗せんなよ。ほら、急げ」 「…………」 なんだかよく分からない理屈だったが、まあいい、確かに今は急がなくちゃならない。 「じゃあ司狼、無茶すんなよ」 「アホか、今しなくて何時すんだよ」 「……まあ、そりゃ確かに」 その通りだな。 苦笑して、同時にフルスロットル。大排気量の轟音に負けない声で、俺は叫んだ。 「けど死ぬな! 約束しろ!」 「おー、先に死んだ方が負けだもんな」 「全部片付いた後の打ち上げ? 期待してるよ、面白ぇもん見せろ」 「ああ、おまえも一発芸くらい考えとけよ!」 そして俺は司狼と分かれ、バイクを学校に向け走らせる。 死ぬな、諦めるな氷室先輩。絶対俺達が助けてやる。 信用ないし頼りないのは自覚してるが、生憎俺も司狼も女に守られて安心してるような腑抜けじゃないんだ。 それに、俺が行かなければならない理由はもう一つある。 上手く言葉に出来ないが、誰かに呼ばれているような……シュライバーの挑発とは別の次元で、強くそう感じていた。 なぜなら―― 「ねえレン、さっきの気付いてる?」 いつの間にかリアシートに現れていたマリィの声に、無言で頷く。 「あのとき――」 礼拝堂に足を踏み入れた瞬間に、何処か外側から飛んできた凄まじい念――爆発の原因は間違いなくあれだった。 ヴィルヘルム、シュライバー、ラインハルト、エレオノーレ……今まで何度か強力な威圧を受けてきた俺だったが、さっきのはそのどれとも種類が違う。 ただ、純粋な戦意の塊。何の不純物も混じらない、敵を斃すという戦士の気迫。 「上手く言えないけど、凄く真正面な感じだったよ」 「だろうな、あれは――」 遊びというものが一切ない。それはエレオノーレにも言えることだが、あいつは一種、傀儡的だ。闘士と軍人は必ずしも一致しない。 「絶対に小細工が効かない相手だ。策も、損得も、全部――」 真っ向からぶつかるしか許されず、脇に付け込めるような隙もない。命令による束縛すら、おそらく受けていないと思える相手。 つまり有り体に言えば、超のつく個人主義者だ。直進しかしない鋼鉄の戦車。 〈城兵〉《ルーク》、〈黒騎士〉《ニグレド》――この勘が当たっているなら。 「神父や司狼の鬼門だ。あいつらみたいなタイプはあれに勝てない」 「じゃあ、レンは?」 「分からない」 俺と〈黒騎士〉《あれ》が戦えばどうなるか、考えなくてはならない状況なのに考えたくない。それは奇妙な感覚だった。 まるでその対戦カードが、ひどい矛盾ででもあるかのような…… 「とにかく、急ぐぞ」 早く、早く学校へ。きっとそこに残る全戦力が集中している。 もはや疑いようもない弩級の修羅場だ。先輩が俺を遠ざけようとしたことからも読み取れるし、危険度は過去最高に跳ね上がる。 だが、そのぶん好機でもあるはずなんだ。 たとえ一網打尽とはいかなくても、〈大隊長〉《やつら》の一人をそこで削ることが出来れば、あるいは―― と、思い、考えながらも、俺はこのとき―― 「ねえ、それで、わたし達はその人に勝てるの?」 混ぜ返してくるマリィの問いに、やはり答えることは出来なかった。 「――――――」  爆発する黒騎士の咆哮に、その場の全員が息を飲む。唯一気圧されていないのはエレオノーレ一人だけだが、彼女にしてもある種の驚嘆に近い思いを懐いていたのは間違いない。  それは大気を――いや、大地を揺るがすほどの鬨の声。音ではなく気の轟哮が、周囲の空間へ彼を中心に弾けたのである。  単純な“意”の発露。すなわち殺意や戦意といったものを瞬時に爆散させて“威”に変える技術自体は珍しくない。彼のそれは桁外れに強大かつ高密度なものだったが、威勢の大小で語るならば最強は黄金なのだ。あれを知る者なら単に大きいだけの威に怯みはしない。  ゆえに、ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン――鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》を恐るべしと、この場の皆が思った原因は別にある。  それは落差。静と動の振り幅だった。  つい最前まで、誰一人気配に気付けなかった絶。そしてこの発。  彼の内に渦巻く数万を超える戦士群が、〈咳〉《しわぶき》ひとつ立てずに付き従っていたということ。想像を絶する統率力によって支配された軍勢が、今、抑圧の〈軛〉《くびき》から放たれたのだ。  その手練……魂を支配し操るカール・クラフトの秘術に対し、彼が最高の巧者なのかもしれない。〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈誂〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈言〉《 、》〈わ〉《 、》〈ん〉《 、》〈ば〉《 、》〈か〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》、マキナは完全に闇の水星から得た恩寵を使いこなしている。  ことによれば、ラインハルトのそれを凌ぐほどに…… 「……なるほど、戦士、戦士ですか」  鋼の偉丈夫と正対し、輝く黄金の槍は霞のように掻き消えた。ごく短い時間しかこれを揮うことが出来ないのか、それとも他に理由があるのか。何にせよトリファは徒手空拳に戻っている。そのまま〈韜晦〉《とうかい》ではない愚痴が零れた。 「仰る通り、確かに読みが外れたようですね。あなたは一刻も早く死にたがっていると思ったのですが、マキナ卿。 私が用意した〈戦場〉《しにばしょ》では、お気に召さぬというわけですか」  この鋼鉄こそが己の鬼門。対峙すればただではすまない。  そう弁えた上で接触を避けた。彼が執着するだろう敵と戦場を誂えて、この場に参戦する可能性を極限まで薄めたつもり――だったのだが。 「愚問。戯言だ聖餐杯」  神父の嘆きを無視するように、マキナが一歩、前に出る。  彼は英雄。生粋の闘士。第八が開放され全力を発揮できる条件が整うまで、不完全な己を許さない。尋常なる勝負とは認めない。 「乱痴気騒ぎに興味は無い。だがその果てが、俺にとっては最後の戦だ」  六十年、待って待って待ち望んだ。その幕引きとなる一戦は、共に究極、共に全力――納得できる終わりでなければ受け入れられない。  今はまだ、そのときに非ず。 「ゆえに、おまえは邪魔だな。不本意だが、俺が排除するしかあるまい」  充実する気が拳に満ちる。それがどれだけ危険な凶器か、トリファは嫌になるほど分かっていた。 「やれやれ、今夜はまた随分と饒舌ではないですか。 しかし、なるほど……全力の発揮を御所望とは、誰かさんと似ていますね。それは本当にあなたの心か? まず我々は、共にハイドリヒ卿の〈呪縛〉《かげ》から解き放たれることを念頭に置くべきだと愚考しますが……」  瞬間、轟風を伴い鉄拳が走る。 「馬の耳に念仏。所詮奴隷のあなたには分かりますまい」  間一髪、僧衣の長身は飛び退って鋼の一撃を避けていた。そのまま一気に、この死地からの逃走を図る。  だが―― 「無駄だ」 「――――」  病院の時とまったく同じく、学校の敷地全域が〈赤騎士〉《ルベド》の〈射程〉《てのひら》に握られていた。その巨大な砲身に飲まれた領域からは、何人たりとも脱出できない。 「〈聖餐杯〉《きさま》はこれにも耐えるだろうが、他はどうかな。 まあ、姫は私が責任もって守るがね。あとは知らんよ。どうとなれだ」  ハッタリではない。エレオノーレは真実本気だ。トリファがここから逃げようとすれば、総て残らず吹き飛ばす気でいる。 「気張れよ、マキナ。貴様なら消滅だけは避けられるはずだ。この程度凌げんようでは、どだいハイドリヒ卿の近衛とは言えん。そうだろう?」 「構わん。問題ない」  つまり〈赤騎士〉《ルベド》の砲撃に耐えられるのは、彼女と同格であるマキナ。そして破壊不可能の聖餐杯。プラス、エレオノーレが守ると言ったゾーネンキント、氷室玲愛だけ。  他は間違いなく一撃のもとに消滅する。  リザと同じく―― 「――――」  事態に即応できず、固唾を呑んでいた螢はそれを悟って絶句した。  またか、またなのか。彼らは自分のことなんて、塵芥ほどにも見ていない。  せいぜいスワスチカの生贄要員という程度でしか、櫻井螢の価値を認めていない。  それを証明するかのように、対峙している三名は彼女を無視して話を進める。 「あなたが私を攻撃するのは、立場上不忠になるのではないですかね、ザミエル卿」 「ああ。だがすでに、不忠者のせいで禁を破った。ならば一度も二度も変わらんだろう。不本意だがね。 罰は後で粛々と、ハイドリヒ卿の御前で受けるとしよう。真の不忠は、ここで貴様を逃がすことだ。 ゆえにどうする? 死なれては困るのだろう?」  ただ一人、場違いとも言える者の存在。エレオノーレは目でそれを指す。 「カラクリは読めた。双子の片割れか。ああ、名は何と言ったかな」 「ヨハンだ」  事態を見透かす赤化と黒化、トリファは無言で答えないが、もはや何も隠せない。 「そう、ヨハンだ。生きていたのだな、知らなかったよ。 ブレンナーらしい。そして貴様らしいと言ってやるか。前者は愚かしく、後者は薄汚い。哀れだよ、その少女」 「いっそここで、何も知らぬまま逝かせてやるのが慈悲と思えぬこともない。 まあ、何にせよ――」  冷笑しつつ鼻を鳴らして、エレオノーレは踵を返した。後の展開など確かめるまでもないと言わんばかりに。 「詰みだ、クリストフ。貴様の巡礼とやら、ここで終わる」  同時に、黒騎士の鉄拳が再度神父へと放たれた。 「ぐッ、――ァ……」  彼は躱さない。いや、躱せなかった。百戦錬磨の大隊長二人を前にして、それは必然の結果だったと言えるだろう。  最初の一撃を回避した位置、その後に判明した逃走封じ、そして会話しながらも無駄なく調整されていた絶妙の間合い……総て完全に誘導された。  今、トリファとマキナを繋ぐ直線上には彼女がいる。先の攻撃を躱していたら、綾瀬香純が死んでいた。ゆえに受け止めるしか術がなかった。  それはどういう結果をもたらすのか…… 「無駄だ、知っているだろう。俺に砕けぬ物はない」  これまでどのような攻撃にも無敵を誇った〈肉体〉《うつわ》が軋んでいる。交差した腕で直撃こそ防いだものの、ダメージを受けているのは明白だった。  その証明として、神父の口から苦鳴が漏れる。 「今のは些か、非道ではありませんかな、マキナ卿……。 騎士たる御身が、婦女子を盾にするような〈戦法〉《みち》を選ぶとは驚きだ」 「誤解するな。俺は騎士道など知らん。 知っているのは戦場の掟だけだ。立ち入れば女子供の別けなく死ぬ」 「ゆえに何もかも終わってしまえと? やれやれ、あなたが一番ハイドリヒ卿に近いですな」 「笑止。おまえが言うことか――」  突き出していた拳を引き戻す。それは反撃を受ける危険などまるで無視した鷹揚さ。これまでトリファが見せていたものとはまた違う、別次元の無防備さだった。  すなわち、己の耐久力ではなく、攻撃力に絶対の自信を持つがゆえのノーガード。 「誰よりも奴に依存している身で笑わせる」 「ぐッ、があァッ――」  振り下ろされた拳を受けて、僧衣の長身が吹き飛ばされた。最強の矛と盾は現状において矛盾とならず、矛の勝利を示している。  結果はこの様。受け止められない。 「あ……」  成す術もなく誅戮の結末へと落ちていくトリファに、玲愛は思わず手を伸ばしていた。  届かない。何も出来ない。自分がこの展開を呼び寄せたのに、事態は己の手を完全に離れている。  どうしたいのだ、私は。あの神父を自分の中で、どう扱えばいいと言うのだ。  一発、そしてまた一発。鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》が拳を叩きつけるごとに、トリファの何かが削れていく。割れて砕けて消えていく。  終わりだ、死ぬ。彼は負ける。素人目にも勝負の趨勢は明らかで、もはやどうにもならないだろう。  だけど―― 「どうして……?」  もはや何度目になるか分からない、疑問が口から漏れ出ていた。  なぜどうしてあなたはそんなに、私を生かそうとしているの?  こんなに嫌な女なのに。  こんなに危険な女なのに。  いっそ殺そうとするほうが、まだ選択として理解できる。さっきはそうされるのだと思っていた。  けど。 「――く、おおォォッ」  らしくない真剣な顔で、余裕のない苦鳴を漏らして、それでもあなたは立っている。逃げ出さずに勝てない敵と対峙している。  私のため? 私のせい? 私があなたに何をしてあげたというの?  分からない。分からないよ神父様。  そしてこれほど捨て身の献身を見せられてるのに、まだあなたが怖い私は何なの?  下種か? 屑か? それとも最初から人じゃないのか?  氷室玲愛にとってヴァレリア・トリファは何者で、クリストフはゾーネンキントの何なのだ? 「心配は要らない。言ったろう。〈大隊長〉《われわれ》は玉体を安んじ奉ると」  再度手を伸ばしかけた玲愛を遮るように、エレオノーレが呟いた。彼女は展開されている戦いに背を向けたまま、すれ違うような形ですぐ脇にいる。 「〈クリストフ〉《あれ》の守り、その度外れた強度の秘密は二つある。一つはベルリンの黄金錬成をもとに〈副首領〉《クラフト》が――と言うよりイザークが城を飛ばした際の副産物だよ。 すなわち対魔、対物理。対時間、対偶然。そうした防御膜を極限まで強化、薄れないように永久展開させた盾。 そしてもう一つは、鎧――」  何の気もなく、当たり前のように、エレオノーレは聖餐杯が持つ最大の謎を暴露した。  玲愛はそれを聞いて昏倒しかける。無理もないことだ、なぜなら―― 「あの内に渦巻くヴァルハラの〈軍勢〉《レギオン》。魂の総和が常識外れの密度を有しているからに他ならん。 分かるかな、あれはハイドリヒ卿の玉体なのだよ」  聖餐杯=ラインハルトの肉体。  ヴァレリア・トリファ=黄金の獣。  エレオノーレの言ったことは、つまりそういうことだったから。 「今、マキナが削っているのは前者だ。あれを崩せる者は奴しかいない。 ゆえに安堵されよ。我々はハイドリヒ卿の玉体を破壊などしない。庇を貸りて母屋も取ろうという不心得な居候……獅子身中の癌を叩き出そうとしているだけだ」  ラインハルトの城、彼の創造位階を六十年間留め続けた結界を打ち壊す。その結果に何が起こるのかは考えるまでもなく明白だった。  絶対に壊れない器の中で、膨れ上がり続けた異界の解放。それはダムの水量を内包した風船の破裂に等しい。 「盾がなくなれば城の流出はもう止められん。堤防が消えるのだから、ヴァルハラの総軍は流れ出ていく。まあ現段階では、それに極めて近い創造だがね。 いずれにせよ、その時をもって首領代行は任を解かれる。奴は用済みだ。この第七に溶ければよい。 ゆえにテレジア、御身が抱えていると思しき不可解な感傷は――」  それを、皆まで言わせてはいけなかった。 「――やめて!」  絶叫に近い声でエレオノーレの口舌を絶つ。本音とは真逆の台詞で、実際は知りたいし知らなくてはいけない。  だけど、それでも見えてきた答えを認められない。ずっと疑問だった複雑な感情が、何を意味していたかなんて今さら分かっても遅すぎて……  〈神父〉《トリファ》を案じているのか恐れているのか。  〈聖餐杯〉《おうごん》を案じているのか恐れているのか。  六十年前のヴァレリア・トリファは、今と別の外見だった。当たり前だろう、身体が違う。  ならばこの揺れる感情、〈祖父〉《イザーク》が父と見なした者への恐怖が、自分の魂に食い込んでいる。  私はそれに囚われて、対象を誤認したまま〈神父〉《かれ》を処刑場に引き出したのだ。藤井君を守ろうとして、絶望の起爆スイッチを押してしまった。  どう詫びればいい。もう戻れない。  なんて愚か。  浅はかな私。  どだいただの女子供に崩せるほど、カール・クラフトの〈黄金錬成〉《アルスマグナ》は甘くないと――分かっていたのに。この様、この体たらく。  許されるなら、今すぐ舌を噛み切りたいほど…… 「自害なら、いずれもっとしたくなる。いやそれとも、生の執着になるのかな? どちらでもよいがね」  〈死を想え〉《メメント・モリ》――呪いを呟きながら、エレオノーレは鼻で笑った。もう用は済んだと言わんばかりに、事務的な数言を付け足すだけ。 「その頂点は第八の開放でだ。せいぜい溜めておくがいいよ、テレジア。その祈りをもって、この世を〈修羅道〉《グラズヘイム》に塗り替えよう」 「もはや言うまでもないと思うが、あちらの少女はあなたの血縁。出来損ないなので死んだということにされていたイザークの弟、その孫にあたるらしい。 クリストフは、あれを使うことで五色を狂わせる腹だったのだな。城の流出を起こさずに、その無限再生という〈不死性〉《おうごん》のみを掠め取る。まったく下種の考えそうなことだよ、そう思うだろう? ゆえに気に病まずともいい。奴は正真正銘の屑であり、涙で送るには値しない男だよ」  と言い置いて、エレオノーレは玲愛から完全に視線を切った。同時に、態度ががらりと変わる。 「で、それはそうと、貴様は何を先ほどから私の顔を見ている、小娘」 「…………」  話しかける対象が変わったのだ。彼女はずっと誰からも無視されていた螢に目をやり、威丈高に鼻を鳴らす。 「猿回しの猿にも劣る、不格好な踊りを幾度も私の視界に入れていたが、罰が欲しいのか貴様? いいぞ、今はすこぶる機嫌がいい。名乗れよ能無し。貴様どういう了見で、私の部下を愚弄している」 「キルヒアイゼンの席に座って、そのみっともない醜態を晒し続けているのは何のつもりだ」  口調に怒りの色はない。そうまでするに値せぬと、言わば完全に見下した態度だった。彼女の台詞を借りるなら、猿に激怒する人間などいないということだろう。  しかし、だからといって奔放を許しているわけでもない。目は凍てつくほどに冷えており、温情を与える気など皆無であるのが容易に分かる。 「私は……」  それに螢は、総身を締め上げられるような悪寒を覚えながらも震える声で返答した。 「櫻井、螢といいます。ベアトリス・キルヒアイゼン中尉の後継として、十一年前に……」 「クリストフか」 「なるほど、ゆえにその様、傀儡であり負の遺産だな。さて、どうするか」  そうしている間にも、エレオノーレの背後では神父の窮地が続いている。彼とマキナでは相性の他にも基礎となる格闘能力が違いすぎるのだろう。完全に一方的な様相であり、おそらく後、数分と保つまい。  エレオノーレもそれを確信しているようで、すでにトリファを死んだ者として扱っていた。その証拠に―― 「例の小僧はヴァルハラ流出の後に、マキナか我が君の〈勲〉《いさお》となって貰わねばならん。であれば、別に第八の贄が要る」  つまらなげに螢を見下ろし、最後のスワスチカを如何に開くか思案している。蓮は主君か同輩に捧げるものだと弁えた上で、ならばその前菜はどうするべきかと。  現状、その候補となりえる者は三人。 「数がだぶつくのは美しくないな。とはいえマレウスを斃した少年はシュライバーの獲物だ。奴に計画的な殺人など、私は微塵も期待しない。 何時、何処で、どう殺すか読みようがないので除外しよう。 では、そう。なあおい、残りはどうしたらよいと思うね」  つまり――見下したまま微笑を浮かべるエレオノーレに、螢は下唇を噛み締めた。 「つまり、あなたは、ザミエル卿……」  そこまで言われて、これほどあからさまな態度を取られて、察せられないほうがどうかしている。  文字通り、猿でも分かるというものだ。いくら馬鹿な自分でも嫌になるほど理解できる。  螢は、軋る声で呟いた。 「私に、ここで死ねと仰る」 「貴様か、そこのそいつかだ」  螢の胸に抱かれたまま、未だ震え続けている青い仮面。  その内に封印されているトバルカイン。 「早いか遅いか、大差あるまい。それとも貴様、ああ、もしかして……」  含むような間を置いて、エレオノーレの目に凶気が宿った。螢の全身は総毛立ち、瞬間――紅蓮の花が咲く。 「〈第八開放〉《さいご》まで残れるつもりでいるのかよ」  足下から噴出した火柱を、間一髪で躱していた。それは反射神経と言うより勘に等しく、そして何より奇跡の際どさ。 「―――――ッ」  つい一瞬前まで座り込んでいた位置のコンクリートが沸騰している。いったいどれだけの高熱がそうさせるのか、もはや見当もつかない。 「小勢が足掻くか。よいぞ、芯まで腑抜けではないようだ。 諦観した雑兵など捻り殺す気にもならん。ならば城の一部となるに相応しい勇武を示せ。愛玩の道化として飼ってやらんこともない」  自らが生み出した火柱の中を悠々と、女帝のごとき傲岸さで踏破してくるエレオノーレ。彼女は明らかに楽しんでいる。 「小勢……」  雑兵、確かにそうだろう。螢の魂は大隊規模だが、エレオノーレは軍団だ。千対数万の戦に等しい。  勝負が成立する次元ではなく、すでに完全包囲されているので逃げることも出来ない。  ではどうするのか。  自分は何を選び信じるべきか。  第八開放まで生き残り、黄金の恩恵をこの手にする。それを願って私はずっと駆けてきたけど、今やその夢は風前の灯。  そして、何よりそれ以前に…… 「私は馬鹿です、ザミエル卿……」  頭を使い、自分で考えろと散々言われた。  無能、愚かと何人からも謗られた。  その通りだ。なぜなら今でも、見えてきた答えから目を逸らしたい。  ラインハルト・ハイドリヒの〈世界〉《ヴァルハラ》。そこで永劫に殺し合う〈戦争奴隷〉《エインフェリア》……私が求めた〈奇跡〉《おうごん》とはそうしたモノで、その体現者が目の前にいる。地獄の軍勢を率いる〈大隊長〉《かいぶつ》として、狂った〈条理〉《ルール》を撒き散らしている。  不死、不滅。死んでも蘇る修羅道の戦鬼達。  それを認めることなんて…… 「できない。私にはそんなもの見えない」  強く胸の仮面を抱きしめる。すでに崩れようとしていたリザ・ブレンナーの聖遺物は、その圧力で今にも砕ける寸前だった。 「彼を――私は救いたかった」  死してまで戦わされる定めを消し去りたかった。  なのに―― 「なのにこれじゃあ、何も変わらないじゃないですか。結局私達は――」  永遠に解放されない奴隷の身分。そんなのは嫌だ。意味がない。  自分の幸せのために鏡を愛せば、そこに映った修羅しか得ることは出来ないと、神父はそう言ったけど…… 「私は、そんなもののために戦ってきたんじゃない!」  ただ、殺戮の地平に楽園を求めた。屍山血河の果てに安息を求めた。  都合が良くて、自分勝手で、ふざけるなと人は言うに違いない。自分に殺された者たちは、絶対そんな結末を許さないだろうと分かっている。  分かっているけど、だからなんだ。良識も道徳も飛び越えて、譲れないものがあるというだけ――何が悪い! 「泣いて祈れば降りてくる奇跡なんて要らないのよ。いつだって戦い、勝ち取る。邪魔なんかさせない!」  だから胸の炎を剣に変えて、残る闘志を奮い立たせた。この火が消えてしまったら、もう二度と立てないと分かっている。 「〈大隊長〉《あなたたち》を認められない。私はまだ、諦めてなんかいないんだから」  第八が開き手遅れとなる前に、五色の一角でも削ること。ヴァレリア・トリファがやろうとしたように、彼と同じことを狙うしかない。  だがそんな螢に、エレオノーレは…… 「貴様ら間抜けの言い分は、いつも致命的にずれている」  口調に哀れみすら滲ませて、嘆くように呟いていた。 「そう、例えば火だ」  眼前の空中に極小の火を灯し、彼女は螢を眇め見る。戦意、反意を受け取った以上、もはや相手が何を言おうとここで滅する気なのだろう。後はただ一方的に話し、一方的に潰すだけだ。 「これが命。消したくないと皆が守り、躍起になる。ではどうするか――」  その火が、徐々に膨れ出した。赤く大きく、〈焔〉《ほむら》と化し、宙に陣を描いていく。 「他者から奪い、足していくのだ。消えぬように、輝くように、周りを食い潰して肥大していく。それこそが生きるということ。世の全生物に適応される絶対の法則であり黄金率だ」  すなわち、永劫に殺し合い喰らい合う殺戮の世界。 「その点は何も、何一つとして城とこちらに違いなどない。 殺し続けたのだろう? 喰らい続けたのだろう? それで今の貴様があるのだろう? 生命の根源たる渇望は、より大きく、より多くだ。消えるのを拒むなら、何処までも巨大になること。消えてしまったものを灯したいなら、巨大な火と繋がること。 つまり――」  不死も、そして死者蘇生も、叶えるならば極大の炎に同化しなければならない。エレオノーレは断言した。 「貴様らはハイドリヒ卿と一つになる。それこそが祝福だ。奮えよ、これ以上の栄誉はあるまい」 「―――――」  巨大化していく炎の熱波に、螢は吹き飛ばされそうになる。もはや明らかに、彼女は攻勢に出る期を逸していた。  この距離が開いた状況で、しかも射程において遥かに勝るエレオノーレを相手取るなら先手必勝、撃たれる前に切り込まなければ意味がない。少なくとも〈赤騎士〉《ルベド》が炎を出すより早く、行動を起こさなければいけなかった。  が、それをさせなかったのはエレオノーレだ。彼女は螢と対峙した瞬間から、相手の間合いぎりぎりに殺意の力場を張っている。僅かの隙も許さない、一触即発の緊張状態を作っている。  初撃を放つ一瞬の溜め――それだけでもエレオノーレの気は爆ぜるだろう。膨らみきった風船のすれすれを、高速で剃刀が走り抜けている状況に等しい。 「くッ――」  ゆえに硬直するより術がなく、歯噛みする螢のことを〈赤騎士〉《ルベド》は冷厳に見下ろしていた。心底理解できないと、侮蔑して憚らない。 「だというのに何を嫌がる。何を拒む。矮小な己が偉大な黄金に飲まれ消えていくのが怖いか? くだらん。 もとより貴様ら、死別を覆そうという輩に個我などなかろう。他者と己を重ねなければ生きていけぬ劣等ではないか。 ならばよし。究極の炎、究極の世界――黄金の〈至高天〉《グラズヘイム》に溶ける栄光を与えてやるのだ。歓喜しろよ、なぜ祝わん」 「まったく、度し難いこと甚だしいが……」  そしてついに、炎が巨大な砲口を完成させた。そこから放たれる一撃をまともに食らえば、おそらく骨も残らない。 「まあ、どうでもよいわ。失せろ」  それが弾ける、まさに一瞬前だった。 「……さん」  無意識。完全な偶然。  狙って行ったわけでも、〈神〉《キセキ》に縋ろうとしたわけでもない。  ただ螢は、絶体絶命の状況下で、ある意味当然の選択をしただけだ。肉体的反射と言って差し支えない。  すなわち、竦み縮こまる。避けられない破壊を前に、なんとか耐え凌ごうと身体を丸める。それこそが―― 「―――ぬッ」 「―――なにッ」  今、この状況を展開させた。  爆発した紫電の奔流に、二人の大隊長が飛び退がる。共に止めを刺す一歩手前、あと一撃で対象を滅殺しようという寸前で、それは妨害されていた。 「……やれやれ、待ちくたびれましたよカイン」  ただ一人、この状況を歓迎しているのはトリファだけだ。無意識に仮面を抱き潰していた螢でさえ、その瞬間は呆けていたと言っていい。  まして、マキナとエレオノーレは―― 「何だこれは」 「稲妻だと」  一方は暗澹と、もう一方は瞠目し、共に驚愕を隠さず出現した巨人に釘付けとなっている。さらに言えば、彼ら二人は屍兵の次なる行動を予測できる情報を持たない。  床を踏み抜く爆砕音と共に、死せる巨人は砲弾の勢いで突進する。その対象は言うまでもない、苦笑しながら蹌踉めいているヴァレリア・トリファ。  なぜ彼は、この状況で敵が増えることを歓迎するのか。その理由は他でもない。 「邪魔だ、どけい」  鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》は、戦いに邪魔が入ることを何より嫌う。戦士ならば、そうでなくてはならない。  そして―― 「待てい、マキナ!」  紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》が、これを見逃せないだろうことは予め分かっていたのだ。 「―――――」  図らずとも発生した三つ巴、いや四つ巴の状態に、螢は咄嗟の対処が出来ない。出来るはずもないだろう。 「これで、万分の一は起死回生の目も出ましたね」  天を引き裂く稲妻の爆音――それに刃渡り三メートルを超える巨大鉄塊の重量を乗せた一撃が、割って入ったエレオノーレを吹き飛ばしていた。 「…………」  マキナは動かない。眼前の巨人を無表情で見上げたまま、ぼそりと呟く。 「なるほど、おまえはこれを知っていたのか」 「まあ、気付いたのはつい先日のことですがね」  言って、トリファは黒騎士の間合いから飛び下がりつつ離脱した。校舎を覆っていた逃走封じの結界が、点滅して揺らいでいる。 「正直、確証はありませんでしたが、これで決定だ。やはり――」  神父が見据える先にはトバルカイン。原因は不明だが、トリファだけを執拗に狙っていた彼が追撃を加えず停止している。  と言うより、標的を選ぶことが出来ないでいる。 「Behin…dernd」  地の底から響くような声は、死せる巨人のものだった。ガクガクと巨体を震わし、狂おしい葛藤に彼はその身を焼いている。  いったい何がそうさせるのか、どうして死人が迷っているのか、分からないが確実なことは一つだけ。 「見られたくないのでしょうねえ。落ちぶれたその様を」  今、その標的はトリファとそしてもう一人。先の一撃で吹き飛ばされた赤い焦熱の〈大隊長〉《エインフェリア》。  同時に、紅蓮の炎が爆発した。 「〈Behindernd〉《じゃま》? 〈Behindernd〉《じゃま》だと? 誰に言っている貴様」  粉塵の帳を一瞬で消し飛ばし、業火を纏ったエレオノーレは傲岸不遜に胸をそらす。カインの攻撃をまともに受けたはずなのに、まるで効いた様子がない。 「その程度で私に下がれと抜かすか。分際を知れよ、こそばゆいわ」  彼女はトリファのような究極の盾を持っていない。ゆえにこの状況は、単純な力量差を物語っている。カインの攻撃は、宿る魂の総量でエレオノーレに劣っているのだ。 「しかし、片手間に流せるというほどでもありますまい。いや、仮にそうだとしても……」  得意の〈諧謔〉《かいぎゃく》を滲ませつつ笑うトリファに連動して、瞬間、屍兵がついにその矛先を決定した。 「それを前に手を抜くことなど、あなたの騎士道が許さぬことだとお見受けしますよ」 「抜かせ、匹夫が」  再度の轟音と共に放たれた稲妻は、エレオノーレに向けられていた。迸るその奔流に晒されて、しかし彼女は泰然としたまま動かない。  怒声が、そこに炸裂した。 「――静まれぇいッ!」  落雷を凌駕する大音声。その一喝で紫電は文字通り砕け散り、雲散霧消と掻き消える。同時に揺らいでいた校舎を覆う結界が、さらに激しく明滅した。 「小賢しい、小賢しいぞクリストフ。だがいいだろう、乗ってやる。 私の檻が開く瞬間を狙うというなら狙ってみろ。出るも入るもそのときなら自在。相も変わらず逃げの算段だけは達者なものだ。 しかし何にせよ、貴様に起死回生など起こりえん」  逃走を封じていた檻を限界近くまで弱めつつ、それに割いていた力を眼前の戦闘に注ぎ込むとエレオノーレは言っていた。つまり、現段階におけるほぼ全力を行使すると、彼女の戦意が告げている。 「あ……っ……」  それに螢は、骨まで砕かれるような重圧と戦慄を受けていた。先ほどまでのエレオノーレは、今の状態に比べれば目を閉じていたに等しい。  だが、退いては駄目だ。ここで膝を折ってしまえば、これまでやってきたことが無為になる。  なぜなら―― 「構わん。二人まとめてかかって来い。格の違いというのを教えてやる」  エレオノーレが狙っているのはカイン。それを許すわけにはいかない。気力を奮い立たせて剣を構え、再度紅蓮と対峙する。 「私は、彼を守ります。もう二度と、誰が相手だろうと失いたくない」 「彼? 彼だと?」  だが、そんな螢の気迫を余所に、エレオノーレは失笑していた。並び立つ二人を前に、つまらぬ冗談だと言わんばかりに喉を鳴らして呆れている。 「彼、彼、彼かなるほど。その出来損ないは代替わりする。複製の聖槍に魅入られて、それを創造した一族を末代まで喰らい潰すという代物だったな」 「確か、〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》……さしずめ、劣化品の〈不死人〉《エインフェリア》製造機というわけだ」  カインが担ぎ上げている巨大な鉄塊、エレオノーレはそれを愉快げに見やりながら、しかし同時に落胆の吐息をはいていた。理解の悪い劣等生を、蔑み切り捨てる教師のように。 「ならば貴様の前にあたる〈トバルカイン〉《サクライ》は、男だったのかなレオンハルト。父か、兄か、どちらでもよいがね」 「彼と言うならそうなのだろう。まったく傑作だな、おい」 「何が――」  おかしいと言いかけて、螢はエレオノーレが自分を見ていないことに気がついた。  傑作とは、横に並ぶ“彼”へ向けて言ったのだと。 「あ………」  だからちょっと待て。それはおかしい。  何か途轍もない勘違いを自分はしているのじゃないだろうか。  なぜなら“彼”を“彼”と言ったときに失笑したのは、この紅蓮の女だけじゃなく…… 「あなた、は……」  もしかして……と、ある可能性と共に螢は巨人を見上げていた。  心理として無理もなく、彼女にとっては避けようのない反応。  そうするように誘導された結果なのだし、実質抗いようもない。  だがそれは、客観的に言うならばどうしようもない失態だった。 「阿呆め。出直して来い、新兵」 「―――――」  この極限と言って構わぬ緊張状態の直下にあって、こともあろうにエレオノーレから視線を逸らし、注意まで切ったこと。  その代償が、決して軽いもので済むはずなどない。 「つああぁァッ――」  飛来した火球の一撃をまともに食らい、螢は成す術もなく吹き飛ばされる。それと同時に、カインは轟哮をあげてエレオノーレに吶喊していた。まるで自ら犠牲となり、そうすることで螢を守ろうとするかのように。 「待って、お願い――」  手を伸ばす。声を嗄らす。だけど無情、届かない。  受けた攻撃は致命傷を負うほどのものではなかったが、完全にカインから切り離された。その事実と、先の言葉からもエレオノーレの狙いは明白。  自分は第八の生贄として残しつつ、ここではカインだけを消す気なのだと。 「嫌だ――」  駄目よ、行かないで置いてかないで――私はまた無力ゆえに失うの?  そうした過去を覆したかったから頑張ったのに。また同じ結末になるなんて絶対嫌よ、そんなの私は…… 「嘆くな、私が貴様を救ってやる。 その腐れた器を浄化して、解放してやろう〈馬鹿娘。〉《ブリュンヒルデ》 私と永劫、永遠に、黄昏まで駆けようではないか。ついて参れ。 ふふ、ふふはは、はははははははははは――」  膨れ上がる炎気に比例し、声高らかに響く哄笑は歓喜の色に染まっていた。エレオノーレは螢を見てない。自らに襲い掛かる巨躯の屍を凝視して、そこに宿る何者かへ紛れもない親愛の情を向けている。  そして、彼ら〈不死英雄〉《エインフェリア》の情愛とは。 「ヴァルハラで逢おう、我が部下よ。貴様の今生をこの手で断てる喜びに、私は至高の幸せを感じている」 「〈ein bräutliches Feuer soll dir nun brennen,〉《ならば如何なる花嫁にも劣らぬよう》 〈wie nie einer Braut es gebrannt!〉《最愛の炎を汝に贈ろう》 〈Wer meines Speeres Spitze furchtet, durchschreite das feuer nie!〉《我が槍を恐れるならば この炎を越すこと許さぬ》」  パチン、と指を弾く音。  Auf Wiederseh'n Thrud Walküre Kircheisen――  それが、別れの合図だった。 「いやああああぁぁァァッ――」  螢の目の前で巨体が一気に燃え上がる。キャンドルライトと形容するにはあまりに激しく、あまりに儚く、そしてあまりにも凄惨に……髪の一本すら残さず消滅していく。もう助けられない。 「私は、そんな……」  茫然と呟く螢。彼女の望みはここに〈潰〉《つい》え、放心の後は絶望に呑まれて生そのものを投げるだろう。希望を砕かれた人間は、大半がそうした結末へと落ちていく。誰もがそうなって然るべき。  だが――  ただ一つだけ――  この無力で愚かな少女に美点というものがあるのなら―― 「おのれ……」  それは奈落を拒絶する意志。  その異常なまでの頑なさで、理解を拒む物分りの悪さ。  喪失、悲劇、苦痛、破滅――そんなものを叩きつけられても足掻く。のたうつ。諦めない。  かつてリザが評した折れやすいガラスの剣という見立ては半分当たって半分外れだ。  櫻井螢は脆く折れやすく危ういが、たとえ粉々になってもその事実を認めない。  いや正確には、折れた瞬間にそれを忘れる。  だから―― 「おのれ、食らえぇェッ――!」  絶望に座り込むと思われた彼女は、掻き集めたバラバラの〈破片〉《こころ》をもとに全霊の一撃を放っていた。  まともに考えて、そんなものが通用する相手ではない。螢がどれだけ命を燃やして猛ろうと、カインの攻撃すら弾いた〈赤騎士〉《ルベド》に決定打を与えられるはずがない。  だが、あくまでタインミングという観点のみで語るなら、今のエレオノーレには隙があった。  手加減抜きの炎で一人屠った直後の硬直。たとえどんな強者だろうと、意識の継ぎ目というものはどうしようもなく存在するのだ。  ゆえに、これは〈赤騎士〉《ルベド》にとっての想定外。 「――――――」  取るに足らない小娘と断じた。  心を砕けばそれで片付くものだろうと、思い事実粉砕した。  しかし、だがこれは予想の外。  まさか、よりによってこの小娘、こうまで理解の遅い筋金入りの阿呆とは。  避けられない。食らう。  今まさに燃え尽きんとする巨人を超えて、〈緋々色金〉《シャルラッハロート》の斬撃が長身の女将校に当たり、弾ける。  爆発する緋の大輪は校舎全体を揺るがして、同時に極限まで薄まっていた炎の檻が掻き消えた。 「――見事」  ゆえに、この瞬間こそをずっと待ち続けていた彼は惜しみない賛辞を送り。 「それがどうした」  何があろうと些事にすぎぬと断じている〈黒騎士〉《ニグレド》は、動じず破滅の鉄拳を振り上げる。  そう、確かに些事だろう。檻が開こうと消えようと、彼の拳は必殺必倒。これをどうにか封じぬ限り、トリファに勝利も生もないのだ。  ならばどうする? 至極簡単。明瞭な答え。 「出られぬのなら迎え入れる。もはやそうするしかないでしょう」  間一髪、拳圧の轟風を逸らしながらトリファは言った。その意味するところは、新たな役者が到着するまでの時間稼ぎだ。 「いずれ、彼がここに来る」  たとえ口でどう言おうと、彼が来ればマキナは矛先を変えるはずだ。その衝動は抑えられまい。  曰く全力を出せる状況が整うまで、接触を避けたのが何よりの証。 「そのときあなたは、はたして自分を御することが出来ますかな」  起こりえぬと言われた起死回生。逆転の目はその可能性に賭けるしかない。  だが―― 「なるほど」  俯いて、喉を鳴らし、地鳴りのような笑みを漏らす〈鋼鉄の英雄〉《ベルリッヒンゲン》。トリファの足掻きを好ましく思うと主張しながら、しかし明らかに哀れんでいた。 「二つ勘違いをしているな」  一歩、そしてまた一歩無防備に、彼は神父に近づいていく。互いの間合いが今にも触れ合う寸前だが、まるで頓着していない。 「まず第一に、おまえが待っている者は間に合わん」  それはいったい、どういう意味で言っているのか。  続く言葉に、トリファは愕然と立ちすくむことになる。 「あははははははははははははは―――!」  駆ける。跳ねる。宙を走る。けたたましい笑い声を響かせて、矮躯の少年が踊り狂う。  彼が疾走した背後には、屍の山が築かれていた。家屋も車両も通行人も関係なく、残らず薙ぎ倒して貪り尽くす血のハリケーン。  スワスチカの位置や捧げる生贄などまるで意に介していない。ただ殺人の欲求に衝き動かされるのみの〈白騎士〉《アルベド》は、六十年ぶりに城より放たれた歓喜に総身を震わせていた。  そう、トリファの待ち人が間に合わないと言った理由はこの凶獣だ。 「あれにシュライバーは突破できまい」  現状、どう足掻いても〈白騎士〉《アルベド》には勝てないと確信している。それは致命的な相性の問題。 「あれの〈創造〉《かつぼう》は見せてもらった。その上での判断だよ。奴の鬼門はシュライバーで、ここには到底辿り着けない」  教会からバイクに乗って学校へと向かう蓮とマリィ。彼らを迎え撃つ存在を、決して忘れていたわけではないが…… 「言ったろォ、来たら迎撃するってさァッ」 「――――ッ」 「レン、上ッ!」 「遅いんだよノロマァ!」  空中から神速で落ちてきたシュライバーに、バイクは一撃で粉々にされていた。危ういところで飛び降りることに成功したが、先の奇襲は不意討ちであることを差し引いても尋常な速さじゃない。  マリィを抱いて滑るように着地すると、炎上するバイクに目をやる。 「三ケツは事故るか……マジでその通りじゃねえかよ」  軽口を叩きながらも背筋が冷たい。  当然だろう。シュライバーの姿が見えない。  それは透明になっているわけでもなければ、身を隠しているわけでもなかった。  ただ純粋に、あまりにも桁外れに―― 「速い、冗談じゃねえぞこいつ」 「見えないよ。全然、目に映らない」  彼は〈暴嵐〉《シュトゥルムヴィント》のシュライバー。  誰よりも速く、誰であろうと捉えられない。  大気が爆発するような轟音を弾けさせ、ビルが、アスファルトが砕け散る。まるで見えない巨人が暴れ回っているかのようだ。  しかし、その正体は重力すら振り切る超加速の切り返し。見る間に瓦礫の山と化していく街の中で、宇宙速度にも達するだろう“人間”が走り回っているだけにすぎない。  まさに悪夢であり、悪い冗談の具現だった。一際激しい衝撃と共に、アスファルトがクレーターのように陥没する。反射で見上げた視界の中に、ようやくその姿を視認した。 「やあ久しぶりだね、〈副首領〉《クラフト》二世。随分大きくなったじゃないか」  細く小さく、二次性徴すら始まってないと思える身体に、女のような顔と声。しかしその隻眼は、あらゆる情念で煮え滾っている。  悲哀憎悔、喜悦快楽の泥濘、混沌、判別できない。ただ人型をしているだけの、これは完全別種の生き物だ。服を着て、言葉を話している災厄でしかないだろう。  かつて司狼が懐いた印象と、まったく同じものを蓮は感じた。あれに言葉は通用しない。  だから、こうなればもうやるしかなかった。  早く、一刻も早くこいつを斃して学校へ―― 「うはは、やるかい? 君は僕を殺す気なのかい? あはははは」  真っ向ぶつかる視線と視線。その目はまさに凶眼だった。  人も獣も、そしておそらく悪魔でさえも、あんな目はしていないと断言できる。  極大の殺意と嗜虐性に取り憑かれた昆虫の眼光。この世で真におぞましいものがあるのなら、それはあの目とあの目を生んだ人生そのものに違いない。  生かしておくべき存在じゃなく、許容できる歪みじゃなかった。こいつもまた種類は違えど、この世界に在るべきじゃない地獄の住人そのものだから。  いったい何千何万人殺せばそんな目をするようになる。どれほど大量の血を浴びれば、そこまで派手な壊れ方ができるんだ。  視界に映るのは抉れ砕けた街の惨状。シュライバーが走り回ったというだけで、おそらく数百単位の人間が死んでいる。  込み上げてくる怒気。目眩を覚えるほど許せない。 「ずっと、いつまでもどこまでも、僕は殺して回り続ける。ハイドリヒ卿の〈新世界〉《ヴェルトール》でみんな永遠に殺し合おう」 「―――ッ」  歯を食いしばった口の中で、血の味がするのを自覚した。こいつを放置していいわけがない。 「お望みどおり、その首刈り飛ばしてやるよ。掛かって来い」 「あはは、あははははは、威勢がいいねえ。だけどさあ――」  空中で身体をたわめるシュライバー。おそらくその神速に、足場の有無など意味はない。即座に構える蓮の前で、これまでにやついていた形相が一変すると、声も口調も激変した。  なぜなら、向けられた殺意は数百倍にして返すのが彼の流儀なのだから。 「僕を殺すってことは殺してもいいんだよなあァッ! 出来ないこと抜かしてんじゃねえぞ薄ら青い作りもんがァッ!」 「そうだ、奴にシュライバーは斃せん」  斃せない理由があるのだ。 「奴を速さで追い抜くことは、絶対的に不可能だ」  それこそが、狂乱の〈白騎士〉《アルベド》が持つ渇望だから。 「粉々にしてやるよ〈人形〉《ヘルト》、誰が誰を殺すのか言ってみろよォォォッ!」  〈創造位階〉《いま》の蓮に、どう足掻こうと勝機はない。 「終わりか、小娘」  そしてそれは、こちらにも言えることだった。  爆炎の中から表情も変えず、〈赤騎士〉《ルベド》は悠々と歩み出てくる。 「な……」  信じられない。その思いだけが螢の中に渦巻いていた。彼らは本当に不死身だとでも言うのだろうか。 「貴様に対する評価を改めよう。そして我が身の不明を恥じねばならんな。些かながら驚いたよ、大したものだ」  完全に無防備だったはずである。肉体的にも精神的にも、あのときのエレオノーレは攻撃を受けることなどまるで考慮していなかった。  しかし、にも関わらずこの様子……服が若干汚れているというだけで、やはり何のダメージも受けていない。 「一つ、忠告してやろう。殺意は絞れ」  カインを燃やした炎を徐々に鎮火させながら、淡々と告げるエレオノーレ。彼女は螢に、何かを教授するつもりなのか。 「用兵の基本だ。小勢で鶴翼など組んでも意味がなかろう。兵力で劣るなら使い方を工夫しろ。それ次第で穴を穿つこともあるいは出来る。 貴様は無駄が多いのだよ。……まったく、そんなところは何処かの阿呆とよく似ているがね」 「あ、……」  分からない。これはどういうことだろう。目の前の相手は今や紛れもない敵で、仇で……少なくとも自分にとっては不倶戴天の存在なのに。  どうしてか、この場で再び攻めかかることは躊躇われた。エレオノーレの物言いが、予想外に穏やかなせいかもしれない。  これじゃあまるで、妹に対する姉のような……  私の大事なあの人たちと、似たような空気を彼女から感じるなんて…… 「ともかく、これは褒美だ。受け取っておけ」  そして、鎮火した炎の中から現れた物体に、螢は目をむく。 「これは……」  〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》。トバルカインの聖遺物は無傷のまま、消えることなく残っていた。以前は三メートルを超える長物だった物体が、なぜか三分の一以下に縮小しているのが奇妙と言えば奇妙だったが、他に目立った異変はなく、破損個所もない。 「次の持ち主は貴様だろう。ゆえにくれてやる。持っておけ。 正直消し去ってやるつもりだったが、気が変わった。中の魂共々、引継ぎを許してやろう。 だから、な」  それは、一瞬のことだった。 「今は命を大事にしろ。貴様は第八に捧げると、この私が決定した」 「―――――」  断言して、油断などしていないし目も離していない。思考は冷静とほど遠かったが、臨戦状態を維持していたはずである。  だがしかし、それでも有るか無しかの虚を衝かれた。エレオノーレは螢のすぐ前に立ち、彼女の肩に手を置いている。  スピードじゃない。これは単に、武術的な技術の冴え。もしかしたらこの相手は、元来近距離の攻防にこそ長けているのかもしれなかった。  剣士である螢の間合いを、いとも容易く侵犯したのが何よりの証。  ゆえに、もはや勝負あった。 「寝ていろ」 「―――くあッ」  そのまま力任せに叩きつけられ、螢の意識は暗転する。  手も足も出ず、一矢すら報えない。屈辱を通り越して呆れ果ててしまうほど、言い訳の出来ない完全な敗北だった。 「さて、いらぬ手間を食ったものだが」  溜息交じりに顔を上げるエレオノーレ。 「ともかく、これで任務達成ということか」  この場におけるもう一つの戦いも、今こそ決着のときを迎えていた。 「これが第二だ。俺の〈創造〉《かつぼう》を前におまえはどんな時間稼ぎも出来ん」  漆黒の拳に気が満ちる。破格の魂が渦を巻き、魔力となって異世界を生む。  創造位階。  その個人が持つ渇望の発露。〈我〉《こ》をもって〈世界〉《ぜん》と成す魔道の奥義。  何かになりたい。何かをしたい。理想の自分とその在り方。  それが満たされる世界の創造。そこでは彼の望みが絶対不変の〈常識〉《ルール》となる。  ある者は、光を忌む性癖ゆえに明けない夜とそこに君臨する己を望んだ。  またある者は、胸の激情を忘れぬために消えない恒星となることを望んだ  覇道と求道。  他者を食い潰して広げる〈野望〉《ユメ》か、己一人が突き詰めていく〈願い〉《ユメ》か。  前者は空間そのものを、後者は自己の身体を変える。  禍としてより凶悪なのは覇道だが、戦技としてより脅威なのは求道の祈り。  なぜなら己が世界に〈異分子〉《たしゃ》を飲み込もうとしないそれは、異なる常識によって効果が減退することなどない。 「〈Tod! Sterben Einz'ge Gnade!〉《死よ 死の幕引きこそ唯一の救い》」  そして、ここに究極クラスの求道がある。  彼の渇望はすなわち終焉。その拳に触れたモノは、たとえ何者であれ物語の幕を引かれる。 「〈Die schreckliche Wunde, das Gift, ersterbe,〉《この 毒に穢れ 蝕まれた心臓が動きを止め》 〈das es zernagt, erstarre das Herz!〉《忌まわしき 毒も 傷も 跡形もなく消え去るように》」  それは歴史の終わりを意味する現象。生物も器物も知識も概念も関係ない。  誕生して、たとえ一秒でも〈歴史〉《とき》を経た〈物語〉《モノ》ならば、終焉の強制を起こす御都合主義には抗えない。  だからこそ、彼はマキナ。機械仕掛けの神と呼ばれる。  その剣呑どころではない幕引きの一撃を持つゆえに。 「―――――」  無論、トリファもこの危機を正確に理解していた。自らの講じた策が、片端から破られているという状況を。  今となっては唯一の光明である藤井蓮はここに来れない。彼にシュライバーは突破できない。  マキナの性分からして、己の獲物を他者に譲るなど有り得ないと思っていたし、事実その通りだった。  狂乱の〈白騎士〉《アルベド》は、その殺戮衝動を抑制できない。殺すなと言ったところで意味はないし、聞かないだろう。そしてそうなってしまえば、マキナにとって不本意な事態に陥る。  ゆえに、その組み合わせは無いものと思っていたが甘かった。  なぜならあの凶獣は、黄金の前で忠犬となる。  つまり、トリファを秒殺すれば悪名の狼に〈枷と鎖〉《グレイプニル》を嵌められるのだ。 「ならば結局、私が時を稼ぐしかないわけですが……」  蓮がシュライバーに殺されかかり、マキナが焦れるまで逃げ回る。  しかしもはや、それも不可能。 「〈Hier bin ich, die off'ne Wunde hier!〉《この開いた傷口 癒えぬ病巣を見るがいい》」  一撃必殺の〈創造〉《かつぼう》が、ここに顕現しようとしていたから。 「〈Das mich vergiftet, hier fliesst mein Blut:〉《滴り落ちる血の雫を 全身に巡る呪詛の毒を》 〈Heraus die Waffe! Taucht eure Schwerte.〉《武器を執れ 剣を突き刺せ》 〈tief, tief bis ans Heft!〉《深く 深く 柄まで通れと》」  祝詞が終わる。たとえ詠唱の途中とはいえ、この〈黒騎士〉《ニグレド》は敵の自由を許すような男ではない。  半端な攻撃をすれば弾き返され、逃げれば背に大砲を受けるだけだ。残る道はただ一つ。 「〈Auf! Ihr Helden:〉《さあ 騎士達よ》 〈Totet den Sunder mit seiner Qual,〉《罪人に その苦悩もろとも止めを刺せば》 〈von selbst dann leuchtet euch wohl der Gral!〉《至高の光はおのずから その上に照り輝いて降りるだろう》」  共に全霊の一撃をぶつけあうこと。  それしかなく、その結末は火を見るより明らかで。 「〈Briah〉《創造》――」  もはや起死回生の望みはない。 「〈Miðgarðr Völsunga Saga〉《人世界・終焉変生》」  ここに、ヴァレリア・トリファは詰まされた。 「さあ、抗ってみろ聖餐杯」  今や人型の死と化した存在は、無感動な声で終わりの拳を握り締めた。彼の攻撃を防げる者など存在せず、しかも何発だろうと発射可能。  攻勢に出続ける限り、ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲンは無敵に等しい。 「これはおまえの戦場だ。むざむざ負ける気などあるまい。 さあどうする。得意の小賢しさを発揮してみろ。俺の聖戦につまらぬ処刑の記録など刻ませるな」 「それとも――」  振り上げられる幕引きの一撃。その炸裂を前にして、告げた言葉は意図的だったのかどうなのか。  だが何にせよ、それはトリファのもっとも深い部分を打ち砕くことになる。  面罵でもなく、挑発でもなく、ただの事実であるがゆえに―― 「相変わらず子供を殺すしか能がないのか」 「―――――ッ」  絶叫は、血の色に染まっていた。 「抜かせぇッ!」  拳と掌底がぶつかり合い、爆発音が轟いた。トリファの右手は依然健在であったものの、今の激突で何かが明らかに壊されている。  言うなれば、それは〈聖餐杯〉《ぎょくたい》に対する支配権。盾は消滅し鎧は無視され、借り物の肉体に宿る魂が一部完全に砕かれた。マキナの拳と激突した右腕は、もはやぴくりとも動かせない。 「私は二度と、私の愛を失わない」  しかし、彼に窮状を悲観する空気は一切ない。  共に弾かれた両者は向き合い、そこに不可視の戦意が渦を巻く。屋上の舗装に亀裂が走り、校舎全体が荒ぶる闘気に鳴動していた。 「私は負けぬ。私は死ねぬ。私は永遠に歩き続ける――止まりなどしない! 永劫償い続けるのだ。あなたのような都合のよい〈安息〉《おわり》など要らない」  吼えるトリファは意を決した。  事ここに至ればやることは一つだけ。あらゆる不安要素を度外視しても、己がもっとも信ずる武器を出すしかない。  すなわち全身全霊、究極の技を―― 「おまえは俺を、奴隷と言ったな」  だが、膨れ上がる神気を前に、鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》は微動だにしていなかった。寂びた声音に憐憫すら滲ませて、淡々と告げるだけ。 「否定はしない。俺は戦奴だ。ハイドリヒに屈服させられ、繋がれた身を蔑まれても反駁はできん」  そう、彼は〈魔城〉《ヴァルハラ》の〈奴隷闘士〉《エインフェリア》。黄金の支配下から逃れられない存在ならば、この鋼鉄にはあれを使うしか道がなく…… 「〈Briah〉《創造》――!」  再度聖槍を召喚する。先刻、一度出したそれを消したのは、この奥義が致命的な〈弱点〉《あな》を生じさせるからに他ならない。  なぜなら鉄則として、究極の盾と鎧に覆われたまま抜刀は出来ぬのだ。必殺の攻撃に出るということは、同時に守りを失う状態を意味している。  しかし、それでも構わない。もとよりこの敵を前に防御は無意味。守勢をかなぐり捨てて全勢力を攻撃に注ぎ込む。マキナと対峙した者は、たとえ誰であろうとそうせざるを得ないのだから当然だろう。  無論その選択は、自分本来のものとかけ離れていると分かっていたが。 「〈Vanaheimr〉《神世界へ》――」  もはや是非もなく、否応もない。今宵二度目の創造に、魂が悲鳴をあげるが総て無視した。  私は死ねない。死んではならぬのだ、負けてたまるか! 「だがな――」  刹那、奥義の激突が起こる瞬前のこと。 「おまえほど矛盾してはいないつもりだぞ」 「―――――」  マキナの言葉が、何よりも深く、トリファの胸を撃ち抜いていた。  真の意味での致命傷は、その一言だったのかもしれない。 「〈Goldene Schwan Lohengrin〉《翔けよ黄金化する白鳥の騎士》」  迸る黄金の〈聖槍〉《ひかり》――その輝きを絶対と信じながらも、ヴァレリア・トリファは矛盾している。 「過信。そして相反する過小。それがおまえの敗因だ」  代行として得た力を無双と信じる反面で、大元となる力の深遠を軽んじた。自分が理解できる範囲でしか、その強大さを受け止めようとしなかった。  逆徒として、主の威を借る者として、それは当然の歪みだろう。  ラインハルト・ハイドリヒの力を借りて、他ならぬラインハルト・ハイドリヒを封じ込める。そんな願望を懐くなら、対象を最大限に認めつつも何処かで軽視せねばならない。  本来、勝利への寄る辺とするべき自力を持たない身なのだから、敵の強さと弱さを同等に信じなければならないという背反。  狂おしく強さを渇望しながらも、自己の練磨ではなく他者への変身という手段を用いなければならなかった現実。  その弱さが、すなわちヴァレリア・トリファという男の限界を示していた。  彼は〈鍍金〉《めっき》。黄金にはなれない。 「ああ――」  そうか、そうなのだ。二度と失わず総てを救い続けようと願ったが。  この〈聖餐杯〉《うつわ》は破壊の君。  総てを壊す〈怒りの日〉《ディエス・イレ》の具現でしかない。 「テレジア……」  リザ、そしてこの手から零れ落ちた数多の〈愛〉《なげき》よ。  私は救いたいと願う者ほどこの手で壊す。私の愛が破滅を呼ぶ。  そうした業を持って生まれた事実に対し、邪なる聖者とカール・クラフトは六十年前から言っていたのだ。  ゆえに――  必殺と信じた聖槍は標的を捉えられない。  肩口を擦過した黄金光に一片の恐れも見せぬまま、交差法で黒い鉄拳が落ちてくる。  幕を引こう、と。  この歪んだ聖道を歩き続けた道化の人生、真実と呼べるものは何も無く――  終わりの一撃を胸に叩き込まれたその瞬間、ついに真の黄金が降りてくる。  砕け散る〈僧正〉《ビショップ》……チェス盤の上で塵に変わっていくそれを見下ろし、ラインハルトは目を細めた。  城の玉座に座したまま、物憂い微笑を浮かべて呟く。 「大儀だ、聖餐杯。卿の巡礼、私の中で永遠に続ければよかろう。そう悲観したものでもあるまい」  彼は総てを愛している。総てを飲み込み総てを壊す。  今、その世界が溢れ出す。 「私だけの覇道を示そう。カールよ、共に〈既知感〉《ゲットー》を超える時が来た」  揺らめき、解れ、沸騰していく〈悪魔の城〉《ヴェヴェルスブルグ》。その正体は、数百万を超える死者が折り重なった地獄だった。  彼は戦争の化身。世の悉くを血の混沌に塗り潰す者。  そして―― 「〈Dieser Mann wohnte in den Gruften, und niemand konnte ihm keine mehr,〉《その男は墓に住み あらゆる者も あらゆる鎖も》〈nicht sogar mit einer Kette, binden.〉《あらゆる総てをもってしても繋ぎ止めることが出来ない》」  〈赤騎士〉《ルベド》は謳うように吟じ、祈った。彼女の総てを捧げた絶対の主が待ち望んだ時を祝うために。 「〈Er ris die Ketten auseinander und brach die Eisen auf seinen Fusen.〉《彼は縛鎖を千切り 枷を壊し 狂い泣き叫ぶ墓の主》〈Niemand war stark genug, um ihn zu unterwerfen.〉《この世のありとあらゆるモノ総て 彼を抑える力を持たない》」  〈白騎士〉《アルベド》もこの時だけは殺意を忘れた。内に猛り狂う衝動よりも上位の忠誠を優先し、かつてただ一人己を負かした主のために戦闘を止め恍惚する。 「〈Dann fragte ihn Jesus. Was ist Ihr Name?〉《ゆえ 神は問われた 貴様は何者か》」  〈黒騎士〉《ニグレド》とて例外ではない。彼もまた城に縛られた〈戦奴〉《エインフェリア》なのだから。 「〈Es ist eine dumme Frage. Ich antworte.〉《愚問なり 無知蒙昧 知らぬならば答えよう》」  配下の忠誠を愛しみつつ、黄金の獣は無限の地獄を引き連れ、嗤った。 「〈Mein Name ist Legion〉《我が名はレギオン》――」  飲み込んでやろう、この世界を。 「〈Briah〉《創造》――」  ここに、〈修羅の世界〉《ヴァルハラ》が降りてくる。 「〈Gladsheimr〉《至高天》――〈Gullinkambi fünfte Weltall〉《黄金冠す第五宇宙》」  それは定め。  この街が誕生して以来、決められていた避けようのない現実。  空を塗り潰していく混沌から奇怪な城が姿を現し、その魔力に抵抗できない弱い者から魂を奪われていく。  六十一年前のベルリンにおいて、これとまったく同じことが起こった。  かつて魔城に吸い上げられ、その一部と化した戦鬼の群れが唱和する。  〈勝利を〉《ジークハイル》。  〈勝利を〉《ジークハイル》。  〈勝利を我らに与えてくれ〉《ジークハイル・ヴィクトーリア》。 「承諾した。共に約束の時を祝おう」  たなびく〈鬣〉《タテガミ》のごとき髪は黄金。  総てを見下す王者の瞳も、やはり黄金。  この世の何よりも鮮烈であり華麗であり、荘厳で美しくもあると同時に、おぞましき黄金。  人の世に存在してはならない、愛すべからざる光の君。  城のテラスより眼下を見下ろすラインハルト・ハイドリヒは、ついに肉体を持って帰還を果たした。  あと一つ。あと一つの開放でこの〈城〉《グラズヘイム》は流れ出す。  いと小さき者共よ、我が〈魂〉《ヴェルトール》に渦巻く歓喜の天を知るがいい。 「果てに未知の世界を渇望する」  それこそが、私を壊した友との誓いなのだから。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 13/13 Swastika ―― 7/8 【Chapter ⅩⅠ Ghetto der Ewigkeit ―― END】  総ての物事は始まり、終わり、そしてまた始まる。  その当然にして絶対の不文律、何者にも覆せない世の理。発生したものが何であれ、収束させなければ次へは永遠に辿り着けないという、至極当然の事実。  歩けなければ走れない。  生まれなければ死ねもしない。  当たり前のことだ、餓鬼でも分かる。  簡単な理屈である以上、これ以上説明のしようがない。それだけにそいつは例外の無い強固な道理として、世のあらゆる場所に顕現しているのだから。  ああ、思い当たる。その通りだろう。この身を縛る忌々しき業、未来永劫奪われ続けるという宿命を解き放つには、つまるところそれしかない。  誰に言われるでもなく、己の勘は心の奥で訴え続けていた。  ──やり直せ、ケリを着けろ、と。  全身を這い巡る血液は脳を通るたび、煩いほどにそう喚いていたはずではなかったか。  そう、ならばまず、斃すべきは総ての発端。  絶つべきは因縁であり、吸い殺すべきは積もりに積もった因果の禍根。  ああ、分かっている。誰よりも分かっている。それをやり直さない限り己は前に進めない。  ゆえに打倒すべきものは過去にあり。  穿ち、討ち捨て、何に代えようとも乗り越えなければならぬ、その決着とはつまり── 「───さて、ヴァルハラへようこそ、ベイ中尉。心地はいかがかな?」 「いい気分ですね。想像通り、此処の空気は悪くない」  魔王の城、そこにある玉座の間に二人分の声が響く。  主としての威風をたなびかせ、深く腰をかけた黄金の獣を前に、ヴィルヘルムは跪いた姿勢のまま粗野な口調を隠さず笑っていた。  かつて黒円卓の総本山であった魔城への帰還。それでありながらもラインハルトが感想などを尋ねたのは、この城が六十年の時を経て、配下の記憶にあるだろうそれを遥か上回る異界へと変貌したからに他ならない。  そして無論、ヴィルヘルムもそのことを理解している。理解したうえで取るに足らぬと断じている。彼にとって月は月。愛しき天体であることに違いはなく、どれだけ遠く離れようと、質量が億倍になろうとも、懐く思いは何ら変わることなどない。 「まあ、元々俺にとっちゃあ城だろうが馬小屋だろうが同じなんですが、ここだけは別格でしょうよ。 何より匂いがいい。この半世紀ほどで世の中どこもかしくも様変わりしちまったが、此処は何にも変わってねえ。本質はそのままに、住み心地だけがよくなってるときた」 「ほう。つまり、万事不変のままであると?」 「そりゃそうでしょう。誰も、どれも、何一つ変わっちゃいない」  それが実に心地よい。自分の遥か上に存在する威光も、その所業によって生まれた異界も、総てが変わらぬまま高みにある。あってくれている。  その戦奴たる大隊長らも同じことだ。マキナもザミエルもシュライバーも、どいつもこいつも雁首揃えて、何一つ変わっちゃいない。誰もが無限の闘争に囚われたまま、地獄の一部として繋がれている。 「ザミエルがよく栄光だの何だの口にしちゃいましたが、今なら俺にもその輝きってやつが少しはあるんでしょうかね?」 「なにせ黄金のお膝元だ。どこ向いたって照らされる」 「然りだ、中尉。卿はすでに、私の恩寵を約束されている。その事実、恐ろしくはないかね?」 「ハッ、まさか」  鼻を鳴らし、笑いを噛み殺すように否定した。  まったく否だ。それこそあり得ない。  他の面子ならばともかく、こと自分においてそれは不要な問いだろう。 「どこぞの腰抜けどもと一緒にしないでもらえませんかね、ハイドリヒ卿。 俺は連中と違う。獣の爪牙になる権利は紛う事なき勲章でしょうよ。呪いか何かのように扱う奴らは、てめえで臆病風を自分に向かって吹き付けてやがる。ボケが、上等じゃねえか。永遠に戦い続けられるっていうのによ。これ以上の〈祝福〉《ヴァルハラ》なんざ、どこに行こうとお目にかかれやしないだろうが」  自分は今、幸福の内にいるのだと信じて疑わない。  熱を孕み、殺意を宿した双眸で、あくまで無頼な態度を崩さず答えるヴィルヘルム。その言葉は忠誠の証であり、終わることなき闘争を駆け抜けんと欲す、彼なりの矜持でもあった。  だが── 「ではベイ、卿はいったい何が物足りぬ」  至極当然のように、黄金の瞳が秘めた不満を射抜いていた。 「自らの欲するままに生き、呼吸と同義に血を吸い猛る闇の不死鳥。 ゆえ、卿にとって我が祝福を受けることは呪詛でなく福音であり、何物にも替えがたき勲であると。 それはよい。満たされるというのは至上だろう。長年に渡って焦がれたものを得られる幸福、私も追い求め続けている身である以上よく分かる。 だからこそだ、疑問が残るな」 「卿は満たされていると吼えてはいた。理屈の上でも合っていよう。しかしそれでありながら、未だ飢えている私と近しさを感じるのは如何なることか。 達しながら足りぬ。得ながら飢える。矛盾だなベイ、韜晦などする男ではあるまい。 その胸を穿った空隙、埋まらぬほどの穴であるなら、卿は忠を誓わぬだろうよ」  ヴィルヘルムの求めるものが、黄金でさえ与えられない領域にあるのであれば、彼は臣下の礼を取りはしない。己を低く偽ることなど、天地が入れ替わってもやらぬ男だ。 「ならば、つまりその喜びは予定なのだろう? 卿は今、満たされているのでは断じてない。これより満たされるための術を、ついに見つけ出したのだ。 カールの宣託を、存在の根幹に刻み込まれた呪縛を乗り越える、その術をな」 「クッ──ハハ」  思わず漏れ出した苦笑は肯定の意だ。  見透かされている事実など、すでにこの主君の前では当たり前すぎる。  ならばこそ思うべきは、部下たる己を理解してくれているというその喜び。これより語る、その願いの内容だった。 「ええ、まあ仰る通り。ちょいとばかし、進言しておきたいことがありましてね。薄々感づいちゃあいたものの、そいつは明らかに露骨すぎてた。訝しんでみれば、機会を逃して結局今の今まで引っ張られたわけですよ」  何せ、因縁とはすなわちアレだ。  あまりの悪臭ぶりに鼻が詰まってしまい、おかげで今まで見過ごしまったほどだから── 「つまり〈最〉《 、》〈初〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》検討はついていたというわけか」 「そうでしょうよ。それこそが、俺の膿だった」  始まりがおかしい。結末が欠けている。辿り着いていないのだ。自分はどこにも、どこにだって。  だからそれ以降、総ての物事に結末が訪れない。手を伸ばしたもの悉くから、袖にされ続けてしまう。  ならば、まずはその一点。最初に奪われ、引き伸ばされたままの決着をつける。ゆえに望むべきはただ一つの許可のみ。 「アレに打ち勝ったなら、〈白騎士〉《アルベド》の席を俺に与える……ってのはどうですか?」 「ほう」  愉快そうに細められた瞳が、薄くヴィルヘルムを射抜いてくる。真意など、すでに丸見えであるに違いないというのに。 「シュライバーと戦う、それが卿の望みだと?」 「理性のカッ飛んだあの馬鹿には騎士なんざ無用ってことですよ。 奴ァすでに……いや、元からそんなご大層な称号、相応しくなかった。こりゃあ間違いだったってことでしょう」  どの口が吐くか、すらすらと意味の無い建前を述べる。  筒抜けの本音を互いが知り、笑いながらその茶番を続ける。続けていく。  何せ騎士の座を賭ける決闘、それの承諾を今から得るのだ。ならば今この瞬間だけ、彼は〈英雄譚〉《サガ》の勇士でなければならない。 「それに、ああ……野郎の力だけはどいつも認めているでしょう。そこについちゃあ俺も例外じゃない。 ただ、その名乗りが相応しいかと言えば考え物だ。まあ怪物につける首輪としちゃあ上等でしょうが、ケダモノは着飾ることなんざ意にも介しちゃいませんよ」 「なるほど」 「しかし今のシュライバーは、卿の称した通り怪物だ。 その名に恥じぬ〈凶獣〉《ヴァナルガンド》。誰にも捕らえられぬ」 「だから、俺がその最初になるんですよ。本来そうなるべきだったはずが、今までそうならなかったから誰にもできなかった。覚えているでしょう、ハイドリヒ卿」  そもそも凶獣と吸血鬼の戦いが、宙に浮いたままになったのは何が原因か。 「ああ、ふふふ……無論忘れておらぬよ。半分は私のせいと言いたいわけか」 「ええ。だから──」  刹那、抑えきれず滲み出る狂想。 「──シュライバーを斃せば、俺は満足できるかもしれないんですよ」  真なる願いと渇望の露呈、主従の口は示し合わせたかのようにつり上がる。  ここに至り、初めてヴィルヘルムは打倒すべき宿敵の名を口にした。 「それさえ叶えば、メルクリウスの言葉すら乗り越えちまうってことになる」 「さすれば卿は、真実黒円卓の一番槍。カールの〈神託〉《のろい》を覆した、誉れ高き〈白騎士〉《アルベド》というわけか」  それはすなわち、持って生まれた業の踏破に他ならない。  カール・クラフトによって自覚させられ、受け賜った祝福と呪詛には黒円卓の全員が囚われている。  例外は一人もいない。  事それは、ラインハルト・ハイドリヒにすら当て嵌っているのだから。  言うまでもなく、彼らにとって何より特別な意味を持つ命題であろう。  宿業からの脱却こそ、戦鬼が望む最大の壁なのだ。 「それを俺が、あなたに教えて差し上げられるかもしれない。……どうです?」  その大それた、ともすれば妄言とも取られかねない言葉。  倣岸不遜な笑みで、変わらぬ狂気を秘め、しかし主の先を行くことを許せと抜かす。その馬鹿げた提案に答える声も、やはり常軌とはかけ離れた場所にあった。 「よかろう、ではご教授願おうか。 卿の進言叶えてやろう。部下を労い、抱えた心情を汲むのもまた、〈指揮官〉《わたし》の務めであるならば。 願うものがあるのなら競い合い、そして奪い取ってみるがいい。奮戦を期待しよう、ベイ」 「〈心得ました、我が主〉《ヤヴォール・マインヘル》」  歓喜に奮えながら立ち上がる。玉座の間から退室し、逸る心のままに歩を進めていく。  そうだ、これで己に欠けるものは何もない。黄金の牙として、総てを吸いつくす薔薇になるのだ。  どれだけ、どれほど血を啜ろうと、月のように輝き続ける白薔薇に。 「で、おまえらとしても異論は?」  玉座の外に控えていた〈赤と黒〉《ふたり》にも、ヴィルヘルムは問いを投げる。 「ないなら行くぜ?」 「ああ、異論などないよ。ハイドリヒ卿の御下命だ」 「…………」  彼らは〈魔城〉《ヴァルハラ》の〈不死英雄〉《エインフェリア》。己が力と技を誇っているが、その座に新参が食い込むことを疎ましく思うような小人ではない。無限に殺し合い、無限に戦う者として、むしろ歓迎さえしているだろう。あくまでヴィルヘルムに、その格があればの話だが。 「そうかい」  ゆえに気遣いも忠告も端から不要。相応しければ生き残り、そうでなければ死に絶える。それだけの話であり、もとよりシュライバーに関する情報など、まったく必要としていなかった。  彼らはいみじくも、互いに時代の歪みと不遇によって誕生した非人獣。本能的な破壊適正のみが特化された同種の異端であるゆえに、相通じる何かがあるのは道理だろう。  黒円卓において、〈白騎士〉《アルベド》の危険性を最も理解しているのは、他ならぬヴィルヘルムなのだから。 「勇戦を期待するよ、ベイ。私は貴様のことがそう嫌いではない。 ヴァルハラ流出に先駆ける号砲だ。その歓喜をもって、惰眠を貪る者らに戦火の何たるかを知らしめるがいい。 勝つにしろ、負けるにしろ」 「華々しく踊れってか? おお、言われなくてもな」  銜えた葉巻から紫煙を燻らせているエレオノーレに、ヴィルヘルムは破顔した。 「しかしどうしたよ。妙にしおらしいじゃねえかザミエル。バビロンを殺った感傷にでも浸ってんのか?」 「抜かせ。貴様の知ったことではないわ」  返答は苦笑交じりで、彼女の心情がどうであるかなど分からない。本気で探ろうとする者も、今この場にはいないだろう。 「私は私なりに、残してきた同胞のことを気にかけていた。貴様も例外ではないよ、ベイ」 「もはや他に誰もおらぬのが寂しい限りと言えるがね。せめて一人くらいは英雄の座に上がってほしいものだと思っている。でなくばハイドリヒ卿も失望しよう。 月並みだが、武運を祈るよ」 「そいつはまた光栄だ」  実際、エレオノーレ自身も興味のある対戦なのだろう。なぜなら彼ら二人の最初の勝負に、彼女もまた立ち会っている。 「今はキルヒアイゼンがおらぬし私も動かん。邪魔が入る余地は皆無だ。存分にやるがいい」 「おお、特等席で見てなザミエル。あの日の続きだ、楽しめると思うぜ」  そして、その脇を通り過ぎる刹那。 「ベイ――本懐を果たせ。おまえが始まりを開くがいい」  宿命の断絶を何より願う死者から送られたのは、他者にかけた言葉ながら誓言に近い響きだった。  呪縛を凌駕し、その機会を得たのならば勝て、と。  未だその機会を取り上げられたままの男が、時が来たのなら必ず成就させると掲げた誓いが、耳朶を静かに震わせた。  それに振り返らぬまま、ヴィルヘルムの笑みはさらに濃く、深くなる。  やはりここが自分の居場所だ。奴にくれてやるにはもったいない。 「そうだな、マキナ。その通りだとも」  俺らはそろそろ、このくだらない呪縛を根こそぎ駆逐してやるべきなのだ。  如何にしても、何をもってしても、何一つ得ることができない。  心より願ったものほど、この手から遠ざかっていく。  その、まるで道化めいた悪夢の運命。  悪意で出来たような、しかし絶対の法則をもって繰り返される絵空事。  胸を焦がすような熱を飲み込み続ける、そのような人生になった総ての発端がそこにある。  つまるところ自分には、まだ終わらせていない始まりがあるのだ。  それを片付けない限り事態は不変。このまま永遠に奪われ続けていくことになるだろう。  始まりが終わらなければ、別の始まりは何一つ発生させられない。  単純な理屈。ゆえに、ああ、だから── 「く、ハハ──そうだったよなあシュライバー。俺とおまえこそが、始まりの鐘声だ」  これはそういうことなのだ。どちらが先に、ラインハルト・ハイドリヒによって屈服させられ、忠誠を誓ったのか。  お互い絶対に譲れぬ、しかし周知の事実と公言を許されているその権利。  すなわちそれが〈白騎士〉《アルベド》であり、黄金を構成する一角だった。  魔城の門が開いた瞬間、夜の街へと白い体躯が躍り出る。  高速で撃ち出された砲弾のように、しかし無音の静けさで一筋の白が軌跡となり、流れていき──  未だ終わりなく、取り上げられたままの決着。  黒円卓の誕生から発生した勝負は、今再び半世紀以上もの時を経て再開しようとしていた。 俺が意識を取り戻したのは、あれから丸二日経った後だったらしい。 変色した空を眺めないために、窓を閉めた。 変わり果てた外界を見たくない。そこにあるだけで疲労感を増すものなど、一見の価値もないからだ。俺が目を覚ましてから、やったことと言えば本当にそんなことだけ。 ここも安全ではないと分かっている。街はすでに無人の廃都で、安物の仮舞台じみていると言っていい。 それが……そんな有様が、俺達の住んでいた街の現状となっている。 そのことに自分は何も出来なかった。 ……壁に空いている、香純との部屋に続く小窓が遠い。そこをノックすれば、ひょっこりと顔を出してくれるのではないだろうか、なんて甘ったれた考えがよぎるほどに。 「……………」 「……………」 目を伏せて、先輩は無言のままベッドに腰掛けている。 言いたいこと、伝えたいことは互いに伝えた。だからこれ以上言い募る言葉がなくて、隣り合いながら彫刻のように動かない。小さな呼吸の音だけが流れている。 まるでふさぎ込む子供のようだ。無力感と選んだ道の重さだけが、傷ついた身体を打ちのめしていた。 マリィ…… 呼びかけに答える声はない。ここにいる三人目の彼女は、しかし気づけばこの腕からその存在を感じ取れなくなっていた。 ふさぎこんで悲しみに膝を抱えているのか。それとも本当にどこかへ消えてしまったのか、それすらも分からない。 自分を責めていたことも、その後悔も知っている。彼女の心はやっと生まれたばかりだったのにと……そう考えるたび腕の重量を確認したのも、一度や二度じゃない。 宿る処刑具へ祈るように。心の底から、どうか俺の側から離れないでくれと願う。 だから、なあ、頼むよマリィ。君はもう数少ない、俺がまだ守り抜いている特別なんだから。 と……そんなことを考えていたとき。 「あのさ」 不意に、先輩がぽつりと言った。 「今、別の女の子のこと考えてなかった?」 「え、あ、いや……」 図星と言えば図星なんで、咄嗟に反応ができなくなる。 「しかも当たっちゃうし。まあ、いいけど」 「どうせ、前に会ったあの子のことなんでしょう?」 「そりゃあ、はい……」 クラブで一度、彼女とマリィは顔を合わしている。あの時は確か、だいたいの事情は聞いたというようなことを言っていたと記憶してるが、実際のところこの人は、マリィをどの程度認識しているんだろうか。 「ああ、いいから説明しなくて。別にそういうの知りたいんじゃないし、ちょっと私も気になってるだけだから」 「気になるっていうと?」 「すごい責任感じてたでしょ。あの後フォローとかしてるのかなって、思っただけ」 「それで、フォローしたならどんなフォローだったのか気になるだけ」 「……………」 「なにその目は?」 いや別に何もないが、どうも妙な勘違いをされてるように感じてしまった。 「フォローは、してないですね。出来てない」 実際、マリィと面と向かって接したのは城での件が最後だ。今も呼び出したところで出てきてくれない。 「そう。なんだか遣る瀬無いね」 俺が忸怩たる思いを隠さず言うと、先輩も俯いてそう漏らした。 「私はあんまり、勝手な人物評をするのは好きじゃないんだけど、あの子はなんだか危ういよ。どんな色にも染まっちゃいそう。藤井君がちゃんとしてなきゃ駄目っぽいね」 「……………」 「心当たりある?」 ある。実際ありすぎる。中々そちらに手が回らなかったので脇に置いていた問題だが、マリィは俺が教会でラインハルトと対面したあたりから明らかに様子が変わったのだ。 ごく普通の女の子のように、笑って、怒って、そして泣いて……それは事態が逼迫してなきゃむしろ喜ぶべきことだったのでスルーしていたが、もしかしたら失敗だったのかもしれないと思い始めている。 「先輩の言う通り、あの子は俺の気持ちに引きずられてるようなところがある」 「考えてみると、マリィが強く何か言うようなときは、だいたい俺も冷静じゃなかった」 「それは気が合うとかって意味じゃなくて?」 「そうかもしれないけど、何にせよ先輩の印象は当たってそうだよ。マリィはどこか、ちょっと危ういところがある」 なぜならあの時、城で怒りに我を忘れた瞬間に、マリィも同じく激昂していた。まるで同調するように。 そして挙句に、あの様だ。桁外れの力を得た代わりに、自我を失うほどの変貌、変身……先輩の前じゃ言えないが、俺はあれについてマリィを塗り潰したかのような気分になっている。 俺自身の、渇望で…… だから詫びるとかいうこと以前に、俺は彼女のことをもっと知らなければならないのだろう。今のままでは、明らかに手落ちな感が否めない。 「迷惑、かけたから……なんとかしたいんですけどね」 「そう。でも何か、藤井君は藤井君で後ろめたいみたいだけど、向こうだってそうなんじゃない?」 「え?」 「だから、会ってくれないイコール顔も見たくないっていうのは短絡的って話。会わせる顔がないっていうのあるでしょう」 「あの子はどっちかっていうと、そういう感じに見えるけど」 「…………」 確かに、言われてみればその通りに思える。俺は俺で色々考えているように、マリィにも色々あるだろう。 まあその辺りを埋めるためにも、まずは対話してみないことには始まらないが…… 「…………」 今この場で試しても上手くいかないのは割れてるし、かといって抜き差しならない状況に陥ったらそもそもそんな暇はない。 現状、余裕はほんどない。しかし街がこの様になった以上、第七と第八を奴らはどうやって開くつもりか。俺が動かない限り向こうも手詰まりなんじゃないのか? 「…………」 いやでも、城は奴ら自らが出してきたんだ。自分でやっといて困ってるなんて間抜けな話はないだろう。 だったら、俺はどうするべきで…… 「…………」 今、最優先でやるべきことはなんだろうかと考えていたら…… 「おほんっ」 何か、これ見よがしな咳払いで思考を中断されていた。 「藤井君、真面目なのはいいけどさ。どうせならもっと楽しい話をしようよ」 「そんないきなり、楽しい話って言われても」 「たとえば熊本には、日々どれくらいの数の熊が生まれては消えていくのだろうとか」 「……………」 「熊を擬人化したキャラの語尾にクマがつくのは、そもそも誰が始めたんだろうとか」 「藤井君と熊がステゴロしたら、どういう結果になるんだろうとか」 まあ、一つ不穏当なネタがあったのは無視しよう。 「先輩。なんか熊本県に恨みでもあるんですか?」 「ないよ。まったくない」 そんな即行で棒読み調に否定されてもな…… 少なからず困惑する俺から目を逸らし、先輩はなぜかちょっと怒っているような感じになる。 「えっと、俺、何かしましたか?」 「何も」 て態度じゃないんだけど。 「何もしないから、少し腹立つ」 「は……?」 「だから藤井君、私に何もしてこないよね」 「……………」 そんなことを、いきなり俺は言われてしまった。 「なんだろう。私達って、結構すごいこと言ったりやったりしたような気がするんだけどな」 「藤井君的には、別に大したことじゃなかったのかな。他に仲いい子がいるみたいだし、私の前で堂々とその子のこと考えだすくらいだし」 「一言でいうと、結婚詐欺師だよね」 「いや……」 俺は別に、結婚云々は一度も口にしたことないんだけど。 「実際、なに話したらいいか分かんなくて」 確かに彼女の言うとおり、俺達は互いに色々と言ったり言われたりしてると思う。半分意識はなかったが、朧気ながらでも覚えているんだ。 それでまあ、面と向かうと照れが入るというか、妙に緊張するというか。とにかくそんな感じなんだ。 「だから楽しいことを話そう?」 だけどこの人は淡く笑って、そっと俺の手を握ってくる。 「真面目なことや哀しいことは、考えだすと私達、駄目だよ」 「藤井君は一人で突っ走りだしちゃうし、私は逃げたくなってきちゃう」 「お互い、そういう悪い癖があるじゃない。言ったよね? 覚えてる?」 俺は無言で、ただ頷いた。忘れてなんかいるはずがない。 「こういう言い方も変だけど、たぶん私達、相性あんまりよくないよ。だから誰かが、間に入ってくれないと駄目で」 「遊佐君だったり、綾瀬さんだったり、それにあの子……名前、なんだっけ?」 「マリィ」 「マリィちゃんとか。そういう誰かがいないとね。ちょっと破滅型なんだよ、私達」 「司狼もたいがい、破滅型だと思いますけど……」 「ああ、あの子もそんな感じだね。でも、いたら場が和むよ」 「和むって言うより、キナ臭くなるって言ったほうが……」 「まあとにかく」 話を聞けと言わんばかりに強く手を握ってきて、先輩は言った。 「今は前向きに、能天気にいこうよ」 でないと哀しすぎるし辛すぎる。暗にそう言っているような気が俺にはした。 「お互い、悪い癖出さないように、できるだけシリアス禁止」 「なんか、締まんないですね、それ」 苦笑混じりな俺の愚痴を彼女は無視して、そのまま明るい調子で続く言葉を口にした。 「藤井君は、私のこと好き?」 それはあまりにもいきなりすぎて、少々どころじゃなく面食らう。 「私は好きだよ。キミのこと」 だけどこの人はまったく躊躇せずに続けていった。 まるで、今のうちに吐き出さなきゃいけない何かがあるのだと言うように。 「リザは私の曾お祖母ちゃん。イザークは私のお祖父ちゃん」 「だからね、リザには私がキミを好きだってこと話したよ。そしたら言われた。怖いって」 「怖い?」 それはどういう意味だろう。彼女らの血縁には今さらさほど驚きはしなかったが、あのシスターらしくない言い様に俺は疑問を持ってしまう。 「怖いって、何がです?」 「私がキミをなんで好きかって、理由をちゃんと言えなかったから」 「そんなの……」 世の中の恋人同士やら夫婦やら、そういうものの大半だってちゃんと説明できないだろう。俺の完全な主観だが、ずばり何処其処がいいと言ってるような奴のほうが、胡散臭く見えてしまう。 「引力が恐ろしい、みたいなことをリザは言ってたよ。私も正直、ちょっとは怖い」 「どうして?」 好きだと言われている照れ臭さより、よく分からない理屈でそれを否定されるのが嫌だった。 ああ、つまり、俺自身、この人に好かれるのが嬉しいということだ。今さら妙なカッコをつけてもしょうがない。 「俺も、先輩のこと、好きだよ」 すごい照れたが。 「その、これも何か問題があるって?」 問う俺に、先輩は若干だけ困ったような顔をした後、こちらの目を見て短く言った。 「イザークはね、金髪に金の目なんだよ」 「――――――」 「リザは、父親に似すぎているからイザークが怖かったって、言ってた」 「これは、どういうことなんだろうね?」 「………そんな」 どうしたもこうしたもないだろう。 実際には状況証拠にさえならないだろうが、まともに考えて答えは一つしかありそうにないんだ。 「私は、そういう血を引いてるのかもしれない」 「そして藤井君は……」 メルクリウス……カール・クラフト。黒円卓の双首領は盟友同士。 「少しは怖くなったでしょ?」 「それでも藤井君は、好きって言ってくれるかなって……訊くの怖かったけど、訊いちゃった」 言いながら、先輩の肩は小刻みに震えている。 「まあ実際、すごい地雷女だよね。色々と設定が最悪っていうか、普通の神経なら関わりたくないだろうっていうか」 「私自身、真面目に考えると引くもの。リザだってそうだったんだから、今さら藤井君にちょっと怖がられるくらい、平気…かな。うん、平気だよ」 なのにそれを隠すように、この人はあまり得意じゃないだろう長文台詞なんか喋っている。そんなんで何が誤魔化せるのかさっぱり見当もつかないが、そういうずれたところが氷室玲愛っていう女の子の持ち味だ。 「だいたい、確証ないものね。まさかあの人相手に、お願いなんでDNA鑑定させてくださいとか、チャレンジャーなこと言える人は地球上にいないだろうし」 だから、そういう彼女が好きなんであって。 「ああ、もう。やっぱり暗くなっちゃうよ。だからやめよう。このことは忘れて熊本の話をしよう」 そんなあからさまに失敗したみたいな顔で慌てなくても大丈夫だから。 「えっ…と、クマはクマは、クマのカレーライスがそういえばあるらしいって」 「それ、北海道だから」 言って、俺は彼女の両肩を掴んでいた。 「………っ」 「悪い癖、出てるぞ先輩」 最初は強気で威勢もいいけど、やばくなるとすぐビビる。この人が抱えてる問題がそんな言葉で片付けられるとは到底思っていないけど、軽めに話してほしいのならそうするだけだ。 「俺、まだ何も言ってないのに、勝手に話変えちゃ駄目だろ」 曰く、俺達は相性が悪いそうで。 別にいがみ合う関係ってわけじゃないけれど、一緒にいればお互いダークに転げ落ちてしまうらしい。 だから軽く、何事もあっさりと……そんな付き合いを彼女は望んでいると言ったし、俺も別に異論はない。 だから…… 「地雷女とか、言ってたけどさ」 「なんか、設定からして最悪とか言ってたけどさ」 それってつまり、こういうことだろ? 「すごいヒロイン属性じゃんかよ。キャラ立ちすぎてるって、本当に」 「……………」 俺の言葉に、先輩は目を見開いて放心していた。 「おまけに誕生日クリスマスだし、もうすぐだし」 「ここまでくれば神懸かってるだろ。そうそういるようなレベルじゃないって」 「ぁ、う……その…」 ぼそぼそと、頬を真っ赤にしながら彼女は呟く。 「じゃあ、私……藤井君の、さ」 「ああ、ヒロインだよ」 そのまま、こっちもいい加減恥ずかしかったので彼女を力いっぱい抱きしめた。 「やっぱり、やっぱり結婚詐欺師だ」 だから、なんでそうなるのか俺にはさっぱり分かんねえ。 「嘘ついたら、怒るよ。今は本音でも、結果的にそうなったら許さないから」 「一人でカッコつけて死んじゃったら、ラインハルト城に召喚してやるんだから……」 なんて、ぶっそうなことを言いながら。 「それが嫌なら、絶対、約束」 「ああ、約束する」 俺は、勝つ。もう二度と、奴らに負けたりしないと誓うよ。 震えながら、今の自分は幸福だと抱きつく先輩に、一層の愛しさを感じる小さな体を抱きしめながら、温もりの一つ一つを体と記憶に刻み込む。 そうだ……何があってもこれだけは渡さない。離さない。 見えない何者かへ宣誓するかのように、この少女を今一度強く抱きしめる。 もうこれ以上失わない、何一つ。 ──守り抜くのだ、この手に残った僅かな総てを。 その愚かしい戯言を今こそ誇ろう。鼻で笑い飛ばされる言葉、すでに失った輩が何を言うかと。そう言いたければ言うがいい。 先輩を──氷室玲愛だけは、何を対価にしようと守り抜く。 己へ科す最後の誓い。優しさと想いに包まれながら、俺は二度と破れぬそれを胸に、瞳を閉じた。 あのとき、城であの一瞬……知ってしまった一つの事実に、ある種の恐怖を覚えながら……  では一つ、ある男の話を取り上げてみよう。  時代が生んだ歪みであり、生まれるべくして誕生した〈半人獣〉《キメラ》。  意図せず重なった数多の要因により形作られた怪物は、如何にして夜の寵愛を受けるようになったのか。  これよりそれを、しばしの間語ってみるとしよう。  時は第一次大戦の末期にまで遡る。世界中が狂気に酔いしれて疲弊していく最中、彼はうら寂れた貧民窟でこの世に生を受けた。  無論のこと母は〈花〉《 、》〈売〉《 、》〈り〉《 、》だ。それしか生きる術がないし、さらに言うなら父はその稼ぎで飲酒に溺れるろくでなしであった。  この事実からして、少年が祝福のもとに生まれた存在でないことは明白だろう。  何にせよ幸福な要因はそこに欠片もなく、彼は文字通りただこの世の内へと〈生れ〉《こぼれ》落ちたのだ。  劣悪極まりない最悪の環境だと思うかね。それともあまりの不幸に同情を懐くかな。  確かに、まともな神経を持っていれば、もはやこの時点でこれから始まる己の生に希望を持てはしないだろう。今の時代を生きている者であれば、これが虚構でなく事実であるというだけで眉を顰めるに違いない。  しかし悲しいかな、当時の状況は戦時下だ。  狂気こそが正気。総ての価値観は愚かしくも歪み、しかし理性を取り払った純然極まりないものであった。  この程度の不幸は何処にでもありふれている。そのために彼の誕生は容認され、畜生としての生を世の道徳に見過ごされたのだ。生まれながらに敗者の烙印を押されたとも言えよう。  それでも少しだけ、彼が特別であるという部分を上げるなら、それは二点。  一つは〈先天性色素欠乏症〉《アルビノ》として生まれたがため、日の光に疎まれたこと。  陽光は容赦なく皮膚を焼き、太陽は彼を夜の世界へと閉じ込めた。昼と夜、世界からさえその居住権を半分奪われたと言ってよい。  誕生より奪われし者。ヴィルヘルム・エーレンブルグとは、すなわちそういう存在だとこの時から運命付けられた。  そしてもう一つは、姉のことだろう。  彼らを編んでいる血肉。それは彼を語る上で外せない、己の存在に対する信頼と不信感を同時に育んでいく事となる。  この二点。これこそが、その後における彼の人生を凡百の敗者達と決定的に分かつ要因となった。  昼が奪われたということは夜という住処を得たことでもある。  それを祝福と信奉し、妄信した果てに、彼は夜を我が物として暴力の才能を開花させていくこととなる。  皮肉にも生まれは底辺でありながら、闘争においては類稀なる資質を備えていた。  背負い込んだ負の要因と比例するかのように、少年は夜の世界において版図を広げていく。  己が宿命を乗り越えるため。屑から生まれたという事実を塗り潰し、淘汰することを求めて彼は暗闇の領域をただ駆け抜けた。  ───結果、当然の経過として彼は親殺しを敢行する。  父は殺し、姉をもその手で焼き捧げた。  元より煩わしい戯言を囀るだけの存在だ。自分が掃き溜めから生まれた畜生なら、彼らは粗悪な楽器だったという認識でしかない。  そして、彼はその殺人を機に確信を得て悟る。  ──己は吸血鬼だ。  それは誤認。しかし同時に、何よりも凄烈な存在への解。  ──深淵な夜の闇こそ我が世界、我が領土。  ああ心地よい倒錯感。度し難い思い込み。それであるがゆえに、なお強く自己へともたらされる変革の産声。  ──この世の誰一人、ここでは己に敵わない。  狂念は現実を歪め、現実的な力をもたらしながら深まっていく。  その結果として、ここに妄執は真実へと変貌した。  肉親の殺害に彼は後悔など何一つ懐かない。しかし達成感を得るだけのものであったと、その容易さとは裏腹に今でも信じている。  生まれ、始まりを凌駕したいのならば当然の決断だった。  まずは彼らを糧にしなければ自らを塗り替えることなどできはしない。察するに動機としてはそのようなものだったのだろう。  他意はなく、真実それが総て。  短絡的な思考と、それを躊躇なく実行する異常性を孕んだ行動力。  だが彼は自らの嗅覚に最大の自信を持っていたし、実際それは解決策としてこの上なく当たっていたのだ。  つまり始点の清算。生まれが縛るのならば、その生まれを破壊する。  過去は動かない、常に手足を縛っている。泥より重く蛇より執拗。裏切れば報復まで来る以上、目を背けるなどもっての他だ。  最初に、最速で、最短を実現して、殺す。  楽しむのはそれから。厄介なそれが終われば次が始まり、余裕と遊びの余地が生まれる。  獣の脳にそれはひどく単純な道理であり、現状を変える特効薬であったのは想像するに難くなかろう。  事実、肉親の殺害以降、彼はまさに無敵だった。その人生においてさしたる難敵は現れず、阻むものなど何もない、まさに意のままの状況が続くこととなる。  彼は環境の生んだ〈半人獣〉《キメラ》。  あらゆるものを叩き潰し、夜に羽ばたく不死鳥として己が存在を確立していく。  後天的だが、しかしある意味、先天的とも言えよう。  時代背景によって誕生した、戦争の申し子。  その彼にしてみれば、満足できる敵に不足してはいたものの、この時は人生における栄光の期間だった。  それは自らと同種の怪物であるウォルフガング・シュライバーと遭遇し、諸共ラインハルト・ハイドリヒによって屈服させられるまで、無敗の歴史として続くこととなる。  ゆえに── 「ああ、勘のいい君ならもう判るだろう」  茫洋と。煙に巻かれたかのように、〈揺蕩〉《たゆた》っていた思考が引き戻された。 「今、君の立つ地平こそがその中枢。彼が溜め込み、同時に流し続けた流血の運河なのだ」  さながら夢を引き剥がされたかのように。  こいつが何を見せ、何を自覚させたかったのかを理解した。 「ふーん」  依然、頭の中に響く声へ、素っ気無く応える。  なるほど、確かに言われた通り。この光景はたった今聞かされた情報と合致していた。  いかにも詐欺師くさい口調に胡散臭さを覚えるが、その迂遠さながらも真実を語っているのは確からしい。  血液、暗闇、紅の薔薇。迷宮の形に整えられた風景は、ざっと見渡しただけでも完全な規則性を体現して並び立っている。人工的に整えられた薔薇の庭園でもこうはいかない。  こんな場所に放り出される前の記憶とさっきの話。照らし合わせてみれば、自分が何処にいるのかということに疑う余地は無かった。 「どうかね。感じ入るものはあるかい?」 「別に。珍しくもねえよ、こんなの。日本の桜だって、似たような逸話持ってるしな」  血液と植物は何かにつけて結び付けられる。  死体以上の肥料は無い、という皮肉なのか。それとも滴る緋色の雫に、人間は妖しい魅力を見出してしまうのか。自分には知ったことじゃないし、正直どうでもいい。  重要なのはそんな感性云々の些事じゃなく、もっと別のことなのだから。 「結構。さすがはあれの友だ、君も実に素晴らしい」 「…………」  この止まない吐き気を催す声、それを如何にして止めるかだ。 「しかし、些か軽率だったとは思わないかね。ここはベイの腹の中、興味に駆られて踏み入れた先は虎穴などの比ではない。 君の狙いは分かっているが、それにしてもこれは愚策と言う他なかろう。その決断がではなく、その選択にこそ私は嘆きを覚えるよ」 「……買いかぶりだな。オレはただの考えなしがいいとこだよ」 「否、それはない」  背筋へ――知らず悪寒が走る。  強く返された言葉は断定のそれだ。心の底からそう思っている、いや── 「〈君〉《 、》〈に〉《 、》〈限〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》〈決〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  それが当然なのだと語る口ぶりは、そう決まっているとでも口ずさむ悪魔の囁きに等しく、脳を揺さぶった。 「聖遺物は魂を喰らい、それを糧として駆動する。ならば内に取り込まれたとしても、霊的な死亡が訪れるまでは猶予がある。 強靭な魂であるならば、喰われた後も自我を保てるということだ。今の君が陥っている窮状のようにね。 その状態から聖遺物を奪い取り、逆に支配することができれば……想像の通り、物理的に質量を取り戻すことも可能だとも、ああその理論に不備は無い。賛辞を送るよ、正鵠を射ている」 「しかし、そうしかしだ。何事にも強度と呼ぶものがある。それが君の妨げだ。元来存在する相性、特性、まるで運命によって用意されたかの如く存在している器物。 大半は勘違いによって成り立っているが、ならば総てが偽りであるかというとそうでもない。極少ながら確実にそのような組み合わせは存在し、そこに入り込む余地を、他の誰も持ち得ない。 まるで赤い糸だ、二人の〈絆〉《あい》は誰にも断てぬ。一度結ばれてしまえばそこで完結してしまう。どれだけ麗しく着飾ろうとも、〈間男〉《きみ》では彼らの仲を引き裂けぬ」 「闇の賜物は、カズィクル・ベイを愛しているのだから」  魂の強弱ではなく、相性が問題だと道化は語る。  ヴィルヘルムの過去は先ほど知った。そして闇の賜物、その名が自分の予想通りドラクル公の血液だというのならば、なるほど納得するしかない。  ……運命の赤い糸とはよく言ったものだ。  吸血鬼の伝承にして象徴、出会うべくしてヴィルヘルムとそれは出会ったのか。 「獲れぬよ。ベイと聖遺物の結びつきは生半可なものではない。親和性だけでいうならば、黒円卓の中でも群を抜いている。 最上はマキナだが、それに勝るとも劣らん。ベイと出会い、喰われた時点で君の目論見はとうに破綻していたのだよ。 もはや意味の無い仮定だが、選り好みするべきだったのだ。仮にこれがマレウスやバビロンならば、あるいは獲れたろう。 しかし〈蒼褪めた死面〉《パッリダ・モルス》では君の才を発揮できまい。力で奪い取れようとも今度は相性の粗悪さが露呈する」 「レオンハルトやトバルカインでは、櫻井の血から生じる相性によりこれも不可能、奪取できぬ。大隊長三人は、先のマキナから他二人まで言うに及ばず論外だ。相性、力量、共に並外れた域にある。内からの干渉ですら微塵も揺るがん。ゆえに君が獲得でき、加えて遺憾なく才を発揮できるのは、その実マレウスの〈血の伯爵夫人〉《エリザベート・バートリー》一択だったということになる。 お分かりかな。君は奪い取るべき手合いを間違ったのだ。もはや出来ることは、紅で彩られたこの庭園で、永劫流浪し続けるしかない」 「はっ、そうかよ」  吐き捨てるように鼻で笑い、改めて周囲の光景に目を向ける。そんなことは、ここに落ちたときからなんとなく分かっていた。  自分に合う合わないじゃなく、合いすぎる誰かがすでに先約済みなのだと。  そんなことよりも、問題は別。すでに理解していた事実を教師面で、楽しげに語るこの声の方が、先ほどからよほど癪に障っていた。  口調が、雰囲気が、見たことも無いはずのその面構えが……  総て自分の神経を、最大効率で逆撫でしている。猛毒を鼓膜や毛穴から流し込まれているかのようだ。  こいつとは気が合わない。未来永劫分かりえない。二度と会いたいとも思わない。  いや、これはそういうレベルの嫌悪感じゃない。度がすぎている。群を抜いている。形容のしようすらない桁と質が並外れている───この本能的な忌避感はいったいなんだ?  なぜ自分はさっきから、こいつの存在そのものに異常な敵意を抱いている? 顔どころか声しか聞こえてこない、亡霊の囁きみたいな誰かに。なぜ?  ともすれば、これはまるで。  〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈奴〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》のだと。そんな馬鹿げた思考すら、突拍子もなく脳裏を掠めて過ぎるほどの─── 「然り、それが答えだ」  そんな、口にすら出してもいない思い描いただけの言葉に。 「君の存在はそのためにある」  薄ら笑う声は、声だけで醜悪に口を歪めながら、肯定した。 「何を驚くことがある。君はずっとそうしてきたはずではないか。 〈代替〉《あれ》の日常を、その渇望を、君は実に容易く砕いてくれた。砕き続けてきた。ああ誇るがいい、喜びたまえ。確かにお膳立てを整えたのは私だが、この〈恐怖劇〉《グランギニョル》、真なる幕開けを促したのは他ならぬ君だよ。 引きこもりがちな主役を舞台袖から引っ張り出さねば、いかに舞台装置が整っていようと、喜劇にも悲劇にも成りはせぬ。成ってはくれぬのだから」  何を、この声は言うのか。  くたびれた老人のような、それでありながら感謝しているような声で、何を…… 「否定は出来まい。そう、君が砕いた。常に、何時も、何時だとて。 そして導いてきた。常識や凡庸さ、世に満ち満ちている彼の幸福を蹴散らして、あれの願う既知を淘汰し続けてきた。 己が願いを満たすためにそう動いた理由は一つ、いずれ来るべき主演の隣であるために。あれの渇望に対する、その終焉を見せてやるために」 「私にとっての友のように。彼にとっての君なのだ。 否定はできまい。理解が及ばぬのなら、順序を追って顧みるがいい」  ──あの日の屋上で。藤井蓮の日常を、最初に破壊したのは誰だ? 「今展開している現状を、あれは果たしてどう感じる?」  ──ヴィルヘルムに殺されて。藤井蓮に取り戻すべき日常を喪失させたのは誰だ? 「おかしいとは思わなかったかね。そもそも、なぜ君とあれが友情を持つ? あれはまさに君の正反対、遠い地平の両端だ。理屈を納得することはできても、心情は決して理解ができぬ。 永遠に繰り返していたい。同一の事象を飽きることなく何回でも。……馬鹿馬鹿しい渇望だとも、正気ではない狂っている。目新しいものを好み、事態の変革をこそ願う君の感性は実に正しい」  そして羨ましいと続けた呟きが、確かに聞き取れた。  そこに込められた万感の想い。自然に宿っている感情の重みに目眩がする。  こいつは本気で、遊佐司狼のその在り方に羨望を懐いている。誰もが思い描く、新しい何かを願うという感情を得がたい宝石だと認識していた。  そして── 「ゆえに、生まれるのだ。我々の隣には君たちのような存在が。私を壊すために、私を救うために」  悪魔の声が、己の存在を破滅の救済であると、口にした。 「………救う、だと?」  呆然と、思わず聞き返してしまったことを後悔し、返ってくるのはやはり満足げで儚い微笑の音色だった。 「死ねなかっただろう? 生きた心地がしなかったろう? 総てが容易く、しかし満足がいかぬ餓えの日々。だが救いはけして訪れぬ。終われぬ始まれぬ何処にも行けぬ。 それも当然、さしずめ君らは癌なのだ。宿主を〈未知〉《し》に導くまでは、どれだけ願おうとそれが訪れることは決してない。 まるで御伽噺から飛び出してきたかのような英雄か魔王。ご都合主義の塊にして、破天荒極まりない人の限界を振り切れた超人。我らにとって最大の鬼門でありながら、それでも目を引く英雄譚の主人公。それが君らだ」 「既知をかき消す、〈自滅因子〉《アポトーシス》。 〈喜劇は終わり〉《アクタ・エスト・ファーブラ》」  切り離せない二面鏡の向こう側。  対岸の火事まで主役の手を引いて進む〈蛮勇の英雄〉《ドレッドノート》。  物語を円滑に進ませる、最も重要な舞台装置だと、それは語る。 「高所では墜落を、刃物を持てば自傷を、成功より破滅を。覚えがあろう? 本来は忌避してしかるべき概念だが、それを前にした途端まるで麻薬の如き甘美さすら伴い、その妄想に脳髄を痺れさせることがあると。 我らが願ったから、君はそうなったのだ。私と私に繋がるあれに、深く関わった者は極小の確率でそのようになる。 既知を終わらせるため、〈君〉《 、》〈達〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈は〉《 、》〈実〉《 、》〈に〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」  ……深く、息を吐いて。 「つまりだ。あれか、オレは蓮とおまえのラジコンだと? バカこけ、てめえならともかく、あいつがんな面倒くせえこと一々やるタマかよ」  だからお望みどおり壊してやるのなら貴様だと。出来うる限り平坦な様相で、その戯言に首を振った。  しかし、それもこの男には詮無きことで。 「そしてそれは、君達が傍らの少女にまで隠し通した、あの罪にまで遡る。 そうだ。君が初めて、あれと少女、二人の日常を破壊した瞬間だよ」  やはり耳障りな声による禁忌の指摘に、今度は目の前の光景が歪んだ。 「十一年ほど前だったか。君は幼馴染の父親を殺害し、君の友がその事実を隠蔽した。幼き君らは容疑者に上がらず、うまく隠し通せたがために誰一人疑わなかった。 結果、奇怪な拷問部屋を隠し持っていた父親が人知れず事故死したとして、事件は周囲も当事者に対しても一応の顛末を迎えることとなる。 衆愚への結末としてはそれで十分であろうし、君らにとってもそれで話は終わりだったかもしれないが…… 果たして、その父親にしか知りえぬ忘れ去られたままの真実というものは、どこにもなかったであろうか?」 「たとえば、件の父親とその娘である君の幼馴染。彼と少女の間には、実のところ血の繋がりなどなかったとか」 「はぁっ? なんだって?」  思いもよらなかった内容に、素っ頓狂な声が漏れる。  子供が手品のタネをばらしたときのような、楽しげな気配が流れた。 「初耳だろう? それもそうだ。君も覚えているかもしれないが、その男は小心者でありながら、分不相応な望みには手を伸ばしたがるという小物でね。 当然のことながら、己の足跡だけを消すのが巧かった。また、他人を一切信用しないというところなど、典型例そのままの男と言っていい。 ただ役職だけが特別でね。第三帝国の残党を匿うことを目的に作られたオデッサ、その末裔だったのだよ。彼らの支部は極秘裏に日本にまで及んでいたというわけだ」 「そして彼は、〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈物〉《 、》を預かるという重要な役目を負っていた。 本来自分のような末端、そのような大任を預かるわけもないのだが……黄金練成の輝きに目が眩んだのだろうね。それが目覚め、自我を持ち、自律活動するまで扶養することのみが、彼の持つ本来の役割だった」 「────」  無言で先を促す。  預かった〈者〉《 、》が何だったのかは問わない。問う必要もないし、問いかけてわざわざ反吐の出る気分を味わうつもりもない。 「しかし人の欲は限りがない。彼はやがて、その預かったものだけでは満足できなくなったわけだ。 ならば、次に何を求めるべきか? 男は考えた。聖遺物を御するには臆病な上、才能もない。超人には憧れるが、己の身体に兵器を埋め込むようで躊躇われる。 理想は常人である彼にでも手に負えて、さらに傲慢にも切り札と成りえるもの。そのように、手軽で強大なものをこそ求めた。そして」  その次に、先の言葉と繋がる言葉があるのなら。 「香純、だな」 「その通り。もう一人のゾーネンキント、その奪取だ」  苦笑というか、呆れのため息を漏らす。  ああ目に浮かぶようだ。どこから知ったのか、なぜ自分などに知れたのか。そんなことにすら気づかず喜び、体よく踊っているあの変態親父の姿が。 「彼はゾーネンキントが物心つく前に行動を開始し、速やかに本来の両親を殺害、己が養子とすることに成功した。 幸い己の妻は凡庸にして善良だ。こちらの都合など欠片も知らぬ。善意という塗料で容易く騙され、その後目覚めた預かり物と共に仮初めの家族を演じることとなる。 君達によって、あの家庭に一石を投じ、波紋が立つまでは」 「ああ。で?」  いい加減無駄話の領域に突入していた話にかぶりを振る。蛇足というか、意図の読めない真実の暴露とやらに、こちらもいい加減鬱憤が溜まっている。 「そんでだ、てめえいったい何が言いたい。香純の親父のことなんか、今更の話だろうが。 やり口が面倒くせえんだよ。オレの役目がどうこう言ってたんじゃねえのかよ、さっきのがなんか関係あるってのか」 「分からないかね?」  にたり、と。粘性を持った泥のような、最大の俯瞰と悪意を伴った嘲りを感じて。 「ああ分かんねえな。さっきの話のどこが、どうして、オレと関係あるってんだよ」 「それだ。何もない。隠されていた真実はこれが総て。君が知ったとしても、特に変わりえぬものばかり」 「幼馴染である二人には動揺を生もうと、君がそこに混ざるべき要因がどこにもないのだ。まさか正義という旗に縋りつき、友の惨状を救うという義憤に駆られたわけでもあるまい」 「ああ、だから……」 「そう、ならば──」  ある家庭に致命的な亀裂を刻んだ、父親の消失に対して。 「蚊帳の外である君が、なぜ、あの父親を殺したのかな?」  なぜ、本来関わるはずのない遊佐司狼という人間が、殺人の実行者という最重要の人間となっているのか。 「なんでって、そりゃ……っ」  それは、己が脳髄を〈縛〉《いまし》む既知感。それを初めて感じた瞬間。  ……二の句が継げない。  喉が麻痺した、呼吸が怪しい。視界が一瞬でブレていく。総てが漂白されて無音になった。  意識に生まれたその空隙は、こいつが何を言いたいのかを理解して、完全に凍り付いていく。 「そうだ、こう言い換えれば分かりやすかろう。 父親が死んだことで、〈最〉《 、》〈も〉《 、》〈得〉《 、》〈を〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》?」  それは、遊佐司狼が願ったことではなく。何も知らない少女の方ですらなく。  救われた者。該当する存在は、最初から一人しかいなくて── 「父親を排除したいと、〈心〉《 、》〈の〉《 、》〈奥〉《 、》〈底〉《 、》〈で〉《 、》〈願〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》?」  だから、君が彼のために動いたのだと。  〈蜉蝣〉《かげろう》となった声が、少しずつ薄れながら、悪戯の見つかった童みたいに笑っている。 「理解したかね。認めたまえ、君はあれを救うために、導くために、壊すために、生かされている逆しまの合わせ鏡。 最も近く、決して合わさらず、そして実像に左右される鏡像だ。 君の〈脳〉《あたま》には電極が差し込まれているのだよ」  ──それこそが、〈脳〉《蓮》と〈手足〉《司狼》の関係。 「君の既知は永続し、伝播する。侵食と増殖を繰り返す獣の総軍と同様に。痛みと渇望を〈瘧〉《おこり》の如く、微熱を孕ませ〈感染〉《うつ》していく」  反論の悉くを捻じ伏せる水銀の呪いが、いま彼の人生に打ち立てられた。 「ならばこそ、役目を果たせよ〈自滅因子〉《アポトーシス》。再び主演を引きずり出すがいい。 君が本懐を遂げるには、もはやそれ以外に有り得ない。さもなくば私とあれに永劫囚われたままだ」  遠ざかる声と連動するかのように景色が戻っていく。  紅だらけの薔薇園へ再び佇み、悪意から滴った言葉が最後に小さく飛沫を飛ばした。 「それでは、最後に一つだけ、君に忠言を残しておこう。 この世界を抜け出したいというのなら、その核を探すがいい。ベイがまだ人であった日の始点をだ。 楔となっているもの、つけ込むならばそこしかない。健闘を祈っているよ。 私もまた、君に魅せられた者の一人なのだから」 「──抜かせ」  食いしばりすぎて砕けた奥歯の欠片を吐き捨てる。  血と唾液の混じったそれを踏みしめて、すでに何もいない、いや本当にいたのかすら曖昧な虚空を睨み付ける。  脳味噌はすでにアドレナリン漬けになっている。元々ぶっ壊れた頭だが、蒸発寸前まで煮立っている様が激情として理解できた。  胸糞が悪い最悪の気分だ。腐泥が起き上がって言葉を喋りだしたら、きっとああいうものになるに違いない。 「そこで勝手に一人酔っ払ってやがれ。てめえの与太なんざ、知るか」  何気ないように拒絶を叩きつけて、こっちから嘲笑うように見下した。  どうせ意図せぬ呟きすら聞いているだろう。遠慮なんてあれには不必要なものでしかない。  ならば、いいぜ、下世話な出歯亀野郎。  癪だが乗ってやるとしよう。此処を出なければ何も始まらないというのは、絶対の事実なのだから。  好きなだけ囀っていればいい。あれの言葉が仮に真実だというのなら、自分は貴様をブチ殺してやれるということだろう。 「………」  不意に耳へ届いた聞きなれている声に振り返る。  遠くから自分の姿を確認したのか。駆け寄ってくる二人分の影に、思わず髪を乱暴に掻きむしった。  ……実にタイミングのよろしいことだ。用意周到すぎて、不快極まりない。 「──っ、司狼! よかった、やっと見つけた、っていうか本当にいたよ、よかったよー……わぷっ!?」 「落ち着けコロポックル」 「おおおわわわわわわっ、ちょ、やめて、よ、こらやめろー!」  頭に置いた手で適度に目を回させて黙らせておく。  相変わらず能天気でよろしいことだが、現状を理解しているのかどうか。してないんだろうな、きっと。 「おっす。どう、元気してた?」 「いんや、最悪だ。もうちょい遅れて来いよおまえら」 「何よそれ。 ていうか、やけに機嫌悪そうじゃん。どしたの?」 「別に。ちょいと純粋培養のお坊ちゃんみたいな気持ちを味あわされただけだ。思春期にかかる、遅めの麻疹みたいなもんだよ」 「ますます訳わかんないんだけど」 「ボクはボクだ、ママの敷いたレールなんてうんざりなんですー、ってやつさ。後で思い返して死にたくなるって評判のあれ」 「あんたは直行でバイク盗んで走り出すタイプでしょうが」 「そりゃそうだ」 「ああもうっ、いい加減あたしの頭から、手を離しなさいこのスカポンタンっ!」  ようやく手を振り払い、頬を膨らませる香純。どこに行こうとも変わらないバイタリティはこっちとしても都合がいい。そう苦笑する。 「さて、相方にペットも揃ったとこだし。行くか」 「ちょっとあんた、誰がペットよ誰が!」 「OK。なんかアテは?」 「こら、そこ。そういう認識で進めない。あたしがそこの狂犬の飼い主なんだから」 「あんなこと言ってるけど」 「ほっとけ。その内満足するから。で、だ」  漫談を切り上げて、視線を庭園へと向ける。親指で示した先は、この光景のまだ見ぬ向こう側だ。 「たぶんあっちが臭いな。まあぶっちゃけ勘だが、いつも通り適当にやりゃあなんとかなるだろ」 「あー、やっぱりそれかぁ。実際センサーとしちゃそこそこ優秀なんだけど。今ひとつ根拠がねー」 「根拠、ね」  あるにはあるが、それを口に出さず苦笑するに留める。  行き先は、恐らく間違っていない。  〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈思〉《 、》〈う〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。毛ほども信じちゃいないが、その腹立たしい理屈でいけば必ずどこかには辿り着ける。 「……ていうか、さ。ここいったい、どこなの? なんか、すごく危なそうっていうか、怖い人が来たと思ったら……あたし突然こんな場所にいるし」 「あたしと一緒にね」  そして自分は一人だけ切り離されたわけだ。  余計な真実の押し売りを受けるために、わざわざあの声の主によって隔離されたと見るべきか。 「エリーが司狼も必ずいるっていうからついてきたけど………ねえ、ここってなんなの? 気味悪いよ」 「どこまで行っても同じ風景だし、空気だって不自然に湿ってるっていうか、ぬめっているっていうか。 このバラだって、なんだか、そのっ」  まるで血液のように、異常なほど瑞々しさを放っているから。 「ねえ、ここ変だよ。どう考えたっておかしいもん」 「あたし達何があったの、どうしてエリーと司狼も一緒にいるの、この状況って何、全然繋がらない。 もしかしてあたし達みんな、とっくに……」 「そこまでにしとけ、バカスミ」  悲観的な言葉を遮る。納得をしていない目をしているが、今はその議論よりやることがある。出ようとするほうが先決だからだ。  こいつが気づいていないのならそれでもいい。どの道巻き込んだツケだ。  分からないなら分からないままで、先に進めばそれでいいだろう。まずは何より、行動を起こさなければ始まらない。 「でも――」 「どの道ここでくっちゃべってたって答えなんか出ないぜ」 「どっちにしろ、気味悪いならさっさと出ちゃえばいいんだしね」 「……出るって、どうやって?」 「さあな。だが入ったんなら、出口の一つや二つは見つかるんじゃねえの?」  へらりと言った言葉はお気に召さなかったらしく、半眼で睨まれた。 「またあんたは、そんなアバウトな……」 「諦めなって。こいつがいつもこんな感じなのは、香純ちゃんの方がよく知ってるでしょ」 「……はあ。分かった、分かりましたよ。 なんか不安だけど、この場はあんたの言うとおりにする。勝手に連れ回されるのは、もう慣れちゃったもんね」 「おお、そりゃよかった」  不承不承ながらも落としどころが決まったようで何よりだった。  方針が定まったのならば、元よりこんな場所に長居は無用だ。このままだと、下手をすれば全身から血臭が取れなくなるだろう。  錆付き始めている鼻だけに、最後に吸うのがこんな鉄分臭いのは御免こうむる。  どうせならシャバの空気を吸って、小気味よくシメといきたいところだ。  煙草の煙すらも、ここでは紅く湿気てしまいろくに吸えやしない。 「さて……」  視線の先には薔薇の迷宮。最奥は数多の花弁に阻まれて、一筋縄には辿り着けない。  ここはカズィクル・ベイの体内。  絶望の足音で満たされているのは無論のこと、間を置けばいつ薔薇の養分へ分解されるかも定かではない。  それでも今は、ただ朴訥に前進を続ける。それしか出来ないのだからやるだけだ。 「待ってな、すぐ行くぜ」  誰に、何のために言ったのか。そも誰の元へ行こうというのか。  己の感情から選択したものだと信じて疑わぬまま、役目を果たすための行動は、彼の背中を確実に後押ししていた。  日の差さない、暗闇と紅に彩られた世界を三人で進む。  右に、左に。たびたび出現する分かれ道は迷宮のそれで、目印など何一つない。統一された外観はそれだけで平衡感覚に浸透する毒なのだ。  幾度も遭遇した分かれ道は、総てが切り貼りされたかのように同一の風景で立ちはだかっている。  もはや来た道を辿って戻ることすら、誰一人できそうにない。 「…………」  しかしこの光景。見れば見るほど不可解だ。  空は日の光も差さず暗黒の色合いをしているというのに、しかし視界は一切の不備なく保たれているというのは、どういう理屈か。  薔薇が発光しているわけではない。紅色のフィルター越しに世界を覗いている感覚はあるものの、認識する妨げにはなっていない。あくまで自然に、暗闇のはずである風景を見渡すことができている。  この世界を作り出した人間の視界には、闇がこう映るのか。  それともすでに自分達は肉体を失っているからか。どちらにせよ愉快な想像じゃなく、辟易するように、その思考を断ち切った。  湿気も酷い。まるで透明な霧の中にいるようで、呼吸すら億劫になってくるような錯覚がある。自分でさえこれなのだ、後ろに続く彼女らがどれだけ神経を削っているのかは言うまでもない。  ……粘りつく大気。鮮血を〈塗〉《まぶ》されている。  血液とは〈毒素〉《いのち》の比喩だ。ここではその法則しかなく、総てがその理論に直結する。  吸血鬼の〈心臓〉《ちゅうすう》は悪意と殺意を体内に送り、血管を進む自分達は容赦なくその奔流に巻き込まれている。 「次は……こっちだ」  数えるのも馬鹿らしくなった分かれ道を選択する。  逡巡は微塵もない。ここでは躊躇が己の首を絞めると知っていた。 「ねえ、司狼、ほんとにこっちで合ってるの?」 「三人でうんうんうなっても、結局どれか選ぶしかないだろ」 「そりゃ、そうなんだけどさ……」  地図も目印も頼りもない。ならば適当に選ぶのと熟考することの間に違いはない。  口ごもる香純の背をエリーが押し、後ろから急いで駆け寄ってくるのを感じてからさらに曲がる。  移動は黙々と続く。まるで磁石か何かで引き寄せられ、引率されていくかのように進んでいた。  右。左。左。次は右。正面。  正解が近づいてきて、終点の息遣いに耳を澄ます。不確かな確信が止まらない。  影のような悪寒がひたひたと足元へ忍び寄り、怖気を伴って踵から背筋まで一気に駆け上がる。  ──居る。いや、在る。  恐らくはすぐ近く。得体の知れぬ、情念と妄執が混じり合った何かが、残骸のように打ち捨てられている。  それを感じ……しかし迷わず、その存在へと足を伸ばした。 「──はっ、おいおい」  思わず呆れ声が漏れる。  曲がり角の先。目の前には、どこかで見慣れた白蝋の色彩を持つ少年が不機嫌そうに立っていた。  そういうことかと、周囲の景色を見ながら思う。  見慣れた薔薇園の向こう側に、まったく別の場所の……路地裏のような匂いを嗅いだ。 「えっと、子供……? ていうか君、なんでこんな所に一人で──」 「ちょい待ち、香純ちゃん。それ以上近寄らない方がいい」 「え?」  思わず生来のお節介で駆け寄ろうとした香純を硬い口調でエリーが留める。視線をよこしたのに頷き、二人を下がらせたまま無遠慮にガキの方へ近づいた。  オレの思った通りならば、こいつが香純の手に負えるはずもない。 「よう、坊主。こんなとこで何してる」 「………」  言葉に対する反応は一切ない。しかし体から立ち上る殺気は、目の前に敵がいても相違ない質と量だ。  獰猛に形を歪めた眼光に、周囲へ見境なくバラ撒かれている敵意。明らかに外見の年齢とは不釣合い過ぎる凄烈さには、現状を忘れて感心したほどのもの。  獣のように口から犬歯を覗かせる様は記憶にある男の仕草そのもので……なるほど、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈頃〉《 、》からこいつは吸血鬼だったのだと司狼は悟った。 「……喰いたりねえ、ああつまんねえ」  ぼそりと漏れたのは、呪詛と不満の声。  含まれていた感情は、飢餓の獣が懐くそれと同一のものだった。 「どいつもこいつも、んだよ粋がるのは最初だけか。 ちょいと遊んでやればこの様だ。人を散々屑だの何だの抜かしておいて、腕の一本でも裂いてやったらもう命乞いかよ、くだらねえ」 「なんだそりゃ? 屑って言ったんだろ、屑と思ってるんだろ、ならそれに頭下げてるてめえらはなんだってんだ。屑以下じゃねえか、あっさり肯定しやがって。 そうまで自分が惜しいかねえ、楽して壊して哂いたいかよ。ハッ、救えねえな、そりゃ屑か。 なあ、おい。なんか言ってみろよ、なあ」 「──ひッ!?」 「っ、……」  語りかけた先、気づけばそこには幾人もの死体が、どれも凄惨なまでに壊されたまま横たわっていた。  首と手足が玩具のように折れ曲がっているもの。  強烈な怪力で上下に背骨ごと圧し折られたもの。  切り取られた頭部が腹部の空洞へ埋め込まれているものまである。  数は恐らく七人分ぐらいか。  確証を持てないのは、誰も彼も身体のどこかが欠けているからだ。残った部位を繋ぎ合わせれば、たぶんそれぐらいの体積はあるだろう、という憶測で測るしかない。  さらに言えば、生々しい光沢を放つ内臓や脳漿を見てまでそれを知ろうとも思えなかった。 「───」  その惨状を引き起こした張本人は、実に退屈そうに舌打ちをした。  これだ、すぐに死ぬ。すぐに壊れてしまう。自分は遊べないつまらない。  不満げな表情はありありと今の心境を語り、隠そうともせず苛立ちのまま死体に蹴りをくれて跳ね上げる。  ……それは飢餓感による癇癪。  満たされない、成功と勝利の安売りによってもたらされる、無意味な寂静感への不平だった。  蓮という存在がいなければ司狼も常に感じていたはずの、張り合うものがいないという飽きの念。自分にとって丁度いい存在への欠乏感だ。  少年はすでにその域なのだ。誰よりうまく暴力を発揮できる彼は、夜の世界を我が物としてから、もはやできないことが無くなっている。  最初に配置されていた敵はすでに喰い潰した。  今では喧嘩を売るような相手は他所から来た流れ者くらい。  手応えも歯応えもないのに突っかかってくることだけ得意な、彼我の力量差すら嗅ぎ分けられない愚鈍な餌ばかりだった。  彼は思う。夜に君臨して、この頃常にこう思う。  いい加減にしやがれ、残飯処理はうんざりだ。  やるならもっと工夫を凝らすとか、趣向に手間かけるとか、色々あるだろうに。こうまでくると期待する己こそが馬鹿なのか?  そんな気分すらして、彼は一層眉間の皺を深めた。  紅く揺らめく瞳孔と犬歯、さながら伝承上の吸血鬼みたいに月を睨む。 「あー」  死体から視線を外し、血の河を歩きながらぼやく。 「どっかにいねえもんかねぇ。丁度いい、骨のあるやつ」  自分と同じで、壊れているがゆえに壊れない遊び相手。  魂という燃料を使い切れる者に会いたいと零しながら……死体の群れと共に、その像は掻き消えた。 「……なによ、なんなの、今の」  震える声には取り合わず、無言でエリーに目配せする。説明して分からせる時間も惜しいし、それで騒がれるのも面倒だから。 「行くぞ」  宥めすかせている二人のやり取りを横目に、警戒心を強めながら探索を再開する。  起こった事態の異常性とは裏腹に足取りは強く、先の出来事を納得すると共に理解し始めていた。  考えられなかったことじゃない。ここがヴィルヘルムの体内であるというのなら、こういう事態もあって然るべきだろう。  血は人体の情報総てを運ぶ。  栄養を、酸素を。  細胞の一つ一つから互いに応酬し、肉体の隅々まで運搬する任を担っているなら、脳以上に経過を記憶した集積回路だ。  本人がすでに忘れ去った幼き形骸の〈記憶〉《フィルム》すら、ここでは再生を開始する。  ゆえに、先ほど聞き及んだヴィルヘルムの記憶、それを鑑みてみれば── 「カッ、はは、はははハハハハハハハハハァァアアアッ……!」  彼が行った、完全なる人からの脱却。  一つの起点ともなった親殺しに、ここで出合わないはずがなかった。 「ヒ──ひひ、はっ、おーおー、いい燃え具合じゃねえかよ。門出にしちゃあ中々だ。 そうだ燃えろ燃えろ燃えちまえ。俺を縛っていたもの、畜生の証明、胸糞悪い掃き溜めの情………なあ、ここで諸共っ、総てっ、崩れ落ちてしまうがいい、そうだろうよ!」  広がる光景は業火に焼かれる一つの家と、中に転がっている二つの屍だ。  父と姉。この二人はそれこそ原型を留めないほど、八つ裂きにされて転がっていた。  バラバラになった個々の部位は壁や床に縫い付けられ、内臓や骨ごと、昆虫採集のように〈磔〉《はりつけ》られたまま炙られていく。  再生されるのは人肉が焦がされていくその臭気まで。  彼の少年時代が、血筋という象徴ごと根こそぎ、形と足跡を失っていく。  火は不浄を焦がす。そのため俺は嫌ってきた。  だからこそ──この始まりよ灰になれ。  灰燼となり、この胸を焼く達成感の如く、我が生の糧になるがいい。  忘れられぬ夜。その熱と痛みで喜悦の歌声を張り上げろ。 「ハハハハハ、ハハハハハハハァッ! クひ、ひひっ、クククハハハハハ、ハハハハハハハハハァァァアアッ────!」  それはヴィルヘルム・エーレンブルグという男の人生において、心満たされた数少ない出来事の一つ。  彼が真なる魔へ踏み出すための第一歩が、高らかな哄笑と共に夜の帳を揺るがしていた。 「よくやる……」  ぼやくように呟いたのと同時、香純が口元を押さえて崩れ落ちた。  顔面は蒼白になり、胃からせり上がる衝動を吐き出さないよう、懸命になって狂気の光景に耐えている。  気丈にも立った姿勢を維持できているエリーも、その顔色は優れていると言いがたい。視線険しく、先ほどまでヴィルヘルムの虚像が笑っていた方向をじっと睨んでいる。 「……なんというか、まあ資料じゃ知ってたことだけどさ」 「聞くのと見るのじゃ大違いだわな。まあ傍観者が賢者ぶれるのはそのためだろうけどよ」  それでも、先ほどの情景には極大の悪意が渦巻いていた。  純粋培養の狂人による明確な殺意によって発生した凶行。  あれが過去、この地球上の何処かで実際に起こった出来事であるというだけで、汚濁を飲み込んだような不快感に見舞われる。なまじどうやって殺したか、その経過を事細かに知っている自分だけにその想いはさらに大きい。  もし犯してから殺す現場まで見せられたなら、香純は今頃意識の一つでも砕け散っていたはずだろう。 「………」  そしてそれとは別に、己の中で一つの確証が芽生え始める。  ここから出るためのもの。唯一特別なものとして、この世界に殺された時のまま残されているものを。 「しかしまあ、そうなると面倒だわな」  自分の予想が合っていれば、それこそ他人が奪うのは無理だろう。  ゲームによくある宝箱のようなものならよかったが、たぶんそう簡単にはいきそうもなくなった。  ならばさてどうするかと思案しながら、倒れたままの幼馴染に手を貸す。 「ほれ、掴まれ」  弱弱しく、無言で添えられた手を引っ張り上げる。顔色は依然蒼白のままで、小刻みに震えている身体はこのまま折れてしまいそうなほど疲弊していた。 「ねえ、大丈夫……なわけないか。ゴメン。支えいる?」 「……ううん、もう平気。ありがと、エリー」  無理に笑おうとして、少し型崩れした表情のまま礼を言う。  やせ我慢できるのはいいが、ここでは連れて行くしかない。退路というものがないため、無理にでも先に進むしかないのだから。 「………ねえ、司狼。 ここ、〈何〉《 、》〈処〉《 、》?」  震えながら口にした質問は確認に近かった。  曖昧にぼけたここへ来る前後の記憶。置かれている現状と、不可思議な現象との遭遇。鈍い香純でもさすがに気づき始めている。  すなわちこの世界に来る前どうなったか。 「さっきの人って、やっぱりあの怖い人だよね? なら、私たちが見たのって、やっぱりそういうことで……」  それは訪れた死を認めるということであって。 「もしかしてっ。……もしかして私たち、もう、とっくに───」 「どうだかな」  当然、それは──それだけは決して認めるわけにいかず、発言を遮る。 「どうだかって、そんなの、そうとしか思えないじゃない! ここおかしいよっ、さっきみたいなのが続けて見えるなんて、普通じゃない。どうやって来たかだって分かんないのに、どうして司狼はそう言えるの!」 「そりゃあ、出る方法を知ってるからな」 「ほら見なさいよ。だから実は私たち、もうみんなさっきの人に──て、へ?」  ぽかんと、さっきまでの剣幕もどこへやら、呆気にとられる香純。  テンパっていたのが嘘のように、口をぱくぱくさせている。 「あれま。あんた、それマジ?」 「まあ出口っつーか、出るのに必要なもんがあるっぽいんだけどよ。 元々欲しがってたもんも、そいつをどうにかしないと無理らしい」 「ふーん、罠とかみたいなの? もしくは門番?」 「いや、たぶん金庫に近いと見るね」  それかもしくは“楔”だろう。  これは自分の勘に近いので言わないが、未だヴィルヘルムの中に留まっているものというのは、即ちそういうものだ。  そうでなくばこの薔薇に満ちた世界、吸われて養分となるのがオチである。今の自分たちみたいに、双方向の執着が求められるはずだから。 「ほ、ほんとに!? 嘘じゃないよね、このタイミングで騙すとかなしだよっ」 「あらら、信用ないみたいよ、司狼。普段かまってあげないからじゃない?」 「オレはいいんだよ、そういうのは適任がいるからな。 つーわけで、ほれ、とっとと行くぜ。たぶんもう少しだ、さすがにそれまでは我慢しろ」 「う、うん……」 「はいはい。そんじゃ、もうひと踏ん張りいきますか」  ひとまず納得させることには成功したと見て、薔薇の森を突き進む。完全に信じているわけではないようだが、それでも時間稼ぎとしては上々だろう。  互いに触れたい話題でもない。  再び決定的な変化や異変に出会わなければそれまでは前に進むことが出来る。 「到着も近いだろうしな」  それは絶対の自信を抱く、確定に等しい予測だった。  二度にも渡って遭遇したヴィルヘルムの記憶らしき光景が現状を告げている。  あの声によって知った経歴もまたその裏づけとなり、事態の構造を把握させた。  次に、オレ達は最後まで辿りつく。  彼が真に満たされたのは、先の瞬間が最初で最後なのを知っているから。  絶頂を通り越し、再度その喜びを得ようとしたものの未だ味わっていないのならば。  それはあれ以降何も得たものがないと言っているのと同じである。  ゆえにそこまで。後に積もったものが、祝福となって巡らない。最初の飢えを繰り返している。  だから、声の言った特別な何かとは、成功の証だと解釈した。  己が栄光を掴んだ証明。いわば、勲章のように保存した〈ソ〉《 、》〈レ〉《 、》がこの世界の核として鎮座しているのではないか、と。  失ったものは戻らない。ならば、得がたいものであるほど留めておきたくもなるだろう。  本来なら自分ではなく悪友の理論だが、ここで適応されるのは恐らくこちらであると感じた。  ──薔薇の森は終わり、終着点に姿を見せるのは、予想通りの存在だった。  開けた視界に映るのは精巧な造りの噴水に、薔薇が敷き詰められた〈対称建造物〉《シンメトリー》の花壇。  鮮やかにさえ思う水流は血液。  敷き詰められた薔薇はその吹き出た紅を吸って咲き誇るのか。どれもが完璧な手入れの施された一級品の鑑賞花で、脈動するかのように命を吸って咲き誇っている。 「ここって……」 「薔薇園、それもなんて規模」  おぞましく、だが圧倒される光景を見渡す。  壮大だ、華美と言っていい。それでも真っ当な神経を持っていれば、これを醜悪だと断ずるだろう。  薔薇の芳香はもはや完全に血臭となっていた。できるだけ呼気を狭め、肺を満たす香りを軽減する。そのまま噴水の方へ水音に惹かれるみたく近づいていった。  そう、そこにいる。  自分があたりをつけた、このヴィルヘルムを構成する世界において最も特別な意味を持つ存在が。 「──あら。お兄さん、だあれ?」  噴水の下、盛大に血液の奔流を浴びるこの女性に話しかけるために、自分はここまでやって来たのだ。 「あんたの弟……ともかくあいつの知り合いだ、よろしくなお姉さん」  語りかけながら、その壊れた存在を観察しつつ思考に全力を傾ける。  さて、ここからが手間にして難問。  負けられぬ賭け。この一手、何が何でも吉へと転ばさなければならないのだから。 「まあ、あの子のお友達なの? 嬉しいわあ、ヴィルにもお友達ができたなんて。ああ、ごめんなさいね、お花の世話の最中で。わたしったら全然おもてなしもできてないわ」 「立ち話なんだ、別段気にしてねえさ。それより、花の世話って言ったな。あんた、ここに来て長いのか?」 「ええ。あの子に愛されてから、ずっと」  ここにいるのだと、この上なく美しい……多幸感を滲ませながら微笑んだ。  さながら、ここに咲き誇る薔薇の一輪であるかのようで── 「し、司狼……なんか、この人……」  後ろ手を振って沈黙を保たせる。  言いたいことは分かるから、今そっちとの会話は余計だ。  頭のネジがトんでいるだろう事ぐらい、一目見れば理解が及ぶ。儚い笑顔は造花じみていて、瞳の焦点も定かではない。 「愛しているし、愛されたの。ああやっとなのよ、もうヴィルったら奥手でね…」  〈お父さん〉《ファーター》はいつもわたしを可愛がってくれたのに、と。  頬を染め、蕩けそうな瞳で、夢見るような語り口で続ける。 「そして、あの子を育んだのにね。わたしの大切な、ヴィルヘルム 大切な……愛しい家族」 「……はぁ、そりゃまた熱烈な愛情なことで」  真実、己は幸福そのものであると微笑む顔に、少々どころではない目眩を覚えた。  複雑な心境とはこのことか。同情はしないが、ご愁傷様と言ってやるぐらいの気分はある。  こういう感情を、まさかあいつに覚えるときが来るとは夢にも思っていなかった。  不道徳と退廃の苗床。確かにこんな理論で育てられたのならば、〈吸血鬼〉《かいぶつ》の一匹くらい生まれてしまうに違いない。 「そうすると、あんたあいつにバラされて幸せだったってわけか」 「ええ、もちろん。これでようやく、あの子とずっと一緒な本当の家族になれたんだもの。あの子を育てて、愛情を注いで、そして永劫一つになる……ねえ素敵だと思わない? 家族にとって、これ以上ない〈鎖〉《あい》でしょう」  一片の他意もなく、純粋にそれを情だと語り女は笑った。  壊し腑分けされたあげく、焼き捨てられたというのに恨みや慟哭の一切がない。  今語ったとおりの認識なのだろう。  愛とは絆であり、彼女にとっては自らに繋ぎ止める鎖でしかない。  どこにもいかないで、わたしを愛して。わたしを見てよ。  そのためなら命だって惜しくない。いや、総てを嬲ることでのめり込んでくれるなら、それこそ愛の証明となるだろう。 「ねえ、あなたも家族は仲良くないといけないって思うわよね?」  この女は食虫花。  薔薇の園に咲き誇り、もっとも醜悪で甘い香りを漂わせる花だった。 「あらあら、ごめんなさい、気づけばわたしばかり喋っちゃってるわ。恥ずかしい。せっかく久しぶりのお客様で、あの子のお友達が来てくれたのに。ええっと……」 「……遊佐司狼。あんたは?」  知らず一歩下がりながら、変化のない濁った血塗れの瞳に辟易して答える。  女性はそれを意に介さない。 「ヘルガ、ヘルガ・エーレンブルグよ。よろしくね、〈お〉《 、》〈客〉《 、》〈様〉《 、》」  鮮血の微笑を一切崩さぬまま、彼女はやはり壊れて果てた残骸であるのだと語っていた。 「Haenschen klein ging allein in die weite Welt hinein. Stock und Hut steht ihm gut, ist ganz wohlgemut,」  タワーの下、開けた無人の空間に歌声が流れる。  美しく、天使のような旋律は、しかし聴衆のいない場所においてはただ微かに反響して消えるのみだ。  すでに生物の死に絶えた街ではどれほど明るい曲調ですら、鎮魂歌にしか聞こえない。  その中で歌うのは如何なる声か。如何なる心で、陽気に喉を鳴らすのか。 「Aber Mutter weinet sehr, hat ja nun kein Haenschen mehr.」  〈Haenschen Klein〉《幼いハンス》。有名なオランダの民謡を歌っているのは、一人の少女。いや少年であろう外見を持つモノだった。  長く伸びた白い長髪が流れるように景色へ舞い、軽快なステップがワルツとなって地面と音を鳴らしている。  瞳だけが茫洋とした光を宿し、目に映るものとは別の光景を宿していた。 「Wuensch dir Glueck, sagt ihr Blick, Kehr nur bald zurueck.」  彼は御伽噺から抜け出た真実の妖精。  現実に住めない存在であるならば、見ている世界は幻想であろうか。  だから当然、自意識はここにない。  心は彼方で宙を舞い、記憶は混濁の最中にある。自分がいま歌を口ずさんでいることさえも、おそらく認識していないだろう。  しかしこの上なく純粋であるがゆえ余分がなく、妖しかりて美しい。無垢であるために美を放つ。  その、妖精が踊る非現実じみた世界に── 「よぉ」  僅かに響いた、軍靴の音。  気軽に。あくまで気軽に話しかけられた声が、死都に流れている歌声を止めていた。 「………?」  奏者の動きが止まる。話しかけた相手は夜の闇に浮き上がり、悠々とその幻想的な風景へ現れた。  何気ない、舞踏に水をさした呼びかけの言葉。  しかし、そこに溢れ返る情念を滲ませながら……ヴィルヘルム・エーレンヴルグは、未だ忘我の状態にあるシュライバーへと言葉を投げた。  目の前の光景に、耐え難い既知感を懐いて。  胸には先ほどから感動が猛スピードで蠢いている。  それは郷愁に極めて近く、さらに憎悪で練りあわされた感慨の念だ。  いつかどこかで視たというレベルじゃない。記憶にある、ああ知っているぞ、己はこの光景をはっきりと覚えている。忘れられるはずもない。  歌声も。曲調も。長髪をたなびかせた少女の姿も。  総てが絶大の重量を伴って──痛烈な、形容しがたい感情を与えてくれる。 「──あぁ、その、なんだ。お楽しみのところ悪ぃんだけどよ、ちっとばかりてめえに用があるんだわ、シュライバー」  余計な熱が震える声帯に宿っている。投げかけた言葉はまさに二度目とも言うべきもので、呂律が予想より回りづらい。  せっかく巻き戻してくれた、何もかも懐かしい光景に柄にもなく感謝すらしているのだ。  悪夢めいた天使のような歌声も、その長髪も、総てがかつてのまま視界に映り再生している。変わっているのは、あの時切り刻んでいたはずの死体がないのと服装ぐらいか。  景色の違いすらこの本質的な相似を覆せていない。 「あれ? お兄さん、なんで僕のこと知ってるの?」 「よーく思い出してみろ、おまえは名乗ったはずだろうがよ」 「うーん……? そうかなぁ? ねえ、僕ってこんなに物忘れ激しかったっけ? そのあたりどうかな、ちょっと自信ないや」 「かはッ、知るかよ」  首を傾げて考え込む仕草を始めたシュライバーを眺めながら、その有様に愉悦をかみ締めつつ苦笑する。  言ってることは支離滅裂だ。会話になっているようで、決定的に現状の認識がズレている。いい具合に頭の回路はトんでいるままだ。  しかしある点においては一貫性が取れてもいた。暴走し続けた先、ようやく小康状態に落ち着きつつあるシュライバーの意識は、完全に過去の世界へと飛んでいた。  ──そうだ、忘れられるはずなどない、このやり取り。この空気。  これは出会った時に行った会話、俺と奴が殺し合う刹那に行われた爆弾の点火作業、そのものなのだから。  これだけは他の誰も知るはずがない記憶。横槍が入ってからは最初期の団員も知っていようが、この会話だけは例外だ。  細部の違いはあるものの、その内容は変わらない。  身体は目の前にいても、記憶は丸ごとかつてのベルリンまでブッ飛んでいる。  ならばこれがおそらく、シュライバーにとっての精神と記憶の再構築作業なのだ。 「なるほどな……こうやって戻ってくるわけか、てめえは」  当てられればキレて、キレたら精神が逆行し、記憶を辿ってくることで帰還する。  一種の時間旅行みたいなものだ。都合の悪いことを忘れ、虐殺兵器から殺戮兵器へ整えるための作業。  主の意には絶対服従であるという単一機能。そのたった一つを取り戻すためにこの手間とは、分かっちゃいたが一々面倒くさい馬鹿野郎だ。 「けど……いいぜ、趣向としちゃあもう充分だ。てめえにしては上出来だな」  だから、もう限界だと歩を進める。  懐古の念に浸るのも、期せず整った演出に心躍るのもここまでだ。  己がここに来た目的。何を終わらせ、何を得るためにわざわざやってきたのか。その理由を。 「目障りなんだよ、てめえ。俺と似たような髪の色しやがってパチモン野郎」  そうだ、確かこうだった。吐いたのはこの台詞だ。  反吐を出すように言ってやった。そして今は、それに積年の感情すら乗せて叩きつける。 「お陰でいい迷惑だ。……ああそうだな、ずっと迷惑ばかりだった。 あの時はあっさりケリが着くと思ってたから違ったけどよ。本当に邪魔くせえ奴だよ、てめえの存在はなぁ」  ああ、そうだ。本当に邪魔くさい。  なまじ似通っているからこそ、なお鼻につく。ハイドリヒ卿の下、俺の得るべき黄金の栄光を根こそぎ掠めていったこのぶっ壊れが。  あの日この手で殺されて、屍を晒すはずだった性人形の分際で。  何が〈白騎士〉《アルベド》、何が〈英雄〉《エインフェリア》――貴様にそれは不釣り合いだと知るがいい。  何より、この胸を掻き毟る狂熱の行方を奪われたこと。  己の呪縛に一枚噛んでいるシュライバーの存在に、よくも今までこの殺意を浴びせなかったものだと我ながら感嘆する。 「───へぇ」  身体から匂い立つ殺意を嗅ぎわけ、シュライバーの中でスイッチが入る。  元より破綻した理性と引き換えに誕生した、類稀なる戦闘者だ。最初から壊れている以上、どれだけ壊れたままでも殺し合いの気配を見逃すことは無い。 「ああー、なんだなんだそうだったんだ。お兄さん、僕のファンだったわけなんだ。だから僕の名前も知ってたんだね。そうでしょ、そうだよねえそうなんだろ? ……僕が欲しくて、仕方なかったんだよねぇ」  ──軋みを上げ、殺戮兵器が目覚めだす。  〈石油〉《あい》を注ごうと、〈泥〉《あくい》を浴びせようとも関係なく、ただ食い荒らすしかできない暴虐の獣が、その隻眼で覗き込む。  妄執、情熱、狂愛が目まぐるしくその眼球の奥で掻き混ぜられていく。逆側に空いた空洞の孔は、腐臭と共に暴嵐の再動を告げていた。 「うふ、うふふふ……いいな。いいよお兄さん。ノれる感じだ、名前が知りたい。これから先も、今夜の興奮をたまに思い出して浸りたいよ。だから、ねえ、ねえ、いいでしょ名前。教えて、教えて、知りたいんだ」 「──くくっ、カハハハハハハハハ! ああ、いいぜ教えてやるよ」  踏襲すべき総ての再生が済んでいた。その事実に心が躍り、全身の血液が杭を形成し始める。  ああ、いい夜だ。ついにこの時がやってきた。  今この瞬間は、しみったれた東洋の島国なんかじゃ有り得ない。  正真正銘、あの日の続きであり、総ての始まりたる懐かしいベルリンなのだ。 「聖槍十三騎士団黒円卓第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイ」  そして、賭ける名乗りが今の己にはあるゆえに── 「さあ、名乗りな。てめえは何だ、何者だ? 大事なとこだぜ、言ってみろよ、なあッ、シュライバー!」  思い出すがいい。  貴様が何者か、この俺が何者なのか。  俺達は何を求めた? 何に敬服した? 何であることに胸を張る?  どの栄光を、どう求めるがために、今から串刺され討ち捨てられ八つ裂かれるのか──! 「僕? ああ、そうだね、僕は…… ──ああ、ああ、ああ、そうだ僕はそうだよそうだよ、ふふふははははは」  再び理性を手放すべく、過去に意識が飛ぶ刹那。  かつてと今。混濁した記憶の中から拾い上げた名乗りは、己が矜持にして最大の栄誉を選び取った。 「聖槍十三騎士団黒円卓第十二位、大隊長――ウォルフガング・シュライバー=フローズヴィトニル」  そう。その名乗りにして。 「総てにおいて、誰より早く、何よりもハイドリヒ卿に忠誠を誓った、あの人の〈白騎士〉《アルベド》。 一番最初の、獣の牙だァ!」 「ハッ、夢見てんじゃねえぞ、そりゃ俺のことなんだよォォオオ───!」  絶対に譲れない、最大の事実を口にしたとまったく同時に──万本の杭が闇に爆ぜた。 「───っ」 「きゃぁあああっ!?」 「なっ、……く!」  突然、前触れもなく強烈な揺れが空間を襲った。大型の地震さながらに地面がうねり、敷き詰められた薔薇が一斉に鳴動を始める。  振動と衝撃の断続的な連鎖。  この薔薇園そのものが巨大な手で掴まれて振り回されているかのようだ。 「香純、エリー! 立ってるなよ、スッ転ぶぞ。伏せとけ」  意地でその場にふんばりながら、全神経を傾けて周囲の変化に目を凝らす。  異界そのものが奮い立っているこの現象。その理由は定かでなくとも、これは類稀なる好機だと勘が己に告げている。  ──恐らく今、ヴィルヘルムは戦闘状態に入ったのだ。  それも腹の中にすら衝撃が届くほどの、絶大で得がたい難敵と。  無論ではあるが、司狼はその相手に心当たりがない。  仲間割れや同胞殺しぐらいあの男はやってのけそうではあるが、これほどあの男が奮い立つ相手は、自分の記憶の中に存在していなかった。  連中の幾人かは知っているものの、暴虐さで言えばヴィルヘルムに並ぶものはいないはずだ。何より同士討ちをするにしても、彼にとって好みの手合いはいなかった。強いて言うのなら蓮だろうが、あれは執着であったはずだ。  しかし共鳴するように震える薔薇は、主の歓喜を伝えている。  鬼の中枢であるこの庭園は、その感慨と感情が異物である自分達にさえダイレクトに流れ込んでいた。 「てことは新手か……」  自分が知らない黒円卓の誰かと殺し合っていると判断すべきだろう。  だからこそ内部まで浸透する闘争の余波。何一つできることがないまま、ヴィルヘルムと一蓮托生である現状は考えうる限り最悪のものだった。  苛立ちに拳を握りしめ、虚空を睨みつけるしかない。 「あらやだ、また地震かしら」  だからその窮状で、なお変わらぬ場違いな声色は一際浮いたものだった。 「……なあ。ここって、今みたいによく揺れるのか?」  さりげなく探りを入れた言葉は、その意図に気づかれぬまま雑談となって伝わる。 「そうなの。最近よく起こるようになっちゃって、ほんと困ってるのよ」 「結構前にも多かった、とか?」 「ええ。一時期はいつもこんな感じ」  それは第二次大戦の最中。  世界に闘争の渦が巻き起こっていた時代で、己が異能を日常的に発揮していた時期。  裏はその言葉で取れた。やはりヴィルヘルムは戦闘している。  となれば、自分がそこに茶々を入れないはずもない。  乱入とサプライズは喧嘩の華だ。何より野郎に死なれたら困る。死ぬのならば、総て譲ってから逝くがいい。 「───そういやオレ、毎度あいつにちょっかいかけてんな」  黒円卓の中で最も因縁深く、且つ最も邪魔をしてやって、〈殺〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》相手。  雑食よろしく何でもかんでも喰うからこうなる。  煮ても焼いても喰われてやらない存在に出会ったことを、今から思い知らせてやろう。 「ああ、悪く思うなよ中尉殿。あんたにも色々あるように、オレにもどうにかしないといけない事情があるんだよ」  さあ参戦だ。  せいぜいうまくかき回してやるさ。  そういうこっち見ない馬鹿を横殴りってのが、自分の十八番なのだから。  陽気な笑みを浮かべながら、ぐらつく世界で目的のものへと歩き始める。 「し、司狼、危ないよ。収まるまで伏せてなきゃ!」 「おまえじゃねえんだ、転ぶかよ。あと、悪いなエリー。一足お先だ」 「は? ……ちょっと、あんたまさか」  言いたいことだけ言い、返事を聞かず噴水の前まで辿りつく。  目の前にはこの振動すら楽しむ微笑の女。  飛沫を撒き散らす噴水の下で、話しかけに来た男へはまるで興味を持たなかったが、しかし。 「──、──────」  その耳朶にだけ届くよう、口を開き。 「……………いま、なんて言ったの?」  効果は一瞬にして抜群。  司狼の声は、まるで〈悪魔〉《メフィスト》のように母の脳髄へ衝撃を打ち込んだ。  そして── 「っ、………ぅぐォォオオオッ!」  〈外側〉《げんじつ》で継続される戦闘は、すでに一方的な様相を展開していた。 「ギィ、ッ、クソがぁ──」  絶叫と共に、極大の衝撃で弾け飛ぶ肉体。千切れ飛んだ肉片、二の腕が骨を残して噛み切られている。  交差の瞬間放ったのは杭の弾幕。  人間一人が避ける場所などない高速の連射は、しかし夜を引き裂くのみ。決して目標には的中しない。  これだ、この繰り返し。  戦闘が開始されてから試行した攻撃回数はもはや三桁に届くというのに。  ヴィルヘルムは未だ、只の一度たりとてシュライバーに攻撃を当てることが出来なかった。  地に足が着くより早く、暴狂の嵐が腕を、足を、胴体を四方から打ちのめす。  中空で踊るヴィルヘルムは竜巻に弄ばれる木の葉。否、それよりなお酷い。  繰り返される特攻は神速の体現だ。音速など四桁は超えている最速の連撃が、衝撃波を伴って肉体を引き千切りながら切り刻んでいく。  さらに、最悪なのが意図せずして聴覚を無用のものと変えた、この── 「───────────────!」  耳を掠めた風切り音──咆哮が攻撃の後に辿りつく。  軽く十度は打ち据えた後になってから、ようやく初撃の絶叫が届くのだ。  伝導体として不足となった空気が、使い手の理性どころか言葉すら剥奪してシュライバーの利へと働く。  繰り出される攻撃に〈暇〉《いとま》はない。  もはや銃という触らないための武装を必要とする精神など、次元の彼方にふっ飛んでいる。  暴走状態にあるシュライバーに技はなく、総てがただ全力をこめた突撃だ。相手に向かって激突と離脱を繰り返す反復運動しかない。  思い切り殴る。蹴る。引き裂く。  獣のように上下の〈顎〉《あぎと》で噛み砕く。  積み上げてきた超常的な殺しの業を捨て去り、原始の闘争まで遡った姿は神話に生息する凶獣そのもの。  最大にして唯一の武装、比するものなき最速の理論のみを引き連れて、戦場を疾駆し続ける。  敵より速く、何よりも速く、速く、速く、誰からも触られないように。  それのみを願い、形にした最速の〈渇望〉《ルール》。  誰も捕らえられない、当然だ。ずっとずっとそれだけを、生涯心より願ってきたのだから。  触れるな貴様ら、汚らわしい止めろ寄るな触れるんじゃない。  薄汚い劣等愚物皆総て、この暴嵐で消し飛ぶがいい。  求めたのはそれだけ。真実、たったその一つ。  他には何も求めていない。理性も実感も差し出した。総てを対価に払ってでも、求めたのは万物届かぬ速度域。  ゆえに――それが自己の肉体を無視した祈りであるのも、当然の結果と言えるだろう。 「────づォッ」  激突した双方の血肉が乱れ飛ぶ。  ヴィルヘルムは肩部を丸ごと引き裂かれ、攻撃を加えたシュライバーは指と腕が爆発したように砕け散った。  刹那、両者は同時に再生を開始して攻性行動へと転換する。  離脱する背に飛ぶ無数の杭と、それを躱して反撃に転ずるシュライバー。  再び彼の手足は砕け散る。  接触した部位を捨て去る様は蜥蜴の尻尾か。  破壊と新生を高速で繰り返す暴風は、なお激しく超疾の嵐となった。  それは〈禊〉《みそぎ》なのかもしれない。  触れなければ殺せぬ。しかし触れれば穢れる。その背反。  汚いのは嫌だ、汚いままでいたくない、それでも殺したい。ならばどうすればいい。何をもってすれば己は触れずに死を振りまけるのか。  子供じみた矛盾の果てに達した答えは、互いの崩壊。  〈諸〉《 、》〈共〉《 、》〈無〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》、〈触〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈構〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》。  砕けた後に再生し、再び壊して、また生まれる。  気に入らなくなった己の末端を捨てさって、入れ替えることで生まれ変わるというその理論。  暴狂の域にある今ゆえに、シュライバーは壊れた理屈を実現させる。  総計十八万を超える黒円卓最大の〈犠牲者〉《レギオン》が、燃料として右目から迸っているのが何よりの証だろう。  そしてそれは、現在進行形で削られている彼が願った渇望でもあり── 「オオオォォ───てめえ、ふざけんじゃねえぞォッ、シュライバァァ!!」  貴様、どこまで俺と被るのかと。ばら撒かれた激情が降り注ぐ殺意を乗せて暴発した。  全方位、間断なく空間を削る死棘はすでに結界だ。  機関銃による千の掃射よりなお多く、万の悪意がその一つ一つに宿っている。  最大規模で発動した杭による空間の蹂躙。逃げ場を掻き消す茨の森は、飲み込んだ異物を許さない。  ──躱せる空間の消去。  いかに小柄なシュライバーの体躯でも潜り抜けられる隙間はない。  肉体を砕かれながらも執念で耐え続けたヴィルヘルムの攻撃が、ついに最速の〈白騎士〉《アルベド》を捉える。  しかし、垣間見えた勝機への道筋も。 「───おおおおおぉぉォォァァァァァァ!!」  文字通り、その雄叫びによって消し飛ばされた。 「な、んだとぉッ──」  衝撃、そして背後に流れていく視界の中、ヴィルヘルムは敵手の蛮行に驚愕の声を上げていた。心底馬鹿げていると、目の前で展開した光景に端正な顔を歪めている。  声だ。百獣の王であるかの如く、咆哮によって杭の驟雨をこじ開けた。  大気は音速を超えた瞬間に、物理的な壁へと変わる。ならば音速など遥か彼方に置き去ったシュライバーが生み出すのは、すでに壁どころか鉄槌に等しい。彼はそこに自分の叫びを付加することで、己が潜り抜けるための隙間を生み出したのだ。  融合型の極致である今の状態は、まさに活動する聖遺物そのものだろう。  その声、眼光、吐く息にすら霊的な威圧が宿っている。  古来より狼の吼えは魔を討ち払う。  両者ともに魔的ではあるものの、強きが劣る〈禍〉《わざわい》を調伏できるのは自明の理というものだった。 「ぉぉおおおおおおぉっ、ぐぅッ、ァァ―――!」  そして、賭けに外れた存在が身を削られるのまた自明。  容赦のない追撃にカウンターは空を裂き、全力の一撃は髪の毛一本さえ掠らない。  その有様は、〈粉砕機〉《ミキサー》に砕かれる角材か。波濤に飲まれる苗木のそれか。  末端から徐々に。緩慢に。しかし確実に。  悪鬼の速度で連続していく肉体の破壊作業。  ヴィルヘルムの再生が追いつかない、食い荒らされる、指が千切れた、骨が砕かれた腹が抉られる内臓が潰されて補足しようにも音がなく視界は濁流の中でとても捉えられずただ攻撃は空を穿ち壊れて奪われて潰されて身体から血が、肉が、骨が───────── 「──ヒヒ、ハァアア」  入れ替わり、今こそこの身は新生する。 「っぐ、オらぁッ!」  すれ違いざまの一撃に手ごたえはなく、逆に超速の蹴りが肉体を弾き飛ばした。  ライフル弾もかくやの勢いで吹き飛んだ身体はタワーの壁面に突き刺さり、上下の反転した視界で停止する。 「ご、ァが、ギ……」  塵屑まで打ちのめされた肉体から、流血が目に流れ込む。  赤く染まった視界。  己が見慣れ、欲した世界を眺めながら、ヴィルヘルムは口元を笑みの形に歪めていた。  こうなる前からこの結果は見えていた。シュライバーは何者にも捉えられない。絶対の速度差による恩恵が凶獣には備わっている。  あれには誰も触れられない。  敵も味方も幾度となくそれだけは認めてきた。覆せぬ、必定だ。  ひとたび忘我で暴れ出せば、御すことなど絶対不可能。ラインハルト・ハイドリヒにしか〈鎖の首輪〉《グレイプニル》を嵌められない。  茨の森では役者不足。  ヴィルヘルム・エーレンブルグでは、永劫シュライバーに届かない。 「は、はははは」  その事実。度し難い勘違い。  おおよそ総てが、そう認識しているだろう。〈己〉《 、》〈を〉《 、》〈除〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》。 「これで、敵わないと?」  轟音が響く。めり込んだ体躯へ更なる衝撃。鳩尾を突き抜けた一撃は、釘のように壁面へ埋めていく。 「これで、届かないと?」  杭による連射も時間稼ぎにすらならない。むしろ運動速度を肥大化させ、振り子のように遠心力まで得て肉体へ突き刺さる。 「これで、この程度で、───俺がこいつ以下などと、どいつもこいつもほざいてやがったのかァァッッ!!」  瞬間、臨界点に達した殺気の爆発が、永遠に続くかと思われた突撃を止めた。  大気が極大の殺意に震え、罅割れた壁面はそれだけで砕けた。  溜め込み続けて開放された怒号。主の憤怒に、夜が震え上がったのだ。 「───」  ここで初めてシュライバーが停止する。  鋭敏に察知した獣の勘は、本能の塊となった彼を従順に従わせた。  活目せよ、今までのは前座に過ぎぬと。 「……舐めたな、俺を」  地に降り立ち、呪いを吐きながら歩むヴィルヘルム。  穏やかささえ感じる口調は、嵐の前兆だった。 「ならばいいさ──吸い殺してやる」  そのふざけた認識を抱いた総て。  塗り潰してやろう。決して許さない、逃しもしない。  この〈世界〉《よる》に絶対の存在として君臨するために。 「まずはおまえだ、シュライバー」  空気が歪み始める。  比喩表現ではなく、空間に墨汁を垂らしたかの如く、侵食していく異界の〈法則〉《ルール》。  そう、シュライバーが最速を体現したように。  ヴィルヘルムにもまた、心より求めた渇望があるのだから。 「〈Wo war ich schon einmal und war so selig〉《かつて何処かで そしてこれほど幸福だったことがあるだろうか》」  ──滲み出る必殺の気配。  大気に満ちて……否、大気からも鬼の殺気が放たれ始めていく。  そして同時に、彼へ起こった変化はそれだけでなく。 「ねえ、いま、なんて言ったの?」  その内側でも。  かつて取り込んだものの存在によって、大きな転機を迎えつつあった。 「何って、オレは別に何も。ただちょいと、お宅のお子さんがどうなってるか言っただけじゃないか」 「うそっ、うそよそんなの! 取り消しなさい、ねえ違うわよあり得ないわっ!」 「そう言われてもなあ、事実だしよ」  軽薄そうに肩を竦め、飄々と言葉を吐く司狼に対し、ヘルガは険しい表情で詰め寄る。  表情が醜悪に歪み、見開いた目は血走っていた。ヒステリックに叫び、髪を振り乱す姿はまさに鬼女のそれだろう。  先ほどまでのたおやかな態度は消え去り、感情のまま司狼の言葉を否定している。  つい今しがた呟いた一言、つまり。 「ま、オレとしてもなんとかしてやりたいんだがね。あいにく力不足でどうしようもない。“イジメ”られても、助けに行ってやれないのさ」  彼女にとって、絶対に認められない言葉を。  家族が危害を加えられていると、そう伝えたのだから。 「なんで……ねえなんで、どうしてなの? あんないい子をどうしてイジメるやつがいるの? 優しい子なのよ。愛しい子なのよ。悪いことなんてできない、大切な家族なのにどうしてどうしてどうしてっ!」 「そりゃ、世の中嫌な奴くらい腐るほどいるさ。中にはろくでなしもいて、大方そういう奴の仕業だろうさ」  魔人に相対できるのは魔人だけだ。  ゆえに戦っている相手も間違いなくろくでなしである。この点、司狼は何一つ嘘をついていなかった。  ただ後押しするかのように、ヘルガの思考を誘導する。  内ではなく、外へ。  この薔薇園ではなく、外界で起こっている事象へと。 「オレもお友達の危機には駆けつけたいんだがな。ちょいと力になれそうもない」 「…………」  だから願え。それを可能とするものが、今の事態を把握しろ。  縊り殺されるのが嫌ならば、おまえがその存在を捧げてみるがいい。 「〈Ich war ein Bub', da hab' ich die noch nicht gekannt.〉《幼い私は まだあなたを知らなかった》 〈Wer bin denn ich? Wie komm'denn ich zu ihr?〉《いったい私は誰なのだろう いったいどうして》 〈Wie kommt denn sie zu mir?〉《私はあなたの許に来たのだろう》」  詠唱が進む。彼の渇望が、求めた世界が産声を奏でて。 「で、イジメてる方だがよ。たぶんかなり危ない奴だぜ。人殺すことをなんとも思ってないような。殴ったら死んだとか、ふざけたこと抜かすタイプ」 「…………」  俯き、息を呑む女もまた、薔薇の園で目覚めつつある。  噴水が心臓のリズムで脈動を始め、薔薇は血液を詰め込んだように液体の光沢を放つ。 「おーおー怖いねえ、そんな奴に絡まれたらきついな、お子さん。ボッコボコにされて、傷だらけで帰ってきたりしてな」 「……………い」  血臭はもはや空気と同化した。  切り離せない生々しい薫りが空を満たし、薔薇を震わせ、そして。 「まあそれならいいけど。下手したら刃傷沙汰になってたりとか、な。危ないやつなんだ、ちょいと刺したり刺されたりぐらい若気の至りで? 発展してみたり──」 「………さ、ない」 「…………」  そこで、言葉を遮ったのは呪詛の呟き。  両手で震える身体を掻き抱き、顔を俯かせたまま足元を眺めて延々と同じ言葉を吐き出している。  ──ゆるさない。  そう淡々と、単調な呪いを喉からこぼし続けて。 「――〈Sophie, Welken Sie〉《ゆえに恋人よ 枯れ落ちろ》 〈Show a Corpse〉《死骸を晒せ》」  鳴動する夜気。揺らめく闇。  夜がもう一段階、更なる夜へと包まれていく。 「……ゆる、さない、ゆるさない、ゆるさないゆるさない許さない許さない許さない許さない許さないユルサナイユルサナイユルサナイ───」  呼応するのは内界に住まう聖遺物の中枢であり、それそのもの。  ヴィルヘルムを愛し、ヴィルヘルムに愛され、ゆえに〈姉〉《ヘルガ》の形をとっていた闇の賜物が絶叫する。  今再び、愛しい男を新たな勝利へ導くために。 「───許さない、よくもォッ! わたしのヴィルヘルムに、手をあげたなぁぁぁァァッ!!」  我が子のために狂う、鬼母の念をそのままなぞった魔血の咆哮に応えるかの如く。 「〈Briah〉《創造》――」  紡がれた呪言は、かつてない最高の純度で完成した。 「〈Der Rosenkavalier Schwarzwald〉《死森の薔薇騎士》」  その瞬間、世界が闇の奈落へ墜落した。  夜に夜の重ねがけ、しかしそれをもって有り余る究極の深淵。  空間が軋み、総てが枯れ果て崩れ落ちていく。  街路樹が、建物が、車が──そしてシュライバーすら例外なく。  月光すら明かりにもならない。ヴィルヘルムが夢見た夜の楽園が誕生したのだ。 「──カハッ、ハハハハハハハハ! あのガキ、しぶといどころか余計なことまでしやがったな。 ククハハハ……アハハハ、ハハハハハハッ!」  文句を言っている内容のようで、しかし声に含まれた念は濃縮された狂喜そのものだった。  内部で存在する、未だ消化し切れていない頑強な異物。  己が世界を展開する創造位階の発動により、司狼の存在を確認したヴィルヘルムはその生き汚さに素直な感嘆の意を覚えた。 「ああいいぜ、楽しませてくれた礼だ。そこで見てな。 ご褒美だ。受け取れガキ、年長者から施しだ。涙流して感激しろよ、なぁ」 『誰が』  響いた声は変わらず無遠慮な悪童のもの。  僅かな疲弊も見せず、それでいてなお力強い破格の魂だ。  もしも喰ったのが半端な奴ならば、こいつは自らの魂を形成して根こそぎ奪い取っていただろう。  自分は運がいい、喰った後でも楽しめる魂など、稀どころか初めて出会った。 「カッ、よーしよしいい子にしてな。 てめえは後だ。先約があるんでよ、気分よく終わらせてから……きっちり溶かしてやる」  運が向いてきている。その事を感じながら蹲っている第一目標を見下ろした。 「どうよ、効くだろう。シュライバー。今夜のは特にいい感じなんだ、最高だろう、この夜は。 永遠に吸われる気分ってのはよォ、クククハハハハハ、どんな気分だよ――なあ、教えてくれねえか」 「──ギィ───ッ、ヅ、グギァ!?」 「アハハハハッ、そうだなわりぃわりぃ、狼どころか犬畜生じゃあ人間サマの言葉も喋れねえみてえだなぁ」  睨み付けるシュライバーは、しかし苦悶と驚愕の表情を完全に消しきれてはいない。  対象の速度を必ず上回るというその特性。  それは言い換えれば、エネルギーを発生し続ける内燃機関ということだ。本人の理性がないまま、どのような状況に陥ろうと敵を斃しきるまで稼動し続ける最速の虐殺兵器。  ならば、つまり── 「いつまでも、どこまでも、俺はてめえを吸い続けられるぜシュライバー」  無限に加速し続ける存在を糧に、ヴィルヘルムはその力を吸い続けて闇の帳を維持できるということに他ならない。  今はこの世界こそが吸血鬼。たとえ触れない相手であろうとも、覇道の創造はシュライバーを捕らえ続ける。  回避不能な技を持つのは、エレオノーレだけではない。彼女と、そしてヴィルヘルム。彼らこそが凶獣を相手に勝機を見出せる存在なのだ。 「皮肉だな。反則で手に入れたその力が、結局自分の首を絞めてるわけだ」  そして今、白化を争う二人の狂戦士はやはり似た者同士と言えるだろう。共に敵が強ければ強いほど、それに合わせて強化される特性を持っている。  内界で猛る闇の賜物との同調率は過去最高。  ゆえに夜は明けない。日の光は昇らない。  総てが干からび塵となり、崩れ果てるまでこの楽園は続くのだ。 「─────ァァアアア」  唸り声をあげて、シュライバーが立ち上がる。  手負いの凶獣は野生のそれと比にならない。全身から漲る敵意は、質量を伴って足元の舗装を砕いていた。 「おうおう、いい感じだぜシュライバー。そうだ、その目だよ、昔のまま変わらないそいつを俺は抉ってやりたくてなァッ」  隻眼を指しながら、闇に紅の両眼が火を灯す。  次の刹那──〈二〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈暴〉《 、》〈風〉《 、》が夜の静寂を貫いた。  空間に瞬くのは数多の炸烈光。  舞い散る火花は暴風に巻かれて、吹きすさぶ嵐の中を星屑のように流れ飛ぶ。  それは敵手が発揮する力を喰らい、己が一部へ取り込む魔業の結果だ。  餌としてこれ以上ない栄養を吸収したヴィルヘルムの速度は、この瞬間ついにシュライバーと渡り合える領域にまで達していた。 「──────!!」 「──────!!」  両者の叫びは言葉にならない。  裂帛の気合によるものか、殺意の発露であるのか、それすら判別不可能だ。  音が引き裂かれていく。  大気が空間ごと傷ついてその形状を保てない。  今や、戦いの場は空中へと移行していた。  聳え立つタワーの壁面をなぞるように、上昇する高度と速度は重力の〈軛〉《くびき》すら食い破ってなお速く、速く、速く───  放たれる神速の杭。肥大化した死棘が、凶獣を穿ち抉らんと飛翔する。  かつてない、最高の一撃だ。  奪い取り続けて漲る吸血鬼の暴力は、ついにその完成点まで到達していた。 「───ッ、ガ!?」  しかし、最速の創造は未だ健在。  生み出す力を喰われながら、なお振り切るように一層その限界速度を塗り替える。  たとえ神速の域に達しようと、速さではシュライバーを上回れない。  物理的限界を無視した世界法則の凌駕。  吸い続けることでヴィルヘルムの地力がどこまで強化されようと、それに合わせて速くなるのだから追い越すことは不可能である。  ゆえに、競うのは速度に非ず。これはすなわち消耗戦だ。  薔薇の夜のキャパシティが、凶獣の軍勢で破裂することはないだろう。今は〈闇の賜物〉《ヘルガ》の狂愛が、この世界を絶対不変の理に変えている。  だから決着は、シュライバーの燃料が底をつくか。  ヴィルヘルムの強化が追いつかなくなるか。  この二つしか有り得ない。 「オオオオォォォ、オオオオオオオオオオオ──ッ!!」  砕けていく互いの肉体。攻撃を加えるシュライバーも、それを食らうヴィルヘルムも敗北など許されない。  再生しろ、砕け、一撃でいい当てさせろ。  病的な執念と観察眼を働かせながら、ヴィルヘルムはなお突撃を続行した。  すでに再生速度を抜かれ始めているが頓着しない。 「──ったく、結局ジリ貧じゃねえかよ」  崩壊していく薔薇の園を眺めながら、司狼はその崩れていく風景にため息をこぼす。  紅い花弁は色艶を失いつつあり、噴水からは吐き出す血液が減っていく。  元気なのと言えば、身震いする表情で罵声を飛ばし続けるヘルガくらいだ。香純もエリーも、覆い尽くされた吸収の魔界に起き上がることすらできなくなっている。 「頃合だな」  となると、お膳立ては整ったということだろう。 「よう、生きてるか、香純」 「……ぅ、っあ……なん、で、………あんたはそんな、元気なの、よ……」 「健康優良児なんだよ。日頃の行いってやつだ。 そんで、エリー。そっちはどうよ、いけそうか?」 「あー……どう、だろ。こりゃあ、ちょいと………っ、きつい、かなぁ」 「オーライ。じゃあ悪いがよ、オレはいかせてもらうわ」 「……ま、恨みっこはなしって……約束だし、ね」 「そういうこった」 「ふ、たりとも……なに、言って……?」  苦しげに問いかけた言葉に答えず、司狼は視線を切った。  さて、何を言い残すか。  考えてみれば、やはりこのことだろうと思う。それは棚上げにしていた質問に対する答えでもあったから。 「悪いな、香純。 おまえの親父殺したの、本当はオレなんだよ」  結局、あの日蓮に止められた言葉を何気なく口にした。 「───え」  呆然とした呟きを背に、軽く首を鳴らす。  ああまったく、自滅因子とは笑わせるよ。 「おい、聞こえてんだろ、真っ白吸血鬼」  そして語りかけるのは、この世界の主。 「このままだと負けるぜ、おまえ」  反応はない。しかし脈打つ鼓動を感じたのは、怒りか、否か。 「ありゃ身体に染み付かせて学んでるからな。どんだけ精神がイッちまっても関係ねえよ、身体で受けたもんが機能する。 覚えられてるぜ。長い付き合いなんだろ? 奇をてらうとか策をどうだのじゃあ一生かかっても無理だ。 あんたはもう知りぬかれてんのさ。命と根性で埋まる差でもないだろうよ」  それは真実。ヴィルヘルムとシュライバーは互いに互いを知り尽くしている。  さらに両者とも、本能的にいつかこうなることを感づいていた。  思索による奇襲で機をもぎ取れない以上、純粋なぶつかり合いではヴィルヘルムが一手遅れている。 「だからよ、使うもの全部使え。おまえが持ってないものが、やろうにとっての凶兆だ」  ゆえに、己が持たないものを使え。  そのありえぬ夢想の策。  幼稚すぎる、無い物を使用して打倒しろと抜かす声に── 「ぐぅッ──ヅ、ォ、ォォオオオオォァァ!」  耳を傾ける余裕すら、夜の支配者には存在していない。 「ギィィイイイ───ッ」  肩口から丸ごともぎ取られ、片腕が宙を舞う。  すでに切り離された肉体の一部へ即座に喰らいつき、再吸収することで回復を図るも。 「Und rühre mich nicht an――!」  凶獣の一撃は、もはや再生を許さない。  訪れた勝機。  この永遠に続くかと思われた勝負の趨勢を決するために、停止したヴィルヘルムを蹂躙する。  ──残った片腕を噛み切り。  ──両足を蹴り潰し断絶して。  ──四肢の失った胴体を、眼下へ向かって叩き落す。 「────、ァ」  下に待ち構えるのは、とうに追い越していたタワーの頂上。  墓標のように待ち構えたその頂へ、ついにヴィルヘルムは重力と衝撃に引かれて落下を始めた。  四肢は無い、迎撃は不可能、距離は僅か、速度は絶大。  脳内を駆け巡る思考が帰結するのは己の死。  スローになった視界が捉えるのは、最大の反動をつけて迫り来るシュライバー。  ……絶命の一撃はここに。  夜に爆音を響かせて、両者の影がついに一つとなった。 「捕まえたぜ、このケダモノ野郎」  その刹那。時の最小単位すら届かない領域に流れたのは、二重の声。  ヴィルヘルムは砕かれていない。  真実、それは勝利の声だ。  その肉体……心臓より生えた司狼の腕が、開かれた必殺の〈顎門〉《あぎと》へと銃口をねじ込んでいた。 「───!?」  今度こそ、今度こそ完全にシュライバーは驚愕する。  積み重ねてきた殺人の業をもってすら感知できなかった、理外の一手。  無敵の〈白騎士〉《アルベド》が思い描くあらゆる予測を超越したこの攻撃は、彼の意識にすら空白の楔を打ち込んだ。  そう、ヴィルヘルムは知っていた。  内部に取り込んだ司狼より伝播した既知感の呪縛。  死の間際、ノイズと共に再生される不可思議な感覚が、〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈射〉《 、》〈線〉《 、》〈で〉《 、》〈襲〉《 、》〈い〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》。  癌細胞は増殖する。  ラインハルトの軍勢しかり、司狼の既知感しかり。近づけばその概念に侵され、病魔のように餓えが身体を満たしていく。  そんな存在をヴィルヘルムは喰らい、取り込んだのだ。その行いは最大級の縁となり、彼は不幸にも既知感の呪いに感染した。  しかし、それは言い換えれば未知への動揺を放棄することに他ならない。  どれだけの事態に見舞われようとも、平静でいられてしまうその呪い。  司狼が生身でありながら常識外の魔人と渡り合えて来た一因が、最大の好機となってヴィルヘルに勝利への切符を手渡す── 「おおっと、もう遅ぇ」  銃身より生えた杭が、即座に銃口と口を縫い付ける。  釣り針の返し部分のようにくい込んだそれは、苦悶の声を潰して照準を完璧に固定した。 『往生際悪いぜ。潔く、さっさと〈地獄〉《ヴァルハラ》に落ちるんだな』 「まあ、そういうこった、悪いな。シュライバー。 〈あばよ、くたばっちまえ〉《アウフ・ヴィーターゼン》……ああ、最高だ、てめえにずっと言ってやりたかった」  肉ごと剥がそうとする動きは、しかし遅い。  この引き金を引き絞る指の動きこそが、最速を打倒する緩やかな幕引きと識るがいい── 「俺の───勝ちだァァァァァアアアアアァァァッッ!!」  ──鳴り響いた発砲は、決着を知らせる鐘の音。  炸裂したのは、聖遺物の特性を込めた魔弾だった。  跳ね上がる頭部に、弛緩した手足、吹き飛んでいく相手の体躯。  墜落するシュライバーの姿を眺めながら、ヴィルヘルムは言い知れぬ幸福感と共に落下していった。 「ハハハ、ハハッ、くっ、ひっひひ。 アハハハ、ハハハハハハ! ハハハハハハハァァァッッ──!! どうだァ、ざまあ見やがれシュライバァァッ! これでよく分かったろうがよ、相応しいのがどっちなのかなァッ」  噴出するその歓喜は、泣き喚く慟哭に等しい。  黄金の近衛、最強の〈大隊長〉《エインフェリア》――絶対回避というシュライバーのルールさえ捻じ曲げた〈法則〉《きちかん》が、いったい何処から流れ出たのかなどはどうでもいい。  ただ、満たされていた。潤っていた。薔薇は最高に輝いている。  見たか、ついに俺は越えたのだと。  長年追い求めた続けた瞬間、得がたい宿敵を打倒した喜びに全身の細胞が雄叫びを上げていた。  笑い声と共に、勝利を高らかに謳いながら重力に引かれて── 「ヒィハハハハハハハ! ハハ、ハハハハ、アァァハハハハハハハハ!! クク、カカカカ、はっ、ひ、ハハ──」  耐えがたい、人生において至上の感動を味わいながら、ヴィルヘルムはタワーの屋上へと落ちていった。  主の死と共に深淵の夜が解けていく。  徐々に小さくなった笑い声は、生命の火が消えゆく証。魔人の終焉を、もはや逃れえぬ確かなものとして告げている。  勝利を得て、無くしたのは命。  絶頂に辿りついたがために、そこから先の人生は彼に用意されていなかった。  結果を鑑みてみれば、これはただそれだけの話。  ……仮に。幸福の果てに死亡することを、最上の人生とするのであれば。  ヴィルヘルム・エーレンブルグはこの瞬間、間違いなく勝者としてその生涯を終えたのだ。  静けさに包まれた空間に横たわる死体。  四肢を喪失し、胴体と首だけしか残っていないヴィルヘルムの残骸とも言うべきそこから、生命の鼓動が静かに木霊する。  電流を流されたような、痙攣したかのような動き。心臓から生えた腕が蠢いて地を掴み……そこから残りの肉体が這い出してくる。  死が裏返る。  生者は死に。死者が生をもぎ取り、掴む。  宿主が死亡したのとは正反対に、その内で死に伏していた者が再び生まれ始めた。  まるでコインの裏表。  死体から残った命をかき集めるように、腕の持ち主はコンクリートの地面に手をそえて、 「──よっと」  軽い口調で、遊佐司狼がその存在を再構築した。 「悪いな、中尉。まあ利用したのはおあいこってことで、勘弁してくれ」  もはや物言わなくなったヴィルヘルムへ語りかける。  元よりこれが司狼の狙いだ。  死の間際生じる、僅かな空隙。ともすれば引かれて自滅しかねない瞬間に賭けていた、存在の総略奪だ。  身体の一部でもこちら側に出せていたのならば、後はタイミングと力業。  形成された腕部を取っ掛かりに全身へ応用を利かせ、無理矢理に出口をこじ開けて舞い戻る。  その難易度。常人には不可能でしかない事実すら、司狼にとってはどうでもよかった。  〈既〉《 、》〈知〉《 、》〈感〉《 、》〈を〉《 、》〈得〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈の〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈な〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  理由としてはそれだけで十分だし、実際にそうなっている以上文句の付けようもないのだから。  足元で崩れ去っていくヴィルヘルムの遺体を、司狼は達成感一つ感じさせない瞳で見下ろしていた。 「…………」  ついと、その視線を今立っているステージの端へ向ける。  強化された聴覚は微かに風の流れを聞き取り、第六感もそれを肯定していた。  ──高速の物体が近づいている。  そう認識すると同時に吹いたのは、一陣の烈風だ。  先ほどのやりとりで散々理解していた相手の存在にため息をつき、うんざりしながら口を開く。 「なんつーか。ほんと、おまえらって大概どうかしてるわ……」  降り立ったのは墜落したはずの〈白騎士〉《アルベド》。  ウォルフガング・シュライバーが、無傷の姿で再臨していた。 「ありえねえだろ、口ん中どうなってんだって話だよ」  問いに、彼は答えない。聞こえていないのか、聞く気もないのか、あるいはその両方か。  ただ、青く揺らめく隻眼が、凝っと静かにある一点を見つめている。  灰となり、消えていったヴィルヘルムの名残へと。  その目に宿るのは喜悦であり、哀悼であり、恋人か親友を慈しむように愛でながらも、未だ狂乱の渦だった。  流石は殺し殺され合うことを至上の愛情表現とする〈不死英雄〉《エインフェリア》。一撃を食らい絶壊しながら、彼の〈燃料〉《レギオン》はまだ尽きない。おそらくは頭部を吹き飛ばされたであろう傷さえも、すでに一切の跡すら残さず再生していた。  これには勝てない。出鱈目すぎる。今は消耗しているからどうこうできるという存在でもないだろうと司狼は悟るが…… 「……………」  ゆらりと流れてくる〈白騎士〉《アルベド》の視線。そこに渦巻く極大の狂気が言っていた。  おまえは誰だ?  なぜベイの血の匂いを発している?  我らの交情に飛び入ったのか?  ああつまり、侮辱しているのか? 死にたいのか?  その殺意。タワーの質量が丸ごと氷柱に変化して、頭上から墜落してくるような寒気を覚える。  あの異界より誕生したせいか、こびりついた微かな血臭を嗅ぎ取られているのだろう。  司狼は、心底嫌そうに表情を歪めた。 「……ったく、結局これか」  どいつもこいつも、こっちの都合なんざまるで意に介さない。  仕方なく、手にした銃を抜き放とうとしたところへ。 「──よい。下がれ、シュライバー」  神託のように響き渡った声が、圧力と共に開戦の火蓋を閉じていた。 「───ッ!」  魔天に浮かぶ城、その〈階〉《きざはし》からこちらを見下ろすラインハルト・ハイドリヒ。  命令を下されたと同時に、シュライバーは恭しく頭を垂れ。  これが二度目の邂逅となる司狼は、以前と異なる感情を持て余してその姿を見上げていた。 「──、───」  人型の異物、というだけだったはずの感想。  だが、見れば見るほど形容しがたい感覚が湧き上がる。  髪も、目も、背丈も、人種も、何一つ共通するものなどないというのに、先ほどから脳を侵しているそれは、まさに── 「卿の奮戦見せてもらった。実に見事なり。部下の成長を見るのもまた一興、中々のものであった。 ならばこそ、今は城へと帰還するがいい。まずは十全でないその身体、存分に癒せ。眼前に迫る怒りの日に、一番槍を切りたいのならば」 「Jawohl――」  たとえどのような状態でも、主の声だけは聞こえるのか。目を輝かせ、その言葉が下ると同時に呆気なくシュライバーは姿を消した。  そして―― 「さて──」  今初めて、黄金の瞳が司狼を射抜く。 「卿とこうして話をするのは初となるな。 自己紹介は必要かね? ツァラトゥストラの親友よ」  交差する視線に、改めてあの不快な声が耳を撫でた気がした。  ふざけろ、それは違う。ありえないことだ。  オレは──鏡を見てなどいない。 「いらねえよ。もうだいたい知ってるからな」 「なるほど、ベイを通して学んだか。それは重畳。 彼が心安らかに逝けたのは、卿の助力あってこそと言ってもよい。誇りたまえ、勝者の義務は唯一それだ。 この敗者なき戦いにはそれが相応しい」  命を代価に達成感を得たヴィルヘルム。  実際に勝利したシュライバー。  そして、死から甦った司狼。  終わってみればこの戦いは、誰もが得るものを得て終結している。  敗者として惨めに失ったままの者は、一人としていない。  しかし、ラインハルトが言いたいのはそんなことではないだろう。  ああ知っている。見たことはないが、その目に宿った光は…… 「さて、それでは一つ訊ねたいのだが、卿はこれより何を成す? どう足掻こうといずれ私の城へと登城する身だ。ベイの資格を受け継ぐ身である以上、それはすでに決定事項なのだから」  おまえはいずれここに墜ちてくる。  語る言葉はシンプルで、それだけに覆せない事実を語っていると司狼は悟った。  ならば、オレはどうするのか。どうしたいのか。  そもそも何のために甦ったかといえば、それは決まっている。  ただ、その何もかも見透かす黄金の視線。  悪魔が自らの姿から何かを見出し、その行く末に期待すらしているのが見て取れて、不可解な衝動が加速する。  どこかの誰かが吐き捨てた。  電極が、受信をするかのように。 「なるほどな……何よりもまず友か。麗しい友情だ。与えるにせよ、奪うにせよ、こちらには確かにそれらしか残ってはいまい。 他は総て〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》にある」  心臓を指差し示し、ラインハルトは薄く笑う。  該当するのは臓器ではない。  抱えたもの、未だここで存在する者達のことである。  それらのために、何が出来るか。  やれること、やるべきことは果たして、この黄金を打倒することなのか。  他にあるというのなら、それは──  黄金の君は語る。楽しげに、期待を込めて。  無言のまま怪訝な表情で睨みつける同類を前に。悪魔ではなく、そう定めた神の言葉を借りたかの如く、遥か高みから〈音色〉《こえ》を落とした。 「さあ、己が役目を果たすがいい」  全力を傾けるべき事象。自らに用意された宿命。  そのために生まれたのならば、それを遂行するがいい。己と相似した男の言葉が、風に乗り世界を満たす。  生まれながらに用意された命題……それは何と甘美で、かつ腹立たしいものではないかと。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 13/13 Swastika ―― 7/8 【Chapter ⅩⅠ Xenogenesis ―― END】  夢には最初からそうだと気付けるものと、目覚めるまで気付けないものの二種類がある。  もっとも夢の内容が本人の意思とは関係なく展開していくということだけは変わらない。だとすると、問題はそこに違和感を覚えるかどうかじゃないだろうか。  俺がまどろみの中で見ている夢も、そうしたものを感じずにはいられない代物だった。  目の前で、何かがゆらゆらと揺れている。影絵のようにゆらゆらと、揺れて俺を眺めている。  何だこれは? ……いや、誰だ?  像は人型をしていたが、その一つ一つはひどく小さい。  子供……? これは子供なのか? 何十、何百、もしかしたら千を超える子供たちが、揺らめきながら周りにいて……  歌うように、話しだした。 「緑の泉で僕らは遊ぶ。緑の泉は楽しいところ」 「霧が深くて外が見えない。だけど僕らは怖くない」 「ここに太陽はないけれど」 「僕らは太陽じゃないけれど」 「だからこそ泉は緑で、〈ママ〉《ムッター》の色に染まっている」 「僕らの色に染まっている」 「ねえ、愛してる?」 「ねえ、抱いてくれる?」 「僕らが必要?」 「僕らが怖い?」 「ここが僕らのお家だから、帰りたいなんて思わない」 「ここが僕らの揺り篭だから、帰るところは何処にもない」 「永遠なんて分からない」 「だけど永遠にここにいたい」 「ずっとここが僕の家」 「ずっとここにいるみんなが兄弟」 「緑の泉で僕らは遊ぶ。緑の泉は楽しいところ」 「僕らは太陽じゃないけれど」 「ほんとの太陽が生まれたら、きっと僕らは消えてしまう」  意味がまったく分からない。何を言っているのか理解できない。輪唱気味に重なる子供の声は無邪気だったが、聞いているとなぜか胸が痛くなる。  分かっているのはただ一つ、彼らに害意はないということだけだ。むしろ友好的ですらあるだろう。  仲間だと、自分たちは同類だと、彼らの全員が言っていた。  それはどういう意味なのか、俺は理解したくなくて……  夢の中で気を失うという、稀有な経験をすることになった。  では少し、昔話をしよう。  これはとある家族の記憶。  何処にでもある、しかし厳重に封印され、闇に沈んだ〈家庭の事情〉《Skeleton in the closet》…… “彼ら”はそうしたものに敏感で、傷を負った無垢な魂を放っておけない。  ゆえに、今からそれを見てみよう。  ここに一人の少年がいる。  彼は幼くして両親と死別したから、その友人である男の家に引き取られたという境遇だ。  しかし、それが事実かどうかは分からない。少年はまだ幼かったので父母の記憶を持っていないし、さらに言うなら自分の名前や誕生日すらよく分かっていない。  だから、後天的に刷り込まれた設定を、真実と思うしかなかったというだけである。  別段、特に珍しくはないだろう。結局のところ、己が何者であるかなどということは、親を名乗る存在からそう聞かされたから、そうだと思っているものでしかない。  常識的、感情的な見地を度外視すれば、ひどく曖昧な情報であると分かるはずだ。  もちろん、世の多くの子や親が、そうした間違いを犯していないのは承知の上で。  だからこそ、有り体に言ってしまえば、子供に偽の〈出自〉《ルーツ》を信じ込ませることは至極簡単なのである。  つまり、彼はそうした目に遭っていた。  稀有ではあるが、発生させるのは容易な状況。  文字通り赤子の手を捻るように行える不義。  親やそれに近い立場の保護者が、悪意をもってそのような行為をするはずがない。そういった常識的思考によって見落とされがちな、これは日常に潜む陥穽なのだ。  無論、家庭の枠を超えて社会的な意味でも偽装するのはそれなりの労力を要するが、不可能ではない。  一個人間の人生を左右しかねない問題なのに、随分とザルである。  そうした部分に付け込む者が、おしなべて邪悪であるのは分かりきっていることなのに。  少年はその家で、表向きは歓待されていた。少なくとも母親代わりの女性と、同い年――ということになっている――少女からは好かれていたと言っていい。  だが、その親愛が本物であったとしても、そもそも彼女らからして少年と同じ境遇でないと誰に言える?  あなたの親は? 兄弟は? 本当に本物か?  夫は? 妻は? 本当にあなたの意志で選んだ相手か?  誰もそんなことは疑わない。疑わないからこそ、そこに付け込む者が出る。  少年は、この頃の記憶が今でもかなり曖昧だ。  日々繰り返されていた事を仔細に思い出すことは出来ないし、また思い出すべきではない。  ただ一つ、彼が鮮明に記憶して忘れられないのは、ただ一つのことだけだ。  父親代わりの男が、目の前で死んだ。いや、正確には殺された。実行したのは彼の友人であり、その事実を隠蔽したのは彼である。  当時、年端もいかない子供だった二人だが、そうした面でかなり早熟だったと言えるだろう。あるいは、一種の才能なのかもしれない。  事故死に見せかける。殺人とは思わせない。死んだ男は酒に溺れるタイプではなかったが、階段を踏み外すくらいのことは誰でもする。  死因となった刃物による頚部への刺傷は、その果てにたまたま運が悪かったということになった。なぜなら都合のいいことに、男が死んだ場所にはそうした物が溢れかえっていたのだから。  まさか誰も、子供がそこまでするとは思わない。表向きは円満な家庭であったということも、事実を眩ます役に立った。  驚かれたのはむしろ、人畜無害と評判だった男の私室に、地下へ続く隠し部屋などがあったこと。その中身が狂人の研究室としか見えぬ様相を呈していたこと。  少年二人は、死体の発見者にすらなっていない。彼らと、この研究室を繋ぐような事態が判明すれば、さすがに疑われることは避けられない。  ゆえに、何も知らない振り。彼の友人は呆れたような面倒くさいような、そして感心したような態度を見せて、結局彼に従った。  謎の失踪を遂げたと思われていた男の死が明るみに出たのは、家中に腐臭が漂いはじめてからである。  後年、友人は彼に言った。腐らせれば検死も難しくなると思ったのかと。  そうかもしれない。  そしてだからこそ、少年は自分の選択を今に至るも悔いている。  どうするのが正しかったのか、分からないでいる。  隠蔽しようとしたのは、保身からではない。そもそも彼が手にかけたわけではないのだから、この時点で罪に対する怯えなどない。友人を庇うというのもまた違う。  実行犯の友人は堂々と自分の行為を誇るつもりだったようで、それが少年にこの選択をさせたのだ。  事実が明るみに出れば動機を訊かれ、友人は隠さず放言するだろう。  その結果、どうなるか。  壊れるのだ。少年の家庭が壊れるのだ。  そんなものは最初から存在していないと友人は言うけれど、存在すると思っている者がある限り守らねばならない。  ゆえに少年は事態の隠蔽を選択し、結果として見事に成した。  が、はたしてそれは良いことなのか? 自分に恥ずべき部分も負い目もないと、本当に断言できるか? 「違う……」  結果として、自分はあの〈家庭〉《にちじょう》に異物を混ぜた。腐臭と死臭という非現実をもたらした。  もとからそうだと友人は言うけれど、絵空事を信じている者がいるのにそれを壊していいわけがない。  殺したのは友人だが、そうした意味で自分もまた殺人者だ。せめて完全な失踪に見せかけられれば救いもあったが、そんなことは不可能だ。いくら早熟だろうと子供の限界というものがある。  だから彼は、今でもそれを悔いている。  どうするべきだった? 何が出来た? 言うべきだったか? 隠すべきか?  今でも――そうだ今でも、どうしていいか分からない。  いつか結論は出さなきゃならない。だけどその時が来るのは怖い。  時間が止まればいい。今が永遠に続けばいい。  そう、思ってはいたのだが……  あの日の喧嘩は、つまるところそれが原因。  友人はいったい何を思ったのか、まだ結論を出せていない彼を置き去り、先へ進もうとした。封じていた真実を白昼に晒そうとした。  止めねばならない。それは止めたい、ことだったのだ。 「ああ……」  つまり、結局保身なのかと、そんな自嘲が漏れてくる。  自分がいて、香純がいて、都合よく仲良くやれている今が惜しいと――  要はただ、それだけのことだったのだ。 「……雨?」  最初に感じたのは、その気配だった。  充たされた気持ちのまま、ゆっくりと水の底から浮かび上がってくるように……  綾瀬香純は、覚醒していた。生まれ変わったような気分の中で。  きっと外は雨が降っているに違いない。室内にいても微妙な気圧の変化で、香純にはそれがはっきりと分かった。  ただ、そんなに長く降るような雨じゃないな。優しい、柔らかい雨。きっと、香純がここを出る決心がついた頃には止んでいることだろう。  だからこそ……もう少しだけ、こうして彼の寝顔を見ていたい。 「蓮の綺麗な寝顔が好きって言ったら、やっぱり今でも怒るのかな?」  隣では蓮が安らかな寝息を立てている。本当に驚くようなことが短期間のうちに起こり過ぎた。香純自身も全てのことに整理がついていない。  自分のこと。氷室先輩のこと。トリファ神父のこと。  そして…… 「香純……すまない……」 「蓮……?」  急な寝言に驚いてしまう。その寝顔には、眉の辺りに苦悶の表情がはっきりと浮かんでいた。 「どうして謝ってるの……? ううん、本当は分かってる。蓮っていつも、あたしのことだけを考えてくれていた。あの時だって…… 司狼との喧嘩だって、きっとそれが原因なんでしょ?」  遠い子供の頃の記憶。父親が死んだ時のこと。  確証は何もないけど、ずっと一緒に過ごしてきたんだから何となく分かる。  本来なら自分は、蓮に憎まれても仕方が無いはずだったのだ……と。  きっとそれが、蓮の寝顔を見続ける理由。  蓮のことが好きで好きで……でも、面と向かって見つめ合う勇気がなくて……だから、香純は蓮の寝顔を眺め続けるのだろう。  そっとキスをする。蓮が起きないか、恐る恐る……でも、密かな期待も込めての。  優しく静かな、香純の想いを込めたキス。 「あたしも、あんたに秘密があるんだよ」  目が覚めたあと、蓮はきっとこのキスに気付いてくれるだろう。そしてあたしがいなくなったことに気付いて必死で探し回ってくれるだろう。  いつも、あたしの事を守ってくれた蓮。 「これで……二度目だね。大きくなっても変わらないんだ、あたしたちの関係って」  全ての秘密を背負い込み、女を守ろうとし続ける男。  男の痩せ我慢を横目で見ながら、素知らぬ顔を決め続ける女。  どっちも、苦しい。そんな、不器用で切実すぎる関係。 「でも……もう、いいよ。あたしは、じゅうぶん幸せだった」  自然に出てくる涙を拭うと、蓮に背を向けた。これ以上蓮の寝顔を見ていると、せっかくの決心が揺らぎそうになってしまうから。  最後に蓮の声を聞きたい。  だけど、蓮はきっとあたしの行動を許してくれないだろう。  それどころか、あたしをこのクラブに留まらせ、蓮一人で出かけてしまうに違いない。  だけど、それだけは避けなければならない。  それでは何もかもが、ただの繰り返しだ。  だから……あたしの記憶の中にある蓮の最後の姿は、この綺麗な寝顔のままでいい。蓮の寝顔に見送られれば、あたしの勇気も萎えることは無いはずだ。 「か……すみ……」  さっきから何度も、寝言で名前を呼んでくれている。もしかしたら蓮は、自分の夢を見てくれているのかもしれない。  そのことだけでも香純には充分だった。 「ありがとう……あんたは、あたしなんかにゃもったいないオトコだったよ」  シャワーは浴びずに行く。蓮の匂いを消したくはなかった。  何を着ていこうかと迷い、そんなことに迷う可笑しさにふと口元が綻ぶ。 「ん。やっぱこれだな」  袖を通したのは、月乃澤学園の制服だった。  蓮と過ごした、日常の象徴。勝負服には、これがいい。 「大好きだよ、蓮……」  未練を断ち切るように、部屋の照明を落とした。  中心区画の西側に位置するクラブ・ボトムレスピットを出た香純は、何のためらいもなく東へ向けて歩き出した。  この一連の事件のせいで、深夜に出歩く者は一人もいない。きっと誰もが玄関の鍵をかけ、家の中に閉じこもっているのだろう。  仮に怖いもの見たさで街を徘徊する人間がいたとしても、そんな奇特な人間はボトムレスピットに集まるような連中ばかりだったし、その連中はリザとカインの強襲によってすでにこの世にはいない。 「客がいないんだもん。タクシーなんか拾えるわけないよね」  前に冗談で司狼が単車の乗り方を教えてくれるって言ってくれた時、ちゃんと聞いておけばよかったな。そうすれば司狼の単車を失敬して、こんなに長い距離を歩かずに済んだのに。  ――どこでこんなに狂ってしまったんだろう?  香純、蓮、司狼。決して仲良し三人組なんて間柄じゃない。微妙に崩れた三角形。どう見てもバランスの悪い取り合わせ。  それでも三人はいつも一緒だった。悪く言えば自分勝手、良く言えばお互い遠慮しないで済む関係を築いていたと言えるんだろう。  香純にとってはそれで充分だった。それ以上のことは何も望まないし、そんな生活がずっと続くものだと思っていた。  今はもう、大分違う感じになってしまったけど、だからって壊れちゃったとか、取り戻せないとか、そんな風には思いたくないよ。  だから自分が、今夜ここで諸々の清算をしよう。 「さぁ、着いたけど……出迎えはないのかしら?」  小雨程度に降っていた雨は霧雨に変わり、最後には名残惜しそうな〈靄〉《もや》が残った。  教会の屋根の上、雨雲の合間から浮かぶのは白く冷たい月。  特に場所を指定されたわけじゃない。だけど、香純の思い当たる場所はここしか残っていなかったのだ。  あの日―― 「こんにちは、綾瀬さん」 「神父様……」  螢の言葉が蘇る。彼もまた“こちら側”だと。  眼前の笑顔と、その言葉が、香純の脳内で激しいイレギュラーを起こした。 「あたしを、殺すの?」  混乱の果てに、香純が口にしたのはそんな一言だった。 「……は?」  対する神父の返事は、実に気の抜けた声であった。 「え?」  虚を突かれたかのような神父の表情に、香純からも張り詰めていた気が抜ける。 「あ、あれ? 神父様?」 「ええ。神父ですよ、綾瀬さん。先日、あなたに教会まで案内していただいた、ヴァレリア・トリファです」  その笑顔は、あまりに過去を残しすぎていた。  初めて出会ったあの日の彼と、あまりに同じ過ぎた笑顔だった。 「あ……」  その善良な笑みに、香純は一瞬で頭が空白になってしまう。警戒心が、足場を失って崩れ去る。 「ああ」  神父は〈嘆息〉《たんそく》した。  人の、魂の弱さに。  〈恣意〉《しい》的に現実を無視して、願望で事実を捉えようとしてしまう、弱さの根幹に。 「ここはいい所ですねえ」  休日の遊園地……のどかでしかない光景を見回しながら、彼は慈しむように目を細めた。 「瓢箪から駒と言うべきか。実に面白いことになっている。リザからの贈り物とでも思いましょう。我に天運ありと」 「シスター?」 「ええ、ああ、あなたには見えませんか。この子供たちが」  宙を愛撫するように、トリファの手が伸ばされる。そこには何かが、いるような…… 「私も一人一人の名前は知らない。〈A〉《アー》だの〈B〉《ベー》だの、〈1番〉《アイン》だの〈2番〉《ツヴァイ》…… しかし顔は覚えている。その魂を記憶している。可愛い子らだ。救ってやらねばなりますまい」 「…………っ!」  錯覚、そうあってほしかったし、そうだとしか思えない。トリファの周囲を回るように、何百もの子供たちが浮いている。香純にはそう見えた。 「死に別れた兄弟に再会できて嬉しいですか。ええ、その願いは叶えましょう。あなた方は私にとって、勝利の天使だ」 「きょう、だい……?」  それは誰のことを言っているのか。 「イザークが哀れでならない。そうでしょう、そうですとも。そしてだからこそ、一人だけ仲間はずれのヨハンもまた、可哀想。〈同胞〉《きょうだい》ならば、皆が一緒に……彼らはそう望んでいますが、あなたはどうですか、綾瀬さん」  いつも薄く、糸のように細められた神父の目が開いていく。香純の頬へ、ゆっくりと、彼の手が伸ばされていく。 「あなたに罪というものがあるのなら、それは無知であったこと。 蚊帳の外は辛かったでしょう。仲間はずれは悲しかったでしょう。いつも思っていたはずだ。わたしもその輪に入りたい。 ならばよし。あなたに出来ることを教えましょう。彼らがあなたを誘ってくれる。彼らは傷つく子供を見ていられない」  そして、その手がついに香純へ…… 「しかる後、答えをお聞かせ願いたい。これは夢だが、夢ではない」  ただの、とある家族の記憶。  何処にでもある、しかし厳重に封印され、歴史の闇に沈んだ〈家庭の事情〉《Skeleton in the closet》…… 「あなたはそれを、知るべきだ」  神父の手が頬に触れたその瞬間、数多の幼児が歓喜と共に、香純の中へと入っていった。  そう、これは〈家庭の事情〉《Skeleton in the closet》。  ただ一人の母のもと、幸福だった子供たちの話。  これは、“彼ら”と似た境遇にある者しか見ることが出来ず、また見てしまえば囚われる。  些か奇異な親のもとで育ったこと。  それが、この夢を見る条件である。  かつて、“泉”と呼ばれる機関があった。その設立は1936年。第一次大戦により減退した人口を増加させるためのものであり、同じく戦争によって増加した寡婦や孤児を救うために設けられた、一種の福祉施設である。  ドイツという国家は、大戦に負けた。それは各国に巨額の賠償金を払うことを意味し、その状態からさらに世界恐慌の煽りを受けて、経済はハイパーインフレーションを起こしていた。  結果、失業率は優に30パーセント以上に達し、言うまでもなく治安は乱れる。この時期、この国に生きた者らは、多かれ少なかれ皆が辛酸を舐めているのだ。  ゆえに、“泉”のような機関が生まれる。  守られるべき女子供。これから先の未来を紡いでいける女子供。  しょせん男などというものは、如何に血を流して死ぬかという消耗品の生物であり、命の継承や生育という意味においては議論の余地なく無能である。  ましてこの時代、この国家にあって男が成すべきことは一つしかない。  迫り来る第二の大戦。それに勝利してドイツ民族の誇りと強さを取り戻すこと。次代の子供たちが胸を張っていけるように、その礎となること。  ならばその後方には、“泉”のような機関で命を育む女の存在が不可欠なのだ。  その女性は、そうした理に則って“泉”の一員となった。  もとより母性の強い性であり、男女の特性からくる適材適所、役割の分担という概念を弁えている。各々の領分を侵さず、尊重し助け合うこと。それが愛であり幸せだと、彼女はよく分かっていたのだ。  ドイツ女子同盟という良妻賢母育成施設を首席卒業。  国家が望む未来への萌芽を育み、“泉”においても瞬く間に頭角を現した彼女は、まさにドイツ女性はかくあるべしと賞賛された。  それは当時における価値観で、これ以上ないほどの物理的立場を得たことからも推し量れよう。  少佐相等官――貧困の底から徐々に回復し、髑髏の帝国と化していくドイツにおいて、その座を得たということは大半の男を問題にしない雷名である。  リザ・ブレンナー……後に〈大淫婦〉《バビロン》と呼ばれる女。  それが彼女の人生を狂わせた、そもそもの発端だった。  リザは己の性を弁えている。女であることの喜びを好いていたし、女に生まれたことを誇ってもいる。  ゆえに、男と立場を張り合おうなどとは思わない。第一、どちらが上だの下だの、そういう問題ではないだろう。  社会において雌雄は両輪。どちらが欠けてもいけないし、競い合うものではない。  男が銃を手にして戦場に臨むなら、女には女の戦場があろう。そう思いながら今まで歩いてきたのだが、なぜか両輪の中間地点めいた所に身を置かされる羽目になった。それに皮肉を禁じ得ない。  なぜなら“その場所”には、すでに先客がいたのである。  エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ……ドイツ女子同盟の同期であり、共に首席であった彼女もまた、リザとは違う意味で女性達の代表であった。  軍人としてのドイツ女性。エレオノーレはその嚆矢であり、家柄の高さも相俟ってか、戦姫という触れ込みでプロパガンダが起こるほどの立場を得ていた。当時、階級的にはリザの方が上だったが、社会的な影響力はエレオノーレの方が勝っている。  それが、彼女には気に入らない。  ライバル心などというものではなく、単に危険を感じたからだ。エレオノーレを認めてはいけない。  彼女に憧れる者は“泉”にもいた。年端もいかない少女達にも、夢を訊けば軍に入ると答えた者がいたほどだ。許せることではないだろう。  男であれ女であれ、互いの領分を弁え、その一線を守るのが礼儀であろうとリザ・ブレンナーは考える。  有り体に言えば彼女は保守的で、エレオノーレは革新的だったのだ。そしてこの場合は、主に後者が支持を得る。  ゆえに危険だと思った。なぜならエレオノーレは同性を嫌悪している。その性格をよく知っている。  彼女の真似など普通の女にはできないし、彼女がそうした者らを助けることもないだろう。  そもそもからして、大ドイツ帝国総統は、女が自己主張をしだすと国が乱れるなどと放言していたのである。  それについての個人的意見や感情はともかく、能力的にも環境的にも、エレオノーレの追従者が幸福になれる確率はゼロに近い。  リザはそれを止めたいと思う。 “あれ”は特別なのだ。プロパガンダは、宣伝省の者らが総統の歌劇好きにおもねるため、ニーベルングのワルキューレ騎行を模した茶番を行っているにすぎない。  近代国家として女性の人権や自立心を否定はしないが、度を越えればやがて弾圧が始まる。自分が守ってきた“泉”という女の戦場が危うくなる。  権力層にいる者らは、皆おしなべて冷酷かつ冷徹なのだ。“泉”がただの牧場と化し、女が産むためだけの獣畜や機械のように扱われだしては堪らない。  では、どうする?  そんな懊悩に包まれていた1939年12月24日……リザはその日、答えを得て、そしてそのまま戻れなくなった。  ラインハルト・ハイドリヒという男がいた。  カール・クラフトという男がいた。  彼らが危険な存在であるとリザは見抜いていたのだが、同時にその力にも魅せられた。  彼らの下で力を得て、エレオノーレを圧倒しよう。世の凡庸な女性達が道を踏み外さずともよいように。“泉”の価値を守れるように。  そう思い、そう信じて――  リザは、悪魔に魂を売ったのである。  それは正常な判断だったのか。  そこまで焦るほどのことだったのか。  ただその時は、そうしなければ駄目だと思った。もはや強迫観念に近いものであったのだろう。  なぜなら、エレオノーレも悪魔に魂を売ったのだ。リザとまったく同日に、彼女も彼らに魅せられたのだ。  エレオノーレはあの二人についていく。そしてさらに力を得よう。  ならば自分もついていかねば、この差は開いていくばかり。  看過はできない。  だから――  ここに生命の泉、レーベンスボルンの裏側が誕生する。  そもそもの“泉”は福祉施設で、ドイツ民族の増加と純血性の確保を目指していた機関である。  国家のために女が成すべきは血を残すこと。未来のために新しい命を産んで、育てて、送り出す。女がそれを続ける限り民族は維持されるし、国もまた磐石であるはずだ。  ゆえに、産み育てるという行為。純血種の創造という聖職。  そうした意味で、表も裏もやっていることはあまり違いがあるわけではない。  ただ、何の純血種を創造するか……決定的に違うのはそこだった。 「今日はスプーンを曲げれたの。昨日はカードの絵が見えたの」  裏のレーベンスボルンで行われたのは、つまりそういうことである。 「〈60番〉《ゼヒツィヒ》と〈18番〉《アハツェン》は喋れないけど、二人だけのお話はできるみたい」 「少し頭が痛いかな。鼻血がずっと止まらない」 「ねえ〈ママ〉《ムッター》、〈100番〉《フンダァト》が動かなくなっちゃったよ。もう六時間もお目々をずっと開けっぱなし」  超人創造……常人にはない〈識閾〉《チャンネル》を生まれ持つ子供達。彼らはその大半が長生きできず、自らの力に負けて早々に自壊していく者がほとんどだった。  名前が記号的なことにも意味がある。それは人にとって、もっとも単純かつ顕著なアイデンティティであるために、世間の常識から切り離すには名前を剥奪するのが一番効果的なのだ。  要は、囚人に対する扱いと同じである。 「楽しいね」 「悲しいね」 「でも僕たちはシアワセなんだ」  なのに、それでもこの子達は笑っている。当然だろう、そのように創った。  この頃になると、リザの初志はもはや何処かに行っていた。忘れたというわけではないが、単純な話、それどころではなかったのである。  命を育むべき女が命を使い潰すのは度し難い矛盾だが、たとえ千の失敗を繰り返しても一の成功を得ねばならない。事態はそれだけ逼迫している。  戦争に負けそうなのだ。国が滅びるかもしれないのだ。ゆえに起死回生の一手が要る。 “泉”の裏に子供の屍が積みあがっていくの見ながら、リザはこの犠牲の代わりに救われるだろう未来のドイツを夢見ていた。  敗戦の過酷さは十二分に知っている。その歪みから生じたとしか思えぬ鬼畜達が仲間にいる。  今後、あんな者らが再び生じるような社会的土壌を生んではならない。  これは女の義務である。  そんな彼女を黒円卓の双首領は褒め称え、特にカール・クラフトは泉に足繁く通ってきた。  リザにとっては得体の知れない不気味さだけが際立つ男だったが、子供達の反応は二極化されていて、妙に好かれるか恐れられるかのどちらかだった。 「この人、知ってる。なんだか怖い」 「前にお菓子をもらったよ。いい人なんじゃないのかなあ」 「でも、目が僕たちを見ていない。ううん、誰も見ていない」  彼を恐れているのは、主にそうした、他人の内面を覗けるような子供達。  この男が何か凄惨な過去を持っているだろうことは容易に予測できたので、そうしたものに怯えるだけならリザは別に驚かない。  だが、どうやら違ったらしい。 「じゃあ、心の色を見通せる? 前にそういうことができるって言ってたじゃない」 「見えないの。この人だけは見えないの」  見えるはずのものが見えない。まるで挿絵が動いているようだと、この子供は言っていた。 「ふーん。ところで君の名前はなんだっけ?」 「〈1000番〉《タオゼント》だよ」 「なーんだ。もうそんなに増えたんだね」  ああ、本当に、もうそこまでいったのか。  もう番号はやめよう。どうしても数を意識してしまう。 「〈14番〉《フィアツェーン》と〈20番〉《ツヴァンツィヒ》がいなくなっちゃったよ。 一番お兄さんだったなのに」 「きっとだから駄目なんだよ。 大きくなっちゃったら駄目だって、〈ママ〉《ムッター》が言ってた」 「僕たちは大丈夫?」 「分からない。けど大きくなりたくないね」 「このままがいいね」 「この泉にずっといたいね」 「ねえ、君の名前は? 何番?」 「僕はもう、そういうのじゃないんだよ。前に〈1000番〉《タオゼント》が数字を気にするようになって止まっちゃったんでしょ?」 「うん、なんだかヘンなことを言ってたの。ここはお墓だって。 ヘンだよね」 「ヘンだね、欠陥がある子の言うことはよく分からない」 「で、君の名前は?」 「〈紺色〉《マリーネブラオ》」 「色なんだね」 「うん、色なんだよ。僕から以降はそうなるらしい」 「分かったよ」 「〈緑色〉《グリューン》が生まれたら僕たちは……」 「なんだって?」 「なんでもないよ」  超人創造とはつまるところ、カール・クラフトの秘術に耐えられる者という意味である。  傑出した人物特有の歪みであろうが、彼は凡人の目線を持たないので基準を底辺に合わせない。ゆえに結果として、超人を生むには超人が要るという、汎用性皆無の術式しかあの男は組まないのだ。  ではどうすればいい?  思いながらも、リザの中で答えは出ていた。 “泉”は裏も表も、優生学という思想、学問のもとに成り立っている。  早い話、天才の子供は天才になる確率が高いだろうから、優秀な者同士で契ったほうがよいということ。人間のサラブレッド化である。  カール・クラフトの秘術……黄金錬成。不死創造。スワスチカ。  そしてその核となる〈翠化〉《ウィリディタス》。  〈太陽の御子〉《ゾーネンキント》。  リザはその一人を生むために、千より後は数えていないほど大量の子供を死なせた。  ならばもう、ここまで来て、一番確率が高い方法を試さない手はないだろう。  優生学。天才の子供は天才で、超人の子供は超人である。  結果は、一年後に現れた。  それは大成功であり、大失敗でもある。  なぜならここにきて、リザは己の所業を顧みてしまったから。  自ら腹を痛めて産んだ子供は、まさしく彼女が望んだ怪物だった。 「彼は〈金色〉《ゴルト》」 「なのに別の名前がある」 「イザーク、イザーク」 「怖いイザーク」 「一番年下なのに一番怖い」 「誰も彼を〈金色〉《ゴルト》と呼ばない」 「近寄りたくない」 「だけど嫌われたくない」 「イザークに嫌われたら全部終わっちゃうんだって、みんながみんな知っていた」 「でもイザークは僕らを見てない」 「イザークは何も見てない」 「その目はなんだかおかしくて、角度を変えれば金の色に見えたんだ」 「この泉を干上がらせる太陽みたいに」 「父親にそっくりだって、僕らの〈ママ〉《ムッター》が泣いていたんだ」  そうだ、自分はこの子が怖い。その目に見られるのが耐えられない。  五色に変わる瞳の色。  無感動に見てくる視線は生後数ヶ月で老成していたし、産まれたときから歯も生えていた。  成長の速度が半端ではない。僅か一年で五歳児相等、もう一年経てば十歳くらいになるだろう。  日々大きくなればなるほど面影が出てくる。  ゆえに直視できない。自分の罪を叩きつけられているように思う。  自分は何をさせられていたのだろう。  何を考えていたのだろう。  国家のため? 未来のため? 馬鹿な、ラインハルト・ハイドリヒもカール・クラフトも、そんなものなど塵芥ていどにしか見ていないというのに。  リザは、そこでようやく目を覚ましたと言っていい。  だが、そうだからこそ。正気に戻ったからこそ罪悪感からは逃げられない。  償わなければならないのだ。ゆえに黄金錬成は必要で、生贄となるゾーネンキントもまた必要である。  イザークは誰も何も見ていない。周りの総てを石か何かのようにしか捉えていない独特の視線は、本当にそっくりだった。  その目に恐怖しながらも、しかし内心、リザは何処かで安堵する。  これなら、と。  これなら捧げても構わない。  だって自分には、もう一人いる。 「そう、だからこそ僕らは〈銀色〉《ズィルヴァ》を仲間と思った」 「彼にも別の名前があったけど」 「ヨハン、ヨハン」 「可哀想なヨハン」 「イザークの弟なのに全然似てない」 「誰も彼を〈銀色〉《ズィルヴァ》と呼ばない」  もう一人の方は、自分の息子だという実感が持てた。  魔的な才を、総て兄に持っていかれたような弟。  だからこそ、この子は本当にごく普通の子供だったのだ。 「友達になろう」 「一緒にいよう」 「君も出来損ないなんだから」 「イザークが生まれるためだけに、〈欠陥品〉《ぼくら》は存在したんだから」 「ねえ、なのに、どうしてヨハン」 「僕らは同じ泉の子供で、同じ失敗作なのに」 「どうしてヨハン、君一人だけが生きてるの?」  そう、リザはイザークを黒円卓に捧げ、ヨハンを終末が近づくベルリンから逃がした。  同志達には死んだと偽り、彼らはそれを素直に信じた。リザが巧妙な偽装をしたのも確かだが、もとよりイザークさえいれば出来損ないの生死になど誰も興味を持たないのである。  結果、ベルリン崩壊の時にスワスチカを動かしたのはイザーク。 “城”と呼ばれるラインハルトの創造位階を、永久展開させたのもイザーク。  その魂は、今や魔城の核となっているだろう。  母に捨てられ、弟に逃げられ、今も城に繋がれているイザーク。 「可哀想なイザーク」 「一人ぼっちのイザーク」 「友達がいなくて、〈ママ〉《ムッター》にも怖がられて」 「ヨハンにさえ逃げられたイザーク」 「君は一人だ」 「誰もいない」 「怖がってごめんね」 「仲間はずれにしてごめんね」 「みんなで君のところにいくから」 「僕らは同じ泉の兄弟だから」 「だけどそれじゃあ、今度はヨハンが一人ぼっちになっちゃうから」 「あの子も引きずっていくから許してね」 「逃がさないから」 「連れて行くから」 「お願いイザーク、どうか僕らを嫌わないで」 「君に嫌われたら全部終わっちゃうんだって、みんながみんな知っていた」  つまり、それが自分の血筋というわけだ。香純はレーベンスボルンの子供たちから流れ込んだ記憶を通じて、ある女性の人生を見た。  シスター、リザ・ブレンナー。  彼女が自分と、そして玲愛さんの曾祖母。  あの子供たちはその犠牲者で、神父曰く傷ついた魂ってやつを見捨てられないらしい。  だから、言い方は悪いけどそれを利用させてもらったのだ。魂が傷ついてる奴なら、あたしの傍に約一名、凄いのがいるし。  あいつを休ませてやりたい。これ以上傷ついてほしくない。  あの子達に害意はないから、蓮がたとえば連れて行かれちゃうこととかはないだろう。だけど少なくとも、今夜いっぱいくらいは目を覚まさないはずだから……  その間に、あたしが全部終わらせるよ。でも心配しないで。  あたしは死にに来たんじゃないし、色々知って、自分にしかできないことがあるって分かったの。  それにもともと、これはあたしの家庭の事情みたいだしさ。  ケジメつけなきゃ、いけないでしょ。 「さぁ、着いたけど……出迎えはないのかしら?」  すると、礼拝堂のドアが開く。思わず身構えてしまったけど、出てきた人は…… 「玲愛さん……」  なんだか怒ってるような、呆れてるような、複雑な顔をしたこの人だったんだ。 無邪気な子供たちの声が響く。彼らがどういう境遇で俺にどう共感したかも分かったし、香純のことも分かってしまった。 だから―― 緑の泉で僕らは遊ぶ。緑の泉は楽しいところ 悪いけど、これ以上一緒に遊んでられないんだよ。 霧が深くて外が見えない。だけど僕らは怖くない 俺は怖い、あいつを失うのが怖いから行く。 ずっとここが僕の家 あいつの家を過去に壊した負い目もあるし。 ずっとここにいるみんなが兄弟 ずっとここにいるわけにはいかないんだよ。 緑の泉で僕らは遊ぶ。緑の泉は楽しいところ 僕らは太陽じゃないけれど ほんとの太陽が生まれたから、そこにみんなで集まろう 「…………」 だから、俺は目を覚ました。あのまま眠り続けていていいわけがない。 「香純……」 あいつが俺を守りたいと願う気持ち。こちらの出番を奪い、休ませて、その間に一人で全部終わらせる。ああそれは、確かに共感できる考えだろう。 誰だってそうする。俺だってそうしてきた。危険な目に遭わせないよう、大事な誰かを後方に置き去り、矢面に立って血を流すのは自分一人だけでいい。 自分だけが耐えればいい。 それは自己犠牲愛なんてものじゃなく、ただのエゴだと分かっている。 分かっているけど、理屈じゃないんだ。たとえどんな奴だって、自分より大事な誰かや何かを絶対的に持っているから。 俺にとってそれは香純で、香純にとっては俺なだけ。これはただ、それだけのこと。 「だから、悪いけど聞けねえよ」 呟いて、身を起こす。おまえが俺を守りたいと思うように、俺だっておまえのことを守りたい。 もはやレーベンスボルンの子供たちは消えていた。遊園地で彼らに憑かれ、本来なら総てが終わるまで目覚めるはずのなかった俺は、ここに目を覚ましている。 単なる意志の力で覚醒したってわけでもないだろう。おそらく俺の内海には、彼らでも効し得ないものがいたから弾かれたのだ。 それが香純の、そして神父にとっての誤算。 「ありがとう、マリィ…」 最近は出てくることも声を聞くこともなく、存在を身近に感じることの出来なかった彼女が、しかし俺を助けてくれた。その事実を無駄にしてはいけない。 目覚めた以上、全部を香純に任せて待っていられるようなガラじゃないんだ。 あいつはあいつで自分に出来ることをしようとしてるように、俺も自分に出来ることを行うのみ。 「……っ、悪ぃ、なんかすげえ嫌な夢見た」 「あたしも……女的にお腹痛いわ」 親からの愛情に不足している者を取り込むレーベンスボルンの子供たち……それは司狼と本城にも効いたらしく、こいつらも眠っていた。二人は目を擦りながら、部屋に入ってくる。 「どんな夢だったかは言わないでいい。知ってる」 「あん? ああ、なるほどね」 「香純ちゃんはいない、と」 「そういうことだ」 察しのいいこいつらは、皆まで言わずとも総てを理解したらしい。 香純と神父にまんまと一杯食わされたことになるが、本番はここからだ。 今、俺たちは、ほぼ完全に事態の総てを知り、共有している。 だから、一気に巻き返すのはここから。 「行くぞ、あのバカスミ、ぶん殴らないと気がすまない」 「オッケェ~、つかあの神父は、あいつにどうこう出来るほど甘くねえよ」 「そんなに舐めてやるのもどうかと思うけど」 苦笑して、本城は言う。 「でもまあ、あたしらは舐められたなあ。すっこんでろとか、腹立つわ」 「同感だな」 俺も〈香純〉《あいつ》のことは言えないが、これはエゴの張り合いだ。ぶん殴らせてやるから、ぶん殴りたいし、この気持ちには歯止めが効かない。 「別にオレらにまで一服盛らなくても、行きたけりゃ行かせてやるのに」 「ねえ、その方が面白いのに」 何か不穏当なことを言ってる馬鹿が二名ほどいるにはいるが、そんな事態にならなくてよかった。わざわざこんな時に喧嘩もしたくない。 「おぅし、んじゃ行くかぁ」 香純の行き先は分かってる。 「教会だね」 そこで最後の勝負。残っているのはヴィルヘルムと櫻井とヴァレリア・トリファ――その三人を、一気に排除しなくちゃいけない。 「オレらが一番最初に連中と絡んだのも、思えば教会だったよな」 「そうね、だから切りがいい」 「俺もそうだよ」 初めて遭遇した黒円卓の団員は、ヴィルヘルムでもルサルカでもなくあの神父。共に教会へ行った日のことを、俺はまだ忘れていない。 「香純……」 そして氷室先輩。 「待ってろ、すぐに行ってやる」 決意を口にし、俺たちはクラブ・ボトムレスピットを後にした。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 9/13 Swastika ―― 6/8 【Chapter ⅩⅡ Skeleton in the closet ―― END】  混じり合う。  僕と私と俺達は混じり合って型を無くし、他の誰でもないモノになる。  もはや何も分からない。  光も音も匂いも味も、痛みも喜びも何もかも――分からず感じず理解できない。  ただ、在るべしと。  そこに在れというただ一つの決まり事に縛られて、永劫へばり付くだけの残骸。  僕は愛というものを持っていたし。  私は希望を知っていたし。  俺は信念を誇っていたが。  今は何も感じられず、また何一つとして得られない。  そんな、哀れで取るに足らないただの虚ろであるはずだったが。  なぜだろう。僕は奪われた愛を覚えていて、私は壊された希望を忘れずに、俺は果たせなかった夢に慟哭する。  ゆえ、だからこそ。  本来何も得られぬこの身が、ただ一つだけ持つに至った。  つまり――  僕が覚え、私が忘れず、俺が刻み付けたモノは悔恨。  総ての我らに共通するココロは悔やみ。  鼓動しないこの〈屍体〉《カタチ》は、今それによって形成されている残骸であり呪いなのだ。  この混沌に渦巻くうねりの一つとなるのも遠からず。  獣の一部となるのが揺るがし難い定めならば。  ああ、せめて我らは、この悔やみを果たしたいと、そう思う。  主よ、黄金の混沌よ、あなたは我らのこの望み、分かってくださるのでしょうか…… 「無論」  誰にともなく呟く声が、“城”の玉座に重く響いた。 「愛、憎悔、悲憤、嘆き……卿らの魂は実に甘い。“アレ”とよく似通っている。ゆえ、手出しはせん。その望みとやらがどう転ぶかに関しては」 「前座だが、悪くない。似た者同士、願いの天秤がはたしてどちらに傾くか、私も単純に興味がある。少なくとも、この続きと同程度にはな」  彼は一人、チェス盤に目を落として薄笑う。  そこではすでに〈兵士〉《ポーン》の大半が倒れ、〈騎士〉《ナイト》も行動不能に陥っている。だが、〈詰み〉《チェック》となるにはまだ早い。  〈王〉《キング》の下には、未だ〈僧正〉《ビショップ》、〈城兵〉《ルーク》、そして〈女王〉《クイーン》が無傷のまま残っていた。これらを突破するのは、並大抵のことではなかろう。  実際、盤上は複雑極まる乱戦の様相を呈しており、一見して白黒どちらの陣営が優勢とも言い難い。熟練者でも次なる手を判じあぐねて唸るような局面であり、彼自身、未だ勝敗は見えてなかった。  この状況は、いわゆる独り打ちで成されたというものではなかったから。  六十年以上前、対手が場を辞したために預かりとなった一局だ。それから何万通りもの手を試し、吟味し、模索していたのだが、未だに結末は霧の中で、不明と言える。  しかし―― 「あるいは、卿なら見えているのではないか?」  嘯いて、六十年の間延ばし延ばしにしていた彼の〈一手〉《ターン》、黒の〈僧侶〉《ビショップ》が自陣深くに切り込んでいた〈騎士〉《ナイト》を刺す。 「さて、となればどうする?」 「左様」  同時に、それまで彼しかいなかった玉座の間にもう一人の人物が現れた。  何の前触れもなく唐突に、像を成すためのあらゆる工程を無視した出現。  だからだろうか、紛れもない異常であるにも拘わらず、獣が眉一筋動かさなかったのは。  あまりにも超然と現れたため、遥か以前からいたという錯覚を懐いても不思議はない。盤を挟んで向かい合う彼らの間に、久闊を叙す言葉も再会を祝す風情も流れなかった。  当然のように淡々と、ただ六十年ぶりになる対局の続きを指していくだけ。 「〈白〉《わたし》の〈兵士〉《ポーン》が〈僧正〉《ビショップ》を刺して成り。だがあなたの〈女王〉《クイーン》がそれを討つ」 「そして卿はキャスリング。……となれば私の〈女王〉《クイーン》と卿の〈城兵〉《ルーク》は共に落ちるか」 「然り。そして八手後に〈詰み〉《チェック》だ獣殿。あなたの〈城兵〉《ルーク》は単身動きすぎて、〈王〉《キング》を守る前に分断が可能ゆえ」 「つまり、最後まで〈女王〉《クイーン》を温存させた卿の勝ちか……なるほど、終わってみれば呆気ないな、カール」 「いかにも。ご不満ですかな?」 「いいや」  予想に反し、否――あるいは予想通りに終局した盤面を見下ろしつつ、ラインハルト・ハイドリヒは苦笑した。 「これで私は何敗目になる?」 「百十五敗になりますかな。ただ誤解しないでいただきたいが、別に私が卓越した打ち手というわけではない」 「つまり私の程度が低いということだろう? 仕方あるまい。もともとこの手の遊戯は性に合わん」 「と仰るより、負けたいのでしょう、あなたは」 「ほう」  言葉の内容よりも会話そのものを楽しむように、首を傾げるラインハルト。彼の盟友である黒衣の影は、微笑したまま飄々とした風情で続く反応を待っている。 「変わらんな、カール。その軽口も健在で何よりだ。もっとも、いつぞやの誓いを忘れているのだとしたら失望ものだぞ。 我ら次にまみえるときこそ、互いの目的を成就させると言ったあの日の卿は何処に行った? それとも私が気付かぬだけで、今この瞬間こそが約束の刻だとでも?」 「それについては、幾つか理由もありますが」 「まず一つ、こんなものは引き延ばすべきではないと思ったので」  すでに終局した盤面を見下ろしつつ、感情のこもらぬ声でそれだけ告げる。六十年待たせた勝負を評するにはあまりに雑把な言いようだったが、当の獣は気分を害した風でもない。 「まあもっとも、それはあなた次第であるとも言えるが……」  すでに盤から弾かれていた黒の〈騎士〉《ナイト》を摘み上げて、言葉を切る。六十年前、ラインハルトがこの駒を捨てたところで勝負は預かりとなっていたのだ。 「もともとの敗因はこれ。あなたが負けたがりであるということは、〈騎士〉《これ》を捨てた事実からもよく分かる」 「それはシュライバーのことを言っているのか?」 「さて、どうだか。ただ、私がこの一手で場を辞した意味、分からぬあなたでもなかったろうに」 「不毛な論議だな、カール。見える予想から意図的に外すのも、また予想通りであると言えるだろう」  それは堂々巡りに陥る矛盾。裏の裏は表の理論。事が成ってからしか正誤を判断出来ぬのなら、彼らどちらの言い分も正当であろう。そこを理解しているのか、特に反駁せずメルクリウスは手の駒を弄ぶ。  すると何時の間にか、黒の〈騎士〉《ナイト》は血に濡れた眼帯へと変わっていた。 「彼は〈何処〉《いずこ》に?」 「今はこの“城”に溶けておろう。おおかた不貞腐れておるのであろうが。 それもまた、仕方あるまい。別段あれに非などない。ルベド、ニグレド、彼らも然り」 「あなたの一部であるゆえに?」 「いわんや、他の総てもな。あれらが何処で何をしようが、それは私の意志の一端……盤上、宇宙はここにあるのだ」 「では、“これ”もですかな?」  黒の〈僧正〉《ビショップ》……再度摘み上げられたそれを見て、ラインハルトは目を細めた。悪戯を見咎められた子供のように、稚気を含ませた笑みを浮かべる。 「卿はそれが気に入らんか?」 「いいえ。むしろ好ましくさえ思っていますよ。好ましすぎて、思わず手助けなどしたくなる。ゆえ、自戒の意味もこめてこうして参上した次第」 「なるほど。それが第二の理由か」  言い置いて、ラインハルトは立ち上がった。 「私も卿と同感だ。あれが好ましく、愛しくさえある。茶番だが、遂げさせてやりたいと思う気持ちに、偽りはない」 「つまり、予想通りにいかすかいかせぬか」 「実に悩ましい問題だろう。どうするべきか私にも分からぬよ。結末が〈チェス〉《これ》と同様、“ああそうか”と思うだけではつまらぬし、かといって逆も同じ」 「だが、あなたは以前、こう仰った」 「傍観するだけでは何も掴めぬと、その言葉を思い出した以上、座して待つわけにもいきますまい」 「しかしそれを言うのなら、卿はこうも言っていたぞ。私が関わると、物語は退屈な様相を帯びはじめるとな」 「ふふ…」 「くくくく……」  徐々に、そして段々と、“城”の玉座に笑い声が木霊する。 「くくく、はははははははははははははは――」 「ふふふふ、ははははははははははははは――」  それは豪放で、磊落で、この上もなく楽しげな……周囲に笑いの輪を無条件で広げるような、英雄的大笑だ。これから絶望的な戦場に臨む軍の指揮官が発すれば、末端の一兵卒にいたるまで恐怖も迷いも消し去ろう。  共に魔王と言って差し支えない彼ら二人……その決して結び付けてはならぬ両雄が、このとき六十数年ぶりに再度繋がったことになる。  獅子が歩けば、それだけで蟻は死ぬ。  鷹が飛べば、地を這うものは追いつけぬ。  これはある種の希望が砕かれた瞬間。  最悪のシナリオが動き出す前兆。 「だがカール、卿の本音は他にもあろう。第三、あるいは第四の理由がな」 「〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈上〉《 、》〈が〉《 、》〈る〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈腰〉《 、》〈の〉《 、》〈軽〉《 、》〈い〉《 、》〈男〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈ま〉《 、》〈い〉《 、》」 「いかにも」 「いつぞや言っていた女がらみか?」 「否定は出来ぬ身」 「重畳。ならば好きにするがよい。私の好きな愚かさだ」  見下ろしてくるラインハルトに、メルクリウスは片眉をあげて言葉を返した。 「あなたもまた、見守りたい愛とやらがある様子だが」 「分かるか」 「左様。〈僧正〉《これ》と天秤にかけておられる」  それはすなわち、黄化の枠……意図的に配した障害のこと。  あれを超えられるか否かが一つの基準であり、その結果によって後の選択が大きく変わる。  ゆえに―― 「まあ、見せていただこう。私の都合にも少なからず関わる問題。その点で言えば興味も尽きぬ。 ……ああ、つまりおまえ達に期待しているということだよ、我らの親愛なる〈大隊長〉《エインフェリア》」  いつの間にか彼らの下、玉座の〈階〉《きざばし》に跪いていた〈赤騎士〉《ルベド》と〈黒騎士〉《ニグレド》を見下ろしつつ、メルクリウスも立ち上がった。  そのまま階段を降りはじめ、二人の間に立つとその肩に手を置き、呟く。 「おまえの愛はどう転ぶか」  それにエレオノーレは何も答えず。 「あなたの信念は結実を見るか」  マキナは暗い瞳で見返しただけだった。 「そう嫌うものでもあるまい。手助けをしてやろうというのに」 「不要」 「俺はおまえを信じぬ」 「ふふ、ふははははは」  未だ玉座のラインハルトは、臣下の反応に微笑するだけで盟友への不敬を咎めようとはしなかった。 「放してやれ、カール。それでは彼ら、立てまいよ」 「おや、そこまで柔に創った覚えはないが」  瞬間――  彼の右手は焼き尽くされ、左手は消滅した。  なんとなれば五体粉微塵にしても構わぬという示威の発露。しかし当のメルクリウスは、両手を消されても微笑みを崩さない。  痛みを感じないのか、いやそもそも破壊されたように見えただけか……外套の内におさまった彼の両手が、どうなっているかは分からない。  ただ愉快げに俯いて喉を鳴らす。 「結構。可愛らしい歓迎、痛み入る。 では二人とも、まだいくらか時間はあろう? それまで“城”の案内などを頼まれてくれると嬉しいが」 「別に問題はありますまい、獣殿」 「ああ、もとより卿の創った城だろう。自らの成果、暇潰しに見物でもしていればよい」  主に促され、立ち上がった二人は歩き去る黒外套の後に追従する。  共に完全な無表情であり、先ほどの行為とその結果をどう思っているかは窺い知れない。分かっているのは、彼らが獣の命に絶対服従であるということのみである。  そんな三人を玉座から見送りつつ、ふと思い出したようにラインハルトは問いを投げた。 「時にカール、先ほど言っていた私次第というのはどういう意味だ」  すでに勝負の決した盤上。つまらぬと言い、引き延ばすべきではないと早々に終局させたチェスについて、確かに彼はそんなことを言っていた。 「あの状態から、局面を覆す手を私は見落としていたのかな?」 「ええ、それは至極簡単な手を」  歩みを止め、首だけ振り返るメルクリウス。エレオノーレはその顔から視線を逸らし、マキナは最初から視界に入れていなかった。  見てはならぬモノ……あるいは嫌悪、あるいは憤怒、泰然をもって成る彼ら二人の在り方を根底から揺るがしかねない悪魔の〈表情〉《かお》……少なくとも今この場において、見るべきではないと選択させたモノがそこにあった。  主の前で醜態を晒せぬという克己、これを殺しては水泡だという自制……ベクトルは違えど、不死身の〈大隊長〉《エインフェリア》が直視を避けたという時点で、その忌まわしさは計り知れない。  ただ一人、笑みすら浮かべて真っ向からそれを受け止めたラインハルトに、黒い水星は言葉を継いだ。 「子供の論理、盤ごと引っくり返してしまえばよい。あなたにはそれが出来る」  そのとき、〈詰み〉《チェックメイト》にあった黒の〈王〉《キング》――それだけを残して盤はひび割れ、敵味方の総てを巻き込みながら粉々に砕け散った。 「万軍を凌駕する単騎……そのような王がいる時点で兵法など意味はない。お分かりかな、獣殿」 「なるほどな」  つまらぬ結末なら覆せ。総て破壊しやり直せばよい。  しょせん世の諸々など、彼ら二人にとってチェス盤の上となんら変わるものではない。 「だが実際、盤と駒程度で済めばいいがな」 「であれば壊したことがないものを見つけるまで……お付き合いしよう。悪くない」  もとより、怒りの日とはそういうものだ。  遍く総て厳しく糾され、一つ余さず燃え去り消える。加減は出来ぬし、する必要もない。 「ではお互い、今しばし最後の前座を観覧するといたしましょう。どう転んだところで、実にいじらしい見世物になりましょうから」  肩を揺らし、玉座の間から去っていくメルクリウス。それに続く黒と赤の〈大隊長〉《エインフェリア》……ラインハルトは砕け散ったチェス盤を見下ろして、もう一度微笑してから溶けるように姿を消した。  無人の玉座に、何者かの哀絶が〈鬼哭啾啾〉《きこくしゅうしゅう》と這い回る。  そう、僕と私と俺達は、もはや混じり合って離れないから。  ならばせめて残る一人、“彼女”だけは巻き込むまいと願うのです。  だからだから、だからこうして今祈る。  我らを早く殺してくれと――切に切に思い望むのだ狂おしく。 『はーい、よぉ。あんたの言う通りやったけど、あたしどれだけ親不孝もんなのよ。自分ちに火ぃつけちゃったりなんかして。 ああ、そりゃそうだけどさあ。流石にここまでやっちゃうと親父に顔向けできないっつーか。 こりゃもう、あんたうちの婿養子にでもなってくんないと割り合わないよ。あ? うるさい馬鹿。あたしは別に家業嫌ってるわけじゃないって言ったでしょ』  呆れ半分、諦め半分、そして何処か面白そうに、エリーは話す。 『んー、まあとにかく、信用問題もあるからさあ。今後経営が厳しくなったら責任とってよ。そりゃ確かに、ここでドンパチやられるよりはマシっつっても、しょせんそれだけの話だかんね』  辺りでは消防やパトカーのサイレンが鳴り響いている。市内でも一・二を争う大病院で原因不明の出火騒ぎがあったのだから当然だろう。第一、今は時期も悪い。  プラス、ネットに爆破予告まで流したのだから、少なくとも今日明日中は閉鎖状態になるだろう。患者はもちろん、医師や看護士の大半も院内から締め出されている状態だ。 『現場検証の警察とかまで追い出すのは流石に無理臭いけど、あの連中はそういう仕事だしね。最悪巻き込まれて殉職してもご愁傷様ということで。 つか、あんたさあ、ほんとに感謝してるわけ? なんかメッチャ適当に流してない?』 「いーや。よくやったぜエリー。流石オレの見込んだ女は違う。 だからあんまガミガミ言うなよ。大事の前って言葉もあんだろ」  小事で片付けるにはあまりに問題のある真似をさせたという自覚はない。服用したドラッグの効果でやや呂律の回らない口調のまま、司狼は続ける。 「先輩はいるかい? 代わってくれよ」  形式上だけの嫌味を二・三言聞かされた後、通話相手が切り替わった。 「よぉ、今からあんたんち、ぶっ壊されるかもしんないけど別にいいだろ? 最悪っつーか最善っつーか、とにかくどう転んでも〈教会〉《あそこ》ただじゃすまねーし。明日っからホームレスになる確率大だけど、そうなったらオレらが面倒見てやっから。 これが終わったらぱぁーっといこうぜ。なに、心配すんなって。勘だが、たぶん上手くいくよ」  彼が根拠の無い気休めを言う性格でないのは分かっていたが、同時に彼の目から見た真っ当な落とし所がどんなものか……それはいまいち分からない。  玲愛はそう思いつつも、そこに言及しようとはしなかった。 『うん、分かったよ。私と彼女はここで待ってる』 『司狼、あんた置いてかれたからって、あの二人にしょうもない悪戯しようとか思ってんじゃないでしょうね』 「あー? 聞こえんなあ、なんだって?」 『いや、だからさあ……』 『もうほっときなさい。遊佐君、馬鹿なんだから。 藤井君も馬鹿だし。櫻井さん脳みそ筋肉だし。綾瀬さんは、まあその』 「あー、はいはい。そういうのの続きはまた後で」 「とにかく、今挙げたメンツが生きてりゃ文句はないんだろ? 頑張ってみっから、そうぶつぶつ言いなさんなって」 『私は別に…』 『とりあえず、一番逝きそうなのはあんただっていう居残り組の意見も忘れずに』  本来なら絶対安静。動き回っていいような負傷ではない。  いくら彼の身体が普通と違うからといって、誤魔化しが効く範疇はとうに超えてしまっている。  だが司狼は肩をすくめて、その忠告を馬耳東風と聞き流した。 「んな呑気に日和見決めてられる状況でもねえっつの」  なぜならこれほど美味しい修羅場、そうそうあるものじゃない。今首を突っ込まずに何時やるという話だろう。 「ま、正面からぶち当たる役はあいつらに譲るとしても……」  あの二人は共に直情径行で要領が悪い。火蓋が切られたら目前のことにしか集中力を割けなくなる。  だから、伏兵が必要なのだ。当の本人達すら知らないところで、勝手に動き回るようなジョーカーが。 「んじゃ行ってくるぜ。なんか気合いが入るようなこと言えよ、エリー」 『無事帰ってきたらあたしの処女をあげちゃう、とか?』 「んなもん一生とっとけ。先輩は?」 『私の胸を揉ませてあげる券、十三枚』 「揉むほどねえだろ、あんたのは」  苦笑がより深くなる。この状況にあっても普段となんら変わらない軽さと緩さ……その達観こそが遊佐司狼の持つ最大の強みだろう。  それに付き合わされているのかこちらも素なのか、あるいは病気が感染ったのか……彼女らの言ったことがどこまで本気なのかは分からない。  ただ、陰気臭い悲壮感がないのはいい。暗くなるのも怒り狂うのも、それは別の連中が受け持てばいいメンタルだ。  バランスはとらなければならない。 「なあ、くそシリアスなのはそっちに任すぜ」  すでに教会へと向かう坂の途中。視線の先に並んで歩く二つの背中に目を向けて司狼は呟く。  思えば、自分がこの騒ぎに関わった始まりの場所もここだった。  そして終わりも、またこの場所。  なかなかよく出来ていて面白い。 「じゃあな、エリー、先輩。今夜で終いだ」  本音を言えば少々残念ではあるのだが、同時にある種の期待もあった。  今夜自分は、きっとここで、何かの答えを得られるだろうと。  事態の紛れもない当事者である蓮や螢よりもひょっとしたら、核心に切り込めるかもしれないという一つの予感。――いや、既知感。  それは見る者が見れば死相、凶兆、十三階段と呼ばれる類。  絶対に見てはいけない。遭ってはならない。何を置いても遭遇を避けるべきモノとの接触……  それが今夜ここで起きると、司狼は確信にも似た気持ちを懐いていた。 だからこの状況は予想通りに、予感通りに、総てを受け止め、俺は瞬時に覚悟を決める。 辿り着いた最後の戦場。教会の前に立ち塞がるトバルカイン……以前断ち割った仮面の下、見るに耐えない素顔を晒して、こいつは文字通りに壁のごとく、俺達の訪れを待っていた。 「兄さん……」 傍らで櫻井の声が流れる。平常を装おうとしているが、微かに震えるその声音から、彼女の心理状態は容易すぎるほどに読み取れた。 「兄さん、私、私ね……」 呼びかけずにはいられない。無視することなど出来はしない。目前のこれがただの死体人形だとしても、変わり果てた兄の姿なのだからと……理性を超えたところで櫻井は縋っている。 これが物言わぬ、思わぬ木偶。単独では何も出来ない、トバルカインという劣化品の〈死せる奴隷〉《エインフェリア》……俺との約束上、そうであってほしいと思いながらも語りかけずには、応えてほしいと願わずにはいられないんだ。 その割り切れない想いこそが、肉親としてのこいつの情。 矛盾した不合理さ。 俺の知る櫻井螢らしくない、そしてあるいはこの上もなくこいつらしい、生の感情。 だからこそ―― 「貴様、誰カ……」 搾り出されるその声を、聞かせたくはなかったんだ。 「そんな……」 「私、誰カ……」 「此処ハ、何処カ……」 鬼の哭き声。憎悪と憤怒にどす黒く染まった呪詛の羅列。 それは妹を前にしながら、兄が口にするようなものでは断じてない。 「貴様……」 「ああ、聖餐杯だよ」 だから俺が前に出る。どうなろうが、こいつに櫻井を攻撃などさせやしない。そんな光景見たくない。 「ふじ――」 「賭けは俺の勝ちだ櫻井。おまえはとっとと行っちまえ」 「でも……」 「邪魔なんだよ、おまえがいると」 「私は――」 「うるせえ」 頼む。頼むから早く行っちまってくれ。俺は今、爆弾を口にした。あと幾らも待たず、あれは暴走を開始する。 「聖餐杯……」 震える歯列。軋む筋肉。両目は縫われているにも関わらず、腐臭を伴った殺意がそこから膿のように溢れ出す。 息を呑む櫻井を、俺は力任せに突き飛ばした。 「走れ、この馬鹿野郎ッ!」 「貴様、聖餐杯カァッッ!」 「―――――ッ」 「ぐァァッ」 「――藤井君!」 振り下ろされた一撃を真っ向から受け止める。迅雷の速度に超重量の衝撃――俺の足元で舗装された煉瓦ブロックが砕け散り、クレーターのように陥没した。 「こいつ…ッ」 以前よりもさらに速く、さらに重い。スピードはシュライバーより劣るとはいえ、この巨体と腕力を捌くのはやはり並大抵のことじゃない。 「なに、してやがる……行けっつったろ」 櫻井を突き飛ばした分、反応が一瞬遅れて威力を逸らすことが出来なかった。まともに受け止めた一撃の重さに俺は片膝をついてしまい、身動きが取れない状態だ。 「ぐぅぅゥッ……」 剣圧の凄まじさに、背骨が砕けそうになる。眼前のカインから放射される怒気と殺意の密度は半端じゃない。分かっていたが、やはり異常な狂態だった。 「てめえ……」 壊れているのか、狂っているのか、あるいはその両方なのか。迸る怨嗟と激情が轟風となって、俺に叩きつけられてくる。 だが、今分かっているのは一つだけ。しなければならないことも一つだけ。 これ以上、こいつの様を櫻井に見せてはいけない。これを兄と敬うあの馬鹿に、こんな代物を見せてはいけない。 「ふざけ、やがって」 分かってねえんだろうし、分かりもしねえんだろうから教えてやる。あそこにいるのは、人が行けっつったのに馬鹿みたいな顔で突っ立ってるのは、てめえの妹なんだよ腐れ野郎。 もしかしたら全然違うのかもしれないが、兄貴と呼ばれたんならもうちょっとらしく出来ねえのか、くそったれが。 「グッ、ガアッ――」 全身の力を振り絞り、押し潰そうとしてくる鉄塊を横に流した。すぐ傍らの地面がその衝撃で爆散し、刃筋にそって縦の亀裂が深く走る。 この馬鹿兄貴が、もう一回死んで頭冷やせ! 身体を反転させた勢いを上乗せし、無防備状態の顔面に渾身の廻し蹴りを叩き込む。 「あ……」 「……なんだよ、俺が勝っちゃ不満か、おまえ」 蹴りの一撃でカインの巨体は吹っ飛ばされ、木々を薙ぎ倒しながら雑木林に突っ込んでいった。創造位階に達した影響か、俺の身体能力は以前よりも上がっている。 「けど心配すんな。あの程度じゃ終わらねえよ」 手応えならぬ足応えは充分。頭蓋骨と首の骨を砕いた感触は確かにあった。 しかし、そんなものでは終わらない。まず絶対のルールとして、聖遺物を揮う者は聖遺物でしか斃せないし、そして何よりあいつは死体だ。 たとえ脳みそ吹っ飛ばそうが、五体粉微塵にでもしない限り動き続ける。 そしてあるいは、この右腕で首を断つしか―― そのとき、だった。 「畔放、溝埋、樋放、頻播、串刺、生剥、逆剥、屎戸」 「許多ノ罪ト法リ別ケテ、生膚断、死膚断、白人胡久美トハ国津罪……」 「――――ッ」 カインが消えた雑木林の向こうから、突如として地を這い回るような声が響く。 「あれは……」 櫻井はこれが何かを知っているのか、蒼白な顔で闇に包まれた木々の奥を見つめていた。 「己ガ母犯セル罪、己ガ子犯ス罪、母ト子犯セル罪、子ト母犯セル罪……」 「畜犯セル罪、昆フ虫ノ災、高津神ノ災、高津鳥ノ災、畜仆シ、蠱物セシ罪」 俺には何を言っているのか分からない。だが何か忌まわしい、吐き気を催すような禁忌の羅列であるということだけは理解できた。 この声の発生源――そこに顕現するであろう現象を。 「種種ノ罪事ハ天津罪、国津罪、許許太久ノ罪出デム、此ク出デバ――」 「――創造」 穢れの祝詞。雑木林を腐り落として、屍となった男が咆哮する。 「此久佐須良比失比氐――罪登云布罪波在良自」 「……がっ」 その、粘度さえ感じる殺意を浴びた途端、俺の身体に異変が起こった。 「なん、だ……これは……」 服がぼろぼろと崩れていく。それに伴い手足は黒く変色し、ひび割れ、そして―― 「腐っていく……!」 血が通わない。心臓の音が聴こえない。そして当然、身体に力が入らない。 ヴィルヘルムの薔薇の夜と似ているが、これはさらに凶悪だ。殺人の技とは別次元で、対象を死体に変える。まるでカインという存在そのものを増やしていくような妖風―― だったらまずい。この状況で、唐突なハンディを負わされたことになる。 「ナゼ俺ガ……」 あまりの負荷に立ち続けることすら困難な状況で、朽ちた木々を踏みしだきながら事態の凶源である巨人が姿を現す。 気のせいか、もはやまぶたさえ重く感じる俺の視界に映るそいつは、さっきまでとは別人のように見えていた。 「ナゼ俺ガ、コンナニ痛イ。ナゼ俺ガ、コレホド醜イ」 「貴様、美シイ。許セヌ、俺ヲ嗤ウカ貴様――」 「―――――」 朦朧としながらも、突進してきたカインの一撃を寸でで躱す。しかし―― 逆胴に振り抜かれた斬撃は、その勢いを殺すことなく信じられないほど流麗な弧を描いて袈裟斬りへと変化した。あまりに隙の無い連絡技に、左肩を断ち割られる。 「ぐあァッ――」 本来なら、まず間違いなく右の脇腹まで抜けていたであろう必殺の剣を受け、俺がまだ生きていたのは運以外の何ものでもない。 なぜなら、俺はこの型を偶然にも知っていた。香純が昔、これを練習していたのを覚えている。 「剣道、だと……?」 激痛と驚愕に混乱しながら後退する俺に対し、瞬間移動のような体捌きで追い縋るトバルカイン。あの巨体にも関わらず、音も立てない摺り足は紛れもない剣道のそれだ。 いわゆる縮地というやつなのか。速さではなく、体幹をずらさず頭を上下させないことで接近を悟らせないという特殊な歩法……ならこれは剣道と言うより古流に近い。 そして、連続する斬撃は流麗かつ重厚。俺が知るトバルカインのそれとは明らかに異なっている。 いったい何が、何が起きた? こいつは本当に何者なんだ? 「くっ、そぉッ!」 刺突の一閃を半身になって躱した俺は、反射的にカインの刀身を抑え込んだ。 こいつと力比べをする危険性は充分すぎるほど分かっていたが、こうも矢継ぎ早に攻められては対処できない。 たとえほんの数秒でも動きを止め、激変した相手の戦術に合わせてこちらも戦い方を講じ直す必要がある。 だが―― 「……え?」 そこで再び、俺は異常を知ることになる。 両刃の巨大直刀を思わせたカインの武器は、何時の間にか浅い反りを持つ片刃のものになっていた。サイズは桁違いにでかいままだが、この形状は紛れもない日本刀。 「ナゼ俺ダケガ、コンナ目ニ遭ウ……」 額を突き合わせるような姿勢のまま、陰々と呟くトバルカイン。再び怨念を撒き散らしながらひしりあげる。 「穢レロ、朽チロ、許サヌ、逃ガサヌ、末代マデ呪ワレ流離エ」 「てめえ……」 それは直感。事態は未だ不明ながらも、俺はこのとき理解した。 「てめえのせいか……!」 櫻井が背負っているのだろう、つまらねえ業の諸々……その一端、原因の一つは間違いなくこいつにあると。 そして同時に、掴んでいた鉄塊が急激に震えだす。 「其泣状者 青山如枯山泣枯 河海者悉泣乾 是以惡神之音 如狹蝿皆滿」 「創造」 「―――――!?」 馬鹿な、そんなことはありえない。 「乃神夜良比爾夜良比賜也――」 反射的に手を放し、カインの巨体を駆け上がるようにして俺は宙へ逃げていた。 しかし、何かが追ってくる。間合いから一気に脱したにも関わらず、まるで剣それ自体が矢や銃器に変貌したかのような射程の変化、再度起こった戦術の移行。 「――がァッ」 謎の飛び道具に撃墜され、さらに身体は重くなる。骨がらみ染み込んでくるような毒に汚染され、俺は満足に立ち上がることさえ出来なくなった。 「心臓、止マレ……」 地に伏したまま見上げるカインの威容は、またしても前と何処かが違っている。今や何もかもが謎だらけだ。 そもそも、創造位階を複数使い分けるということ自体がありえない。俺が知るこいつのそれは、全身を紫電に変える剣舞だったはずなのに。 これは穢れを撒いて相手を腐らせる呪い。 創造位階が雷化と毒化の二種類ある。しかも後者の型は散布と狙い撃ちを使い分けているという異常。 これではまるで、〈三〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈カ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ン〉《 、》〈と〉《 、》〈戦〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》。 「根乃国、底乃国、千座ノ置座ヲ抱イテ速佐須良比」 意味の分からないその言葉は、だが死の宣告であると理解できる。 カインが嗤った。 「私ハ逃ゲル」 「オマエ、私ノ代ワリニ流離エ」 「―――――」 そして再度、こいつの武器は別の形状へと変わっていた。 直刀から日本刀、そして今度は、まるで砲身のような形状に―― 「オマエ、心臓止マレ」 自らの巨体に匹敵する砲身を槍のように構え直し、その砲口をこちらに向けるトバルカイン。 駄目だ、動け。あれを貰うな――何が何でも避けろ、でないと―― 「私ハ自由ダ」 泣き笑うような声と共に、悪鬼の砲が俺に向けて放たれた。 「―――――」  あまりに理解を逸した状況に、螢は何も言えず立ち竦む。  いや、なまじ理解できるだけに、混乱の度合いはより容赦なく深刻だった。  武器の形状を飛び道具のそれに変じたカインの一撃。蓮はなんとか躱したものの、すでにその機動力はほぼ完全に奪われている。あれでは遠間から狙い撃ちにされ続け、接近することは不可能だろう。 「藤井君……」  負ける。このままだと彼は死ぬ。だけど自分はどうするべきか、ここでどう動くのが最良なのか。  私は兄さんと戦えないし、この勝負はそもそも手出し無用の約束だった。でも、だけど―― 「あれは、誰……?」  馬鹿な自問。分かっているくせに認めたくないという頑なさと、甘ったれた希望的観測が思考力を寸断する。  なぜ今、この状況で“あの人達”が現れる――? 「おそらくは、ハイドリヒ卿が近く在る影響といったところですかな」 「―――――」  音もなく背後に立ち、滔々と話しだすヴァレリア・トリファ。螢はその存在に気付いてからも、振り返ることができなかった。  今のは二代目。そして先のは初代であろうと彼は言う。それは曽祖父と伯母のことで…… 「懐かしいですねぇ、もはや会えぬと思ってましたよ。彼らも私の旧い戦友……これはこれで嬉しい誤算だ。 〈初代〉《ムサシ》の実直さも、〈二代目〉《レイ》の奔放さも、私を惹きつけて止まなかった。見なさい」  変わらぬ仮面のような微笑を貼り付けたまま、トリファは顎をしゃくってみせる。矢継ぎ早に切り替わる二人のカインの連携に、蓮はまるで対処できない。 「偽槍による〈戦奴化〉《エインフェリア》という事態の発端であることを悔やみ、憎み、子々孫々に渡って受け継ぎ浄化させると誓った彼の渇望」 「その宿業から放逐され、知ったことではないと自由を求めた彼女の渇望。 言うなれば継承と転嫁。言葉にすればまるで正反対に聞こえながらも、その魂、発露の容は哀れなほど似通っている。つまるところ、誰か別の者に被せるということです。 彼らの創造、実にその通りのものだと思いませんか? 敵対すれば、非常に性質の悪い類と言える」 「猊下……」  天津罪、国津罪、諸々の罪事を背負い担いで、根の国底の国を流離い消し去る。  それは神事に携わるものなら誰もが知る、この国における呪術の真髄。誰か一人の鬼を定め、総てその者に被せつつ放逐するという〈大祓〉《おおはらえ》だ。  櫻井の家系は、その鬼になることを定められた血族。  〈黒円卓の聖愴〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》という千座の置座を背負わされ、死者の世界を歩み流離い、消えていく。 「我々の感性にはない概念であり、恐ろしくも悲哀を掻き立てられるシステムですね。実に日本的、と言えばよいのでしょうか」 「まあもっとも、そこに進んで関わりたがった怖いもの知らずもいたようですがね」 「え……?」  意味が分からず呆然とする螢に向け、神父は俯いたまま含み笑う。  嘲るように、哀れむように、そして嘆き悲しむように。 「“私”が二人いるのに気付かなかったのですか、レオンハルト。カインは三代……内分けは男性、女性、男性なのに、なぜか女性が二人いる」 「おかしいですねえ。本来ならありえない。私も最初は気付かなかったし、今もって冗談のようにしか思えない。 〈二代目〉《レイ》以外の“私”とは、はてさて、何処の誰なのやら」  言って、彼はそのまま踵を返した。なおも続く戦闘には目もくれず、礼拝堂の中へと消えていく。 「どうしました、レオンハルト。そんなところにいても得るものはありませんし、藤井さんの邪魔になるだけですよ。 ついてきなさい。お望みならば、少し語らいの場でも持ちましょう」 「…………」  言われ、螢は思い出す。  そうだ、自分がここに来た理由……その第一はこの神父と対峙することにあるのだと。  分かることも、分からないことも、すべて決着をつけるために、今自分がすべきことは、ここで案山子のように立ち尽くすことじゃない。 「藤井君……」  再度、戦いの場に目をやって、螢は低く呟いた。 「私、頑張るから、あなたも――」  勝ってほしいのか、負けてほしいのか、それさえまだ分からないけれど。  でも一つだけ、確かなのはただこれだけで、何もないから。 「死なないで」  信じてるから。お願い、生きて。  そう祈り、呟いて、螢もまた踵を返した。  なおも混迷の度合いを深めていく事態に、ある種の恐れを懐きながら…… 「さて、それでは何を話しますかね」  礼拝堂の奥、祭壇の前まで歩いてから振り返り、トリファは螢に語りかける。 「どうも私は饒舌家と思われがちですが、別段話し好きというわけでもありません。必要だと思うことを必要なときに……そうしてきただけですから、言うべきでないこと、意味のないことに時間を割くのは本意でない。 まず第一として、私があなたに訊きたいことがあったため、こうした場を設けたのです。それに答えていただけますか?」 「……はい」  短く、螢は言って頷く。  結構、と神父は椅子に掛けるよう促すが、それを無視して続きを待った。  トリファは苦笑し、 「ふむ、まあ、おおよその見当はつきますが……レオンハルト、あなたはなぜ、今こんなところにいる? 確かに好きなようにしろとは言った。どう動くのもそちらの自由。だがしかし、少々解せない」 「シュライバー卿に襲われたので抵抗した、というのとはすでに問題の次元が違いますよ? ザミエル卿も無責任なことを言っておられたが、今現在黒円卓の指揮者はこの私だ。反旗を翻すと言うのであれば、その理由を訊かねばならない。 再度問います。レオンハルト、あなたは何を思って今ここにいる? つまらぬ腹芸をする性分でもないでしょう。長い、とは言えぬまでもそれなりの付き合いだ。あなたが殺意……いいえ敵意、もしくは疑心と言うべきか、そういうものを懐き、懊悩していることは容易に分かる。 答えなさい、レオンハルト。意味の分からぬ理由で謀反されては、私もハイドリヒ卿に顔向け出来ない」 「ハイドリヒ卿に?」  そうだ、そもそもそれが、この現状に至った総ての発端。自分もまず、第一に知らねばならないのはそのことだろう。螢は俯き、数瞬考え、顔をあげて問い返した。 「猊下、あなたは……いえあなた達、どこまで知っておられたのです?」 「どこまで、とは?」 「ハイドリヒ卿の御業、獣の爪牙……その言葉の意味するところ」  〈死せる戦奴〉《エインフェリア》化という黒い祝福。その真実を。 「少なくとも、私はそれを知らなかった」  知っていたら、こんなことに手を貸さなかった。 「ベイも、マレウスも、他の者も、あなた達はその総てを知った上で……」  永遠に解放されない呪われた存在になることを是としたのか? 自分だけならまだしも、愛する者すら生贄の祭壇に捧げることを肯定したのか? 「であれば、なんです?」  螢の問いに、トリファは間を置かずそう返した。 「そんなに意外ですか? 理解できませんか? あなたの不満と反旗の理由は、そんな程度のことなのですか? 思慮が浅い。底が浅い。若いですねえ、レオンハルト。いくら人種が違うとはいえ、これは少々情けない」 「ああ、しかし結局のところ、人間などこんなものか。誰しも己の物差しでしか事態を測れず、それが正義だと思い込む。世に戦争が消えぬわけだ」 「何を――」 「栄光ある〈戦死者の城〉《ヴァルハラ》、そこに集う〈英雄達〉《エインフェリア》……これは我々にとってごく当たり前の、誉れとする価値観だ。良いとか悪いとか、そんな問題ではない。 〈日本人〉《あなたたち》も、何処ぞの社を英霊が集う聖地と崇めているでしょう。これはただ、それだけのこと」  戦いに身を投じる者達が欲する安息と納得、死した後に約束される楽園の概念……それは世界中、どんな国や民族であれ持つものだろう。トリファはそう言って溜息をつく。 「〈黒円卓〉《われわれ》にとっての安息。人を棄て、人を超え、人を愛した戦鬼の楽園……それがハイドリヒ卿という混沌であっただけのこと。我ら、望みし〈桃源郷〉《シャンバラ》は彼の中に。もともとエインフェリアとはそういうものだ。今さら異を唱えられても苦笑するしかない」 「だったら――」  螢は胸を押さえて、訴える。 「私以外、皆がそれを知り納得していたと言うのですか? 黒円卓でこの私だけが、何も知らない子供だったと?」  その悲痛な叫びに、だがトリファは―― 「いいえ」  呆気なく、一瞬の躊躇も見せずに首を振った。  くだらない。本当にくだらない、なぜこの程度のことが分からぬのだと、そう言うかのように。  明確に問うた者は一人もいないが、教授されなければ理解できぬとは、呆れて失笑するしかない。現に三人、既にして混沌の戦鬼となっている。 「マキナ卿、ザミエル卿、シュライバー卿、彼らは理解が先か納得が先か、問うたこともないし問おうとも思わぬのでどうでもよいことですがね。 なんであれ流石と言うべきでしょう。あの御三方は自らの在り方を確信して揺るがない。人であろうと魔であろうと、死せる奴隷であろうとも。 そして私は、早くに気付いていましたよ。ハイドリヒ卿という御仁、カール・クラフトという異常、彼らの強さ恐ろしさ、それに付き従うことがどのような結果をもたらすか……白状すれば、一度逃げたことさえあるのです」 「逃げた?」 「ええ、何もかも放り出して。恐くなったし、悔いもした。……まあ結局この様ですが、それは今どうでもいい話。 長くなりましたがレオンハルト、あなたの問いに答えるなら、別にあなただけではないと返すしかない。 ベイはおそらく、知っていてもさほど抵抗せず受け入れたのではないですかね。彼に言わせれば、無限に戦えるなら上等、といったところでしょう」 「それがああいう結果になったのは、そういう星の下に生まれたのだろうとしか言えませんがね」  と、哀れむようにトリファは付け足す。 「しかしマレウス、バビロン、彼女らは怪しい。性格の異なる二人ですが、共に恐がり屋であるうえに我が強いところは共通している。これもやはり推測ですが、おそらく総てを知れば壊れたのではないでしょうか。可憐な女性というものは、いとも容易く砕け散る」 「……だから、殺したのですか?」 「おや、まるで見ていたように言いますね。まあ否定はしませんが」  彼女らでは耐えられない。ならば何も知らぬうちに切るのが情け……  呟く聖餐杯は、まるで自らに生殺与奪の全権があるとでも言わんばかりに肩をすくめる。 「シュピーネについては、まあいいでしょう。私は彼を買っていますが、どう判断するかは好き自由に。ああいう者がいてくれて、損よりも得をしたことの方が多いという事実だけ。 そしてそれは、あなたにも言えることだ、レオンハルト。 いいえ。言えるはずだったと言うべきでしょうか。 最初に解せないと言ったのはそういうことです。あなた、なぜここにいる?」  再度投げられた神父の問いに、螢は眉を顰めて訝しむ。  だが、ややあって。 「それは……なぜ生きているのかということですか?」 「ええ。レオンハルト・アウグストとは、ヴァルハラとエインフェリアの事実を知れば、自殺するような少女だった。 〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈仕〉《 、》〈込〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》……。 あなたはそういうバランスだった。何も気付かぬほど愚かではなく、総てを知って立てるほど強くもない。よしんば思い止まっても、その状態でベイ中尉、ないしシュライバー卿、あの二人を前に生きていられることなどあるまいと。 〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈も〉《 、》、〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈す〉《 、》〈で〉《 、》〈に〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。実のところ、驚いています。 〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈少〉《 、》〈女〉《 、》〈は〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》……とね」 「…………」 「この問い、答えていただけませんか、レオンハルト」 「私は……」  なぜ死ななかったか。なぜ生きているのか。  ヴィルヘルムにしろ、シュライバーにしろ、確かに勝ちを拾えるような相手ではない。彼らとぶつかって、生きていられる自分ではなかった。  そう、それは間違いないこと。事実、何度も死を感じたのだから。  でも…… 「死ねない理由が、あったからです」  逢いたい人がいたから。触れたい人がいたから。 「ベイと戦い、生き残れたのはただそれだけ。私はあのとき、まだ死ぬわけにはいかなかった。たとえ身体は砕かれても、心だけはと」  だが、それすら砕かれたのはその直後。  ヴァレリア・トリファが言うように、そのとき自分は生を投げた。  総てを知れば自殺するような女だと、彼が評した櫻井螢にここまでのところ相違はない。 「だから私は、殺してほしいと思ったんです。 殺してくれと言ったんです」  自分の炎は薄れて消えて、何のために剣を執るのか、何のために血を流すのか、道を見失ってしまったから。 「でも、みんなが私に意地悪だから。……誰も言うことなんか聞いてくれない。何も思い通りにさせてくれない。 彼は私を、殺してなんかくれなかった」 「こんな私を……」  どうしようもない過ちを犯し、償いきれない罪を負い、拭いきれない血を被ったこんな私を。  もう誰にも見向きされないだろう馬鹿な私に、あの人は…… 「ある意味、一番堪えることをされましたよ。本当に、意地が悪い」 「だから?」 「本音を言います。聖餐杯猊下」  舐められたくないとか、困らせてやりたいとか、やられっぱなしじゃ終われないとか、確かにそれも本音だけど。  今まで言わず、思いもせず、自ら悟ってなかった本当の本音に気付いてしまった。 「私は、櫻井螢は、ただ単に――」 「彼の、藤井君の力になりたい」  実はそれが一番大きな理由だなんて、笑ってしまうような話だけれど。 「あなたは危険な人だから。あなたが彼に手を出す前に」  邪聖の手が、あの人へと伸びる前に。 「私があなたを――」 「斃すと? ふふふふ……」  俯いたまま呻くように、トリファは笑みを漏らしている。  愉快で愉快で堪らないと言わんばかりに―― 「〈既知感〉《デジャヴ》ですねえ、前にもこんなことがありました。 十一年前、同じように、今のあなたと似たようなことを言ったのは、さて……何処の誰だったやら」 「ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン」  すでに抜刀し、その切っ先を突きつけて螢は言った。 「彼女の死は、やはりあなたのせいですか?」 「さて」  トリファは変わらず笑っている。笑いながら宙を見上げ、何かを思い出すように目を細める。 「東方正教会、特務分室、〈双頭鷲〉《ドッペルアドラー》……キルヒアイゼン卿は、彼らとぶつかり戦死した。私はそうあなたに教えたはずでしょう。 確かに、かの組織は我が古巣。この身を誅罰せんと侵攻してきた彼らに対し、彼女が迎え撃って斃れた以上、私のせいでなくもない。 だが、それで?」 「それで、お終いですか、猊下」  ヴァレリア・トリファという男、断じてそんなものではない。  以前ならばいざ知らず、今の螢はそんな単純に納得しない。 「私は、あなたが嫌いでしたよ」  彼を追ってきた殺し屋達と対峙して、命を落としたというベアトリス。  そんな彼女を守るために、偽槍を揮って屍兵と化した実の兄。  ああ、確かにそれをもって、目の前の神父を間接的な仇だと、恨み憎んだこともある。  なぜ助けなかった? なぜあの二人が? 死ぬのはおまえだったはずだろう。  そんな逆恨みを懐くように誘導されて、真実を見ようとしなかった自分が憎い――何よりも。 「こうして、あなたと話し、気付きました。総て今回と同じだったと」  獣の爪牙になりきれぬ、そこからはみ出すであろう者達を、彼は選び切り捨てる。切り捨て、贄として捧げていく。  シュピーネのように、バビロンのように、マレウスのように。  そして、今の自分のように――  それこそが、黒円卓首領代行、聖餐杯。 「ハイドリヒ卿の命か、あなたの意志か、それは知らないしどうでもいい。 ただあなたは、総てを段取りそうなるように、狙ったうえで二人を死なせた。私にとってはそれだけでいい」  緋々色金が燃え上がる。螢の戦意に呼応して、礼拝堂を灼熱の炎が覆い尽くす。 「あなたは哀れな人です、猊下。何を思い、何を願い、何を求めてそうなったのかは分からない。 でも、これだけは確実に言える」  敵を殺し、味方を殺し、怪物の走狗として玩弄されながら、総て良しとするその魂。  何を信じているのか、何を得たいのか、何に縋っているのか理解不能。  ラインハルト・ハイドリヒが混沌ならば、この神父もまた混沌。  もはやどうしようもない癌細胞。  総てを巻き込み飲み込んでいく大渦。 「あなたは壊れている」  致命的な亀裂の走った、空っぽの器。 「〈聖〉《 、》〈餐〉《 、》〈杯〉《 、》〈は〉《 、》〈壊〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》」 「これはまた」  それまで悠々と螢の言葉を受け止めていた神父は、首を傾げて失笑した。  怒るでもなく、嘆くでもなく、心底からよく分からないといった風に。 「異なことを言う。〈聖〉《 、》〈餐〉《 、》〈杯〉《 、》〈は〉《 、》〈壊〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 私とあなたと、何がどう違うのですかね? リザも似たような反応を昔からしていましたが、我々は似た者同士というやつですよ」  何かを成すため、何かを切る。  その選択に迷い、悩み、揺れに揺れ、狂おしいほど葛藤する。  実に人間的で愛すべき、愚劣さ、愚鈍さ、愚直さを――信じ、崇めて、ひた走る。  ただそれだけのことであり、何も大袈裟なことなどないというのに。 「ああ、しかし、あえて違いがあるとすれば一つですか」  すでに臨戦態勢に入った螢に向け、まるで無防備に両手を広げつつトリファは言った。 「私は実行に移す。こんなところやそんなところで足を止めて振り返り、自らの足跡を悔やむようなことはない。 まして、たかが後付けの愛や怒りに心奪われる無様など」 「一度逃げた男が、よく言うものです」 「一度逃げたからこそ、見えたのですよ」  片や激しく、片や優雅に憫笑すら浮かべながら、向かい合う二人の距離は八メートル。  彼らにとって、この程度の空間は無きに等しい。一瞬も掛けず必殺の間合いに踏み込むことは容易であろうし、それならばすでに抜刀している螢が有利。  トリファは未だ、武器の形成はおろか、構えすら取っていない。  その絶対的有利が逆に不気味と思えたからか、第一歩を踏み出せずに逡巡している彼女に向けて、神父は言った。 「まあ、ここまできたのならばせっかくだ。もう一つだけ、あなたの知らぬことを教えましょう」  糸のように細い眼が開いてく。深い碧眼が黒く、白く、赤く、翠に、そして黄金の色に燃え上がる。  その眼で過去を回想し、あれは本当に真実くだらない茶番だったと言わんばかりに。 「キルヒアイゼン卿を殺したのは他でもない。あなたの兄上ですよ、レオンハルト」  そして呆然とする螢の間合いへ、音もなくヴァレリア・トリファは侵入していた。 「そんな、だったら――」  成す術もなく神父の接近を許しながら、しかし頭は壊乱状態と言って構わぬ速度で回転していた。  ああ、そうか。つまりそれこそ、“私”が二人いる理由。  斃した相手の武器も力も、根こそぎ奪い取るトバルカイン。  自身を構成する〈群体〉《レギオン》と成し、〈戦奴〉《エインフェリア》として行使するのが聖なる槍の力ならば。  あのトバルカインは、三代目でなく四代目。  私が兄と思っていたのは兄じゃなく。  彼が殺してしまったという、あの人で――  彼女はずっと、十一年間、散ることなくそこにいたのだ―― 「然り、さにあらばこそ」  今になって生じた疑問が、新たに一つ。  なぜ彼女が、鬼に選ばれた櫻井の家系に入り込めたのだろうかという、ただそれだけで。  無論、そんなことは少し考えれば容易に分かるし。  今の今まで気付きもしなかったなんてこと、本当に笑うしかないのだけれど。 「彼らは、愛し合っていたのでしょう」  そうだ。彼と、彼女は、きっと、きっと――  いいや違う。そんなことがあるはずはない。今でも強くそう思う。  だって、あれを愛と呼ぶなら、ひどく歪で不恰好なものであったことだけは間違いないから。  愛しいと、大事だと、守りたいと思っていてもそれが出来ない。ただ壊すことにしか向かないベクトル。  ならばこんな感情になど、いったい何の意味があるという。 「ツァラトゥストラは現れない。ゾーネンキントはまだ幼い。私は言ったはずです、時期尚早だと」  戦後五十年という一つの節目、黄金錬成を開始するのはその時だろうと僕らは皆思っていたが、聖餐杯は否と言った。 「にも関わらず、キルヒアイゼン卿の独断専行。もはや愚かにすぎる暴走行為。なぜ彼女が、今やらなければならないと断じたのか。あなたに分かりますか、トバルカイン」  訊くな、言うな、分かっている。分かっているから僕をその名で呼ぶんじゃない。 「あなたをそうしたくないからでしょう」  槍に削られ、生ける屍と化していくこの僕を。  そして次にその定めを負うであろうあの子を。 「テレジアの年齢を考慮すれば、少なく見積もってもあと十年。あなたは言うまでもなく間に合わず、そしておそらく、次代のサクライにまで業は及ぶ。 黒円卓第二位は、〈三代目〉《あなた》を踏み台にした四代目をもってサクライの悲願を成就させることになるでしょう」 「あなたはそれを、防ぎたいと思っている。 己の代で決着をつけようと考えている。 無論、それ自体悪くはない。あなたがそのときまで存在し続け、トバルカインで在り続けるなら、四代目は不要に終わる」  そう、この身が屍となっても在り続けることさえ出来るなら、あの子は螺旋に巻き込まれない。たとえ僕がどうなろうとも、〈妹〉《けい》だけは幸せに。 「だが彼女は、そのあなたまで救いたいようだ」  それは、なんて馬鹿なお節介。  助けてくれ、なんてこと、僕は一度たりとも言ってないのに。 「余計なことを……と憤るのも無理はない。実際私も失望しました。 誇り高きヴァルキュリア――ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン中尉。黒円卓の戦姫とまで謳われた女丈夫が、まさかこの程度の、大局も見えぬただの小娘にすぎぬとは」 「ああしかし、初めて会った頃の彼女は、思い返すにそういう拙さを持っていた。終戦後は人が変わったようになりましたから、すっかり忘れていたのですがね。 なんにせよ、今の彼女は黒円卓に相応しくない。双頭鷲など物の数ではありませんが、獣の爪牙、第五位ヴァルキュリア――それを制すとなれば相応の戦力を必要とする」  だから――だから僕に行けとおまえは言うのか!? 「私なりの慈悲ですよ、カイン。今、あなたの立場はひどく危うい。 ゆえに己こそが黒円卓の二位であると、証をここに立てなさい。覚悟を形として示しなさい。でなくば誰も納得せず、連座であなたも処分しなくてはならなくなる。 キルヒアイゼン卿の愚行と自分は関係ないと、証明する必要があるでしょう。拒むならあなたに〈偽槍〉《それ》を持つ資格はない。 私はどちらでも構いませんよ。何せ、〈二位〉《カイン》になれるサクライはもう一人いますからね」 「――待て」  それで、もはや完全に詰まされた。僕に選択の余地はなくなった。  だけど一つ、いいや二つ、この下種極まりない命を受けることで、儚い希望を懐いたことが…… 「ここに誓え、聖餐杯」  ヴァレリア・トリファを信用するな――彼女にそんなことを言いながらも、僕自身がこの鬼畜に縋りついたという、許されざる無様さ。 「僕がベアトリスを制したら、彼女の罪を不問にしろ」  死なせずに、助けるために、出来ることはそれしかないと思ったから。 「今夜僕がカインになる。螢を代わりになんかさせやしない」  愛していた。守りたかった。この世の何よりも大事だった。  にも関わらず――  その選択が、彼女ら二人を地獄に突き落とすことになったのは、つまり僕がそういう男だからだろう。  僕は屑だ。 「ええ、誓いましょう。〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈キ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ヒ〉《 、》〈ア〉《 、》〈イ〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ン〉《 、》〈卿〉《 、》〈に〉《 、》〈手〉《 、》〈を〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈し〉《 、》。 〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈お〉《 、》〈嬢〉《 、》〈さ〉《 、》〈ん〉《 、》〈を〉《 、》〈カ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ン〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  一瞬、そして度し難いほど愚かに深く。  そんな程度の、言葉に隠された陥穽に気付けないまま安堵したこと。  それがただ、櫻井戒というどうしようもない男が犯した、致命的なまでの失態だった。  だから今、この鼓動しない胸を焼くのは極大の憤怒。  愛していた。守りたかった。私が人であることを思い出させてくれたあなた達を。 「――創造」  ああだけど、私は間違ってしまったから。  無明の闇に翻弄され、今もこうして苛まれている。  振り回される何か、弾け飛ぶ誰か。苦鳴と血臭と、そして戦意。  まるで今、目の前の誰かと戦っているかのよう。  大人ぶって、年上ぶって、任せておけと見栄を切っても、やっているのは凝縮させた憤怒を叩き付けているだけにすぎない。  私は屑だ。 「あなたは馬鹿よ」  そうだ、あのときもそうだった。 「図に乗って……私に勝てるとでも思ってるの?」  彼の悲壮な顔を見るのが辛くて、そんな顔をさせてる自分が許せなくて。  だけどやめる気もないものだから、屑な私は激怒した。 「子供のくせに、余計なことをするんじゃない! 私は私の目的があってこうしている。 自惚れないでよ、戒! あなた達のことなんか、ただのついでに過ぎないわ!」  それは半分本当で半分嘘。  目的は確かに別だったが、今行動を起こした理由は間違いなくあなた達のことだったから。  この機を逃せば、あなた達は助からないと思ったから。  だって、そうでしょ? なぜなら私―― 「退きなさい。今ならまだ許してあげる」  真意を語ることは出来ないけれど、私が本気だということだけは分かってほしい。そして誤解もしてほしい。  これ以上邪魔立てすれば、たとえあなたであっても斬り捨てると――  そんな出来もしないこと、あなたが信じてくれたら争わなくても…… 「……分かった」 「僕も退けないんだよ、ベアトリス」  だから、総ての誤りはそこにあった。  臆病で、物静かで、戦いなんか嫌いな戒。  そんなあなたの優しさに、甘えて付け込む策しか思いつかなかったこと。  それが彼を、より一層追い詰めてしまったこと。 「どうして……」  気付くべきだった。気付けるはずだった。この、日頃気弱な青年が、私と争ってまで守ろうとするもの……それがはたして何なのかということくらい。  自分のことに手一杯で、彼をどこかで軽く見て、少し脅せばきっと引き下がるに違いないと。  そんな甘ったれた願望を、この局面で押し付けてしまったという許しがたい無様さ。 「言っただろう。今じゃ僕のほうが強いと」  それがただ、ベアトリス・キルヒアイゼンというどうしようもない女が犯した、致命的なまでの失態だった。  そして、双方絶対に退けぬ理由がある以上、都合よく手加減をして相手を制することなどは、お互い不可能なことだったのだ。 三度目の、いいや都合四種類目になる創造位階の発動に、俺は重い身体を引きずるようにして飛び退る。 武器の鉄塊は再び以前と同じ物……すなわち両刃の直刀に変形していたものの、纏っているのはやはり雷撃じゃない。 それは前のカインらと同じ腐敗毒だが、その在り方が変わっていた。 薔薇の夜やナハツェーラー、そして先ほどまでは空間を別位相の常識へ変えたのに対し、今の〈カイン〉《こいつ》は自分自身を変えている。 つまりあの巨躯と、あの武器が、毒の塊に変わったということだ。 受けてはならないと思いつつも、すでにその攻撃を躱しきる機動力は失われていた。咄嗟に防御したにも関わらず、衝撃が全身を蹂躙する。 「がッ……」 俺はそれに、吹き飛ぶことすら出来なかった。別に耐えて踏ん張ったわけでも、威力がチャチだというわけでもない。 一切外に逃がすことが出来ない衝撃。喩えるなら、身体の内部のみで爆弾の破裂が起こったような……洒落にならない痛手を受け、そのまま崩れるように膝を付く。 「…………」 対してカインは、ただ無言だ。これまでのように吠えることも憎悪を滾らせることもなく、かと言って機械的でもない挙措で、俺を黙然と見下ろしている。 今のこいつが、もっとも難敵でありタチが悪い。至極単純な話だが、触れることが出来ないんだ。 カインに攻撃を加えることは、自ら毒の海へ飛び込むに等しい。そして無論、奴の攻撃は全弾回避しなければ侵される。 今のをもう一度食らったら、俺は今度こそ立てなくなるに違いない。額に流れる自分の汗が、すでに腐臭を放ち始めている。 ゆえに全力を振り絞り、奴の殺傷圏内から逃れようともがく中、頭上から落ちてきたのは―― 「……ア」 「……ア…ス…」 「……?」 これまで何度か、聞いたことのあるこいつの呻き。 その意味するところは確か人の名。 「ベア、トリス…」 そいつがいったいどうしたのか、名を呼んで何がしたいというのだろうか。疑問はあったが、今はそんなことに心砕いている場合じゃない。 「……ッ」 俺は軋む身体を鞭打って再び退がり、距離を取る。なんとか時間を稼がなければならない。 本来なら、カインが次なる攻勢へと移らないうち、降って湧いたこの好機に付け込むべきだと分かっている。 すなわち、ここで俺の創造を発動し、速攻で終わらせるのが最良だと理解してはいるんだが…… 「……くそ、やっぱりあいつの話なんか聞くんじゃなかった」 すでに時の体感速度を遅らせ始めてはいるものの、それは腐敗の進行を停滞させるためであり、逃げ回るためのもの。 他人の事情など一切無視して、リスクと能率の天秤を冷静に測りつつ対処する――そんな風に判断できたら、どんなに楽だったことだろう。 俺がここまでまったく良い所無し、精彩を欠いた戦いを強いられたのは、何も予想外の事態に翻弄されたからというだけじゃない。 試すべき案を閃いたから。それが可能になる瞬間を待っているから。 今はまだ、防戦に徹しなければならないんだ。 「馬鹿かよ、俺は……」 本当に呆れてしまう。我ながら、何をお人好しなことを考えているんだろう。 しかも、あまりに博打なうえに他力本願。こんなの全然ガラじゃない。 「そもそも、あいつ負けすぎだろ」 ヴィルヘルムに勝てたなんて今でも信じられないし、俺にも負けたし、シュライバーにもそうだった。 そんなあいつに、この勝負……どちらが先に最初の一人を突破するかという賭けに勝ってもらうことを期待するなど、すでにその時点で大博打だ。 〈櫻〉《 、》〈井〉《 、》〈が〉《 、》〈神〉《 、》〈父〉《 、》〈を〉《 、》〈斃〉《 、》〈し〉《 、》、〈第〉《 、》〈七〉《 、》〈の〉《 、》〈ス〉《 、》〈ワ〉《 、》〈ス〉《 、》〈チ〉《 、》〈カ〉《 、》〈が〉《 、》〈開〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈瞬〉《 、》〈間〉《 、》〈に〉《 、》〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈カ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ン〉《 、》〈を〉《 、》〈打〉《 、》〈倒〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。 〈そ〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ギ〉《 、》〈ロ〉《 、》〈チ〉《 、》〈ン〉《 、》〈に〉《 、》〈封〉《 、》〈印〉《 、》〈し〉《 、》、〈形〉《 、》〈成〉《 、》〈具〉《 、》〈現〉《 、》〈を〉《 、》〈試〉《 、》〈み〉《 、》〈る〉《 、》。俺の案とは、つまりそれだ。 二重三重の意味で大博打。まず櫻井が神父に勝ってくれなければいけないし、それまで俺はカインの猛攻を凌ぎきらなければいけないし、何より最後が完全な運頼み。 マリィ以外の魂をこれに宿らせることが出来るのか、出来ても具現することが可能なのか、確かなことは何も言えない。 現状、マリィを除いて形成具現に至ったのは、大隊長の三人だけ。並外れた強度の魂でない限り、その域には達せない。 どころか、ラインハルトだけは例外的に、質を問わず何者であれ具現することが可能というだけかもしれない。 それをもって〈戦奴〉《エインフェリア》を統べ、指揮するのが奴の能力だとすれば、マリィだけが特別ということになる。 はたして櫻井の兄貴とやらは、そこまで強い魂なのか否か―― 「どうなんだよ、おまえ」 無駄と知りつつ、独り言のように俺は呟く。 まあ、具現出来ようと出来なかろうと、俺がごく普通の生活に戻れるのはしばらく先になるだろう。 櫻井がクリーンな手段とやらを見つけるか、あるいは無いと諦めるか、何かしらの結論を出すまで付き合ってやらねばならなくなる。 面倒で、不本意で、お人好しにもほどがある。なんで俺がこんなこと、しなきゃなんないのか分からねえけど。 真っ当にこいつを斃して、今後あの粘着に一生涯追い掛け回されることよりは、若干ましと言えなくもないから。 「やるしか、ねえだろ……」 と、言った瞬間だった。 「―――――」 「――なにッ」 俺とカインは、そろって同時にお互いから視線を切った。この状況下で馬鹿のようだが、そうせざるを得ない事態が起こったのだから仕方がない。 「なんだ、これは……」 今まで感じたことがないような気配。圧力。禍々しさ……薄気味悪いとしか言えない風が、礼拝堂の中から吹きつけてくる。 凶気や暴力度はシュライバー、血臭と危険度はヴィルヘルム、強さ重さはカインが上だと断言できるにも関わらず。 ただ単純に、不快で不気味で恐ろしい。こんな波動を垂れ流す存在の精神がどうなっているかなど、俺は絶対に知りたくない。 これはもしや…… 「聖餐杯……」 呟くカインの声が流れた。同時に、轟風を伴い鉄塊が薙ぎ払われる。 「――――ッ」 不意打ちに近いその一撃を躱せたのは、たとえ半端な状態であれ創造を出しかけていたからに他ならない。奇妙に遅い時間の中で、カインが俺に向き直った。 「貴様、誰ダ……」 「…………」 おそらく今、礼拝堂では神父と櫻井の勝負が始まっている。戦闘に際して本性の発露が起こったのか、この不気味な気配はまず間違いなくヴァレリア・トリファ、奴のもの。 つまり、それによって俺が聖餐杯でないことがカインにバレた。 どうする? この局面で選ぶべきことは何だ? 「貴様、邪魔ダ」 淡々とした物言いとは裏腹に、烈火の激しさで攻撃が連続する。いかに体感速度を遅らせているとはいえ、受けた毒のせいで基礎体力は減退している。そういつまでも躱せない。 「ぐッ、あ――」 そして、今のこいつの斬撃は防御不可。受け止めようが逸らそうが、触れるということが死に繋がる。 ならば―― 「待て――」 大上段からの打ち下ろしを横に飛び退いて避けながら、追い縋ろうとするカインに俺は制止を呼びかけた。 「今はこんなことしてる場合じゃねえ」 考えが甘かった。この不吉としか言えない魂の波動。ヴァレリア・トリファは、櫻井の手に負えるような相手じゃない。 「まるで考えなかったわけじゃねえけど」 事実、今夜最初に、こいつから聖餐杯かと訊かれたとき、俺は返答に迷ったけど。 間違いだった。あのときこれを言えばよかった。 「聖餐杯はあそこにいる。おまえ、俺に協力しろ」 教会の入り口、礼拝堂へと通じるドアを指して俺は叫ぶ。 「死ぬぞ、おまえの妹が」 「――――――」 その一言。妹という単語を聞いてカインは止まった。 覚えているのか、どうなのか、こいつが本当に櫻井の兄貴なのか、俺にはまだ分からない。 だからカインの憎悪を利用して、神父と仲間割れをさせるという策は保留していた。 仮に俺一人なら、とっくにそうしていたかもしれないが。 櫻井という同伴者がいる以上、それは極力避けたかったこと。 なぜなら―― 「あの馬鹿、未だに信じてるんだよ」 この、おそらく生前とは変わり果てているだろう存在が、大事で掛け替えのない兄なのだと。 「そんな奴に、おまえのとち狂った様なんか見せられないだろ」 プラス、続けて言うのなら、過去の清算と未来への指針を得るために、神父と対峙しようというあいつの意気……それに水を差すのは躊躇われた。 「けど、もうそんな状況じゃない」 そんな感傷が罷り通る局面じゃない。 「櫻井を助ける。おまえ、協力しろ」 と、そのときだった。 「―――――」 ノーモーションで放たれた蹴りの一撃。俺はそれをまともに受けて吹っ飛ばされた。 「………がッ」 そのまま、壁に叩き付けられる。絶対に食らってはいけない、止めになりかねない攻撃を食らったが、俺は不思議とまだ生きている。 ならばまた、別のカインに代わったのか? いいや、今はそんなことなんかどうでもいい…… 「どういう、つもりだ……てめえ」 腐臭を放つ血を吐いて、呻きながら俺は言う。 こいつが誰で、今何者だろうと、〈死体〉《そ》の中に本物がいるなら答えやがれ。 「分からねえのか、本当にぶっ壊れてるのかこの野郎!」 「てめえの妹が、死んじまうって言ってんだよ。助けようとか、思わねえのかくそったれ」 俺には兄弟なんかいないけど。一人も血縁者なんかいないけど。 それでも家族のような存在といえば香純がいる。仲間も、友達も他にいる。 その安否を気遣うという、当たり前のことすらおまえはもう忘れたのか。 「ガ、ガガ……」 そんな俺の糾弾に、カインは嗤った。 不吉な響き。髑髏がカタカタと震えるような、生理的嫌悪感を催す笑みで。 「知ラン」 「―――――」 こいつは、よりによってそんなことを。 「構ワン、勝手ニ死ヌガイイ。俺ノ跡ヲ継ギタクナクバ、ソレモ一興」 「アア、ソウダナソウスルトイイ。私モ似タヨウナコトヲシタカラ分カル」 「逃ゲラレルナラ、逃ゲルガイイ」 「死ヌトイウナラ、死ヌガイイ」 「俺ハ構ワン」 「私モ構ワン」 「ソノ代ワリニ――」 猛獣のような前傾姿勢。すでに腐り始めている筋肉をたわませて―― 地面の爆発を伴う踏み込みと共に、超重量の刺突が俺に向けて放たれた。 「オマエガ五代目ニナレバイイ――」 「―――ッ」 間一髪、身を捻ってそれを躱し、同時にカインの突撃を受けた塀は粉微塵に爆散する。 「五代目、だと?」 九死に一生を得たことよりも、俺にはその言葉の方が衝撃だった。 トバルカインは櫻井の兄。そう聞いていたが、やはりこいつはどう考えてもそうじゃない。 四種類にも及ぶ創造位階。その都度変形する武器の形状と言葉遣い。 つまりこいつは、いやこいつらは…… 「なるほど、代替わりするってわけか……」 あの馬鹿、それくらい教えろよと思ったが、そもそも俺が多くを訊こうとしなかったのだから自業自得だ。ならあいつの兄貴とは、おそらく四代目のカインを指す。 俺はそいつを見ているはずだ。呼びかけるべきはそいつなんだ。 「オマエ、貴様、モウ我ラノ血ト契ッタ」 「資格アリ。資格アリ。千座ノ置座ヲ抱イテ佐須良比」 頭上で鉄塊を旋回させつつ、表情の無い死人顔で嗤い続けるトバルカイン。 「資格……だと?」 血と契る。それはつまり―― 「伴侶ナラバ資格アリ。〈偽槍〉《コレ》ヲ受ケレバ貴様モマタ――」 「冗、談じゃねえ――ッ」 袈裟斬りの一撃を飛び退いて回避する。なんて嫌な状況だ。 資格とは、櫻井の血族、家系を指すものだろう。そこには直系の者と契った男女、すなわち夫や妻も含まれる。 「そんなもん、嬉しくないにもほどがあるぞ」 櫻井を好きとか嫌いとか関係なく、こんな連中に認められて喜ぶ奴などいるはずがない。 それは死せる戦争奴隷になる資格。 なおも連続する攻撃を避けながら、焦りは臨界に達していた。 こんなことをしている場合じゃない。一刻も早く俺はあそこに、礼拝堂に行かねばならない。 でないと、あいつが死んじまう。 どうすれば―― もはや、本当に一か八かの賭けしかなかった。 「くッ、そォォ――」 「―――――」 再度、俺はカインの武器を掴んで抑え込んだ。それだけではなく、右手の刃をそこに宛がい、全身の力を込めて押し付ける。 深く考えてる時間はなかった。もうこれしかない。 武器破壊。こちらの意図を察したのだろう、カインは抗いだすが逃がさない。 ここに至るまで何度かぶつかり分かったことだが、“俺”と“私”の腕力はさほど強力というほどでもなかった。全身全霊で事に当たれば、抑え込めないこともない。 「さあ、どうするよ……!」 無論、これはただのブラフだ。ここで俺を振り解くなら、それが出来る者を出すしかない。 つまり、肉体そのものを変生させる創造を持つカイン。 それは二人で、毒か稲妻。前者を出されれば俺は死ぬが―― 「あいつを――」 賭けるしかない。だって俺は―― 「あの馬鹿女、死なせたくねえんだよッ!」 だから―― 「出て来いッ!」 叫んだ、瞬間のことだった。 「Briah――」 はたして、その一念が通じたのか。 「Donner Totentanz Walküre――」 爆散する紫電の奔流に弾かれて飛ばされながら、狙いの相手がようやく出てきたことを確信する。 そうだ――いいぞ、それでいい。後はこいつと交渉できれば―― だが―― 「私ヲ、殺セ――」 そいつが弾き飛ぶ俺に雷速で迫りながら、ワケの分からないことを言うものだから混乱し―― 「デナクバ、オマエヲ殺スマデ」 分からない。本当にどういうことか分からない。 極限の二択――それについて深く思案する時間も、余裕も、俺には存在しなかった。  燃え上がる火勢と剣閃は衰えを見せず、渾身の力を乗せて連続する。 「くッ、はァァ――」  すでに繰り出した斬撃は五十を超え、なお百撃を加えんと乱れ舞って終わらない。  その対象はただ一人。目の前に立つ邪なる聖人のみ。  総てを食らわし、総てを与え、何度でも殺してみせるという鏖殺の剣――騙しやフェイントなど一切なく、残らず殺意を込めた殺し技だ。この剣舞に巻き込まれ、無事でいられる者などいるはずがない。  だというのに―― 「なぜ――」  未だ剣は烈火のごとく、しかし心には冷たい恐怖がじわじわと広がっていく。  なぜだ、なぜ斃れない? なぜ未だに立っている?  断言して、自分の打ち込みにミスなどないし躱されているわけでもない。  こちらの攻撃は総て命中。しかも残らず急所を突いた。  本来なら、とうに原形を留めず四散して、跡形すら残っていないはずなのに―― 「どうして――」  自分の剣が通じない。ただ悠然と立っているだけの敵を斃せない。  今、分かっているのは一つだけ。 「くゥ――」  この攻撃を止めてはいけない。止めたらその瞬間に、自分の命は―― 「はああああああァァァ―――ッ!!」  胸の恐怖を吹き飛ばすように怒号して、螢はなおも斬りかかる。  一気呵成に、一心不乱に、何も余計なことを考えないよう―― 「無駄です。もうお止めなさい」 「―――――ッ」 「どうやら買い被りでしたかね。正直、落胆しましたよ」  口調に嘆きすら滲ませて、トリファは螢の剣を素手のままで止めていた。 「昔教えたはずでしょう。正体の分からぬ敵に無闇矢鱈と攻め込むな。 こちらの技が効かぬ場合は、速やかにかつ深く洞察せよ。 そして勝てぬと判断すれば、脇目も振らずに逃走するべし」  剣を掴んだ手に力がこもる。握り潰されると悟った螢は、瞬時に全力で飛び退がった。神父はそれを追おうとせず、微笑みながら見送り、続ける。 「たった三つ、しかし戦いにおいてもっとも遵守すべき三原則……あなたはそれを残らず忘れていたようだ。直情なのも結構ですが、少しは冷静になりなさい。それで、さてどうしますか?」 「…………」  どう、とはつまり、まだ続けるのかということか。螢は息を吐いて再び剣を構え直す。 「愚問です」  このまま引き下がる選択など有り得ない。 「それは愚答というものですよ」 「私はそう思わない」  なるほど確かに、先ほどまでの自分は冷静さを欠いていた。その事実は認めよう。  思いもよらぬことを告げられて、思考の乱れを起こしたのは否めない。無論、あちらは意図してそれを生じさせたわけだから、運だの偶然だのいう言い訳は出来ないだろう。自分は未熟で、嵌められたというただそれだけ。  でも、ここから先は違う。 「あなたは何者ですか、猊下」  洞察する。正体不明の敵ならば、あらゆる手を使ってその秘密を看破する。そして攻略手段を模索する。  そうだ、彼は確かに言った。〈聖〉《 、》〈餐〉《 、》〈杯〉《 、》〈は〉《 、》〈壊〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と。 「あれは、ただの比喩じゃなさそうですね」  百を超える斬撃をまともに受け、彼は掠り傷一つ負っていない。その信じ難い現象は、決してこちらの攻めが凡庸に堕したからというわけではないはず。  ただ単純に、あちらの耐久力が桁外れにずば抜けているだけのこと。  ならば魂の絶対量……その差か、いいや……  この神父は確かに相当量の巨大な魂を有しているが、それでもここまでの差は有り得ない。 「まあ、単純な多寡で測るものでもありませんがね」  そんな螢の思策を読んだように、教師の口調でトリファは言った。 「まず〈黒円卓〉《われわれ》の一員となる資格、それこそピンからキリまでありますが、超えねばならぬ最低線は大隊規模の魂を有すること」  つまり数百から千前後。このラインを超えなければ、黒円卓の騎士は名乗れない。 「あなたがちょうどそれくらい。マレウスが連隊規模、べイ中尉は旅団といったところでしょうか。あくまで数だけ見ればの話ですがね。 そして問題となる私のそれは、ベイとそう変わるものではありません。むしろ、質という面を見れば彼より数段劣ると言える。戦場を渡り歩いていた吸血鬼は戦士の血を好んで吸い、私の中身は女子供と老人ばかり……。 弱者は救済せねばなりません。ゆえ、あなたの予想は外れている」 「…………」  それなら、いったいどういうことだ? ヴィルヘルムを両断したこの剣が、神父を断てぬなど有り得ないはず。 「先に事実を伝えましょう。〈聖餐杯〉《わたし》を破壊するには、総軍を超える魂が要る」 「馬鹿な――」  それでは理屈が通らない。思わず声に出して言っていた。  総軍といえば数十万ないし百万以上、いいや明確には上限すら決められていない、丸ごと総てを指す単位。軍の編成における最上級だ。 「あなたはいったい――」 「考えなさい。悩みなさい。そして成長するのです」 「あなたも私の娘ならば」  瞬間、再び間を詰めてきた神父の掌低が螢の鳩尾に突き刺さった。 「ぐッ――」  背中まで抜ける衝撃に悶絶する暇もなく、そのまま服を掴まれ投げ捨てられる。木っ端屑のように宙を飛んで天井に激突し、だがそのまま落ちはしない。ここで押し切られては勝機がない。 「おおおぉぉォォ――」  天井を床に見立てて蹴り上げると、弾丸の速度で攻勢へと転じていた。無闇に斬りかかっても通じないなら、針の穴を通すような一点集中―― 「ほぉ……」  落下の速度と体重を上乗せし、螢が狙いを定めた場所は彼の脇腹――黒円卓の騎士全員に刻まれた聖痕の上。  全力を込めた一撃は、しかし当然のようになんの痛痒も与えることが出来なかった。  それはいい。構わない。一撃で駄目なら何度でも――  続く連撃は、一ミリの狂いもなく総て同じ箇所に注がれた。まるで釘を打ち込むように、亀裂よ走れと攻め続ける。 「発想は悪くないが」  嘯いて、長身ゆえに彼が有する長い腕、それが蛇のようにしなりながら伸びてくる。  ――躱さない! 「――――ッッ」  顎に炸裂した衝撃は歯を数本へし折って脳を揺らすが、螢は耐える。耐えて打つ。 「ベイの拳のほうが、痛かったですよ」  虚勢ではない。この神父は規格外の鎧に身を固めているのと裏腹に、まだ決定的な剣を抜いていない。  この程度の攻撃ならば、たとえ百発受けても耐えてみせる。  勝負は、どちらが先に壊れるか―― 「参りましたね」  なおも続く脇腹への一点攻めに苦笑しながら、ついにトリファは後退した。追い縋る螢の猛攻は俄然激しさを増していくが、未だ不滅の聖餐杯には亀裂どころか軋む兆候さえ見当たらない。  纏わり付く羽虫を払うかのように裏拳が放たれる。それを側頭部に受けながら、またしても螢は耐えた。同時に渾身の一撃を交差法で叩き込む。 「はあああァァ――!」  吹き飛んだ長身は祭壇のステンドグラスに激突し、煌めく破片を撒き散らしながら床に落ちた。本来なら十二分に必殺となり得る手応えだったが、効いてはいないと判断する。逃さず攻めるべきだと即決する。  しかし―― 「――――ッ」  追い討ちをかけようとした瞬前で、螢は咄嗟に停止した。なぜそうしたのかは分からない。  ただ、危ないと。今踏み込むのは危険だと。理由は勘としか言いようがない。  正体の分からぬ敵に無闇矢鱈と攻め込むな――つい先ほど言われたばかりの訓戒に従って、洞察が足りないことを自覚した。  なぜならまだこの敵は、聖遺物の形成すらしていない。  その発動を黙って見届けるなど愚の骨頂だが、見極めを誤れば手痛いカウンターを受けてしまう。  ゆえに、今がまさしくその分水嶺――あえて剣を抜かしてみれば、鎧が薄くなる確率も充分有り得る。 「そろそろ立ってはどうですか。まだあなたが、何かを隠しているのは分かっています」  攻めも、受けも、一貫して徒手空拳のままこなすヴァレリア・トリファ。彼が有する聖遺物、まずはその正体を見極めよう。  おそらくそこに、あの度外れた頑強さの秘密があるような気がしてならない。  いったい、それは―― 「黄金、聖餐杯」  ゆらりと立ち上がり、僧衣にかかった埃とガラス片を掃いながら神父は言った。 「我が聖遺物の名前です。察しはついていたはずでしょう。 その形成をここで見極め、さらなる判断材料を増やして攻略手段を模索する。……まあ、間違ってはいませんが、無駄ですよ」 「無駄?」  それは、見せたところで穴などないということなのか。いいやそんなはずはない。  真なる意味で完全無欠な存在など、この世にあるわけがないのだから。 「私と、そしてマキナ卿、少々特殊な例でしてね。理解できぬかもしれませんが、出そうと出すまいと何も変わらないしこの状況も動かない」  螢の攻撃は、未だ一切効いていない。対して相手の攻撃は、我慢できるというだけで貰い続ければ消耗していく。彼はそれを指摘するのか?  いいや、否――!  一撃受ける間に百撃を――これはどちらが先に限界を迎えるかという消耗戦だ。  もったいぶるつもりならそれでいい。このまま押し切らせてもらうまで。  一足飛びに踏み込んで放つ螢の逆胴。狙い過たず脇腹の一点へと迫るそれを、しかしトリファは軽々と受け止めていた。 「―――ぁ」 「……まったく、本当に単調な攻撃だ。私がいつまでもこんなものを、無抵抗で受け続けるとでも思ったのですか?」  亀裂が走り、割れるまで、狙いを一点に定め攻め続ける。それは確かに、強固なものを壊すための常套だろう。でも―― 「何処にくるか分かっていれば、どんな者でもこうしますよ。先ほどまで許していたのは、いずれ音をあげるだろうと思ったからです。 が、どうやらあなたの愚直さを侮っていたらしい。このままでは永遠に不毛な真似をしかねないので、今後はそれなりに応戦しましょう」  そして放たれた掌低が、心臓の上に叩き込まれる。 「ぐァ――ッ」  威力も、重さも、先ほどまでと変わらない。つまり我慢すれば耐えられる。  耐えられるはずなのに、なぜこんなにも響くのだろう。 「単純な技術面では、あなたの方が上かもしれない」  一撃、一撃、徐々に重く感じる拳を受けつつ、螢の身体は傾いでいく。気持ちが軋み、ひび割れていく。 「見事だ、よく成長しましたよお嬢さん。私が生粋の兵士でないとはいえ、短期間で師の力量を超えたということに変わりはない」  そうだ、自分は技術面でこの神父を超えている。超えてはいるけど―― 「しかしそれは、聖餐杯を壊せるほどの差ではない」  一撃受ける間に百撃を――総て同じ箇所を攻めつつそんな芸当を実現できるほどの差ではない。  負けるのか? 嫌だ、それは―― 「ぐゥゥッ――」  全身を朱に染めつつ振り抜いた斬撃は、神父の首に当たり止まっていた。薄皮一枚裂くことも、血の一滴流させることも出来ない。  再び鳩尾に一撃を受け、今度は螢が飛ばされた。血反吐を撒き散らしながら弾け飛ぶ。  その威力、削るようにではありながら、確実に死へと落としていく攻撃に、ようやくここで気が付いた。  絶対かつ普遍のルール。聖遺物を揮う者は聖遺物でしか斃せない。  素手で螢を殺人可能ということは、すなわちそう、簡単な答え。 「あなた自身が……」 「ええ、私こそが聖餐杯」  自らの肉体が聖遺物。常時形成状態にあり、具現と融合の二種特性を持つ特殊型。  ならば彼の攻撃力も耐久力も、今現在のものが基準値だ。先ほど言っていた通り、出そうが出すまいが状況は変わらない。  このどうしようもない現実は…… 「いいや……」  まだだ、まだ諦めるには早いだろう。少なくとも、彼の攻撃力がこれ以上爆発的に上がる確率は極めて低い。まだしばらくは耐えられる。  だからそれまで、身も心も根こそぎ折られて砕かれる前に――  弱点を、何か致命的な穴を見つけろ。  そんなものは無いかもしれないし、探すだけ無駄かもしれない。  でも、それを試さずにこのまま倒れてしまうなんて、そんな結末を許容することなんか出来はしない。 「なるほど」  トリファは立ち上がる螢を見て、その意図を察したのか静かに深く頷いた。 「鎧の隙間を見つけると……いいですね、確かにそう悪くない。いいや、それが唯一の道だ。 聞きなさい、レオンハルト。実のところ、〈聖餐杯〉《わたし》を破壊する術は三つある」  本当なのか、ブラフなのか、分からないが聞くしかない。三本指を立てながら、トリファは淡々と話しだした。 「まず第一は、マキナ卿の一撃。条理を無視した終焉のルール。 そして第二は、言いましたね。総軍を超える魂をぶつけること。 この二つ、どちらもあなたには不可能だ」  何者であれ砕き散らすという絶対ルールか、単純な物量で押し潰すか、確かにそのどちらとも、螢には出来ないことだろう。 「ハイドリヒ卿の〈軍勢〉《レギオン》、副首領閣下の法術、それらの強度はもはや常軌を逸している。これは実際、完全無欠と言って構わぬ領域だ。方法そのニなどは理論上のみの話であって、そんな魂が実在するかどうか私とて分からない」 「ゆえにマキナ卿、彼が暫定ではハイドリヒ卿に次ぐ強者として、私は一目置いているのですよ。下手をすれば主殺しすら可能である者としてね」  〈幕引きのご都合主義〉《デウス・エクス・マキナ》……どこか憧れるようにそう言って、トリファは低い笑いを漏らす。 「つまりですねレオンハルト、今までのあなたのように、真っ向ぶつかって私を壊せる者などマキナ卿しかいないのですよ。ゆえに彼以外の者がそれを成そうとするのなら、必然第三の方法しかなくなります」 「それが……」 「そう。すなわち隙間を見つけること」  そんなものがもしも本当にあるのなら。  いや、あるはずなのだ、言う以上は。 「なぜ、今、私にそれを……?」 「さぁて……」  問いに、トリファは肩をすくめて笑うだけ。ほんの気紛れ、意味などないと言わんばかりに、自らの秘密を吐露しながらも悠然とした態度は崩れない。 「信じる、信じないはお好きなように。もしかしたら私は単に、あなたを嬲ろうとしているだけかもしれない」  希望を煽り、奮闘させ、その挙句におまえの行為は意味などないと叩き落とす。人の心を砕くうえで、それはもっとも効果的なやり方だ。事実一度されている。  でも、だけど…… 「忘れてもらっては、困ります……」  諦めの悪さなら、こちらも筋金入りだということを。  今から見出すべきは鎧の隙間。だけどそれは、おそらく平時の彼には存在しない。  すでに全身、あらゆる箇所を攻めて攻めて攻め抜いた。もしそんなものがあればとうに当てていただろうし、特定の箇所を庇うような動きをすれば看破していたはずだろう。  だから、これは賭けになる。  残された体力。ここに至るまでの連戦につぐ連戦。疲労と消耗。全力を振り絞れるのは次が最後――  ああ、なるほど。つまり先ほど自分の秘密を話したのは、この選択をさせるための挑発か。  〈余〉《 、》〈力〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈認〉《 、》〈識〉《 、》〈を〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》、〈お〉《 、》〈そ〉《 、》〈ら〉《 、》〈く〉《 、》〈彼〉《 、》〈は〉《 、》〈隙〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  ならばこれからすることは、真実絶対の死中に活。  全身全霊の一撃に次ぎ、ゼロから振り絞る二撃目を――  この矛盾、埋められる力が自分に有るか無いかの賭けだ。  〈瞑想〉《トランス》状態に入った螢は、詠唱を謳いながら走馬灯を体験していた。  子供の頃、楽しかった思い出。  幸せだった陽だまりの日々。  それが一転、無慈悲な血風に巻き込まれた忌まわしきあのとき。 「なんだ、やっぱり……」  私とあなたは、似ているのね藤井君。  もう私、色々戻れないところまで来ちゃったけど。  せめてあなたは、私みたいにならないで。 「――〈Briah〉《創造》――」  炎が嵐となって乱舞する。命を懸けた乾坤一擲を今から放つ。  緋色に燃えるこの信念とこの魂――砕けるものなら砕いてみせろ聖餐杯! 「さあ――」  次はそちらが挑発に乗る番だ。  今の自分は、殴られたくらいじゃ消せやしない。  だからあなたは奥の手を、内に秘匿している剣を出せ――  不滅の鎧をこじ開けて、その狂った渇望を見せてみろ。 「…………」  創造位階へと移行した螢に目を向け、トリファの頬に血涙が流れる。  両手、両足、両脇腹から、聖痕が血を噴いて鳴きはじめる。 「気が早い……」  大台を迎えて待ちきれなくなったのか、だが結構。それはこちらも同じことだ。  あのまま削り殺すことも出来たというのに、奥義をもって即殺すると選択したのはそういう理由。  でなくばこの少女の心は折れない。 「じき、いくらも待たず七番目が開く」  螢か、トリファか、蓮か、カインか、誰かが死ぬのだ。決定的に。 「そして私は、残る誰一人として生かす気はない」  総て残らず、この第七において使い果たしてくれよう。  しかる後に第八で、黄金を生む五色は狂いを生む。  これによって事は成り、永劫終わらぬ私の徒刑は記念すべき第一回帰を迎えるのだ。 「来なさい、我が愛し児よ」  気負いなく悪意もなく、慈父の笑みすら浮かべてトリファは螢を手招いた。 「いずれあなたも救いましょう。此度は贄に甘んじなさい」 「……馬鹿なことを」  彼は全員救い全員切るのか。それがこの男の決断なのか。 「キルヒアイゼン卿もあなたの兄も、いずれ私が救います。 そこに藤井さんも入れたいのならば、四人で幸せになればよい。 しょせん〈希望〉《ヴァルハラ》など、〈楽園〉《シャンバラ》など、泡沫の塵芥に過ぎぬゆえ――」 「私が何度でも創りますから」  同時に、螢は地を蹴っていた。 「おおおおおおおォォォォ――――ッ!!」  斬る――この男はなんとしてでも私が斃す!  だから見ていて、兄さん、それからベアトリス。  あなた達がいったい何を望んでいるのか、馬鹿な私には分からないけど。  悔しかったよね? 許せないよね? だって愛し合っていたんでしょう?  そんな二人を戦わせたのは、たぶん私のせいだとしか思えないから。  ケジメはつけるよ、今ここで――  その身を炎の彗星と化して螢は駆ける。  悔いも、怒りも、悲しさも――すでに超越して心は透明。  仇だから斃すんじゃない。魔道の師父だから斬るんじゃない。  これが自分に出来る精一杯の清算だから。  未来へ繋げる――ただ一つの選択だから。  でも――  獅子の剣としてじゃなく、一人の女としての本音を、弱さを、愚痴になるけど素直な気持ちを言ってもいいかな?  仮にもし、もし私が燃え尽きてしまったそのときは――  一つだけ、たった一つでいいからお願いを聞いてほしい。  いつも私に意地悪なあなただけど、それくらいは叶えてよ。 「ねえ、藤井君――」  一生のお願いなの。 「私が死んだら――」  もう一度だけ――抱いてほしい。 「いやああああァァァ―――ッッ!!」  それは全身全霊を込めた魂の一太刀。  余力など欠片も残さず、撃った後には致命的な隙を生む。  勝機はそのとき。その一瞬だけ。  止めを刺そうとする刹那こそが、不滅の聖餐杯に亀裂が生じる唯一の―― 「〈Mein lieber Schwan〉《親愛なる白鳥よ》 〈dies Horn, dies Schwert, den Ring sollst du ihm geben.〉《この角笛とこの剣と 指輪を彼に与えたまえ》」  そう、今がまさにそのとき―― 「私ヲ――殺セ」 創造へと移行しかけた奇妙に遅い時間の中、雷速で迫る屍兵がそう告げる。 「デナクバ、オマエヲ殺スマデ」 振りかぶられる巨大鉄塊。そこから溢れる殺意は本物。こいつは俺を殺す気でいる。 どうする? いったいどうすればいい? 今事態を纏めなければ、おそらく櫻井は助からない。 それはあいつを舐めてるわけでも、自意識過剰な自惚れでもなく、ある種の確信すら覚える既知感の類。 だけどここでカインを斃せば、こいつの魂は第七のスワスチカに吸収されて救えない。 櫻井は俺を一生許さない。 「――――馬鹿が」 吐き棄てて自己嫌悪する。何を甘いことを言っているんだ。 あっちもこっちもみんな助けて、挙句に感謝もされたいなんてこと。 そんな都合のいい選択があり、俺にそれを選べる力があったなら、そもそもこんな面倒事にはなっていない。 ここに来るまで、何百人も死なせていない。 でも、だからこそと思う気持ちも真実で―― 落ちる鉄塊。走る雷撃。刹那の後に分かれる生と死、明暗―― 俺は―― 俺の選択は―― 「―――――」 そうだ、今までどれだけ零してきた思っている。 どれだけ誤り、どれだけ後悔してきたと思っている。 甘いと言われようがなんだろうが、俺はもうこれから先、納得のいかない結末なんて何一つとして認めない! 「ガアアアァッ!」 振り下ろされる鉄塊を白刃取りで受け止めた。雷撃が身体を焼き、超重量の衝撃が全身を蹂躙するが、俺はこんなものじゃ倒れない。こんな程度じゃ諦めない。 「どいつもこいつも、殺せだの何だの……!」 腹が立つ。ムカつくんだよおまえらは。 「人を、介錯みたいに使いやがって……」 こっちの事情なんかお構いなしで、自分の都合ばっかり押し付けるな。 「別に俺はおまえなんか、助けてやろうと思ってるわけじゃねえぞ!」 至近距離で睨み合い、カインに向けて怒号する。 たとえ操られるだけの人形でも、我を忘れた暴走であったとしても、こいつがしたことを俺は一時も忘れていない。 この目にこいつが見せた光景。クラブのとき然り、学校のとき然り―― 「俺はおまえが許せねえ」 櫻井が何を言おうが、おまえの意志を尊重してやるつもりなど毛頭ない。 殺しまくって、暴れまくって、人のことをボコり倒して―― 実の妹を泣かせまくって、死にたいときに死ねるなんて思うんじゃねえ! 「だからおまえ、付き合えよ」 今、少しでも理性らしきものがあるのなら、都合のいい死に逃げなんか許さない。 「俺と一緒に、来い――喧嘩はその後だ。分かったか馬鹿兄貴!」 「――――――」 瞬間、押し潰すような剣圧が僅かだけ軽くなった。 剥き出しになっている歯列が震え、言葉が漏れる。 「アナタハ、誰?」 「俺は――」 名を名乗ることに意味なんかない。こいつが訊いているのはそんなことじゃない。 今の俺を、端的に表すならただ一つ。 「櫻井螢を、助けたがってる男だよ」 おまえだって、そうじゃないのか? 「私ハ――」 巨体がガクガクと震えだす。こいつを構成する〈群体〉《レギオン》が、バラバラに乱れ始めているのを感じられる。 その様はまるで綱引き――限界まで張り詰めた風船のように、僅かな衝撃で木っ端微塵に砕け散る前兆だ。 四人のカインが個々に表出しだしたせいで、統制が崩れている。 こいつの意志がどうであれ、他のカインは憎悪と殺意に狂っている。 その念に引きずられ、飲み込まれるのは時間の問題。微かな理性を見せているのは、燃え尽きる前の蝋燭に過ぎないのだろう。 ならば――今閃いた新たな案を。本当に本当の大博打を実行してやる。 すなわち―― 「おまえ以外を――」 「今から断つ。おまえだけを残してやる」 「――――――」 そんなこと、出来るかどうか分からない。何の自信も根拠もありはしない。 だけど試すべき案があるなら、それを実行に移すまでだ。確率を気にして躊躇している時間はないし、余裕もない。 「待テ――違ウ、私ハ――」 何事か叫ぶカインの主張を黙殺して、俺は意識を集中した。 一人じゃ出来ない。俺だけじゃ不可能。そんな神業めいた所業など、到底単独で成せるようなことじゃない。 だから―― 「マリィ――」 君が要るんだ。応えてくれ。 消えたわけでも、死んだわけでも、何処かに行ったわけでもないだろう? 俺達を繋いでいたある種の〈径〉《パス》に、何らかの壁が落とされただけのことだ。 まだ物語は終わっていない。そんな幕引き、俺がぶち壊してやるから戻って来い――! 「さあ――」 もう一度。 あのときの誓いを。 「ギロチンに注ごう飲み物を」 ギロチンの渇きを癒すために。 血を捧ごう――これから共に。 残る敵は黄金、水銀。〈赤騎士〉《ルベド》、〈黒騎士〉《ニグレド》、聖餐杯―― 黒円卓の最強陣営を今から総て打倒する。 だからマリィ、戻って来い―― 「〈時よ止まれ〉《Verweile doch》――」 約束の刻に向けて、祝詞を謳う。焼きついた斬首痕が熱を持って猛りだす。 「〈おまえは美しい〉《Du bist so schön》」 その瞬間、世界は黄昏に包まれた。 「ほぅ……」 「これはこれは……」  遥かなるヴァルハラ宮――獣は嗤い、水星は目を細めた。  茶番に過ぎぬと思っていたが、なかなかどうして――魅せてくれるものではないか。  これはもしや、事によると、待ち侘びた予想外に出会えるかもしれないと。 「では、参ろうか」  玉座から腰を上げる破壊公。不滅の黄金が、ついに戦場へと降臨する。  そして無論、彼が動くと言うのなら―― 「さあ戻れキルヒアイゼン、我が元に」  不死身の〈大隊長〉《エインフェリア》も追従する。  赤化の騎士はその焼け爛れた半顔を歪めて悦に入り―― 「面白い」  自ら幕を下ろした鋼鉄の〈緞帳〉《どんちょう》がせり上がっていくの感じつつ、黒化の騎士も笑みを漏らした。 「さて、ならば私は義務を果たそう――」  冷笑しつつただ独り、外套を翻してメルクリウスは歩きだす。  喜んでいるのか、嘆いているのか、それとも嘲っているのだろうか。  くつくつと喉を鳴らし、謳うように呟くだけ。 「君はそれでよいのだな、マルグリット」 右手の感覚が以前と違う。 遥かに軽く、遥かに速く――これが真の〈俺の創造〉《オーベルテューレ》。 刃に宿る霊力は静謐だけど凄烈で、どんな刹那であろうと逃さないという俺の渇望に応えてくれる。 そうだ、この選択にミスは絶対許されない。 俺が麗しく思う時を守るための刃なら、結果が後悔なんてことは有り得ないだろう。 俺の〈人生〉《はなし》に捻くれた落ちは要らないし、櫻井だってそう言った。 求めるのは王道。目指すのは誰も文句の言えないハッピーエンド。 だから――今ならば出来るはず。 四人のレギオンであるトバルカイン。その混じり合った接合部のみを切り裂くことが―― そうすれば――  私達四人は、弱い者から獣の混沌へ吸い込まれる。  一人に引きずられることはなくなっても、スワスチカの引力は我々全員を逃がさない。  でも―― 「――踏みこたえろ」  彼は言う。簡単に当たり前のように、それくらいやって当然だろうと命令する。  なんて強い、そしてなんて眩しい魂の持ち主なのか。  私にも、あのとき彼ほどの強さがあったなら―― 「遅くはない」  そうだ、まだ遅くはない。  合わせる顔が無いだとか、僕の身を案じるとか、いい加減にそういう性格を君は直すべきだ。分かるだろう?  これは元々、僕が片付けるべき問題だった。  僕の代で終わらせるはずだった事なんだ。  君にはもう、関係ない。いつまでも僕に構うな。  彼が勘違いをしているのは好都合。  櫻井の家名と恥は、僕が一人で持っていくから。 「嫌だ――」  嗚咽が漏れる。光を閉ざされた双眸から、滂沱と涙が溢れ出る。  嫌だ。嫌だそんなことを言わないで。私が独りで馬鹿みたいじゃない。  違うね、君は独りじゃない。  憎悪は総ての〈カイン〉《ぼくら》に共通する、一つの絆ではあったけど、彼がそれを断ってくれる。  だから君は、君だけは――  ほら、前にも言ったろう。キレイだよベアトリス。  君にそんなものは似合わない。  僕の代わりに、あの子を頼む。まだ子供だから、君が助けてやってくれ―― 「戒……」 振り下ろした刃はトバルカインの首を断ち、その身は切れ目の入った風船のように弾け飛んで、塵になるまで四散した。 すると、まるで蛍を思わせる、幾千幾万の光が降り注ぐ。 その、鬼の最期とはとても思えぬ、荘厳さすら感じさせる輝きの中で…… 「――“彼女を頼む”――」 「―――――」 一瞬、ほんの刹那だけ……櫻井とよく似た顔立ちの男がこちらを見て笑ったような。 再び開けた視界の中、俺の前には、主を失った鉄塊が地面に突き立っているだけだった。 「……、……ッ」 息を荒げて膝を付く。皮膚がぼろぼろと剥がれ落ち、内からの新陳代謝が腐りかけていた身体を回復させ始めていた。 カインを斃したことでこの身を蝕んでいた毒は消えたみたいだが、俺は望む成果をあげたのだろうか? 四代目のみを切り離し、別に分けた自信は確かにある。 だけどそれでも、あいつがスワスチカに取り込まれず踏み止まれるかどうかは完全な運頼み。他力本願であった点は否めない。 あいつは、櫻井の兄とやらは本当に…… 「………ッ」 そのとき、地面に突き立っていたカインの鉄塊に亀裂が走った。ひび割れ、欠け落ち、砕けていく。 「――――ッ」 そして四散する魂。第七のスワスチカが開き始め、それによってまだ神父も櫻井も死んでいないというのを認識したが、やはり俺の目論見は外れたのか? いや、待て。これは…… 「剣……?」 砕け散って消滅したカインの武器から、別の剣が現れていた。 稲妻を思わせる刀身に、簡素だが何処か気品を感じさせる柄拵え……まるで美術館に飾られているような、年代物の騎士剣が…… 「これは……」 これはもしや…… 訝りつつもその柄に触れようとする俺の前で、謎の剣は淡い光を発しながら帯電を開始していた。  そして―― 「〈Mein lieber Schwan〉《親愛なる白鳥よ》 〈dies Horn, dies Schwert, den Ring sollst du ihm geben.〉《この角笛とこの剣と 指輪を彼に与えたまえ》」  火炎舞う礼拝堂に、朗々と響き渡る邪聖の旋律。  ある意味で黒円卓最強と言って構わぬ聖餐杯の本性が顕現する。 「〈Dies Horn soll in Gefahr ihm Hilfe schenken,〉《この角笛は危険に際して救いをもたらし》 〈in wildem Kampf dies Schwert ihm Sieg verleiht〉《この剣は恐怖の修羅場で勝利を与える物なれど》」  迫る緋色の彗星はすでに間近。その気迫もその熱も、必殺を期した命懸けの特攻であることに疑いはない。  ゆえ、これをもって幕を引く。さらば愛すべき獅子の乙女よ。 「〈doch bei dem Ringe soll er mein gedenken,〉《この指輪はかつておまえを恥辱と苦しみから救い出した》」  痛みと絶望の回帰から、今汝を救済せしめん。  心安かに、レオンハルト。我が愛の手に抱かれて眠れ。 「〈der einst auch dich aus Schmach und Not befreit!〉《この私のことをゴットフリートが偲ぶよすがとなればいい》」 「おおおおおおおォォォ―――ッ!!」  袈裟斬りに打ち下ろされた緋の刀身は、神父の肩にぶつかり止まっていた。  切り裂いたのは僧衣のみ。その肉体には一筋の火傷すら走っていない。 「――素晴らしい」  だがトリファは、それに心底から賞賛を贈っていた。  流れ落ちる血涙すら蒸発する熱気の中で、掛け値なしの感動が彼の胸に湧き上がる。 「誇ってよい、あなたの魂……実に美しく鮮烈だった」  たとえ大隊長であろうとも、今のを無傷で凌ぐことなど出来はすまい。  よくぞここまで、この域まで、己を高め砥ぎ上げたもの――  だが汝の前に立つは聖餐杯。破壊不可能の神器ゆえに…… 「幸あれ、我が愛し児よ」  胸前で十字を切り、最後の一節を紡ぎあげる。全霊を賭した一撃を放った直後に、これを躱す術などない。 「〈Briah〉《創造》――」  そう、いかに〈無〉《ゼロ》からもう一撃、振り絞る覚悟を決めていようと。  我が剣、我が牙、我が渇望――それを見た瞬間に、あらゆる者は滅び去る。 「〈Vanaheimr〉《神世界へ》――」  神の業を――  私が求め〈希〉《こいねが》い、狂おしく望んだのは究極の力。  二度と愛する者を奪われぬよう、二度とこの手で壊さぬよう。  私が知る最強の存在に同調し、彼と成ることを渇望したのだ。 「〈Goldene Schwan Lohengrin〉《翔けよ黄金化する白鳥の騎士》」 「―――――」  目を焼く〈金色〉《こんじき》の光芒に、螢の身体は動かない。  力を燃やし心を滾らせ、魂までも残らず総て注ぎ込んだ。  その上で繋げる二撃目は、つまり無空の剣しか存在しないと。  無の境地に至るまで心技体を消耗させ、それを喚起するしか勝利はないと覚悟を決めた。それなのに――  今、目前に迫る黄金の槍。その神気の凄まじさが、彼女の無空を掻き乱す。  これを前に無我でいられる者などいるはずがない。  それほどの神器。それほどの秘宝。神を貫いた伝説の〈聖槍〉《ロンギヌス》―― 「なぜあなたが――」  そんな疑問を投げることすら、空を乱す愚挙であると分かっていながら止められなかった。  これではまるで、あなた自身があの方であるかのような―― 「そう、確かにその通り」  目の前には聖餐杯。彼が誇る不滅の鎧は、内から迫り出す神の槍によって微かな亀裂が生まれている。勝機は今しかないというのに。 「ほぼ正解であるとだけ、言っておきましょう」  ああ、だけど、だけど身体は動かない。無我を乱された今の自分は、ただ全霊を振り絞った直後の無様な死に体に過ぎなくて。 「ごめんなさい、藤井君……」  兄さん、そしてベアトリス…… 「私、やっぱり勝てなかったよ……」  そのとき、だった。 「諦めないで――」  懐かしい誰かの声が、私の中に響き渡る。 「まだ終わっていない。そうでしょ、螢」  そんな、そんな、そんな、この声――私が忘れるはずなんかない。 「もう一撃――」  そうだ、あと一撃で―― 「あなたが聖餐杯を斃しなさい」  私は、私は―― 「呼んで、私を――」  涙が止め処なく溢れ出る。もう駄目だと思っていた。もう逢えないと思っていた。辛かったよ、痛かったよ、恐かったよ、寂しかったよ――  これが夢なら、どうか神様、覚まさないで。  もう一度だけ昔のように、呼ばせて、応えて――お願いだから。 「――ベアトリス!」  叫んだ。それこそ祈るように。  そして奇跡が顕れる。 「――ぬッ?」  礼拝堂の扉を貫き、一直線に飛来してくる銀の騎士剣。稲妻を纏い雷速で、呼び主の下へと翔けて来る。 「〈戦雷の聖剣〉《スルーズ・ワルキューレ》――馬鹿な、これは!」  有り得ない。なぜただの武器が動き出す?  カインが斃れたというのなら、それに吸収されたこれも砕け散って然るべきはずなのに。 「そうか、リザ――」  彼女はこれを、カインの〈鞘〉《ペルソナ》にしていたのだ。  偽槍の〈一部〉《レギオン》として吸収させるのではなく、着脱可能な、あくまでも別個の存在であるよう分けていたと。  ゆえに藤井蓮の手で切り分けられ、第七にカイン諸共吸い込まれることなく残留したのか。  だがいったい、何のために―― 「あなたには分からない!」  飛来した騎士剣を右手で受け止め、螢はその身を旋回させた。予期せぬ土壇場での二刀流に、潰したはずの二撃目が再び息を吹き返す。 「騎士の魂はその剣に――宿りいつまでも生き続ける」  あなたには分からないことだヴァレリア・トリファ。  人も命も魂も、無限に生じる泡沫としか思わぬあなたに―― 「私達は負けたりしない!」  背筋を走る悪寒と戦慄に、トリファは後退しかけるが踏み止まった。 「何を馬鹿な――」  私は負けぬ。私は朽ちぬ。私は永遠に歩き続ける。  こんなところで終わるなど赦されない! 「私は罪人だ! 永劫償い続ける劫罰の虜囚――!」  私がここで斃れたら、愛を信じ裏切られた子供達を、誰が救ってやれるというのだろう。  それともこれが、私に科された神の罰だとでも言うつもりか? 「否、否否、断じて否――!」  認めぬ。許さぬ。この身は永劫の徒刑囚。  邪なる聖道を歩み続けることこそ我が信念であり我が誇り。  たとえ何者であろうとも、この歩み止めることなど許さない。 「私は負けぬ――負けられぬ!」 「それはあなただけの気持ちじゃない!」  走る聖槍の切っ先よりも、雷神の加護を受けた戦姫の剣が僅かに速い。  なぜなら迅雷に至るその速度は、単純な意味において黒円卓最速だ。  敵に合わせて無限の速度を発揮するシュライバーを除外すれば、時間停滞を行う蓮以外にベアトリス・キルヒアイゼンの剣舞を凌ぐ者など存在しない。 「ならば私は――」  いったい何処で、何時どのように戦況を読み違えた?  聖槍で螢を屠ると決めたときか? カインに藤井蓮をぶつけたときか?  それともシュライバー卿を消したときか? ベイ中尉を切ったときか?  リザか、マレウスか、シュピーネか? 分からぬ、私は総てを己の意のままに、操り指揮し玩弄し――つい先ほどまで勝利を確信していたはずなのに。 「ああ――」  そうか、今ようやく分かった。  総てはあのとき、十一年前――  愛し合う者達を殺し合わせるという真似をした瞬間に、私は愛児達から見捨てられてしまったのだ。  己が罪と同じ罪を、他者に犯させたあのときに。  総てが壊れ、狂いだしたということなのか―― 「さらばです、聖餐杯猊下。 もう誰一人として、あなたに惑わされる者は生まれない」  鎧の隙間を縫うように、剣が突き立ち紫電が舞う。  不滅を誇った神の器が、音を立てて崩れていく。 「ぁ………」  ヴァレリア・トリファの魂は、もはやこの肉体に留まることが出来なかった。致命の一撃を胸に受け、引き剥がされるように離脱していく。  だが―― 「大儀なり、聖餐杯」  だがしかし――それが及ぼす効果を螢は知らない。  聖餐杯から彼を剥がすということが、どういう結果を招くのか。 「逃げ……なさい…」  早く、早く、今すぐに、この場から逃げるのだ。  すでに第七のスワスチカは開いている。  残るは一つ、そうなれば――  死に至るその刹那、暗黒に落ちる意識の中でトリファは聞いた。彼の声を。 「その名に相応しき歌劇だった。卿の〈狂気〉《せいぎ》、約定通り見届けたぞ」  アレがこの身に墜ちてくる。駄目だ、駄目だ――これでは総てが。 「我が〈一部〉《レギオン》となり、〈永久〉《とわ》に安らげ」 「お、おぉ、おおおおおおおおおおおォォォォォォ―――――ッ!」 「――――ッ!?」  断末魔の絶叫と共に、トリファの魂が肉体から遊離していく。  いや、それだけではない。 「金色の……闇?」  祭壇の遥か上。血涙を流すマリア像と血錆びていく十字架を覆うように、黄金の混沌が蠢き、脈打ち、胎動している。  獣のように、悪魔のように、百万を超える血と鋼鉄と肉と骨――それはまさしく戦争の化身であり、凝縮された一つの地獄に他ならない。  墜ちてくる。  光を避ける黄金が、愛すべからざる光がこの世界を埋め尽くさんと墜ちてくる。 「逃げろ……逃げるのです、レオンハルト……」 「――猊下ッ?」  黄金の地獄に貪り食われていく神父の顔は、螢の知る彼ではなかった。  〈優〉《やさ》で線の細い男性であるということだけは共通しているのものの、その頬はこけ、目は落ち窪み、まるで老人のような幽鬼の〈貌〉《かお》――  犯した罪と嘆きに磨り減って、もはや狂うことでしか自己を保てなかった哀れな男の、成れの果て。  あれがヴァレリア・トリファの魂なのか? ではこれは――  〈今〉《 、》〈目〉《 、》〈の〉《 、》〈前〉《 、》〈に〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈肉〉《 、》〈体〉《 、》――〈聖〉《 、》〈餐〉《 、》〈杯〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》? 「私は、後悔などしていない。 私は、幾度生まれ変わろうと私にしかなれない。 詫びもしないし、許しも請わない。 ですがどうか、レオンハルト、我が娘よ…… 今すぐ逃げて……逃げ続けなさい。たとえ一秒でも、一瞬でも。 ハイドリヒ卿を斃すことなど誰にも出来ない」 「ふふ、ふふふは、ふははははははははははははははははははは―――」  聖堂を覆い尽くす獣の哄笑。神父の魂は黄金に飲み込まれ、うねりの一つとなり消えてく。  彼は破壊公。この世に生まれた最大最強、最悪の魂。 「愛、夢、希望、信頼、友情、義心、労わり……美しい! 見事なり聖餐杯、レオンハルト、ヴァルキュリア、トバルカイン――卿ら皆、我が爪牙として〈永久〉《とわ》に生きよ。昔日に約束した祝福を与える。 皆、我が内で渦巻くがいい」  爆発する声と共に、燃え滾る黄金が聖餐杯へと墜ちてくる。螢はそれで総てを悟った。 「これが――この〈肉体〉《うつわ》がハイドリヒ卿!?」  道理で壊せぬわけだ、不滅なわけだ。  総軍を超える魂の器であり、おそらくは水星によって桁違いの防盾を十重二十重に張り巡らせた神の杯。  これに宿ることにより、ラインハルト・ハイドリヒはこの現世に舞い戻る。  ヴァレリア・トリファがあの聖槍を使えたのも、本来の持ち主であるこの肉体に宿っていたから―― 「然り。ゆえに分かるな、レオンハルト」  器の中身までもが本物となった以上、神殺しの聖槍は真実の力を発揮する。  もはや今さら逃げようとも、その穂先は狙い過たず標的の胸を貫き―― 「我が〈英霊〉《エインフェリア》の列に加わるがいい」  獣の祝福。死せる戦奴の誉れから、螢は逃げることが出来ない。  迫る黄金の切っ先に、ただ成す術もなく立ち尽くしているだけで。 「嫌だ――」  嫌だ、助けて――まだ私は―― Der L∴D∴O in Shamballa ―― 13/13 Swastika ―― 7/8 【Chapter ⅩⅡ Fortes fortuna juvat ―― END】 「そういえば私たち、二人きりで話すのは初めてなんじゃないのかな」  意外にも、と言うべきか、よく分からないがそのようで、たった今気付いた事実を玲愛は淡々と口にした。 「なんでだろう。私はまあ、こんなだからいいとして、そっちはちょっと、おかしいね。 もしかして、私のこと苦手だった?」 「いや、その……そんなこともないですけど」  いきなり言われても困ってしまう。  確かに改めて考えるとおかしな話で、指摘されるまで気付かなかった。  蓮も司狼もいないところで、彼女と接したことは皆無に近い。 「本当にゼロ?」 「ゼロだよ。藤井君の退院祝いにデートしてきなさいって言ったときも、そっちは周りにいっぱいいたし。 私がずっと手招きしてたのに、全然気付かなかったよね、綾瀬さんは」 「あぁ~、でもそれは呼んでくれれば……」 「大きな声で? 無茶言わないでよ」  無茶なのか、それは? いや、無茶なのだろうな、たぶん。  そのときの状況を思い返して苦笑する香純に対し、玲愛は小さく溜息をつく。  そして、ずばりと言われてしまった。 「私はキミのこと、邪魔くさいと思っていたよ」  また随分と直球だ。 「というか、月学女子の少なくない数がそう思ってたはず」 「なんでですか」 「両手に花」  どこがあ、と言いたかったが、じろりと睨まれて黙ってしまう。まあ実際、傍からはそう見られていたのかもしれないし。 「特に私たちの間じゃあね、遊佐君と藤井君、人気あったんだよ。 こう、なんて言うのかな。放っておけない? 母性本能をくすぐる感じ? いや、どうなんだろうね。よく分からないけど……。 後は特殊な趣味の女子たちとかがさ、なんか破廉恥な妄想を掻き立てられるらしい。二人とも、見てくれだけは良いから」 「言ってる意味がよく分かんないんですけど……」  まあとにかく、と玲愛はまとめる。 「キミは結構、邪魔だったんだよね」 「はあ……」  それはどうも気付きませんで申し訳ない、と謝るのは何となくだが違うだろう。事実香純は、別に恐縮などしていなかったし、むしろ…… 「おかしい?」 「はい、おもしろいです、玲愛さん」  結構ひどいことを言われているような気がするのに、不思議と妙に嬉しかった。玲愛の口調に棘がないせいかもしれない。  自然と、頬まで緩んでくる。 「でもあいつらは、あたしのことなんかペットのコロポックルくらいにしか思ってないですよ」 「それは分かってる」  ひでえ。 「だけど、嫉妬しちゃうのは乙女心」 「だったらデートしてこいとか、他にもちらほら煽ってたのはなんでですか」 「押したり引いたりは戦術の基本。 私のほうが年上だからね。こう、手の平で転がす魔性のお姉さんを目指そうかな、と」 「絶対キャラ間違ってますよ、それ……」 「押して押してスルーされ続けてる可哀想な子が約一名いたから、しょうがないでしょ」  言って、玲愛は肩をすくめる。ああ、今のは皮肉なのかな? 結構黒い人なのは知っていたけど、彼女のそういうところは可愛いと思う。 「それ、あたしですか?」 「他にいったい誰がいると」  だから、やっぱり楽しかった。本当に、なぜ今までこういう場を進んで設けようとしなかったのか、分からなくなるほど…… 「これはガールズトークっていうやつなんですかね」 「頭悪そうな現代語を使ってると、もてないよ綾瀬さん」 「いいんですー。どうせあたしコロポックルだしー」  でも、と愚痴りながらも間を置いて。 「見る目はあったって、思いたいじゃないですか」 「…………」  それに彼女は、一瞬だけ絶句した。まるであたしの発言を通し、ここにいない誰かを見ているような目で。 「そうだね」  淡く、本当に透けてしまいそうなほど淡く、微かに笑みを浮かべていたんだ。  あたしは何も分からない。  何時だって何処だって蚊帳の外で、誰も何も教えてくれない。  だけど、いいんだ。それでもいい。 「信じてるから」  この、ちょっと電波で黒いけど、可愛いい先輩はなかなかどうしていい女。  そしてあたしも、たぶんそこそこ、そんなに捨てたもんじゃないだろうし。 「あたしは何も、心配なんかしてないです」  きっとあいつは、また下手な嘘でもつきながら戻ってくる。  いいよ、騙されてあげるから、絶対ここに帰ってきて。 「だから玲愛さん、一緒に待とうよ。〈屋上〉《ここ》ならきっと、また皆一緒になれるから」 「ああ、本当に……」  そうだといいね、と呟いて、彼女はふわりとあたしの頭を抱いてくれた。  それはなんだか温かくて、もしもお姉さんがいたとしたら、こんな感じなのかもしれないと思い…… 「私も、全部間違いだったなんて思いたくない」  知らずあたしは、よく分からないけど泣いてしまった。 「自分の心は自分のもので、望む未来のために道を選べるんだと信じたいよ」 「信じようよ」  玲愛さんも同じで、泣いている。あたしの声も震えてしまう。 「私頑張る。諦めないから、負けないから。 また皆、ここで一緒に……」 「ぁ……」  だから待ってて、とそれだけ言って、彼女はいなくなってしまった。  残されたあたしはただ一人、この屋上に一人ぼっちで…… 「いつも、いつも……」  結局最後までこのパターン。置き去りにされて待たされて、あたしはこんな役ばかりで。 「いいよ、もう。なんなのよ、もう」  あまりに徹底した邪魔者扱いに呆れ果てて、笑い泣きみたいになってしまった。  ここまでくれば清々しいし、開き直るしかないだろう。 「これが夢でも幻でも構わないから」  ただ、一つだけ覚えていてほしい。〈屋上〉《ここ》でずっと、いつまでもずっと、皆を待っているあたしがいるんだっていうことを。 「蓮、司狼、マリィちゃん、エリー」  それから玲愛さん、何を思って何をしようとしているのかは知らないけど、あたしはただ信じるから。  遅刻は大目に見るけれど、キャンセルだけは許さないからそのつもりで。 「だから皆、忘れないでよ」  空の向こうを見上げたまま、あたしは宣言するように涙をぬぐって、そこに立ち続けていた。  爆発する終焉の一撃が胸を抉り、邪聖の魂を粉砕する。 「う、おおおおおぉぉぉォォッ―――」  苦痛はない。これを叩き込まれた瞬間に、ヴァレリア・トリファという個は死んでいる。後に轟く断末魔は、言わば弾ける魂の残響にすぎない。 「私は、私は分からないのだ」  ゆえに、末期となるその言葉も、彼の人生にへばりついていた怨念の残滓。意思の宿らないテープの再生に等しい。 「私は、誰だ? 私は真実、己が道を選択したと言えるのか……」  己の愛が何処にあるのか。この感情が誰のものか。強固すぎる外殻を纏ったせいであまりに鈍くなりすぎた。  借り物の力に溺れた男は、道を究めんとすればするほど己というものが分からなくなった。  是か否か、二択の終わらない堂々巡り。  彼もまた、趣は違えど〈牢獄〉《ゲットー》の囚人にならざるをえない。〈鍍金〉《めっき》とはいえ黄金を被った以上、そうした呪いを負わされる。  結局、彼は逆徒として処刑されたのか。忠臣としてその役目を終えたのか……もはやそれすら判別できない。今では残響する念の欠片がヴァレリア・トリファを推し量る総てであり、その心も消えていく。 「テレジア……」  彼が、もっとも狂おしく煩悶し続けた自己への問い。  かつて、他者にまったく同じ問いを投げたこともある。  あるいはその行為こそが、永遠に救いを拒絶すると言った男にとって、助けを求める唯一の叫びだったのかもしれない。 「私はあなたを、愛しているのかいないのか」  苦しませたかったのか救いたかったのか。 「救いたい。そう思い苦しめた。 愛している。そう信じて壊し続けた」  ラインハルト・ハイドリヒの代行として、彼が行うであろう道をトレースしていないと誰が言える。譲れない信念など笑止。  魂が肉体を操ったのか。肉体が魂を侵食したのか。  ついに最後の最期まで、トリファは〈確信〉《こたえ》を得ることができなかったのだ。 「結局、総てがあなたにとっては迷惑千万であったという、ただそれだけが事実。駄目ですねえ、私はまったく……。 リザのことを笑えはしない。ああ、仰る通りだマキナ卿。私は子供を殺すしか能がない」  苦笑も、すでに枯れていた。トリファに統括されていた彼の〈犠牲者〉《たましい》が散華して、ここに第七のスワスチカが開放される。 「さらばだ、もはや二度と会うまい」  空には巨大な悪魔の城。黄金の〈至高天〉《グラズヘイム》・〈第五宇宙〉《ヴェルトール》が姿を現し、この〈街〉《シャンバラ》を飲み込んでいく。 「ハイドリヒ卿、最後にお教え願いたい。 あなたにとって、この私は……」 「無論」  答えるまでもなく――聖餐杯は本来の持ち主に塗り潰された。  鳴動する魔城の波動が、死を、破壊を拡散していく。 「甘美だ。ああ、心臓の鼓動を感じるぞ」  この夜、人口八十万を超える諏訪原市は、一つの地獄へ落とされた。  男を殺せ。女を殺せ。老婆を殺せ。赤子を殺せ。犬を殺し、牛馬を殺し、〈驢馬〉《ろば》を殺し、山羊を殺せ。  総てを貪り尽くす〈大虐殺〉《ホロコースト》こそ天与の祝福。 「皆、我が内で渦巻くがいい」  彼の創造は諏訪原市全域を覆いつくし、今や完全に外界から隔離した。  その異常に、気付けた部外者は一人もいない。  第八開放をもって全世界に流れ出す修羅の異界は、この祭りを締め括る最後の戦場となるのだから。 「邪魔は入らん。さあ〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を始めようか」  これより二十四時間経った後……新世界を祝う聖誕の儀が行われるのだ。 …………… …………… …………… 「……ん」 微かに呻いて震えるこいつに、俺達は気付いて目を向けた。 「ここ……は?」 頭を押さえて、緩慢に身を起こす櫻井。 「学校だよ。自分のクラスなんだろ、見て分かんねえ?」 それに司狼は、相変わらず軽い笑みを浮かべて答えていた。 「オレもちょっと前までは同じクラスだったんだけど、今となっちゃどうでもいいよな」 「もう、誰も残っちゃいねえし」 「誰、も……?」 そう、誰もだ。櫻井も事態に察しがついたのだろう。がばりと顔をあげて窓の外を見上げる。 「……そんな」 声は驚愕に染まっていた。無理もない。 目で見る限りは昼か夜かも分からない、まるで生き物の臓腑に覆われたような空模様と、そこに浮遊している巨大すぎる建造物。誰がどう見ても尋常な光景じゃないだろう。 あれが、あの城が出現した瞬間に街が死んだ。そこに存在していた総ての者も…… 「みんな、魂を抜かれた」 自分の声すら、他人のもののように聞こえる。それだけ俺も、この状況に拒否反応を持っていた。 もはや問答無用で現実を認めるしか許されず、しかし受け止めきれない感情が、そうした声を出させていた。 「オレとこいつが合流してから、もう二十時間くらい経ってるよ。時計も携帯もぶっ壊れて使えねえけど、まあ大方そんなところだ」 「他にも、電子機器は軒並み駄目で使えない。試してないけど、たぶん街の外にも出れないだろう。完全に隔離されてる」 「そんで、残ってるのはオレ達だけだ」 「…………」 「誰もいなくなった」 淡々と話しながらも、しかし内心はとても平常じゃいられない。司狼がどうだかは知らないが、俺は憤怒で煮えくり返っていた。 何よりも、自分自身の不甲斐なさに。 「おまえが生かされてる理由も見当はつく」 だから、今はこれでいい。ここで櫻井相手に八つ当たりをしたところで、何の意味もないことだ。半ば心と切り離されて動く口が、腹立たしいと同時に今は便利で役に立つ。 それもこいつが、無駄に取り乱さなければの話だけれど。 「そう……ええ、確かに想像通りよ、藤井君」 「へえ」 たいしたもんだと、口笛を吹いて笑う司狼。いきなりこの状況を見せられて、即座に対応できる胆の太さはやはりこいつも半端じゃない。まあ、実情は俺と同じようなものかもしれないが、とにかく無駄な手間を省けそうだ。 「もっと切れやすい姉ちゃんかと思ってたけど、意外に切り替えが早いんだな」 「茶化すな、司狼」 〈櫻井〉《こいつ》は意外に喧嘩っ早いと、俺はよく知っている。人のことは言えないが、司狼との相性は悪すぎるだろう。 「それで……」 櫻井が、第八の生贄として残されたというのが事実なら。 「今、ここで私を斃す?」 「馬鹿言うなよ。意味がない」 むしろ、それはマイナスだ。そんなことを言ってるんじゃない。 「おまえがいなくても、オレとこいつが残ってんだから同じことだろ。だったら一人でも多いほうがいい。敵の敵は味方ってな」 「味方……ね」 「別に協力しようって言ってるんじゃない。お互いに否応がないだけだ」 「おまえだって、むざむざ生贄になるつもりはないだろう。そういう状況なんだよ櫻井。分かってるくせにくだらない意地をはるな」 「てわけでよ、最低限の情報交換をしとこうぜ。そっちは〈学校〉《ここ》で何があったか、オレらはここに来るまで何があったか」 「…………」 櫻井は、しばらくの間無言だったが。 「……分かった」 頷いて、自分が見聞きしたことを話しだした。 「私は猊下を追ってきて……」 ここで戦い、そして大隊長二人と先輩の乱入。 その大半は予想の範疇内だったが、これで総てが確信に変わる。 神父の敗北。カインの消滅。聖餐杯がラインハルトの肉体であるという事実と、第八開放をもってこの異界が全世界に流れ出すということ。 そうなれば、もはや手の打ちようがないということ。 おそらく、城に連れ去られたと思しき氷室先輩…… 話し終わった櫻井は、自嘲気味に微笑んだ。 「私たち全員が自殺すれば、一番いいのかもしれない」 疲れたような顔と声で、そんなことを口にする。 「別に正義感とか、自己犠牲とか、そういうことはどうでもいいけど、それくらいしかできないし」 「最後に、少しでもあの人達を困らせることができるとしたら、もう残っているのはそんなことしか……」 「お断りだね」 だが、櫻井の言い分を司狼は一言で突っぱねた。俺もこいつと同意見で、そんな選択に意味があるなんて思っちゃいない。 「どうして? もう全部壊れちゃったじゃない。誰も残ってないんでしょ」 「この上あの人達と戦って、何がどうなるっていうのよ」 街の住人は片端から城に吸われた。後には魂の抜け殻が転がっているだけ。 「あなたが帰りたいと言ってた場所なんて、もうとっくになくなってるのよ」 それは確かに、その通りなのかもしれないが。 「俺達が死んで、何か解決するのかよ」 ラインハルトの〈創造〉《ヴェルトール》とやらが、これ以上広がることはないかもしれない。しかし所詮、それだけのことだ。 「あいつらは残る。また同じことを繰り返されるだけだ」 「そんなの一時凌ぎにもならねえよ。オレらがここでくたばっても、せいぜいあっちは興醒めしたっていうくらいさ」 そして、俺達にはそれくらいの抵抗しかできないなんて認められない。 「第一、そうなったら〈城〉《あれ》に吸われた奴らはどうする? ずっと永遠にあのままかよ」 そんなのは逃避だ。何の問題解決にもなっていない。俺達二人の意見を聞いて、櫻井は俯いたまま何も言わない。 だが、ややあって。 「あなた達はそうでも……」 「私には、そこまでする動機がないもの」 ラインハルトを呼び戻さずに、蘇生の奇跡だけ掠め取るというヴァレリア・トリファは死んでしまった。聖餐杯があちらの手に落ちた以上、もはやどう足掻いてもこいつの望みは叶わない。 選べる道は、ラインハルトの戦奴になるか、奴そのものを消してしまうか。 前者は受け入れられず、後者は不可能に近く。 「だから私、戦ったのよ。〈大隊長〉《かれら》の一人でも斃せれば、望みがあるかもしれないと思ったから」 「だけど無理。強すぎるよ、勝てない」 「ハイドリヒ卿まで出てきた今、どうにもならないよ。私にできることなんて何も……」 「つまり――」 俺が何か言うより早く、司狼が割って入っていた。 「おまえはあれか。なんだかんだで、てめえが怖いから尻尾を巻くっていうわけか」 「―――――」 「なんだその顔、図星だろうがよ」 司狼の台詞は辛辣だったが、俺も同じ意味合いのことを言おうとしていた。そのままこいつは、睨んでくる櫻井を無視して続ける。 「結局、おまえらはそんなもんさ。どいつもこいつも弱い者いじめの専門でよ。ぶっ殺すのに慣れててもぶっ殺されることに免疫がない」 「てめえが死にたくないから? 死んだ奴に逢いたいから? どうでもいい〈諏訪原市民〉《やつら》を片っ端から殺そうとしてたんだろうが。別に道徳語るつもりは全然ねえけど」 「舐めてるよな、生きるってこと。すげえ軽いぜ、おまえらが言う命ってのは」 「…………」 だから自分の命すら簡単に投げる。確かにその通りだろう。 「そんなこと、あなたに言われたくない」 「呼ばれてもないのに、しゃしゃり出てきたあなたなんかに」 「あなたのほうが、よっぽど自殺志願者じゃない」 「違うね」 司狼は立ち上がって、櫻井を見下ろす。 「オレは生きてるのを感じたいんだよ。一緒にすんな」 「まあ、とにかく分かったよチキン。腰抜けの手は要らねえし。勝手に隅で腹でも切ってろ。いや、怖くてそれもできねえか」 「おい蓮、茶道部行って畳でも取って来ようぜ。こいつもう駄目だわ。介錯しよう。ついでに書道部で筆一式もな、辞世の句とかそういうの」 「ごめんなさい、私死にます、馬鹿だから。後は勝手に、どーとでもなれ」 「てまあ、そんなんでいいんだろ。面倒くせえし」 その、小馬鹿にしきった言いように。 「――違う!」 泣くように怒号して、櫻井も立ち上がった。そのまま殴りかかりそうな勢いで司狼に詰め寄り、しかし途中で失速すると、震える声を絞り出す。 「何も、知らないくせに……」 「ああ、知らねえよ。つーか知るかよ」 「ただ、そういうこと言う奴は残らずダセえ。てめえの事情に皆が共感してくれるなんて思うなアホが」 「………ッ」 「それともあれか? 自分が辛けりゃ周りにネガティブばら撒く権利があるとでも思ってんのか? そうすりゃ嫌なことも薄くなって、荷物が軽くなるとかそんな戯言」 「ボケが、ふざけろ、いい迷惑だぜ。いらん〈荷物〉《もん》背負わされた奴は鬱陶しいとしか思わねえよ」 「おまえ、あれだな、つまんねえ男に引っかかるタイプだわ。辛いね、分かるよ、大変だったね――って、そう言っときゃいいんだもんな。楽勝すぎて噴くぜ、受けるよ」 「まあ、そういう対応してほしいならしてもいいがね」 鼻で笑って、司狼は言う。櫻井の顔を覗き込むと、切り捨てるような台詞。 「おまえ、そそらねえからお断りだわ」 「―――――」 瞬間、空気の弾けるような音が響いた。 「私、だって……」 平手打ちをした姿勢もそのままに、櫻井は言う。 「私だって、そんなの全然好きじゃない」 声は微かに震えているが、泣いているわけでもなかった。司狼を真っ向から睨みつけ、力のこもった声で続ける。 「共感なんか要らない。私が泣いているときに、誰かも泣いてほしいなんて思わない」 「だから誰にも、私の気持ちを分かってるようになんか言わせない」 「そうかい。じゃあどうすんの?」 「…………」 見かねて、俺は割って入った。 「もういいだろ」 「司狼も、それくらいにしとけ」 あからさますぎる挑発に、櫻井は肩を震わせて怒っている。確かにさっきまでの腑抜けた態度よりはマシだろうが、ここまでいくと逆効果だ。意地になって何を言い出すか分からない。 司狼はそのつもりで煽ったのかもしれないが、俺にそんなつもりはなく…… 「櫻井」 深呼吸するように息を吐いて、俺は言った。 「おまえが勝てないとか思うのは勝手だけど、忘れんな。俺だって〈大隊長〉《やつら》とやって、遊ばれてんだよ」 エレオノーレには目の前で第五を開かれ、シュライバーには指一本触れられず、歯が立たなかったトリファ神父はマキナに瞬殺されたという。 あげく、女一人守ってやれずに…… 「無力を感じてるのは、おまえだけじゃない」 「だけど、俺は信じてる。まだ先輩は救えるし、香純だって助けられる」 「綾瀬、さん……?」 「ああ、言ったろ。魂が抜かれてる」 事情はまったく不明だが、あいつはここの屋上で倒れてた。症状は、街の奴らとまったく同じ。 「けど、手遅れだとは思ってない」 第八が解放され、ラインハルトが完全になる前に斃せれば、あいつは助かるかもしれない。 「だから、俺は逃げるわけにはいかないんだよ。勝てないとか、できないとかじゃない。勝つしかないんだ」 「そう……」 「おまえ、前にも言ってたよな。あいつが死んだらどうするのって」 「答えは今も変わってない。俺は生きてる奴のことしか考えねえよ」 「だから、そもそも死なせなんかしない」 「…………」 俯いて、黙る櫻井。自分には動機がないとこいつは言ったし、事実その通りだろう。 こいつは無くしてしまったんだ。取り戻す術すら失ったんだ。 ここで膝をつくって選択に、口を出すことはできない。 「別に無理強いはしないさ」 俺が言いたいのは、協力しろなんてことじゃないんだ。 「おまえがやりたくないっていうなら、それはそれで構わない。ずっとここにいればいい」 こいつの気持ちがどんな形になってるかなんて、そんなことはどうでもいいし。 俺はただ、自分がやるべきことをやるだけだから。 「話を通したのは、これ以上おまえと揉めるのは鬱陶しいからって、それだけだよ。邪魔さえしてくれなきゃあいい」 「もう構ってる暇なんかないし、おまえと喧嘩する理由もなくなったし」 皮肉なことに、切羽詰まったせいでこいつの立場を〈斟酌〉《しんしゃく》する余裕ができた。相容れないし許容できない部分は変わらないが、それに対処する選択肢が増えたと言える。 現状、櫻井と対立するメリットはなく、理由もなく。 何よりこれ以上、余分な血は流したくない。 「どうして?」 「どうしてって……」 そんなの、決まっているだろう。 「おまえ、俺が知る限り、誰も殺してないもんな」 過去は知らない。だけど俺が見てきたこいつは、殺人者と言うよりも泣いているガキだ。その印象を口にすれば怒るだろうから言わないが、鉄面皮の崩れた櫻井は嫌になるほど人間臭い奴だと知っている。 「切れやすいし、可愛げないし、頭悪いし、手も早いし」 今もみるみる目が釣りあがっていくし。 「おまけに顔だきゃあ蓮の好みで」 「馬鹿がなんか言ってるけど」 溜息交じりに、俺は櫻井の肩を叩いた。びくりと驚いたその〈表情〉《かお》は予想外に幼くて、やはりこいつも同年代の女なんだと実感させる。 「確か、十一年だったよな」 俺はたった二週間かそこら。この〈非日常〉《せかい》に巻き込まれて、わずかそれだけしか経っていない。 そしてたったそれだけで、すでに色々とボロボロだ。もう二週間続くなんて言われたら、さすがに耐えられなくなるだろう。 だから――こいつの願いとか、その主義や主張を理解できないからといって、その背景までをも否定する気はさらさらなく…… 「おまえが本気だったってことくらい、俺だって分かってんだよ」 ベクトルはどうであれ、中途半端な気持ちと覚悟でやれることじゃないのは身をもって知っている。 「ああ、こういうこと言われるのは嫌なんだっけ? じゃあ言い直すわ」 こっちを見ている櫻井から、目を逸らして呟いた。 「おまえみたいな奴は嫌いだけど、クラスメートのよしみってやつだ」 「言ったろ、誰も死なせない。そこにおまえも入れてやるよ。勝手に死ぬな」 と、思ったことを素直に言ったら。 「…………」 こいつは何か、ぽかんとした顔で絶句していた。数秒、そのまま時間が流れる。 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 いや、おい。なんか言えよおまえ。 「どーん」 「がッ……」 「つッ……」 いきなり、目の間に火花が散った。 ……てめえ、司狼。 「何すんだよ、おまえ」 「ああ、すまん。ほっときゃチューでもしそうだったから」 「するかよッ」 どんだけ俺を見誤ってんだ、この野郎。 「だって、言ってることワケ分かんねえし」 「なんだおまえ、もしかしてこいつも例の打ち上げに誘う気なのか?」 「打ち、上げ……?」 「ああ、全部片付けた後、ここの屋上でパーっとやるんだとさ」 「おまえも来てえの?」 「あ、私は……」 困ったように言葉を濁し、俺の顔を見る櫻井。 別にそんなつもりで言ったんじゃないんだが、そういう顔をされると俺だって困る。 「別にそんな……私がそこにいても場違いだし、お互いに嫌でしょ」 「……まあ、そりゃそうだ」 至極もっともなことを言う櫻井にとりあえず同意したら、なぜかよく分からないけど睨まれた。 「行かないわよ、馬鹿馬鹿しい。なんで私が」 「拗ねんなよ」 「誰がッ!」 「おまえが」 「つかどうでもいいよそんなことは」 「どうでもいい?」 だから、なんで俺を睨むんだおまえ。さっきから煽ってるのは、誰がどう見ても司狼だろ。 「そうね、どうでもいいよね。どうせそんなの実現なんかしないんだし」 「なに?」 「勝てるわけないじゃない。馬鹿でしょ、あなた達。夢みたいなことばっかり言って」 「本当、最初から威勢だけはいいよね。呆れる」 「おまえな…」 知っていたが、相変わらずなんてムカつく女だろう。マジで一欠片も可愛げというものがない。 「言ったろ、できるできないの話じゃない」 「だからいつも寝言いってるのね、藤井君は」 「おまえの泣き言よりはましだ」 「私は現実を言ってるの」 「おまえにできないことが俺にもできないなんて決めるな」 だいたいこいつ、俺にはいつも平然と食ってかかるくせに、連中が相手になると弱腰になるのも癪に障る。 「認めてほしいなら――」 だけど、その不快さは―― 「凄いところ、見せてよ」 挑むような目と、それと対照的に縋るような声で、爆発させるタイミングを逃してしまった。 「勝つ気なんでしょ? だったら安心させてよ、頼りないじゃない」 「私に死ぬなとか、ここにいればいいとか、馬鹿、ほんとに甘いことばっかり」 俺の襟首を掴みあげると、泣きそうな声で櫻井は言う。どうも本気で怒っているらしい。 「そんなことで、あの人達に勝てるわけないじゃない」 「私のこと、嫌いなくせに、変に気なんか遣わないでよ……私は、ずっと、一人でいいって決めてたのに……」 藤井君が馬鹿すぎるから、と小さく言って。 「私も、馬鹿なこと、期待しそうになる」 「…………」 そのまま、櫻井は俺の胸に頭を埋めた。すすり泣くような嗚咽が漏れる。 「駄目よ、全然、藤井君の言うことなんか信用できない」 「だから、悔しいなら私をちゃんと扱ってよ。ずっと喧嘩ばっかりしてきた仲じゃない」 「変に優しくなんかしてほしくない。気持ち悪いよ、私達はそんなんじゃないでしょう?」 「あなたにやりたいことがあって、そのために〈戦力〉《ちから》がいるなら……」 「ここに、なんだか都合よく利用できそうなのが、いるじゃない。無視しないでよ、見下さないでよ」 「いてもいなくてもどうでもいいなんて……もう誰にも言われたくない」 独白にも似た櫻井の言葉に、俺は静かな驚きを覚えていた。 それは、つまり…… 「おまえも来るのか?」 ラインハルト達との戦いに。もう願いは叶わないと分かっていても参加するのか。 意味などないのに。こいつはこんなに震えているのに。 いったい、何がそうさせるんだ。分からない。 「私だって、舐められたくないのよ」 本当に微かだけ、櫻井の声に苦笑が混じった。 「泣き言ばかり言ってるとか、頭が悪いとか、腰抜けとか……皆して好きに言ってくれちゃって、腹が立つのよ。バビロンも、猊下も、ザミエル卿も、あなたも」 「私、頑張ったもん。頑張ったんだから。頭は悪かったかもしれないけど、半端な気持ちで今まで生きてきたんじゃない」 「だから今さら、すっこんでろとか言われても聞けない。何の役にも立たないなんて、言われたくないし言わせない」 「もう私には、本気でやってきたってプライドしか残ってないもの。それまで、奪われたくない。奪わないで」 「藤井君なんか、最初から私を苛々させるだけで……」 「大嫌い」 「…………」 俺は正直、言葉もなかった。 そもそも最初は、おまえが戦いを放棄するようなことを言うからこうなったんだが、これはそういうことじゃないんだろう。 櫻井を怒らせて、泣かせたのは、俺がそんなこいつの気持ちを〈斟酌〉《しんしゃく》したという事実。 哀れまれ、舐められたと屈辱を感じた。そして同時に、そうした余裕を見せてラインハルトと戦おうとしている俺が、憎かった。 言われてみれば、確かにその通りかもしれない。 「気持ち悪い、か……」 そりゃ気持ち悪いよな。こいつに優しい俺なんて。 けど、冷めた計算で利用するのが正解だとも思えないんだ。戦力は上がるのかもしれないが、同時に何かを失う気がする。 なぜならそれは、カール・クラフトの思考だろう。俺は奴と違うのだから、そこははっきりさせなきゃいけない。 馬鹿な拘りかもしれないが、俺は俺だと一点の曇りもなく信じないと、勝つことはできないような…… そんな気がする。だから―― 「おまえ、意外に面白いよ、櫻井」 細い肩は壊れそうなほど華奢だ。 こんなに脆そうな感じなのに、まだ意地を張ってる強さは嫌いじゃない。 「切れやすいし、可愛げないし、頭悪いし、手も早いし」 まあ、相性は滅茶苦茶悪いが、稀有な相手だとも思う。 たまになら。 今後たまになら、こいつと文句を言い合うのも、悪くないんじゃないかと思える。 早晩後悔しそうだけど、今は本気でそう感じるから。 「おまえも、全部終わったら打ち上げに参加しろよ」 自然に、本当に他意もなく、俺はそう言っていた。 「え……?」 「結構、面白いと思うんだよ」 メンバーはマジカオスだけど、それだけに楽しそうだ。 「どうせ俺とおまえは喧嘩になるから、司狼と本城が煽りだすだろ」 「香純はたぶん、おまえの味方につくんじゃないかな。あいつ、いつもなんとかして、俺に一杯食わせようとしてる暇人だし」 「先輩は、きっと中立。ていうか、少し離れたところで、呆れながら溜息でもついてるだろう」 「そして……」 そして、その集まりを誰よりも楽しみにしているだろう最後の一人。 そもそもの発起人でもある、彼女。 「マリィは、ちょっと慌てながらも、馬鹿な俺達を見て笑ってるんだ」 それはきっと、最高に楽しい〈理想〉《ゆめ》の形。 俺が帰るべき場所はそこであり、断じてラインハルトの覇道が生みだす世界じゃない。 「そう思うだろ?」 「え、ぁ……」 俺の言うことが分からないのか、戸惑い気味に櫻井は顔をあげる。 まあこいつ、頭悪いしな。ちゃんと言わなきゃ分からないか。 「つまり」 おまえをその場に呼ぶってことは。 「俺達の仲間にならないと駄目だろう」 「――――――」 「……そんな驚くような理屈かよ」 至極道理で、当たり前のことを俺は言ってるつもりなんだが。 「普通、打ち上げってのは部外者立ち入り禁止だぞ。だからおまえを呼ぶ以上、身内になってもらわないと困る」 「あ、でも……」 私は別に、とぼそぼそ言ってる櫻井を一切無視して。 「うるせえな。おまえの都合なんか知るか」 「俺がおまえも呼ぶって決めたんだから、ごちゃごちゃ言わないで来りゃいいんだよ。拒否権なんかない」 「ちょっ――」 「なんだよ、そうしろって言っただろうが」 変に気なんか遣わない。犬猿の仲である俺達らしく、俺は勝手にこいつの嫌がりそうなことをするだけだ。 「参加費代わりに、骨折ってもらうぞ。最低、奴らの誰か一人でもおまえが斃せ。泣き言は聞かない」 「何の役にも立たないなんて、言われたくないし言わせないんだろ? だったら有言実行してくれよ、役に立て」 そして生き残れ。絶対に。 「司狼はシュライバー。俺はマキナ。おまえは無論――」 炎と炎。クソ真面目かつ、女らしさが微塵もない似た者同士。 「エレオノーレをぶっ飛ばせよ。そうしてくれると助かる」 そんな俺からの要請に、櫻井は呆れと怒りと驚きと、その他よく分からないごちゃごちゃした感情を浮かべていた。 沈黙は、十数秒。長いようで短いようで、そこにどんな葛藤があったのかは分からない。 だけどこいつは。 「……分かった」 薄っすらと、淡く頬を染めて頷いた。 「藤井君は頼りないから、手伝ってあげる。ザミエル卿には借りもあるし」 「言ってろ。強いぞ、あいつは」 ぶっ飛ばせと言っておきながらなんだが、あの大火力は桁が違うし精神的に隙があるとも思えない。 エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは、純正の戦争屋だ。たとえどんな状況下でも、自分の仕事は確実にこなすだろう。 病院で、数々の予定外が起きながらも第五のスワスチカだけは開いたように。 任務としての殺しと生還。軍人として当たり前に、死なせる術と死なない術に長けている。 「知ってるわよ。それより自分の心配をしたらどう? マキナ卿だって半端じゃない」 「むしろ、彼が一番怖いわ」 「ああ……」 確かにそうだろう。俺達を歯牙にもかけなかったヴァレリア・トリファは、あの男に殺されたという。 それだけで、充分すぎるほどの脅威だ。 しかもその上で、ラインハルトとの連戦。 実際、仲間の協力がなければ絶対に突破できない壁だろう。 だから大隊長は一人一殺。まずはこの前提条件をクリアしなければ始まらない。 「分かってるさ」 ともかくこれで、俺からこいつに言うことはなくなった。 「おまえは、何か言うことあるか?」 そう訊いたら。 「え? あ、そうね……」 「……?」 櫻井はなぜか目を泳がせて、歯切れの悪い小声になる。 「じゃあ、その、一つ……さっきのは、本当?」 「何が?」 「だから……」 明後日の方を向きながら、ぽつりと。 「私の顔が、好みだって……」 「…………」 「…………」 「…………」 はあ? 「べ、別に私はそんなこと言われても嬉しくないし、お洒落とか無頓着だし、本当、全然、ピンとこないっていうかどうでもいいのよ。そう、どうでもいいの!」 二回言ったよ。 「だけどほら、藤井君がそんなこと考えてるんなら、何て言うか気持ち悪いし、私困るし、からかってるんなら頭にくるし」 「どうなの!?」 「どうもなにも……」 何をキレてるんだ、おまえは。 だいたい、あれを言ったのは俺じゃなくて。 「つうか司狼、何処に行った?」 俺と櫻井が話しこんでいるちょっとの間に、奴はいなくなっていた。いったいどういうことかと、教室内を見回せば…… 「楽し、そうだね、レン」 視線の先、半開きになった扉の向こうで、マリィがこちらの様子を覗いていた。 「仲、いいん、だね……邪魔、しちゃった、かな」 「いいよ、どうぞ、続けて、ください。わたし、何も、気にしま、せんから」 ぎぎぎ、と音がしそうな勢いで扉に爪を立てている。表情は満面の笑顔だが、その、なんていうか、ぶっちゃけ怖い。 「きっと、みんなに、そういうこと、やってるん、だよね」 「へ?」 そこで、俺はようやく気付いた。 「ばッ――、いや、違う」 「ちょっ――きゃあ」 傍から見れば、俺が櫻井を抱きしめてるような状況だった。反射的に突き飛ばして距離を取る。 「たっ……、あ、あなたねえ!」 「うるさいおまえ黙れ」 「だまッ――」 「ひでえ。ひでえ男だよおまえは」 「……この野郎」 何処に消えたかと思ったら、こいつマリィを引っ張ってきたのかよ。 「何も食ってないオレ達のために、売店で色々探しててくれた彼女のことほっぽって、おまえは何を不倫してんだよ」 「ふり――」 「なんで、赤く、なるの?」 「あ、その、私は、別に」 「藤井君が、いきなり変なこと言うから」 「俺のせいかよ!」 「そうだ、おまえが全部悪い」 「レンが、悪いと、わたしも、思うの」 いや、あの、マリィさ…… 「いい加減、その喋りかた疲れないのか?」 「疲れるってなに!」 がー、とマリィが気炎をあげた。 「わたし疲れないもん。疲れてたのはレンだもん。だから色々探してきたのに、びっくりしちゃうよ元気いいね!」 「ちょっと目を離したら、こんなところでフ、フ……」 「不倫」 「フリンしちゃってさぁ!」 「何が不倫だ!」 俺と櫻井の声がハモり、同時に机と椅子を司狼めがけてぶん投げた。 「わお、ナイスコンビネーション」 軽やかに避けやがる。その避け方が、また微妙にキモくてムカついた。 「息ぴったりだね!」 だから、そんなんじゃねえってば。 だいたい、あれだ。 「今から一戦やらかそうかってときに……」 なんでこんな、頭の悪いコントやんなきゃなんないんだよ。 落差が大きすぎて、力が抜けるどころの騒ぎじゃない。 「レン、何か言うことは?」 この子が出てくると、本当に色々と締まらなくなる。ついさっきまで深刻なこと考えてたのが、馬鹿みたいに思えてきた。 それがなんだか可笑しくて。 「く、……はは」 俺は、思わず笑ってしまった。 「もぉ、なんで笑うの。わたし怒ってるんだよ」 「……いや、悪い悪い。ははは」 頬を膨らませて抗議してくるマリィは可愛い。 張り詰めていた空気が緩んで、だけど決して不快じゃなく、気負いを拭って自然体でいられること。 それはこの状況で、得難い幸福だろうと理解することができるから。 「ぷっ」 「へへ」 その空気は伝染して、俺達の肩を軽くする。なんて贅沢なことだろう。 ああ、まったく頼もしいよどいつもこいつも。俺は一人じゃない。まだ希望はあるし、そう信じられる。 「悪かったよ。もうこんなのとは絡まないから」 「こんなの?」 櫻井が凄い顔で睨んでるのを感じるが、そんなもんは無視しよう。さっき俺一人のせいにしようとした仕返しだ。 「機嫌直してくれよ、マリィ」 「あ、うん……それはまあ、分かればいいの」 「じゃあこれ、みんなで食べようよ」 売店から持ってきたという、サンドイッチとジュースの山を机に広げる。質素なものだが、別にこれが最後の晩餐ってわけじゃない。 「ああ、これ……」 キムチ梅干しサンド……確か前に、先輩から食わされたクソ不味いやつだ。 「うわ、ゲテモン」 「さすがにそれは、どういう趣味なの?」 躊躇なくチャレンジャーな物体を食ってると、司狼と櫻井が怪奇現象でも見るような顔をする。 「美味しくないの? じゃあ無理しないで別のに代えれば? いっぱいあるし」 「いや、美味いよ」 色んな意味で染み通る。自分が何者で、何を守るために戦うのか。それを強く感じることができるから。 「そうかい。じゃあほれ」 司狼が、牛乳の入ったビンを横の櫻井に手渡した。 「なに?」 「固めの杯。そういう演出は大事にしようぜ。酒がないから代用だけどな」 「かため?」 「なるほど」 ヤクザじゃないんだからと言いたくもあるが、この場においてはそういう誓いも悪くないか。 「一蓮托生ってな。ほら、ぐいっといけよ」 「……そうね」 櫻井は小さく頷いて微笑むと、安っぽい売店の牛乳を、まるで宝物のように一口だけ飲んだ。 「でも、あなた達と一緒に死ぬなんて気持ち悪いから嫌」 「そりゃ当たり前だろ」 「言うじゃん。だったら――」 櫻井から回されたビンを司狼が受け取り、こいつは無造作に半分ほど飲む。 「誰か一人だけ死ぬってのもなしだ。なあ?」 「うん、それも当たり前」 マリィはこの行為を知らないなりに、しかし本質はちゃんと理解しているようで、にっこり笑うと一口飲んだ。全部いかれたらどうしようかと思っていたが、どうやら杞憂だったらしい。 「みんなでまた、〈学校〉《ここ》に帰って来るんだよ。約束」 ああ、その誓いを忘れはしない。たとえどれだけ追い詰められても、約束を破らないという気持ちがあれば乗り越えられると信じてる。 「だから、勝つぞ」 もはや言うべきことは、それだけだった。 残りを一気に飲み干して、机の上にビンを置く。 「メリークリスマスにはまだ早い」 氷室先輩の誕生日は、みんなで祝わなければならないんだ。 「行くぞ」 「りょーかい」 「カッコつけちゃって」 「カッコつけに行くの」 まったく、息が合ってんだがバラバラなんだかいまいちよく分からないが、ともかく今夜で全部終わりだ。 第八のスワスチカは諏訪原タワー。奇しくもマリィを初めて案内したあの場所で…… これも何か、奇妙な符号だと思えなくもない。 震えを抑え込み、恐怖を乗り越えろ。 俺は勝つ。絶対に――勝つと心に誓うんだ。 「そも、勝利とは何か」  厳かに、しかし滑らかで張りのある男の声が闇の玉座に木霊する。 「敵を打ち倒す。己の〈怯懦〉《きょうだ》を克服する。望む未来へと達するため、最良と思える道を選択して実行する。 勝利とはそれか。好ましい未来を得ることか。ならば卿ら、いったい何を求めている。 答えよ。卿らにとって勝利とは何か」  問いに、跪く三名は即答しない。すでに〈諏訪原市〉《シャンバラ》を食い尽くしたヴェヴェルスブルグは、より確かな堅固さをもってこの世界に現れていた。あとは弾け、溢れ、流れ出し、無限に広がり続けるだけ。  ゆえに、これは言うなれば、合戦を前にした鼓舞の一環。魔城に宿る魂の多くを率いる近衛達に、その根源たる渇望を問うているのだ。  求めるもの、勝利とは何かを。それに―― 「勝利とは、高みに尊く輝くもの」  〈赤騎士〉《ルベド》は追い求める光だと言い。 「勝利とは、走り抜けた後で振り返るもの」  〈白騎士〉《アルベド》は、置き去りにした結果だと言い。 「勝利とは、辿り着いた極点を指すもの」  〈黒騎士〉《ニグレド》は、終わりを指すものだと言い切った。  無論、それぞれの答えに正誤や優劣はつけられない。しかしより他者の共感を得やすいものを選ぶなら、おそらく〈赤騎士〉《ルベド》の価値観になるだろう。彼女は自身の〈印〉《ルーン》が示すように、勝利を神聖なるものとして奉じている。 「高みに尊く輝くか。ならば欲することで焼かれるのだろうな、イカロスのように」 「御意。届かぬからこそ望むのです。私は輝きに焼かれ続けることを願いました。その証を終生の誇りに変えて」  険は強いが美女の範疇に入る顔は、左半分が焼け爛れている。いや厳密には、胸も腹も手足も総て、彼女の半身は焼痕に覆われているのだ。おそらくそのことを言っているのだろう。  美醜混淆、もはや人体とは言えない領域まで戦傷に侵されながらも、そのバランスで完成している〈半人半魔〉《ツェンタウァ》。炎の激情と氷の冷徹さが同居している精神も、彼女の二面性を表している。 「だが卿、それでは永劫に勝利できぬという結論にならぬかな」 「仰せの通りにございます。私は追い続ける者として、手に入らぬものをいつまでも欲し続けていたい。この身にとって、勝利とはすなわち憧憬であり神。私はその忠実な信徒であり、奴隷なのです」 「つまり、恋してるんだねえ、君は」  誰に、とは言わない。〈白騎士〉《アルベド》の揶揄に、エレオノーレの目つきが変わった。 「道ならぬ恋。届かない愛情。恐れ多くて手も触れられない光から、だけど逃げずに焼かれていたい。可愛いなあ、ザミエル。君のそういうところが僕は本当に大好きだよ。 ああ、だけどごめんね。ずばり言ったら君は退けなくなっちゃうのかな。だったらお決まりの言葉に置き換えようか。忠道、真に感服したよザミエル卿」 「……貴様」  聞き捨てならない。やおら危険な角度で〈赤騎士〉《ルベド》の眉が上がり始める。だが、それを制すように―― 「もうよい。措け、シュライバー」  〈白騎士〉《アルベド》を嗜めるラインハルト。エレオノーレは癇症だが、恥というものを知っている。御前で激昂するようなことはない。  ゆえに止めるべきはシュライバーで、その処置は妥当と言えた。 「では卿の勝利を語ってみろ。走り抜けた後のものとは?」 「そうですねえ」  ころころと笑うシュライバーには、相変わらず恐縮した様子が一切ない。彼は彼の壊れた価値観に則って、血に濡れた隻眼を人懐っこく細めるだけだ。 「僕は、なんでもやってから考えるんですよ」  何をおいてもまず殺す。それがこの凶獣を生んだ人生の哲学だ。  人にしろ、物にしろ、事象にしろ、快不快や要不要など考えない。直面した現状が何であるかを理解するより、殺意というものが先走る。  ウォルフガング・シュライバーは、そうした本能で動く〈機械〉《こんちゅう》なのだ。勝利も敗北も後からついてくる結果にすぎない。 「だから足跡ですよ、僕にとっては。まあ、振り返っても負けたことなんて一回しかないですけどね。 そしてそれは、二度とない。なぜなら僕は、あなたに忠誠を誓っているからです、ハイドリヒ卿。 ただ……」  首を傾げて、愉快げに間を置くシュライバー。彼が何を面白がっているのか、ラインハルトは気付いていた。 「今は少々事情が違うと」 「ええ、こんなことは初めてなんです」  出逢ったから殺すのではなく、殺さなくてはいけない理由があるらしいので殺すことにした。そんな、人生初めての相手。 「ちょっと順番がいつもと違う。いいですね。面白い。彼はどんな足跡になるのかな。まだ踏み潰していないのに、僕の目は未来を見ている。素敵だ」  恋を知った乙女のように胸が高鳴る。遥か昔に失った右目が、心臓のように脈打って熱い。  ああ、そうだ。ここに彼の目を入れよう。その血肉も骨も魂も根こそぎ奪い取って食い尽くし、誕生する新世界の朝日を共に拝みたい。 「それが僕の勝利です」 「重畳。ならば卿はそれでよい」  さて、ならば残るもう一人。彼の〈勝利〉《のぞみ》は至極単純明快だった。 「極点と、そう言ったか、マキナよ」 「…………」  鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》は答えない。説明など不要だろうと言わんばかりに、黙して泰然と不動のままだ。 「辿り着いた先、その瞬間をもって〈終焉〉《かんせい》すると……卿にとっての勝利はそれか。 なるほど、確かにそうだろう。古今物語というものは、その多くが幸せをもって幕を閉じる。そこで完結するのなら、勝利とはすなわち〈死〉《おわり》。まして〈英雄譚〉《ヴォルスング・サガ》ならば、主役の死がデウス・エクス・マキナだろう」 「しかしな」  ラインハルトは含み笑う。無言の〈黒騎士〉《ニグレド》を見下ろして、外見からは想像もできない稚気に溢れた光を目に宿している。  断じて、威圧の意図はない。だというのに、なぜか肌寒くなるような不吉さがあった。 「御都合主義はもう一つある。時よ止まれ、おまえは美しい――」 「私と彼にとっての幕引きはそれだが?」 「…………」  鋼鉄は、やはり黙して答えない。ラインハルトの笑みは、さらに危険なほど深くなる。 「結構。実に結構だ。魅せろよ、マキナ。カールの傑作同士、このグラズヘイムとは異なる瞬間、その覇道が起きる刹那にのみ卿の望む安息がある。 待ち侘びたろう。存分に奮えよ。それをもって聖餐杯の件、功第一の褒美としよう」  言って、ラインハルトは立ち上がると玉座を降りた。歩き出す彼の背に三人の近衛が続き、さらにその後ろには数百万を超える軍勢が続く。  これより、その総軍をもって世の総てを飲み込みに行くため。 「出陣」  同時に膨れ上がる鬨の声。魔城が歓喜に震えている。  〈我らに勝利を与えたまえ〉《ジークハイル・ヴィクトーリア》――かつてした約束を、ここに果たす時が来た。  この閉塞した既知の牢獄を、今宵破壊して超越しよう。 「卿の生誕日を寿ごう。些か早いが、今言っておく。次に会うのは総てが終わった後のことだ」 「…………」  その身は城の姫として、いや人柱として溶けていく。ラインハルトからの祝福を、この場に連れてこられた玲愛は無言のまま受け取っていた。  声を聞いただけで潰れそうになる。肉体的にはあくまで常人にすぎない彼女にとって、初対面のラインハルトは理解の範疇を超えていたのだ。仮に宇宙が生物ならば、人の子ごときにその意志も巨大さも知覚できない。 「っ、……、……」  恐慌に肌が粟立ち、歯はかちかちと音を鳴らす。怖い。怖い。近づいてくるあの黄金に、魂が塗り潰されていくようだ。  無論、彼が直接何かをしてくるわけがないのは分かっている。今だって、単に自分が扉の前に立っているから、すれ違う形になるだけのこと。  目を閉じて座り込めば、その間に彼らは出て行く。  だけど――  だけどそれはできなくて―― 「待っ……」  自らをかき抱くようにして震えを押さえ、ようやく声を出せたときには、すでに相手は目の前にいた。 「待って、くだ……さい。お願い……」  轟々と流れる血の音。耳の奥で全身の血流が逃げろと叫んでいるのを感じ取れる。  その中で絞り出した声はあまりにか細く、俯いてしまった玲愛の背後で重苦しい鉄扉が開いていた。彼女の横を、数百万の〈軍勢〉《レギオン》がすり抜けていく。 「…………」  駄目……だったのか。結局、私の声は届かずに、失望して…… 「何かな?」 「――――」  だから、その声を聞いたとき、玲愛は反射的に顔を上げた。息が掛かりそうな近距離に、黄金の男が立っている。 「あ、……」  この時、彼女は初めてラインハルト・ハイドリヒの顔を見た。  絶世の美丈夫。そんな言葉が陳腐に思える。造形的に隙がないのは当然だが、この男が纏う輝きは内面から滲み出てくるものなのだろう。  現実に、見た目の形貌ならば彼は〈聖餐杯〉《トリファ》だ。ほぼ毎日会って、見慣れている。  だが、今や完全に別人としか言えない相違は、つまり宿る魂の格差であり。  これがラインハルト・ハイドリヒ。これが私の―― 「何か、と言ったのだが、どうしたね?」  すでに〈白騎士〉《アルベド》、〈黒騎士〉《ニグレド》、〈赤騎士〉《ルベド》は居らず、玉座の間には二人きりだ。玲愛の呼び止めに応じた彼は、配下を先に行かせたらしい。 「問いがあるなら聞こう、御子よ」 「御子……?」  その言葉に、玲愛の中で撃鉄が下りた。 「私……」  恐怖はある。拭えていない。これからする質問にも、返ってくる答えにも、本音を言えばしたくないし知りたくない。  だけど――  もう嫌なんだ。もう沢山だ。自分の無知が無力と直結するなんて結末は、もうこれ以上見たくない。  私がもっと知っていて、知ろうとしてたら、あるいは何かが変わっていたかもしれないのに。  後で悔やむの後って何時だと、激昂して振り切った過去を悔いている。  悔いているから。 「私の……いえ、〈祖父〉《イザーク》の父はあなたですか、ハイドリヒ卿」  黒円卓の誰もが疑い、そして誰もが追及せず、リザ・ブレンナーが沈黙を守り続けた真実の答え。ついに玲愛は、それを言った。 「答えてください」  言いながらも、返答は分かっている。いいや仮に違っても、そんなことは信じられない。  だってこの黄金は、夢で見た〈祖父〉《イザーク》と似すぎているから。  総てを呑み込んでやるという魂が。  その暗黒天体じみた飢えが何よりも、そう誰よりも―― 「あなたみたいな人が、何の繋がりもなく二人も存在するはずがない」  だから、リザは恐れたのではないか? 自分の腹から這い出たものが、あまりにも悪魔と相似していたから。  彼女はその血脈を罪として、つまり私を〈贄〉《バツ》として――  みんな清算しようとしたのでは……と、そう思わずにはいられない。 「本当のことを教えてください。私は誰で、何なのか……」  知らないと、立ち向かえない。この恐怖を超えられない。  切実な叫びに、ラインハルトは…… 「ふむ……」 「あ……」  玲愛の〈頤〉《おとがい》に手を添えて、優しくその顔を上向かせた。覗き込んでくる黄金の瞳に、全身が痺れるような目眩を覚える。 「愛い子だ、テレジア。確かにイザークの面影がある」 「だが、あれの父が誰かなど、私は知らんよ」 「嘘……!」  それは男の勝手な理屈だろう。私が言っているのはそんなことじゃない。  私生児だから、リザと通じた男が多すぎたから、父を特定できないというだけではないのか。  そんな逃げの口上みたいな決まり文句を聞きたいんじゃない。 「心外だな。私は女子供に責任を果たさぬような男ではない。下世話な話だが、言葉の機微が分からぬほど子供でもなかろう。 もう一度言う、知らん」 「じゃあ……」  じゃあ、何なのだ。本当に知らないのか。覚えがないのか。  そうまで言い切るほど潔白に、あなたはこの事実を感知しないと?  言葉を詰まらせて沈黙すると、ラインハルトは笑いだした。 「しかし、そうなると不思議だな。今まで考えたこともなかったが、いったいあれの〈父〉《おや》は誰なのだろう」  それを考えたこともないというのが、すでに充分異常であるとラインハルトは気付いていない。本当にどうでもいいのだ。興味がなく、眼中にない。 「カールか? いいや違うだろう。彼は女に対して誠実だ。と言うよりその手の機能があるとは思えぬ。 では、少し夢のある推理をしてみようか。そもそも父親などいなかった。 マリアの子に父などおるまい」  細くしなやかな指先が、玲愛の顎を、頬を、髪を撫でる。やさしく嬲るように愛撫する。 「……っ」  声を出さないでいられたのが不思議だった。破壊的なまでの寒気と快楽に膝が崩れそうになり、意識まで飛びかける。 「用向きはそれだけか? ならばもう行かせてもらうぞ。 時間はこの先、無限にある。続きは総てが終わった後に、好きなだけ語り合えばいいだろう。 何も恐れることはない。ただ在り方が変わるだけだ」  水棲と陸棲では生活圏と身体の構造が異なる。ただそれだけで、当たり前のこと。  世界が塗り替えられるなら、そこに住まう者らは別の法則に移行するだけ。死ぬわけではない。  誰も、彼も、このグラズヘイムに生きる〈戦奴〉《エインフェリア》となればいい。  無論、玲愛も例外ではなく、そこには彼女が知る総ての者らが溶けているのだ。 「全は〈己〉《こ》。〈己〉《こ》は全。意識の海から流れ出す共通の常識が改竄される。……と言っても分からぬかな。許せよ、私もまたカールと同じく、砕いた講義を得手としない。 次会には、もう幾らか理解に易い説明ができるように、努力しよう。 では……」  そのまま、ラインハルトは通り過ぎて行こうとする。  勇気を振り絞って問うたのに、結局答えは得られないまま。  これでいいのか? いいや、よくない。 「待って」  だから、再度玲愛は呼び止めた。  別に冷静さを取り戻しているわけではない。  おそらくこの先何度機会を設けても、彼を前にして平常心など保てないだろうことは分かっている。  虚勢を張れる相手じゃないのだ。自分は取るに足らない芥子粒であり、恥じはしても背伸びはやめよう。  分際を知ること。その上で何ができるかを考えること。  ああ、思えば、それはあの神父が試みていたスタンスではなかったか。  結局彼は失敗したが、六十年にも渡ってこの男と向かい合い続けた方法なのだ。一つのコツとして、参考にするべき余地はある。  ラインハルト・ハイドリヒと接するなら、それは確かに有効な気の持ちようであり……  こんなことを願うのは筋違いかもしれないが、お願い力を貸して、神父様。 「私の……」  結果、祈りは届いたのか……玲愛は自然と言っていた。 「私の勝利は、聞かないのですか?」  先ほど、三人の大隊長に向けた問い。  なぜそれを、自分にはしないのだと。 「…………」  立ち止まったラインハルトは何も言わない。興味がないのか、知る気がないのか、もしくは知ると困るのか。 「私が欲しいと思うものは、あなたと相容れません、ハイドリヒ卿」  たとえこの身が芥子粒でも、私は納得なんかしていない。 「あなたは独りだ」  私は違う。 「あなたは、誰よりも弱い人です」  ただ単に、本当に偶々、群れからはぐれたのが底なしの胃袋を持つ狼だったというだけのこと。  羊に混じれず、羊になれず、だけど孤高に生きれもしない。  自分がそうなれないから、他を自分に変えようなんて弱さでなくてなんだと言う。  結局、あなたは誰よりも、孤独に耐えられない人ではないのか。  覇道――聞こえのいい言葉だ。  征服――なるほど強そうだ。  しかしその実態は、自分の〈価値観〉《せかい》を広げなければ息もできない不完全。手を取り合えないから塗り潰すという子供の我が侭でしかない。  他者と違うのは罪じゃなく、それは悲劇だと思えもするが…… 「海に落ちた宝石にはなれないんですね」  彼は墨汁。異常なまでに濃く、深く、大海を染め上げてしまう墨なのだ。 「溶けるだなんて、本当の〈貴金属〉《おうごん》ならそんなことはありません。 否定するなら、あなたにとって私達が共有する意識の海は、身を浸すことも耐えられない〈王水〉《どく》だったということでしょう」  そう、あなたは無敵じゃない――確信をもってこう言える。 「可哀想な人」  無力な人で、寂しい人だ。 「よく〈囀〉《さえず》る」  そんな玲愛の言葉を受けて、ラインハルトは自嘲していた。失笑ではない。 「賢しいな。そして甘美な歌声だ。私もカールも、確かにくだらん男だよ。 ああ、実によい。胸にしみる。愛い女からの憐憫ほど、男を奮わせるものはない。最高の激励、感謝に堪えぬよ」 「卿の勝利は――」 「決まっています」  迷いはなかった。約束したのだ。 「私はまた、みんなと逢いたい」 「あなたにとっては、くだらないものでしょう。だけど私には……」  それが何ものにも替え難い、陽だまりの記憶だから。  誕生日のプレゼントは、他に何もいらない。  もう一度、たとえ夢でもいいからあの日々に帰りたいと願うだけ。 「では、そう望んでみるがよかろうよ」  言って、そのまま玲愛を置き去り、ラインハルトは玉座を出て行く。 「会えばいいし、会わせてやろう。だがその結果を独占し、城の誰にも渡せぬと言うのなら黙ってはおらぬ者が一人いる。 イザークが何と言うか見ものだよ」 「え……?」  意外な言葉に、思わず振り返りかけたが―― 「その願い、譲れぬと言うならまずはあれと会うがいい。だがある意味、黒円卓でもっとも人ならざる者は彼であるという事実を忘れぬことだ。 怖いぞ、イザークは。卿の価値観に照らせば直視できまい」  含み笑うラインハルト。初代の黒円卓第六位は、存在として一番狂っていると彼は言う。 「なぜなら、私でさえ母はいたが、あれはそれにすら恐れられた異物だ。 その事実自体は、珍しくない。堕胎、虐待、子殺し、捨て子……今も昔も一定数存在するものだろう」 「だが私は、それこそが最高純度の歪みであろうと考える。生来愛を否定された〈私生児〉《バスタルト》」  閉まる鉄扉の音に紛れて、彼は短く、最後に告げた。 「その飢え、愛憎に狂う飢餓は常軌を逸する。健闘を祈ろう。 ああ、実に楽しみだ」  そして、玲愛は独り残された。 「…………」  〈祖父〉《イザーク》がこの奥にいる。確かにエレオノーレの話では、その魂が魔城の核として残されたということらしい。  ならば、そうか……自分が対峙するべきなのはその人で……  知らず、玲愛は呟いていた。 「私は、違う……」  あなたとは違う。  愛してくれる人を捜して、泣き続けている魔の子供。自分を抱いてくれる誰かを求めて、あらゆるものを呑み込む私生児。  断じて、絶対、私はそれと同じにはならない。  だって、知っているんだもの。  仲間を、友達を、待っていてくれる人も帰りたい場所も。 「だから、みんなを連れて行かないで」  今から私がそこに行くから。  呟いて、意を決し、玲愛は玉座の奥へと歩きだした。 「さあ、では始めようか」  開いた城門から眼下を見下ろし、ラインハルトは号令を下す。  この高空からは点のようにしか見えないが、最後の戦場である塔の上にはすでに客が待っていた。  重畳、真に愛しい者らよ。その儚い覚悟に祝福よあれ。 「卿らに勝利を」  配下に告げる。共に聖誕祭を祝おう。 「各々、狂おしい〈渇望〉《うえ》を存分に満たせ」 「御意、仰せのままに」 「飽き果てるまで欲するまま」 「ここに聖戦の終わりを――」 「〈勝利万歳〉《ジークハイル》」  同時に、彼らは宙へと身を躍らせた。  高度差は、概算で三百メートル強。常人ならば死のダイブに他ならず、重力の加速によって着地は致命の衝撃をもたらす。  だが、彼らは言うまでもなく、その全員が常軌の枠から外れていた。万有引力を嘲笑うかのように、降下の速度が皆違う。 「ははははははははははは――」  まず一番手はシュライバー。弾け笑う声と共に、ぎらつく隻眼を殺意一色に染めながら、弾丸の速度で螺旋を描き落ちていく。  唯一、自由落下に身を任せていたのはマキナだけだ。彼は泰然と黙したまま、人と言うより鉄塊の重さで身動き一つしていない。  ある意味、それは異常の極致だ。何ら加速も減速もしておらず、高速の暴風に晒されながらも、見えない足場があるかのような直立不動を維持している。その姿勢制御とバランスだけで、魔的な体術だと言えるだろう。  そしてエレオノーレは、魔道の徒として呆れるほどに実直だった。  自身を包む火炎が気流を操作して、浮遊するように滑り降りる。風は彼女を避けて通り、真紅の長髪は小揺るぎさえしてしない。  超常の者である自負。修めた業を誇るでもなく、呼吸同然に振舞う傲慢さ。愛用の細葉巻を燻らせる仕草にも、貴種の威厳と余裕が満ち溢れていた。  先行者はその三人。各々個性を発揮しつつ、前座の芸として申し分ない。  そう、前座なのだ。彼らをしても。 「……美しい」  眼下に広がる世界を見やり、〈ラ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ン〉《 、》〈ハ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ト〉《 、》〈は〉《 、》〈歩〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。城門から塔の上まで、王の行く道を称えるように豪奢な階段が組みあがっていく。  その総ては、城と同じく死者の〈髑髏〉《むくろ》だ。幾千もの屍を踏みしだき、彼はそれを何ら忌むべき行為と思っていない。  そういう人生だったのだから。そういう男なのだから。  遍く死者と瓦礫を引き連れて、ただ独り歩き続ける墓の王。ラインハルト・ハイドリヒというモノにとって、他者とは勝手に砕かれ、滅され、己が身に吸い付いてくる塵に等しい。 「ああ、ゆえに弱者か」  つい先刻、眩しく健気な少女に言われたことを思いだす。  羊に混じれず、羊になれない。異種として孤高の宝石たる輝きを持てず、大海を染め上げていく墨でしかない己。 「なるほど。ああ、なるほど確かに」  滑稽だ。愉快すぎて笑いたい。  なぜなら彼は、軍人であり力に依る者。たとえ末端の一兵卒から最高位の元帥まで、軍の本質が闘争と殺人である以上、そこに何ら違いはない。  であれば、その奉じるべき美とは強さ。  鉱物ならばより硬い物を。  生物ならば猛獣を。  植物ならば花より巨木を愛して然り。  つまり、侵され難く自律した、物理的な強さを良しと思わねばならない。  そうだ、そうなのだ。私はそのように在ることを好む。  ゆえに今の私は弱い。侵さねば存在できぬ不完全さを恥じる。 「だが私はそれしか知らん。ゆえに喰いつくしてやろう、悉くを」  壊したことがないものを見つけるまで。  果てにこの身は完全となり、既知感に代わる絶対不変の法則となるのだ。  我が蹂躙を待つ花嫁のような大地よ。その麗々しい輝きに欲情すら覚える。  こうだ、こうでなくてはならない。 「未だ我が身はゲットーの内にあれど」  もはや不快にすら思えぬ飽き慣れた感覚は、この刹那にも続いており。  それを突破する日のみを求めて、辿り着いた今こそが満願成就の時なのだから。 「今宵、約束を果たそう」  死者の階段を下りきったラインハルトは、大外套を翻して対峙する者らへ低く告げた。 「参れ、小さき者どもよ。卿らの奮闘、感に堪えぬ」  三人の近衛を制しながら、優雅に手招く。  まずはこの第八を開くため、一人手始めに壊してやろう。  その時私は新生し、卿もまた贄から御敵へと昇華するのだ、カールの落とし子。 「どうした、もう始まっているぞ」  ただ一人。たった一人で、しかし彼は百万の〈軍勢〉《レギオン》。  〈大隊長〉《エインフェリア》を呼ばぬとは言え、未だ開いたスワスチカが七つとは言え、多勢に無勢なのはどちらの方か。  しかし、それでも―― 「これが最後の好機と思うが?」  ラインハルトを斃せるとしたらここしかない。  天摩する魔城の下、火蓋は切って落とされた。  その光景が閃光のように駆け抜ける。  遊佐君、藤井君、そしてあれは、どういう事情か知らないけど櫻井さん?  彼ら三人は力を合わせて、全身全霊を注ぎながら挑んでいる。  三対一。三対一だけど勝ち目はない。 「――――ッァ」  苦鳴が聞こえる。 「は、……ッ」  血の匂いが分かる。 「おおおォォッ!」  叫びは勇ましさより痛ましいだけ。  なんてことだろう。ハイドリヒ卿はその武器すら出していない。  彼ら三人の死力の総和は、黒円卓の首領にとって素手であしらえる程度なのだ。絶望的という言葉すらおこがましい。  絶対。確定。覆せない敗北の運命。たとえ何万回繰り返そうと、この戦いは藤井君達の負けで終わる。  ならば――  私にできること。しなければならないこと。  それは何だ? 言うまでもない。  軋むように、何かを擦りながら開く音。  その正体は扉であり、蓋であり、屍の山で構成された魔城にあって、なお禁断の領域へと至る入り口だった。  玉座の最奥、そこにあったのは横が一メートルほどの直方体だ。見た目は棺桶に似ているが、そうだとしたら些か小さく、箱と言うには大きすぎる。  その中途半端な物体を、なぜか私は骨壷のようだと思っていた。  開く。その櫃が開いていく。  常識的に考えれば、内の広がりは外観から想像できる範囲のものでしかないだろう。たとえ中身が何であれ、衣装ケースほどの空間に車や家が入っているとは思えない。  そう、常識的に考えれば。  だけどこの城は常識外で、私はそれを考慮していて、先の例えからも分かるように異常事態を想定していた。  でも――  私の想像力は貧困だった。いいや仮に私じゃなくても、こんなの想像できるわけない。  蓋が開ききるとまったく同時に、私はその中へと飲み込まれた。もしかしたら、自分で入ったのかもしれないがよく分からない。  だってそのとき感じたのは、ただひたすらに驚愕だけ。  内部は、街が丸ごと一つ。何時の何処かは不明だけど、燃え盛る炎に蹂躙されている街並みが、私の眼下に広がっていた。  これはまるで、〈壷中〉《こちゅう》の天。  戦下の戦禍と戦渦の光景。走る戦火が〈鉤十字〉《ハーケンクロイツ》の形に燃えている。  ああ、そうかこれは……  ベルリン。  契約の箱に飲み込まれた、六十年前のベルリンなのだ。  と、〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈呟〉《 、》〈く〉《 、》。  じゃあここに、私の捜している人がいるのか?  まるで宙を歩いているような感覚のまま、周囲を見回すけど誰もいない。  もとより足場も何もない中で、ただ広大だと分かる空間に浮いている状況なのだ。人の気配なんか察せられない。  ねえ。  〈呼〉《 、》〈び〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈け〉《 、》〈ど〉《 、》〈返〉《 、》〈事〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》。  聞いて。  〈声〉《 、》〈を〉《 、》〈張〉《 、》〈り〉《 、》〈あ〉《 、》〈げ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈応〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  そんなことを、何度続けたあとだったろうか。  ねえ。 「ねえ」  私は。 「おまえは」  おかしいと、ようやく気付いたのはその時だった。 「私に何か用があるのか?」  ―――――ッ!?  悲鳴は、はたしてあげたのだろうか。  私は声を出したつもりで出しておらず、私の声だと思ったものが別の何かに摩り替わっていた。  この表現で、理解できるか? この戦慄を伝えられるか?  仮に今体験していることを誰か第三者に話すとしても、上手く説明できないだろう。  私が私であって私ではない。  私の口が私の言葉を音にせず、私じゃないものの言葉を音にしている。  その現象は理解できず、だけど分かっていることは一つだけで。  ここにもう一人、誰かがいる。  それは……  イザーク……?  声にならない声で言う。姿が見えない、あるいは無い者へと問いを投げる。  あなたが、私の……? 「イザーク……そう、ああ、そうだった」  〈壷中〉《こちゅう》に溶けた存在の声。一つの異世界が名を名乗る。 「聖槍十三騎士団黒円卓第六位――」  私はそれに、胸を締め上げられるような痛みを覚えた。 「イザーク=アイン・ゾーネンキント。 だったようだが、それがいったいどうしたという」  これは私だ。リザがいなければ神父もおらず、藤井君や遊佐君や綾瀬さんに出会わなかった私。  ほんの僅かな掛け違いで、私もこうなっていただろう〈可能性〉《もしも》。  彼を私は、なんとしてでも救わなくてはならないのだ。 最後の決戦場である諏訪原タワーを訪れて、その頂上に黄金が降りてきた時、幕は切って落とされた。 「参れ、小さき者どもよ」 総大将であるラインハルトが、いきなり単騎で俺達全員を相手取るという慮外な展開。それは思いもよらないものだったが、しかし奴を斃せるとしたらここしかない。 無論、楽だなんて絶対に言えないが、四対三で始まるよりは確実にましだと思える。こちらの消耗がない状態で、キングとの直接対決。決して悪い話じゃない。 だが―― 前に対峙した時よりさらに濃く、肉体を得たラインハルトの密度は比べ物にならないレベルになっていた。 たとえ大隊長が手出しをせず、スワスチカも完全な状態でないとは言っても、三対一で覆せる戦力差じゃなく…… 「がッ……」 俺も、司狼も、櫻井も、膝をついて息を獣のように荒げていた。まるで勝負になっていない。 「こんなにも……」 こんなにも、差があるのか。まだラインハルトは武器の形成すらしておらず、しかも攻勢にだって出ていない。 すでに一人頭何十回特攻したか分からないこちらの攻めを、残らず弾き続けているのは片手一本。奴は最初の場所から一歩たりとも動いていない。 その出鱈目すぎる頑強さ。何をしても一切通じないという無力感。なおかつ片手であしらわれている状況が、初めてヴィルヘルムと戦った時のことを思い出させた。 あれほどの差なのか、あれ以上の差なのか。 この状況でこちらに死者が出ようものなら、その時点で第八が開き、今以上の格差で潰されるしかない。 「くそ……ッ」 諦めるな、考えろ。焦りで疲労が増しているというだけで、まだ俺達は何のダメージも受けていない。 奴が動き出す前に、何か突破口を見つけなければ全滅する。 現状、小手先の技が効かないのならば―― 「大砲で来い。針で私を崩せぬのは知っているだろう」 奴の肉体は聖餐杯。ヴァレリア・トリファにあらゆる攻撃が効かなかったのを、俺達全員が見知っている。この先、今と同じように攻め続けても蟷螂の斧だろう。 試みるなら、確かに大砲。ラインハルトが受け手に徹している今のうちに、全身全霊の一撃を放つしかない。 しかし―― もしもそれが通じなければ―― 過去の状況が思い出される。あの時も俺は全霊の一撃をこいつに放ち、薄皮一枚切れないばかりか武器すらも砕かれた。 ここでもう一度あれと同じことが起きてしまえば、今度は間違いなく生き残れない。 だからといって選択の余地はないというのに…… 「臆したか」 違うと、断言しきれない。賭けるものが自分の命だけならば、今さら迷いなどしなかったろう。 だけど。 マリィを砕かれるかもしれない。彼女の喪失を予感するからこその逡巡。 ここまで圧倒的な差を見せられたことにより、そうした恐怖がじわじわと俺の中に広がっている。 本当は、信じなければならない。その信仰こそが刃を強化する力になると、理屈の上では分かっている。 だけど、もう二度とあんな光景は見たくないんだ。その可能性に対する恐れが胸に僅かでも芽生えた今、皮肉なことに絶対そうなるだろうと俺は確信できてしまった。 今、全力で切り込めば、間違いなくマリィは粉々に砕かれると。 まさに進退窮まった状況―― その時。 「では、私が行かせていただきます。ハイドリヒ卿」 「なッ……」 傍らの櫻井が立ち上がり、静かな声でそう言っていた。 「名乗りが遅れた無礼をお許しください。私は櫻井螢。レオンハルト・アウグスト。ベアトリス・キルヒアイゼン中尉の後継として、聖餐杯猊下の指導を受けた若輩者です。拝顔の栄に浴し、光栄の至り」 「ふむ」 ラインハルトは、そんなこいつを無感動に見据えていた。 居たのかと、まるでそう言わんばかりに。 「報告は受けている。進んで第八の贄となるのか。忠道、大儀だ」 「……いえ、まだそうなるつもりはないのですが」 自嘲気味な微笑。それで分かった。 こいつはもう、自分が生き残ることを考えていない。 「確かに私は、別に彼らの仲間ではありませんし、どちらに属するのかと言われれば、あなた方の立ち位置に近いのでしょう」 「ですが、これだけは言っておきたい。私は一度も、黒円卓に忠誠など誓ったことはありません!」 同時に、炎が巻き起こった。櫻井の剣先から、命そのものを燃やすように火柱が噴き上がる。 待てよ、この馬鹿。どういうつもりか知らないが、自棄になっても無駄死にだ。みすみす八番目を開かせてしまうだけで、何一つ益はない。 だから止めようと、したのだが。 「大丈夫」 低く、俺にしか聞き取れない声で櫻井はそう言った。 「私が隙を作るから」 その間に、と。 「大隊長の誰かを斃して」 「―――――」 それは、完全に想定外の一手だった。 三対一という数的有利な構図に囚われて、視野狭窄になっていた。 今が唯一、敵のキングを取れる機会かもしれないという希望と焦り。そのことに拘泥して判断力を奪われていた。 現実は、ラインハルトと戦うことこそ最悪の展開。もっとも難易度の高い道だと言っていい。 だから、それを選ばない。 先行して大隊長の誰か一人でも斃せれば、その時点で五色が欠ける。ラインハルトの完全復活は成されない。 誰か一人を囮にして、真っ向から不意を討つ。ここで採るべき選択はそれであり―― 「私がやるのが、一番いい。遊佐君は大砲を持っていないし、あなたは私達の誰よりも速いから」 人選は、決定していた。正論すぎて反駁の余地はない。 だけど櫻井。 先ほど俺が感じたことは気のせいなのか? おまえに、死相が見えているよう思えたのは…… 「私のために殉ずる気は微塵もないと?」 「ええ、今も昔も、一度だって」 しかし、もはやそれを確かめる機会は失われていた。櫻井は気力を高めて、目の前のラインハルトにのみ集中している。 「恨んでいましたよ、ずっと、ずっと……あなた方に関わらなければ、私達は普通に生きて、死ねたのに」 その台詞の意味は読めない。俺はこいつの背景にそこまで詳しいわけじゃなく、特に知ろうともしなかった。 敵だったから、ぶつからざるを得ない相手だから、櫻井螢の真実は知らない。 それが、今頃になって悔やまれる。 「私達は、あなたの下から解放される日だけを夢見てきました。始まりは自業自得であったとしても、いつかきっとその日が来ると」 「信じて、願って、汚れ続けて……皆魂を削られて」 「最後に残った私は、是が非でも彼らの祈りを成就させなければいけない。だから――」 詠唱を謳いあげ、櫻井の〈在り方〉《せかい》が変わっていく。 緋色に、熱く、その戦意を象徴するカタチへと。 「あなたを斬ります、ハイドリヒ卿。本当に成すべきことはそれなんだと、ようやく私は気付きました」 「逢いたい人も、失った日々も、取り戻したいし忘れられない」 「だけどその餌に釣られて、大局を見誤ったこと。真の元凶がなんなのか、目を逸らしたこと……それが私の罪!」 だからこれが罰。 「ここに過ちを清算します。あなたはこの世にいてはならない」 瞬間、その身が炎に変わった。 「〈Briah〉《創造》――!」 気迫は紛れもない全身全霊。総ての力を熱として、命そのものを砲弾に変えた櫻井が吼える。 「受け止める覚悟はありますか? 私の総てを」 言いながら、しかし櫻井は震えていた。挑発めいた台詞とは裏腹に、そうしなければ恐怖で潰れそうになっているのが容易に分かる。 それでも退かない。 その矜持、その覚悟。意地と、そして、俺が知りえない誰かへの想い。 ちくしょう、俺は本当に馬鹿だ。 こいつがここまで気合いを見せているにも関わらず、何を賢しい損得勘定なんかしてるんだ。 マリィを砕かれるかもしれないのが怖い? ふざけろこの馬鹿野郎――! 彼女は壊れない。この俺が壊させないし守りきる。 そう信じるんだ、何よりも強く。 「よかろう、では参れ」 「ええ、言われなくても」 司狼と目が合う。こいつも同じことを考えていたらしい。 ああ、そうだよな。俺達は男だ。 女一人を矢面に立たせて、平気でいられるような恥知らずでも腑抜けでもない。 「〈愛〉《かな》しき少女だ。その痛み、呑み込んでやろう」 「卿の悲しみは永劫に断つ。私の〈戦奴〉《エインフェリア》として、〈永久〉《とわ》の安息に包まれるがいい」 「そこには総てが存在すると?」 「然り。失ったもの総て」 人の心に生じる空隙、喪失感という穴を埋めてやると獣が言う。 だから魂を差し出せ。願いを叶えてやる代わりに、地獄で自分の奴隷になれ。 「〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》……」 そうだ、こいつはファウストの悪魔。 どれだけ見た目が麗しくても、人語を解して愛や悲しみを語っても。 「あなたは人間じゃない」 こいつに人の心は分からない。 斃すぞ、絶対に何としても。消極的な次善策など採ってられるか。 何よりそんな打算をしてしまえば、俺の中で何かが折れる。この状況で櫻井の陰に隠れるなんて、俺の性格上有り得ない。 だから―― 「参ります、ハイドリヒ卿」 地を蹴る櫻井とまったく同時に、俺と司狼も駆けていた。 並走する矢は三本。一直線に迷うことなく、同一の目標へと疾走する。 「――――――」 横の櫻井から驚愕と、そして怒りとも戸惑いともつかない気配を感じたが、そんなものは完全無視を決め込んだ。 そもそも俺とおまえは犬猿だろう。素直に言うこと聞くわけなんかないんだよ。 「……馬鹿」 ああ、馬鹿だよ。だけどおまえほどじゃない。 「生き残るんだろ、忘れんな」 打ち上げに参加すると言った以上、今さらバックレなんか許さない。 「おまえ、いじり甲斐あるからいなくなるとつまんねえわ」 時間にしてほんの一瞬、本来なら会話が成立するはずなどないというのに、なぜかそれを可能にしたこと。 不明だが、走馬灯の共有なんかじゃ断じてないと言い切れる。 なぜなら、その引き伸ばされた時間の中で―― 「本当に、あなた達ムカつく」 あの櫻井が、どこか照れたように笑い。 「男同士で息合いすぎて、気持ち悪いよね」 俺の中のマリィまでが、軽い悪態を楽しそうに吐いていた。 「はっ―――」 はははは。 見ろよ、これがこれから死ぬような面子かよ。 「勝つぞ」 斃そう、ラインハルトを。 「当然――」 「私も――」 「誰も死なない!」 「おおおおおおおおおおおォォォッ――――!」 重なる雄叫びの唱和と共に、俺達は一本の矢となって突撃する。 この大砲を、結集した力を、破壊できるものならしてみせろラインハルト! 「――素晴らしい」 これが真実の乾坤一擲。炸裂する瞬前に、脳裏を過ぎった声は確かに―― 「覇道の兆しが、今見えた」 心底から、歓喜に震えていたのだった。 「〈Yetzirah〉《形成》――」 それは死を告げる遺言の契約。 「〈Vere filius Dei erat iste〉《ここに神の子 顕現せり》」 定められた運命を、ここに成就させるという約束。 「〈Longinuslanze Testament〉《聖約・運命の神槍》」 勝つと信じた。負けないと誓った。その結末は、次の刹那に。 「謳え、ここに第八が開く」 爆発する光の中、俺は総てを見ることになる。 「〈Auferstehn, ja auferstehn, wirst du,〉《蘇る そう あなたはよみがえる》 〈Mein Staub, nach kurzer Ruh.〉《私の塵は 短い安らぎの中を漂い》 〈Unsterblich Leben wird,〉《あなたの望みし永遠の命がやってくる》」  回るベルリンの〈鉤十字〉《ハーケンクロイツ》。イザークの壷中天で、魔城の心臓が動きだす。  なぜなら彼は、そのためだけの歯車。 「〈Wieder aufzublühn wirst du gesät!〉《種蒔かれしあなたの命が 再びここに花を咲かせる》 〈Der Herr der Ernte geht〉《刈り入れる者が歩きまわり》 〈und sammelt Garben Uns ein, die starben.〉《我ら死者の 欠片たちを拾い集める》」  氷室玲愛の遺伝子に刻まれた呪いとは、すなわちこれだ。  黒円卓双首領の号令により、第八開放の時をもって〈歯車〉《イザーク》が回り出すこと。  奴隷の子は奴隷であり、歯車の子は歯車。  イザーク=アイン・ゾーネンキントは、その名が示す通り〈始まりの者〉《アイン》。  グラズヘイム・ヴェルトールという世界において、第一に誕生した原初のアダムなのである。  ならば――人の子が禁断の果実による原罪を連綿と継ぎ続けているように。  愛を求めてこの世総てを呑み込もうというイザークの渇望は、存在として氷室玲愛の上位にある。  抗えない。それは不可能。事実、今、この世の人は、裏切り、欺き、殺し合い、太古から何ら変わらぬ戦を繰り返しているではないか。  始まりの〈原罪〉《かつぼう》とはそれほどに強い。 「〈O glaube, mein Herz, o glaube. Es geht dir nichts verloren!〉《おお 信ぜよわが心 おお信ぜよ 失うものは何もない》」  ゆえに、同じく〈地獄〉《ヴァルハラ》の住人である〈大隊長〉《エインフェリア》らにも迷いはない。  歓喜をもって、誇りと共に、己が世界の流出を願う。 「〈Dein ist, dein, was du gesehnt.〉《私のもの それは私が望んだもの》 〈Dein, was du geliebt, was du gestritten!〉《私のもの それは私が愛し戦って来たものなのだ》」 「〈O glaube,: du wardst nicht umsonst geboren!〉《おお 信ぜよ あなたは徒に生まれて来たのではないのだと》 〈Hast nicht umsonst gelebt, gelitten!〉《ただ徒に生を貪り 苦しんだのではないのだと》」 「〈Was entstanden ist, das muß vergehen.〉《生まれて来たものは 滅びねばならない》」 「〈 Was vergangen, auferstehen!〉《滅び去ったものは よみがえらねばならない》」 「〈Hör auf zu beben!〉《震えおののくのをやめよ》」 「〈Bereite dich zu leben!〉《生きるため 汝自身を用意せよ》」 「〈O Schmerz! du Alldurchdringer!〉《おお 苦しみよ 汝は全てに滲み通る》」 「〈Dir bin, o Tod! du Allbezwinger, ich entrungen!〉《おお 死よ 全ての征服者であった汝から 今こそ私は逃れ出る》」 「〈Nun bist du bezwungen!〉《祝えよ 今こそ汝が征服される時なのだ》」  そう、それこそが覇道の具現。  大儀式魔術黄金錬成。  〈白化〉《アルベド》、〈黒化〉《ニグレド》、〈翠化〉《ウィリディタス》、〈黄化〉《キトリニタス》、〈赤化〉《ルベド》――以上五色をもって成す奇跡。 「〈Atziluth〉《流出》――」  祝福の箴言が締め括られる。ここに約束は果たされて。 「〈Heilige Arche〉《壷中聖櫃》――〈Goldene Eihwaz〉《不死創造する》 〈Swastika〉《生贄祭壇》」  猛り狂う魔力の総和が、今、異世界を流れ出させる。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 13/13 Swastika ―― 8/8 【Chapter ⅩⅡ Ring des Nibelungen ―― END】 「何を哀しんでいるのかね、マルグリット」  黄昏に染まる砂浜。果ての無い黄金色の海。  永遠の地平線が続く世界で、影絵は変わらぬ口調で語りかけた。  視線の先には蹲る少女。泣きはらしたその目を愛でるように見つめながら、蜃気楼のように曖昧な声音で囁いている。 「ああ、どうか泣き止んではくれないか。ここには君しか〈輝石〉《ひかり》がないのだ。照らす源が曇ってしまえば、私のような旅人は盲いた燕となってしまう」  かつてと一片も変わらぬ語り口と声。  しかしそれに首を振ったマリィは、以前の彼女からかけ離れた存在となっていた。  甘い囁きに首を傾げない。  〈鸚鵡〉《オウム》のように言葉の意味を問いかけない。  価値判断基準を持ちえなかったためにしていた仕草。その一切合切をすることなく、唯一であった男の言葉から耳を背けていた。  一人だけの会話相手、知人と呼べる誰か。彼女にとってカール・クラフトに付随していたその前提は、もはやとうに崩れ果てている。  藤井蓮を介して邂逅した多様な他者。  発生した数多くの感情。  比較対称が生じたときから、彼は彼女にとってのたった一人でなくなったのだ。もはや唯一無二ではなくなっている。  彼の言葉だけを頼りに待つ、精巧な人形には戻れない。 「だって、だってわたしが……… わたしがずるいこと考えたから、みんな、みんないなくなっちゃった…… 何の力にもなれなくて、レンに辛い思いばかりさせて……」  だから……後悔することもできて。  誰かのために悲しみを感じることもできる。  胸に荒れ狂う感情を持て余し、けれど獲得した心を捨てられない。  償いたいと思うのに、斬首しかできない自分ではと自責すら生まれている。  それを見て笑うのは道化の影。  舞台を〈海月〉《くらげ》のように浮遊する彼は、少女の変化を好ましく思いながら慰める。 「それは君のせいではないだろう。無粋なことだが、世の中には人の数だけ道理がある」  傷を帯びないように。途方もなく、甘く。 「君が君の中で思い描いた道理ではそうかもしれんが、客観的に見ればこれは他の思惑が起こした悲劇。他者の〈道理〉《のぞみ》が、君の〈道理〉《いのり》をすり抜けたのだよ。 訪れた不幸に理由をつけて自らを貶めるのはやめたまえ。自責と自傷は尾を噛む蛇だ、それもまた円環となり巡る。果てが無い。 あれも言っていただろう? 起こったことは変えられぬ、戻らぬ、ゆえ至高なり」 「今の君には、これこそが真理ではないかな」  そう言いながらも、件の理論を彼は肯定してない。否定もしないが、それだけだ。  この男は、どこか位相がずれている。同じ目線に存在しない者のようで……  自分の大切な彼の言葉を借りるなら……見下している。もしくは舐めきっている、というのが妥当か。  侮蔑しているわけでも嘲っているわけでもないだろう。  ただ、蟻の主張を愛でている巨人の感性。  その表現がしっくりきて……彼のことを馬鹿にされた気がして、マリィは静かに怒りを感じた。  常識に当てはめるなら、それは最低の人間性だろうと思ったから。  自然に視線が厳しくなるのも仕方のないことだった。 「おやおや、これはいけないな。そのような顔をされたら、〈軟〉《やわ》い私は息が詰まってしまいそうだ。 別段私はあれを愚かと言っているのではない。何よりかつては私自身がそう思ってしまったことだからね、言葉を借りて少々気恥ずかしくなったのだ。許されよ。 それどころか、むしろ私は感謝しているのだよ、マルグリット。君は実にあれより多くを学び取り、変わろうとしている。いや……」  ──正直になろうとしている。  その事実。本人すら気づいていない本質を喉奥で転がし、確かめるように味わいながら呟いた。  湧き上がる不快感。蛇が舌を覗かせたような感想すら抱き、たまらず少女は長いブロンドを振り乱して、手を振りかざした。 「……っ」  けれど、振りぬけない。物理的な力ではなく、それがひどいことだと分かった彼女は、感情のままに怒りをぶつけることすら出来なくて。  もう信じることのできなくなった、最初の〈他人〉《ゆうじん》から距離を取った。  いけないことだと分かったから。それが八つ当たりだということも知ったから、手を力なく、胸元まで引き戻す。  触ってしまえば彼の首が断つからやめたのではない。  ただそのことを教えてくれた人を裏切るみたいで、自分を押し留める。 「……あなたの。 カリオストロの力で、なんとかできないの?」  だから、代わりに訊ねた言葉は藁にもすがる内容で。  それが悪魔に魂を差し出す行為と知りながらも、彼女は力を請うのを止められなかった。 「わたし、何でもするから。できることなら手伝うし、何でも言うことだって聞く、だから。 だから……カスミやみんなを返して」 「わたしはいいから、レンには、返してあげて……こんなの、とてもひどすぎるから」  どうか彼に返して欲しい。対価に自らの総てを差し出してもそれは叶えたい、心から願う最大の言葉。初めて感じた、どうしても形にしたい心の悲鳴。  ああ、神様、神様。どうか一つだけ、お願いします叶えてください。  わたしのせいで奪ってしまったものを、どうか彼に返してあげて。初めて心の底から祈るから。これからずっと、何一つ叶わなくていいから。  わたしの総てを捧げてもいいの。だから、どうか……彼の好きだったものを返してください。  全知全能の誰か。居るはずも、聞き届けるはずもない、神様への祈り。願にかけた想いは果てしなく真摯で、殉教者のように純粋だった。  彼女が知る限り、最もそう呼ばれるに値する男は、しかし。 「まさか」  やはり微笑を湛えたまま、静かに首を横へ振る。  それは柔らかく──同時に明確な否定だった。 「これはまた、随分と買い被られたものだ。君の中で、それほど私は万能の権化と成り果てていたとは。 勘違いだよマルグリット、祈る先を間違えている。 今君の見つめている先には幻のみだ。蜃気楼に跪いても意味はない、返らぬ乞いなどやめたまえ」  不確かな透明感を強調するように、メルクリウスは己が指を光にかざした。 「この身は所詮道化にして虜囚。万能などとはかけ離れている。どれほど崇め願われようとも、流れ星にはなれまいよ。ただ流離う浮き木でしかない。 それともさしずめ、引き摺られ擦り切れた麻袋かな。底が抜けるのさえ近いのだ。その言葉は光栄であるが、君を背負ってはいけそうもないよ。 所詮泡沫の夢、その飛沫。大した力もなく、ただ事態を眺めて薄笑うだけの影……胡蝶なのだ。どこまでいこうと、夢が覚めればただの虫けら。こうして君と会話を続けている人の姿こそ、仮初めの夢想に過ぎぬと思いたまえ」  己は所詮道化である。無力で儚い影である。  誰が信じられるものかと、そう思える言葉を淡々と吐く。  彼女はもはやそれを嘘だとしか思えなくて、けれど目の前の影は真実なのだと言って。  真か、偽か。  しかし間違いなく、そこに含まれた感情は本気のそれだ。彼は心底自分に失望しながら話していたから…… 「そんな脆弱な私に、君の友人を取り戻す力など、とてもとても…… ああ──己の非力を嘆くよ、マルグリット。卑小な私を許してほしい。 君の瞳に映った陽炎は、なんと甲斐性の無い男なのだろう。今すぐこの身を引き裂かれたいよ」 「焦がれた女性の願い一つ、叶えてやれる力がないとは」  うやうやしく、芝居がかったしぐさでメルクリウスは目を伏せた。  紛れもない謝罪の意。  自分は心底無能だと、そんな自嘲そのものの言葉で……なのにどこか楽しげに語っていて。 「それに、なんでもなどと軽々しく言ってはならないよ。見目麗しい女性が囁くには、慎重にならざるを得ない言葉だ。 下手に口を開けば悪い男に捕まってしまうからね」  当の本人、何よりも奇怪な男が柔らかく微笑む。  いったいどの口で言っているのか。この浜辺で気も遠くなるほど語り合っていながら、マリィは今さらだがそう思った。  そうであるように取り囲んでおいて、そうであるように仕組んでおいて、触っていないからそうではないと嘯いて、何を。  忠告だけがその通り。  自分は最初から、どうしようもない最悪の男に見初められていたのだ。逃れようにも逃れられない。この先手に入れられるか分からない何かすら、その内に組み込まれていると気づいてしまったから。  悲しい。そして怒りを抱いてる。酷いと思ってもいる、けれど…… 「なら、わたしはどうすればいいの……? 本当に取り戻せないなら、どうすればいいの? 償うために、わたしにできることって、何かないの?」  結局そう問いかけられる存在は、目の前の男だけなのだ。  一択に削られている世界。何よりも人を扇動するのに長けた存在に、悔しさすらかみ締めて、問いかけるしかなく。 「あるとも。私などではできぬ、真実君にしかできぬことが。 卑小でも卑俗でも卑劣でも卑屈でも……そして飲み込む破軍でもない。永劫不変の輝きを宿し、如何な酸にも溶かせぬ宝石にしかできぬことがこの世にはある」  その問いへ、まるで陶酔するかのように。  待ち望んでいたと言わんばかりに道化は語る。 「……………」  ……いやだ。〈彼〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈気〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈が〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》。  それは、マリィ以外の誰もがこぞってメルクリウスに抱いた感情。  この瞬間、確かに彼女の胸に芽生えた忌避の念。  しかしこのとき自覚はなく── 「……わたしに、わたしなんかに何ができるの、カリオストロ。 レンにしてあげられることなんて、力になる以外ないよ。わたしのことなんてもういいから、レンの喜ぶことをしてあげたくて……」 「いいや。あれのしたいことではない。的がずれているよ、そうではない」  口を三日月に歪めて影は呟いた。 「君のしたいことをだよ、マルグリット」 「ああ当然のことだ。人はやれることしかやれぬ。そして、やりたいことしかやらぬ。 行動を起こす愚者が、時として彷徨う賢者を出し抜くのはそのためだ。兎と亀の童話だよ……やれることを、やりたいと思ったとき初めて真価が芽を出し、輝く。勤勉な兎を前に、亀はどうやって勝てばよい。 ならば──」  君が一番望むことをすればいい。それこそ至上なり、舞台役者総ての望み。 「その祈り……君の渇望で是非とも総てを包んでくれ。 新世界の夜明けを告げる、〈明星〉《みょうじょう》の女神よ」  〈既知〉《わたし》ではなく、〈未知〉《だれか》に祈れ。  その想いこそが望みであり輝きなのだと。  影は一握の疑心もなく、黄金の浜辺にそう〈謡〉《うた》った。 何の前触れもなく、遠くで響いた鼓動が身体を駆け抜けた。 神経が痺れるような感覚。軽く感電したかのような錯覚は、今まで何度か経験したことのあるもので…… 「………っ、いま」 スワスチカが開いた。これで都合七つ目で、また一つ黄金練成の完成が近づいたのを感じる。 場所は恐らく……タワーだろう。感じる威圧感はそちらからで、自然と厳しくなった眼光のまま、その方角を睨む。 これで残るスワスチカはあと一つ。 もはや後戻りもできない。上空から感じる悪意はさらに大きさを増し、今にも奴らが空を引き連れて落ちてきそうなほど。 だが、それは同時にある疑問を浮上させる。この無人の街、もはや捧げられる住民はどこにもいない。なのにスワスチカは開いたということ。 つまり、それは奴らの誰かが脱落したことを意味するから。 この期に及んで仲間割れか、それとも数合わせのために切り捨てたのか。どちらにせよ不可解で、依然状況は掴めない。 疾走する事態は俺と先輩を置き去りに進んでいて、何か手を打とうにも及ばず、不気味にお膳立てだけが整っていく。 それは不安が生んだ幻で、けれどそれだけじゃないというのも確かに感じて。 「……くそ、どうすればいい」 行って確かめるか、それともこのまま待ち構えるか。 極論すれば奇襲か迎撃を選ぶか、この二択だ。 どちらか選び取ろうにも判断材料が不足している。蚊帳の外、決戦まで泳がされて放し飼いにされているのが嫌でも分かる。 くそ、これじゃ永久に後手を踏むしかない。先手が取れない。今必要なのは最良の受動性ではなく、拙速に長けた能動性だと言うのに…… 「これで、残るスワスチカの場所は……」 「……学校、だね」 こんな風に、俺達にとって絶対見過ごせない場所が最後だという時点で、何者かの作意と悪意を感じるしかない。 目眩のする事実。偶然だと、今はもう言い切れない。 たとえあの場所に二度と通うことが無くとも。あそこには守り通したい、穢されたくない思い出が多すぎる。 だから俺たちは、どちらにせよそこに行かなければならなくなった。自分たちの日溜りを、この手で崩壊させるために。 ……紛れもない屑だ。これを考えた奴は腐っている。性根が腐食していて、残り香だけで吐き気が止まらない。 「あくどいよね、やり方。ここまで性格悪いと感心するよ」 「行くしかないし、やるしかない。選択肢をあるように見せかけて、結局最後は望み通り」 「ほんと、最低」 「先輩……」 吐き捨てるように、虚空を睨みながら小さく呟く先輩。 スワスチカが開いた影響か、若干苦しそうに表情を歪めているが……伸ばそうとした手を寸でのところで踏みとどまった。 「先輩……いけるな?」 代わりに発したのは確認の声。小さく頷いた顎を見て、俺はそれ以上何も聞かなかった。 互いにもう決心はしている。二人で話し合い、そして決めたのだ。これから個々が立ち向かうべき相手のことを考えれば、こんなことで手を差し伸べるわけにはいかない。 俺はラインハルトを。先輩はイザークを。 それぞれ一人ずつ、必ず打ち倒し突破する。 打倒すべき敵と、その難度。確率や数値化するのなら、それこそ雲を掴む様な話だろう。伝説の勇者様ってやつさえも、知ればきっと裸足で逃げ出すに違いない。 だが……それでも、それでも二人で戦うと決めたのだ。 〈地獄〉《ヴァルハラ》の流出など起こさせない。そのために成さなければならない最低条件は、不動にして究極たるその二点。 決して変えられず、通らなければならない道であるのなら…… 「大丈夫だよ、藤井君」 「色々言いたいことはあるだろうけど、私を信じて。そうとしか言えないのが、ちょっと歯がゆいけど」 「分かってる。先輩を置いていこうとはしない。俺一人じゃ、空回るのがオチみたいだし」 もう、一時でも彼女から目を離していたくない。 「うん。それに、大変なのはキミの方」 「もう一度あの城に行くためには、まだ一つ残ってる」 「ああ……」 八番目のスワスチカ、その開放。それこそが再びあの魔城へ乗り込むための絶対条件だ。 既に位相のズレているだろう城は、目視できるほどに顕現していながら、そこへ辿りつく事が出来ない。 実在する蜃気楼というべきか。そこに存在していながら突入する手段がない。まだこちらの世界に出きっていないから、到達する梯子が出来上がっていなかった。 〈現世〉《こちら》と〈地獄〉《あちら》を別つ隔たりが遠い。結びついてはいないが、切れるほど薄くもない。 そのためにあの城は流出を起こさず、未だ留まっているわけなのだが。今の状態だと、かつてと同じ様にラインハルトから呼び込まれでもしない限り、そこへ到達する手段がないのだ。 俺も先輩も空を飛べない。そんな当たり前のことが、今俺たちを最後の決戦場から遠ざけている。 ならば、残る手段は一つだけ。 「あと一人、俺は誰かを斃さないといけない」 こちら側から八番目を開き、ラインハルトが流出を起こしきる前に奴を斃す。 求められるのはそんな絶速を最低条件に据えた神業で、文字通り魂ごと特攻をかける〈瞬間決着〉《スプリント》だ。 一発きりの弾丸、最大限の瞬発力で邪魔な大隊長ごと、主の心臓を一気に射抜く。 その無理で、無茶で、無謀極まりない悪手の策……分かっていながら、俺達はそれに賭けていた。 だから、なんとしてでも八番目は開かなければならない。 以前との逆、奴らの戦力を削り、学校のスワスチカを開くことでラインハルトの出現を自ら促す。 奴に全力を出させるためのお膳立て……皮肉にもこの瞬間のみ、双方の目的は合致しているから。 となれば。 「奴らの内、誰かが学校で待っている。恐らくはもう既に」 スワスチカを開くための生贄にして、俺の打倒すべき敵。決戦の火蓋を落とすために存在する、戦いの鐘じみた奴が待っている。 そして、それは状況から推察が可能だ。残った団員の面子と戦力を考えれば、恐らく大隊長の誰かが待ち構えているのだろう。 赤、白、黒の三色。その中でも、自分に対して不可解な執着を抱いていた〈黒騎士〉《ニグレド》が一番臭い。 順当に確率と状況から鑑みれば、その選択。あちらが配置しているだろう、俺を完成させるためのピースはそれでしかないと推理した。 これから倒すべきはあの偉丈夫。間違いなく、そうでしかないはず、なのに…… 「……………」 「藤井君?」 何故だ。嫌な予感が消えない。 強烈な悪寒、どうしようもなく俺は訪れる何かに不安と……恐怖以外の怯えを感じている。この訳の分からない寒気はなんだ? まるで整えられた舞台、先程そんな感想を確かに抱いた。 この一連の騒動、その総てが周到に仕組まれたある種の〈歌劇〉《オペラ》のようであると。指揮者に導かれる俳優のように、唐突に、前触れもなく。 主役へと抜擢されたのは藤井蓮。〈女優〉《ヒロイン》と〈剣〉《ちから》を兼ねた配役がマリィ。突然やってきた人型の怪物たちはさしずめ踏み台にして、観客を虜にする〈一流役者〉《エンターテイナー》か。 筋書きも単純。典型的で、悲劇的で、けれど心を震わせる英雄譚。 伝説の武器ってやつを手にした素人のガキは、強大な敵相手に粋がって、まずは順当に負けたり勝ったりしてレベルを上げていく。 その後一度完璧に失って、ブチ切れて、それから女の慰めで再び立ち上がり……さあ最大の巨悪にいざ挑もう。打ち滅ぼせと、状況が叫んでいる。 立ち向かえ、最後の前哨戦だ……そう囁く脚本家の薄ら笑いが、さっきから三半規管を木霊している様で。 「……っ」 ……反吐の出る妄想。出来すぎるぐらいに出来すぎている。 絵本に綴られたかのような一連の流れ。回想することで気づいた事実に、目眩と怒りを感じて手のひらを強く握り締める。 断言していい、この話を考えた奴は心底最悪だ。舞台で死ぬ〈一般人〉《エキストラ》を、悲劇の度合いを示す〈設定値〉《パラメータ》か何かとしか見ていない。 そこに存在している個々の人生。確かにあったはずの喜怒哀楽。それら総てを〈最終章〉《クライマックス》まで導くための塵芥だと断じている。 そんな悪意に満ちた舞台脚本が、このまま公正な決闘とやらを用意しているだろうか? 俺の完成を待ち望んでいる奴が、単なる力の壁を配置するものか? ………予感がする。 俺をこれから待ち受ける〈某〉《なにがし》かの敵手。最後にして、最大であろう壁。 それこそが、運命とやらを弄繰り回されて生み出された最強の〈怪物〉《モンスター》。藤井蓮が何においても決して相対したくない、最後の── 「……あ」 「……電話、なんで?」 思考に埋没する寸前、鳴り響くのは備え付けの電話。 この死都となった街の中で、誰一人俺にかける者のない……かかってくるはずのない、呼びかけのベル。 「……………」 ふいに鼓動が早まる。 汗が湧き上がった。 呼吸が乱れる。 理解の出来ない焦燥感。〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》、身体が示す拒否反応。 取るな。切れ、決して出るんじゃない。おまえはこのまま戦いの場へ行くべきだ。 そう告げる本能の呼び声を無視するかのように……身体は自然と、その受話器を取っていた。 止まった呼び出し音に、一瞬の空白。 唾液を飲み込んだ音が一際大きく響いた気がした。 繋がった通話の先、押し当てた耳から聞こえた声は…… 「─────」 それこそ、俺を絶句させるには十分なもので。 「──────し、ろう?」 ……遠くで揺れる脚本家の笑い声。 その刹那──俺は決意も何もかも忘れてしまって。 ただ呆然と、失ったはずの名前を呟くしかできなかった。  魔城の中枢――異界と現実の狭間で揺蕩っている死者の玉座。  己が創造した究極の地獄で、ラインハルト・ハイドリヒは事態の変遷を王者の視線で睥睨していた。  街の全域は、既に彼の手にある〈模型〉《ミニチュア》と同義だ。  住人の全滅すら戯れの一撫で。  もはや神に等しい領域。それも他を滅ぼすという愛情表現しか行わないなら、邪神か悪魔と呼ぶべきものだろう。  今や〈諏訪原市〉《シャンバラ》は彼の所有物であり、魔軍によって占領された領土なのだ。  ゆえに眼下の事象を見通せぬはずもない。街で起こる現象は、総てその瞳から逃れえない。風のざわめき、砂の一粒さえその気になれば知覚できる。  眺めているのは最後の〈墓標〉《スワスチカ》。  彼が、彼らが、彼女が行おうとしている最後の〈演劇〉《ぜんざ》。  その幕開けと幕引きがどうなるのか。  〈恐怖劇〉《グランギニョル》の最終章がどのように産声をあげるのか……心待ちにしながら、黄金は優雅に事態の推移を俯瞰していた。 「さあどう出る。どう動く。それでよいのか? カールの遊びは容赦がないぞ。趣向が凝る分凄烈だ。活路を開こうとするのも結構だが、賭ける価値があるかどうかさえ怪しいもの。舞台を始めるのさえ一苦労よ」 「総てが暴利だ。基準が端から桁を割っている、勝とうと負けようと毟られる」  どちらに転ぼうと、どうにもならない。何かを得ようが結果だけ見れば天秤は常に喪失。対価には不釣合いな重い代償が待っている。  古来より詐欺師とはそういうものだ。  口がうまく、退路も潰され、残されたのは判を押す単調な作業のみ。  嵐が過ぎれば、残ったのは多額の負債だけ。それが常。  批難と憎しみを何処吹く風で受け流し、飄々と霧のように姿を霞ませる。彼はいつもそうだった。 「ゆえ、参考にさせてもらうとしよう」  これより見せてくれる舞台を心待ちにしよう。  それだけは、未だ姿を見せぬ友と共通している事柄で…… 「ああ、それと──卿はどう思うイザーク。胸に感じ入るものは?」  語りかけたのは、心臓部の歯車。  今や魔城の核として機能するだけの少年に、ラインハルトは語りかけた。 「…………」  何気ない、世間話じみた問いかけの言葉。  だがしかし、それはイザークを微かに揺るがす。  なぜだかは分からない。だが、死者の獄界を生みだしてから半世紀以上、黄金がこんな風に語りかけてきたことがあったろうか。  己が少々疲弊しているのは事実。先の戦により魔城を大駆動させた反動が魂に響いている。損耗などは有り得ないが、如何に無謬の歯車といえど疲れはあった。  ゆえに――自分は何か、聞き間違えたのではないのかと。 「どうした、何か言ってみるがいい。大概のことには答えよう」  だが、続く声はそれが幻聴でないと証明している。 「他の者達とは語り尽くした、残るは卿しかおらぬのだ。胸に秘めた意……何かあるなら吐きだしてみろ」 「余暇は幾許もないぞ。我が総軍、出撃の時は近いのだ。挑むに相応しい好敵手が息吹を殺し、牙を研いで待ち構えている。 小さき魔人だ。あまりに儚い。愛に縋り迷い失い、それでもなお私を拒絶する、脆弱で強靭な魂。成長する姿は敵味方問わずこの胸を打つ。 あれは私を、我々を、総てを斃すつもりだ。本気でそう思い、実行するつもりでいる」 「素晴らしいとは思わぬか? 己が総て、永きに渡り溜めに溜め込んだ蓄財、我ら真に一体となり、ぶつけるに足る敵手が息巻いている。永遠の脱皮を遂げ、今まさに完成の兆しさえ見せようとしている。 ならばだ。卿は我が礎となった第一の功労者。今もこの魔城を滞りなく維持する、謂わば屍を存命させる細胞核よ。時は来たのだ、労わろう、ゆえ語りかけてみよ。 何を欲する? 何が知りたい? 何をこそ求め、母さえも我が身に喰らい取った?」 「この揺り篭でいったい何を待ち望んでいるのだ、イザークよ。 聖餐杯の進言だ。忠臣の願いならば聞き届けてやらねばなるまい」  決戦の前に己が軍の総身を知りたい。  そのために語らってみよと、物言わぬ心臓に言葉をかける。  それが、地獄を突破して〈玉座〉《ここ》まで辿り着いた〈神父〉《えいゆう》の望みであったがゆえにと。 「……………」  だから、イザークは困惑する。己自身が分からなくなる。  永遠に、総てを等しく取り込んだ。母の愛とやらも他と等価のものでしかなく、そこに差別はしなかった。  それはいったい、何のために?  それはいったい、誰のために?  そう問われれば、自分は何と答えるべきだろう。 「………あなたが」  よく分からない衝動に駆られて、声が出る。 「あなたが、私の父なのですか?」 「父……父か……なるほど、確かにそうなろう。 抜け目の無いことだ、カール。その手際、感服の意を送るほか無い。 ああそうだな、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。〈私生児〉《バスタルト》とはよく言ったものだ。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「……?」  その仕組み、覚えのない血縁を前にラインハルトは認め、イザークは訝しむ。  まるで長年放置され、忘れ去られた謎かけがようやく解けたかのように。  幼童めいた微笑をたたえ、やってくれたなと……ここにいない知人へ語りかけていた。  思惟は遠く、問いかけた少年へ欠片も向いていない。  自らを見ていない確認作業は、歪であるとイザークの目にも映った。  黒円卓における最大の謎、ゾーネンキントを生み出した〈父親〉《たね》が誰であるかという疑問。  その解を実に容易く口にして、黄金の獣は含み笑う。  心底愉快そうで、余人にはその内心を窺い知れぬ感情の起伏を滲ませて。  それはイザークも例外でなく、思わずそこから繋げるはずの言葉を失う。  これはどういうことだろう。自分の何かが〈歪〉《ひず》んでいく。  父は彼であろうと思っていた。他に有り得ぬと分かっていたし、仮に違っても問題はない。  黄金の父子は一心同体。文字通り魂まで繋がっているのだから、血の繋がりなどあろうがなかろうが何も関係は変わらない。  はずなのに……なぜこんなことを問うたのか。 「よい、こちらの話だ。 ではそれでよかろう、イザークよ。卿は我が血肉から生まれた嫡男、血の繋がりを持つ男児なり。 流石の私も起こった事実は覆せん。それが解かった以上、認めぬわけにはいくまい」 「知らぬ存ぜぬのままを通すほど、無恥でも厚顔でもないのでな」 「ならば」  言葉は即座に、声色は平坦。しかし縋り付くような気配を感じていないと、誰に言えよう。  父だと思っていたし、父だった。ならばそれで話は終わりと、なぜ片付けることが出来ないのだろう。自分の口を動かしている〈歯車〉《かんじょう》の名が、イザークには分からない。 「私はあなたに愛される資格があるのでしょうか?」  意味の分からない問い。  黄金は総てを愛しているし、自分も総てを愛している。  資格とは何だろう。愛されるとは何だろう。ああ、いったい何を言っているのだ、この口は。 「あなたのために、屍の建材で築きました。 あなたのために、髑髏の絨毯を敷き詰めました。 あなたのために、流血の石膏で塗り固めました。 あなたのために、あなたのために、あなたのためだけに私は今まで存在してきたのです。あなたのために、あなたのために、あなたのために、あなたのために、あなたのために」  口の歯車が狂っている。意味の通らぬことを言っている。  テレジアにつけられた傷のせいかもしれないと思う。  その傷が、言っているのだ。 「あなたは、私を息子として愛してくれていますか。父様」  どうか誇ってください。褒めてください。立派な息子だという、王の矜持でありたいから。  それのみを、どうか与えてくれないでしょうか、と。 「資格とは、また異なことを言う。 論点がズレておるな、イザーク。卿は勘違いをしている」  その懇願に答えたのは、実に穏やかな声で。 「愛するということに資格など必要なかろう」  歪で強大な慈悲を、己が稚児に答え返した。 「……資格が、要らない?」 「然り。思い出してもみよ、イザーク。私が卿を愛さぬ、と言ったことなど一度でもあったか」  それは、確かにその通りで、己自身よく分かっていることなのだが。 「思い当たるまい、なぜなら私は一度も否定したものなどないのだから」  どうして今、まったく違う言葉に聞こえるのだろう。 「常々言っているであろう。私が愛していないものなどない。それが本音であり、総てと言ってもいい。 破壊という形態のため余人とはかけ離れているが、卿は知っているはずだ」  ああよく言っている。自分もそうだし、彼もそう。  分かっているのだ。  あなたはいつもこう言っている。 「そうだ、イザーク。それこそが私の慕情。 私は、総てを愛している。兼ねてよりそう言い募っているではないか」 「────」  その言葉は端的で、何より的確に示された心理。  ラインハルト・ハイドリヒを成す根幹にして、永劫変わらぬ真実であった。  そう、永劫変わらない。変わってなどいない、だから。 「愛しておらぬわけがなかろう。私は自らに類する者も、仇なす者も、皆等しく愛している。例外はない。 何を感じて不安を抱いたかは知らぬが……杞憂であったな。愛していたとも、初めて会ったときから、そして血の繋がりを知った今でも寸分違わず愛している。 不変なり、ゆえ崩れぬ喜ばしかろう、絶対の愛だ」 「たとえこれから先、卿がその役目を終え、擦り切れようともそれは変わらぬ。案ずるなよ。 切り離されようとも叛意されようとも愛してやろう。未来永劫、この城の中で」  ゆえに安心しろ、おまえの行いは報われていたのだと言い。  どこまでも尊く、どこまでも傲慢に。 「祝福を送ろう、イザーク。最初から卿は愛されていたのだ。 これからもより一層、その大任に従事するがいい。如何になろうとも報われるのだ、これ以上の安心はあるまい」  そう、王としての貫禄と、深い情愛を浴びせて。 「──、───」  ──同時。人知れず、魔城の中核に亀裂が走った。  分からぬ。分からぬ。なんだこれは。なんだそれは。  なぜ私の傷が広がっていく。  テレジアにつけられた傷など、赤子に噛まれたほどでもない。  だがそれが、どうしてか、今は骨にまで達している。  何をしようと、何であろうと、どのようなものであろうとも等しく永劫愛するその理論。  それはつまり──ああ私は、私が今まで城に組み込んだ屍と、何ら変わらぬということではないか。 「────、──────」  まるで、牧場を犇く山羊か驢馬。  腐るほど存在する一山。  砂漠の砂総てを愛しているということは、その砂一粒でしかないということ。  どう足掻こうと砂一粒分の価値から揺れ動かない。王の愛情であるということ。  そう、未来永劫。  私は父親にとって、砂の一粒であると告げられたのだ。  世に溢れた有象無象と等価でしかない部品だと── 「───────、─────────」  どれほどの孝行であろうと、目を背ける愚図であろうとみな同じ。あなたは平等に、同じ轡を並べろと……… 「───────────────────」  歯車のピンが折れた。精巧な造りで出来た魔城が、少しずつ、確かな軋みを上げていく。  それは究極を誇っていた創造異界へ、ついに訪れた金属疲労。  軽微に過ぎない破損にして、絶対にあり得ぬ機械仕掛けの終焉だった。  その微かな蠕動、城の身じろぎは誰にも感じ取れない。  イザーク自身も自らへ起こった劣化を見過ごした。その精神状態ゆえに、知るはずもなく過ぎ去っていく。  傷は刻まれ、隠蔽される。  駆動音は静粛すぎて、もはや判別不可能なままその雑音は紛れ込んだ。 「ああ……しかし愛ではなく、友情を感じたものは一人いたな」  ──それゆえに。  何気なく、虚空へ呟かれた声は、するりと心の澱みへ入り込んだ。  恐ろしいほどに呆気なく。 「カールよ。卿もそろそろ舞台に上がってみるといい。見えるもの、感じるものがまた違って見えてくるというものだ。 友誼を結んだのならば、友の言ぐらい耳を傾けてみるといい。今の私は少し既知の破り方が見えてきたのだ。是非とも卿に聞かせてみせたい」  投げ掛けられた言葉、朴訥ささえ感じる口調は純粋で、そしてただ一人に語りかけていた。  ちょっとした揶揄と、悪戯めいた敵愾心まで含まれた言葉を、それこそたった一人に向けて。  それは愛でこそないが、紛れもなくラインハルト・ハイドリヒが抱く特別な感情のそれであり…… 「────カール、クラフト」  ぞろりと、百足が這うかのように、不快な感情が鎌首をもたげる。  呟きは声にすらならなかったが、それは確かにイザーク本人の耳にだけ届き、強烈な感情を生み出していく。  歯を食いしばらんばかりの憎悪。視界が黒で塗り潰されていくかのよう。  リザを喰らい、玲愛と出会うことによって負った一筋の傷。  城の景観を微塵も損なわない、目に映ることすらない僅かなそれは、確かに彼の胸の内で成長を遂げていた。  元より彼は喰らい、呑み込むだけの存在。  己を癒す術など知らず、また生じた感情自体が初めてのもので、制御する術など知るはずがない。知りようはずもない。  発生した悪意は棘のように刺さったまま、静かにその体積を増していくのみ。 「────」  それきり、イザークは再び城の一部として存在を帰還させる。  胸中の妬みは確かな傷痕として残り、やがて鮮血と共に吹き出るのを待ち望むかのよう、小さな刺激を与え続けていた。  消えてはいない。ただ誰の目にも見えなくなっただけ。それが最も恐ろしい。  何も持たぬゆえに無謬であった歯車は、父を得たことによって喪失を知る。  この破綻とも言えぬ綻び。本人すら忘却した事実が、どういう結果に繋がるか。どれほどの事態を引き起こすのか。  今は誰も知ることはない。  深海に潜った魚のように、事象の底へと潜水した。  ……解放の到来を、待ち望むかのように。 「………」  タバコを吸い、変わり果てた空を何の感情も無く眺める。  視線の先では月の代わりに魔城の姿。  見かけだけは豪奢なそれは、出来の悪いギャグみたいだ。あまりのギャップに風情や常識というものを、粉々に打ち砕いていた。  どうせあそこでは、この後の展開を楽しみにして、開戦の準備などでもしているのだろう。  もしくは前座が終わるのを待ち構えているのか。  今か今かと、ポップコーン片手に鑑賞体勢というのがよく分かる。  そのくせどいつもこいつも賭け馬はあっちで、こっちには端から期待すらしてないのだ。先の見えた結果。どう展開するかだけを手慰みのように閲覧している。 「…………」  吐き出した紫煙は風に吹かれ、一目散に流れて消えた。うまいと思って吸い始めたはずだったが、今では妙に味気ない。  一瞬で分解されたのはニコチンか。  頑丈な身体というのもそれはそれで面倒くさいことだ。そのことに今更悪態ついて、口端を皮肉に歪める。  フェンスから見下ろせば、目に映るのは懐かしい光景。  墓場に変わり果てようとも、一応は普通って奴を満喫してた場所だ。  無人の街は人影も明かりも一切ないが、強化された視力がゴーストタウンとなった今もくっきりと見えて、僅かに郷愁を誘う。  その感情を鼻で笑った。 「いかんね、どうも。どこかの誰かさんじゃあるまいってのに」  柄にもないセンチメンタリズム。  けどあいつは、きっとこういうのが好きで、恥ずかしげもなくクサい台詞とか、訳分からんズレた感想口にしたりするんだろう。  だから女顔も相まってロマンチストだの言われるのだ。変人と呼ばれるのは構わないのに、その判断基準はどうなってんだか。  まったく笑える。暇さえあればこんな馬鹿騒ぎ。ひねて拗ねて機嫌悪くして、からかって、そこそこ痛い目見て……適当に生きてきた。  自分にとっては物足りない、毎日に刺激を織り成す創意工夫。しかしそれは残り二人にとっちゃ過激なもので、傍迷惑そのものだったのも知っていた。  だからたぶん、自分が最初にあの環から外れるだろうことも知っていたのだ。  ……それこそ三人が初めて出会った瞬間から。 「……けどまあ、それじゃあ悲しむ奴がいたし」  あいつは必死に、その日常を引き伸ばそうとしていた。  いずれ壊れると分かっていたのだから、さっさとケリつけようとしたオレだけど。あいつは少しでも長くその仮初めを続けていたいと言ったから。  そういうところが、あいつのどうしようもない所で。  結局最後の最後、その尻拭いとして決断を下すのが自分なのだ。  だからこの場合も、やることはなんてことないその延長。  あいつがやってないことを、俺はやろうとしている。  ただ単にあの日の続き。ずっと決まっていたことだから。 「──よう。遅かったな、蓮」  オレが、おまえの大切な者を捨てさせてやる。  ……これは、なあ。たったそれだけのことだろう。 屋上の扉を開けた先。もたれかかっていたフェンスから背を離したのは、俺を呼び出した悪友の姿。 「──司狼」 「遊佐君……」 気軽に話しかけてきた、陽気な声。最後に見た時と変わらない立ち振る舞いで、司狼は俺と先輩を出迎えた。 傷一つない──記憶のままにある無事な姿。 そのことが、今、感謝してしまいそうなほど嬉しくて…… 「生きて、いたのか?」 「さあてね、どうかな」 「まあ幽霊ってわけじゃねえよ。足あるだろ、ほれ」 生きていてくれたのかと、そう訊ねる声は自分でも間が抜けたもの。苦笑されて、それでもそのやり取りすら喜ばしかった。 「だが、ちょいとな。無事とは言えるかどうか怪しいけどよ」 「な、〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》?」 「………っ、あ」 互いの鼓動が共振のよう響く。 その感覚は確かで、司狼の中身が既に俺と同じものとなっていたと伝えてくる。 感じられた感覚に、漂うのはある臭気。 覚えている、この感じ、暴力性だけを摘出して煮詰めたようなこれは…… 「そういうこと。ご覧の通りだ。ブラム・ストーカーには悪いけどな」 「消化が悪くてこの様とは、なんとも情けねえことだが……仕方ないとは言えねえわ」 「悪かったな蓮、ここにいるのが俺だけで」 「──っ」 つまり、それはそういうことで。その喪失をより確かなものと、見せ付けられたみたいで。 急速に冷えていく心。感じていた喜びが、一気に熱を失っていくのを感じた。 ──おまえだけでも帰ってきてくれて嬉しい。 そんな、この場で言うべき言葉すら、たった一言で奪われてしまった気がして…… 「なんつーか、えらくごっそりいかれたよな、お互い。ちょっと見ない間にえらい様変わりだ」 「……ああ、そうだな。お互い気づけばこんな姿だ」 「学校に制服着ずに来る羽目になるなんて、不良のおまえみたいだよ」 「言ってろ問題児。来ないより来て問題起こす分、教師から疎ましがられてたのそっちだろうが」 「オレは面倒くさかったらフケてるからな。おかげで先公からのウケはよかったはずだぜ」 「バカ野郎、手に負えないからって放任された奴が言うことかよ」 「あー、そうだったか?」 そうだったろうが。だいたい規則なんて毛ほども気にしないこいつが、毎度のこと俺や香純を引っ掻き回していただろうに。 懐かしい、そうだこんな会話だった。顔をつき合わせばこんなくだらないやり取りばかりで、それをすることに何の疑問も持ってなかった。昔日の日常。 こんな光景を繰り返していた。繰り返していけると思ってた。 けれど、今は……もう何もかも傷だらけになっちまった俺の〈刹那〉《にちじょう》。 「しかしまあ、こうして話したり、バカやる分には変化なしなんだがね。なんていうか、色々変わったな」 「鬼を斬るために鬼となる、毒に対抗するには毒持ってくる……まあ道理としちゃテンプレだろうけど、おまえからしちゃ不服だろ」 「ま、今回ばかりはオレも同感だ。獲る奴間違えたわ。鼻が曲がりそうにくせえ、臭い取れねえよ」 「……そうだな。むせ返りそうだ」 俺も、おまえも。他人の〈臭い〉《たましい》が身体の奥深くまで食い込んでいる。 「変化のない日常ってやつを壊してみれば、残ってみたのはがらんどうか。笑えねえ」 「もうちょいうまく立ち回ってりゃ、お互い満たされてたりしてたのかもな」 「意味のない仮定かよ。おまえ、そういうの嫌いじゃなかったか?」 「嫌いだね。反吐が出るぜ。そんなこと言ってる奴は、やっぱり碌な奴じゃなかったしな」 「〈本〉《 、》〈来〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》って奴が、仮に用意されてるなら、ねえ。……ったく、運命論者はタチ悪ぃ」 そこで、ふと気づく。 司狼の視線は俺だけに向き、欠片も先輩を見ていない。無事であるかどうかとか、軽く言葉をかけることすらしていない。 苦笑しようと、嘲笑しようと、陽気に語りかけるのは俺だけで、たまに空を見上げるか街を見下ろすかに留めている。 「……司狼?」 なぜだろう、その姿に言い知れぬ不安がよぎるのは。 見慣れた薄笑い。記憶のままの態度。それが今では、どこか殊更に遠く見えたのは、どうして…… 「……遊佐、くん?」 「頭沸騰してるイカレた奴に限って、決まってるだの、そうするべきだのと言いやがる。さっすが、頭沸いてるだけはあるわ。気色悪いったらねえよ」 「それも二流や三流どころじゃなく、そう追い詰めといて嘯きやがる……いや違うか。一級品のクソ野郎ってやつは、大方そんなもんだったわけだ」 「有限実行の占い師なんて、詐欺の代名詞だろ? 予言して、自分で起こせば的中率はそりゃ百だ。“これこの通り”がまかり通るってもんよ」 「……あとで文句言っとけ。オレが主役じゃないとか、盛大に配役ミスってるってよ」 「司狼……? どうしたんだよ、おまえいったい何言ってるんだ」 「さあな」 問いかけた先輩の言葉にまるで耳を傾けず、司狼は朗々と不可思議な言葉を語り上げる。 まるで用意されていた台本を読み上げるかのように、宣誓をするかの如くため息混じりに言葉を吐いて。 「で、だ」 つい、と。ここで初めて俺の瞳を睨みつけ── 「おまえ──なにその女生かしてんの?」 ……そんな、信じられない言葉を、投げ掛けた。 「…………ぇ」 「なっ……司狼、おまえ何を──」 刹那──言葉を留めたのは間違いなく殺気で。 「おいおい正気か、蓮。てめえこそ何言ってんだよ、ボコられすぎてボケたか? 痴呆か? 若年性健忘症か?」 「だからっ、なんで先輩を生かしているとか、そんなことを」 「ああ、それね。別段不思議なことじゃねえだろうが」 「簡単な理屈だろ。じゃあおまえが鈍感っぽく振舞えないように、もっと分かりやすく言ってやろうか?」 「──オレ達がこんな様になっている元凶と解決策を、どうして放置してるんだって聞いてんだよ、オレは」 「……っ、……ぁ」 言葉を吐き捨てると同時、全身から滲み出たのは紛れもない殺意だ。 司狼は今、本気で先輩をコロセと告げている。 「──おまえ、ふざけんなっ!」 だから、俺はそんなこいつが許せなくて。 まだ残っている数少ない大切なものが、互いを排除しようとするのが我慢できなくて…… 「ふざけんな、何だよそれ、何考えてるんだよ」 「八つ当たりそのものじゃねえか。ありえねえ……そんなこと言うなよ、何で言うんだよ、そんなこと言うようなタイプじゃねえだろキャラ違うじゃねえか司狼ッ!」 「何言ってやがる。言ったろ、解決策ってよ」 「感情的になってんのはどっちだ。一回頭冷やして、よーく考えてみろ」 激昂を孕んだ吼えに答えた声は、嫌になるほど落ち着いていて。 「今の状況をなんとかできるかもしれない。オレはな、さっきからそう言ってるんだよ」 「そこの不思議ちゃんブッ殺せば、それで全部丸く治まるかもしれないぜ……ってな」 聞きたくもない……けれどこいつの言葉だから、根拠のあるだろう声を吐き出した。 「考えてもみろよ、蓮。仮にオレとおまえが今から組んでだ、そんで都合よく友情パワー発揮して、あいつら全員蹴散らせるだとか……おいおい本気で思ってんのか?」 「そ、れは……」 「無理だわな。ガキでも分かる」 聖遺物を得たばかりの司狼と、マリィとの交信が怪しい不安材料を抱えた俺。対して奴らは大隊長にラインハルト。 パワーバランスが違いすぎる。天秤の両端は釣り合いすら見せていない。 「つまり力じゃ結果は見えてるわけだ。おまえも言ったろ、連中は怪物だ。手に負えねえよ、まともにぶつかったら木っ端微塵だ」 「けどよ、それでも連中まだ完全じゃないんだぜ? 要はこれをどういう『まだ』って取るかだろ」 「どう取るって、いい方向と悪い方向にかよ」 「そうさ。まだ奴らは全力じゃない。だから、『まだ』こっちを自由にうろつけない。こう考えてみると話は全然違ってくる」 開いているスワスチカは七つ、完全には一つ及ばない。あれだけの暴威を誇った黒円卓の戦鬼は、しかし未だ完全の領域にはいないのだ。 街一つ灰燼に帰す力でまだ不完全と取るか、それともまだ不完全なままだと考えるか。 力を基準に判断すれば依然最悪。だがしかし、逆に奴らが手に入れた活動範囲という点で考えたのなら…… 「……あ」 それは悪魔じみた天啓。 逆の発想。そうだ忘れていた、あいつらは核兵器並の暴力を宿しているのに、今のままだと── 「なあ、よく考えたら笑い話じゃねえか、これ」 「ヘタすりゃ国一個ぐらい軽く消し炭にできる奴らがよ、今じゃ廃墟になった街で王様気取りだぜ? それが精一杯ときてやがる」 にやりと、いっぱい食わせたと言わんばかりに唇の端を歪める司狼。 そう、あいつらはこの街から外に出られない。 街そのものが聖遺物であり、奴らを具現させるための儀式がこの殺戮なら……それが完成しない状態なら、奴らは永劫この〈街〉《おり》の中だ。 街一個。それだけが結局、あいつらの奪えた勢力図となる。 「不幸中の幸いか、住人も全滅してる。これ以上誰かおっ死ぬこともないだろうしよ、気兼ねなくいけるぜ。後はそこの心臓代わり兼生贄さえいなくなればいい」 「そうなりゃ話は簡単だ。このまま連中全員、あっちに閉じ込めたまま、オレらがそっぽ向けばいいのさ」 「息巻いて戦争しにきたってのによ。いざ気合い入れてみりゃ、競争相手がケツまくってバイバイしてるなんざ、傑作じゃねえか」 「おまけに、次の可能性もナシだ。あいつらはやり直しすらできなくなる」 先輩が死ねばゾーネンキントの血脈は完全に途切れる。 代用の効かない機関部の歯車。五色の一角は二度と手に入れられない、代用品すらない。ならば、それはつまり…… 「………」 「そういうこった。勝てないんならな、戦わなきゃいいんだよ。それこそ永遠に」 二の句が継げない。もしその読みが正しければ、この上ないラインハルト封じだ。潰すのではなく、永遠に異界の彼方へ封印して顔を突き合せない。 二度と出会えないのならば、それは死亡したのと同じことだろう。 災害への対策、真っ向から立ち向かうこと以外の解決法。地獄を流れ出させない最も堅実な安全策。 だが、それは、そのためには── 「で、あとはそこそこ長く生きられる身体になったオレらが、ここと似たようなキナ臭い街だの聖遺物だのをぶっ壊して回ればいい」 「芽を片っ端から引っこ抜きゃ、連中が帰還することもなくなるぜ。完勝だ。そうなりゃあいつら、仲間内で延々と殺しあうしかできなくなる」 「永遠にジーク・ハイル、ジーク・ハイル……って狭い城ン中でよ。自慰みたいに代わり映えしないメンツで粋がるしかないわけだ」 「はッ、ざまあみやがれ、いい気味じゃねえか似合いだぜ」 「地獄の軍勢がこぞってお山の大将に早変わりだ。痛快じゃねえかよ、爆笑もんだ。腹抱えて指差しながら笑ってやろうや」 「だから、よ」 ──オレが。 「おまえにできないってんなら」 代わりに、そいつを。 「あの時と同じように」 殺してやるから──黙って見ていろ。 もう一度、あの日と同じことをすると。貴様が切り捨てるべきものを殺してやる。 そう何よりも明確に、誓いすら伴わせて訴えた瞬間が……我慢の限界だった。 「ふざけんな、ふざけんなよ司狼っ!」 「そんなこと認められるか、許容できるか。先輩を殺すだと? そんな選択肢、俺は絶対に……」 「ふざけてんのはそっちだッ、いつまでもその理屈が通る場合じゃねえだろォが!」 怒号が飛び交い、食って掛かった俺を強烈な威圧が襲う。 野獣のような眼光。もう何年も見ていない……本気の怒り。 それはもうどうしようもない、俺たちの間に生まれた溝で。完全に互いの見ている結果がズレた、その証だったから。 「寝ぼけてんなよ、オレはマジだ」 「ラリってんなよ蓮、目ン玉磨いて、脳味噌丸洗いしてからよく考えろッ」 「香純は死んだ、エリーもだ。もうてめえが今さら意地張る理由なんざなあ……丸ごと奴らに奪い取られてんだよ!」 「言ったろうが、他ならないてめえ自身が。なくなったら返ってこない、今あるものを大事にするって……ありゃなんだ。どういうことだよ、今と比べてよ」 「失ったら他のもんに縋りつくための言い訳か? 違うのか? そんなシケた面しやがって、まだ甘いこと言ってカッコつけやがって」 「今のおまえは、残ったもんが石ころだろうと、宝石だろうと、何の区別もできてねえ。全部取り上げられた後になって、落ちてたもん片っ端から抱え込んでるだけのクソガキじゃねえか」 「返ってこねえよ、みっともねえ。どこ見てやがる、未練たらたらさせやがってイライラするぜ……」 歯噛みし、睨みつける激情が、痛い。 何よりも。押しつぶされそうで、辛くて。 「そうさ返って来ねえんだよ、何もっ、何もっ、何一つだッッ!」 「なのにふっ切れることもなく、化石みたいな理論いつまでペラこいてやがるんだ、てめえはッ。悔しくねえのかよ、殺してやりたいって吼えてみろよォ!」 「こっちもケツに火がついてんだ、時間がねえ。おまえがどう行動しようが、オレはオレのやり方をやらせてもらう」 「時間だと……? おい、どういうことだよ、司狼ッ」 問いに僅か敵意は薄れ、自嘲の笑みが漏れる。 「……オレもな、死ねばあそこに堕ちる。くたばったら即、積み上げられた髑髏の一山になるんだよ」 「……なっ」 「驚くほどのもんでもねえよ、当然の理屈だ」 鼻を鳴らし、自らの心臓を指す。 そこで息づくのは、かつて吸血鬼に収められていた魔血の源。人体の動力機関にして、潤滑油の泉だ。 「オレはヴィルヘルムから奪い取ってここにいるんだぜ? あいつが手に入れた〈祝福〉《のろい》とやらも、そっくりおまけで付いてきてんだよ」 「死ねば即刻あちら行きだ。抵抗もできない、猶予もねえ。一発吠え面かかせてやるには今しかないのさ」 「最後に勝ちを狙って何が悪い」 それは、確かにその通りで。けれど藤井蓮の理屈にとって、決して頷いてはならない言葉でもあったから。 「おまえが……おまえこそ何言ってんだよ、司狼。らしくねえよ、弱気じゃねえか」 「俺とおまえであいつらを斃せばいい。簡単なことだろ、勝手に見切りつけてんじゃねえっ」 「優等生面なんかやめちまえ。馬鹿じゃねえかよ、馬鹿だろ俺たち。大人が手を焼く問題児だろ? ならそれらしく行けばいいだけじゃねえかッ」 「カッコつけてんのはそっちだ、賢そうに切り捨てる算段なんかすんな──ッ」 ここのスワスチカを開いて、俺とおまえで殴りこみをかける。 ラインハルトを斃す。先輩も死なせない。俺もおまえも、残った全員で生き残る。どうしてそれを選ばない。 「はっ、何を言うかと思えばそんなことかよ」 「じゃあ聞くが、おまえどうやってここのスワスチカ開くつもりだ?」 「それは、あいつらの誰かを……」 「バカが。それじゃ無理なのさ」 簡単に、それこそ呆気なく。考えていた言葉すら却下された。 「もう残ってんのはオレとおまえだけだ。近衛の連中はラインハルトの一部だからな、斃しても意味がない。ここをこじ開ける生贄にはならねえよ」 そして、既に代わりとなる有象無象も吸い上げられた後だから。 「………そんな、だったら」 今度こそ、完全に顔から血の気が引いた。 ラインハルトを斃すにしろ、封じるにしろ過程に必要なのは一人の犠牲。 残った者のどちらかを差し出すか……それしかなくて、その選択しかないのなら。 この俺に、選べとでもいうのか? 彼と彼女、その二つから、大切なほうだけ抱きしめろとでも? 「そういうこった」 「で、おまえは選べない。だからオレが選んでやるっつってんだよ」 「昔からそうだろが。駄々こねて、イイ子ちゃんぶってるおまえは、結局最後までどれも選べない」 「香純かオレが選ばないと、おまえは糸の切れた風船だ。八方美人しやがって、この状況でもきっちりかましやがる」 呆れかえりながら、司狼が先輩のほうへ歩を進め始める。 自然に歩き出した動作は確かで、その上殺意まで漲らせていたから── 「──だめだ」 肩を掴み、止める。それだけはさせない。させるわけにはいかないから。 手は震えている。振り返った司狼の視線が痛い。さっき言われたことを責めているようで……こんなに近いのに、遠い彼方のように感じた。 「…………」 ああ分かっている。分かっていたさ。おまえの言う通りだ。 俺はおまえみたいに自然体で、躊躇なく選び取ることができない。選んで捨てて、残ったものを誇ることもできやしない。 認めてやるさ、司狼。そっちの方が俺なんかよりずっと先まで進んでいたよ。俺はいつまでもしがみついた。今に積み重ねた敗北は、全部そいつが原因だって。 だから、だからこそ、俺は── 「駄目だ、司狼。おまえに先輩は殺させない」 俺にとってあの人は大切な人だから。何者にも代えがたい人だから。 そして、それは先輩だけじゃなく。 「おまえだって、俺に残った数少ないものじゃないか、このバカ野郎……!」 だから認められない。認められるわけがない。 失いたくない、この手に残った最後の一滴。 藤井蓮が取りこぼさずに済んだたった二つの持ち物、そのどちらかを秤にかけるなんて、絶対にできるわけがなかった。 「勘違いしてんなよ、おまえ何簡単に俺の大切なもの切り捨てようとしてやがる。何で勝手に……俺に許可なく馬鹿げたことやろうとしてんだ」 「俺はおまえを死なせない、先輩だってそうだ。失いたくないんだよ、切り捨てていなくなるなよ、そうなったら、俺は──」 おまえを大切だと思えなくなってしまう。 どんな姿でも、もう一度帰ってきてくれた腐れ縁の悪友を、敵として見なければならなくなる。 そんなのは絶対にごめんだ。絶対にやらせない。 おまえにはずっと、俺の近くで――遠くでもいいから生きて、馬鹿やっててほしいんだよ。 「だから……やらせない」 「価値なんてつけるか、優先事項なんて知るか、できるかできないかとかも知らない。守ってやるつもりなんかねえ」 「俺はおまえに、絶対殺させない。おまえの価値も失わせない」 大切な存在に留めたいからこそ、その選択をどちらも選ぶわけにいかなかった。 「…………」 その慟哭に、司狼は一度目を見開いた。 何も言葉が出ない。返答もない。沈黙がおりる、数秒の永遠。 逡巡は一瞬で──次の瞬間には苦笑を湛えて肩を竦める。 「はっ──まったく、この博愛主義者は」 その仕草からは険が取れていて、仕方なさそうに髪を掻いて…… 「いつまでもぺらぺら───メルヘンぶっこいてるんじゃねぇッ!」 「──ッ、ガ!?」 刹那、回転する視界。頬を突き抜けた衝撃に身体は飛ばされ、コンクリートの床に勢いよく横たわる。 無防備だった顔面への一撃に視界が瞬き、星が明滅するかように意識が揺れた。 ああ、くそっ、この痛みは、こいつ本気で…… 「藤井君っ!」 「すっこんでな、あんたは後だ」 抱き起こそうと駆け寄る先輩を声で制する。 這いつくばった姿勢から見上げた先には、俺を見下ろす司狼の姿。 「司狼っ、てめえ……!」 「怒ったかよ。ジゴロ野郎。どいつにもこいつにもいい顔して、あれは嫌だ、これは駄目だ、その上これまですんなってか」 「だから結局、最後は誰かによりかかってんだよ。おんぶに抱っこかよ、いい歳してよぉ。なんでもかんでもすぐ誰かに与えちまうから、そいつがアキレス腱になっちまう」 「自分だけでどうこうしようとすんのもその裏返しだろ。誰かがいなきゃ立てないから、そっちばっか見て、あげく自分はそのざまか」 「馬鹿が。おかげで〈悔悛〉《かいしゅん》しかしない大馬鹿になっちまった。どうしようもないね、こりゃ。立ちながら寝てんのか?」 「……っ、なんだと………」 「違うのかよ」 ふらつきながら、上から目線で吐き捨てられる言葉へ立ち上がる。 睥睨しているのが癪に障って、こいつにその視線をされることが我慢できず睨み返す。 叩きつける気迫など意に介さず、返る視線は涼しげで。けれど呼応するかのように屋上へ満ちるのは……紛れもなく戦意で。 ──思い出す。既知感ではない、確かな記憶。 かつてここで同じように対峙し、決別した瞬間。袂を分かつ要因となった、もう遠い昔のように感じる二ヶ月前の……… 「こいよ、蓮。〈あの日〉《ケンカ》の続きだ」 「銃だの刃物だのじゃねえ、オレとおまえのケリを、今つけようじゃねえか」 「─────!」 叫んだのは、自分でも何を言ったのか分からない、獣じみた絶叫。 振り上げた拳に、一瞬の交差。 喉を迸ったのは怒りの咆哮で。そして間違いなく……悲鳴の亜種でもあった。 「オォッ……!」 「……がッ、は──腑抜けてんじゃねえよ、腰が入ってねえぞォ」 鳩尾へ突き刺さるように入った拳。遠心力と共に打ち出された衝撃に耐え、返って来たのは脳と首を刈る裏拳── 「────ぎ、ぃ、舐めんな、効くかよ寝ぼけんじゃねえ、てめえっ」 揺れる視界に、ぐらつく足。即座に建て直して放った蹴りが胴を折り、同時に互いの攻撃が身体に痛みの熱を生む。 視界は既にどろどろだ。勘と意地だけで身体を支え、拳の応酬を続けていく。 そこに誰かが入り込む余地はない。いや誰にもその資格はない、あの日の続き。 肉体が砕け、続行が不可能になるまで続けられた、殺し合いじみた殴り合い。お互いに譲れないものがあったために起こった……腐れ縁の切断作業。 勝手に行くと言って、秘密を打ち明けると言って、俺たちを置き去りに行ったきっと最後の日常風景で── 「なんでっ、おまえはいつもっ」 俺たちを置いて行くのか。殴られて途切れた言葉、しかし伝わるのに過不足はなく。 「おまえが、行けるのに行こうとしないから、だろうがァ」 会話は成立する。互いを殴りながら、壊しながら、慟哭の代わりに打撃音を響かせて。 「そんなに行きたかったかよ。こんなとこまで、こんな場所まで」 「当然だろうが、だいたいおまえはいつもいつも、もどかしいんだよッ」 「同じことばかり飽きもせずよぉ……ずっと思ってきたぜ、オレは」 「“こいつはどうかしてる”」 「“アタマおかしいんじゃねえのか”」 「なんでこんなヤツが、こんな普通の日常楽しめんだろう──ってなァ」 「──ガ、はっ!」 「いい機会だ。頭カチ割って、中身どうなってるか確かめてやらァッ」 一際大きく殴りつけ、叫びながらまた殴りあう。 ずっと溜め込んでいた言葉が、心情が、とめどなく堰を切って流れ出す…… 「こっちだって、同じこと思ってたんだよ」 「なんでこんな破天荒キャラが、俺の隣にいるんだろうって」 「なんでこんな……どうかしてるヤツがいるんだって」 能天気な顔で、毎度毎度、厄介ごとばかり作るのが大得意で。 それもどうしようもない規模まで膨れ上がらせた後、やってくるのは毎回俺のところなもんだから。 「スリルが欲しいなら勝手にやってろよ、決まって俺を巻き込むんじゃねえッ」 「はン、人の性格にケチつけてんじゃねえよ、〈ご都合さん〉《トラブルメーカー》が!」 「てめえッ、どの口で言いやがる──!」 ──〈俺〉《オレ》から見れば、おまえがそれだ。 同じ感想を抱きながら殴りあう、殴りあう、殴りあう。 衝撃で手の骨は軋み、破れた皮膚が返り血と共に拳を染めていって……それでも、それでもまだ止まらない。止められないから。 「────!」 「ああ、そうだな。決まってぶっ壊すのは俺だ、おまえができるのにやらねえもんだから、毎回苦労してたなオイ」 「うまく趣向を凝らしてよ、お膳立てまで整えて、後は一番かき回してくれるバカ呼びに言って楽しんでた」 「尻が重たいんだよ床でくっつけてんじゃねえ。そんなに嫌ならどっか行きゃいいのに、てめえいつだってオレのこと待ってたろうが」 「誰がっ、おまえのことなんか待つかッ」 「待ってたろうが、興味がないフリだけしやがって。見え見えなんだよォ」 「どうするべきか分かっていながら、やりたくないってほざいてばかり。ざけんなッ、いつまでもいたいんならそこで膝抱えてろ、嫌なら目ぇつぶって耳ふさげ心臓動かすなボケナス!」 「邪魔なんだよ、それが一番いいって答えもない、代替案も出せないくせに──」 より一層激しさを増す打撃音。 「オレのやる事成す事、勝手に値踏みしてんなァッ」 気合と共に激しくなる拳は、そのまま感情と直結していた。 その叫びが、声が、全てが今の司狼が抱いている感情そのものだ。決して逃げてはならない、向き合うべき精神の構図。 「答えが出てんのに躊躇すんなっ、それっぽく振舞ってチャラになるかっ、いい加減目ぇ覚ませこの夢想野郎……!」 「ぐッ……だか、ら……」 それは勘違いで。俺はそういう答えを決めたんだと。 「ふっざけんなァ──渡すかよ、先輩を! 勝手に行こうとする、おまえのことも!」 全部、全部取りこぼさないと言っただろう。馬鹿と言いたければ言え、待ってろ、見てろ。そっちこそ目玉が曇ってるじゃねえか。 俺がおまえの言うご都合主義なら、やってみせるさ。たとえそこに答えがないとしても、子供じみた癇癪でも、それでも。 「二度と行かすかよ、ここにいろっ。司狼、俺は──」 「おまえに奪わせないっ、そして、もう一人でどこにも行かせねえッ!」 だから、思い出せよ。いつものことだぜ、こんなこと。 ラインハルトがなんだ。地獄がなんだ。俺とおまえが組んで、負けたことなんて一度だってなかっただろう? だから、なあ、これからあいつらに見せてやるのはそれにしようぜ。舐められっぱなしでいられないのなら、今こそ見せよう、俺と、俺たちと、ここで── 「だから、それがっ……」 その想い。必死に抱きとめて、それでも声を張り上げた葛藤は、ちゃんと伝わったはずなのに。 「寝ぼけてるって言ってんだよ、この馬鹿野郎──!」 間髪入れず放たれた一撃に、平衡感覚ごと打ち砕かれた。 「くふふふふふ………ははははははははは」  その虚空。遥か高み、彼方から見下ろして嗤う影。  得がたい幸福に出会ったかのように、道化が三日月に口を歪めてその光景を眺めていた。 「すばらしい、なんという喜劇、なんという友情か。予想以上だ、感激だよ、痺れが止まらぬ憧憬すらしよう。 交差する思惑、互いの意地、信じているのはその論点か、はたまた相手自身をこそか。その願いはどの終点を目指している? 希望まで無形の混沌ではあるまい、君らは譲れぬ結末を描いて、互いを誇りに思っているのだから。ああ見ておられるか獣殿。あれぞ友、純粋なる情愛の活劇。我らが歓喜の幕開け」 「私とあなたが形にすることのできなかった語らいを、今我らの写し身が謳い上げてくれている……!」  恍惚と、水星は望外の奇跡に酔いしれる。  その煌きに尊さ、なんと底の知れぬことか。この錆びた感慨を揺り動かし、永劫の安寧に楔すら打ち立てるほどだ。  哀感、好感、共感、情感その総て、総てがただ麗しく美しい。  想い合え──そしてぶつけ合え、さらけ出すのだ共鏡よ。  終焉を照らし出すがいい、永遠に互いの間を行き来するその反射光を束ねて照らし出せ。  未来はきっと明るいと、その愚かな言葉を真実とせよ! 「素晴らしい、その一言に尽きる。いやそれすら足らぬな。弁には自負があったのだが、言葉に出来ぬ、出来ていいものではない。したくない。 識者の仮面を被り、あの葛藤を形にするのは神聖さに泥を塗る行為だ。見守っていたい、久々に思ったよ終わって欲しくないとさえ。 ああ、君たちは本当に、どこまで私の瞳を焦がすのだ」 「“語りえぬものは沈黙しなければならない”。よく言ったものだ、君らにもこの言葉を送ろう。 ふふふ……まるで貴女のようではないか、マルグリット」  問いかけられた先、見えている光景に黄昏の少女は泣き叫んでいた。  もうやめて。止めてあげて、ひどいと。  重ねる声は悲鳴と懇願。  彼の悲しみが、張り裂けそうな、言葉に出来ない胸の内が伝わって来るから。  あの痛みを止めてあげたい。なのにできなくて、縋りつくことしかできず涙を流す。  悲鳴か、歓喜か、慟哭か、告白か……もはや判別できない、数え切れない想いの数。ぐちゃぐちゃに混ざり、荒れ狂う激流となって藤井蓮の中を暴れている。  水と油のように、感情は個々がまるで混ざり合わない。濁流のうねりとなり、激しさだけがひたすらに加速していく。  殴るたびに傷つき、心さえも千切れかけているのがよく分かる。  血が、血が、血が──傷だらけで止まらないから、やめて悲しいの、言葉に出来ないもう泣かないで。  彼の心をこれ以上苦しめないでほしい。  だからどうか、あの争いを止めてほしいと願い、そして願っているのに── 「何を嘆くことがあろうか、我が女神よ」  答える声は、完全に逸脱者のそれで。 「見たまえ、あそこには総てがある。彼らは真に素晴らしい」  あれをこそ至上であると。陶酔しながら、湿る息を吐いて酔いしれていた。  指差す先では、今も血が飛んでいる。  殴りつける拳の皮膚が破れている。  その度に悲鳴をあげている。なのに彼らは涙さえ流していない。それが悲しい。  それを、そんな有様を見て美しいと讃えるのかと。  感性の齟齬が、今完全に白日の下にさらされた。  この瞬間、少女の信は道化から離れたのだ。  連れ添ったはずの影をおぞましいと思った。  撲殺しかねない状況で続く殴り合いを、宝石や輝きのように眺めている瞳を──けがらわしいとさえ。  美辞麗句を連ねる様から離れたくて、なのに影の独白は続く。 「友愛を懐き、互いを壊して形と成す愛の証明。同時にそれは、互いの心情を汲みながら、そのために憎悪で拒絶した絶縁の嘆きでもある。 矛盾だ、矛盾が成されているのだよマルグリット。さながら、空を飛翔しつつ、深海へ潜航しているかのような荒唐無稽さだ。 踏破し、脱却し、条理を置き去って旋回する〈雲雀〉《ひばり》。奏でる囀りの応酬が羽を毟り合うたび反響し、心地よく世界を満たす」 「羨むしかあるまい、脱帽するよ、彼らは今この世界に二人きりなのだ。魔道に頼るのではなく、ただ築き上げた絆で〈法則〉《わたし》の〈頚木〉《くびき》を跳ね除けている。 如何なるものにも縛られていない。総ての感情を瞬間に、永劫と等しく感じ取り、それすら流れ落ちる飛瀑の一滴。凄まじいな。素晴らしいな。止めることなど誰に出来よう」  噛みあっていない心情と結果。  想ったことと与える結果は何も縛られていず、それこそ理由なく溢れ出している。  彼らに湧き上がっている感情は、今や自分たちすら制御不能の間欠泉。無限に吐き出されて止まらない。  悲しいから悲しみが出てくる。嬉しいから喜びが生まれる。  その常識を置き去り、数多の情動と共に止め処なく心をかき乱す、破壊の応酬。  このままではそれこそ無限に続くだろう、続けてしまうのだ壊れてさえも。  どちらかがその水量で、他方の情を押し流すまで。 「許せないから壊すのではない。信じている、しかし何故かその願いを砕いている。憎しみより激しく、愛よりも慈悲深く。それは何故?」  理解不能、観測者には分からないその行動因果。 「認められぬから奪うのではない。認めている、その道を羨んでもいた。だから与え、けれど奪い、されど無視して、そして通り過ぎながら壊死を望む」  他者の不理解、埋まらぬ溝。それを埋めるためには、感じていた想いを、すれ違いながらも吐き出すしかなく…… 「彼らは今語り合っているのだ。かつてないほどに激しく、凄絶に。 君をこう見ていた、君をこう感じていたのだと事細かに叫んでいる。相手に分かってもらう為に、分かってやる為に、分からせる為に。 思い出を語り合い、大切で仕方ないとその持て余した感情をぶつけ合っている……そこに下らぬ虚飾は一切がない。総て剥ぎ取られ、裸の己を曝け出す。 なんと素晴らしい──これぞ魂の決闘だ」 「ああ……難解だったかね。美しい顔が歪んでいるよ、また婉曲的だったか。ならばこう言おう。 ──彼らは今、嘗てないほどに愛し合っているのだよ、マルグリット」  愛……あれが、あの痛みが?  心の中で悲鳴をかき鳴らしながら、それでも大切な相手を壊すあの行為が?  違う、分からない、そんなことあっていいはずがない。  けれど少女は、無力な自分では彼らを止めることもできなくて。 「理解できぬかね? 私もそうだ、ゆえに美しいと感じる」  だから、何よりも尊いのだと。目を輝かせ、自分の枠を離れたものに久しく心を躍らせていた。  喜劇の続きを観賞しよう。  無邪気な子供のように、凄惨な光景を眺め続ける。  彼の視線は完全にそちらへ向き、意識すらも総てが魅入られていた。悠久の時を越えた感動、創造物が予想以上の出来を見せていることに感謝すら覚えている。  ゆえに、メルクリウスは気づかない。  己が喝采を上げているその隣。  何よりも優先していたはずの少女の嘆きを、耳に届いていながら見過ごした。  かつての自身にはありえない、その愚挙愚行。  自らが女神と謳った者の悲鳴を彼は置き去りにしたのだ。  己が胸を焼く感動、それがどのような形であれ、そちらを確かに優先してしまった。  その過ち。久方の情動に心奪われた事実。堅く誓ったはずの己が言葉を……このとき自ら疎かにしてしまったこと。  最大にして致命的な失態に、笑う道化は気づかない。  この瞬間、自らの身体すら繰り糸で絡め取ったのだということを。 「──ッヅォ」 「ぐっ……ぉおッ」  殴り合う、殴り合う、腕が砕けるまで、骨の支えを失うまで。きっとあの日のように、互いが壊れて動けなくなるまで殴り合う、殴り合い続ける。  食らい、食らわせた拳はもはや三桁を越えていた。  それよりも痛烈な呼びかけが肺腑を轟かせ、傷だらけの総身を打ち付ける。  既に満身創痍だ。けれど心はそうじゃない。  まだまだこの分からず屋に言ってやりたいことが山ほどあって。  結局この際だから、殴るのと同時に全部胸の内から吐き出していく。  悲鳴をあげているのか、噛み殺しているのか。  想いは届いているのか、気づかれてはいないだろうか。  思惑は静かに、水面下で息を潜めている。  何を感じ、何を伝えて、それでも隠しているものを遂行するために。今はただ、この殴り合いを── 「だいたい、昔からよ……毎度こんな感じだったよ、なぁッ! いつまでも飽きやしないおまえ引っぺがしてよ、その度に毎度のことキレやがる。面倒くせぇ」 「それの、何が……っ」 「悪いんだよ、鬱陶しいんだ。オレの美感に抵触してイライラさせやがるッ」 「ガラクタいつまで抱えてやがる、なくしたんだよ。いい加減残像にまで縋りついてんなァッ!」  そうだ、これはガラクタだ。おまえが身体張る価値なんてないだろ。  奪おうとしてんだぞ、本気だぜ。オレはよう。  そういうときの厄介さ──おまえ、ちゃんと知ってるだろ。 「勝手に背負うな、命賭けて、気張って、意地張るところ間違えっぱなしなんだよ! 頼んでもねえのに人の理屈へ突っかかってきてんのはどっちだよ、あァ?」  だから、ほら、さっさと切り捨てろよ。  オレを倒さないと、ここは開かないんだって。  今からおまえ、あいつら殴りに行けねえだろうが。  言っただろうが、先がないんだ。どのみちオレは詰んでいる。  なら誰が一番この場で邪魔で、誰が消えるべきか分かるだろう。  先輩殺したって無理なのは当然だ。さっき口にしたデタラメが仮に真実でも、オレはいつか死んで、城の一部になっちまう。  そんなのゴメンだぜ。ああその通りだよ、蓮。オレが狙うのは、いつだって勝ちだ。  だから、おまえを必ずあそこまで行かせてやる。 「だってのに、おまえはゴネて、ちっとも大人にならねぇガキのままだッ」  勝たなきゃいけないんだろ? 勝とうとしてんだろ? そのために行きたいんだろ? 本当は、あの場所へ。  なのにどうして、オレまで頭数にいれてんだよ。  いつまでも勝手にメンツに数えやがって、満員なんだ置いてけよ……なあ、蓮。 「この阿呆がッ、気合いで何でも解決できりゃあ世の中宗教も法律も生まれてねえよ。イエスもブッダもアラーもいるかっ! どうすりゃいいか言っただろうが、知ってんだろ気づいただろ。ならいい加減腹の一つでも、男らしく括りやがれッ。 あの人殺されんのが嫌なら、オレをヤってケリつけてこい。勝ちたいんならそれぐらいやってみせろ、ええ、甘ちゃんが!」 「奪われたから奪わないって聖人かよこのボケ。その女守りたいなら、ブッ殺してやるぐらい言ってみたらどうだ!」 「ふざけんなって言ってんだろ、そんな理屈、俺は──」  そうだよな、おまえはそう言うさ。分かってる。 「知ったことじゃねえっ、どれもゴメンだッ! おまえを捨てるなんてな、言われたら絶対やってやらねえ……!」  だよな。ワガママだもんな、おまえは。  こんな言葉じゃ、折れるはずないよな。 「じゃあ何だ、どうすりゃいいか言ってみろォ! 人の考えた案にケチつけて、てめえ……さっきからあれは違う、これは違うとそればかりじゃねえかッ! オウムに話しかけてんじゃねえんだよ、自分の言葉ぐらい一つや二つ吐いてみろ!」 「だから、それも言ってんだろうがっ、痴呆こきやがってニワトリ頭が」  勝手に人をバカにするな、バカ。けどそれじゃ進めないって言ってんだ。分かれよ、それで越えていけ。 「俺は、おまえに先輩を殺させないッ! あの人を守り抜く、もう誰にも、何者にも傷つけさせない──!」  相変わらず、惚れた女を守り抜こうとする石頭。  今どき古臭い亭主関白思考で、そのために身体張ることを当たり前だって思ってる。  似合ってねえって。そんな女顔で。  いつまでもかっこいい台詞、恥ずかしげもなく吐くな。聞いてるこっちが恥ずかしい。 「そして、おまえもっ」  そんな馬鹿だから、切り捨てられないのはもう一つあって。 「おまえのことも、見捨てないッ! 大切なんだよ、勝手に見限れるか──秤になんてかけられるか、舐めんなよクソ司狼がァッッ」  ……こんな時まで、ダチのことも手放せない大馬鹿だ。  ああ、そいつは光栄だけど。  こうする他ないだろうがこのバカ野郎。代案のない今で、間違いなくこれが最善手だと知っているのにな。 「うるせえよ、それでどうにかならないから手詰まりなんだろうがっ」 「うるさいのはおまえの方だ、寝言かましてるのもそっちだ。俺はそんなの認めない、何度だって言ってやるッ」 「抱えて進んで何が悪い、俺とおまえでできないことなんて、何もねえッ! 今までも、今も、これからだってだっ! 俺は俺の理屈で、おまえがいれば勝率が上がるからやってんだよッ」  やせ我慢で、なのに確信をこめた言葉が刺さる。本気でそう思っていて……ああほんとタチ悪いわ、こいつ。  だから、苦労するんだ。おまえが毎度毎度あれこれ抱えるもんだから、結局オレがこうやって骨折ることになるってさ。……気づけよ。 「おまえとなら、勝てるだろっ」  博愛主義者め、いい加減にしやがれ。なんでもかんでも、後生大事にしてんじゃねえよ。一つで満足して、どうして歩めない。 「俺たちはそうだったはずだろ。腹立つけどおまえは凄えよ、組めば無敵だ。そうだろッ」  だから、そんなホモ臭えことさっきからベラベラと……  自慢げに語るなよ、耳が痒い。鼓膜を捨てたくなってしまう。 「売られたケンカなんだぜ? なんで買わないんだよ、逃げだろそれは。 だから殴り込みをかけるのは俺たちだ。欠員出さずに、あいつら全員ブッ倒しに行くんだよ。 俺と、先輩と、おまえで勝つ。三人で勝つんだ。誰も負けない失わない、最高にカッコいい完全勝利。 それが……俺たちの勝利だろ!」  そうだな、それは最高の絵空事だ。  残ったオレたちでの総決戦。誰も欠けず、誰も敗北せずにあいつら丸ごと倒せて大団円。  おいやったなと肩を叩き合って、バカやって、朝日を背にハッピーエンド。  ……悪くねえな。けど都合よすぎだ、もう遅え。  分かってるだろ、なくしすぎた。そういうことやっていいのもやれるのも、そこに着くまで守り通せた奴だけなんだって。  だから── 「どうやって、だよッ。だから案出せって、オレは言ってるだろうが!」 「知るかバカ司狼、おまえが考えんだよ。大得意だろうがこういうの──!」  アッパーと共に叫んだ言葉はそんなもので。  他力本願というか、子供の癇癪みたいな理論。  思わず苦笑しながら、エルボーでお返し。  はっ……なんだそれは、本物の馬鹿だ。  根拠のない自信も大概にしろよ。それは無理で、もう俺は考えを出してるんだ。後はそっちが実行するだけなのに、いつまで何発も殴ってるんだよ。  知ってるんだ、分かるんだ。間抜けに思うなよ、鼻がいいんだ知ってるだろ。  ──蓮、おまえもうオレぐらい簡単に殺せるのに、何まだ殴ってんだ。先輩守りたいならケンカなんて付き合うな。 「考えろって、おまえなぁ……」  ああもう、ほんと世話焼けるわ、こいつ。 「なに人に頼ってんだ、飾りかそのアタマはよォ──ッ」  他人に望み託すなよ、バカ。自分より他人を信じてんな、バカ。  この上さらに買いかぶってやがったなんて、まったく呆れたバカだから。 「……っぐ!」  殴るたびに、殴られるたびに身体の奥底で悲鳴があがる。  心臓の奥、魔血を駆け巡るのは泣き叫ぶ声と、はやし立てるような二つの響き。 「おまえが何とかしろよっ、なにおまえの女殺そうとしてる奴、アテにしてんだッ」  だから、泣くなよ香純。やかましいんだおまえの声は。  オレ達の代わりに泣いてくれるって言うんだろうけど、今はちょいと勘弁してくれ。  エリーも応援とかしてんな、香純泣き止ませろよ。  せっかくこうまで名演技やってんだぜ? 笑っちまう、心地がいいだろ、もうちょいと仏頂面が必要だから引っ込んでろって。  こいつを行かせるために、切り捨てさせるためにここにいるのだから。  つき合わせて悪いけどな。言うの忘れてたよ。  オレの案に乗ってくれ。こいつを、最後の決戦まで届けてやりたい。 「悪いかよ、おまえをアテにして……なんでもできるんだろ、自称〈主人公〉《ヒーロー》さんよっ」 「自称はどっちだ、この〈喜劇俳優〉《コメディリリーフ》が──ッ!」  口から漏れるのは、止まらない感情の波濤。  このやり取りを刻み込むように、互いの拳が幾度目かの唸りをあげた。  顎を打ち抜くクロスカウンター。  よろめいたのは寸瞬、意識は混濁しながらも揺るがない。  断ち切られることもないまま、再び吼えと打撃音が木霊し始める。 「はっ」  たまらず、口から漏れたのは悲鳴でも呼吸でもなくて…… 「どうよ、蓮。楽しいかぁ?」  腹から突き上げるような一撃に、返答は膝蹴り付きの咆哮。 「んなわけあるか……俺は、マゾヒストじゃねえッ」 「そうかよ、オレは──」  ──楽しいぜ。  あの時と同じくらい楽しくて、懐かしさすらこみ上げる。  同じ言葉に、同じ感想。けれどそれを今は言えない、言えないままにケンカの続きを重ねていく。  苦笑は口の中にある血液だけが知っていて。  その言葉を名残惜しそうに切った。  再び、痺れの抜けない握り拳を引き絞る。オレを殺してみろと、その結果を与えてやるために、強く振りかぶって── 「──ッ、ぐ、ぎ」 クリーンヒット。鼻骨のひしゃげる一撃に思わずうめく。 溢れ出す血液は気管まで逆流し、それでも肉体の停止には及ばない。闘争はさらに激しさを増し、流血を伴って続行されている。 流れる視界の端、泣きそうな瞳が映ったことにかまける余裕すらない。 身体は全身グシャグシャだ。損壊度は限界まで迫り、しかし頑丈になったために倒れることを許さない。 そうだ。倒れてはならない。それだけは、決して。 先輩を、こいつを失わないために。たとえ一瞬でも、俺たちがあの日のように笑い合えるときを作るんだ。だから── 「はっ、いい加減倒れとけよ蓮」 「なあに、簡単なことだ。目が覚めたら終わってる。このまま気持ちよくお寝んねといこうや」 「オレが選んでやるよ、保護者に任せろ。ガキみたいにわめいてりゃいいさ、もう止めねえし、どうでもいい」 「そうだな、おまえはそういう根性なしだ。ギリギリのとこまで来て、なのにいつまでも綺麗なもんばっか見てタマいじってりゃいい」 「できないことはやってやるさ。汚れなくていい。あの時みたいに、今までみたいに、オレがその分切り捨ててやるから……」 「そろそろウゼぇんだッ、落ちとけよ──なァ!」 だから、それだけは認められないと言っているだろう司狼。 「落ちるかっ……落ちるのは、そっちだ」 「何が保護者だふざけんな、俺は選んでるんだよ、おまえにっ」 どうこう言われるつもりもない。汚れ仕事を押し付けてきたかもしれないが、それでも考えなかったわけじゃない。 答えなんて最初から一つなんだ。だから曲げないし、曲げられない。 躊躇することはあった、分からなくもなった。それでも結局行き着くのはここで。 「渡せるかよ、背負って叫んで何が悪い! 誰にも言わせねえぞォ……ッ!」 「空っぽになった今でもかよ」 「だからっ──空っぽなんかじゃねえ、無価値になったなんて決め付けんなっ」 氷室玲愛に価値がないなんて言わせない。 遊佐司狼に価値がないなんて言わせない。 見てみろ、俺の日常はまだ残ってる。大切なものが二つもまだ残っているんだ。奪われていない、なくしていないまだ立ち上がれる。 藤井蓮は藤井蓮でしかなくて、手は二本きりだからこれしか残らなかったけど。 なくした他の大切なものを思うと、涙が堰を溢れそうだけど。 奪われて、悔やんで、みっともなく泣き叫んで。それでもおまえと今殴り合っているのは、その二つが残っているからなんだ。 だから── 「縛り付けてでも、おまえを止める」 殺させない、価値のないものになんてさせない。 「俺が道を作るから、そうなったら着いて来いよ」 そして見てろ、今度は俺が先に行く。おまえより速く、俺たちの進む道を切り開く。 「……っ、なにィ?」 感謝してる。いつも最初はおまえだった。ずっとそうだったんだ。かっこつかなくてダサいから、気づかないふりばかりしてた。 司狼に引っ張りだされなきゃ、俺は本当に安心を抱えたまま、ずっと部屋の隅で蹲っていた。幼年期から今まで、俺は能動的に何もしなかったから。 何一つ新しい行動をせず、外界すら忌避していたかもしれない。 心のどこかで斬新さを求めながら、実行以前に思いつきもしないこの思考。そこから外れさせたのは、外れさせてくれたのは…… 「正気か、おまえ。頭打ちすぎて、自己分析もできなくなったかよ」 「キャラじゃねえだろ、似合ってねえよ。飽きもせず延々同じこと繰り返せるようなイカレ野郎が、ナマこいてんじゃねえ」 「できねえよ、やれっか。そりゃオレの領分だ。だから……」 「いや、今度は俺がやる。──俺が、おまえを連れていくっ」 すまない、ありがとう、だから感謝を。そして切り開くのだ、この手で。 「すっこんでろタコ。言っただろ、俺が主役なんだよ」 「いつまでも脇役に切り込み役任せると思うな。全部いいとこ取りしてやるから」 「だから、おまえを止める。絶対に止める。何も奪わせない、切り捨てさせない、俺がなんとかするのを──黙って見てろォッ!」 出てくるのはこんな憎まれ口だけど……どうか伝わってくれ。 拳の刺さる身体はボロボロで、それは全部俺が殴ったからで。 目が痛い。喉が焼き切れる。こんな表現でしか、いつも本音を吐けなかった自分の天邪鬼さに腹が立つ。 けれどこんなくらいじゃ、俺もおまえも馬鹿だから。きっと死んでも治らないんだろうな、分かるよ。顔をつき合わせたら、これからもこんなこと繰り返すんだろう。 シラフじゃ、そんなの絶対ごめんだって言うんだろうけど、それでも今なら素直に頷ける。 おまえの言動は、思想は、確かに俺の求めた地平と正反対だった。はっきり言って不愉快だ。苛立ったのも一度や二度じゃない、それこそ目に映るたびに感じてたさ。 なんでおまえみたいな奴が俺の目の前にいるんだろうって、それこそ何度も思った。 絵本から抜け出したみたいな、歴史の教科書にでも載ってそうな奴とダチやってるなんて、笑い話にもならない。 けど、ああそれでも……おまえはめちゃくちゃなやり方で、とんでもない結果だけは出すものだから。逸らしたはずの視線が、いつもそっちへ引き寄せられてしまうんだ。 そのたびに、胸へ憧憬が灯ったことは……ただの一度もなかったか? 絶対に嫌だと思っても、ああいう風に生きてみたいと感じたことは、本当にただの一度もなかったか? 頷けなかったそれを、今こそ認めよう。 おまえの馬鹿さ加減に呆れながら、それでもずっと一緒にいたのは、秘密を共有していたからなんかじゃなくて。 「……もうおまえに、俺のできることを、任せない」 自分は絶対に選べなくて、それでも誰かに形にしてほしかった裏側の願望。 手の届かない未練を形にしたようなおまえが誇らしかったと、そう気づいたから……! 「渡さねえよ、逃げてねえ。駄々でもなんでも、俺がこうするって決めたんだ」 「おまえに投げて、勝手に解決されたのを後になって受け取りなんてしない。もうお膳立てしなくたっていいから、最後までやらせろ」 「信じてみろよ、楽勝だぜ? 俺は、おまえの馬鹿に付き合ってこられた男なんだからなァ──!」 もう一度、ありがとう。だからもういい。 おまえにずっとケツ持ってもらって、後始末任せてここまで来てしまった。 汚れ役になんかさせない。道理なんてこじ開けて、おまえに、おまえ以上のご都合主義を見せてやる。 おまえと先輩、三人で駆け抜けた絶望の先。 そこに待つ未来こそが、きっと、たった一つおまえに返してやれる俺なりの恩返しだから。 「はっ、はは……」 「ははははっ、ははははは」 「おいおい……蓮、てめえいつからそんなえらくなったよ」 「オレのやってきたこともできるようになる? おまえが? 本気でそんなこと思ってんのか、まったくなんだそりゃ──コいたな、オイ」 「──ゴ、ぁ!?」 それに応えるのは、やはり獰猛な笑みと一撃。 くの字に折れ曲がる身体、思わず崩れ落ちそうになる。追撃に含まれるのもまた怒りと、紛う事なき敵意の発露。 「やってみろよ、いいぜ。のぼせんな、オレに勝てるかよ」 「チンタラやってるおまえが、即決即行のこのオレ様に? はっ、んなこと一度もあったかよ」 「さあな……だから、これが最初だッ」 「──ほざけよォ、やってみろ! 永遠の青二才がァァッッ!」 「ああ、やってやるさ……ッ!」 跳ね上がったつま先を避け、頬を思い切り殴りつける。 さらに一撃、一撃、お返しに三発の拳をもらう。腕が上がらない。足が止まっている。それでも倒れない、倒れるわけにはいかない。 間髪いれずに叩きつけた先は、互いにどこを殴ったのかもわからない。 それでも眼光は鋭く、意思は衰えず、ただ決着を目指して加速し続ける。 「ぐっ、蓮……!」 「───司狼ッッ!」 決着のつかない弁舌は止まった。互いにもうその領域を過ぎていると、分かったから。 破れた皮膚の下、骨が覗く手足で殴りつけあう。 飛び散るのは肉の欠片で、血の飛沫。裂帛の気合をぶつけ合い、咆哮でうめき声をかき消しながら続行する。 身体を襲っている激痛は絶え間なくて、精神だって〈鉋〉《かんな》でもかけられたかのように、そぎ落とされていく。 音すら鼓膜から消えた。漂白されていく感覚、白く、白く、純粋になっていく余分な何かまで流れゆく錯覚さえしている。 その中で感じているのは……奇妙な一体感。不可思議ともいえる、ある種の心地よさだった。 「…………!」 コインの裏と表が激突するような錯覚。お互いの足らない部分を露呈するように、得るように……あるいは差し出すように。 明滅する意識の感覚は頼りなくて、不確かなもの。白昼夢のように、暴力が交差していく。 痛みだけが鮮明で、なのにそれすらどこか遠い出来事のよう…… 「くっ……ハ」 小さく──初めて口に笑みが浮かぶ。 それは無我になった一瞬の刹那。意識に浮上した本音が、食いしばっていた歯から力を抜いて出た本音。 なあ、司狼。俺、一つだけ嘘ついたよ。 あの時も、そして今も。おまえとケンカするのは、腹立つけど俺も同じくらい── 「───ォォォォオオオオオオオオ!」 「ガアアアアアアァァァァァ───!」 意識が戻る。互いに激突したのは額、頭蓋がヘッドバットで跳ね上がって皹の入った頭骨から鮮血が舞い上がる。 視界の消失、紅に染まった。 「…………ッ」 間断、微かに映ったのはギラつく眼光。 「こいつでっ、折れろォォッ」 即座に振りぬかれた風切り音は、暴風のそれ。 乾坤一擲、無二の拳。放たれた一撃は正真正銘、温存し続けた全力の切り札──! 「ッ、ガ──ぐぁ……」 ──落ちる。砕けた支え、骨へ食い込んだ腕。 肉が裂け、両足まで一気に罅割れる。気力では立ち上がれない。物理的に直立が不可能となる。 揺れ動く視界が定まらない。鼓膜が麻痺した、感覚が遠い。 頬を撫でた風さえ分からなくて、意識が薄れ、そのまま…… 「───っく、は………ぎッ」 譲れない、最後の言葉が脳を駆け抜けて。鼓動が最後の〈血液〉《ちから》を四肢に送る。 「は、ぁ……ぁ、ぁぁぁぁぁぁああああああッッ!」 そうだ、司狼。俺は誓った。だから、このまま、今だけはおまえに──ッ 「司狼っ、俺は……」 守り抜く、譲れない、俺が決める──そう言ったから。 「───ォォオオオオオオッ、ァアアアァァァアアアアア」 悲鳴のような再動。 握り締めた瞬間に砕けたのは、全身の骨。当たって砕けたのは、相手の身体。 胸へぶち当たり、振り抜いたと共に旋回して殴り飛ばされる司狼の身体。コンクリートの床にバウンドし……勢いのままに地を転がる。 最後によぎったのは罪悪感か。それとも意地を通した矜持だったか。それすらも分からない。 スローに映った光景。血が出るまで奥歯を噛み締めて、倒れ伏したその姿を見やる。 赤いコートは血染めで、傷のない部分なんかなくて。そこに何と言ってやればいいのか、擦り切れた意識は思いつかなかった。 「…………」 足を引きずり、その側まで近寄る。 反撃はなかった。身体の力ではなく、立ち向かうつもりがもうお互いにない。 あの一瞬の交差で、俺たちの心は落とし所を見つけた。だからもう立ち上がって戦う理由がなく、あとは最後のケジメみたいなものだけで…… ああ、終わってしまう。けれど。 「俺の勝ちだな……司狼」 震えている喉。沈黙の後、ようやく出てきたのは……結局、そんなつまらない言葉だった。 最低の勝ち名乗りに泣きたくなる。誇ってやることすらできない、そのことが殊更苦しく感じられる。 「あーあ………ちくしょう、負けたか」 「ま、いいか。……おまえになら」 なのに感じたのは、どこか納得したような声で。穏やかな笑みすら漏らし、仰向けの姿勢で空を仰ぐ。 その言葉を聞いた時、全身から抜けたのは、張り詰めた気概か。 ついに両膝から俺の身体は崩れ落ちて、重力に引かれ落下する寸前── 「藤井君……っ」 駆け寄って来る先輩に答えるだけの余裕がない。血で汚れるのも構わずに俺の上半身は支えられた。 頭から落ちる手前で止まり、覗き込む泣きそうな瞳に……心がまた痛んだ。 結果的に、守りたいと思う人をこうまで心配させてしまったことが、ふがいない。 男同士の殴り合いなんて、彼女には見せるべきじゃなかった。仮に香純ならば今頃とっくに大号泣ものだろう。 そして…… 「なあ、蓮。いいケンカだったよな、こりゃ」 笑って馬鹿なこと呟いてるもう一人。 俺のダチを、こんな風にしか止められなかったと。そう改めて感じたのが悲しかった。 暢気な口調に、さっきまでの獣じみた気迫は感じられない。 その口ぶりがあまりにいつも通りで、それこそ落ち着いた心に怒りさえ沸いてくるのはどういうことか。 ……なんだよ、だんだん腹立ってきたぞ、おい。 熱の引いた身体にどっと疲れが押し寄せてくる。深呼吸をして、やっと吸い込んだ酸素がいつもの調子を戻してくれた。 「あのなあ……」 「なにがいいケンカだ、最悪の気分なんだよ。おかげで身体中がたがたじゃねえか。余計な手間かけさせやがって」 「頭は冷えたかよ、まだってんなら、もう一発いくぞ」 「そりゃ無理だな。なんせ、常時煮立ってるもんでよ。これくらいじゃクールダウンしそうにないわ」 「しっかしまあ……ほんと厄介だな、おまえ。ちっともこっちの思い通りに動きゃしねえ」 「ったくよう、結局こうなんのかよ……貧乏くじは毎回オレか、たまんねえな」 「訳わかんねえよ。やっぱ殴ってやろうか?」 「ははっ、やってみな。十倍返ししてやるよ」 ぼやく声に微かな喜悦を宿して、司狼は身体を起こす。 身体は相変わらずズタ袋のようだが、小さな傷は既に塞がっている。体内の聖遺物が俺たちを急速に復元していた。 それを苦笑交じりに確認して一度小さくため息を吐く。 えらく面倒な手順を踏んだことがチャラになっていくみたいで、なんだか納得がいかない。 「しかしまあ、青臭いな、お互い」 「いい具合に意地はって、馬鹿みたいに声張り上げてよ。間抜け面つき合わせて、そんでボロボロになって……ははっ、なんだこりゃ?」 「まるで八十年代のドラマじゃねえか。使い古されてるのに、自分でやってみると意外に歯応えあるってやつ」 「世の中、意外とテンプレも捨てたもんじゃねえみたいだな。試してから文句は言うべきだって、なんつーか、これもまた今更か。悪くねえ」 「……ああ。そうだな、悪くねえ。おまえみたいなバカとバカやるのは、いつだってそうだった」 「おまえとだったから、オレは楽しめたのか……」 「司狼?」 しみじみと、思い返しながら含み笑う様に眉を顰めた。 いつも何かに飽きてますって顔したこいつが、今俺の前で信じられないほど満ち足りたと言っている。 不似合いな、噛みあわない齟齬のような仕草。 「──だから、安心したわ。“仕方ない”じゃねえ、今のおまえなら“賭けられる”」 「悪いな。やっぱこいつはオレの役みたいだ。最後はマジになっちまったけどよ……これだけはちょいと譲れそうにない」 「……? 司狼、おまえ何を──」 何も答えない。そのまま言葉をさえぎる様に、ついと初めて視線を俺の隣に向けた。 「ああそれと、先輩も悪かったな」 「安心していいぜ、そいつの側が世界で一番安全だ。離れなければ生き残ることぐらい簡単だろうよ」 「なんたって、無敵の主人公様みたいだから。頑張りな、適正うんぬんじゃなくて、あんたがこいつの〈恋人〉《ヒロイン》なんだ」 「え……遊佐、君?」 「いい女になれってこと。応援してるぜ、〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈達〉《 、》は」 それは答えを求めていない忠告じみた声。フェンスまで足を引きずるように歩み、こちらに振り向いた。 流れる血も、汚れている身体も気にしてない。 ただお互いの間に流れる風越しに、俺たちだけを眺めている。 傷だらけの身体で確かに。そして驚くほど澄んだ笑みと、真摯な眼光を携えて── 「蓮、おまえは勝てるよ。行ってこい……オレらの分まで、よろしく頼むわ」 ──次の瞬間、屋上に発砲音が響いた。 「─────」 「………ぁ、ぁぁっ……」 燻る硝煙の軌跡は、いつの間にか握られていたその腕から。 こめかみに銃口を押しあてた司狼は……それこそ止める間もなく、自らの脳髄を撃ち抜いて、い、て。 「──司、狼」 目の前の光景を、頭が理解できない。 落下する、頭部を喪った身体。それは既に物言わぬ遺骸。 溜め込まれた魂は風船のように弾け、スワスチカへと捧げられていく。あいつと殴りあった時間を、互いに流した血さえ吸い込んでいくように。 ……そして、それはスワスチカの完成を意味する。 これで確かに、道は出来た。進むべき〈導〉《しるべ》。俺たちが欲しがった魔城への到達手段、その完成を意味して── 「ああ、司狼、おまえ……」 つまり。これでようやく、ラインハルトが具現できるから。 「〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈ぱ〉《 、》〈り〉《 、》、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈り〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》」 その言葉通り。あいつは最後まで、俺より先に行ってしまったのだ。 俺が一番しなければならないこと。切り捨てなければいけないものを、それでも守りたかったものを。 実にあっけなく削ぎ落として……行ってしまった。 零れ落ちた、片腕に残っていた一滴の飛沫。 それがついに───俺の腕をすり抜けて、死の向こう側へ消えていった。 「ふふふふ、ふはははははは……… 素晴らしい、感動したぞ見事なり。なんと心の躍る決闘、我々の凱旋には相応しい〈戦いの鐘〉《ファンファーレ》だ」  遥か上空。鼓動を響かせ、ついに稼動し始めた魔城の玉座で獣が笑う。 「久方ぶりだな、中々に震えたよ。その友愛、破壊に行き着いた情の姿、私の理想とするものだ。 それほどまでに友と語らったことは我々にもない。卿らのそれに比べれば、我々は互いの影に語りかけていたようなものだと今自覚した。 喜ぶがいい、誇れ、そして自覚せよ。その大儀、噛み締めて咽び泣くがいい」 「友の亡骸を抱きしめたかろう? 死後すら私に囚われたぞ。血の一滴、骨の欠片、髪の毛の一本すら卿の下には残っておらん。 覆したいか、この結末……ならば参れ、来るがいい。 ここに卿の斃すべき敵がいる」  軍靴の音が一斉に響く。  訪れた出陣の時。大戦時より積み重ねた死者の総軍が、地獄の王と共に開戦の雄叫びをあげた。 「さあ、待ち望んだ宿敵の誕生を祝おう」  重い腰を上げ、王が戦場へ降り立つその刹那。 「そして……カール、我が唯一の友よ。私は再び、卿と語り合ってみたいのだ。感謝しているのだよ。卿は約束を果たしてくれた、全力を出すに足る舞台を見事与えてくれた。しかし──」  黄金の瞳が、ひとたび虚空へ向け煌いた。 「俯瞰を続けるその視線、もはや終わりにしたらどうだ? 上座では見えぬものがあろう。先の一幕、まさにそれだ。我ら総て容易いと見限り、試行せぬまま飽きを嘆いていたのではないかな」 「試してみようではないか、残っているものは総て。私はそれを学んだ。そのためには、卿が必要なのだ。 我が友、カール・クラフトよ」  笑みさえ浮かべ、最上の友愛を囁く。黄金の獣は確かに特別な意を投げ掛け、そして答えを求めもせずに笑みを湛え─── 「く、はは……はははは。 はははははははははははは───」  素晴らしい、素晴らしい。なんたる喜劇、なんたる悲劇。この上ない幕開け。  胸に迫る慟哭、目も眩む友愛。別離に彩られ、しかしそこに溢れんばかりの感謝を滲ませて崩れ落ちるその様の──なんと麗しいことか。 「ああ、もどかしい。歌い上げたい、詩に書き留めたい、本へと綴り後世へ伝えたい、希うよ留めたかったほど。 心から喝采しよう、〈君〉《 、》〈を〉《 、》〈創〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》〈よ〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 誇りに思うよ、我が代役。君が息子で私の鼻も高いというもの。素晴らしい完成度だ。 今こそ賛美歌を捧げよう。その出生を、誕生を認めよう。君は我々の福音となったのだから」  影は喜びにうち震え、害悪でしかない祝福を送る。  その存在が発する総て……よくぞ我らに捧げてくれた。〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈子〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》と、心の底から褒め称えて。  愛という呪い。縛鎖にしかならぬ父性。  〈祝詞〉《のりと》を歌い上げる姿は、それこそ毒蛇の姿でしかなく── 「いとしき子よ、さあ立ち上がりたまえ。敵が来るぞ、君から何もかも奪った彼だ。 女神の剣を手に取りたまえ。残った矜持を振り絞れ。そうだとも、まだ総てが終わったわけではない。片手が自ら離れても、もう一本その手に癒着した重みを感じているはずだ。 一つでも大切なものが残っている。ならやるべきことなど決まっていよう。戦うのだ、己が全身全霊を賭けて。打倒せよ、奪い去ったその尽くを」 「弔いのために再起せよ、取り戻すのではなく突破するのだ。最高の〈鎮魂歌〉《レクイエム》を聞かせておくれ。 失われた君の総てに。取り残された君自身に。これから失われる我々のために。それこそ君ができる唯一の歌劇。 〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈戻〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 だから、さあ、薙ぎ払いたまえ。新世界のために、旧世界へ居座る頑愚蒙昧万象、遍く総て、その〈絶叫〉《うたごえ》で──」 「我らの〈既知感〉《ふるきず》を淘汰するのだ」  静かな叫びは微熱を孕ませた悪魔の詠嘆。  人知れず真なる願望を宿して、水星は那由他の果てから舞台へ惜しみない賞賛を浴びせる。  その、影で。 「……ぁ、……ぁあ…っ」  望みを押し付けられた少女は、今度こそ心に大きな風穴を空けていた。 「あぁぁっ……いやっ、いやだよ、こんなのっ。 ……みんな。みんな、みんな死んじゃった……っ!」  そうだ、みんな死んだ。死んでしまったのだ。取りこぼした。  自分が彼と同じく守りたくて、好きになっていた人たち。……これから友達になれたかもしれない大切な人が、みんな。  今なら分かる、レンが必死になってこの光景を阻止しようとした気持ちが。  彼は知っていたんだ。  立ち上がるか、跪くかじゃなくて。  こんなに苦しくて痛くなるから、息をするのさえ辛くてたまらなくなる。このことを知ってたから、身体が傷つくのを恐れなかった。へっちゃらだって知ってたんだ。  そう、やっと気づけたのに…… 「痛い……痛い……痛い……痛い……」  心が軋んでいる。怪我なんてしてないのに、  知らなかった、分からなかった。殴るとか殴られないとかじゃなくて。誰かが痛んだり悲しんだりするだけで、自分だって同じ傷を負うんだって。  だから周りが笑顔だと嬉しくなるんだ。  守ってあげたいって思えるから、苦にもならない。  やせ我慢して、平気な顔で立ち向かっていけた。なのに、こんな── 「やだ、やだよ……わたし、ひどいこと、した」  自分なんかがいるから、彼から総てを背負わせた。 「わたしなんかがいたから、こんな……!」  カリオストロが匿い、この悲劇の発端となった存在。  悪意を以て用意したのが彼だとしても。その企みが出来上がる引き金となったのは、紛れもなくマルグリット・ブルイユの存在が引き起こしたのだから。  無垢な少女は、その純白さゆえに責任の転嫁ができない。  咎が僅かでも己へ向けば、誰かによって許されない限り、永遠に自分への罰を求め続ける。  そして、彼女を裁許できるのはこの世に僅か二人だけ。  藤井蓮とメルクリウス。この二人だけだった。  しかし今、前者は慟哭に身を浸し、後者は歓喜に酔いしれている。  女神の嘆きに気づかない。その涙を拭わない。  ゆえに変化の起こっていく彼女の内面にも気づくことが出来なかった。  ……致命的な破損がついに筋書きへ起こり始めていく。 「…………」 鳴動する魔城の振動。空には巨大な魔方陣が展開し、ついにあれはこちら側へと完全に帰還した。 波となり伝わる……いや、降り注いでくるのは、ある種の感情。 歓喜している。喜んでいる。喝采さえしながら笑う悪魔の祝福。 「………、────」 よくぞやった、素晴らしいと。心からこの場で蹲る俺を褒め称えていて── 「───────黙れ」 ──喉を、焼く、声。 平坦な二文字の単語に地が揺れた。大気がたわみ、怒りが伝播して世界を軋ませる。 「てめえら……」 握り締めた手は、食い込んだ爪で鮮血を滴らせた。 視界が霞む。耳鳴りがうるさい。痛みも消えた。漲る感情に呼応するように、湧き上がる力はただ強く強く強く─── 奪ったな。よくも、よくもここまで食い荒らしてくれた。 俺が守りたかったものを、喜びを、日常を、共有したかったものを根こそぎ奪っておいて笑うか。誇るか。 俺の相棒すら、その内に取り込んで。 「……ふざけんな」 満足だと微笑むのか。美味だと囀るのか。拘泥するなさあ来い足掻いてみろなどと見下して嘲笑うか貴様ら──ッ! 「ふざけんな。ふざけんなよォッ!」 「てめえらがっ、てめえらみたいなクズの集まりが──揃いも揃って、何こいつを値踏みしてやがるんだァ!」 「ふざけんじゃねえぞ〈塵屑〉《ゴミクズ》共がッ! とっくに死んで腐りきった蛆まみれの頭でこいつを測るな、ブッ殺すぞォォオオオ───ッ!」 虚空を穿つまでに轟いた咆哮。 許さない、殺してやる、斬首にかける一体も逃さない、微塵に刻んで〈鏖〉《みなごろ》す。 思い知らせてやる。その存在に恐怖と共に叩き込む。対価を今から奪い取ろう。 遊佐司狼がどれだけ大切な奴だったかを。藤井蓮にとって、どれだけ掛け替えのない親友だったか。 貴様らに、思い知らせてやる。 だから── 「そこにいやがれ──俺が、貴様ら総て!」 「二度と戻らない〈地獄〉《ヴァルハラ》へ、突き落としてやるッ!」 「があああぁぁァァッ──!」 身体を蝕み、なお変革へと突き進む力の波動。 天に鎮座する悪魔へ向けて──俺は最終戦を布告した。 「よかろう、かかってくるがいい」 「その奮戦に総てをかけよ。期待している、踊れよ主演」 「……………」  重なって響いた二柱の直言。ヴェヴェルスブルグの心臓部はそれを静かに、けれど隠し通せぬ不快感を抱いて聞いていた。  微量の感情は、それだけで決壊にすら届きかねないほど。  不感症であるゆえに、僅かな障りが意識を毒す。  飲み込み続けるゆえに、腹の中で消化ができない。 「父様、やはりあなたは」  嘘をついたのだ。特別なものがあるではないか。  総てを確かに愛していよう。私のことも愛している。  しかしそこに平等性を保ちながら、ただ一つの例外を置いていると感づいた。 「ツァラトゥストラ───〈代〉《 、》〈替〉《 、》〈品〉《 、》」  その言葉が証明だ。隠せない、滲み出ていた父にとっての真なる思惑。  私でもなく、部下でもなく、母でもなくましてや今迎え撃たんとする敵手の存在でもない。  最初から見ているのはたった一人。  あなたに〈屍〉《ちから》を築かせた、あの虚ろな影なのだ。  魔城の心臓部が、誰にも気づかれないほど不規則に揺れる。  ──憎い。憎いぞカール・クラフト。  なぜ、〈息子〉《わたし》ではなく〈友人〉《きさま》なのだ。  源泉を揺さぶるのはその事実。彼に通常の感性が備わっていたのなら、歯軋りしかねない程の激情と、憤激の津波。  よくも、なぜ、だからか──許せない。恨めしい。  平静であることこそが父にできる最大の奉仕でありながら、それでも己が内より湧き出るその泥を止める事が出来なかった。  歯車が泥をかぶる。機関に小石が紛れ込む。燃料に気泡が混じる軋みがあがる効率は低下して取り繕うたびに波紋は大きく─── 「────」  刹那、その不規則性を修正し、正常に戻る稼動音。  己こそが核を務めてきたというプライドか。即座に機構は平静を取り戻し、雑音が起こった事実を隠して、同一の作業を続けていく。  秘めた事実は、嫉妬の情。  物理的にも精神的にも誰かへ呟くことはなく。  ……〈歯車〉《イザーク》は淡々と自らの役目を遂行する。  静かに佇む、あくまでその表面上は。 「………あ」  しかし、そこに一つの例外がある。  物理的に触れることもできず、会話という行為すらイザークは他者と通わせられない。  主であるラインハルトとすらも生涯合わせて会合は数度。片手で数えられるほど。  元より他者を〈案山子〉《かかし》か何かにしか見ていない彼だ。  黄金の瞳に映るのは、己と同じ黄金の光を宿した獣の君だけ。  その例外たる唯一を除き、心通わせたいと願う他人がいないのだ。  だから精神構造から鑑みても、どれだけ思い悩もうが、彼の葛藤は他者へ伝わらない。  雑音など不要。必要なのはただ一人。  ゆえに誰にも伝わらない。伝えることもできず、ただ絶望と妬みの狭間を漂うだけ。  だが……それは彼がただ一人組み込まれているからであり。 「いま……」  ここに今、新たにして最も自己と近しい部品が近づいている。  もう一つの〈中枢機関〉《ゾーネンキント》。  替えであり、同じ役目を持った最重要部品は、確かに生じた感情の波を感じ取っていた。 「……もしかして、さっきの。 怒っているの、イザーク? ううん、違うこれは──」  昇る。昇る。昇っていく。  八番目のスワスチカの開放。それに伴い魔城の心臓へと吸い上げられていく玲愛は、その最中で先に待つ葛藤へ触れた。  共に抱えているのは、掛け替えのない友人達の魂。  自分達のために道となり、先を託してくれた彼らを抱きしめて、自らの決戦場へと昇っていく。  触れた指先から伝わるのは、隠していた本音。  その暖かさに涙して、今一度強く誓った。これから落ちる場所、立ち向かわねばならないものを屹然と見据える。  さあ──今こそ目を開けよう。  耳を澄まして。  鼓動を聞いて。  声に出して、伝えるのだ。イザークに。  あなたが感じているものが何なのか。  教えてあげる。助けてあげる。 「きっと、それを出来るのは私だけだから」  持て余した想い。誰だって一度は感じるであろう、その心が何なのか。  あなたが父へどういう想いを懐いているか。どうしてほしいのか……それは当然で、ありふれたものなんだって、伝えたい。  語り合おう。ずっと目を逸らしていた自分がしなければいけないのは、間違いなくそれなんだと思える。  拒絶は……されるだろう。  耳を傾けてすらもらえないかもしれない。  けど、それくらいで丁度いい。ずっと逃げ続けていた自分には、それくらいの困難が必要だ。傍観や諦観を感じたとしても、それに負けない想いが私にはあると信じてる。信じられる。  そうだよね、みんな。  だから。 「待ってて、藤井君」  必ずあなたの力になる。  散っていった友人達、そしてまだ生きている大好きな人へ呟いて、玲愛は孤独に渦巻く壺中天へと落ちていった。 Der L∴D∴O in Shamballa ―― 13/13 Swastika ―― 8/8 【Chapter ⅩⅡ Homo homini lupus ―― END】  忘れられないことがある。忘れてはならないことがある。  人生に仮定の話は無意味だと分かっていても、ふとした時に思い出すのだ。そして問わずにはいられない。  あの過去を避けるために、はたして自分はどのような選択をするべきだったのだろうかと。  かつて、ある男がいた。彼は幼少より聖職を志し、結果として夢を叶えた。  別段、その道の才に長けていたわけではない。彼は何処までも凡庸であり、身の丈にあった努力の末に、分相応な地位に就いたというだけ。特に珍しくもないありふれた人生だ。  が、動機は些か奇異だったと言えるだろう。聖職者という立場の者は、すべからく他者への救済を本分とし、それを至上とせねばならない。  にも関わらず、男が心より望んでいたのは、他者より己の救済だった。  つまり、縋ったと言うべきだろう。信仰の世界と、神への愛。この人間社会において最大の派閥であり、共有する概念、価値観。宗派の差異など関係なく、人たるものを創りたもうた天上の何がしかに祈るということ。その存在を認めること。  そうした世界に、男は縋りついたのだ。  彼は自分を凡俗だと思っている。そして同時に、異物だとも知っている。  人が人として生きるために必要な力は総て十人並みにすぎなかったが、まったく不必要なものだけが異常に突出していたのだ。  万物に宿る思念と記憶が、見える、聴こえる、伝わってくる。それは読心などというレベルではない。  人間が本に見える。路傍の石ころがラジオに見える。彼が生れ落ちたその世界は、おそらく他の誰にも理解できない摩訶不思議なものだったろう。  世界観を他者と共有できない恐怖と孤独。それが男を、信仰の道へと走らせた原因だった。  その最大派閥に属することで、自分が人であると認識したかったのである。  神は世界を創りたもうた。人を愛し、その営みをいと高き所から見ておられる。ゆえに私も、天に坐します父の祝福を受けた子供なのだと。  思い、信じ、願い、縋る。男の嘆きは、しかし父に届かない。  少し考えれば分かることだ。彼が飛び込んだ世界こそ、人の世でもっとも爛れた煉獄そのものなのだから。  俗に宗教は麻薬と言う。信者の幸福は酔漢のそれだという格言さえある。  人は不完全なものゆえに、社会の最大派閥であるその場所こそが一番顕著に狂っているのだ。  ゆえに、男もまた壊れていく。  磨り減って、薄くなる。  異能はもはや、苦痛を通り越して命を削った。  このままここに居続ければ、遠からず自分は消えてしまうだろうと、彼は凌遅刑にかけられた囚人の心境で諦めていた。  この世界に救いはなく、逃げ込むべき場所はない。  そんな諦観。漫然と死んでいく男はしかし、光と呼ぶべき者と出会った。 「1939年、12月24日……私は真実の光を見た」  後に黒円卓の騎士と呼ばれる者たちにとって、それは運命を決定付けられた黎明の瞬間。  そこに集った面子に纏まりはなく、この出来事がなければ生涯関わらなかったであろう者たちだ。  まず、出自の卑しからぬ女性将校が二人。  次いで、鬼畜としか言いようのない罪人が二人。  凡百ながらも母性に溢れた女性が一人と、得体の知れない魔女が一人。  そして、今にも擦り切れようとしている聖職者が一人……  その場で起きたことを有り体に表現すれば、全員が打ちのめされたと言うべきだろう。  遥か上位にある怪物。  理解の及ばないそれを前に、皆が恐慌して跪いた。各々微妙な心情は違っていても、屈服したという事実に変わりはない。  そう、屈服したのだ。彼らを前に。  怪物は二人いた。  内の一人は、名前だけなら当時のドイツで知らぬ者など一人もいない。  髑髏の貴公子。第三帝国の斬首官。ゲシュタポという秘密警察の長であり、国家の暗部を掌握したラインハルト・ハイドリヒ。  もう一人は、前者に比べれば知名度はないに等しい存在だったが、底の知れなさは際立っていたカール・クラフト。  この二人。あるいは二柱と表現するべきかもしれない者らは、彼から見ても、他の六人から見ても、完全に位相のずれた存在だった。まるで絵本の登場人物がそのまま動き出したような、名状しがたい非現実の塊である。  他者と世界観を共有できない男にとって、黄金と水銀の超常性は祝福だったと言っていい。たとえそれが計り知れない恐怖だとしても、同じものを見て同じように感じる対象とは、すなわち絶対の〈神〉《イコン》に他ならない。  なぜなら、彼らの心と記憶だけは、見ることも聴くことも出来なかったのだから。  主と崇め、忠誠を誓い、その後ろに続こうと選択したのが総ての過ちだと気付きもせずに…… 「いや、私は気付いていた」  あるいは、気付かない振りをしていたのか。 「気付きながらも、彼らから離れられなかったのが私の罪」  そして、離れられると思ったことが最大の過ち。  激化していく戦況と、敗色が濃厚になっていく祖国。しかしそれと反比例して、黒円卓は深く強大になっていく。  まるで祖国を、いや、大戦に関わる総ての人間とその魂を糧にして、肥え太っていく獣のように。  同志は、皆が壊れていた。皆が狂っていた。彼らは変化などしていないと言い張るだろうが、人の内面を見通す男の目は誤魔化せない。  黒円卓の〈神〉《イコン》にあてられ、清廉な者も汚穢な者も、等しく歪み始めていたのだ。  思うに、男が真に恐れていたのは黄金でも水銀でもなく、自分自身だったのかもしれない。  彼らの下で力を得るということは、己の根幹にある渇望を呼び覚まされる。それは対外的な仮面を剥がされ、自己の暗部と向き合う作業に他ならない。  同志達の変調は、そのことが原因であったのだろう。ある者は否定し、またある者は幸福に酔い、己が〈世界〉《ルール》を発現させる彼らは、一様に人の形をした獣と化した。  そして、男が狂おしく渇望した〈世界〉《ルール》とは…… 「別人になりたい」  石が嘆き、風が嗤い、水が怒って火が叫ぶような世界に生きることが耐えられない。広がる戦火に比例して、男の目と耳が感じ取る諸々は壊滅的に淀んでいく。  ゆえに凡俗として、凡夫として、誰もが共有している五感が欲しい。それを実現させるためには脳髄を入れ替えるしか術がなく、そんなことは不可能である。  そして、不可能であるからこそどうしようもなく焦がれるのだ。 「ゆえに、私は逃げた」  黒円卓の双頭は、確かに絶対恐怖という同一価値観を仲間と共有させてくれただろう。  しかし、彼らの下にいる限り、己の渇望が日に日に強く肥大していく。  もう耐えられない。  もう誤魔化せない。  際限なく飢える中で、一欠片のパンだけは毎日与えられるような状況は、絶食の果てに餓死するよりも苦痛である。  だから逃げたのだ、己のために。  あの日あの時、彼らと出会わなければそうなったであろう結末……磨り減って飢え死にするという終わりを求めて。  後悔はない。迷いもない。引き返して人生の分岐路に戻りたいと思っただけ。聖職に生きる者として微力ながらも救済を成し、たとえ目に映る光景が他者に理解出来ぬ異界であっても、せめて美しいと思うものを眺めていたい。  子供は好きだ。子供はいい。戦災に疲れ、やつれていても、彼らは輝きを持っている。大人たちほど歪んでいない。  人生の終焉は、そうした子供たちに囲まれて迎えられれば、と……  黒円卓から逃げた男は、孤児院を棺桶に選び、子供たちを献花に選んだ。  あくまで自己愛からくる選択であったものの、〈孤児〉《はな》たちは笑っている。その過酷な〈記憶〉《えいぞう》を断てるように、辛い〈記憶〉《ノイズ》を消せるように、男は粉骨砕身で彼らに尽くした。  己が救われるように。花が美しく咲くように。  笑っている彼らが好きだ。それを見る自分は癒され、幸せだ。ゆえにさらなる笑顔を与えよう。  その論法に恥ずべきことなど何もなく、人と人との繋がりは元来そうした作りになっている。  だから男は、〈孤児〉《はな》たちに水を与えた。糧を与え、愛を教えた。己を愛して欲しいがために、全霊をかけて彼らを愛した。彼らを救った。  時間にして、三ヶ月かそこら、九十年以上生きてきた男の生で、その三ヶ月こそがもっとも輝いていた瞬間だった。  あの日、総てが壊されるまで…… 「卿の望みを叶えよう」  男の楽園であった〈孤児院〉《かんおけ》に、黄金が訪れそう言った。  よく覚えている。忘れられるはずがない。  彼が引き連れていたのは黒円卓最強の三人。今や、その内面を見るだけで嘔吐を催すような人型の鬼たちだった。  〈白騎士〉《アルベド》は笑っている。  〈赤騎士〉《ルベド》は蔑み、呆れている。  〈黒騎士〉《ニグレド》は鋼のように一つのことしか考えていない。  黄金の心は読めずとも、彼ら三騎の魂から何が起こるのかは明白だった。 「十人」  花でも摘むかのように何の気もなく、〈子供〉《はな》を摘めと彼は言う。 「選び、指差せ」  摘んでもよいと思う花を捧げろ。 「残りは卿のものでよい」  だが十人、十輪の花だけは貰い受けると。 「卿の値段だ。それを代価にここで支払え」  十という数字。十という人選。それは偶然だったのか、あるいは必然だったのか。  男の〈孤児院〉《かんおけ》には、十ほど異質の花があった。  それはこの時代、この国で、持つことを許されぬ類の花。慈しむことを罰せられ、禁じられている〈人種〉《はな》だった。  男はその十の花と、他の花を区別したことなど一度もない。平等に、公平に、同じだけの愛を与え、同じ花として美しいと説いてきた。  だというのに…… 「一人」  男の指は彼らへ向く。事態を掴めず呆然と、そして縋るように見てくる愛児たちの目が焼きついて離れない。 「二人」  男の指が動くたび、〈白騎士〉《アルベド》の銃が乾いた音を立てて選ばれた花を散らしていった。  赤い血煙と化していく花びらが、その魂の慟哭が男の胸に突き刺さる。 「三人」  なのに、ああ、何ということだろう。男の指は止まらないのだ。震えもなく迷いもなく、次から次へと愛する花を選んでいく。 「四人」  そして何よりも呪わしきは、男の胸に打算という下劣さがあったこと。この状況にも関わらず、彼は保身の弁解を自己の中で構築していた。 「五人」  その十人を選ばなければ、残り総ての花を摘まれるだろう。つまり算数の問題なのだ。 「六人」  損害が、もっとも軽微なものである選択。ゆえにこれは正答であり、自分は間違ったことなどしていないと。 「七人」  そんな理屈。はたして摘まれた花たちが納得するのか?  否、有り得ない。 「八人」  愛したのだ。愛していたのだ。全霊を込めて私はあなた達を救いたいと願っていたのだ。 「九人」  だが、この手から零れていく。私自らが零していく。  何が足りない? 何が悪い? 答えは自明だ、この歪んだ世界観。  他者と血の色を共有できない眼球。悲鳴の痛ましさを同じ音に感じられない鼓膜。それらを司る脳髄。総てを内包するこの〈肉体〉《うつわ》。  つまるところ、そうしたものがどうしようもなく自分は欠陥品なのだ。  要らない。こんなものは要らない。脆く穴だらけな器を捨て去り、真に完全な別人になりたい。  神父様、と声が聞こえる。  どうしてなの、と花たちが泣く。  愛は、愛は、愛は、愛は――おお神よ、あなたは何処におられるのだ! 「十人」  最後の花が散った時、男は深く理解した。  ああこの世に、神などいないと。 「ゆえに私は、あなたを憎む」  あなたに焦がれ、あなたになりたい。 「私が知る、真に完全なるもの」  侵され難く自立した、最強の存在。 「あなたを敬い、あなたとなってあなたを汚す」  それこそが、私の望む私の総て。  己が救われようなどとは思わない。自己愛からもたらされる祝福など、存在しないと私は悟った。  ゆえに歩こう。何処までも償おう。  永遠に、永劫に、私は罪人。  この歪んだ聖道を、〈永久〉《とわ》に歩き続けるため―― 「私が〈神〉《あなた》になるのだ、ハイドリヒ卿」  誓いを呟き、ヴァレリア・トリファは十字を切った。 「あなたは本当に馬鹿だと思う。逃がしてもらったのに、リザが生かしてくれたのに、どうして戻ってきたの? 頭悪いよ」  話がある、と呼び出されて、開口一番その台詞に、香純は少し驚いた。 「玲愛さん、知ってるの?」 「嫌な夢を見た」  それはレーベンスボルンの子供たち……彼らの記憶が、玲愛にも流れ込んだということなのか。  彼女ら二人にとって、共通の曾祖母である人物の過去。香純と玲愛は、今その知識を共有している。 「お腹痛くなりそう」  女なら、誰でも身の毛がよだつはずだ。あれは嫌悪や忌避という単語なんかじゃ追いつかない。  理解できないし、したくもなかった。議論の余地なく、最悪レベルの不道徳。 「私、頭きてるの」  そして、何よりも腹立たしいのは。 「今でも、リザのことがあまり嫌いになれない」  鬼のような女だと思う。世間一般の母親像から、どうしようもなく乖離した価値観、選択……立場や時代背景を考慮しても、とうてい許容できるものじゃない。  まして玲愛は、彼女にとって免罪符だ。過去の罪過を帳消しにするための生贄であり、普通は恨んでも呪っても足りないと思うはずなのに。 「頭、くるよ。そんなあの人がした、たった一つだけのいいこと……それを無駄にしちゃおうとしてるあなたに」  何をしたいのか、何を考えているのか。香純の思考は、玲愛にとって理解の範疇外だった。 「あたしはですね」  それに香純は、少し困ったような顔をして自嘲する。 「人、いっぱい殺しちゃったんですよ。 首切り殺人、あったじゃないですか。あれ、犯人あたしなんですよ」 「だから?」  それとこの行動に何の意味があるという。 「死んで償う、とか言うつもり? 意味が分からない。本当に分かってる? あなたがそれをすると、さらにいっぱい死ぬんだよ」 「その、殺した人たち……が帰ってくるとして、他の関係ない人たちが何千人も死んじゃうのよ。分かってる? 何を吹き込まれて勘違いしたのか知らないけど、キセキとか、そんなに甘くない。お願いだから、頭悪い子は早く帰って。あなたにできるプラスなんか、何もないよ」 「じゃあ」  辛辣ながらも苦しんでいるような玲愛の言葉に、香純は穏やかな口調で言い返した。 「玲愛さんには、何ができるんですか?」 「…………」 「随分詳しいみたいですけど、いつからどれくらい知ってたんですか?」 「…………」 「あたしが頭悪いのは認めるけど」  かなり無力なのも知ってるけど。 「玲愛さんがそうじゃないなら、何もすることはなかったんですか?」  問いに、玲愛は答えない。 「あたし、本当に何も知らなかったんですよ」  守られていたし、隠されていた。  まだ知らないことだってあるかもしれない。 「全部、知ってたんですか?」  総て、最初から何もかも。 「全部、計算ずくですか?」 「――違う!」  かぶりを振って、玲愛は小さく叫んでいた。 「そんなこと、ない」 「だったら」 「玲愛さんは同じ学校の先輩で」 「あなたたちが、後輩で」 「出会って」 「話して」 「仲良くなって」  そんな、自然にできあがったのが今の関係。 「素敵な偶然だって、あたしは思いますよ。だから良かった。玲愛さんが否定してくれて。友情パワーとか、あたしは信じたい性分だし」  決して自分たちは、よく分からない誰かの掌で踊らされたわけじゃないんだと。  香純の言葉に、玲愛は何と言って返すべきか分からなくなった。 「先輩があたし達と知り合ったのは偶然だって、それだけ分かればいいんです。意地悪言ってごめんなさい」  何時から何処まで知っていたとか、そこで何を思いやってきたとか、そんなことはどうでもいいのだ。  本当に大事なのは、自分達の関係が嘘でも偽りでもないっていうこと。それさえ分かれば問題はない。 「だから、ちょっとは信じてくださいよ。あたし馬鹿だけど、そんなにネガティブでもないのは知ってますよね? あたしが来たのは、勝つためです」 「綾瀬さん……」  彼女の言ってることがよく分からない。玲愛は半ば放心しながらその先を待つ。 「言いましたよね。あたしは人殺しだって。 だから、ケジメつけないといけないんですよ」  思い出して、自覚して、罪悪感に苛まれていればそれでOKなんて有り得ない話だろう。  出来ることを探さないと。何が可能か考えないと。おまえは悪くないから大丈夫だって、そんな優しさに守られているばっかりじゃ意味がない。 「先輩、蓮のこと好きですか?」  そう思うから、彼女にも確認。 「あいつの駄目なところ、十個くらい言えます?」 「いきなり、何を言って……」  眉を顰める玲愛に対し、香純は指折り挙げていった。 「まず、意外に短気。すぐ嘘つく。秘密主義。思ってること口にしない。鈍い振り大好き。カッコつけ。顔可愛いのに褒めると怒る」  いくらでも出てくるとばかりに続ける香純は、玲愛を促すように横目で見てくる。  ああ、それは確かに、彼と接していれば色々もどかしい思いをしたものだ。あまり怒ったりしない自分だけど、むっとしたことなら結構あるし。 「あと、古い」  そうだ、今どき珍しいくらい彼は男の子であろうとする。 「実は男尊女卑思考」  うん、そうだね。そうかもしれない。何でもかんでも俺は男だから男だからって―― 「極めつけは、やっぱりあれでしょ」  都合十個目の、一番ムカッとくるその欠点を、玲愛も口に出していた。  藤井君の良くないところ。それを挙げろと言われれば、絶対これだけは外せない。  何と言っても―― 「みんな一人で片付けようとするところ」  だから心配で、気になって、ついついその姿を追ってしまう。  目を離したら、誰も見てないところで立てなくなってそうな危うい感じ。  あまり愚痴とか弱音とかを吐かないのは、そりゃカッコイイのかもしれないけど。  心の中で泣いてるだけじゃあ、気付いてあげられないかもしれない。  気付けなかったらどうしようって、思うと怖い。 「そう思うのは、あたしも同じで……」  玲愛の思考を読んだように頷いてから、香純は淡く微笑んだ。 「ねえ玲愛さん、気付いてますか? 今の、まんま別の誰かさんに当てはまるってこと。あたし気付いちゃったんです。放っておいたら何処かで立てなくなってそうな人のこと。 気付いちゃったから、ほっとけない」 「…………」 「玲愛さんがそこにいちゃあ、駄目だよ」  それは、前に彼も同じようなことを言わなかったか。  先輩はこんなところにいちゃ駄目だ、と。 「色々知っちゃったし、分かったし、まだ半信半疑なところもあるけど、要するにあたしの方が劣ってるってことなんでしょう? だったら、ここで玲愛さんが頑張ってるほうが危ない。これは成功させちゃいけないことだから」 「ほら、あたしってずぼらだし、みんなおじゃんにしちゃえるかもって、そんな風に思うから」 「かも、ね」  まさか、本当にそんな考えでここに来たのだとしたらどうしよう。流石にそれはないと思うが、この子の場合、有り得るから怖い。  ただ、彼女は彼女なりに考えて、事態を収めようと思ったのだろう。自分などより、よっぽど前向きで現実的だ。強いと、そう言い換えてもいい。 「ケジメっていうのは、そういうこと?」 「だってもともと、あたしのせいで蓮は引き返せなくなったんだもの。あたしが一番最初に、一番どうしようもなく、みんなの日常を壊したから」  蓮が戦いを決意した発端。  先輩が今の立場に固定された瞬間。  その総ては、自分に原因がある。 「だったら、あたしが終わらせないと駄目じゃないかなって、思うし……」 「逃げちゃいけないって、思うよ」  怖いけど。不安だけど。ケジメはつけなくちゃいけない。 「だから、先輩の出番も蓮の出番も食っちゃおうって決めたんです。文句言っても駄目ですからね。今はそっちが脇役ってことで。 まあ、見ててくださいよ。ばしっとあたしが決めますから」 「でも……」  しかし玲愛は、胸の不安感を拭えない。香純が何を具体的に考えているのか知らないが、ヴァレリア・トリファは甘くない。  彼の総てを知っているわけじゃないけれど、役者が違うようにしか思えないのだ。 「綾瀬さん、あの人は……」  だから、忠告はいくらしてもし足りないのに。 「ねえ、玲愛さん。一つだけお願い、いいかな?」 「お姉さんって、呼んでいい?」 「…………」  そんな、場違いにもほどがある台詞に呆れてしまい、同時に少し可笑しくて……結局玲愛は、それ以上香純を翻意させる言葉を持たなかった。 「お姉さん?」 「うん、お姉さん。お祖父ちゃんが兄弟なんだから、えーっと、〈再従姉妹〉《はとこ》になるのかな? ちょっと驚いたけど、あたし素直に嬉しいよ。 親戚とか、いなかったし。全部終わったら、一緒にお墓参りとかしたいな」  リザ。イザーク。ヨハン。彼らの冥福を祈るために。  他にも死んでしまった、大勢の人たちのために。 「それで、お互い結婚して子供ができたら、お年玉とかあげるの。 一緒に初詣行って、七五三とか入学式とか、デジカメで撮りながらきゃーきゃー言いたい」  その様を想像して、玲愛も微かに口許を綻ばせた。 「それはまた、なんていうか萌えるね」 「でしょ? マジで萌え萌えっすよぉー」  ああ、本当に、そんな日が来たらいい。 「じゃあ私のお婿さんは、藤井君を予約するから」 「はい?」 「あなたはどっかそこらへんで、適当なのを見つけなさい」 「ちょ、ちょちょちょ、ちょーっと待ってみようか電波姉さん」 「なによ」 「蓮は、あたしの」 「ふっ…」 「なんすかその勝ち誇ったような失笑はぁ!」 「だって私、ぎゅってされて大事な人だって言われたもん」 「あ、あたしだってもっとすごいのを、その、なんていうか既成事実っぽいのクリアしたもん」 「男の過去には拘らないのがいい女。まあ、あなたは、非処女っていう大爆弾を抱えたまま次の相手を探しなさい」 「ぷ、ぷ、ぷっちーん」 「ぷりん?」 「その蓮と同じさっむい切り返しがまた腹立つのよ性格悪い!」 「そうか……私は藤井君と通じ合ってるんだね。いいこと聞いた」 「だからぁ…」  きっとこういう、他愛ないやり取りが本当に大事なんだって、強く思えた。 「ふふ……」  思えたから、ありがとう。 「あは、ははは……」  私は私にできることを、ちゃんと考えて決めようと思う。  あなたのように、あなたの気持ちに負けないように。 「どっちが藤井君とゴールするかは、今日の頑張り次第ってことで」 「あたし負けないですよ、姉さん」 「うん、どんとかかってきなさい、妹よ」 「いや、はい、つーかあの、なんであたしがチャレンジャーみたいになってんだろ。絶対こっちが三馬身くらいリードしてるはずなんだけどなぁ…」 「そういうのを妄想と言う」 「妄想じゃないもん!」  ああ、頑張ろう。戦おう。私たちの好きな彼のために、二人で人事の限りをつくそう。  背後の扉が開かれて、中から出てきた人たちに私と綾瀬さんは振り返る。 「負けない」  負けない。 「勝つんだ」  勝とうね。 「仲良きことは美しきかな。とまあ、お話は終わりましたか?」  震えている綾瀬さん。握った手から彼女の恐怖が伝わってくる。 「では、こちらへ。〈メリー・クリスマス〉《フローエ・ヴァイナハテン》」  私の誕生日を祝ってくれるべき人を、絶対死なせてはいけないのだ。 「あなたの気持ちも、少しだけ分かる」  トリファに連れられて行く間際、礼拝堂ですれ違った螢に、香純はそんなことを言っていた。 「誰か生き返らせたい人がいる。そうなんでしょう?」  螢が無言で答えない。ここで何を言っても意味などないと思ったから。 「たぶん、櫻井さんの気持ちは自然なもので、間違ってるかもしれないけど正しくて、みんながあなたみたいになる可能性は、否定できない。 誰かを好きになるって、そういうことだもんね。理屈じゃなくなるし、算数なんかどうでもよくなる」  この世で絶対の理屈や論理は、子供でも分かる数の大小、算数だ。  でも、それを遵守しろと言うのは外野の理屈。俯瞰して自分に関係ないことだから、訳知り顔で残酷なことを言える。 「当事者は――」  当事者なら、馬鹿にならざるを得ない。人間が集れば、その歪みは加速していく。 「達観できないよね」  達観できるなら、それは誰も愛したことがない人だ。  強いけど、冷たくて、何かが欠落した人だ。  心の中にある天秤は、最初から狂っているのが真に本当の常識人。  最大派閥に属することが常識だから、そこに法や道徳は必ずしも関係ない。ゆえに螢は己を恥じない。 「でもね……」  お互いに目も合わせず、しかし香純ははっきりと言った。 「蓮ならきっと、こう言うよ。取り返したいじゃなくて、そもそも取り落とさない。だからあたしも、そうするよ。あいつを失くしちゃわないように。 だってあたしの好きな藤井蓮は、何と引き換えにしたって釣り合わないんだもん。ねえ、そうでしょ? 櫻井さん」 「…………」  背後に遠ざかっていく香純の気配。螢は無言でそれを送る。  何も言わない。言い返さない。そんなものは無駄で、無意味で、馬鹿馬鹿しくて……  綺麗言など聞く耳持たない。やせ我慢の空元気を続けても、〈心〉《むね》の出血は止まらないんだ。  失えば穴が空く。魂に空隙が生じてしまう。  ならばそこに屍を……捧げて捧げて魂ごと悪魔にだって売り渡す。そうしなければ、痛くて立っていられない。  だから自分はそうするだけで…… 「まあ、せいぜい、客が来ることを祈れやレオン」  たとえ相手が誰であっても、私はこの道を踏破すると誓ったのだ。 「期待が外れりゃあ、この第七は俺がてめえの命でこじ開けてやる」 「こっちの台詞だ、ベイ」  だから、早く来なさい藤井君。螢は強くそう思う。  それはまるで恋にも似た、甘く締め付けられるような妄執だった。 「さーて、んじゃ始める前に確認しときたいんだけどよ」 教会へと続く坂道の下で立ち止まり、司狼は煙草に火をつける。紫煙を吐きながら俺を見て、緊張とは無縁の口調で言ってきた。 「この先にいるのは、三人だよな」 「ああ」 「まず神父でしょ。それから櫻井ちゃんにヴィルヘルム」 その三人。これを全員、この第七で連破しなくてはいけない。 「んで、オレらも三人。数が合うから一人一殺って言いたいとこだが」 「あたしを頭数に入れないでよ。そんな変態大戦争の当事者になんかなりたくないし」 「まあ、だよな。じゃあおまえは見物してろ。見てるだけでも退屈はしないだろ」 「そのつもり。別にいいでしょ、蓮くん」 「好きにしろよ」 知り合ってまだ日は浅いが、こいつが大人しく言うこと聞く奴じゃないのは知っている。それに正直、今はそんな議論に時間を割いている場合でもない。 「どうせ神父は引き篭もってる。俺と司狼で櫻井とヴィルヘルムの相手をすれば、おまえに害はないよ」 「そうね、そうなってくれると助かる」 「あとはまあ、期待通りの経験ができればいいんだけど」 「そこは運任せだな。教会なんだし、祈れよ」 「冗談」 鼻で笑って、本城は首を振った。 「十字架に祈るのって、ギロチンや電気椅子に祈るような変態行為だとあたしは思うよ」 「おまえ、それ当て付けかよ」 「いやいや、そうじゃなくて。素直な気持ち。真面目に考えてなんかおかしいって思うでしょ」 「そりゃ、な」 十字架も、本を正せば一種の刑具だ。本城の言ってることも多少は分かる。 ただ俺は、それで一つ確認するべきことを思い出した。 「司狼、おまえが言ってたことはマジか?」 「ん、おお。あいつ本気出すと吸血鬼になるんだわ。つまり弱点ができる」 学校でヴィルヘルムとやり合った際、こいつはそういう事実を見つけたらしい。創造位階は個々が有する渇望の発露だから、吸血鬼願望があるなら吸血鬼になる……という理屈らしい。 「つまり、あいつだけはオレでも殺れる可能性がある……てことになるか」 「だからって、簡単じゃねえけどな」 「それはそうだろ」 本来ないはずの弱点を付加してしまう技なんて欠陥品だ。そういうデメリットを帳消しにするメリットがないとおかしい。 と言うよりは、マイナスを加えることでプラスを跳ね上げていると見るべきだろう。ヴィルヘルムが危険な敵であることに変わりはない。 けど、確かに司狼が勝機を見出せるのはあいつだけだ。ゆえに組み合わせは変更できないことになる。 もうこうなったら、俺はこいつを信じるしかないってわけだ。 「辛気臭ぇ顔すんなよ。おまえは自分の心配してろ」 「櫻井ちゃんはねえ、あたし嫌いじゃないんだけど、もう流石に手遅れか」 「蓮くんは平気? 一応その、まあ知らない仲じゃないんだし」 「…………」 「ごめん。つまんないこと言った」 「いや、いいよ」 実際、〈櫻井〉《あいつ》とは妙な縁がある。やりにくいのは確かだし、できるならやりたくない。 けど。 「おまえの言う通りだよ、手遅れだ」 優先順位。櫻井の事情を斟酌するより、俺は香純と先輩を見捨てられない。これはただ、それだけのこと。 だから櫻井を避けて通ることはできないし、あいつも俺を通す気はないだろう。大仰な言い方をすれば、不倶戴天というやつだ。 「オーケー、だったらいいんだよ。そんなら行くか」 「ああ」 「了ー解」 言って、俺達は教会への坂を上る。最後の戦いへとこれから臨み、香純と先輩を救うために。 「帰るときも、全員一緒だからな」 笑う司狼に、肩をすくめる本城。こいつら本当に度し難い酔狂人だが、俺の仲間だ。死なせたくはない。 そう思いながらも、やっぱり帰れとは言えないほど、辿り着いたその場所は異界だった。 「ようこそ。待ってたぜガキども」 ヴィルヘルム……俺が一番最初にやり合ったこの男は、いきなり臨戦態勢でこちらを待ち構えていた。 「たまにゃあ祈ってみるもんだなぁ。ここ一番で狙い通りってのは、俺の人生的に珍しい」 「つーわけでよ、ケチがつかねえうちに始めようや。分かってるよな」 その目は司狼を見据えている。一直線に殺意を乗せて、他の何も見ていない。 「行けよ蓮、好都合じゃねえか」 「同じ展開だぜ、あの時とよ」 「……そうだな」 こちらが想定していた戦いの割り振りは、向こうも同じだったらしい。 俺対櫻井。司狼対ヴィルヘルム。その構図は、ラインハルトの前に敗走したあの時とまったく同じだ。 「行けよ。てめえの相手も後でしてやる」 「レオンが俺の邪魔なんぞしねえように、相手しててやんな」 「…………」 「蓮」 「行け」 「ほら」 二人に促され、本城に背を押され、俺は頷く。 「分かった」 一気に跳躍してヴィルヘルムを飛び越えると、そのまま礼拝堂へ向かった。 これを今生の別れにはしたくないし、する気もない。 だからまず、俺は自分が生き残ることを考えよう。櫻井は苦手な相手だが、下手な迷いを抱えていると死ぬことになる。 あいつの背景、あいつの動機、総て呑み込むことなんかできるわけがないんだから―― 「待ってたわよ、藤井君」 俺は今、絶対に相容れない敵として、こいつを突破しなくてはいけない。 だけど、なあ櫻井……おまえこんな風には思わないか? 俺たち、もっと別の出会い方をしていたら、仲良くはないだろうがそれなりに面白いことになってただろうって―― そんな風に、今は思うよ。 「―――――」 切りかかって来た櫻井の斬撃を受け止めて、埒もない感傷を凍結させる。 俺は俺の目的を果たすため、ここで斃れるわけにはいかないんだ。  礼拝堂で始まった戦闘の余波を感じ取り、ヴィルヘルム・エーレンブルグは目を細める。  全身に纏う鬼気は依然として剣呑な密度を保っていたが、今のところ彼はこれといった行動を起こしていない。不思議なほど静かな立ち上がりだと言えるだろう。司狼もそれを指摘した。 「おいどうしたよ。やる気ねえのか、中尉殿」 「いや、なに、ちっとばかり考え事をな」  赤い瞳を揺らめかせて、彼は司狼を眇め見る。ふと、その視線が横に動いた。 「そっちの女、おまえもやんのかい?」 「あたしは見物人。どうぞ気にしないでいいから好きに始めちゃって」 「ほぉ…」  それはまた、随分と奇特な女だ。まさか分かってないわけでもあるまい。 「別にいいがよ。戦ってる俺の傍にいる奴ァ、例外なく吸うぞ。俺はそういうもんだ」 「うん、だから頑張ってよ司狼」  言って、エリーは司狼の肩を軽く殴る。その場の全員から苦笑が漏れた。 「とまあ、そういうわけだ。面白ぇ女だろ」 「ああ、なかなか見ねえ人種だな」  つまり、一蓮托生を是としている。それほど連れを信じているのか、もしくは他に何かがあるのか。ヴィルヘルムは破顔した。 「いい魂だ。安心しろやお嬢ちゃん、おまえもきっちり吸ってやる。で――」 「てめえとは、これで都合三回目。いや四回目か。ちったあマシになったかよ」 「んな数日そこらで都合よくレベルアップなんかするかよ。オレは人間だぜ。まあでも、まったく手がねえってわけでもないけどな」 「そうかい」  呟いて、同時にヴィルヘルムの殺意が弾けた。 「じゃあ始めようか」  全身の皮膚を突き破って生える杭。血の匂いが充満し、大気は粘度を帯びていく。  司狼はもう気付いていた。あれは血の塊なのだと。ヴィルヘルムの内部に混じり、融合しているその血液こそがカズィクル・ベイの聖遺物。  正真の吸血鬼がこの世に存在するかどうかは不明だが、あれはその定義に限りなく近い。呪われた血に魂まで汚染され、他者の命を絞り上げる鬼なのだ。 「いいぜ、何でもやってみろ。俺を殺せる相手じゃねえと端から勝負が成立しねえ。牙もねえ虫ケラ百万潰したところで、何も面白かねえんだよ。 だがな、勘違いはすんなよガキ」  ギチギチと、杭が軋んで鳴き始める。まるであの牙に掛けられた犠牲者達が、慟哭しているようだった。 「てめえを捻り殺したところでこの第七は開かねえ。しょせんこんなもんは前座なんだ」 「レオンも、あのガキも、クリストフも、纏めて始末してやるよ。残るのは俺だけだ」 「なんだ、神父もかよ」  慮外な発言だったが、実のところ司狼はそれほど驚いていない。やりかねないと思ったのだ、この男なら。 「ちょろちょろと陰で動き回るだけが能の逃げ出し野郎が、舐めすぎなんだよ。あいつはハイドリヒ卿に喧嘩売ってやがる」 「許せねえよなあ、ああ、許せねえよ。ゾーネンキントの片割れだァ? 城を飛ばしたのはイザークだぜ。あいつの血以外は信用できねえ」 「血ね……」  言いえて妙ではある台詞だ。この男は、血というものに執着している。 「てーかおまえよ、そんな性格でボスには絶対服従かよ」 「おまえはあの人を知らねえのさ」  揶揄を含んだ司狼の言葉に、返ってきたのは静かすぎる失笑だった。 「俺ァあの人にしか負けたことがねえ。あの人だけが俺にとっちゃあ絶対だ。分かるかよ、魂売るって意味がよォ。 シュピーネ、バビロン、マレウス、クリストフ……どいつもこいつもみっともねえ腰抜けどもが。そんなに怖ぇかよ、あの人が。恐ろしいかよ、喰われんのが。 馬鹿が、ビビるのが六十年遅えんだよ。そんなもんは初めてあの人に会った時、俺はとっくに覚悟決めたぜ」 「シュライバーも、ザミエルも、マキナはちっとばかり事情が違うが、連中も俺と同じだ。今さら何も怖くねえ」  ただ、〈狂信〉《ちゅうせい》あるのみ。  己が力と、それを与えてくれた黄金への畏敬。もしも恐怖することがあるとすれば、彼に不要と断じられることだけだろう。 「そうだよ、俺は忠誠を誓ってんだぜ」  何処か茫とした様子で空を見上げ、ヴィルヘルムは呟いた。 「なのに、なんでだろうなぁ。なんで俺は城に連れてかれなかったんだ? まだ何か足りねえのか。足りねえのならそれはなんだよ。 いつもそうだ。欲しいもんは一つもこの手に入らねえ。誰が悪い? 何が悪い? 直すとしたらそりゃ何処だ?」  独白は止まらない。暴力の熱狂にいつも陶酔しているようなこの男が、静かに不満を述べる様は寒気を覚えるほど異質だった。 「俺の血は畜生だ」  その、淡々とした声。 「英雄の器じゃねえ」  表情の欠落した白貌。 「つまりそういうことなんだろうって、思うしかねえよなぁ」  宙を見上げていた双眸が、その時、狂熱の光を帯びた。エリーと司狼は、同時に真横へ跳躍する。  絶叫が爆ぜた。 「だったらこの血をよォ! 絞り出して交換するしかねえだろうがァッ!」 「――――ッォ」 「―――くァッ」  飛来した杭の嵐に蹂躙されて、二人が瞬前までいた場所は槍衾と化していた。辛くも回避した司狼は転げながら発砲するが―― 「効かねえよ」  眉間に銃弾の直撃を受けても、ヴィルヘルムは微動だにしない。血走り反転した両の瞳が、体温ごと奪い取る光を発しながら司狼を睨む。 「てなわけでよ、あまりジャレてるわけにもいかねえんだ。俺には後が残ってる。てめえと遊ぶのも楽しいが、まあ悪く思うなよ。時間制限かけさせてもらったぜ」  その言葉の意味、それは―― 「つッ……」  エリーは先の一撃を躱しきれていなかった。当然だろう。並の人間ならわけも分からず即死していたはずである。 「抜けねえよ。そしてそれは治らねえ。俺がくたばりでもしねえ限りな」  彼女は太股を貫かれ、地面に縫い付けられていた。その傷口から血が、精気が、根こそぎ奪い取られていく。 「ァ、―――、ッ――」 「ほぉ、悲鳴の一つもあげねえか。根性座った女は好きだぜ。おらどうするよ色男」 「俺の身体から切り離した以上、威力は下がるが保ってせいぜい数分だ。あれが骨になるまで見物するかい? どうすんだよ」 「…………」  司狼は何も言おうとしない。ただエリーに目を向けて、アイコンタクトを交わしていた。  心配するな。しちゃいないよ。まあ見てろ。うん、任せたから。  二人の意思疎通は完璧に、何の問題もなく行われていた。ゆえに取り乱す必要などない。  視線をヴィルヘルムに戻してから、司狼は言った。 「一つ断っとくぜ」  銃口を擬す。血臭に歪んで見える吸血鬼へ、うんざりとした口調で告げる。 「オレがここに来たのは、てめえのくだらねえ愚痴聞くためじゃねえんだ」 「ああ、お友達を助けに来たんだろ?」 「それも違う」  轟く銃声。弾丸は違うことなくヴィルヘルムの眉間に命中したが、やはり何の効果もない。 「思い通りにならねえからだ」 「わけが分からねえな」  杭が震え、蠢き嗤った。小虫の抵抗を喜んでいるかのように。 「俺の思い通りになるのが、そんなにつまらねえか」 「てめえにはねえんだな」 「あん?」  ヴィルヘルムは気付いていない。台詞の意味するところではなく、その前に司狼がとっていた行動を。  エリーが負傷し、アイコンタクトを交わしていた時、彼は弾倉を交換していた。その行為を看破されないように、細心の注意を払った。  加えて、さらに先の一発。あれは薬室に残っていた物である。銃の知識が人並み程度にあれば誰でも分かることだろうが、弾倉の交換を見逃したヴィルヘルムは、今の司狼がまったく別の銃弾を込めている事実に気付いていない。  まあ、とはいえ、この効果を最大効率で発揮するには、もう一押しする必要がある。作戦の完成度はまだ三~四割。ここから先が、もっとも困難かつハードな課題だ。  ヴィルヘルムを本気にさせて、正真の吸血鬼に変えること。その状態に持っていくまで、自分が命を繋いでいること。  ああまったく、真面目に考えてそりゃあ無茶ってものだろう。  だというのに、これはいったい何の因果か。司狼は呆れの念を禁じえない。 「オレはよ……」  脳裏によぎるデジャヴの念。自分はこの展開を知っているんだ。  ゆえに嫌気顔で、彼はぼやく。 「オレの思い通りになってんのがムカついてんだよ」  瞬間―― 「面白ぇこと抜かすじゃねえかよ」  目にも留まらぬ速さで間を詰めてきたヴィルヘルムに、肘で腹を抉られる。 「がッ――」 「――オォラァ!」  そのまま腕一本で教会の屋根まで放り上げられ、衝撃に目が眩んだ。しかしこれは僥倖と言うべきだろう。 「馬鹿が、痛くねえんだよ……」  先の一撃はただの肉弾。内臓破裂を起こしたかもしれないが、無感の司狼は聖遺物を介した攻撃以外、苦痛の類を感じない。呼吸困難の反射で噎せるのは止められないが、構造上動けないという破壊を受けなければ戦える。 「おお、忘れてたぜ。じゃあこれはどうだァ?」  放たれた杭は、十メートル以上の長さがあった。しかもその目的は刺突に非ず。 「ごッ、はァッ――」  棍棒の要領で振り回され、司狼の脇腹に叩き込まれた。アバラがへし折られ、口から血が迸る。この痛みは無効化できない。 「脆いなあ。せめて時間一杯くらいは足掻けよガキ。あまりガッカリさせんなや」 「甘ぇよ……」  一撃食らったことで、全身の痛みが爆発している。呼吸をするだけで肺が、立ち上がろうとするだけで背骨が、身じろぎするだけで腰がバラバラに砕けそうだ。  しかし、それでも司狼は感じる。  まだ、この身体は動くのだ。 「あぁん、何がだ?」 「ガッカリっていうのはな、こんな程度じゃねえんだよ」 「カッ――」  魔人が笑う。あくまでも楽しげに。顎を空に向けて弾け笑う。  その哄笑を響かせたまま―― 「――そうかよ!」  杭を生やした鬼の拳が、腹を抉るように撃ち抜いた。ガードなどできない。  なぜならそこに宿るのは、圧倒的な膂力。ただそれのみ。  存在が、根本から異なることを痛感させる一撃だった。肉体だけではなく、勇気に爪を立てる衝撃。  司狼の肉体は舞い上がり、教会の屋根を飾る十字架に叩きつけられた。  全身が痺れ、膝が笑う。力が微塵も入らない。  キリストのように磔となった身体は、そのまま剥がれ落ちそうになる。高さは十分すぎるほど。ここから落ちれば、ただの人でしかない彼の肉体は衝撃に潰されるだろう。 「――司狼!」  寸前、地上から掛けられた声に、司狼が動く。右腕が十字架に絡み、なんとか落下を堪えていた。 「情けねえ声あげてんじゃねえよ……」 「あんたが情けないケンカしてっからでしょ……」 「女ぁ、まだ喋れんのか」  喜悦に染まる赤い瞳が眼下の少女へ向けられる。一度形成したら最後、暴狂の虜となる彼に最初の趣旨など意味はない。 「もう二・三発いっとくか?」  胸から、腹から、迫り出してくる吸血の牙。それが放たれる寸前に―― 「おいコラ」  靴が、ヴィルヘルムの横顔に当たっていた。 「相手間違えんなよ、タコ」  銃ではなく、靴の一撃。どちらにしろ通用しないものならば、その威力は受けた側の心理によって計るしかない。 「カハッ――」  効果はあった。覿面だった。自殺行為という意味でこの上もなく。 「ハハハハハハハハハハハハハハハハハ―――ッ!」  怒ってなどいない。喜んでいる。そしてこの男は、そうさせた方が数倍増しで恐ろしい。 「いいなあ、いいぜおまえ。できりゃあ俺が、人間だった時に会いたかった野郎だぜ。ちょうど今のてめえくらいの歳の頃だ。ハイドリヒ卿にぶちのめされるまで、俺ぁクソ貧民窟の愚連だったよ」  おまえと俺は似た者同士だと、ヴィルヘルムは言っている。 「おら、その目だ。分かるんだよ。足りねえ、足りねえってな、いつも飢えてる。渇いている。周りがアホに見えるだろ。弱すぎてつまんねえだろ。ちょいと遊んでやっただけでよ、どいつもこいつも壊れんだよ、呆気なく。 じゃあ何か? 手加減してやれってか? 冗談抜かせよ、虫けら気にして歩いてる奴が何処にいる」  彼は求めていたのだ、自分と同じ目線の人間を。  彼は欲していたのだ、自分のじゃれつきに耐えられる存在を。 「それでおまえも、踏み潰されたってか。笑えねえな」 「ああ、笑えたぜ」  司狼の皮肉も気にしていない。満天下に両手を広げ、謳うがごとく放言する。 「俺が最強だと思ってたんだぜ」  元来、黒円卓は皆がそういう者たちだった。それを叩き潰された時の反応は十人十色。  ある者は怯え、ある者は卑屈になり、ある者は心酔してある者は憎悪した。  尻尾を振ったわけではない。  彼の元に、追い続けたものがあると確信しただけ……断じて凡愚な劣等ごときには分かるまい。  ゆえに駆けた。ゆえに殺した。血に染まる黄金の爪牙として、彼の一部になりたかった。  そうすれば―― 「そうすればよ、俺のクソくだらねえ業ってやつも消えるかもって思ったんだ」  この血が汚いと言うのなら、絞り出して入れ替えよう。何千何万もの血を浴びて、飲んで同化して新生しよう。 「俺は昔から、欲しいと思ったもんが手に入らねえんだ」  得難い好敵手。胸躍る殺し合い。喰い殺したいほど焦がれた女。喰い殺されたいほど崇めた主。  その総て、極稀ながらも遭遇したそれら総てに、ヴィルヘルム・エーレンブルグは袖にされた。され続けてきた。  ある時は邪魔をされ、ある時は逃げられて、またある時は見向きもされない。  そんな、敗北と喪失の九十年間。 「てめえもそうだろ」  優しげな声で彼は言う。司狼が何を求めているかは知らないが、手に入らないものを追って、破滅の狂想曲を踊っている。  自死、自壊、自傷、自滅。傍からはそんな風にしか見えない道を歩いている殉教者。望む満足さえ得られれば命もいらない。黄金の混沌に落ちることも、人の身で黒円卓の戦鬼に挑むことも。  共に、まったく同じことだ。余人には理解できない荊棘の先こそを愛している。 「だからよ、おめえなら俺を満足させてくれるんじゃねえか?」 「…………」  足に、腕に、司狼は順に力を込めて、動く部位を確認してから、低く応えた。 「一緒にするなよ、シロ助」 「カッ――ハハハッ」  夜空に血煙の笑いが響く。月が歪み、真紅の色へと染まっていく。同時に司狼は理解した。  出る――あの時と同じく、吸血鬼の本性が曝け出される。 「そうかい、じゃあ死ね」  十字架に磔られた状態で、触れ合うような至近距離。ヴィルヘルムの指と爪が、司狼の肩に食い込んでくる。  この状態であれを出すのか? 軋みあげる肉と骨と十字架の悲鳴が夜に響き、二人を中心に周囲の位層がずれていく。 「日の光は要らねえ」  ならば夜こそ我が世界。 「俺の血が汚えなら」  無限に入れ替えて新生し続けるものになりたい。 「この、薔薇の夜に無敵であるため」  愛しい恋人よ、枯れ落ちろ。 「それが、俺の〈創造〉《かつぼう》だ」  そして今、二重の夜が出現した。 「〈Der Rosenkavalier Schwarzwald〉《死森の薔薇騎士》」 「―――――」 「なッ―――」 異常を同時に感じ取り、俺と櫻井は飛び退った。 「これは……」 「ベイ……」 全身を苛む凶悪なまでの疲労と虚脱。体力を略奪されるようなこの感覚は、紛れもなく学校で味わったあれと同じだ。 いや、あの時よりもさらに強い。夜に夜を重ねることで、ヴィルヘルムの創造は危険度が跳ね上がっていた。 「司狼……」 はたしてあいつは、無事なのか。まだ死んではいないにしても、この枯渇はやばすぎる。 「他人の心配? 余裕ね」 「おまえが余裕なさすぎるだけだ」 軽口を叩きながらも、焦りが膨れ上がってきた。現実問題として、目の前にこいつがいる以上、俺は司狼を助けに行けない。 そして司狼が負けてしまえば、体力が秒刻みで減少していく状態で、櫻井とヴィルヘルムの二人を相手にしないといけない。 そうなったら、まず終わる。俺は負ける。 唯一の救いは、〈櫻井〉《こいつ》も消耗しているということだ。ゆえに短期で決着をつけ、司狼の勝敗がどうだろうと対応できるようにするべきだ。 「……もたもたしてる時間はないな」 即座に櫻井との戦いを終わらせる。先の展開を見据えれば、そうするしかないと判断した。 が―― 「同感」 櫻井は、ぼそりとそう言い―― 「私も今、いいことを思いついた」 次の瞬間、四方に炎を弾けさせた。 「なッ……」 それは攻撃のためのものじゃない。剣に纏った火を拡散させ、椅子や絨毯を燃え上がらせる。その行為に、いったい何の意味があるというのか。 〈礼拝堂〉《ここ》に火災を起こそうが、櫻井から独立して燃え始めたものはただの火だ。さほど脅威なものじゃない。 原則を忘れている。聖遺物を持つ者は聖遺物でしか斃せない。 「分からない?」 だというのに櫻井は、勝利を確信したかのように微笑している。こいつは、何を、考え、て…… 「……、―――ッ」 同時に、酷い酩酊感が俺を襲った。ぐらつき、膝をつきそうになる。 まさか、これは…… 「苦しいでしょう?」 息が、できない。身体が、痺れる…… 「ここは密室だから、効くのが早いのよね」 理解した。文字通り身をもって、事態の危険さを把握した。 これは単純な酸欠だ。火災で酸素が燃焼し、呼吸を封じられたことになる。 この礼拝堂は石造りの完全密室。ゆえに即効で無酸素状態になってしまう。 だが、なぜ…… なぜ櫻井、こいつは平気な顔をしているんだ。条件はまったく同じはずなのに…… 「原則を忘れないで。聖遺物を持つ者は聖遺物でしか斃せない」 「私たちは毒ガスを吸っても死なないし、無酸素で窒息するようなこともない」 「だけど、苦しいことは苦しい。心臓は不随意筋、自分の意思でコントロールできないし、血中酸素がなくなれば活動に支障をきたす」 そうだ、だから俺は窒息しないまでもこの様だ。どうして櫻井はそうならない? 「私を誰だと思っているの?」 「黒円卓第五位、〈獅子心剣〉《レオンハルト・アウグスト》――獅子は炎のエレメント」 「火の中で戦えないようで、そんな名前は名乗れない」 「無酸素での戦いくらい、とっくに体得してるわよ」 「――――――」 「でも、あなたはまだみたいね。やっと優越感が持てた」 踏み込んできた櫻井の薙ぎ払いを退いて躱すが、咽喉が焼けるようにひりつく。ここで戦ってはいけない。 「行かせない」 だが、出口の扉をぶち破ろうとした俺を、櫻井は読んでいた。袈裟斬りに打ち下ろされた刀身をガードした衝撃で弾き飛ばされ、脱出口から遠ざけられる。 「……くッ」 扉は重く分厚い樫の木作りだ。そう易々と燃え落ちないだろう。もはや退路を断たれたに等しい。 ヴィルヘルムの薔薇の夜に、加えて重度の〈酸素欠乏〉《チアノーゼ》……マイナス要因がここまで重なってしまったら、実力の十分の一も発揮できない。 そんな俺を、櫻井は無感動な目で見下ろしていた。 「こうやってみたら、あなた普通の人なのに……」 平板な、声。能面のような、表情。 「こんな、策とも言えないような手で、簡単に追い詰められるなんて……」 暗く淀んだ黒い瞳に、光はない。 「ベイも、マレウスも、他の誰でも、これくらいで膝ついたりはしないわよ。彼らは戦禍を吸って生きている。もう酸素なんか必要としてない」 ぼそぼそと、誰に言うでもない独白を。 「弱いね、藤井君。日常の〈酸素〉《ひかり》がないと立てもしないなんて、弱い」 おまえは、何を哀れんだ風で。 「大したことないよ、劣等じゃない」 泣いてるみたいな、戯言抜かしてやがるんだよ。 「見下ろしてんじゃねえェッ――!」 怒号して、俺は立ち上がりざま一刀を放っていた。櫻井はその衝撃を受け止めきれず、燃えた椅子を薙ぎ倒しながら反対側まで吹き飛んでいた。 「気色、悪いん、だよ……」 ぶつぶつと死んだ魚みたいな目で、ネガい台詞に酔いしれてんじゃねえ。 おまえの事情はおまえの事情だ。同情はするし理解できるところもあるが、俺が譲歩することだけはない。 こいつが求める奇跡の代償は皆殺し。香純を含めたこの街総てを生贄として捧げる殺戮だ。その出鱈目な天秤を、当事者の俺が許すわけないだろう。 「立てよ」 呼吸はできない。身体は痺れる。戦況は不利を通り越して絶望的だと分かっている。 「俺が嫌いなんだろ。俺もおまえがムカつくよ」 だけど、こいつのヒロイン気取りに付き合ってやるつもりはない。 のうのうと自分のシナリオ垂れ流してんじゃねえ。俺は俺のジャンルってやつの中で生きてるんだ。 「喧嘩なら買ってやる。らしくぶち切れて来いよ櫻井。おまえの涙なんか気持ち悪い」 「…………」 ゆらりと立ち上がった櫻井は、沈んだ瞳で俺を見てきた。 ぼそりと、呟く。 「カッコイイよね、藤井君」 「いつもいつも、言ってることが強いよね。信じてるよね、自分の力を」 それは違う。俺だって迷いはあるし、目の前で何人も死なせてきた。 俺がそんなに大した奴なら、そもそもこんな面倒事にはなっていないはずだろう。 自身の無力を分かっている。分かっているからこそ全力を尽くすんだ。まだ救えるかもしれない命を。喪ってはいけない奴らを守るために。 「喪ってないから、分からないのよ」 だけどこいつは、そんな俺を恵まれた奴の無知だと断ずる。あなたに分かるはずがないと。 「もう兄さんは、いなくなってしまった」 トバルカイン。第六のスワスチカに散り、こいつの兄だったというあの屍兵。 聖槍の陰打ちとやらを創った業で、黒円卓に縛られてしまった櫻井の一族。 もう彼らは救えないと、手遅れだと。 「スワスチカに取り込まれたら、それはハイドリヒ卿への生贄になる。返してくれるとは、思えない」 「分からないけど、思いたいけど、もしかしたらまだ大丈夫って……そんな風に、希望、持ちたいけど」 「怖いよ」 櫻井は震えていた。頭を抱えて、怯えるように、記憶の中にある黄金の残滓を掻き消そうとするが―― 「あの人、怖いよ」 掻き消せない。ラインハルト・ハイドリヒの〈呪縛〉《きょうふ》に魂を掴まれている。 「何よ、あれ。何なのよ。何人いるのよ。桁が違いすぎるよ」 「十万? 百万? それ以上? あんな人が出て来たら、きっと全部呑み込まれちゃう。誰一人だって残らない」 「私は、帰りたかったのに。また昔みたいな、温もりが欲しかったのに……」 「血の色は嫌い。火なんか見たくない」 「黄金の空は、だけど戦争の色に染まっちゃう」 「そんな気がする。気がするのよ――怖いよ!」 「……だったら」 だったらおまえは、なんでこんな所にいるんだよ。 「なんでおまえは、あいつが戻ってくる手助けを未だに馬鹿面下げてやってんだよ」 不安なら、怖いなら、黄金の〈恩恵〉《きせき》を忌むべきものだと予感しているのなら―― 「そこ通せ櫻井。支離滅ってんじゃねえ」 「だって――」 怯えた目で、櫻井は俺を見る。 「そんなことしたら、私は裏切り者になってしまう。ハイドリヒ卿に、要らないって言われちゃう……」 「あの人の、怒りを買う。敵じゃなくても、部下じゃなくなってしまう」 「そんなの、嫌だ……嫌だ怖いよ。私はバラバラになってしまう。耐えられない!」 「…………」 それは悪魔のカリスマというやつなのか。櫻井は完全に、一度見たラインハルトに呪縛されていた。おそらくは他の奴らも、黒円卓に属する全員がこの洗礼を受けたのだろう。 六十年かけて、恐怖が倍増した典型はシュピーネ。乗り越えたか、あるいは麻痺したのがヴィルヘルムやルサルカだ。 「〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》……」 望みを叶える代わりに魂を奪い取り、地獄で奴隷にするファウストの悪魔。 「ねえ、なんで平気なのよ」 「どうしてあれを見て、戦おうとか思えるのよ。頭おかしいんじゃないの、普通じゃないよ」 震える声には、呆れと困惑が混じっていた。心底理解できないと、異常者を見る目で俺を質す。 千単位の人殺しである櫻井が、俺を指して狂人だと断言する。 「頭悪いのもいい加減にしろって、言ったじゃない」 それは何時だったか、こいつを助けた時に言われた台詞。 「いつまでヒーロー気取ってるのよ。正気じゃないよ」 ヒロイン気取りのおまえなんかに、言われたくはないことだったが。 「なんで逃げないのよ」 「何度も言わせるな」 こいつの与太話に付き合ってると、腰抜けが移りそうだ。 「取り落とさないためだ」 それが大事なものであればあるほど、失くせば二度と戻らない。 「言ったろう、俺は生きてる奴のことを考える。奪われて堪るか」 取り返したいんじゃない。 「奪わせない。落とさない。そして何より、壊させない」 「ラインハルトは、怖いさ」 俺だって、あんな奴と戦いたくはない。 「だから、あいつを出て来させない。二度と顔を見ないですむように、ここでスワスチカは打ち止めだ。大物気取ってふんぞり返ってたこと、絶対後悔させてやる」 今は何処にいるのか知らないが、せいぜい地団駄踏めばいい。それが俺の見据える勝利の形だ。 「〈他人〉《ひと》を変人みたいに言うなよ櫻井。おまえの方がよっぽど色々駄目だろう」 「もう一度言うぞ。ビビってるんなら、そこどけよ。邪魔するな」 「俺は、その先に、用が……」 言いながら、いよいよ酸欠が危険領域になってきたのを実感した。この状況がどう転ぶにしろ、もう本当に時間がない。 「私がつまらない奴なのは知ってる」 だが、櫻井はどかない。何処までも黒円卓に縛られて、もう選択肢なんかないんだと言っている。 「あなたに言わせれば、落としてしまった人間だから」 「ええ、別に藤井君が間違ってないことも分かってるよ。本当に頭が悪いのは私だってことも」 「だけど、だけどさ……」 「私、いっぱい殺してきたんだもん」 再び、櫻井の剣が燃え上がった。すでに酸素の尽きたこの礼拝堂で、物理常識を無視した火炎が巻き起こる。 「相手は、選んだよ。世界中を回ったし、日本じゃ考えられないような圧制、貧困、不正、虐待……鬼畜みたいな奴らばっかり、殺してきた。子供を並べて、射撃の的にしているような奴らとかをね」 「たまに感謝もされたし、だいたい怖がられたけど、私は私なりの信念を持って、十一年、走った」 「それは嘘じゃないし、軽くない」 「全力疾走だったから、ずっと昔に置いてきた分岐路になんか、もう戻れない。私にこびりついてる返り血が重くて、引き返すことは、できない」 つまり、こいつは今さら、自分の立ち位置を変える気なんかないんだと言っている。 それはできないことなんだと、自分自身で確認するように言っている。 「私は馬鹿なの」 ああ知ってるよ、頭にくるほど。 「ハイドリヒ卿は怖い。第八が開いたら何が起きるか……怖くて怖くて堪らない。だけどそれと同じくらいに、私の逆恨みが消えないの」 「藤井君は悪くない。藤井君は悪くない。馬鹿は私。愚かなのは私。分かってる。分かってる。分かってる。分かってるのよォッ!」 「分かってるけど、だからごめんなさい悪かったわって、今さら言えるわけないでしょうッ!」 「あなたがいなければよかった」 憎悪が、もはや誰に向けているのかも分からない憎悪が炎となって噴き上がる。 「あなたがいるから、いけないのよ」 そもそも、元凶は誰なのか。 「なんであなたなんかがいるのよぉ……」 「私たちとあなたをぶつけて、遊んでるカール・クラフトが憎い」 「私たちの人生総てを、掌で躍らせてるメルクリウスが許せない」 「だからもう、あなたに転嫁するしかないじゃない」 「だって、あなたは……」 涙声で言いながら、瞬間、櫻井が床を蹴った。 「あなたは、彼の代わりなんだもんッ!」 「――――――」 渾身の力を込められた、上段からの打ち下ろし。受け止められたのは奇跡に近い。 共に薔薇の夜で消耗している状態とはいえ、酸欠の俺は今や失神寸前だ。平気なふりで強がるのにも限度がある。 「死んでよ、ねえ、お願い。死んでよ」 こちらのガードを押し切ってくる緋色の刀身。まともな時なら腕力勝負で負けはしないが、このままだと両断される。支えきれない。 「それができないなら、殺してよ。ねえ殺してみせてよ。あなた強いんでしょ、ヒーローなんでしょ?」 「もう嫌なのよ、冗談じゃないのよ! 早く終わって! お願いだから! 私はもう、一秒だって〈聖遺物〉《こんなもの》に触ってたくないッ!」 「………ッ」 膝をつく。力がまるで入らない。 「弱いよ、藤井君……」 そんな台詞に、屈辱を覚えているような場合じゃなかった。現実問題として、俺は完全なジリ貧に陥っている。 「この教会にいる中で、私が一番弱いのに……」 「そんな様で……ベイと猊下の相手なんか、できるわけないよ」 「私が勝ったら、ハイドリヒ卿が出てくるのよ? 私は怖いから、それを止めようなんて、考えられない」 「ねえ、いいの? いいのほんとに? 終わっちゃうよ? ハイドリヒ卿と大隊長三人、誰も残してくれないよ? この世界終わっちゃうよ?」 「きっと絶対、〈終末の日〉《ディエス・イレ》が始まっちゃうんだからァッ!」 「ぐッ、あ……」 そうだ、ここで俺が負けたら総てが終わる。冗談でも誇張でもなく、ラインハルト・ハイドリヒという怪物はそれくらいやると確信できる。 だから、俺は勝たないと…… 勝たないと、いけないのに……ちくしょう、いったいどうすればいい。 「早くしてよ」 もはや櫻井の言ってることは滅茶苦茶だが、それだけに全力だ。この体調じゃあ跳ね返せない。 「嘘つき」 櫻井は、ぽつりとそう言い…… 「藤井君の嘘つき。壊させないって、言ったのに」 「私を助けてくれないなら、いいよもう。もういいから」 さらなる力が込められる。そして同時に―― 「全部、終わっちゃえ」 櫻井は、止めの切り札を発動させた。 「〈Die dahingeschiedene Izanami wurde auf dem Berg Hiba〉《かれその神避りたまひし伊耶那美は》」 「―――――」 分かる。これが何か、俺には分かる。 「〈an der Grenze zu den Ländern Izumo und Hahaki zu Grabe getragen.〉《出雲の国と伯伎の国 その堺なる比婆の山に葬めまつりき》」 ルサルカのナハツェーラー、ヴィルヘルムの薔薇の夜。それらとまったく同じもの。 黒円卓に連なる戦鬼たちの必殺奥義――創造位階だ。 「〈Bei dieser Begebenheit zog Izanagi sein Schwert,〉《ここに伊耶那岐》〈das er mit sich führte und die Länge von zehn nebeneinander gelegten〉《御佩せる十拳剣を抜きて》〈Fäusten besaß, und enthauptete ihr Kind, Kagutsuchi.〉《その子迦具土の頚を斬りたまひき》」 「ぐッ、おおおおおおォォォッ!」 出されたら終わる。発動を許しちゃいけない。櫻井の創造がどんなものかは知らないが、この状況で使われたら文字通りの必殺だろう。敗北する。 だから、残る手段は俺もまた創造を―― 今すぐこの場で、完全習得するしかない。 しかし、はたして間に合うか―― 「〈Briah〉《創造》――」 まさに刹那の一髪千鈞、生死の天秤が動こうとした時、それは唐突に訪れた。  創造位階はルールの創造。  術者自身の、魂に刻まれた強い渇望。それをルールに変えて世界を変える。変えて、新たに創り出す。  彼の〈渇望〉《ユメ》は吸血鬼。  血を吸う鬼になりたい。  陽光を忌む不具の畜生児として生を受け、ならば夜こそ我が世界。 「夜が永遠に明けなければいい」  夜に無敵と化す魔人になりたい。 「それがてめえの――」 「俺の〈渇望〉《せかい》だ」  同時に、抉るような虚脱感が司狼の全身を蹂躙した。 「があああァァァッ――!」  血が、精気が、魂が、生きるために必要なあらゆるものが枯渇していく。  教会の屋根は瞬時に干からびてヒビが走り、周囲の木々も死んでいく。薔薇の砂漠と化す夜の中で、ヴィルヘルムの哄笑だけが精気に満ち溢れて轟いた。 「くくくく、ははははははは――枯れろ枯れろ枯れろ枯れろォッ! 骨まで抱いてやるぜ一緒にいこうやァッ! てめえの欲しいもんは見えたか? 見えねえか? おら、目ん玉萎んできたぜ気合入れろォッ!」 「俺の夜は破れねえ。ハイドリヒ卿と一つになって、世界丸ごと枯れさせてやる。てめえも俺らと城で遊ぼうや」 「がッ、ぐゥゥッ……」  その吸精力は、学校で体験した比ではない。夜に夜を重ねたことで、枯渇に拍車が掛かっている 「エリー……」  見下ろす眼下の石畳には、ついに動けなくなった彼女の姿。生きているのか死んでいるのか、どうであれ、寸毫の時も惜しい。  だが、これは駄目だ。駄目なんだ。間合いが近いのは好都合だが、万力の拘束に絡め取られているから動けない。  司狼は意を決して、半ばミイラと化している腕を力任せにもぎ離した。 「―――――ツゥ」  脆くなっているのが幸いしたのだろう。右肩の肉が半分ほど、角砂糖のように砕かれた。どのみちこの腕はもう使えない。そのまま千切り捨てるつもりで足場を蹴る。反動で寄りかかっていた十字架の後ろへ回った。 「なんだぁ、おい、〈情〉《つ》れねえなあ。逃げ回んなよ、傷つくだろ」  今や二人を隔てる空気すら、悲鳴を上げているように感じる。“存在する”という瑞々しさを、問答無用で枯渇させる薔薇の夜。  渇きと飢え。満たされぬ欲。  ヴィルヘルムという男の本質が、剥き出しになった姿がそこにある。 「吸血鬼が教会で粋ってんじゃねえよ」  状況は極限の最悪だが、しかし同時にチャンスでもあった。今のこいつには弱点があり、打倒の機会はここしかない。  だが…… 「悪ぃけどなガキ、おまえ見え透いてんだわ」  それは、ヴィルヘルムが無造作に指を鳴らすのと同時だった。 「――――――」  四方八方、何もない空間から突如数十の杭が生える。司狼は一瞬でその総てに貫かれ、槍衾となっていた。 「ぐおおおおおォォッ」 「ここは俺の国なんだぜ。言ってみりゃあ腹ん中だ」  形成では肉体からしか生やせない牙も、創造ならば話は別。なぜならこの空間そのものが、吸血鬼の夜なのだから。 「距離は意味ねえ。死角もねえ。俺の視界に入りゃあ終わりだが、そこから逃げることもできねえよ。全部お見通しだ。さっきからてめえが狙ってることもよ」 「……ッ、は、……ゥ」  百舌の早贄と言うにはあまりに凄惨な目に遭いながら、今だ手放さない司狼の銃。その意味を、ヴィルヘルムは見抜いていた。 「さっき弾倉変えたろう。俺が気付いてねえとでも思ってたのか?」 「………ッ」  苦鳴は憤怒か、絶望か。いずれにせよ、司狼の秘策は見破られていた。  間違いなく見ていなかったのに、いったいどのようにしてその事実を看破したのか。 「音。そして空気の流れ、あとはてめえの持ち方だ。重さが変わってんのくらい一目で分かる」 「勝負ありだな。経験の差だ。言っとくがこりゃあ特別なことじゃねえんだぜ。戦争やってりゃ、誰でもそれくらいにゃ敏感になる。 まあ察するところ、銀だろう」 「……つ、ぉ…」  串刺しとなり、吸い上げられていく司狼。震える口許から断末魔なのか、しゃがれた声が零れ出た。 「チェック、してたの、かよ……臆病な、野郎だ」 「ハッ――」  鼻で笑った。笑い飛ばした。 「負け惜しみにしちゃつまんねえなオイ」  彼の洞察、いいやさらに言えば警戒は、決してそんなものじゃない。 「美学と言え」  血を吸う鬼とはそういうものだ。弱点の塊であるからこそ強さが栄える。 「デイウォーカーだの何だのと、似非野郎どもがこねくり返した紛い物じゃねえ。俺は本物だ、この世界でただ一人の真祖だ。 一緒にするなよ。てめえらが都合よく妄想した〈非現実〉《フィルム》のハッタリなんぞとよォ。不死者は死なねえ。夜の〈鬼〉《おれ》は殺せねえ。そりゃつまり、死なねえ術に長けてるっていうことだ」  イコール、それこそが軍人というもの。己は死なずに相手を殺す。その達人であることこそが、黒円卓の戦鬼である絶対条件。  ゆえに脱落した者たちは、資格のない半端者だ。自分は違う。生き続ける。  この夜に、この世界に、永劫存在する闇の不死鳥。その事実を証明し、今度こそ俺は黄金の城へと上る。 「じゃあよ、そういうわけでお別れだ」  同時に、杭が脈動して膨張しだした。あとはヴィルヘルムが念じるだけで、枯れ枝同然の司狼は粉微塵に弾けるだろう。  その、まさに寸前だった。 「てめえの理屈にゃなんも共感できねえが……」  もはや完全な致命傷で、死を迎えるだけの司狼が笑った。 「一つだけ、分かることがある」  ひび割れていく手足。砂のように崩れていく髪。  だというのに、彼はどこまでも不敵に嘯き、薔薇の騎士を睨み返した。  死ぬのはおまえだと言わんばかりに―― 「敵とまともに戦おうとしねえこんなもんが、英雄の条件なわけねえだろう」 「――――――」  精気の略奪。体力の枯渇。それはすなわち、敵手の弱体化を狙う能力に他ならない。  尋常さも、堂々さも、騎士道も何もない畜生の業―― 「てめえが城とやらに上がれねえのは」  血統の貴賎などとは関係なく。 「単にてめえが、道ってやつを知らねえ畜生だからだ」  その言葉が、何より深くヴィルヘルムの胸を打ち砕いていた。 「……黙れよ」  激昂すら、できない。 「抜かすんじゃねえ」  俺は強い。黄金以外に負けたことなどない。 「てめえは死ぬんだ」  俺が勝つんだ。  そう、そして今度こそあの城へ―― 「てめえら吸い殺して俺はあの人の牙になるんだァァッ――!」  怒号と共に、闇の迷彩に覆われた魔の薔薇が猛る。そのまま全身を杭と化し、今や砕ける寸前の司狼へと―― 「なあエリー、やっぱおまえいい女だわ」  狂奔するカズィクル・ベイを前にして、しかし司狼は眼下の少女へ微笑んでいた。  前に学校へ乗り込んだ際、どうしても外せない用事とダブルブッキングしたことがあった。その時、彼女が司狼の代わりに入手してきてくれたもの――  それがここで、この土壇場で役に立つ。 「〈屋根〉《ここ》でやり合うことにしたてめえがアホだ」  その時、懐から零れ出たのは手榴弾。すでにピンは外されて、二人の中央地点に落ちると同時に爆発する。 「―――――ぬゥッ」  弾ける火薬の爆風と破片――吸血鬼は銀の他にも熱に弱い。  だが―― 「効くかァッ、こんなもんがよォッ!」  いくら弱点を突いていようと、この程度の火力でヴィルヘルムは止まらない。爆発の衝撃を突き破り、満身創痍の司狼へと迫る。  それが、彼の運命を決定付けた。 「理科実験程度のネタだぜ」  薔薇の夜に吸い上げられ、教会の屋根は限界近くまでひび割れていた。その耐久性が、手榴弾の爆発に耐えられるはずもない。  穴が空く。ちょうど駆けるヴィルヘルムの真下に巨大な穴が出現する。  その下――すなわち礼拝堂にいるのは誰か。 「な―――」  螢にとっては予想外だ。蓮などさらにそうだろう。  〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈密〉《 、》〈室〉《 、》〈の〉《 、》〈礼〉《 、》〈拝〉《 、》〈堂〉《 、》〈で〉《 、》、〈文〉《 、》〈字〉《 、》〈通〉《 、》〈り〉《 、》〈火〉《 、》〈花〉《 、》〈を〉《 、》〈散〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。  螢の聖遺物は炎を吐く。それは剣戟によって飛び火を起こし、椅子や壁掛けはすでに全焼。可燃性一酸化炭素の充満した密室が、今、突如として外界と繋がれたのである。  ならばどうなる? 何が起こる? 「いわゆるバックドラフトってな」  急激な酸素の流入による炎の再活性爆発現象。  無論、いかに巨大であろうと、ただの炎に蓮も螢も致命傷は負わないが―― 「おおおおおおおおォォォッ――――」  ここに例外が一人いる。火は吸血鬼の大弱点と言って構わない。  直下から噴き上がる爆炎に呑み込まれたヴィルヘルムは、一瞬で甚大極まるダメージを負っていた。 「くそがあああァァッ!」  しかし、それでも司狼に迫る執念は凄まじい。身体の大半を消し炭と化しながらも、なおヴィルヘルムの殺意は健在だ。 「このッ――」  加え、今の爆発で一番負傷したのは紛れもなく司狼だろう。直撃を避けたとはいえ、彼は生身なのである。  ダメージは五分――いや、六:四で司狼が危ない。 「しつけえんだよッ!」  ゆえに、ここで早く止めを。今にも崩れそうな左手を無理矢理持ち上げ、必殺の一撃となる銀の弾丸が放たれる。 「ぎいいいィィィィィッ――」  躱したのか、外れたのか、どちらでもありどちらでもない。眉間を狙った一発は銃の重さで照準が下がり、それでも胸に命中した弾丸をヴィルヘルムは筋肉の収縮で心臓からずらしていた。 「俺は負けねえッ!」 「てめえの負けだッ!」  共に異常なまでの執念と諦めの悪さ。その一点のみを取ってみれば、どちらも英雄の資質がある。 「俺に勝てるのはあの人だけだァッ!」 「蓮以外に俺が負けるかァッ!」  信奉の対象が異なるだけで、同じ意味の咆哮を放った二人は激突し、もつれ合い―― 「おおおおおォォォッ」 「ぐううううゥゥゥッ」  そのまま炎上する教会の屋根から墜落した。  秒瞬の後に訪れる死の運命。  石畳に激突すれば、ヴィルヘルムはともかく司狼は絶対に助からない。  先に死んだ方が負けと定義するならば、勝敗の天秤は今ヴィルヘルムに軍配を揚げかけている。  しかし、彼ら二人には決定的な違いがあった。 「――司狼ォォッ!」  勝利の女神の存在。真に欲したあらゆるものから見放されるヴィルヘルムに、そんな恩寵が微笑むことなどあるはずもなく―― 「上ッ――手を伸ばしてッ!」  ここに、勝敗は決していた。 「くたばれ〈吸血鬼〉《ヴァンピー》、地獄でジークハイル謳ってろ」  落下と共にへし折れていた教会の十字架。それを杭の代わりにして、司狼はヴィルヘルムの心臓を貫いていた。 「がッ、あ、ああああああああああァァァッッ――――」  言うまでもなく、〈十字架〉《これ》こそが火を上回る吸血鬼最大の弱点である。いかに不死を謳い、どれだけ生き汚さを発揮しようと、この衝撃に耐えられるはずがない。  彼が血を吸う鬼である以上、世界唯一の本物だと自負する以上、絶対的な理からは逃げられないのだ。夜の魔物は聖性の前に敗北する。 「あ、ぐッ…あ……」  塵になって消え去る間際、薔薇の魔性は司狼を睨み。 「やるじゃ、ねえ、かよ……くそが」  苦痛の中に微かな解放感を滲ませて、第七のスワスチカに溶けていった。 「な―――」 「―――にィッ」 唐突、それは本当に唐突、いきなり俺達の頭上で巻き起こった。 弾ける爆発音と共に天井が抜ける。穴の向こうに真紅の満月を見止めた瞬間、さらなる異常が発生する。 鼓膜をぶち破るような大轟音と、爆ぜる火炎の大爆発。俺と櫻井はその衝撃に直撃され、同時に吹き飛ばされていた。 「がッ……」 しかし、何が起きたのかを考えている場合じゃない。ほぼ無意識の状態で、俺は櫻井の姿を探していた。 火炎に飛ばされて宙を舞う中、視界の端に黒いSS軍装を捉える。 そこか―― 「づッ、おおおおォォッ―――」 「――――――」 袖を掴んで、引き寄せて、抱え込むようにしながら俺は―― 「勝負……ありだ、櫻井」 床に組み伏せ、こいつを無力化することに成功した。櫻井の聖遺物は、もはや手元を離れている。 「…、ァ、は……ッ」 ようやくできた呼吸に目が眩みそうだったが何とか耐える。まだ周囲は火の海だが、さっきの爆発で礼拝堂の屋根も外壁も木っ端微塵に吹っ飛んだらしい。依然として酸素は薄いが、ゼロじゃない。 「運が、いいのね」 組み伏せられた櫻井は俺を見上げて、静かな声でそう言った。 「さすが、ヒーロー。都合がいいよ」 「まあ、な……」 おそらく、さっきのはバックドラフト現象だ。酸素の尽きた礼拝堂の天井に穴が空いたことで、不完全燃焼だった火種が一気に爆ぜたのだろう。 それをやったのは、たぶん司狼だ。あいつは切れる奴だから、〈礼拝堂〉《ここ》で火災が起こっていると予測していたことになる。 そして生じた爆炎は、言うまでもなく〈吸血鬼〉《ヴィルヘルム》の大弱点。……まったく、大した奴だよ、あの馬鹿は。 「友情パワー? いいね、私に友達なんかいない」 「それも含めて、藤井君の強さか……うん、私の完敗だよ」 「…………」 「どうしたの? 殺して」 「俺は……」 俺はこいつをどうするべきか。確かに殺す覚悟でここに来たし、ついさっきまでもその気だった。 けど…… 「やっと終われる。望んだ形じゃないけれど、これも別に、悪くないよ」 こんな顔で、こんなこと言ってる奴を。 「やっと私も、兄さんたちのところに逝ける」 殺すのか? 殺していいのか? 俺はそれで胸を張れるか? 「藤井君なら、きっと猊下にも勝てるよ」 「…………」 「私たちの代わりに、彼を斃して」 「どういう……」 「逆恨みよ。私はいつもそう」 「彼のせいで、私の大事な人たちはいなくなった……そんな風に思うよう、もしかしたら誘導されていたかもしれない。本当のことから、目を逸らさせるために……」 「私は馬鹿なの。綾瀬さんより、ずっと頭悪いのよ。彼女みたいに、強く立ち向かえる勇気なんて、ない」 「現状から目を逸らさず、楽なほうに逃げず、真実の元凶に挑む……いいね、凄いね、眩しいよ」 「私じゃ、勝てない」 「私じゃ、届かない」 「私は何がしたかったんだろう。本当に大事なものは、失くしたら戻らないのに……」 櫻井の目から涙が溢れる。声は微かに震えているが、しかし口調は明晰に、滔々と話し続ける。 「いっぱい殺したし、いっぱい斬った。殺してもいい人、死ぬべきだと思う人……価値なんかないって、思った人を、私は何百人も殺したよ」 「そんな、自分でゴミだと思うようなものを集めて……宝石と交換なんて、有り得ないのに」 「地球とだって、釣り合わないのに」 「好きな人たちの命を、侮辱しちゃった」 「ごめんなさい、兄さん、ベアトリス……私は馬鹿なの」 「算数も、分からないのよ」 「…………」 「綾瀬さんに、英語教えてって、言われたけど……」 「できない。だって私のほうが、馬鹿なんだもん」 「だったら……」 気付けば、俺は言っていた。 「あいつに、九九でも教えてもらえよ。きっと尻尾振って喜ぶぞ」 「え……?」 「だから……」 俺は何を言おうとしてるんだろう。自分でもよく分かっていなかったが、口は勝手に動いていた。 「友達、いないんだろ。あんなんでよければ、なってもらえ」 「…………」 「ああ、つまり、なんていうか、あれだ」 よく分からないイラつきに舌打ちしながら、俺は言った。 「櫻井螢は死んだ」 少なくとも、俺が知ってる可愛げのないクソ女はもうここにいない。 だからと言って、別に今のこいつが可愛いっていうわけじゃないけど。 「死んだから、俺はもう行く。後は腐るなり生き返るなり好きにしろよ。おまえんちのお家芸なんだろ、それ」 「私……」 「ああ、うるさい。もう喋るな。おまえの話聞いてるといつも碌なことにならない」 「私、私はでも……」 「俺が勝つって思うなら、信じてろ。ラインハルトなんか、意地でも呼び出させねえよ」 「じゃあな」 それだけ言って、立ち上がる。あと、これは結構深刻な話なんだが。 「さっきおまえを捕まえたとき、思いっきり胸触っちまったけど不可抗力だからな。絶対香純に言うなよ。約束だぞ」 「…………」 とまあ、言うことは言ったので、俺は立ち上がるとその場を離れる。礼拝堂は吹っ飛んだが、他の場所はどうなっているだろうか。 それに司狼、あいつの安否も気に掛かるが、第七が開いたのは察知できた。薔薇の夜が消えた以上、ヴィルヘルムは死んでいるはずだろう。 だったらここは、一刻も早く神父を追撃しなくちゃいけない。今あの男を逃したら、第八開放を防げなくなる。 「う、うぅ、ぁ、ぅ……」 そんな俺の背後では、櫻井が…… 「あ、あぁ、ああああああああああ――」 ただ、生まれたばかりの赤ん坊みたいに、声をあげて泣いていたんだ。  そして、産声としての涙があるなら、断末魔としての笑顔があってもいい。 「思うんだけどさ」  相棒の傍らにしゃがみこみ、少女は静かに語りかけた。 「前にも言ったけど、銀の弾丸って狼男じゃん。吸血鬼は確かに狼に変身するけど、違うよね」  少女の言葉に、答えはない。 「吸血鬼はさ、白木の杭だと思うわけよ。まあ実際効いちゃってるんだから、こんな話しても意味ないんだけどさ」  仰向けに夜空を見上げる司狼を、エリーは苦笑しながら覗き込んだ。 「ま、十字架が効いたってことかも知んないね。……馬鹿のトンチには恐れ入るよ」  憎まれ口に、いつもの減らず口は返ってこない。 「一応用意はしてきてたんだよ。杭。まあ無駄になっちゃったね」  司狼の目は、薄く開かれていた。手をかざしかけて、やめる。 「馬鹿だな」  広がる血だまりは、彼女の靴を濡らし始めていた。 「何笑ってんのさ」  自分の表情を確かめるように、エリーは掌で顔を覆う。 「あったじゃんこれも。あんたが相打ちになるのだって、デジャヴのうちだよ……」  前髪が、やけに鬱陶しかった。肺を満たす血の香りも。 「全然解けないよ。勝手に退場して、あんたこれ、ただの負け犬じゃんか」  目元を探る。しかし、あるかと思われた涙は、そこにはなかった。 「……酷い女」  薄い笑いで口元が緩む。その全てを、既知が追いかけるように浮かんでくる。 「そっか……ここのスワスチカも開いちゃったからか」  因果関係が掴めているわけではないが、酷さを増す既知感はスワスチカの開放によるものだろうと、なんとなく見当をつけている。 「きっとこれからずっと、面白いことなんか全然無いのかもしれないけど」  エリーは懐から、煙草を取り出す。  唇に挟んで火をつけると、笑ったままの司狼の唇に刺す。 「いつか抜け出してやるよ。そうすれば、次はもうちょっと面白くなってるでしょ」  紫煙が、昇っていく。 「なんだか……」  なんだか線香の煙みたいだな。  そんなことを思いながら、エリーは一人昇っていく煙を眺めていた。  特に絶望というわけではない。少しばかりつまらない失敗をしたという、ただそれだけ。  彼らにとってこれはそういう事態なわけだが、俯瞰でものを考えれば見えてくる答えもある。  第七開放をもってしても、消えないどころかより顕著になる既知感。  そこから推察できる状況に、安堵する者らも少なからずいるということである。  そう……一方の失敗は一方の成功を意味するのだから。 「今、何か……」  階上から響いた音を察知して、香純は僅かに首を傾げた。  石造りの地下道内では確かめることもできないが、上の方で爆発かそれに近い何かが起こったみたいだ。微弱ながらここにも振動が届いている。 「どうやら、第七が開きましたね」  先導するように前を歩いていたヴァレリア・トリファが、ぽつりとそんなことを呟いた。 「この感じからして、おそらくはベイ。ならばなるほど、レオンハルトが残りましたか……哀れなり中尉。またしても思いは遂げられなかったわけだ。真面目に同情いたしますよ。まるで何処かの誰かが、性悪な脚本を書いているかのようだ。となれば、私の配役はどうなのでしょうかねえ」 「…………」  トリファの独り言が何を意味しているのかは分からない。歩きながら肩を震わせている長身が、ただ壁のようにあるだけだ。  そう、壁。これは紛れもない自分の壁。この相手をどうにか崩さなくてはいけないと香純は思い、口を開いた。 「その人が、死んでしまったってことですか?」 「ええ、これで私の古い友人は一人もいなくなってしまった。レオンハルトが残るというのは些か予想外でしたが……おや?」  言葉途中に小首を傾げて、トリファは不思議そうに香純を見る。 「なぜ安堵するのです? 彼女はあなたにとって忌むべき相手のはずですが」 「え?」  言われるまで、香純は何のことか分からなかった。 「レオンハルトは藤井さんを狙っている。ならばあれが死んだほうが、あなたは嬉しいはずでしょう。なぜ残念がらない」 「残念って……」  そんな、誰かが生き残るという事象をそのように捉える感性は香純にない。  ないが、確かに言われてみれば神父の指摘ももっともだ。  ゆえに、少し考えてから返答する。 「そりゃあ、だって、同じ学校のクラスメートだし」 「あれに学生などという肩書きは何の意味もないと知っているでしょう」  本当にそうだろうか? 「彼女が独り立ちできるようになるまで育てたのは私ですがね、あれは言ってしまえば亡霊ですよ。過去と死者しか見ていないので、今も先も見ていない。そして当然、生者のことも見ていない。学校という日のあたる場所は、本来あれの存在領域ではないのです」 「ゆえに浮いていたでしょう。友人など一人もいないに違いない。あれはそういうもので、太陽とは相容れない」 「随分、ひどいことを言いますね」 「酷い?」  よく分からないといった風に、トリファは肩をすくめて見せた。 「むしろ彼女の名誉を尊重したうえでの評価なのですが……ふむ、やはり面白い人ですね、あなたは。あれと友人にでもなったつもりなのですか?」 「そりゃ、確かに、あっちはそう思ってないみたいだけど」 「あなたは彼女のことが好きだと?」 「好きっていうか、ムカついてるけど」 「ならばなぜ?」  なぜって、そういう問題じゃないんだ。 「矛盾していますねえ」 「だから……」  筋が通るとか、通らないとか、そんなんじゃないだろう。  なんでも理屈や因果で証明しなければいけないのは、推理小説の中だけだ。 「感情の説明なんか、誰にもできないとあたしは思う。それって、おかしくないですか?」 「と、思うのもまた理屈。いやいや、私も揚げ足を取っているわけではない。まあよいですよ。分かりました。あなたはそういう人なのでしょう。ただ、ですね」 「もういいから」  それまで黙っていた玲愛が、香純を守るように割って入った。 「この子に変なこと吹き込まないで。単純なんだから」 「単純って……」  いきなりひどい言われようだが、別に腹は立たなかった。口調に労りがあったからだろう。 「綾瀬さんも、相手にしちゃ駄目。碌なことにならない。 この人、口で追い詰めるの得意だから」 「心外な」  苦笑気味にトリファは笑い、軽く眼鏡をあげて言う。 「私の舌鋒など、副首領閣下に比べれば子供の戯言以下ですよ。別に先の問答に意味などない。と、それはさて置き、あなたは気付いているでしょう、テレジア」 「先ほどから、妙に落ち着かないのはそのせいですか?」 「…………」  何を、言っているのだろう? 香純には分からない。 「迷っていますね、どうするべきか。結構、でしたらば行きなさい。あなたには教えられることがあるはずだ。 まさか、何の情報もないまま私の前に引き出して、どうにかなるなどと思ってはいないでしょう」  玲愛は沈黙して答えない。下唇を噛んだまま、俯いて微かに震えている。  怒っている……のだろうか? だとしたら誰に? 神父へというのは少し違う気がする。 「ねえ綾瀬さん、約束して」  訝る香純の目を見据えて、玲愛は懇願するような口調で言った。 「すぐ戻ってくるから、余計なことしちゃ駄目。みんなあなたのことが大好きなの。だから無茶なことだけはしないで」  大丈夫。大丈夫だから、と。 「きっと、みんな上手くいくから、そう信じて」 「玲愛さん……」  姉のようなその態度に香純が即応できずにいると、玲愛は踵を返して来た道を戻って行った。 「あ、何処へ?」 「着替えるの。こういう時っぽい服があるから」  と、よく分からないことを言ったまま、彼女は通路の闇に消えていった。 「…………」  何をする気なのだろう。何が起きているのだろう。分からないが、胸騒ぎがする。自分にあんなことを言う人は、いつもいつも碌なことをしないのだ。そして、自分は情けない思いをするのだ。  もう、そんなことは、こりごりで…… 「よい兆候ですね、私としても危険を冒した甲斐がありましたよ」  そんな香純の不安を余所に、トリファは感嘆の吐息を漏らしていた。 「前向きなのはよい。レオンハルトのように死へ向く目線は危険です。 〈死を想え〉《メメント・モリ》……この意味するところは二つある。有り体に言えば、いずれ死ぬのだから真摯に生きるか、いずれ死ぬのだから生に執着しないか。 今まで、彼女は後者よりでした。まあこれは、そもそも死後の救済思想のもとに生まれた宗教的価値観ですからね。彼女に馴染みが深いのはこちらでしょう」 「しかし、それはよくない。テレジアの言葉を借りれば、碌なことにならないのですよ。生よりも死に救いがあるなどと、そういう考え方は地獄の門を開く」 「地獄?」  少なからず思うところがある単語を聞かされて、香純はその先を促した。 「地獄って、本当にあるんですか?」 「ありますよ。私は実際に見た」  それはどういう意味だろう。勘だが、比喩ではないと思う。  地獄のような何々……たとえば戦場とか貧困とか、そうしたものではないと分かる。  この神父は、本当の地獄を見たと、そう言っているのだ。 「死人の国。死者の城。膨れ上がり続ける無限闘争の世界……まあ、そうしたものですね。我々はヴァルハラと言っていましたが、仏教で言えば修羅道です。その中味ならば見たことがあるし、堕ちた者も知っている」 「あれほどおぞましいものはない」  口調は常通り柔和だったが、そこには微かな揺らぎがあった。彼はその地獄とやらを、心底から畏怖している。 「ゆえに、今を精一杯生きる。そうした考えを持ってほしい。あなたもそうですよ、綾瀬さん。魔城に同調などされては私も困る」 「藤井さんも、それでは甲斐がなくなるというものでしょう」 「え……?」  今、この人は何と言った? 「ですから、彼は来ていますよ。テレジアはそれに気付いて、迎えに行ったのです」 「なッ……」  その一瞬で、頭の中が真っ白になった。 「なんで……」  どうしてあいつは、いつもいつもあたしの言うことを聞いてくれないの?  来なくていいのに、来ちゃ駄目なのに、あたしが一人でケジメをつけるって、決めたのに…… 「テレジアが言ったでしょう。皆があなたを大好きだからだ」  それは、だけどあたしだって同じなんだ。あたしだってみんなが大好きだから危ない目に遭わせたくない。  そう、思っているのに…… 「動機も目的も同じならば、限られた席は奪い合いでしょう。仕方のないことですし、美しく愛すべきエゴだ」 「本当に、蓮が来てるの?」 「見たわけではないですが、十中八九そうでしょうね。第七がベイの命で開いたのなら、相手がレオンハルトである確率は極めて低い。彼女では彼に勝てませんよ。ゆえ、第三者がいたことになる。となれば誰か、もはや考えるまでもない」  香純も、それで合点した。  ああ、そうか。だから玲愛さんは怒っていたんだ。あたし達が必死で何とかしようとしているのに、空気読まないバカが来るから。 「なるほど。確かに感情は理屈に非ず。嬉しそうですね」 「え?」  またしても、言われるまで香純は気付いていなかった。トリファは愉快げに喉を鳴らす。 「結構。いや、実に結構。素晴らしいですよ、死を神格化などしてはいけない。ああ、分かっています。あなたはここに、進んで生贄となりに来たのではない。私を……この聖餐杯を斃すつもりなのでしょう?」 「斃すって、いうか……」  にこやかな温顔でそう言われ、香純は僅かに仰け反ってしまう。彼から敵意は感じられないが、胸の警戒警報だけはけたたましく鳴っていた。 「なんで、なんで笑ってるんですか? あたしにそんなことできるわけないって、思ってるんですか?」 「はて、私は笑っていましたか?」 「いつも笑ってるじゃないですか!」  思わず声が大きくなっていた。心臓の鼓動が、うるさい。 「私、神父様のことだけはよく分かりません。 遊園地で、その、見せられたあれが、どこまで本当かは分からないけど…」  レーベンスボルンという箱庭。リザ・ブレンナーの記憶……あれが嘘偽りのまやかしでないならば、今の自分は蓮より色々知っているのかもしれない。  黒円卓という集団に属した面子も、あくまでリザの視点というだけだが把握している。  だが、それでも、一人だけ欠けていたのだ。この神父のみがリザの記憶に登場していない。 「あなたは、何なんですか?」  都合よく自分の情報だけを隠蔽したとも思えない。ヴァレリア・トリファは、六十年前まで存在していなかった。  トリファは、困ったように軽い溜息をつく。 「だから言ったでしょう。私は地獄を見たと。 いや正確に言うならば、今もそこに堕ちている」 「………?」  意味が、全然分からない。 「リザの記憶で私がどう扱われていたかは知りませんが、たぶん居ましたよ。あなたが気付いていないだけです。 まあ、不毛な話はやめましょう。今の我々は同志だ」 「同志?」 「と言うよりは、呉越同舟ですかね。ともかく、我々の利害は一致している。性格もね、基本的に前向きです。お互いに死んでほしいという点を除けば、やろうとしていることは一緒だ」 「…………」  自分のやろうとしていること、できるかもしれないと思ったこと。それは見透かされているようで、しかも賛同すると神父は言う。  だったら、確かに呉越同舟。だけど…… 「一つだけ、いいですか」  深呼吸して気持ちを整え、仮面のような笑顔を見上げた。 「神父様、さっきから勘違いしてます」  そんなこと言うべきじゃないのかもしれないが、無性に腹が立ったので言ってやりたかった。 「斃すとか、死んでほしいとか」  なんだそれは。  ただの女子校生である自分を、物騒な物差しで見ないでほしい。 「あたしは、その、あなたをぶっ殺しちゃえとか、思ってないです」 「ほぉ……」  わりと真剣に驚いている感じ。トリファにとって、香純の発言は完全な慮外だったらしい。 「だいたい、どうやってやるんですか。あたしただの剣道美少女ですよ。あなた達みたいな変態軍団の相手なんかできません。それに、第一……」  もう二度と、誰かが死ぬようなところは見たくないし。 「あなたまでいなくなったら、玲愛さんが悲しむかもしれない」 「は……?」  それは、完全に虚を突かれたようだった。神父は数秒の間呆然とし、次いで堪えきれぬとばかりに笑いだす。 「は、はは――はははは……これはこれは、参りましたね。何ともはや」 「な、何が可笑しいんですか!」  まさか爆笑されるとは思わず、真っ赤になって香純は怒鳴った。そんなに面白いことを言ったのか、自分は。 「み、身近な人が死んじゃったら、誰だって嫌じゃないですか! 櫻井さんだって、きっとだからあんなになって…… あ、あたしが――」  その先を言わないは、卑怯だと思ったからちゃんと言った。 「殺しちゃった、人たちの、家族も……みんな泣いてるはずです。 もう、そういう人たちを、あたしのせいで増やしたくない……って思うことの、何が変なんですか!」 「くく、いやいや、はははは……ええ、ええそうですね。あなたは別に、変ではありませんよ。ただ、勘違いをしておられる。テレジアの中にあるだろう、愛すべき隣人という輪の中に、私は入っていませんよ」 「そんなこと、なんで分かるんですかっ」  と言うか、そういう問題じゃない。 「好きとか嫌いとか関係なくて、死別は辛いものでしょう? 悪い人だったから、いなくなってせいせいしたとか、普通は思いません」 「凄くその人に怒ってても、いきなりいなくなっちゃったら、胸に穴が空く。そういうの、苦しいんですよ」 「ほぉ……」  目を細めて顎を撫でつつ、トリファは香純を覗き込むように見てきた。 「どうも、ご自身の経験則から仰っているようですね。 どなたか、憎らしい誰かをいきなり殺されでもしましたか?」 「そ、それは――」  深い色の碧眼は凪いだ湖面のようで、同時に沸騰している黄金のようで……香純は仰け反りながらも首を振った。 「そんなことはどうでもいいです! 玲愛さんにとって、あなたはお父さんみたいなものでしょう? どんな駄目親父でも、いなくなって平気なわけない」 「母親を殺した父親でもですか?」  と、間髪いれずに返された。 「リザを殺したのは私ですよ。知っているでしょう、彼女の魂に触れたなら」 「………ッ」  確かに、知らなかったというわけじゃない。 「つまり私は、あなたにとっても仇なわけだ。彼女のお陰でヨハンは助かり、あなたは生まれて、ここにいる。 そして、そんなリザの心を踏みにじっているのがこの私だ。真面目に客観的な話、あなたから見て最悪な男ではないのか」 「ぐっ……」  それは確かにそうだろう。リザが自分の血縁者だという実感は今でも薄いが、そうじゃなくても顔見知りだったのだ。綺麗で優しいお姉さんだと慕っていたし、よくしてもらったこともある。  だったら、この神父は許しがたい。事実、かなり腹も立っている。  だけど…… 「なんでそうしたのかだけ、教えてください」  香純にしては珍しく、感情を抑えた声でそう言った。この相手のペースで話すのは、嫌だったからという、ただそれだけ。 「あたしは頭良くないから、何が正しいかなんて分かりません。憎いから殺しちゃえとか、そういうのも自然だと思うし、だったらあたしも死ななくちゃいけないんだけど、死にたくないし、死んでほしくない人もいるし……」  ああ、だから、何を言っているんだろう。出来の悪いこの頭が恨めしい。 「あたしはそんな感じで、いつもからかわれてるから、真面目な話には関わらせてもらえない。そりゃ確かに、邪魔だろうなとは思うんです。冷静じゃないし、引っ掻き回すし、察しも悪いし……基本、迷惑かけてばっかりで」  本当は蓮が来てくれて嬉しいし、勝手にこんなことしてあいつが迷惑してるのも分かってる。 「でも、だからって、悩むのを止めるのはおかしいと思いませんか?」 「あたしはずっと、何にでも、逃げずに正面から受け止めたいし、考えたい。本当に何をしたらいいんだろうって、いつも真剣に悩みたい。 そりゃあ失敗したり後悔したりすると思うし、実際してるけど、じゃあもういいやって、極論に走りたくないですよ。そういうのって、何て言うか……」  素直に、思ったことを口にした。 「選ばされてる、気がするじゃないですか」  その結末は、きっと何かに転嫁してしまいたくなる。 「あの時は大変だからとか、誰々が悪いからとか、あたし凡人だし、みっともない感情も持ってるから、そんな風な逃げ道を用意して、全部そのせいにしちゃいそう。それは、嫌だ……」  操られたから、本意じゃないから、十何人も殺したけど自分は悪くない。被害者だ。  そういう転嫁……できたら楽だろうけどしたくない。  それと一緒で、目の前の男が非道だからいなくなってしまえって、それはほんとにあたしの意志?  悩んで悩んで考えて、自分が選んだことだと言える?  言えないよ。 「だからあたしは、ちゃんと知りたい。あなたが何を考えているのか。 だって、行動を起こすのはあたしの手と足でしょう?」  動かすのは頭。あまり出来のよくないこの頭。  ゆえに、そこはきちんと連動させたい。外部の電波を受信して、操作されるラジコンじゃないんだから…… 「て、ああもう。なんか自分でもワケ分かんなくなっちゃた。もう一回始めから言い直していいですか?」 「いえ……」  鼻息荒く迫る香純に、トリファは不思議な表情で応じていた。  何か神聖なものを見つけた殉教者のように、眩しげな目で香純を見ている。  いつも飄々としているこの男らしからぬ、荘厳な声が後に続いた。 「箴言、胸にしみましたよ綾瀬さん。あなたは素晴らしい哲学をお持ちだ」 「なるほど、行動を起こすのは己が手と足。選ばされているような道は結末を転嫁したくなる。……ああ、確かにそうなのでしょうね。 皆があなたを愛するようになるのもよく分かる。リザの判断は間違ってなかったというわけですか」 「あ、いや、その……」  よく分からないが、本気で褒められているような空気に香純はしどろもどろになった。 「あ、あたしは単に、頭悪いだけで」 「いえ、あなたは賢い少女だ。私などより、よっぽどね。そう、どこかキルヒアイゼン卿に似ておられる。レオンハルトが妙に意識していたのも頷けますよ」 「それは、別に、あの……」  優しく頭を撫でられて、どうしていいか分からなくなる。何を感心されているのか分からないけど、そうした疑問は後回しだ。 「あたしの質問に答えてください」 「リザのことですか? 何を言っても言い訳にしかなりませんよ。 単に邪魔だったから排除したと、そう取ってもらって結構。要約すれば、そんなものだ」  言って、トリファは手を離した。同時に、何かが…… 「しかし、さっきのは嬉しかったですよ。私が死ねばテレジアが悲しむかもしれないと、考えたこともなかった。まあ、私は死にませんがね」 「あ………」  何かを、身体から抜き取られたような感じがした。 「……、……っ」  意識が、遠のく。膝が、崩れる。  嘘……何これ……、分から、ない……  やっぱり、あたしって、甘すぎ……たの、かな? 「要するにあなたは、ハイドリヒ卿の出陣を防ごうと言うのでしょう? ああ、それは私も同感だ。あの方は、こちらに在るべき御仁ではない。 ですが、私の望みは叶えねばなりません。残念ながら、説得されても気は変わりませんよ。あなたに言わせれば、極論に走った愚か者ゆえ。 転嫁こそが、私の渇望なのですよ」  落ちる。視界が暗転していく。その間際に…… 「ねえ、神父様……」  香純は、どうしても言いたかったことを口にした。 「あなたが、玲愛さんは大事に思う気持ちだけは、本物ですよね?」 「…………」  答えない。答えない。聖餐杯は何も言わない。  難しい問いではないだろうに、岩のような沈黙を保った後、彼はぽつりと。 「それが分かればこんなことはしない」  怒りとも、嘆きとも違う苦痛を吐き出し、倒れる香純を受け止めた。 「すでにグラズヘイムの産道は塞がれている。あなたの側に新たな道が生じるまで、もう幾ばくかの時がいるでしょう。 だがこちらの産道は狭い。魔城が流れ出る器ではない。そのぶん、母体が弾け飛ぶ確率は高いでしょうがね。イザークに捕まるよりはよいでしょう、綾瀬さん」  感情の篭らない声で語り掛けつつ、トリファは微かに首を捻った。 「しかし、解せぬ」  買いかぶりすぎたか、それともその逆なのか。 「まさか本当に、私を説得することだけがあなたの狙いだったのですか? できるとでも、思ったのですか? であれば、真に光栄だ。私を人として見てくれたのですね」 「だが――」  踵を返す。香純を腕に抱いたまま、闇の奥へと歩き出して邪なる聖者は呟いた。 「愚かだ。私は人ではない。 そういう〈肉体〉《うつわ》は脳髄ごと、遥か昔に捨てたのですよ。欠陥品でしたからね」 「できれば当時にあなたと出会い、その魂とその心が、どんな色と音をしているのか見てみたかったものですが……」  自嘲が口から漏れ落ちる。ああ、忌むべき力として捨てたものが、ここにきて恋しくなるとは滑稽極まる。 「それは叶わぬ夢だ。私は二度とヴァルハラに堕ちない。 では綾瀬さん、共に客人を待ちましょうか」  鉄扉が開き、閉じる音。後には真の闇と静寂だけが残っていた。 爆発で吹き飛んだ礼拝堂から奥に入り、まだ損壊の軽微な廊下を探索していたら、彼女に出会った。 「氷室――」 セン、パイ……? 「やっと、見つけた……」 どうやら彼女も俺を捜していたようで、微かに息が上がっている。依然いつもの無表情だが、前髪が汗で額に張り付いていた。 「あまりうろちょろしないでよ……疲れた」 「あ、いや、そりゃ……」 咄嗟に言葉が出てこない。それはもちろん、急に横の部屋から出てきたので驚いたというのもあるが、何よりも…… 「先輩、その……なんつー格好を」 ローブと言うべきかマントと言うべきか、とにかくそれを素肌の上に羽織ってるだけの格好はあまりにもぶっ飛びすぎてて、俺は呆気に取られてしまう。 「あんまりじろじろ見ないでよ」 そりゃ無理ってもんだが、そんなことをいちいち話してる場合でもない。彼女の格好は努めて無視し、気を切り替えることにする。 「……で、そのファッションセンスはともかく、神父と香純は何処ですか?」 「…………」 「そんな睨まれても」 こっちはワケが分からないんだが、先輩はじっと俺の目を見て、簡素に言った。 「帰る気ない?」 「……は?」 それは予想外の反応で、咄嗟に言葉が出てこない。 「……なんですか、それ」 「藤井君が来たから、面倒なことになったの」 「はっきり言って、迷惑」 「…………」 「あの人と戦うの?」 あの人っていうのは、トリファ神父のことだろう。俺は無言で、ただ頷く。 「それをさせないように私たちが頑張ろうと思ったのに、ぶち壊しだよ。空気読みなさい」 「私や綾瀬さんが、キミに死んでほしいとでも思ってるの?」 「俺は死ぬつもりなんかないですよ」 「その自信は何処からくるのか分からないんだけど」 「俺に言わせりゃそっちの自信のほうが意味不明ですよ」 ヴァレリア・トリファを斃すにしろ止めるにしろ、それは俺の役だろう。香純と先輩の気持ちはありがたいが、この人たちに手段があるとは思えない。 「非現実的な話は止めましょうよ。誰かがやらなきゃいけないんなら、否応もない。適材適所ってやつがあるでしょう」 「もう一回訊きますけど、神父と香純は何処です?」 と、言ったんだが、先輩はやはり無言で睨んでくるだけだった。 こんな所でこの人と喧嘩なんかしたくない。俺は溜息をついて、それ以上の追求は止めにした。 「……じゃあ、いいです。自分で捜しますから、先輩は外で司狼と、連れの本城ってのがいると思いますから、そいつらのとこ行ってください」 とりあえず、彼女の口ぶりから現状は推察できた。呑気に構えていられる状況じゃないものの、真に最悪なケースはまだ防げると確信する。 ヴァレリア・トリファは〈教会〉《ここ》の何処かで俺を待ち構えているんだろう。第八に逃げられる恐れはなく、それが開くまでは香純も先輩も安全が保障されている。 彼にとって俺がここで死ぬのはスワスチカの無駄打ちだが、最後の一つは病院だ。至極簡単に大量殺戮ができるし、何となれば櫻井もいる。焦る必要はなく、むしろ邪魔者を排除してから事に臨む気なのだろう。 難関には違いないが、そういう選択をしてくれたのはありがたかった。ここで勝てば総てに片がつけられる。単純でいい。 じゃあさて、いったい何処にあの神父はいるのだろうかと、思っていた時。 「何も訊かないんだね」 背後の先輩が、そんな言葉を漏らしていた。 「藤井君、気になったりしないの? 私、ひどい奴かもしれないんだよ」 「何を知ってるとか、何時からだとか、そういうの、ないの?」 「前に、キミが交差点の所で座り込んでた時、リザと一緒に会ったよね」 「あの時、私が何を考えて何をしに出てたか、興味ない?」 「……ああ、そう言えばそんなこともありましたね」 覚えてる覚えてる。シュピーネの時だし、よく考えればあの日も香純は攫われかけてた。 「確か藤井君みたいな奴は早死にするとか言いながら怒ってた」 「うん。結構本気で怒ってた」 「で、神父さんを捜してたんだっけ」 「それは、まあ、そうなんだけど……」 「そのことが、何か?」 「何かって……キミ、頭だいじょうぶ?」 いきなりえらい言われようだ。 「言うことそれしかないの?」 「ないのって、他に何があるんですか」 「本気?」 「俺は先輩が何言ってるのか分かんないよ」 「じゃあそれから後は? 次に会ったの学校だよね」 「そうですね。あん時も香純救出作戦で、あいつは桃のお姫様かって話ですよ。まあ、何度も攫われてる俺も大概アホですけど」 「それが何か?」 「だから、今の話の前と後じゃ、キミの中で私の、なんていうか……印象変わったでしょ」 「そのことについて、何もないの?」 「ないですね。ていうか印象だって変わってない」 断言する。ノータイムで切り返す。正直、段々腹が立ってきた。 「先輩、俺に何を言ってほしいんですか」 「え?」 「こっちの気持ちなら、もう言ったと思いますけど」 思い返すと結構恥ずかしい台詞だったので、何度も言い返したくはない。 まさかわざと言わせようとしてるわけじゃないよな、この人。 「先輩は、俺の大事な人ですよ。それでいいじゃないですか」 あの時のノリを再現することはできなかったので、目を逸らしてそう言った。 「現に今も、俺の心配をしてくれてるし」 この人が誰の味方かっていうのは、確かめるまでもない。 ゆえに、訊く必要もない。 「第一、こんなことになる前に、たとえば街から出て行けとか言われたとしても、意味分かんないから聞かなかったと思う」 「誰が想像できるっていうんですか。たった二~三週間でこんな展開」 「先輩だって、実際に始まらなきゃ信じられなかったでしょ。それが当たり前だし、別におかしくない」 ただ今は、この人が無事でよかったという気持ちだけ。他の諸々は、後日談的な笑い話にでもすればいいんだ。 俺がそう言ったら。 「綾瀬さんと、同じようなこと言うんだね」 「嬉しいけど、私が話したがってるとは思わないの?」 「ううん。聞いてほしがってるとか、そんな風には……」 言って、俺の袖を摘むと、上目遣いで見てくる先輩。 「だいたい、キミの言ってる通りなんだけど……」 「私は何も教えられなかった代わりに、何も知ろうとしなかったんだよ」 ぽつぽつと、彼女は今までのことを話しだした。 「リザも、あの人も、具体的に何かを言ってきたことはないよ。だけど変な話でね、大きくなると勝手に色々分かってくるの」 「たぶん、初潮が始まった頃からだと思う」 それは本来なら目出度い話。出産を行える身体として、成長していく過程の話。 本能のようなものだろうか、たとえどんな生物でも、そういった知識は誰に教わるでもなく自然に獲得する。 人間だって例外じゃない。現代社会の情報を総てシャットアウトされたとしても、三大欲求や種族意地本能は働くはずだ。遺伝子の命令と言ってもいい。 ただこの人は、そこに妙なものを混ぜられていた。 レーベンスボルン機関。超人創造計画。今は俺も、その知識を持っている。 ラインハルトを産み落とす聖処女。スワスチカは、その子宮だ。 「思春期っぽい妄想だろうなって、最初は思ってたんだけどね」 自嘲するように、先輩は言う。 「よく見ると、現実にもおかしなことがいっぱいあるの。たとえばリザ、全然老けないんだもん」 「たとえば神父様、全然変わってないんだもん」 「いつも会ってたリザの変化は分かりにくいって、そういう解釈もできたけど、これは流石におかしすぎるよね」 「あの人、何歳に見える?」 「…………」 それは、俺が初めてトリファ神父に会ったとき懐いた疑問だ。 「三十歳かそこらにしか、見えないよね」 なのに先輩の名付け親。立場や年齢的に計算が合わない。 「前に、藤井君たちが〈教会〉《ここ》へ来たじゃない。あのとき私、彼を見て寒気がしたよ」 「もしかして」 もしかして、自分の妄想は現実に起きるのではないのかと。 それは系統こそ違うものの、当時ギロチンの夢に疲弊していた俺と似たような恐怖だったろう。 現実と非現実の垣根があやふやになる瞬間。自分がどちら側にいるのか分からなくなる立ち位置の喪失。 地面が、ある日いきなり崩れ落ちたような感覚だ。 よく分かる。分かりすぎる。まだ香純や司狼、マリィらが傍にいた俺とは違い、この人は日々魔窟と化していくこの場所で、たった一人怯えていたんだ。 「キミや綾瀬さんと仲良くなったのは、どういうことなんだろうね」 「もともとこんな性格だし、漠然と不安もあったし、友達は作らないほうがいいっていうか、どうせできないと思ってたよ」 「自分は死んじゃうし、他もみんな死んじゃうから、一人でいようって、なんか痛い子みたいだけど」 「結構本気でそう考えてたし、そんな風にしてきたんだよ」 「でもどうして、私はキミらと仲良くなったんだろう。なれたんだろう」 「綾瀬さんは素敵な偶然だって言ってくれたし、私もそう思いたいけど……ねえ、これは本当に私の感情?」 「私が自分で選んだことかな?」 「藤井君は、私のどこが好き?」 「私は、藤井君のどこが好き?」 「そんなこと、考えちゃうよ。ごめんね、この非常時に」 「……いえ」 別に迷惑だなんて思っちゃいない。この人が背負っている重荷は、華奢な肩にはきつすぎる。 俺に不安をぶつけて、恐怖を訴えて、いくらかそれが軽減するなら願ってもないことだ。 俺の肩も大概華奢で、女に間違われるような〈優〉《やさ》い外見だから頼りないかもしれないけど。 「まあ、なんていうか、女の人に頼られると実力120パーセント発揮するのが男の特殊能力なんで」 それが美人なら200パーセントくらいにはなるだろう。 「好きな子、だったら?」 「300パー……くらいかな」 「じゃあ、私は?」 「250……くらいかと」 「惜しいとこなんだね」 少し不満そうに言いながらも、この人は笑っている。ああ実際、彼女の笑顔を見たのは本当に久しぶりだ。そんなことでも、単純に力が湧いてくる。 「私、藤井君のこと好きだよ」 真摯な目で俺を見つめて、そう言ってくる先輩。 「どういう好きかは、まあキミの想像に任せるとして」 「これは私にとって大事な気持ち。これが本当に自分だけのものなんだって、胸を張りたいし証明したい」 「だから、キミには来てほしくなかったんだけど、来ちゃったものはしょうがないよね」 「藤井君、案内するから私も連れて行って」 「…………」 俺とヴァレリア・トリファの戦いに? この人を? 連れて行く? 「でも……」 「駄目だって言ったら、ここでキミのこと滅茶苦茶に犯しちゃうから」 「脱ぎやすいんだよね、この服」 言いながら、露出魔よろしく服の合わせ目に手を掛けて、睨んでくる。 「犯すって、あんた……」 女が言うなよ、そんなこと。 「私にそういうことされたら、藤井君困るでしょ? 綾瀬さん怒っちゃうよ。面倒くさいよ。修羅場決定だよ」 「だから私も一緒にいく。いいよね?」 「…………」 あの神父に、この人を害する意図はない。だったら巻き添えにさえ遭わせなければ、危険はないように思えるが…… 「駄目だよ、先輩。来ないほうがいい」 俺と神父の戦いは、彼女に見せるべきじゃない。絵面的に、それはきつい構図だろう。 先輩があの男をどう思っているのか知らないが、たとえ何であろうと父親代わりだ。平気なはずない。 それに…… 「俺、香純の親父も殺してるんですよ」 司狼と俺の二人しか知らない秘密で、最大級の隠し事だ。 しかし、黒円卓の何人かには気付かれていた節がある。俺が親殺し。殺人者なのだと。 博物館で初めてマリィを見た時にも同じく言われた。ヒトゴロシと―― 匂いで分かるというやつかもしれない。マリィは両親を狂死と刑死に追いやって、ヴィルヘルムやルサルカも碌な人生を送っていまい。 そして櫻井……あいつは兄で、シスターは実の息子だ。この事件に関わった人間は、おそらく大半が肉親かそれに近い者を殺すないし喪っている。 「だから、もう嫌だ」 神父との戦いは避けられない。あいつには説得なんか通用しないと分かっている。 つまり俺は、一度ならず二度までも大事な女の親父を殺すことになるんだ。 「そんなところ、見られたくない」 搾り出すように言う。 「香純に話すべきなのか。ずっと黙ってるべきなのか。どっちにしろ問題があって未だに答えが決められない。怖いんですよ」 「それで……」 俺を見上げる先輩が、悲しそうな声で言う。 「キミはまた、私に黙ってあの人を殺すの?」 「何も教えないで見せないで、全部一人で抱え込もうとするの?」 「そんなんじゃ、ないですよ……」 真相を香純に教えたら、あいつが傷つくかもしれない。神父との戦いを先輩に見せたら、きっと辛いに決まっている。 そんな感情、確かにある。だけど本当はどうなんだ? 「俺はただ、結局のところ嫌われたくないだけなんだと思う」 好きな相手に恨まれたくないという、卑怯者の発想。 「だから、そういうカッコイイもんじゃないですよ」 「じゃあ、それでもいいから」 俺の顔を両手で挟んで、静かに先輩は言ってきた。 「今からはカッコよくなってよ。隠さないで、逃げないで。何でも一人でやろうとしないで」 「藤井君の悪いところは、十個くらい簡単に言えるよ」 「キミのそういうところ、頭にくるけど可愛いとも思うし」 「…………」 「怒らないんだね」 「そういう状況でもないでしょう」 なんだか、母親に抱かれているような気分になる。妙に恥ずかしかったが、先輩は離してくれない。 「私だってね、現実はこの目で受け止めたいの。今までずっと、いい加減にしてきたし」 「へんなカッコのつけ方しないでよ。意地張ってる藤井君より、こうやってちゃんと話してくれるキミの方がいい」 「だから、ね?」 「…………」 「決着をつけるんでしょ? だったら全部、キミの全部を清算しなきゃ駄目」 「あたしもそうするし、綾瀬さんもそうしようとしてる」 「ケジメつけるんだって、言ってたよ」 「香純が……?」 「うん、強いよね、あの子」 まるで妹の自慢をするかのように、先輩は柔らかく微笑んだ。 「私もキミも遊佐君も、ちょっと破滅的なんだよ、性格が。けど彼女だけは、凄く前向きでプラス思考」 「まあ、そのせいで、私たちの中じゃ仲間はずれになりがちだけど」 「あの子みたいなのが、きっと一番強い。太陽っぽいよね」 香純は陽だまり。俺にとって日常の象徴。 絶対に失くしたくないし、失くせば生きていけない太陽なんだ。 「聖槍十三騎士団黒円卓第六位、〈太陽の御子〉《ゾーネンキント》」 「私の方が正統だけど、私のじゃ駄目なの」 ラインハルトが生きる戦場の太陽ではなく、俺たちが生きるために必要な日常の太陽。 奴らにとって香純は出来損ないの劣化品なのかもしれないが、俺たちにとってはそちらの方が望ましい。 だから、あいつを喪ってはいけない。 「綾瀬さんと一緒にいたいなら、綾瀬さんに相応しくなりなさい。でないと、二人の交際なんか認めないから」 その言い方が、なんだか妙に可笑しくて。 「なに笑ってるの」 「いや、すみません。小姑ですね先輩」 「当然でしょ。私の妹なんだもん」 「全然似てないですけどね」 「まあ私の方が美人だけどね」 そこらへんは意見の分かれそうなところだが。 「分かりましたよ」 俺は頷き、覚悟を決めた。 「全部清算する気で行きます。あいつに相応しい男……てのになるよう頑張りますよ」 「うん。ちゃんと見てるから、頑張って」 ああ、こうなればもうやるしかない。今夜この教会で、総てを清算し終わらせるんだ。 そして、また日の当たる世界へ帰ろう。 誓いを胸に、先輩に導かれて俺は教会の地下へと降りて行った。  綾瀬香純は考える。自分に何ができるかを、今もずっと考えている。  彼女は驕りの類とは無縁の質だ。そう大それたことができるとは思っていないし、その手の発想自体が浮かばない。  良くも悪くも、自分が平凡であることを彼女はよく知っている。  だから、卑屈になる性分でもない。身の丈にあった範囲で、現実的な解決手段を模索している。  それは、落とし所と言ってもいいだろう。まず好ましいと感じる結末を思い描き、実現するために超えねばならない障害を予想する。  クリア可能か不可能か。可能ならば確率的にどれくらいか。  そうした思考はあまり得手としないのだが、真摯に彼女は考えた。  一番望ましい結末は、もちろん誰も死なないこと。争うことなく平和的に治めること。  まともに考えて、十中十人が無理だと言うに違いない。事実、すでに現段階で死者は出ている。  だがそれでも、香純はこれ以上の被害拡大を防ぎたかった。甘いと言われようが馬鹿と呆れられようが、一番良いと思える結末に向けて動かないのが正しいこととは思えない。  ゆえに、先の問答を――賢しい計算があったわけじゃないが、とにかくそれをやったのだ。  ヴァレリア・トリファを説得できるとは思っていない。もともと弁が立つわけではないし、自分の意見や主張なんて彼から見れば戯言だろう。  六十年の重さを覆すには自分の数日は軽すぎるし、そうじゃなくても他人を完全に翻意させることなど不可能に近い。毎日顔を合わせている蓮だって、全然思い通りになってはくれない奴なのだから。  だけど、でも……と香純は思う。誰かの信念や価値観を塗り替えようなんて都合のいいことは考えないけど、その心に少しでも届かせることはできるのではないか。  本当の本当の本当の最悪になったとき、そうしたものが結果を左右するのではないだろうか。  希望的観測ではあるけれど、香純はその可能性を捨てていない。やって無駄なことなどないと彼女は考える。  そして、今の状況だ。声も出せず身動きも取れず、傍からは気絶しているようにしか見えないが、香純は見えていたし聞こえていた。  理屈は分からない。分からないから、今はとりあえず考えない。それよりも考えるべきことは別にある。  蓮が来るんだ。来てしまうんだ。どうしよう。どうしたらいいんだろう。どう転んでも最悪になる。  蓮が死んじゃうのは嫌だ。そんなことは耐えられないし、傷つくところだって見たくない。  だけど、だったら勝てばいいのか? つまりヴァレリア・トリファを死なせるのか? 「駄目……」  声にならない声で呟く。蓮に人殺しなんかさせたくない。  相手は玲愛さんの父親みたいな人だから、それは駄目だ。いけないんだ。  だからあたしはなんとしても、あの神父様を止めなきゃいけない。  自分じゃ役者不足なのは分かっている。  彼の殻は鉄より硬い。  そのカーテンを突き破って、もしも届く声があるとしたら…… 「たぶん、一つだけ……」  神父様の心に届くものを探す。それができるのは自分だけだと、なぜか妙な確信があった。何の根拠もない思い込みだが、理屈を超えて信じている。  それがあったから、〈教会〉《ここ》に来た。それをしないとケジメにならない。  ああ、だから、早く見つけないといけないのに…… 「馬鹿、来るの早いよ……」  扉が開いて、あたしのせっかちな王子様が現れる。  すごく真剣に必死な顔で、あたしのことを見上げている。  嬉しいけど謝りたくて、腹が立つけど悲しいよ。  心配してくれてありがとう。迷惑かけてごめんなさい。  なんで大人しく待ってないのよ。傷つく蓮を見るのは辛いよ。  そう、痛いの。 「お腹、痛いよ」  まるで、赤ちゃんが産まれかけてるみたいなの。  いつかきっと、こういう経験もするんだろうなと思っていたけど…… 「ようこそ、お待ちしていましたよ藤井さん」  あたしはちゃんと、普通な形で、好きな人の子供がほしい。  〈シスター〉《おばあちゃん》とは違う形で、そんな幸せ…… 「香純を返せよ」  得たいと、思っているから、どうかお願い…… 「出来ぬと言ったら?」 「許さない」  心の中で泣きながら、そんなことを言わないで。 「では、殺し合うと」 「ああ、そこをどけ」  あたしは蓮にもう二度と……  二度とそういう十字架を、背負わせたくないと思っている。  だから早く、早く〈教会〉《ここ》に来た意義を果たさないと。  これじゃあ、あたし、まるっきり空回ってるだけの馬鹿じゃない。 「そんなのは……」  そんなのは、嫌だよ。 「先輩は下がっててください」 低く言って、背後の彼女に退避を促す。神父の実力は未知数だが、甘い相手であるはずがない。全力でやる必要がある。 「彼に従いなさいテレジア。あまり近づきすぎると危険ですよ」 「…………」 「先輩、早く」 「……分かったよ」 頷く気配。これでとりあえず、お膳立ては整ったわけだ。 後は目の前の神父を打倒するだけ。その行為に対する諸々はまだ完全に消化したわけじゃないが、確実に分かっているのは半端な覚悟じゃ殺されるということだ。雑念は捨てなくちゃいけない。 「マリィ……」 右腕に語りかけ、刃を形成。最近は姿を見せなくなった彼女だが、この子のことも忘れちゃいない。全部片をつけた後で、何らかの清算をする必要があるだろう。そう考えながら構えを取るが、神父は依然として無手のまま、その場に立っているだけだ。 余裕のつもりか? 「どうしたんだよ。あんたの武器は見せないのか?」 それどころか、殺意も戦意も何もない。ヴィルヘルムにしろルサルカにしろ、櫻井にしろカインにしろ、これまでの奴らは過剰なほどの威勢を放ってきた面子だから、僅かに当惑を覚えてしまう。 まるでやる気がないような佇まい。 だが…… 「どうぞ、気にせず参られるがよろしい。別にあなたを甘く見ているわけではありません」 「まあ、だからといって警戒もしていませんがね」 「……………」 「不気味すぎて最初の一歩が踏み出せませんか? では――」 一歩、まるで無造作に、神父は距離を詰めて来る。そのまま、茶飲み話でもするかのようなさりげなさで…… 「さあ、この首、見事切り落としてみせなさい。これが最初で最後です」 「綾瀬さんに、やり方は教わったのでしょう?」 「―――――ッ」 その台詞が、俺の中で撃鉄を下ろした。 「手加減など無用」 躊躇は要らない。 「全身全霊」 全力で。 「あなたにとって、最強の一撃を受けましょう」 同時に、右手のギロチンが走っていた。 「それをもって、強く健気な少女への敬意とする」 むき出しの首を目掛けて、振り抜かれた刃は、しかし…… 「これが現実だ。あなたに聖餐杯は壊せない」 「―――――ッ」 なんだこれは、どういうことだ? 神父は完全な無防備で、俺の一撃をまともに受けたはずなのに。 「私の選択は間違っていなかった。やはり誰にもハイドリヒ卿は斃せない」 無傷。まったくの無傷。俺の攻撃はこいつに対し、薄皮一枚裂くことすらできていない。 「馬鹿な……」 断じて俺に迷いはなかった。マリィの宿ったギロチンを、間違いなく最高硬度に研ぎあげ放ったと自負している。 にも関わらず、これはどんな不条理だ。目の前に展開している現象なのに、悪夢のような非現実としか思えない。 「そんなに不思議ですか?」 それどころの話じゃない。たとえ一撃必殺とはならなくても、まともに受ければ相応の手傷を負うはずだろう。これじゃあまるで、あの時と同じような…… 「〈黒円卓〉《われわれ》と初めて交戦した時のことでも思い出しましたか。ええ、そうですね。戦いにおいてもっとも恐るべき事態とは、己の技が何一つとして効かぬということ」 「火器では殺せぬ。刃物も効かぬ。物理を超越した耐久力……我々が世界の敵と呼ばれながらも、この六十年闇に存在できた理由はこれだ」 「各々が一にして〈軍勢〉《レギオン》。黒円卓の戦鬼を害せる対人武器など存在しない」 銃や刃物は最大効率で使用しても一撃一殺。数千単位の魂を纏めている存在には、針で城壁を崩せないのと同じように効果がない。 それは分かっている。分かっているが、なぜ? 俺もまた、こいつらと同じ理にいるはずだろう。 「分かりませんかね、至極単純な話なのだが」 「――――ッ!?」 刹那、視界の端から迫る一撃。 「ぐッ、ああァ……!」 無造作に振り払うような裏拳を、咄嗟にガードして凌ぎきった。得体の知れなさすぎる事態に困惑して距離を取るが、神父は追撃してこない。 「たとえば、炭素というものがある」 「身近なところでは鉛筆の芯だ。ひどく脆い。しかし――」 「ダイヤモンドも、同じ炭素で出来ている。この違いは何か」 それは結合の度合い。つまりは同じ質量でも、より凝縮した物が硬い。たとえただの紙箱でも、極限まで握り潰せば石のようになる。 「そうか……」 確かに単純な話だった。そして単純だからこそ、この予想が当たっていれば覆せない。 こいつは、ヴァレリア・トリファはただ単に…… 「魂の、量……?」 あの〈肉体〉《うつわ》に渦巻くそれが、今まで対してきた奴らと比較にならないくらい膨大なのだ。 「然り。城壁を崩せない針も、山を崩せない破城槌も、規模が違うだけで本質は同じだ」 「あなたに〈聖餐杯〉《わたし》は壊せない」 そして、自らの耐久力に絶対の自信を持つ男が攻勢に出る。 迫る掌底は――遅い。 「くッ、あァ――」 手首を切り落とそうと放った一閃は、しかしまたしてもダメージを与えることが出来なかった。共に弾かれ、素手対刃物の剣戟という異常事態が発生する。 そしてそれは終わらない。 「あなたは運がよいですよ、藤井さん。ハイドリヒ卿に出遭わず終われることを、神に感謝するべきだ」 打ち合いながらも淡々と、神父はそんなことを言ってくる。 「〈聖餐杯〉《わたし》を害せない程度の技量で、彼の前に立てば瞬時に破壊されるだけです」 ラインハルト・ハイドリヒ……一度だけ見た黒円卓の首領。 その脅威。その超常性。確かに深い爪跡を俺の胸に残している。 「怖かったでしょう。狂いそうになったでしょう。魂まで焼き尽くされると感じたでしょう」 「“あれ”はただ、いるだけで周囲の世界を歪ませる異物だ」 「およそ、あらゆる意味で人たるモノの範疇に入らない」 その恐怖に呪縛されていた櫻井のことが思い出された。俺だってラインハルトは怖い。 だけど―― 「それがッ――」 今この時、何の関係があるという。 「どうしたってんだよッ!」 怒号をあげて俺は真横に跳躍し、壁を蹴りあげて側面から神父に迫った。こいつの耐久力が度外れているのなら、攻撃個所を分散させちゃあ意味がない。 すなわち、針の穴を通すような一点集中。狙いは言うまでもなく、もっとも俺の刃が殺傷効果を発揮する場所――首筋だ。 「おおおぉぉォォ――」 全力を込めた一撃は、しかし当然のようになんの痛痒も与えることが出来なかった。 それはいい。構わない。一撃で駄目なら何度でも―― 続く連撃は、一ミリの狂いもなく総て同じ箇所に注がれた。さながら釘を打ち込むように、亀裂よ走れと攻め続ける。 なのに―― 「ですから言ったでしょう。〈聖餐杯〉《わたし》を壊せないならハイドリヒ卿も壊せない」 「いやそもそも、あの方を壊せる者など天地に存在しないのだ」 ゆっくりと、纏わりつく小虫を払うかのように神父の腕が振り上げられる。その拳が、打ち下ろされた。 「づッ、あァッ――」 仰け反って躱した鼻先を擦過して、長身に見合った長い腕が振り抜かれる。伸びきった肘の部分を反射的に関節で極めるが、鉄棒のようにびくともしない。 そのまま、俺は木っ端屑のように投げ飛ばされた。 「がッ……」 黒円卓の間……おそらくは奴らの大本営として使われていたであろう教会の最深部。その全景を叩きつけられた壁にもたれて見下ろしながら、如何にして現状を打破すべきかと考えていた。 神父の耐久力は桁が違う。このまま攻撃の一点集中を狙い続けていくにしても、相手だって人形じゃない。動くし反撃するし抵抗する。 今までの攻防から推察するに、奴の格闘技能は櫻井と同程度でヴィルヘルムより下というくらいだが、防御も回避も行わず攻めにだけ集中してくる相手を捌くのは至難の技だ。その状態で一点集中など、いつまでも出来るものじゃないだろう。 「だったら……」 こちらの攻撃回数を上げること、それしかない。神父が十攻めて来る間に、俺は千回攻め返す。 つまり、ルサルカとカインを斃した俺の切り札……創造位階。 あれをこの場でもう一度、今度こそ完全に使いこなす。 そうするしか、ないのだが…… 「無駄ですよ。何をする気かは知りませんがね」 神父は依然として悠々と、俺がどんな手を試みたところで意味などないと断言する。 「と言うよりは、おそらく使えないでしょう。創造以上の位階に達するならば、現実を無視する信仰が要る」 「マレウスのものを見ましたか? レオンハルトは? ベイ中尉は? あれらはすなわち、己の誓い、己の常識、己の価値観をもって普遍的日常世界を侵食する祈りです」 「昼間に夜が生じる。影に触れたら縛られる。己が肉体を炎と化す――などということは“常識的”に有り得ない。と僅か一片でも思っている限り、創造位階には上れない」 「つまるところ、物分りが良いと駄目なのですよ。さながら寝所で思いを馳せる少年の妄想。超常的な己を狂気のごとく願い、信じる非現実への渇望」 「日常への帰還を至上目的としているあなたは、その真逆だ。思慮分別のある頭が邪魔をして、奇跡の門を開けない」 「リザのように、シュピーネのように、形成でいるのが限界でしょう」 「………なッ」 それは、指摘されるまで思いもしないことだった。 「まさか……」 今の俺は、創造位階に上がれないだと? 「そんなこと……!」 あるはずがないと否定したかったが、思い当たる節もある。 マリィが現れず、声も聞かなくなってどれくらい経った? 俺はその間、彼女に対して何をしていた? 非現実そのものであるマリィと向かい合うことをしなかった俺は、創造位階に達せない? 「――違うッ!」 嘘だ。認めるわけにはいかない。胸の不安を掻き消すように、再度猛然と神父に向けて攻めかかる。 「別に恥じることはないでしょう。むしろ誇るべきだ。己は狂人に非ずと」 「凡庸な世界を愛し、そこに身を置くことを幸せとする。実に結構な価値観と思いますがね」 「黙れェッ!」 吼えて同時に刃を落とすが、やはり神父は傷一つ負わない。 「集団の最大派閥に属すること……それを狂おしく願う者もいるというのに」 「何を焦る? 何が不満だ? ここで私を斃すことこそ、むしろ常軌を逸している。その先にあなたの日常があるとでも?」 「そこに広がるのは〈修羅の殿堂〉《グラズヘイム》……終わらない殺戮の地平があるだけだ」 「人として、凡夫として、愛すべき花と死の運命を共にする。その方が遥かに気が利いているというものでしょう」 「――――ッ」 神父の言っていることは分からない。分かっているのは依然として、こちらの攻撃が悉く無効であるという事実だけだ。 いったい、ちくしょう……! このデタラメな頑強さは、どれだけの魂で成しているんだ!? 「――がッ」 こちらの攻めが単調になった瞬間を逃さずに、放たれた掌底が頬に叩き込まれて脳を揺らす。噴き出る血と共に砕けた歯が飛び散った。 次いで鳩尾。 そして心臓。 肋骨が折れ、肉がひしゃげて内臓が軋んだ。再び壁に叩きつけられ、同じだけの衝撃が背中側から俺を襲う。 だけど、それでも…… 「折れませんか。なるほど、そういうところだけは普通と言えぬようですね」 「おまえ、は……」 血反吐に噎せながらも膝立ちで身体を起こし、眼前の敵を凝視する。 ヴァレリア・トリファ…… 「おまえは、いったい何なんだ……?」 黒円卓の首領代行でありながら、ゾーネンキントの摩り替えなんて一線を超えている。こいつの言動からも分かる通り、明らかにラインハルトの帰還を望んでいない。 ではいったい何を思い、何を求めてこんな真似をやっているのか。 「何が願いだ」 不死化にしろ死者蘇生にしろ、それはラインハルトが帰還した際に賜る恩寵のはずだ。仮に黄金の恵みそのものを忌避し、遠ざけるのが目的なら、スワスチカなど最初から開かなければいい。 なのにこいつはその儀式を先導し、土壇場で香純という格の落ちる〈子宮〉《ゾーネンキント》を母体に選ぼうとしている。 意味が、まるで分からない。理屈が、全然通らない。 香純を喪うわけにはいかない以上、不倶戴天なのは間違いないが、この男の目指す先が俺には欠片も分からない。 「分からないのは、あなた方がそもそも勘違いをしているからだ」 糸のように細い目が見据える先は、声もなく俺たちを見守る先輩……そして磔にされた香純の姿。 「ハイドリヒ卿を呼び戻す黄金練成、不死創造の原則は、有り体に言うなら殺せば殺すほどというやつです」 「不死身になりたいなら、それに見合った数の魂で補強していただく。今現在の我々が有している魂は、あくまでも燃料であり鎧。自己本人の魂は単一のままであり、人の限界領域を突破できない」 「百年も生きれば勝手に死にたがってしまうのですよ。自壊的な衝動に走ったり、思考能力がなくなったり、言わば魂の〈自滅因子〉《アポトーシス》……たとえ魔道を極めても、その発動を抑え込むのは二・三百年がいいところだ」 「マレウスがあれで軽率なのも、ベイが自己新生に拘るのも、そして私がこんな〈反逆〉《まね》をしているのも、もしかしたらそうした自傷行為なのかもしれない」 「ゆえにそこから逃れるため、己が魂を揺るぎない強度に変える。これが黄金、まずはその一。そしてその二は」 「死者蘇生……」 これも殺せば殺すほど。一対一では成立しない交換条件。 「一人生き返らせるのに、数千人殺せと言われています。一見デタラメに見えますが、価値という質量で見るならこれは等価交換だ」 人間の命をたとえば金に置き換える。親兄弟ならとてつもない高額だろうが、赤の他人ならば端金に変わるのが人情だ。 落とした一億円を取り戻すために、千円札を十万枚掻き集める。つまりそういう理屈だろう。 理解はできる。できるが、しかし…… 「この二つの黄金。あなたはおかしいと思いませんか?」 神父は俺を見下ろして、なぜ他の者らは気付かないのだと、嘆息気味に言葉を継いだ。 「その一もその二も、捧げた代わりに頂けるものは何処からくる?」 「千の魂を凝縮すれば、何か化学変化でも起きてまったく新しい命が生まれるのですか? 妻なり夫なり恋人なり子供なり、そして自分自身なり、そうしたものが都合よく創造されると? 馬鹿な」 失笑し、憫笑し、苦笑しながら吐き捨てる。 おぞましい事実を笑いながら神父は告げる。 「奇跡の大元は、黄金たるハイドリヒ卿の内にある。すなわち不死を望めば吸収され、蘇生を望んでも吸収される。そこで彼の分身、奴隷となって、終わらない戦争に駆り出されるまま永劫に解放されない」 「これを、我々は〈地獄〉《ヴァルハラ》と言う。無限の死者で溢れ返り、無限に膨れ上がっていく修羅の世界だ」 「ハイドリヒ卿の創造位階……城と呼ばれるものがそれなのですよ。黄金練成とは、その無限再生を城の外でも行うこと。……いや、城を外に流れ出させることですかな。どちらにせよ、その瞬間に全世界が地獄と化す」 「彼は解き放たれたが最後、破壊の君たる業に従い、総てを呑み込みはじめるでしょう。全は〈己〉《こ》、〈己〉《こ》は全。世界が彼で、彼が世界だ。そしてそこに住まう我々は、皆ハイドリヒ卿の一部になる。奴隷としてね」 「正直、冗談ではない話だ」 冗談どころではすまされない。もしもそれが本当なら、櫻井が漠然と感じていた不安と恐怖は大当たりだったことになる。 「これに気付いていたのは、私とキルヒアイゼン卿くらいでしょう。今にして思えば、彼女と袂を分かつ羽目になったのが残念でならない」 「大隊長御三方は、頭がいかれていらっしゃる。マキナ卿はともかくとして、ザミエル卿とシュライバー卿は狂人だ。悪魔の戦奴になることを、最高の誉れと思っているなど常軌を逸する思考でしょう」 「まあ、もしかしたらベイあたりも、彼らと同じ感性なのかもしれませんがね」 「ゆえに、私は決断したのだ」 「………ッ」 神父が、能面のような笑顔のままで俺の元に歩み寄る。襟首を掴み持ち上げて、にこやかに言葉を継いだ。 「〈地獄〉《ヴァルハラ》の流出など、起こすわけにはいかぬでしょう?」 そしてそのまま、床に頭から叩きつけた。 「……がぁッ」 何度も、何度も、終わらない。 「とはいえ、私にも望みがある。かつてハイドリヒ卿に奪われたものを取り返したい。ではどうするか?」 「すでに城の一部と化している十の花。彼らを救い出さねばならない」 床が砕かれ、陥没して、黒円卓に亀裂が走る。俺に負傷を与えることより、この部屋そのものを破壊するのが目的であるかのような狂態だった。 声は、壊れたラジオのようで。 「城を招き寄せる穴――スワスチカという産道と、ゾーネンキントという母体……これが完全ではいけない」 「出産が滞りなく進んでしまえば、地獄の産声が流れ出す。そうなってはもう、誰にも止められない」 「だから彼女だ」 香純……不完全なゾーネンキント。 城を産める器ではない、俺の幼なじみ……大事な、女…… 「死産、いいえ、胎児の血がほんの一滴ほど滴り落ちる程度でよい。それで私の願いは叶う」 「まあその代わり、シャンバラのスワスチカに捧げられた総ての魂が持っていかれることになりますが、心配は要りませんよ。何度も同じことをしてあげましょう」 「私は償い続ける罪人だ。己が罪を忘れはしないし、二度と逃げたりしないと誓った」 「逃げては駄目だ。逃げては駄目だ。逃げては駄目なんですよ本当に」 「それはよくない。よくないことが逃げた先には待っている。だから私はこの罪から目を逸らさない」 「未来永劫、永遠に、繰り返しますよ。繰り返しますよ。繰り返しますよ。繰り返しますよ――」 「殺して生き返らせ、殺して生き返らせ、殺して生き返らせて殺す殺す奪い取り戻して繰り返す!」 「創って壊して創って壊して、延々と同じことを創ったり壊したり、あははっ、しかし途中で飽きたらどうするんですかねえ。まだ最初の一回目なのに大変ですよ、まったくこれは――はははははは」 「創造と破壊。略奪と贈与。生と死の繰り返しなのですよ、それが私の歩むと誓った聖道なれば――」 「これは、ねえ、神への道に通じるとは思えませんかねえ! 私は無限に奪って無限に与える。何処かの誰かとまったく同じではないですか! 私はあの方に届きますかねえ! 彼の代行として責務を果たしていると言えますよねえ!」 「藤井さん、それでも副首領閣下は私のことを、邪なる聖者などと呼ぶのですか! これほど〈黄金〉《かみ》に順じているこの私を!」 「カール・クラフトは、偽りの光だと言うのですかねえッ!」 「ぐッ、がッ……!」 すでに何十回床に叩きつけられたか分からない。視界は真っ赤に染まりあがり、耳はノイズの轟音で荒れている。 狂荒した神父の握力に、頭蓋骨が潰されそうだ。 「俺、は……」 それでも…… 「ねえ藤井さん、だから心配要りませんよ。たとえここであなたが死んでも、またスワスチカを創って生き返らせてあげますから」 「私は、もう一人の黄金として、完全な哲理の上にあるでしょう?」 笑いながら神父は言う。自分の理屈も存在も、欠落のない完全なものだと謳いあげる。 「……ざッ、ける」 こいつの理屈、こいつの存在、ラインハルトを恐れ憎んでいるくせに、敬い焦がれている矛盾の塊でしかないだろう。 ヴァルハラとやらの流出を忌避しながら、神父のやろうとしていることはその劣化版だ。何もかもが借り物で、自分というものが見当たらない。 こいつは、単なる…… 「金メッキだろ」 「――――――」 その一言で、飽くことなく繰り返されていた行為が止まった。神父は表情のない顔で俺を見る。 「今、何と言いました?」 「聞こえ、なかった、のかよ……」 見た目に反して、歳相応に耳が遠い奴だ。 至近距離で見るその瞳も、赤になったり黒になったり金色になったりと安定しない。 「おまえは、単に……」 「ラインハルトの、成り損ないじゃねえか」 「――――――」 模造品……まさにそんな言葉が相応しい。こいつを擁護するべき言葉が何一つとして浮かばない。 「櫻井は、ゴミを集めても宝石にはならないって言ってたよ」 好きな人たちの命を侮辱してしまったと嘆いていた。 「先輩は、あんたを見届けるって言ってたよ」 だから今も、目を逸らさずここにいる。 「香純は、ケジメをつけるって……」 みんな、みんな、あんたの半分も生きていない女たちがそこまで悩み苦しんで、それでも立とうとしているのに…… 「おまえは、何を都合よく壊れてんだよ、腰抜け」 過去に何があったかは知らない。 そこにどんな絶望があり、悲劇があり、悔恨があったのかは分からない。 ただ言えること、分かっていることは一つだけだ。 「おまえは負けたんだ」 その過去に、潰されたんだ。 「〈他人〉《ひと》のせいにするなよ」 言った瞬間、俺は力任せに投げ捨てられていた。 「―――がッ」 叩きつけられた黒円卓に寄りかかり、倒れるのを拒む。視線の先には、不思議なものを見るような目でこちらを向く邪なる聖人。 「あなたは何を言っているのだ?」 呆けたような声。心底理解できないと困惑している。 「私がハイドリヒ卿に転嫁している。ええ、そうですよ。それの何がおかしい」 「彼は強く恐ろしく、そして不滅の輝きだ。我が望みを得るために、その力は絶対に必要なのです。切り離して考えることはできない」 「あなたも今、身をもって体験しているでしょう。この〈肉体〉《うつわ》、聖餐杯がハイドリヒ卿の玉体に他ならない」 胸に手を置き、誇るように、神父は己が聖遺物への信仰を語る。 〈聖餐杯〉《これ》こそが、ラインハルト・ハイドリヒの肉体なのだと告白する。 「私が零してしまったのは、つまり器の卑小さゆえに他ならない。脆く、穴が空いた欠陥品であったからこそ、救うべきものを掬えなかったのだ」 「であれば、どうすればいい? 生来の器が穴だらけなら、別のものに変えるしかないでしょう。私が知る限り究極の、最強の、完全たる不滅の〈聖餐杯〉《うつわ》……それに己が祈りを投影し、転嫁し、私が彼になるという変身の渇望を具現化する」 「ゆえに私は代行なのだ。ハイドリヒ卿の影として、もう一人の黄金として、私流の〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を執行する〈双児宮〉《ツヴィリンゲ》……あの方も、そんなことなど見透かされておられる」 「言ったでしょう、藤井さん」 すでに自分の肉体すら借り物でしかない男が俺に言う。 現状、聖餐杯に手も足も出ない俺を見下すように。 「私を超えられない程度の者に、ハイドリヒ卿の相手など務まらない」 「彼にとって、私など試験の課題にすぎぬのでしょうよ」 つまりそれは、意図的に配置された障害だ。 俺が、あるいは他の何かが、この男を排除するよう事態を展開させること……ラインハルトはそれをもって、自身が出陣する時だと定めている。 「ならばよし、私は永劫に難攻不落で有り続ける。何度ツァラトゥストラが現れようと、その都度撃滅し続けましょう。楽しませよと言われたのだから、力の限り踊るまでです」 「どんな敵も、策謀も、偶然でさえ跳ね除ける。不滅の〈聖餐杯〉《わたし》は壊れない」 「このヴァレリア・トリファを排除する事態が起きない限り、〈地獄〉《ヴァルハラ》は流出しない」 「ねえ、だから、私は壊れてなどいないでしょう?壊れてはいけないのですよ」 「…………」 「理解に至ったようならば、退場の時間です。先の台詞を返しましょうか。あなたは負けたのだ」 「己が弱さを転嫁したいならお好きなように。私は総てを呑み込む黄金の影だ。どうぞ遠慮なく私のせいにして恨めばいい」 歩み寄ってくる。手が伸びてくる。それが俺の首にかかる寸前のこと―― 「だからさ……」 俺は、呆れの溜息を漏らしていた。 「あんたはさっきから勘違いしている」 負け犬と言ったことも、〈他人〉《ひと》のせいにするなと言ったことも、それはラインハルトに対する屈折した感情を指していたわけじゃない。 どうでもいいんだよ、そんなことは。 「あんたが転嫁しているのは……」 訝る瞳を真っ向見据えて、言ってやる。 「昔、救えなかったっていう、何処かの誰かに対してだろうが」 「…………」 瞬間、神父の手が止まっていた。 「……なに?」 「違うのか? 違わないだろう」 罪を償う。救い出す。〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈是〉《 、》〈非〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 無限に殺すと言ったことも。無限に生き返らせると言ったことも。 「全部、初めの喪失にあんたは残らず転嫁している」 「自分は逃げないと言ったな」 つまり、本音は逃げたいと主張してるんだろう。 「いかにも苦行に耐えているって、言わんばかりに」 「本当はやりたくないのにってアピールしながら、あんた何を笑ってんだよ」 いつもいつも、常にこの神父は笑っている。それは仮面的なものだろうが、その下にあるのは決して悩み苦しむ顔じゃない。 「狂喜、してたぜ。素のあんたは」 ついさっき、笑い転げながら苦難の道とやらを語っていたことを否定はさせない。 「本当は嬉しいんだろう?」 楽しくて楽しくて、楽しくてしょうがないんだろう。 「その〈聖餐杯〉《金メッキ》を被り続けられることが」 ラインハルトの代行者であることが快感で堪らない。 黄金への変身願望――それを満たされるクリストフ・ローエングリーンであり続けたい。 「そんな、下種い本音を誤魔化すために、あんたは救済なんて抜かしながら転嫁してるだけなんだよッ!」 「……黙れ」 眼前で、空気に接着されていたような手が震える。声も掠れて揺れはじめる。 外殻は無敵の聖餐杯だが、その内部は完全じゃない。 俺の言葉が効いているなら、黙るかよ馬鹿野郎。 「あんたの中には、自己愛しかない」 「――黙れェッ!」 振り下ろされた一撃を、俺は真横に飛んで躱していた。散々ボコられて分かったことだが、この神父は鎧がデタラメな反面、剣はそれほどのものじゃない。 食らい続ければ危ないのは確かだが、少なくとも俺はまだ立っている。もしも同じ回数、カインやヴィルヘルムにやられていたら、とっくに死んでいただろう。 つまり、おそらくそこに聖餐杯の弱点がある。 「怒ったんなら、本気出せよ神父さん」 危険だが、恐ろしく危険な賭けだが、もうこれしか勝機はない。 常時形成状態という特殊なスタイルである以上、神父の攻撃力は今のものが基準値だ。 何十発も食らわせて、なお殺せない〈鈍刀〉《なまくら》。 何十発も食らいながら、なお傷一つ負わない無敵の鎧。 創造位階が文字通りの必殺技なら、おそらくその発動時には攻と防が切り替わる。 無敵の剣を抜く代わりに、こいつは丸裸になるはずなんだ。 ゆえに抜刀させる。もうそれしかない。 「私が、私の愛児たちに転嫁しながら、破壊に酔っているだと?」 「だってそうだろう」 挑発を、神父に向けて指差しながら俺は言う。 「おまえの〈聖餐杯〉《それ》がラインハルトの身体なら」 その属性は破壊。 「おまえがラインハルトになりたいんなら」 おまえが欲しているのも破壊。 「認めろよ、あいつの真似事が楽しいんだろ」 「――違うッ!」 「じゃあ――」 俺は、突きつけていた指を横にスライドさせた。 「あの人を救おうってのは、本当にあんたの愛かよ」 「…………」 これまで一言も発さずに、黙って俺たちの戦いを見守っていた氷室先輩。 いつも表情に乏しい彼女だが、決してこの人に感情がないわけじゃない。 気丈に、毅然と、震えながらも目を逸らさず、父親代わりの男を彼女は見ていた。 自分を救おうという男が、何を求めているのか知ろうとしていた。 その彼女に、そんな彼女に―― 「あんたは胸張って言えるのかよ」 城の流出を防ぐという以上の理由で、芯から氷室先輩を案じているから保護したのだと、断言できるか? 「わた、しは……」 ぐらりと、神父の長身がよろめいた。わなわなと肩を震わせ、縋るような目を先輩に送る。 「私は、あなたを愛している。そうだ、愛しているのだ。間違いない」 「決して、ハイドリヒ卿の〈陽中陰〉《アニマ》に引き摺られているわけではないと、証明するためにも、この儀式を……」 「じゃあ……」 ぽつりと、先輩が神父に言った。 「〈次〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》?」 「……え?」 「あなたは繰り返すんでしょう? じゃあ、次の〈生贄〉《ゾーネンキント》は誰?」 「私? 私の子供? それとも孫?」 「私を愛してくれるなら、私の血を愛してはくれないの?」 「ねえ、どうなの? 聞かせて」 「それ、は……」 まるで逃げるように後退しながら、神父は切れ切れの声で呟いた。 「不完全な、ゾーネンキントは、必ずしも即死するわけではない。イザークが、ベルリン崩壊の後にも存命し、あなたへ通じる子を残したことからも、それは明白……」 「いや、しかし……」 どうなのだ、と呆けたように神父は漏らした。氷室先輩の指摘から、どうしようもない陥穽に気付いている。 「もしもあの少女が死んだらどうなる? いや、たとえ生きていても、ここで藤井さんを殺してしまえば、彼女は子など産もうとするまい」 「ヨハンの血脈は、潰える」 イコール、こいつの繰り返しとやらは終了する。 「結局……」 先輩の前で言うべきなのかと躊躇していた俺に先んじ、彼女自らが指摘していた。 ここで俺を殺して香純を使えば、どう転ぼうと傍流は途絶える。その程度のことに、この男が気付かないはずないのだ。 「あなたは、私を死なせないという形がほしかっただけなんだね。私の気持ちなんか、まるで考慮していない」 「傍流が消えたら、私に作らせるつもりなんでしょう? 二人以上産ませて、出来が悪いほうを使う気なんだ。リザとは逆に」 「でも、駄目だよ」 ちらりと、俺を見てから彼女は言った。 「藤井君を死なせたら、私だって相手がいなくなっちゃうもの」 「…………」 「ねえ、だから八方塞じゃない」 先輩の声は諭すように、もうこんなことは止めてくれという説得の気持ちが伝わってきた。 それは俺を守るためであり、香純を守るためであり、何より神父を救うための言葉なのだろう。 たとえどんな動機や形であろうとも、自分を守ろうとしてくれた男が壊れていくのは忍びないと。 これがこの神父を翻意させる最後の機会だと考えて、彼女は真摯に降伏を促していた。 が―― 「なるほど」 不気味に、不気味なほど冷静に、ヴァレリア・トリファは低く呟く。 「であれば、いい案がある」 こいつは、いったい、何を今考えて…… 「と言うよりも、ここに至るまで思いもしなかったのが不思議なくらいだ。あなたに感謝しましょう、テレジア」 「やはり私は、純粋にあなたのことを思っているのだ」 「え……?」 膨れ上がる不吉さ。剥げ落ちていく仮面。いつもの笑顔が消え去った後、現れてきたのは狂気の相だ。 俺は直感する。 その先を――こいつに喋らせていけない。 「先輩、逃げろォッ!」 口を封じるべく特攻した俺の一撃を難なく躱し、トリファは呆然としている先輩のすぐ横に降り立つ。 「―――くッ」 即座に切り返して追撃するが間に合わない。すでに神父の口は開き―― 「やめろ、言うなァッ!」 そこから這い出てくるおぞましい台詞。 耳を塞いでくれ、聞かないでくれ。そいつは父親代わりなんだろう? だったらそんなコロンブスの卵、彼女にとっては世界が崩れるような衝撃でしかない。 「私の愛が、真実私のものであると証明するにはもはやそれしかありません」 走る俺の刃は届かず、こいつはついに、その〈忌詞〉《いみことば》を―― 「私の子を産みなさい、テレジア」 言ったと、同時のことだった。 「〈Mein lieber Schwan〉《親愛なる白鳥よ》 〈dies Horn, dies Schwert, den Ring sollst du ihm geben.〉《この角笛とこの剣と 指輪を彼に与えたまえ》」  抜刀が起きる。ついに長年の懊悩から解放された喜びに奮えながら、ヴァレリア・トリファは己が勝利を確信していた。 「〈Dies Horn soll in Gefahr ihm Hilfe schenken,〉《この角笛は危険に際して救いをもたらし》 〈in wildem Kampf dies Schwert ihm Sieg verleiht〉《この剣は恐怖の修羅場で勝利を与える物なれど》」  テレジアという少女を愛しいと思う。その生を守りたいと願う。  かつて自己愛により破滅した男として、この気持ちが真実の絶対であると証明しなければ一歩も前に進めない。  ゆえ、こうするのだ。なぜなら黒円卓には、一つ最大の謎があった。  初代ゾーネンキント、イザークの父親とはいったい誰か?  リザが最後まで誰にも語らず持っていったその秘密は、しかし状況から推察すれば明白すぎる部分もあり――  まず間違いなく、それはあの男に違いない。 「〈doch bei dem Ringe soll er mein gedenken,〉《この指輪はかつておまえを恥辱と苦しみから救い出した》」  そしてだからこそ、トリファは懊悩していたのだ。  テレジアへの愛は、娘に対する父親の情……そう解釈したがゆえに、その源泉が〈魂〉《じぶん》にあるのか〈肉体〉《かれ》にあるのか、判別できずにいたのである。  が、もはや問題は何もない。 「〈der einst auch dich aus Schmach und Not befreit!〉《この私のことをゴットフリートが偲ぶよすがとなればいい》」  この愛が〈肉〉《うつわ》に引き摺られている紛い物なら、近親相姦など不可能だろう。  もっとも手っ取り早く確実に、真偽を見極める術はそれだと察する。  ああ、そうだ。そうなのだ。私は完全になったのだから、何処も欠けていないし壊れてもいない。  今こそ言おう、私は総てを救うのだと。  かつて零した愛児たちに、責任転嫁などしていない。  私は人を愛せるのだから。同じものを見て同じ音を聞き、同じように泣き、笑おう。 「〈Briah〉《創造》――」  だからここで、恋敵にはご退場願いたい。  鎧の隙間が生じる刹那を、狙っているのは分かっていたが―― 「〈Vanaheimr〉《神世界へ》――」  あなたの敗因は、我が剣の凄まじさを過小評価したことだ。  これを目にして、生きている者など存在しない。 「〈Goldene Schwan Lohengrin〉《翔けよ黄金化する白鳥の騎士》」  狂おしく望んだ変身の渇望。  広がる黄金の光とその形は、まさにラインハルト・ハイドリヒが揮う運命の神槍そのものだった。  それは時間にしてほんの一瞬、まさしく瞬き一つの間に起きた攻防。 「――見つけた」  香純はずっと探していた。この神父を止めることができるかもしれない者のことを。  足下で繰り広げられる会話も、そして戦闘も、まったく感知できないほど深く深く、真剣に、自分がやれることをやろうとしていた。  それがこのタイミングで成就したのは、単なる偶然などではない。  トリファが聖餐杯の鎧を解き、城から槍を召喚する一瞬の亀裂。  その向こうに渦巻いている魂から、香純は目的のものを見つけたのだ。  たとえ正統でなかろうと、それは今現在のゾーネンキントであったからこそできた芸当に他ならない。  まさしく、香純にしか起こせない奇跡の業だ。  声が、届く。 「神父さま……」  かつて自己の暗部から逃げた男が、その代償として自ら選び、摘み取らされた十の花。  今や魔城に渦巻く魂が、自分たちを見捨てた男に掛けた言葉は…… 「泣かないで」 「――――――――」  何を、何を、何を馬鹿な―― 「泣いてなど、いない!」  恨み言なら受け入れた。勝てと言うなら神でも斃そう。  だが、だがしかし、それは何だ――? 「哀れみ、だと?」  そのとき生じた感情は言葉にできない。  憤怒と言えば憤怒であり、安らぎと言えば安らぎだった。  きっと自分は恨まれている。許されざる罪を犯したのだから永劫かけて償わねばならない。  そう信じ、そう思い込み、駆けて駆け抜けたこの六十年間――  総ての動機が砕かれたような気がしたのだ。 「ならば、私はなんだ?」  転嫁でないなら、哀れな子供たちを免罪符にしていないと言い切るのなら。  真に私がすべきことは黄金への変生でなく、愛児の御魂を高き所へ送ってやることではなかったのか。  ラインハルト・ハイドリヒを打倒すること。  その選択から逃げたというだけなのでは?  迷いが、信仰の揺らぎがそこに生じる。  走る聖槍は蓮を捉えた。しかし黄金の双児となる渇望に疑念が生まれたことにより、必殺必中の穂先が僅かにずれる。なぜならこれは、ラインハルト・ハイドリヒにしか扱えない神器なのだ。  我もまた黄金なりと、絶対領域で狂信せねば途端に乱れる。槍は魂の芯を外してしまい――  貫いたのは一人だけ。  黄昏の少女は引き剥がされ、その魂が彼女の世界へ還るまでのタイムラグが発生する。  ギロチンは未だ健在。密度が薄くなったものの消えてはいない。  無論それは、本来なら黒円卓の騎士に傷を負わせられるものではないが。  今のトリファは、鎧を捨てた致命の隙を晒していた。 「――――――」  ゆえに、全霊で回避しようとしたにも関わらず。 「テレジア――」  引き止める、手が。 「もう逃げないんでしょ」  ここに、戦いの決着を告げていた。 「………、……ッ」 自我が崩れていく。身体の感覚が消えていく。 胸に受けた灼熱の痛みに朦朧としながらも、しかし手応えだけは鮮明だった。 ヴァレリア・トリファに刃は届いた。攻防力が逆転した瞬間に、不滅の聖餐杯を貫いたと自覚できる。 だが、それ以外は何一つ…… 「せん、ぱい……」 彼女は何処だ? マリィはどうなった? 俺は今、自分の足で立っているのか? 答えてくれ―― 「香純……」 おまえは何処だ? 何処にいる? 右腕の刃が消失した瞬間に、俺は総ての感覚を失った。  身を刺し貫いていた黒い刃が、光の粒子となって消えていく。  だが二人はそのまま、微動だにせず立っていた。  寄り添うように、互いを逃がさないように。  込み上げる血の匂いの中で、双方の顔に苦笑が浮かんだ。 「どうして、逃げなかったの?」  自分の力による拘束など、この男にとっては無いに等しい。振り解くことも弾き飛ばすことも、息をするくらい容易だったはずなのに。 「なぜ……?」  それに、トリファは困ったような顔で答えた。 「手を、ですね……握られると、逆らえない。前に、振り解いて、後悔したことが、あったので……」 「そう」  共に完全な致命傷。身体的には常人にすぎない玲愛と、守りを失ったトリファの耐久力に大差はない。胸を貫通した傷跡が、死へ直結するのは当然のことだ。 「ねえ、さっきのは本気?」  だが、玲愛の顔に苦痛の色は微塵もなかった。トリファもまた同様に、敗北を悔やむ様子はない。 「私に、あなたの子供を産めって……」 「さあ、どうなのでしょうかねえ…」  そういえばそんなことを言ったかもしれない。そんな程度の、つまらない戯言を流すような態度だった。 「想像するだけで、なんだか気持ち悪いんだけど」 「ええ、私も、流石にありえないと思いましたよ。我ながら」  そんなことはできない。してはならない。だって、父子なのだから。 「申し訳ない。どうもあなた達が眩しくて、少し錯乱してしまったようだ。私の愛が私のものであると証明し、罪を償うならば一つしか選択はなかったのに…… なぜ気付かなかったのだろう。なぜ目を逸らしたのだろう。真に立ち向かうべきものは何なのか、分かり易すぎるほど瞭然なのに」 「ああ、結局、私はまた逃げたのだ。藤井さんの言う通りですよ、まったくみっともない男ですねえ。 あなたも、こんな私に付き合うことなどなかったのに」 「だって……」  しょうがないじゃない、と玲愛は言う。 「また逃げないか、見張っておかないといけないから。 一緒に、私がいってあげる。今言ったこと、口先だけじゃあ、ないんでしょう?」  真に立ち向かうべきもの。  真に邪悪で、真に悪魔で、真に元凶であるものの所へこれから自分たちは堕とされる。  胸を貫いた傷跡から、内側へ巻き込まれるように二人の質量が減っていった。  聖槍を召喚した門が穴となり、彼らを魔城へ吸い込んでいく。  その間際に―― 「ごめんね、藤井君、綾瀬さん」  私の勝手で、嫌な役をさせちゃったね。 「でも、信じてるから」  きっと、いつか絶対に、私たちを解放してくれるのはあなた達だっていうことを。 「私も、戦う。諦めないよ」 「ええ、いつか、いつの日か……」  ラインハルト・ハイドリヒとカール・クラフト……二柱の悪魔を打倒できる時を夢見て。 「また、逢おうね」  二人は、寄り添ったまま消えていった。  そして同時に、香純を拘束していた鎖が弾け飛ぶ。  落ちる彼女の、真下には…… 「蓮……」  彼が、ただ待っていたから…… 「あたし、あたし……本当にどうしていいか分からなくて」 もう、何て言ったらいいか言葉もなくて…… 「頑張ろうって、頑張ろうって思って頑張ったけど、あたし馬鹿で、やっぱり全然、頭悪くて」 みんなを丸く治めるどころか、こんなどうしようもないことになっちゃったよ。 「ごめん、ごめんねぇ……」 無我夢中になりすぎて、全然周りを見れてなかった。気付いたときには、玲愛さん、いなくて。 マリィちゃん、消えてて…… 「あたし、あたし、なんでこんな、なんでこんなにあんたの役に立たないんだろぉ……」 情けなく、なるよ。 消えちゃいたく、なるよ。 だっていうのに、今はあたし…… 「蓮が生きててよかったぁ……」 そのことが嬉しくて、胸に抱きしめた温もりが確かで、あたしは恥知らずにもほっとしてるの。 こんな自分が、嫌だ。 こんな自分が、許せない。 だけど、蓮と離れたくない。 なんて、なんて、なんて身勝手で汚いあたし……どうしてこんなに、救いようがないくらい駄目な奴なんだろう。 「かす、み……」 蓮の声が、耳に届く。 「俺、おまえに……」 すがり付いてくる力を、腕に感じる。 「聞いてほしいことが、あるんだ……」 その全部が、あたし達の生きてる証なんだって、震えるくらい愛しいの。 死にたくないよ。死なせたくなかったよ。 大きすぎる犠牲の果てに、あたし達は生きている。 「おまえの、親父さんのこと……」 だから今、あんたが言おうとしてることなんかどうでもいいよ。 「殺したの、俺なんだ」 「知ってたよぉ……」 知ってたから、そんなにもう傷つかないで。 「全部、全部、分かってるからぁ……」 何時からだなんて、言わないで。 「あたし、蓮が好きだよぉ……」 お父さんが何者で、何を考えて、蓮がどういう人なのかって、そんなことはどうでもいいの。 「あたしにとって、蓮は蓮なんだもん」 「ずっと一緒に、いたいんだもん」 だから帰ろう? あたしたちの家に帰ろう? 「そう、か……」 「俺、馬鹿みたい、だな…」 「ううん、ううん、そんなことない」 馬鹿なのはあたし。どうしようもないのはあたし。 「氷室、せんぱい、は……?」 だって、だって、だって、だって―― 「先に、帰っちゃったよ。あてられちゃうって……」 こんな、すぐバレるような嘘、ついちゃう。 「マリィは、あの子、説明すると長くなるけど……」 聞くから、後でいくらでもあたし聞くから―― 「おまえは、どこも怪我して、ないよな?」 「うん、うん――大丈夫だよ」 だから、ねえ、お願い蓮―― 「俺も、おまえのことがすげえ好きだ」 「おまえを救えて、本当に、よかった……」 「そんな――」 そんな別れの台詞みたいな、嫌な風にカッコイイこと。 「言わないでよ」 言いながら、気絶なんかしないでよ。 「……起きるよね?」 また目を覚ますよね? 置いてかないよね? 「蓮、蓮、蓮、蓮――」 あたし。 「蓮がいないと、頑張った意味がなくなっちゃうよ」 またいっぱいポカしたし、まだ清算できてないことも沢山あるから。 「あんたが見ててくれないと、あたし、あたし……」 もう、自分が何を言っているのかも分からなくて。 「一人に、しないでぇ……」 蓮の頭を抱いたまま、あたしも意識が遠くなっていったんだ。  動くものがいなくなった黒円卓の間に、心臓の音が木霊する。  それは人間のものではない。  魔城の胎動。その奥に渦巻く者らが嗤っている。  実に茶番。実に結構。いやいや実に面白い。  ではどうする? 何を望む? 我らはまだ健在なのだが?  続けるかね、戦争を。諦めぬかね、我らの打倒を。  その答え如何によって、これより本番と洒落こむこともあながち不可能なわけではないが?  どうするね? どうしたいね? 卿らの選択を見せてくれ。  さあ私に、未知たるものを教えてくれ。 「ははは、ははははは、はははははははははははははははは――――!」  割れんばかりに轟く哄笑。  総軍数百万を超える戦鬼の群れが、この愁嘆場を嘲り笑って俯瞰している。  涙を舐めとり、愛を啜り、健気な魂を今この時もしゃぶっている。  貪っている。  その絶対悪。  真に立ち向かうべきモノの鼓動を聞きながら…… 「…………」  事の一部始終を見ていた螢は、ついに己が成すべきことを自覚していた。  乾いた音を立てて、カーテンが閉まる。  そうすることで西日を遮り、香純は薄暗くなった病室を振り返った。 「うん、ちょっと待っててね。電気、つけるから」  カチリ、という音と共に、病室に明かりが点る。 「……ね?」  語りかける香純の視線の先。  そこに蓮が――“あった”。  ベッドの上。穏やかな表情で眠り続ける、蓮が。  それを見て、香純はやれやれといった風に肩をすくめた。 「もう、いつまで眠りこけるつもりなんだろうね、あんたは」  グリ、と蓮の頬を指先で突っついて。 「あんたねえ、このままいったら留年だよ? 留年。かっこわるいぞ~? ああ、そうなったらあたしが先輩であんたが後輩になるんだ。あははは、そうだね、そうなったらあんた、あたしのこときちんと“綾瀬先輩”って呼ぶのよ? そうしたらさ、毎日いびって、先輩風吹かしてやんだから。覚悟なさい? 今、あたしが心配してる分まで、きっちり代価は払わせてやるんだから……」  ムニムニ、と暖かい頬を摘んでやりながら、香純は笑う。 「あはは。変な顔……」  ――デモ。 「ん? んん~? こいつはどうだ?」  ――モシモ、コノママ。 「あはは、は、は……は……っ」  ――目覚メナカッタラ? 「………あ、………」  不意に歪む視界に、香純は慌てて目元を押さえた。  駄目だ。  泣けば、心が折れる――折れたら、もう二度と笑えなくなるのではないか。そう思うと、怖い。  決めたのだ、蓮が起きた時に笑って迎えよう、と。  だから、絶対に泣かない……泣きたく、ない。 「……ごめん、蓮。もう時間だから、今日は帰るね? 明日、また来るから……」  いそいそと、逃げ出すように香純は立ち上がる。  荷物を抱えて、部屋を後にする寸前で立ち止まり―― 「…………ごめんね……」  振り返ることなく、部屋を後にした。 「…………」  白い蛍光灯で照らし上げられた、明るい廊下を香純は進む。  いつの間にか、外は日が暮れかけていた。  最近、ぼーっとしている時間が長いのだろうか。一日が、ひどく短く感じられる。 「蓮……」  廊下に映る自分の顔に、小さく囁く。  だが、次の瞬間――  窓に映った見覚えのある顔に、全身の血の気が音を立てて引いた。 「今のは……」  見間違いかも、とも思いながら、しかし香純の足は勝手に動き出していた。  もしあれが、彼女だったとしたら……  遊園地でのやり取りを思い出す。  ――藤井君は、私が殺すわ――  今見たのが、もし櫻井螢ならば、蓮の命が危ない。  香純は何かに突き動かされるように、誘うように去るその背中を追った。 「――櫻井さん」  彼女の影を追いかけて、香純は屋上へ駆け上がった。  ドアを開いた、その先には…… 「やっぱり……」  見間違いではなかった。そこには一人、螢がいる。まるで待ち構えていたかのように。 「何しに、きたの?」  息が上がっているのは、走っていたからというだけじゃない。不吉な予感と共に、記憶が蘇る。 「ねえ――」 「もちろん」  声は、氷のようだった。 「彼を殺しに来たのよ。言ったでしょう、そうするって」 「―――――」  思わず息が止まりかける。予想していたこととはいえ、改めて香純はこの絶望的状況を理解した。 「そ、んな……待ってよ」  蓮は昏睡状態で動けず、司狼は亡くなり、エリーもいない。  つまり今、螢の実力行使を阻止できる人材は皆無なのだ。 「駄目、そんなの、絶対だめよ。だいたい、よりによってこんな時に……」 「卑怯だって? だから何? 敵の嫌がることをするのが戦いでしょう。文句を言われる覚えはない」 「でも……ッ」 「気に入らないなら、あなたが止めてみなさいよ」 「………ッ」  自分が、彼女を止める? ああ確かに、もはやそれしかないのは分かっているけど。 「無駄な努力をしてみてよ。笑ってあげるから」  と言いながらも、螢の鉄面皮は崩れない。まるで感情が読めなかったが、口調と言葉の内容だけはどこまでも非情で冷たい。 「あなたを釣ったのは、この先本当の一人ぼっちじゃ可哀想だと思ったから。藤井君より、先に逝かせてあげる。抵抗してもいいよ」  彼女は、香純も殺す気なのだと。 「一人で生きて行けって、いきなり放り出されても困るよね。私は彼より優しいから、そんな酷いことはしない。一緒に逝かせてあげる。あなたの首を持って、彼の病室に行くわ。殺す前に枕元で言ってやるの。ねえ藤井君、どんな気分? 馬鹿もほどほどにしろって言ったでしょうって。 それから聞かせてあげるのよ。綾瀬さんがどんな風に殺されたのか…… 藤井君にあなたの死に様を教えないといけないから、できるだけ頑張ってドラマチックに、私が泣いちゃうくらい足掻いてよ。ねえ、剣道強いんだもんね」 「あっ、………ぅ…」  心臓を潰されるような圧迫感と寒気を覚えた。考えてみれば香純は一度も、殺気の直撃というものを受けたことがない。  ルサルカには遊ばれただけだし、トリファには賓客の対応だった。殺すと直言で言われたのも、その意を向けられたのも初めてで……  恐怖が、香純の胸を鷲掴みにする。 「じゃあ、いくよ」  それは軽く、ほんの軽く、胸元を指で突かれただけだった。 「あッ――――」  信じられないことに、たったそれだけで香純は後方に弾かれていた。受身を取る暇もなく、屋上の上を転がり飛ぶ。 「あ、かッ、―――く……」  息ができない。指で突かれただけなのに、巨大なハンマーで殴られたような衝撃だ。どう考えても常識を外れている。 「これが彼の、戦ってきた世界」  これが蓮の、耐えてきた痛み。 「これが彼の、走った非日常」  これが蓮の、味わってきた恐怖。 「痛いでしょ? 怖いでしょ? よかったね綾瀬さん、最後に藤井君と共有できたよ。満足でしょ? 殺してあげるから、泣いて感謝しながら喜んでよ」 「あッ………」  声が、出ない。出ないけど、絞れ。 「あた、しは……」  あたしは、あたしは、あたしは、あたしは――― 「あたしは――」  顔をあげて、真っ向から睨んで、言ってやるんだ。 「こんなの、全然怖くなんかない!」  嘘だけど。怖いけど。逃げ出したいくらい痛いけど。 「泣いたりなんか、しないもん! 絶対、そんなこと、してやらない!」  相手が喜ぶことなんて、一つだってしてやるもんか。  今こそあたしが、あたしが蓮を守らないと―― 「させないから、蓮を殺すなんて、あたしがいる限りさせないから!」 「じゃあ、私と戦うのね。いいわ、だったら見せてあげる」  ゆっくりと、見せ付けるように、見えない何かを抜き放つ。それは香純にとって理解を超えた、しかし同時に知りすぎるくらい馴染みの深い剣道の型だった。  緋色の剣が、抜刀される。 「本気でやってあげるわよ。剣道しましょ」 「――――――」  顔の真横を走り抜けた剣閃が、背後の物干し竿を音もなく寸断していた。香純の足下に転がってきたその切れ端は、ちょうど竹刀くらいの大きさで…… 「それを取った瞬間に、戦闘開始とみなす」  それを取った瞬間に、次は首を飛ばしてやる。 「あなたが何度もしてきたようにね、ギロチンよ」  これこそ因果応報だと。螢の殺意が告げていた。 「あたし……」  あたしは確かに、何の関係もない人たちをいっぱい殺してしまったよ。  操られたとか、本意じゃないとか、言い訳が通じる罪じゃないのは分かっている。  だから自分なりに考えて、頭悪いけど考えて、ケジメをつけたつもりだったけど…… 「そうか、まだ残ってたんだね」  地獄っていうものがあるのなら、こういう公平なものであってほしい。自分が殺した人は十人以上いるんだから、少なくとも十回以上は殺されかかるということだろう。 「だったら、逃げない。立ち向かって潜り抜けるよ。生きたいから」  蓮と一緒に生きたいから。誰よりもあいつのことが好きだから。 「私に勝てるつもりなの?」 「舐めないでよね」  そりゃあ、まあ、色々差はあるみたいだけど、なんだか櫻井さんの我流っぽいし。 「あたし、結構強いんだから。櫻井さんにだって、勝っちゃうよ」  と、言って、物干し竿を拾い上げた時だった。 「ええ、そうね」  そんな、後ろが透けて見えそうな淡い笑み。 「あなたのほうが、私よりずっと強いよ」  螢は、自らの剣で胸を深々と貫いていた。 「ああ……」  痛い。痛いけど、これは…… 「なんて、温かい、炎……」 「櫻井さん―――ッ!」  崩れる螢を香純はわけも分からないまま抱き止めて、やはりわけも分からないまま泣いている。  その涙が頬に落ち、螢はゆっくりと目を開いた。 「よかったね、あなたの、勝ちよ……」 「そんな――」  そんなこと、意味が分からないと。 「なんで? どうして? あたしのことムカついてるんでしょ? 蓮のことが嫌いなんでしょ? どうしてこんなワケの分かんないことすんのよォッ!」 「どうして、って……」  あなた達が、嫌いだから。眩しすぎて、痛いから……  目を、閉じたいと、思ったの…… 「ねえ、起きてよ、続きしようよ。逃げないでよ、卑怯だよ。 なんでみんな、あたしを無視して勝手に死んじゃおうとするのよぉ…」 「司狼も、玲愛さんも、蓮も、あんたも……! みんな最悪だよ、ぶん殴ってやりたいよ! どうしてあたしだけ、いっつも蚊帳の外で空回りなのよォッ!」  それは、たぶん一番強いのがあなただから……  みんながあなたを大好きで、みんなが守りたいと思ったから。 「一緒にカラオケ行ったじゃない」  綾瀬さん、音痴だったね。 「蓮の陰口で、盛り上がったじゃない」  あれはほとんど、あなたが一人で言ってただけだと思うんだけど。 「ちょっと喧嘩したくらいで、いきなり絶交とかすんなよぉ……」  これが、ちょっとなの? あなたにとっては…… 「友達じゃ、ないの?」  友達? 誰が? 私が? あなたの? 「友達、なの?」 「違うとか言ったら、ぶん殴るよ!」  それは、少しやめてほしい。 「たとえ、あんたがどう思ってても、全部演技だって言い張っても、あたしは知ってるもん。知ってるんだから」 「なに、が……?」 「櫻井さん、楽しそうだった」  私が、いつ? 「クラブで、みんなと一緒にいたとき……櫻井さん楽しそうだった!」  そんな、ことは、ない、はず、だけど…… 「カッコつけるな! 気取ってばっかいるなバカ! 分かるんだよ、見え見えなんだよ! 伊達に一般人代表ポジションじゃないんだから! あんたらみたいな、ひねくれたバカのことはよく分かってるの! 見慣れてるの! 誤魔化しなんか効かないんだよ! あたし、螢のことも好きだよ……」  綾瀬さん…… 「いかないでよ……また喧嘩しようよ」  ああ確かに、さっきのはなかなか面白かったかもしれない。  私の下手糞すぎる演技じゃあ、緊迫感もないかと思ったけど。  わりと、本気で怖がってたよね。ちょっと私、笑いそうだったよ。 「ねえ、どうして? どうして急に、こんなこと……」  それはね、ただ簡単な話。  恥ずかしいから、一度しか言わないよ。 「あなたみたいに、なりたかったから……」 「え……?」  あなたみたいに、強くなりたかったから…… 「意味が、全然、分からない」 「頭、悪いのね」 「うるさいよ!」  私に立ち向かおうとしたあなたの強さ、あなたの勇気、もう全然敵わない。  私は怖かった。戦えなかった。本当に立ち向かうべき相手から、逃げて逃げて下僕になった。  これはただ、そんな私の意地。  弱くて馬鹿で情けない、櫻井螢の生涯たった一つの意地。  見ているかしら、ハイドリヒ卿。笑っているかしら、カール・クラフト。  私の死で、シャンバラのスワスチカは完全に使い潰される。  もうこの街に、あなた達は降りられない。 「ざまあ見ろ」  〈氷室玲愛〉《ゾーネンキント》は死に、聖餐杯は闇に落ちた。  止めにここで、私が出来損ないの太陽を発動させる。  彼女はあなた達から見れば劣化品なのだろうけど、私にとっては最高の太陽だから。  こんなに温かい。こんなに優しい。彼女の光にあなた達は適応できまい。  どうだ、思い知ったか黒円卓。私たちの人生を狂わせた戦争の怪物ども。  勝てないまでも、殺せないまでも、私は一矢、報いたぞ。  たとえこの先何があっても、私はあなた達から逃げたりしない。 「ざまあ見ろって……」 「こっちの、話よ」  あなたは何も知らなくていい。何も分からないままでもあなたらしく、彼をその光で包んであげて。  私を〈生かして〉《ころして》、目覚めさせてくれたあの馬鹿男を。 「ふ、ふふふ……」  それに、なんだかたった今、変なことに気付いちゃったし。 「ねえ、もう一つだけ、喧嘩できそうな、ことがあるよ」 「え……?」  いや本当に、自分でも驚きでしかないんだけど…… 「私、藤井君のこと、好きになっちゃったみたい」  だから、怒って。喧嘩しようよ。 「そう……」  なのに彼女は、優しく笑って。 「見る目あるね、螢」  そんな、最高の友達を得たような顔で笑うんだ。 「敵わない、なあ……」  全敗だから、私はもう引っ込むよ。  最後に一つ、いつかの約束を果たしたうえで…… 「Sorry Kasumi my friend……」  こんな、今どき子供でも分かるようなやつで悪いけど。  まあ、あなたにはこれくらいがちょうどいいんじゃないかと思うし。 「さようなら」  さようなら、香純。 「最初で最後の……私の、友達」  あなたに逢えて…… 「逢えて、よかった」 「ああ……」  そして今、太陽が……  魔城が揺れる。玉座の獣は目を細め、事態の顛末を見届けていた。 「ふふ、くくくく……」  笑いが漏れる。実に甘い魂を得たことで、今の彼は機嫌がいい。  見事なりレオンハルト。その魂、英雄に足る。愛しい者らと我が内で渦巻くがいい。  第八開放によってシャンバラに散った総ての魂が城に吸い上げられていくのを感じながら、不滅の黄金は込み上がる愛しさを禁じ得ない。  ああ、確かにしてやられたよ。  この狭い産道では、私が出ることなどできないし。  等価交換の原則として、件の少女が求める〈魂〉《もの》を返さねばならない。  聖槍に貫かれた者……我が〈世界〉《ヴェルトール》に落ちた彼を彼女に返そう。もとよりそうするつもりだったのだからな。  黄金は笑い続ける。彼がここにいる限り、事態は何も変わらない。  六十年が百年になろうと関係なく、また同じ事を行うのみである。  なぜなら、黒円卓が全滅したわけではないのだ。彼らは皆、魔城の戦奴として召し上げられた。  リザ、ベアトリス、シュピーネ、カイン。  ルサルカ、トリファ、ヴィルヘルム。  そして氷室玲愛。櫻井螢。  それら全員が、今やラインハルトの〈世界〉《ヴェルトール》に溶けている。  この次は。  この次は今回のように甘くない。  より強力に、より強大に。  不死の〈戦奴〉《エインフェリア》のみで構成された、新たな黒円卓をお見せしよう。  まあ、内の何人かは、私に反逆する気でいるようだが……  それも一興と嘯いて、ラインハルトは瞑目した。 「なあ、カールよ」 「無論――」  何も終わっていないし変わっていない。  それが証拠に彼も彼女もここにいる。 「あなたに恋をした」  ゆえ、新たな首飾りを用意しよう。 「あなたに跪かせていただきたい、花よ」  誓いを私は忘れていない。 「いずれ必ず、私が必ず、あなたを解き放ってみせると誓う。あなたは新世界を包む女神の器だと認めるゆえに迷いはない」  そう、迷いはないのだ。すでに次の布石は打たれた。  君らは知らぬ。しょせん総ては一時凌ぎにすぎぬことを。  〈一度〉《ひとたび》魔城の門を開ければ、太陽の格など関係ない。  イザークがそうであったように、君らの子や孫が次代のゾーネンキントになるだろう。  ああ、ゆえに、祝福させてくれ。これを勝利と信じ込み、愛と安堵に酔いしれるがいい。  おめでとう、素晴らしい愛だ。君らを心より寿ごう。  強き少女よ、地獄がそれほど知りたいなら、いつか見せてさしあげよう。  君は死ねば魔城に堕ちる。ゾーネンキントになるとはそういうことだ。  シャンバラの魂で彼を救った。  分かっているだろう? 新たな罪を犯したと。  ゆえに地獄は君を歓迎するよ。  そう、我々がいる限り、何も変わりはしないのだ。  存命の内に、なんとか出来ればよいな。  子を、孫を、救えるかな、その愛で。  見せてもらおう。興味が尽きぬよ。 「くく、くくく、ははははは……」 「はははは、ははははははははははは――」  魔城が震撼して、鳴いている。魂の混沌が渦巻きながら笑っている。  その絶対悪。二柱の悪魔は健在なのだ。何も変わりはしない。  黄昏の少女は眠ったまま、ただほんの刹那にすぎなかった日向の追憶に浸っていた。  広大な空間に銃声が轟き渡る。  それは何者かを攻撃するためでも、牽制を目的とした示威行動でもない。  だがその行為を他者が見れば、十人が十人蛮行と言っただろう。特に彼の身内が目にすれば、怒りを通り越して絶句したに違いない。 「ちゃー、やっぱ駄目だな。当たんねえ」  苦笑いしつつそう言って、司狼は空になった弾倉を交換する。たったそれだけのことなのだが、手際が悪くぎこちない。  先に言った“当たらない”とは、つまりそれが原因だ。 「よっ、はっ、とっ」  口笛でも吹きかねない調子で射撃を続ける司狼は隻腕。彼の左腕が永久に失われてから、まだ二日しか経っていない。重心のバランスが大幅に狂ったことで、命中精度が致命的に落ちている。いや本来なら、まともに歩行することさえ出来ないはずだ。  利き腕を失った状態でデザートイーグルの射撃反動を抑え込み、かつ命中させるなど神業と言っていいだろう。事実ここに至るまで、三十発を超える無駄弾を費やしている。  だが…… 「お、今のは惜しい」  徐々に、徐々にだが、誤差は修正されつつあった。  当たらないのならどのように狙いが逸れるのかを観測し、そこから逆算して狙点をずらす。妙な癖がつくのは避けたかったが、この現状では仕方ない。付け焼刃だろうとなんだろうと、今夜を乗り切るためには必要な技術だった。  そして。 「よっしゃ、命中」  蛮行とは、こういう意味だ。  広間の中央、十メートルの高みにある十字架に、磔となって囚われている綾瀬香純。彼女を拘束している鎖の束を、命中率の怪しい射撃で断とうとしている。確かに他の方法がないとはいえ、まともな神経でやれるようなことではない。  この場に他の誰も存在せず、当の香純も気絶しているのが唯一の救いだ。傍から見るだけで卒倒しそうな、それでいて今ようやく成果をあげようとしているこの行為を、諌める者も妨害する者も存在しない。 「よっ――と、ほらどうだ?」  結果、四十五発の弾丸を費やして目的は達成された。拘束の解けた香純の身体が、十字架から落ちてくる。 「そんでもう一発」  すでにコツは覚えたのだろう。続けて発射された弾丸は狙い過たず傍らのロープを千切り、それに吊るされていた鉤十字の旗が落下する香純の体重を受け止めた。いくらなんでも、十メートルの高みから落ちる人間一人を片手で受け止めることなど出来ない。 「ま、こんなもんに包まれんのはおまえも嫌だろうが贅沢言うなよ。 それで、おらバカスミ、朝だ起きろ」  円卓の中央、旗に包まれて横たわる香純に近寄り、司狼はその頬を軽く叩く。ややあって、眠り姫が目を覚ました。 「あ、……ん」 「よう、お目覚めか?」 「司狼……ここ、何処?」 「なんだおまえ、覚えてねえのか?」  今からほんの数時間前、彼を起こしてここに導いたのは他ならぬ彼女なのだが…… 「あたしは別に、何がなんだか……櫻井さんと学校に行って、それで……」 「ああ、もういい。よく分かんねえなら分かんねえでも」  説明が面倒だし理屈で物事を考える性分でもない。香純が何も覚えてないなら、自分が見たのは幻覚と幻聴だったのだろう。司狼はどうでもいいことだと一人で勝手に納得した。 「立てるかい、お姫様。王子様が迎えにきたよん」 「……なんか、よく分かんないけど、あんたはどっちかって言うと人攫いでしょ」 「そりゃ言い得て妙だな。まあ似たようなもんさ。ほら立ちな」  一笑して、右手を差し出す司狼。香純は未だ不徳要領ながらもそれを握ろうと手を出すが…… 「――ちょっとあんた、なによその怪我ッ?」 「んー?」 「んー、じゃないわよ、なんでそんなんなってんのよ」 「おまえが寝てる間にちょっと狂犬と喧嘩してだな」 「ふざけないでっ!」  嘘は言ってないんだが、詳しく話したところで理解など出来まい。それに理解されたとしても説教されるという結果は変わらない。  会話の不毛さを悟った司狼は、無言で片手を挙げて降伏をアピールする。香純はそれに何事かを言いかけて、しかし何も言えなくて、自ら制服の袖を破ると、司狼の左肩を縛りだした。 「ほんとにもう……あんたらって馬鹿なことばっかり…… どうするのよ、これ……どうなんのよ、これ……なんであんたたちばっかり、いつも勝手に盛り上がって、勝手に色々無くしてきて……」 「まあ、そのうち生えてくるだろ」 「トカゲの尻尾じゃないんだよっ!」  大口径の拳銃を乱射した反動で、左腕の縫合部から血が流れている。抗議の意味も込めて香純はきつく縛り上げるが、司狼はへらへらと笑ったままだ。 「痛くないの……?」 「こういうとき、大概の男は痛くねえって言うもんだ」  そもそも、事実として痛くない。この身体からすでに痛覚は消えている。  匂いも、味も、そしていずれは、目や耳にも障害が出始めるだろう。やがては脳そのものが沸騰するに違いない。不便なものだが、今はこの体質をフル活用するときだ。寝ていても治らないなら太く短く……あるいは連中の一人から不死身を奪い取れればとも思ったが、どうやらそれも手遅れのようだし。 「つーわけで、いい加減に離れろよおまえ。いつまでも女みたいにべそべそと泣いてんな」 「あたし……女だもん」 「女らしい女は嫌いなんだよ、オレ」  だいたい、抱きつくなら蓮にしとけよ。そして修羅場の一つでもおっぱじめつつ、オレを笑わせてくれりゃあいいもんを。  と、心中ぼやき始めたときだった。 「――――――」 「え、なに?」  縋りついていた司狼の身体から、強張りと緊張を感じ取った香純は顔をあげる。だが同時に、右手で後頭部を掴まれると胸板に押しつけられた。 「ちょっ――、なによ、いきなり何すんのよ?」 「黙ってろ、おまえ」  そして目を閉じてろ。後の言葉を飲み込んで、司狼は自分の背後に全神経を集中していた。 「………っ」  ここにきて、香純もまた異常に気付く。いや、正確には気付かされた。 「……司狼?」  彼が、このいつもマイペースで飄々とした幼なじみが震えている。  俄かに信じがたいことだったが、密着している以上嫌でも分かる。押し付けられた胸から聞こえる鼓動の音は、有り得ないほど速く激しい。 「そりゃまあ、そうそう甘くはねえと思ってたけどよ……」  これは流石に予想外だ。実に、実に心の底から―― 「面白くなってきた。誰だよおまえ?」  言いながらも、すでに見当は付いていた。  ここは円卓の中心で、自分の目の前には〈六〉《ゼクス》と〈七〉《ズィーベン》の席がある。  つまり、その反対側にある席と言えば…… 「名前、知らねえんだ。教えてくれよ」  そこにあるのは〈十三〉《ドライツェーン》―― 「カール・クラフト」 「―――――っ」  香純が息を呑み、震えだす。威圧されたわけでも、邪気や悪意を感じたというわけでもない。  その出現に、一切の異常を伴わなかったのが何よりの証だろう。司狼が感じ取ったのは別のもの……これも既知感としか言いようがなかった。  なぜなら…… 「こりゃまた、何の冗談だよ」 「そんな、嘘だよ……」  声が、気配が、雰囲気が―― 「どうしたのかな、お嬢さん。私が何か、君の知人にでも似ていたかね?」  同じなのだ。そっくりなのだ。自分達がよく知るあいつに―― 「あなた、誰……?」  震える声で問う香純。たとえ悪魔と対面しようと、死んだ人間に出くわそうと、ここまでの恐怖は懐かない。  彼と同じ声、同じ気配で、しかし中身がまるで違う。 「聖槍十三騎士団黒円卓第十三位」  甘く優しく、柔和とさえ言えるその佇まいとは裏腹に。 「副首領、カール・クラフト=メルクリウス。棄てた名だが、この場ではそう言ったほうが理解は早いか」  コレは自分達を何かの部品程度にしか見ていない。  そう感じ取り、確信して―― 「愚息の友人ならば歓待せねばなるまいな」  その言葉に、泣きたくなるほどの嫌悪と絶望が込み上げてきた。 突如として飛び去った謎の剣の後を追い、礼拝堂の扉を蹴破って中に入る。 そこで俺が目にしたものは―― 「久しいな、中尉」 「ええ……お久しぶりです、ハイドリヒ卿」 礼拝堂の奥……祭壇の下に立つ三人の姿。 呆然としたまま硬直している櫻井と、忘れもしない黒円卓の首領、ラインハルト・ハイドリヒ。 そして、二人の間に立ち塞がるのは見たこともない金髪の女将校。 誰だ? いったいこれは、何がどうなっている状況なんだ? 「なぜ槍を止められたのです? あなたにその気があったなら、私達など薄紙にすぎないはず」 「それを知って、なお立ち塞がる卿の勇姿が見たかった。悪くないぞヴァルキュリア。大儀だ、やはり魅せてくれる」 「……なるほど、まんまと誘き出されたというわけですね」 「ベアトリス……」 櫻井が漏らしたその名前に、俺は驚きと困惑を隠せない。 「ベアトリス?」 ベアトリスだと? それは十一年前に死んだと聞いた名のはずだ。 そいつがなぜここにいて、櫻井を守るように立っている? ……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。彼女が防壁の役割をしている以上、俺もここに来た目的を果たさなければ。 「――え、きゃっ」 一足飛びに駆け寄った俺は、櫻井の腰に手を回してそのまま今度は飛び退がった。事情は知らないがこの状況、桁外れに危険なものであることだけは間違いない。 「大丈夫かよ、おまえ」 「あ、藤井君……」 「神父は?」 おまえが斃したのか? 見当たらないが、そうだとしてもあいつの死体は何処にいった? 「ここだ」 そんな俺の疑問に、薄笑みを浮かべて答えるラインハルト。自らの胸に手を当てて、黄金に輝く眼を細めながら言い放つ。 「聖餐杯は我が血肉。あれは器の管理が終わったゆえ、褒美として英霊の列に加えたまでだ。いずれまた会える」 「卿も然りだヴァルキュリア。レオンハルトの力を借りたとはいえ、そうも容易く魂の具現化など普通は出来ぬ」 「分かっています。私が出てこれたのは、螢が助けを求めたこと以上に、あなたの力がより完全に近づいているということ」 「七つのスワスチカに縁のある魂は、もはや半ば以上にエインフェリア化が始まっている」 「そうだ、そしてあと一つ残っている。そこで私から提案しよう」 言って、ラインハルトは槍を退き、身を翻した。それと同時にベアトリスも剣を退き、こちらのすぐ前まで退がってくる。 「さっきはありがとう。迷惑をかけて御免なさいね」 背中越しに抑えた声で言ってくるその台詞で、俺はようやく気が付いた。 彼女が今、手に持っている剣は紛れもなく…… 「あんたが四代目だったのか……」 「ええ、でもその話は後」 「螢も、いつまで呆っとしてるの。そんなんじゃ彼氏に呆れられちゃうわよ」 「なッ―――」 「本当に、いつまでも子供なんだから」 「う、うるさい! 私は――」 そんなんじゃない、と言って、俺の手を振り解くと立ち上がる櫻井。 まあ、いいんだが、元気はあるようでとりあえず安心だ。問題は、今対峙しているあの男。 振り向いたラインハルトは、俺達三人に目を向け、言う。 「卿らに、人選を任せよう」 「聖櫃を回すには五色を要する。黄化の枠はこの〈聖餐杯〉《うつわ》があれば事足りるが、〈白化〉《シュライバー》の穴埋めが要る」 「そして、卿らは三人だ」 俺を、櫻井を、そしてベアトリスを順繰りに見つめつつ、涼やかな顔と声でこいつは恐るべきことを放言した。 「殺し合え」 「―――――」 「それをもって第八を開く贄とする。残る二人は〈白化〉《アルベド》の代替と、完成した私に未知を見せてくれる者……その配役をここで選べ」 「五色に連なる条件は、私が英雄と認めた魂であることだ。ゆえに美々しく魅せてくれよ。卿らの道程が弾け消え行くその様を。閃光を」 「こいつ……」 「何をいきなり……」 「こちらで選んでやってもよいのだぞ。だがその場合、誰になるかは自ずと分かろう」 「ええ、至極簡単な問いです、閣下」 色を失う俺と櫻井とは対照的に、ベアトリスは淡々とした口調で訊き返していた。 「私に、螢を斬れと仰るのですね?」 「然り。それが優先順位だ、中尉」 「カールの代替には私を楽しませる義務があり、そして卿はすでに半ばがエインフェリアと化している。この場でもっとも不要な者が誰なのかなど、あえて論ずるまでもない」 「しょせん早いか遅いかの問題であろう。これは慈悲だ。褒美と思え」 どのみち総てを吸収し、己が〈戦奴〉《エインフェリア》にする定め……ならば迷うことなどあるまいと、傲慢に、倣岸に、しかし典雅な柔和さで言ってのけるラインハルト。 奴は俺達に、当たり前のような顔で命令する。 「愛しい男を、〈手弱女〉《たおやめ》を、私との争いから解放する唯一にして最後の機だ。守ると誓った者が、目の前で業火に顔を歪める様など見るに耐えまい」 「ゆえに介錯を、安らかにヴァルハラへと逝けるよう、己が想い人を手にかけよ。悪くない話であろうが」 嘲るでもなく、見下すでもなく、むしろ真摯な配慮すら感じさせるその口調に、目眩がするほど理解した。……こいつは本気だ。 自分と戦うくらいなら、俺達同士で殺し合うことのほうが傷は浅いと、嘆きはないと……真実本心からそう思っている。それが慈悲だと信じている。 「なるほど、これが……」 「ええ、よく分かったでしょう」 これがラインハルト・ハイドリヒ。 黒円卓の首領。ヴィルヘルムやシュライバー、トリファ神父ら数多の狂人の上に立ち、君臨した愛すべからざる光。 人間でも、獣でもない。強いて言うなら悪魔の男だ。そんな陳腐な比喩しか見当たらないほど、徹底して価値観がずれている。 「蟻を愛でる戦車ほど、気味の悪いものはない」 「人語を解する天災ほど、危険に感じるものもない」 喰らい、貪り、蝕んで、破壊することを至上の祝福と思っている〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》。 「それで、どうする?」 こいつに対して答えることなど、ただ一言しかありはしない。 「――断る!」 もはや会話なんかに意味はない。 「ここでおまえを斃せば全部終わる」 「あなたはこの世にいてはならない」 「第八が開放され、手に負えなくなってしまう前に」 「ふふ、ふふふふふふ……」 そろって臨戦態勢に入る俺達を前に、俯いたまま笑みを噛み殺すラインハルト。ベアトリスが言ったように、まだこいつは完全な状態じゃない。 斃すなら、今しかないんだ。 「カール、カールよ、聞こえるか」 「卿の助言、真摯に受け止め実行したいが」 手の長槍が旋回する。黄金の穂先が鳴動し、そこから何かが広がっていく。 瞬間、俺は地面が消え去るような喪失感を味わった。 「しかし、これはそうもいくまい。部下の意も汲まねばならん」 「――いけないッ」 落下するような浮遊感の中、ベアトリスがラインハルトに向けて駆けていた。俺も櫻井も、不吉な予感に衝き動かされて走り出す。 「ザミエル」 そう、たとえシュライバーが居なくとも、まだ奴の下には二人の近衛が―― 「マキナよ」 〈赤騎士〉《ルベド》と〈黒騎士〉《ニグレド》、無敵を誇る不死身の〈大隊長〉《エインフェリア》が侍っている―― 「卿らの獲物だ。喰らえ」 「〈心得ました、我が主〉《ヤヴォール・マインヘル》」 「――――ッ」 「――ベアトリス!」 ラインハルトの左肩後方から噴き出した紅蓮の炎がベアトリスを呑み込んで、彼女の姿を消していく。 そして俺には―― 破城槌のような黒い鉄拳が落ちてくる。ラインハルトの右肩後方から出現したそれは、腕一本だけでカインの巨体より遥かにでかい。 ――化け物が! 「――櫻井!」 一瞬にして、俺達三人は引き離された。鉄拳の直撃から身を捻って逃れつつも、その拳圧は桁外れの威力をもって俺を木っ端屑のように吹き飛ばす。 天も地も、重力すらも消失したような黄金に滾る亜空間。成す術もなく錐揉み状に飛ばされながら、俺は同時に理解した。 「〈Dieser Mann wohnte in den Gruften, und niemand konnte ihm keine mehr,〉《その男は墓に住み あらゆる者も あらゆる鎖も》〈nicht sogar mit einer Kette, binden.〉《あらゆる総てをもってしても繋ぎ止めることが出来ない》」 「〈Er ris die Ketten auseinander und brach die Eisen auf seinen Fusen.〉《彼は縛鎖を千切り 枷を壊し 狂い泣き叫ぶ墓の主》〈Niemand war stark genug, um ihn zu unterwerfen.〉《この世のありとあらゆるモノ総て 彼を抑える力を持たない》」 歪む世界。響く詠唱。黄金に沸騰する海の中、湧きあがって来るのは百万を超える髑髏の軍隊。 その一つ一つが折り重なって構成していく死者の城―― 「〈Dann fragte ihn Jesus. Was ist Ihr Name?〉《ゆえ 神は問われた 貴様は何者か》」 これがこいつの、渇望する世界。 「〈Es ist eine dumme Frage. Ich antworte.〉《愚問なり 無知蒙昧 知らぬならば答えよう》」 「〈Mein Name ist Legion〉《我が名はレギオン》――」 無数の屍で積み上げられた、ラインハルト・ハイドリヒ唯一人だけが坐す玉座。 「〈Briah〉《創造》――」 黄金の混沌が爆発する。地獄の釜が開くように、俺を櫻井をベアトリスを――呑み込み顕現するヴァルハラ宮。 「〈Gladsheimr〉《至高天》――〈Gullinkambi fünfte Weltall〉《黄金冠す第五宇宙》」 「―――ッァァ」  ベアトリス・キルヒアイゼンは逃げられない。先ほどから渾身の力を込めてもがくものの、まるで人の手のように喉元を締め上げてくる獄炎が、彼女に逃走を許さない。 「ヴィッテンブルグ、少佐……!」 「そう嫌うなキルヒアイゼン。六十年ぶりだ、積もる話も数多あろう」 「私は……」 「ああ、悪くない。よく戻ってきた嬉しいぞ。クリストフの茶番に乗ってやった甲斐もある。 よくぞあの下種を成敗した。褒美を受け取るがいい」 「あああああァァァ―――ッ」  鋼鉄の沸点すら超える大焦熱地獄が猛り狂う。それはベアトリスを呑み込んだまま蛇のようにうねりつつ、彼女ら二人を戦場へと運んでいく。 「何人たりとも邪魔はさせん。貴様と私と、二人だけのあの頃へ―― 還り、共に語らおう。待ち望んだぞ、この時を」 「私は、私も……」  灼熱の炎気に包まれて、ベアトリスもまた覚悟を決める。どの道こうなることは分かっていたし望んでいた。  目の前には紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》。かつて共に戦場を駆け、弾雨の下を潜りながら命懸けで追いかけた敬愛する上官の、変わり果てたその姿。  見るに耐えない。やりきれない。死せる戦姫は涙を振り切って咆哮する。 「あなたを救います、ヴィッテンブルグ少佐! 剣も誇りも、人であることも棄てたあなたに――」 「私は絶対負けたりしない!」 「ふふ、ふははははははははははははははは――」  凛冽で、清冽で、青臭く愚かでありつつ、気高き百合のような戦乙女よ。 「抜かせ小娘がァッ!」  やはり貴様は、未来永劫私のものだ。 「ちょ――っ」 「なんだ、こりゃあ」  教会の地下、黒円卓の間に侵食してくる幾戦幾万の髑髏達。  壁が、床、天井が、それらに覆われ、呑み込まれていく。 「遅かったな。もう逃げられん」  自らの席に座したまま、メルクリウスは嘆息するように笑っていた。 「獣殿の創造は、何者であれ壊せんよ。ここに呑まれたが最後、戦奴の列に加わるしか道はない。だが……」  振り向きもせず、脇の下から撃ち出された銃弾がメルクリウスの頭部を撃砕する。しかし、半顔を吹き飛ばされてなお、その弄言は終わらない。 「そうだ、足掻け。何処までも。しょせん魔人錬成など、泡沫に耐えられぬ私のような弱者の業だ。 君ら人である者こそが、あるいは回帰を断つ鍵やも知れぬ。 その魂に嫉妬すら覚える」 「ぐちゃぐちゃとまあ、ワケの分かんねえことを」  先の銃弾は確かに頭部を破壊したが、まるで霧を砕いたかのように手応えがまったくない。  事実振り返った司狼の前で、声の主は傷一つ負わずに座したままだ。 「見れば見るほど、有り得ねえよ、てめえのツラは」  闇に溶け込む黒外套に身を包み、影絵のように輪郭の曖昧な長髪痩躯の優男……年齢は十数歳上だろうが、その顔立ちは紛れも無く自分がよく知る人物と同じものだ。 「あなた、さっき蓮のお父さんだって……」  震える声で香純は言う。彼女にとって、世界が瓦解するレベルの衝撃を受けたその言葉……慄きながらも確かめずにはいられない。 「答えて、あなたは蓮の何なのッ?」 「つーより、蓮がおまえの何だ?」  父であるとか、息子であるとか、そんな戯言信じない。だけど目の前のこの男が、蓮と無関係であることなんかそれ以上に有り得ない。 「愚息というのは、ただの比喩」  敵意と、怒りと、困惑と、惑いながらも真摯な気持ちで注がれる視線を受け止め、闇の水星は含み笑った。  その痛切な問い。友情、愛とは美しい。彼のような道化にも、その輝きが素晴らしいものであることくらいは理解できる。  ゆえ、訊かれれば答えねばなるまい。 「あれは我が分身、我が創造物」  魔人の錬成――とある少女とその業を、使えぬのなら使える者を創ればよい。 「永劫を駆け抜け、回帰の環を超越し破壊する。元来、総ては彼のために私が用意したものだ」  しょせん聖槍十三騎士団など、その当て馬であり実験動物にすぎぬもの。 「あれは私の聖遺物」  〈彼の秘法〉《エイヴィヒカイト》を何よりも誰よりも揮うに長けた、意志持つ端末。 「怒りの日の、奏者だ」 「そうだ、おまえは俺と同じだ――」 耳を聾する轟風のような拳圧の中、鉄槌を思わせる寂びた声が俺に響く。 「兄弟、狂おしく待ったぞこのときを――」 「ガアアアアアアァァ――ッ」 一瞬なのか永遠なのか、どれだけの時間どれだけの距離を飛ばされたのか分からないまま、俺はその場所に招かれていた。 「……ここは」 鉛色に蠢くような空の下、着地したのは海老茶に染まり乾ききった石畳の上。 数百、数千、数万を超える血がばら撒かれた場所だと一目で分かる。ここはまるで…… 「〈闘技場〉《コロッセオ》……?」 ローマにあるという古代遺産。あの巨大遺物に酷似している。そして、そして、ここで俺は―― 「ぐぅゥゥ……!」 割れるような頭痛と胸を締め上げる苦しさに、俺は膝を付いたまま立ち上がれない。何か致命的なまでに不吉なものが、胸の奥と頭の中から迫り出してくるようで…… 「懐かしいだろう」 俺の前に立つ黒衣の偉丈夫……死んだ魚のような目で、しかし全身から破滅的な鬼気を滲ませているこの男は誰だったか。 「マキナ……」 その名は通称。二重の意味でこいつを表す端的な記号に過ぎない。 〈幕引き〉《マキナ》を追い求める〈人形〉《マキナ》。 それは蠱毒の壷に残った最後の一匹。何万もの屍から生み出された、ある兵士を指す言葉。 「俺とおまえが生まれた場所だ」 ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン……すでに自分が何者かも分からなくなった死せる英雄。 こいつと俺は…… 「兄弟、この地で我らの血を濯ごう」 文字通り、同じ父の元、血肉を共有した兄弟だった。 「歓迎しよう、レオンハルト」  すでに蓮とベアトリスは連れ去られ、後に残った螢は独り、黄金の獣と対峙する。  今やこの場は、先ほどまで居た礼拝堂の中ではない。  荘重かつ絢爛な、大伽藍を思わせる玉座の間。  もはや言われるまでもなく分かっていた。 「ここはヴェヴェルスブルグ城」 「黒円卓始まりの地であり――」 「我らが魂のヴァルハラだ」 「では、最後の〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めようか」 「若い卿らは知らぬであろうが、昔日の我々は皆この城で語らい、共に練磨した」  まだ黒円卓がただの児戯であった頃から、ここはそういう場所だった。 「登城を認められた騎士は百を超える。ヒムラー、ヘス、ハウスホーファー、ディードリヒ、アイケ、マンシュタイン、マルセイユ……そしてルーデル、ヴィットマン。名前くらいは知っていよう」  皆が第三帝国の重鎮、ないし戦場の英雄達だ。螢に背を向け階段を上っていくラインハルトは、その一歩一歩を慈しむようにしながら言葉を継ぐ。 「ここは彼らが定めたヴァルハラ。死後の英雄が集う〈歓喜の天〉《グラズヘイム》だ。もっとも、当時の面子で未だ残っているのは私しかおらんがな。 彼らは皆、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈城〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」  百万の髑髏で構成された〈第五宇宙〉《ヴェルトール》。しかしその実、見方を変えればただの混沌であり奈落だろう。  ここで死ねば、問答無用でその中に取り込まれるだけ。  ラインハルトはそう嘯きつつ、玉座に腰を下ろして螢を見る。 「ゆえに、さてどうなるか。マキナが敗れるとは思えんが、もしそうなったところでむしろ私には喜ばしいだけで問題はない。 ヴァルキュリアにしても同じことだ。彼女ではザミエルを斃せぬし、それで枠が欠けるわけでもない」 「なぜ……?」  先ほど聞いた話と違う。事実シュライバーがそうであったように、たとえエインフェリアであっても一度死ねば復活に時間を要する。とても第八が開くまでは間に合わないはず。 「今、この城中にはカールがいる」 「―――――」 「ここで斃れた魂なら、あれは即座に錬成するぞ。なぜならベルリン崩壊のとき、この城を回帰が及ばぬ領域として固めたのは彼と、私と、そして〈初代の六位〉《イザーク》……依然、その法は生きており、中でもカールの手際は桁が違う。 蘇生。復活。再構築。この城で果てた者をこの城の中に限り、際限なく再現して錬成し増殖させる。卿らの求めた真なる〈聖櫃〉《スワスチカ》による祝福とは、それを城の外でも起こすことだ。 いや、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈城〉《 、》〈を〉《 、》〈外〉《 、》〈に〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈言〉《 、》〈う〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》。どちらにせよ大差ない」 「だったら……」  駄目だ、完全に詰まされた。先ほど言っていた五色の要員は、これでどう転ぼうが欠損しない。たとえ全員相討ちという奇跡のような事態が起きても、ここにいる限り何度でも復活させられ、しかもそのときは獣の戦奴になっている。  かつて自分が試みたように、すでに開いたスワスチカで散るという無駄遣いを消滅させる詰みの一手だ。城の創造を許した時点で、もはや投了。  彼らにとっては、最悪第八を開くのが大量殺戮になりかねないのがつまらないという、ただそれだけで。 「無限に死者を呑み込み続け、時が来れば溢れ出させる混沌」  自嘲するように、ラインハルトは呟いていた。 「悪魔だの地獄だのと、陳腐に評されてきたのはそういう理屈なのだろうよ。実情はただの墓守にすぎん」 「そして卿らは、私に死者を供給する〈死神〉《ヴァルキュリア》だ。〈建材〉《しかばね》を積み上げる築城の〈匠〉《しょう》……万魔殿を建造する強欲と言ってもよいか。何にせよ、大儀である。 カールが登城するようになって以来、その役目は今も変わらぬ。レオンハルトよ、これでもまだ、私のために屍を積み上げるつもりは失せたと言うのか? 無論、私に従うことでそれなりの益もあるぞ。答えるがいい」 「私は……」  問われ、返答に躊躇する。気持ちが揺れているわけではないし、足掻きを諦めたわけでもない。  ただ、分からなくなってきた。なぜ彼はこんな城を積み上げることに固執するのか。なぜ自分達がそれに手を貸す必要を迫られるのか。  やりたければ一人でやればいいものを。 「幸多き人生ではあるまい」 「これまでどれだけの涙を、どれだけの血を流してきた? 決して愉快ではなかろうし、二度としたいとも思うまい。だが断言して、その道は終わらんぞ。 仮に私を斃したとしよう。カールの気が変わるとしよう。しかしその後に残るのは、再び獅子の剣を執らざるを得ぬ少女の姿だ。卿は何度繰り返しても、まったく同じ嘆きにその身を晒されることとなる。 この世はそうした〈牢獄〉《ゲットー》だ。 ゆえ、それを破壊する。そのために屍を積み上げろ」 「カールの術は、そうした回帰の流れを乱す。死者の魂が一箇所に留まり続ければ円環運動は阻害され、許容を超えれば弾け飛ぶのみ。血栓と原理は同じだ。 とはいえ、事はそう簡単でもない。何せ敵は、有史以来人類を縛り続けてきた不動の〈神〉《システム》。致命的な血栓症が起きるまでの“遊び”は膨大にあり、千や万ごときでは追いつかぬ。 ならばやるべきことは一つであろう。総てを呑み込む」 「―――――」  余りにも気負い無く、自然な口調で言われたため、一瞬螢は彼が何を言っているのか分からなかった。 「過去に坐しまし、今居まし、そして未来に生まれる総てを呑み込む。血栓症が起きるまで、この〈牢獄〉《ゲットー》が破裂するまで。 私の総軍は膨れ上がる。そうして〈地獄〉《かんき》は飽和し、溢れ出す。 流れ出り、〈神〉《システム》は書き換えられていくだろう。卿のような嘆きに満ちた人生が、無限に繰り返されることなどないように」 「何を馬鹿な……」  それこそ狂人の戯言だ。いかに彼の器が桁外れの許容量を誇ろうとも、数十億を超える全人類をこのヴァルハラに繋ぐことなど出来るはずがない。そんなものは神業を通り越した絵空事だ。 「行うのみだ。壊したことがないものを見つけるまで」  しかし当のラインハルトは、笑みさえ浮かべて是だと言う。出来る出来ないの話ではなく、やるのだと。 「私はそのような生き方しか知らん。そして見事に事を成せば、おそらくこの法則を創ったモノにも出逢えるだろう。それが神であろうと、悪魔であろうと。 胸が躍ると思わんか? 戯けた創造主とやらいう者に、我ら総軍、無限の回帰より脱却して闘争を挑むのだ。私が指揮し、卿ら〈英雄達〉《エインフェリア》が先陣を務める。〈怒りの日〉《ディエス・イレ》に相応しい。 まあもっとも、それは私の個人的欲求に過ぎんがな。カールはまた、別の理由と方法を持っていよう。しょせん今の状況など、我々にとってただの前座だ」 「ゆえ、問おう」  黄金の眼が輝きだす。螢の魂を骨絡み呪縛して、このヴァルハラに繋ぎとめると言っている。 「これは決定事項だ、レオンハルト。卿の選択は二つに一つ」  自ら進んで繋がれるか、屈服させられた後になるか。  ラインハルト・ハイドリヒに、単独で挑むということ。それがどれだけ馬鹿げていて、荒唐無稽で、冗談にもならない愚挙であるかは分かっている。  分かっているけど―― 「愚問です」  静かに言って、緋々色金を構え直した。先のヴァレリア・トリファとの戦いで、もはや余力など残っていない。勝負どころか、こうして向き合うだけで身体中が気化しそうだ。  それでも自分は―― 「退きません。断ると、ついさっきも言ったはずです」  そう、たとえ王手を告げられた現状でも。 「私は馬鹿で負けず嫌いで、聞き分けのない子供だから」  盤ごと引っ繰り返したくなる。そんな奇跡に賭けたくなる。  まだ諦めるには早すぎる。 「卿はゲットーの残酷さを知らん。私に刃を向けることが、前にも通った道ならどうする? 二度も三度も、いいや千度万度に至るまで、苦痛と恐怖に苛まれながら生を終えることもあるまい」  嘆かわしげに言うラインハルトに、螢は苦笑しながら言い返した。 「仮に私が投降して、あなたの既知感とやらが失せるとも思えませんよ、ハイドリヒ卿」 「いや、私が降らないと決まっているからこそ、あなたはそう感じるのでしょう」  ならば、〈今〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈の〉《 、》〈私〉《 、》〈に〉《 、》〈順〉《 、》〈ず〉《 、》〈る〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》。  〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈私〉《 、》〈を〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》。 「確かに私には、あなた方の仰ることが分からない」  〈法則〉《ゲットー》だの、回帰だの、無限に続く徒刑だの……そんなものは知らないし感じない。 「だけど私は馬鹿なりに、いつも懸命に生きてきました。 岐路に迷って、間違って、後悔しながらも諦めず」  諦めかけても叱咤されて。 「そうしてここに立っています。それを誇りに思っています。私は最後までそうありたい」  選ぶのは自分の意志だ。前にもやっただのやってないだの、これから先もそうなるだのならないだの。 「くだらない。あなた方は何より自分を信じられない弱い人だ。そんな〈既知感〉《もの》は取るに足らないと無理をしてでも胸を張り、自分の選択に苦しみながらも背負っていくことが出来る人を――」  私は、一人知っている。  それはもしかしたら過大評価で、いわゆる欲目というやつなのかもしれないけれど。  私はそう感じている。そうだと思う人を選んだんだ。  だからこの選択まで、私が彼を選んだことまで―― 「そんな〈既知感〉《たわごと》で片付けるのは許さない! 今の私がここ在るのは、何よりもそれを選んだお陰だから!」 「なるほど」  文字通り火の出るような螢の言葉に、ラインハルトは静かな首肯で応じていた。 「その言葉、胸に迫る。否定はせぬよ、確かに私もカールもつまらぬ男だ。 もはや長年の癖に等しい。無意識のうち、局面において良手も悪手も数十は思い描き試してしまう。別に卿の選択を貶めるような意図はないのだがな」 「まあ、よかろう」  言って、緩やかに螢を手招く。  かかって来いと。それほどまでに己が選択を信じるのなら―― 「私に未知を見せてみろ。失望はさせてくれるなよ」 「言われなくても……」  未だラインハルトは玉座に腰を下ろしたまま、聖なる槍を抜くばかりか、立ち上がることさえしていない。  だが結構、それもまた良し。彼我の実力差はまともに考えるのが馬鹿らしくなるほど開いている。形振り構っていられる状況ではない。  それに今、絶望的な戦いを強いられているのは私だけじゃないはずだから。 「みんな、きっと、同じように戦っている」  私だけ、楽は出来ない。 「参ります、ハイドリヒ卿」  呟き、螢は一直線に玉座へと続く階段を駆け上がっていた。 「あなたは確かに、無敵と言っていいほどの存在なのでしょう」  総軍を超える魂の器。自分の剣が聖餐杯に通じなかったという時点で、この黄金に有効打を与える術も力量も無いのは分かっている。 「だけど――」  今だけは話が別だ。  ヴァレリア・トリファを斃した穴。不滅の肉体に生じてしまったその傷痕。  第八のスワスチカが開かぬ限り、きっとそれは埋まらない。  今の彼には亀裂がある。 「私に投降するよう促したのは――」  駆け上がった階段の上、玉座の獣に剣を振り下ろして螢は吠えた。 「あなた自身、万全ではないからでしょう!」  たとえ闇の水星であろうとも、この男ほど巨大な地獄を即座に錬成できるとは思えない。そして大元である彼を斃せば、その間〈大隊長〉《エインフェリア》は間違いなく行動不能に陥るはず。  それは数時間か、数分か、あるいは数秒であろうとも―― 「あなたを斃し、カール・クラフトを消滅させる!」  それしかない。やるしかない。出来る出来ないの話じゃない。 「〈愛〉《かな》しき少女だ」  振り下ろされる烈火の剣に、未だ黄金は微動だにせず。  魔城ヴェヴェルスブルグの頂で、他総ての趨勢を左右する勝負が始まる。 「始まったか」  エインフェリアとしての知覚により、主の精神状態を感じ取ってエレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは目を細めた。 「ハイドリヒ卿は楽しんでおられる。よかったなキルヒアイゼン、あの小娘は我々と同じものになれるだろうよ」 「…………」  対してベアトリスは応えない。無言のまま辺りを見回し、後に低く呟くだけ。 「なるほど、そういうことですか」  ここは一階大ホール。黒円卓の初期団員である彼女は、当然この城を知っていた。 「夢のないヴァルハラですよ、少佐。ここには嫌な記憶しかありません。マキナ卿の心中をお察しします」 「ふん、相変わらず口の減らん奴だな、貴様は」  厳格かつ〈癇癖〉《かんぺき》の強いエレオノーレを前にして、物怖じしない軽口を叩ける者などそういない。まして、彼女がそれを許すような相手といえば、一人だけだ。 「マキナの心中など知らんよ。ブレンナーでもあるまいに、偽善なことを抜かしてどうする。指を咥えて見ていただけであろうが、貴様らは」 「確かにそれは、仰る通りですけどね」  正反対の性格ながら、妙に馬の合う姉妹。彼女らを表現するならそんな言葉が適当だろう。だが、その姉妹は今からここで殺し合うのだ。 「クリストフが自虐し、ブレンナーが目を逸らし、貴様はふらふらとうろつくばかり。今も昔も進歩が無い。下種と間抜けと阿呆共が。 そして、最後に私の手を煩わせるところまで変わらんときた。 まったく――」  間を置いて、エレオノーレは含み笑う。楽しくて堪らないと、この状況を何よりも謳歌していると言わんばかりに。 「戯けが」  吐き出される悪罵にすら、滲み出る親愛の情がこもっていた。 「きっとあなたは、リザさんもそんな顔で殺したのでしょうね」 「ほぅ、貴様見えていたのか」 「いいえ、ですが分かります」  ベアトリスは四代目のトバルカインとして、リザ・ブレンナーが消滅した現場に立ち会っている。たとえ当時の記憶が無に等しくても、何かしら感じ取っていたのだろう。 「少佐の方こそ、意外に面倒見がいいところは変わってません。私のことも、リザさんのことも……」  螢や、カインのことさえも。 「今のこの状況は、紛れもなくあなたが誘導したものです。権謀術数の人ではないと思ってましたが、その点は変わられましたね」  表向き同盟者を装って、その実聖餐杯抹殺のために動いていた。しかも自分は手を下さず、螢と蓮とベアトリス、カインの選択を恣意的に誘導して。 「まるで副首領閣下のようですよ」  それは痛烈な皮肉だろう。カール・クラフトのようだと言われて喜ぶ者など、黒円卓には存在しない。 「〈クリストフ〉《あれ》は癌だ。切除せねばなるまい」  だがエレオノーレは、特に感情をこめずにそう言うだけ。確かに回りくどいやり方は彼女の性に合わないし、本来なら自ら手を下すべきところであろうが…… 「私に〈玉体〉《せいさんはい》を攻撃することは許されん。そのように誓いを立てている以上、別の者にやってもらうのが最良なのだよ。その点、櫻井の小娘はうってつけだ」 「あれはクリストフに挑む気概がある。動機もある。だが惜しむらくは力が足りん。ならばどうする? 簡単なことだ。友軍の援護を煽ればいい。 ブレンナーの処置を知ったと同時に、絵図は速やかに浮かんだよ。ヴァルハラの事実を知れば、あのような小娘、容易く転ぶ。例の小僧に与するよう誘導すれば、クリストフとぶつかるのは避けられん。 まあ、その過程でシュライバーを失ったのは痛いがな。それも奴らが貴様を引きずり出すことに成功すれば問題ない」  聖餐杯は斃れ、〈白化〉《アルベド》の穴は埋まり、黄金の復活を阻害することなく、彼女ら二人はまみえられ―― 「世は総て事も無しだ。万事快調と言っていい。 貴様らごとき、ふらふらと向きを変える風見鶏を玩弄するなど…… しょせん児戯だよ、キルヒアイゼン。貴様は〈副首領〉《クラフト》のようだと言ったが、これはむしろクリストフの業だ。奴の真似事にすぎん。 進歩が無いとはそういうことだ。二度も三度も、あのような下種の手管に踊らされよって」 「まあそれについては、返す言葉もありませんね」  残存八名、いやゾーネンキントを除けば七名か。半世紀以上の間首領代行として存在し、他の者らを手足のように操り続けた聖餐杯。  ある者は気付くことなく、ある者は利用するつもりで利用され、またある者は反旗を翻し切り捨てられ……自分達ではどうにも出来なかったあの男を、目の前の〈赤騎士〉《ルベド》はいとも容易く出し抜いた。しかも、決して彼女が得手とするわけでもない策略によって。 「さらに、即興」  絵図を綿密に描く暇も時間も無かったはずだ。おそらく半ば以上臨機応変に、その場の状況を見ながら手を打ったに違いない。事実かなり大雑把で、結果論に過ぎないところもあるにはある。  だから、それだけに聞いておきたい。 「後学のためにも教えてください。あなたは何を頼みにして、それほど強くいられるのか」 「信仰だ」  問いに、一瞬の間すら置かずエレオノーレは即答した。 「私は自らの忠を、部下である貴様の力を信じている。クリストフにとって、貴様は私に五色の再編を呑ませるための餌だったのだろうが、ベアトリス・キルヒアイゼンという女はそれほどまでに安くはない。 貴様は勝つと、あの痴れ者を排除すると信じていたよ。なぜなら私の選択が、結果としてハイドリヒ卿への不忠になるなど有り得んからだ」  鉄の狂信。灼熱に身を焦がすほどの忠誠。それを絶対の真理とする信仰こそが、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグの英雄たる矜持なのだ。 「ゆえに私は、微塵も迷わん。一片の疑いもなく堅牢に、重く硬く揺るがない」 「邪聖ごとき、付け込まれる隙間も無ければ掬われる足元も無い。分かるかキルヒアイゼン、過去の貴様らは自らの軽さによって自滅したのだ。 なぜなら、元来クリストフ――ヴァレリアン・トリファは他者の記憶と心に入り込めた。ゆえに聖餐杯を預かるという、分不相応な大役を授かったのだろう。あれは誰にでもなれる」 「ハイドリヒ卿とは別の意味で、無限数の混沌だ。他者の心に同調し、その者が好ましいと思う人格、許せぬと怒る人格、つまらぬ道化と見下す人格……使い分けるのだよ、配役を。種々様々、そのときどきに応じてな」  本来の肉体を棄てたときに読心の異能は失ったが、培った勘と経験のみでもそこまでやれる。元々聖職者などという者は、高度な人心操作と掌握の術に長けているゆえ。 「しょせん貴様ら風見鶏、他者の一挙一動に一喜一憂する者らを謀るなど、あれにとっては呼吸をするに等しい些事だ。 邪なる聖人などと……笑わせる。一個人間として矛盾している二つ名を有する男。それはすなわち、あれが〈複数〉《レギオン》だということに他ならん。 貴様らからすれば、複雑怪奇な狂人とでも見えたのだろう? だがなんのことはない。〈毎〉《 、》〈日〉《 、》〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈と〉《 、》〈話〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈え〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」  何処の誰と相対しようが、心と態度が変わらぬ人間。  惑わず、揺るがず、常時一貫した強固なベクトル。  エレオノーレを始めとする大隊長は、三人ともそういう人種だ。  ゆえに彼らは、聖餐杯にとっての鬼門と言えよう。  大隊長をも玩弄せしめんとするのなら、黄金の鍍金を被るしか道はない。 「身の程を知らぬ高望みだよ。奴ごとき、ハイドリヒ卿にはなれん」  侮蔑するように呟いて、咥えた細葉巻に火を灯すエレオノーレ。紫煙を吐きながら先を促す。 「それで、まだ何かあるのか?」 「いいえ。とりあえずはすっきりしました」  言葉通り肩をすくめて、軽く答える。過去の恨みつらみや悔いなどは、事ここに至ればどうでもいいし関係ないと。 「彼には一発、かましてやりたいと常々思っていましたからね。複雑な心境ではありますが、少佐の助力には感謝もしています。 結果としてまた私はあの子に会えたし、死なせずにもすんだ」  ただ問題は、一難去ってまた一難どころではないということ。 「老婆心という単語も、なんだか嫌なものですね。ずっと若くいられるのが、結構好きではあったんですけど。 私がしてあげられることは、この辺りが限度でしょう。あとは若い子達に任せます。元々人の世話を焼く性分でもないし」  自嘲気味に微笑みつつ、剣を構えるベアトリス。ここから先は彼女自身、誰のためでもないひどく個人的な用件だ。  年長者として目下を可愛がり、守るのも、先達として後続の道標となり、引っ張るのも……素敵な経験ではあったが自分本来の姿ではない。  先ほど目の前の上官が言ったように、今は下の者を信じてやればいいだけのことだ。 「そもそも私は、追いかける側の人間ですから」  そう、命懸けで追いかけた。弾雨の下を、狂気の嵐を、怒号と騒乱渦巻く激動の時代を――  恐かったし辛かったし腹が立ったし悲しかった。それでもなお挫けずに、走り続けてこれたのは―― 「あなたがいたからです。ヴィッテンブルグ少佐」  士官学校を出たばかりの、小娘にすぎなかったあの頃から。 「私には敬愛する人がいます。その人はちょっと恐くて、かなり傲慢で、信じられないくらいの理想主義者で。 付き合わされる部下としては、堪ったものじゃありませんよ。その人は自分に出来ること、やれることを、周りもやって当然だと思っています。そしてまた困ったことに、かなり有能だから性質が悪い」 「お陰で馬鹿とか阿呆とか鈍間とか、さんざん言われて怒られて」  小突かれ、蹴られ、叩かれて、そしてときには待ってくれて…… 「追いかけて追いかけて追いかけて追いかけて――」  何処に連れて行ってくれるのか。どんな景色を共に見れるか。  そのとき自分は、少しマシな部下になっているのか。あなたは理想に達したのか。  よくやったと、褒めてもらえるそんな夢……恋するように思い描いた。  それなのに―― 「行き着く果ての〈楽園〉《ヴァルハラ》は、こんな所なのですかッ!」  剣先から雷光が迸る。エレオノーレの咥えた葉巻は、それに焼き切られて消滅した。 「嘆かわしいですよ、少佐」  どうしてあなたは、そんなものになったのだろう。かつてのあなたは、もはや戦渦のベルリンと共に壊れたのか。  その痛切な糾弾に。 「くだらん」  エレオノーレは、眼を閉じて失笑するのみだった。 「何かと思えば益体もない。だがちょうどいい。私もまた似たような意味で、貴様に訊きたいことがあった」  雷速の踏み込みを誇るベアトリス・キルヒアイゼン。臨戦態勢に入った彼女の前で眼を閉じるなど、自殺行為以外の何ものでもない。百戦錬磨の大隊長が、戦場で採るべき態度ではないだろう。  ならばこれは愚挙なのか? いいや違う。 「そもそもなぜ、と近頃思う。些細なことだが、先の口上も含めて鑑みると、なおさら理解できなくなった」  隙だらけである。無防備である。眼を閉じて腕を組み、首を傾げて何事かを思案しているだけのエレオノーレ。どう見ても一刀の下に斬り伏せるのは容易だし、この機を逃すことこそ愚挙に思える。  だが、違うのだ。 「何がです?」  紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》、焦熱の〈大隊長〉《エインフェリア》に隙など無い。見る者が見れば分かるだろう。  今まさに、噴出しつつある核熱を。ガスの充満なら止められる。ただの火事なら延焼を妨害できる。  しかし噴火寸前の火口には、何人たりとも近寄れない。 「まあ、それは追々訊こう」  変わらず瞑目したままで、むしろ優しげとさえ言える開戦の狼煙が上がった。 「来るがいい。 〈私〉《 、》〈に〉《 、》〈抜〉《 、》〈か〉《 、》〈せ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈貴〉《 、》〈様〉《 、》〈は〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈る〉《 、》〈ぞ〉《 、》」  今は言葉でなく戦で語る。阿吽の呼吸というものがあるのなら、このときこそがそうだった。  迅雷一閃――まさしく雷速で間合いに踏み込んだ戦姫の剣が放たれる。もとより生じるはずのない隙を窺う戦法など、彼女の意中には存在しない。  すなわち真っ向からぶつかり斃す。エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグと戦うにあたり、まず乗り越えなければいけない最初の壁はそこにあった。  使用を許せば即死に繋がる牙を持つ敵。待ちや受けに回ればその瞬間に殺されるのみ。三人の大隊長は皆がそういう存在だ。  火口に飛び込む決意と覚悟、それなくして対峙できる相手ではない。先の挑発めいた無防備さは、自分と戦える資格の有無を試したのだろう。  そして、ベアトリスは見事それに応じたのだ。  抜き打ち気味に放たれた一撃は、エレオノーレの鼻先を掠めて空を切る。そのまま後退する〈赤騎士〉《ルベド》に対し、ヴァルキュリアは追い縋った。 「言われなくても、抜かせません!」  離れては駄目だ。退かしてはいけない。この間合い、接近戦で、触れ合うほどの距離を維持する。桁外れの飛び道具を有するエレオノーレに、魔砲の門を開けさせてはならない。  連続する剣は閃光のように。苛烈で容赦なく、しかも優美な〈剣舞〉《トーテンタンツ》。生粋の騎士であり兵士であるベアトリスは、野獣の延長めいたヴィルヘルムやシュライバーとはまた異なる強さを有する。  すなわち、弛まぬ練磨と積み上げた技巧。加えて戦場の修羅場を潜り抜けてきたことにより、その剣は殺人の技として芸術の域にある。  言い換えれば、人が人であるままに辿り着ける極限だ。いかに魔道の薫陶を受けたとはいえ、魂までは売っていない。  しかし、にも拘らず総ての斬撃は空を切った。先ほどから後退するのみのエレオノーレは一見して劣勢のように思えるが、未だ腕組みをしたままであり余裕の態度を崩さない。  一瞬の閃光にしか見えない剣筋を、総て捕捉しているわけではないだろう。雷速に至るそのスピードを、凌駕しているわけでもないだろう。  だが、それでも躱す。当たらない。 「貴様の剣は、腐るほど見てきた」  つまり経験則。直接立ち合うのは初めてでも、部下の剣なら技も癖も知悉している。数多の戦場を共に駆け、背中を預けた相手のことで知らぬものなど何もない。  さらに加えて言うのなら、シュライバーという最速の凶獣とエレオノーレは戦ったこともある。  互いに人であった頃に一度だけ。 「そして〈城〉《ここ》では――」 「ほぼ毎日、この程度の速さは目にしていたよ」  元々ヴァルハラとはそういう場所で、エインフェリアとはそういうものだ。朝から互いに殺し合い、夕方になれば生き返る。そんな日々を六十年、今さら迅雷など何ほどのものでもない。 「しょせん奴と私では千日手で、ろくに勝負もつかなかったが」  絶対命中と絶対回避、矛盾すぎてまともな戦いにならない分―― 「貴様の知らぬ技も増えたぞ」 「―――――ッ!?」  突如として、エレオノーレの背後から無数の銃口が出現した。 「シュマイザーッ!?」  至近距離で爆ぜる銃火の嵐。32連発×20以上の一斉射撃。  打ち落とせる数ではないし距離でもない。  即座に踏み込みを切り返し、真横に飛んで弾幕から逃れ出た。絢爛な床模様は粉々に四散して、豪奢な彫刻が蜂の巣となり砕け散る。  今のはいったい―― 「何を呆けている」  一瞬にして十メートル近く間を空けられ、愕然とするベアトリスに向けられたのは、やはり数十を超える火器の槍衾。  しかもこれは―― 「パンツァーファウストッ!?」  いったい何がどうなっている。どれも彼女の武器ではない。  放たれる炸薬弾が迫る中、出来の悪い生徒を諭すようなエレオノーレの声が響いた。 「別に不思議がることはあるまい。あれを動かすのに、何千人要したと思う」  単純な操作だけでも千人以上。整備や防衛も含めればその三倍。一個軍を引き連れる移動砲台こそが彼女の武器だ。 「つまり、軍団規模の戦力もあれの一部だ」 「――なるほど」  瞬時にその事実を受け入れて、ベアトリスは気を切り替えた。先の速射とは違い、今の弾は遅い上に数が少ない。  尾を引いて迫る炸薬弾を縫うように、エレオノーレへと肉迫する。隙間なしの弾幕でも広げない限り、稲妻は弾速を凌駕して射手を貫く。  そう、あくまでただの射手ならば。 「そして、それらを支配するのは誰だ?」  紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》は、高みの見物を決め込むような指揮官か? 「――――ッ」  迫るベアトリスの足に合わせて、エレオノーレもまた踏み込んでいた。  速度はそれほどのものでもない。だがまさに虚を衝くタイミング。  十メートル先の標的を斬り伏せるべく駆けた剣士に、攻撃開始地点を三メートル分早めさせる。  その誤差は、なまじ速いだけに修正不可能。 「―――つぁァッ」  剣を振り上げかけた中途半端な状態で、ほぼ無防備のまま側頭部を蹴り上げられた。雷速の運動エネルギーが衝突の威力で倍化され、さらに人外の怪力が乗った蹴り技の破壊力は、もはや筆舌につくし難い。  弾き飛ばされたベアトリスは柱を砕いて壁面に激突し、轟音と共に魔城が揺れる。死ぬことはないにしても、甚大なダメージを被ったのは確実だ。 「未熟だよ、貴様は」  未だ粉塵立ち込める帳に向けて、再び銃口の槍衾が擬される。 「立ていッ!」  そして放たれるシュマイザー。帳の奥から最初は悲鳴が、次に段々と剣戟が。 「そうだ、それでいい。――来い!」  叱咤する声に応えるかのごとく、粉塵を突き破って戦乙女が駆けてくる。風切るプラチナブロンドは血と埃に汚れながらも、未だ輝きを損なわない。  斃れてなるかと、負けてなるかと、決意を固めた不退転。雷気を宿した翠瞳は、一直線にかつての上官を見据えている。  嵐のようなシュマイザーの速射すらも、彼女の疾走を止められない。最小限の動きで弾丸を弾きながら、再び道を切り開いて肉迫していく。  まだ語りたいことは山ほどあるから。 「〈War es so schmählich,〉《私が犯した罪は》――」  自戒と自嘲と少しの自虐、そして多分に冗句を織り交ぜて綴った〈詠唱〉《うた》を。 「〈ihm innig vertraut-trotzt'ich deinem Gebot.〉《心からの信頼において あなたの命に反したこと》」  きっと将来、そんなことが起きるのかもしれないと、あれは予感だったか既知感だったか。 「〈Wohl taugte dir nicht die tör'ge Maid,〉《私は愚かで あなたのお役に立てなかった》」  ゆえ、そのときは、眠りの刑に服しましょう。  私を目覚めさせた英雄に、この剣と命を捧げましょう。  だけど――  あなたを超える者でなければ、私は誰にも従わない。 「〈Auf dein Gebot entbrenne ein Feuer;〉《だからあなたの炎で包んでほしい》」  誰も私に近づけないよう、あなた以外のものにならないよう。  たとえ出来の悪い駄目な部下でも、私を譲らないと言ってほしい。  ああ、今思えばなんて青臭い少女趣味。口にするのが恥ずかしくなる。 「〈Leb' wohl,du kühnes,herrliches Kind!〉《さらば 輝かしき我が子よ》」  だから、まさか今のあなたが、こんな夢見る乙女の戯言なんかに、乗ってくれるとは思わなくて。  少し嬉しく、そしてかなり恥ずかしく、未だに貴様は小娘なのだと、思われるのは嫌だと感じ―― 「〈ein bräutliches Feuer soll dir nun brennen,〉《ならば如何なる花嫁にも劣らぬよう》 〈wie nie einer Braut es gebrannt!〉《最愛の炎を汝に贈ろう》」  このベアトリス・キルヒアイゼンが、ブリュンヒルデと違うところを見せねばならない。  私は眠りから覚めましたよ、ヴィッテンブルグ少佐。  いかなる炎をも突き破る剣として――今こそあなたを救ってみせる! 「〈Wer meines Speeres Spitze furchtet, durchschreite das feuer nie!〉《我が槍を恐れるならば この炎を越すこと許さぬ》」 「〈Briah〉《創造》――」  剣が、身体が、魂が、戦神の稲妻へと変生する。  それは無明の戦場を照らすため、願い祈った彼女の〈渇望〉《ルール》。  血と硝煙に染まった空の下、数多の同胞が道を見失うことなどないように。  敬愛する上官の理想が輝くように。  闇を切り裂く閃光に――英雄たちを〈栄光〉《ヴァルハラ》に導く戦乙女になりたい。  その高潔な祈りこそ彼女の〈創造〉《せかい》だ。偽槍に囚われ、自我を失っていた状態のそれとは比べ物にならない。  四代目トバルカインであったときとは、もはや何もかもが違っていた。  そう、これこそが本来の―― 「〈Donner Totentanz〉《雷速剣舞》――」  雷速剣舞であり、戦姫の舞踏。  半端な銃弾なんかでは、追い抜き追い越し透過する。 「〈Walküre〉《戦姫変生》!」  たとえどんな〈戦場〉《ほのお》であろうと、今の彼女は燃やせない。 振り下ろされる鉄拳に、俺の全身は総毛立つ。 受けては駄目だ。触れてはいけない。あの拳に触れたが最後、あらゆるものは砕け散る。 「―――――ッ」 まるで目の前を大砲が通り過ぎたかのような、凄まじいまでの拳圧だ。空を切った一撃は血に染まった石畳を削り上げ、それが突風に変わり俺の身体を吹き飛ばす。天地の位置感覚が喪失し、前後左右すら分からなくなる。 「…………」 だがこいつは、追撃もせずにただ立っているだけだった。錐揉みながらなんとか着地した俺の方を、ぎっと静かに、抉るように、無言のまま見据えているだけ。 先ほどからずっとこうだ。一発撃っては動きを止め、止まりそして観察する。 その、寒気を覚える静と動。俺が今まで対した奴らは、戦いになれば皆が狂騒の虜だった。笑いながら、怒りながら、嬉々として殺人を欲し、怒涛のように攻めてきた。 でも、こいつは違う。 ヴィルヘルムらとの勝負を派手な銃撃戦とするのなら、こいつはロシアンルーレット。いつか出てくる致命の弾丸に焦燥しながら、徐々に追い詰められていくプレッシャー。 牙持つ野獣との殺し合いじゃない。獲物を斃す猟師の手並みだ。広大なこの闘技場が、ひどく手狭にさえ感じてしまう。 血が熱くならない。白熱する激情を喚起できない。速さは俺の方が数段勝っているはずなのに、恐怖だけが込み上げてくる。 それというのも―― 「……兄弟、だと?」 さっきこいつが言った言葉。俺もなぜだか、納得してしまったその単語。 呑まれるな。認めてはいけない。何でもいいから否定して、押し潰されるこの重圧を和らげなければ勝ち目はない。 「ただの比喩だ」 それにこいつは、ぼそりと呟き。 「しかし俺とおまえには、同じ血が流れている」 再び鉄拳が襲い来る。冷静になれば躱すのは易い単調な一本攻めだが、当たれば致命という恐怖心が重い足枷となっていた。 それに俺は、そもそもなぜそんなことまで知っているのか―― 「感じないか? 覚えていないか? 〈闘技場〉《ここ》で何をさせられたか」 カインを一撃で沈めた拳。それは目で見て確かめた。 しかし、この確信にも似た恐怖心は、そんなものとは別次元の―― 「ここは最後の爪牙を生むために設けられた、黒円卓の毒壷だ」 間一髪、なんとか脇の下を通して躱すことには成功したが、再度拳圧の爆風に吹き飛ばされる。 「――つゥッ」 今のは距離が近すぎた。拳は掠りもしてないのに、衝撃だけでアバラを何本か砕かれている。 「つまらんぞ、兄弟」 距離を取って膝を付く俺の方へ、ゆっくりと向き直る鋼鉄の〈黒騎士〉《ニグレド》……まるで戦車の砲台が旋回しているかのような、重苦しく機械的で、人間味を感じさせない挙措だった。 「1939年、12月24日……」 「カール・クラフトとラインハルト・ハイドリヒの下、今の黒円卓が生まれたのはそのときだ」 〈黎明の刻〉《モルゲンデンメルング》……第二の大戦が幕を開け、世界が狂騒の坩堝と化していた頃のことだとマキナは言う。 「もっとも早く、奴ら二人に降ったのはベイとシュライバー。それに若干遅れるかたちで、ザミエル、マレウス、クリストフ……バビロン、そしてヴァルキュリア」 「初期は九人。残りは四人だ」 迫る鉄拳。足場を砂塵に変える竜巻のようなアッパーを、過剰とも言えるほど大きく躱して横に飛び退く。 追撃は、やはりない。 だが―― 「シュピーネは、収容所の慰問官として〈髑髏師団〉《トーテンコープ》のアイケに通じていたクリストフが招きよせ――」 「――ぐッ」 無造作に伸ばしただけのような右腕が、俺を空中で捕らえていた。 「トバルカインは、ハウスホーファーの命を逆手に取ったザミエルが、日本より呼び寄せた」 そして遠投――遥か上空、真上に向けて、俺は人形のように投げ捨てられる。 「残るは二人――」 空中では身動き出来ない。上昇の限界に達して落下に移る俺のことを、待ち受けているのは破滅の拳を握り締めた黒の騎士。 「だがゾーネンキントは、すでにその時点から予約席だ」 「完全な空席。候補もなく予定もなく、何者が入るかも分からぬ席が、たった一つだけ残された」 「それはどのように埋めたと思う?」 轟風を伴い放たれる鋼鉄の一撃――今度こそは躱せない。 「―――がああァッ」 咄嗟に腕を交差して防御したが、まるで何の意味もなかった。単純な威力だけでも爆撃を凌駕する拳を受け、闘技場の客席まで飛ばされる。 「あ……くッ…」 息が、鼓動が、総てが止まる。肉も骨も魂も、ひび割れ砕け、崩れていく。 〈幕引きのご都合主義〉《デウス・エクス・マキナ》……それはどんなものであろうと問答無用。たとえ一瞬でも歴史がある存在、事象、概念残らず、強制的に物語の幕を引くこと。 俺はそれを、受けてしまった。 「立て」 なのにこいつは、まだ立てと。立って戦えと命令する。 「おまえがいるその場所は、かつて奴らが俺達を見下ろしていた場所だ」 「ゆえに、今度は俺が命令する。――戦え」 下から上へと、闘技場の戦奴が客席の俺に言う言葉じゃない。それだけに、今の台詞には鬱屈した想いがこもっていた。 「ここは毒壷」 常に激烈な苦痛に耐え続けているような、軋る声で。 「最後の一人になるまで強要された、奴隷達の墓場」 身に纏う重圧にそぐわない、死魚のような暗い瞳を向けながら。 「誉れの欠片も存在しない、腐りきったヴァルハラだ」 それは蠱毒……最後に残った一匹すらも結局殺され、呪詛の道具にされるだけの外道業を、よりにもよって人間を使い? 「なぜ……」 知らず、俺はそう言っていた。こうしている間にも身体は崩れ、ガラスのように砕けていくの感じられる。それなのに―― 「なぜ、そんなことをしなけりゃならない……」 問わずにはいられない。あまりにも理不尽で不愉快で、そんなことが罷り通った時代や場所が、たとえ一瞬でもあったとしたら許せない。 「〈副首領〉《やつ》の十八番だ。いないのならば創ればいい」 黒円卓に残った最後の空席。それを埋めるためだけに。 「〈第七位〉《ズィーベン》……〈十三〉《ドライツェーン》の中央、そして天秤だ。〈筋書き〉《ものがたり》を左右する者、なんとなれば終わらせることさえ出来る者」 「そうして渇望は利用される。今のおまえのように、誰もが思ったことだろう」 「もう嫌だ。やめてくれ。早くこんなことは終わらせてくれ」 「千人が、万人が、まったく同じ想いを懐いて殺し合う。国の栄華も、家族の無事も、友や女の幸せも……依るべき大儀も何もない。納得の出来ぬ死に場所に、ヴァルハラなど降りてこない」 「真実戦場で終われたのだと確信できれば、まだしも幸せだったろう。だがここは何だ?」 名誉なき、意味なきただの愁嘆場。戦士の最期を飾るにしては、あまりにも侮辱している共食いの箱庭だ。 「そうした血が、魂が、何万も集まり錬成される。“核”はさらに分けられて、依代となる物に込められる」 「俺はとある鋼鉄の中に――」 「そしておまえは――」 暗い瞳が俺を射抜く。同情と、憐憫と、ある種確実な親愛の情。そして拭い去れぬ悲憤を込めて。 「カール・クラフトの血が満ちたフラスコの中だ」 「――――――」 その言葉は、物理的な衝撃すら伴って俺の胸を貫いていた。 「俺はおまえの当て馬だよ、兄弟」 蠱毒の儀式は、まだ最後の共食いが残っていると。 通常、毒壷の戦いが終わった時点で、残った一匹が呪詛媒体に使用される。 だが、さらにそれを二つに分けて、もう一戦。 もとはまったく同じだったものを相争わせ、真実完全な最強を決める。 「おまえが俺に勝てたなら、ハイドリヒの餌として相応しい」 「だが、俺が勝てばどうなる?」 鉄拳を握り締め、空を殴り砕くようにしながら名も無い黒騎士は咆哮した。 「俺はその時こそ本当に死ねる! この毒壷を終わりに出来る!」 「馬鹿な……!」 誰がそんな約束をしたのか知らないが、いったい何を根拠に信じている。何処にもそんな保障はないだろう。 「どうでもいい。俺はただ一刻も早く終わりたいだけだ」 地響きを起こすような歩みと共に、〈人形〉《マキナ》が俺の方へとやってくる。 この、すでに身動きすら出来ず、幕引きを待つだけの俺に止めを―― 「あるいは、おまえが勝っても結果は同じかも知れんがな。だがハイドリヒを斃さぬ限り、俺は永遠に解放されない」 「クラフトの口約束など、信じるに値せぬ。ああ確かにそうだろう。だが俺が〈毒壷〉《ここ》出るために、やれることは他にない」 「他力など当てにせん。二度と蘇りたいとも思わない。であれば、この戦いを最後に幕を引くと、強く渇望するだけだろう」 「俺が本当に解放されるか、おまえを殺してみなければ分からんが……」 「少なくとも、おまえがハイドリヒを斃すよりは、確率的に有り得よう」 「そしてそれ以上に――」 地を蹴り、黒騎士が宙を飛ぶ。振り上げた鉄拳が唸りをあげて、俺の頭上に落ちてくる。 「染み付いた習性は拭い去れん。〈毒壷〉《ここ》にいる者は誰であれ殺したくなる」 「おまえもそうだろう、兄弟。なぜなら過去にも、〈毒壷〉《ここ》で俺たちは殺し合った」 「くッ―――、おおぉォォッ」 動かない身体を無理矢理捻り、もんどりうつようにして逃れ出た。ろくに受身も取れないまま、闘技場の上に転落する。 「がッ……は…」 血に染まった石畳。拭い去れぬ叫喚の数々。その一つ一つが、俺と奴を創りあげただと? 俺は、俺は…… 「立ていッ!」 「おまえがこの程度で死ぬはずなどない。俺はまだ、渇望を見せていないぞ」 「俺と分かれたおまえの祈りを示してみろッ! 俺と同じではないと知っている」 俺の渇望、俺のルール、俺が求め願う世界。 確かに違う。共に一撃死の牙は持つが、俺のは奴ほど徹底してない。 終わりではなく、停止だ。その意味するところは…… 「それとも、クラフトの渇望に毒されたか?」 「――違う!」 ワケも分からず、俺は反射的に吠えていた。 「一緒に、するんじゃねえ……!」 おまえとも、野郎とも、一緒になんかするんじゃねえ。 未知を未知をと馬鹿のように、悪逆外道、偽善友愛なんでもやらかすあいつとも。 終わり終わりと負け犬のように、都合が悪けりゃ逃げることばかりのおまえとも。 「俺は、違う……!」 断じて、絶対、何処の誰が何と言おうと―― 「還りたい、だけだ!」 修羅の戦場。悲劇の愁嘆場。躯積みあがる狂気の嵐に晒されても―― 俺は還りたい。何度でもそこに行きたい。 暖かかった、陽だまりの日々に。 それが手の届かない遠くに行ってしまったとは、まだ思ってなんかいないんだ。 おまえみたいに、諦めてなんかいないんだ。 だから―― 「繰り返してやるよ、何度でも」 この先に、またあの日々が待っている。ならば何度でも乗り越えてやる。 「違うな。ここで終わるんだ」 腐りきったヴァルハラに幕引きを……おまえがそう言うのなら。 「だったら、〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈止〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》」 「でないと、俺が乗り越えられないだろうがよ」 右手に意識を集中する。一度こいつに幕を落とされた〈径〉《パス》は開かれ、再びマリィとの連結は可能になった。今ならば出来るはずだ。 この身体を蝕んでいる〈幕引き〉《マキナ》の一撃。その流れを停止させる。 たとえ完全に止められなくても、遅らせることは確実に可能なはずだ。 なぜなら、先の一撃は形成位階。奴の渇望を直接叩き込まれたわけじゃない。 数分といえどもこの幕引きを抑えることが出来たなら、その間にマキナを斃す。奴が消えればご都合主義を告げる〈神〉《バカ》が乗ったゴンドラなど、しょせん何ほどの効果もない。 「〈Briah〉《創造》――」 口内で詠唱を謳いあげ、時の体感速度を遅らせていく。さあ、ここからが本番だ。 今、このふざけた城の中、仲間と呼べる奴は女しかいない。 だから俺が決めなきゃやばいだろ。格好ってもんがつかねえよ。 「ああ、そうだ。その目だよ」 地響きを立てて再び闘技場に降り立つと、眼力だけで岩をも砕きそうな視線を向けつつ、マキナは言った。 「ここで俺が殺した者の中に、間違いなくおまえがいたと実感できる」 「おまえの個我は、そいつのものだ」 「知らないな」 そんな昔のことは覚えてないし、そもそもおまえの言うことなど信じていない。 俺は俺だ。藤井蓮だ。 「俺の個我は、さていったい誰だったやら……もはや名すら分からんが」 「何にせよ、こういうことだ。おまえのような人種は俺に勝てん。過去がそれを証明している」 「おまえ馬鹿か?」 呆れ返って笑いも出ない。 「算数じゃないんだ。百回やっても答えは全部同じだなんて、んなことあるわけないんだよ」 「ふ、ふふふふふ……」 呻くように、噛み殺すように、地鳴りめいた笑みを漏らす〈鋼鉄の英雄〉《ベルリッヒンゲン》。俺はこいつの笑顔を初めて見たが、そう悪くない様子じゃないか。 少なくとも、死んだ魚みたいな目で仏頂面してるより、まだしも男らしい顔だろう。 「繰り返すのが好きな男が、矛盾したことを言う」 「それはそれ。これはこれだ」 生憎と、適当な屁理屈立てるのは得意でな。 「有り体に言えば、不味い飯はもう二度と食わないし、旨い飯は何度食っても旨いってこと」 二度や三度殺人メニューに当たったからって、食事そのものが嫌いになるようなネガティブ思考の人間じゃない。 「おまえと違って、そこら辺アバウトにしてないと人生詰むぞ」 「面白い」 言って、マキナは一歩踏み出す。鋼鉄の双腕を軋ませて、こいつが初めて構えを取る。 「本音を言えば決めかねていた。今のおまえも、今の俺も、まだ完全な状態ではない。第八が開く前に、勝負を決していいものかと……それが最後の聖戦と言えるのかと」 「だがよし。その魂、英雄と認めよう。おまえとの戦いならば、時と場所を選ばず栄光を得られるに違いない」 「そして何より、もはやこれ以上は己を御せん」 「兄弟、俺に唯一無二の終焉をくれ」 「どいつもこいつも、マジでほんとに……」 未知を見せろとか、殺してくれとか、楽しませろとか、人をなんだと思っているのか。 だけどまあ、ここまでくればそれもいいか。 「逝きたきゃ逝かせてやるよ、かかって来い」 こいつもまた、黒円卓の大隊長。その強さも怪物度も、すでに身をもって体験している。 シュライバーを三人がかりで斃せなかったこの俺が、はたして乗り越えられる壁なのか…… 分からないが、やるしかないだろ。まだ後が控えているんだ。 「行くぞ」 短く呟き、黒の〈大隊長〉《エインフェリア》が地面を蹴る。 迫る破滅の鉄拳に、俺もまた意を決して飛び込んでいった。 「つまり、ここでおまえを始末すれば面倒を減らせるってことなんだな」  自身の席に座したままくつろいでいるメルクリウスに、銃口を突きつけて司狼は言った。  何かを聞いたわけじゃない。見せてもらったわけでもない。だがどういうことか、司狼も香純も現状をリアルタイムで理解していた。  それは辺りを覆う髑髏の群れが総ての場所に通じている影響なのか、あるいは他の何かなのか、分からないがそんなことはどうでもいい。 「まだ美味しい役が残ってて嬉しいぜ。おまえさん、随分といい性格してるみてえだし。 ここで放っとく手はねえな……とまあ、本来なら言うとこなんだろうけどよ」  司狼は拳銃を軽く回し、そのまま自らの懐に仕舞ってしまった。 「こんなもんじゃ意味ねえか。さて、いったいどうするかね」  実際、この状況は限りなく詰んでいる。香純だけでも逃がせればまだ何とか当座を凌げるかもしれないが、城の中からは脱出不可能。仮にそれが出来るとしても、目の前にいる男が許してはくれないだろう。  となれば…… 「…………」  幼なじみだからこそ通じるアイコンタクトで、香純も瞬時に理解した。 「……いいよ」  静かに頷く。まだ、何がなんだか分からないところも多すぎるけれど。 「あたしで役に立てるなら……」  蚊帳の外は嫌だ。足手まといになんかなりたくない。  自分だって、皆のことを助けたいと香純は思う。  要はタイミングの問題だ。今この城中で起こっている三つの戦い、そのどれか……決着の瞬間に事を起こせば、あるいは…… 「やめておきたまえ。 自殺などしたところで意味などない」 「でも……!」  狙いをいとも容易く看破されたことすらも、すでにもうどうでもよかった。 「あたしがいないと困るんでしょ!? だったら―― せめて他の皆は逃がしてあげて。そうしてくれなきゃ絶対言うことなんか聞いてあげない」  死んでも無理矢理生き返らせるとか、そうなったら自分はどんな人間になるのだろうとか、何も何も分からないけど―― 「あなたの仕事を、メチャクチャ増やしてやるんだから!」  そうだ、何回でも何回でも何回でも死んでやる。それを繰り返している限り、五色にはずっと穴が開き続けて一歩も前に進めない。 「それに、蓮や櫻井さんが一度でも勝てたなら……」  自分が死に続けている限り、あるいは―― 「私が君にかかずりあっている間、他の者は復活できず、その隙を縫って各個撃破かね? 名案、と言ってあげたいが意味は無いな。なぜなら君が死んだところで、私は何もする気などない」 「え……?」  呆然とする。それはどういう意味なのか。 「クリストフという男の本質を考えてみたまえ。君らは何か誤解をしている」  ラインハルト・ハイドリヒの復活を、彼は望んでなどいなかった。  つまり―― 「“核”の移植などあれには出来ん」  翠化の枠は、今もって香純ではない。ゾーネンキントは唯一人。 「だったら……」  未だそれは氷室玲愛。この場にいない彼女のものだ。 「城に繋がる産道を塞ぎ、スワスチカが選ぶゾーネンキントの優先順位を狂わせる。彼がやったのはそういうことだ。 演出は派手なほどいい。獣殿を妄信しているザミエルに、彼の玉体を有する己ならば、移植も可能であると見せかける。なるほど中々に悪くはないが、しかし甘いな。彼女はそこまで目出度い頭の持ち主ではない。 クリストフが斃れた時に、獣殿は出陣する。その時点で君らの陣営が全滅でもしていれば別だがね。駒が残っていれば脚本は続行される。 まあ、少々詫びねばならぬ事態も生じたので、こうして私が出張る羽目になったのは汗顔のいたりだが……」  失笑して、肩を揺らすメルクリウス。脅えて身構える香純を慈しむように、優しげな声で言う。 「何にせよ、無駄なことはやめたまえ。君は獣の〈軍勢〉《レギオン》を流出させうる器ではない。せいぜい彼の海から一滴二滴、その辺りが関の山だ。 まあもっとも、それをもって蘇生は成ったと納得するなら、クリストフにとっては御の字だったのだろうがな」  黄化に、そして偽りの翠化……それだけで成せるのはその辺りが限界だと。  黒化、白化、赤化が揃えばさらに強固な復活も可能だろうが、何にしろ翠化が不完全である以上、魔城の流出は起こらない。  そしてそうなったなら、儀式の終了と同時に八つのスワスチカは機能を失い、大隊長らは再び城に戻される。ヴァレリア・トリファが狙っていたのは、おそらくそういう筋書きだ。 「よって、今君に出来ることがあるとすれば発想の転換を伴うが、さて……そもそもそういう局面までいけるかどうか。 何にせよ、〈錬成〉《そせい》の妨害など考えているようでは正答に遠い。〈城〉《ここ》は死にたがりに優しくない世界なのだよ、考えたまえ」 「なぜなら、君が死ねば本来の翠化に産道が復活する。それは君らにとって、真実のチェックメイト。いわゆる絶望というやつではないかな」 「あ、あたしは……」  矢継ぎ早に告げられて、事態を即座に呑み込めない。元々香純はただの学生で、ついこの前までほんとに普通に生きてきて。なのに突然そんなことを言われても、いったい何をどうすれば…… 「あたしは……」  出来の悪いこの頭が恨めしい。何を言っていいか分からない。だいたいこんなの、未だになんだか夢みたいで…… 「馬鹿からかって遊んでんなよ。てめえの言うことは一っ欠片も信用できねえ」  だから、頭に置かれた司狼の手は珍しく優しい感じだったけど、香純は情けなくて悔しくて…… 「ならば、私についてくるかね?」  今もまた、相手の言葉の意味するところがまったく理解できなかった。 「観覧は昔からの、数少ない私の趣味だ。せっかくの戦場、君らも見物していくといい」 「…………」 「どうするね?」 「ああ、いいぜ別に」  司狼は即座に決断する。意図はまったく見えないが、はっきり言って悪い話じゃない。  この男を戦いの場にまで引っ張っていけば、あるいは殺せる。  そして何より、それ以上に―― 「君の既知感が消えればよいと、私は思うよ」  立ち上がり、身を翻して追従を促すメルクリウス。  なぜこの男がそんなことを知っているのか、これから何をするつもりなのか、まるで見当もつかなかったが、詰みの状態から駒が動くというなら起死回生の手も生まれ得るはず。 「行くぞ、バカスミ」  手を引かれるまま歩く香純の脳裏には、今このときも続いてる三つの戦いが同時進行で流れていた。  ラインハルトに挑む螢。  エレオノーレとベアトリス。  そして、マキナとぶつかる蓮の姿が……  自分は本当に一人だけ、何の役にも立たないのか? 「……いやだ」  嫌だ、そんなの。あたしは、あたしも……  駆ける稲妻の剣が〈赤騎士〉《ルベド》を捉える。  ついに、ここにきてようやく一矢、かつては雲の上だった上官に報いることが出来たのだ。  創造位階に移行したベアトリスはまさに閃光。その速さもさることながら、生半可な攻撃では傷一つ負わせられない。稲妻と化したその身体は、炎も銃弾も透過する。  剣に確かな手応えを覚えつつ、ホールの端まで駆け抜けてからベアトリスは振り返った。 「……ふむ」  裂かれた頬を押さえながら、低く呟くエレオノーレ。そのまま感慨深げに目を細め、手袋に付いた血を眺めている。 「見事だ、貴様で二人目だな」  黒円卓の騎士となって以来、出血を起こすほどの傷を彼女に負わせた者はシュライバーしか存在しない。 「これをもって英雄の資格ありと、ハイドリヒ卿に言上しよう。 どうした、誇れ。大した戦果だ」 「冗談、きついですよ……」  狙ったのはあくまで首。頬などいくら裂こうとも、赤ん坊すら殺せない。  だがそうしたベアトリスの心情は当然とした上で、エレオノーレに傷を負わせたことは賞賛に値する。  彼女ら二人は同タイプ。どちらも聖遺物を装備品として発現し、それを手に持ち戦う具現型だ。もっともスタンダードな、基本の型だと言っていい。  数千数万の魂を有し、それを兵力として操るカール・クラフトの秘術。その基本に忠実であるということは、すなわち指揮官の才能、己が軍勢を制御する術に長けている事実を意味する。  ゆえに、このタイプには明確な得手不得手がない。  功も、防も、走も、魔も、何かが極端に突出していることがない代わりに穴も存在しないのだ。  どれか一部分を重くすれば、必ず別の何処かが低下する。それは重装歩兵が機動力を持てないことと同義だろう。  魂は鎧であり燃料。まったく同数の兵力でも、陣形によって効果は異なる。  鋒矢、鶴翼、偃月、魚鱗、それぞれ別の長短があるように、融合、展開、特殊の型は、基本的にどれか一つの陣形に縛られる。  だがエレオノーレとベアトリスは具現型。指揮官の才を持つゆえに、これら陣形を流動的に再編可能だ。状況に応じて総ての陣を敷ける代わりに、一点特化した者らほどの爆発力を発揮できない。  それは言い換えれば器用貧乏とも表現できるし、兵力そのものが微弱であれば、決定力皆無の弱者とさえ言えるだろう。  だが…… 「本当、相変わらず少佐は隙が無さすぎですよ」  高レベルの者は文字通りの万能。無敵と形容できる存在になる。  百の兵力を五つに振り分ければ一つ一つは二十だが、万の兵力ならばそれは二千だ。この領域にある者は、格下に足元を掬われることなど絶対にない。  なぜなら、ラインハルト・ハイドリヒがその究極系なのだから。あれほどではないものの、エレオノーレは彼と同じ適性を持っている。ゆえに本来、彼女を相手に格下が善戦するなど有り得ないと言っていい。  エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグに、兵力で劣る同タイプのベアトリスが傷を負わせたということ。  それはすなわち、彼女の魂と指揮官としての才が、〈赤騎士〉《ルベド》に〈伍〉《ご》するという事実に他ならない。  自己の形成具現に至ったことで、生前よりも数段強度が増している。たとえ戦果は掠り傷に等しかろうと、賞賛されて然るべき飛躍だろう。  そして、そんな英雄の資質を持つゆえに、閃光となる己を願った戦乙女は、この程度のことを誇らない。  事態を冷静に把握しながら、自嘲的な言葉を継ぐだけだ。 「ここで私が喜んだら、どうせ馬鹿者とか言うんでしょう?」 「どうも貴様は、私を極度の嗜虐家だとでも思っている節があるが…… そんなことはない。公正かつ冷静に見て、評価できるものに評価は惜しまん。辛辣に見えるのは、つまらん輩が多すぎるからだ」 「自分で凄い俺様宣言してるって、分かってますか?」  兵士の本分が殺人である以上、命に届かない剣など意味はないとベアトリスは言い返す。  エレオノーレは失笑した。 「なんとでも言え。それで、どうした? もう来んのか?」  今、二人の距離は二十メートル近く開いている。これは完全に飛び道具の間合いだ。 「言ったはずだがな、私に抜かせれば終わるぞと」 「今なら、この距離でも抜かせませんよ」  速度のギアは、先ほどまでより数段上にあがっている。余裕を見せているつもりはないが、そういう物理的な面の他にもう一つ、心理的な面でエレオノーレの“抜刀”を封じたかった。  それは―― 「今の私にあれを使えば、この城がどうなるかは分かりますよね? あなたにそんな選択は出来ない」  玉体を攻撃するような真似は許されないと、彼女自身が言っていた。ならばこの城内において、あの火砲は使えない。 「私はそう簡単に捕まらないから。 〈標〉《 、》〈的〉《 、》〈を〉《 、》〈捉〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈無〉《 、》〈限〉《 、》〈に〉《 、》〈広〉《 、》〈が〉《 、》〈り〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈爆〉《 、》〈心〉《 、》。 あなたの〈創造〉《せかい》は、今や諸刃の剣です。 私を捕まえることが出来た頃には、この城、ただじゃすみませんよ」  言って、ベアトリスは再びその身を稲妻と化す。 「これで勝利宣言をするほど思い上がってはいませんが――」  刹那もかけず間合いに踏み込み、すれ違い様の一閃が今度は〈赤騎士〉《ルベド》の肩を裂いた。 「あなたの切り札は、もはや封じられたも同然です」  そして返すニ撃目が太腿を。  連続する剣が網目のような軌跡を描き、エレオノーレに向けられていく。未だ有効打は無に等しいが、完全に躱されているわけでもない。  徐々に、そして少しずつ、走る稲妻の合間に鮮血が混じりだした。今ベアトリスは確実に、かつての上官を追い詰めつつある。  卑怯だとは思わない。戦において環境を利用するのは常套だ。ましてここは、ラインハルト自らが創造した敵手側のフィールドである。ゆえにこの現状は、自業自得でしかないだろう。 「話の続きをしようか」  だが、にも拘わらず、エレオノーレは焦りも怒りもしていなかった。彼女の気性を考慮すれば、歯軋りどころではない屈辱を受けているはずなのに。 「そもそもなぜ、と近頃思う。貴様はいったい何を求めて、黒円卓にいたのかと」 「それは――」  追々訊くと、先ほど棚上げにしていた質問。ベアトリスが驚くほど穏やかな顔と声で、エレオノーレは言葉を継いだ。 「ハイドリヒ卿と出会い、貴様も私も打ちのめされ、ゲシュタポに引き抜かれたのは、さて、いったい何時だったかな」 「………ッ」  なぜ、いきなりそんなことを言い出すのだろう。この人は何が言いたいというのだろう。思いながらも、雷速剣舞の中でベアトリスはそれに答えた。 「19、39年……確か、その年の今日です」 「クリスマス・イヴだっていうのに、少佐がまた面倒なことを言い出して……私、迷惑したんですよ」 「別に男と約束があったわけでもあるまい」 「それは――確かにそうですけど!」  少しだけ、楽しいこともあったと記憶している。  その日、ベアトリスはリザとも知り合い、新しい姉が出来たみたいで…… 「くく……貴様覚えているか? あの日のベイとシュライバーは傑作だった」 「あれを傑作と言えるほど、私は色々捨ててません」  薙ぎ払い、斬り上げて、それから刺突へと連続する。手は一瞬たりとも休めていないが、段々当たらなくなってきている。  その焦りからか――思わず声が大きくなった。 「それで、結局何なんですか!」 「なに、至極簡単だよ。始まりは共に巻き込まれたようなものだった」 「ゆえに戸惑い、恐れ、躊躇した。 私もしょせん人の子だ。貴様とてそうだろう。 しかし、力を得られるなら答えは是だ。あの時代、そして軍卒である我々に、他の選択など有り得ない」  国が戦争中だったのだ。一騎当千になれるなら、魂だって売るだろう。 「貴様は本来、虫も殺せぬような腰抜けだ。それが武門に生まれ、軍に入り、やがては黒円卓のヴァルキュリアと呼ばれるほどの者になる。 見事だ、天晴れな経歴だよキルヒアイゼン中尉。誰もが貴様の勇気と覚悟を讃えるだろう」 「ここまでならな」  振り下ろされる剣を掻い潜るようにして、エレオノーレはベアトリスの横をすり抜けた。その際に髪留めが切り飛ばされ、真紅の長髪がざんばらに乱れ落ちる。 「……ッ」  追撃は、追撃はなぜか、することが出来なかった。  その身に幾筋もの斬痕を刻みつけ、朱に染まった紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》……女同士であるにも拘わらず、それに見惚れてしまったからとしか言いようがない。  エレオノーレは、そんなベアトリスを擬っと見つめて問いを投げる。 「問題はその後だ、キルヒアイゼン。 〈貴〉《 、》〈様〉《 、》〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈ス〉《 、》〈ワ〉《 、》〈ス〉《 、》〈チ〉《 、》〈カ〉《 、》〈に〉《 、》〈願〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》?」  本来虫も殺せないはずの軟弱者が。  戦争が終わり半世紀以上を経た異国の地で。  スワスチカ開放という殺戮儀式に加担していた不思議。 「戦渦に消えた家族の蘇生。もしくは潰えた国家の再興……大方そんなことであろうと昔は思っていたのだがな。 しかし違う。言ったように、どれだけ腰抜けだろうと貴様は戦士だ。死のなんたるか、骨身に沁みて分かっているはず。 すなわち、立ち上がれぬ者は捨てていけだ」  終わったものは取り戻せない。後ろを見ていては前に進めぬ。  それは戦場の、兵士達の、大原則であり絶対のルール。 「死者蘇生など戯けている。そんなものは戦場を知らぬ輩が懐く、甘ったれた願望だ。 クリストフ、ブレンナー、そして櫻井の小娘のように。しょせん奴らは、民間の似非兵士もどきがお似合いだよ。貴様はそういう女ではない。 では、私と同じ〈英雄化〉《エインフェリア》が望みと言うのか? それも違う。事実今このように、貴様は私を否定している。 分からぬ。解せぬよキルヒアイゼン。貴様いったい、何を成そうとしていたのだ」 「……………」  問いに、ベアトリスは即答しない。  だが、ややあって。 「確かに……確かに私は、死んだ人を生き返らせようとまでは思いません」 「いっぱい死なせたし、いっぱい助けられなかったですからね。悔いはありますが、戦争とはそういうものです。少佐の仰る通りだと思いますよ」  一騎当千の力を得ても、万能ではありえない。少なくとも、自分の力ではどうしようも出来なかったし、しょせんは殺人という手段でしか物事を成せない人種である。 「そう、我々は殺すのが商売だ。死なないようにする術と、死なせる術に長けている。生き返らせる術などは、我ら兵士の領分ではない」  己は死なずに相手を殺す。それを突き詰めるべき存在が、死人を生き返らせるようでは矛盾が生じる。 「そういうことは、誰か別の者にやらせておけばいい。私もそしてハイドリヒ卿も、厳密には一度たりとも死んでいない。生きながらに、死を超えただけだ」 「そして貴様もそうなるだろう。魂は回帰せず、なおここに在り、エインフェリアと成っていく。ブリュンヒルデは死んだのではなく、ただ眠りの刑に服していただけ。 だが、貴様はそれが嫌なのだろう?」  だからこのヴァルハラを否定して、エインフェリアになることを拒んでいる。 「拒絶は好きにすればよいさ。嫌がる部下を引きずり回し、付き合わせるのは慣れている。貴様が泣こうが喚こうが、連れて行くという決定を変える気はない」 「ただ、そこで最初の疑問だ。そもそもなぜ、と」  誰かを生き返らせたいわけでもなく、不死になりたいわけでもなく、では何を思って終戦後も黒円卓に席を置いた? 「まさか櫻井の小娘のように、目出度い誤解をしていたわけでもあるまい」  ベアトリス・キルヒアイゼンは生粋のゲルマンであり、爵位を持つ家に生まれた貴種である。それはエレオノーレとまったく同じだ。  戦奴という〈不死人〉《エインフェリア》の何たるか、知らぬはずがない。 「およそ教育と呼ばれるものを受けたことがないだろうベイ、逆に無駄な知識を持ちすぎているマレウス、戦士の魂を理解できないブレンナー、そしてそもそも、別の民族である小娘…… 奴らと貴様は、一緒ではなかろう。考えれば考えるほど、私は理解できなくなる」  だから、その答えを聞きたい。言って、エレオノーレは促した。 「命令だ、キルヒアイゼン。貴様が懐いていた望みを言うがいい。事によれば、叶えてやれるかもしれん」 「…………」 「それとも惰性か? やることもないので、ブレンナーに協力してやろうとでも思っていたのか?」 「いいえ」  短く、しかしきっぱりとベアトリスは言っていた。 「私には私の望みが、ちゃんとありましたよ、少佐」  事実、今だって棄てていない。 「言ったはずです。私には敬愛する人がいると」  ちょっと恐くて、かなり傲慢で、信じられないくらい理想主義者の―― 「その人、頭はいいはずなんですけどね。何ていうか、馬鹿ですね」 「総てにおいて秀でている人ですが、どうやら致命的な欠点があったようです」  それはひどく凡庸で、ありきたりで、およそ彼女らしくないアキレス腱。  いや、ある意味で、だからこそらしいと言うべきなのかも。 「恋は盲目――」  付き従うべき主のことを、完全に間違えている騎士。 「あなたは、悲しくなるくらい殿方を見る目がありません」  蘇り続け、戦い続け、ラグナロクに臨むエインフェリア……戦奴という言い方は好きじゃないが、死なない者になるとはそういうことだ。永劫、戦い続ける存在を指す。  そして、それでもよかったのだ。 「綺麗事は言いません。私もしょせん〈兵士〉《ひとごろし》です。死にたくないから殺してきたし……ええ、黄昏だろうとなんだろうと、お付き合いいたしますよ」  ただ、あなたがあなたでさえいてくれたら。 「でも私、気付いちゃいました。いいえ、本当は前から気付いていたくせに、目を逸らしていたんでしょうね。盲目はお互い様だったりしますけど。 ベルリン崩壊のとき、ハイドリヒ卿は何をしました? そして、あなたは何を私達に命令しました?」 “今このときは負けてやれ。勝ったと劣等どもに思わせろ” “そのために仲間を殺せ。しょせん敵など、幾百万殺しても程度が知れる” 「私達が頑張れば、皆助けられたかもしれないとか、子供みたいなことは言いませんよ。だけど……」 “これは質の問題だ。守るべき民、愛すべき友、贄として彼らに勝るものはない。容易に奪えぬ命だからこそ、捧げるべき価値がある” 「なぜ私達が――」 “殺すがいい。愛をもって絶滅させろ” “帝都に属する諸々残さず、生贄の祭壇に捧げて火を放て”  あの命令だけは有り得ない。  兵士の領分云々言うなら、それこそが最大の矛盾だろう。  武門に生まれ、国防の剣として、民を護ると誓った私達が、断じて口にするべき言葉じゃないんだ。 「あなたも私も、軍人でしょうッ!?」  確かに敵味方を問わずという者は黒円卓に何人もいたが、彼らは元々犯罪者や魔術師だ。  自分達は、彼らと一線を画していたはず。それなのに―― 「あなたの命令で、あの日のベルリンは地獄でしたよ」  そして、そのまま地獄に呑み込まれた。  このヴァルハラ……屍で積み上げられた悪魔の城に。 「あなたまでが、堕ちた」  あなたまでが地獄の一部として呑み込まれ、目の前に鬼として立っている。 「だから――だから私が、望んだのは」 「あなたを、ここから救い出すこと。 ハイドリヒ卿から引き剥がし、昔の少佐に戻ってもらうこと。私の願いは、それだけです」 「…………」  哀絶の決意に、エレオノーレは応えない。理解できないのか、呆れているのか、眉間に寄せられた微かな皺には、明らかに戸惑いの気配が浮かんでいる。 「なぜ私が、貴様に世話などを焼かれなければならん。 そもそも、貴様の願いとやらは不可能事だ。スワスチカでそんな真似は出来ん」 「ええ、それは充分分かっていますよ」  エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグは死んだのではなく、またすでに〈不死人〉《エインフェリア》となっている。  彼女を解放するなら一つしかない。 「だから、ハイドリヒ卿を斃すんです」 「それもまた、スワスチカに掛ける願いと言っていいはずでしょう? だってあの方は、そうしないと出てこないわけですし。 十一年前、シャンバラに〈双頭鷲〉《ドッペルアドラー》を呼び寄せたのは私です。総ては彼らと黒円卓の激突を煽り、民間の死者を出さないままスワスチカを完成させるために。 私はその混乱に乗じて、ベイを、マレウスを、聖餐杯を可能な限り殺害していく。そして最終的には――」 「この城を、軍人としてのあなたを穢したグラズヘイムを地に墜とす。 ゾーネンキントはまだ幼く、ツァラトゥストラも現れない。あの瞬間、あの時期にしか、勝機はないと思ったから」  そして、他にももう一つ……あの時に終わらせなければいけない理由があったから。 「結局それは、失敗しちゃいましたけどね」  だけど後悔はしていない。  憎悪と悔恨に塗れた日々は、もう終わったのだ。 「言ったでしょう。私は追いかける側の人間だと。 妹や、弟や、まあ何て言うか、気になる若い子達のことを信じますよ。私は彼らの道を照らす閃光になりたい。 あなたを追いかける駄目な部下でありたい」 「だから今、私はこうしてここにいる。血で錆びついたあなたの〈理想〉《けん》に、再び輝きを灯せるように。 〈魔城〉《ここ》から救うと、決めたから。今さら何を言われても聞きませんよ。私が強情なのは、知ってますよね」  自分の目的はそういうことだと、ベアトリスは宣言し。 「ご理解いただけましたか、少佐」  涙を流し、笑顔を浮かべ、快活に晴々と言い放つ。エレオノーレはそれに目を向け、数秒の間を置いてからぽつりと漏らした。 「……戯けが」  深く息を吐くように。利かん気な妹に困惑しつつも慈しむように。 「軍人のなんたるか、か……まさかそんなことを言われるとは思わなかったが。ああ、そういえば、貴様の生まれはベルリンだったな。あの日に私が下した命を、今もって許せんと…… 困るな。どうしたものかこの馬鹿娘は。ハイドリヒ卿のレギオンになる方が、彼らにとっては幸せだったと……一から十まで説いたところで聞く耳など持つまいし、言い訳をしているようで性にも合わん。 そして何より――」  伏目がちだった視線が上がる。先刻まで浮かべていた微苦笑は失せていき、その眼に魔性の〈焔〉《ほむら》が燃焼しだす。 「貴様は二つ、言ってはならんことを口にした」  まるで陽炎が立つように、彼女の背景が歪み捻れて沸騰しだした。 「一つはハイドリヒ卿を斃すなどと、分際を弁えん戯言を抜かしたこと」  室内の気温が急激に上昇していき、熱風を起こして猛り狂う。 「そしてもう一つは――」  実のところ、何よりそれが、彼女を失望させた一言だった。  これだから、女というものは好きになれん。“それ”しか頭にないらしい。 「よりにもよって、恋などと……」  そこらの狗でも懐くような、安っぽい常套句で。 「私の忠を――侮辱したことだ」  突き放すような声と共に、紅蓮の炎が噴き上がる。せめて苦しまぬようにという温情は、この瞬間に消え去った。 「その浅薄さ、罰を与えねばならん。残念だよキルヒアイゼン。たとえエインフェリアになる身とはいえ――」  極大の痛みを、極大の恐怖を――二度と戯言ほざけぬよう、文字通り魂にまで刻んでやろう。 「次に会うとき、すでに貴様は狂っているかもしれんがな。だがそれもよし。 逃がさん。何処にも行かせはせん。永遠に私の下で、私の機嫌を取りながら這い回れ」 「図星突かれて、怒っちゃいましたか? それに、さっきも言ったはずです。この城であなたの〈創造〉《せかい》は」 「くだらんよ」  皆まで言わせず吐き棄てて、部下の指摘を一蹴する。 「いつまで経っても進歩のない、認識の甘い阿呆めが。貴様いったい何を根拠に、私の総てを知っているなどと思い上がる」 「無限に広がり続ける爆心だと? ああ、そんなものも確かにあったな。 〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈戦〉《 、》〈争〉《 、》〈用〉《 、》〈の〉《 、》〈制〉《 、》〈約〉《 、》〈に〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈ん〉《 、》」  広域を巻き込み都市規模の破壊を起こす戦略兵器。戦時中はそれが求められたからそうなっただけのこと。  だが本来、ヴィッテンブルグの家門は勇武を重んじる騎士である。  誉れは決闘。一対一。しょせん広がり続ける爆心などは、取るに足らぬ雑兵連れを払うための余技でしかない。相手が自分と同じ騎士ならば―― 「枷を外してやろう。光栄に思うがいい。これを知るのはハイドリヒ卿しかおらん」 「そして、実際に見るのは貴様が初めてだ」 「―――――ッ」  膨張する大気の圧力が槌となり、ベアトリスの全身を打ちのめす。  流れてくるのは、焼けた鋼鉄と油の匂い。忘れもしない戦場の熱風。  ――出る。  あの威力と規模だけは桁外れの聖遺物……もはや冗談じみた大火砲が。 「でも……ッ」  これは何か、何かが違った。抜かせてはいけないと思いながらも、一歩踏み出すことが出来ない。 「〈Echter als er schwur keiner Eide;〉《彼ほど真実に誓いを守った者はなく》 〈treuer als er hielt keiner Verträge;〉《彼ほど誠実に契約を守った者もなく》 〈lautrer als er liebte kein andrer:〉《彼ほど純粋に人を愛した者はいない》」  紡がれる詠唱も、ベアトリスが知る〈魔弾の射手〉《Der Freischütz》をベースとしたものではなかった。 「〈und doch, alle Eide, alle Verträge,〉《だが彼ほど 総ての誓いと総ての契約》 〈die treueste Liebe trog keiner wie er〉《総ての愛を裏切った者もまたいない》 〈Wißt ihr, wie das ward?〉《汝ら それが理解できるか》」  〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈戦〉《 、》〈争〉《 、》〈用〉《 、》〈に〉《 、》〈課〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈制〉《 、》〈約〉《 、》〈に〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と……そう放言したエレオノーレ。ならばこれは、いったい如何なるものなのか。 「〈Das Feuer, das mich verbrennt, rein'ge vom Fluche den Ring!〉《我を焦がすこの炎が 総ての穢れと総ての不浄を祓い清める》」 「〈Ihr in der Flut löset ihn auf,und lauter bewahrt das lichte Gold,〉《祓いを及ぼし 穢れを流し 熔かし解放して尊きものへ》 〈das euch zum Unheil geraubt.〉《至高の黄金として輝かせよう》」  〈赤化〉《ルベド》は黄金を生む最終形態。ゆえにもっとも獣に近く、もっとも彼を尊崇し、その敵となる〈不純物〉《モノ》を撃滅する剣―― 「〈Denn der Götter Ende dämmert nun auf.〉《すでに神々の黄昏は始まったゆえに》 〈So - werf' ich den Brand in Walhalls prangende Burg.〉《我はこの荘厳なるヴァルハラを燃やし尽くす者となる》」  圧倒され、動けなかったのはほんの数秒。しかしそれで、もはや総ては手遅れとなった。 「〈Briah〉《創造》――」  抜刀が起きる。何が何でも抜かせてはいけなかった〈焔〉《スルト》の剣が、今ここに鞘走る。  絶対に逃げられず、絶対に命中し、総てを焼き尽くす炎が凝縮した世界。  その銘は―― 「〈Muspellzheimr Lævateinn〉《焦熱世界・激痛の剣》」 「――――ッ」  魔城の景観は一変し、対峙する二人を残して周囲は赤き灼熱の国へと変じていた。  ここはまるで溶鉱炉。あらゆるものが溶けて燃え、沸騰して熱風と化す。  出口などない。避難場所もない。地平線すら揺らぐ広大な空間であるにも拘わらず、まるでトンネルのような閉塞感に満ち満ちている。  事実、蟻が地下鉄の線路に立てばこんな気持ちを味わうだろう。  それで、ベアトリスは理解した。 「砲身の……中?」  ドーラ列車砲“〈狩りの魔王〉《ザミエル》”――800mmの砲弾が走り抜け、長さ30メートルにも達する怪物の〈口中〉《バレル》に呑まれたことを。 「そうだ。ゆえに分かるなキルヒアイゼン」  絶対に逃げられぬということ。絶対に当たるということ。その究極系とは何なのか。  対象を追尾する弾頭か? 無限に広がる爆心か?  否――そんなものは児戯にすぎない。  追いかける側の人間とはベアトリスが言ったことだが、それはエレオノーレにも言えることだ。  至高の黄金に焦がれ、狂い、その輝きに永劫焼かれ続けることを渇望した。  逃げる気などない。引き返す気もない。何処までも果てまでも追い続け、何時までも〈永久〉《とわ》までも焼かれていたい。  ゆえに、出口逃げ場所などここにはない。 「絶対に逃れられぬとはこういうことだ。逃げ場など、最初から何処にも存在しない〈世界〉《モノ》を言う」  ただ、業火のみの〈大焦熱地獄〉《ムスペルヘイム》。大火砲の砲身そのものを創造し、燃やし尽くす焔こそが〈赤騎士〉《ルベド》の世界だ。  一寸の隙間すらなく埋め尽くし、永遠の熱が支配する紅蓮の激情。  彼女の忠誠、彼女の誓い、彼女の愛が、これなのだから。 「勝負ありだ。もはやどうにもならん」  エレオノーレの遥か後方、煮え滾る獄炎の壁が火砕流のごとく迫ってくる。あれに呑まれて耐えきれる自信など、ベアトリスには欠片もなかった。 「なぜなら、今の貴様は薄い」  彼女が集めた魂は、第一のスワスチカで残らず消費されてしまっている。  ここに在るのはベアトリス・キルヒアイゼン本人のみの魂であり、それ自体もすでに相当の消耗を強いられた。  いかに鋭く研ぎ澄まして皮の一・二枚を裂こうとも、単騎で無謬の軍団は崩せない。まして、ついに抜かれた激痛の剣を耐え凌ぐ鎧などは夢のまた夢。 「私と戦えば戦うほどに、貴様の魂は削られていく。比喩ではなく透けて見えるぞ、キルヒアイゼン。もはや万策尽きたと知れ。 手加減などすでに出来んが、下手に足掻けばそれだけその身は欠けていく。結果、より絶望が増すだけだ」 「受け入れろ。諦観して座すがいい。しょせん貴様はハイドリヒ卿を斃すどころか、私すらも超えられんと」 「嫌です」  だが、迫る終末を前に、彼女は強く断固たる決意を込めて真っ向から反駁していた。 「私は、あなたを救うんです」 「なぜだ?」  そんなものは有り難迷惑であり、大きなお世話と言うしかない。  死を賭して、死を超えて、魂まで削りながら勝てぬ相手に剣を向ける。恐怖に屈さず立とうとする。  意味などないし、誰も褒めはしないというのに。 「だって少佐、友達いないじゃないですか」  そんな戯言を、なぜ未だに吐き続けることが出来るのか。 「あなたは強すぎて、厳しすぎて、純粋すぎて悲しすぎる。たった一人愛した人からも道具としてしか見なされず、自分自身の気持ちにさえ気付いていない。誰も近寄れない〈炎〉《ローゲ》、それを与えた〈槍〉《ヴォータン》、あなたこそが〈馬鹿娘〉《ブリュンヒルデ》だ!」  もはやどう転ぼうと勝ち目がないのは悟っていよう。すでにレーヴァテインは振り下ろされ、その炎はエレオノーレを半ば以上に覆っている。  剣士であるベアトリスはこの灼熱に自ら飛び込むしか道がなく、待っているのはただ絶対の敗北のみ。  打つ手はないのだ。無為だというのに―― 「だからせめて、私くらいは壁を乗り越えてあげないと。 目を覚ましましょうよ、お姫様。その火をあなたに与えた男は、ろくなもんじゃないんです」 「……………」  怒りはない。小賢しいとも思わない。ただ往年を思い出し、呆れ半分の苦笑だけが知らず知らずに漏れていた。  ああ、そういえばこの部下は、何度殴り飛ばしても平気な顔でズケズケ言ってきたものだったと。 「ジークフリート気取りか」 「ええ、女同士じゃご不満もあるでしょうけど」  あえかな笑みを浮かべつつ、腰を落として前傾姿勢を取るベアトリス。  来る気か? この炎の中に?  踏破すると? 出来るとでも? 「昔、少佐は言いましたよね。銃など向けられても存外に恐くはないと。 なるほど確かに、こんなの全然恐くないです」  踏み込む寸前、ベアトリスは大音声で呼ばわっていた。 「カール・クラフト! 聞いているのでしょう、約束しなさい! これは騎士の戦いです。魔術師風情が、その決着に手を出すことなど許しません! 見事、私がヴィッテンブルグ少佐を斃したら――」  せめて、総ての決着が付くまでの間だけでも―― 「あなたの穢れた〈錬成〉《かいにゅう》を禁じます! 返答はッ!?」  猛き戦乙女の〈獅子吼〉《ししく》を前に、ムスペルヘイムが一瞬翳ったように見えたのは錯覚だろうか。  ただ、それとまったく同時に。 ――Jawohl Fräulein Walküre――  声でも思念でも気のせいでもない何がしか……〈赤騎士〉《ルベド》の獄炎にあっても肌寒さを覚える〈返答〉《いらえ》があったのは確かだった。 「あの〈大猩々〉《だいしょうじょう》めが」 「意外に判官びいきの人なんですよ、知ってましたか?」  そして、同時に覚悟を決める。どうやら自分に出来ることは、本当にここまでのようらしいけど。 「お願いよ、戒……力を貸して。 あなたの妹を護るためにも――」 「私はここで、砕け散っても構わないから。 この人だけでも、絶対に連れて行くから」  そう、まだ輝いていたあの頃に。 「一緒に還りましょう、ヴィッテンブルグ少佐。ヴァルキュリアでもザミエルでもなかったあの頃に。 きっとそこが、私達のヴァルハラなんです」 「抜かせ馬鹿者。貴様こそ―― 私と未来永劫に、黄昏まで億万の戦場を駆ければいいのだ」  そう、まだ同じ〈志〉《みち》に燃えていたあの頃のように。 「今さら後戻りなど有り得ん。貴様が来い!」 「私は死人で出来た道なんか照らしたくない!」 「戯言ばかりを――」 「抜かしているのはあなただ!」  走る稲妻を炎が呑み込み、二人の戦姫を包んでいく。  その勝敗は明白であり、奇跡でも起こらぬ限り覆ることは有り得ない。  だが奇跡とは?  〈本〉《 、》〈来〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈に〉《 、》〈起〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》、〈奇〉《 、》〈跡〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》。 「――ぬ?」  微か生じた異変に気付き、ラインハルトは眉を顰める。  勇んで斬りかかって来た少女は未だ彼に触れることさえ出来ぬまま、玉座の足元から出現した髑髏の群れを突破することさえままならない。  その数、僅か一個中隊。総軍百万を超える獣の混沌全体から見れば、まさしく〈鬣〉《タテガミ》一本程度の取るに足らない戦力だろう。  そして、それで事足りるほど、目の前の少女は他愛なく矮小だった。  にも拘わらず…… 「ほぅ……」  徐々に、徐々にではあるものの、螢の後退は止まりかけていた。前進は出来ず、切り開くなど論外。しかし魔城にあって不滅を誇る彼らを前に、未だ闘志を失っていない。  無論、だからどうしたという話であり、驚嘆することでもないだろう。仮にこの中隊を突破しても、それはただの回光返照。燃え尽きる蝋燭と沈む夕日の輝きでしかありえない。  だが、であれば如何に……とラインハルトは思案していた。  さらなる増軍で潰すべきか、このまましばし足掻きを見物するべきか。  健気な少女を嬲って楽しむ趣味はなく、かといってその奮闘を愛でたいと思うのもまた事実。  どちらも同等の欲求であり、結果として花と散るのが定めならば、重視するべきは死に様であろう。いったい自分はどのように、彼女の最期を演出してやるべきなのか……  いや、あるいは、そのどちらでもない第三の選択こそがもしかして……  と、甘美な思索に耽っていた彼の前で、再度の異変が生じていた。  この中隊の核である指揮官、かつてヴァルター・ゲルリッツという名の男であった存在が、螢の剣によって斬り伏せられる。それと同時に、他の髑髏達は統制を失った。 「甘く、見すぎです――!」  時間にしてほんの刹那、ヴァルターが復活するまでの瞬きにも満たない空隙に、螢は総てを賭けていたのだ。  今まで防戦一方だったのは、部隊の指揮官を見つけるため。それを割り出し、それを斬り、一瞬の間生じるであろう綻びに付け込んで突破する。寡兵よく大敵を制するならば、神速をもって尊ばなければ意味がない。  だが――たとえ甘く見ているのが確かでも、余裕を見せているのが真でも、両者の間を隔てる壁は、それで越えられるほど低くないのもまた事実。 「――マルセイユ」  気軽な挨拶程度にしか聞こえぬ呼び出しと共に、玉座の背面から戦闘機の機銃としか思えぬ物が出現した。それは踏み込んでくる螢の未来位置を予測して、彼女自身が銃弾に吸い込まれたと錯覚するほどの偏差射撃を実現させる。 「―――ァァッ」  かつてアフリカの星と呼ばれた空軍エース。その警戒網を突破することなど不可能に近い。撃墜された螢は血煙を噴きながら転落していき、再度復活を遂げたヴァルターの中隊に呑み込まれる。  その瞬間だった。  投じられた緋々色金が、ラインハルト目掛けて飛来したのは。  無論、それはメッサーシュミットの機銃に弾かれ、瞬時に軌道から撃ち落とされる。  しかし、その結果に起きたことは、果たして偶然だったのか。 「――――――」  この世に奇跡があるとすれば、まさにこれこそがそうだった。 「〈Tod! Sterben Einz'ge Gnade!〉《死よ 死の幕引きこそ唯一の救い》」 連続する轟風のような拳圧の中、重苦しい声が詠唱を紡いでいく。 「〈Die schreckliche Wunde, das Gift, ersterbe,〉《この 毒に穢れ 蝕まれた心臓が動きを止め》」 「〈das es zernagt, erstarre das Herz!〉《忌まわしき 毒も 傷も 跡形もなく消え去るように》」 創造位階の発動。こいつのそれがどれだけ危険なものかは分かっていたし、まともに考えれば出すのを許すべきではない。 だが俺は、躱し様に大きく飛び退き、そのまま不動であることを選択した。 「―――――」 本能で直感する。こいつとの戦いは長引かせるべきじゃない。 重爆撃の弾幕を掻い潜るに等しい戦況は、俺の心身を限界以上に消耗させる。仮にここで奴の詠唱を妨害できても、その後に待っているのは削り殺されるのを待つ格闘戦だ。そうなったら勝ち目がない。 だから―― 俺もまた、この隙に自らを極限まで研ぎ澄ませ、次の一瞬に総てを懸けよう。 リスクはとんでもなく跳ね上がるが、クイックドロウの勝負に持ち込むしか勝機はないと判断した。 「〈Hier bin ich, – die off'ne Wunde hier!〉《この開いた傷口 癒えぬ病巣を見るがいい》」 マキナが〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈る〉《 、》。とある鋼鉄に込められたというこいつ“核”――外装として纏ったのは生前の面立ちだろうが、その渇望を曝け出したことで本来の姿が顕現していく。 「〈Das mich vergiftet, hier fliesst mein Blut:〉《滴り落ちる血の雫を 全身に巡る呪詛の毒を》」 鋼鉄の双腕。義肢の類なんかじゃ断じてない。 「〈Heraus die Waffe! Taucht eure Schwerte〉《武器を執れ 剣を突き刺せ》〈tief, tief – bis ans Heft!〉《深く 深く 柄まで通れと》」 全身が鋼の怪物。人型をした戦車の化け物。 「〈Auf! Ihr Helden:〉《さあ 騎士達よ》」 「〈Tötet den Sünder mit seiner Qual,〉《罪人に その苦悩もろとも止めを刺せば》〈von selbst dann leuchtet euch wohl der Gral!〉《至高の光はおのずから その上に照り輝いて降りるだろう》」 まさしくこいつの手足として、恐怖と勇名を馳せた〈戦車〉《こうてつ》こそが、こいつの魂の容だった―― 「〈Briah〉《創造》――」 「〈Miðgarðr Völsunga Saga〉《人世界・終焉変生》」 〈人界〉《ミズガルズ》に語り継がれる〈英雄譚〉《ヴォルスング・サガ》――定命の者として生きるからこそ輝き栄える物語。それはすなわち、絶対の死という〈終幕〉《マキナ》を是とすることだ。 死を求め、望み、希い、何者であれその幕引きを免れない終わりの創造。 今やこいつ、それ自体が意志を持った〈ご都合主義〉《デウス・エクス・マキナ》。触れるもの悉くを終了させる神のゴンドラと化している。 「戦いは嫌いか?」 だから訊いた。俺も同じく、この一撃に懸ける者として。 「殺し合いを愉しんだことなど一度もない」 そして、対峙する黒騎士は、やはり俺と同じ感想を持っていた。 「戦場を誉れとし、漢の本懐としてはいても、血に愉悦する獣性など持ち合わせん。おまえもそうだろう、兄弟」 「決着は早ければ早いほどいい。〈兵〉《つわもの》同士であればあるほど、そこに不純物は混ざらんものだ」 「愉悦も、苦悩も、絶望も」 「焦りも、怒りも、興奮も」 「皆、すべからく不要であるべし。俺とおまえの戦いに、そんなものが入り込む余地などない」 限りなく透明で、純粋で、刹那に激突し弾ける戦意。ただそれのみがあればいい。その果てに降りてくるものこそが真のヴァルハラ。 長引けば名勝負とも限らない。むしろそれは、泥仕合とでも言うべきだろう。 その一点においてのみ、俺たちの意見は合致していた。 今から双方激突し、どちらかが斃れどちらかが生き残る。これはそういう戦いなのだと。 ならば―― 「俺は負けない」 「ではやってみるがいい」 ああ、やってみせるとも。死にたがりに勝つことなんて造作もないと証明してやる。 共に全身の筋肉をたわませて、地を蹴る一歩手前の寸前――俺の速度が上回るか、奴の拳が先に当たるか。 俺は絶対勝ってみせる。 「死にたくないんだ」 生きたいんだ。その気持ちがどれだけ強固な力になるか、今ここで教えてやる。 だいたい、これは櫻井にも言ったことだが―― 「おまえら、要は怖気づいてるだけのくせに――」 ラインハルトが恐いだけの、腰抜けのくせに―― 「俺にばっか、偉そうなこと言うんじゃねえよ」 そして瞬間、引き金は引かれた。 風切る弾丸と化して俺は駆ける。単純な速さならこちらのほうが上だという自信があるし、僅かでも恐れがあればこいつの間合いになど踏み込めない。 よく見ろ。全神経を研ぎ澄ませ。 右か左か、抜刀ならぬ抜拳の“起こり”を見逃すな。 “溜め”となる一瞬が、必ず何処かに生じるはずだ。 その刹那こそ、俺にとって唯一の勝機。創造をあえて発動させるという危険を冒してまで見極めたかったものがそこにある。 「――〈勝利万歳〉《ジークハイル》」 人として男として、この上もなく理想的な戦士の体躯。初見で男神像を連想したのは、思えば当たり前のことだった。 こいつは人形。創造物。機械仕掛けの神の像。 ならば、その身に組み合う歯車の響きだけは隠せない。 「――右ッ」 繰り出された鉄拳はまさしく脅威の塊だったが、わずかに速く俺はその起こりと軌道を読んでいた。 “意”は完全に消えていたし、どれだけ透徹した眼をもっても、表面上の起こりは誰にも見抜けなかったろう。通常ならばこの一撃、躱せなかったに違いない。 だがそれは、あくまで生身の人間同士だった場合の話だ。 「おまえの敗因は――」 躱し様、身体を捻ってバックブロー気味に右手を振りつつ俺は言う。 「そんな身体になったことだ――」 血肉を持たない機械人。反射という人体特有の機能をなくした為に、心は無想の域に達しても〈歯車〉《からだ》は事前の動作をしてしまう。 昔は俺が負けたと言い、ゆえに今も負けるとおまえは言ったが、お互いにそのときの身体じゃないのが明暗を分けた。 走るギロチン。必殺の間合いに飛び込んだにも拘わらず、躱した拳圧の凄まじさと豪腕の太さが首まで刃を届かせない。 だが、それも俺は予想していた。 一撃同士に懸けたのはお互いだが、こちらが狙っていたのは首じゃない。 「―――――」 マキナの豪腕、それそのものを斬り飛ばす。振り抜かれた右腕の肘部分に刃を走らせ、そしてそのまま―― デウス・エクス・マキナ――何者であれ終了させる幕引きの鉄拳を、俺は切断することに成功していた。 「――素晴らしい」 その、掛け値なしの賞賛は、待ち望んでいた死を前にしたゆえの歓喜なのか。 それとも―― 「おまえなら、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈く〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》〈は〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈の〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈ぞ〉《 、》」 「――――」 そのとき、俺の耳に届いたのは、〈先〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈逆〉《 、》〈回〉《 、》〈転〉《 、》〈に〉《 、》〈回〉《 、》〈る〉《 、》〈歯〉《 、》〈車〉《 、》〈の〉《 、》〈音〉《 、》。 「〈Höchsten Heiles Wunder:〉《いと高き救いの奇跡よ》――」 「〈Erlösung dem Erlöser〉《我が救済者に祝福を》」 「――――なッ」 そして、間を置かずに放たれる左の拳。こいつまさか、こいつも同じく―― 「やはり考えることは似かよるらしいな」 俺とまったく同じことを―― 一撃目で相手の武器を消費させ、そこから繋ぐ二撃目が狙い―― 「おまえの敗因は――」 やはり先ほどとまったく同じ、俺が言ったことを〈終わり〉《マキナ》がなぞる。 「俺の言葉を信じなかったことだ」 共に毒壷の生き残り。もとはまったく同じものでありながら、二つに分けられたというその弄言。 俺はそれを信じず、認めず、仮に事実であっても違うと言い張った意地こそが―― 「明暗を分ける。俺はおまえがこうするだろうことを信じていた」 気概が、気骨が――俺自身、生き残るために絶対必要だと疑わず、事実今までそれを寄る辺に戦ってきた最大の武器こそが。 こいつとの戦いにおいては敗因になる。 こちらの気持ち、俺が求める勝利への渇望こそが必ず勝ると信じることより、まったく等価の想いによって、同じ結論に至るはずだと信じた奴の方が一枚上手に。 「最後だ。おまえのつまらん誤解を訂正しよう」 迫る幕引きを間近にして、死を感じる走馬灯の中、マキナは言った。 「俺はハイドリヒを恐れてなどいない。単に奴が相手では、俺の唯一が屑に堕するというだけだ」 「おまえでなくてはならん。おまえでなくては俺の空隙は埋まらない」 「それもまた、当然だろう。なぜならおまえこそがただ一人、俺の戦友なのだから」 なら俺は――俺の〈仲間〉《せんゆう》達に何と言えばいい? このまま、ここで、おまえに負け、死ぬことこそが定めだと? 駄目だ、絶対認めない。 俺は―― 〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈結〉《 、》〈末〉《 、》、〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  そのとき、彼は唐突に立ち止まった。  広大なヴァルハラ宮。数百万の髑髏で構成されたヴェヴェルスブルグをそぞろ歩いていたメルクリウスが、いきなりその歩みを止めたのだ。  後続していた香純達にそれは理解の外であったが、彼は今、ここに居ながらここに居ない。  なぜなら、その精神は―― 「君に詫びねばならんな、マルグリット」  黄昏の中、彼が愛する少女と対話していたのだから。 「以前に言ったことを訂正しよう。あの首飾りは、君に不釣合いであったようだ」  物柔らかな謝罪の言葉に、しかしマリィは応えない。いいや正確には、答えられるような状態ではない。  彼女は目を閉じ、眠っている。己が象徴である断頭台に囚われたまま、薔薇の縛鎖に囲われて意識がない。  つまり、不釣合いとはそういうことだ。 「マキナとの勝敗など問題ではない。真の基準は、彼が君を選ぶか否か……選んでいれば、こうなることなどなかったろうにな」  そして選ばなかっということは、こういう結果を意味するのだ。 「口惜しいが、仕方あるまい。六十年では些か仕込みが浅かったということだろう。君はまた、この黄昏に沈んでいってしまうのだね。 許されよ、マルグリット。私には昔から、人の情というものが見えない」  彼が用意した彼女の恋人……その心は、今現在別の人間へと向いている。それはそれで構わぬし、男女の愛などという概念に当てはめなければ、事が成せぬわけでもないが。 「単純に、今はまだ繋がりが薄い。ああ、そう考えれば、原因はマキナにあるとも言えるかな。情の深さと時間の長さは必ずしも比例せぬとよく言うが、質の面でもまだ足りるまい。 君らはお互い、未だ唯一無二と言えるような関係でもなかろう」  少なくとも自分がこの少女を想う領域まで、あれはまだ上がっていない。  それでは駄目だ。流出は起きない。  つまり失敗であるとかぶりを振るメルクリウスに、やはりマリィは黙したまま応えない。 「なぜなら、法則を破壊するには覇道の激突を要する。それをもって塗り替えなければ意味がなく、今の君らでは不可能だ。 しょせん自己完結で終わる求道ではね。包み込む〈覇道〉《あい》は得られん。分かるだろうか、マルグリット。 まだ君はそれを知らない。私の盟友のような、愛の権化になってほしかったのだが……残念だな」  滔々と、理解し難いことを述べるメルクリウスは、しかし明らかに楽しげだった。  言葉の内容は難解ながらも、失敗であると言ったことは間違いないし、彼の目論見が外れたと言っているのも間違いない。  だがなぜか、とてもそうとは――嘆いているとは思えない。  マリィとて、意識があればそれくらい分かっていたろう。そしてこう言ったのではないだろうか。 「へんなカリオストロ」  おかしいと、そんな一言で片付けられるものではないのだが、この少女に言わせればそういうことだ。メルクリウスは苦笑する。 「私が奇妙だと思うかね?」 「ええ、だってあなたは――」  まだ何かを期待している。“それ”が起きるのを待っている。  望みの流出は起きず、願いは達せず、失敗であり敗北であり残念でありつまらないと言っているのに。  何かを確信して立っている。  彼女に何かをさせようとしている。 「悩ましいな。下世話な喩えで恐縮だが、愛と友情、どちらを採るかという選択に私は今立たされているよ。 カール・クラフトとしての私は、獣殿との盟約に順じなければならないが、アレッサンドロ・カリオストロとしての私は、君こそ女神の器だと信じている。 彼の覇道のみが流出するような事態になっては愛を失い、かと言っておおっぴらに止めては友情を失うという二律背反。 駄目な男の戯言だと、笑ってくれたまえよマルグリット。もし、もしも仮にの話だが――」 「私がどちらも裏切らずに、いられる展開があるとするなら――」  そのとき、影絵のように揺れていた漆黒の外套に亀裂が走った。 「それは誰かが、私や彼でも読みきれなかった、奇跡を起こすことではなかろうか」  そう―― 「たとえばこんな風にね」  瞬間、“それ”はこの最後の〈恐怖劇〉《グランギニョル》――すべての出演者達の頭上に、等しく同時に落ちてきた。 「――ぬッ」 「なに――ッ」  共に勝利を確信していた〈赤騎士〉《ルベド》と〈黒騎士〉《ニグレド》――不死身の〈英雄〉《エインフェリア》である彼ら二人が、もっとも強くその影響を受けたと言っていい。  魔城が揺れる。不滅のヴァルハラ、ヴェヴェルスブルグが、ほんの一瞬、一刹那、百万の髑髏で固めた〈地獄〉《ヴェルトール》を解れさせたという異常。こんなことは有り得ない。  なぜならそれは、彼ら軍勢を率いる長に何らかの異変が起きたということ。 「馬鹿な――ハイドリヒ卿!」  鉄の忠誠と激情の性、身を焦がす愛ゆえにエレオノーレは主の異変に意を引きずられ。 「おのれ、邪魔立てするな貴様ァ!」  我執の虜であるがゆえに抵抗を試みたマキナは逆に、離散する自らを留めようとして動きを止めた。  一瞬の気失、一瞬の停滞、しかしそれは―― 「―――――」  魔城の激震により深い眠りから覚めた彼女が、現状を把握するのに充分すぎる間となった。 「さて、ならば君はどうする?」  その答えは――ルール無視のキャスリング。 「なッ―――」 右腕だけが勝手に動く。致命の幕引きが迫る中、まるで守るかのように間へと割って入る。馬鹿な、俺は何もしてない。 たとえ反射の類であろうとも、それすら許されないタイミングでマキナの止めは迫っていた。こんなことが出来るはずない。 だがなぜか、ほんの一瞬、奴の拳が停滞したのもまた事実だ。それは俺の意志でつけ込めるほどの隙ではなかったが、右腕のみが動くという事態にとっては、ギリギリ防御が間に合うもので―― 「無駄だ――俺の拳は何者であれ止められん!」 それがどういう結果を招くのか、次に俺が味わうのは何なのか、嫌になるほど分かっていて―― 「やめろ、マリィ――ッ!」 叫んだときには、もはや総てが遅かった。 炸裂するデウス・エクス・マキナ。それをもろに受け止めた〈マリィ〉《ギロチン》は、粉微塵に砕け散って消えていく。そして聖遺物を砕かれたことにより、若干の時間差はあれど俺も同じ運命を辿るしかなく―― 「結果は変わらん。勝利は俺の上にある」 拳を突き上げ、勝ち名乗りを上げる〈黒騎士〉《ニグレド》。積年の大望を果たした歓喜に、今や残心すら忘れて完全な無防備を晒しているこの男に、俺は挑む牙がない。 馬鹿な、マリィ――君は、どうして。 こんな、犬死にめいた最期を迎えるためだけに、わざわざ君は―― 「いいや、違うな」  そう、違う。まだ出演者は残っているのだ。  蓮にとって最良の番いと成りえなかったがゆえに彼女を覆っていた薔薇の縛鎖が、皮肉なことに彼と繋がりを断たれたことで弾け飛ぶ。マルグリット・ブルイユは以前と同じ、誰にも属さない魂として解放される。 「そして、そうであるのなら――」  震撼する魔城の煽りを受けて、その創造主の一人であるメルクリウスに亀裂が生じた。  それは、この黄昏とヴェヴェルスブルグを繋ぐ門となる。  すなわち―― 「カスミ――」 “あちら側”に居る者へ。 「シロウ――」  今、彼女の声も姿も、手も届く。  香純は直感の人間であり、司狼はプラス、利に聡い。 「なるほど――」 「マリィちゃん!」  それは理屈など後で考える二人ならでは。城の戦況をなぜか総て把握できていた彼らにとって、これが起死回生であるという勘はあらゆるものに優先する。  死にかけている蓮も、危機にある螢も、同じく敗北寸前の誰かも。  この一手こそ、王手を覆す奇跡ならば―― 「こっちに――」  恐れなど、あるはずもない。立ち止まったまま動かない黒外套の背に手を突き込んで、その向こうに透けて見える黄昏の少女を引きずり出す。そしてどうするかは、分かっていた。 「まず助けるなら、女が先だろ」  嘯いて、彼がマリィの魂を投じた先は―― 「――――ッ」 「くッ――……」  ムスペルヘイムの火炎に包まれ、気化寸前のベアトリス。彼女もまた、死の淵にいた。 「……些か、望外の事態はあったが」  戦の最中に、たとえ刹那といえども敵手から意を逸らしたという失態は、エレオノーレに激痛の罰を与えていた。 「しかしそれだけだ、キルヒアイゼン。言ったであろう、貴様に私は超えられんと」  戦姫の剣は首に届き、命中を許していた。噴き出る紅の鮮血は彼女ら二人に降りかかり、同時に熱で蒸発していく。 「今の私では、少佐を断てないということですか……」 「そういうことだな。魂の密度が違う」  刃は皮を裂き、肉を切り、しかし骨までは届かない。紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》に致命傷を負わすほどの深手は与えられない。 「だが見事だったぞ。私がハイドリヒ卿より賜った兵を、貴様一人、単独で、ここまで切り開いた事実は誇ってよい」 「どうしてなかなか、よくやったものではないか」 「全然、嬉しく……ありませんね」  だって斃せなかった。救えなかった。 「あなたをこの地獄から解放することが出来なかった」 「まともに褒めてもらうのは、初めてですが……こんなときに言われても、嬉しくないです。少佐は本当に、厳しい人。 だけど……いいえ、だからこそ!」  震える声に力がこもる。消え行く身体が今再び、回光返照を発揮する。 「私は、このまま終わりません! まだ剣は折れていない!」  まだ魂は朽ちていない。  たとえ一瞬、一秒でも、立てる限りは勝負を投げない。  それこそが―― 「それこそが、あなたに教わったことだから」 「たとえあなたを救えなくても」  この身は力及ばずとも。 「それさえ投げてしまったら、ねえ少佐……私は何を誇りにすればいいんですか」 「家族も、仲間も、友達も、好きな人も救えなかった私には、昔のあなたに殉ずることしか残ってない。 残ってないんですよ、ヴィッテンブルグ少佐。 だから……!」 「好きにしろ」  言ってエレオノーレは、何もせずにこの哀れな部下を看取ることを選択していた。  もはや彼女が消えるのは秒読みであり、今さら何をするまでもない。  火勢を増して瞬時に焼き尽くすことは容易だし、それをもって介錯とする決着を選んでもよかった。  しかし。 「まったく、この馬鹿娘。貴様は愚かで青臭く、だが気高い騎士だキルヒアイゼン。礼をもって送るしかあるまい。 そしてエインフェリアになったなら、再び私の下に来るがいい。不満があるなら、何度でも相手をしてやろう」  先ほど、いきなり生じた魔城の解れが、何だったのかは分からない。だが、今は何事もない平常に立ち戻っているのだから、結局大事ではないということだ。  どだいハイドリヒ卿を害せる者など、天地に存在するはずがない。  そう思い、つい柄にもなく、消え行く部下の頭に手を置こうとした瞬間だった。 「――――」  ギシリ、ギシリと少しずつ、戦姫の剣が埋まっていく。今の今まで棒切れ程度のものにしか思えなかった刃の圧が、冷え冷えと冴えた鋼の硬度と切れ味と、そして凶気を帯びていく。 「な―――」  それは当事者である彼女ら二人、実際に剣を突き立てているベアトリスにとっても予想外の現象だった。魔城にあって〈数万〉《ぐんだん》を超える兵を賜り、それに相応する密度と強度を有するエレオノーレ。その首を薄紙のように切り裂いていくなどと――  〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈力〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈し〉《 、》、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈剣〉《 、》〈は〉《 、》〈空〉《 、》〈っ〉《 、》〈ぽ〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》。 「うッ、おぉ、おおおおおおおォ――」  止まっていた出血が、再び首から迸る。火炎の熱による蒸発すら追いつかぬほど急激かつ大量に、〈赤騎士〉《ルベド》を真紅に染めていく。  思わず刃を押し返そうと、白刃を掴んだその両手からも血が噴いた。 「なんだ、これは……?」  何が起きた? なぜ私が膝をつく? エレオノーレは驚愕した。  なぜなら握り締めた刀身から伝わってくる圧力は、ラインハルトの総軍にすら匹敵する。 「どうやら、若い子達に助けられたようですね」  噴き出る上官の鮮血に濡れたまま、ベアトリスは苦笑した。 「やはりあなたは、尋常じゃない強さを持っていました。……ええ、実際私一人では、どう足掻いても勝てなかったでしょう」  だから、これを己の勝利とは思わない。 「あなたの自負心、あなたの名誉、そしてあなたの〈忠誠〉《あいじょう》は、一片たりとも崩せなかったし落ちてもいない」 「だけど、私はこの結果を誇ります。 戒がいて、螢がいて、そしてあの子がいてくれて……彼の友達までもがこんな私を助けてくれた。 それだけで、私は間違ってなかったんだと思えるから」 「少佐、あなたは幸せですか? あなたに、危機を救ってくれる同胞はいるのですか?」 「わた、しは……」  すでに気管は断ち切られ、血が逆流し言葉も継げない。しかしエレオノーレはなお吠えた。たとえ何者であろうとも、己が歩んだ道を否定などさせないと。 「私は――! そんなものなど求めん! 私が望むのは、ただ一つのみ!」  獣の爪牙として、〈赤騎士〉《ルベド》として、あの方に仕え、あの方が懐く大望に欠かせぬ〈英雄〉《エインフェリア》の一角であることこそが―― 「ハイドリヒ卿の〈駒〉《モノ》であること――それのみが私の総てだ! 救いなど請わん! 助けなど求めん! 彼の傍に侍る以上、脆弱さなど許されん!」 「なぜなら私は、彼と永劫、共に行きたい。彼と一つになる〈怒りの日〉《ディエス・イレ》こそ、私のヴァルハラ……!」 「やっと、本音が出ましたね……」  もっと早く、別の形で、あなたがそれに気付けていれば……あるいはお互い、別の出会いや終わりがあったかもしれないのに。 「なんだかんだで、少佐も立派な女だったんじゃないですか。それを認めたくないものだから、いつも馬鹿にしていたんでしょう。 ねえ、自分が女だと自覚するのも、なかなか素敵なものじゃないですか?」  微笑み、そして最後の力で、剣を横に薙ぎ払う。首を断つことにおいて他の追随を許さぬ魂が、今はこの剣に宿っているから。  抵抗など無意味。 「――キルヒアイゼン、私は」  ムスペルヘイムが歪んでいく。砲身そのものを創造することによって飛び火を防いでいた獄炎が、城の中へと弾けだす。 「私は、何度でも蘇るぞ。続きは次に会ったときだ。 貴様は逃がさん、共に来い!」 「ええ、お付き合いいたしますから」  同時に剣が払われて、エレオノーレの首が飛んだ。 「〈勝利万歳〉《ジークハイル》。御身に勝利を、ハイドリヒ卿」  そして爆発するムスペルヘイム。魔城の一角を消し飛ばすほどの断末魔は、何処までも苛烈に愚直に不器用に、しかし誰よりも純粋だった彼女の最期に相応しい。  たとえ無限に復活するエインフェリアであろうとも、これがひとつの死であることには変わりないから。 「Auf Wiederseh'n Obersturmführer」  今はもうここにいない“中尉”に向けて、ベアトリスは敬礼していた。  そして…… 「さあ、行きなさい」  自分に助力してくれた剣に、いいや正確にはその“中のもの”に彼女は甘く微笑みかけた。 「私よりも、彼のところに行きたいのでしょう? 早く、ここはもういいから……」  あくまで優しく労わるように、剣を宙に投げ上げる。するとそのまま薄れていき、数秒後には目の前から消えていた。 「可愛い子……」  そして、なんて悲しい子。出来ればあなたも、幸せになって欲しかったけれど。 「ごめんなさい……私は昔から、無力だから。 でも、頑張ったよ。許してくれるかな、戒」  まるで粉雪が落ちるような静けさで、ベアトリスは両膝をついた。  崩れ砕けていくように、事実その軽さもまた、粉雪のそれと大差ない。  彼女の魂はすでに限界を超えて消耗しており、ムスペルヘイムの炎によって致命傷を受けている。  もはや数分も保たずに消え去る定めだ。 「少佐はあんな人だから、私やっぱりついていくよ。……大丈夫。どんなになっても私は私でいてみせるから。 だからごめんね、許してね。あなた達は大好きだけど、もっと一緒にいたいけど、私はもともと、この時代の人間じゃない。 還るところは、やっぱりあの日の祖国なの」  すでに顔をあげる力さえない。膝から下は消え失せて、今や腰まで消えかかっている。 「悔いがないと言えば、嘘になるけど…… なんだか、少佐にあんなことを言ったせいで、私もちょっとね、年甲斐もない…… ほんとはもう、お婆ちゃんなのに。恥ずかしいな、馬鹿みたい」  そのとき、だった。 「君はキレイだよ」  気のせいなのか、幻聴なのか、そんな声がなぜか聞こえたものだから。 「昔から、変わらないと言ったろう。 ああ、やっぱり僕を生意気だと思うかい?」  抑えていたものが溢れてしまい、耐えていたものが崩れてしまい、そんなのみっともないから嫌だったのに…… 「そうね、十年……早いけど」  言葉が詰まる。視界が揺らぐ。涙が止め処なく流れ出る。  ずっとずっと、今までずっと、古風なところを見せたくて。  秘めていたのに、黙っていたのに、こんな不意打ち…… 「台無しじゃない。どうしてくれるのよ……」 「馬鹿……」  もう駄目だった。これがたとえ、幻だろうと何だろうと。 「ずっと……言いたかったの。愛してる」  そのまま倒れ込むように、ベアトリス・キルヒアイゼンは目を閉じた。  彼女の自慢であったプラチナブロンドを数本残してその身は消え去り、灼熱の戦場であったこの地も、今はただ寂とした静けさのみが支配していた。 「―――ぬッ」 「これは……!」 粉砕されたギロチンに次ぎ、俺の身体までもが砕け散ろうとしていた寸前に、それは起こった。 「ヴァルキュリアか?」 ベアトリス・キルヒアイゼン――彼女の聖遺物である騎士剣が、鉛色の曇天からこの闘技場に落ちてきた。 続く俺の行動は、完全な反射だったと言っていい。 「――――」 消え去る身体の悲鳴を無視して、後方に飛び退る。落下した剣が突き立った場所には、俺の方が僅かに近い。 剣を執り、引き抜いて、何がどうなるかなど考えてもいなかった。ただ終わるのは許されないと、このまま死んでいく結末だけは許容できないと思ったから。 武器を――目の前の〈敵〉《マキナ》を斃すために剣を執れ。俺とこいつの戦いは、まだ終わってなんかいないんだ。 「おのれ――」 一拍遅れて、地を蹴る黒騎士。こいつも直感したのだろう。 あれを俺に執らせてはいけないと。すなわち逆に、俺はあれを執らなければならないと。 単純な距離ならこちらが有利。しかし後退と前進では速度が違う。 今や時間の停滞を行使できない俺にとって、どちらが早いかは完全な五分であり、運任せ。 結果―― 「―――――」 本当に一瞬、刹那と言うのも語弊があるほどの僅差をもって、俺の方が早かった。 そして柄を握り締めた瞬間に、稲妻が全身を駆け巡る。 「―――――」 ああ、そうか。ベアトリスからのメッセージとも言うべき稲妻が、どんな言葉よりも雄弁に総てを悟らせてくれた。 司狼と、香純と、それからマリィ……おまえら皆が、俺を助けてくれたのか。 そして櫻井……全部おまえのお陰らしい。 だから待ってろ。死ぬんじゃない。俺も今すぐ、そこに行くから―― 「おおおおおおぉぉぉォォッ―――!」 吠える。魂から絶叫する。掴んだ剣を引き抜いて、迫る鋼鉄の〈黒騎士〉《ニグレド》へ――全身全霊の刺突を放つ。 ここに新たな聖遺物を手にしたことで、俺の魂は崩壊を免れた。 後は―― 「……おまえが斃れる番だ、ミハエル」 左の拳を掻い潜り様、分厚い胸に剣を突き立て、知らず俺はそう言っていた。 右腕を切り落とされたことにより、必然として生じたバランスの狂い。無双の域にあるその体術が、僅かだけ〈翳〉《かげ》りを見せたという、髪の毛一本にも満たない誤差。 それが、この場での明暗を分けていた。 「ぉ……」 「……納得できないか? ああ、俺も正直、情けねえよ」 強かったのはこいつ。勝利したのもこいつ。あれだけ覚悟を決めて見栄を切って、自力じゃ斃せず敗北したのは揺るがしようがない事実。 だけど…… 「生き残るのは、俺だ」 先に進むのは、俺だ。 「幕引きに囚われてちゃ明日が見えない。どう死ぬかより、どう生きるかを考えられなかったおまえが……」 おまえが自ら、自分自身を否定していたからこの結末がある。 負けて、惨めで、汚かろうと、俺は折れない。立って歩く。 生き残るってのは、そういうことだろ。 「その、名は……」 胸板を貫いた剣などもはやどうでもいいかのように、マキナは俺の目を凝視していた。 戸惑いと、逡巡と、そして隠しようがない懐かしさ……まるで遥か昔に無くしたものを、取り戻した子供のように。 「そうか……そういえば、そうだったな」 「おまえは、誰だ? 俺を斃した男の名……聞かせてくれ、戦友よ」 「…………」 俺の魂、俺の意識、それを決定付けた存在は何者なのか。 死人嫌いも、戦い嫌いも、平穏の繰り返しを望む日和見主義も……総てはそいつの願いであり、渇望だったのかもしれない。 だが、そんなことはどうでもいい。 「俺は俺だ」 言っただろう。信じてなんかいないんだと。 「藤井蓮だ。他の名前なんか知らない」 「くく、くくく……」 マキナが笑う。それは苦笑で、望んだ答えではなかったようだが、ある種の清々しい諦観の念がこもっていた。 「どこまでも、頑固な男だ。……ああ、なるほど、だからこそ、生き続けるか」 「その意地、貫いてみるがいい。ハイドリヒは誰にも斃せず、クラフトは出し抜けん。奴ら二人が、同じ方向を向いている限りは……」 「どうなるか、どうするか、見せてもらうぞ、〈戦友〉《カメラード》。俺の望みは砕かれたが、この結末とて悪くない。おまえと永劫戦うのも、また一つの救いだろう」 「俺はここで待っている。毒壷ではなく、漢の名誉をかけた戦場で」 「何度でも何度でも、おまえは俺と戦い続けろ」 「生憎……」 掴んだ剣に力を込める。貫いた機械仕掛けの心臓の奥……こいつの“核”を破壊する。 「次はない。俺は勝って還るから」 ラインハルトにもメルクリウスにも、殺されるつもりなんか毛頭ないから。 「俺は〈戦奴〉《エインフェリア》になんか絶対ならない」 「では、一度くらい俺の言うことを信じるんだな」 それは何かのヒントだったか……しかし俺は何も訊かず、こいつも同じく何も言わず、そのまま像が解けていく。 「また会おう。俺との再戦、忘れるな」 それだけ言って皮肉に微笑み、鋼鉄の〈黒騎士〉《ニグレド》は姿を消した。 鉛色の空の下、残された俺は……ただ独り。 「マリィ……」 分かってる。分かってるんだ。彼女とはもう、二度と会えないということが。 今このときにも、剣からその存在が消えていく。本来マリィが宿っていたのはあのギロチン。それがない今、彼女はここに留まれない。 ベアトリスの剣には、マリィの魂を許容するキャパがない。 ご都合主義は一度だけ。無茶が通っても道理が引っ込むことはない。 「くそ……何が救ってやるだ」 何がもう二度と、納得できない結末は認めないだ。 香純を救い、櫻井を救い、氷室先輩を守りきれと……それを強く願いながらも、俺は君を失った。君に助けられただけだった。 「ふざけるな……ふざけるな、ふざけるな――ふざけるんじゃねえ!」 君の犠牲によって得られた生存。俺が心底望んでいたのは、こんなものなんかじゃない。 君はまた、あの浜辺で、たった一人永遠に居続けるのか? 笑うことも泣くことも、何もないまま歌っているのか? 「俺は……」 急がなきゃいけないのは分かっている。事態は一刻を争うことも分かっている。 だけど今は、もう少しだけ……二度と会えない彼女のことを偲びたかった。剣を抱くように握り締め、俺が零したものの重さを噛み締めていたかった。 たとえ甘い感傷と言われても、それまで無くしてしまったら、俺もまた戦争に生み出された殺人機械に成り下がる。 本当に本当に短い付き合い、心を通わせたとも言えない関係だったけど…… これが俺だ。君が助けてくれた藤井蓮はこんな男だ。 ありのままの無様な自分を晒し続けることだけが、彼女に対する礼と侘びになるだろうと、今は思う。 「だから、何処かで見ててくれ」 これから始まる最後の戦い。黒円卓の大隊長は、皆の力で全破した。残っているのは、黄金と水銀の二人のみ。 「俺は奴らを」 奴らをこれ以上、のさばらせない。何処までも何処までも追いかけて、必ず絶対斃してみせる。 「……待ってろ、櫻井」 呟いて、身を翻し、乾いた風が舞う闘技場を後にした。 先ほどまでそこに居た鋼鉄の騎士。 「Auf Wiederseh'n Kamerad」 奴に対して漏らした言葉は、いったい誰が口にしたのか……それは〈藤井蓮〉《おれ》じゃないということだけ、俺が分かっていればそれでいい。 「……あれ?」  黄昏の浜辺でただ独り、茫と立ち尽くすマリィは自らの顔に手をやって、呟いていた。 「涙……?」  初めて見た。初めて流した。これが何かというのは知っていたが、自分が流すとは思わなかった。 「へんなの……」  よく分からない感覚が胸にある。むしゃくしゃして、もやもやして、だけど決して不快ではない。  いや、心地が良いとは言えないけれど。 「ああ、そうか。レンが泣くから」  以前に一度、これと似たような状況を見たことがある。  確か男女で、振ったほうが泣くと振られたほうは立場が無いとか、そんなことを。  あなたが泣いたりするものだから、わたしはどうしていいか分からなくなり…… 「馬鹿、頭にくる人。 でも、許してあげる。また逢えるよね?」  なぜか、そんな確信がある。ギロチンは砕かれ、彼との繋がりは失せてしまい、まともに考えれば二度と逢えない相手のはずだが。  マリィはもとより、そんな理屈を分かっていない。しかしこれは、ただの希望的妄想なんかではないだろう。  なぜなら―― 「カリオストロ、あなた嘘ばっかり」  あの彼が、何も考えていないなど有り得ない。他の何も分からなくても、彼のことなら少しは分かる。  そしてその少しとは、誰よりも対象の本質に迫るものだった。 「人の情が見えないとか、嘘ばっかり。あなたは、誰よりも人なのに」  望外という単語は、あの男に存在しない。それが彼を蝕む呪いなら、目的を果たすときまでそんな事態には成り得ない。  つまり、この状況すら彼の掌。  アレッサンドロ・カリオストロがマルグリット・ブルイユを見限ることなど絶対ありえず、ゆえに彼女を歌姫にしたこの物語は終わらない。  まだ続く。ずっと続く。ならばいつか、またきっと―― 「逢えるよ、レン。だからそんなに泣かないで」  微笑み、黄昏に溶けるマリィ。今はひとまず、小休止の幕が降りる。  ただそれだけ。これはただ、それだけのこと。 「ああ、心配は要らぬよマルグリット。そう待たせはせん」  呟く彼の精神は、再びこの魔城に戻ってきていた。  ゆらりと振り向き、目の前の少年少女に微笑みかける。 「やられたな。見事なりと言っておこうか、二人とも」 「…………」 「…………」  蓮とベアトリスを勝利させ、マキナとエレオノーレを打倒せしめた立役者はこの二人だ。彼らがここにいなかったら、どちらも敗北していたのは間違いない。 「ヴァルキュリアに約束をさせられた手前、反故にするわけにもいくまい。少なくとも事の決着がつくまでは、あれらを蘇らせることは控えよう。 まあ、放っておいても獣殿がやるだろうがな。しかし彼がやる場合は時間がかかる。この城の〈髑髏〉《レギオン》、一つ一つを再生させることほど簡単にはいかん。 何にせよ、現状戦力は減退したというわけだ」  ゆえに喜べと、何をそんなに懐疑的な顔をしていると首を傾げるメルクリウス。これは君らが願い、望み、見事に達成した戦果の一つではないのかと。  言いながら笑う黒衣の影に、相変わらず二人は口を開かない。  だが、ややあって。 「おまえ、寝てろ」  唐突に、司狼が握った銃杷で香純の後頭部を一打ちした。 「―――え?」  いきなりの不意打ちに、成す術もなく彼女はそのまま崩れ落ちる。それを抱き止めるでもなく倒れるに任せると、司狼は深く溜息をついた。 「なあ、こいつだけでも外に出すことは出来ねえか?」  香純は気丈で、向こう見ずで、しかしそれだけに性質が悪い。これ以上関わらすのは得策じゃない。 「こいつが死ねばそっちは都合いいんだろうが、今まで何もしなかったってことはどうでもいいんだろ? だったら度量のでかいとこ見せてくれよ。 追い詰められた馬鹿が何するか、正直想像したくもないんでな」  先ほどまで共に無言だった二人だが、その理由は異なっていた。  香純は自軍が減耗したのに薄ら笑っているメルクリウスが理解出来なかったから口を噤み。  司狼は別の…… 「おまえ、狙ってやらせたろう。そうするしかないと分かってたろう」  踊らされているのを理解しながら、他に選択の余地が無かった自分に憤慨していた。そして、目の前の男に脅威を感じた。  聖槍十三騎士団副首領、カール・クラフト=メルクリウス。今まで見知った他の誰より、この男は危険すぎる。  司狼には知るよしもないことだったが、そもそも先ほど、マリィに触れたということ自体が有り得ないのだ。  蓮との繋がりを断たれた彼女の手を掴んで引っ張り上げる……などという真似をした以上、ここには今頃、生首が二つ転がってないとおかしい。 「おまえと話してると、片っ端からデジャヴりやがる。狂いそうだぜ、何だこりゃあ」  〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈死〉《 、》〈な〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈状〉《 、》〈況〉《 、》。  無理矢理生かされているような違和感。  何かが狂っている。何かがずれている。それら異常の源泉が、目の前の男にあるような気がしてならない。  ヴィルヘルムも、シュライバーも、そしておそらく他の者らも、この男と対峙するたび似たような気持ちを懐いたのではあるまいか。  不快さ、不安さ、そして焦燥……なまじ饒舌な相手だけに、接すれば接するほど苛立ちは増していき、それが殺意にまでなっていく。  だけど反面、〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》……出来る出来ないの話ではなく、こいつを否定すれば致命的な目に遭うような。  言葉に出来ず、説明も出来ないが、とにかく関わりたいとは思わない。彼は司狼が嫌悪する〈既知感〉《デジャヴ》そのもの……それが人型を取っているような存在だ。 「おまえは、何だ? いや、そもそもオレは……」  その、自分自身不徳要領な問いかけに、闇の水星は含み笑い―― 「私は――――だよ」  求めていた答え。探していた理由。知りたかった真実は余りにも舐めきっていて。  いつも飄々と笑みを絶やさず、どんな局面だろうと貫いていた彼の余裕が、このとき音を立てて崩れ去った。 「おおおおォォ―――てめえェェッ!」  それ以上は言葉にならない。生まれて初と言って構わぬ激怒に駆られた司狼は、狂ったように銃を撃つ。そしてその一瞬一瞬、爆ぜるマズルフラッシュも硝煙も、音も匂いも何もかも――  押し寄せてくるのは既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感既知感。 「合格だ、少年よ。私を知って私を殺そうと出来る者など、片手で足りるほども存在しない。 ゆえにもう少し教えてやろう。君が君である理由など、〈単〉《 、》〈に〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」 「―――――ッ」  爆発する黒外套が周囲を包み、呑み込んでいく。それはまるで、このヴァルハラに突如として別の宇宙が生じたような。  これ以上ないほどの異常なのに、その〈世界〉《ソラ》自体は凡庸だった。そう見えるしそう感じる。  司狼の目には――いいや、他の誰であろうとそう思うに違いない。  なぜなら…… 「当然だろう。これは君らの言う日常だからな」  ただの在り来たりな、皆が知っている現実風景。  その世界の名を“既知”と言う。 「何か劇的なものでも期待したかね? 私に関われば未知に触れられるとでも思ったかね? 真逆だよ。なぜなら私はこういう者だ」 「そこで、問う」  問答は、闇に包まれ消えていく。彼が何を話し、司狼が何を知ったのかは分からない。  ただその果てに、司狼の脳裏で走馬灯のごとく駆け巡ったのは七つの戦場と、敗者達。 「私を殺したいか? ならばよし。君を好んでいるのは、さしずめこれかな?」  解かれた黒外套を死鳥のようにはためかせ、伽藍の天井に溶けていくメルクリウス。いま彼の掌中には、紛れもない諏訪原市――ミニチュアのように凝縮されたシャンバラが握られていた。  そしてその一角、第六の場であった諏訪原タワーが瞬いて。 「〈第八位〉《アハト》、〈束縛〉《ナウシズ》――〈天蠍宮〉《スコーピオ》。若干星座は食い違うが、シュライバーは譲れんのでな、許されよ」 「その魂を〈達人級〉《アデプト》と認め、〈魔名〉《マナ》を贈ろう、〈狼を司る者〉《ゲオルギウス》―― 今より黒円卓は再生する。先の頼みは、君が私の役に立てば叶えると約束しよう。 ふふふふ、はははははははははははははははははははははは―――」  哄笑と共に、幾千の紙片が司狼を覆い、飲み込んでいく。それは紛れもない書の頁であり、血と叫喚に濡れた激痛の記憶。  エリザベート・バートリー――その断末魔が染み付いた呪いだった。  失われた左腕が、血肉を持って再生する。書が全身に入り込み、その魂と融合する。  時間にしてほんの数秒……“生まれ変わり”が終わった後にもはやメルクリウスは影も見えず、同時に香純も、その場から消え失せていた。  ただここに、新たな爪牙が誕生したこと……それがどう転ぶのか、今は確かめる術がない。  王手を覆された盤上に、復活した駒。  彼の陣営は白か黒か……分からないが言えることは一つだけ。  どちらであろうと、〈王〉《キング》の居場所を知らない駒など、存在しないというだけだった。  そして、その〈王〉《キング》の身に起こったこととは。 「……なるほど、甘く見すぎたか」  櫻井螢という少女をではない。どれだけ油断しようと蟻に噛まれる核兵器などないように、彼と彼女の間には超えられない壁がある。  甘く見たのは、もっと別の……唯一対等と認めた存在が遺した助言そのもの。 「〈城兵〉《ルーク》と〈女王〉《クイーン》が討ち取られ、私は〈兵士〉《ポーン》に詰まされる……確かそういう筋書きだったかな。 カールよ、その慧眼、相変わらずだ」  滴り落ちる血の雫。飛来した剣を摘み止めたことにより、彼の指先は薄く僅かに、しかし間違いなく負傷していた。  無論、緋々色金では有り得ない。メッサーシュミットの銃撃に弾かれた剣が床の〈銃剣〉《バヨネット》を跳ね上げて、それが“偶然”彼に向かったという奇跡の結果だ。  不滅の聖餐杯を破る第四の方法。  マキナの一撃。総軍規模の魂と鎧の隙間。そして加えることもう一つ。 「自傷か……確かにその手もあったな」  彼自身が彼を害する。してみれば先のチェスも、敗因はそんなものだと言われたばかりだったろう。 「ふふ、はははははは」  込み上げてくる笑いを禁じえない。これが本当に偶然なのか狙ったのか、そんなことはどうでもよかった。  血が流れる。痛みが走る。甘く熱く脈打ちながら、六十年ぶりに心臓の鼓動を実感できる。  ああ、私はいま生きている。 「はははは、はははははははははははは――」  ならば礼をせねばならない。  この脈動。この痛み。再び思い出した戦場の悦びを。  ぶつけさせてくれるのだろう? いと小さき獅子の乙女よ。 「それまでだ」  すでに武器を手放し無手のまま、中隊に飲み込まれた螢は髑髏に群がられて顔も見えない。  だが生きている。死んではおらぬ。それさえ分かれば問題などない。  彼女を引き裂こうと群れ集っていたレギオンが、主の命を受けて離散した。  そこから現れた少女は満身創痍。瀕死の様相を呈しているが、無論終わりではないのだろう? 「立てい」  まだその心臓は動いている。 「立って戦え」  その剣を執り、心を燃やし、我は不屈なりと吠えてくれ。 「魅せろレオンハルト、か弱く強き英雄よ」  我が〈怒りの日〉《ディエス・イレ》に相応しき尖兵たるを、ここに証明するがいい。  そして、そんな命令など関係なく。 「あ――、くッ―――」  立つ。彼女は何度でも立ち上がる。  その心臓が動く限り、その手に剣がある限り。  たとえ敵が地獄の戦争、それそのものであろうとも。 「私は、英雄なんかじゃない!」  ただの女で、ただの子供で、だけど――いいやだからこそ! 「あなたは、無敵なんかじゃない。ただの女子供一人すら、屈服させられない弱い人…… 私は絶対、あなたなんかに負けたりしない!」  再び緋々色金を握り締め、不退転の意を吠える。たとえそれが目の前の男を喜ばすだけにすぎないと分かっていても、己の心は偽れなかった。  いやそもそも最初から、賢しい言い合いなどを出来る性分でもなかったら。 「降りてきなさい、ハイドリヒ卿。失望はさせません」 「ふふ、くくくく……」  黄金の眼が細まる。魔城の玉座が揺れ始める。まるでこの城そのものが、歓喜に打ち震えているように。 「ヴァルキュリアは死んだぞ」  だがすぐに逢わせてやると。 「共に我がエインフェリアとなるがいい。これ以上、卿に離別の悲しみなど与えはせん。 では、さて――」  立ち上がる。破壊の君が、黄金が、傍らの聖槍を手に玉座から降りてくる。  形を持った絶望とは、なるほどこういうものなのだろう。何処か他人事のようにそんなことを思いながら、しかし螢の心はかつてない闘志で満ちていた。  ベアトリスが死んだ。もう彼女とは二度と逢えない。それは悲しいし、悔しいけれど。 「再会は、出来たから」  ろくに言葉を交わすことも、触れることも出来なかったけど。 「同じとき、同じ場所で、同じ敵を前に剣を並べた。それだけで、もう充分」  ねえきっと、あなたのお陰なんでしょう藤井君。どうせ何も言わないだろうし、私もだから訊かないけど……今は言わせて、ありがとう。  兄さんも、きっと許してくれるよね。  彼のお陰で、私はようやく人並みになれたかもしれないから。 「離別を胸に、忘れずに、誇りとして私は生きます。誰もがそうしているように。あなたの戦奴としての再会なんて、冗談。御免被ります」 「違うな。それが救いだ、レオンハルト。 だがそうやって否定を続けろ。未来永劫、永遠に、私の総軍でただ一人、私に屈さぬ女がいるのも一興だ。 カールの代替には些か惜しいよ」  旋回する運命の槍。百万の地獄を引き連れる彼本人の実力とは、いったい如何なるものなのか。  それは分からないし、おそらく桁外れであることだけは間違いないけど。 「私、浮気はしませんよ。好きな男は、一人だけです」  ああ、だからまだ来ないで藤井君。  せめて一太刀、もう一太刀だけ……私がこの男を消耗させてみせるから。  絶対勝ってね、負けないで。でないと私、祟っちゃうから。 「では終局といこう。盤ごと覆す様を見せてやる」  迫る破壊の黄金聖槍。シュライバーのように速く、エレオノーレのように的を逃さず、マキナのように一撃必殺。  その穂先を前にして、しかし螢は恐れ気もなく、勇猛果敢に飛び込んでいった。 ――しかし、そんな無謀をみすみす許すほど俺は役立たずの男じゃない。 走る黄金の閃光に、萎縮する気持ちなどもはやなく―― 間一髪、二人の間に割って入った俺は、そのまま櫻井を抱きかかえて槍の間合いから離脱することに成功していた。 「ほぅ……」 それは本来、何者よりも速く何者であれ絶対逃さず、当たれば一撃のもとに致命というデタラメの三乗を躱せたという事実。その意味するところは一つしかない。 「……やっぱり、まだ本調子じゃないようだな」 第八のスワスチカが開いていれば、今の一撃はまさしく神でも躱せなかったに違いない。〈聖槍〉《あれ》はもともと、そういうものだ。 それをこうして凌ぎきれたという以上、すなわちラインハルトは完全じゃなく、斃せる望みがあるということ。 そして何より―― 「無事か、櫻井?」 こいつを死なせずにすんだのが、一番の収穫だった。いかに不完全とはいえラインハルトとのタイマンなんて、笑い話にもなりやしない。 「人が、せっかく……かっこいいこと思ってたのに」 「はあ?」 「もういい。藤井君はいっつも私の邪魔ばっかりする」 「諦めるわよ。ええ、どうせ私なんて、馬鹿みたいに空回ってるだけなんだし」 「……ああ、えっと、その」 どうでもいいが、ちっとは状況考えてくれ。それにおまえが馬鹿みたいなのは、今更感漂うことだし。 とにかく、ぶつぶつ言いながらもしがみついて離れない櫻井は無視する。 今は目の前のこの男を―― 「マキナを斃したか」 ラインハルト・ハイドリヒを、最後にして最大の山を越えなければならない。 「……ああ。けど、俺一人の力でここまで来られたわけじゃない」 「らしいな。その剣、如何にした?」 黄金の眼が注がれるのは、俺の手にあるベアトリスの剣。 あの起死回生を実現出来たそもそもの発端は、櫻井の奮闘による魔城の解れだ。ならばその瞬間に起こったことを、こいつは正確に把握してない。 「まさかな、カールの女を棄てたのか」 「卿、あれなくして私の前に立ってどうする?」 「…………」 「興醒めだ。白けさせる男よ」 「――があァッ」 無造作に払われた槍の柄に殴られて、櫻井もろとも吹き飛ばされた。寸でで防御が間に合ったが、まるで意味などありはしない。 「根本的な霊格の劣化。加えて内包する魂の枯渇。今の卿など半人前にも劣る。そんな様で何を成すと?」 「聖遺物を行使するための聖遺物。筆を選ばぬのは大したものだが、そんな代物では意味がない。針で山は崩せん」 「犬死にが望みか? 愚かな真似をしたものだ」 「……ッ」 嘆きも露な侮蔑を前に、俺より早く櫻井が反駁していた。 「犬死に、ですって?」 俺の手の上から重ねるようにベアトリスの剣を握り締めて、言い返す。 「それ以上、彼女の遺志と彼の選択を侮辱することは許さない」 「たとえ針でも、今のあなたなら突き崩せる」 そうだ。俺はまだ諦めてない。死ぬためにここまでやって来たわけじゃない。 こちらが不完全なのは百も承知。瀕死に近い消耗を負った櫻井と、マリィを失った状態の俺。 二人で一人以下の戦力でも、おまえとてそれは同じだ。 俺達二人がここに立つまでの過程として、大隊長三人を失った。他の奴らも死んでいった。 獣の爪牙は、もはやない。 目の前には、〈王〉《キング》が一人――〈兵士〉《ポーン》も、〈騎士〉《ナイト》も、〈僧正〉《ビショップ》も、〈城兵〉《ルーク》も〈女王〉《クイーン》も何もない。 「詰んでいるのは、おまえだ」 〈王手〉《チェックメイト》に落ちろ、ラインハルト。 「では、とってみるかね?」 「言われなくても……」 「そんな愚問、当たり前のことです」 同時に、俺と櫻井は地を蹴っていた。 「胸よ、藤井君――!」 狙いはその一点だと。 「彼の亀裂はそこにある!」 緋々色金が燃焼し、戦姫の剣が帯電する。内包する魂がないのなら、俺のを削れ――ベアトリスがそうしたように。 玉座に走る火炎と稲妻の二重奏。だがそれを前にして、ラインハルトは―― 「万軍を凌駕する単騎」 「そうした王がいる時点で、兵法など意味はない」 「――――ッ」 指一本――槍も使わず一歩も動かず、俺と櫻井の剣をただそれだけで止めていた。 「聖餐杯に亀裂があると、しかしそれがどうした小さき者ども。第八は未だ開かず、〈大隊長〉《エインフェリア》も傍に居らず、ゆえに私を斃せると?」 「笑止。言ったはずだ、盤ごと覆す様を見せてやると」 瞬間、指の関節を僅かに曲げたというだけで、俺の身体は暴風に巻き込まれたかのごとく回転した。 「デウス・エクス・マキナの味はどうだった?」 「――ごああァァッ」 そして鳩尾に叩き込まれる拳の一撃。まるで蟻を摘むように優しく力をセーブして、撫でるに等しい加減であったことは間違いない。しかしにも関わらず、俺の身体はバラバラに引き裂かれるような衝撃を味わった。 「ふじ――ッ」 「何処を見ている」 「――つァァッ」 続く櫻井には、そもそも触れさえしていない。至近距離で眼を合わしたというだけで、鉄槌に殴り飛ばされたかのごとく弾かれる。 玉座の壁面に叩き付けられた俺の所に、一拍遅れて櫻井もまた飛んできた。 同時に、数百の髑髏が俺達に牙を剥く。 「つ、――おおォォ」 自分自身を引き剥がすようにしてもがきながら、なんとかそこから逃れ出た。 この壁も、この床も、元は奴が貪り集めた〈地獄〉《ヴェルトール》――不用意に触れていれば喰らいつかれて取り込まれる。 爪牙がなくても、まだこの〈鬣〉《タテガミ》が存在し、そして本体である奴自身も半端ではない。 「私は昔から、加減というものが不得手でな」 「しかし悲しいかな、全力を振り絞れたことは一度もない」 自嘲と嘆きを滲ませて、俺達を見下ろすラインハルト。 自分は全力を出せないのだと。 そこに至るまでの過程で、あらゆるものは破壊されると。 国も、仲間も、部下も、家族も、誰もこの男についてこれない。 たった一人の〈軍勢〉《レギオン》。無限に死者を呑み込み続ける墓の王。 「ゆえ、その瞬間こそを渇望した。分かるか、卿らは我が大望を成就するための先駆けだ。ここまで残った決意と覚悟、鮮烈かつ壮烈に、己が魂の美しきを謳うがいい」 「足掻け、私の愛しい贄よ。歌劇はまだ始まってもいない」 輝く黄金の槍がこちらに擬される。あれを受けるわけにはいかない。 爆発する大音響の炸裂と共に、左右に散った俺と櫻井は破壊の一撃から逃れ出た。そのまま壁と天井を蹴り上げて、再び奴へと肉迫する。 今度の連携は同時じゃない。俺のほうが一瞬速く、槍の穂先が存在する右手側からまず先行して―― 躱すにしろ防ぐにしろ、俺が初撃を引き受ける。だからその隙に櫻井――おまえが奴に一撃を食らわせろ。 旋回する聖槍が唸りをあげて俺に迫る。無論、何の策も無しに、こんな代物の矢面に立つわけがない。 床に突き立てた戦姫の剣を、地擦りの要領で跳ね上げる。それに伴い城のレギオン――髑髏が数十まとめて引き剥がされる。 獣の〈鬣〉《タテガミ》、確かに脅威の存在だが、こっちが利用しない手はないだろう。 たとえ剣が届かなくても、自傷を誘発させれば効果はある。 「無駄だ」 しかし、再度魔眼が輝くと、まるで十戒の情景でもあるかのように髑髏の海が道を開けた。その合間を縫うようにして走る聖槍―― 「――――ッ」 間一髪――まさしく紙一重としか言いようがない際どさで、俺はその一撃を回避した。壁を離散させる刹那のタイムラグがなかったら、串刺しとなっていたに違いない。 脇の下に通した柄を押さえ込んで、俺は叫ぶ。 「殺れ、櫻井――!」 その、瞬間だった。 「がァッ―――」 肉が、骨が、魂が、瞬時に気化して蒸発したかと疑う衝撃。目の前に火花が散り、全身から血が迸る。 「私以外の者に、この槍は触れん」 “持ち主”以外、これは誰にも侵されないと。 「それは天罰というやつだ。名誉だろう。聖書に造詣は深いかね?」 「太古、ノドの地に落ちたとされる星の鉄。誰も触れ得ず近寄れず、決して消えずに燃え続けたというそれは、資格なき者達を容赦なく焼き尽くした」 「〈鍛冶の始祖〉《トバルカイン》がこれを鍛え上げてからも、その特性は変わっておらん。筆を選ばぬ卿でも無理だ」 「そして――」 俺を纏いつかせたまま片手で槍を振り回し、石突きが櫻井の脾腹に叩き込まれる。 「ぐゥッ――」 「まだ認識が甘いようだな。言ったはずだぞ、謳えと」 下からかち上げられて宙に浮く櫻井を、ラインハルトは左手で鷲掴みにした。俺を無造作に跳ね飛ばすと、彼女の脇腹に切っ先を宛がう。 「一人、目の前で失わんと気が入らんか?」 「――――ッ」 「黒円卓の者どもは、皆この洗礼を受けたのを知っているかね? だが、言ったように槍の劫罰は持ち主以外を焼き尽くす」 「直接その身に〈聖痕〉《スティグマ》を受けた者は一人もおらん。さて、どうかなレオンハルト。卿はこれに耐えられるか、耐えたとしても、なお私に刃向かえるか」 「………ッ」 「卿の不退転、折れぬ気概は賞賛に値する。とはいえ性でな。強固なものを見ると壊したくなるのだよ」 「ああ、耐えろ。堪えろ。抗ってくれ。従順なだけの女はつまらん」 「私を失望させないでくれ」 「あッ、く――、ああああぁぁァァッ―――!!」 玉座に絶叫が響き渡る。脇腹に触れた聖槍の切っ先は、先ほど俺が味わったのと同じ天罰とやらを櫻井に与えていた。 そしてあの穂先が肉を抉り、魂にまでめり込めば―― 「てッ、めえェェッ――!」 戦奴の証である聖痕が、櫻井の身体に刻まれる。 「第八――〈SS騎兵師団〉《フロリアン・ガイアー》」 「なッ――」 だが、吶喊する俺を阻むように足元の床が爆発した。髑髏の群れが行く手を阻む。 「しばし見ていろ、血涙を流せ。女を汚される屈辱は、どうして古今に比類がない」 「正直、私は未だに解せん。カールが女を見限るなど有り得んことだ」 「卿、あの魔術師殿に秘策の一つや二つ授かったなら、早々に開陳することを勧めよう」 「でなくば――」 「うッ、が……、ぐううゥゥあああああ―――ッ」 痙攣しながら叫びあげる櫻井は、すでに意識があるかどうかも疑わしい。そんなあいつを前にして、俺は手を差し伸べることすら許されず―― 「私に全力を出させてやると、カールは約束したのだよ。〈怒りの日〉《ディエス・イレ》に先駆けて、私の飢えを満たしてやると」 「それが真、卿ならば、武威をもって証を立てろ。黒円卓の者どもは、そのためだけに存在した」 「ベイを、マレウスを、クリストフを、マキナを、ザミエルを、シュライバーを――乗り越えここに至った卿、友軍の援護など問題ではない」 「卿が卿であったればこそ、私の爪牙を折り砕けた。奇跡とはすなわち必然、起こせる者がいるからこそ起きるのだ」 「再度言う。失望をさせるな」 「おッ、おおおおおおおォォォッッ―――!」 魂から絶叫する。吠えて奴に手を伸ばす。全身に集る髑髏が撃ち込む牙も爪も、痛みも何も意中にない。 ただ、激怒。この無力さが狂気に至るほど許せない。命も魂も要らないから、俺に櫻井を助けさせろ。 もうこれ以上、目の前で、力及ばず誰かを失うなんて耐えられない。 メルクリウスが、あの男が、まだ何かを仕込んでいるなら今すぐに―― 何でもいいから、俺に力を―― 「無為か。ならば仕方あるまい」 文字通り血涙を流して吠える俺に嘆息すると、櫻井に視線を移すラインハルト。 「男を見る目がなかったな。だがよし。愛い女とはそういうものだ」 その槍が、切っ先が、脇腹を抉ろうとする瞬間に。 「私は――」 神火の劫罰に晒されながら、漏れた櫻井の声は何処までも穏やかで平静だった。 「私は、後悔などしていません。見る目には、自信があります」 盲目に、頑なに、今まで狂信と共に血塗れの道を駆けてきた身でありながら。 視野狭窄の代名詞みたいな人生を送っていながら。 「私は、生まれ変わったんです。彼のお陰で、目覚めたんです」 「ハイドリヒ卿、彼は約束してくれました。絶対にあなたを斃すと」 「知っていますか? 主人公は無敵なんだそうですよ」 「――――ッ」 あんな、俺の、馬鹿な戯言なんかをこいつは―― 「そのとき、視界が開けました。ああ、そうなのかって……」 「彼は、必ずあなたを斃す。たとえここで私が死んでも――」 自ら聖槍の柄を握り締め、業火に焼かれながらも毅然と吠える。 黄金の魔眼を真っ向から睨みすえ、天地に信じるものは一つだと。 「彼の〈人生〉《はなし》に――あなたはしょせん邪魔者だ! いつまでもジャンル違いがのさばるんじゃない!」 「たとえ何時の時代にも、あなたのような人の居場所はない!」 「うッ、おおおおおおォォォッ―――!!」 全身に髑髏を纏いつかせたまま、振り上げた剣で一刀両断。死者で構成された戦車を真っ二つに破壊する。隊列を乱された師団が再び陣形を組み直す前に、その綻びを衝いて突破した。 「馬鹿が――この馬鹿女がッ!」 絶対勝つと、負けないと、確かに俺は言ったけど。 「一番肝心なところを忘れてんじゃねえッ!」 結果を、勝利を、俺一人で迎えてどうするッ? 「おまえが――」 おまえがそれを、その目で見て―― 「俺に惚れなきゃ、意味がねえだろッ!」 時間がない。距離が遠い。全速で駆けてもあの場所には届かない。 だったら一つ――理屈も確率も度外視して、再び創造を発動させろ。 いいや、さらにその上へ―― 今、俺の胸を焦がす渇望は―― 「―――ぬ?」 これ以上、誰も死なせないというだけだったから。  再度、激震するヴェヴェルスブルグ。先ほどのそれとは何かが違う。  一瞬の解れでも、刹那の揺れでも、虚の空隙でも有り得ない。  これは“崩壊”――  百万の死者で固めた〈地獄〉《ヴェルトール》が、音を立てて瓦解していく。 「まさかな、いや――なるほど、そうか」  魔城の大部分を占める三人の大隊長を失って、なおかつ第八は未だ開かぬ。  結束は緩み、統率は不完全。本来何者にも崩せぬラインハルト・ハイドリヒの創造が、今は脆弱に堕している。  無論、だからといって匹夫が数億集まろうと、この世界は揺るがぬが。 「卿ならあるいは――カールの血を受けし者の証、ついに証明したな、御敵よ」  掴んだ少女を無造作に放り投げ、両手で槍を構え直す。  ついに、ついにここにきて、怒りの日の第一楽章が謳われる。  〈死〉《 、》〈者〉《 、》〈を〉《 、》〈赦〉《 、》〈さ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈渇〉《 、》〈望〉《 、》――なるほど、この〈地獄〉《ヴェルトール》にはまさしく覿面と言っていい。  新たな聖遺物に換えたことで“生まれ変わり”――以前と別の創造を獲得するに至ったか。 「面白い」  何にせよ、笑わせる飛躍変異。資質において並ぶ者なしであるその立場は、伊達に非ずということか。  筆を選ばず、渇望さえ使い分けるとは、正に単独の〈軍勢〉《レギオン》だ。  いったい他の何者に、こんな真似が出来るという――  さしずめこれは〈荒唐無稽〉《スケルツォ》――なるほど悪魔的なほど冗談じみて、〈序曲〉《オーベルテューレ》の続きに相応しい。  〈終曲〉《フィナーレ》にはまだ遠く、終わらせるつもりも無論ない。 「〈死を想え〉《メメント・モリ》――私の〈美感〉《ありかた》を否定するか、よかろう」  ならばその愛しき渇望、私がここに破壊してやる。 「〈人は死すまで幸福になれない〉《ネモ・アンテ・モルテム・ベアトゥス》。愉快なり」  誇れ聖餐杯。卿が焦がれたものの体現者がここに在る。  愛を失い、生に迷い、死に狂ったヴァレリア・トリファ。  死は絶望なりと思いながらも、破壊に魅せられ続けた哀れな男よ。  その矛盾ゆえに卿が至れなかった一つの境地を、この男は形に変えた。  私の〈地獄〉《ヴェルトール》を破壊しようとするほどに。 「〈Oh! Welchen Wunders höchstes Glück!〉《おお 至福もたらす奇跡の御業よ》 〈Der deine Wunde durfte Schließen,〉《汝の傷を塞いだ槍から 聖なる血が流れ出す》」  輝く聖槍が真価を見せる。かつてその穂先に捧げられた総ての〈血〉《ししゃ》が流れ出す。  獣の総軍――百万を超える魔城の流出。  とはいえそれは―― 「お控えなさい、獣殿」  今の彼には成せぬこと、成しても意味の無いことの筆頭だった。 「―――――ッ」 突如出現したその異常に、俺が採った行動は間違っていたのかもしれない。 敵手であるラインハルトにこの剣が届く寸前、疾走と斬撃の軌道を変えて、投げ飛ばされた櫻井を保護することを優先していた。 「つぅゥゥッ――」 間一髪で壁の髑髏に呑み込まれる彼女を救い、護ったのは、確かに必殺の好機を逃しても惜しくはない選択だったが…… 「何の真似だ、カール」 あのとき現れたこの男を、俺は本能的に恐れて逃げたのではないのかと。 「少々、羽目を外しすぎではありませんかな。あなたらしくもない」 そう、こいつが―― こうして直に見るのは、初めてだったが―― 「カール・クラフト……」 腕の中の櫻井が、震える声で言っていた。 それは無論、あのラインハルトの横に立って、対等に話しているということもあるが、何よりも―― 「同じ声、同じ顔……」 こいつ、気が狂いそうになるほど俺と外見が相似している。 歳の離れた双子だなんて、有り得ない設定が脳裏に連想されるほど。 代替。父親。創造主。視界にさえ入れたくないし、事実輪郭が歪んで見える。 「なんだよ、こいつは……」 それは奇妙な感覚だった。こいつの姿と、その声を、次の瞬間にはもう認識できない。 俺に似ているという感想だけは残っているが、人物としての造形を記憶することが一切できない。 まるで別次元の生き物だ。挿絵が動いているような違和感だけが押し寄せてくる。 「ここで流出などして如何するのか。ゲットーは壊れず、城は消え、大戦を呑み込んでまで創ったヴァルハラが無に帰すだけ」 「人、それを徒労と言う。率直に申し上げて、愚挙ではないかな?」 「であれば卿、未だに既知を感じるか?」 俺達のことなど意にも介していないように、言葉を交わす獣と水星。 事実奴らは、こちらを一瞥すらしていない。 「告白しよう。実のところ、私は何も感じていない。城がこの様になったのと同時にな」 「答えろ、カール。何が起きた?」 「さて、御身に死相が見えるとでも言えばご満足か……などとまあ、冗談はともかく」 「単純に、今は中庸ということでしょう。既知ではなく、未知でもなく、右でも左でもない分岐路だと思えばよろしい」 「ゆえ、まずは第八までを開ききることこそ寛容かと。でなくば、左右の認識も出来ん」 「とはいえ……」 言葉を切って、こちらを見る目に怖気が走った。 こいつは今、間違いなく心の中で嘲笑っている。 「困りましたな。彼はあなたのヴァルハラを崩しかけている」 「死者を赦さぬというただそれだけ、他の誰かならば何の効果も成せぬ業だが、あなたにだけは実に効いているようだ。どうされる?」 「私としては、早々に戯れを切り上げるべきだと存ずるが」 「そしてそうしなければ、この城ごと回帰の渦に巻き込まれる徒労に終わると? 戯けが」 呆れ返ってものも言えぬと、しかし何処か楽しげにラインハルトは失笑していた。 「それをさせぬのは何処の誰だ。第八を開けと言うなら、今すぐマキナとザミエルを再生させてみるがいい。あれらを飛ばせば一瞬にして片がつく。カールよ、女に甘いのは相変わらずか」 「ヴァルキュリアとの約束を、違えるわけにもいきますまい。少なくとも事の決着がつくまではと」 「ならば――」 「そう、ならば――」 共に並んで、こちらを見下ろす悪魔が二人。その恐怖よりも、悪寒よりも、胸に去来したのはマキナの言葉。 一度くらいは、俺の言うことを信じろと。 ラインハルトは決して斃せず、メルクリウスは出し抜けない。 黒円卓の双頭は完全にして無欠であり、もしもそれを覆す手があるとすれば一つだけ―― 「ここで今、この男を――」 魔王の友情――並び立つこいつらに、それぞれ別の方向を向かせるしかないのだと。 「速やかに、殺して終わらせるしかミチはない」「速やかに、逃がしてやり直すしかミチはない」 「―――――」 それは、なまじ黒円卓の一員であった櫻井にとって、天地が逆転するほどの衝撃を与えたのだろう。俺とても同じことだ。 こいつら二人の意見が割れる。そんなことが起こりえるとは、夢にも思いはしなかった。 「ふふ、ふふふふふふふ……」 「はは、ははははははは……」 そして、瞬間―― 「乱心か、カール」 目を焼く黄金の一撃が、瞬前までメルクリウスがいた場所を薙ぎ払う。 手加減などしておらず、冗談でも無論ない。こいつは今、完全に、自分の盟友を殺す気だった。 「いいえ、至極冷静であるよ獣殿。そも私が狂っていると仰るなら、それは最初からだろう」 しかし、にも関わらず、黒外套をはためかせて笑うメルクリウスは、その身に傷一つ負っていない。 殺意を込めたラインハルト・ハイドリヒの一撃を、笑顔で受け流すカール・クラフト。それだけで、こいつの異常性は極まっている。 「私はあなたを裏切りなどしない。ああ、愛も友情もどちらも取る」 「あなたの飢えを満たすと言った。あなたの全霊を魅せると言った。誓いは今もこの胸に、棄てず忘れず在り秘めている」 「ゆえ、お止めするのだ獣殿。いいや、昔日のハイドリヒ中将閣下よ」 「ここでアレと、たとえどのような戦をしようとあなたは全力など出せますまい。このまま続けてどう転ぼうが、私の面目は立たなくなる」 「許されよ。やはり私が出てきたことで、物語は退屈な様相を帯びてしまった」 「…………」 すでに崩れ始めたヴェヴェルスブルグ。これを固め直すとなれば方法は二つしかない。 第八を開いて完全な魔城を流出させるか、ここで俺を殺してしまうか。 崩壊に先駆けて前者を行うのはもはや不可能事であり、後者はラインハルトの全力が出せない。 「あなたはまだ、〈黎明の刻〉《モルゲンデンメルング》を記憶しておられるだろうか」 「あのときと同じ日、同じ時刻、そしてゾーネンキントの誕生日をもって、あなたは生誕せねばならない。しかし、その刻限まではまだ数時間ある」 「そうした意味でも、これは保つまい。仮に私が、ヴァルキュリアとの約定を反故にしても」 「総ては――」 俺を、そして櫻井を、深海のうねりめいた暗青の瞳で見るメルクリウス。 「彼ら、実に見事なり。その一言につきましょう」 「確かにな」 そのとき、突如場の空気が一変したように感じたのは錯覚だろうか。 「だが気に入らん。卿の手が透けて見える」 事態の急激すぎる変化の連続に、理解が追いつかず即応できない。 ただ、一つだけ分かっていること。 これは妥協でも、和解でもない。 こいつら、双方共に別方向を向きながらも。 「早々に、やりたいことをやるがいい。私を詰んだのは〈兵士〉《ポーン》でなく〈道化〉《ジョーカー》であり、盤ごと覆したのもまた卿だ」 「昔から、何処までも私を嬲るのが好きな男よ。とはいえ……」 未だ、その目的は合致している。微塵のズレもなく填まっている。 「〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈私〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》、〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈ま〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈芸〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈ま〉《 、》〈い〉《 、》」 「御意に。皆まで言わずとも」 「―――――」 同時に、俺と櫻井は息を呑んだ。 「ここに、新たな黒円卓の黎明を祝おう」 「私と卿と」 「ザミエル、マレウス、シュライバー」 「ベイにバビロン、ヴァルキュリア」 「そしてクリストフ。過去は九人、今もまた――」 メルクリウスの掌中に、輝き揺れる鉤十字。八箇所ある頂点のうち、七つまでが点灯しているそれが何かは分かっていた。 「あのときと同じく、そしてならば、今これは不要なり」 一瞬、ほんの一挙動。まさしく卵を割るかのごとく簡単に、こいつはスワスチカを握り潰した。 「そんな……」 その意味するところは単純明快。ラインハルト復活の目が消えたということ。 喜ぶべきことだろう。安堵するべきことだろう。たとえ自分の功績でないとはいえ、これで奴に総てが呑み込まれるのは免れたのだから。 だけど―― 「ちょっと、待てよ……」 もしかして、今それで。 「死んだかな、ゾーネンキント」 氷室先輩、ないし香純、あるいはその両方が。 スワスチカという聖遺物を握り潰したことにより、その持ち主にまで破壊が及んだのは間違いなく。 「おおおおォォッ――てめえェッ!」 視界が真っ赤に染まりあがる。百万回殺しても許せない。 「藤井君――ッ!」 縋りついてくる櫻井の、死に瀕した負傷すら慮ってやることが出来なかった。 狂ったのだと思う。 このとき俺は、完全に殺意の虜となっていた。 だから―― 「静まれ」 もう一人の怪物を、警戒することすら出来なくて。 「じき、城は現世との繋がりを絶ち、再び元に戻される。卿の渇望による崩壊を防ぐ、これが第三の方法だ」 「スワスチカという触媒なくして、私はこの世に関われん。逆もまた真なり」 「すなわち君も同じように、こうなっては彼のヴァルハラを崩せない」 「とはいえまだ、時間はあるな」 塵でも払うかのように、行く手を阻んでいた槍を振って俺と櫻井を跳ね飛ばす。 そして…… 「来るがいい。卿も治まりがつくまい」 「保ってあと数分そこら、それまでに我ら二人を斃してみろ」 「それとも、背中を向けて逃げるかね? 追いはせんよ。また六十年なり百年なり、私達の再来を恐れながら、安穏に逃避も一興」 「黒円卓の黎明は、爪牙たる者が彼に挑むことから始まる。かつてのベイが、シュライバーがそうしたように」 「黄金の破壊を洗礼として味わいたまえ」 「違うな。此度は卿も加われ。もはや日和見など許さんぞ、カール」 「とまあ、そういう次第だ。理解したかね? 正直、怖気づかれたのではつまらんなあ」 「〈せ〉《 、》〈っ〉《 、》〈か〉《 、》〈く〉《 、》〈助〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈無〉《 、》〈為〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》」 「―――――ッ」 俺は、今まで、生きてきて、こんなに殺したいと思った奴は見たことがない。 櫻井、おまえにはすまないが。 「大丈夫。私も同じ気持ちだから」 共に満身創痍だけど、敵は魔王二人だけど。 ここで退けない。退いてたまるかッ! 「私と卿と」 「マキナ、ザミエル、シュライバー」 「俺と櫻井」 「ベアトリス」 今、立ってる者も見えない者も、この魔城に在るのはこれで八人。 そして―― 「オレで九人」 ある種、予想していた通り、こいつもそこに加わったから。 「これで、数は揃ったな」 「では、始めようか。謳うがいい」 俺はおまえ達を許さない。絶対何処にも逃がしはしない。 「ここで今すぐ――終わらせてやる!」 高らかに、断固として、胸の決意を謳いあげる。 崩れ消え行くヴァルハラで、いま最後の戦いの幕が上がった。 「――――ぁ」  突如、胸を突き抜けた感覚に、玲愛は膝を折って座り込んだ。 「ちょ――、先輩、どうしたのよ?」  横で気遣うエリーの声も聞こえない。  傍目には、心筋梗塞か何かの発作に見えただろう。事実彼女の〈“核”〉《しんぞう》は、そのとき潰されたのだから。 「わた、し……」  だが生きている。死んでいない。いいや本当にそうなのか?  何が起きて、何をされたかは至極理解に易いこと。しかしだからそれだけに、自分の生存が信じられない。  実際、このとき〈氷室玲愛〉《ゾーネンキント》は死んだのだ。そしてただの、取るに足らない一人の無害な少女として…… 「藤井君……」  キミなの? これはキミ達がやってくれたの?  分からないけど、何にしても無事でいて。  今の自分には、もう何も感じることが出来ないから。  せめてそれを祈るしか。 「先輩?」  顔をあげて、ゆっくり立ち上がる玲愛にエリーは未だ不徳要領な様子だったが。 「あ――、って、あれ……?」  街の空全域を覆っていた、表現し難い圧迫感が何時の間にか消えていた。  きっとクラブも学校も、公園も博物館も…… 「帰ろう、本城さん」  面食らった顔のエリーに目を向け、玲愛は微笑む。 「きっと皆、帰ってくるから。 パーティをしよう。日付けが変われば、誕生日だし」  ケーキとか、食べたい。皆で、食べたい。  二重の意味で、自分の生まれた日になるのだから。 「……ああ、うん。そうね。 んじゃいっちょ、ぱーっと用意して待ってようか」 「うん」  待っているから、プレゼントを忘れないで。  ちゃんと生きて帰ってくるって、最高のプレゼントを。 「ねえ、藤井君……」  私、生まれて初めて自分の誕生日に希望を持ったよ。 「おら、行くぜぇェッ―――」 まず火蓋を切ったのは、予想通りこいつだった。 司狼の銃から弾き出されたのは、今や単なる弾丸じゃない。猛り狂う魔性がそこに宿っている。 なぜこいつが、どういう経緯でそれを持つに至ったのかはどうでもいい。ただこの状況で、体力が全開に近い仲間を得たことが何よりも頼もしく。 いま再び、限界まで消耗していた俺の心身に活が入る。 「おまえら、へばってんなら寝てていいぞ」 「……ったく」 「本当に、口の減らない人」 そして、それは櫻井にとってもどうやら同じだったらしい。 「誰が、へばってるなんて言ったのよ!」 詠唱を謳いあげ、自らの切り札を発現させた。手も足も小刻みに震えており、猛る火炎は自分自身すら焼き尽くそうとしているが不敵に笑う。 「武者震い……なんだから!」 「ああ、分かってるよ」 どうせ止めろと言っても聞かないだろうし、言うつもりもない。 敵は黒円卓の双首領。魂くらい懸けなくて、勝負になるはずがないのだから。 玉座に轟く大音響と共に、司狼が放った弾雨の嵐が標的目掛けて降り注いだ。しかし当然、俺達には分かっている。こんなもので終わるはずがないのだと。 「少々、外道が過ぎるぞカール」 「私はマレウスを哀れに思う。あれは幸薄い女だった」 晴れた粉塵の中、惜しいことだと嘆息するラインハルトと。 「そうしたものに追いつけず、置き去られるのが彼女の宿命。仕方ありますまい、格というものはどうしようもなく存在する」 慇懃無礼に、肩をすくめるメルクリウス。 無傷、一歩も動かずに、塵一つすら被っていない。その身に向かった銃弾は、総て触れる前から消えていた。 「こりゃ、冗談じゃねえな」 こうして三人共闘は二回目だったが、シュライバーのときよりなお性質が悪い。狙い目があるとすれば一つだけだ。 「カール・クラフトを……」 そうだ、何よりもまず奴を。 「あいつ生かしといて、いいことなんか何もねえ」 紛れもない事態の元凶。かつ武の匂いがしない相手。 楽にいくとは思えないが、奴さえ斃せば二度とこんなことは起こらない。 別に気が合うというわけでもない俺達だったが、意見は完璧に合致していた。 まずは三人がかりでメルクリウスを打倒すると。 「行くぞォッ――!」 攻め込むそのタイミングも、測ったように同時だった。 「罪深い少年だ。何も教えぬか」 切り込む寸前、司狼に向けて言った台詞になど耳も貸さない。奴と会話するのは危険すぎる。 それに、一つ確信があった。 ラインハルトは、メルクリウスを助けない。 少なくとも最初の一合、それだけは看過するはずだろう。自らおまえも参加しろと、あのとき命令したのだから。 「はああァッ――」 まず、一番手は櫻井だった。右肩から切り下げる初太刀に合わせて、続く俺は左肩を。 X字に切り裂いて四つに断割。手応えは確かにあった。 そして止めは―― デザートイーグルから放たれる司狼の魔弾が、飛び退いた俺達の横を擦るようにして全弾命中―― 「それでよいのか?」 だが、耳に届いたのは断末魔じゃなく、呆れたようなラインハルトの失笑だった。 「“これ”はどういうわけか死なんのだよ。なぜか、私にも分からんがね」 「そこはご容赦を。私とて友人に知られたくないことの一つや二つある」 「――――ッ」 全身に走る悪寒――俺は咄嗟に、横の櫻井を突き飛ばした。 「よろしいか、獣殿」 「許す。遊んでやるがいい」 「では――」 切り裂いた断面も、穿たれたその穴も、こいつの傷口には何もない。まるで空っぽのがらんどうだ。 「正直、荒事は苦手だが」 血も肉も骨も髄も、魂さえ持ちあわせていない。 「マルグリットへの詫びも兼ねよう」 同時に、下方から銀光が跳ね上がった。 「女の好みが、なぜ私と違うのだろうな」 何時の間にか、こいつの手には一振りの長剣が握られていた。それが城のレギオンを一部固めて創った物だというのは分かっていたが、受け止めた感触の気持ち悪さに頭がおかしくなりかける。 「君がマルグリットを選ばぬ限り、私も彼も斃せない」 「だが、マルグリットを選ばぬからこそ、我らの望みを阻害したともまた言える。さてこの場合、勝利はいったいどちらのものか」 空虚。まるで重さを感じない。押し切られるような圧力も、両断されるような鋭さも、つまり何も危険なものを感じないのに―― 「結論として、勝者無し。何もこの場に限ってのことではない」 「ここに至るまでの戦場で、どの陣営の誰であっても、明確に勝利した者が一人でもいたろうか。一度でもあったろうか」 鍔迫り合いをしながらも、押し返すことが一切出来ない。まるでこちらの力が残らず総て、奴を素通りしていくような感覚だ。 「つまり、これはそういうこと。勝敗、左右、既知と未知……どちらでもない中庸に終始するなら、まずはその均衡を崩さねばなるまい」 「君とて、マルグリットを救いたかろう? 万人に都合のいい結末を望むなら、過程に女子供の夢物語は入り込めん」 「そは、血と狂気で出来ている。〈既知感〉《にちじょう》に還りたい……などと、私は思っていないのだ」 メルクリウスの目が細まり、口許が釣りあがる。常に甘く、穏やかに、柔らかな物腰でいる男だったが、俺は今ここにきて、初めてこいつの笑みを見た気がした。 言い難い憤怒と絶望は喜劇に似て、悶え狂うほど笑い転げた後も残滓が消えなかった男の〈貌〉《かお》―― その地金が、ほんの一瞬だけ覗いていたのだ。 「〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》」 「それは、どういう……」 問いに、しかし答えは与えられず。 「愚息の教育は私がしよう、獣殿。後はどうなろうと構わん」 「壊したければ、ご随意に」 「もとより」 「―――なッ、待てェッ!」 薙ぎ払われた聖槍の一閃が、俺達を素通りして櫻井と司狼を吹き飛ばした。二人は轟風と共に宙を飛び、一瞬で玉座の端まで弾かれる。 「――くッ、そォッ」 目の前のメルクリウスを完全無視し、俺は渾身の力で跳躍して司狼と櫻井を受け止めた。なぜなら依然魔城は消えておらず、その機能を失っていない。 あのまま壁に激突してたら、髑髏の海に飲まれていたろう。 「殺すと言った。私は己の決定を曲げなどしない。嘘と出来ぬことは言わぬ性質だ」 「とはいえ、些か劣化が著しいのは否めんな。これでは少々、手間取りそうだ」 「しかし、そのくらいのほうが面白いかと。過去の黎明をなぞるなら、塩梅良しと存ずるが」 「ふん、つくづく芯から食えん道化よ」 「………ッ」 最初の一合、ラインハルトが手出しをせず、好きに任せていた攻防は終わってしまった。これ以上、あいつは大人しく見てなどいない。 焦燥に歯軋りしながら、腕の二人に目を落とした。たった一撃でもう死にかけている。 だが、聖槍の直撃を受けたことを鑑みれば、まだ生きていると言ったほうが正しいだろう。本来なら、今の一撃で絶命していたに違いない。 魔城の消失に比例して、ラインハルトはどんどん劣化しているんだ。時間がたつほど弱体化していく。 「んな顔、すんなよ……」 「チャンス、でしょ……」 「……けど」 いかに秒刻みで劣化しようと、あれはやはり規格外だ。戦力を分散してどうにかなる相手じゃない。 櫻井はもとから瀕死に近かったし、司狼は言わば初心者だ。その状況で、この戦況…… 「くだんねえ甘さで間違えんなよ。分かってんだろ、絶対潰さなきゃなんねえのが誰かってくらい……」 「まだ死なないから、大丈夫だから……」 「カッコイイとこ見せてくれるって、言ったじゃない」 「見せてよ。私達が食い止めるから、勝ってよ」 「でないと、好きだなんて、言ってあげない」 「―――――ッ」 俺は―― 「参れ」 「来たまえ」 斃すべきはメルクリウス。その選択は間違ってないし、今も実行するべきだ。 しかしそのためには、こいつら二人にラインハルトの足止めをして死ねと言わなければいけない。 「迷っている時間はあるまい。お互いに」 「カールよ、一つ賭けをしようではないか」 「卿は何やら企んでいるのだろうが、その成就を前に私が露払いを済ませたら全滅させるぞ。どうだ?」 「企みなどと聞こえの悪い。何のことやら分かりませぬが、しかしまあ、よいでしょう」 「この程度の窮状、凌げぬような愚昧では新たに創ったほうが早いというもの」 「決まりだな」 言って、ラインハルトが前に出る。もはや選択の余地は無かった。 「司狼……」 「櫻井……」 すまない。だけど―― 「死ぬな」 その一言に万感の決意と覚悟を込める。頷いた二人は立ち上がり、共に笑って俺を見た。 「もたついてたら、オレらが先に勝っちまうぞ」 「そしたら藤井君、私にメロメロになっちゃう、かな」 「……馬鹿野郎」 そんな虚勢、カッコよすぎて水なんか注せないだろ。 「脇が粋がんなよ。主人公は、俺だ」 だから俺も、自分がやるべきことに全精力を注ぎ込もう。 「行くぞ。せいぜい俺の引き立て役になれ、このお笑い三等兵」 「すぐ一人片して助けてやるから、それまでせいぜい逃げ回ってろ」 「言うねえ」 「カッコつけすぎ」 ああ、だから最後までカッコつけさせてくれ。俺は嘘つきになんかなりたくない。 「くく、くくくく……」 「なんとも可愛らしい〈絆〉《レギオン》だ」 「――羨ましいかよッ!」 その後の俺達は、まさしく命懸け、死に物狂いだったと言っていい。 自らの炎で服も髪も、肌まで焼きながら切りかかる櫻井は、限界を超えてなお力を搾ることで寿命を明らかに縮めていたし、それは司狼も同様だ。 まだ武器の扱いに慣れていないまま極限の戦いを強いられて、もはや暴走しかけている。二人とも、いつ聖遺物に喰い殺されてもおかしくない。 そして俺は―― 剣に内包する魂が〈無〉《ゼロ》。自前を削り続けることで戦う限界が見え始めていた。時間が経つほど弱体化していくのは、こっちも同じことであり―― 勝者無し――先ほど聞いたその言葉が、じわじわと胸の中に広がっていく。 ふざけるな、そんな半端をするために、俺はここまで生き残ってきたわけじゃない。 二度と再び、おまえ達を―― 「そうだ、諦めてはいけない」 だというのに、目の前の男を斃せない。 何十回、何百回切り裂こうと、一切ダメージを与えられない。 「おまえは、何だ……!」 まるで虚像と戦っているような感覚だった。今ここにいるメルクリウス、カール・クラフトという存在は本体じゃなく、水面の月を相手取っているような。 氷山の一角を見ているような。 俺達が知覚できるよう、俺達に接することができるよう、こちらのレベルに合わせて結んだ、ただの触覚。 本当のこいつは、誰も認識不可能なくらい巨大な何か。 口に出すことも、連想することも躊躇われる、〈人間〉《おれたち》にとって絶望的な何か。 そんな予感が、恐懼と共に込み上げてくる。――だけど無視しろ。 ここでこいつを斃せなければ、間違いなく全滅する。 それだけが――それだけが今の俺達にとって最重要視するべき現実なんだ。 「人は退屈を厭う。停滞を忌む。未知を恐れると同時に切望する」 「この意味が分かるかな。〈既知〉《せかい》が死にたがっている証なのだよ」 「海の魚が淡水を求めている」 「………ッ」 連続する剣風の中、一切手を出さずに薄ら笑うメルクリウスから、声にはならない声が届いた。 それは櫻井にも、司狼にも、ラインハルトにも聞こえない。俺とこいつの間でのみ交わされる思念の波。 時間にして、おそらく秒にも至っていない刹那のやり取り。 その中で、カール・クラフトという名の虚像が俺の魂に語りかける。 「君の友のように」 深海の底めいた瞳が、血反吐をはきながら奮闘する司狼へ。 「私の友のように」 そして、百万の地獄を引き連れるラインハルトへ。 「私の渇望は壊れかけているのだよ。細胞の一つ一つが、もう耐えられぬと慟哭している。俗に〈自滅因子〉《アポトーシス》と言うのだろうな」 「ゆえに私か、私にごく近しい君と深く関わった者は極小の確率でそうなっていく」 「私を破壊する癌細胞……私を救う私の一部であり、そこから外れた輝きだ」 「その無謬たる唯一。我らの友に共通するだろう点を挙げてみよう。彼らはこう思ってきたはずだ」 「己は運がいい。運が悪い。死にたくても死ねぬ。生きたくても生きた心地がせぬ。絶命必至の真似をしても、なぜか中々死は訪れない」 「当然だよ。死んでもらっては困るのだからね」 「私が死ぬために、癌は守り、そして育てる」 「つまりこういうことだ。〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈者〉《 、》〈は〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」 「―――――ッ」 こいつはいったい、何を言って…… 「私の写し身である君は、私のいる“座”に繋がっている。ゆえにあのような者を生み出せるのだよ。傍からはご都合の塊のように見える者をね」 「反目している面もあるのだろうが、断言しよう。彼は君の渇望に対する〈自滅因子〉《アポトーシス》。生物として必然持ち得る、終わりへの願望だ」 「〈喜劇は終わり〉《アクタ・エスト・ファーブラ》」 「彼の言動、彼の思想、彼の人生は己の求める地平と正反対。不愉快で、危機を覚え、だがなぜか魅せられる。否定できまい。君は彼のような者にいてほしいのだ」 「私が、私の友に懐く思いと同じようにね」 司狼は、一番最初に俺の日常を壊した。 そして今も深く関わり、後戻りできないこの戦いに重要な自分の位置を築いている。 それが全部、残らず全部、俺がそうしたいと思ったからだと!? 「――ふざけるなッ!」 声に出して怒号した。別にあいつを擁護したいわけでも叩きたいわけでもない。 ただ人間一人の人生を、俺が好きに弄ったなんて、そんな傲慢認められない。 「それじゃあまるで、俺が●●みたいじゃねえか――」 「そうだよ。私はそういうもので、君はその“座”に繋がっている」 「我らの愛しい〈癌細胞〉《アポトーシス》は増殖する。私の盟友が無限の〈軍勢〉《レギオン》を生むように、君の盟友は己が〈既知感〉《いたみ》を周囲に伝染させているはずだ」 「役者はそろっているのだよ。ならば喜劇を終わらせたいではないか」 「君も私も、そして我らの癌細胞も、すべからく舞台装置であるべきだ。皆諸共に退場しよう。そしてその後に広がる新世界。女神の地平を生む礎になろう」 「なあ、ゆえに誓ってくれぬかな。永劫我らを追い続けると、いつか必ず、この〈既知感〉《グランギニョル》を終わらせると」 「共に死のう。永遠に死のう。なあ、私はもう飽いているのだ」 「役に立ってくれまいか。そのために創ったのだぞ、総てを」 「てめえ……ッ!」 こいつの言っていることは分からない。分かってはいけない。 ただ膨れ上がる激怒と共に渾身の一撃を叩き込むが、首を切り飛ばされてもメルクリウスは笑っている。 「〈女神〉《マルグリット》以外に私を殺せるものか」 「要らぬ女に目移りするなら、そちらを先に消すか?」 「―――――ッ」 「後顧の憂いを断ってやろう。君が後戻り出来ぬように、この場の生と引き換えにして、一つ陽だまりを貰い受ける」 「ああ、これではまるで、ふふふふふ……私が〈悪魔〉《メフィスト》のようではないか」 「この契約、伸るか反るか」 「誰が――」 女を消すだと? 陽だまりを貰うだと? ふざけろ、俺がそんな条件―― 「呑むわけねえだろッ!」 その、瞬間だった。 「君の〈癌〉《とも》は同意したぞ」 引き伸ばされていた刹那の時が、一気に弾けた。 「第三十六――〈SS擲弾兵師団〉《ディルレワンガー》」 「ぐぅおおおおォォ――」 足元で爆発した髑髏の群れが、無数の銃剣となって司狼を貫く。 「いッ、てえだろうがァッ――」 怒声一喝、銃剣の山を叩き折り、なおラインハルトに迫るべく駆ける司狼を、逃さじと刺突の嵐が連続する。 下から間断なく突き上げられるその数は、すでに万を超えてまだ終わらない。流石の司狼も捌ききれず、徐々に確実に追い込まれていく。 「――ッ、おのれ、食らえェッ!」 そして止める間もなく、総て燃え尽きてしまえと放たれた櫻井の一撃も―― 「――――ッ」 片手一つ、以前は指一本だったものがそれに変わったという違いしか起こせなかった。 「第二十四――〈SS武装山岳師団〉《カルスト・イェーガー》」 続く地雷の爆発とパンツァーファウストの集中砲火を至近で浴びた櫻井は、そのまま声もなく吹き飛んで動かなくなる。 「おまえら……」 無情、無力、そんな一瞬の出来事。 俺達が再度悪魔二人に挑んでから、この間、実に五秒もない。 「賭けは私の勝ちだな、カール」 「――――ッ」 加え、俺に迫るのは黄金の神槍。 「嘆かわしいか?」 俺がメルクリウスを斃すより早く、ラインハルトは司狼と櫻井を瞬壊した。 その結果は全滅であり皆殺し。誰一人生き残れないという、救えない現実が押し寄せてくる。 「だがそれはこちらも同じことだ。全力を出せぬ歯がゆさ、卿も理解しただろう」 「あッ、ぐ……ぁ…」 胸を貫いた聖槍の穂先を受けてなお、俺は即死を免れていた。 言うまでもなく本来のこいつなら、それで勝負は決していたろう。俺とても、マリィがいればこれを躱せていたかもしれない。 共に著しいデフレーション。結果はどうあれ、戦いの質が不本意であることだけは共通していて…… 「〈兵〉《つわもの》同士、万全なるを真っ向叩き潰してこそ華がある。卿の渇望、些か騎士道に反するな」 「見事は見事。この〈至高天〉《グラズヘイム》・〈第五宇宙〉《ヴェルトール》を崩壊せしめ、私を撤退に追い込んだのは紛れもなく卿の功……だが、それは王道に非ず」 「マキナ、ザミエル、シュライバー、私があの三人を最初に選び、他の者らを連れて行かなかったのはなぜだと思う?」 「強さ? 忠誠? それとも狂気か? いいや違うな。そうではない」 「あの者らが、王道を踏まえた英雄の資質を持っていたからに他ならん。選から漏れた者のこと、思い返してみるがいい」 ヴィルヘルムも、ルサルカも、実力だけなら決して低いものではなかったのに、こいつに選ばれなかったのはその在り方。 敵の弱体化を狙うという〈創造〉《かつぼう》。 「すなわち今の卿と同じだ」 「聖餐杯は私の代わり。私に成りきらんとする渇望ゆえに、私の趣味に反する者を除外していったのだろうよ。もっとも、ヴァルキュリアは別だがな」 「残存八名、〈赤化〉《ルベド》、〈黒化〉《ニグレド》、〈白化〉《アルベド》の補充員と成り得た英雄は彼女しかおらん。それを真っ先に聖餐杯が切ったのは先の言葉と矛盾するが、まあ理由は分かろう」 「皮肉なるは、そのヴァルキュリアの補充として自ら招きよせた少女もまた、私の好む英雄の資質を有していたということだが……」 「分かるか? 卿は私を失望させているのだよ」 「あッ――、ぐ――ァ」 再び、槍の劫罰が全身を蹂躙する。前より威力は減じているが、俺の消耗もすでに以前の比ではない。 「認めたのは事実。昂揚したのも事実。流石はカールの代替なりと、血沸き肉踊った瞬間の私に偽りはない」 「だが、駄目だ。敵手、配下、共に英雄ならざれば、〈怒りの日〉《ディエス・イレ》は始まらない!」 「ああああああァァァッッ―――」 意識が遠のく。死に呑み込まれる。ラインハルト・ハイドリヒの怒りが聖槍を伝わって、この身を容赦なく焼き尽くす。 「前と同じではつまらん。観客は飽きるものだ。〈黎明の刻〉《モルゲンデンメルング》を再演するなら、カールよ、言ったように此度は全滅といこう」 「また創れ。何度でも。ツァラトゥストラが謳うまでな――!」 自分の絶叫すら誰のものだが分からなくなる死の淵、俺は最後の力でもがき狂うも逃げられない。 苦笑しながら頷くメルクリウスも、倒れたまま動かない櫻井も、銃剣の槍衾に貫かれた司狼も。 誰一人、残らず沈黙。猛る黄金の破壊を前にして、奇跡も救いの手も現れない。 だから俺が、自分自身でなんとかしないと―― この場にはもう、頼れる味方は一人としていないんだから――  さて、本当にそうだろうか。一人忘れてはいないだろうか。  スワスチカは粉砕され、ゾーンネンキントはもういない。しかし歌劇は中止されたわけでもない。  その血脈、次なる世代に優性遺伝させるのみ。  すなわち―― 「あたしが……?」  そうだ、君がやるのだよ。なぜなら嘆いていたではないか。  無力な己。蚊帳の外の己。愛しい男に選ばれなかった己の定めを。  ああ、実に哀れなり。胸に迫るほど君の悲しみは理解できる。  ゆえ、この道化師に助力をさせてはくれないか?  何者よりも重い大役、物語の“核”となる資格を君に与えよう。  そうすれば―― 「そうすれば……」  皆が君を護ってくれる。皆が君を愛してくれる。  血を流し、心を燃やし、魂懸けて粗略に出来ない至高の絆が育まれる。  それが君の求める〈理想〉《シャンバラ》ならば。 「だけど、あたしは……」  何処の誰とも知れぬ男と交わり、子を産むがいい。  この契約を一言半句も口外せず、生涯胸に秘めるがいい。  私が君に課す代償は、ただそれのみ。 「いやだ、そんなの――」  拒むかね? それでいいかね? よく考えてみるといい。  愛とは犠牲。尊き純血のサクリファイス。  君が愛のために愛を棄て、その荊棘を踏破するなら――  今ここにいる者は誰一人、生涯君の愛を忘れぬだろう。 「―――――」  だから、さあ、もう時間がない。  見えるだろう? 聞こえるだろう? 彼らの苦鳴が、断末魔が。  ああ、死ぬな。もう死ぬな。誰かが助けなければ全滅だな。  黄金の破壊が総てを壊す。  君はまた蚊帳の外。無力で恥ずべき己のまま、指を咥えてこの惨状を見つめているだけ。  何のために生まれたのだろう。何のために生きたのだろう。何のために焦がれ求め追いかけたのか。  絆が欲しい。自分もその輪に入りたい。カタチなどはどうでもいい。  然らば翠の枠と席、私が君のために用意しよう。  〈第六位〉《ゼクス》、〈復活〉《エイワズ》――〈処女宮〉《ユングフラウ》。それを誕生させる者として。  産み落とせ。復活させろ。何、大丈夫だ弾はある。  私が先ほど握り潰したモノの中に、有用なのが幾らかあろう。  ここは〈至高天〉《グラズヘイム》・〈第五宇宙〉《ヴェルトール》――何があっても、誰であっても、無限に蘇る〈地獄〉《ヴァルハラ》なのだ。 「だったら……」  そう、言ったはず。ここは死にたがりに甘くないと。発想を転換しろと。  生き残れ。次代に伝えろ。君の愛と尊き犠牲を。  それこそが―― 「今、あたしに出来ること」  そして、君にしか出来ぬこと。 「……ええ、でも勘違いはしないで、あなた」 「あたしは、皆を助けたい。皆の力になってあげたい。 たとえそれが、また皆を苦しめることになったとしても…… あたしは誰よりも信じてる。少しもそれを疑っていない。 きっといつか、絶対に、蓮があなたをやっつけるって。 だから……」  だから是と? 是と言うか? 「言うわよッ!」  ならば吠えろ。聞かせてくれ。私に純潔なる絶叫を。  何を求め何を願い、何を犠牲にして何を成す。 「あたしは、あたしは皆のために…… あなたに勝つために、日陰の女になってやるわよ! 宣戦布告と受け取れ――馬鹿ァッ!」 「ふふ、ふふ、ふふふふふふふふふ……」  結構。実に結構だ。痛く痺れる。  ああ、切なく清き第二のバビロン、君はいま誰よりも美しい。  魅せられたよ心から。 「それをもって、彼から奪う陽だまりとしよう。誇れ、君が皆を救ったのだ。 ゆえに我が総てを懸けて約束する。今この時における君の選択――たとえ誰にも間違っているとは言わせない」 「そして、乙女の涙が条理を覆すのが定番ならば」  奇跡の一つ二つ三つ四つ、起こせなくて何のための〈●●〉《わたし》だという。 「……ほぅ」 「これは……」 この身をバラバラに引き裂かんとしていた神火の劫罰――黄金の破壊が急激に薄れていく。 それはラインハルトの劣化がピークに達したわけでなければ、俺の感覚が焼き切れたというわけでもない。 今、唐突に第三者――現れた赤銅の防壁が俺と奴を隔てていたから。 まるで海面から浮上してくるように、魔城の床からせり上がってくるのは間違いなく屍兵の武装―― 「〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》……なるほど、そういえばもう一人、城での錬成を行える者がいたのだったな」 六十年前、ベルリンを呑み込んで創造されたこの城を、回帰及ばぬ死者の楽園としたのは誰だったか―― 「初代ゾーネンキント、その片割れの血脈か!」 「ッッッ、――」 ラインハルトの怒声と共に、弾き飛ばされた俺は気絶していた櫻井に激突する。 「……ぁ」 その、再び開かれた目が捉えたもの、こいつの胸中に湧き上がるもの……それがどれだけ大きな激情を伴うか、察するに余りある。 「嘘……嘘じゃないよね、夢じゃないよね……」 こちらに背を向けたまま、無言でラインハルトを抑え続けている長身の青年。 後姿しか見えないが、その佇まいは何処か誰かと似通っていて…… 「兄さん……?」 あれこそが、真実本当に櫻井の兄。まだ屍兵となる前のトバルカイン。 「お初にお目にかかります、ハイドリヒ卿。拝顔の栄に浴し光栄ですが……」 「どうかこのまま、彼らを行かせてあげてはくれませんか」 「くく、くくくくくく……」 獣が嗤う。傲慢に、倣岸に、愚か者よと嘲笑する。 「否だ、認めん。卿に進言する資格は無い」 「総てのスワスチカが消えた以上、その敗兵らに登城は許さん。何処へなりと失せ回帰しろ」 「それとも卿、あれらに代わって私の飢えを満たしてくれるか?」 「ご要望なら」 「面白い」 魔眼が輝き、聖なる槍が鳴動する。〈鬣〉《タテガミ》のような金髪が、おどろに乱れて揺れ始める。 「馬鹿な……」 そんなことを言ったらあんたが―― 「やめて――やめて兄さん、お願いだから!」 櫻井の、悲痛な叫びも届かない。 「万死に砕けろ、亡霊ごときに用は無い」 「いやあああああァァッ―――」 手を伸ばして叫ぶ櫻井を嘲笑うかのように、破壊の一撃が炸裂する。轟音と共に爆発が巻き起こり、その中心にいた彼を呑み込んでいく。 だけど―― 「……え?」 その姿は、まだ消えていない。その魂は、砕かれていない。 いかに秒刻みで弱体化しているとはいえ、ラインハルト・ハイドリヒの一撃を真っ向から受け止め耐える。そんなことが、まさか出来るとは夢にも想像できなくて…… 「複製とはいえ、これも聖槍……」 「今のあなたなら、ハイドリヒ卿……僕でもそう不足はないと思いますが」 ようやく視認できた彼の顔は、トバルカインだったときと同じデスマスクで隠されていた。 妹に声もかけず、顔も晒さず、しかし百万の言葉より雄弁な態度をもって示している。 死なせないと、護りきると。 なら俺が、俺がしなければならないことは―― 「行くぞ蓮――、ぼさっとすんな!」 「え? あ、きゃあ――」 彼に託された〈櫻井〉《こいつ》を無事に、なんとしてでも脱出させるというだけだったから。 「やだ、放して――まだ私はッ」 「……黙ってろッ」 「……ッ」 歯を食いしばりすぎて、口から血が滴っている。怒りで脳の血管が切れそうになる。 俺だって、俺だって、俺だってなあ――こんなの冗談じゃねえんだよ。 「だけど、耐えろ……ッ」 今の俺達じゃ奴らに勝てない。仲間全員死力を尽くして、奇跡と呼べるものを何度も起こして、それでも獣と水星に届かない。 「でも、生きていれば……ッ」 そうだ、生きてさえいられれば―― 「負けじゃないッ!」 負けじゃないんだ、たとえ勝者がいなくても。 「………ッ」 それに、櫻井は数瞬の間絶句してたが。 「……分かったッ」 顔をしかめて、痛いほど俺に力いっぱいしがみ付きつつ、頷いた。 そして―― 「おい、てめえッ――」 「希望に応えてやったろう。約束通り、バカ返せ!」 玉座の最奥、俯いたまま薄ら笑っているメルクリウスに、司狼が吠えた。 「ああ、よし。無論了承しよう。君らは実に素晴らしい」 「レオンハルト」 「ゲオルギウス」 「そしてツァラトゥストラ――いいや、今は藤井蓮かな」 こちらを見つめるカール・クラフト。史上最低最悪の詐欺師野郎。 「あなたに……」 「馴れ馴れしく……」 「名前なんか呼ばれたくねえ!」 絶対斃す。必ず斃す。今は無理でも、いつかきっと―― 「愛しいお嬢さんによろしくと。マルグリットを除き初めて、私は恋をしそうになるところだった」 「また逢おう」 ああ、そしてそのときこそ―― この〈馬鹿騒ぎ〉《ディエス・イレ》を終わらせてやる。 「兄さん……」 涙を振り切り、かすれる声で、しかし力強く櫻井は呟いた。 「待ってて、絶対助けに行くから」 その、今生最後になるだろう妹からの呼びかけに。 「ああ、大きくなったね、螢」 来いとも行けも応えずに、彼はただ優しく返しただけだった。 すでに砕けかけた仮面の奥、おそらくは兄妹でよく似ているだろう顔に、微笑を浮かべているのが分かる。 「う、ぅ……ぅぅ………」 「さようなら。君にはいっぱい謝らなければいけないけど……ごめんよ、そして幸せに」 「う、うぅ、あああああああああ――――」 「兄さん! 兄さん、兄さん! ああああああああああぁぁぁ―――!」 「行くぞ、櫻井……!」 号泣する彼女を抱き寄せ、一気に魔城の玉座を駆け抜ける。すでにここは消失寸前、ラインハルトの傍にいれば、奴の帰還に巻き込まれかねない。 後ろも見ずに、今はひたすら駆けるだけ。そうしないと誰より俺が、何もかも振り捨てて特攻しそうだったから。 「逃げるがいい、だが逃がさんぞ。卿らは永劫、私の総軍に呑まれ喰われる恐怖と戦え」 「屈辱なり、愉快なり! 万雷の拍手と愛と憎悪を贈ろう。私が壊そうとして壊せなかった、世界唯一の者どもよ」 「血と鋼鉄と肉と骨と、戦争この世にある限り――私は消えん! 地獄は何処にでも降りてくる」 「努、忘れるな。卿らもまた、〈地獄〉《わたし》の一部なのだから」 「ふふふ、はははは、ははははははははははははははははは――――ッ!」 割れんばかりの哄笑と、奴が残した呪いの言葉…… それはその後も俺達の中に、決して消えない〈澱〉《おり》となって残り続けた。 そう、今でも…… ずっとずっと消えないまま、俺はしっかりと覚えている。 だから…… 『ああ、うん。たぶんその辺りが超絶怪しい。公式には知られてないけど、ソ連崩壊のときにハンパなく人死んでるから。ポルポトやら文革やらより、下手すりゃ逝ってるかもしんない』 『でもまあ、数より因縁なんだっけ? そういう面でも、そこ臭いよ。なんせ昔は、独ソ戦の激戦区だからね。つーとアインザッツグルッペン』 『今でも、その息が全開でかかってる。だから――』 「ああ、分かった」 短く頷き、本城に礼を言う。 「助かったよ。もう若くないんだから、無理して危ないことに首突っ込むな。別に頼んでもないのに毎回毎回……」 『なにー、あんた今、言っちゃならんことを言ったわね』 電話越しに響き渡った威勢のよすぎるその怒声に、俺はもちろん、両隣からも苦笑が漏れた。 『独り身だし子供いないし、女盛り真っ只中なの!』 「ものは言いようだな、おい」 「嫁き遅れただけじゃない」 『あんたら~、ちょ~~っと自分らが若く見えるからって、しょせんタメ歳なのに何その態度? 何その言い草? あたしくらい頭と美貌と金持ってる女なんて、ちょっとそこらにいないっつーの』 「あー、はいはい。分かってるよ院長さん。なんだかんだで、まだ二十年しか経ってないことだもんな」 そう、二十年。あれからざっと二十年。 本城が家を継ぎ、結婚もしないで、未だ俺達みたいな馬鹿に関わってくれることも。 氷室先輩があの教会を孤児院に変え、毎日子供達と笑って過ごしていることも。 みんなみんな、とても大事なことだから……俺達は俺達のやるべきことをしなきゃいけない。 この戦争に終結を。あのとき果たせなかった目的を。 「まあ、機嫌直せよ。これ片付けて帰ったら、司狼がメシでも奢るから」 「院長先生はホスト狂いとか、妙な噂立つかもしんないけど、何かしら慰労だけはするからさ」 『あー、うん。だったらあたしは、蓮くんのほうがよかったり』 『こう、なんつーの? さすがに三十路も超えるとさあ、ああいう鉄砲玉みたいな男はいかんと気付いてしまうみたいな』 「おい、なんか言われてるぞ」 「しゃーねーだろ。ほんとのことだし。おまえ相手してやれば?」 「つっても、なあ……」 「……何よ?」 いや、その、抉りこむような視線で俺を睨むのは止めようや。 『櫻井ちゃん怒ってる?』 「怒ってない」 「怒ってんじゃん」 『とにかく』 『何にしても気ぃつけて。……ああ、あとこれは、関係ないっていうかただの余談なんだけど』 『香純ちゃんの娘、いるじゃん? あの子修学旅行で、明日ドイツに行くんだって』 「…………」 『んでまあ、航空路の関係上、飛行機がそこの真上らへんを通るんだわ。だからあんまはっちゃけて、撃墜なんかすんじゃないよ』 「…………」 『ちょっと、聞いてる?』 「おお、分かった。聞こえてるって。こいつ未だに、バカスミが結婚したのショックなんだから、あんまり弄んな」 「そんなんじゃ、ねえよ……」 『卒業してすぐだったもんねえ。ありゃあたしも驚いたわ』 『でもま、幸せそうだし、いいんでない? いつまでもうじうじ言ってると、男が下がるから振っ切んないと』 「だから、そんなんじゃねえって、何度言えば……」 確かに香純の結婚も、相手が面識のない奴だったことも、子供が当時の俺達と変わらない年齢になってることも……ショックと言えばショックだが、俺はそれより、何というか…… ごくたまに、あいつが見せる不思議な顔……基本は昔のままなのに、まるで詫びるような、泣くような……耐えるような顔がずっと心に引っ掛かっている。 それをもって未練、気が多い、男らしくないと言われてしまえば、まるで反論は出来ないけれど。 「藤井君?」 今も変わらず粘着な櫻井が、この件にだけは口を挿まないというのも奇妙だった。 こいつもまた、もしかして……俺と同じような気持ちを懐いているのかもしれないと。 『じゃあとにかく、そういうことで。そこが当たりでも外れでも、何かしら進展があったら連絡してよ』 『武運を祈る。シーユー』 そう朗らかに一笑して、本城は通話を切った。 「さぁて……」 「それにしても、すごい雪ね」 極寒の街。銀の世界。ここがこの先、血に染まるのか染まらないのか。 「まあ、クリスマスも近いしよ。キナ臭ぇのは確かだな」 そして、〈香〉《 、》〈純〉《 、》〈の〉《 、》〈娘〉《 、》〈の〉《 、》〈誕〉《 、》〈生〉《 、》〈日〉《 、》〈も〉《 、》〈近〉《 、》〈い〉《 、》。 「とりあえず、オレが先行してみるよ。こういうところは閉鎖的なのが定番だからな。おまえらしかめっ面コンビじゃ藪蛇だ」 「一晩、ここで待機してろ。連絡するから」 「……ああ」 「ごめんなさい。助かるわ」 軽く手を振り、司狼は銀に煙る眼下の街へと降りていった。 あいつが俺達に気を遣うような真似をする。それはすなわち、洒落じゃないということだろう。 「どう思う?」 「七割……いいや、八割だな」 それくらいの確率で、ビンゴに近い。あれから世界中を駆け巡り、ありとあらゆる魔都や聖遺物を破壊・封印してきた経験がそう言っている。 ここは地獄の匂いがすると。 もしそうなら、今度こそ―― 「ねえ、藤井君……」 そのとき、極寒の風にも劣らない殺意に凍えていた俺の身体が、不意に柔らかな温もりに包まれた。 「終わるよね。今度こそ終わらせるよね……」 今、傍らに寄り添う櫻井。こいつはいつもこうやって、怒りと憎しみに囚われそうになる俺を、もとの世界に戻してくれる。 「後悔してる? 悔やんでる? 私とこうなったこと」 「別に……」 そんな愚問、今さら答えるまでもない。 おまえがいたからこうなって、おまえがいたから生きている。 そしてこの先もずっとずっと、俺はおまえと生きていたい。 「たまには、口でちゃんと言ってよ」 「もう昔みたいな子供じゃないし、私もあなたも、いい歳でしょ?」 「いいや、子供さ」 だって何より、あのときから――あの惨めな休幕を味わってから。 「俺達の時計は止まってるんだ。それをまた動かしに行こう」 人として、男として、女として、人生ってやつをちゃんと迎えられるように。 停止はかつての俺の望みだったが、今はこいつと二人の時間を、ちゃんと前に進ませたい。 そして、そのためにはあいつらを…… 「勝とう、櫻井。それで一緒に生きていこう」 「……うん、そうだね」 もしかしたら俺はここで、新たなツァラトゥストラを見出すかもしれない。マリィを失ったあのときに、俺はその枠から外されてしまったのだし。 それとも再度彼女と繋がるのか、ならばどういう理屈でそうなるのか。黎明を九人で迎えた俺達に、残る四人はどういう形で関わるのか。 メルクリウスが言っていたこと。その真偽は、その意味は? 今は何も分からない。 けど、だからこそ思うことは一つだけ―― 「ああ、風がやんだわね」 嵐の目に入った一瞬の〈静寂〉《ぬくもり》を、掛け替えのないこのときを。 護りたいと、そう願う。 Other Story――Verfaulen segen解放  まず、第一に目を閉じた。  耳を塞ぎ、口を噤み、呼吸を止めて微動だにしない。  五感をことごとく封印し、最後に思考まで放棄する。  しようとする。  そうしなければならないと思い、そうすることが正解であろうと強く深く信じるがゆえに。  信じたいと思うがゆえに。  逃避、ではない。  紛れもない抵抗として、守りたいものを守り、超えなければならない障害を超えるためにその行動を選択する。  だから無論、後ろめたさなど微塵もない。  これは戦いのカタチであり、挑戦の意志。  恥ずべきこともなければ蔑まれる覚えもないのだ。自分は、ずっとそのように生きてきたモノなのだから、他の具体的手段など思いつかないし思いついたところで何だと言う。  そうだ、いつも目を閉じていた。  いつも耳を塞いでいた。  余計なことは言わないように努めて端的な言葉を話し、キナ臭さというものを感じないように嗅覚を誤魔化した。  そしてそれを維持するために、深く考える作業を止めたのだ。  感じたくないものが多すぎて。  気付いてはいけない事実も多すぎて。  閉じた環の中だけを愛し、その外側で回り続けていた事象は一片たりとも感知しない。  そうして世界は守られる。  己の楽園は維持される。  正しいだろう? 間違っていないだろう? 誰もがそうするはずだろう? 「そうだ、おまえは正しい」  正しいのだ、だから―― 「〈世界〉《すべて》を私とすることに、何の間違いがあるというのだ?」  素朴な疑問を呈したとしか思えぬ声で、瞬間、世界は変転した。 「それで、ねえ、聞いているのヴァレリア」  開いた目に映るのは、眩しい朝の光と耳に心地よい女性の声。  そして、芳しいパンと紅茶の優しい匂い。 「あなたがショックなのも分かるけど、いい加減に弁えてもらわないと。玲愛だって困っているじゃない」  これは、いったいなんだろう? 困惑に駆られながらも、現状を認識しようと試みる。  ……ああ、そうだった、これは。 「ほら、いつまでも落ち込んでないでしゃんとしなさい。本当にもう、いい歳をして情けない。 大きな身体でいじけていても、みっともないだけですよ」  咎めながらも苦笑を隠せない柔らかな声の主に思い至り、私はわけも分からずほっとした。 「しかし、しかしですねえ、リザ……」  腰に手を当ててお説教をしている尼僧は、呆れた様子で頭一つ分は高いところにある神父の顔を見上げている。  なんとも情けなく、そしてなんとも微笑ましい光景だ。この〈教会〉《いえ》において父権や亭主風という言葉はない。  ないけど、別に自分たちは彼を嫌っているというわけでもなく。 「昨日の今日ですよ? いきなりですよ? ほんの一昨日まで何も問題はなかったのに、この唐突な変化は何事ですか? 私は宇宙の不条理に思いを馳せずにはいられません。 ああ、主よ、私の人生によく分からない試練を持ってくるのはいい加減にお止めください。これでも結構、清貧に生きているつもりなのです。月のお小遣い三千円で」 「はあ、まあ、私の家計の遣り繰りに言いたいことがあるようですけど、それはひとまず措いて」 「一日にお茶の一つも買えない私の経済状況をどうでもよいと!?」 「どうでもよいです」  満面の笑顔が眩しい。  そして蒼白な顔が可笑しい。  そうだ、私はこの人たちの下に産まれて、先日“ある経験”をしたのだった。同年代の子たちより、少し早いということらしいが、別におかしなことじゃないだろう。 「あのですね、ヴァレリア。本当に察しがついていないのですか? もしかして、分かったうえでとぼけているのではないですか?」 「何をですか? 私は神に誓って後ろ暗いことなど何もなく、この迸る愛しさのまま彼女をお風呂に入れてあげようと――」 「何か……余計に危険なことを言っているように感じますね」  額を押さえて、リザは悩むような顔をする。  言うべきか、言わざるべきか。  いやでも、しっかり言わないとこの人納得しないんじゃない? 「いいかしら?」  なので私は、無言のまま頷いた。彼女はしょうがないと溜息をついて。 「えぇっと、つまり、彼女はレディになったと、そういうことです」 「はあ?」 「今後男性とは不要な接触を避けるべきだと、そう思うのです」  でないとコウノトリが飛んでくるとか、今どき子供でも信じていない寓話で喩えるリザの感性も、なかなかどうしてずれている。 「ですから以降、玲愛の裸は、将来彼女の夫となる男性にしか見せるべきではないと私は考え、決めました。 それについて、何か言いたいことはおありですか?」 「なんと!?」  音がしそうな勢いで、こちらを向く神父様。 「て、ててて、テレジア、それは本当、なのですか?」  また頷く。 「素晴らしい!」  すると私は、一気に座っていた椅子から宙に抱き上げられていた。 「なんと、なんと、なんとまあ! そうですか、そうですか素晴らしい!」  いやあの、私の背中が天上にこすりそうっていうか、凄く高くて怖いんだけれど。 「素晴らしい、いやあ素晴らしいなあ、素晴らしい」 「……他に言うことはないのですか、あなたは」 「だって、あれですよ? 成長ですよ? この子は今、女性として新たな命を生みだす力を獲得したと、そういうことですよね? 間違いないんですよね?」 「まあ、倫理的にどうかはともかく、そういう身体になったと言えば、そうなのでしょうね」 「よろしい、では常に綺麗にしていなければいけません! 磨きましょう、洗いましょう。この私が今まで以上の愛をもって、あなたをお風呂に入れましょう!」 「……私の話を聞いていましたか、ヴァレリア」 「勿論。乙女の清らかな肌を見るのも触れるのも、許されるのは未来の夫となるただ一人のみ。守りますよ蹴散らしますよ、誰にも渡しませんよ私がここにいる限り。 将来神父様のお嫁さんになると、言いましたもんねーテレジア?」  ………… 「ねー?」  ………… 「ね、えぇ……?」  ………… 「馬鹿なっ!?」  一つだけ、ささやかなお願いがあります。  この人の頭上に焼きレンガとか落としてくれないでしょうか、神様。 「そういえばメキシコで、廃教会同然になっている所があるから、誰か派遣してくれないだろうかという書簡が届いていたのを思い出しました。 行ってみますか?」 「馬鹿なっ!?」 「なるほど、お安い御用だと」 「無体なっ!?」  うん、行ってよし。  というか早く下ろして。目が回る。 「あのですねえ、リザ……せっかくお目出度い日だというのに」 「ええ、お目出度い日だからこそ、なんだか危ない目をした人は排除するべきだと思うのです」 「私のどこが危ないと!?」 「どこって、それは……」  促され、私は言う。  面白くて、愉快で、何より楽しくて。  彼女と同じ満面の笑顔を浮かべたいと思い。  青くなる彼の顔がとても見たいと願い。 「全部」  そう、確かにそう、言ったのだ。 「これでお分かりですか? 玲愛はもう、大人の女性なんですよ」  私は子供じゃなくなったから。 「つまり、子供を産めると言うのでしょう」  いつかそういうことを経験すると、この日理解してしまったから。 「ではもう、準備は整ったということですね」  何かが、ゆっくりと壊れていく。 「ええ、この子はもう■■を産めるから」  私の世界に亀裂が走る。 「ああ、本当にずっと待ったわ」  それはカウントダウンが始まったということで。 「これで皆が救われる」  私の世界は食い潰されて。 「ようやく解放されるのね」  彼らが何を言っているのか、分かりたくはなかったから。  目を閉じよう。耳を塞ごう。口を噤んで呼吸を止めて、身体は微塵も動かさない。  心は石のように頑なに。  分からない。知ってはいけない。それをしようと思うことすら禁じる。封じる。忘却する。 「正直、面倒くさいと常々思っていましたよ」  だからやめて。お願いそんなことを言わないで。 「気味悪いったらないわよ、本当」  私、二人が好きだったよ?  迷惑とか、たくさんかけたし、困らせることも、たくさんやったし。  可愛くない子だったかも、しれないけれど…… 「これで清々しましたよ」 「その目で見られるとぞっとするわ」  嫌だ。ごめんなさい。嘘だと言って。 「結局こんな、化け物なんて――」 「結局こんな、化け物なんて――」  聞きたくない。聞かせないで。 「用が済めば、それまでのこと」 「二度と関わりたいとは思わない」  認めてほしいと思うのに。  そんなに嫌い? そんなに怖い? そんなに私が――いちゃ駄目なの? 「ええ、もちろん」 「だって、ほら」  一番聞きたくない言葉が、胸に深く突き刺さる。 「生かしておいても、何の得にもならないでしょう」  それがあなたたちの本音だと、私は気付きたくなかったのだ。 「どうした、笑えよ。おまえはこの〈微笑〉《イザーク》を救うのだろう?」 「ていうか先輩、あなたがいるからこんな大事になってんじゃない」  分かっている。分かっているけど。 「なんでさっさと死なないのよ。ほんとマジでチョー迷惑だし」  ごめんなさい。ごめんなさい。なんでもするから許してお願い。 「じゃあ消えろよ。下手に死なれたら逆に面倒起きそうでおっかねえわ」  そんな方法、あるならするけど…… 「時間あったろ? 考えたろ? なのになんもねえのかよ使えねえな」 「しょうがないじゃん? だってこの人、全部無視しようとしてたんだもん」  目を閉じて、耳を塞いで、口を噤んで呼吸も止めて、身体は微塵も動かさない。  心は石のように頑ななまま。 「ああ、でも一つだけ、例外なのがあったっけ」  それは……なに?  疑問を懐いた次の瞬間、視界がその場所へと開けていく。 「藤井君……」  そうだ、これが唯一の例外。  誰もいないはずの屋上。一年間、自分一人だけの空間だったあの場所で、彼と出逢いさえしなければ……  いや、出逢ったとしても、それまでと同じように拒絶することが出来ていれば……  何故――私はそうしなかった? 「現金だよねー、本当に」  出逢いは劇的なものでも何でもなく、初期の頃から彼を意識していたわけではない。  ただの気紛れ。本当になんとなく。たまたま偶然そうなっただけのこと。 「嘘つけ、そりゃ違うだろ」 「悪いのは」  そう、悪いのは―― 「あんただろ」  私だから。 「つまりさあ……」  藤井君が私を見る。  横に座って、一緒にサンドイッチを食べて、つまらないことやどうでもいいことを何となく話し合って……  それを楽しいと私は思って……  見ないで。  お願い、私を見ないで。  壊れてしまうの。  あなたにまで嫌われたら、私バラバラになってしまうの。 「ぶっちゃけた話……」  やめて、やめてやめてやめてやめて―――!  聞きたくない知りたくない言われたくない見たくない――!  私はあなたが…… 「先輩、お願いだから死んでくれない?」  そのとき、魂の一番奥深くに秘めていた宝物。  私は、それが砕け散る音を聴いた。 「藤井、くん……」  藤井君、藤井君、藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君藤井君フジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクンフジイクン――――― 「そうだ、これが〈イザーク〉《わたし》の知る世界のカタチ」  祝福されない〈私生児〉《バスタルト》の揺り籠。 「産み落とされ、生かされて、死をもって創造するに至った〈揺籃〉《ようらん》なのだ。 これしか知らない。 これしか持たない。 愛も、情も、歓喜も、祝いも、私の世界にそんなものは存在しない。 では問う。答えよ私の〈血に連なる者〉《ゾーネンキント》。 ――欲しいか?」  何を、とは問えなくて。  彼が何を奪われ、何を欲し、何を恐れて何を感じているのかが容易に分かって。  狂おしいほど理解できて。  私は……  返答は、か細い一瞬。  回る壷中の環の中に、玲愛の意識は落ちていく。  墜ちていく。  堕ちていく。  落ちながら溶けていく。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― その輝きは無窮の質量を弾けさせ、爆発した。 「〈Longinuslanze Testament〉《聖約・運命の神槍》」 神気――霊格として最上位にある神槍の形成は、ただそれだけで見る者の魂を焼き尽くす。 〈金色〉《こんじき》の光を放つ穂先には錆も疵も何一つなく、誕生より数千年の時を経て不変かつ不滅。 これを前に正気でいられる者などいるはずがない。 内に渦巻き、猛り狂う魂の質と総量。それはもはや、完全に一つの世界だ。槍の形に凝縮された〈宇宙〉《ヴェルトール》がここにある。 巨大すぎる波動。豪壮すぎるスケール。それに触れた俺達は―― 「ぁ――」 ぴしり、と櫻井の剣に亀裂が走った。こいつの〈創造〉《せかい》は、ラインハルトの密度に抗し得ない。 水滴が巨岩にあたれば砕け散るだけ。 「だが賛辞を贈ろう。これを抜かせたのは紛れもなく卿らの力だ」 「その覚悟、その気概、結集した意志、認めよう。卿ら皆、英雄に足る」 「祝えよ、今第八が開いた」 「う、おおおおおおぉぉォォッ――――」 「――司狼ッ!」 聖槍との鍔迫りに耐え切れず、司狼は塔の頂上から吹き飛ばされた。その後を追って走る白光―― 「さあ、始めようかァッ!」 錐揉みながら飛ぶ司狼に、魔性の速度で食らいつくシュライバー。そのまま流星のように彼方へと、誰の邪魔も入らない二人の戦場へと運んでいく。 もはや全員でラインハルトに挑む機会は逸してしまった。今まで静観していた三人の大隊長も戦線に投入され、これから先は紛うことなき総力戦。 「――櫻井ッ!」 叫ぶ俺の目の前で、ついにその刀身が―― 「私……」 儚く、背景が透けて見えるほど儚く、こいつは―― 「払え、ザミエル」 「〈了解〉《ヤヴォール》」 灼熱の火炎流に呑み込まれ、千々と粉々に砕け散った。 「―――――」 跡形もなく、完全に、さっきまですぐ横にいたあいつの姿がもう見えない。 その魂が散華する。その存在が抹消される。ラインハルトに喰われて消える。 「さて、残るは卿だが」 聞こえなかった。俺には何も聞こえなかった。 司狼は連れ去られ、櫻井は消滅し、第八が開いてついに完全となったラインハルトが目の前にいる。 これまでもまるで歯が立たなかった相手なのに、今やその圧力はつい先刻までと比較にならない。黄金の槍を携えた姿は絶対不可侵の怪物だ。 勝てるわけがないと思う。 立ち向かおうなどと考えること自体、もはや冗談にもならない絵空事だと、俺は誰よりも分かっていた。 けど―― だけど今は、そんなことなんかどうでもよくて。 「先輩……」 遥か上空、夜を圧していた髑髏の城が消えている。 解かれ、ばらばらとなって拡散し、天を覆いつくす方陣へと変わっている。 それが、〈徐〉《 、》〈々〉《 、》〈に〉《 、》〈拡〉《 、》〈大〉《 、》〈を〉《 、》〈始〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈出〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。この街から外へ、世界へ、総ての空をその色へと塗り潰すために。 これが〈不死創造〉《ゴルデネ・エイワズ》。これが真の〈錬成陣〉《スワスチカ》。 グラズヘイムが全世界を喰らい尽くす前兆なのだ。 先輩……じゃあ、あの人は…… 「呑まれたか、存外呆気なかったな」 もういない? もう逢えない? いいや違うぞ、そんなことは―― 「イザークの〈壷中〉《こちゅう》に落ちれば、もう二度と戻ってはこれん」 「――そんなことはないッ!」 鍔迫り合う形もそのまま、俺は激昂して怒号した。 まだだ。まだ終わっていない。 確かに絶望的だろう。確かにもう届かないかもしれない。 伸ばした手も、呼びかける声も、刻一刻と遠くなる距離の開きは埋められない。 破滅までは秒読み段階。死のカウントダウンはもう始まっている。 しかし―― 今、唐突に気がついた。 この時、俺はこの時のためだけに―― 時間が止まればいいなんて馬鹿なこと、願い続けていたんだろう。 「まだ間に合う……!」 間に合わせるんだ。そのためにはこいつを早く、一刻も早く―― 斃すための力こそが、必要なのだと理解したから―― 「〈Die Sonne toent nach alter Weise In Brudersphaeren Wettgesang.〉《日は古より変わらず星と競い》」 「〈Und ihre vorgeschriebne Reise Vollendet sie mit Donnergang.〉《定められた道を雷鳴のごとく疾走する》」 そうだ、超高速で駆け抜けろ。総てが止まって見えるほどに―― 「〈Und schnell und begreiflich schnell In ewig schnellem Sphaerenlauf.〉《そして速く 何より速く 永劫の円環を駆け抜けよう》」 「〈Da flammt ein blitzendes Verheeren Dem Pfade vor des Donnerschlags;〉《光となって破壊しろ その一撃で燃やし尽くせ》」 たとえこの身が消し炭となっても構わない。 「〈Da keiner dich ergruenden mag, Und alle deinen hohen Werke〉《そは誰も知らず 届かぬ 至高の創造》」 これほどに引き止めたいと願う一瞬――二度とないと分かっているから。 「〈Sind herrlich wie am ersten Tag.〉《我が渇望こそが原初の荘厳》」 〈破滅〉《おわり》を拒絶するために、この祈りを絶対不変のルールに変えよう。 誰に教わるまでもなく、紡ぎ出された〈詠唱〉《うた》は俺の魂に刻まれた渇望の具現だった。 すでに何度か試みて、そのカタチは掴んでいる。 諦めるな先輩、絶対に勝て司狼、おまえが死んだなんて意地でも俺は信じねえから、いつもの悪態つけよ櫻井。 そしてマリィ――なあ、まだ終わってなんかいないんだろう? だったらやることは一つだけだ。 この刹那に―― 「〈Briah〉《創造》――」 この刹那に時を止めて、俺が好きな総てを守ろう。 おまえに俺達の魂はやれない、ラインハルト。 「〈Eine Faust〉《美麗刹那》――」 時間が止まればいいと思った。好きな日常を守りたかった。 それがたとえいつか終わると分かっていても―― いつでも終わってしまえなんて、俺は断じて思っちゃいない! 「〈Ouvertüre〉《序曲》」 だから―― 「おおおおおおぉぉォォォッ――――!」 これ以上、もうこれ以上は一ミリだっておまえの世界なんか広げさせない。 この〈聖誕祭〉《クリスマス》こそが、おまえの命日になるんだ、ラインハルト!  突如、目の前から掻き消えた存在に、しかし黄金は反応した。  左側面から首筋に落とされたギロチンの一閃は、おそらく他の者なら何が起きたかも分からぬうちに両断されていただろう。その一撃はまさしく神速。彼が見知った者の中でもっとも速い。  ゆえに、ここで真に恐るべしと言うならばラインハルトだ。目に映らず、感知も出来ず、しかも長物の死角である懐に入り込まれた状態で、なお防御してのけた技量は超常などというレベルではない。  それは紛れもない魔性の絶技。ぶつかり合う刃と刃が火花を散らし、弾ける剣戟の轟音が数テンポ遅れて物理法則の断末魔を響かせる。 「――――――」  そしてその時、すでに敵手の姿は何処にもない。見えないのだ、彼の黄金の魔眼をもってしても。  なんという――なんという凄まじい疾走。  大気を突き破る爆発の衝撃すら遥か遅れて来るのだから、事前に太刀筋を察知するなど誰にも出来ない。その速度は、もはや意すら追い越して余りある。  しかし――  それでも――  当たらない。  躱し、逸らし、防ぎ続ける。  最初の一撃を凌いでから、すでに繰り出された斬撃は五十を超えた。この間、実に万分の一秒も経っていない。  偶然で片付けられるものではないだろう。勘で防げるとしてもせいぜいが二・三撃。ここまで連続で続くものを、誰もそんな概念で呼びはしない。  では、いったいどうやって?  背後からの唐竹割りさえ、ラインハルトは掲げた神槍の柄で受け止めている。続く右側背からの切り上げも、先の衝撃を逆利用した梃子の原理で防御が攻め手に先んじている。  これはもはや、未来予知としか言えない所業だ。そうとしか考えられない。  が、その真相は半分当たって半分外れだ。結論を言おう、これは予知でなく予測。  つまり、経験則に基づく洞察力だ。しかも見えぬ敵が相手であっても、効果を減じることがない人知を超えた領域の――  ラインハルト・ハイドリヒは指揮官である。戦場において直接矛を交えるような蛮技など、本来必要としていない。  ではこの状況が示す事実は、彼が特級の例外だからか。いいや、それもまた半分違う。  個人の武において、ラインハルトが黒円卓最強であることは間違いない。実際に団員たちの大半は、彼と出会った際に正面から叩き潰されて屈服した過去を持つ。  しかし、今このときに展開している超反応の数々は、将として大軍団を統率する器と才覚、そしてカリスマ。  なぜなら、彼が率いているのは総軍数百万の戦死者たちだ。その一人一人が有する記憶と知識を、残らず喰らい尽くしている。  であれば、踏んだ修羅場の数も密度も、すでに膨大という言葉ごときでは追いつかない。  経験値の総和という意味において、この地上にラインハルト・ハイドリヒを凌ぐ者は何処にも存在しないのだ。  加えて、その和はこれから先も膨れ上がり続けるだろう。  彼が存在する限り。  百万が千万へ。億を超えた先にまで。  遠からずこの星を呑み込む〈修羅道〉《グラズヘイム》。  〈地獄〉《ヴァルハラ》の〈王〉《ヴォータン》である彼にとって、全人類は己に傅く定めを負った戦奴にすぎない。  ゆえに今、その神威が示す力の一端を垣間見せよう。  運命の槍に神気が満ちる。内に宿る破格の魂が鳴動し、その霊力が破壊力へと変換される。  怒涛の連撃に継ぎ目が生じた、これが最初の一回目。今宵初めてラインハルトが、その隙に自ら攻撃へと打って出た。  それは、戯れの一閃だったが。  轟音――そして夜を揺るがす大激震。  その一撃で、あろうことか街の五分の一が消滅していた。 「……ふむ」  すでに死の街と化した諏訪原市には、今さら人的被害など起こりえない。ゆえに問題ないと断ずるには、余りに桁外れのデモンストレーション。 「まだ少々、全盛には遠いか」  タワーの上から見ればよく分かる。放たれた黄金光は指向性の大破壊兵器ででもあるかのように、進行方向にある総てを吹き飛ばして跡形も残さない。あんなものの直撃をもしも人体が受けたなら、粉微塵や蒸発以前に消滅するだけだろう。  それでもまだ、彼は全盛に遠いと言う。 「中々胸の躍る戦いだったが、申し訳ない。まだこちらの準備が整っておらぬようだ」 「過日、約束しただろう。決戦は、我が全力をもってお相手すると」  だが、嘯いたその時に、先の一撃を回避して間を詰めてきた神速が走る。  それは正真正銘、これまでにおける最高速だ。斬られた風さえ気付けぬほどの鋭さで、斬首の刃がついに黄金を捉えていた。  結果は、しかし…… 「見たまえ、この程度すら躱せない」  以前の時とまったく同じく、彼は優雅に笑っている。首を晒して、そこに刃を切り込まれて、なお一切の痛痒を感じていない。  少なくとも、現段階における限りは。 「もどかしいな、お互いに。共に時間を求めながら、基準とする軸がずれている。 噛み合わぬよ、これではな。卿の万全が整うまで、まずは付き合うのも一興かと思ったがね」  そう、蓮は今この時にも、幾何級数的な成長を続けている。原因は単なる窮鼠の激情だけではないだろう。  流出に至れる魂を持つ者同士、第八の解放によって力の共振が起きている。現に以前は粉砕されたギロチンも、ここではもう砕かれない。あとほんの僅か、少しだけでも、極限に等しいこの鬩ぎ合いを続けることで、刃は肉を裂き骨を断つまでに研ぎ上げられる――はずなのだ。 「卿はカールの聖遺物……なれば資質において最上だろう。その才が花と開く瞬間を、我が身で体験したいのは山々だが」  是非もなし、と苦笑して。 「それには適任者がいたのを忘れていたよ」  同時に、ラインハルトはその名を呼んだ。  弄うように、愛でるように、最高の剣闘士二人を死合わせて、互いの道程が弾け消え行く様を至上の美酒とする暴君のように。 「潰せ、マキナよ。 卿が勝てば、カールの約定通り私のグラズヘイムから解放してやる」  それが、すでに名も忘れた漆黒の戦奴にとって、待って待って待ち続けた最後の聖戦を告げる号砲だった。 「――――――ッ!?」 ラインハルトの長身を飛び越えて、死鳥のような黒外套が俺の頭上へ落ちてくる。 迎撃は不可能。いかに自分の時を加速しようと、目の前にいるラインハルトから意識を切る危険など犯せない。 ならばどうする? 防御か――いいや、それは駄目だ。 退け――とにかく僅か一寸でも、あの拳が生みだす破壊の圏内から離脱しろ。 「ぐッ、あああああぁぁァァッ――」 脚部の筋肉が負荷で断裂する激痛を一切無視して、俺は全力で飛び退る。その跳躍は当然タワーの頂上に設けられた足場の半径を、遥かに逸脱するものであり―― 地上百五十メートルの高空から落下しながら、俺はたった一撃でタワーの大質量が粉砕されていく音を聴いた。 「さあ、魅せてくれ。蠱毒最後の〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈損〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈同〉《 、》〈士〉《 、》、己が己を喰らった果てに残るのは何か」 いったい、何を言っている。遥か上空、天を圧する方陣へと上っていくラインハルトは、俺を見下ろして奇妙なことを口にしていた。 己が己を喰らうだと? 蠱毒とは、どういうことだ? 「ウロボロスか、カドゥケウスか、同じ蛇でも異なろう」 「尾を喰らい合えば無となるが、二つ絡み合えば螺旋となる」 つまりそれは、マキナか俺か。 「存在を勝ち取るのはどちらだ?」 砕け散る瓦礫の雨が降り注ぐ中、落ちる俺を見据えている漆黒の瞳と視線が合った。 感情の読み取れない、暗く濁った死魚の瞳。 顔を見るのはこれが二度目で、口をきいたことなどなく、戦ったこともない。 別段、因縁が有るとは思えない相手なのに、なぜだろう。 俺はこいつを識っている。もうずっと以前から、この男を深く理解しているのだと、直感にも似た印象を懐いていた。 錯覚ではない既知感。硝煙の香りが思い出される。 駆け抜けた戦場。辿り着いたと夢想した安息。 この手にしたと信じていた栄光は、次の戦場に臨む起点でしかなかったという愚かしさ。 要らない。もうあれは要らない。 血の赤も、骨の白も、焼け爛れる肉の黒も腹から噴き出る臓腑の灰も。 銃剣の煌き弾丸のメタル。軋む戦車の振動に塹壕の饐えた匂い。 避けられぬなら今一度だけ、また全霊をもって殺戮するしか術はなく。 「俺はおまえを殺さぬ限り終われない」 地面に激突した衝撃すら忘れ去ってしまうほど、鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》が叩きつける殺意は俺の全身を貫いていた。 「さてカールよ、卿はどう見る」  新世界の箱舟と化した方陣の上に独り立ち、ラインハルトはここにいない友へと語りかけた。 「正直、読めぬ。マキナが敗れるとは思えんが、これを見てくれ」  そこは首の左側面。先ほど刃を受けた個所に薄っすらと朱線が走り、微かな血が滲んでいた。  痛みがある。  己が内に流れる赤色を自覚したのは、いったい何時ぶりのことだろうか。 「もしもあのまま続けていたら、私は〈殺〉《と》られていたのかな。 ふふふ、なあ、どうだったと思うね」  その可能性は否定できない。蓮の伸びとラインハルトの復調は時間軸がずれており、先の状況を続行していれば力関係が逆転する瞬間が生まれたかもしれないのだ。  それは予定外なのか予定通りなのか。どちらが正しいのか、間違っているのか。  ただ、ずれが生じたからこそ、〈黒騎士〉《ニグレド》との決戦が重要な意味を持ち、より劇的な流れになったのは間違いない。 「しかし、ふむ……些かもたつきが目立つのも確かだな」  すでに既知感は感じない。ヴァルハラ流出が始まった今、少なくともこの方陣上でそれを知覚することは出来なかった。  が、同時に未知も感じられない。事態は中庸の局面であり、どう転ぶか不明な段階なのだろう。  その意味するところは、つまりまだ不完全だということだ。本当の意味で流出が起きていない。  この奇妙な進行の遅さはどういうわけだ?  ラインハルトは、天を見上げて思案する。 「もしやイザーク、翻意したか?」  あるいは、あの少女が予想外に? 「それとも……」  次いで、眼下に視線を移すラインハルト。彼の疑問に答える声が、ここではない何処かから届いた。 「もう一つの覇道が流れ出ようとしている」 「ほぉ……」 「あなたは槍を抜かれた」 「彼女か?」 「然り。あれに貫かれていたがゆえの変調。棘を抜かれれば出血が起きる」 「深海の宝石であった彼女の中身が流れ出る」  つまり…… 「なるほど、総てに意味ありし、か」  第八開放を阻止せんとする敵手の覚悟は侮りがたく、ラインハルトは槍を抜いた。抜かさせられた。  結果、本来は求道であったはずの歌姫から覇道が流れ出る兆しが生まれ、それとの鬩ぎ合いによりイザークの壷中天は停滞。  その隙に脅威の成長を始めたツァラトゥストラ・ユーヴァーメンシュ。  総ての要素が生じさせた空隙が、時の猶予というカタチになって〈氷室玲愛〉《ゾーネンキント》を溶かしきれていない。  であれば、今後彼女が抵抗を試みる可能性もなくはなく…… 「事態は混迷」  だが素晴らしい。思うようにならぬという展開など、人生でそうそう起きるものではない。 「それが困難であればあるほど、勝利の美酒は甘くなる。覇道か、確かにそういうものなのかもしれんな。 卿にしては、中々に趣のある筋書きではないか、カール」 「さて、何のことやら」 「とぼけまいぞ、未だ掌とは言いたくないのか? ならば……」 「ええ、せめて」 「せめてここから、今少しだけ観覧しよう」 「そういたしましょう。私が出張ると碌なことが起こらない。 この身はただ観客のまま、彼の地でお待ちする、獣殿」 「中々に見ごたえのある〈三〉《 、》〈戦〉《 、》だと思うのでね」 「ああ、では賭けようか」  見下ろす眼下での〈三〉《 、》〈局〉《 、》〈面〉《 、》。二人の魔王が予測する、その結末は…… 「無論――」 「さあ、では始めようか」  〈黒騎士〉《ニグレド》は〈黒騎士〉《ニグレド》の―― 「全力で来い」  〈赤騎士〉《ルベド》は〈赤騎士〉《ルベド》の―― 「逃がさないからね」  〈白騎士〉《アルベド》は〈白騎士〉《アルベド》の――  各々が奉じる勝利のカタチ……それに帰結するだろうと、疑いなく信じていたのだ。 「先のは少々、芝居がかりすぎていたな」  橋上で向かい合う相手に向けて、エレオノーレは苦笑しながら言葉を継ぐ。 「あれで騙された者などおるまいよ。騙まし討ちを意図したわけでもあるまいが、何を考えている?」  その問いに、答える者は…… 「別に、些細で個人的な事情です」  櫻井螢。ラインハルトに己が聖遺物を砕かれて、第八に散ったはずの彼女が存命している。  それは本来なら有り得ない、矛盾としか言えない事態だ。先の破壊が見せかけでなかったことは、第八開放が起きた時点で証明されている。  あの時、確かに螢の聖遺物は中の魂ごと四散したのに。  いったい、なぜ? 「つまり我々には関係がないと?」 「少なくともあなただけは、絶対に騙せないと分かっていましたし」 「そうだな、なぜなら……」 「これはあなたが私に与えた物だから」  螢がその手に握るのは、トバルカインの〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》。緋々色金が消滅した際、それと再契約を行ったのだ。あの時第八に散ったのは、彼女が殺してきた者らの魂だけ。  螢の魂はまだここにある。丈が縮んだことで槍と言うより長剣だが、カインの遺産であるこの中に。  いや、正確に言うならば、今から“それ”に吸われるのだ。  本来、こうまで都合のいい武器の交換など出来はしない。熟練すれば仮に扱うことも可能だが、本格的な契約の移行など通常は不可能だ。  なぜなら、使い手は選ばれる。その聖遺物が欲する類の魂を、〈聖遺物〉《かれら》は嗅ぎ分け、選別する。  つまり、有り体に言えば相性だ。聖遺物を揮う者は、実質、貢物を捧げ続ける奴隷に等しい。  ならば、使える奴隷を選ぼうとするのが自然であり、使い手側に武器を選別する自由はない。  仮にその支配関係を逆転できる者がいるとすれば、それは最初からそのためだけに生まれたような、聖遺物を揮う聖遺物と呼ぶべき者だけだろう。  無論、螢はそんな超常の特権など持ち得ない凡人。  ゆえにこれは、武器の方が彼女を選んだということになる。  たまたま死に瀕した際、もう一つ持っていた聖遺物が都合よく使い手に選んでくれた。そんな、偶然と言うには奇跡のような出来事を、しかし対峙する二人は何ら不思議に思っていない。  エレオノーレは頷いた。 「必然だな。“それ”はそもそも、貴様ら櫻井だけを狙い打つ。先代が消え、次の餌が何とも契約していないガラ空きとなったなら、否応無く取り込もうとするだろうよ」 「本来、呪いと言うべきだが、ここではそれに救われたな。いや、上手く利用したと言うべきか。中々の機転だよ、褒めてやろう。 愚鈍な小娘だと思っていたが、どうして頭が回るようだ」 「随分と、詳しいのですね」 「当然だろう。“それ”を創らせたのは私だ」  誇るでもなく、つまらなげに、エレオノーレはかぶりを振った。むしろ愚痴を零しているように見える。 「〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》……くだらん代物であり、見るに堪えんよ。クリストフあたりならこう言うだろうさ。神の〈偽物〉《ぐうぞう》など冒涜である」 「奴に同意をするのは癪だがね。私も本音は我慢ならん。 真槍がハイドリヒ卿にしか扱えぬことに対する、〈小物〉《ヒムラー》の嫉妬や恐れなど、正直知ったことではない。 だが、他ならぬハイドリヒ卿にやれと言われればやるしかなかろう。象徴としての〈偽物〉《ぐうぞう》、小物の虚栄心を満たし、安心を与え、その上で〈黒円卓〉《われわれ》は新たな戦力を獲得する。……まあ、理屈は分からんでもない。 だから私が呼んだのだ。この国から、貴様の曽祖父を、不本意ながら名誉アーリア人として、幕下に加えてやるために」 「加えて、やる……?」 「そうだ、喜べよ。お陰で貴様らは栄光の座を得られたのだ」 「〈偽槍〉《これ》を打たせ、代々継がせ、黒円卓に縛りつけることが栄光?」 「でなければなんだ?」  皮肉ではない。エレオノーレは本気でそう思っている。彼女はそういう人種だと、螢もこれまでのやり取りで分かっていた。  ゆえに今、心は揺れない。怒りを激発させれば斃せるような、甘い相手ではないのだから。  むしろ、奇妙に凪いでいた。微かな喜びさえ感じている。  天啓を与えられた気がしたのだ。  ああ、つまり、私はここで、この女を斃すためだけに生まれたのだと。 「感謝します、ザミエル卿」  偽槍を担ぐ。剣として。  私達の六十数年を、期せずして強要された修羅の道行きを、今夜ここで終わらせるために。 「これほど意味のある戦いはない」  〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》……それは創造主であり、持ち主である櫻井の一族だけを食い尽くす。その果てがトバルカインという屍兵への変生。劣化品の〈不死人〉《エインフェリア》を生む複製品の能力だ。  つまり、これを使えば螢はトバルカインになっていく。生ける屍として、痛みを忘れ、粉微塵になるまで戦い続ける戦争奴隷。  だがそれでいい。構わない。私もまた同じになるんだ。家族と同じモノに変わるんだ。  先に言った個人的な事情とは、すなわちそのこと。  意地が悪いんだもん、藤井君。私も生き残って打ちあげに参加しろとか、無茶なことばっかり言うんだもん。  私はあなた達の世界に帰れない。  あなた達とは生きられない。  だからお願い、死んだと思って。私に何も期待しないで。  代わりにこの敵だけは、何が何でも連れて行くから。  エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ。  紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》。黒円卓の大隊長。  もはや陽だまりに帰ることが出来ないなら、せめて一緒に地獄へ落ちよう。  ハイドリヒ卿のヴァルハラじゃない、本当の地獄へと。 「もうこれ以上、あなたの顔は見たくない」  目の前には正真正銘の〈不死の怪物〉《エインフェリア》。彼女と戦い、斃すなら、たとえ劣化品といえど自分も不死にならねばならない。  あの獄炎を突破するため、腕が燃えても足が消えても、首だけになっても戦い続けて、その喉笛に食らいつくことが出来るように。  私の〈決意〉《ほのお》で焼き尽くせるように。 「あなたの髪の毛一本たりとも、この世に絶対残さない」 「おそらくあなたは、ハイドリヒ卿と出会った時に人として死んだのです」 「ふん……見てもおらぬことを偉そうに」 「ええ、でもそんな気がするんです」  不思議な感覚があった。  自分が自分であって、自分でないような。  誰か別の人物が、この口を通して言葉を話しているような。  錯覚かな。錯覚だよね。だけどそれでもいい、強く感じる。  私は今、あの人達と一緒にいるんだ。 「貴様……」  エレオノーレの目つきが変わった。冷たく、どこまでも氷のように、そして魔性の〈焔〉《ほむら》が瞳に宿る。 「不愉快だ」  そうだ、気に入らぬぞ劣等の分際で。 「私の部下を愚弄するなと言ったはずだ」  黄色い肌で、黒い髪で、似ても似つかぬ無様を晒して、我が戦乙女を騙るな下種が。  〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈え〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》〈奴〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》、今の貴様は貴様ではない。 「ああ、本当に、あなたは変わってしまわれた」  やめろ。言うな殺すぞ口を開くな―― 「まだ目は覚めないのですか、“中尉”」  それが、決定的な引き金となった。 「私があなたを救いましょう」  偽槍の刀身に雷気が走る。烈しく、そして清冽に。  螢は知らない。その稲妻が意味する真実を。  エレオノーレは知っている。かつて一人の馬鹿娘がいたことを。  彼女は黒円卓の〈戦姫〉《ヴァルキュリア》――  狂気と血風の戦場を駆け、なお人であることを忘れなかった唯一の女。  本当に、よく分かる。螢は自分の意思で、自分ではない誰かの声を、確信と共に言っていた。 「あなたは弱い」  決して届かない光に永劫焼かれ続けるため、そんなモノになったあなたは弱い。  誇りも矜持もかなぐり捨てて、ただ最悪な男に心奪われたというだけの事実を、忠誠なんて概念に曲解しているあなたなど。  人として下の下。  女として未熟にすぎる。  それはさぞかし、リザが気に食わなかったことだろう。  なぜ彼女のことが嫌いなのか、どうせ自分でも分かっていないくせに。  認めようとしないくせに。 「戯れ言は……」  魔砲の砲口が現れる。両者の距離は二十メートル。  問題ない。この程度、一足の下に詰めてみせよう。 「それだけか?」 「ええ、続きは剣で」  語り、そして知らしめる。  絶対に負けられない。 「あなたに敗れることだけは、同じ女として我慢がならない」  ねえ、そうでしょうと誰かが囁く。  今の〈螢〉《あなた》なら分かるでしょう、と。  螢は小さく苦笑した。 「まあ、確かにそうかもしれない」  何か〈恋〉《それ》っぽい感情を、ほんのついさっき自覚してしまったようだから。  色々言いたいことはあるけれど、これを否定していたら目の前のあれみたいになる。  そんなのは、嫌だ。  嫌だから、負けられない。  弾ける魔性の大火砲――その弾道を縫うようにして、螢は〈赤騎士〉《ルベド》に駆けていた。  呪いの偽槍が鳴いている。それに魂を吸い取られ、腕が、足が、屍となる。  大丈夫だよ、怖くない。  この切っ先をあの胸に、私達の想いを突き立てるまで――  たとえ死んでも、私は戦い続けることをここに誓う。  そして同刻、発生した三つの戦いでもっとも早く戦端が開かれた現場では、すでに一方的な様相を呈していた。 「なあ、それでもう終わりかい?」  瓦礫の山と化した遊園地で砕けた遊具の上に腰を下ろし、ウォルフガング・シュライバーは嘆息している。彼はその身に毛ほどの傷も負っておらず、さらに言うなら一度も敵に触れられていない。  対して―― 「まあ……せっかちなこと言ってんじゃねえよ。ちょっと待ちな」  座り込んだ司狼は満身創痍。全身血に濡れている。致命的な負傷だけは避けているものの、二者の力関係は瞭然だった。  勝負にさえなっていない。  なるほど、司狼は大したものだ。自ら凡人と言った螢は十一年。カール・クラフトの肝いりを受けた蓮でさえ二週間。それに比べて、彼はたったの二日である。曲がりなりにも聖遺物を発現させ、ヴィルヘルムと戦えただけでも奇跡に等しい才能だろう。  だが、しかしここまでだ。黄金の〈近衛〉《エインフェリア》である〈白騎士〉《アルベド》と拮抗しうる成長など、流石にそこまで甘くはない。  ましてシュライバーという少年は、黒円卓でもっとも厄介と言える特性を持っていた。素の実力差がそのまま絶対の開きとなるような特性を。 「了解、じゃあ少し話そうか。その間に傷の回復なり、僕の隙を窺うなり、なんでも試してみるといい」  無駄だがね、と微笑して続けるシュライバー。その無防備さは自信だが、決して慢心の類ではない。 「これは〈副首領〉《クラフト》が言ってたんだが、〈大隊長〉《ぼくら》は三竦みってやつらしい。 分かるかな。〈A〉《アー》は〈B〉《ベー》に勝つけど〈C〉《ツェー》に負ける。そして〈C〉《ツェー》は〈B〉《ベー》に負ける。こういうの、君ら流には何て言うんだい?」 「ジャンケンか……」 「そうそう、それだよ」  三人の大隊長は三竦み。強さと弱さが円環する。 「別に認めちゃいないけどね」  自分が誰かに負けることなど、この凶獣は考えていない。だが三者の特性を鑑みれば、そうした公式に当てはめることも可能である。というだけのこと。 「当てれば必殺のマキナ。 必ず命中させるザミエル。 そして……」  ウォルフガング・シュライバーの特性は。 「絶対に攻撃を受けない僕」  誰であろうと触れない。その神速を超えた絶速で躱し続ける。  要は、単純なスピードだ。この世の誰よりも速いこと。時間そのものを止められでもしない限り、狂乱の〈白騎士〉《アルベド》は捕まえられない。  およそ戦いと呼べる総てにおいて、速度差というものは絶望的な壁になる。 「マキナは強いよ。ああ、それなりに敬意もある。だけど彼じゃ僕を斃せない」  いかに一撃必殺の拳を持とうと、当たらなければただの風車だ。加えて壊れているこの少年は、恐怖心というものがない。  避けられなかったらどうしようとか、そうした足枷とは無縁である。 「だから、ザミエルならあるいは僕を捕まえ得る……らしいんだが、どうなんだろうね。まあ話半分に聞いときなよ、君が真似できることでもないんだし」 「………は」 「うん?」 「黒が赤に勝つって理屈は、どうなんだよ」 「ああ、それね」  簡単だよ、とシュライバーは肩をすくめた。 「魂の強度が互角なのさ。マキナはザミエルの砲を躱せないけど、一発じゃあおそらく死なない。 となれば、あとは重火器の常識だ。再装填、つまり溜めが必要となり、その隙にドガン。 大砲の撃ち合いなら、決め手はそこだね。どっちがより堪えられるか、我慢比べの結果だよ」 「なるほど」  だったら、見えてきた答えがある。司狼はゆっくりと立ち上がった。 「つまりおまえは、一発食らえば吹っ飛んじまう蚊トンボっていうわけだ」 「へ?」  そんなこと、初めて聞いた。シュライバーは目を丸くし、次いで堰を切ったように弾け笑った。 「はッ――、はは――なるほど確かに、確かにそうだ。そうかもしれない」  攻撃など受けたこともないから分からなかったが、その可能性は多分にある。――と言うより否定するための実例を示せない。 「く、ははは――、いいなあ、君は面白いなあ! 頭がいいんだねえ、凄い凄い。よくそんなところに着目できるよ、本気で驚いたしびっくりだ」 「しねえ方がアホだろ」 「そうかなあ、この状況でそこまで考えられる奴、そんなにいないと思うけどねえ」  この状況――すなわち何をしても捕まえられないという事実。  仮にシュライバーの肉体強度が脆弱であったとしても、まず当てないことには突破口など開けない。 「逃げ回るだけが能の腰抜けが言うじゃねえかよ」 「んん、そうねえ。とりあえずそういうのには引っ掛からないぞって言っておこうか」  加え、業腹なことに〈冷静〉《クレバー》だ。出鱈目な躁鬱の落差と嵐のような暴力を振り回す気質のくせに、ふざけた話だが馬鹿ではない。  おそらく、単純すぎるために外部の影響を受けないのだろう。壊れた理性は共感を知らず、他者の心理を現象として受け止めている。ある意味、最上のプロファイラーなのかもしれない。  これは浴びた血と悲鳴の数だけ、〈獲物〉《ヒト》というものを知り抜いている怪物なのだ。  こいつに心理戦など意味はない。 「誰にも触られたくないってのがね、僕の渇望なんだってさ。別にそんなことはないと思うんだけど、〈副首領〉《クラフト》が言うにはそうらしいんだよ」  それ以上、喋らせてはいけない。司狼はそう直感した。  胸くその悪くなる話だが、いちいち共感して戦意が萎えるような性分でもない。これは単に、戦術上の判断。  これ以上、あれを喋らせ続けていると、何か危険なものが出現する。  おそらくシュライバー本人も気付いておらず、自覚もしていないドロドロに爛れた感情の腐汁――  それが、今にも溢れ出てくるような気がして。 「出来損ないって言われたんだ」  諸手を広げて何かの抱擁を待つように、シュライバーは宙を仰いだ。  黙れ、もうそれ以上喋るんじゃない。  銃口を擬す。引き金を引く。火薬の爆発と共に放たれた弾丸は―― 「おまえなんか、おまえなんか、おまえなんかがいい気になるな。男のくせに、男のくせに、私の方が綺麗なのに女なのに――」 「おまえなんか、出来損ないの化け物じゃないか――!」  瞬間、爆音を弾けさせてシュライバーが掻き消えた。 「そうだよ、僕は女じゃないけど男でもない!」  続く衝撃は、絶叫に先んじる。 「ぐッ、ああアァッ――」  左側面からの奇襲は――おそらくただの体当たり。しかし目にも映らない速度のそれは、まさしく砲弾の一撃だった。  吹き飛ばされ、木っ端屑のように宙を舞う。地面に激突するまで一秒にも満たないが、それだけあればシュライバーは百発以上叩き込める。  瓦礫と化した遊園地に、魔性のサーカスが具現した。 「女だった〈ママ〉《ムッター》は殺した。男だった〈親父〉《ファーター》も殺した。小さい子供も年寄りも、みんなみんな殺しまくった」 「死ぬんだよ、奴ら簡単に死ぬんだよ! じゃあ僕は! 殺し続けて死なない僕はいったい何だ!?」  狂える〈白騎士〉《アルベド》は止まらない。空間を乱反射する光線のごとく、宙の司狼を弾き続ける。すでに四・五秒は経っているのに、落下も出来ないし許さない。  削られ、抉られ、食い千切られる。肉の総量がゼロになるまで、この攻撃は終わらない。  ゆえに、何か抵抗を試みなければ―― 「僕は不死身の生き物なんだ。子供を残せないっていうことは、そりゃ死なないってことなんだよォッ!」 「ぐ、だぐだ言ってんじゃねえぞこの――」  狙いなどつけられず、その速度は追いきれない。  だったら、打つ手は一つだけ―― 「変態マザコン野郎がァッ!」  標的である自分の位置こそ、絶対にシュライバーが通過する軌道の上だ。そこを中心にして全方位へ鎖が広がる。  積極的に捉えることが出来ないなら、網を張って待つのが常套。獲物はコンマ百秒以内に、間違いなくやってくる。  だが―― 「あはははははは―――ノロいんだよォッ!」  常識を超えた怪物に、常套戦法など通じない。まさしく網の目を潜るように、総ての鎖をすり抜けて迫るシュライバー。 「僕は死なない。なのに君はアンナを殺した」  青い隻眼が殺意に燃える。抜き放った二丁拳銃が、ゼロに近い間合いから司狼へと―― 「〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈も〉《 、》〈僕〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》」  誰にも理解できないだろう理屈を口にし、その引き金が引かれる瞬間―― 「おお、今ぶっ殺してやるよ」  目で追えず、反応も出来ず、誰にも補足不可能なはずの〈白騎士〉《アルベド》を、司狼の銃口は捉えていた。 「〈蜘蛛の巣〉《この》ていど抜けるのくらい、分かってんだよターコ」  網はシュライバーの動きを限定し、予測するためだけのもの。たとえどれだけ速かろうと、軌道を完全に読めれば先手を打てる。 「ママのとこ逝け、おやすみ」 「――――――」  同時に、炎の大輪が爆発した。 「ッッッゥ――」  司狼の銃は、今やただの代物ではない。ルサルカから奪い取った聖遺物の特性を乗せて、必殺の兵器となる魔性を弾丸に宿らせている。  衝撃に吹き飛ばされて地面の上を転がりながら、確かな手応えを感じていた。先の一発が命中したのは間違いない。 「〈Yetzirah〉《形成》――」  しかし――噴き上がる黒煙の向こうから、不吉すぎる声が響いた。  怒りに震えるでもなく、驚愕に戦慄くでもない。  静か、ただどこまでも静かな声で。  殺意の究極というものがあるのなら、それは間違いなくこの声だろう。 「〈Lyngvi Vanargand〉《暴嵐纏う破壊獣》――」  帳が、魔獣に引き裂かれるがごとく四散した。 「―――――ッ」  その正体を見極めるより早く、あまりの臭気に司狼は鼻と口を覆っていた。  血の匂い。  何百何千ではきかない。  万単位の人間を地獄の苦悶の下に引き裂いて磨り潰し、阿鼻叫喚で飽食した人喰い機獣がそこにある。  魂まで凍らせる咆哮は、可燃性の血に猛るエグゾースト。  主と同じ単眼の〈光芒〉《ヘッドライト》が、闇夜を切り裂いて司狼を照らす。  そう、あれは―― 「出させたね、これを」  Zündapp KS750……殺戮の戦場を電撃の速度で駆けた軍用二輪。  現存する数多のモンスターマシンに比べればむしろ小型とさえ言える設計だが、その禍々しいフォルムと重苦しい排気音は魔性のものとしか思えない。  これが駆けるのは公道でも競技場でもなく、〈競争〉《レース》などという遊びを目的に創られた玩具とは明らかに一線を画している。  言うなれば、戦車や戦闘機と同じモノだ。戦争のために生み出され、その存在証明として血肉を貪る鋼の魔獣―― 「なるほど……そいつが本体ってわけか」  そして、ようやく司狼は気付いた。シュライバーが未だ掠り傷一つ負っていないという現実を。  先の一発が命中したのは彼の銃。派手な爆発はその結果であり、シュライバー自身はまんまと逃げ仰せていたのだろう。  〈白騎士〉《アルベド》の聖遺物は銃に非ず。そもそも弾丸より速い者が、そんな武装に頼るはずもないことだった。依然この凶獣は、何のダメージも受けていない。 「……やってくれたね」  だが、そう思うのは司狼の勝手な判断だった。銃を失ったシュライバーは、我が子を亡くしたように声を震わせて泣いている。  どうしてくれるのだと。どうしたらいいんだと。  あれが、あれがなければこの僕は―― 「君に触らなくちゃいけないじゃないか」  今まで散々肉弾の攻撃を繰り出しておきながら、わけの分からないことを言っている――とは思わない。  スイッチが切り替わったのだ。より〈渇望〉《ほんしつ》に近く、より狂乱し、誰にも触らせないし触りたくないという、自覚症状すらない本当の己へと。 「まったく、こりゃあ何の縁だよ」  だというのに、司狼は薄く笑っていた。ゆらりと立ち上がった姿はもはや完全な死に体であり、まともに戦えるとは思えない。  ここに至るまでの戦闘で、受けたダメージは甚大すぎる。活動位階のシュライバーにすら一矢報いることが出来ないのに、この先勝機があると思っているなら紛れもない狂気の沙汰だ。  敵はまだ速くなる。  形成したシュライバーのスピードは、どう楽観的に予測しても先ほどまでの比ではない。  あのバイクとの激突は死を意味する。轢殺などというレベルではなく、粉微塵に爆散して魂すら残るまい。  だがそれでも―― 「ジンクスがあんだよ」  震えるシュライバーに向けて指を立て、司狼は軽薄に嘯いた。 「三ケツしたら事故るんだぜ」  〈白騎士〉《アルベド》は戦意を失っているわけではない。今は当惑の涙に濡れているが、秒瞬の後に激発するのは目に見えている。  司狼にとって、それが死へのカウントダウンだ。にも関わらずこの余裕、この軽さ、断じて飄げた性分だからと、そんな理由で片付く問題ではないだろう。  これはまるで、勝利を確信しているかのような。  いや、そもそも、三ケツとはどういう意味だ? ここには二人しかいないというのに―― 「なあ、そうだろう?」  彼にはおよそ似合わない、優しげな声が告げていた。 「エリー、美味しい見せ場だぜ。出て来いよ」  その台詞で、事態は一気に変転する。 「男が女が何だのと、ごちゃごちゃワケ分かんねえこと言ってたがよ」  宿る魂の形成具現。マリィがそうであるように、彼女もまた―― 「一つ真理ってのを教えてやる。いい男にはいい女が寄ってくるのさ。切っても切れねえんだぜ、そういう時はよ」  今、彼らは二人で一人。文字通り切り離せない。魂で繋がっている。 「あんたもさあ、いきなり頭悪いこと言ってんじゃないよ。それで決まったとか思ってるわけ?」 「決まってんだろ。今、間違いなくオレのファン増えたぞ」 「またワケの分かんないことを……」  二人は変わらない。この状況でも笑いを交え、殺戮の凶獣を前に何ら臆すということがない。  それはどれだけの強さだろうか。どれだけの信頼だろうか。  勝てると。自分達は勝利すると。微塵も信じて疑わないのだ。 「ほら、来いよ」  司狼が告げる。 「ぶち込んでやるからおいで、坊や」  エリーは優しく手招いている。  陰陽相俟って完全となる――そんな概念はこの場の誰も知っていない。  だが―― 「羨ましいならそう言えよ」 「ずっと傍にいてくれる誰かが一人でも欲しかったんでしょ?」  シュライバーは陰も陽も持たない虚無。それは完全どころか“無い”ということ。  駆け抜けた。駆け抜けた。殺し続けて喰い続けた。  彼の人生は轢殺の〈轍〉《わだち》。振り返った後に見る屍の山でしかない。 「黙れよ……」  空洞となった右眼窩から血が流れる。  穴。僕には穴がないから抉られたのだ。  出来損ないじゃなくなるように。〈ママ〉《ムッター》に愛される少女に僕はなりたくて。  結果、欠け落ちた眼球と性器。  完全になることを求めて欠落した、もう取り戻せない〈人間部分〉《アイデンティティ》。  失ったのは総ての愛情―― 「ハイドリヒ卿は、僕の穴を埋めてくれるんだ」  屍を。屍を。屍を。屍を――  無限にこの星を覆い尽くすまで殺し続ける。  僕の〈轍〉《わだち》を、駆け抜けた後の〈穴〉《へこみ》を埋めてくれるのはあの人しかない。 「だから君ら、僕の〈勝利〉《わだち》になれ」  この右目に、この性器に、それぞれ君達のものを詰め込もう。  そして僕は完全となる。  黄金のグラズヘイムに生きる不死の英雄になるんだ―― 「邪魔なんかさせないッ!」  鋼の魔獣が吼え猛る。血を啜らせろと咆哮し、不可視の流星へと姿を変えた。  その速度、もはや言語に絶する。計測不可能―― 「Siィィィィィィィィeg Heァァァァァァァァilッッ―――!!」  絶叫すら遥か彼方に置き去って、地上最速の〈白騎士〉《アルベド》が駆ける。すでに瞬間の光とさえも形容できない。  その絶速を、だが司狼達は迎え撃った。 「やるこた分かってるよな」 「凄い嫌だけど、今あたしら以心伝心」  背中合わせで笑い合い、共に銃口を前方に擬す。  当たるわけがない。命中させることなど不可能だ。  無論、今さらそんなこと、彼らは当然のように分かっており――  狙いは違う。この体勢はただ単に、これから行う曲芸の際、二人が離れ離れにならいように―― 「ねえ、なんかカッコイイこと言ってよ」 「おまえのケツがやべえ柔らかでオレがやべえ」 「あんた――」  もう、本当にこのクソ馬鹿。  一緒に打ちあげ行こうとか、今デジャヴがどうたらとか、もっと言うべきことがあるでしょう。 「こういうとき、カッコつけるのは死にフラグなんだよ」  だったら―― 「そうだね」  いつも通り馬鹿っぽく。 「行くぜェッ!」  瞬間、二つの銃口が轟然と火を噴いた。 「――――――」  その結果を、シュライバーは訝しむ。銃弾など掠りもしなかったのは当然だが、解せないのは躱す必要すらなかったこと。二発の銃弾はあらぬ方向へ飛んで行き、自分を狙ったとは思えない。  いくら視認できぬといっても、今のは外れすぎていた。ではいったい―― 「そうか――」  あれは回避行動だ。射撃の反動をプラスして、本来躱せぬはずの攻撃から紙一重でもインパクトをずらす。こちらが軌道修正できないギリギリまで引き付けて。  だがしょせん、そんなものなど―― 「づッ、おおおおおォォッ」  この速度にこの質量、躱しきれるはずなどない。たとえ直撃を避けようとも、引っ掛けられただけで致命傷だ。 「――――――」  いや、待て。〈引〉《 、》〈っ〉《 、》〈掛〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》? 「狙い、通り……ってか」 「おまえ……!」  信じられない。司狼は身体のほぼ半分を吹き飛ばされた状態で、ヴァナルガンドに縋っている。正確には、リアシートに鎖を絡みつけた状態で、超高速に引き摺られながらも食らいついて離れない。 「よぉ、生きてるかエリー」 「なん、とか……つか、あんたあたしを庇ったでしょ」 「別にィ」 「この……っ」  そしらぬ顔でとぼける司狼に、エリーも何か言いかけたが追求は止めた。今は他にやることがある。 「これ手繰ってくのか……しんどいなあ」 「しょうがねえだろ」  ここで銃を撃ったところで、慣性の法則に阻まれ意味がない。ゆえに残った手立てと言えば、エリーが言ったように命綱を手繰って接近すること。  猛回転する後輪まで、距離にして約一メートル。短いとはとても言えない。  常軌を逸した超加速の只中で、二人が受けているGの威力は身体が砕けないだけでも奇跡なのだ。ここから前進するなどと、考えただけで総毛立つ。  だが、やらなければならないことだ。  二人は全身の力を振り絞り、無限に思える一メートルを詰めていく。  徐々に、徐々に、ゆっくりと…… 「……やめろ」  背後から迫ってくるその光景に、シュライバーは瞠目した。なぜこんなことが起きている?  轢いたのだ。潰したのだ。己の背後に広がるのは屍であり、振り返って見るのは勝利という名の〈轍〉《わだち》でなければならないのに。  やめろ触れるな近づくな。気持ち悪いんだよ離れろ劣等――! 「粉々にしてやる」  さらに速く、無限に速く、誰もついて来れない速度で駆けてやろう。  振り落とそうなんて甘いことは考えない。  その魂の一片まで、超音速に消える屑となれ。 「おおおおおおおおォォッッ―――!」  渾身の雄叫びと共に、さらなる加速を始めるシュライバー。  砕ける大気の断末魔が物理法則すら超越し、誰も見たことがない禁断の速度域まで〈悪名の狼〉《フローズヴィトニル》は疾走する。 「ぐ、おぉ……」 「き、っつゥ……」  だというのに、纏わりつくストーカーが離れない。ついにシュライバーは激昂した。 「なぜだ! なんで離れないんだよ半端な生き物のくせによォッ!」  有り得ないことだ。許せない不条理だ。こんな茶番を認めるわけには断じていかない。  男女の結合による〈絆〉《アイ》なんて、戯けた絵空事であることを自分は誰よりも知っている。  そんなものは“無い”のだ。有り得てはいけないのだ。総てを呑み込む虚無の穴こそがこの世の真実。 「ああ、銃が、銃がない!」  あの鎖さえ外してしまえば、こいつらを粉々にすることが出来るのに。  だけど嫌だ――触りたくない。  銃が、銃が、銃さえあったら―― 「恋、人…なんだろ? 随分、つれねえ、反応するよな」 「黙れェッ!」  そんなものも“無い”。雄も雌も悉く、下等でくだらない生き物だ。  そんなものに負けるわけにはいかない。  負けたら――ねえ、僕の生は何だっていうのさ。 「滅びろ」  そうだ、総て死に絶えろ。  堕としてやる。  二度と這い上がって来れないように。  僕は怒りの日の先陣を駆ける〈大隊長〉《エインフェリア》。一番最初の獣の牙だ。  誰よりも早くハイドリヒ卿に挑み、誰よりも早く忠誠を誓った。  行くぞ。これが真の魔高速――その時ヴァナルガンドが変形を始めた。  エンジンが、ハンドルが、シュライバーに絡み付いて融合し――  遍く総て悉く、僕の牙で冥牢の底に沈むがいい! 「〈Fahr’hin,Waihalls lenchtende Welt〉《さらば ヴァルハラ 光輝に満ちた世界》」  砕け散る轟風の中、破滅の〈詠唱〉《のろい》が紡ぎ出される。狂乱の〈白騎士〉《アルベド》ウォルフガング・シュライバー、その奥義が今ここに。 「〈Zarfall’in Staub deine stolze Burg〉《聳え立つその城も 微塵となって砕けるがいい》」  創造位階――何よりも速く誰一人として触れられない、そうした世界を生み出そう。 「〈Leb’wohl, prangende Gotterpracht〉《さらば 栄華を誇る神々の栄光》」  最速たること。彼の思うその定義とは、光速超えなどでは無論なく。 「〈End’in Wonne, du ewig Geschlecht〉《神々の一族も 歓びのうちに滅ぶがいい》」  触れられないようにするには一つ。ただ相手よりも速いこと。  それを求めた。それのみを願った。過不足なく単純に、僕を犯そうとする奴にさえ捕まらなければそれでいい。  だから―― 「〈Briah〉《創造》――」  ここにその渇望をルールに変えよう。  あらゆる〈枷と鎖〉《グレイプニル》を断ち切って、天地を喰らう狼と化せ―― 「〈Niflheimr Fenriswolf〉《死世界・凶獣変生》――」 「ぁ―――」  呪言が完成したのとまったく同時に、司狼は奇妙な感覚に包まれた。  シュライバーが最強の加速に入ったせいか、ついに千切れ飛んだ〈命綱〉《くさり》のことさえ気にならない。  このまま地面に激突すれば、疑いようもなく粉微塵となって絶命するのは分かっているのに。  なぜだろう。もうそんなことはどうでもよくて…… 「今……」  今、もしかして既知感が…… 「〈Miðgarðr Völsunga Saga〉《人世界・終焉変生》」 解放の号令と共に、鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》がその本性を曝け出す。それに伴い拡大する圧力は無双の極致。奴の戦意に直撃されたというだけで、身体が粉々に砕けそうだ。 「いきなりかよ……」 様子見や小手調べなど一切ない。初手から全力を発揮する気だ。それがどれだけ俺にとっての脅威になるか、嫌になるほど分かっている。 漆黒に染まる鋼鉄の双腕。そこから滲み出る不吉な気配が大気を伝播し、肌の温感すら狂わせている。あれが放射している鬼気は剣呑どころの騒ぎじゃなく、文字通り触れれば致命という死の塊なのだろう。 なぜなら、ヴァレリア・トリファを斃した拳だ。攻撃の必殺性では、明らかに俺の方が劣っている。 ラインハルトとの戦いで痛感した。俺は未だ、聖餐杯を断てるほどの力を得てない。しかしこいつは、それを苦もなく行える領域にあり―― 「行くぞ」 重く寂びた声と共に、鋼の偉丈夫が前に出る。瞬間、俺は飛んでいた。 傍らを通り過ぎた拳圧は、重火砲の爆撃に匹敵する。単純な威力だけでも、一発でタワーの全質量を粉砕した凄まじさは伊達じゃない。 「―――ッ、ッ」 発生した轟風に巻き込まれないよう、身体を引き千切るようにして距離を取った。こいつの間合いで戦うのは、いくら何でも危険すぎる。 しかし―― 再度、振り下ろされる必滅の拳。まるで俺の回避方向と着地点を最初から知っていたかのような、一切の無駄がない立ち回りは不可解すぎる。 こいつはそれほど速くない。常人と比べられるものじゃないが、ヴィルヘルムよりやや劣るというくらいだろう。 だというのになぜ――? 創造を発動し時の体感速度を遅らせている今の俺が、こいつに捉えられることなど有り得ない。 「ぐッ――」 駄目だ、今は考えるな。とにかくこれを回避しなければ始まらない。 もっと速く、もっと遅らせて、限界など無視しろ躱せ――! 「ああああァァッ……!」 間一髪、腰の筋肉がねじ切れる勢いで身体を逸らした。なんとか直撃だけは凌いだが、拳圧そのものまでは無視できない。発生した爆風に巻き込まれる。 錐揉み状に回転しながら、一気に数十メートル飛ばされた。そしてさらに追ってくる〈黒騎士〉《ニグレド》の重圧は、巨大な氷山を思わせる。 「こいつ……!」 それで悟った。この男は俺と戦い、殺すことしか考えてやがらない。明らかに今まで対した奴らとは系統が違う。 そこに愉悦はなく、狂騒もない。ただ一つのことだけを追い求め、それに縛られている機械を相手にしているようだ。 ふざけるなよ。俺に何の恨みがあるのか知らないが―― 「〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈か〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》ッ!」 怒号は、なぜか口にした瞬間、身体が消えるような感覚を味わった。 しかし、それとはまったく対照的に腕が動く。この危機から逃れ出るため、意思とは無関係に最良の手段を選択する。 まるで、俺も機械のように―― 水平飛行していた状態から瓦礫に刃を突き立てて、一気に丸ごと引き抜いた。その行為を実現するのに、どれほどの怪力を要するかなど俺は知らないし分からない。 ただ、結果だけは明白に現れる。乗用車の大きさに等しい岩塊をぶつけても無論マキナは止まらないが、それでも僅か刹那だけ突進の速度が鈍った。 そう、刹那だけ。刹那だけでもあればいい。 今の俺に、その猶予は百倍以上の効果がある。加えて重量のある岩塊を投じたことが、水平飛行のベクトルを曲げることすら可能にしていた。 それらを合わせて、勝ち得たのは一瞬のカウンター。 「おおおおおォォォッ――」 全身のバネをしならせて、追撃を躱しながら蹴りを放つ。体勢の関係から右手を叩き込むことは出来なかったが、この際贅沢は言ってられない。 空中で繰り出した渾身の廻し蹴りが、マキナの側頭部に叩き込まれた。その衝撃は頭の先まで駆け抜ける。 だが…… 「――――――」 今、何か奇妙なものが…… 我に返った時、俺は弾け飛んで瓦礫の山に激突するマキナの姿を呆然と見ていた。 地震のように足場が揺れる。今のが必殺となったかどうかは不明だが、これだけの大威力をぶちかませば奴もただではすまないだろう。 だから寝ていろ。もう立つな。頼むから出てこないでくれ。 身体が震える。蹴った足から伝わる痺れが全身に広がって、寒気にも似た感覚を覚えていた。 武者震い、ではない。 気のせい、でもない。 今も鳴動している空の方陣が生む悪寒でも―― 他の大隊長と対峙している司狼らを心配する焦慮でも―― ない。そんなことを考える余裕は絶無だ。 これは俺が個人的に、直面している現状に対してのみ感じている恐れだろう。 〈黒騎士〉《あれ》と戦うな。戦ってはいけない。 その強迫観念めいた気持ちは、決してマキナの強さに起因するものじゃなかった。 今さらどんな強者が出て来ようと、そんなことで恐怖に震える神経なんかとっくの昔に超越している。 だから違う。違うのだ。 痛みや死の危険なんてものじゃなく、この戦いが意味する事実そのものが―― 怖い。 知るのが俺は恐ろしいと。 「ぬるいぞ」 瞬間、瓦礫の山が風葬されていくように、塵となって掻き消えた。 「何をいつまでも寝惚けている」 そこから現れる漆黒のSS軍装。破壊の爪跡を後ろに背負い、こちらを見据える暗い瞳にデジャヴを覚える。 俺は前にも、この光景を見たような…… 戦場に立つこの偉丈夫を、過去に見知っているような…… 「違う……!」 違うと、頭を振って否定した。余計なことを考えている場合じゃない。ただ目の前にある脅威をそのままに受け止めろ。 いかに右手のギロチンを叩き込んだわけじゃないとはいえ、あれだけ全力で蹴り飛ばしたのにこいつは何のダメージも受けていない。 首を回しながら出てくる顔は頬が僅かに裂けていたが、あれが負傷ではないことくらい容易に分かる。 なぜなら、その下から覗くものはどう見ても人間の身体じゃなかった。 なんだこいつ、何なんだ? 「機械……だと?」 血が一滴も流れない皮膚。鋼で編み上げられた筋繊維と骨格。 あの双腕は義手か何かだと思っていたが、違うのだ。 こいつは全身――全身が鋼鉄。 「何を驚いている。おまえも似たようなものだろう」 まるで人型の戦車だ。こいつは物理的な意味において、文字通り骨の髄まで人間じゃない。 人間部分を悉く捨て去っている。おそらくは脳までも―― 「共にカール・クラフトの玩具だ。兄弟にそんな目で見られるのは心外だな」 「兄弟……?」 こいつは何を言っている。俺はおまえのことなんか知らない。 知らないはずなんだ。ワケの分からないことを言うんじゃねえ。 「おまえのことは、よく知っているぞ」 だというのに、鋼の化け物は光のない目で俺を見る。 哀れむように、羨むように、鏡を見るような目で淡々と。 「殺す前に、一つ聞きたいと思っていたことがある。答えてくれ」 「なあおい、俺達はどうして死んだか覚えているか?」 「――――――」 意味が、まるで、分からない…… 「俺は覚えていないのだ。ゆえにそこは、おまえが持っていったのかもしれんだろう?」 「戦場……だったか、そんな気もする。では誰に? 何処で? どうやって?」 「分からんのだ。思い出せない。砲火を受けた時の熱さ、棺桶となった〈戦車〉《ティーゲル》での絶望。……ああ、それとも安息なのか、よく分からん」 「ある日気付けば、俺はハイドリヒの城にいた」 茫と宙に視線を向けつつ、天の方陣を見上げる〈黒騎士〉《ニグレド》。隙だらけで攻め込むなら絶好の機会だったが、なぜか最初の一足を俺は踏めない。 踏んではならないような気がするんだ。こいつの話に耳を塞ぎたい傍らで、聞きたがっている別の俺がもう一人いるような…… 「そういえば、まだ名乗っていなかったな。無意味だが、言っておこう」 「聖槍十三騎士団黒円卓第七位――」 第七位。 それは確か、教会の地下でラインハルトと対面した時、俺が座った席じゃないのか。 「大隊長、ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン……他の者らは〈幕引き〉《マキナ》と呼ぶが、どちらでも構わん。おまえも好きにすればいい」 「俺は名などどうでもいいのだ」 なぜならこいつは、おそらく自分の本当の名前すら覚えていない。 「―――――」 連続する破滅の拳に追い詰められる。たった一発食らっただけでも致命傷となる攻撃に、神経が削り取られていくようだ。 しかし―― 「城にいただと?」 俺は数多の疑問と感情に当惑しながら、口だけは別の生き物のように話の先を促していた。 「やはり気になるか。それは確かにそうだろうな。俺はおまえに、正直同情しているよ」 「渇望に喰われて単一思考しか出来なくなった者など人ではない。俺よりもおまえの方が、そうした意味でよっぽど負に寄っている」 「知っているぞ、繰り返したいんだろう?」 「――――――」 絶句、していた。なぜこいつがそんなことを…… 「行くべき戻る場所。前のめり駆け抜けて、辿り着く〈帰還〉《かこ》など矛盾だ。理屈が立たないと子供でも分かる」 「ゆえに地平は直線でなく円。星と同じく、回る円環」 「そこを何周でも回り続ける。速く、速く、甘美な今、愛しい過去を無限に味わい続けるため、未来を超速で駆け抜けつつ吹き飛ばす」 「疾走する停滞。おまえの渇望はそれだろう。よく知っているよ」 正直、もはや声もなかった。自分の口でさえ上手く説明できるとは思えなかった俺のことを、こいつは僅か数言でこの上もなく的確に表現している。 ああそうだ。俺は通り過ぎた日々に帰りたい。そのために前のめり疾走する。 それは繰り返し続けるということ。人生が円環なら、世界を回る旅の中で日本以外をかっ飛ばす。そういう真似を実現できたら、一点で止まり続けているとも言える理屈だ。 「俺はそうした旅に倦んでいてな。別の停止に憑かれたのだ、すなわち――」 鋼の拳が握り込まれる。軋むような音を立て、総てを砕き終わらせようと―― 「死だ」 放たれた一撃を、俺は無意識に躱していた。反射と言うより、こいつの攻撃を前もって知っていたかのような感覚で。 予知ではない。洞察力とも近いが違う。 当たれば必殺の一撃を恐れ気もなく回避しつつ、被せるように放ったギロチンをやはりマキナも難なく躱した。 応酬は、共に紙一重の一髪千鈞。にも関わらずまるで当たる気がしないし、当てられる気がしない。 傍から見れば危険極まりないだろう攻と攻の競い合いは、しかし完全な千日手に陥っていた。この状況をたとえ十年続けようが、お互いに掠りもしないと断言できる。 近すぎるのだ、俺達は。まるで鏡を前にしたシャドゥボクシングでもしているようで、この先決定打を放てるとは思えない。 どういうことだ。いったいどういうことなんだ。 長引けば長引くほど、さらに動きのシンクロ率が上がっていく。俺がマキナに近づいてるのか、マキナが俺に迫っているのか、もはやそれすらも分からない。 ただ、手数は圧倒的にこちらの方が多かった。速度と攻撃の回転率は、技の性質上俺が勝って当然のこと。なのに勝負がつかない現状は、マキナの方がより巧者である事実を示している。 ならば、まずい。この速度域を維持できなくなった瞬間に均衡が崩れる。 俺が十攻める間に、二か三という割合で返すマキナ。このバランスこそが膠着している天秤なのだ。こちらの攻めが八以下に落ちた時、一気に戦況を覆される。 だったら―― 加速の切り返しで砕き割れる大地を踏みしめ、焼き切れる寸前の筋肉、神経、骨の軋み、それら総てを一切無視した。余力を残そうなんて甘いことを考えていられる状況じゃない。 過剰供給されているアドレナリンを、脳が爆発する勢いでさらに全身へ流し込め―― 「ッ、ッ、ッ……」 鼻と口から血が滴る。眼球の毛細血管が破裂して、血涙と共に両耳からも血を噴いた。 これ以上の加速は命に関わる。だけど構わない、限界を超えろ。 どだいここを凌げぬようでは、どう足掻こうとラインハルトには届かない。 どけよ、この戦車野郎。おまえと違って俺はまだ、この先ってやつが待ってるんだ――! 「やはり――」 全身の悲鳴を度外視して、限界突破する加速に入ろうとした矢先のこと。 「そうきたな」 「――――――」 大地を陥没させる踏み込みと共に、マキナが俺の足を踏み潰していた。 「言っただろう、おまえのことはよく知っている」 加速に入る瞬間の軸足を狙われていた。こいつの攻めを肌で感じ取れるのは拳に限定したものであり、腰から下はまるで予測できなかった。 油断と言えば油断。焦燥が原因と言えばその通り。 だが今、この状況で、そんな一手を読める奴が果たして何処にいるという―― 「俺とおまえはな、兄弟」 共に肩が触れ合う至近距離。しかしそんな間合いのずれなど、この男には関係ない。 一発で終わる。一撃で必滅させる。 たとえ何者であろうとも、物語を終焉させる〈幕引き〉《マキナ》の拳には抗えない。 「何処とも知れぬ戦場で共に斃れ、ハイドリヒの城で目覚め殺し合った戦奴だ」 上体を捻転させ、大砲を放つ隙間がそこに生じる。足を踏みつけられた俺には、それを躱す術がない。 終わる――次の一撃をまともに食らう。 「おまえとこうして戦うのは、これが初めてではない」 「〈第七〉《ズィーベン》、俺は〈十三〉《ドライチェーン》の天秤」 「クラフトの筋書きを左右させる権利を持つ」 今、その幕引きが落とされて―― 「〈さらばだ、戦友〉《アウフ・ヴィーダーゼン・カメラード》。俺達の戦場はこれで終わりだ」 「共に真のヴァルハラへ行こう」 一撃必殺の衝撃が、俺の心臓に炸裂した。 「―――――ァッ」  身体の中心に亀裂が走り、ガラスのように砕け散っていくのを感じ取れる。  馬鹿な、ちくしょう……これでもう終わりなのか。 「マリィ……」  すまない。  俺は結局、何の約束も果たせずに…… 「ううん……」  否定する、声。落ちていく意識。 「わたし、いっぱい貰ったもの」  砕ける刹那に、俺はそんな夢を見る。 「触れ合えることも、笑い合えることも。 大好きだって、思える気持ちも……」  だけど、だけどそんなもの……これが結末じゃ何の意味もないじゃないか。  俺は怖いよ。  苦しいよ。  痛いのなんか平気だし、死ぬのだって怖くない。  だけど俺は、ただマリィ――  君の手を離すことが、何よりも辛く思えて―― 「だったら……」  うん、そうだね。わたしも同じ。  わたしもあなたに、言わなければいけないことがあるの。 「ねえ、聞いて」  囁きはある事実を告げるために。 「わたしの胸に穴が空いたの」  聖槍に貫かれたその場所から、今まで得たものが流れ出ている。  喪失ではなく、漏出でもなく、自分が広がっていくような不思議な感覚。  総てを抱きしめられるような。 「あなたに貰ったものがみんなを包むよ」  それはなんて優しくて、なんて綺麗な宝物。  無くしちゃいけない、日常の海にある宝石の欠片。 「だから、勝って」  そしてお願い、死なないで。  その望みを叶えるために。 「わたしがみんなを抱きしめるから」  今はこの手に、得られるものが存在すると知っている。  大丈夫、触れ合えるよ。もう零さない。  たとえ無限に広がっても…… 「わたしがいなくなることなんて、ないと信じて」 「ほぉ……」  天摩する方陣の上、黄金の瞳が喜悦に細まり。 「これはこれは」  姿無き水銀は、揺れる波動でその心情を吐露していた。 「妬けるか、カールよ」  返答は忍び笑い。二人は同時に詩を吟じる。  祝いを贈ろう、今ここに。 「〈Oh! Welchen Wunders höchstes Glück!〉《おお 至福もたらす奇跡の御業よ》」 「〈Der deine Wunde durfte Schließen,〉《汝の傷を塞いだ槍から 聖なる血が流れ出す》」  そうだ、今こそ―― 「この〈既知感〉《ゲットー》は破壊され」 「次なる新世界へと超越するのだ」  その奇跡が起きる間際、時間にして数分前へここで一端遡る。  なぜなら、総てはまったく同時に起こったことなのだから。  それを偶然と言うのは道理だろう。誰も意図して狙っていたわけではない。  だが、“そうしたもの”はなべて必然の積み重ねで発生する。  そう、総てに意味ありし。  この最終戦に関わる全員の一挙手一投足、それが招いた〈偶然〉《ひつぜん》なのだ。  ゆえに、ここで遡るのはその事実を正しく認識するためのもの。  心得違いをしてはいけない。神の見えざる手など存在しないと、ここに強く言っておこう。  人の意志。そは不可侵。  〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「何もしないことを選択したのだ」  そう呟いて、カール・クラフトは微笑した。  耳には剣戟の音が聴こえる。  目は弾ける火花を捉えている。  鼻は、まだ辛ろうじて健在だった。焦げ付く肉の匂いが分かる。  だけど―― 「はッ、ああああああァァァッ―――」  裂帛の気合いをあげる舌の感覚はもう消え去った。口は利けるが、声を出しているという実感なんて何処にもない。  痛みは、もはやないも同じで……  すでに左腕は火を噴いていた。右膝は関節が消し炭となり、折れないのが不思議に思える。  螢の髪も、螢の顔も、紅蓮の炎に巻き込まれて原型など残っていない。  戦場は灼熱。  この相手と切り結ぶというだけで、辺り一帯が超高熱の地獄と化した。  巨大な橋の鉄骨すら溶解を始めている。飴のように歪みながら、自重で倒壊していく様は幻想的ですらあるだろう。  断言して、今までの螢であったら数秒たりとも耐えることは不可能だ。  熱の深度、火炎の質があまりにも違いすぎる。  火はより巨大な火に呑み込まれるとエレオノーレは言っていた。その通りだろう。  〈赤騎士〉《ルベド》が操る獄炎は、かつての螢が揮った〈火〉《もの》とは比較にならない。ライターで核兵器に挑むくらい、桁が違いすぎている。  だから――だからこれが最善の選択なのだ。 「―――ッ、ァァッ――」  彼女と勝負を成立させるためならば、素の耐久力を上げるしかない。痛みを忘れ、四肢を燃やされ、なお戦闘を続行できる〈不死人〉《エインフェリア》に。でないと一瞬で打ち負かされる。  ここはさながら〈大焦熱地獄〉《ムスペルヘイム》。  あらゆるものを蒸発させる、炎魔の世界なのだから。 「寒いな」  しかし、にも関わらず〈赤騎士〉《ルベド》は汗一つかいてなかった。こんなものは序の口以下だと、寒くさえあると言って憚らない。  つまらない。つまらないぞ興醒めだ。  猛る熱波とは対照的に、凍てつく眼光がそう言っている。  実際彼女は、最初の一発を撃って以降、まるで攻撃に出ていなかった。  素手のまま螢の剣を捌き続け、窮した様子が一切ない。  周囲に発生している火炎流は、〈赤騎士〉《ルベド》が手足を動かす際の単なる追加効果なのだ。呼吸をすれば埃が舞うのとまったく同じで、そこには何の意図もない。  ならば確かに、〈吹〉《 、》〈け〉《 、》〈ば〉《 、》〈燃〉《 、》〈や〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》螢などは小虫に等しいものだろう。 「〈Panzer〉《パンツァー》」  いきなり、その背後から槍のように火器が伸びた。先端部が鳩尾を抉り、爆発する。 「〈Feuer〉《フォイア》」  ゼロ距離から発射された炸薬弾の一撃に、螢は血煙をあげて吹き飛んだ。  それがもたらした衝撃は、内臓の幾つかを間違いなく破壊している。 「がッ――……」  四つん這いに手をついたアスファルトは溶け崩れ、タールの中に指が沈んだ。吐いた血反吐は落ちる前に蒸発して残らない。  火炎地獄の中で螢は、全身の体液が沸騰している音を聴いた。 「無駄に頑強だな。風穴を空けてやるつもりだったが」  胸元で爆ぜたパンツァーファウストは、元々貫通を目的とした兵器ではない。だが〈赤騎士〉《ルベド》の手元にある以上、まともな物ではないのだろう。  もっとも、螢にとってそんなことはどうでもいい。負傷と苦痛をほぼ無視できる今ならば、一撃で蒸発させられない限り戦える。 「はああああァァッ――」  だから攻める。特攻する。絶対に諦めない。 「猪だな、まるで」  エレオノーレは、そんな螢を呆れて見下ろすだけだった。上段からの打ち下ろしを難なく躱して、今度は蹴りを叩き込む。再び吹き飛ぶその姿に、土産をつけることも忘れない。  軽く彼女が指を鳴らすと、空中で爆発が巻き起こった。弾けながらもんどりうって、螢は火を噴くタールの海に落下する。  そのまま沈んでいく前に―― 「立て」  今度は二十挺を超えるシュマイザーが火を噴いた。波打つタールが飛沫を散らし、無数の火種となってさらなる灼熱地獄を作りだす。  それを異常とは思わない。聖遺物は原則一人に一つだが、ルサルカのように同一概念を一式持ち歩いている者もいる。  今現在、司狼が継いでいるのは拷問器械の集合体だが、エレオノーレは火器の塊。まさに一軍団の総火力を引き連れていると言っていい。  地雷に突撃銃や手榴弾。対戦車砲や高射砲の類まで。  元々、彼女の核となる聖遺物は、巨大さにおいて黒円卓でも比類がない。  個人が持ち歩く武装という概念を超越した、一種の戦略兵器である。  かつては稼動させるだけでも数千人の兵を要し、軍と共に移動を続ける荒唐無稽な大火砲だ。自らの一部として数多の火器を従えるのは、むしろ当然のことだろう。  これは戦闘でなく、戦争。個人の武など、万を超える火器の槍衾で制圧するのみである。  すなわちエレオノーレは、螢を相手に決闘の真似事をする気はないということだ。 「〈雑人輩〉《ぞうにんばら》に剣など抜かん。らしく揉み潰されるのが似合いだろう。 気に食わぬなら立てよ小娘。達者なのは口だけか?」 「……、……ッ…」  燃えるタールの海に沈みながらも、螢はなんとか立ち上がった。すでに満身創痍どころではない。  もう魂の七割がたは奪い取られた。触覚と嗅覚はほぼ完全に喪失して、視覚も怪しくなっている。聴覚だって、いったいどこまで保つものか……  そう、これで…… 「狙い、通り……です」 「なに?」  不穏当な発言に、エレオノーレは眉を顰めた。追い詰められて狂を発したとしか思えない。  その様が狙い通り? 何を戯けたことを言っている。 「そんな余裕はないはずだがな」  螢が時間に追われていたのは分かっている。偽槍に吸い尽くされて自我そのものが消える前に、彼女はエレオノーレを斃そうと試みていた。  そして、それは残らず徒労に終わっている。打倒どころか一矢報いることも出来ぬまま、魂がゼロになるのはもはや秒読み段階だろう。  本来なら、こうして会話をする時間も余裕もありはしない。先ほどまでがそうだったように、寸毫の時も惜しんで猪突猛進するのが常套だ。  なのに螢は、むしろ静かな佇まいで立っている。全身を焼痕に覆われて、魂の大半を奪われて、半死人と言っても足りないほどの有様なのに……  放っておいても勝手に死ぬ。その状態で時間を無駄にする意図が見えない。 「ザミエル卿、私はあなたの美意識にそぐいませんか……?」  なおもそんなことを言う螢に対し、エレオノーレは懐疑の目を向けて沈黙した。彼女は激情の気質だが、同時に高度な戦術眼も有している。半端な策に嵌るような愚かさは持ち合わせない。  観察して、推察して、分析して、見極める。結果どう考えても、この小娘は間抜けとしか思えなかった。せいぜい遺言代わりの恨み言か、その程度にすぎないだろう。 「…………」  なるほど。  ならばそれでよし。付き合ってやろうではないか、遠吠えに。 「続けてみろ」 「まず、こちらの質問に答えてください」 「ふん、私の美意識だったかな」  鼻で笑って、エレオノーレは問いに答えた。 「ああ、そうだ。貴様は私の美意識に抵触するよ。 率直に言って、反吐が出る」 「なぜです?」 「なぜだと? 愚問だよ、戦場を知らぬからだ」  それは比喩の類ではない直言だった。エレオノーレは螢の戦いとその背景を、微塵たりとも許容してない。 「数百かそこら血を浴びたから何だ。友や家族を失ったからどうしたという。そんなものは貧困の国にでも行けば日常の光景だろう。愚者や棄民の所業であり、泣き言にすぎん。 戦場は、兵士の本分を弁えた者にしか理解できない。焼け出され、人生を喪失した女子供は哀れだが、そうした者らが訳知り顔で語ることを私は許さん。決して認めん」 「クリストフも、ブレンナーも、そして貴様も……分かってない者とはそうした〈奴輩〉《どはい》のことを言う。 貴様らの抜かすことはいつもこれだ。愛を? 取り戻したい? 罪を償う? ほざけよ酔漢紛いの戯けどもが。 だから戦場を知らぬと言っているのだ。兵士は死者の蘇生など求めはせん。 いかにして己は死なず、いかにして他者を殺し続けるか。〈兵士〉《われわれ》はそれだ。戦場とはその原理だ。背後の死体に取り縋って泣いているような貴様らは、兵士でないゆえに戦場を理解していない。 分かるか、だから払うのだよ」  至高の聖戦に紛れ込み、埒もない真似を続けて興を削ぐ似非者ども。ならばそれらしく払ってやろう。焼け出された場所で炎に包まれ、悲劇に好きなだけ酔いしれるがいい。 「泣くのが好きなのだろう?」  己は罪深く無力だと、自慰に耽るのが好きなのだろう? 「反吐が出る」  虫唾が走るのだ。その手の輩がいっぱしの戦士面をすることが。 「だからバビロンを?」 「そうだ」 「猊下を?」 「無論」 「そして私を?」 「ああ、よく分かっているじゃないか」  喉を鳴らして笑うエレオノーレは、むしろ優しげでさえあった。  それが貴様たちの分際相応な末路であり、祝福だろうと。  悲劇の主人公になりたいなら、その役を与えてやろうと。  結末は、言うまでもなく死、あるのみ。 「これは衛生上の問題だ。貴様らは臭い。生かしてはおけない」  害虫でも駆除するような冷めた声で、〈赤騎士〉《ルベド》はそう断言する。 「剣など抜く価値もない。一掃するだけだ、貴様らなどはな」  彼女は螢を蔑んでおり、度し難い匹夫としか見ていない。  そんな者に己の〈真価〉《けん》を見せる必要などないと言う。 「なるほど、よく分かりました」  しかし、その辛辣どころではない面罵と嘲弄を受けながらも、螢は静かに頷くだけだった。まるで堪えた様子がない。  彼女も性根は激情家である。自分の人生と信念を全否定されて、なお平静を保てるようなタイプではない。  外見はどうであれ、内では煮え繰り返っているはずなのだが…… 「私は戦場を知らないと、確かにその通りなんでしょうね」  螢の静けさは本物だった。内も外も、今は完全に凪いでいる。 「ですがザミエル卿、私は別に、戦士気取りなんかしていませんよ」  ただ必死だっただけだと。善悪は知らないと。 「むしろあなた達が迷惑です。〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈合〉《 、》〈い〉《 、》に栄光だの、誇りだの、つまらない美辞麗句を装飾して、それが素晴らしいものであるかのように仕立て上げる」 「悲しいんですよ、奪われると。苦しいんですよ、奪うのも。私もそれをばら撒いてきた馬鹿ですが、戦場とやら、嫌いです。 ええ、あなたの美意識に抵触して結構。嬉しいですね、一緒にされたくありません。 あなた方のような人種が、人類の癌だ」  〈戦場〉《じごく》こそが己の桧舞台であるかのように思っている。  そんな場所で輝ける者にしか、人の価値を見出さない。  ああ、迷惑だ。本当に迷惑だその思想。 「効率的な殺人以外、あなたは何の役にも立たないのでしょう。パンを焼くこともできない」  人を愛することも知らない。 「無能は誰ですか、ザミエル卿。世界に居場所がなくなったのは、あなた方がくだらない戦争屋だからですよ。限られたサブカルチャーしか知らなくて、その話ばかりをするから敬遠される空気読めない人達と変わりませんね。 自分の世界は凄いのだと、妄信して叫び続けなければ呼吸すらできない。 総てをその色に染めないと、誰からも有用とされない自分が矮小すぎるから立っていられない」 「私が悲劇に酔っているなら、あなたは血と戦火に酔っている。……まあ、両方馬鹿でしょうが、あえて言うなら頭おかしいのはどっちでしょうかね。 見苦しくて迷惑なのは、誰ですか?」  衛生云々言うならゴミはどっち? 「こちらこそ、反吐が出る」  虫唾が走るのだ。その手の輩がいっぱしの人間面をすることが。 「ふ、ふふふふ……」  螢の切り返しに、エレオノーレは笑っていた。  なるほど、中々言うものだと。 「面白いな。ブレンナーあたりが言いそうだ。いや、結構。少し懐かしい気持ちに浸れたよ。 雑魚の論理はいつ聞いても転嫁が軸に座っている。要するにこういうことだろう? 私に優しくしてくれないモノが悪い」 「甘ったれて、恥を知らず、感情のままに喚き散らす女子供の常套だ。してみればこの国の者らは本質を捉える目があるな。知っているだろう、転嫁という言葉は転んだ嫁と書くらしい。 それはあれか? 女が災難に遭えばそういう行為に走ると言っているのか? 考えた奴はどうして洒落の分かる奴のようだな」 「あなたも女のようですけど」 「一緒にするなよ」  冷笑する。自分はそんなものではないと。 「さて、ともかく望み通り話に付き合ってやったわけだが……。 そろそろ教えてくれぬかな。いったい何が狙い通りだ? 時間など稼いだところでどうにもならぬのは知っているだろう?」  むしろマイナスだ。今までの長話で、螢は首まで屍になっている。 「私は、貴様の諦めの悪さだけは評価しているつもりだよ。第七でそう言っただろう?」 「ええ、学校で……覚えています」  全力で挑み、命懸けで戦い、成す術もなく一蹴された。忘れてはいない。  忘れてはいないからこそ―― 「少し確認がしたかったのです。それはもうすみました」 「あなたの気性を正確に把握することと、それから私を――」 「なんだ?」 「いえ、とにかく次が最後です」  構えを取って身体をたわめ、一足飛びに切り込む動作へと螢は入る。それを目にして、エレオノーレもまた迎撃態勢に入った。  結局何を狙っていたかは不明なままだが、しょせん何であろうと構わない。  こちらはただ消し飛ばすのみだ。次の一撃で確実に。 「そういえば先ほど、転嫁がどうだと言っていましたが……」  灼熱の橋上。  燃えるコールタールの海を蹴り、〈赤騎士〉《ルベド》へ走る直前に苦笑する。 「あなただって、ハイドリヒ卿の価値観に気持ちを転嫁しているじゃないですか」  轟砲一閃――それが合図であったかのように、螢は全力で駆けていた。 「惚れた男の言うことは、何でも正しく間違いないって――ずいぶん安っぽい女ですねッ!」  地獄と戦争の塊みたいな男だから、地獄と戦争を全肯定した。要はそれだけのことだろう。 「愚鈍なのはどっちだッ!」  恋人が喫煙者だから、同じ銘柄の煙草を吸い始めるというくらいくだらない。 「〈他人〉《ひと》のことを小娘小娘って――」  ガキはどっちだ。幼稚なのはあなただ。 「その歳で心まで処女だなんて、終わってるのよッ――!」  火砲の灼熱が目の前に迫る。いくら今の自分でも、この直撃を受けたら消滅は免れない。  だから、躱す――そのとき螢の速度が跳ね上がった。 「ぎッ、ぐゥゥッ――」  雷気を帯びて瞬く偽の聖槍。トバルカインがそうであったように、雷速級の体術を螢はここで発揮していた。  偶然ではない。  全身九割まで槍の侵食を許すことで、カインと同等の力を引き出し、今この瞬間に爆発させる。  これが狙い、まずはその一。  魔砲を躱して、速度に乗りつつエレオノーレの懐に入る。  一種の背水であり、消え行く蝋燭の回光返照。  だけど無論、まだ足りない。死ぬ覚悟だけで戦況を覆せるなら、敗北という概念がこの世から消える。  ここからが、狙いその二だ。  槍衾のような機銃の弾幕。敵が戦士と言えない雑人ならば、剣を抜かずに一掃すると彼女は言った。それはつまり、手を抜くという事実に他ならない。  抜刀封じ――〈赤騎士〉《ルベド》の気性を逆手に取って、奥義だけは使わせない。  そのために会話で煽った。彼女自身の口から“そうする”と言わせられれば、たとえ命が危うくなってもプライドが邪魔をする。エレオノーレはそういう人種だと確認したから間違いない。  ゆえに、ここで決め手となる三つ目の狙い。  それは一と二の複合であり、どちらが欠けても成立しない作戦だ。  まず初弾を躱し、これまでにない速度で反応を狂わせつつ懐に入る。  次いで、こちらの手に負えないような超級の技を使わせない。  この二つが成されれば、少なくとも一撃はまともに入る。後はそれが、はたして必殺となりえるか…… 「ぐううゥゥッ――」  シュマイザーの速射に全身が削られる。弾幕そのものを躱してしまえば突撃の推進力が失われるため、ここは被弾覚悟の突破しかない。  肩を穿たれ腹を抉られ、胸が吹き飛び頭や頬も撃ち抜かれた。  それでも止まらない。駆け続ける。  ああ、今の私はどんな顔になってるのだろう。きっとホラーどころじゃないはずだ。  みっともなくなってなければいいんだけど。  一応、だって女だし。鏡も見れないような顔じゃあ恥ずかしいよ。  私の顔が好みとか……そんなことを言われたから気になるじゃない。  お化粧とかしてみようかな。  ルージュはやっぱり赤がいい。  ピンクとかも、好きだけど。  たぶん私に、可愛いのは似合わないから。 「馬鹿……」  苦笑が漏れる。もう諦めたのに。 「何を期待してるの、ほんと馬鹿だよ」  〈不帰還〉《かえらず》の決意はいったい何処に行ったのやら。  頭を撃たれて脳の一部が無くなったのかもしれないな。 「だって私……」  屋上で打ちあげ? 行きたいとか思ってるよ。 「はああああああァァァッ――――!」  そして、ついに機銃の弾幕を突破した。エレオノーレはもう目の前で、そこに何の障害もない。  一点集中――今こそ第三の狙いを実行に移す。  殺意は絞れと言われた。小勢で鶴翼など組んでも意味がないと、他ならぬエレオノーレが言ったのだ。  忠告は聞こう。それをあなたの命取りに変えてやる。  私は〈鋒矢〉《ほうし》の陣形で、〈赤騎士〉《ルベド》の鶴翼を突き崩す。  取るに足らない雑人輩を一掃するため、その陣形を組んだあなたの密度は薄くなってる。  だから届くぞ――軍団を指揮する魂の中核に。 「――――――」  瞠目するエレオノーレ。次の瞬間――  雷気を帯びた〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》が、弾ける紫電の爆発と共に〈赤騎士〉《ルベド》の顔面を抉っていた。 「――――ッァァ」  疾走の勢いを殺せずに倒れこむ螢。  彼女は今の一撃で全精力を使い果たし、もはや立ち上がる力もない。  では、やったのか? 届いたのか?  螢の全身全霊は、敵を打倒し得たのか?  結果は? 「………がッ」  エレオノーレは顔を覆い、苦悶に肩を震わせている。 「きさ、ま……」  指の間から滴る血は、彼女が負傷したことを意味している。  だが―― 「貴様ァァァッ―――!」  怒号と共に膨れ上がる灼熱の火柱は、〈赤騎士〉《ルベド》の健在を告げていた。 「許さんぞ……!」  不発――文字通り命を懸けた螢の一矢は、エレオノーレを激昂させただけだった。未だに片手で覆っている右顔面の傷は不明だが、少なくとも致命傷ではない。  ゆえに、もはや命運は尽きた。  この状況から再逆転など、たとえ夢であっても不可能だ。  他の誰よりも螢自身が、一番それを分かっている。 「ぁ、く……」  届いたのに……確かにこの刃は届いたのに…… 「甘く見るなよ。この程度凌げんで何がハイドリヒ卿の〈近衛〉《エインフェリア》だ。何が不死の英雄だ。 貴様ごときの命などで、私は〈殺〉《と》れん! のぼせ上がるな!」  偽槍の切っ先から亀裂が走り、割れていく。つまりエレオノーレは、素の耐久力で先の一撃を防いだのだ。  密度が薄くなる一点を狙ったにも関わらず、なお致命傷を避けて武器まで砕く――凄まじいまでの不死性は、まさしく〈魔城〉《ヴァルハラ》の〈不死英雄〉《エインフェリア》。  この紅蓮に対する術が、螢にはもう思いつかない。  やはり、どうしようもないほど強すぎる。 「消し飛ばしてやる」  憤怒に燃える声と共に、背後の空間が沸騰した。陽炎のように揺らめいて、史上最大の火砲が姿を現す。 「〈Yetzirah〉《形成》――」  〈奥義〉《そうぞう》は使わない。卑しい匹夫の小娘ごときに、我が〈渇望〉《けん》を開陳するのは死にも勝る屈辱だ。  消滅するがいい、跡形もなく。有象無象を纏めて消し去るこれこそが、身のほど知らずな奴輩の最期に相応しい。  私は英雄と認めた者以外に、己が世界を見せなどしない。  高みに尊く輝く星こそが、真に価値あるものだと知っているのだ。  貴様では、私を焼くことなど出来ぬよ、小娘。 「〈Der Freischütz Samiel〉《極大火砲・狩猟の魔王》――」 「―――――」  空間を押しのけて現れたその威容に、螢はただ絶句する。  なんという巨大さ。  なんという荒唐無稽。  こんな馬鹿げた代物が存在するというだけで狂いそうになる。  それが何かは知っていたが、脳が理解を拒んでいた。  あんな物に、あんな化け物でしかない火砲に今撃たれたら――  私が死ぬだけじゃなく、遊佐君や藤井君までただじゃすまない。 「足掻け。這い回れ泣き叫べ醜態を晒せ。雑魚の死とはそうしたものだと、満天下に知らしめるがいい。 どだい何をしようが逃げられん。私の砲は絶対に外れんのだ」  ドーラ列車砲――800mmの砲弾が走り抜けるバレルが旋回し、地に付す螢へ照準を合わせる。  あまりの大質量が突如出現したことにより、高熱に溶けかかっていた橋が今にも崩れそうなほど揺らいでいた。  エレオノーレは、まったくそんなことに頓着してない。ただ激情に駆られるまま、この付近一帯を残らず消し飛ばす気でいる。 「〈十〉《ツェーン》、〈九〉《ノイン》、〈八〉《アハト》、〈七〉《ズィーベン》……」  もはやノイズが大半を占めている聴覚に、死のカウントダウンが響いてきた。あれがゼロとなった瞬間に、破滅の爆炎が広がるのだろう。  みんな、みんな、みんなを無慈悲に呑み込んで…… 「いやだ……」  涙声になっていることすら、螢は気付いていなかった。  私はいい。私はいいの。  いっぱい殺したし、いっぱい死なせた。  今さら都合のいい結末なんて求めていないし、ここで死んでもそれは報いだって受け止められる。  だけど、だけど他のみんなは……  嫌いだよ。別にあんな人たち好きなんかじゃないんだから。  ただ、頭にくるほど馬鹿ばっかりだし。  気になるんだもん。ほっとけないんだもん。  死なせたくないって、思うんだもん。 「お願い……」  誰に祈っているのかも分からない。  何に縋っているのかも分からない。  しかし螢は、今や正真の屍でしかない身体を意志の力で動かしていた。  その手に握るのは、砕け散る寸前の〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》―― 「力を貸して……」  これが最後。本当に最後の悪足掻き。  無駄なことは分かっているし、泣いて祈れば叶う奇跡なんて信じない。  だけど諦めきれないから……  最期の瞬間まで自分は自分であったと思いたいから……  振りかぶる。投擲の態勢。  力を乗せられるはずがないし、上手く命中しても〈赤騎士〉《ルベド》を刺せるとは思えない。  こんなボロボロの槍を使って、あの装甲を貫けるわけがないのだ。 「でも……」  信じてるから、と呟いて。 「助けて兄さん、ベアトリス……」  螢は、彼らの遺品を投じていた。 「〈二〉《ツヴァイ》、〈一〉《アインス》……」  そして、狩りの魔王が火を噴く瞬間。 「〈Niflheimr Fenriswolf〉《死世界・凶獣変生》――」 「共に真のヴァルハラへ行こう」  それは黒円卓の完全勝利。  三つの局面は総て彼らに軍配を掲げ、終焉を迎えようとしていた。  そう、まったく同時に、秒瞬の狂いもなく。  それを偶然と言うのは道理だろう。誰も意図して狙っていたわけではない。  だが、“そうしたもの”はなべて必然の積み重ねで発生する。  総てに意味ありし。  この最終戦に関わる全員の一挙手一投足、それが招いた〈偶然〉《ひつぜん》なのだ。  ゆえに―― 「〈Oh! Welchen Wunders höchstes Glück!〉《おお 至福もたらす奇跡の御業よ》」 「〈Der deine Wunde durfte Schließen,〉《汝の傷を塞いだ槍から 聖なる血が流れ出す》」 「わたしがみんなを抱きしめるから」  ここにもう一つの覇道が流れ出す。 「な………」  その時、エレオノーレは自分に何が起きたのか分からなかった。  あまりにも唐突すぎて。  あまりにも不明すぎて。 「馬鹿、な……」  首から血が迸る。かつてマリィに受けた傷から再び止め処なく溢れ出て、不死の〈赤騎士〉《ルベド》に致命傷を与えていた。  元来エインフェリアとは、黄昏と共に無限の復活を繰り返す者らである。ラインハルトがいる限り彼女は何度でも蘇るが、それは一度ずつなら殺せるということに他ならない。  そしてこれが、エレオノーレの経験する初めての死だった。  ゆえに理解が追いつかない。困惑して呆然とする。  以前は瞬時に塞がり消えたのに、なぜだ、なぜだ――なぜ今頃――  なぜ今いきなり、この傷が開くのだッ!? 「がッ………」  謎の出血に意識を奪われ、彼女は螢の一投を完全に見逃していた。  その傷口をさらに抉り、〈黒円卓の聖槍〉《ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス》がエレオノーレを串刺しにする。  ……いや、違う、これは…… 「ッ、は……、キルヒ、アイ、ゼン」  外殻が砕け散った呪いの槍は、内部に別の物を呑んでいた。  銀に輝く騎士剣が稲妻を纏った姿でそこにある。 「そんな……」  驚愕は、螢も同じことだった。エレオノーレの変調も、槍の中に彼女の剣があったことも……  そして、ついさっき一瞬だけ、何か奇妙な感覚に囚われたことも。  気のせいかもしれない。だけど確実に“それ”はあった。  槍を投じてから命中までの刹那、時間が止まった気がしたのだ。  いわゆる死線の集中力では片付けられない。  だって、〈投〉《 、》〈じ〉《 、》〈た〉《 、》〈槍〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》〈止〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈時〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈を〉《 、》〈常〉《 、》〈速〉《 、》〈で〉《 、》〈飛〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  あれがなければ、躱されていた確率が非常に高い。エレオノーレは時間停止に巻き込まれ、文字通り硬直した状態で止めの一撃を受けてしまい……  そのことは、しょせんこの場の二人には理解し得ない現象だったが。 「どうやら、私たちの勝ちみたいです、ザミエル卿」  螢はこれを勝利と信じ。 「おの、れが……忌々しい」  エレオノーレは、ここでの敗北を認めていた。 「まあ、構わん、さ……ハイドリヒ卿は、誰にも負けん。 図に乗るなよ、小娘……ヴァルハラで会えば、次こそ消し潰してやろう」  不敵に、どこまでも不敵に、全身を朱に染めながらも〈赤騎士〉《ルベド》は笑う。  騙まし討ちに等しい結末だったが、不満は一切漏らさない。  これはこれで、確かに英雄たる存在の矜持なのだろう。  螢は初めて、この紅蓮に敬意めいた気持ちを懐いた。  そしてだからこそ、ここで萎縮などしてはいけない。  自分たちは勝った。その事実に胸を張るのだ。 「もう二度と、あなたの顔は見たくないと言ったはずです」 「くく、くくくく……」  二人は互いに信じている。己が剣を捧げた男の勝利を。  微塵も疑うことなく、絶対のものと確信して揺るがない。 「はははははは、ははははははははははははははは―――!」 「面白い、実に面白かったぞ、いい戦場だった! 次は貴様を騎士と認め、私も剣を抜いてやろう、忘れるな!」 「だから……」  言っても無駄か。じゃあせめて…… 「逃げますから、私。勝手に追いかけていればいいでしょう」 「ふふふ、はははははははははははは―――!」  弾け笑うエレオノーレ。激痛に焼かれるのが嬉しくて堪らない。  ああ、そうだ。私は届かないものを未来永劫追い続ける。  どんな苦痛も、どんな渇きも、総て私を焼く愛しい〈情念〉《ほのお》だ。  逃げろ、逃げ続けるがいい。永遠に追い続けてやる。  今だけ一時、蝋の羽が溶けたことを認めてやろうさ。 「なあ、キルヒアイゼン」  言って、自ら首に突き立つ剣を掴むと、そのまま一気に真横へ引いた。  輪郭を失い消えていく列車砲の直上で、エレオノーレの首が飛ぶ。 「〈勝利万歳〉《ジークハイル》。御身に勝利を、ハイドリヒ卿」  同時に、崩壊寸前だった諏訪原大橋が、〈赤騎士〉《ルベド》の入滅によってついに砕けた。紅蓮の〈大焦熱地獄〉《ムスペルヘイム》が爆発し、断末魔となって螢を呑み込む。 「じゃあ、私も本当に……」  もう、駄目みたいだけど。 「見てるからね……絶対、勝って。負けないで」  幼き日の〈陽だまり〉《しあわせ》が脳裏をよぎる。  自分にとっての英雄……総ての愛と信頼を捧げた二人の騎士。  彼らは強くて、格好良くて……自分もそうなりたいと切に願った。  何も知らずに、無邪気なままそう願った過去が今を決定したけれど。  悪くないよ。誇っているよ。だから言わせて、ありがとう。  本当に最後まで、私の英雄でいてくれたことに感謝します。 「大好き……」  いつか見た夢。  ただの学生である自分が街を歩く光景を幻視しながら……  崩壊する橋上で、螢は炎の中へと消えていった。  そして―― 「今、デジャヴが――」 「――ない」  消え去ったのだ。さらに言うなら―― 「こんなの――」 「――オレは知らない」  それは紛れもない未知の体験。  〈白騎士〉《アルベド》の創造が発動した瞬間に、命綱である鎖は砕けて死の絶空に落とされた。  何者であれ触れられず、何者であれ追いつかせない彼の〈渇望〉《ルール》を前にすれば、距離は引き離されていくだけだ。  ゆえに鎖は粉砕され、〈戒めの枷〉《グレイプニル》から放たれた魔性の狼は血の嵐を巻き起こす。  そのはずだ。そのはずなのに――こんなことは有り得ない。  有り得ないからこその未知。 「――――――」  〈シ〉《 、》〈ュ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈イ〉《 、》〈バ〉《 、》〈ー〉《 、》〈の〉《 、》〈背〉《 、》〈が〉《 、》〈迫〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈る〉《 、》。  無限に思えた一メートルの距離が縮まり、数字相当の容易さで瞬く間にゼロとなった。  気付いてないのか? 分かってないのか? まるでこいつの時間が止められたみたいじゃないか。  突如停止したシュライバーとは対照的に、超音速に引き摺られていた司狼とエリーは彼の背に激突する。 「三ケツ……」  そう、これでこのバイクは三人乗りだ。  ならばジンクス――三ケツは事故る。  司狼の銃が火を噴いて、シュライバーの背を貫くと燃料タンクに着弾した。  火とガソリンと魔力がぶつかり、弾け飛ぶ。  轟音を炸裂させて、瓦礫の遊園地に炎の大輪が爆発した。 「―――くッ」 「が、ァァッ」  すでに先ほどの感覚はない。時が止まったように思えたことも、その際に体験した未知も。  だが、断言してそれらは現実だったと強く感じる。  理屈はまったく不明だし、具体的に何が原因だったのかは分からない。  分からないが、どうでもいいのだ。今ここで大事なことは、たとえ一瞬の閃光に等しかろうと、ついに求めたものを得たという事実だけ。  そして、その結果がもたらした勝利。  そう、勝利なのだ。なぜなら―― 「あ、ぐ………」  砕け散った〈聖遺物〉《ヴァナルガンド》の残骸に囲まれて、立ち上がったシュライバーは苦悶に身を震わせていた。  絶対に触れない〈白騎士〉《アルベド》。誰の攻撃であれ躱し続け、何者にも追いつかせない狂乱のスピードスター。  その彼が、致命傷を受けた。銃で背中から撃ち抜かれ、聖遺物を粉砕され、自ら究極と信じた疾走の最中に追いつかれたのだ。  これが彼の敗北であり、司狼たちの勝利でなくてなんだと言う。  その様は満身創痍。全身朱の血に濡れて、吹き飛んだ眼帯の下から虚ろな空洞が覗いている。  彼が呑み込もうとしたもの。彼が貪り尽くしてきたもの。  人として欠けた部品を補うため、そこに詰め込み続けてきた。  駆け抜けて、駆け抜けて、殺し続けた空虚の飢えがそこにある。  それこそが、彼の人生である轢殺の〈轍〉《わだち》そのもの。  背後に積み上げてきた屍であり、〈勝利〉《はいぼく》のカタチなのだ。 「痛いよ……」  消え入りそうなか細い声で、彼は呟く。 「痛いよ。バラバラになりそうなくらい身体が痛いよ」  どうしてぶつの、と。なぜ怒るの、と。 「〈わ〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》はこんなに頑張ってるのに」  彼は――いいや、今は彼女だ。  ウォルフガング・シュライバーは、アンナ・シュライバーであった日の記憶に憑かれている。  もはや何処にも存在せず、形骸すら残っていない始まりの〈轍〉《わだち》……  それが呪いなのか祝福なのか、誰にも理解することはできない。 「痛いよ〈お母さん〉《ムッター》、目が見えないよ……。 やめて、ぶたないで、目が痛いの。〈お母さん〉《ムッター》に刺されてから治ってないの……」  空洞になっている右目を押さえて、シュライバーは啜り泣く。 「わたしがそんなに目障りなの? 大勢の人に愛されるのが悪いことなの?」 「ごめんなさい、わたしは醜いです。汚いです。みんなはわたしが珍しいから、こんなに顔が腫れてるから、面白がって構っているだけ。 〈お母さん〉《ムッター》のほうがキレイ。〈お母さん〉《ムッター》のほうが美人。分かってる、分かってる、分かってる、分かってるよぉ……。 だから出来損ないなんて言わないで。 わたしを愛して。愛して、愛して――。 もっとちゃんとした娘になるからぁ」  その壊れた哀訴に、司狼とエリーは微かに顔を歪めただけで、それ以上の反応はしなかった。  おまえの事情なんか知らない。  別に珍しくもない話だ。  一般に、殺人鬼の大半は〈生還者〉《サバイバー》。過酷な幼年期を潜り抜けた代償に、何かをごっそりと失っていく。  それは他者への共感だったり、善悪の定義だったり、つまるところそうした諸々。  だから、これは特別心を動かされるようなことじゃない。  彼ら二人に言わせれば、そんなものは優等生が勉学に励んで、一流大と一流企業の出世コースを歩むこととまったく同じだ。  ベクトルこそ壊滅的に違っているが、ありふれたレール上のものでしかない。 「見るに堪えないね」 「ああ、普通すぎてつまらんわ、こいつ」  ゆえに、さっさと消えろ。再び二人で、今度はしっかりと狙いを定めながら銃口を擬す。  放っておいても、これはあと少しで消えるだろう。  〈聖遺物〉《ヴァナルガンド》を粉砕された以上、遠からずシュライバーは死ぬ。  魔城でまた再生するイタチごっこではあるものの、今はここで確実に死亡するのだ。  でも、放ってなんかおかない。  もうこれ以上、聞きたくないし見たくないから。  つまらないありふれた狂気なんかに触れていたら、ついさっき体験した得難い瞬間にもケチがつく。  いいよ、もう。もういいから。  おまえを見てると嫌な気分になるんだよ。 「あなたがわたしの〈お父さん〉《ファーター》?」  引き金を絞ろうとする司狼たちに頓着せず、未だシュライバーの独白は続いていた。  いや、これは独白と言うべきなのか? 「おお、なんだよ包帯なんかしやがって。そのみっともねえ化け物ヅラ見せてみろよォ!」  突如、別人の声がシュライバーの口から発せられた。ぞっとするような、野太い男の声だった。 「気持ち悪ぃなあ、腐ってんじゃねえかよ。いらねえだろ、そんなもん。 おら、こっち向けぇ。治してやっからよぉ。感謝しろや変態が」 「痛い、痛い、何をするの、お願いやめて!」 「だから治してやるって言ってんだろうが」 「でも、でも……」 「でもじゃねえんだよ。俺のガキなら黙って言うこと聞きゃいいんだ」  シュライバーは一人二役を演じ始めた。  そして身を切るような絶叫があがる。 「痛いィィィィッ―――!」 「おお、いいぜ。腐れた穴治してやるって言ってんだよ! こう、ぶちゅぶちゅっとよ、きったねえ膿が出てくるじゃねえか、面白おかしく叫んでみろよ!」 「あ、あ、あ、あ―――」 「ああ、じゃねえんだよバケモンがぁ! いいか、てめえは劣等の息子なんだよ。あのクソ女から生まれたんなら、それらしく、惨めに泣いて嗤わせな!」 「息子? 息子……?」 「どこにこんな娘がいんだよ。てめえアホか? アホなんだな? だったらそっちも治してやるよ。脳みそに届いた膿も掻きだしてやらァ。 おお、ほら、目玉が抉れたぜ。蛆が湧いてんだろ。こんなもんいつまでもつけてっから、頭おかしくなんだよ、てめえは」 「ぼく、ぼく、わたし、ぼく……」 「おら、潰せェッ! その腐臭にまみれた目玉よぉ、潰して俺に保管させろや! 物珍しけりゃ、〈装飾品〉《インテリア》にでもしてやるからよォ!」 「う、う、あ、あ―――」  そして、再度の絶叫があがった。 「ああああああああああああああああああぁぁぁぁァァァッ――――!!」  聞いた者の心に一生涯残るような、それはある種の断末魔。  その残響が消えた後、今まで虚空を眺めていた隻眼が狂熱の光を帯びた。 「死ね」  短い文言に、計り知れない憎悪が宿る。  いかに剛胆な者であろうと、この目を直視することはできないだろう。  憤怒。まさに狂うとしか言えない憤怒。  嵐のごとき殺意がそこに渦巻く。 「〈お母さん〉《ムッター》も〈お父さん〉《ファーター》も、男も女も! みんなみんな、みんな死ね!」  地上、最後の一人まで、人という生き物を残らず殺しつくしてやろうと。 「僕は―― 僕はあんな奴らと同じ生き物じゃない!」  人として死んだ日の瞬間を、彼はここに再現していた。  忘れていながら忘れてないのだ。忘れられるはずがない。 「僕は不死身の英雄なんだァァァッッ!」  怒号して迫るシュライバー。それに銃口を向けて司狼は思う。  もしかして、と。  もしかして“この状態”こそ、こいつの本性なのじゃないのかと。  ウォルフガング・シュライバー、その魂は殺意に猛る狂戦士。  ならば、いかに壊れ気味であったとしても、会話らしきものが成立する間はストッパーが掛かっている。  今のように、自我が完全に吹き飛んだ状態でこそ真価を発揮するのではないか?  先ほどの創造は、リミッターを解除していない不完全な代物なのでは?  そう思いながらも、しかし確かめる術はない。  〈聖遺物〉《ヴァナルガンド》を失ったシュライバーは、どれだけ猛ろうと死に体だ。以前の速度は見る影もなく、能力を発揮することも不可能だろう。  遅い。もはや子供でもこれは殺せる。  ただの見た目相応な、傷つき喘ぐ〈少年〉《しょうじょ》でしかないこいつなど。 「一発食らうのがスイッチだったんだね」  ぽつりと、エリーが呟いた。 「一発食らわせて、それでも殺しきれなかった時に……」 「その時こそ、か。本当にくだらねえな」  誰も触れない者の真価は、触られた時に発揮される。  それを見た者は一人もおらず、本人ですら気付いていない。  そして、ついに触られた今、その脆さから一撃で砕け散った。 「〈轍〉《わだち》……ね」  結果論的なこの勝利。なるほど確かにそうかもしれない。  だが、勝ちは勝ちだ。  おやすみ、嬢ちゃん。もしもまた生き返るなら、別の国と時代に生まれるといいな。 「おまえみたいなつまんねえのと、オレはもう喧嘩したくねえよ」  嘆息しつつそう言って、引き金が引かれる。 「おおおおおおおおおおォォォッ――!」  頭部を撃砕されて消滅した〈白騎士〉《アルベド》は、ついにその瞬間まで己の真実を自覚することがなかった。  それが幸せなのか不幸せなのかは分からない。  だが結局、全部自分が選んだことなんだろう。  人生の選択肢は非常に少なかったのかもしれないが、ゼロな奴などいないと司狼は考える。  考えるから、ともかく、これで…… 「こっちも、駄目か」 「まあ、すっごい無茶したしね、あたしら」  苦笑しながら、二人して座り込んだ。どうやらこのへんが限界らしい。 「あーあ、蓮との喧嘩はどうもオレの負けみたいだわ」  先に死んだほうが負けというその約束。結果はもう、見えてしまった。 「別にそりゃあこの際いいけど、打ちあげがやべえな。ちょっと行けそうにねえんだけど」 「しゃーないね。でもいいじゃん? あたしらいかにも、そういうサボりそうな感じのキャラだし」 「それで納得してもらうっつーのもなあ。お客さんが何て言うか……」 「だからあんたは、またそうやってワケの分かんないことを」 「ま、いっか」  呆れるエリーの突っ込みを無視して、司狼は快活に一笑した。 「知らん。勝手にやれ、マジどうでもいい。 だいたいなんでオレ様が、他人の顔色窺わなきゃなんねえんだよ。オレの人生はオレのもんだ」 「はいはい」  まったく、蓮くんも馬鹿な友達を持って大変だ。もはや慰めの言葉すら見つからない。 「でもよ……」 「あんときのアレはよかったな。アレだけで、まあともかく甲斐はあった。 きっとありゃあ、あいつのお陰か」 「たぶん、ていうか、そうだといいよね」  また苦笑する。苦笑するけど、お互い流れる血が止まらない。 「あーあ、だりぃわ」 「んん、あたしも」  そのまま二人で大の字になり、天摩する方陣を見ながら呟いた。 「勝てよ」 「こっち来ても、叩き返すからね」  声は明るい。彼らに湿っぽい空気は似合わない。  だからあいつも軽いノリで、流してくれればいいと思う。  生き返るとか、不死身とか、そんなもんに興味はないし。  まるで眠るように何の気なく、二人はそっと目を閉じていた。  温かい何かを感じる。  包まれているような、抱きしめられているような。  それは日向の〈微睡〉《まどろみ》にあるような心地よさで、逆に意識を覚醒へと導いていった。  なぜなら否定と拒絶の渦でしかない壷中天で、その温もりがあまりにも異質だったから。  輝いて見えたから。  そうだ、そうなのだ。これこそが真実。  これこそが本当の彼ら。  弾ける命の閃光と、強くて優しい心を持った私の大事な宝物。  総ての戦いを知覚できる。彼らの魂を私は感じる。 「藤井君――」  一度落ちれば溶け消えるのみの壷中天。  その中心で、玲愛は己の声を聞いていた。  なぜ自分を取り戻せたかは分からない。  なぜイザークの思念が止まったのかも分からない。  だけど理屈はどうであれ、仲間に助けられたということだけは断言できる。  ああ、ああ――間違いない。  私は見捨てられてなんかいないと分かった。  目が覚めたよ、ありがとう。  私も頑張る。頑張るから―― 「勝って――」  お願い。この声よ、あの人に届け―― 「―――馬鹿な」 驚愕に震える声はすぐ目の前から。鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》が瞠目して俺を見る。 「有り得ん、なぜだ――なぜ終わらん!」 しかし誰よりも驚いて、誰よりもそう言いたいのはむしろこちらの方だった。古今、〈英雄譚〉《ヴォルスング・サガ》は主役の死で幕を閉じる。人間以上の英雄であるがゆえ、人間以上の過酷な死を与えられて幕を閉じるのが常套だ。 その死。終幕の具現であるマキナの拳を受けたのに、なぜ俺は生きている? 理屈として、こいつの一撃を防げるモノも概念も存在しないはずなのに。 「だって――」 あらゆる物語を閉める幕引き。それに抗し得るものが、もしもあるとするのなら…… 「これがわたしの中身だもの」 インパクトの瞬間、刹那の狂いもなくまったく同時に誕生したもの。 言わば、ゼロの新世界だけだろう。 「そうだよ、だから――」 だから〈世界〉《おれ》は生きている。 「おのれ、有り得ん――!」 そして、再度振り上げられる終わりの拳。先の不発など認めないと、自らの死に絶対の信仰をかける〈死せる英雄〉《エインフェリア》が咆哮する。 ああ、そうだ。そうなのだ。俺はこの時、この一瞬に総てを理解できていた。 これが俺とマリィの世界。流れ出した俺達の〈法則〉《ルール》。 「滅びろォッ――!」 ならばもはや、何も恐れることはない。 さあ一緒に―― 「うん、一緒に――」 こいつを斃そう。そして〈修羅道界〉《グラズヘイム》の崩壊を成し、また日の当たる世界へと―― 帰るんだ、皆と一緒に。 「おおおおおォォッ――」 全霊を込めて振り上げた右手の刃が、マキナの二撃目と衝突して宙に火花を撒き散らした。もはやこいつの拳は必殺じゃない。 「……馬鹿な」 創造位階にある限り、たとえ何発だろうと幕を落とせる〈英雄譚〉《ヴォルスング・サガ》。黒の大隊長が揮うその奥義は確かに凶悪かつ剣呑で、当てればラインハルトでさえ屠るだろう。 だが、俺は違う。唯一今の俺だけは例外なんだ。 「二発だと? 続けてだと? 有り得ん――有り得んぞ、何だそれはッ!?」 マキナの驚愕は当然だろう。俺だって我が事ながら呆れている。 そう、たとえインパクトの瞬間に誕生したもので相殺しようと、それが通じるのは一度きりで、二度目の幕引きには耐えられない。 こいつが終わらせているのは歴史だ。生物も器物も知識も概念も等しく内包している時間。積み上げた物語という歩みと、その道のこと。 ゆえに初撃を防ごうと、続く二撃目までのタイムラグが僅かでもある限り、そこに物語が生まれてしまう。たとえコンマ百秒以下であっても、それは決してゼロじゃない。 すなわちデウス・エクス・マキナを封殺するなら、ゼロであり続けなければならないんだ。 ゼロの停止。それこそが今の俺を立たせているもの。 こいつの渇望を封じ込め、ただの拳に変えた原理。 「時間が止まればいいと思っていた」 繰り出した俺の一閃が、再度マキナの拳とぶつかり合う。都合三度目になるその結果も、やはりこちらのダメージはない。 「今が永遠に続けばいいと思っていた」 非現実的で青臭くて、だけど誰もが一度は胸に懐いただろうそれは陳腐で真摯な祈り。 「この日常が終わってほしくない」 この瞬間を引き伸ばしたい。 「いつか終わると分かっていても――」 じゃあ終わってしまえばいいなんて、思うわけがないだろう。 「ぬッ、がああァッ――」 打ち合う。正面からぶつかり合う。一歩も後に退く気はない。 こいつだけは―― こいつだけは、避けて通れない相手だと分かっているんだ。 「おのれ、クラフトの〈傀儡〉《かいらい》がァッ!」 俺をこの非日常に誘い込んだメルクリウス。 「ラインハルトの奴隷が粋がるんじゃねえッ!」 俺を敵手に見立てて戦争を始めたラインハルト。 「おまえなど――」 「おまえなんか――」 そしてこいつは――間違いない。ずっと不可解だったその正体に、俺はようやく思い至った。 「俺の残滓でしかないだろう!」 共にお互いがそう思っている。己こそが己であり、存在としての主は自分が保有しているのだと。 おまえの渇望こそ紛い物だと、信じて絶対に譲らない。 譲ってたまるか、俺は死なんか一度だって望んだことはないんだから。 「かつて蛇は俺に言った――選べとな!」 ああ、あの野郎はいつもそんなことしか言わないだろう。 「終焉と疾走――その背反を二つに分けろと」 「どちらにするか、どちらを選ぶか、内の一つにしか俺の個我は宿れぬと」 「それで、おまえが選んだのは終わりかよ」 「そうだ、俺はその瞬間を覚えている」 ゆえに自分こそが自分だと言う。 自分の望みこそが正統であり、真実だと断言する。 「おまえは形骸から創られたクラフトの玩具だ。奴の傀儡として、放し飼いにされているだけの〈聖遺物〉《にんぎょう》にすぎん!」 「てめえはさっきからごちゃごちゃと――」 知るか、そんなの。知ったことか。 おまえが何をどう言おうと俺は俺だし、そうである以上偽者はおまえだ。 「だいたい――」 一瞬の隙を衝いて胸元へ切り込む。 「男がべらべらと吼えてんじゃねえッ!」 同時に、マキナの拳も俺に迫った。まったくの線対称で放たれた一撃は、互いに交差し、共に被弾。 「ぐゥッ――」 「があァッ――」 双方胸へ食らったそれは、致命傷でないものの浅くはない。しかし俺は不敵に笑う。 「効かねえんだよ」 たかがアバラの何本かを折られたくらいだ。死ぬにはまだ遠すぎる。 ゼロ停止をしている限り、俺に幕引きは訪れない。 「抜かせ、おまえこそぬるいわ」 そう、俺とこいつが同根の存在であると確信したのは、このせいだ。 停止した時間の中で、マキナは普通に動いている。マリィが包むと言った世界は、俺と俺の仲間にしか疾走というアドバンテージを渡さないはずなのに止まらない。 同じ流れ出る新世界を纏うなら拮抗することも有り得るが、こいつの位階は創造だ。その理屈は通らないだろう。 そして、こいつが俺達の仲間だなんて理屈はさらに輪をかけて通らない。打ちあげに参加予定のメンツ以外、俺もマリィも動きの許可を出すわけないんだ。 つまり、これはそういうこと。こいつは俺で、俺はこいつ。もはやそうとしか考えられない。 けど、だからってどうしたんだよ。非常に鬱陶しい馬鹿が敵に一人いるってだけで、俺のやることは微塵たりとも変わらないんだ。 クラフトの玩具? 言ってろよ、あいつはただの変態野郎だ。マリィは絶対渡さない。 ラインハルトの支配下から逃れられないおまえの方が、明らかに〈英雄譚〉《ヴォルスング・サガ》の出演者として格下だろう。 だいたい、こいつの何が気に食わないって―― 「おまえは、ラインハルトを斃せるだろう」 連続を繰り返す剣戟の中、真っ向見据えて俺は言う。 「その拳で殴れば、あいつだって死ぬだろう」 死んだ魚みたいな目をして、できることをやろうとしない。それが俺には許せない。 「どこまで奴隷なんだよ、おまえは」 確かに勝つのは至難だろうが、可能性はゼロじゃないんだ。加えて不死の身だというなら、何度負けても挑めばいい。 「そんな腰抜けが、俺に偉そうなこと言うなよ」 「おまえには分からん」 「俺はもう、二度と死から目覚めたくない」 重く、重く、漆黒の声で、鋼鉄の男はそう絞り出す。 「おまえも覚えていないのか、俺達の死を」 それは、最初にこいつが投げてきた問い。 死んだ瞬間を覚えているかと。自分はそれが分からないのだと。 「ある日目を覚ましてみれば、俺はハイドリヒの城にいた」 「分かるか? 文字通り目が覚めたという程度でしか俺は認識していない。夜に三本足のものが朝に四本足になるのと変わらん」 「死は一度きり。ゆえに烈しく生きる意味がある。その唯一をワケの分からぬまま使い切られた俺はどうすればいい」 「吼えたところで、すでに起こった事実は変わらない。ならばやり直すだけだろう。取り零した死を」 「その唯一、二度と失敗の許されぬ唯一無二。俺にとって絶対に譲れぬ聖戦だ。それをなぜハイドリヒなどに使わねばならん」 「奴を斃す? ああ、万回やれば一度や二度はいけるかもな。だがそのために、何回死ねとおまえは言うのだ」 「俺の唯一を、何処まで安く見ているのだ」 「―――ッ」 気圧されたわけじゃない。だけど俺は、即座に言い返すことができなかった。 なぜならこいつの理屈がよく分かる。よく分かるから反駁できない。 死は一度きり。だから烈しく生きる意味がある。 簡単に取り戻せたりするものは…… 「そんなものは塵だ」 いつかの俺と、こいつはまったく同じことを……重きを置くのが生と死という違いはあるが、同じゴミという言葉で言い切った。 「一度しかない死。もう逃せない死。ハイドリヒは墓の王だ。奴が率いる死は無限にある。意味がない」 だから、俺だと? 「言ったろう。おまえとは過去に戦ったことがある」 こちらの思考を読んだように、マキナは失笑してさらに撃ち込む。俺はそれを真正面から弾き返す。 嫌になるほどのシンメトリー。相性が噛み合いすぎていて勝負がつかない。 「城で目覚めた初の蘇生と、おまえと分かれた時は別だ」 かつて何処かの戦場で死に、ラインハルトの城で目覚めたマキナ。そこで何があったのか。 「思い出させてやる」 そして、再び放たれる鉄拳。 「黒円卓には、一つだけ空席があった」 反射的に躱して距離を取る。しかし矢継ぎ早に繰り出される双腕の乱舞は終わらない。 「最初期は、ハイドリヒとクラフトを頂点とした九人」 「ベイ、ザミエル、シュライバー、マレウス、バビロン、クリストフ――」 「そしてヴァルキュリア」 残りは四人。 「トバルカインとシュピーネが後に続き、ゾーネンキントは最初から予約席だ」 「なあ、一人足りんだろう?」 つまり、それがこいつの席で。 「〈第七〉《ズィーベン》――」 「そう、天秤だ」 打ち下ろしを受け止めて弾き返す。中間距離に戻ったマキナは構えを取って、拳に力を集中しだした。 「………ッ」 陽炎のように大気が揺らぐ。いくら一撃必殺じゃなくなったといえ、こいつの拳はやはり凶器だ。単純な破壊力だけでも軽視できない。 「ではどうする? 駒が足りなければ埋めねばならん。しかし欠番は〈第七〉《ズィーベン》、黒円卓の中央にある天秤の座だ。生半可な者は据えられまい」 「ならばもう分かるだろう。カール・クラフトがそうした時、どういう手段を用いるか」 低く笑う。陰惨に。それは同病相哀れむといった風情で、こいつの言わんとしていることが容易に分かった。 カール・クラフトの手口、奴の十八番と言えばつまり―― 「いないのなら」 「創ればいい」 俺たち二人は、同時にその答えを出していた。 「ハイドリヒの城で目覚めた戦奴たち、そこで最後の一人になるまでの殺し合いだよ。負けた者は勝った者に吸収され、ついに俺が最後まで残った」 「無論、楽だった戦いなど一度もない。全員が自立的に城で目覚めたエインフェリアの資格者だ。しかし俺は、そんなところで死ぬわけにはいかない」 取り逃した唯一無二の死。その結末こそを得るために、無限再生という魔城で斃れるわけにはいかない。 文字通り、死に物狂いだったのだと。 「そこでおまえとは戦っているはずだ」 蠱毒の壷で、全員が魔城からの解放を求めて殺し合った。 「俺は最後まで残ったが、結果としてもっとも強くハイドリヒの城に縛られている。ゆえにそこから、さらにもう一戦だ」 「最強たる〈蠱〉《コ》。万のエインフェリアと融合した俺を、さらに二つへ」 「おまえはその片割れだ。俺の個我は俺が持って行ったのだから、おまえの個我は俺が殺した誰かのものなのだろうよ」 「兄弟だと言ったろう。俺たちは一時血肉を共有したが、別に同一人物なわけではない。性格の異なる双子だとでも思え」 「ハイドリヒと、クラフト、そして俺の利害は一致している。奴らは俺たちを噛み合わせて真に最強の〈蠱〉《コ》を生み出し、俺はおまえを殺すことで、城からの解放を約束された」 「求める死はその時だ。おまえに殺されるのもいいが、そうなると――」 こいつが二度と蘇ることなどないように。 つまりそれは、俺がラインハルトを斃さぬ限り叶わない望みだろう。 「確率として低すぎる。不可能と言っていい」 「おまえは俺に、過去負けている。ハイドリヒには届かん」 「それにな……」 握りこまれる鋼鉄の拳。その全力を放とうと振りかぶって―― 「奴らの理想はおまえの勝利だ」 「ゆえに気に食わん。鼻を明かしてやりたい」 爆撃に等しい轟風が大気を砕き、マキナの拳が放たれた。 「その時、奴らの顔は見物だろうよ。六十年が水泡に帰した間抜けさを、存分に未知として噛み締めればよいのさ!」 「ふふふ、ははははははははは――――」 声を震わせ、目を血走らせ、マキナは弾け笑っている。 迫る拳はもはや目前。この一撃で粉微塵にしてくれると、魔城の蠱毒を勝ち抜いた名も無い英雄の全身全霊が告げていた。 かつては俺が負けたと言い、ゆえに今もそうなると言う。なるほど確かに、心情的には理解できないこともない。 先の話を丸ごと信じているわけじゃないが、自分より弱い者に悲願を託す気などないのだろう。 ああそうか。よく分かったよ。だけどおまえ、一つ完全に失念してるぞ。 仮にこの勝負が俺たちにとって二回目だとして、俺が負けたという最初の勝負にマリィはいたのか? いるはずがないだろう。敗因を教えてやる。 日頃無口なくせに慣れないことをするからってのも当然だが。 「おまえは――」 迫る鉄拳を真っ向睨んで、言い返す。 ほら見ろ、現に今だって、たかが一発撃つ間に俺はこれだけ考えることができてるんだ。 おかしいと思うだろう? 何秒かかってるんだと言いたいだろう? つまりそういうことだよ、〈戦友〉《カメラード》。 「俺の女を舐めるなッ!」 何よりも決定的なその事実を口にして――俺は疾走を再開した。  渾身の一撃が炸裂したと思った瞬間、不意に目の前から標的が掻き消える。 「―――――――」  驚愕は、しかし万の死闘を制してきた鋼の自負で押さえ込んだ。もとより己が幕引きを封殺されたということが、すでに最大の脅威なのだ。今さらこの程度で動揺するほど、魔城の最強闘士は甘くない。 「――そこか」  右後方、完全な勘だが外れていない。魂の総量に物を言わせたラインハルトの洞察力とは別次元で、彼も超人の知覚を持つ。  死線において理屈を超えた異能を発揮せぬ者などは、しょせんそれまでの紛い物だ。そうした何かがない限り、どだい戦場の星にはなれない。  振り向き様に放った裏拳が唸りをあげて、蓮の側頭部に吸い込まれる。遠心力の乗った一撃は、単純な力だけでも頭部を破壊せしめるだろう。万一これが外れたとしても、何一つ問題はない。  そう、問題は何もなかった。空振りに終わった裏拳を戻そうとせず、そのまま半回転して左の蹴りが跳ね上がる。  今度こそ捉えた。そう確信したにも関わらず―― 「―――――――」  またしても空を切る。絶対と信じる勘と予測を、敵が上回り始めている。  微かな焦慮が、鋼の胸に渦巻き始めた。  すでに瞬間の残像としか捉えられない聖戦の敵手。自分はこの男をかつて斃して吸収し、蛇を名乗る魔術師に選択を迫られるまで同一の存在だったはずなのだ。  その癖も、その戦法も、気性も魂も何もかも、忘れているわけがない。  事実、今これまでは、ほぼ完全に戦況が噛み合っていた。多少の計算違いはあったものの、相手の存在自体はあくまでも既知――幕引きの必殺が効かぬなら、舞台ごと粉砕して上演不能にするだけだろう。  なのになぜだ。なぜなのだ。どうして今はこいつのことが分からない。  女だと? その差だと? 認めぬ――漢の戦場にふざけた軟弱、そんなものを頼みにしていて、誰が栄光を得られると言う。  ただ一人で誇りを通し、行く道を踏破するから〈英雄譚〉《ヴォルスング・サガ》は完結するのだ。帰る場所など要らん。背負う他者など不純物でしかない。おまえはそんなものに拘泥するから負けたのだと、その事実をなぜ認めん。  知らしめなければならないだろう。痛感させる必要がある。  ただ一人である俺が、荷物を背負ったおまえよりも遅いことなど有り得ない。 「だから――」  迫る黒光――斬首の刃が視認できない速さで走る。 「俺とおまえは違うんだろう?」  間一髪、勘の回避はまさに首の皮一枚。  ではあったが、凌げたのだから問題ない。一度躱せたものならば、力の相関はその形で不動となる。以降は百撃続こうと同じ結果になるだけだ。  そう、一度決した結末は変わらない。なぜなら俺もおまえも停止を心より望む者。  千変万化など有り得んのだ。数式の回答は何度繰り返しても変わらない。  変わらない、はずだというのに―― 「―――ぐッ」  再び走った一閃は、数ミリほど首を裂いた。躱し損ねてなどいない。  敵が速く、さらに速く、繰り返す度に違う〈結果〉《こたえ》を出し続けている。 「おおおおォォッ!」  怒号して揮った拳は、先ほどより輪をかけて的を外した。当てさえすれば粉と砕いてやる自信はあるのに、これでは風車と変わらない。  そしてさらに、またしても数ミリ深く首を斬られる。 「おまえは一人で――」  もはや完全に、姿を補足できない声が言った。 「どうやって、成長するんだ」  無論、最後の死をもって完結するため。 「〈未来〉《あした》を見ないで――」  俺が勝利と奉じるものは極点ゆえに。 「どうやって、前に進む」  行くべき戻る場所など回り続ける繰り返しにすぎない。  要らないのだ。もうあれは要らないのだ。  蘇る繰り返しを、二度と経験せずともよいように  この〈修羅道〉《グラズヘイム》から解放される日を願って。  すでに首は半分ほど裂かれている。しかしそれでもマキナは止まらない。 「なるほど、確かに俺とおまえは違う――」  俺は俺を誇っているし、おまえのことは理解し難い。  しょせん分かたれた者同士、拒絶の反応が起きるのは当然だろう。 「ゆえにおまえの世界から、俺は排除されつつある」  別人だと、他ならぬ自分が口にしたことで、流れ出る理に捕まり始めた。いずれこのままでは完全に、俺の時は止められるだろう。  だが、それでどうする? 俺を斃して何ができる? 「おまえにハイドリヒが斃せるのか!?」  あの黄金を、墓の王を、たかが女の情を誉れとするおまえごときが斃すと? 笑止―― 「俺の望みは俺の力で完遂する。他力などに頼らん」  ゆえに、ゆえにならばこそ――ここで斃れるわけにはいかんのだ。  それを無視すると言うのなら。  一度終焉を逃して宙に浮いた我が〈英雄譚〉《ヴォルスング・サガ》を、おまえが引き継ぐと言うのなら。 「〈敗北〉《なっとく》させてみろ、この俺を――」  己こそが修羅の繰り返しを終わらせると、ここに示してみるがいい。 「させんがなッ!」 「ああ、大人しく見てろッ!」  その、まさに一瞬――〈黒騎士〉《ニグレド》の勘が蓮を捉える。  心眼で見つけた敵影に、打ち下ろす乾坤一擲は未来位置まで予測した完璧な一手。  これを躱せるはずがないと確信し、ゆえにもしも躱すことができたならば―― 「俺は負けない――」  もはや過日のおまえに非ずと、認めてやるのも吝かではないだろう。 「ラインハルトは、俺が斃す」 「ああ……」  交錯の刹那、ついに己までもが完全に時を止められたことを自覚して…… 「では、勝ってみろ」  宙を舞うマキナの首が、寂びた苦笑を浮かべながら、確かにそう漏らしていた。 「――見事」  その決着を見届けて、笑う水銀の超越と。 「ああ、素晴らしい」  遥か天の方陣から、黄金の破壊も愉悦の相を隠さない。 「では、いよいよ始めようか」  まったく同時に打倒された〈赤騎士〉《ルベド》と〈白騎士〉《アルベド》の魂が、〈黒騎士〉《ニグレド》のそれと共にラインハルトの下へと還っていく。  膨れ上がる彼の総軍。もはや先ほどまでの比ではない。 「ならば、私はこれで」 「そうだな、すぐに会おう」  新世界の海で。  消え行く盟友の気配を見送り、ラインハルトは再度眼下へ視線を移した。  あの覇道は時を止める。ならば旧秩序を一掃しても、止められた己は未知たるものを知覚できない。 「ゆえに私の覇道で塗り潰そう。どちらが新世界のミチを開くか」  ああ、胸が躍る。こうでなくてはならない。  あなたは本気を出していないと、かつて言われた。  それは万能感に酔う少年の日の妄想めいて、しかし本当に“そういうもの”であった自分は、この世界からずれたのだ。  何をやってもつまらぬ。何を見てもくだらぬ。あらゆる開放感や達成感、人の満足というものを胸に懐いたことがない。  であれば、よし。我が条理を全として、破壊の君たる本分を見せよう。  壊し、呑み込んで塗り替える。私が生きるべき私の世界を流れ出させ、旧秩序を一掃する。  ならばこそ、今この瞬間――鬩ぎ合う覇道と覇道の戦争こそが、我が全力を示す時なのだ。  卿らに愛を。よくぞそこまで成りおおせた。  一度言ってみたかったのだよ、相手にとって不足はない。 「では、いざ参らん。新たなる祝福の天地へ」  方陣からタワーの下へと、幾千の死者が折り重なって道を作る。  〈眦〉《まなじり》を決してこちらを見上げる御敵へと―― 「来い」  最終にして最大、最高の戦をしよう。 「〈メリー・クリスマス〉《Frohe Weihnachten》」  私はこの時だけを求めて、無限の〈牢獄〉《ゲットー》に耐えてきたのだ。 そう、これこそが正真正銘、最後の勝負だ。 残るはラインハルトただ一人、その総軍は数百万を超える戦死者の群れ。 「ヴァルハラだと……」 グラズヘイムだと? そんなにずっと戦いたけりゃあ、本当の地獄に落ちやがれ。 「俺がそれを創ってやる」 瞬間、天へと続く〈階〉《きざばし》を、俺は超疾走で駆け上がっていた。  そうだ、来い。私はここだ。ここにいる。  待ちきれぬ待ちきれぬ待ちきれぬ待ちきれぬぞ―――  共に全力、共に全霊、ならば出し惜しみなどするべきではあるまい。  回れ契約の〈壷中聖櫃〉《ハイリヒ・アルヒェ》――我が総軍を流れ出させろ。 「〈Dies irae, dies illa, solvet saeclum in favilla.〉《怒りの日 終末の時 天地万物は灰燼と化し》 〈Teste David cum Sybilla.〉《ダビデとシビラの予言のごとくに砕け散る》」  せいぜい健気な抵抗を試みるがいい、ゾーネンキント。  もはや遅い、間に合わん。遍く総て、私の色に染まるがいい。 いいや違うぞ。まだ始まってもいない。 マリィは宝石。広がるのはその欠片。 彼女の世界はおまえの色になんか染まりはしない。 だって、俺は知っているんだ。 「〈Es schaeumt das Meer in breiten Fluessen 〉《海は幅広く 無限に広がって流れ出すもの》〈Am tiefen Grund der Felsen auf,〉《水底の輝きこそが永久不変》」 「〈Quantus tremor est futurus, Quando judex est venturus,〉《たとえどれほどの戦慄が待ち受けようとも 審判者が来たり》 〈Cuncta stricte discussurus.〉《厳しく糾され 一つ余さず燃え去り消える》」  壊したことがないものを見つけるまで。  森羅万象、三千大千世界の悉くを。 「〈Und Fels und Meer wird fortgerissen In ewig schnellem Sphaerenlauf.〉《永劫たる星の速さと共に 今こそ疾走して駆け抜けよう》」 駆け抜けるんだ、何処までも―― 俺と一緒に走った仲間を、今この時だって感じているから―― 「藤井君、勝って……」 ああ、だから先輩も。 「絶対、お願い。負けないで」 言われるまでもないだろ、櫻井。 「ここで待ってるから、帰ってきてよ」 帰るさ、おまえが待ってる所に。 「こりゃ大変だね、蓮くんも」 だから手伝ってくれるよな。 「勝手にやれよ、マジどうでもいいし」 この馬鹿、相変わらずやる気ねえけど。 今、俺たちの思いは一つだ。 「〈Doch deine Boten,〉《どうか聞き届けてほしい》〈Herr, verehren Das sanfte Wandeln deines Tags.〉《世界は穏やかに安らげる日々を願っている》」  ゆえ、なればこそ、私の安らぎのために戦火よ起これ。  総てを破壊しつくすのだ。 「〈Tuba, mirum spargens sonum Per sepulcra regionum,〉《我が総軍に響き渡れ 妙なる調べ 開戦の号砲よ》 〈Coget omnes ante thronum.〉《皆すべからく 玉座の下に集うべし》」  集え、集え、満ちて溢れよ〈戦鬼の海〉《ヴェルトール》。 「〈Lacrimosa dies illa, Qua resurget ex favilla〉《彼の日 涙と罪の裁きを 卿ら 灰より蘇らん》 〈Judicandus homo reus Huic ergo parce, Deus.〉《されば天主よ その時彼らを許したまえ》」 「ねえレン、わたしあなたに逢えてよかった」 俺も君に出逢わなければただのガキで、それはそれで幸せだったのだろうけど―― こんなにも、強く思える気持ちなんて知らなかったと断言できる。 だから―― 「〈Auf freiem Grund mit freiem Volke stehn.〉《自由な民と自由な世界で》〈Zum Augenblicke duerft ich sagen〉《どうかこの瞬間に言わせてほしい》」 「大好きだよ。離れたくない」 そうだ、俺は彼女を愛している。 「〈Verweile doch du bist so schön〉《時よ止まれ 君は誰よりも美しいから》――」 今度こそ、皆でラインハルトを打倒しよう。 「〈Das Ewig-Weibliche Zieht uns hinan.〉《永遠の君に願う 俺を高みへと導いてくれ》」 「〈Pie Jesu Domine, dona eis requiem. Amen.〉《慈悲深き者よ 今永遠の死を与える エィメン》」  では一つ、皆様私の歌劇を御観覧あれ。 「〈Atziluth〉《流出》――」  その筋書きは、ありきたりだが。 「〈Du-sollst〉《混沌より溢れよ》――」  役者が良い。至高と信ずる。 「〈Res novae〉《新世界へ》――」  ゆえに面白くなると思うよ。 「〈Dies irae〉《怒りの日》」 「〈Also sprach Zarathustra〉《語れ超越の物語》」 ついに駆け上がったその場所で、火蓋は切って落とされた。 「今、我らこそがこの世界の中心にある」 「謳おう、共に素晴らしき歌劇を!」 運命の槍と断頭の刃がぶつかり合う。互いに全力同士の激突は、初撃決殺となっていてもなんら不思議はなかったろう。 だが、結果はこれだ。拮抗している。あのラインハルトを相手取り、俺は戦うことができている。 「………ッ」 そのことに対する力の実感、ついに自分がこいつのいる場所まで上り詰めたという喜びなんか今はない。胸は熱く昂揚してるが、それは仲間の思いを背負っているプライドゆえだ。勘違いをするなよ外道。 「いい目だ。見違えたぞ」 こいつの目……黄金に燃える奈落のような双眸に宿った〈輝き〉《あんこく》が許せない。 「そんなに……」 そんなに楽しいのか、戦争が。嬉しいのか、殺し合いが。何百万人も殺して従え、これから先も膨れ上がり続けるつもりなのか。 「他人の魂が旨いのか」 一人一人に生があった、夢があった。好きな異性も家族も仲間も――どれだけ他人から見ればくだらないものであっても、そこには個々の物語が存在したはずなんだ。 それを喰らうことがおまえの至福か!? 「それを奪うことがおまえの世界か!?」 「無論だ、我をもって全と成す。私が世界となるのだから、細胞の一つ一つを慈しむのは道理だろう」 「ああ、甘いぞ。美味だ、まだ喰い足りん。愛も勇気も絶望も、怒りも悲しみも何もかも――」 「鬼畜と呼ばれる罪人も、産まれたばかりの乳飲み子も、我が身を這い回る小さき者どもは例外なく祝福しよう」 「その物語こそ、至高の供物だ。私の〈宇宙〉《ヴェルトール》に在る者は、それを代価に支払ってもらう」 「皆、各々よい物語を見せたであろう? 私を恐れる者も、敬う者も、何かを取り戻そうとする者も――」 黒円卓十三騎士の一人一人、総ての最期や人生に触れたわけじゃないとはいえ、知っているだけでも奴らは奴らで必死だった。人間だった。 でも、こいつだけは違う。 「おまえは悪魔だ」 偽りの夢と力と栄光を与え、代価として魂を奪い取る〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》。 奴隷とした死者たちの城に君臨する墓の王。 断じて、存在を許していいものじゃない。 「悪魔か、確かにカールもそう言っていたな」 そしてメルクリウス。 こいつら二人は絶対に―― 「絶対に、俺が斃すッ!」 天空の足場となっている方陣を蹴り上げて、俺は宙に飛んでいた。物理的な質量があるものじゃないというのに、それは大地と同等の反動を返してくる。 今この時も、刻一刻とこれは成長を続けているんだ。時間がない。 先輩を救うのはもちろんのこと、街の外にこの祭壇を広げさせたら総てが終わる。 だから一秒でも早く、俺がラインハルトを斃す必要があるんだ。 「――行くぞォッ!」 湧きあがる力、満ちていく魂。右腕の刃が過去最高に研ぎ上げられていくのを感じ取れる。 今なら奴を断てるはずだ。この馬鹿げた騒ぎを終わらせてやる。 「なるほど、速いな」 共に流出位階同士、異なる世界の異なる常識がぶつかり合って鬩ぎ合う。 こいつの時を完全に止めることはできないが、速さのアドバンテージは絶対に渡さない。 「卿はこの新世界に何を願う」 無論、おまえたちが存在しない世界を。 「己が覇道で何を生む」 答えるまでもない、それは穏やかに安らげる日々。 「〈戦争〉《わたし》を人から取り除くことなど誰にもできんぞ」 ぶつかり合い、弾き合う刃と刃、世界と世界。 人の悪性、闘争という概念を凝縮したような男が言う。 「異なる他者への排撃は、魂の根幹に刻まれた人の〈原罪〉《つみ》だ。決して拭えん」 「卿もまた、私を認められんのだろう?」 ああ実際、こいつの言うことは間違っていない。この非日常が始まる前、ただの日常にいた時だって、世界の何処かで戦争が起こっていたはずだろう。 それは殺し合いなんて大仰なものじゃなくても、相容れない他人を前に喧嘩をしたり嫌いあったり、数えきれない拒絶に満ち溢れている世の中。 だけど―― 「ならば私の内で渦巻くことと、何の違いがあるという」 俺が言っているのはそんなことじゃない。 「殺し合わずにおれないならば、等しく我が城で永劫の闘争を続ければよい。人の子は何も変わらん。善や道徳という欺瞞が剥がされ、真実の己に立ち返ること、それを祝福と思う者も存在する」 「いや、認めずとも皆が同じなのではないか。力を得られて興奮したろう」 確かに、力を求めた瞬間を否定はしないが―― 「他者より抜きん出る事実に優越を覚えたことは?」 勝利するために刃を磨いた。それもまた真実だけど―― 「誰もが思ったはずだ、こうでなくてはならない」 それだけは、それだけは絶対に否定する。 「胸踊り、燃え上がる血の熱さ。非現実の戦争こそが狂おしく求められる人の娯楽だ」 「矮小な善とやら、取るに足らぬ道徳とやら、社会の規範たる常識とやらが卿らの〈牢獄〉《ゲットー》に他ならん。そこから解き放たれる瞬間こそを皆が心から祈っている」 「ゆえ、与えてやるのだ、この私が。鉄火に満ちた戦場の風を、慰めの妄想にすぎなかった非現実を、私が愛しい者らへ贈ってやろう」 「これを待っていた。これを見たかった。乞えよ、卿らの待ち望んでいたものがついに来たのだ。諸手を挙げて、今、礼賛するがいい」 「私は総てを愛している」 「ゆえに総てを破壊する」 「涙を流して、この〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を称えるがいい!」 高速で打ち合いながら、ラインハルトは謳うがごとく断言する。 己こそが祝福だと。己こそが人類の渇望だと。 神でも気取るようなその傲慢さ。全世界を呑み込もうという破壊の自負に満ちている。 しかし、勘違いはするなよ。 「俺が言ってるのは、そんなことじゃないんだ」 人の真実が何だのと、小難しい哲学紛いを論じる気など一切ない。 「ただ、そこにあったんだ」 目の前に、温かいと思える瞬間があったんだ。 「優しい空気が存在して――」 愛しい他者が傍にいて―― 「だったらそれを――」 その陽だまりを守りたいと思うことを―― 「欺瞞だなんて言わせないッ!」 怒号と共に、渾身の一撃を叩き込む。それは聖槍の一閃を弾き返し、ラインハルトがほんの僅かだが仰け反った。 「非現実の昂揚だと――?」 そうしたものの否定はしないし、人の闘争欲求は確かに存在するんだろう。 だが、だからといって、それしかない世界なんか認めない。 なぜなら血で塗り潰された空の下、いったいどうやって日の暖かさを感じればいいと言う――! 「俺の好きなものをおまえに壊される覚えはないッ!」 「ならば――」 ああ、ならば―― これは世界と世界の喰らい合いだ。 「私を破壊してみるがいい」 無論、今さら言うまでもないだろう。 たとえ争いこそが世界の縮図なのだとしても―― そこには聖なるものが必ずあると信じている。 「――食らえェェッ!」 着地して切り返し、ラインハルトの側面へと超速で走る。先の一撃で体勢を崩した今のこいつが、これを凌げるとは思えない。 だが、瞬間―― 「第九――〈SS装甲師団〉《ホーエンシュタウフェン》」 「―――――!?」 奴が纏う〈髑髏〉《ししゃ》の一部が戦車に変わった。その数――実に百台以上。 こちらに向けられた総ての砲が、残らず一斉に火を噴いた。 「ぐッ、おおおおぉぉォッ!」 身体をなぎ倒すようにして転げながら、間一髪で弾幕から逃れ出る。今のはいったい―― 「第三十六――〈SS擲弾兵師団〉《ディルレワンガー》」 驚愕する暇もあらばこそ、今度は俺の下から万を超える銃剣が突き上がる。 「ちィィッ――」 考えるよりも先に、飛び下がって槍衾から逃れ出ていた。足下には牙を噛み鳴らす髑髏の兵団が、殺意に濁った目で俺を見ている。 これがラインハルトの流出―― 「そう、私は〈軍勢〉《レギオン》だ」 「――――――」 僅かに視線を切った一瞬の隙に、こいつも跳躍して俺の前に現れていた。 「何を驚いている、まだ序の口だろう」 そして、パチンと指が弾かれる。 「第十――〈SS装甲師団〉《フルンツベルク》」 今度は至近距離からパンツァーファウストの集中砲火だ。俺は空中にある以上、この砲弾雨を躱せない。 躱せないなら――腹を決めろ。 「おおおおォォッ!」 斬り返し、弾き飛ばし、あるいは防ぎ、もしくは逸らし、止むことのない嵐の砲弾。すでに三十、四十、五十、六十――まだ終わらない。 俺の跳躍は足場の方陣から四・五メートル上空のものでしかなかったが、落下するまでの間にもうそれだけ攻められている。その出鱈目な兵力は、もはや無尽蔵と言っていいだろう。 これが武装親衛隊。ラインハルトの総軍において中核をなし、かつて全世界に戦いを挑んだ髑髏の兵団。 その士気、練度、そして何より狂的な勝利への飢え――肌が粟立ち背筋が凍る。 しかし、だからといってこのままむざむざ――― 「づッ、ああああァァッ!」 数えていたのは百数十発までだったが、ついになんとか凌ぎきった。いかに膨大な兵力だろうと、ラインハルトを斃そうという俺がその奴隷相手に不覚は取れない。 そうだ、俺はあくまでも本体であるラインハルトに集中するべきだろう。指揮官を潰せば軍団は消える。 ――刹那。 「まだ戦場には不慣れかね?」 砲弾の雨を防いだことで発生した爆煙を突き破り、黄金の神槍が俺に迫った。 「一対一に慣れすぎたか。それでは生き残れん」 「これは御前の決闘ではないぞ」 多角的な波状攻撃――確かに俺は、まだその手の戦法を経験してない。 「さあどうする? 失望させるな」 走る聖槍――すでに右腕を振り上げる暇はない。 だったら避けろ――間に合え―― 「マリィッ――!」 彼女の魂に呼びかける絶叫は、無論、断末魔なんかじゃない。 「――――ぬッ」 死線に気力を総動員させ、流出する理を強化する。 結果、本当に一瞬だが槍の穂先が停滞した。 今だ―― 無理矢理空中で身体を捻り、喉元へ迫っていた聖槍の一閃を躱してのける。かなりの際どい回避だったが、そんなことに頓着している場合じゃない。 着地した俺は真横に飛び、そこから宙のラインハルトへ切り込んだ。 しかし、その一撃は旋回した聖槍の柄で防がれる。激突の威力が大音響を発生させて、俺たち二人を弾き飛ばした。 「――――づゥゥッ」 滑るようにして方陣の上に落下すると、膝をついた姿勢で息を荒げる。 「くッ、は……」 たったこれだけの攻防で、もう息が上がりかけてる。ラインハルトの重圧や攻撃の苛烈さはもちろんだが、それ以上に流出の鬩ぎ合いは俺の心身を削っていた。長期戦は危ない。 とにかく、なんとかして奴の動きを止めることだ。さっきのような理の強化を限界領域で行って、その隙に切り込むしかない。完全な停止は不可能でも、若干の効果はあると証明されたわけだから。 「ふむ……」 そんな俺を、同じく着地したラインハルトは興味深げな目で見ていた。その背後や足下には、百万を超える死者が群がっている。 あの軍団をこれ以上指揮させてはいけない。確か武装親衛隊は四十師団近くあったはずだ。僅か三つの連携で一髪千鈞を拾った俺に、あれを超える波状攻撃は剣呑すぎる。 「確かに厄介だな、その覇道」 「よかろう、では少し趣向を変えるか」 「……?」 不明な台詞に、眉を顰めたのと同時だった。 「すでに理解したと思うが、私は私の〈軍勢〉《レギオン》を操れる」 聖槍をこちらに擬し、構えを取るラインハルト。あそこから俺を撃つ気か? その一撃が指向性の大破壊を起こしたのはこの目で見たし、危険な技なのも分かっている。 しかし、これはいくらなんでも離れすぎだ。彼我の距離は十数メートル、俺にとっては安全域と言って構わない。 そんなことは奴も分かっているだろうに、いったい何を考えている。 「銃兵には銃を、砲兵には砲を、各々得意とする武器を宛がい、編成するのが指揮官の冥利だ。有り体に言えば、人を操る手練……それに長けていなければ将にはなれん」 ラインハルト・ハイドリヒは大将位、軍隊におけるほぼ最上位にあると言っていい。 だが、それがどうした。何を言いたい? 「ゆえにだ、こうは考えられんかね。私は部下の総てを知っている」 「その魂、その渇望、我が〈内海〉《ヴェルトール》に溶けるいと小さき愛児たち……彼らは私で、私は彼らだ」 「今や同化しているのだよ、我々は」 聖槍が不気味に鳴いて震えだす。同時に膨れ上がる暴力的な凶念と血の匂い。 俺はそれに、その気配に覚えがあった。 不吉な直感が背を走り抜ける。 まさかこいつ―― 「ああ、日の光は要らぬ。ならば夜こそ我が世界」 「夜に無敵となる魔人になりたい。この畜生に染まる血を絞り出し、我を新生させる耽美と暴虐と殺戮の化身――闇の不死鳥」 「枯れ落ちろ恋人――〈Der Rosenkavalier Schwarzwald〉《死森の薔薇騎士》」 瞬間、俺の全身に抉るような虚脱感が襲いかかった。 「がああああァァッ――」 立てない。痺れて握力すら覚束ない。まるで俺の全精力が、ラインハルトに吸い上げられているようだ。 上空に出現した月がみるみる真紅に染まっていく。これは血で飽食した夜の異世界。 「ヴィル…ヘルム……?」 あいつの能力は知らないが、この気配は間違いなくあの男だ。ラインハルトがヴィルヘルムの創造を使っている。 「その業は吸収、略奪。私のグラズヘイムとよく似た技だが、敵の弱体化を狙うというのはあまり好みではないな」 「とはいえ、卿らに敗れ去った愛児の祈りだ。ならば一矢報いさせてやるのが親というものだろう」 「………ッ」 この疲労感、この息苦しさ、明らかに体力を奪われている。 だったら、まずい……今攻撃を受けたら躱す自信が…… 「だが、卿は自分で思っているほど惰弱ではない。不撓不屈の精神をもって、ここに立った誉れ高き漢だ。ゆえに無論、舐めてはおらんよ」 「まだ足掻くかもしれん。いや足掻くだろう。ならばこそ念には念だ」 そして再び、聖槍に凶気が満ちる。ぞわぞわと意志を持った影のように、集まり群がって蠢きだす。 まさか重ねて、別の創造を放つつもりか? だったら誰の…… 顔を上げる俺の前で、再びラインハルトの箴言が始まった。 「この身は悠久を生きし者。ゆえに誰もが我を置き去り先に行く」 「追い縋りたいが追いつけない。才は届かず、生の瞬間が異なる差を埋めたいと願う。ゆえに足を引くのだ――水底の魔性」 「波立て遊べよ――〈Csejte Ungarn Nachtzehrer〉《拷問城の食人影》」 「――――――ッ!?」 聖槍から伸びる影が、〈多頭竜〉《ヒドラ》のように枝分かれして俺へ迫った。やはり初見の技だったが、直感的に理解する。 あれに触れてはいけない。 「――――づああァァッ」 力の入れ辛い身体を酷使し、殺到する影の帯から逃げ回る。ラインハルトの口上から、これが誰の創造かは察しがついた。 「……ルサルカッ」 まず間違いない。そしてその能力は―― 「そのはしこい足を封じてやろう。卿を停止させるというのも、中々皮肉だとは思わんかね」 他者の足を引くという渇望。己を高めるのではなく、妨害による周囲への強制停止。ふざけるなよ、こんなもの俺とは似ても似つかない。 俺は自分自身が疾走することを願う。何処までも駆けることを祈る。 この停止と俺は真逆だ、屈するんじゃない! 「くッ、おおッ」 現状、なんとか回避はできている。だがヴィルヘルムの創造がある限り、こちらの力は秒刻みで弱体化していくんだ。いずれ捕まってしまうだろう。 そして、捕まった時にそれを弾き返す余力はおそらくない。 だったらどうする?  いかにラインハルトの流出だろうと、この技自体は創造だ。ならば理として、俺のルールの方が上位にある。 迷うな、信じて行うしかない。 いきなり百八十度の方向転換。今まで逃げ回った分、開いた距離をそのまま加速の助走に変えて、迫る影の海に特攻した。 あれに触れた一瞬、確実に生じるだろうこちらの停滞を、ラインハルトは逃さない。だったらそれを逆に利用し、局面を打開しよう。 すなわち―― 「おおおおォォッ!」 迫る〈食人影〉《ナハツェーラー》の中に踊り込み、その中心部に一刀を叩き込んだ。それで影は霧消したが、足引きの妨害に触れたことでやはりこちらの速度が一気に下がる。 その隙を、奴はやはり狙ってきた。 「止まったな」 運命の槍に満ちる神気。その霊力が破壊力に変換され、大破壊の一撃が放たれようとしている。 「加減はせんぞ。もはやそんなものは生涯せん」 「ここで終わるならそれまでのことよ。私は星々の果てまで怒りの日を進軍させる」 「〈さらば、眠れ〉《アウフ・ヴィーターゼン》――とはならぬことを祈ろうか」 そしてついに、黄金の爆光が炸裂した。 「―――――――」 迫る破壊の超霊力――確かにまるで手加減してない。 不動縛の残滓が未だ僅かに尾を引いている。動けはするが、回避はできない。 そして俺も、躱す気はなかった。 秘策と言うにはあまりにも無理すぎるが、とにかくそれを実行するため。 「――があああァァッ!」 迫る黄金の破壊光を、俺は刃を盾にして受け止めていた。 「ほぅ……」 全身が泡となって蒸発しそうな衝撃に蹂躙される。四肢が痙攣して毛細血管が破裂を起こし、目からも血が迸った。 「負けるか……ッ」 そうだ負けるか、負けて堪るか! たとえラインハルトが何人の戦奴を従えようと、そんな絆とも言えない支配と隷属の関係に俺たちが負けるわけない! そう、俺たちだ。俺は一人じゃない! 「……来いッ」 噛み締めた歯が砕き割れる。両手の爪がめくれ上がり、骨に亀裂が走っていくが一切無視した。 来い、力を貸してくれ。ラインハルトの総軍勢すら凌駕する俺たちの〈絆〉《レギオン》を見せてやろう。 「櫻井……」 さっきおまえの声を聞いたよ。 「司狼……」 腐れ縁なんだから、最後まで付き合うだろう? 「だから――」 爆ぜる黄金の破壊の中――俺は渾身の力で吼えていた。 来い、と。ここに集まれ、と。 カッコつけた台詞なんかいらない。 俺の語彙で、俺の〈魂〉《こころ》を、ただそのままに伝えたい。 なあおまえら、このラストバトルで俺とマリィにだけ美味しいとこ取られていいのかよ。 そんな気ないよな? だったら―― 瞬間、まさに爆光が弾ける寸前―― 「一緒にぶっ倒すぞォッ!」 ノリを弁えたあいつらが、俺の声に応じてくれたのを苦笑と共に迎えていたんだ。  その時、有り得ないことが起こった。  そう、彼にとっては有り得ないこと。  全力で放った槍の光撃が真っ向から弾かれる。しかもそれは宙に浮かぶ血の満月に着弾し、荊棘の檻を粉砕していた。 「―――――――」  これか? これを狙っていたのか?  確かにこの戦いを続けるに当たり、対峙する者がもっとも厄介と思うものはカズィクル・ベイの吸精月光と薔薇の夜。天空高すぎて届かない月を破砕するため、あえて飛び道具を撃たせたのか。 「――――く」  なんだそれは、戦術にさえなっていない。  〈ラ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ン〉《 、》〈ハ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ト〉《 、》〈・〉《 、》〈ハ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ド〉《 、》〈リ〉《 、》〈ヒ〉《 、》〈の〉《 、》〈全〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈弾〉《 、》〈く〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈前〉《 、》〈提〉《 、》〈の〉《 、》〈作〉《 、》〈戦〉《 、》など、すでにそこから破綻している。  全力だった。全力だったのだ。過去、必殺を期して逃したことなど一度もなく、その時でさえ全力を出し切れてはいなかった。  ゆえに、これは有り得ないこと。  彼にプライドというものがあるのなら、間違いなく粉々になったであろうほどの衝撃。  だから、だろうか―― 「――――く、は」  よく分からないものが口から漏れる。  もちろんそれが何かは知っていたし、今までやったことがないというものでもない。  だが、これは初めてだ。〈初〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「くは、はは、は……」  初めて行うことゆえに、我ながら上手くない。  なんとか気持ちを表現したいが、これでは嗚咽のように見えてしまう。  いや、あるいは嗚咽なのかな。それも体験したことがないので分からない。  ああ、ああ、いいぞ、もう面倒だ。  泣かせてくれ、この私を。  奮わせてくれ、この私を。  この身は生まれたばかりの新世界。  ならばこそ、これが私の産声と呼ぶべきものなのだろう―― 「ははははははははははははははははははははは――――ッ!」  天を衝き破る哄笑と共に、今、ラインハルト・ハイドリヒは歓喜というものを初めて知った。  真なる笑いというものを、彼は初めて行ったのだ。  その奇跡――いや奇跡どころではない超越が。  吹き荒れる魔力の帳を掻き消して、今そこに立っている。  これもまた、一つの〈軍勢〉《レギオン》。  一にして無窮なるアルファ&オメガ。  しかしその本質は、ラインハルトのそれと明らかに異なっている。  片や支配と隷属を、片や愛と友情を。  戦奴の兵団を率いる彼とは対極に位置するが、認めよう。 「美しい……」  そう言わざるを得ない。美しい。  蓮を守護する星のごとく、彼の周囲を旋回する聖遺物は都合三種。  ルサルカ・シュヴェーゲリンから奪い取り、遊佐司狼が揮っていた〈血の伯爵夫人〉《エリザベート・バートリー》。  第八開放で粉微塵となったものの、いかなる奇跡か再生を果たした櫻井螢の〈緋々色金〉《シャルラッハロート》。  そして、これがもっとも異質かつ強靭なものであると、ラインハルトは知っていた。 「〈戦雷の聖剣〉《スルーズ・ワルキューレ》……」  ああそういえば、“彼女”の魂が見当たらないのが些細な不思議だったのだ。 「そこにいたのか、中尉よ」  卿は良き〈英雄〉《エインフェリア》になるだろうと、目をかけていたのだがな。  そうか、私と争うか。 「くく、くくくくくく……」  覚えたばかりの歓喜が止め処なく湧き起こる。その度に未知が総身を奮わせる。  いやいや、実に素晴らしい。私に刃向う者がこれほどいる世界なら、我が覇業はますます栄光に輝くだろう。  そして、それら逆徒を率いる者の美々しさよ。 「聖遺物を操るための聖遺物……」 “あれ”に相性などというものはない。  この聖槍のみを例外にして、おそらく総ての聖遺物を使いこなせる唯一の者だ。  ならば無論、“あれ”は私と同等以上に…… 「〈War es so schmählich,〉《私が犯した罪は》―― 〈ihm innig vertraut-trotzt'ich deinem Gebot.〉《心からの信頼において あなたの命に反したこと》」  回る戦姫の剣が帯電し、その魂に刻まれた〈詠唱〉《うた》を歌う。 「〈Wohl taugte dir nicht die tör'ge Maid,〉《私は愚かで あなたのお役に立てなかった》」  やはりそうか。できるのか。よいぞ、最高の演出だ。  ならば私も興を弁え、さらに華々しき歌劇となるよう、指揮を務めさせてもらいたい。 「〈Auf dein Gebot entbrenne ein Feuer;〉《だからあなたの炎で包んでほしい》」  そう、炎だ。聖槍から立ち昇る気が充溢し、ラインハルトの全身にまで及びだす。  その色は赤。熱波は魔性の火炎となる。  さあ、格が違うぞここからは。  彼女は魔城の〈不死英雄〉《エインフェリア》――その名は紅蓮の〈赤騎士〉《ルベド》なり。 「我は輝きに焼かれる者。届かぬ星を追い続ける者。 届かぬゆえに其は尊く、尊いがゆえに離れたくない。追おう、追い続けよう何処までも。我は御身の胸で焼かれたい――逃げ場なき〈焔〉《ほむら》の世界」  穂先に獄炎が渦を巻く。渦を巻いて道を創り、魔砲の砲身世界を創造する。  ああ、構わぬよ。抱いてやろうさ、我が胸に。 「〈Wer meines Speeres Spitze furchtet, durchschreite das feuer nie!〉《我が槍を恐れるならば この炎を越すこと許さぬ》」  ではまず、卿が逃した手弱女を、その渇望に捕らえるがいい。 「〈Briah〉《創造》――」 「この荘厳なる者を燃やし尽くす――」  雷電が剣となり、火炎もまた剣となった。  ここに今、戦姫が二人、存分に語り合い競い合う。 「〈Donner Totentanz〉《雷速剣舞》――〈Walküre〉《戦姫変生》」 「〈Muspellzheimr Lævateinn〉《焦熱世界・激痛の剣》」  激突する紫電と焔が、姉妹のように互いの剣を交えていた。 炎が螺旋を描いて道を創る。俺とラインハルトを結ぶ空間以外が今や完全に切り離され、外に出られない状況はさながらトンネルの中を思わせた。 いや、トンネルじゃない。これは砲身―― 絶対に当たるという魔砲の真実は、追尾弾頭でも拡大爆心でもない“これ”だったのだ。 逃げる場所がないゆえに回避不能。一寸の隙間もなく砲身内部を走り抜ける超高熱の火炎流―― たとえどんな速度で駆けようが、これは耐え凌ぐ以外に術がない。 が――同時に好機であるとも言えるだろう。この砲をやり過ごすなら亀になるしかないはずだと、大半の者が思って然りなのだから。 ここは、あえてそれをしない。危険度の高さは半端じゃないが、試してみる価値はある。 迫り来る獄炎の壁に向かい、俺は正面から駆けていた。 「ぐううううゥッ……」 狙いは一つだ。この壁を切り開いて突破する。 現れた三つ目の聖遺物が何であるか、不思議なことに俺は直感で理解していた。しかし、それについての説明なんかどうでもいい。 ただ、“彼女”が助勢してくれたということ。その雷撃が炎の壁と鬩ぎ合っている今ならば、突破も決して夢ではない。 司狼と櫻井も一緒にいる。だったら可能だろうし可能にすべきだ。 おそらくラインハルトはカウンターなど警戒してない。 これを突き破った先には無防備なあいつがいる。 「ッ、ッ、ッ……!」 燃焼する大気は酸素を食いつくし、呼吸ができないし声もあげられない。 だけど、それでいい。こちらの気配を察知されずに接近することができるなら、呼吸なんか百年だって止めてやる。 血が沸騰する音も、肉が焼ける匂いも、一切俺は頓着しない。 ただ無心に、全力で、この焦熱壁を突き破り―― 「――〈殺〉《と》ったぞッ!」 ついにぶち抜いた炎の向こう、黄金の悪魔を刃圏に捉えていた。 「こちらがな」 しかし、待ち受けていたのは予想に反した微笑。明らかに俺が先んじていたにも関わらず、何か時間軸を逆転させられるような感覚に囚われた。 「接触を恐れる。接触を忌む。我が愛とは背後に広がる轢殺の〈轍〉《わだち》」 「ただ忘れさせてほしいと切に願う。総てを置き去り、呪わしき〈記憶〉《ユメ》は狂乱の檻へ。我はただ最速の殺意でありたい――貪りし凶獣」 「皆、滅びるがいい――〈Niflheimr Fenriswolf〉《死世界・凶獣変生》」 「――――――」 それは完全に、後手が先手を追い抜くという不条理だった。 カウンターのさらにカウンター。信じ難いことだったが、今のラインハルトは俺より速い。 驚愕は――だが気力でねじ伏せた。上等だよ、だったらここで勝負してやる! 時間の取り合いというこちらの土俵で負けるわけにはいかない。 全霊で祈り、吼える。 「――止まれェェッ!」 同時に、躱し様ギロチンを放った。 聖槍の刺突はこちらの守りを突き破り、俺の斬撃も群がる親衛隊を纏めて数百以上断ち割っている。 結果は―― 「づあァッ――」 「ぐうゥッ――」 相打ち――俺は脇腹を削られて、ラインハルトは肩口を裂かれた。そのまま弾かれて距離を取る。 「…………ッ」 そして、俺は今気がついた。 ここまで派手にやり合いながら、お互いの刃が直接相手を害したのは、これが初めてだということに。 不滅の肉体を切り裂いた感触が腕に伝わる。血の匂いが濃厚に感じられる。 それは、ラインハルトも同じだったようで…… 「ふふ、ふははははは……」 笑っていた、笑っていたんだ。 こんな気持ち悪い感触を至上の喜びであるかのように。 「すぐ病み付きとなる」 「私をして、〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。己の血が熱い」 「ああ、私は今――生きている!」 「はははははははははははははははははは―――ッ!」 その豪笑を掻き消すような、激烈極まる槍の一閃。 「何がッ――」 俺はそれを全力で弾き返し、互いに仰け反り―― 「可笑しいんだよッ!」 再びバネ仕掛けで戻るように上体を起こすと、渾身の力で切り込んだ。 「無論、総てが――」 今度はラインハルトが弾き返し―― 「色鮮やかに輝いている!」 また仰け反り、また戻る。 「見よッ、何だこの滑稽な戦はッ!」 そこには戦術も何も存在しない。ただ一発ごとに全身全霊を叩き込むことの繰り返し。 まるで子供同士の殴り合いだ。無駄と無策の塊みたいな攻と攻のぶつかり合いで、しかし同時に極限の攻め合い。 「なるほど、カールよ、確かにそうだ。究極に近くなるほど陳腐になる」 「ならばさらに絞り出さねばなるまいよ」 俺としても、事ここに至ればこれを続けるしかなくなった。お互いに防御を完全無視した大振りだが、そのぶん総てが乾坤一擲。小賢しい真似をすれば暴風に巻き込まれる。 だから、やれることは一つだけ―― 「俺か」 「私か」 流出の鬩ぎ合い。どちらがより己の理を強化し得るかという、原点に等しい根性論。 ゆえに今、俺たちは無心となり―― 「――行くぞォッ!」 〈怒りの日〉《ディエス・イレ》の夜――互いの魂を懸けて打ち合い続けた。 「――――ぎッ」  その時、壷中の意志が悲鳴をあげた。  まだ駄目だ。まだ早すぎる。まだ私は広がりきっていないのに、と…… 「いた……い…」  出産を待たずに広がり始めたグラズヘイムが、産道を破壊しようとしている。このままでは〈イザーク〉《わたし》が吹き飛ぶ。  違うだろう、それは。そうじゃないだろう、誕生とは。  私はあなたを祝福し、あなたは私を慈しんでくれるのではないのか?  私など、もう要らぬと? 「あ――、が……」  子宮口が広がらない。停止させる世界が私の出産を邪魔している。  だから、だからあなたは、私のために戦っているのではないのか?  妨害者を排除しようとしているのではないのか?  むしろ邪魔だと?  窮屈でならぬから吹き飛んでしまえと?  それではあまりに…… 「あまりにも、非情ではありませんか……」  鬩ぎ合う二世界の圧力で軋みあげる産道の中、玲愛はイザークの嘆きを聞いた。  拒絶され、恐れられ、祝福されない〈私生児〉《バスタルト》。  彼は最後の最後まで…… 「父様……」  自身がそうだと思っている男に問う。  呪うではなく、縋るような声で問う。  まだ何処かに一人でも、自分を抱いてくれる者がいるのではという希望を捨てることが出来ないまま。  その渇望に焦がれたまま。 「あなたまで……」 「あなたまで、私を疎ましいと仰るのか……」  ついに声をかけられず、伸ばそうとした手も届かなかった玲愛の前で。  イザーク=アイン・ゾーネンキントは、誰からも不要とされたまま“父”の手によって消し飛んでいた。  そして――  シャンバラの方陣が消失する。  産道は弾け飛び、ついに窮屈な檻から放たれた死人の世界が、爆発的に広がりだす。  それを阻止せんと、停止の世界もさらに強まり――  高まる覇道と覇道の鬩ぎ合いは、ここに臨界を超えた。  そう、臨界を超えたらどうなるか。  これを一枚の紙に例えてみよう。  そこには現在、“既知”という絵が描かれている。  その一角、シャンバラという地域限定で、“停止”という色と“死人”という色が領土を争いながら重ね塗りを続けているのだ。  この二色には、性質上の違いがある。“停止”は色鉛筆で、“死人”は絵の具。しかも“チューブ”から直塗りしている絵の具だと思えばいい。  その〈産道〉《チューブ》が、いま弾けた。  色鉛筆の塗り速度に対抗するため、絵の具は〈産道〉《チューブ》が邪魔だったのである。  結果、何がどうなるか。  強い筆圧や度を超えた重ね塗りは、絵を完成させる前に紙そのものへ穴を開ける。  そう、穴が開くのだ。臨界を突破するとはそういうこと。  それはなんと定義するべきだろう。  紙の上にありながら、絵ではないし色でもない。  すなわち、世界の特異点。  穴の大きさは不明。  シャンバラ全体を飲み込んだか、それともその外まで弾けたか、あるいは針の先ほどか。  不明だが、ともかく〈特異点〉《あな》は生じたのだ。  そしてそこに、この事態を引き起こした当事者全員が落ちていく。  では、紙の下にあるのは何か? 「ようこそ――」  穴の向こうにあるのは此処。  今や完全な白紙状態。何色も存在せず、何色にもなれる此処こそが、最終的な決着の場として相応しい。 「新世界へ。今、我々が総ての中心にある」  では、最後の〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めようか。 「――――――」 意識の何もかも白くなるような極限の鬩ぎ合いを経て―― 「ようこそ――」 気付けば俺は、その場所にいた。 「新世界へ。今、我々が総ての中心にある」 対峙する俺とラインハルトの間に立ち、悠々と笑っている男が一人。 その声、その顔、初見の人物だが間違えるはずもない。 こいつは俺だ。 気が狂いそうなくらい俺と外見が相似している。 「無粋だぞ、カール」 そして、だからこそ確信できた。 「おまえ……」 こいつがメルクリウス。カール・クラフト。黒円卓の副首領…… アレッサンドロ・ディ・カリオストロ―― 「まだ終わっていない。横槍は要らん」 「別にそんなつもりはないのですがね」 ラインハルトの威圧を飄々と受け流しているその様に、畏まった様子は一切ない。暖簾に腕押しを地でいくような態度を取っている。 「ただ、ここの貴重さはあなたにも分かるはずだ。無闇矢鱈な重ね塗りなど、できればしてほしくない」 「〈生〉《き》は〈生〉《き》のままに、真白い画布に描く絵は、最初の一筆、一色のみでよいでしょう。その方が美しかろうと私は思う」 「ここを既知の世界のごとく、何色も混沌とさせてまた穴を穿つようでは忍びない。それはもはや、流出でなく落下だ」 「あなたはそうして、彼と何処までも穴の底へ落ち続けるのか?それが望みと?」 「君にも問う。ここを雑色で汚したいかね?」 「…………」 ここが何処で、何なのか。それは一目で分かっていた。 ここはかつてマリィがいた場所。だが一度俺と流出したことにより、今は空となっている。 景観だけは残っているが、こいつの喩えに倣うならそれは額縁。中味は白紙で、何もない。 つまり…… 「ここで流出は使うなと?」 「誰のものを主とするかが決まるまではね」 「言ったように、このまま続けたところでまた穴が開くだけだ。切りがないし、そして何より、ここを汚すのは忍びない」 「ゆえにご両人、よろしいか?」 その問いに―― 「〈卿〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈な〉《 、》、カール」 ラインハルトはそう言って、メルクリウスは一瞬だけ目を瞬かせると、微笑した。 「ええ、〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。〈私は何もしない〉《》」 それはまるで、悪戯を見咎められた子供のような笑み。 誰の流出を主として使うか。無論、話し合いなんかで決まるわけがない。 だったらやることは変わらないだろう。戦い方がより簡素なものになるだけで、単純な決着をつけられる分、むしろ俺にとってはありがたい。 「それで、如何か」 「いいだろう」 だから、ラインハルトは頷いて。 「ああ、文句はない」 俺もまた頷いた。 こいつを斃すという前提は同じだし、それにそもそも…… ………… いや、そのことはいい。俺だって馬鹿じゃないから、どう治めるのが一番いいかは分かってるんだ。 後のことは後のこと。まず絶対に排除しなければならないのはラインハルトで、こいつの流出だけは認められない。 俺はそれだけに総てを懸けよう。 「卿はいいのか?」 「無論、だがあなたの手に掛かるのは嫌だな」 「ふん」 それは憤りと、親愛と、そして哀れみの入り混じった苦笑だった。 傲岸不遜なラインハルト……この男にしては、有り得ないほど複雑な感情がこもった惜別の笑み。 当然俺も気付いている。カール・クラフト、メルクリウスが何者なのかということに。 〈流〉《 、》〈出〉《 、》〈位〉《 、》〈階〉《 、》〈に〉《 、》〈至〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》、〈同〉《 、》〈格〉《 、》〈の〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈覚〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 マリィがなぜこの男を特別視していたのか、今ならその理由がはっきり分かる。 こいつは、つまり…… 「では行こうか。ここでは手狭だ」 一歩引いて、ラインハルトが聖槍を一振りする。その一閃で、海が真っ二つに断ち割れた。遥か彼方にまで、モーゼの十戒めいた情景が生まれている。 ……なるほど、決着はそこでか。いいだろう。 「カール」 もはや俺たちに背を向けて、一人歩いて行くラインハルトは、そのまま振り返らずに友と呼んだ男に告げた。 「大儀だ。卿の友情、嬉しく思う」 「私は総ての望みを叶えられた。未知も、全力も、そして〈神〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》も」 「卿もここでなら、憂いなく逝けるだろう。好きにするがいい」 「ただ……」 惜しむらくは、と付け足して。 「私がもっと早くに気付いていたら、卿と直接矛を交えていただろう。その機を逸したのが、残念と言えば残念だ」 〈怒りの日〉《ディエス・イレ》は最終審判の日。〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》は天上の神と対峙することを望む者。 ラインハルト最大の願いとは、つまりそれで……そのことについて灯台下暗しであった事実を自嘲しながら悔やんでいる。 そして、メルクリウスは…… 「そこはお許しを。私は友人と争うことなどしたくない」 「あなたは最高でありましたよ、ハイドリヒ閣下。さらば、私の二人目」 「ああ、さらばだ友よ」 二人は互いに背を向けたまま、それ以上何も言わずに別離した。 ……さあ、それじゃあ俺は俺で。 「マリィ……」 呼びかけて、彼女をここに具現する。何とも思いつめた顔をしていたので、頭に手を置くと笑顔を作った。 自然に、自然に、本当に自然な顔で笑えるよう、過去最大の努力をして。 「すぐに勝って戻ってくるから、待っててくれよな」 「あ、う、うん……」 「それから」 マリィの肩越しに、もう一人へ問う。これ以上正面から彼女の目を見れなかったことと、絶対に確認しなければならないことがあったから。 「先輩はどうなった?」 スワスチカが弾け飛んだのは気付いている。あれはグラズヘイムを流し込む産道であり、子宮口を俺が広げさせなかったから、内で膨れ上がるラインハルトの総軍が母体そのものを破壊したのだ。 ゆえにこれは、俺のせいだとも言えるだろう。あの人の安否を確かめない限り、迷いを残したまま最後の勝負へ臨むことになる。 それだけは避けたい。 「消滅したのは、イザーク」 「イザーク?」 「君は知らぬだろうが、そういう者がいたのだよ。些か哀れではあったがね。まあそれはよい」 「君の友人なら存命だよ。意識があるかどうかは不明だが、穴の周囲に〈揺蕩〉《たゆた》っているだろう」 「〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈何〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ん〉《 、》」 「…………」 その含むような言いようはこいつの癖で、いつも通りで、つまり何か有り得るということを指している。 「〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈だ〉《 、》〈な〉《 、》?」 「〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈ね〉《 、》」 「あの――っ」 そこで、マリィが割って入った。 「わたしも行くっ、一緒に行くよ」 「いや……」 それはできない。これから先を、彼女に見せるわけにはいかない。 「ここにいろ」 「でも――」 彼女だって馬鹿じゃない。気付いてるんだろうが、すまない。馬鹿になってくれ。 一番馬鹿なのは誰だろうとか、そういうのは今いいから。 「行かせてあげたまえ、マルグリット。待てと言うなら待てばいい」 「それとも、私と二人でいるのは嫌かね?」 「そういうわけじゃ……」 俺たち二人の間で、マリィは視線を彷徨わす。 まあとにかく、二対一だ。賛同票がこいつなのは不愉快だし、こいつのもとにマリィを預けるのも気に食わない。 だが、他に方法はない。俺はあらゆる感情を凍結させて、薄笑っている男に告げた。 「おまえの“一人目”だろう。始末つけてもらえ」 「ああ、そうしてもらおう。だが一つ、断りを入れておくが」 「たとえばマキナやクリストフ、彼らは特殊な質を発現させたことで、秘法のルールにあまり縛られない。常時形成状態であったりとか、そういうことだが……」 「私もそれと同じだ。〈常〉《 、》〈時〉《 、》〈暴〉《 、》〈走〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》、〈一〉《 、》〈蓮〉《 、》〈托〉《 、》〈生〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「…………」 「獣殿も弁えている。そこは念頭に入れておきたまえ」 「……そうかよ」 お見通しっていうわけか。まあいい。 「じゃあ、行ってくるよ」 「あ……」 何事か言いかけるマリィを無視して、俺はラインハルトの後を追う。 振り返らない。振り返ってはいけない。 ここはこれから、新世界の源泉になる。誰か一人だけを残し、他は邪魔者として排除される運命だ。 だったら誰にするのが一番いいかなんてこと、考えるまでもなく分かっていたから。 「さようなら、マリィ」 聞こえないように別れを告げて、俺は最後の決戦場へと向かっていた。  長いようで短いような夢から目を覚ました。 「あ……」  ぼんやりとしたまま、周囲を見回す。なぜ自分はこんな所にいるのだろう。 「教、室……?」  記憶がいまいち定かではない。が、自らここに足を運んだ覚えはないと思う。それだけは分かる。  誰かに運ばれたのだろうか? でも、だとしたらいったい誰に? 「つ、……」  どれくらいの間、人事不省に陥っていたのだろう。身体を起こす時に全身が悲鳴をあげて、関節が軋む。  まるで寝たきりの病人が目覚めた直後……いや、もっと言うなら、死人が生き返ったかのようだ。  その感覚が気持ち悪くて、さらに何とかして記憶を手繰ろうと試みる。  確か、そうだ……最後の記憶は…… 「―――――」  思い、出した。あれはおそらく夢だけど、たぶん夢だけど〈真実〉《ほんとう》で…… 「玲愛さん……」  呟き、香純は外を見た。そして同時に、目を見張る。 「なに、あれ……」  空に、穴が開いている。そうとしか言いようがない。  大きさはどれくらいあるだろう? 少なくとも巨大なのは分かる。街のほぼ全域を覆うくらいに、真っ黒な穴が開いていた。  確かめないと。  その結論に至ってから彼女が採った行動は合理的で、別に奇異なものではない。  だが、そういう常識的な考えとは別次元で、“そこ”に吸い寄せられるような思いがあったのも事実だ。 「屋上……っ」  あの穴が、何処を中心に何処まで広がっているのか。そして、その直下にある街はいったいどうなっているのか。  それらを確認するためには、高い所に上るのがいい。だから屋上に向かったのだが、それとは別に…… 「玲愛さん…っ」  もう一度、今度は強くその名を呼ぶ。  〈屋上〉《そこ》で彼女と話した。〈屋上〉《そこ》で待っていると約束した。  あれは夢で、たぶん夢で、きっと夢なんだろうけど、そこに行けば皆に会えるような気がしたんだ。  いや、たとえ誰もいなくたって構わない。だったらあたしはそこに立って、声の限りに叫ぶんだ。  帰って来て。ここに来て。声大きいから聞こえるでしょ?  迷ってるならお願い、あたしを目印に――  香純は知らない。この街が死の沈黙に落ちてから、すでに二十四時間以上経過していることを。  その街に、今ぽつぽつと灯りが点りだしたことを。  魔城に吸われ、仮死状態となっていた者らの魂が徐々に解放され始めている。 「あたしはここにいるからっ!」  辿り着いた屋上で叫ぶ香純の見上げる先、砕け散ったタワー上空を中心に広がっている穴の周りで……  今、何かが起き始めていた。 そして―― 「まさか勝負を投げた……わけでもあるまいが」 俺はここで、総ての決着をつけるためにラインハルトと向かい合う。 「なぜ彼女を置いてきた。私を単独で斃せるとでも?」 「……斃すさ」 呟いて、構えを取る。勝負を投げる気なんか微塵もない。 ただ…… 「ただ、邪魔者は全員消えるべきだと思っただけだ」 「ほぉ……」 「まず、おまえは有り得ない」 ここから流れ出す新世界の創造主……ラインハルトがそうなることだけは避けねばならない。だから斃す。 文字通り、命にかえても。 「決死か」 「不満か?」 右手のギロチンに、俺自身の魂を流し込む。マリィを切り離した以上、そうするしかなく、そしてそうするのが一番いい。 「むしろ今までが不公平だ。これが最後なら、男同士一対一だろう」 流出に至った魂の持ち手は俺とマリィとラインハルト、そしてメルクリウスの計四人。この内で俺たちだけが、二人がかりという構図になっていた。 そのことに対するフェアプレイの精神なんてのは建前だが、素直な気持ちとして、もうマリィに血生臭い現場は見せたくない。 彼女こそが、最後の一人に残るべき者。これから先の世界像を描く者。 だったらそこに、血や争いの色なんて混ぜるわけにはいかない。彼女は彼女のままとして、皆が安らげる世界を描いてほしい。 そう思うのが自然だろう。そう願うのが当然だろう。何もおかしくなんかない。 「おかしい奴らはおかしい奴ら同士、退場しようって言ってるんだよ。そもそも俺は、ガラじゃない」 新世界だの創造主だの、たかが頭の悪い学生ごときが受け持つには荷が勝ちすぎる。まず役者として不足してるし、その証拠に俺のルールは傍迷惑極まりないものだ。 「自分と自分の好きな奴ら以外、皆止まってしまえ」 今だけ永遠に続けばいい。 「そんな世界でどうすんだよ。正直、ここに落ちてきてよかった」 もしあのまま戦って、俺がラインハルトを斃せていたら、流れ出したのはそんな〈法則〉《ルール》……既知感云々より、なお環をかけて性質が悪い。 「異なる他者への排撃」 避けられない衝突。 「俺も“そっち側”の人間なんだ。要するにおまえと一緒で、凡人なんだよ」 全世界の人間を愛せるような度量なんて持ち合わせない。 きっと必ず、大多数を俺は弾く。ここに至るまでの経験でそれを深く痛感している。 ヴィルヘルム、ルサルカ、シスター、神父、シュピーネ、ザミエル、シュライバー…… そしてマキナ。 カール・クラフト。 ラインハルト・ハイドリヒ。 その総てを受け入れられず、あるいは衝突し、あるいはすれ違い、そしてあるいはこの手にかけた。 かけようとしている。 「おまえらを許容することは今でもできない」 「だからほら、分かるだろう。俺は器じゃないんだよ」 もう一度、強く意志を込めて俺は言った。 「おまえと一緒でな」 神様になんか、なれない。 それを聞いて、ラインハルトは…… 「相分かった」 聖槍をこちらに擬し、構えを取る。そこにこいつの全兵力、全魂が集中していくのが分かった。 「文字通り、刺し違える覚悟だと。いいだろう、ならば総てを燃やし、真実の乾坤一擲を放つがいい」 「強さには二種ある。他者のためのもの、己のためのもの……そこに優劣はなく、差が出るとすれば信仰だ」 「己こそが絶対と自負するか」 こいつのように、我こそ全なりと揺るがない在り方か。 「他者こそが絶対と祈るか」 俺のように、〈彼女〉《マリィ》こそ全の器だと信じるか。 「女神の騎士を気取るなら、その覚悟を貫くがいい。蔑みはせぬし、敬意も払おう」 「ただし、失望だけはさせるなよ」 「おまえがあげる断末魔なら――」 息を深く吸い込んで、瞬間――俺は自己の魂に火をつけた。 「約束するけどなッ!」 この一撃で、燃え尽きたって構わない。だからどうか――俺の〈女神〉《マリィ》、勝利をこの手に掴ませてくれ。 「信じてる……ッ」 俺は君を信じてる。 君なら本当の理想郷を、きっと描けると信じてる。 凡俗相当の器に歪んだ俺の流出なんかより、きっと君は真実の〈楽園〉《シャンバラ》を生むだろう。 だから、俺はここで散る。〈ラインハルト〉《グラズヘイム》を消し去って、君が生む世界の礎になろう。 迷いはない。疑いもない。ただ、一つ後悔があるとすれば…… きっと君は、こんな俺に幻滅するんだろうなって…… そう思うことが、少しだけ遣る瀬なかった。 「まあ――」 話し合いで片がつく問題じゃないし―― 「香純にも言ったことだけど――」 男ってのは―― 「そういうもんなんだよ!」 咆哮と共に、俺は斃すべき敵に駆けていた。 「来い」 その全霊力を凝縮した聖槍は、過去最高の威力を生む。いくら流出しなくても、破壊力に変換されたエネルギーは何ら衰えを見せていない。 そしてそれは、こちらだって同じことだ。 命を乗せる。命を燃やす。二の太刀なんて考えない。 この一撃で、総てを終わらせられるように―― 守勢を完全にかなぐり捨てて、真実の乾坤一擲をここに放つ。 走る破壊の黄金聖槍。シュライバーのように速く、エレオノーレのように的を逃さず、マキナのように一撃必殺。 その穂先が、心臓に。 そして俺の刃は奴の首に。 共に、まったく同じタイミングで吸い込まれる。回避は出来ない。する気もない。 これが長らく続いた〈恐怖劇〉《グランギニョル》、最終章〈怒りの日〉《ディエス・イレ》―― その結末を、刹那の後に待ち受けて……  少女は、砂浜に立っていた。  立ち続けていた。  ずっと、そうしていたように。 「あなたに恋をした」  その中で、傍らに立つ影法師が言う。 「あなたに跪かせていただきたい、花よ」  それは、彼らの出会いを焼き直す台詞。マリィは何と返していいか分からない。  あの時もそうだった。いつだってそうだった。彼の言うことは常に理解を超えていて、どう対処していいか分からなくなる。  だけど――  それは近視眼的な見方をした場合の話だ。  世界を知って、他人を知って、視野を広げた今のマリィは、彼の意図しているところが見える。  言葉の裏に潜むもの。カール・クラフトでありカリオストロであるこの男が、ここで過去の行為をなぞるような真似をする意味。  つまり、昔とは違う反応を求めているのだ。本質的には無意味だが、まずは形式を重視することでメッセージを告げている。  私の〈既知感〉《せかい》を塗り替えてくれと。  だから―― 「わたしにやれと、あなたは言うのね」  短く、マリィはそう言っていた。 「ああ、そうだよ。その通りだ」  黒い影法師は笑っている。いつも笑っている男だったが、マリィは初めて彼の笑みを見たような気がした。 「それが一番良かろうと思う。もしこの場に観客がいれば、満場一致なのではないかな」  ここは今、完全白紙の特異点。この地を源泉として流れ出すのは誰が一番最良か、今さら考えるまでもなかろうと。 「元々君がいた場所だろう。ゆえに馴染みやすいのは言うに及ばず。 他二人の渇望は、客観的に見て問題が多すぎる。修羅道の具現と、停止の具現。そんなものが流れ出した日には皆が困ろう。 終わらない殺戮の世界か、時間の流れがない世界か。どちらも死人の楽園だ」  皆が困る、などという言い方は空々しい諧謔だが、事実としてその通りだ。ここに第三者がいたとすれば、どちらも有り得ないと言うだろう。 「途中で消したりはできないの?」 「出来ぬね。事実それは無理だった。一度流れ出せば覆い尽くすまで広がって永続し、新しい誰かが塗り替えてくれるまでは決して消えん。 今は特異点に落ちるという事象のお陰で、流れが強制的に止まっただけだ。筆が穴に落ちたから、画布の上では絵の具が放置されている。 原則、絵が完成するまで筆は止まらず、完成すれば己でやり直せないのだよ。どうしようもない」  だからこうする必要があった。  だからこうなる時を待った。  言外に、彼はそう言っている。 「でも、わたしとレンは一緒だよ」 「さて、本当にそうだろうか」  その台詞に、マリィは知らず反発していた。 「一緒だもん!」  自分と彼は同じことを願っている。同じことを夢見て、同じ目的のために走った。  そう信じている彼女にとって、今の台詞は聞き流せない。自然と、語気も強くなる。 「わたしでもレンでも、流れ出てくるものは変わらないよ。だって一緒にいたんだから。一緒に笑って、泣いて、戦って――」  頑張って―― 「愛して――」  一つになれたんだと思ってる。通じ合えたと信じてる。だから彼と一緒の願いを持っていると自負できる。  それを、たとえ仮定の話であったとしても、否定なんかされたくない。  いくら、あなたが相手でも―― 「大事なの、この気持ちが……だからそんなこと言わないで。 わたしたちを逢わせたのに、今さら引き離そうとするのはどうして?」  流出は、流出によって上書きされる。よって、次なる新世界の色が決まれば、他の色は存在できない。蓮とマリィが異なる〈流出〉《いろ》だと言うのなら、それは二人の別離を意味していた。 「彼は察していたようだが……」 「レンは時々頭悪いの!」 「カッコつけるのが好きだから、物分りがいいような顔をすぐしたがるの。した振りするの。ほんとは、全然、平気なんかじゃ、ないくせに……」  泣きたいくらい悲しいときも、逃げたいくらい怖いときも、痛いのだっていつもやせ我慢、空元気。 「馬鹿なのっ!」  そして、そんな彼が好き。 「文句、言ってやりたいから……しばらく、ずっと、このことで苛めたいから……」  もうお別れなんて嫌だし。 「わたし、そんなの信じないよ。……あなたが、何を言ったって」 「ふむ」  マリィの嘆きを見つめる目に、負の光は宿っていない。しかし彼は、だからといって折れたわけでもなかった。変わらず柔和な口調のまま、さらに冷徹な問いを投げる。 「では、君の言う通りだとしよう。だがその場合、どうするのだね? 二人だけを残し、総てが止まった世界で永遠に、か? 別に非難はしないが、そうなっても構わんと?」 「それは……」  良いわけがないと分かっている。何よりそんな結末は、蓮が許さないだろう。  だからマリィは言い淀み、逡巡して、ややあった後に顔を上げた。  この場の誰が生む世界も、相応しくない要素を孕んでいるなら。 「今のままじゃ、駄目なの?」  現状維持。既知世界のもとに帰る。それでは駄目なのか? いけないのか?  縋るような問いに、メルクリウスは…… 「駄目だね」  短く、断固として首を横に振っていた。 「それだけは認められん。私の友が許さんし、彼への裏切りになる。有り得んよ」 「そもそも、誰かの流出によってここを溢れさせなければ穴の外には出られない。今のあちら側に、我々と魂で繋がっている者など皆無だろう。引っ張り上げてくれる者がいないのだから、自力で出るしか法はなく」  自力で出るなら、ここで流出を起こさなければいけない。 「ゆえに、私は資格なしだ。このまま永劫ここにいるか、誰かに排除してもらうか……それを君に求めたいのだが、いけないのかな」 「…………」  沈黙する。答えが出せない。どうしていいか分からない。  蓮と自分の流出が同じでも駄目。違っても駄目。既知世界に戻ることも出来ず、だからといってラインハルトは論外だ。 「じゃあ……」  じゃあせめて、誰にも迷惑をかけないよう、ここで時の彼方まで蓮と一緒にいるべきなのか。もはやそれしかないように思う。  心残りは、あるけれど。  約束を破ることになるけれど。  みんなで学校に行く夢が、露と消えてしまうけれど…… 「いやだ……」  いやだよ。蓮と離れ離れになんかなりたくないよ。  ずっとずっと一緒にいたい。  だからもう、わたしにはこれしかなくて……  手が伸びる。  ゆっくりと、おずおずと、目の前にいる既知世界の創造主に手を伸ばす。  かつて言われた。この身体に叩き込まれた。  触れ合うとは、傷つけ合うことを意味する。  殺意。  そう、殺意だ。  わたしはいま殺意をもって、この人に触れようと…… 「ああ、良い子だね」  微笑は最上の愉悦に染まっていた。あるいは誇らしいのかもしれない。  この結末を生んだ一連の事象総てが…… 「ここでなら、私の入滅が他を巻き込むこともない。 さあマルグリット、私に未知の死を教えてくれ」  たとえ彼女の意図がどうであろうと、私に触れることで流出は起きる。  過日誓ったことを忘れてはいない。  断頭台の下、そこで君の最期を見たときに。 「いずれ必ず」  私が必ず。 「あなたを解き放ってみせると誓う」  あなたは新世界を包む女神の器だと認めるゆえに迷いはない。 「なぜなら、君にとって真実の渇望はね」  手が触れる瞬間、勝利を確信したメルクリウスは、謳うがごとく呟いた。 「抱きしめたい――だよ」  そこに、総ての陥穽があったことをこの男は気付いていない。  自分には何が出来るのかと考えていた。  何をするべきなのかと考えていた。  目の前で、消滅させてしまった彼のことを思い出す。  救うべきだったのだろう。語り合うべきだったのだろう。彼が求めていたものを、もっと別の形で与えてあげることもあるいは可能だったかもしれない。  でも結局、それは叶わず、絶望と共に散る彼を看取ることしか出来なかった無力感が胸を刺す。  だから自分は駄目なんだ。だからヒロインになれないんだ。  傍観や諦観なんていうものが、癖になって直らない。  もしも違う自分になれていたら、違うことが出来たかもしれないのに、と。  悔やむ。悔やんで嫌になる。  だからこれ以上の後悔はしたくない。  自分に出来ることは何だろうかと、強く強く考えた。 「まず、第一に目を開けよう」  そこに映る総てを理解しよう。 「耳を澄まして」  鼓動を聞いて。 「声に出したい」  伝えたい。 「そして助けたいよ」  私に出来ることをしてあげたい。  そうだ、いつも目を閉じていた。  いつも耳を塞いでいた。  余計なことは言わないように努めて端的な言葉を話し、キナ臭さというものを感じないように嗅覚を誤魔化した。  そしてそれを維持するために、深く考える作業を止めたのだ。  感じたくないものが多すぎて。  気付いてはいけない事実も多すぎて。  閉じた環の中だけを愛し、その外側で回り続けていた事象は一片たりとも感知しない。  だけど―― 「もう、そんなのは嫌……」  嫌だから、見て、聞いて、考えて…… 「見つけたよ、私に出来ること」 「声を――」  声を出して―― 「死んじゃやだ、藤井君」  お願い、あの人に届け―― 「おおおおォォッ――」 「ぬうううゥゥッ――」 走る運命の槍と断頭の刃――交錯する大霊力が鬩ぎ合い、空間が軋み上げて火花を散らす。 だが、その均衡は一瞬で―― 共に聖遺物が纏う霊圧を突き破り、互いの急所へと吸い込まれた。 結果―― 「やはり……足りなかった、な…」 「――――――」 俺の刃はラインハルトの首に食い込み、皮を裂いて肉を切る。だが骨を断つまでには至らない。 「何か、迷いでも、あったかね? 僅かだが、届かんぞ……」 「ぐッ……」 そして、俺は…… 「私の、勝ちだ……」 胸を聖槍に貫かれた。そこから迸る霊力が、全身を蹂躙する。 「がッ、ああ、あああ……!」 視界が暗くなる。意識が闇に飲み込まれる。どうしようもないほど致命的に、この一刺しは重すぎる。 「興醒めとは、言わん」 噴き出る自身の血に濡れながら、ラインハルトは笑っていた。この上もなく満足だというように。 「私の想いが、勝ったのだ。卿の信仰に、勝ったのだ。これはその、結果にすぎん」 「ああ、今こそ言おう。怒りの日、来たれり」 「私が、総てを、呑み込む」 「………ッ」 駄目だ、駄目だ、それだけは……それだけはさせられない。 させられないのに…… 死を懸けて、俺はこいつを打倒しようと誓ったのに。 「卿の女神も、まず第一に喰ってやろう。くく、ふふふふ……ははははははははははははははははは―――!」 割れんばかりの哄笑が轟き渡る。このままここから溢れ出て、マリィも世界も残らず総てを呑み込もうと、破壊の自負に酔っている。 なぜだ、何が足りなかったんだ。俺に迷いなどありはしない。 こうするしかないんだ。これしか方法はなかったんだ。 流出は流出で塗り潰される。俺とマリィが共存する手段と言えば、ここで何もせずに永劫過ごすしか有り得ない。 それは駄目だ。駄目なんだ。なぜならマリィは、ずっと一人きりだったから。 広い世界を見てほしい。たくさんの人に触れてほしい。学校にだって行ってほしいし、打ちあげの約束だってしただろう。 彼女をそこに行かせてやりたい。だから俺が礎になる。 手段はないんだ。他に選べる道なんか――ない。 俺が、ここで、なんとしても……死んでもこいつを斃さないと―― 「さらば、安らかに眠れ。私の御敵。盟友の遺産よ」 「卿らの美々しさ、永劫胸に留めおくと約束しよう」 破壊の霊力が膨れ上がる。 俺を殺して総てを呑み込み、マリィを、彼女を喰らうために―― 「させない……!」 絶対に、それだけは許さない。 諦めるな、まだ諦めるな力を絞れ。 刃に宿った全霊を爆発させ、この身体ごとラインハルトを―― 「だから――」 「あんたは――」 「そんなことばっかり――」  消そうとした、その時だった。 「死んじゃやだよ、藤井君」  脳裏に、声が…… 「手伝うから、手伝って」  聞こえたような、気がしたんだ。 「――――――」  首から噴き出ていた血液が、別のものに変わっていく。その正体を看破して、ラインハルトは瞠目した。 「馬鹿な――」  煌く星のような輝きの飛沫……数千、数万、それ以上――内側から弾け出て行く一つ一つは、その総てが人間の魂。  彼が奪い貪ってきた、数多の命そのものだった。  有り得ない。こんなことは有り得ない。  ラインハルト・ハイドリヒの統率力と支配力、幕下の戦奴を指揮する力は無双である。たとえ何者であろうとも、一度魔城に降った〈魂〉《もの》を許可なく引き剥がすことなど不可能で――  いや――違う。一つだけ、一つだけ例外があったのだ。 「ゾーネン、キント……」  グラズヘイムを産む子宮と産道。その効果とは、すなわち異なる世界を繋ぐパイプ役だ。  〈ゆ〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈吐〉《 、》〈き〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈吸〉《 、》〈い〉《 、》〈上〉《 、》〈げ〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》。  出産に対する母体回帰。  ベルリンでイザークが成したことを、逆世界で行っている。  この特異点に落ちた穴を伝い、彼の一部をシャンバラに還しているのだ。  無論それは、魔城出現の際に吸い上げられた、諏訪原市民八十万の魂―― 「ぐッ――」  刃が首に食い込んでくる。ここにきて、それだけの魂を突如喪失したということが、何の変調も起こさないなど有り得ない。  シャンバラの総人口は、ラインハルトが核とする武装親衛隊の兵と同数である。彼ら一人一人に喰らわせるための生贄が消えた。兵站を乱されれば軍は瓦解し、崩壊する。  敵の胸を抉った聖槍も、当然その必殺性を薄められ――  さらに深く、深く刃が食い込んでくる。止められない。  氷室玲愛が存命である以上、スワスチカも完全には消えてないのだ。実用に耐えないほど希薄化はしただろうが、ここには聖遺物を操るための聖遺物が存在する。 「そうか……」  それを利用したかゾーネンキント。  私を斃そうという彼の意志。そこに働きかけて、これを成し―― 「だが、死ぬぞ……」  傷ついた産道を他力で強化したところで、もう一度使えば次はない。今度こそ本当に弾け飛び、使い手諸共跡形すら残るまい。  イザークのように。 「いいの」  それは、ラインハルトにしか聞こえない声だった。強く、しかしはにかむような声で言う。 「それが私の勝利です」  みんなと逢いたい。みんなで勝ちたい。そのために自分がやるべきこと、出来ること。  その事実から、目を逸らさない。見て、考えて、実行する。 「綾瀬さんが、声大きいから」  たぶん、みんな目を覚ましてる。何処に行くべきか分かってる。 「私たちは迷わない。もう一度、みんなで一緒に集まりたいから」  主賓の藤井君は死なせない。ちょっとお説教することもあるし。 「さようなら、ハイドリヒ卿」  この男に言うべきことは、もう決めていた。これだけは絶対に言わなければいけない。  もしも何かが違っていたら、自分もそうなっていただろう相手のことを――  誰からも祝福されなかった彼のことを…… 「あなたの敗因は、イザークを消したことです」 「私を助けようとしてくれた藤井君の気持ち……それにイザークが勝つことを、あなたは信じてあげなかった」  父と信じる相手から、彼が激励の一つでも受けていたら。  きっと私はもういなくて、この結末は有り得なくて。 「たとえ何百万人引き連れても……」  どれだけの魂を支配しても…… 「たった一人でしかなかった、あなたの負けです」 「―――くは」  その時、断頭の刃が骨を断つ。首を走り抜ける冷気の感覚を、彼は総身で味わいながら。 「はははは、はははははははははははははははは―――」  ラインハルト・ハイドリヒは、ここに自らの死と敗北を初めて知った。 「――――――」  触れかけていた手が、突如止まる。  それは男にとって予想外で、少女にとっては至極当たり前の反応だった。 「わたし……」  そう、何もおかしなことはない。  己の渇望を知ったこと。  その意味するところを自覚したこと。  だったら誰もがそうするはずで、これは本当に自然な選択。  そういう機微が分かってないのは、目の前にいる彼だけだ。 「ねえ、カリオストロ」  今までのお礼に、わたしが一つ教えてあげる。  マリィは訝っている男を見上げて、悪戯っぽく微笑んでから、最近覚えた言葉を口にした。 「あのね」  他に好きな人がいるのにそういうことするっていうのは。 「フリンなんだよ。いけないんだからね」  だからあなたには触りません。  本当に抱きしめたい人は、別にいるから。  ――と、言ったのと同時だった。  割れた海原の遥か彼方で、大音響が轟いた。思わずそちらに視線を向けると、海がもとに戻っていく。 「――レン!」  終わったの? 大丈夫なの? 酷い怪我なんかしてないよね?  いてもたってもいられない。  早く、一刻も早く、彼女は彼を抱きしめたくて―― 「レーーーーーンッ!」  叫ぶや否や、身を翻して割れた海の彼方へと駆けていった。 「―――――」  その背を見送り、メルクリウスは放心する。  なんだそれは、まるで意味が分からない。  周到だった。周到だったのだ。過去、謀を外したことなど一度もなく、どれだけ手を抜こうと我が掌から出て行くモノなど見なかった。  ゆえに、これは有り得ないこと。  彼にプライドというものがあるのなら、間違いなく粉々になったであろうほどの衝撃。  だから、だろうか―― 「――――く、は」  よく分からないものが口から漏れる。  もちろんそれが何かは知っていたし、今までやったことがないというものでもない。  だが、これは初めてだ。〈初〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「くは、はは、は……」  初めて行うことゆえに、我ながら上手くない。  なんとか気持ちを表現したいが、これでは嗤ってるように見えてしまう。  いや、あるいは嗤いなのかな。それも体験したことがないので分からない。  ああ、ああ、いいぞ、もう面倒だ。  笑わせてくれ、この私を。  嘆かせてくれ、この私を。  この身はもはや、擦り切れた旧世界。  ならばこそ、これが私の断末魔と呼ぶべきものなのだろう―― 「ははははははははははははははははははははは――――ッ!」  天を衝き破る哄笑と共に、今、カール・クラフトは嫉妬というものを初めて知った。  真なる自嘲というものを、彼は初めて行ったのだ。  その奇跡――いや奇跡どころではない宝石の背から目を離せないまま。  込み上がる未知の〈心〉《あわ》に溶かされて、彼は輪郭を失っていった。 「ぐ、はッ……」 振り抜いた右腕の勢いによろめいて膝をつく。それで全精力を使い果たしたが、間違いない。 「斬った……」 斃したぞ、ラインハルトを。 途中、意識が半分以上飛んでいたが、そのことだけは覚えている。 「司狼…、本城…、櫻井…!」 絞り出すように、名を呼ぶ。 「先輩……ッ!」 俺は勝ったぞ。みんなが勝たせてくれたんだ。 「香純……ッ」 俺も、おまえの声は聞こえていたよ。待ってるんだよな、屋上で…… だけど…… だけど俺は…… 「何を嘆く」 「―――――」 「卿らは勝利した。胸を張りたまえよ、敗北のし甲斐がない」 「おまえ……」 顔を上げた俺の前で、ラインハルトは笑っていた。その全身を構成する夥しい数の魂と共に、光となって消えようとしている。 「なあ、他者を信じるとは、それほど大事なことなのかね」 「それを持たぬことが私の敗因であり、それに支えられたのが卿の勝因であるのなら、是非証明してもらいたい」 「どうやらカールも敗れたようだが……くくく、誓いたまえよ、勝者の義務だ」 「我らの敗北が真に絶対のものであったと、卿らは示して見せねばならない」 「それが成されなければ、私はまた戻ってくる。負けていないことになるのだからな」 「ふふふ、ははははは、ははははははははははははははは――」 「………ッ」 輪郭を失い、ラインハルトは消えていく。俺が勝利できた理由を絶対のものとして証明しない限り、また戻ってくると呪いを残して…… 「後悔はない。後悔などさせてくれるな。私を斃したその力こそ、真に最強でなければならない」 「私は取るに足らんものに敗れたわけではないのだと、そう信じさせてもらいたいな」 「ああ……」 俺は頷く。 「信じてろ。おまえとは、もう二度と会いたくない」 「では、その誓いにこそ――」 祝福よあれ、と。 「〈勝利万歳〉《ジーク・ハイル》」 消え行く間際にそう言って、ラインハルトは散っていった。 「…………」 信じさせろ、か。 ああ、そうしないといけない。胸を押さえて立ち上がる。 死んだと思った。負けたと思った。事実この胸は貫かれ、魂も焼き尽くしてしまう寸前だった。 それを辛くも救ったのは、皆の力で、皆のお陰だ。ああ、感謝してる。俺だって死にたかねえよ。 だけど、だけど、だけどさあ……! 「レーーーーーンッ!」 「―――――」 マリィ…… 彼女がこっちへ、俺の所へ駆けて来てる。 まだ声だけで、姿は見えなくて、もうどうしていいか分からなくて―― 「マリィ、マリィィィ―――!」 俺は、衝動のまま黄昏の海を駆けていた。  レン、レン、レン、レン――早く逢いたい。抱きしめたい。  何をするべきか分かったの。やっと答えを見つけたの。  触れ合える喜びを教えてくれたあなた。  わたしを包んで、愛してくれたあなた。  その喜びで満たしたい。  レンに貰った宝物で、あなたの総てを抱きしめたい。  ねえ、だから大丈夫だよ。わたしたちはずっと一緒にいられるの。  離れ離れになんか、ならない。  ならない、けど…… 「わたしを信じて」  信じてほしいの。  あなたが必要だと思うわたしを信じて。  あなたと一緒にいたいと思うわたしを信じて。  あなたがいて嬉しい。あなたに逢えて嬉しい。  だからあなたと一緒にいたいよ。  どう伝えればいいんだろう。どうすれば伝わるんだろう。わたしは確信をもってあなたを愛していると断言できる。  だけど、ねえ、だけど怖いよ。  だって、わたしは―― 俺は消えるしかないと分かっている。最後に残るべきはマリィなんだと分かっている。 だから、彼女に躊躇なんかしてほしくない。俺のことを気にしてくれなくても構わない。 学校に行きたかったんだろ? 触れ合える誰かを増やしたいって思うだろ? 俺がいちゃ駄目なんだ。 俺の渇望じゃ駄目なんだ。 君とずっと二人きりで永遠に……それを至上と思うような、みっともない恋愛感情を押し付ける真似だけはしたくない。 願っている。俺は君の幸せを願っている。 マリィ、マリィ――頼むよ、馬鹿なカッコのつけ方をさせてくれ。 「俺は……」 俺は君に嫌われるのが、何よりも怖いただの臆病者なんだ。  怖いの――  わたしの選択を、あなたがどう思うか知ってしまうのがとても怖いの。  流れ出た後、広がりすぎて見えなくなってもレンはわたしを愛してくれる?  いつも傍にいるって、感じてくれる?  忘れられたらどうしよう。いないと思われたらどうしよう。  それが怖くて、とても怖くて。 俺は怖いよ。 その果てに、君を泣かせてしまうかもしれないと思うのがとても怖い。  でも、絶対にしなきゃいけないことだから。 君を幸せにしたいから。  ごめんなさい。 すまない。我が侭を通させてくれ。 ただ最後に、みんなとの約束だけは果たしたいと思う。 さっきから、香純の声がうるさいんだよ。あの馬鹿、何度も喚いてんだよ。 バックレたら、何されるか分かんないし。 なあマリィ、どうせ消えちまう俺だけど、それだけは何とかならないかな。 君の海に溶かされる刹那、本当に刹那だけ時を止めてもいいだろうか? これが最後、最後の〈俺が語る物語〉《Also sprach Zarathustra》―― 君の方が強い。君の方がきっと新世界を包むから。 俺はずっと傍にいるよ。好きな女に溶かされるなんて、最高のエンディングだと自負している。 だから、頼むよ。 君の祈りで、ここから流れ出ていこう。  みんなに逢いたい。みんなで勝ったよ。カスミの声がわたしの耳にも届いている。  帰ろう、あなたがずっと願っていた陽だまりに。  そこをわたしが抱きしめるから。  あなたの総てを包むから。  ねえレン、何も言わないわたしを許して。  あなたを愛しく思うこの刹那、永遠なんだと信じてる。  これが最後、最後の〈わたしの罪深さ〉《L'enfant de la punition》――  わたしはずっと傍にいるよ。好きな男を抱きしめるって、最高のエンディングだと自負している。  だから、お願い。  あなたの願いを、叶えさせて。 「帰ろう」 約束したあの場所へ。 「時よ――」 今だけ、止まってくれ。 そう願いながら…… 広がっていくマリィの世界に、俺は日向の温もりを感じていたんだ。 暖かな光を頬に感じる。 風が優しい匂いを運んでくる。 なんだか俺は寝ていたようで、横になっているのが何となく分かって…… 背中や尻の下はごつごつと冷たかったけど、頭だけはふわりと柔らかくて温かい。 枕? 枕だよな? その感触にどこか懐かしいものを覚えて、俺はゆっくりと目を開けた。 そう、前にもこんなことがあったと思う。 あれは……そうだ、あの時は…… 記憶を手繰り、確信を込め、開いた視界の中にはやっぱり…… 「起きた?」 マリィ……予想通り、俺の目の前には彼女がいる。 「あっ、つ……」 日差しが眩しくて、目を瞬いた。マリィの髪が太陽に透け、きらきらと砂金みたいに輝いている。 ああ、うん、やっぱり似合うな。 「どうしたの?」 「いや……」 彼女は黄昏より昼の光が似合っている。前に思ったことが間違いなかったんだと証明されて、少し嬉しくなっただけのことだ。 「なに、へんなレン。なんで笑うの?」 「そりゃ笑うだろ」 心底ほっとしていたから。 俺たちの戦いも、俺たちの勝利も、そしてあの選択も…… みんな現実なんだと理解できる。 今、目の前に、彼女がいることこそ何よりの証だ。 「帰って、こられたんだよな」 「うん」 花が咲くような笑顔に、目が眩みそうだった。 「カッコよかったよ、レン」 「マリィも凄かっただろ、感謝してる」 感謝してるから、その、なんつーか…… 「ご褒美とか、欲しくない?」 「え?」 「ていうより、俺が欲しいんだけど」 しかも物理的なやつ。今すぐ簡単にできそうなやつ。 「あ、え、でも、その……」 「いいよな?」 「や、やややや、それは、あの……」 何を今さら照れてるんだろう。まあ、これはこれで可愛いので、俺はマリィの頭に手をやると、そのまま引き寄せて唇を…… 「ちょー、ちょーっと、ちょーっと待って、待って、駄目だってー」 「待たない」 多少強引に攻めよう。そう思いながらいよいよって時に―― 「ぷっ」 ……あん? 「ばっ、おま、なに噴いてんだよ、静かに、しーっ」 いやおい、ちょっと待て。 「いくよー、いきますよー。ほら、ガツっといっちゃいますよー、見物ですよー」 「…………」 ……何か、俺たちを囲む周りから、ぼそぼそと小声で戯けたこと言ってる奴ら、いない? 「がっつきすぎ。性獣みたい」 このクソ可愛げの欠片もない声とか。 「寝起きは反応しちゃうって本当なんだね」 素のトーンでぼそぼそ喋ってるこの人とか。 「……あの、マリィ?」 「だ、だ、だってぇ……」 俺の言わんとするところをアイコンタクトで通じたマリィが、仕方ないじゃない、と涙目になる。 「レンが何も言わないから、当然気付いてるって思ってたし」 「そもそも、そういう約束だったじゃないぃ」 「…………」 約束、約束……ああ、うん。もちろん覚えてたぞ? 覚えてたし、嬉しいし、これは目出度いことなんだから、多少ネタにされるくらいは甘んじて受けるべきだと―― 「思うかコラァッ!」 叫んで、俺は飛び起きた。 「イッエーーイッ!」 同時に、いきなり弾けた雰囲気。 かんぱーい、とか言ってんじゃねえよこの馬鹿野郎ら! 「いえーい」 いや先輩、なんすかその棒読みは。 「い、いえーい……」 おまえも、恥ずかしいならやんなよ。 「なあおい、すげえ訊きたくないんだが……」 もしかしてっつーか、もう完璧に。 「全部、見てた?」 「もち」 「の」 「ロン!」 「息合いすぎだから、そこ」 「全部見られてたよ」 そうか。そうか。そうか、全部か。 「ご褒美とか、欲しくない?」 「ていうより、俺が欲しいんだけど」 「がっつきすぎ。性獣みたい」 「――ッ、なんでそこで私の物真似なのよ!」 「カッコよかったよ、レン」 うるせえ。おまえらマジでうるせえ。 頭きたぞこの野郎ども。 「俺がカッコよかったのはマジだろうが」 「うわ、自画自賛きましたよこの人」 「でもほんとにカッコよかったよ」 「おまけに夫婦で組んでるし」 「羨ましーんだろーが、おまえ出番なかったもん、なあっ!」 「ぷっちーん」 「うん、確かにね」 「ちょっと玲愛さん!」 「よーしよしよし、まあ落ち着けコロポックル」 「誰がコロポックルかァッ――」 「そういう趣旨でいくんなら、技能賞、敢闘賞、殊勲賞とか決めようぜ」 「うわ、すごいスルーしたよ」 「ああ、〈香純〉《あれ》に対処するときのコツはスルーだ」 「ふ、ふ、ふ、ふ……」 「だからしょうがないじゃない。本当のことなんだし」 「むっかーっ」 まあ、とにかく。 「これが打ちあげってことでいいんだよな」 「おおよ!」 「がっと飲むべし」 「一人だけ保護者同伴の奴がいたけどねー」 「な―――」 保護者同伴? 「なんだよおまえ。もしかして親でも連れて来てたのか?」 「い、や、違う――別に親じゃないっていうか、もう帰ったわよ」 「帰しちゃったんでしょー。恥ずかしがっちゃってー」 「うるさいわね。ていうかあなた、面識もないのに馴れ馴れし――」 「うわ、寒いわ。寒いわそのノリ」 「ここはもう都合よく、十年来のツレみたいにしとけよ」 「レンが起きるちょっと前まで、その人たちいたんだよ」 「お菓子もらっちゃった。いい人」 「え、マジで? どんな人?」 「きーんぱつのちょー美人」 「ものごっついイケメン」 「羨ましいねえ」 「な、え、と……まあ、うん」 なんて、本城に肘でつつかれつつ、櫻井は顔を真っ赤にしながら照れている。 お目にかかれなかったのは残念だが、まあ縁があればそのうちまた会えるだろう。 「で、話飛びまくってたけど」 「三賞受賞?」 「そうだそれ。やるんならやろうぜ。何貰えるのか知らないけど」 「なんもねーよ。栄光だ栄光」 「誰が決めるの?」 「オレ。マジ独断と偏見」 「うわぁ…」 「なんなのこの人…」 まあこいつはこういう奴だ。 半ば呆れ、半ば期待しているメンツの中で、司狼の独断と偏見に基づく授賞式が始まった。 ナレーション、本城。 「はい、じゃあまず技能賞。これはテクニカルなセンスが光った人に贈られまーす」 「戦い、そうそれは一髪千鈞を引く刹那の駆け引き。修羅の巷を軽やかに疾走する豹の躍動。猛禽の眼光――」 「長い。あと、十四歳みたいな単語が多すぎて聞く気にならない」 きっついなこの人。 それ否定したら色々と終わっちゃうだろ。 本城はがっかりしたように肩を落として、じゃあ簡略化すると呟いた。 で。 「というわけで技能賞。該当者は――」 「オレ、アーンド、エリー!」 じゃじゃーん。 「…………」 「…………」 「え、えぇっと、いきなり?」 「なんだよ、文句あんのかよ」 「いや、まあ…」 「文句は、ないね。うん、ないと、思う……」 「てっめえら、オレがどんだけクールに立ち回ったか知らねえんだろ。絶対ファン増えてんぞ。賭けてもいい」 「あんたはすぐそういうこと言うから」 「分かった。それはそれでいいから、続き行けよ」 呆れ返る俺たちの前で、本城が咳払いをして続ける。 「はーい。じゃあ次は敢闘賞ね。要するに頑張った人。さあそれはー」 「じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃ――」 誰も突っ込んではいけない。 「じゃじゃーん」 「――櫻井螢!」 「――え?」 「おぉ」 「なるほど」 「うん、まあ」 「そうみたい?」 今度は前と打って変わって、満場一致のようだった。 「あ、――その、ありが、とう」 照れてるよ、こいつ。 「みんな異存はなぁい」 「ないな」 「うん、ないよ」 「認める」 だって敢闘だもんな。 「ぼっこぼこのぼっこぼこのぼっこぼこにボコられても諦めない」 「口ではいつも馬鹿にされ、喧嘩しちゃあ負けて」 「てゆーか、一回でも勝ったっけ?」 「…………」 櫻井のこめかみがピクピクと痙攣していた。 「じゃあ次は殊勲賞。すっごい金星あげた人ねー。さあそれはー」 「――氷室玲愛!」 「おぅ」 「すごいねー」 うん。まあ、それは俺もだいたい分かってたよ。 「当然」 つかこの人、誰よりも当たり前だろって顔して胸張ってるし。 「あざーす、センパイ」 「あんたがいなけりゃ全滅エンド直行でしたー」 「あざーす」 「あとんす」 「らっしゃっせー」 なに言ってんだおまえ。 「ありがとうございます」 唯一櫻井だけは、至極まともな対応だった。 「跪け」 いや、もうそういうのいいから。 「藤井君、感謝してる?」 「そりゃあ、はい」 心から思う。 「先輩がいてくれて、良かったですよ」 嘘偽りない、それが俺の本音だったから。 「うん。そう言ってくれると嬉しいよ」 言って、淡く微笑する氷室先輩。 ともかくこれで、授賞式は終わったのかな? 「ねえ、あたしは?」 「残念賞だろ」 「いや、もうそういうの止めようよ」 なんとなく、なんとなくだが、俺はそろそろ分かってきて。 「冗談だよ香純。おまえは優秀賞だ」 「え? ほんとに?」 「ああ、だっておまえのお陰じゃねえかよ。この場があるのは」 そう、今この場があるのは香純のお陰。こいつがいたから、みんな迷わずここにいる。 「香純ちゃんの声、うるさかったからね。あたし飛び起きちゃったし」 「私も同じ。あんまり叫んでるから、やっぱり来ちゃった」 「ありがとう、綾瀬さん」 「あ、う、うん」 よく分かっていないながらも、香純は頷く。 これでもう、俺たちの約束は果たされたんだ。 「優秀賞にはプレゼントがあるんだよね」 本城が微笑して、屋上の端を指差した。 「あそこのドア潜ったら、プレゼント置いてあるから」 「取りに行ったらいいよ」 「え?」 「ほら行けぇ!」 「わきゃ、ちょ、お尻叩かないでよぉ」 「きっと気に入ると思うわ」 「あー、うん……分かったよ。じゃあ取ってくるから」 そして、香純は本城が指したドアの方へと歩いていった。 「へんなドッキリだったら怒るよー」 最後まで、そんなことを言いながら…… 言いながら、ドアを潜ると、もう帰ってこない。 「…………」 その背を見送って、ほっとする。たぶんみんな、同じような気持ちだったことだろう。 あいつはあれでいい。あれでいいんだ。この中で唯一人だけの例外だから。 また除け者にして悪かったけど、感謝してるのは本当なんだぞ。なあ、おまえらだってそうなんだろう? 「で、最優秀賞のお二人さん」 いつも通り軽薄に笑って、俺とマリィを見る司狼。 「二人にはプレゼントっていうかさあ」 本城は似合わないウチの制服なんかわざわざ着て。 「言っておくことがあるの」 この人はこんな時でも全然態度が変わらない。 「どっちも凄い馬鹿」 こいつ……相変わらずムカつくんだよ、櫻井てめえ。 「おまえら……」 おまえら、もうアレなんだろう? 分かってるんだよ。分からねえわけねえだろ、クソ。 「心配すんな。おまえらは大丈夫だよ」 何がだ? 俺だってどうせもうすぐ…… 「自己完結しちゃってるし。まあ、気持ちは分かるけどねぇ」 「どっちも相手を傷つけたくないって、相手のこと信じてないよね」 「藤井君は自分が死ぬと思ってるし」 「マリィちゃんは、蓮が悲しむと思ってる」 「だからって、お互い黙ってちゃなんも伝わらんっすわ」 「彼女がキミを死なすわけないし」 「あなたの彼氏は、そんなに了見の狭い男?」 四方から盛大に呆れられて、俺とマリィはぽかんとするしかない。 「おまえら、何を……」 「わたしは、だって……」 「うるせえ」 「たーこ」 「バカップル」 「恋愛方向音痴」 こいつら、だから何が…… 「ちゃんと話し合え」 と、ずばり言われてしまっていた。 「待てよ……」 思わず手を伸ばす。しかしなぜか届かない。 「待てよおまえら、言いっぱなしで終わりかよ」 「やだ、ちょっと待ってみんな」 こいつらが遠いのか、俺たちが離れているのか、もうそれすら分からない。 視界が白く、白く白くなっていく。 その中で…… 「あばよ、喧嘩はおまえの勝ちでいいわ」 「いい経験したから後悔してないし」 「私初めて、生まれて良かったって思ったよ」 「本当にありがとう。あなたに会えてよかった」 四人の声が遠くなる。その姿すら見えなくなる。 「馬鹿……」 「ばか……」 何をそんな、この馬鹿野郎! てめえらふざけすぎなんだよ。ちょっと待て! 「言いたいこと、ばっかり、言いやがって……」 こんな逃げ方されたら忘れられないだろ。ずっと心に残るだろ。 おまえら俺の人生を、いったい何だと思ってんだ。 「くそ……」 そうだよ、あんな一方的に切られたんじゃ堪らない。あいつらそれを、俺に教えていったつもりなのかよ。 ああ、そうか、そうだよな。確かにあいつらの、言う通りで…… 「マリィ……」 俺はまだ、伝えるべきことを彼女に伝えていなかったんだ。 「きっと許してくれないと思ったの」 徐々に開けていく視界の中、俺たちは最後の瞬間とまったく同じ、抱き合ったままの形でいた。 屋上での出来事は、きっと秒瞬の刹那。流出するマリィが誘った俺たち全員の夢の形を、実現したものなんだろう。 現実は、もう違う。 司狼はいない。本城もいない。先輩は逝ってしまい、櫻井も大事な人のところへ帰っていった。 今まで必死になって命を懸けて、結局残ったのは香純一人だ。そのうえ当の俺たちは、掛け替えのないお互いまでもを失うかもしれなくて…… そのことが、本当に怖くて…… 「俺も、マリィに嫌われると思ってたんだ」 司狼たちの言った通り、相手のためになんてお題目を掲げながら、その相手を信じていない。話して、バレて、嫌われるのが怖かった。 「俺は、死ぬしかないって思ってたんだよ」 そんな、自己陶酔みたいなヒーロー願望。 「流出するなら、俺よりマリィの方が絶対いい。それに、学校行きたがってたろ?」 「マリィがここから出られるなら、それが一番いいって思った。そのために、俺はきっと消えちまうけど……」 それでもいいやって、本当に思ったから。 「黙ってた。ごめん」 「ううん、わたしもだよ」 強く俺の背に腕を回し、涙声でマリィは言う。 「わたしの中から流れる心は、抱きしめたいっていう願い」 「レンが教えてくれた気持ち、レンが好きなみんなを包んで、守りたいって思う気持ち……」 「だから、レンはいなくなったりしない。わたしがあなたを包むから」 「自分は死ぬしかないとか、思わないで……」 “わたしがみんなを抱きしめる”――思えばそれは、流出位階に達したとき、マリィが言った台詞だった。 彼女は停止という、俺の馬鹿っぽい渇望すら包んでいてくれてたんだ。その事実に気付けないまま、勝手に決めて自己完結して…… 「ほんと馬鹿だな、俺は」 話し合えと司狼らに言われなかったら、どうなっていたことか。 二人生き残るっていう当たり前の選択を、最初から度外視してる時点で最低としか言いようがない。 「わたしだって馬鹿だよ」 「わたしが流れちゃうと、きっと広がりすぎて見えなくなっちゃう。いるのに、抱きしめてるのに、レンはそれを感じてくれなくなっちゃうかもしれない」 「わたしなんかもういないって、思っちゃうかもしれない」 「そう考えたら、怖かったの。怖くなったら、信じられなくなったの」 「きっとレンは許してくれない。わたしのことが嫌いになる」 「でもね、やらなきゃいけなかったの。レンをみんなのところに帰したいから」 「やらないと、いけなくて……」 「だけど嫌われるの、怖くて……」 「黙ってたの。ごめん」 結局―― 俺たちは似たようなことを考え、似たような自己完結をしていたんだ。 なら、そのことが分かった以上、もう何も問題はない。 ここから溢れ、流れ出すマリィの世界。それはきっとどんなものより、総てを優しく包むだろうと信じられる。 強く思える。 「俺、マリィが好きだ」 「わたしも、大好き」 だから、と彼女は微笑みながら付け足して…… 「わたしがいなくなることなんて、絶対にないと信じて」 「いつもあなたの傍にいるから」 「―――――」 そこからもう、言葉は必要ないものだった。 抱きしめて抱きしめられて、キスをして離さない。たとえこのまま、君の質量がゼロになっても、ずっとそうしているんだと信じよう。 だから頼む。この刹那に、もう少しだけ愛しい彼女を感じていたい。 この一瞬を永遠のものとして、記憶することが出来るように。 時よ止まれ、君は誰よりもキレイだから。 マリィ、マリィ、マリィ、マリィ―― ありがとう。本当にありがとう。 俺は生きていくよ。また再び。 君が永遠に包んでくれる、陽だまりの中で…… 「つまり、私だけが彼女の愛から外されたということになる」 「移動する特異点。消し去られるでもなく、包まれるでもなく、私は誰とも関われぬまま、永劫彷徨い続けるだろう」 「だがまあ、しかし不満はない。君と同じく、この世界を見守っていくとするよ。蚊帳の外ではあるがね」 「そうかよ」 呟いて、俺は閉じていた目を開いた。 「せっかくフランスくんだりまで来たっていうのに……」 半ば呆れて、うんざりと溜息をつく。 「だいたい、誰とも関われないっていうんなら、なんで俺の所に来られるんだよ」 「例外は例外同士」 「君も本来、特異点だ。ならばこれくらいの接触はできるだろう。心配はいらない。二度とせん」 「ただ、ふとね。君は知りたがっているのではないかと思っただけだ」 「意味のないことかもしれんが、それは君が今やっていることも同じだろう。彼女の墓など、参ってどうする」 「別に墓参りしてるわけじゃないさ」 そもそも彼女は死んでいない。今この時だって俺を包んでくれている。 「単に見たかっただけだよ、マリィが生まれた国を」 このサン・マロを。 あの浜辺を。 じかにこの目で見て、歩きたかった。それだけのこと。 「で、何を教えてくれるんだ?」 「そもそもの疑問。君は思ったはずだ。なぜ自分だけが彼女に触れられる」 「…………」 「マキナから聞いたはずだ。己がどういう者なのか」 「名を、知りたくはないのかね?」 「その魂が、かつて何者であったのか……そこに総ての答えがある」 ただ、風が吹いていた。花びらが舞っていた。ああ今頃、きっと日本じゃ置いてきた香純がぶつくさ言ってるんだろうなと、そんなことを考えながら…… 「興味がない」 短く、俺は言い切っていた。 「ほぅ」 「俺は俺だ。それでいいんだよ」 知ったところで意味がないし。 「何か、おまえが教えたがってそうだから、聞いてやらない」 「く――――」 それに、背後の男は一瞬声を詰まらせて。 「くく、くくく、ははははは……」 「いい答えだ。ならばもう、用はないな」 「ああ、さっさとどっか行ってくれ」 こいつはもう何も出来ない。斃すことは不可能でも、マリィから半永久的に追放された身なのだから。 少なくとも、次に誰かが流出を起こすまでは無害と言っていいだろう。 それがどれだけ先のことになるのか分からないが、俺は俺の命が続く限り、マリィそのものであるこの世界を守っていきたいと思ってる。 「ああ、心配はいらん。私も彼女を塗り替えようとする者など許さんよ」 「では、お別れだ。君らの愛を祝福し、先達から面白い事実を伝えよう」 去り際に、いったい何を言う気なのかと思いきや。 「〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》、〈己〉《 、》〈の〉《 、》〈触〉《 、》〈覚〉《 、》〈を〉《 、》〈生〉《 、》〈み〉《 、》〈出〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》」 「私がそうであったように、それがどんな形で、いつになるのかは分からんがね」 「…………」 つまり、それは…… 「また逢える」 「また逢える、かもしれない」 「と、信じることが重要だ」 「妬けたよ、藤井蓮。本当に、本当にね」 「さらば、我が歌劇の英雄」 「さらば、我が愛しの君よ」 「彼女に逢える日がもし来たら、私がよろしく言っていたと伝えてくれ」 どこか誇らしげにそう言って、メルクリウスは消えていった。 「…………」 また逢える、か…… 「そうだな」 そう信じよう。 実際、今の世界がどういう創りになっているのか、俺はまったく分からない。 永劫回帰が塗り替えられ、人の魂は何処に行くのか……司狼や先輩はどうなったのか。 「なあマリィ……」 フランス人の君が知ってるとは思えないけど、日本じゃ輪廻転生ってのがあってさ。 同じところを繰り返し回るんじゃなく、それは先へ先へと生まれ変わっていく世界。 もしもこの世界がそういう創りになっていたらと仮定して、その場合はまた皆と会えるかな? 歳、バラバラだけど。 国も、きっと違うだろうけど。 「打ちあげの二次会……やるならそれも、面白そうだろ?」 と、呟いた時だった。 背後に、彼女が…… “いいね、それ” いたような、気がしたんだ。 「は……」 「……はは」 そうか、気に入ってくれたのかな。 「じゃあ……」 「香純に長生きしとけって、言わなきゃな」 また皆で、いつの日か再会しよう。 きっとそれは叶えられると、強く信じられる日向が俺を包んでいた。 Other Story――Omnia vincit Amor解放  浮遊する意識、滞空している体。どこまでも昇っていくような感覚は続き、やがて緩やかに着地点へと到達する。 「………ああ」  静止した先に感じたのは、一面の花畑だった。  かつて一度見た風景。咲き誇る花が、敷き詰められた愛情の地獄が、再び氷室玲愛を迎えている。 「…………」  やはり。そして、まただ。  堕ちるべき相応しい場所は変わっていない。陽気と花の香りもそのまま。頬を撫でる微風も優しく、だからこそ落胆の思いを感じるしかない。  何も変わってはいない。言外にそう証明されたような気がしたから。  その生じた思いに首を振り、頭から追い払う。  今はそんなことを考えている場合じゃない。かつてとは違う、そう証明するのは今からだ。  ただ無遠慮に連れてこられたのではないと信じて、自らの意思で立ち上がる。  瑞々しい大地を踏みしめてから、改めてこの楽園を見回してみた。  舞い散る花弁。風景は以前と変わらない優しさで、土と花と蜜の香りに満ちている。  楽園のような地獄だった。ここの本質を知るまでは、誰もが天国だと勘違いするに違いない。  アルフヘイムはそれほどに美しく、ゆえに身の毛もよだつほどおぞましい。  少なくとも、一度ここへ来た経験のある自分としては、できるなら二度と来たくなかったというのが本音なのだから。  過剰な愛は転じて憎悪を浮き彫りにする。情、愛、譲れぬ許せぬいとおしい。ゆえに生じる負の連鎖。  ここは愛情で生まれた死に場所。過剰か、不足か、どちらにせよ無垢な悲哀で溢れている。そのため、この場にはかの愛児達がいるはずなのだが…… 「あの子たちは?」  見当たらないのだ。それも誰一人。  微笑み合い、幸せを語り、死に続ける子供達が存在しない。ここを取り仕切っていたらしいシュライバーがいないのは分かるが、他にも誰一人として姿が見えなかった。  ……自分の父親代わりだったあの神父の姿さえ、どこにも見えない。  今自分は、真実この花畑に住まうただ一輪の花だった。  それはおかしい。ここは愛憎によって焼かれ続ける獄舎。  情も執着も他者がいるから生まれるもの、ここに自分一人だけだというのは不可思議以外のなにものでもない。  だからこそ、その疑問はすぐに納得へと変わる。 「………そっか。だから」  誰を想い、何との対話を求めて自分は城へとやってきたのか。この楽園へ堕ちる前、思い描いたのは誰だったか。  会話を求めるべき相手はそれこそ一人。だからここに落ちてきたのだ、目論見はすでに成功している。そう考えれば、何もおかしいことなんてなかったから。  一度だけ、小さく深呼吸をする。覚悟を促すために行った、これが最後にすべき鼓舞だった。 「出てきて、イザーク。私はあなたと話がしたい。 お互い、相手の目を見て話しましょう」  舞う花弁の嵐に向けた語りかけ……変化は程なく発生した。  虚空が歪む。一瞬だけ捩れるようにたわんだ空間から出現したのは、幼くも屹然とした少年の影だった。  白い法衣を着込んだ、白い肌。どことなく年齢に不釣合いな風格と威圧感を兼ね備えている。  開かれた両の瞳は黄金に輝いていた。  こちらを眺める視線はガラスのように無機質で、同じ人間だと認識していないのが、嫌でも感じ取れる。  昆虫か石を見ている視線だった。有象無象、蠢く蟻の一匹にたまたま目を向けているに過ぎない。  彼にとってはそういう認識なのだろう。呼びかけに応じる態度には到底思えなかった。  ゆえに── 「──来い、テレジア。今から流出を開始する。 父様の世界をおまえが産むのだ。もってグラズヘイムに溶けよ」  彼は何の感慨もなく、当然のようにそう命令する。  こちらの都合も訴えも、総て塵芥。意に介さないその態度は、まさに〈黄金の獣〉《うまれ》を感じさせる絶対の勅命だった。 「…………」  分かっていたことだ。イザークの存在は総てそこに帰結する。  抗えぬ魔性を纏いながら生まれた彼に、揺らぎも隙も一切がなく、とても自分の言葉では崩れそうもない堅牢さを感じた。  依然、彼は完璧な魔城の機関部。  この死者の館を預かる動力部にして調停者。たかだか数日で変化するような精神など持っていない。  平等に、無制限に、総てを等しく運用する。  永遠の歯車は不変であるがゆえに、地獄でなお佇んでいる。  それでも、その言葉に付け入る部分を玲愛は確かに感じていた。  かけられた言葉から得た裏づけ。思わず出たであろう単語。  この魔城へ吸い上げられる寸前、確かに感じ取った綻びを、投げ掛けられた言葉から確信を持ったから。 「ねえ、イザーク」  だから、語りかけた声は、自分でも不自然なほど落ち着いていて。 「〈父〉《 、》〈様〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》、〈誰〉《 、》?」  訊ね返した問い。  かつて無いほど鮮明に響いた声は、即座に少年の胸をすり抜けた。 「────」  イザークは答えない。ただ岩のように沈黙を保つ。  当然だ。くだらない言葉に答えない。その必要もないし、機能もない。  肯定も否定も、返事という段階でみな同じ。  彼が不動の佇まいを保つことに些かの矛盾もなく、むしろ奇異なのはそのことを熟知していながら語りかけた玲愛の方だ。  ゆえに、それは外見上において別段変わった結果を生んでいない。  無駄な言葉を語りかけた少女に、答えるはずもない魔城の核。  これより同一となり、この地獄を流れ出させる彼らにとっては、先の問いなど何ら意味を成さないこと。  しかし──その内面においてはどうかのか。  イザークの胸の内、そこには本当に微かな揺らぎも生じていないのか。  父とは誰かという問い。ああ決まっている。答えるべき名は一つだろう。  長年において黒円卓の謎だったそれは、すでに謎でもなんでもない。彼は認めてもらったのだ、他の誰でもない黄金から。  イザーク=アイン・ゾーネンキントは、黄金の愛児にして獣の世継ぎ。  そう名乗ることに今や何の躊躇もなく、また障害もないはずなのに…… 「父様って、あの人でしょう? 私も全然他人事じゃないけれど、それしか考えられないものね。 なら、それはひどいこと。あの人は絶対に、あなたを顧みたりはしないもの」 「────」  どうして彼は、否と言うことをしないのか。  ただ変わらず黙したまま、玲愛の前に立っているだけ。 「ハイドリヒ卿は、私もあなたもどうでもいいと思ってる。愛していると言ってても、それは高みから見た視線でしかない。 黄金の光は平等だから。それはあなたとまったく同じ。譲れない大切なものなんか持っていたら、何もかも呑み込めたりはしないもの。 ねえ、そうでしょ、イザーク?」 「あなたは今までこの城に落ちてきた人の中で、大切な人がいた? 特別だと感じたものが、たった一つでもあった?」  イザークは答えない。表面上は石造のように、頑として身じろぎ一つなく少女の独白を浴びている。  聞いているのか……いや耳を傾けているのかどうかすら疑わしい。  ただ不動。物言わぬ人形の如く、自動的に金の魔眼を向けるのみ。 「………そう」  だが、それで玲愛には通じた。やはりあの目は、何も見ていない。  彼にとって、母すら所詮は魔城の建材。自らを生んだ仮腹でしかないのだろう。  その認識はまさにラインハルト・ハイドリヒそのもので……だからこそ、言わねばならないと強く感じて。 「あなたを見ているハイドリヒ卿の視線も、それと一緒。 何も変わらない。あなたにとってのリザが、あの人にとってのあなたなんだよ。 ……皮肉だね。自分で証明しちゃったんだ。どれだけ尽くしても、暖かい言葉をかけてもらっても、可能性なんかないって」 「血の繋がりなんて関係ない。平等な価値観に揺らぎはない」  ただ配役が置き換わっただけなのだ。息子は母の死に何の感慨も懐かない。だから父にとっても息子がそうであるというだけのこと。  ならばこそ、彼は永遠にただの部品。歯車でしかないと玲愛は語った。 「あなたの思想、あなたの認識。それこそが誰にも愛されない証明なの」  ラインハルト・ハイドリヒは自らの息子すら顧みない。等しく平等な、世に溢れている愛玩物の一つでしかない。  よく似た親子。本当によく似た父子だ。  万物を蒙昧にしか感じ取れぬ悪魔の感性。  総てを愛する飢えを持ち、ゆえに誰も愛していない。 「全部好きってことは、全部どうでもいいってことだよ」 「…………」  だがイザークは、瞬き一つなくその言葉を受け流す。  花畑の中ですら煌く黄金の眼光は、ただ静かに語りかける玲愛を見据えたまま動かない。  言いたいことはそれだけか? 視線がそう伝えていた。眉一つ動かさず、ただ胸中でその感想を聞き流している。  内面は凍りついた湖面か。それとも煮えたぎる業火か。  いや、そもそも己の内面を見ているのか。  それすら不確かなまま、言葉を発さず佇んでいる。まるで次の言葉を待ち受けているかのように、変化がない。 「だからあの人は……ハイドリヒ卿は勝てないよ。勝つのは絶対、藤井君。 一番重要で、大切にしなければいけない相手を疎かにしてるもの。全部同じだから、重要なものへ意識を割り振れない。 あなたの声に応えてないから、あの人は全力を出せないんだよ」  自分の上限すら知らないまま、ただ飢餓を持て余して進軍するのみ。  そこに関わっている他者の存在を、未来永劫気付けないだろう。 「自分でも知らないその地点へ、彼は一生到達できない。いつまでも餓えたまま、全力を出せない理由に気づかない。 心臓が無くても自分は動ける、力を出せる……そんなことも疑えないから」 「ありえん」  その荒唐無稽も極まりない発言に、初めてイザークは言葉を返した。  侮蔑を込めた声が、泥のように澱んで響く。  訴えに心動かされたからではないだろう。思いに応えたというのも断じて違う。  ただ単純に、あり得ないことを当然のように抜かしたのが疑問だった。だから気づけば、彼の口は否定の言葉を吐いていた。  彼と彼女の間に、会話が始まる。 「頭の出来が劣悪だな、テレジア。おまえは単純な比較も出来んのか」  ──これは愚かだ。どうしようもない。  眼光は既に、虫から愚人を見るものへと変化している。 「仮におまえの言葉が真実だとして、だからどうした。父様は……黄金は無敵だ。敗れることなどない。誰にも斃せぬ。 十全ではない? 全力を出せぬ? ならば負ける? まさか、それこそ夢想だ。幼稚な戯言にすぎんだろう。 絶対とはな、比するものがないからそう呼ばれるのだ」  蟻の全力など神話の獣にとっては所詮戯れ。どれほど高く翔ぶ鳥であろうと、天の月へは届かないと彼は言う。 「あの方を人の〈常識〉《ものさし》でなぜ測る。それこそ無粋だとまだ分からんか」 「ほんの少し撫でただけで皆平伏す。誰あろうと例外はない。最初から生息域が違うのだ」  完全で完璧な永劫崩れぬ絶対の存在。それを前にして、まだ勝つだの負けるだのと口にする、その愚かさこそが理解できない。  なぜここまで物分りが悪いのか。精神に欠陥が巣食っているとしか思えない。 「底無しとは、“底が無い”からそう呼ばれるのだ。 あれは所詮有限でしかない有象無象だ。何が出来る。同じ秤にかけることすら前提として間違っている」  あの人は唯一絶対。何者の道理にも縛られぬ。  自分はそんな父の礎となれることこそ誇りである、迷いも戸惑いもない。イザークにとっては、それこそが総て。  同等のように比べられることこそが心外にして、侮辱だと。 「あと僅かで総て塗り換わる。流出が始まれば、総てが黄金と一つになる。語るべくもない、総て逃がさん。 今存在する〈現世界〉《きちかん》総て、この〈死者の法理〉《ヴェルトール》によって欠片も残さず押し流すのだ」  それは確定事項。確かに訪れる未来図。  もはや誰にも止められぬ世界の行く末だった。  狂信でありながら、しかし妄信ではないその言葉……気圧されそうになる。  微塵も揺るがない意思は生まれついての合金だ。〈熱〉《ことば》でも〈衝撃〉《ちから》でも壊れない。そのために造られた特注の部品である。  生まれの地金が違うのだ。人の訴え、人の道理、説くための土台からして違っている。  異世界の人間に地球の言語で話しかけているようなものだろう。  響くことなどありはしない。  ゆえに玲愛が願った展開には至らず、僅かに感じた可能性も幻であるかのように潰えた。彼には何も届かないし、自分が揺るがすことも不可能。  ただ分かり切った結末だけが横たわるのみ。万策尽きたのだ、自分は何の役にも立てなかった。それを確認するためだけの会話になったから。  だが……一つの単語に新たな疑問が生じた。 「……押し流す?」  その単語が、やけに耳へ引っかかる。  現世界の淘汰を起こすと言ったこと。そのために、この城を外へ流れ出させるとイザークは表現した。それが先程から自分の疑念を刺激し続けている。  表現がおかしい。自然とそう感じる。思い出せ、考えるのだその言葉を。塗り換わるとさえ言っていたはず。  芸術家が絵画を前にするような言葉。呟いた声は問いで、それを聞き取っていた少年は沈黙という肯定を示した。 「然りだ。我らは総てを押し流す。流出とはな、ただエイヴィヒカイトの最終位階を示すのではない。 それは“座”の交代。世界に対する“禊”のようなものなのだ」  禊──それは穢れを払い落とす行為であり、だからこそ分からない。  地獄を流れ出させる行為の、どこが不浄を濯ぐという意味に繋がるのかと、訝しむしかなかったから── 「────」  少し待て。それはおかしいのではないか?  続くはずだった疑問は止まる。ふと気づいたことが、問いかける自分を止めた。  垂直に落下する思考、理解が高速で地へ染み渡る。  ……身体が震えだす。理解したくない、馬鹿げた事実が急速に自分の中で組みあがり始めていく。  『総てが黄金になる』『座の交代』『世界の禊』。  それらの言葉が示す先は、いとも容易くある一点で収束した。理解を超えた解答が、今度こそ完全に自分から言葉を奪う。  己が渇望によって世界法則を瞬間的に凌駕するのが創造位階。  覇道と求道の違いはあれど、そこはどちらも変わらない。世界が定めた決まり事を突破するという点においては同じだろう。個の精神により、与えられた法則の頚木を超えることだ。  ならば──さらにその上位である流出位階はどうなる?  断続的だった効果。それが内から外へ際限なく流れ出すなら、いったい世界というものにどう作用する?  旧世界を禊ぐことによって押し流す。指し示すのは規模の拡大と永続化。そう考えることに恐らく間違いはない。  ならば、行き着く先はそれこそ一つ。 「……世界法則の、書き換え?」  指し示した答えは強大すぎて、声に出すのが精一杯で。  今頃気づいたかと、無感情に眺めてくる瞳がその想像を……最悪にも正しいと告げていた。  目眩が、恐れが止まらない。震える体は、血の通っていない人形のようにさえ感じる。  自らの渇望を総ての存在へ適合させる?  法則を凌駕した己の道理が、永久に展開する?  なんだ、それは。それではまるで神話の世界そのままではないか…… 「覚えていないか。言ったはずだぞ。おまえ達は断崖の先に答えを求めている。ならば、それを絶対の法則として流れ出させ、旧秩序を塗り替える。一掃して消し去ってしまう。 すなわち代替わりだよテレジア。その御座へのな」  心を読まれたかのように淡々と肯定されて、淡い希望が砕かれる。  もはや自分は神にすら祈れない。  そう、声高々に告げられた気がした。 「この世界はそういう作りになっている。そして繰り返してきたのだ。幾度も、彼方より、果てもなく。 流出へ至った絶対者による世界法則の塗り替え。その行いを繰り返すことによりこの世界は成り立っている。それはおまえがよく知る今の世界も変わらない。唯一にして絶対の法だ。 別段珍しいことでもない。無二の強者がこの世の有様を決定付け、百の輩はそれに平伏して従うのみ。極々自然な話だろう」 「だから、代替わり……」  一人の超越者が、後世総てに対する外枠を生みだす。  絶対で圧倒的な行いだ。心から望んだ渇望であるために、容赦なく平等に総てを塗りつぶすに違いない。  抵抗など無意味。誰もが新たな絶対者の道理に頭を垂れることとなる。  事ここに至り、ようやく玲愛は彼らの全貌が見えてきた。膨大な数の人間を犠牲にし、それでもなお進軍を続けようとする、その訳が。  それは決してただの戦争狂なわけでなく、血に餓えている異常者というのでもなかった。  信じられない。だが認めるしかないだろう。彼らは全員、虜囚なのだ。  あれだけの力を持ちながら、誰もが牢屋に繋がれて、枷を嵌められた囚われ人。自由を求めて〈鉄格子〉《しゅくめい》を睨んでいる存在にすぎなかったなんて…… 「じゃあ、今の世界…… あなた達がしきりに言っている、〈牢獄〉《ゲットー》っていうのは」  そして、悪魔を縛り付けるほどの鎖など、それこそ一つしかない。 「今現在、この世界を流出させた人間の渇望だろう。……いや、〈元〉《 、》人間と言うべきか」  正真正銘、それは神にしか不可能な話だった。 「かつてこの世界を流出させた者の願いが何かなど知らん。だがこれだけは言えるだろう。その男――あるいは女は酷く性格が悪い。 無限の探究心でも持っていたのか。あるいはやり直したい過去でもあったのか。いずれにせよそれにとって、人生は一回で足りなかったのだろう。何度も、そう何度でも回り続けるように。他者を歯車のように見立てて、まったく同じ動きを強いている。 永劫回帰の始まりだな。そして次なる流出が起こるまで、絶対なる決まり事となり鎮座しているのだ。今、この時でさえ」  まるでノアの洪水みたいな話。限られたものだけを箱舟に乗せ、その他総てを膨大な波濤で洗い流す。 「ゆえにその者が到達するのは流れの中心。そこにある座だ。現世界の象徴として残り続ける。殺すことなど誰にもできんし、してはならん。すればおそらく諸共に、世界ごと消えるだろう。 新たな絵画が用意されぬまま死ねば、我らもまた一蓮托生。自殺もできん。己自身が世界であるために自傷すら許されぬのだろう。溢れ出した渇望は世界を満たし、今度は己がその質量に囚われる。 そうだ、この世界は間違っている。我ら皆、例外なく壊したがるのはそういう理屈だ。繋がれていれば後はその理由だけで解放を求めるだろう?」 「それが我々のいる世界の現状。勝者は飽食した勝利に嘆き、敗者は永劫続く敗北に慟哭するしかない閉じた円環。擦り切れるまで再生を続ける、終わりなき映写機構。 分かっただろう、テレジア。なぜ我々がこの世界を〈既知感〉《ゲットー》と呼ぶのか。そして、黄金が流出に至る、その意義が」 「…………」  言葉も無い。雲の上とはこのことだ。彼らの見ている視点は自分達とまるで違って、地を遥かに離れた上空にある。  一都市の人間など意にも介さない。当然だ。それこそ全世界を塗り潰すか否かの大儀式。布石一つなど物の数でもないのだろう。いや物の数ですらなかった。  それでありながら、総てを愛しているというのならそれこそ止まる道理がない。  最悪の遥か上だ。この絶望でもまだ足りなかった。  まるで世界樹の根を食む〈黒蛇〉《ニドヘグ》。小石や虫けらの囀りを楽しみながら、従軍させつつ大理石の意思で邁進する。  まさに嘲笑する虐殺者と言うほかない。条規を食らわんと脈打っている。 「総てはそのためだ。私もおまえも、そのためにこそある。そして役目があるのだ、大儀だと思え」  それこそが必定にして至高。高揚も躊躇もなく、イザークは幽鬼のようにこちらへ歩を進める。 「光栄に思ってしかるべきだろう。黄金の礎たる栄光。まさかとは思うが、ここまで聞いて拒否するほど壊れてはいないだろうな」 「テレジア、おまえに不備は許されん。我ら血肉の一片までも、父様のためにのみ存在するのだ。 役目を果たせ、牢記せよ〈太陽の御子〉《ゾーネンキント》。腐臭の漂う愚図の思想などしてくれるな」  我らで今度こそ父の心臓になるのだと告げ、彼は目の前へ近づいた。  これより魔城を駆動する機関となりて、万物を塗りつぶす災禍を起こす。そこにこちらへの労わりはなく、ただ淡々と作業の一環として告げる。  手が伸びる。その指先、僅かでも触れたのならば自分は部品となるだろう。  氷室玲愛が完全に魔城の一部となる。  その行い、迫る人間としての終焉を前にして、佇んだままそれを視界に納めた。  見えていないわけではない。諦めたわけでも、受け入れたわけでもない。けれど攻撃の機会を伺っていたのとも違う。  行動を起こさなかったのは、ただ考えていたから。  無抵抗なのは、覚悟など最初から決めていたから。 「……ねえ、イザーク。もう一つだけ教えて。 流出によって世界は塗り替えられる。今は既知感で塗りつぶされているから、ハイドリヒ卿はこれから地獄を流れ出させようとしているんだよね?」  止まらない指。沈黙は肯定。僅かも稼げない猶予の時。  前髪の先に触れられ、組み込まれる──その刹那に。 「じゃあ、ねえ……それって、〈ハ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ド〉《 、》〈リ〉《 、》〈ヒ〉《 、》〈卿〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》?」  その声に、イザークの指はぴたりと静止した。  舞い降りた沈黙。  まさに魔法の言葉と言えるだろう。魔城の心臓へと成り代わる寸前、彼は初めて、玲愛の言葉でその動きを止めたのだ。 「…………」  今度の沈黙は肯定ではない。思索にふけり、問いかけられた疑問の解を探す。答える義理など無いが、それは自分が答えられない疑問だったから。  ……何より、それは問いではなく指摘だった。  明らかにおかしい。因果が噛み合わない。  考えて見れば当たり前の疑問に、手を伸ばした姿勢のまま彼は思惟にふけりだした。  先程自分が語った流出の真相、真価。  なぜその魔道における極致を……ラインハルト・ハイドリヒは知ったのか、と。  考えて見れば、それは何よりも気に留めるべきだった思考だろう。  少なくとも彼が独力で知ったことでないのは確実である。黄金の獣は、かつて首切り役人と恐れられたゲシュタポの長官だった。マレウスのように元から魔術に傾向していた人間ではないため、流出によって発生する事態など知る由もない。  いや、彼のことだ。気づきもしたし推察もしただろう。そしてそれは常の如く的中して、それによりエイヴィヒカイトの意味に気づいたのか?  ならばなぜ、〈確〉《 、》〈信〉《 、》ではなく〈知〉《 、》〈識〉《 、》のように語るのだ? そうであると気づいているのではなく、知っているかのように彼は口にしている。  〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》。  そしてそれは、〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈受〉《 、》〈け〉《 、》〈売〉《 、》〈り〉《 、》? 「おかしいよね。知るはずがないんだよ、そんなこと。言い方だって、ちょっと考えたら変だって分かる。 さすがのハイドリヒ卿も、やらなければできない。軍人さんがおまじないに触れる機会なんて、本当ならあるわけないしね」  ほんの指先を動かすだけで万事片付くとしても、指先を動かさねば事態に変化は訪れない。万能の超人でも、身動き一つしないのならば山や星と同じだ。変化は永遠に訪れない。  公務に携わっていたラインハルトが魔道の知識を得る手段など、それこそ限られている。ひとたび知れば後は水を吸い込むスポンジだろう。だが、最初に触れるきっかけ無しには、それこそ基礎も応用も知るはずがないのだ。 「…………」  ならば。その奥義、結末、そして現世界を満たす渇望をどうやって知った?  誰から聞いた? なぜ結末すら知りえたのだ? 語り聞かせたそいつは、なぜその仕組みを知識として語れた?  最果てを教えられる者は最果てを見た者だけ。人は知らぬことに検討は付けられても、見識として教授することはできない。  真実はそれを知りえたものだけが語れる。  虚構ではなく、流出の意はそれだ。  世界法則の上書き。その事を知る存在など、それこそ成しえた者だけだろう。  ならばいるはずだ、元凶が紛れている。位相のずれた同種、同位の怪物が息を潜めて笑っている。  黒円卓を魔人の集団へと変貌させたそのきっかけ、覆い隠せぬ〈既知感〉《ゲットー》、その存在を語って聞かせたのは他の誰でもなく── 「──ああ」  それこそ、一人しかいない話なのだ。  瞬間、感じ取れたのは僅かな揺らぎ。  怒りか、それとも侮蔑か。判別できぬ極小の〈漣〉《さざなみ》。  イザークは呟き、再びその口を黙する。  その確かな変化を感じ取りながら、今度は玲愛が頷きを返した。 「消去法、にすらならないね。つまりはそういうことなんだよ、きっと」  総て手の内、釈迦の掌だ。  定められた航路を延々と進む巨大な軍艦。人員も優秀で設備も最新。それでも、海が割れては渡れないし、夜空の星に動かれては方角そのものが変わってしまう。  前進に見せかけた誘導。悪魔の歩みを妨げられるものなど、考えるまでもない。 「だから何だというのだ、テレジア」  だが、その真実に気づいてなお、彼は無表情で切り捨てた。 「結末は変わらん。黄金は比するものなき魔軍の長。旧世界の遺物程度、恐れる道理など有りはしない」  黄金の信奉。その輝きは永久不変。  ──ハイドリヒ卿は常勝不敗。  彼の嫡子にして忠実な臣下は、たとえどのような事実があろうとその一点において揺らがない。 「ならばこそ、おまえもその力を貸すがいい。 父の願いを叶えるために、代え難い勝利を送るためにも、〈死者の館〉《ヴァルハラ》はその機能を損なってはならん」  そして、玲愛を取り込む理由も出来た。  己が役割はなんとしても果たさなければならない。使命感はそのままに、ただ目の前に来たる敵へと自分たちは万全を期さなければならない。  ……心の波紋が真の敵を知り、震えている。 「この世界も一緒に死んでしまうんでしょう?」 「父様の新世界が始まるのみだ。何の問題もない」  けど、それは自分にとって絶対に止めないといけないことだから。 「じゃあ、結局あの人は残ってしまうんじゃないのかな。ただ無限に甦る、ここの一員になるだけ」  地獄は死者を留める。ゆえに彼を排斥できない。  どれほど邪魔な存在であろうと、塗りつぶせたなら無限に甦る。堂々巡りの開始となるだろう。この地獄は平等すぎて、例外の存在を許容できない。 「………」  指摘に対し、僅かにイザークは思案する。  その思考と模索、ただの部品には余分なものだというのに、彼は自分の変化に気づかない。  ただ父へ完全なる勝利を。その思考は建前で、本当はただ……その相手へ向ける個人的な敵意ゆえにそう考えたこと。  その悪意に、彼は気づかない。死者の館で育った彼は、生物の観点を持ち得ないから。 「……世界の重ね塗りにより生じる特異点。そこならば、存在を消し去ることも可能だろう」 「特異点?」  そうだと肯定する声。  瞳の奥に揺れた影は、愛か、憎か。 「世界に穿たれた孔の中、事象へ影響を及ぼさない無色の空間。 流出同士の重ね塗りによって、世界が耐え切れず破れた先。どこでもない場所ならば、あるいは。前世界の支配者を消滅させ、完全な勝利を体現することも可能だろう。 ……父様のために」  それは流出による世界の突破。現世に影響を及ぼさない、法則すら存在しない虚無の空間で斃す。  つまりは外側だ。主神と呼ばれるものを外様へ追いやる。  発生する影響、世界の連鎖崩壊を防ぐにはここと別の場所で殺せばいい。実に簡単な解で、なんと難渋な方法なのだろう。それを叶えるためにはまず…… 「大丈夫、その願いは叶うよ」  藤井蓮の流出位階への到達。その最低条件を、微塵も疑わなかった。額へ触れた指先に対し、慌てることもなく受け止める。 「そうか、ならそうであれ。機能を果たせるのならばそれで構わん」  傲慢で、一方的な、存在の略奪行為。  所有権は総てが他人、今こそ糧になれとばかりに氷室玲愛という存在を中核へ組み込まんとする。 「うん……いいよ。私を使って」  その行いに応えるのは、静かに落ち着いた肯定の声。  やるべきことがあるのは彼だけではない。信じているだけではなく、戦わなくてはならないから。 「私にもやらなければいけないことがある。 ……もう、目は閉じないよ」  イザークにはイザークの、そして自分には自分の目論見がある。  求めている地平が違う。けれど、そのために取る手段はこの時ばかりは同じものだ。  だから連れて行ってほしい。私を、彼と同じ戦いの場へと。  自分自身が立ち向かわなければいけない、少しでも力になれる場所へ…… 「…………」  返答もなく、その言葉に一考すらせず、落とされる意識。  僅かに重なった視線に哀悼はない。  役に立てと、道具としての機能を求められた一瞥のみだった。  ………そして、私は落ちていく。  溶ける、溶ける、渦巻く壷中への潜航。  そこで形となり、中枢へと確かに自分が刻まれていくのを感じる。  行き着く先は、あつらえた様に氷室玲愛の形をした穿孔。  パズルのピースをはめ込むように、身動きの取れぬままそこへと格納されていく。  手足は歯車に。心臓は機関部に。頭は演算機に。  喉は配線へ変わり、最後の〈人間性〉《こえ》が小さく漏れる。 「………ふじい、くん」  軋む回路、漏れた声は掠れた呟き。  言葉にできたのは、やはり愛しい人の名前で。 「───ごめん、ね……」  ああ、やっぱり『ありがとう』って言えない。  か細い声、まるで助けてというサインのよう。  自分の悪癖に苦笑して、けれど口元は動かない。  壷中の環の中へと、意識が落ちる、堕ちる、墜ちて、い──く─―――― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「――――――」 そして、上空の城が弾け飛ぶ。解れ、ばらばらとなって拡散し、天を覆う方陣へと変わっていた。 第八のスワスチカ開放――その果てに起きることが何なのかは、もはや充分すぎるほど分かっている。 流れ出ようとしているんだ。 この街から外へ、世界へ、総ての空をその色へと塗り潰すために。 「させない……!」 そんなこと、俺が断じて許さない。腕の司狼を抱いたまま、強く思う。 もうこいつは動かない。もうこいつは喋らない。香純も本城もここにはいない。 まだ温かさは残っているのに、こいつの中は空っぽだ。残らず総て、城に吸い上げられてしまった。 「…………ッ」 膨れ上がる激情のあまり、言葉もろくに出てこない。ただ見上げる先には、黄金の瞳を細めて笑うラインハルトと、それに付き従う三人の大隊長。 ああ、分かってる。分かってるよ司狼。おまえ達をあんな奴らの餌になんかさせはしない。 絶対、必ず、何があっても、俺が助けてやるからな。 せめてそれだけは、ここに約束させてくれ。 俺が、俺が、俺が、俺が―――― 奴らを、地獄に叩き返してみせるから。 「おおおおおおおおぉぉぉォォッ―――!」 解放した殺意と共に、再び身体が変わっていく。今の俺に出来る極限の、最強の刃をもって仇を討つため、完全に手綱を放して他の総てを忘却した。 泣き声? 約束? 聞こえない―――! もともと俺が原因なんだ。俺がいたからこんなことになったんだ。 香純の家も、司狼のことも、犠牲になったこの街総ても―― 俺がいなかったらこんなことにはなっていない。 俺が分を弁えない太陽なんかを欲したせいで、空が全部血に染まる。 だったら、なあ、ケジメつけなきゃいけないだろ。 もう部外者の出る幕はない。 これから先は俺と奴ら、元凶同士で片を付ける。 どれだけ悔いても謝っても、手遅れなんだから筋を立てろ。 二度とこんなことがないように―― カール・クラフト……! ラインハルト・ハイドリヒ……! おまえ達の生存だけは許さない。おまえ達が生きる世界なんか認めない。 俺がおまえ達の創りあげた〈聖遺物〉《やくわり》だと言うのなら―― お望み通り、今から絶命という〈未知〉《シ》をくれてやる! 天の方陣から、屍が摘みあがって形成されていく〈地獄〉《ヴァルハラ》への階段。 それと、その先に在る元凶を睨み上げて―― 「行くぞォッ――!」 弾け溢れ出る憤怒と共に、俺は疾走を開始した。 「よい殺意だ。ああ、戦場とはこうでなくてはならん」  遥か高み、方陣より眼下を睥睨してラインハルトは微笑する。  ゾーネンキントによる魔城の完全解放。本来の力を取り戻し、単独で総てを超越する墓の王が動きだす。 「では、先日の続きといこうか。あれから何が変わったのか見せてくれ」  イザークによる地獄巡り――事態はあの時とまったく同じ様相を呈している。今やこの空こそが玉座であり、そこに辿り着くまで三つの地獄を越えなければならない。  〈死界〉《ニブルヘイム》、〈熱界〉《ムスペルヘイム》、〈人界〉《ミズガルズ》。  ラインハルトは大外套を翻して、厳かに告げた。  やはりあの時と、まったく同じ命令を。 「加減無用だ。楽しませろ」  下知を賜るのは最強の近衛、三人の大隊長。 「〈Vorüber, ach, vorüber! geh, wilder knochenmann!〉《ああ わたしは願う どうか遠くへ 死神よどうか遠くへ行ってほしい》」  その先陣、何よりも速く応えたのは最速の〈白騎士〉《アルベド》だった。 「〈Ich bin noch jung, geh, Lieber! Und rühre mich nicht an.〉《わたしはまだ老いていない 生に溢れているのだからどうかお願い 触らないで》」  これまでバラバラに羅列していた渇望が、黄金の命によって法則性を持ち組まれていく。  思考は未だに壊れたまま、しかしその状態でこそ彼は真実の力を発揮するのだ。 「〈Gib deine Hand, du schön und zart Gebild!〉《美しく繊細な者よ 恐れることはない 手を伸ばせ》 〈Bin Freund und komme nicht zu strafen.〉《我は汝の友であり 奪うために来たのではないのだから》」  拒絶と接触の二律背反――トリファが指摘した矛盾そのままの在り方で、一人二役を演じる彼は紛れもなく狂っている。  ゆえに速い。何よりも最速。誰にも捕まらず、誰であろうと捕まえる彼はまさしく死と乙女の融合だろう。  逃げる者と捕らえる者。性別すら混沌と化した暴嵐の凶獣が、飢え猛りながら牙を研ぐ。 「〈Echter als er schwur keiner Eide;〉《彼ほど真実に誓いを守った者はなく》 〈treuer als er hielt keiner Verträge;〉《彼ほど誠実に契約を守った者もなく》 〈lautrer als er liebte kein andrer:〉《彼ほど純粋に人を愛した者はいない》」  続くのは〈赤騎士〉《ルベド》。常と変わらぬ口調で朗々と、己が詠唱を謳いあげる。  主の命こそが彼女の総て。ならばこそ求められるのは完遂のみ。迫る大敵を紅蓮の炎で彩ろう。 「〈und doch, alle Eide, alle Verträge,〉《だが彼ほど 総ての誓いと総ての契約》 〈die treueste Liebe trog keiner wie er〉《総ての愛を裏切った者もまたいない》」  灼熱に身を焦がす情愛と、信じ奉る信念が業火となって渦を巻く。 「〈Tod! Sterben Einz'ge Gnade!〉《死よ 死の幕引きこそ唯一の救い》」  そして鋼の〈黒騎士〉《ニグレド》は、何よりも静かに奮えていた。  壊死したはずの感情が、この場に生じた一つの揺らぎを感じ取っていたがゆえに。 「〈Die schreckliche Wunde, das Gift, ersterbe,〉《この 毒に穢れ 蝕まれた心臓が動きを止め》 〈das es zernagt, erstarre das Herz!〉《忌まわしき 毒も 傷も 跡形もなく消え去るように》」  無くした心臓から鼓動を感じる。全力の解放に歓喜して、僅かに混ざる念の波に独り共感を抱いていた。 「〈Hier bin ich, die off'ne Wunde hier!〉《この開いた傷口 癒えぬ病巣を見るがいい》」  そうだ、許せぬだろうイザーク。斃すべき相手、打倒すべき根源。その相手が憎いか、ならばさらなる力を振り絞れ。  この死肉しか残らぬ俺に、その業ごと宿すがいい。さすれば。 「〈Das mich vergiftet, hier fliesst mein Blut:〉《滴り落ちる血の雫を 全身に巡る呪詛の毒を》 〈Heraus die Waffe! Taucht eure Schwerte.〉《武器を執れ 剣を突き刺せ》 〈tief, tief bis ans Heft!〉《深く 深く 柄まで通れと》」  暗黒の水星に連なる総て、この〈鉄槌〉《こぶし》で幕を引かん。 「〈Sei guten Muts! Ich bin nicht wild,〉《ああ 恐れるな怖がるな 誰も汝を傷つけない》 〈sollst sanft in meinen Armen schlafen!t〉《我が腕の中で愛しい者よ 永劫安らかに眠るがいい》」  高まる熱量と、軋みをあげて収束する力場。 「〈So - werf' ich den Brand in Walhalls prangende Burg.〉《我はこの荘厳なるヴァルハラを燃やし尽くす者となる》」  彼らは無双不敗の〈不死英雄〉《エインフェリア》――その全力を今こそ。 「〈Auf! Ihr Helden:〉《さあ 騎士達よ》」  眼下に迫る〈赫怒〉《かくど》へ向かい── 「〈Totet den Sunder mit seiner Qual,〉《罪人に その苦悩もろとも止めを刺せば》 〈von selbst dann leuchtet euch wohl der Gral!〉《至高の光はおのずから その上に照り輝いて降りるだろう》」  ──さあ、存分に解き放とう。 「〈Briah〉《創造》――」  ここに最終章の幕が上がり、鬼神の咆哮が世界を穿つ。 「〈Niflheimr Fenriswolf〉《死世界・凶獣変生》」 「〈Muspellzheimr Lævateinn〉《焦熱世界・激痛の剣》」 「〈Miðgarðr Völsunga Saga〉《人世界・終焉変生》」  刹那──巻き起こる破壊の嵐。  主演も端役も生贄も、総てが今や舞台の上へ。  約束された幕は上がり、〈怒りの日〉《ディエス・イレ》が激情の〈坩堝〉《るつぼ》の中で産声をあげた。  同時に、〈方陣〉《ぎょくざ》へ続く〈階〉《きざばし》が紅蓮の焦熱に包まれる。その内界に酸素はなく、隠れ場所も存在しない。ただあらゆるものを燃焼させる業火のみが、一寸の隙間すらなく埋め尽くしている〈焔〉《ほむら》の世界だ。決して消えず、決して弱まらず、そして絶対に逃げられない。 「これを人前で見せるのは初めてだよ。光栄に思え、小僧。 貴様の気概、貴様の力、認め剣を抜いてやったのだ。失望させてくれるなよ」  発生した大焦熱地獄は彼女の世界。溶岩の数百倍を上回る熱風が吹き荒れて、永劫焼かれていたいという〈赤騎士〉《ルベド》の渇望を具現している。 「共に覇道だ。力比べといこうか。 私の魂を凍らせることなど誰にも出来んぞ」  すでに己が〈熱界〉《しゃてい》に入り込み、焼かれながらも駆け上がってくる標的を見下ろしてエレオノーレは喉を鳴らした。彼女も蓮の世界に入っているが、以前とは異なり停止する兆候すら見えない。  そしてそれは、他の者らも同様だった。 「Zarfall’in Staub deine stolze Burg――!」  総て砕け散ってしまえと吼えながら駆け下りるシュライバーは、依然蓮より一歩速い。エレオノーレの火炎に全身を焼かれつつも、右目から迸る〈血液〉《ガソリン》の凄まじさが、未だ彼の軍勢に底がないことを告げていた。  そうだ、これがある限り、たとえどれだけ損傷しようと再生して再生して最速で駆け抜ける。 「――――――」  鋼の豪腕を一振りし、周囲の炎を殴り割った〈黒騎士〉《ニグレド》とて同じことだ。ただ朴訥と黙したまま、シュライバーとは対照的に鉄塊の重さで一歩一歩降りていく。  エレオノーレの〈創造〉《けん》は一殴りで全壊できるほど柔ではないが、己の周りだけ極短時間穴を空けるのなら不可能でもない。これは彼にとっての聖戦ゆえに、つまらぬ不如意があってはならぬと断じている。  現実、蓮の世界は大隊長の誰一人にすら効いてなかった。その威力やその渇望が、決して前より弱体化しているわけでもないというのに。  馬鹿な――と、憤怒に白熱した思考の中でも驚愕の念を禁じ得ない。流星の速度で迫り来るシュライバーを前にして、蓮はただ瞠目する。それを見下ろし、エレオノーレは薄く笑みを浮かべていた。 「誤解させたようで済まなかったな。先日の不甲斐なさを詫びさせてもらおう。あれは我々にとっても不本意だった」 「これが、私達の全力だよ」  第八のスワスチカ開放による完全状態。かつ、魔城流出が始まったことで、戦奴である彼らはラインハルトの恩恵を授かっている。間接的だが、今や流れ出す位階に指をかけていると言っていい。  一対一ならまだしも、この三人を巻き込んだ覇道で全員止めるなど不可能に近い。 「求道のままであるほうがよかったな。分散させては落ちる。薄い。 まあ、もっとも――」  言葉途中に間を置いて、眼前の空間に念を込めるエレオノーレ。そこに炎が凝縮していき、槍となり―― 「それではそのケダモノに抗し得んか」  摂氏数万度にも達する炎の槍が、砲弾の勢いで放たれた。 「End’in Wonne, du ewig Geschlecht―――!」  そして目の前にはシュライバー。〈赤騎士〉《ルベド》の火槍はマキナを追い抜き、凶獣ごと蓮を貫こうと襲い来る。  弾道上、射線は完全に重なっており、槍は見えない。  死角――刹那―― 「――――――」  寸前で、シュライバーは真後ろからの攻撃を回避した。触れせないというルールである以上、覇道の永続ダメージ以外で彼を捉える術はない。  そしてそれが、図らずも絶妙の連携となった。 「―――がああァッ」  胸部に命中した火槍はそれと同時に爆発し、内と外から蓮の身体を焼き焦がす。だが激痛に絶叫する瞬間さえも、今は満足に与えられない。  回避したシュライバーが宙でさらに反転し、首筋目掛けて落ちてきたのだ。咄嗟に刃の一枚で防御したが、衝撃までは殺せない。弾け飛んで下から上へと、階段を逆に転がる。  そこに待ち構えていたのはマキナだった。振り下ろされる破滅の拳が炎を砕きながら迫ってきて――  間一髪。横っ飛びで回避したが、再び火槍が今度は雨のように降り注いでくる。  隙が、まったく生じない。 「ふふ、ふふふふふ……」  耳朶を震わす笑いは嘲弄と、そして喜びに染まっていた。実際に嬉しいのだろう。  今、この状況を作っているのは紛れもなくエレオノーレだ。〈大隊長〉《かれら》は互いに協力などしていないが、射手として鷹の目を持つ〈赤騎士〉《ルベド》が他の二人を一切の無駄なく利用している。  いや、そんな即興以前の戦術に、応じてのけるマキナとシュライバーこそ異常と言うべきなのか。エレオノーレは仲間の安否など気にしておらず、それが証拠にムスペルヘイムは今もこの場の全員を焼いているのだ。  死ぬなら死んだで構わんと思っているのは事実。  しかし捨て駒にはならず機に変える技量。  それをさらに読みつつ次手を怠らない周到さ。  その非情。その果断。野性の勘働きと積み上げた経験からくる洞察力。  まさしく、彼らは英雄だ。死なない術と死なせる術に長けており、戦場の星たる者に違いない。  何の打ち合わせもないままに、いざ戦いとなれば阿吽の呼吸だ。  城で六十年間殺し合い続けた仲というのも伊達ではない。  流血の契りであり、屍で結んだ絆であろう。 「何やら身に余る評価を受けているように思えるが、少し訂正してやろう」  降り注ぐ砲弾の雨を弾きながらマキナとシュライバーに翻弄されている蓮に向け、エレオノーレは戦傷に覆われた半顔を凄絶に歪めてみせた。己が力を存分に揮える喜びに、昂揚しているのが一目で分かる。 「こんな〈階段〉《ばしょ》を戦場に選んだ貴様が迂闊なだけなのだよ。まあ、何にせよ引きずり込む気ではあったがね」 「足場が限られている。空は飛べまい。ではその刃、どうやって私に届かせる。力ずくで突破するには、些か以上に無理があると思わんかね?」  今、戦場になっている死者の階段は、大人が二人並べるかどうかの横幅しかない。速さを発揮するには狭すぎる足場だろう。 「End’in Wonne, du ewig Geschlecht――!」  そして、シュライバーは宙を駆ける。爆発する大気の衝撃を足場にして、まさしくその動きは縦横無尽だ。蓮に同じことが出来ないわけでもないだろうが、速さで負けている以上、飛べば即座に撃墜されるだけだろう。  さらに、その状況で、もっとも恐るるべきはもう一人。  何も言わず、淡々と、重爆撃すら凌駕する拳を落とす〈黒騎士〉《ニグレド》だ。前をこの男に塞がれれば、横をすり抜けることなど到底出来ない。  失策。失態。これでは自ら死地に飛び込んだことと同義。  だが、本当にそうなのか?  いくら激昂したとはいえ、そこまで見境がなくなったのか?  否――そうではない。 「孫子ではないがね。勝敗は前もって決まっているのだよ。くだらん感傷など捨ててしまえばよかったものを。 それほどまでに、あのちっぽけな〈施設〉《シューレ》を壊されるのが嫌だったのかね?」 「………ッ」  そう、蓮とてこの場が死地に等しいことくらい分かっている。しかしそれでも、地上で戦うわけにはいかなかったのだ。 「友人の亡骸に、もはや魂が宿っておらぬことは知っているだろう。ならば肉が燃やされたからといって何だという。 そしてそれは、シャンバラ然りだ。すでに誰も残っておらん。皆、黄金に溶けている。 残骸。残骸だよ、死体にすぎん。戦士ならばそんなものに縋り付くな。死者しか抱けぬ者など反吐が出る。 ああ、私はそういう輩に虫唾が走る性分なのだよ」  冷笑に微かな憤りを混ぜながら、再びエレオノーレの眼前に炎弾が生じ、そして彼女の覇道が焦熱の度合いを激増させた。 「死体ならば燃やし尽くす。土葬は好まん、万象灰と成り果てればいい。 ダビデとシヴィラの予言のごとくだ。〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を謳ってくれよ。 貴様はもとより、そのためだけの楽器であろうが」  激している。声に混じる変化は僅かで、表情は微塵たりとも揺らいでいない。しかしエレオノーレは間違いなく、今このとき激怒していた。 「鳴けよ。貴様の慟哭はぬるすぎるのだ」  そして放たれる獄炎の砲弾――同時にムスペルヘイムの燃焼は極限に達し、マキナでさえ咄嗟に払えない密度で燃え上がる。間一髪回避したシュライバーすら、着弾と共に弾ける焔からは逃げられない。  今、方陣直下の限定した空間内で、核に等しい熱量が爆発した。 「――があああああああァァッ!」  燃やされる。燃やされる。燃えて尽きて灰になる。直撃を受けた蓮はもちろん、巻き添えを食らったマキナとシュライバーもただではすまない。 「Fahr’hin,Waihalls lenchtende Welt―――!」 「おおおおォォッ!」  しかし、それでもやはり彼らは〈不死英雄〉《エインフェリア》だ。生物どころか、形あるモノ総てを灰塵に帰すだろう業火の中で、未だ攻撃を繰りだしてくる耐久力と再生力は超常どころの話ではない。  迫る白光。落ちる黒拳。猛り狂う赤熱炎舞――  刹那に満たない絶死の虚で、蓮の時間は本人すら及びもつかない停滞の中にあった。 「香純……」  それは取り落とした者の名前。 「司狼……」  十年以上も共にすごした幼なじみ。  自分は彼らの死体を抱いているのか? 彼らのせいにして逃げているのか?  今を直視したくないから憤怒に逃避し、走り抜けると言いながら止まっているのか?  誰も守れないと言われた。誰も助けられない現実があった。無力を恥じて、無知を呪って、それでも勝つと胸に誓った。  けど、いったいどうやって?  頑張れば何とかなるほど甘くない。  ああそれも、確かに俺が言われたことで。  逃げろと、傷つかないでと言われた俺はどう思った?  哀しかっただろう。遣る瀬なかっただろう。おまえなんかいてもいなくても変わらないと言われたようで、情けない気持ちになっただろう。  そして実際、俺はこんな様になっていて……  駄目なのか? ここまでなのか? 「――違う!」  怒号して、蓮は宙に飛んでいた。  まだ持てる総てを出し切ったわけじゃない。 「ほぉ……」  それを感嘆と、慨嘆と、そして喜悦の相で見るエレオノーレ。そうだ、そうでなくてはならない。 「死地でこそ更なる死地へ……ああ、正解だよ。英雄とはそういうものだ。 力が足りなければただの間抜けにすぎんがね」  辛辣な言葉に嘘はない。空中は、凶獣の領域。 「Zarfall’in Staub deine stolze Burg――!」  突如の跳躍に空転したマキナの拳を踏み台にして、シュライバーも宙に飛ぶ。破滅の鉄拳に触れたことで足が消し飛んだが気にもしていない。  〈終曲〉《フィナーレ》の停滞縛鎖は力技で引き千切る。黄金以外に彼を繋げる者など存在せず、蓮自身の加速ならばたとえ光速だろうと追い抜けるのだ。  殺戮への欲求に満ち満ちた隻眼は、炎に沸騰しながらも標的の位置を見失わない。 「くッ、そおおおおォォォッ―――!」  その暴嵐を迎え撃つため、全身全霊を振り絞る。背部の刃が翼のごとく羽ばたいて、自分に可能な最速の斬撃を繰り出すが――  ――当たらない。  避ける。躱す。掠りもしない。  実に万分の一秒以下、追撃しにきたシュライバーを撃ち落そうと百以上の攻撃を注ぎ込んだが、その総てをすり抜けられる。空中にありながら跳ね回る運動神経と敏捷性は、もはや荒唐無稽を遥か後ろに置き去っていた。 「つぅゥゥッ――」  そしてすれ違い様、抉り取られたのは左大腿部。切り返しに何よりも必要な軸足を、これで奪われたことになる。偶然ではないだろう。 「こいつ…ッ」  どれだけ絶壊していようと彼は捕食者。魔性の狼なのである。食事と狩りが同位にあり、その手順を間違えることなど有り得ない。  速いのはシュライバー。鋭いのもシュライバー。そこを万年競い合おうと、軍配があがる向きは変わらない。  しかし、だからといって油断していいという理屈は組み込まれていないのだ。より効果的に、より確実に、殺すためには何をすべきか選ぶべきか。  凶獣の本能は、その一点のみ絶対に壊れない精密機械と化している。  再び反転してきたシュライバーが、今度は天頂から真っ逆さまに蓮の頭上へと落ちてきた。  ―――躱せない!  瞬時に悟り、ならばと相打ちを選択する。攻撃を食らった瞬間ならば、あるいは〈白騎士〉《アルベド》を捉え得るかと望みを託して――  甘いと、言わざるを得ないだろう。 「オオオオオオオオオオオオオォォォォォッッ――――!」  今までの絶叫とは違う、これは雄叫び。瞬時に獲物の意図を察したシュライバーは、やはり本能でもっとも有効な手段を選んでいた。ヴィルヘルムの薔薇を粉砕した咆哮が轟き渡り、魔力を帯びた音の衝撃が蓮の両鼓膜を破裂させて脳神経を掻き回す。 「ぐッ、がああああァッ!」  頭部の穴という穴から血を噴きつつ、鉄槌の一撃を食らったように墜落した。その先に待ち受ける者は言うまでもない。 「…………」  止めを刺す役として、彼ほど相応しい者はいないだろう。大気中の魔素すら歪ませる鬼気を拳に纏い、死せる英雄がそこにいる。 「行くぞ」  すでに蓮は満身創痍。依然燃え続けるムスペルヘイムにマキナもまた焼かれているが、一切頓着していなかった。  効いていないわけではない。熱くないわけでもない。彼らエインフェリアはまったくの同格なのだ。〈赤騎士〉《ルベド》の奥義をいつまでも耐えられるわけがないだろう。  このままこの状態が続行すれば、マキナは斃れる。それを回避するには己の周囲だけでも炎を砕くか、それともエレオノーレを殺してしまうか。  どちらも、彼は選ばなかった。 「兄弟、俺に唯一無二の終焉をくれ」  何よりも優先して蓮を斃す。その先にこそ彼の求める地平があり、他の選択など有り得ないのだ。  焦げればいい。炭となればよかろう。呪われた機神と化した身体になど、端から一片の愛着もない。  大事なのは魂。守るべきは誇りである。  己が己だという確信を持ったまま、至高の敵と相対して取り逃した〈極点〉《し》へ至りたい。  ゆえに今こそ、積年の思いを拳に込めて―― 「共に真のヴァルハラへ行こう」  振り下ろされた必滅の幕引きが、蓮の心臓に叩き込まれる――寸前のことだった。 「終わりだ」  その一撃、絶対不可避の死であると知るがゆえにエレオノーレはそう呟き。 「Auf Wiederseh'n――」  理性の消し飛んだ凶獣さえも、この獲物はもう助からないと本能で悟っていた。 「…………」  ならば無論、直接手を下すマキナにとってもその死は絶対。無言の内に万感の思いを込めて、宿敵の最期を看取る気でいる。  だが―― 「どう見る、カールよ」  ラインハルトは笑っていた。敗者を蔑む笑みではなく、そこにある種の期待を込めて眼下の出来事に黄金の視線を送っている。 「ふふ、ふふふふふふふ……」  そして同じく、含み笑う水銀の影…… 「レン……」  彼女は落ちる彼に手を伸ばし…… 「藤井くん……」  壷中天の環の中で、玲愛は変わらず祈っていた。 そして俺の思考は砕け、身体もまた砕かれようとする瞬間――迫る幕引きの一撃を前にして、諦める気にだけはなれなかった。 死にたくない。死んでたまるか。こいつら全員ブチのめさないと気がすまない。 司狼は俺に託した。先輩だって俺を信じた。ならば勝つしか道はなく、弱音も諦めも許されないことだろう。 負ける気なんか微塵もないんだ。証拠に今も俺の〈創造〉《ルール》は健在で、こんなに刹那を引き伸ばしている。 ゆえに躱すことは出来るだろう。この一撃を回避して、勝負を続行するのは決して無理なことじゃない。 だけど――その後いったいどうすればいい? 戦意も覚悟も、俺に可能な極限を振り絞っている。にも拘らず勝機が見えない。奴らを崩す道が見つからない。 弱音じゃなく、負けられないから、再起するための何かが欲しい。 力は有限、無駄には出来ない。次の反撃をもって必勝とするための何かがなければ、たとえこの場を凌いだところで敗北する。 でも―― それは駄目だ。選べない。だって〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈流〉《 、》〈出〉《 、》〈は〉《 、》〈最〉《 、》〈悪〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 あのとき、城から先輩を連れて逃げたとき、〈終曲〉《フィナーレ》の暴走状態にあった俺が正気に戻ったのは、知らされた真実があまりにも絶望的だったせい。 “座”の存在も、流出の意味も、カール・クラフトが何者で俺が何者で、自分の世界を流れ出させたらどうなるか……あのとき全部知ってしまった。 ゆえに、その道は選べない。 ラインハルトを斃すという大儀の前提が崩れてしまう。 たとえ勝てても、地獄を地獄に塗り替えるだけ。そんな結末のために司狼は犠牲になったんじゃない。先輩は勇気を示したわけじゃない。 香純も、本城も、そして黒円卓の犠牲となった他の総ても―― 解放されるような、そんな道を…… これまで何も守れなかった俺なんだから、彼らの魂を救える道を…… 選び取るには、どうしたらいい。 「痛い……痛い……痛い……痛い……」 マリィの泣き声が耳を震わす。 「やだ、やだよ……わたし、ひどいこと、した」 彼女はそう思っていて、俺もそう思っていて。 「わたしなんかがいたから、こんな……!」 まったく同じ罪悪感と自己否定。 ああ、ああ、だから耳を塞いだのに。 だから関わらせたくなかったのに。 君が俺みたいな馬鹿野郎にこれ以上染まらないよう、連結を断とうとしたのは間違いだったのか。 こんな修羅場にこんな俺、永劫停止の世界が地獄よりも上等だなんてこれっぽっちも思っちゃいない。 見られたくないんだよ。 知られたくないんだよ。 こっちのことは全部そっちに筒抜けで、君に失望されるのが嫌だから。 君をこれ以上汚せないから。 なあマリィ、俺の流出はおぞましいだろう。ひどいエゴの塊だろう。 周りを総て幻想に変える代物だから。 自分が刹那でいたいがため、他者を絵画か何かのように止めるんだ。 それを見て楽しむ。それを見て愛でる。吐き気を催すような邪神の理。君に見せていいものじゃない。 “座”に相応しいのは、あくまで君だ。 俺もラインハルトもメルクリウスも、イカレた地獄しか垂れ流さない。 だから、この傍迷惑な馬鹿三人、本来なら諸共消えるのが望ましいと分かっているのに…… 「先輩……」 笑ってくれ。軽蔑してくれ。俺は彼女と生きていたい。 だけど〈創造〉《フィナーレ》じゃ勝てなくて、〈流出〉《ツァラトゥストラ》は論外で。 城の犠牲者達を解放するには、どうしたらいいか分からない。 「レン……」 だから泣いてる君の涙を拭ってやることも出来ないんだ。 カール・クラフトの代替らしい、最悪の男と言うしかないよな。 と、思うのに、どうして…… 「ねえ、レン聞いて」 どうして君は、俺みたいな奴に手を差し伸べようとしてくれるんだ。 「わたしはみんなの力になりたいの」 嘆き悲しんでいた君を知っている。震える声で自分を責めていたのだって知っている。 ああ、だって筒抜けになっているのは俺だけじゃないから。 バレバレなんだよ、無理すんなよ。必死に気丈にカッコつけて、さも自分は平気だと言わんばかりなその態度。 いったい、何処の馬鹿の真似だよ。 いったい、何処の馬鹿のせいだよ。 ずっと耳栓していたその馬鹿が、ようやく近いところにやって来たから必死に演技してるんだろう? その頑張り具合、凄いけど。 演技、上手だけど、逆に下手だよ。空気読めてないところは相変わらずだよ。 俺はそれが、堪らなく切なくて…… 「言ったでしょう。抱きしめたいって」 強く、優しく、だけどその裏側では、今も泣いている彼女。 「一人ぼっちじゃ、手も握れないよ」 「そんなレンに、わたしなってほしくない」 「みんなも、きっとそう思ってるよ」 みんな、みんな、この手から零していったみんな…… そして、もう零せない一番大事な相手のことを…… 「ああ……」 そうだ、氷室先輩に言われた通り。 「悪い癖……だったな」 それは分かってる。嫌になるほど分かってる。 さっき司狼に散々言われて殴られたし、逆の立場だとどれだけ切ない気分になるのか、今のマリィを見て思い知った。 どちらも、俺の鏡みたいな存在だから。 司狼が掛けてくれたヴァルハラへの橋……ここから転落するわけにはいかないんだ。 それは、充分すぎるくらい分かっているけど…… 「教えて、レンの願いを」 いいんだろうか、俺みたいな奴が。 俺のこんな渇望で、君を汚していいんだろうか? 抱きしめてあげると彼女は言うけど…… 「それを全部包みたいから」 全部、全部、零した総てを拾い上げたいと言うマリィ。それで察した。分かってしまった。 “座”に繋がる俺に知識が流れたように、マリィも俺を通じて総てを知ったということだろう。 おそらくは、本当についさっき。 水銀が彼女から目を逸らし、俺と司狼を俯瞰していたその刹那に。 彼女は悟り、傷ついて、そして決断したというのか。 俺達がどうするべきか。何を考えてどう事態を収めるべきか。 その中で、もっとも過酷で重大な役を、自分が引き受け、やり遂げると…… マリィの魂がそう言っている。言葉にしなくてもちゃんと伝わる。 だったら、俺は…… 俺は彼女に、どう応えるべきだろう。 頑張れば何とかなるほど甘くない。 だから逃げろと、傷つかないでと言われた俺はどう思った? 哀しかっただろう。遣る瀬なかっただろう。おまえなんかいてもいなくても変わらないと言われたようで、情けない気持ちになっただろう。 俺は俺の好きな人達に笑っていてほしい。 その笑顔を曇らせたくない。 マリィに笑ってほしいから。 氷室玲愛と生きていきたいから。 「助けてほしい……」 自然と、本当に自然と俺はそう言っていた。 「力を貸してほしい……」 二度とこんなことが起きないように。 「信じさせてほしい」 現実を侵食する幻想は要らない。俺達は幻想になれないから。 なってはいけないと思うから。 刹那でいるために。その光を亡くさないために。 「手を伸ばす勇気をくれ」 「うん、だったら……」 ふわりと、包むような声。錯覚なんかじゃないだろう。 「俺は――」 今、女神の抱擁を受けている。 「俺達は、二度と負けない!」 強く、何より強く、そう信じることが出来ていた。  そして今、至高の超越が流れ出す。 「――馬鹿な」  そこには、有り得ない事態が起こっていた。総てを目の前にしていながらも、何かの間違いとしか思えない。  幕引きの一撃、デウス・エクス・マキナ――黒の大隊長が揮う必滅の創造をその身に受けて、なお生きている者など信じられない。  加えて、さらにもう一つ。 「――――――」  手が、足が、指の先から硬直していく。時間停止に囚われて、徐々に一歩も動けなくなる。  ほんのつい先ほどまで、〈終曲〉《フィナーレ》の縛鎖を完全無効化していた三色三騎の大隊長――にも関わらず今度の縛めは弾き返すことができなかった。  それは氷のように冷徹で、しかし包むように暖かく、万の〈戦鬼〉《レギオン》を〈処刑場〉《ヴァルハラ》に送る超越の物語。流れ出す奇跡の御業は、同位階に上がらぬ限り絶対に破れない。 「おまえ達は逃げたんだ」  そして、その理は断頭台の姫と無謬の執行官が握っている。彼らの刑場は動く幻想を許さない。 「耐えられなかったんだろう、現実に生きることが」  閃光のように、刹那のように、人として流れ過ぎることが出来なかった者達だ。自ら望もうと望むまいと、彼らは幻想となり終わらない死に縛られている。ゆえに、その鎖を断ってやろうと。  墓から出られない死者達へ、今こそ〈鎮魂歌〉《レクイエム》を送ろうと。 「俺達は永遠になれない。 幻想になったおまえ達は―― 結局、今でも、何をしても―― その手に、掴むことが出来ないんだ!」  その宣告に、誰より早く激したのは狂乱の〈白騎士〉《アルベド》だった。 「黙れぇぇェェッ――! わたしは負けない、わたしは不死身だ! 二度と誰にも奪われたりしないッ! 僕は永遠だ! 逃げたんじゃない! 誰もついて来れないだけだ! 知った風な口を利くなああぁぁぁァァァッ―――!」  死と乙女が融合した矛盾の狂気。彼は絶壊しているがゆえに、黄金以外の法を認めない。硬直した四肢を自ら引き千切り、牙だけになっても暴嵐と化す。が―― 「ぎィィッ―――」  再生が始まらない。失った手足が戻らない。そして何より、それ以上に―― 「痛い、痛い――痛いよ、どうして!」  怨念の源である右目の〈軍勢〉《レギオン》が沈黙している。彼はついにここにきて、その膨大な燃料を失ったのだ。  そして〈死界〉《それ》がなくなれば、アンナ・シュライバーは触れれば砕ける乙女でしかなく―― 「―――――ッ」  振り下ろされる断頭の刃を前に、壊れた脳髄を掻き回すのは疑念ただ一色だった。  なぜだ、なぜ今都合よく、こうも狙ったように危機となる? 自分がいったい、何処で何を誤ったというんだ。  ベイの薔薇に耐えた。ザミエルの砲に耐えた。未だ〈死界〉《ニブルヘイム》に底はなく、何処までも何処までも速く走れるはずなのに――  よりによってこのタイミング、こんな瞬間に不備を晒す――その因果発端は何処にある?  記憶が過去に飛ぶ狂気の中、ついにシュライバーはそれを見つけた。 「ああ……」  そうか、つまりわたしはあの時、あそこで彼に会わなければ……  僕はまだ、無敵の〈英雄〉《エインフェリア》であれたのに…… 「お願い……」  落ちる死の断頭台。その斬風はなぜかとても温かく、どこか包まれているような錯覚に陥り…… 「抱きしめて……」  初めて自覚した真の渇望を胸に灯し、ウォルフガング・シュライバーの首が飛んだ。 「おのれ、舐めるなあァッ!」  怒号と共に、エレオノーレは眼前の空中に念を集める。停止の縛めはすでに胸まで達しているが、しかしそれがどうしたという。彼女はそんなことなど忘却するほど激昂していた。 「幻想だと?」  許せぬ妄言。聞き捨てならないその台詞。  己が胸に燃える灼熱は、決して夢幻の影などではない。 「貴様こそが幻想であろうが! 〈副首領〉《クラフト》の玩具にすぎん分際で――」  影といえばあの男だろう。幻といえばあの男だろう。幻想は誰かと問われれば、その傀儡である貴様こそが夢の産物に他ならない。  ゆえ、認めぬ。不滅の黄金に捧げたこの〈炎〉《たましい》を、否定など誰にもさせない。  させていいわけがないだろう。 「私の忠を、侮辱するなッ!」  燃え上がるムスペルヘイムが凝縮し、まさに一振りの剣となって放たれる。騎士の名誉と命を掛けた、全身全霊の砲撃だ。躱させないし防御もさせない。  しかし―― 「なぜだッ!?」  それは敵手に触れる寸前、凍り付いて砕け散った。その結果が示す事実は、エレオノーレの祈りが蓮のそれに負けたということ。 「私の思いが、幻想にすぎんだと?」  有り得ない。有り得ない。何をもってそう断ずる。迫る断頭の刃を凝視し、すでに顎まで迫り上がってきた停止の波に、エレオノーレは瞠目した。  そしてそのとき、思い出す。焼け爛れた左頬に微か残った、痺れるような感覚を―― 「ブレンナー……」  あれは不覚。真の不覚。どうして避けられなかったのか未だもって分からない。  誰がどう勘繰ろうが炎は炎で、忠は忠だが、しかしそれでも生涯唯一、戯言に反駁できなかったのはあれだけで…… 「そうか……」  つまりその不確かさが、私に傷を残したのだ。  一度不明なことがあったので、二度目の存在を視野に入れた。  〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》という認識が、再度の不覚を生んだのだろう。他の何かなどあるわけがない。  まったく、なあおいブレンナー。  このままでは腹立たしいので、また喧嘩がしたくなったぞ。つくづく懲りんな、我々も……  すでに飽き果てているはずなのに、どうしたものか。困ったな。 「だから貴様は、嫌いなのだよ……」  苦笑の響きを紫煙に乗せて、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグの首が飛んだ。  そして、残るはあと一人。  しかしここで、二つ驚愕の事態が起こる。  まず一つ――それはマキナが動いたということ。蓮が間合いに入ると同時に、破滅の鉄拳が一切の減速を見せず振り下ろされた。 「――――――」  〈赤騎士〉《ルベド》と〈白騎士〉《アルベド》さえ押さえ込んだ理が、なぜか〈黒騎士〉《ニグレド》には通じない。しかしそれを言うのなら、蓮も彼の拳を封じている。つまり条件は五分なのだろう。二人の間にはそういう図式が成立していた。  ゆえにマキナは語らない。語るまでもなく彼は総てを理解しており、これが乾坤一擲だと弁えている。  先に己が必殺を防がれたこと自体はどうでもよかった。冷静に考えれば有り得ない出来事なのだが、なぜか〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈気〉《 、》〈が〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》のである。  それに自嘲の笑みを禁じ得ない。  まるで毎度、これが最後の聖戦だと言い続けているような……  その都度自分は、この敵手に二人の因果を語って聞かせているような……  有り得ないが、有り得ることだ。己にまでこれが伝播してきている事象を想い、マキナはある種の予感を覚えた。それを拳に乗せて語りかける。  なあおい、兄弟、覚えているか?  俺はどうも、いつかのおまえに決定的なことを言ったらしい。  そして今回、その結果が現れようとしているのだ。夢想の域だが、俺はそんな気がしてならないよ。  なぜならあるいはそれこそが、俺とおまえにとって最良の終焉に辿り着ける道なのではと思うから――  マキナは今、ある種の確信を懐いていた。  今度こそ、これこそ本当の終わりだと感じている。  ゆえに――  二つ目の異変が起きたときも、彼は至極平静なままだった。  突如、蓮の足下から爆ぜた影の海――それはルサルカ・シュヴェーゲリンの技であり、もう一つの停止能力に他ならない。 「―――――」  結果、二つの異変は二つとも蓮が驚愕しただけとなり、マキナは微塵も揺れていない。しかし――  首を刎ねられたのはマキナだった。  かつて彼はナハツェーラーを事も無げに粉砕したが、実力伯仲の一騎打ちで刹那といえども止められれば、それがそのまま死へ繋がる。至極道理で、当たり前のこと。  聖遺物を操るための聖遺物。  第六のスワスチカは誰で開き、その魂は誰に向かって打ち下ろされたか……これはそうした事実を背景にした、魔女の意地とでも言うべき結果なのだろう。  マキナは無言。あくまで無言。  しかし宙を飛ぶその首は、紛れもなく勝利を確信している顔だった。  それを前にして、蓮は思う。  そうか、おまえは。いいや、おまえも……  そして―― 「――見事」  その決着を見届けて、笑う水銀の超越と。 「ああ、素晴らしい」  遥か天の方陣から、黄金の破壊も愉悦の相を隠さない。 「では、いよいよ始めようか」  まったく同時に打倒された〈赤騎士〉《ルベド》と〈白騎士〉《アルベド》の魂が、〈黒騎士〉《ニグレド》のそれと共にラインハルトの下へと還っていく。  膨れ上がる彼の総軍。もはや先ほどまでの比ではない。 「ならば、私はこれで」 「そうだな、すぐに会おう」  それが何処になるのかは分からんが。  消え行く盟友の気配を見送り、ラインハルトは再度眼下へ視線を移した。  語りたいことが山ほどある。その果てに是非見せてもらおうではないか、この歌劇の終着点を。  真に未知なる結末を。  ああ、胸が躍るよ。こうでなくてはならない。  あなたは本気を出していないと、かつて言われた。  それは万能感に酔う少年の日の妄想めいて、しかし本当に“そういうもの”であった自分は、この世界からずれたのだ。  何をやってもつまらぬ。何を見てもくだらぬ。あらゆる開放感や達成感、人の満足というものを胸に懐いたことがない。  であれば、よし。我が条理を全として、破壊の君たる本分を見せよう。  壊し、呑み込んで塗り替える。私が生きるべき私の世界を流れ出させ、旧秩序を一掃する。  ならばこそ、今この瞬間――我が存在意義をぶつける真なる相手、見極めねばなるまい。  卿らに愛を。よくぞそこまで成りおおせた。  是非問わしてもらおう。この胸に渦巻く既知感を、いかに打破するのが我らにとって望ましいのか。 「では、いざ参らん。新たなる祝福の天地へ」  〈眦〉《まなじり》を決してこちらを見上げる御敵へと―― 「来い」  最終にして最大、最高の戦をしよう。 「〈メリー・クリスマス〉《Frohe Weihnachten》」  私はこの時だけを求めて、無限の〈牢獄〉《ゲットー》に耐えてきたのだ。 そう、これこそが正真正銘、真実の終わりに辿り着く道。 俺達全員の願いを実現するため、二度とこんなことを起こさせないため。 「ラインハルト……」 「返して貰うぞ、俺達の総て!」 「卿に尋ねたいと思うことがある」 「友とは、何だ?」 運命の槍と断頭の刃がぶつかり合う。互いに全力同士の激突は、初撃決殺となっていてもなんら不思議はなかったろう。 だが、結果はこれだ。拮抗している。あのラインハルトを相手取り、俺は戦うことができている。 「………ッ」 そのことに対する力の実感、ついに自分がこいつのいる場所まで上り詰めたという喜びなんか今はない。あるのはただ、どのように決着をつけるかという一点のみ。 なぜならこの男とぶつかる結果は、単純な生死や勝ち負けだけの問題じゃなくなるのだから。 「肩を並べる好敵手。無視できぬ人生の重要素。互い気心を知り尽くし、もはや引き裂けぬ比翼の契りか? 雌雄の概念に拘らずとも、陰と陽なら万物にあろう」 「その磁力。絆と言うならこれほど強固なものはない。影と光は決して単体では在り得んのだ」 俺もラインハルトも、すでに流出が始まっている。ならばこの戦いの勝者こそが世界の色を決めてしまうが、それは絶対させてはいけないしやってもいけない。 ラインハルトの〈流出〉《ディエス・イレ》も、俺の〈流出〉《ツァラトゥストラ》も、共に地獄だ。広げていいものじゃないだろう。 ゆえにマリィを――今、俺を包んでくれている彼女がいるからこそ出来ること。 俺達は彼女を舞台にあげるための礎でいい。そのためには、まず絶対にやらなければいけない前提条件があるからそれを成す。 「友とはそれか? 生と死か? ならば破壊の愛を纏う私は何だという?」 ああ、おまえの友とやらが願っていることだよラインハルト。だけど総て奴の思惑通りに行かす気はない。なぜならおまえ達はやりすぎたから。奪いすぎたから。 一人一人に生があった、夢があった。好きな異性も家族も仲間も――どれだけ他人から見ればくだらないものであっても、そこには個々の物語が存在したはずなんだ。 それを玩弄し、蹂躙する邪神の理がメルクリウス。 偽りの夢と力と栄光を与え、代価として魂を奪い取る〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》がラインハルト。 その犠牲者達を解放する。俺とマリィと、そして先輩の願いはそれだけで―― ゆえにやらなければいけないことも分かっていて…… 「〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈壊〉《 、》〈す〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》?」 問いかけるように、確かめるように──ラインハルトは俺に語りかけてくる。 自分はいったい何者かと。それに対する答えだったら、一つだけだ。 「おまえは悪魔だ」 「悪魔か、確かにカールもそう言っていたな」 「卿らの語らい、実に魅せられたよ胸が震えた。力の強弱、起こせる事象の大小など問題ではない」 「あれこそが、あの交情こそが総ての真理だ。愛し合い、想い合い、喰らい合い、壊し合う。卿とその友に敬意を払おう。教師たる者には礼をもって尽くさねばならん」 「なあ、ゆえに教えてくれぬかな。どんな気分だ?」 「私の内に渦巻く総軍。その一滴と化した友に何を願う?」 「卿は彼を、どのように定義している?」 高速で打ち合いながら、ラインハルトは謳うように問いを重ねる。 友の定義。俺にとっての司狼がすなわち、奴にとってのこいつなわけで―― それはすなわち陰と陽。〈司狼〉《あいつ》はいつも、いつだって、腰の重い俺を動かすための破壊であり、刃物であり、同時に忌むべき光だった。 その関係性はまったく同じ。だがただ一つだけ、決定的に違うのは輝きの質。 「あいつらは閃光だ」 司狼だけじゃない。俺が守りたかったもの、ずっとこの場に留めて置きたかったもの、その総てが── 「俺の好きな、俺の刹那だ」 守りたいと思い続けていた陽だまりなんだ―― 「刹那?」 「つまり泡沫の夢にすぎんと?」 「夢ならば与えてやろう。願うならば叶えてやろう。誰もが胸に思い描き、その主役となるのを望む非日常ならここにある」 聖槍の軌跡が光を散らす。断頭台の刃が空を断つ。高速で打ち合いながら、ラインハルトの独白は止まらない。 「殴れば倒れ、撃たれれば死に、与えられた肩書きを取り払えば皆同じだ。矮小なり」 「それに不満を持つ心、飽いて飢えて狂おしく望む断崖の果てにこそ、私が贈る祝福が存在する。そこに飛翔する翼が要るなら、少年の夢となればいい」 「刹那が愛しければ幻想になるしかあるまい。卿の友はそうなった」 「死後の〈生〉《ユメ》ならば永劫見させてやろうではないか」 「――違うッ!」 怒号と共に、渾身の一撃を叩き込む。それは聖槍の一閃を弾き返し、さらなる加撃と共に言う。 「今もここに、この胸にある!」 あいつらの鼓動を、光を、俺は今でも感じている。 「消えちゃいない! 亡くしていない!」 見てみろ、俺の輝きまだ残ってる。それを誇りに変えて立っている。 だから―― 「幻想になんか――」 「あいつらを、幻想になんか変えて堪るか!」 おまえが与える死者の〈生〉《ユメ》など、俺は絶対に認めないから。 「もう、これ以上俺の刹那を――」 「何一つ、おまえ達に奪わせない!」 そしてそれを成すために、こんなふざけた世界の“座”を排除したい。 二度とこんなことが起きないように―― 俺の閃光は、おまえの黄金になんて負けやしない。そう信じている。 「現実を生きる。刹那を抱いて誇りに変え、〈幻想〉《わたし》を否定するのが卿の境地か。相分かった」 「ああ、美しいな。確かに閃光であろうよ。だが私の刹那はもう過ぎ去った」 「破壊の光は、閃光であった頃のラインハルト・ハイドリヒに戻れんのだよ」 「くくくく……私も友に壊されたのでなあ」 羨望するような、それでいて嘲笑うような声は一瞬。噛み殺すように言ってから、ラインハルトが槍の矛先をこちらへ向ける。 「さて、先日の続きだ。見事これを止めてみたまえ」 「卿の光、ただの刹那であれば呑み込むまでよ」 「魅せてくれ。幻想にはならぬと言ったその〈絆〉《レギオン》を」 もし仮に、それが自分の真実を照らす将星となるならば。 「あるいはそれで、私も夢から覚めるやもしれん」 いつかの昔、破壊の光へと変貌した瞬間を思い出させてほしいと口にして── ついに今、黄金の爆光が炸裂した。 「―――――――」 迫る破壊の超霊力――以前の魔城で見たものとは桁が違う。 だが退いては駄目だ。逃げるわけにはいかない。こいつの全力を搾り出すため、これを避けては通れない。 「――があああァァッ!」 迫る黄金の破壊光を、俺は刃を盾にして受け止めていた。 「ほぅ……」 全身が泡となって蒸発しそうな衝撃に蹂躙される。四肢が痙攣して毛細血管が破裂を起こし、目からも血が迸った。 「負けるか……ッ」 そうだ負けるか、負けて堪るか! こいつの世界など認めない。メルクリウスの世界も認めない。そして当然、俺もそんな器じゃない。 だから、世界が潰し合っても平気な場所へ―― こいつが死んでも先輩が引きずられることのない場所へ―― 「ぐぅぅゥッ……」 噛み締めた歯が砕き割れる。両手の爪がめくれ上がり、骨に亀裂が走っていくが一切無視した。 気合いを入れろ。全霊を振り絞れ。今こそ総てを拾い上げるため…… 「香純……ッ」 泣くなよ。絶対俺はやるから。 「司狼……」 見てろよ。おまえのダチは凄ぇ奴なんだって誇らせてやる。 「だから――」 爆ぜる黄金の破壊の中――俺は渾身の力で吼えていた。 ここだけは俺のもんだ。俺がおまえらに恥じない男であるために、その資格を示させてくれ。 今からグラズヘイムを落とすため―― 覚悟を、形にしてみせよう。 瞬間、まさに爆光が弾ける寸前―― 「奴隷の軍団になんか負けて堪るかァッ!」 魂懸けた全身全霊の爆発が、ついに愛すべからざる光の一撃を粉砕していた。 「…………」  今、胸に過ぎったものが何なのか、ラインハルトは判断できずに訝しむ。  既知感……慣れ親しんだそれに近いが、どこか違う。  予感のようであり、記憶のようでもあり。  この戦を続けた果てがどうなるのか、分かったような気がしたのだ。  それは紛れもない祝福のカタチ……ラインハルト・ハイドリヒが求めた一つの終焉なのだろう。  ああ、確かに甘美。実に至高。そこへ至れるなら何を引き換えにしても惜しくはないと強く思える。  このまま忘我の恍惚と共に進軍し、怒りの日の果てを見られるのは間違いないと理解した。  理解はした、が……  何かが、〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》。  子の存在を自覚して、ゆえに気付いたのは何だった?  あの決闘を目撃して、胸に懐いた思いは何だった?  私はこの輝く敵手に、問うて何を知ろうとしたのだ?  何を試そうと思ったのだ? 「私は……」  私は、そもなぜ破壊の光たる〈覇道〉《みち》に立ったのだ?  己で選んだのか? 己で決めたのか?  ああ、確かにそのつもりだが、しかし……  それはまだ閃光であった日、刹那の記憶。瞬時に想起し、再生される。  ただ沈み、溶けていくのみであった深海の底で……  私はあの日、同じく擦り切れていくのみである詐欺師と出会った。 その一瞬──僅かに瞬いた黄金の双眸は、いったい何を見出したのか。 俺には分からない。だがラインハルトは、確かに今何かを想起していた。 記憶か? 幻視か? 戦いの中で、本来なら次の瞬間には首を刎ねられて然るべき愚挙。 およそ有り得ない、忘我の一瞬。 そこにこいつは、何か遠い〈情景〉《せつな》へと思いを馳せているようだったが…… 「……ああ」 「そうか……」 「私は、つまり……」 不明瞭な、耳に届かないほど小さな呟き。しかし、それは。 「ふふふ、ふふふふふふふふふ……」 次の瞬間、堪え切れぬ歓喜の波濤へと変わっていた。 「はははははは、ははははははははははははははははははははは――――!」 その豪笑を掻き消すような、激烈極まる槍の一閃。 「さあ導いてくれ、我が盟友の〈写し身〉《うつしみ》よッ!」 「づあァッ――」 その一撃、驚いたことに戦術も何も存在しない。咄嗟に防いだ鍔迫り合いの状態のまま、互いの獲物越しにラインハルトが叫ぶ。 声は解放の雄叫びにして、懇願の祈りだった。 「その魂で! その勇気で! 真に私を満たしてくれッ!」 「卿しか出来ん! 卿しか成し得ぬ! 無謬の流星だよ希おう!」 「私の愛を――!」 「真実、燃焼させる刹那をくれッ!」 つまり―― なるほど、どうやらこいつも気付いたらしい。 俺にしろおまえにしろ、まずは穴を空けなきゃ始まらないっていうことを。 そのためには―― 「〈Dies irae, dies illa, solvet saeclum in favilla.〉《怒りの日 終末の時 天地万物は灰燼と化し》 〈Teste David cum Sybilla.〉《ダビデとシビラの予言のごとくに砕け散る》 〈Quantus tremor est futurus, Quando judex est venturus,〉《たとえどれほどの戦慄が待ち受けようとも 審判者が来たり》 〈Cuncta stricte discussurus.〉《厳しく糾され 一つ余さず燃え去り消える》」  壊したことがないものを見つけるまで。  森羅万象、三千大千世界の悉くを。 「〈Tuba, mirum spargens sonum Per sepulcra regionum,〉《我が総軍に響き渡れ 妙なる調べ 開戦の号砲よ》 〈Coget omnes ante thronum.〉《皆すべからく 玉座の下に集うべし》 〈Lacrimosa dies illa, Qua resurget ex favilla〉《彼の日 涙と罪の裁きを 卿ら 灰より蘇らん》 〈Judicandus homo reus Huic ergo parce, Deus. 〉《されば天主よ その時彼らを許したまえ》」  そう思っていた。そう信じてきた。しかし気付かされたのだ、ならば今こそ辿り着こう、遡ろう。 「〈Pie Jesu Domine, dona eis requiem. Amen.〉《慈悲深き者よ 今永遠の死を与える エィメン》」  この歌劇をずっと眺め続けていた、その舞台袖へと。  まだ閃光であった瞬間へと。  ああ、感謝しているぞツァラトゥストラ。おまえはかくも美しい! そうだ、これが終わりの始まり。 俺たちの知らない、ずっと前から始まっていた始点へと、続いている〈一瞬〉《いま》を突き抜けて到達するために── 「助けてやるからな」 どうか届いてくれ、伝わってほしい。大切なあいつらに、祈るのではなく宣誓する。 「絶対、俺が、〈地獄〉《そこ》からおまえ達を救ってやるから」 でもさ、俺は一人じゃこんな様だから。いつも自分だけでどうにかしようって、そんな悪い癖持ってるから。 だから頼むよ、導いてくれ。 「信じてくれ、力を貸してくれ。俺は一人じゃない!」 俺たちは負けない。そう強く、強く、かつてないほどに渇望する。 「そうだよ。わたしが全部包むから」 恐れることなど、何もないッ! 「一緒に――」 「さあ、一緒に――」 〈悲劇の向こう側〉《アクタ・エスト・ファーブラ》へと駆け抜けよう──! 「〈Es schaeumt das Meer in breiten Fluessen 〉《海は幅広く 無限に広がって流れ出すもの》〈Am tiefen Grund der Felsen auf,〉《水底の輝きこそが永久不変》」 元凶を排除する唯一の手段――氷室玲愛が最初に思い描いた勝利の形へ辿り着こう。 「〈Und Fels und Meer wird fortgerissen In ewig schnellem Sphaerenlauf.〉《永劫たる星の速さと共に 今こそ疾走して駆け抜けよう》」 俺と共にあった閃光を、今この時だって感じているから―― 「〈Doch deine Boten,〉《どうか聞き届けてほしい》〈Herr, verehren Das sanfte Wandeln deines Tags.〉《世界は穏やかに安らげる日々を願っている》」 失って、傷だらけになって。 だからこそこの結末は、勝利じゃなければ認められない。 「〈Auf freiem Grund mit freiem Volke stehn.〉《自由な民と自由な世界で》〈Zum Augenblicke duerft ich sagen〉《どうかこの瞬間に言わせてほしい》」 それが最高の宝石なんだと、マリィも俺も信じている。 「〈Verweile doch du bist so schön〉《時よ止まれ 君は誰よりも美しいから》――」 愛しく麗しい総ての刹那を、ここに解放するために―― 「〈Das Ewig-Weibliche Zieht uns hinan.〉《永遠の君に願う 俺を高みへと導いてくれ》」 今度こそ、本当に〈恐怖劇〉《グランギニョル》を終わらせよう。 「〈Atziluth〉《流出》――」 「――落ちろ」 「落ちて」 「落ちろぉぉぉォォォッ―――――!」 さあ、導いてくれ。ラインハルトの内に渦巻く総軍――それを統括する二人のゾーネンキントに語りかける。 氷室先輩はもちろんのこと、このとき俺はイザークの心も感じ取った。奴もこの状況に奮えているのが理解できる。 父親の力になりたいだろう。その望みを叶えたいだろう。唯一の息子だと言ってほしいんだろう。ならば―― 「――来いッ!」 おまえが導け。協力しろ――熱を知ったその胸は、今誰に向いているのか声に出せ。 「……カール・クラフト」 そうだ、ならば――― 俺達の利害は一致している。共に父の歯車でしかなかった私生児同士、ここにその業を突破しよう。 おまえは生きている。俺も生きている。ならば人間として意志を持て。 氷室玲愛を感じるだろう。彼女の魂に触れただろう。それはおまえに何を教えた? その心……機械仕掛けじゃない心臓を震わせている渇望はいったい何だ? 「父様……」  私はあなたの夢を叶えたい。あなたに無謬の〈歯車〉《むすこ》だと言われたい。  母を知らぬ。子を知らぬ。友を知らぬし生も知らぬ。  だけどそれでもこの私は、あなたが父だと知ったから。  あなたの息子だと知ったから。  生涯唯一、初めて得たこの黄金を至高の輝きだと誇りたい。  私は特別なものを知ってしまった。得たことによって失った。ゆえに飢餓は一つの事象に収束する。  総ては父様、あなたに認めてほしいがため。  これは堕落で磨耗を起こす病であろうと分かっていても、私はこの渇望を捨てられない。  だからこそ――  今、地獄より手を伸ばす。私にとって真の黄金を掴むため、全存在を懸けてここに願おう。  我らは奈落の悪鬼羅刹。ならば天上を落とすことこそ至上と知る。  ああ、父様はそのために生まれたのだから。私もそのために在るのは当然だろう。  待っていろカール・クラフト。待っていろ“座”の蛇よ。  今こそ我ら、獣皇の軍勢が貴様の喉笛を食い破る。  そしてそれを成すために、父を刹那に導こう。閃光であったラインハルト・ハイドリヒを、真に破壊の黄金へと生まれ変わらせねばならないのだ。  手を貸すがいい、テレジア。そしてツァラトゥストラ。  穴の底までまずは落ちよう。果てに狂の“座”を粉砕しよう。ああ、おまえ達もそれを望んでいるのだろう? よく分かるよ、その心が。  私が父様を愛するように、おまえ達も愛し合っている。  今ならそれを、理解することが出来るから。  その成就のため、我らにやれぬことなどあるわけがない。  そして――  共に版図を広げ合う二つの色が、世界という画布に穴を空ける。その先に待っているのは何色でもない場所であり、言わばこの世の特異点。  だが、黄昏の少女は己が古巣を一顧だにしない。〈特異点〉《そこ》に囚われていた頃の自分を恥じているし、今は別の地平を目指している。  蓮も、玲愛も、イザークも、そしてラインハルトも同様だ。黄昏を突き破って更なる深部へ。万象の根源たる“座”の位置まで降りていく。  そう、総ては―― 「―――――――」  嘆く歌姫の哀訴から、目を離して喜悦に溺れた彼の失態。  それが、この道化を破滅に導く断崖となる。  はずなのだが―― 「なるほど、そうきたか」  彼は未だ嗤っている。声音も瞳も揺るがない。  絶望など億も知り尽くしているゆえに、宇宙を覆った影は不変だ。  ならばこれより先の事象にこそ、真の戦いが待っている。  その結末は、危うい天秤で揺れながらも、しかし確実に迫っていた。 「――――――」  急速に引き剥がされた現実感。  目覚めは唐突に、かつてない不快感と共に訪れた。 「ここは……」  霞のかかった意識で見回せば、胡乱な瞳に映るのは見慣れた風景だ。  使い込まれた木造の作業机。規則的に詰まれた書類の山。冷めた紅茶のカップが、湯気一つ立てずに置かれている。  ……何のことはない〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈ど〉《 、》〈お〉《 、》〈り〉《 、》〈の〉《 、》〈光〉《 、》〈景〉《 、》〈だ〉《 、》。  ラインハルト・ハイドリヒ。中将である自らに用意された、ゲシュタポの執務室。 「……眠っていたのか、私は」  僅かに痛む頭を振り、顔を顰める。頭痛が煩わしかったからではない。単に書きかけの書類を残したまま眠っていた、その事実に対する苛立ちが強かった。  睡眠は……十分前後か。  備え付けられた時計を確認し、意識を失っていた時間を逆算する。無様な自分を無感動に眺めた。  怠慢など許されない。首切り役人にあるまじき体たらくだ。仕事の遅れなど許されぬ地位であるわけだし、自分が許せる性分でもない。  職務には忠実であれ。  容易く、面倒で、量だけが多かろうと何の関係もない。  この世は、自分風情など歯牙にもかけぬ自動機械。中将だろうと下士官だろうと、所詮は歯車の一つにすぎぬのだ。  役目を果たせぬものに用もなかろう。淡々と、その職務を再開する。 「…………」  残された書類に目を通し、ペンを走らせる。黙々と繰り返される単純作業は日々何一つ変わることがない。  醜聞、弾圧、規制、民衆への〈情報操作〉《プロパガンダ》。  どれも変わらない。黒と灰色の首を刎ね、白の中から適度な生贄を指し示す選別作業だ。誰にでもできることであり、たとえ間違えていたとしてもこの第三帝国に異を唱えられる者などいはしない。  つまりこれは誰にでもできる仕事だ。  ただそれを休みなく、人よりほんの少し優れた精度で行ったがための地位。つまらん男の凡庸な出世、ただ担ぎ上げられて与えられた仕事を行うのがお似合いだと我ながら痛感する。 「しかし、くだらん夢を見たものだ。よりにもよって地獄の主だと?」  それだけに、先見た夢は笑い話だった。  自分が髑髏の王となり、死者の軍勢を従えていた、などとは。  なんとも滑稽な話だ。荒唐無稽にも程がある。  少年の夢想どころか狂言の類。または脳を膿んだ精神患者が、療養の床で見る腐毒の幻というところか。  悪趣味で、劣悪で、不可解極まる。  無意識の中では、自分はあれほどまでに悪趣味らしい。底を尽いたはずの自愛がさらにその底辺を割った。 「かつての大戦、その狂騒に当てられたか……? まさかな」  くだらない。それこそ妄想だ。  生まれ落ちてより何事にも不感、熱を感じたことなど皆無。笑みさえも冷笑しかない……ああ、それさえ片手で数えられるほど。  そのような自分が、流転する正義の押し付け合いなどに、どうして感じ入るものがあろう。  国、民族、思想、人種、宗教、何でもいい、勝手に争えばよかろう。お題目などごまんとある。  ただ私は自らの仕事を成すだけだ。上から下された命を、ただ不休で成し遂げるのみ。手を抜かずにやり遂げる、それだけがラインハルト・ハイドリヒという男の総てだ。  無味無臭にしか世の中を感じ取れない、つまらない男。 「………それが、夢とはいえああまで笑うか」  だから、あのような笑みなど湛えようはずもない。ありえないことだ、未来永劫。  見下した笑み、遥か高みから有象無象を愛でる神か悪魔の視線。  鋼のように顔の筋肉は凍てついている。口を開くのすら億劫で、もはや軋みさえ聞こえそうだというのに。  ならば、あれは願望だったとでもいうのか?  私すら知らない、無意識の奥を流れる妄想という名の憧憬。  他の誰もが幼い時分行ったという、ありえぬ事象へ馳せた想い。  思想の自慰。現実の破却。心の底から望みが叶った姿こそ、恐ろしき魔軍の王たる姿なのでは、などと─── 「……入れ」  扉から響いたノックへ簡潔に答える。  不意に陥りかけた無意味な思索は消え去り、広げていた紙面から視線を上げた。  整然とした態度での入室。襟元に添えられた大尉の階級を一瞥し、没頭していた意識を職務へと切り替える。 「失礼します、中将殿。折り入ってお耳に入れておきたい件が……」 「前置きはいい。見ての通り、私にはまだ目を通さなければならん報告が山ほど積まれてある。火急の用なら早く申せ。時間が惜しい」  彼はその声で机に積み上げられた紙の束に気づいた。  元々、可か不可で測る性分だと伝わっている。遠慮もなく無粋に放たれた言葉に、大尉は背筋を伸ばして答えた。 「は、実はつい先程、総統閣下の御身に──」  走る雑音。思い出して開く、記憶の蓋。  ああ、もはや言わなくていい。〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 「───暗殺未遂が起こったか」  ……不意に、喉から出たのは意図せぬ確信だった。 「は、はい、その通りでございます。さすが中将殿、こうまで耳が早いとは思いもよりませんでした」 「………」  驚きに目を開く部下を前に、私は無表情のまま鉄面皮で黙り込む。  思いもよらないのはこちらだ。奇妙な感覚を微塵も疑わず、私は気づけば初めて聞く言葉を、〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈覚〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》口にしていた。  奇妙な違和感。鏡の裏側を覗き込み、その向こうで意識が繋がっているとでも言えばいいのか。  生涯で幾度かあったような、知り尽くしているかのような感覚。  極上の不快感が胸にある諦観を刺激する。  不愉快だ、しかしそれを顔に出さない。ただ話を進めるかのように席を立ち、扉へ歩き出した。 「案内しろ。残りの詳細は移動の傍らにでも知ればいい」  理由の知れぬ感情を握り潰すかのように。 『1939年11月20日……大ドイツ帝国総統兼首相の演説中に起こった謎の爆破テロ事件。この、全欧州を揺るがせた出来事が、私と彼をここに引き合わすこととなる』 『有史以来、初の世界大戦に敗北したドイツ帝国。貧困と絶望に喘ぐこの国は、新たに出現したカリスマ的指導者によって不死鳥のごとく復活し、再び世界に覇を唱えんと、近隣諸国への侵攻を開始した』 『ゆえ、ここに前回のそれを遥か上回るであろう最大かつ最高の、そして願わくは最後であってほしいと皆が望む第二の大戦。 その幕が、今静かに上がろうとしているのである』 「つまり、総統閣下の暗殺自体は……無事と申しますか、当然のごとく未遂に終わり、事なきを得たわけですが、肝心の犯人を特定し、検挙することが遅々として進まず、それと申しますのも……」 「心当たりがありすぎて分からぬということだろう。仕方あるまい。閣下を〈弑〉《しい》し奉らんとする者など〈雲霞〉《うんか》のごとくだ。文字通り売るほどいよう」  鉄格子の立ち並ぶ拘置所で、歯切れの悪い部下の言葉を睥睨しながら打ち切った。  要領を得ない、その意図も分かる。  聞かずとも問題はないし、考えるまでもない問題は耳を傾ける労力すら惜しかったからだ。  罪人を捕えるために用意された場所は、その実処刑待ちの養豚場に近い。  錆びた鉄と、仄かに混じる血臭。紛れもなくここは死の匂いに満ちている。当然だ、ここに囚われて生きて出られた者など全体の一割を下回る。  〈我々〉《ゲシュタポ》に拘束されるとはそういうことだ。  罪科の有無など不要。余程の例がない限り、存在しない罪を暴かれて屍を晒すのみ。 「……は、確かに仰る通りなのでありますが、だからといって我々帝都の〈番兵〉《ばんぺい》たる者がいつまでも手をこまねいているなど恥にしかならず」 「言い訳はよい、大尉。それで、閣下の忠臣であり帝都の番兵である卿らは、この奥にいる者を捕らえたというわけだな」 「左様であります、中将殿」  だから、時折こういう措置が取られるのも、特に珍しいことではない。  真犯人の不在における〈身代わりの羊〉《スケープゴート》。  社会構造という車輪を回すために用意される、血液という油の詰まった潤滑油だ。 「ふむ、まあそれは大儀だ。事の真偽はともかくとして、卿らの努力はあながち無為にも終わるまい」  罪の所在も、罰の重量も、総てこちらで決め通せる。それだけの権力と能力を、今の自分は保有していた。  ゆえに今、これからもその行いをするだけのこと。  身も蓋も無い言い方をするならば、目を付けられる方が悪いのだ。  弱者は弱者の自衛がある。自らの無害さを常日頃から主張できなかった。これから会う男の罪は、言わばそのようなものだろう。  顔を見てもいない男を無能だと胸中で誹った。 「と、申されますと?」 「名はなんと言ったかな?」  その、哀れで間の抜けた男は。 「カール・エルンスト・クラフト……スイスのバーゼルに生まれ、現地の大学を卒業後、帝都に流れてきたというのが本人の証言であります。これにつきましては特に問題なく、偽証ではないとの確認も取れましたが……」 「なんだ?」  そこで一度口ごもる部下に訝しむ。  怯えからくる躊躇ではない。彼の目は、どこか呆れたような……忌避にも似た感情を宿していた。  まるで口にすることすら避けたいと、そう思っているかのように。 「その……なんと申しますかこの男、いささか奇矯な分野に傾倒しているようでありまして。実際噴飯ものではありますが……そう、〈巷間〉《こうかん》では彼とその技を指して……」 「占星術による未来予知……魔術師か」  つまりは幼稚な詐欺師というわけだ。せいぜい人の不安や理解の隙間に付け入るのが、若干優れているだけの人種。 「……左様であります。もちろんそのようなマヤカシ、くだらぬ戯れ言にすぎぬと弁えておりますが、事実として総統閣下の危機をかの男が事前に言い当てていたということを鑑みれば無視もできず」  となれば、魔術によって未来を予知した、などとおめでたい思考に行き着くはずも無い。  超常の技を使ったなど狂気の域だ。そんな言葉より、誰もが容易く信じられる簡単な筋書きがある。 「そのカール・クラフトとやらが閣下暗殺の手引き、ないし絵図を描いた張本人ではないかと当たりをつけた、か」  真でも偽でもない。曖昧な行動と立ち振る舞い。  その男は守られる市民の領域を超えたのだ。  愚かだと言う他ない。幽明のような佇まいからどういう目に遭うか、その痛みをこれから感じる羽目になる。 「ご苦労、卿は優秀だ大尉。くだらぬ流言、迷信に惑わされず、現実的かつ文明的な判断能力を有している。総統閣下に代わり〈寿〉《ことほ》ごう。卿のような人材こそが帝国の宝だな」 「ありがたくあります」 「よろしい、では戻りたまえ。魔術師とやら、会うのは私一人で構わん」 「は? ですがそれは……」  上官を一人残して狂言回しの相手を任せるわけにはいかない。体面の問題から去ることもできない部下へ、僅かに視線を向ける。  黙らせるのには些細な威圧でいい。長年の経験でそう知っている。 「何か問題があるかね、大尉。檻を隔てて向かい合い、いくつか取り調べをするだけのこと。しかも相手はただの詐欺師、せいぜいがテロリストというところだろう。 〈飢虎〉《きこ》や〈餓狼〉《がろう》、獅子の部屋に丸腰で入るというわけではない」  そして、恐らくこの先にいる男はそれにすら劣るだろう。  くだらない茶番だ。ならばそのような些事に雁首揃えて押しかけるほどでもない。 「…………」 「分かったならば戻りたまえ。心配は要らぬ」 「……了解いたしました、中将殿」 「ああ、おって指示する。それまでしばし休むがいい」  硬直から解け、遠ざかっていく背中を無感動に見やる。  生真面目な男だと、それのみを感想に踵を返した。 「……では、さて」  檻の向こうへ放置されている件を片付けるとしよう。  粗悪な鉄の廊下を歩み、その奥へと進む。  ほんの僅かな距離。ただ錆の浮く鉄を眺め、淡々とその男の元へ歩んでいく。 「…………」  一瞬の目眩。  かつて、ここを通り過ぎたかのような感覚を、再び現実の足が通り過ぎる。  不連続的な酩酊感を意に介さず、目的の檻へは程なくして辿り着いた。  落ち着きさえ感じさせながら、どこか人を食っている笑みを貼り付かせ、そこに影法師が座っていた。  ……最初の印象は、枯れ木。次いで蜃気楼。  不確かで、不鮮明。確かにそこにいるはずなのに、どこか別の場所から映像だけが投射されているかのような違和感を覚え、眉間に皺が寄った。  薄い──この男は枯れ果てている。  まるで総てをやり遂げてしまった老人。活力や希望が微塵も感じられない。黒く濁った瞳は〈瑪瑙〉《めのう》のように確固としたまま、腐っている状態で固定されているかのよう。  死んだ魚、いやそれとも違う。  あえて言葉にするなら、陸へ打ち上げられても生存してしまった深海魚か。  深海にしか棲めないのに、何の間違いか酸素を吸って生き延びてしまった、場違いな魚だ。  もはや腐り落ちて消え果てたいのに、それができない。  水の中へ帰りたいと願いながら、無為に跳ねるだけの生き物。ただ救いの時を他者に求めている。自分の嫌いな他力本願思考が凝縮し、凝り固まったかのような存在だった。  そして、だからこそ確信と共に断言できる。  この男は違う。総統閣下を殺しなどしない、するはずがない。これは何も感じないからだ。  やる価値を暗殺に見出せるはずがない。国家を転覆させたとしても無感動であるから、そもそもやろうと思いつきもしない。  適当に口にした妄言がたまたま的を射たのが妥当だろう。  このときすでに、頭の中で実行犯であるという選択肢は消えていた。枯れ木は何も望まない。ただ花の養分となることだけを望むのだから。  ――と、なぜかその事実に些細な落胆を覚えた。  無感動、不感であるはずの自分は、目の前の男に知らず何かを求めていたのか。  馬鹿馬鹿しいと切り捨てて、視線を不確かな影へと向ける。  作り物のガラスめいた目玉は興味深げにこちらの視線を受け止めていた。 「卿が噂の〈大逆者〉《たいぎゃくしゃ》か、とてもそうは見えぬな。私は……」 「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ中将。秘密国家警察、ゲシュタポ長官。大ドイツ帝国にその名も高き貴公子にして、裏では首切り役人とも渾名される〈黒太子〉《こくたいし》殿」 「お目にかかれて光栄だ。私はカール・エルンスト・クラフト……詐欺師でありせいぜいがテロリスト、魔術師などという胡乱な評価より、そちらのほうが近いと言えば近い」 「……なるほど」  静かに、情めいたものを覗かせてこちらの言葉を遮られた。その事実に、内で下していた評価を僅かだが修正せざるを得ない。  機先を制されたのは久しぶりだ。妄言を吐きそうな口ぶりではあるが、なるほど、痛覚はとことんまで鈍そうだ。人の悪意を如何ほどに浴びようと、これはその薄ら笑いを止めないだろう。 「なかなか興味深い人物ではあるようだ。この国で私の前に引き出され、そのように笑える男などそういない」  堂々としている。だがしかし、それはこの場において何もならない。 「それで卿、単刀直入に言うが、死にたいか?」  少なくとも生き延びることを正解と呼ぶのなら、先の言葉は失敗だ。ゲシュタポの長官を前にして、叩いてよい威勢ではない。 「私の職務は、国家に害なす者どもを処罰することが本分だ。詐欺師でありテロリスト……などと自称する輩ならば、首切り役人という、卿に言わせれば胡乱な二つ名通りの真似をせねばならん」 「ほぅ、つまりあなたは、その名を特に誇っていないと?」 「さて、どうだかな。しかし職務に私情など持たず、挿まず、いやそもそも、そういった感情が十全に働かないからこそ、このような立場にあるとも言える」  世がくすんで見える。  熱中したことなどただの一度もない。  だからこそ“裁く”という行為において、これほど適合した精神はなかった。  何者であろうと平等に、過不足なく、私情を一片も混ぜずに言葉を下すことができるのだから。 「問おう、卿は我が本分の遂行対象になるような存在か?」  眼光も鋭く睨みつけていながら、なお震え上がらずに詐欺師は笑った。 「遺憾ながら、否定はできぬ身……ですが」 「総統閣下の〈弑逆〉《しいぎゃく》……未遂に関与したか否かと申さば、是と言うわけにはいきませんな。私は何もしていない」  ああ、それこそ無駄な言葉だ。  していない。やっていない。そのような言葉は聞き飽きていて、どのような対応を取るかも決まっている。 「皆、最初はそう言う」 「では、拷問でもしますかな?」 「してもいいが、無為であろうな、その労力は」  そう相手も分かっている。未だ余裕を保つ態度は見通している者のそれだ。真意を隠す意味すらない。 「私はな、どちらでもよいのだよ。事の真偽が是であれ、否であれ、人は死ぬべきときに死んでいく。他者から殺意を抱かれるに足る人生を歩んだ者が、日常において命を危うくするのは自明だろう。 今回の騒ぎが卿の手によるものかどうかなど問題ではない。殺されやすい人間が殺されかけた。ただそれだけの、くだらん事実だ」 「ならば私が、ここで何を言おうと意味などないとあなたは仰る?」 「言ったであろう、非常に殺されやすい御仁なのだ、あの方は」  政敵、外敵は言うに及ばない。その存在そのものが、テロリストを生み出す最大の温床なのだ。  死んでほしいと願うものなど国の単位で揃っている。真実の有無など気にしていては、検挙など成り立つはずもない。 「ゆえに、卿が無実の罪で処刑されたからといって、いわゆる真犯人というものを逃した危険、今後それにかかずらう手間などは大海の一滴だ。問題にもならん。千の敵からたった一人を消せるか消せぬか、そんな些事に拘泥するほど私は暇でも酔狂でもない。 疑わしきは罰せ……陳腐ですまぬが、このゲシュタポはそういう条理で成り立っている」  ゆえに、おまえの命もただそれだけの価値に過ぎない。  無情にもそう告げられた相手は、しかしこの期に及んでも恐れる仕草の一切がない。  ただこちらの語り口を、声を、立ち振る舞いを、興味深そうに眺めている。  ……値踏みか? いや、それは違う。  そういうありきたりの目ではない。もっと別の、覗き込むようなものだ。  あえて言うのなら、研究者の視線が最も近い。  顕微鏡を用い、肉眼では確認できない対象を事細かに観察する者の瞳。四六時中、化学兵器の研究を続けていた白服達を思い出す。  この男は、まだ自分が死なぬとでも思っているのだろうか。  余裕さえあるのか、今では苦笑を湛えつつ小首を傾げてすらいる。 「なるほど、あなたは正しく噂どおりの御方らしい。……が、一つだけよろしいか?」 「許そう。何かな?」 「私をここから外に出して、何をさせようと考えている?」  問い返された言葉に、一瞬だけ驚愕する。明らかに命を奪うと言っている相手に対して、穏当な発言と言えなかったが、問題はそこではない。 「……? これはまた、異な事を言う男だな。卿は私の話を聞いていたか?」 「もちろん。無駄を厭うあなたが、真偽に関係なく処刑されるのみであった詐欺師風情のもとに訪れ、あまつさえ死にたいかなどと問いを投げる。先ほどのお話を逆説的に考えれば、たとえ真犯人を釈放することになっても構わぬと……そう仰っていたように聞こえるが。 さて、これは私の読み違えなのですかな、首切り役人殿?」 「…………」  黙したまま視線を交わす。  なるほど。  これは確かに魔術師だ。弁が立ち、頭の回転が速い詐欺師はそう呼ばれるに違いない。  何を考えているか読ませず、こちらが含んでいる言葉だけを突いてくる。  変人で異端者であろうが、無能というわけでは決してない。 「ふっ……面白い、どうやら想像以上に切れるようだ。……いや、今のはこちらの程度が低かったというだけの話かな。 認めよう、卿の言う通りだ魔術師殿。ただあえて訂正するなら、私がどうこうしようと考えているのではない」  言い放ち、持ち込んでいた書類を眼前へかざす。書かれているのは馬鹿馬鹿しい〈謀〉《はかりごと》の一環で、高官による遊びの延長とも呼べるもの。 「取引だ。ここで死ぬか、〈傀儡〉《かいらい》として命を繋ぐか……どちらもまあ、結果的にはたいして変わらん」  自由意志は消える。これを呑めば己の一挙手一投足、残らず他人の意が決定付けることになるのだから。 「これは……宣伝省。プロパガンダというやつですか」 「宰相殿はこの手のことに抜け目がなくてな。掃いて捨てるほどいる敵の一人二人を特定するより、それほどまでに狙われている総統閣下が、今回生き残ったという事実のみを利用する気だ。つまり、卿の占術による預言でな」  理解の及ばない範疇だと、言外に吐き捨てた。 「諸世紀、ノストラダムス。どうやら帝都の御婦人方は、今こういったものに興味を示しているらしい。そして世論などというものは、煎じ詰めるところ女子供だ。 我々は勝つ。総統閣下は不死身である。先の大戦における敗北を払拭し、戦意を鼓舞するためにノストラダムスが必要だと……まあ、掻い摘んで言えばそんなところだ」  返答を待たずに牢を開けた。  生か死か。どちらを選ぼうとも、ここから出なければどちらもできん。  荒事に向かないのはその骨格が証明している。たとえ筋骨隆々な体躯であろうと、この状況で逃れることは不可能だ。  容易く屈服できる。逃したことなど、今まで一度もない。 「さて、どうするね魔術師殿。鍵は開けたし、枷もない。このまま檻から出ると言うなら死は免れるが、それは同時に意志を奪われ、軍の狗になるということ。 言ったように、私はどちらでも構わない。ここで殺してやったほうがあるいは慈悲とも考えたゆえ、公正を期して選択の場を与えたわけだが」  どの口で言うのか、その公正な選択という言葉から最も外れた存在が。どの道であろうと、結局は屈服させるのに代わりがない。  肉体の死か、精神の死か。どちらにせよ悪魔の選択と言える。そして淡々と自分はそれを成すのだろう。  鬱屈している感情すら諦観で壊死している。  何一つ胸を焦がすものもなく、ただ流れ作業のように感じながら、どちらを選ぶか待っていたところへ…… 「あなたは……あなたはなぜそのような、満たされぬ目をしておられるのか」  返答は選択ではなく、更なる問い。純朴な子供が尋ねるかのように、魔術師は問うてきた。 「なに……?」  瞬間、掴まれたのは、胸の内の何だったか。  本質? 澱み? 分からないし知りえない。感じたこともないのだから、ただ鸚鵡返しに眉を顰めるだけだろう。  その様を見て、カール・クラフトは大げさに嘆く。  大仰に、演劇の配役にでもなったかの如く痛ましげに視線を伏せる。  なんということか、などと言わんばかりの芝居がかった挙措。  鼻につく仕草で、しかし心の底から感じているかのように、深海の瞳がこちらを見ていた。 「ゲッベルス卿の決定すら、場合によっては覆す。いや、それだけではない。ゲシュタポの長であるあなたがその気になれば、総統閣下御本人すら容易に追い込み、破滅させることができるだろう。 その若さで、それだけの地位と権力、才気を有し、世界に覇を唱える帝国の暗部を掌握した黒太子……男子たらば、皆があなたのようになりたかろう」 「髑髏を背負った貴公子殿は、しかしなぜか、つまらぬ遊びに落胆した幼子のように鬱屈しているご様子だ」 「…………」  だからその言葉に、驚かなかったと言えば嘘になろう。  胸の内を当てられたことにではない。  他者に生じている感想を、本人すら形容できなかった感覚に、そうであると断定できたことが、ただ…… 「気になる。あなたは興味深い」  牢から出る、けれど魔術師の声は止まらない。  朗々と、訥々と、淡々と。感情をこめて、けれど不意に、されど絶対だと、天上の世界まで歌い上げる楽師のように。  詐欺師の声は歌う。得体の知れない怪物へと、人の皮を捨て一枚一枚脱皮するかのように……ゆっくりと。 「その渇き、飢餓の心、何処から来て何処へ行く?」  世迷い事だと、そう切り捨てるべき言葉が毒となり染み通る。 「あなたは何を求めて惑っている?」  にたりと、微笑しながらかけられたのは端的な問いで。 「……訊いているのは、私のほうだったはずだがな」  当然、私は個人としても立場としても、それに答える義理は無く。 「それにそもそも、卿の命、は───」  職務をこなすべきなのだと……そう感じたところで、目眩のようにあの感覚が甦る。 「────待て」  〈雑音〉《ノイズ》。〈雑音〉《ノイズ》。〈雑音〉《ノイズ》。意識を蝕む、〈雑音〉《ノイズ》が止まらない。 「待て。〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》?」  擦り切れた〈記憶〉《おもいで》の再生。脳裏に甦るのは、したこともないこの後の会話。  飽いているやり取り、心躍らぬ会話、苦痛に等しい嫌悪感。  総て、総て思い出す。思い出す、思い出していく止め処なく際限がない知っているだとふざけるな――  妄想じみた常軌を逸する事態の発現。  微笑む詐欺師の姿だけが、影絵のように浮き彫りになっている。  ……笑っていることが、分かる。 「おやおや、如何致しましたかな中将殿。お顔の色が優れぬようですが、寝所で横にでもなられた方がよいのでは? 黄金比とも言うべき麗貌が、歪んでしまっているではないですか。美の損失だ、世の婦女達が嘆きましょう」 「要らぬ、世話だ。口を噤むがいい……」 「ならば是非、先の問いに答えてはもらえまいか」 「あなたの選択、あなたの価値観。それがどのような形なのか、私は興味が尽きぬのですよ。 何よりも知りたい、聞きたい、胸に留めておきたいのだ。あなたと私の懐かしい語らいなのだから」 「な、に?」  それが指し示すのは、目の前の狂人によって今の状態が肯定されたということに他ならず。  知りえない過去の邂逅。そんなもの、この世の誰が知るはずもないのだが。 「卿は……」  咄嗟に出た言葉は、その感覚をするりとなぞる。 「誇大妄想狂だ。さぞかし世の中が楽しかろうよ」  そうだ。〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈言〉《 、》〈葉〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》。  脳を駆け抜ける感覚、高速で疾走するフィルム。不快感が止まらない。  知りもしない光景、覚えのあるはずがない現在を思い出す異常な現象。適切な言葉を与えるのなら、それは───既知感だ。  知識が急激に〈嵩〉《かさ》を増していく。  なのに量そのものは増えていない、当然だ思い出しているわけなのだから。  新しく知るわけではない。だが僅かにあった感慨、感想、感性が根こそぎ駆逐される。  目の前の詐欺師と向き合うだけで、その感覚はさらに酷くなるようで。 「ほう、では覚えていないと? 私たちの語らいを、出会いを。私はあなたと出会い、思い出したのですが、そちらには覚えがないと?」 「然りだ。くだらん」  にべもなくその狂言を踏みにじる。  脳を病んだ空想に付き合う義理などない。たとえ今、不可解な感覚に襲われているとしても、だからと言ってそれを肯定してやる道理もなかった。 「誇大妄想狂と言っただろう。卿への感想はそれのみだ。語るべき自慢や自伝など、それこそこちらには欠片もない。 期待だと? 的外れだ道化師。私はな、そう大した男ではない」  精神へ深く沈殿する諦観のまま、叩きつけるように吐き捨てる。  人に聞かせるような願望も、誇るべき価値観とやらも何一つ持たない。  周囲だけが羨み、気づけば誇りだと、栄誉だと祭り上げられているだけのこと。  部屋の飾りにしかならぬ勲章。社交辞令と共に渦巻く賞賛。  拍手も喝采も、一度たりとてこの心を動かさなかった。それこそ生を受けてから一度もだ。  飽いたわけでもなく、初めから不動。  幸福にも痛みにも鈍いだけだ。それを素晴らしいと語るこの男の神経こそ、私から見れば異常でしかない。 「昔から、加減というものが出来んのだ。ゆえになんであれ真摯に取り組み、結果として、いつの間にか今の地位に就いていただけ。 まるで止まることのない車と同じだ。性能がどうであれ、休まず走り続けていれば、世界の一周や二周は誰でも回れる」 「卿が私に何を感じているかは与り知らぬが、つまるところラインハルト・ハイドリヒなどそんなものだ。娯楽が欲しければ、他に面白い者はごまんといよう。そちらに行け」  胸など勝手に躍らせているがいい。壊れている心なら、何でも楽しめよう。こちらは侮蔑と拒絶しかそちらへ感じ入るものがない。 「では、私の買い被りだと?」 「他に何がある。この身は不老でなければ不死でもない。処女の腹へ宿っていたわけでも、天から降りた御使いでもない。どこまでいこうと、ただ一介の人間にすぎん」  使命を背負って生まれたわけでもない。天啓を感じ取った経験もない。  他と同じく、ただこなすべき事柄をこなして生きてきた。規模や程度という観点を除けば、やってきたことなど与えられた職務だけ。  特別性など、どこにある。 「与えられた地位をなくせば、それこそ市井の一角と変わらんだろう。その程度なのだ、いや、そうでなくてはならない。 殴れば倒れ、撃たれれば死ぬ。人はそうであるべきだ。死からは逃れられん。その時までただ生きて、ただ朽果てればいい。私はそれで結構だ。 総て野垂れ死ぬ。ならば私も、かく野垂れ死ねばいい」 「ああ、いけませんな。あなたほどの人間がそのようなことを口にしては。 己が見えていないとはこの事か。まず部屋に姿見を置くべきだろう。ご自愛していただきたい。このままでは余りにも部下の敬服に悪い」 「不服そうだな、詐欺師。言ったではないか。卿はよそに行くべきだ」  嘆く言葉など知らぬ。  聞き入れてやるつもりもなく、もはや侮蔑すら隠さない。誑かす言葉を片端から跳ね除けていく。 「今一度、私の問いに答えてほしい。気づいてほしい、あなたは飽いているのだ。 一度でも本気を出したことがおありか? 走るつもりで、歩いてはいなかったか?」 「走っていようが歩いていようが何も変わらん。いずれは止まる、やがては死ぬ」  進んでいることに変わりはない。速度の差など、気にするべくもないことだ。 「勘違いしている。あなたの上限はそこではない。遥か上空に存在する。だから難問に出会えない、全力を出せたことがない。 心躍る敵手。越えるべき難問。それを凌駕した際に得られる達成感……本当に何一ついらないとでも?」 「言ったはずだ、くだらんとな。それが何だと言う」 「飽いていればいい、餓えていればよかろう。生きる場所の何を飲み、何を喰らおうと飢餓が癒えぬのなら、その時点で自壊するしかない。 そんな生物はな、生まれてきたことが過ちなのだ」  または満たされた瞬間に死亡する獣だろう。それに成れなど、どこまでも戯言でしかない。 「いずれ死ぬのだ。それで結構。僅か数十年程度の生、満たされぬから何だという。不平不満など、〈今際〉《いまわ》の際に呟くだけで十分すぎる。わざわざ迎えに行くなどと、愚挙以外の何ものでもない」  死は確定ならば、それまで真摯に生きればいい。  生に執着しないからと、死を使い切れなど、頷けるはずもなかった。 「なるほど、ならばあなたの座右の銘は」 「そう──〈死を想え〉《メメント・モリ》だ。人はいつか死ぬ。死は重い、ゆえにそれに対しては厳粛であるべきだ」  人類皆平等である、などと稚児の戯言は言わん。  だが、だからこそ死という平等だけは、例外なく甘受しなくてはならない。  終着駅は見えている。ならばそれを拒否してどうするのか。 「死ぬべきときに死ねぬ者が残される。誰かが言っていた言葉だが、私はこの言葉に共感する」  思い出せない個人の言葉。確か……鋼で出来たような男だったが、思い出せない。名前や容姿すら記憶に留めてはいなかった。  しかしその信念、邁進する渇望のみは思い出せる。  ああその通りだ。生を取り上げられても、人は活動を許される。だが死をなくした者は、果たしてどこへ行きつけるというのか。 「訪れた死を受け入れられぬとき、その人間は死体のまま動く羽目になるだろう。怪物になってまで活動する理由もない。動かぬ心臓でなぜわざわざ呼吸を続けなければならん。 私は一度の生で結構だ。卿の誇大妄想に棲息する陳腐な魔獣などではない、些かの興味も持ちえん」  もしこの道理を覆したのならば、それこそラインハルト・ハイドリヒは魔術師が思い描く怪物へと成り果てるに違いない。  生を踏破して咆哮する魔性。断崖の果てを飛翔し続ける悪鬼。  ああ、吐き気を催す醜さだ。 「なるほど。つまりあなたは人間のままでよろしいと? 満たされぬまま老い、死の到来をただ受け入れると?」 「そうだ」  ありふれた人間、職務を全うして滅びる一人の軍人でかまわない。 「それは本当に? 心の底からの願いですかな? 虚飾虚構の総てを剥ぎ取った、あなたにとっての本音だと?」 「くどいと言っている」  常軌を逸した生へ不満を漏らす。当たり前のことだと、辟易しながら断言する。 「これが私だ。それ以外にはなれない。首切り役人、ゲシュタポ長官、その言葉以外に自分を形容する言葉など不要である。 〈字〉《あざな》が欲しいなら勝手に何とでも呼ぶがいい。ただし、押し付けがましく怪物の毛皮を寄こされて、疑いなく被るほど奇特な神経はしていない」  薄笑う不快な詐欺師の言葉など、雑言と同義。  亡霊のような佇まいへ感じ入るものなどない。  珍しく不快感にみまわれただけのこと。  自らの描く死生観は不動だ。生きて、死ぬ。そこに意味や余暇の悦楽を求めるなど、道楽者がしていればいい。 「では───」  刹那──歪み、揺れる道化が鳴動する。 「………ッ」  膨張したかのように、その胸が裏側から膨らんだ。  風船を背後から押し込んだかのような変化。  人体にはあり得ぬその変化に、高速の飛来物が鮫のように突き破り……  首から先が入れ替わる〈双頭の蛇〉《カドゥケウス》。  生まれるが如く生えたのは……黒塗りの刃。大気を引き裂いて、この胸へ迫り、そして。 「……………、………な」  唐突に降り注いだのは、殺傷の一撃。 「───人間として、死ね」  声が、首ごと入れ替わる。  肉を貫く音、火傷のような熱に、舞う鮮血。  抉りぬく鋼鉄の感触は、他ならぬ己の心臓から。  道化の影を突き破り──〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》〈で〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈誰〉《 、》〈か〉《 、》が、私の命を穿っていた。 「……ば、かな」  あり得ない。思考が追いつかない。常識においてありえぬ異常が容易く血肉を貫いている。  復活する既知感。かつて、いつか、会ったはずの敵手が、腕から断頭台の刃を生やし、この胸へ突き立てていた。  喉を逆流する血液は間欠泉。命が身体から零れ落ちていく。  ……理解ができない。  詐欺師は何処に? 入れ替わったこの男は何だ? その刃は本当に身体と一体化しているのか? 不可思議だ説明ができん、ならばなんだおまえは本当に、あの男の誇大妄想から生まれた魔人だとでも言うのか……?  呼吸不全に陥った身体で吐血する。胸から駆け上がる血液で気道は塞がれ、息ができない。  意識が端から削られる。手足は大量失血して動かない。いや、見えない力で磔られたかのように、押さえつけられている。  聞こえる……死の、足音が。 「そうだ。おまえはここで死ぬべきだった」  刃を携えて、死神が宣告する。  なぜか怒りと憎しみと共に、しかしどこか物悲しく、私の命に穴を空けて。 「正直、俺は安心したよ。おまえの口から、あんな人間らしい言葉が吐かれるだなんて、思ってもいなかった。 そうだ、誰も生まれたときから怪物なんかじゃない。たとえそうだとしても、人の道理で育てば人のまま生きていけたんだ」  それは心からの安堵。  ただ私が語っただけの人生観に対する、青年が抱く哀愁だった。  その言葉が分からない。何をそれほど感動したのか。人として生まれたものが、人として死ぬと言った、当然のことになぜ…… 「そこに疑問を感じていないことが、だ」  こちらは、それが分からないというのに。  動かない声帯は反論すら出来ない。  疑問を重ねる力すら喪失した。胸の傷口から流血が雫となり、刃をつたう。 「その考えは正しいさ。認めてやる。おまえに何か吹き込んだ奴の方が、最初からどうかしてたんだ。 ああその通りだよ、死は重い。だから、だからこそ……」 「あなたはただの詐欺師になんて、会うべきじゃなかった」 「……なっ」  重なるように意識へ響くのは少女の声。  姿が見えない。目の前の青年では断じてない。しかし確かに聞こえる言葉は、幻聴と思えなかった。なぜなら。 「持ちえた権力を使って、他の誰かに任せればよかった。妄言の囁きになんて、耳を貸すべきじゃなかった」 「喜べよ、感謝しろ。おまえは今、人間として死ねるんだ、ラインハルト」  閃光に戻れと……追随する声が明らかに、この場の音を聞き取っていると告げていたから。 「黄金の獣になんて、なるべきじゃなかった」  獣──? 獣とはなんだ、少女の亡霊よ。  おまえも私が、御伽噺の魔獣だと肯定するのか。 「あなただけじゃない、あなたに関わった人たちまで死ねなくなる。死体になっても崩れなくて、歩き続けることになるから」  私と私に連なった者まで死者となる。永劫戦い続ける、満たされぬ餓えた戦奴になるとでも?  ああ……なんだそれは、まるで癌ではないか。  呼気が途絶える。脊髄に当てられた刃は、それだけで〈鑢〉《やすり》のように骨から肉を削ぎ落とす。  磨耗する。死はすぐそこだ。  言った通りになっただけ。殴れば倒れ、撃たれれば死ぬ。ゆえに刺されただけでこの有様。  人として生まれ、人として死ぬ。  たったそれだけ……なんて味気ない。  他愛も無い、呆気も無い。笑うしかないが、それをする余力すら失せた。  理由すら分からぬまま、針のような一刺しで死ぬ。  所詮は有象無象の一角。やはり私など、この程度でしかなく─── 「──果たして、本当にそうお思いか?」  不意に訪れた幻聴。消えたはずの男の影が、再び耳障りにも問いかける。 「獣の姿が本性でも、それに逆らい生きてきた。子供のように、足りないからと無差別に求めたりしない。あなたは誰より自制に長けた人だったのに、ハイドリヒ卿」  自制。自制か。そうだな、それには自信がある。  人よりも鈍い感覚だったから、それだけは何者よりも長けていた。 「あなたの全力についていける人なんて、それこそ一人だけだった。 その手を取るのではなく、心動かすことがあるのなら、それを与えた相手にこそぶつけるべきだったから」 「だから、ここで己の矜持に殉死しろ。このまま人として……死んでいけ」  言葉と共に深く抉られ、胸の刃が捩れる。  ──吐血と激痛。  死神の鎌が終焉を告げるかのように、冷たく光った。 「目を開け、そしてよく見ろ刻み付けるんだ。平等を与えてやる。おまえが語った言葉を、今からこの手で証明してやる」  瞳を開け、その姿を今際に焼き付けろ。 「俺が──おまえの、死だ」  瞬間、ついに断頭の刃が胸部を断った。  吹き荒ぶ鮮血の雨。  終わりは静かに。ただ無為で、理不尽に訪れた── 「ああ……」  別たれた身体が重力に従い落ち始める。  死ぬのか。なんとも他愛のない。  真っ先に感じたのは、やはりつまらないという結論。自分の死に様すら、冷徹に眺めつつ骸へとなっていく。  見たことか、魔術師よ。やはりラインハルト・ハイドリヒなどこんなものだ。  路頭に積み上げられた一つの屍。この様こそがお似合いだったのだろうよ。  だが、その時―― 「おやおや、これは異なことを仰る。獣殿」  跳ねる、鼓動が――死の淵へ落ちる意識が停止する。 「針の如き一刺しで、あなたが死ぬことなどありますまい」 「…………」  嘲笑うかのような指摘に、ふと刹那の疑問が生を繋ぎ止めた。  時が止まる。比喩ではなく、地に討ち捨てられるはずの身体が停止した。  宙を舞う血の飛沫、その一滴すら見て取れる。ただ意識だけが不可思議な光景に困惑する。  自らの精神を置き去りに凍結する世界。  かけられた言葉だけが、その中を直進して耳朶を震わせていた。 「針、だと?」 「そう、あなたにとっては針の一刺し。私の目は誤魔化せない。思ったはずではないですか、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》と」 「………」  確かに、自分はそう評した。  心臓を穿つ刺突、胸の中心を貫通した刃。即死してしかるべき外傷を、咄嗟にそう感じたはず。  人としての致命傷を稚気であると感じた。  その感性、判断基準はまさしく常識からかけ離れたもので…… 「馬鹿な、では私は……」 「ええ、刺されても死なぬ生き物なのでしょう。私の目には、あなたは一度も〈人類〉《にそく》の姿に映っていない」  緩やかに崩れ落ちていく視界。片隅に映るのは、消えたはずの影法師。  魔術師は微笑する。親しさを滲ませたそれは不快で──同時に、懐かしささえ感じて。 「重ねて言いましょう。あなたは人の条理に収まれない。人の作った〈道理〉《さく》に従うなど愚の骨頂、むしろそれを創る側なのだ」 「〈地〉《し》はそこだ、墜落は刹那。これが〈泡沫〉《うたかた》の幻視ならば、言い募る時間はなきに等しい。ならばこそ、現状を鑑みた上で再度自己を鑑識してみてはいかがか。 あなたの望みは? 胸に迫る渇望は? 何に替えても得がたい瞬間はおありか? そこに辿り着くにはどうするべきか……知っているはずだ、さあ思い出しましょう」  囁かれる言と共に、数多の既知感が脳裏を駆け抜ける。 「私は……」  何かを、思い出せ。人ではない時分の総身を。  人外の魔だというのなら、この脳髄では無理だ。別へと繋げ接続しろ。  体験を引き出すのではない、これより行く場所を、進軍したはずのそこを辿り魂から投射するのだ。 「………、……、………」  聖槍十三騎士団。黒円卓。〈愛すべからざる光〉《メフィストフェレス》。流出位階。エイヴィヒカイト。〈運命の神槍〉《ロンギヌス》。住むべき世界。破壊の情。忌むべき黄金。待ち焦がれたのは〈怒りの日〉《ディエス・イレ》───  知らぬ、知らぬ、知るはずもない。だが思い出す。  これから駆け抜けるはずの情景。奪い、与え、契約を持ちかけるその総て。  ここへ還る間際、何を願っていたのか。その秘めた渇望を。 「終わりだ、ラインハルト」  青年は死んで然るべきだと弾劾する。  存在そのものを忌むように。生まれた世界が違う。だからせめて、人であれたまま生を終えよと。 「さようなら、ハイドリヒ卿」  少女は間違えたのだと静かに囁く。  人であれというのは青年と同じ。しかしそこに、進むべき方向、求めるべき相手を見落としていたと嘆いていた。 「さあ──目蓋を開こう、破壊の君よ」  そして、魔術師は謳いあげる。  思い出せ、そして〈青年〉《それ》を砕け。やり直せ、やり直そうと。  そう信じて疑いも無く、混濁した記憶を無遠慮にかき混ぜる。 「私は……」  三者三様の問い詰め、言葉、胸裏。私という存在へ願う、呪言の渦が氾濫する。  何を信じ、何を願い、何を求めて、何に至ったか。 「そうだ、私は………」  人として死ぬことを望んだか?  いや、それはいずれ訪れる。必滅を待ち望むことはしなかった。ただいつかは来るだろうと、日々の公務に終われていた。  ──魔軍の長となったのは、果たしてそのような願いからだったか? 「──否」  目覚めの声。高々な響きが停止した世界を揺るがす。  空に亀裂が入った。激痛が潮のように引く。 「否、断じて否だ。死を座して待つのではない。それでは生きながらの死者だ。処刑台に登る囚人と何が違う」  傷口を見下ろせば……なんでもない、〈針〉《 、》〈で〉《 、》〈つ〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈の〉《 、》〈傷〉《 、》〈だ〉《 、》。潰された心臓の鼓動が音となり再生する。 「私はまだ何もしていない。ならばそれこそ、己が矜持に反するではないか」  高鳴る鼓動。黄金の獣に再び息吹が宿り始める─── 「無為だと遠ざけた、塵芥だと烙印を押して通り過ぎた。本当は総てを愛してやりたかったのに、愛するには万物総て脆すぎたから。 ああなぜだ、なぜ耐えられぬ。抱擁どころか、柔肌を撫でただけでなぜ砕ける。なんたる無情だ、森羅万象、この世は総じて繊細にすぎる。 ならば、我が愛は破壊の慕情。愛でるためにまずは壊そう。頭を垂れる弱者も、〈傅〉《かしず》いて〈跪〉《ひざまず》く敗者も、反逆を目論む不忠も、総てが愛しい。ゆえに壊す」 「それこそが唯一の道理。私は死を眺め、感じながら生きている。だがそれは死を〈拱〉《こまね》く事ではなかった。 愛でるべきものを愛でず、労わりすぎて放置するなど無粋の極み。だからこその〈死を想え〉《メメント・モリ》だ」  私に〈壊〉《あい》される者達へ、それを行う私自身へ向けて。  死は重い。だからこそ厳粛に受け止めて欲しいのだ、この愛を。  満たされぬ心の空洞。この不感症を癒すために総てを飲み込み進んできた。まだ壊していないものを求めてきた。  しかしまだ――まだ喰い足りない。餓えた獣は猛っている。  心躍る好敵手。全力を出すに足る難問。そのために喰らおう、我が生の証明を、さらにさらにさらに……… 「総てを愛そう。例外はない。その平等を与えぬことこそ、〈蔑〉《ないがし》ろにしている証明そのものではないか」  未だ壊さなかったもの。何より愛すべき他者。その距離を友情に置き換えたことこそが、自分にとって侮辱だったのだ。 「そうだ、私は───」  髪が伸びる。服が入れ替わる。手には聖槍の感触。内海で渦巻くのは愛児でたぎる〈地獄の宇宙〉《ヴェルトール》。  胎動を始めて燃える情愛。  開かれた瞳は──凄烈に輝く黄金の眼光。 「私は、総てを愛している!」  その瞬間、解放された力は流星となり、暗い牢屋を消し飛ばす。  千切れ飛び、万の破片となって消滅したのは過去の風景。  極大の衝撃は放たれ、紛れ込んだ異物ごと世界を押し流した。 「────ッ、ァ」 「ぁ………」  吹き飛ばされる〈代替品〉《ツァラトゥストラ》と〈魔城の子宮〉《ゾーネンキント》が、事象の彼方へ消えていく。  ああ、心から礼を言おう。卿らがいたからこそ今があるのだ。  幻想を、閃光を、そして我が存在意義を……  総て与えてくれた。感謝している。  ゆえに観客よ、見ていてくれ。  最終最後の〈怒りの日〉《ディエスイレ》を。  破壊と超越の戦争を。  これを狙っていたのだろう? だがしてやられたと言う気はないぞ。 「さあ──」  なぜなら、私もこの刹那を望んでいたから。 「───始めようか、カール」  唯一の〈友人〉《れいがい》へ向け、加減のない聖槍の一閃を放った。  迫る破壊の黄金光。  総てを吹き飛ばさんと唸る力は、進行方向の総てを焦土と化す。  その一撃を前に─── 「……ああ。 ついに、私の〈自滅因子〉《アポトーシス》が発現したか」  ただ、泣き笑うような表情で──  水銀の影法師は、ついに真の姿を現した。  祝福とも、後悔とも取れぬ〈歓喜〉《なげき》は一瞬。  破壊の光を防いだのは、更なる光輝を纏う蛇だった。都市一つ消し飛ばして余りある一撃は、宇宙を覆う〈双蛇〉《カドゥケウス》の前に消え失せる。  無が支配する静寂の中、残ったのは黄金の悪魔と、全貌を現した道化の影。  無色となり白紙となった世界で、二柱と呼ぶべき存在が対峙する。親しげな瞳に宿るのは愛であり、同時に決裂の証でもあった。  いつかマキナが語ったこと。  元凶の終焉を可能とする唯一の事象が、ここに現実となったのだ。  不滅を誇る黒円卓の双首領……その道が、ついに別れる。 「さすがだ友よ。己が道理で版図を塗り上げ、未だその“座”に在り続けているだけのことはある」  全力に近い攻撃を防がれながらも、ラインハルトは感嘆する。  流石、そして当然。  己が刃をよく凌いだと、完全な殺傷目的で放った事実越しに賛辞を贈った。それは友人へ向ける心からの喝采に他ならない。 「それとも、この程度できねば〈現人神〉《あらひとがみ》の名が泣くか? 難儀なものだな、虜囚に見えたのはそういうわけか。あまりに巨大であるゆえに、この〈箱庭〉《せかい》では身動きできん。 ああ実に理解できるぞ、その葛藤。ここは狭い、肥料も水も我らにとっては枯れ井戸だ。生まれたときから柩の中に閉じ込められている。 今だから告白するがな、初見の卿は枯れ木に見えたよ。潤っていない。残骸であった私すらそう感じたほどだ」  自嘲すらするように、かつての自分を酷評する。郷愁さえ滲ませて、魔軍の長はかつての思いを語っていた。 「我ながら見る目のないことだ。壊してみなければ、その形を自覚できんと見える。眺めて見えるのは外殻だけか、穴が無ければ覗きこめん。 許せよ、私はくだらん人間なのだ。その自評においては今も昔も変わってはいない」 「ゆえに」  風切り音と共に、収束する光。神槍はその輝きを黄金まで高めて── 「卿に我が愛を示したい」  力の矛先をはっきりと、戦意と共に盟友へ翳す。  おまえを壊す。まるで散歩でもするかのように、気軽な声音でそう告げた。 「愚かしいことだ、部下は皆語り合ったというのに、友だけは最もそこから遠ざかっていたなどと。許せよ、カール。私は知らず卿を蔑ろにしていたらしい。出会ったときからその望みを無視していた。ならば今こそ叶えよう」  ゆえに──さあ、〈未知〉《し》を与えよう。  それは決められた配役の遵守。  〈自滅因子〉《ラインハルト・ハイドリヒ》は今、自らが存在する意味を行使しようとしていた。 「さすがは私の〈同種〉《さかしま》、やはりそう来たか」 「然り。ここまでくれば駄馬でも気づく。 彼らの奮闘は見事なものだった。胸を打ったとも。これで分からねば、それこそ木偶でしかなかろうよ」  そうでなければ、あの友情に悪いというもの。  あの閃光に、あの流星に、あの美しさに顔向けが出来ぬ。 「あれこそ、我らが本来結ぶべきもの。辿り着くべき縮図ではないかな?」 「なるほど」  含み笑う様は常のそれ。されど向き合うのは敵対の構図。  互いに以前よりも相手を好ましくさえ思いながら、それでも渇望しているのはその絶命の先にある。 「ああ、しかしまだ敵と障害は残っていましょう。脱皮を遂げ、完成した我が聖遺物。あれでは物足りぬと?」 「それも愚問だ。私は約束を果たしているに過ぎん」  何をしてもつまらぬという気持ちを、無限に味あわされている。永遠に続く、飽食した無数の勝利。  その痛苦、ついて来れば取り除くと言ったのは、はたして誰だったか。  自分は片時も忘れていない。 「卿が言ったことであろう。取り立てて騒ぐほどのものではない。論ずるに足らん。 全力を行使しても容易ならざる事態の発現。かつそれを乗り越えた先が未知であること。この二つを卿は私に与えると言い、そして私はその話に乗ったのではなかったか?」  自分も、彼らも、彼女らも、総てがその謀に参加した。  動機は個々様々、思惑もまた入り乱れている。そもそも正しく理解していなかった者も多い。  だがそれでも、皆が首を縦へ振ったのだ。  黄金の恩恵を前にして、下らぬ虚飾は融解する。  むき出しになった人間性の果て、彼らは悪魔の誓約書に判を押した。  そこに言い訳は許されない。我々は、望んでこう成り果てた悪鬼羅刹の群れなのだ。ゆえに等しく地獄へ溶けた。一つとなった。  勝利――ただその二文字のみを求めて。 「全力を出すに足る存在が目の前にいる。そして私は、本来それと相対するために生まれたらしい。ならば〈敗北〉《かわき》を捨て、勝利を得るにはこうするよりないと察する。 元よりこの身は、無限の〈地獄〉《ならく》を司るもの、挑むのならば〈天上〉《うえ》だろう。全身全霊を懸ける英雄譚において、役者は常に駆け上がっている。 それに、な」  威圧を伴い黄金の両眼が輝く。  放たれるのは極大の戦意。  宿っているのは……堪え切れぬ歓喜。その一色のみ。 「“挑む”ことなど初めてなのだよ、カール」  それが、それこそが堪らなく嬉しいと、黄金の獣は喉を鳴らす。 「迎え撃つのではない、戯れに屈服させるのでもない。高みを眺めることなど、それこそ今しかないのだ。驚いてくれ、信じられるか? 私は心を躍らせている。無垢な子供のようにな」 「未知はその先にある。いや、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈入〉《 、》〈ら〉《 、》〈ん〉《 、》。代替品を斃して何になる。どれほど容易でなかろうと、あれではこの既知感を消せはしない。 ここは、卿の生み出した〈流出〉《せかい》だ。ならばどうするかなど、決まっている話だろう。知らぬままならともかく、知ってしまえばこうなる。こうする。 胸の奥では、常にこうなるのを望んでいた」 「ええ、そこに嘘はつけない。私もどこかで、この時をずっと待っていたはずだから」  友情──なのだろう。これこそが。  足らぬ部分を補い合い、それでいて壊し合う。  この世に存在する、たった一人同格の存在。この上なく素晴らしいと、魔軍の長は喜びと殺意を胸に“座”の蛇と対峙する。  そして〈地獄〉《ヴェルトール》の心臓が蠢き始めた。  静かに深く、厳かに、しかし猛りながら鳴動する。  ああ、これだ。これでいい。私は父に、真の喜びを与えるのだ。  〈歯車〉《イザーク》が唸りを上げて回転する。かつてない同調の発現は、黄金の獣を更に更にと新生させていく。  そうだ、王に特別などない。  ゆえにおまえも墜ちて散れよ。獣の寵愛を受けるがいい。  有象無象の一角となり、不偏に均等の愛を受ける屍の一つと成り果てろ。  そう、ここに、おまえは破壊され消えるがいい。  それは主への完全なる存在奉納。歓喜と憤怒と慟哭だった。  起こる限界の否定は、結果として上限の突破を一気に引き起こす。  この瞬間、イザークは求めない。父の愛情を求めはしない。  ただ満たされているのだ。己が黄金の夢を叶えたという事実に。  ああ、テレジアよ。  ああ、ツァラトゥストラよ。  おまえ達に礼を言おう。私は初めて私になれた。  たとえこのまま道具となっても、私はこれの存在を否定する。  父がそのために生まれたのなら、私もそのために在るのだから。  湧き上がる愛の発露が、魔城の世界へ最後の進化を引き起こす。  ラインハルト・ハイドリヒを生み出し、変革した存在を凌駕しよう。  文字通り神へ仇なす生物へと、断崖の果てまで飛翔しよう。  今、天上を墜とすため、地獄から伸びる魔手は、長く、長く、長く。  万物の頂点を塗り替える可能性の息吹が、黄金の獣の中で胎動を始める。  そう、彼を生まれ変わらせるのだ。  神の喉笛さえ食い破れる、古代神話の怪物へと。 「さあ──始めようか、友よ。 〈新世界〉《ヴァルハラ》は目の前だ。その〈旧世界〉《きちかん》は枯渇している。 盟約だ、今こそ幕を引くとしよう」  〈神殺しの槍〉《ロンギヌス》が無の空間を揺るがし、唸る。  幕は降りる、永劫回帰の終焉。  命運は総てがここに。神々の黄昏と呼ぶに相応しい、別次元の怪物達がついにその力を解き放った。 「」  響き渡る声は静かに、しかし無限の情熱をもって綴られる。 「   」  その言語を理解することは誰にも出来ない。謳う“座”に坐す蛇さえも、すでに概念すら忘却した神話の残滓なのである。 「   」  ゆえに彼は、己の渇望が分からない。想像して、予想して、推察することは出来ていても、本当の自分が真実何を求めて“座”に達したのか、見極めることが不可能なのだ。 「 」  何も見えない。何も分からない。渦巻く情念の色さえ不明。  だというのに、今、どうして彼は昂ぶるのだろう。  答えは明瞭――確かめるまでもない。 「   」  蛇は、永劫狂し続けているのである。透徹した思慮と極限を億も超えた知識の果てに、辿り着いたのは愚の境地。  ただ流れ出すのみの影となり、宇宙を覆いつくした妄執こそ総てなのだ。理性など遥か昔に失って、今や残っているのは一つしかない。  嫌だ。まだだ。諦められぬ。  〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「 」  そして、だからこそこの今がある。  何度も繰り返し何度もやり直し、飽き果てながらも捨てられない夢――  それをここに破壊しようと、ラインハルトは宣言する。 「卿もまた死を想うか」  彼は万象総てを喰らうモノとして、あらん限りの愛と共に己が軍勢を指揮するのみだ。その選択に迷いはなく、完璧な存在証明に間違いはない。  ゆえに、それを前にした蛇は思う。想わずにはいられんのだ。 「ああ、邪魔だぞ」  彼自身が創りだした自滅因子。愛でて、魅せられ、育て、導き――なくてはならない存在だと認識しているからこそ厭わしい。  なんたる傲慢。なんたる勝手。乳飲み子にも劣る自己中心思考。  だが、“座”に在るモノとはそういうモノだ。どこまでも自分本位な意志しか垂れ流さない。でなくば天地創造など不可能だろう。 「まだ死ぬわけにはいかんのだ。 ここで斃れる終わりなど認めん」  狂した意志が厳かに告げる。  影の触覚として己が内海に投影させていたファウスト、パラケルスス、サン・ジェルマン、カリオストロ――そしてカール・クラフトという虚像は消え去り、万象の父である彼本人の言葉を伝えた。  己が最高傑作に。  愛すべき厭わしい破壊の〈黄金〉《ひかり》に。 「おまえはもう要らんぞ、ハイドリヒ。 特異点を生じさせ、私を滅ぼす一翼を担った。ああ、褒め称えよう愛し児よ。 だがそこまでだ。これより先は女神の独り舞台でなくてはならぬ。用済みの役者には退場願おう。 それが私の――“座”の意志と知れ」  殺意。殺意。宇宙の根源たる事象が懐き、一人の対象に叩きつける必滅の審判。その直撃を受けただけであらゆるモノは消滅し、存在の痕跡すら残さず溶けていくに違いない。 「くく、くくくくくく……」  だが、今の彼もまた〈宇宙〉《ヴェルトール》。同位のモノである以上、友であり父である男から向けられる初の〈殺意〉《アイ》に喜びを禁じ得ない。 「ようやく見せたな、真の貌を。ああ、初めて卿が同じところに降りてきたと感じるよ」  いつも影のように彼はいた。一歩下がって黄金を立て、その輝きに紛れながら捉えどころのないモノで在り続けた。  しかしその実、追従していたのはどちらの方か。この影は破壊の光によって生じたモノでは断じてない。  光源は遥か上。視認すれば目が潰れる暗黒の太陽として、〈宙〉《ソラ》の果てにいたのである。  そしてようやく、今ついに、己がそこに並んだのだとラインハルトは実感する。ならば後は、乗り越えるだけだろう。  踏破するに足る山を。打破困難な障害を。  それこそが追い求めた全力の時。溢れる飢餓を満たす瞬間に他ならない。 「〈Du-sollst〉《混沌より溢れよ》――」  高らかに轟き渡る獣皇の咆哮は、〈幼児〉《おさなご》の歓声を思わせた。そう、あらゆる男にある壁の名前。父を超える充足に心奮えぬ雄などいない。  見てくれ友よ、我が父よ。ああ、イザーク、卿の渇望理解した。  これか、これなのだな、その心。  認められたいという思い。実に、実に素晴らしい!  ゆえ、贈ろう。  我ら総軍が望みに望み、待って待ち続けた日を祝おう。  今、総てが終わるのだ。  永劫に渡り続いたこの歌劇、最後を飾る演目名はこれしかあるまい。 「〈Dies irae〉《怒りの日》」 「〈Acta est fabula〉《未知の結末を見る》」  そして激突する二柱の絶対。  真の玉座を懸けたこの勝負にあらゆる常識は通用しない。  初撃は挑む側からであろうという穏当な展開など、当たり前のように破られた。 「クリストフはお手柄だったというわけだな」  瞬くカドゥケウスが鳴動する。光と認識できない意志の波を放ちながら、宇宙の法則を操りだす。 “座”の周囲に在る総ての事象、総ての既知。歌姫と代替と黄金とその軍勢、それらを除くあらゆる人間の人生、渇望、魂は、等しく彼が支配する領域なのだ。既知世界開闢より今に至るまで生じた〈泡〉《ヒト》の総数など、もはや誰にも分からない。  その悉くが彼の掌。億の魂が流星となって獣の総軍に襲い掛かる。これすら、蛇にとっては髪の毛一本にも満たないと誰が知ろう。 「彼の進言がイザークを狂わせた。何も持たぬゆえに無謬であった歯車が父を知り、子という立場を得て情を知る。実に効果的だよ。奪うにはまず与えねばならん。 おまえに認められたかったのだろう。可愛いな、忌み子よ。私が創ってやっただけはある」  ほざくな――毒の滴る嘲弄に、獣皇の心臓が轟哮をもって反駁した。  私の父は天地に一人。貴様など母を唆して悦に入っていただけの蛇にすぎまい。この状況こそ我ら父子が望んだ総て。 「――と、言っているが、カール」  迫り来る流星は打ち落とせない。その一発一発がラインハルトの総軍にすら匹敵する。  だがそれでも―― 「あまり舐めてくれるなよ。他ならぬ卿が言ったことであろう。数が質を圧するなどと説いた覚えは毛頭ない。 愛が、足りんよ」  薙ぎ払われた聖槍の一撃と轟哮により、百の流星のうち三分の一が砕け散った。残りは無論のこと直撃したが、それでも致命な損壊は受けていない。 「卿にとっては万象悉くが塵芥であろうが。雑魂で我らを〈殺〉《と》れると思うなよ。結束が違う。愛が違う。 ああ、聞くがいい。皆が卿を憎悪している、その歌を」  ラインハルト・ハイドリヒは墓の王。あらゆるモノを破壊して、地獄に繋ぎ奴隷と化させる。絆という名の信頼など、この男には今も昔も存在しない。  存在しないが、しかし彼は愛しているのだ。己が血肉となった者らの生を、死を。苦痛を、そして絶望を―― 「ゆえに彼らを必要とする。私に〈壊〉《あい》された者達へ、極限の誉れと歓喜を贈ろう。涙を流して〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を称えるがいい。〈劇終の瞬間〉《アクタ・エスト・ファーブラ》はここにある。卿ら、狂おしい渇望の根源は目の前だ。 喰らえよ。私が総てを許そう」  ある者は、永遠に奪われると言われた。  ある者は、永遠に追いつけないと言われた。  愛する者から失うと言われ、死者しか愛することが出来ないと言われ。  誰にも抱かれない。〈恋情〉《ほのお》は届かない。〈安息〉《し》を取り逃がす。他にも他にも――  カール・クラフト=メルクリウスに、総ての爪牙が弄ばれた。なぜならこの狂した蛇が、万象を司る絶対法則なのだから。 「魅せろ――我が愛し児らよ! その渇望を叩き返してやるがいい! 案ずるな、私は負けん!」  黄金の号令一下、もっとも早く応じたのは汚泥に沈んだ地星だった。ここにきて、彼女も当然気付いている。  おまえか、おまえか、おまえだったのかようやく見つけた逃がさない――  わたしは綺麗なものが好きだから。影を生んだおまえを追う。  さあ、この平面に、総て残らず引きずり込んであげましょう。 「〈Csejte Ungarn Nachtzehrer〉《拷問城の食人影》」  膨れ上がる影の帯が濁流となり、津波の勢いで蛇へと向かう。そして当然、この一つでは終わらない。次陣を切るのは畜生の定めを負わされた吸血鬼。  すでに己が宿業は突破した。結果に不満はあるものの、大局的に見るならば最初に勝利したのは自分だという自負がある。  ゆえに俺こそ獣の牙。串刺し引き裂きばら撒いて、偉大な黄金の誉れとなりたい。  枯れ落ちろ恋人――破壊の愛に染まる薔薇となれ。 「〈Der Rosenkavalier Schwarzwald〉《死森の薔薇騎士》」  真紅の吸精月光と薔薇の杭が、既知世界の星々を喰らっていく。そしてそれらを一つ残らず、黄金の魔城へと送っていた。かつてない勢いで獣の総軍が膨れ上がる。 「よく出来た者達であろう」  ルサルカがいる限り蛇の行動は制限され、ヴィルヘルムがいる限りその実力は減衰していく。そしてラインハルトは強化されていくのだ。 「卿が屑星と断じた私の爪牙だ。ああ、確かに敵の弱体化など好まんがね。彼らの物語と渇望は、かくも凄烈に美しい。 嗤わせなど、せんよ」 「くくくくくくく……」  だが、しかし蛇は嗤っている。己を縛る汚泥の波も、星々を喰らう月光も、等しく地べたの砂粒でも見るように睥睨して憚らない。 「可愛いな、ハイドリヒ。可愛いな、ベイ、マレウス。いつからそのような、英雄めいたノリを楽しむようになった。 可愛すぎて、絶望させたくなるぞ、私のように」  まったく、微塵も意に介していない。彼の総体は膨大すぎて、ルサルカの激情もヴィルヘルムの忠道も、皮一枚剥がれた程度にすら感じないのだ。 「〈女神〉《マルグリット》以外に私を殺せるものか。 否、死になどせん。 続きの出し物はどうした、ハイドリヒ。私は飽いているのだよ。 退屈させるなら潰してしまうぞ、このようにな」  同時に星々が凝縮していく。その密度は先ほどのさらに万倍。この所業によって命を潰された者達が、同じ数だけ過去存在したに違いない。  しかし薄ら笑う水星は、一切頓着していなかった。  なぜなら、これが全能の愚者。“座”とはそういうモノなのだから。 「 」  再度紡がれる異次元の言語。それはおそらく、この男がまだ人であったとき、別の“座”が存在した時空で使用されていたものなのだろう。  すなわち、旧神を滅却した業に他ならない。ラインハルトが“それ”と同等以下ならば、間違いなく死に至る。  凝縮された星々が掌に乗るほどの大きさとなり、そして―― 「」  音も振動も発さないまま、破神の業火と化して弾け飛んだ。  ――超新星爆発―― 「おおおおおおおおおおおおぉぉぉぉォォッ―――!」  その威力、その凄まじさ、無論分からぬ彼ではない。ゆえにここで使用すべきは、もっとも黄金を愛する魂であろう。 「舞えよ、我が〈英雄〉《エインフェリア》! 卿の勝利を私に見せろ!」  天上の至福をもって、彼女は主の命に応える。  ああ、いつも追っていた。いつも抱かれたいと思っていた。  この灼熱に焦げる熱情を――御身の胸で永劫に感じていたい。 「〈Muspellzheimr Lævateinn〉《焦熱世界・激痛の剣》」  ぶつかり合う業火と業火。規模の桁は遥かに違うが、しかし彼女には愛がある。主を思う忠がある。  ただ燃やし尽くされるだけの雑魂などでは断じてない。 「 」  そしてそれを知ってか知らずか、蛇も追撃を開始していた。猛る〈赤騎士〉《ルベド》を押し潰そうと、超空間内の重力異常が発生する。  それが引き起こすのは銀河面吸収帯の大激突。 「 」  俗にグレート・アトラクター。この衝撃に呑み込まれて無事なものなど存在しない。  だが―― 「捨て置けぬであろうが。卿の信奉する英雄に道を示せよ、戦乙女」  閃光が走る。戦姫が駆ける。彼女が信ずる道をその輝きで照らせるように。  一瞬の綻びをついて激突面を掻い潜り、“座”の蛇へと一矢報いるため雷光と化して突破する。  そうだ、二度とこんなことが起きないよう、心から祈っている。  その未来を信じているのだ。  私は負けてしまったけど、このまま消えたりなんかしない。  だからお願い、力を貸して私の英雄――今こそ共に戦いましょう。 「〈Donner Totentanz〉《雷速剣舞》――〈Walküre〉《戦姫変生》」  そして疾走する稲妻が、蛇の喉を貫いていた。 「ああ、ゆえにおまえ達亡霊は消えねばなるまい。 未来を望んでいるのだろう。光を欲しているのだろう。 グラズヘイムの空に輝きがあるとでも思っているのか」  無論、思っているわけがない。だけど今はそれ以上に、この男を消さねばならないと感じている。  狂気に狂している“座”など不要。  瞬間、稲妻の戦姫より分かれて三人の屍兵が出現した。 「トバルカイン。黄金の犠牲者たる代表と言えばおまえ達だが?」  首の両脇と眉間に叩き落された偽槍を受けて、なお蛇は嗤っている。いいや、この存在は他の貌というものを知らないのだ。  言い難い憤怒と絶望は喜劇に似て、悶え狂うほど笑い転げたあとも残滓が消えなかったモノだから。  万象、悉く滑稽なり。 「おまえ達の悲劇など、私の道に漂っていた芥ですらない。触れたところで、ああそうかとも思わん。 何かを伝えられるつもりでいるのか。寄り集まっても石くれにすらなれぬおまえ達が。 私の宝石に捧げる愛を愚弄するのか。笑止、儚すぎて抱きしめたくなるよ」  ならば―― 「〈Man sollte nach den Gesetzen der Götter leben.〉《爾天神之命以布斗麻邇爾ト相而詔之》」  ならばあなたも、私達の宝石を愚弄するな。  他者から見ればどれだけくだらないものであっても、光は今もこの胸にある。熱も炎も消えてはいない。  岐路に迷って間違って、血に濡れようと沈もうとも――  こんな“〈座〉《きち》”に翻弄される世界を許せないと思う気概はあるのだ。 「ふふ、ふはははははははははは……」  爪牙五人の剣を受けながら、それでも蛇は揺るがない。薔薇の夜も食人影も、効果を発揮しているのに未だまったく痛痒を覚えてなかった。新星爆発と鬩ぎ合いつつ奮闘している〈赤騎士〉《ルベド》さえも、今や事象局面に押し潰される寸前で―― 「どうした、終いか?」 「無論、否だ」  戦姫が疾走って示した道を、最速の白光が駆け抜けた。  彼は狂乱している。絶壊している。ゆえに何者も恐れない。  ただ黄金が望むなら、どこまでも速く鋭い矢になろう。誰も触れず誰も追いつかせず、ただ喰らい貪る殺意でありたい。 「〈Niflheimr Fenriswolf〉《死世界・凶獣変生》」  なぜならこれは、ずっと僕に触っていた。  ずっとわたしを握り潰していたモノだ。  ああ許さないぞ牙が鳴る。至高の獲物だ逃がさない―― 「総ての片がついたのち、尋常に勝負といこうではないかミハエルよ。 卿の求めた死はその先にある。なに、私はアレと違って約束を違えん。 ゆえに今一度だ。これを最後の蘇りとして、真のヴァルハラに行くがいい」  走る凶獣の衝撃が、流星と化してさらなる道を広げた刹那―― 「〈Miðgarðr Völsunga Saga〉《人世界・終焉変生》」  現れた鋼の英雄が、その一撃をもって総ての攻性事象を打ち砕いていた。 「見事だ――卿ら残らず、私が認めた英雄の器に相違ない!」  そしてこの隙、この一瞬――ラインハルト・ハイドリヒが見逃すことなど有り得ない。  運命の槍に神気が満ちる。かつてなく凄絶に、壮烈に、文字通り神殺しの刃として存在意義を発揮する。 「いざ聞くがいい。これが勝利の号砲だ!」  放たれる極大の黄金光。その炸裂を前にして、蛇はまさしく無防備を晒しており―― 「面白い」  知らず呟いた彼は愕然とする。今、自分は何を言った?  面白い? 面白いだと? それはどういう感情だ?  厭わしくて堪らないはず。不愉快で仕方ないはず。  〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈失〉《 、》〈敗〉《 、》〈を〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈嘆〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈関〉《 、》〈わ〉《 、》〈ら〉《 、》〈ず〉《 、》――  ああ、なぜ、私はこんなにも、この戦いに悦を覚える?  美しいと胸が痺れる?  おのれ分からぬよハイドリヒ――なぜかどうしてどうやっても、この果てを見たいと切望する気持ちは何なのか。 「見せてくれるのか、私の真実が何なのか」 「然り、魅せよう。かつて共に誓っただろう」  我ら次にまみえるときこそ、願い叶える天地へと―― 「傍観するだけでは何も掴めん。 その重い腰をようやくあげた、今の卿こそがおそらくは――」  たとえそれが余人にとって、つまらぬ歌劇と言われようとも。 「卿もまた演者たれ。今さら還る舞台袖などあるまい!」 「ああ……」  そうだ、確かにその通り。  納得して、感激して、次の瞬間―― 「 」  おそらくは生涯初の〈戦慄〉《かんき》と共に、総ての星を凝縮させた。 「 」  ――暗黒天体創造―― 「ぬうううううぅぅゥゥッ――」 「おおおおおおぉぉォォッ――」  その激突は今や拮抗。この短時間にラインハルトは、紛れもなく全能の領域に達していた。己が代名詞とも言うべき暗黒の天体すら、呑み込んで支配するとその戦意が言っている。  ああ、いつも飽いていた。いつも飢えていた。生まれた場所を間違えたのだと、諦観して絶望していた。  その檻を、壊してくれたのは卿だ、カール。感謝しているぞ、礼を言おう。  何たる至福。何たる幸福。胸を満たす充足感に宇宙さえ弾けそうだ。 「私は今――生きているッ!」  たとえこの先何があろうと、私はもう迷わない。卿と交わす究極にして至高の情を、胸に秘めながら生きていこう。  忘れぬぞ。忘れぬぞ盟友よ。卿がいたというその事実は、“座”がどうなろうと残り続ける。誰にも侵させたりはせん! 「ゆえに滅びろ。勝つのは私だ! 新世界の開闢に散る花となれッ!」 「抜かせよ、散るのはどちらか知るがいい」  そうだ、いつも願っていた。いつも思い描いていた。始まりは何だったのかと、終わりが見えずに狂していた。  その永劫に、期間を設けてくれたのはおまえだ、ハイドリヒ。厭わしいぞ、礼を言おう。  何たる絶望。何たる愚昧。胸を満たす自嘲感に宇宙さえ弾けそうだ。 「私は今――生きているッ!」  たとえ億兆の間流離おうと、おまえがいなければこの思いを感じられん。おまえと交わす究極にして至高の情を、胸に刺さねば血が流れんのだ。  忘れぬぞ。忘れぬぞ盟友よ。おまえがいたというその事実は、“座”がどうなろうと残り続ける。誰にも侵させたりはせん! 「ゆえに滅びろ。勝つのは私だ! 女神の地平を生む礎となれッ!」  思えば――彼ら二人のどちらも気付いていないことだが、この〈恐怖劇〉《グランギニョル》は終始黒円卓の同士討ちと化している。  徹底して、揺らぐことなく、その結末は仲間割れが原因だ。  であれば、真に場を支配したのは誰だったのだろう。  蛇はヴァレリア・トリファの手柄と言った。なるほど彼の言上で黄金の父子は歪みだし、この対決まで導かれたと言っていいだろう。あれがなければ、こんなことは起こっていない。  では、そもそも、件の神父を動かしたのは何だったのか。  彼は誰のために生き、死んで、誰のために祈ったのか。  考えれば、即座に割れる。つまり最大の功は彼女の勇気。  これほどまでの超絶二柱を、意図的だろうが偶然だろうが共に滅する可能性を生み出したこと。  その選択に踏み切ったこと。  儚く、か弱く、決して賢しいわけでもない。  生まれながらに負わされた絶望の中、花弁一枚にも満たない質量だが勇気を示した。それが総ての天秤を崩したという現実だけがここにある。  まず、第一に目を閉じよう。  耳を塞いで、口を噤んで、呼吸を止めて微動だにしない。  心は石のように頑ななまま。  感じたくないものが多すぎて。  気付いてはいけない事実も多すぎて。  閉じた環の中だけでいい。その外側で回り続けていたモノなどは、ほんの僅かでも感知しないし、したくない。  そう考えていた彼女を動かした、決して誰にも譲れない一つの慕情。  死を想う呪いを超えて、救いたいと願った彼へ……この結末は捧げられるべきものだから。 「ふふふふふふふふ……」 「はははははははは……」 「ははははははははははははははははははははははははは―――!」  それを抱きしめたいと思う“彼女”も、当然の成り行きとしてここにいる。 「―――行くぞォッ!」  ゆえに、真の結末は女神の手へ。 「レン…… 大丈夫だから……わたし、ちゃんとみんなを包むから」  有るべき者を在るべき所へ。  狂の“座”とその自滅因子が、存在しなかった時空へと。 「ここでなら、きっとできる」  砕け散る二柱の咆哮に負けないくらい強く静かに、彼女は己が渇望を祈っていた。 気付けば、俺はその場所にいた。 「ぁ……ッ………」 辺りは一面の花畑。もはや出る幕はないと特異点から放り出されて、弾かれた先に待っていたのがここだった。 夢でも、現でもないと感じる。今、この場所は危ういほどに不確かで、ほんの些細なことで崩れ去ってしまう寸前だ。 それというのも…… 「ねえ藤井君……あれでよかったの?」 「……ああ、実際、ああするしかなかった」 特異点では、ラインハルトとメルクリウスの戦いが続いている。グラズヘイムの一角であるこの花畑は、言わば画布の上に置き去られた描きかけの絵だ。それが揺らいでいるということは、すなわち大元である本体が相当の消耗を強いられているからだろう。 やはり、奴らは実力伯仲。俺と司狼がそうであったように、ぶつかり合えば互いが互いを破壊する。 他ならぬ、あいつが示してくれた道だ。そうならないはずがない。 「……まあ、この手で決着つけられなかったのは悔しいけど、しょうがない」 「…………」 「そんな顔しないで、やれることやったんだから胸張りましょうよ」 「……うん、そうだね」 黒円卓の仲間割れによる全滅シナリオ……それが彼女の思い描いた道であるということ以上に、そもそも俺の流出を世界に広げる気なんかない。 だから特異点に落ちることで一度流れを止めた後、彼女と共に退場する必要があったのだ。そうしないと、どのみち俺は死なねばならなくなっただろう。 そんな道は選べない。だって他ならぬこの人に、一緒に生きると約束したから。 たとえ勝てても戻ってこれないんじゃ意味がない。ゆえにこれしかないと決めたんだ。 「先輩には感謝してる。俺一人じゃあ、どうやってもここまで持っていけなかったよ」 「私だって同じだよ。藤井君がいなかったら、そもそもあの場所までいけなかった」 現実問題として、奴ら二人を消し去るにはこの手しかない。土壇場で他力本願にならざるを得ないのは忸怩たる思いだが、俺の個人的感情を度外視すればもっとも有効な手だと言える。 「別に、全部一人で片付けられるヒーローなんかじゃないから、俺。悪い癖は、いい加減に直さないとね」 「何でもかんでも俺が俺がって、突っ走れば解決するなら、誰とも手を取り合えなくなる」 「それがあいつらだ。ぶっ飛びすぎて世界なんか創るほどだし……俺はそんな座に興味ない」 「うん。うん……本当に」 「今の藤井君のほうが、よっぽど私から見ればヒーローっぽいよ」 「おだてても何も出ませんよ」 「いいよ。本音だもの」 その評価には、少々どころじゃなく照れてしまうが…… まあ、何にせよあとは本当に神頼みだ。 俺が思う、もっともその座に相応しい人物……彼女の采配を信じて任せよう。 だから、今は自分達に出来ることを…… その気持ちは、先輩も同じだったらしい。 二人で共に、この場のある一点へと目を向けた。 「話は終わったか?」 「イザーク……」 そう、イザーク。こいつをどう扱うか。まだその問題が残っていた。 「初めまして、だな」 こうして見ると、なるほど確かにラインハルトと瓜二つ。シスターの息子で、先輩の祖父で…… この子供――と言うには語弊もあろうが、こいつが俺達を黙って行かすとは思えない。 「父様は負けぬ。私がいる限り絶対に、誰であろうと勝利は奪えん」 「おまえ達の思惑など、泡沫ですらない絵空事だよ。いずれ穴より溢れ出でるヴェルトールに呑み込まれ、溶けるのみだ」 「旧神など、笑止。言ったろう、テレジア。私は誰も逃がさない。総てを愛す」 「そう、父様と同じように」 「……………」 やはり、そういうことだろう。イザークはあくまでラインハルトの歯車だ。利害の一致でこの状況を作ることには協力したが、それは父の真なる望みを叶えるため。逆回転するなど有り得ない。 ならば、どうする? 戦いを挑むか? 出来るかどうかは不明だし、そもそもこいつの戦力は未知数だ。選択に躊躇する。 仮にイザークを斃せれば、ラインハルトの戦力は大幅に落ちるだろう。しかしタイミングを間違えれば、メルクリウスが残ってしまう。 かといって、このまま手をこまねいていれば即座に呑み込まれてしまいかねない。なぜなら俺を吸収すれば、ラインハルトはさらに強大なものになるだろうから。 退くか、進むか、逃げるか、勝負か…… そんな葛藤に揺れていた、まさに最中。 「ねえ、私達と来ない、イザーク?」 先輩は、いきなりそんなことを言い出した。 「は……?」 「…………」 俺のみならず、イザークも絶句している。当然だろう。何を言っているのか意味が見えない。 「だってあなたは、私のお祖父ちゃんなんだもの」 だというのにこの人は、当たり前のことだろうと言わんばかりに言葉を継ぐ。 まったく、全然、躊躇がなく……俺達はただ、彼女の理屈に聞き入るしかない。 「私は、藤井君のことが好き。ずっと一緒にいたいと思ってる」 「血筋とか、立場とか、よく分からない引力とか……そんなのどうでもいいくらい彼が好き。だから結婚したいの」 いや、結婚ってあんた…… 「式には来てほしいし、子供が産まれたら抱いてほしい。よければ、名前だって考えてよ。みんなに愛される子供になるように……」 「リザにも、同じ約束をしたけれど……彼女は今、ここにいない」 「あの人も、神父様も、ハイドリヒ卿を斃して子供たちを解放する道を選んだから……本当の天国に行こうとしてるから、戻ってきてほしいけど、戻しちゃいけない」 「自分達は、もう普通の人の一生分はとっく生きたって、きっと言う。いっぱい死なせたから、もう逃げないって絶対言う」 「だけど、ねえイザーク。あなたは誰も殺してないじゃない」 「歳だって、まだまだ普通な感じじゃない。たった六十歳と、ちょっとでしょう?」 「だから、私の家族になって」 「新しく出来る家族を、一緒に祝って」 「あなたがこのまま、ずっとこのままだなんて、私……」 そんなのは、辛すぎるから、と。 「一緒に行こうよ、お祖父ちゃん……」 「…………」 涙声で綴られる彼女の哀訴に、しかしイザークは頑として動かない。 ただ緩く目を閉じると、変わらぬ平板な口調で返すだけ。 「何を言っているのか理解不能だ。やはりおまえの頭は劣悪だな、テレジア」 「本当に黄金の血を継いでいるのか、疑わしくなるほどに」 「一言、くだらん。それしか言えん」 「でも……!」 「クラフトの代替。おまえもそう思うだろう。この娘の頭には、他者の都合というものがそっくり抜け落ちているらしい」 「え……?」 その時、俺と先輩が感じ取ったのは、いったい何だったのか。 もしも耳がおかしくなったわけじゃなければ、今のは苦笑の響きにしか聞こえなくて…… 「ああ、前言を撤回しよう。やはりおまえは、我々の血筋だよテレジア」 「他者など知らぬ。己の意のままにしか振舞わぬ。口に出すのは決定事項で、反発があろうとねじ伏せる」 「まったく、面倒な娘に見込まれたものだな。覚悟したほうがいい。逃げられんぞ」 「じゃあ……」 「去れ。もはや流出は成された以上、蜜月、刹那にすぎんがな。父様が勝利し、溢れる黄金に呑まれるまで、あと数分もなかろうが好きにしろ」 〈子宮〉《おまえ》など必要ない。〈心臓〉《わたし》さえいればいい。私さえいれば、問題ない。 言って、静かに息を吐く。それはつまり…… 「この場で、俺達を見逃すって?」 「そうだ。しかし勘違いはするなよ」 「ここでおまえを呑み込むために力を割けば、父様を窮地に追いやりかねん。上手くやれば必勝を決定付けるのだろうが、あまりにも博打がすぎる。賢い者の選択ではない」 「それに言ったろう。黄金は負けん。私はそれを信じている」 「今さらおまえ達ごとき、どうなろうと知らんよ。邪魔をする気がないのなら、座して死を待てばいい」 「では……」 そうして、この場を去ろうとする。その背を、先輩が呼び止めた。 「待って――」 「駄目なの? 本当に来てくれないの?」 「くどい」 それは常通り、機械的なほど冷徹な声で。 しかしこの時、イザークは…… 「これも何度となく言ったろう。私は総てを愛している」 「ゆえに……」 能面のような顔が、綻んで…… 「無論、おまえを愛しているよ。その道に幸あれ、テレジア」 「――――――」 僅かに、本当に僅かだけだが、気のせいじゃない。 「ヨハンも、母様も、私は憎んでなどいない。愛している」 「家族、なのだからな」 はにかむような、その微笑。 薄桃色に溶けて消えそうな、それは淡雪を思わせていた。 「ああ、では行きましょう父様。この世をグラズヘイムに塗り替えるため」 「どこまでも、どこまでも、私はあなたの傍にいる」 「未来永劫、永遠に、あなたの息子であり続けたい」 「共に、終わらない地獄へと……進軍するのだ」 〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を超えて…… 「待っ―――」 延ばした手は、しかし届かず…… 吹き荒れる花嵐の中、イザークは消えていった。 …………… …………… …………… そして…… 「なんだか、私すごい馬鹿みたいなんだけど……」 残された俺達は二人きり、薄れていく花畑の中で立っている。 「本当、頑固じじいって感じだよね。あんな顔して、可愛くないっていうか」 「きっと、あれだよ。今頃一升瓶抱えて、自棄酒煽ったりしてるんだよ。それが、とても、目に浮かぶ……」 「目に浮かぶ、から……」 そこから先は、お互い衝動のままだった。 「逃げられちゃった。また私、逃がしちゃったよぉ……」 「リザも、神父様も、綾瀬さんも、遊佐君も……」 「結局、全員こぼしちゃったよ。誰も掬いとってあげられなかったよ……」 「俺も……」 俺だって、悉くを失った。今だって、俺達二人の未来が約束されたわけじゃない。 「どうしよう、どうなるんだろう。私怖い、怖いよ藤井君……」 「待ってるしかできない。見ることもできない。いつどうなるのか、何も本当に分からない」 「ねえ、これってどうなの? 私達、全然決まってないよ。なんか脇役カップルだよ」 「こんなんで、ハッピーエンド来るのかな? それでいいと思えるのかな? 私分からなくて、分からなくて」 「怖いから……」 「もっと、力いっぱい抱きしめて」 「……………」 言われるまでもなく、抱き殺すような強さで俺は腕に力を込めた。彼女の震えを、たとえ無理矢理にでも押さえ込むことが出来るように。 ラインハルトとメルクリウスの勝負がどうなるか……それに総てが掛かっている。俺達には、ただ結果を待つことしか出来ない。 「信じよう……」 「何を? 私、どちらの勝ちも信じたくない」 「相討ちになるのも……都合がよすぎて……」 「だから……!」 強く、声を絞りすぎて喉が裂けそうなほど強く言う。 「俺達が選んだ道を、思い描いてる未来を」 「さっき、言ってたろ。結婚するんじゃないのかよ」 こっちの都合なんか聞きもせず、さも決定事項であるかのように彼女は言った。だったらそれは、絶対に揺るがない決まりなんだって信じろよ。 「口だけかよ、先輩」 「イザーク笑わせるためだけに、ギャグ言ったんじゃないだろうな」 「違う、けど……」 「でも、でもさ……」 「本当、結構くどいよな。先輩は……」 言って、さらに強く、だけど優しく抱きしめる。 「もっと明るいこと考えよう。たとえば熊本行って、地獄めぐりして」 「地獄めぐりは、大分だよ……」 「あれ、そうだっけ?」 「絶対、わざと間違ってるよね」 「くどいのは、藤井君のほうだよ」 ああ、だってこの人を、なんとか笑わせたかったから。 ギャグのセンス云々以前に、そもそもギャグにすらなっていないということなんかどうでもいい。 「とにかく、熊本旅行のことでも考えよう。今度はトリップじゃなくて、ちゃんと温泉入って、阿蘇山見て」 「浴衣姿の先輩とか、すごい見たい」 「えっちだね……」 「でもだったら、混浴だといいかも」 「いや、俺は他の野郎に先輩の裸を拝ませる気ないし」 「じゃあ、水着つけるよ」 「それだと俺が嬉しくないし」 「面倒な子だね」 そこでやっと、ようやく少し、氷室先輩は笑ってくれた。 「前のとき、邪魔者はいらないとか言っちゃったけど」 「今、すごく後悔してるよ。みんなで一緒に行きたかった」 「……………」 「その罪悪感が、消えないの」 「それは――」 「うん、分かってる。分かってるけど、しょうがないじゃない」 「藤井君だって、そうでしょう?」 問いに、俺は無言で頷く。 確かに、もはや手放しの大団円では有り得ない。俺達が歩いた道には、すでに幾つもの穴や亀裂、そして拭えない影が落ちている。 「自分達だけ、なんとかなりそうな可能性があるから失敗は棚に上げよう……そんなの、私の好きな藤井君じゃない」 「俺だって……」 そんなの、俺の好きな氷室玲愛じゃない。 「だから、面倒だよね私達、幸せになれないかもしれないよ」 「イザークには、ああ言われたけど……」 「ねえ藤井君、それでも幸せにしてくれるって……」 その先を、俺は言葉でなく態度で示した。 「ん――――」 強引に、貪るように唇を奪う。この人は俺のもので、俺はこの人のものなんだと証明するように。 「ぁ、―――んぅ……」 最初はびっくりしたように身体を強張らせていた先輩も、徐々に力を抜いてこちらの求めに応じてくれる。溶け合うような舌の熱さが、頭の奥を痺れさせた。 「く、は……もう、いきなりすぎ……」 「私まだ、話してる途中だったのに」 「先輩の話聞いてると、なんかすごい約束させられそうで」 「イザークも言ってたろ、覚悟したほうがいいって」 「ひどいよ……私をなんだと思ってるの」 拗ねたような声は無視する。 「あと、前にこのケースで、キス出来なかったから」 あのとき、香純たちを失ったから。 「もう、そんなことはないって証明」 「それと……」 今度は、俺が続きを言わせてもらえなかった。 「絶対だよ。絶対、もうあんなことはないって約束」 「逃がさないから……私、藤井君、ずっと捕まえてるから……」 「お願い。私を離さないで……」 こうしている間にも、審判の瞬間は近づいている。結末がどう転ぶのか、今は誰にも分からない。 特異点で起きた事象は、原則としてこちら側に影響を及ぼさない。ゆえにラインハルトが消えようとも、先輩が引きずられることはないだろう。魔城に取り込まれた身といえど、今は穴の外にいるのだから奴が消える分には問題ないのだ。 そしてそれと同様に、メルクリウスが消えてもこの世界は存続する。 だけど、俺はただ一つ、彼女に言っていない可能性があった。 “座”にいる状態のメルクリウスを消滅させるということは、そこに繋がっている者を文字通りの連座にする可能性…… すなわち、たとえば奴の分身と言うべき存在も、同じく旧秩序の発生源として消えるのではないのかと…… 「…………」 言えない。そんなこと言えるわけがない。 これはただの推測で、何の確証もないことで、事実がどうであろうと俺に打つ手は何もない。 だから、今は…… 「信じてるから……」 そう、信じよう。俺達が思い描いた未来を。 そして、今この場にいない彼女…… 俺が思う、もっとも“座”に相応しいマリィ……その采配を、その世界を…… 信じて、祈ることにしようと思う。  どれだけ求め続けただろう。どれだけ願い続けただろう。  どれだけ争い、どれだけ愛し、どれだけ死に続けてきたのだろうか。  永劫という単位をさらに永劫倍は繰り返した果ての果てに、彼は毎度の結末へと辿り着こうとしていた。 「ああ……」  目に映るのは、“座”すら砕け散った万象の欠片……煌く星々のような輝きに包まれて、彼は擦り切れた笑みを浮かべる。 「やはり、こうなってしまったか」  ここに来るたび痛感する。何と己の度し難い間抜けさであることか。そうした呆れの念でさえ、もはや何度目になるのかも分からない。 「違うのだよ、ハイドリヒ……私とおまえが争ったところで既知は晴れん。 ここが私の、これが私の回帰点だ。何も成せず、成そうとせず、己が自滅の因子と食い合い、消える。それが気に食わぬと言ってまた同じことを繰り返す。何度やっても、懲りんものだ。予感は、あったのだがな……」  卵が先か、鶏が先か、彼の流出、既知感が何処より始まったものなのか。  その答えはここに来なければ分からない。分からないゆえ、何度も同じ過ちを繰り返す。  ある日気付けば、世は既知に満ちていた。新鮮な驚きなど何もなく、知りつくした道の上を歩いていると自覚したのは、母の胎内だったかもしれない。  だから足掻いた。足掻き続けた。これは何なのか、どういう事象か、なぜ己は死ねないのか。  時間はそれこそ腐るほどある。特に非凡でもなかったはずだが、万年も生きれば超越するのが道理だろう。かつて黄金も言っていたではないか、止まらず走り続けていれば世界の一周や二周回れて然りと。  万象を悟った。“座”の概念を定義して、己に起こっている不可解な現象を推論だが見極めた。  どうも自分は、何処かで『光あれ』と言ったらしい。モーゼに十戒など授けた覚えはないのだが、とにかくそれと同種の存在であるようだ。 「馬鹿馬鹿しい」  ああ、馬鹿馬鹿しいとも。万能感に酔う少年の日どころではない。  まさしく誇大妄想に他ならず、狂人をさらに兆倍した思い上がりと蒙昧ぶりと言うべきだろう。  だがそれでも、その仮説を出した瞬間に気付いたのだ。  はて、私の身体……いったい何時からなくなっている?  母の胎内で既知を感じた。幼少時に家族を殺した。そんな記憶は確かにあるが、血肉を持って活動していた存在だという自覚がない。  そうだ何時から、何時の間に自分は影絵となったのだ? 他者が自分の姿を正しく認識出来ぬようになったのは何時からだ?  思うに、触覚だったのだろう。本当の己は常に“座”の中心で狂したまま、引きこもりのように何事かを願っていたのだ。  その渇望を満たすため、分身として触覚を生んだ。  その事実に気付いたため、ただの影絵と成り果てた。  己は人に非ずと知ってしまえば、実体など持たぬほうが選択の幅は格段に広がる。試さねばならぬことはまだ膨大に残っているのだ。  そして、次の万年。その次の万年。少なくとも有史時代に辿り着くまでそれくらいはかかったろう。だがやっていることは変わらない。  既知感の踏破。それこそが己の望みだと信じていた。  矛盾は、当然気付いている。自分はこれほど既知を厭うているにも拘わらず、万象を流れ出させたであろう〈本体〉《おのれ》は、その理を世界としているらしいのだから。  つまり、ああ、自分は飽いているのだと。  何代前のことかは預かり知らぬが、当時の己は低俗な知識欲にでも駆られていたに違いない。総てを知りたいと願い、総てが既知である世界を流れ出させた。おおかたそんなところではあるまいか。  回帰点が何処にあるかは不明だったしどうでもいい。ただ自分は間の抜けた馬鹿者で、自らの渇望に責め苛まれている道化であるに違いないと。  ゆえに一刻も早く終わらせて、死ぬことを至上命題にしている今があるのだと。  そんな短慮。思い込み。毎度毎度ここに来るまで気付けない。まったくもって滑稽なり。 「なぜなら今が、私の流出の起点なのだ」  この結末が気に食わぬから、やり直したいと渇望している。その狂おしい思いが消えぬ限り、永劫回帰は終わらない。 「諦めることが出来れば、よいのだがな……」  もういい。飽いた。止めにしよう。そんな諦観を許容できれば、このまま朽ちることも可能だろうに。 「もう一度、あと一度だけでも……」  その愚かな思いを捨てられない。 「口惜しいのだ。次こそはという妄執を切り離せん」  ゆえにこれより、都合何度目になるか分からぬ流出が始まる。この結末を回避するため、再度母の胎内に還るのだろう。既知の毒に苛まれながら…… “座”には時間の概念が存在しない。流出した己がその果てに流出を行うという矛盾すら認められる。  まさに卵が先か鶏が先か。  万象の根源であるこの場所で、既知感に慟哭する己がいるというのが事実の総てだ。それをもって流れ出すやり直しの渇望が、自分を牢獄に捕らえ続ける。 「ふふ、ふふふふふ……」  まさに道化だ。またしても苦痛に満ちた道を歩こうとしている。  いい加減に擦り切れればいい。  いい加減に目を閉じればいい。  ああ、あるいは、自分と同じく今もこの場を漂っているだろう盟友と、永劫戯れ続けるのも有りではないのか。 「何処にいる、ハイドリヒ。今のうちに私を殺さねば、元の木阿弥だぞ。 私を破壊するのだろう。破壊してくれよ。自分では死ねない。 私はつまらぬ男なのだ。行く道が地獄と知りながら歩を止められん。 ゆえに、なあ、頼む友よ。早く私を……」  この苦しみから救ってほしいと思いながらも、しかし流出は始まりかけている。真実の渇望は呆れ返るほど頑迷で、さらなるやり直しを止められない。 「無為か……では万年を数度越えた先でまた逢おう。 私はおまえを見つけ出す。ゆえにおまえも私に気付いてくれ。 次に我が望みが外れたとき、今度こそは殺してくれよ」  そう、願いながら…… 「許されよ、愛しの女神……次こそは……」  砕け散る身体と共に、目を閉じようとした瞬間だった。 「そうやって、あなたはまたわたし達を弄ぶの?」  何処からか、彼を呼ぶ少女の声が。 「カリオストロ」  流れ広がろうとする男の身体を、その一言で止めていた。 「―――――――――」  瞠目する。何が起きたのか理解できない。なぜならこんな展開は知らないのだ。 「ぁ、……ぉ………ぁ………」  ゆえに、今の彼は無垢な少年であるかのごとく、人生初の感情に驚愕している。 「なぁに、わたしが来たらいけなかった?」 「いや……しかし………」  口は相変わらず回らない。彼を知る者なら皆が異常事態と言うだろうし、事実その通りだった。 「君は、自己の世界に還ったのではないのか?」  蓮は特異点から放り出された。ゆえにこの少女も黄昏に戻ったのだと思っていた。  どのみち覇道の流出は、一色でしか成されない。彼にとって新世界を描く色は決定しているのだから、蓮とラインハルトには消えてもらわねばならないだろう。  二人を相打たせる未来が困難になったなら、自ら出張るしか法はなく……  それが、自己の回帰点だったと今気付き……  自嘲して、絶望して、呆れ返って嗤いながらやり直しを選択する。  そんな、惨めな結末だったはずなのに…… 「わたし、あなたに怒ってるんだから」  語りかけてくる少女は、拗ねたように眉を顰めながらそんなことを言う始末。 「みんないなくなっちゃった。みんな駄目になっちゃった。そんなことを繰り返させたりなんか、しない。 だからやりたいことをやるの。ずっと役に立たなかったわたしが、できることを、やりたいように」 「あなたの思い通りになんかさせないんだから。言ったでしょ? 怒ってるんだって。わたしはもう、誰も辛い目に遭わせたくない。 レンや、カスミや、シロウや、センパイ……みんなの気持ち、みんなの願い、守って、包みたいと思うから。 二度とこんなことがないように」 「……………」  では、なんだ? 言葉の意味を理解するまで幾許かの間を要し、ようやくそれを呑み込めて…… 「ああ……」  気付けば、頬を涙が伝っていた。 「え、なに……?」  今度はマリィが事態を理解できない。いきなり泣きだした男を前に、どう反応していいか分からなくなる。  悔し涙ではないだろう。悲しいわけでもないだろう。苦しいわけでも辛いわけでも、まして痛いわけでもないのは分かっている。  だけど、ならばこれは随喜の涙か? しかしなぜ? 「わたし、あなたの邪魔をするって言ってるんだよ?」  絶望させようと思っていたわけではないし、断末魔の悲鳴が聞きたかったわけでもない。  いくら怒っていると言ったところで、マリィにそこまで負の感情はないのである。そういう性分だし、渇望だし、何よりこの男を心底嫌っているわけでもない。  彼は悲劇を演出したが、それがなければ今の自分はいなかった。蓮にも、他のみんなにも逢えなかった。  そういう事実は事実として、悔しいけれど弁えている。  でも、だからこそ彼にはちゃんと分かってほしいと思っていたのに。  自分の気持ちも、みんなの気持ちも、そして彼がしたことも……  喜ばせようと思って来たんじゃないのに。 「ああ、分かる。よく分かっているよ、マルグリット。 だが許してくれ。これが私の偽らざる本音だよ」  誇らしげに、謳うように、いつもの慇懃無礼さを取り戻して彼は言う。  悔いなし、と。笑みを浮かべて。 「君に抱かれて死にたかった」  それこそが、永劫を永劫倍繰り返してまで、辿り着きたかった終焉。 「この時だけを夢見ていた」  ゆえに他の終わりなど認めるわけにはいかなかった。 「ありがとう。君の望みは私の望みだ。総てを託そう、新世界の女神よ」 「……………」 「不満もあろうがね。だが否応もあるまい。 私を放置すればお望み通り絶望しよう。だがその断末魔で、永劫回帰が流れ出す。それでは、困ろう?」  からかうようなその目と、口調に、マリィは俯いたまま肩を震わせ…… 「あなたって、本当に……」  花が咲いたような顔で、微笑んでいた。 「最低の人」 「よく言われる」  ああ本当に、この男だけは性質が悪い。  生きていようが死んでいようが、成功しようが失敗しようが、必ず誰かを困らせるのだ。ろくなものじゃないだろう。 「君と過たず出逢うため、ただそれのみを渇望して私は回帰する理を流れ出させた。一本道ゆえに結末を変えるのは困難を極めたが、何度失敗してもいい。地獄の苦痛に擦り切れても構わない。 それでも私は、マルグリット……君に出逢わない可能性を生み出したくはなかったのだ。出逢うことなく、すれ違うなど……」 「そんな生は、一度たりとも経験したくない。 君と出逢う。ただそれだけが、唯一私の愛した既知。 この終わりに辿り着くまで……何度でも感じたいと思った刹那の記憶なのだから」  傍迷惑とも異常者とも、なんとでも言うがいい。自分は自分の望むまま、誰よりも真摯に生きただけ。  その結末をこれより迎える。何ら恥じることなどない。  ゆえに、もう一度だけ言わせてほしい。 「あなたに恋をした」  君は知るまい。すでに鼓動すら忘れたこの影が、あのときどれだけ高鳴っていたかなど。 「あなたに跪かせていただきたい、花よ」  さあ、だから、我が女神よ。 「いずれ必ず」  私が必ず。 「あなたを解き放ってみせると誓う」  あなたは新世界を包む女神の器だと信じるがゆえに迷いはない。 「この私に、終焉をくれ」 「うん……」  頷き、マリィの手が伸びる。ゆっくりと、労わるように、擦り切れた男を包むように…… 「でも、勘違いはしないでね。勝ったのは、わたし達。 頑張って、傷ついて、それでも折れずに立ち上がって……この結果を勝ち取ったのはレン達の力。 あなたに、それだけは分かってほしいの」 「ああ、君らは最高の役者だったよ。ゆえに幕を下ろすときだ」  微笑んで、永劫の永劫倍“座”に在り続けた道化師は…… 「〈芝居は終わりだ〉《アクタ・エスト・ファーブラ》」  愛しの歌姫に抱きしめられ、ついにその生涯を終えたのだった。  そう、他ならぬ彼自身が言ったこと。  万人に都合の良い結末を求めるなら、過程に女子供の夢物語は入り込めない。  であれば、これほどまでに数多の嘆きと失敗の果てに辿り着いた結末こそ、真に輝くものでなければならないだろう。  マリィは分かっている。ちゃんとそのことを分かっている。  誰にも触ることが出来なかった彼女だから、その“座”は総てを包む慈愛の渇望を流れ出させる光となるのだ。  それこそが、真実の結末。  二度とこんなことが起きないよう、女神に抱擁された新世界の色なのだから……  それは幻。  永劫に回る既知が消え、新世界の色が流れ出す刹那に生じた泡沫の出来事。  今、まさに万象が塗り替えられんとする“座”の中心で、玲愛は有り得ない夢を見る。 「卿らの勝ちだ」  柔らかな笑みを湛え、己を見下ろしてくる黄金の瞳。つい先ほどまで自分は彼の腕の中にいたはずなのに、なぜこの人がここにいるのか分からない。 「不思議かね? だが案ずるに及ばん。この場を設けられたのは彼のお陰だ。今の私はその恩恵に支えられているだけの陽炎にすぎんよ。もはやこの先、卿と会うことは二度とあるまい」  この一瞬、この一点、総ては絵画のように時を止める。  それが黄金の成した理でないことだけは、玲愛にもまた分かっていた。  なぜなら彼は修羅道で、蛇は回帰だ。特異点を生じさせ、“座”まで達した理のうち、上記二つはどれもこの〈刹那〉《いま》を生み出せない。 「残滓……彼の渇望の名残だな。ゆえに了解を得たわけでもないが、構うまい。イザークの継嗣、すなわち私の末裔である卿と語らう最後の機会だ。よもや家族の別れに異を唱えるほど、彼は無粋でも狭量でもないだろう。愛い子だ、テレジア。その勇気に敬意を表し、礼を言おう。私は満たされたよ、負けを認める。不満がないわけでもないがね、しかしこの身は救われた」  淡々と、それでいて朗々と、謳うように語る黄金に手を引かれ、玲愛は異空の舞踏場で放心する。  ここは城だが、地獄と呼ばれたグラズヘイムの中ではない。耳に流れてくる管弦楽も、死者の総軍が奏でる怒りの日ではなくなっていた。 「私の辿り着いた道の果て……少年の夢想が行き着く結末としては、過分に上等なものだと思わんかね?」  今より再構築され、新たに流れ出す女神の世界……彼女が総てを抱きしめたその刹那に、ここは時を止めた領域なのだ。ゆえに皆がここに在る。 「遊佐君、綾瀬さん……」  見えないけれど、彼らはいる。玲愛にはそれが感じられる。 「私の爪牙、私の鬣……」  総て、総て、総てはこの一点に。  彼が愛した美麗の刹那に存在するのだ。 「我らは我らの現実に還るのだろう。卿は卿の現実に生きよ、テレジア。それを言いたくてな。おそらく彼も同じ気持ちなのだろうよ」 「カール・クラフトは……?」 「さて」  問いに、黄金は苦笑しつつ首を振る。 「居るのだろうが、目に入らぬよ。あれと私はもはや同位に存在できん。既知が消えればラインハルト・ハイドリヒは獣でなくなる」  同格、同種、逆しまの合わせ鏡であるがゆえ、蛇の終焉は黄金から幻想という光を奪い去る。これより現実となる彼の目に、件の影絵が映らないのは道理だろう。  だから当然、玲愛にもそれを見ることは出来なかった。  すぐ近くにいるかもしれない。触れ合うほどの近距離に、カール・クラフトという虚像を投影していたモノがいるかもしれない。  だけど見えず、聞こえず、旧世界の万象はすでに過去のものとなっていて…… 「聞かせてください、ハイドリヒ卿」  玲愛は、ここに至った物語を知りたいと思った。  自分が望み、彼が願い、彼女が包んだ勝利とは、いったいどのように成されたのか。 「忘れてしまうかもしれない。意味がないことかもしれない。だけど刻み付けておきたいんです。私たちの選択を……あなたの敗北を、教えてください」 「ああ、構わんよ」  自らの負けを語れと言う懇願に、ラインハルトは穏やかな目で頷いた。破壊と超越の戦争を、黄金と水銀の友情を、獣と蛇の激突を玲愛は知らない。  大好きな彼と生きるため、生きてずっと一緒にいるため、喰らい合う二柱の交情に関わってはいけなかったから。  そうしなければ、彼は戻れなくなってしまうから。  自分の勝利は、彼がいない世界じゃない。  そのために二人で選んだ、ともすれば他力本願とも言える道。  賭けに自分達が勝ったなら、それを知るのが権利であろうと玲愛は思う。 「あれは何とも馬鹿馬鹿しく、そして我が生涯最高の歌劇であったよ」  そして無論ラインハルトも、結末を語るのが敗者の義務だと弁えていた。 「カールは私が知る何より強く、同時に滑稽な男でな……」  どこか愉快がるように彼は呟き…… 「私も止めるに止められなかったよ、マルグリット」  やはり可笑しみを滲ませて、蛇は友との戦いを回想していた。 「正直な話、かなり早い段階から嫌な予感はあったのだ。君が彼に成り代わり、矢面に立ったあの時からね」 「わたしがレンを眠らせて、あの三人と戦った時?」 「そう。どうも主演が、舞台から出て行く前兆めいていてね。 それは良くない。彼には是非我が友と、覇道の激突を実現してもらわねばならないだろう。だからつい、魔が差してね。介入してしまったよ、主義ではないのに」 「センパイが、神様助けてと言ったから?」 「君が何でもするなどと言うものだから」  思わず、本当に衝動で、傍観者である身から逸脱した。振り返ればあれこそが、続く総ての発端になったのだろうと蛇は言う。 「一度踏み越えてしまえば、雪崩式でね。以降は悪手の連続だったよ。……ああ、彼は何といったかな」 「シロウ?」 「彼を動かしたのが致命的だったね。私は己が代替とその自滅因子が食い合う様に魅せられた。実に象徴的な出来事だろう。続く展開をこれ以上ないほど暗示している。後はもはや必然の流れだ」  〈劇終の瞬間〉《アクタ・エスト・ファーブラ》へ……転がり落ちていく既知世界の自壊という結末は変えられない。 「君の言った通りだ、マルグリット。私の負けで、勝利したのは君ら。潔く膝を折るしかあるまい」 「そのわりに、全然悔しそうじゃないのが少し頭にくるんだけどね」 「納得のいく敗北であれば笑うさ。至極当たり前のことだろう?」  おどけたような言い草に、マリィは呆れつつ溜息をつく。  この男の性質の悪さに対する諸々は、もうどうしようもないので諦めた。ついさっきまで泣いていたくせに可愛くないなと思うけど、彼が負けを認めるのならそれでいい。これが最後になるのだから、出来れば双方笑顔で別れたい。 「レンに感謝してちょうだいね」 「ああ。しかし彼は、本当に徹底しているね。今この時でさえ姿を見せぬ。意地でも“座”には関わらぬという意思表示かな」 「あなたを見たら、ぶっ飛ばしたくなっちゃうからでしょ」 「さもあろうし、君を信じているからだろうね」  女神の采配を、新世界の色を、誰よりも信じているからこそ彼はここに現れない。ただ己が渇望の残滓のみを生存の証明として漂わせ、主演の座はあくまで彼女に譲るつもりでいるのだろう。 「私が言えた義理でもないだろうが、引き篭もるのが好きなことだよ。負け惜しみとして、これくらいの悪態は叩いてもよかろう?」 「うん、許してあげる」  そこについては、マリィも正直同意見であったから蛇の軽口を諌めない。頼りにしてくれて嬉しいけれど、その絶対に折れない方針は別の女性のためであると分かっていたため、少し腹立たしい気持ちもあったのだ。  すなわち、この結末を確信して揺るがないこと。 「あなた達が戦えば、間違いなく相討ちになる。レンはそれが分かってたんだよ」 「なぜなら、私とカールは相剋の関係だ」  ゆえに相討つ。そは必然であったと黄金は語る。  既知世界の総軍は膨大すぎた。まさしく天地開闢以来に発生した総ての魂……本来なら、いかに黄金と言えども質で補えるような差ではない。 「それを斃せたのは、彼があなたに討たれたがっていたから?」 「然りだ、テレジア。あの戦いが始まった時点で、カールは自壊の衝動に負けていたのだ。自覚があろうがなかろうが、我らが対峙するとはそういう状況を指すのだよ。だから彼は斃される」 「そして、自滅なら〈あなた自身〉《アポトーシス》も引きずられる」 「私と彼の争いは、そういう決着しか生み出さない。笑い話だろう、マルグリット。しかもそうなった後でしか気付けないのだよ、我々は」 「あなたの渇望が、そういう形をしているから?」 「君に出逢った日の感動を、事前に予見したくなどなかったからね」  無粋なネタばらしは不要である。自分がたった一つ愛した既知を、その刹那に最大の衝撃として味わいたい。  そう言いながら女神の手を取って踊る彼は、ゆるゆるといつもの口調で話し続ける。 「前もって分かっていたのでは興が削がれるだけだろう。お陰で幾度となく同じ過ちを繰り返したが、後悔などしていないよ。もう一度、君に感謝を、マルグリット」  結びを恭しく丁寧に、声を落として蛇は告げ。 「理解したかね、テレジアよ」  微かに自嘲を浮かべつつ、黄金は説明を終えた。 「じゃあ……」 「だったら……」  マリィは、玲愛は、それに一つの疑問を投げる。意味のない問いで、ただの仮定。だけど敗北を認めながらもなお不敵なこの二柱を、少し困らせてやりたかった。 「あなたと彼は絶対に相討ち。そうとしかならない」 「それは分かったけど、違う相手だったらどうなのですか」  もしもの話。今の自分に不満があるわけではないけれど、マリィは胸に芽生えた淡い気持ちに一つの決着をつけたくて。  玲愛は自分の我が侭で取り零してしまった友人達に、別の可能性があったかどうかを知りたくて。  黒円卓の総同士討ち……  その流れが起きなかった場合は、つまり…… 「レンなら」 「藤井君なら」  どうだったのか? 「あなたに勝てた、カリオストロ?」 「あなたは勝てましたか、ハイドリヒ卿?」  期せずして同じ問いを受けた黄金と水銀は、一瞬だけ押し黙ると、まったく同時に答えを返した。 「私は負けんよ」  それは、さも当たり前だろうと言わんばかりの言い様で、男なら誰もがそうするに違いない、意中の女を前に見栄を張る態度そのもので。 「ふふ、ふふふふふ……」  マリィは可笑しくて笑ってしまう。 「自信満々に言うんですね」  玲愛は呆れたように肩をすくめる。 「やっぱりあなた、一度けちょんけちょんにされた方がいいと思うな」 「それは私に、人として生をやり直せという意味かね? 勘弁してくれたまえよ、そんなことをされたらまた君に逢いたくなってしまうだろう」 「私のお婿さんは手強いですよ。血筋なんか全然気にしないんだから」 「イザークに交際を認められたせいで強気かな? 笑止、私はあれほど甘くないぞ」  当の本人が聞いていたら、何を勝手にと言うだろう。しかしマリィにとってはつれない彼への当てこすりで、玲愛にとってはただの惚気だ。二柱はどこまでも彼ららしく、絶対の自負をもって少女達に応えている。 「あなたが何を言ったって、わたしはレンが勝ったと思うよ」 「藤井君が戦ってたら、今頃あなたはお星様になってたはずです」 「それはそれは」 「是非試してみたいな」  笑う彼らに邪気はない。  しょせん意味のない仮定だし、意味のあるものにしてはいけないことだ。この結末こそを現実として受け止めなければ、それこそ彼への裏切りになる。玲愛もマリィもそこはしっかりと弁えながら、だけど自分が口にした予想は間違いないと信じていた。  当然、ラインハルトもメルクリウスも、この今を覆そうとは思わないしその力もない。彼らは負けて、“座”を追われ、それぞれ在るべき場所へ還るのだから。 「マルグリット」 「テレジア」  ゆえにこれを、最後の問答と定めて二柱は訊いた。少女達が強く想う彼のことを。 「あの頑固者、君はどう扱うつもりだね?」 「卿は知らぬだろうが、あれには現実が二つある」  藤井蓮という名の少年は、確かに一つの現実だがその立場はただの〈役割〉《パルス》……本来存在しないはずの稀人でしかない。彼の根幹たる正当な現実は別にあるのだ。 「君はあれを現実に帰すと言い、それを慈しみ抱きしめることを祈った。ならば私の代替である〈藤井蓮〉《ツァラトゥストラ》には戻せまい」 「生きる時代が違うのだ。女神が彼の願いに真摯であるほど、カールの手が入った立場では歪みが生じる」 「ゾーネンキントとは共に歩けん」 「おそらく、逢えぬぞ」  その、ともすれば絶望を告げているとしか思えぬ言葉。二柱に少女らを嬲る意図はないものの、事実はそのようになっている。 「君が彼を愛しているなら、そうした采配も有りではないかと私は思う。君の手に入らぬのなら、むざむざ別の女に渡すことなどあるまいよ」 「女神の嫉妬、独占欲……古今それは、英雄たるものを束縛する。可能性として十二分に有り得るのだが、どう思うねテレジアよ」 「…………」 「…………」 「さあ」 「答えを、私に聞かせてほしい」  問いに、マリィと、そして玲愛は。 「信じているから」  短く、きっぱりと返答した。 「現実が一つしかなくて、ずっとそこから出られないのはあなたの世界でしょう、カリオストロ」 「カール・クラフトの“座”は終わった。だったら可能性は無限に広がる」 「レンの本当の現実は無視できない。ええ、確かにその通りだし、そこはわたしも分かっている」 「藤井君の現実が、いつのものかは知らないけど、それが終わっても先に進める。もう巻き戻ったりしない。私も、彼も、ずっとずっと……」 「そうしていけば、いつか逢えるんじゃないのかな。レンも、カスミも、シロウも、センパイも、そして出来ればこのわたしも……みんな一緒になれる時が」 「きっと来るって、信じてる」 「わたしにそれが出来るんだって、信じてる」 「だから――」  同時に、玲愛とマリィは言っていた。 「怖くないよ」  強く、揺るぎない声で紡がれた意志。その心を受け止めて、二柱は深く頷いた。  感服したよと、降参の意を示すように。 「なるほど」 「ならばそう信じるがいい」  女神の“座”はまだ産声を上げてすらいないほど幼くて、精妙な因果の操作は困難だろう。先へ進み続ける転生のサイクルで、同時間軸上に彼を並ばせられる保証はない。  十年か、百年か、何代巡れば成就するのか分からないゆえ、蛇は思った。口には出さず、心の内で、この眩い女神に何かしてあげられることはないのだろうかと考える。  しかし代替品の因果には手を出せない。あれに己が関わることは、彼らの勝利を侮辱する行いだ。  であれば、そもそも自分の十八番である他力本願でいくしかない。無粋な行いかもしれないが、あまりに女神が可愛らしいので老婆心が疼くのだ。  消え去る間際、気づかれぬよう、要らぬお節介をさせてほしい。 「なあ、おまえはどう思うハイドリヒ」  姿は見えず、声も聞こえず、だが間違いなく傍にいるだろう友へと呼びかけた。  私はそうしたいと思うのだが、もしも同意見ならそちらに任せてもよいだろうかと。 「ああ、異論はないよカール」  呟くその独白に、何事かと目を丸くする玲愛の反応を見て彼も決めた。  それを果たす機会があり、自分が覚えていたなら手を貸そうと。 「何を……」 「言ってるの?」 「何でもないよ」 「瑣末なことだ」  訝る少女らに目を落とし、彼らは心の中で膝を折る。徐々に薄れていく永遠の中、消える二柱が刹那の終わりを告げていた。  そして…… 始めの感覚は、何かよく分からない頭痛だった。 「む、ぬ………」 なんだこれ。どういうことだこれ。妙に頭が重くて痛い。 まるで私のこめかみ目掛け、小人さんが除夜の鐘を突いてるようなガンガン具合。煩悩退散もいいけれど、百八発も食らったら私の頭蓋骨ぱっくり割れちゃう。だからお願い、手加減して。 「ぬ……ぐぉ……」 全然してくれない。どうやら小人さんは仕事熱心であるようだ。それはそれで素晴らしいなあ、感心だなあと思うけど、彼らは場所を間違えていると思うのだ。 「ここは、お寺じゃ……ない」 教会です。教会ですから。あと、大晦日までまだもうちょっと日にちあるから。 やめて。痛いから。洒落なってないから。さすがにそれ以上は、おい、こら。本当、そろそろ勘弁してください。 「あぁ、あぁ~~~」 ホラー映画のような呻きを漏らして頭の向きを逆にするけど、まったくこれっぽっちも効果がない。 しつこい。しつこいよ小人さん。いったい私に、何の恨みがあってこんな仕打ちをするのです。 ガンガンガン。 ゴンゴンゴン。 スガンゴバングバンドガンバガングシャンガラガラバッキーン。 「…………」 途中、変な効果音が入ったのは、私の精神状態を表している。 つまり。 「あああぁぁぁ、うるさい! いい加減やめないと焼き鳥にしちゃうよ!」 叫んで、私は飛び起きていた。 「うっ……ぐおっぷ……」 とたんに襲い来る目眩と、激しい吐き気。そして目の前には、小人さんならぬワインとシャンパンと日本酒とブランデーとウィスキーとビールの空き缶・空き瓶がごろごろと。 「…………」 ああ、なんだろうこれ。何やってるんだろう、私。自分の現状を客観視したくない。 客観視したくないのに…… 「ふにゅ~、もにゃもにゃ………」 「ぐぉぉ~~、が~~」 「ん~、だめよ、ボンサックは百円玉じゃ倒せない……」 「打て、そこ、もっと、そう……ふふふふ……やっぱり十年早いわね」 「…………」 目の前に、というか眼下にだけど、死屍累々横たわっているようです。 私は少し考えて、ティーポットの中にタバスコを大量に落とすと、水を入れてよくかき混ぜる。なかなかいい色になってきたので、そのまま『神の庭師』という名の一発芸を披露することにした。 さあ、このマジックウォーターの前では、どんなにくたびれた花でも一瞬にして元通りとなること請け合い。 「花さかじいさん!」 魔法の言葉を口にして、私は屍たちを蘇生させた。 うん。それぞれ悲鳴に個性があってよろしい。特に櫻井さん、顔に似合わず可愛い感じが出ててナイス。 「ちょっと、いきなり何するんですか!」 「あぁぁ、あたしせっかく、これから特大七面鳥にチャレンジするところだったのに」 「あー、えーっと、おはーっす。センパイ」 「はい、おはよう」 何か、まだ約一名ほど目が目が言って転げまわってるのがいるけど、それはどうでもいい。 「どうでもよくねえよ!」 「私何も言ってないけど」 「目で分かんだよ。なんでオレだけ顔面ピンポイントで責めんだ、あんたは」 「さあ、なんでだろう。キミの顔見てたら、わけもなくイラっときたから」 「チンピラかよ、この人……」 「あんた何かやったんじゃない?」 「してねーし。されてんのオレだし」 「先輩、私の髪がなんだかギトギトしてアグレッシブな刺激臭を発してます」 「うわっ、タバスコ臭っ」 「二人には洒落っ気がないから私からのプレゼント」 「いらんわっ!」 「ていうかさあ、みんな潰れてたみたいだし、起こすのはいいけど手加減してよ。頭痛いんだから、ほんと」 「早起きは三文の徳」 「意味が、まったく、分かりません」 「たぶんね、自分が一番最初に起きたから、他の奴らはさらに悪い寝覚めを経験するべきだと言ってるんだよ」 「ただの根性悪い奴じゃないの」 「そうだ。あんたはその胸と同じくらい情が薄い」 「じゃあ遊佐君の大事なところを三倍くらいのサイズにしてあげようと思う」 「――て、いやいやいやいや、そんなヤバイもん持ってにじり寄ってくんなセンパイ」 「本城さん、押さえなさい」 「あ、うぃーす」 「あと、そこの怪力コンビも」 「……ねえ、遊佐君、本当に何か恨み買ってるんじゃないの?」 「さあ、でも司狼だからなぁ~~」 「早く」 「あ、はい!」 「うぉぉぉぉい、なんだおまえら、集団痴女かぁぁ!」 「ちょっ、こら、暴れんな馬鹿」 「櫻井ちゃん、ほら早く、チャック下ろして」 「う、うん……(ごくり」 「頬赤らめてんじゃねえぇぇ!」 「いや私も、実にドキドキするよ」 「何と言うかね、遊佐君。キミはどこかで一回くらい、徹底的にいたぶられるべきだと私は思うの」 「そうしないとバランスが取れないような、色んな方面の溜飲が下がらないような……」 「まあとにかくそんなわけで、私はキミの股間に花さかじいさんする」 「何がそんなわけで、なんだよ。わけ分かねえよ、電波飛ばしすぎだっつーの、母星とチャネリングするのやめてくれよ花さかじいさんとかふざけんなよむしろ使いもんになんなくなるだろ枯れ木になるわボケーーー!」 「やーでも、これって結構夢のシュチエーションなんじゃないの?」 「美少女四人に囲まれてねー」 「何処に、美少女が、いるんだ、死ね!」 「…………」 「隊長、櫻井ちゃんがチャックに触れられずぷるぷるしてます」 「乗り越えなさい。それを乗り越えて女は一つ強くなる」 「……はい」 「何を使命に目覚めたみてえなシリアス声で頷いてんだコラァッ!」 「だいたい、そもそもおまえらなあ――」 「うるさいな。もういいから始める」 本当に自分でもよく分からないけど、遊佐君はいじめておきたい。そうしないと釣り合いが取れない。 だって、このままじゃあ、あんまりにも…… 「女四人もいるなら女同士で遊んでろよ。わざわざ男一人のオレを呼びつけんな、居心地悪すぎんだろーが」 「―――――――」 「あ、あれ? どったの先輩?」 「なんか、固まっちゃってるけど……」 「具合、悪くなったんですか?」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「あ、いや、なんだ。オレの方ものこのこ来といて、文句言えた義理じゃねえ、よな?」 「…………」 「ちょっと司狼」 「本当に何も後ろ暗いことはないんでしょうね」 「今なら大目に見てやらんこともないよ」 「て、違ぇよ。マジなんも知らねえし」 「そんなこと言っても、あんたねえ」 「さすがにちょっと信用できないかも」 「もう、ほれ。ゲロっちゃいなよ」 「だから――」 「ごめん。なんでもない」 「へ?」 「あの……」 「ほんとに?」 「うん。もういいから。遊佐君を放してあげて」 「…………」 「…………」 「…………」 「なんだよ。このいかにもオレが悪いみたいな雰囲気は……」 「だからごめん。気にしないで。本当に何でもないから」 そう。何でもない。何もおかしくない。さっき感じた違和感が何だったかなんて、自分でもよく分からないし。 「朝からばたばたさせて悪かったね。私片づけするから、交代でシャワーでも浴びてきたら? 汚しちゃったし」 「はあ、それはどうも、お気遣いいただいて」 「いや、いいよ玲愛さん。散らかしたのはみんなでなんだし」 「クリスマスパーティとか初めてだったから、ちょっと浮かれすぎました。私も片付け、手伝います」 「それに先輩、確か今日は誕生日だろ?」 「うん。まあ、そうだけどね」 昨日、イヴが終業式だった私達は、そのまま誕生日会兼クリスマスパーティという名目で、ほぼ夜通し飲んで騒いでを繰り返した。 それは覚えている。よく覚えているし嘘じゃない。 だけど…… 私の〈再従姉妹〉《はとこ》で、一つ年下の香純ちゃん。 その幼なじみの遊佐君。 家がおっきい病院の本城さん。 そして、実はブラコンの櫻井さん。 それに私を交ぜた合計五人は、結構前からの仲良しで、何をするにもだいたい一緒に行動している。だから今の状況も普段通りで…… 何も、全然おかしいことはないはずなのに、どうしてか物足りなさを感じたのだ。ここに誰かがいないような……そんな気持ちを…… 「ほら、だから片付けはパーっとあたし達がやっちゃうから、玲愛さんは先に準備しててよ。すぐ行くから」 「あー、そういや、曾お祖母さん? の命日でもあるんだっけ?」 「そう。あたしにとっても同じだからさ。一緒にお墓参りしに行くの」 「ふーん。だったらオレも付き合うぜ。いいだろ、別に」 「よければ、私もいいかしら」 「へ? いいの? なんかこう、言っちゃ悪いけどあんま関係なくない? そりゃあたしとしては、大勢来てくれたほうが曾お祖母ちゃんも喜ぶだろうと思うけど」 「まあ、なんかな、そんな気分なんだよ」 「私も、上手く言えないけど」 「エリーは?」 「先輩がいいって言うなら、あたしも行きたいけどね」 「だって。どうする、玲愛さん」 「…………」 断る理由は、特にないし。 「いいよ」 私はそう答えて、お墓参りの準備を始めることにした。実際、大人数だから問題があるなんてことはない。だって彼女が眠っているのは、〈教会〉《ここ》のすぐ裏なのだから。 シャワーを浴びて酔いを醒まして、近場からお花を買ってくるまで一時間もかからない。その間に他のみんなも、すでに準備をすませていた。 今日は十二月二十五日……私の誕生日で、同時に彼女が亡くなった日。 正直、不思議だと思う。私も香純ちゃんもどうしてか、実際には一度も会ったことのない曾祖母に、言葉で説明できない慕情めいたものを懐いていた。 どんな人だったのだろう。どんな顔で、どんな声で、どんな生き方をしたのだろう。写真は一枚も残っていなくて、祖父も二十代の若さで早世している。両親は健在だけど、彼らはもう五年ほど外国に行ったままなので、曾祖母の人となりを知る手段はない。 それは香純ちゃんも似たようなもので、結局私達は、お互いを除けば一番身近に感じられる肉親として“彼女”を選んだのかもしれなかった。 分かっているのは名前と、そして生没年のみ。本当にそれしか知らない相手なのに、苦笑してしまうような話だけれど…… 「おはよう、リザ……いい天気だね」 私は、まるで友人同士ででもあるかのように、彼女をそう呼んでいたのだ。 RIZA BRENNER 1915~1945――これが、私の知る〈曾祖母〉《リザ》の総て。 だけどここに来るたび感じてしまう。有り得ないはずの思い出が、脳裏をいくつも過ぎっていくのだ。 彼女の声を。彼女の顔を。そして温かさを忘れていない。ああ、私は覚えているよと、胸の中で祈るように繰り返している。 それはいったい、どんな精神状態なんだろう。自分でも普通じゃないと思いながら、だけど改める気にはなれなかった。 たとえ寂しさを紛らわすためのお芝居みたいなものであっても、私の中にリザはいる。そのことだけは、真実と言えるのだから…… 「おばあちゃ~ん。どうか次のテストで、英語の神が降りるようにお願いします~~」 「いや香純ちゃん、神社じゃないんだから」 「つーか、英語の神は英語でしか喋んねえだろ」 その通りだろうし、そしてリザはドイツ人だ。英語は専門外だと私は思う。 だけど、まあ、想い方は人それぞれということで。 「じゃあじゃあ、年末ジャンボが当たるようにお願いします~~~」 「……なんか、ますます宗教じみてきたね」 「そりゃ、ある意味宗教ではあるんだろうけど……」 「じゃあ、婆さんさ……オレ、欲しいバイクがあるんだけど、どっかそのへんに落ちてねえかな?」 「ちょっと、うちのおばあちゃんに無駄な労力使わせようとしないでよね」 「突っ込むのはそこかよ……」 「あー、だったらあたしは、新型のグラボが欲しいですのよ。トナカイ飼ってる爺さんがそっちにいたら、いっちょ言っといてくれませんかね」 「そうだ、サンタよ! リアルサンタ絶対知ってるでしょ、おばあちゃん」 「あのね、あなた達……いい加減にしなさいよ、不謹慎でしょ」 ううん、大丈夫。そんなことないよ、だって彼女は笑っているもの。 だから私も、いま祈りたい願いがある。 「リザ、実は私、もうすぐ卒業なんだけど、困ったことに進学も就職もできそうにないの。ちょっと人生がピンチ」 「あなたまでそんな、いい加減な……」 「だから、ねえ、どうしたらいいと思う?」 毎日は楽しくて、ここはとっても平穏で、暖かな光に満ちているけど…… 何かが、誰かが、私達の中からすっぽりと抜けている。その隙間が大きすぎて、どんな陽だまりにいても寂しいの。 これは私だけの誇大妄想? 根拠のない思い込みにすぎないのかな? だけど、たとえどうであっても、穴が空いているのは事実だから。 「結婚するしかないんじゃねえ?」 「そだね。それ以外になさそう」 私は私の好きな彼と、巡り会いたいと強く願う。 たとえ寂しさを紛らわすためのお芝居みたいなものであっても、私の中に彼はいる。そのことだけは、真実と言えるのだから…… 「私のお婿さんを捜して、リザ」 そう呟いて、そう願って…… 「わっ……」 「風が……」 舞い散る薄桃色の花弁が、どこか楽園の記憶を想起させた。  1939年、12月25日――ドイツ、ベルリン。  AM0:27……  気付けばすでに日付が変わっていたようで、俺は手の書物から顔を上げた。  後年、おそらく激動の年と言われるだろう本年も、あと数日で終わりを迎える。そしてさらなる激動――と言うより混沌に呑まれていくだろう来年が、静かに訪れようとしていた。  あのポーランド侵攻から、もう四ヶ月近く経っている。同盟国としての相互援護条約により、英仏が宣戦布告をしてきてからそれくらい。俺のような若輩としてはガキの時分にひもじい思いをしたせいもあり、再度の大戦が始まるのは限りなく憂鬱だった。  いやもしかしたら、現実に戦地で敗北を経験した年長者らのほうが、こうした思いは強いのかもしれない。だがだとしたら、なぜ開戦に踏み切ったのか。  領土だの資源だの食料だの、大切なのは分かっている。  名誉とかいうやつも、必要な者には必要だろう。  敗戦国という汚名を払拭するためにも、勝利を欲する奴は多いはずだ。  先の戦争が史上最初で最後の世界大戦になってしまえば、我がドイツ帝国と国民達は、未来永劫負け犬になってしまうわけだから。  何にせよ、先を見据えた選択ということだろう。  そして、そのために今が犠牲にされている。  青くて幼稚な、感傷にすらなっていない愚痴なのは分かっているが、やはり俺としては迷惑なことだった。  この今、それなりに満足している今ってやつを揺るがしてくれるなと。  手前勝手な理屈で恐縮だが、俺の本音はそんなものだ。特にさっきまで読んでいた本……その新刊が発売されなくなったら非常に困る。作者には是が非でも執筆活動を続けてもらわなければならないだろう。  なんて、埒もないことを考えていたときだった。 「…………」  背後から、近づいてくる足音が……  ああ、なんだこれ。どうにも嫌な予感がしてきたぞ。ただの勘だが、業腹なことに俺のこういう感覚はまず外れない。  やはり読書なら、自室でするべきだったのか。吹き抜けホールの長椅子に座っている状態じゃあ、隠れることも出来やしない。  別に俺への客というわけでもないはずだが、足音が近づいてくるたび首筋がちりちりする。いったい何者かは知らないけど、こういう存在は無視か、適度に流すのが吉だろう。 「失礼」  だから、そいつがすぐ横で立ち止まり、声をかけてきたときも、俺は俯いたまま目を合わそうとしなかった。  男が、続ける。 「ジーバス局長はおられるか?」  低く、そして優雅な声。顔を見なくても分かる。こいつは相当な実力者だ。  一聴して穏やかな口調とは裏腹に、自信とそれに裏打ちされた冷酷さが滲み出ている。  軍属の――今では俺もその一員なのだが――高官に共通する佇まい。  つまり、苦手な相手だということだ。 「聞こえなかったかな。局長殿は――」 「ああ、いや、悪いけど今はいないよ」  ぞんざいに手を振ってそう答える。さっさと行ってほしかったが、名でも名乗られたら面倒だ。そのときは立場上、この誰だか分からないお方を丁重におもてなししなければならないから。  ゆえに知らぬが吉。聞かぬが花。馬鹿な若造が無知を晒して粗相したと、そんな落ちが望ましい。まさかいきなり銃殺なんてこともあるまいし。 「ふむ、そうか。まあ連絡もしていなかったので仕方ないことではあるな」 「そうね。お帰りならあっちだよ」  顔を伏せたまま、親指で背後を指す。 「うちの局長、最近は医者連中とべったりみたいで。なんだっけ、頭蓋骨を測定してうんちゃらとか」 「プラトメートル。アーリア人種の測定装置かね」 「そうそう。それでストラスブルクの研究員がたと会食中……っていっても、さすがにもうメシ食ってる時間じゃないだろうけど。 局長に用があるなら、そっち行ったほうが早いよ」  だからさようなら。言外にそう含めて追い払おうとしたのだが、奇妙なことに男は一歩も動かない。それどころか、じっとこちらを見下ろしてくる視線を感じる。  ……胃が痛くなってきた。 「あのさあ……」 「ああ、局長殿のことはもういい。 居らぬなら卿に聞こう。顔をあげたまえ」 「……………」  まったく、自分の小市民ぶりというやつが嫌になる。 「あげたまえ」  促す声の引力に抗えず、俺は渋々ながら顔をあげて…… 「―――――――」  驚いた。只者じゃないとは思っていたが、見た目からしてぶっとんでいる。  男同士で気持ち悪い限りだが、こんな色男は初めて見た。年齢的に十幾つか上だろうが、若さと威厳が神懸かって共存している黄金率と言うべきだろう。自他共に認める童顔なこちらとしては、あと三十年経ってもこいつの域には上がれそうもない。 「どうしたね?」 「いや……」  まあ、ともかく、向かい合うと神経を削られる相手ではある。不本意だが、俺に用を求めるならさっさと答えてお帰り願おう。 「なんでも。で?」 「ああ。カール・クラフトを知っているかね?」 「カール・クラフト?」  いきなりの慮外な問いに、俺は思わず鸚鵡返した。その名は確か…… 「近頃宣伝省に召抱えられた男でね。有り体に言うと詐欺師だ。 彼の職務は予言というものであり、国家にとって聞こえのいい未来を創作して糧を得る。立場的には同情するが、やっていることは詐欺だろう」 「それが?」 「おかしいと思わんかね?」  意味が、まったく分からない。鼻白んでいる俺を見下ろし、男は淡い苦笑を浮かべた。 「分からんのならそれでいい。今のは件の詐欺師と面識がなければ答えられぬ問いだからな。卿への質問は別にある。 今夜、ここの局員で、教会から何かを受け取りに行った者はおらんかね?」 「教会?」  意味が分からず、また鸚鵡返す。まるで馬鹿のようだったが、事実分からないのだからしょうがない。 「遺産管理局、ドイチェス・アーネンエルベ。卿らの職務はそうした物の蒐集だろう。私の言ったことに心当たりがあるなら答えてほしいと思うのだが」 「……………」 「守秘義務かね? では仕方ないが」 「いや、本当に知らないよ」  少なくとも俺が把握してる限りだが、そんな話は聞いていない。 「でも、なんでそんなことを?」 「さあ、なぜかな。私にも分からんよ。 ただ、そんな気がしただけだ」  言って、軽く肩をすくめる。男の態度は自嘲気味であったものの、ふざけているわけじゃないだろう。口調の端には真摯なものを感じられた。 「変な人だな、あんた」 「ああ、どうもおかしいのだよ」 「たまにな、このような気分に陥る。と言っても、ここ一月ほどの話だが。 見てはおらぬ、聞いてもおらぬ、事実そのようなことはないというのに、ふと思うのだよ。〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》」 「…………」 「あるいは、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈男〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》。 卿はこれに、共感してくれるだろうか?」  そう言われたところで、頷くことは出来ないだろう。男の言っていることは誇大妄想じみていて、真面目な話医者を紹介したくなる。  そんなこちらの気持ちを察したのか、男は首を横に振った。 「私は正気だよ。そう思っている。いや、そう思いたいがゆえの足掻きかな。我ながら、女々しい限りではあるが」 「じゃあ……」  俺は何を言おうとしているのだろう。この男はどうにも苦手で、関わりたくなく、今も不要な会話は避けたいと思っているのに。  なぜか、使命感のようなものが働いた。これは俺の役目であり、俺がしなければならないことだと感じている。  目の前に立つ、金髪の美丈夫。その男に向けて―― 「あんたは正気だよ」  俺は短く、そして強く言っていた。 「俺達は現実に生きている。良いこともあれば悪いこともあるし、満たされない夢を抱えて飢えてもいるさ」  美しく思う刹那を永遠に……そんな馬鹿げた願望を捨てられないし、叶えられないから渇きは消えない。  不満で、不安で、いつも揺れて…… 「だけど、それが人間だろう?」  だから、俺はそうしたもので構わない。 「俺達は永遠になれない刹那だ。どれだけ憧れて求めても、幻想にはなれないんだよ」  それこそが―― 「生に真摯であること。ああ、確かに卿の言う通り。 飽いていればいい、餓えていればよいのだ。生きる場所の何を飲み、何を喰らおうと足りぬ。だがそれでよし。 そう思えぬ生物は、その時点で自壊するしかない」 「そんな生物は、生まれてきたことが過ちなんだ」  俺達は互いの目を見て、しかし誰に言うともなくそんな言葉を吐いていた。  まるで自戒するように。これでいい。これでいいのだと。  思ったから、俺は自然と訊いていた。 「あんたの名前は?」 「ハイドリヒ――ラインハルト・ハイドリヒだ」  その名に、驚きを覚えなかったと言えば嘘になる。  まさか黄金の獣閣下を前にして、我ながら随分調子付いた真似をしてきたものだ。本来なら、今頃首が飛んでいてもおかしくない。 「私は、そう大した男ではないよ」  だが彼は――ラインハルトは笑みすら浮かべてそう続ける。謙遜ではなく、真実の響きを乗せて己は獣に非ずと言っていた。 「与えられた地位をなくせば、それこそ市井の一角と変わらんだろう。その程度なのだ、いや、そうでなくてはならない。 殴れば倒れ、撃たれれば死ぬ。人はそうであるべきだ。いずれ訪れる死の時まで生き、そして朽ちればいい。 ああ、誰かに言ってもらいたかったのだよ。感謝しよう。 幻想にはなれぬか。なるほどな」  そうしてラインハルトは身を翻し、去っていく。  俺達の邂逅はこれで終わり。この先どんな未来が待っていようと、おそらく二度と会うことはないだろう。 「総て野垂れ死ぬ。ならば私も、かく野垂れ死ねばいい。 ありふれた人間、職務を全うして滅びる一人の軍人で構わない」  だからそれに応えるよう、俺もまた本を閉じた。物語は終わった以上、現実に帰らなければならない。  たとえどんな世界であろうとも、俺はここに生まれてここに在る。  その事実を間違えてはいけないんだ。誤れば、いつまでも幻想から抜け出せなくなるだろうから。 「では、さらばだ。名を聞いておこうか」 「ライヒハート」  あまり好きではない姓をこのとき名乗ったのは、そうした現実を認識するため。 「ロートス・ライヒハート。あんたと同じさ、首斬り人だよ。落ちこぼれだけどね」 「ああ……」  当然、ラインハルトはその名の意味を知っていたらしい。何せうちの一族には有名なのがそろっていて、この男から見れば馴染みの下請けみたいなものだ。 「道理で。だが当代一と言われるヨハンより、卿のほうが適任に見えるがな。 〈蓮〉《ロートス》……何もかも忘れ、一つのことしか出来なくなる麻薬だ。 オデュッセウスが現れなければ、同じところを回り続ける」 「だから俺がオデュッセウスになるんだよ」  環を壊してそこから抜け出る。ガキの家出理論だし、家を出た先で願っているのは自分の定義した環に留まること……矛盾も甚だしいのは自覚してるが、結局それも含めて俺なんだ。  英雄なんて、ガラじゃないのは承知だが。 「枠を超えて、俺に出来ることがあるかもしれない。あるいは、出来たことかな。それを眺めて生きていくよ」 「さよなら、中将閣下。ジーク・ハイル」 「ああ、ジーク・ハイル」  そして、扉が閉められる。その間際に。 「私は満足した。もはや何も求めない。 この先どうなろうと生きていく。そう誓ったのでな」  なんて、意味の分からないことを言っていた。 「卿の未来に幸あらんことを。二つの現実を生きるがいい。 私と接触したことで、それを踏破する幻想の残滓くらいは宿ったはずだ。日本へ行きたまえ」 「テレジアが、きっと待っているだろう」 「――――――」  その名に、俺はなぜ今…… 「フローエ・ヴァイナハテン。これは礼だ。勝者への…… 女神の抱擁、悪くはなかろう」  そう言い残し、ラインハルトは去っていった。 「……………テレジア……」  呟いて、独りごちて、胸に灯る温もりが何なのか分からないまま…… 「日本、か……」  まだ見ぬその地に、俺はなぜか過ぎ去った日の誓いと記憶を想起していた。 Other Story――Nihil difficile amanti解放 「――――――」  急速に引き戻されるような浮遊にも似た落下感。  目覚めは唐突に、かつてない自然さと共に訪れた。 「ここは……」  思考は明晰。微かな靄もかかっておらず、己が何者でここが何処かも冷静に弁えている。  にも関わらず、漏れた第一声がそのようなものであったのは、ただ一つ時間に関する認識だけが自信を持てなかったからに他ならない。  自分の感覚が確かなら、〈現在〉《いま》は〈過去〉《いま》ではなかったか、などと…… 「おい、おいちょっと、聞いてるか?」  奇妙な違和に囚われていた自分の意識を、傍らの声が現実に引き戻す。見ればそこには、呆れ気味に目を眇めている同輩の顔があった。 「なーに、ぼっとしてんだよおまえは。しかめっ面して、腹でも痛いのか?」 「……いや、そういうわけではない。が、少しばかり気が抜けてはいたようだ。眠りすぎたせいで、夢見が悪いのかもしれん」 「は、なるほど。そりゃ仕方ないわな。同感だ」  自分たちは、つい先日まで前線の修羅場にいた。言うまでもなくそこは衣食住が保障される場ではなく、安眠など程遠い環境だったのだから、こうして今、久しぶりの帰郷に際して戸惑いを覚えるのは仕方のないことだろう。  戦傷とは、何も肉体的なものに限らない。むしろ戦場という極大の非日常に触れたことで、心が安穏な日常に戻れなくなる精神の傷……より深刻なのはそちらであり、どれだけ屈強な男であろうとそうした適応障害に悩まされることとなる。  慣れというものは恐ろしい。おそらくは遠い過去から言われているだろうその言葉が示す通り、人間とは周囲の状況に馴染んでしまう生き物だ。  どれだけ過酷で、良識や文明的な見地で言えば有り得ない劣悪な環境であったとしても、人はそこに順応する。いいや、正しく言えば順応しないと生き残れない。  自分や、この同輩がいま生きているという事実からも、我々が〈戦場〉《じごく》に慣れてしまったのは揺るぎない真実だろう。そしてだからこそ、その外側では〈賓〉《まれびと》のような感覚に陥ってしまう。此方と彼方は地続きであると理解していても、落差を許容するのは難しい。  ゆえに今、自分が何とも言えない違和感に囚われたことも、そうした類の迷妄だろう。それを軟弱であると恥じる気持ちもないではないが、同病相患う男の前で虚勢を張っても意味がない。この時代、今の世は誰もが等しく病んでいる。  1944年、6月の末……勲章を受け取るために戦地から帝都へ呼び戻された自分の、それが正直な心境だった。 「でも、ま、実際のところ役得ではあったけどな。なんだかんだ言ったところで、この時期にゆっくりメシが食えて眠れる環境を味わえたことはありがたい。まさに英雄様々だ。おまえのお陰だし、感謝してるよミハエル」  ミハエルとは、自分の名前なのだろう。そういえばそうだったかもしれないなと、そんな感慨を抱く自分の精神は明らかに異常な様相を帯び始めているが、そこに危機感は覚えない。むしろ、そうした自意識の希薄化を維持し続けること、そのほうが重要に思える。  自分は一個の鋼であり、戦争という機械を動かす歯車にすぎず、ミハエル某というただの男などでは断じてない。ゆえに哀感というものを放棄して、殺戮に駆動する装置足りえているのが現状だ。  つまるところ、同輩が言った英雄などという評価は、そうした開き直りが他者より上手いというだけのこと。  別の言い方をすれば現実逃避か。自分は自分が生きるため、自分が創りあげた幻想にのめり込むのが得意である。と、そんな程度に他ならないのだ。 「感謝される謂れはない。むしろ懸念するべきだ。なまじ楽をしたせいで、緊張が解かれたかもしれないと」  温度差、落差、熱した食器に水をかければ砕け散る。それは人も例外ではない。 「後々、俺を憎むことになるかもしれんぞ。あのときあいつが人がましい日常を見せたせいで、自分は脆くなってしまったと」  それこそ、誰よりも己自身が恐れていること。鋼である自分が揺らぎかねない〈安息〉《いま》を厭う。 「あぁ、なんだそりゃ? 的外れにもほどがあるっていうか、相変わらず根暗に積極的っていうか……状況がどうだろうが、俺は俺で、おまえはおまえだろ。環境ごとに自分を分けて、あっちは本物でこっちは偽物、あっちは有用でこっちは無用、なんて決めることはない」 「どういう意味だ?」  ミハエルとしての己を思い出させるようなことを言う同輩に、胡乱な調子で問いを投げる。自分の論に間違ったところなどないはずだし、落差については先ほどの彼も同意見だったはずだろうに。 「おまえは〈此方〉《こちら》と〈彼方〉《あちら》に変わらない気持ちで臨んでいると?」 「ああ、なんで変える必要がある?」 「いやもちろん、おまえの言いたいことも理解できるぜ。夏と冬じゃ服装も違うしよ、場に合わせた選択ってのは重要っていうか、むしろ基本だ。けど、そりゃあ〈側〉《ガワ》の話だろう? それこそ、どんな服着るかっていう程度でさ、何着てようが本質――中身は変わらない。と言うより、その服選んだことも含めて自分だろ。毛皮替えたら別の生き物になるなんて、そんなことは有り得ねえよ」 「なのにおまえは、どうも側の系統に引っ張られすぎっていうか、寒いから防寒着きてるだけなのに、自分は白熊にでもなったかのような口ぶりだぜ。 だから、そりゃ違うだろう。俺も久しぶりで〈平和〉《こっち》用の服が着慣れないのは確かだけど、衣替え自体が出来ないとは言ってない」 「ミハエル、おまえはずっと戦争仕様の毛皮着る気か? 戦い終わってもそれ被ったまま、なんか別のもんにでもなる気かよ。それじゃあおまえ、壊れちまうぜ」  最後の台詞だけ悲しげに、気遣いを滲ませて彼は言う。それに自分は、なんと返していいものか分からない。  さほど長い付き合いではないのだが、生死を共にするという環境で生まれた理解、繋がりは平時の数倍に至るのだろう。自分の考えを正確に読まれたことに、軽い当惑を覚えても不快な気持ちにはならなかった。  結局のところ、彼に言わせれば自分は臨機応変さが足りないということだろう。服の喩えに倣うなら、今は夏の軽装に替える柔軟さをこの同輩は持っているし、戦地に戻れば冬の衣に替えられる。そこに些細な着心地の悪さは感じても、それ以上のものではないと言っているのだ。  なぜなら、曰く中身は一つで、変わらないらしいから。 「もっと洒落っ気もたないと、正味女にゃモテないぜ。英雄様が日照りじゃあ、夢も希望もないだろう」  あくでも軽薄な喩えを崩さないのは、彼なりの友情だろう。もとより自分は、他者と笑い合って肩を叩き合うような性分ではないものの、だからといって陰鬱なやり取りを好んでいるわけでもない。  多少なりとも、気持ちを上向かせようとしてくれているのだ。そのくらいのことは、自分とて理解できる。  安息の中で壊れる者は、冬の装いを頑なに脱ごうとしない者。  安息を知ったことで壊れる者は、夏の装いのまま冬に帰ってしまった者。  彼が言っているのはそういうことで、それに当て嵌めるなら自分は前者だ。なるほど、確かに洒脱さとは縁遠い男だろう。脱ごうとしないどころか、脱ぎ方を忘れたがっている。いいや、脱げないモノになろうとしているのだから。  鉄に。側も内も鋼の戦車に。  それは無関心の啓発、世界一鈍感な男になり、己を無機質なモノに変えなければ耐え難いことが多々あるからだ。  血の赤も、骨の白も、焼け爛れる肉の黒も腹から噴き出る臓腑の灰も。  銃剣の煌き弾丸のメタル。軋む戦車の振動に塹壕の饐えた匂い。  総て、総て好きになれない。ゆえにそれと同化することで無感であろうとしている自分は、〈戦場〉《じごく》において抜きん出ている。ミハエル某という己の在処が意味情報を失い始めているほどに、側が中身を侵食しているのだろう。  あるいは、自分に中身などないのかもしれない。芯が空虚な男だからこそ、鋼で覆った内部が容易く凍結したのではないだろうか。 「それなら……」  ふと思う。この同輩にとっての中身とは何なのか。  自分が大した男でないのは知っているが、それと同じく彼とても、別段特筆すべき傑物ではない。  あの酷寒を、戦場を知りながらも凍てつかない魂。  内部が煌々と燃えているからこそ、側はあくまで衣であると言い切れる感性。  凍結して一体化し、脱げば肉ごと引き裂かれる自分とは異なる。  己は己だと断言できる何かがあるから、彼はどのような服を着ても等しく自分だと言えるのだろう。  では、その根拠は? 「おまえは、何を抱いて立っている?」 「簡単さ」  問いに、彼は本当に軽い調子でただ一言。 「この今が好きなんだよ」 「おまえと話してる今も、一緒に戦っているときも、そのお陰でどうにか守れているこの国も、みんな好きだ。失くしたくない。そのときそのとき、一瞬ごとを大事に思ってるっていうだけさ。そりゃあ確かに、冗談じゃねえよやってられないってときもあるけどさ……それをどうにかしたいって思う瞬間も大事だろう。だってその先には、きっといいことが待っている。だからそれを味わうためにも、今を抱いて走るだけさ」  後ろ向きな信念では、理想的な明日はやって来ない。ゆえに最良のときを求めて、それを何度でも味わうために今を駆ける。  そう言って、彼は仄かに笑ってみせた。 「……青臭い」  その感想は真実本音で、自分は呆れていたと言っていい。 「わ~かってるよ。でも、そんな珍しい主張でもないだろう」  確かにそれはその通りで、要するに彼は前向きだということだ。 「しかし、夢見がちと言わざるを得ない」  頑張れば必ず勝てる。たとえ今が難儀でも、そこから逃げずに立ち向かえば絶対いつか報われる。望ましい瞬間が訪れる。  そのような理想論、この戦時下で純粋に思っている者がはたしてどれだけいるだろうか。おそらくは子供でさえ、もういくらか分別のきいたことを言うだろう。  だがこの同輩に衒いはない。ただの一兵卒でありながら、自分の奮闘が自分の世界を救うのだと信じている。  もしくは、そう誓っているのか。  それは傲慢とさえ言える自負だろう。己の万能性、あるいは〈己〉《 、》〈の〉《 、》〈願〉《 、》〈い〉《 、》〈に〉《 、》〈あ〉《 、》〈わ〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈が〉《 、》〈動〉《 、》〈く〉《 、》と信じる様は、楽観を通り越した誇大妄想に分類できる。  単に戯言。そう切り捨てて構わない領域だし、自分はそのような非現実的な自負を好ましく思わない。  思わないが、しかし確かに言われてみれば、彼が彼を信じずして誰が信じる? 誰が救い誰が守る? 己を失わないという意味において、その手の感性は有効だし必須だろう。もとよりそうした議論をしていたのだから、要は自尊という結論に至るのは至極当然の成り行きだ。  ゆえに、ああ、つまるところ…… 「コギト・エルゴ・スム、か」 「そ。我思うゆえに我あり、さ」  煎じ詰めればそういうことで、この同輩はそれをよく弁えている。それが少なからず羨ましかった。  あまねく今を無駄にしない。そう言える感性こそが自分の〈魂〉《カタチ》だと知っているのだ。 「刹那主義と言えば聞こえが悪くなるのだろうがな。おまえのそれは少し違うか」 「当たり前だろ。俺は先を見てるんだぜ」  今がよければ他は知ったことじゃない。一般に言う刹那主義とはそうしたもので、要は自他に無責任な幼稚さだ。  しかし彼は、自分で言ったように先を見ている。まるで美麗な景色を逃すまいとするかのように信じている。 「だからおまえも、もっと自分を大事にしろよ。ベタな台詞でなんだけど、そういうことの積み重ねが後々意味を持つんじゃねえの? 俺はドンパチしか能がないような白けた奴とダチになったつもりはないし、おまえがそんな風になっていくのは面白くない。だいたい考えてもみろよ。どいつもこいつも自分守れないような奴が寄り集まって勝てると思うか? なあ、そうだろうが?」 「…………」 「柏葉剣付騎士鉄十字章の英雄に説教なんて不遜だが、俺はそう思ってんだぜ。迷惑か?」 「……いや、おまえの言いたいことは理解した」  自分は自分が生きるために、自分が創りあげた幻想にのめり込んだ。それで命は守れても、結局はそれだけ。心と魂は死んでいる。  なるほど、確かにそうかもしれない。事実としてこの自分は、戦争が終わった後のことなど何も考えていなかったのだから。  怪物の毛皮を被ったまま怪物に成り果てる。それでは自分を守る戦いに負けたと言われても仕方がない。  こちらの反応に満足したのか、彼は朗らかに笑って話題を変えた。 「と、まあそんな話はこれくらいにしといてよ。再びくそったれな麗しの戦場に戻る前の、最後の夜だ。今夜はぱーっと派手に呑もうぜ、いいだろう?」 「……俺が断っても、おまえは連れて行く気なんだろう」 「もちろん。今日こそ辛気臭い我が戦友に、歌の一つでも歌わせてやるから覚悟しろよ」  そんなくだらない野望に燃える今もまた、彼に言わせれば大事な刹那なのだろう。  その気持ちが少しは分かる。いや、分かったからこそ。 「あ~、っかし女っ気ねえのがいかんよなあ。前の同僚になかなか面白い〈女〉《やつ》いたんだけど、ぷっつり縁切れちゃってさあ。要領悪い馬鹿だし、妙なことに巻き込まれてなきゃいいけどあいつ」  自分は、彼の持つ一抹の危うさ懸念せずにはいられなかった。  処刑執行人という、稀有な家系の出である同輩。  もしこの世に運命というものがあるのなら、彼を定義する業は死の刹那を表すのではないだろうかと。  なぜなら、望ましい未来を得るために疾走するという願いを貫くには、些か以上に終わりというものを我々は見すぎている。  ゆえに、その願いを〈生〉《き》のままで成就させることはおそらくできまい。  我々に相応しい、我々なりのカタチとして、願いは歪むのではないだろうか。  そう、たとえば美麗な〈刹那〉《イマ》を愛するがゆえに留めたり。  耐え難い〈刹那〉《イマ》を絶つために終焉を求めたり。  停止という、極点への移動。我々の共通点を見出して、かつ悪意をもってこね回せばそのようなところへ至るのではないか、などと。 「では、行こうか。■■■■」  1944年、6月の末……確固たる己を持った誇るべき戦友の名を呼びながら、そのように思う自分がいたことは間違いなかった。 「思えばあのとき、俺とおまえは奴から目をつけられたのかもしれない。迂闊だった、と今なら言えるな。奴の膝元で、無防備にすぎる会話。内容自体はさして特殊なものでもなかったのだろうが、気楽で甘い認識だったことは間違いない。なぜならあの当時、真に魔窟だったのは戦場でなく、あの帝都だったのだから」  淡々と、それでいて重く刻み付けるような含みをもって、声の主は言葉を紡ぐ。  この奇怪な現象、と言うより空間に触れた瞬間、俺はその意味を理解した。  ここには現在も過去もない。未来も含めた万象総てが混然一体と〈揺蕩〉《たゆた》っており、その結果としてつい先刻と数十年もの昔が現在同列に存在して先へ繋がる。  そして〈未来〉《そこ》も、ここでは過去と同義なのだ。 「自惚れと言えば自惚れ。思い上がりと言えばそうだったのだろう。俺もおまえも苛烈と言って差し支えない戦火を潜り、曲がりなりにもあの瞬間まで生き続けた。そのことに対する自負があったことに変わりはない。我々は歴戦の勇士である、などと芯から胸を張る性分ではお互いになかったものの、〈帝都〉《ここ》はぬるいと感じたことは確かだった。どういう意味であろうとも、そこに見下した感情がなかったと言えば嘘になる」  その論を、否定することが俺には出来ない。  こいつが言っていることは、喩えるなら好きな女に対する気持ちと同じだ。  君が好きだ。守りたいと、男は皆言うだろう。その愛情自体に裏はなく、真摯な気持ちであったとしても、そこには絶対的な前提として女は弱いという認識が鎮座している。  それは良い悪いの問題を飛び越えて、厳然と存在している一つの事実だ。好きな〈刹那〉《イマ》を守りたいと、そう言った時点で俺は〈刹那〉《ソレ》を軽く壊れるものだと断じているから。  ソレに壊される可能性などあまり考えない。 「その傲慢、致命的な隙だったと言わざるを得ないだろう」  古今、女に刺し殺される男は多い。まともに対峙すればまずやられないという認識が、油断を招き事態を悪化させてしまうこと。 「我々は最悪の戦場を知っている。だからこそ、あれ以上の混沌など有り得ようはずがない……と。その思考……襲う側からしてみれば、カモと言うしかないではないか」 「蛇のとぐろの中にあって、ここは安全地帯だと何を日和っていたのだろう。 ゆえにあのとき、我々は――見えない招待券を手渡されてしまったのだ。戦場こそを最大の地獄であると認識し……いいやあるいは、地獄こそが戦場のカタチをしていると決め付けたその心が……俺とおまえを、死後、修羅道へと〈誘〉《いざな》ったのだ。あの時代、数多いた他の戦友たちもそうであったように。俺たちは、約束された蠱毒の壷へと落とされた」  もはや変えようのない過去の事実として。  そのような事態がすでに起こった説明を。  俺に語る、この声の主。それが誰かは、もはや言われずとも分かってはいるのだが。  ああ、しかし、ちょっと待て。俺はおまえと、こんな時代に肩を並べた覚えなどないぞ。  なのになぜ、〈俺〉《 、》〈み〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈奴〉《 、》〈が〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈記〉《 、》〈憶〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈出〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》? 「じきに分かる」  そう奴は呟いて。 「いや、おまえは知らねばならない」  再び、過去と現在が同列に並んで広がり始めた。  爆裂する轟音と共に、数千度を超える炎と液化金属の奔流が戦車内を舐めつくす。そこはまさしく棺桶となり、瞬時にして中の生命を滅殺した。 「ッッああぁぁァァッ――――」  同乗者はすでに消し炭と化している。そんな中でも自分の耳は、別の車両で等しく燃やされている同輩の断末魔を聞いていた。 「ああ、ちくしょう。嘘だろう……俺は帰るって、決めてたのに……またいつか、あの日に呑んだ、酒の続きを……もう一度、いや、何度でも……諦めたく、ねえよ。なあ、そうだろう――」  その瞬間に、彼の刹那は跡形も残らず炎へ消えた。  それ自体、ありふれた、この時勢どこにでもある終幕にすぎず、同様の運命を辿っている自分にとっても、それは同じはずだった。  しかし―― 「俺は、何処に行けばいい……?」  不安があるのだ。漠然とした、それでいて決定的な悪寒が灼熱の中で渦巻いている。  すでに人体の原型など留めているはずもなく、灰に帰そうという身でありながら、そんなことを考えているこの刹那に恐怖した。  友にとっての安息は他愛ない日常だったが、自分は彼が言うような、戦後における身の振り方などやはりまったく見出せない。  見出せないからこの瞬間、生に執着する言葉が出てこない。  そのことは、だがもはや仕方ないと割り切れていた。自分はそういう性なのだろうと、理解することで受け入れている。  戦いを好きになれないと思うから、まず全力で終わらせることに拘る感性。それが自分で、己を失うなという友の言を尊重した上での答えだった。  死を希求したわけではない。ただ、自分の戦いが死をもって閉じるなら、その終焉を是と受け止めよう。己の道を完遂したと、誇りを胸に目を閉じよう。  怪物の毛皮を被ったまま怪物に成り果てるな。そう忠告してくれた友情に真摯であるため、それが自分にとって自分に施す、人としての処方だった。  はずなのだが…… 「俺は、誰だ……?」  今どうしてか、俺は自分が分からなくなる。かつて諌められたときのまま、戦場に在る己がただの鋼にしか思えなくなる。  ゆえに砲火を受けたときの熱さ、棺桶となった〈戦車〉《ティーゲル》での絶望。……ああ、それとも安息なのか、よく分からないまま、燃え溶ける鉄と重なりながら自己の証明が薄れていく。  末期の刹那、友は自分の名を呼ぼうとしていたのだろうか。それを聞くことが出来ていれば、自分は確固たる何者かとして死を実感できたのだろうか。  己の意味を鋼と重ねることで〈戦場〉《じごく》に適応していた一人の男は、友が懸念していた通り大事な何かを致命的に取り逃した。それが証拠に、今ここで燃えている物体が、戦車であるのか人であるのかも分かっていない。  だから問うのだ。俺は何処に行けばいい?  いいや、〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈に〉《 、》〈連〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈行〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》?  人知の及ばない何某か、全容を掴めないほど強大なモノに玩弄されているような感覚に戦慄した。  死に際して、己が信念と関係なく剥奪されていく自負・自尊。  人として自分に課した決まりごとを失えば、すなわち人でなくなるというおぞましい答えが見えてくる。  ゆえに叫んだ。  無感に叩き込まれる水銀の海で、狂おしく渇望したのだ。  やめろ――俺から〈終焉〉《ソレ》を奪うんじゃない。  自分に残ったのはその想い。取り逃した〈友情〉《えいこう》を求めるという願いだけ。  寄る辺はそれのみ。人として走り抜け、極点に達した俺の〈死〉《おわり》を返還しろ。  それこそ烈しく生きた証だから。このような無様は何があっても許容できないと憤怒するから。 「――――――」  ある日気付けば、俺はハイドリヒの城にいた。  自分の名前が分からない。自分が死んだ瞬間を思い出せない。  ただ胸を焼くのは、奪われたという屈辱。生き恥とも言えぬ汚らわしい死者の生だけ。  駆け抜けた戦場。辿り着いたと夢想した安息。  この手にしたと信じていた栄光は、次の戦場に臨む起点でしかなかったという愚かしさ。  要らない。もうあれは要らない。  血の赤も、骨の白も、焼け爛れる肉の黒も腹から噴き出る臓腑の灰も。  銃剣の煌き弾丸のメタル。軋む戦車の振動に塹壕の饐えた匂い。  避けられぬなら今一度、また全霊をもって殺戮するしか術はなく。 「俺はおまえを殺さなければ終われないのだ」  修羅道の〈蠱毒〉《ヴァルハラ》において、対峙する総ての者にその言葉を吐いていた。  相手が誰で、何者かは、やはり分からなくなっていたから。  殺し殺し、解放を願って殺し続ける戦奴として―― 「来るがいい。おまえで最後だ、〈何処〉《いずこ》で会ったかもしれぬ戦友よ」  あの日俺は、おまえをこの手で殺したのだ。 「思い出したか? 俺とおまえは、そうした経緯を辿っている。俺自身、この場所に来るまでは完全に忘れていたことだ。信じられぬのも無理はないが、事実だよ兄弟」  と、鋼の黒騎士が俺に告げる。そこに当惑を禁じえない。  奴が語った内容よりも、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈否〉《 、》〈定〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈気〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈事〉《 、》〈実〉《 、》〈に〉《 、》〈対〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》。 「俺がかつて、おまえと共にあった男だと?」 「そうだ、名は■■■■・■■■■■■。 〈容〉《 、》〈姿〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈異〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈が〉《 、》、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈は〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈同〉《 、》〈じ〉《 、》〈と〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」 「容姿が? おい、ちょっと待てよ」  見る限り、そここそが何より俺と相似している。なのになぜそんなことを言うのか分からない。 「おまえの目には、あれが違う顔に見えるのか?」 「それについては、まったく同じ問いを返させてもらおう。そしてゆえに、おまえは彼だと断言できる。おまえの主観で捉えた彼が、おまえと同じ容姿に写った。それはすなわちおまえ自身が、彼我を同一であると認識している証に他ならない」 「赤の他人であったなら、この場におけるおまえの意識がそんな演出をするはずがないだろう。断っておくがこの俺には、この空間を好きに脚色して騙すような芸当は出来ない。この膨大な情報の海を、自己の〈魂〉《いろ》で染められるのは流出の格を持つ者だけだ。その理屈は分かるだろう」  確かに、俺とてそれくらいは理解している。ここは世界の特異点、俺とラインハルトの流出で穿った穴であり、万象の座へと至る〈径〉《みち》の中だ。  ゆえに原則、流出に至った者でしか入り込むことが出来ないし、その格の者でしかここの色を弄れない。おそらくはラインハルトのレギオンとして巻き込まれているだけのマキナには、そんなことなど出来ないだろう。  いいやそもそも、この男に人を騙すような真似は無理だ。そういう奴であることを、俺はよく知っている。 「じゃあ、今の俺が認識しているこの顔は……」 「愚問だな。もはや分かりきっていることだろう」  瞬間―― 「―――――――」  俺の意識が、ノイズと共に映像を紡ぐ。そこに覚える、既知感。  こうして見るのは初めてだったが、強く確信を持って断言できた。俺はこいつを知っている。  俺にそっくり。いいや、俺こそがこいつにそっくりという、父とも形容できる〈存在〉《モノ》。 「こいつが……」 「カール・クラフト」  今現在、この空間の最深奥に座している蛇。そこで総ての因となった、水銀を垂れ流している根源に違いなかった。 「おまえの狙いは理解している。奴を斃そうというのだろう」  そうだ、俺はそのためにここへ来た。そしてそれを成すにあたり、打つべき手も打っている。  だが…… 「おまえは俺に、何か言いたいことがあるというのか?」  わざわざこいつが、こんな状況で俺に絡む以上、無意味な雑談であるはずがない。なぜなら蛇に関することにおいて、こいつほど深い因縁を持つ者は俺とラインハルト以外にいないのだから。 「多少な」  俺の狙いは理解している。そう前置きした上で続けた言葉は。 「本当に、おまえはそのやり方で構わないのか?」  方法論に対する意見具申。つまりはそういうものだった。 「ハイドリヒとクラフトを争わせる。奴らの関係性と、イザークの存在を利用して、元凶同士の共倒れを画策する。なるほど戦術としては賢いだろうし、それがもっとも確実な手と言えるだろう。だが、それはおまえらしい選択か? 諸々の状況が枷となり、やむにやまれぬ苦渋の決断なのではないか?」 「違う。そんなことはない」  指摘されたことに対し、俺は即座に否定する。確かに一面は捉えているし、事実として俺が戦っては駄目だという気持ちはある。  だがそれは、決して嫌々、仕方ないからそうしているという消極的な思考で導き出された答えじゃないんだ。 「言っただろう、俺は幻想になる気はない。覇道は喰い合う。俺が戦って、俺の法で総てを塗り潰して、その果てに全部が止まった世界にしてはいけないっていう大前提なら、マリィが何とかしてくれるだろう。彼女のもとなら、俺は流出しても他を侵さず存在することが出来るかもしれない。だが、流出したが最後、戻れなくなるのも事実だ」  ラインハルトとの鬩ぎ合いで、特異点に俺は落ちた。それのみが、一度発動した流出をキャンセルする唯一例外的な手段であり、俺はそうやってマリィのために道を開くのが役目なんだと弁えた。  ゆえにそこまで。ここで再びさらなる潜行のため流出したら、今度こそ戻れない。総てを抱きしめると言ってくれたマリィが座を握ったら、俺の危険な渇望も彼女は受け入れてくれるだろう。きっと俺は、女神と共存できるに違いない。  しかし、そうなったら先輩はどうなる。  彼女を一人ぼっちにしろとでも? 流出者として幻想になった俺は、人として老い朽ちていく氷室玲愛と同じ時間を歩めない。そんなのは御免だ。 「なんでも一人で片付けるなんて息巻いてても、駄目なんだよ。それを俺は自覚した」  司狼を、香純を失って、あいつらに叱咤されて悟ったんだ。もう同じ轍を踏むわけにはいかない。  何よりこれは、俺を死なせないために氷室先輩が望んでいた展開だから。俺の代わりに重い責任を受け止めると言ってくれた、マリィが望んだことだから。 「俺は彼女たちの選択を信じて、託そうと決めたんだよ。それをおまえが言うような、枷だなんて思っちゃいない」  〈未来〉《あした》へ進み、人として帰るための決断だ。一時の感情や単純な切った張ったの見せ場云々、直接奴らをこの手で仕留めるのが爽快な結末だろうなんていう、程度の低いヒロイズムに俺は拘泥していない。 「だが、要するにやってはならぬからやらないということだろう。やれば不幸な事態に陥るから、それを避けているだけにすぎない。より良い明日を得るために、今を抱いて駆け抜ける。なるほどその主義にも沿うようで、しかし微かな〈歪〉《ひず》みが見えるな」 「くどいぞ」 「おまえ自身、女たちには言っていない懸念が胸にあるのだろう」 「カール・クラフトが斃れた後、己がどうなるか分からない。もしかしたら、諸共消えてしまうのではないだろうか、と――おまえは一人、その可能性を考えている。そして答えは見出せない。違うか、兄弟」 「それは………」  言い当てられた事実に絶句し、俺は二の句を継げられない。確かにこいつの言う通りで、そうした危険性も理解している。  しかし、だからといって…… 「カール・クラフトは見逃せない。我が身可愛さを盾にして、あれを討つ唯一の機会を逸するわけにはいかんだろう。ああ、その気持ちは理解できるし、同感だ。ゆえに……」  こちらの当惑を見越したように、この男としては珍しい諧謔味を滲ませながら、マキナは言った。 「俺が答えを与えてやろう」 「なにッ?」  それは少なくとも俺にとって、驚天動地の提案だった。なぜこいつがそんなことを知っているのか分からない。  だが、その声音に宿るのは紛れもない真実の響き。もとより虚偽など口に出来る男でないのも分かっている。  ならば、いったい何を伝えるというのだろうか。 「分からんか。おまえは誰だ? 俺と同じく修羅道に落ち、蠱毒の果てに水銀の血を得たのが今のおまえだ。ではその前は? 真実のおまえ自身、かつて言っていた中身とやらはいったい何だ? 側は衣にすぎぬのだろう?」 「怪物の毛皮を被ったまま、怪物に成り果てるな。奴のしつらえた舞台衣装を着せられても、おまえが蛇になったわけではないだろう。ならば、ここらで脱ぎ捨てよ。のしをつけて返してやれ。水銀で編まれた鱗など、もはやおまえには要らぬ装束なのだから。ああ、つまりなんだったか……」  再びマキナは、いいやこの〈戦〉《 、》〈友〉《 、》は。  似合わないが、妙な感じで様になる、含み笑いを滲ませながら言ったんだ。 「いつまで同じ服を着ているんだ。洒脱さは女を口説くに大事な要素なのだろう? 戦えよ、そして勝ち取れ。お膳立ては整っている。おまえがあくまで、かつてのように己の在処を確信しているのなら、そこに残る真実があるはずだ。きっとそれこそ、あの日交わした俺たちの……」 「―――待てッ」  こいつが消える。いいや、ラインハルトの変革に伴い、再び修羅道に引き戻されると理解して―― 「待てよ、おい――おまえは!」  おまえは、それで救われるのか? 俺がそうすることによって、何かを勝ち取ることが出来るのか? 「答えろ、俺にどうしてほしい!」  問いに、返答は至極簡潔、簡単なもの。  本当にそんな程度で満足なのかと、疑わしくなるほどに。  晴々と濁りのない、男の微笑そのものだった。 「名を呼んでくれ、〈戦友〉《カメラード》。それによってこの俺も、確固たる己を取り戻し…… 真実、解放されると信じている」 「――――――ッ」  その様に言葉が詰まり、胸は熱く鼓動する。  そして、次の刹那のこと―― 気付けば、俺はその場所にいた。 「ぁ……ッ………」 辺りは一面の花畑。そこが何処かは、直感的に分かっていた。 ここはグラズヘイムの一角だ。つまり俺とラインハルトは、今それだけ近い位置……まさしく背中合わせと言えるほどに隣接している事実を示す。 すなわち、このときも、俺たちは共に落下している最中だということだ。ならばもう時間は無い。 「藤井君……」 最後の戦いが始まる前に、俺は彼女へ伝えねばならないことがあったから。 「行く気なの?」 「…………」 「キミはやっぱり、自分の手で決着をつけたいって思ってるの?」 沈んでいる。と言うよりも、これは怒っているんだろう。彼女は結構、なかなか気の激しい性分だし、香純とは違う意味で説教も好きだ。 そして何より、俺の顔を見ただけで一瞬のうちに悟るほど聡明で、鋭くて…… 「馬鹿みたい。これだから男の子って、始末に負えない」 「勝ったの負けたの、そういうのがそんなに大事? 肩凝らないかな、プレッシャーだよ」 「だいたい、キミに喧嘩なんて似合わないよ。怪我とかしたら、みんな、悲しむ……」 「みんな、私は、そんなの望んでなんかいないのに、どうして?」 「そういう男の子の理屈、見てられない。いい加減に懲りてよ」 「遊佐君だって……」 「俺は――」 彼女の不安や憤り、それら諸々理解できるし、無碍にしようとも思っていない。 むしろこれは、その逆で―― 「先輩に、言ってないことがあるんだ」 氷室玲愛に真摯でありたい。せめてこの人には隠し事をせず、正直でいたいと思う気持ちの表れだった。 「俺はカール・クラフトの血を引いている。それは知ってると思うけど、要するにあいつは、俺の生みの親みたいなものなんだよ」 「だから?」 「だから――」 それが単に、それだけならどうでもいい。親に似ていようが似ていまいが、ただの親子なら結局のところ別人だ。 けど、あいつはただのなんて生易しい存在じゃない。 「あいつが消えてしまった後に、俺が俺でいられる保証は無い」 「本当のところどうだか分からない、そうなってみないと確かめようがないことで、不安を煽るしか役に立たないことだから、言ってなかった」 可能性という、ある意味でもっとも冷徹な現実は、俺自身にとっても深く考えたくなかったことだ。 「そんなこと……」 「ああ、言われても困るだろう? 本当に、俺も参るよ」 カール・クラフトは見逃せない。あいつがいる限り、事態は何も解決しない。 だから排除しなければならないが、その果てに俺の生存も危うくなるんじゃ本末転倒というものだ。 「俺は先輩と一緒にいたくて、二人で生きていきたくて、全部そのためのことなんだから、こんなジレンマ、冗談じゃない」 「本当、筋金入りにタチ悪いよな。さすが、どいつからも嫌われてるだけあって、とんでもなく面倒な奴だと思う」 「けど、さ」 言葉を切り、不安に揺れている彼女の目を見る。そこで俺は、自分でも驚くほど自然な感じに、笑みを浮かべることが出来ていた。 「実はさっき、思ったんだ。もしかしてこれ、逆にチャンスなんじゃないのかなって」 「え……?」 意味が分からないと目を見開く反応は、俺の台詞に対してか。それとも笑みに対してか。 どちらでもあるのだろうし、もしかしたら俺の頭を疑っているのかもしれない。 そう思われても仕方ないが、だからこそこれは限りなく前向きな、究極的ブレイクスルーだと断言できる。 「だって先輩、不安がってたろ?」 「自分はラインハルトの血族で、俺はカール・クラフトの血族で」 「俺たちが惹かれ合ったのは本当に自分の意思か。どうして好きなのか分からない。引力が怖い」 俺としても、そうした気持ちは少なからずあるわけで、それを解決する具体的な方策を見出すことは出来なかった。 「だけど、これではっきりする」 「俺の中から、一滴残らず水銀を抜いてやる。そのとき俺が、俺でいられる保障は確かに無いけど、それでもこの気持ちが変わらなかったら……」 今と同じく、氷室玲愛を愛しいと思えるなら。彼女も俺を、そう思ってくれるなら。 「それこそが――なあ、証明ってやつにならないか。誰にも否定できない真実だって、胸を張って言えないか」 「だからこれはチャンスだって、俺は思った」 いや――気付かされたんだ。戦友に。 「糞親父から貰った趣味の悪い衣装は要らない。氷室玲愛と一緒に歩くなら、俺が選んだ俺の服でキメたいだろ」 「たぶん俺、もうちょっとファッションセンスあると思うんだ」 「だから――」 「でもっ!」 「でも、でもそれは、キミが戦わなくたって結果的には同じじゃない。あの人たちを、勝手にやらせておけば勝手に消えてくれるじゃない。それで趣味の悪い服は、消えるんでしょう?」 「だったら……キミが痛い思いすることなんて、ない」 「ないよ。絶対、ないんだから……」 嗚咽を堪えて、自分に言い聞かせるように刻む言葉は、彼女自身も本当は分かっている証だろう。 俺は別に、今この人に論で勝とうとか、それで丸め込んだりねじ伏せたりしようとか、そんなことを考えているわけじゃない。 ただ俺は信じているから、彼女にも信じてほしいと思っているだけ。 俺たちの気持ちってのは、決して与えられた舞台衣装なんかじゃないんだと。 「確かに、わざわざ俺が出向かなくたって結果は同じかもしれない」 「だけどそれは、本当にかもしれないっていうだけだよ。絶対また逢おうとか、自信を持って言えやしない」 彼女に真摯でありたいと思えばこそ、自分の意思が介在しない事態に丸投げするほうが逆に怖い。 「ただの精神論じゃないんだぜ。俺が自分を強く持って清算に臨むからこそ、水銀の抜けた自分を掴むことが出来るんだ。確率としては、そのほうが絶対に高い」 「……て、俺に教えてくれた奴がいるんだ」 「それは、遊佐君?」 「あいつもその一端だけど、これは別」 もっと古い、俺の原初に関わる〈兄弟〉《せんゆう》だ。 「そいつは、水銀が混じらない頃の俺を知っている。だから信憑性はあるんだよ」 「その人が、要らないこと藤井君に吹き込むからいけない」 拗ねたように目を逸らして、ぼそりと先輩は毒を吐く。 「キミは何気に、あれだよね。実際のところ一番ヒロイン属性だったりしちゃうよね。男にばっかり、よくモテる」 「しかも結構、異常な域で。それ友情なのって言いたくなる濃さ」 「まあ、それだけ俺がいい男ってことだから」 「そういう冗談、洒落にならないからやめて」 いや俺だって、当然女にモテるほうが嬉しいけど。 「もういい。藤井君はやっぱりそういう人だって分かってた。きっとキミは、何処に行ったってそうなんだよ」 「なんだかんだで無茶するキミに、ハート射止められた野郎どもが、こう、わらわらと集まって」 「俺があいつを助けてやる。俺が相棒。いいや俺が一番あいつのことを分かってる。とか、むさいやり取り展開地獄が発動するんだ」 「それで私たち女の子は、なんか微妙なやきもち妬きつつ、ちょっと離れたところで陰口大会」 「あー、男ってキモいなあ、とか……」 「そんな未来も、きっとこの先、待ってると思う」 「思う、から……そんなキミが好き」 「この気持ち、本当なんだって私も証明してほしい」 目に涙を溜めつつも、毅然と顔を上げてこの人は言ってくれた。 「ああ、約束する」 俺は強く、絶対の誓いを胸に頷いていた。 混じり気なし、真実の自分をこれから取り戻しに行くために。 「待たせたな。もうこっちはいいぞ」 この場の主とでも言うべき者に、俺は戦場への回帰を促していた。 「話は終わったか?」 「イザーク……」 そう、イザーク。こいつが俺を、今から決戦の場へと連れて行く。 「初めまして、だな」 こうして見ると、なるほど確かにラインハルトと瓜二つ。シスターの息子で、先輩の祖父で…… この子供――と言うには語弊もあろうが、こいつとの利害はメルクリウスを引きずり出すという点で一致している。その先は、無論敵でしかないのだが、今は俺の要求を呑むだろうと確信していた。 「こっちの方針は聞いてただろう?」 「ああ。聞いていたとも。無知蒙昧と言わざるを得ない」 「もとはグラズヘイムの戦奴風情が、随分見栄を切ったものだよ。だが、いいだろう。その思いあがりに乗ってやる」 「なぜなら父様は、敵の到来を喜ばれると思うから。そして絶対に負けぬから。私がいる限り誰であろうと、勝利は奪えん」 「おまえ達の思惑など、泡沫ですらない絵空事だよ。ゆえに私は、その身を貢物として献上しよう」 「旧神や、その眷属など、等しく笑止だ。言ったろう、テレジア。私は誰も逃がさない。総てを愛す」 「そう、父様と同じように」 「……………」 まあ、思いはどうあれそういうことだ。イザークはあくまでラインハルトの歯車で、父の望みを叶えるために回転する。ならば修羅道の理通り、闘争を妨害するような真似はしない。 だがそれとは別にして、もう一つ呑ませなければいけないことが残っていた。すなわち、言うまでもない氷室先輩の解放。 ここに彼女を残したまま戦いを始めてはいけない。ラインハルトが死んでしまえば、今グラズヘイムと一体化している先輩も一蓮托生の憂き目に遭う。 ゆえにいっそ、特異点の外にまで彼女を退場させないといけないが、それをはたしてイザークは許すだろうか。とてもすんなり行くとは思えない。 最悪、ここでこいつと戦う羽目にもなりかねないが、さてどうすると思案していた、まさに最中。 「ねえ、私達と来ない、イザーク?」 この人は、いきなりそんなことを言い出した。 「は……?」 「…………」 俺のみならず、イザークも絶句している。当然だろう。何を言っているのか意味が見えない。 「だってあなたは、私のお祖父ちゃんなんだもの」 だというのにこの人は、当たり前のことだろうと言わんばかりに言葉を継ぐ。 まったく、全然、躊躇がなく……俺達はただ、彼女の理屈に聞き入るしかない。 「私は、藤井君のことが好き。ずっと一緒にいたいと思ってる」 「血筋とか、立場とか、よく分からない引力とか……全部清算してやり直そうって言ってくれる彼が好き。だから結婚したいの」 いや、結婚ってあんた…… 「式には来てほしいし、子供が産まれたら抱いてほしい。よければ、名前だって考えてよ。みんなに愛される子供になるように……」 「リザにも、同じ約束をしたけれど……彼女は今、ここにいない」 「あの人も、神父様も、ハイドリヒ卿を斃して子供たちを解放する道を選んだから……本当の天国に行こうとしてるから、戻ってきてほしいけど、戻しちゃいけない」 「自分達は、もう普通の人の一生分はとっく生きたって、きっと言う。いっぱい死なせたから、もう逃げないって絶対言う」 「だけど、ねえイザーク。あなたは誰も殺してないじゃない」 「歳だって、まだまだ普通な感じじゃない。たった六十歳と、ちょっとでしょう?」 「だから、私の家族になって」 「新しく出来る家族を、一緒に祝って」 「あなたがこのまま、ずっとこのままだなんて、私……」 そんなのは、辛すぎるから、と。 「一緒に行こうよ、お祖父ちゃん……」 「…………」 涙声で綴られる彼女の哀訴に、しかしイザークは頑として動かない。 ただ緩く目を閉じると、変わらぬ平板な口調で返すだけ。 「何を言っているのか理解不能だ。やはりおまえの頭は劣悪だな、テレジア」 「本当に黄金の血を継いでいるのか、疑わしくなるほどに」 「一言、くだらん。それしか言えん」 「でも……!」 「クラフトの代替。おまえもそう思うだろう。この娘の頭には、他者の都合というものがそっくり抜け落ちているらしい」 「え……?」 その時、俺と先輩が感じ取ったのは、いったい何だったのか。 もしも耳がおかしくなったわけじゃなければ、今のは苦笑の響きにしか聞こえなくて…… 「ああ、前言を撤回しよう。やはりおまえは、我々の血筋だよテレジア」 「他者など知らぬ。己の意のままにしか振舞わぬ。口に出すのは決定事項で、反発があろうとねじ伏せる」 「まったく、面倒な娘に見込まれたものだな。覚悟したほうがいい。逃げられんぞ」 「じゃあ……」 「去れ。ここより先、もはや〈子宮〉《おまえ》など必要ない。戦に女の出る幕などないのだよ」 「〈心臓〉《わたし》さえいればいい。私さえいれば、問題ない」 「父様が勝利し、その男諸共溢れる黄金に呑まれるまで、好きにしていればいい」 「今さらおまえごとき、どうなろうと知らんよ。邪魔をする気がないのなら、座して死を待てばいい」 「では……」 そうして、緩やかに踵を返す。その背を、先輩が呼び止めた。 「待って――」 「駄目なの? 本当に来てくれないの?」 「くどい」 それは常通り、機械的なほど冷徹な声で。 しかしこの時、イザークは…… 「これも何度となく言ったろう。私は総てを愛している」 「ゆえに……」 能面のような顔が、綻んで…… 「無論、おまえを愛しているよ。その道に幸あれ、テレジア」 「――――――」 僅かに、本当に僅かだけだが、気のせいじゃない。 「ヨハンも、母様も、私は憎んでなどいない。愛している」 「家族、なのだからな」 はにかむような、その微笑。 薄桃色に溶けて消えそうな、それは淡雪を思わせていた。 「ああ、では行きましょう父様。この世をグラズヘイムに塗り替えるため」 「どこまでも、どこまでも、私はあなたの傍にいる」 「未来永劫、永遠に、あなたの息子であり続けたい」 「共に、終わらない地獄へと……進軍するのだ」 「〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を超えて……」 「待っ―――」 延ばした手は、しかし届かず…… 吹き荒れる花嵐を割りながら、俺への〈標〉《しるべ》となる道を残してイザークは消えていった。 …………… …………… …………… そして…… 「あれはもしかしたら、あの人なりの照れ隠しだったりしたのかな」 残された俺達は二人きり、花畑の中で立っている。 「実はイザーク、本音のところじゃ……もっと普通の幸せを求めていて」 「自分がそうなれなかったぶん、私たちに夢を託したいと思っていて」 「だけど素直に言えないから、あんな可愛くない、態度のまま……行っちゃって」 「ねえ、これって都合のいい解釈かな。私が勝手に、そう思い込みたいだけなのかな」 「いいや、俺も同感だよ」 あの笑顔、あの祝福に破壊の愛なんて混じっていない。あれは間違いなく純粋な、家族に向ける愛情だったと俺も思う。 「〈容姿〉《なり》はあんなでも、年寄りだからな。要は頑固じじいってやつなんだよ」 「だからきっと、あれは精一杯の孫に対する思い遣り」 自分がいればおまえは不要と、彼女をグラズヘイムから解放した。事実として今このとき、先輩の身体は徐々に薄くなり始めている。 「正直、助かった。どうやってそれを呑ませようかと思っていたから」 「これで俺も、心置きなく戦える」 「うん、でも……」 「ああ、分かってるよ」 この人は、そんなことを計算して一緒に行こうと呼びかけたわけじゃない。先輩は心から、イザークを救いたいと思ったんだ。 そして結局、あいつを逃がしてしまったという事実を前に、この人は悔いている。先ほどから小さく震えているのがその証だろう。 「私怖い。やっぱり怖いよ……」 「リザも、神父様も、綾瀬さんも遊佐君も救えなくて、今イザークもこぼしちゃった。全然、何も思い通りに出来ていない」 「こんなんで、最後だけは成功するって、虫のいいこと期待しちゃっていいのかな。私そこまで、プラス思考になるのは難しいよ」 「ねえ藤井君……キミはそれでも、大丈夫って言える?」 「言えるよ。断言できる」 最後だけ都合よく上手くいくのかなんて考えるから不安になる。これはむしろ、逆に考えるべきなんだ。 「俺たちは、お互いしか守れない」 「無力で、ちっぽけで、全能なんかじゃない俺たちだから、本当に大事な一人だけは絶対に離さない」 「俺はそう、思ってるよ」 「だったら……」 言葉どおり、きつく強く抱き合って、その感触と想いのほどを胸に収めて―― 「だったらお願い。ちゃんと私のところに帰ってきて」 「テスト、するから。次にキミと逢ったとき、キミが本当にキミなのか、私試してやるんだから。すごい難問、用意してやるんだから」 「そりゃあ怖いな。何か分からないけど、お手柔らかに頼むよ」 「知らない。せいぜいドキドキしてなさい」 「私の話を全然聞いてなかったような不実な人なら、絶対反応できないようなことにするから」 「て、なによ、なんで笑うのよ」 いやだって、どうせ九州某県に関する何かだろうと、容易に想像できてしまったことが面白くて仕方ない。 ああ、大丈夫だ。先は明るい。その未来へ至るため、俺は今を抱いているんだと実感できる。 「そうだよ。だから二人は、二人のことだけを考えて」 「他のことは、わたしが全部包むから」 ――と、その声を聞いたことで確信はより深まる。 「誰でもいつか、明るい明日を。みんなそれを求めて生きている」 「レンが教えてくれたこと。素敵な考え」 「だからわたし、そんな風にみんなを包めたらいいなって……そう思うよ」 「藤井君……」 「私、キミを信じてるから。キミが信じる人のことも信じてるから」 「もう一度、お願い。私たちの気持ちの証明、その手に入れて、帰ってきて」 「当たり前だ」 誓う。何より、深く強く。 それに頷き、微笑んでくれた彼女の姿を俺は目に焼き付けて―― 次の瞬間、総ての決着をつけるべく、さらなる特異点への潜行を開始した。 そして―― 「……………、………な」  唐突に降り注いだのは殺傷の一撃。  深海の底で出会った詐欺師との問答に、何かを掴みかけていた寸前の出来事だった。 「……ば、かな」  そう、これは馬鹿なことだ。常識においてありえぬ異常が容易く血肉を貫いている。  加え、なぜ自分は〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》……疑問。 「そうだ。おまえはこの程度で死んだりしない」  胸を穿った死神の刃がそう告げる。  異常な状況で、異常と言わざるを得ない私の感慨を、正常であると肯定する。  ああ、なんだそれは。まるで喜劇のようではないか。 「俺も、そしておまえも同じ、そういう台本に不満があるんだよ。そうだろう?」  刃の言は理解できない。だがそれでありながら、著しく共感できると思う気持ちは何なのか。  そしてこの現状を、どこかで愉快に感じているのはどういうことか。  私には何もない。  夢も、理想も、胸に抱くべき大儀を知らず、それで終わるのだろうと思っていた。  ゆえに無論のこと、悦などというものとは無縁であり……  理不尽で不可解な死を前にして、なぜそのような想いが生まれたのか分からない。 「ほぉ……これはまた、なんともはや」  ただ、そう。強いて言うならこの刹那。眼前に在る不遜な詐欺師が僅かに驚愕しているように思えること。  始終私を弄うように見ていた男が、初めて揺らぎを垣間見せたということが面白い。 「実に喜ばしい。さあ、迎えは来ておられるようだ、獣殿。あなたが砕くべき者はそこにある。全力を出せる刹那、願い求めた壁、敵手……それを必ず用意すると、私は約束したのだから。誇らしい。素晴らしい。彼はあなたを満足させると保障しよう」  本当に? それは真実? ああ確かにそうなのだろうが、胸を抉る刃の感触は否だと告げる。 「分かっているだろう、ラインハルト」  そうだ。私は分かっている。むしろなぜ分からないのだ〈我〉《 、》〈が〉《 、》〈友〉《 、》よ。  私はこれほど、この期に及んで状況を読み違えている卿のことが愉快で愉快で、また哀れで。  透徹した思考。超越した神算。万象、己が脚本に踊る縁者たれと断ずるモノが、まるで拙劣な道化のようだ。 「相反する渇望。正反対なのに両立する関係」  〈破〉《 、》〈滅〉《 、》〈を〉《 、》〈避〉《 、》〈け〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈引〉《 、》〈力〉《 、》〈に〉《 、》〈逆〉《 、》〈ら〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  私に宛がうと言って用意した強敵が、己の代替品であるという時点からすでに滅びの兆しは見えていたのだ。  気付いてほしかったのだろう? ずっと待っていたのだろう? 完璧十全に拵えた脚本を裏では破壊してほしいと強く強く、切に狂おしく渇望して――  ゆえに今、らしからぬ愚鈍さを晒している。もとより嘆かんばかりの愚かしさをもって、頂点へ達した魂ゆえに。 「俺は〈水銀〉《こんなもの》なんか要らない。おまえたちが定めた役になんか納まる気はない」  刹那は告げる。自分は自分の道を見出すのだと宣言し、その選択を私は誰より寿ぎたい。  砕け散るまで抱いてやりたいと思うほどに。 「さあ──目蓋を開こう、破壊の君よ」  そして友もまた告げる。  思い出せ、〈刹那〉《それ》を砕け。やり直せ、やり直そうと。  その想いとまったく同位で、180度向きを変えた願いがあるのを理解する。 「私は……」  何を信じ、何を願い、何を求めて、何に至ったか。 「そうだ、私は………」  人として死ぬことを望んだか?  いや、それはいずれ訪れる。必滅を待ち望むことはしなかった。ただいつかは来るだろうと、日々の公務に追われていた。  魔軍の長となったのは、果たしてそのような願いからだったか? 「──否」  目覚めの声。高々な響きが停止した世界を揺るがす。  空に亀裂が入った。激痛が潮のように引く。 「否、断じて否だ。死を座して待つのではない。それでは生きながらの死者だ。処刑台に登る囚人と何が違う」  傷口を見下ろせば……なんでもない、〈針〉《 、》〈で〉《 、》〈つ〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈の〉《 、》〈傷〉《 、》〈だ〉《 、》。潰された心臓の鼓動が音となり再生する。 「私はまだ何もしていない。ならばそれこそ、己が矜持に反するではないか」  高鳴る鼓動。黄金の獣に再び息吹が宿り始める─── 「無為だと遠ざけた、塵芥だと烙印を押して通り過ぎた。本当は総てを愛してやりたかったのに、愛するには万物総て脆すぎたから。ああなぜだ、なぜ耐えられぬ。抱擁どころか、柔肌を撫でただけでなぜ砕ける。なんたる無情だ、森羅万象、この世は総じて繊細にすぎる。ならば、我が愛は破壊の慕情。愛でるためにまずは壊そう。頭を垂れる弱者も、〈傅〉《かしず》いて〈跪〉《ひざまず》く敗者も、反逆を目論む不忠も、総てが愛しい。ゆえに壊す」 「それこそが唯一の道理。私は死を眺め、感じながら生きている。だがそれは死を〈拱〉《こまね》く事ではなかった。愛でるべきものを愛でず、労わりすぎて放置するなど無粋の極み。だからこその〈死を想え〉《メメント・モリ》だ」  私に〈壊〉《あい》される者達へ、それを行う私自身へ向けて。  死は重い。だからこそ厳粛に受け止めて欲しいのだ、この愛を。  満たされぬ心の空洞。この不感症を癒すために総てを飲み込み進んできた。まだ壊していないものを求めてきた。  しかしまだ――まだ喰い足りない。餓えた獣は猛っている。  心躍る好敵手。全力を出すに足る難問。そのために喰らおう、我が生の証明を、さらにさらにさらに……… 「総てを愛そう。例外はない。その平等を与えぬことこそ、〈蔑〉《ないがし》ろにしている証明そのものではないか」  友よ――私に壊されたかったのだろう?  それを永劫に望みながら、このように迂遠な方法でしか成しえなかった喜劇。  ならばそれを汲んでやることこそ我が友情。我が覇道。もとより対象が何であれ、破壊を履行せぬということ自体が、自らに対する侮辱なのだ。 「そうだ、私は───」  髪が伸びる。服が入れ替わる。手には聖槍の感触。内海で渦巻くのは愛児でたぎる〈地獄の宇宙〉《ヴェルトール》。  胎動を始めて燃える情愛。  開かれた瞳は──凄烈に輝く黄金の眼光。 「私は、総てを愛している!」  その瞬間、解放された力は流星となり、暗い牢屋を消し飛ばす。  千切れ飛び、万の破片となって消滅したのは過去の風景。  そこへ清快な神気を纏い、自分に劣らぬ強度をもって座に挑もうという者がある。 「そうだ――これで総ての決着をつける」  同時に振り抜かれた斬光の一閃が、ラインハルト・ハイドリヒをして脅威的と思えるほどの力を纏って彼の盟友へと放たれる。それに混じり気の無い賛辞を送った。  ああ、心から礼を言おう。卿がいたからこそ今があるのだ。  幻想を、閃光を、そして我が存在意義を……  総て与えてくれた。感謝している。  ゆえに等しく臨もう。全霊を懸けて彩ろう。  最終最後の〈怒りの日〉《ディエスイレ》を。  既知世界最強の座を決する戦争を。 「さあ──」  私もまた、この刹那を何より尊く感じているから。 「───始めようか、カール」  宣戦布告の声と共に、加減のない聖槍の一閃を放った。  迫る二つの破壊光。  総てを吹き飛ばさんと唸る力は、進行方向の悉くを焦土と化す。  二撃合わさったその神威を前に─── 「……ああ。ついに、私の〈自滅因子〉《アポトーシス》が発現したか」  水銀の蛇は、ただ泣き笑うような表情で── 歌が聴こえる。マリィが紡ぐ新世界の雛形となるその調べが、最後の戦場を輝かに照らし出す。 彼女の魂は戦うという概念を帯びていない。ゆえに旧世界の討滅は、俺が処刑刀として引き受けよう。自分に役目というものがあるのなら、それこそ誠だと信じているから。 いま俺は、ついに総ての根源へと到達した。 「さあ――」 「待ちかねただろう。ここに誓いを果たしてやる」 おまえ達が創りあげた〈聖遺物〉《やくわり》として―― その存在意義を超えてやる。 俺は生きる。人として帰る。かつて夢見た刹那を今こそ取り戻す。 流れ出る渇望は不変のまま、しかしこの一戦をもって自己の超常を消失させると誓った心が、新たなカタチを生んでいた。 いや、あるいはこれこそが真の姿か。 刹那を――俺が真に愛し求めた祈りの具現を。 万象に命じる停止の牢獄。時の針が処刑の刃となって顕現している。 そう、今よりこの神威をもって。 「カール・クラフト」 「ラインハルト・ハイドリヒ」 おまえたちの都合で生まれた力など要らない。 総て叩き返してやるから残らず受け取れ。この身に流れる水銀の〈血〉《どく》を、自力で清算しないまま本当の新世界になんて行けやしない。 なあ司狼、戦友、そうだろう? 与えられた呪いというやつ、残らず雪いで真実の自分を手に入れよう。 その果てに、彼女との未来を掴みたいと願っているから。 「今から俺が望み通り、絶命という〈未知〉《シ》をくれてやる!」 魂からの大喝破が、座を震撼させ宇宙に轟く。それを受けるのは黄金、水銀、二柱の流出―― 「なるほど。卿も卿で、己が真実を欲するか。その気概、寿ごう」 「なんとも愉快なことだなカールよ。これも冥利と言えるのではないのかな」 「私も、彼も、等しく解脱を求めている。己の祈りを信じながら、想いを完遂すると決めているのだ。もはや〈座〉《ちち》の庇護は要らんとな」 「ゆえに卿も卿で、子に超えられる充足を楽しんでみるがいい。存外と、そこに未知があるやもしれんだろう?」 「いいや……」 そこで一旦、ラインハルトは言葉を切って、凄烈に輝く黄金の瞳を友と呼んだ男に向けた。 「私は――これこそ然りと感じているぞ」 「笑止な」 だがその口上を、メルクリウスは一刀両断に切り捨てた。座の高みから俺とラインハルトを睥睨し、嘆くような声で続ける。 「それは勘違いだ、我が友、そして我が息子よ。私はこんな展開など望んでいない」 「ああ、その事実が、震えるほどに私の総てを打ちのめす」 滲み出る慇懃な余裕は常通りのまま。しかし今、その裏側で、この男が変わり始めているのを感じ取った。 いいや違う。これは戻り始めているんだろう。 「未知を求めた。それのみを願った。その果てに筋書きを外れたならば、確かに是と言えるのかもしれんがね」 「だが、違うのだよ。座に在る私は否と告げる。ああ嫌だ。認めない。〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈許〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 それは、まるでもう一人の自分の意見を代弁しているような口ぶりで、奇怪だったが滅裂なものとも言い難かった。 ああ、そうだ。この現象を俺とラインハルトは理解している。 万象の根源として、総てを司る主として、真実のこいつが表出しようとしているのだ。 カール・クラフトなどではない。カリオストロでも、サン・ジェルマンでも、パラケルススでもない既知世界の始まり。 もはや名すら分からない双頭の蛇が、宇宙を覆う影の中から水銀を撒き散らしつつ浮上してくる。 そいつは―― 「だというのに、私はおまえたちが狂おしく愛しい!」 「厭わしく、腹立たしく、ああ冗談ではない。だが讃えよう、我が子等よ」 「このときこそを私はずっと待っていたと、そう感じる魂にも〈否〉《いや》はない」 それは相反しながら、両立する渇望。この今を失敗だと悲嘆しながら、同時に待ちかねたと喝采する自滅への憧れに他ならなかった。 俺にとっての司狼がそうであったように、こいつにとってのラインハルトがそうなのだから。 こうして対峙した今、水銀の蛇は嘆きながらも嬉々として破滅へ向かう。そうせざるを得なくなる。 つまり―― 「おまえは詰んでる。自覚しろ」 この馬鹿げた歌劇を、ここで完全に終わらせてやる。 「永劫回帰の終焉だ」 「然り。その〈旧世界〉《きちかん》は枯渇している。盟約だ、今こそ幕を引くとしよう」 〈神殺しの槍〉《ロンギヌス》が無の空間を揺るがし、斬首の刃が座を凍結させながら鳴き始める。 総ての命運を今ここに。 「違うな。これは始まりだ。新たな世界への幕開けとなる」 「ゆえにおまえたちはもう要らん。これより先は女神の独り舞台でなくてはならぬから、用済みの役者には退場願おう」 「それが私の――“座”の意志と知れ」 殺意。殺意。宇宙の根源たる事象が懐き、叩きつけてくる必滅の審判。その直撃を受けただけであらゆるモノは消滅し、存在の痕跡すら残さず溶けていくに違いない。 だが、それがどうした。 「もうこれ以上、おまえの手玉になるつもりはないんだよ」 マリィを主とした新世界への移行を望むという点で俺とこいつは同じだが、だからこそ浮き彫りになっている決定的な差異がある。 〈脚本家〉《こいつ》にとってマリィ以外の総ては端役だ。それは先の言が証明している通りのことで、彼女の大事さに比べれば俺や氷室先輩のことなど塵芥ほどにも思っていない。 ゆえに、座の交代における主導権、その演出をこいつの手に委ねては絶対ならない。自分たちの未来をこんな奴らの気紛れに任せるわけにはいかないだろう。 「ついさっき前までは、そうするしかないのかと内心忸怩たるものがあったけどな」 「そこはおまえと同じで、連れに恵まれてたから助かったよ。ああ、実際そのことだけは感謝している」 水銀に汚染された身のお陰で、それを殺したがるダチには困らない。今の俺の行動は、間違いなくそうした意味での自壊衝動―― だからこそ意味がある。 「俺の本当の名前が何なのか、まだそれは分からないけど……」 この果てに、きっと取り戻せるだろう。大好きな人と、素の自分で向き合うことが出来るはずだ。 「おまえを斃せば、その部分だけが絶対に残る。水銀の自滅衝動は、人であった俺には関係ないものだから」 俺は本来、〈座〉《かみ》の位階に立てる器じゃない。純血種であるこいつやマリィとは異なる混血だから、父の死もろとも神性を失うことで人に戻れる。 それに気付かされた以上、やるべきことは一つだろう。 もとより俺の大儀なんて、日常に帰るというただ一点なのだから。 初志貫徹――その一言で片がつき、ゆえに揺るがぬ信念だ。 「一緒に消してやるよ。おまえと、おまえから貰ったこの力を!」 「ああ、ようやく卿が同じところに降りてきたと感じるよ」 そんな俺の啖呵を聞いて、嬉しげに笑うラインハルト。こいつも同じくメルクリウスを見上げたまま、感極まったように言葉を継ぐ。 「いつも影のように卿はいた。一歩下がって私を立て、しかしその実、追従していたのはどちらのほうか。今や考えるまでもない」 「光源は遥か上。見上げる、挑む……皆初めてのことだ。感謝しよう、我が友よ」 「そして卿も、事ここに至ってはもはや代替などと呼べないな。卿は卿だ、尊き刹那よ」 「私と友の交情に、割って入るななどと言いはせぬ。むしろより華々しき戦となった事態を嬉しく思うぞ。もとよりこの身は、無限の闘争を望む者」 「私は総てを愛している。ゆえ、諸共に壊してやろう。来るがいい」 「言われなくても――」 「ふふ、くくくくく……」 共に膨れ上がる神気、戦意、渇望の奔流―― それが飽和し、弾けた瞬間―― 「―――行くぞォッ!」 正真、最後の戦いの、幕が切って落とされた。 「Gladsheimr――」  今こそ宇宙を制覇せんと光輝が猛り、破壊の愛が流れ出す。初撃はこの三者にあってもっとも攻撃的かつ獰猛な、黄金の獣皇によるものだった。  壊す、滅ぼす――ああ、愛している。彼の魂を染め上げて、万象塗り潰さんとする〈渇望〉《いのり》はただそれのみ。業火のように暴圧的で、同時に紛れもない愛でもある覇者の威光の持ち主だから。  それは既知世界の終焉と、その最強座を問う戦いの意義を鑑みれば至極順当。だが人の常識など及びもつかない超越の戦場ゆえに、一見して順当な幕開けこそがある意味でこの上もない異常と言えた。  いいやあるいは、裏の裏が表であるとかどうだとか、そのような言葉遊びを弄じるべきではないのかもしれない。  頂点とは、すなわち純化された極点ならば、無駄に飾ることなど不可能だろう。  陳腐と言われようともそういうもの。彼は強く凄まじい。  この場を評するならそれだけで、ここに集った者らは例外なくその真理を知っている。 「Longinus Dreizehn Orden!」  ゆえに誰も、その覇道に感嘆こそすれど驚きはしなかった。彼の核たる黒円卓の精鋭たちを、初撃から全突撃させるという所業を当然のものと受け止めている。 「ははは、ははははははははは―――!」  まさに全身全霊、それを振り絞る境地こそを求めていたと、折りつけ言っていた通り、黄金の獣は生涯初の解放に歓喜する。総てが初めてのことゆえに、あらゆる意味で加減が出来ない。  己の肉体、そして精神、果ては霊質にいたるまで、負荷に耐え切れず崩れ始めていたがまったく頓着していなかった。 「おお、身が震える。魂が叫ぶ。これが歓喜か、これが恐怖か! 私は今、生きているッ!」 「至高の天はここにあり!」  自身すらも破壊しながら、これこそ解脱と彼は信じて疑わない。事実その通りなのだろう。  放たれた初撃の効果は、既知世界の総体を疑いなく重大な規模で削っている。それは単純な質量の観点で見た場合、有り得ない戦果だった。  グラズヘイムのエインフェリアは数百万。その士気、練度、共に極まっているのは言うまでもない。  父の望みを叶えたと、誇りに奮えるイザーク然り。そして、自身に拭い難き業を植え付けた元凶たる水銀を、今こそ討たんと猛る爪牙らの想いも然り。  主従併さって一つの宇宙。ラインハルトに言わせればこれが我が愛ということだろうし、それに痛手を受けた水銀は、さしずめ愛が足りないとでも評すだろう。  だが、実情はそんな観念的なものではない。 「まったくもって度し難い。我ながら呆れ果ててしまいそうだよ」  獣は座の自滅因子。宿主を殺すという一点において、まさに神掛かった超進化を発揮する。でなくば蛇に傷を負わすことなど不可能だ。  なぜなら既知世界の総軍は、天地開闢より今このときまで、生まれてきた総ての魂に他ならない。数より質とかつてこの蛇が言った言葉は真実だし、実際に彼は女神を至高としているのだからその論に嘘はない。  だが同時に、逆もまた真である。どれだけの質を極めようと、絶対に対抗できない数の暴威というものも厳然と存在するのだ。  数百万? 素晴らしい。なるほど確かに破格だろう。しかしそれすら、狂える水銀の総体から見れば芥の質量と変わらないのだ。  その上で、既知世界に痛打を浴びせた事実はつまり、ラインハルトが蛇に対して絶対的な破壊特性を有している証明だろう。  裏を返せば、対象を一人に限定した進化ということであり―― 「余所見してんじゃねえェッ!」  彼に対してはその超神性を発揮できない。質量において水銀よりも遥かに劣るはずの刹那だったが、先の一撃を凌ぎきって反撃に転じている。この時点で、ラインハルトの力が酷く指向性の強いものであると断言できよう。  本来その特性は、水銀の継嗣という意味において刹那にも適用されるはずであろうが、今現在、ラインハルトは彼らを同一と見ていない。卿は卿だと先ほど言った言葉通り、個々別の神威と認識している。  それは感謝であり、敬意であり、自らを至高の戦場へと立たせてくれた敵への愛。その発露。  修羅の誇りは黄金の輝きとして常に不変だ。今さら都合よく認識を変えることなど美学に反する。いいやそもそも、そんなことなど考えもつかない。  ゆえに今、初撃において後先を考えず全力を放ったことが重大な隙となった。これは尋常な決闘ではなく、状況次第で如何様にも様相を変える乱戦――三つ巴なのだから。  振り下ろされた処刑の刃が修羅の宇宙を斬断する。五個軍団までが一瞬にして断ち割られ、その時点でようやく意識を立て直したラインハルトが防御に転じようとするが、しかし遅い。  もとより時は、刹那の宇宙。時間の獲り合いという領域において、彼を出し抜くことなど黄金にとっても不可能に近い。  あわや必殺――と思われたしかしその時。 「  」  鳴動する既知世界の天体が凝縮し恒星となって、さらに極大の膨張と共に轟発した。  ――超新星爆発。刹那の単位すら凌駕して発動した宇宙規模の大熱波が、単純規模にして実に〈赤騎士〉《ルベド》の数万倍の猛威を振るいつつ二人を呑む込む。今度は刹那が、容赦のない損傷をその身に刻まれることとなった。 「つッッ、あああァァァアア!」  そしてその隙を黄金は逃さない。攻撃同様、防御の面でも、彼は蛇の業に高い耐性を有している。先ほどの返礼だと言わんばかりに聖槍を旋回させ、必滅の一閃を刹那に放った。  あらゆる挙動に、魂魄までも自壊しながら。 「美しい……」  それを蛇は、感嘆と共に褒め称え。 「くッ、らうかよォッ!」  光速を超える理の回転をもって、真っ向弾き返した刹那は吼える。 「〈未来〉《さき》をまったく見てない奴に、俺は負けない。そんな奴に勝利は来ない。おまえたちは、どれだけ強くても生産性が欠片もないんだ。俺も人のことは言えないが、だからこそ、ここで総てを清算したいと望んでいる。 そんな様で――」  糾弾するように、黄金を指差す。 「おまえ、何を成せるって言うつもりだ!」 「無論――」  問われたラインハルトは依然変わらず、何の揺らぎも見せていない。 「総てを〈壊〉《アイ》す。それのみよ」  清々と答えながら、再び己が軍勢を率いて攻めに転じた。  美しく、壮烈に。そして愚かで度し難く。  攻撃と共に自壊していく黄金の魂魄は、必ずしも自身の力に耐え切れなかったというだけではない。  絶対原則、宿主を殺せば癌もまた生きられない。  すなわちこの戦いを続けるほどに、ラインハルトは欠けていく。結果がどうなろうと、彼は存在を維持できなくなるだろう。  そんなことは、当人とて常識として弁えているはずなのに。 「どうして……」  男たちの戦場を見守る女神は思う。悲痛に胸が裂けそうになる。  どうして彼は、そんな破滅を嬉々として受け入れるのだろう。幸せの形は十人十色と理解するようになったとはいえ、だからこそ黄金の在り方が特異すぎて浮き彫りになる。  司狼なら分かるのだろうか。彼と同じ属性を持っていたあの人ならば、今の黄金に共感することが出来るのだろうか。  いいやそれとも、これは単に男性ならば、誰もが持っている稚気なのかもしれない。だって蓮も口ではああ言っているものの、きっと自分より分かっている。なぜなら口調に、一抹の寂しさが混じっていたから。  司狼を見ているようで悲しいの? 自分もそういう面を持っていると、分かってしまうから腹立たしいの? 自滅因子がどうだとか、そんな味気ない理屈だけでこの場があるとは、到底自分には思えない。 「キレイ……」  蓮も、彼も、カリオストロも、誤解を恐れず言わせて貰えばそう感じる。とても輝いて私には見える。  抱きしめたいと焦がれるほどに。  ここに至るまでの諸々、悲劇、血と死と嘆き……その元凶たる二柱に対して確かに腹は立っているし、怒っていないと言えば嘘になる。  だけど、それでもどうしたところで憎みきれない。自分にその手の感性はないようだ。  何より蓮も、怒りと憎しみだけで戦えるような人じゃないし。  だから好きに、なったのだし……  そんな彼が望む未来を、包んであげたいと強く思う。それは自分と違う人と歩む未来で、少し泣けてしまうような気持ちだけれど。  どうしてわたしが、そんなことに手を貸さないといけないのよって、拗ねてみたくなる気持ちもあるけど。  わたしは幸せ。こんな心を与えてくれた総てのことに感謝しても仕切れない。  ああつまり、だからそういうことなのだろう。  結局のところマルグリット・ブルイユは、この歌劇の果てに得た諸々を愛している。  善も悪も、涙も笑いも、総てがあったから自分は自分としてここにあるのだ。その考えはカリオストロの脚本に踊らされた人たちにとって、この上ない怒りを煽るようなことだろうけど。 「だからこそわたしは思うの。みんな、いつか絶対幸せになって。わたしが見ている。傍にいる。見捨てたりしない。抱きしめる。ううん、お願い。抱きしめさせて。愛しい総て、わたしは永遠に見守りたい」 「あなたのことも……」  神威巻き起こる戦火の中へ、恐る恐るだが手を伸ばす。  黄金はこの戦いの果てに自壊する。その結末は不可避だが、しかしそれで終わりにしていいのだろうかと思うのだ。 「なぜなら、あなたも……」  蓮と同じ、曰く混血。自分やカリオストロとは違うのだから、神格としての部分が滅び去っても人としての魂が残るはずだ。  それを拾い上げてはいけないのか? 抱きしめてはいけないのか?  これを裏切りだなんて自分はまったく思わない。  だって蓮が、他ならぬ彼が、〈未来〉《さき》を見ろと言ったのだから。 「ねえ、そうでしょう?」  友達と、諸共消え去るまで争い合うのが友情だなんて…… 「そんな悲しいこと、言わないで」  願いを込めて告げた想いと、差し出された両の手は…… 「愚問――卿には分からぬ。〈聖女〉《おんな》の出る幕ではない!」  傲然と喝破する黄金の威勢をもって、しかし淑女への礼を忘れぬ優雅さはそのままに振り払われた。 「私の愛は破壊である。ゆえにそれしか知らぬし、それしか出来ぬ。そしてそれこそ我が覇道なり」  女の情など自分には不要。語る者次第によってはただの虚勢と幼稚さの発露にしかならぬ言だが、この男に限って言えば絶対自負の顕現としか映らない。  心底そう思っているのだ。誰も介在できぬ域で孤高に、そして誇らしく、ラインハルト・ハイドリヒは己の道を決めている。 「どだい戦争――単体では成立せぬ概念よ。ならばこそ敵を! 求めるゆえに部下を! 愛し、率いて、壊すのみ!」 「私の楽土は鉄風雷火の三千世界だ。ここにまみえた友らを抱こう。砕け散るほどに愛させてくれ。なあ、カールよ。刹那よ。こんなものでは終わらぬよなあ、そうだろう!」  万感の想いを込めた呼びかけと共に、さらに激しく燃え上がり、槍に収束していく黄金光―― 「共にこの宇宙で謳いあげよう、大いなる祝福を。 フローエ・ヴァイナハテン!」 「然り――これほど心躍る宴はない! 〈Acta est fabula〉《未知の結末を見よう》」  激突する超新星と破壊光――ここに彼らの神威は相乗効果を発生させ、共に天井知らずで跳ね上がる。  ゆえに今、その拮抗に後れを取った刹那は窮地に立たされた。鬩ぎ合う永劫回帰と修羅道の理に、無間の法が押されていく。  そして―― 「 」  これは乱戦。三つ巴。ならばこそ、劣勢に陥った者が即座に他の二者から狙い討たれることは必然で。 「 」 「第九――〈SS装甲師団〉《ホーエンシュタウフェン》」  その関係性を考慮すれば、まったく当然と言うしかない阿吽の呼吸と無謬の連携。同時に放たれた二つの神威が、等しく凄惨な威力を纏って刹那の宇宙を蹂躙した。 「ぐッ、があああァァアッ!」  既知世界の星々があまねく十字に整列している。多次元並行宇宙にまで干渉して成された極大規模のグランドクロス――  それは潮汐力の激変による大津波、すなわち体液を瞬時に攪拌させ致命の沸騰をもたらした。  人間なら、いいやこれを前にすれば神格ですら内から爆散して跡形すら残るまい。さらにそこへ、グラズヘイムの装甲師団が怒涛の火砲を浴びせていく。 「―――レン!」  マリィが目をむき、思わず飛び出ようとするほどの圧倒的暴威だった。この戦いは彼が真なる自分を取り戻すため、そして女神がつつがなく座へ就くため、互いに独力でいかなければ駄目なのだと分かっていても止められない。  自分が行って何が出来ると、そんな考えは度外視したまま前に出る。本当にあと少し、あともう数瞬で蓮のもとへ駆けつけようとしていたのだが。 「大丈夫……」  彼は静かに、そして優しく彼の女神を押し留めた。 「君には君にしか出来ないことがあるだろう。俺は平気だよ、負けやしない」 「でも……!」  たかが通常のグランドクロスであったとしても、それは時に地球の潮をかき乱す。なのにこれは、規模においてその数億倍はくだらない。そんなものを一身に浴びておいて、大丈夫も何もないだろう。事実、彼の全身はひび割れて、内から血煙を噴いているのに…… 「あなたは、いつも痩せ我慢……」  大丈夫って、大丈夫しか言わないくせに。いくら自分が少し足りないからといって、いつまでもそんな言葉で通されても困る。 「なんだ、俺のこと信じてないの?」  そして、こんなずるい言い方をするところが嫌い――大好き。本当に腹の立つ人。  あまり格好つけすぎて、一歩退こうっていうわたしの気が変わったらどうするのよ。 「だから、本当に心配いらない。俺だって性懲りも無く、空意地張ってるわけじゃないし……そういうの、良くないってことくらい学習したから」  微かに笑う。そして告げる。 「根拠はあるのさ。俺は負けない。なあ、だってそうだろう……?」  彼の言わんとすること、その意味するところをマリィは瞬時に理解して。 「レン、まさか――」 「そうだよ」  そして、瞬間―― 「さあ、どうした! ここで落ちるか、ならば〈疾〉《と》く光となれいッ!」  狙い済ましたかのように、その契機が訪れる。 「我は終焉を望む者。死の極点を目指す者。唯一無二の終わりこそを求めるゆえに、鋼の求道に曇りなし――幕引きの鉄拳」  鏖殺、滅相、終焉に沈め。こと殺傷力においては最大の、鋼鉄がここに顕現する。 「そうだ、おまえを待っていた」  約束したのを覚えている。望みを託されたのだと知っている。  ゆえに今、ああこのときこそ誓いを果たそう。 「名前を呼んでくれって言ったよな。心配するな、思い出したぜ」 「砕け散るがいい――〈Miðgarðr Völsunga Saga〉《人世界・終焉変生》」  迫る破滅の幕引きを、かざした手で受け止める。本来なら触れた瞬間に死を与えるはずの一撃が、しかしその用を成していない。それも当たり前のことだろう。なぜなら―― 「来い、ミハエル――!」  彼は本来刹那にこそ、己が終焉を託したのだから。  そして――  そして――無論それだけでは終わらない。 「司狼、おまえもだ! 帰って来い!」  このとき、グラズヘイムにかつてない崩壊が巻き起こった。 「どうしたんだい、彼が呼んでる。行かないのか?」  修羅道の宇宙にて、熾烈な界の獲り合いが発生している。それは言うなれば極限の綱引きに近いもので、だからこそ張り詰めたこの一瞬に、覇道の支配の空白となった地帯で彼らは己を取り戻していた。 「色々とバツが悪いのもあるんだろうが、そこまで意固地にならなくてもいいだろう。僕も一緒に謝ってあげるから、さあほら、おいで」 「でも……」 「でもじゃない。まったく、昔は可愛い子だったのに、面倒な性格になっちゃったのね。それも私たちのせいなのかな。もういい加減、素直になったら? これからは、ずっと一緒にいてあげるから。ね?」 「ああ、それは絶対約束する」  夢に見た、願い焦がれた救いがそこにあったから。  罪も迷いも何もかも、総て洗い流されていくかのようで…… 「うん、うん……」  今はただ、子供のように溢れる涙を止められない。 「そういうことです、ヴィッテンブルグ少佐。私は行かせていただきます。たとえ道を違えても、あなたのことは忘れません。またいつか、何処かで会えると信じています」 「ジークハイル。そうね、きっとまたいつか。イザーク、あなたがそこを選ぶなら何も言わない。私に何かを言う権利も資格も無いのだし、あなたはあなたの道を行きなさい。ただ、玲愛に言われたことを忘れないで。そして私も……愛しているわ」 「まあ、今さら私が行ったところで何の役にも立たないでしょうが。テレジアの未来と、その結末を見届けるためにもこちらに属すのは当然のことでしょうね」 「まあ正直、あなたについては、いまでも私かなりムカついてるんですけどね」 「同じく。だがそれも詮無いことだよ。新世界に、古い因縁をいつまでも引っ張り続けるわけにはいかない」 「わ、わたしは……」  と、最後の一人が恐る恐る手を挙げようとしていたときに。 「だぁー、うるっせえ! どいつもこいつもグチグチグチグチ、これだからジジイとババアはまったくよォ!」 「なっ――」 「わ、私はそんな歳じゃないでしょう」 「ちなみに、僕もそうなんだが」 「私はぁ、えっとぉ、どんな感じ?」 「駄目でしょ」 「ええ」 「さすがに、それは……」 「ちょっと、戒!」 「とにかく!」  場を締めるよう強引に、だが軽快ないつもの調子で彼は笑った。  心底から、この状況を誇らしく思っていると皆に宣言するように。  もう既知感は感じない。 「香純もエリーもどいつもこいつも、みんな纏めて面倒見てくれるっつーからついて行こうや。でないと真っ先に行ったあのムッツリと、オレらの大将がホモ祭り始めちまうぜ」 「それは嫌だな」「それは嫌すぎ」「それは嫌だわ」「それは嫌です」「それは嫌だわ」「それは嫌です」 「だったらァ――」  ここでのやり取りはほんの刹那。 「一丁派手に、最後の花火をあげようじゃねえかァッ!」  ゆえに彼らは、それが自分にとって真の光だと感じていたのだ。 「くぅゥッ――」  大音響の爆発と共に、弾き飛ばされたのは必殺の一撃を放ったと自覚していた黄金の方だった。のみならず…… 「なんと……」  ここに展開した事態はそれだけに留まらない。激突の瞬間に、グラズヘイムの総軍から中核を成す者らが何人も引き抜かれたのだ。 「どうよ相棒。オレって相変わらずいい仕事するだろう」 「ああ。また随分とこの馬鹿は、予想以上にごっそり連れてきてくれたじゃないか」  〈軍勢〉《レギオン》――流れ出す渇望によって染め上げた魂を、己が幕下に集わせ率いる力。  言うまでもなくラインハルトのエインフェリアもそれに当たり、そしてこれもまた同様だ。  支配と友情、従属と協力、そうした形式上の違いはあれど、己が一部として受け入れた魂たちを、擬似的な神格として引き上げる特性に差異は無い。 「ま、そういう無茶こけるのもオレの特性らしくてな。正味自分でも笑っちまった話なんだが……喜べよ、蓮。オレ様ちょっとした切り札だぜ」 「へえ、そりゃまた」  覇道と覇道の鬩ぎ合い。理屈として、相手の領域を奪った側にはより多くの魂が加算されて、強化される。今までもそうした戦いは成されていたが、ここまで劇的な結果を見せたのは初めてのことだった。  蓮の渇望。覇道の祈りが強力だということは当然ある。それを前提にして司狼ら知己の魂ならば、より干渉しやすかったという事実もまたあるだろう。  だがそれだけで、脅威の支配力を有する黄金の修羅道を、ここまで奪ったというのは有り得ない。  すなわち、いま司狼が自分で口にしたように、そこには何かの切り札が存在している。 「さすがに覚えたばっかっつーか、自覚したばっかでよ。名前なんか決めてねえし、加減もまったく出来ねえけど……まあ、要は……」  ゆっくりと、両手に握った銃をあげる。一方は黄金へ、そしてもう一方は水銀へと。  狙い、定めて、そしてトリガー。 「マジ要らねえよ。てめえらみてえな腐れ神」  轟然――放たれたその銃弾は、あろうことか両者の総軍を食い破って、芯に多大な損傷を与えていた。 「なッ――」  それは本来有り得ない。出鱈目のような現象だった。今現在、司狼と同化している蓮でさえその結果に瞠目する。  防御を貫いたわけではない。事実単純な威力としては、黄金水銀どちらの神威にも遠く及ばないものだっただろう。  だが、それでも銃弾は抜けたのだ。まるでそれに触れた瞬間、あちらの守りが勝手に砕けていったかのごとく――  それは一見、幕引きとよく似ているがその実まったく違うもの。 「面倒な男がいるものだ。好きになれんが、まあ贅沢を言っていられるときでもない。これを最後の蘇りとして、俺は俺としての生を終わりたい。そのためならば、再びおまえと駆けよう、戦友よ」 「ミハエル……」  先ほどまで猛威を振るっていたグランドクロスを砕き割り、先の友人に劣らぬほど厄介で頼もしい男が共に立つ。 「おお、言うねえ根暗ちゃん。オレもおまえみたいなのは苦手だしよ、せいぜい背中に気ぃつけて頑張れや」 「笑止。それはこちらが言いたい台詞だ」  互いに友好的とは言い難い言葉を交わし、だが次の瞬間同時に出撃。相性の悪さを隠しもしない二人ながら、しかしその連携は完璧だった。縦横無尽に戦場を駆け巡り、効果的に蓮の支配領域を広げるべく立ち回る。 「言っとくが蓮、流れ弾にゃあ気ぃつけろよ。こいつはちょっと、敵も味方も糞もねえんだ。それが神とかいうふざけたもんである限り、なんであろうとぶっ壊しちまう。いいや――」  むしろ、それ自体が自滅する因果を叩き込んでいる。対象の防御も精神も素通りして、司狼に触れた神格という異界は自殺するのだ。  であれば、その効果判定は蓮の強さに依存したものだろう。彼の軍勢と化した司狼なら、原則蓮を上回る破壊は起こせない。 「つまり、何事も俺次第っていうわけか」 「そういうこと!」  水銀の支配から脱すると誓い、自らこの場に参戦したことで蓮の格は上がっている。もはや傀儡ではないのだから、あくまで個としての力量ならば、今や三者にさほどの差は無い。  だが、これまで単独だったことにより、率いている魂の単純な物量差によって劣勢に立たされていた。その構図を壊したのが司狼の特性に他ならない。  蓮と同格までの神威ならば、どのような法則だろうと消し去ってしまう自壊法――これを前に物量差は意味をなくす。  どれほど分厚い鎧であろうと、高密度の剣だろうと意味は無い。それによってグラズヘイムの支配を破り、蓮に同調した魂たちを引き抜くことが出来たのだ。  しかし同時に、扱いを誤れば蓮自身が自滅するというリスクも当然あるにはあるが―― 「今のおまえならば出来るだろう。手綱をしっかりと握っていろ!」  この一戦をもって神威を手放す。彼がそう決めている限り、何の問題もないだろう。 「行くぜえええェェッ!」「行くぞおおおォォッ!」 「ふ、ふふ、ふふはははははははァ――素晴らしい!」  無限大紅蓮地獄の軍勢が、座に百花繚乱と舞い踊る。それを前にしてラインハルトは、痺れるほどの恍惚に包まれていた。  もとより彼は、破壊の愛。自らに歯向かおうが従属しようが、そこに差別も区別もしない。 「いいぞ――もっと魅せてくれ! グラズヘイムの空に走った亀裂すらもが麗しい」 「案ずるな、私は負けん。切り離されようとも、叛意されようとも愛してやろう。未来永劫、この至福の中で」  配下の忠誠を寿ぐと同時に、逆徒の反乱を激賞する。それは背反するようでいて、彼にとってはあくまでも同次元のことなのだ。  容易ならざる難敵との魂懸けた戦こそが、生涯通して彼が求めた救いゆえに。 「ああ、カールよ。卿は総ての誓いを果たしてくれた。これほどの戦慄、これほどの充足、かつて味わったことはなく――」 「そして無論」  それは黄金の対存在である彼にとっても一つの真実。 「二度と体験することもない!」 「生涯一度――」 「ゆえ、輝いている」  まるであまりに凄烈な光だから、自らの首にあてて掻き切りたくなってしまうような。 「なんたる愚昧か。なんたる甘美か。なにゆえ刃に触れる心地とは、これほど胸を痺れさせる」 「病み付きになる。止められぬ。総てを忘れ、投げ捨てて、この逢瀬に没頭したくなってしまうぞハイドリヒ。私もまた、刹那に魅せられた者ならば」 「より眩い閃光を見せてくれよ」  吼える水銀の座が鳴動する。  神座とは宇宙であり、その法則に他ならない。ゆえにあらゆる物理現象を容易く起こすことが出来るのだが、彼は歴代でも特筆すべき異例の渇望を有していた。  永劫回帰。始点と終点の結合円環。すなわち時間軸を無視する法則であり、始まりも終わりも皆一つ。  誰よりも生に固執し、誰よりも死を欲す。矛盾と破綻を具現したような存在で、同時に極めて高い論理性を有している。 「踊れ――あまねく万象、女神を主演とした舞台装置。我が脚本に舞う演者なり。さあ、今宵の〈恐怖劇〉《グランギニョル》を始めよう」  その意味するところは、星の運行の完全支配。自転・公転の逆回しなどは序の口であり、強固な運命管理を成す占星の神座なのだ。  万象、己が脚本に踊る演者にすぎぬと断じた通り、並行宇宙の配列すら自在に操る彼にとって、事象の時系列など意味は無い。  極大規模の銀河運行を成すことで、〈対〉《 、》〈象〉《 、》〈を〉《 、》〈始〉《 、》〈ま〉《 、》〈り〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈無〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。 「 」  再度紡ぎ出される異界の言霊。遥か太古の、かつ外宇宙の言語が超次元座を軋ませながら氾濫する。  それがかつて、水銀流出の遠因となった“先代”の御業であると知る者はもはやいない。 「 」  〈素粒子間時間跳躍〉《エレメンタリーパーティクル》・〈因果律崩壊〉《タイムパラドックス》――  激突する多元宇宙が、両界の存続を危ぶむ矛盾に消滅を命じる論理の究極。言わば宇宙単位の世界抑止力に他ならず、それが自滅因子という癌に対して特効の威力を発揮することは疑いようもないだろう。  だが―― 「踊れだと、いいや違うな」 「そも誰よりも、踊りたがっているのは卿であろうに」  崩れる角砂糖のごとく塵にならんとしている只中で、二柱は凛と言い返す。  なぜなら、矛盾を誰より犯しているのはこの蛇だ。あくまで論理的に突き詰めるなら、彼こそ消えてしまわねばならないはず。  そのような業を、ここにきて使った理由。 「おまえの渇望、その真実は……」 「ただ、己も舞台に上がりたかった」 「―――――――」  飽いていた。諦めていた。始まりの想いは底抜けの悲嘆のみで、ただ死ぬことを望んでいた。  しかし嫌だ。しかし認めぬ。我はこんな死に方などしたくない――その果てに主演たる女神に抱かれる劇終を望んだのなら、すなわち彼も、またその舞台で。  己が喜劇に踊る道化たらんとしていたのではないだろうか。  たとえそれが、余人にとってつまらぬ物だと言われようとも。 「違うかな、カール」 「ああ……」  頷き、微笑み、そして奮えて。 「あるいは、その通りやもしれん」 「だったらァッ」 「卿もまた演者たれ。我が愛に懸けて、後悔はさせん!」  自らに絶命を強いる咆哮は、しかしこのとき彼にとって、福音の調べでもあったのだろう。 「ふふ、ふふふふふ……」 「はは、ははははは……」 「ははははははははははははははははははははははははは―――!」 「笑ってんじゃねえぇぇェッ!」  愛と、歓喜と、殺意は等しく。 「ぐううゥゥッ」「がァッ……」「ぬうううゥゥ」  激突し、弾き合って喰らい合い、再び向かい合う三柱にもはや余力はほとんど無い。おそらくは、次の一合で総ての決着となるだろう。  そう弁えて高め合う神威とは裏腹に、皆の表情は清らかとさえ言えるほどに澄んでいた。 「……ここらが潮か。やれやれいつ如何なるときも、充実した刹那というものはすぐに過ぎ去る。それは私でさえどうにも出来ん。マルグリットに出逢ったあの日も、時が止まればよいと思ったよ」 「ならばこそ、その願い、ここに結実させたのだろう。卿はもっと純な男かと思っていたが、どうして中々、祈りが定型を帯びぬタチのようだな。まったくもってあれこれと、一つの渇望からよくもそれだけ多彩な枝が生まれるものよ」 「悪いかね?」  問いに、ラインハルトは首を振る。彼は他者を、特にこの友を否定するような言葉を持たぬから。 「いいや。それもまた卿らしい。輪郭は常に曖昧、ゆえに壊れ難く磨り減らない。伊達に長命ではないわけだ」 「ああ、気の遠くなるほど歩いてきた。その果てのこれがはたして、私の望んだ終わりへ至るか……分からぬが」 「断言できることはただ一つ。私が果てれば、おまえたちもまた色を失う。今のままでは存在できぬ。なあ、最後に訊こう。それで構わぬと、本当に思っているのか?」 「無論」 「言ったところで、おまえには分からないだろう」  怒りと諦観の混じった声音は、同時に哀切の呟きでもあった。  そう、座として“純血”である蛇は、人としての己というものが分からない。ゆえに神性の喪失によって得られるもの、ソレを取り戻すという概念からかけ離れた存在なのだ。 「俺は神様になんかなれない。そんな器じゃないし、こんな力は要らない」 「恵んでもらった力振るって、それに縋ってなきゃ生きていけない情けない男には、なりたくなんかないんだよ」  それもやはり、生来超越のモノであった“純血”には分からないこと。中でも蛇は始まりと終わりが混濁している存在ゆえに、なおのことそうした感性と縁遠い。  おまえに語ったところで分からないと言った通り、そこは蓮も当然分かっているが、だがそれでも、これは言わずにいられないことなのだろう。  ここに至るまでの総て、そこから得た今、そして〈未来〉《さき》へと続けていくため。 「たとえその果てに、自分が自分でなくなっても……それは死じゃない。負けじゃないんだ」 「……………」 「やはり、卿には分からぬか?」  一瞬、あるいは永劫にも似た沈黙の後、蛇は首を横に振った。 「……いや」 「箴言として、胸に刻もう。彼女はおまえの、そういうところを愛したのだろうし」  純血なのは女神も同様。彼女と彼では事情が大幅に異なるが、だからこそ唯一膝を折った女に対する敬意があり、愛がある。  ならば、女神が愛した男の価値観はきっと正しい。そう認める反面で、やはりと言うか滑稽な気持ちも湧いてくるのだ。  さて自分は、なぜ彼ならば女神の愛を受けられると思ったのか。  その確信をなぜ持った? 永劫恋に破れてきた自分ごときが、なにゆえそのようなことを保障できる。もしも彼女が彼をお気に召さぬと捨てていれば、総てが茶番、水泡に帰していたはずなのに。  彼の基となった魂が、処刑刀を揮うに適していたのは事実。  だがそれで? それだけで? 万事まかり通ると疑いもしなかったのはなぜだろう。  彼に自分の血を混ぜたことは流出格へと押し上げるためだったが。  あるいは――〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈愛〉《 、》〈の〉《 、》〈面〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈決〉《 、》〈め〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》……などと。 「はははははははは……」  なんだそれは分からない。刹那掠めた思考は不明すぎて、己を嘲笑してしまう。  これではまるで、自分こそが女神に相応しいと息巻く間男のようではないか。 「ハイドリヒ、おまえはどうだ?」  恥じ入るという感情を、彼が初めて抱いたとしたらこの時だった。ゆえに苦笑いで誤魔化して、もう一方へと話を振る。  友よ、おまえもこんな私の影からは、脱却したく思うのかと。 「私は先も言った通り、卿との盟約に殉じるのみよ」  それに対する返答は、変わらず曇りない黄金の覇気。 「真実の私、かつての私……なるほど彼の言う通り、そうしたものを追う気持ちはある。だがそれよりも鮮烈なのは、我が魂が求める黄金率よ」 「どだい戦争……私のみでは成立せぬからここまで来たのだ。ならば退かぬよ、果てまで見せろ。このラインハルト・ハイドリヒの友であるなら」  真実の己など二の次。自分は今現在の衝動に、総てを委ねると断言する。 「愛でるためにまずは壊す。ゆえカール、卿を壊さずにはおれんというだけ」  それは一見、自滅因子としての理屈そのもので……  しかし同時に、傀儡の威勢とは言えぬ輝きを纏っていて…… 「端的にな、友情だよ。付き合ってやろうというのだ。そも、誘ったのは卿であろうに。今さら私を白けさせるな」  もしや黄金は、とうに自分の支配から抜けているのではないだろうか。  そうかもしれない。そうであってくれ。狂おしい感情が蛇の内部で渦巻いていた。  なぜならそうであった場合、これは真実の友情――  自滅因子も何もない、一人の男と男として交わす友誼に他ならないから。  刹那の覚悟、女神の愛、それら自分の〈法則〉《わく》に納まらない輝きが、如何に価値あるものかを再認したから。 「……そうだな」  呟いて、既知世界総軍の星々を凝縮させる。 「では、これを最後に歌劇を締めよう。輝ける新世界の、到来を願って」  訪れる決着の時を前に女神は思った。 「ねえカリオストロ、先ほどあなたが感じた想いは、必ずしも気のせいじゃない。レンに自分の血を混ぜることで、わたしを変えられると信じたこと」  彼女は人に触れたかった。抱きしめたいと思っていた。  だから彼女を変える者は、人でなければならなかった。  しかし、人では〈処刑刀〉《マリィ》に触れられないから…… 「面倒な女で、ごめんね」  蛇の血を受け、座に達する格を得て、しかしそれを厭わしいと思う魂。神域の力に呑まれても、人であることを手放さないような者でなければ意味がない。  自分の渇望は座の器じゃないと、この領域に達しながらも断固蓮が言い張るように…… 「そんな奇跡のような魂は、〈他〉《 、》〈に〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」  純血である蛇にとって、神性の喪失は完全な死を意味する。  だがそれをこそ望んだ彼は、本人が気付いていないだけで奇跡のような人らしい。  それによって得る真実の自分。目指す先の意味は違えど、彼と蓮はとても似ている。 「だから総てを仕組んだんでしょう?」  呆れと、そして若干の憤慨を混ぜながらも感謝するように。  勘違いしないでねと。自分はあくまで怒っているし、自分を変えたのは蓮であってあなたではないのよと念を押しつつ。  まあ、自分がどうしたところでこの人は喜ぶんだろうなと、ある意味駄々っ子に対する母のような心境で。 「その願い、叶えたい。ううん、絶対叶えてみせる。あなたの友達も、全部終わった後なら聞く耳持ってくれるかな」  それによって、いよいよ顕現する最終局面。  歌劇の名は―― 「Dies irae」  これにて〈歌劇は終幕〉《アクタ・エスト・ファーブラ》。  これにて〈新世界へ始まる物語〉《アルゾ・シュプラーハ・ツァラトゥストラ》。  飽和する神威三柱を包むように、女神の覇道もまた流れ出す。  その〈渇望〉《いのり》は万象の慰撫にして…… 「〈Amantes, amentes〉《すべての想いに》――〈Omnia vincit Amor〉《巡り来る祝福を》」  あらゆる〈祈り〉《アイ》は綺麗事じゃすまされない。  だけどだからこそ、それは尊く……何にも勝る輝きであるとマルグリット・ブルイユは信じている。  だから総てを抱きしめよう。あまねく渇望の絶対肯定―――  彼女が最初で最後となる、彼女にしか出来ない理のカタチだった。  ゆえに決着を見届けながら、マリィは愛しい彼らを包み込む。  皆それぞれに、それぞれの愛。  たとえ個々は狂気であっても、彼らは想いを遂げた勝者なのだと慈しみながら抱きしめて……  そうして、俺は―― 「ああ……これで終わりか」  藤井蓮という存在が消失していく瞬間を、今こうして体験していた。 「覚悟はしていたことだけど、やっぱり気持ちのいいものじゃないよな」  当たり前に恐怖はあるし不安もある。結局のところ俺は凡人だと自負しているので、この状況に平気でいられる神経などは欲しくないし求めない。  ただ、後悔だけはしていなかった。事実、ここに至ってそんな感情を持っているようだったら、俺は早々に敗北していただろう。  ゆえに今、俺が第一に抱くのは感謝の気持ち。それを言葉にしたいと思う。 「ありがとう、司狼、ミハエル……そして他の奴らも、ここでひとまずお別れだ。いずれまた、新世界で会おう」  その未来――と言うには語弊があっても、とにかくそうした先を信じている。他ならぬ彼女が包む世界だから、きっと大丈夫だと胸を張って俺は言える。 「マリィ……」  ありがとう。そしてさようなら。  俺は人として生きていくよ。君といた日々とその記憶は、このままここに置いていく。願わくば、俺たちのことを見守っていてほしい。 「君の覇道に恥じないよう、必ず幸せになってみせると約束するよ」  ――と、言った刹那。 「―――――――」  今、確かに何か……  俺にとっての真実が、垣間見えたような気がして…… 「ふ、ふふふ……」  なるほど、まあ常識的に考えればそうだよな。俺の現実はそちらの時代か。  こりゃあ彼女との再会は、随分時間をかけなきゃならないようだが厭う気はない。  一種のケジメか。もしくは禊というものだろう。かつて宙に浮いたまま取り上げられた人生を、今度はちゃんと全うする。そうしなければ彼女に会えない。  再会したときのテストとやら、それまで楽しみにしていよう。  今、彼女に俺の声が聞こえるかどうかは分からないが、それまで待ってもらうお詫びも兼ねて……  あの人が、知りたそうなことに答えてあげようと思うんだ。 「どっちが強いの、勝ったの負けたの、そんなことばっかり気にして男の子って馬鹿みたい。よくそう言ってたけどさ。実は先輩も、そういうの気になるクチだろ? 司狼のときも訊いてきたもんな」  ああ、よく覚えてる。あれで結構、彼女は気の激しい性分だから、勝った負けたには中々拘る。そういう自分への自戒も込めて、あんなことを言っていたんだろう。  でも、気になるもんは気になるよな。だから俺、答えるよ。 「俺とラインハルトとメルクリウスの、ぶっちゃけ誰が一番強くて勝ったのかって言われれば……」  答えはあのときとまったく同じ。至極明瞭な宇宙の真理で―― 「俺に決まってんでしょ、主人公っすよ」  だから俺は、ここに望む結末を手に入れる。  そう誇って、微笑んで。  この刹那――勝者の余裕ってやつを滲ませつつ。 「ま、よければ連中の負け惜しみでも、聞いてやってくださいよ」  ついに俺は、真実の自分へと還ることが出来たのだ。 始めの感覚は、何かよく分からない頭痛だった。 「む、ぬ………」 なんだこれ。どういうことだこれ。妙に頭が重くて痛い。 まるで私のこめかみ目掛け、小人さんが除夜の鐘を突いてるようなガンガン具合。煩悩退散もいいけれど、百八発も食らったら私の頭蓋骨ぱっくり割れちゃう。だからお願い、手加減して。 「ぬ……ぐぉ……」 全然してくれない。どうやら小人さんは仕事熱心であるようだ。それはそれで素晴らしいなあ、感心だなあと思うけど、彼らは場所を間違えていると思うのだ。 「ここは、お寺じゃ……ない」 教会です。教会ですから。あと、大晦日までまだもうちょっと日にちあるから。 やめて。痛いから。洒落なってないから。さすがにそれ以上は、おい、こら。本当、そろそろ勘弁してください。 「あぁ、あぁ~~~」 ホラー映画のような呻きを漏らして頭の向きを逆にするけど、まったくこれっぽっちも効果がない。 しつこい。しつこいよ小人さん。いったい私に、何の恨みがあってこんな仕打ちをするのです。 ガンガンガン。 ゴンゴンゴン。 スガンゴバングバンドガンバガングシャンガラガラバッキーン。 「…………」 途中、変な効果音が入ったのは、私の精神状態を表している。 つまり。 「あああぁぁぁ、うるさい! いい加減やめないと焼き鳥にしちゃうよ!」 叫んで、私は飛び起きていた。 「うっ……ぐおっぷ……」 とたんに襲い来る目眩と、激しい吐き気。そして目の前には、小人さんならぬワインとシャンパンと日本酒とブランデーとウィスキーとビールの空き缶・空き瓶がごろごろと。 「…………」 ああ、なんだろうこれ。何やってるんだろう、私。自分の現状を客観視したくない。 客観視したくないのに…… 「ふにゅ~、もにゃもにゃ………」 「ぐぉぉ~~、が~~」 「ん~、だめよ、ボンサックは百円玉じゃ倒せない……」 「打て、そこ、もっと、そう……ふふふふ……やっぱり十年早いわね」 「…………」 目の前に、というか眼下にだけど、死屍累々横たわっているようです。 私は少し考えて、ティーポットの中にタバスコを大量に落とすと、水を入れてよくかき混ぜる。なかなかいい色になってきたので、そのまま『神の庭師』という名の一発芸を披露することにした。 さあ、このマジックウォーターの前では、どんなにくたびれた花でも一瞬にして元通りとなること請け合い。 「花さかじいさん!」 魔法の言葉を口にして、私は屍たちを蘇生させた。 うん。それぞれ悲鳴に個性があってよろしい。特に櫻井さん、顔に似合わず可愛い感じが出ててナイス。 「ちょっと、いきなり何するんですか!」 「あぁぁ、あたしせっかく、これから特大七面鳥にチャレンジするところだったのに」 「あー、えーっと、おはーっす。センパイ」 「はい、おはよう」 何か、まだ約一名ほど目が目が言って転げまわってるのがいるけど、それはどうでもいい。 「どうでもよくねえよ!」 「私何も言ってないけど」 「目で分かんだよ。なんでオレだけ顔面ピンポイントで責めんだ、あんたは」 「さあ、なんでだろう。キミの顔見てたら、わけもなくイラっときたから」 「チンピラかよ、この人……」 「あんた何かやったんじゃない?」 「してねーし。されてんのオレだし」 「先輩、私の髪がなんだかギトギトしてアグレッシブな刺激臭を発してます」 「うわっ、タバスコ臭っ」 「二人には洒落っ気がないから私からのプレゼント」 「いらんわっ!」 「ていうかさあ、みんな潰れてたみたいだし、起こすのはいいけど手加減してよ。頭痛いんだから、ほんと」 「早起きは三文の徳」 「意味が、まったく、分かりません」 「たぶんね、自分が一番最初に起きたから、他の奴らはさらに悪い寝覚めを経験するべきだと言ってるんだよ」 「ただの根性悪い奴じゃないの」 「そうだ。あんたはその胸と同じくらい情が薄い」 「じゃあ遊佐君の大事なところを三倍くらいのサイズにしてあげようと思う」 「――て、いやいやいやいや、そんなヤバイもん持ってにじり寄ってくんなセンパイ」 「本城さん、押さえなさい」 「あ、うぃーす」 「あと、そこの怪力コンビも」 「……ねえ、遊佐君、本当に何か恨み買ってるんじゃないの?」 「さあ、でも司狼だからなぁ~~」 「早く」 「あ、はい!」 「うぉぉぉぉい、なんだおまえら、集団痴女かぁぁ!」 「ちょっ、こら、暴れんな馬鹿」 「櫻井ちゃん、ほら早く、チャック下ろして」 「う、うん……(ごくり」 「頬赤らめてんじゃねえぇぇ!」 「いや私も、実にドキドキするよ」 「何と言うかね、遊佐君。キミはどこかで一回くらい、徹底的にいたぶられるべきだと私は思うの」 「そうしないとバランスが取れないような、色んな方面の溜飲が下がらないような……」 「まあとにかくそんなわけで、私はキミの股間に花さかじいさんする」 「何がそんなわけで、なんだよ。わけ分かねえよ、電波飛ばしすぎだっつーの、母星とチャネリングするのやめてくれよ花さかじいさんとかふざけんなよむしろ使いもんになんなくなるだろ枯れ木になるわボケーーー!」 「やーでも、これって結構夢のシュチエーションなんじゃないの?」 「美少女四人に囲まれてねー」 「何処に、美少女が、いるんだ、死ね!」 「…………」 「隊長、櫻井ちゃんがチャックに触れられずぷるぷるしてます」 「乗り越えなさい。それを乗り越えて女は一つ強くなる」 「……はい」 「何を使命に目覚めたみてえなシリアス声で頷いてんだコラァッ!」 「だいたい、そもそもおまえらなあ――」 「うるさいな。もういいから始める」 本当に自分でもよく分からないけど、遊佐君はいじめておきたい。そうしないと釣り合いが取れない。 だって、このままじゃあ、あんまりにも…… 「女四人もいるなら女同士で遊んでろよ。わざわざ男一人のオレを呼びつけんな、居心地悪すぎんだろーが」 「―――――――」 「あ、あれ? どったの先輩?」 「なんか、固まっちゃってるけど……」 「具合、悪くなったんですか?」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「あ、いや、なんだ。オレの方ものこのこ来といて、文句言えた義理じゃねえ、よな?」 「…………」 「ちょっと司狼」 「本当に何も後ろ暗いことはないんでしょうね」 「今なら大目に見てやらんこともないよ」 「て、違ぇよ。マジなんも知らねえし」 「そんなこと言っても、あんたねえ」 「さすがにちょっと信用できないかも」 「もう、ほれ。ゲロっちゃいなよ」 「だから――」 「ごめん。なんでもない」 「へ?」 「あの……」 「ほんとに?」 「うん。もういいから。遊佐君を放してあげて」 「…………」 「…………」 「…………」 「なんだよ。このいかにもオレが悪いみたいな雰囲気は……」 「だからごめん。気にしないで。本当に何でもないから」 そう。何でもない。何もおかしくない。さっき感じた違和感が何だったかなんて、自分でもよく分からないし。 「朝からばたばたさせて悪かったね。私片づけするから、交代でシャワーでも浴びてきたら? 汚しちゃったし」 「はあ、それはどうも、お気遣いいただいて」 「いや、いいよ玲愛さん。散らかしたのはみんなでなんだし」 「クリスマスパーティとか初めてだったから、ちょっと浮かれすぎました。私も片付け、手伝います」 「それに先輩、確か今日は誕生日だろ?」 「うん。まあ、そうだけどね」 昨日、イヴが終業式だった私達は、そのまま誕生日会兼クリスマスパーティという名目で、ほぼ夜通し飲んで騒いでを繰り返した。 それは覚えている。よく覚えているし嘘じゃない。 だけど…… 私の〈再従姉妹〉《はとこ》で、一つ年下の香純ちゃん。 その幼なじみの遊佐君。 家がおっきい病院の本城さん。 そして、実はブラコンの櫻井さん。 それに私を交ぜた合計五人は、結構前からの仲良しで、何をするにもだいたい一緒に行動している。だから今の状況も普段通りで…… 何も、全然おかしいことはないはずなのに、どうしてか物足りなさを感じたのだ。ここに誰かがいないような……そんな気持ちを…… 「ほら、だから片付けはパーっとあたし達がやっちゃうから、玲愛さんは先に準備しててよ。すぐ行くから」 「あー、そういや、曾お祖母さん? の命日でもあるんだっけ?」 「そう。あたしにとっても同じだからさ。一緒にお墓参りしに行くの」 「ふーん。だったらオレも付き合うぜ。いいだろ、別に」 「よければ、私もいいかしら」 「へ? いいの? なんかこう、言っちゃ悪いけどあんま関係なくない? そりゃあたしとしては、大勢来てくれたほうが曾お祖母ちゃんも喜ぶだろうと思うけど」 「まあ、なんかな、そんな気分なんだよ」 「私も、上手く言えないけど」 「エリーは?」 「先輩がいいって言うなら、あたしも行きたいけどね」 「だって。どうする、玲愛さん」 「…………」 断る理由は、特にないし。 「いいよ」 私はそう答えて、お墓参りの準備を始めることにした。実際、大人数だから問題があるなんてことはない。だって彼女が眠っているのは、〈教会〉《ここ》のすぐ裏なのだから。 シャワーを浴びて酔いを醒まして、近場からお花を買ってくるまで一時間もかからない。その間に他のみんなも、すでに準備をすませていた。 今日は十二月二十五日……私の誕生日で、同時に彼女が亡くなった日。 正直、不思議だと思う。私も香純ちゃんもどうしてか、実際には一度も会ったことのない曾祖母に、言葉で説明できない慕情めいたものを懐いていた。 どんな人だったのだろう。どんな顔で、どんな声で、どんな生き方をしたのだろう。写真は一枚も残っていなくて、祖父も二十代の若さで早世している。両親は健在だけど、彼らはもう五年ほど外国に行ったままなので、曾祖母の人となりを知る手段はない。 それは香純ちゃんも似たようなもので、結局私達は、お互いを除けば一番身近に感じられる肉親として“彼女”を選んだのかもしれなかった。 分かっているのは名前と、そして生没年のみ。本当にそれしか知らない相手なのに、苦笑してしまうような話だけれど…… 「おはよう、リザ……いい天気だね」 私は、まるで友人同士ででもあるかのように、彼女をそう呼んでいたのだ。 RIZA BRENNER 1915~1945――これが、私の知る〈曾祖母〉《リザ》の総て。 だけどここに来るたび感じてしまう。有り得ないはずの思い出が、脳裏をいくつも過ぎっていくのだ。 彼女の声を。彼女の顔を。そして温かさを忘れていない。ああ、私は覚えているよと、胸の中で祈るように繰り返している。 それはいったい、どんな精神状態なんだろう。自分でも普通じゃないと思いながら、だけど改める気にはなれなかった。 たとえ寂しさを紛らわすためのお芝居みたいなものであっても、私の中にリザはいる。そのことだけは、真実と言えるのだから…… 「おばあちゃ~ん。どうか次のテストで、英語の神が降りるようにお願いします~~」 「いや香純ちゃん、神社じゃないんだから」 「つーか、英語の神は英語でしか喋んねえだろ」 その通りだろうし、そしてリザはドイツ人だ。英語は専門外だと私は思う。 だけど、まあ、想い方は人それぞれということで。 「じゃあじゃあ、年末ジャンボが当たるようにお願いします~~~」 「……なんか、ますます宗教じみてきたね」 「そりゃ、ある意味宗教ではあるんだろうけど……」 「じゃあ、婆さんさ……オレ、欲しいバイクがあるんだけど、どっかそのへんに落ちてねえかな?」 「ちょっと、うちのおばあちゃんに無駄な労力使わせようとしないでよね」 「突っ込むのはそこかよ……」 「あー、だったらあたしは、新型のグラボが欲しいですのよ。トナカイ飼ってる爺さんがそっちにいたら、いっちょ言っといてくれませんかね」 「そうだ、サンタよ! リアルサンタ絶対知ってるでしょ、おばあちゃん」 「あのね、あなた達……いい加減にしなさいよ、不謹慎でしょ」 ううん、大丈夫。そんなことないよ、だって彼女は笑っているもの。 だから私も、いま祈りたい願いがある。 「リザ、実は私、もうすぐ卒業なんだけど、困ったことに進学も就職もできそうにないの。ちょっと人生がピンチ」 「あなたまでそんな、いい加減な……」 「だから、ねえ、どうしたらいいと思う?」 毎日は楽しくて、ここはとっても平穏で、暖かな光に満ちているけど…… 何かが、誰かが、私達の中からすっぽりと抜けている。その隙間が大きすぎて、どんな陽だまりにいても寂しいの。 これは私だけの誇大妄想? 根拠のない思い込みにすぎないのかな? だけど、たとえどうであっても、穴が空いているのは事実だから。 「結婚するしかないんじゃねえ?」 「そだね。それ以外になさそう」 私は私の好きな彼と、巡り会いたいと強く願う。 たとえ寂しさを紛らわすためのお芝居みたいなものであっても、私の中に彼はいる。そのことだけは、真実と言えるのだから…… 「私のお婿さんを捜して、リザ」 そう呟いて、そう願って…… 「わっ……」 「風が……」 舞い散る薄桃色の花弁が、どこか楽園の記憶を想起させた。  1939年、12月25日――ドイツ、ベルリン。  AM0:27……  気付けばすでに日付が変わっていたようで、俺は手の書物から顔を上げた。  後年、おそらく激動の年と言われるだろう本年も、あと数日で終わりを迎える。そしてさらなる激動――と言うより混沌に呑まれていくだろう来年が、静かに訪れようとしていた。  あのポーランド侵攻から、もう四ヶ月近く経っている。同盟国としての相互援護条約により、英仏が宣戦布告をしてきてからそれくらい。俺のような若輩としてはガキの時分にひもじい思いをしたせいもあり、再度の大戦が始まるのは限りなく憂鬱だった。  いやもしかしたら、現実に戦地で敗北を経験した年長者らのほうが、こうした思いは強いのかもしれない。だがだとしたら、なぜ開戦に踏み切ったのか。  領土だの資源だの食料だの、大切なのは分かっている。  名誉とかいうやつも、必要な者には必要だろう。  敗戦国という汚名を払拭するためにも、勝利を欲する奴は多いはずだ。  先の戦争が史上最初で最後の世界大戦になってしまえば、我がドイツ帝国と国民達は、未来永劫負け犬になってしまうわけだから。  何にせよ、先を見据えた選択ということだろう。  そして、そのために今が犠牲にされている。  青くて幼稚な、感傷にすらなっていない愚痴なのは分かっているが、やはり俺としては迷惑なことだった。  この今、それなりに満足している今ってやつを揺るがしてくれるなと。  手前勝手な理屈で恐縮だが、俺の本音はそんなものだ。特にさっきまで読んでいた本……その新刊が発売されなくなったら非常に困る。作者には是が非でも執筆活動を続けてもらわなければならないだろう。  なんて、埒もないことを考えていたときだった。 「…………」  背後から、近づいてくる足音が……  ああ、なんだこれ。どうにも嫌な予感がしてきたぞ。ただの勘だが、業腹なことに俺のこういう感覚はまず外れない。  やはり読書なら、自室でするべきだったのか。吹き抜けホールの長椅子に座っている状態じゃあ、隠れることも出来やしない。  別に俺への客というわけでもないはずだが、足音が近づいてくるたび首筋がちりちりする。いったい何者かは知らないけど、こういう存在は無視か、適度に流すのが吉だろう。 「失礼」  だから、そいつがすぐ横で立ち止まり、声をかけてきたときも、俺は俯いたまま目を合わそうとしなかった。  男が、続ける。 「ジーバス局長はおられるか?」  低く、そして優雅な声。顔を見なくても分かる。こいつは相当な実力者だ。  一聴して穏やかな口調とは裏腹に、自信とそれに裏打ちされた冷酷さが滲み出ている。  軍属の――今では俺もその一員なのだが――高官に共通する佇まい。  つまり、苦手な相手だということだ。 「聞こえなかったかな。局長殿は――」 「ああ、いや、悪いけど今はいないよ」  ぞんざいに手を振ってそう答える。さっさと行ってほしかったが、名でも名乗られたら面倒だ。そのときは立場上、この誰だか分からないお方を丁重におもてなししなければならないから。  ゆえに知らぬが吉。聞かぬが花。馬鹿な若造が無知を晒して粗相したと、そんな落ちが望ましい。まさかいきなり銃殺なんてこともあるまいし。 「ふむ、そうか。まあ連絡もしていなかったので仕方ないことではあるな」 「そうね。お帰りならあっちだよ」  顔を伏せたまま、親指で背後を指す。 「うちの局長、最近は医者連中とべったりみたいで。なんだっけ、頭蓋骨を測定してうんちゃらとか」 「プラトメートル。アーリア人種の測定装置かね」 「そうそう。それでストラスブルクの研究員がたと会食中……っていっても、さすがにもうメシ食ってる時間じゃないだろうけど。局長に用があるなら、そっち行ったほうが早いよ」  だからさようなら。言外にそう含めて追い払おうとしたのだが、奇妙なことに男は一歩も動かない。それどころか、じっとこちらを見下ろしてくる視線を感じる。  ……胃が痛くなってきた。 「あのさあ……」 「ああ、局長殿のことはもういい。居らぬなら卿に聞こう。顔をあげたまえ」 「……………」  まったく、自分の小市民ぶりというやつが嫌になる。 「あげたまえ」  促す声の引力に抗えず、俺は渋々ながら顔をあげて…… 「―――――――」  驚いた。只者じゃないとは思っていたが、見た目からしてぶっとんでいる。  男同士で気持ち悪い限りだが、こんな色男は初めて見た。年齢的に十幾つか上だろうが、若さと威厳が神懸かって共存している黄金率と言うべきだろう。自他共に認める童顔なこちらとしては、あと三十年経ってもこいつの域には上がれそうもない。 「どうしたね?」 「いや……」  まあ、ともかく、向かい合うと神経を削られる相手ではある。不本意だが、俺に用を求めるならさっさと答えてお帰り願おう。 「なんでも。で?」 「ああ。カール・クラフトを知っているかね?」 「カール・クラフト?」  いきなりの慮外な問いに、俺は思わず鸚鵡返した。その名は確か…… 「近頃宣伝省に召抱えられた男でね。有り体に言うと詐欺師だ。彼の職務は予言というものであり、国家にとって聞こえのいい未来を創作して糧を得る。立場的には同情するが、やっていることは詐欺だろう」 「それが?」 「おかしいと思わんかね?」  意味が、まったく分からない。鼻白んでいる俺を見下ろし、男は淡い苦笑を浮かべた。 「分からんのならそれでいい。今のは件の詐欺師と面識がなければ答えられぬ問いだからな。卿への質問は別にある。今夜、ここの局員で、教会から何かを受け取りに行った者はおらんかね?」 「教会?」  意味が分からず、また鸚鵡返す。まるで馬鹿のようだったが、事実分からないのだからしょうがない。 「遺産管理局、ドイチェス・アーネンエルベ。卿らの職務はそうした物の蒐集だろう。私の言ったことに心当たりがあるなら答えてほしいと思うのだが」 「……………」 「守秘義務かね? では仕方ないが」 「いや、本当に知らないよ」  少なくとも俺が把握してる限りだが、そんな話は聞いていない。 「でも、なんでそんなことを?」 「さあ、なぜかな。私にも分からんよ。ただ、そんな気がしただけだ」  言って、軽く肩をすくめる。男の態度は自嘲気味であったものの、ふざけているわけじゃないだろう。口調の端には真摯なものを感じられた。 「変な人だな、あんた」 「ああ、どうもおかしいのだよ」 「たまにな、このような気分に陥る。と言っても、ここ一月ほどの話だが。見てはおらぬ、聞いてもおらぬ、事実そのようなことはないというのに、ふと思うのだよ。〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》」 「…………」 「あるいは、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈男〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》。卿はこれに、共感してくれるだろうか?」  そう言われたところで、頷くことは出来ないだろう。男の言っていることは誇大妄想じみていて、真面目な話医者を紹介したくなる。  そんなこちらの気持ちを察したのか、男は首を横に振った。 「私は正気だよ。そう思っている。いや、そう思いたいがゆえの足掻きかな。我ながら、女々しい限りではあるが」 「じゃあ……」  俺は何を言おうとしているのだろう。この男はどうにも苦手で、関わりたくなく、今も不要な会話は避けたいと思っているのに。  なぜか、使命感のようなものが働いた。これは俺の役目であり、俺がしなければならないことだと感じている。  目の前に立つ、金髪の美丈夫。その男に向けて―― 「あんたは正気だよ」  俺は短く、そして強く言っていた。 「俺達は現実に生きている。良いこともあれば悪いこともあるし、満たされない夢を抱えて飢えてもいるさ」  美しく思う刹那を永遠に……そんな馬鹿げた願望を捨てられないし、叶えられないから渇きは消えない。  不満で、不安で、いつも揺れて…… 「だけど、それが人間だろう?」  だから、俺はそうしたもので構わない。 「俺達は永遠になれない刹那だ。どれだけ憧れて求めても、幻想にはなれないんだよ」  それこそが―― 「生に真摯であること。ああ、確かに卿の言う通り。飽いていればいい、餓えていればよいのだ。生きる場所の何を飲み、何を喰らおうと足りぬ。だがそれでよし。そう思えぬ生物は、その時点で自壊するしかない」 「そんな生物は、生まれてきたことが過ちなんだ」  俺達は互いの目を見て、しかし誰に言うともなくそんな言葉を吐いていた。  まるで自戒するように。これでいい。これでいいのだと。  思ったから、俺は自然と訊いていた。 「あんたの名前は?」 「ハイドリヒ――ラインハルト・ハイドリヒだ」  その名に、驚きを覚えなかったと言えば嘘になる。  まさか黄金の獣閣下を前にして、我ながら随分調子付いた真似をしてきたものだ。本来なら、今頃首が飛んでいてもおかしくない。 「私は、そう大した男ではないよ」  だが彼は――ラインハルトは笑みすら浮かべてそう続ける。謙遜ではなく、真実の響きを乗せて己は獣に非ずと言っていた。 「与えられた地位をなくせば、それこそ市井の一角と変わらんだろう。その程度なのだ、いや、そうでなくてはならない。殴れば倒れ、撃たれれば死ぬ。人はそうであるべきだ。いずれ訪れる死の時まで生き、そして朽ちればいい。ああ、誰かに言ってもらいたかったのだよ。感謝しよう。幻想にはなれぬか。なるほどな」  そうしてラインハルトは身を翻し、去っていく。  俺達の邂逅はこれで終わり。この先どんな未来が待っていようと、おそらく二度と会うことはないだろう。 「総て野垂れ死ぬ。ならば私も、かく野垂れ死ねばいい。ありふれた人間、職務を全うして滅びる一人の軍人で構わない」  だからそれに応えるよう、俺もまた本を閉じた。物語は終わった以上、現実に帰らなければならない。  たとえどんな世界であろうとも、俺はここに生まれてここに在る。  その事実を間違えてはいけないんだ。誤れば、いつまでも幻想から抜け出せなくなるだろうから。 「では、さらばだ。名を聞いておこうか」 「ライヒハート」  あまり好きではない姓をこのとき名乗ったのは、そうした現実を認識するため。 「ロートス・ライヒハート。あんたと同じさ、首斬り人だよ。落ちこぼれだけどね」 「ああ……」  当然、ラインハルトはその名の意味を知っていたらしい。何せうちの一族には有名なのがそろっていて、この男から見れば馴染みの下請けみたいなものだ。 「道理で。だが当代一と言われるヨハンより、卿のほうが適任に見えるがな。〈蓮〉《ロートス》……何もかも忘れ、一つのことしか出来なくなる麻薬だ。オデュッセウスが現れなければ、同じところを回り続ける」 「だから俺がオデュッセウスになるんだよ」  環を壊してそこから抜け出る。ガキの家出理論だし、家を出た先で願っているのは自分の定義した環に留まること……矛盾も甚だしいのは自覚してるが、結局それも含めて俺なんだ。  英雄なんて、ガラじゃないのは承知だが。 「枠を超えて、俺に出来ることがあるかもしれない。あるいは、出来たことかな。それを眺めて生きていくよ」 「さよなら、中将閣下。ジーク・ハイル」 「ああ、ジーク・ハイル」  そして、扉が閉められる。その間際に。 「私は満足した。もはや何も求めない。この先どうなろうと生きていく。そう誓ったのでな」  なんて、意味の分からないことを言っていた。  ……いや、本当にそうなのだろうか? 不可思議な感慨が脳裏を過ぎり、俺は知らず、無意識に…… 「悪くはないだろう、女神の抱擁」  と、そんなことを言いながら。 「お節介なら不要だよ。勝ったのは俺だ」 「ああ、そうだったな。分かっている」  なぜ、見たこともない刹那を幻視したのか。  それが分からず、分からないまま……このやり取りは自然なものだと感じていて。  そこはおそらく、ラインハルトも同じ心境なのだろう。 「フローエ・ヴァイナハテン。確かに悪くない。そう感じている。これが私の、卿に言わせれば真実というやつなのだろうな」  どこか晴々とした声と共にそう告げて、黄金の中将閣下は去って行った。 「……………」  そして、俺は…… 「テレジア……」  なぜ今、知らず呟いたその名に胸が熱くなるのだろう。先の会話を〈縁〉《よすが》にして、何かを思い出している。  いや、違う。忘れていたわけじゃないんだ。俺の帰るべき所、そこで待っている人のことを…… 「日本か……」  俺の現実は、今ここにある。だけどそこで待っている彼女のことも、同様に幻想ではない。  二つの現実、二人の俺……どちらも本物ならどうするべきか。答えは無論、分かっていて。俺という人間が守るべき信条は一つだけで。 「今を生きる。この今だって俺の刹那だ」 「ああ、これでいいんだよな。最後まで迷惑かけてごめんよ、もう大丈夫だから。もう少しだけ、俺の馬鹿な拘りに付き合ってくれ」  誰にともなく呟いた言葉は、独白じゃない。自ら女神と評したその彼女へ、詫びと感謝を述べて立ち上がった。別に何かの確信があるわけじゃないけれど。 「見届けて、全うするよ。あいつと同じく、この現実を」 「それがきっと、俺の義務だと思うから」  先に退室したラインハルトの後に続き、夜の街へと俺も出て行く。  足取りは軽い。  ロートス・ライヒハートが愛した刹那を、今から確かめに行くのだから。  嘆きは、もう存在しないと分かっていた。 「そう、あれは今から四時間ほど前のことでした」 ジョッキ片手に咳払いを一つして、周囲を見回す。注目が集まったのを確かめてから、私は一席ぶつことにした。 「世はまさにクリスマス・イヴ。私が愛読している情報誌によれば、十二月二十四日の午後九時から午前零時にかけての三時間は、世界規模で愛がもっとも囁かれる性なる刻限だそうなのです」 「セイの字が違うような気がするんだけど」 「まあとにかく、世間様では家族で暖炉を囲んだり、教会でお祈りしたり、はたまた人目を忍んだり忍ばなかったり好き勝手に逢引きしたりとかしてですね。囁きあってるわけですよ、愛を。与えあってるわけですよ、温もりを。求めあってるわけですよ、肉を」 「ええもう、素晴らしいですよ美しいですよ御相伴に預かりたいですよお願い抱いてっ!」 「と内心イライラしつつ、しかしどこかウキウキしつつ、今夜は何か素敵なことが起こるかもしれませんと期待に胸を膨らませていた私の心情は、決しておかしなものじゃないと思うのですよ。花も恥らう乙女的に」 「貴様、言っていて虚しくならないのか?」 「なりません。というか、話の腰を折らないでください」 「えーっと、つまり、ベアトリスちゃんはこの現状が不満だと?」 「はい、思いっきり不満です。何が悲しゅうて女四人、敗残兵みたいにビール飲みながらクダまいてないといけないんですかぁっ!」 盛大にグラスを叩きつける音と共に、魂の叫びを聞きやがれとばかりに喝破する。だが悲しいかな、列席者たちの反応はそんな私に冷たいもので。 「先ほどからクダをまいているのは貴様だけだろう」 「敗残兵っぽいのもあなただけだし」 「わたしは店員なんだから仕事中に絡まないでくださ~い」 「かぁーっ、ぺっ」 やですね。やですね。こんなノリの悪い人たち、辛気臭くて駄目ですね。私の態度に皆さん顔をしかめているけど、文句を言いたいのはこっちです。 「ちょっと」 「酒乱か、この馬鹿」 「お子様がガブ飲みするから」 「うるさいですね。あなただって私とあんまり歳変わらないじゃないですか。こんないかがわしいお店でうら若い婦女子が働いちゃいけませんよアンナさん」 まあ正直、私も乙女を自称するにはあまりにあまりな有様かもしれないけど、もはやそんなことはどうでもいいです。 本日、無意味に浪費された青春の一幕を供養するため、とことん呑むと決めてますから。この嘆かわしい宴を盛り上げるためにも、給仕の彼女には頑張ってもらわないといけません。 「あ、それはそうとビールお代わり。ザウアークラフトも追加で」 「よく、食べるわね……」 「まあ、好きに食え。少しは脳みそに栄養がいってくれると助かる」 「おお、中尉さんお優しい。傷心の部下を慰労してあげるんだぁ」 「そんなつもりはないが、食っている間は黙るだろう。代金は貴様も持てよ、ブレンナー」 「いいけど。なんだか一番とばっちりを受けてるのは私のような気がしてきたわ」 「ああ、さっき言ってたことの続き? セイなる刻限になんたらとか」 「それはいいから、早く注文の品を持ってきてくれ。馬鹿がまた騒ぎだす」 「はーい。ビール四。ザウアークラフトとヴァイスヴルスト追加でー」 頼んだのはビール一つとザウアークラフトだけだったような気がするのだけど、細かいことはいいだろう。宴会でみみっちいことを言ってはいけません。 たとえばほら、今も顔を引きつらせているお姉さま方二人みたいに。 「注文が増えてる……」 「なんだあれは、人の話を聞いてないのか?」 「どうもここの看板娘という触れ込みみたいだけど……」 「アンナさんはですねー、その笑顔と計算された天然っぷりで殿方の財布をすっからかんにするやり手なのですよ~~。魔女ですねー、ぐふふ~~」 「…………」 「置いて帰る?」 「そうしたいのは山々だが、馬鹿の醜態は私の監督責任を問われる。後日貴様の分まで殴っておくから許せ」 「真面目ですねー。くそ真面目ですねー。鋼鉄の処女! ですねー中尉。でもそんなところがス・テ・キ――わひゃあっ」 冷っ、ちょ、つめたい――! なになに、なんです? 今なにが起きたんです? いきなりの奇襲に椅子から転げ落ちて悶絶する私には、何がなんだか分かりません。 「あまり図に乗っていると逆さに吊るすぞ、キルヒアイゼン」 「聞こえてないわよ」 「構わん。この手の阿呆は身体に叩き込んだほうが有意義だ。手間は掛かるが、要所で締めておけば弁えるだろう」 「パブロフの何とやらね」 「そういうことだな」 「お待たせー、て何これ? どしたの?」 「何でもない。馬鹿犬に躾を施していただけだ。気にするな」 「わんわんわん!」 「てあれ? なんで私ずぶ濡れなんでしょうか中尉」 「知らんよ」 「うわ、ほんとにどうでもいいみたいに言いますね。あー、アンナさん、ビールください」 「あー、あははは……えっと、それで……」 「結局これは、いったいどういう集まりなのかな? そのへん、さっきからずっと脱線したままだけど」 「別に、何の事はない。ただ盛大な空振りをしたというだけのことだ」 「空振り?」 「あなたも聞いているでしょう? 最近のベルリンはまた治安が悪くなってきたって」 「それ、もしかして例の連続殺人? 犯人は娼婦だろうとか言われてる、さしずめ逆ジャック・ザ・リッパーみたいな」 「そうだ、まったく嘆かわしい話だよ。いかに前大戦の陰りがまだ残っているとはいえ、我が国の治安は半世紀前のイギリスと大差ないという体たらくだ」 「特に我々の世代は、幼少時から畜生にも劣る犯罪者どもの跳梁を見てきたからな。当時、ガキの冗句にもなったほどだぞ」 「ハールマン・イッヒ・デンケ、とかね。あとはグロスマンやキュルテンもかしら? 吸血鬼、狼男、そういうものが生まれる社会的土壌があったのは事実で、二度とそんなことがないようにしたいと思っているんだけど」 「まあ簡単なことだ、勝てばいい。勝って誇りを取り戻せば、負け犬が生まれることなど有り得んよ」 「だからあなたは、またそうやって短絡的な」 「貴様が迂遠すぎるのだブレンナー。要は正か負の問題だろう」 「戦勝国の光がかつてのドイツに影を落とした。ならばそれを逆転させて、未だ帝都に巣食っている闇を消し去る。当たり前の論法で、実際的な処方だ」 「あなたの中で陰と陽は敵同士なの? これは東洋の思想だけど……」 「男と女か? 話のすり替えだ、くだらん」 「私は安易な二元論は危険だと言っているのよ」 「つまり貴様、私が間違っていると?」 「間違えそうで、怪我しそうよね。自分が絶対いつも正しいと思ってるでしょう、昔から」 「なんだ、手袋でも投げてほしいか? 構わんぞ」 「それで、勝ったほうが正しいってわけ? 単純ね」 「貴様……」 と、なにやらよく分からんことを話しているお二人ですが、そんなことよりこれですよ、これ。 「やば、このヴルスト、マジ旨いっす」 「…………」 「…………」 「ひゃい? なんれすか二人とも。そんな顔で見てもあげませんよ?」 「要らん!」 「な、なんですかいきなり。暴力反対です!」 「あはははははははははははははははは」 「やー、うん、とにかく、お二人の仰ることは難しくてよく分かんないけど、つまるところ帝都の治安維持に貢献しようとしたってわけかな?」 「……まあ、そうなるのかしらね。私は半ば無理矢理引っ張り出されたわけだけど」 「はい、はい、それ私もです。事もあろうに世界規模の性なる刻限に、性犯罪の温床を叩き潰せとおっかない上官に拉致られてですね」 「空振ったと」 「ぶっちゃけて言うとそういうことです」 「正確には、掻っ攫われたと言ったほうがいいかしら」 「あれ、じゃあお目当ての吸血鬼だか狼男だかは捕まったの? よかったじゃない」 「まあ、な。我々ごときが首を突っ込むまでもないということだろう。それに、個人的な話、収穫はあった」 「ああ……」 含んだような調子で、同意するリザさん。それに私は、ちょっと頬がにやけてしまいます。 「あれですか」 「なになに?」 「ゲシュタポ長官閣下だ。手勢を連れて参られたところを遠目に見ただけだが、噂以上の……」 そう、噂以上の―― 「超・絶・美形!」 「マジで?」 「ありゃやばいっすよアンナさーん。私、明日から鏡見るのが嫌になりそうな気分です」 「そんなことを言っているのではない!」 「ひゃあっ」 なんですか、なんでそんな怒るんですか。だって長官閣下がえらいとんでもない美形だったのは事実じゃないですか。 だというのに中尉は、そんな私をゴミ虫でも見るような目で見下ろしつつ嘆息してます。 いやまあ確かに、問題はそういうことじゃないってことくらい分かってはいるんですが。 「私が言っているのは、彼が噂以上に合理的な方だったということだ」 「そうね、部下の損害を一切出さなかったみたいだし。有り体に言うと漁夫の利ってやつかしら」 「目当ての犯罪者は二人いた。そしてそいつらは殺し合っていた。どういう事情でそうなったかは預かり知らんが」 ぶっちゃけ、知りたくもありません。本音を言うと、早々に忘れてしまいたいくらいだし。 「凄かったですよね、あれ。正直私、足が震えましたもん」 「だろうな。あの手の輩は人に非ずだ。一種のケダモノと言ったほうがいい」 「どういう生まれで、どういう人生を送ってきたかなど興味もないが。分かっているのは桁外れに危険な存在であるということだけだ」 「つまり異種だよ。戦場であれ、決闘であれ、相手が人である以上、互いの正義や信念のぶつかり合いがそこにはある」 「分かりやすく、覚悟と言えばいいかな。剣を執ることも、殺し殺されることも、そうした了解の上に成り立ってこそだ。ゆえに人は畜生と一線を画す」 「重要なのは敬意ですね。相容れなくて、反目する立場同士でも、それは忠誠を誓う対象が違うというだけのことで、心の芯には同じものを持っていると認め合うことが大事なんです。私や中尉は育ちがら、そういうの叩き込まれてますし」 「騎士道ってやつ?」 「そうだ。別に言い方は何でもいいがな、これは人を人たらしめる法だよ。我と彼は同じであると敬えなければ、そもそも剣など交えるべきではない」 「我欲と衝動の牙しか持たぬ者は獣だ。そしてそういう輩と対峙したとき、人は平静を保てない。怖いからな。嫌悪と忌避感は衝動を生み、かくして獣性は伝染する」 「さしずめ癌だよ。増殖する修羅道だ。地上に生まれる地獄とは、そうしたものではないかと思うが……」 「要するに、呑まれちゃうんですよね、ああいうの見ると。私も危なかったですし、皆さん恐慌寸前に見えました」 「だけど、彼だけは違ったわ」 「そう、実に冷静に見ておられたよ。私も含めて誰もが飛び出しかけていたが、ただ一人だけ、泰然と……」 「あの眼、忘れられん。慈しむような、讃えるような、それでいてどこか自嘲するような……まるでそう、不詳の子を見る親のような……いや、実際によく分からんのだが」 「何か、本懐を遂げさせてあげようとしているようにも見えたわね。間違いなく初対面のはずなんだけど」 「それで、結果的に漁夫の利?」 「そうだ。二匹の獣は食い合って消耗し、決着を見たところで捕らえられた。〈怯懦〉《きょうだ》から傍観したのではないことくらい馬鹿でも分かる。ゆえに不敵かつ、合理的な方だと評したわけだ」 「それで私達は、完全に空振りしたうえに毒気も抜かれて、こんなところでクダまいてるわけですよ」 「なるほどぉ」 「で、結局その二人の喧嘩、どっちが勝ったの?」 「それはどうでもいいだろう。大した問題ではない」 「えぇー、でも~~」 とアンナさんは不満そうだが、そこは空気を読んでもらいたいです。私たちもこれ以上、あんな連中のことは語りたくないので。 「まあまあ、詳しくは明日の新聞でも見てくださいよ。それで」 「なに?」 そう、語るならもっと面白そうな話題があるじゃないですか。少なくとも女同士集まって、人殺しがどうだの言っているよりは遥かに有意義で楽しいことが。 私はにやにや笑いながら、傍らの上品なお姉さまに擦り寄りつつ問いました。 「リザさんはぁ、今後ハイドリヒ中将閣下とおめもじする機会もあるんですよねえ。大丈夫ですかぁ~」 「大丈夫って、なにが?」 「だからぁ、あの顔ですよ? あの地位ですよ? くらっときたりしませんか?」 「貴様、その口縫い付けられたいかキルヒアイゼン」 「なんで中尉が怒るんですか」 「こいつは婚約している。貴様の下種な妄想が入り込む余地などない」 「それに、件のハイドリヒ中将とて妻帯しておられる」 まるでそれが、総てにケリをつける天の真理であるかのごとく断言する我が上官殿。 はあー、まったくこの人は。なんて残念なんだろう。そんな数学の公式みたいに万事まかり通るなら、この世にロマンスなんて生まれませんよ。 「殿方というものを分かっていませんね、中尉。これはユーゲントの女子一同の間に流れていた噂なんですが、かつて中将閣下が仰ったという名言があるんですよ」 「名言?」 「女はしょせん駄菓子にすぎん」 「欲しいときに幾らでも手に入るものに、私はいちいち拘らん」 「うわぁ」 「…………」 「それは、また……」 「やばくないですか?」 「なんかぱくっとやられちゃいそうね」 「そこで問題です。上流階級の集う社交界で、あの方に一曲踊ろうと誘われながら、断れる女子がはたしてこの世にいるのでしょうかぁー!」 「…………」 「いるのでしょうかぁー!」 「それは、まあ、断れないでしょ。非礼になるし、踊るくらいなら」 「そしてそのまま寝室まで、夜の立ち合いに雪崩れ込むのでしょうかぁー!」 「卿、なかなかいい声で鳴く」 「謳えよ、その身は私を楽しませる楽器であろうが」 「にゃんにゃんにゃんにゃんにゃん」 「うにゃーん」 「貴様ら全員そこへ直れェッ!」 「だからなんで中尉が怒るんですかぁー!」 「痛い、ちょっと、浮いてる、浮いてる。わたし猫じゃないんだからそんな持ち方しないでー!」 アンナさんと一緒に首根っこ掴まれながら抗議の声を上げてみるも、中尉はまったく聞き入れてくれず、私たちを引きずりまわしながら怒鳴っています。 なんたる理不尽。意味が分かりません。 ていうかリザさん、笑ってないで助けてくださいよ。あなたの同窓生、ほんとマジで馬鹿力なんですから折れる折れる、首折れるってー! 「……ふぅ」 「大変ね、エレオノーレも。だけど、これでよくもあるのかな。ああいう子が傍にいれば、少しは柔らかくなるのかもしれないし」 「でも、ハイドリヒ中将か……」 「失礼」 「もしよろしければ、同席させていただいてもよいでしょうか?」 「え?」 「ああ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたか。別に怪しい者ではありませんよ。私は見ての通り……」 「神父様、かしら? ええ、同席は構いませんけど、私達に何か?」 「卒爾ながら、先ほどのお話が聞こえてしまいましてね。実は私も、あの場にいたのですよ」 「あら、そうですの?」 「はい、聖体礼儀が終わった後、どうも手持ち無沙汰になりましてね。星でも見ようかと戸外に出たのがいけなかった。お分かりかと思いますが、生まれてこの方、修羅場には無縁なもので……」 「端的に言うと、恐ろしい思いをしたので気分を変えたかったと申しますか……そんなところです」 「本来、このような人の多い場は苦手なのですがね。今夜はそれがありがたい。過剰なまでの日常に安心しますよ。お陰であなたのような美しいご婦人にも出会えましたし」 「まあ、お上手ですこと」 「お褒めいただいて光栄ですわ。どうぞお掛けになってください神父様。色々と問題のある女の集まりですけれど、お嫌でなければ」 「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」 「しかし、あなたもそうだがお強い方々だ。私など震え上がったものですが、頼もしいと言うべきでしょうか」 「彼女達は軍人ですからね。内心は色々あるんでしょうけれど」 「然り。だがそれでいて信念に燃えておられる。一本木で、高潔だ。羨ましいですよ。心地よい風です」 「風?」 「いえ。何でもありません。ただ私が勝手に、癒されているというだけです」 「昨今の国情、憂慮すべきものですから特にね。女性が力強く立っておられる様には安心を覚えますよ」 「それでしたら、子供の成育環境にこそ目を向けられてはいかがしら。実は私、そうした立場の者なので」 「ほぉ、それは興味深いですね。……なるほど、道理で」 「そんなに所帯じみて見えますか?」 「いえいえ。ただ母性を強く感じるということで」 「つまりそういうことなんでしょう?」 「神父様、あなたは子供がお好きですか?」 「嫌いな者などいないでしょう。しかしそうか、そうですね。今を嘆くではなく、未来を思えばこそ次の世代にと。私のような立場の者は、それを成すべきなのでしょう」 「金言、胸に沁みましたよ。その……」 「リザです。リザ・ブレンナー」 「これはご丁寧に。申し遅れましたが、ヴァレリアン・トリファです。この出会いに感謝を。あなたとは初めて会った気がしない」 「大袈裟ですわよ。でも……」 「そうですね。私もそんな気がしています」 「ただ、婚約中の身なので勘違いはなさらないでくださいね」 「あー!」 「リザがいつの間にか男引っ掛けてるぅ!」 「何ィ!?」 「女子力高っ」 「ちょっといやね、そんなんじゃないわよ」 「なんだ、神父か。しかしあまり感心せんな。聖職者が顔を出すべき場所ではないだろう」 「それについては汗顔の至りです。未だ半端な未熟者ゆえ、ご容赦くださいますよう」 「ねえねえ、この中尉さん、なんでこんな偉そうなの?」 「いつもです。この人、こんなんでご令嬢ですから」 「貴様が言うか。だいたいくだらん下世話なことを」 「えー、なにー、じゃあわたしだけ一般民?」 「いいなー、三人とも。高物件な男選り取りなんだー」 「それは、いま、こんなところで、こんなことしてる私達に言う言葉ですか、アンナさん」 「それに言ったでしょう。私はもう婚約しているし」 「人には分相応というものがある。有り体に言えば、欲しいものがあるなら己の程度を上げろということだ」 「上ばかり見て、不平を漏らしながら手を伸ばし、掴めたところでそれは引き摺り下ろしているだけだ。成長とは程遠い」 「高みが好きなら上るよう努めろ、馬鹿娘。己が変わらぬ限り、手に入れた物はその程度でしかない。星を掴めても、飛翔した結果でなければ満足できんぞ」 「なぜならそれは、かつて星であった石くれでしかない、ですか。なかなか辛辣な哲学ですが、その通りかもしれませんね」 「翼を生やす努力をせねば、焦がれた輝きを手にはできない。しかしその場合、光に焼かれてしまうのではないですかね?」 「イカロスのようにか? ああそうだろうな。だが問題などあるまい」 「要は覚悟だ。それなくして上を見るなど、恥を知らん図々しい行為だと言っているのさ」 「なんか、凄い、ムカつくんですけど……」 「だいたいさー、そんなボロクソ言ってくれちゃってさー、中尉さんたち男と手を握ったこともなさそうじゃないのー」 「たちってなんですか、なんで私も入ってんですか」 「じゃあ違うの?」 「違いますよ。ありますよ。兄上とか、父上とか……」 「はっ」 「いま、鼻で笑った。鼻で笑われましたよ中尉ー!」 「笑われたのは貴様だけだろう」 「あら、じゃああなた、男性の手を握ったことがあったかしら?」 「別に。ただ私の言ったことを色恋にしか限定できん貴様らの脳には、重大な欠陥があると指摘してやる」 「男の手だと? くだらん。そんなものが特別なら、ここに一人いるのは何だ? いくらでも握ってやるし、握ればいいだろう」 「いや……」 「そんなんじゃなくてですね……」 「もっときゅーんとしてどきーんとして、わくわくそわそわするようなやつ! 中尉さんこれにそんな気持ち持ってんの?」 「ないな。というか意味が分からんし、貴様らはどうなのだ?」 「ないわね」 「ないです」 「あるわけないし」 「そうばっさり言われると複雑ですが……」 「まあ、その、何と申しますか、ご婚約されたというリザさんはもとより、他お三人ともお綺麗で魅力的だ。世の男性方が放っておかぬでしょう」 「今は時勢が時勢ですが、然るべきとき、然るべき相手に出会うものではないでしょうか。私はそう思いますよ」 「つまり、運命の相手ですか」 「そうなりますかね。お心当たりはありますか?」 「……どうでしょう。腐れ縁のようなものなら一人思い浮かぶんですが」 「ああ、あれか」 「なに、聞きたいわね」 「いや、いやいやいや、ほんとそんなんじゃないですって。軍に入るとき喧嘩しちゃってそれきりですし」 「へー、なになに、興味あるかも」 「だから、いいじゃないですか私のことは。そういうアンナさんはどうなんですか」 「わたし? わたしはそうだね、うふふふふ~~~」 「なんだこの女、いきなり笑い出したぞ」 「ちょっと気持ち悪いわね」 「心なしか背筋が寒くなったんですが」 「あの、アンナさん? もしや犯罪的なことに手を染めてるんじゃないでしょうね?」 「なんでそうなんのよ!」 「いや、だって、笑い方が嫌らしかったので。後つけたりお風呂覗いたり下着盗んだりしてるんじゃないのかなと」 「あんたわたしを何だと思ってるのよ! そんなことするわけ、わけ、わけ……」 「してるんですか」 「あ、あああ後つけて住所確かめただけだもん!」 「悪いことは言わん。ゲシュタポに出頭しろ」 「誰なの、その可哀想な男の人は」 「拉致監禁とかで紙面賑わす前に目を覚ましてください」 「あー、もう!」 「勘違いしないで。そんなんじゃないの!」 「普通にお客さんで、知り合ったばかりで、なんかこう、よくわかんないけど無視できなくて、それでふらふら~っと」 「後をつけて」 「いいじゃないそれくらい!」 「いいんですかね?」 「紙一重な話ね」 「いや、黒だろう。どう考えても変質者の理屈だ」 「そもそも、その男性のどこに惹かれたのですか?」 「わかんない」 「かっこよかったですか?」 「まあ」 「何をしてる人なの?」 「軍関係」 「何処の部署だ?」 「遺産管理局」 「ほぉ……」 「じゃあ学者っぽいのかしら」 「そんな風には見えなかったけど」 「あ、でも、軍じ~んって感じは全然ないよ」 「要領を得んな。聞く限り優な末成りしか想像できんが」 「アンナさん、なよなよ系が好みなんですか?」 「だから、そんなんじゃなくてぇ」 「別に厳つくもないし、なよってもないし、ほんとに、そう、普通の人だよ」 「では、どこが?」 「上手く言えないよぉ……」 「ただ、その、なんか気になっちゃったんだからしょうがないじゃない」 「どうしてか分かんないけど、追いかけなきゃいけないような気がしたの」 「……どう思います?」 「ふむ、さしずめ前世の縁とでもいうやつでしょうか」 「前世?」 「それって、神父様の教義にはない概念じゃないですか?」 「ええ。ですが悪くないと思いますよ。個人的には、ですが」 「そうね、素敵じゃない」 「なんでも構わんが、あまり無責任に焚きつけるなよ。見ろ」 「前世、前世……はぅ、何その運命の赤い糸」 「変質者を図に乗らせていいことなど一つもない」 「誰が変質者なのよー!」 「まあまあ、それで……その羨ましい御仁は何という名なのです?」 「あ、私も聞きたい」 「軍属ならこの先顔を合わすかもしれないし」 「機会があれば、夜道に気をつけるよう忠告してやる」 「「「「で?」」」」 「な、なによみんなして一斉に……」 「でも、聞きたい? 聞きたいの? じゃあどうしよっかなぁ~~迷うなぁ~~」 「すいませーん、ビールお代わりー」 「聞きなさいよ!」 「そいつの名前は――」 「ロートス」 「ちーっす」 「ライヒハート!」 「おいアンナ、なに人の名前叫んでんだおまえ」 「へ?」 「ん?」 「あら」 「これはまた」 「て、うえええええええええええ」 「いや、うるせーよ」 「ちょ、ちょまっ、なな、な、なんで」 「あー、なるほど。確かにっていうか、なんだろう……」 「貴様、どこかで……」 「はじめまして、よね?」 「そのはずですが……」 「おい、おまえ俺の悪口でも言ってたのかよ。何だこれ」 「あ、いえ、そんなんじゃなくてですね。これは……」 「だー、違う違う駄目だから何でもないからー」 「はあ? まあいいや。よく分からんけどビール一つな。仕事しろよ」 「分かった。分かったから、そこの連中に変なこと訊かないでよ? 絶対だよ? 約束だからね」 「あんたらも黙っててよー!」 「……なんだありゃ」 「ごめんなさい。少しあなたのことを話題にしていたところなの。でも悪口じゃないから気にしないで」 「ともかく、せっかくだからお座りになって。これも何かの縁でしょう」 「いいわよね、エレオノーレ」 「なぜ私に訊く。好きにすればいいだろう」 「だがしかし、ライヒハートか。結構な名だな」 「失礼ですが、あなたはもしかして」 「ん、ああ。ご想像の通りだよ。家出した不良の出来損ない扱いだけどね」 「とりあえず、その話はやめてくれ。あまり愉快な気分にならない」 「で、皆さん〈は〉《 、》〈じ〉《 、》〈め〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈ど〉《 、》」 「こうなった以上、俺だけ名前知られてるのは何か落ち着かないんだけどな」 「あ、私、ベアトリス・キルヒアイゼンです」 「エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグだ」 「リザ・ブレンナーよ」 「ヴァレリアン・トリファと申します」 「わたしはアンナ――」 「おまえは知ってるからいい」 「ちょ、ひどーい!」 「まあ、それはそれとして」 「なんか知らんけど、俺の噂をしてたって?」 「その当人、ロートス・ライヒハートです。たまに、アンナが夜道をつけてくるんでぶっちゃけ怖い。友達なら止めるように言ってやってほしい」 「ぶっ」 「あはははははははははははは」 「あらあら」 「道化だな」 「かける言葉が見つかりません」 「でもさ――」 俺達は永遠になれない刹那だ。どれだけ憧れて求めても、幻想にはなれないんだよ。 「何て言うかな、今日あんたらに会えたのは嬉しいよ。変なこと言う奴だと思うだろうけど、俺の本音」 「〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈良〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》」 「はい?」 「何を」 「だから、気にしないでくれ。俺も自分が何言ってるのかよく分かってない」 「ただ、そんな気がしただけだ」 「ここが俺の現実なんだって思える」 「あんたらにとっても」 「えっと……」 「いやそんな、目配せされても」 「いつもこんな感じなの?」 「違うよ。今日は特別変な感じ」 「意味不明だな」 「ですが」 ゆえに罰。私は永劫苦しまねばならない。救いなど要らぬ。祝福は遠ざかっていけばいい。たった独り、何処までも、歩き続けるのだ、永遠に。 「私には分かりますよ。ライ……いえ、ロートスさん」 「あなたは本気だ。衒っているのではないと、それだけは理解できる」 「そして、なぜだか共感を覚えますよ。ええ、確かにこれが私達の現実だ」 「まあ、そりゃ、言うまでもなくそこは当たり前なんですが」 だから今、私はこうしてここにいる。血で錆びついたあなたの〈理想〉《けん》に、再び輝きを灯せるように。 「言われてみると、不思議ですね。なんだか長い夢を見ていたような気もするんです」 「目の覚めるような思い……そうね、実は私も、そんな気がしてる」 私の子供たちはここにいる。彼らに形を与えたくて、彼らに心を与えたくて、名前も、そして人生も…… 「これが当たり前なんだけど、すごく懐かしくて切ないような……ねえエレオノーレ、あなた本当に相変わらずだし」 「貴様の与太は聞き飽きたよ、ブレンナー。正直私はうんざりしている」 「ああ、心底飽き飽きしているが」 欲しいのは温もりでなく、炎。私を焦がす輝きに、永劫焼かれていたいだけだ。 「まあいいさ、腐れ縁だ。どうせこの先も続くだろうし、そういう意味でなら……」 「わたしは、えっと……」 「今をどう思う?」 「わ、悪くないよ。ねえ?」 「もちろん」 「だから、あなたの言ってることよく分かんないけど、とりあえず今夜は楽しい」 待ってよ、置いていかないで…… 「なので一杯だけ、お仕事中だけどわたしも飲んじゃっていいよね」 「ああ、奢るよ」 「たぶん他にも、今の俺達とまったく同じ気分の奴らは、この国のどこかにいると思う」 「戦争中で、明日も知れなくて、いつ死ぬか分からない」 「だけどだからこそ、俺は一瞬を大事にしたいと強く思う。そういうことで、乾杯しないか。せっかくのクリスマスだし」 「では、これを聖餐の器のように」 「この出会いが、未来に繋がるように」 「道を照らせる光になれたら素敵ですね」 「一人ひとりは火花にすぎんが」 「いつも上と前を向いていれば」 「今このときに意味があるって信じられる」 「だから刹那に、そして――」 「現実に」  それが1939年12月25日……図らずもわたしたちにとって、本当に一期一会の瞬間になった日の出来事。  彼はなんだかおかしな人で、他にも会いたい人がいると独り言のように言っていたのを覚えている。  それが叶ったのかどうかは分からないけど、結局その後、この日の面子が一同に会すことは最後までなかった。  そもそもの発端であったらしい二人の殺人犯……ヴィルヘルム・エーレンブルグとウォルフガング・シュライバーは、彼らを捕らえたハイドリヒ中将によってこの年の内に処刑される。  ヴァレリアン・トリファ神父は41年のブカレストでホロコーストに反発し、虐殺を免れた子供達を連れて失踪。噂では戦後アメリカに渡ったと聞くけれど、彼の姿を見た人は一人もいない。  ただ、あの人はあの人なりに、リザと話していた子供達の未来を守る道を選んだのだろうとわたしは思う。  そしてリザ……レーベンスボルンの一員として、ドイツ女性の規範たるべく努めた彼女は、42年に双子の男の子を出産。彼らに惜しみない愛情を注ぎ、同時に泉の子供達を軍の実験から守り続ける。  だけどそうした無理が祟ってか、終戦を迎えた45年に胸を患い、その暮れに他界する。早すぎる死を悼む人は大勢いたけど、彼女が守った子供達に泉の意志は継承されたと信じたい。  リザもそこには自信があるらしく、病床を見舞ったわたしに、エレオノーレより長生きできたから本望だと笑っていた。  まったく、本当にあの二人、くだらないことで張り合ってばかりだった。いつも間に立たされていたベアトリスに同情してしまう。あれはあれで楽しそうでもあったけど。  そのエレオノーレは言ったように、リザより早い43年……プロホロフカ戦でソ連軍第二戦車軍団を相手に激闘を展開し、名誉の戦死を遂げた。  こんな風に評するのは間違っているのかもしれないけど、やはり彼女は軍人として、誇りを全うしたと思うのだ。涙一つ流さずに、厳しい顔で葬儀に参列していたベアトリスが印象に残っている。  そして……  1942年6月4日……エンスラポイド作戦により、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒSS大将、プラハの地でその生涯に幕を下ろす。ある意味で、彼の死が後のドイツ帝国を決定付けたのかもしれない。  徐々に悪化していく戦況の中、ついに決定的な敗戦の決め手となったノルマンディー戦線……ヴィレル・ボカージュの戦いで名高いミハエル・ヴィットマン大尉と共に、44年8月8日……ロートス・ライヒハート戦死。  結局わたしは、彼に何も言えなくて、その後悔を引きずりながらもまだ生きている。  ただ一度、あの人が冗談めかして言っていた、日本に行きたいという言葉……  そこでなら、また逢えるかもしれないなんて……子供みたいなことを考えながら。  あなたのお誘いに応じたんだって、言ったら笑うかしらベアトリス。  わたし、なんだか、わたしだけ、上手く言えないけどズレているような気がするの。  あの日の面子でわたしだけ、人生が一回多い感じみたいな。変よね、一番年下なのに。  だけどそんな気がするものだから、ほら、前世の話があったじゃない?  あなた達の二回目が始まるまで、わたしは生きてないといけないのかなって、そう思うの。 「なあ、なあ、ちょっと、起きてる?」 「時間だよ。じーかーん。今日は客が来るから早く起こせっつったでしょ? 迎えに行くんじゃなかったの?」 「む、ぬ……」 「たく、年寄りは朝が早いんじゃないのかよ。なんで昼まで大口開けて寝てんだこの人」 「ほら起ーきーて。つか、生きてんの?」 「…………」 「あれ、もしかして死んじゃったのかこの婆さん」 「…………」 「あー、死んじゃったかー。そりゃしゃあないなあ。んじゃさっさと葬儀屋に連絡を」 「無礼者ぉ!」 「ぐあッ」 「何が葬儀屋に連絡ですか。勝手に人を死なせるんじゃありませんよ。ほんとにあなたは不謹慎で、えっと、えーっと……誰だったかしら?」 「あぁ~、もう、どうだっていいよ俺の名前なんか。そんなことより、ベッドにステッキ持って入るのやめなってば。毎度起こすたびに殴られて、こっちが記憶飛ぶっての」 「これは剣士の嗜みです。サムライとは有事に備え、常に大小を手元に置いているのだと時代劇で――」 「あんた日本人じゃねえし、婆あだし、しかもポン刀抱いて寝るサムライなんかいねえっての」 「なんと、ではあのテレビ番組は嘘を教えているのですか?」 「いや、どの番組か知らないけど、それはともかく」 「今日はドイツから友達が来るんだろ? 早く支度して出かけないと、空港で迷子になっちゃうよ、その人」 「ああ、そうでしたそうでした。アンナさんとは三十年ぶりくらいになりますねえ。初めて会ったころはお互いに、花も恥らうような美少女で。私たちはベルリンの赤い雨と噂されるほどの」 「血の雨降らせてんじゃん。思いっきり剣呑じゃん」 「私たちを巡って争う、殿方たちの血しぶきが絶えなかったという話ですよ」 「うわー、とんでもなく嘘くせー」 「八十三歳独身の身でまったく説得力ないよねー」 「言いたいことは大きい声で言いなさい。本当、誰に似たんでしょうかね、この子は」 「誰にも何も、俺の生まれは木の股かなんかじゃねーの? 血筋とか、意味不明だし」 「そんなことを言うものではありませんよ。あなたのご両親がどんな方かは私も存じませんけれど、そのお二人がおられたからこそこうして生を受けたわけで」 「ああ、だから、なんつーか、そういうのはいいって」 「俺に親がいるとしたら、それは一人だけだから。ちょっと頭沸いてるし、なにかっちゅーとステッキ振り回して人の頭小突きまくる鬱陶しい婆さんだけど」 「ベアトリス・キルヒアイゼンがいれば充分だよ。俺も他のチビたちも、あの家の奴らはみんなそう思ってるから」 「誰に似たんだって言われれば、そりゃつまり育ての親に……って」 「まあ、まあ、どうしましょう。この子ったら。いやだわ、いつからそんな、背筋の寒くなるようなことを言えるようになったんでしょう、末恐ろしい」 「喜んでんのか嘆いてんのか、どっちだよ婆あ」 「とにかく、早く支度しろって。何回も言わせんなよ」 「ああ、この老体に容赦ない急かしっぷり、近頃は遠出するのもきついというのに。いっそ、俺が代わりに行ってきてやるよ、くらい言えないものでしょうか。ぶつぶつ……」 「言いたいことは大きい声で言おうね、そっちも」 「だいたい、俺は俺で用があるし。さすがに編入試験はサボれないだろ」 「まったく、いきなり隠居するとか言って引っ越すし。業務丸投げされた鏡花さん、大慌てだぜ? チビどもはチビどもで、園長先生どこ行ったのーって泣き喚くしさあ」 「もういい歳どころじゃないんだから、はっちゃけるのもほどほどにしてくれよ。お陰で俺が、わざわざ編入までしてヘルパー紛いの真似をせにゃならんことに……」 「別にわたしの世話をしてくれと頼んだ覚えはありませんが」 「それに、今日から友人と二人暮らしですので心配は要りませんよ」 「婆さんの二人暮らしだなんて余計に危なっかしくて見てらんねえよ」 「だいたい、さっきも言ったけどチビどもは寂しがって――」 「鏡花さんがいらっしゃるから大丈夫でしょう」 「まあ、その、申し訳ないとは思っていますが、私も老い先短いですし、約束もあったので」 「約束?」 「六十年前に亡くなった友人が、後に遺された子供のことを心配していましたからね。今さらですが、彼女の曾孫さんたちがこの街にいらっしゃると聞いたので。及ばずながら援助させていただこうかと」 「アンナさんと話し合って決めたのですよ。言いませんでしたかね?」 「……初耳。てか、老い先短いとか言うなよ。殺しても死にそうにないくせに」 「あらあら。ですが、そんなに不本意なら園に帰ってもいいのですよ? あちらの学校には、友達もたくさんいたでしょうに」 「恋人は……いなかったでしょうけど」 「ほっとけよ!」 「だいたい、婆あ二人じゃ心配だってさっきも――」 「ヘルパーさんなら、もう頼んでしまったのですけど」 「はあ?」 「なので、心配は要りません。というか、あなたはいないほうがいいです」 「だってそのヘルパーさん、とっても美男子なんですよ。あなたと違って物腰の柔らかい、落ち着いた感じの紳士でですね……ああ、私があと五十年若かったら」 「~~~~~」 「妬いちゃってますか?」 「もういい」 「とにかく、俺は鏡花さんに頼まれてんだから、今さら帰れないよ。アパート契約もしちゃったし」 「これからもちょくちょく顔出すから、あんまりそのイケメンなヘルパーさん? それに迷惑かけんなよ。じゃあ――」 「あ、蓮」 「ん?」 「その……」 「なに?」 「いえ、でしたら新しい学校、あなたにとっていい出会いがあればよいですね」 「早いところ彼女の一人でも作って」 「だからほっとけよ」 「…………」 「ふふふ、まったく素直じゃないですね。でもいい子に育ってくれました」 「アンナさん、早くあなたに会わせたいわ」 「本当にそっくりなのよ。驚く顔が、とても楽しみ」 「ああ、リザさんの曾孫さんたちは、どんな子たちなんでしょう」 「願わくは、彼らの未来が光に満ちていますように」 「私はその道標になれたでしょうか、ヴィッテンブルグ少佐」 「すみません。ちょっといいでしょうか?」 「こちらの家の方ですよね。僕はこのたび、ここのお婆さんをお世話することになった者で……」 「え? はい、聞いてますよ。えっと……」 「櫻井です。櫻井戒」 「それで、その……」 「ああ、えっと俺は、なんていうか……ここの婆さんに振り回されっぱなしの馬鹿野郎というか」 「……?」 「いや、なんでもないです。とにかくここの婆さん変人なんで、気をつけてください」 「ああ、もしかして、君が霧咲さんに無理矢理送り込まれたっていう」 「なっ、知ってんですか、鏡花さんのこと」 「うん、まあ。彼女とは大学の同期だったから」 「だけど、そうか。なるほど……」 「……もしかして俺ら、境遇被ってます?」 「みたいだね。参ったな、はははは……」 「でも君、それならこっちの学校に編入するんだろ?」 「お陰さまで、今日がその試験ですよ」 「どこだい?」 「月乃澤学園」 「へえ、だったら僕の妹と同じだね」 「螢っていうんだけど。ちょっと偏屈で人見知りするタイプなんだが、見かけたら仲良くしてやってほしい。兄貴の僕が言うのも何だけど、いい子だよ」 「はあ……」 「こりゃほんとにイケメンだな、おい」 「ん、何か言ったかい?」 「いや、別に。じゃあ俺、行くんで」 「ああ。試験頑張って」 「そっちも。婆さん涎たらして待ってるから気をつけて」 そして―― 今日この日から、新たな土地で新たな俺の日常が始まる。 前の土地にも学校にも、友人達にも当然愛着はあったけど……その寂しさより、俺はなぜか弾む胸を抑えられない。 婆さんの我が侭とか、鏡花さんの命令とか、それらのせいで仕方なく……なんてのはどうも本音じゃないようだ。 結局俺は自分の意志で、誰に言われるでもなくここに来ることを選んだような……いや、実際にそうなんだろうな。そんな気がする。 だから―― 「やべえ。試験落ちたら洒落なんねえぞ」 その先にある未来を。ゼロから始まる二つ目の現実を―― 期待せずには、いられなかった。 そう、そんな約束をした気がずっとしている。 毎日は楽しくて、ここはとっても平穏で、暖かな光に満ちているけど…… 何かが、誰かが、私達の中からすっぽりと抜けている。その隙間が大きすぎて、どんな陽だまりにいても寂しいの。 これは私の誇大妄想? 根拠のない思い込みにすぎないのかな。 だけど、たとえどうであっても、穴が空いているのは事実だから。 私は私の好きな彼と、巡り会いたいと強く願う。 たとえ寂しさを紛らわすためのお芝居みたいなものであっても、私の中に彼はいる。そのことだけは、真実と言えるのだから…… 失ったものは戻らない。まったく同じものは生まれ得ない。ゼロに還ったこの道の先、どんな物語が始まるのか分からない。 夢か幻のような刹那の風景……目を覚ますと同時に掻き消えて、それがどんなものであったのかもう俺には分からないけど。 それを好いていた。大事にしていた。その気持ちだけは今もある。そのことだけは、真実と言えるのだから。 幻想じゃないこの現実に―― 『私は新しい今を作っていきたい』 『それこそが――』 『夢の残像にも決して負けない、幸せの形だと思うから』 「そうだ先輩、今日、例のCD持って来たぜ」 「ありがと。櫻井さんも聴く?」 「ジャンルによります」 「ちょっと前のデスメタル」 「あ、懐かしー。これ、あたしも持ってる」 「……あまり冒涜的な歌詞なら、教会内で聴くのはいかがなものかとは、思いますけど……」 「え、えーと、どんな歌詞なの?」 「それは、たぶん……」 「――――ぁ」 「……? どうしたんですか、先輩」 「いや、その……」 「今の人が、何か?」 「私……」 「すみません」 「月乃澤学園って、この道まっすぐでいいんですよね?」 「く、熊本」 「はい?」 「キミ、熊本行きたい?」 「いや、熊本って……」 『そんな突拍子のない言葉に呆気として、だけどそのとき――』 『わたしがみんなを抱きしめるから』 『いつかどこかで見たような女の子が、私達に優しく微笑んだような気がしたのだ』 「……大分じゃあ、なくていいの?」 「じ、地獄めぐりは、もう要らないから……」 どちらからともなく、そんなことを言っていたのだ。 Other Story――Nihil difficile amanti解放